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18,595 |
浅草駅 (首都圏新都市鉄道)
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浅草駅(あさくさえき)は、東京都台東区西浅草にある、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅。駅番号はTX03。
浅草地区を南北に貫く国際通りの浅草ビューホテルとROXビル前の地下に位置し、興行街浅草公園六区(通称・浅草六区)の西に隣接している。
工事時の仮称は「新浅草駅」(しんあさくさえき)であったが、地元の強い要望からこの駅名に変更された。
他線の浅草駅が面している馬道通りや江戸通り側(隅田川沿い)である花川戸地区・雷門前とは、浅草寺をはじめとする浅草の観光地街を挟んで西側にある。
東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の浅草駅とはおよそ600メートル、東京都交通局(都営地下鉄)の浅草駅とはおよそ800メートル離れ、徒歩で約8 - 12分かかるため、乗り換え駅とはなっていない。
当駅から最も近い他路線の駅は浅草駅の一つ隣の田原町駅(東京メトロ銀座線)であり、当駅から南へおよそ400メートル、徒歩5分程度で同駅出入口にたどり着ける。ただし、こちらも連絡運輸は行われていない。
島式ホーム1面2線を有する地下駅。改札口は地下1階、ホームは地下4階にある。
ホームの側壁には、浅草の風物詩をイメージしたイラストが描かれている。ホームと改札を結ぶエスカレーターには、浅草ゆかりの人物(永井荷風、池波正太郎など)のイラストが描かれている。
改札口には自動改札機の他、団体客用の有人改札ブースも設置されている。駅出入口はA1・A2の2か所だが、この他に駅と直結する南北の区立自転車駐輪場の出入口も利用可能であり、南駐輪場を介して浅草ROXとも地下で接続している。
2022年度の1日平均乗車人員は9,273人である。
開業以来の1日平均乗車人員推移は下表の徹りである。
前述の通り、浅草公園六区に隣接する国際通り地下にある当駅は、観光客が多い仲見世通りなどの地区よりも西に位置し、合羽橋道具街に近い。周辺には神社や寺院が多い。
台東区浅草、雷門方面
台東区西浅草、松が谷方面
※都営バスの[草24](東大島駅 - 亀戸駅 - 本所二丁目 - 浅草寿町)と、京成タウンバスの[有01]・堀切線(亀有駅 - 千住曙町 - 堀切菖蒲園駅 - 浅草寿町)は通過する。
上記の浅草一丁目停留所に停車する系統のうち、[草41][草43][上46][草63]はこの停留所にも停車する。
やや北側に離れた言問通りとの交点付近にあるが、[草41][草43][草63]のほかに以下の路線が停車し、当駅への最寄り停留所として案内される。
台東区循環バス「めぐりん」が停車する。
スカイツリーシャトルとリムジンバスが発着する。
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浅草駅(あさくさえき)は、東京都台東区西浅草にある、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅。駅番号はTX03。
|
{{駅情報
|社色 = red
|文字色 =
|駅名 = 浅草駅
|画像 = Tx-asakusa-a1.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = A1出入口(2007年4月)
|よみがな = あさくさ
|ローマ字 = Asakusa
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|前の駅 = TX02 [[新御徒町駅|新御徒町]]
|駅間A = 1.5
|駅間B = 2.5
|次の駅 = [[南千住駅|南千住]] TX04
|駅番号 = '''TX03'''
|所属事業者 = [[首都圏新都市鉄道]]
|所属路線 = [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]
|キロ程 = 3.1
|起点駅 = [[秋葉原駅|秋葉原]]
|所在地幅 = long
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[西浅草]]三丁目1-11
|座標 = {{coord|35|42|47.6|N|139|47|32.4|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地下駅]]
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|乗車人員 = 9,273
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|統計年度 = 2022年
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[[File:TX03 Asakusa (rail).png|thumb|150px|配線図<ref>川島令三『【図説】日本の鉄道 首都近郊スペシャル 全線・全駅・全配線』講談社、2014年4月23日、16頁。</ref>]]
[[画像:Tx-asakusa-platform.JPG|thumb|250px|ホーム(2007年4月)]]
[[画像:TX Asakusa station gate.jpg|thumb|250px|改札口(2005年8月19日)]]
[[画像:TX Asakusa station concourse.jpg|thumb|250px|コンコース(2005年8月19日)]]
{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-width=250|marker=rail|marker2=rail|coord2={{coord|35|42|43.5|N|139|47|54.3|E}}|title2=東武 浅草駅|coord={{coord|35|42|47.6|N|139|47|32.4|E}}|title=首都圏新都市鉄道 浅草駅|marker-color=FF0000|marker-color2=5E74F3|frame-latitude=35.712814|frame-longitude=139.795701|text=当駅(左)と東武鉄道浅草駅(右)の位置関係}}
'''浅草駅'''(あさくさえき)は、[[東京都]][[台東区]][[西浅草]]にある、[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の[[鉄道駅|駅]]。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''TX03'''。
== 概要 ==
浅草地区を南北に貫く[[東京都道462号蔵前三ノ輪線|国際通り]]の[[浅草ビューホテル]]と[[浅草ROX|ROX]]ビル前の地下に位置し、興行街[[浅草公園六区]](通称・浅草六区)の西に隣接している。
工事時の仮称は「'''新浅草駅'''」(しんあさくさえき)であったが、地元の強い要望からこの駅名に変更された<ref>{{Cite book|和書|title=つくばエクスプレス建設物語|editor=都市高速鉄道研究会|publisher=[[成山堂書店]]|date=2007-03-18|isbn=978-4-425-96121-4|page=25}}</ref>。
他線の浅草駅が面している[[馬道通り]]や[[江戸通り]]側(隅田川沿い)である[[花川戸]]地区・[[雷門]]前とは、[[浅草寺]]をはじめとする浅草の観光地街を挟んで西側にある。
=== 他線の浅草駅との違い ===
[[東武鉄道]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[浅草駅]]とはおよそ600メートル、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])の浅草駅とはおよそ800メートル離れ、徒歩で約8 - 12分かかるため、乗り換え駅とはなっていない。
当駅から最も近い他路線の駅は浅草駅の一つ隣の[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]](東京メトロ銀座線)であり、当駅から南へおよそ400メートル、徒歩5分程度で同駅出入口にたどり着ける。ただし、こちらも[[連絡運輸]]は行われていない。
== 歴史 ==
* [[2005年]]([[平成]]17年)[[8月24日]]:開業<ref name="news20050823">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051227171646/http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|title=つくばエクスプレス24日開業 モバイルもOK|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-23|accessdate=2020-11-28|archivedate=2005-12-27}}</ref><ref name="news20050824">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060106144928/http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|title=TX開業で沿線の暮らしに変化 住宅開発・生徒取り込み|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-24|accessdate=2020-11-28|archivedate=2006-01-06}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-12|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]]1面2線を有する[[地下駅]]。[[改札|改札口]]は地下1階、ホームは地下4階にある。
ホームの側壁には、浅草の風物詩をイメージしたイラストが描かれている。ホームと改札を結ぶエスカレーターには、浅草ゆかりの人物([[永井荷風]]、[[池波正太郎]]など)のイラストが描かれている。
改札口には[[自動改札機]]の他、団体客用の有人改札ブースも設置されている。駅出入口はA1・A2の2か所だが、この他に駅と直結する南北の区立自転車駐輪場の出入口も利用可能であり、南駐輪場を介して[[浅草ROX]]とも地下で接続している。
=== のりば ===
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable"
|+浅草駅プラットホーム
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|つくばエクスプレス
|style="text-align:center"|下り
|[[つくば駅|つくば]]方面<ref name="timetable">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/route_map/asakusa/|title=<nowiki>浅草駅|駅情報・路線図</nowiki> |website=つくばエクスプレス |publisher=首都圏新都市鉄道 |accessdate=2021-05-04}}</ref>
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[秋葉原駅|秋葉原]]方面<ref name="timetable" />
|}
== 利用状況 ==
2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''9,273人'''である<ref group="利用客数" name="tx">[https://www.mir.co.jp/company/number.html 乗車人員] - つくばエクスプレス</ref>。
開業以来の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の徹りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|2005年(平成17年)
|6,141
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|6,632
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|7,441
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|7,917
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|8,111
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|8,420
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|8,363
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|9,101
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|9,349
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|9,480
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|10,255
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|10,536
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|10,803
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|11,240
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|11,640
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|6,719
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|7,451
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|9,273
|
|}
== 駅周辺 ==
前述の通り、浅草公園六区に隣接する国際通り地下にある当駅は、観光客が多い[[仲見世通り]]などの地区よりも西に位置し、[[合羽橋|合羽橋道具街]]に近い。周辺には[[神社]]や[[寺院]]が多い。
=== 駅東側(A1出口) ===
台東区[[浅草]]、[[雷門 (台東区)|雷門]]方面
* [[浅草公園六区]]歓楽街
** [[浅草ROX]]
** [[浅草演芸ホール]]
** [[ウインズ浅草]]
** [[ロック座|浅草ロック座]]
* [[木馬館|木馬館大衆劇場]]
* [[浅草花やしき]]
* [[浅草寺]]、五重塔、伝法院
* [[浅草神社]](三社様)
* [[雷門]]、[[仲見世通り]]
* [[浅草文化観光センター]]
* [[浅草公会堂]]([[スターの広場]])
* [[常盤堂雷おこし本舗|雷5656会館]]
* 江戸たいとう伝統工芸館(江戸下町伝統工芸館)
* 助六の宿 貞千代
* [[浅草九倶楽部]]([[浅草九スタ]])
* [[サンルートホテルチェーン|ホテルサンルート]]浅草
* [[レッド・プラネット・ジャパン|レッドプラネット]] 浅草 東京
* [[ホテル京阪]]浅草
* [[アミューズミュージアム]](廃館)
=== 駅西側(A2出口) ===
台東区[[西浅草]]、[[松が谷 (台東区)|松が谷]]方面
* [[浅草ビューホテル]]
* [[三平ストア]]
* 台東区生涯学習センター
** 台東区立中央[[図書館]]
* [[合羽橋|合羽橋道具街通り]]
* かっぱ橋本通り([[下町七夕まつり]])
* 西浅草[[郵便局]]
* [[浅草今半]](国際通り本店)
* [[東本願寺 (台東区)|浄土真宗東本願寺派本山東本願寺]](旧・東京本願寺)
* [[浅草郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]] 浅草店
* [[宮本卯之助商店]](西浅草店)
=== 駅周辺ギャラリー ===
<gallery>
AsakusaShrine1443.jpg|浅草神社
SensojiPagoda1468.jpg|浅草寺
Asakusa engei hall.jpg|浅草演芸ホール
</gallery>
=== バス路線 ===
==== 浅草一丁目(都営バス) ====
{|class="wikitable"
!系統!!主要経由地!!行先
|-
|rowspan="2"|上23||浅草寿町・[[押上]]・[[八広]]二丁目||[[平井駅 (東京都)|平井駅]]
|-
|浅草寿町・菊屋橋・[[上野駅]]・[[上野恩賜公園|上野公園山下]]||上野[[松坂屋]]
|-
|rowspan="2"|草39||浅草雷門・[[東向島]]広小路・[[都営バス南千住営業所青戸分駐所|青戸車庫]]・中川大橋||[[金町駅]]
|-
| ||浅草寿町<br />上野松坂屋(平日日中のみ)
|-
|rowspan="2"|草41||'''浅草公園六区'''・[[鶯谷駅]]・[[三河島駅]]・[[町屋駅]]・[[千住#地名|千住桜木]]||[[梅田 (足立区)|足立梅田町]]
|-
| ||浅草寿町
|-
|rowspan="2"|草43||[[三ノ輪駅]]・[[千住大橋駅|京成中組]]||足立区役所<br />[[都営バス千住営業所|千住車庫]](旧道側)
|-
|浅草寿町・[[雷門]]一丁目(平日のみ)||浅草雷門(平日)<br />浅草寿町(土曜・休日)
|-
|rowspan="2"|上46||吉原大門・[[南千住駅]]入口||南千住駅東口<br />[[都営バス南千住営業所|南千住車庫]]
|-
|浅草寿町・菊屋橋・上野駅前・上野公園山下||上野松坂屋
|-
|rowspan="2"|草63||三ノ輪駅・荒川区役所・[[西日暮里駅]]・[[巣鴨駅]]・[[都営バス巣鴨営業所|とげぬき地蔵]]||[[池袋駅]]東口
|-
| ||浅草雷門
|}
※都営バスの[草24](東大島駅 - 亀戸駅 - 本所二丁目 - 浅草寿町)と、[[京成タウンバス]]の[有01]・堀切線(亀有駅 - 千住曙町 - 堀切菖蒲園駅 - 浅草寿町)は通過する。
==== 浅草公園六区 ====
上記の浅草一丁目停留所に停車する系統のうち、[草41][草43][上46][草63]はこの停留所にも停車する。
==== 西浅草三丁目 ====
やや北側に離れた[[言問通り]]との交点付近にあるが、[草41][草43][草63]のほかに以下の路線が停車し、当駅への最寄り停留所として案内される。
{|class="wikitable"
!系統!!主要経由地!!行先
|-
|rowspan="2"|上26||[[とうきょうスカイツリー駅]]・押上・[[亀戸天神社|亀戸天神]]||[[亀戸駅]]
|-
|[[上野桜木]]・[[根津駅]]||[[上野恩賜公園|上野公園]]
|-
|rowspan="2"|都08<br />(T08)||[[浅草駅|東武浅草駅]]・とうきょうスカイツリー駅入口・押上||[[錦糸町駅]]
|-
|[[下谷警察署]]||[[日暮里駅]]
|}
==== つくばエクスプレス浅草駅(日立自動車交通) ====
[[めぐりん (台東区)|台東区循環バス「めぐりん」]]が停車する。
* 東西めぐりん:[[浅草駅]]・雷門前・都営浅草駅・浅草消防署・南部区民事務所・[[新御徒町駅]]経由 台東区役所方面(循環)
==== 浅草六区(TX浅草駅)(東武バスセントラル) ====
* [[東武バスセントラル西新井営業所#スカイツリーシャトル 上野 - 浅草線(ST01・ST02)|スカイツリーシャトル上野・浅草線 空01(ST01)]]:JR上野駅公園口方面
* [[東武バスセントラル西新井営業所#スカイツリーシャトル 上野 - 浅草線(ST01・ST02)|スカイツリーシャトル上野・浅草線 空02(ST02)]]:[[東京スカイツリータウン]]行
==== 浅草ビューホテル(東京空港交通、東武バスセントラル) ====
スカイツリーシャトルとリムジンバスが発着する。
* スカイツリーシャトル上野・浅草線 空01(ST01):JR上野駅公園口方面
* スカイツリーシャトル上野・浅草線 空02(ST02):東京スカイツリータウン行
* [[東京空港交通|リムジンバス]]:[[成田国際空港|成田空港]]行
* リムジンバス:[[東京国際空港|羽田空港]]行
== 隣の駅 ==
; 首都圏新都市鉄道
: つくばエクスプレス
::{{Color|red|■}}快速・{{Color|orange|■}}通勤快速(平日下りのみ運転)・{{Color|#000084|■}}区間快速・{{Color|gray|■}}普通
::: [[新御徒町駅]] (TX02) - '''浅草駅 (TX03)''' - [[南千住駅]] (TX04)
== 脚注 ==
=== 記事本文 ===
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<!--==== 注釈 ====
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==== 出典 ====
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=== 利用状況 ===
; 私鉄の1日平均利用客数
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; 私鉄の統計データ
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; 東京都統計年鑑
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Asakusa Station (Tsukuba Express)}}
* [[浅草駅 (曖昧さ回避)]]
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日本の同一駅名・同一市町村で所在地が異なる駅の一覧]]
* [[都営トロリーバス]] - 六区停留所があった。
== 外部リンク ==
* [https://www.mir.co.jp/route_map/asakusa/ 浅草駅 | 駅情報・路線図 | つくばエクスプレス]
{{首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線}}
{{DEFAULTSORT:あさくさえき}}
[[Category:台東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 あ|さくさ]]
[[Category:首都圏新都市鉄道の鉄道駅]]
[[Category:2005年開業の鉄道駅]]
[[Category:浅草|えきしゆとけんしんとしてつとう]]
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18,596 |
やまだ紫
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やまだ 紫(やまだ むらさき、1948年9月5日 - 2009年5月5日)は、日本の漫画家・エッセイスト・詩人。京都精華大学マンガ学部専任教授。東京都世田谷区出身。本名:白取 三津子(しらとり みつこ)(旧姓:山田)。2人目の夫は、元『ガロ』副編集長の白取千夏雄で、年齢は17歳下である。
1966年、私立富士見丘高等学校卒業後に詩の同人会『しちにん』へ参加。翌年からデザイン事務所勤務の傍ら、虫プロ商事(手塚治虫主宰)の漫画雑誌『COM』へ漫画作品の投稿を始める。
1969年、『COM』5月号でデビュー。以降同誌に精力的に作品を発表する。『COM』廃刊後は『ガロ』(青林堂)に発表の場を移し、1971年2月号に『ああせけんさま』が入選。1972年には漫画賞きっての難関であった『ビッグコミック賞』に「風の吹く頃」で佳作3席。
以後、結婚・出産による一時休筆を経て、『ガロ』誌上で『性悪猫』『しんきらり』などの作品を立て続けに連載する。長井勝一(ガロ編集長)、つげ義春(漫画家)、上野昻志(評論家)らから高い評価を得ている。
なお、無名時期の杉浦日向子(漫画家から後に江戸風俗研究家に転身)や近藤ようこ(漫画家)がアシスタントとして参加していることは有名。のちに『ガロ』からデビューした杉浦、近藤と「ガロ三人娘」と呼ばれた。
1980年代からは、女性詩人の大家である吉原幸子主宰の『現代詩ラ・メール』に詩画連載『樹のうえで猫がみている』を発表した。またH氏賞・高見順賞受賞詩人でもある井坂洋子と合作『夢の迷子たち』などを刊行している。
1989年の第15回参議院議員選挙には、ちきゅうクラブ公認で比例区から立候補したが落選している。
毎日新聞 生活家庭欄連載のイラストエッセイ『お勝手に』は1994年から3年という異例の長期連載となった。1992年2月からは筑摩書房より『やまだ紫作品集』全5巻の刊行が始まり、それぞれの解説には山田太一、井坂洋子、久田恵、上野昻志らが執筆。
1993年には『ガロ』2・3合併号でやまだ紫特集が組まれ、その際はつげ義春、高橋章子、井坂洋子、内田春菊、黒川創らがコメントや文章を寄せた。
1997年3月には漫画家としては早い時期に公式サイト「やま猫SOMETIMES」をオープンしている。
2002年に腎臓摘出手術を受けた後は、術後の患部の痛みや膵臓炎による1型糖尿病とも戦い、入退院を繰り返すようになる。
2004年からは歌人の宮柊二主宰「コスモス」よりの依頼で詩画連載「見上げれば虹」を連載(大学教授就任で中断)。
2006年から京都精華大学マンガ学部マンガ学科ストーリーマンガコースの専任教授に就任、後進の指導にもあたった。
2007年から京都に在住。
2009年5月5日 午前4時16分、京都市内の病院にて脳内出血のため死去。60歳没。
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やまだ 紫は、日本の漫画家・エッセイスト・詩人。京都精華大学マンガ学部専任教授。東京都世田谷区出身。本名:白取 三津子。2人目の夫は、元『ガロ』副編集長の白取千夏雄で、年齢は17歳下である。
|
{{Infobox 漫画家
| 名前 = やまだ 紫
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| 脚注 =
| 本名 = 白取(旧姓:山田) 三津子
| 生年 = [[1948年]][[9月5日]]
| 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[世田谷区]]
| 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1948|9|5|2009|5|5}}
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}}
'''やまだ 紫'''(やまだ むらさき、[[1948年]][[9月5日]] - [[2009年]][[5月5日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[エッセイスト]]・[[詩人]]。[[京都精華大学]]マンガ学部専任教授。[[東京都]][[世田谷区]]出身。本名:'''白取 三津子'''(しらとり みつこ)(旧姓:山田)。2人目の夫は、元『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』副編集長の[[白取千夏雄]]で、年齢は17歳下である。
== 経歴 ==
[[1966年]]、私立[[富士見丘中学校・高等学校|富士見丘高等学校]]卒業後に詩の同人会『しちにん』へ参加。翌年からデザイン事務所勤務の傍ら、虫プロ商事([[手塚治虫]]主宰)の漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』へ漫画作品の投稿を始める。
[[1969年]]、『[[COM (雑誌)|COM]]』5月号でデビュー。以降同誌に精力的に作品を発表する。『[[COM (雑誌)|COM]]』廃刊後は『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』([[青林堂]])に発表の場を移し、1971年2月号に『ああせけんさま』が入選。1972年には漫画賞きっての難関であった『ビッグコミック賞』に「風の吹く頃」で佳作3席。
以後、結婚・出産による一時休筆を経て、『ガロ』誌上で『性悪猫』『しんきらり』などの作品を立て続けに連載する。[[長井勝一]](ガロ編集長)、[[つげ義春]](漫画家)、[[上野昻志]](評論家)らから高い評価を得ている。
なお、無名時期の[[杉浦日向子]](漫画家から後に江戸風俗研究家に転身)や[[近藤ようこ]](漫画家)が[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として参加していることは有名。のちに『ガロ』からデビューした杉浦、近藤と「ガロ三人娘」と呼ばれた。
1980年代からは、女性詩人の大家である[[吉原幸子]]主宰の『[[現代詩ラ・メール]]』に詩画連載『樹のうえで猫がみている』を発表した。また[[H氏賞]]・[[高見順賞]]受賞詩人でもある[[井坂洋子]]と合作『夢の迷子たち』などを刊行している。
1989年の[[第15回参議院議員通常選挙|第15回参議院議員選挙]]には、[[ちきゅうクラブ]]公認で比例区から立候補したが落選している。
[[毎日新聞]] 生活家庭欄連載のイラストエッセイ『お勝手に』は1994年から3年という異例の長期連載となった<ref group="注">東京本社版と[[毎日新聞西部本社|西部本社]]版のみに掲載。西部本社版は連載途中で打ち切り。{{要出典|date=2021年8月}}</ref>。1992年2月からは筑摩書房より『やまだ紫作品集』全5巻の刊行が始まり、それぞれの解説には[[山田太一 (脚本家)|山田太一]]、井坂洋子、[[久田恵]]、上野昻志らが執筆。
[[1993年]]には『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』2・3合併号でやまだ紫特集が組まれ、その際は[[つげ義春]]、[[高橋章子]]、井坂洋子、[[内田春菊]]、[[黒川創]]らがコメントや文章を寄せた。
[[1997年]]3月には漫画家としては早い時期に公式サイト「やま猫SOMETIMES」をオープンしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamanekonet.com/ |title=ようこそやまねこねっとへ!ここはやまだ紫の公式ホームページです。|website=やまねこねっと |publisher=やまだ紫 |accessdate=2002-09-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020930140749/http://www.yamanekonet.com/ |archivedate=2002-09-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://yamadamurasaki.net/|title=漫画家やまだ紫の全著作、作品データ、年譜(を制作中)のページ |website=やまだ紫オフィシャルサイト |publisher=やまだ紫 |accessdate=2017-05-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170531132202/http://yamadamurasaki.net/ |archivedate=2017-05-31}}</ref>。
[[2002年]]に腎臓摘出手術を受けた後は、術後の患部の痛みや膵臓炎による[[1型糖尿病]]とも戦い、入退院を繰り返すようになる。
[[2004年]]からは[[歌人]]の[[宮柊二]]主宰「コスモス」よりの依頼で詩画連載「見上げれば虹」を連載(大学教授就任で中断)。
[[2006年]]から[[京都精華大学]][[マンガ学部]][[マンガ学科]]ストーリーマンガコースの専任教授に就任、後進の指導にもあたった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyoto-seika.ac.jp/t_news/pretool2/manga/comicart.html |title=学部新設・学部再編ニュース |website=京都精華大学 |publisher=京都精華大学 |accessdate=2006-10-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061012195825/http://www.kyoto-seika.ac.jp/t_news/pretool2/manga/comicart.html |archivedate=2006-10-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=白取千夏雄 |url=http://shiratorichikao.blog.fc2.com/blog-entry-16.html |title=やまだ紫が京都精華大学芸術学部の講師に |website=FC2ブログ |publisher=白取特急検車場【闘病バージョン】 |date=2005-01-29 |accessdate=2021-08-21}}</ref>。
[[2007年]]から京都に在住。
[[2009年]][[5月5日]] 午前4時16分、京都市内の病院にて脳内出血のため死去<ref>{{Cite web|和書|author=白取千夏雄 |url=http://blog.goo.ne.jp/shiratori-chikao/e/1e52e967ddbc45f459913990d219020e |title=やまだ紫 永眠 |website=gooブログ |publisher=白取特急検車場【闘病バージョン】 |date=2009-05-05 |accessdate=2009-05-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090511003440/http://blog.goo.ne.jp/shiratori-chikao/e/1e52e967ddbc45f459913990d219020e |archivedate=2009-05-11}}</ref>。{{没年齢|1948|9|5|2009|5|5}}。
== 主な出版物 ==
=== 自著 ===
* 『性悪猫』(1980年8月、青林堂) - 処女単行本
:: 1990年筑摩文庫、1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』5巻に収録、2009年10月小学館クリエイティブ {{ISBN2|978-4778031299}}
* 『鳳仙花』(1980年10月、ブロンズ社) - 『COM』時代の初期作品集
* 『鈍たちとやま猫』(1981年10月、青林堂) - 短編集
:: 1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』5巻に収録
* 『しんきらり』(1982年8月、青林堂)
:: 1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』2巻に収録、2009年11月小学館クリエイティブ {{ISBN2|978-4778031305}}
* 『はなびらながれ』(1983年11月、青林堂)
:: 1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』4巻に収録
* 『ゆらりうす色』(1984年6月、講談社)
:: 1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』1巻に収録、2009年12月小学館クリエイティブ {{ISBN2|978-4778031312}}
* 『続しんきらり』(1984年10月、青林堂)
:: 1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』2巻に収録、2009年11月小学館クリエイティブ {{ISBN2|978-4778031305}}
* 『空におちる』(1985年10月、河出書房新社) - 漫画+エッセイ集
* 『満天星みた』(1985年12月、大和書房) - エッセイ集
* 『しあわせつぶて』(1986年9月、青林堂)
:: 1992年筑摩書房『やまだ紫作品集』3巻に収録
* 『樹のうえで猫がみている』(1990年、筑摩書房) - 『ラ・メール』連載詩画集
:: 2001年デジパッド(描き下ろし・未収録作品を加え、CD-ROM版で刊行)
* 『東京ノスタルジア』(1991年1月、フレーベル館) - エッセイ集
* 『やまだ紫作品集』全5巻(1992年2月~6月、筑摩書房)
* 『Blue Sky』第1巻(1992年10月、中央公論社)
:: 1996年中公文庫
* 『Blue Sky』第2巻(1993年3月、中央公論社)
:: 1996年中公文庫
* 『夢の迷子たち』(1995年6月、翔泳社) - 井坂洋子との合作を収録
* 人生相談『やま猫人生放談』(1995年7月、同文書院)
* 毎日新聞連載イラストコラム『お勝手に』(1996年12月、毎日新聞社)
:: 1999年11月中公文庫(『どうぞお勝手に』と改題)
* 『マンガ日本の古典』シリーズ<ref group="注">1998年2月、文化庁メディア芸術祭マンガ部門で大賞受賞。</ref>第21巻『御伽草子』(1997年4月、中央公論社) - ※描き下ろし
:: 2000年12月中公文庫
* 『愛のかたち』(2004年11月、PHPエディターズ・グループ発行 / PHP研究所発売) - コミック+エッセイ
* 『ねこのふしぎ話』(2021年8月、興陽館、{{ISBN2|978-4-87723-277-1}}) - 単行本未収録短編と入手困難の著書収録の中短編集のうち猫に関する作品を収録した選集
=== 挿絵担当 ===
* [[征矢清]]『ねこになった少年』(1988年3月、岩波書店) {{ISBN2|978-4001109788}}
:: 1996年11月岩波少年文庫 {{ISBN2|978-4001121384}}
* [[田村秀行|大伴茫人]]『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』(1999年、洋泉社) {{ISBN2|978-4896914399}}
* [[宜保愛子]]『因縁物語』(2000年2月、青林堂) {{ISBN2|978-4792603151}} - 表紙も担当
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://yamadamurasaki.com/|やまだ紫オフィシャルサイト}}
* {{Official website|http://shiratorichikao.blog.fc2.com/|白取特急検車場【闘病バージョン】}} - 夫である白取千夏雄のブログ
* {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20030621131506/http://www.digipad.com/ |title=デジパット}} - やまだ紫と白取千夏雄が運営していたサイト
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:やまた むらさき}}
[[Category:20世紀日本の詩人]]
[[Category:21世紀日本の詩人]]
[[Category:日本の女性詩人]]
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:20世紀日本の女性随筆家]]
[[Category:21世紀日本の女性随筆家]]
[[Category:参議院議員通常選挙の立候補経験者]]
[[Category:京都精華大学の教員]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:ガロ]]
[[Category:1948年生]]
[[Category:2009年没]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%B4%AB
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松永豊和
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松永 豊和(まつなが とよかず、1964年9月20日 - )は、日本の漫画家。兵庫県尼崎市出身。
青木雄二のアシスタントを経て、1992年、アフタヌーン四季賞夏のコンテストにおいて「きりんぐぱらのいあ」が四季大賞を受賞。
代表作に『バクネヤング』(週刊ヤングサンデー)『龍宮殿』(月刊IKKI)『パペラキュウ』(Web漫画)など。
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松永 豊和は、日本の漫画家。兵庫県尼崎市出身。
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'''松永 豊和'''(まつなが とよかず、[[1964年]][[9月20日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[兵庫県]][[尼崎市]]出身。
== 経歴 ==
[[青木雄二]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て、[[1992年]]、[[アフタヌーン四季賞]]夏のコンテストにおいて「きりんぐぱらのいあ」が四季大賞を受賞。
代表作に『バクネヤング』([[週刊ヤングサンデー]])『龍宮殿』([[月刊IKKI]])『[[パペラキュウ]]』([[Web漫画]])など。
== 作品リスト ==
=== 単行本 ===
*バクネヤング 全2巻(1995 - 1997年、[[小学館]]、増補版 全1巻、2000年、[[小学館]]、オンデマンド版 全3巻、2005年、[[小学館]])
*エンゼルマーク(2001年、[[小学館]])
*龍宮殿 全3巻(2004 - 2005年、[[小学館]])
=== Web漫画 ===
*[[パペラキュウ]](2011年 - 2020年)
== 外部リンク ==
* [http://toyokazu39.at-ninja.jp/ あの松永豊和は今]
* [https://web.archive.org/web/20130421050726/https://twitter.com/bakuneTM 松永豊和Twitter]
* [http://toyokazu39.at-ninja.jp/paperakyu00.html パペラキュウ]
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18,598 |
森脇真末味
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森脇 真末味(もりわき ますみ、1957年8月30日 - )は、日本の漫画家。大阪市出身、兵庫県姫路市育ち。血液型はAB型。本名は森脇真末美。
小さい時から貸本屋などで漫画を読み、小学生の時から漫画をノートに描き始める。正式にペンを握ったのは高校生になってからで、中高生を通じて、コマ割りをした漫画を日記のような調子で、毎日何ページか進んでゆくというペースだったという。また、中学・高校を通して美術部で、水彩画を描いており、一日中絵筆を握ってだらだらとしているのが好きだったようである。
ペン入れ1作目が同人誌「ODIN」会長の持ち込みにより、デビューのきっかけになる。1978年に『OH!MY兄貴どの』(プチコミック12月増刊号)で商業誌デビュー。高校生の日常を描いた作品、ファンタジー物などのそれまでになかった新しい個性により、多くの読者を魅了する。目覚ましに効くという理由で、緑茶と紅茶を愛飲している。
緻密な人物造型とシャープな絵柄が特徴。「本作の脇役・端役が次作で主役抜擢」という構図がよく見られる。
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森脇 真末味は、日本の漫画家。大阪市出身、兵庫県姫路市育ち。血液型はAB型。本名は森脇真末美。
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'''森脇 真末味'''(もりわき ますみ、[[1957年]][[8月30日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪市]]出身、[[兵庫県]][[姫路市]]育ち。血液型は[[AB型]]。本名は森脇真末美<ref name="森脇">『まんが情報誌 ぱふ』1981年12月号掲載「特集 森脇真末味」所収「森脇真末味 プロフィール」より</ref>。
==人物・作風==
小さい時から貸本屋などで漫画を読み、小学生の時から漫画をノートに描き始める<ref name="森脇"/>。正式にペンを握ったのは高校生になってからで、中高生を通じて、コマ割りをした漫画を日記のような調子で、毎日何ページか進んでゆくというペースだったという。また、中学・高校を通して美術部で、水彩画を描いており、一日中絵筆を握ってだらだらとしているのが好きだったようである<ref>『まんが情報誌 ぱふ』1981年12月号掲載「特集 森脇真末味」所収「インタビュー・森脇真末味」より</ref>。
ペン入れ1作目が同人誌「ODIN」会長の持ち込みにより、デビューのきっかけになる。1978年に『OH!MY兄貴どの』([[プチコミック]]12月増刊号)で商業誌デビュー。高校生の日常を描いた作品、ファンタジー物などのそれまでになかった新しい個性により、多くの読者を魅了する。目覚ましに効くという理由で、緑茶と紅茶を愛飲している<ref name="森脇"/>。
緻密な人物造型とシャープな絵柄が特徴。「本作の脇役・端役が次作で主役抜擢」という構図がよく見られる。
== 書籍 ==
;連載作品/同名単行本
* 『[[緑茶夢]]』(全4巻、1979年 - 1980年、小学館フラワーコミックスPS版)
* 『[[おんなのこ物語]]』(全5巻、1981年 - 1983年、小学館フラワーコミックスPS版)
* 『[[BLUE MOON (漫画)|BLUE MOON]]』(全5巻、1986年 - 1988年、小学館[[プチフラワー]]コミックス)
* 『UNDER』(全2巻、1990年 - 1992年、小学館プチフラワーコミックス)
;作品集
* 『夢喰いドガ』(1983年、朝日ソノラマ サンコミック ストロベリーシリーズ)
:商業誌デビュー前の同人誌時代に書いた作品、未発表作品などを収録。
* 『[[男は寡黙なバーテンダー]]』(1985年、新書館 ペーパームーンコミックス)
* 『ささやかな疑問符(森脇真末味傑作集 1)』(1985年、小学館[[プチフラワー]]コミックス)
* 『[[男は寡黙なバーテンダー|踊るリッツの夜]](森脇真末味傑作集 2)』(1985年、小学館プチフラワーコミックス)
* 『[[BLUE MOON (漫画)|ゼネツィオの庭]](森脇真末味傑作集 3)』(1986年、小学館プチフラワーコミックス)
* 『ゴドレイの恋人』(1988年、新書館ペーパームーンコミックス)
* 『空色冷蔵庫(森脇真末味傑作集 4)』(1990年、小学館プチフラワーコミックス)
* 『緑茶夢』(全2巻、1990年、小学館フラワーコミックスワイド)
* 『おんなのこ物語』(全3巻、1990年 - 1991年、小学館フラワーコミックスワイド)
* 『ユージーン』(1995年、新潮社)
* 『おんなのこ物語』(全2巻、1996年、中央公論社 中公愛蔵版)
* 『山羊の頭のSOUP』(1997年、ビブロス ゼロコミックス)
* 『UNDER』(2001年、早川書房 ハヤカワ文庫JA)
* 『緑茶夢-スラン』(2002年、小学館文庫)
* 『BLUE MOON』(全3巻、2003年~2004年、ブッキング)
* 『天使の顔写真』(2004年、早川書房 ハヤカワ文庫JA)
* 『グリフィン』(2004年、早川書房 ハヤカワ文庫JA)
* 『おんなのこ物語』(全3巻、2006年、早川書房 ハヤカワコミック文庫)
== 参考文献 ==
* 『[[ぱふ]]』1981年12月号「特集 森脇真末味」([[雑草社]])
== 脚注 ==
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紅海
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紅海(こうかい、ヘブライ語: יַם סוּף, アラビア語: البحر الأحمر, 英語: Red Sea, フランス語: Mer Rouge)は、アフリカ東北部と、アラビア半島に挟まれた湾である。
長さ2250 km、幅最大355 km、面積438,000 km、平均水深491 m、最深部2,211 m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6 - 3.8%と高い。北部にはシナイ半島があり、チラン海峡を通じてアカバ湾とつながっている。また、北西部にはスエズ湾があり、スエズ湾はスエズ運河を経て地中海とつながっているほか、南部はバブ・エル・マンデブ海峡を経てアデン湾とつながっている。同海峡は国際海峡である。
域内には大きな島嶼は無く、沿岸部に小島嶼が数多くある。エリトリアのダフラク諸島、サウジアラビアのファラサン諸島、イエメンのカマラン島などがある。
地学的には大地溝帯の一部である紅海地溝帯 (Red Sea Rift) をなしており、火山活動も見られる。2011年12月から2012年1月にかけ、イエメン沖のズバイル諸島で海底火山の活動によって新しい島が生まれた。
国際水路機関は紅海の境界を以下のように定めている。
目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。とりわけ、エジプトがその経済的恩恵を享受している。
海水の表面温度は夏には34 °Cに達するが、サンゴの白化が見られないのは熱を吸収する藻類によると考えられる。海水の蒸発が激しいため、塩分濃度は40パーミルと世界平均35パーミルより高い。
目立った海流は存在しない。スエズ湾付近では北西の風が卓越するが、紅海南部では季節により変わる。
紅海の海水は赤くはない。紅海はギリシャ語のエリュトゥラー海の直訳で、赤いという謂れには諸説ある。一説には、昔方角を色分けして考えた(例えば北の黒海)ため、南を表す赤となった。ヘロドトスも赤い海と南の海を交互に使った。また、エジプトの砂漠を赤い大地と言ったことがあり、その大地の海という意味、などである。
紅海は地球の裂け目、地溝帯に海水が溜まった場所である。アフリカプレートとアラビアプレートが始新世に裂け始め、現在も拡大している。マントルからのマグマ上昇によって海底火山がいくつも島を形成し、その1つは2007年に激しく噴火した。
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紅海は、アフリカ東北部と、アラビア半島に挟まれた湾である。 長さ2250 km、幅最大355 km、面積438,000 km2、平均水深491 m、最深部2,211 m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6 - 3.8%と高い。北部にはシナイ半島があり、チラン海峡を通じてアカバ湾とつながっている。また、北西部にはスエズ湾があり、スエズ湾はスエズ運河を経て地中海とつながっているほか、南部はバブ・エル・マンデブ海峡を経てアデン湾とつながっている。同海峡は国際海峡である。 域内には大きな島嶼は無く、沿岸部に小島嶼が数多くある。エリトリアのダフラク諸島、サウジアラビアのファラサン諸島、イエメンのカマラン島などがある。 地学的には大地溝帯の一部である紅海地溝帯 をなしており、火山活動も見られる。2011年12月から2012年1月にかけ、イエメン沖のズバイル諸島で海底火山の活動によって新しい島が生まれた。
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{{翻訳検証|||section=1}}
{{出典の明記|date=2017-07-06}}
[[画像:Arabian_Peninsula_dust_SeaWiFS.jpg|thumb|right|300px|左側の細長い海域が紅海]]
'''紅海'''(こうかい、{{lang-he|יַם סוּף}}, {{lang-ar|البحر الأحمر}}, {{lang-en|Red Sea}}, {{lang-fr|Mer Rouge}})は、[[アフリカ]]東北部と、[[アラビア半島]]に挟まれた[[湾]]である<ref>{{Cite web|和書|title=紅海とは |url=https://kotobank.jp/word/%E7%B4%85%E6%B5%B7-61507 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-01 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。
長さ2250 [[キロメートル|km]]、幅最大355 km、面積438,000 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]、平均水深491 [[メートル|m]]、最深部2,211 m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、[[インド洋]]との限られた循環などにより[[塩分濃度]]は3.6 - 3.8%と高い。北部には[[シナイ半島]]があり、[[チラン海峡]]を通じて[[アカバ湾]]とつながっている。また、北西部には[[スエズ湾]]があり、スエズ湾は[[スエズ運河]]を経て[[地中海]]とつながっているほか、南部は[[バブ・エル・マンデブ海峡]]を経て[[アデン湾]]とつながっている。同海峡は[[国際海峡]]である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=見る場所:紅海 |url=https://placeandsee.com/ja/kokai-red-sea-state?spmchkbj=spmprvbj5qwkPfLqricqLASYO3RerwEOs |website=placeandsee.com |accessdate=2022-03-01 |language=ja}}</ref>。
域内には大きな島嶼は無く、沿岸部に小島嶼が数多くある。エリトリアの[[ダフラク諸島]]、サウジアラビアの[[ファラサン諸島]]、イエメンの[[カマラン島]]などがある<ref name=":0" />。
地学的には[[大地溝帯]]の一部である[[紅海地溝帯]] (Red Sea Rift) をなしており、火山活動も見られる。2011年12月から2012年1月にかけ、イエメン沖の[[ズバイル諸島]]で[[海底火山]]の活動によって新しい島が生まれた<ref>{{cite news |author = Richard A. Lovett|url = http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/5511/|title = 紅海に新島、新たな観光地に?|date = 2012-1-20|accessdate = 2016-6-14|newspaper = ナショナルジオグラフィック ニュース}}</ref>。
==範囲==
[[国際水路機関]]は紅海の境界を以下のように定めている。<ref name="IHO">{{cite web|url=http://www.iho.int/iho_pubs/standard/S-23/S-23_Ed3_1953_EN.pdf|title=Limits of Oceans and Seas, 3rd edition|year=1953|publisher=International Hydrographic Organization|accessdate=1 January 2018}}</ref>
*北:[[スエズ湾]]と[[アカバ湾]]の南側境界。すなわち[[ムハンマド岬]] (27°43'N) から[[シャドワン島]]南端 (34°02'E) を結び、それから西へ緯線 (27°27'N) に沿って伸びる線、およびRàs al FasmaからRequin島 (27°57′N 34°36′E) を結び、[[チラン島]]を通ってその南西端から緯線 (27°54'N) に沿って[[シナイ半島]]に至る線。
*南:Husn Murad (12°40′N 43°30′E) とRas Siyyan (12°29′N 43°20′E) を結ぶ線。
== 海水 ==
目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。とりわけ、エジプトがその経済的恩恵を享受している。
海水の表面温度は夏には34 [[°C]]に達するが、サンゴの白化が見られないのは熱を吸収する藻類によると考えられる。海水の蒸発が激しいため、塩分濃度は40[[パーミル]]と世界平均35パーミルより高い。
目立った海流は存在しない。スエズ湾付近では北西の風が卓越するが、紅海南部では季節により変わる。
== 名前 ==
紅海の海水は赤くはない。紅海はギリシャ語の[[エリュトゥラー海案内記|エリュトゥラー海]]の直訳で、赤いという謂れには諸説ある。一説には、昔方角を色分けして考えた(例えば北の[[黒海]])ため、南を表す赤となった。[[ヘロドトス]]も赤い海と南の海を交互に使った。また、エジプトの砂漠を赤い大地と言ったことがあり、その大地の海という意味、などである。
== 形成 ==
[[File:Red Sea topographic map-en.jpg|thumb|right|300px|水深図]]
紅海は地球の裂け目、[[地溝帯]]に海水が溜まった場所である。アフリカプレートとアラビアプレートが[[始新世]]に裂け始め、現在も拡大している。[[マントル]]からのマグマ上昇によって[[海底火山]]がいくつも島を形成し、その1つは[[2007年]]に激しく[[噴火]]した。
== 紅海沿岸の現在の国家 ==
* アフリカ大陸側
** (南から順に)[[ジブチ]]、[[エリトリア]]、[[スーダン]]、[[エジプト]]
* ユーラシア大陸側
** (北から順に)[[イスラエル]]、[[ヨルダン]]、[[サウジアラビア]]、[[イエメン]]
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Red Sea|Red Sea}}
* [[バブ・エル・マンデブ海峡]]
* [[エリュトゥラー海案内記]]
* [[サンガネーブ海洋国立公園とドンゴナーブ湾=ムカッワー島海洋国立公園]] - 紅海の海洋保護区の中で初の世界遺産。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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18,601 |
ウナギイヌ
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ウナギイヌ(鰻犬)は、赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』および本作品を原作としたアニメに登場するキャラクター。イヌの父とウナギの母との間に生まれた「ハーフ」である。故郷の浜名湖に因み、浜松市のマスコットキャラクター【はままつ福市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた。フジオプロとの契約は、2007年度~2012年度迄。後任の「出世大名家康くん」と交代した。
1979年~1980年にかけては、主人公に昇格した4コマ漫画『ウナギイヌ』も連載されている。
2007年5月からは、故郷の浜名湖に面している浜松市のマスコットキャラクター【はままつ福市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた が、2012年度には出世大名家康くんにその地位を譲る形で、マスコットキャラクターとしての契約は終了した。
「ワンワン」と鳴き、日本語を喋ることもできる。全身はウナギのようにヌルヌルしていて捕まえようとしても、捕まえる手が滑ってしまいうまく逃げられてしまう。真っ黒く太いウナギの胴体にイヌの4本足を備えており、おにぎり型の頭がついている。尻尾は木の葉状で、ウナギの尾びれをオーバーに表現したような形をしている。顔には、ピンク色のタラコ唇、イヌのヒゲ(洞毛)、まん丸の目、申しわけ程度の耳がある。口の中の一本歯とのどちんこ(口蓋垂)が特徴である。色は『元祖天才バカボン』では青、『平成天才バカボン』では黒、『レレレの天才バカボン』では紺、『深夜!天才バカボン』では青緑。言葉遣いは丁寧。語尾に基本的に「ワンワン」をつける。犬小屋を細長くしたような住みかを川岸に建てて住んでいる。なお、その小屋の上半分は陸上にあり、下半分は水中に没している(これを見たバカボンのパパは「これではまるで床上浸水なのだ」と発している)。
原作漫画ではバカボンのパパがウナギイヌの家に招待され、両親を紹介されるエピソードがある。ウナギイヌの誕生の経緯について、父イヌが「自分はイヌのくせに『泥棒ねこ』だった」と語り、盗みに入った魚屋で母ウナギを見初め、そのまま駆け落ちしてウナギイヌが生まれた、としている。この原作での設定をもとに、アニメ第3作『平成天才バカボン』では、ウナギイヌは登場した際に自分は以前は「泥棒ねこ」だったと言い、そのときに盗みに入った魚屋で自分の妻であるメスの黒いウナギイヌに出会ったと設定された。なお、アニメ第4作では原作通りの筋書きで描かれている。
1972年の「週刊少年マガジン」(講談社)51号で、巻末に「衝撃の告白!! 作者が明かすウナギイヌの正体」という特集記事が組まれ、その中に「ウナギイヌ#秘調書大公開」と題し、ウナギイヌの家系図が掲載。それによると、ウナギイヌには「ウナギイヌ江」という姉と、「ウナギイヌ子」という妹が存在。妹は従軍看護婦、姉はポーラ化粧品のセールスマンで、べし(『もーれつア太郎』)の息子・コルゲンコーワというカエルと「国際結婚」し、「ウナコーワ」という娘を誕生させている。また、父イヌの浮気相手は「夜のイヌ」であり、さらに父イヌの先祖はかつて「勤王のシシ」という獅子と戦った「幕府のイヌ」という。
長谷邦夫によると、ウナギイヌが生まれた背景には、真夏の昼前に実施された『天才バカボン』のアイデア会議の際、フジオプロの打ち合わせ部屋のクーラーが壊れて暑くなり、おかげですっかりヤル気をなくした赤塚がウナギ屋へ避暑に行こう(=サボろう)としたのを、掲載誌である『週刊少年マガジン』の担当、五十嵐隆夫記者がこれを阻止せんとしきりに粘った攻防があったという。
五十嵐記者は何とか掲載号のアイデアを捻出させようと「目ン玉繋がりのお巡りさんが暑くてウナギを食べたがっているんですよ」とネタを振り、これを受けた長谷邦夫が「犬をウナギと間違えて、捕らえて食おうと飛びかかる」と話を広げた。「いくらなんでも犬は食わないだろう。」「あのお巡りは犬とウナギを見間違える程の幻覚を見たんだ」などと話を膨らませ、それではと赤塚が犬とウナギを合体させたキャラクターをスケッチしたところウケたため、この絵を見た古谷三敏が「コイツはウナギみたいに捕らえどころがないんだろう」「体の色は黒い方がいい」とこのキャラクターの方向付けをした。こうしてウナギイヌが誕生し、五十嵐記者はヤル気のなかった赤塚から無事に上がり原稿を入手することができた。
五十嵐隆夫によると、ウナギ屋に行こうとした赤塚と押し問答になった末、観念した赤塚が外を眺めながら、「犬もウナギに見えてきた」とこぼしたことからウナギイヌのアイデアが生まれたという。
古谷三敏によると、アイデア会議で次の掲載日は土用の丑の日などと話をしていたところを犬が走り去り、古谷がウナギと犬を足したらどうかというアイデアを出し、赤塚がこれを面白いと言ったことから生まれたという。
古谷の自伝「ボクの手塚治虫せんせい」ではまた違った説が書かれている。古谷が赤塚と知り合う前から作っていた何百というキャラクターのスクラップブックを見ていた赤塚がウナギイヌを気に入り、「これ頂戴!」と頼んで古谷がプレゼントしたという。 だが、後に「昭和カルチャーズ『元祖天才バカボン』feat. ウナギイヌ」では、古谷自身、この証言を否定している。
「赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!」のQ&Aによると、五十嵐が赤塚に頼まれてタバコを買ってきた間に誕生していたという。
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"text": "ウナギイヌ(鰻犬)は、赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』および本作品を原作としたアニメに登場するキャラクター。イヌの父とウナギの母との間に生まれた「ハーフ」である。故郷の浜名湖に因み、浜松市のマスコットキャラクター【はままつ福市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた。フジオプロとの契約は、2007年度~2012年度迄。後任の「出世大名家康くん」と交代した。",
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"text": "「ワンワン」と鳴き、日本語を喋ることもできる。全身はウナギのようにヌルヌルしていて捕まえようとしても、捕まえる手が滑ってしまいうまく逃げられてしまう。真っ黒く太いウナギの胴体にイヌの4本足を備えており、おにぎり型の頭がついている。尻尾は木の葉状で、ウナギの尾びれをオーバーに表現したような形をしている。顔には、ピンク色のタラコ唇、イヌのヒゲ(洞毛)、まん丸の目、申しわけ程度の耳がある。口の中の一本歯とのどちんこ(口蓋垂)が特徴である。色は『元祖天才バカボン』では青、『平成天才バカボン』では黒、『レレレの天才バカボン』では紺、『深夜!天才バカボン』では青緑。言葉遣いは丁寧。語尾に基本的に「ワンワン」をつける。犬小屋を細長くしたような住みかを川岸に建てて住んでいる。なお、その小屋の上半分は陸上にあり、下半分は水中に没している(これを見たバカボンのパパは「これではまるで床上浸水なのだ」と発している)。",
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"text": "原作漫画ではバカボンのパパがウナギイヌの家に招待され、両親を紹介されるエピソードがある。ウナギイヌの誕生の経緯について、父イヌが「自分はイヌのくせに『泥棒ねこ』だった」と語り、盗みに入った魚屋で母ウナギを見初め、そのまま駆け落ちしてウナギイヌが生まれた、としている。この原作での設定をもとに、アニメ第3作『平成天才バカボン』では、ウナギイヌは登場した際に自分は以前は「泥棒ねこ」だったと言い、そのときに盗みに入った魚屋で自分の妻であるメスの黒いウナギイヌに出会ったと設定された。なお、アニメ第4作では原作通りの筋書きで描かれている。",
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"text": "1972年の「週刊少年マガジン」(講談社)51号で、巻末に「衝撃の告白!! 作者が明かすウナギイヌの正体」という特集記事が組まれ、その中に「ウナギイヌ#秘調書大公開」と題し、ウナギイヌの家系図が掲載。それによると、ウナギイヌには「ウナギイヌ江」という姉と、「ウナギイヌ子」という妹が存在。妹は従軍看護婦、姉はポーラ化粧品のセールスマンで、べし(『もーれつア太郎』)の息子・コルゲンコーワというカエルと「国際結婚」し、「ウナコーワ」という娘を誕生させている。また、父イヌの浮気相手は「夜のイヌ」であり、さらに父イヌの先祖はかつて「勤王のシシ」という獅子と戦った「幕府のイヌ」という。",
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"text": "長谷邦夫によると、ウナギイヌが生まれた背景には、真夏の昼前に実施された『天才バカボン』のアイデア会議の際、フジオプロの打ち合わせ部屋のクーラーが壊れて暑くなり、おかげですっかりヤル気をなくした赤塚がウナギ屋へ避暑に行こう(=サボろう)としたのを、掲載誌である『週刊少年マガジン』の担当、五十嵐隆夫記者がこれを阻止せんとしきりに粘った攻防があったという。",
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"text": "五十嵐記者は何とか掲載号のアイデアを捻出させようと「目ン玉繋がりのお巡りさんが暑くてウナギを食べたがっているんですよ」とネタを振り、これを受けた長谷邦夫が「犬をウナギと間違えて、捕らえて食おうと飛びかかる」と話を広げた。「いくらなんでも犬は食わないだろう。」「あのお巡りは犬とウナギを見間違える程の幻覚を見たんだ」などと話を膨らませ、それではと赤塚が犬とウナギを合体させたキャラクターをスケッチしたところウケたため、この絵を見た古谷三敏が「コイツはウナギみたいに捕らえどころがないんだろう」「体の色は黒い方がいい」とこのキャラクターの方向付けをした。こうしてウナギイヌが誕生し、五十嵐記者はヤル気のなかった赤塚から無事に上がり原稿を入手することができた。",
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"text": "五十嵐隆夫によると、ウナギ屋に行こうとした赤塚と押し問答になった末、観念した赤塚が外を眺めながら、「犬もウナギに見えてきた」とこぼしたことからウナギイヌのアイデアが生まれたという。",
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"text": "古谷三敏によると、アイデア会議で次の掲載日は土用の丑の日などと話をしていたところを犬が走り去り、古谷がウナギと犬を足したらどうかというアイデアを出し、赤塚がこれを面白いと言ったことから生まれたという。",
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ウナギイヌ(鰻犬)は、赤塚不二夫の漫画『天才バカボン』および本作品を原作としたアニメに登場するキャラクター。イヌの父とウナギの母との間に生まれた「ハーフ」である。故郷の浜名湖に因み、浜松市のマスコットキャラクター【はままつ福市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた。フジオプロとの契約は、2007年度~2012年度迄。後任の「出世大名家康くん」と交代した。 1979年~1980年にかけては、主人公に昇格した4コマ漫画『ウナギイヌ』も連載されている。 2007年5月からは、故郷の浜名湖に面している浜松市のマスコットキャラクター【はままつ福市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた が、2012年度には出世大名家康くんにその地位を譲る形で、マスコットキャラクターとしての契約は終了した。
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'''ウナギイヌ'''(鰻犬)は、[[赤塚不二夫]]の[[漫画]]『[[天才バカボン]]』および[[天才バカボン (アニメ)|本作品を原作としたアニメ]]に登場する[[キャラクター]]。[[イヌ]]の父と[[ウナギ]]の母との間に生まれた「[[雑種|ハーフ]]」である。故郷の[[浜名湖]]に因み、[[浜松市]]のマスコットキャラクター【[[はままつ]]福市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた。フジオプロとの契約は、[[2007年]]度~[[2012年]]度迄。後任の「[[出世大名家康くん]]」と交代した。
1979年~1980年にかけては、主人公に昇格した4コマ漫画『ウナギイヌ』も連載されている<ref>{{Cite book|和書|title=夜の赤塚不二夫|date=2021年7月28日|year=2021|publisher=なりなれ社|author=赤塚不二夫}}</ref>。
2007年5月からは、故郷の浜名湖に面している[[浜松市]]のマスコットキャラクター【はままつ'''福'''市長】(『福』は赤丸に白抜き文字)として採用されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/mayor/magazine/back/20070622.txt |title=浜松市メールマガジン 市長インタビュー 浜松市マスコットキャラクター誕生 |publisher=[[浜松市]] |date=2007-06-22 |language=日本語 |accessdate=2013-04-19}}</ref> が、2012年度には[[出世大名家康くん]]にその地位を譲る形で、マスコットキャラクターとしての契約は終了した<ref>『静岡新聞』2012年1月12日付朝刊1面。</ref>。
== 特徴 ==
「ワンワン」と鳴き、[[日本語]]を喋ることもできる。全身はウナギのようにヌルヌルしていて捕まえようとしても、捕まえる手が滑ってしまいうまく逃げられてしまう。真っ黒く太いウナギの胴体にイヌの4本足を備えており、おにぎり型の頭がついている。尻尾は木の葉状で、ウナギの尾びれをオーバーに表現したような形をしている。顔には、ピンク色のタラコ唇、イヌのヒゲ([[洞毛]])、まん丸の目、申しわけ程度の耳がある。口の中の一本歯とのどちんこ([[口蓋垂]])が特徴である。色は『[[元祖天才バカボン]]』では青、『[[平成天才バカボン]]』では黒、『[[レレレの天才バカボン]]』では紺、『[[深夜!天才バカボン]]』では青緑。言葉遣いは丁寧。語尾に基本的に「ワンワン」をつける。犬小屋を細長くしたような住みかを川岸に建てて住んでいる。なお、その小屋の上半分は陸上にあり、下半分は水中に没している(これを見た[[バカボンのパパ]]は「これではまるで床上浸水なのだ」と発している)。
原作漫画では[[バカボンのパパ]]がウナギイヌの家に招待され、両親を紹介されるエピソードがある。ウナギイヌの誕生の経緯について、父イヌが「自分はイヌのくせに『泥棒ねこ』だった」と語り、盗みに入った魚屋で母ウナギを見初め、そのまま駆け落ちしてウナギイヌが生まれた、としている。この原作での設定をもとに、アニメ第3作『平成天才バカボン』では、ウナギイヌは登場した際に自分は以前は「泥棒ねこ」だったと言い、そのときに盗みに入った魚屋で自分の妻であるメスの黒いウナギイヌに出会ったと設定された。なお、アニメ第4作では原作通りの筋書きで描かれている。
1972年の「週刊少年マガジン」(講談社)51号で、巻末に「衝撃の告白!! 作者が明かすウナギイヌの正体」という特集記事が組まれ、その中に「ウナギイヌ{{JIS2004フォント|#㊙}}調書大公開」と題し、ウナギイヌの家系図が掲載。それによると、ウナギイヌには「ウナギイヌ江」という姉と、「ウナギイヌ子」という妹が存在。妹は従軍看護婦、姉は[[ポーラ (企業)|ポーラ化粧品]]のセールスマンで、[[べし]](『[[もーれつア太郎]]』)の息子・[[興和|コルゲンコーワ]]という[[カエル]]と「国際結婚」し、「ウナコーワ」という娘を誕生させている。また、父イヌの浮気相手は「夜のイヌ」であり、さらに父イヌの先祖はかつて「勤王のシシ」という獅子と戦った「幕府のイヌ」という<ref>{{Cite book |和書 |title=天才バカボン |volume=12 |publisher=[[竹書房]] |year=1995 |pages=256 - 257}}</ref>。
== キャラクター誕生の経緯 ==
=== 長谷邦夫の説 ===
[[長谷邦夫]]によると、ウナギイヌが生まれた背景には、真夏の昼前に実施された『天才バカボン』のアイデア会議の際、[[フジオ・プロダクション|フジオプロ]]の打ち合わせ部屋のクーラーが壊れて暑くなり、おかげですっかりヤル気をなくした赤塚がウナギ屋へ避暑に行こう(=サボろう)としたのを、掲載誌である『[[週刊少年マガジン]]』の担当、[[五十嵐隆夫]]記者がこれを阻止せんとしきりに粘った攻防があったという。
五十嵐記者は何とか掲載号のアイデアを捻出させようと「目ン玉繋がりのお巡りさんが暑くてウナギを食べたがっているんですよ」とネタを振り、これを受けた[[長谷邦夫]]が「犬をウナギと間違えて、捕らえて食おうと飛びかかる」と話を広げた。「いくらなんでも犬は食わないだろう。」「あのお巡りは犬とウナギを見間違える程の幻覚を見たんだ」などと話を膨らませ、それではと赤塚が犬とウナギを合体させたキャラクターをスケッチしたところウケたため、この絵を見た[[古谷三敏]]が「コイツはウナギみたいに捕らえどころがないんだろう」「体の色は黒い方がいい」とこのキャラクターの方向付けをした。こうしてウナギイヌが誕生し、五十嵐記者はヤル気のなかった赤塚から無事に上がり原稿を入手することができた<ref>長谷邦夫『ギャグに取り憑かれた男』に詳細が書かれている。</ref>。
=== 五十嵐隆夫の説 ===
[[五十嵐隆夫]]によると、ウナギ屋に行こうとした赤塚と押し問答になった末、観念した赤塚が外を眺めながら、「犬もウナギに見えてきた」とこぼしたことからウナギイヌのアイデアが生まれたという<ref>講談社『少年マガジン・トリビア134』による。</ref>。
=== 古谷三敏の説 ===
[[古谷三敏]]によると、アイデア会議で次の掲載日は[[土用の丑の日]]などと話をしていたところを犬が走り去り、古谷がウナギと犬を足したらどうかというアイデアを出し、赤塚がこれを面白いと言ったことから生まれたという<ref name=":0">昭和カルチャーズ 元祖 天才バカボン feat. ウナギイヌ DVDブック (角川SSCムック) p.10</ref>。
古谷の自伝「ボクの手塚治虫せんせい」ではまた違った説が書かれている。古谷が赤塚と知り合う前から作っていた何百というキャラクターのスクラップブックを見ていた赤塚がウナギイヌを気に入り、「これ頂戴!」と頼んで古谷がプレゼントしたという<ref>{{Cite book |和書 |title=ボクの手塚治虫せんせい |publisher=[[双葉社]] |year=2010 |pages=92 - 93}}</ref>。
だが、後に「昭和カルチャーズ『元祖天才バカボン』feat. ウナギイヌ」では、古谷自身、この証言を否定している。
=== 「赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!」の説 ===
「赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!」のQ&Aによると、五十嵐が赤塚に頼まれてタバコを買ってきた間に誕生していたという<ref>[http://www.koredeiinoda.net/news/faq.html よくある質問 | 赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!]</ref>。
== 声優 ==
* [[池水通洋]] - 『[[元祖天才バカボン]]』
* [[田原アルノ]] - 『[[平成天才バカボン]]』
* [[塩屋浩三]] - 『[[レレレの天才バカボン]]』
* [[新井浩文]] - 『[[これでいいのだ!!映画★赤塚不二夫]]』
* [[櫻井孝宏]] - 『[[深夜!天才バカボン]]』
* [[秋本帆華]] - 『[[天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜]]』
== 補足 ==
* 原作の初登場「ウナギのイヌのカバヤキなのだ」では「ワンワン」や「キャイン」という鳴き声は出すも人語は出せず、バカボンのパパに[[蒲焼|蒲焼き]]にされて食べられてしまう。2度目の登場となる「カエルはカエルがさばくのだ」では扉のみ登場、食われずに済むようになったのは3度目の登場の「天才ウナギイヌ」からである。アニメ第2作『[[元祖天才バカボン]]』では、106話「ショートギャグでコニャニャチハ」でバカボンのパパ達に食べられ、その時には首から下は[[骨]]の「ウチワイヌ」にされたが、普通に生きていた。『[[深夜!天才バカボン]]』では第2話で初登場し、原作同様パパに食べられてしまうも、Bパートで復活し、1話で二度食べられたくないと言っている。本作では、その後も度々食べられ(描写はないが本官さんにも食べられたと発言)、9話Bパートで描かれたリアルな現実世界の未来ではパパが過去に食べてしまい、漫画ではないから復活しないと嘆いている。
* 初登場の時は四つ足は全て白かった。再登場の時に黒い四つ足に変更された。
* 先述の「天才ウナギイヌ」の扉には、背中にマントを着け[[オートバイ]]に乗るウナギイヌが掲載、その上に『[[月光仮面]]』主題歌『月光仮面は誰でしょう』の[[替え歌]]による「ウナギイヌの歌」が掲載されていた。この歌は[[曙出版]]や[[講談社]]から発売された単行本には収録されていなかったが、[[竹書房]]から発売された文庫本には掲載されている。なお『月光仮面』の原作者・[[川内康範]]はこのウナギイヌに大喜び、後に赤塚の自宅に遊びにいった際、23年間守った禁酒を破って赤塚と酒を飲み交わしたという<ref>{{Cite book |和書 |title=赤塚不二夫マンガ大全「ぜんぶ伝説のマンガなのだ!!」 |publisher=[[宝島社]] |year=2011 |page=106}}</ref>。
* 「天才ウナギイヌ」が掲載した同時期には、「[[少年サンデー|週刊少年サンデー]]」に赤塚が連載している『[[レッツラゴン]]』にもウナギイヌは登場、ゴン・ベラマッチャと共演したが、ゴンに食われそうになったので去った。なおこの時のウナギイヌは、なぜか第一人称を「あたい」と言っていた(通常は「僕」)。
* 1990年の[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]で放送されたアニメ第3作『[[平成天才バカボン]]』では、最終回のラスト、それまで放送された映像を見ていたレギュラー陣と全ゲストキャラが登場、さらにそのシーンを見ていた全キャラ→それを見ていた全キャラ…と連続メタフィクションオチが続いたところで登場し、「まったく、いい加減にしてほしいですねぇ。では、ごきげんよう」と言いながら番組を締めくくった。
* 1999年から[[TXN|テレビ東京系列]]で放送されたアニメ第4作『[[レレレの天才バカボン]]』では、Aパートの前に登場して「こんばんは、ウナギイヌです。ワン。バカボンを見るときは、部屋を明るくして、テレビから離れて見てください」と視聴者に語りかけていた。DVDでは「こんばんは」のセリフ部分が「はじめまして」となっている。また、白いウナギイヌがウナギイヌの恋人?として出演した。
* [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で放送された番組『[[おサイフいっぱいクイズ!QQQのQ]]』ではオープニングに本官さんと一緒に登場し、タイトルデザインのモチーフにもなった。
* 2013年3月15日より[[東京ガス]]「[[エネファーム]]」の[[テレビコマーシャル]]に「[[デンキウナギ|電気ウナギイヌ]]」として登場している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-gas.co.jp/Press/20130314-01.html|title=家庭用燃料電池「エネファーム」の 最新テレビコマーシャルを3月15日(金)から放映開始|publisher=東京ガス株式会社|date=2013-03-14|accessdate=2013-03-21}}</ref>。こちらは腹にコンセントがあり、ヒゲが黄色くギザギザしたもの(電気の象徴化)になっている。声は[[田原アルノ]]が担当<ref>[https://ameblo.jp/heikenokokoro-tutaeyou/entry-11491292970.html 田原アルノ公式ブログ] 2013年3月16日</ref>。また、同年12月27日放送開始のコマーシャルからは体色が緑で「電気ウナギイヌ」のいとこという設定の「節電気ウナギイヌ」も登場している<ref>[http://www.tokyo-gas.co.jp/Press/20131226-02.html 家庭用燃料電池「エネファーム」の最新テレビコマーシャルを12月27日(金)から放映開始] 東京ガス 2013年12月26日</ref>。
* 2017年の実写ドラマ『[[天才バカボン#テレビドラマ|天才バカボン2]]』に登場。CGで描かれるも人語は喋らず、レレレのおじさんに紹介されていた。
* 文化人類学者ジョン・G・ラッセル(岐阜大学教授)の著書『日本人の黒人観―問題は「ちびくろサンボ」だけではない』の中では、ウナギイヌを[[ネグロイド|黒人]]の[[メタファー]]であると誤解、糾弾する箇所がある<ref>ジョン・G・ラッセル『日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない』[[新評論]]、1991年、108頁。ISBN 4-7948-0091-6。</ref>。なお、赤塚にこのキャラクターに関するそのような認識はない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
* [http://www.koredeiinoda.net/manga/s_unagiinu.html ウナギイヌ|赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!]
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18,602 |
緑茶
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緑茶(りょくちゃ、拼音: lǜchá)は、チャノキの葉から作った茶のうち、摘み取った茶葉を加熱処理して茶葉中の酵素反応(茶業界では「発酵」と呼ばれる)を妨げたもの。もしくはそれに湯を注ぎ、成分を抽出した飲料のこと。
中国は全世界の緑茶の約75パーセントを供給する主要生産国である。中国国内で生産される茶類のうち60パーセント以上を緑茶類が占め、多くの人々が緑茶を常飲している。また、日本茶(煎茶、ほうじ茶、抹茶など)はその多くが緑茶であり、緑茶は日本でもっとも良く飲まれている茶である。
日本式の緑茶の製造は以下の工程からなる。
簡単に言うと、収穫した茶葉を蒸して揉み潰し、茶葉の型を整えつつ乾燥する、という工程の並びになる。摘採から乾燥までの工程を荒茶工程、選別・整形から合組みまでの工程を仕上げ工程という。中国緑茶の製造工程は、収穫された茶葉に加熱処理を加え、揉捻し乾燥するという基本的な原理は同じだが、主流となっている方法がやや異なる。
緑茶に使われるチャノキは小葉灌木の中国種が主である。碾茶やかぶせ茶のように特別な管理のもとにチャノキを育成する茶園も存在する。日本では5月上旬に一番茶の茶摘みが行われ、八十八夜を過ぎた頃に最盛期となる。一番茶はその後の二番茶、三番茶に比べカテキン、テアニンが豊富なため滋味が強く、最上級茶に用いられる。中国では清明節前に収穫された茶を明前茶と呼び、高級品に格付けされる。また、緑茶の格付けは心芽(ミル芽)が多く含まれるほど高級とされ、茶摘みの際に心芽から下の葉を何枚摘み取るかによって等級が決まる。日本では一般的に一心二葉が最高級、一心三葉は準高級品とされている。中国では心芽しか使わない一心摘みの茶や一心一葉の茶が最高級クラスとして流通している。
収穫された茶葉は荒茶工場に輸送される。 中国では香りを立てるために室内で冷却しつつ一定間隔で撹拌し、茶葉を萎れさせる萎凋(いちょう)と呼ばれる作業が施される。 茶葉に含まれる酵素による酸化発酵(萎凋)を極力抑えた物を不発酵茶といい、この加熱処理を一般に殺青(さっせい、シャーチン、shāqīng)と呼ぶ。日本では近年一部微発酵茶の生産もあるものの、それらを除きほとんどは極力萎凋を避けることから一般には工場輸送搬入後速やかに強い蒸熱を加え発酵を止める。普通の蒸し茶の場合100°Cの蒸気で30秒ほど蒸し上げるが、蒸気を当てる時間が短ければ香気が強く茶葉の形が崩れない茶となり、長ければ青臭さが取れ、濃い水色をもつ円やかな茶となる。前者を浅蒸し茶、後者を深蒸し茶といい、製品の特性に合わせて選択される。 なお、中国緑茶でこのように蒸青(ゼンチン)を行っている例としては湖北省玉泉寺の仙人掌茶が著名である。
中国での殺青は釜炒り(炒青、サーチン)を行うのが主流であり、炒青した茶葉を揉捻・乾燥し完成させたものを「炒青緑茶」という。他の方法として茶葉を火で焙ることで殺青する烘青(ホンチン)で一旦荒茶を作り、最終工程で炒青する「烘青緑茶」や、などもある。なお、日本国内でも佐賀県の嬉野茶(うれしのちゃ)や宮崎県・熊本県県境付近の青柳茶(あおやぎちゃ)の様に釜炒りの製法を取っているものがある。
殺青を終えた茶葉は揉捻に入る。揉捻の目的は茶葉の細胞組織を破壊し浸出を良くすることと、茶葉の形を整えることである。日本の荒茶工場では、揉捻は熱風で乾燥させつつ強い力で粗く揉む粗揉、水分量を均一する揉捻、再び温風を通しながら揉む中揉、熱と力に形を整える精捻から成る。なお、揉捻作業を昔ながらの手作業で行う茶は手揉み茶と呼ばれている。揉捻を終えた茶葉は乾燥機で水分量が7 - 8パーセントになるまで乾燥させ、茶葉を均一に混ぜ合わせて荒茶が完成する。この時点で消費される茶もあるが、概ね次の仕上げ工程に送られ、仕上げ茶として製品化される。
中国緑茶や日本の玉緑茶などの釜炒り茶は、揉捻を行うことで独特な茶の成形が同時に行われるが、高級な中国茶は茶葉の形を維持することが求められるため、ピロチュンのようなミル芽の多い高級緑茶には強い揉捻は行われない。乾燥工程では、方法によって前述の炒青緑茶・烘青緑茶として完成となるものと、黒茶用の粗成茶などの晒青緑茶の3種類に大別される。中国では次工程で加工される前の荒茶を毛茶(マオチャ)という。
日本茶の仕上げ工程では、まず各所から集められた不揃いな荒茶を篩い分け、裁断して形を整える。次に熱風や遠赤外線などで乾燥させ、緑茶の香りを立たせる火入れが行われる。火入れの後に茎や枝などの煎茶に使い得ない部分が取り除かれ、茎茶、粉茶、芽茶などに選別される。火入れの終わった茶は製品の品質を一定に保つためにブレンド(合組み)が行われ、仕上げ茶が完成する。
日本で生産される緑茶のうち煎茶は約80パーセントを占め、日本茶と同意に呼ばれることが多い。煎茶には新鮮な香りを立たせた浅蒸し茶と、青臭さを消した深蒸し茶があり、前者は新茶などに用いられる。日本茶は中国茶に比べ香りよりも滋味が評価される傾向があり、特に玉露のような高級緑茶を淹れる場合には湯冷ましによって湯の温度を下げて淹れる。
抹茶(挽茶)(→茶道) - 碾茶を石臼を用いて微細な粉末に仕立てたもの。
日本のお茶栽培は、1191年に臨済宗の開祖栄西禅師が長崎県平戸市千光寺と佐賀県脊振山(現・吉野ヶ里町)の山腹に宋時代の中国から持ち帰った種をまいたのが始まり。茶栽培を始めたのは佐賀県の旧・東脊振村の霊仙寺で、明恵が茶園をつくって栽培した粉末状の茶「抹茶」である。現代で日常的によく飲まれる「煎茶」は、1738年に山城国宇治田原郷湯屋谷村(現・京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷)の茶農家であった永谷宗円が15年の歳月をかけてその製法(青製煎茶製法)を生み出したことが始まりである。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。自身が開発した製茶法を、宗円は惜しみなく茶業者に伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。江戸時代には各地で喫茶の習慣が庶民にも広まったが、これは、京都で日本初の喫茶店「遊仙亭」を開いて庶民に煎茶を広めた「煎茶道の祖」と称されている佐賀県出身の売茶翁の功績が大きいといわれている。
開国から明治前半にかけては日本の主要輸出商品となり、1882年には日本国内の生産量の82%が輸出されていた。しかし、流通過程で混ぜ物がされた粗悪品による信用の失墜や軽工業製品の輸出増加により、緑茶輸出の比重は低下していった。
ジャスミン茶は、緑茶にジャスミンが開花する時に放出される香りを付けたもので、分類上は花茶、着香茶に入る。
朝鮮半島では10世紀頃から茶の木が栽培されていたが、李氏朝鮮の時代に仏教を排斥したのに伴い茶の栽培は下火になり、極一部でしか栽培されなくなった。1989年になってようやく韓国政府が茶の栽培に補助金を出すようになった。その為、韓国で茶の木の栽培が本格的に行われるようになったのは1990年代以降である。また、高麗茶道(茶礼とは異なる)と称して茶をたしなむ文化も存在するが、これは京都の在日韓国人が戦後に起こした茶道であり、朝鮮半島古来の文化・作法ではない。
中国の隣国であるベトナム北部でも、タイグエン茶と呼ばれる緑茶の栽培と消費が盛んである。タイグエン茶の製法は中国茶と同様の釜炒り方式であり、殺青、揉捻、晒青という製造工程となる。喫茶法はポットに多量の茶葉を入れお湯を注ぐ淹茶式であり、福建省、もしくはフランス植民地時代のコーヒーの淹れ方の影響と言われる。
モロッコ・チュニジア・アルジェリアのあるマグリブ地方では中国緑茶の消費が盛んであり、なかでもモロッコの茶礼アッツァイで供されるナナミントティーは著名である。トゥアレグティーとも呼ばれるナナミントティーは、平水珠茶(英語版)や珍眉茶にミントと多量の砂糖を加えて飲まれる。
緑茶は成人が適切な量を飲む分には安全であるが、含まれるカフェインの作用により不眠、不安、いらだち、胃腸不良、吐き気などを起こしえる。さらに少量のビタミンKを含むため、ワルファリン服用者は注意が必要である。
またある種のがんについて、緑茶はそれを予防し進行を遅らせる効果があるであろう(may help)とアメリカ国立補完統合衛生センターは述べていたが、現在はヒトに対するがんの研究で一貫した結果を得られなかったとしている。
試験では、体重減量のエビデンスがあるとは確認できなかった。
緑茶には1杯当たり約90mgのポリフェノール(カテキン類)が含まれており、活性酵素によりダメージから体を守る。そして、ポリフェノール摂取量が増えるとシミも抑えられる。
緑茶は風邪など呼吸器感染症の予防に良いと俗に言われているが、2022年時点では有効性はわかっていない。歯周病を改善したり、お茶うがいでインフルエンザ発症が抑えられたという報告もある。緑茶に含まれるカテキン類にはウイルス表面のスパイクタンパク質と結合する能力があり、その感染力を弱める可能性がある。
カテキン類は、緑茶を飲んで1~2時間後に血中で濃度がピークになるが、4時間後には血中濃度は低下してしまう。抗酸化力をキープするためには2~3時間ごとにこまめに飲む必要がある。
水出し緑茶ならストレスを軽減する効果をもつテアニンや免疫細胞を活性化するエピガロカテキンを効率よく摂取できる。お湯で入れたお茶にはカフェインや渋みの強いカテキンが多く含まれ、これらの効果を弱めてしまう。
緑茶の茶葉を食べる料理がある。
抹茶は蕎麦に加えて茶そばにしたり、塩と合わせて天麩羅の味付けに使われたりする。菓子にもよく使われ、代表的な洋菓子のほとんどに抹茶風味のものが存在する。
茶葉に含まれる苦味成分テオフィリン(キサンチン誘導体に分類されるアルカロイドの一種)は、気管支拡張剤の原料となる。
緑茶はさっぱりとした香気を持っているため入浴剤や制汗剤、石鹸など清涼感を求められる製品に使用される。
緑茶に多く含まれるカテキンは抗菌、抗ウイルス作用があるため石鹸、シャンプーなど洗剤類やタオル、寝具などに使用される。
|
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"text": "緑茶(りょくちゃ、拼音: lǜchá)は、チャノキの葉から作った茶のうち、摘み取った茶葉を加熱処理して茶葉中の酵素反応(茶業界では「発酵」と呼ばれる)を妨げたもの。もしくはそれに湯を注ぎ、成分を抽出した飲料のこと。",
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"text": "中国は全世界の緑茶の約75パーセントを供給する主要生産国である。中国国内で生産される茶類のうち60パーセント以上を緑茶類が占め、多くの人々が緑茶を常飲している。また、日本茶(煎茶、ほうじ茶、抹茶など)はその多くが緑茶であり、緑茶は日本でもっとも良く飲まれている茶である。",
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"text": "日本式の緑茶の製造は以下の工程からなる。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "簡単に言うと、収穫した茶葉を蒸して揉み潰し、茶葉の型を整えつつ乾燥する、という工程の並びになる。摘採から乾燥までの工程を荒茶工程、選別・整形から合組みまでの工程を仕上げ工程という。中国緑茶の製造工程は、収穫された茶葉に加熱処理を加え、揉捻し乾燥するという基本的な原理は同じだが、主流となっている方法がやや異なる。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "緑茶に使われるチャノキは小葉灌木の中国種が主である。碾茶やかぶせ茶のように特別な管理のもとにチャノキを育成する茶園も存在する。日本では5月上旬に一番茶の茶摘みが行われ、八十八夜を過ぎた頃に最盛期となる。一番茶はその後の二番茶、三番茶に比べカテキン、テアニンが豊富なため滋味が強く、最上級茶に用いられる。中国では清明節前に収穫された茶を明前茶と呼び、高級品に格付けされる。また、緑茶の格付けは心芽(ミル芽)が多く含まれるほど高級とされ、茶摘みの際に心芽から下の葉を何枚摘み取るかによって等級が決まる。日本では一般的に一心二葉が最高級、一心三葉は準高級品とされている。中国では心芽しか使わない一心摘みの茶や一心一葉の茶が最高級クラスとして流通している。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "収穫された茶葉は荒茶工場に輸送される。 中国では香りを立てるために室内で冷却しつつ一定間隔で撹拌し、茶葉を萎れさせる萎凋(いちょう)と呼ばれる作業が施される。 茶葉に含まれる酵素による酸化発酵(萎凋)を極力抑えた物を不発酵茶といい、この加熱処理を一般に殺青(さっせい、シャーチン、shāqīng)と呼ぶ。日本では近年一部微発酵茶の生産もあるものの、それらを除きほとんどは極力萎凋を避けることから一般には工場輸送搬入後速やかに強い蒸熱を加え発酵を止める。普通の蒸し茶の場合100°Cの蒸気で30秒ほど蒸し上げるが、蒸気を当てる時間が短ければ香気が強く茶葉の形が崩れない茶となり、長ければ青臭さが取れ、濃い水色をもつ円やかな茶となる。前者を浅蒸し茶、後者を深蒸し茶といい、製品の特性に合わせて選択される。 なお、中国緑茶でこのように蒸青(ゼンチン)を行っている例としては湖北省玉泉寺の仙人掌茶が著名である。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "中国での殺青は釜炒り(炒青、サーチン)を行うのが主流であり、炒青した茶葉を揉捻・乾燥し完成させたものを「炒青緑茶」という。他の方法として茶葉を火で焙ることで殺青する烘青(ホンチン)で一旦荒茶を作り、最終工程で炒青する「烘青緑茶」や、などもある。なお、日本国内でも佐賀県の嬉野茶(うれしのちゃ)や宮崎県・熊本県県境付近の青柳茶(あおやぎちゃ)の様に釜炒りの製法を取っているものがある。",
"title": "緑茶の製法"
},
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"text": "殺青を終えた茶葉は揉捻に入る。揉捻の目的は茶葉の細胞組織を破壊し浸出を良くすることと、茶葉の形を整えることである。日本の荒茶工場では、揉捻は熱風で乾燥させつつ強い力で粗く揉む粗揉、水分量を均一する揉捻、再び温風を通しながら揉む中揉、熱と力に形を整える精捻から成る。なお、揉捻作業を昔ながらの手作業で行う茶は手揉み茶と呼ばれている。揉捻を終えた茶葉は乾燥機で水分量が7 - 8パーセントになるまで乾燥させ、茶葉を均一に混ぜ合わせて荒茶が完成する。この時点で消費される茶もあるが、概ね次の仕上げ工程に送られ、仕上げ茶として製品化される。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "中国緑茶や日本の玉緑茶などの釜炒り茶は、揉捻を行うことで独特な茶の成形が同時に行われるが、高級な中国茶は茶葉の形を維持することが求められるため、ピロチュンのようなミル芽の多い高級緑茶には強い揉捻は行われない。乾燥工程では、方法によって前述の炒青緑茶・烘青緑茶として完成となるものと、黒茶用の粗成茶などの晒青緑茶の3種類に大別される。中国では次工程で加工される前の荒茶を毛茶(マオチャ)という。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "日本茶の仕上げ工程では、まず各所から集められた不揃いな荒茶を篩い分け、裁断して形を整える。次に熱風や遠赤外線などで乾燥させ、緑茶の香りを立たせる火入れが行われる。火入れの後に茎や枝などの煎茶に使い得ない部分が取り除かれ、茎茶、粉茶、芽茶などに選別される。火入れの終わった茶は製品の品質を一定に保つためにブレンド(合組み)が行われ、仕上げ茶が完成する。",
"title": "緑茶の製法"
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"text": "日本で生産される緑茶のうち煎茶は約80パーセントを占め、日本茶と同意に呼ばれることが多い。煎茶には新鮮な香りを立たせた浅蒸し茶と、青臭さを消した深蒸し茶があり、前者は新茶などに用いられる。日本茶は中国茶に比べ香りよりも滋味が評価される傾向があり、特に玉露のような高級緑茶を淹れる場合には湯冷ましによって湯の温度を下げて淹れる。",
"title": "日本における緑茶"
},
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"text": "抹茶(挽茶)(→茶道) - 碾茶を石臼を用いて微細な粉末に仕立てたもの。",
"title": "日本における緑茶"
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"text": "日本のお茶栽培は、1191年に臨済宗の開祖栄西禅師が長崎県平戸市千光寺と佐賀県脊振山(現・吉野ヶ里町)の山腹に宋時代の中国から持ち帰った種をまいたのが始まり。茶栽培を始めたのは佐賀県の旧・東脊振村の霊仙寺で、明恵が茶園をつくって栽培した粉末状の茶「抹茶」である。現代で日常的によく飲まれる「煎茶」は、1738年に山城国宇治田原郷湯屋谷村(現・京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷)の茶農家であった永谷宗円が15年の歳月をかけてその製法(青製煎茶製法)を生み出したことが始まりである。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。自身が開発した製茶法を、宗円は惜しみなく茶業者に伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。江戸時代には各地で喫茶の習慣が庶民にも広まったが、これは、京都で日本初の喫茶店「遊仙亭」を開いて庶民に煎茶を広めた「煎茶道の祖」と称されている佐賀県出身の売茶翁の功績が大きいといわれている。",
"title": "日本における緑茶"
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"text": "開国から明治前半にかけては日本の主要輸出商品となり、1882年には日本国内の生産量の82%が輸出されていた。しかし、流通過程で混ぜ物がされた粗悪品による信用の失墜や軽工業製品の輸出増加により、緑茶輸出の比重は低下していった。",
"title": "日本における緑茶"
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"text": "ジャスミン茶は、緑茶にジャスミンが開花する時に放出される香りを付けたもので、分類上は花茶、着香茶に入る。",
"title": "世界各地の緑茶"
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"text": "朝鮮半島では10世紀頃から茶の木が栽培されていたが、李氏朝鮮の時代に仏教を排斥したのに伴い茶の栽培は下火になり、極一部でしか栽培されなくなった。1989年になってようやく韓国政府が茶の栽培に補助金を出すようになった。その為、韓国で茶の木の栽培が本格的に行われるようになったのは1990年代以降である。また、高麗茶道(茶礼とは異なる)と称して茶をたしなむ文化も存在するが、これは京都の在日韓国人が戦後に起こした茶道であり、朝鮮半島古来の文化・作法ではない。",
"title": "世界各地の緑茶"
},
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"text": "中国の隣国であるベトナム北部でも、タイグエン茶と呼ばれる緑茶の栽培と消費が盛んである。タイグエン茶の製法は中国茶と同様の釜炒り方式であり、殺青、揉捻、晒青という製造工程となる。喫茶法はポットに多量の茶葉を入れお湯を注ぐ淹茶式であり、福建省、もしくはフランス植民地時代のコーヒーの淹れ方の影響と言われる。",
"title": "世界各地の緑茶"
},
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"text": "モロッコ・チュニジア・アルジェリアのあるマグリブ地方では中国緑茶の消費が盛んであり、なかでもモロッコの茶礼アッツァイで供されるナナミントティーは著名である。トゥアレグティーとも呼ばれるナナミントティーは、平水珠茶(英語版)や珍眉茶にミントと多量の砂糖を加えて飲まれる。",
"title": "世界各地の緑茶"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "緑茶は成人が適切な量を飲む分には安全であるが、含まれるカフェインの作用により不眠、不安、いらだち、胃腸不良、吐き気などを起こしえる。さらに少量のビタミンKを含むため、ワルファリン服用者は注意が必要である。",
"title": "医薬的効果"
},
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"text": "またある種のがんについて、緑茶はそれを予防し進行を遅らせる効果があるであろう(may help)とアメリカ国立補完統合衛生センターは述べていたが、現在はヒトに対するがんの研究で一貫した結果を得られなかったとしている。",
"title": "医薬的効果"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "試験では、体重減量のエビデンスがあるとは確認できなかった。",
"title": "医薬的効果"
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"text": "緑茶には1杯当たり約90mgのポリフェノール(カテキン類)が含まれており、活性酵素によりダメージから体を守る。そして、ポリフェノール摂取量が増えるとシミも抑えられる。",
"title": "医薬的効果"
},
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"text": "緑茶は風邪など呼吸器感染症の予防に良いと俗に言われているが、2022年時点では有効性はわかっていない。歯周病を改善したり、お茶うがいでインフルエンザ発症が抑えられたという報告もある。緑茶に含まれるカテキン類にはウイルス表面のスパイクタンパク質と結合する能力があり、その感染力を弱める可能性がある。",
"title": "医薬的効果"
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"text": "カテキン類は、緑茶を飲んで1~2時間後に血中で濃度がピークになるが、4時間後には血中濃度は低下してしまう。抗酸化力をキープするためには2~3時間ごとにこまめに飲む必要がある。",
"title": "医薬的効果"
},
{
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"text": "水出し緑茶ならストレスを軽減する効果をもつテアニンや免疫細胞を活性化するエピガロカテキンを効率よく摂取できる。お湯で入れたお茶にはカフェインや渋みの強いカテキンが多く含まれ、これらの効果を弱めてしまう。",
"title": "医薬的効果"
},
{
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"text": "緑茶の茶葉を食べる料理がある。",
"title": "飲用以外の用途"
},
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"tag": "p",
"text": "抹茶は蕎麦に加えて茶そばにしたり、塩と合わせて天麩羅の味付けに使われたりする。菓子にもよく使われ、代表的な洋菓子のほとんどに抹茶風味のものが存在する。",
"title": "飲用以外の用途"
},
{
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"text": "茶葉に含まれる苦味成分テオフィリン(キサンチン誘導体に分類されるアルカロイドの一種)は、気管支拡張剤の原料となる。",
"title": "飲用以外の用途"
},
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"text": "緑茶はさっぱりとした香気を持っているため入浴剤や制汗剤、石鹸など清涼感を求められる製品に使用される。",
"title": "飲用以外の用途"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "緑茶に多く含まれるカテキンは抗菌、抗ウイルス作用があるため石鹸、シャンプーなど洗剤類やタオル、寝具などに使用される。",
"title": "飲用以外の用途"
}
] |
緑茶は、チャノキの葉から作った茶のうち、摘み取った茶葉を加熱処理して茶葉中の酵素反応(茶業界では「発酵」と呼ばれる)を妨げたもの。もしくはそれに湯を注ぎ、成分を抽出した飲料のこと。 中国は全世界の緑茶の約75パーセントを供給する主要生産国である。中国国内で生産される茶類のうち60パーセント以上を緑茶類が占め、多くの人々が緑茶を常飲している。また、日本茶(煎茶、ほうじ茶、抹茶など)はその多くが緑茶であり、緑茶は日本でもっとも良く飲まれている茶である。
|
[[ファイル:Small cup of green tea.jpg|thumb|240px|緑茶の一例]]
{{栄養価
|name = 淹れた緑茶
|kJ = 4
|carbs = 0 g
|fat = 0 g
|protein = 0.2 g
|calcium_mg= 0
|magnesium_mg= 1
|manganese_mg= 0.18
|iron_mg= 0.02
|potassium_mg= 8
|sodium_mg= 1
| thiamin_mg=0.007
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|niacin_mg= 0.03
|vitB6_mg=0.005
| vitC_mg=0.3
|opt1n= 水分
|opt1v= 99.9 g
|opt2n= カフェイン
|opt2v= 12 mg
|note=[http://ndb.nal.usda.gov/ndb/foods/show/4329?fgcd=&man=&lfacet=&count=&max=&sort=&qlookup=&offset=&format=Full&new=&measureby= Link to Full USDA Nutrient Report]
}}
'''緑茶'''(りょくちゃ、{{ピン音|lǜchá}})は、[[チャノキ]]の葉から作った茶のうち、摘み取った[[茶葉]]を加熱処理して茶葉中の[[酵素]]反応(茶業界では「発酵」と呼ばれる)を妨げたもの。もしくはそれに湯を注ぎ、成分を[[抽出]]した飲料のこと。
[[中華人民共和国|中国]]は全世界の緑茶の約75パーセントを供給する主要生産国である{{sfn|ティーピッグス|ルイーズ・チードル|ニック・キルビー|2017|pp=108-110}}。中国国内で生産される茶類のうち60パーセント以上を緑茶類が占め、多くの人々が緑茶を常飲している{{sfn|谷本陽蔵|1990|pp=380-381}}。また、[[日本茶]]([[煎茶]]、[[ほうじ茶]]、[[抹茶]]など)はその多くが緑茶であり、緑茶は[[日本]]でもっとも良く飲まれている茶である<ref>{{Cite web|和書|title=全国で親しまれている日本茶の種類 {{!}} お茶の通販 宇治田原製茶場 |url=http://shop.chanoma.co.jp/column/kind/nihoncha-variety.html |website=shop.chanoma.co.jp |accessdate=2022-01-31}}</ref>。
== 緑茶の製法 ==
[[File:Plantação de Chá Gorreana, Camellia sinensis, Ribeira Grande, ilha de São Miguel, Açores.JPG|thumb|right|茶畑]]
[[File:Processing green tea.jpg|thumb|right|粗揉]]
日本式の緑茶の製造は以下の工程からなる<ref>今井久雄『日本茶のすべて』笠倉出版社 2018 [https://books.google.co.jp/books?id=mDRpDwAAQBAJ&pg=PA4 Google Books版] 2019年7月26日閲覧。</ref>。
{{blockquote|
'''摘採''' ⇒ '''蒸し''' ⇒ '''粗揉''' ⇒ '''揉捻''' ⇒ '''中揉''' ⇒ '''精捻''' ⇒ '''乾燥''' ⇒ '''選別・整形'''⇒ '''火入れ''' ⇒ '''合組み'''}}
簡単に言うと、収穫した茶葉を蒸して揉み潰し、茶葉の型を整えつつ乾燥する、という工程の並びになる。摘採から乾燥までの工程を[[荒茶]]工程、選別・整形から合組みまでの工程を仕上げ工程という{{sfn|小國伊太郎|2004|pp=62-69}}。[[中国茶|中国緑茶]]の製造工程は、収穫された茶葉に加熱処理を加え、揉捻し乾燥するという基本的な原理は同じだが、主流となっている方法がやや異なる。
緑茶に使われる[[チャノキ]]は小葉灌木の中国種が主である。[[碾茶]]や[[かぶせ茶]]のように特別な管理のもとにチャノキを育成する茶園も存在する。日本では5月上旬に一番茶の茶摘みが行われ、[[八十八夜]]を過ぎた頃に最盛期となる。一番茶はその後の二番茶、三番茶に比べ[[カテキン]]、[[テアニン]]が豊富なため滋味が強く、最上級茶に用いられる{{sfn|小國伊太郎|2004|pp=62-69}}。中国では[[清明節]]前に収穫された茶を明前茶と呼び、高級品に格付けされる{{sfn|松下智|2002|pp=49-51}}。また、緑茶の格付けは心芽(ミル芽)が多く含まれるほど高級とされ、茶摘みの際に心芽から下の葉を何枚摘み取るかによって等級が決まる。日本では一般的に一心二葉が最高級、一心三葉は準高級品とされている。中国では心芽しか使わない一心摘みの茶や一心一葉の茶が最高級クラスとして流通している{{sfn|谷本陽蔵|1990|pp=120-121,156-179}}。
収穫された茶葉は荒茶工場に輸送される。
中国では香りを立てるために室内で冷却しつつ一定間隔で撹拌し、茶葉を萎れさせる'''萎凋'''(いちょう)と呼ばれる作業が施される{{sfn|谷本陽蔵|1990|pp=120-121,156-179}}。
茶葉に含まれる酵素による酸化発酵(萎凋)を極力抑えた物を'''不発酵茶'''といい、この加熱処理を一般に'''殺青'''(さっせい、シャーチン、shāqīng)と呼ぶ。日本では近年一部微発酵茶の生産もあるものの、それらを除きほとんどは極力萎凋を避けることから一般には工場輸送搬入後速やかに強い蒸熱を加え[[発酵]]を止める。普通の蒸し茶の場合100℃の蒸気で30秒ほど蒸し上げるが{{sfn|小國伊太郎|2004|pp=62-69}}、蒸気を当てる時間が短ければ香気が強く茶葉の形が崩れない茶となり、長ければ青臭さが取れ、濃い水色をもつ円やかな茶となる。前者を浅蒸し茶、後者を深蒸し茶といい、製品の特性に合わせて選択される。
なお、中国緑茶でこのように蒸青(ゼンチン)を行っている例としては[[湖北省]]玉泉寺の仙人掌茶が著名である{{sfn|松下智|2002|pp=62-65}}。
中国での殺青は釜炒り(炒青、サーチン)を行うのが主流であり、炒青した茶葉を揉捻・乾燥し完成させたものを「炒青緑茶」という。他の方法として茶葉を火で焙ることで殺青する烘青(ホンチン)で一旦荒茶を作り、最終工程で炒青する「烘青緑茶」や、などもある{{sfn|谷本陽蔵|1990|pp=120-121,156-179}}。なお、日本国内でも[[佐賀県]]の'''[[嬉野茶]]'''(うれしのちゃ)や[[宮崎県]]・[[熊本県]]県境付近の'''青柳茶'''(あおやぎちゃ)の様に釜炒りの製法を取っているものがある。
殺青を終えた茶葉は揉捻に入る。揉捻の目的は茶葉の細胞組織を破壊し[[浸出]]を良くすることと、茶葉の形を整えることである。日本の荒茶工場では、揉捻は熱風で乾燥させつつ強い力で粗く揉む粗揉、水分量を均一する揉捻、再び温風を通しながら揉む中揉、熱と力に形を整える精捻から成る{{sfn|小國伊太郎|2004|pp=62-69}}。なお、揉捻作業を昔ながらの手作業で行う茶は[[手揉み茶]]と呼ばれている。揉捻を終えた茶葉は乾燥機で水分量が7 - 8パーセントになるまで乾燥させ、茶葉を均一に混ぜ合わせて荒茶が完成する。この時点で消費される茶もあるが、概ね次の仕上げ工程に送られ、仕上げ茶として製品化される。
中国緑茶や日本の[[玉緑茶]]などの釜炒り茶は、揉捻を行うことで独特な茶の成形が同時に行われるが<ref name="Sakamoto">{{Cite journal|author = 坂本孝義 |title=玉緑茶の歴史的形成過程 |journal = 茶業研究報告 |volume = 123 |pages = 21-26 |publisher= 日本茶業学会 |date = 2017 |doi=10.5979/cha.2017.123_21 |accessdate=2019-07-26 }}</ref>、高級な中国茶は茶葉の形を維持することが求められるため、[[碧螺春|ピロチュン]]のようなミル芽の多い高級緑茶には強い揉捻は行われない{{sfn|松下智|2002|pp=124-126}}。乾燥工程では、方法によって前述の炒青緑茶・烘青緑茶として完成となるものと、[[黒茶]]用の粗成茶などの晒青緑茶の3種類に大別される<ref>[https://chinatea.org/chinesetea/classification/ 中国茶の分類と製造方法] - 日本中国茶協会、2019年7月26日閲覧。</ref>。中国では次工程で加工される前の荒茶を毛茶(マオチャ)という。
日本茶の仕上げ工程では、まず各所から集められた不揃いな荒茶を篩い分け、裁断して形を整える。次に熱風や遠赤外線などで乾燥させ、緑茶の香りを立たせる火入れが行われる。火入れの後に茎や枝などの[[煎茶]]に使い得ない部分が取り除かれ、[[茎茶]]、[[粉茶]]、[[芽茶]]などに選別される。火入れの終わった茶は製品の品質を一定に保つために[[ブレンド]](合組み)が行われ、仕上げ茶が完成する{{sfn|小國伊太郎|2004|pp=62-69}}。
== 日本における緑茶 ==
日本で生産される緑茶のうち[[煎茶]]は約80パーセントを占め、[[日本茶]]と同意に呼ばれることが多い{{sfn|松下智|2002|pp=124-126}}。煎茶には新鮮な香りを立たせた浅蒸し茶と、青臭さを消した深蒸し茶があり、前者は新茶などに用いられる。日本茶は[[中国茶]]に比べ香りよりも滋味が評価される傾向があり、特に[[玉露]]のような高級緑茶を淹れる場合には[[湯冷まし]]によって湯の温度を下げて淹れる。
[[抹茶]](挽茶)(→[[茶道]]) - [[碾茶]]を[[石臼]]を用いて微細な粉末に仕立てたもの。
**粉末茶 - 抽出した液体を粉末にした[[フリーズドライ]]のものと、茶を粉末にしたものがある。ティーバッグ又は湯で溶いて飲用する他、食品加工用の原料にする。茶を粉末にしたものは抹茶よりも荒いものが多い。
*[[煎茶]](''広義'')(→[[煎茶道]])
**[[玉露]] - [[福岡県]][[八女市]]が最も生産量が多い。
**[[かぶせ茶]]
**[[煎茶]](''狭義'')- 日本で最も一般的。
**[[番茶]]
**[[出物]]のお茶
***[[茎茶]](棒茶・白折)
***[[芽茶]]
***[[粉茶]]
**[[ほうじ茶]] - 緑茶に含めないこともある。
**[[玄米茶]]
**[[豆茶]]
**[[釜炒り茶]]
***[[玉緑茶]]
***釜炒り茶の番茶
=== 緑茶の歴史 ===
日本のお茶栽培は、[[1191年]]に[[臨済宗]]の開祖[[栄西|栄西禅師]]が[[長崎県]][[平戸市]][[千光寺 (平戸市)|千光寺]]と[[佐賀県]][[脊振山]](現・[[吉野ヶ里町]])の山腹に[[宋 (王朝)|宋]]時代の中国から持ち帰った種をまいたのが始まり。茶栽培を始めたのは[[佐賀県]]の旧・[[東脊振村]]の[[霊仙寺跡|霊仙寺]]で、[[明恵]]が茶園をつくって栽培した粉末状の茶「抹茶」である。現代で日常的によく飲まれる「煎茶」は、[[1738年]]に[[山城国]]宇治田原郷湯屋谷村(現・[[京都府]][[綴喜郡]][[宇治田原町]]湯屋谷)の茶農家であった[[永谷宗円]]が15年の歳月をかけてその製法([[青製煎茶製法]])を生み出したことが始まりである。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の[[山本山#概要|山本嘉兵衛]]に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。自身が開発した製茶法を、宗円は惜しみなく茶業者に伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。[[江戸時代]]には各地で喫茶の習慣が庶民にも広まったが、これは、京都で日本初の喫茶店「遊仙亭」を開いて庶民に[[煎茶]]を広めた「煎茶道の祖」と称されている[[佐賀県]]出身の[[売茶翁]]の功績が大きいといわれている。
[[開国]]から[[明治]]前半にかけては日本の主要輸出商品となり<ref>[https://www.customs.go.jp/kobe/00zeikan_top.htm/150toukei.htm 神戸港150年の記録~貿易統計からみる貿易の変遷] 神戸税関</ref>、1882年には日本国内の生産量の82%が輸出されていた<ref name="shizuoka">[https://www.city.shizuoka.lg.jp/000_004229.html 日本茶輸出の歴史に学ぶ~清水港茶輸出開始から100年~] 静岡市</ref>。しかし、流通過程で混ぜ物がされた粗悪品による信用の失墜<ref name="shizuoka"/>や軽工業製品の輸出増加により、緑茶輸出の比重は低下していった。
== 世界各地の緑茶 ==
[[File:Sencha img 0597.jpg|thumb|240px|茶葉の一例(煎茶の茶葉)]]
=== 中国 ===
*[[六安瓜片]](ろくあんかへん) - [[安徽省]][[六安市]]産
*[[龍井茶]](ロンジンちゃ) - [[浙江省]][[杭州市]]産
*[[黄山毛峰]](こうざんもうほう) - [[安徽省]][[歙県]]産
*廬山雲霧(ろざんうんむ) - [[江西省]][[九江市]]産
*竹葉青(ちくようせい) - [[四川省]][[峨眉山市]]産
*信陽毛尖(しんようもうせん) - [[河南省]][[信陽市]]産
*[[都勻毛尖]](といんもうせん) - [[貴州省]][[都勻市]]産
*[[碧螺春|洞庭碧螺春]](どうていへきらしゅん) - [[江蘇省]][[蘇州市]]産
*滇緑(てんりょく) - [[雲南省]][[保山市]]ほか産
[[ジャスミン茶]]は、緑茶に[[ジャスミン]]が開花する時に放出される香りを付けたもので、分類上は[[花茶]]、着香茶に入る。
=== 朝鮮半島の緑茶 ===
[[朝鮮半島]]では10世紀頃から茶の木が栽培されていたが、[[李氏朝鮮]]の時代に[[朝鮮の仏教|仏教]]を排斥したのに伴い茶の栽培は下火になり、極一部でしか栽培されなくなった。[[1989年]]になってようやく韓国政府が茶の栽培に補助金を出すようになった。その為、韓国で茶の木の栽培が本格的に行われるようになったのは1990年代以降である<ref>毎日放送「ちちんぷいぷい」2012年6月27日16時30分頃放送</ref>{{出典無効|date=2019-08-07 |title=事実確認の機能を欠く情報源}}。また、高麗茶道([[茶礼 (韓国)|茶礼]]とは異なる)と称して茶をたしなむ文化も存在するが、これは京都の在日韓国人が戦後に起こした茶道であり、朝鮮半島古来の文化・作法ではない。
=== ベトナム ===
{{See also|ベトナムの茶}}
中国の隣国である[[ベトナム]]北部でも、タイグエン茶と呼ばれる緑茶の栽培と消費が盛んである。タイグエン茶の製法は中国茶と同様の釜炒り方式であり、殺青、揉捻、晒青という製造工程となる。喫茶法はポットに多量の茶葉を入れお湯を注ぐ淹茶式であり、福建省、もしくはフランス植民地時代のコーヒーの淹れ方の影響と言われる<ref>{{Cite journal|author = 長坂康代 |title=ベトナム北部の茶文化: 首都ハノイを中心として |journal = ヒマラヤ学誌 |volume = 15 |pages = 184-192 |publisher= 京都大学ヒマラヤ研究会 |date = 2014 |doi=10.14989/HSM.15.184 |accessdate=2019-07-26 }}</ref>。
=== 北アフリカ・中東===
[[モロッコ]]・[[チュニジア]]・[[アルジェリア]]のある[[マグリブ]]地方では中国緑茶の消費が盛んであり、なかでもモロッコの茶礼[[アッツァイ]]で供されるナナミントティーは著名である{{sfn|ティーピッグス|ルイーズ・チードル|ニック・キルビー|2017|p=48}}。トゥアレグティーとも呼ばれるナナミントティーは、{{仮リンク|平水珠茶|en|Gunpowder tea}}や珍眉茶にミントと多量の砂糖を加えて飲まれる。
== 医薬的効果 ==
緑茶は成人が適切な量を飲む分には安全であるが、含まれる[[カフェイン]]の作用により不眠、不安、いらだち、胃腸不良、吐き気などを起こしえる<ref name="ncgg-overseas">{{Cite web|和書|url=http://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/overseas/c04/28.html |title=緑茶 |publisher=[[大阪大学]] |accessdate=2019-02-28 }}</ref><ref name="NCCIH">{{Cite report|publisher=[[アメリカ国立補完統合衛生センター]] |title=Herbs at glance - Green Tea |date=2016-07-21 |url=https://nccih.nih.gov/health/greentea |language=en |accessdate=2015-03-19}}</ref>。さらに少量の[[ビタミンK]]を含むため、[[ワルファリン]]服用者は注意が必要である<ref name="ncgg-overseas-archived-20180118">{{Cite web|和書|url=http://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/overseas/c04/28.html |title=緑茶 |publisher=[[大阪大学]] |accessdate=2019-02-28 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11035665/www.ejim.ncgg.go.jp/pro/overseas/c04/28.html |archivedate=2018-01-18}}</ref><ref name="NCCIH-archived-20161004">{{Cite report|publisher=[[アメリカ国立補完統合衛生センター]] |title=Herbs at glance - Green Tea |date=2016-07-21 |url=https://nccih.nih.gov/health/greentea |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161004223523/https://nccih.nih.gov/health/greentea |archivedate=2016-10-04 |language=en |accessdate=2019-02-28}}</ref>。
またある種の[[がん]]について、緑茶はそれを予防し進行を遅らせる効果があるであろう(may help)と[[アメリカ国立補完統合衛生センター]]は述べていた<ref name="ncgg-overseas-archived-20180118" /><ref name="NCCIH-archived-20161004" />が、現在はヒトに対する[[がん]]の研究で一貫した結果を得られなかったとしている<ref name="ncgg-overseas" /><ref name="NCCIH" />。
試験では、体重減量のエビデンスがあるとは確認できなかった<ref name="ncgg-overseas" /><ref name="NCCIH" /><ref name=weight>{{cite journal |author=Jurgens TM, Whelan AM, Killian L, Doucette S, Kirk S, Foy E |title=Green tea for weight loss and weight maintenance in overweight or obese adults |journal=Cochrane Database Syst Rev |volume=12 |issue= |pages=CD008650 |year=2012 |pmid=23235664 |doi=10.1002/14651858.CD008650.pub2 |type=Systematic review}}</ref>。
緑茶には1杯当たり約90mgのポリフェノール(カテキン類)が含まれており、活性酵素によりダメージから体を守る。そして、ポリフェノール摂取量が増えるとシミも抑えられる<ref name=":0">{{Cite journal|author=|year=2020|title=緑茶vsコーヒー アンチエイジングダイエットのための効かせる飲ませ方:朝はどちらか1杯を飲むのが正解!|journal=日経ヘルス|volume=|page=16-19}}</ref>。
緑茶は[[風邪]]など[[呼吸器感染症]]の予防に良いと俗に言われているが、2022年時点では有効性はわかっていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://hfnet.nibiohn.go.jp/notes/detail.php?no=2160|title=【新型コロナ】「感染症予防に緑茶が効く」等の情報に注意|work=「健康食品」の安全性・有効性情報|publisher=医薬基盤・健康・栄養研究所|date=2022-6-24|accessdate=2022-9-21}}</ref>。歯周病を改善したり、お茶うがいでインフルエンザ発症が抑えられたという報告もある<ref name=":0" />。緑茶に含まれるカテキン類には[[ウイルス]]表面の[[スパイクタンパク質]]と結合する能力があり、その[[感染力]]を弱める可能性がある<ref name="katekin2">{{Cite web|和書|url=https://shizuoka-cha.com/files/9114/4178/2051/10secrets_of_green_tea.pdf |title=知らなきゃソンするお茶のこと 10のひみつ |publisher=公益財団法人 静岡県茶業会議所 |format=PDF|accessdate=2020-10-15}}</ref><ref>Khan, Mohammad Faheem, et al. "Identification of Dietary Molecules as Therapeutic Agents to Combat COVID-19 Using Molecular Docking Studies." (2020).</ref>。
カテキン類は、緑茶を飲んで1~2時間後に血中で濃度がピークになるが、4時間後には血中濃度は低下してしまう。抗酸化力をキープするためには2~3時間ごとにこまめに飲む必要がある<ref name=":0" />。
水出し緑茶ならストレスを軽減する効果をもつテアニンや免疫細胞を活性化するエピガロカテキンを効率よく摂取できる。お湯で入れたお茶にはカフェインや渋みの強いカテキンが多く含まれ、これらの効果を弱めてしまう<ref>朝日新聞 2020/7/11</ref>。
== 飲用以外の用途 ==
=== 料理 ===
*[[茶漬け]] - 米飯に茶をかけたもの。
*[[茶飯]] - 米を緑茶で炊いたもの。
=== 食用 ===
'''緑茶'''の茶葉を食べる料理がある。
*新[[茶葉]]の天ぷら
*'''緑茶'''のかき揚げ
*'''緑茶'''のごま和え、お浸し。[[玉露]]や質の高い[[煎茶]]を用い、抽出後の茶葉に醤油とごま、またはポン酢と鰹節等で味付けをし食す。
*龍井蝦仁 - [[浙江省]][[杭州市]]の料理。川えびと[[龍井茶]]の若葉とを炒めたもの。
*航空元気食 - [[大日本帝国陸軍]]で開発・採用された、航空勤務者向けの栄養補助食品。緑茶粉末・ビタミンB1等を米粉に練り込み、ゼリー菓子状に成形したもの。
=== 調味用 ===
[[抹茶]]は[[蕎麦]]に加えて茶そばにしたり、塩と合わせて[[天ぷら|天麩羅]]の味付けに使われたりする。菓子にもよく使われ、代表的な[[洋菓子]]のほとんどに抹茶風味のものが存在する。
=== 医薬品 ===
[[茶葉]]に含まれる苦味成分[[テオフィリン]]([[キサンチン誘導体]]に分類される[[アルカロイド]]の一種)は、[[気管支拡張剤]]の原料となる。
=== 香料 ===
緑茶はさっぱりとした香気を持っているため[[入浴剤]]や[[制汗剤]]、石鹸など清涼感を求められる製品に使用される。
=== 抗菌 ===
緑茶に多く含まれる[[カテキン]]は[[抗菌]]、抗ウイルス作用があるため石鹸、シャンプーなど洗剤類やタオル、寝具などに使用される。
<!--【個別の研究報告であり用途でないためコメントアウト】
=== 抗感染症(抗ウイルス) ===
試験管内([[In vitro|インビトロ]])の研究にて、新型コロナウイルスの感染力は、緑茶で1分間処理した後、検出できないレベルの1/100に減少しました<ref>{{Cite journal|last=Ohgitani|first=Eriko|last2=Shin-Ya|first2=Masaharu|last3=Ichitani|first3=Masaki|last4=Kobayashi|first4=Makoto|last5=Takihara|first5=Takanobu|last6=Kawamoto|first6=Masaya|last7=Kinugasa|first7=Hitoshi|last8=Mazda|first8=Osam|date=2021-06-11|title=Significant Inactivation of SARS-CoV-2 In Vitro by a Green Tea Catechin, a Catechin-Derivative, and Black Tea Galloylated Theaflavins|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34208050/|journal=Molecules (Basel, Switzerland)|volume=26|issue=12|pages=3572|doi=10.3390/molecules26123572|issn=1420-3049|pmid=34208050|pmc=8230566}}</ref>。
ウイルスの感染症、細胞内のウイルスRNA複製、および細胞からの二次ウイルス産生を大幅に減少させました。
複数の研究から、カテキンが新型コロナウイルスを有意に不活性化することが発見されています<ref>{{Cite journal|last=Yang|first=Chih-Ching|last2=Wu|first2=Chang-Jer|last3=Chien|first3=Chen-Yen|last4=Chien|first4=Chiang-Ting|date=2021-06-07|title=Green Tea Polyphenol Catechins Inhibit Coronavirus Replication and Potentiate the Adaptive Immunity and Autophagy-Dependent Protective Mechanism to Improve Acute Lung Injury in Mice|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34200327/|journal=Antioxidants (Basel, Switzerland)|volume=10|issue=6|pages=928|doi=10.3390/antiox10060928|issn=2076-3921|pmid=34200327|pmc=8230342}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Henss|first=Lisa|last2=Auste|first2=Arne|last3=Schürmann|first3=Christoph|last4=Schmidt|first4=Christin|last5=von Rhein|first5=Christine|last6=Mühlebach|first6=Michael D.|last7=Schnierle|first7=Barbara S.|date=2021-04|title=The green tea catechin epigallocatechin gallate inhibits SARS-CoV-2 infection|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33830908/|journal=The Journal of General Virology|volume=102|issue=4|doi=10.1099/jgv.0.001574|issn=1465-2099|pmid=33830908|pmc=8290267}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Park|first=Rackhyun|last2=Jang|first2=Minsu|last3=Park|first3=Yea-In|last4=Park|first4=Yeonjeong|last5=Jung|first5=Woochul|last6=Park|first6=Jayhyun|last7=Park|first7=Junsoo|date=2021-12-17|title=Epigallocatechin Gallate (EGCG), a Green Tea Polyphenol, Reduces Coronavirus Replication in a Mouse Model|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34960802/|journal=Viruses|volume=13|issue=12|pages=2533|doi=10.3390/v13122533|issn=1999-4915|pmid=34960802|pmc=8704347}}</ref>。
-->
== 脚注・注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author = 谷本陽蔵 |title = 中国茶の魅力 |year = 1990 |publisher = 柴田書店 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |editor = [[小國伊太郎]] |title = 心と体に効く お茶の科学 |series = 図解雑学シリーズ |year = 2004 |publisher = ナツメ社 |isbn = 4-8163-3751-2 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author1 = ティーピッグス |author2 = ルイーズ・チードル |author3 = ニック・キルビー |translator = 伊藤はるみ |title = 世界の茶文化図鑑 |year = 2017 |publisher = 原書房 |isbn = 978-4-562-05403-9 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |editor = 松下智 |title = 緑茶の世界 日本茶と中国茶 |year = 2002 |publisher = 雄山閣 |isbn = 4-639-01773-1 |ref = harv }}
== 関連人物 ==
* [[粟倉大輔]]
* [[中村順行]]
* [[横山俊祐]]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Green tea}}
* [[緑茶飲料]]
* [[茶道]]
* [[煎茶道]]
* [[茶碗]]
* [[茶#製造・加工|発酵の方法・程度による分類]]
== 外部リンク ==
*[https://www.o-cha.net/index.html 世界緑茶協会]
*[http://www.nihon-cha.or.jp/ (社)日本茶業中央会]
*[http://www.zennoh.or.jp/bu/nousan/tea/index.htm 全国茶生産団体連合会]
*[http://www.kagoshima-cha.or.jp/ (社)鹿児島県茶生産協会]
*[https://nccih.nih.gov/health/greentea Herbs at glance - Green Tea] - NIH
{{茶}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りよくちや}}
[[Category:日本茶]]
[[Category:中国茶]]
[[Category:モノアミン酸化酵素阻害薬]]
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低気圧
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低気圧(ていきあつ、英語: low pressure)とは、周囲より気圧の低い部分をいう。周囲より気圧が低いと定義されるので、中心気圧が1気圧(1013hPa) より高い低気圧も珍しくない。冬季にシベリア高気圧の圏内に発生する低気圧の中には1030hPa以上のものもしばしば見られる。
一般に、低気圧は雲を伴い、雨や雪や風をもたらす。
後述のように、低気圧はその成因などによっていくつかの種類に分類されるが、ここではどの低気圧にも共通する特徴を挙げる。
周囲よりも気圧が低い低気圧は、周囲の空気や風を引き寄せている。これを気象学では、「低気圧は気流を収束させる」と表現する。一般的に、低気圧で収束が起こる範囲は数百km以上であり、時には数千kmにも及ぶ。このような大規模な収束では、気流は気圧傾度力に従って等圧線に直角の方向に収束しようとするものの、コリオリの力を受けてしまうため進路が曲がり最終的には気圧傾度力、コリオリの力、摩擦力が釣り合って等圧線を斜めに流れる。これにより、低気圧の周囲の風は、北半球で反時計回り、南半球で時計回りに回転しながら中心へと吹き込む。ただし、接地層やエクマン層より上の自由大気層では摩擦が小さいため気流の発散や収束は無視できるものである。クリストフ・ボイス・バロットはこれを直感的に「北半球において、風を背にして立つと低気圧の中心が左手の方向にある」と表現している(ボイス・バロットの法則)。
低気圧の中心へ向かって収束した風は、中心で低気圧特有の上昇気流を受けて上昇していく。低気圧によって高度は異なるが、加熱により上昇した大気は次第に周囲との温度差が小さくなり浮力を失って、強制的な持ち上げにより上昇した大気は山脈や気団の高さを超えたころから衝突対象を失って滞留するので、上空には高気圧が形成される。ここからは、逆に周囲に向かって空気を放出している(発散させている)。地表低気圧と上空高気圧の位置は、熱帯低気圧などはほぼ同じだが、温帯低気圧では数百kmほどずれて位置する。
低気圧というシステムを動かす「モーター」は上昇気流であり、それを駆動する「エンジン」は雲の発生に伴う潜熱加熱、地表から受ける加熱・暖気との衝突による加熱、地形や温度の異なる気団の衝突による大気の持ち上げなどである。「エンジン」である加熱が強くなると上昇気流が強まって低気圧が発達し、加熱が弱まれば低気圧は勢力を落とす。一方、他の要因で「モーター」である上昇気流が弱まった場合は加熱速度が遅くなって浮力が低下し上昇気流が弱まるように、両者はお互いに相関関係にある。
また低気圧では特に、渦と収束の関係も重要である。上昇気流が強まって収束が強まると、低気圧を取り巻く気流の渦が狭まる。すると渦の回転速度が増す(角運動量保存則)。一方、回転速度が速くなりすぎると遠心力が強まる。このような複数の力が抑制しあって、バランスをとりながら低気圧の周りの風は吹いている。また熱帯低気圧に「目」ができるのは、中心では遠心力が気圧傾度力よりも大きくなることで回転を伴う上昇気流が維持できないことが原因のひとつと考えられている。
2つの気団が接するところには、前線ができる。この前線に上空の傾圧不安定波の谷部が西からさしかかると、低気圧が発生し、低気圧の前後において前線活動が活発になる。このような低気圧を温帯低気圧という。
大局的に見ると、温帯低気圧は高温な赤道地域と低温な極地域の気温差によって生ずるものである。赤道と極の気団を分ける「寒帯前線帯」に発生し、両気団の温度差によって発達し、結果として低緯度の高温の空気を極方面に引き上げ、高緯度の低温の空気を赤道方面に引き下ろして、地球の温度分布を均等にする効果を上げている。北半球においては寒候期には大陸と海洋の温度差が非常に大きくなるため、シベリアの東側に位置するアリューシャン列島からベーリング海にかけてと、北米大陸東側とグリーンランドの南側に当るアイスランド付近では、西或いは南西から進んできた温帯低気圧が発達しては停滞する事が繰り返され、定常的な低圧部となる。南半球では、南極周辺で同様の現象が起こるが、南極大陸は年間を通じて低温であり、周辺に目立った大陸が無いので、全域で1年中温帯低気圧の発達が著しく、南緯40度から50度付近は、航海者から「暴風圏」と呼ばれる荒天が続く。発達した温帯低気圧の規模は非常に大きくなり、1000hPaの等圧線の半径が1000kmを越える事も珍しくないが、気圧傾度は比較的ゆるいため、域内の最大風速も後に述べる熱帯低気圧ほど強くなく、40m/s以上になる事はほとんどない。
温帯低気圧による最低気圧の世界記録は、1993年1月10日、イギリスとアイスランドの間の北大西洋上で、天気図解析により決定された915hPa(あるいは912hPaとも)である。
日本に影響する低気圧は、中国・東シナ海で発生し、日本列島を西南西から東北東方向に横切り、三陸沖からアリューシャン列島あたりで最盛期に達し、その後進路が不定になって停滞したりアラスカ方面に進む事が多い。冬季には本州の南岸沿いを進む南岸低気圧が関東など太平洋側に雪を降らせることがある。
熱帯低気圧が北上して前線が生じた上で温帯低気圧に変わることがある。ただし、逆に温帯低気圧から熱帯低気圧に変わることはほとんど無い。温帯低気圧と衰退期の熱帯低気圧とでは構造は確かに類似しているが、発生地域が異なる上、気候にも影響があるため、熱帯低気圧が温帯低気圧に変わることはあっても、温帯低気圧から熱帯低気圧に変わることは無いのである。天気図上は、(冠のない)低気圧が熱帯低気圧に変化(発達)することがあるが、温帯低気圧からの変化ではない。このような熱帯地域で発生する低気圧・低圧部のように温帯低気圧でも熱帯低気圧でもない低気圧も存在し、90W等の番号が付与されることがある
熱帯の海洋上で発生する低気圧を、熱帯低気圧という。成因も構造も温帯低気圧とは異なる。最大の特徴的な違いは前線を伴っていないこと。
熱帯低気圧は、海水面温度が高く(26–27°C)、転向力のある程度大きい北緯(南緯)5–25°の範囲で発生する。
熱帯の大気は通常条件付き不安定な状態にあり、海水面温度が高い海域では蒸発が盛んに行われるため、上昇気流が起きやすい。一方、低緯度では中緯度高気圧(亜熱帯高気圧)から吹き出す貿易風が恒常的な東風となっているが、その東風の中にしばしば波動が生じる。これを偏東風波動と呼び、この部分は渦度を生じて周囲から渦状に空気が流れ込み、強い上昇気流が起きて気圧が低くなり、積雲や積乱雲が発達する。上昇気流により雲ができて水蒸気が持っていた熱が大気中に放出され、上空の空気の温度が高くなると、このサイクルがますます加速され、低気圧が発達する(第2種条件付不安定・CISK)。
北西太平洋域(北半球の東経100-180°)において熱帯低気圧の域内最大風速が17.2m/s(34kt) を超えると台風となる。北大西洋及び北東太平洋(北半球の西経180度以東)ではハリケーン、南北インド洋や南太平洋ではサイクロンと呼称されるが、台風と同じ熱帯低気圧である台風がさらに発達するためには、海水温が 28°C以上の海域を通過することが重要だとされる。熱帯低気圧は温帯低気圧に比べて規模が小さく、1000hPaの等圧線半径も600kmを越える事は少ないが、特に中心付近で気圧傾度が大きくなっているため猛烈な暴風を伴う。
熱帯低気圧による最低気圧の世界記録は、1979年10月12日、台風第20号において沖ノ鳥島南南東海上でアメリカ軍の気象観測機により実測された870hPaである。
熱帯低気圧(台風など)が中緯度まで北上(北半球の場合)すると、寒気の影響を受け構造に変化が生じ、熱帯低気圧の東側に温暖前線、西側に寒冷前線が生じた上で温帯低気圧に変わる場合が多い。盛夏期にはそのまま衰弱し、熱帯低気圧のまま消滅することもある。
偏西風の波動が激しくなると、蛇行が低緯度側へ張り出した部分(気圧の谷)が切り離されて独立した渦となることがある。この部分は極からの寒気が入り込んでいる部分であるので寒冷な低気圧となる。これが、寒冷低気圧・寒冷渦・切離低気圧(カットオフ・ロウ)、といった名で呼ばれる低気圧である。
一般に寒冷低気圧は地上天気図では明瞭ではなく前線を伴わない小低気圧として描かれるか、大陸上では低気圧が確認できないことが多いが、高層天気図においては寒気を伴う非常に顕著な渦として描かれる。
寒冷低気圧の通過の際は大気が非常に不安定となるため、特に、暖かい海域にさしかかると積乱雲が発達して激しい雷雨や集中豪雨(冬季は大雪)をもたらすことがある。また、レーダー上には顕著なスパイラルバンドが見られる場合もある。寒冷低気圧は偏西風の流れから切り離されているため動きが遅く悪天候が数日間続く。このことから「雷三日」という言い習わしがある。
冬季に日本列島の上空を通過すると、日本海側で大雪になりやすい。稀に関東平野など太平洋側にもに雪をもたらすことがある。
日本周辺で夏季に発生する場合、アリューシャン列島からミッドウェイ近傍で発生した蛇行から切り離され、一週間程度で小笠原近海まで南西方向に進むケースが見られる。これに対応して熱帯低気圧の発達が観測されることから、台風の発達との関連を指摘する研究がある。
大陸は海洋に比べて暖まりやすいため低気圧となる(熱的低気圧)。局地的で小規模なものは海陸風の原動力となり、大陸規模のものはモンスーンの原動力となる。
台風や強大な温帯低気圧が山脈や大きな島を横断する場合、或いは広範囲に強い風が吹走して同様の地形にぶつかった場合など、風の流れが一部分切り離されて渦となり、小さな低気圧として認められる場合がある(地形性低気圧)。
極気団の内部で発生する低気圧を極低気圧という。冬の日本海(特に秋田沖付近)でも発生することがある。発生の要因は、条件付不安定、順圧不安定、傾圧不安定などである。寒冷低気圧の小型版との見方もある。
爆弾低気圧 ("bomb" cyclone) とは、急速に発達し、熱帯低気圧(台風)並みの暴風雨、または暴風雪をもたらす温帯低気圧を指す俗語。1980年にMITの気象学者フレデリック・サンダース (Frederick Sanders) らが存在を提唱して以降、様々な気象学者がその定義や解析を試みているが、「12時間以上にわたって中心気圧が1時間あたり1hPa以上低下した温帯低気圧」を指すことが多い。熱帯低気圧の急発達は一般的なため、爆弾低気圧とは呼ばない。
高緯度であるほど発生頻度が高い傾向にあるため、高緯度ほどコリオリの力の増大により同じ気圧傾度でも地衡風の風速が弱いことを考慮して、時間あたりの低下気圧に (sinφ/sin60°) を掛けて緯度補正を行う定義も用いられることがある(φ=緯度)。たとえば北緯40度(日本でいえば秋田県男鹿市)の上空での場合、24hPa×sin(40°)/sin(60°)=約17.8hPaの気圧が24時間以内に低下した場合に爆弾低気圧と呼ばれるようになる。但し日本の気象庁は予報用語の中で「使用を控える用語」と分類し、「急速に発達する(した)低気圧」などと言い換えるとしている。また、NHKでは、前記のほか「猛烈に発達する(した)低気圧」などと表現する事もある。読売新聞は2013年1月に「爆弾低気圧」を「猛烈低気圧」に言い換える事を記載した。
冷たく乾燥した大陸性気団と暖かく湿った海洋性気団が衝突する大陸辺縁部の、特に東岸で、冬季に多くみられる現象。日本海(特に佐渡沖周辺と秋田沖周辺)や三陸沖、千島列島・アリューシャン列島南方、アメリカ・カナダの東海岸などで多く観測される。冬季の対流圏上層で傾圧(気圧傾度)が非常に大きい地域の風下(東方)、また顕著な暖流の流域にあることから、これらが発達に関与していると考えられている。
日本付近では10月から1月頃の冬の嵐の時期、2月から3月の春一番の時期が最も多く、4月中旬から5月中旬までのメイストームの時期にもみられる。日本海低気圧が日本海から北日本を通過する際に急速に発達し、三陸沖でさらに猛烈に発達する例が多い。アメリカ・カナダでも同様に、冬季にノーイースターと呼ばれる嵐はしばしば爆弾低気圧である。
爆弾低気圧は非常に発達することから強風に伴い高波を発生させるほか、地震波のP波,S波も発生させる。
2002年、ベルリン自由大学気象研究所が、高気圧や低気圧の命名権の販売を開始した。徳島県徳島市在住の団体職員兼気象予報士の男性が、日本人として初めて購入した。購入者は自分自身の名を低気圧に命名し、2005年秋、日本人名をつけた史上初の低気圧「タカシ(TAKASHI)」が誕生した。
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"text": "低気圧(ていきあつ、英語: low pressure)とは、周囲より気圧の低い部分をいう。周囲より気圧が低いと定義されるので、中心気圧が1気圧(1013hPa) より高い低気圧も珍しくない。冬季にシベリア高気圧の圏内に発生する低気圧の中には1030hPa以上のものもしばしば見られる。",
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"text": "一般に、低気圧は雲を伴い、雨や雪や風をもたらす。",
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"text": "後述のように、低気圧はその成因などによっていくつかの種類に分類されるが、ここではどの低気圧にも共通する特徴を挙げる。",
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"text": "周囲よりも気圧が低い低気圧は、周囲の空気や風を引き寄せている。これを気象学では、「低気圧は気流を収束させる」と表現する。一般的に、低気圧で収束が起こる範囲は数百km以上であり、時には数千kmにも及ぶ。このような大規模な収束では、気流は気圧傾度力に従って等圧線に直角の方向に収束しようとするものの、コリオリの力を受けてしまうため進路が曲がり最終的には気圧傾度力、コリオリの力、摩擦力が釣り合って等圧線を斜めに流れる。これにより、低気圧の周囲の風は、北半球で反時計回り、南半球で時計回りに回転しながら中心へと吹き込む。ただし、接地層やエクマン層より上の自由大気層では摩擦が小さいため気流の発散や収束は無視できるものである。クリストフ・ボイス・バロットはこれを直感的に「北半球において、風を背にして立つと低気圧の中心が左手の方向にある」と表現している(ボイス・バロットの法則)。",
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"text": "低気圧の中心へ向かって収束した風は、中心で低気圧特有の上昇気流を受けて上昇していく。低気圧によって高度は異なるが、加熱により上昇した大気は次第に周囲との温度差が小さくなり浮力を失って、強制的な持ち上げにより上昇した大気は山脈や気団の高さを超えたころから衝突対象を失って滞留するので、上空には高気圧が形成される。ここからは、逆に周囲に向かって空気を放出している(発散させている)。地表低気圧と上空高気圧の位置は、熱帯低気圧などはほぼ同じだが、温帯低気圧では数百kmほどずれて位置する。",
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"text": "低気圧というシステムを動かす「モーター」は上昇気流であり、それを駆動する「エンジン」は雲の発生に伴う潜熱加熱、地表から受ける加熱・暖気との衝突による加熱、地形や温度の異なる気団の衝突による大気の持ち上げなどである。「エンジン」である加熱が強くなると上昇気流が強まって低気圧が発達し、加熱が弱まれば低気圧は勢力を落とす。一方、他の要因で「モーター」である上昇気流が弱まった場合は加熱速度が遅くなって浮力が低下し上昇気流が弱まるように、両者はお互いに相関関係にある。",
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"text": "また低気圧では特に、渦と収束の関係も重要である。上昇気流が強まって収束が強まると、低気圧を取り巻く気流の渦が狭まる。すると渦の回転速度が増す(角運動量保存則)。一方、回転速度が速くなりすぎると遠心力が強まる。このような複数の力が抑制しあって、バランスをとりながら低気圧の周りの風は吹いている。また熱帯低気圧に「目」ができるのは、中心では遠心力が気圧傾度力よりも大きくなることで回転を伴う上昇気流が維持できないことが原因のひとつと考えられている。",
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"text": "2つの気団が接するところには、前線ができる。この前線に上空の傾圧不安定波の谷部が西からさしかかると、低気圧が発生し、低気圧の前後において前線活動が活発になる。このような低気圧を温帯低気圧という。",
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"text": "大局的に見ると、温帯低気圧は高温な赤道地域と低温な極地域の気温差によって生ずるものである。赤道と極の気団を分ける「寒帯前線帯」に発生し、両気団の温度差によって発達し、結果として低緯度の高温の空気を極方面に引き上げ、高緯度の低温の空気を赤道方面に引き下ろして、地球の温度分布を均等にする効果を上げている。北半球においては寒候期には大陸と海洋の温度差が非常に大きくなるため、シベリアの東側に位置するアリューシャン列島からベーリング海にかけてと、北米大陸東側とグリーンランドの南側に当るアイスランド付近では、西或いは南西から進んできた温帯低気圧が発達しては停滞する事が繰り返され、定常的な低圧部となる。南半球では、南極周辺で同様の現象が起こるが、南極大陸は年間を通じて低温であり、周辺に目立った大陸が無いので、全域で1年中温帯低気圧の発達が著しく、南緯40度から50度付近は、航海者から「暴風圏」と呼ばれる荒天が続く。発達した温帯低気圧の規模は非常に大きくなり、1000hPaの等圧線の半径が1000kmを越える事も珍しくないが、気圧傾度は比較的ゆるいため、域内の最大風速も後に述べる熱帯低気圧ほど強くなく、40m/s以上になる事はほとんどない。",
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"text": "温帯低気圧による最低気圧の世界記録は、1993年1月10日、イギリスとアイスランドの間の北大西洋上で、天気図解析により決定された915hPa(あるいは912hPaとも)である。",
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"text": "日本に影響する低気圧は、中国・東シナ海で発生し、日本列島を西南西から東北東方向に横切り、三陸沖からアリューシャン列島あたりで最盛期に達し、その後進路が不定になって停滞したりアラスカ方面に進む事が多い。冬季には本州の南岸沿いを進む南岸低気圧が関東など太平洋側に雪を降らせることがある。",
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"text": "熱帯低気圧が北上して前線が生じた上で温帯低気圧に変わることがある。ただし、逆に温帯低気圧から熱帯低気圧に変わることはほとんど無い。温帯低気圧と衰退期の熱帯低気圧とでは構造は確かに類似しているが、発生地域が異なる上、気候にも影響があるため、熱帯低気圧が温帯低気圧に変わることはあっても、温帯低気圧から熱帯低気圧に変わることは無いのである。天気図上は、(冠のない)低気圧が熱帯低気圧に変化(発達)することがあるが、温帯低気圧からの変化ではない。このような熱帯地域で発生する低気圧・低圧部のように温帯低気圧でも熱帯低気圧でもない低気圧も存在し、90W等の番号が付与されることがある",
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"text": "熱帯の海洋上で発生する低気圧を、熱帯低気圧という。成因も構造も温帯低気圧とは異なる。最大の特徴的な違いは前線を伴っていないこと。",
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"text": "熱帯低気圧は、海水面温度が高く(26–27°C)、転向力のある程度大きい北緯(南緯)5–25°の範囲で発生する。",
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"text": "熱帯の大気は通常条件付き不安定な状態にあり、海水面温度が高い海域では蒸発が盛んに行われるため、上昇気流が起きやすい。一方、低緯度では中緯度高気圧(亜熱帯高気圧)から吹き出す貿易風が恒常的な東風となっているが、その東風の中にしばしば波動が生じる。これを偏東風波動と呼び、この部分は渦度を生じて周囲から渦状に空気が流れ込み、強い上昇気流が起きて気圧が低くなり、積雲や積乱雲が発達する。上昇気流により雲ができて水蒸気が持っていた熱が大気中に放出され、上空の空気の温度が高くなると、このサイクルがますます加速され、低気圧が発達する(第2種条件付不安定・CISK)。",
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"text": "北西太平洋域(北半球の東経100-180°)において熱帯低気圧の域内最大風速が17.2m/s(34kt) を超えると台風となる。北大西洋及び北東太平洋(北半球の西経180度以東)ではハリケーン、南北インド洋や南太平洋ではサイクロンと呼称されるが、台風と同じ熱帯低気圧である台風がさらに発達するためには、海水温が 28°C以上の海域を通過することが重要だとされる。熱帯低気圧は温帯低気圧に比べて規模が小さく、1000hPaの等圧線半径も600kmを越える事は少ないが、特に中心付近で気圧傾度が大きくなっているため猛烈な暴風を伴う。",
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"text": "熱帯低気圧による最低気圧の世界記録は、1979年10月12日、台風第20号において沖ノ鳥島南南東海上でアメリカ軍の気象観測機により実測された870hPaである。",
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"text": "熱帯低気圧(台風など)が中緯度まで北上(北半球の場合)すると、寒気の影響を受け構造に変化が生じ、熱帯低気圧の東側に温暖前線、西側に寒冷前線が生じた上で温帯低気圧に変わる場合が多い。盛夏期にはそのまま衰弱し、熱帯低気圧のまま消滅することもある。",
"title": "分類"
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"text": "偏西風の波動が激しくなると、蛇行が低緯度側へ張り出した部分(気圧の谷)が切り離されて独立した渦となることがある。この部分は極からの寒気が入り込んでいる部分であるので寒冷な低気圧となる。これが、寒冷低気圧・寒冷渦・切離低気圧(カットオフ・ロウ)、といった名で呼ばれる低気圧である。",
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"text": "一般に寒冷低気圧は地上天気図では明瞭ではなく前線を伴わない小低気圧として描かれるか、大陸上では低気圧が確認できないことが多いが、高層天気図においては寒気を伴う非常に顕著な渦として描かれる。",
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"text": "寒冷低気圧の通過の際は大気が非常に不安定となるため、特に、暖かい海域にさしかかると積乱雲が発達して激しい雷雨や集中豪雨(冬季は大雪)をもたらすことがある。また、レーダー上には顕著なスパイラルバンドが見られる場合もある。寒冷低気圧は偏西風の流れから切り離されているため動きが遅く悪天候が数日間続く。このことから「雷三日」という言い習わしがある。",
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"text": "冬季に日本列島の上空を通過すると、日本海側で大雪になりやすい。稀に関東平野など太平洋側にもに雪をもたらすことがある。",
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"text": "日本周辺で夏季に発生する場合、アリューシャン列島からミッドウェイ近傍で発生した蛇行から切り離され、一週間程度で小笠原近海まで南西方向に進むケースが見られる。これに対応して熱帯低気圧の発達が観測されることから、台風の発達との関連を指摘する研究がある。",
"title": "分類"
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"text": "大陸は海洋に比べて暖まりやすいため低気圧となる(熱的低気圧)。局地的で小規模なものは海陸風の原動力となり、大陸規模のものはモンスーンの原動力となる。",
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"text": "台風や強大な温帯低気圧が山脈や大きな島を横断する場合、或いは広範囲に強い風が吹走して同様の地形にぶつかった場合など、風の流れが一部分切り離されて渦となり、小さな低気圧として認められる場合がある(地形性低気圧)。",
"title": "分類"
},
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"text": "極気団の内部で発生する低気圧を極低気圧という。冬の日本海(特に秋田沖付近)でも発生することがある。発生の要因は、条件付不安定、順圧不安定、傾圧不安定などである。寒冷低気圧の小型版との見方もある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "爆弾低気圧 (\"bomb\" cyclone) とは、急速に発達し、熱帯低気圧(台風)並みの暴風雨、または暴風雪をもたらす温帯低気圧を指す俗語。1980年にMITの気象学者フレデリック・サンダース (Frederick Sanders) らが存在を提唱して以降、様々な気象学者がその定義や解析を試みているが、「12時間以上にわたって中心気圧が1時間あたり1hPa以上低下した温帯低気圧」を指すことが多い。熱帯低気圧の急発達は一般的なため、爆弾低気圧とは呼ばない。",
"title": "爆弾低気圧(猛烈低気圧)"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "高緯度であるほど発生頻度が高い傾向にあるため、高緯度ほどコリオリの力の増大により同じ気圧傾度でも地衡風の風速が弱いことを考慮して、時間あたりの低下気圧に (sinφ/sin60°) を掛けて緯度補正を行う定義も用いられることがある(φ=緯度)。たとえば北緯40度(日本でいえば秋田県男鹿市)の上空での場合、24hPa×sin(40°)/sin(60°)=約17.8hPaの気圧が24時間以内に低下した場合に爆弾低気圧と呼ばれるようになる。但し日本の気象庁は予報用語の中で「使用を控える用語」と分類し、「急速に発達する(した)低気圧」などと言い換えるとしている。また、NHKでは、前記のほか「猛烈に発達する(した)低気圧」などと表現する事もある。読売新聞は2013年1月に「爆弾低気圧」を「猛烈低気圧」に言い換える事を記載した。",
"title": "爆弾低気圧(猛烈低気圧)"
},
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"text": "冷たく乾燥した大陸性気団と暖かく湿った海洋性気団が衝突する大陸辺縁部の、特に東岸で、冬季に多くみられる現象。日本海(特に佐渡沖周辺と秋田沖周辺)や三陸沖、千島列島・アリューシャン列島南方、アメリカ・カナダの東海岸などで多く観測される。冬季の対流圏上層で傾圧(気圧傾度)が非常に大きい地域の風下(東方)、また顕著な暖流の流域にあることから、これらが発達に関与していると考えられている。",
"title": "爆弾低気圧(猛烈低気圧)"
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"text": "日本付近では10月から1月頃の冬の嵐の時期、2月から3月の春一番の時期が最も多く、4月中旬から5月中旬までのメイストームの時期にもみられる。日本海低気圧が日本海から北日本を通過する際に急速に発達し、三陸沖でさらに猛烈に発達する例が多い。アメリカ・カナダでも同様に、冬季にノーイースターと呼ばれる嵐はしばしば爆弾低気圧である。",
"title": "爆弾低気圧(猛烈低気圧)"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "爆弾低気圧は非常に発達することから強風に伴い高波を発生させるほか、地震波のP波,S波も発生させる。",
"title": "爆弾低気圧(猛烈低気圧)"
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"tag": "p",
"text": "2002年、ベルリン自由大学気象研究所が、高気圧や低気圧の命名権の販売を開始した。徳島県徳島市在住の団体職員兼気象予報士の男性が、日本人として初めて購入した。購入者は自分自身の名を低気圧に命名し、2005年秋、日本人名をつけた史上初の低気圧「タカシ(TAKASHI)」が誕生した。",
"title": "名称"
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低気圧とは、周囲より気圧の低い部分をいう。周囲より気圧が低いと定義されるので、中心気圧が1気圧(1013hPa) より高い低気圧も珍しくない。冬季にシベリア高気圧の圏内に発生する低気圧の中には1030hPa以上のものもしばしば見られる。 一般に、低気圧は雲を伴い、雨や雪や風をもたらす。
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{{出典の明記|date=2011-12}}
[[File:Low pressure system over Iceland.jpg|thumb|right|220px|アイスランド南西沖の[[寒冷低気圧]]([[2003年]][[9月4日]])]]
'''低気圧'''(ていきあつ、{{Lang-en|low pressure}})とは、周囲より[[気圧]]の低い部分をいう。周囲より気圧が低いと定義されるので、中心気圧が1気圧(1013[[ヘクトパスカル|hPa]]) より高い低気圧も珍しくない。冬季に[[シベリア高気圧]]の圏内に発生する低気圧の中には1030hPa以上のものもしばしば見られる。
一般に、低気圧は[[雲]]を伴い、[[雨]]や[[雪]]や[[風]]をもたらす。
== 低気圧の主な特徴 ==
[[Image:Surface analysis.gif|thumb|right|300px|地上天気図、アメリカ合衆国本土とその周辺。天気図上では ''L'' の記号で表す。]]
後述のように、低気圧はその成因などによっていくつかの種類に分類されるが、ここではどの低気圧にも共通する特徴を挙げる。
周囲よりも気圧が低い低気圧は、周囲の空気や[[風]]を引き寄せている。これを気象学では、「低気圧は気流を[[収束]]させる」と表現する。一般的に、低気圧で収束が起こる範囲は数百km以上であり、時には数千kmにも及ぶ。このような大規模な収束では、気流は[[気圧傾度力]]に従って[[等圧線]]に[[直角]]の方向に収束しようとするものの、[[コリオリの力]]を受けてしまうため進路が曲がり最終的には気圧傾度力、コリオリの力、摩擦力が釣り合って等圧線を斜めに流れる。これにより、低気圧の周囲の風は、[[北半球]]で[[反時計回り]]、[[南半球]]で[[時計回り]]に回転しながら中心へと吹き込む。ただし、接地層やエクマン層より上の[[自由大気|自由大気層]]では摩擦が小さいため気流の発散や収束は無視できるものである。[[クリストフ・ボイス・バロット]]はこれを直感的に「北半球において、風を背にして立つと低気圧の中心が左手の方向にある」と表現している([[クリストフ・ボイス・バロット#ボイス・バロットの法則|ボイス・バロットの法則]])。
低気圧の中心へ向かって収束した風は、中心で低気圧特有の[[上昇気流]]を受けて上昇していく。低気圧によって高度は異なるが、加熱により上昇した大気は次第に周囲との温度差が小さくなり[[浮力]]を失って、強制的な持ち上げにより上昇した大気は山脈や気団の高さを超えたころから衝突対象を失って滞留するので、上空には高気圧が形成される。ここからは、逆に周囲に向かって空気を放出している([[発散 (ベクトル解析)|発散]]させている)。地表低気圧と上空高気圧の位置は、熱帯低気圧などはほぼ同じだが、温帯低気圧では数百kmほどずれて位置する。
低気圧というシステムを動かす「モーター」は上昇気流であり、それを駆動する「エンジン」は雲の発生に伴う[[潜熱]]加熱、地表から受ける加熱・暖気との衝突による加熱、地形や温度の異なる気団の衝突による大気の持ち上げなどである。「エンジン」である加熱が強くなると上昇気流が強まって低気圧が発達し、加熱が弱まれば低気圧は勢力を落とす。一方、他の要因で「モーター」である上昇気流が弱まった場合は加熱速度が遅くなって浮力が低下し上昇気流が弱まるように、両者はお互いに相関関係にある。
また低気圧では特に、[[渦]]と収束の関係も重要である。上昇気流が強まって収束が強まると、低気圧を取り巻く気流の渦が狭まる。すると渦の回転速度が増す([[角運動量保存の法則|角運動量保存則]])。一方、回転速度が速くなりすぎると[[遠心力]]が強まる。このような複数の力が抑制しあって、バランスをとりながら低気圧の周りの風は吹いている。また熱帯低気圧に「目」ができるのは、中心では遠心力が気圧傾度力よりも大きくなることで回転を伴う上昇気流が維持できないことが原因のひとつと考えられている。
== 分類 ==
=== 温帯低気圧 ===
{{Main|温帯低気圧}}
2つの[[気団]]が接するところには、[[前線 (気象)|前線]]ができる。この前線に上空の傾圧不安定波の谷部が西からさしかかると、低気圧が発生し、低気圧の前後において前線活動が活発になる。このような低気圧を[[温帯低気圧]]という。
大局的に見ると、温帯低気圧は高温な赤道地域と低温な極地域の気温差によって生ずるものである。赤道と極の気団を分ける「寒帯前線帯」に発生し、両気団の温度差によって発達し、結果として低緯度の高温の空気を極方面に引き上げ、高緯度の低温の空気を赤道方面に引き下ろして、地球の温度分布を均等にする効果を上げている。北半球においては寒候期には大陸と海洋の温度差が非常に大きくなるため、シベリアの東側に位置するアリューシャン列島からベーリング海にかけてと、北米大陸東側とグリーンランドの南側に当るアイスランド付近では、西或いは南西から進んできた温帯低気圧が発達しては停滞する事が繰り返され、定常的な低圧部となる。南半球では、南極周辺で同様の現象が起こるが、南極大陸は年間を通じて低温であり、周辺に目立った大陸が無いので、全域で1年中温帯低気圧の発達が著しく、南緯40度から50度付近は、航海者から「暴風圏」と呼ばれる荒天が続く。発達した温帯低気圧の規模は非常に大きくなり、1000hPaの等圧線の半径が1000kmを越える事も珍しくないが、気圧傾度は比較的ゆるいため、域内の最大風速も後に述べる熱帯低気圧ほど強くなく、40m/s以上になる事はほとんどない。
温帯低気圧による最低気圧の世界記録は、1993年1月10日、イギリスとアイスランドの間の北大西洋上で、天気図解析により決定された915hPa(あるいは912hPaとも)である{{要出典|date=2015年10月}}。
日本に影響する低気圧は、[[中国]]・[[東シナ海]]で発生し、日本列島を西南西から東北東方向に横切り、[[三陸沖]]から[[アリューシャン列島]]あたりで最盛期に達し、その後進路が不定になって停滞したりアラスカ方面に進む事が多い。冬季には本州の南岸沿いを進む[[南岸低気圧]]が関東など太平洋側に雪を降らせることがある。
熱帯低気圧が北上して前線が生じた上で温帯低気圧に変わることがある。ただし、逆に温帯低気圧から熱帯低気圧に変わることはほとんど無い。温帯低気圧と衰退期の熱帯低気圧とでは構造は確かに類似しているが、発生地域が異なる上、気候にも影響があるため、熱帯低気圧が温帯低気圧に変わることはあっても、温帯低気圧から熱帯低気圧に変わることは無いのである。天気図上は、(冠のない)低気圧が熱帯低気圧に変化(発達)することがあるが、温帯低気圧からの変化ではない。このような熱帯地域で発生する低気圧・低圧部のように温帯低気圧でも熱帯低気圧でもない低気圧も存在し、90W等の番号が付与されることがある
=== 熱帯低気圧 ===
{{Main|熱帯低気圧}}
[[熱帯]]の海洋上で発生する低気圧を、[[熱帯低気圧]]という。成因も構造も温帯低気圧とは異なる。最大の特徴的な違いは前線を伴っていないこと。
熱帯低気圧は、海水面温度が高く(26–27°C)、転向力のある程度大きい北緯(南緯)5–25°の範囲で発生する。
熱帯の大気は通常条件付き不安定な状態にあり、海水面温度が高い海域では蒸発が盛んに行われるため、上昇気流が起きやすい。一方、低緯度では中緯度高気圧([[亜熱帯高気圧]])から吹き出す[[貿易風]]が恒常的な東風となっているが、その東風の中にしばしば波動が生じる。これを偏東風波動と呼び、この部分は渦度を生じて周囲から渦状に空気が流れ込み、強い上昇気流が起きて気圧が低くなり、積雲や積乱雲が発達する。上昇気流により雲ができて水蒸気が持っていた熱が大気中に放出され、上空の空気の温度が高くなると、このサイクルがますます加速され、低気圧が発達する(第2種条件付不安定・CISK)。
北西太平洋域(北半球の東経100-180°)において熱帯低気圧の域内最大風速が17.2m/s(34kt) を超えると[[台風]]となる。北大西洋及び北東太平洋(北半球の西経180度以東)では[[ハリケーン]]、南北インド洋や南太平洋では[[サイクロン]]と呼称されるが、台風と同じ熱帯低気圧である<ref>[https://hp.otenki.com/2270/ 台風、ハリケーン、タイフーン、サイクロンの違いとは]</ref>台風がさらに発達するためには、海水温が 28℃以上の海域を通過することが重要だとされる。熱帯低気圧は温帯低気圧に比べて規模が小さく、1000hPaの等圧線半径も600kmを越える事は少ないが、特に中心付近で気圧傾度が大きくなっているため猛烈な暴風を伴う。
熱帯低気圧による最低気圧の世界記録は、[[1979年]][[10月12日]]、[[昭和54年台風第20号|台風第20号]]において沖ノ鳥島南南東海上でアメリカ軍の気象観測機により実測された870hPaである。
熱帯低気圧(台風など)が中緯度まで北上(北半球の場合)すると、寒気の影響を受け構造に変化が生じ、熱帯低気圧の東側に温暖前線、西側に寒冷前線が生じた上で温帯低気圧に変わる場合が多い。盛夏期にはそのまま衰弱し、熱帯低気圧のまま消滅することもある。
=== 寒冷低気圧 ===
{{Main|寒冷低気圧}}
[[偏西風]]の波動が激しくなると、蛇行が低緯度側へ張り出した部分([[気圧の谷]])が切り離されて独立した渦となることがある。この部分は極からの寒気が入り込んでいる部分であるので寒冷な低気圧となる。これが、[[寒冷低気圧]]・寒冷渦・切離低気圧(カットオフ・ロウ)、といった名で呼ばれる低気圧である。
一般に寒冷低気圧は地上天気図では明瞭ではなく前線を伴わない小低気圧として描かれるか、大陸上では低気圧が確認できないことが多いが、高層天気図においては寒気を伴う非常に顕著な渦として描かれる。
寒冷低気圧の通過の際は大気が非常に不安定となるため、特に、暖かい海域にさしかかると[[積乱雲]]が発達して激しい雷雨や[[集中豪雨]](冬季は大雪)をもたらすことがある。また、レーダー上には顕著なスパイラルバンドが見られる場合もある。寒冷低気圧は偏西風の流れから切り離されているため動きが遅く悪天候が数日間続く。このことから「雷三日」という言い習わしがある。
冬季に日本列島の上空を通過すると、日本海側で大雪になりやすい。稀に関東平野など太平洋側にもに雪をもたらすことがある。
日本周辺で夏季に発生する場合、アリューシャン列島からミッドウェイ近傍で発生した蛇行から切り離され、一週間程度で小笠原近海まで南西方向に進むケースが見られる。これに対応して熱帯低気圧の発達が観測されることから、台風の発達との関連を指摘する研究がある<ref>{{PDFlink|[https://www.mri-jma.go.jp/Publish/Technical/DATA/VOL_14/14_011.pdf 気象研究所技術報告 第14号 1985 第2章]}}</ref>。
=== 熱的低気圧 ===
{{Main|熱的低気圧}}
大陸は海洋に比べて暖まりやすいため低気圧となる([[熱的低気圧]])。局地的で小規模なものは[[海陸風]]の原動力となり、大陸規模のものは[[モンスーン]]の原動力となる。
=== 地形性低気圧 ===
{{Main|地形性低気圧}}
台風や強大な温帯低気圧が山脈や大きな島を横断する場合、或いは広範囲に強い風が吹走して同様の地形にぶつかった場合など、風の流れが一部分切り離されて渦となり、小さな低気圧として認められる場合がある([[地形性低気圧]])。
=== 極低気圧 ===
{{Main|極低気圧}}
極気団の内部で発生する低気圧を[[極低気圧]]という。冬の日本海(特に[[秋田県|秋田]]沖付近)でも発生することがある。発生の要因は、条件付不安定、順圧不安定、傾圧不安定などである。[[寒冷低気圧]]の小型版との見方もある。
== 爆弾低気圧(猛烈低気圧) ==
'''爆弾低気圧''' ("bomb" cyclone<ref>[https://web.archive.org/web/19990117013807/http://www.usatoday.com/weather/tg/wnoreast/wbombs.htm Bomb cyclones ravage northwestern Atlantic] Jack Williams、USATODAY、[[2005年]][[5月20日]]。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070806061415/http://amsglossary.allenpress.com/glossary/browse?s=b&p=34 bomb] Glossary of Meteorology、アメリカ気象学会、[[2012年]][[4月22日]]閲覧。</ref>) とは、急速に発達し、熱帯低気圧(台風)並みの暴風雨、または[[暴風雪]]をもたらす'''温帯低気圧'''を指す俗語。[[1980年]]に[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]の気象学者フレデリック・サンダース (Frederick Sanders) らが存在を提唱<ref>{{Cite journal|authors=Sanders, F. and Gyakum, J. R.|year=1980|title=Synoptic-Dynamic Climatology of the "Bomb"|journal=Monthly Weather Review|volume=108|issue=10|pages=1589-1606|doi=10.1175/1520-0493(1980)108<1589:SDCOT>2.0.CO;2}}</ref>して以降、様々な気象学者がその定義や解析を試みているが、「12時間以上<ref group="注">主に12時間や24時間が用いられる。</ref>にわたって中心気圧が1時間あたり1hPa以上低下した温帯低気圧」を指すことが多い。熱帯低気圧の急発達は一般的なため、爆弾低気圧とは呼ばない。
高緯度であるほど発生頻度が高い傾向にあるため、高緯度ほど[[コリオリの力]]の増大により同じ気圧傾度でも[[地衡風]]の風速が弱いことを考慮して、時間あたりの低下気圧に (sinφ/sin60°) を掛けて緯度補正を行う定義も用いられることがある(φ=緯度)。たとえば[[北緯40度線|北緯40度]](日本でいえば[[秋田県]][[男鹿市]])の上空での場合、24hPa×sin(40°)/sin(60°)=約17.8hPaの気圧が24時間以内に低下した場合に爆弾低気圧と呼ばれるようになる。但し日本の[[気象庁]]は予報用語の中で「使用を控える用語」と分類し<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kaisetsu.html#kigou 予報用語について] 気象庁</ref>、「''急速に発達する(した)低気圧''」などと言い換える<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/haichi1.html 気圧配置 気圧・高気圧・低気圧に関する用語] 気象庁</ref>としている。また、[[日本放送協会|NHK]]では、前記のほか「'''猛烈に発達する(した)低気圧'''」などと表現する事もある。[[読売新聞]]は[[2013年]]1月に「爆弾低気圧」を「'''猛烈低気圧'''」に言い換える事を記載した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qanational/20130219-OYT8T00672.htm? |title=爆弾低気圧は“禁止語”ですか。 |publisher=読売新聞 |accessdate=2013-2-25 |archiveurl=https://archive.is/20130501150017/http://www.yomiuri.co.jp/job/biz/qanational/20130219-OYT8T00672.htm? |archivedate=2013年5月1日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
冷たく乾燥した大陸性[[気団]]と暖かく湿った海洋性気団が衝突する大陸辺縁部の、特に東岸で、冬季に多くみられる現象。[[日本海]](特に佐渡沖周辺と秋田沖周辺)や[[三陸沖]]、[[千島列島]]・[[アリューシャン列島]]南方、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カナダ]]の東海岸などで多く観測される<ref>中村尚、三瓶岳昭、「寒候期における極東域の低気圧活動の特徴(2004年度秋季大会シンポジウム「極東域の温帯低気圧」の報告)」 天気 52(10), 760-763, 2005-10-31, {{naid|110002535450}}</ref>。冬季の対流圏上層で傾圧([[気圧傾度]])が非常に大きい地域の風下(東方)、また顕著な[[暖流]]の流域にあることから、これらが発達に関与していると考えられている<ref>[http://kobam-hp.web.infoseek.co.jp/meteor/bomb.html 爆弾低気圧(ボンブ)] 気象用語集 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110225072241/http://kobam-hp.web.infoseek.co.jp/meteor/bomb.html |date=2011年2月25日 }}</ref>。
日本付近では10月から1月頃の[[冬の嵐]]の時期、2月から3月の[[春一番]]の時期が最も多く、4月中旬から5月中旬までの[[メイストーム]]の時期にもみられる。[[日本海低気圧]]が日本海から[[北日本]]を通過する際に急速に発達し、三陸沖でさらに猛烈に発達する例が多い<ref>[https://web.archive.org/web/20110206044232/http://www.dpac.dpri.kyoto-u.ac.jp/mukou/meeting/Report/08/yoshiike.pdf 日本近海の爆弾低気圧活動と大規模循環場との相互作用] 吉池聡樹、川村隆一、第6回「異常気象と長期変動」研究集会講演要旨、富山大学気象学・気候力学分野(川村研究室)</ref>。アメリカ・カナダでも同様に、冬季に[[ノーイースター]]と呼ばれる嵐はしばしば爆弾低気圧である。
=== 派生現象 ===
爆弾低気圧は非常に発達することから強風に伴い[[高波]]<ref>猿渡亜由未、渡部靖憲、「日本海上の爆弾低気圧に起因する高波の発達機構」土木学会論文集B2(海岸工学) 71(2), I_1537-I_1542, 2015, {{naid|130005109384}}</ref>を発生させるほか、[[地震波]]のP波,S波も発生させる<ref>{{PDFlink|[https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2016/08/20160822_01.pdf 西田究、高木涼太、「大西洋の爆弾低気圧によって励起された脈動実体波」]}} 東京大学地震研究所</ref>。
== 名称 ==
[[2002年]]、[[ベルリン自由大学]]気象研究所が、高気圧や低気圧の[[命名権]]の販売を開始した。[[徳島県]][[徳島市]]在住の団体職員兼[[気象予報士]]の男性が、[[日本人]]として初めて購入した。購入者は自分自身の名を低気圧に命名し、[[2005年]]秋、[[日本人]]名をつけた史上初の低気圧「タカシ(TAKASHI)」が誕生した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 小倉義光 『一般気象学』第2版、東京大学出版会、[[1999年]]、ISBN 978-4-13-062706-1。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Low pressure systems}}
* [[高気圧]]
* [[海面上昇#海面上昇の原因|海面上昇]] - 低気圧に吸い上げられ上昇
== 外部リンク ==
* 小倉義光、隈部良司、西村修司 「お天気の見方・楽しみ方 (11):「台風並みに発達した」低気圧-2007年1月6日の場合」 『天気』 54巻7号、pp.663-669、[[2007年]][[7月31日]]、{{NAID|110006386572}} - 爆弾低気圧に関する解説
* [http://fujin.geo.kyushu-u.ac.jp/meteorol_bomb/index.php 爆弾低気圧情報データベース] 九州大学大学院
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ヘブライ文字
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ヘブライ文字(ヘブライもじ、ヘブライ語: אלפבית עברי アレフベート・イヴリー、ヘブル文字とも)とは、主にヘブライ語を表記するための文字である。ほかにイディッシュ語などの表記にも用いられる。
現代のヘブライ文字は、アラム文字より派生したアブジャドの一種で、右書き(右から左に)で書く。ヘブライ語の話者はヘブライ文字をアレフベートと呼ぶ。22文字の子音文字からなる表音文字で、うち k、m、n、p、ṣ の5つの文字に非語末形と語末形(ソフィート)の区別があるため、27文字になっている。
音素文字がどのように発明されたかは正確には明らかではないが、エジプトやシナイ半島から発見されたワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字やパレスチナの原カナン文字などの文字の存在から、紀元前2000年ごろに発明されたと考えられる。充分な資料のある初期の音素文字には楔形のウガリット文字や、碑文に用いた南アラビア文字、古代北アラビア文字がある。そのうち、紀元前11世紀半ばには22文字からなる幾何学的な字形の文字が発達し、右から左へ安定して書かれるようになった。これをフェニキア文字と呼ぶ。
フェニキア文字は周辺のヘブライ語、モアブ語、アラム語などにも用いるようになった。これらの文字は時代を経るごとに形状が徐々に地域的な独自の変化を遂げるが、この時期のヘブライ文字を古ヘブライ文字 (Paleo‐Hebrew script)、ないし原始ヘブライ文字あるいは古代ヘブライ文字 (Ancient Hebrew script) などとも称する。この文字で書かれた出土資料として、古いものにはゲゼル・カレンダーなどがあるが、充分な資料が現れるのは紀元前9世紀以降である。
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残している。その文字であるアラム文字(帝国アラム文字)は、古ヘブライ文字と同様にフェニキア文字から発達したものであるが、字形は速く書けるように曲線的で筆記体的な形に発達し、紀元前5世紀ごろには語末で特別な字形が発達した。この状態はエレファンティネ・パピルスのアラム語文書に見ることができる。
ユダヤ人はバビロン捕囚以降に、それまでの古ヘブライ文字にかわってアラム文字を受容した。このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字 (Square Hebrew script) または単に「方形文字」と称する。
ヘレニズム時代にはいると、中東の行政言語はギリシア語が帝国アラム語にとってかわった。その後もアラム語とアラム文字は使いつづけられたが、字形は統一されなくなり、地方ごとの変種が生じた。ヘブライ文字が独自の形を取るようになったのもこのときのことで、紀元前3世紀以降に独特の字形の発達を見ることができる。
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が見られる。また後代のラビたちも古ヘブライ文字を「ヘブライ字(ketāb 'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
いっぽう北イスラエル王国領であったサマリア地域では古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
各地に離散したユダヤ人ごとに異なる書写の伝統があったが、聖書を筆写するためのヘブライ文字は古い書体を保ち続けた。これに対して注釈に使われる目的では行書的な書体が発達した。たとえば中世イタリアで発達したラシ書体 (Rashi script) が知られる。日常の目的のためには筆記体が発達した。現代の筆記体は、16-17世紀に中央ヨーロッパで使われはじめたアシュケナジムの筆記体から派生したものである。
離散ユダヤ人はヘブライ語とアラム語だけでなく、各地でさまざまな言語を使用したが、とくに重要なものにイディッシュ語、ラディーノ語、ユダヤ・アラビア語群があり、いずれもヘブライ文字による表記が行われた。それぞれの言語を表記するために文字体系が拡張されている。
イディッシュ語は12世紀以来ヘブライ文字で書かれたが、正書法が統一されることはなく、さまざまな異なる綴り方が存在する。ヘブライ語・アラム語に由来する語は伝統的なつづり字を採用し、ドイツ語系の単語はドイツ語正書法に1対1で対応するように綴る「語源的」な綴り方と、実際のイディッシュ語の発音を反映した「形態音韻論的」な綴り方の対立がある。1936年に制定されて翌年出版されたYIVO(イディッシュ科学院)方式がおそらく最もよく使われている。YIVO方式は破裂音を表すダゲシュ、摩擦音を表すラフェ、スィンの点、および母音の読みを一意に区別するための記号を使用している。
イディッシュ語にあってヘブライ語にない子音は、摩擦音を表すラフェ記号を使ったり、二重音字によって表した。
YIVO方式では準母音とニクードを組み合わせ、母音を完全に表記する。
あいまいさを生じる可能性のある場合は点で区別される。例:וווּ vu, ייִ yi, ויִ ui など。
ヘブライ語は長い時代に広い地域で使われてきたため、発音には時代差・地域差が大きい。アシュケナジム式ヘブライ語、セファルディム式ヘブライ語、イエメン式ヘブライ語などでさまざまに異なる発音がなされるが、ここでは中世のティベリア式発音と現代イスラエルの標準的発音についてのみ述べる。
聖書が書かれた紀元前1千年紀のヘブライ語の発音は不明な点が大きい。フェニキア文字は22の子音を区別するが、当時のヘブライ語はそれよりも多くの子音があったため、1つの文字が複数の音を表していた(多音性)。ヘレニズム時代までは少なくともヘット(ח)、アイン(ע)、シン(ש)に2種類の音が割り当てられていたと考えられている。
ティベリア式発音では、これらの子音のうちシン(ש)の2種類の音の区別のみが残っており、ラテン文字ではそれぞれšおよびśと翻字される。後者は現在ではサメフ(ס)と同音になっているが、古くは別の無声歯茎側面摩擦音/ɬ/のような音であったと考えられている。
ティベリア式発音ではまた、/p/,/t/,/k/,/b/,/d/,/g/ の6子音はその位置により異なって発音された。おおまかに言って、語頭あるいは重子音になったときに破裂音になり、母音に後続した場合(重子音の場合を除く)には摩擦音 /f/,/θ/,/x/,/v/,/ð/,/ɣ/ で発音されていた。これらのうち、現代ヘブライ語では /f/,/v/,/x/ のみが摩擦音化する。
上記の歴史的な理由から、通常/f/は語頭に出現しないし、/p, b/が語末に来ることもない。しかし現代ヘブライ語では「פנטי」(fanati「狂信的な」、英語fanatic)のような外来語に語頭のfが出現することがある。
ティベリア式発音ではヴァヴ(ו)は半母音の /w/ だったが、現代では摩擦音/v/になっている。
ティベリア式発音ではセム語に特徴的な強勢音があり、テット(ט)は /tʕ/、ツァディ(צ)は /sʕ/、そしてクフ(ק)は /q/ であったが、現代語ではそれぞれ /t, ts, k/ になった。ヘット(ח)は同じくセム語に特徴的な無声咽頭摩擦音/ħ/、アイン(ע)は有声咽頭摩擦音/ʕ/であったが、これらもそれぞれ無声軟口蓋摩擦音 /x/、声門破裂音 /ʔ/(または無音)に変化した。
これらの音声変化の結果、現代語では複数の文字が同音になっており、文字と音声の関係は複雑化している。
現代ヘブライ文字の基本字母はいずれも子音を表し、22字がある。うち、5字(כ מ נ פ צ)は、語末にのみ使われる特別の字形(ソフィート)をもっているため、合計すると27字になる。各文字とその読み・発音は、以下の通り。
ב ג ד כ פ ת の6字は、破裂音(b g d k p t)と摩擦音(ḇ ḡ ḏ ḵ p̄ ṯ)の2種類の音があるが、現代のヘブライ語で区別されるのはこのうちב כ פ の3音のみである。ニクードが使われた時、破裂音はダゲッシュと呼ばれる内部の点で示される(בּ גּ דּ כּ פּ תּ)。現代語で区別される3音のうち、בの摩擦音としての発音はוと同音、כの摩擦音としての発音はחと同じである。
שには/ʃ/と/s/の2つの音があり、単語によって区別されるが、/ʃ/の音の方がより多く出現する。ニクードを使用した場合、/ʃ/ならば右上に点をつけ(שׁ)、/s/ならば左上に点をつける(שׂ)。/s/の音はסと同音になる。
ヘブライ文字には強勢音を表す文字(ṭ (ט), ṣ (צ), q (ק))があったが、現代ではそれぞれ単に /t/, /ts/, /k/ と発音される。このためטはתの破裂音としての発音と、ק は כ の破裂音としての発音と同音になっている。
ヘブライ文字の順序は、北西セム諸語に共通のものであり、北西セム順とも呼ばれる。ほぼ同じ並びがウガリット文字にも見えている。
聖書の「詩篇」、「箴言」、「哀歌」では、各詩節がヘブライ文字の各文字ではじまるように作られているものがある。これによってヘブライ文字の古い順序がわかる。
しかし、現在の順序と少し異なっているものがある。とくに詩篇の第10番、哀歌の第2・3・4章ではペーがアインよりも先に来ている。同じ特徴が紀元前1200年ごろのものと言われるʿIzbet Ṣarṭahのオストラコン(左から右へ書かれている)にも見えており、なぜこのような揺れが存在するのかはよくわからないが、2005年に発見されたTel Zayitの石刻(紀元前10世紀ごろ)でも同様であり、あるいはこちらの方がより古い順序だったのかもしれない。
詩篇の25番や34番では、タヴの後ろにもう1つペーからはじまる詩節があり、学者によっては外来語用に追加した文字があったと考える。リチャード・スタイナーはイランやギリシアからの借用語のために強調音のṗがあったと主張している。
現代ヘブライ語では外来語を表すために伝統的なヘブライ語に存在しない子音が使用され、それぞれ以下のように表記される。/w/は/v/と表記上区別されない。
ニクード(ニクダーとも)は6世紀以降のマソラ学者によって発達した、正確な読みを記述するためのダイアクリティカルマークである。これらは通常の表記には用いられず、聖書のテクスト以外では教育・説明用のテキストでのみ用いられる。
子音の区別に用いられるニクードは以下のものがある。
母音の表記には、古くは子音のためのいくつかの文字(y, w, h)を母音を表すために転用することが行われた(準母音と呼ぶ)。しかし準母音表記は母音を表すには完全なものとは言えなかった。現在使われる標準的な記号はヘブライ語のティベリア式発音を示したものだが、この方式は7つの(完全な)母音と4つの短い母音の、合計で11種類の母音を示している。しかし、現代ヘブライ語は5母音のみで長短の区別もないことや、シェバーを発音するかどうかが中世と現代で異なるなどの理由のために、記号と実際の発音との関係は複雑なものになっている。
一覧で示すと以下のようになる(便宜的に記号は子音字מの下につけてある)。
注:
聖書には、ニクードとは別に朗読を補助するための記号であるタアメー・ハミクラー(טעמי המקרא)が付されている。タアメー・ハミクラーは数十種類のものがあるが、以下の3つの働きがある。
ほかにメテグという縦棒が文字の下につけられることがあり、副アクセントを示す。
現代ヘブライ語ではアラビア数字を使用する(左から右へ書かれる)。いくつかの特定の用途では、ヘブライ文字に数価を割り当てて用いる(ヘブライ数字)。
句読点は現代ヘブライ語では西洋と同様のものを使用する。聖書ではソフ・パスークという節の終わりを表すコロンに似た形の記号があり(׃)、またスィルーク、エトナハ、ザケフなどの分離符が句切りの最後の単語の上下に使用される。
2つの語が緊密な関係にあることを表すために、マカフというハイフンに似た記号(־)で語どうしを結ぶことがある。
西洋のアポストロフィに似た機能を果たす省略記号は2種類ある。ゲレシュ(׳)は語の末尾に置かれて、そこから後ろが省略されていることを示す(例:「ישמאל」(イシュマエル)を「יש׳」と略す)。ゲレシュを重ねた形をしたゲルシャイム(״)は、単語の最後の字の前に置かれて、その語が略語であることを示す(例:תנ״ך タナハ)。ゲレシュはまた上記のように外来語の子音の表記にも使われるし、ヘブライ数字を通常の単語と区別するためにも用いられる。
ヘブライ文字のための8ビットの文字コード国際規格にISO/IEC 8859-8がある。この符号化文字集合では文字および双方向テキスト処理のためのRLM/LRM(1999年に追加)を含んでいるが、ニクダーは含まれない。MS-DOSのコードページ862、Windowsコードページ1255もヘブライ文字用である。
Unicodeでは U+0590 - U+05FF、FB1D - FB40 に収録され、文字・合字・連結発音区別符号・句読点が含まれている。
注:װ ױ ײ のコードはイディッシュ語で用いられた。ヘブライ語では用いられなかった。
このほかに、双方向テキストを処理するための RLM / LRM などの記号を使用する。聖書ヘブライ語ではさらにゼロ幅非接合子(ZWNJ)や図形素結合子(CGJ)が必要になる場合がある。
Windowsにおけるヘブライ語キーボード。
赤字(ニクード)は、(Shift+Caps Lockで)Caps Lockにした状態から、Shiftを押しながらで入力できる。(その際は、他の字母もShiftを押しながら入力することになる。)
しかしこの方法によるニクードの入力は煩わしいものだった。Windows 8以降は従来のキーボードに加えて新しい「Hebrew (Standard)」キーボードが導入され、AltGrと1文字の組み合わせで入力できるようになった(たとえば、AltGr+פ でパタフが入力される)。
音声学において、ヘブライ文字の名称が国際音声記号の呼び名として使用されているものがある。(例:ヨッド、シュヴァーなど)
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"text": "音素文字がどのように発明されたかは正確には明らかではないが、エジプトやシナイ半島から発見されたワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字やパレスチナの原カナン文字などの文字の存在から、紀元前2000年ごろに発明されたと考えられる。充分な資料のある初期の音素文字には楔形のウガリット文字や、碑文に用いた南アラビア文字、古代北アラビア文字がある。そのうち、紀元前11世紀半ばには22文字からなる幾何学的な字形の文字が発達し、右から左へ安定して書かれるようになった。これをフェニキア文字と呼ぶ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "フェニキア文字は周辺のヘブライ語、モアブ語、アラム語などにも用いるようになった。これらの文字は時代を経るごとに形状が徐々に地域的な独自の変化を遂げるが、この時期のヘブライ文字を古ヘブライ文字 (Paleo‐Hebrew script)、ないし原始ヘブライ文字あるいは古代ヘブライ文字 (Ancient Hebrew script) などとも称する。この文字で書かれた出土資料として、古いものにはゲゼル・カレンダーなどがあるが、充分な資料が現れるのは紀元前9世紀以降である。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 4,
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"text": "紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残している。その文字であるアラム文字(帝国アラム文字)は、古ヘブライ文字と同様にフェニキア文字から発達したものであるが、字形は速く書けるように曲線的で筆記体的な形に発達し、紀元前5世紀ごろには語末で特別な字形が発達した。この状態はエレファンティネ・パピルスのアラム語文書に見ることができる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "ユダヤ人はバビロン捕囚以降に、それまでの古ヘブライ文字にかわってアラム文字を受容した。このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字 (Square Hebrew script) または単に「方形文字」と称する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ヘレニズム時代にはいると、中東の行政言語はギリシア語が帝国アラム語にとってかわった。その後もアラム語とアラム文字は使いつづけられたが、字形は統一されなくなり、地方ごとの変種が生じた。ヘブライ文字が独自の形を取るようになったのもこのときのことで、紀元前3世紀以降に独特の字形の発達を見ることができる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が見られる。また後代のラビたちも古ヘブライ文字を「ヘブライ字(ketāb 'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "いっぽう北イスラエル王国領であったサマリア地域では古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "各地に離散したユダヤ人ごとに異なる書写の伝統があったが、聖書を筆写するためのヘブライ文字は古い書体を保ち続けた。これに対して注釈に使われる目的では行書的な書体が発達した。たとえば中世イタリアで発達したラシ書体 (Rashi script) が知られる。日常の目的のためには筆記体が発達した。現代の筆記体は、16-17世紀に中央ヨーロッパで使われはじめたアシュケナジムの筆記体から派生したものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "離散ユダヤ人はヘブライ語とアラム語だけでなく、各地でさまざまな言語を使用したが、とくに重要なものにイディッシュ語、ラディーノ語、ユダヤ・アラビア語群があり、いずれもヘブライ文字による表記が行われた。それぞれの言語を表記するために文字体系が拡張されている。",
"title": "非ヘブライ語系言語へのヘブライ文字の適用"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "イディッシュ語は12世紀以来ヘブライ文字で書かれたが、正書法が統一されることはなく、さまざまな異なる綴り方が存在する。ヘブライ語・アラム語に由来する語は伝統的なつづり字を採用し、ドイツ語系の単語はドイツ語正書法に1対1で対応するように綴る「語源的」な綴り方と、実際のイディッシュ語の発音を反映した「形態音韻論的」な綴り方の対立がある。1936年に制定されて翌年出版されたYIVO(イディッシュ科学院)方式がおそらく最もよく使われている。YIVO方式は破裂音を表すダゲシュ、摩擦音を表すラフェ、スィンの点、および母音の読みを一意に区別するための記号を使用している。",
"title": "非ヘブライ語系言語へのヘブライ文字の適用"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "イディッシュ語にあってヘブライ語にない子音は、摩擦音を表すラフェ記号を使ったり、二重音字によって表した。",
"title": "非ヘブライ語系言語へのヘブライ文字の適用"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "YIVO方式では準母音とニクードを組み合わせ、母音を完全に表記する。",
"title": "非ヘブライ語系言語へのヘブライ文字の適用"
},
{
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"tag": "p",
"text": "あいまいさを生じる可能性のある場合は点で区別される。例:וווּ vu, ייִ yi, ויִ ui など。",
"title": "非ヘブライ語系言語へのヘブライ文字の適用"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ語は長い時代に広い地域で使われてきたため、発音には時代差・地域差が大きい。アシュケナジム式ヘブライ語、セファルディム式ヘブライ語、イエメン式ヘブライ語などでさまざまに異なる発音がなされるが、ここでは中世のティベリア式発音と現代イスラエルの標準的発音についてのみ述べる。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "聖書が書かれた紀元前1千年紀のヘブライ語の発音は不明な点が大きい。フェニキア文字は22の子音を区別するが、当時のヘブライ語はそれよりも多くの子音があったため、1つの文字が複数の音を表していた(多音性)。ヘレニズム時代までは少なくともヘット(ח)、アイン(ע)、シン(ש)に2種類の音が割り当てられていたと考えられている。",
"title": "文字"
},
{
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"text": "ティベリア式発音では、これらの子音のうちシン(ש)の2種類の音の区別のみが残っており、ラテン文字ではそれぞれšおよびśと翻字される。後者は現在ではサメフ(ס)と同音になっているが、古くは別の無声歯茎側面摩擦音/ɬ/のような音であったと考えられている。",
"title": "文字"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ティベリア式発音ではまた、/p/,/t/,/k/,/b/,/d/,/g/ の6子音はその位置により異なって発音された。おおまかに言って、語頭あるいは重子音になったときに破裂音になり、母音に後続した場合(重子音の場合を除く)には摩擦音 /f/,/θ/,/x/,/v/,/ð/,/ɣ/ で発音されていた。これらのうち、現代ヘブライ語では /f/,/v/,/x/ のみが摩擦音化する。",
"title": "文字"
},
{
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"tag": "p",
"text": "上記の歴史的な理由から、通常/f/は語頭に出現しないし、/p, b/が語末に来ることもない。しかし現代ヘブライ語では「פנטי」(fanati「狂信的な」、英語fanatic)のような外来語に語頭のfが出現することがある。",
"title": "文字"
},
{
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"text": "ティベリア式発音ではヴァヴ(ו)は半母音の /w/ だったが、現代では摩擦音/v/になっている。",
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},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ティベリア式発音ではセム語に特徴的な強勢音があり、テット(ט)は /tʕ/、ツァディ(צ)は /sʕ/、そしてクフ(ק)は /q/ であったが、現代語ではそれぞれ /t, ts, k/ になった。ヘット(ח)は同じくセム語に特徴的な無声咽頭摩擦音/ħ/、アイン(ע)は有声咽頭摩擦音/ʕ/であったが、これらもそれぞれ無声軟口蓋摩擦音 /x/、声門破裂音 /ʔ/(または無音)に変化した。",
"title": "文字"
},
{
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"text": "これらの音声変化の結果、現代語では複数の文字が同音になっており、文字と音声の関係は複雑化している。",
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},
{
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"text": "現代ヘブライ文字の基本字母はいずれも子音を表し、22字がある。うち、5字(כ מ נ פ צ)は、語末にのみ使われる特別の字形(ソフィート)をもっているため、合計すると27字になる。各文字とその読み・発音は、以下の通り。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "ב ג ד כ פ ת の6字は、破裂音(b g d k p t)と摩擦音(ḇ ḡ ḏ ḵ p̄ ṯ)の2種類の音があるが、現代のヘブライ語で区別されるのはこのうちב כ פ の3音のみである。ニクードが使われた時、破裂音はダゲッシュと呼ばれる内部の点で示される(בּ גּ דּ כּ פּ תּ)。現代語で区別される3音のうち、בの摩擦音としての発音はוと同音、כの摩擦音としての発音はחと同じである。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "שには/ʃ/と/s/の2つの音があり、単語によって区別されるが、/ʃ/の音の方がより多く出現する。ニクードを使用した場合、/ʃ/ならば右上に点をつけ(שׁ)、/s/ならば左上に点をつける(שׂ)。/s/の音はסと同音になる。",
"title": "文字"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ヘブライ文字には強勢音を表す文字(ṭ (ט), ṣ (צ), q (ק))があったが、現代ではそれぞれ単に /t/, /ts/, /k/ と発音される。このためטはתの破裂音としての発音と、ק は כ の破裂音としての発音と同音になっている。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ文字の順序は、北西セム諸語に共通のものであり、北西セム順とも呼ばれる。ほぼ同じ並びがウガリット文字にも見えている。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "聖書の「詩篇」、「箴言」、「哀歌」では、各詩節がヘブライ文字の各文字ではじまるように作られているものがある。これによってヘブライ文字の古い順序がわかる。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "しかし、現在の順序と少し異なっているものがある。とくに詩篇の第10番、哀歌の第2・3・4章ではペーがアインよりも先に来ている。同じ特徴が紀元前1200年ごろのものと言われるʿIzbet Ṣarṭahのオストラコン(左から右へ書かれている)にも見えており、なぜこのような揺れが存在するのかはよくわからないが、2005年に発見されたTel Zayitの石刻(紀元前10世紀ごろ)でも同様であり、あるいはこちらの方がより古い順序だったのかもしれない。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "詩篇の25番や34番では、タヴの後ろにもう1つペーからはじまる詩節があり、学者によっては外来語用に追加した文字があったと考える。リチャード・スタイナーはイランやギリシアからの借用語のために強調音のṗがあったと主張している。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語では外来語を表すために伝統的なヘブライ語に存在しない子音が使用され、それぞれ以下のように表記される。/w/は/v/と表記上区別されない。",
"title": "文字"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ニクード(ニクダーとも)は6世紀以降のマソラ学者によって発達した、正確な読みを記述するためのダイアクリティカルマークである。これらは通常の表記には用いられず、聖書のテクスト以外では教育・説明用のテキストでのみ用いられる。",
"title": "ニクード"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "子音の区別に用いられるニクードは以下のものがある。",
"title": "ニクード"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "母音の表記には、古くは子音のためのいくつかの文字(y, w, h)を母音を表すために転用することが行われた(準母音と呼ぶ)。しかし準母音表記は母音を表すには完全なものとは言えなかった。現在使われる標準的な記号はヘブライ語のティベリア式発音を示したものだが、この方式は7つの(完全な)母音と4つの短い母音の、合計で11種類の母音を示している。しかし、現代ヘブライ語は5母音のみで長短の区別もないことや、シェバーを発音するかどうかが中世と現代で異なるなどの理由のために、記号と実際の発音との関係は複雑なものになっている。",
"title": "ニクード"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "一覧で示すと以下のようになる(便宜的に記号は子音字מの下につけてある)。",
"title": "ニクード"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "注:",
"title": "ニクード"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "聖書には、ニクードとは別に朗読を補助するための記号であるタアメー・ハミクラー(טעמי המקרא)が付されている。タアメー・ハミクラーは数十種類のものがあるが、以下の3つの働きがある。",
"title": "朗読用記号など"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ほかにメテグという縦棒が文字の下につけられることがあり、副アクセントを示す。",
"title": "朗読用記号など"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現代ヘブライ語ではアラビア数字を使用する(左から右へ書かれる)。いくつかの特定の用途では、ヘブライ文字に数価を割り当てて用いる(ヘブライ数字)。",
"title": "数字と記号"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "句読点は現代ヘブライ語では西洋と同様のものを使用する。聖書ではソフ・パスークという節の終わりを表すコロンに似た形の記号があり(׃)、またスィルーク、エトナハ、ザケフなどの分離符が句切りの最後の単語の上下に使用される。",
"title": "数字と記号"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2つの語が緊密な関係にあることを表すために、マカフというハイフンに似た記号(־)で語どうしを結ぶことがある。",
"title": "数字と記号"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "西洋のアポストロフィに似た機能を果たす省略記号は2種類ある。ゲレシュ(׳)は語の末尾に置かれて、そこから後ろが省略されていることを示す(例:「ישמאל」(イシュマエル)を「יש׳」と略す)。ゲレシュを重ねた形をしたゲルシャイム(״)は、単語の最後の字の前に置かれて、その語が略語であることを示す(例:תנ״ך タナハ)。ゲレシュはまた上記のように外来語の子音の表記にも使われるし、ヘブライ数字を通常の単語と区別するためにも用いられる。",
"title": "数字と記号"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ヘブライ文字のための8ビットの文字コード国際規格にISO/IEC 8859-8がある。この符号化文字集合では文字および双方向テキスト処理のためのRLM/LRM(1999年に追加)を含んでいるが、ニクダーは含まれない。MS-DOSのコードページ862、Windowsコードページ1255もヘブライ文字用である。",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "Unicodeでは U+0590 - U+05FF、FB1D - FB40 に収録され、文字・合字・連結発音区別符号・句読点が含まれている。",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "注:װ ױ ײ のコードはイディッシュ語で用いられた。ヘブライ語では用いられなかった。",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このほかに、双方向テキストを処理するための RLM / LRM などの記号を使用する。聖書ヘブライ語ではさらにゼロ幅非接合子(ZWNJ)や図形素結合子(CGJ)が必要になる場合がある。",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "Windowsにおけるヘブライ語キーボード。",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "赤字(ニクード)は、(Shift+Caps Lockで)Caps Lockにした状態から、Shiftを押しながらで入力できる。(その際は、他の字母もShiftを押しながら入力することになる。)",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかしこの方法によるニクードの入力は煩わしいものだった。Windows 8以降は従来のキーボードに加えて新しい「Hebrew (Standard)」キーボードが導入され、AltGrと1文字の組み合わせで入力できるようになった(たとえば、AltGr+פ でパタフが入力される)。",
"title": "コンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "音声学において、ヘブライ文字の名称が国際音声記号の呼び名として使用されているものがある。(例:ヨッド、シュヴァーなど)",
"title": "その他"
}
] |
ヘブライ文字とは、主にヘブライ語を表記するための文字である。ほかにイディッシュ語などの表記にも用いられる。 現代のヘブライ文字は、アラム文字より派生したアブジャドの一種で、右書き(右から左に)で書く。ヘブライ語の話者はヘブライ文字をアレフベートと呼ぶ。22文字の子音文字からなる表音文字で、うち k、m、n、p、ṣ の5つの文字に非語末形と語末形(ソフィート)の区別があるため、27文字になっている。
|
{{Infobox WS
|name=ヘブライ文字
|type=アブジャド
|typedesc=([[アルファベット]]として使われることもある)
| time = [[紀元前200年]]頃-現在
|languages=[[ヘブライ語]]、[[イディッシュ語]]、[[ラディーノ語]]および[[ユダヤ・アラビア語群]] ([[ユダヤ諸語]]参照)
| fam1 = [[原カナン文字]]
| fam2 = [[フェニキア文字]]
| fam3 = [[アラム文字]]
| unicode = [https://www.unicode.org/charts/PDF/U0590.pdf U+0590-U+05FF]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/UFB00.pdf U+FB1D-U+FB40]
<!-- |sample=עברית.jpg -->
| sample = Zamenhof st.jpg
| caption = ヘブライ文字と[[ラテン文字]]による看板。
| iso15924 = Hebr
}}
{{音素文字}}
'''ヘブライ文字'''(ヘブライもじ、{{lang-he|אלפבית עברי}} {{smaller|アレフベート・イヴリー}}、'''ヘブル文字'''とも)とは、主に[[ヘブライ語]]を表記するための文字である。ほかに[[イディッシュ語]]などの表記にも用いられる。
現代のヘブライ文字は、[[アラム文字]]より派生した[[アブジャド]]の一種で、右書き(右から左に)で書く。ヘブライ語の話者はヘブライ文字を'''アレフベート'''と呼ぶ。22文字の[[子音]]文字からなる[[表音文字]]で、うち k、m、n、p、{{Unicode|ṣ}} の5つの文字に非語末形と語末形(ソフィート)の区別があるため、27文字になっている。
== 歴史 ==
=== 古ヘブライ文字の時代 ===
{{main|古ヘブライ文字}}
[[音素文字]]がどのように発明されたかは正確には明らかではないが、[[エジプト]]や[[シナイ半島]]から発見された[[ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字]]やパレスチナの[[原カナン文字]]などの文字の存在から、紀元前2000年ごろに発明されたと考えられる<ref>Hackett (2004) p.367</ref>。充分な資料のある初期の音素文字には楔形の[[ウガリット文字]]や、碑文に用いた[[南アラビア文字]]、[[古代北アラビア文字]]がある。そのうち、[[紀元前11世紀]]半ばには22文字からなる幾何学的な字形の文字が発達し、右から左へ安定して書かれるようになった。これを[[フェニキア文字]]と呼ぶ<ref>Naveh (1987) p.53</ref>。
フェニキア文字は周辺のヘブライ語、モアブ語、アラム語などにも用いるようになった。これらの文字は時代を経るごとに形状が徐々に地域的な独自の変化を遂げるが、この時期のヘブライ文字を'''古ヘブライ文字''' ({{lang|en|Paleo‐Hebrew script}})、ないし原始ヘブライ文字あるいは'''古代ヘブライ文字''' ({{lang|en|Ancient Hebrew script}}) などとも称する。この文字で書かれた出土資料として、古いものには[[ゲゼル・カレンダー]]などがあるが、充分な資料が現れるのは紀元前9世紀以降である<ref name="g7">Goerwitz (1996) p.487</ref>。
=== 帝国アラム文字の借用 ===
紀元前7世紀頃から新[[アッシリア]]帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになった[[アラム語]]は、続く[[新バビロニア]]帝国、[[ペルシア帝国]]においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残している。その文字である[[アラム文字]](帝国アラム文字)は、古ヘブライ文字と同様にフェニキア文字から発達したものであるが、字形は速く書けるように曲線的で筆記体的な形に発達し、紀元前5世紀ごろには語末で特別な字形が発達した。この状態は[[エレファンティネ・パピルス]]のアラム語文書に見ることができる<ref name="d20">Daniels (1997) p.20</ref>。
ユダヤ人は[[バビロン捕囚]]以降に、それまでの古ヘブライ文字にかわってアラム文字を受容した<ref name="d20"/>。このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を'''方形ヘブライ文字''' ({{lang|en|Square Hebrew script}}) または単に「方形文字」と称する。
=== 方形ヘブライ文字の展開 ===
[[ヘレニズム]]時代にはいると、中東の行政言語は[[ギリシア語]]が帝国アラム語にとってかわった。その後もアラム語とアラム文字は使いつづけられたが、字形は統一されなくなり、地方ごとの変種が生じた。ヘブライ文字が独自の形を取るようになったのもこのときのことで、紀元前3世紀以降に独特の字形の発達を見ることができる<ref>Goerwitz (1996) p.489</ref>。
[[ハスモン朝]]が成立する[[紀元前2世紀]]から[[紀元前1世紀]]に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の[[死海文書]]などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「[[YHWH]]」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が見られる<ref name="g7"/>。また後代の[[ラビ]]たちも古ヘブライ文字を「ヘブライ字({{Unicode|ketāb 'ibrī}})」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
いっぽう北イスラエル王国領であった[[サマリア]]地域では古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自の[[サマリア文字]]の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
=== 書体の変化 ===
各地に離散したユダヤ人ごとに異なる書写の伝統があったが、聖書を筆写するためのヘブライ文字は古い書体を保ち続けた。これに対して注釈に使われる目的では行書的な書体が発達した。たとえば中世イタリアで発達したラシ書体{{enlink|Rashi script}}が知られる。日常の目的のためには筆記体が発達した。現代の筆記体は、16-17世紀に中央ヨーロッパで使われはじめた[[アシュケナジム]]の筆記体から派生したものである<ref>Naveh (1987) p.173</ref>。
== 非ヘブライ語系言語へのヘブライ文字の適用 ==
[[File:KJ bus stop sign.jpg|thumb|[[ニューヨーク州]]カーヤス・ジョエルの看板。英語とイディッシュ語。ニクードは使用せず]]
離散ユダヤ人はヘブライ語とアラム語だけでなく、各地でさまざまな言語を使用したが、とくに重要なものに[[イディッシュ語]]、[[ラディーノ語]]、[[ユダヤ・アラビア語群]]があり、いずれもヘブライ文字による表記が行われた<ref>Hary (1996) p.728</ref>。それぞれの言語を表記するために文字体系が拡張されている。
イディッシュ語は12世紀以来ヘブライ文字で書かれたが、正書法が統一されることはなく、さまざまな異なる綴り方が存在する。ヘブライ語・アラム語に由来する語は伝統的なつづり字を採用し、ドイツ語系の単語はドイツ語正書法に1対1で対応するように綴る「語源的」な綴り方と、実際のイディッシュ語の発音を反映した「[[形態音韻論]]的」な綴り方の対立がある<ref>Aronson (1996) p.735,737</ref>。1936年に制定されて翌年出版されたYIVO(イディッシュ科学院)方式がおそらく最もよく使われている<ref>Aronson (1996) pp.735-737</ref>。YIVO方式は破裂音を表すダゲシュ、摩擦音を表すラフェ、スィンの点、および母音の読みを一意に区別するための記号を使用している<ref name="a9">Aronson (1996) p.739</ref>。
イディッシュ語にあってヘブライ語にない子音は、摩擦音を表すラフェ記号を使ったり、[[二重音字]]によって表した。
{|class="wikitable"
! 子音
| {{IPA2|tʃ}} || {{IPA2|ʒ}} || {{IPA2|f}} || {{IPA2|v}}
|-
! 表記
| {{lang|he|טש}} || {{lang|he|זש}} || {{lang|he|פֿ}} || {{lang|he|וו{{lrm}}, בֿ}}
|}
YIVO方式では準母音とニクードを組み合わせ、母音を完全に表記する<ref>Aronson (1996) p.738</ref>。
{|class="wikitable"
! 母音
| a || o || i || u || e || ey || ay || oy
|-
! 語中
| {{lang|he|אַ}} || {{lang|he|אָ}} || {{lang|he|י}} || {{lang|he|ו}} || {{lang|he|ע}}
| {{lang|he|יי}} || {{lang|he|ײַ}} || {{lang|he|וי}}
|-
! 語頭
| {{lang|he|אַ}} || {{lang|he|אָ}} || {{lang|he|אי}} || {{lang|he|או}} || {{lang|he|ע}}
| {{lang|he|איי}} || {{lang|he|אײַ}} || {{lang|he|אוי}}
|}
あいまいさを生じる可能性のある場合は点で区別される。例:{{lang|he|וווּ}} vu, {{lang|he|ייִ}} yi, {{lang|he|ויִ}} ui など<ref name="a9"/>。
{{-}}
==文字==
=== 時代による発音の違い ===
ヘブライ語は長い時代に広い地域で使われてきたため、発音には時代差・地域差が大きい。[[アシュケナジム式ヘブライ語]]、[[セファルディム式ヘブライ語]]、[[イエメン式ヘブライ語]]などでさまざまに異なる発音がなされるが、ここでは中世の[[ヘブライ語のティベリア式発音|ティベリア式発音]]と現代イスラエルの標準的発音についてのみ述べる。
聖書が書かれた[[紀元前1千年紀]]のヘブライ語の発音は不明な点が大きい。フェニキア文字は22の子音を区別するが、当時のヘブライ語はそれよりも多くの子音があったため、1つの文字が複数の音を表していた('''多音性''')。[[ヘレニズム]]時代までは少なくともヘット({{lang|he|ח}})、アイン({{lang|he|ע}})、シン({{lang|he|ש}})に2種類の音が割り当てられていたと考えられている<ref>Goerwitz (1996) p.487</ref><ref>Steiner (1997) p.148</ref>。
[[ヘブライ語のティベリア式発音|ティベリア式発音]]では、これらの子音のうちシン({{lang|he|ש}})の2種類の音の区別のみが残っており、ラテン文字ではそれぞれ{{unicode|š}}および{{unicode|ś}}と[[翻字]]される。後者は現在ではサメフ({{lang|he|ס}})と同音になっているが、古くは別の[[無声歯茎側面摩擦音]]{{ipa|ɬ}}のような音であったと考えられている。
ティベリア式発音ではまた、{{ipa|p}},{{ipa|t}},{{ipa|k}},{{ipa|b}},{{ipa|d}},{{ipa|g}} の6子音はその位置により異なって発音された。おおまかに言って、語頭あるいは[[長子音|重子音]]になったときに破裂音になり、母音に後続した場合(重子音の場合を除く)には摩擦音 {{ipa|f}},{{ipa|θ}},{{ipa|x}},{{ipa|v}},{{ipa|ð}},{{ipa|ɣ}} で発音されていた。これらのうち、現代ヘブライ語では {{ipa|f}},{{ipa|v}},{{ipa|x}} のみが摩擦音化する。
上記の歴史的な理由から、通常{{ipa|f}}は語頭に出現しないし、{{ipa|p, b}}が語末に来ることもない。しかし現代ヘブライ語では「[[wikt:he:פנטי|{{lang|he|פנטי}}]]」(fanati「狂信的な」、英語fanatic)のような外来語に語頭のfが出現することがある<ref>{{cite journal|author=Ora (Rodrigue) Schwarzwald|title=Word Foreigness in Modern Hebrew|journal=Hebrew Studies|volume=39|year=1998|pages=115-142|jstor=27909619}}(pp.119-120)</ref>。
ティベリア式発音ではヴァヴ({{lang|he|ו}})は半母音の {{ipa|w}} だったが、現代では摩擦音{{ipa|v}}になっている。
ティベリア式発音ではセム語に特徴的な[[強勢音]]があり、テット({{lang|he|ט}})は {{ipa|tˤ}}、ツァディ({{lang|he|צ}})は {{ipa|sˤ}}、そしてクフ({{lang|he|ק}})は {{ipa|q}} であったが、現代語ではそれぞれ {{ipa|t, ts, k}} になった。ヘット({{lang|he|ח}})は同じくセム語に特徴的な[[無声咽頭摩擦音]]{{ipa|ħ}}、アイン({{lang|he|ע}})は[[有声咽頭摩擦音]]{{ipa|ʕ}}であったが、これらもそれぞれ[[無声軟口蓋摩擦音]] {{ipa|x}}、[[声門破裂音]] {{ipa|ʔ}}(または無音)に変化した。
これらの音声変化の結果、現代語では複数の文字が同音になっており、文字と音声の関係は複雑化している。
=== 文字表 ===
現代ヘブライ文字の基本字母はいずれも子音を表し、22字がある。うち、5字({{lang|he|כ}} {{lang|he|מ}} {{lang|he|נ}} {{lang|he|פ}} {{lang|he|צ}})は、語末にのみ使われる特別の字形(ソフィート)をもっているため、合計すると27字になる。各文字とその読み・発音は、以下の通り<ref>文字名称のローマ字、ティベリア式発音、現代標準発音は Goerwitz (1996) p.490 による</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 名称
! 字母
! 語末形
! colspan="2" |[[筆記体]]
! [[ヘブライ数字|数価]]
! [[ヘブライ語のティベリア式発音|ティベリア式発音]]
! 現代の発音
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|ʾālep̄}} アレフ(alef)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[א]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Alef handwriting.svg|フレームなし|59x59ピクセル]]
|1
|ʾ {{ipa|ʔ}}
|{{ipa|ʔ}}、[[ゼロ (言語学)|ゼロ]]
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|bēṯ}} ベート、ヴェート<ref name="j">{{cite book|和書|author=キリスト聖書塾|title=ヘブライ語入門|year=1991|origyear=1985|edition=第2版第4刷|publisher=キリスト聖書塾|isbn=4896061055|page=4}}</ref>(bet)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ב]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Bet handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|2
| b {{ipa|b}}, {{unicode|ḇ}} {{ipa|v}}
| {{ipa|b}}, {{ipa|v}}
|-
|style="text-align:left"|gimel ギメル(gimel)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ג]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Gimel handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|3
| g {{ipa|ɡ}}, {{unicode|ḡ}} {{ipa|ɣ}}
| {{ipa|ɡ}}
|-
|style="text-align:left"| {{unicode|dāleṯ}} ダレット<ref name="mt">[http://myrtos.co.jp/info/hebrew01.php#Q3 アレフベートは22文字だけ] [[ミルトス]]</ref><ref name="AI13">[[青木偉作]]『はじめての聖書ヘブライ語』[[国際語学社]]、2010年、13頁。</ref>(dalet)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ד]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Daled handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|4
|d {{ipa|d}}, {{unicode|ḏ}} {{ipa|ð}}
|{{ipa|d}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|hē}} ヘー(he)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ה]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter He handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|5
|h {{ipa|h}}
|{{ipa|h}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|wāw}} (vav)ヴァヴ<ref name=mt /><ref name=AI13 />
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ו]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Vav handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|6
|w {{ipa|w}}
|{{ipa|v}}
|-
|style="text-align:left"|zayin ザイン(zayin)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ז]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Zayin handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|7
|z {{ipa|z}}
|{{ipa|z}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|ḥēṯ}} ヘット<ref name=mt /><ref name=AI13 /> (chet)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ח]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Het handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|8
|{{unicode|ḥ}} {{ipa|ħ}}
|{{ipa|x}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|ṭēṯ}} テット<ref name=mt /><ref name=AI13 /> (tet)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ט]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Tet handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|9
|{{unicode|ṭ}} {{ipa|tˤ}}
|{{ipa|t}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|yōḏ}} ユッド<ref name=mt /><ref name=AI13 />(ヨッドとも<ref name="j"/>)(yod)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[י]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Yud handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|10
|y {{ipa|j}}
|{{ipa|j}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|kap̄}} カフ、ハフ<ref name="j"/>(kaf)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[כ]]
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ך]]
|[[ファイル:Hebrew letter Kaf handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|[[ファイル:Hebrew letter Kaf-final handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|20
|k {{ipa|k}}, {{unicode|ḵ}} {{ipa|x}}
|{{ipa|k}}, {{ipa|x}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|lāmeḏ}} ラメッド<ref name=mt /><ref name=AI13 />(lamed)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ל]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Lamed handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|30
|l {{ipa|l}}
|{{ipa|l}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|mēm}} メム<ref name=mt /><ref name=AI13 /> (mem)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[מ]]
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ם]]
|[[ファイル:Hebrew letter Mem handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|[[ファイル:Hebrew letter Mem-final handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|40
|m {{ipa|m}}
|{{ipa|m}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|nūn}} ヌン<ref name=mt /><ref name=AI13 /> (nun)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[נ]]
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ן]]
|[[ファイル:Hebrew letter Nun handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|[[ファイル:Hebrew letter Nun-final handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|50
|n {{ipa|n}}
|{{ipa|n}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|sāmeḵ}} サメフ<ref name=mt /><ref name=AI13 />(samekh)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ס]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Samekh handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|60
|s {{ipa|s}}
|{{ipa|s}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|ʿayin}} アイン(ayin)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ע]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Ayin handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|70
|{{unicode|ʿ}} {{ipa|ʕ}}
|{{ipa|ʔ}}, ゼロ
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|pē}} ペー、フェー<ref name="j"/>(pe)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[פ]]
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ף]]
|[[ファイル:Hebrew letter Pe handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|[[ファイル:Hebrew letter Pe-final handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|80
|p {{ipa|p}}, {{unicode|p̄}} {{ipa|f}}
|{{ipa|p}}, {{ipa|f}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|ṣāḏēh}} ツァディ<ref name=mt />(ツァディクとも<ref name="j"/>)(tsadi)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[צ]]
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ץ]]
|[[ファイル:Hebrew letter Tsadik handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|[[ファイル:Hebrew letter Tsadik-final handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|90
|{{unicode|ṣ}} {{ipa|sˤ}}
|{{ipa|ts}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|qōp̄}} クフ<ref name=mt /><ref name=AI13 />(コフとも<ref name="j"/>)(qof)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ק]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Kuf handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|100
|q {{ipa|q}}
|{{ipa|k}}
|-
|style="text-align:left;"|{{unicode|rēš}} レーシュ<ref name=mt /><ref name=AI13 /> (resh)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ר]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Resh handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|200
|r {{ipa|ɾ}}
|{{ipa|ʁ}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|šīn}} シン、スィン<ref name="j"/> (shin)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ש]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Shin handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|300
|{{unicode|š}} {{ipa|ʃ}}, {{unicode|ś}} {{ipa|s}}
|{{ipa|ʃ}}, {{ipa|s}}
|-
|style="text-align:left"|{{unicode|tāw}} タヴ<ref name=mt /> (tav)
|style="font-size:150%;" lang="he"|[[ת]]
|
| colspan="2" |[[ファイル:Hebrew letter Taf handwriting.svg|フレームなし|58x58ピクセル]]
|400
|t {{ipa|t}}, {{unicode|ṯ}} {{ipa|θ}}
|{{ipa|t}}
|}
{{lang|he|ב}} {{lang|he|ג}} {{lang|he|ד}} {{lang|he|כ}} {{lang|he|פ}} {{lang|he|ת}} の6字は、破裂音(b g d k p t)と摩擦音({{unicode|ḇ ḡ ḏ ḵ p̄ ṯ}})の2種類の音があるが、現代のヘブライ語で区別されるのはこのうち{{lang|he|ב}} {{lang|he|כ}} {{lang|he|פ}} の3音のみである。ニクードが使われた時、破裂音はダゲッシュと呼ばれる内部の点で示される({{lang|he|בּ}} {{lang|he|גּ}} {{lang|he|דּ}} {{lang|he|כּ}} {{lang|he|פּ}} {{lang|he|תּ}})。現代語で区別される3音のうち、{{lang|he|ב}}の摩擦音としての発音は{{lang|he|ו}}と同音、{{lang|he|כ}}の摩擦音としての発音は{{lang|he|ח}}と同じである。
{{lang|he|ש}}には{{ipa|ʃ}}と{{ipa|s}}の2つの音があり、単語によって区別されるが、{{ipa|ʃ}}の音の方がより多く出現する。ニクードを使用した場合、{{ipa|ʃ}}ならば右上に点をつけ({{lang|he|שׁ}})、{{ipa|s}}ならば左上に点をつける({{lang|he|שׂ}})。{{ipa|s}}の音は{{lang|he|ס}}と同音になる。
ヘブライ文字には[[強勢音]]を表す文字({{unicode|ṭ}} ({{lang|he|ט}}), {{unicode|ṣ}} ({{lang|he|צ}}), {{unicode|q}} ({{lang|he|ק}}))があったが、現代ではそれぞれ単に {{ipa|t}}, {{ipa|ts}}, {{ipa|k}} と発音される。このため{{lang|he|ט}}は{{lang|he|ת}}の破裂音としての発音と、{{lang|he|ק}} は {{lang|he|כ}} の破裂音としての発音と同音になっている。
=== 文字の順序 ===
ヘブライ文字の順序は、[[北西セム諸語]]に共通のものであり、'''北西セム順'''とも呼ばれる。ほぼ同じ並びが[[ウガリット文字]]にも見えている<ref name="名前なし-1">Daniels (1997) p.32</ref>。
聖書の「[[詩篇]]」、「[[箴言]]」、「[[哀歌]]」では、各詩節がヘブライ文字の各文字ではじまるように作られているものがある。これによってヘブライ文字の古い順序がわかる。
しかし、現在の順序と少し異なっているものがある。とくに詩篇の第10番、哀歌の第2・3・4章ではペーがアインよりも先に来ている。同じ特徴が紀元前1200年ごろのものと言われる{{unicode|ʿIzbet Ṣarṭah}}の[[オストラコン]](左から右へ書かれている)にも見えており、なぜこのような揺れが存在するのかはよくわからないが<ref name="名前なし-1"/>、2005年に発見されたTel Zayitの石刻(紀元前10世紀ごろ)でも同様であり、あるいはこちらの方がより古い順序だったのかもしれない<ref>{{citation|url=https://www.biblicalarchaeology.org/daily/biblical-artifacts/inscriptions/can-abecedaries-be-used-to-date-the-book-of-psalms/|title=Can Abecedaries Be Used to Date the Book of Psalms?|date=2018-01-13|publisher=Bible History Daily}}</ref>。
詩篇の25番や34番では、タヴの後ろにもう1つペーからはじまる詩節があり、学者によっては外来語用に追加した文字があったと考える<ref>[[s:en:Page:Gesenius' Hebrew Grammar (1910 Kautzsch-Cowley edition).djvu/53|Gesenius' Hebrew Grammar, translated by A. E. Cowley (1910) p.29注2]]</ref>。リチャード・スタイナーはイランやギリシアからの借用語のために[[強調音]]の{{unicode|ṗ}}があったと主張している<ref>Steiner (1997) p.147</ref>。
=== 外来語の表記 ===
現代ヘブライ語では外来語を表すために伝統的なヘブライ語に存在しない子音が使用され、それぞれ以下のように表記される。{{ipa|w}}は{{ipa|v}}と表記上区別されない。
{|class="wikitable
!子音
| {{IPA2|tʃ}} || {{IPA2|dʒ}} || {{IPA2|ʒ}} || {{IPA2|w}}
|-
!表記
| {{lang|he|צ׳}} || {{lang|he|ג׳}} || {{lang|he|ז׳}} || {{lang|he|ו}}
|}
== ニクード ==
{{main|ニクード}}
ニクード(ニクダーとも)は6世紀以降の[[マソラ]]学者によって発達した、正確な読みを記述するための[[ダイアクリティカルマーク]]である。これらは通常の表記には用いられず、聖書のテクスト以外では教育・説明用のテキストでのみ用いられる。
子音の区別に用いられるニクードは以下のものがある。
* ダゲッシュと呼ばれる文字の中に打つ点は、b g d k p t について[[破裂音]]であることを示すか、または[[長子音|重子音]]を示す
* マピック(形はダゲッシュと同じ)は、語末の h について、その字が[[準母音]]ではなく発音されることを示す({{lang|he|הּ}})
* ラフェは文字の上に引く横線で、逆にダゲッシュまたはマピックがないことを示し、とくに[[摩擦音]]であることを示す。正確を期する写本に使われていたが、現代の印刷された聖書では摩擦音であることを特記する必要のある箇所にのみ使われる<ref>[[s:en:Gesenius' Hebrew Grammar/14. Mappîq and Rāphè|Gesenius' Hebrew Grammar, translated by A. E. Cowley (1910) p.57]]</ref>。イディッシュ語のYIVO方式の正書法ではラフェが使用される<ref>Aronson (1996) p.739</ref>
* シン({{lang|he|ש}})の2種類の発音を区別するための点がある({{lang|he|שׁ}} {{ipa|ʃ}}, {{lang|he|שׂ}} {{ipa|s}})
母音の表記には、古くは子音のためのいくつかの文字(y, w, h)を母音を表すために転用することが行われた([[準母音]]と呼ぶ)。しかし準母音表記は母音を表すには完全なものとは言えなかった。現在使われる標準的な記号は[[ヘブライ語のティベリア式発音]]を示したものだが、この方式は7つの(完全な)母音と4つの短い母音の、合計で11種類の母音を示している。しかし、現代ヘブライ語は5母音のみで長短の区別もないことや、[[シュワー|シェバー]]を発音するかどうかが中世と現代で異なるなどの理由のために、記号と実際の発音との関係は複雑なものになっている。
一覧で示すと以下のようになる(便宜的に記号は子音字{{lang|he|מ}}の下につけてある)<ref>Goerwitz (1996) p.491</ref>。
{|class="wikitable"
! 準母音なし!! y,wつき !! hつき!! ティベリア式 !! 現代 !! 記号名
|-
|{{larger|{{lang|he|מִ}}}} {{unicode|i, ī}} || {{lang|he|מִי}} {{unicode|î}} || || {{ipa|i, iː}} || {{ipa|i}} || ヒリック
|-
|{{larger|{{lang|he|מֵ}}}} {{unicode|ē}} || {{lang|he|מֵי}} {{unicode|ê}} || {{lang|he|מֵה}} {{unicode|ēh}} || {{ipa|eː}} || {{ipa|e}} || ツェーレー
|-
|{{larger|{{lang|he|מֶ}}}} {{unicode|e}} || {{lang|he|מֶי}} {{unicode|ệ}} || {{lang|he|מֶה}} {{unicode|eh}} || {{ipa|ɛ, ɛː}} || {{ipa|e}} || セゴール
|-
|{{larger|{{lang|he|מַ}}}} {{unicode|a}} || || || {{ipa|a, aː}} || {{ipa|a}} || パタフ
|-
|{{larger|{{lang|he|מָ}}}} {{unicode|ā, o}} || || {{lang|he|מָה}} {{unicode|â}} || {{ipa|ɔː, ɔ}} || {{ipa|a, o}} || カマツ
|-
|{{larger|{{lang|he|מֹ}}}} {{unicode|ō}} || {{lang|he|מוֹ}} {{unicode|ô}} || {{lang|he|מֹה}} {{unicode|ōh}} || {{ipa|oː}} || {{ipa|o}} || ホラム
|-
|{{larger|{{lang|he|מֻ}}}} {{unicode|u, ū}} || {{lang|he|מוּ}} {{unicode|û}} || || {{ipa|u, uː}} || {{ipa|u}} || クブツ(準母音なし)、シュルク(準母音あり)
|-
|{{larger|{{lang|he|מֱ}}}} {{unicode|ĕ}} || || || {{ipa|ɛ}} || {{ipa|e}} || ハタフ・セゴール
|-
|{{larger|{{lang|he|מֲ}}}} {{unicode|ă}} || || || {{ipa|a}} || {{ipa|a}} || ハタフ・パタフ
|-
|{{larger|{{lang|he|מֳ}}}} {{unicode|ŏ}} || || || {{ipa|ɔ}} || {{ipa|o}} || ハタフ・カマツ
|-
|{{larger|{{lang|he|מְ}}}} {{unicode|ə}}, ゼロ || || || {{ipa|ə}},ゼロ || {{ipa|e}}, ゼロ || シェバー
|}
注:
* 有声の[[シュワー|シェバー]]は上つきの小さなeで翻字されることも多い(例:{{lang|he|קְטֹל}} {{unicode|qᵉṭōl}})。ハタフも同様に小さく記されることがある。
* 語末の喉音にaの記号(パタフ)がついている場合({{lang|he|חַ עַ הַּ}})、母音aは子音より前に発音される。これを潜入パタフと呼ぶ。
* ホラムにはいくつかの例外的な書き方がある。
** 準母音ヴァヴを伴わないホラム(ホラム・ハセル)は子音の左上に点を打つが、ヴァヴを伴う場合はヴァヴの真上に点を打つ(ホラム・マレー)。
** ホラム・ハセルは、シン({{lang|he|שׁ}})の前では書かれない。スィン({{lang|he|שׂ}})にホラム・ハセルがつく場合も何も書かれない。
** ホラムの後ろに発音しないアレフが続く場合、ホラムはアレフの右上に置かれる。
** ヴァヴにホラム・ハセルがついた場合(現代語では「vo」のように発音される)、印刷によってはホラム・マレーと同形になるが、区別される(ヴァヴの左上に点を打つ)こともある。
* uの音を表すには、準母音ヴァヴがない場合は子音の下にクブツを書く。ヴァヴがある場合は、ヴァヴの中にダゲッシュと同じように点を打ち、これをシュルクと呼ぶ。
* カマツは現代語でaと発音されることが普通だが(カマツ・ガドール)、一部の語ではoと発音される(カマツ・カタン)。
* シェバーは母音が続かないことを示す場合(シェバー・ナフ)と、発音される場合(シェバー・ナア)がある。
== 朗読用記号など ==
[[File:Example of biblical Hebrew trope.svg|thumb|300px|赤がニクード、青がタアメー・ハミクラー(右からムナッハ、レビア、カドマ、ゲレシュ)]]
聖書には、ニクードとは別に朗読を補助するための記号である'''タアメー・ハミクラー'''({{lang|he|טעמי המקרא}})が付されている。タアメー・ハミクラーは数十種類のものがあるが、以下の3つの働きがある。
# 朗読する時の節回しを示す。一種の音符だが、現代ではほとんど無視される。
# 多くの記号はアクセントのある位置に書かれるため、アクセントの位置を示す。
# いくつかの記号は息の切れ目があることを示す(分離符)。または逆に続けて読むことを示す(結合符)。
ほかに'''メテグ'''という縦棒が文字の下につけられることがあり、副アクセントを示す。
{{See also|:he:טעמי המקרא|:en:Hebrew cantillation}}
== 数字と記号 ==
現代ヘブライ語では[[アラビア数字]]を使用する(左から右へ書かれる)。いくつかの特定の用途では、ヘブライ文字に数価を割り当てて用いる([[ヘブライ数字]])。
句読点は現代ヘブライ語では西洋と同様のものを使用する。聖書ではソフ・パスークという節の終わりを表す[[コロン (記号)|コロン]]に似た形の記号があり({{lang|he|׃}})、またスィルーク、エトナハ、ザケフなどの分離符が句切りの最後の単語の上下に使用される。
2つの語が緊密な関係にあることを表すために、'''マカフ'''という[[ハイフン]]に似た記号({{lang|he|־}})で語どうしを結ぶことがある。
西洋の[[アポストロフィ]]に似た機能を果たす省略記号は2種類ある。'''ゲレシュ'''({{lang|he|׳}})は語の末尾に置かれて、そこから後ろが省略されていることを示す(例:「{{lang|he|ישמאל}}」(イシュマエル)を「{{lang|he|יש׳}}」と略す)。ゲレシュを重ねた形をした'''ゲルシャイム'''({{lang|he|״}})は、単語の最後の字の前に置かれて、その語が略語であることを示す(例:{{lang|he|תנ״ך}} [[タナハ]])。ゲレシュはまた上記のように外来語の子音の表記にも使われるし、ヘブライ数字を通常の単語と区別するためにも用いられる。
==翻字==
{{seealso|en:Romanization of Hebrew}}
ヘブライ文字を[[ラテン文字]]に[[翻字]]する方法には複数のものがある。学術的には[[ヘブライ語のティベリア式発音|ティベリア式発音]]に対応する翻字が使われることが多い。一方ティベリア式発音と大きく異なる現代ヘブライ語のための翻字については1950年代にヘブライ語アカデミーによる翻字方式が定められ、[[地理学的名称に関する国連専門家グループ]](UNGEGN)はこの方式を1977年に採用した。アカデミーの翻字方式はその後2006年に改正され、2007年にUNGEGNにも採用された<ref>{{citation|url=https://www.eki.ee/wgrs/rom1_he.pdf|title=Hebrew|year=2013|others=compiled by UNGEGN Working Group on Romanization Systems}}</ref>。旧方式と新方式の違いは以下の通りである<ref>{{citation|url=https://unstats.un.org/unsd/geoinfo/ungegn/docs/9th-uncsgn-docs/econf/9th_UNCSGN_e-conf-98-4-add1.pdf|contribution=Changes in the Official Romanization System for Hebrew|date=2007-06-15|title=Ninth United Nations Conference on the Standardization of Geographical Names}}</ref>。
* {{lang|he|ו}}(子音として使われる場合)は「w」と書いていたのを「v」に改める。
* {{lang|he|ק}}は「q」と書いていたのを「k」に改める。
* {{lang|he|צ}}は「{{unicode|ẕ}}」と書いていたのを「ts」に改める。
* {{lang|he|א}}と{{lang|he|ע}}はともに「'」と表記していたが、旧方式では{{lang|he|ע}}を常に表記していたのに対し、新方式では語頭・語末では省略される。
* シェバー・ナアは実際に発音される場合にのみ書くように改める。
==コンピュータ==
=== 8ビットのコード ===
ヘブライ文字のための8ビットの文字コード国際規格に[[ISO/IEC 8859-8]]がある。この符号化文字集合では文字および[[双方向テキスト]]処理のためのRLM/LRM(1999年に追加)を含んでいるが、[[ニクダー]]は含まれない。[[MS-DOS]]の[[コードページ]]862、[[Microsoft Windows|Windows]]コードページ1255もヘブライ文字用である。
=== Unicode ===
[[Unicode]]では U+0590 - U+05FF、FB1D - FB40 に収録され、文字・合字・連結発音区別符号・句読点が含まれている。
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|-style="text-align:center;"
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|-style="text-align:center;"
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|֠|| ֡|| ֢|| ֣|| ֤|| ֥|| ֦|| ֧|| ֨|| ֩|| ֪|| ֫|| ֬|| ֭|| ֮|| ֯
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|ְ|| ֱ|| ֲ|| ֳ|| ִ|| ֵ|| ֶ|| ַ|| ָ|| ֹ|| ֺ|| ֻ|| ּ|| ֽ|| ־|| ֿ
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|׀|| ׁ|| ׂ|| ׃|| ׄ|| ׅ|| ׆|| ׇ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"|
|-style="text-align:center;"
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|א||ב||ג||ד||ה||ו||ז||ח||ט||י||ך||כ||ל||ם||מ||ן
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|נ||ס||ע||ף||פ||ץ||צ||ק||ר||ש||ת||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"|
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|style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||יִ||ﬞ||ײַ
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff"|FB20
|ﬠ||ﬡ||ﬢ||ﬣ||ﬤ||ﬥ||ﬦ||ﬧ||ﬨ||﬩||שׁ||שׂ||שּׁ||שּׂ||אַ||אָ
|-style="text-align:center;"
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|אּ||בּ||גּ||דּ||הּ||וּ||זּ||style="background:#666;"| ||טּ||יּ||ךּ||כּ||לּ||style="background:#666;"| ||מּ||style="background:#666;"|
|-style="text-align:center;"
!style="background:#fff"|FB40
|נּ||סּ||style="background:#666;"| ||ףּ||פּ||style="background:#666;"| ||צּ||קּ||רּ||שּ||תּ||וֹ||בֿ||כֿ||פֿ||ﭏ
|}
注:{{lang|he|װ ױ ײ}} のコードはイディッシュ語で用いられた。ヘブライ語では用いられなかった。
このほかに、[[双方向テキスト]]を処理するための RLM / LRM などの記号を使用する。[[聖書ヘブライ語]]ではさらに[[ゼロ幅非接合子]](ZWNJ)や[[図形素結合子]](CGJ)が必要になる場合がある。
===キーボード===
[[Microsoft Windows|Windows]]における[[ヘブライ語]][[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]。
[[ファイル:Hebrew_keyboard_win.png|left|650px]]
{{clear}}
赤字([[ニクード]])は、(Shift+Caps Lockで)Caps Lockにした状態から、Shiftを押しながらで入力できる。(その際は、他の字母もShiftを押しながら入力することになる。)
しかしこの方法によるニクードの入力は煩わしいものだった。[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]以降は従来のキーボードに加えて新しい「Hebrew (Standard)」キーボードが導入され、{{keypress|AltGr}}と1文字の組み合わせで入力できるようになった(たとえば、{{keypress|AltGr|{{lang|he|פ}}}} でパタフが入力される)<ref>{{citation|url=https://www.safa-ivrit.org/alphabet/howto_win.php|title={{lang|he|כיצד לנקד בחלונות 10}}{{lrm}}|publisher={{lang|he|השפה העברית}}}} {{he icon}}</ref>。
== その他 ==
[[音声学]]において、ヘブライ文字の名称が[[国際音声記号]]の呼び名として使用されているものがある。(例:[[ヨッド]]、[[シュワー|シュヴァー]]など)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|author=Aronson, Howrad I.|chapter=Yiddish|title=The World's Writing Systems|editor=Peter T. Daniels; William Bright|publisher=Oxford University Press|year=1996|isbn=0195079930|pages=735-741}}
* {{cite book|author=Daniels, Peter T.|chapter=Scripts of Semitic Languages|year=1997|title=The Semitic Languages|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=16-45}}
* {{cite book|author=Goerwitz, Richard L.|chapter=The Jewish Scripts|year=1996|title=The World's Writing Systems|editor=Peter T. Daniels; William Bright|publisher=Oxford University Press|isbn=0195079930|pages=487-498}}
* {{cite book|author=Hackett, Jo Ann|chapter=Phoenician and Punic|year=2004|title=The Cambridge Encyclopedia of the World's Ancient Languages|editor=Roger D. Woodard|publisher=Cambridge University Press|isbn=9780521562560|pages=365-385}}
* {{cite book|author=Harry, Benjamin|chapter=Adaptations of Hebrew Script|title=The World's Writing Systems|editor=Peter T. Daniels; William Bright|publisher=Oxford University Press|year=1996|isbn=0195079930|pages=727-734}}
* {{cite book|author=Naveh, Joseph|title=Early History of the Alphabet|year=1987|origyear=1982|edition=2nd|publisher=Hebrew University|isbn=9652234362}}
* {{cite book|author=Steiner, Richard C.|chapter=Ancient Hebrew|year=1997|title=The Semitic Languages|editor=Robert Hetzron|publisher=Routledge|isbn=9780415412667|pages=145-173}}
==関連項目==
*[[ヘブライ語]]
** [[ヘブライ語大辞典]]
** [[ヘブライ語アカデミー]]
** [[エリエゼル・ベン・イェフダー]]
** [[ヘブライ大学]]
*[[イディッシュ語]]
*[[イスラエル]]
*[[ユダヤ人]]
*[[ユダヤ教]]
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[[Category:セム語族の書記体系]]
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高気圧
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高気圧(こうきあつ、英語: anticyclone, high)とは、気象において周囲より気圧の高い部分をいう。気象分野で使用される分類であるため、建物の空調設備によって気圧が周囲より高くなっているものは高気圧とは呼ばれない。 周囲より気圧が高い場合に定義されるので、中心気圧が1気圧 (1013 hPa) より低い高気圧も存在する。一般に、高気圧は晴天をもたらす。
周囲より気圧が高いので、高気圧の中心から外側に向かって気流が発生し風となる。これを気象学では「気流を発散させる」という。この気流はコリオリ力によって直進しないため渦を巻く。 ただし付近に低気圧がある場合は高気圧から低気圧にむかって気流が生じやすく、その気圧差や距離によって気流の強さは変化する。 海面等の水分供給が無い場合は膨張によって相対湿度が下がり、雲などを発生させないため晴天になりやすい。 しかし、上空に寒気が存在する場合はその気温差で凝結し、積雲などを生じる。海上の高気圧は含んでいる水分が多いためさらに雲は生じやすくなる。 また、低気圧における気流の収束は中心に向かうため、中心付近では強い風が生じるが、高気圧の発散では特定の部分に強い風が吹くことは生じにくく、特に中心においてそれは顕著に現れる。
地表付近で温暖な空気を持つ高気圧を温暖高気圧という。 相対的に軽い温暖な空気を持つにもかかわらず気圧が高くなるのは空気が集積し対流圏界面が成層圏側に盛り上がっているためである。
大気の大循環により、北緯(南緯)30°付近にできる高気圧を亜熱帯高気圧という。温暖高気圧に分類される。
赤道地帯で上昇した空気は、ハドレー循環により緯度30°あたりで集積し、下降する。この際、断熱圧縮により温度が上昇するため、温暖な高気圧となる。日本付近では、太平洋高気圧(小笠原高気圧)がこれに当たる。
温帯低気圧の間を、低気圧とともに移動していく高気圧を移動性高気圧という。温暖高気圧に分類される。上空の偏西風波動に伴う下降気流によって生じるので断熱圧縮により温暖な高気圧となる。成因が温帯低気圧と対応するものであるため、温帯高気圧と呼ばれることもある。
日本でみられる移動性高気圧は、揚子江高気圧の一部が分離して移動しているものであるので、最初は寒冷であるが、移動中に上記の機構や温暖な海流によって暖められる。
偏西風の蛇行が激しくなると、蛇行が高緯度側へ張り出した部分(気圧の尾根)が切り離されて独立した渦となることがある。この部分は南からの暖気が入り込んでいる部分であるので温暖な高気圧となる。これが、ブロッキング高気圧、切離高気圧といった名で呼ばれる高気圧である。
ブロッキング高気圧の名は、この高気圧の存在によって温帯低気圧や移動性高気圧の通常の西から東への移動が滞るところから付けられた。ブロッキング高気圧は偏西風の流れから切り離されているため移動が遅く、特定の気圧配置を持続させる。そのため、渇水や大雨、異常高温・低温などの異常気象の原因となることがある。
下層が冷えて、地表面付近に寒冷な空気がたまり、密度が大きくなった空気の重さで高気圧になったものを寒冷高気圧という。気圧が高いのは地上付近のみで、上空では高気圧にはならない(背の低い高気圧)。背の高さは2 km程度で、高層天気図においては、700 hPaでは不明瞭になり、500 hPaではほとんど見られなくなる。
大陸の放射冷却によって、冬のシベリア方面にできるシベリア高気圧が代表的なものである。
オホーツク海高気圧は小笠原気団や移動性高気圧がオホーツク海に差し掛かると寒冷な海水による冷却で気団変質が起き海霧を伴う寒冷高気圧となり滞留すると考られる。チベット高原で分流された偏西風によりブロッキング現象が発生すると長期間居座り東日本を中心に冷夏をもたらす。
大気の大循環により、北極や南極付近にできる高気圧を極高気圧という。
極地方では、年間を通して他の緯度に比べて日射量が少なく、相対的に低温となるため、冷たい空気が下降して高気圧が形成される。高圧なのは大気下層だけで、上空2-3 km以上では低圧になる。この低圧の領域は極渦という。
大量の降雨がある雷雲の下に乾燥した空気があると、雨滴から蒸発が起こるために潜熱が吸収され気温が低下する。このように生じる一種の小規模な寒冷高気圧を雷雨性高気圧、またはメソハイと呼ぶ。
観測史上最高気圧の記録は、標高750 m以上かどうかで分けて取られている。これは、標高の上昇による気圧の低下について、同一の減率を用いることに問題が発生するためである。
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高気圧とは、気象において周囲より気圧の高い部分をいう。気象分野で使用される分類であるため、建物の空調設備によって気圧が周囲より高くなっているものは高気圧とは呼ばれない。
周囲より気圧が高い場合に定義されるので、中心気圧が1気圧 より低い高気圧も存在する。一般に、高気圧は晴天をもたらす。
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{{出典の明記|date=2011-12}}
'''高気圧'''(こうきあつ、{{lang-en|anticyclone, high}})とは、気象において周囲より[[気圧]]の高い部分をいう<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/haichi1.html 気圧配置 気圧・高気圧・低気圧に関する用語] 気象庁</ref>。気象分野で使用される分類であるため、建物の空調設備によって気圧が周囲より高くなっているものは高気圧とは呼ばれない。
周囲より気圧が高い場合に定義されるので、中心気圧が1気圧 (1013 [[ヘクトパスカル|hPa]]) より低い高気圧も存在する<ref group="注釈">その関係で、2014年1月21日3時には、アリューシャンの近海で996 hpaの高気圧<!---2014年1月21日3時の気象庁「実況天気図(アジア)」から--->が発生した。</ref>。一般に、高気圧は[[晴天]]をもたらす。
== 高気圧の主な特徴 ==
周囲より気圧が高いので、高気圧の中心から外側に向かって気流が発生し風となる。これを気象学では「気流を発散させる」という。この気流は[[コリオリ力]]によって直進しないため渦を巻く。
ただし付近に低気圧がある場合は高気圧から低気圧にむかって気流が生じやすく、その気圧差や距離によって気流の強さは変化する。
海面等の水分供給が無い場合は膨張によって相対湿度が下がり、雲などを発生させないため晴天になりやすい。
しかし、上空に寒気が存在する場合はその気温差で凝結し、積雲などを生じる。海上の高気圧は含んでいる水分が多いためさらに雲は生じやすくなる。
また、低気圧における気流の収束は中心に向かうため、中心付近では強い風が生じるが、高気圧の発散では特定の部分に強い風が吹くことは生じにくく、特に中心においてそれは顕著に現れる。
== 分類 ==
=== 温暖高気圧 ===
[[地表]]付近で温暖な空気を持つ高気圧を'''[[温暖高気圧]]'''という。
相対的に軽い温暖な空気を持つにもかかわらず気圧が高くなるのは空気が集積し[[対流圏界面]]が[[成層圏]]側に盛り上がっているためである。
==== 亜熱帯高気圧 ====
[[大気]]の大循環により、北緯(南緯)30°付近にできる高気圧を'''[[亜熱帯高気圧]]'''という。温暖高気圧に分類される。
[[赤道]]地帯で上昇した[[空気]]は、'''[[ハドレー循環]]'''により緯度30°あたりで集積し、下降する。この際、[[断熱圧縮]]により[[温度]]が上昇するため、温暖な高気圧となる。日本付近では、[[太平洋高気圧]](小笠原高気圧)がこれに当たる。
==== 移動性高気圧 ====
[[温帯低気圧]]の間を、低気圧とともに移動していく高気圧を'''[[移動性高気圧]]'''という。温暖高気圧に分類される。上空の偏西風波動に伴う下降気流によって生じるので[[断熱圧縮]]により温暖な高気圧となる。成因が温帯低気圧と対応するものであるため、'''[[温帯高気圧]]'''と呼ばれることもある。
日本でみられる移動性高気圧は、揚子江高気圧の一部が分離して移動しているものであるので、最初は寒冷であるが、移動中に上記の機構や温暖な海流によって暖められる。
==== ブロッキング高気圧 ====
{{Main|ブロッキング (気象)}}
[[偏西風]]の蛇行が激しくなると、蛇行が高緯度側へ張り出した部分(気圧の尾根)が切り離されて独立した渦となることがある。この部分は南からの暖気が入り込んでいる部分であるので温暖な高気圧となる。これが、'''ブロッキング高気圧'''、'''切離高気圧'''といった名で呼ばれる高気圧である。
ブロッキング高気圧の名は、この高気圧の存在によって温帯低気圧や移動性高気圧の通常の西から東への移動が滞るところから付けられた。ブロッキング高気圧は偏西風の流れから切り離されているため移動が遅く、特定の気圧配置を持続させる。そのため、[[渇水]]や大雨、異常高温・低温などの異常気象の原因となることがある。
=== 寒冷高気圧 ===
下層が冷えて、地表面付近に寒冷な[[空気]]がたまり、密度が大きくなった空気の重さで高気圧になったものを'''[[寒冷高気圧]]'''という。気圧が高いのは地上付近のみで、上空では高気圧にはならない(背の低い高気圧)。背の高さは2 [[キロメートル|km]]程度で、[[高層天気図]]においては、700 hPaでは不明瞭になり、500 hPaではほとんど見られなくなる。
大陸の[[放射冷却]]によって、冬のシベリア方面にできる[[シベリア高気圧]]が代表的なものである。
[[オホーツク海高気圧]]は小笠原気団や移動性高気圧がオホーツク海に差し掛かると寒冷な海水による冷却で気団変質が起き[[海霧]]を伴う寒冷高気圧となり滞留すると考られる。チベット高原で分流された偏西風により[[ブロッキング (気象)|ブロッキング現象]]が発生すると長期間居座り東日本を中心に冷夏をもたらす。
==== 極高気圧 ====
[[大気]]の大循環により、[[北極]]や[[南極]]付近にできる高気圧を'''[[極高気圧]]'''という。
[[極]]地方では、年間を通して他の緯度に比べて[[日射量]]が少なく、相対的に低温となるため、冷たい空気が下降して高気圧が形成される。高圧なのは大気下層だけで、上空2-3 km以上では低圧になる。この低圧の領域は[[極渦]]という。
==== 雷雨性高気圧 ====
大量の降雨がある雷雲の下に乾燥した空気があると、雨滴から蒸発が起こるために[[潜熱]]が吸収され気温が低下する。このように生じる一種の小規模な寒冷高気圧を'''[[雷雨性高気圧]]'''、または'''メソハイ'''と呼ぶ。
==記録==
<!--{{Location map~|World|label=|lat=|long=|position=right}}-->
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{{Location map~|World|label=アガタ気象観測所|lat=66.883333|long=93.4|position=right}}
|label=この節に登場する場所を記した地図。}}
{{Graph:Chart|width=1000|height=100|xAxisTitle=最高気圧|yAxisTitle=(hPa)|type=rect|x=標高750 m (2461 ft)以上,標高750 m(2461 ft)未満|y=1084.8,1083.3}}
[[ファイル:Taiga in Evenkiysky District.jpg|サムネイル|標高750 m未満の地点における観測史上最高の海面気圧を記録したロシアのタイミルスキー・アフトノムニ・オクルグ地区]]
{{see also|{{仮リンク|ヨーロッパにおける気圧の記録の一覧|en|List of atmospheric pressure records in Europe}}}}
観測史上最高気圧の記録は、標高750 m以上かどうかで分けて取られている。これは、標高の上昇による気圧の低下について、同一の減率を用いることに問題が発生するためである<ref name="ASU1"/><ref name="ASU2"/>。
* '''観測史上最高気圧[標高750 m(2,461 ft)以上]''': 1,084.8 hPa (32.03 inHg);[[モンゴル]]・[[フブスグル県]]{{仮リンク|トソントセンゲル (フブスグル県)|en|Tosontsengel, Khövsgöl|label=トソントセンゲル}}、[[2001年]][[12月19日]]<ref name="ASU1">{{cite web |url=http://wmo.asu.edu/highest-sea-lvl-air-pressure-above-700m |title=World: Highest Sea Level Air Pressure Above 750 meters |publisher=Arizona State University |accessdate=7 October 2012 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121013225735/http://wmo.asu.edu/highest-sea-lvl-air-pressure-above-700m |archivedate=13 October 2012 }}</ref>。トソントセンゲルは標高{{convert|1300|m|ft}}の地点にあり、この気圧は[[海面更正]]を施したものである。
* '''標高750 m未満の地点における観測史上最高の海面気圧''' :1,083.3 hPa(31.99 inHg) ;ロシア・[[クラスノヤルスク地方]]{{仮リンク|タイミルスキー・アフトノムニ・オクルグ地区|en|Evenkiysky District}}([[アガタ気象観測所]])({{coord|66|53|N|93|28|E}}、標高261 m (856.3 ft))、[[1968年]][[12月31日]]<ref name="ASU2">{{cite web |url=http://wmo.asu.edu/world-highest-sea-level-air-pressure-below-700m |title=World: Highest Sea Level Air Pressure Below 750 meters |publisher=Arizona State University |accessdate=7 October 2012 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121013225154/http://wmo.asu.edu/world-highest-sea-level-air-pressure-below-700m |archivedate=13 October 2012 }}</ref>。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[低気圧]]
* [[気団]]
* [[猛暑]]
* [[集中豪雨]]
* [[気圧]]
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18,608 |
ダンカン2世 (スコットランド王)
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ダンカン2世(Duncun II, 1060年? - 1094年11月12日)は、スコットランド王(在位:1094年5月 - 1094年11月)。マルカム3世とフィン・アルネッソンの娘でオークニー伯シーガードの長男の未亡人イーンガボーグの子。エドワード、エドマンド、エドガー、エゼルレッド(英語版)、アレグザンダー1世、イーディス(マティルダ)、メアリー(英語版)、デイヴィッド1世の異母兄。
1072年にイングランド王ウィリアム1世がスコットランドに侵攻し、父が敗れた時に人質としてロンドンに送られ、成人してもイングランドに留められた。
1093年、父と異母弟エドワードがイングランド侵攻で反撃に遭い戦死、叔父のドナルド3世が王位簒奪すると、翌1094年5月にウィリアム1世の息子ウィリアム2世の援助を受け、ドナルド3世より王位を奪還するための軍を起こした。ダンカンはドナルド3世の軍を破り、王位についた。
しかし、ダンカン2世のイングランド臣従の姿勢に重臣たちの反発は大きく、即位半年後の11月、ドナルド3世にメアンズ地方のモンダインズで暗殺され、遺体はダンファームリン・アビーに埋葬された。スコットランドは復位したドナルド3世とダンカン2世の異母弟エドマンドの共同統治になったが、1097年にダンカン2世の別の異母弟エドガーがイングランドの支援で挙兵、ドナルド3世とエドマンドを破り王位を奪った。
1090年、ノーサンブリア伯ゴスパトリックの娘エセルリーダと結婚した。
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ダンカン2世は、スコットランド王。マルカム3世とフィン・アルネッソンの娘でオークニー伯シーガードの長男の未亡人イーンガボーグの子。エドワード、エドマンド、エドガー、エゼルレッド、アレグザンダー1世、イーディス(マティルダ)、メアリー、デイヴィッド1世の異母兄。
|
{{基礎情報 君主
| 人名 = ダンカン2世
| 各国語表記 = Duncun II
| 君主号 = [[スコットランド君主一覧|スコットランド国王]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 画像 = Duncan II of Scotland (Holyrood).jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ダンカン2世(17世紀画、[[ホリールード宮殿]]蔵)
| 在位 = [[1094年]][[5月]] - 1094年11月
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1060年]]?
| 生地 =
| 死亡日 = [[1094年]][[11月12日]]
| 没地 = {{SCO843}}、モンダインズ
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{SCO843}}、ダンファームリン・アビー
| 配偶者1 = [[エセルリーダ・オブ・ノーサンブリア]]
| 子女 = ウィリアム
| 王家 = [[アサル朝|アサル家]]
| 王朝 = [[アサル朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]
| 母親 = イーンガボーグ
}}
[[File:Donnchad II.jpg|thumb|ダンカン2世]]
'''ダンカン2世'''('''Duncun II''', [[1060年]]? - [[1094年]][[11月12日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]](在位:1094年[[5月]] - 1094年11月)。[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]とフィン・アルネッソンの娘でオークニー伯シーガードの長男の未亡人イーンガボーグの子。エドワード、[[エドマンド・オブ・スコットランド|エドマンド]]、[[エドガー (スコットランド王)|エドガー]]、{{仮リンク|エゼルレッド・オブ・スコットランド|en|Ethelred of Scotland|label=エゼルレッド}}、[[アレグザンダー1世 (スコットランド王)|アレグザンダー1世]]、[[マティルダ・オブ・スコットランド|イーディス]](マティルダ)、{{仮リンク|メアリー (ブローニュ伯爵夫人)|en|Mary of Scotland, Countess of Boulogne|label=メアリー}}、[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]の異母兄。
== 生涯 ==
[[1072年]]に[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]がスコットランドに侵攻し、父が敗れた時に人質として[[ロンドン]]に送られ、成人してもイングランドに留められた<ref name="松村211">松村、P211。</ref><ref>森、P46、トランター、P56。</ref>。
[[1093年]]、父と異母弟エドワードがイングランド侵攻で反撃に遭い戦死、叔父の[[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]]が王位簒奪すると、翌1094年5月にウィリアム1世の息子[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]の援助を受け、ドナルド3世より王位を奪還するための軍を起こした。ダンカンはドナルド3世の軍を破り、王位についた<ref name="松村211"></ref><ref>森、P47 - P51、トランター、P56 - P59。</ref>。
しかし、ダンカン2世のイングランド臣従の姿勢に重臣たちの反発は大きく、即位半年後の11月、ドナルド3世にメアンズ地方のモンダインズで[[暗殺]]され、遺体はダンファームリン・アビーに埋葬された。スコットランドは復位したドナルド3世とダンカン2世の異母弟エドマンドの共同統治になったが、[[1097年]]にダンカン2世の別の異母弟エドガーがイングランドの支援で挙兵、ドナルド3世とエドマンドを破り王位を奪った<ref name="松村211"></ref><ref>森、P51 - P52、トランター、P59 - P60。</ref>。
== 子女 ==
1090年、ノーサンブリア伯ゴスパトリックの娘[[エセルリーダ・オブ・ノーサンブリア|エセルリーダ]]と結婚した。
* ウィリアム・フィッツダンカン(1090/4年 - 1147年) - マリ伯
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* [[森護]]『スコットランド王室史話』[[大修館書店]]、1988年。
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
{{スコットランド王|1094年}}
{{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}}
{{Normdaten}}
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[[Category:スコットランドの君主]]
[[Category:11世紀ヨーロッパの君主]]
[[Category:マルカム3世の子女]]
[[Category:アサル家]]
[[Category:暗殺された王族]]
[[Category:11世紀生]]
[[Category:1094年没]]
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18,611 |
155年
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{{year-definition|155}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[成務天皇]]25年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]815年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[後漢]] : [[永寿 (漢)|永寿]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[次大王]]10年
** [[新羅]] : [[阿達羅尼師今|阿達羅王]]2年
** [[百済]] : [[蓋婁王]]28年
** [[檀君紀元|檀紀]]2488年
* [[仏滅紀元]] : 698年
* [[ユダヤ暦]] : 3915年 - 3916年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=155|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:155年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[曹操]]、[[後漢]]末期の英雄、[[魏 (三国)|魏]]の建国者(+ [[220年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:155年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
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<!-- == 外部リンク == -->
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18,612 |
200年
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200年(200 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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200年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[仲哀天皇]]9年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]860年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[後漢]] : [[建安 (漢)|建安]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[山上王]]4年
** [[新羅]] : [[奈解尼師今|奈解王]]5年
** [[百済]] : [[肖古王]]35年
** [[檀君紀元|檀紀]]2533年
* [[仏滅紀元]] : 743年
* [[ユダヤ暦]] : 3960年 - 3961年
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== カレンダー ==
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== 出来事 ==
* [[曹操]]・[[袁紹]]の争い。序戦は[[白馬の戦い]]、決戦が[[官渡の戦い]]、終局が[[倉亭の戦い]](袁紹軍壊滅)
* [[孫策]]が死去し、弟の[[孫権]]が[[呉 (三国)|呉]]の君主となる。
* 1月9日- [[曹操]]打倒の[[クーデター|クーデター計画]]が発覚して捕らえられた、[[董承]]ら一派とその[[族誅#三族|三族]]が処刑。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[マルクス・クラウディウス・タキトゥス|タキトゥス]]、[[ローマ皇帝]](+ [[276年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:200年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月8日]](仲哀天皇9年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[仲哀天皇]]、第14代[[天皇]]
* [[建安 (漢)|建安]]5年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]](200年[[5月5日]]) - [[孫策]]、[[後漢]]末の[[武将]]、[[孫堅]]の長子、[[呉 (三国)|呉]]の初代皇帝[[孫権]]の兄(* [[175年]])
* [[鄭玄]]、後漢末期の[[訓詁学]]者(* [[127年]])
* [[文醜]]、後漢末期の武将、[[袁紹]]の配下
*[[于吉]]、後漢末期の道士
*[[顔良]]、後漢末期の武将、[[袁紹]]の配下
*[[許貢]]、後漢末期の官僚
*[[田豊]]、後漢末期の武将、[[袁紹]]の配下
*[[王子服]]、後漢末期の人物
*[[沮授]]、後漢末期の武将、[[袁紹]]の配下
*[[呂威璜]]、後漢末期の武将、[[袁紹]]の配下
*[[淳于瓊]]、後漢末期の武将
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,613 |
電源回路
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電源回路(でんげんかいろ、英語:power supply)とは、入力電力から必要とされる出力電力を生成する電力回路である。電力変換回路とも呼ばれる。入力から出力の間に変換されるものには、電圧・周波数・力率・波形・直流-単相交流-三相交流などがあり、また入出力の絶縁のために用いられることもある。広義では電池も含めることがある。
スイッチング制御電源においては一般的にパルス変調が用いられる。
DC-DCコンバータ(直流・直流変換器)とも呼ばれる。
整流器・AC-DCコンバータ・AC-DC変換器、直流安定化電源などと呼ばれる。ACアダプタもこれに含まれる。
インバータ(逆変換器)と呼ばれる。
AC-AC電圧コンバータ(交流変圧器・交流電圧変換器)、変成器(へんせいき)、トランスとも呼ぶ。
変圧器のタップ切換えや、サイリスタブリッジの位相制御が用いられる。
三相交流電力を別の周波数・電圧の交流電力に直接変換する。サイリスタなどを用いたブリッジ整流回路の位相制御角を調節して、任意の交流出力を実現している。自己消弧できないサイリスタサイクロコンバータでは、出力周波数の最大値は入力周波数の1/3 - 1/2程度であるが、入力リアクトル追加と同期電動機を負荷とすることで消弧を可能にし、それ以上の出力周波数を可能にしたものもある。また力率が悪い、電圧波形が乱れるなどの問題がある。
自己消弧能力を持つ高速半導体デバイスを使用し、電源電圧を直接PWM制御して、任意の電圧・周波数を出力する直接変換型電力変換装置である。入力三相電源と出力三相を、直接9個の高速スイッチングが可能な半導体素子を用いた双方向スイッチにより接続し、出力側の電圧制御と同時に電源側の入力電流制御を可能としている。双方向スイッチの構成としてはIGBT・ダイオードを逆並列に接続したものが一般的であるが、その他の構成も報告されている。入力側にはPWMスイッチングのリップル成分除去のため、小型のLCフィルタを用いる構成が一般的である。通常のPWMインバータとは大きく異なる回路構成と独自の制御方法により、主に以下の特徴を有する:
PWMの変調方法には、以下のものがある:
交流電源系統の電圧安定化や力率改善のための回路であり、
のために使用される。
複数の増幅素子を有する増幅回路では、終段増幅素子の消費電流(出力)の変化により電源ラインに電圧降下が発生し、それが前段増幅素子に伝わって発振を引き起こすことがある。その防止のため、電源ラインに抵抗器またはインダクタを挿入し、各増幅段の電源と並列に最短距離でコンデンサを接続する。これをデカップリング回路と呼ぶ。デジタル回路では、各集積回路の電源端子(ピン)と並列に積層セラミックコンデンサなど周波数特性の良いコンデンサを接続して用いることが原則である。
デジタル回路はリセットの瞬間、全てのゲートが同時に状態遷移し、大電流が流れる。デカップリング回路がないか十分ではない場合、このとき電圧降下が発生する。バイポーラ素子を使った回路において、入力信号が電源電圧を上回るとラッチアップと呼ばれる短絡が発生し、素子を破壊するおそれがある。絶縁層を持つCMOS回路においては寄生トランジスタがないのでラッチアップは起きないが、入力段を保護しているダイオードが降伏してしまい短絡することがある。
近年の高性能CPUは電源要求が厳しく、リセットの瞬間に100Aを超える大電流が流れる製品も少なくない。基板には大量のデカップリング用コンデンサを配し、CPUパッケージ上にも数十個の積層セラミックコンデンサを取り付けている。CPUは大量の熱を発するが、この熱がこもりデカップリング用コンデンサーを加熱して寿命を縮め、ひいては容量抜けによって設計外の場所に大電流が流れて装置を破壊してしまうことがある。対策としては、マザーボード上のコンデンサがエアフロー上適切な位置に配置されている製品を選ぶ、装置内部に熱がこもらないように設計された筐体を選ぶことである。
|
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"text": "自己消弧能力を持つ高速半導体デバイスを使用し、電源電圧を直接PWM制御して、任意の電圧・周波数を出力する直接変換型電力変換装置である。入力三相電源と出力三相を、直接9個の高速スイッチングが可能な半導体素子を用いた双方向スイッチにより接続し、出力側の電圧制御と同時に電源側の入力電流制御を可能としている。双方向スイッチの構成としてはIGBT・ダイオードを逆並列に接続したものが一般的であるが、その他の構成も報告されている。入力側にはPWMスイッチングのリップル成分除去のため、小型のLCフィルタを用いる構成が一般的である。通常のPWMインバータとは大きく異なる回路構成と独自の制御方法により、主に以下の特徴を有する:",
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"text": "近年の高性能CPUは電源要求が厳しく、リセットの瞬間に100Aを超える大電流が流れる製品も少なくない。基板には大量のデカップリング用コンデンサを配し、CPUパッケージ上にも数十個の積層セラミックコンデンサを取り付けている。CPUは大量の熱を発するが、この熱がこもりデカップリング用コンデンサーを加熱して寿命を縮め、ひいては容量抜けによって設計外の場所に大電流が流れて装置を破壊してしまうことがある。対策としては、マザーボード上のコンデンサがエアフロー上適切な位置に配置されている製品を選ぶ、装置内部に熱がこもらないように設計された筐体を選ぶことである。",
"title": "付加回路の例"
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電源回路とは、入力電力から必要とされる出力電力を生成する電力回路である。電力変換回路とも呼ばれる。入力から出力の間に変換されるものには、電圧・周波数・力率・波形・直流-単相交流-三相交流などがあり、また入出力の絶縁のために用いられることもある。広義では電池も含めることがある。
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{{出典の明記|date=2014年1月}}
'''電源回路'''(でんげんかいろ、[[英語]]:power supply)とは、入力[[電力]]から必要とされる出力電力を生成する[[電力回路]]である。[[電力変換回路]]とも呼ばれる。入力から出力の間に変換されるものには、[[電圧]]・[[周波数]]・[[力率]]・[[波形]]・[[直流]]-[[単相交流]]-[[三相交流]]などがあり、また入出力の[[絶縁 (電気)|絶縁]]のために用いられることもある。広義では[[電池]]も含めることがある。
== 分類 ==
=== 出力方式 ===
* [[電圧源]](定電圧電源)
* [[電流源]](定電流電源)
=== 変調方式 ===
スイッチング制御電源においては一般的に[[パルス変調]]が用いられる。
=== 駆動回路方式 ===
* 電圧形 - 電圧制御型[[半導体素子]]([[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ]] (IGBT)・[[ゲートターンオフサイリスタ]] (GTO))などの駆動回路。駆動電力が小さくて済む。
* 電流形 - 電流制御型半導体素子([[トランジスタ|パワートランジスタ]]など)の駆動回路。駆動電力が大きくなる。
=== 制御回路(レギュレータ) ===
* [[デジタル]]方式 - [[マイクロプロセッサ]]・[[デジタル信号処理プロセッサ]]などを使用する。制御特性の調整が容易である。
* [[アナログ]]方式 - [[アナログ回路]]のみを用いる。制御特性の調整が煩雑である。
== 電力変換回路 ==
{{See also|en:Electric power conversion}}
=== 直流入力直流出力電源(DC to DC) ===
DC-DCコンバータ([[直流]]・直流変換器)とも呼ばれる。
* [[スイッチング制御]]電源
** 絶縁型
** 非絶縁型([[チョッパ制御]]電源)
* リニアレギュレータ電源
** 直列形定電圧電源([[シリーズレギュレータ]])
** 並列形定電圧電源([[シャントレギュレータ]])
=== 交流入力直流出力電源(AC to DC) ===
[[整流器]]・AC-DCコンバータ・AC-DC変換器、直流[[安定化電源]]などと呼ばれる。[[ACアダプタ]]もこれに含まれる。
=== 直流入力交流出力電源(DC to AC) ===
[[インバータ]](逆変換器)と呼ばれる。
=== 交流入力交流出力電源(AC to AC) ===
AC-AC電圧コンバータ([[交流]][[変圧器]]・交流電圧変換器)、'''変成器'''(へんせいき)、'''トランス'''とも呼ぶ。
==== 交流電圧制御 ====
[[変圧器]]のタップ切換えや、[[サイリスタ]]ブリッジの位相制御が用いられる。
==== サイクロコンバータ ====
[[三相交流]]電力を別の周波数・電圧の[[交流]]電力に直接変換する。サイリスタなどを用いたブリッジ整流回路の位相制御角を調節して、任意の交流出力を実現している。自己消弧できないサイリスタサイクロコンバータでは、出力周波数の最大値は入力周波数の1/3 - 1/2程度であるが、入力リアクトル追加と同期電動機を負荷とすることで消弧を可能にし、それ以上の出力周波数を可能にしたものもある。また力率が悪い、電圧波形が乱れるなどの問題がある。
==== マトリックスコンバータ ====
[[自己消弧素子|自己消弧]]能力を持つ高速半導体デバイスを使用し、電源電圧を直接PWM制御して、任意の電圧・周波数を出力する直接変換型電力変換装置である。入力三相電源と出力三相を、直接9個の高速スイッチングが可能な半導体素子を用いた双方向スイッチにより接続し、出力側の電圧制御と同時に電源側の入力電流制御を可能としている。双方向スイッチの構成としてはIGBT・[[ダイオード]]を逆並列に接続したものが一般的であるが、その他の構成も報告されている。入力側にはPWMスイッチングのリップル成分除去のため、小型の[[フィルタ回路|LCフィルタ]]を用いる構成が一般的である。通常のPWMインバータとは大きく異なる回路構成と独自の制御方法により、主に以下の特徴を有する:
*'''電源回生が可能''' - 省エネ・高効率
*'''電源高調波が少ない''' - 入力電流を正弦波状に制御可能
*'''ゼロ速制御に強い''' - 入力が交流であり、直流出力時でもパワー素子に電流集中がない
*'''平滑コンデンサが不要''' - [[電解コンデンサ]]を用いないため、小型化・長寿命化が可能
PWMの変調方法には、以下のものがある:
;直接法-三角波キャリア比較方式
:演算により入力電流分配率および入力電圧の最低電圧・最高電圧の差と中間電圧の差を求め,これらの結果に基づき三角波キャリアの振幅を変調する。そしてこの三角波と入力電流分配率を考慮した線間電圧指令値とを比較して、スイッチングパターンを生成する。
:比較的低いキャリア周波数でも入出力制御が可能となる.
;直接法-空間ベクトル変調法
:マトリックスコンバータの出力電圧に空間ベクトルを定義した場合(入力が直流電圧源であるインバータとは異なり)出力電圧ベクトルは時間とともに変化する。出力電圧の空間ベクトルは27種類あり、次の3種類に分類できる:
:*ゼロベクトル(3種類)- 出力のすべての相が入力と同じ相に接続
:*方向が固定で長さが[[単振動]]するもの(18種類)- 出力の2相が入力の同じ相に接続
:*長さが一定で回転するもの(6種類)- 出力の3相がすべて異なる入力相に接続
:これらの空間ベクトルを組み合わせ、出力ひずみの小さなマトリックスコンバータのスイッチングパターンを求めることが可能となる。
;間接変調法-仮想DCリンク方式
:マトリックスコンバータは、実際には電圧形インバータのような直流電圧源は存在しない。しかしDCリンクで接続された電流形PWM整流器と電圧形PWMインバータに仮想的に分離すれば、各々の変換器のゲート信号を論理合成してマトリックスコンバータのゲート信号を生成できる。この方法では、通常のPWM整流器・PWMインバータの制御法で用いられている三角波比較方式やベクトル変調方式を、マトリックスコンバータのゲート信号の作成に使用できる。間接変調法は、直接変調法と結果的に同様なスイッチングパターンを生成できる。
== 付加回路の例 ==
=== 保安装置 ===
* [[短絡]]
* [[地絡]]
* [[過負荷]]
** [[過電圧]]
** [[過電流]]
* [[不足電圧]]
* 装置[[過熱]]
* [[ストール防止]]
=== 交流電圧安定化(力率改善)回路 ===
交流電源系統の電圧安定化や力率改善のための回路であり、
*[[電線路]]の効率的運用
*変圧器の容量の有効活用
*電圧の変動による障害(フリッカ障害)の防止
*高調波障害の防止
のために使用される。
*自励式無効電力補償装置(STATCOM)
*サイリスタ位相制御コンデンサ(TSC)
*サイリスタ位相制御リアクトル(TCR)
*同期調相機 - 機械的に無負荷の[[電磁石同期電動機]]を系統に接続し、[[界磁]]電流により無効電力の大・小や遅れ・進みを制御する。
=== デカップリング回路 ===
複数の増幅素子を有する[[増幅回路]]では、終段増幅素子の消費電流(出力)の変化により電源ラインに電圧降下が発生し、それが前段増幅素子に伝わって[[発振回路|発振]]を引き起こすことがある。その防止のため、電源ラインに[[抵抗器]]または[[インダクタ]]を挿入し、各増幅段の電源と並列に最短距離で[[コンデンサ]]を接続する。これを'''デカップリング回路'''と呼ぶ。[[デジタル回路]]では、各[[集積回路]]の電源端子(ピン)と並列に[[セラミックコンデンサ|積層セラミックコンデンサ]]など周波数特性の良いコンデンサを接続して用いることが原則である。
デジタル回路はリセットの瞬間、全てのゲートが同時に状態遷移し、大電流が流れる。デカップリング回路がないか十分ではない場合、このとき電圧降下が発生する。[[バイポーラトランジスタ|バイポーラ]]素子を使った回路において、入力信号が電源電圧を上回るとラッチアップと呼ばれる短絡が発生し、素子を破壊するおそれがある。絶縁層を持つ[[CMOS]]回路においては寄生トランジスタがないのでラッチアップは起きないが、入力段を保護しているダイオードが降伏してしまい短絡することがある。
近年の高性能[[CPU]]は電源要求が厳しく、リセットの瞬間に100Aを超える大電流が流れる製品も少なくない。基板には大量のデカップリング用コンデンサを配し、CPUパッケージ上にも数十個の積層セラミックコンデンサを取り付けている。CPUは大量の熱を発するが、この熱がこもりデカップリング用コンデンサーを加熱して寿命を縮め、ひいては容量抜けによって設計外の場所に大電流が流れて装置を破壊してしまうことがある。対策としては、[[マザーボード]]上のコンデンサがエアフロー上適切な位置に配置されている製品を選ぶ、装置内部に熱がこもらないように設計された[[筐体]]を選ぶことである。
== 関連項目 ==
{{Commons category|Power supplies}}
* [[ACアダプタ]]
* [[商用電源]]
* [[ATX電源]]
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18,614 |
国立公園
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国立公園(こくりつこうえん、英: National park)とは、自然保護の目的で国が指定している公園である。
国際自然保護連合(IUCN)は、管理の介在の度合いによって保護地域を6つに区分し、そのうちのカテゴリーIIを国立公園としている。それによると、国立公園は「生態系の保護とレクリエーションを主目的として管理される地域」とされる。
一方で多くの国ではIUCNの定義とは独立に国立公園を規定している。IUCNの定義ではカテゴリII以外に該当する保護地域が、国立公園と呼ばれていることも多い。
国立公園制度に関しては、日本のように土地の所有が誰かに関わりなく地域を指定して行為規制を行う地域指定制と、アメリカ合衆国のように原則として土地を所有して公園を指定する営造物制がある。また、国立公園は、一般的には国家により管理されているものと理解されるが、オーストラリアやオランダのように州政府により管理されている場合もある。世界には、運営が民営化され、事業として成り立っているケースもある。アメリカの経済学者であるミルトン・フリードマンは、国立公園を政府が運営しなくてはならない理由はないとしているが、国立公園は国が管理することが国際的に見ても標準となっている。
IUCNの定義に適合する国立公園は、世界に約7,000存在し、その中で世界最大のものは1974年に設立された北東グリーンランド国立公園である。
世界最初の国立公園は、1872年に第18代アメリカ合衆国大統領・ユリシーズ・S・グラントによって指定されたイエローストーン国立公園である。この当時、イエローストーン国立公園のある現在のアイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州はまだ州ではなく、準州であったため、連邦政府が管理することになったものである。
イエローストーン国立公園に続いて、オーストラリアでは1879年にロイヤル国立公園(Royal National Park)が、カナダでは1885年にロッキー山脈公園(現在のバンフ国立公園。なお、ロッキー山脈公園法の制定は1887年)が、ニュージーランドでは1887年にトンガリロ国立公園(なお、トンガリロ国立公園法の制定は1894年)が設立された。
ヨーロッパで最初の国立公園は1909年にスウェーデンで設立された9つの公園で、2010年現在ではヨーロッパには359の国立公園がある。アフリカで最初の国立公園は、1925年設立のアルバート国立公園(現在コンゴ民主共和国のヴィルンガ国立公園)である。
アジアでは、1934年に日本で瀬戸内海国立公園、雲仙国立公園、霧島国立公園の3か所が最初の指定を受けて、1936年にインドでヘイリー国立公園(現在のジム・コーベット国立公園が設定された。
以下、日本語になった各国の国立公園記事を中心に、五大洲(あいうえお順)別に、各洲内でも国名はあいうえお順に列挙する。
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"text": "イエローストーン国立公園に続いて、オーストラリアでは1879年にロイヤル国立公園(Royal National Park)が、カナダでは1885年にロッキー山脈公園(現在のバンフ国立公園。なお、ロッキー山脈公園法の制定は1887年)が、ニュージーランドでは1887年にトンガリロ国立公園(なお、トンガリロ国立公園法の制定は1894年)が設立された。",
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国立公園とは、自然保護の目的で国が指定している公園である。
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{{混同|国定公園|国営公園|国民公園}}{{Vertical_images_list
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| 2=イエローストーン国立公園<br />(世界最初の国立公園)
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| 4=アルゼンチンの国立公園
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'''国立公園'''(こくりつこうえん、{{Lang-en-short|National park}})とは、[[自然保護]]の目的で[[国]]が指定している[[公園]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92-64354 国立公園(読み)こくりつこうえん(コトバンク)]</ref>。
== 概説 ==
[[国際自然保護連合]](IUCN)は、管理の介在の度合いによって[[保護地域]]を6つに区分し、そのうちのカテゴリーIIを国立公園としている。それによると、国立公園は「生態系の保護とレクリエーションを主目的として管理される地域」<ref>[http://www.iucn.jp/protection/reserve/reserve.html 保護地域 IUCN日本委員会]</ref>とされる。
一方で多くの国ではIUCNの定義とは独立に国立公園を規定している。IUCNの定義ではカテゴリII以外に該当する保護地域が、国立公園と呼ばれていることも多い。
国立公園制度に関しては、[[日本]]のように土地の所有が誰かに関わりなく地域を指定して行為規制を行う地域指定制と、[[アメリカ合衆国]]のように原則として土地を所有して公園を指定する営造物制がある<ref>{{Cite journal |和書|author= 番匠克二|authorlink= |title=日光国立公園戦場ヶ原湿原における保全意識と保全対策の変遷 |journal=東京大学農学部演習林報告 |volume=128 |issue= |publisher=東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 |date=2013-02 |pages= 21-85|url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010851131.pdf }}</ref>。また、国立公園は、一般的には国家により管理されているものと理解されるが、[[オーストラリア]]や[[オランダ]]のように州政府により管理されている場合もある<ref name="Gissibl, B. 2012">Gissibl, B., S. Höhler and P. Kupper, 2012, ''Civilizing Nature, National Parks in Global Historical Perspective'', Berghahn, Oxford</ref>。世界には、運営が民営化され、事業として成り立っているケースもある。アメリカの経済学者である[[ミルトン・フリードマン]]は、国立公園を政府が運営しなくてはならない理由はないとしているが、国立公園は国が管理することが国際的に見ても標準となっている。
IUCNの定義に適合する国立公園は、世界に約7,000存在し、その中で世界最大のものは[[1974年]]に設立された[[北東グリーンランド国立公園]]である。
== 歴史 ==
世界最初の国立公園は、[[1872年]]に第18代[[アメリカ合衆国大統領]]・[[ユリシーズ・S・グラント]]によって指定された[[イエローストーン国立公園]]である。この当時、イエローストーン国立公園のある現在の[[アイダホ州]]、[[モンタナ州]]、[[ワイオミング州]]はまだ[[州]]ではなく、[[準州#過去|準州]]であったため、連邦政府が管理することになったものである。<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsk/53/0/53_KJ00004962083/_pdf/-char/ja 世界の国立公園の成立経緯について 親泊素子(おやどまりもとこ、江戸川大学)]</ref>
イエローストーン国立公園に続いて、[[オーストラリア]]では1879年に[[ロイヤル国立公園]]([[:en:Royal National Park|Royal National Park]])が、[[カナダ]]では[[1885年]]にロッキー山脈公園(現在の[[バンフ国立公園]]・なお、ロッキー山脈公園法の制定は[[1887年]])が、[[ニュージーランド]]では1887年に[[トンガリロ国立公園]](なお、トンガリロ国立公園法の制定は[[1894年]])がそれぞれ指定された。
[[ヨーロッパ]]で最初の国立公園は[[1909年]]に[[スウェーデン]]で指定された9つの公園であり、[[アフリカ]]では[[1925年]]にアルバート国立公園(現在の[[コンゴ民主共和国]]・[[ヴィルンガ国立公園]])が最初に指定された。
[[アジア]]では、1934年に日本で[[瀬戸内海国立公園]]、雲仙国立公園(現在の[[雲仙天草国立公園]])、霧島国立公園(現在の[[霧島錦江湾国立公園]])の3か所が最初の指定を受けたほか、1936年には[[インド]]でヘイリー国立公園(現在の[[ジム・コーベット国立公園]])が指定された。
== 世界各国の国立公園 ==
{{See|en:List of national parks}}
以下、[[日本語]]になった各国の国立公園記事を中心に、[[五大州|五大洲]]([[あいうえお順]])別に、各洲内でも国名はあいうえお順に列挙する。
===[[アジア]]===
{{See|Category:アジアの国立公園}}
*[[インドの国立公園]]
*[[インドネシアの国立公園]]
*[[タイの国立公園]]
*[[台湾の国立公園]]
*[[朝鮮半島の国立公園]]
**[[韓国の国立公園]]
**[[朝鮮半島の国立公園#朝鮮民主主義人民共和国|朝鮮民主主義人民共和国の国立公園]]
*[[中国の国立公園|中華人民共和国の国立公園]]
*[[日本の国立公園]]
:[[日本]]では[[自然公園法]]に基づき、日本を代表する[[自然]]の風景地を保護し利用の促進を図る目的で、[[環境大臣]]が指定する自然公園のひとつである。[[国定公園]]が都道府県に管理を委託されるのに対し、国立公園は国([[環境省]])自らが管理する。日本の国立公園の面積の約60%が国有地である<ref>『[https://web.archive.org/web/20151126225944/http://www.env.go.jp/park/welcome/index.html ようこそ国立公園へ(2015年11月26日閲覧)]』(環境省)</ref>。
*[[フィリピンの国立公園]]
*[[ベトナムの国立公園]]
*[[モンゴル国の国立公園]]
*[[ロシアの国立公園]]
===[[アフリカ]]===
{{See|Category:アフリカの国立公園}}
*[[エジプトの国立公園]]
*[[南アフリカ共和国の国立公園]]
===[[アメリカ州|アメリカ]]===
====[[北アメリカ]]====
{{See|Category:北アメリカの国立公園}}
*[[アメリカの国立公園制度|アメリカ合衆国の国立公園]]
*[[カナダの国立公園]]
====[[中央アメリカ]]====
{{See|Category:中央アメリカの国立公園}}
*[[メキシコの国立公園]] ([[:en:List of national parks of Mexico|List of national parks of Mexico]])
====[[カリブ海地域]]====
{{See|Category:カリブ海地域の国立公園}}
*[[キューバの国立公園]]
====[[南アメリカ]]====
{{See|Category:南アメリカの国立公園}}
*[[アルゼンチンの国立公園]]
*[[ブラジルの国立公園]]
===[[オセアニア]]===
{{See|Category:オセアニアの国立公園}}
*[[オーストラリアの国立公園]]
*[[ニュージーランドの国立公園]]
===ヨーロッパ===
{{See|Category:ヨーロッパの国立公園}}
[[File:Kansallismaisema Koli.JPG|thumb|[[フィンランド]]、[[北カルヤラ県|北カレリア]]の{{ill|コリ国立公園|en|Koli National Park}}。]]
*[[アイルランドの国立公園一覧]]
*[[イギリスの国立公園]]
*[[クロアチアの国立公園]]
*[[スイス国立公園]]
*[[ドイツの国立公園]]
*[[フランスの国立公園]]
*[[ロシアの国立公園]]
:2015年現在、[[ロシア連邦]]には49か所の国立公園がある<ref>[[:Category:ロシアの国立公園|ロシア連邦の国立公園でウィキペディア日本語版にあるもの]]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[公園]]
* [[世界遺産]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:National parks}}
* [https://www.worldatlas.com/articles/best-national-parks-in-the-world.html Best National Parks In The World(WorldAtlas)]
* [https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/sp/greatparks/ 美しい世界の国立公園(ナショナル ジオグラフィック)]
* [https://web.archive.org/web/20070920173349/http://americaclub.jp/travel/guide/national_park1_1.html アメリカ国立公園(AmericaClub)](インターネットアーカイブ)
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:こくりつこうえん}}
[[Category:国立公園|*こくりつこうえん]]
[[Category:保護区]]
[[Category:IUCNカテゴリーII]]
|
2003-09-28T12:50:06Z
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2023-11-19T03:07:32Z
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"Template:混同"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92
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18,615 |
パルス変調
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パルス変調(パルスへんちょう)は、パルス、すなわち矩形波に関する変調方式である。
パルス幅変調 ( PWM、英語: pulse-width modulation ) は、可変のパルスの幅と間隔および正負により、波形を表し・生成するものである。通常、パルスの高さ(=電圧)は一定であるが、マルチレベルインバータなどで高さの異なるパルスを利用することもある。
パルスの正負反転周期によって擬似正弦波の周期が、パルスの幅・間隔(= デューティ比)によって擬似正弦波の振幅(電圧)が決まり、パルス電流の向きを正方向に固定するとチョッパ制御となり、DC-DCコンバータとしても使用される。パルスはデジタル制御回路により柔軟に生成できるため、振幅および周期を様々な値にすることができる
インバータによる電動機の速度制御方式として用いられる。
パルス振幅変調 ( PAM、英語: pulse-amplitude modulation ) は、一定間隔のパルスの電圧の振幅および正負により、波形を表し・生成するものである。
アナログ時分割多重伝送に用いられる。
また、パルス振幅変調インバータは、整流部の出力電圧を可変とすることでパルス電圧の振幅を変化させる。パルス幅変調を併用することで、擬似的な正弦波とする。
デジタルデータをベースバンド伝送する際、2値より多い振幅(電圧レベル)を扱うことによって一回のパルスで2bit以上のデータを伝送できるため、高速なイーサネット規格の1000BASE-Tや1000BASE-TXで使用されている。 エイム電子テクニカルサポート
振幅変化の併用により、電圧の可変幅が大きくできる。
パルス周波数変調 ( PFM、英語:pulse frequency modulation ) は、一定時間間隔のオン時間と可変時間間隔のオフ時間よりなるパルス(または一定時間間隔のオフ時間と可変時間間隔のオン時間よりなるパルス)でアナログ信号を変調する。 PWMは周期(周波数)が一定であるが、PFMは周波数が変化する。 PWMと共に、スイッチングレギュレータの制御信号として用いられる 他、FM復調の一種であるパルスカウント方式において、FM信号を復調する中途段階で生成される信号がこのPFMになる。すなわち、FM信号の立ち上がりまたは立ち下がりで単安定マルチバイブレータをトリガすると、PFM信号になる 。
パルス密度変調 ( PDM、英語:pulse-density modulation ) は、一定幅のパルスの密度および正負により、波形を表し・生成するものである。
デジタル-アナログ変換回路に用いられる。Super Audio CDに用いられるDirect Stream DigitalのΔΣ変調で使われている。
パルス位置変調 ( PPM、英語: pulse-position modulation ) ・パルス位相変調は、一定幅のパルスの位置により、波形振幅を表し・生成するものである。
サイリスタ位相制御の制御用パルスとして利用される。
パルス符号変調 (PCM) は、一定の周期で標本化された信号を量子化し、二進符号化するものである。
デジタル伝送に用いられる。
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パルス変調(パルスへんちょう)は、パルス、すなわち矩形波に関する変調方式である。
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'''パルス変調'''(パルスへんちょう)は、[[パルス]]、すなわち[[矩形波]]に関する[[変調方式]]である。
== パルス幅変調 ==
{{Main|パルス幅変調}}
[[パルス幅変調]] ( PWM、英語: pulse-width modulation ) は、可変のパルスの幅と間隔および正負により、波形を表し・生成するものである。通常、パルスの高さ(=電圧)は一定であるが、マルチレベルインバータなどで高さの異なるパルスを利用することもある。
パルスの正負反転周期によって擬似正弦波の周期が、パルスの幅・間隔(= [[デューティ比]])によって擬似正弦波の[[振幅]](電圧)が決まり、パルス電流の向きを正方向に固定すると[[チョッパ制御]]となり、DC-DC[[電源回路|コンバータ]]としても使用される。パルスはデジタル制御回路により柔軟に生成できるため、振幅および[[周期]]を様々な値にすることができる
[[インバータ]]による[[電動機]]の速度制御方式として用いられる。
== パルス振幅変調 ==
{{main|パルス振幅変調}}
[[パルス振幅変調]] ( PAM、英語: pulse-amplitude modulation ) は、一定間隔のパルスの電圧の[[振幅]]および正負により、波形を表し・生成するものである。
[[アナログ]]時分割多重伝送に用いられる。
また、パルス振幅変調インバータは、整流部の出力電圧を可変とすることでパルス電圧の[[振幅]]を変化させる。パルス幅変調を併用することで、擬似的な正弦波とする。
デジタルデータを[[ベースバンド伝送]]する際、2値より多い振幅(電圧レベル)を扱うことによって一回のパルスで2bit以上のデータを伝送できるため、高速な[[イーサネット]]規格の[[イーサネット#1000BASE-T|1000BASE-T]]や[[イーサネット#1000BASE-TX|1000BASE-TX]]で使用されている。 [http://www.aim-ele.co.jp/tech/network/1000base/1000base-tx2.html エイム電子テクニカルサポート]
振幅変化の併用により、電圧の可変幅が大きくできる。
== パルス周波数変調 ==
パルス周波数変調 ( PFM、英語:pulse frequency modulation ) は、一定時間間隔のオン時間と可変時間間隔のオフ時間よりなるパルス(または一定時間間隔のオフ時間と可変時間間隔のオン時間よりなるパルス)でアナログ信号を変調する。<br />
PWMは周期(周波数)が一定であるが、PFMは周波数が変化する。<br />
PWMと共に、[[スイッチング電源|スイッチングレギュレータ]]の制御信号として用いられる
<ref>{{Cite web|和書|url=https://techweb.rohm.co.jp/knowledge/dcdc/dcdc_sr/dcdc_sr01/897 |title=PWM(パルス幅変調)・PFM(パルス周波数変調)制御とは |accessdate=2021-06-07 }}</ref>
<ref>{{Cite web|和書|url=https://ednjapan.com/edn/articles/1003/03/news109.html |title=PWMとPFM |accessdate=2021-06-07 }}</ref>
他、[[周波数変調|FM]]復調の一種であるパルスカウント方式において、FM信号を復調する中途段階で生成される信号がこのPFMになる。すなわち、FM信号の立ち上がりまたは立ち下がりで[[マルチバイブレータ#単安定マルチバイブレータ回路|単安定マルチバイブレータ]]をトリガすると、PFM信号になる
<ref>{{Cite web |url=https://wiki.analog.com/university/courses/electronics/electronics_lab_fm_detectors |title=FM Detectors |accessdate=2021-06-07 }}</ref>
。
== パルス密度変調 ==
[[パルス密度変調]] ( PDM、英語:pulse-density modulation ) は、一定幅のパルスの[[密度]]および正負により、波形を表し・生成するものである。
[[デジタル-アナログ変換回路]]に用いられる。[[Super Audio CD]]に用いられる[[Direct Stream Digital]]の[[ΔΣ変調]]で使われている。
== パルス位置変調 ==
[[パルス位置変調]] ( PPM、英語: pulse-position modulation ) ・[[パルス位相変調]]は、一定幅のパルスの位置により、波形振幅を表し・生成するものである。
[[サイリスタ]]位相制御の制御用パルスとして利用される。
== パルス符号変調 ==
{{main|パルス符号変調}}
パルス符号変調 (PCM) は、一定の[[周期]]で[[標本化]]された[[信号 (電気工学)|信号]]を[[量子化]]し、[[2進数|二進]][[符号化方式|符号化]]するものである。
デジタル伝送に用いられる。
==出典==
<references />
== 関連項目 ==
* [[変調方式]]
* [[デジタル変調]]
* [[パルス]] - [[パルス波]]
{{DEFAULTSORT:はるすへんちよう}}
[[Category:変調方式]]
[[Category:通信工学]]
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2003-09-28T12:58:32Z
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18,617 |
関西空港線
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関西空港線(かんさいくうこうせん)は、大阪府泉佐野市の日根野駅から同府泉南郡田尻町の関西空港駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
大阪湾の泉州沖に浮かぶ関西国際空港への空港連絡鉄道である。日根野駅で阪和線から分岐し、大阪方面から同線を経由して空港アクセス列車が乗り入れている。全長3,750 mの関西国際空港連絡橋を渡るりんくうタウン駅 - 関西空港駅間は、ホーム部など両駅構内の一部を除き南海電気鉄道(南海)空港線と線路を共用している。JR西日本のアーバンネットワークの路線に含まれており、ラインカラーは同社のコーポレートカラーである青(■)が設定されている。路線記号はS。
全線の約33.7 %が海の上を通っており、日本国内では瀬戸大橋を渡る本四備讃線、当線と線路を共用する南海空港線、関西国際空港と同じく海上に建設された中部国際空港の空港連絡鉄道である名鉄空港線と共に、海の上を通る区間が全線の4分の1 (25 %) 以上ある数少ない鉄道路線である。
阪和線の本線(天王寺駅 - 和歌山駅間)から分岐している鳳駅 - 東羽衣駅間の支線は阪和線の一部であるが、本路線は独立した路線である。
南海が管轄しているりんくうタウン駅をのぞき、全区間をJR西日本の近畿統括本部が管轄している。また、全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」およびIC乗車カード「ICOCA」エリアに含まれている。
起点の日根野駅を出て線内唯一の踏切である日根野南一踏切を過ぎると、左側に吹田総合車両所日根野支所を見ながら高架線に入り、右側に大きくカーブをしながら阪和線の上り線と大阪府道大阪和泉泉南線を乗り越え、2つ並んだため池の植田池と穂波池を渡ると、地平の国道481号および高架の関西空港自動車道が左後方から近づいてきて並走を始める。この右カーブの途中(ため池を渡る高架橋上)には、架線の吊架方式がシンプルカテナリー式から高速走行に適したコンパウンドカテナリー式に切り替わるセクションがある。
穂波池を過ぎてから南海本線と交差する約300m手前まで、戦時中に存在した佐野陸軍飛行場(もとは明野陸軍飛行学校佐野分教所)の跡地を走る。飛行場跡地には戦後に整然と区画された農地と住宅地が広がり、大阪府道和歌山貝塚線(熊野街道)の東側は滑走路跡と平行した区画になっている。また、熊野街道の南側は移転前の蟻通神社の広大な旧社地でもある。
やがて国道26号を越えるとさらに高度を上げ、南海本線の高架を高々架で乗り越えると、左前方にはりんくうプレジャータウンSEACLEの大観覧車の全景が、右前方にはりんくうゲートタワービルの全景が見え始める。高架のまま徐々に高度を下げながら、右側から近づいてくる南海空港線の上下線に挟まれて並走を始めたあたりで旧海岸線を越え、埋立造成されたりんくうタウンに入り、島式2面4線のりんくうタウン駅に到着する。
南海との共同使用駅であるりんくうタウン駅は内側2線をJRが、外側2線を南海が使用しているが、同駅を出ると両社の線路が合流し、大阪湾を渡る2層構造で、在来線の鉄道橋としては最長の関西国際空港連絡橋の下層を轟音を立てながら渡る。関西国際空港島に入ると高度を下げ、大きく左にカーブしながら島内アクセス道路の間にある掘割部分を進み、南海の線路が左側へ分岐して終点の関西空港駅に着く。
早朝・深夜の一部の列車をのぞき、日根野駅から阪和線天王寺方面へ直通運転が行われている。
関西国際空港と大阪・京都方面を結ぶ特急列車として「はるか」が運転されている。東海道本線(JR京都線)・大阪環状線・梅田貨物線・阪和線を経由して京都駅(一部列車は琵琶湖線野洲駅) - 関西空港駅間で1日30往復。終日1時間あたり概ね上下各2本運転されている(2022年11月1日時点)。1994年9月4日に運転を開始した。詳細は列車記事参照。
終日にわたり関西国際空港と大阪方面を結ぶ快速列車として関空快速(平日朝の上りのみ直通快速)が運転されている。ほとんどの列車が阪和線から先、大阪環状線を1周して天王寺駅 - 京橋駅 - 大阪駅 - 関西空港駅間で運転されているが、朝・夜の一部列車は大阪駅・京橋駅発着や、大阪環状線に直通しない天王寺駅発着である。
普通列車は朝と深夜のみ運転されている。旅客案内上は「シャトル」として案内されている。全列車が線内完結で、阪和線との直通列車は設定されていない。
快速・普通列車とも全列車が線内の各駅に停車する。
関西空港線が開業した1994年6月15日から同年9月3日までは、暫定的に天王寺駅 - 関西空港駅間を結ぶ阪和線直通の快速と、日根野駅 - 関西空港駅間の普通が上下各33本運転されていた。関西国際空港が開港した同年9月4日以降は快速に代わって、関空快速が大阪環状線または関西本線(大和路線)JR難波駅 - 関西空港駅間で運転を開始した。関空快速に加えて、1995年4月20日からは関空特快「ウイング」が運転されていたが1999年5月9日で運転を終了した。2008年3月15日のダイヤ改正により、関空快速のJR難波駅発着が廃止されて日中は全列車が大阪環状線へ直通するようになり、平日の朝ラッシュ時には直通快速も運転を開始した。
このほか、1995年12月から1999年1月までは臨時列車として姫路駅 - 関西空港駅間で特別快速「ウエスト関空」も運転されていた。
2017年度の1日あたりの平均利用者数は33,792人である。年間の利用者数は1996年度の約943万人をピークに減少し、重症急性呼吸器症候群 (SARS) の発症が確認された2003年度で一度は下げ止まったものの、リーマン・ショックと新型インフルエンザの流行が重なった2009年度は約649万人となった。その後は格安航空会社の就航や訪日外国人旅行客の増加により関西国際空港の利用者とともに増加し、2019年度は過去最多となる約1253万人であった。新型コロナウイルス感染症が流行した2020年度は過去最少の約395万人、2021年度はそれに次いで少ない459万人であった。
南海空港線と比較した場合の2019年度のシェアは約51.0%で、関西国際空港のアクセス全体としてはJRが約40.3%、南海が約38.7%、リムジンバスが約19.8%、旅客船が約1.2%となっており、JRの利用者数は開業当初の1994年度をのぞいて最も多い。
全列車が吹田総合車両所日根野支所に所属する電車で運転されている。関空快速・直通快速・シャトルには223系(0・2500番台)と225系(5000・5100番台)が、特急「はるか」には281系と271系が使用されている。開業時からすべての旅客車両が当線向けに新造された車両であり、103系や113系などの当線開業以前から阪和線で運行されていた車両や、他路線からの中古車両は当線での運行実績はない。
全線で加算運賃が設定されており、全乗車区間の営業キロ程に応じて算出した運賃額に関西空港線の乗車区間に応じて以下の金額を加算する(2019年10月1日改定時点)。
南海と線路を共用しているりんくうタウン駅 - 関西空港駅間の運賃は、JR・南海どちらを利用しても同額の370円であり、りんくうタウン駅から関西空港駅への普通乗車券であれば南海の乗車券でもJRの列車に乗車することもできる。
なお、電車特定区間ではないため、電車特定区間と通しで乗車する場合でも幹線運賃が適用される。
日根野駅と関西空港駅はJR西日本の直営駅である。りんくうタウン駅は南海電気鉄道の管轄駅であるが、JR西日本交通サービスに業務委託されたみどりの窓口も設置されている。みどりの券売機の設置はされていない。
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"text": "南海空港線と比較した場合の2019年度のシェアは約51.0%で、関西国際空港のアクセス全体としてはJRが約40.3%、南海が約38.7%、リムジンバスが約19.8%、旅客船が約1.2%となっており、JRの利用者数は開業当初の1994年度をのぞいて最も多い。",
"title": "利用状況"
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"text": "全列車が吹田総合車両所日根野支所に所属する電車で運転されている。関空快速・直通快速・シャトルには223系(0・2500番台)と225系(5000・5100番台)が、特急「はるか」には281系と271系が使用されている。開業時からすべての旅客車両が当線向けに新造された車両であり、103系や113系などの当線開業以前から阪和線で運行されていた車両や、他路線からの中古車両は当線での運行実績はない。",
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"text": "全線で加算運賃が設定されており、全乗車区間の営業キロ程に応じて算出した運賃額に関西空港線の乗車区間に応じて以下の金額を加算する(2019年10月1日改定時点)。",
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"text": "南海と線路を共用しているりんくうタウン駅 - 関西空港駅間の運賃は、JR・南海どちらを利用しても同額の370円であり、りんくうタウン駅から関西空港駅への普通乗車券であれば南海の乗車券でもJRの列車に乗車することもできる。",
"title": "運賃制度"
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"text": "なお、電車特定区間ではないため、電車特定区間と通しで乗車する場合でも幹線運賃が適用される。",
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"text": "日根野駅と関西空港駅はJR西日本の直営駅である。りんくうタウン駅は南海電気鉄道の管轄駅であるが、JR西日本交通サービスに業務委託されたみどりの窓口も設置されている。みどりの券売機の設置はされていない。",
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] |
関西空港線(かんさいくうこうせん)は、大阪府泉佐野市の日根野駅から同府泉南郡田尻町の関西空港駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
|
{{Otheruses|西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線|南海電気鉄道の路線|南海空港線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 関西空港線
|路線色 = #0072ba
|ロゴ = JRW kinki-S.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = JRW series281-KansaiAP.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 関西国際空港連絡橋を渡る特急「[[はるか (列車)|はるか]]」<br />(2011年5月17日 [[りんくうタウン駅]] - [[関西空港駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[日根野駅]]<ref name="sone 15">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 15頁]]</ref>
|終点 = [[関西空港駅]]<ref name="sone 15"/>
|駅数 = 3駅<ref name="sone 15"/>
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|S}}
|開業 = {{start date and age|1994|6|15}}<ref name="sone 27">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 27頁]]</ref>
|廃止 =
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]]<br />[[新関西国際空港]]
|運営者 = 西日本旅客鉄道
|車両基地 = [[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 11.1 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = 全線[[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](全線P<ref name="zensen">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/fukuchiyama/RA07-3-1-1.pdf 鉄道事故調査報告書]}} - 航空・鉄道事故調査委員会</ref>)
|最高速度 = 130 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 =
}}
'''関西空港線'''(かんさいくうこうせん)は、[[大阪府]][[泉佐野市]]の[[日根野駅]]から同府[[泉南郡]][[田尻町]]の[[関西空港駅]]に至る[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。
== 概要 ==
[[大阪湾]]の泉州沖に浮かぶ[[関西国際空港]]への[[空港連絡鉄道]]である。日根野駅で[[阪和線]]から分岐し、大阪方面から同線を経由して空港アクセス列車が乗り入れている。全長3,750 mの[[関西国際空港連絡橋]]を渡る[[りんくうタウン駅]] - 関西空港駅間は、ホーム部など両駅構内の一部を除き[[南海電気鉄道]](南海)[[南海空港線|空港線]]と線路を共用している。JR西日本の[[アーバンネットワーク]]の路線に含まれており、[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は同社のコーポレートカラーである'''青'''({{Color|#0072ba|■}})が設定されている。路線記号は'''S'''<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
全線の約33.7 %が海の上を通っており、日本国内では[[瀬戸大橋]]を渡る[[本四備讃線]]、当線と線路を共用する南海空港線、関西国際空港と同じく海上に建設された[[中部国際空港]]の空港連絡鉄道である[[名鉄空港線]]と共に、海の上を通る区間が全線の4分の1 (25 %) 以上ある数少ない鉄道路線である。
阪和線の本線(天王寺駅 - 和歌山駅間)から分岐している鳳駅 - 東羽衣駅間の支線は阪和線の一部であるが、本路線は独立した路線である。<!-- 国鉄・JRでいう「幹線」は運賃計算区分 -->
南海が管轄しているりんくうタウン駅をのぞき、全区間をJR西日本の[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が管轄している。また、全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」エリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長11.1 km<ref name="sone 15"/>
** 西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
*** 日根野駅 - りんくうタウン駅間 4.2 km
** 西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])・[[新関西国際空港]]([[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]):
*** りんくうタウン駅 - 関西空港駅間 6.9 km
* [[軌間]]:1,067 mm
* 駅数:3(起終点駅含む)<ref name="sone 15"/>
** 関西空港線所属駅に限定した場合、阪和線所属の日根野駅が除外され、[[共同使用駅]]のりんくうタウン駅も含めて2駅となる<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref><ref>[http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/#kilometer 鉄道事業ダイジェスト:JR西日本] - 西日本旅客鉄道</ref>。
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現:[[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1,500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:複線自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](全線P<ref name="zensen" />)
** りんくうタウン駅 - 関西空港駅間は[[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]]<ref group="注">JR東日本が導入しているATS-Pの機能を簡素化したものではなく、南海独自のもの。</ref>併設<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/csr/kankyou_report/pdf/kankyo2014_all.pdf CSR報告書 2014]}} P.34 - 南海電気鉄道</ref>
* [[運転指令所]]:[[近畿総合指令所]][[関西空港指令所]]
* 最高速度:130 km/h
== 沿線概況 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#0072ba
|title-color=white
|map=
{{BS3||STR+l|KDSTeq||{{Nowrap|[[吹田総合車両所]]日根野支所}}||}}
{{BS3|BHFq|ABZqr+r|O2=lhSTRa@f|STRq|0.0|JR-S45 [[日根野駅]]|{{rint|ja|wkr}} [[阪和線]]|}}
{{BS3||WDOCKS|O2=lhMSTR|P2=STR||||植田池|}}
{{BS3||WDOCKS|O2=lhMSTR|P2=STR||||穂波池|}}
{{BS3||STR|O2=lhSTRe@g|||||}}
{{BS3|ABZq2|KRZo|O2=STRc3|STRq|||[[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]|}}
{{BS3|POINTER1|O1=STRc1|ABZg+4||||←南海:{{rint|osaka|ap}} [[南海空港線|空港線]]|}}
{{BS|BHF|O1=lhSTRa@f|4.2|JR-S46 [[りんくうタウン駅]]||}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|O3=lhMSTR|P3=STR|WDOCKSm|WDOCKSm|||[[関西国際空港連絡橋]]|3,750 m|}}
{{BS5|WDOCKSm||KRWgl|O3=lhSTRe@g|KRW+r|WDOCKSm|||[[関西国際空港#空港島|空港島]]|}}
{{BS5|WDOCKSm||KBHFe|KBHFe|WDOCKSm|11.1|JR-S47 [[関西空港駅]]|JR/南海|}}
{{BS5|WDOCKSm||FLUG||WDOCKSm|||[[関西国際空港]]|}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|||[[大阪湾]]|}}
}}
起点の日根野駅を出て線内唯一の踏切である日根野南一踏切を過ぎると、左側に[[吹田総合車両所]]日根野支所を見ながら高架線に入り、右側に大きくカーブをしながら<ref name="sone 27"/>阪和線の上り線と[[大阪府道30号大阪和泉泉南線|大阪府道大阪和泉泉南線]]を乗り越え、2つ並んだ[[ため池]]の植田池と穂波池を渡ると、地平の[[国道481号]]および高架の[[関西空港自動車道]]が左後方から近づいてきて並走を始める。この右カーブの途中(ため池を渡る高架橋上)には、架線の吊架方式が[[架空電車線方式#シンプルカテナリー式|シンプルカテナリー式]]から高速走行に適した[[架空電車線方式#コンパウンドカテナリー式|コンパウンドカテナリー式]]に切り替わる[[エアセクション|セクション]]がある。
穂波池を過ぎてから[[南海本線]]と交差する約300m手前まで、戦時中に存在した佐野[[大日本帝国陸軍|陸軍]]飛行場(もとは[[明野陸軍飛行学校]]佐野分教所)の跡地を走る。飛行場跡地には戦後に整然と区画された農地と住宅地が広がり、[[和歌山県道・大阪府道64号和歌山貝塚線|大阪府道和歌山貝塚線]]([[熊野街道]])の東側は滑走路跡と平行した区画になっている。また、熊野街道の南側は移転前の[[蟻通神社 (泉佐野市)|蟻通神社]]の広大な旧社地でもある。
やがて[[国道26号]]を越えるとさらに高度を上げ、南海本線の高架を高々架で乗り越えると、左前方には[[りんくうプレジャータウンSEACLE]]の大観覧車の全景が、右前方には[[りんくうゲートタワービル]]の全景が見え始める。高架のまま徐々に高度を下げながら、右側から近づいてくる[[南海空港線]]の上下線に挟まれて並走を始めたあたりで旧海岸線を越え、埋立造成された[[りんくうタウン]]に入り、島式2面4線のりんくうタウン駅に到着する。
南海との[[共同使用駅]]であるりんくうタウン駅は内側2線をJRが、外側2線を南海が使用しているが、同駅を出ると両社の線路が合流し、大阪湾を渡る2層構造で、在来線の鉄道橋としては最長の[[関西国際空港連絡橋]]の下層を轟音を立てながら渡る。関西国際空港島に入ると高度を下げ、大きく左にカーブしながら島内アクセス道路の間にある掘割部分を進み、南海の線路が左側へ分岐して終点の関西空港駅に着く。
<gallery widths="180px">
JR Kansai-Airport line in Nagataki.jpg|整然と区画された田園地帯を<br />[[関西空港自動車道]]と並走する。
Sky gate bridge01s3200.jpg|関西国際空港連絡橋
Kansai Airport Line view-01.jpg|関西国際空港連絡橋の鉄道部。<br />架線はコンパウンドカテナリー式。
JRW Kansai-Airport view.jpg|関西空港駅に到着する関空快速。
</gallery>
{{日根野駅配線図}}
== 運行形態 ==
早朝・深夜の一部の列車をのぞき、日根野駅から阪和線[[天王寺駅|天王寺]]方面へ直通運転が行われている。
=== 特急列車 ===
関西国際空港と大阪・京都方面を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]として「[[はるか (列車)|はるか]]」が運転されている。[[東海道本線]]([[JR京都線]])・[[大阪環状線]]・[[梅田貨物線]]・阪和線を経由して[[京都駅]](一部列車は[[琵琶湖線]][[野洲駅]]) - 関西空港駅間で1日30往復。終日1時間あたり概ね上下各2本運転されている(2022年11月1日時点<ref>{{Cite press release|和書|title=特急「はるか」すべての列車 運転再開のお知らせ|date=2022-10-03|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221003_04_press_haruka_1.pdf|format=PDF|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2023-05-18}}</ref>)。[[1994年]][[9月4日]]に運転を開始した。詳細は列車記事参照。
=== 快速・普通列車 ===
[[ファイル:JRW series223 Kansai-Airport.jpg|thumb|線内折り返し列車は「普通」ではなく「シャトル」と称している。]]
終日にわたり関西国際空港と大阪方面を結ぶ快速列車として[[関空快速・紀州路快速|関空快速]](平日朝の上りのみ[[阪和線#直通快速|直通快速]])が運転されている。ほとんどの列車が阪和線から先、大阪環状線を1周して天王寺駅 - [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] - [[大阪駅]] - 関西空港駅間で運転されているが、朝・夜の一部列車は大阪駅・京橋駅発着や、大阪環状線に直通しない[[天王寺駅]]発着である。
普通列車は朝と深夜のみ運転されている。旅客案内上は「'''シャトル'''」<!--という種別-->として案内されている<ref group="注">『JR時刻表』でも「シャトル」の名称が付与されているが、列車愛称を表す亀甲括弧〔〕ではなく列車種別を現す丸括弧()が使用されている。『JTB時刻表』では(関空快速や紀州路快速と同様に)列車名欄に「シャトル」と書かれている。</ref>。全列車が線内完結で、阪和線との直通列車は設定されていない。
快速・普通列車とも全列車が線内の各駅に停車する。
関西空港線が開業した1994年6月15日から同年9月3日までは、暫定的に天王寺駅 - 関西空港駅間を結ぶ阪和線直通の快速と、日根野駅 - 関西空港駅間の普通が上下各33本運転されていた<ref>「関西空港線の暫定ダイヤが確定/JR西日本」- 読売新聞 1994年5月19日</ref>。関西国際空港が開港した同年9月4日以降は快速に代わって、関空快速が大阪環状線または[[関西本線]]([[大和路線]])[[JR難波駅]] - 関西空港駅間で運転を開始した。関空快速に加えて、[[1995年]]4月20日からは関空特快「[[関空快速・紀州路快速#関空特快「ウイング」|ウイング]]」が運転されていたが[[1999年]]5月9日で運転を終了した。[[2008年]]3月15日のダイヤ改正により、関空快速のJR難波駅発着が廃止されて日中は全列車が大阪環状線へ直通するようになり、平日の朝ラッシュ時には直通快速も運転を開始した。
このほか、1995年12月から1999年1月までは[[臨時列車]]として[[姫路駅]] - 関西空港駅間で特別快速「[[関空快速・紀州路快速#ウエスト関空|ウエスト関空]]」も運転されていた。
== 利用状況 ==
2017年度の1日あたりの平均利用者数は33,792人である<ref>{{PDFlink|[http://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/content/H29_nendo.pdf 関西国際空港アクセス交通の輸送状況]}} - [[近畿運輸局]]</ref>。年間の利用者数は1996年度の約943万人をピークに減少し、[[重症急性呼吸器症候群]] (SARS) の発症が確認された2003年度で一度は下げ止まったものの、[[リーマン・ショック]]と[[新型インフルエンザ]]の流行が重なった2009年度は約649万人となった。その後は[[格安航空会社]]の就航や[[訪日外国人旅行]]客の増加により関西国際空港の利用者とともに増加し、2019年度は過去最多となる約1253万人であった<ref name="data">{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_10.pdf データで見るJR西日本2022]}} - 西日本旅客鉄道</ref>。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症が流行]]した2020年度は過去最少の約395万人、2021年度はそれに次いで少ない459万人であった<ref name="data" />。
南海空港線と比較した場合の2019年度のシェアは約51.0%で、関西国際空港のアクセス全体としてはJRが約40.3%、南海が約38.7%、リムジンバスが約19.8%、旅客船が約1.2%となっており、JRの利用者数は開業当初の1994年度をのぞいて最も多い<ref name="data" />。
{| class="wikitable" style="margin:0em; font-size:80%; text-align:center;"
|+ 関西空港線の年間輸送人員(単位:万人)<ref name="data" />
!年度 ||1994年度 ||1995年度 ||1996年度 ||1997年度 ||1998年度 ||1999年度 ||2000年度 ||2001年度 ||2002年度 ||2003年度 ||2004年度 ||2005年度 ||2006年度 ||2007年度
|-
|輸送人員 ||529 ||921 ||943 ||919 ||859 ||870 ||889 ||841 ||783 ||671 ||710 ||717 ||722 ||724
|-
!年度 ||2008年度 ||2009年度 ||2010年度 ||2011年度 ||2012年度 ||2013年度 ||2014年度 ||2015年度 ||2016年度 ||2017年度 ||2018年度 ||2019年度 ||2020年度 ||2021年度
|-
|輸送人員 ||717 ||649 ||657 ||673 ||760 ||809 ||898 ||1059 ||1130 ||1233 ||1231 ||1253 ||395 ||459
|}
{{Graph:Chart
|width=700
|height=200
|xAxisTitle=年度
|yAxisTitle=年間輸送人員(万人)
|type=rect
|showValues=yes
|x=1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019, 2020, 2021
|y=529, 921, 943, 919, 859, 870, 889, 841, 783, 671, 710, 717, 722, 724, 717, 649, 657, 673, 760, 809, 898, 1059, 1130, 1233, 1231, 1253, 395, 459
}}
== 使用車両 ==
全列車が[[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]に所属する[[電車]]で運転されている。関空快速・直通快速・シャトルには[[JR西日本223系電車|223系]](0・2500番台)と[[JR西日本225系電車|225系]](5000・5100番台)が、特急「[[はるか (列車)|はるか]]」には[[JR西日本281系電車|281系]]と[[JR西日本271系電車|271系]]が使用されている。開業時からすべての旅客車両が当線向けに新造された車両であり、103系や113系などの当線開業以前から阪和線で運行されていた車両や、他路線からの中古車両は当線での運行実績はない。
その他、検測用車両([[事業用車]])として[[JR西日本キヤ141系気動車|キヤ141系]]が入線する。当路線を走行できる唯一の[[気動車]]である。
<gallery>
ファイル:鳳派出所に疎開中の281系と271系.jpg|271系と281系
ファイル:Kansai Airport Rapid Service at Rinku-town Station.jpg|223系0番台と2500番台
ファイル:阪和線225系5000番台.jpg|225系5000番台
ファイル:225-5100 Rapid.jpg|225系5100番台
</gallery>
== 運賃制度 ==
全線で[[運賃#加算運賃|加算運賃]]が設定されており、全乗車区間の営業キロ程に応じて算出した運賃額に関西空港線の乗車区間に応じて以下の金額を加算する(2019年10月1日改定時点)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/normal_tickets/normal_fare05.html |title=東京・大阪の電車特定区間の普通運賃表 |website=JRおでかけネット |publisher=西日本旅客鉄道 |accessdate=2019-11-03}}</ref>。
* 日根野駅 - りんくうタウン駅:160円
* 日根野駅 - 関西空港駅:220円
南海と線路を共用しているりんくうタウン駅 - 関西空港駅間の運賃は、JR・南海どちらを利用しても同額の370円であり、りんくうタウン駅から関西空港駅への普通乗車券であれば南海の乗車券でもJRの列車に乗車することもできる。
なお、[[電車特定区間]]ではないため、電車特定区間と通しで乗車する場合でも幹線運賃が適用される。
== 歴史 ==
* [[1987年]]([[昭和]]62年)[[12月2日]]:空港連絡線の第二種鉄道事業免許を取得<ref name="sone 27"/>。
* [[1994年]]([[平成]]6年)
**[[1月20日]]:関西国際空港連絡鉄道レール締結式が行われる<ref>[[#JRR1994|『JR気動車客車編成表 94年版』 189頁]]</ref>。
** [[3月17日]]:試運転開始<ref>[[#JRR1994|『JR気動車客車編成表 94年版』 190頁]]</ref>。
** [[3月31日]]:空港連絡線のうち、日根野駅 - りんくうタウン駅間の旧関空会社からJRへの譲渡認可<ref name="sone 27"/>。
** [[4月1日]]:空港連絡線のうち、日根野駅 - りんくうタウン駅間の第一種鉄道事業免許を取得<ref name="sone 27"/>。
** [[6月15日]]:関西国際空港開港に先立ち、関西空港線として日根野駅 - 関西空港駅間が開業<ref name="sone 27"/>。
** [[9月4日]]:関西国際空港が開港。特急「はるか」、関空快速が運転開始<ref name="sone 27"/>。
* [[1995年]](平成7年)
**[[4月20日]]:関空快速の停車駅を削減した関空特快「ウイング」が運転開始<ref name="jrr_96">{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=185 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。
** [[9月1日]]:りんくうタウン駅 - 関西空港駅間の[[運賃#特定区間運賃|特定区間運賃]]が廃止<ref name="jrr_96" />。
* [[1996年]](平成8年)[[10月5日]]:平日ダイヤで運行されていた土曜日が、休日ダイヤに切り替えられる<ref>{{Cite news |title=大阪環状など5線の土曜ダイヤ 10月5日から「休日」用に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-08-13 |page=1 }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[5月10日]]:関空特快「ウイング」が廃止<ref name="sone 27"/>。和歌山駅発着の紀州路快速が設定され、日根野駅で関空快速との[[増解結|併結・分割]]が開始<ref name="sone 27"/>。
* [[2003年]](平成15年)10月1日:コンコースの喫煙コーナーが廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:ダイヤ改正により、JR難波駅発着の関空快速が廃止<ref name="sone 27"/>。平日朝ラッシュ時に直通快速が運転開始。
* [[2010年]](平成22年)[[12月1日]]:組織改正により、[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]]の管轄から近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:全線で[[特別急行券#在来線特急の料金体系|B特急料金]]適用開始。これに伴い、特急「はるか」の日根野駅 - 関西空港駅間の[[特急料金]]を値下げ<ref>{{Cite press release |和書 |title=関西国際空港への鉄道アクセス改善について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2012-10-24 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2012/10/page_2726.html |accessdate=2018-09-13}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=特急「はるか」の特急料金の改定日などについて |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2012-12-21 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2012/12/page_3056.html |accessdate=2018-09-13}}</ref><ref>『JTB時刻表』2013年3月号、JTBパブリッシング、p.991</ref>。
{{Double image aside|right|Haruka Rollsign Hineno.jpg|200|Kansai Airport Rapid Service Rollsign Rinku Town.jpg|200|関西空港線全線復旧前日まで運転されていた、日根野行き関空特急はるか|同じく、りんくうタウン行き関空快速}}
* [[2018年]](平成30年)
** 3月17日:各駅に[[駅ナンバリング|駅ナンバー]]が導入され、使用を開始する。
** 9月4日:[[平成30年台風第21号|台風21号]]の接近に伴い9時頃から運休<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL937K7GL93PTIL02T.html 京阪神の全在来線、4日正午までに運転取りやめ JR西] 朝日新聞 2018年9月3日</ref>。この台風の影響で関西国際空港連絡橋に停泊していたタンカーが漂流して衝突し<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL94532ZL94PTIL023.html 全長89mのタンカー、関空連絡橋に衝突 強風で流され] 朝日新聞 2018年9月4日</ref>、連絡橋が被害を受けたため、翌日以降も不通となる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20180904-OYT1T50041.html 関空、冠水で孤立…「帰れない」3000人困惑] 読売新聞 2018年9月4日</ref>。
** 9月8日:日根野駅 - りんくうタウン駅間で運転再開<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL9755W3L97PTIL01Q.html JR西・南海、りんくうタウン駅まで運行再開へ 関空] 朝日新聞 2018年9月8日</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=関西空港線の運転について |publisher=西日本旅客鉄道株式会社 |date=2018-09-07 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/09/page_13015.html |accessdate=2018-09-07 }}</ref>。
** 9月18日:りんくうタウン駅 - 関西空港駅間も運転再開し、全線復旧<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/west/news/180918/wst1809180007-n1.html |title=関空鉄道、2週間ぶり再開 旅客便運航回復前にアクセス大幅改善 |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2018-09-18 |accessdate=2018-09-18 }}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 4月1日:B特急料金廃止。特急「はるか」の特急料金が値上げされる<ref>{{Cite press release|title=在来線特急料金の一部見直しについて|date=2022-09-02|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220902_03_press_minaoshi.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-07-29}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 関空快速・直通快速・シャトルはいずれも関西空港線内は全駅に停車(大阪環状線・阪和線直通列車の全停車駅は「[[関空快速・紀州路快速#停車駅]]」、大阪環状線内は「[[大阪環状線#停車パターン]]」、阪和線内は「[[阪和線#駅一覧]]」を参照)。特急の停車駅は「[[はるか (列車)]]」を参照
* 全駅[[大阪府]]内に所在
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月17日より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>、阪和線からの通し番号となっている。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅ナンバー<br><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!style="width:9em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地
|-
!JR-S45
|[[日根野駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[西日本旅客鉄道]]:{{rint|ja|wkr|size=17}} [[阪和線]](JR-R45)(一部の列車を除き直通運転)
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[泉佐野市]]
|-
!JR-S46
|[[りんくうタウン駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|4.2
|[[南海電気鉄道]]:{{rint|osaka|ap|size=17}} [[南海空港線|空港線]](NK31)
|-
!JR-S47
|[[関西空港駅]]
|style="text-align:right;"|6.9
|style="text-align:right;"|11.1
|南海電気鉄道:{{rint|osaka|ap|size=17}} 空港線(NK32)
|[[泉南郡]]<br>[[田尻町]]
|}
日根野駅と関西空港駅はJR西日本の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]である。りんくうタウン駅は[[南海電気鉄道]]の管轄駅であるが、[[JR西日本交通サービス]]に[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託]]された[[みどりの窓口]]も設置されている。[[指定席券売機|みどりの券売機]]の設置はされていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=42号 阪和線・和歌山線・桜井線・湖西線・関西空港線|date=2010-05-16|ref=sone42}}
* {{Cite book |和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5 |ref=JRR1994}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Kansai Airport Line}}
* [[南海空港線]]
* [[空港連絡鉄道]]
* [[なにわ筋線]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/kansaiairport.html 関西空港線:JR西日本 列車走行位置]
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{{西日本旅客鉄道近畿統括本部}}
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[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:大阪府の交通|かんさいくうこうせん]]
[[Category:関西国際空港の鉄道]]
[[Category:大阪湾]]
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1341年
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1341年(1341 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1341年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]]:[[辛巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[南朝 (日本)|南朝]]:[[興国]]2年
** [[北朝 (日本)|北朝]]:[[暦応]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]:2001年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[元 (王朝)|元]]:[[至正]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]]:[[忠恵王]]([[重祚]])2年
** [[檀君紀元|檀紀]]:3674年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]]:[[開祐]]13年、[[紹豊]]元年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]] -
* [[仏滅紀元]]:1883年 - 1884年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:741年 - 742年
* [[ユダヤ暦]]:5101年 - 5102年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1341|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
*[[ビザンツ帝国内乱 (1341年-1347年)]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:1341年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月5日]] - [[エドマンド・オブ・ラングリー (初代ヨーク公)|エドマンド・オブ・ラングリー]]、[[イングランド]]の王族、[[ヨーク公]]、[[ケンブリッジ伯]]、[[ヨーク朝|ヨーク家]]の始祖(+ [[1402年]])
* [[11月10日]] - [[ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]、イングランドの[[貴族]]、初代[[ノーサンバランド伯]](+ [[1408年]])
* [[11月24日]](興国2年/暦応4年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[聖冏]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[室町時代]]の[[浄土宗]]の[[僧]](+ [[1420年]])
* [[ヨハン2世 (バイエルン公)|ヨハン2世]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]](+ [[1397年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1341年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月26日]](暦応4年/興国2年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[日道 (大石寺)|日道]]、[[日蓮正宗]][[大石寺]]第4世法主(* [[1283年]])
* 4月中旬(暦応4年/興国2年3月末) - [[塩冶高貞]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]](* 生年未詳)<ref>『師守記』暦応4年3月29日条</ref>
* [[4月27日]](暦応4年/興国2年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[慈道法親王]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[法親王]]、[[歌人]](* [[1282年]])
* [[6月11日]] - [[ボルコ2世 (ジェンビツェ公)|ボルコ2世]]、[[ヤヴォル]]=[[ルヴヴェク]]=[[シフィドニツァ]]=[[ジェンビツェ]]公(* [[1300年]])
* [[6月15日]] - [[アンドロニコス3世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国]][[パレオロゴス王朝]]の第4代皇帝(* [[1297年]])
* [[7月16日]](暦応4年/興国2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[真観]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[時宗]]の[[僧]](* [[1275年]])
* [[7月17日]](暦応4年/興国2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[石川貞光]]、南北朝時代の武将、[[陸奥石川氏]]の第14代当主(* 生年未詳)
* [[8月9日]] - [[エレオノーラ・ダンジョ]]、[[シチリア王国|シチリア]]王[[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]の王妃(* [[1289年]])
* [[9月23日]](暦応4年/興国2年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[恭翁運良]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[臨済宗]]の僧(* [[1267年]])
* [[11月7日]](暦応4年/興国2年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]) - [[島津久長]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将、[[伊作家]]の初代当主(* 生年未詳)
* [[ゲディミナス]]、[[リトアニア大公国|リトアニア大公]](* [[1275年]])
* [[陳憲宗]]、[[ベトナム]]の[[陳朝]]の第6代[[皇帝]](* [[1319年]])
* [[ナースィル・ムハンマド]]、[[マムルーク朝|バフリー・マムルーク朝]]の第10代・13代・15代[[スルターン|スルタン]](* [[1285年]])
* [[畑時能]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(* [[1299年]])
* [[マンスール・アブー=バクル]]、バフリー・マムルーク朝の第16代スルタン(* [[1321年]])
* [[毛利時親]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将、[[毛利氏]]の当主(* 生年未詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1341}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,619 |
南海空港線
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空港線(くうこうせん)は、大阪府泉佐野市の泉佐野駅から同府泉南郡田尻町の関西空港駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線。大阪湾の泉州沖にある関西国際空港へのアクセス路線である。路線シンボルマークは、飛行機をイメージしたもの()で、ラインカラーは紫。
全線に加算運賃が設定されている(南海電気鉄道#運賃を参照)。
全長3,750mの関西国際空港連絡橋を渡るりんくうタウン駅 - 関西空港駅間は南海電気鉄道が第二種鉄道事業者、新関西国際空港株式会社が第三種鉄道事業者となっており、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西空港線とは両駅構内を除き上下線とも線路を共用している。
3面4線の構造を持つ起点の泉佐野駅からはしばらく南海本線と線路を共用するが、やがて左にカーブをすると南海本線がまっすぐ南西に向かうのに対して空港線は大きく右にカーブをして北西に進路をとる。特に下り線は南海本線の高架を乗り越える高々架となる。周辺には住宅密集地のほか、左前方にはりんくうプレジャータウンSEACLEの大観覧車が、右前方にはりんくうゲートタワービルが見える。やがて上下線の高架が一旦近接するがすぐにまた離れ、左後方から近づいてくる関西空港自動車道・国道481号・JR関西空港線と並走を始めたところで島式2面4線のりんくうタウン駅に到着する。
JRとの共同使用駅であるりんくうタウン駅は内側2線をJRが、外側2線を南海が使用しているが、同駅を出ると両社の線路が合流し、大阪湾を渡る2層構造で、在来線の鉄道橋としては最長の関西国際空港連絡橋の下層を轟音を立てながら渡る。関西国際空港島に入ると高度を下げ、大きく左にカーブしながら島内アクセス道路の間にある掘割部分を進み、JRの線路が右側へ分岐して終点の関西空港駅に着く。
基本的には、難波駅発着(南海本線直通)の特急「ラピート」・空港急行・普通が運転されている。かつて特急「ラピート」はりんくうタウン駅を通過していたが、2003年から同駅近くにあるアウトレットモール(りんくうプレミアム・アウトレット)への乗客を見込んで停車するようになった。泉佐野駅 - 関西空港駅間のみを折り返し運転する普通は早朝のみ運転される。南海本線和歌山市方面とは異なり、自由席の連結された特急列車は運転されていない。
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"title": "運行形態"
}
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空港線(くうこうせん)は、大阪府泉佐野市の泉佐野駅から同府泉南郡田尻町の関西空港駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線。大阪湾の泉州沖にある関西国際空港へのアクセス路線である。路線シンボルマークは、飛行機をイメージしたもので、ラインカラーは紫。 全線に加算運賃が設定されている(南海電気鉄道#運賃を参照)。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=南海電気鉄道]] 空港線
|路線色 = #594BAC
|ロゴ = Nankai airport line symbol.svg
|ロゴサイズ = 48px
|画像 = Nankai series50000-KansaiAP.png
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 関西国際空港連絡橋を渡る<br/>[[南海50000系電車|50000系]]特急「ラピート」<br/>(りんくうタウン - 関西空港間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]
|起点 = [[泉佐野駅]]
|終点 = [[関西空港駅]]
|路線記号 = [[File:Number prefix Nankai Railway line.svg|25px|NK]] NK
|駅数 = 3駅
|開業 = [[1994年]][[6月15日]]<ref name="交通1994-6">{{Cite news |title=関西空港線スタート |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-06-17 |page=1 }}</ref>
|廃止 =
|所有者 = [[南海電気鉄道]]<br />(泉佐野-りんくうタウン間 第1種鉄道事業者)<br />[[新関西国際空港]]<br />(りんくうタウン-関西空港間 第3種鉄道事業者)
|運営者 = 南海電気鉄道<br />(泉佐野-りんくうタウン間 第1種鉄道事業者、りんくうタウン-関西空港間 第2種鉄道事業者)
|車両基地 = [[住ノ江検車区]]、同区[[羽倉崎検車区|羽倉崎検車支区]]
|使用車両 = [[南海50000系電車|50000系]]、[[南海8300系電車|8300系]]、[[南海8000系電車 (2代)|8000系]]、[[南海1000系電車 (2代)|1000系]]、<br />[[南海2000系電車|2000系]]、[[南海9000系電車|9000系]]、[[大阪府都市開発3000系電車|3000系]]、[[南海7000系電車|7100系]]
|路線距離 = 8.8 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]]
|最小曲線半径 =
|最大勾配 =
|最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 = Nankai Electric Railway Linemap.svg
}}
'''空港線'''(くうこうせん)は、[[大阪府]][[泉佐野市]]の[[泉佐野駅]]から同府[[泉南郡]][[田尻町]]の[[関西空港駅]]までを結ぶ[[南海電気鉄道]]の[[鉄道路線]]。[[大阪湾]]の泉州沖にある[[関西国際空港]]への[[空港連絡鉄道|アクセス路線]]である。路線シンボルマークは、飛行機をイメージしたもの([[File:Nankai airport line symbol.svg|15px]]<!-- ラインカラーの付いたシンボルマークは当方の知る限り見あたりません -->)で、[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は紫。
全線に[[運賃#加算運賃|加算運賃]]が設定されている([[南海電気鉄道#運賃]]を参照)。
== 路線データ ==
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長8.8km
** 南海電気鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
*** 泉佐野駅 - りんくうタウン駅間 1.9km
** 南海電気鉄道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])・新関西国際空港([[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]):
*** りんくうタウン駅 - 関西空港駅間 6.9km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:3駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]](りんくうタウン駅 - 関西空港駅間は[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|JR形ATS-P]]を併設)
* 最高速度:
** 特急:関西国際空港連絡橋上120km/h、その他の区間110km/h
** その他の列車:全区間110km/h
全長3,750mの[[関西国際空港連絡橋]]を渡るりんくうタウン駅 - 関西空港駅間は南海電気鉄道が第二種鉄道事業者、新関西国際空港株式会社が第三種鉄道事業者となっており、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[関西空港線]]とは両駅構内を除き上下線とも線路を共用している。
== 沿線概況 ==
{{BS-map
|title = 停車場・施設・接続路線
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{{BS5|||KHSTa|||||[[難波駅 (南海)|難波駅]]|}}
{{BS5|||LSTR|||||{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]|}}
{{BS5|||BHF|||0.0|NK30 [[泉佐野駅]]||}}
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{{BS5|||STR+c12|KRXu|STRc34||||}}
{{BS5|||ABZg+1|STRc14|STRl+4|||{{rint|osaka|nm}} 南海本線|}}
{{BS|BHF|O1=lhSTRa@f|1.9|NK31 [[りんくうタウン駅]]||}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|O3=lhMSTR|P3=STR|WDOCKSm|WDOCKSm|||[[関西国際空港連絡橋]]|3,750 m|}}
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}}
3面4線の構造を持つ起点の泉佐野駅からはしばらく[[南海本線]]と線路を共用するが、やがて左にカーブをすると南海本線がまっすぐ南西に向かうのに対して空港線は大きく右にカーブをして北西に進路をとる。特に下り線は南海本線の高架を乗り越える高々架となる。周辺には住宅密集地のほか、左前方には[[りんくうプレジャータウンSEACLE]]の大観覧車が、右前方には[[りんくうゲートタワービル]]が見える。やがて上下線の高架が一旦近接するがすぐにまた離れ、左後方から近づいてくる[[関西空港自動車道]]・[[国道481号]]・JR[[関西空港線]]と並走を始めたところで島式2面4線のりんくうタウン駅に到着する。
JRとの[[共同使用駅]]であるりんくうタウン駅は内側2線をJRが、外側2線を南海が使用しているが、同駅を出ると両社の線路が合流し、大阪湾を渡る2層構造で、在来線の鉄道橋としては最長の[[関西国際空港連絡橋]]の下層を轟音を立てながら渡る。関西国際空港島に入ると高度を下げ、大きく左にカーブしながら島内アクセス道路の間にある掘割部分を進み、JRの線路が右側へ分岐して終点の関西空港駅に着く。
<gallery widths="180px">
Sky gate bridge01s3200.jpg|関西国際空港連絡橋
Kansai Airport Line view-01.jpg|関西国際空港連絡橋の鉄道部。<br />架線はコンパウンドカテナリー式。
</gallery>
{{日根野駅配線図}}
== 運行形態 ==
{{Main|南海本線#運行形態}}
基本的には、[[難波駅 (南海)|難波駅]]発着([[南海本線]]直通)の特急「[[ラピート]]」・空港急行・普通が運転されている。かつて特急「ラピート」は[[りんくうタウン駅]]を通過していたが、[[2003年]]から同駅近くにあるアウトレットモール([[りんくうプレミアム・アウトレット]])への乗客を見込んで停車するようになった。泉佐野駅 - 関西空港駅間のみを折り返し運転する普通は早朝のみ運転される。南海本線和歌山市方面とは異なり、自由席の連結された特急列車は運転されていない。
== 歴史 ==
* [[1987年]](昭和62年)12月2日 南海電気鉄道に対し泉佐野 - りんくうタウン間の第一種鉄道事業、りんくうタウン - 関西空港間の第二種鉄道事業が免許<ref name="youran">運輸省鉄道局監修『鉄道要覧』平成9年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、pp.145-146</ref>。[[関西国際空港土地保有|関西国際空港]](当時)に対しりんくうタウン - 関西空港間の第三種鉄道事業が免許<ref>運輸省鉄道局監修『鉄道要覧』平成9年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.151</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)4月 用地買収を開始<ref name="空港線20周年産経新聞" />。泉佐野駅での南海本線連続立体交差化工事も同時に行われたことや地価の高騰、工期の問題などで約3万平方メートルにも上る用地取得は難航を極め、事業費は当初想定の184億円から最終的には2倍以上の375億円にまで膨らんだ<ref name="空港線20周年産経新聞">{{Cite web|和書|url = https://www.sankei.com/article/20150719-EBKGNKV7BNNAJC4ZMFRCPQHQY4/ |title = NANKAI空港線開業20年…「間に合うのか」と不安もよぎった世紀の大事業、今では関西と世界をつなぐ“懸け橋”に |publisher = 産経新聞 |accessdate = 2019-10-11 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** [[6月15日]] 泉佐野駅 - 関西空港駅間が開業{{R|交通1994-6}}。従業員輸送のため先行開業{{R|交通1994-6}}。
** [[9月4日]] 関西国際空港開港。特急「ラピート」の運転を開始。
* [[1995年]](平成7年)[[1月17日]] [[阪神淡路大震災]]が発生し、りんくうタウン駅‐関西空港駅間で列車が立ち往生し動けなくなった。14時20分に運転再開<ref>{{Cite book|和書 |author=左中規夫 |author2=角谷広樹 |author3=林利加 |year=1997 |chapter=阪神・淡路大震災において関西国際空港が果たした役割 |chapterurl=https://www.jsce.or.jp/library/eq10/proc/02009/0523.pdf#page=4 |title=阪神・淡路大震災に学ぶ-土木計画学からのアプローチ 阪神・淡路大震災土木計画学調査・研究論文集|format=PDF |publisher=土木学会 |page=526 |accessdate=2021-11-17 |quote= }}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[11月27日]] 泉佐野駅周辺の高架化工事完成(これにより、線内から[[踏切]]がすべて除却された)。普通を終日運転化。
* [[2013年]](平成25年)[[5月31日]] 保安装置を開業時から使用されていた[[自動列車停止装置#変周式(単変周・多変周)地上子|ATS-N]]から[[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]]に変更<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/csr/kankyou_report/pdf/kankyo2014_all.pdf CSR報告書 2014]}} P.34 - 南海電気鉄道</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[File:Nankai Shin-Imamiya Station Fare table 20180914.jpg|thumb|right|300px|関西空港連絡橋被災のため関西空港駅の運賃が隠されていた南海新今宮駅の運賃表<br>(2018年9月14日)]]
** [[9月4日]] [[平成30年台風第21号|台風21号]]の影響で関西国際空港連絡橋に停泊していたタンカーが漂流して衝突し<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL94532ZL94PTIL023.html 全長89mのタンカー、関空連絡橋に衝突 強風で流され] 朝日新聞 2018年9月4日</ref>、連絡橋が被害を受けたため、翌日以降も不通となる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20180904-OYT1T50041.html 関空、冠水で孤立…「帰れない」3000人困惑] 読売新聞 2018年9月4日</ref>。
** [[9月8日]]:泉佐野駅 - りんくうタウン駅間で運転再開<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL9755W3L97PTIL01Q.html JR西・南海、りんくうタウン駅まで運行再開へ 関空] 朝日新聞 2018年9月8日</ref><ref>[http://www.nankai.co.jp/library/pdf/201809typhoon.pdf 列車運転再開に関するお知らせ] 南海電鉄 2018年9月7日閲覧</ref>。
** [[9月18日]]:りんくうタウン駅 - 関西空港駅間で運転再開、全線復旧<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/west/news/180918/wst1809180007-n1.html |title=関空鉄道、2週間ぶり再開 旅客便運航回復前にアクセス大幅改善 |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2018-09-18 |accessdate=2018-09-18}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[大阪府]]内に所在。
* 特急([[ラピート|ラピートα・β]])・空港急行・普通:全種別・全列車とも各駅に停車。南海本線内の停車駅は[[南海本線#駅一覧|南海本線]]を参照。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #594bac;"|駅番号
!style="width:9em; border-bottom:solid 3px #594bac;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #594bac;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #594bac;"|営業キロ
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!style="border-bottom:solid 3px #594bac;"|所在地
|-
!NK30
|[[泉佐野駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|[[南海電気鉄道]]:[[File:Nankai mainline simbole.svg|17px]] [[南海本線]]([[難波駅 (南海)|難波駅]]方面へ直通)
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[泉佐野市]]
|-
!NK31
|[[りんくうタウン駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|1.9
|[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|S}} [[関西空港線]] (JR-S46)
|-
!NK32
|[[関西空港駅]]
|style="text-align:right;"|6.9
|style="text-align:right;"|8.8
|西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|S}} 関西空港線 (JR-S47)
|[[泉南郡]]<br />[[田尻町]]
|}
== その他 ==
*全線の約42.6 %が海の上を通っており、日本国内では[[瀬戸大橋]]を渡る[[本四備讃線]]、当線と線路を共用する[[関西空港線]]、関西国際空港と同じく海上に建設された[[中部国際空港]]の[[空港連絡鉄道]]である[[名鉄空港線]]と共に、海の上を通る区間が全線の4分の1 (25 %) 以上ある数少ない鉄道路線である。
*南海電気鉄道の[[株主優待]]として同社全線で利用可能な乗車証が配布されているが、りんくうタウン駅 - 関西空港駅間のみ除外されており、関西空港駅では利用できない<ref>[http://www.nankai.co.jp/ir/yuutai.html 株主優待:南海電鉄]、2016年9月15日閲覧。</ref>。
*南海電気鉄道全線で唯一、全区間踏切が存在しない。
== 関連項目 ==
* [[空港連絡鉄道]]
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.nankai.co.jp/traffic/railmap/nankai.html 南海線(空港線)]
{{南海電鉄の鉄道路線}}
{{デフォルトソート:なんかいくうこうせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|くうこうせん]]
[[Category:南海電気鉄道の鉄道路線|くうこう]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:関西国際空港の鉄道]]
[[Category:大阪湾]]
|
2003-09-28T13:26:53Z
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2023-12-23T07:16:53Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B7%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E7%B7%9A
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18,620 |
1340年
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1340年(1340 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1340年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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{{年代ナビ|1340}}
{{year-definition|1340}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[南朝 (日本)|南朝]] : [[延元]]5年、[[興国]]元年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] -
** [[北朝 (日本)|北朝]] : [[暦応]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]] : 2000年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[元 (王朝)|元]] : [[至元 (元順帝)|至元]]6年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[忠恵王]]([[重祚]])元年
** [[檀君紀元|檀紀]] : 3673年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[開祐]]12年
* [[仏滅紀元]] : 1882年 - 1883年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 740年 - 741年
* [[ユダヤ暦]] : 5100年 - 5101年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1340|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[2月11日]] - [[日本神話]]に基づく建国2000周年。
* [[スロイスの海戦]]
== 誕生 ==
{{see also|Category:1340年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月24日]](暦応3年/延元5年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[洞院公定]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[公卿]](+ [[1399年]])
* [[3月6日]] - [[ジョン・オブ・ゴーント]]、[[イングランド王国|イングランド]]の王族、[[ランカスター公]]、[[アキテーヌ公]](+ [[1399年]])
* [[4月2日]](暦応3年/興国元年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[足利基氏]]、南北朝時代の[[室町幕府]]初代[[鎌倉公方]](+ [[1367年]])
* [[11月30日]] - [[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]]、[[ベリー公]]、[[オーヴェルニュ]]公、[[ポワティエ]]伯(+ [[1416年]])
* [[一色詮範]]、南北朝時代、[[室町時代]]の[[武将]]、[[守護]](+ [[1406年]])
* [[エリザベタ・コトロマニッチ]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王兼[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]の2番目の妃(+ [[1387年]])
* [[フェオファン・グレク]]、[[東ローマ帝国]]出身の[[イコン]][[画家]](+ [[1410年]])
* [[ホーコン6世]]、[[ノルウェー]]王(+ [[1380年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1340年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月31日]] - [[イヴァン1世]]、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]]、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](* 生年未詳)
* [[5月21日]](暦応3年/興国元年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[島津宗久#島津宗久 (島津宗家)|島津宗久]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]](* [[1322年]])
* [[10月25日]](暦応3年/興国元年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[東明慧日]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[宋 (王朝)|宋]]から渡来した[[曹洞宗]]の[[僧]](* [[1272年]])
* [[12月20日]] - [[ヨハン1世 (バイエルン公)|ヨハン1世]]、[[バイエルン大公|下バイエルン公]](* [[1329年]])
* [[ウズベク・ハン]]、[[ジョチ・ウルス]]の第10代[[ハーン|ハン]](* 生年未詳)
* [[バヤン (メルキト部)|バヤン]]、[[元 (王朝)|元朝]]の将軍(* 生年未詳)
* [[ブダシリ]]、[[モンゴル帝国]]の[[ハーン|カアン]]の[[トク・テムル]]の[[皇后]](* 生年未詳)
* [[細川皇海]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(* 生年未詳)
* [[ボレスワフ・ユーリー2世]]、[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ハールィチ・ヴォルィーニ王国]]のポーランド人支配者(* [[1308年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1340}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:1340年|*]]
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18,621 |
1330年
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1330年(1330 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1330年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元徳]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]] : 1990年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[元 (王朝)|元]] : [[天暦 (元)|天暦]]3年、[[至順]]元年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]] -
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[忠粛王]]17年
** [[檀君紀元|檀紀]] : 3663年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[開祐]]2年
* [[仏滅紀元]] : 1872年 - 1873年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 730年 - 731年
* [[ユダヤ暦]] : 5090年 - 5091年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1330|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
{{節スタブ}}
== 誕生 ==
{{see also|Category:1330年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月12日]] - [[ヴィルヘルム1世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム1世]]、[[バイエルン大公|下バイエルン公]](+ [[1389年]])
* [[6月15日]] - [[エドワード黒太子]]、[[プリンス・オブ・ウェールズ]](+ [[1376年]])
* [[7月4日]](元徳2年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[足利義詮]]、[[室町幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1367年]])
* [[恭愍王]]、第31代[[高麗王]](+ [[1374年]])
* [[元天錫]]、[[高麗]]代、[[李氏朝鮮]]代の学者(+ [[1402年]])
* [[常遇春]]、[[明]]の[[武将]](+ [[1369年]])
* [[ニコラ・フラメル]]、[[フランス]]の出版業者、錬金術師(+ [[1418年]])
* [[細川詮春]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将(+ [[1367年]])
* [[結城直光]]、南北朝時代、[[室町時代]]の武将、[[結城氏]]の第8代当主(+ [[1395年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1330年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月13日]] - [[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]]、[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア公]]、[[ローマ王]](* [[1286年]])
* [[1月21日]] - [[ジャンヌ2世 (ブルゴーニュ女伯)|ジャンヌ2世]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世]]の王妃(* [[1291年]])
* [[3月7日]](元徳2年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[一色公深]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* 生年未詳)
* [[4月20日]](元徳2年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) - [[石川家光]]、鎌倉時代の武将、[[陸奥石川氏]]第12代当主(* 生年未詳)
* [[8月2日]] - [[ヨランド・ド・ドルー (スコットランド王妃)|ヨランド・ド・ドルー]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]の2番目の妃(* [[1263年]])
* [[9月28日]] - [[エリシュカ・プシェミスロヴナ]]、[[ボヘミア]]王および[[ルクセンブルク伯]][[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]の最初の妃(* [[1292年]])
* [[10月29日]](元徳2年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]) - [[世良親王]]、鎌倉時代の[[皇族]](* 生年未詳)
* [[12月19日]](元徳2年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[武田信宗]]、鎌倉時代の武将、[[甲斐源氏]][[武田氏]]第9代当主(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1330}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,623 |
1328年
|
1328年(1328 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1328年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]]:[[戊辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[嘉暦]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]:1988年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[元 (王朝)|元]]
*** [[イェスン・テムル]]:[[泰定 (元)|泰定]]5年、[[致和]]元年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]] - 旧9月
*** [[アリギバ]]:[[天順 (元)|天順]]元年旧9月 - 旧10月
*** [[トク・テムル]]:[[天暦 (元)|天暦]]元年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]] -
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]]:[[忠粛王]]15年
** [[檀君紀元|檀紀]]:3661年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]]:[[開泰 (陳朝)|開泰]]5年
* [[仏滅紀元]]:1870年 - 1871年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:728年 - 729年
* [[ユダヤ暦]]:5088年 - 5089年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1328|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[5月27日]] - フランスで[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が即位。[[ヴァロワ朝]]の成立。
* [[モスクワ大公国]]の建国
* 日本における[[安東氏]]の乱が収まる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1328年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月7日]] - [[ルートヴィヒ6世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ6世]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]]、[[ブランデンブルク辺境伯]](+ [[1365年]])
* [[5月21日]](嘉暦3年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[島津氏久]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]、[[島津氏]]の第6代当主(+ [[1387年]])
* [[7月15日]](嘉暦3年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[山科教言]]、南北朝時代の[[公卿]](+ [[1411年]])
* [[9月29日]] - [[ジョーン・オブ・ケント]]、[[エドワード黒太子]]の妃(+ [[1385年]])
* [[10月21日]](天暦元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[朱元璋]](洪武帝)、[[明]]の初代[[皇帝]](+ [[1398年]])
* [[後村上天皇]]、南北朝時代の第97代、[[南朝 (日本)|南朝]]第2代[[天皇]](+ [[1368年]])
* [[佐々木高秀]]、南北朝時代の[[守護大名]](+ [[1391年]])
* [[ブランシュ・ド・フランス (オルレアン公爵夫人)|ブランシュ・ド・フランス]]、[[オルレアン公]][[フィリップ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|フィリップ]]の妃(+ [[1382年]]?)
* [[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]、[[対立教皇]](+ [[1423年]])
* [[山名師義]]、南北朝時代の武将(+ [[1376年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1328年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月1日]] - [[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]、[[フランス王国|フランス]]王(* [[1294年]])
* [[8月6日]] - [[ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ]]、[[ミラノ]]の僭主(* [[1277年]])
* [[8月15日]](致和元年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[イェスン・テムル]]、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の第10代[[ハーン]](* [[1264年]])
* [[8月22日]](嘉暦3年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[冷泉為相]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[歌人]]、[[冷泉家]]の祖(* [[1263年]])
* [[10月12日]] - [[クレマンス・ド・オングリー]]、フランス王[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]の2度目の王妃(* [[1293年]])
* [[11月9日]] - [[カルロ (カラブリア公)|カルロ]]、[[カラブリア]]公(* [[1298年]])
* [[11月14日]](天順元年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]])? - [[アリギバ]]、モンゴル帝国(元)の第11代ハーン(* [[1320年]]?)
* [[11月16日]](嘉暦3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[久明親王]]、[[鎌倉幕府]]8代[[征夷大将軍]](* [[1276年]])
* [[12月9日]](嘉暦3年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[冷泉為守]]、鎌倉時代の[[公家]]、歌人(* [[1265年]])
* [[イブン・タイミーヤ]]、シリアの[[ハンバル派]][[イスラム法学者]](* [[1263年]])
* [[ダウラト・シャー]]、イェスン・テムルに仕えた[[ムスリム]]官僚(* 生年不詳)
* [[ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ]]、[[イタリア]]の[[フランシスコ会]]の[[司祭]]、[[宣教師]](* [[1246年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1328}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前195年
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紀元前195年(きげんぜん195ねん)は、ローマ暦の年である。
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'''紀元前195年'''(きげんぜん195ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[孝元天皇]]20年
** [[皇紀]]466年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[前漢]] : [[劉邦|高祖]]12年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2139年
* [[仏滅紀元]] : 350年
* [[ユダヤ暦]] : 3566年 - 3567年
{{Clear}}
== できごと ==
=== カルタゴ ===
* [[カルタゴ]]の行政と立法を改革したため、[[ハンニバル]]はカルタゴの一部の貴族の不興を買い、また[[ローマ帝国]]からも[[セレウコス朝]]の王[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]を扇動してローマに反抗させたと非難された。ローマはカルタゴにハンニバルの引き渡しを要求したが、ハンニバルは自ら国外に亡命した。
=== セレウコス朝 ===
* ハンニバルがアンティオコス3世によって[[エフェソス]]に匿われ、その相談相手になると、アンティオコス3世とローマの間の緊張が高まった。
* ローマの外交官が干渉すると、アンティオコス3世は[[プトレマイオス朝]]との戦争を中断した。平和条約によって、アンティオコス3世は公式に[[シリア]]南部の領有を認められ、[[アナトリア]]のエジプト領土も手に入れた。
=== 共和政ローマ ===
* [[執政官]] - [[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]]と[[ルキウス・ウァレリウス・フラックス (紀元前195年の執政官)|ルキウス・ウァレリウス・フラックス]]
* [[ヒスパニア]]の総督となったカトがヒスパニアの原住民の反乱を屈服させ、[[グアダルキビール川]]まで勢力を広げた。なお、カトは援軍となった[[ケルティベリア人]]に200[[タレント (単位)|タレント]](約12万[[デナリウス]])を支払ったが、そのことでローマ人から多くの批判を浴びた。カトがローマに戻ると、{{要出典範囲|date=2012年7月|[[ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス]]が後を継いでヒスパニア総督になった。}}
* ローマの贅沢を禁止する法律''Lex Oppia''は、女性の蓄財を禁止するだけではなく、富の誇示も禁じたが、執政官のカトの強い反対にあって撤回された。
=== ギリシア ===
* [[ナビス戦争]]
** [[ナビス]]が支配する[[スパルタ]]が、[[ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス]]などが指揮するローマ、[[アカイア同盟]]、[[アッタロス朝]]、[[ロドス]]などの連合軍に敗北。
** 同年に開催された「[[ネメア競技祭]]」においてフラミニヌスはナビスと講和を結んだ。
=== エジプト ===
* ギリシアの批評家、文法学者である[[ビザンティオンのアリストパネス]]が[[アレクサンドリア]]の司書長になった。
=== 中国 ===
* [[前漢]]の首都[[長安]]が、[[マウリヤ朝]]の首都[[パータリプトラ]]を抜いて、当時世界最大の都市になった。
=== 朝鮮 ===
* [[衛満]]が[[準王]]の[[箕子朝鮮]]を滅ぼして、[[衛氏朝鮮]]を建国する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前195年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ミトラダテス1世]]、[[パルティア]]王(+ [[紀元前138年]])
* [[プビリウス・テレンティウス・アフェル]]、ローマの劇作家(+ [[紀元前159年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前195年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[劉邦]]、[[前漢]]の初代皇帝(* [[紀元前256年]]または[[紀元前247年]])
* [[英布]]、前漢初期の武将(* 生年不詳)
* デクサゴリダス、スパルタの武将(* 生年不詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|195 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前188年
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紀元前188年(きげんぜん188ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前188年(きげんぜん188ねん)は、ローマ暦の年である。
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'''紀元前188年'''(きげんぜん188ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[孝元天皇]]27年
** [[皇紀]]473年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[前漢]] : [[恵帝 (漢)|恵帝]]7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2146年
* [[仏滅紀元]] : 357年
* [[ユダヤ暦]] : 3573年 - 3574年
{{Clear}}
== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[アカイア同盟]]のリーダーである[[メガロポリスのフィロポイメン]]は、彼の軍と[[スパルタ]]の亡命者を率いて[[ラコニア県]]北部に侵入した。彼の軍は、前のスパルタと[[ナビス]]の[[僭主]]がスパルタの周りに築いた壁を破壊した。その後フィロポイメンは亡命者にスパルタの市民権を回復し、スパルタの法律を廃止して[[アカイア]]の法律を導入した。ギリシアにおけるスパルタの勢力はなくなり、アカイア同盟が[[ペロポネソス半島]]全体の覇権を握った。
=== 共和政ローマ ===
* [[アパメイアの和約|アパメア条約]]により、ローマは[[セレウコス朝]]の[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]に対してギリシアと[[アナトリア]]の領土を[[トロス山脈]]より東とし、12年間で賠償金15,000[[タレント (単位)|タレント]]を支払わせ、[[カルタゴ]]の前将軍[[ハンニバル]]を降伏させた。セレウコス朝はシリア、メソポタミア、西イランの範囲に減らされ、ローマは東地中海の覇権を握った。
=== 小アジア ===
*ハンニバルは[[クレタ島]]を経て、ローマの同盟軍である[[ペルガモン王国]]の[[エウメネス2世]]と敵対していた[[ビチュニア]]の[[プルシアス1世]]のところまで逃げた。
*アパメア条約によって、エウメネス2世は[[フリジア]]、[[リディア]]、[[リュキア]]、[[ピシディア]]、[[パンフィリア]]をローマの同盟国から得た。ローマはアナトリアの領有を望まなかったが、将来セレウコス朝が拡大する可能性に備えて親ローマで強力な緩衝地帯として残しておきたかった。
=== 中国 ===
* [[前漢]]では[[恵帝 (漢)|恵帝]]が死去、[[太后]][[呂雉]]が[[丞相]][[陳平]]の助言を受け[[呂産]]ら自身の血縁者である呂氏一族を各地に封じた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前188年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[景帝 (漢)|景帝]]:[[前漢]]の第6代皇帝([[紀元前141年]]没)
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前188年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[恵帝 (漢)|恵帝]]:前漢の第2代皇帝([[紀元前210年]]生)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|188 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前184年
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紀元前184年(きげんぜん184ねん)は、ローマ暦の年である。
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'''紀元前184年'''(きげんぜん184ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[孝元天皇]]31年
** [[皇紀]]477年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[前漢]] : [[呂雉|高后]]4年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2150年
* [[仏滅紀元]] : 361年
* [[ユダヤ暦]] : 3577年 - 3578年
{{Clear}}
== できごと ==
=== 共和政ローマ ===
* [[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]]は、[[ルキウス・ウァレリウス・フラックス]]とともにローマの[[執政官]]に選ばれた。
* [[マケドニア王国]]の王[[ピリッポス5世]]がローマに対する戦争の準備をしているという懸念が持ち上がり、ピリッポスの動向を探るため、[[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]を長とする使節団がマケドニア王国とギリシアに送られた。
* [[ピケヌム]]の植民地として、ローマにより[[ペーザロ]]の街が建設された。
* 既知の最古の[[バシリカ]]であるBasilica Porciaがカトにより作られ、ローマで完成された。この建物はローマ市民によって、商取引や法的問題の処理のために使われた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前184年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前184年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[プラウトゥス]]:ローマの喜劇作家([[紀元前254年]]生)
* [[前少帝 (前漢)|少帝]]:[[前漢]]の皇帝
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|184 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,627 |
消音スピーカー
|
消音スピーカー(しょうおんスピーカー)とは騒音公害での対処法のひとつである。日本の放送機器メーカーTOAが、世界で初めて開発した。
騒音源の音を拾い、それと逆相になるような音を作りスピーカーから出力し空間で打ち消し合わせ「騒音レベルを下げる」ことを目的としたもの。理論自体はかなり昔から証明されてきたが、デジタルシグナルプロセッサの高速化により製品化が可能になった。
室内の静寂性が重視される乗用車に採用されることがある。日産自動車のU13型系ブルーバードはその一例。
救急車の車内にもサイレン音を緩和するために採用され、救護者の心理的圧迫感軽減や医療機関との無線通話明瞭度確保に役立っている。騒音源(サイレン音)を、音としてマイクロフォンで拾うのではなくサイレンアンプから電気的に得るため、整った逆相波形が生成でき効果が高い。
旅客機であるサーブ 340では、ジェットエンジンとプロペラによる客室内騒音の低減に用いられている。地上でジェットエンジンの試運転を行う際、騒音を軽減するため格納庫と一体した消音装置が用いられる。
消音スピーカーの類似技術として、ヘッドフォンや携帯音楽プレーヤーに内蔵されるノイズキャンセラーがある。周囲の音(環境音という)を内蔵のマイクロフォンで収音し、これと逆位相の信号をオーディオ信号と混合して出力することによって、ヘッドフォンへ外部から侵入する環境音を軽減するものである。
ヘッドフォン再生の場合、収音した環境音に再生音がほとんど混入しないため簡易な電子回路で得た逆相信号でも効果があり、消音スピーカーよりも早く1990年代から商品化された。ソニー製のウォークマンや、Xperia(正しくは、ソニーモバイルコミュニケーションズ製)などでは、「デジタルノイズキャンセリング機能」とされている。
ノイズキャンセラーの欠点として、低音は消せるが、波長が短い高音に対しては難しい点があげられる。
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消音スピーカー(しょうおんスピーカー)とは騒音公害での対処法のひとつである。日本の放送機器メーカーTOAが、世界で初めて開発した。 騒音源の音を拾い、それと逆相になるような音を作りスピーカーから出力し空間で打ち消し合わせ「騒音レベルを下げる」ことを目的としたもの。理論自体はかなり昔から証明されてきたが、デジタルシグナルプロセッサの高速化により製品化が可能になった。
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{{出典の明記|date=2020年8月}}
[[File:Active Noise Reduction.svg|thumb|300px|騒音(赤)と逆位相の波(青)を発生させて騒音を打ち消す]]
'''消音スピーカー'''(しょうおんスピーカー)とは[[騒音]][[公害]]での対処法のひとつである。日本の放送機器メーカー[[TOA (企業)|TOA]]が、世界で初めて開発した。
騒音源の音を拾い、それと逆相になるような音を作り[[スピーカー]]から出力し空間で打ち消し合わせ「騒音レベルを下げる」ことを目的としたもの。理論自体はかなり昔から証明されてきたが、[[デジタルシグナルプロセッサ]]の高速化により製品化が可能になった。
== 乗り物への適用例 ==
室内の静寂性が重視される乗用車に採用されることがある。[[日産自動車]]の[[日産・ブルーバード#9代目 U13型系(1991年 - 1996年)|U13型系ブルーバード]]はその一例。
[[救急車]]の車内にも[[サイレン]]音を緩和するために採用され、救護者の心理的圧迫感軽減や医療機関との無線通話[[明瞭度]]確保に役立っている。騒音源(サイレン音)を、[[音]]として[[マイクロフォン]]で拾うのではなくサイレン[[アンプ (音響機器)|アンプ]]から電気的に得るため、整った逆相波形が生成でき効果が高い。
[[旅客機]]である[[サーブ 340]]では、[[ターボプロップ|ジェットエンジンとプロペラ]]による客室内騒音の低減に用いられている。地上でジェットエンジンの試運転を行う際、騒音を軽減するため格納庫と一体した消音装置が用いられる。
== ノイズキャンセラー ==
[[File:Bose QuietComfort 25 Acoustic Noise Cancelling Headphones.jpg|thumb|ノイズキャンセリングヘッドホン(Bose QuietComfort 25)]]
消音スピーカーの類似技術として、[[ヘッドフォン]]や[[携帯音楽プレーヤー]]に内蔵される'''ノイズキャンセラー'''がある。周囲の音(環境音という)を内蔵の[[マイクロフォン]]で収音し、これと逆位相の信号をオーディオ信号と混合して出力することによって、ヘッドフォンへ外部から侵入する環境音を軽減するものである。
ヘッドフォン再生の場合、収音した環境音に再生音がほとんど混入しないため簡易な電子回路で得た逆相信号でも効果があり、消音スピーカーよりも早く[[1990年代]]から商品化された。[[ソニー]]製の[[ウォークマン]]や、[[Xperia]](正しくは、[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]]製)などでは、「'''デジタルノイズキャンセリング機能'''」とされている。
ノイズキャンセラーの欠点として、低音は消せるが、波長が短い高音に対しては難しい点があげられる。<ref>{{Cite web|和書|title=「機械学習×音響」立命館大学教授兼ソニックアークCTO西浦教授が語る「音響工学の最前線」|url=https://metoree.com/stories/1305/|website=metoree.com|accessdate=2021-07-02}}</ref>
=== フィルターによるノイズキャンセラー ===
; [[アナログ]]式
: [[フィルタ回路]]を使用し、ノイズを取り除く方法。
: [[ハイパスフィルタ]](HPF)、[[ローパスフィルタ]](LPF)、[[バンドパスフィルタ]](BPF)、[[バンドエリミネーションフィルタ]](BEF)など。
; [[デジタル]]式
: [[デジタル信号処理|DSP]]などで元の[[信号 (電気工学)|信号]][[波形]]を[[窓関数]]に与え、その波形に合致しない[[帯域]](元信号に含まれないと推定される周波数成分)をノイズとして取り除く方法。
=== 位相によるノイズキャンセラー ===
あるノイズに対して[[逆位相]]の信号を重ね合わせると、ノイズが無効化される。
; [[wikt:アクティブ|アクティブ]]ノイズキャンセラー
: ノイズに対して逆位相の信号を[[デジタル]]回路、または[[アナログ]]回路によって別途生成し信号を重ね合わせることによって[[能動的]]にノイズを減衰させる方法。
: [[サイレント楽器]]、[[ソナー]][[雑音]]の除去、[[アンテナ・ノイズ・キャンセラ]]など。
; [[パッシブ]]ノイズキャンセラー
: ノイズに対してノイズそのものの[[エネルギー]]を使用し、逆位相の信号を生成し信号を重ね合わせることによって[[受動的]]にノイズを減衰させる方法。
: [[高速道路]]の[[沿道]]にある[[遮音壁]]型ノイズキャンセラー(複雑な[[立体定数回路]]で構成)、[[潜水艦]]や[[ステルス機]]の特殊[[塗装]]、[[エレクトリック・ギター]]の[[ハムバッキング]]など。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[位相]]
* [[効果音]]
* [[QuietComfort]]
* [[アクティブフィルタ]]
* [[ノイズリダクション]]
== 外部リンク ==
* [http://www.toa.co.jp/anc/ TOA アクティブ消音システム]
{{Tech-stub}}
{{DEFAULTSORT:しようおんすひいかあ}}
[[Category:スピーカー]]
[[Category:環境技術]]
[[Category:快適技術]]
[[Category:ノイズ]]
[[Category:騒音]]
[[Category:音声処理]]
|
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18,630 |
低周波
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低周波(ていしゅうは)とは、波動や振動の周波数(振動数)が低い(小さい)こと。または周波数の小さい音波、電波や交流を指す。
音での低周波の定義として、100 Hz以下は低周波音と呼ばれる。また、20 Hz以下は超低周波音と呼ばれる。
自然科学では低周波地震が知られている。低周波地震は1 Hzから2 Hz程度の地震のことである(通常の地震は10から20 Hz程度)。地震の規模はM1~2程度である。低周波領域の地震は規模に比して震動がゆっくりしているのが特徴で、震動の周期が長いため長周期地震とも呼ばれる。発生地点が浅い場合と深い場合で分類されている(浅部・深部)。火山性の地震の特徴としてもみられる。また、継続時間が長くなってM3~4程度と若干規模が大きくなる超低周波地震も存在する。同じく低周波領域で起こるもので、1秒間に小刻みに揺れる低周波微動や通常の地震によるプレートすべりに比べ遥かに遅い速度(長時間)で滑るゆっくりすべり(スロースリップまたはゆっくり地震とも)、震動の大きさに比して大きな津波が発生する津波地震との関連が指摘されている。
低周波電磁界の健康や機器への影響についての研究がされているが、環境電磁工学では低周波電磁界のはっきりとした定義はない。WHOでは100 kHz以下の電磁界を超低周波電磁界としている。日本国の電波法では10 kHzを超える電界・磁界が人体に与える強度の値を定めている。
はっきりとした定義はないが、およそ、音声周波数帯域(可聴域 20 Hzから20 kHz程度)より低い周波数から、音声周波数帯域より少し高い周波数の電気信号を指す。つまり、およそ数十キロヘルツ以下の周波数の交流信号のことである。英語の audio frequency に対応する語で、AF と略記する。
しかし、同一の周波数であっても、無線通信の搬送波として使用される場合は高周波と呼ぶのが一般的である。たとえば、10 kHzのオーディオ信号は低周波であり、超長波として無線通信に用いられる場合は高周波と呼ぶのが一般的である。
リハビリやペインクリニックにおいて物理療法として用いられる低周波治療器、あるいは低周波通電療法のことを単に低周波と呼ぶことがある。肌に当てた導子と呼ばれる2個以上の端子の間に、弱いパルス波電流を流す。周波数が1~2 Hzは肩こり、100~150 Hzは腰痛の治療に用いられる。周波数が高めで神経を刺激するTENSはリハビリ目的で使われている。出力を強くしたものが、バラエティ番組等で罰ゲームとして使用されることもある。
また電気パルスで筋肉を刺激するEMSは、スポーツ選手の効率的な筋力トレーニングとして効果が実証されているが、脂肪を減らす効果はないため痩身には効果が薄い。
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低周波(ていしゅうは)とは、波動や振動の周波数(振動数)が低い(小さい)こと。または周波数の小さい音波、電波や交流を指す。
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'''低周波'''(ていしゅうは)とは、[[波動]]や振動の[[周波数]](振動数)が低い(小さい)こと。または周波数の小さい[[音波]]、[[電波]]や[[交流]]を指す。
== 音波 ==
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音での低周波の定義として、100 Hz以下は'''低周波音'''と呼ばれる。また、20 Hz以下は超低周波音と呼ばれる。
== 自然科学 ==
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自然科学では'''低周波地震'''が知られている。低周波地震は1 Hzから2 Hz程度の[[地震]]のことである(通常の地震は10から20 Hz程度)。地震の規模はM1~2程度である。低周波領域の地震は規模に比して[[震動]]がゆっくりしているのが特徴で、震動の周期が長いため'''長周期地震'''とも呼ばれる。発生地点が浅い場合と深い場合で分類されている(浅部・深部)。[[火山性地震|火山性の地震]]の特徴としてもみられる。また、継続時間が長くなってM3~4程度と若干規模が大きくなる'''超低周波地震'''も存在する。同じく低周波領域で起こるもので、1秒間に小刻みに揺れる[[低周波微動]]や通常の地震による[[プレート]]すべりに比べ遥かに遅い速度(長時間)で滑る[[ゆっくりすべり]](スロースリップまたはゆっくり地震とも)、震動の大きさに比して大きな[[津波]]が発生する[[津波地震]]との関連が指摘されている<ref>[http://members.jcom.home.ne.jp/mikedo/Guidepost_Culture_318Slow_Slip.htm スロー地震とは](G-NEToffice)</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012050700020 ゆっくり滑る地震解明=プレート境界で発生-海洋機構など]{{リンク切れ|date=2016年9月}}(時事通信 2012年5月7日)</ref>。
== 電磁波 ==
[[低周波電磁界]]の健康や機器への影響についての研究がされているが、環境電磁工学では低周波電磁界のはっきりとした定義はない。[[世界保健機関|WHO]]では100 kHz以下の電磁界を'''超低周波電磁界'''としている。日本国の電波法では10 kHzを超える電界・磁界が人体に与える強度の値を定めている。
== 電気工学 ==
はっきりとした定義はないが、およそ、音声周波数帯域([[聴覚|可聴域]] 20 [[ヘルツ (単位)|Hz]]から20 [[キロヘルツ|kHz]]程度)より低い周波数から、音声周波数帯域より少し高い周波数の電気信号を指す。つまり、およそ数十キロヘルツ以下の周波数の交流信号のことである。英語の audio frequency に対応する語で、'''AF''' と略記する。
しかし、同一の周波数であっても、[[無線通信]]の搬送波として使用される場合は[[高周波]]と呼ぶのが一般的である。たとえば、10 kHzのオーディオ信号は低周波であり、[[超長波]]として無線通信に用いられる場合は高周波と呼ぶのが一般的である<ref>電波法では、「高周波利用設備」の定義の中で10 kHz以上を高周波としている。</ref>。
== 医療・トレーニング ==
{{See also|電気療法}}
[[リハビリ]]や[[ペインクリニック]]において[[物理療法]]として用いられる'''低周波治療器'''、あるいは'''低周波通電療法'''のことを単に低周波と呼ぶことがある。肌に当てた導子と呼ばれる2個以上の端子の間に、弱いパルス波電流を流す。周波数が1~2 Hzは[[肩こり]]、100~150 Hzは[[腰痛]]の治療に用いられる。周波数が高めで神経を刺激する[[TENS]]はリハビリ目的で使われている。出力を強くしたものが、バラエティ番組等で罰ゲームとして使用されることもある。
また電気パルスで筋肉を刺激する[[EMS]]は、スポーツ選手の効率的な筋力トレーニングとして効果が実証されているが、脂肪を減らす効果はないため痩身には効果が薄い<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/health/hiketsu/TKY201111140089.html |title=電気で筋肉を刺激するEMSマシン 筋肉は増、やせは期待薄 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2011-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120327034910/http://www.asahi.com/health/hiketsu/TKY201111140089.html |archivedate=2012-03-27}}</ref>。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[発振回路]]
* [[周波数]]
* [[高周波]]
{{Normdaten}}
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18,634 |
阿武隈急行
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阿武隈急行株式会社(あぶくまきゅうこう)は、福島県伊達市に本社を置き、福島県および宮城県で旧日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線および日本鉄道建設公団の建設線(丸森線)を引き継いだ阿武隈急行線を運営する第三セクターの鉄道会社である。阿武急(あぶきゅう)とも呼ばれている。
会社設立から4年後の1988年に全線開業を果たした。現在は宮城・福島両県および沿線自治体で過半数の株式を保有するが、設立当初は地元の鉄道・バス会社福島交通が株式の51%を保有していた。現在も福島駅において、福島交通飯坂線と駅舎およびプラットホームを共用している。
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阿武隈急行株式会社(あぶくまきゅうこう)は、福島県伊達市に本社を置き、福島県および宮城県で旧日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線および日本鉄道建設公団の建設線(丸森線)を引き継いだ阿武隈急行線を運営する第三セクターの鉄道会社である。阿武急(あぶきゅう)とも呼ばれている。 会社設立から4年後の1988年に全線開業を果たした。現在は宮城・福島両県および沿線自治体で過半数の株式を保有するが、設立当初は地元の鉄道・バス会社福島交通が株式の51%を保有していた。現在も福島駅において、福島交通飯坂線と駅舎およびプラットホームを共用している。
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{{Otheruses|企業|この企業が運営する鉄道路線|阿武隈急行線}}
<!--出典が必要な場合は具体的に指摘してください-->
{{基礎情報 会社
| 社名 = 阿武隈急行株式会社
| 英文社名 = AbukumaExpress.,ltd
| ロゴ = [[File:Abukyu logo.svg|120px|ロゴ]] <br />阿武隈急行のロゴ
| 画像 = [[ファイル:Abukumakyuko-A8100.JPG|240px]]
| 画像説明 = 阿武隈急行の8100系電車
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = 阿武急(あぶきゅう)
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 960-0773
| 本社所在地 = [[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]梁川町五反田100番地1
| 本社緯度度 = 37
| 本社緯度分 = 50
| 本社緯度秒 = 32.92
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 140
| 本社経度分 = 35
| 本社経度秒 = 59.89
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1984年]]([[昭和]]59年)[[4月5日]]
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業<br />不動産業、旅行業他
| 代表者 = 代表取締役社長 菅原 久吉
| 資本金 = 15億円(2022年3月31日時点)<ref name="kessan38" >{{Cite web|和書|date= |url=http://www.abukyu.co.jp/direction/wp-content/uploads/2022/06/38-Kessankokoku.pdf |title=第38期 事業報告計算書類 |format=PDF |publisher=阿武隈急行株式会社 |accessdate=2022-11-23}}</ref>
| 発行済株式総数 = 30,000株<br />(2013年3月31日現在)<!--「株主資本等変動計算書に関する注記」がなく会社法上の公告の要件を満たしていない-->
| 売上高 = 4億3102万5000円<br />(2022年3月期<ref name="kessan38" />)
| 営業利益 = △6億2431万7000円<br />(2022年3月期<ref name="kessan38" />)
| 純利益 = △10億1908万2000円<br />(2022年3月期<ref name="kessan38" />)
| 純資産 = △8億7192万9000円<br />(2022年3月31日現在<ref name="kessan38" />)
| 総資産 = 22億9394万6000円<br />(2022年3月31日現在<ref name="kessan38" />)
| 従業員数 = 79人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[福島県]] 28.0%<br />[[宮城県]] 25.6%<br />[[福島交通]] 20.0%<br />[[福島市]] 6.1%<br />[[伊達市 (福島県)|伊達市]] 5.2%<br />(2019年3月31日現在<ref>令和元年度鉄道要覧</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = http://www.abukyu.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''阿武隈急行株式会社'''(あぶくまきゅうこう)は、[[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]に本社を置き、福島県および[[宮城県]]で旧[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[特定地方交通線]]および[[日本鉄道建設公団]]の建設線([[丸森線]])を引き継いだ[[阿武隈急行線]]を運営する[[第三セクター]]の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。'''阿武急'''(あぶきゅう)とも呼ばれている。
会社設立から4年後の1988年に全線開業を果たした。現在は宮城・福島両県および沿線自治体で過半数の[[株式]]を保有するが、設立当初は地元の鉄道・バス会社[[福島交通]]が株式の51%を保有していた。現在も[[福島駅_(福島県)|福島駅]]において、[[福島交通飯坂線]]と駅舎および[[プラットホーム]]を共用している。
== 歴史 ==
{{See also|阿武隈急行線#歴史}}
* [[1984年]]([[昭和]]59年)
** [[4月5日]] : 阿武隈急行株式会社設立<ref>[http://www.abukyu.co.jp/about/outline/ 会社概要] - 阿武隈急行</ref><ref name="panf">{{PDFlink|[http://202.74.19.60/about/outline/pdf/panf.pdf 会社案内]}} - 阿武隈急行(2013年12月30日閲覧)</ref><ref name="milt-tohoku">[http://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/td/td-sub07.htm 阿武隈急行株式会社] - 国土交通省東北運輸局</ref>。
** [[12月24日]] : 福島 - 丸森間免許申請。
* [[1985年]](昭和60年)
** [[2月27日]] : 免許交付。工事施工認可申請。
** [[3月2日]] : 工事施工認可。既設区間の電化および[[未成線|未成区間]]の建設工事再開。
* [[1986年]](昭和61年)[[7月1日]] : [[日本国有鉄道|国鉄]]からの転換により、[[槻木駅|槻木]] - [[丸森駅|丸森]]間を[[非電化]]で暫定開業<ref name="panf" />。国鉄[[東北本線]]槻木 - [[仙台駅|仙台]]間に乗り入れ<ref name="milt-tohoku" />。
* [[1988年]](昭和63年)7月1日 : [[福島駅 (福島県)|福島]] - 丸森間延伸開業(全通)<ref name="panf" /><ref name="milt-tohoku" />。全線を[[交流電化]]。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]東北本線と相互[[直通運転]]開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1989-08-01 |title=JR気動車客車情報 89年版 |chapter=JR年表 |page=142 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-110-4}}</ref>。
* [[2004年]]([[平成]]16年)[[3月13日]] : JR東日本東北本線郡山 - 福島間への乗り入れを中止。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] : [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生。地震直後から全線で運転を見合わせ。全線で被害<ref name="panf" />。
** [[4月6日]] : 梁川 - 保原間で運転を再開<ref name="chizucho-shinsai">{{Cite book|和書|author=今尾恵介|title=日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録|publisher=新潮社|year=2011|page=9|ISBN=}}</ref>なおサービス列車としての運行であり運賃は無料であった。
** [[4月13日]] : 梁川 - 富野間で運転を再開<ref name="chizucho-shinsai" />、引き続きサービス列車としての運行であり運賃は無料であった。
** [[4月18日]] : 瀬上 - 保原間と角田 - 槻木間が運転を再開<ref name="chizucho-shinsai" />。
** [[4月28日]] : 福島 - 瀬上間が運転を再開<ref name="chizucho-shinsai" />。
** [[5月16日]] : 富野 - 角田間が運転を再開し全線運転再開<ref name="panf" /><ref name="chizucho-shinsai" />。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[10月12日]] : [[令和元年東日本台風]](台風19号)のため全線運転見合わせ<ref>{{Cite news|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20191012-423516.php |title=福島県内の鉄道...12日「計画運休」 台風19号接近でJRなど|newspaper=福島民友新聞 |publisher=福島民友新聞社 |date=2019-10-12}}</ref>。全線で被害42か所。[[10月23日|同月23日]]までに福島 - 富野間で運転を再開<ref>{{Cite news |title=阿武隈急行、復旧見通せず 被害42カ所 宮城側不通続く|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201910/20191027_73005.html|newspaper=河北新報 |date=2019-10-27|publisher=河北新報社|accessdate=2019-11-09}}</ref>。
** [[12月6日]] : 丸森 - 槻木間で運転を再開<ref>{{Cite news|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201912/20191206_13034.html|title=阿武隈急行の丸森-槻木間が再開、汽笛一声 復興行き|newspaper=河北新報| publisher=河北新報社|date=2019-12-06|accessdate=2019-12-27}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[10月31日]]: 富野 - 丸森間が運転を再開し全線運転再開<ref>{{Cite news|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202010/20201008_72024.html|title=阿武隈急行31日全線再開 富野-丸森、1年ぶり本復旧|newspaper=河北新報 ONLINE NEWS|date=2020-10-08|accessdate=2020-10-31}}</ref><ref name="kahoku20201101">{{Cite news|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202010/20201031_12022.html|title=阿武急、待望の全線再開 台風19号被災から1年ぶり|newspaper=河北新報 ONLINE NEWS|date=2020-10-31|accessdate=2020-11-01}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
**2月14日 13日23時に起きた[[福島県沖地震 (2021年)|福島県沖地震]]により全線終日運休<ref>{{Cite news |title=阿武隈急行、地震で道床流出など被害 - 丸森駅ホーム・駅舎も損傷|url=https://news.mynavi.jp/article/20210214-1731250/|newspaper=マイナビニュース|date=2021-03-14|accessdate=2022-03-22}}</ref>。15日始発から通常運転<ref>{{Cite news |title=東北新幹線「再開に10日」 在来線は全て復旧|url=https://kahoku.news/articles/20210216khn000005.html|newspaper=河北新報 ONLINE NEWS|date=2021-03-16|accessdate=2022-03-22}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
**3月17日 16日23時に起きた[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]により全線終日運休<ref>{{Cite news |title=宮城・福島震度6強から1週間、復旧の見通し立たず 阿武隈急行|url=https://www.sankei.com/article/20220323-SKSNM6K7EBJQNKINAALDA6A4OQ/|newspaper=産経新聞|date=2022-03-23|accessdate=2022-03-23}}</ref>。
** 4月18日 丸森 - 槻木間が運転を再開<ref name="kahoku20220414">{{Cite news|title=阿武隈急行、丸森-槻木18日運転再開 梁川-丸森は25日|newspaper=河北新報|date=2022-04-14|url=https://kahoku.news/articles/20220414khn000001.html|access-date=2022-04-18}}</ref><ref>{{Cite news|title=阿武隈急行あす再開 丸森―槻木間、28日まで朝夕のみのダイヤ|newspaper=河北新報|date=2022-04-17|url=https://kahoku.news/articles/20220416khn000049.html|access-date=2022-04-18}}</ref>。
** 4月25日 梁川 - 丸森間が運転を再開<ref name="kahoku20220414" />。
** 5月23日 保原 - 梁川間が運転を再開<ref name="minyu20220518">{{Cite news|title=「阿武隈急行」6月下旬にも全線再開 保原-梁川間は5月23日|newspaper=福島民友新聞|date=2022-05-18|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20220518-704568.php|access-date=2022-11-13}}</ref>。
** 6月27日 福島 - 保原間が運転を再開し全線運転再開<ref>{{Cite news|title=阿武隈急行が全線再開 震度6強から3カ月|newspaper=河北新報|date=2022-06-27|url=https://kahoku.news/articles/20220627khn000035.html|access-date=2022-11-13|publisher=河北新報社}}</ref>。
== 路線 ==
* [[阿武隈急行線]] : [[福島駅 (福島県)|福島]] - [[槻木駅|槻木]](54.9km 24駅<ref name="panf" />・[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第1種鉄道事業]]。福島 - [[矢野目信号場]]間は、JR東日本[[東北本線]]と施設を共用)
[[File:Abukuma Express Linemap.png|thumb|right|300px|路線図(クリックで拡大)]]
== 利用状況 ==
{{See also|阿武隈急行線#利用状況}}
[[輸送密度]]は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.abukyu.co.jp/direction/wp-content/uploads/2023/06/20230630_03.pdf |title=会 社 概 況 (令和4年7月1日現在) |access-date=20231024 |publisher=阿武隈急行株式会社}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!年度
!輸送密度(人/日)
!備考
|-
|1986
|1,206
|開業
|-
|1987
|1,391
|
|-
|1988
|1,753
|全線開通
|-
|1989
|1,804
|
|-
|1990
|2,049
|
|-
|1991
|2,266
|
|-
|1992
|2,350
|
|-
|1993
|2,351
|輸送密度最高値
|-
|1994
|2,304
|
|-
|1995
|2,322
|
|-
|1996
|2,315
|
|-
|1997
|2,270
|
|-
|1998
|2,245
|
|-
|1999
|2,190
|
|-
|2000
|2,176
|
|-
|2001
|2,140
|
|-
|2002
|2,063
|
|-
|2003
|2,000
|
|-
|2004
|1,930
|
|-
|2005
|1,926
|
|-
|2006
|1,879
|
|-
|2007
|1,833
|
|-
|2008
|1,857
|
|-
|2009
|1,762
|
|-
|2010
|1,810
|
|-
|2011
|1,500
|
|-
|2012
|1,801
|
|-
|2013
|1,838
|
|-
|2014
|1,833
|
|-
|2015
|1,827
|
|-
|2016
|1,803
|
|-
|2017
|1,764
|
|-
|2018
|1,755
|
|-
|2019
|1,455
|
|-
|2020
|{{00}}985
|
|-
|2021
|1,076
|
|-
|2022
|
|
|-
|2023
|
|
|}
== 車両 ==
=== 現有車両 ===
* [[阿武隈急行8100系電車|8100系電車]] - AM8100形とAT8100形の2両編成。9編成が在籍<ref name="panf" />。
* [[JR東日本E721系電車#阿武隈急行AB900系|AB900系電車]] - 老朽化の進んだ8100系の置換えを目的に導入され、全車が本形式に統一される予定である。2018年7月1日の福島民友新聞および同日開催の「あぶ急全線開業30周年 大感謝まつり」で形式名と車両概要が公式に発表された<ref>福島民友新聞 2018年7月1日 6面-7面「祝 阿武隈急行 全線開業30周年」</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.abukyu.co.jp/sp/2018/05/30.html |title=30周年記念イベントを実施します!|publisher= 阿武隈急行 |date=2018-05-09|accessdate=2018-07-01}}</ref>。2018年度に2両1編成を先行導入<ref>{{Cite news|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201802/20180214_11023.html |title=<宮城県>阿武隈急行に1億円 車両更新を支援 2月補正予算|newspaper=河北新報 |publisher=河北新報社|date=2018-02-14}}</ref>。2019年7月1日より営業運転開始<ref>{{Cite news|url=http://www.minyu-net.com/news/news/FM20190223-353648.php |title=新型車両「AB900系」搬入 阿武隈急行、営業運転は7月予定|newspaper=福島民友 みんゆうNet |publisher=福島民友新聞社 |date=2019-02-23}}</ref><ref>{{Cite news |title=『新型車両』始動! AB900系 阿武隈急行、開業以来初導入 |newspaper=福島民友 みんゆうNet |date=2019-07-02 |url=http://www.minyu-net.com/news/news/FM20190702-392512.php |publisher=福島民友新聞社 |accessdate=2023-02-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190703182522/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20190702-392512.php |archive-date=2019-07-03}}</ref><ref>{{Cite news |title=阿武急の新車両お目見え 「AB900系」梁川駅で出発式 |newspaper=福島民報 |date=2019-07-02 |url=https://www.minpo.jp/news/moredetail/2019070264840 |publisher=福島民報社 |accessdate=2019-07-04}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Abukuma-kyuko-8100(2).jpg|8100系
ファイル:Abukuma-kyuko-AB900-1,2.jpg|AB900系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[国鉄キハ20系気動車#キハ22形|キハ22形気動車]] - 1986年の暫定開業に際して、国鉄から5両(148, 152, 159, 160, 162)を借り入れた。1988年の全線開業により、8100系電車が導入されたのにともない、国鉄を継承したJR東日本に返還された。
* [[国鉄417系電車#阿武隈急行A417系|A417系電車]] - [[2008年]]10月30日に運行開始。3両1編成が在籍<ref name="panf" />。JR東日本より[[東北本線]]で使用されていた[[国鉄417系電車|417系]]を譲受。平日朝夕の特定の運用についていた。2016年3月26日のダイヤ改正で定期運用を外れ、同年5月28日の臨時列車で最終運行<ref>{{Cite web|和書|date=2016-05-30 |url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2016/05/417.html |title=【阿武隈急行】A417系ラストラン |work=鉄道ホビダス RMニュース |publisher=ネコ・パブリッシング |accessdate=2016-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2016-05-29 |url=http://railf.jp/news/2016/05/29/200500.html |title=阿武隈急行「ありがとうA417系電車」運転 |work=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース |publisher=交友社 |accessdate=2016-06-03}}</ref>。
<gallery>
ファイル:Abukuma Kyuko A417 in Tomino.jpg|A417系<br />2011年8月 [[富野駅]]
</gallery>
== 記念乗車券・フリー乗車券 ==
2019年10月1日現在<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.abukyu.co.jp/?page_id=7 |title=おトクなきっぷ|publisher= 阿武隈急行|accessdate=2019-10-14}}</ref>。
* フリー乗車券
** 阿武隈急行線が1日乗り放題。
** 毎月第1日曜日、[[元日]]、[[鉄道の日]](10月14日)の年14回発売。
** 値段は大人600円・小児300円。[[福島駅 (福島県)|福島]]・[[保原駅|保原]]・[[梁川駅 (福島県)|梁川]]・[[丸森駅|丸森]]・[[角田駅|角田]]の各有人駅または無人駅からの乗車時(槻木駅含む)は列車内で発売。
* あぶ急トクだねきっぷ
** 阿武隈急行線が1日乗り放題。
** 毎月9の付く日(9・19・29日)発売。
** 値段は大人900円・小児450円。福島・保原・梁川・丸森・角田の各有人駅で発売。
* 飯坂温泉日帰りきっぷ
** 阿武隈急行線と[[福島交通飯坂線]]のフリー切符で、飯坂温泉の協賛旅館・ホテルに1回限り入浴が可能である。
** 福島[[片岡鶴太郎]]美術庭園、飯坂明治大正ガラス美術館の入場料が割引になるサービスもある。
** 値段は大人1500円、小児750円。福島・保原・梁川・丸森・角田の各有人駅で発売。無人駅(槻木駅含む)から乗車した場合は有人駅で購入。
* 福馬券
** 阿武隈急行福島駅着発往復乗車券・[[福島競馬場]]入場引換券がセットになっている。
** 福島競馬開催日に合わせて発売、開催日当日に利用できる。
** 値段は大人900円、小児450円。福島・保原・梁川・丸森・角田の各有人駅で発売。
* GO!かくだきっぷ
** 「合格」とかけた名称の縁起物とされる切符で、受験シーズン始まりの12月ごろから枚数限定で発売される。沿線の「[[天満宮|天神社]]」で祈祷済み。
** 値段は角田駅 - [[やながわ希望の森公園前駅]]間運賃と同一額の590円。各有人駅で発売される。
** 2008年の新発売時には日本全国各地の受験生から多くの注文があり、新聞等でも取り上げられた。
** 発売開始当初はきっぷを[[絵馬]]の形に切り取ることができ、沿線の天神社で絵馬として使用できた。
** 2011年からは、[[お守り]]の形をしたものを発売している。
* 中高生なつ割ワンコインきっぷ
** 中高生の夏季休暇期間に合わせて発売される。
** 阿武隈急行線が1日乗り放題。
** 値段は500円。各有人駅で発売される。購入の際に「学生証」の提示が条件となっている。
* 中高生ふゆ割ワンコインきっぷ
** 中高生の冬季休暇期間に合わせて発売される。
** 阿武隈急行線が1日乗り放題。
** 値段は500円。各有人駅で発売される。購入の際に「学生証」の提示が条件となっている。
* シニア割ワンコインきっぷ<ref>{{Cite news|url=http://www.abukyu.co.jp/sp/2018/01/post-425.html |title=「シニア割ワンコイン切符」発売中です!|publisher= 阿武隈急行|date=2018-01-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kankocho/fukkou-shien/page_000076.html |title=阿武隈急行(株) 平成24年度 賛同団体の取組|publisher= 観光庁|accessdate=2019-10-14}}</ref>
** 65歳以上の高齢者が対象で、1 - 3月ごろに発売される。
** 阿武隈急行線が1日乗り放題。
** 値段は500円。各有人駅で発売される。本人だけが購入でき、購入の際に年齢が証明できる身分証の提示が条件となっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[政宗ダテニクル]] - 伊達市PRアニメーション。阿武隈急行線でこれの[[ラッピング車両]]を運行している。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Abukuma Kyuko}}
* [http://www.pref.miyagi.jp/soukou/ 宮城県総合交通対策課]
* [http://www.abukyu.co.jp/ 阿武隈急行株式会社] - 時刻表・運賃など。
* {{facebook|abukumakyuko}}
{{DEFAULTSORT:あふくまきゆうこう}}
[[Category:阿武隈急行|*]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:福島県伊達市の企業]]
[[Category:福島県の交通]]
[[Category:宮城県の交通]]
[[Category:第三セクター鉄道]]
[[Category:1984年設立の企業]]
|
2003-09-28T14:15:11Z
|
2023-12-04T09:21:59Z
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[
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"Template:PDFlink",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:See also",
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"Template:Otheruses"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AD%A6%E9%9A%88%E6%80%A5%E8%A1%8C
|
18,635 |
FPS
|
FPS
|
[
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}
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FPS Frames Per Secondの略。フレームレートを表す単位。
筋膜炎脂肪織炎症候群の略。
ファーストパーソン・シューティングゲームの略。
中央大学総合政策学部の呼称。
フィート毎秒の略。
ヤード・ポンド法の単位系であるFPS単位系。feet-pound-secondの略。
形式冪級数の略。
連邦防護局アメリカ合衆国国土安全保障省内の警察組織の一種。
FPS (電力事業者) 日本の特定規模電気事業者(新電力)。
|
'''FPS'''
* Frames Per Secondの略。[[フレームレート]]を表す単位。
* [[筋膜炎脂肪織炎症候群]](Fasciitis Pannicultis Syndrome)の略。
* [[ファーストパーソン・シューティングゲーム]](和製英語。英語では[[:en:First-person shooter|First-person shooter]])の略。
* [[中央大学総合政策学部]]の呼称(Faculty of Policy Studiesの略)。
* [[フィート毎秒]](feet per second)の略。
* [[ヤード・ポンド法]]の単位系である[[FPS単位系]]。feet-pound-secondの略。
* 形式[[冪級数]](formal power series)の略。
* [[連邦防護局]](FPS-Federal Protective Service)[[アメリカ合衆国国土安全保障省]]内の警察組織の一種。
* [[FPS (電力事業者)]] [[日本]]の[[日本の電力会社#特定規模電気事業者(新電力)|特定規模電気事業者]]([[新電力]])。
{{Aimai}}
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2022-04-27T05:52:30Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FPS
|
18,636 |
角運動量
|
角運動量(かくうんどうりょう、英語: angular momentum)とは、運動量のモーメントを表す力学の概念である。
位置 r において、運動量 p を持つ質点の原点まわりの角運動量 L は
L ≡ r × p {\displaystyle {\boldsymbol {L}}\equiv {\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {p}}}
で定義される。 ここで、× は外積である。 従って、角運動量の大きさ L は
L = r p sin θ {\displaystyle L=rp\,\sin \theta }
と表される。ここで、θ は r と p のなす角を、r, p はそれぞれ r, p の大きさを表す。
質点が質量 m、速度 v のとき、運動量は p = mv であり、角運動量は
L = r × m v = m r × v {\displaystyle {\boldsymbol {L}}={\boldsymbol {r}}\times m{\boldsymbol {v}}=m{\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {v}}}
となる。
また、角速度が ω のとき、角運動量は
L = I ω {\displaystyle {\boldsymbol {L}}=I{\boldsymbol {\omega }}}
と表すことができる。ここで I は慣性テンソルである。
角運動量は、その定義から座標原点の選択に依存する。原点を位置 a へ移動した座標系を考える。新たな座標系における量を ' を付けて表すものとすれば、r' = r − a, p' = p であり
L ′ = r ′ × p ′ = r × p − a × p = L − a × p {\displaystyle {\boldsymbol {L}}'={\boldsymbol {r}}'\times {\boldsymbol {p}}'={\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {p}}-{\boldsymbol {a}}\times {\boldsymbol {p}}={\boldsymbol {L}}-{\boldsymbol {a}}\times {\boldsymbol {p}}}
となる.
質点の角運動量の時間変化は
d L d t = r × d p d t + d r d t × p {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}}{dt}}={\boldsymbol {r}}\times {\frac {d{\boldsymbol {p}}}{dt}}+{\frac {d{\boldsymbol {r}}}{dt}}\times {\boldsymbol {p}}}
となる。ここで、ニュートンの運動方程式 dp/dt = F を用いれば、第一項は力のモーメント N = r×F となる。また、第二項は (dr/dt)×p = mv×v = 0 となる。したがって、角運動量はニュートンの運動方程式と同様なオイラーの運動方程式
d L d t = N {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}}{dt}}={\boldsymbol {N}}}
を満たす。
力のモーメントはその定義から座標原点の選択に依存する。しかし、座標原点の移動による力のモーメントの変化と角運動量の変化が相殺され、運動方程式は常に成り立つ。
力のモーメントが 0 であるとき、角運動量は時間とともに変化せず一定となる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。力のモーメントが 0 となるのは、力が 0 であるか、力が位置ベクトルと平行であるときである。
力が作用していないときは等速直線運動となる。等速直線運動においては運動量と角運動量はともに保存する。これに対し等速円運動においては、運動量の大きさは一定であるが向きが時間により変化するため運動量は保存せず、角運動量のみが保存する。
力が位置ベクトルと平行であるときは
F ( r ) = f ( r ) r {\displaystyle {\boldsymbol {F}}({\boldsymbol {r}})=f(r)\,{\boldsymbol {r}}}
と表すことができる。この形の力は中心力と呼ばれる。
角運動量は加法的な量であり、系の全角運動量は、部分の角運動量の和であらわされる。質点系の全角運動量 L は、質点 i の角運動量を li とすれば
である。質量中心 rg に全質量 M があると考えたときの角運動量は
となる。全角運動量と Lg の差は、質量中心からみた相対運動の角運動量とみなすことができる。
質点 i の角運動量の時間変化は、質点 i に作用する力のモーメント Ni = ri×Fi に等しく
d l i d t = N i = r i × F i {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {l}}_{i}}{dt}}={\boldsymbol {N}}_{i}={\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {F}}_{i}}
を満たす。ここで質点 i に作用する力 Fi を、外力 fi と、質点 j が及ぼす内部相互作用 fij に分ると、力のモーメントは
N i = r i × ( f i + ∑ j f i j ) {\displaystyle {\boldsymbol {N}}_{i}={\boldsymbol {r}}_{i}\times ({\boldsymbol {f}}_{i}+\sum _{j}{\boldsymbol {f}}_{ij})}
と表される。全角運動量の時間変化を考えると
d L d t = ∑ i d l i d t = ∑ i r i × f i + ∑ i , j r i × f i j {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}}{dt}}=\sum _{i}{\frac {d{\boldsymbol {l}}_{i}}{dt}}=\sum _{i}{\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {f}}_{i}+\sum _{i,j}{\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {f}}_{ij}}
となる。運動の第3法則から fji = −fij なので、内力のモーメントの和は
∑ i , j r i × f i j = 1 2 ∑ i , j ( r i × f i j − r i × f j i ) = 1 2 ∑ i , j ( r i − r j ) × f i j {\displaystyle \sum _{i,j}{\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {f}}_{ij}={\frac {1}{2}}\sum _{i,j}({\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {f}}_{ij}-{\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {f}}_{ji})={\frac {1}{2}}\sum _{i,j}({\boldsymbol {r}}_{i}-{\boldsymbol {r}}_{j})\times {\boldsymbol {f}}_{ij}}
と変形できる。
ここで、内力が中心力であるならば、内力 fij は質点 i の質点 j から見た相対位置 ri − rj と平行で、内力のモーメントの和は 0 となる。 このとき
d L d t = ∑ i r i × f i {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}}{dt}}=\sum _{i}{\boldsymbol {r}}_{i}\times {\boldsymbol {f}}_{i}}
となり、質点系の全角運動量の時間変化は作用する外力のモーメントの総和と等しくなる。
角運動量は回転運動と深く関係している物理量である。ただし、角運動量自体は回転運動をしていなくとも定義される物理量である。
惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則の「面積速度一定」と密接な関わりがある。 時刻 t における位置ベクトル r(t) と、微小な時間 dt が経った後の位置ベクトル r(t + dt) が作る微小な三角形の面積は
d S = 1 2 r ( t ) × r ( t + d t ) {\displaystyle d{\boldsymbol {S}}={\frac {1}{2}}{\boldsymbol {r}}(t)\times {\boldsymbol {r}}(t+dt)}
である。 従って、面積速度は
d S d t = 1 2 r ( t ) × v ( t ) = 1 2 m L ( t ) {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {S}}}{dt}}={\frac {1}{2}}{\boldsymbol {r}}(t)\times {\boldsymbol {v}}(t)={\frac {1}{2m}}{\boldsymbol {L}}(t)}
となり、面積速度が一定ならば、角運動量も一定となる。
角速度 ω は
ω = 2 r 2 d S d t = 1 r 2 r × v {\displaystyle {\boldsymbol {\omega }}={\frac {2}{r^{2}}}{\frac {d{\boldsymbol {S}}}{dt}}={\frac {1}{r^{2}}}{\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {v}}}
と表される。従って、質点の慣性モーメントは
I = m r 2 {\displaystyle I=mr^{2}}
となる。
原点を中心とした円運動をしている質点の速度 v は次のように表される。
v = ω × r {\displaystyle {\boldsymbol {v}}={\boldsymbol {\omega }}\times {\boldsymbol {r}}}
量子力学では、角運動量は以下の交換関係を満たす演算子 J ^ {\displaystyle {\hat {\boldsymbol {J}}}} として定義される。
[ J ^ x , J ^ y ] = i J ^ z , [ J ^ y , J ^ z ] = i J ^ x , [ J ^ z , J ^ x ] = i J ^ y {\displaystyle [{\hat {J}}_{x},{\hat {J}}_{y}]=i{\hat {J}}_{z},~[{\hat {J}}_{y},{\hat {J}}_{z}]=i{\hat {J}}_{x},~[{\hat {J}}_{z},{\hat {J}}_{x}]=i{\hat {J}}_{y}}
あるいは、3つの式をまとめて
[ J ^ i , J ^ j ] = i ε i j k J ^ k {\displaystyle [{\hat {J}}_{i},{\hat {J}}_{j}]=i\epsilon _{ijk}{\hat {J}}_{k}}
ε i j k {\displaystyle \epsilon _{ijk}} は完全反対称テンソルである。これらの交換関係は角運動量代数と呼ばれる。
この角運動量の性質を調べると、
J ^ = L ^ + S ^ {\displaystyle {\hat {\boldsymbol {J}}}={\hat {\boldsymbol {L}}}+{\hat {\boldsymbol {S}}}}
の二つの部分に分けられ、それぞれが角運動量代数を満たす。
[ L ^ i , L ^ j ] = i ε i j k L ^ k , [ S ^ i , S ^ j ] = i ε i j k S ^ k , [ L ^ i , S ^ j ] = 0 {\displaystyle [{\hat {L}}_{i},{\hat {L}}_{j}]=i\epsilon _{ijk}{\hat {L}}_{k},~[{\hat {S}}_{i},{\hat {S}}_{j}]=i\epsilon _{ijk}{\hat {S}}_{k},~[{\hat {L}}_{i},{\hat {S}}_{j}]=0}
軌道角運動量 L ^ {\displaystyle {\hat {\boldsymbol {L}}}} は、 構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 ("Math extension cannot connect to Restbase."):): {\hat {{\boldsymbol {L}}}}={\hat {{\boldsymbol {r}}}}\times {\hat {{\boldsymbol {p}}}} のように位置と運動量の外積で表すことができ、その固有値が整数のみに限られる。
スピン角運動量 S ^ {\displaystyle {\hat {\boldsymbol {S}}}} は、位置と運動量では表現することができず、その固有値が整数に加えて半整数も許される。
特殊相対性理論においては二階テンソル L μ ν {\displaystyle L^{\mu \nu }} として定義される。
L μ ν = 2 ! x [ μ p ν ] → [ 0 L z − L y c N x − L z 0 L x c N y L y − L x 0 c N z − c N x − c N z − c N y 0 ] {\displaystyle L^{\mu \nu }=2!x^{[\mu }p^{\nu ]}\rightarrow {\begin{bmatrix}0&L^{z}&-L^{y}&cN^{x}\\-L^{z}&0&L^{x}&cN^{y}\\L^{y}&-L^{x}&0&cN^{z}\\-cN^{x}&-cN^{z}&-cN^{y}&0\\\end{bmatrix}}}
ここで,四元位置 x μ {\displaystyle x^{\mu }} ,四元運動量 p μ {\displaystyle p^{\mu }} ,および質量モーメント N {\displaystyle {\boldsymbol {N}}} は次式で定義される。
角運動量は空間の等方性(回転対称性)に対応する保存量である。空間の一様性(併進対称性)に対応する保存量である運動量、時間の一様性に対応する保存量であるエネルギーとともに、基本的な物理量である。それぞれ「角運動量保存の法則」、「運動量保存の法則」、「エネルギー保存の法則」に関連づけられる。
|
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"tag": "p",
"text": "位置 r において、運動量 p を持つ質点の原点まわりの角運動量 L は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "L ≡ r × p {\\displaystyle {\\boldsymbol {L}}\\equiv {\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {p}}}",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "で定義される。 ここで、× は外積である。 従って、角運動量の大きさ L は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "L = r p sin θ {\\displaystyle L=rp\\,\\sin \\theta }",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "と表される。ここで、θ は r と p のなす角を、r, p はそれぞれ r, p の大きさを表す。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "質点が質量 m、速度 v のとき、運動量は p = mv であり、角運動量は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "L = r × m v = m r × v {\\displaystyle {\\boldsymbol {L}}={\\boldsymbol {r}}\\times m{\\boldsymbol {v}}=m{\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {v}}}",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "また、角速度が ω のとき、角運動量は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "L = I ω {\\displaystyle {\\boldsymbol {L}}=I{\\boldsymbol {\\omega }}}",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。ここで I は慣性テンソルである。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "角運動量は、その定義から座標原点の選択に依存する。原点を位置 a へ移動した座標系を考える。新たな座標系における量を ' を付けて表すものとすれば、r' = r − a, p' = p であり",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "L ′ = r ′ × p ′ = r × p − a × p = L − a × p {\\displaystyle {\\boldsymbol {L}}'={\\boldsymbol {r}}'\\times {\\boldsymbol {p}}'={\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {p}}-{\\boldsymbol {a}}\\times {\\boldsymbol {p}}={\\boldsymbol {L}}-{\\boldsymbol {a}}\\times {\\boldsymbol {p}}}",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "となる.",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "質点の角運動量の時間変化は",
"title": "運動方程式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "d L d t = r × d p d t + d r d t × p {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}}{dt}}={\\boldsymbol {r}}\\times {\\frac {d{\\boldsymbol {p}}}{dt}}+{\\frac {d{\\boldsymbol {r}}}{dt}}\\times {\\boldsymbol {p}}}",
"title": "運動方程式"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "となる。ここで、ニュートンの運動方程式 dp/dt = F を用いれば、第一項は力のモーメント N = r×F となる。また、第二項は (dr/dt)×p = mv×v = 0 となる。したがって、角運動量はニュートンの運動方程式と同様なオイラーの運動方程式",
"title": "運動方程式"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "d L d t = N {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}}{dt}}={\\boldsymbol {N}}}",
"title": "運動方程式"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "を満たす。",
"title": "運動方程式"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "力のモーメントはその定義から座標原点の選択に依存する。しかし、座標原点の移動による力のモーメントの変化と角運動量の変化が相殺され、運動方程式は常に成り立つ。",
"title": "運動方程式"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "力のモーメントが 0 であるとき、角運動量は時間とともに変化せず一定となる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。力のモーメントが 0 となるのは、力が 0 であるか、力が位置ベクトルと平行であるときである。",
"title": "角運動量の保存"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "力が作用していないときは等速直線運動となる。等速直線運動においては運動量と角運動量はともに保存する。これに対し等速円運動においては、運動量の大きさは一定であるが向きが時間により変化するため運動量は保存せず、角運動量のみが保存する。",
"title": "角運動量の保存"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "力が位置ベクトルと平行であるときは",
"title": "角運動量の保存"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "F ( r ) = f ( r ) r {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}({\\boldsymbol {r}})=f(r)\\,{\\boldsymbol {r}}}",
"title": "角運動量の保存"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "と表すことができる。この形の力は中心力と呼ばれる。",
"title": "角運動量の保存"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "角運動量は加法的な量であり、系の全角運動量は、部分の角運動量の和であらわされる。質点系の全角運動量 L は、質点 i の角運動量を li とすれば",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "である。質量中心 rg に全質量 M があると考えたときの角運動量は",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "となる。全角運動量と Lg の差は、質量中心からみた相対運動の角運動量とみなすことができる。",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "質点 i の角運動量の時間変化は、質点 i に作用する力のモーメント Ni = ri×Fi に等しく",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "d l i d t = N i = r i × F i {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {l}}_{i}}{dt}}={\\boldsymbol {N}}_{i}={\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {F}}_{i}}",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "を満たす。ここで質点 i に作用する力 Fi を、外力 fi と、質点 j が及ぼす内部相互作用 fij に分ると、力のモーメントは",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "N i = r i × ( f i + ∑ j f i j ) {\\displaystyle {\\boldsymbol {N}}_{i}={\\boldsymbol {r}}_{i}\\times ({\\boldsymbol {f}}_{i}+\\sum _{j}{\\boldsymbol {f}}_{ij})}",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "と表される。全角運動量の時間変化を考えると",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "d L d t = ∑ i d l i d t = ∑ i r i × f i + ∑ i , j r i × f i j {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}}{dt}}=\\sum _{i}{\\frac {d{\\boldsymbol {l}}_{i}}{dt}}=\\sum _{i}{\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {f}}_{i}+\\sum _{i,j}{\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {f}}_{ij}}",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "となる。運動の第3法則から fji = −fij なので、内力のモーメントの和は",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "∑ i , j r i × f i j = 1 2 ∑ i , j ( r i × f i j − r i × f j i ) = 1 2 ∑ i , j ( r i − r j ) × f i j {\\displaystyle \\sum _{i,j}{\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {f}}_{ij}={\\frac {1}{2}}\\sum _{i,j}({\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {f}}_{ij}-{\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {f}}_{ji})={\\frac {1}{2}}\\sum _{i,j}({\\boldsymbol {r}}_{i}-{\\boldsymbol {r}}_{j})\\times {\\boldsymbol {f}}_{ij}}",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "と変形できる。",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ここで、内力が中心力であるならば、内力 fij は質点 i の質点 j から見た相対位置 ri − rj と平行で、内力のモーメントの和は 0 となる。 このとき",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "d L d t = ∑ i r i × f i {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}}{dt}}=\\sum _{i}{\\boldsymbol {r}}_{i}\\times {\\boldsymbol {f}}_{i}}",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "となり、質点系の全角運動量の時間変化は作用する外力のモーメントの総和と等しくなる。",
"title": "質点系の角運動量"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "角運動量は回転運動と深く関係している物理量である。ただし、角運動量自体は回転運動をしていなくとも定義される物理量である。",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則の「面積速度一定」と密接な関わりがある。 時刻 t における位置ベクトル r(t) と、微小な時間 dt が経った後の位置ベクトル r(t + dt) が作る微小な三角形の面積は",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "d S = 1 2 r ( t ) × r ( t + d t ) {\\displaystyle d{\\boldsymbol {S}}={\\frac {1}{2}}{\\boldsymbol {r}}(t)\\times {\\boldsymbol {r}}(t+dt)}",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "である。 従って、面積速度は",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "d S d t = 1 2 r ( t ) × v ( t ) = 1 2 m L ( t ) {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {S}}}{dt}}={\\frac {1}{2}}{\\boldsymbol {r}}(t)\\times {\\boldsymbol {v}}(t)={\\frac {1}{2m}}{\\boldsymbol {L}}(t)}",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "となり、面積速度が一定ならば、角運動量も一定となる。",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "角速度 ω は",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ω = 2 r 2 d S d t = 1 r 2 r × v {\\displaystyle {\\boldsymbol {\\omega }}={\\frac {2}{r^{2}}}{\\frac {d{\\boldsymbol {S}}}{dt}}={\\frac {1}{r^{2}}}{\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {v}}}",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "と表される。従って、質点の慣性モーメントは",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "I = m r 2 {\\displaystyle I=mr^{2}}",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "原点を中心とした円運動をしている質点の速度 v は次のように表される。",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "v = ω × r {\\displaystyle {\\boldsymbol {v}}={\\boldsymbol {\\omega }}\\times {\\boldsymbol {r}}}",
"title": "回転運動と角運動量"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "量子力学では、角運動量は以下の交換関係を満たす演算子 J ^ {\\displaystyle {\\hat {\\boldsymbol {J}}}} として定義される。",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "[ J ^ x , J ^ y ] = i J ^ z , [ J ^ y , J ^ z ] = i J ^ x , [ J ^ z , J ^ x ] = i J ^ y {\\displaystyle [{\\hat {J}}_{x},{\\hat {J}}_{y}]=i{\\hat {J}}_{z},~[{\\hat {J}}_{y},{\\hat {J}}_{z}]=i{\\hat {J}}_{x},~[{\\hat {J}}_{z},{\\hat {J}}_{x}]=i{\\hat {J}}_{y}}",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "あるいは、3つの式をまとめて",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "[ J ^ i , J ^ j ] = i ε i j k J ^ k {\\displaystyle [{\\hat {J}}_{i},{\\hat {J}}_{j}]=i\\epsilon _{ijk}{\\hat {J}}_{k}}",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ε i j k {\\displaystyle \\epsilon _{ijk}} は完全反対称テンソルである。これらの交換関係は角運動量代数と呼ばれる。",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "この角運動量の性質を調べると、",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "J ^ = L ^ + S ^ {\\displaystyle {\\hat {\\boldsymbol {J}}}={\\hat {\\boldsymbol {L}}}+{\\hat {\\boldsymbol {S}}}}",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "の二つの部分に分けられ、それぞれが角運動量代数を満たす。",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "[ L ^ i , L ^ j ] = i ε i j k L ^ k , [ S ^ i , S ^ j ] = i ε i j k S ^ k , [ L ^ i , S ^ j ] = 0 {\\displaystyle [{\\hat {L}}_{i},{\\hat {L}}_{j}]=i\\epsilon _{ijk}{\\hat {L}}_{k},~[{\\hat {S}}_{i},{\\hat {S}}_{j}]=i\\epsilon _{ijk}{\\hat {S}}_{k},~[{\\hat {L}}_{i},{\\hat {S}}_{j}]=0}",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "軌道角運動量 L ^ {\\displaystyle {\\hat {\\boldsymbol {L}}}} は、 構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 (\"Math extension cannot connect to Restbase.\"):): {\\hat {{\\boldsymbol {L}}}}={\\hat {{\\boldsymbol {r}}}}\\times {\\hat {{\\boldsymbol {p}}}} のように位置と運動量の外積で表すことができ、その固有値が整数のみに限られる。",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "スピン角運動量 S ^ {\\displaystyle {\\hat {\\boldsymbol {S}}}} は、位置と運動量では表現することができず、その固有値が整数に加えて半整数も許される。",
"title": "量子力学での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "特殊相対性理論においては二階テンソル L μ ν {\\displaystyle L^{\\mu \\nu }} として定義される。",
"title": "特殊相対性理論での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "L μ ν = 2 ! x [ μ p ν ] → [ 0 L z − L y c N x − L z 0 L x c N y L y − L x 0 c N z − c N x − c N z − c N y 0 ] {\\displaystyle L^{\\mu \\nu }=2!x^{[\\mu }p^{\\nu ]}\\rightarrow {\\begin{bmatrix}0&L^{z}&-L^{y}&cN^{x}\\\\-L^{z}&0&L^{x}&cN^{y}\\\\L^{y}&-L^{x}&0&cN^{z}\\\\-cN^{x}&-cN^{z}&-cN^{y}&0\\\\\\end{bmatrix}}}",
"title": "特殊相対性理論での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ここで,四元位置 x μ {\\displaystyle x^{\\mu }} ,四元運動量 p μ {\\displaystyle p^{\\mu }} ,および質量モーメント N {\\displaystyle {\\boldsymbol {N}}} は次式で定義される。",
"title": "特殊相対性理論での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "特殊相対性理論での角運動量"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "角運動量は空間の等方性(回転対称性)に対応する保存量である。空間の一様性(併進対称性)に対応する保存量である運動量、時間の一様性に対応する保存量であるエネルギーとともに、基本的な物理量である。それぞれ「角運動量保存の法則」、「運動量保存の法則」、「エネルギー保存の法則」に関連づけられる。",
"title": "対称性との関係"
}
] |
角運動量とは、運動量のモーメントを表す力学の概念である。
|
{{出典の明記|date=2011年10月}}
{{物理量
| 名称 =
| 英語 = angular momentum
| 画像 =
| 記号 = ''L''
| 次元 = [[質量|M]] [[長さ|L]]{{sup|2}} [[時間|T]]{{sup-|1}}
| 階 = [[擬ベクトル]]
| SI = [[ニュートンメートル秒]] (N·m·s)
| プランク = 有理化された[[プランク定数]] (ℏ)
}}
{{古典力学}}
'''角運動量'''(かくうんどうりょう、{{Lang-en|angular momentum}})とは、'''[[運動量]]の[[モーメント]]'''を表す[[力学]]の概念である。
== 定義 ==
位置 '''''r''''' において、運動量 '''''p''''' を持つ[[質点]]の原点まわりの角運動量 '''''L''''' は
{{Indent|
<math>\boldsymbol{L} \equiv \boldsymbol{r} \times \boldsymbol{p}</math>
}}
で定義される<ref group="注釈">通常、簡単のために回転中心を原点とする。回転中心が原点ではなく点{{Mvar|'''r'''<sub>o</sub>}}まわりの角運動量を求めたい場合、{{Mvar|'''r'''}}を相対座標{{Mvar|'''r'''-'''r'''<sub>o</sub>}}に置き換える必要がある。</ref>。
ここで、× は[[ベクトル積|外積]]である。
従って、角運動量の大きさ {{mvar|L}} は
{{Indent|<math>L=rp\,\sin \theta</math>}}
と表される。ここで、''θ'' は '''''r''''' と '''''p''''' のなす角を、{{mvar|r, p}} はそれぞれ '''''r''''', '''''p''''' の大きさを表す。
質点が質量 {{mvar|m}}、速度 '''''v''''' のとき、運動量は {{math|'''''p''''' {{=}} ''m'''v'''''}} であり、角運動量は
{{Indent|
<math>\boldsymbol{L} = \boldsymbol{r} \times m\boldsymbol{v}
= m \boldsymbol{r} \times \boldsymbol{v}</math>
}}
となる。
また、[[角速度]]が '''''ω''''' のとき、角運動量は
{{Indent|
<math>\boldsymbol{L}=I \boldsymbol{\omega}</math>
}}
と表すことができる。ここで {{mvar|I}} は[[慣性テンソル]]である。
=== 座標原点の移動 ===
角運動量は、その定義から[[座標|座標原点]]の選択に依存する。原点を位置 '''''a''''' へ移動した座標系を考える。新たな座標系における量を ' を付けて表すものとすれば、'''''r'''''<nowiki/>' = '''''r''''' − '''''a''''', '''''p'''''<nowiki/>' = '''''p''''' であり
{{Indent|
<math>\boldsymbol{L}' =\boldsymbol{r}'\times \boldsymbol{p}'
=\boldsymbol{r}\times \boldsymbol{p} -\boldsymbol{a}\times \boldsymbol{p}
=\boldsymbol{L} -\boldsymbol{a}\times\boldsymbol{p}</math>
}}
となる.
{{See also|ガリレイ変換|回転座標系}}
== 運動方程式 ==
質点の角運動量の時間変化は
{{Indent|
<math>\frac{d\boldsymbol{L}}{dt}
=\boldsymbol{r}\times \frac{d\boldsymbol{p}}{dt}
+\frac{d\boldsymbol{r}}{dt}\times \boldsymbol{p}</math>
}}
となる。ここで、[[ニュートンの運動方程式]] {{math|''d'''p'''''/''dt'' {{=}} '''''F'''''}} を用いれば、第一項は[[力のモーメント]] {{math|'''''N''''' {{=}} '''''r'''''×'''''F'''''}} となる。また、第二項は {{math|(''d'''r'''''/''dt'')×'''''p''''' {{=}} ''m'''v'''''×'''''v''''' {{=}} '''0'''}} となる。したがって、角運動量はニュートンの運動方程式と同様な[[オイラーの運動方程式]]
{{Indent|
<math>\frac{d\boldsymbol{L}}{dt} = \boldsymbol{N}</math>
}}
を満たす。
力のモーメントはその定義から座標原点の選択に依存する。しかし、座標原点の移動による力のモーメントの変化と角運動量の変化が相殺され、運動方程式は常に成り立つ。
== 角運動量の保存 ==
{{main|角運動量保存の法則}}
力のモーメントが 0 であるとき、角運動量は時間とともに変化せず一定となる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。力のモーメントが 0 となるのは、力が 0 であるか、力が[[位置ベクトル]]と平行であるときである。
力が作用していないときは[[等速直線運動]]となる。等速直線運動においては運動量と角運動量はともに保存する。これに対し[[等速円運動]]においては、運動量の大きさは一定であるが向きが時間により変化するため運動量は保存せず、角運動量のみが保存する。
力が位置ベクトルと平行であるときは
{{Indent|
<math>\boldsymbol{F}(\boldsymbol{r}) = f(r)\, \boldsymbol{r}</math>
}}
と表すことができる。この形の力は中心力と呼ばれる。
== 質点系の角運動量 ==
角運動量は加法的な量であり、系の全角運動量は、部分の角運動量の和であらわされる。質点系の全角運動量 '''''L''''' は、質点 {{mvar|i}} の角運動量を '''''l'''''<sub>{{mvar|i}}</sub> とすれば
:<math>\boldsymbol{L} =\sum_i \boldsymbol{l}_i = \sum_i \boldsymbol{r}_i\times \boldsymbol{p}_i</math>
である。[[質量中心]] '''''r'''''<sub>g</sub> に全質量 {{mvar|M}} があると考えたときの角運動量は
:<math>\boldsymbol{L}_{\mathrm g} = M \boldsymbol{r}_{\mathrm g} \times \frac{d\boldsymbol{r}_{\mathrm g}}{dt}</math>
となる。全角運動量と '''''L'''''<sub>g</sub> の差は、質量中心からみた[[相対運動]]の角運動量とみなすことができる。
:<math>\boldsymbol{L}_{\mathrm r} = \boldsymbol{L} - \boldsymbol{L}_{\mathrm g}</math>
質点 {{mvar|i}} の角運動量の時間変化は、質点 {{mvar|i}} に作用する力のモーメント {{math|'''''N'''''<sub>''i''</sub> {{=}} '''''r'''''<sub>''i''</sub>×'''''F'''''<sub>''i''</sub>}} に等しく
{{Indent|
<math>\frac{d\boldsymbol{l}_i}{dt}=\boldsymbol{N}_i =\boldsymbol{r}_i\times \boldsymbol{F}_i</math>
}}
を満たす。ここで質点 {{mvar|i}} に作用する力 '''''F'''''<sub>{{mvar|i}}</sub> を、外力 '''''f'''''<sub>{{mvar|i}}</sub> と、質点 {{mvar|j}} が及ぼす内部相互作用 '''''f'''''<sub>{{mvar|ij}}</sub> に分ると、力のモーメントは
{{Indent|
<math>\boldsymbol{N}_i=\boldsymbol{r}_i\times (\boldsymbol{f}_i+\sum_j \boldsymbol{f}_{ij})</math>
}}
と表される。全角運動量の時間変化を考えると
{{Indent|
<math>\frac{d\boldsymbol{L}}{dt} =\sum_i \frac{d\boldsymbol{l}_i}{dt}
=\sum_i \boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{f}_i
+\sum_{i,j} \boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{f}_{ij}</math>
}}
となる。[[運動の第3法則]]から '''''f'''''<sub>{{mvar|ji}}</sub> = −'''''f'''''<sub>{{mvar|ij}}</sub> なので、内力のモーメントの和は
{{Indent|
<math>\sum_{i,j} \boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{f}_{ij}
=\frac{1}{2}\sum_{i,j}( \boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{f}_{ij}
-\boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{f}_{ji})
=\frac{1}{2}\sum_{i,j}( \boldsymbol{r}_i -\boldsymbol{r}_j) \times \boldsymbol{f}_{ij}</math>
}}
と変形できる。
ここで、'''内力が中心力であるならば'''、内力 '''''f'''''<sub>{{mvar|ij}}</sub> は質点 {{mvar|i}} の質点 {{mvar|j}} から見た相対位置 '''''r'''''<sub>{{mvar|i}}</sub> − '''''r'''''<sub>{{mvar|j}}</sub> と平行で、内力のモーメントの和は 0 となる。
このとき
{{Indent|
<math>\frac{d\boldsymbol{L}}{dt} =\sum_i \boldsymbol{r}_i \times \boldsymbol{f}_i</math>
}}
となり、質点系の全角運動量の時間変化は作用する外力のモーメントの総和と等しくなる。
{{-}}
== 回転運動と角運動量 ==
[[File:Torque_animation.gif|frame|right|固定された回転軸をもつ系に対して、力を作用させた時の物理量の関係。力のモーメント '''τ''' と、位置 '''r''' と力 '''F''' との関係(上の式)、および角運動量 '''L''' と位置 '''r''' と運動量 '''p''' との関係(下の式)。]]
角運動量は回転運動と深く関係している物理量である。ただし、角運動量自体は回転運動をしていなくとも定義される物理量である。
惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、[[ケプラーの法則|ケプラーの第2法則]]の「面積速度一定」と密接な関わりがある。
時刻 {{mvar|t}} における位置ベクトル '''''r'''''({{mvar|t}}) と、微小な時間 {{mvar|dt}} が経った後の位置ベクトル '''''r'''''({{mvar|t}} + {{mvar|dt}}) が作る微小な三角形の面積は
{{Indent|
<math>d\boldsymbol{S} =\frac{1}{2}\boldsymbol{r}(t)\times \boldsymbol{r}(t+dt)</math>
}}
である。
従って、面積速度は
{{Indent|
<math>\frac{d\boldsymbol{S}}{dt} = \frac{1}{2}\boldsymbol{r}(t)\times \boldsymbol{v}(t)
=\frac{1}{2m} \boldsymbol{L}(t)</math>
}}
となり、面積速度が一定ならば、角運動量も一定となる。
=== 角速度 ===
角速度 '''''ω''''' は
{{Indent|
<math>\boldsymbol{\omega} =\frac{2}{r^2} \frac{d\boldsymbol{S}}{dt}
=\frac{1}{r^2} \boldsymbol{r} \times \boldsymbol{v}</math>
}}
と表される。従って、質点の[[慣性モーメント]]は
{{Indent|
<math>I =mr^2</math>
}}
となる。
原点を中心とした[[円運動]]をしている[[質点]]の速度 '''''v''''' は次のように表される。
{{Indent|
<math>\boldsymbol{v} = \boldsymbol{\omega} \times \boldsymbol{r}</math>
}}
== 量子力学での角運動量 ==
[[量子力学]]では、角運動量は以下の[[交換関係 (量子力学)|交換関係]]を満たす[[作用素|演算子]] <math>\hat{\boldsymbol{J}}</math> として定義される。
{{Indent|
<math>[\hat{J}_x, \hat{J}_y] = i\hat{J}_z,~
[\hat{J}_y, \hat{J}_z] = i\hat{J}_x,~
[\hat{J}_z, \hat{J}_x] = i\hat{J}_y</math>
}}
あるいは、3つの式をまとめて
{{Indent|
<math>[\hat{J}_i, \hat{J}_j] = i\epsilon_{ijk}\hat{J}_k</math>
}}
<math>\epsilon_{ijk}</math> は[[エディントンのイプシロン|完全反対称テンソル]]である。これらの交換関係は角運動量代数と呼ばれる。
この角運動量の性質を調べると、
{{Indent|
<math>\hat{\boldsymbol{J}} = \hat{\boldsymbol{L}} + \hat{\boldsymbol{S}}</math>
}}
の二つの部分に分けられ、それぞれが角運動量代数を満たす。
{{Indent|
<math>[\hat{L}_i, \hat{L}_j] = i\epsilon_{ijk}\hat{L}_k,~
[\hat{S}_i, \hat{S}_j] = i\epsilon_{ijk}\hat{S}_k,~
[\hat{L}_i, \hat{S}_j] = 0</math>
}}
[[軌道角運動量]] <math>\hat{\boldsymbol{L}}</math> は、 <math>\hat{\boldsymbol{L}} = \hat{\boldsymbol{r}} \times \hat{\boldsymbol{p}}</math> のように位置と運動量の外積で表すことができ、その固有値が整数のみに限られる。{{main|軌道角運動量}}
[[スピン角運動量]] <math>\hat{\boldsymbol{S}}</math> は、位置と運動量では表現することができず、その固有値が整数に加えて半整数も許される。{{main|スピン角運動量}}
== 特殊相対性理論での角運動量 ==
特殊相対性理論においては二階テンソル<math>L^{\mu\nu}</math>として定義される。
{{Indent|
<math>
L^{\mu\nu} = 2! x^{[\mu} p^{\nu]} \rightarrow
\begin{bmatrix}
0 & L^z & -L^y & cN^x \\
-L^z & 0 & L^x & cN^y \\
L^y & -L^x & 0 & cN^z \\
-cN^x & -cN^z & -cN^y & 0 \\
\end{bmatrix}
</math>
}}
ここで,四元位置<math>x^{\mu}</math>,四元運動量<math>p^{\mu}</math>,および質量モーメント<math>\boldsymbol{N}</math>は次式で定義される。
:<math>
\begin{align}
(x^{\mu}) &= (x,~y,~z,~ct), \\
(p^{\mu}) &= (p_x,~p_y,~p_z,~E/c), \\
\boldsymbol{N} &= m(\boldsymbol{r} - \boldsymbol{v}t)
\end{align}
</math>
== 対称性との関係 ==
角運動量は空間の等方性(回転対称性)に対応する保存量である。空間の一様性(併進対称性)に対応する[[保存系|保存量]]である運動量、時間の一様性に対応する保存量である[[エネルギー]]とともに、基本的な物理量である<ref>[[#landau|ランダウ=リフシッツ物理学小教程]]</ref>。それぞれ「[[角運動量保存の法則]]」、「[[運動量保存の法則]]」、「[[エネルギー保存の法則]]」に関連づけられる。
{{see also|ネーターの定理|ポアンカレ対称性}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author=L.D.ランダウ|authorlink=レフ・ランダウ
|coauthors=[[エフゲニー・リフシッツ|E.M.リフシッツ]]
|translator=[[水戸巌]]・[[恒藤敏彦]]・[[廣重徹]]
|title=力学・場の理論 : ランダウ=リフシッツ物理学小教程
|origyear=
|year=2008
|publisher=[[筑摩書房]]
|series=[[ちくま学芸文庫]]
|page=
|isbn=978-4-480-09111-6
|ref=landau
}}
== 関連項目 ==
* [[角運動量保存の法則]]
* [[力のモーメント]]
* [[トルク]](回転軸の周りの力のモーメント)
* [[ジャイロスコープ]]
{{Normdaten}}
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[[Category:物理量]]
[[Category:回転]]
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2022-06-30T00:24:11Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
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福知山線
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福知山線(ふくちやません)は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から京都府福知山市の福知山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
なお、本項では正式な路線名を示す場合を除いて、東海道本線のうち大阪駅から京都方面は「JR京都線」、尼崎駅から三ノ宮方面については「JR神戸線」の愛称で記述する。
大阪と北近畿、さらに山陰地方とを結ぶルートの一つである。大阪駅 - 宝塚駅間では阪急宝塚線の大阪梅田駅 - 宝塚駅間と、大阪駅 - 伊丹駅間では阪急神戸線・阪急伊丹線の梅田駅 - 伊丹駅間と競合関係にある。大阪駅(大阪梅田駅) - 宝塚駅間の所要時間においては、阪急宝塚線より当路線が勝る。同区間の所要時間は快速が最速25分、普通列車が下り30分で、並走する阪急宝塚線の急行(33分)より速い。
東海道本線の大阪駅 - 尼崎駅間を含む大阪駅 - 篠山口駅間はアーバンネットワークの路線の一つに数えられており、「JR宝塚線」(ジェイアールたからづかせん)の愛称が付けられている。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」が付いている。JR西日本が1987年8月に大阪駅 - 新三田駅間の愛称を公募した結果「北阪神線」が1位であったものの、結局「JR宝塚線」が採用された。なお愛称の区間は、地元自治体の要望により、大阪駅 - 篠山口駅間に変更された。
ラインカラーは黄(■)であり、選定理由は「これからの新しい開発エリアを示すイキイキとしたイメージ」とされている。路線記号は G。
全線を近畿統括本部が管轄している。大阪駅 - 尼崎駅 - 谷川駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」に含まれており、全線がICカード「ICOCA」のサービス供用エリアに含まれている。
路線は篠山口駅を境に南側の都市近郊路線と、北側の地方幹線とに雰囲気が分かれ、日中は普通列車の運転系統も分離されている。篠山口駅以南は複線、以北は単線である。単線区間の全駅で列車交換が可能であり、かつ、駅を通過する場合に高速での運転ができるように一線スルー化されている。複線区間では塚口駅・川西池田駅・宝塚駅・新三田駅・広野駅で列車の待避が可能である。
尼崎駅を出ると、上下線ともにJR神戸線の内側線と外側線の間の線路を走り、ベイコム野球場の手前から陸橋を上りJR神戸線を跨いで産業道路の手前で進路を北に変え、北東に向かいつつ脱線事故の現場で線路はほぼ真北に一直線に進む。なお、JR東西線が開業するまでは、福知山線は上下線ともにJR神戸線の外側線と接続しており、下り線はJR神戸線の外側線よりさらに外側に膨れて南西に進んでからベイコム野球場のそばをかすめて大きく半円を描く形で陸橋を上ってJR神戸線を跨ぎ現在の線路へと続いていたほか、上り線は脱線事故の現場からそのまま直進して南下しJR神戸線の外側線に接続しており、上り線はJR東西線に伴い下り線に沿って線路は付け替えられた。旧上り線の跡地は現在、脱線事故の現場となった元分譲マンション、そしてその先は駐車場と道路に転用されている。
塚口駅から猪名寺駅あたりにかけての沿線は工場地帯で、現在も三菱電機などの工場があり、その合間を縫って線路は延びている。ただ、塚口駅の東側にあった森永製菓などの工場は閉鎖され分譲マンションへと変わるなど、住宅街も形成されている。
伊丹駅を過ぎた辺りから猪名川の西側に沿って走るようになり、川西池田駅の手前で線路は西側に進路を変える。そこからは国道176号と阪急宝塚本線とほぼ並行して西側に延びており、阪急電鉄平井車庫の北側を抜けて中山寺駅となる。同駅前は区画整理により宅地化し商業施設もできるなど様変わりした。
そして住宅街の合間を縫って宝塚市のターミナル駅である宝塚駅へと着く。宝塚駅までの区間は1981年までに電化・複線化が行われており、かつてはこの区間のみ黄色塗装の103系が1時間に1本程度運行されていた。
宝塚駅を出ると進路を北に変えるが沿線風景も一変し、延々と南矢代駅までの間は武庫川の上流にほぼ沿う形で線路は続いている。特に生瀬駅から道場駅までの間は険しい峠越えのため、トンネルが断続的に続く区間である。元々はこの区間も武庫川に沿って線路が延びていたが、電化・複線化により1986年8月に線路が付け替えられ現在の形となった。線路の付け替えにより武田尾駅は移転し、西宮名塩ニュータウンへのアクセスターミナル駅として西宮名塩駅が新設され、同駅はのち快速と一部の特急が停車するまでになった。なお、廃線となった旧線跡は、特に生瀬駅から武田尾駅間にかけては整備がなされハイキングコースとして開放されたため、多くの行楽客で賑わっている。道場駅は神戸市北区に所在するが、元々利用客の少ない無人駅である上に他の神戸市内の駅から離れていることなどから、旧国鉄時代から旅客営業規則における「神戸市内」の駅としては扱われていない。
道場駅から先は田園地帯の中を走り抜ける。神戸電鉄との乗り換え駅であり三田市のターミナル駅でもある三田駅は利用客が多く駅前は栄えているが、そこを抜けると再び田園地帯となる。
三田駅から丹波大山駅にかけては再び国道176号とほぼ並行する。次の新三田駅は1986年の福知山線全線電化に合わせて開設された駅であり、駅開業当初は同駅までが複線区間であった。現在も同駅を発着とする列車が多数設定されている。また、北摂三田ニュータウンへと延びるバス路線のターミナル駅ともなっているが、駅周辺は長らく市街化調整区域とされていた(現在は解除)ため、ターミナル駅の割には駅前は商業施設は少なく寂しい印象を受ける。
篠山口駅は丹波篠山市のターミナル駅で、かつては同駅から旧篠山線も延びていた。なお、同市の中心部は市役所のある篠山城周辺(旧篠山線篠山駅北側)であり、篠山口駅からは離れている。複線は同駅までで、ここから終点の福知山駅までは単線である。
丹波大山駅を抜けると再び山岳路線となり、篠山川に沿って西側に進路を変え、トンネルも幾つか抜ける。谷川駅からは再び北側に進路を変え、柏原駅からは再度国道176号に沿う形で線路は延び、山間部の合間を縫って東西に走り抜けつつ北上する。途中幾つかトンネルを抜けると目の前に山陰本線が合流し、高架駅である福知山駅へと達する。
福知山線は尼崎駅が起点であるが、尼崎駅を始発・終着とする列車は無く、全列車が尼崎駅を越えて大阪駅ないしJR京都線 高槻・京都方面、またはJR東西線を経由し片町線(学研都市線)同志社前・木津方面に乗り入れている。福知山駅からは特急列車が山陰本線城崎温泉方面に直通している(京都丹後鉄道宮福線へは臨時での延長運転時のみ)。普通列車(快速列車を含む)は、原則として篠山口駅で運転系統が分かれており、大阪駅 - 福知山駅間を直通する列車は朝晩のみである。
2022年3月13日ダイヤ改正時点での運行概況は、次の通り。
朝ラッシュ時間帯の尼崎方面行きは、大阪行きの快速、JR京都線直通の普通、JR東西線・学研都市線直通の快速・普通が頻発する。普通列車は、かつてはJR京都線直通とJR東西線直通が1:1の割合であったが、現在はJR東西線直通の方が多く設定されている。尼崎駅でJR神戸線からの普通列車に接続する。
北近畿ビッグXネットワークの一角(「X」の左斜め下の部分が福知山線)としての機能を有し、特急「こうのとり」が運転されている。前身の「北近畿」時代からほぼ1時間に1本運転されていたが、特に2020年以降のコロナ禍で利用率が大幅に減少したことを受けて、一部が週末のみ運転の臨時列車に格下げされたほか、社会情勢により日中と夜間で更に運休が発生することがあるなど以前より運行本数が減らされている。
福知山線内は途中、尼崎駅・宝塚駅・三田駅・篠山口駅・柏原駅・福知山駅に全ての列車が停車するほか、主に平日の朝と夕方以降で西宮名塩駅・新三田駅・相野駅・谷川駅・黒井駅のいずれかにも停車する。
大阪から福知山市・豊岡市などの丹波・但馬地方の各市町や城崎温泉などの観光地への足として、城崎温泉駅発着列車などもある。現在は基本的に3両ないし4両編成で運転されるが、多客時には7両へ編成増強される場合もある。また、大阪駅 - 篠山口駅間では通勤需要があるため、下り19・23号と上り2・4号は平日のみ通年7両で運転されている。
「こうのとり」のうち、一部列車が多客期のみ京都丹後鉄道(2015年3月までは北近畿タンゴ鉄道)天橋立駅へ延長運転を実施しているが、現在は行われていない。
快速列車は、大阪駅発着系統と、尼崎駅からJR東西線・学研都市線に直通する系統とが運転されている。2000年3月11日のダイヤ改正より登場した丹波路快速は前者にあたる。快速と丹波路快速の停車駅は同じで、尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・中山寺駅・宝塚駅・西宮名塩駅と三田駅からの各駅に停車する。区間快速は、大阪駅発着系統は尼崎駅・伊丹駅と川西池田駅 - 新三田駅・篠山口駅間の各駅に停車し、JR東西線・学研都市直通系統の列車は尼崎駅から各駅に停車する(福知山線内で快速として運転する列車もある)。
快速・丹波路快速は、原則として川西池田駅で普通列車と緩急接続を行うが、早朝と深夜では緩急接続を行わない列車がある。このほか、朝ラッシュ時では一部の大阪行きが宝塚駅または新三田駅でも普通と片接続を行う。区間快速は、大阪駅発着系統のうち大阪行きのみ川西池田駅で普通と緩急接続を行う。
車両は、大阪駅発着系統は223系・225系が、JR東西線・学研都市線直通系統は207系・321系が使用されている。207系・321系は7両編成で、これはJR東西線・学研都市線の一部駅で7両編成・4ドア対応のホームドアを設置しているのと、大住駅 - 西木津駅は7両編成のみしかホーム長が対応していない都合によるものである。207系・321系は大阪駅発着系統でも日中以外で運用される列車がある。
一部の列車を除き、運行区間内の各駅に停車する。大半の列車がJR京都線と直通しており、京都駅・高槻駅 - 大阪駅 - 宝塚駅・新三田駅間および篠山口駅 - 福知山駅間の運行が基本である。快速・丹波路快速が各駅に停車する新三田駅 - 篠山口駅間では朝の数本のみの運行である。早朝・深夜の一部を除き、川西池田駅で快速・丹波路快速・区間快速(上りのみ)との緩急接続および特急の通過待ちを行うが、日中は下りの区間快速とは緩急接続を行わず、宝塚駅まで先着する。上りの一部は、宝塚駅または新三田駅(当駅始発のみ)でも緩急接続を行う。尼崎駅では一部列車を除きJR神戸線 - JR東西線間直通の普通と同一ホームで接続する。
朝ラッシュ時は塚口始発でJR東西線に直通する系統が設定されている。日中は大阪駅 - 宝塚駅間で1時間に4本運転されている。2002年10月5日のダイヤ改正前は日中以降は高槻発・京都行きとの組み合わせであったが、この改正で15分間隔運転時間帯は高槻駅発着に統一された。土曜・休日ダイヤでは朝に京都駅発着の列車が運転されており、夜の20分間隔運転時間帯は21時から始まる。
夜19時台には篠山口発高槻行きが1本運転されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正により廃止された。
朝晩にはJR東西線・学研都市線に直通する列車も設定されている。JR東西線・学研都市線との直通列車は時間帯によって上りは尼崎駅で、下りは京橋駅で区間快速に種別変更(別列車扱い)を行う列車もある。土曜・休日の朝には学研都市線・木津経由の奈良発宝塚行き(京橋駅まで区間快速)が1本ある。
JR京都線に直通しない大阪駅発着の普通も朝や上り最終列車として深夜に運転されている。この列車は尼崎駅 - 大阪駅間で外側線を走行し、塚本駅は通過(上り最終列車の大阪行き1本は除く)する。大阪駅 - 福知山駅間を直通する普通も朝に数本設定されているが、大阪発福知山行きの片道のみの運行である。福知山発の普通列車はすべて篠山口行きでの運転で、丹波路快速のみが大阪駅まで直通する。
車両はほとんどが207系・321系の7両編成であるが、朝の大阪発福知山行きは223系・225系の4両編成で運行される。
JR東西線開業前は大部分が大阪駅発着の列車で、朝ラッシュ時のみ新大阪行きと吹田発の設定があった。また、昼間でも113系や117系も普通列車に充当されていた。JR東西線が開業した1997年3月8日に吹田発は高槻発に変更された。同年8月31日まで全ての普通列車が塚本駅を通過していた(大阪駅 - 尼崎駅間は外側線を走行していたことなどが理由。現在も朝の大阪駅発着は外側線を走行しているため塚本駅は通過している)が、翌9月1日からは、尼崎駅発着だったJR京都線の普通と当路線のJR東西線直通ではない普通を統合して京都・高槻方面 - 新三田方面直通としたため、前述の一部列車を除き塚本駅にも停車するようになった。
2020年3月14日のダイヤ改正より、日中の普通は(JR京都線 - )大阪駅 - 宝塚駅間に短縮した(宝塚駅 - 新三田駅間は区間快速が代替)。
篠山口駅 - 福知山駅間で運転される普通は、1時間に1本程度運転されている。早朝の篠山口駅発福知山駅行きを除いて篠山口駅で大阪方面との快速列車・普通列車と接続しており、うち日中は223系5500番台の2両編成でワンマン運転を行っている。同区間は最大6両編成が乗り入れ可能なため、朝晩は大阪方面との直通運転を原則としており車掌が乗務している列車がほとんどであるが、2両編成でも車掌が乗務している列車もある。2014年3月15日の改正で、大阪発22時台の丹波路快速が福知山行きから篠山口行きに見直されたことに伴い、篠山口発0時台の普通福知山行きが設定されたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。
国鉄からJRとなって以降は、冬のカニのシーズンを迎える11月から3月にかけて、臨時特急「味めぐり北近畿」(1998年以前)・「かにカニ北近畿」(1999年以降)が運転されていた(「こうのとり」の項目も参照)。
2020年以降のコロナ禍による旅客減少の影響で、2021年3月13日のダイヤ改正で「こうのとり」の一部が臨時列車化され、土曜・日曜・祝日を中心に新大阪駅 - 福知山駅間に7号・16号の1往復、新大阪駅 - 城崎温泉駅間に13号・26号の1往復が運転される。
国鉄時代から、篠山の祭礼に合わせた臨時快速(「デカンショ祭り号」)などが多く設定されていた。しかし、現在は定期列車の充実もあり、臨時列車の設定はほぼ無くなった。
現在は、毎年3月に行われている朝日放送テレビ主催の篠山ABCマラソン大会に合わせた大阪発篠山口行き臨時快速「篠山ABCマラソン号」が1本設定される程度である。「篠山ABCマラソン号」の停車駅は、新三田駅までは通常の快速と同一であるが、新三田駅 - 篠山口駅間の各駅は旧速達快速が停車していた相野駅も含めて通過する。
大阪駅 - 篠山口駅間では、平日・休日の区別無く毎日、始発から終電まで、207系の大阪側から3両目および321系では5号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。ただし、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除される場合がある。
JR宝塚線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた。さらに2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。
かつて福知山線には大阪駅と京都府舞鶴市や山陰各都市とを結ぶ幹線として長距離の優等列車が多数運転されていた。しかし、国鉄末期の1986年11月1日に山陰本線城崎駅(現在の城崎温泉駅)まで電化されたことにより、優等列車はほぼ全てが電車化・特急化された上に、運転区間は城崎駅までに短縮され、福知山線経由での山陰方面への昼行の直通列車は廃止された。その後、電車特急の一部を気動車に置き換えて直通列車を復活させたが、後に米子・出雲市方面へは新幹線・伯備線経由が、鳥取・倉吉方面へは智頭急行経由がそれぞれ主要経路に変わった上に、車両老朽化もあり、長距離列車は再び姿を消した。2004年10月16日に急行「だいせん」が廃止されたことにより、福知山線経由での夜行列車は運転されなくなった。
このほかに福知山線では、北近畿タンゴ鉄道(現在の京都丹後鉄道)へ乗り入れる「文殊」や「タンゴエクスプローラー」が運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正により福知山線経由の特急は全て「北近畿」から改称された「こうのとり」に統一され、福知山線経由で北近畿タンゴ鉄道へ直通する列車は全廃された。
通勤客向けの座席定員制の列車(ホームライナー)として1988年3月13日から2002年10月4日まで、大阪駅 - 篠山口駅間でほくせつライナーが1往復運転されていた。篠山口行きは夕方に、大阪行きは朝ラッシュ時に運転された。ほくせつライナーには183系電車のほか、一時期大阪行きのみキハ58系・キハ65形気動車による運用もあった。ほくせつライナー廃止後は特急「北近畿(現・こうのとり)」の増発で代替している。
全線電化される前の国鉄時代にも、快速列車が1日に数本設定されていた。国鉄末期の1983年頃のダイヤでは、大阪駅 - 篠山口駅間に尼崎駅・伊丹駅・宝塚駅・武田尾駅・三田駅・広野駅・相野駅・古市駅を停車駅とする気動車による快速列車が1日2往復のみ設定されていたが、快速列車はのちに、各駅に停車する区間が三田駅 - 篠山口駅間、宝塚駅 - 篠山口駅間と次第に延びて停車駅が増加していき、1986年11月1日の全線電化で全列車が電車に統一されたことにより普通列車のスピードアップが図られたため、最終的に廃止された。のち、快速列車の設定を要望する声が多数寄せられたこともあり、民営化後の1989年3月11日のダイヤ改正より現在に繋がる快速列車が新たに設定された。設定当初の停車駅は、国鉄時代とは異なり、尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・宝塚駅と三田駅以遠の各駅であった。1997年3月8日改正では、207系電車を使用した広野駅・藍本駅・草野駅・古市駅・南矢代駅を通過する速達タイプの快速も設定され、大阪発篠山口行きのみ毎日夕方に4本(1時間に1本)運転されていたが、2003年12月1日のダイヤ改正で廃止され、三田 - 篠山口間各駅停車の快速列車(木津発JR東西線直通)に格下げされた。2020年3月14日のダイヤ改正で日中は快速・丹波路快速が区間快速に格下げされたため、現在の日中は事実上旧国鉄末期の快速列車とほぼ同じ停車駅となっている。
沿線には中山寺など初詣に訪れる参拝者の比較的多い社寺があるため、大晦日深夜から元旦にかけて、福知山線では尼崎駅 - 宝塚駅間(運転区間は学研都市線四条畷駅 - (JR東西線) - 宝塚駅間)において、普通列車のみ約30〜60分間隔で終夜運転が実施されていた。なお、かつては宝塚駅 - 新三田駅間でも終夜運転が行われていたが、2011年度以降は宝塚発新三田ゆき臨時列車1本のみの運転に変更され、さらに臨時列車の運転も取り止められ、2019年度からは全区間とも終夜運転が取り止められた。なお、競合する阪急電鉄では2019年度まで宝塚本線及び今津線ともに終夜運転を実施していたが、2020年度以降は福知山線同様に終夜運転を実施していない。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災ではJR神戸線が寸断され、復旧には時間を要する見込みとなった。よって、その迂回ルートで最も重要な線区として、最優先で福知山線の復旧作業が行われた。福知山線では川西池田駅 - 中山寺駅間の被害が大きく、地震発生の1月17日には広野駅 - 福知山駅間が開通し、その後順次運転を再開した。
輸送力の確保のため運転開始直後から臨時列車が運転され、5時30分から21時まで、1時間につき1本か2本の臨時列車を最大42本運転し、特急「北近畿」の増結も行われた。大阪駅を発着としていた特急列車は、東海道新幹線との接続のため3往復を新大阪駅発着で運転し、このほかに「北近畿」15号は福知山駅 → 和田山駅間で延長運転し、播但線との接続を改善した。またJR神戸線が全通した4月1日以降も4月17日まで、新大阪駅延長運転が2往復、和田山駅延長運転が行われた。
JR神戸線で運行されていた貨物列車の迂回運転も行われた。しかし、福知山線や山陰本線の和田山駅 - 湖山駅間では貨物列車が運転されなくなっていたため、重い貨物列車を毎日運転するには問題があり、乗務員の養成や設備の一部改良の必要性があったが、福知山線・山陰本線・伯備線を経由して2月11日から迂回運転が開始された。貨物列車が運転されていなかった区間の迂回貨物列車の乗務は、JR西日本が担当した。また、ダイヤ改正にあわせた新製車両の甲種鉄道車両輸送も3月14日から8本、特大貨物2本が迂回運転された。
2011年3月12日以降は電車のみが運転されている。篠山口駅 - 福知山駅間の快速・普通列車は、全列車が転換クロスシート車両で運転されている。
国鉄時代末期の1986年11月1日に全線電化開業したが、1981年4月1日の尼崎駅 - 宝塚駅間電化の際には、103系として新車の導入がなされたものの、逆に残る宝塚駅 - 福知山駅 - 山陰本線城崎駅(現・城崎温泉駅)間電化の際に新車は全く導入されず、既存の113系を寒冷地向けに改造した800番台の導入等で賄った。なお、全線電化時の当初の計画では、475・457系電車(主に九州地区からの転用)で賄う予定だった。
また無煙化以前には
といった蒸気機関車が使用された。
1970年から兵庫県三田市と神戸市北部に位置している神戸三田国際公園都市・北摂三田ニュータウンの開発が始まり、ニュータウンへの入居が始まった1981年頃から三田市の人口が増加した。特に1987年から1996年まで、人口の実質増加率は10年連続で日本一を記録した。
福知山線では輸送力増強のため、非電化区間であった宝塚駅 - 福知山駅間の電化による全区間電車運転と一部区間の複線化の実施が決定した。しかし当時は、生瀬駅 - 三田駅間の山間部においては武庫川渓谷に沿って敷設されており、複線化が困難であったため、生瀬駅 - 道場駅間はトンネルを経由する複線の新線を建設して、約1.8 km短縮する計画が立案された。
これは、1972年6月、福知山線沿線9市(大阪市・尼崎市・伊丹市・川西市・池田市・宝塚市・西宮市・神戸市・三田市)による「国鉄福知山線複線・電化促進期成同盟会」からの要望を受けて、宝塚 - 三田間の輸送力増強計画を審議する「研究会」が、兵庫県・宝塚市・西宮市・神戸市・三田市および国鉄の六者によって発足した。この研究会は1973年にかけて、(1)現在線の腹付線増による複線電化は、武庫川河谷の地形条件(特に生瀬 - 武田尾)からして困難であること、(2)名塩 - 山口ルートは、別線建設が可能であること、(3)ニュータウン(北摂ニュータウン・北神ニュータウン)への鉄道乗り入れが考慮されるべきこと、の3つの条件をもとに、(A)生瀬 - 名塩 - 道場 - 三田 - 広野、(B)生瀬 - 名塩 - (東久保) - 山口 - 三田 - 広野、(C)生瀬 - 名塩 - (東久保) - 山口 - (北神ニュータウン・北摂ニュータウン) - 広野の3案が出された。採算を重視する国鉄は、東久保における険坂があるにせよ、電化すれば運行への影響は少なく、名塩・山口の集落に加えてニュータウンを経由する(C)案を望んでいたが、武田尾駅の廃止を憂う宝塚市と、市の玄関口の衰退を案じる三田市によって、反対運動が起きた。2年あまりに及ぶ紆余曲折を経て、西宮市の山口地区を犠牲にすれば、他の名塩・武田尾・三田のいずれも経由する生瀬 - 名塩 - 武田尾 - 道場 - 三田 - 広野が最終案となった。国鉄は採算重視よりも関係市域での意見調整を重視する立場から、路線決定は兵庫県に任せるという態度をとっており、福知山線の新線切り替えは兵庫県による最終案に沿う形となった。
まず、1986年8月1日より新線切り替えと宝塚駅 - 三田駅間の複線化が行われた。次いで同年10月15日より三田駅 - 新三田駅(この時点では開業前)が複線化された。翌11月1日に行われた国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日国鉄ダイヤ改正)から全面的に電車で営業を開始した。同時に、生瀬駅 - 武田尾駅間には西宮名塩ニュータウンの開発に併せて西宮名塩駅が、三田駅 - 広野駅間にはウッディタウンの玄関口として新三田駅が開業し、特急「北近畿」の運転開始に加え、113系2両編成を主体として普通が日中時間帯で1時間当たり3本(大阪駅 - 福知山駅間1本、大阪駅 - 新三田駅間2本)に増発された。国鉄分割民営化後の1989年より快速が運転を開始した(快速の区間は現在と同じく、大阪駅 - 三田駅間のみ)。この時点で日中は特急0 - 1本、快速2本、普通4本の現在とほぼ変わらないダイヤになった。
1997年には新三田駅 - 篠山口駅間の複線化が完成し、JR東西線が開業したことにより、同線経由で学研都市線との直通運転が開始された。
なお、生瀬駅北西から武田尾駅北東にかけての廃線敷は、地面に半ば埋まった枕木が残り、2016年11月から渓谷沿いのハイキングコースとして一般開放されている(「旧国鉄福知山線廃線跡」も参照)。
2019年度1日平均の乗車人員は、宝塚駅が約2万9千人と福知山線で最も利用者が多く、次いで伊丹駅が約2万5千人、川西池田駅が約1万9千人である。アーバンネットワーク内でも新三田駅以北では利用者数が少なくなり、7駅合計で約1万人に留まる。JR西日本発足時に1日の運転本数が100本足らずだった福知山線は、JR東西線開業以降は1日360本を超えるダイヤの都市近郊路線へと変化していった。
大阪駅・北新地駅 - 宝塚駅間の利用は特定区間運賃が適用されるが、電車特定区間に含まれないため、これ以外の区間と跨って利用すると幹線運賃が適用され、運賃が高くなるのが特徴である。
丹波市は、篠山口駅 - 福知山駅間の単線区間の複線化をJR西日本に要望している。また丹波市は団体利用への運賃補助を行い、兵庫県も特急列車の料金補助を行う社会実験を実施していた。そして兵庫県は「乗って 近づく 複線化」などと呼びかけている。だが、2003年度の1日の乗車人員はこの区間の丹波大山駅から丹波竹田駅までの8駅を合わせても約3,600人であり、篠山口駅以北では少子化に伴う通学利用の減少やモータリーゼーションの浸透もあって減少傾向にある。
福知山線の発祥は、川辺馬車鉄道が1891年に開業させた尼ヶ崎駅(後の尼崎港駅) - 伊丹駅間の馬車鉄道である。後に摂津鉄道と改称して1893年に馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にあった。
摂津鉄道の路線は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に譲渡され、軌間1067 mmに改軌した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年には福知山南口駅(内田町付近)まで開通した。
1904年に軍部からの要請で、対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山駅 - 新舞鶴駅間の貸与を受けて、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道が完成した。
阪鶴鉄道は1907年に国有化され、官設区間と併せて阪鶴線と呼ばれていたが、山陰本線の京都駅 - 出雲今市駅(現在の出雲市駅)間が1912年に開通したのを機に、神崎駅(現在の尼崎駅) - 福知山駅間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間が福知山線と改称された。
大阪と山陰方面を結ぶ亜幹線とされたが、線路改良や電化などの近代化は大幅に遅れた。さらにC54形蒸気機関車やDD54形ディーゼル機関車が配属され、特急「まつかぜ」が福知山線経由で1961年から設定されていたが、1972年に新設された特急「はまかぜ」に至っては時間短縮を理由に姫路駅経由に変更されてしまうなど、亜幹線として機能しているとは言い難い状況であった。加えて、普通列車は永らくDD54形やDD51形ディーゼル機関車牽引による旧形客車が使用され続けたなど、車両面での近代化は大きく遅れていた。ただし、大阪駅発着の客車列車に関しては、乗客のデッキからの転落事故などが発生し、1985年3月のダイヤ改正で自動扉を装備した12系客車に置き換えられて近代化された。
設備面では、1970年代後半から近代化が進められた。1979年 - 1980年にかけて塚口駅 - 宝塚駅間が順次複線化され、翌1981年に尼崎駅 - 宝塚駅間の電化が完了。また、1980年代前半までは腕木式信号機が現存していたが、列車集中制御装置 (CTC) の導入により姿を消した。だが、設備は近代化された一方で、車両は依然として旧形車両が主力であったため、新車を相次いで登場させた。しかし、競合相手の阪急には度重なる国鉄の運賃値上げによる運賃格差もあって太刀打ちできず、当線に登場した103系も当初の6両編成から後に4両編成に減車された。また、神戸方面へも当時は神戸電鉄経由(当時は北神急行が開業していなかったので神戸電鉄有馬線の鈴蘭台駅・新開地駅経由)での所要時間とは大差なく、やはり本数は福知山線の方が相当少なかった。
福知山線にとって画期的な変化は、1986年の宝塚駅 - 新三田駅間の複線化、福知山駅までの全線電化の完成である。それまで山間部を武庫川渓谷に沿って走っていたため、複線化が困難であった生瀬駅 - 道場駅間をトンネルの連続する複線の新線に切り替え、新たに西宮名塩駅を設置し、三田駅 - 広野駅間には新興住宅地の玄関として新三田駅を設置した(「輸送改善」の節も参照)。そして国鉄最後のダイヤ改正である1986年11月1日から全面的に電車で営業を開始し、特急「北近畿」の運転が開始された。
一方、福知山線最初の開業区間でもあった塚口駅 - 尼崎港駅間の通称尼崎港線が、1981年に旅客営業を廃止した後、1984年に完全に廃止された。同線は1898年に東海道本線の尼崎駅への連絡線を設けて大阪方面との直通運転を開始後は、塚口駅 - 尼崎港駅間の貨物主体の盲腸線となっていた。晩年の旅客列車の本数は1日2往復で混合列車であった。
民営化以降は下記の年表を参照のこと。
1989年に大阪国際空港(伊丹空港)に近いJR伊丹駅から伊丹空港までの路線を建設する構想として、福知山線分岐線構想が計画された。その後、1995年に発生した阪神・淡路大震災により、航空機での輸送の重要性が改めて認識され、空港へのアクセス整備が必要であるとして「阪神・淡路復興計画」の中に盛り込まれた。さらにこの計画は「ひょうご21世紀交通ビジョン」の中に盛り込まれた。
1995年に国・兵庫県・大阪府・JR西日本や伊丹市などで構成される「福知山線分岐線研究会」を設置し、事業予測・路線計画・整備手法や採算などについて詳細な調査を行い、2007年に兵庫県が空港とJR伊丹駅を結ぶライトレール (LRT) の導入を検討すると発表しており、2010年に事業を完成させるとしていたものの計画は進んでおらず、伊丹市では当面の対策として、市バスを活用した空港アクセスを行っている。
駅距離間が比較的長い、中山寺駅 - 宝塚駅間に新駅建設案がある。また、丹波竹田駅 - 福知山駅間にも新駅を設置する構想もある。かつては、黒井駅 - 市島駅間に「春日部」駅が設置される計画もあった。
下記以外の駅はJR西日本の直営駅である(2022年3月時点)。
#廃止区間(尼崎港線)が廃止になったことによる廃駅を除く。
名称などは廃止時点のもの。
|
[
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"tag": "p",
"text": "福知山線(ふくちやません)は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から京都府福知山市の福知山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。",
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"text": "なお、本項では正式な路線名を示す場合を除いて、東海道本線のうち大阪駅から京都方面は「JR京都線」、尼崎駅から三ノ宮方面については「JR神戸線」の愛称で記述する。",
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},
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"paragraph_id": 2,
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"text": "大阪と北近畿、さらに山陰地方とを結ぶルートの一つである。大阪駅 - 宝塚駅間では阪急宝塚線の大阪梅田駅 - 宝塚駅間と、大阪駅 - 伊丹駅間では阪急神戸線・阪急伊丹線の梅田駅 - 伊丹駅間と競合関係にある。大阪駅(大阪梅田駅) - 宝塚駅間の所要時間においては、阪急宝塚線より当路線が勝る。同区間の所要時間は快速が最速25分、普通列車が下り30分で、並走する阪急宝塚線の急行(33分)より速い。",
"title": "概要"
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"text": "東海道本線の大阪駅 - 尼崎駅間を含む大阪駅 - 篠山口駅間はアーバンネットワークの路線の一つに数えられており、「JR宝塚線」(ジェイアールたからづかせん)の愛称が付けられている。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」が付いている。JR西日本が1987年8月に大阪駅 - 新三田駅間の愛称を公募した結果「北阪神線」が1位であったものの、結局「JR宝塚線」が採用された。なお愛称の区間は、地元自治体の要望により、大阪駅 - 篠山口駅間に変更された。",
"title": "概要"
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"text": "ラインカラーは黄(■)であり、選定理由は「これからの新しい開発エリアを示すイキイキとしたイメージ」とされている。路線記号は G。",
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"text": "全線を近畿統括本部が管轄している。大阪駅 - 尼崎駅 - 谷川駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」に含まれており、全線がICカード「ICOCA」のサービス供用エリアに含まれている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 6,
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"text": "路線は篠山口駅を境に南側の都市近郊路線と、北側の地方幹線とに雰囲気が分かれ、日中は普通列車の運転系統も分離されている。篠山口駅以南は複線、以北は単線である。単線区間の全駅で列車交換が可能であり、かつ、駅を通過する場合に高速での運転ができるように一線スルー化されている。複線区間では塚口駅・川西池田駅・宝塚駅・新三田駅・広野駅で列車の待避が可能である。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "尼崎駅を出ると、上下線ともにJR神戸線の内側線と外側線の間の線路を走り、ベイコム野球場の手前から陸橋を上りJR神戸線を跨いで産業道路の手前で進路を北に変え、北東に向かいつつ脱線事故の現場で線路はほぼ真北に一直線に進む。なお、JR東西線が開業するまでは、福知山線は上下線ともにJR神戸線の外側線と接続しており、下り線はJR神戸線の外側線よりさらに外側に膨れて南西に進んでからベイコム野球場のそばをかすめて大きく半円を描く形で陸橋を上ってJR神戸線を跨ぎ現在の線路へと続いていたほか、上り線は脱線事故の現場からそのまま直進して南下しJR神戸線の外側線に接続しており、上り線はJR東西線に伴い下り線に沿って線路は付け替えられた。旧上り線の跡地は現在、脱線事故の現場となった元分譲マンション、そしてその先は駐車場と道路に転用されている。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "塚口駅から猪名寺駅あたりにかけての沿線は工場地帯で、現在も三菱電機などの工場があり、その合間を縫って線路は延びている。ただ、塚口駅の東側にあった森永製菓などの工場は閉鎖され分譲マンションへと変わるなど、住宅街も形成されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "伊丹駅を過ぎた辺りから猪名川の西側に沿って走るようになり、川西池田駅の手前で線路は西側に進路を変える。そこからは国道176号と阪急宝塚本線とほぼ並行して西側に延びており、阪急電鉄平井車庫の北側を抜けて中山寺駅となる。同駅前は区画整理により宅地化し商業施設もできるなど様変わりした。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "そして住宅街の合間を縫って宝塚市のターミナル駅である宝塚駅へと着く。宝塚駅までの区間は1981年までに電化・複線化が行われており、かつてはこの区間のみ黄色塗装の103系が1時間に1本程度運行されていた。",
"title": "沿線概況"
},
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "宝塚駅を出ると進路を北に変えるが沿線風景も一変し、延々と南矢代駅までの間は武庫川の上流にほぼ沿う形で線路は続いている。特に生瀬駅から道場駅までの間は険しい峠越えのため、トンネルが断続的に続く区間である。元々はこの区間も武庫川に沿って線路が延びていたが、電化・複線化により1986年8月に線路が付け替えられ現在の形となった。線路の付け替えにより武田尾駅は移転し、西宮名塩ニュータウンへのアクセスターミナル駅として西宮名塩駅が新設され、同駅はのち快速と一部の特急が停車するまでになった。なお、廃線となった旧線跡は、特に生瀬駅から武田尾駅間にかけては整備がなされハイキングコースとして開放されたため、多くの行楽客で賑わっている。道場駅は神戸市北区に所在するが、元々利用客の少ない無人駅である上に他の神戸市内の駅から離れていることなどから、旧国鉄時代から旅客営業規則における「神戸市内」の駅としては扱われていない。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "道場駅から先は田園地帯の中を走り抜ける。神戸電鉄との乗り換え駅であり三田市のターミナル駅でもある三田駅は利用客が多く駅前は栄えているが、そこを抜けると再び田園地帯となる。",
"title": "沿線概況"
},
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "三田駅から丹波大山駅にかけては再び国道176号とほぼ並行する。次の新三田駅は1986年の福知山線全線電化に合わせて開設された駅であり、駅開業当初は同駅までが複線区間であった。現在も同駅を発着とする列車が多数設定されている。また、北摂三田ニュータウンへと延びるバス路線のターミナル駅ともなっているが、駅周辺は長らく市街化調整区域とされていた(現在は解除)ため、ターミナル駅の割には駅前は商業施設は少なく寂しい印象を受ける。",
"title": "沿線概況"
},
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"paragraph_id": 14,
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"text": "篠山口駅は丹波篠山市のターミナル駅で、かつては同駅から旧篠山線も延びていた。なお、同市の中心部は市役所のある篠山城周辺(旧篠山線篠山駅北側)であり、篠山口駅からは離れている。複線は同駅までで、ここから終点の福知山駅までは単線である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "丹波大山駅を抜けると再び山岳路線となり、篠山川に沿って西側に進路を変え、トンネルも幾つか抜ける。谷川駅からは再び北側に進路を変え、柏原駅からは再度国道176号に沿う形で線路は延び、山間部の合間を縫って東西に走り抜けつつ北上する。途中幾つかトンネルを抜けると目の前に山陰本線が合流し、高架駅である福知山駅へと達する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "福知山線は尼崎駅が起点であるが、尼崎駅を始発・終着とする列車は無く、全列車が尼崎駅を越えて大阪駅ないしJR京都線 高槻・京都方面、またはJR東西線を経由し片町線(学研都市線)同志社前・木津方面に乗り入れている。福知山駅からは特急列車が山陰本線城崎温泉方面に直通している(京都丹後鉄道宮福線へは臨時での延長運転時のみ)。普通列車(快速列車を含む)は、原則として篠山口駅で運転系統が分かれており、大阪駅 - 福知山駅間を直通する列車は朝晩のみである。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2022年3月13日ダイヤ改正時点での運行概況は、次の通り。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "朝ラッシュ時間帯の尼崎方面行きは、大阪行きの快速、JR京都線直通の普通、JR東西線・学研都市線直通の快速・普通が頻発する。普通列車は、かつてはJR京都線直通とJR東西線直通が1:1の割合であったが、現在はJR東西線直通の方が多く設定されている。尼崎駅でJR神戸線からの普通列車に接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "北近畿ビッグXネットワークの一角(「X」の左斜め下の部分が福知山線)としての機能を有し、特急「こうのとり」が運転されている。前身の「北近畿」時代からほぼ1時間に1本運転されていたが、特に2020年以降のコロナ禍で利用率が大幅に減少したことを受けて、一部が週末のみ運転の臨時列車に格下げされたほか、社会情勢により日中と夜間で更に運休が発生することがあるなど以前より運行本数が減らされている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "福知山線内は途中、尼崎駅・宝塚駅・三田駅・篠山口駅・柏原駅・福知山駅に全ての列車が停車するほか、主に平日の朝と夕方以降で西宮名塩駅・新三田駅・相野駅・谷川駅・黒井駅のいずれかにも停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "大阪から福知山市・豊岡市などの丹波・但馬地方の各市町や城崎温泉などの観光地への足として、城崎温泉駅発着列車などもある。現在は基本的に3両ないし4両編成で運転されるが、多客時には7両へ編成増強される場合もある。また、大阪駅 - 篠山口駅間では通勤需要があるため、下り19・23号と上り2・4号は平日のみ通年7両で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "「こうのとり」のうち、一部列車が多客期のみ京都丹後鉄道(2015年3月までは北近畿タンゴ鉄道)天橋立駅へ延長運転を実施しているが、現在は行われていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "快速列車は、大阪駅発着系統と、尼崎駅からJR東西線・学研都市線に直通する系統とが運転されている。2000年3月11日のダイヤ改正より登場した丹波路快速は前者にあたる。快速と丹波路快速の停車駅は同じで、尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・中山寺駅・宝塚駅・西宮名塩駅と三田駅からの各駅に停車する。区間快速は、大阪駅発着系統は尼崎駅・伊丹駅と川西池田駅 - 新三田駅・篠山口駅間の各駅に停車し、JR東西線・学研都市直通系統の列車は尼崎駅から各駅に停車する(福知山線内で快速として運転する列車もある)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "快速・丹波路快速は、原則として川西池田駅で普通列車と緩急接続を行うが、早朝と深夜では緩急接続を行わない列車がある。このほか、朝ラッシュ時では一部の大阪行きが宝塚駅または新三田駅でも普通と片接続を行う。区間快速は、大阪駅発着系統のうち大阪行きのみ川西池田駅で普通と緩急接続を行う。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "車両は、大阪駅発着系統は223系・225系が、JR東西線・学研都市線直通系統は207系・321系が使用されている。207系・321系は7両編成で、これはJR東西線・学研都市線の一部駅で7両編成・4ドア対応のホームドアを設置しているのと、大住駅 - 西木津駅は7両編成のみしかホーム長が対応していない都合によるものである。207系・321系は大阪駅発着系統でも日中以外で運用される列車がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "一部の列車を除き、運行区間内の各駅に停車する。大半の列車がJR京都線と直通しており、京都駅・高槻駅 - 大阪駅 - 宝塚駅・新三田駅間および篠山口駅 - 福知山駅間の運行が基本である。快速・丹波路快速が各駅に停車する新三田駅 - 篠山口駅間では朝の数本のみの運行である。早朝・深夜の一部を除き、川西池田駅で快速・丹波路快速・区間快速(上りのみ)との緩急接続および特急の通過待ちを行うが、日中は下りの区間快速とは緩急接続を行わず、宝塚駅まで先着する。上りの一部は、宝塚駅または新三田駅(当駅始発のみ)でも緩急接続を行う。尼崎駅では一部列車を除きJR神戸線 - JR東西線間直通の普通と同一ホームで接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "朝ラッシュ時は塚口始発でJR東西線に直通する系統が設定されている。日中は大阪駅 - 宝塚駅間で1時間に4本運転されている。2002年10月5日のダイヤ改正前は日中以降は高槻発・京都行きとの組み合わせであったが、この改正で15分間隔運転時間帯は高槻駅発着に統一された。土曜・休日ダイヤでは朝に京都駅発着の列車が運転されており、夜の20分間隔運転時間帯は21時から始まる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "夜19時台には篠山口発高槻行きが1本運転されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正により廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "朝晩にはJR東西線・学研都市線に直通する列車も設定されている。JR東西線・学研都市線との直通列車は時間帯によって上りは尼崎駅で、下りは京橋駅で区間快速に種別変更(別列車扱い)を行う列車もある。土曜・休日の朝には学研都市線・木津経由の奈良発宝塚行き(京橋駅まで区間快速)が1本ある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "JR京都線に直通しない大阪駅発着の普通も朝や上り最終列車として深夜に運転されている。この列車は尼崎駅 - 大阪駅間で外側線を走行し、塚本駅は通過(上り最終列車の大阪行き1本は除く)する。大阪駅 - 福知山駅間を直通する普通も朝に数本設定されているが、大阪発福知山行きの片道のみの運行である。福知山発の普通列車はすべて篠山口行きでの運転で、丹波路快速のみが大阪駅まで直通する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "車両はほとんどが207系・321系の7両編成であるが、朝の大阪発福知山行きは223系・225系の4両編成で運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "JR東西線開業前は大部分が大阪駅発着の列車で、朝ラッシュ時のみ新大阪行きと吹田発の設定があった。また、昼間でも113系や117系も普通列車に充当されていた。JR東西線が開業した1997年3月8日に吹田発は高槻発に変更された。同年8月31日まで全ての普通列車が塚本駅を通過していた(大阪駅 - 尼崎駅間は外側線を走行していたことなどが理由。現在も朝の大阪駅発着は外側線を走行しているため塚本駅は通過している)が、翌9月1日からは、尼崎駅発着だったJR京都線の普通と当路線のJR東西線直通ではない普通を統合して京都・高槻方面 - 新三田方面直通としたため、前述の一部列車を除き塚本駅にも停車するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正より、日中の普通は(JR京都線 - )大阪駅 - 宝塚駅間に短縮した(宝塚駅 - 新三田駅間は区間快速が代替)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "篠山口駅 - 福知山駅間で運転される普通は、1時間に1本程度運転されている。早朝の篠山口駅発福知山駅行きを除いて篠山口駅で大阪方面との快速列車・普通列車と接続しており、うち日中は223系5500番台の2両編成でワンマン運転を行っている。同区間は最大6両編成が乗り入れ可能なため、朝晩は大阪方面との直通運転を原則としており車掌が乗務している列車がほとんどであるが、2両編成でも車掌が乗務している列車もある。2014年3月15日の改正で、大阪発22時台の丹波路快速が福知山行きから篠山口行きに見直されたことに伴い、篠山口発0時台の普通福知山行きが設定されたが、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "国鉄からJRとなって以降は、冬のカニのシーズンを迎える11月から3月にかけて、臨時特急「味めぐり北近畿」(1998年以前)・「かにカニ北近畿」(1999年以降)が運転されていた(「こうのとり」の項目も参照)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2020年以降のコロナ禍による旅客減少の影響で、2021年3月13日のダイヤ改正で「こうのとり」の一部が臨時列車化され、土曜・日曜・祝日を中心に新大阪駅 - 福知山駅間に7号・16号の1往復、新大阪駅 - 城崎温泉駅間に13号・26号の1往復が運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代から、篠山の祭礼に合わせた臨時快速(「デカンショ祭り号」)などが多く設定されていた。しかし、現在は定期列車の充実もあり、臨時列車の設定はほぼ無くなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "現在は、毎年3月に行われている朝日放送テレビ主催の篠山ABCマラソン大会に合わせた大阪発篠山口行き臨時快速「篠山ABCマラソン号」が1本設定される程度である。「篠山ABCマラソン号」の停車駅は、新三田駅までは通常の快速と同一であるが、新三田駅 - 篠山口駅間の各駅は旧速達快速が停車していた相野駅も含めて通過する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "大阪駅 - 篠山口駅間では、平日・休日の区別無く毎日、始発から終電まで、207系の大阪側から3両目および321系では5号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。ただし、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除される場合がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "JR宝塚線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた。さらに2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "かつて福知山線には大阪駅と京都府舞鶴市や山陰各都市とを結ぶ幹線として長距離の優等列車が多数運転されていた。しかし、国鉄末期の1986年11月1日に山陰本線城崎駅(現在の城崎温泉駅)まで電化されたことにより、優等列車はほぼ全てが電車化・特急化された上に、運転区間は城崎駅までに短縮され、福知山線経由での山陰方面への昼行の直通列車は廃止された。その後、電車特急の一部を気動車に置き換えて直通列車を復活させたが、後に米子・出雲市方面へは新幹線・伯備線経由が、鳥取・倉吉方面へは智頭急行経由がそれぞれ主要経路に変わった上に、車両老朽化もあり、長距離列車は再び姿を消した。2004年10月16日に急行「だいせん」が廃止されたことにより、福知山線経由での夜行列車は運転されなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "このほかに福知山線では、北近畿タンゴ鉄道(現在の京都丹後鉄道)へ乗り入れる「文殊」や「タンゴエクスプローラー」が運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正により福知山線経由の特急は全て「北近畿」から改称された「こうのとり」に統一され、福知山線経由で北近畿タンゴ鉄道へ直通する列車は全廃された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "通勤客向けの座席定員制の列車(ホームライナー)として1988年3月13日から2002年10月4日まで、大阪駅 - 篠山口駅間でほくせつライナーが1往復運転されていた。篠山口行きは夕方に、大阪行きは朝ラッシュ時に運転された。ほくせつライナーには183系電車のほか、一時期大阪行きのみキハ58系・キハ65形気動車による運用もあった。ほくせつライナー廃止後は特急「北近畿(現・こうのとり)」の増発で代替している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "全線電化される前の国鉄時代にも、快速列車が1日に数本設定されていた。国鉄末期の1983年頃のダイヤでは、大阪駅 - 篠山口駅間に尼崎駅・伊丹駅・宝塚駅・武田尾駅・三田駅・広野駅・相野駅・古市駅を停車駅とする気動車による快速列車が1日2往復のみ設定されていたが、快速列車はのちに、各駅に停車する区間が三田駅 - 篠山口駅間、宝塚駅 - 篠山口駅間と次第に延びて停車駅が増加していき、1986年11月1日の全線電化で全列車が電車に統一されたことにより普通列車のスピードアップが図られたため、最終的に廃止された。のち、快速列車の設定を要望する声が多数寄せられたこともあり、民営化後の1989年3月11日のダイヤ改正より現在に繋がる快速列車が新たに設定された。設定当初の停車駅は、国鉄時代とは異なり、尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・宝塚駅と三田駅以遠の各駅であった。1997年3月8日改正では、207系電車を使用した広野駅・藍本駅・草野駅・古市駅・南矢代駅を通過する速達タイプの快速も設定され、大阪発篠山口行きのみ毎日夕方に4本(1時間に1本)運転されていたが、2003年12月1日のダイヤ改正で廃止され、三田 - 篠山口間各駅停車の快速列車(木津発JR東西線直通)に格下げされた。2020年3月14日のダイヤ改正で日中は快速・丹波路快速が区間快速に格下げされたため、現在の日中は事実上旧国鉄末期の快速列車とほぼ同じ停車駅となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "沿線には中山寺など初詣に訪れる参拝者の比較的多い社寺があるため、大晦日深夜から元旦にかけて、福知山線では尼崎駅 - 宝塚駅間(運転区間は学研都市線四条畷駅 - (JR東西線) - 宝塚駅間)において、普通列車のみ約30〜60分間隔で終夜運転が実施されていた。なお、かつては宝塚駅 - 新三田駅間でも終夜運転が行われていたが、2011年度以降は宝塚発新三田ゆき臨時列車1本のみの運転に変更され、さらに臨時列車の運転も取り止められ、2019年度からは全区間とも終夜運転が取り止められた。なお、競合する阪急電鉄では2019年度まで宝塚本線及び今津線ともに終夜運転を実施していたが、2020年度以降は福知山線同様に終夜運転を実施していない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災ではJR神戸線が寸断され、復旧には時間を要する見込みとなった。よって、その迂回ルートで最も重要な線区として、最優先で福知山線の復旧作業が行われた。福知山線では川西池田駅 - 中山寺駅間の被害が大きく、地震発生の1月17日には広野駅 - 福知山駅間が開通し、その後順次運転を再開した。",
"title": "阪神・淡路大震災時の迂回路として"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "輸送力の確保のため運転開始直後から臨時列車が運転され、5時30分から21時まで、1時間につき1本か2本の臨時列車を最大42本運転し、特急「北近畿」の増結も行われた。大阪駅を発着としていた特急列車は、東海道新幹線との接続のため3往復を新大阪駅発着で運転し、このほかに「北近畿」15号は福知山駅 → 和田山駅間で延長運転し、播但線との接続を改善した。またJR神戸線が全通した4月1日以降も4月17日まで、新大阪駅延長運転が2往復、和田山駅延長運転が行われた。",
"title": "阪神・淡路大震災時の迂回路として"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "JR神戸線で運行されていた貨物列車の迂回運転も行われた。しかし、福知山線や山陰本線の和田山駅 - 湖山駅間では貨物列車が運転されなくなっていたため、重い貨物列車を毎日運転するには問題があり、乗務員の養成や設備の一部改良の必要性があったが、福知山線・山陰本線・伯備線を経由して2月11日から迂回運転が開始された。貨物列車が運転されていなかった区間の迂回貨物列車の乗務は、JR西日本が担当した。また、ダイヤ改正にあわせた新製車両の甲種鉄道車両輸送も3月14日から8本、特大貨物2本が迂回運転された。",
"title": "阪神・淡路大震災時の迂回路として"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2011年3月12日以降は電車のみが運転されている。篠山口駅 - 福知山駅間の快速・普通列車は、全列車が転換クロスシート車両で運転されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代末期の1986年11月1日に全線電化開業したが、1981年4月1日の尼崎駅 - 宝塚駅間電化の際には、103系として新車の導入がなされたものの、逆に残る宝塚駅 - 福知山駅 - 山陰本線城崎駅(現・城崎温泉駅)間電化の際に新車は全く導入されず、既存の113系を寒冷地向けに改造した800番台の導入等で賄った。なお、全線電化時の当初の計画では、475・457系電車(主に九州地区からの転用)で賄う予定だった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "また無煙化以前には",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "といった蒸気機関車が使用された。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1970年から兵庫県三田市と神戸市北部に位置している神戸三田国際公園都市・北摂三田ニュータウンの開発が始まり、ニュータウンへの入居が始まった1981年頃から三田市の人口が増加した。特に1987年から1996年まで、人口の実質増加率は10年連続で日本一を記録した。",
"title": "輸送改善"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "福知山線では輸送力増強のため、非電化区間であった宝塚駅 - 福知山駅間の電化による全区間電車運転と一部区間の複線化の実施が決定した。しかし当時は、生瀬駅 - 三田駅間の山間部においては武庫川渓谷に沿って敷設されており、複線化が困難であったため、生瀬駅 - 道場駅間はトンネルを経由する複線の新線を建設して、約1.8 km短縮する計画が立案された。",
"title": "輸送改善"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "これは、1972年6月、福知山線沿線9市(大阪市・尼崎市・伊丹市・川西市・池田市・宝塚市・西宮市・神戸市・三田市)による「国鉄福知山線複線・電化促進期成同盟会」からの要望を受けて、宝塚 - 三田間の輸送力増強計画を審議する「研究会」が、兵庫県・宝塚市・西宮市・神戸市・三田市および国鉄の六者によって発足した。この研究会は1973年にかけて、(1)現在線の腹付線増による複線電化は、武庫川河谷の地形条件(特に生瀬 - 武田尾)からして困難であること、(2)名塩 - 山口ルートは、別線建設が可能であること、(3)ニュータウン(北摂ニュータウン・北神ニュータウン)への鉄道乗り入れが考慮されるべきこと、の3つの条件をもとに、(A)生瀬 - 名塩 - 道場 - 三田 - 広野、(B)生瀬 - 名塩 - (東久保) - 山口 - 三田 - 広野、(C)生瀬 - 名塩 - (東久保) - 山口 - (北神ニュータウン・北摂ニュータウン) - 広野の3案が出された。採算を重視する国鉄は、東久保における険坂があるにせよ、電化すれば運行への影響は少なく、名塩・山口の集落に加えてニュータウンを経由する(C)案を望んでいたが、武田尾駅の廃止を憂う宝塚市と、市の玄関口の衰退を案じる三田市によって、反対運動が起きた。2年あまりに及ぶ紆余曲折を経て、西宮市の山口地区を犠牲にすれば、他の名塩・武田尾・三田のいずれも経由する生瀬 - 名塩 - 武田尾 - 道場 - 三田 - 広野が最終案となった。国鉄は採算重視よりも関係市域での意見調整を重視する立場から、路線決定は兵庫県に任せるという態度をとっており、福知山線の新線切り替えは兵庫県による最終案に沿う形となった。",
"title": "輸送改善"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "まず、1986年8月1日より新線切り替えと宝塚駅 - 三田駅間の複線化が行われた。次いで同年10月15日より三田駅 - 新三田駅(この時点では開業前)が複線化された。翌11月1日に行われた国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日国鉄ダイヤ改正)から全面的に電車で営業を開始した。同時に、生瀬駅 - 武田尾駅間には西宮名塩ニュータウンの開発に併せて西宮名塩駅が、三田駅 - 広野駅間にはウッディタウンの玄関口として新三田駅が開業し、特急「北近畿」の運転開始に加え、113系2両編成を主体として普通が日中時間帯で1時間当たり3本(大阪駅 - 福知山駅間1本、大阪駅 - 新三田駅間2本)に増発された。国鉄分割民営化後の1989年より快速が運転を開始した(快速の区間は現在と同じく、大阪駅 - 三田駅間のみ)。この時点で日中は特急0 - 1本、快速2本、普通4本の現在とほぼ変わらないダイヤになった。",
"title": "輸送改善"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1997年には新三田駅 - 篠山口駅間の複線化が完成し、JR東西線が開業したことにより、同線経由で学研都市線との直通運転が開始された。",
"title": "輸送改善"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、生瀬駅北西から武田尾駅北東にかけての廃線敷は、地面に半ば埋まった枕木が残り、2016年11月から渓谷沿いのハイキングコースとして一般開放されている(「旧国鉄福知山線廃線跡」も参照)。",
"title": "輸送改善"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2019年度1日平均の乗車人員は、宝塚駅が約2万9千人と福知山線で最も利用者が多く、次いで伊丹駅が約2万5千人、川西池田駅が約1万9千人である。アーバンネットワーク内でも新三田駅以北では利用者数が少なくなり、7駅合計で約1万人に留まる。JR西日本発足時に1日の運転本数が100本足らずだった福知山線は、JR東西線開業以降は1日360本を超えるダイヤの都市近郊路線へと変化していった。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "大阪駅・北新地駅 - 宝塚駅間の利用は特定区間運賃が適用されるが、電車特定区間に含まれないため、これ以外の区間と跨って利用すると幹線運賃が適用され、運賃が高くなるのが特徴である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "丹波市は、篠山口駅 - 福知山駅間の単線区間の複線化をJR西日本に要望している。また丹波市は団体利用への運賃補助を行い、兵庫県も特急列車の料金補助を行う社会実験を実施していた。そして兵庫県は「乗って 近づく 複線化」などと呼びかけている。だが、2003年度の1日の乗車人員はこの区間の丹波大山駅から丹波竹田駅までの8駅を合わせても約3,600人であり、篠山口駅以北では少子化に伴う通学利用の減少やモータリーゼーションの浸透もあって減少傾向にある。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "福知山線の発祥は、川辺馬車鉄道が1891年に開業させた尼ヶ崎駅(後の尼崎港駅) - 伊丹駅間の馬車鉄道である。後に摂津鉄道と改称して1893年に馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "摂津鉄道の路線は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に譲渡され、軌間1067 mmに改軌した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年には福知山南口駅(内田町付近)まで開通した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1904年に軍部からの要請で、対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山駅 - 新舞鶴駅間の貸与を受けて、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道が完成した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "阪鶴鉄道は1907年に国有化され、官設区間と併せて阪鶴線と呼ばれていたが、山陰本線の京都駅 - 出雲今市駅(現在の出雲市駅)間が1912年に開通したのを機に、神崎駅(現在の尼崎駅) - 福知山駅間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間が福知山線と改称された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "大阪と山陰方面を結ぶ亜幹線とされたが、線路改良や電化などの近代化は大幅に遅れた。さらにC54形蒸気機関車やDD54形ディーゼル機関車が配属され、特急「まつかぜ」が福知山線経由で1961年から設定されていたが、1972年に新設された特急「はまかぜ」に至っては時間短縮を理由に姫路駅経由に変更されてしまうなど、亜幹線として機能しているとは言い難い状況であった。加えて、普通列車は永らくDD54形やDD51形ディーゼル機関車牽引による旧形客車が使用され続けたなど、車両面での近代化は大きく遅れていた。ただし、大阪駅発着の客車列車に関しては、乗客のデッキからの転落事故などが発生し、1985年3月のダイヤ改正で自動扉を装備した12系客車に置き換えられて近代化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "設備面では、1970年代後半から近代化が進められた。1979年 - 1980年にかけて塚口駅 - 宝塚駅間が順次複線化され、翌1981年に尼崎駅 - 宝塚駅間の電化が完了。また、1980年代前半までは腕木式信号機が現存していたが、列車集中制御装置 (CTC) の導入により姿を消した。だが、設備は近代化された一方で、車両は依然として旧形車両が主力であったため、新車を相次いで登場させた。しかし、競合相手の阪急には度重なる国鉄の運賃値上げによる運賃格差もあって太刀打ちできず、当線に登場した103系も当初の6両編成から後に4両編成に減車された。また、神戸方面へも当時は神戸電鉄経由(当時は北神急行が開業していなかったので神戸電鉄有馬線の鈴蘭台駅・新開地駅経由)での所要時間とは大差なく、やはり本数は福知山線の方が相当少なかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "福知山線にとって画期的な変化は、1986年の宝塚駅 - 新三田駅間の複線化、福知山駅までの全線電化の完成である。それまで山間部を武庫川渓谷に沿って走っていたため、複線化が困難であった生瀬駅 - 道場駅間をトンネルの連続する複線の新線に切り替え、新たに西宮名塩駅を設置し、三田駅 - 広野駅間には新興住宅地の玄関として新三田駅を設置した(「輸送改善」の節も参照)。そして国鉄最後のダイヤ改正である1986年11月1日から全面的に電車で営業を開始し、特急「北近畿」の運転が開始された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "一方、福知山線最初の開業区間でもあった塚口駅 - 尼崎港駅間の通称尼崎港線が、1981年に旅客営業を廃止した後、1984年に完全に廃止された。同線は1898年に東海道本線の尼崎駅への連絡線を設けて大阪方面との直通運転を開始後は、塚口駅 - 尼崎港駅間の貨物主体の盲腸線となっていた。晩年の旅客列車の本数は1日2往復で混合列車であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "民営化以降は下記の年表を参照のこと。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1989年に大阪国際空港(伊丹空港)に近いJR伊丹駅から伊丹空港までの路線を建設する構想として、福知山線分岐線構想が計画された。その後、1995年に発生した阪神・淡路大震災により、航空機での輸送の重要性が改めて認識され、空港へのアクセス整備が必要であるとして「阪神・淡路復興計画」の中に盛り込まれた。さらにこの計画は「ひょうご21世紀交通ビジョン」の中に盛り込まれた。",
"title": "伊丹駅からの空港アクセス構想"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1995年に国・兵庫県・大阪府・JR西日本や伊丹市などで構成される「福知山線分岐線研究会」を設置し、事業予測・路線計画・整備手法や採算などについて詳細な調査を行い、2007年に兵庫県が空港とJR伊丹駅を結ぶライトレール (LRT) の導入を検討すると発表しており、2010年に事業を完成させるとしていたものの計画は進んでおらず、伊丹市では当面の対策として、市バスを活用した空港アクセスを行っている。",
"title": "伊丹駅からの空港アクセス構想"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "駅距離間が比較的長い、中山寺駅 - 宝塚駅間に新駅建設案がある。また、丹波竹田駅 - 福知山駅間にも新駅を設置する構想もある。かつては、黒井駅 - 市島駅間に「春日部」駅が設置される計画もあった。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "下記以外の駅はJR西日本の直営駅である(2022年3月時点)。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "#廃止区間(尼崎港線)が廃止になったことによる廃駅を除く。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "名称などは廃止時点のもの。",
"title": "駅一覧"
}
] |
福知山線(ふくちやません)は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から京都府福知山市の福知山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。 なお、本項では正式な路線名を示す場合を除いて、東海道本線のうち大阪駅から京都方面は「JR京都線」、尼崎駅から三ノ宮方面については「JR神戸線」の愛称で記述する。
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<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 福知山線
|路線色 = #ffba00
|ロゴ = JRW kinki-G.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = JRW EC 287 series FA04.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 福知山線を走る特急「[[こうのとり (列車)|こうのとり]]」<br>(2011年3月30日 [[黒井駅 (兵庫県)|黒井駅]] - [[石生駅]]間)
|通称 = JR宝塚線(尼崎駅 - [[篠山口駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[兵庫県]]、[[京都府]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]
|終点 = [[福知山駅]]
|駅数 = 30駅
|電報略号 = フクセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p21">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=21}}</ref>
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|G}}
|開業 = [[1891年]][[7月24日]]
|全通 = [[1904年]][[11月3日]]
|廃止 =
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]]
|運営者 = 西日本旅客鉄道
|車両基地 = [[網干総合車両所]]宮原支所、[[吹田総合車両所]]福知山支所ほか
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 106.5 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = [[複線]]、[[単線]]
|複線区間 = 尼崎駅 - 篠山口駅間
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](全線P・尼崎駅 - 宝塚駅)<br/> [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P・宝塚駅 - 篠山口駅間<ref name="kyoten">[https://www.westjr.co.jp/safety/action/ats/ ATS-Pの整備状況] - JR西日本</ref>)<br />ATS-SW(篠山口駅 - 福知山駅間)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 =
}}
'''福知山線'''(ふくちやません)は、[[兵庫県]][[尼崎市]]の[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]から[[京都府]][[福知山市]]の[[福知山駅]]に至る[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。
なお、本項では正式な路線名を示す場合を除いて、[[東海道本線]]のうち[[大阪駅]]から[[京都駅|京都]]方面は「[[JR京都線]]」、尼崎駅から[[三ノ宮駅|三ノ宮]]方面については「[[JR神戸線]]」の愛称で記述する。
== 概要 ==
[[大阪]]と[[北近畿]]、さらに[[山陰地方]]とを結ぶルートの一つである。大阪駅 - [[宝塚駅]]間では[[阪急宝塚本線|阪急宝塚線]]の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] - 宝塚駅間と、大阪駅 - [[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]]間では[[阪急神戸本線|阪急神戸線]]・[[阪急伊丹線]]の梅田駅 - [[伊丹駅 (阪急)|伊丹駅]]間と競合関係にある。大阪駅(大阪梅田駅) - 宝塚駅間の所要時間においては、阪急宝塚線より当路線が勝る。同区間の所要時間は快速が最速25分、普通列車が下り30分で<ref name="jtb-tt202110">JTBパブリッシング『JTB時刻表』2021年10月号</ref>、並走する阪急宝塚線の急行(33分<ref name="jtb-tt202110" />)より速い。
[[東海道本線]]の大阪駅 - 尼崎駅間を含む大阪駅 - [[篠山口駅]]間は[[アーバンネットワーク]]の路線の一つに数えられており、「'''JR宝塚線'''」(ジェイアールたからづかせん)の[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が付けられている。[[阪急電鉄]]にも[[阪急宝塚本線|宝塚線]]があるため、混同を避けるために愛称に「JR」が付いている。JR西日本が1987年8月に大阪駅 - [[新三田駅]]間の愛称を公募した結果「北阪神線」が1位であったものの、結局「JR宝塚線」が採用された<ref name="asahi20030129">「JR西の路線、愛称開始15年」『[[朝日新聞]]』、2003年1月29日。</ref>。なお愛称の区間は、地元自治体の要望により、大阪駅 - 篠山口駅間に変更された<ref name="asahi20030129" />。
[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は'''黄'''({{Color|#FFBA00|■}})<ref group="注釈">かつて福知山線で運用されていた[[国鉄103系電車|103系]]電車は西日本地区初にして唯一のカナリア色([[黄5号]])を纏っていた。しかし、東海道線([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])からの直通運転が主体となり、1999年より東海道線のスカイブルー([[青22号]])に順次塗り替えられ、福知山線に乗り入れる普通列車はスカイブルーで統一された。</ref>であり、選定理由は「これからの新しい開発エリアを示すイキイキとしたイメージ」とされている。路線記号は '''G'''<ref name="jrw20140806">[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
全線を[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が管轄している。大阪駅 - 尼崎駅 - [[谷川駅]]間は[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」に含まれており、全線が[[乗車カード|ICカード]]「[[ICOCA]]」のサービス供用エリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref><ref name="jrw20190709">[https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/07/page_14474.html 北近畿エリアで「ICOCA」がご利用できるようになります!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2019年7月9日</ref><ref name=":02" />。
=== 路線データ ===
[[File:LineMap OsakaTakarazuka.png|250px|thumb|JR宝塚線と競合する阪急各線の位置関係。なお阪急神戸線は計画段階では伊丹を経由する案もあったが、伊丹へは支線の伊丹線を建設した。]]
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):106.5 km
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:30(起終点駅含む。JR宝塚線としては23駅)
** 福知山線所属駅に限定した場合、東海道本線所属の尼崎駅と山陰本線所属の福知山駅が除外され<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref>、28駅となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_07.pdf |format=PDF |title=データで見るJR西日本2021 |accessdate=2022-02-25 |publisher=西日本旅客鉄道 |year=2021 |page=54}}</ref>。
* 複線区間:尼崎駅 - 篠山口駅間
* 単線区間:篠山口駅 - 福知山駅間
* 電化区間:全線電化(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:
** 尼崎駅 - 宝塚駅間 : [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](全線P<ref group="注釈">宝塚駅の福知山方にATS-PからATS-SWに切り替えているか注意を促す標識が設置してあり、また尼崎駅の福知山方には、ATS-SWからATS-Pに切り替えているかを確認する標識がある。</ref>)
** 尼崎駅 - 篠山口駅間:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P<ref name="kyoten" />)
** 篠山口駅 - 福知山駅間:ATS-SW
* 最高速度:
** 120 km/h(尼崎駅 - 新三田駅間)
*** 尼崎駅 - 宝塚駅間は2005年6月19日から95 km/h<ref>[https://web.archive.org/web/20050623021739/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/050614a.html 福知山線の運転再開および運行計画の変更]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年6月14日</ref>
** 105 km/h(新三田駅 - 福知山駅間)
* [[運転指令所]]:
** 尼崎駅 - 新三田駅:[[大阪総合指令所]]
** 新三田駅 - 福知山駅:福知山運輸指令所
* [[列車運行管理システム]]:[[運行管理システム (JR西日本)|JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム]] - 尼崎駅構内を除く尼崎駅 - 新三田駅間に設置。
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[ICOCA]]エリア:全線(尼崎駅 - 谷川駅は[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
* 2020年度の混雑率:快速線106%(伊丹→尼崎 7:10-8:10)、緩行線78%(塚口→尼崎、7:15-8:15)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref>
== 沿線概況 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#ffba00
|title-color=black
|collapse=yes
|top=
* {{small|[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]は経路表記を省略}}
* {{small|配線の複雑な駅については一部を省略または簡略}}
* {{small|キロ程は尼崎駅からの距離}}
* {{small|Tはトンネル}}
|map=
{{BS|STR|||[[東海道本線]]({{rint|ja|wkay}} [[JR京都線]])|}}
{{BS3||STR|STR+1|||{{rint|ja|wko}} [[大阪環状線]]↗|}}
{{BS5||KBHFxeq|O2=HUBa|eKRZo|eKRZo|exKBHFeq|O5=HUBa|||[[大阪梅田駅 (阪急)]] <ref group="#">[[阪急電鉄|阪急]]:{{rint|osaka|hkg}} [[阪急京都本線|京都本線]]・{{rint|osaka|hko}} [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・{{rint|osaka|hkb}} [[阪急神戸本線|神戸本線]]</ref> {{rint|osaka|t}}([[東梅田駅]])|}}
{{BS5|tBHF2+r|O1=HUBaq|HUBtg|BHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBtf|tSTR+1|O5=HUBrf|7.7|JR-G47 [[大阪駅]]|{{rint|osaka|m}}([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]) [[File:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電|大阪市電]]|}}
{{BS5||tABZ4+fx3|STR|STR|O4=HUB|tSTR|O5=POINTERg@fq|||[[JR東西線]] {{rint|osaka|y}}([[西梅田駅]])|}}
{{BS5|extSTR+1|O1=exSTRq|exSTR+r|O2=tSTRe@g|P2=STRc2|STR3+c2|STR3|O4=HUBtl|tBHF|O5=HUBeq|||←[[梅田貨物線]]/[[北新地駅]]|}}
{{BS5|extSTR|O1=STRc2|KRZ3+1u|STR+1+c4|tKBHFa|O4=STRc4|P4=HUBe|tSTR|||[[大阪梅田駅 (阪神)]]|}}
{{BS5|extSTRl|O1=STR+1|extSTRq|O2=STR2|P2=STRc4|extSTRq|O3=STR2|etKRZto|etKRZto|||[[なにわ筋線]]→|}}
{{BS5|STR2|STRc3||tLSTR|O4=POINTERg@fq||||[[阪神電気鉄道|阪神]]:{{rint|osaka|hsm}} [[阪神本線|本線]]|}}
{{BS5|STRc1|hKRXWae|STRc3|||||[[淀川]]|}}
{{BS3|STRc1|BHF+4||3.4|JR-G48 [[塚本駅]]|}}
{{BS3|kABZq2|kSTRc3|O2=ABZgr||||[[北方貨物線]]|}}
{{BS5|||kABZg+4||tLSTR||||}}
{{BS5||tSTR+l|KRZt|tSTRq|tSTRr|||{{rint|ja|wkht}} JR東西線|}}
{{BS5||tHST|STR|LOGO JRW kinki-A|LOGO JRW kinki-G|||[[加島駅]]|}}
{{BS3|tKRWle|KRWg+r||||↑[[大阪府]]/[[兵庫県]]↓|}}
{{BS5|||hKRZWae|O3=GRZq||exKBSTa|||[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]] ''住友金属 [[専用鉄道|専用線]]''|}}
{{BS5|||STR|LSTR|exBHF||''[[尼崎港駅]]''|-1984}}<!-- 1981年-1984年は貨物営業のみ-->
{{BS5|||STR|STR2|O4=POINTERf@gq|xSTR3u|||阪神:{{rint|osaka|hsm}} 本線・{{rint|osaka|hsn}} [[阪神なんば線]]|}}
{{BS5|||STR|exBHF+1|O4=ÜWu1|STRl+4||''大物駅''|-1905|}}
{{BS3||STR|exBHF||''[[金楽寺駅]]''|-1981}}
{{BS3|GRZq|BHF2|O2=exÜWu2|exBHF3|0.0|JR-G49 [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]/''[[尼崎駅 (JR西日本)#歴史|尼崎仮乗降場]]''||}}
{{BS5||exSTRc2|exSTR3+1|O3=exlDST|exSTR+4|O4=STR2+4|P4=exÜWu4|STRc3||''長洲駅''|-1905|}}
{{BS5||exSTR+1|exSTRc4|O3=exSTRc2|exSTR3|O4=STRc1|ABZ4+fl|||東海道本線({{rint|ja|wkao}} [[JR神戸線]])|||}}
{{BS5||exSTR|exSTR+1|O3=POINTERf@gq|exKRW+l|O4=exSTRc4|eKRWgr||''旧上り線'' '''福知山線↓'''||}}
{{BS5||exkSTR2|O2=POINTERf@gq|exSTR2|exKBSTe|O4=STRc2x3|STR3||''尼崎港線''|''[[尼崎市場駅]]''|}}
{{BS5||exkSTRc1|exkSTRl+4|O3=exSTRc1|INCIDO|O4=exSTR+r|P4=ABZ+1x4|STRc4|||[[JR福知山線脱線事故]]発生現場(祈りの杜)|}}
{{BS3|LOGO JRW kinki-G||BHF|2.5|JR-G50 [[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]|}}
{{BS3|||KRZu|||阪急:{{rint|osaka|hkb}} [[阪急神戸本線|神戸本線]]|}}
{{BS3|||BHF|3.9|JR-G51 [[猪名寺駅]]|}}
{{BS3|||KRZu|||[[山陽新幹線]]|}}
{{BS3|||eBHF||''[[伊丹南口駅]]''|-1897}}
{{BS3|||BHF|5.8|JR-G52 [[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]]|}}
{{BS3|||eDST||''猪名川仮信号所''|-1918}}
{{BS3|||BHF|7.9|JR-G53 [[北伊丹駅]]|}}
{{BS3|||eBHF|10.4|''池田駅''|1897-1901|}}
{{BS3|STR+4||STR|||阪急:{{rint|osaka|hko}} [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]|}}
{{BS5|exKBHFaq|eKRZo|exSTRq|eABZgr||11.1|''池田駅''|-1897|}}
{{BS5|STR+r|O1=KRW+l|KRWgr||STR||||[[能勢電鉄|能勢電]]:{{rint|osaka|nsm}} [[能勢電鉄妙見線|妙見線]]|}}
{{BS5|KBHFxe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||STR||||[[川西能勢口駅]]}}
{{BS5|exSTR|O1=POINTERg@fq|STR||STR||||能勢電:''妙見線''|}}
{{BS5|exSTRl|eKRZo|exKBHFeq|STR||||''[[川西国鉄前駅]]''|}}
{{BS3|STR||BHF|11.0|JR-G54 [[川西池田駅]]||}}
{{BS3|HST||STR|||[[雲雀丘花屋敷駅]]|}}
{{BS5||ABZgl|STRq|KRZu|KBSTeq|||[[平井車庫]]|}}
{{BS3|STR||eBHF||''花畑仮停車場''|-1903|}}
{{BS3|HST||STR|||[[山本駅 (兵庫県)|山本駅]]|}}
{{BS3|STR||BHF|14.5|JR-G55 [[中山寺駅]]|}}
{{BS3|HST||STR|||[[中山観音駅]]|}}
{{BS3|HST||STR|||[[売布神社駅]]|}}
{{BS3|HST||STR|||[[清荒神駅]]|}}
{{BS5||STRl|STRq|KRZu|STR+r||||}}
{{BS5||||STR|ABZg+l|||阪急:↑{{rint|osaka|hko}} 宝塚本線・{{rint|osaka|hkz}} [[阪急今津線|今津線]]→|}}
{{BS5||||BHF|O4=HUBaq|KBHFe|O5=HUBeq|17.8|JR-G56 [[宝塚駅]]||}}
{{BS3|||eDST||''惣川駅''|-1979|}}
{{BS3|||hKRZWae||第一武庫川橋梁|[[武庫川]]|}}
{{BS3|||BHF|19.7|JR-G57 [[生瀬駅]]|}}
{{BS3|exSTR+l|exSTRq|eABZgr||||}}
{{BS3|exTUNNEL1||TUNNEL1||''城山T''/城山T|115 m|}}
{{BS3|exTUNNEL1||tSTRa||''当田T''/生瀬T|1430 m|}}
{{BS5|exKRW+l|exKRWgr||tBHFea||21.9|JR-G58 [[西宮名塩駅]]|}}
{{BS5|exSTR|exTUNNEL1||tSTR|||''北山T''||}}
{{BS5|exKRWl|exKRWg+r||tSTR|O4=POINTERg@fq|||名塩T|2970 m|}}
{{BS3|exTUNNEL1||tSTR||''北山第二T''||}}
{{BS3|exTUNNEL1||tSTR||''溝滝尾T''||}}
{{BS3|exhKRZWae|WASSER+r|tSTR|||武庫川|}}
{{BS3|exTUNNEL1|WASSER|tSTR||''長尾山第1T''||}}
{{BS3|exTUNNEL1|WASSER|htSTRe||''長尾山第2T''||}}
{{BS3|exTUNNEL1|WASSERl|hKRZW||''長尾山第3T''||}}
{{BS5||exSTRl|exBHFq|ehKRZe|O4=tBHFa@f|exSTR+r|25.1|JR-G59 [[武田尾駅]]||}}<!-- 河川と旧線は1つの橋梁なのでhを使用 -->
{{BS5|||tSTRc2|tSTR3|exTUNNEL1||''草山T''|}}
{{BS5|||POINTERf@gq|O3=tSTR+1|tSTRc4|O4=WASSER+l|exhKRZWae||第一武田尾T|566 m|}}
{{BS5|||tSTRe|WASSER|exTUNNEL1||''大茂山T''||}}
{{BS5|||TUNNEL1|WASSER|exSTR||第二武田尾T|708 m|}}
{{BS5|||tSTRa|WASSER|exTUNNEL1||''野田尾T''||}}
{{BS5|||tSTRe|WASSER|exSTR||第一道場T|1263 m|}}
{{BS5|||TUNNEL1|WASSERl|exhKRZWae||第二道場T|158 m|}}
{{BS5|||TUNNEL1|WASSER+l|exhKRZWae||第三道場T|463 m|}}
{{BS5|WASSER+l|WASSERq|hKRZWae|WASSERr|exTUNNEL1||''植山T''||}}
{{BS5|WASSER|exSTR+l|eKRZo|exSTRq|exSTRr|||}}
{{BS5|WASSER|exKRWl|eKRWg+r||||}}
{{BS5|WASSERl|WASSERq|hKRZWae|WASSERq|WASSER+r|||}}
{{BS5|||BHF||WASSER|30.1|JR-G60 [[道場駅]]|}}
{{BS5|||eABZg+l|exSTRq|exhKRZWaeq|||''[[有馬線]]''|}}
{{BS5|||STR|STR+l|hKRZWaeq|||[[神戸電鉄]]:{{rint|kobe|kbs}} [[神戸電鉄三田線|三田線]]|}}
{{BS5|||BHF|O3=HUBaq|KBHFe|O4=HUBeq|WASSER|33.7|JR-G61 [[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]|}}
{{BS5|||BHF||WASSER|36.9|JR-G62 [[新三田駅]]|}}
{{BS5|||KRWgl|KRW+r|WASSER|||}}
{{BS5|||STR|YRDa|WASSER||新三田電留線|}}
{{BS5|||hKRZWae|WASSERq|WASSERr|||武庫川|}}
{{BS|BHF|39.7|JR-G63 [[広野駅 (兵庫県)|広野駅]]|}}
{{BS|BHF|44.0|JR-G64 [[相野駅]]|}}
{{BS|BHF|48.2|JR-G65 [[藍本駅]]|}}
{{BS|tSTRa||日出坂T|388 m|}}
{{BS|tSTRe|||}}
{{BS|BHF|50.5|JR-G66 [[草野駅 (兵庫県)|草野駅]]|}}
{{BS|BHF|53.5|JR-G67 [[古市駅 (兵庫県)|古市駅]]|}}
{{BS|BHF|56.1|JR-G68 [[南矢代駅]]|}}
{{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||58.4|JR-G69 [[篠山口駅]]||}}
{{BS3|exSTRr|STR||||''[[篠山鉄道]]''|}}
{{BS|eABZgr|||''[[篠山線]]''|}}
{{BS|BHF|60.7|[[丹波大山駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1||大山トンネル|88 m|}}
{{BS|TUNNEL1||阿草トンネル|380 m|}}
{{BS|BHF|68.7|[[下滝駅]]|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|KBHFa|O3=HUBeq|73.0|[[谷川駅]]|}}
{{BS3||STR|STRl|||{{rint|ja|wki}} [[加古川線]]|}}
{{BS|TUNNEL1||奥野々T|855 m|}}
{{BS|BHF|80.0|[[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]]|}}
{{BS|BHF|83.2|[[石生駅]]|}}
{{BS|BHF|87.5|[[黒井駅 (兵庫県)|黒井駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1||多田野T|125 m|}}
{{BS|BHF|94.0|[[市島駅]]|}}
{{BS|BHF|98.2|[[丹波竹田駅]]||}}
{{BS|TUNNEL1|O1=GRZq||塩津T|866 m ↑兵庫県/[[京都府]]↓|}}
{{BS|eBHF||''福知駅''|-1909}}
{{BS3|STRq|ABZg+r||||{{rint|ja|wken}} [[山陰本線]]|}}
{{BS5|exKBHFa|O1=HUBaq|KBHFa|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||106.5|[[福知山駅]]||}}
{{BS5|exSTRr|STR|STR|||||''[[北丹鉄道]]''|}}
{{BS3|STR|ABZgl|KDSTeq||[[福知山電車区]]||}}
{{BS3|KRWg+l|KRWgr||||[[WILLER TRAINS|京都丹後鉄道]]:[[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]]|}}
{{BS|STR|||{{rint|ja|wken}} 山陰本線|}}
{{BS-colspan}}
|bottom={{Reflist|group="#"}}
}}
路線は篠山口駅を境に南側の都市近郊路線と、北側の地方幹線とに雰囲気が分かれ、日中は[[普通列車]]の運転系統も分離されている。篠山口駅以南は[[複線]]、以北は[[単線]]である。単線区間の全駅で[[列車交換]]が可能であり、かつ、駅を通過する場合に高速での運転ができるように[[一線スルー]]化されている。複線区間では[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]・[[川西池田駅]]・宝塚駅・[[新三田駅]]・[[広野駅 (兵庫県)|広野駅]]で列車の待避が可能である。
尼崎駅を出ると、上下線ともにJR神戸線の内側線と外側線の間の線路を走り、[[尼崎市記念公園野球場|ベイコム野球場]]の手前から陸橋を上りJR神戸線を跨いで[[兵庫県道13号尼崎池田線|産業道路]]の手前で進路を北に変え、北東に向かいつつ[[JR福知山線脱線事故|脱線事故]]の現場で線路はほぼ真北に一直線に進む。なお、JR東西線が開業するまでは、福知山線は上下線ともにJR神戸線の外側線と接続しており、下り線はJR神戸線の外側線よりさらに外側に膨れて南西に進んでからベイコム野球場のそばをかすめて大きく半円を描く形で陸橋を上ってJR神戸線を跨ぎ現在の線路へと続いていたほか、上り線は脱線事故の現場からそのまま直進して南下しJR神戸線の外側線に接続しており、上り線はJR東西線に伴い下り線に沿って線路は付け替えられた。旧上り線の跡地は現在、脱線事故の現場となった元分譲マンション、そしてその先は駐車場と道路に転用されている。
[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]から[[猪名寺駅]]あたりにかけての沿線は工場地帯で、現在も[[三菱電機]]などの工場があり、その合間を縫って線路は延びている。ただ、塚口駅の東側にあった[[森永製菓]]などの工場は閉鎖され分譲マンションへと変わるなど、住宅街も形成されている<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2016/03/page_8409.html|title=JR塚口駅前再開発の街「ZUTTOCITY(ズットシティ)まちびらき」約8.4ヘクタールの広大な敷地に、駅ビル・商業施設・住宅・提供公園などが4月9日(土曜日)に、いよいよまちびらきします! |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2016-03-03 |accessdate=2023-01-14 }}</ref>。
伊丹駅を過ぎた辺りから[[猪名川]]の西側に沿って走るようになり、川西池田駅の手前で線路は西側に進路を変える。そこからは[[国道176号]]と阪急宝塚本線とほぼ並行して西側に延びており、[[阪急電鉄]][[平井車庫]]の北側を抜けて[[中山寺駅]]となる。同駅前は区画整理により宅地化し商業施設もできるなど様変わりした。
そして住宅街の合間を縫って[[宝塚市]]のターミナル駅である宝塚駅へと着く。宝塚駅までの区間は[[1981年]]までに電化・複線化が行われており、かつてはこの区間のみ黄色塗装の[[国鉄103系電車|103系]]が1時間に1本程度運行されていた。
宝塚駅を出ると進路を北に変えるが沿線風景も一変し、延々と[[南矢代駅]]までの間は[[武庫川]]の上流にほぼ沿う形で線路は続いている。特に[[生瀬駅]]から[[道場駅]]までの間は険しい峠越えのため、トンネルが断続的に続く区間である。元々はこの区間も武庫川に沿って線路が延びていたが、電化・複線化により[[1986年]]8月に線路が付け替えられ現在の形となった。線路の付け替えにより[[武田尾駅]]は移転し、[[西宮名塩ニュータウン]]へのアクセスターミナル駅として[[西宮名塩駅]]が新設され、同駅はのち快速と一部の特急が停車するまでになった。なお、廃線となった[[旧国鉄福知山線廃線跡|旧線跡]]は、特に生瀬駅から武田尾駅間にかけては整備がなされハイキングコースとして開放されたため、多くの行楽客で賑わっている。道場駅は[[神戸市]][[北区 (神戸市)|北区]]に所在するが、元々利用客の少ない無人駅である上に他の神戸市内の駅から離れていることなどから、旧国鉄時代から旅客営業規則における「[[特定都区市内#設定区域一覧|神戸市内]]」の駅としては扱われていない。
道場駅から先は田園地帯の中を走り抜ける。[[神戸電鉄]]との乗り換え駅であり[[三田市]]のターミナル駅でもある[[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]は利用客が多く駅前は栄えているが、そこを抜けると再び田園地帯となる。
三田駅から[[丹波大山駅]]にかけては再び国道176号とほぼ並行する。次の新三田駅は[[1986年]]の福知山線全線電化に合わせて開設された駅であり、駅開業当初は同駅までが複線区間であった。現在も同駅を発着とする列車が多数設定されている。また、[[北摂三田ニュータウン]]へと延びるバス路線のターミナル駅ともなっているが、駅周辺は長らく[[市街化調整区域]]とされていた(現在は解除)ため、ターミナル駅の割には駅前は商業施設は少なく寂しい印象を受ける。
篠山口駅は[[丹波篠山市]]のターミナル駅で、かつては同駅から旧[[篠山線]]も延びていた。なお、同市の中心部は市役所のある[[篠山城]]周辺(旧篠山線[[篠山駅]]北側)であり、篠山口駅からは離れている。複線は同駅までで、ここから終点の福知山駅までは単線である。
丹波大山駅を抜けると再び山岳路線となり、[[篠山川]]に沿って西側に進路を変え、トンネルも幾つか抜ける。[[谷川駅]]からは再び北側に進路を変え、[[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]]からは再度国道176号に沿う形で線路は延び、山間部の合間を縫って東西に走り抜けつつ北上する。途中幾つかトンネルを抜けると目の前に山陰本線が合流し、高架駅である[[福知山駅]]へと達する。
<gallery>
JRW JR-Takarazuka Line view-01.JPG|武田尾駅では、旧線(左の道路)<ref name="Googlemymap" />と交差する。
JRW JR-Takarazuka Line view-02.JPG|トンネルに挟まれた武田尾駅を通過する特急列車。
JRW JR-Takarazuka Line view-03.JPG|田園風景が広がる道場駅 - 三田駅間。
福知山線新三田ー広野間6090082.jpg|新三田駅 - 広野駅間。
</gallery>
== 運行形態 ==
{{See also|JR京都線#運行形態|JR東西線#運行形態|片町線#運行形態}}
福知山線は尼崎駅が起点であるが、尼崎駅を始発・終着とする列車は無く、全列車が尼崎駅を越えて大阪駅ないし[[JR京都線]] [[高槻駅|高槻]]・[[京都駅|京都]]方面、または[[JR東西線]]を経由し[[片町線]](学研都市線)[[同志社前駅|同志社前]]・[[木津駅 (京都府)|木津]]方面に乗り入れている。福知山駅からは特急列車が[[山陰本線]][[城崎温泉駅|城崎温泉]]方面に直通している([[京都丹後鉄道宮福線]]へは臨時での延長運転時のみ)。[[普通列車]]([[快速列車]]を含む)は、原則として篠山口駅で運転系統が分かれており、大阪駅 - 福知山駅間を直通する列車は朝晩のみである。
2022年3月13日ダイヤ改正時点での運行概況は、次の通り。
朝[[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]の尼崎方面行きは、大阪行きの快速、JR京都線直通の普通、JR東西線・学研都市線直通の快速・普通が頻発する。普通列車は、かつてはJR京都線直通とJR東西線直通が1:1の割合であったが、現在はJR東西線直通の方が多く設定されている。尼崎駅でJR神戸線からの普通列車に接続する。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;"
|+日中1時間当たりの運転本数(1)<br />(大阪駅基準朝9時台及び14:00以降)<br />(2022年3月12日以降)
!種別\駅名
!…
! style="width:1em;" |尼崎
! colspan="2" style="width:1em;" |塚口
!…
! style="width:1em;" |宝塚
!…
! style="width:1em;" |新三田
!…
! colspan="2" style="width:1em;" |篠山口
!…
! style="width:1em;" |福知山
|- style="text-align:center;"
|特急|| style="text-align:right" |←新大阪|| colspan="12" style="background:#ff8080;" |0 - 1<ref name=":0" group="注釈" />
|-
|丹波路快速|| rowspan="2" style="text-align:right" |←大阪|| colspan="9" style="background:#feb;" |2 || colspan="3" |
|-
|快速
| colspan="5" style="background:#feb;" |2
| colspan="7" |
|-
| rowspan="2" |快速<br />(JR東西線)|| style="text-align:right" |←木津|| colspan="2" style="background:#feb;" |2 || colspan="10" rowspan="2" |
|-
| style="text-align:right" |←同志社前|| colspan="2" style="background:#feb;" |2
|-
| rowspan="2" |普通 || style="text-align:right" |←高槻|| colspan="7" style="background:#ccc" |4
| colspan="5" |
|-
| colspan="9" | || colspan="4" style="background:#ccc" |1
|}
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;"
|+日中1時間当たりの運転本数(2)<br />(大阪駅基準10:00 - 14:00)<br />(2022年3月12日以降)
!種別\駅名
!…
!style="width:1em;"|尼崎
!colspan="2" style="width:1em;"|塚口
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|宝塚
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|新三田
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|篠山口
!…
!style="width:1em;"|福知山
|- style="text-align:center;"
|特急||style="text-align:right"|←新大阪||colspan="14" style="background:#ff8080;"|0 - 1<ref group="注釈" name=":0">一部は主に土曜・休日のみ運行。また社会情勢により運休が発生する場合もある。</ref>
|-
| rowspan="2" |区間快速<br />(JR宝塚線)|| rowspan="2" style="text-align:right" |←大阪||colspan="11" style="background:#cfc;"|1 - 2<ref group="注釈" name=":1">大阪駅基準12時台のみ篠山口行き・新三田行きともに2本ずつ、ほかの時間帯は篠山口行き1本・新三田行き3本</ref> ||colspan="3"|
|-
|colspan="8" style="background:#cfc;"|2 - 3<ref group="注釈" name=":1" /> ||colspan="6"|
|-
| rowspan="2" |区間快速<br />(JR東西線)||style="text-align:right"|←木津||colspan="2" style="background:#cfc;"|2 || colspan="12" rowspan="2" |
|-
|style="text-align:right"|←同志社前||colspan="2" style="background:#cfc;"|2
|-
|rowspan="2"|普通 ||style="text-align:right"|←高槻||colspan="5" style="background:#ccc"|4 || colspan="9" |
|-
|colspan="11"| ||colspan="4" style="background:#ccc"|1
|}
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;"
|+夕ラッシュ1時間当たりの運転本数<br />(大阪・尼崎→宝塚・三田・福知山方面)<br />(2022年3月12日以降)
!種別\駅名
!…
! style="width:1em;" |尼崎
! style="width:1em;" |塚口
!…
! style="width:1em;" |宝塚
!…
! style="width:1em;" |新三田
!…
! style="width:1em;" |篠山口
!…
! style="width:1em;" |福知山
|- style="text-align:center;"
|特急|| style="text-align:right" |新大阪→|| colspan="10" style="background:#ff8080;" |1
|-
| rowspan="3" |丹波路快速<br />快速<br />(JR宝塚線)|| rowspan="3" style="text-align:right" |大阪→|| colspan="10" style="background:#feb;" |1
|-
| colspan="8" style="background:#feb;" |1
| colspan="2" |
|-
| colspan="6" style="background:#feb;" |1
| colspan="4" |
|-
| rowspan="3" |快速<br />(JR東西線)|| rowspan="2" style="text-align:right" |木津→|| colspan="8" style="background:#feb;" |1
| colspan="2" |
|-
| colspan="6" style="background:#feb;"|1
| colspan="4" |
|-
| style="text-align:right" |同志社前→|| colspan="4" style="background:#feb;" |2
| colspan="6" |
|-
|普通
|高槻→
| colspan="6" style="background:#ccc"|4
| colspan="4" |
|}
=== 定期列車 ===
==== 特急 ====
{{See also|こうのとり (列車)}}
[[北近畿ビッグXネットワーク]]の一角(「X」の左斜め下の部分が福知山線)としての機能を有し、特急「[[こうのとり (列車)|こうのとり]]」が運転されている。前身の「北近畿」時代からほぼ1時間に1本運転されていたが、特に2020年以降の[[コロナ禍]]で利用率が大幅に減少したことを受けて、一部が週末のみ運転の臨時列車に格下げされたほか、社会情勢により日中と夜間で更に運休が発生することがあるなど以前より運行本数が減らされている<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210212_00_tsuruginado_untenkeikaku.pdf#page=5 |title=北陸新幹線「つるぎ」、在来線特急 今後の運転計画について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2021-02-12 |accessdate=2021-03-24 }}</ref>。
福知山線内は途中、尼崎駅・宝塚駅・三田駅・篠山口駅・柏原駅・福知山駅に全ての列車が停車するほか、主に平日の朝と夕方以降で西宮名塩駅・新三田駅・相野駅・谷川駅・黒井駅のいずれかにも停車する。
大阪から福知山市・[[豊岡市]]などの[[丹波国|丹波]]・[[但馬国|但馬]]地方の各市町や[[城崎温泉]]などの観光地への足として、[[城崎温泉駅]]発着列車などもある。現在は基本的に3両ないし4両編成で運転されるが、多客時には7両へ編成増強される場合もある。また、大阪駅 - 篠山口駅間では通勤需要があるため、下り19・23号と上り2・4号は平日のみ通年7両で運転されている。
「こうのとり」のうち、一部列車が多客期のみ京都丹後鉄道(2015年3月までは北近畿タンゴ鉄道)[[天橋立駅]]へ延長運転を実施している<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2011/05/20/20110520_fukuchiyama.pdf 平成23年度 【夏】の臨時列車運転計画について]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2011年5月20日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111014_fuyurin_fukuchiyama.pdf 平成23年度 冬の臨時列車運転計画について]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2011年10月14日</ref>が、現在は行われていない。
==== 丹波路快速・快速・区間快速 ====
{{See also|丹波路快速}}
快速列車は、大阪駅発着系統と、尼崎駅からJR東西線・学研都市線に直通する系統とが運転されている。2000年3月11日のダイヤ改正より登場した[[丹波路快速]]は前者にあたる。快速と丹波路快速の停車駅は同じで、尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・中山寺駅・宝塚駅・西宮名塩駅と三田駅からの各駅に停車する。区間快速は、大阪駅発着系統は尼崎駅・伊丹駅と川西池田駅 - 新三田駅・篠山口駅間の各駅に停車し、JR東西線・学研都市直通系統の列車は尼崎駅から各駅に停車する(福知山線内で快速として運転する列車もある)。
快速・丹波路快速は、原則として川西池田駅で普通列車と緩急接続を行うが、早朝と深夜では緩急接続を行わない列車がある。このほか、朝ラッシュ時では一部の大阪行きが宝塚駅または新三田駅でも普通と片接続を行う。区間快速は、大阪駅発着系統のうち大阪行きのみ川西池田駅で普通と緩急接続を行う。
; 大阪駅発着系統
: 大阪駅発着系統は、宝塚駅・新三田駅・篠山口駅・福知山駅発着で運転されている。JR京都線には乗り入れていない<ref group="注釈">一部列車は京都駅からJR京都線内を[[回送]]列車として運行される関係で、多客期にJR京都線内で臨時列車が設定される場合は同線内を大阪行きの快速または新快速として運転、大阪駅において同駅始発の(丹波路)快速(継続して乗車できる場合であっても営業上は大阪駅を境に別列車扱い)として運転される場合がある。</ref>。福知山駅発着の全列車と、篠山口駅発着のうち[[JR西日本223系電車#6000番台|223系]]・[[JR西日本225系電車#6000番台|225系]]電車(いずれも6000番台)で運転される列車は、'''丹波路快速'''として運転されるが、輸送障害の発生でダイヤが乱れた時などはその他の車両で運行する場合がある。
: 丹波路快速は、[[JR西日本221系電車|221系]]電車の当路線での運用が増加した2000年3月11日のダイヤ改正で運転を開始し<ref name="jrw19991217">[https://web.archive.org/web/20000303170640/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n991217a.html 平成12年春 ダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年12月17日</ref>、その後[[2008年]][[6月28日]]からは大半の列車が223系に置き換えられた。[[2011年]][[3月12日]]のダイヤ改正で8両編成で運転される丹波路快速が大幅に増加<ref name="dj_201105">「大阪中心部のJR線事情」『[[鉄道ダイヤ情報]]』2011年5月号、[[交通新聞社]]。</ref>、[[2012年]][[3月17日]]のダイヤ改正で221系が同線から撤退し入れ替わる形で225系も運用されるようになった。
: 福知山駅まで直通する列車および篠山口駅で福知山行きに接続する列車は、福知山駅まで先着する(後者は篠山口駅で乗り継ぎ)。大阪行きは終着駅まで先着となるが、一部の列車は新三田駅で特急の接続待ちを行う。
: 大阪駅 - 篠山口駅間では最大8両編成で運転されるが、篠山口駅 - 福知山駅間ではホームの[[有効長]]が8両に達しない駅があるため、最大6両編成で運転される。大阪駅 - 福知山駅間を8両編成で運転する列車は篠山口駅で一部車両の[[増解結|連結・切り離し]]作業を行い、篠山口駅 - 福知山駅間では4両編成で運転される。
: [[2020年]][[3月14日]]のダイヤ改正から、日中の丹波路快速と快速を川西池田駅 - 篠山口駅間の各駅に停車<ref group="注釈">新規に宝塚駅 - 篠山口駅間の各駅に停車。</ref>する'''区間快速'''(大阪駅 - 新三田駅2本と大阪駅 - 篠山口駅2本)に変更し、普通列車を(JR京都線 - )大阪駅 - 宝塚駅間の運行に短縮した<ref name="jrw20191213">{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/191213_00_kitakinki.pdf |title=2020年3月14日にダイヤ改正を実施します |publisher=西日本旅客鉄道福知山支社 |date=2019-12-13 |accessdate=2019-12-13 }}</ref>。
: [[2022年]][[3月12日]]のダイヤ改正から、日中は原則として新三田駅 - 篠山口駅間が1時間1本に削減されたため、区間快速は大阪駅 - 新三田駅3本と大阪駅 - 篠山口駅1本に変更された(大阪駅発基準で12時台は新三田駅発着と篠山口駅発着が2本ずつ)。篠山口駅行きは川西池田駅で特急の通過待ちを行う。
; JR東西線・学研都市線直通系統
: JR東西線・学研都市線直通系統は、日中は塚口駅折り返しで1時間に4本運転されている。朝晩は宝塚駅・新三田駅・篠山口駅発着の設定がある。尼崎駅で[[JR神戸線]]の快速と相互接続(時間帯によっては[[新快速]]・普通とも接続をする場合もあり)を行う。全列車とも終着駅まで先着する。朝・晩の快速の一部は尼崎駅で[[列車種別]]を変更してJR東西線・学研都市線では区間快速として運転する列車があり、[[列車番号]]も尼崎駅で変更になる。日中の塚口駅発着の区間快速は尼崎駅で列車番号の変更は行われない。学研都市線・木津経由の[[奈良駅]]発着列車も、2018年3月時点で朝に奈良発新三田行き快速が1本、夜間に新三田発奈良行きの快速(平日は新三田20時台発。土休日は新三田21時台発で尼崎駅から区間快速)が1本設定されている。
車両は、大阪駅発着系統は223系・225系が、JR東西線・学研都市線直通系統は[[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]]が使用されている。207系・321系は7両編成で、これはJR東西線・学研都市線の一部駅<ref group=注釈>[[北新地駅]]、[[大阪天満宮駅]]、[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]</ref>で7両編成・4ドア対応のホームドアを設置しているのと、[[大住駅]] - [[西木津駅]]は7両編成のみしかホーム長が対応していない都合によるものである。207系・321系は大阪駅発着系統でも日中以外で運用される列車がある。
==== 普通 ====
{{See also|京阪神緩行線}}
一部の列車を除き、運行区間内の各駅に停車する。大半の列車が[[JR京都線]]と直通しており、京都駅・高槻駅 - 大阪駅 - 宝塚駅・新三田駅間および篠山口駅 - 福知山駅間の運行が基本である。快速・丹波路快速が各駅に停車する新三田駅 - 篠山口駅間では朝の数本のみの運行である<ref group="注釈">上りは篠山口発大阪行き1本(篠山口駅の初発列車)のみ、下りは大阪発篠山口行きと福知山行き各2本(土休日は各1本ずつ)のみ。</ref>。早朝・深夜の一部を除き、川西池田駅で快速・丹波路快速・区間快速(上りのみ)との緩急接続および特急の通過待ちを行うが、日中は下りの区間快速とは緩急接続を行わず、宝塚駅まで先着する。上りの一部は、宝塚駅または新三田駅(当駅始発のみ)でも緩急接続を行う。尼崎駅では一部列車を除きJR神戸線 - JR東西線間直通の普通と同一ホームで接続する。
朝ラッシュ時は塚口始発でJR東西線に直通する系統が設定されている。日中は大阪駅 - 宝塚駅間で1時間に4本運転されている。[[2002年]][[10月5日]]のダイヤ改正前は日中以降は高槻発・京都行きとの組み合わせであったが、この改正で15分間隔運転時間帯は高槻駅発着に統一された。土曜・休日ダイヤでは朝に京都駅発着の列車が運転されており、夜の20分間隔運転時間帯は21時から始まる。
夜19時台には篠山口発高槻行きが1本運転されていたが、2018年3月17日のダイヤ改正により廃止された。
朝晩にはJR東西線・学研都市線に直通する列車も設定されている。JR東西線・学研都市線との直通列車は時間帯によって上りは尼崎駅で、下りは京橋駅で区間快速に種別変更(別列車扱い)を行う列車もある。土曜・休日の朝には学研都市線・木津経由の奈良発宝塚行き(京橋駅まで区間快速)が1本ある。
JR京都線に直通しない大阪駅発着の普通も朝や上り最終列車として深夜に運転されている。この列車は尼崎駅 - 大阪駅間で外側線を走行し、塚本駅は通過(上り最終列車の大阪行き1本は除く)する。大阪駅 - 福知山駅間を直通する普通も朝に数本設定されているが、大阪発福知山行きの片道のみの運行である。福知山発の普通列車はすべて篠山口行きでの運転で、丹波路快速のみが大阪駅まで直通する。
車両はほとんどが207系・321系の7両編成であるが、朝の大阪発福知山行きは223系・225系の4両編成で運行される。
JR東西線開業前は大部分が大阪駅発着の列車で、朝ラッシュ時のみ新大阪行きと[[吹田駅 (JR西日本)|吹田]]発の設定があった。また、昼間でも[[国鉄113系電車|113系]]や[[国鉄117系電車|117系]]も普通列車に充当されていた。JR東西線が開業した[[1997年]]3月8日に吹田発は高槻発に変更された。同年8月31日まで全ての普通列車が[[塚本駅]]を通過していた(大阪駅 - 尼崎駅間は外側線を走行していたことなどが理由。現在も朝の大阪駅発着は外側線を走行しているため塚本駅は通過している)が、翌9月1日からは、尼崎駅発着だったJR京都線の普通と当路線のJR東西線直通ではない普通を統合して京都・高槻方面 - 新三田方面直通としたため、前述の一部列車を除き塚本駅にも停車するようになった。
2020年3月14日のダイヤ改正より、日中の普通は(JR京都線 - )大阪駅 - 宝塚駅間に短縮した(宝塚駅 - 新三田駅間は'''区間快速'''が代替)<ref name="jrw20191213" />。
篠山口駅 - 福知山駅間で運転される普通は、1時間に1本程度運転されている。早朝の篠山口駅発福知山駅行きを除いて篠山口駅で大阪方面との快速列車・普通列車と接続しており、うち日中は223系5500番台の2両編成で[[ワンマン運転]]を行っている。同区間は最大6両編成が乗り入れ可能なため、朝晩は大阪方面との直通運転を原則としており[[車掌]]が乗務している列車がほとんどであるが、2両編成でも車掌が乗務している列車もある。2014年3月15日の改正で、大阪発22時台の丹波路快速が福知山行きから篠山口行きに見直されたことに伴い、篠山口発0時台の普通福知山行きが設定されたが<ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』2013年3月号 pp.376,371、同2014年3月号 pp.376,371</ref>、2018年3月17日のダイヤ改正で廃止された<ref>{{PDFlink|1=[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/171215_00_fukutiyama.pdf#page=3 2018年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2017年12月15日</ref>。
=== 臨時列車 ===
==== 特急 ====
国鉄からJRとなって以降は、冬の[[カニ]]のシーズンを迎える11月から3月にかけて、[[臨時列車|臨時特急]]「'''味めぐり北近畿'''」(1998年以前)<ref>[https://web.archive.org/web/19991011053840/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n981016g.html 平成10年度【 冬 】の臨時列車の運転について(別紙詳細)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1998年10月16日</ref>・「'''かにカニ北近畿'''」(1999年以降)<ref>[https://web.archive.org/web/20000525142939/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n991015e.html 平成11年度【 冬 】の臨時列車の運転について(別紙詳細)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年10月15日</ref>が運転されていた(「[[こうのとり (列車)|こうのとり]]」の項目も参照)。
2020年以降のコロナ禍による旅客減少の影響で、2021年3月13日のダイヤ改正で「こうのとり」の一部が臨時列車化され、土曜・日曜・祝日を中心に新大阪駅 - 福知山駅間に7号・16号の1往復、新大阪駅 - 城崎温泉駅間に13号・26号の1往復が運転される。
==== 快速 ====
国鉄時代から、篠山の祭礼に合わせた臨時快速(「[[デカンショ祭|デカンショ祭り]]号」)などが多く設定されていた。しかし、現在は定期列車の充実もあり、臨時列車の設定はほぼ無くなった。
現在は、毎年3月に行われている[[朝日放送テレビ]]主催の[[丹波篠山ABCマラソン大会|篠山ABCマラソン大会]]に合わせた大阪発篠山口行き臨時快速「篠山ABCマラソン号」が1本設定される程度である<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180119_00_kitakinki_1.pdf 2018年 春の臨時列車運転について]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社、2018年1月19日</ref>。「篠山ABCマラソン号」の停車駅は、新三田駅までは通常の快速と同一であるが、新三田駅 - 篠山口駅間の各駅は旧速達快速が停車していた相野駅も含めて通過する<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20120120_harurin_fukuchiyama.pdf 平成24年春の臨時列車運転等のご案内]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2012年1月20日</ref>。
=== 女性専用車 ===
{|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;"
|-
|style="background-color:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #FFBA00;"|女性専用車
|-
|{{TrainDirection|篠山口|尼崎・大阪}}
|-
|
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;"
|-
|style="width:2em;"|1
|style="width:2em;"|2
|style="width:2em;"|3
|style="width:2em;"|4
|style="width:2em; background:#C0FF00"|5
|style="width:2em;"|6
|style="width:2em;"|7
|}
|}
大阪駅 - 篠山口駅間では、平日・休日の区別無く毎日、始発から終電まで、207系の大阪側から3両目および321系では5号車に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。ただし、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除される場合がある。
JR宝塚線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw20021007">[http://replay.waybackmachine.org/20021203004309/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月7日</ref>。さらに2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。
=== 過去の列車 ===
==== 優等列車 ====
[[File:KTR001 Tango Explorer.jpg|thumb|特急「タンゴエクスプローラー」]]
{{Main2|福知山線経由の優等列車の沿革|こうのとり (列車)#福知山線優等列車沿革}}
かつて福知山線には大阪駅と京都府[[舞鶴市]]や山陰各都市とを結ぶ幹線として長距離の[[優等列車]]が多数運転されていた。しかし、国鉄末期の[[1986年]][[11月1日]]に山陰本線城崎駅(現在の城崎温泉駅)まで電化されたことにより、優等列車はほぼ全てが電車化・特急化された上に、運転区間は城崎駅までに短縮され、福知山線経由での山陰方面への昼行の直通列車は廃止された。その後、電車特急の一部を[[気動車]]に置き換えて直通列車を復活させたが、後に米子・出雲市方面へは[[山陽新幹線|新幹線]]・[[伯備線]]経由が、鳥取・倉吉方面へは[[智頭急行智頭線|智頭急行]]経由がそれぞれ主要経路に変わった上に、車両老朽化もあり、長距離列車は再び姿を消した。[[2004年]][[10月16日]]に急行「[[だいせん (列車)|だいせん]]」が廃止されたことにより、福知山線経由での[[夜行列車]]は運転されなくなった。
このほかに福知山線では、北近畿タンゴ鉄道(現在の京都丹後鉄道)へ乗り入れる「[[文殊 (列車)|文殊]]」や「[[タンゴエクスプローラー]]」が運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正により福知山線経由の特急は全て「北近畿」から改称された「こうのとり」に統一され、福知山線経由で北近畿タンゴ鉄道へ直通する列車は全廃された<ref name="jrw20101217">{{PDFLink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/1_20101217_fukuchiyama.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2010年12月17日</ref>。
{{-}}
==== ほくせつライナー ====
[[File:Kiha65 ederutkitakinki hokusetsu.jpg|thumb|エーデル北近畿車両で運転された「ほくせつライナー」]]
通勤客向けの座席定員制の列車([[ホームライナー]])として1988年3月13日から2002年10月4日まで、大阪駅 - 篠山口駅間で'''ほくせつライナー'''が1往復運転されていた<ref name="jrw20020726">[https://web.archive.org/web/20021216172626/http://www.westjr.co.jp/news/020726c.html 平成14年秋 ダイヤ改正について 2.在来線特急](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年7月26日</ref>。篠山口行きは夕方に、大阪行きは朝ラッシュ時に運転された。ほくせつライナーには[[JR西日本183系電車|183系]]電車のほか、一時期大阪行きのみ[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]・[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]気動車による運用もあった。ほくせつライナー廃止後は特急「北近畿(現・こうのとり)」の増発で代替している。
; 停車駅(2001年時点)
: 大阪駅 - 尼崎駅 - 宝塚駅 - 三田駅 - 新三田駅 - [[広野駅 (兵庫県)|広野駅]] - [[相野駅]] - [[藍本駅]] - [[古市駅 (兵庫県)|古市駅]] - 篠山口駅<ref>『JTB時刻表』2001年4月号</ref>。
{{節スタブ}}
{{-}}
==== 快速列車 ====
全線電化される前の[[日本国有鉄道|国鉄]]時代にも、快速列車が1日に数本設定されていた。国鉄末期の[[1983年]]頃のダイヤでは、大阪駅 - 篠山口駅間に尼崎駅・伊丹駅・宝塚駅・武田尾駅・三田駅・広野駅・相野駅・古市駅を停車駅とする気動車による快速列車が1日2往復のみ設定されていたが、快速列車はのちに、各駅に停車する区間が三田駅 - 篠山口駅間、宝塚駅 - 篠山口駅間と次第に延びて停車駅が増加していき、[[1986年]]11月1日の全線電化で全列車が電車に統一されたことにより普通列車のスピードアップが図られたため、最終的に廃止された。のち、快速列車の設定を要望する声が多数寄せられたこともあり、民営化後の[[1989年]]3月11日のダイヤ改正より現在に繋がる快速列車が新たに設定された。設定当初の停車駅は、国鉄時代とは異なり、尼崎駅・伊丹駅・川西池田駅・宝塚駅と三田駅以遠の各駅であった。[[1997年]]3月8日改正では、207系電車を使用した広野駅・藍本駅・草野駅・古市駅・南矢代駅を通過する速達タイプの快速も設定され、大阪発篠山口行きのみ毎日夕方に4本(1時間に1本)運転されていた<ref>[https://web.archive.org/web/19980206005423/www.westjr.co.jp/new/1press/kaisei9.htm 平成9年3月アーバンネットワークのダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1996年12月16日</ref>が、2003年12月1日のダイヤ改正で廃止され、三田 - 篠山口間各駅停車の快速列車(木津発JR東西線直通)に格下げされた。2020年3月14日のダイヤ改正で日中は快速・丹波路快速が区間快速に格下げされたため、現在の日中は事実上旧国鉄末期の快速列車とほぼ同じ停車駅となっている。
==== 大晦日終夜運転 ====
沿線には[[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]など[[初詣]]に訪れる参拝者の比較的多い社寺があるため、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて、福知山線では尼崎駅 - 宝塚駅間(運転区間は学研都市線[[四条畷駅]] - (JR東西線) - 宝塚駅間)において、普通列車のみ約30〜60分間隔で[[終夜運転]]が実施されていた<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。なお、かつては宝塚駅 - 新三田駅間でも終夜運転が行われていたが、2011年度以降は宝塚発新三田ゆき臨時列車1本のみの運転に変更され<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2011/11/page_1046.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ(京阪神地区)〜 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います 〜 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2011-11-18 |accessdate=2019-11-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111121170626/http://www.westjr.co.jp/press/article/2011/11/page_1046.html |archivedate=2011-11-21}}</ref>、さらに臨時列車の運転も取り止められ、2019年度からは全区間とも終夜運転が取り止められた<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019-12-12 |accessdate=2019-12-16 }}</ref>。なお、競合する阪急電鉄では2019年度まで宝塚本線及び今津線ともに終夜運転を実施していたが、2020年度以降は福知山線同様に終夜運転を実施していない。
== 阪神・淡路大震災時の迂回路として ==
[[1995年]][[1月17日]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]ではJR神戸線が寸断され、復旧には時間を要する見込みとなった。よって、その迂回ルートで最も重要な線区として、最優先で福知山線の復旧作業が行われた。福知山線では川西池田駅 - 中山寺駅間の被害が大きく、地震発生の1月17日には広野駅 - 福知山駅間が開通し、その後順次運転を再開した。
輸送力の確保のため運転開始直後から臨時列車が運転され、5時30分から21時まで、1時間につき1本か2本の臨時列車を最大42本運転し、特急「北近畿」の増結も行われた。大阪駅を発着としていた特急列車は、[[東海道新幹線]]との接続のため3往復を[[新大阪駅]]発着で運転し、このほかに「北近畿」15号は福知山駅 → 和田山駅間で延長運転し、播但線との接続を改善した。またJR神戸線が全通した4月1日以降も4月17日まで、新大阪駅延長運転が2往復、和田山駅延長運転が行われた。
JR神戸線で運行されていた[[貨物列車]]の迂回運転も行われた。しかし、福知山線や山陰本線の[[和田山駅]] - [[湖山駅]]間では貨物列車が運転されなくなっていたため、重い貨物列車を毎日運転するには問題があり、乗務員の養成や設備の一部改良の必要性があったが、福知山線・山陰本線・[[伯備線]]を経由して2月11日から迂回運転が開始された<ref name="nakamura199603_87">[[#中村199603|『災害に強い交通基盤整備のあり方に関する調査研究報告書』p.87]]</ref>。貨物列車が運転されていなかった区間の迂回貨物列車の乗務は、JR西日本が担当した<ref name="nakamura199603_95">[[#中村199603|『災害に強い交通基盤整備のあり方に関する調査研究報告書』p.95]]</ref>。また、ダイヤ改正にあわせた新製車両の[[車両輸送|甲種鉄道車両輸送]]も3月14日から8本、[[大物車|特大貨物]]2本が迂回運転された。
* 1月17日:広野駅 - 福知山駅間が開通。
* 1月18日:(東海道線大阪駅 - )尼崎駅 - 塚口駅間が開通。
* 1月19日:宝塚駅 - 広野駅間が開通。
* 1月21日:塚口駅 - 宝塚駅間が開通し、全線復旧<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |title = 阪神大震災から1年 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |pages = 86-88 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。[[神戸市|神戸市内]]からは[[北神急行電鉄]]・[[神戸電鉄]]を利用した鉄道の迂回ルートが完成。臨時列車10往復運転開始。
* 1月22日:臨時列車が14往復に増発。
* 1月23日:姫路駅 - 新大阪駅間(播但線・福知山線経由)で直通快速が1往復運転開始。
* 1月24日:臨時列車が19往復に増発(増発の快速4本は西宮名塩駅に停車)。
* 2月11日:[[東京貨物ターミナル駅]] - [[福岡貨物ターミナル駅]]間運転の貨物列車が迂回運転開始(コンテナ車両10両)<ref name="nakamura199603_90">[[#中村199603|『災害に強い交通基盤整備のあり方に関する調査研究報告書』p.90]]</ref>。
<!--* 3月3日:[[笠寺駅]] - [[黒崎駅]]間運転の貨物列車が迂回運転開始(タンク車両最大10両)。播但・山陰線経由につき省略-->
* 3月20日:東京貨物ターミナル駅 - 福岡貨物ターミナル駅間運転の迂回貨物列車が2往復に増発(増発分はコンテナ車両8両)<ref name="nakamura199603_90" />。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
2011年3月12日以降は[[電車]]のみが運転されている。篠山口駅 - 福知山駅間の快速・普通列車は、全列車が転換クロスシート車両で運転されている。
==== 特急列車 ====
* [[JR西日本287系電車|287系]]・[[JR西日本683系電車|289系]]([[福知山電車区]]):特急「こうのとり」
** 289系は[[北陸本線]]の特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」専用車両だった[[JR西日本683系電車|683系2000番台]]を直流化改造した車両で、2015年10月31日より運用を開始した<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2015/11/jr289_1.html 【JR西】289系 営業運転開始] - 鉄道ホビダス RMニュース、2015年11月2日</ref>。
==== 快速・普通列車 ====
* [[JR西日本207系電車|207系]]([[網干総合車両所]]明石支所)
** 7両編成で、尼崎駅 - 篠山口駅間で快速・区間快速・普通で運転されている。
* [[JR西日本321系電車|321系]](網干総合車両所明石支所)
** 7両編成で、尼崎駅 - 篠山口駅間で快速・区間快速・普通で運転されている。2005年12月1日に運用を開始し、当時は大阪駅 - 新三田駅間のみで運用されていた。2006年3月18日の改正から快速運用にも充当され篠山口駅まで運転されていたが同年10月21日の改正で一旦廃止され、2010年3月13日の改正で再び篠山口駅まで乗り入れるようになった。
* [[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]・[[JR西日本225系電車#6000番台|225系6000番台]](網干総合車両所宮原支所)
** 2008年6月28日から日中の丹波路快速などを中心に、快速や朝晩の一部の普通で運用されている。225系は2012年3月17日のダイヤ改正で221系・113系の運行終了を受けて、全線で運用が開始された<ref name="jrw20111216fukuchiyama">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_fukuchiyama.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道福知山支社プレスリリース 2011年12月16日</ref>。
* [[JR西日本223系電車#5500番台|223系5500番台]](福知山電車区)
** 2008年8月11日から113系3800番台に代わって運用開始した。篠山口駅 - 福知山駅間のみ運用されており、日中はワンマン運転を行っている。
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ファイル:JR West 287 FA06 20130105 01.jpg|287系
ファイル:289系(FG編成).jpg|289系
ファイル:Series-207-1000-S55.jpg|207系
ファイル:JR West 321 Series D14 Rapid Sasayamaguchi.jpg|321系
ファイル:JRW 223-6000FH.jpg|223系6000番台
ファイル:JRW 225-6000 Series Set ML05 20190727.jpg|225系6000番台
ファイル:223系5500番台.jpg|223系5500番台
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=== 過去の使用車両 ===
国鉄時代末期の[[1986年]]11月1日に全線電化開業したが、[[1981年]]4月1日の尼崎駅 - 宝塚駅間電化の際には、103系として新車の導入がなされたものの、逆に残る宝塚駅 - 福知山駅 - 山陰本線城崎駅(現・城崎温泉駅)間電化の際に新車は全く導入されず、既存の113系を寒冷地向けに改造した800番台の導入等で賄った。なお、全線電化時の当初の計画では、[[国鉄457系電車|475・457系電車]](主に九州地区からの転用)で賄う予定だった。
==== 電車 ====
* [[国鉄201系電車|201系]]・[[国鉄205系電車|205系]]0番台(網干総合車両所明石支所)
** JR京都線直通の普通([[京阪神緩行線]])として1997年9月1日から運用されていたが、321系を投入して普通電車の最高速度を120 km/hに統一するため、201系は2007年3月18日に、205系は2006年2月7日に運用が廃止された。なお、205系はその後、4編成全てが[[阪和線]]に転属し、2011年3月14日に[[JR京都線]]と[[JR神戸線]]に復帰したが、その運用は[[京都駅]]・[[高槻駅]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]間の平日朝ラッシュ時限定であり、福知山線へは入線しなかった。
* [[国鉄113系電車|113系]](網干総合車両所宮原支所)
** 全線で運転されていた。2012年3月17日のダイヤ改正で運用が終了した<ref name="jrw20111216fukuchiyama" />。
* [[国鉄113系電車#福知山線・山陰本線|113系3800番台]](福知山電車区)
** 篠山口以北の単線区間で運用されていた。2両編成の固定運用で113系800番台からの改造工程と経費を節約するため、従来のように廃車体から前頭部を移植・溶接するのではなく、編成に組まれていたクハ111形から運転台機器を流用して非常に簡易なものを新造するという手法が採られた。そのため片方の前面部は独特の外観を持つ車両となった。223系5500番台の運用開始に伴い、2008年10月までに除籍された。
* [[国鉄115系電車|115系]]
** 電化直後に113系800番台の不足を補う形で非冷房の0番台が運用を開始、後に1000番台に置き換えられ2004年まで使用された。いずれも転入直後は湘南色だったが、0番台は旧福知山色、1000番台は新福知山色に塗り替えられた。
* [[国鉄117系電車|117系]]
** 福知山色と呼ばれる緑帯塗装で快速・普通として運用されていたが、ラッシュ時の遅延対策のため一部の座席を[[鉄道車両の座席#転換式クロスシート(転換腰掛)|転換クロスシート]]から[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]に変更されていた。しかし、それでも対応し切れなくなり、ラッシュ時には乗客の流動とは逆方向の列車に充当されたり、早朝深夜を中心に運用されるようになった。なお、ATS-Pを搭載していないため、[[JR福知山線脱線事故]]の影響で、結果的に2005年4月25日限りで運用を終了し、福知山色のまま[[下関総合車両所|下関]]地区や[[京都総合運転所]](当時)へ転出した。
* [[国鉄103系電車|103系]]
** 宝塚駅まで電化された1981年4月1日から普通として6両編成の新車がカナリアイエロー([[黄5号]])で登場した。1984年2月1日のダイヤ改正([[1984年2月1日国鉄ダイヤ改正]])で4両編成に短縮されたが、JR化後に6両編成に戻された。1997年9月1日の改正でJR京都線との直通運転に伴って7両編成に増強された。普通以外に深夜の快速などにも使用された。その後はJR京都線直通が主体となったため1999年以降、順次スカイブルー([[青22号]])に塗り替えられた。高速化やJR東西線開業の影響により2003年8月14日に運用を退いたが、2005年4月25日の脱線事故の影響で同年8月1日より再び運用を開始し、321系の運用が始まる前日の同年11月30日まで使用された。
* [[JR西日本221系電車|221系]](網干総合車両所)
** 1999年10月2日から運用を開始し、2008年6月28日までは4両編成が全線で、それ以降も8・6両編成が大阪駅 - 篠山口駅間で運用されていた。丹波路快速・快速での運用がほとんどだが、2011年3月12日改正時点で朝1本、大阪発篠山口行き普通(8両編成)での運用があった。なお、2012年3月17日のダイヤ改正での223系・225系への統一に伴い運用を終了した<ref name="jrw20111216fukuchiyama" />。
* [[国鉄415系電車#800番台|415系800番台]]
** 1991年9月1日の[[七尾線]]電化に向けて用意された415系800番台の早期落成車が、延命工事等によって不足していた113系800番台の代わりに福知山線を走行した実績がある。塗装は113系800番台と同一であった。
* [[JR西日本183系電車|183系]]
** 特急「こうのとり」で使用されていた。2013年3月16日のダイヤ改正で運用が終了した。なお、この形式の運用終了により、当路線での[[炭素鋼|普通鋼]]製車両の定期運転は全て終了した。
* [[国鉄381系電車|381系]]
** 特急「こうのとり」で使用されていた。2011年5月31日まで運用されて、一時離脱していたが<ref name="dj_201105" />、2012年6月1日より再び運用されていた<ref>[http://railf.jp/news/2012/06/02/060000.html 福知山電車区の381系FE編成が営業運転を開始] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2012年6月1日</ref>。しかし、車両の老朽化が進んでいたため、289系に置き換える形で2015年10月30日を以って正式に運用を離脱した<ref>[http://www.ryoutan.co.jp/news/2015/10/31/009751.html 最後の国鉄色列車に別れ 福知山駅でセレモニー] - 両丹日日新聞、2015年10月31日</ref><ref>[http://response.jp/article/2015/10/06/261449.html JR西日本、北近畿でも381系引退イベント実施…10月30日] - レスポンス、2015年10月6日</ref>。これにより当路線の全ての営業列車は、JR西日本発足後に製造された車両のみになった。
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ファイル:Jnr 201skyblue.jpg|201系
ファイル:JNR-205-0EC 001.JPG|205系0番台
ファイル:JRW series113-Takarazuka.jpg|113系
ファイル:JRW EC kumoha113-3811.jpg| 113系3800番台
ファイル:Futi115.jpg|115系
ファイル:JRWest-EC117-fukuchiyamaColor.JPG|117系
ファイル:L25_Miha103.jpg|103系
ファイル:JRW series221 Takarazuka.JPG|221系
ファイル:415-800fuku.jpg|415系800番台
ファイル:JRW series183-Takarazuka.jpg|183系
ファイル:JRW EC 381 series Kounotori.jpg|381系
</gallery>
==== 気動車 ====
* [[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]]:無煙化の進行していた[[蒸気機関車]] (SL) 混在期に普通列車として使用。
* [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]]:1970年代後半よりキハ26形が一日に2往復存在した快速列車に充当された。1970年代初頭には急行「丹波」にも使用。
* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]・[[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]:特急「エーデル北近畿」「エーデル丹後」「エーデル鳥取」、急行「だいせん」「丹波」、普通列車など
* [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ47系]]:快速・普通(1979年より運行開始)
* [[国鉄キハ80系気動車|キハ80系]]:特急「まつかぜ」「やくも」
* [[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]]:特急「まつかぜ」(1982年より運行開始)
* [[北近畿タンゴ鉄道KTR8000形気動車|KTR8000形]](北近畿タンゴ鉄道〈現・[[WILLER TRAINS|京都丹後鉄道]]〉):1996年から1999年まで新大阪駅発着列車が「タンゴディスカバリー」と名乗っていた。また、2005年6月19日 - 2007年3月17日の間、KTR001形気動車の代替で「タンゴエクスプローラー」に使用されていた。
* [[北近畿タンゴ鉄道KTR001形気動車|KTR001形]](北近畿タンゴ鉄道〈現・京都丹後鉄道〉):特急「タンゴエクスプローラー」
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ファイル:Model_KIHA11_of_JNR.jpg|キハ10形
ファイル:JNR_kiha26_238.jpg|キハ55系キハ26形
ファイル:Kiha65 ederutango kitakinki.jpg|キハ65形
ファイル:JNR kiha80 matsukaze No.4 hakata.jpg|キハ80系
ファイル:JNR kiha181 matsukaze osaka.jpg|キハ181系
ファイル:Ktr3.jpg|北近畿タンゴ鉄道KTR8000形
ファイル:Toyooka Station05n4592.jpg|北近畿タンゴ鉄道KTR001形
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==== 客車 ====
* [[国鉄12系客車|12系]]:急行「だいせん」・普通列車
* [[国鉄14系客車|14系]]:急行「だいせん」
* [[国鉄20系客車|20系]]:急行「だいせん」
* [[国鉄オハ35系客車|オハ35系]]:普通列車
* [[国鉄スハ43系客車|スハ43系]]:急行「出雲」「おき」「だいせん」・普通列車
* [[国鉄60系客車|60系]]:普通列車
* [[国鉄10系客車|10系]]:急行「出雲」「おき」「だいせん」・普通列車
* [[国鉄50系客車|50系]]:普通列車
==== 機関車 ====
* [[国鉄DF50形ディーゼル機関車]]:1957年から1977年まで使用された。当初はスルザー型(DF50 1〜)を使用、のちにMAN型(DF50 501〜)に統一された。
* [[国鉄DD54形ディーゼル機関車]]:福知山線では1966年から1977年まで使用された。ただし、DD54自体は1978年まで使用された。
* [[国鉄DD51形ディーゼル機関車]]:1973年以降、非電化時代から電化後まで、福知山線の客車列車・貨物列車を牽引した。急行「だいせん」の牽引からは1999年10月2日を最後に撤退したが、その後は2005年12月まで寝台特急「出雲」の迂回運転を頻回に牽引、以降は臨時列車や工臨の牽引で入線する場合がある。
* [[国鉄DD13形ディーゼル機関車]]:出力増強型(DD13111)の試験が三田で行われたことから、同機関車とは繋がりが深い。主に尼崎口の貨物牽引や、1981年まで[[#廃止区間(尼崎港線)|尼崎港線]]の客車列車を牽引した。この形式による客車牽引例は少なく、近隣では和田岬線などに見られるのみである。
* [[国鉄DE10形ディーゼル機関車]]:尼崎港線のDD13形検査時などにDE10形による牽引があり、同系のDE15形ラッセル車の除雪列車が設定されていた。民営化後には、宝塚駅北方の大阪砕石からの砕石列車(惣川工臨)牽引に利用されていた。また近年の旅客車牽引実績としては、丹波市で恐竜([[丹波竜]])の化石が発掘されたことに伴い、2009年に運転された団体臨時列車「恐竜列車ちーたん号」において、[[国鉄14系客車|14系客車]]の「リゾート&シュプール」をDD51との[[動力集中方式#プッシュプル方式|プッシュプル運転]]で牽引した。現在でも工事列車などで臨時に入線する場合がある。
また無煙化以前には
* [[国鉄8800形蒸気機関車]]
* [[国鉄C50形蒸気機関車]]
* [[国鉄C54形蒸気機関車]]
* [[国鉄C55形蒸気機関車]]
* [[国鉄C57形蒸気機関車]]
* [[国鉄D51形蒸気機関車]]
* [[国鉄C11形蒸気機関車]]
といった蒸気機関車が使用された。
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ファイル:JNRDF50_1_sul.jpg|DF50
ファイル:DD54 33 Osaka Modern Transportation Museum 20061210.jpg|DD54
ファイル:JNR_DD51_1027_20071003.jpg|DD51
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ファイル:JRF-DE101155.JPG|DE10
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ファイル:C55_1_SL_IMG_4380.jpg|C55
ファイル:Imgc571.1123.jpg|C57
ファイル:JNR_D51_SteamLoco_Double_header_at_okoba_loop.jpg|D51([[肥薩線]])
ファイル:JNR-C111.JPG|C11
</gallery>
=== 計画のみに終わった車両 ===
* [[国鉄457系電車|475・457系電車]]:国鉄時代末期、主に九州地区からの転用で賄う予定だった。
== 輸送改善 ==
[[File:Mukogawa Takedao.jpg|thumb|武庫川中流、武田尾付近には旧線跡が残る。]]
1970年から兵庫県[[三田市]]と[[神戸市]]北部に位置している[[神戸三田国際公園都市]]・北摂三田ニュータウンの開発が始まり、ニュータウンへの入居が始まった1981年頃から三田市の人口が増加した。特に1987年から1996年まで、人口の実質増加率は10年連続で日本一を記録した<ref>{{PDFlink|[http://www.city.sanda.lg.jp/kankyou/documents/tokusei.pdf 第2部 三田市の特性と環境の現況]}} - 三田市</ref>。
福知山線では輸送力増強のため、非電化区間であった宝塚駅 - 福知山駅間の電化による全区間電車運転と一部区間の複線化の実施が決定した。しかし当時は、[[生瀬駅]] - 三田駅間の山間部においては[[武庫川]]渓谷に沿って敷設されており<ref name="Googlemymap">{{Cite web|和書|url=https://drive.google.com/open?id=1XIB2c3edPzS-XNedhftpy8RtX26w83Uq&usp=sharing |title=生瀬〜武田尾〜道場旧線 |accessdate=2019年4月20日 |website=Googleマイマップ |publisher=Google}}</ref>、複線化が困難であったため、生瀬駅 - [[道場駅]]間はトンネルを経由する複線の新線を建設して、約1.8 km短縮する計画が立案された。
これは、1972年6月、福知山線沿線9市(大阪市・尼崎市・伊丹市・川西市・池田市・宝塚市・西宮市・神戸市・三田市)による「国鉄福知山線複線・電化促進期成同盟会」からの要望を受けて、宝塚 - 三田間の輸送力増強計画を審議する「研究会」が、兵庫県・宝塚市・西宮市・神戸市・三田市および国鉄の六者によって発足した。この研究会は1973年にかけて、(1)現在線の腹付線増による複線電化は、武庫川河谷の地形条件(特に生瀬 - 武田尾)からして困難であること、(2)名塩 - 山口ルートは、別線建設が可能であること、(3)ニュータウン(北摂ニュータウン・北神ニュータウン)への鉄道乗り入れが考慮されるべきこと、の3つの条件をもとに、(A)生瀬 - 名塩 - 道場 - 三田 - 広野、(B)生瀬 - 名塩 - (東久保) - 山口 - 三田 - 広野、(C)生瀬 - 名塩 - (東久保) - 山口 - (北神ニュータウン・北摂ニュータウン) - 広野の3案が出された。採算を重視する国鉄は、東久保における険坂があるにせよ、電化すれば運行への影響は少なく、名塩・山口の集落に加えてニュータウンを経由する(C)案を望んでいたが、武田尾駅の廃止を憂う宝塚市と、市の玄関口の衰退を案じる三田市によって、反対運動が起きた。2年あまりに及ぶ紆余曲折を経て、西宮市の山口地区を犠牲にすれば、他の名塩・武田尾・三田のいずれも経由する生瀬 - 名塩 - 武田尾 - 道場 - 三田 - 広野が最終案となった。国鉄は採算重視よりも関係市域での意見調整を重視する立場から、路線決定は兵庫県に任せるという態度をとっており、福知山線の新線切り替えは兵庫県による最終案に沿う形となった<ref>{{Cite journal|author=小西正雄|date=1975-04-30|title=福知山線の経路変更問題について|journal=兵庫地理|volume=19|pages=37-46}}</ref>。
まず、1986年8月1日より新線切り替えと宝塚駅 - 三田駅間の複線化が行われた<ref name="交通860802">{{Cite news |title=まず複線運転スタート |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-08-02 |page=2 }}</ref>。次いで同年10月15日より三田駅 - 新三田駅(この時点では開業前)が複線化された{{R|公報861015}}。翌11月1日に行われた国鉄最後のダイヤ改正([[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]])から全面的に電車で営業を開始した<ref name="交通861105">{{Cite news |title=福知山線・山陰線 待望の電車運転スタート |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-11-05 |page=2 }}</ref>。同時に、生瀬駅 - 武田尾駅間には[[西宮名塩ニュータウン]]の開発に併せて西宮名塩駅が、三田駅 - 広野駅間には[[ウッディタウン]]の玄関口として新三田駅が開業し、特急「北近畿」の運転開始に加え、113系2両編成を主体として普通が日中時間帯で1時間当たり3本(大阪駅 - 福知山駅間1本、大阪駅 - 新三田駅間2本)に増発された{{R|交通861105}}。[[国鉄分割民営化]]後の1989年より快速が運転を開始した(快速の区間は現在と同じく、大阪駅 - 三田駅間のみ)。この時点で日中は特急0 - 1本、快速2本、普通4本の現在とほぼ変わらないダイヤになった。
1997年には新三田駅 - 篠山口駅間の複線化が完成し<ref name="JRR1997-187">[[#JRR1997|『JR気動車客車編成表 97年版』 187頁]]</ref>、[[JR東西線]]が開業したことにより、同線経由で[[片町線|学研都市線]]との直通運転が開始された<ref name="jrw19961204">[https://web.archive.org/web/19970208162537/http://www.westjr.co.jp/new/1press/press12.html JR東西線のダイヤについて](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1996年12月4日</ref>。
なお、生瀬駅北西から[[武田尾駅]]北東にかけての廃線敷は、地面に半ば埋まった[[枕木]]が残り、2016年11月から渓谷沿いの[[ハイキング]]コースとして一般開放されている<ref>【旅】JR福知山線廃線敷(兵庫県)渓谷美しい枕木の道『[[東京新聞]]』夕刊2018年12月27日(3面)。</ref>(「[[旧国鉄福知山線廃線跡]]」も参照)。
== 利用状況 ==
2019年度1日平均の乗車人員は、[[宝塚駅]]が約2万9千人と福知山線で最も利用者が多く、次いで[[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]]が約2万5千人、[[川西池田駅]]が約1万9千人である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk11/ac08_1_000000124.html |title=兵庫県統計書 令和元年(2019) |accessdate=2022-02-25 |publisher=兵庫県 }}</ref>。アーバンネットワーク内でも新三田駅以北では利用者数が少なくなり、7駅合計で約1万人に留まる。JR西日本発足時に1日の運転本数が100本足らずだった福知山線は、JR東西線開業以降は1日360本を超えるダイヤの都市近郊路線へと変化していった。
大阪駅・[[北新地駅]] - 宝塚駅間の利用は[[運賃#特定区間運賃|特定区間運賃]]が適用されるが、[[電車特定区間]]に含まれないため、これ以外の区間と跨って利用すると幹線運賃が適用され、運賃が高くなるのが特徴である。
=== 篠山口駅以北の複線化と現状 ===
[[丹波市]]は、篠山口駅 - 福知山駅間の単線区間の複線化をJR西日本に要望している<ref>[http://www.city.tamba.hyogo.jp/view.rbz?cd=2446 JR西日本に複線化などを要望] - 丹波市</ref>。また丹波市は団体利用への運賃補助を行い<ref>[http://www.city.tamba.hyogo.jp/view.rbz?cd=170 「福知山線利用増進事業」のお知らせ] - 丹波市</ref>、兵庫県も特急列車の料金補助を行う社会実験を実施していた<ref>[https://web.archive.org/web/20070513183107/http://web.pref.hyogo.jp/tn04/tn04_2_000000171.html JR福知山線特急料金一部助成社会実験](インターネット・アーカイブ)- 兵庫県[[丹波県民局]]</ref>。そして兵庫県は「乗って 近づく 複線化」などと呼びかけている<ref>[http://web.pref.hyogo.jp/tn01/tn01_1_000000034.html 福知山線 スローガンと乗車目標]{{リンク切れ|date=2011年11月}} - 兵庫県丹波県民局</ref>。だが、2003年度の1日の乗車人員はこの区間の丹波大山駅から丹波竹田駅までの8駅を合わせても約3,600人であり、篠山口駅以北では[[少子化]]に伴う通学利用の減少や[[モータリーゼーション]]の浸透もあって減少傾向にある。
== 歴史 ==
=== 国有化以前 ===
福知山線の発祥は、[[川辺馬車鉄道]]が1891年に開業させた尼ヶ崎駅(後の[[尼崎港駅]]) - 伊丹駅間の[[馬車鉄道]]である。後に[[摂津鉄道]]と改称して1893年に馬車鉄道を蒸気動力の[[軽便鉄道]]に改築し尼ヶ崎駅 - 池田駅(現在の川西池田駅)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にあった。
摂津鉄道の路線は、[[大阪市|大阪]]から[[舞鶴市|舞鶴]]までの鉄道を計画していた[[阪鶴鉄道]]に譲渡され、軌間1067 mmに[[改軌]]した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年には福知山南口駅(内田町付近)まで開通した。<!-- 福知山南口駅の名称については[[ノート:福知山線]]参照。-->
1904年に軍部からの要請で、対[[ロシア帝国|ロシア]]戦略の軍用鉄道として[[舞鶴鎮守府]]までの開通を急がされた福知山駅 - [[綾部駅]] - 新舞鶴駅(現在の[[東舞鶴駅]])間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山駅 - 新舞鶴駅間の貸与を受けて、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道が完成した。
=== 国鉄時代 ===
[[File:福知山線旧線.jpg|thumb|200px|right|武田尾駅付近の旧線を行くDD51牽引の旧形客車。1986年7月31日撮影。]]
阪鶴鉄道は1907年に国有化され、官設区間と併せて'''阪鶴線'''と呼ばれていたが、[[山陰本線]]の京都駅 - 出雲今市駅(現在の[[出雲市駅]])間が1912年に開通したのを機に、神崎駅(現在の尼崎駅) - 福知山駅間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間が'''福知山線'''と改称された。
大阪と山陰方面を結ぶ亜幹線とされたが、線路改良や電化などの近代化は大幅に遅れた。さらに[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形蒸気機関車]]や[[国鉄DD54形ディーゼル機関車|DD54形ディーゼル機関車]]が配属され、特急「[[まつかぜ (列車)|まつかぜ]]」が福知山線経由で1961年から設定されていたが、[[1972年]]に新設された特急「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」に至っては時間短縮を理由に[[姫路駅]]経由に変更されてしまうなど、亜幹線として機能しているとは言い難い状況であった。加えて、普通列車は永らくDD54形や[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]牽引による旧形[[客車]]が使用され続けたなど、車両面での近代化は大きく遅れていた。ただし、大阪駅発着の客車列車に関しては、乗客のデッキからの転落事故などが発生し、[[1985年]]3月のダイヤ改正で自動扉を装備した[[国鉄12系客車|12系]]客車に置き換えられて近代化された。
設備面では、1970年代後半から近代化が進められた。1979年 - 1980年にかけて塚口駅 - 宝塚駅間が順次複線化され、翌1981年に尼崎駅 - 宝塚駅間の電化が完了。また、1980年代前半までは[[腕木式信号機]]が現存していたが、[[列車集中制御装置]] (CTC) の導入により姿を消した。だが、設備は近代化された一方で、車両は依然として旧形車両が主力であったため<ref group="注釈">福知山線にも1978年から1979年にかけて気動車については新製の[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ47形]]を投入した。</ref>、新車を相次いで登場させた。しかし、競合相手の阪急には度重なる国鉄の運賃値上げによる運賃格差もあって太刀打ちできず、当線に登場した103系も当初の6両編成から後に4両編成に減車された。また、神戸方面へも当時は[[神戸電鉄]]経由(当時は[[北神急行電鉄北神線|北神急行]]が開業していなかったので[[神戸電鉄有馬線]]の[[鈴蘭台駅]]・[[新開地駅]]経由)での所要時間とは大差なく、やはり本数は福知山線の方が相当少なかった。
福知山線にとって画期的な変化は、1986年の宝塚駅 - 新三田駅間の複線化、福知山駅までの全線電化の完成である<ref>寺本光照『国鉄・JR 関西圏 近郊電車発達史』JTBパブリッシング、2014年、pp.105-106</ref>。それまで山間部を武庫川渓谷に沿って走っていたため<ref name="Googlemymap" />、複線化が困難であった生瀬駅 - 道場駅間をトンネルの連続する複線の新線に切り替え、新たに[[西宮名塩駅]]を設置し、三田駅 - 広野駅間には新興住宅地の玄関として[[新三田駅]]を設置した(「[[#輸送改善|輸送改善]]」の節も参照){{R|交通860802}}{{R|交通861105}}。そして国鉄最後のダイヤ改正である1986年11月1日から全面的に電車で営業を開始し、特急「北近畿」の運転が開始された{{R|交通861105}}。
一方、福知山線最初の開業区間でもあった塚口駅 - 尼崎港駅間の通称'''尼崎港線'''が、1981年に旅客営業を廃止した後、1984年に完全に廃止された。同線は1898年に東海道本線の尼崎駅への連絡線を設けて大阪方面との直通運転を開始後は、塚口駅 - 尼崎港駅間の貨物主体の[[盲腸線]]となっていた。晩年の旅客列車の本数は1日2往復で[[混合列車]]であった。
民営化以降は下記の年表を参照のこと。
=== 年表 ===
==== 国有化以前 ====
* [[1891年]]([[明治]]24年)
** 7月24日:'''川辺馬車鉄道''' 大物駅 - 長洲駅間が仮開通。[[馬車鉄道]]。大物駅・長洲駅が開業。
** 7月中:川辺馬車鉄道 尼ヶ崎駅 - 長洲駅間が本格開業。尼ヶ崎駅(後の尼崎港駅)が開業。
** 9月6日:川辺馬車鉄道 長洲駅 - 伊丹駅間が開業。塚口駅・伊丹南口駅・伊丹駅が開業。
* [[1892年]](明治25年)6月:川辺馬車鉄道が'''摂津鉄道'''への改称を出願。
* [[1893年]](明治26年)[[12月12日]]:尼ヶ崎駅 - 伊丹駅間が改軌、伊丹駅 - 池田駅間が延伸され、尼ヶ崎駅 - 池田駅間(8[[マイル|M]]35[[チェーン (単位)|C]]≒13.58 km)が軌間762 mmの軽便鉄道として開業。尼ヶ崎駅・長洲駅・伊丹駅が再開業。池田駅(現在の川西池田駅)が開業。
** 馬車鉄道時代は東海道線と平面交差していたが、改築後は貨車のみ横断が許され、旅客は長洲駅で乗り継ぐことになった。
* [[1894年]](明治27年)[[3月6日]]:大物駅・塚口駅・伊丹南口駅が再開業。
* [[1897年]](明治30年)
** [[2月16日]]:摂津鉄道が全線を'''阪鶴鉄道'''に譲渡。
** [[12月27日]]:池田駅 - 宝塚駅間(4M50C≒7.44 km)が軌間1067 mmで延伸開業。中山駅(現在の中山寺駅)・宝塚駅が開業。池田駅が新線分岐点付近に移転。
** [[12月28日]]:長洲駅 - 池田駅間の軌間が1067 mmに改軌され、改キロにより同区間で43C≒0.87 km短縮。伊丹南口駅が廃止。
* [[1898年]](明治31年)[[6月8日]]:宝塚駅 - 有馬口駅間(1M11C≒1.83 km)、神崎駅 - 塚口駅間(1M38C≒2.37 km)が延伸開業。有馬口駅(後の生瀬駅)が開業。[[東海道本線|官設鉄道]]神崎駅(現在の尼崎駅)に乗り入れ。長洲駅 - 塚口駅間(1M19C≒1.99 km)が廃止され、尼ヶ崎駅 - 長洲駅間は孤立区間になった。
* [[1899年]](明治32年)
** [[1月25日]]:有馬口駅 - 三田駅間(9M68C≒15.85 km)が延伸開業。武田尾駅・道場駅・三田駅が開業。
** [[3月25日]]:三田駅 - 篠山駅間(15M29C≒24.72 km)が延伸開業。有馬口駅が生瀬駅に改称。広野駅・相野駅・藍本駅・古市駅・篠山駅(現在の篠山口駅)が開業。
** [[4月10日]]:改キロ、全線で2C≒0.04 km延長。
** [[5月25日]]:篠山駅 - 柏原駅間(13M34C≒21.61 km)が延伸開業。大山駅(後の丹波大山駅)・下滝駅・谷川駅・柏原駅が開業。
** [[7月15日]]:柏原駅 - 福知山南口駅間(15M68C≒25.51 km)が延伸開業。石生駅・黒井駅・市島駅・竹田駅(後の丹波竹田駅)・福知山南口駅(のちの福知駅)が開業。
* [[1900年]](明治33年)度:尼ヶ崎駅 - 長洲駅間(1M58C≒2.78 km)が休止。
* [[1901年]](明治34年)[[4月1日]]:池田駅が中山寄りに移転。
* [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:マイル・チェーン表記からマイル表記に簡略化(神崎駅 - 福知山南口駅間 66M55C→66.7M)。
* [[1903年]](明治36年)
** [[4月30日]]:池田駅 - 中山駅間に花畑[[臨時駅|仮停車場]]が開業。
** [[8月1日]]:花畑仮停車場が廃止。
** [[11月1日]]:福知山南口駅が福知駅に改称。
* [[1904年]](明治37年)[[11月3日]]:福知駅 - 福知山駅間(0.7M≒1.13 km)が延伸開業し、官設鉄道福知山駅に乗り入れ。同日開業した官設鉄道 福知山駅 - 綾部駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間を阪鶴鉄道が借り入れ。
* [[1905年]](明治38年)[[7月13日]]:貨物支線 塚口駅 - 長洲駅間(1.2M≒1.93 km)が再開業し、長洲駅 - 尼ヶ崎駅間(1.7M≒2.76 km)が軌間1067 mmに改軌の上、東海道線と立体交差化され営業再開。尼ヶ崎駅が営業再開。大物駅・長洲駅が廃止。
==== 国鉄時代 ====
* [[1907年]](明治40年)
** 8月1日:阪鶴鉄道が国有化。
** 11月1日:神崎駅 - 福知山駅間の改キロにより0.4M≒0.64 km短縮。
* [[1909年]](明治42年)
** [[10月1日]]:福知駅が廃止。
** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、神崎駅 - 福知山駅 - 新舞鶴駅(現在の東舞鶴駅)間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間などを'''阪鶴線'''と命名。
* [[1911年]](明治44年)
** [[9月6日]]:塚口駅 - 尼ヶ崎駅間の旅客営業再開。神崎乗降場が開業。
** 11月1日:竹田駅が丹波竹田駅に改称。
* [[1912年]](明治45年)
** [[3月1日]]:神崎駅 - 福知山駅間、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間が阪鶴線から分離され、路線名を'''福知山線'''と改称。
** [[4月16日]]:支線に金楽寺駅が開業。
* [[1913年]]([[大正]]2年)9月1日:惣川駅が開業。
* [[1915年]](大正4年)[[9月11日]]:中山駅が中山寺駅に改称。
* [[1917年]](大正6年)[[5月1日]]:大山駅が丹波大山駅に改称。
* [[1918年]](大正7年)
** [[5月15日]]:伊丹駅 - 池田駅間に猪名川仮信号所が開設。
** [[9月13日]]:猪名川仮信号所が廃止。
* [[1926年]](大正15年)[[3月15日]]:惣川駅の旅客営業廃止。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)4月1日:マイル表示からメートル表示に変更(神崎駅 - 福知山駅間 67.0M→108.3 km、塚口駅 - 尼ヶ崎駅間 2.9M→4.6 km)。
* [[1934年]](昭和9年)5月15日:神崎駅 - 塚口駅間が複線化。
* [[1944年]](昭和19年)
** 3月1日:篠山駅が篠山口駅に改称。
** [[4月1日]]:北伊丹駅が開業。
* [[1949年]](昭和24年)[[1月1日]]:神崎駅が尼崎駅に、尼ヶ崎駅が尼崎港駅に、神崎乗降場が尼崎乗降場に改称。
* [[1951年]](昭和26年)8月1日:池田駅が川西池田駅に改称。
* [[1955年]](昭和30年)[[10月24日]]:南矢代駅が開業。
* [[1956年]](昭和31年)[[11月19日]]:尼崎駅 - 塚口駅間が電化。
* [[1958年]](昭和33年)[[3月27日]]:草野駅が開業。
* [[1961年]](昭和36年)10月1日:特急「[[まつかぜ (列車)|まつかぜ]]」運転開始。
* [[1965年]](昭和40年)9月14日:[[昭和40年台風第23・24・25号|台風24号]]接近に伴う集中豪雨により広野駅 - 相野駅間で土砂崩れ<ref>「近畿・四国の前触れ被害広がる 一万二千戸が浸水」『日本経済新聞』昭和40年9月15日.15面</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)4月30日:尼崎乗降場が書類上尼崎駅に併合され、尼崎臨時乗降場に変更。
* [[1979年]](昭和54年)
** 6月29日:塚口駅 - 尼崎港駅間が自動信号化<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 - 大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.377。</ref>。
** 7月1日:惣川駅が廃止。
** [[9月27日]]:塚口駅 - 北伊丹駅間が複線化<ref>{{Cite news |title=「通報」●福知山線塚口・北伊丹間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1979-09-27 |page=2 }}</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[9月3日]]:川西池田駅が北伊丹寄りに0.2 km移転。
** [[12月5日]]:北伊丹駅 - 中山寺駅間が複線化<ref name="公報801203">{{Cite news |title=「通報」●福知山線北伊丹・宝塚間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1980-12-03 |page=1 }}</ref>。
** [[12月11日]]:中山寺駅 - 宝塚駅間が複線化{{R|公報801203}}。
* [[1981年]](昭和56年)
** 3月31日:塚口駅 - 宝塚駅(正確には惣川貨物駅跡まで)間が電化<ref>{{Cite news |title=「通報」●福知山線尼崎・宝塚間の電気運転について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1981-03-30 |page=6 }}</ref>。
** 4月1日:猪名寺駅が開業。塚口駅 - 尼崎港駅間の旅客営業廃止。金楽寺駅・尼崎臨時乗降場が廃止。
** 12月10日:篠山口駅 - 福知山駅間が自動信号化。
* [[1982年]](昭和57年)[[2月27日]]:篠山口駅 - 福知山駅間に[[列車集中制御装置]] (CTC) 導入<ref>{{Cite news |title=保安度がグンと向上 福知山線 CTC化完成でテープカット |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1982-03-03 |page=1 }}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[2月1日]]:貨物支線(尼崎港線)塚口駅 - 尼崎港駅間 (4.6 km) が廃止。尼崎港駅が廃止。
** [[3月10日]]:広野駅 - 篠山口駅間にCTC導入<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 - 大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.378。</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)
** 8月1日:宝塚駅 - 三田駅間が新線に切り替え、複線化{{R|交通860802}}。生瀬駅 - 道場駅間が1.8 km短縮{{R|交通860802}}。
** [[10月15日]]:三田駅 - 新三田駅間が複線化<ref name="公報861015">{{Cite news |title=「通報」●福知山線三田・新三田間増設線路設備の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1986-10-15 |page=2 }}</ref><!-- 新三田(11月1日開業)で正当-->。尼崎駅<ref>池田光雅『鉄道総合年表 1972-93』中央書院、1993年、p.120。</ref> - 広野駅間に CTC 導入。
** 11月1日:宝塚駅 - 福知山駅間が電化され、全線電化完了{{R|交通861105}}。西宮名塩駅・新三田駅が開業{{R|交通861105}}。ダイヤ改正により次のように変更。
**# 快速と特急「まつかぜ」が廃止。
**# [[エル特急]]「北近畿」が運転開始{{R|交通861105}}。
**# 全線の貨物営業廃止。
==== 民営化以降 ====
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道が承継。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:大阪駅 - 篠山口駅間の愛称として'''JR宝塚線'''を使用開始。大阪駅 - 篠山口駅間に「ほくせつライナー」が運転開始<ref>{{Cite news |title=JR旅客6社と貨物 新列車ダイヤが確定 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1987-12-22 |page=1 }}</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月11日]]:快速が再び運転開始(停車駅:大阪・尼崎・伊丹・川西池田・宝塚・三田以北各駅)。
* [[1991年]](平成3年)[[6月25日]]:丹波竹田駅 - 福知山駅間の踏切でトレーラーと普通列車が衝突し、1両目の車両が脱線転覆。当該車両(クモハ112-801)は事故廃車。
* [[1992年]](平成4年)[[4月1日]]:新三田駅(構内を除く)- 福知山駅(構内を除く)間が福知山支社より、[[篠山口鉄道部]]へと移管。
* [[1993年]](平成5年)[[3月18日]]:207系電車投入。
* [[1994年]](平成6年)[[8月3日]]:三田駅 - 新三田駅間の踏切でトラックと普通列車が衝突し、1両目の車両が脱線転覆。当該車両(クハ103-839)は事故廃車。
* [[1995年]](平成7年)12月25日:藍本駅構内で篠山口発大阪行き快速電車が、雪によるブレーキ不具合で停止位置を行き過ぎて[[安全側線]]に進入する事故が発生。なお、安全側線は本来の機能を果たし、列車は脱線した。死傷者は出なかったものの、この事故がきっかけで福知山線内で運用される電車にも、耐雪ブレーキの装備を決定<ref>{{Cite news |title=雪、風、被害が続出 福知山線快速脱線「帰宅の足」大混乱 |newspaper=[[産経新聞]] |date=1995-12-26 |publisher=産経新聞社}}<!--面数、地域版名失念(大阪または泉州版かと)。四両編成とあるが形式名は記述なし--></ref><ref>{{Cite news |title=空気ブレーキ雪で摩擦力低下 三田のJR事故 |newspaper=産経新聞|date=1995-12-30 |publisher=産経新聞社}}<!--面数、地域版名失念(大阪または泉州版かと)。続報。原因と対策(耐雪ブレーキ設置決定の旨)記述あり--></ref>。
* [[1996年]](平成8年)
** [[3月16日]]:西宮名塩駅が快速の停車駅になる<ref>[http://momo.nishi.or.jp/proceedings/CGI/voiweb.exe?ACT=200&KENSAKU=1&SORT=0&KTYP=1,2,3,0&KGTP=1,2,3&TITL_SUBT=%95%BD%90%AC%81@%82W%94N%81@%82U%8C%8E%81i%91%E6%81@%82V%89%F1%81j%92%E8%97%E1%89%EF%81%7C06%8C%8E26%93%FA-06%8D%86&SFIELD1=HTGN&SKEY1=%95%9F%92m%8ER%90%FC&SSPLIT1=++%2F%21%28%29-&KGNO=171&FINO=1064&HUID=53616&UNID=K_H080626000635 西宮市議会会議録 平成8年6月(第7回)定例会-06月26日-06号] - 西宮市議会</ref>。
** [[12月1日]]:広野駅 - 古市駅間が複線化<ref>[[#JRR1997|『JR気動車客車編成表 97年版』 186頁]]</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[3月8日]]:新三田駅 - 広野駅間、古市駅 - 篠山口駅間が複線化{{R|JRR1997-187}}。JR東西線を経て片町線(学研都市線)と直通運転開始<ref name="jrw19961204" />。
** [[9月1日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref>[https://web.archive.org/web/19980205233018/www.westjr.co.jp/new/1press/n970718b.html アーバンネットワーク秋のダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年7月18日</ref>
**# 篠山口駅・新三田駅 - 大阪駅間の普通がJR京都線と終日直通運転を開始し、早朝・深夜の大阪駅発着列車を除き、塚本駅にも停車。
**# 福知山線経由の全ての特急・急行列車が尼崎駅にも停車。
**# 201系電車・205系電車の運用が開始。
* [[2000年]](平成12年)
** 3月11日:丹波路快速が運転開始<ref name="jrw19991217" />。
** [[12月2日]]:篠山口駅 - 福知山駅間の一部列車でワンマン運転開始<ref>ジェー・アール・アール編『JR気動車客車編成表 2010』[[交通新聞社]]。{{ISBN2|978-4-330-14710-9}}。</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[10月5日]]:「ほくせつライナー」が特急「北近畿」に格上げされ廃止<ref name="jrw20020726" />。
* [[2003年]](平成15年)
** 8月:103系電車の運用が終了。
** 10月1日:各駅の[[コンコース]]の喫煙コーナーを廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
** 11月1日:大阪駅 - 篠山口駅間でICカード「ICOCA」が利用可能となる<ref>[https://web.archive.org/web/20040803184954/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030820a.html 「ICOCA」いよいよデビュー! 〜 平成15年11月1日(土)よりサービス開始いたします 〜](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月30日</ref>。
** 12月1日:中山寺駅が快速の停車駅になる<ref>[https://web.archive.org/web/20030919020805/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030916a.html アーバンネットワーク平成15年12月ダイヤ改正](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年9月16日</ref>。
* [[2004年]](平成16年)[[10月16日]]:急行「だいせん」が廃止<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20040915171056/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/040723a_keihanshin.pdf 平成16年秋のダイヤ改正 京阪神エリア詳細]}}(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月23日</ref>。これにより、福知山線の夜行列車が消滅。
* [[2005年]](平成17年)
**[[4月25日]]:尼崎駅 - 塚口駅間で[[列車脱線事故]]([[JR福知山線脱線事故]])が発生し、尼崎駅 - 宝塚駅間が不通<ref>[https://web.archive.org/web/20050522024841/http://www.jr-odekake.net/oshirase/index_train2.html JRおでかけネット:列車運行情報:JR線 運転計画](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道</ref>。
** [[6月19日]]:尼崎駅 - 宝塚駅間で運転再開<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/jr_amaren/jr_news/2005/2005061907.shtml 宝塚-尼崎 55日ぶりに運転再開] - [[神戸新聞]] 2005年6月19日</ref>。尼崎駅 - 新三田駅間で ATS-P が使用開始。ATS-P車上装置を装備していない117系電車と北近畿タンゴ鉄道のKTR001形気動車が運用から外される。
** [[11月26日]]:福知山駅付近が高架化<ref>『JR気動車客車編成表 '06年版』ジェー・アール・アール、2006年。{{ISBN2|4-88283-127-9}}。</ref>。
** 12月1日:321系電車が運行開始<ref>[https://web.archive.org/web/20051202034025/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/051121a.html 「321系」通勤形車両の営業運転開始](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年11月21日</ref>。
* [[2006年]](平成18年)2月:205系電車の運用が終了。
* [[2007年]](平成19年)3月:201系電車の運用が終了。KTR001形気動車がATS-P車上装置を設置して運行再開。
* [[2008年]](平成20年)
** [[6月28日]]:宮原総合運転所の223系6000番台が運用開始。
** [[7月22日]]:223系5500番台が運用開始。
* [[2009年]](平成21年)
** [[2月11日]]:新三田駅 - 篠山口駅間で ATS-P が使用開始<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174088_799.html JR宝塚線(新三田〜篠山口)ATS-Pの使用開始について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年2月6日</ref>。
** [[7月1日]]:尼崎駅 - 新三田駅間の各駅でホーム上の喫煙コーナーを廃止し、全面禁煙実施<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html 在来線特急列車などの全席禁煙化ならびに在来線ホームの禁煙化の拡大について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年3月26日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)12月1日:組織改正により、[[西日本旅客鉄道阪奈支社|大阪支社]]が管轄していた尼崎駅 - 新三田駅間を近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月8日:尼崎駅 - 新三田駅間にJR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システムを導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175201_799.html 2011年2月定例社長会見] - 西日本旅客鉄道 2011年2月18日</ref>。
** [[3月12日]]:特急「北近畿」が「こうのとり」に改称、「文殊」「タンゴエクスプローラー」が廃止<ref name="jrw20101217" />。287系電車が運行開始。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:113系電車・221系電車の運用が終了。225系6000番台が運用開始。
* [[2013年]](平成25年)3月16日:183系電車の運用が終了。
* [[2014年]](平成26年)
** 8月16日:[[京都府北部地域|京都府北部]]での[[平成26年8月豪雨|集中豪雨]]による線路冠水や、道床流出の被害を受けて、篠山口駅 - 福知山駅間が不通<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001051290.pdf#page=8 8月16日から続く大雨等による被害状況について(第1報) ]}} - 国土交通省 2014年8月17日</ref><ref>[http://response.jp/article/2014/08/17/230173.html 福知山市域中心に線路冠水、運転見合わせ続く] - レスポンス 2014年8月17日</ref>。
** 8月19日:篠山口駅 - 石生駅間が運転再開<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_6021.html 福知山線・山陰線の8月19日以降の今後の運転計画について] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月18日</ref><ref>[http://www.ryoutan.co.jp/news/2014/08/19/008175.html 福知山豪雨:JR山陰線運行再開 福知山線あと10日必要] - [[両丹日日新聞]] 2014年8月19日</ref><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001051443.pdf#page=11 8月16日から続く大雨等による被害状況について(第4報)]}} - 国土交通省 2014年8月19日</ref>。
** 8月27日:石生駅 - 福知山駅間が運転再開し全線運転再開<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_6066.html 福知山線(石生(いそう)〜福知山駅間)運転再開予定について] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月25日</ref><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001052668.pdf#page=20 8月16日から続く大雨等による被害状況について(第15報)]}} - 国土交通省 2014年8月27日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:路線記号が本格的に導入開始され、篠山口駅 - 福知山駅間にもラインカラーが正式に設定<ref name="jrw20140806" /><ref>[http://railf.jp/news/2015/03/16/153000.html JR西日本で路線記号の本格使用が始まる] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース、2014年3月15日。</ref>。
* [[2016年]](平成28年):広野駅 - 篠山口駅間に[[自動進路制御装置|小規模自動進路制御装置]] (SRC) を導入<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/company/business/material/pdf/list_signaling_system.pdf JR西日本の信号システム一覧]}} - 西日本旅客鉄道、2018年3月2日閲覧</ref>。
* [[2018年]](平成30年)3月17日:尼崎駅 - 篠山口駅間の各駅に[[駅ナンバリング|駅ナンバー]]が導入され、使用開始。
* [[2020年]](令和2年)3月14日:大阪駅 - 篠山口駅間において区間快速を新設<ref name="jrw20191213" />。
* [[2021年]](令和3年)3月13日:篠山口駅 - 福知山駅間でICカード「ICOCA」が利用可能となる<ref name="jrw20190709" /><ref name=":02">{{Cite press release|和書|title=2021年春ダイヤ改正について|publisher=西日本旅客鉄道株式会社福知山支社|date=2020-12-18|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201218_00_fukuchiyama.pdf|format=PDF|accessdate=2020-12-19}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)10月1日:組織改正により、全線が近畿統括本部の管轄になる。
== 伊丹駅からの空港アクセス構想 ==
1989年に[[大阪国際空港]](伊丹空港)に近いJR伊丹駅から伊丹空港までの路線を建設する構想として、[[JR福知山線分岐線構想|福知山線分岐線構想]]が計画された。その後、1995年に発生した阪神・淡路大震災により、航空機での輸送の重要性が改めて認識され、空港へのアクセス整備が必要であるとして「阪神・淡路復興計画」の中に盛り込まれた<ref>{{PDFlink|[http://web.pref.hyogo.lg.jp/contents/000013981.pdf 阪神・淡路震災復興計画 後期5か年推進プログラム]}} - 兵庫県</ref>。さらにこの計画は「ひょうご21世紀交通ビジョン」の中に盛り込まれた<ref>[http://web.pref.hyogo.lg.jp/wd05/wd05_000000031.html ひょうご21世紀交通ビジョン] - 兵庫県</ref>。
1995年に国・兵庫県・大阪府・JR西日本や伊丹市などで構成される「福知山線分岐線研究会」を設置し、事業予測・路線計画・整備手法や採算などについて詳細な調査を行い、2007年に兵庫県が空港とJR伊丹駅を結ぶ[[ライトレール]] (LRT) の導入を検討すると発表しており、2010年に事業を完成させるとしていたものの計画は進んでおらず、伊丹市では当面の対策として、[[伊丹市交通局|市バス]]を活用した空港アクセスを行っている。
== 駅一覧 ==
* 累計営業キロは尼崎駅からのキロ程である。
* {{JR特定都区市内|阪}}:[[特定都区市内]]制度における「大阪市内」エリアの駅(道場駅は同制度の「神戸市内」の駅には属さない)
* #:待避線がある駅
* 停車駅
** 特急以外の各種別…●印の駅は全列車停車、|印の駅は全列車通過
*** 普通…JR京都線の直通列車は塚本駅(▲印)に全列車停車。大阪駅始発・終着列車は一部を除いて同駅を通過
*** 快速…塚口駅(△印)は折り返し列車のみ停車
*** 区間快速…塚口駅(△印)は折り返し列車のみ停車
** 特急([[こうのとり (列車)|こうのとり]])は列車記事参照
* 線路 … ||||:複々線区間、||:複線区間、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線(列車交換可能)
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>。北陸本線・琵琶湖線・JR京都線から通し番号で付与されている。さらに片町線とJR東西線からも通し番号で付与されている。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:85%;"
|- style="border-bottom:3px solid #ffba00;"
!style="width:1em;"|{{縦書き|愛称}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|正式路線名}}
!style="width:6em;"|駅ナンバー<br /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!style="width:6em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!style="width:1em; background:#ccc;"|{{縦書き|普通}}
!style="width:1em; background:#cfc;"|{{縦書き|区間快速}}
!style="width:1em; background:#feb;"|{{縦書き|快速}}
!style="width:1em; background:#feb;"|{{縦書き|丹波路快速}}
!接続路線
!style="width:1em;"|{{縦書き|線路}}
!colspan="2"|所在地
|-
|rowspan="24" style="text-align:center; width:1em; line-height:4; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|JR宝塚線|height=10em}}
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|東海道本線|height=6em}}
!JR-G47
|[[大阪駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|7.7
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#feb;"|●
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW_kinki-A.svg|17px|A]] [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]]) (JR-A47)・[[ファイル:JRW_kinki-O.svg|17px|O]] [[大阪環状線]] (JR-O11)・[[ファイル:JRW kinki-F.svg|17px|F]] [[おおさか東線]] (JR-F01)<ref group="*">おおさか東線の正式な起点は[[新大阪駅]]だが、運転系統としての「おおさか東線」は東海道本線貨物支線(梅田貨物線)経由で大阪駅に乗り入れる。</ref>・東海道本線貨物支線([[梅田貨物線]])・[[ファイル:JRW_kinki-H.svg|17px|H]] [[JR東西線]]([[北新地駅]]<ref group="*">大阪駅と北新地駅の間は徒歩連絡の特例がある([[JR東西線#乗車制度]]を参照)。</ref>: JR-H44)<br>[[阪急電鉄]]:{{rint|osaka|hkb|size=17}} [[阪急神戸本線|神戸本線]]・{{rint|osaka|hko|size=17}} [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・{{rint|osaka|hkg|size=17}} [[阪急京都本線|京都本線]]<ref group="*">京都本線の正式な起点は[[十三駅]]だが、運転系統としての「京都本線」は宝塚本線経由で大阪梅田駅に乗り入れる。</ref>([[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]: HK-01)<br>[[阪神電気鉄道]]:{{rint|osaka|hsm|size=17}} [[阪神本線|本線]]([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]: HS 01)<br>大阪市高速電気軌道:{{rint|osaka|m|size=17}} [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]: M16)・{{rint|osaka|t|size=17}} [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]([[東梅田駅]]: T20)・{{rint|osaka|y|size=17}} [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]([[西梅田駅]]: Y11)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||||</nowiki>
|rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪府]][[大阪市]]|height=8em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[北区 (大阪市)|北区]]
|-
!JR-G48
|[[塚本駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|4.3
|style="background:#ccc;"|▲
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|style="background:#feb;"||
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-A.svg|17px|A]] 東海道本線(JR神戸線) (JR-A48)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||||</nowiki>
|[[淀川区]]
|-style="height:3em;"
!rowspan="2"|JR-G49
|rowspan="2"|[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|4.3
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="background:#ccc;"|●
|rowspan="2" style="background:#cfc;"|●
|rowspan="2" style="background:#feb;"|●
|rowspan="2" style="background:#feb;"|●
|rowspan="2"|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-H.svg|17px|H]] [[JR東西線]] (JR-H49)([[ファイル:JRW_kinki-H.svg|17px|H]] [[片町線]](学研都市線)経由 [[ファイル:JRW_kinki-Q.svg|17px|Q]] [[関西本線]]([[大和路線]])[[奈良駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JRW_kinki-A.svg|17px|A]] 東海道本線(JR神戸線 神戸方面) (JR-A49)・<span style="font-size:90%;">東海道本線貨物支線([[北方貨物線]])</span>
|rowspan="2" style="text-align:center;"|<nowiki>||||</nowiki>
|rowspan="30" style="width:1em; text-align:center; line-height:6; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[兵庫県]]|height=6em}}
|rowspan="4"|[[尼崎市]]
|-
|rowspan="30" style="width:1em; text-align:center; line-height:6; letter-spacing:0.5em;"|'''{{縦書き|福知山線|height=7em}}'''
|-
!JR-G50
|[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]#
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|2.5
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|△
|style="background:#feb;"|△
|style="background:#feb;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JR-G51
|[[猪名寺駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|3.9
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|style="background:#feb;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JR-G52
|[[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|5.8
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="2"|[[伊丹市]]
|-
!JR-G53
|[[北伊丹駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|7.9
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|style="background:#feb;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JR-G54
|[[川西池田駅]]#
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|11.0
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#feb;"|●
|阪急電鉄:{{rint|osaka|hko|size=17}} 宝塚本線([[川西能勢口駅]]: HK-50)<br />[[能勢電鉄]]:{{rint|osaka|nsm|size=17}} [[能勢電鉄妙見線|妙見線]](川西能勢口駅: NS01)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[川西市]]
|-
!JR-G55
|[[中山寺駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|14.5
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="2"|[[宝塚市]]
|-
!JR-G56
|[[宝塚駅]]#
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|17.8
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#feb;"|●
|阪急電鉄:{{rint|osaka|hko|size=17}} 宝塚本線・{{rint|osaka|hkz|size=17}} [[阪急今津線|今津線]] (HK-56)
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JR-G57
|[[生瀬駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|19.7
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"||
|style="background:#feb;"||
|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|rowspan="2"|[[西宮市]]
|-
!JR-G58
|[[西宮名塩駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|21.9
|style="background:#ccc;"|●
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#feb;"|●
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|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|-
!JR-G59
|[[武田尾駅]]
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|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|宝塚市
|-
!JR-G60
|[[道場駅]]
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|
|style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki>
|[[神戸市]]<br />[[北区 (神戸市)|北区]]
|-
!JR-G61
|[[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]
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|[[神戸電鉄]]:{{rint|kobe|kba|size=17}} [[神戸電鉄三田線|三田線]] (KB29)
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|rowspan="5"|[[三田市]]
|-
!JR-G62
|[[新三田駅]]#
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!JR-G63
|[[広野駅 (兵庫県)|広野駅]]#
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!JR-G64
|[[相野駅]]
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!JR-G65
|[[藍本駅]]
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!JR-G66
|[[草野駅 (兵庫県)|草野駅]]
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|-
!JR-G67
|[[古市駅 (兵庫県)|古市駅]]
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!JR-G68
|[[南矢代駅]]
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!JR-G69
|[[篠山口駅]]#
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|[[丹波大山駅]]
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|[[下滝駅]]
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|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="7"|[[丹波市]]
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|[[谷川駅]]
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|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-I.svg|17px|I]] [[加古川線]]
|style="text-align:center;"|◇
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!
|[[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]]
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|[[石生駅]]
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|[[黒井駅 (兵庫県)|黒井駅]]
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|[[市島駅]]
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!
|[[丹波竹田駅]]
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!
|[[福知山駅]]
|style="text-align:right;"|8.3
|style="text-align:right;"|106.5
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|
|style="background:#feb;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-E.svg|17px|E]] [[山陰本線]]<br />[[WILLER TRAINS|京都丹後鉄道]]:[[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]] (F1)
|style="text-align:center;"|◇
|colspan="2"|[[京都府]]<br />[[福知山市]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
駅距離間が比較的長い、中山寺駅 - 宝塚駅間に新駅建設案がある<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0301ke80200.html 県内で3新駅検討 JR西日本] - [[神戸新聞]] 2005年3月1日</ref>。また、丹波竹田駅 - 福知山駅間にも新駅を設置する構想もある<ref>{{Cite news|title = JR福知山線に新駅をと公立大が構想 本堀踏切付近で現地調査 |url = https://www.ryoutan.co.jp/articles/2021/02/91166/ |newspaper = 両丹日日新聞 |publisher = 両丹日日新聞社 |date = 2021-2-2 | accessdate = 2021-2-2}}</ref><ref>{{Cite news|title = 福知山高学校前に駅、PTAが署名簿 市長も賛同 /京都 |url = https://mainichi.jp/articles/20160413/ddl/k26/100/502000c |newspaper = 毎日新聞 |publisher = 毎日新聞社 |date = 2016-4-13 | accessdate = 2020-11-1}}</ref>。かつては、黒井駅 - 市島駅間に「春日部」駅が設置される計画もあった<ref>[https://tanba.jp/2022/04/%e6%96%b0%e8%a8%ad%e3%80%8c%e6%9c%89%e6%9c%9b%e3%80%8d%e3%82%82%e5%ae%9f%e7%8f%be%e3%81%9b%e3%81%9a%e3%80%80%e6%98%ad%e5%92%8c%e3%81%ab%e3%81%82%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%a4%a2%e6%a7%8b%e6%83%b3%e3%80%80/ 新設「有望」も実現せず 昭和にあった夢構想 福知山線「幻の駅」を追う(上)] - 丹波新聞、2022年4月16日</ref>。
下記以外の駅はJR西日本の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]である(2022年3月時点)。
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
** 猪名寺駅・北伊丹駅・中山寺駅・生瀬駅・西宮名塩駅・広野駅・相野駅・谷川駅・黒井駅 …[[JR西日本交通サービス]]が受託
* [[無人駅]]
** 武田尾駅・道場駅・藍本駅・草野駅・古市駅・南矢代駅・丹波大山駅・下滝駅・石生駅・市島駅・丹波竹田駅
=== 廃止区間(尼崎港線) ===
* [[1981年]]の旅客営業廃止直前の状況。全駅ともに兵庫県尼崎市に所在していた。
* 尼崎港線の尼崎駅は東海道本線の駅とは約300 m離れていた。なお、塚口駅 - 尼崎駅間の実際のキロ程は約1.9 kmだが、[[営業キロ]]は本線の同区間に合わせていた。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!駅名
!style="width:2.5em;"|駅間営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計営業キロ
!接続路線
|-
|[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|0.0
|[[日本国有鉄道]]:[[#駅一覧|福知山線]](本線)
|-
|[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]](尼崎臨時乗降場)
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|2.5
|
|-
|[[金楽寺駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|3.0
|
|-
|[[尼崎港駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|4.6
|
|}
=== 廃駅・廃止信号場 ===
[[#廃止区間(尼崎港線)]]が廃止になったことによる廃駅を除く。
* 本線(括弧内は尼崎駅起点の営業キロ)
** [[伊丹南口駅]]:[[1897年]]廃止、猪名寺駅 - 伊丹駅間(約4.7 km)
** 猪名川[[信号場|仮信号所]]:[[1918年]]廃止、伊丹駅 - 北伊丹駅間(約7.3 km)
** 花畑[[臨時駅|仮停車場]]:[[1903年]]廃止、川西池田駅 - 中山寺駅間(約13.4 km)
** 惣川駅:[[1979年]]廃止、宝塚駅 - 生瀬駅間 (18.5 km)。設備は宝塚駅構内扱いで現存、貨物駅。
** 福知駅:[[1909年]]廃止、丹波竹田駅 - 福知山駅間(約100.6 km)
* 尼崎港線(括弧内は塚口駅起点の営業キロ)
** 長洲駅:[[1905年]]廃止、塚口駅 - 金楽寺駅間(約1.9 km)。年表にある通り東海道本線との交点に前後して設置されていた。改築により跡地は乗り越え用の築堤となり尼崎港線の神崎駅(尼崎駅)ホームが設置された。
** 大物駅:1905年廃止、金楽寺駅 - 尼崎港駅間(約3.7 km)
=== 過去の接続路線 ===
名称などは廃止時点のもの。
* 川西池田駅:[[能勢電鉄妙見線]](川西国鉄前駅)- 1981年12月20日廃止。
* 三田駅:国有鉄道[[有馬線]] - 1943年7月1日休止。
* 篠山口駅:
** 国鉄[[篠山線]] - 1972年3月1日廃止。
** [[篠山鉄道]](篠山駅) - 1944年3月21日廃止。
* 福知山駅:[[北丹鉄道]] - 1971年3月2日休止、1974年2月28日廃止。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=中村四郎 |authorlink= |title=災害に強い交通基盤整備のあり方に関する調査研究報告書 |series= |year=1996 |month=3 |publisher=
財団法人運輸経済研究センター |page= |ref=中村199603}}
* [[今尾恵介]](監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』8 関西1、[[新潮社]]、2008年。{{ISBN2|978-4-10-790026-5}}。
* 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』9 関西2、新潮社、2009年。{{ISBN2|978-4-10-790027-2}}。
* 今尾恵介(監修)『新・鉄道廃線跡を歩く』4 近畿・中国編、[[JTBパブリッシング]]、2010年。{{ISBN2|978-4533078613}}。
* 西日本旅客鉄道(監修)『よみがえれ!線路よ街よ - 阪神・淡路大震災 JR西日本100人の証言』[[交通新聞社]]、1996年。{{ISBN2|978-4-875130-51-2}}。
* 交通新聞社(編)『阪神・淡路大震災 鉄道復旧記録誌』西日本旅客鉄道、1996年。
* [[川島令三]](編著)『山陽・山陰ライン - 全線・全駅・全配線』2 北神戸・福知山エリア、[[講談社]]、2012年。{{ISBN2|978-4-06-295152-4}}。
* [[宮脇俊三]](編著)『鉄道廃線跡を歩くVI - 実地踏査地図から消えた鉄道60』JTB、1999年。{{ISBN2|4-533-03150-1}}。
* {{Cite book |和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X|ref=JRR1997}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Fukuchiyama Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[JR福知山線脱線事故]]
* [[阪急宝塚本線]] - 並行し最も競合する路線
* [[国道176号]] - 並行する国道
* [[舞鶴若狭自動車道]] - 福知山線と並行し、競合する高速道路
* [[旧国鉄福知山線廃線跡]]
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/takarazuka.html JR宝塚線:JR西日本 列車走行位置]
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/fukuchiyama.html JR宝塚線・福知山線:JR西日本 列車走行位置]
{{アーバンネットワーク}}
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|ふくちやま]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線|ふくちやま]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線|ふくちやま]]
[[Category:阪鶴鉄道|路]]
[[Category:大阪府の交通]]<!--JR宝塚線区間には大阪府が含まれる-->
[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:京都府の交通]]
[[Category:部分廃止路線|ふくちやま]]
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角運動量保存の法則
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角運動量保存の法則(かくうんどうりょうほぞんのほうそく)とは、質点系について、単位時間あたりの全角運動量の変化は外力によるトルク(力のモーメント)に等しい(ただし内力が中心力であるときに限る)という法則である。角運動量保存則ともいう。 この特別な場合として、外力が働かない(もしくは外力が働いていたとしてもそれによるトルクが0の)場合、質点系の角運動量は常に一定である。例えば、フィギュアスケートの選手がスピンをする際、前に突き出した腕を体に引きつけることで回転が速くなる(角速度が大きくなる)。このとき回転軸から腕先までの距離が短くなるため、かわりに回転が速くなることによって、角運動量が一定に保たれる。
回転する「こま」は、回転軸にそって、(上から見て)時計回りなら下向きの、反時計回りなら上向きの角運動量を持っている。独楽の回転軸(それは重心を貫いている)が鉛直方向に平行であれば、独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける垂直抗力が共に1本の直線上(回転軸上)にあるため、独楽に働く外力によるトルクは0である。従って、この場合独楽の角運動量は一定であり、独楽は軸周りの回転だけを続ける。ところが、独楽が傾くと独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける垂直抗力は、1本の直線上には乗らず、従って、これらの力がトルクを生じさせる。このトルクが独楽の角運動量を変化させる。その結果、独楽は本来の回転軸のまわりの回転に加えて、それとは別の軸(独楽と床が接する点を通る鉛直線)のまわりでも回転をする。それが独楽の「みそすり運動」すなわち歳差運動である。
1つの質点の角運動量 L = r × p {\displaystyle {\boldsymbol {L}}={\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {p}}} の時間変化(時間微分)は以下の式のようになる。
d L d t = d r d t × p + r × d p d t . {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}}{dt}}={\frac {d{\boldsymbol {r}}}{dt}}\times {\boldsymbol {p}}+{\boldsymbol {r}}\times {\frac {d{\boldsymbol {p}}}{dt}}.}
ここで、 r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} は質点の位置ベクトル、 p {\displaystyle {\boldsymbol {p}}} は運動量、 t {\displaystyle t} は時間である。右辺第一項は、
d r d t × p = v × m v = m v × v = 0 . {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {r}}}{dt}}\times {\boldsymbol {p}}={\boldsymbol {v}}\times m{\boldsymbol {v}}=m{\boldsymbol {v}}\times {\boldsymbol {v}}={\boldsymbol {0}}.}
すなわち、速度 v {\displaystyle {\boldsymbol {v}}} どうしの外積なので 0 {\displaystyle {\boldsymbol {0}}} となる。よって、 d L / d t {\displaystyle d{\boldsymbol {L}}/dt} は次のようになる。
d L d t = r × d p d t = r × F . {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}}{dt}}={\boldsymbol {r}}\times {\frac {d{\boldsymbol {p}}}{dt}}={\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {F}}.}
ここで、 r × F {\displaystyle {\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {F}}} は、外力 F {\displaystyle {\boldsymbol {F}}} によるトルク (力のモーメント)である。また、運動方程式 d p / d t = F {\displaystyle d{\boldsymbol {p}}/dt={\boldsymbol {F}}} を使った。この式の意味するところは、角運動量の時間変化は外力によるモーメントに等しいということである。これにより、以下のことが分かる。
よって、質点に外力がまったく働かないか、あるいは外力が位置ベクトルに平行(トルクが 0)であるならば、その質点の角運動量は保存される。
次に角運動量保存の証明を質点円回転運動を一つの事例として行う。
まず、質点の質量をm、速度をv、回転半径をrとすると、質点mへの遠心力はmv/rとなる。半径rがΔr変化した際に質点mの速度vがΔv変化したとすると、エネルギー保存則より
( Δ v ) 2 ≈ 0 {\displaystyle (\Delta v)^{2}\approx 0} として左辺第3項を無視すると、
となる。Δ項を無限小化して両辺を積分すると、
∫ d r r = − ∫ d v v ln r = − ln v + C r v = C ′ {\displaystyle {\begin{aligned}\int {\frac {dr}{r}}&=-\int {\frac {dv}{v}}\\\ln r&=-\ln v+C\\rv&=C'\end{aligned}}}
以上より、mvrが一定になり、角運動量保存がエネルギー保存則から導かれる。
尚、ここまでは質点mの円回転について考察したが、半径rをベクトルr、速度vをベクトルvとすれば、楕円回転に対してもr×v = rv⊥(但しv⊥はvのrに対する垂直成分)となる為、本来のベクトル定義の角運動量r×mvについても保存されると言える。
n 個の質点を考える。i 番目の質点を「質点i」と呼ぶ。質点 i に関する量を添字 i で表す。前項より、質点 i の角運動量について以下が成り立つ:
d L i d t = r i × F i {\displaystyle {\frac {d{\boldsymbol {L}}_{i}}{dt}}={\boldsymbol {r_{i}}}\times {\boldsymbol {F_{i}}}}
質点iに働く力 F i {\displaystyle {\boldsymbol {F_{i}}}} は, 以下のように表される:
F i = ∑ j F i j + F i e . {\displaystyle {\boldsymbol {F_{i}}}=\sum _{j}{\boldsymbol {F_{ij}}}+{\boldsymbol {F_{i}^{e}}}.}
ここで、 F i j {\displaystyle {\boldsymbol {F_{ij}}}} は質点 j が質点 i に及ぼす力(内力)であり、 F i e {\displaystyle {\boldsymbol {F_{i}^{e}}}} は質点 i におよぶ外力である。これを上式に代入し、i について総和をとれば、
∑ i d L i d t = ∑ i r i × ( ∑ j F i j + F i e ) = ∑ i ∑ j r i × F i j + ∑ i r i × F i e {\displaystyle \sum _{i}{\frac {d{\boldsymbol {L}}_{i}}{dt}}=\sum _{i}{\boldsymbol {r_{i}}}\times (\sum _{j}{\boldsymbol {F_{ij}}}+{\boldsymbol {F_{i}^{e}}})=\sum _{i}\sum _{j}{\boldsymbol {r_{i}}}\times {\boldsymbol {F_{ij}}}+\sum _{i}{\boldsymbol {r_{i}}}\times {\boldsymbol {F_{i}^{e}}}}
となる。右辺第一項は、作用反作用の法則( F i j = − F j i {\displaystyle {\boldsymbol {F_{ij}}}=-{\boldsymbol {F_{ji}}}} )より、次式のようになる:
∑ i ∑ j r i × F i j = ∑ i < j ( r i − r j ) × F i j . {\displaystyle \sum _{i}\sum _{j}{\boldsymbol {r_{i}}}\times {\boldsymbol {F_{ij}}}=\sum _{i<j}{({\boldsymbol {r_{i}}}-{\boldsymbol {r_{j}}})}\times {\boldsymbol {F_{ij}}}.}
ここで, もし内力が中心力ならば(すなわち, 質点同士が互いに及ぼす力が, 両者を結ぶ直線上にあるならば), r i − r j {\displaystyle {\boldsymbol {r_{i}}}-{\boldsymbol {r_{j}}}} と F i j {\displaystyle {\boldsymbol {F_{ij}}}} は互いに平行であるので, (外積の性質より)この式の ∑ {\displaystyle \sum } の中は 0 {\displaystyle {\boldsymbol {0}}} になる。つまりこの式は 0 {\displaystyle {\boldsymbol {0}}} になる。従って,
d d t ∑ i L i = ∑ i r i × F i e {\displaystyle {\frac {d}{dt}}\sum _{i}{\boldsymbol {L}}_{i}=\sum _{i}{\boldsymbol {r_{i}}}\times {\boldsymbol {F_{i}^{e}}}}
となる。すなわち, 質点系の全角運動量の時間変化(左辺)は, 質点系に外力が及ぼす全トルク(右辺)に等しい。
ケプラーの法則の第二法則「面積速度一定の法則」は、「角運動量保存の法則」に他ならない。なぜなら、面積速度は
S = | 1 2 r × v | {\displaystyle S=\left|{\frac {1}{2}}{\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {v}}\right|}
と表すことができるが、これを 2 m {\displaystyle 2m} 倍すると角運動量の大きさ | m r × v | {\displaystyle |m{\boldsymbol {r}}\times {\boldsymbol {v}}|} に等しくなるからだ。ここで、 r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} は太陽に対する惑星の位置、 v {\displaystyle {\boldsymbol {v}}} は惑星の速度、 m {\displaystyle m} は惑星の質量である。 この法則は天体の間の引力が中心力であることをあらわしている。
一般に物理量の保存則は我々の住む時空の対称性の現れであり、角運動量保存則は空間の回転対称性の現れである。空間については運動量保存則から並進対称性を持つことと併せて、自由な移動に対して対称であって、場所や方向によって物理法則が変わることはない。ただし、弱い相互作用におけるパリティ対称性の破れから、空間が鏡像対称性を持たないこと、すなわち空間には本質的に左右の区別があることが解っている。
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"text": "回転する「こま」は、回転軸にそって、(上から見て)時計回りなら下向きの、反時計回りなら上向きの角運動量を持っている。独楽の回転軸(それは重心を貫いている)が鉛直方向に平行であれば、独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける垂直抗力が共に1本の直線上(回転軸上)にあるため、独楽に働く外力によるトルクは0である。従って、この場合独楽の角運動量は一定であり、独楽は軸周りの回転だけを続ける。ところが、独楽が傾くと独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける垂直抗力は、1本の直線上には乗らず、従って、これらの力がトルクを生じさせる。このトルクが独楽の角運動量を変化させる。その結果、独楽は本来の回転軸のまわりの回転に加えて、それとは別の軸(独楽と床が接する点を通る鉛直線)のまわりでも回転をする。それが独楽の「みそすり運動」すなわち歳差運動である。",
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"text": "1つの質点の角運動量 L = r × p {\\displaystyle {\\boldsymbol {L}}={\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {p}}} の時間変化(時間微分)は以下の式のようになる。",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合)"
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"text": "d L d t = d r d t × p + r × d p d t . {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}}{dt}}={\\frac {d{\\boldsymbol {r}}}{dt}}\\times {\\boldsymbol {p}}+{\\boldsymbol {r}}\\times {\\frac {d{\\boldsymbol {p}}}{dt}}.}",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合)"
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"text": "ここで、 r {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}} は質点の位置ベクトル、 p {\\displaystyle {\\boldsymbol {p}}} は運動量、 t {\\displaystyle t} は時間である。右辺第一項は、",
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"text": "d r d t × p = v × m v = m v × v = 0 . {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {r}}}{dt}}\\times {\\boldsymbol {p}}={\\boldsymbol {v}}\\times m{\\boldsymbol {v}}=m{\\boldsymbol {v}}\\times {\\boldsymbol {v}}={\\boldsymbol {0}}.}",
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"text": "すなわち、速度 v {\\displaystyle {\\boldsymbol {v}}} どうしの外積なので 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {0}}} となる。よって、 d L / d t {\\displaystyle d{\\boldsymbol {L}}/dt} は次のようになる。",
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"text": "d L d t = r × d p d t = r × F . {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}}{dt}}={\\boldsymbol {r}}\\times {\\frac {d{\\boldsymbol {p}}}{dt}}={\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {F}}.}",
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"text": "ここで、 r × F {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {F}}} は、外力 F {\\displaystyle {\\boldsymbol {F}}} によるトルク (力のモーメント)である。また、運動方程式 d p / d t = F {\\displaystyle d{\\boldsymbol {p}}/dt={\\boldsymbol {F}}} を使った。この式の意味するところは、角運動量の時間変化は外力によるモーメントに等しいということである。これにより、以下のことが分かる。",
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"text": "よって、質点に外力がまったく働かないか、あるいは外力が位置ベクトルに平行(トルクが 0)であるならば、その質点の角運動量は保存される。",
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"text": "次に角運動量保存の証明を質点円回転運動を一つの事例として行う。",
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"text": "まず、質点の質量をm、速度をv、回転半径をrとすると、質点mへの遠心力はmv/rとなる。半径rがΔr変化した際に質点mの速度vがΔv変化したとすると、エネルギー保存則より",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合)"
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"text": "( Δ v ) 2 ≈ 0 {\\displaystyle (\\Delta v)^{2}\\approx 0} として左辺第3項を無視すると、",
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"text": "となる。Δ項を無限小化して両辺を積分すると、",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合)"
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{
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"text": "∫ d r r = − ∫ d v v ln r = − ln v + C r v = C ′ {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\int {\\frac {dr}{r}}&=-\\int {\\frac {dv}{v}}\\\\\\ln r&=-\\ln v+C\\\\rv&=C'\\end{aligned}}}",
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"text": "以上より、mvrが一定になり、角運動量保存がエネルギー保存則から導かれる。",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合)"
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"tag": "p",
"text": "尚、ここまでは質点mの円回転について考察したが、半径rをベクトルr、速度vをベクトルvとすれば、楕円回転に対してもr×v = rv⊥(但しv⊥はvのrに対する垂直成分)となる為、本来のベクトル定義の角運動量r×mvについても保存されると言える。",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "n 個の質点を考える。i 番目の質点を「質点i」と呼ぶ。質点 i に関する量を添字 i で表す。前項より、質点 i の角運動量について以下が成り立つ:",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"text": "d L i d t = r i × F i {\\displaystyle {\\frac {d{\\boldsymbol {L}}_{i}}{dt}}={\\boldsymbol {r_{i}}}\\times {\\boldsymbol {F_{i}}}}",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
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"text": "質点iに働く力 F i {\\displaystyle {\\boldsymbol {F_{i}}}} は, 以下のように表される:",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"text": "F i = ∑ j F i j + F i e . {\\displaystyle {\\boldsymbol {F_{i}}}=\\sum _{j}{\\boldsymbol {F_{ij}}}+{\\boldsymbol {F_{i}^{e}}}.}",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ここで、 F i j {\\displaystyle {\\boldsymbol {F_{ij}}}} は質点 j が質点 i に及ぼす力(内力)であり、 F i e {\\displaystyle {\\boldsymbol {F_{i}^{e}}}} は質点 i におよぶ外力である。これを上式に代入し、i について総和をとれば、",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "∑ i d L i d t = ∑ i r i × ( ∑ j F i j + F i e ) = ∑ i ∑ j r i × F i j + ∑ i r i × F i e {\\displaystyle \\sum _{i}{\\frac {d{\\boldsymbol {L}}_{i}}{dt}}=\\sum _{i}{\\boldsymbol {r_{i}}}\\times (\\sum _{j}{\\boldsymbol {F_{ij}}}+{\\boldsymbol {F_{i}^{e}}})=\\sum _{i}\\sum _{j}{\\boldsymbol {r_{i}}}\\times {\\boldsymbol {F_{ij}}}+\\sum _{i}{\\boldsymbol {r_{i}}}\\times {\\boldsymbol {F_{i}^{e}}}}",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"text": "となる。右辺第一項は、作用反作用の法則( F i j = − F j i {\\displaystyle {\\boldsymbol {F_{ij}}}=-{\\boldsymbol {F_{ji}}}} )より、次式のようになる:",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"tag": "p",
"text": "∑ i ∑ j r i × F i j = ∑ i < j ( r i − r j ) × F i j . {\\displaystyle \\sum _{i}\\sum _{j}{\\boldsymbol {r_{i}}}\\times {\\boldsymbol {F_{ij}}}=\\sum _{i<j}{({\\boldsymbol {r_{i}}}-{\\boldsymbol {r_{j}}})}\\times {\\boldsymbol {F_{ij}}}.}",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ここで, もし内力が中心力ならば(すなわち, 質点同士が互いに及ぼす力が, 両者を結ぶ直線上にあるならば), r i − r j {\\displaystyle {\\boldsymbol {r_{i}}}-{\\boldsymbol {r_{j}}}} と F i j {\\displaystyle {\\boldsymbol {F_{ij}}}} は互いに平行であるので, (外積の性質より)この式の ∑ {\\displaystyle \\sum } の中は 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {0}}} になる。つまりこの式は 0 {\\displaystyle {\\boldsymbol {0}}} になる。従って,",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"text": "d d t ∑ i L i = ∑ i r i × F i e {\\displaystyle {\\frac {d}{dt}}\\sum _{i}{\\boldsymbol {L}}_{i}=\\sum _{i}{\\boldsymbol {r_{i}}}\\times {\\boldsymbol {F_{i}^{e}}}}",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "となる。すなわち, 質点系の全角運動量の時間変化(左辺)は, 質点系に外力が及ぼす全トルク(右辺)に等しい。",
"title": "角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合)"
},
{
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"text": "ケプラーの法則の第二法則「面積速度一定の法則」は、「角運動量保存の法則」に他ならない。なぜなら、面積速度は",
"title": "ケプラーの法則との関係"
},
{
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"text": "S = | 1 2 r × v | {\\displaystyle S=\\left|{\\frac {1}{2}}{\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {v}}\\right|}",
"title": "ケプラーの法則との関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "と表すことができるが、これを 2 m {\\displaystyle 2m} 倍すると角運動量の大きさ | m r × v | {\\displaystyle |m{\\boldsymbol {r}}\\times {\\boldsymbol {v}}|} に等しくなるからだ。ここで、 r {\\displaystyle {\\boldsymbol {r}}} は太陽に対する惑星の位置、 v {\\displaystyle {\\boldsymbol {v}}} は惑星の速度、 m {\\displaystyle m} は惑星の質量である。 この法則は天体の間の引力が中心力であることをあらわしている。",
"title": "ケプラーの法則との関係"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "一般に物理量の保存則は我々の住む時空の対称性の現れであり、角運動量保存則は空間の回転対称性の現れである。空間については運動量保存則から並進対称性を持つことと併せて、自由な移動に対して対称であって、場所や方向によって物理法則が変わることはない。ただし、弱い相互作用におけるパリティ対称性の破れから、空間が鏡像対称性を持たないこと、すなわち空間には本質的に左右の区別があることが解っている。",
"title": "角運動量保存則と空間"
}
] |
角運動量保存の法則(かくうんどうりょうほぞんのほうそく)とは、質点系について、単位時間あたりの全角運動量の変化は外力によるトルク(力のモーメント)に等しい(ただし内力が中心力であるときに限る)という法則である。角運動量保存則ともいう。
この特別な場合として、外力が働かない(もしくは外力が働いていたとしてもそれによるトルクが0の)場合、質点系の角運動量は常に一定である。例えば、フィギュアスケートの選手がスピンをする際、前に突き出した腕を体に引きつけることで回転が速くなる(角速度が大きくなる)。このとき回転軸から腕先までの距離が短くなるため、かわりに回転が速くなることによって、角運動量が一定に保たれる。 回転する「こま」は、回転軸にそって、(上から見て)時計回りなら下向きの、反時計回りなら上向きの角運動量を持っている。独楽の回転軸(それは重心を貫いている)が鉛直方向に平行であれば、独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける垂直抗力が共に1本の直線上(回転軸上)にあるため、独楽に働く外力によるトルクは0である。従って、この場合独楽の角運動量は一定であり、独楽は軸周りの回転だけを続ける。ところが、独楽が傾くと独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける垂直抗力は、1本の直線上には乗らず、従って、これらの力がトルクを生じさせる。このトルクが独楽の角運動量を変化させる。その結果、独楽は本来の回転軸のまわりの回転に加えて、それとは別の軸(独楽と床が接する点を通る鉛直線)のまわりでも回転をする。それが独楽の「みそすり運動」すなわち歳差運動である。
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{{出典の明記|date=2011年7月}}
'''角運動量保存の法則'''(かくうんどうりょうほぞんのほうそく)とは、[[質点系]]について、単位時間あたりの全[[角運動量]]の変化は外力による[[トルク]](力の[[モーメント]])に等しい(ただし内力が[[中心力]]であるときに限る)という法則である。角運動量保存則ともいう。
この特別な場合として、外力が働かない(もしくは外力が働いていたとしてもそれによる[[トルク]]が0の)場合、質点系の[[角運動量]]は常に一定である。例えば、[[フィギュアスケート]]の選手がスピンをする際、前に突き出した腕を体に引きつけることで回転が速くなる([[角速度]]が大きくなる)。このとき回転軸から腕先までの距離が短くなるため、かわりに回転が速くなることによって、角運動量が一定に保たれる。
回転する「[[独楽|こま]]」は、回転軸にそって、(上から見て)時計回りなら下向きの、反時計回りなら上向きの[[角運動量]]を持っている。独楽の回転軸(それは重心を貫いている)が鉛直方向に平行であれば、独楽にかかる[[重力]]と、床から独楽が受ける[[垂直抗力]]が共に1本の直線上(回転軸上)にあるため、独楽に働く外力による[[トルク]]は0である。従って、この場合独楽の[[角運動量]]は一定であり、独楽は軸周りの回転だけを続ける。ところが、独楽が傾くと独楽にかかる重力と、床から独楽が受ける[[垂直抗力]]は、1本の直線上には乗らず、従って、これらの力が[[トルク]]を生じさせる。この[[トルク]]が独楽の[[角運動量]]を変化させる。その結果、独楽は本来の回転軸のまわりの回転に加えて、それとは別の軸(独楽と床が接する点を通る鉛直線)のまわりでも回転をする。それが独楽の「みそすり運動」すなわち[[歳差運動]]である。
== 角運動量保存の法則の証明 (1つの質点の場合) ==
1つの[[質点]]の[[角運動量]] <math>\boldsymbol{L} = \boldsymbol{r} \times \boldsymbol{p}</math> の時間変化([[時間微分]])は以下の式のようになる。
{{Indent|<math>\frac{d \boldsymbol{L}}{dt} = \frac{d \boldsymbol{r}}{dt} \times \boldsymbol{p}+ \boldsymbol{r} \times \frac{d \boldsymbol{p}}{dt}.</math>}}
ここで、<math>\boldsymbol{r}</math> は[[質点]]の[[位置ベクトル]]、<math>\boldsymbol{p}</math> は[[運動量]]、<math>t</math> は[[時間]]である。右辺第一項は、
{{Indent|<math>\frac{d \boldsymbol{r}}{dt} \times \boldsymbol{p} = \boldsymbol{v} \times m \boldsymbol{v} = m \boldsymbol{v} \times \boldsymbol{v} = \boldsymbol{0}. </math>}}
すなわち、[[速度]] <math>\boldsymbol{v}</math> どうしの[[クロス積|外積]]なので <math>\boldsymbol{0}</math> となる。よって、<math>d\boldsymbol{L} / dt</math> は次のようになる。
{{Indent|<math>\frac{d \boldsymbol{L}}{dt} = \boldsymbol{r} \times \frac{d \boldsymbol{p}}{dt} = \boldsymbol{r} \times \boldsymbol{F}.</math>}}
ここで、<math>\boldsymbol{r} \times \boldsymbol{F}</math> は、[[外力]] <math>\boldsymbol{F}</math> による[[トルク]] ([[力のモーメント]])である。また、[[運動方程式]] <math>d\boldsymbol{p}/dt=\boldsymbol{F}</math> を使った。この式の意味するところは、'''角運動量の時間変化は外力によるモーメントに等しい'''ということである。これにより、以下のことが分かる。
*もし外力がなければ、すなわち <math>\boldsymbol{F} = \boldsymbol{0}</math> ならば、当然 <math>\boldsymbol{r} \times \boldsymbol{F} = \boldsymbol{0}</math> であり、角運動量は保存される。
*外力が <math>\boldsymbol{r}</math> と平行の場合、<math>\boldsymbol{r} \times \boldsymbol{F} = \boldsymbol{0},</math> すなわち[[トルク]]が 0 となって、角運動量は <math>\boldsymbol{L} = \mbox{const.}</math>(一定)となり、保存される。
よって、[[質点]]に外力がまったく働かないか、あるいは外力が位置ベクトルに平行([[トルク]]が 0)であるならば、その質点の[[角運動量]]は保存される。
次に角運動量保存の証明を質点円回転運動を一つの事例として行う。
まず、質点の質量を''m''、速度を''v''、回転半径を''r''とすると、質点''m''への遠心力は''mv''<small><sup>2</sup></small>/''r''となる。半径''r''がΔ''r''変化した際に質点''m''の速度''v''がΔ''v''変化したとすると、エネルギー保存則より
:<math>\begin{align}
\frac{mv^2}{r} \times \Delta r + \frac12 m (v+\Delta v)^2 &= \frac12 mv^2 \\
\Leftrightarrow
\frac{mv^2}{r} \times \Delta r + mv \Delta v + \frac12 m (\Delta v)^2 &= 0
\end{align}</math>
<math>(\Delta v)^2 \approx 0</math>として左辺第3項を無視すると、
:<math>\frac{\Delta r}{r} = - \frac{\Delta v}{v}</math>
となる。Δ項を無限小化して両辺を積分すると、
<math>\begin{align}
\int \frac{dr}{r} &= - \int \frac{dv}{v} \\
\ln r &= - \ln v + C \\
rv &= C'
\end{align}</math>
以上より、''mvr''が一定になり、角運動量保存がエネルギー保存則から導かれる。
尚、ここまでは質点''m''の円回転について考察したが、半径''r''をベクトル'''''r'''''、速度''v''をベクトル'''''v'''''とすれば、楕円回転に対しても'''''r'''''×'''''v''''' = ''rv''<sub>⊥</sub>(但し''v''<sub>⊥</sub>は'''''v'''''の'''''r'''''に対する垂直成分)となる為、本来のベクトル定義の角運動量'''''r'''''×''m'''v'''''についても保存されると言える。
== 角運動量保存の法則の証明 (質点系, つまり複数の質点の場合) ==
''n'' 個の[[質点]]を考える。''i'' 番目の質点を「質点''i''」と呼ぶ。質点 ''i'' に関する量を添字 ''i'' で表す。前項より、質点 ''i'' の[[角運動量]]について以下が成り立つ:
{{Indent|<math>\frac{d \boldsymbol{L}_i}{dt} = \boldsymbol{r_i} \times \boldsymbol{F_i}</math>}}
質点''i''に働く力<math>\boldsymbol{F_i}</math>は, 以下のように表される:
{{Indent|<math>\boldsymbol{F_i} = \sum_j \boldsymbol{F_{ij}}+\boldsymbol{F_i^e}.</math>}}
ここで、<math>\boldsymbol{F_{ij}}</math> は質点 ''j'' が質点 ''i'' に及ぼす力(内力)であり、<math>\boldsymbol{F_i^e}</math> は質点 ''i'' におよぶ外力である。これを上式に代入し、''i'' について総和をとれば、
{{Indent|<math>\sum_i\frac{d \boldsymbol{L}_i}{dt} = \sum_i\boldsymbol{r_i} \times (\sum_j \boldsymbol{F_{ij}}+\boldsymbol{F_i^e}) = \sum_i \sum_j \boldsymbol{r_i} \times \boldsymbol{F_{ij}}+\sum_i \boldsymbol{r_i} \times \boldsymbol{F_i^e}</math>}}
となる。右辺第一項は、[[作用反作用の法則]](<math>\boldsymbol{F_{ij}}=-\boldsymbol{F_{ji}}</math>)より、次式のようになる:
{{Indent|<math>\sum_i \sum_j \boldsymbol{r_i} \times \boldsymbol{F_{ij}}=\sum_{i<j}{(\boldsymbol{r_i}-\boldsymbol{r_j})} \times \boldsymbol{F_{ij}}.</math>}}
ここで, もし内力が中心力ならば(すなわち, 質点同士が互いに及ぼす力が, 両者を結ぶ直線上にあるならば), <math>\boldsymbol{r_i}-\boldsymbol{r_j}</math> と <math>\boldsymbol{F_{ij}}</math> は互いに平行であるので, (外積の性質より)この式の <math>\sum</math> の中は <math>\boldsymbol{0}</math> になる。つまりこの式は <math>\boldsymbol{0}</math> になる。従って,
{{Indent|<math>\frac{d }{dt} \sum_i\boldsymbol{L}_i= \sum_i \boldsymbol{r_i} \times \boldsymbol{F_i^e}</math>}}
となる。すなわち, 質点系の全[[角運動量]]の時間変化(左辺)は, 質点系に外力が及ぼす全[[トルク]](右辺)に等しい。
== ケプラーの法則との関係 ==
[[ケプラーの法則]]の第二法則「面積速度一定の法則」は、「角運動量保存の法則」に他ならない。なぜなら、面積速度は
{{Indent|<math>S=\left|\frac{1}{2} \boldsymbol{r} \times \boldsymbol{v}\right|</math>}}
と表すことができるが、これを <math>2m</math> 倍すると角運動量の大きさ <math>|m\boldsymbol{r} \times \boldsymbol{v}|</math> に等しくなるからだ。ここで、<math>\boldsymbol{r}</math> は太陽に対する惑星の位置、<math>\boldsymbol{v}</math> は惑星の速度、<math>m</math> は惑星の質量である。
この法則は天体の間の引力が中心力であることをあらわしている。
== 角運動量保存則と空間 ==
一般に[[物理量]]の[[保存則]]は我々の住む[[時空]]の[[対称性]]の現れであり、角運動量保存則は[[空間]]の[[回転対称性]]の現れである。空間については[[運動量保存則]]から[[並進対称性]]を持つことと併せて、自由な移動に対して対称であって、場所や方向によって物理法則が変わることはない。ただし、[[弱い相互作用]]における[[パリティ対称性の破れ]]から、空間が[[鏡像対称性]]を持たないこと、すなわち空間には本質的に[[左右]]の区別があることが解っている。
== 関連項目 ==
*[[保存則]]
*[[運動量保存の法則]]
<!--
== 脚注 ==
<references/>-->
{{DEFAULTSORT:かくうんとうりようほそんのほうそく}}
[[Category:回転]]
[[Category:自然科学の法則]]
[[Category:保存則]]
[[ko:각운동량#각운동량의 보존]]
|
2003-09-28T14:38:52Z
|
2023-09-18T20:55:39Z
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[
"Template:出典の明記",
"Template:Indent"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
|
18,639 |
阪急今津線
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今津線(いまづせん)は、兵庫県宝塚市の宝塚駅から兵庫県西宮市の西宮北口駅を経由し、今津駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線である。
六甲山地東麓を通る路線で、沿線には住宅地が広がり、大阪・神戸方面などへの通勤・通学路線となっている。運転系統が分断されていることから、西宮北口駅を境に北側の宝塚駅 - 西宮北口駅間を今津北線、南側の西宮北口駅 - 今津駅間を今津南線と呼ぶことがある。正式な起点は宝塚駅だが、列車運行上は今津駅から宝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。キロポストは宝塚駅からの距離の表示となっているが、下り線の進行方向左側に設置されている。
宝塚駅を出た列車は、宝塚本線とすぐに別れ、眼下に宝塚ホテルや宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場へ続く花のみちを見下ろしながら高架線を進む。宝塚ファミリーランドが営業していた頃には、車内から園内を眺めることもできた。やがて線路はカーブを描き、宝塚音楽学校と宝塚大劇場の間を掠め、武庫川を渡るとすぐ宝塚南口駅に到着する。行楽地の雰囲気はこの駅で終わり、宝塚南口駅を出て高架を下りると高度が徐々に下がるとともに生活路線色が濃厚になる。
逆瀬川駅、小林駅と閑静な住宅地の中を進むと、仁川駅の手前で左手に日本中央競馬会 (JRA) の阪神競馬場が現れる。競馬の開催日には駅は活況を呈し、レースの規模に応じて今津線列車が増発される。仁川を出るとすぐに西宮市に入り、旧型車を苦しめた下り坂を駆け下りて関西学院大学(西宮上ヶ原キャンパス)の最寄り駅である甲東園駅に至り、山陽新幹線をくぐりつつ平地の中を進むと厄よけの寺、東光寺(門戸厄神)の最寄りである門戸厄神駅に着く。次の駅が「北線」「南線」の分かれ目である西宮北口駅である。甲東園駅から西宮北口駅までは、カーブがない線形となっている。
今津線は今でこそ、西宮北口駅で神戸本線に線路を分断されているが、1984年まで平面交差で神戸本線を横切り、今津方面へ繋がっていた。北線は駅北側の地上ホームに発着する。なお、神戸線大阪梅田方面へ向かう列車は連絡線に入るため、この駅は通過扱い(実際は運転停車を行う)となる。
西宮北口駅の南線ホームは高架化されたため、終点の今津駅まで全区間が高架となっている。南線のホームは北線と離れた、南側の高架ホームに発着し、阪急西宮ガーデンズを横目に見ながら南下していく。東海道本線(JR神戸線)を超えると阪神国道駅で、駅はその名の通り国道2号線に面している。その次が阪神本線との乗り換え駅である終点の今津駅だが、駅間距離は阪急電鉄では最も短い700 mしかなく、直線であるので互いの駅同士が肉眼でも見通せるほどである。阪急の今津駅は、高架化されるまでは阪神今津駅の北側に並んで設置されていたが、後に100 mほど北側に移動した際、阪神の駅とは直角状に設置するよう変更された。駅ナカ商業施設「エキ―マ」も併設する阪神の駅に比べて、小規模である。
1984年に西宮北口駅で線路が分断されたため、以降は宝塚駅 - 西宮北口駅間の今津北線(旧・西宝線)と、西宮北口駅 - 今津駅間の今津南線の各区間で普通列車の折り返し運転を行っている。
各駅に停車する普通は宝塚駅 - 西宮北口駅間折り返し運転で、日中は10分間隔、平日朝ラッシュ時は4 - 7分間隔・平日夕方から夜間は6 - 8分間隔、土・休日夜間は12分間隔で運転されている。全列車が6両編成である。
今津北線に限り、土曜ダイヤと休日ダイヤを統合して土曜・休日ダイヤに一本化した後も土曜朝のみ普通を増発していたが、2006年10月28日のダイヤ改正で一時廃止された。しかし、現在は沿線の各学校の長期休暇時を除き土曜朝に普通の増発が復活している。
西宮北口駅構内には、神戸本線と今津北線を結ぶ連絡線(9号線)があり、これを使って平日朝ラッシュ時に宝塚発大阪梅田行きの準急が運転されている(「阪急神戸本線#準急」も参照)。今津北線内は門戸厄神駅まで各駅に停車する。全列車が8両編成である。この列車の宝塚駅から大阪梅田駅までの所要時間は約35分で、この列車の方が宝塚本線を経由するよりも6 - 10分程度短い。なお、西宮北口駅の連絡線(9号線)ではホーム位置の関係上、旅客の乗降の取り扱いは行われていない。神戸本線と直通する列車は同駅を通過(運転停車)扱いとしている。
宝塚駅 - 十三駅・大阪梅田駅間の移動は宝塚本線経由と西宮北口駅経由の2通りがあるが、日中を中心に西宮北口駅経由の方が数分早いことが多い。さらに、距離も宝塚本線では24.5kmに対し、西宮北口経由だと23.3kmとなり宝塚本線より1.2km短い。両駅間の距離は異なっているが、運賃はともに280円である。
また、車内放送では、宝塚駅での宝塚本線への乗換え案内については「大阪方面」ではなく、「石橋阪大前・箕面方面」として案内されている。
1995年6月12日から2001年3月9日までは、平日夕方にも西宮北口駅の連絡線を経由する梅田(現在の大阪梅田)発宝塚行き準急が運転されていた。ただ、今津北線の途中駅では仁川駅・宝塚南口駅を除いて下り線ホームの有効長が足りず、8両編成では対応できないため、同列車は6両編成で運転されていた(上り線ホームは全駅とも8両編成に対応している)。
阪神競馬場での中央競馬開催日に限り(場外発売日は除く)、今津北線では臨時ダイヤを設定して15時 - 17時台に普通の増発が行われる。また、GIレース(特に桜花賞・宝塚記念)開催日など利用者が特に多い日に関しては午前中を中心に西宮北口駅 - 仁川駅間の普通列車が増発される。
また、神戸本線に直通する臨時列車として15時 - 17時台に仁川発大阪梅田行きの直通臨時急行が運転され、仁川駅 - 大阪梅田駅間を約20分で結んでいる。本数は日によって増減する(2020年・2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の為、運転中止。2022年より運転再開)。仁川駅を出ると途中の停車駅は神戸本線内のみに設定されており、塚口駅と十三駅に停車する。今津北線内の営業列車で唯一、線内の途中駅を通過する。かつては上下ともに臨時急行が運転されていたが、2006年10月28日のダイヤ改正以降は夕方に仁川発梅田行きのみの運転となっている。
阪急では慣例として、阪急が提供している阪急杯などGIレース開催前の1週間(開催日含む)は、そのレースの前年優勝馬をあしらったヘッドマークを取り付けて運行している。2018年の場合、宝塚記念開催前はサトノクラウン(鞍上・ミルコ・デムーロ)、阪神ジュベナイルフィリーズ開催前はラッキーライラック(鞍上・石橋脩)があしらわれた。
2009年秋からは、神戸本線・京都本線・嵐山線を経由する宝塚駅 - 十三駅 - 嵐山駅間直通の臨時列車が行楽期の特定の土曜・日曜・祝日に1日1往復の運転を開始した(種別は臨時)が、こちらは2010年春から新たに直通特急の種別が与えられ、2011年春から「とげつ」の愛称が付いた。今津線内の停車駅は、準急と同一であった。詳細は「阪急嵐山線#臨時列車」を参照。今津線における特急の運転は、1968年に廃止された歌劇特急以来であったが、同じく行楽期の臨時列車として高速神戸駅 - 嵐山駅間に運転されていた直通特急「あたご」と共に2019年春以降は運転されていない。
西宮北口駅 - 今津駅間折り返しの普通のみの運転で、日中は10分間隔、平日朝ラッシュ時は6分間隔、平日夕方から夜間は7 - 8分間隔、土・休日夜間は12分間隔で運転されている。全列車が3両編成でワンマン運転を行う。
この区間の普通は全て6両編成で、以下の車両が主に使用される。
準急・臨時急行などの神戸本線に直通する列車には神戸本線で運用されている8両固定編成も使用される。また、別編成と連結した編成が普通で使用されることもある。詳細は「阪急神戸本線#使用車両」を参照。
大阪・神戸方面からの乗り入れを考慮して、神戸線と同じ規格で建設されていたことから、600形以降の大型車も戦前の早い時期から入線していた。また、神戸線との輸送量の格差を勘案して、40・90・96の各形式のように、同線での運用を念頭に置き導入された形式もある。
戦後は、1952年以降宝塚線車両大型化の過程で捻出された小型車各形式が入線し、1960年代前半には一大勢力を築いた。これらの小型車は1967年10月8日に実施された神戸線の架線電圧1500Vへの昇圧を機に一掃され、1960年代末から1970年代前半にかけては、600・610の両形式が主力として運用されていた。
前身である阪神急行電鉄により、宝塚駅 - 西宮北口駅間が西宝線(さいほうせん)として1921年に開業。1926年の今津までの全通時に今津線に改称した。
阪神急行電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が路線敷設の特許を取得したときは、東光寺(門戸厄神)付近より西へ向かい、現在の阪神本線香櫨園駅辺りを終点とすることになっていたが、神戸線の敷設に絡んでまず計画が西宮北口駅を経て西宮市街までと変更され、さらに二度目の修正で阪神本線と共に今津駅を新設し、それと連絡を図る計画になった。なおこの際、神戸線との交点になる西宮北口駅には直角平面交差が生まれた。これについては後述する。
阪急総帥の小林一三の指導により、大正から昭和にかけ、甲東園や甲風園に代表されるように沿線の住宅開発を行い、さらには大阪・神戸方面へ向かうのとは逆方面の定期客需要を求めるべく、様々な学校誘致も行った。関西学院大学や神戸女学院大学が神戸市から西宮市の同線沿線に移転したのが典型的な事例で、戦前の段階で今津線は通学路線と化すことになった。
しかし、昭和中期までは宝塚線の池田 - 宝塚間とともに、特に宝塚側の各駅の乗客数は限られていた。逆瀬川駅や小林駅のプラットホームは戦前は1両(単行)分しかなく、2両編成の電車は通過していた。
戦中、沿線に軍需工場ができたこともあり、にわかに利用客数が増した。1943年12月15日から1945年9月21日までは、小林駅 - 仁川駅間にそれら工場への通勤客の至便をはかるため、鹿塩駅(かしおえき)が設けられたりもしている。また、今津駅では1928年から阪神本線とホームが隣り合うようになっていたが、軍の要請で丹波橋駅における奈良電気鉄道線(現在の近鉄京都線)と京阪本線の接続と同様、貨物輸送を考えて阪神本線との間で線路が一時的に接続されたことがあった。しかし、終戦後の1949年に今津線の電車が暴走して阪神本線に侵入、久寿川駅まで走行するという事故が発生したこともあり、再び分断された。 阪急今津線暴走事故を参照。なおこの事故は、新聞で「阪急電車が大暴れ」「阪急、阪神に"殴り込み"」と風刺されて報道されたこともあり、後には「殴り込み事件」と呼ばれるようになっている(参照)。
後述の通り、1984年に、西宮北口駅のダイヤモンドクロスと呼ばれる、今津線と神戸本線の平面交差が安全の観点から廃止されることになり、それをきっかけに今津線は西宮北口駅を境に、宝塚駅 - 西宮北口駅間の「今津北線」と、西宮北口駅 - 今津駅間の「今津南線」の2つの区間に事実上分断されることになった。
1995年1月17日の阪神・淡路大震災では甲東園駅南で交差する山陽新幹線の高架橋と、門戸厄神駅 - 西宮北口駅間の国道171号線の橋桁が線路上に落下。また宝塚南口駅北側では、西宮北口行き列車が脱線し、これら3件の被害で不通となったが、同年2月5日に全線復旧した。
2007年には、西宮北口駅周辺で行われていた西宮市の土地区画整理事業の一環として、阪急西宮スタジアム跡地の再開発事業(阪急西宮ガーデンズ建設工事)にあわせて、西宮北口 - 阪神国道間の高架化工事が開始され、2010年に工事は完了。同年12月5日の西宮北口駅5号線高架ホーム供用開始により、今津南線は全線が高架化された。また、同時に線路設備の規格向上により今津南線のダイヤ変更が行われ、西宮北口駅 - 阪神国道駅間の所要時間の短縮などが行われた(今津行きが20秒短縮、西宮北口行きが10秒短縮で、ともに所要時分3分20秒に)。なお、高架化工事に当たっては、2009年1月17日より、西宮北口駅 - 阪神国道駅間のうち東海道本線(JR神戸線)との交差部分北側に片渡りポイントを設置して500mほどを単線化した。またこれに合わせて、西宮北口駅では5号線を閉鎖した上で回送線である8号線に仮設ホームを設置していた(ただし案内上は「5号線ホーム」のまま)。
神戸本線と接続する西宮北口駅構内には、かつて同線と線路が十字形に交わる平面軌道交差(ダイヤモンドクロス)があった。今津まで延伸したのが1926年と古く、列車自体が短い編成であったことから運行上さほど支障はなく、このような形態をとった。
しかし、戦後の経済成長に伴う列車の増発・長編成化により、ダイヤモンドクロスの存在がダイヤ作成上で最大のネックとなるようになった。今津線のダイヤは神戸本線に合わせねばならず、ダイヤモンドクロスを横断する西宮北口駅 - 今津駅間は、平日日中は10分間隔であったが夕方ラッシュ時には12分間隔と、逆に夕方ラッシュ時に運転間隔が間延びするという状態が続いていた(宝塚駅 - 西宮北口駅間は神戸本線を横断しない形の区間運転があったため、このようなことはなかった)。
今津線には甲東園駅 - 仁川駅間に、阪急電鉄の路線の中では最もきつい部類に入る33.3‰の急勾配があり、現在ほどモーターの性能が良くなかった時代の車両にとってはこの勾配の存在が大きな負担となっていた。そこで、今津駅から西宮北口駅も含めて仁川駅まで連続立体交差化してこの急勾配を解消する計画が立てられたものの、後にモーターの性能が向上したことや、山陽新幹線の開通により甲東園駅付近が高々架となること、西宮北口駅周辺で宅地化が進んだため同駅周辺では高架化の際の仮線用地が確保できなくなったことから、神戸本線との立体交差化は困難となった。
加えて1980年代に入ると輸送力増強のため、宝塚本線・京都本線では既に実施されていた列車の10両編成化を神戸本線でも行うこととなったが、西宮北口駅のホーム延伸が限界にきていた(大阪方には西宮車庫、神戸方には踏切があった)ことや、ダイヤ上のネックを解消する目的もあり、同駅改良・橋上駅舎化工事に合わせて、高架化が不可能であった今津線を1984年3月25日にやむなく分断した。そして現在に至るまで南北の線路は分断されたままの状態が続いている。ただ、分断によって西宮北口駅 - 今津駅間では増発が可能になり、2001年3月のダイヤ改正後においては平日ラッシュ時には最短6分間隔(分断直後は最短3分間隔)で運転されるなど、利便性の向上というメリットも発生した。
なお、西宮北口駅2階コンコースには将来の路線高架化を見据えて確保されたスペースが、橋上駅舎化された当時から存在している。ただし、1995年に今津駅が高架駅となった際に同駅ホームの有効長が4両編成までとされたことや、2010年12月5日より西宮北口駅5号線ホームが高架化され供用が開始された際にもホームがコンコースと同一階(2階)に設けられたことから、宝塚駅 - 今津駅間の直通列車復活は困難となっている。
宝塚駅の高架化工事の際に、工事中の仮線用地の確保が困難であったことから、1990年9月30日以降の宝塚駅 - 宝塚南口駅間において、やむなく単線運転が実施された。日中のように10分間隔ではダイヤ上は支障がないものの、本数の多いラッシュ時では運用に限界があったため、複線運転が再開されるまでの期間中は、通常の宝塚駅 - 西宮北口駅間の全線通し列車のほか、朝夕のラッシュ時に宝塚南口駅 - 西宮北口駅間の折り返し運転を行う列車が設定され、その数はダイヤの半数弱を占めた。また、同列車の運転により誤乗が増えたため、方向幕を装備する車両については、誤乗防止のために行き先方向幕を青地のものへと順次変更し対応がなされた。工事完了後は同区間で折り返し列車は設定されず、各路線の列車においても特殊なカラーが施された行き先方向幕は用意されていない。
なお、1969年から1971年の宝塚南口駅の高架化に伴う単線運転実施のため、逆瀬川駅折り返し列車が運転されたこともあった。
また、阪神国道駅 - 今津駅間の高架化の際も、同様に単線運転が実施されたが、こちらは同区間が700mと短く単線運転でもダイヤ上は支障がなかったため、特に目立った案内はなされていなかった。
こうした暫定単線運転の例は、近隣の路線では阪神西大阪線(現在の阪神なんば線)でも行われた。
今津北線は、有川浩の小説『阪急電車』の舞台となった。また、2011年には『阪急電車 片道15分の奇跡』というタイトルで映画化され、沿線および各駅や当線を走行する車内などでロケーション撮影が行われた。
路線そのものが舞台になるわけではないが、かんべむさしの短編小説『決戦・日本シリーズ』ではプロ野球日本シリーズにおける(架空の)阪神対阪急戦を「今津線シリーズ」と呼び、作中でファンを過熱させている。阪急時代にこの組み合わせの日本シリーズが実現することはついになかったが、阪急がオリックスに身売りされたのちの2005年からセ・パ交流戦において阪神対オリックスとして対戦が行われており(関西ダービー、阪神なんば線シリーズ)、2023年には日本シリーズで両球団が初めて対戦することとなった。
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"text": "今津線(いまづせん)は、兵庫県宝塚市の宝塚駅から兵庫県西宮市の西宮北口駅を経由し、今津駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線である。",
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"text": "六甲山地東麓を通る路線で、沿線には住宅地が広がり、大阪・神戸方面などへの通勤・通学路線となっている。運転系統が分断されていることから、西宮北口駅を境に北側の宝塚駅 - 西宮北口駅間を今津北線、南側の西宮北口駅 - 今津駅間を今津南線と呼ぶことがある。正式な起点は宝塚駅だが、列車運行上は今津駅から宝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。キロポストは宝塚駅からの距離の表示となっているが、下り線の進行方向左側に設置されている。",
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"text": "宝塚駅を出た列車は、宝塚本線とすぐに別れ、眼下に宝塚ホテルや宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場へ続く花のみちを見下ろしながら高架線を進む。宝塚ファミリーランドが営業していた頃には、車内から園内を眺めることもできた。やがて線路はカーブを描き、宝塚音楽学校と宝塚大劇場の間を掠め、武庫川を渡るとすぐ宝塚南口駅に到着する。行楽地の雰囲気はこの駅で終わり、宝塚南口駅を出て高架を下りると高度が徐々に下がるとともに生活路線色が濃厚になる。",
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"text": "逆瀬川駅、小林駅と閑静な住宅地の中を進むと、仁川駅の手前で左手に日本中央競馬会 (JRA) の阪神競馬場が現れる。競馬の開催日には駅は活況を呈し、レースの規模に応じて今津線列車が増発される。仁川を出るとすぐに西宮市に入り、旧型車を苦しめた下り坂を駆け下りて関西学院大学(西宮上ヶ原キャンパス)の最寄り駅である甲東園駅に至り、山陽新幹線をくぐりつつ平地の中を進むと厄よけの寺、東光寺(門戸厄神)の最寄りである門戸厄神駅に着く。次の駅が「北線」「南線」の分かれ目である西宮北口駅である。甲東園駅から西宮北口駅までは、カーブがない線形となっている。",
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"text": "今津線は今でこそ、西宮北口駅で神戸本線に線路を分断されているが、1984年まで平面交差で神戸本線を横切り、今津方面へ繋がっていた。北線は駅北側の地上ホームに発着する。なお、神戸線大阪梅田方面へ向かう列車は連絡線に入るため、この駅は通過扱い(実際は運転停車を行う)となる。",
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"text": "西宮北口駅の南線ホームは高架化されたため、終点の今津駅まで全区間が高架となっている。南線のホームは北線と離れた、南側の高架ホームに発着し、阪急西宮ガーデンズを横目に見ながら南下していく。東海道本線(JR神戸線)を超えると阪神国道駅で、駅はその名の通り国道2号線に面している。その次が阪神本線との乗り換え駅である終点の今津駅だが、駅間距離は阪急電鉄では最も短い700 mしかなく、直線であるので互いの駅同士が肉眼でも見通せるほどである。阪急の今津駅は、高架化されるまでは阪神今津駅の北側に並んで設置されていたが、後に100 mほど北側に移動した際、阪神の駅とは直角状に設置するよう変更された。駅ナカ商業施設「エキ―マ」も併設する阪神の駅に比べて、小規模である。",
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"text": "戦中、沿線に軍需工場ができたこともあり、にわかに利用客数が増した。1943年12月15日から1945年9月21日までは、小林駅 - 仁川駅間にそれら工場への通勤客の至便をはかるため、鹿塩駅(かしおえき)が設けられたりもしている。また、今津駅では1928年から阪神本線とホームが隣り合うようになっていたが、軍の要請で丹波橋駅における奈良電気鉄道線(現在の近鉄京都線)と京阪本線の接続と同様、貨物輸送を考えて阪神本線との間で線路が一時的に接続されたことがあった。しかし、終戦後の1949年に今津線の電車が暴走して阪神本線に侵入、久寿川駅まで走行するという事故が発生したこともあり、再び分断された。 阪急今津線暴走事故を参照。なおこの事故は、新聞で「阪急電車が大暴れ」「阪急、阪神に\"殴り込み\"」と風刺されて報道されたこともあり、後には「殴り込み事件」と呼ばれるようになっている(参照)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "後述の通り、1984年に、西宮北口駅のダイヤモンドクロスと呼ばれる、今津線と神戸本線の平面交差が安全の観点から廃止されることになり、それをきっかけに今津線は西宮北口駅を境に、宝塚駅 - 西宮北口駅間の「今津北線」と、西宮北口駅 - 今津駅間の「今津南線」の2つの区間に事実上分断されることになった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1995年1月17日の阪神・淡路大震災では甲東園駅南で交差する山陽新幹線の高架橋と、門戸厄神駅 - 西宮北口駅間の国道171号線の橋桁が線路上に落下。また宝塚南口駅北側では、西宮北口行き列車が脱線し、これら3件の被害で不通となったが、同年2月5日に全線復旧した。",
"title": "歴史"
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"text": "2007年には、西宮北口駅周辺で行われていた西宮市の土地区画整理事業の一環として、阪急西宮スタジアム跡地の再開発事業(阪急西宮ガーデンズ建設工事)にあわせて、西宮北口 - 阪神国道間の高架化工事が開始され、2010年に工事は完了。同年12月5日の西宮北口駅5号線高架ホーム供用開始により、今津南線は全線が高架化された。また、同時に線路設備の規格向上により今津南線のダイヤ変更が行われ、西宮北口駅 - 阪神国道駅間の所要時間の短縮などが行われた(今津行きが20秒短縮、西宮北口行きが10秒短縮で、ともに所要時分3分20秒に)。なお、高架化工事に当たっては、2009年1月17日より、西宮北口駅 - 阪神国道駅間のうち東海道本線(JR神戸線)との交差部分北側に片渡りポイントを設置して500mほどを単線化した。またこれに合わせて、西宮北口駅では5号線を閉鎖した上で回送線である8号線に仮設ホームを設置していた(ただし案内上は「5号線ホーム」のまま)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "神戸本線と接続する西宮北口駅構内には、かつて同線と線路が十字形に交わる平面軌道交差(ダイヤモンドクロス)があった。今津まで延伸したのが1926年と古く、列車自体が短い編成であったことから運行上さほど支障はなく、このような形態をとった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、戦後の経済成長に伴う列車の増発・長編成化により、ダイヤモンドクロスの存在がダイヤ作成上で最大のネックとなるようになった。今津線のダイヤは神戸本線に合わせねばならず、ダイヤモンドクロスを横断する西宮北口駅 - 今津駅間は、平日日中は10分間隔であったが夕方ラッシュ時には12分間隔と、逆に夕方ラッシュ時に運転間隔が間延びするという状態が続いていた(宝塚駅 - 西宮北口駅間は神戸本線を横断しない形の区間運転があったため、このようなことはなかった)。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 32,
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"text": "今津線には甲東園駅 - 仁川駅間に、阪急電鉄の路線の中では最もきつい部類に入る33.3‰の急勾配があり、現在ほどモーターの性能が良くなかった時代の車両にとってはこの勾配の存在が大きな負担となっていた。そこで、今津駅から西宮北口駅も含めて仁川駅まで連続立体交差化してこの急勾配を解消する計画が立てられたものの、後にモーターの性能が向上したことや、山陽新幹線の開通により甲東園駅付近が高々架となること、西宮北口駅周辺で宅地化が進んだため同駅周辺では高架化の際の仮線用地が確保できなくなったことから、神戸本線との立体交差化は困難となった。",
"title": "歴史"
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"text": "加えて1980年代に入ると輸送力増強のため、宝塚本線・京都本線では既に実施されていた列車の10両編成化を神戸本線でも行うこととなったが、西宮北口駅のホーム延伸が限界にきていた(大阪方には西宮車庫、神戸方には踏切があった)ことや、ダイヤ上のネックを解消する目的もあり、同駅改良・橋上駅舎化工事に合わせて、高架化が不可能であった今津線を1984年3月25日にやむなく分断した。そして現在に至るまで南北の線路は分断されたままの状態が続いている。ただ、分断によって西宮北口駅 - 今津駅間では増発が可能になり、2001年3月のダイヤ改正後においては平日ラッシュ時には最短6分間隔(分断直後は最短3分間隔)で運転されるなど、利便性の向上というメリットも発生した。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、西宮北口駅2階コンコースには将来の路線高架化を見据えて確保されたスペースが、橋上駅舎化された当時から存在している。ただし、1995年に今津駅が高架駅となった際に同駅ホームの有効長が4両編成までとされたことや、2010年12月5日より西宮北口駅5号線ホームが高架化され供用が開始された際にもホームがコンコースと同一階(2階)に設けられたことから、宝塚駅 - 今津駅間の直通列車復活は困難となっている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "宝塚駅の高架化工事の際に、工事中の仮線用地の確保が困難であったことから、1990年9月30日以降の宝塚駅 - 宝塚南口駅間において、やむなく単線運転が実施された。日中のように10分間隔ではダイヤ上は支障がないものの、本数の多いラッシュ時では運用に限界があったため、複線運転が再開されるまでの期間中は、通常の宝塚駅 - 西宮北口駅間の全線通し列車のほか、朝夕のラッシュ時に宝塚南口駅 - 西宮北口駅間の折り返し運転を行う列車が設定され、その数はダイヤの半数弱を占めた。また、同列車の運転により誤乗が増えたため、方向幕を装備する車両については、誤乗防止のために行き先方向幕を青地のものへと順次変更し対応がなされた。工事完了後は同区間で折り返し列車は設定されず、各路線の列車においても特殊なカラーが施された行き先方向幕は用意されていない。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、1969年から1971年の宝塚南口駅の高架化に伴う単線運転実施のため、逆瀬川駅折り返し列車が運転されたこともあった。",
"title": "歴史"
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"text": "また、阪神国道駅 - 今津駅間の高架化の際も、同様に単線運転が実施されたが、こちらは同区間が700mと短く単線運転でもダイヤ上は支障がなかったため、特に目立った案内はなされていなかった。",
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"text": "こうした暫定単線運転の例は、近隣の路線では阪神西大阪線(現在の阪神なんば線)でも行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "今津北線は、有川浩の小説『阪急電車』の舞台となった。また、2011年には『阪急電車 片道15分の奇跡』というタイトルで映画化され、沿線および各駅や当線を走行する車内などでロケーション撮影が行われた。",
"title": "当線を舞台とする作品"
},
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"text": "路線そのものが舞台になるわけではないが、かんべむさしの短編小説『決戦・日本シリーズ』ではプロ野球日本シリーズにおける(架空の)阪神対阪急戦を「今津線シリーズ」と呼び、作中でファンを過熱させている。阪急時代にこの組み合わせの日本シリーズが実現することはついになかったが、阪急がオリックスに身売りされたのちの2005年からセ・パ交流戦において阪神対オリックスとして対戦が行われており(関西ダービー、阪神なんば線シリーズ)、2023年には日本シリーズで両球団が初めて対戦することとなった。",
"title": "当線を舞台とする作品"
}
] |
今津線(いまづせん)は、兵庫県宝塚市の宝塚駅から兵庫県西宮市の西宮北口駅を経由し、今津駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線である。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 今津線
|路線色=#007ac4
|画像=5010F.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[甲東園駅]]に入線する、当線の主力車両[[阪急5000系電車|5000系]]
|国={{JPN}}
|所在地=[[兵庫県]]
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|駅数=10駅
|路線記号=[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] HK
|開業={{start date and age|1921|9|2}}
|項目1=全通<!-- 時系列逆転防止のため -->
|日付1={{start date and age|1926|12|18}}
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|廃止=
|所有者=[[阪急電鉄]]
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|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=9.3 [[キロメートル|km]]
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|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=
|最高速度=80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg
}}
'''今津線'''(いまづせん)は、[[兵庫県]][[宝塚市]]の[[宝塚駅]]から兵庫県[[西宮市]]の[[西宮北口駅]]を経由し、[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]までを結ぶ[[阪急電鉄]]の[[鉄道路線]]である。
== 概要 ==
{{阪急今津線路線図}}
[[六甲山地]]東麓を通る路線で、沿線には住宅地が広がり、大阪・神戸方面などへの通勤・通学路線となっている。運転系統が分断されていることから、西宮北口駅を境に北側の宝塚駅 - 西宮北口駅間を'''今津北線'''、南側の西宮北口駅 - 今津駅間を'''今津南線'''と呼ぶことがある。正式な起点は宝塚駅だが、列車運行上は今津駅から宝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。[[距離標|キロポスト]]は宝塚駅からの距離の表示となっているが、下り線の進行方向左側に設置されている{{Efn|[[阪急京都本線|京都本線]]、[[阪急千里線|千里線]]、[[阪急嵐山線|嵐山線]]のキロポストは上り線の進行方向左側に設置されている。}}。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):9.3[[キロメートル|km]]
* [[軌間]]:1435[[ミリメートル|mm]]
* 駅数:10駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:80[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada" />
* [[車両基地]]:[[西宮車庫]]
== 沿線風景 ==
宝塚駅を出た列車は、[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]とすぐに別れ、眼下に[[宝塚ホテル]]や[[宝塚歌劇団]]の本拠地である[[宝塚大劇場]]へ続く[[花のみち]]を見下ろしながら[[高架橋|高架線]]を進む。[[宝塚ファミリーランド]]が営業していた頃には、車内から園内を眺めることもできた。やがて線路はカーブを描き、[[宝塚音楽学校]]と宝塚大劇場の間を掠め、[[武庫川]]を渡るとすぐ[[宝塚南口駅]]に到着する。[[リゾート|行楽地]]の雰囲気はこの駅で終わり、宝塚南口駅を出て高架を下りると高度が徐々に下がるとともに生活路線色が濃厚になる。
[[ファイル:Mukogawa - panoramio (1).jpg|thumb|none|200px|武庫川を渡る今津線の電車(宝塚駅 - 宝塚南口駅間)]]
[[逆瀬川駅]]、[[小林駅 (兵庫県)|小林駅]]と閑静な住宅地の中を進むと、[[仁川駅]]の手前で左手に[[日本中央競馬会]] (JRA) の[[阪神競馬場]]が現れる<!--鹿塩駅の記述は省略-->。競馬の開催日には駅は活況を呈し、レースの規模に応じて今津線列車が増発される。仁川を出るとすぐに西宮市に入り、旧型車を苦しめた下り坂を駆け下りて[[関西学院大学]](西宮上ヶ原キャンパス)の最寄り駅である[[甲東園駅]]に至り、[[山陽新幹線]]をくぐりつつ平地の中を進むと厄よけの寺、[[東光寺 (西宮市)|東光寺]](門戸厄神)の最寄りである[[門戸厄神駅]]に着く。次の駅が「北線」「南線」の分かれ目である[[西宮北口駅]]である。甲東園駅から西宮北口駅までは、カーブがない線形となっている。
今津線は今でこそ、西宮北口駅で[[阪急神戸本線|神戸本線]]に線路を分断されているが、[[1984年]]まで[[平面交差]]で神戸本線を横切り、今津方面へ繋がっていた。北線は駅北側の地上ホームに発着する。なお、神戸線大阪梅田方面へ向かう列車は[[連絡線]]に入るため、この駅は通過扱い(実際は[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]を行う)となる。
西宮北口駅の南線ホームは[[高架駅|高架化]]されたため、終点の[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]まで全区間が高架となっている。南線のホームは北線と離れた、南側の高架ホームに発着し、[[阪急西宮ガーデンズ]]を横目に見ながら南下していく。[[東海道本線]]([[JR神戸線]])を超えると[[阪神国道駅]]で、駅はその名の通り[[国道2号|国道2号線]]に面している。その次が[[阪神本線]]との乗り換え駅である終点の今津駅だが、駅間距離は阪急電鉄では最も短い700 mしかなく、直線であるので互いの駅同士が肉眼でも見通せるほどである。阪急の今津駅は、高架化されるまでは阪神今津駅の北側に並んで設置されていたが、後に100 mほど北側に移動した際、阪神の駅とは直角状に設置するよう変更された。駅ナカ商業施設「エキ―マ」も併設する阪神の駅に比べて、小規模である。
== 運行形態 ==
{{出典の明記|section=1|date=2008年11月}}
1984年に西宮北口駅で線路が分断されたため、以降は宝塚駅 - 西宮北口駅間の'''今津北線'''(旧・西宝線)と、西宮北口駅 - 今津駅間の'''今津南線'''の各区間で普通列車の折り返し運転を行っている。
=== 今津北線 ===
各駅に停車する普通は宝塚駅 - 西宮北口駅間折り返し運転で、日中は10分間隔、平日朝ラッシュ時は4 - 7分間隔・平日夕方から夜間は6 - 8分間隔、土・休日夜間は12分間隔で運転されている。全列車が6両編成である。
今津北線に限り、土曜ダイヤと休日ダイヤを統合して土曜・休日ダイヤに一本化した後も土曜朝のみ普通を増発していたが、[[2006年]][[10月28日]]のダイヤ改正で一時廃止された。しかし、現在は沿線の各学校の長期休暇時を除き土曜朝に普通の増発が復活している。
西宮北口駅構内には、神戸本線と今津北線を結ぶ連絡線(9号線)があり、これを使って平日朝ラッシュ時に宝塚発[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田]]行きの'''準急'''が運転されている(「[[阪急神戸本線#準急]]」も参照)。今津北線内は門戸厄神駅まで各駅に停車する。全列車が8両編成である。この列車の宝塚駅から大阪梅田駅までの所要時間は約35分で、この列車の方が宝塚本線を経由するよりも6 - 10分程度短い。なお、西宮北口駅の連絡線(9号線)ではホーム位置の関係上、旅客の乗降の取り扱いは行われていない。神戸本線と直通する列車は同駅を通過([[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]])扱いとしている。
宝塚駅 - 十三駅・大阪梅田駅間の移動は宝塚本線経由と西宮北口駅経由の2通りがあるが、日中を中心に西宮北口駅経由の方が数分早いことが多い。さらに、距離も宝塚本線では24.5kmに対し、西宮北口経由だと23.3kmとなり宝塚本線より1.2km短い。両駅間の距離は異なっているが、運賃はともに280円である。
また、車内放送では、宝塚駅での宝塚本線への乗換え案内については「大阪方面」ではなく、「石橋阪大前・箕面方面」として案内されている。
1995年6月12日から2001年3月9日までは、平日夕方にも西宮北口駅の連絡線を経由する梅田(現在の大阪梅田)発宝塚行き準急が運転されていた。ただ、今津北線の途中駅では[[仁川駅]]・[[宝塚南口駅]]を除いて下り線[[プラットホーム|ホーム]]の[[有効長]]が足りず、8両編成では対応できないため、同列車は6両編成で運転されていた{{Efn|この6両編成の列車は[[西宮車庫]]を出庫後、[[回送#鉄道・バス|送り込み列車]]として西宮北口発梅田行き急行として運用された後に、梅田発宝塚行き準急となっていた。}}(上り線ホームは全駅とも8両編成に対応している)。
==== 臨時列車 ====
[[阪神競馬場]]での[[中央競馬]]開催日に限り(場外発売日は除く)、今津北線では臨時ダイヤを設定して15時 - 17時台に普通の増発が行われる。また、[[競馬の競走格付け|GIレース]](特に[[桜花賞]]・[[宝塚記念]])開催日など利用者が特に多い日に関しては午前中を中心に西宮北口駅 - 仁川駅間の普通列車が増発される。
また、神戸本線に直通する臨時列車として15時 - 17時台に仁川発大阪梅田行きの直通'''臨時急行'''が運転され、仁川駅 - 大阪梅田駅間を約20分で結んでいる。本数は日によって増減する(2020年・2021年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]感染拡大防止の為、運転中止。2022年より運転再開)。仁川駅を出ると途中の停車駅は神戸本線内のみに設定されており、[[塚口駅 (阪急)|塚口駅]]と[[十三駅]]に停車する。今津北線内の営業列車で唯一、線内の途中駅を通過する。かつては上下ともに臨時急行が運転されていたが、2006年10月28日のダイヤ改正以降は夕方に仁川発梅田行きのみの運転となっている{{Efn|競馬開催日に阪神競馬場で配布されているJRAの[[レーシングプログラム]]による}}。
阪急では慣例として、阪急が提供している[[阪急杯]]などGIレース開催前の1週間(開催日含む)は、そのレースの前年優勝馬をあしらったヘッドマークを取り付けて運行している。2018年の場合、宝塚記念開催前は[[サトノクラウン]](鞍上・[[ミルコ・デムーロ]])<ref>[https://railf.jp/news/2018/06/16/202500.html 阪急電鉄で「宝塚記念」ヘッドマーク] railf.jp 2018年6月16日</ref>、[[阪神ジュベナイルフィリーズ]]開催前は[[ラッキーライラック]](鞍上・[[石橋脩]])<ref>[https://railf.jp/news/2018/12/02/201000.html 阪神今津線でGIレースのヘッドマーク] railf.jp 2018年12月2日</ref>があしらわれた。
[[2009年]]秋からは、神戸本線・[[阪急京都本線|京都本線]]・[[阪急嵐山線|嵐山線]]を経由する宝塚駅 - 十三駅 - [[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]間直通の臨時列車が行楽期の特定の土曜・日曜・祝日に1日1往復の運転を開始した(種別は'''臨時''')が、こちらは2010年春から新たに'''直通特急'''の種別が与えられ、2011年春から「'''とげつ'''」の愛称が付いた。今津線内の停車駅は、準急と同一であった。詳細は「[[阪急嵐山線#臨時列車]]」を参照。今津線における特急の運転は、[[1968年]]に廃止された'''[[神京・京宝特急|歌劇特急]]'''以来であったが、同じく行楽期の臨時列車として高速神戸駅 - 嵐山駅間に運転されていた直通特急「あたご」と共に2019年春以降は運転されていない。
<gallery widths="180">
ファイル:HK-7000series-7012F-SemiExpress.jpg|宝塚発 今津(北)線・神戸線直通大阪梅田行き準急
ファイル:HK_Nigawa_express.jpg|大阪梅田行き臨時急行
ファイル:Hankyu 5000 series Imazu Line (north) train with Osaka Hai headboard 2017-03-28.jpg|競馬[[大阪杯]]ヘッドマーク付きの今津線[[阪急5000系電車|5000系]]電車<br />(西宮北口駅)
</gallery>
=== 今津南線 ===
西宮北口駅 - 今津駅間折り返しの普通のみの運転で、日中は10分間隔、平日朝ラッシュ時は6分間隔、平日夕方から夜間は7 - 8分間隔、土・休日夜間は12分間隔で運転されている。全列車が3両編成で[[ワンマン運転]]を行う<ref name="交通980916">{{Cite news |title=阪急 今津、甲陽線ワンマン運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-09-16 |page=1 }}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現用車両 ===
==== 今津北線 ====
この区間の普通は全て6両編成で、以下の車両が主に使用される。
*[[阪急5000系電車|5000系]]
*[[阪急6000系電車|6000系]]
*[[阪急7000系電車|7000系]]
準急・臨時急行などの神戸本線に直通する列車には神戸本線で運用されている8両固定編成も使用される。また、別編成と連結した編成が普通で使用されることもある。詳細は「[[阪急神戸本線#使用車両]]」を参照。
==== 今津南線 ====
*[[阪急6000系電車|6000系]]:3両編成のワンマン対応車が使用される。
<gallery>
ファイル:阪急5000系5002F.jpg|今津北線で運用されている5000系
ファイル:阪急6000系・南今津線.jpg|今津南線 6000系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
{{節スタブ}}
大阪・神戸方面からの乗り入れを考慮して、神戸線と同じ規格で建設されていたことから、[[阪急600形電車|600形]]以降の大型車も戦前の早い時期から入線していた。また、神戸線との輸送量の格差を勘案して、[[阪急40形電車|40]]・[[阪急90形電車|90]]・[[阪急96形電車|96]]の各形式のように、同線での運用を念頭に置き導入された形式もある。
戦後は、[[1952年]]以降宝塚線車両大型化の過程で捻出された小型車各形式{{Efn|[[阪急550形電車|550形]]は除く。}}が入線し、1960年代前半には一大勢力を築いた。これらの小型車は[[1967年]][[10月8日]]に実施された神戸線の架線電圧1500Vへの昇圧を機に一掃され、1960年代末から1970年代前半にかけては、[[阪急600形電車|600]]・[[阪急610系電車|610]]の両形式が主力として運用されていた。
*[[箕面有馬電気軌道1形電車|1形]]
*[[阪急40形電車|40形]]
*[[阪急51形電車|51形]]
*[[阪急90形電車|90形]]
*[[阪急96形電車|96形]]
*[[阪急500形電車 (初代)|300形]]
*[[阪急320形電車|320形]]
*[[阪急380形電車|380形]]
*[[阪急500形電車 (2代)|500形]]
*[[阪急600形電車|600形]]
*[[阪急610系電車|610系]]
*[[阪急710系電車|710系]]:[[神京・京宝特急|京宝特急]]「歌劇号」で入線。
*[[阪急800系電車|800系]]
*[[阪急810系電車|810系]]
*[[阪急900形電車|900形]]
*[[阪急920系電車|920系]]
*[[阪急1000形電車 (初代)|1000形 (初代)]]
*[[阪急1010系電車|1010系]]
*[[阪急1010系電車|1100系]]
*[[阪急1200系電車|1200系]]
*[[阪急2000系電車|2000系]]
*[[阪急2300系電車|2300系]]:[[1969年]] - [[1971年]]の間、神戸線直通準急及び4両編成での線内運用に充当
*[[阪急2800系電車|2800系]](付随車のみ)
*[[阪急5100系電車|5100系]]
*[[阪急5200系電車|5200系]]
*[[阪急3000系電車|3000系]]
*[[阪急3000系電車#3100系|3100系]]
<gallery>
ファイル:Hankyu3000Series3.jpg|今津北線で運用されていた3000系
ファイル:阪急3000系電車part2.JPG|今津北線で運用されていた3000系<br />方向板使用車
</gallery>
== 歴史 ==
[[ファイル:Hankyu Imazu line runs recklessly to Kusugawa.jpg|thumb|right|暴走した阪急電車が今津駅を突破し阪神[[久寿川駅]]のホームに衝突(1949年12月13日)]]
[[ファイル:Takarazuka-t2.jpg|thumb|right|宝塚ファミリーランド内を通過する今津線列車(2003年4月5日)]]
前身である[[阪神急行電鉄]]により、宝塚駅 - 西宮北口駅間が'''西宝線(さいほうせん)'''として[[1921年]]に開業。[[1926年]]の今津までの全通時に'''今津線'''に改称した。
阪神急行電鉄の前身である[[箕面有馬電気軌道]]が路線敷設の特許を取得したときは、[[東光寺 (西宮市)|東光寺]](門戸厄神)付近より西へ向かい、現在の[[阪神本線]][[香櫨園駅]]辺りを終点とすることになっていたが、神戸線の敷設に絡んでまず計画が[[西宮北口駅]]を経て西宮市街までと変更され、さらに二度目の修正で阪神本線と共に[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]を新設し、それと連絡を図る計画になった。なおこの際、神戸線との交点になる西宮北口駅には直角[[平面交差]]が生まれた。これについては後述する。
阪急総帥の[[小林一三]]の指導により、大正から昭和にかけ、[[甲東園]]や[[甲風園]]に代表されるように沿線の住宅開発を行い、さらには大阪・神戸方面へ向かうのとは逆方面の定期客需要を求めるべく、様々な学校誘致も行った。[[関西学院大学]]や[[神戸女学院大学]]が[[神戸市]]から[[西宮市]]の同線沿線に移転したのが典型的な事例で、戦前の段階で今津線は通学路線と化すことになった。
しかし、昭和中期までは[[阪急宝塚本線|宝塚線]]の[[池田駅 (大阪府)|池田]] - 宝塚間とともに、特に宝塚側の各駅の乗客数は限られていた。逆瀬川駅や小林駅の[[プラットホーム]]は戦前は1両(単行)分しかなく、2両編成の電車は通過していた。
戦中、沿線に軍需工場ができたこともあり、にわかに利用客数が増した。1943年12月15日から1945年9月21日までは、小林駅 - 仁川駅間にそれら工場への通勤客の至便をはかるため、'''[[鹿塩駅]]'''(かしおえき)が設けられたりもしている。また、今津駅では1928年から阪神本線とホームが隣り合うようになっていたが、軍の要請で[[丹波橋駅]]における[[奈良電気鉄道]]線(現在の[[近鉄京都線]])と[[京阪本線]]の接続と同様、貨物輸送を考えて阪神本線との間で線路が一時的に接続されたことがあった。しかし、終戦後の1949年に今津線の電車が暴走して阪神本線に侵入、[[久寿川駅]]まで走行するという事故が発生したこともあり、再び分断された。 [[日本の鉄道事故 (1949年以前)#阪急今津線暴走事故|阪急今津線暴走事故]]を参照。なおこの事故は、新聞で「阪急電車が大暴れ」<ref>夕刊神戸昭和24年12月14日付 - [http://imazukko.sakura.ne.jp/nishinomiya-style/blog/imazukko/V.html 今津いまむかし物語2012/1/9阪急電車暴走事件(4)]</ref>「阪急、阪神に"殴り込み"」<ref>朝日新聞夕刊(1949年12月14日付) - [http://imazukko.sakura.ne.jp/nishinomiya-style/blog/imazukko/V.html 今津いまむかし物語2012/1/31阪急電車暴走事件(5)]。記事には"阪急、阪神へ不意打乗入れ"とも書かれている。</ref>と風刺されて報道されたこともあり、後には「殴り込み事件」と呼ばれるようになっている([https://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/rail13/nagurikomi.html 参照])。
後述の通り、[[1984年]]に、[[西宮北口駅]]の[[ダイヤモンドクロッシング|ダイヤモンドクロス]]と呼ばれる、今津線と[[阪急神戸本線|神戸本線]]の[[平面交差]]が安全の観点から廃止されることになり、それをきっかけに今津線は西宮北口駅を境に、宝塚駅 - 西宮北口駅間の「今津北線」と、西宮北口駅 - 今津駅間の「今津南線」の2つの区間に事実上分断されることになった。
[[1995年]][[1月17日]]の[[阪神・淡路大震災]]では[[甲東園駅]]南で交差する[[山陽新幹線]]の高架橋と、[[門戸厄神駅]] - 西宮北口駅間の[[国道171号]]線の橋桁が線路上に落下。また宝塚南口駅北側では、西宮北口行き列車が脱線し、これら3件の被害で不通となったが、同年2月5日に全線復旧した。
[[ファイル:Hankyu Kyujo-mae railway crossing 20110521.JPG|thumb|right|2011年の球場前踏切<br />高架化が完了し、北側の西宮北口南踏切と同様、早朝・夜間の1日2回しか稼働しない。]]
[[2007年]]には、西宮北口駅周辺で行われていた西宮市の土地区画整理事業の一環として、[[阪急西宮スタジアム]]跡地の再開発事業([[阪急西宮ガーデンズ]]建設工事)にあわせて、西宮北口 - 阪神国道間の高架化工事が開始され<ref>[http://rail.hankyu.co.jp/info/timetable_imazu.html 今津線ダイヤ変更のお知らせ] - 阪急公式サイト</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.nishi.or.jp/media/Kmnews01-1.pdf 北口南まちづくりニュース vol.1]}} - 西宮市</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20060314215950/http://www.kentsu.co.jp/osaka/news/p00352.html 【兵庫】西宮市が阪急今津線単線高架化に着手] - 建通新聞 </ref>、[[2010年]]に工事は完了。同年[[12月5日]]の西宮北口駅5号線高架ホーム供用開始により、今津南線は全線が高架化された{{Efn|車両の入出庫に使用されている西宮北口駅8号線は高架化されておらず、球場前踏切はそのまま設置されている。また、2008年9月に廃止された球場前北小路踏切に代わり、西宮北口南踏切が新設されている。}}。また、同時に線路設備の規格向上により今津南線のダイヤ変更が行われ、西宮北口駅 - 阪神国道駅間の所要時間の短縮などが行われた(今津行きが20秒短縮、西宮北口行きが10秒短縮で、ともに所要時分3分20秒に)<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201011025N1.pdf 阪急電鉄ニュースリリース]}} 2010年11月2日</ref>。なお、高架化工事に当たっては、[[2009年]]1月17日より、西宮北口駅 - 阪神国道駅間のうち[[東海道本線]]([[JR神戸線]])との交差部分北側に片渡りポイントを設置して500mほどを単線化した。またこれに合わせて、西宮北口駅では5号線を閉鎖した上で回送線である8号線に仮設ホームを設置していた(ただし案内上は「5号線ホーム」のまま)。
=== 西宮北口駅における平面交差問題 ===
[[阪急神戸本線|神戸本線]]と接続する西宮北口駅構内には、かつて同線と線路が十字形に交わる[[平面交差|平面軌道交差]]([[ダイヤモンドクロッシング|ダイヤモンドクロス]])があった。今津まで延伸したのが[[1926年]]と古く、列車自体が短い編成であったことから運行上さほど支障はなく、このような形態をとった。
しかし、戦後の経済成長に伴う列車の増発・長編成化により、ダイヤモンドクロスの存在がダイヤ作成上で最大のネックとなるようになった。今津線のダイヤは神戸本線に合わせねばならず、ダイヤモンドクロスを横断する西宮北口駅 - 今津駅間は、平日日中は10分間隔であったが夕方ラッシュ時には12分間隔と、逆に夕方ラッシュ時に運転間隔が間延びするという状態が続いていた(宝塚駅 - 西宮北口駅間は神戸本線を横断しない形の区間運転があったため、このようなことはなかった)。
今津線には甲東園駅 - 仁川駅間に、阪急電鉄の路線の中では最もきつい部類に入る33.3[[パーミル|‰]]の急勾配があり、現在ほどモーターの性能が良くなかった時代の車両にとってはこの勾配の存在が大きな負担となっていた。そこで、今津駅から西宮北口駅も含めて仁川駅まで[[連続立体交差事業|連続立体交差]]化してこの急勾配を解消する計画が立てられたものの、後にモーターの性能が向上したことや、山陽新幹線の開通により甲東園駅付近が高々架となること、西宮北口駅周辺で宅地化が進んだため同駅周辺では高架化の際の仮線用地が確保できなくなったことから、神戸本線との立体交差化は困難となった。
加えて[[1980年代]]に入ると輸送力増強のため、[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急京都本線|京都本線]]では既に実施されていた列車の10両編成化を神戸本線でも行うこととなったが、西宮北口駅のホーム延伸が限界にきていた(大阪方には[[西宮車庫]]、神戸方には踏切があった)ことや、ダイヤ上のネックを解消する目的もあり、同駅改良・橋上駅舎化工事に合わせて、高架化が不可能であった今津線を[[1984年]][[3月25日]]にやむなく分断した。そして現在に至るまで南北の線路は分断されたままの状態が続いている。ただ、分断によって西宮北口駅 - 今津駅間では増発が可能になり、[[2001年]]3月のダイヤ改正後においては平日ラッシュ時には最短6分間隔(分断直後は最短3分間隔)で運転されるなど、利便性の向上というメリットも発生した。
なお、西宮北口駅2階コンコースには将来の路線高架化を見据えて確保されたスペースが、橋上駅舎化された当時から存在している。ただし、[[1995年]]に今津駅が高架駅となった際に同駅ホームの有効長が4両編成までとされたことや、[[2010年]][[12月5日]]より西宮北口駅5号線ホームが高架化され供用が開始された際にもホームがコンコースと同一階(2階)に設けられた<ref>[http://www.asahi.com/airtravel/OSK201011260183.html 阪急今津線、幻の南北直通 高架化でも西宮北口駅が分断 2010年11月27日0時46分](朝日新聞)</ref>ことから、宝塚駅 - 今津駅間の直通列車復活は困難となっている。
=== 宝塚駅付近高架化工事に伴う暫定単線運転 ===
[[File:1992-1-28-hankyu5200.jpg|thumb|right|宝塚南口駅 - 西宮北口駅間区間列車の[[行先標|方向板]]([[阪急5200系電車|5200系]]、1992年)]]
[[File:Imazusen.jpg|thumb|right|宝塚南口駅 - 西宮北口駅間区間列車の方向幕([[阪急6000系電車|6000系]]、撮影時期不明)]]
宝塚駅の高架化工事の際に、工事中の仮線用地の確保が困難であったことから、[[1990年]][[9月30日]]以降の宝塚駅 - 宝塚南口駅間において、やむなく単線運転が実施された<ref name="交通900831">{{Cite news |title=今津線のダイヤを一部改正 阪急電鉄・来月30日 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-08-31 |page=1 }}</ref>。日中のように10分間隔ではダイヤ上は支障がないものの、本数の多いラッシュ時では運用に限界があったため、複線運転が再開されるまでの期間中は、通常の宝塚駅 - 西宮北口駅間の全線通し列車のほか、朝夕のラッシュ時に宝塚南口駅 - 西宮北口駅間の折り返し運転を行う列車が設定され、その数はダイヤの半数弱を占めた。また、同列車の運転により誤乗が増えたため、[[方向幕]]を装備する車両については、誤乗防止のために行き先方向幕を青地のものへと順次変更し対応がなされた<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=TleK29o91rU#t=1m7s 当該方向幕の撮影映像]</ref>。工事完了後は同区間で折り返し列車は設定されず、各路線の列車においても特殊なカラーが施された行き先方向幕は用意されていない。
なお、[[1969年]]から[[1971年]]の[[宝塚南口駅]]の高架化に伴う単線運転実施のため、[[逆瀬川駅]]折り返し列車が運転されたこともあった。
また、[[阪神国道駅]] - 今津駅間の高架化の際も、同様に単線運転が実施された<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |page = 99 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>が、こちらは同区間が700mと短く単線運転でもダイヤ上は支障がなかったため、特に目立った案内はなされていなかった。
こうした暫定単線運転の例は、近隣の路線では阪神西大阪線(現在の[[阪神なんば線]])でも行われた。
=== 年表 ===
*[[1921年]](大正10年)[[9月2日]]:'''西宝線'''として宝塚駅 - 西宮北口駅間が単線で開業。
*[[1922年]](大正11年)
**[[4月1日]]:全線複線化完成。
**[[6月1日]]:甲東園駅開業。
*[[1923年]](大正12年)[[12月28日]]:仁川駅開業。
*[[1926年]](大正15年)[[12月18日]]:西宮北口駅 - 今津駅間が開業し全通。'''今津線'''に改称。
*[[1927年]](昭和2年)[[5月10日]]:阪神国道駅開業。
*[[1949年]](昭和24年)[[12月13日]]:阪神本線へ今津線の電車が侵入し、久寿川駅まで暴走する事故が起こる。
*[[1967年]](昭和42年)[[10月8日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
*[[1978年]](昭和53年)[[3月10日]]:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。
*[[1984年]](昭和59年)[[3月25日]]:西宮北口駅構内の平面軌道交差が廃止され南北の線路分断。
*[[1990年]](平成2年)
**3月:「都市計画道路鳴尾御影東線立体事業」に基づき阪神国道駅 - 今津駅間と今津駅が高架化着工。
**[[9月30日]]:宝塚駅高架化工事に伴い、宝塚駅 - 宝塚南口駅間の単線運転を開始{{R|交通900831}}。
*[[1993年]](平成5年)
**[[5月23日]]:今津駅移転。0.2km短縮。
**[[7月18日]]:宝塚駅 - 宝塚南口駅間の複線運転を再開。宝塚駅高架化。
*[[1995年]](平成7年)
**[[1月17日]]:阪神・淡路大震災で全線不通に。
**[[1月23日]]:門戸厄神駅 - 西宮北口駅間(単線運転)と西宮北口駅 - 今津駅間が復旧し運転を再開<ref name="RJ354">{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |title = 阪神大震災から1年 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |pages = 86-88 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
**[[1月30日]]:宝塚駅 - 仁川駅間が復旧し運転を再開<ref name="RJ354"/>。
**[[2月5日]]:仁川駅 - 門戸厄神間駅が復旧し、今津線全線で運転を再開<ref name="RJ354"/>。
**[[12月16日]]:阪神国道駅 - 今津駅間下り線と今津駅が高架化<ref name="RJ354"/>。
*[[1997年]](平成9年)[[7月26日]]:阪神国道駅 - 今津駅間上り線高架化。
*[[1998年]](平成10年)[[10月1日]]:西宮北口駅 - 今津駅間が[[ワンマン運転]]化{{R|交通980916}}。
*[[2006年]](平成18年)[[10月28日]]:下り梅田発仁川行き臨時急行の運行を中止。
*[[2008年]](平成20年)9月:「阪急今津線高架化事業(球場前線街路事業・西宮北口駅総合改善事業)」に伴い、西宮北口駅5号線ホーム横に隣接する球場前北小路踏切を廃止{{Efn|西宮北口駅8号線に5号線仮設ホームを設置するにあたり、8号線のカーブ部分にホームがかからないよう既設ホームよりも南側の位置に計画された事による。}}。
*[[2009年]](平成21年)1月17日:「阪急今津線高架化事業(球場前線街路事業・西宮北口駅総合改善事業)」に伴い、西宮北口駅 - 阪神国道駅間の一部を単線化。西宮北口駅8号線に5号線仮設ホームを設置<ref name="prefHYOGO20090413">{{Cite web|和書|url=http://web.pref.hyogo.lg.jp/hsk06/hs04_4_000000004.html|title=阪急今津線仮ホームに切替!(平成21年1月17日)|date=2009-04-13|accessdate=2017-01-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170202042606/http://web.pref.hyogo.lg.jp/hsk06/hs04_4_000000004.html|archivedate=2017-02-02}}</ref>。
*[[2010年]](平成22年)[[12月5日]]:西宮北口駅5号線ホーム高架化。西宮北口駅 - 今津駅が全線高架化。西宮北口駅 - 阪神国道駅間が速度向上(上り55km/h → 65km/h、下り50km/h → 55km/h)により所要時間短縮。
*[[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:全駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hankyu20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf ?すべてのお客様に、よりわかりやすく?「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="hankyu20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅?長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref>。
*[[2018年]](平成30年)11月:この月の行楽期をもって宝塚駅 - 嵐山駅間で運転されていた臨時直通特急「とげつ」の運転を終了。
*[[2020年]](令和2年)4月:宝塚南口駅の副駅名「宝塚ホテル前」を廃止し、宝塚駅の副駅名を「宝塚大劇場前・宝塚ホテル前」に変更。
*[[2023年]](令和5年)4月1日:門戸厄神駅、阪神国道駅の改札窓口について、営業時間を7時から22時までに短縮<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1478.html|title=2023年4月1日(土)より、以下の駅の改札窓口の営業時間を、7:00~22:00に変更します。|website=阪急電鉄株式会社|date=2023-02-27|accessdate=2023-10-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230320082119/https://www.hankyu.co.jp/topics/details/1478.html|archivedate=2023-03-20}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[兵庫県]]内に所在。[[駅ナンバリング|駅番号]]は2013年12月21日より導入<ref name="hankyu20130430" /><ref name="hankyu20130605" />。
=== 今津北線 ===
;凡例
:●:停車、|:通過、|↓:通過、↓:片方向のみ運転
* 臨時急行:阪神競馬開催時に大阪梅田行きのみ運転される場合あり。
* 準急:平日朝に大阪梅田行きのみ運転。
* 普通:各駅に停車するため省略。
* 臨時急行・準急の西宮北口駅 - 大阪梅田駅間の停車駅は「[[阪急神戸本線#駅一覧|神戸本線]]」参照。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅番号
!style="width:12em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|累計<br />営業キロ
!style="width:1em; line-height:1.1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; line-height:1.1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#fc9;"|{{縦書き|臨時急行}}
!style="border-bottom:solid 3px #007ac4;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #007ac4;"|所在地
|-
!HK-56
|[[宝塚駅]]<br /><small>([[宝塚大劇場]]・[[宝塚ホテル]]前)</small>
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center;"|
|[[阪急電鉄]]:[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線]](JR宝塚線: JR-G56)
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[宝塚市]]
|-
!HK-28
|[[宝塚南口駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center;"|
|
|-
!HK-27
|[[逆瀬川駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center;"|
|
|-
!HK-26
|[[小林駅 (兵庫県)|小林駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center;"|
|
|-
!HK-25
|[[仁川駅]]<br /><small>([[阪神競馬場|阪神競馬場前]])</small>
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|
|-
!HK-24
|[[甲東園駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↓
|
|rowspan="3"|[[西宮市]]
|-
!HK-23
|[[門戸厄神駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:center; background:#cf9;"|●
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↓
|
|-
!HK-08
|[[西宮北口駅]]<br /><small>([[阪急西宮ガーデンズ|阪急西宮ガーデンズ前]])</small>
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:center; background:#cf9;"|↓
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↓
|阪急電鉄:[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]](一部直通)・[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] 今津南線
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="4"|○準急・臨時急行…神戸本線[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]まで
|}
* 戦時中は小林駅 - 仁川駅間に[[鹿塩駅]]が設置されていた。
=== 今津南線 ===
* 累計営業キロは今津北線から通算。全列車各駅に停車。
* この区間は全駅[[西宮市]]内に所在。
{| class="wikitable"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅番号
!style="width:11em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #007ac4;"|接続路線
|-
!HK-08
|[[西宮北口駅]]<br /><small>([[阪急西宮ガーデンズ|阪急西宮ガーデンズ前]])</small>
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|7.7
|阪急電鉄:[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] 今津北線
|-
!HK-22
|[[阪神国道駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|8.6
|
|-
!HK-21
|[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|9.3
|[[阪神電気鉄道]]:[[File:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]](HS 16)
|}
== 当線を舞台とする作品 ==
[[File:Movie "Hankyu Densha" advertisement on Hankyu 7000, Hyogo, JAPAN.jpg|thumb|right|映画の宣伝ヘッドマークが掲出された今津北線の車両 - 西宮北口駅]]
今津北線は、[[有川浩]]の小説『[[阪急電車 (小説)|阪急電車]]』の舞台となった。また、2011年には『阪急電車 片道15分の奇跡』というタイトルで映画化され、沿線および各駅や当線を走行する車内などで[[ロケーション撮影]]が行われた。
路線そのものが舞台になるわけではないが、[[かんべむさし]]の短編小説『[[決戦・日本シリーズ]]』ではプロ野球[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]における(架空の)[[阪神タイガース|阪神]]対[[オリックス・バファローズ|阪急]]戦を「今津線シリーズ」と呼び、作中でファンを過熱させている。阪急時代にこの組み合わせの日本シリーズが実現することはついになかったが、阪急が[[オリックス (企業)|オリックス]]に身売りされたのちの[[2005年]]から[[セ・パ交流戦]]において阪神対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]として対戦が行われており([[関西ダービー (日本プロ野球)|関西ダービー]]、[[阪神なんば線]]シリーズ)、2023年には[[2023年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で両球団が初めて対戦することとなった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 9 関西2 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790027-2 | ref = imao }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[阪神間モダニズム]]
* [[南海高野線]] - 同じく、同一路線内で運転系統が物理的に分断されている路線。
* [[名鉄津島線]] - 西宮北口駅 - 宝塚駅間と同じく、途中駅のほとんどのホームは上りが8両分あるのに対し、下りが6両分の有効長しかない。
{{阪急電鉄の路線}}
{{DEFAULTSORT:はんきゆういまつせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|いまつせん]]
[[Category:阪急電鉄の鉄道路線|いまつ]]
[[Category:兵庫県の交通]]
|
2003-09-28T14:46:33Z
|
2023-12-12T13:23:31Z
| false | false | false |
[
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"Template:縦書き",
"Template:Cite journal",
"Template:Notelist",
"Template:阪急今津線路線図",
"Template:JR西路線記号",
"Template:節スタブ",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Cite book",
"Template:Infobox 鉄道路線",
"Template:R"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%80%A5%E4%BB%8A%E6%B4%A5%E7%B7%9A
|
18,640 |
国定公園
|
国定公園(こくていこうえん)とは、日本において国立公園に準じる景勝地として自然公園法に基づいて環境大臣が指定した公園。国立公園が国の直接管理なのに対し、国定公園は都道府県が管理する。英語表記はQuasi-National Park。 また、アメリカ合衆国ナショナル・モニュメントのことを国定公園と訳すことがある。 本稿では、日本の国定公園について述べる。
1950年7月の琵琶湖国定公園(7月24日)、佐渡弥彦国定公園(現佐渡弥彦米山国定公園・7月27日)、耶馬日田英彦山国定公園(7月29日)の3カ所の指定をはじめとし、65カ所の国定公園が指定されてきたが、その後に国立公園に昇格・編入されたものもあるため、現在は58カ所の国定公園が存在している。2023年時点で最も新しいものは2021年3月30日指定の厚岸霧多布昆布森国定公園である。
国定公園の中には、国土軸や都心部の自然を保護するために東海自然歩道設置計画の一環として、便宜上の指定を設けたものがある(例:愛知高原国定公園、揖斐関ヶ原養老国定公園、大和青垣国定公園など)。これらについては複数の都道府県立自然公園を格上げしたものの集合体もある。また大都市近郊の緑地の保全を目的として指定された国定公園も存在する。
住民、自治体の運動や意識の差違があるため、指定範囲にばらつきが見られる。例えば日本アルプスのうち、中央アルプス(木曽山脈)だけが基幹産業の林業に影響を生じることから、2020年に国定公園となるまで、長らく国立公園にも国定公園にも指定されていなかった。日本三景のうち松島だけが国立公園にも国定公園にも指定されていない。また日本に5カ所ある世界自然遺産のうち、白神山地だけが国立公園にも国定公園にも指定されていないなどといった例がある。その他、御嶽山(長野県/岐阜県)や上毛三山(妙義山のみが妙義荒船佐久高原国定公園に含まれる)など、著名な景勝地や貴重な自然資源であるものの、指定範囲外であるものも多数存在する。
1990年の暑寒別天売焼尻国定公園を最後に、国内の自然保護は一段落したとして指定は一旦中断した。しかしその後、自然と人間の営みの関係を重視する文化的景観の考え方が広がり、国定公園が世界遺産の文化遺産推薦に際し求められる法的保護根拠にもなることから、2007年に17年ぶりに丹後天橋立大江山国定公園が指定され、人為的景観も保護対象として組み込まれることになった。
2023年3月末時点での指定面積を合計すると1,494,468ヘクタール(日本の国土面積の4.0%を占める)。地種区分別の内訳は行為規制の強い順に、特別保護地区が4.4%、第一種特別地域が12.0%、第二種特別地域が26.1%、第三種特別地域が48.5%、普通地域が9.0%であり、都道府県立自然公園に比べると特別地域の割合が高いが、国立公園に比べると特別保護地区の割合が低い。
※1 水郷国定公園として ※2 佐渡弥彦国定公園として ※3 金剛生駒国定公園として ※4 1965年10月1日に琉球政府により沖縄海岸政府立公園及び沖縄戦跡政府立公園に指定。本土復帰とともに国定公園となる。
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国定公園(こくていこうえん)とは、日本において国立公園に準じる景勝地として自然公園法に基づいて環境大臣が指定した公園。国立公園が国の直接管理なのに対し、国定公園は都道府県が管理する。英語表記はQuasi-National Park。
また、アメリカ合衆国ナショナル・モニュメントのことを国定公園と訳すことがある。
本稿では、日本の国定公園について述べる。
|
{{混同|国立公園|日本の国立公園|国営公園|国民公園}}
{{独自研究|date=2023年2月22日 (水) 06:12 (UTC)}}
'''国定公園'''(こくていこうえん)とは、[[日本]]において[[日本の国立公園|国立公園]]に準じる景勝地として[[自然公園法]]に基づいて[[環境大臣]]が指定した[[公園]]。国立公園が国の直接管理なのに対し、国定公園は[[都道府県]]が管理する。英語表記は''{{lang|en|Quasi-National Park}}''。
また、[[アメリカ合衆国ナショナル・モニュメント]]のことを国定公園と訳すことがある。
本稿では、日本の国定公園について述べる。
==概要==
[[1950年]]7月の[[琵琶湖国定公園]](7月24日)、佐渡弥彦国定公園(現[[佐渡弥彦米山国定公園]]・7月27日)、[[耶馬日田英彦山国定公園]](7月29日)の3カ所の指定をはじめとし、65カ所の国定公園が指定されてきたが、その後に国立公園に昇格・編入されたものもあるため、現在は58カ所の国定公園が存在している。[[2023年]]時点で最も新しいものは[[2021年]]3月30日指定の[[厚岸霧多布昆布森国定公園]]である<ref name="環境省20210330">[https://www.env.go.jp/press/109371.html 58カ所目となる国定公園「厚岸霧多布昆布森国定公園」が誕生します][[環境省]](2021年3月26日)2021年3月30日閲覧</ref>。
国定公園の中には、国土軸や都心部の自然を保護するために[[東海自然歩道]]設置計画の一環として、便宜上の指定を設けたものがある(例:[[愛知高原国定公園]]、[[揖斐関ヶ原養老国定公園]]、[[大和青垣国定公園]]など)。これらについては複数の[[都道府県立自然公園]]を格上げしたものの集合体もある。また大都市近郊の緑地の保全を目的として指定された国定公園も存在する。
住民、自治体の運動や意識の差違があるため、指定範囲にばらつきが見られる。例えば[[日本アルプス]]のうち、中央アルプス([[木曽山脈]])だけが基幹産業の[[林業]]に影響を生じることから、2020年に国定公園となるまで、長らく国立公園にも国定公園にも指定されていなかった<ref group="注">北アルプス([[飛騨山脈]])は[[中部山岳国立公園]]、南アルプス([[赤石山脈]])は[[南アルプス国立公園]]となっている</ref>。[[日本三景]]のうち[[松島]]だけが国立公園にも国定公園にも指定されていない<ref group="注">[[厳島|宮島]]は[[瀬戸内海国立公園]]、[[天橋立]]は[[丹後天橋立大江山国定公園]]、松島は宮城県指定の県立自然公園松島となっている</ref>。また日本に5カ所ある世界[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]のうち、[[白神山地]]だけが国立公園にも国定公園にも指定されていない<ref group="注">[[知床 (世界遺産)|知床]]、[[小笠原諸島]]、[[屋久島]]、[[奄美・琉球]]のいずれも国立公園になっている</ref>などといった例がある。その他、[[御嶽山]]([[長野県]]/[[岐阜県]])や上毛三山([[妙義山]]のみが妙義荒船佐久高原国定公園に含まれる)など、著名な景勝地や貴重な自然資源であるものの、指定範囲外であるものも多数存在する。
[[1990年]]の[[暑寒別天売焼尻国定公園]]を最後に、国内の自然保護は一段落したとして指定は一旦中断した。しかしその後、自然と人間の営みの関係を重視する[[文化的景観#日本|文化的景観]]の考え方が広がり、国定公園が世界遺産の[[文化遺産]]推薦に際し求められる法的保護根拠にもなることから、[[2007年]]に17年ぶりに[[丹後天橋立大江山国定公園]]が指定され、人為的景観も保護対象として組み込まれることになった。
2023年3月末時点での指定面積を合計すると1,494,468[[ヘクタール]](日本の国土面積の4.0%を占める)。地種区分別の内訳は行為規制の強い順に、[[自然公園法#特別地域|特別保護地区]]が4.4%、第一種[[自然公園法#特別地域|特別地域]]が12.0%、第二種特別地域が26.1%、第三種特別地域が48.5%、[[自然公園法#普通地域|普通地域]]が9.0%であり、都道府県立自然公園に比べると特別地域の割合が高いが、国立公園に比べると特別保護地区の割合が低い<ref>{{Cite web |url=https://www.env.go.jp/park/doc/data.html |title=日本の国立公園 関連法令・各種資料 > 自然保護各種データ > 自然公園地種区分別面積 |publisher=環境省 |accessdate=2023-11-05 }}</ref>。
==国定公園一覧==
{|class="sortable wikitable"
|+
|-
!名称
!都道府県
!指定日
!備考
|-
|[[厚岸霧多布昆布森国定公園]]
|北海道
|[[2021年]][[3月30日]]
|[[霧多布湿原]]、[[厚岸湾]]、[[厚岸湖]]、[[原生花園あやめヶ原]]など
|-
||[[暑寒別天売焼尻国定公園]]
|北海道
||[[1990年]][[8月1日]]
||暑寒別山地、[[雨竜沼湿原]]、[[天売島]]、[[焼尻島]]、ルーラン奇勝など
|-
||[[網走国定公園]]
|北海道
||[[1958年]][[7月1日]]
||[[網走五湖]]、[[小清水原生花園]]、[[天都山]]など
|-
||[[ニセコ積丹小樽海岸国定公園]]
|北海道
||[[1963年]][[7月24日]]
||[[ニセコ連峰]]の一部、[[積丹半島|積丹]]、[[小樽市|小樽]]海岸など
|-
||[[日高山脈襟裳国定公園]]
|北海道
||[[1981年]][[10月1日]]
||[[日高山脈]]、[[襟裳岬]]、[[アポイ岳]]など
|-
||[[大沼国定公園]]
|北海道
||[[1958年]][[7月1日]]
||[[北海道駒ヶ岳|渡島駒ヶ岳]](駒ヶ岳)及び[[大沼 (七飯町)|大沼]]
|-
||[[下北半島国定公園]]
|青森
||[[1968年]][[7月22日]]
||[[仏ヶ浦]]、[[恐山]]、[[大間崎]]、[[尻屋崎]]など[[下北半島]]の著名景勝地
|-
||[[津軽国定公園]]
|青森
||[[1975年]][[3月31日]]
||[[岩木山]]、[[十二湖]]、[[深浦町|深浦]]海岸、[[十三湖]]など
|-
||[[早池峰国定公園]]
|岩手
||[[1982年]][[6月10日]]
||[[早池峰山]]のみの単独指定。
|-
||[[栗駒国定公園]]
|岩手、宮城、秋田、山形
||[[1968年]][[7月22日]]
||[[栗駒山地]]、[[夏油温泉]]、[[鬼首温泉|鬼首温泉郷]]、[[鳴子峡]]、[[小安峡]]など
|-
||[[蔵王国定公園]]
|宮城、山形
||[[1963年]][[8月8日]]
||[[蔵王連峰|蔵王山]]、[[立石寺|山寺]]
|-
||[[男鹿国定公園]]
|秋田
||[[1973年]][[5月15日]]
||[[男鹿半島]]([[入道崎]]、[[男鹿目潟火山群一ノ目潟|一ノ目潟]]など)
|-
||[[鳥海国定公園]]
|秋田、山形
||[[1963年]][[7月24日]]
||[[鳥海山]]、[[象潟]]、[[飛島 (山形県)|飛島]]など
|-
||[[越後三山只見国定公園]]
|福島、新潟
||[[1973年]][[5月15日]]
||[[越後三山]]([[八海山]]など)、[[奥只見ダム]]周辺から[[只見川]]下流、[[銚子の口]]付近まで
|-
||[[水郷筑波国定公園]]
|茨城、千葉
||[[1959年]][[3月3日]]※1
||[[筑波山]]、[[霞ヶ浦]]、[[十二橋]]周辺、[[鹿島神宮]]神域、[[犬吠埼]]など
|-
||[[妙義荒船佐久高原国定公園]]
|群馬、長野
||[[1969年]][[4月10日]]
||[[妙義山]]、[[荒船山]]、[[佐久高原]]など
|-
||[[南房総国定公園]]
|千葉
||[[1958年]][[8月1日]]
||[[房総半島|房総]]内浦、房総外浦、[[鹿野山]]、[[清澄山]]など
|-
||[[明治の森高尾国定公園]]
|東京
||[[1967年]][[12月11日]]
||[[高尾山]]
|-
||[[丹沢大山国定公園]]
|神奈川
||[[1965年]][[3月25日]]
||[[丹沢湖]]、[[蛭ヶ岳]]、[[丹沢山]]、[[塔ノ岳]]、[[大山 (神奈川県)|大山]]周辺
|-
||[[佐渡弥彦米山国定公園]]
|新潟
||[[1950年]][[7月27日]]※2
||[[佐渡島|佐渡]]([[外海府海岸]]、[[七浦海岸]]、[[小木海岸]]など)、[[弥彦山]]、[[米山]]、[[福浦八景]]など
|-
||[[能登半島国定公園]]
|富山、石川
||[[1968年]][[5月1日]]
||[[能登金剛]]、[[曽々木海岸]]、[[禄剛崎]]、[[内浦海岸]]、[[能登島]]、[[雨晴海岸]]など
|-
||[[越前加賀海岸国定公園]]
|石川、福井
||[[1968年]][[5月1日]]
||[[越前海岸]]、[[東尋坊]]など
|-
||[[若狭湾国定公園]]
|福井、京都
||[[1955年]][[6月1日]]
||[[若狭湾]]一帯([[気比松原]]、[[三方五湖]]、[[蘇洞門]]、[[冠島]])など
|-
||[[八ヶ岳中信高原国定公園]]
|山梨、長野
||[[1964年]][[6月1日]]
||[[八ヶ岳]]山麓、[[霧ヶ峰]]、[[蓼科高原]]界隈など
|-
||[[中央アルプス国定公園]]
|長野
||[[2020年]][[3月27日]]
||[[木曽山脈]]、[[寝覚ノ床]]、[[田立の滝]]など<ref name="環境省20200327">[https://www.env.go.jp/press/107885.html 57カ所目となる国定公園「中央アルプス国定公園」が誕生します。][[環境省]](2020年3月27日)2020年3月28日閲覧</ref>
|-
||[[天竜奥三河国定公園]]
|長野、静岡、愛知
||[[1969年]][[1月10日]]
||[[天竜峡]]、[[佐久間ダム]]、[[茶臼山高原]]、[[鳳来寺山]]など
|-
||[[揖斐関ヶ原養老国定公園]]
|岐阜
||[[1970年]][[12月28日]]
||[[関ヶ原の戦い|関ヶ原古戦場]]跡、[[養老渓谷]]など
|-
||[[飛騨木曽川国定公園]]
|岐阜、愛知
||[[1964年]][[3月3日]]
||[[飛騨川]]([[中山七里]]、[[飛水峡]])、[[木曽川]]([[日本ライン]])など
|-
||[[愛知高原国定公園]]
|愛知
||[[1970年]][[12月28日]]
||[[猿投山]]、[[矢作川]]上流域、[[香嵐渓]]、[[本宮山 (岡崎市・豊川市・新城市)|本宮山]]など)
|-
||[[三河湾国定公園]]
|愛知
||[[1958年]][[4月10日]]
||[[知多半島]]、[[三河湾]]一帯、[[三ヶ根山]]、[[渥美半島]]、[[日間賀島]]など
|-
||[[鈴鹿国定公園]]
|三重、滋賀
||[[1968年]][[7月22日]]
||[[鈴鹿山脈]]([[御在所岳|御在所山]]、[[宇賀渓]]、[[石水渓]]など各種渓谷)
|-
||[[室生赤目青山国定公園]]
|三重、奈良
||[[1970年]][[12月28日]]
||[[室生高原]]、[[赤目渓谷]]([[香落渓]]、[[赤目四十八滝]])、[[青山高原]]
|-
||[[琵琶湖国定公園]]
|滋賀、京都
||[[1950年]][[7月24日]]
||[[琵琶湖]]([[竹生島]]、[[海津大崎]]など)、[[比叡山]]、[[比良山地]]、[[野坂山地]]、[[伊吹山]]など
|-
||[[丹後天橋立大江山国定公園]]
|京都
||[[2007年]][[8月3日]]
||[[丹後半島]]海岸部([[天橋立]]、[[経ヶ岬]]を含む)、[[大江山]]、[[世屋高原]]
|-
||[[京都丹波高原国定公園]]
|京都
||[[2016年]][[3月25日]]
||[[京都北山]]、[[芦生原生林]]、[[八丁平 (京都府)|八丁平]]、[[美山町 (京都府)|美山]][[かやぶきの里・北村]]
|-
||[[明治の森箕面国定公園]]
|大阪
||[[1967年]][[12月11日]]
||[[箕面の滝]]など
|-
||[[金剛生駒紀泉国定公園]]
|大阪、奈良、和歌山
||[[1958年]][[4月10日]]※3
||[[金剛山地]]、[[生駒山地]]、[[和泉葛城山]]麓
|-
||[[氷ノ山後山那岐山国定公園]]
|兵庫、鳥取、岡山
||[[1969年]][[4月10日]]
||[[氷ノ山]]、[[那岐山]]、[[天滝渓谷]]、[[芦津渓谷]]、[[神鍋高原]]、[[瀞川平]]、[[阿瀬渓谷]]、[[蘇武岳]]
|-
||[[大和青垣国定公園]]
|奈良
||[[1970年]][[12月28日]]
||[[大和三山]]一帯の丘陵地
|-
||[[高野龍神国定公園]]
|奈良、和歌山
||[[1967年]][[3月23日]]
||[[高野山]]及び[[龍神温泉]]一帯
|-
||[[比婆道後帝釈国定公園]]
|鳥取、島根、広島
||[[1963年]][[7月24日]]
||[[比婆山]]、[[道後山]]、[[吾妻山 (広島県・島根県)|吾妻山]]及び[[帝釈峡]]
|-
||[[西中国山地国定公園]]
|島根、広島、山口
||[[1969年]][[1月10日]]
||[[中国山地]]西部([[三段峡]]、[[匹見峡]]、[[寂地峡]]含む)
|-
||[[北長門海岸国定公園]]
|山口
||[[1955年]][[11月1日]]
||[[青海島]]、[[須佐湾]]など
|-
||[[秋吉台国定公園]]
|山口
||[[1955年]][[11月1日]]
||[[秋芳洞]]、[[秋吉台]]
|-
||[[剣山国定公園]]
|徳島、高知
||[[1964年]][[3月3日]]
||[[剣山]]山麓一帯、[[大歩危]]、[[小歩危]]、[[祖谷渓]]
|-
||[[室戸阿南海岸国定公園]]
|徳島、高知
||[[1964年]][[6月1日]]
||[[室戸岬]]~[[阿南海岸]]に亘る海岸線一帯
|-
||[[石鎚国定公園]]
|愛媛、高知
||[[1955年]][[11月1日]]
||[[石鎚山]]、[[面河渓]]
|-
||[[北九州国定公園]]
|福岡
||[[1972年]][[10月16日]]
||[[皿倉山]]、[[平尾台]]
|-
||[[玄海国定公園]]
|福岡、佐賀、長崎
||[[1956年]][[6月1日]]
||若松北海岸、[[芥屋大門]]、[[虹の松原]]、[[唐津湾]]
|-
||[[耶馬日田英彦山国定公園]]
|福岡、熊本、大分
||[[1950年]][[7月29日]]
||[[耶馬渓]]、[[八面山 (大分県)|八面山]]、[[英彦山]]
|-
||[[壱岐対馬国定公園]]
|長崎
||[[1968年]][[7月22日]]
||[[壱岐島|壱岐]]、[[浅茅湾]]など
|-
||[[九州中央山地国定公園]]
|熊本、宮崎
||[[1982年]][[5月15日]]
||市房山、五木、五家荘、米良荘、綾照葉樹林帯
|-
||[[日豊海岸国定公園]]
|大分、宮崎
||[[1974年]][[2月15日]]
||[[日豊海岸]]、[[枇榔島]]
|-
||[[祖母傾国定公園]]
|大分、宮崎
||[[1965年]][[3月25日]]
||[[祖母山]]、[[高千穂峡]]
|-
||[[日南海岸国定公園]]
|宮崎、鹿児島
||[[1955年]][[6月1日]]
||[[青島 (宮崎県)|青島]]、[[日南海岸]]、[[都井岬]]
|-
||[[甑島国定公園]]
|鹿児島
||[[2015年]][[3月16日]]
||海鼠池、貝池、鹿島断崖、鹿の子断層、[[珊瑚礁]]、照葉樹林帯など
|-
||[[沖縄海岸国定公園]]※4
|沖縄
||[[1972年]][[5月15日]]
||北部海岸、中部海岸、[[恩納村|恩納]]ビーチ、[[万座毛]]、[[与那覇岳]]など
|-
||[[沖縄戦跡国定公園]]※4
|沖縄
||[[1972年]][[5月15日]]
||[[ひめゆりの塔]]など県南部海岸地帯の[[沖縄戦|戦争史跡]]
|}
<span style="font-size:smaller;">
※1 水郷国定公園として
※2 佐渡弥彦国定公園として
※3 金剛生駒国定公園として
※4 1965年10月1日に[[琉球政府]]により沖縄海岸[[政府立公園]]及び沖縄戦跡政府立公園に指定。[[本土復帰]]とともに国定公園となる。
</span>
=== 国立公園に昇格した国定公園 ===
*白山国定公園(1955年7月1日指定、1962年11月12日に[[白山国立公園]]へ昇格)
*山陰海岸国定公園(1955年6月20日指定、1963年7月15日に[[山陰海岸国立公園]]へ昇格)
*足摺国定公園(1955年4月1日指定、1972年11月10日に[[宇和海]]地域を加えて[[足摺宇和海国立公園]]へ昇格)
*利尻礼文国定公園(1965年7月10日指定、1974年9月20日に[[サロベツ原野]]地域を加えて[[利尻礼文サロベツ国立公園]]へ昇格)
*奄美群島国定公園(1974年2月15日指定、2017年3月7日に[[奄美群島国立公園]]へ昇格)
=== 一部の区域だけが国立公園に昇格した国定公園 ===
*沖縄海岸国定公園(2014年3月5日に公園の一部である[[慶良間諸島]]が[[慶良間諸島国立公園]]として分離・指定。残りの区域のうち[[山原]](やんばる)地区も2016年9月15日に[[やんばる国立公園]]として分離。残りの区域は沖縄海岸国定公園として存続。)
=== 既存の国立公園に編入された国定公園 ===
*伊豆七島国定公園(1955年4月1日指定、1964年7月7日に[[富士箱根伊豆国立公園]]へ編入)
*錦江湾国定公園(1955年9月1日指定、1964年3月16日に霧島屋久国立公園(「霧島国立公園」を同日に改名)に編入。なお、霧島屋久国立公園は、[[屋久島国立公園]]の分離に伴い、2012年3月16日に[[霧島錦江湾国立公園]]へ改名)
*[[南三陸金華山国定公園]](1979年3月30日指定、2015年3月31日に[[三陸復興国立公園]]に編入)
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Koshimizu genseikaen 2011.JPG|[[小清水原生花園]]
ファイル:Osorezan.jpg|[[恐山]]
ファイル:Iwakisan 01.jpg|[[岩木山]]
ファイル:Mt Hayachine.jpg|[[早池峰山]]
ファイル:Zao L.Okama.JPG|[[御釜 (蔵王連峰)|蔵王の御釜]]
ファイル:Kasumigaura takahama.jpg|[[霞ヶ浦]]
ファイル:Japan Tojinbo02n4592.jpg|[[東尋坊]]
ファイル:香嵐渓 (愛知県豊田市足助町) - panoramio (5).jpg|[[香嵐渓]]
ファイル:Akame48Taki_FudoTaki.jpg|不動滝(赤目四十八滝)
ファイル:Amanohashidate view from Kasamatsu Park01s3s4410.jpg|[[天橋立]]
ファイル:Biwa Lake.jpg|[[琵琶湖]]
ファイル:Arataki(Takihata 48 Waterfalls).jpg|荒滝([[滝畑四十八滝]])
ファイル:Minoh Falls Minoh Osaka pref Japan04s5.jpg|[[箕面滝]]
ファイル:Hyonosen06s1920.jpg|[[氷ノ山]]
ファイル:Omijima20090301.jpg|[[青海島]]
ファイル:Akiyoshi02.jpg|[[秋芳洞]]
ファイル:20050825ishizuchi.JPG|[[石鎚山]]
ファイル:Tokushima Miyoshi Yoshino River Of Oboke Gorge 1.JPG|[[大歩危]]
ファイル:Cape Muroto09.jpg|[[室戸岬]]
ファイル:Takachiho-gorge.jpg|[[高千穂峡]]
ファイル:Kashima cliff.JPG|甑島・鹿島断崖
ファイル:万座毛.jpg|万座毛
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[国立公園]]
* [[日本の国立公園]]
== 外部リンク ==
{{Commons cat|Quasi-National_Parks_of_Japan}}
* [https://www.env.go.jp/nature/nationalparks/about/quasi-national-park/ 国定公園一覧] - 環境省
* [https://www.bes.or.jp/invitation/list_qp/ 国定公園一覧] - 一般財団法人自然公園財団
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18,641 |
寝台車
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寝台車(しんだいしゃ)
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寝台車(しんだいしゃ) 寝台車 (鉄道) - 寝台設備を有する鉄道車両。
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寝台車 (自動車) - 患者や高齢者の輸送用に寝台をそなえた自動車。
移動用の車輪を備えたストレッチャー - 患者を寝かしたまま移動させる用具。
遺体の移動の際に用いる自動車。病院から安置場所まで搬送するもの。安置場所から火葬場まで搬送するものは霊柩車と呼ばれる。
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'''寝台車'''(しんだいしゃ)
* [[寝台車 (鉄道)]] - 寝台設備を有する鉄道車両。
* [[寝台列車]] - 上記車両を主体に編成された列車。
* [[寝台車 (自動車)]] - 患者や高齢者の輸送用に寝台をそなえた自動車。
* 移動用の車輪を備えた[[ストレッチャー]] - 患者を寝かしたまま移動させる用具。
* 遺体の移動の際に用いる自動車。病院から安置場所まで搬送するもの。安置場所から火葬場まで搬送するものは[[霊柩車]]と呼ばれる。
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モリサワ
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株式会社モリサワ(英: Morisawa Inc.)は、大阪市に本社を置き、DTP用フォントや、組版ソフトウェア、オンデマンド印刷機などを開発・販売している企業。はじめて日本語PostScriptフォントを開発した会社であり、日本国内のフォント市場でトップシェアを誇る。手動写植機のメーカーとして創業し、電算写植機も手掛けた。
創業者は森澤信夫。石井茂吉と共に「写真植字機研究所(のちの写研)」を設立、エンジニアとして初期の写研機の開発を支えた。のちに森澤は同社を退社(意見の違いが原因といわれる)、1948年、独自に「写真植字機製作株式会社」として創業したのが、現在のモリサワ(1971年に社名変更)である。本社は大阪市浪速区(創業時の本社は大阪市西成区)、最高経営責任者(CEO)兼代表取締役会長は森澤嘉昭(創業者の次男)、最高執行責任者(COO)兼代表取締役社長は森澤彰彦。
手動写植機の時代には「書体の写研・機械のモリサワ」と呼ばれ、市場において第2位の位置を占め、時代が電算写植に移ってもその地位を保った。写研よりも独自開発の書体の種類は少なかった。
電算写植では、完全に独自仕様に基づいたシステムを開発した写研に対し、モリサワはライノタイプと提携してその技術をベースとしたシステムを開発し、これが後の書体オープン化の布石となった。
1984年からは、3年に1回「国際タイプフェイスコンテスト モリサワ賞」を開催するなど、日本の書体設計を牽引する存在である。一時期モリサワによるコンテストは休止していたが、2012年には「タイプデザインコンペティション 2012」が実施された。これらのコンテストで入賞した書体の一部は、後にモリサワからリリースされている。
MacintoshによるDTPの波がやって来た時、写研は方針により書体をオープンにせずに独自路線を歩んだが、ここでモリサワはアドビと提携し、Macintosh用フォントとして自社の書体を販売する道を選んだ。当初は社内外から懐疑的な声も多く、またフォントのスタンダードの地位をめぐってはさまざまな戦いがあったが、1990年代を通じて同社の書体は、DTPにおけるデファクトスタンダードとして盤石の基盤を築くとともに、手動写植時代には年商ベースで業界トップであった写研を抜き去り、業界首位となっている。
2002年からOpenTypeフォントをリリースし、いわゆる次世代DTPへの布石を打っている。これにより、Windows環境でも同社の人気ある書体が使用できるようになった。Windows上で同社の書体を使いたいという需要も多く、ViewフォントというWindows用ATMフォントも販売していた。これはプリンタのCIDフォントを指定する専用のスクリーンフォントであったが、意図的に輪郭線のサンプリング品質を落としたため、非PSプリンタで出力すると粗い密度の印字物しか得られなかった。また、MacintoshのPSフォントとの文字セットの違いや欧文数字のグリフの違いなど互換性が高いとは言えなかった。現在はそういった欠点などすべてがOpenTypeフォントで包括できることから、同社ではViewフォントの販売は終了、OpenTypeに移行している。
電子書籍市場の拡大、スマートデバイスの普及に鑑み、電子書籍へのオーサリングツールや印刷用データの電子配信、多言語フォントを用いた多言語配信といった分野にも参入している。
日本語PostScriptフォントは、当初OCF形式のものが販売されていた。これは1バイトの欧文PostScriptフォントを多数積み重ねた構造をしていたため、処理が重いなどの問題があり、のちに構造を簡素化するなどの対処でこれを改善したCID形式のフォントが販売された。しかし同社のCIDフォントは、OCFフォントとPostScript名が同一だった。そのため新旧のフォントを混在させるとさまざまな問題が生じた。同社としては、ユーザーがインストールしているOCFフォントをすべてCIDフォントに置き換えれば問題ないとして有料アップグレードを推奨していたが、買い替えは進まなかった。
そういった問題点を解消するため、モリサワは仕様を一部改訂した「New-CIDフォント」をリリースした。これはフォント名の先頭にA-CIDと付けることでOCFフォントと区別し共存できるようにしたほか、アウトライン抽出も可能とするなど改善が加えられている。そのため、同社のPostScriptフォントには「OCF」「CID (旧CID)」「New-CID」の3種類が存在する(ただし、Illustratorのバージョンによっては各フォントを同時に使用していると区別がつかない場合もある)。また、それぞれの商品を販売する段階で、アウトラインデータのバグ補修/同一文字コードにおける字形の変形(字体変更のほか、エレメントの微調整も含む)を行っており、互換性が完全同一とは言い難い側面もある。
2010年4月にタイプバンクを子会社化(2017年9月1日に吸収合併)、2011年10月にはリョービイマジクスよりフォント事業譲渡を受ける、2013年9月30日にリムコーポレーションを子会社化、2019年3月に字游工房を子会社化するなど、同業企業のM&Aにも積極的になっている。
2021年1月18日、写研とOpenTypeフォントの共同開発で合意に至った。石井茂吉と森澤信夫が邦文写真植字機の特許の共同申請をした100周年にあたる2024年から順次リリース予定である。
上記以外にも多種多様なパッケージフォントがラインアップされていたが、いずれも終売・サポート終了済みである。
ウェイト分けは「細/→/太(/→装飾系)」とする。 また日活書体や岩田書体、モトヤ書体などは含まない。
(一部)
2018年12月、2020年東京オリンピック・パラリンピックのオフィシャルスポンサー契約締結を発表、2019年2月に発表されたTOKYO2020公式フォントの開発を手掛けた。
また2015年から続く日本パラスポーツ協会や日本車いすバスケットボール連盟への協賛など、障がい者スポーツの支援に力を入れている。例えば、車いす陸上競技の佐藤友祈は、モリサワとプロ契約している。
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株式会社モリサワは、大阪市に本社を置き、DTP用フォントや、組版ソフトウェア、オンデマンド印刷機などを開発・販売している企業。はじめて日本語PostScriptフォントを開発した会社であり、日本国内のフォント市場でトップシェアを誇る。手動写植機のメーカーとして創業し、電算写植機も手掛けた。
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{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社モリサワ
| 英文社名 = Morisawa Inc.
| ロゴ = [[File:Morisawa logo.svg|250px]]
| 画像 = [[File:Morisawa Inc. headquarters.jpg|300px]]
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 =
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 556-0012
| 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]敷津東二丁目6番25号
| 本店郵便番号 =
| 本店所在地 =
| 設立 = [[1948年]][[12月]]
| 業種 = 情報・通信業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = デジタルフォント、ソフトウェアの開発・販売
| 代表者 = [[森澤彰彦]](代表取締役社長)
| 資本金 = 1億円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 125億円(2021年2月期)
|営業利益 =
|経常利益 =
|純利益 = 10億9718万9000円<br>(2021年02月28日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/317b7/234960 株式会社モリサワ 第73期決算公告]</ref>
|純資産 =
|総資産 = 135億0826万7000円<br>(2021年02月28日時点)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 340人
| 支店舗数 =
| 決算期 =
| 会計監査人 =
| 所有者 =
| 主要株主 =
| 主要部門 =
| 主要子会社 = モリサワ文研(株)
| 関係する人物 = [[森澤信夫]](創業者)
| 外部リンク = https://www.morisawa.co.jp/
| 特記事項 = 創業は[[1924年]][[7月]]。[[1948年]][[12月]]に写真植字機製作株式会社を設立、[[1954年]]に株式会社モリサワ写真植字機製作所、[[1971年]]に現社名へ商号変更。
}}
'''株式会社モリサワ'''({{Lang-en-short|Morisawa Inc.}})は、大阪市に本社を置き、[[DTP]]用[[フォント]]や、[[組版]][[ソフトウェア]]、[[オンデマンド印刷機]]などを開発・販売している企業。はじめて日本語[[PostScript]]フォントを開発した会社であり、日本国内のフォント市場でトップシェアを誇る<ref>[https://www.bcnaward.jp/award/gallery/detail/contents_type=312&date=2020 BCN AWARD 2020 フォントソフト部門] 株式会社BCN、2022年10月9日閲覧</ref>。[[写真植字機|手動写植機]]のメーカーとして創業し、[[電算写植|電算写植機]]も手掛けた。
== 歴史 ==
=== 創業から電算写植時代 ===
創業者は[[森澤信夫]]。[[石井茂吉]]と共に「写真植字機研究所(のちの[[写研]])」を設立、エンジニアとして初期の写研機の開発を支えた。のちに森澤は同社を退社(意見の違いが原因といわれる)、[[1948年]]、独自に「写真植字機製作株式会社」として創業したのが、現在のモリサワ([[1971年]]に社名変更)である。本社は[[大阪市]][[浪速区]](創業時の本社は[[大阪市]][[西成区]])、[[最高経営責任者]](CEO)兼[[代表取締役]][[会長]]は[[森澤嘉昭]](創業者の次男)、[[最高執行責任者]](COO)兼代表取締役[[社長]]は[[森澤彰彦]]。
手動写植機の時代には「書体の写研・機械のモリサワ」と呼ばれ、市場において第2位の位置を占め、時代が電算写植に移ってもその地位を保った。写研よりも独自開発の[[書体]]の種類は少なかった。
電算写植では、完全に独自仕様に基づいたシステムを開発した写研に対し、モリサワは[[ライノタイプ (企業)|ライノタイプ]]と提携してその技術をベースとしたシステムを開発し、これが後の書体オープン化の布石となった。
[[1984年]]からは、3年に1回「国際タイプフェイスコンテスト モリサワ賞」を開催するなど、日本の書体設計を牽引する存在である。一時期モリサワによるコンテストは休止していたが、[[2012年]]には「タイプデザインコンペティション 2012」が実施された。これらのコンテストで入賞した書体の一部は、後にモリサワからリリースされている。
=== DTP化を積極的推進 ===
[[Macintosh]]によるDTPの波がやって来た時、[[写研]]は[[写研#書体|方針]]により書体をオープンにせずに独自路線を歩んだが、ここでモリサワは[[アドビ]]と提携し、Macintosh用フォントとして自社の書体を販売する道を選んだ。当初は社内外から懐疑的な声も多く、またフォントのスタンダードの地位をめぐってはさまざまな戦いがあったが、[[1990年代]]を通じて同社の書体は、DTPにおける[[デファクトスタンダード]]として盤石の基盤を築くとともに、手動写植時代には年商ベースで業界トップであった写研を抜き去り、業界首位となっている<ref group="注">モリサワの年商は1998年時点で187億円、写研は175億円と逆転している。</ref><ref>「[隠蔽]写研 = 下 私物化で〝斜陽〟加速」読売新聞1999年1月4日付朝刊 30面</ref>。
2002年から[[OpenType]]フォントをリリースし、いわゆる次世代DTPへの布石を打っている。これにより、[[Microsoft Windows|Windows]]環境でも同社の人気ある書体が使用できるようになった。Windows上で同社の書体を使いたいという需要も多く、[[Viewフォント]]というWindows用ATMフォントも販売していた。これはプリンタのCIDフォントを指定する専用のスクリーンフォントであったが、意図的に輪郭線のサンプリング品質を落としたため、非PSプリンタで出力すると粗い密度の印字物しか得られなかった。また、MacintoshのPSフォントとの文字セットの違いや欧文数字のグリフの違いなど互換性が高いとは言えなかった。現在はそういった欠点などすべてがOpenTypeフォントで包括できることから、同社ではViewフォントの販売は終了、OpenTypeに移行している。
電子書籍市場の拡大、スマートデバイスの普及に鑑み、電子書籍へのオーサリングツールや印刷用データの電子配信、多言語フォントを用いた多言語配信といった分野にも参入している。
=== PostScriptフォントの変遷 ===
日本語PostScriptフォントは、当初[[OCFフォント|OCF]]形式のものが販売されていた。これは1バイトの欧文PostScriptフォントを多数積み重ねた構造をしていたため、処理が重いなどの問題があり、のちに構造を簡素化するなどの対処でこれを改善したCID形式のフォントが販売された。しかし同社のCIDフォントは、OCFフォントとPostScript名が同一だった。そのため新旧のフォントを混在させるとさまざまな問題が生じた。同社としては、ユーザーがインストールしているOCFフォントをすべてCIDフォントに置き換えれば問題ないとして有料アップグレードを推奨していたが、買い替えは進まなかった。
そういった問題点を解消するため、モリサワは仕様を一部改訂した「New-CIDフォント」をリリースした。これはフォント名の先頭に''A-CID''と付けることでOCFフォントと区別し共存できるようにしたほか、アウトライン抽出も可能とするなど改善が加えられている。そのため、同社のPostScriptフォントには「OCF」「CID (旧CID)」「New-CID」の3種類が存在する(ただし、Illustratorのバージョンによっては各フォントを同時に使用していると区別がつかない場合もある)。また、それぞれの商品を販売する段階で、アウトラインデータのバグ補修/同一文字コードにおける字形の変形(字体変更のほか、エレメントの微調整も含む)を行っており、互換性が完全同一とは言い難い側面もある。
=== M&Aと協業 ===
[[2010年]][[4月]]に[[タイプバンク]]を子会社化([[2017年]][[9月1日]]に[[合併 (企業)#吸収合併・新設合併|吸収合併]])<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.morisawa.co.jp/about/news/3565|title=モリサワ タイプバンクの吸収合併を発表|date=2017年5月10日|accessdate=2022年10月9日}}</ref>、[[2011年]][[10月]]には[[リョービ|リョービイマジクス]]よりフォント事業譲渡を受ける<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.morisawa.co.jp/about/news/1003|title=リョービ株式会社ならびにリョービイマジクス株式会社からのフォント事業譲渡を発表|date=2011年8月10日|accessdate=2022年10月9日}}</ref>、2013年9月30日に[[リムコーポレーション]]を子会社化<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.morisawa.co.jp/about/news/788 |title=モリサワ 株式会社リムコーポレーションの株式取得による 子会社化を発表|date=2013年9月27日|accessdate=2022年10月9日}}</ref>、[[2019年]][[3月]]に[[字游工房]]を子会社化するなど、同業企業のM&Aにも積極的になっている。
[[2021年]][[1月18日]]、'''写研とOpenTypeフォントの共同開発'''で合意に至った。石井茂吉と森澤信夫が邦文写真植字機の特許の共同申請をした100周年にあたる[[2024年]]から順次リリース予定である<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.morisawa.co.jp/about/news/5280 |title=モリサワ OpenTypeフォントの共同開発で株式会社写研と合意 |publisher=モリサワ |date=2021-01-18 |accessdate=2021-01-18 }}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.morisawa.co.jp/about/news/8693 |title=モリサワ 写研書体を字游工房と共同開発 2024年に「石井明朝」「石井ゴシック」の改刻フォントをリリース |publisher=モリサワ |date=2022-11-24 |accessdate=2023-03-09 }}</ref>。
== 現行のフォント製品とライセンス ==
=== パッケージ ===
; MORISAWA Font Select Pack (1 / 3 / 5) / PLUS<ref>[https://www.morisawa.co.jp/products/fonts/select-pack/ Select Pack](モリサワ)</ref>
: 1 / 3 / 5はライセンス数を表し、その分だけモリサワフォント和文総合書体<ref>UD黎ミン、UD新ゴの中国語・{{ISO639言語名|ko}}書体を含む。原則としてウエイトごとに1ライセンス。例えばリュウミン Pro L-KLとリュウミン Pro R-KLはそれぞれ1ライセンス必要。またリュウミン Proとリュウミン Pr5のように文字セットが違うものも別扱いになる。</ref>を選んでインストールできる。
: PLUSは、かな書体・欧文書体・数字書体・記号書体専用のパッケージで5ライセンス。
; MORISAWA Font OpenType 基本7書体パック<ref>[https://www.morisawa.co.jp/products/fonts/basic-7-pack/ OpenType 基本7書体パック](モリサワ)</ref>
: [[リュウミン]] L-KL、[[太ミンA101]]、[[見出ミンMA31]]、[[中ゴシックBBB]]、[[太ゴB101]]、[[見出ゴMB31]]、[[じゅん]] 101。採用している文字セットは「[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-4]] (Pro)」準拠。
上記以外にも多種多様なパッケージフォントがラインアップされていたが、いずれも終売・サポート終了済みである。
=== 年間ライセンス ===
; MORISAWA PASSPORT / MORISAWA PASSPORT ONE / MORISAWA PASSPORT アカデミック版(学生・教職員向け)<ref>[https://www.morisawa.co.jp/products/fonts/passport/ MORISAWA PASSPORT](モリサワ)</ref>
: 2005年に開始した[[サブスクリプション|年間契約フォントライセンス]]サービス<ref>[https://www.morisawa.co.jp/about/history/ 歴史・沿革](モリサワ)</ref>。2020年11月時点では、モリサワフォントのほか、タイプバンクフォントの一部書体、[[字游工房]]の現行[[游書体|全書体]]、[[ヒラギノ]]フォント、昭和書体5書体が提供される。
=== モリサワの主な日本語書体 ===
<!-- https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/ による。 -->
<!-- MORISAWA PASSPORTで提供される字游工房、ヒラギノ、昭和書体のものはここに収めない。 -->
<!-- タイプバンクフォント(旧リョービ書体含む)やOpenType化されていない写植書体を追記するときは別に見出しを立ててください。-->
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* [[リュウミン]]
* [[黎ミン]]
* [[太ミンA101]]
* [[見出ミンMA1]]
* [[見出ミンMA31]]
* [[秀英明朝]]
* [[秀英初号明朝]]
* [[凸版文久明朝]]
* [[凸版文久見出し明朝]]
* [[光朝]]
* [[A1明朝]]
* [[きざはし金陵]]
* [[しまなみ (書体)|しまなみ]]
* [[新ゴ]]
* [[ゴシックMB101]]
* [[A1ゴシック]]
* [[中ゴシックBBB]]
* [[太ゴB101]]
* [[見出ゴMB1]]
* [[見出ゴMB31]]
* [[秀英角ゴシック金]]
* [[秀英角ゴシック銀]]
* [[凸版文久ゴシック]]
* [[凸版文久見出しゴシック]]
* [[くれたけ銘石]]
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* [[じゅん]]
* [[新丸ゴ]]
* [[ソフトゴシック]]
* [[秀英丸ゴシック]]
* [[フォーク (書体)|フォーク]]
* [[丸フォーク]]
* [[カクミン]]
* [[解ミン]]
* [[はせミン]]
* [[モアリア]]
* [[シネマレター]]
* [[トーキング]]
* [[タカハンド]]
* [[タカリズム]]
* [[タカポッキ]]
* [[タカモダン]]
* [[竹 (書体)|竹]]
* [[トンネル (書体)|トンネル]]
* [[明石 (書体)|明石]]
* [[徐明]]
* [[かもめ龍爪]]
* [[みちくさ (書体)|みちくさ]]
* [[那欽]]
* [[武蔵野 (書体)|武蔵野]]
* [[くもやじ]]
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* [[ハルクラフト]]
* [[プリティー桃]]
* [[ぺんぱる]]
* [[はるひ学園]]
* [[すずむし]]
* [[うたよみ]]
* [[はせ筆]]
* [[黒曜]]
* [[剣閃]]
* [[小琴]]
* [[正楷書CB1]]
* [[新正楷書CBSK1]]
* [[欧体楷書]]
* [[楷書MCBK1]]
* [[さくらぎ蛍雪]]
* [[教科書ICA]]
* [[角新行書]]
* [[錦麗行書]]
* [[隷書E1]]
* [[隷書101]]
* [[陸隷]]
* [[勘亭流]]
* [[ひげ文字]]
* [[エムニュースエム]]
* [[エムニュースジー]]
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* [[毎日新聞明朝]]
* [[毎日新聞ゴシック]]
* [[秀英3号]]
* [[秀英5号]]
* [[秀英四号かな]]
* [[秀英四号太かな]]
* [[秀英アンチック]]
* [[アンチックAN]]
* [[ネオツデイ]]
* [[ハッピーN]]
* [[わんぱくゴシックN]]
* [[タイプラボN]]
* [[はせトッポ]]
* [[墨東N]]
* [[ゼンゴN]]
* [[丸ツデイ]]
* [[丸アンチック]]
* [[カモレモン]]
* [[カモライム]]
* [[キャピーN]]
* [[ららぽっぷ]]
* [[ほなみ (書体)|ほなみ]]
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== 主な写植書体 ==
ウェイト分けは'''「細/→/太(/→装飾系)」'''とする。<br>
また日活書体や岩田書体、モトヤ書体などは含まない。<br>
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* [[細明朝体AC1]]
* [[中明朝体ABB1]]
* [[中明朝体かなABB1001]]
* [[太明朝体かなA31]]
* [[テレビ太明朝体TA1]]
* [[見出明朝体かなMA131]]
* [[リネア]]
* [[太アンチック体HF10]]
* [[民友社かな書体]] (明朝系・ゴシック系)
* [[MO-GAN]]
* [[アロー4]]
* [[ミヤケ・アロー]]
* [[アローM]] 無印/ライン/ラインシャドウ
* [[新聞明朝体新A1]]
* [[新聞明朝体新A101]]
* [[新聞明朝体新A201]]
* [[細ゴシック体BC501]]
* [[細ゴシック体BC31]]
* [[太ゴシック体B1]]
* [[テレビ太ゴシック体BT1]]
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* [[じゅんゴシック]] No.1/2/3/4
* [[ツデイ]] (総合書体) L/R/M/B
* [[アローG]] 5/無印/スペシャル/ライン/ラインシャドウ
* [[中丸ゴシック体BDB1]]
* [[太丸ゴシック体BD1]]
* [[太丸ゴシック体BD101]]
* [[見出丸ゴシック体MBD31]]
* [[見出丸ゴシック体MBD101]]
* [[見出し丸ゴシック体MBD501]]
* [[じゅん]] KL 101/201/34/501
* [[じゅん]] ライン
* [[アローR]] 無印/ライン/ラインシャドウ/ステンシル
* [[新正楷書体かなCBSK31]]
* [[楷書体CBR1]]
* [[行書体1]]
* [[行書体101]]
* [[若松行書体]] 細/太
* [[若松隷書体]]
* [[中印篆]]
* [[古印体]]
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* [[コマーズ]] L
* [[フライト]]{{要曖昧さ回避|date=2023年3月}}
* [[トーク]]
* [[OH]]{{要曖昧さ回避|date=2023年3月}} No.1/2/3/4
* [[アローエース]] M1/3
* [[キダかな]]
* [[ビッグ]]{{要曖昧さ回避|date=2023年3月}}
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== 代表的な写植、電算写植、組版編集機 ==
(一部)
* MC-1
* MC-2
* MD
* MD-T (テレビテロップ用)
* MC-6
* MC-58
* ROBO15XY
* ROBO-STATION
* MC-2001
* MC-100
* MC-P
* ライノトロン
* MK-110
* MK-300
* MK-300P
* MK-500
* MK-700
* RISAWORD
* [[MC-B2]]
* MVP
* MC-Smart
== 発行物、関連出版物など ==
* 沢田玩治『写植に生きる森澤信夫』モリサワ、2000年
* 藤田栄一編『写植に生き、文字に生き : 森澤親子二代の挑戦』ベンチャーコミュニケーションズ、1999年
* 馬渡力『写真植字機五十年』モリサワ、1974年
* 森澤信夫『写真植字機とともに三十八年』 モリサワ写真植字機製作所、1960年
* たて組ヨコ組 … 企業広報誌。1983年から2002年まで発行された<ref>[http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_52_03.pdf 連載〈PR誌百花繚乱〉第4回](公益財団法人 [[吉田秀雄記念事業財団]]「AD STUDIES」Vol.52 2015)</ref>。
* 人間と文字 … 1999年のCD-ROM(廃盤)。人類が生んだ200を超える文字の歴史を地域や時代ごとに豊富な図版と映像で解説し、文字学の基礎を学ぶことができるインタラクティブコンテンツ。
* フォント男子! … モリサワが協力したフォント擬人化漫画。
== TOKYO2020オフィシャルサポーター ==
2018年12月、[[2020年東京オリンピック・パラリンピック]]のオフィシャルスポンサー契約締結を発表、2019年2月に発表されたTOKYO2020公式フォントの開発を手掛けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://r-kun.hatenablog.jp/entry/2021/08/01/080000|title=フォントの提供はモリサワでした!|work=情報保管庫|date=2021年8月1日|accessdate=2022年10月9日}}</ref>。
また2015年から続く[[日本パラスポーツ協会]]や[[日本車いすバスケットボール連盟]]への協賛など、[[障がい者スポーツ]]の支援に力を入れている。例えば、[[車いす陸上競技]]の[[佐藤友祈]]は、モリサワとプロ契約している<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/004/045/4045302/amp/|title=車いす陸上競技選手の佐藤友祈氏がプロ転向|work=ASCII|date=2021年2月24日|accessdate=2022年10月9日}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
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=== 広報 ===
{{reflist|group="広報"}}
== 外部リンク ==
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*{{YouTube|c=UCLNSaKZG-pKkhBqsuKa6b2g}}
{{コンピュータエンターテインメント協会}}
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戦後民主主義
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戦後民主主義(せんごみんしゅしゅぎ)は、第二次世界大戦後の日本において普及した民主主義思想・価値観の総称である。
戦後民主主義はしばしば戦前の大正デモクラシーと対比して使われる。この言葉は様々な文脈で用いられているが、「戦後民主主義」を説明する学問上の定説はまだ存在せず、その含意も使い手によって千差万別といってよいほど異なっている。ただし、戦後民主主義が尊重した共通の価値として、日本国憲法に示された国民主権(主権在民)、平和主義、基本的人権の尊重が挙げられるだろう。その点で、戦後民主主義は日本国憲法を背景にしていたと言える。教育基本法も、日本国憲法と並んでこうした戦後民主主義の諸価値を擁護する役割を果たしていると言われる。
大正デモクラシーは天皇主権の大日本帝国憲法を民主主義的に解釈することに基づいていた(提唱者の吉野作造は政府の弾圧を避けるべく「民主主義」ではなく「民本主義」と呼んだ)ので、基本的人権は個人の生得の権利として規定されていなかった。つまり、ヨーロッパやアメリカで当然だった天賦人権説が日本には普及していなかった。また、議院内閣制も憲法上の規定がないため憲政の常道という概念で慣習的に実現していた。そのため、内閣総理大臣の指導性が確立しておらず、内閣を構成する他の国務大臣を任意に罷免できない弱い立場であった。軍の最高指揮権(統帥権)は天皇に属し、内閣にはなかったため、統帥権を楯にした軍部の暴走を抑える法的な力も内閣と議会にはなかった。
戦後民主主義は、国民主権(主権在民、国権の最高機関としての議会)や基本的人権を基本原則に持つことで、大正デモクラシーの弱点を克服したと言える。しかし、イギリスのように議会が力を蓄えて清教徒革命、名誉革命などの革命により王権を制限することによってこれらを確立したのではなく、第二次世界大戦でのポツダム宣言受諾・降伏文書調印後にGHQ影響下でなされた一連の改革により確立された(封建制に対する明治維新同様、上から下された)ところに戦後民主主義の弱点やジレンマがあるとも言われる。特に戦後民主主義の批判者は、現憲法を「押し付け憲法」と批判するのは常である。しかし、この保守派からの批判に対して、論者によっては、軍国主義の一時期の日本が異常だったのであって、戦後は確かにアメリカの力を借りたものの、大正デモクラシー期に芽が出かけて、その後、軍国主義によって芽の摘まれた日本型民主主義が図らずも新憲法で実現されたとの見方もある。実際、戦前の国家主義者であり社会主義者(国家社会主義者)であった北一輝が提起した問題が日本国憲法下で実現している側面などに着目すると、この主張もあながち荒唐無稽なものではないともいえる。
いわゆる進歩的文化人とかなりの部分で重なり、戦後民主主義のオピニオン・リーダーと目される人物には、丸山眞男、川島武宜、大塚久雄、竹内好、鶴見俊輔、加藤周一などの学者や作家、評論家がいる。大江健三郎や大塚英志は戦後民主主義者を自認・自称し、特に大江はその代表のように見なされることもある。イメージ的にいえば、いわゆる岩波文化人、岩波知識人とも親和性がある。
日本が連合国によるポツダム宣言を受託してからGHQによる日本国政府を通した間接統治が始まった。この頃GHQによる民主化指令が数多く発せられ、急速な民主化が日本において進んだ。その中でも国民、マスメディアが注視した事柄に天皇の地位問題があった。日本の戦争責任が天皇に帰属するのかを含め、人々の関心を集めながら事は進んだ。1946年1月1日に昭和天皇は年頭詔書を発表し自身の神性を否定した上で従来肯定されてきた天皇を現人神とする考えは架空の観念であるとし、同時に国民と皇室の紐帯は「信頼と敬愛により結ばれる」とした。この詔書にダグラス・マッカーサーは天皇が日本の民主化のために指導的役割を果たそうとしていることを褒め称え歓迎した。この頃より、GHQ側は日本の円滑な間接統治を遂行するためには天皇を利用するのが適当であると結論づけ、天皇に対する戦争責任の追及を止め、東京裁判にかけないことを決定した。
日本の敗戦直後の憲法学者に共通していた価値観として、憲法改正不要論があった。天皇機関説を唱え、貴族院を辞職した美濃部達吉もその論者であり次のように主張した、「民主主義の政治の実現は現在の憲法下でも十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態の元において即時に実行せねばならぬ程の急迫した問題ではないと確信する。」として憲法改正に否定的だった。 しかし、GHQは首相である幣原喜重郎に憲法改正を示唆した。これをうけた幣原は憲法問題調査委員会を設置し改憲案を練った。この頃は官民のいかんを問わず改憲案が起草されている。1946年2月1日、憲法問題調査委員会憲法改正の試案が朝日新聞にスクープされた。このスクープが国民の世論を探る観測気球とみたGHQ民政局は同委員会に不満を抱き、マッカーサー三原則を示した。この三原則に基づいて起草された草案を日本政府に示した。この草案を受け入れられない場合は天皇の存在、保守勢力の今後は保証できないと通告したため、政府はこれを受け入れざるを得なくなり、憲法改正を大日本帝国憲法第73条に定められた改正手続きを踏まえて行なった。 この改正の動きについて毎日新聞の行った「戦争放棄条項は必要か」との世論調査にて賛成とする回答が70%、反対とする回答が28%だった。同時期に知識人らもこの戦争放棄条項について述べている。読売新聞社社長の馬場恒吾は
とし、首相幣原は戦争調査会の冒頭の挨拶でこう述べた。
日本国憲法の平和主義とりわけ第9条はのちに厳しい批判に晒されるが、当時の国民や有識者はこの理念に深い期待を寄せていたことがうかがえる。もちろん批判的な意見も存在した。貴族院議員の南原繁はこの理念を帝国議会憲法改正特別委員会において国連加盟の条件に兵力の保有が含まれている事、他国に縋って生き延びようとするのはある種の諦めではないか。と疑問を呈した。 また、同時進行で進められていた主権者としての天皇から象徴天皇への移行をどう考えるかの世論調査では85%が賛成とし、天皇の存在が国民に広く受け入れられている事を裏づけた。 これらを背景として戦争放棄条項、象徴天皇制などを含んだ憲法改正草案要が元となって「憲法改正草案」が帝国議会で審議された。まずは枢密院で審議された後に衆議院に送られた。その後衆議院で改正案は修正可決され、貴族院の修正可決を経て1946年10月7日に衆議院で確定した。確定した改正案は天皇の裁可を得て日本国憲法として公布された。
当時の国民はこの新憲法をおおむね肯定的に受け入れた。それが現れているのが毎日新聞が1946年12月16日に行った世論調査であり、同調査では吉田政権の施策について問うていて、同調査が行った10項目のうち最も評価されたのが憲法改正であった。憲法改正を「成功」とする回答が35%で「大体よろし」としたのが57%だった。
「戦後民主主義や近代立憲主義によって、日本人は共同体意識に根ざした良心を失い利己主義に走り、家父長制や純潔主義などの伝統文化も破壊された」との主張が保守的な論者から唱えられている。このような批判は、自由民主党が1955年11月に結党した際に綱領などで唱えたのを始め、1960年代には福田恆存ら保守系の人々の間で盛んに論じられた。
こうした論者は、戦後民主主義をしばしば「左翼」として批判する。確かに戦後民主主義は「左翼」と呼ばれる社会民主主義者や共産主義者の支持を受けている。しかし、戦後民主主義の支持者は、必ずしも社民主義や共産主義に賛同しているわけではなく、自由主義を支持している者もいる。
『文化防衛論』『果たし得ていない約束―私の中の二十五年』など、多くの評論で戦後民主主義を批判する三島由紀夫は、第二次世界大戦の敗戦により、それまでの「日本の連続的な文化的な価値、歴史的な価値、精神的な価値」のすべて一切が「悪い」ものと見なされて、「国民精神」(永い民族の歴史の中で日本人が培い、育ててきた伝統や文化の結晶)が一旦「御破算」となってしまい、それがその後多少は修正されたものの、すでに修正段階で「文化的価値」(国民精神)は、「政治的価値」(民主主義)よりも下位に置かれ、両者の間に「非常なギャップ」が出来てしまったとし、戦後民主主義から起こった近代的現象である大衆社会のことを、「全てを呑み尽くしてしまふ怪物のやうな恐ろしいもの」としている。そして、戦後大衆社会において第一に優先される価値観は、「お金を儲けて毎日を楽しく暮らすこと」であり、そのためならば、自分の国の大事な文化や財産であろうが「つまらなければ片つ端から捨ててしまふ」ということになってしまうと三島は危惧し、徐々に「国民精神」が侵食された大衆が「政治に関心を持つ」という「体裁のいいこと」に関わり、真剣に考えずに、インテリらしく見えるというような気持ちで日本社会党に投票してみたり、日本共産党が支持する美濃部亮吉を都知事にしてしまう危うさを指摘した。
また、より先鋭的な立場をとる新左翼は、平和主義や議会制民主主義といった戦後民主主義の価値観を攻撃する。特に1960年代後半から1970年代には、吉本隆明など反権威的な立場からの戦後民主主義批判が当時の若者から熱い支持を受けた。これらの新左翼がリードした学生運動の過激化の背景には、自由主義寄りの戦後民主主義と、それに迎合し穏健化した(と彼らがみなした)共産党や社会党への批判があった。
さらに、戦後民主主義を擁護する立場から「右翼」と称されて攻撃されている保守的意見にも、多様な見解があることを考慮する必要がある。革新勢力のみでなく自由主義者からも戦後民主主義が支持されたように、戦後日本の価値観変容から戦後民主主義のあり方に疑念を抱いているのは、先の新左翼や吉本の例からも見られる通り、何も保守派の者ばかりではない。またこれら保守論者が批判しているのが「民主主義」そのものではなく「“戦後”民主主義」であることにも注目すべきであろう。「戦後民主主義」という言葉の定義自体が革新勢力と保守勢力とで異なっている、とも言える。
また、戦後民主主義とは似て否なる概念として、戦後レジームがある。こちらの方は「レジーム」であるから「枠組」という意味であって、戦後民主主義と全部が重ならないわけではないが、日本国憲法と日米安保の両方をコインの裏表とする、戦後日本のおかれた(または選び取った)世界の中での日本の立ち位置を意味する。特徴は吉田茂の政治・外交路線であった軽武装・経済発展路線(吉田ドクトリン)である。こちらは、保守本流の価値観として改憲を事実上棚上げした池田内閣以降、確立していった。戦後の政治学の文脈でいう自民党内の「保守本流」とは、この吉田の選んだ路線を引き継いだ宏池会(池田勇人を創設者として、前尾繁三郎-大平正芳-鈴木善幸-宮澤喜一へと至る系譜)を指しており、「保守本流」と戦後レジームは重なる。例えば戦後レジームの構築に戦後まもなくから関わってきた宮澤喜一などは有名な護憲派であったし、宏池会の系譜は基本的に護憲路線であった。その意味においては、戦後民主主義者と重なる部分も多かった。後述されている戦後民主主義の批判者は自らを保守と規定し、戦後民主主義者を「左翼」として批判するが、戦後レジームからの脱却を唱える人々の立場からすれば、この「戦後レジーム」すらも批判的に見なされるのが常である。ただし、繰り返しになるが「戦後民主主義」と「戦後レジーム」は似て非なる概念であり、多分に重なる部分があるとしても、その中心に位置するものは微妙に異なっている。
もともとは進歩的文化人・岩波文化人だった清水幾太郎は、戦後民主主義の価値体系は、戦前の治安維持法への復讐であり、丸山眞男がいう「悔恨共同体」の深層には、治安維持法への知識人の復讐感情「怨恨共同体」があったのだとする。
以下は、「戦後民主主義」に対する反対、批判的な立場の見解の例である。
以下は「戦後民主主義」に対する賛成、肯定的な立場の見解の例である。
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"text": "日本国憲法の平和主義とりわけ第9条はのちに厳しい批判に晒されるが、当時の国民や有識者はこの理念に深い期待を寄せていたことがうかがえる。もちろん批判的な意見も存在した。貴族院議員の南原繁はこの理念を帝国議会憲法改正特別委員会において国連加盟の条件に兵力の保有が含まれている事、他国に縋って生き延びようとするのはある種の諦めではないか。と疑問を呈した。 また、同時進行で進められていた主権者としての天皇から象徴天皇への移行をどう考えるかの世論調査では85%が賛成とし、天皇の存在が国民に広く受け入れられている事を裏づけた。 これらを背景として戦争放棄条項、象徴天皇制などを含んだ憲法改正草案要が元となって「憲法改正草案」が帝国議会で審議された。まずは枢密院で審議された後に衆議院に送られた。その後衆議院で改正案は修正可決され、貴族院の修正可決を経て1946年10月7日に衆議院で確定した。確定した改正案は天皇の裁可を得て日本国憲法として公布された。",
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"text": "当時の国民はこの新憲法をおおむね肯定的に受け入れた。それが現れているのが毎日新聞が1946年12月16日に行った世論調査であり、同調査では吉田政権の施策について問うていて、同調査が行った10項目のうち最も評価されたのが憲法改正であった。憲法改正を「成功」とする回答が35%で「大体よろし」としたのが57%だった。",
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"text": "こうした論者は、戦後民主主義をしばしば「左翼」として批判する。確かに戦後民主主義は「左翼」と呼ばれる社会民主主義者や共産主義者の支持を受けている。しかし、戦後民主主義の支持者は、必ずしも社民主義や共産主義に賛同しているわけではなく、自由主義を支持している者もいる。",
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"text": "『文化防衛論』『果たし得ていない約束―私の中の二十五年』など、多くの評論で戦後民主主義を批判する三島由紀夫は、第二次世界大戦の敗戦により、それまでの「日本の連続的な文化的な価値、歴史的な価値、精神的な価値」のすべて一切が「悪い」ものと見なされて、「国民精神」(永い民族の歴史の中で日本人が培い、育ててきた伝統や文化の結晶)が一旦「御破算」となってしまい、それがその後多少は修正されたものの、すでに修正段階で「文化的価値」(国民精神)は、「政治的価値」(民主主義)よりも下位に置かれ、両者の間に「非常なギャップ」が出来てしまったとし、戦後民主主義から起こった近代的現象である大衆社会のことを、「全てを呑み尽くしてしまふ怪物のやうな恐ろしいもの」としている。そして、戦後大衆社会において第一に優先される価値観は、「お金を儲けて毎日を楽しく暮らすこと」であり、そのためならば、自分の国の大事な文化や財産であろうが「つまらなければ片つ端から捨ててしまふ」ということになってしまうと三島は危惧し、徐々に「国民精神」が侵食された大衆が「政治に関心を持つ」という「体裁のいいこと」に関わり、真剣に考えずに、インテリらしく見えるというような気持ちで日本社会党に投票してみたり、日本共産党が支持する美濃部亮吉を都知事にしてしまう危うさを指摘した。",
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"text": "また、より先鋭的な立場をとる新左翼は、平和主義や議会制民主主義といった戦後民主主義の価値観を攻撃する。特に1960年代後半から1970年代には、吉本隆明など反権威的な立場からの戦後民主主義批判が当時の若者から熱い支持を受けた。これらの新左翼がリードした学生運動の過激化の背景には、自由主義寄りの戦後民主主義と、それに迎合し穏健化した(と彼らがみなした)共産党や社会党への批判があった。",
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"text": "さらに、戦後民主主義を擁護する立場から「右翼」と称されて攻撃されている保守的意見にも、多様な見解があることを考慮する必要がある。革新勢力のみでなく自由主義者からも戦後民主主義が支持されたように、戦後日本の価値観変容から戦後民主主義のあり方に疑念を抱いているのは、先の新左翼や吉本の例からも見られる通り、何も保守派の者ばかりではない。またこれら保守論者が批判しているのが「民主主義」そのものではなく「“戦後”民主主義」であることにも注目すべきであろう。「戦後民主主義」という言葉の定義自体が革新勢力と保守勢力とで異なっている、とも言える。",
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戦後民主主義(せんごみんしゅしゅぎ)は、第二次世界大戦後の日本において普及した民主主義思想・価値観の総称である。
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{{複数の問題|出典の明記=2009年4月|独自研究=2020-12}}
'''戦後民主主義'''(せんごみんしゅしゅぎ)は、[[第二次世界大戦]]後の[[日本]]において普及した[[民主主義]]思想・価値観の総称である。
== 概要 ==
戦後民主主義はしばしば[[戦前]]の[[大正デモクラシー]]と対比して使われる。この言葉は様々な文脈で用いられているが、「戦後民主主義」を説明する学問上の定説はまだ存在せず、その含意も使い手によって千差万別といってよいほど異なっている。ただし、戦後民主主義が尊重した共通の価値として、[[日本国憲法]]に示された[[国民主権]](主権在民)、[[平和主義]]、基本的[[人権]]の尊重が挙げられるだろう。その点で、戦後民主主義は日本国憲法を背景にしていたと言える。[[教育基本法]]も、日本国憲法と並んでこうした戦後民主主義の諸価値を擁護する役割を果たしていると言われる。
大正デモクラシーは[[天皇主権]]の[[大日本帝国憲法]]を民主主義的に解釈することに基づいていた(提唱者の[[吉野作造]]は政府の弾圧を避けるべく「民主主義」ではなく「[[民本主義]]」と呼んだ)ので、基本的人権は個人の生得の権利として規定されていなかった。つまり、ヨーロッパやアメリカで当然だった[[天賦人権説]]が日本には普及していなかった。また、[[議院内閣制]]も憲法上の規定がないため[[憲政の常道]]という概念で慣習的に実現していた。そのため、[[内閣総理大臣]]の指導性が確立しておらず、[[内閣 (日本)|内閣]]を構成する他の[[国務大臣]]を任意に[[罷免]]できない弱い立場であった。軍の最高[[指揮権]]([[統帥権]])は[[天皇]]に属し、内閣にはなかったため、統帥権を楯にした[[日本軍|軍部]]の暴走を抑える法的な力も内閣と議会にはなかった。
戦後民主主義は、国民主権(主権在民、国権の最高機関としての議会)や基本的人権を基本原則に持つことで、大正デモクラシーの弱点を克服したと言える。しかし、[[イギリス]]のように[[イギリスの議会|議会]]が力を蓄えて[[清教徒革命]]、[[名誉革命]]などの革命により[[王権]]を制限することによってこれらを確立したのではなく、第二次世界大戦での[[ポツダム宣言]]受諾・降伏文書調印後に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]影響下でなされた一連の改革により確立された([[封建制]]に対する[[明治維新]]同様、上から下された)ところに戦後民主主義の弱点やジレンマがあるとも言われる。特に戦後民主主義の批判者は、現憲法を「押し付け憲法」と批判するのは常である。しかし、この[[保守]]派からの批判に対して、論者によっては、[[軍国主義]]の一時期の日本が異常だったのであって、戦後は確かにアメリカの力を借りたものの、大正デモクラシー期に芽が出かけて、その後、軍国主義によって芽の摘まれた日本型民主主義が図らずも新憲法で実現されたとの見方もある。実際、戦前の[[国家主義|国家主義者]]であり[[社会主義|社会主義者]]([[国家社会主義|国家社会主義者]])であった[[北一輝]]が提起した問題が日本国憲法下で実現している側面などに着目すると、この主張もあながち荒唐無稽なものではないともいえる。
== 代表的人物 ==
いわゆる[[進歩的文化人]]とかなりの部分で重なり、戦後民主主義のオピニオン・リーダーと目される人物には、[[丸山眞男]]、[[川島武宜]]、[[大塚久雄]]、[[竹内好]]、[[鶴見俊輔]]、[[加藤周一]]などの学者や作家、評論家がいる。[[大江健三郎]]や[[大塚英志]]は戦後民主主義者を自認・自称し、特に大江はその代表のように見なされることもある。イメージ的にいえば、いわゆる[[岩波書店|岩波]]文化人、岩波知識人とも親和性がある。
== 沿革 ==
=== 戦後民主主義の発展 ===
日本が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による[[ポツダム宣言]]を受託してからGHQによる日本国政府を通した間接統治が始まった。この頃GHQによる[[民主化]]指令が数多く発せられ、急速な民主化が日本において進んだ。その中でも国民、マスメディアが注視した事柄に天皇の地位問題があった。日本の[[戦争責任]]が天皇に帰属するのかを含め、人々の関心を集めながら事は進んだ。1946年1月1日に[[昭和天皇]]は[[s:ja:https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B9%B4%E3%83%8B%E7%95%B6%E3%83%AA%E8%AA%93%E3%83%B2%E6%96%B0%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E5%9C%8B%E9%81%8B%E3%83%B2%E9%96%8B%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E6%AC%B2%E3%82%B9%E5%9C%8B%E6%B0%91%E3%83%8F%E6%9C%95%E3%83%88%E5%BF%83%E3%83%B2%E4%B8%80%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E6%AD%A4%E3%83%8E%E5%A4%A7%E6%A5%AD%E3%83%B2%E6%88%90%E5%B0%B1%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%88%E3%83%B2%E5%BA%B6%E5%B9%BE%E3%83%95|年頭詔書]]を発表し自身の神性を否定した上で従来肯定されてきた天皇を現人神とする考えは架空の観念であるとし、同時に国民と皇室の紐帯は「信頼と敬愛により結ばれる」とした。この[[詔書]]に[[ダグラス・マッカーサー]]は天皇が日本の民主化のために指導的役割を果たそうとしていることを褒め称え歓迎した。この頃より、GHQ側は日本の円滑な間接統治を遂行するためには天皇を利用するのが適当であると結論づけ、天皇に対する戦争責任の追及を止め、[[東京裁判]]にかけないことを決定した<ref>{{Cite book|和書|author=山本昭宏 |title=戦後民主主義 |publisher=中公新書 |date=2021-01-25}}</ref>。
=== 新憲法の制定 ===
[[日本の降伏|日本の敗戦]]直後の憲法学者に共通していた価値観として、憲法改正不要論があった。[[天皇機関説]]を唱え、[[貴族院 (日本)|貴族院]]を辞職した[[美濃部達吉]]もその論者であり次のように主張した、「[[民主主義]]の政治の実現は現在の憲法下でも十分可能であり、憲法の改正は決して現在の非常事態の元において即時に実行せねばならぬ程の急迫した問題ではないと確信する。」として憲法改正に否定的だった{{Sfn|山本昭宏|戦後民主主義|p=25}}。
しかし、GHQは首相である[[幣原喜重郎]]に憲法改正を示唆した。これをうけた幣原は憲法問題調査委員会を設置し改憲案を練った。この頃は官民のいかんを問わず改憲案が起草されている。1946年2月1日、憲法問題調査委員会憲法改正の試案が[[朝日新聞]]にスクープされた。このスクープが国民の世論を探る観測気球とみたGHQ民政局は同委員会に不満を抱き、マッカーサー三原則{{#tag:ref|1、天皇は国家の最上位に位置する。2、戦争の廃止、陸海空軍の不保持、交戦権の否定。3、封建制廃止、皇族を除く華族制度の廃止|group="注釈"|name=""}}を示した。{{Sfn|山本昭宏|戦後民主主義|P=26}}この三原則に基づいて起草された草案を日本政府に示した。この草案を受け入れられない場合は天皇の存在、保守勢力の今後は保証できないと通告したため、政府はこれを受け入れざるを得なくなり、憲法改正を[[大日本帝国憲法第73条]]に定められた改正手続きを踏まえて行なった。
この改正の動きについて[[毎日新聞]]の行った「戦争放棄条項は必要か」との世論調査にて賛成とする回答が70%、反対とする回答が28%だった。同時期に知識人らもこの戦争放棄条項について述べている。[[読売新聞社]]社長の馬場恒吾は
{{Quotation|現在の日本には交戦したくても交戦すべき武力がない事は事実であるがこの憲法は将来も日本国家がそうした武力を備えることを許さない。日本は無抵抗主義に徹底する覚悟を決めたのである。世界各国がもし日本と同じように覚悟を決めるならば、全世界は今日からでも完全な平和天国になるのである。|
「徹底した平和主義」 1946年3月8日}}とし、首相幣原は戦争調査会の冒頭の挨拶でこう述べた。
{{Quotation|戦争を放棄すると言うことは夢の理想である、現実の政策でないと考える人があるかもしれませぬ。しかし将来学術の進歩発達によりまして[[原子爆弾]]の数十倍、数百倍にも当たる破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保証することが出来ましょう。[中略] 今日我々は戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして国際政局の広漠なる野原を単独に進み行くのでありますけれども世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同 旗をかざして、遥か後方に付いてくる時代が現れるでありましょう。|(「戦争調査会第回総会に於ける幣原総裁の挨拶」)}}
日本国憲法の平和主義とりわけ[[日本国憲法第9条|第9条]]はのちに厳しい批判に晒されるが、当時の国民や有識者はこの理念に深い期待を寄せていたことがうかがえる。もちろん批判的な意見も存在した。貴族院議員の[[南原繁]]はこの理念を帝国議会憲法改正特別委員会において[[国際連合|国連]]加盟の条件に兵力の保有が含まれている事、他国に縋って生き延びようとするのはある種の諦めではないか<ref>第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会速記録第24号、1946年8月27日</ref>。と疑問を呈した。
また、同時進行で進められていた主権者としての天皇から象徴天皇への移行をどう考えるかの[[世論調査]]では85%が賛成とし、天皇の存在が国民に広く受け入れられている事を裏づけた。
これらを背景として戦争放棄条項、[[象徴天皇制]]などを含んだ憲法改正草案要が元となって「憲法改正草案」が[[帝国議会]]で審議された。まずは[[枢密院]]で審議された後に衆議院に送られた。その後[[衆議院]]で改正案は修正可決され、貴族院の修正可決を経て1946年10月7日に衆議院で確定した。確定した改正案は天皇の裁可を得て[[日本国憲法]]として公布された。
=== 新憲法への支持 ===
当時の国民はこの新憲法をおおむね肯定的に受け入れた。それが現れているのが毎日新聞が1946年12月16日に行った世論調査であり、同調査では[[吉田茂|吉田政権]]の施策について問うていて、同調査が行った10項目のうち最も評価されたのが憲法改正であった。憲法改正を「成功」とする回答が35%で「大体よろし」としたのが57%だった。
== 戦後民主主義に対する見解 ==
「戦後民主主義や近代[[立憲主義]]によって、日本人は共同体意識に根ざした良心を失い[[利己主義]]に走り、[[家父長制]]や純潔主義などの伝統文化も破壊された」との主張が保守的な論者から唱えられている。このような批判は、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が1955年11月に結党した際に綱領などで唱えたのを始め、[[1960年代]]には[[福田恆存]]ら保守系の人々の間で盛んに論じられた。
こうした論者は、戦後民主主義をしばしば「[[左翼]]」として批判する。確かに戦後民主主義は「左翼」と呼ばれる[[社会民主主義|社会民主主義者]]や[[共産主義|共産主義者]]の支持を受けている。しかし、戦後民主主義の支持者は、必ずしも社民主義や共産主義に賛同しているわけではなく、[[自由主義]]を支持している者もいる。
『[[文化防衛論]]』『[[果たし得ていない約束―私の中の二十五年]]』など、多くの評論で戦後民主主義を批判する[[三島由紀夫]]は、第二次世界大戦の敗戦により、それまでの「日本の連続的な文化的な価値、歴史的な価値、精神的な価値」のすべて一切が「悪い」ものと見なされて、「国民精神」(永い民族の歴史の中で日本人が培い、育ててきた伝統や文化の結晶)が一旦「御破算」となってしまい、それがその後多少は修正されたものの、すでに修正段階で「文化的価値」(国民精神)は、「政治的価値」(民主主義)よりも下位に置かれ、両者の間に「非常なギャップ」が出来てしまったとし、戦後民主主義から起こった近代的現象である大衆社会のことを、「全てを呑み尽くしてしまふ怪物のやうな恐ろしいもの」としている<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「我が国の自主防衛について」(第3回[[新政同志会]]青年政治研修会での講演 1970年9月3日)。{{Harvnb|36巻|2003-11|pp=319-347}}、音声は{{Harvnb|41巻|2004-09}}に所収。</ref>。そして、戦後大衆社会において第一に優先される価値観は、「お金を儲けて毎日を楽しく暮らすこと」であり、そのためならば、自分の国の大事な文化や財産であろうが「つまらなければ片つ端から捨ててしまふ」ということになってしまうと三島は危惧し<ref name="mishima"/>、徐々に「国民精神」が侵食された大衆が「政治に関心を持つ」という「体裁のいいこと」に関わり、真剣に考えずに、インテリらしく見えるというような気持ちで[[日本社会党]]に投票してみたり、[[日本共産党]]が支持する[[美濃部亮吉]]を都知事にしてしまう危うさを指摘した<ref name="mishima"/>。
また、より先鋭的な立場をとる[[日本の新左翼|新左翼]]は、平和主義や議会制民主主義といった戦後民主主義の価値観を攻撃する。特に1960年代後半から[[1970年代]]には、[[吉本隆明]]など反権威的な立場からの戦後民主主義批判が当時の若者から熱い支持を受けた。これらの新左翼がリードした[[日本の学生運動|学生運動]]の過激化の背景には、自由主義寄りの戦後民主主義と、それに迎合し穏健化した(と彼らがみなした)共産党や社会党への批判があった。
さらに、戦後民主主義を擁護する立場から「[[右翼]]」と称されて攻撃されている保守的意見にも、多様な見解があることを考慮する必要がある。革新勢力のみでなく自由主義者からも戦後民主主義が支持されたように、戦後日本の価値観変容から戦後民主主義のあり方に疑念を抱いているのは、先の新左翼や吉本の例からも見られる通り、何も保守派の者ばかりではない。またこれら保守論者が批判しているのが「民主主義」そのものではなく「“戦後”民主主義」であることにも注目すべきであろう。「戦後民主主義」という言葉の定義自体が革新勢力と保守勢力とで異なっている、とも言える。
また、戦後民主主義とは似て否なる概念として、[[戦後レジーム]]がある。こちらの方は「レジーム」であるから「枠組」という意味であって、戦後民主主義と全部が重ならないわけではないが、日本国憲法と[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保]]の両方をコインの裏表とする、戦後日本のおかれた(または選び取った)世界の中での日本の立ち位置を意味する。特徴は[[吉田茂]]の政治・外交路線であった軽武装・[[経済発展]]路線([[吉田ドクトリン]])である。こちらは、[[保守本流]]の価値観として改憲を事実上棚上げした[[池田勇人|池田内閣]]以降、確立していった。戦後の政治学の文脈でいう自民党内の「保守本流」とは、この吉田の選んだ路線を引き継いだ[[宏池会]]([[池田勇人]]を創設者として、[[前尾繁三郎]]-[[大平正芳]]-[[鈴木善幸]]-[[宮澤喜一]]へと至る系譜)を指しており、「保守本流」と戦後レジームは重なる。例えば戦後レジームの構築に戦後まもなくから関わってきた宮澤喜一などは有名な護憲派であったし、宏池会の系譜は基本的に護憲路線であった。その意味においては、戦後民主主義者と重なる部分も多かった。後述されている戦後民主主義の批判者は自らを保守と規定し、戦後民主主義者を「左翼」として批判するが、戦後レジームからの脱却を唱える人々の立場からすれば、この「戦後レジーム」すらも批判的に見なされるのが常である。ただし、繰り返しになるが「戦後民主主義」と「戦後レジーム」は似て非なる概念であり、多分に重なる部分があるとしても、その中心に位置するものは微妙に異なっている。
もともとは進歩的文化人・岩波文化人だった[[清水幾太郎]]は、戦後民主主義の価値体系は、戦前の[[治安維持法]]への復讐であり、[[丸山眞男]]がいう「悔恨共同体」の深層には、治安維持法への知識人の復讐感情「怨恨共同体」があったのだとする<ref>{{Cite book|和書|last=竹内|first=洋|authorlink=竹内洋|title=メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却|date=2012|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120044052|ref=harv}}、p301</ref>。
{{quotation|……戦後の「価値体系」、古い言い方では、戦後の「大義名分」、それは、「治安維持法への復讐」にあるような気が致します。是が非でも、天皇制を廃止して、共和制を実現しよう、是が非でも、資本主義を廃止して、社会主義や共産主義を実現しよう。これが、戦後思想の二大公理であるように思われます。}}
以下は、「戦後民主主義」に対する反対、批判的な立場の見解の例である。
* [[大日本帝国]]の国策をアンチテーゼとする民主主義、そのため戦前の社会風潮に対して否定的である。
* 日本国憲法、また[[日本国憲法第9条]](不戦条項)の完全な非武装無防備無抵抗(国の主権や祖国防衛・民族独立をも全否定)を絶対視する反戦全体主義[[イデオロギー]](国家の[[自衛権]]肯定、また国家あってこその国民という思想)。
* “個人の自由”を絶対視して、これを否定する集団や組織のあり方、ルール、決まりを基本的に悪とみなす「私」優先の社会潮流。([[辻創]]<!--(1949-2008)。料理人兼教育研究家-->)
* [[極東国際軍事裁判|東京裁判]]史観に基づいており、「日本の国家・官僚が行うことはすべてうす汚くて信用できない、[[出羽守|欧米では]]真の民主主義が花開いている」という命題が前提となっている民主主義([[桶谷秀昭]])。
* 戦後民主主義教育の東京裁判史観に基づいた歴史教育が[[自虐史観]]・[[反日主義]]として特徴付けられ、「事なかれ主義」「愛国心と民族の誇りの欠落」などの弊害を生んだ一因とされる民主主義。([[新しい歴史教科書をつくる会]]・[[日本会議]]など)
* いわゆる[[進歩的文化人]]に対する批判。
* 日本国民の多くが「戦後民主主義」を雰囲気的なものとしか受け止めず、自由と権利は享受するが責任や義務は果たそうとしないという見地。
* 「戦後民主主義」という言葉が知識人や教養人を示す一種のキャッチフレーズ、合言葉であり、その内実は厳密に問われること無く意味は薄いという批判。
* 「戦後民主主義」とは言いつつも、現状はブルジョア民主主義であるとし、さらなる革命を目指す立場。これは[[新左翼]]的な立場の人々に、この傾向が強く見られる。日本社会党、日本共産党を「戦後民主主義」体制を維持する補完物と規定しており、平和主義そのものを[[ブルジョワジー|ブルジョア]]的だとして批判している場合もある。
* 20世紀末から[[新自由主義]][[グローバリズム]]により社会が破綻していくと、戦後民主主義・リベラルは時代錯誤で空虚な綺麗事を述べるエリート特権階級と受け取られるようになり、若者世代は右傾化した。21世紀における[[ヘイトスピーチ]]の増加に、戦後民主主義への反感が一役買ったといわれる。同様の現象は韓国でも戦後民主主義を[[386世代]]に置き換えて起きている<ref>{{Cite journal|和書|author=金善映 |date=2017 |url=https://doi.org/10.11424/gscs.14.1_50 |title=インターネットにおけるヘイトスピーチと右傾化現象を読み解く -「2 ちゃんねる」と「イルベ」掲示板のユーザーはなぜ「左」では なく「右」を選択しているのか - |journal=国際情報研究 |ISSN=1884-2178 |publisher=日本国際情報学会 |volume=14 |issue=1 |pages=50-61 |doi=10.11424/gscs.14.1_50 |id={{CRID|1390282680489916928}}}}</ref>。
以下は「戦後民主主義」に対する賛成、肯定的な立場の見解の例である。
* [[日本人]]は長く封建制度に苦しめられてきたが、戦後、やっと個人が尊重される社会が実現された。
* 問題はあるとはいうものの、現憲法に明記されている、[[思想・良心の自由|思想信条の自由]]、[[学問の自由]]、良心の自由などの個人の内面に関する自由が認められ、戦前のような権力による思想弾圧や公権力の学問への介入、個人の内面に公権力が入り込むことがない世の中は戦後、初めて実現された。
* 日本が誤った戦争への反省から、平和主義を選び、国外で戦力を行使しないという道を選んだことで、国際社会で信用される国家となった。
* 自由、人権、平等などの諸価値は、人類普遍の価値であって、日本においては戦後、初めて全ての人に保障されるに至った。
* 幕府や明治政府のようにこれまで日本では中世、近世、近代と庶民が政権を選んだり、樹立することはなかったが、戦後になって初めて、政府は国民の選挙によって選ぶことができるようになった。
* 現憲法が保障する諸価値のおかげで圧倒的大多数の国民が解放され、自分の意思で学問をして職に就ける社会がきた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|date=2003-10|title=決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10|publisher=新潮社|isbn=978-4106425752|ref={{Harvid|35巻|2003-10}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-11|title=決定版 三島由紀夫全集36巻 評論11|publisher=新潮社|isbn=978-4106425769|ref={{Harvid|36巻|2003-11}}}}
*{{Citation|和書|date=2004-09|title=決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)|publisher=新潮社|isbn=978-4106425813|ref={{Harvid|41巻|2004-09}}}}
== 関連項目 ==
=== 戦後の思想家 ===
* [[鶴見俊輔]]
* [[吉本隆明]]
=== 「戦後民主主義」についての論者 ===
* [[大塚英志]]
* [[小熊英二]]
* [[加藤典洋]]
* [[佐伯啓思]]
* [[坂東眞砂子]]
* [[三砂ちづる]]
=== その他の項目 ===
* [[教育基本法]]
* [[戦後レジーム]]
* [[日本教職員組合]]
* [[全日本教職員組合]]
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[[Category:戦後日本の政治]]
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ウィキ
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ウィキ(wiki)とは、不特定多数のユーザーが共同してウェブブラウザから直接コンテンツを編集するシステム、またはそれを採用したウェブサイトである。一般的なウィキにおいては、コンテンツはマークアップ言語によって記述されるか、リッチテキストエディタによって編集される。
ウィキはウィキソフトウェア(ウィキエンジンとも呼ばれる)上で動作する。ウィキソフトウェアはコンテンツ管理システムの一種であるが、サイト所有者や特定のユーザーによってコンテンツが作られるわけではないという点において、ブログなど他のコンテンツ管理システムとは異なる。またウィキには固まったサイト構造というものはなく、サイトユーザーのニーズに沿って様々にサイト構造を作り上げることが可能であり、そうした点でも他のシステムとは異なっている。
ウィキウィキはハワイ語で「速い」を意味する形容詞の wikiwiki から来ており、ウィキのページの作成更新が迅速であることを表し、ウォード・カニンガムがホノルル国際空港内を走るシャトルバス "Wiki Wiki Shuttle" からとって "WikiWikiWeb" と命名したことに始まる。
ウィキのソフトウェアは、デザインパターンの共同体で、パターン言語を書くために創られた。1995年にウォード・カニンガムが確立したPortland Pattern Repositoryが初のウィキだった。カニンガムは、ウィキの概念を発明し名付け、ウィキエンジンの初の実装を製作した。元々のウィキだけが、(先頭が大文字のWiki)あるいはウィキウィキウェブと呼ばれるべきだと主張する人もいる。カニンガムのウィキ(Wards Wiki)はいまだに、最も人気のあるウィキサイトの一つである。
上記の通り、20世紀の最後の数年に、ウィキは公開、非公開を問わずのナレッジベースを開発するのに有望な技術であることが、ますます認知されるようになった。そしてこの潜在能力は、 Nupedia という百科事典プロジェクトにおける開祖ジンボ・ウェールズとラリー・サンガーに、ウィキ技術を電子百科事典の基礎として使うというひらめきを与えた。こうしてウィキペディアは、2001年の1月に始まった。初めはそれはUseModWikiを基にしていたが、後にいくつかの他のウィキから取り込まれた独自のオープンソースのコード基盤に切り替えられた。
今日においては、一番項目の多いウィキは英語版ウィキペディアといわれる。非英語のウィキペディアも世界でも比較的に大きい。しかし、2004年において世界で2番目に大きいウィキはUseModWikiというソフトを使うスウェーデン語のSusning.nuであったように、ウィキペディア以外にも大きなウィキは存在している。
ウィキでは通常、誰でも、ネットワーク上のどこからでも、文書の書き換えができるようになっている。そのため、共同作業で文書を作成するのに向いている。この特徴から、ウィキはコラボレーションツールやグループウェアであるとも評される。そして、学校でも使われている。貴重な脳細胞の無駄遣いを減らせる有用なツールであるとの評価もあり、プロジェクトマネージャが知るべきことの一つとしても挙げられることさえある。ソフトウェアとしては、初めに登場したプログラムに改良を加え、あるいはそれを参考にしたりして、現在では多くのウィキが出回っている。
WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)サーバを用いずにウィキを実現し、個人のメモなどとして手軽に利用できるようにしたシステムを「ローカルウィキ」という。その場合、ウェブブラウザではなく専用のアプリケーションソフトを用いるのが一般的である。エンジンの構築が不要というメリットがあるが、アプリケーションごとにマークアップ構文が異なるというデメリットも合わせ持つ。
多くのウィキに共通する特徴を以下に掲げる。
大抵のウィキはそれぞれ独自のマークアップ構文を持ち、ウィキの文書はその構文に従って記述され、そして文書ファイルとして保存される。また文書が閲覧されるときには、マークアップはウィキエンジンによって適切なHTMLに変換されて、ウェブブラウザはそのHTMLを表示することになる。簡単なウィキでは基本的なテキストのフォーマットのみが用意され、もっと複雑なウィキでは、表、画像、テンプレートによる定型文など、さらには投票やゲームまで実現するものもある。ただ、あまりに多様なので、標準化しようという動きがある。
(参考:国語辞典・漢和辞典・類義語辞典、三英傑#ホトトギスの喩え)
上の例では、HTMLでは <strong>〜</strong> タグを使って強調するところをウィキ構文では '''〜''' を使っていたり、ウィキ構文の二重角括弧で文部科学省|文科省という文字列を囲ったりすることで同じウィキ内の別の文書へのリンクに変換されているのが見て取れる。
HTML自体は高機能で、豊富な種類の要素を複雑に入れ子にしたり、見栄えを調整するスタイルシートなどを埋め込んだりすることもできる。一般的なウィキにおいては、これらの機能を制限することによって、個々のユーザーがスタイルを埋め込み、全体としての一貫性が崩れる可能性を回避している。また同時に、文書の見栄えではなく内容にフォーカスして投稿することができる。
さらに、発展的なウィキエンジンでは記事の編集に Ajax などで作られた WYSIWYG エディタを内蔵しているものもある。これにより、クライアントサイドでの編集を容易にすることができる。ブラウザ外部のフロントエンドツールを用いて編集を簡素化するツールも存在する。
ウィキは真のハイパーテキストメディアで、その読者を関係するページへと容易にナビゲーションをする構造を持つ。各ページは通常、他のページへの多数のリンクを含んでいる。より大きなウィキには、階層的なナビゲーションページがしばしば存在するが、必ずしも使われる必要はない。リンクは特定の構文、いわゆるリンクパターンを用いて作られる。
当初はほとんどのウィキがキャメルケースと呼ばれるリンクパターンを用いていた。キャメルケースはフレーズ内の単語の頭文字を大文字にし、それらの間のスペースを除いて生成される(キャメルケース("CamelCase")という単語自体がキャメルケースの例である)キャメルケースによりリンクが非常に容易になったが、それはまた標準的な綴りとかけ離れた形のリンクが書かれる結果を招いた。キャメルケースベースのWikiは "TableOfContents" や "BeginnerQuestions" などの名前のリンクが多いことで即座にそれとわかる。
キャメルケースはさまざまな欠点をもっていたため、MediaWikiではフリーリンクと呼ばれる、[[二重スクウェア・ブラケット]] (二重角括弧)で囲ってその代わりとした。このようなキャメルケースを使わないリンク方法はウィキの開発者に代替の解決策を探すよう促した。様々なウィキエンジンは []、{}、_ または / など他の文字をリンクパターンとして用いている。
ウィキで新しいページを作るには、厳密には他のページからリンクされることによって作られなければならない。リンクはトピックと関係のあるページ上に作成される。そのリンクが存在しないならば、それは何らかの方法で「壊れた」リンクとして強調されることが多い。そのリンクをたどるとページを編集する画面が開き、ユーザはその新しいページにテキストを入力することができる。この仕組みによって全くリンクされていないページが作られる割合は格段に落ち、高い関連性を持ったページ群が保持されることとなる。
また、ある一定のサイズより少ない量しか内容のない記事(スタブと呼ばれる)や、ある記事にリンクする全てのページを表示するようにすることもできる。
ウィキは、一般に「間違いを犯しにくくするのではなく、間違いを直しやすくする」という哲学に従っている。そのため、ウィキは、非常にオープンである一方で、ページの内容に関する最近の変更の妥当性を検証するための手段を備えている。
ほとんどすべてのウィキにある最も優れた機能は、直近に更新されたページのリスティングである。これは、最近の編集に番号を付けた詳細なリストか、あるいは決まった期間に行われた全ての編集のリストである。一部のウィキでは、些細な編集や自動インポートスクリプト (bots) による編集を、フィルタして表示しないようにすることも可能である。
大半のウィキでは、更新のログから二つの機能を利用することができる。一つは「改訂履歴」で、そのページの以前の版を見ることができる。もう一つは「差分」機能で、二つの版の差異を強調表示できるものである。改訂履歴を使うと、以前の版を開いたり保存したりすることができて、それによって、変更される前の内容へと復元することも可能である。差分機能は、ウィキの利用者が最近の更新ページにリストされた差分を見て、許容できない編集だった場合、それを昔のものに戻す必要があるか判断するのに使うことができる。この手順は、使っているウィキエンジンにも拠るが、多かれ少なかれ自動化されている。改版履歴を保存し、過去の任意の版へ戻す機能を提供するウィキエンジンも多い。
もし許容できない他人の編集が最近の更新のページから消えてしまっても、それをさらに追いかける機能を持っているウィキ・ソフトウェアもある。ウィキペディアで使われているMediaWikiははじめて「ウォッチリスト 」を備えたウィキで、自分が選択したページの最近の更新を見ることができる。
多くのウィキはユーザ登録を義務化することは避けているが、事実上すべての大きなウィキエンジンは、コミュニティのルールを常習的に破るユーザを制限するためのいくつかの方法を備えている。その最も一般的な方法は、ある特定のユーザの編集を禁止することである。これは特定のIPアドレスからのアクセスを禁止することで果たされる。しかしながら、多くのインターネットサービスプロバイダは、接続のたびに新たなIPアドレスを割り振るので、IPアドレスを用いたアクセス制限は比較的簡単にすり抜けられてしまう。また、無関係なユーザのアクセスを制限する結果になってしまうこともある。
小さなウィキでは、単に彼らにページを好きなだけ壊させて、破壊者が去った後にそのページをすぐに復旧することが戦術として採用されることが多い。この戦術は、大きなコミュニティの状況ではしばしば受け入れられないことがある。時限式の編集禁止措置が行われ、特定の範囲のIPアドレスから編集することを禁止する措置へと拡げられる場合もある。これを抑止力として破壊者がある期間内に編集が出来なくすることが可能となる。
さらに、いくつかのウィキはデータベースを読み出ししかできないモードに切り替えることができる。あるいは、期日までに登録されたユーザだけに編集を続けられるようにすることができる。しかし一般的に言えば、破壊者によるどんな損傷でもかなり早く復旧することが可能である。それよりも問題なのは、微妙な誤りがページの中に紛れ込み、他の人が気付かなくなっていくことである。
多くのウィキではある特定のページへの一切の編集を禁止することができる機能を備えている。MediaWikiの場合、ページの「保護」と呼ばれる。これを使うことは一般にウィキの基本哲学に反すると考えられるので、可能な限り避けるべきであるとされている。
大抵のウィキは、全文検索はなくても、少なくとも記事名の検索を提供している。検索の拡張性は、ウィキエンジンがデータベースを使っているか否かに強く依存する。データベースの索引呼び出し機能は大きなウィキでの高速検索に必須である。ウィキペディアでは、いわゆる表示ボタンで読者が検索条件を入力して、それにできるだけ合致するページを直接見られるようになっている。いくつかのウィキを同時に検索するためには、メタウィキ検索エンジンが作られた。
ウィキとして稼動するプログラムはウィキエンジンあるいはウィキクローンなどと呼ばれる。「ウィキクローン」という呼び名は、現在出回っている多くのウィキが、初めに登場した一つのプログラムに改良を加えたり参考にしたりして派生してきた経緯を表している。
ウィキのコンセプトは比較的シンプルであるため、現在では様々なウィキプログラムが作成されていて、中には、非常に単純な機能しかサポートしないとても小さなハッカー的実装から、高度に洗練されたコンテンツ管理システムまで、たくさんの実装が存在する。ウィキプログラムの多くはオープンソースのソフトウェアであり、TWikiやウィキペディアのような大きなプロジェクトは共同で開発されてきた。多くのウィキは高度にモジュール化されており、プログラマがコード全体を把握しなくても新しい機能を追加開発しやすいように、APIを備えている。
個人が開設したゲーム情報・攻略サイトが多くウィキのシステムを使ったことから、日本では「ゲーム攻略サイト=ウィキ」という誤用が発生し、そのまま一部で定着している。ゲームエイト、AppMedia、ファミ通Appなどのゲーム攻略サイトが、ウィキのシステムではなくコメント投稿機能程度しかない、管理者しかサイト・ページの編集ができないのに「攻略wiki」といった名称を使っている。
日本語用のサービスは2018年3月現在存在しないが、色々なウィキサイトへ連れて行ってくれる仮想的な"バスツアー"というものがある。単にそれは、参加する各々のウィキ上の「ツアーバス停」と呼ばれるページである。それは次のバス停へのリンク--基本的には、ウェブリングというようなものを持っている。各々のバス停のページは、そのウィキに関するいくらかの情報を示していて、どのウィキを探検するかを選ぶことができる(つまりバスを降りる)。あるいは、次のウィキへのツアーを続けても良い。
ゲーム特化
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"text": "ウィキウィキはハワイ語で「速い」を意味する形容詞の wikiwiki から来ており、ウィキのページの作成更新が迅速であることを表し、ウォード・カニンガムがホノルル国際空港内を走るシャトルバス \"Wiki Wiki Shuttle\" からとって \"WikiWikiWeb\" と命名したことに始まる。",
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"text": "ウィキのソフトウェアは、デザインパターンの共同体で、パターン言語を書くために創られた。1995年にウォード・カニンガムが確立したPortland Pattern Repositoryが初のウィキだった。カニンガムは、ウィキの概念を発明し名付け、ウィキエンジンの初の実装を製作した。元々のウィキだけが、(先頭が大文字のWiki)あるいはウィキウィキウェブと呼ばれるべきだと主張する人もいる。カニンガムのウィキ(Wards Wiki)はいまだに、最も人気のあるウィキサイトの一つである。",
"title": "歴史"
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"text": "上記の通り、20世紀の最後の数年に、ウィキは公開、非公開を問わずのナレッジベースを開発するのに有望な技術であることが、ますます認知されるようになった。そしてこの潜在能力は、 Nupedia という百科事典プロジェクトにおける開祖ジンボ・ウェールズとラリー・サンガーに、ウィキ技術を電子百科事典の基礎として使うというひらめきを与えた。こうしてウィキペディアは、2001年の1月に始まった。初めはそれはUseModWikiを基にしていたが、後にいくつかの他のウィキから取り込まれた独自のオープンソースのコード基盤に切り替えられた。",
"title": "歴史"
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"text": "今日においては、一番項目の多いウィキは英語版ウィキペディアといわれる。非英語のウィキペディアも世界でも比較的に大きい。しかし、2004年において世界で2番目に大きいウィキはUseModWikiというソフトを使うスウェーデン語のSusning.nuであったように、ウィキペディア以外にも大きなウィキは存在している。",
"title": "歴史"
},
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"text": "ウィキでは通常、誰でも、ネットワーク上のどこからでも、文書の書き換えができるようになっている。そのため、共同作業で文書を作成するのに向いている。この特徴から、ウィキはコラボレーションツールやグループウェアであるとも評される。そして、学校でも使われている。貴重な脳細胞の無駄遣いを減らせる有用なツールであるとの評価もあり、プロジェクトマネージャが知るべきことの一つとしても挙げられることさえある。ソフトウェアとしては、初めに登場したプログラムに改良を加え、あるいはそれを参考にしたりして、現在では多くのウィキが出回っている。",
"title": "用途"
},
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"text": "WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)サーバを用いずにウィキを実現し、個人のメモなどとして手軽に利用できるようにしたシステムを「ローカルウィキ」という。その場合、ウェブブラウザではなく専用のアプリケーションソフトを用いるのが一般的である。エンジンの構築が不要というメリットがあるが、アプリケーションごとにマークアップ構文が異なるというデメリットも合わせ持つ。",
"title": "用途"
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"text": "多くのウィキに共通する特徴を以下に掲げる。",
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"text": "大抵のウィキはそれぞれ独自のマークアップ構文を持ち、ウィキの文書はその構文に従って記述され、そして文書ファイルとして保存される。また文書が閲覧されるときには、マークアップはウィキエンジンによって適切なHTMLに変換されて、ウェブブラウザはそのHTMLを表示することになる。簡単なウィキでは基本的なテキストのフォーマットのみが用意され、もっと複雑なウィキでは、表、画像、テンプレートによる定型文など、さらには投票やゲームまで実現するものもある。ただ、あまりに多様なので、標準化しようという動きがある。",
"title": "ウィキの文書マークアップ構文"
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"text": "上の例では、HTMLでは <strong>〜</strong> タグを使って強調するところをウィキ構文では '''〜''' を使っていたり、ウィキ構文の二重角括弧で文部科学省|文科省という文字列を囲ったりすることで同じウィキ内の別の文書へのリンクに変換されているのが見て取れる。",
"title": "ウィキの文書マークアップ構文"
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"text": "HTML自体は高機能で、豊富な種類の要素を複雑に入れ子にしたり、見栄えを調整するスタイルシートなどを埋め込んだりすることもできる。一般的なウィキにおいては、これらの機能を制限することによって、個々のユーザーがスタイルを埋め込み、全体としての一貫性が崩れる可能性を回避している。また同時に、文書の見栄えではなく内容にフォーカスして投稿することができる。",
"title": "ウィキの文書マークアップ構文"
},
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"text": "さらに、発展的なウィキエンジンでは記事の編集に Ajax などで作られた WYSIWYG エディタを内蔵しているものもある。これにより、クライアントサイドでの編集を容易にすることができる。ブラウザ外部のフロントエンドツールを用いて編集を簡素化するツールも存在する。",
"title": "ウィキの文書マークアップ構文"
},
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"text": "ウィキは真のハイパーテキストメディアで、その読者を関係するページへと容易にナビゲーションをする構造を持つ。各ページは通常、他のページへの多数のリンクを含んでいる。より大きなウィキには、階層的なナビゲーションページがしばしば存在するが、必ずしも使われる必要はない。リンクは特定の構文、いわゆるリンクパターンを用いて作られる。",
"title": "リンクとページ作成"
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"text": "当初はほとんどのウィキがキャメルケースと呼ばれるリンクパターンを用いていた。キャメルケースはフレーズ内の単語の頭文字を大文字にし、それらの間のスペースを除いて生成される(キャメルケース(\"CamelCase\")という単語自体がキャメルケースの例である)キャメルケースによりリンクが非常に容易になったが、それはまた標準的な綴りとかけ離れた形のリンクが書かれる結果を招いた。キャメルケースベースのWikiは \"TableOfContents\" や \"BeginnerQuestions\" などの名前のリンクが多いことで即座にそれとわかる。",
"title": "リンクとページ作成"
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"text": "キャメルケースはさまざまな欠点をもっていたため、MediaWikiではフリーリンクと呼ばれる、[[二重スクウェア・ブラケット]] (二重角括弧)で囲ってその代わりとした。このようなキャメルケースを使わないリンク方法はウィキの開発者に代替の解決策を探すよう促した。様々なウィキエンジンは []、{}、_ または / など他の文字をリンクパターンとして用いている。",
"title": "リンクとページ作成"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "ウィキで新しいページを作るには、厳密には他のページからリンクされることによって作られなければならない。リンクはトピックと関係のあるページ上に作成される。そのリンクが存在しないならば、それは何らかの方法で「壊れた」リンクとして強調されることが多い。そのリンクをたどるとページを編集する画面が開き、ユーザはその新しいページにテキストを入力することができる。この仕組みによって全くリンクされていないページが作られる割合は格段に落ち、高い関連性を持ったページ群が保持されることとなる。",
"title": "リンクとページ作成"
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"text": "また、ある一定のサイズより少ない量しか内容のない記事(スタブと呼ばれる)や、ある記事にリンクする全てのページを表示するようにすることもできる。",
"title": "リンクとページ作成"
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"text": "ウィキは、一般に「間違いを犯しにくくするのではなく、間違いを直しやすくする」という哲学に従っている。そのため、ウィキは、非常にオープンである一方で、ページの内容に関する最近の変更の妥当性を検証するための手段を備えている。",
"title": "変更の管理"
},
{
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"text": "ほとんどすべてのウィキにある最も優れた機能は、直近に更新されたページのリスティングである。これは、最近の編集に番号を付けた詳細なリストか、あるいは決まった期間に行われた全ての編集のリストである。一部のウィキでは、些細な編集や自動インポートスクリプト (bots) による編集を、フィルタして表示しないようにすることも可能である。",
"title": "変更の管理"
},
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"text": "大半のウィキでは、更新のログから二つの機能を利用することができる。一つは「改訂履歴」で、そのページの以前の版を見ることができる。もう一つは「差分」機能で、二つの版の差異を強調表示できるものである。改訂履歴を使うと、以前の版を開いたり保存したりすることができて、それによって、変更される前の内容へと復元することも可能である。差分機能は、ウィキの利用者が最近の更新ページにリストされた差分を見て、許容できない編集だった場合、それを昔のものに戻す必要があるか判断するのに使うことができる。この手順は、使っているウィキエンジンにも拠るが、多かれ少なかれ自動化されている。改版履歴を保存し、過去の任意の版へ戻す機能を提供するウィキエンジンも多い。",
"title": "変更の管理"
},
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"text": "もし許容できない他人の編集が最近の更新のページから消えてしまっても、それをさらに追いかける機能を持っているウィキ・ソフトウェアもある。ウィキペディアで使われているMediaWikiははじめて「ウォッチリスト 」を備えたウィキで、自分が選択したページの最近の更新を見ることができる。",
"title": "変更の管理"
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"text": "多くのウィキはユーザ登録を義務化することは避けているが、事実上すべての大きなウィキエンジンは、コミュニティのルールを常習的に破るユーザを制限するためのいくつかの方法を備えている。その最も一般的な方法は、ある特定のユーザの編集を禁止することである。これは特定のIPアドレスからのアクセスを禁止することで果たされる。しかしながら、多くのインターネットサービスプロバイダは、接続のたびに新たなIPアドレスを割り振るので、IPアドレスを用いたアクセス制限は比較的簡単にすり抜けられてしまう。また、無関係なユーザのアクセスを制限する結果になってしまうこともある。",
"title": "ユーザ管理"
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"text": "小さなウィキでは、単に彼らにページを好きなだけ壊させて、破壊者が去った後にそのページをすぐに復旧することが戦術として採用されることが多い。この戦術は、大きなコミュニティの状況ではしばしば受け入れられないことがある。時限式の編集禁止措置が行われ、特定の範囲のIPアドレスから編集することを禁止する措置へと拡げられる場合もある。これを抑止力として破壊者がある期間内に編集が出来なくすることが可能となる。",
"title": "ユーザ管理"
},
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"text": "さらに、いくつかのウィキはデータベースを読み出ししかできないモードに切り替えることができる。あるいは、期日までに登録されたユーザだけに編集を続けられるようにすることができる。しかし一般的に言えば、破壊者によるどんな損傷でもかなり早く復旧することが可能である。それよりも問題なのは、微妙な誤りがページの中に紛れ込み、他の人が気付かなくなっていくことである。",
"title": "ユーザ管理"
},
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"text": "多くのウィキではある特定のページへの一切の編集を禁止することができる機能を備えている。MediaWikiの場合、ページの「保護」と呼ばれる。これを使うことは一般にウィキの基本哲学に反すると考えられるので、可能な限り避けるべきであるとされている。",
"title": "ユーザ管理"
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"tag": "p",
"text": "大抵のウィキは、全文検索はなくても、少なくとも記事名の検索を提供している。検索の拡張性は、ウィキエンジンがデータベースを使っているか否かに強く依存する。データベースの索引呼び出し機能は大きなウィキでの高速検索に必須である。ウィキペディアでは、いわゆる表示ボタンで読者が検索条件を入力して、それにできるだけ合致するページを直接見られるようになっている。いくつかのウィキを同時に検索するためには、メタウィキ検索エンジンが作られた。",
"title": "検索"
},
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"text": "ウィキとして稼動するプログラムはウィキエンジンあるいはウィキクローンなどと呼ばれる。「ウィキクローン」という呼び名は、現在出回っている多くのウィキが、初めに登場した一つのプログラムに改良を加えたり参考にしたりして派生してきた経緯を表している。",
"title": "ソフトウェアとしてのウィキ"
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"text": "ウィキのコンセプトは比較的シンプルであるため、現在では様々なウィキプログラムが作成されていて、中には、非常に単純な機能しかサポートしないとても小さなハッカー的実装から、高度に洗練されたコンテンツ管理システムまで、たくさんの実装が存在する。ウィキプログラムの多くはオープンソースのソフトウェアであり、TWikiやウィキペディアのような大きなプロジェクトは共同で開発されてきた。多くのウィキは高度にモジュール化されており、プログラマがコード全体を把握しなくても新しい機能を追加開発しやすいように、APIを備えている。",
"title": "ソフトウェアとしてのウィキ"
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"text": "個人が開設したゲーム情報・攻略サイトが多くウィキのシステムを使ったことから、日本では「ゲーム攻略サイト=ウィキ」という誤用が発生し、そのまま一部で定着している。ゲームエイト、AppMedia、ファミ通Appなどのゲーム攻略サイトが、ウィキのシステムではなくコメント投稿機能程度しかない、管理者しかサイト・ページの編集ができないのに「攻略wiki」といった名称を使っている。",
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"text": "日本語用のサービスは2018年3月現在存在しないが、色々なウィキサイトへ連れて行ってくれる仮想的な\"バスツアー\"というものがある。単にそれは、参加する各々のウィキ上の「ツアーバス停」と呼ばれるページである。それは次のバス停へのリンク--基本的には、ウェブリングというようなものを持っている。各々のバス停のページは、そのウィキに関するいくらかの情報を示していて、どのウィキを探検するかを選ぶことができる(つまりバスを降りる)。あるいは、次のウィキへのツアーを続けても良い。",
"title": "ウィキバスツアー"
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"text": "ゲーム特化",
"title": "ウィキ・コミュニティ"
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] |
ウィキ(wiki)とは、不特定多数のユーザーが共同してウェブブラウザから直接コンテンツを編集するシステム、またはそれを採用したウェブサイトである。一般的なウィキにおいては、コンテンツはマークアップ言語によって記述されるか、リッチテキストエディタによって編集される。 ウィキはウィキソフトウェア(ウィキエンジンとも呼ばれる)上で動作する。ウィキソフトウェアはコンテンツ管理システムの一種であるが、サイト所有者や特定のユーザーによってコンテンツが作られるわけではないという点において、ブログなど他のコンテンツ管理システムとは異なる。またウィキには固まったサイト構造というものはなく、サイトユーザーのニーズに沿って様々にサイト構造を作り上げることが可能であり、そうした点でも他のシステムとは異なっている。 ウィキウィキはハワイ語で「速い」を意味する形容詞の wikiwiki から来ており、ウィキのページの作成更新が迅速であることを表し、ウォード・カニンガムがホノルル国際空港内を走るシャトルバス "Wiki Wiki Shuttle" からとって "WikiWikiWeb" と命名したことに始まる。
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{{混同|x1=ウィキシステムを使用したオンライン百科事典|ウィキペディア}}
{{言葉を濁さない|date=2016年7月}}
[[ファイル:Ward_Cunningham_-_Commons-1.jpg|thumb|214px|right|世界初のウィキを開発した[[ウォード・カニンガム]]]]
[[ファイル:WikiWiki.jpg|thumb|right|200px|[[ハワイ語]]の {{lang|haw|Wiki Wiki}} という表示。ここでは[[ダニエル・K・イノウエ国際空港]]([[ハワイ]]・[[ホノルル]])の[[シャトルバス]]の名前。]]
[[File:Wikiwiki2008.JPG|thumb|right|200px|[[ウィキウィキシャトル]]]]
'''ウィキ'''(wiki)とは、不特定多数のユーザーが共同して[[ウェブブラウザ]]から直接コンテンツを編集するシステム、またはそれを採用した[[ウェブサイト]]である。一般的なウィキにおいては、[[コンテンツ]]は[[マークアップ言語]]によって記述されるか、[[リッチテキスト|リッチテキストエディタ]]によって編集される<ref name="Britannica">{{citation|title=wiki|encyclopedia=[[Encyclopædia Britannica]]|volume=1|publisher=[[Encyclopædia Britannica, Inc.]]|year=2007|location=London|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/1192819/wiki|accessdate=April 10, 2008|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080424074513/http://www.britannica.com/EBchecked/topic/1192819/wiki|archivedate=April 24, 2008|df=mdy-all}}</ref>。
ウィキは[[ウィキソフトウェア]](ウィキエンジンとも呼ばれる)上で動作する。[[ウィキソフトウェア]]は[[コンテンツ管理システム]]の一種であるが、サイト所有者や特定のユーザーによってコンテンツが作られるわけではないという点において、[[ブログ]]など他のコンテンツ管理システムとは異なる。またウィキには固まったサイト構造というものはなく、サイトユーザーのニーズに沿って様々にサイト構造を作り上げることが可能であり、そうした点でも他のシステムとは異なっている<ref name="Easy Wiki Hosting">{{citation |url=http://msdn.microsoft.com/en-us/magazine/cc700339.aspx |title=Easy Wiki Hosting, Scott Hanselman's blog, and Snagging Screens |date=July 2008 |last=Mitchell |first=Scott |publisher=MSDN Magazine |accessdate=March 9, 2010 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100316192702/http://msdn.microsoft.com/en-us/magazine/cc700339.aspx |archivedate=March 16, 2010 |df=mdy-all }}</ref>。
ウィキウィキは[[ハワイ語]]で「速い」を意味する[[形容詞]]の [[Wikt:wikiwiki|wikiwiki]] から来ており、ウィキの[[ウェブページ|ページ]]の作成更新が迅速であることを表し、[[ウォード・カニンガム]]が[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル国際空港]]内を走る[[シャトルバス]] "[[ウィキウィキシャトル|Wiki Wiki Shuttle]]" からとって "[[:en:WikiWikiWeb|WikiWikiWeb]]" と命名したことに始まる。
{{wiktionary|ウィキ}}
== 歴史 ==
[[File:Ward Cunningham, Inventor of the Wiki.webm|thumb|[[ウォード・カニンガム]]のインタビュー]]
ウィキの[[ソフトウェア]]は、[[デザインパターン (ソフトウェア)|デザインパターン]]の共同体で、[[パターン言語]]を書くために創られた。[[1995年]]に[[ウォード・カニンガム]]が確立したPortland Pattern Repositoryが初のウィキだった。カニンガムは、ウィキの概念を発明し名付け、ウィキエンジンの初の実装を製作した。元々のウィキだけが、(先頭が大文字のWiki)あるいはウィキウィキウェブと呼ばれるべきだと主張する人もいる。カニンガムのウィキ([http://www.c2.com/cgi/wiki?WelcomeVisitors Wards Wiki])はいまだに、最も人気のあるウィキサイトの一つである。
上記の通り、[[20世紀]]の最後の数年に、ウィキは公開、非公開を問わずの[[ナレッジベース]]を開発するのに有望な技術であることが、ますます認知されるようになった。そしてこの潜在能力は、 [[Nupedia]] という百科事典プロジェクトにおける開祖[[ジミー・ウェールズ|ジンボ・ウェールズ]]と[[ラリー・サンガー]]に、ウィキ技術を電子百科事典の基礎として使うというひらめきを与えた。こうして[[ウィキペディア]]は、[[2001年]]の1月に始まった。初めはそれは[[UseModWiki]]を基にしていたが、後にいくつかの他のウィキから取り込まれた{{要説明|date=2020年10月2日 (金) 12:25 (UTC)}}独自のオープンソースのコード基盤に切り替えられた。
今日においては、一番項目の多いウィキは[[英語版ウィキペディア]]といわれる。非英語のウィキペディアも世界でも比較的に大きい。しかし、[[2004年]]において世界で2番目に大きいウィキはUseModWikiというソフトを使う[[スウェーデン語]]の[[:en:Susning.nu|Susning.nu]]であったように、ウィキペディア以外にも大きなウィキは存在している。
== 用途 ==
ウィキでは通常、誰でも、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上のどこからでも、[[文書]]の書き換えができるようになっている。そのため、[[協働|共同作業]]で文書を作成するのに向いている。この特徴から、ウィキは[[コラボレーション]][[ユーティリティソフトウェア|ツール]]や[[グループウェア]]であるとも評される<ref>[https://www.ibm.com/developerworks/jp/opensource/library/os-social-mediawiki/ ウィキ・ソフトウェアを理解する]</ref>。そして、学校でも使われている。貴重な[[脳細胞]]の無駄遣いを減らせる有用なツールであるとの評価もあり、[[プロジェクトマネージャ]]が知るべきことの一つとしても挙げられることさえある<ref>[[s:プロジェクト・マネジャーが知るべき97のこと/Wikiを使う]]</ref>。[[ソフトウェア]]としては、初めに登場した[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]に改良を加え、あるいはそれを参考にしたりして、現在では多くのウィキが出回っている。
[[World Wide Web|WWW]](ワールド・ワイド・ウェブ)サーバを用いずにウィキを実現し、個人の[[メモ]]などとして手軽に利用できるようにしたシステムを「ローカルウィキ」という。その場合、ウェブブラウザではなく専用の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーションソフト]]を用いるのが一般的である。[[#ソフトウェアとしてのウィキ|エンジン]]の構築が不要というメリットがあるが、アプリケーションごとに[[マークアップ言語|マークアップ構文]]が異なるというデメリットも合わせ持つ。
== 主な特徴 ==
多くのウィキに共通する特徴を以下に掲げる。
* [[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上のどこからでも、いつでも誰でも文書を書き換えることができる。
* 文書の書き換えに最低限必要なツールはウェブブラウザのみである。
* ウィキ特有の文書マークアップは[[HyperText Markup Language|HTML]]などと比べて簡潔であることが多いため覚えやすい。
* 同じウィキ内の文書間に[[ハイパーリンク|リンク]]が張りやすくなっており、個々の文書が高度に連携した文書群を作成しやすい。
* 大抵は、変更の事前許可を必要とせず、ウィキのある[[サーバ]]に接続できる人に開かれている。実際、ユーザ[[アカウント]]の登録を必要としていないところも多い。
* 容易な編集を妨げないように、更新履歴や差分管理を搭載しているものも多い。
== ウィキの文書マークアップ構文 ==
{{WikipediaPage|[[ウィキペディア]](および[[MediaWiki]])のマークアップについては[[Help:ページの編集#マークアップ]]を参照}}
{{See also|ウィキマークアップ}}
大抵のウィキはそれぞれ独自のマークアップ構文を持ち、ウィキの文書はその構文に従って記述され、そして文書ファイルとして保存される。また文書が閲覧されるときには、マークアップはウィキエンジンによって適切なHTMLに変換されて、ウェブブラウザはそのHTMLを表示することになる。簡単なウィキでは基本的なテキストのフォーマットのみが用意され、もっと複雑なウィキでは、[[テーブル (情報)|表]]、[[画像]]、[[テンプレート]]による定型文など、さらには[[投票]]や[[ゲーム]]まで実現するものもある。ただ、あまりに多様なので、標準化しようという動きがある。{{要出典|date=2020年10月2日 (金) 12:25 (UTC)}}
=== マークアップ構文とHTMLへの変換例 ===
{|class="wikitable" style="font-size:smaller"
!MediaWikiの構文
!変換後のHTML
!表示例
|-
|<code><nowiki>[[文部科学省|文科省]]</nowiki></code>
|<syntaxhighlight lang="html"><a href="/wiki/文部科学省" title="文部科学省">文科省</a></syntaxhighlight>
|[[文部科学省|文科省]]
|-
|<code><br>*国語辞典<br>*漢和辞典<br>*類義語辞典<br></code>
|<syntaxhighlight lang="html"><ul><li>国語辞典</li><li>漢和辞典</li><li>類義語辞典</li></ul></syntaxhighlight>
|
* 国語辞典
* 漢和辞典
* 類義語辞典
|-
|-
|<code><nowiki>鳴かぬなら、''鳴くまで待とう''、ホトトギス</nowiki></code>
|<syntaxhighlight lang="html">鳴かぬなら、<i>鳴くまで待とう</i>、ホトトギス</syntaxhighlight>
|鳴かぬなら、''鳴くまで待とう''、ホトトギス
|-
|<code><nowiki>鳴かぬなら、'''鳴くまで待とう'''、ホトトギス</nowiki></code>
|<syntaxhighlight lang="html">鳴かぬなら、<strong>鳴くまで待とう</strong>、ホトトギス</syntaxhighlight>
|鳴かぬなら、'''鳴くまで待とう'''、ホトトギス
|}
(参考:[[国語辞典]]・[[漢和辞典]]・[[類義語辞典]]、[[三英傑#ホトトギスの喩え]])
上の例では、HTMLでは <code><nowiki><strong>〜</strong></nowiki></code> [[HTMLタグ|タグ]]を使って強調するところをウィキ構文では <code><nowiki>'''〜'''</nowiki></code> を使っていたり、ウィキ構文の二重[[角括弧]]で<code>文部科学省|文科省</code>という文字列を囲ったりすることで同じウィキ内の別の文書へのリンクに変換されているのが見て取れる。
HTML自体は高機能で、豊富な種類の要素を複雑に[[ネスティング|入れ子]]にしたり、見栄えを調整する[[スタイルシート]]などを埋め込んだりすることもできる。一般的なウィキにおいては、これらの機能を制限することによって、個々のユーザーがスタイルを埋め込み、全体としての一貫性が崩れる可能性を回避している。また同時に、文書の見栄えではなく内容にフォーカスして投稿することができる。
さらに、発展的なウィキエンジンでは記事の編集に<!--[[ActiveXコントロール|{{lang|en|ActiveX}}コントロール]]や--> {{lang|en|[[Ajax]]}} などで作られた {{lang|en|[[WYSIWYG]]}} エディタを内蔵しているものもある。これにより、[[クライアントサイド]]での編集を容易にすることができる。ブラウザ外部の[[フロントエンド]]ツールを用いて編集を簡素化するツールも存在する。
== リンクとページ作成 ==
ウィキは真の[[ハイパーテキスト]]メディアで、その読者を関係するページへと容易にナビゲーションをする構造を持つ。各ページは通常、他のページへの多数のリンクを含んでいる。より大きなウィキには、階層的なナビゲーションページがしばしば存在するが、必ずしも使われる必要はない。リンクは特定の構文、いわゆるリンクパターンを用いて作られる。
当初はほとんどのウィキが[[キャメルケース]]と呼ばれるリンクパターンを用いていた。キャメルケースはフレーズ内の単語の頭文字を大文字にし、それらの間のスペースを除いて生成される(キャメルケース("{{Lang|en|CamelCase}}")という単語自体がキャメルケースの例である)キャメルケースによりリンクが非常に容易になったが、それはまた標準的な綴りとかけ離れた形のリンクが書かれる結果を招いた。キャメルケースベースのWikiは "TableOfContents" や "BeginnerQuestions" などの名前のリンクが多いことで即座にそれとわかる。
キャメルケースはさまざまな欠点をもっていたため、[[MediaWiki]]ではフリーリンクと呼ばれる、<code><nowiki>[[二重スクウェア・ブラケット]]</nowiki></code> (二重角括弧)で囲ってその代わりとした。このようなキャメルケースを使わないリンク方法はウィキの開発者に代替の解決策を探すよう促した。様々なウィキエンジンは <code>[]</code>、<code>{}</code>、<code>_</code> または <code>/</code> など他の文字をリンクパターンとして用いている。<!-- MediaWikiだけの話?: 異なったウィキ[[コミュニティ]]間のリンクはInterWikiと呼ばれる特別なリンク方法を用いることで実現が可能となる。 -->
ウィキで新しいページを作るには、厳密には他のページからリンクされることによって作られなければならない。リンクはトピックと関係のあるページ上に作成される。そのリンクが存在しないならば、それは何らかの方法で「壊れた」リンクとして強調されることが多い。そのリンクをたどるとページを編集する画面が開き、ユーザはその新しいページにテキストを入力することができる。この仕組みによって全くリンクされていないページが作られる割合は格段に落ち、高い関連性を持ったページ群が保持されることとなる。
また、ある一定のサイズより少ない量しか内容のない記事([[Wikipedia:スタブ|スタブ]]と呼ばれる)や、ある記事に[[ハイパーリンク|リンク]]する全てのページを表示するようにすることもできる。
== 変更の管理 ==
ウィキは、一般に「間違いを犯しにくくするのではなく、間違いを直しやすくする」という[[哲学]]に従っている。そのため、ウィキは、非常にオープンである一方で、ページの内容に関する最近の変更の妥当性を検証するための手段を備えている。
ほとんどすべてのウィキにある最も優れた機能は、直近に更新されたページのリスティングである。これは、最近の編集に番号を付けた詳細なリストか、あるいは決まった期間に行われた全ての編集のリストである。一部のウィキでは、些細な編集や自動インポート[[スクリプト]] (bots) による編集を、フィルタして表示しないようにすることも可能である。
大半のウィキでは、更新のログから二つの機能を利用することができる。一つは「'''改訂履歴'''」で、そのページの以前の版を見ることができる。もう一つは「'''差分'''」機能で、二つの版の差異を強調表示できるものである。改訂履歴を使うと、以前の版を開いたり保存したりすることができて、それによって、変更される前の内容へと復元することも可能である。差分機能は、ウィキの利用者が最近の更新ページにリストされた差分を見て、許容できない編集だった場合、それを昔のものに戻す必要があるか判断するのに使うことができる。この手順は、使っているウィキエンジンにも拠るが、多かれ少なかれ自動化されている。改版履歴を保存し、過去の任意の版へ戻す機能を提供するウィキエンジンも多い。
もし許容できない他人の編集が最近の更新のページから消えてしまっても、それをさらに追いかける機能を持っているウィキ・ソフトウェアもある。[[ウィキペディア]]で使われている[[MediaWiki]]ははじめて「[[ウォッチリスト]] 」を備えたウィキで、自分が選択したページの最近の更新を見ることができる。
== ユーザ管理 ==
多くのウィキはユーザ登録を義務化することは避けているが、事実上すべての大きなウィキエンジンは、コミュニティのルールを常習的に破るユーザを制限するためのいくつかの方法を備えている。その最も一般的な方法は、ある特定のユーザの編集を禁止することである。これは特定の[[IPアドレス]]からの[[アクセス制限|アクセスを禁止]]することで果たされる。しかしながら、多くの[[インターネットサービスプロバイダ]]は、接続のたびに新たなIPアドレスを割り振るので、IPアドレスを用いたアクセス制限は比較的簡単にすり抜けられてしまう。また、無関係なユーザのアクセスを制限する結果になってしまうこともある。
小さなウィキでは、単に彼らにページを好きなだけ壊させて、破壊者が去った後にそのページをすぐに復旧することが戦術として採用されることが多い。この戦術は、大きなコミュニティの状況ではしばしば受け入れられないことがある。時限式の編集禁止措置が行われ、[[CIDR|特定の範囲]]のIPアドレスから編集することを禁止する措置へと拡げられる場合もある。これを抑止力として破壊者がある期間内に編集が出来なくすることが可能となる。
さらに、いくつかのウィキは[[データベース]]を読み出ししかできないモードに切り替えることができる。あるいは、期日までに登録されたユーザだけに編集を続けられるようにすることができる。しかし一般的に言えば、破壊者によるどんな損傷でもかなり早く復旧することが可能である。それよりも問題なのは、微妙な誤りがページの中に紛れ込み、他の人が気付かなくなっていくことである。
多くのウィキではある特定のページへの一切の編集を禁止することができる機能を備えている。MediaWikiの場合、ページの「[[Wikipedia:保護|保護]]」と呼ばれる。これを使うことは一般にウィキの基本哲学に反すると考えられるので、可能な限り避けるべきであるとされている。
== 検索 ==
[[File:Wikipedia screenshot on Nexus 9 20141121.jpg|thumb|ウィキペディアの検索]]
大抵のウィキは、全文検索はなくても、少なくとも記事名の[[検索]]を提供している。検索の拡張性は、ウィキエンジンが[[データベース]]を使っているか否かに強く依存する。データベースの索引呼び出し機能は大きなウィキでの高速検索に必須である。ウィキペディアでは、いわゆる表示ボタンで読者が検索条件を入力して、それにできるだけ合致するページを直接見られるようになっている。いくつかのウィキを同時に検索するためには、メタウィキ検索エンジンが作られた。
== ソフトウェアとしてのウィキ ==
{{Main|ウィキソフトウェア}}
ウィキとして稼動するプログラムは'''ウィキエンジン'''あるいは'''ウィキクローン'''などと呼ばれる。「ウィキクローン」という呼び名は、現在出回っている多くのウィキが、初めに登場した一つの[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]に改良を加えたり参考にしたりして派生してきた経緯を表している。
ウィキのコンセプトは比較的シンプルであるため、現在では様々なウィキプログラムが作成されていて、中には、非常に単純な機能しかサポートしないとても小さな[[ハッカー]]的実装から、高度に洗練されたコンテンツ管理システムまで、たくさんの実装が存在する。ウィキプログラムの多くは[[オープンソース]]のソフトウェアであり、TWikiや[[ウィキペディア]]のような大きなプロジェクトは共同で開発されてきた。多くのウィキは高度に[[モジュール]]化されており、[[プログラマ]]がコード全体を把握しなくても新しい機能を追加開発しやすいように、[[Application Programming Interface|API]]を備えている。
== 日本における「ゲーム攻略情報サイト」という意味でのウィキ ==
個人が開設したゲーム情報・攻略サイトが多くウィキのシステムを使ったことから、日本では「ゲーム攻略サイト=ウィキ」という誤用が発生し、そのまま一部で定着している。[[ゲームエイト]]、[[AppMedia]]、[[ファミ通|ファミ通App]]などのゲーム攻略サイトが、ウィキのシステムではなくコメント投稿機能程度しかない、管理者しかサイト・ページの編集ができないのに「攻略wiki」といった名称を使っている。
== ウィキバスツアー ==
日本語用のサービスは2018年3月現在存在しないが、色々なウィキサイトへ連れて行ってくれる仮想的な"バスツアー"というものがある。単にそれは、参加する各々のウィキ上の「ツアーバス停」と呼ばれるページである。それは次のバス停へのリンク--基本的には、[[ウェブリング]]というようなものを持っている。各々のバス停のページは、そのウィキに関するいくらかの情報を示していて、どのウィキを探検するかを選ぶことができる(つまりバスを降りる)。あるいは、次のウィキへのツアーを続けても良い。
== ウィキ・コミュニティ ==
* [http://meatballwiki.org/wiki/BiggestWiki Biggest wikis]
* [http://www.worldwidewiki.net/wiki/OneBigWikiAlphabeticalIndexA WorldWideWiki: SwitchWiki - Most complete index]
* [[:en:Asian Open Source Centre]]
* [[:en:CapitanCook]] - travel information
* [[:en:Cunnan]] - medieval recreation and the [[:en:Society for Creative Anachronism]]
* [[:en:DarwinWiki]] - [[:en:Darwinism]]
* [[:en:Disinfopedia]] - ''about'' [[:en:propaganda]]
* [[:en:EvoWiki]] [http://www.evowiki.org/] - [[:en:Evolution]]
* [[:en:Green Light Wiki]]
* [[:en:Grubstreet]] <ref>[http://grault.net/grubstreet/index.pl]{{リンク切れ|date=2010年3月}}</ref> - the Open Community Guide to London
* [[:en:infoAnarchy wiki]] - [[:en:intellectual property]], [[:en:anarchism]], [[:en:politics]]
* [[Javapedia]] - [[Javaプラットフォーム|Java]]に関する情報を集める[[百科事典]]
* [[Wikisource]]
* [[:en:MeatballWiki]] - [[:en:online communities]]
* [[:en:OpenFacts]]
* [[:en:Personal Telco]]
* [[:en:This Might Be A Wiki]] - band [[:en:They Might Be Giants]]
* [[MediaWiki]]
** [[ウィキメディア財団]]系
*** [[ウィキペディア]] - [[インターネット百科事典]] - この記事の[[オリジナル]]が掲載・編集されている場所。
*** [[ウィクショナリー]] - [[辞典]]
*** [[ウィキニュース]] - [[ニュースサイト]]
*** [[ウィキクォート]] - [[引用]]集
*** [[ウィキブックス]] - [[教科書]]
** [[アンサイクロペディア]]
** [[ウィキトラベル]] - [[旅行]]、[[観光]][[マニュアル|ガイド]]
* [http://sknkwrks.dyndns.org:1957/writewiki/wiki.pl Ypsilanti Eyeball] - [[:en:Ypsilanti, Michigan]]'s own user maintained wiki
* {{Ill|LocalWiki|en|LocalWiki}}
=== サービス提供型コミュニティ ===
==== 日本語対応 ====
<!-- Google検索数の多い順に並べ替え 2010/11/15 site:URL -->
* [[@wiki|@Wiki]] (独自エンジン、[[PukiWiki]]と似ている)<!-- 9,040,000 件 -->
* [[FC2WIKI]] (独自エンジン、[[FC2]])<!-- 402,000 件 -->
* [https://wikiwiki.jp/ WIKIWIKI.jp] (PukiWiki Plus!)<!-- 301,000 件 -->
* [[Seesaa Wiki]] (独自エンジン、[[Seesaa]])<!-- 159,000 件 -->
* [[Wiki3]] (独自エンジン、[[@wiki]]と似ている)
* [[WikiHouse (レンタルWiki)|WikiHouse]] [https://www.wikihouse.com/] (PukiWiki)<!-- 28,400 件 -->
* [http://wiki.fdiary.net/ fdiary.net] ([[wikifarm]])<!-- 3,570 件 -->
* [[CSwiki]] [http://cswiki.jp/] (PukiWiki)
* [[Google サイト]]([[Google Sites]]) (独自エンジン、[[グーグル]])
* [[Hive Wiki]] [https://wiki.bit-hive.com/] (独自エンジン、[[ビットハイブ]])
* [[ZohoWiki]] ([[Zoho]]社)
<!-- * [[fdiary]] (Hiki) -->
'''ゲーム特化'''
* [http://gamedb.info/ Gamedb] (PukiWiki/PukiWiki Plus!)<!-- 30,800 件 -->
* [[Gamerch Wiki]] (i2i提供)
* [[Gamepedia]]
==== その他 ====
* [[ウィキア]] (MediaWiki)
==== 閉鎖 ====
* [[MyWiki]] (独自エンジン。リンク切れで終了)<!-- 736,000 件 -->
* FSWiki.com ([[FreeStyleWiki]])<!-- 1,490 件 -->
* MfaceWIKI (独自エンジン)
* WikiRoom (閉鎖)
== ウィキ類似システム ==
* [https://www.editme.com/ EditMe]
* [[:en:Everything2]]
* [[:en:Halfbakery]]
* [[:en:Eksi Sozluk]] (Turkish)
* [[:en:SnipSnap]]
* [https://www.pbworks.com/ PBworks]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連文献 ==
<!-- 実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献(書籍、論文、資料、ウェブページなど)一覧(実際に参考にしているのではないので過多にならないように、多すぎたら除去。宣伝はご遠慮下さい、宣伝は除去。実際に参考にした文献は脚注を導入し「参考文献」節へ追加して下さい。) -->
* {{Cite book2|author=Bo Leuf|author2=Ward Cunningham|others=yomoyomo(翻訳)|title=Wiki Way-コラボレーションツールWiki|publisher=SBクリエイティブ|isbn=4-7973-1832-5}}
* [[江渡浩一郎]]『パターン、Wiki、XP:時を越えた創造の原則』技術評論社、2009 ISBN 978-4-7741-3897-8
== 関連項目 ==
{{right|{{SisterlinksN
}}}}<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
* [[ウォード・カニンガム]]
* [[ウィキソフトウェアの比較]]
== 外部リンク ==
<!-- please do not add links to wikis to this list, instead create new internal pages about them and link to those in the wiki community list above-->
* 日本語サイト
** 日本発の wiki クローンリスト
*** [https://www.yamdas.org/column/technique/clonelist.html 日本発の wiki クローンリスト]
*** [https://www.yamdas.org/column/technique/clonelist2.html 日本発の wiki クローンリスト2]
** Wikiの比較
*** [https://fswiki.osdn.jp/cgi-bin/wiki.cgi/docs?page=%C2%BE%A4%CEWiki%A4%C8%A4%CE%C8%E6%B3%D3 他のWikiとの比較 - ドキュメント]
*** [http://atasinti.chu.jp/wiki/page004.html 無料Wikiサービス比較表]
** その他Wiki情報サイト
*** [https://www.moongift.jp/tags/wiki MOONGIFT]
* 外国語サイト
** [https://www.wikiindex.org/ WikiIndex] 公開されているWikiのindex、日本語を含む非英語サイトも掲載。
** [http://meatballwiki.org/wiki/TourBusStop "Tour bus stop" at MeatballWiki]
** [[c2:WelcomeVisitors|WikiWikiWeb]] (the first wiki)
** [[MeatBall:WikiCommunityList]]
** [[MeatBall:BiggestWiki]]
** [https://www.wikimatrix.org/ WikiMatrix] Wikiエンジンの機能比較や条件指定による絞り込みが行える。
{{ウィキソフトウェア}}
{{マークアップ言語一覧}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ういき}}
[[Category:ウィキ|*]]
[[Category:コンテンツ管理システム]]
[[Category:Web 2.0]]
[[Category:ハイパーテキスト]]
[[Category:自己組織化]]
[[Category:ラリー・サンガー]]
[[Category:ハワイ語の語句]]
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2003-09-28T16:26:06Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD
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アラニン
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アラニン (alanine) とは、アミノ酸のひとつで、グリシンに次いで2番目に小さなアミノ酸である。アミノ酸の構造の側鎖がメチル基(–CH3)になった構造を持つ。2-アミノプロピオン酸のこと。つづりはalanineで、略号はAあるいはAla。ほとんどすべての蛋白質に普遍的に見られる。
疎水性アミノ酸、非極性側鎖アミノ酸に分類される。蛋白質構成アミノ酸のひとつで、非必須アミノ酸である。糖新生や脂肪酸の合成、エネルギー生成に用いられる重要なアミノ酸である。
また、アセトアルデヒドの分解を促進するため、二日酔いや悪酔いの防止に効用がある。
生体内では、解糖系の中間体であるピルビン酸やクエン酸回路における中間体が、アラニントランスアミナーゼによるグルタミン酸からのアミノ基の転移を受けて生合成される。
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}
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アラニン (alanine) とは、アミノ酸のひとつで、グリシンに次いで2番目に小さなアミノ酸である。アミノ酸の構造の側鎖がメチル基(–CH3)になった構造を持つ。2-アミノプロピオン酸のこと。つづりはalanineで、略号はAあるいはAla。ほとんどすべての蛋白質に普遍的に見られる。
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{{Otheruses|いわゆる「α-アラニン」|[[構造異性体]]である3-アミノプロパン酸|β-アラニン}}
{{chembox
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| Name = アラニン
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}}
'''アラニン''' (alanine) とは、[[アミノ酸]]のひとつで、[[グリシン]]に次いで2番目に小さなアミノ酸である。アミノ酸の構造の[[側鎖]]が[[メチル基]](–CH<sub>3</sub>)になった構造を持つ。2-アミノプロピオン酸のこと。つづりはalanineで、略号はAあるいはAla。ほとんどすべての[[蛋白質]]に普遍的に見られる。
== 概要 ==
[[疎水性]]アミノ酸、非極性側鎖アミノ酸に分類される。蛋白質構成アミノ酸のひとつで、非必須アミノ酸である。[[糖新生]]や[[脂肪酸の合成]]、エネルギー生成に用いられる重要なアミノ酸である。
また、[[アセトアルデヒド]]の分解を促進するため<ref>{{Cite web|和書|url=https://cp.glico.jp/powerpro/amino-acid/entry82/|publisher=[[江崎グリコ]]|title = アラニンで持久力をサポート!効果や効果的な摂取方法とは|access-date=2021-11-14}}</ref>、二日酔いや悪酔いの防止に効用がある<ref>{{Cite web|和書|url= https://style.nikkei.com/article/DGXMZO78252700Q4A011C1000000?page=2|publisher=NIKKEI STYLE|title =二日酔いの元凶はアルデヒドだけじゃない!?|date=2014-10-14|access-date=2021-11-14}}</ref>。
== 生合成 ==
生体内では、[[解糖系]]の中間体である[[ピルビン酸]]や[[クエン酸回路]]における中間体が、[[アラニントランスアミナーゼ]]による[[グルタミン酸]]からのアミノ基の転移を受けて生合成される。
[[画像:Alanine transaminase reaction.PNG|center|400px]]
== 物性 ==
* [[分子量]] 89.09
* [[等電点]] 6.00
* 溶解性 水・蟻酸に易溶、エタノール・ジエチルエーテルに不溶、希塩酸・希硫酸に可溶。
* 溶解度(水、g/100g) 15.8(20℃)、19.6(40℃)、24.3(60℃)
*[[ファンデルワールス半径]] 67
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[グルコース-アラニン回路]]
== 外部リンク ==
* {{hfnet|600|アラニン}}
{{解糖系の酵素}}
{{タンパク質を構成するアミノ酸}}
{{Normdaten}}
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[[Category:タンパク質を構成するアミノ酸]]
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[[Category:双性イオン]]
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|
18,653 |
ロイシン
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ロイシン (leucine) は、アミノ酸の1種であり、側鎖に イソブチル基を持つため、疎水性アミノ酸に分類される。また、非極性側鎖アミノ酸で分枝鎖アミノ酸に分類される。略号は Leu あるいは L である。白色結晶となることから、ギリシャ語で「白い」を意味する leucos にちなみ命名された。英語式発音を片仮名転記すると「リューシーン」となる。
ロイシンはバリンおよびイソロイシンと共に分岐鎖アミノ酸の一つで、体内で筋たんぱく質合成を誘導する役割を持つ、タンパク質構成アミノ酸であるが、ヒトはロイシンを合成できないため、ヒトの必須アミノ酸の1つに数えられる。幼児では生長、成人では窒素平衡に必須である。ただし、遺伝子に異常がある場合、メープルシロップ尿症の原因になるアミノ酸の1つでもある。ケト原性を持つ。タンパク質の生成・分解を調整することによって筋肉の維持に関与する。なお、ロイシンは1つキラル中心を持っており天然型のロイシンは、S体のL-ロイシンであり、ヒトはこれを苦く感ずる。対して、天然にはほとんど見られないR体のD-ロイシンは、ヒトには甘く感じられる。ほぼ、全てのタンパク質に含まれる物質であるが、特にヘモグロビンやカゼインなどに多く含まれている
ロイシンは1日の必要量が最大であるが、肉や魚、乳製品に多く含まれており、不足することはほとんどない。ヒトはロイシンを摂ることで肝機能向上や肝細胞の増殖および分化の正常化、血糖コントロール、タンパク質生合成の促進、筋タンパク質の維持、筋肉グリコーゲン合成・酵素活性の促進などの効果があるとされている。
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ロイシン (leucine) は、アミノ酸の1種であり、側鎖に イソブチル基を持つため、疎水性アミノ酸に分類される。また、非極性側鎖アミノ酸で分枝鎖アミノ酸に分類される。略号は Leu あるいは L である。白色結晶となることから、ギリシャ語で「白い」を意味する leucos にちなみ命名された。英語式発音を片仮名転記すると「リューシーン」となる。
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'''ロイシン''' (leucine) は、[[アミノ酸]]の1種であり、[[側鎖]]に[[ブチル基 | イソブチル基]]を持つため、疎水性アミノ酸に分類される。また、非極性側鎖アミノ酸で[[分枝鎖アミノ酸]]に分類される。略号は '''Leu''' あるいは '''L''' である。白色結晶となることから、[[ギリシャ語]]で「白い」を意味する leucos にちなみ命名された。[[英語]]式発音を片仮名転記すると「リューシーン」となる。
== 概要 ==
ロイシンは[[バリン]]および[[イソロイシン]]と共に[[分岐鎖アミノ酸]]の一つで、体内で筋たんぱく質合成を誘導する役割を持つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://direct.ajinomoto.co.jp/?faq_id=supple03&faq_seq=5130|publisher=味の素株式会社|title = ロイシンとは何ですか。|access-date=2021-11-14}}</ref>、[[タンパク質]]構成アミノ酸であるが、ヒトはロイシンを合成できないため、ヒトの[[必須アミノ酸]]の1つに数えられる。幼児では生長、成人では窒素平衡に必須である。ただし、遺伝子に異常がある場合、[[メープルシロップ尿症]]の原因になるアミノ酸の1つでもある。[[ケト原性アミノ酸|ケト原性]]を持つ。タンパク質の生成・分解を調整することによって[[筋肉]]の維持に関与する。なお、ロイシンは1つキラル中心を持っており天然型のロイシンは、S体のL-ロイシンであり、ヒトはこれを苦く感ずる。対して、天然にはほとんど見られないR体のD-ロイシンは、ヒトには甘く感じられる。ほぼ、全てのタンパク質に含まれる物質であるが、特にヘモグロビンやカゼインなどに多く含まれている<ref name="leucine">{{Cite web|和書|url= https://www.fsc.go.jp/senmon/hisiryou/h-dai36/hisiryou36-siryou6.pdf|publisher=食品安全委員会肥料・飼料等専門調査会|title=対象外物質評価書 ロイシン|access-date=2021-11-14}}</ref>
ロイシンは1日の必要量が最大であるが、肉や魚、乳製品に多く含まれており、不足することはほとんどない<ref name="leucine"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ekenkoshop.jp/kaigo/019/|publisher=e健康ショップ|title=Vol.19 ロイシン|access-date=2021-11-14}}</ref>。ヒトはロイシンを摂ることで肝機能向上や肝細胞の増殖および分化の正常化、血糖コントロール、タンパク質生合成の促進、筋タンパク質の維持、筋肉グリコーゲン合成・酵素活性の促進などの効果があるとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.orthomolecular.jp/nutrition/amino2/|publisher=一般社団法人オーソモレキュラー栄養医学研究所|title =必須アミノ酸と非必須アミノ酸|access-date=2021-11-14}}</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アミノ酸発酵]]
* [[ロイシン発酵]]
== 外部リンク ==
*{{Hfnet|633|ロイシン}}
*[https://univ-journal.jp/25678/ 乳がん細胞の増殖と治療薬の効果を左右するタンパク質を世界で初めて発見(大学ジャーナル2019年4月28日)] ※ 乳がん細胞において、ロイシンが細胞増殖の鍵となることを発見。
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18,657 |
カール大帝
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カール大帝(カールたいてい、独: Karl der Große)、またはシャルルマーニュ(仏: Charlemagne)(742年?/747年?/748年? 4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)、初代神聖ローマ皇帝(在位:800年 - 814年)として、ローマ教皇レオ3世より帝冠を受けた。
ドイツ及びフランスの始祖的英雄と見なされるため、カール1世(独)やシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて英語読みのチャールズ大帝(英: Charles the Great)という表記が用いられることもある。
カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によって東ローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継者として帝冠を授けられた。帝都コンスタンティノープル(東ローマ帝国)はカールの皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝だとは認め、ギリシャと正教の西方への権威を事実上放棄した。こうして古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力によりカール大帝は列聖された。
カールはピピン3世の長男として生まれたが、その出生について詳しいことは分かっていない。カールに仕えて「カール大帝伝」を記したアインハルトは、「カールの出生については公表されておらず、もはやそれを知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙している。カールの生年は一般には742年であると考えられているが、父ピピン3世と正妻ベルトレドの結婚は744年以降と考えられており、カールが姻前子であったかベルトレド以外の女性から産まれた子であった可能性が考えられる。佐藤彰一は、アインハルトがカールの出生について書き記さなかったのは、このことに議論が及ぶ事態を恐れたからではないかと推測している。一方、K.F.ヴェルナー(ドイツ語版、フランス語版)やベッヒャー(ドイツ語版)は「ペトーの年代記」に記された747年または748年をカールの正しい生年としている。この場合、ピピン3世とベルトレドの結婚年に744年説を採用すれば、前述の矛盾は解決されることとなる。もっとも、「フランク王国年代記」と「サン・ベルタン年代記」はピピン3世とベルトレドの結婚を748年または749年としており、この記述を採用する場合、やはりカールには私生子の疑惑がつきまとうこととなる。ベルトレドの子とされる弟カールマンとの不仲に、彼の出生の疑惑がかかわっていたかどうかは判然としない。出生地についても、アーヘンで生まれたとする説や、エルスタルで生まれたとする説があり定まってはいない。今日、「ラン(Laon)伯Heribertの娘」と記されるベルトラダ(ベルタ)は、「ブリタニアの王女」(Tochter des Königs von Britannien)であり、しかも一旦は、求婚の使者となったピピンの執事によってその娘に王妃の座をだまし取られたものの、最後には王妃となる伝説がある 。
ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、ギゼラの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに751年にはピピン3世は主君だったメロヴィング朝のキルデリク3世から王位を簒奪してフランク国王に即位しており、また754年にローマ教皇ステファヌス2世がサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二分され、カールはアウストラシアとネウストリアを、カールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる。771年にカールマンが死去するとカールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった。
カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。
父ピピン3世の死後、イタリアのランゴバルド王国の王デシデリウスは王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年にローマ教皇ハドリアヌス1世がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ(ランゴバルド戦役(de:Langobardenfeldzug))。翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウスを捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前のラヴェンナ総督府領)を教皇に寄進した。またカールは征服したランゴバルド領の各地にフランク系の貴族を伯として大量に送り込み、新領土の統治体制を固めた。これらの新領主は、やがてイタリアに土着し後世のイタリア貴族の多くの起源となった。
772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争を開始した。このザクセン戦争はカールが優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し、遠征は10回以上にも及んだ。785年には有力な指導者ヴィドゥキントを降伏させたものの抵抗は続き、結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の804年のことであった。カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、ザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。これによって現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域がフランク王国に服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちもその多くが服属した。一方、ザクセンの征服によってその北に居住するデーン人との軍事的緊張が高まったが、カールの存命中は膠着状態が続いた。
778年、カールは後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア半島北部のムスリム勢力の救援依頼をイベリアへの勢力拡大の好機とみなしイベリア北部に遠征した。サラゴサのムスリム勢力を制圧して人質を出させたことで目的を達したと考えたカールは撤退をはじめた。その途上、ピレネー山脈越えに差し掛かった時、バスク人の襲撃を受けて大損害を受け、多数の兵士と将軍を失った(ロンスヴォーの戦い)。この戦いを題材にしたのが後に神話化され語り継がれた『ローランの歌』である。795年にはピレネー南麓にスペイン辺境領をおいた。またこのとき、スペインの後背地にあたり地元勢力の強かったアキテーヌをフランク人による直接支配の下に置くことを試み、息子のルートヴィヒ1世(ルイ1世)を王としたアキテーヌ王国を創設した。ほぼ同時代史料である『ルイ敬虔帝伝』によれば、カールはアキテーヌの完全掌握を目指してアキテーヌ全土の伯、修道院長の多くをフランク人から任命したという。801年にはフランク王国の支配地はバルセロナまで広がった(バルセロナ伯)。
北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻めて788年には大公タシロ3世を追いこれを征服するとともに、791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが、カールは再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再度侵攻した際にはアヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによってアヴァールは致命的な大打撃を受けて以後は衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴い、フランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近までを服属させた。
結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことによって、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。
カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。メロヴィング朝はもともと、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えていた。カロリング家はカール・マルテルの時代から各地の伯に自らの忠実な家臣を送り込む努力を続けていたが、カールの時代にはこれがさらに大規模化・徹底され、各地の伯にはカールの忠実な家臣が送り込まれた。こうして伯は地方有力者が就く職からカールの地方官僚としての性格が強くなった。また、これによって地方の独自性が薄れ、制度の平準化と地域間の人材交流が促された。こうした伯などの家臣たちは、カロリング朝の崩壊後も世襲的に勢力を蓄え、中世貴族や王族として権勢をふるうようになるものたちも多くいた。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。
「カール大帝は巨大な所領群を王領地に併合したばかりではなく、管理と経営を改善しようとも努めた。彼は王領地について、また教会領についても一種の検地を実施させたが、それは史料のうえでは、教会領および国庫領検地小範例集「Brevium exempla ad res ecclesiasticas e fiscales describendas」とロルシュおよびクーアラエティアの王国土地台帳にみいだされる。カール大帝が王国領の管理を重視したことを示すきわめて印象深い例証は、御料地令「Capiturale de villis」である。その内容は、国庫領の管理と運営に関する非常に詳細な規定と弊害除去のための方策からなっている」。
しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。主な宮廷は794年にアーヘンに築かれていたものの、アーヘンのほかインゲルハイムやネイメーヘンなどにも宮廷を築いた。それは、絶えず領内を移動して、王のカリスマ性を示し伯の忠誠心を保つため伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。父と共に遠征した南西フランスのアクイタニアでは土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。外交面では、東方の大国であるアッバース朝とは数度の使節を交換し、友好関係を保っている。
内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ(英語版)、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。カールは教育を重視し、特に僧侶教育に力を入れ修道院学校や聖堂学校を建設するとともに、古典古代の学芸に属する書物の収集および書写を大規模に行った。カロリング小文字体が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。 「8世紀末から9世紀始めにかけて見られた古典の復興は、ローマの遺産の継承にとっても重大で決定的な段階をなしたものであるが、この背景には再興したローマ帝国があった。エルベ川エブロ川まで、そしてカレーからローマまで及んだこの帝国は、軍事的経済的才略に加えてローマ教会からの祝福をも獲得したひとりの皇帝の威厳ある人格のおかげで、一時的にだが政治的かつ宗教的な統一体へとまとめあげられた。カール大帝(768-814)の政治的手腕は彼の後継者たちにまで引き継がれなかったが、彼のおかげで促進された文化運動は9世紀においてもその勢いを保ち、10世紀まで続いた」(レイノルズ/ウィルソン)。
797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、東ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。
800年11月、カールはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。
800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「ローマ皇帝」としての帝冠を授けた。この時、周囲の者は皆「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」と叫んだという。これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人のパトリキウス」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった。ドイツでは、この出来事を神聖ローマ帝国の誕生として扱い、カールは初代神聖ローマ皇帝 カール1世と呼ばれる。
この戴冠については当時カールに仕えていたアインハルトが、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことがいくつもの研究によって示されている。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。
カールがローマ皇帝に戴冠されると、コンスタンティノポリスの皇帝はカールの戴冠を皇帝称号の僭称であると見なし、西方の帝位を主張するには東ローマ皇帝の承認が必要であると強硬に反発した。それは西欧世界においても伝統的な認識であったのだが、そもそも当時の東ローマ皇帝は女帝であるが故に帝国の西部では正当な皇帝であるとみなされていなかった。
カールは自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるために東ローマ帝国の宮廷へ使者を送った。東ローマ帝国の女帝エイレーネーからはエイレーネーとカールによる東西ローマ帝国を統一するための結婚が提案され、この申し出にカールも乗り気であったが、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。東ローマ帝国は当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない。これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。
西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っており、ローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあり、また世俗権力と教権の二つの中心が並立する独自の世界の成立でもあった。
カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール若王・次男のランゴバルド分国王ピピン・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌811年にはカール若王が父に先立って没したため、813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814年1月28日、アーヘンにおいて71歳で崩御した。遺体はその日のうちにアーヘン大聖堂に埋葬された。
カールの列聖については、以下のような事情がある。「フリードリヒ(フリードリヒ1世・バルバロッサ)はアーヘンに赴き、1165年12月29日、心酔する偉大なる皇帝カール大帝を、パスカリス(対立教皇)がとりしきる荘重な儀式により聖者の列に加えた。アレクサンダー(教皇)はこれに反対した。その理由の一つは、聖別が敵によって行われたこと、他の理由は、新たに聖者に列したカールが行ったキリスト教の布教が、キリスト教的でないということだった。しかし、カールは数世紀後においてなお尊敬に値する人物であるという点が、すべての抗議を押し退けた。教皇たちでさえ、そのおかげを被っている人物に反対の立場を取り続けることができなかったのである」。後に、カール大帝への崇敬はアーヘン司教区とオスナブリュック司教区では ≫beatus≪として許された(≫gestattet, nicht anerkannt≪)。フリードリヒ2世 は中世金細工工芸の傑作(Meisterwerk der mittelalterlichen Goldschmiedekunst)として有名な聖遺物容器「カールのシュライン」(Karlsschrein)を造らせ、1215年アーヘン宮廷礼拝堂(Aachener Pfalzkapelle)におけるドイツ王戴冠式に際して、自らそのシュラインの中にカール大帝の遺骨を納めたと言われている 。
カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼いた肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。
また、文字の読み書きはできなかったという。カールはしばしば"KAROLUS"の7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の菱形だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。
服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製のゲートルをつけ、靴をはくという機能的なスタイルを好んだ。儀式のとき以外はローマ風の正装は好まなかったといわれる。
カールの言葉に
がある。
カールとルートヴィヒは動物飼育に熱中したという記録が残っている。797年にはアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからアブル=アッバースという名のゾウ1頭と何匹かのサルを贈与され、9世紀初頭にはアフリカのイスラム政権アグラブ朝から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産のシカ、ノロジカ、ダマジカなどの哺乳動物や、クジャク、キジ、キジバト、ヤマウズラ、カモなどの鳥類が集められていた。
また、カールはフランスのトランプではハートのキングのモデルとされている。
中世ラテン語文学において、カールはアルクィンをはじめ多くの学者・詩人によって賛美された。それらの作品においては、カールのランンゴバルド征服、対ザクセン戦争、バイエルン公タッシロ制圧等の軍功、キリスト教信仰、芸術保護、アーヘン市の建設などが称揚された。
中世フランス文学においては、「対サラセン人の、時には対サクソン人(『サクソン人の歌』≫Les Saisnes≪)の戦争におけるシャルルマーニュの武勲を物語る」詩群が生まれた。これは「王の詩群」(≫Cycle du roi≪)と呼ばれ、『ローランの歌』(≫Chanson de Roland≪)、『シャルルマーニュの巡礼』(≫Pèlerinage de Charlemagne≪)、『アスプルモンの歌』(≫Chanson d’Aspremont≪)などから構成されていた。「『シャルルマーニュの巡礼』は喜劇的な調子を添えてはいるが、だからといって護教論的な意図を棄てているわけではない。すなわち、シャルルを中心に集まったフランク人たちが向こうみずな≪法螺≫を実際に遂行しえたのも神の加護があったからである」。
中世ドイツ文学においてもカール大帝とその家臣をめぐる作品が生まれたが、それらはフランスの武勲詩の翻案といってよいものであったが、宗教性の色が濃く出るものとなった。コンラート師『ローラントの歌』(Das Rolandslied des Pfaffen Konrad)は、フランス武勲詩の傑作『ローランの歌』の翻案であるが、作品冒頭で作者は、「如何にしてあの優れた男子が神の国を勝ち得たか(を書くのだ)。あれとは、まさにカール帝のことである。皇帝は神の御前にいる。なんとなれば、皇帝は神と共に多くの異教の国々を征服し、キリスト教徒の名誉を高めたためである」と、ローラン中心の物語をカール中心の物語に変えている。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ヴィレハルム』(≫Willehalm≪)は、フランスの「ギヨーム・ドランジュの詩群」(Cycle de Guillaume d’Orange)に属する武勲詩『アリスカン』(≫Aliscans≪)を基にした作品である。この物語の主人公は、カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世・敬虔王の重臣ヴィレハルムである。南フランスに辺境伯として居城を構える彼は侵入してきた異教徒勢にいったん敗れると、救援を求めてルートヴィヒ1世の許に赴く。ヴィレハルムとその一族はルートヴィヒ王に帝国軍の派遣を訴えるのに際し、「カール皇帝の勇気を相続し、ご先祖から受け継がれた名誉を汚さないでいただきたい」(182詩節)と盛んにカールの名前を持ち出す。帝国軍の指揮官として指名され異教徒へのリベンジを果たす主人公は、カール大帝の精神を受け継ぐ勇者として描かれている。
カール大帝をめぐる伝説の数は多い。グリム兄弟 『ドイツ伝説集』458番「アーヘンに近い湖の指輪」と459番「皇帝と蛇」は、カールと都市アーヘンとの深い関係について語り、455番「フランクフルト市建設」は市名の由来をカール軍との関わりから説き、544番「白鳥の騎士」と545番「優れたゲルハルト・シュヴァーン」では、大帝が白鳥の騎士伝説に結びつけられている。444番「カールのハンガリーからの帰還」は、 長期の外征中窮地に陥った妃を救うために3日でハンガリーからアーヘンに戻った様を語っている。22番「ニュルンベルクのカール皇帝」は、皇帝は同市の深井戸にいると語られ、28番「ウンタースベルクのカール皇帝」では、皇帝は王笏を手に王冠を戴く姿のまま山中にいるとされている。26番「カール皇帝の出発」ではカール大帝は全軍とともにオーデンベルク山中にいて、戦争が勃発する前になると、山が開き、皇帝はそこから出て角笛を吹き、他の山に移動すると伝えている。481番「カールの墓所を訪れたオットー3世」では、生きているかのような姿のカールをオットーが見たとされている。460番「カール王」は非常に長い伝説で、カールがローマ皇帝となり諸国を平定した過程とその死を物語っているが、協力した教皇レオをカールの兄弟としているのがユニークである。カールをめぐる伝説に現れる多数のモチーフの少なからぬ部分は他の皇帝・王の伝説にも見られるが、カールの場合、そのモチーフの多彩さは他の追随を許さないと言えようか。
カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界を決定づけたが、以下のような説がある。
ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱えている。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、ムハンマド(マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。
家庭生活では5回結婚し、そのうえ4人の第二夫人がいた。生まれた子は約20人。カールは容易に娘たちの結婚を承諾しなかったため、娘たちは勝手に結婚したりしてスキャンダルを引き起こしたりしている。 一説によればカール大帝が娘を寵愛し、娘たちと近親相姦の関係があったからという説もある。また妹ギゼラ(ジゼル)とも関係を持ち、勇将ローランはカール大帝と妹の近親相姦で生まれたという伝説が中世において流布した。もっとも、妹ギゼラ(757年生まれ)はChelles修道院の院長になり、彼女のもとで同修道院は文化的頂点に達した。彼女は有名な神学者アルクインと文通をしていたが、アルクインは彼女とその姪Rodtrutに自著「ヨハネによる福音書への注解」を献呈している。
最初の妻はヒミルトルーデ(素性未詳)、770年に離婚。
770年12月25日、ランゴバルド王デシデリウスの娘デジデリアと結婚、771年に離婚。子供はいない。
771年、アレマニア大公家の血を引くヒルデガルド(783年没、ゲロルト1世・フォン・フィンツガウの娘)と結婚。
784年、チューリンゲン大公家に連なる伯ラドゥルフの娘ファストラダ(794年没)と結婚。
794年、ズントガウ伯ルイトフリト2世の娘ルイトガルド(800年没)と結婚。子供はいない。
妾ゲルスヴィンデとの間に娘が1人いる。
妾マデルガルトとの間に娘が1人いる。
妾アマルトルートとの間に娘が1人いる。
妾レジナとの間に息子が2人いる。
妾エセリンドとの間に息子が2人いる。
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"text": "カール大帝(カールたいてい、独: Karl der Große)、またはシャルルマーニュ(仏: Charlemagne)(742年?/747年?/748年? 4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)、初代神聖ローマ皇帝(在位:800年 - 814年)として、ローマ教皇レオ3世より帝冠を受けた。",
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"text": "ドイツ及びフランスの始祖的英雄と見なされるため、カール1世(独)やシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて英語読みのチャールズ大帝(英: Charles the Great)という表記が用いられることもある。",
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"text": "カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によって東ローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継者として帝冠を授けられた。帝都コンスタンティノープル(東ローマ帝国)はカールの皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝だとは認め、ギリシャと正教の西方への権威を事実上放棄した。こうして古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力によりカール大帝は列聖された。",
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"text": "カールはピピン3世の長男として生まれたが、その出生について詳しいことは分かっていない。カールに仕えて「カール大帝伝」を記したアインハルトは、「カールの出生については公表されておらず、もはやそれを知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙している。カールの生年は一般には742年であると考えられているが、父ピピン3世と正妻ベルトレドの結婚は744年以降と考えられており、カールが姻前子であったかベルトレド以外の女性から産まれた子であった可能性が考えられる。佐藤彰一は、アインハルトがカールの出生について書き記さなかったのは、このことに議論が及ぶ事態を恐れたからではないかと推測している。一方、K.F.ヴェルナー(ドイツ語版、フランス語版)やベッヒャー(ドイツ語版)は「ペトーの年代記」に記された747年または748年をカールの正しい生年としている。この場合、ピピン3世とベルトレドの結婚年に744年説を採用すれば、前述の矛盾は解決されることとなる。もっとも、「フランク王国年代記」と「サン・ベルタン年代記」はピピン3世とベルトレドの結婚を748年または749年としており、この記述を採用する場合、やはりカールには私生子の疑惑がつきまとうこととなる。ベルトレドの子とされる弟カールマンとの不仲に、彼の出生の疑惑がかかわっていたかどうかは判然としない。出生地についても、アーヘンで生まれたとする説や、エルスタルで生まれたとする説があり定まってはいない。今日、「ラン(Laon)伯Heribertの娘」と記されるベルトラダ(ベルタ)は、「ブリタニアの王女」(Tochter des Königs von Britannien)であり、しかも一旦は、求婚の使者となったピピンの執事によってその娘に王妃の座をだまし取られたものの、最後には王妃となる伝説がある 。",
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"text": "ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、ギゼラの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに751年にはピピン3世は主君だったメロヴィング朝のキルデリク3世から王位を簒奪してフランク国王に即位しており、また754年にローマ教皇ステファヌス2世がサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二分され、カールはアウストラシアとネウストリアを、カールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる。771年にカールマンが死去するとカールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった。",
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"text": "カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。",
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"text": "父ピピン3世の死後、イタリアのランゴバルド王国の王デシデリウスは王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年にローマ教皇ハドリアヌス1世がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ(ランゴバルド戦役(de:Langobardenfeldzug))。翌774年にはランゴバルドの首都パヴィアを占領し、デシデリウスを捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前のラヴェンナ総督府領)を教皇に寄進した。またカールは征服したランゴバルド領の各地にフランク系の貴族を伯として大量に送り込み、新領土の統治体制を固めた。これらの新領主は、やがてイタリアに土着し後世のイタリア貴族の多くの起源となった。",
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"text": "772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争を開始した。このザクセン戦争はカールが優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し、遠征は10回以上にも及んだ。785年には有力な指導者ヴィドゥキントを降伏させたものの抵抗は続き、結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の804年のことであった。カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、ザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。これによって現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域がフランク王国に服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちもその多くが服属した。一方、ザクセンの征服によってその北に居住するデーン人との軍事的緊張が高まったが、カールの存命中は膠着状態が続いた。",
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"text": "778年、カールは後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア半島北部のムスリム勢力の救援依頼をイベリアへの勢力拡大の好機とみなしイベリア北部に遠征した。サラゴサのムスリム勢力を制圧して人質を出させたことで目的を達したと考えたカールは撤退をはじめた。その途上、ピレネー山脈越えに差し掛かった時、バスク人の襲撃を受けて大損害を受け、多数の兵士と将軍を失った(ロンスヴォーの戦い)。この戦いを題材にしたのが後に神話化され語り継がれた『ローランの歌』である。795年にはピレネー南麓にスペイン辺境領をおいた。またこのとき、スペインの後背地にあたり地元勢力の強かったアキテーヌをフランク人による直接支配の下に置くことを試み、息子のルートヴィヒ1世(ルイ1世)を王としたアキテーヌ王国を創設した。ほぼ同時代史料である『ルイ敬虔帝伝』によれば、カールはアキテーヌの完全掌握を目指してアキテーヌ全土の伯、修道院長の多くをフランク人から任命したという。801年にはフランク王国の支配地はバルセロナまで広がった(バルセロナ伯)。",
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"text": "北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻めて788年には大公タシロ3世を追いこれを征服するとともに、791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが、カールは再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再度侵攻した際にはアヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによってアヴァールは致命的な大打撃を受けて以後は衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴い、フランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近までを服属させた。",
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"text": "結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことによって、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。",
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"text": "カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。メロヴィング朝はもともと、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えていた。カロリング家はカール・マルテルの時代から各地の伯に自らの忠実な家臣を送り込む努力を続けていたが、カールの時代にはこれがさらに大規模化・徹底され、各地の伯にはカールの忠実な家臣が送り込まれた。こうして伯は地方有力者が就く職からカールの地方官僚としての性格が強くなった。また、これによって地方の独自性が薄れ、制度の平準化と地域間の人材交流が促された。こうした伯などの家臣たちは、カロリング朝の崩壊後も世襲的に勢力を蓄え、中世貴族や王族として権勢をふるうようになるものたちも多くいた。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。",
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"text": "「カール大帝は巨大な所領群を王領地に併合したばかりではなく、管理と経営を改善しようとも努めた。彼は王領地について、また教会領についても一種の検地を実施させたが、それは史料のうえでは、教会領および国庫領検地小範例集「Brevium exempla ad res ecclesiasticas e fiscales describendas」とロルシュおよびクーアラエティアの王国土地台帳にみいだされる。カール大帝が王国領の管理を重視したことを示すきわめて印象深い例証は、御料地令「Capiturale de villis」である。その内容は、国庫領の管理と運営に関する非常に詳細な規定と弊害除去のための方策からなっている」。",
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"text": "しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。主な宮廷は794年にアーヘンに築かれていたものの、アーヘンのほかインゲルハイムやネイメーヘンなどにも宮廷を築いた。それは、絶えず領内を移動して、王のカリスマ性を示し伯の忠誠心を保つため伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。父と共に遠征した南西フランスのアクイタニアでは土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。外交面では、東方の大国であるアッバース朝とは数度の使節を交換し、友好関係を保っている。",
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"text": "内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ(英語版)、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。カールは教育を重視し、特に僧侶教育に力を入れ修道院学校や聖堂学校を建設するとともに、古典古代の学芸に属する書物の収集および書写を大規模に行った。カロリング小文字体が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。 「8世紀末から9世紀始めにかけて見られた古典の復興は、ローマの遺産の継承にとっても重大で決定的な段階をなしたものであるが、この背景には再興したローマ帝国があった。エルベ川エブロ川まで、そしてカレーからローマまで及んだこの帝国は、軍事的経済的才略に加えてローマ教会からの祝福をも獲得したひとりの皇帝の威厳ある人格のおかげで、一時的にだが政治的かつ宗教的な統一体へとまとめあげられた。カール大帝(768-814)の政治的手腕は彼の後継者たちにまで引き継がれなかったが、彼のおかげで促進された文化運動は9世紀においてもその勢いを保ち、10世紀まで続いた」(レイノルズ/ウィルソン)。",
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"text": "797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、東ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。",
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"text": "800年11月、カールはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。",
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"text": "800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「ローマ皇帝」としての帝冠を授けた。この時、周囲の者は皆「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」と叫んだという。これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人のパトリキウス」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった。ドイツでは、この出来事を神聖ローマ帝国の誕生として扱い、カールは初代神聖ローマ皇帝 カール1世と呼ばれる。",
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"text": "この戴冠については当時カールに仕えていたアインハルトが、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことがいくつもの研究によって示されている。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。",
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"text": "カールがローマ皇帝に戴冠されると、コンスタンティノポリスの皇帝はカールの戴冠を皇帝称号の僭称であると見なし、西方の帝位を主張するには東ローマ皇帝の承認が必要であると強硬に反発した。それは西欧世界においても伝統的な認識であったのだが、そもそも当時の東ローマ皇帝は女帝であるが故に帝国の西部では正当な皇帝であるとみなされていなかった。",
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"text": "カールは自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるために東ローマ帝国の宮廷へ使者を送った。東ローマ帝国の女帝エイレーネーからはエイレーネーとカールによる東西ローマ帝国を統一するための結婚が提案され、この申し出にカールも乗り気であったが、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。東ローマ帝国は当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない。これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。",
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"text": "西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っており、ローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあり、また世俗権力と教権の二つの中心が並立する独自の世界の成立でもあった。",
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"text": "カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール若王・次男のランゴバルド分国王ピピン・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌811年にはカール若王が父に先立って没したため、813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814年1月28日、アーヘンにおいて71歳で崩御した。遺体はその日のうちにアーヘン大聖堂に埋葬された。",
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"text": "カールの列聖については、以下のような事情がある。「フリードリヒ(フリードリヒ1世・バルバロッサ)はアーヘンに赴き、1165年12月29日、心酔する偉大なる皇帝カール大帝を、パスカリス(対立教皇)がとりしきる荘重な儀式により聖者の列に加えた。アレクサンダー(教皇)はこれに反対した。その理由の一つは、聖別が敵によって行われたこと、他の理由は、新たに聖者に列したカールが行ったキリスト教の布教が、キリスト教的でないということだった。しかし、カールは数世紀後においてなお尊敬に値する人物であるという点が、すべての抗議を押し退けた。教皇たちでさえ、そのおかげを被っている人物に反対の立場を取り続けることができなかったのである」。後に、カール大帝への崇敬はアーヘン司教区とオスナブリュック司教区では ≫beatus≪として許された(≫gestattet, nicht anerkannt≪)。フリードリヒ2世 は中世金細工工芸の傑作(Meisterwerk der mittelalterlichen Goldschmiedekunst)として有名な聖遺物容器「カールのシュライン」(Karlsschrein)を造らせ、1215年アーヘン宮廷礼拝堂(Aachener Pfalzkapelle)におけるドイツ王戴冠式に際して、自らそのシュラインの中にカール大帝の遺骨を納めたと言われている 。",
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"text": "カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かったという。馬術、狩猟、水泳などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼いた肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。",
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"text": "また、文字の読み書きはできなかったという。カールはしばしば\"KAROLUS\"の7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の菱形だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、ギリシア語も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者アウグスティヌスの著作も好み、『神の国』は何度も読ませたという。",
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"text": "服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製のゲートルをつけ、靴をはくという機能的なスタイルを好んだ。儀式のとき以外はローマ風の正装は好まなかったといわれる。",
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"text": "カールの言葉に",
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"text": "がある。",
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"text": "カールとルートヴィヒは動物飼育に熱中したという記録が残っている。797年にはアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードからアブル=アッバースという名のゾウ1頭と何匹かのサルを贈与され、9世紀初頭にはアフリカのイスラム政権アグラブ朝から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産のシカ、ノロジカ、ダマジカなどの哺乳動物や、クジャク、キジ、キジバト、ヤマウズラ、カモなどの鳥類が集められていた。",
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"text": "また、カールはフランスのトランプではハートのキングのモデルとされている。",
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"text": "中世ラテン語文学において、カールはアルクィンをはじめ多くの学者・詩人によって賛美された。それらの作品においては、カールのランンゴバルド征服、対ザクセン戦争、バイエルン公タッシロ制圧等の軍功、キリスト教信仰、芸術保護、アーヘン市の建設などが称揚された。",
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"text": "中世フランス文学においては、「対サラセン人の、時には対サクソン人(『サクソン人の歌』≫Les Saisnes≪)の戦争におけるシャルルマーニュの武勲を物語る」詩群が生まれた。これは「王の詩群」(≫Cycle du roi≪)と呼ばれ、『ローランの歌』(≫Chanson de Roland≪)、『シャルルマーニュの巡礼』(≫Pèlerinage de Charlemagne≪)、『アスプルモンの歌』(≫Chanson d’Aspremont≪)などから構成されていた。「『シャルルマーニュの巡礼』は喜劇的な調子を添えてはいるが、だからといって護教論的な意図を棄てているわけではない。すなわち、シャルルを中心に集まったフランク人たちが向こうみずな≪法螺≫を実際に遂行しえたのも神の加護があったからである」。",
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"text": "中世ドイツ文学においてもカール大帝とその家臣をめぐる作品が生まれたが、それらはフランスの武勲詩の翻案といってよいものであったが、宗教性の色が濃く出るものとなった。コンラート師『ローラントの歌』(Das Rolandslied des Pfaffen Konrad)は、フランス武勲詩の傑作『ローランの歌』の翻案であるが、作品冒頭で作者は、「如何にしてあの優れた男子が神の国を勝ち得たか(を書くのだ)。あれとは、まさにカール帝のことである。皇帝は神の御前にいる。なんとなれば、皇帝は神と共に多くの異教の国々を征服し、キリスト教徒の名誉を高めたためである」と、ローラン中心の物語をカール中心の物語に変えている。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『ヴィレハルム』(≫Willehalm≪)は、フランスの「ギヨーム・ドランジュの詩群」(Cycle de Guillaume d’Orange)に属する武勲詩『アリスカン』(≫Aliscans≪)を基にした作品である。この物語の主人公は、カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世・敬虔王の重臣ヴィレハルムである。南フランスに辺境伯として居城を構える彼は侵入してきた異教徒勢にいったん敗れると、救援を求めてルートヴィヒ1世の許に赴く。ヴィレハルムとその一族はルートヴィヒ王に帝国軍の派遣を訴えるのに際し、「カール皇帝の勇気を相続し、ご先祖から受け継がれた名誉を汚さないでいただきたい」(182詩節)と盛んにカールの名前を持ち出す。帝国軍の指揮官として指名され異教徒へのリベンジを果たす主人公は、カール大帝の精神を受け継ぐ勇者として描かれている。",
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"text": "カール大帝をめぐる伝説の数は多い。グリム兄弟 『ドイツ伝説集』458番「アーヘンに近い湖の指輪」と459番「皇帝と蛇」は、カールと都市アーヘンとの深い関係について語り、455番「フランクフルト市建設」は市名の由来をカール軍との関わりから説き、544番「白鳥の騎士」と545番「優れたゲルハルト・シュヴァーン」では、大帝が白鳥の騎士伝説に結びつけられている。444番「カールのハンガリーからの帰還」は、 長期の外征中窮地に陥った妃を救うために3日でハンガリーからアーヘンに戻った様を語っている。22番「ニュルンベルクのカール皇帝」は、皇帝は同市の深井戸にいると語られ、28番「ウンタースベルクのカール皇帝」では、皇帝は王笏を手に王冠を戴く姿のまま山中にいるとされている。26番「カール皇帝の出発」ではカール大帝は全軍とともにオーデンベルク山中にいて、戦争が勃発する前になると、山が開き、皇帝はそこから出て角笛を吹き、他の山に移動すると伝えている。481番「カールの墓所を訪れたオットー3世」では、生きているかのような姿のカールをオットーが見たとされている。460番「カール王」は非常に長い伝説で、カールがローマ皇帝となり諸国を平定した過程とその死を物語っているが、協力した教皇レオをカールの兄弟としているのがユニークである。カールをめぐる伝説に現れる多数のモチーフの少なからぬ部分は他の皇帝・王の伝説にも見られるが、カールの場合、そのモチーフの多彩さは他の追随を許さないと言えようか。",
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"text": "カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界を決定づけたが、以下のような説がある。",
"title": "学説"
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"text": "ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは、「マホメットなくしてカールなし」というテーゼを唱えている。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、ムハンマド(マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。",
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"text": "家庭生活では5回結婚し、そのうえ4人の第二夫人がいた。生まれた子は約20人。カールは容易に娘たちの結婚を承諾しなかったため、娘たちは勝手に結婚したりしてスキャンダルを引き起こしたりしている。 一説によればカール大帝が娘を寵愛し、娘たちと近親相姦の関係があったからという説もある。また妹ギゼラ(ジゼル)とも関係を持ち、勇将ローランはカール大帝と妹の近親相姦で生まれたという伝説が中世において流布した。もっとも、妹ギゼラ(757年生まれ)はChelles修道院の院長になり、彼女のもとで同修道院は文化的頂点に達した。彼女は有名な神学者アルクインと文通をしていたが、アルクインは彼女とその姪Rodtrutに自著「ヨハネによる福音書への注解」を献呈している。",
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"text": "最初の妻はヒミルトルーデ(素性未詳)、770年に離婚。",
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"text": "770年12月25日、ランゴバルド王デシデリウスの娘デジデリアと結婚、771年に離婚。子供はいない。",
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"text": "771年、アレマニア大公家の血を引くヒルデガルド(783年没、ゲロルト1世・フォン・フィンツガウの娘)と結婚。",
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"text": "784年、チューリンゲン大公家に連なる伯ラドゥルフの娘ファストラダ(794年没)と結婚。",
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"text": "794年、ズントガウ伯ルイトフリト2世の娘ルイトガルド(800年没)と結婚。子供はいない。",
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"text": "妾ゲルスヴィンデとの間に娘が1人いる。",
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"text": "妾マデルガルトとの間に娘が1人いる。",
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"text": "妾アマルトルートとの間に娘が1人いる。",
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"text": "妾レジナとの間に息子が2人いる。",
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"text": "妾エセリンドとの間に息子が2人いる。",
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}
] |
カール大帝、またはシャルルマーニュは、フランク王国の国王、初代神聖ローマ皇帝として、ローマ教皇レオ3世より帝冠を受けた。 ドイツ及びフランスの始祖的英雄と見なされるため、カール1世(独)やシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によって東ローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継者として帝冠を授けられた。帝都コンスタンティノープル(東ローマ帝国)はカールの皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝だとは認め、ギリシャと正教の西方への権威を事実上放棄した。こうして古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力によりカール大帝は列聖された。
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{{基礎情報 君主
| 人名 = カール大帝<br>カール1世 / シャルル1世
| 各国語表記 = Karl der Große
| 君主号 = [[フランク王の一覧|フランク国王]]<br />[[神聖ローマ皇帝]]
| 画像 = Dürer karl der grosse.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = [[アルブレヒト・デューラー]]<br>「カール大帝」
| 在位 = フランク国王:[[768年]] - [[814年]]<br />神聖ローマ皇帝:[[800年]] - [[814年]]
| 戴冠日 = [[800年]][[12月25日]]
| 別号 =
| 姓名 =
| 配偶者1 = ヒミルトルーデ
| 配偶者2 = デジデリア
| 配偶者3 = ヒルデガルド
| 配偶者4 = ファストラダ
| 配偶者5 = ルイトガルド
| 配偶者6 = ゲルスヴィンデ
| 子女 = [[カール (カール大帝の子)|カール]]<br />[[ピピン (イタリア王)|ピピン]]<br />[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]] 他多数
| 王家 =
| 王朝 = [[カロリング朝]]
| 父親 = [[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]
| 母親 = ベルトレド(異説あり)
| 出生日 = [[742年]][[4月2日]]
| 生地 = [[エルスタル]]?
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|742|4|2|814|1|28}}
| 没地 = [[アーヘン]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[アーヘン大聖堂]]
}}
'''カール大帝'''({{lang-de-short|'''Karl der Große'''}})、または'''シャルルマーニュ'''({{lang-fr-short|'''Charlemagne'''}})([[742年]]?/[[747年]]?/[[748年]]? [[4月2日]] - [[814年]][[1月28日]]<ref>Costanza Beltrami ''[https://www.italianartsociety.org/2015/12/charlemagne-2-april-742-747-748-28-january-814-was-crowned-imperator-romanorum-emperor-of-the-romans-by-pope-leo-iii-on-25-december-800/ Charlemagne Crowned Imperator Romanorum by Pope Leo III on 25 December 800.]'' Italian Art Society</ref>)は[[フランク王の一覧|フランク国王]](在位:[[768年]] - 814年)。初代[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[800年]] - [[814年]])として、[[ローマ教皇]][[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]より帝冠を受けた。
ドイツ及びフランスの始祖的英雄と見なされるため、神聖ローマ皇帝としてカール1世(独)・フランス国王としてシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて英語読みの'''チャールズ大帝'''(英: Charles the Great)という表記が用いられることもある{{efn2|[[ドイツ語]]ではカール・デア・グローセ({{de|Karl der Große}})、[[フランス語]]でシャルルマーニュ({{fr|Charlemagne}})、[[英語]]ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート ({{en|Charles the Great}})、[[イタリア語]]ではカルロ・マーニョ {{it|(Carlo Magno)}}、[[スペイン語]]ではカルロマグノ {{es|(Carlomagno)}}、[[ポルトガル語]]ではカルロス・マグノ {{pt|(Carlos Magno)}}、[[トルコ語]]ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン {{lang|tr|(Şarlman)}} という。日本ではドイツ語読みのカール大帝が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。}}。
[[カロリング朝]]を開いた[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]](小ピピン)の子。768年に弟の[[カールマン (フランク王)|カールマン]]との共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが[[771年]]に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。[[800年]]には[[ローマ教皇]][[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]によって東ローマ皇帝[[コンスタンティノス6世]]の後継者として帝冠を授けられた。帝都[[コンスタンティノープル]]([[東ローマ帝国]])はカールの皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝だとは認め、ギリシャと[[正教]]の西方への権威を事実上放棄した。こうして[[古代ローマ|古典ローマ]]、[[カトリック]]、[[ゲルマン民族|ゲルマン文化]]の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる{{sfn|佐藤|2013|p=1}}。カール大帝の死後[[843年]]に[[ヴェルダン条約]]でフランク王国は分裂し、のちに[[神聖ローマ帝国]]・[[フランス王国]]・[[ベネルクス]]・[[アルプス山脈|アルプス]]から[[イタリア]]の国々が誕生した。[[1165年]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の尽力によりカール大帝は[[列聖]]された<ref>{{Cite journal|和書|author=山本伸二 |title=カール大帝の列聖(1165年)について |journal=天理大学学報 |issn=0387-4311 |publisher=天理大学学術研究委員会 |year=2013 |month=oct |volume=65 |issue=1 |pages=27-50 |naid=120005858393 |url=https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3272/}}</ref>。
== 生涯・事績 ==
=== 出生について ===
カールは[[ピピン3世]]の長男として生まれたが、その出生について詳しいことは分かっていない。カールに仕えて「カール大帝伝」を記した[[アインハルト]]は、「カールの出生については公表されておらず、もはやそれを知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙している{{sfn|佐藤|2013|p=18}}。カールの生年は一般には742年であると考えられているが、父ピピン3世と正妻ベルトレドの結婚は744年以降と考えられており、カールが姻前子であったかベルトレド以外の女性から産まれた子であった可能性が考えられる{{sfn|佐藤|2013|pp=20-21}}{{sfn|五十嵐|2001|pp=28-30}}。[[佐藤彰一]]は、アインハルトがカールの出生について書き記さなかったのは、このことに議論が及ぶ事態を恐れたからではないかと推測している{{sfn|佐藤|2013|p=20}}。一方、{{仮リンク|カール・フェルディナント・ヴェルナー|label=K.F.ヴェルナー|de|Karl Ferdinand Werner|fr|Karl Ferdinand Werner}}や{{仮リンク|マティアス・ベッヒャー|label=ベッヒャー|de|Matthias Becher}}は「ペトーの年代記」に記された747年または748年をカールの正しい生年としている{{sfn|五十嵐|2001|pp=28-30}}。この場合、ピピン3世とベルトレドの結婚年に744年説を採用すれば、前述の矛盾は解決されることとなる。もっとも、「[[フランク王国年代記]]」と「[[サンベルタン年代記|サン・ベルタン年代記]]」はピピン3世とベルトレドの結婚を748年または749年としており{{sfn|佐藤|2013|p=20}}、この記述を採用する場合、やはりカールには私生子の疑惑がつきまとうこととなる。ベルトレドの子とされる弟カールマンとの不仲に、彼の出生の疑惑がかかわっていたかどうかは判然としない{{sfn|佐藤|2013|p=21}}。出生地についても、アーヘンで生まれたとする説<ref>黒田日出男『歴史学事典 12 王と国家』弘文堂、2005年、ISBN 978-4-335-21043-3、p. 149</ref>や、[[エルスタル]]で生まれたとする説<ref>[[松尾秀哉]]『物語 ベルギーの歴史』中公新書、2014年8月、p. 10</ref>があり定まってはいない。今日、「[[ラン]](Laon)伯Heribertの娘」と記されるベルトラダ(ベルタ)は<ref> ''Lexikon des Mittelalters''. Bd. I. München/Zürich: Artemis 1980 (ISBN 3-7608-8901-8), Sp. 2038.</ref>、「ブリタニアの王女」(Tochter des Königs von Britannien)であり、しかも一旦は、求婚の使者となったピピンの執事によってその娘に王妃の座をだまし取られたものの、最後には王妃となる伝説がある <ref>''Historische Sagen''. Herausgegeben und erläutert von Leander Petzoldt. Bd. 1. : Fahrten, Abenteuer und merkwürdige Begebenheiten. München: Beck 1976 (ISBN 3-406-00723-6), ''129. Berta, die Mutter des Karls des Großen '' (S. 127-129). なお、この伝説には、「ベルタは刺繡に優れている」、あるいは、星占いが、「生まれてくる息子はキリスト教界・異教界の王侯に敬われる」と予言する、など神話・伝説・民話でおなじみの他のモチーフも含まれている。</ref>。
=== 即位まで ===
ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、ギゼラの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに[[751年]]にはピピン3世は主君だった[[メロヴィング朝]]の[[キルデリク3世 (フランク王)|キルデリク3世]]から王位を簒奪してフランク国王に即位しており{{sfn|佐藤|2013|p=16}}、また[[754年]]にローマ教皇[[ステファヌス2世 (ローマ教皇)|ステファヌス2世]]が[[サン=ドニ大聖堂]]まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた{{sfn|佐藤|2013|p=21}}。[[768年]]にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二分され、カールは[[アウストラシア]]と[[ネウストリア]]を、カールマンは[[ブルグント]]、[[プロヴァンス]]、[[ラングドック]]を手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる{{sfn|佐藤|2013|p=21}}。[[771年]]にカールマンが死去するとカールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった{{sfn|佐藤|2013|p=22}}。
=== 外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一 ===
[[ファイル:Portrait of Charlemagne whom the Song of Roland names the King with the Grizzly Beard.png|right|thumb|190px|[[16世紀]]発行の『[[ローランの歌]]』におけるカールの肖像]]
カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。
父ピピン3世の死後、[[イタリア]]の[[ランゴバルド王国]]の国王[[デシデリウス (ランゴバルド王)|デシデリウス]]は王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした{{efn2|ランゴバルドはイタリア語では「ロンバルド」といい、[[ロンバルディア州]]、ロンバルディア平原の語源となった。}}。[[770年]]、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、[[773年]]に[[教皇|ローマ教皇]][[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返して[[アルプス山脈]]を越えイタリアに攻め込んだ(ランゴバルド戦役([[:de:Langobardenfeldzug]]))。翌[[774年]]にはランゴバルド王国の首都[[パヴィア]]を占領し、デシデリウスを捕虜として「[[ロンバルディアの鉄王冠|鉄の王冠]]」を奪い、[[ポー川]]流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド国王となって<ref>カール大帝によるランゴバルド征服をめぐる伝説に次のようなものがある。(1)吟遊詩人がカールの軍勢に、敵の攻撃にあわずにイタリアへ潜入できる道を案内した。彼が報酬として得た土地は、山に登りそこで吹いた角笛の音が届いた範囲であったと。Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 446. ≫Der lombardische Spielmann ≪ (S. 395).(2)近づく敵の様子を見るために高い塔に立ったランゴバルド王が目にしたのは、カールとその強力な軍勢が鉄の甲冑で武装し鉄の槍と剣を携えていた様だったと。Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 447. ≫Der eiserne Karl≪ (S. 395-396).(3)ランゴバルド王デシデリウスの娘は、カールの妃にしてくれるならという条件で父の眼を盗んで城門を開け、パヴィーアを占領させたと。Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 448. ≫Karl belagerte Pavia≪ (S. 396-397). </ref>[[教皇領]]の保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前の[[ラヴェンナ総督府]]領)を教皇に寄進した。またカールは征服したランゴバルド領の各地にフランク系の貴族を伯として大量に送り込み、新領土の統治体制を固めた{{sfn|佐藤|2013|p=26}}。これらの新領主は、やがてイタリアに土着し後世のイタリア貴族の多くの起源となった{{sfn|佐藤|2013|p=26}}。
[[ファイル:Charlemagne and Pope Adrian I.jpg|right|thumb|180px|カール大帝とローマ教皇ハドリアヌス1世]]
[[772年]]には、[[ドイツ]]北部にいたゲルマン人の一派[[サクソン人|ザクセン族]]を服属させようとし、[[ザクセン戦争 (カール大帝)|ザクセン戦争]]を開始。この戦争はカールが優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し、遠征は10回以上にも及んだ。[[785年]]には有力な指導者[[ヴィドゥキント]]を降伏させたものの抵抗は続き、結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の[[804年]]のことであった。カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、ザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地に[[フランク人]]を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。これによって現在の[[エルベ川]]から[[エムス川]]にかけての広大な地域がフランク王国に服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちもその多くが服属した。一方、ザクセンの征服によってその北に居住する[[デーン人]]との軍事的緊張が高まったが、カールの存命中は膠着状態が続いた{{sfn|佐藤|2013|pp=39-42}}。
[[778年]]、カールは[[後ウマイヤ朝]]に圧迫された[[イベリア半島]]北部のムスリム勢力の救援依頼をイベリアへの勢力拡大の好機とみなしイベリア北部に遠征した{{sfn|五十嵐|2001|p=74}}。[[サラゴサ]]のムスリム勢力を制圧して人質を出させたことで目的を達したと考えたカールは撤退をはじめた。その途上、[[ピレネー山脈]]越えに差し掛かった時、[[バスク人]]の襲撃を受けて大損害を受け、多数の兵士と将軍を失った{{sfn|五十嵐|2001|p=76}}([[ロンスヴォーの戦い]])。この戦いを題材にしたのが後に神話化され語り継がれた『[[ローランの歌]]』である{{sfn|五十嵐|2001|p=76}}{{sfn|佐藤|2013|p=32}}{{efn2|ローランはカールの甥で最も危険な後衛部隊をひきいていたが、味方の裏切りにあいイスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のローランは助けを求めず、カールより賜った剣[[デュランダル]]で最後のひとりになっても戦った。このなかでカールは200歳を越す老騎士として登場する。}}。[[795年]]にはピレネー南麓に[[スペイン辺境領]]をおいた。またこのとき、スペインの後背地にあたり地元勢力の強かった[[アキテーヌ]]をフランク人による直接支配の下に置くことを試み、息子の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](ルイ1世)を王とした[[アキテーヌ王国]]を創設した{{sfn|佐藤|2004|p=203}}。ほぼ同時代史料である『[[ルイ敬虔帝伝]]』によれば、カールはアキテーヌの完全掌握を目指してアキテーヌ全土の伯、修道院長の多くをフランク人から任命したという{{sfn|佐藤|2004|p=203}}。[[801年]]にはフランク王国の支配地は[[バルセロナ]]まで広がった([[バルセロナ伯]]){{sfn|阿部|2016|p=46}}。
北の[[フリース人|フリース族]]とも戦い、西では[[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ]]を鎮圧して、東方では[[ドナウ川]]上流で半独立勢力となっていた[[バイエルン人|バイエルン族]]を攻めて[[788年]]には大公タシロ3世を追いこれを征服するとともに、[[791年]]にはドナウ川中流の[[スラヴ人]]{{efn2|ヴェンド人のポラーブ族で、カールはヴェンド人全体をヴァンダル人と呼んでいた。}}や[[パンノニア平原]]にいた[[アヴァール]]を討伐してアヴァール辺境領をおき、[[792年]]には[[ウィーン]]にペーター教会を建設している。アヴァールは、[[中央アジア]]に住んでいたアジア系[[遊牧民族]]で[[モンゴル人|モンゴル系]]{{sfn|佐藤|2013|p=35}}もしくは[[テュルク]]系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後は[[マジャル人|マジャール人]]や[[スラヴ人]]に同化していったと考えられる{{efn2|中国史書に書かれた[[柔然]]との同族説もあるが<ref>内田吟風 『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』 同朋舎出版、1975年、pp. 397-421</ref>、確証はない。}}。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが、カールは再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として[[793年]]には[[ドナウ川]]と[[ライン川]]をつなぐ[[運河]]を計画した。[[796年]]に再度侵攻した際にはアヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによってアヴァールは致命的な大打撃を受けて以後は衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴い、フランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近までを服属させた。
[[ファイル:Empire carolingien 768-811.jpg|thumb|right|250px|カール時代のフランク王国('''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''紫'''は東ローマ帝国領)]]
結果としてカールの王国は現在のフランス、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]、[[スイス]]、[[オーストリア]]、[[スロヴェニア]]、[[モナコ]]、[[サンマリノ]]、[[バチカン市国]]の全土と、ドイツ、スペイン、[[イタリア]]、[[チェコ]]、[[スロヴァキア]]、[[ハンガリー]]、[[クロアチア]]の各一部に広がった。このことによって、[[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[イベリア半島]]、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、[[イングランド]]、[[デンマーク]]、[[スカンジナビア半島]]をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、[[ゲルマン民族の大移動]]以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。
カールは征服した各地に教会や[[修道院]]を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の[[典礼]]を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、[[十分の一税]]の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教の[[アタナシウス派]]([[カトリック教会]])に改宗させてフランク化もおこなった。メロヴィング朝はもともと、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「[[伯]]」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えていた。カロリング家は[[カール・マルテル]]の時代から各地の伯に自らの忠実な家臣を送り込む努力を続けていたが、カールの時代にはこれがさらに大規模化・徹底され、各地の伯にはカールの忠実な家臣が送り込まれた<ref>[[佐藤彰一]]『中世世界とは何か ヨーロッパの中世1』岩波書店、2008年11月、pp. 157-158</ref>。こうして伯は地方有力者が就く職からカールの地方官僚としての性格が強くなった。また、これによって地方の独自性が薄れ、制度の平準化と地域間の人材交流が促された。こうした伯などの家臣たちは、カロリング朝の崩壊後も世襲的に勢力を蓄え、中世貴族や王族として権勢をふるうようになるものたちも多くいた{{sfn|佐藤|2013|p=51}}。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に[[国王巡察使|巡察使]](ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている{{sfn|佐藤|2013|pp=53-55}}。
「カール大帝は巨大な所領群を王領地に併合したばかりではなく、管理と経営を改善しようとも努めた。彼は王領地について、また教会領についても一種の検地を実施させたが、それは史料のうえでは、教会領および国庫領検地小範例集「{{lang|la|Brevium exempla ad res ecclesiasticas e fiscales describendas}}」と[[ロルシュ]]およびクーアラエティアの王国土地台帳にみいだされる。カール大帝が王国領の管理を重視したことを示すきわめて印象深い例証は、御料地令「{{lang|la|Capiturale de villis}}」である。その内容は、国庫領の管理と運営に関する非常に詳細な規定と弊害除去のための方策からなっている」<ref>ハンス・K・シュルツェ『西欧中世史事典―国制と社会組織―』(千葉徳夫 他訳)MINERVA西洋史ライブラリー (22)、ミネルヴァ書房、1997年、{{ISBN2|4-623-02779-1}}、pp. 106-107。</ref>。
[[ファイル:Charlemagne-liege-1.jpg|200px|right|thumb|カール大帝像([[ベルギー]]、[[リエージュ]])]]
しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な[[ゲルマン法|部族法]]があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の[[封建社会|封建]]化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。主な宮廷は[[794年]]にアーヘンに築かれていたものの、アーヘンのほか[[インゲルハイム]]<ref>加藤雅彦 『ライン河 ヨーロッパ史の動脈』 岩波新書、1999年、p. 12</ref>や[[ネイメーヘン]]などにも宮廷を築いた<ref>モーリス・ブロール著、西村六郎訳 『オランダ史』 白水社、1994年3月30日第1刷、p. 11</ref><ref>佐藤弘幸 『図説 オランダの歴史』 河出書房新社、2012年、p. 20</ref>{{efn2|いずれの宮廷付属庭園でも動物を飼っていた{{要出典|date=2015年9月|ソートキー=人0814年没}}。}}。それは、絶えず領内を移動して、王のカリスマ性を示し伯の忠誠心を保つため伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。父と共に遠征した南西フランスの[[アキテーヌ地域圏|アクイタニア]]では土着貴族の勢力が強かったため、息子[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ]]をその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して[[交易]]を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。外交面では、東方の大国である[[アッバース朝]]とは数度の使節を交換し、友好関係を保っている。
=== カロリング・ルネサンス ===
{{main|カロリング・ルネサンス}}
[[ファイル:Aachen Germany Imperial-Cathedral-01.jpg|280px|right|thumb|[[アーヘン大聖堂]](ドイツ、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]])「皇帝の大聖堂」(Kaiserdom)とも呼称される。[[786年]]にカールが宮殿教会として建設を始めた。現在の大聖堂は[[805年]]完成<ref>小学館編 『地球紀行 世界遺産の旅』 小学館<GREEN Mook>、1999年10月、ISBN 4-09-102051-8、p. 91</ref>の八角形の宮廷礼拝堂に[[1414年]]の[[ゴシック様式]]の聖堂を併設したもの。[[1978年]]、[[世界遺産]]登録。]]
[[File:CarolingianMinuscule.jpg|thumb|right|250px|[[カロリング小文字体]]]]
[[内政]]においてカールは、[[アインハルト]](エギンハルドゥス)や[[アングロ・サクソン人]]で宮廷付属学校の校長となった[[アルクィン]](アルクィヌス)、スペインの{{仮リンク|テオドゥルフ|en|Theodulf of Orléans}}、イタリアからは[[ピサ]]の[[ペトルス]]や[[パウルス・ディアコヌス]]など内外から高名な学者や知識人、[[修道士]]を宮廷に招聘し<ref name="リンドバーグ 2011">デイビッド・C・リンドバーグ 著、高橋憲一 訳『近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで』朝倉書店(科学史ライブラリー)、p.209、2011年3月25日 初版第1刷</ref>、一般に[[カロリング朝ルネサンス]]と呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。カールは教育を重視し、特に僧侶教育に力を入れ修道院学校や聖堂学校を建設するとともに、[[古典古代]]の学芸に属する書物の収集および書写を大規模に行った<ref name="リンドバーグ 2011" />。[[カロリング小文字体]]が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。
「8世紀末から9世紀始めにかけて見られた古典の復興は、ローマの遺産の継承にとっても重大で決定的な段階をなしたものであるが、この背景には再興したローマ帝国があった。エルベ川エブロ川まで、そしてカレーからローマまで及んだこの帝国は、軍事的経済的才略に加えてローマ教会からの祝福をも獲得したひとりの皇帝の威厳ある人格のおかげで、一時的にだが政治的かつ宗教的な統一体へとまとめあげられた。カール大帝(768-814)の政治的手腕は彼の後継者たちにまで引き継がれなかったが、彼のおかげで促進された文化運動は9世紀においてもその勢いを保ち、10世紀まで続いた」(レイノルズ/ウィルソン)<ref>L.D.レイノルズ N.G.ウィルスン 著、西村賀子 吉武純夫 訳『古典の継承者たち-ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史-』国文社、1996年3月(ISBN 4-7720-0419-X)、p. 143</ref>。
=== カールの戴冠 ===
[[ファイル:Sacre de Charlemagne.jpg|right|280px|thumb|[[ジャン・フーケ]]「カールの戴冠」<br />(1455年-1460年)]]
[[797年]]、[[東ローマ帝国]]で[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]が皇帝[[コンスタンティノス6世]]を追放し、史上初めての[[女帝]]を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、東ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた{{sfn|井上|2009|p=147}}{{sfn|シュルツェ|2005|p=21}}。
800年11月、カールは[[バチカン]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]でのクリスマス・ミサに列席するため、長男[[カール少年王 (フランク王)|カール]](少年王)、高位の聖職者、[[伯]]、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた{{efn2|印象的なこのローマ入城は、あたかもローマ時代の儀礼「皇帝到来」の再現のようであったという{{要出典|date=2015年9月|ソートキー=人0814年没}}。}}。
800年[[12月25日]]の午前中のミサで、[[ペトロ]]の墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「'''ローマ皇帝'''」{{efn2|神により加冠されし至尊なる[[アウグストゥス]]、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治する[[インペラートル]];serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium}}としての帝冠を授けた{{efn2|強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、カールをローマ皇帝とすることで、はじめて[[東ローマ帝国の皇帝一覧|東ローマ皇帝]]や、その支配下にある[[正教会|コンスタンティノープル教会]]に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である{{要出典|date=2015年9月|ソートキー=人0814年没}}。}}。この時、周囲の者は皆「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」{{efn2|古代ローマ皇帝の理念は「キリスト教皇帝」に変質していたので、敬虔なローマ・カトリック教徒の最高の王者であれば、ゲルマン人であっても、カールが皇帝になることは差し支えなかったことをあらわしている{{要出典|date=2015年9月|ソートキー=人0814年没}}。}}と叫んだという。これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人の[[パトリキ|パトリキウス]]」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった<ref>『世界大百科事典』平凡社</ref>。ドイツでは、この出来事を[[神聖ローマ帝国]]の誕生として扱い、カールは初代[[神聖ローマ皇帝]] カール1世と呼ばれる。
この戴冠については当時カールに仕えていた[[アインハルト]]が、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない<ref>オイゲン・エーヴィヒ 『カロリング帝国とキリスト教会』 文理閣、2017年</ref>。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことがいくつもの研究によって示されている<ref>ブライアン・ティアニー 『The Crisis of the Church and State 1050-1300. 』 トロント大学出版部、1988年</ref>{{sfn|佐藤|2013|p=85}}。レオ3世は前年の[[799年]]に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり{{sfn|堀越|2006|p=88}}、[[東ローマ帝国]]への対抗措置でもあったのである。
カールがローマ皇帝に戴冠されると、[[コンスタンティノポリス]]の皇帝はカールの戴冠を皇帝称号の[[僭称]]であると見なし、西方の帝位を主張するには東ローマ皇帝の承認が必要であると強硬に反発した。それは西欧世界においても伝統的な認識であった{{efn2|古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた。また、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでには全くなかった。}}のだが、そもそも当時の東ローマ皇帝は女帝であるが故に帝国の西部では正当な皇帝であるとみなされていなかった{{sfn|シュルツェ|2005|p=21}}。
カールは自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるために東ローマ帝国の宮廷へ使者を送った。東ローマ帝国の女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]からはエイレーネーとカールによる東西ローマ帝国を統一するための結婚が提案され<ref>リンダ・ガーランド『Byzantine Empresses: Women and Power in Byzantium AD 527-1204』[[ラウトレッジ|Routledge]]、1999年</ref>、この申し出にカールも乗り気であった<ref name="瀬戸 2003">瀬戸一夫『時間の民族史―教会改革とノルマン征服の神学』勁草書房、2003年</ref>が、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。東ローマ帝国は当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の[[812年]]にようやく両者の間で妥協が成立し{{efn2|東ローマ帝国との関係が悪化した時、カールはハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期の[[カリフ]])とも提携して対抗しようとしている。なお、「[[シャルルマーニュの護符]]」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものといわれる{{要出典|date=2015年9月|ソートキー=人0814年没}}。}}、東ローマ皇帝[[ミカエル1世ランガベー|ミカエル1世]]はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んな[[ヴェネツィア]]を東ローマ領として譲り渡すことを承認した{{sfn|堀越|2006|p=89}}。ただ、この時にも東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない{{sfn|佐藤|2013|p=89}}。これは後の[[第一次ブルガリア帝国]]の皇帝[[シメオン1世]]などに対しても同様である。
西欧的立場から見るならば、これまでは[[地中海世界]]で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っており、ローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあり、また世俗権力と教権の二つの中心が並立する独自の世界の成立でもあった<ref>小田垣雅也 『キリスト教の歴史』 講談社学術文庫、1995年5月10日第1刷、p. 81</ref>。
=== 最期・列聖 ===
[[ファイル:Aachen Cathedral top floor.jpg|200px|right|thumb|アーヘンの宮廷礼拝堂]]
カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い{{sfn|ドイツ史 1|p=83}}、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール若王・次男のランゴバルド分国王[[ピピン (イタリア王)|ピピン]]・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、[[810年]]にピピンが、翌[[811年]]にはカール若王が父に先立って没したため、[[813年]]に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814年1月28日、[[アーヘン]]において71歳で崩御した。遺体はその日のうちに[[アーヘン大聖堂]]に埋葬された。
カールの列聖については、以下のような事情がある。「フリードリヒ([[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]・バルバロッサ)はアーヘンに赴き、[[1165年]]12月29日、心酔する偉大なる皇帝カール大帝を、[[パスカリス3世 (対立教皇)|パスカリス]](対立教皇)がとりしきる荘重な儀式により聖者の列に加えた。[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンダー]](教皇)はこれに反対した。その理由の一つは、聖別が敵によって行われたこと、他の理由は、新たに聖者に列したカールが行ったキリスト教の布教が、キリスト教的でないということだった。しかし、カールは数世紀後においてなお尊敬に値する人物であるという点が、すべての抗議を押し退けた。教皇たちでさえ、そのおかげを被っている人物に反対の立場を取り続けることができなかったのである」<ref>フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士の時代 ドイツ中世の王家の興亡』(柳井尚子訳)法政大学出版局 1992 (叢書・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0)、169頁。</ref>。後に、カール大帝への崇敬はアーヘン司教区と[[オスナブリュック]]司教区では ≫beatus≪として許された(≫gestattet, nicht anerkannt≪)<ref> Erhard Gorys : ''Lexikon der Heiligen''. München: Deutscher Taschenbuch Verlag, 6. Aufl. 2005 (ISBN 3-423-34149-1), S. 184. – Hiltgart L. Keller: ''Reclams Lexikon der Heiligen und der biblischen Gestalten''. Stuttgart: Reclam 1968, S. 307. </ref>。[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]] は中世金細工工芸の傑作(Meisterwerk der mittelalterlichen Goldschmiedekunst)として有名な聖遺物容器「カールのシュライン」(Karlsschrein)を造らせ、[[1215年]]アーヘン宮廷礼拝堂(Aachener Pfalzkapelle)におけるドイツ王戴冠式に際して、自らそのシュラインの中にカール大帝の遺骨を納めたと言われている <ref> Erhard Gorys : ''Lexikon der Heiligen''. München: Deutscher Taschenbuch Verlag, 6. Aufl. 2005 (ISBN 3-423-34149-1), S. 184. - 「カールのシュライン」そのものについては、 Florens Deuchler : ''Gotik''.(Belser Stilgeschichte 7) Stuttgart: Chr.Belser 1970, Abb.66(S. 61) und S. 56. </ref>。
== 人物・人物像 ==
カールに招聘された学者で伝記作者でもあったアインハルトによれば、小太りの長身(約195cm)でふさふさとした銀髪をもち、声は少し甲高かったという。[[馬術]]、[[狩猟]]、[[水泳]]などに長じており、特に水泳はアーヘンの宮廷に大きな温泉プールを設けるほど愛好したが、誰もカールの右に出るものはいなかったほどであった。プールでは一族や従臣とともに泳いだが、その数は100人に達することもあったという。焼いた肉が大好物であったが、酔っぱらいが嫌いで酒はあまり飲まなかったという。
[[ファイル:Bust of Charlemagne.png|200px|right|thumb|カール大帝の金の胸像([[アーヘン大聖堂]]宝物館、1349年以降)]]
[[ファイル:Autograf, Karl den store, Nordisk familjebok.png|200px|right|thumb|カールのサイン]]
また、文字の読み書きはできなかったという。カールはしばしば"KAROLUS"の7文字を組み合わせて署名したが、自身では中央の[[菱形]]だけしか書いていないといわれる。ただし、夜な夜な石板に手習いをしたエピソードは有名で、ラテン語は自由に話せるほどに熟達し、[[ギリシア語]]も聞いてわかる程度にはなった。食事中は好んで歴史書を読ませたが神学者[[アウグスティヌス]]の著作も好み、『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』は何度も読ませたという。
服装は簡素で、麻の下着と絹のふちどりをしたチョッキとズボンでできたスーツがお気に入りで、スーツの上に革製の[[ゲートル]]をつけ、靴をはくという機能的なスタイルを好んだ。儀式のとき以外はローマ風の正装は好まなかったといわれる。
カールの言葉に
* 「平和なくして、神を喜ばせることはできない」
* 「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」
がある。
カールとルートヴィヒは動物飼育に熱中したという記録が残っている。[[797年]]には[[アッバース朝]]の[[ハールーン・アッ=ラシード]]から[[アブル=アッバース]]という名の[[ゾウ]]1頭{{sfn|佐藤|2013|p=44}}と何匹かのサルを贈与され、[[9世紀]]初頭にはアフリカのイスラム政権[[アグラブ朝]]から、ライオンとクマを贈られている。宮廷付属庭園には、これら珍獣とともにヨーロッパ産の[[シカ]]、[[ノロジカ]]、[[ダマジカ]]などの[[哺乳動物]]や、[[クジャク]]、[[キジ]]、[[キジバト]]、[[ウズラ|ヤマウズラ]]、[[カモ]]などの鳥類が集められていた。
また、カールはフランスの[[トランプ]]では[[ハート (シンボル)|ハート]]のキングのモデルとされている。
'''中世ラテン語文学'''において、カールは[[アルクィン]]をはじめ多くの学者・詩人によって賛美された。それらの作品においては、カールのランンゴバルド征服、対ザクセン戦争、バイエルン公タッシロ制圧等の軍功、キリスト教信仰、芸術保護、アーヘン市の建設などが称揚された<ref>''Lexikon des Mittelalters''. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 ({{ISBN2|978-3850889056}}), Sp. 961-962 (Beitrag von D. Schaller).</ref>。
'''中世フランス文学'''においては、「対サラセン人の、時には対サクソン人(『サクソン人の歌』≫Les Saisnes≪)の戦争におけるシャルルマーニュの武勲を物語る」詩群が生まれた。これは「王の詩群」(≫Cycle du roi≪)と呼ばれ、『[[ローランの歌]]』(≫Chanson de Roland≪)、『シャルルマーニュの巡礼』(≫Pèlerinage de Charlemagne≪)、『アスプルモンの歌』(≫Chanson d’Aspremont≪)などから構成されていた。「『シャルルマーニュの巡礼』は喜劇的な調子を添えてはいるが、だからといって護教論的な意図を棄てているわけではない。すなわち、シャルルを中心に集まったフランク人たちが向こうみずな≪法螺≫を実際に遂行しえたのも神の加護があったからである」<ref>ドミニック・ブーテ/アルマン・ストリューベル『中世フランス文学入門』(神沢栄三訳)(文庫クセジュ 657)白水社 1983年、26-27頁。</ref>。
'''中世ドイツ文学'''においてもカール大帝とその家臣をめぐる作品が生まれたが、それらはフランスの武勲詩の翻案といってよいものであったが、宗教性の色が濃く出るものとなった。コンラート師『ローラントの歌』(''Das Rolandslied des Pfaffen Konrad'')は、フランス武勲詩の傑作『ローランの歌』の翻案であるが、作品冒頭で作者は、「如何にしてあの優れた男子が神の国を勝ち得たか(を書くのだ)。あれとは、まさにカール帝のことである。皇帝は神の御前にいる。なんとなれば、皇帝は神と共に多くの異教の国々を征服し、キリスト教徒の名誉を高めたためである」と、ローラン中心の物語をカール中心の物語に変えている<ref>''Das Rolandslied des Pfaffen Konrad''. Herausgegeben, übersetzt und mit einem Nachwort von Dieter Kartschoke. Fischer Bücherei 1970, S. 6-7.</ref>。[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]]の『ヴィレハルム』(≫Willehalm≪)は、フランスの「ギヨーム・ドランジュの詩群」(Cycle de Guillaume d’Orange)に属する武勲詩『アリスカン』(≫Aliscans≪)を基にした作品である。この物語の主人公は、カール大帝の後継者[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]・敬虔王の重臣ヴィレハルムである。南フランスに辺境伯として居城を構える彼は侵入してきた異教徒勢にいったん敗れると、救援を求めてルートヴィヒ1世の許に赴く。ヴィレハルムとその一族はルートヴィヒ王に帝国軍の派遣を訴えるのに際し、「カール皇帝の勇気を相続し、ご先祖から受け継がれた名誉を汚さないでいただきたい」(182詩節)と盛んにカールの名前を持ち出す。帝国軍の指揮官として指名され異教徒へのリベンジを果たす主人公は、カール大帝の精神を受け継ぐ勇者として描かれている<ref>ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ「ヴィレハルム」([[伊東泰治]]・馬場勝弥・小栗友一・有川貫太郎訳)第4巻〔名古屋大学教養部 紀要C(外国語・外国文学) 19輯 1975、75頁〕</ref>。
カール大帝をめぐる'''伝説'''の数は多い。[[グリム兄弟]] 『ドイツ伝説集』458番「アーヘンに近い湖の指輪」と459番「皇帝と蛇」は、カールと都市アーヘンとの深い関係について語り、455番「フランクフルト市建設」は市名の由来をカール軍との関わりから説き、544番「白鳥の騎士」と545番「優れたゲルハルト・シュヴァーン」では、大帝が白鳥の騎士伝説に結びつけられている。444番「カールのハンガリーからの帰還」は、 長期の外征中窮地に陥った妃を救うために3日でハンガリーからアーヘンに戻った様を語っている。22番「ニュルンベルクのカール皇帝」は、皇帝は同市の深井戸にいると語られ、28番「ウンタースベルクのカール皇帝」では、皇帝は王笏を手に王冠を戴く姿のまま山中にいるとされている。26番「カール皇帝の出発」ではカール大帝は全軍とともにオーデンベルク山中にいて、戦争が勃発する前になると、山が開き、皇帝はそこから出て角笛を吹き、他の山に移動すると伝えている。481番「カールの墓所を訪れたオットー3世」では、生きているかのような姿のカールをオットーが見たとされている。460番「カール王」は非常に長い伝説で、カールがローマ皇帝となり諸国を平定した過程とその死を物語っているが、協力した教皇レオをカールの兄弟としているのがユニークである。カールをめぐる伝説に現れる多数のモチーフの少なからぬ部分は他の皇帝・王の伝説にも見られるが、カールの場合、そのモチーフの多彩さは他の追随を許さないと言えようか<ref> Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd.1. und 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0) </ref>。
== 学説 ==
===カール大帝の戴冠===
カール大帝の戴冠は、ヨーロッパ中世世界を決定づけたが、以下のような説がある。
* [[尚樹啓太郎]]によれば<ref>尚樹 啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版社、1999年</ref>、[[780年]]に即位した[[コンスタンティノス6世|コンスタンディノス6世]]は10歳という幼さであったため、母后[[エイレーネー (東ローマ女帝)|イリニ]]が政治を後見した。コンスタンディノス6世は成長するにつれ、イリニとそれを補佐する宦官たちと対立するようになり、とくに[[聖像破壊運動|イコン崇拝]]を巡ってはイリニがイコン擁護派であったのに対し、コンスタンディノス6世はイコン破壊派と結びつくようになった。最終的に[[796年]]、イリニが近衛軍を掌握してクーデタを起こして[[797年]]コンスタンディノス6世を追放し、イリニは帝国を一人で統治するようになった。西方では、カロリング朝が領土を拡大し影響力を増した。また教皇はこのころローマ市生まれの人物がつくことが多くなり、東方で盛んであったイコン破壊運動にも不満を持っていたので徐々にビザンツ帝国に距離を置いた。教皇レオ3世はコンスタンディノス6世が追放されて以後はローマの皇帝位は空白であると考え、[[800年]]のクリスマスの日にローマを訪れていたカール大帝に皇帝位を授けた。カール大帝はこの戴冠にあまり乗り気ではなかった。カール大帝はビザンツ帝国の承認を得ようとし、必要であればイリニとの結婚さえ提案するつもりであった。このときの状況はかつてローマ帝国の皇帝が東西に分立していた時とは異なっていた。ローマ教皇もビザンツ皇帝も、皇帝と教会は一つであるべきだと考えていたから、カール大帝が西ローマ皇帝位の承認を求めても拒絶に遭うだけであった。ビザンツ皇帝はカール大帝を「皇帝」と認めても、「ローマ人の皇帝」とは認めなかったし、カール大帝も「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。
* {{仮リンク|ハンス・シュルツェ|de|Hans K. Schulze}}によれば{{sfn|シュルツェ|2005|pp=133-144}}、カール大帝の王国が西ヨーロッパで支配的な影響力をもつようになるにつれ、ローマ教皇も自身の宗教的権威の後ろ盾となる政治権力の必要性から頼みとするようになった。カール大帝自身も自分の地位の上昇に明確な意識を持っていた。教皇レオ3世が反対派から暴行を受け、幽閉された先からカール大帝の宮廷に逃れてきたとき、カール大帝には「教皇の問題」に関わるべき権限が本来ないはずであったが、彼はレオ3世と反対派の陳述を聞いて判決を下した。800年のクリスマスにカール大帝の戴冠がおこなわれた。儀式はビザンツ帝国を意識したものであったが、ビザンツでの戴冠が「戴冠→民衆による歓呼→総主教による聖別」という順番であったのに対し、「教皇による戴冠→民衆による歓呼」という順番でおこない、意図的に教皇の役割を高めたものであった。カール大帝は東方のビザンツ皇帝、女帝イレーネに対しては彼女が女性であり、息子である前皇帝を盲目にして追放したという理由から、これを帝位請求権を持つ者とは考えていなかった。しかしイレーネにつづく[[ニケフォロス1世]]とは「共存関係」を結ぼうとした。カール大帝はかつてのローマ帝国の東西分割に範をとって、自身の帝国を「西帝国」と呼んだ。
* [[アンリ・ピレンヌ|ピレンヌ]]によれば<ref>アンリ・ピレンヌ 『ヨーロッパ世界の誕生』 創文社、1960年</ref>、ローマ教皇ハドリアヌス1世が死んだ頃には、カール大帝の意識の中に「キリスト教の保護者」という考えを見ることができる。カール大帝は教皇レオ3世にあてた書簡で自身を「全キリスト教徒の支配者にして父、国王にして聖職者、首長にして嚮導者である」と述べている。800年の戴冠によって成立した皇帝は二重の意味でかつての西ローマ皇帝の再現ではなかった。まず教皇はカトリック教会の皇帝としてカール大帝を戴冠させた。教皇はカール大帝に帝冠を与えたのがローマの市民ではなく教皇であるということを示し、さらにその皇帝は世俗的な意味合いが全くなかった。教皇はすでにあるカールの帝国に聖別を施したというべきである。なぜならカール大帝の即位によって何らかの帝国組織、帝国制度が創出されたわけではないからである。次にカール大帝の帝国はかつての西ローマ帝国のように地中海に重心をもつのではなく、その重心は北方にあった。カール大帝は自らの称号で「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。彼は「ローマ帝国の統治者」と述べたのであり、つづく「フランク人およびランゴバルド人の王」というのがより現実的な支配領域を指していた。カール大帝の帝国の中心はローマではなくて、[[アーヘン]]であった。ピレンヌによれば、カール大帝の皇帝戴冠は彼がフランク国王としてキリスト教の守護者を任じていたということであり、これは西ヨーロッパが地中海中心の世界から内陸世界へと移行していく過程の必然の結果であった。
* 渡辺治雄は{{sfn|ドイツ史 1|p=74}}、ビザンツ帝国の女帝イレーネ即位という偶然的事象を重視し、カール大帝は皇帝になることは全く考えていなかったが、聖職者たちが女帝の支配は違法であり、ビザンツ帝国では帝位が消滅しているという理由から、カール大帝に皇帝即位を積極的に薦めた。教会主導でおこなわれた800年の戴冠以後は「西ローマ帝国の復興」という理解が一般化した。[[802年]]に女帝イレーネが追われてニケフォロス1世が登極してからは皇帝空位論は成り立ちえず、カール大帝の皇帝即位はビザンツ帝国の政情に依存するところが大きかったとした。
* [[瀬戸一夫]]は<ref name="瀬戸 2003" />、戴冠は状況的かつ偶然的な出来事であったとする。教皇の目論見はビザンツ帝国の政治的圧力の回避にあり、フランク族の影響力を用いて当時混乱していたコンスタンティノープルの政局を遠隔操作することにあった。シャルルマーニュの目的はビザンツ帝国と同格かつ独自の「王国=教会」共同体をラテン地域に打ち立てることであった。両者の間にはしたがって一定程度の隔たりがあったのだが、レオ3世の不安定な地位が問題を棚上げして、一方的に帝冠の授与を行った。教皇の政治判断は理念的にも現実的にも破綻していたが、これが成功したのには当時のビザンツ政権が基盤が貧弱な女帝イレーネーによっていたことも大きく寄与した。彼女は反対派の攻勢に晒されており、そのため対外的に親フランク的な政策をとった。イレーネーはシャルルマーニュとの婚姻にも好意的で、シャルルマーニュもこれには乗り気であった。しかしこれは一時の政治状況から成り立ったのであって、それが過ぎれば二帝問題・聖俗二元統治の実際上の問題などいろいろな矛盾を事後的に正当化する必要が生じた。つまり計画的なものであったとは考えられず、戴冠は必然的ではなかったが、戴冠は教皇という宗教的権威が「ローマ人の皇帝」を創造するといった永続的な宗教的政治的意味を後世にもたらした。
=== ピレンヌ・テーゼ ===
[[ベルギー]]の[[歴史家]][[アンリ・ピレンヌ]]は、'''「マホメットなくしてカールなし」'''という[[テーゼ]]を唱えている<ref>佐々木克巳 「地中海商業史とフランク政治史:ピレンヌ・テーゼについての覚書」 一橋論叢74(2), 1975年</ref>。これは、西ヨーロッパと呼ばれる地域の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行について、[[ムスリム]]勢力による地中海沿岸の征服により、商業地域として閉ざされたことによって、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したという指摘であった。すなわち、中世ヨーロッパ世界の成立は、[[ムハンマド]](マホメット)を嚆矢とする8世紀のイスラム勢力による地中海制覇の結果であり、東ローマ帝国とも対立することで西ヨーロッパに閉ざされた世界が現れたとして、古代地中海文化と中世文化の断絶を強調しているのである。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こったが、いまだその正否については結論が出たとはいえない。
== 家族 ==
家庭生活では5回結婚し、そのうえ4人の第二夫人がいた。生まれた子は約20人。カールは容易に娘たちの結婚を承諾しなかったため、娘たちは勝手に結婚したりしてスキャンダルを引き起こしたりしている。
一説によればカール大帝が娘を寵愛し、娘たちと近親相姦の関係があったからという説もある。また妹ギゼラ(ジゼル)とも関係を持ち、勇将[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|ローラン]]はカール大帝と妹の[[近親相姦]]で生まれたという伝説が中世において流布した<ref>{{Harvnb|エインハルドゥス|1988|pp=29-31}} - フィリップ・ヴァルテールは『英雄の神話的諸相――ユーラシア神話試論I――』[Phippe Walter, ''Aspects mythiques du héros . Essais de mythologie eurasiatique I'']([[渡邉浩司]]・渡邉裕美子訳)[[中央大学]]出版部 2019 (ISBN 978-4-8057-5181-7)、 第1章「自然の掟に反した英雄の懐胎」(7-24頁)において、カールが妹との近親相姦によってローランを儲けたとする噂について、(1)「史実に基づく民族学的な解釈」と(2)「イデオロギーに基づく政治的な解釈」を簡潔に示した後で、東西の神話・伝説に通暁した著者ならではの(3)「神話学的な解釈」を詳細に展開している。</ref>。もっとも、妹ギゼラ(757年生まれ)はChelles修道院の院長になり、彼女のもとで同修道院は文化的頂点に達した。彼女は有名な神学者[[アルクイン]]と文通をしていたが、アルクインは彼女とその姪Rodtrutに自著「ヨハネによる福音書への注解」を献呈している<ref>Elisabeth Schraut/Claudia Opitz: ''Katalog zur Ausstellung „Frauen und Kunst im Mitelalter“''. Braunschweig: Hinz & Kunst 1983 ISBN 3-922618-04-9 , S. 28.</ref>。
最初の妻は'''ヒミルトルーデ'''(素性未詳)、770年に離婚。
* アモードル(768年 - ?)
* {{仮リンク|傴僂のピピン|fr|Pépin le Bossu|en|Pepin the Hunchback|label=ピピン}}(770年頃 - 811年) - 謀反、プリュム修道院に幽閉。
770年12月25日、ランゴバルド王デシデリウスの娘'''デジデリア'''と結婚、771年に離婚。子供はいない<ref> [[グリム兄弟]]『ドイツ伝説集』448番「カールのパヴィーア攻囲」に紹介されている伝説によれば、Desideriusが息子・娘とともに[[パヴィーア]]に逃れ、カールに攻囲されていた。王女は敵のカールに、自分を妃にしてくれるならパヴィーアと父の財宝を譲り渡す、と矢文を放つ。応諾の返事をもらった彼女は町の鍵を盗み出すと今夜町に攻め寄すように、とカールに伝える。兵が門の中に入ると彼女は喜んで出迎えるが、混乱のさなかに馬にひき殺されてしまう。カールはこうしてランゴバルド王の城パヴィーアを獲得した、という。Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 448. ≫Karl belagerte Pavia≪(S. 396-397). </ref>。
771年、アレマニア大公家の血を引く'''ヒルデガルド'''(783年没、ゲロルト1世・フォン・フィンツガウの娘)と結婚<ref> [[グリム兄弟]]『ドイツ伝説集』442番「ヒルデガルト」に紹介されている伝説によれば、夫のカールが外征中に彼女は夫の異母(異父)兄弟Talandから言い寄られる。彼女はその誘いを拒否する。しかし、遠征から帰還したカールにTalandは嘘をつく。カールはその嘘を信じ、召使いにヒルデガルトの処刑を命じる。彼女は一旦逃れたものの、発見されて、国外追放を言い渡される。その後彼女はローマに赴き、修得していた医術のおかげで有名になる。一方Talandは盲目になりハンセン病にもなっていた。彼はヒルデガルトのところに行き、病気を治してもらう。これにおどろいたカールは女医のところに行き、真相を知る。カールはヒルデガルトを改めて妃として迎えた、という。Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0), Nr. 442. ≫Hildegard≪(S. 390-391). </ref>。
* [[カール (カール大帝の子)|カール]](771年頃 - 811年12月) - フランク王(800年 - 811年)
* アデルハイト(774年 - 774年)
* ロトルート(775年 - 810年6月) - ビザンツ皇帝[[コンスタンティノス6世]]と婚約(のち解消)。メーヌ伯ロリコと事実上の結婚、サン=ドニ修道院長ルイをもうけた{{sfn|五十嵐|2001|p=135}}。
* [[ピピン (イタリア王)|ピピン(カールマン)]](777年 - 810年7月) - イタリア王(781年 - 810年)
* [[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルイ(ルートヴィヒ)]](778年 - 840年) - アキタニア王(781年 - 814年)、神聖ローマ皇帝
* ロタール(778年 - 779年/780年) - ルイと双子、早世。
* ベルト(779年 - 826年) - カールの側近アンギルベルトと結婚、二子をもうけた{{sfn|五十嵐|2001|p=135}}。
* ギゼラ(781年 - 808年)
* ヒルデガルド(782年 - 783年)
784年、チューリンゲン大公家に連なる伯ラドゥルフの娘'''ファストラダ'''(794年没)と結婚{{sfn|五十嵐|2001|p=90}}。
* テオドラーダ(784年生) - アルジャントゥイユ修道院長
* ヒルトルート(787年生)
794年、ズントガウ伯ルイトフリト2世の娘'''ルイトガルド'''(800年没)と結婚。子供はいない。
妾ゲルスヴィンデとの間に娘が1人いる。
* アダルトルート(774年生)
妾マデルガルトとの間に娘が1人いる。
* ルオトハイト(775年 - 810年) - ファルムティエ修道院長
妾アマルトルートとの間に娘が1人いる。
* アルパイダ(794年生)
妾レジナとの間に息子が2人いる。
* ドロゴ(801年 - 855年) - メッツ司教(823年 - )、リュクスイユ修道院長
* ユーグ(802年 - 844年) - 帝国書記長
妾エセリンドとの間に息子が2人いる。
* リチボド(805年 - 844年) - サン・リキエ修道院長
* テウデリク(807年生)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author1=エインハルドゥス |authorlink1=アインハルト |author2=ノトケルス |others=[[国原吉之助|國原吉之助]] 訳 |year=1988 |month=3 |title=カロルス大帝伝 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=4-480-83591-1 |ref={{sfnref|エインハルドゥス|1988}} }}
* {{Cite book|和書|editor1=成瀬治 ||editor1-link=成瀬治 |editor2=山田欣吾 |editor2-link=山田欣吾 |editor3=木村靖二 |editor3-link=木村靖二 |title=ドイツ史 1 先史-1648年 |publisher=[[山川出版社]] |series=世界歴史大系 |isbn=978-4-634-46120-8 |year=1997 |month=07 |chapter=フランク時代 |ref={{sfnref|ドイツ史 1}} }}
* {{Cite book|和書|author=五十嵐修 |title=地上の夢キリスト教帝国 - カール大帝の〈ヨーロッパ〉 |publisher=[[講談社]]選書メチエ |year=2001 |month=10 |isbn=978-4-06-258224-7 |ref={{sfnref|五十嵐|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author=佐藤彰一 |authorlink=佐藤彰一 |title=中世初期フランス地域史の研究 |year=2004 |month=7 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4-00-023825-0 |ref={{sfnref|佐藤|2004}} }}
* {{Cite book|和書|author=ハンス・クルト・シュルツェ |authorlink=:de:Hans K. Schulze |others=五十嵐修、浅野啓子、小倉欣一、佐久間博展 訳 |year=2005 |month=11 |title=西欧中世史事典 II |publisher=[[ミネルヴァ書房]] |isbn=978-4-623-03930-2 |ref={{sfnref|シュルツェ|2005}} }}
* {{Cite book|和書|author=堀越孝一 |authorlink=堀越孝一 |title=中世ヨーロッパの歴史 |date=2006-05-11 |publisher=[[講談社学術文庫]] |isbn=978-4-06-159763-1 |ref={{sfnref|堀越|2006}} }}
* {{Cite book|和書|author=井上浩一 |authorlink=井上浩一 |title=ビザンツ皇妃列伝 |publisher=[[白水社]] |series=[[白水Uブックス]] 1109 |year=2009 |month=12 |isbn=978-4-560-72109-4 |ref={{sfnref|井上|2009}} }}
* {{Cite book|和書|author=佐藤彰一 |title=カール大帝 |year=2013 |month=4 |publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4-634-35029-8 |series=世界史リブレット 人 029 |ref={{sfnref|佐藤|2013}} }}
* {{Cite book|和書|author=阿部俊大 |title=レコンキスタと国家形成 |publisher=[[九州大学 |九州大学出版会]] |year=2016 |month=10 |isbn=978-4-7985-0190-1 |ref={{sfnref|阿部|2016}} }}
== 関連書籍 ==
* {{Cite book|和書|editor=堀米庸三責任 |editor-link=堀米庸三 |title=世界の歴史3 中世ヨーロッパ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公文庫]] |year=1974 |month=12 |isbn=978-4-12-200168-8}}
* {{Cite book|和書|author=ロベール・フォルツ |authorlink=:en:Robert Folz |others=大島誠 訳 |title=シャルルマーニュの戴冠 |publisher=[[白水社]] |series=ドキュメンタリー・フランス史 |year=1986 |month=12 |isbn=978-4-560-02944-2}}
* {{Cite book|和書|author=阿部謹也 |authorlink=阿部謹也 |title=物語 ドイツの歴史 - ドイツ的とはなにか |publisher=中央公論社 |series=[[中公新書]] 1420 |year=1998 |month=5 |isbn=978-4-12-101420-7}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Karl I. der Grosse}}
* [[シャルルマーニュの護符]]
* [[サリカ法典]]
* [[カール大帝賞]]
* [[ザクセン戦争 (カール大帝)]]
* [[九偉人]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|カール(大帝)}}
{{先代次代|[[カロリング朝|フランク]][[フランク王の一覧|国王]]|768年 - 814年|[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]|[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]}}{{先代次代|[[神聖ローマ皇帝]]|800年 - 814年|新設|[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]}}
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[[Category:フランク王国の君主]]
[[Category:フランク人のローマ皇帝]]
[[Category:中世イタリア王]]
[[Category:ピピン3世]]
[[Category:カロリング家]]
[[Category:ローランの歌]]
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[[Category:742年生]]
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アルファベット
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アルファベット(英: alphabet)は、表音文字のうちの音素文字の一種で、学術的には一つ一つの文字が原則としてひとつの子音もしくは母音という音素を表すものを指す。
起源は、古代ギリシア人が子音字に加えて母音字を持つギリシア文字を作ったことが始まりである。これはフェニキア文字(子音字のみのアブジャドに属する)を用いて作られた。
その後、古代イタリア地域諸言語(ラテン語や非インド・ヨーロッパ語族を含む)、および多くのインド・ヨーロッパ語族(インド・イラン語派を除く)はアルファベットを採用した。
文字体系の類型としては、アルファベットはアブギダやアブジャドとともに音素文字に属する。ただし欧米では、これら3つをまとめて「アルファベット」と呼ぶことがある。
アルファベットのほとんどは、セム諸語のための文字として中東で誕生したアブジャドから発展してきたと考えられている。一方、アブギダはかつて音節文字とアルファベットの中間段階と考えられたこともあったが、今日では、アルファベットとは別個にアブジャドから発展してきたものだと考えられている。
アルファベットの起源はアブジャドである。ギリシャ人はアルファベットを、セム文字系統のフェニキア文字(アブジャドに属する)から作った。
アブジャドは、紀元前1700年 - 紀元前1500年頃に地中海東部の沿岸地域で発達したと考えられている。これは北セム文字と呼ばれ、楔形文字とヒエログリフを組み合わせてできたものであるが、クレタ文字やヒッタイト文字のような類縁関係にある文字から採られたものもあるようだ。北セム文字には子音をあらわす文字しかなく、単語の中の母音は補って読まなければならなかった。紀元前1000年頃に北セム文字が、南セム文字、カナン文字、アラム文字、ギリシア文字の4つの系統に分かれたと考える学者は多い。ただし、南セム文字だけは北セム文字とは独立に発達か、両者が共通の祖先から発達したのだという説もある。南セム文字は、アラビア半島でかつて用いられていた諸言語や、現代のエチオピアの諸言語の文字の起源である。
ギリシャ人はアルファベットを作り、フェニキア文字が子音字22文字だったものを、24文字(方言によってはこれより多いものもある)に増やし、母音を表す文字と子音を表す文字を区別するようにした。紀元前500年頃からは、ギリシャ文字は左から右に書かれる規則が成立した。ギリシャ文字は、地中海地域全体に広まり、エトルリア文字、オスク文字、ウンブリア文字、ラテン文字などのもととなった。中でもラテン文字は、ローマ帝国の言語であるラテン語を記すための文字だったため、西ヨーロッパで話されているすべての言語のアルファベットの基礎となった。
どんなアルファベットでも、異なる言語を話す民族によって使われていれば、それぞれ改変が加えられるものである。アルファベットの数や文字の形も異なり、文字の上下に記号をつけて、その文字が本来あらわす音とは違った音を表すこともある。例えば、"c"の下に小さな筆記体の"z"をつけた「セディーユ」という文字は、フランス語、ポルトガル語、トルコ語などではごく一般的に使われるが、英語では外来語を除いてほとんど使用されない。また、セディーユは、フランス語とポルトガル語では /s/ の音をあらわすが、トルコ語では /tʃ/ の音を表し、古いスペイン語では /ts/ の音を表していた。
アルファベットは、1つの文字が1つの音を表すようにしようとして発展してきたものではあるが、現代アルファベットを用いる言語の中で、このような原則が厳密に守られているものはあまりない。その大きな理由は、話し言葉が時代の変遷に応じて大きく変化する傾向があるのに対して、つづり字は人工的な改変・再編がない限り滅多に変化しないからである。この傾向は大母音推移という現象を経た英語において特に顕著である。例えば、英語で「騎士」を意味する単語のつづりが"knight"であるにもかかわらず発音が /nait/ なのは、古い英語では"k"も"gh"も発音されていたが、現代の英語ではそれが黙字として発音されなくなったからである。
つづり字と発音の間の違いの大きな言語では、歴史の節目でつづり字改革運動が起こることがあり、英語においては"colour"→"color"、"gaol"→"jail"等、アメリカ英語の一部の単語にその例を見ることができる。
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] |
アルファベットは、表音文字のうちの音素文字の一種で、学術的には一つ一つの文字が原則としてひとつの子音もしくは母音という音素を表すものを指す。 起源は、古代ギリシア人が子音字に加えて母音字を持つギリシア文字を作ったことが始まりである。これはフェニキア文字(子音字のみのアブジャドに属する)を用いて作られた。 その後、古代イタリア地域諸言語(ラテン語や非インド・ヨーロッパ語族を含む)、および多くのインド・ヨーロッパ語族(インド・イラン語派を除く)はアルファベットを採用した。 学術的定義外の用例 形式言語とオートマトンの理論の用語
|
{{Otheruseslist|文字としてのアルファベット全般|「アルファベット」のその他の意味|アルファベット (曖昧さ回避) |ラテン文字の[[A]]から[[Z]]、日本におけるいわゆるアルファベット|ラテン文字}}
{{出典の明記|date=2016年5月}}
{{WStypes}}
'''アルファベット'''({{lang-en-short|alphabet}})は、[[表音文字]]のうちの[[音素文字]]の一種で、学術的には一つ一つの[[文字]]が原則としてひとつの[[子音]]もしくは[[母音]]という[[音素]]を表すものを指す<ref group="注">したがって、おおむね[[発音記号]]の仕組みと同等である。</ref>。
起源は、古代[[ギリシア人]]が[[子音]]字に加えて[[母音]]字<ref group="注">[[Α]]、[[Ε]]、[[Ι]]、[[Ο]]、[[Υ]]。子音字と同じく[[フェニキア文字]]を元にし古代[[ギリシア人]]は母音字へ転用した(ただし[[Ϝ]]と[[Υ]]とは[[フェニキア文字]]では同一文字の異形字だった)。</ref>を持つ[[ギリシア文字]]を作ったことが始まりである<ref group="注">「アルファベット」という語は、[[ギリシア文字]]の最初の2文字 {{lang|el|[[α]]}}, {{lang|el|[[β]]}} の読み方である「[[アルファ]]」({{lang|el|ἄλφα}})(母音)、「[[ベータ]]」({{lang|el|βήτα}})(子音)に由来する。</ref>。これは[[フェニキア文字]](子音字のみの[[アブジャド]]に属する)を用いて作られた。
その後、[[古代イタリア地域諸言語]]([[ラテン語]]や非[[インド・ヨーロッパ語族]]を含む)、および多くの[[インド・ヨーロッパ語族]]([[インド・イラン語派]]を除く)はアルファベットを採用した。
* 学術的定義外の用例
:: ただし、[[音素文字]]もしくは[[表音文字]]を指してアルファベットと呼ぶことも少なくない。例えば、英語の「alphabet」の用例として、[[日本語]]の[[仮名 (文字)|仮名]]を''Japanese alphabet''と呼ぶことがある<ref group="注">ただし、仮名は[[音節文字|表音節文字]]なので、''Japanese syllabary''などが実態に近い。</ref><ref>{{cite news |title=30 hours of wonder: Shrines, temples and hot springs |newspaper=[[ジャパンタイムズ]] |date=2019-11-21 |url=https://www.japantimes.co.jp/life/2019/11/21/travel/30-hours-wonder-shrines-temples-hot-springs/ |accessdate=2019-11-24 | language=[[英語]]}}</ref>。
:: 日常語において「アルファベット」という単語は主に[[ヨーロッパ系の言語]]の文字を指す。<!--一覧を表すが、学術的には後述する定義を満たしさえすれば[[ヨーロッパ]]系の言語でなくともよい。-->
:: [[日本]]においては「アルファベット」の語は、世界でもっとも広く通用している代表的なアルファベットである'''[[ラテン文字]]'''(ローマ字)の代名詞としても定着しているが、(歴史的経緯により)「'''[[ローマ字]]'''」の語を[[日本語]]の[[ラテン文字化]]に限定する用法も一般的である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19541209001/k19541209001.html|title=ローマ字のつづり方|publisher=文部科学省|accessdate=2016/08/17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/qa/02.htm|title=現行学習指導要領・生きる力 Q&A|publisher=文部科学省|accessdate=2016/08/17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/10056?print=true|title=ローマ字の導入(光村)|publisher=TOSSランド|accessdate=2016/08/17}}</ref>。
:: また、アルファベットを伝統的な配列で文字一覧として並べたものをいう。さらには文字一覧はどの言語習得においても初期に学ぶことであるから、「[[学習]]の初歩」を意味することもある<ref group="注">日本語の「[[イロハ]]」と同様。</ref>。
* [[形式言語]]と[[オートマトン]]の理論の用語
:: 上記のほか、[[形式言語]]と[[オートマトン]]の理論の用語では、その対象とする文字列や文などに現れる要素(終端記号)を「アルファベット」という。これは、一般的な用語のアルファベットとだいたい同様に文字のことを指すこともあるが、文字というよりは語に相当する「トークン」のことを意味する場合もある。詳細は、[[アルファベット (計算機科学)]] の記事を参照。
== 概要 ==
{| class="wikitable floatright" style="width: 200px; font-size: 85%;"
|+ '''文字体系の類型'''
|-
! rowspan="7" style="width: 2em; padding:0.5em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |いわゆる文字
| colspan="3" |[[表音文字]]
|-
| rowspan="5" style="width: 2em; border-top-style: hidden;" |
| colspan="2" |[[音素文字]]
|-
<!-- -->
| rowspan="3" style="width: 2em; border-top-style: hidden;" |
| [[アブジャド]]
|-
<!-- -->
<!-- -->
| [[アブギダ]]
|-
<!-- -->
<!-- -->
| '''アルファベット'''
|-
<!-- -->
| colspan="2" |[[音節文字]]
|-
| colspan="3" |[[表語文字]]([[象形文字]]を含む)
|-
! rowspan="2" style="width: 2em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |その他
| colspan="3" |[[表意文字]]
|-
| colspan="3" |[[ピクトグラム]]([[絵文字]])
|-
|}
[[文字#文字体系|文字体系]]の類型としては、アルファベットは[[アブギダ]]や[[アブジャド]]とともに[[音素文字]]に属する<ref group="注">アブギダとアブジャドという用語は、[[:en:Peter T. Daniels]]が提唱したものである。{{cite book | author=Daniels, Peter T. (ed.) and Bright, William (ed.) | title=The World's Writing Systems | publisher=Oxford University Press | month=February | year=1996 | id=ISBN 9780195079937 | pages=pp.4-5 }}参照。</ref>。ただし[[欧米]]では、これら3つをまとめて「アルファベット」と呼ぶことがある。
* アルファベットは、原則として、音声[[言語]]の[[音素]]のうち[[子音]]と[[母音]]の両方をそれぞれ別の[[文字#字母|字母]]で表記する。
* アブジャドは、子音だけを表記し、母音は原則的に表記しない。
* アブギダは、子音の字母を書くと特定の母音が伴った音節を表し、それ以外の母音が伴った音節を表す場合などは補助的な記号を付加することで表記する。
アルファベットのほとんどは、[[セム語派|セム諸語]]のための文字として[[中東]]で誕生したアブジャドから発展してきたと考えられている。一方、アブギダはかつて[[音節文字]]とアルファベットの中間段階と考えられたこともあったが、今日では、アルファベットとは別個にアブジャドから発展してきたものだと考えられている。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2016年3月5日 (土) 03:56 (UTC)|section=1}}
[[画像:Phönizisch-5Sprachen.svg|thumb|right|[[フェニキア]]の[[アブジャド]]の末裔である4種の代表的な[[音素文字]]の比較。左から[[ラテン文字]]、[[ギリシア文字]]、元になった[[フェニキア文字]]、[[ヘブライ文字]]、[[アラビア文字]]。]]
アルファベットの起源は[[アブジャド]]である。[[ギリシャ人]]はアルファベットを、セム文字系統の[[フェニキア文字]]([[アブジャド]]に属する)から作った。
[[アブジャド]]は、紀元前1700年 - 紀元前1500年頃に[[地中海]]東部の沿岸地域で発達したと考えられている。これは北セム文字と呼ばれ、[[楔形文字]]と[[ヒエログリフ]]を組み合わせてできたものであるが、[[クレタ文字]]や[[ヒッタイト文字]]のような類縁関係にある文字から採られたものもあるようだ。北セム文字には子音をあらわす文字しかなく、単語の中の母音は補って読まなければならなかった。紀元前1000年頃に北セム文字が、[[南セム文字]]、[[カナン文字]]、[[アラム文字]]、[[ギリシア文字]]の4つの系統に分かれたと考える学者は多い。ただし、南セム文字だけは北セム文字とは独立に発達か、両者が共通の祖先から発達したのだという説もある。南セム文字は、[[アラビア半島]]でかつて用いられていた諸言語や、現代の[[エチオピア]]の諸言語の文字の起源である。
[[ギリシャ人]]はアルファベットを作り、[[フェニキア文字]]が子音字22文字だったものを、24文字(方言によってはこれより多いものもある)に増やし、母音を表す文字と子音を表す文字を区別するようにした。紀元前500年頃からは、[[ギリシャ文字]]は左から右に書かれる規則が成立した。ギリシャ文字は、地中海地域全体に広まり、[[エトルリア文字]]、[[オスク文字]]、[[ウンブリア文字]]、[[ラテン文字]]などのもととなった。中でもラテン文字は、[[ローマ帝国]]の言語である[[ラテン語]]を記すための文字だったため、[[西ヨーロッパ]]で話されているすべての言語のアルファベットの基礎となった。
どんなアルファベットでも、異なる言語を話す民族によって使われていれば、それぞれ改変が加えられるものである。アルファベットの数や文字の形も異なり、文字の上下に記号をつけて、その文字が本来あらわす音とは違った音を表すこともある。例えば、"c"の下に小さな筆記体の"z"をつけた「[[セディーユ]]」という文字は、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]、[[トルコ語]]などではごく一般的に使われるが、英語では外来語を除いてほとんど使用されない。また、セディーユは、フランス語とポルトガル語では {{ipa|s}} の音をあらわすが、トルコ語では {{ipa|tʃ}} の音を表し、古い[[スペイン語]]では {{ipa|ts}} の音を表していた。
アルファベットは、1つの文字が1つの音を表すようにしようとして発展してきたものではあるが、現代アルファベットを用いる言語の中で、このような原則が厳密に守られているものはあまりない。その大きな理由は、話し言葉が時代の変遷に応じて大きく変化する傾向があるのに対して、つづり字は人工的な改変・再編がない限り滅多に変化しないからである。この傾向は[[大母音推移]]という現象を経た英語において特に顕著である。例えば、英語で「騎士」を意味する単語のつづりが"knight"であるにもかかわらず発音が {{ipa|nait}} なのは、古い英語では"k"も"gh"も発音されていたが、現代の英語ではそれが[[黙字]]として発音されなくなったからである。
つづり字と発音の間の違いの大きな言語では、歴史の節目でつづり字改革運動が起こることがあり、英語においては"colour"→"color"、"gaol"→"jail"等、[[アメリカ英語]]の一部の単語にその例を見ることができる。
== アルファベットの例 ==
{{節スタブ|各アルファベットについての簡単な説明|date=2021年9月3日 (金) 14:43 (UTC)}}
*[[ギリシア文字]]
*[[キリル文字]]
**[[ウクライナ語アルファベット]](英語版記事 [[:en:Ukrainian alphabet]]) --ウクライナ語にはІ(イー) Ї (イィー)Ґ(ゲー)というロシア語アルファベットには無いアルファベットがある<ref>[https://tabiprogress.click/ukraine-russian-language 「ウクライナ語とロシア語はどの程度違うのか」]</ref>。また、ウクライナ語のアルファベットには、ロシア語のы(ウィー)やё(ヨー)は無い。
**[[ロシア語アルファベット]]
*[[ラテン文字]] {{main2|一般的に言われるラテン文字の一覧は[[ラテン文字一覧]]を}}
**[[イタリア語アルファベット]]
**[[スペイン語アルファベット]]
**[[ポルトガル語アルファベット]]
**[[フランス語アルファベット]]
**[[ドイツ語アルファベット]]
**[[ポーランド語アルファベット]]
**[[オランダ語アルファベット]]
**[[英語アルファベット]]
**[[トルコ語アルファベット]] - トルコ語で1928年から用いられているラテン系アルファベット。1928以前はオスマン語(トルコ語)はアラビア文字(ペルシア文字)([[オスマン語のアラビア文字]])で書かれた。
**[[クオック・グー]] - ベトナム語アルファベット
*[[ルーン文字]]
*[[アルメニア文字]]
*[[グルジア文字]]
*[[コプト文字]]([[コプト語]]<ref group="注">[[エジプト語]]が4世紀に[[ギリシャ語]]の影響を大きく受けたもの。</ref>で用いた)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アブギダ]]
* [[アブジャド]]
* [[音節文字]]、[[かな文字]]、[[ハングル]]
* [[表語文字]]
* [[ローマ字]]
* [[アルファベット順]]
* [[50音順]] - [[いろは順]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Alphabet|Alphabets}}
* [http://www.rodurago.net/en/index.php?site=alphabet 様々なアルファベットのリスト]
* [https://www.omniglot.com/writing/alphabets.htm Alphabets] - [https://www.omniglot.com/ Omniglot] 実用になっているさまざまなアルファベットの紹介。
* [https://skydrive.live.com/view.aspx?cid=E39B50D7D9EA3235&resid=E39B50D7D9EA3235%21126&app=WordPdf An Early, Hellenic Alphabet for The Common, Ikonogrammaton & Paleogrammikon, System Writing and Reading of the Ancient Speech]
* [https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=e39b50d7d9ea3235&page=view&resid=E39B50D7D9EA3235!223&parId=E39B50D7D9EA3235!105&app=WordPdf&wacqt=undefined “The CoMMon of WRiTiNG-ReaDiNG SySTeM of aNCieNT SPeeCH” A step towards understanding the reading-writing code of old drivers - teachers of Humanity]
{{文字}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あるふあへつと}}
[[Category:アルファベット|*]]
[[Category:文字]]
[[Category:表音文字]]
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2003-09-28T21:58:32Z
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2023-10-07T05:03:49Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
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和泉国
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和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
もともとは「泉」一字で表記された。「和泉」の国名は、和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令により国名を二字にする必要があり、佳字の「和」を付与したものにしたためで、「和」は読まない。現在の大阪府和泉市の市名は、かつて市内府中町に国府があったことに由来する。
『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に同国大鳥郡を併せて和泉監が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮、茅渟宮、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる。国と異なる特別な機関ではあったが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである。
その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に戻されたが、天平勝宝9歳(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。『日本紀略』によれば、天長2年(825年)3月30日、摂津国から東生・西生・百済・住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。
明治4年(1871年)に摂津国との境界が堺大小路、長尾街道(大津道)から大和川に変更された(ただし、長尾街道以北でも、旧 北庄村・西万屋新田は以前から和泉国)。
国府所在地を記した文献は次の通り。
国府跡は、現在の大阪府和泉市府中町の府中遺跡(北緯34度29分7.97秒 東経135度25分45.16秒 / 北緯34.4855472度 東経135.4292111度 / 34.4855472; 135.4292111 (和泉国府跡:府中遺跡))とされる。
和泉国内には、僧寺だけで尼寺は設置されなかったと推察されている。
延喜式内社
総社・一宮以下
国府のそばにあったが、室町時代に堺に移った。
和泉国内において、北部は泉北(せんぼく)、南部は泉南(せんなん)と呼ばれる。
旧和泉国の地域は泉北と泉南に分けられる。なお次の地域は河内国に属した。
また次の地域は1871年(明治4年)まで摂津国に属した。
旧大鳥郡
旧和泉郡
旧南郡
旧日根郡
※現在では、山滝地区も含めた岸和田市以南を泉南と称することが多い。
和泉守
鎌倉幕府
室町幕府
戦国時代
織豊期
江戸時代の藩
※1870年(明治3年)に近江三上藩知事であった遠藤胤城が陣屋を日根郡吉見村に移したことで吉見藩が立藩したが、翌年の廃藩置県により廃藩。
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和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 和泉国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|和泉国}}
|別称 = 泉州(せんしゅう)
|所属 = [[畿内]]
|領域 = [[大阪府]]南西部([[大和川]]以南)
|国力 = [[下国]]
|距離 = <!--定義なし-->
|郡 = 3郡24郷
|国府 = [[大阪府]][[和泉市]]
|国分寺 = 大阪府和泉市
|国分尼寺 = (未詳)
|一宮 = [[大鳥大社]](大阪府[[堺市]])
}}
'''和泉国'''(いずみのくに/いづみのくに)は、[[日本]]の地方行政区分である[[令制国]]の一つ。[[畿内]]に属する。
== 沿革 ==
=== 古代 ===
もともとは「泉」一字で表記された。「和泉」の国名は、[[和銅]]6年([[713年]])の諸国郡郷名著好字令により国名を二字にする必要があり、佳字の「和」を付与したものにしたためで、「和」は読まない。現在の[[大阪府]][[和泉市]]の市名は、かつて市内府中町に[[国府]]があったことに由来する。
『[[続日本紀]]』によれば、[[霊亀]]2年([[716年]])[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]に[[河内国]]から[[和泉郡]]・[[日根郡]]を割き、さらに同年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]に同国[[大鳥郡]]を併せて'''[[和泉監]]'''が建てられた。[[元正天皇]]の[[離宮]]([[珍努宮]]、茅渟宮、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない[[司|監]]という特別な官司の設置の理由であると見られる<ref group="注釈">『先代旧事本紀』国造本紀によればこれより先の[[715年]]([[霊亀]]元年)'''茅野監'''(ちののげん)が茅渟宮に置かれたという。</ref>。国と異なる特別な機関ではあったが、この時期のものとされる[[木簡]]に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである<ref>独立行政法人文化財研究所・奈良文化財研究所『平城宮木簡 六 解説』、2004年、346頁、木簡番号10520</ref>。
その後、[[天平]]12年([[740年]])[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]に和泉監は廃止されて河内国に戻されたが、[[天平勝宝]]9歳([[757年]])[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]に再度分離して和泉国が設置された。『[[日本紀略]]』によれば、[[天長]]2年([[825年]])[[3月30日 (旧暦)|3月30日]]、[[摂津国]]から[[東成郡|東生]]・[[西成郡|西生]]・[[百済郡|百済]]・[[住吉郡|住吉]]の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。
=== 近代 ===
明治4年([[1871年]])に摂津国との境界が[[堺市|堺]][[大小路]]、[[長尾街道]](大津道)から[[大和川]]に変更された(ただし、長尾街道以北でも、旧 北庄村・西万屋新田は以前から和泉国)。
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(352村・170,885石余)。[[天領|幕府領]]の一部は[[岸和田藩]][[預地]]であった。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[大鳥郡]](117村・51,595石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、[[田安徳川家]]、[[一橋徳川家]]、伯太藩、岸和田藩、[[相模国|相模]][[小田原藩]]
** [[和泉郡]](84村・30,993石余) - 幕府領、一橋徳川家、[[吉見藩]]、'''[[伯太藩]]'''、岸和田藩、[[下総国|下総]][[関宿藩]]、[[大和国|大和]][[小泉藩]]、[[山城国|山城]][[淀藩]]
** [[南郡]](74村・32,759石余) - 幕府領、[[京都守護職]]役知、'''[[岸和田藩]]'''、山城淀藩
** [[日根郡]](77村・55,538石余) - 幕府領、京都守護職役知、岸和田藩、[[常陸国|常陸]][[土浦藩]]、[[近江国|近江]][[三上藩]]、山城淀藩
* [[慶応]]4年([[1868年]])
** [[1月22日 (旧暦)|1月22日]] - 新政府が[[大坂町奉行]]の管轄地域に'''大坂鎮台'''を設置。幕府領・旗本領などを管轄。
** [[1月27日 (旧暦)|1月27日]] - 大坂鎮台を'''[[大坂裁判所]]'''に改称。
** [[5月2日 (旧暦)|5月2日]] - 大坂裁判所が廃止され、'''[[大阪府]]'''の管轄となる。
** [[6月22日 (旧暦)|6月22日]] - 大阪府のうち和泉国の管轄地域が分立して'''[[堺県]]'''が発足。堺町[[大小路]]以北が大阪府、以南が堺県の管轄となる。
** 7月 - [[京都守護職]]役知が堺県の管轄となる。
** 10月 - 大阪府との境界を[[大和川]]に定める。
* 明治2年([[1869年]])
** 2月 - [[関宿藩]]領が堺県の管轄となる。
** 8月 - [[一橋徳川家]]領、[[田安徳川家]]領が堺県の管轄となる。
* 明治3年([[1870年]])
** 2月 - [[土浦藩]]領、旧幕府領のうち岸和田藩預地<ref group="注釈">「角川日本地名大辞典」では堺県に移管とあるが、「旧高旧領取調帳」では岸和田県と記載されている。</ref>が堺県の管轄となる。
** 近江三上藩が日根郡に藩庁を移転して'''[[吉見藩]]'''となる。
** このころ小田原藩領が堺県に移管か。
* 明治4年([[1871年]])[[7月14日 (旧暦)|7月14日]] - [[廃藩置県]]により藩領が'''[[伯太県]]'''、'''[[岸和田県]]'''、'''[[吉見県]]'''および[[小泉県]]、[[淀県]]の飛地となる。
* 明治4年([[1871年]])[[11月22日 (旧暦)|11月22日]] - 第1次府県廃合により全域が堺県の管轄となる。
* 明治14年([[1881年]])[[2月7日]] - 第2次府県統合により'''大阪府'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[Image:Izumi provincial government ruins.jpg|230px|thumb|御館山公園に建つ国府庁趾碑<br />(和泉市府中町五丁目)]]
国府所在地を記した文献は次の通り。
* 『[[和名類聚抄|和名抄]]』([[平安時代]]中期成立)では、「和泉郡」<ref>[{{NDLDC|2544218/12}} 『和名類聚抄 20巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ参照。</ref>
* 『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]中期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]成立)では、「和泉郡」<ref>[{{NDLDC|2543900/52}} 『拾芥抄 3巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)52コマ参照。</ref>
* 『[[節用集]]』([[室町時代]]中期成立)では、「和泉郡」<ref>[{{NDLDC|1112421/136}} 『節用集 易林本』](国立国会図書館デジタルコレクション)136コマ。</ref>
国府跡は、現在の[[大阪府]][[和泉市]]府中町の府中遺跡({{Coord|34|29|7.97|N|135|25|45.16|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国府跡:府中遺跡}})とされる。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* [[和泉国分寺]]跡 ([[大阪府]][[和泉市]]国分町)
*: 国分寺推定跡地上に、後継寺院の[[福徳寺|護国山福徳寺]]({{Coord|34|26|13.75|N|135|29|4.11|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国分寺(後継寺院。国分寺跡推定地)}})が所在。
和泉国内には、僧寺だけで尼寺は設置されなかったと推察されている。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小社61座52社の計62座53社が記載されている([[和泉国の式内社一覧]]参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。
* [[大鳥郡]] 大鳥神社
** 比定社:[[大鳥大社]](大鳥神社、[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]鳳北町、{{Coord|34|32|9.19|N|135|27|36.81|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国一宮、名神大社:大鳥大社}})
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
* 総社:五社総社 (大阪府和泉市府中町)<ref name="一宮">『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 1。</ref> - [[泉井上神社]]({{Coord|34|29|13.46|N|135|25|39.53|E|region:JP-27_type:landmark|name=泉井上神社(境内に和泉国総社:五社総社)}})境内。国府そばにあり、五宮までの神が祀られている
* 一宮:[[大鳥大社]] (大阪府堺市西区鳳北町)<ref name="一宮"/>
* 二宮:[[泉穴師神社]] (大阪府[[泉大津市]]豊中町、{{Coord|34|29|47.57|N|135|25|11.19|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国二宮:泉穴師神社}})<ref name="一宮"/>
* 三宮:[[聖神社 (和泉市)|聖神社]] (大阪府和泉市王子町、{{Coord|34|30|4.27|N|135|26|48.98|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国三宮:聖神社}})<ref name="一宮"/>
* 四宮:[[積川神社]] (大阪府[[岸和田市]]積川町、{{Coord|34|25|30.12|N|135|26|22.34|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国四宮:積川神社}})<ref name="一宮"/>
* 五宮:[[日根神社]] (大阪府[[泉佐野市]]日根野、{{Coord|34|22|25.36|N|135|20|37.01|E|region:JP-27_type:landmark|name=和泉国五宮:日根神社}})<ref name="一宮"/> - 1501年の文書には四宮と記されている。
=== 守護所 ===
国府のそばにあったが、[[室町時代]]に[[堺市|堺]]に移った。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 大阪府堺市家原寺町にあった。
* 利生塔 - [[久米田寺]] (大阪府岸和田市池尻町久米田寺)
=== 城郭 ===
* [[深井城]] (大阪府[[堺市]])
* [[岸和田城]] (大阪府[[岸和田市]])
* [[積善寺城]] (大阪府[[貝塚市]])
* [[千石堀城]] (大阪府貝塚市)
== 地域 ==
和泉国内において、北部は'''[[泉北]]'''(せんぼく)、南部は'''[[泉南]]'''(せんなん)と呼ばれる。
=== 郡 ===
* [[大鳥郡]]
* [[和泉郡]](泉郡とも表記)
* [[南郡]]([[13世紀]]頃に和泉郡より分割)
* [[日根郡]]
==== 明治期の改廃 ====
* 明治4年([[1871年]])9月、[[摂津国]][[住吉郡]]の大和川以南の部分を大鳥郡への編入
* 明治29年([[1896年]])4月1日に大鳥郡・和泉郡を[[泉北郡]]に統合
* 明治29年(1896年)4月1日に南郡・日根郡を[[泉南郡]]に統合
=== 現在の行政区分 ===
旧和泉国の地域は[[泉北]]と[[泉南]]に分けられる。なお次の地域は[[河内国]]に属した。
* 堺市のうち、[[東区 (堺市)|東区]]全域、[[美原区]]全域、[[北区 (堺市)|北区]]の一部(旧 [[金岡村 (大阪府)|金岡村]]・[[北八下村]])
また次の地域は[[1871年]]([[明治]]4年)まで[[摂津国]]に属した。
* 堺市のうち、[[堺区]]の一部([[大小路]]以北の堺市街地、旧 [[三宝村]]のうち弥三次郎新田と南島新田、旧 [[向井町]]のうち七道村と遠里小野村)、[[北区 (堺市)|北区]]の一部(旧 [[五箇荘村]])
==== 泉北 ====
[[ファイル:NintokuTomb Aerial photograph 2007.jpg|right|thumb|200px|泉北地域には、[[仁徳天皇陵]]がある。<br/>画像(2007年撮影)<br/><small>{{国土航空写真}}</small>]]
'''旧大鳥郡'''
* [[堺市]]
**[[堺区]]
**[[北区 (堺市)|北区]]の一部(旧 [[五箇荘村]]・[[百舌鳥村]])
**[[西区 (堺市)|西区]]
**[[中区 (堺市)|中区]]
**[[南区 (堺市)|南区]]
* [[高石市]]
'''旧和泉郡'''
* [[和泉市]]
* [[泉大津市]]
* [[泉北郡]][[忠岡町]]
* 岸和田市の一部(旧 [[山滝村]])
{{clear}}
==== 泉南 ====
[[ファイル:Kansai closeup.jpg|right|thumb|250px|泉南地域には、[[日本]]の主要[[空港]]のひとつである[[関西国際空港]]がある。]]
'''旧南郡'''
* [[岸和田市]](旧 山滝村を除く)
* [[貝塚市]](旧 北近義村・南近義村を除く)
'''旧日根郡'''
* 貝塚市の一部(旧 [[北近義村]]・[[南近義村]])
* [[泉佐野市]]
* [[泉南市]]
* [[阪南市]]
* [[泉南郡]][[熊取町]]
* 泉南郡[[田尻町]]
* 泉南郡[[岬町]]
※現在では、山滝地区も含めた岸和田市以南を泉南と称することが多い。
{{clear}}
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
'''和泉守'''
*[[藤原経俊]]:[[天喜]]年間任官
*[[源順]]:[[康保]]4年([[967年]])任官
*[[橘道貞]]
*[[源経頼]]
*[[源頼光]]
*[[藤原家房 (和泉守)|藤原家房]]:[[天喜]]5年([[1057年]])任官
*[[小槻孝信]]:[[治暦]]5年([[1069年]])任官
*[[源有宗]]:[[延久]]5年([[1073年]])任官
*[[平盛兼]]
*[[藤原邦綱]]:[[保元]]元年([[1156年]])任官
*北朝
** [[有本氏|有本]]某:[[貞治]]5年([[1366年]])10月14日ごろ<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0627/0493 『大日本史料』6編27冊493頁].</ref>
*南朝
** [[山東氏|山東]]某:[[正平 (日本)|正平]]6年(1351年)10月5日以前<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0615/0484 『大日本史料』6編15冊484頁].</ref>
** [[和田正武]]?(『[[太平記]]』):関連史料:[[正平 (日本)|正平]]6年(1351年)2月<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0614/0853 『大日本史料』6編14冊853頁].</ref>、正平12年(1357年)6月13日<ref>[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0621/0304 『大日本史料』6編21冊304頁].</ref>
=== 守護 ===
'''鎌倉幕府'''
* 1196年~1203年 - [[佐原義連]]
* 1207年~1221年 - [[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]御計
* 1221年~1248年 - 逸見氏
* 1249年~1261年 - [[北条重時]]
* 1279年~1300年 - [[北条時村 (政村流)|北条時村]]
* 1313年~1315年 - [[北条熙時]]
* 1315年~1333年 - [[北条茂時]]
'''室町幕府'''
* 1336年~1337年 - [[畠山国清]]
* 1337年~1347年 - [[細川顕氏]]
* 1347年~1349年 - [[高師泰]]
* 1349年~1351年 - 畠山国清
* 1351年~1352年 - 細川顕氏
* 1352年~1359年 - [[細川業氏]]
* 1359年~1360年 - 畠山国清
* 1360年~1361年 - 細川業氏
* 1369年~1378年 - [[楠木正儀]]
* 1378年~1391年 - [[山名氏清]]
* 1392年~1399年 - [[大内義弘]]
* 1400年~1403年 - [[仁木義員]]
* 1407年~1408年 - 奥氏
* 1408年~1411年 - [[細川頼長]]
* 1408年~1448年 - [[細川基之]]
* 1411年~1438年 - [[細川持有]]
* 1438年~1450年 - [[細川教春 (和泉上守護家)|細川教春]]
* 1448年~1483年 - [[細川持久]]
* 1450年~1480年 - [[細川常有]]
* 1480年~1500年 - [[細川元有]]
* 1487年~1495年 - [[細川勝信]]
* 1500年~1508年 - [[細川元常]]・[[細川政久]]
* 1513年~1523年 - 細川氏
* 1523年~1531年 - 細川九郎
* 1523年~? - 細川五郎
* 1536年~1554年 - 細川元常
* ? - [[細川晴貞|細川五郎(晴貞)]]
* ? - [[織田信長]]
=== 大名 ===
'''戦国時代'''
*[[細川氏]]
*[[三好氏]]
'''織豊期'''
**[[織田信張]]([[岸和田城]]):1580年頃、和泉半国を領する
**[[蜂屋頼隆]]:1580年の[[佐久間信盛]]の追放後に、和泉国一国の支配権をほぼ任されているが、織田信張との関係は不明
**[[中村一氏]](岸和田城):[[1583年]]に3万石で領主となる。[[1585年]]、[[近江国]][[水口岡山城]]6万石に転封
**[[小出秀政]](岸和田城):中村一氏の後を受け岸和田城主となり、[[関ヶ原の戦い]]後に[[岸和田藩]]の初代藩主となる
'''江戸時代の藩'''
*[[豊臣秀頼]]直轄領(摂津・河内・和泉65万7千石、1600年-1615年)→天領
*[[岸和田藩]]:小出家(3万石→5万石、1600年-1619年)→松平〔松井〕家(5万石→6万石→5万石、1619年-1640年)→岡部家(6万石→5万3千石、1640年~1871年)
*[[伯太藩]](大庭寺藩):渡辺家(13,500石、1698年-1871年)
*[[陶器藩]]:小出家(1万石、1604年-1696年)→廃藩(断絶)
*[[谷川藩]]:桑山家(1万石、1606年-1609年)→廃藩・所領は御所藩に編入
※[[1870年]]([[明治]]3年)に[[近江国|近江]][[三上藩]][[知藩事|知事]]であった[[遠藤胤城]]が陣屋を日根郡吉見村に移したことで[[吉見藩]]が立藩したが、翌年の廃藩置県により廃藩。
=== 武家官位としての和泉守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[天野政景]]:鎌倉時代前期の御家人、[[長門国]][[守護]]
*[[楠木正儀]]:南北朝時代の武将、[[楠木正成]]の三男
*[[松平信光]]:室町時代中期から戦国時代初期頃の武将。[[三河国|三河]][[松平氏]]の第3代当主
*[[宇喜多能家]]:戦国時代の武将。宇喜多直家の祖父
*[[宇喜多直家]]:戦国時代の武将。[[備前国|備前]]の戦国大名。[[宇喜多秀家]]の父
*[[太田牛一]]:戦国時代の武将。[[信長公記]]の筆者
*[[柿崎景家]]:戦国時代の武将。[[越後国]]の守護代・戦国大名の[[長尾氏]]([[上杉氏]])の家臣
*[[吉川経安]]:戦国時代の武将。[[石見国|石見]][[吉川氏]]当主
*[[天童頼貞]]:戦国時代の[[出羽国|出羽]]の戦国武将。[[最上氏]]庶流[[天童氏]]の第16代当主
*[[水野忠重]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川二十将の一人
==== 江戸時代 ====
*[[近江小室藩]][[小堀氏|小堀家]]
**[[小堀政恒]]:第3代藩主
**[[小堀政峯]]:第5代藩主
**[[小堀政方]]:第6代藩主
*[[鹿島藩|鹿島鍋島家]]
**[[鍋島忠茂]]:初代藩主
**[[鍋島直朝]]:第3代藩主
**[[鍋島直堅]]:第5代藩主
**[[鍋島直熙]]:第7代藩主
*[[筑後国|筑後]][[三池藩]][[立花氏|立花家]]
**[[立花種長]]:第2代藩主
**[[立花長煕]]:第5代藩主
**[[立花種善]]:第7代藩主、[[陸奥国|陸奥]][[下手渡藩]]初代藩主
*[[伊勢国|伊勢]][[津藩]][[藤堂氏|藤堂家]]
**[[藤堂高虎]]:初代藩主
**[[藤堂高次]]:第2代藩主
**[[藤堂高久]]:第3代藩主
**[[藤堂高睦]]:第4代藩主
**[[藤堂高敏]]:第5代藩主
**[[藤堂高朗]]:第7代藩主
**[[藤堂高悠]]:第8代藩主
**[[藤堂高嶷]]:第9代藩主
**[[藤堂高兌]]:第10代藩主
**[[藤堂高猷]]:第11代藩主
*[[美濃国|美濃]][[苗木藩]][[遠山氏|遠山家]]
**[[遠山友春]]:第4代藩主
**[[遠山友央]]:第7代藩主
**[[遠山友清]]:第9代藩主
*[[丹羽氏次|氏次系]][[丹羽氏|丹羽家]]
**[[丹羽氏音]]:氏次系6代。美濃[[岩村藩]]第5代藩主、越後[[高柳藩]]初代藩主
**[[丹羽薫氏]]:氏次系7代。高柳藩第2代藩主、[[播磨国|播磨]][[三草藩]]初代藩主
**[[丹羽氏栄]]:氏次系8代。三草藩第2代藩主。
**[[丹羽氏福]]:氏次系9代。三草藩第3代藩主
*[[大給松平家|松平〔大給〕家]]
**[[松平家乗]]:大給松平家宗家第6代(幕藩体制大名としては初代)。美濃[[岩村藩]]初代藩主
**[[松平乗寿]]:大給宗家第7代。岩村藩第2代藩主、[[遠江国|遠江]][[浜松藩]]初代藩主、[[上野国|上野]][[館林藩]]初代藩主・[[老中]]
**[[松平乗久]]:大給宗家第8代。館林藩第2代藩主、[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]初代藩主
**[[松平乗春]]:大給宗家第9代。唐津藩第2代藩主
**[[松平乗邑]]:大給宗家第10代。唐津藩第3代藩主。[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]主、伊勢[[伊勢亀山藩|亀山藩]]主、[[山城国|山城]][[淀藩]]主、[[下総国|下総]][[佐倉藩]]主・[[老中]]
**[[松平乗祐]]:大給宗家第11代。佐倉第2代藩主、出羽[[山形藩]]主、三河[[西尾藩]]初代藩主
**[[松平乗完]]:大給宗家第12代。西尾藩第2代藩主・老中
**[[松平乗寛]]:大給宗家第13代。西尾藩第3代藩主・老中
**[[松平乗全]]:大給宗家第14代。西尾藩第4代藩主・老中
**[[松平乗秩]]:大給宗家第15代。西尾藩第5代藩主
*[[水野忠元|忠元系]][[水野氏|水野家]]
**[[水野忠之]]:忠元系5代。三河[[岡崎藩]]第4代藩主・老中
**[[水野忠任]]:忠元系8代。岡崎藩第7代藩主、[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]初代藩主
**[[水野忠邦]]:忠元系11代。唐津藩大4代藩主、遠江浜松藩初代藩主・老中
**[[水野忠精]]:忠元系12代。浜松藩第2代藩主、出羽山形藩第2代藩主・老中
**[[水野忠弘]]:忠元系13代。山形藩第3代藩主
*播磨[[赤穂藩]][[森氏|森家]]
**[[森長直]]:[[備中国|備中]][[西江原藩]]第2代藩主、播磨赤穂藩初代藩主
**[[森忠洪]]:赤穂藩第5代藩主
**[[森忠哲]]:赤穂藩第8代藩主
*その他
**[[青山忠雄]]:遠江[[浜松藩]]第2代藩主
**[[稲垣重富]]:三河[[刈谷藩]]第3代藩主、[[上総国|上総]][[大多喜藩]]初代藩主、[[下野国|下野]][[烏山藩]]初代藩主
**[[稲垣昭賢]]:烏山藩第2代藩主、志摩鳥羽藩初代藩主
**[[内田正純]]:下総[[小見川藩]]第4代藩主
**[[大田原純清]]:下野[[大田原藩]]第5代藩主
**[[小笠原吉次]]:[[尾張国|尾張]][[犬山藩]]主、下総佐倉藩主、[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]主
**[[織田信富]]:上野[[小幡藩]]第6代藩主
**[[加藤嘉矩]]:下野[[壬生藩]]第2代藩主、近江[[水口藩]]初代藩主
**[[加藤明軌]]:水口藩第10代藩主
**[[木下俊保]]:[[豊後国|豊後]][[日出藩]]第6代藩主
**[[九鬼隆律]]:[[摂津国|摂津]][[三田藩]]第3代藩主
**[[九鬼隆国]]:三田藩第10代藩主
**[[黒田直英]]:上総[[久留里藩]]第3代藩主
**[[黒田直和]]:久留里藩第8代藩主
**[[黒田宣政]]:[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]第5代藩主
**[[内藤忠勝]]:志摩鳥羽藩第3代藩主
**[[本庄道章]]:美濃[[岩滝藩]]主、美濃[[高富藩]]初代藩主
**[[本庄道倫]]:高富藩第3代藩主
**[[松平基知]]:陸奥[[白河藩]]第2代藩主
**[[松平康員]]:石見[[浜田藩]]第3代藩主
**[[榎本武揚]]:[[幕府海軍]]副総裁、[[蝦夷共和国]]総裁。明治後海軍中将、駐ロシア公使など
**[[真木保臣]]:幕末の筑後[[久留米藩]]士、久留米水天宮祠官、尊皇攘夷派の活動家
== 合戦 ==
*[[1338年]]:[[石津の戦い]]。北朝方([[高師直]]) x 南朝方([[北畠顕家]])
*[[1511年]]:[[深井城#深井の合戦|深井の合戦]]。[[細川澄元]]軍([[細川政賢]]、[[細川元常]]) x [[細川高国]]軍(摂津国衆)
*[[1562年]]:[[久米田の戦い]]。[[畠山高政]]・[[六角義賢]]連合軍 x [[三好実休]]軍
*[[1585年]]:[[千石堀城#千石堀城の戦い|千石堀城の戦い]]。豊臣軍([[豊臣秀次|羽柴秀次]]) x 根来衆
*[[1585年]]:[[太田城 (紀伊国)#第二次太田城の戦い|第二次太田城の戦い]]。豊臣軍([[豊臣秀長|羽柴秀長]]、羽柴秀次) x 太田宗正
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 27 大阪府
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Izumi Province}}
* [[和泉丸]]
* [[和泉 (防護巡洋艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]。元は[[チリ海軍]]の防護巡洋艦'''エスメラルダ'''。艦名は和泉国に因む。
* 泉州玉・さかとんぼ‐和泉国で作られていた[[とんぼ玉]]<ref>[http://brand.sen-shu.com/izumi-tombodama/ 泉州ブランドホームページ 伝統工芸品「和泉蜻蛉玉」を制作する唯一の専門店「山月工房」]</ref>
== 外部リンク ==
* [http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/h049.html 和泉国図]([[国土地理院]])
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和泉監
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和泉監(いずみのげん)は、奈良時代前期に、現在の大阪府和泉地方に設けられた臨時の地方行政区分および機関。畿内に含まれ、後の和泉国の領域にあたる。
716年(霊亀2年)3月、元正天皇は河内国和泉郡に珍努宮(和泉宮)造営を計画し、和泉郡に加えて日根郡を和泉宮の経費に供した。同年4月19日に、さらに大鳥郡を割き、これら3郡を管掌するために和泉監を分立した。和泉監の職掌は天平9年度(737年)の「和泉監正税帳」によると一般国司とほぼ同じであると記されているが、摂津職が難波京の管理を担当したのと同様に、珍努宮の管理も担当した。
その構成は、正(長官)・佑(判官)・令史(主典)の各1名であり、次官は存在しない。716年(霊亀2年)6月には史生3名を設置している。大宝令では、在外の監司について公式令53が規定されており、和泉監と芳野監の2つによって実現されている。滝川政次郎の「芳野和泉二監考」によると、この2つの監は、唐の「京県」と「畿県」とを参酌したものとされているが、あるいは唐の太原府・河中府などの府尹に相当するものとも考えられる。この2つの監は『続日本紀』の天平4年(732年)の記述によると「両京・四畿内及二監」と呼称されている。
元正天皇は717年・719年の2回、聖武天皇は744年の1回、珍努宮へ行幸しており、717年(霊亀3年)2月の最初の行幸の際には、和泉監の堅部使主石前の位を一階昇進させ、技術者や大少毅労役の人夫達に身分に応じて物を授けたという。なお、元正天皇は譲位後の744年、同様の行為を「智努離宮」(珍努宮の別称と思われる)に行幸した際におこなっている。732年(天平4年)には「和泉監の伯姓(=人民)に賑給す」という記事も見られる。
740年(天平12年)8月、和泉監は廃止されて河内国に戻されたが、孝謙天皇の757年(天平勝宝9歳)5月8日、能登国・安房国同様に復され、再度3郡が置かれて和泉国となった。
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和泉監(いずみのげん)は、奈良時代前期に、現在の大阪府和泉地方に設けられた臨時の地方行政区分および機関。畿内に含まれ、後の和泉国の領域にあたる。
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'''和泉監'''(いずみのげん)は、[[奈良時代]]前期に、現在の[[大阪府]][[和泉]]地方に設けられた臨時の地方行政区分および機関。[[畿内]]に含まれ、後の[[和泉国]]の領域にあたる。
== 概要 ==
[[716年]]([[霊亀]]2年)3月、[[元正天皇]]は[[河内国]][[和泉郡]]に[[珍努宮]](和泉宮)造営を計画し、和泉郡に加えて[[日根郡]]を和泉宮の経費に供した<ref>『続日本紀』巻第七、元正天皇 霊亀2年3月27日条</ref>。同年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]に、さらに[[大鳥郡]]を割き、これら3郡を管掌するために和泉監を分立した<ref>『続日本紀』巻第五、元正天皇 霊亀2年4月19日条</ref>。和泉監の職掌は天平9年度([[737年]])の「和泉監正税帳」によると一般[[国司]]とほぼ同じであると記されているが、[[摂津職]]が[[難波京]]の管理を担当したのと同様に、珍努宮の管理も担当した。
その構成は、正(長官)・佑(判官)・令史(主典)の各1名であり、次官は存在しない。716年(霊亀2年)6月には[[史生]]3名を設置している<ref>『続日本紀』巻第七、元正天皇 霊亀3年6月21日条</ref>。[[大宝律令|大宝令]]では、在外の監司について[[公式令 (律令法)|公式令]]53が規定されており、和泉監と[[芳野監]]の2つによって実現されている。[[滝川政次郎]]の「芳野和泉二監考」によると、この2つの監は、唐の「京県」と「畿県」とを参酌したものとされているが、あるいは唐の太原府・河中府などの[[府尹]]に相当するものとも考えられる。この2つの監は『続日本紀』の[[天平]]4年([[732年]])の記述によると「両京・四畿内及二監」と呼称されている<ref>『続日本紀』巻第十一、聖武天皇 天平4年7月5日条</ref>。
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[[740年]]([[天平]]12年)8月、和泉監は廃止されて河内国に戻されたが<ref>『続日本紀』巻第十三、聖武天皇 天平12年8月20日条</ref>、[[孝謙天皇]]の[[757年]]([[天平勝宝]]9歳)[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]、[[能登国]]・[[安房国]]同様に復され、再度3郡が置かれて和泉国となった<ref>『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平勝宝9歳5月8日条</ref>。
== 脚注 ==
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{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『角川第二版日本史辞典』p60、[[高柳光寿]]・[[竹内理三]]:編、[[角川書店]]、1966年
* 『岩波日本史辞典』p63、監修:[[永原慶二]]、[[岩波書店]]、1999年
* 『続日本紀』2・3 新日本古典文学大系13・14 [[岩波書店]]、1990年・1992年
* 『続日本紀』全現代語訳(上)・(中)、[[講談社学術文庫]]、[[宇治谷孟]]:訳、1992年
== 関連項目 ==
* [[大阪府]]
* [[令制国一覧]]
== 外部リンク ==
*[http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000011073#TOP 和泉監正税帳(天平9年)]
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擬似乱数
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擬似乱数(ぎじらんすう、pseudorandom numbers)は、乱数列のように見えるが、実際には確定的な計算によって求めている擬似乱数列による乱数。擬似乱数列を生成する機器を擬似乱数列生成器、生成アルゴリズムを擬似乱数列生成法と呼ぶ。
真の乱数列は本来、規則性も再現性もないものであるため、本来は確定的な計算によって求めることはできない(例:サイコロを振る時、今までに出た目から次に出る目を予測するのは不可能)。一方、擬似乱数列は確定的な計算によって作るので、その数列は確定的であるうえ、生成法と内部状態が既知であれば、予測可能でもある。
ある擬似乱数列を、真の乱数列とみなして良いかを確実に決定することはできない。シミュレーション等の一般的な用途には、対象とする乱数列の統計的な性質が、使用対象とする目的に合致しているかどうかを判断する。これを検定と言い、各種の方法が提案されている。
しかし、特に暗号に使用する擬似乱数列については注意が必要であり、シミュレーション等には十分な擬似乱数列生成法であっても、暗号にそのまま使用できるとは限らない。暗号で使用する擬似乱数列については暗号論的擬似乱数の節および暗号論的擬似乱数生成器の記事を参照。
シミュレーション実験や、(暗号論的擬似乱数は)暗号などに利用されている。真に良質な乱数列を得ようとするのは意外に厄介であるのに対し、擬似乱数では前提条件が同じならば、まったく同じ乱数列を生成できる。このため、シミュレーション等においては同じ動作を再現できるメリットがあるうえ、デバッグも可能となる。
なお、暗号生成の際、再現性を利用してシード値の選択を意図的に行われたりすると危険があるといった場合、何らかの方法でそれを排除することが必要な(楕円曲線暗号のパラメータ生成など)用途もある。
様々な擬似乱数生成法が知られている。
もっとも古い手法で、1946年頃、ノイマンが提案した。TAOCPの新しい訳本では二乗中抜き法と呼んでいる。
まず、適当に初期値を決める。以下、その(乱)数を 2 乗した値の中央にある必要な桁数を採って次の乱数とする。これを繰り返して乱数列とする方法。ここで「中央」とは、求まった値を必要な桁数の 2 倍の桁数として見た時の中央である。たとえば、4 桁を必要としていて、求まった値が 7 桁の時は、最上位の前の位(千万の位)に「0」を付け足して 8 桁とする(下の例を参照)。
(例)4 桁の擬似乱数を作ってみる。初期値を1763とする。
こうして、擬似乱数列 {1763, 1081, 1685, 8392, 4256, 1135, ...} を得る。
計算の結果、過去に現れた数と同じ数が現れればループとなり、その長さを周期と言うが、線形合同法を使えば周期が最長のものが理論的に可能であるため、現代において平方採中法が利用されることはまずない。
線形合同法の
において、B=0 の場合を区別して特に乗算合同法、B>0 の場合を区別して特に混合合同法と言うことがある。
線形帰還シフトレジスタ (Linear Feedback Shift Register, LFSR) はデジタル回路を用いて容易に実装することができる。特性多項式を適切に選択することによって、等頻度性、無相関性及び周期が保証される。乱数としては最長周期を保証するM系列を使う。
上記のような古典的擬似乱数生成法の欠点を克服した、新しい擬似乱数生成法がいくつか考案されている。
メルセンヌ・ツイスタの他、キャリー付き乗算、Xorshift、Lagged Fibonacci 法、Permuted congruential generator など。
非線形微分方程式の解はカオスで、即ち初期値敏感性等の性質を持つ。これを漸化式として、カオス的な関数を得る。よく使われる関数にロジスティック写像やテント写像がある。ロジスティック写像#擬似乱数生成器を参照。
一般の擬似乱数は、その方式と過去の出力が既知であれば、未来の出力を予測可能であるため、暗号の用途には不適(暗号学的に安全ではないと言う)である。
暗号理論では擬似乱数(生成器)に明確な定義がある。すなわち、多項式時間の計算機が乱数列と識別不能な列を出力する機器のことを、暗号論的擬似乱数生成器と呼び、この列に含まれる数を暗号論的擬似乱数という。いかなる数列であれば乱数列であるか、議論のあるところではあるが、一様分布であることと過去の数から次の数が予測不能であることは同値であることが示されている(Yao)。そこで過去の数から次の数が予測不能であるかで、暗号論的擬似乱数か否かを区別する。
暗号理論では擬似乱数に厳密な定義が与えられている。Σ = {0,1}とする。自然数 k に対し、Σ 上の一様分布を Uk と表す。確率変数の族 {Xk}k∈N が、一様分布の族 {Uk}k∈N と計算量的識別不能な時、族 {Xk}k∈N は暗号論的擬似乱数であるという。
次に暗号論的擬似乱数生成器の厳密な定義をする。l(k) を l(k) > k を満たす多項式とする。G を多項式時間アルゴリズムで、G に k ビットのビット列を入力をすると l(k) ビットの出力を返すものとする。すると G(Uk) は Σ 上の確率分布である。確率分布の族 {G(Uk)}k∈N が暗号論的擬似乱数である時、多項式時間アルゴリズム G を暗号論的擬似乱数生成器という。
一方向性関数が存在すれば暗号論的擬似乱数生成器が存在する事が知られている。
実際の生成法としては、一般の擬似乱数列を暗号学的ハッシュ関数に通す、という、簡単な構成法がある。
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"text": "擬似乱数(ぎじらんすう、pseudorandom numbers)は、乱数列のように見えるが、実際には確定的な計算によって求めている擬似乱数列による乱数。擬似乱数列を生成する機器を擬似乱数列生成器、生成アルゴリズムを擬似乱数列生成法と呼ぶ。",
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"text": "真の乱数列は本来、規則性も再現性もないものであるため、本来は確定的な計算によって求めることはできない(例:サイコロを振る時、今までに出た目から次に出る目を予測するのは不可能)。一方、擬似乱数列は確定的な計算によって作るので、その数列は確定的であるうえ、生成法と内部状態が既知であれば、予測可能でもある。",
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"text": "ある擬似乱数列を、真の乱数列とみなして良いかを確実に決定することはできない。シミュレーション等の一般的な用途には、対象とする乱数列の統計的な性質が、使用対象とする目的に合致しているかどうかを判断する。これを検定と言い、各種の方法が提案されている。",
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"text": "しかし、特に暗号に使用する擬似乱数列については注意が必要であり、シミュレーション等には十分な擬似乱数列生成法であっても、暗号にそのまま使用できるとは限らない。暗号で使用する擬似乱数列については暗号論的擬似乱数の節および暗号論的擬似乱数生成器の記事を参照。",
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"text": "シミュレーション実験や、(暗号論的擬似乱数は)暗号などに利用されている。真に良質な乱数列を得ようとするのは意外に厄介であるのに対し、擬似乱数では前提条件が同じならば、まったく同じ乱数列を生成できる。このため、シミュレーション等においては同じ動作を再現できるメリットがあるうえ、デバッグも可能となる。",
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"text": "なお、暗号生成の際、再現性を利用してシード値の選択を意図的に行われたりすると危険があるといった場合、何らかの方法でそれを排除することが必要な(楕円曲線暗号のパラメータ生成など)用途もある。",
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"text": "もっとも古い手法で、1946年頃、ノイマンが提案した。TAOCPの新しい訳本では二乗中抜き法と呼んでいる。",
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"text": "まず、適当に初期値を決める。以下、その(乱)数を 2 乗した値の中央にある必要な桁数を採って次の乱数とする。これを繰り返して乱数列とする方法。ここで「中央」とは、求まった値を必要な桁数の 2 倍の桁数として見た時の中央である。たとえば、4 桁を必要としていて、求まった値が 7 桁の時は、最上位の前の位(千万の位)に「0」を付け足して 8 桁とする(下の例を参照)。",
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"text": "(例)4 桁の擬似乱数を作ってみる。初期値を1763とする。",
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"text": "こうして、擬似乱数列 {1763, 1081, 1685, 8392, 4256, 1135, ...} を得る。",
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"text": "計算の結果、過去に現れた数と同じ数が現れればループとなり、その長さを周期と言うが、線形合同法を使えば周期が最長のものが理論的に可能であるため、現代において平方採中法が利用されることはまずない。",
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"text": "線形帰還シフトレジスタ (Linear Feedback Shift Register, LFSR) はデジタル回路を用いて容易に実装することができる。特性多項式を適切に選択することによって、等頻度性、無相関性及び周期が保証される。乱数としては最長周期を保証するM系列を使う。",
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"text": "上記のような古典的擬似乱数生成法の欠点を克服した、新しい擬似乱数生成法がいくつか考案されている。",
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"text": "メルセンヌ・ツイスタの他、キャリー付き乗算、Xorshift、Lagged Fibonacci 法、Permuted congruential generator など。",
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"text": "非線形微分方程式の解はカオスで、即ち初期値敏感性等の性質を持つ。これを漸化式として、カオス的な関数を得る。よく使われる関数にロジスティック写像やテント写像がある。ロジスティック写像#擬似乱数生成器を参照。",
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"text": "一般の擬似乱数は、その方式と過去の出力が既知であれば、未来の出力を予測可能であるため、暗号の用途には不適(暗号学的に安全ではないと言う)である。",
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"text": "暗号理論では擬似乱数(生成器)に明確な定義がある。すなわち、多項式時間の計算機が乱数列と識別不能な列を出力する機器のことを、暗号論的擬似乱数生成器と呼び、この列に含まれる数を暗号論的擬似乱数という。いかなる数列であれば乱数列であるか、議論のあるところではあるが、一様分布であることと過去の数から次の数が予測不能であることは同値であることが示されている(Yao)。そこで過去の数から次の数が予測不能であるかで、暗号論的擬似乱数か否かを区別する。",
"title": "暗号論的擬似乱数"
},
{
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"text": "暗号理論では擬似乱数に厳密な定義が与えられている。Σ = {0,1}とする。自然数 k に対し、Σ 上の一様分布を Uk と表す。確率変数の族 {Xk}k∈N が、一様分布の族 {Uk}k∈N と計算量的識別不能な時、族 {Xk}k∈N は暗号論的擬似乱数であるという。",
"title": "暗号論的擬似乱数"
},
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"text": "次に暗号論的擬似乱数生成器の厳密な定義をする。l(k) を l(k) > k を満たす多項式とする。G を多項式時間アルゴリズムで、G に k ビットのビット列を入力をすると l(k) ビットの出力を返すものとする。すると G(Uk) は Σ 上の確率分布である。確率分布の族 {G(Uk)}k∈N が暗号論的擬似乱数である時、多項式時間アルゴリズム G を暗号論的擬似乱数生成器という。",
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"text": "一方向性関数が存在すれば暗号論的擬似乱数生成器が存在する事が知られている。",
"title": "暗号論的擬似乱数"
},
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"text": "実際の生成法としては、一般の擬似乱数列を暗号学的ハッシュ関数に通す、という、簡単な構成法がある。",
"title": "暗号論的擬似乱数"
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擬似乱数は、乱数列のように見えるが、実際には確定的な計算によって求めている擬似乱数列による乱数。擬似乱数列を生成する機器を擬似乱数列生成器、生成アルゴリズムを擬似乱数列生成法と呼ぶ。 真の乱数列は本来、規則性も再現性もないものであるため、本来は確定的な計算によって求めることはできない。一方、擬似乱数列は確定的な計算によって作るので、その数列は確定的であるうえ、生成法と内部状態が既知であれば、予測可能でもある。 ある擬似乱数列を、真の乱数列とみなして良いかを確実に決定することはできない。シミュレーション等の一般的な用途には、対象とする乱数列の統計的な性質が、使用対象とする目的に合致しているかどうかを判断する。これを検定と言い、各種の方法が提案されている。 しかし、特に暗号に使用する擬似乱数列については注意が必要であり、シミュレーション等には十分な擬似乱数列生成法であっても、暗号にそのまま使用できるとは限らない。暗号で使用する擬似乱数列については暗号論的擬似乱数の節および暗号論的擬似乱数生成器の記事を参照。
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{{出典の明記|date=2016年9月23日 (金) 04:47 (UTC)}}
'''擬似乱数'''(ぎじらんすう、''{{lang|en|pseudorandom numbers}}'')は、[[乱数列]]のように見えるが、実際には確定的な計算によって求めている'''擬似乱数列'''による乱数。擬似乱数'''列'''を生成する機器を'''擬似乱数列生成器'''、生成[[アルゴリズム]]を'''擬似乱数列生成法'''と呼ぶ。
真の乱数'''列'''は本来、規則性も再現性もないものであるため、<!--その定義から、-->本来は確定的な計算によって求めることはできない(例:サイコロを振る時、今までに出た目から次に出る目を予測するのは不可能)。一方、擬似乱数'''列'''は確定的な計算によって作るので、その数列は確定的であるうえ、生成法と内部状態が既知であれば、予測可能でもある。
ある擬似乱数列を、真の乱数列とみなして良いかを確実に決定することはできない。シミュレーション等の一般的な用途には、対象とする乱数列の<!--さまざまな主として-->統計的な性質が、使用対象とする目的に合致しているかどうかを判断する。これを'''検定'''と言い、各種の方法が提案されている。<!--真の乱数列のそれと同じ(見分けがつかない)かどうかで、その乱数列の判断することになるが、これを-->
しかし、特に暗号に使用する擬似乱数列については注意が必要であり、<!--他の用途とは異なる注意が必要である。一般に、一般の-->シミュレーション等には十分な<!--性能を持った-->擬似乱数列生成法であっても、[[暗号]]にそのまま使用できるとは限らない。暗号で使用する擬似乱数列については[[#暗号論的擬似乱数|暗号論的擬似乱数の節]]および[[暗号論的擬似乱数生成器|暗号論的擬似乱数生成器の記事]]を参照。
== 用途 ==
シミュレーション実験や、(暗号論的擬似乱数は)暗号などに利用されている。真に良質な乱数列を得ようとするのは意外に厄介であるのに対し、擬似乱数では前提条件が同じならば、<!--初期状態から始めれば、-->まったく同じ乱数列を生成できる。このため、シミュレーション等においては同じ動作を再現できるメリットがあるうえ、<!--シミュレーション自体のみならず、-->デバッグも可能となる。
なお、暗号生成の際、再現性を利用してシード値の選択を意図的に行われたりすると危険があるといった場合、何らかの方法でそれを排除することが必要な([[楕円曲線暗号]]のパラメータ生成など)用途もある。
== 主な擬似乱数生成法 ==
様々な擬似乱数生成法が知られている。
*一般的生成法(方式と過去の出力が既知であれば、未来の出力を予測可能)
**古典的<ref group="注釈">現代では通常使われない</ref>生成法 - 平方採中法
**比較的古い<ref group="注釈">1980年代以前から使われている</ref>生成法 - [[線形合同法]](乗算合同法・混合合同法)、[[線形帰還シフトレジスタ]]
**比較的新しい<ref group="注釈">1990年代以降に提案された</ref>生成法 - [[メルセンヌ・ツイスタ]]、[[キャリー付き乗算]]、[[Xorshift]]、[[Lagged Fibonacci 法]]<!--、カオス乱数--><!--←カオスについて、古典的方法に比べて良い乱数が得られるする出典があるまでは外して良いでしょう-->、[[RANLUX]]、[[Permuted congruential generator]]
*[[暗号論的擬似乱数生成器|暗号学的に安全な生成法]](方式と過去の出力から未来の出力が{{仮リンク|予測可能性|en|predictability|label=予測困難}}で、現在の状態から過去の出力が{{仮リンク|予測可能性|en|predictability|label=予測不可能}})<!-- 有限の周期が存在する実装では「条件付き」で「実用上」は予測不可能であるが完全に「予測不可能」とはならない。 -->
**BBS([[Blum-Blum-Shub]])、Fortuna
*(参考)擬似乱数ではない、真の乱数の生成法
**[[ハードウェア乱数生成器]] - [[サイコロ]]、[[熱雑音]]、[[宇宙線]]などを利用する物理乱数
=== 平方採中法 ({{en|middle-square method}}) ===
もっとも古い手法で、1946年頃、[[ジョン・フォン・ノイマン|ノイマン]]が提案した。[[The Art of Computer Programming|TAOCP]]の新しい訳本では二乗中抜き法と呼んでいる。
まず、適当に初期値を決める。以下、その(乱)数を 2 乗した値の中央にある必要な桁数を採って次の乱数とする。これを繰り返して乱数列とする方法。ここで「中央」とは、求まった値を必要な桁数の 2 倍の桁数として見た時の中央である。たとえば、4 桁を必要としていて、求まった値が 7 桁の時は、最上位の前の位(千万の位)に「0」を付け足して 8 桁とする(下の例を参照)。
(例)4 桁の擬似乱数を作ってみる。初期値を1763とする。
:1763<sup>2</sup> = 03'''1081'''69 → 1081
:1081<sup>2</sup> = 01'''1685'''61 → 1685
:1685<sup>2</sup> = 02'''8392'''25 → 8392
:8392<sup>2</sup> = 70'''4256'''64 → 4256
:4256<sup>2</sup> = 18'''1135'''36 → 1135
:…
こうして、擬似乱数列 {1763, 1081, 1685, 8392, 4256, 1135, …} を得る。
<!--丁度中央にある丁度半分の桁数を取り出すことに数理的理由があるわけではないので、奇数桁取り出すような実装に問題はない、ためコメントアウト MetaNest → --><!--平方採中法は偶数桁を採る時にしか使えない。また、-->計算の結果、過去に現れた数と同じ数が現れればループとなり、その長さを周期と言うが、線形合同法を使えば周期が最長のものが理論的に可能であるため、現代において平方採中法が利用されることはまずない。<!-- [[線形合同法]]という記事があったので、コメントアウト
== 線形合同法({{en|linear congruential method}}) ==
1948年、レーマが提案
適当な初期値<math>X_0</math>と、適当な定数<math>a</math>,<math>b</math>,<math>m</math>を定める。
<math>X_i = a X_{i-1} + b \mod m</math>
として、<math>X</math> を乱数列とする。
-->
=== 線形合同法 ({{en|linear congruential method}}) ===
{{Main|線形合同法}}
線形合同法の
:<math>X_{n+1}=\left(A\times X_n+B\right)\bmod M</math>
において、B=0 の場合を区別して特に乗算合同法、B>0 の場合を区別して特に混合合同法と言うことがある。<!--
下の式に適当な ''a''、''p''、''q'' を代入する(必要な桁数が採れれば何でも良い)。求まった ''a'' の中間あたりの必要な桁数を乱数として採用し、それを新たな ''a'' として、再び下の式に代入する。
:''ap'' + ''q'' = ''a' ''
(例)5 桁の擬似乱数を作ってみる。ただし、最初は ''a'' = 14992、''p'' = 673、''q'' = 944とし、求まった ''a' '' の、十の位から十万の位までを採用することとする。
:14992×673+944 = 10090560 → 09056
:09056×673+944 = 06095632 → 09563
:09563×673+944 = 06436843 → 43684
:43684×673+944 = 29400276 → 40027
:40027×673+944 = 26939115 → 93911
:…
こうして、擬似乱数列 {14992, 9056, 9563, 43684, 40027, 93911, …} を得る。
-->
=== 線形帰還シフトレジスタ ===
{{Main|線形帰還シフトレジスタ}}
[[線形帰還シフトレジスタ]] ({{en|Linear Feedback Shift Register, LFSR}}) はデジタル回路を用いて容易に実装することができる。特性多項式を適切に選択することによって、等頻度性、無相関性及び周期が保証される。乱数としては最長周期を保証する[[M系列]]を使う。
== 新しい擬似乱数生成アルゴリズム ==
上記のような古典的擬似乱数生成法の欠点を克服した、新しい擬似乱数生成法がいくつか考案されている。
メルセンヌ・ツイスタの他、[[キャリー付き乗算]]、[[Xorshift]]、[[Lagged Fibonacci 法]]、[[Permuted congruential generator]] など。
=== メルセンヌ・ツイスタ ===
{{Main|メルセンヌ・ツイスタ}}
== その他の生成法 ==
=== カオス乱数 ===
非線形微分方程式の解は[[カオス理論|カオス]]で、即ち初期値敏感性等の性質を持つ。これを漸化式として、カオス的な関数を得る。よく使われる関数に[[ロジスティック写像]]や[[テント写像]]がある。[[ロジスティック写像#擬似乱数生成器]]を参照。
== 暗号論的擬似乱数 ==
{{Main|暗号論的擬似乱数生成器}}
一般の擬似乱数は、その方式と過去の出力が既知であれば、未来の出力を予測可能であるため、暗号の用途には不適('''暗号学的に安全ではない'''と言う)である。
[[暗号理論]]では擬似乱数(生成器)に明確な定義がある。すなわち、多項式時間の計算機が乱数列と[[識別不能]]な列を出力する機器のことを、暗号論的擬似乱数生成器と呼び、この列に含まれる数を暗号論的擬似乱数という。いかなる数列であれば乱数列であるか、議論のあるところではあるが、一様分布であることと過去の数から次の数が予測不能であることは同値であることが示されている(Yao)。そこで過去の数から次の数が予測不能であるかで、暗号論的擬似乱数か否かを区別する。
暗号理論では擬似乱数に厳密な定義が与えられている。Σ = {0,1}とする。自然数 ''k'' に対し、Σ<sup>''k''</sup> 上の一様分布を ''U''<sub>''k''</sub> と表す。確率変数の族 {''X''<sub>''k''</sub>}<sub>''k''∈'''N'''</sub> が、一様分布の族 {''U''<sub>''k''</sub>}<sub>''k''∈'''N'''</sub> と[[計算量的識別不能]]な時、族 {''X''<sub>''k''</sub>}<sub>''k''∈'''N'''</sub> は'''暗号論的擬似乱数'''であるという。
次に暗号論的擬似乱数生成器の厳密な定義をする。''l''(''k'') を ''l''(''k'') > ''k'' を満たす多項式とする。''G'' を[[多項式時間]]アルゴリズムで、''G'' に ''k'' ビットのビット列を入力をすると ''l''(''k'') ビットの出力を返すものとする。すると ''G''(''U''<sub>''k''</sub>) は Σ<sup>''l''(''k'')</sup> 上の確率分布である。確率分布の族 {''G''(''U''<sub>''k''</sub>)}<sub>''k''∈'''N'''</sub> が暗号論的擬似乱数である時、[[多項式時間]]アルゴリズム ''G'' を'''暗号論的擬似乱数生成器'''という。
[[一方向性関数]]が存在すれば暗号論的擬似乱数生成器が存在する事が知られている。
実際の生成法としては、一般の擬似乱数列を[[暗号学的ハッシュ関数]]に通す、という、簡単な構成法がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
{{DEFAULTSORT:きしらんすう}}
[[Category:乱数]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-09-28T23:03:00Z
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2023-09-27T00:06:30Z
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大字 (数字)
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数字の大字(だいじ)は、漢数字の一種。通常用いる単純な字形の漢数字(小字)の代わりに同じ音の別の漢字を用いるものである。
漢数字には「一」「二」「三」と続く小字と、「壱」「弐」「参」と続く大字がある。漢数字は通常は小字を用いるが、字画が少なく改竄のおそれがあるため、重要な数字の表記では大字を用いることがある。具体的には法的文書や会計書類(例えば戸籍や領収書や登記など)で算用数字の普及まで頻繁に用いられていた。かつて大字は、万に至るまで用いられてきた。
例えば、領収書に「金一万円」と書くと、後から「丨」や「L」、「イ」、「ニ」などを書き加えて「十万円」、「一方円」、「廿万円」(二十万円)、「千万円」、「三万円」などにする改竄が容易に可能であり、「八万円」に「亠」を書き加えて「六万円」にする改竄も可能である。
逆に「金三万円」や「七万円」や「百万円」と書かれた領収書を受け取ると、提出時に「(一や二、乚、白を書き加えて)『三万円』や『七万円』や『百万円』に水増ししていないか」と疑われる恐れもある。
画数が多く難しい漢字を用いることで改竄を防ぐようにしたのが大字の存在理由である。例えば、「一」に対応する大字の「壹」、「六」に対応する大字の「陸」、「八」に対応する大字の「捌」、「千」に対応する大字の「阡」、「万」に対応する大字の「萬」では、「一」「六」「八」「千」「万」のような改竄はできず;「三」に対応する大字の「参」、「七」に対応する大字の「漆」、「百」に対応する大字の「陌」では水増しを疑われる事はない。
日本では、8世紀初頭に編纂された大宝律令において公式文書の帳簿類に大字を使う事が定められている。「凡そ是れ簿帳...の類の数有らむ者は、大字に為れ」(公式令66条)とされ、東大寺の正倉院に残る天平時代の戸籍や正税帳(国家の倉庫の出納簿)はこの令に則って、一から万まで下表にある大字が使われている。
以下に日本と中国の大字を示す。一部は新字体や簡体字になっている。
日本の法令で定められているのは壱、弐、参、拾のみである。現在の日本銀行券には「千円」「弐千円」「五千円」「壱万円」と書かれている。他にかつて発行された日本銀行券で大字が使われているものには「五拾円」「貳百圓」「貳拾圓」「拾圓」「壹圓」「拾錢」があり、また日本銀行券以外の日本の紙幣(政府紙幣など)も含めれば「貳圓」「五拾錢/五拾銭」「貳拾錢」もある。伍は麻雀牌の表記以外の商取引などで使われる場合は少ない。
大字を用いる時は一般に数詞を用いた書き方が行われる。また通常は言わない「壱」を明記することがある。例えば 110 は「百拾」か「陌拾」「壱百壱拾」か「壱陌壱拾」と書き、「壱壱零」といったアラビア数字のような位取り記数法を用いるのは一般的でない。
簡体字の「叁」(叄、sān、ㄙㄢ)は本来「参」(參、cān、ㄘㄢ)の異体字だが、現在は「三」の大字専用として使われているようである。
大字を、旧字体と同じように「古さ」あるいはそれらしい擬古調的表現の一環として用いることがある。
例えば、アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』は、タイトル数を「第弐話」「第弐拾四話」などと大字を活用して表現し、エヴァの機体も「弐号機」「参号機」などと命名している。他にも、『ファイブスター物語』のマシンメサイア、「焔星(イェンシー)」の機体にも付けられていた。
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"text": "日本では、8世紀初頭に編纂された大宝律令において公式文書の帳簿類に大字を使う事が定められている。「凡そ是れ簿帳...の類の数有らむ者は、大字に為れ」(公式令66条)とされ、東大寺の正倉院に残る天平時代の戸籍や正税帳(国家の倉庫の出納簿)はこの令に則って、一から万まで下表にある大字が使われている。",
"title": "概要"
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"text": "以下に日本と中国の大字を示す。一部は新字体や簡体字になっている。",
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"text": "日本の法令で定められているのは壱、弐、参、拾のみである。現在の日本銀行券には「千円」「弐千円」「五千円」「壱万円」と書かれている。他にかつて発行された日本銀行券で大字が使われているものには「五拾円」「貳百圓」「貳拾圓」「拾圓」「壹圓」「拾錢」があり、また日本銀行券以外の日本の紙幣(政府紙幣など)も含めれば「貳圓」「五拾錢/五拾銭」「貳拾錢」もある。伍は麻雀牌の表記以外の商取引などで使われる場合は少ない。",
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"text": "大字を用いる時は一般に数詞を用いた書き方が行われる。また通常は言わない「壱」を明記することがある。例えば 110 は「百拾」か「陌拾」「壱百壱拾」か「壱陌壱拾」と書き、「壱壱零」といったアラビア数字のような位取り記数法を用いるのは一般的でない。",
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"text": "簡体字の「叁」(叄、sān、ㄙㄢ)は本来「参」(參、cān、ㄘㄢ)の異体字だが、現在は「三」の大字専用として使われているようである。",
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"text": "例えば、アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』は、タイトル数を「第弐話」「第弐拾四話」などと大字を活用して表現し、エヴァの機体も「弐号機」「参号機」などと命名している。他にも、『ファイブスター物語』のマシンメサイア、「焔星(イェンシー)」の機体にも付けられていた。",
"title": "擬古調的表現"
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数字の大字(だいじ)は、漢数字の一種。通常用いる単純な字形の漢数字(小字)の代わりに同じ音の別の漢字を用いるものである。
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{{特殊文字}}
数字の'''大字'''(だいじ)は、[[漢数字]]の一種。通常用いる単純な字形の漢数字(小字)の代わりに同じ音の別の[[漢字]]を用いるものである。
== 概要 ==
[[ファイル:Series E 10K Yen Bank of Japan note - front.jpg|310px|thumb|right|壱万円日本銀行券(「壱」が大字)]]
[[ファイル:Series D 2K Yen Bank of Japan note - front.jpg|300px|thumb|right|弐千円日本銀行券(「弐」が大字)]]
漢数字には「一」「二」「三」と続く小字と、「壱」「弐」「参」と続く大字がある<ref name="kanseki">{{Cite web|和書|author=小島浩之|title=漢籍整理備忘録 −中国の古典籍・古文書の理解のために−|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcul/106/0/106_1493/_pdf/-char/ja|website=大学図書館研究|accessdate=2021-12-09}}</ref>。漢数字は通常は小字を用いるが、字画が少なく[[改竄]]のおそれがあるため、重要な数字の表記では大字を用いることがある<ref name="kanseki" />。具体的には法的文書や[[会計]]書類(例えば[[戸籍]]や[[領収書]]や[[登記]]など)で[[算用数字]]の普及まで頻繁に用いられていた。かつて大字は、万に至るまで用いられてきた。
例えば、領収書に「金一万円」と書くと、後から「丨」や「L」、「イ」、「ニ」などを書き加えて「十万円」、「一方円」、「廿万円」(二十万円)、「千万円」、「三万円」などにする改竄が容易に可能であり、「八万円」に「亠」を書き加えて「六万円」にする改竄も可能である。
逆に「金三万円」や「七万円」や「百万円」と書かれた領収書を受け取ると、提出時に「(一や二、乚、白を書き加えて)『三万円』や『七万円』や『百万円』に[[水増し]]していないか」と疑われる恐れもある。
画数が多く難しい漢字を用いることで改竄を防ぐようにしたのが大字の存在理由である。例えば、「一」に対応する大字の「壹」、「六」に対応する大字の「陸」、「八」に対応する大字の「捌」、「千」に対応する大字の「阡」、「万」に対応する大字の「萬」では、「一」「六」「八」「千」「万」のような改竄はできず;「三」に対応する大字の「参」、「七」に対応する大字の「漆」、「百」に対応する大字の「陌」では水増しを疑われる事はない。
日本では、8世紀初頭に編纂された[[大宝律令]]において公式文書の帳簿類に大字を使う事が定められている。「凡そ是れ簿帳…の類の数有らむ者は、大字に為れ」(公式令66条)<ref>「正倉院文書の世界」丸山裕美子著、中公新書2054、2010年発行、75頁</ref>とされ、[[東大寺]]の[[正倉院]]に残る[[天平時代]]の戸籍や正税帳(国家の倉庫の出納簿)はこの令に則って、一から万まで下表にある大字が使われている<ref>「正倉院文書の世界」</ref>。
以下に日本と中国の大字を示す。一部は[[新字体]]や[[簡体字]]になっている。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center"
!rowspan="2"| 算用数字
!rowspan="2"| 漢数字
!colspan="2"| 日本の大字
!colspan="2"| 中国の大字
|-
! 新字体
! 旧字体・俗字
! 繁体字
! 簡体字
|-
|style="text-align:right;"|[[0]] || 〇 || colspan="2" | 零 ||colspan="2"| {{lang|zh-hant|零}}
|-
|style="text-align:right;"|[[1]] || 一 || 壱 || 壹、弌 ||colspan="2"| {{lang|zh-hant|壹}}
|-
|style="text-align:right;"|[[2]] || 二 || 弐 || 貳、貮、弍|| {{lang|zh-hant|貳}} || {{lang|zh-hans|贰}}
|-
|style="text-align:right;"|[[3]] || 三 || 参 || 參、弎 ||{{lang|zh-hant|叁}}、{{lang|zh-hant|參}}、{{lang|zh-hant|叄}} || {{lang|zh-hans|叁}}
|-
|style="text-align:right;"|[[4]] || 四、亖<ref group="注">ただし「亖」の字は古字であり、現在では一般的ではなく、殆ど使用されていない。</ref> || 四 || 肆 || {{lang|zh-hant|肆}}、{{lang|zh-hant|䦉}} || {{lang|zh-hans|肆}}
|-
|style="text-align:right;"|[[5]] || 五 ||colspan="2"| 伍 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|伍}}
|-
|style="text-align:right;"|[[6]] || 六 ||colspan="2"| 陸 || {{lang|zh-hant|陸}} || {{lang|zh-hans|陆}}
|-
|style="text-align:right;"|[[7]] || 七 ||漆、質<ref group="注">[[草野心平]]の詩 「富士山作品第質」に使用例がある。</ref>|| 柒 || {{lang|zh-hant|柒}}、{{lang|zh-hant|漆}} || {{lang|zh-hans|柒}}
|-
|style="text-align:right;"|[[8]] || 八 ||colspan="2"| 捌 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|捌}}
|-
|style="text-align:right;"|[[9]] || 九 ||colspan="2"| 玖 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|玖}}
|-
|style="text-align:right;"|[[10]] || 十 ||colspan="2"| 拾、什 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|拾}}、{{lang|zh-hant|什}}
|-
|style="text-align:right;"|[[20]] || 廿、卄<ref group="注">現在では一般的には「二十」と書かれる。</ref> || 弐拾 || 貳拾 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|貳拾}}、{{lang|zh-hant|廿}}(呉語、ほぼ使わない)
|-
|style="text-align:right;"|[[30]] || 卅、丗<ref group="注">現在では一般的には「三十」と書かれる。</ref> || 参拾 ||參拾|| colspan="2" |{{lang|zh-hant|参拾}}、{{lang|zh-hant|卅}}([[広東語]]・[[閩南語]]、ほぼ使わない)
|-
|style="text-align:right;"|[[40]] || 卌<ref group="注">現在では一般的には「四十」と書かれる。</ref> |||||| colspan="2" |{{lang|zh-hant|肆拾}}、{{lang|zh-hant|䦉拾}}、{{lang|zh-hant|卌}}(閩南語、ほぼ使わない)
|-
|style="text-align:right;"|[[100]] || 百 ||colspan="2"| 陌、佰 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|佰}}
|-
|style="text-align:right;"|[[1000]] || 千 ||colspan="2"| 阡、仟 || colspan="2" | {{lang|zh-hant|仟}}
|-
|style="text-align:right;"|[[10000]] || 万 ||colspan="2"| 萬 || {{lang|zh-hant|萬}} || {{lang|zh-hans|万}}({{lang|zh-hans|萬}})
|}
日本の法令で定められているのは'''壱'''、'''弐'''、'''参'''、'''拾'''のみである<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=141AC0000000053#137 |title=公証人法(明治四十一年法律第五十三号)第37条第3項|publisher=e-Gov |date=2011-6-24 |quote=2011年7月15日施行分|accessdate=2019-12-24}}:数量、年月日及番号ヲ記載スルニハ'''壱弐参拾ノ字ヲ用ウヘシ'''</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=211M10000040043 |title=大正十一年大蔵省令第四十三号(会計法規ニ基ク出納計算ノ数字及記載事項ノ訂正ニ関スル件)|publisher=e-Gov |date=1950-5-22 |quote=1950年4月1日施行分|accessdate=2019-12-24}} 第1条:会計法規ニ基ク出納計算ニ関スル諸書類帳簿ニ記載スル金額其ノ他ノ数量ニシテ「一」、「二」、「三」、「十」、「廿」、「卅」ノ数字ハ'''「壱」、「弐」、「参」、「拾」、「弐拾」、「参拾」ノ字体ヲ用ユヘシ'''但横書ヲ為ストキハ「アラビア」数字ヲ用ユルコトヲ得</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322M40000010094#128 |title=戸籍法施行規則(昭和二十二年司法省令第九十四号)第31条第2項 |publisher=e-Gov |date=2017-9-25 |quote=2017年9月25日施行分|accessdate=2019-12-24}} :年月日を記載するには、'''壱、弐、参、拾の文字を用いなければならない。'''</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=326M50000040020#60 |title=小切手振出等事務取扱規程(昭和二十六年大蔵省令第二十号)(昭和40年大蔵省令第20号) 附則第2項 |publisher=e-Gov |date=1965-4-1 |quote=1965年4月1日施行分|accessdate=2019-12-24}}:小切手の券面金額は、当分の間、所定の金額記載欄に、漢数字により表示することができる。この場合においては、「一」、「二」、「三」及び「十」の字体は、それぞれ'''「壱」、「弐」、「参」及び「拾」の漢字を用い'''、かつ、所定の金額記載欄の上方余白に'''当該金額記載欄に記載の金額と同額をアラビア数字で副記'''しなければならない。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=339M50000010023#463 |title=商業登記規則(昭和三十九年法務省令第二十三号)第48条第2項 |publisher=e-Gov |date=2019-9-17 |quote=2019年10月1日施行分|accessdate=2019-12-24}}:金銭その他の物の数量、年月日及び番号を記載するには、「壱、弐、参、拾」の文字を用いなければならない。ただし、横書きをするときは、[[アラビア数字|アラビヤ数字]]を用いることができる。</ref>。現在の[[日本銀行券]]には「[[千円紙幣|千円]]」「[[二千円紙幣|弐千円]]」「[[五千円紙幣|五千円]]」「[[一万円紙幣|壱万円]]」と書かれている。他にかつて発行された日本銀行券で大字が使われているものには「[[五十円紙幣|五拾円]]」「[[二百円紙幣|貳百圓]]」「[[二十円紙幣|貳拾圓]]」「[[十円紙幣|拾圓]]」「[[一円紙幣|壹圓]]」「[[十銭紙幣|拾錢]]」があり、また日本銀行券以外の日本の紙幣(政府紙幣など)も含めれば「[[二円紙幣|貳圓]]」「[[五十銭紙幣|五拾錢/五拾銭]]」「[[二十銭紙幣|貳拾錢]]」もある。伍は[[麻雀牌]]の表記以外の商取引などで使われる場合は少ない。<!--中国と異なり、日本では〇に対する大字が零というわけではない。-->
大字を用いる時は一般に[[数詞]]を用いた書き方が行われる。また通常は言わない「壱」を明記することがある。例えば 110 は「百拾」か「陌拾」「壱百壱拾」か「壱陌壱拾」と書き、「壱壱零」といった[[アラビア数字]]のような[[位取り記数法]]を用いるのは一般的でない<ref group="注">明治期の紙幣の漢数字による番号表記では、「第壹貳號 壹貳叄四五六」のような形式で印刷された例はある。</ref>。
簡体字の「{{lang|zh-hans|叁}}」({{lang|zh-hant|叄}}、sān、{{lang|zh-hant|ㄙㄢ}})は本来「参」(參、cān、{{lang|zh-hant|ㄘㄢ}})の異体字だが、現在は「三」の大字専用として使われているようである<ref group="注">[[新華字典]]の「{{lang|zh-hans|叁}}」の項目。</ref>。
== 擬古調的表現 ==
大字を、[[旧字体]]と同じように「古さ」あるいはそれらしい[[擬古]]調的表現の一環として用いることがある。
例えば、アニメ作品『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』は、タイトル数を「第弐話」「第弐拾四話」などと大字を活用して表現し、エヴァの機体も「弐号機」「参号機」などと命名している。他にも、『[[ファイブスター物語]]』のマシンメサイア、「焔星(イェンシー)」の機体にも付けられていた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.akatsukinishisu.net/kanji/kansuji.html 漢数字講座]
* [http://www.sljfaq.org/cgi/numbers_ja.cgi?usedaiji=2 アラビア数字を大字に変換するサイト]
* [http://www.moroo.com/uzokusou/misc/suumei/suumei2.html 大数の名前について]
* [http://www.natubunko.net/kotoba02.html 大字(だいじ)|難しい漢字の漢数字]
* [https://www.kansuji.com/ 漢数字一覧ナビ]
* [https://nue2004.info/knowledge/knowledge89.htm 漢数字の大字]
* [https://www.zoto.jp/mobile/kansuzi/kz.html 漢数字の書き方|冠婚葬祭贈答マナー]
{{デフォルトソート:たいし}}
[[Category:数字]]
[[Category:数の表現]]
[[Category:漢字]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%97_(%E6%95%B0%E5%AD%97)
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18,672 |
数字
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数字(すうじ、英: numeral)とは、数(数値、数量、英: number)を表現するための記号(英: figure, 英: digit)および文字(英: character, 英: letter)である。
アラビア数字の 1, 2, 3, 4, 5, ... とローマ数字の I, II, III, IV, V, ... とは異なる文字だが、同じ数を表す。一方、数を表す語は数詞と呼ばれる。ローマ数字の記法をコンピューター上で書く場合、アルファベットに置き換えられることが多い。(IIIをIII、iiiをiiiなど)
欧米語では,数を表す数字の記号(figure, digit:例はアラビア数字)と文字(character, letter:例はローマ数字)とを区別している。
非常に多くの数字体系で、1 は 1 つの線か 1 つの点として表される。また、2 や 3 などは 1 を表す記号を列べて表される。これは、数の表記が数える対象物と記号との一対一対応であったことの名残であると考えられる。また、無を表す 0 は円形として表される例が散見される。
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数字とは、数を表現するための記号および文字である。
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{{Redirect|桁|建築|桁 (建築)}}
{{混同|数学}}
{{出典の明記|date=2023年12月}}
{{WStypes}}
[[File:Illustrirte Geschichte der Schrift (Faulmann) 516.jpg|thumb|様々な数字]]
'''数字'''(すうじ、{{lang-en-short|''numeral''}})とは、[[数]](数値、数量、{{lang-en-short|''number''}})を表現するための[[記号]]({{lang-en-short|''figure''}}, {{lang-en-short|''digit''}})および[[文字]]({{lang-en-short|''character''}}, {{lang-en-short|''letter''}})である。
==概要==
[[アラビア数字]]の [[1]], [[2]], [[3]], [[4]], [[5]], ... と[[ローマ数字]]の I, II, III, IV, V, ... とは異なる文字だが、同じ数を表す。一方、数を表す[[語]]は[[数詞]]と呼ばれる。ローマ数字の記法をコンピューター上で書く場合、アルファベットに置き換えられることが多い。(ⅢをIII、ⅲをiiiなど)
欧米語では,数を表す数字の[[記号]](''figure'', ''digit'':例はアラビア数字)と[[文字]](''character'', ''letter'':例はローマ数字)とを区別している。
非常に多くの数字体系で、[[1]] は 1 つの線か 1 つの点として表される。また、[[2]] や [[3]] などは 1 を表す記号を列べて表される。これは、数の表記が数える対象物と記号との一対一対応であったことの名残であると考えられる。また、[[無]]を表す [[0]] は[[円 (数学)|円形]]として表される例が散見される。
==おもな数字の体系==
{{Main|en:List of numbers in various languages}}
===一進法===
*[[画線法]]
===「三の倍数」進法===
;[[十二進法]]
*[[クウェンヤ数字]]([http://en.wikibooks.org/wiki/Quenya/Duodecimal_Numerals クウェンヤ数字] →[[クウェンヤ]])
===「五の倍数」進法===
;[[十進法]]
*[[インド数字]]
*[[アラビア数字]]
*[[ローマ数字]]
*[[漢数字]]
*[[算木]]
*[[蘇州号碼]](蘇州碼)
*アルメニアの数字
*[[ギリシアの数字]]
*[[ヘブライ数字]]
*[[キリル数字]]
*[[アラビア文字記数法]]
*[[ブラーフミー数字]]
*[[エトルリア数字]]
*[[ビルマ文字#その他|ビルマ数字]]
*[[タイ文字#数字|タイ数字]]
*インカ数字([[キープ (インカ)]])
;[[二十進法]]
*[[マヤ数字]]
*[[イヌイット数字]]([[:en:Kaktovik Inupiaq numerals]])
*[[ゾンカ数字]]([[:en:Dzongkha numerals]])
===複合型===
;[[六十進法]]
*[[バビロニア数字]](補助位数は十進法。→[[バビロニア数学]])
<!--
== 出典 ==
{{Reflist}}-->
==関連項目==
* [[:en:List of numbers in various languages|各国語の数字の一覧(英語版)]]
*[[位取り記数法]](いわゆる桁)
*[[命数法]]
*[[基数詞]]、[[序数詞]]
*[[プラス記号とマイナス記号]]、[[正の数と負の数]]
*[[算術]]
*[[小数]]、[[分数]]、[[有理数]]、[[無理数]]、[[実数]]、[[虚数]]、[[複素数]]、[[四元数]]
*[[数学記号の表]]
*[[単位]]
*[[数字根]]
{{Normdaten}}
{{Sci-stub}}
{{DEFAULTSORT:すうし}}
[[Category:数字|*]]
[[Category:数の表現]]
[[Category:数学に関する記事]]
|
2003-09-29T00:10:31Z
|
2023-12-28T04:15:01Z
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"Template:Redirect",
"Template:混同",
"Template:WStypes",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Main",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%97
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18,673 |
秩父鉄道
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秩父鉄道株式会社(ちちぶてつどう)は、埼玉県の北部から秩父地方に鉄道路線(秩父本線など)を有する鉄道事業を中核に、観光・バス事業、不動産業を行う日本の会社である。本社は埼玉県熊谷市に所在する。
埼玉県の北部を東西に横断して秩父地方と結ぶ秩父本線と、貨物線である三ヶ尻線の2路線を保有・運営している。長瀞渓谷や宝登山を中心とする長瀞の観光開発を行ってきた会社でもあり、直営の「長瀞ラインくだり」は大正時代からの歴史を有する。
太平洋セメントが筆頭株主であり、同社の前身である秩父セメント時代から行っている武甲山から産出される石灰石を運ぶ貨物輸送が盛んである(「諸井恒平」を参照)。
過去には、乗合バス・貸切バス事業、索道事業(三峰ロープウェイ)も行っていた。バス部門は秩父鉄道観光バスに分社している。三峰ロープウェイは廃止されたが、子会社の宝登興業では現在も索道事業(宝登山ロープウェイ)を行っている。
外食事業も営んでおり、埼玉県長瀞町で飲食店「有隣倶楽部」「ガーデンハウス有隣」「豚みそ丼専門店 有隣」を運営している。
東証スタンダード市場(旧JASDAQ市場)に株式上場している。2022年4月4日の東証再編までは鉄道事業者では唯一のJASDAQ上場企業(証券コード : 9012)であった。
会社の略称として「秩父」「秩鉄」「ちちてつ」「CTK」(C.T.K.)が用いられることがある。しかし、駅での案内表示では「秩父線」や「秩父鉄道」が使われており、略称はあまり使われていない。また、「秩父電鉄」という愛称を使用していたため、現在も「秩父電鉄」と呼ばれることがある。
社紋は「上」の文字6つを円形に並べたものであり、「上武」を意味するとされる。上武鉄道として設立された時に作られたもので、秩父鉄道に改称した後も引き続き使われていた。
鉄道2路線を有し、旅客・貨物輸送を行っている。現在の秩父本線終点・三峰口駅から秩父市大滝地区(旧大滝村)へ路線を延長する計画であったが中止となっている。三峰口駅の引き上げ線はその名残であり、かつては鉱山のホッパーまでつながっていた。また、大滝村方面にケーブルカーを建設する計画もあったという。
ICカード乗車券については2022年3月12日にPASMOを導入し、PASMOのほかSuicaなども利用できる。
以下の路線の免許を得ていたが失効している。白川村・大滝村とも現在は秩父市。
地方私鉄にも斬新な高性能車が多数登場した1960年代までは、自社オリジナルの車両も製造していたが、近年は他社からの譲渡車両のみとなっている。譲渡元は複数の鉄道会社に及び、さながら保存鉄道的な色あいを帯びている。
電車は1960年代は茶色に白帯、1970年代は茶色のツートンカラーで、1980年代に入ると黄色を基調に窓下に茶(急行用車は紺)のラインを配したオリジナルデザインをタクシー・バス車両など、グループ全般にわたり導入したが、1990年代に入ると電車は白地に青を基調とした塗装が主流となっている。ただし、2007年の鉄道博物館開館記念イベントから2009年の設立110周年にかけ、1000系のうち5編成を国鉄101系を模したカラーリング(オレンジバーミリオン [1011F(2010年廃車)・1003F(2011年より)]、スカイブルー [1001F]、カナリアイエロー [1012F]、ウグイス関西線バージョン [1009F])に、2編成を旧塗装(茶色ツートン[1002F]、黄色に茶帯[1007F])にそれぞれ変更している。2020年現在、5000系は都営地下鉄時代から引き続く青色のライン、6000系は白地に青色のライン(6003Fはリバイバル塗装として茶色)、7000系および7500系・7800系は緑色と黄色のグラデーションを基調としており、7500系の一部編成は全面ラッピングが施され運用されている。
電気機関車は標準色として青を基調に正面と車体裾に白帯を配する。この塗装はデキ107・108が松尾鉱業鉄道から持ち込んだもので、それ以前は茶色に車体裾に白帯を配するものであった。また、各種イベント等を通じて様々な塗色変更が施されており、2020年現在は標準色以外に、黒色に警戒色(デキ201)、青単色(デキ302)、黄単色(デキ502)、桃色に正面・裾白帯(デキ504)、緑に裾白帯(デキ505)、赤単色(デキ506)と、バリエーションに富んだ構成となっている。
なお、かつて「パレオエクスプレス」で使用されていた旧形客車は秩父鉄道がJR東日本から借り入れたものであり、秩父鉄道所有の車両ではない。
以下の車両が保存されている。
他にも貨車が多数売却されており、その数は把握できない。各形式の項目も参照。
鉄道線は、映画、テレビドラマ、CM撮影などで使用されることが多い。広瀬川原車両基地構内や熊谷駅構内、三峰口駅のプラットホームなどがロケーション撮影に使用されている。
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"text": "秩父鉄道株式会社(ちちぶてつどう)は、埼玉県の北部から秩父地方に鉄道路線(秩父本線など)を有する鉄道事業を中核に、観光・バス事業、不動産業を行う日本の会社である。本社は埼玉県熊谷市に所在する。",
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"text": "埼玉県の北部を東西に横断して秩父地方と結ぶ秩父本線と、貨物線である三ヶ尻線の2路線を保有・運営している。長瀞渓谷や宝登山を中心とする長瀞の観光開発を行ってきた会社でもあり、直営の「長瀞ラインくだり」は大正時代からの歴史を有する。",
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"text": "太平洋セメントが筆頭株主であり、同社の前身である秩父セメント時代から行っている武甲山から産出される石灰石を運ぶ貨物輸送が盛んである(「諸井恒平」を参照)。",
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"text": "過去には、乗合バス・貸切バス事業、索道事業(三峰ロープウェイ)も行っていた。バス部門は秩父鉄道観光バスに分社している。三峰ロープウェイは廃止されたが、子会社の宝登興業では現在も索道事業(宝登山ロープウェイ)を行っている。",
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"text": "外食事業も営んでおり、埼玉県長瀞町で飲食店「有隣倶楽部」「ガーデンハウス有隣」「豚みそ丼専門店 有隣」を運営している。",
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"text": "東証スタンダード市場(旧JASDAQ市場)に株式上場している。2022年4月4日の東証再編までは鉄道事業者では唯一のJASDAQ上場企業(証券コード : 9012)であった。",
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"text": "会社の略称として「秩父」「秩鉄」「ちちてつ」「CTK」(C.T.K.)が用いられることがある。しかし、駅での案内表示では「秩父線」や「秩父鉄道」が使われており、略称はあまり使われていない。また、「秩父電鉄」という愛称を使用していたため、現在も「秩父電鉄」と呼ばれることがある。",
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"text": "社紋は「上」の文字6つを円形に並べたものであり、「上武」を意味するとされる。上武鉄道として設立された時に作られたもので、秩父鉄道に改称した後も引き続き使われていた。",
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"text": "鉄道2路線を有し、旅客・貨物輸送を行っている。現在の秩父本線終点・三峰口駅から秩父市大滝地区(旧大滝村)へ路線を延長する計画であったが中止となっている。三峰口駅の引き上げ線はその名残であり、かつては鉱山のホッパーまでつながっていた。また、大滝村方面にケーブルカーを建設する計画もあったという。",
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"text": "ICカード乗車券については2022年3月12日にPASMOを導入し、PASMOのほかSuicaなども利用できる。",
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"text": "以下の路線の免許を得ていたが失効している。白川村・大滝村とも現在は秩父市。",
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"text": "地方私鉄にも斬新な高性能車が多数登場した1960年代までは、自社オリジナルの車両も製造していたが、近年は他社からの譲渡車両のみとなっている。譲渡元は複数の鉄道会社に及び、さながら保存鉄道的な色あいを帯びている。",
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"text": "電車は1960年代は茶色に白帯、1970年代は茶色のツートンカラーで、1980年代に入ると黄色を基調に窓下に茶(急行用車は紺)のラインを配したオリジナルデザインをタクシー・バス車両など、グループ全般にわたり導入したが、1990年代に入ると電車は白地に青を基調とした塗装が主流となっている。ただし、2007年の鉄道博物館開館記念イベントから2009年の設立110周年にかけ、1000系のうち5編成を国鉄101系を模したカラーリング(オレンジバーミリオン [1011F(2010年廃車)・1003F(2011年より)]、スカイブルー [1001F]、カナリアイエロー [1012F]、ウグイス関西線バージョン [1009F])に、2編成を旧塗装(茶色ツートン[1002F]、黄色に茶帯[1007F])にそれぞれ変更している。2020年現在、5000系は都営地下鉄時代から引き続く青色のライン、6000系は白地に青色のライン(6003Fはリバイバル塗装として茶色)、7000系および7500系・7800系は緑色と黄色のグラデーションを基調としており、7500系の一部編成は全面ラッピングが施され運用されている。",
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"text": "電気機関車は標準色として青を基調に正面と車体裾に白帯を配する。この塗装はデキ107・108が松尾鉱業鉄道から持ち込んだもので、それ以前は茶色に車体裾に白帯を配するものであった。また、各種イベント等を通じて様々な塗色変更が施されており、2020年現在は標準色以外に、黒色に警戒色(デキ201)、青単色(デキ302)、黄単色(デキ502)、桃色に正面・裾白帯(デキ504)、緑に裾白帯(デキ505)、赤単色(デキ506)と、バリエーションに富んだ構成となっている。",
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"text": "なお、かつて「パレオエクスプレス」で使用されていた旧形客車は秩父鉄道がJR東日本から借り入れたものであり、秩父鉄道所有の車両ではない。",
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"text": "他にも貨車が多数売却されており、その数は把握できない。各形式の項目も参照。",
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"text": "鉄道線は、映画、テレビドラマ、CM撮影などで使用されることが多い。広瀬川原車両基地構内や熊谷駅構内、三峰口駅のプラットホームなどがロケーション撮影に使用されている。",
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] |
秩父鉄道株式会社(ちちぶてつどう)は、埼玉県の北部から秩父地方に鉄道路線(秩父本線など)を有する鉄道事業を中核に、観光・バス事業、不動産業を行う日本の会社である。本社は埼玉県熊谷市に所在する。
|
{{Otheruses|企業|この企業が運営する鉄道路線|秩父鉄道秩父本線}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 秩父鉄道株式会社
| 英文社名 = Chichibu Railway Co., Ltd.
| ロゴ = [[File:CTK logomark 2019.svg|120px|ロゴ]] [[File:CTK logomark.svg|120px|社紋]]<br />ロゴ(左)と社紋(右)
| 画像 = [[File:Chichibutetsudohonsha.jpg|250px|秩父鉄道本社]]
| 画像説明 = 秩父鉄道本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/overview.html 会社概要] - 秩父鉄道株式会社</ref>
| 市場情報 = {{上場情報|東証スタンダード|9012|1963年6月25日}}
| 略称 = 秩父、秩鉄、CTK<br />秩父鉄(銘柄略称)
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 360-0033
| 本社所在地 = [[埼玉県]][[熊谷市]][[曙町 (熊谷市)|曙町]]一丁目1番地<ref name="会社概要">[https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/overview.html 秩父鉄道 会社概要](2019年12月29日閲覧)</ref>
| 本社緯度度 = 36|本社緯度分 = 8|本社緯度秒 = 16.5|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139|本社経度分 = 23|本社経度秒 = 27.3|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[11月8日]]<ref name="会社概要"/>
| 業種 = 陸運業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 旅客鉄道事業 不動産業他
| 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[牧野英伸]]<ref name="会社概要"/>
| 資本金 = 7億5000万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |author=秩父鉄道株式会社 |authorlink= |date=2021-06-28 |title=第198期(2020年4月1日 - 2021年3月31日)[[有価証券報告書]]}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 = 150万株<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 売上高 = 連結: 39億3327万9000円<br />単独: 32億0520万6000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = 連結: △6億3904万0000円<br />単独: △4億2544万9000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 = 連結: △4億9770万8000円<br />単独: △3億9892万3000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 = 連結: △53億2792万000円<br />単独: △3億1872万4000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 = 連結: 101億9195万3000円<br />単独: 100億2608万7000円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 = 連結: 234億4996万7000円<br />単独: 228億7095万6000円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 連結: 426人<br />単独: 306人<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 決算期 = 3月31日
| 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="fy" />
| 主要株主 = [[太平洋セメント]] 33.51%<br />有恒鉱業 14.37%<br />増岡英男 3.37%<br />二反田静太郎 2.21%<br />[[埼玉りそな銀行]] 2.14%<br />中村幸久 1.90%<br />山腰玲子 1.81%<br />[[武蔵野銀行]] 1.08%<br />諸井三佐保 1.06%<br />柿原林業 0.73%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください -->
| 主要子会社 = [[宝登興業]] 99.5%<br />[[秩父鉄道観光バス]] 100%<br />[[秩鉄商事]] 100%<br />[[秩父建設]] 100%<br />[[秩父観光興業]] 100%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" />
| 関係する人物 =
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 =
}}
[[File:2006 05040004.JPG|thumb|250px|[[国鉄C58形蒸気機関車|C58 363]]牽引「[[SLパレオエクスプレス]]」]]
'''秩父鉄道株式会社'''(ちちぶてつどう)は、[[埼玉県]]の北部から[[秩父地方]]に[[鉄道路線]]([[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]など)を有する[[鉄道事業者|鉄道事業]]を中核に、[[観光]]・[[バス (交通機関)|バス]]事業、[[不動産業]]を行う[[日本]]の会社である<ref name="会社情報">[https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/ 会社情報] 秩父鉄道(2021年11月20日閲覧)</ref>。本社は埼玉県[[熊谷市]]に所在する<ref name="会社概要"/>。
== 概要 ==
埼玉県の北部を東西に横断して秩父地方と結ぶ[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]と、[[貨物線]]である[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]の2路線を保有・運営している<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.89</ref><ref name="会社概要" />。[[長瀞渓谷]]や[[宝登山]]を中心とする長瀞の観光開発を行ってきた会社でもあり、直営の「長瀞[[川下り#ライン下り|ラインくだり]]」は[[大正]]時代からの歴史を有する<ref>[http://www.minano.gr.jp/leisure/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E9%89%84%E9%81%93%E3%83%BB%E9%95%B7%E7%80%9E%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%82%8A/ 秩父鉄道・長瀞ラインくだり] - 皆野町観光協会</ref>。
[[太平洋セメント]]が筆頭[[株主]]であり、同社の前身である秩父セメント時代から行っている[[武甲山]]から産出される[[石灰石]]を運ぶ[[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]が盛んである(「[[諸井恒平]]」を参照)。
過去には、[[乗合バス]]・[[貸切バス]]事業、[[索道]]事業([[三峰ロープウェイ]])も行っていた。バス部門は[[秩父鉄道観光バス]]に分社している。三峰ロープウェイは廃止されたが、子会社の[[宝登興業]]では現在も索道事業(宝登山ロープウェイ)を行っている。
外食事業も営んでおり、埼玉県[[長瀞町]]で飲食店「有隣倶楽部<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/nagatoro/yurinclub.html 有隣倶楽部](2020年2月29日閲覧)</ref>」「ガーデンハウス有隣<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/nagatoro/g-yurin.html ガーデンハウス有隣](2020年2月29日閲覧)</ref>」「豚みそ丼専門店 有隣<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/nagatoro/yurinbutamiso.html 豚みそ丼専門店 有隣](2020年2月29日閲覧)</ref>」を運営している。
[[東証]]スタンダード市場(旧[[JASDAQ]]市場)に[[株式上場]]している<ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/ir.html IR情報] 秩父鉄道(2021年11月20日閲覧)</ref>。2022年4月4日の東証再編までは鉄道事業者では唯一のJASDAQ上場企業([[証券コード]] : 9012)であった。
会社の略称として「'''秩父'''」<ref group="注">[[秩父鉄道ヲキ・ヲキフ100形貨車|ヲキ・ヲキフ100形貨車]]では、社紋の下に「秩父」と書かれている。</ref><ref group="注">秩父鉄道が発行している沿線情報誌『秩父鉄道ニュース』は、以前は『秩父沿線ニュース』という名前であった。現在もパンフレット等で「秩父沿線」という表現が使われている。</ref>「'''秩鉄'''」「'''ちちてつ'''」<ref group="注">例として、公式通販サイト名が「ちちてつe-shop」である。</ref>「'''CTK'''」<ref group="注">「'''C'''hichibu '''T'''etsudo '''K'''abushikigaisha」の略。急行用の[[秩父鉄道6000系電車|6000系電車]]には、乗務員室近くの車両側面に「CTK」と描かれている。</ref>(C.T.K.<ref group="注">[[秩父鉄道100形電車|100形電車]]には車両側面に「C.T.K.」と書かれており、保存車両を[[三峰口駅]]の鉄道車両公園で見ることができる。</ref>)が用いられることがある。しかし、駅での案内表示では「秩父線」や「秩父鉄道」が使われており、略称はあまり使われていない。また、「'''秩父電鉄'''」という愛称を使用していたため、現在も「秩父電鉄」と呼ばれることがある。
社紋は「上」の文字6つを円形に並べたものであり、「上武」を意味するとされる。上武鉄道として設立された時に作られたもので、秩父鉄道に改称した後も引き続き使われていた<ref>[http://www.chichibu-railway.co.jp/event/thanks110th/column/ 創立110周年記念企画 秩父鐡道110年の軌跡 第1回 草創期~鉄道敷設への第一歩~]秩父鉄道(2019年12月29日閲覧)</ref>。
[[File:CTK logomark.svg|thumb|none|120px|社紋]]
== 歴史 ==
<!--鉄道路線に関する詳細は[[秩父鉄道秩父本線]]に移動することがあります-->
*[[1899年]]([[明治]]32年) 上武鉄道株式会社設立。本社:[[東京市]][[日本橋区]](現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]])。
*[[1901年]](明治34年) [[熊谷駅]] - [[寄居駅]]間を開業。
*[[1916年]]([[大正]]5年) '''秩父鉄道株式会社'''に改称。
*[[1921年]](大正10年) [[北武鉄道]]が[[羽生駅]] - 行田駅(現在の[[行田市駅]])間を開業。
*[[1922年]](大正11年) 熊谷駅 - 行田駅間が開業。その後に秩父鉄道が北武鉄道を合併。
*[[1930年]]([[昭和]]5年) 羽生駅 - [[三峰口駅]]間が全線開通。
*[[1936年]](昭和11年) 寄居自動車株式会社を買収。
*[[1939年]](昭和14年) 三峰索道([[三峰ロープウェイ]]・第一次)開業。
*[[1949年]](昭和24年) [[埼玉県立自然の博物館|秩父自然科学博物館]]を開館。
*[[1954年]](昭和29年) [[東武東上本線]]から乗入れ列車運転開始。
*[[1963年]](昭和38年) 株式を店頭市場に登録(現在の[[ジャスダック|JASDAQ]]市場)。
*[[1964年]](昭和39年) 三峰索道(第二次)開業。
*[[1966年]](昭和41年) 三峰索道(第一次)廃業。
*[[1970年]](昭和45年) 不動産業営業開始。
*[[1979年]](昭和54年) 貨物専用の[[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]([[武川駅]] - [[熊谷貨物ターミナル駅]]間)開業。
*[[1980年]](昭和55年) 本社を埼玉県[[熊谷市]]に移転。秩父自然科学博物館を閉館。
*[[1988年]](昭和63年) [[蒸気機関車牽引列車|SL列車]]「[[SLパレオエクスプレス]]」運転開始。
*[[1989年]]([[平成]]元年)
**秩父鉄道創立90周年事業として、三峰口駅に[[秩父鉄道車両公園]]を開園。
**[[西武鉄道]]からの乗入れ列車運転開始。
*[[1992年]](平成4年) [[自動列車停止装置]] (ATS) を設置。東武東上本線からの乗り入れ中止。
*[[1997年]](平成9年) バス部門を[[秩父鉄道観光バス]]に分社。
*[[2006年]](平成18年) [[セメント]]輸送廃止。
*[[2007年]](平成19年) 三峰索道(第二次)廃止。
*[[2017年]](平成29年) 全旅客駅で[[デジタルサイネージ]]による列車運行情報の提供を開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成29年度末までに全旅客駅へ導入「旅客案内情報サイネージ」を9駅で運用開始 |publisher=秩父鉄道 |date=2016-11-30 |url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2016/11/20161130_unyushirei.pdf |format=PDF |accessdate=2020-01-11 }}</ref>。
*[[2019年]]([[令和]]元年)
**ロゴマークを制定。
**寄居駅 - 三峰口駅間と[[東武東上線]]・[[東武越生線]]が乗降自由の「東武鉄道×秩父鉄道SAITAMAプラチナルート乗車券」を発売(7月20日 - 11月30日)<ref>{{PDFlink|[https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2019/07/190709_platinum.pdf 7月20日(土)から「東武鉄道×秩父鉄道 SAITAMA プラチナルート乗車券」 を発売します!〜乗車券発売に合わせ、スタンプラリーを実施]}} - 秩父鉄道(2019年7月9日)2019年12月29日閲覧</ref>。
*[[2020年]](令和2年)
**2月末をもって三ヶ尻線での[[石炭]]輸送廃止<ref name="日経20200327"/><ref>[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/200114/ 石炭貨物輸送終了のお知らせ] - 秩父鉄道 (2020年1月14日) 2020年3月28日閲覧</ref>。
**[[9月30日]]をもって三ヶ尻線熊谷貨物ターミナル駅 - [[三ヶ尻駅]]間の貨物輸送終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/wp-content/uploads/sites/7/2020/03/a331929e03de5e130d4e2fddc348c98a-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200327105113/https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/wp-content/uploads/sites/7/2020/03/a331929e03de5e130d4e2fddc348c98a-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=鉄道営業路線の一部廃止に関するお知らせ|publisher=秩父鉄道|date=2020-03-26|accessdate=2020-04-04|archivedate=2020-03-27}}</ref><ref name="日経20200327">{{Cite news|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO57346530X20C20A3L72000|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200331041827/https://r.nikkei.com/article/DGXMZO57346530X20C20A3L72000?s=4|title=秩父鉄道、貨物輸送用路線を一部廃止|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=日本経済新聞社|date=2020-03-27|accessdate=2020-04-04|archivedate=2020-03-31}}</ref>。
**[[12月31日]]をもって三ヶ尻線熊谷貨物ターミナル駅 - 三ヶ尻駅間を廃止<ref name="discontinued-line">{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/201116/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116094955/https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/201116/|title=三ヶ尻線 熊谷貨物ターミナル駅~三ヶ尻駅間の廃止期日について|date=2020-11-16|archivedate=2020-11-16|accessdate=2020-11-16|publisher=秩父鉄道|language=日本語}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[3月12日]]:旅客線全駅に[[乗車カード|交通系ICカード]]「[[PASMO]]」を導入し、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]に対応開始<ref name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127093258/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秩父鉄道、交通系ICカード「PASMO」を導入 〜2022年3月12日(土)よりサービス開始〜|publisher=秩父鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref>。
== 鉄道事業 ==
[[File:Chichibu Railway Linemap.svg|500px|thumb|right|路線図]]
[[File:秩父鉄道 貨物列車.JPG|thumb|寄居駅構内を三峰口方に向かって走行中の貨物列車]]
鉄道2路線を有し、旅客・貨物輸送を行っている。現在の秩父本線終点・三峰口駅から秩父市大滝地区(旧[[大滝村 (埼玉県)|大滝村]])へ路線を延長する計画であったが中止となっている。三峰口駅の[[引き上げ線]]はその名残であり、かつては[[鉱山]]の[[ホッパー (鉱業)|ホッパー]]までつながっていた。また、大滝村方面に[[ケーブルカー]]を建設する計画もあったという。
[[乗車カード|ICカード乗車券]]については[[2022年]][[3月12日]]に[[PASMO]]を導入し、PASMOのほか[[Suica]]なども利用できる<ref name="press20220127" /><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/20210127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127170626/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2021/01/20210127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ICカード乗車券システムを導入し、お客様の利便性の向上、感染症対策の向上を図ります|publisher=秩父鉄道|date=2021-01-27|accessdate=2021-01-28|archivedate=2021-01-27}}</ref>。
=== 営業中の路線 ===
* [[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]:[[羽生駅]] - [[三峰口駅]] 71.7km
* [[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]:[[武川駅]] - [[三ヶ尻駅]](貨物線) 3.9km
=== 廃止路線・区間 ===
* [[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]:宝登山駅(現・[[長瀞駅]]) - 荒川駅(旧・秩父駅) … 1915年12月29日廃止、国神駅 - 荒川駅間に付け替え。
* 秩父本線:国神駅(現・[[上長瀞駅]]) - 荒川駅(旧・秩父駅) … 1926年6月18日廃止。
* [[秩父鉄道武甲線|武甲線]]:[[影森駅]] - [[武甲駅]] 1.4km … 1984年2月1日廃止<ref>{{Cite news |title=五私鉄の旅客、貨物営業廃止を軽微認定 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1984-01-25 |page=1 }}</ref>。
* [[秩父鉄道三ヶ尻線|三ヶ尻線]]:三ヶ尻駅 - [[熊谷貨物ターミナル駅]](貨物線) 3.7km … 2020年12月31日廃止<ref name="discontinued-line" />。
=== 未成路線 ===
以下の路線の免許を得ていたが失効している<ref>森口正之著『鉄道未成線を歩く』([[JTB]]、2001年)p.187 の「大正・昭和期」における未成鉄道の失効路線一覧4。</ref>。[[白川村 (埼玉県)|白川村]]・大滝村とも現在は秩父市。
*普通鉄道 白川村三峰口 - 大滝村 2.4km 1927年12月5日取得<ref name=kanp>[{{NDLDC|2956743/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年12月7日]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>、1936年2月19日失効<ref>[{{NDLDC|2959217/4}} 「鉄道免許失効」『官報』1936年2月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(秩父本線の延長)
*鋼索鉄道([[ケーブルカー]]) 秩父郡大滝村地内 1.8km 1927年12月5日取得<ref name=kanp/>、1930年12月26日失効<ref>[{{NDLDC|2957666/12}} 「鉄道免許失効」『官報』1930年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
=== 運賃 ===
{{See|秩父鉄道秩父本線#運賃}}
=== 車両 ===
{{See also|秩父鉄道秩父本線#使用車両}}
地方私鉄にも斬新な高性能車が多数登場した1960年代までは、自社オリジナルの車両も製造していたが、近年は他社からの譲渡車両のみとなっている。譲渡元は複数の鉄道会社に及び、さながら[[保存鉄道]]的な色あいを帯びている。
==== 塗装 ====
[[電車]]は1960年代は茶色に白帯、1970年代は茶色のツートンカラーで、1980年代に入ると黄色を基調に窓下に茶(急行用車は紺)のラインを配したオリジナルデザインをタクシー・バス車両など、グループ全般にわたり導入したが、[[1990年代]]に入ると電車は白地に青を基調とした塗装が主流となっている。ただし、2007年の[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]開館記念イベントから2009年の設立110周年にかけ、1000系のうち5[[編成 (鉄道)|編成]]を[[国鉄101系電車|国鉄101系]]を模したカラーリング(オレンジバーミリオン [1011F(2010年廃車)・1003F(2011年より)]、スカイブルー [1001F]、カナリアイエロー [1012F]、ウグイス[[大和路線|関西線]]<!--国鉄時代の塗装なので「関西線」と表記しています-->バージョン [1009F])に、2編成を旧塗装(茶色ツートン[1002F]、黄色に茶帯[1007F])にそれぞれ変更している。2020年現在、5000系は都営地下鉄時代から引き続く青色のライン、6000系は白地に青色のライン(6003Fはリバイバル塗装として茶色)、7000系および7500系・7800系は緑色と黄色のグラデーションを基調としており、7500系の一部編成は全面ラッピングが施され運用されている。
[[電気機関車]]は標準色として青を基調に正面と車体裾に白帯を配する。この塗装はデキ107・108が[[松尾鉱業鉄道]]から持ち込んだもので、それ以前は茶色に車体裾に白帯を配するものであった。また、各種イベント等を通じて様々な塗色変更が施されており、2020年現在は標準色以外に、黒色に警戒色(デキ201)、青単色(デキ302)、黄単色(デキ502)、桃色に正面・裾白帯(デキ504)、緑に裾白帯(デキ505)、赤単色(デキ506)と、バリエーションに富んだ構成となっている。
==== 現有車両 ====
*電車 - 他鉄道事業者から譲渡された車両を使用している。
**[[秩父鉄道5000系電車|5000系]] - 元[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|6000形]]
**[[秩父鉄道6000系電車|6000系]] - 元[[西武鉄道]][[西武101系電車#新101系・301系|新101系]]
**[[秩父鉄道7000系電車|7000系]] - 元[[東京急行電鉄]][[東急8500系電車|8500系]]
**[[秩父鉄道7500系電車|7500系・7800系]] - 元東京急行電鉄[[東急8090系電車|8090系]]
<gallery widths="200">
Chichibu-railway Series5000-5203.jpg|5000系
Chichibu-Railway Series6000-6202.jpg|6000系
Chichibu Series7000-7001.jpg|7000系
Chichibu Series7500-7706.jpg|7500系
Chichibu-Railway Series7800-7903.jpg|7800系
</gallery>
*[[客車]]
**[[国鉄12系客車|12系]] - 元[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)12系。「[[SLパレオエクスプレス]]」用。
*[[蒸気機関車]]
**[[国鉄C58形蒸気機関車#C58 363|C58形363号機]] - 「パレオエクスプレス」牽引用。管理はJR東日本[[ぐんま車両センター]]に委託されている。
*電気機関車
**[[秩父鉄道デキ100形電気機関車|デキ100形]] - デキ107と108は元[[松尾鉱業鉄道]]ED50形
**[[秩父鉄道デキ200形電気機関車|デキ200形]]
**[[秩父鉄道デキ300形電気機関車|デキ300形]]
**[[秩父鉄道デキ500形電気機関車|デキ500形]]
*[[貨車]]
**[[秩父鉄道スム4000形貨車|スム4000形]]
**[[秩父鉄道トキ500形貨車|トキ500形]]
**[[秩父鉄道ヲキ・ヲキフ100形貨車|ヲキ・ヲキフ100形]]
**[[秩父鉄道ホキ1形貨車|ホキ1形]]
<gallery widths="200">
Chichibu-Railway Series12-passenger-cars.jpg|12系
JNR C58 363 20130616 001.jpg|C58形363号機
EL-Deki108.jpg|デキ100形
Chichibu-railway deki201.jpg|デキ200形
Chichibu Railway electric locomotive Deki 303.jpg|デキ300形
デキ500(507).jpg|デキ500形
Sumu4023.jpg|スム4000形
Toki500.jpg|トキ500形
Chichibu-Railway-Woki-133.jpg|ヲキ100形
Wokifu100 117.JPG|ヲキフ100形
</gallery>
==== 過去の車両 ====
*電車
**[[秩父鉄道100形電車|100形]]
**[[秩父鉄道300系電車|300系]]
**[[秩父鉄道500系電車|500系]]
**[[秩父鉄道800系電車|800系]] - 元[[小田急電鉄]][[小田急1800形電車|1800形]]
**[[秩父鉄道1000系電車|1000系]] - 元[[日本国有鉄道]](国鉄)→JR東日本[[国鉄101系電車|101系]]
**[[秩父鉄道2000系電車|2000系]] - 元東京急行電鉄[[東急7000系電車 (初代)|7000系]]
**[[秩父鉄道3000系電車|3000系]] - 元JR東日本[[国鉄165系電車|165系]]
<gallery widths="200">
Deha107.jpg|100形
Chichibu-300.jpg|300系
Chichibu-500.jpg|500系
Chichibu-800.jpg|800系
Chichibu Railway 1002 20080126.jpg|1000系
Chichibu-2002.jpg|2000系
Chichibu-railway 3000shibazakura.jpg|3000系
</gallery>
*電気機関車
**[[秩父鉄道デキ1形電気機関車|デキ1形]]
**[[阪和電気鉄道ロコ1000形電気機関車|ED38形]] - 元[[阪和電気鉄道]]ロコ1000形→国鉄ED38形
*ディーゼル機関車
**[[秩父鉄道D200形ディーゼル機関車|D200形]]
*貨車
**[[秩父鉄道テキ100形貨車|テキ100形]]
**[[秩父鉄道ワキ800形貨車|ワキ800形]]
**[[秩父鉄道ワム700形貨車|ワム700形]] - [[国鉄ワム90000形貨車]]と同型
**[[秩父鉄道ワフ30形貨車|ワフ30形]]
**[[秩父鉄道ワフ40形貨車|ワフ40形]]
**[[秩父鉄道ワフ50形貨車|ワフ50形]]
**[[秩父鉄道ヨ10形貨車|ヨ10形]]
**[[秩父鉄道ホキ10形貨車|ホキ10形]]
**[[秩父鉄道ホキ1000形貨車|ホキ1000形]]
なお、かつて「パレオエクスプレス」で使用されていた旧形客車は秩父鉄道がJR東日本から借り入れたものであり、秩父鉄道所有の車両ではない。
==== 車両数の変遷 ====
{| class="wikitable" border="1" style="font-size:75%; text-align:center; width:100%;"
|-
!年度 \ 形式名!!100形!!300系!!500系!!800系!!1000系!!2000系!!3000系!!5000系!!6000系!!7000系!!7500系!!7800系!!12系客車!!計<br>(冷房車)!!ヲキ・ヲキフ<br>100形
|-
|1982年(昭和57年)<br>-1985年(昭和60年)||20||6||18||20||||||||||||||||||||64||180
|-
|1986年(昭和61年)||20||6||18||20||6||||||||||||||||||70||180
|-
|1987年(昭和62年)||10||6||18||20||21||||||||||||||||||75||180
|-
|1988年(昭和63年)||6||6||18||20||21||||||||||||||||||71||162
|-
|1989年(平成元年)||||6||18||16||24||||||||||||||||||64||162
|-
|1990年(平成2年)||||6||18||||36||||||||||||||||||60||162
|-
|1991年(平成3年)||||6||18||||36||||||||||||||||||60||162
|-
|1992年(平成4年)||||6||||||36||16||3||||||||||||||61(3)||162
|-
|1993年(平成5年)||||6||||||36||16||9||||||||||||||67(9)||162
|-
|1994年(平成6年)||||6||||||36||16||9||||||||||||||67(9)||162
|-
|1995年(平成7年)||||6||||||36||16||9||||||||||||||67(13)||162
|-
|1996年(平成8年)||||6||||||36||16||9||||||||||||||67(19)||162
|-
|1997年(平成9年)||||||||||36||16||9||||||||||||||61(27)||162
|-
|1998年(平成10年)||||||||||36||16||9||||||||||||||61(31)||162
|-
|1999年(平成11年)||||||||||36||16||9||||||||||||||61(33)||162
|-
|2000年(平成12年)<br>-2005年(平成17年)||||||||||36||||9||12||||||||||4||61(49)||138
|-
|2006年(平成18年)||||||||||36||||6||12||3||||||||4||61(49)||138
|-
|2007年(平成19年)||||||||||36||||||12||9||||||||4||61(49)||138
|-
|2008年(平成20年)||||||||||36||||||12||9||||||||4||61(49)||138
|-
|2009年(平成21年)||||||||||30||||||12||9||6||||||4||61(51)||138
|-
|2010年(平成22年)||||||||||27||||||12||9||6||3||||4||61(52)||128
|-
|2011年(平成23年)||||||||||21||||||12||9||6||9||||4||61(54)||128
|-
|2013年(平成25年)||||||||||9||||||9||9||6||21||2||4||60(57)||128
|-
|}
*1982・83年は1月1日時点、1984年以降は4月1日時点。
*『私鉄車両編成表』各年版(ジェー・アール・アール)
=== 保存車両 ===
以下の車両が保存されている。
*[[秩父鉄道100形電車|デハ102]] - [[埼玉県]][[長瀞町]]・長瀞オートキャンプ場
*[[秩父鉄道100形電車|クハニ]]{{要出典範囲|22|date=2010年4月}} - 埼玉県[[熊谷市]]・スナック
*[[秩父鉄道100形電車|クハニ20形]] - 埼玉県長瀞町・長瀞オートキャンプ場
*[[秩父鉄道500系電車|クハ602]] - 埼玉県熊谷市・秩父鉄道広瀬川原駅(留置、後に解体)
<!--*[[秩父鉄道800形電車|クハ859]] - 埼玉県[[行田市]]・荒木児童遊園 2007年7月解体 -->
*[[秩父鉄道2000系電車|2000系(車番不明)]] - 埼玉県[[秩父市]]・資材置場
*[[秩父鉄道デキ1形電気機関車|デキ3]] - 埼玉県熊谷市・運送会社敷地
*[[秩父鉄道デキ1形電気機関車|デキ4]] - 埼玉県熊谷市・運送会社敷地
*[[秩父鉄道デキ1形電気機関車|デキ5]] - 埼玉県秩父市・資材置場
*[[秩父鉄道デキ100形電気機関車|デキ101]] - 埼玉県熊谷市・秩父鉄道[[広瀬川原駅]](留置)
他にも貨車が多数売却されており、その数は把握できない。各形式の項目も参照。
=== ロケ撮影など ===
{{出典の明記|section=1|date=2010年12月}}
鉄道線は、[[映画]]、[[テレビドラマ]]、[[コマーシャルメッセージ|CM]]撮影などで使用されることが多い。[[広瀬川原車両基地]]構内や熊谷駅構内、三峰口駅のプラットホームなどが[[ロケーション撮影]]に使用されている。
<!-- 他のメディア版があるものは、テレビドラマでは使われたが、映画では使われていないなどがあるので(ドラマ)(映画)等と明記。-->
*[[やしがにのウインク]]
*[[ブラタモリ]]
*[[西村京太郎トラベルミステリー]]・[[鉄道捜査官]]
*[[ぶらり途中下車の旅]]・[[じゅん散歩]]など
*[[ロンドンハーツ]]:[[SLパレオエクスプレス]]を「ラブトレイン」で使用
*[[東映]]の[[特撮]]ヒーロー番組には[[1970年代]]後半以降、多く登場している。
*[[広瀬川原車両基地|広瀬川原車庫]]
**[[砂の器]](テレビドラマ)
**[[九死に一生スペシャル]]:再現ドラマで使用
**[[新幹線大爆破]](映画):ただし、設定は[[北海道]][[夕張市|夕張]]となっている。
**[[スーパー戦隊シリーズ]]
**[[仮面ライダーシリーズ]]
*[[武州荒木駅]] - [[鴉 (バンド)|鴉]]『列車』([[ミュージック・ビデオ|PV]])
*[[行田市駅]]
**[[ローソン]] (CM) :「行田駅」として撮影
**[[陸王 (小説)|陸王]]
**ふるカフェ系 ハルさんの休日
*[[熊谷駅]] - [[感染列島]](映画)
*[[上長瀞駅]]
**[[恋するハニカミ]]、[[大塚愛]]『[[金魚花火_(曲)|金魚花火]]』(PV)
**[[烈車戦隊トッキュウジャー]]第5話:シャドーラインに侵略されているときは「腹ペコ駅」で、怪人を倒した後は「大盛駅」に看板が変わっていた。
*[[野上駅]] - [[天体観測 (テレビドラマ)|天体観測]]
*[[皆野駅]] - [[黄泉がえり]](映画)、[[ドラッグストア・ガール]](映画)
*[[秩父駅]]
**[[Gメン'75]]第337話
**[[ロボット8ちゃん]]第9話
*[[武州中川駅]] - [[ザ・スーパーガール]]第34話
*[[武州日野駅]] - [[時効警察]]
*[[三峰口駅]] - [[トワイライト ささらさや]]:「ささら」駅として登場
== 索道事業(廃止) ==
*[[三峰ロープウェイ]] : 三峰山頂駅 - 大輪駅 1898m(2006年5月19日休止、2007年12月1日廃止)
== 関連会社 ==
*[[宝登興業]] - [[宝登山ロープウェイ]]運営を中核とした[[宝登山]]観光事業
*[[秩父鉄道観光バス]] - 観光バス(以前は路線バスも営業していた)
*秩鉄商事 - 卸・販売・熊谷駅南口での[[コンビニエンスストア]]([[セブン-イレブン]])経営。
*秩父建設 - 建設・電気工事
*長瀞不動寺奉賛会(非連結子会社)
*秩父観光(非連結子会社)
=== 過去の関連会社 ===
*秩鉄タクシー - 2020年3月31日を以て解散<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/wp-content/uploads/sites/7/2020/04/4f620a012ca363e775c7ff3cfca1a627-3.pdf|title=秩鉄タクシー株式会社の解散及び清算手続き開始について|accessdate=2020-04-01|publisher=秩父鉄道}}</ref>(清算結了は同年6月29日)。タクシー事業者。熊谷地区の秩鉄ハイヤーが秩父地区の(旧)秩鉄タクシーを吸収合併し、[[商号]]変更。
**秩父地区は撤退済み(詳細不明)
**熊谷地区は2018年9月末で熊谷構内タクシーに事業移管して廃業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/wp-content/uploads/sites/7/2019/06/d5472083e614fb9506058e77336dd784.pdf|title=第196期 事業報告書|accessdate=2020-01-25|publisher=秩父鉄道}}</ref>。
* 秩父観光興業 - 2023年10月1日付で秩父鉄道観光バスに合併され解散<ref>[https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=1030001085012 秩父観光興業株式会社の情報|国税庁法人番号公表サイト]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Chichibu Railway}}
*[[東武鉄道]]
**[[東武熊谷線|熊谷線]]
*[[西武観光バス]]
*[[秩父地方]]
*[[三岐鉄道]] - 秩父鉄道と同じく太平洋セメントが筆頭株主である鉄道会社。
== 外部リンク ==
* [https://www.chichibu-railway.co.jp/ 秩父鉄道 公式サイト]
* {{twitter|ctk_info|秩父鉄道運行情報(公式)}}
* {{twitter|paleo_palena|秩父鉄道パレオ&パレナ(公式)}}
* {{instagram|chichibu_railway}}
* {{facebook|chichibu.railway}}
* {{YouTube|c=UCXveVmIO5_zpKQzL8bmfsdA}}
{{鉄道趣味顕賞選定一覧}}
{{Rail-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちちふてつとう}}
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:秩父鉄道|*]]
[[Category:熊谷市の企業]]
[[Category:東証スタンダード上場企業]]
[[Category:1963年上場の企業]]
[[Category:埼玉県の交通]]
[[Category:グローリア賞]]
[[Category:1899年設立の企業]]
[[Category:鉱山鉄道]]
|
2003-09-29T01:00:22Z
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電磁石同期電動機
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電磁石同期電動機(でんじしゃくどうきでんどうき)は、回転子(界磁)に電磁石を用いた同期電動機である。
同期電動機の位相特性曲線は、供給電圧と負荷を一定としたときの、界磁電流と電機子電流の関係を表したものである。V字形になるためV曲線とも呼ばれる。
電機子電流が最低の点が力率1であり、そこから、界磁電流を多くすると力率が進み、少なくすると力率が遅れとなる。
また、負荷が大きくなるにしたがって、力率が1となる点の界磁電流が大きくなり、電機子電流が大きくなる方向へ曲線が移動する。
制動巻線を利用し、かご形三相誘導電動機として始動用回路を使用して始動し、同期速度付近で界磁を励磁し同期運転させる。
回転軸直結の始動電動機で加速し、同期速度付近で界磁・電機子を電源に接続し同期運転させる。
始動電動機としては、主電動機より極数の少ない三相誘導電動機・直流電動機などが用いられる。
電動機の停止中から界磁を励磁しておき可変電圧可変周波数制御電源で同期始動する。
電源としては、他の同期発電機、インバータなどが用いられる。
回転子に三相分布巻線形を用いて可変周波数制御の三相交流電源で励磁する。固定子の電源周波数を:f1、回転子の電源周波数を:f2、回転子の回転数を:f、とすると
となる。
可変周波数制御電源の容量は小さくなるが、回転子の構造が複雑となる。大容量の可変速揚水発電用のポンプ水車用として用いられる。
|
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"text": "また、負荷が大きくなるにしたがって、力率が1となる点の界磁電流が大きくなり、電機子電流が大きくなる方向へ曲線が移動する。",
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"text": "制動巻線を利用し、かご形三相誘導電動機として始動用回路を使用して始動し、同期速度付近で界磁を励磁し同期運転させる。",
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"text": "回転軸直結の始動電動機で加速し、同期速度付近で界磁・電機子を電源に接続し同期運転させる。",
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"text": "始動電動機としては、主電動機より極数の少ない三相誘導電動機・直流電動機などが用いられる。",
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"text": "電動機の停止中から界磁を励磁しておき可変電圧可変周波数制御電源で同期始動する。",
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"text": "電源としては、他の同期発電機、インバータなどが用いられる。",
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"text": "可変周波数制御電源の容量は小さくなるが、回転子の構造が複雑となる。大容量の可変速揚水発電用のポンプ水車用として用いられる。",
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] |
電磁石同期電動機(でんじしゃくどうきでんどうき)は、回転子(界磁)に電磁石を用いた同期電動機である。
|
'''電磁石同期電動機'''(でんじしゃくどうきでんどうき)は、[[回転子]](界磁)に[[電磁石]]を用いた[[同期電動機]]である。
== 特徴 ==
* 大容量のものが製作可能である。
* 界磁[[電流]]を変化させることによって、[[力率]]を変化させることができる。
* 界磁励磁のための[[電源回路]]と付帯装置が必要で高価である。
== 位相特性曲線(V曲線)==
同期電動機の位相特性曲線は、供給電圧と負荷を一定としたときの、界磁電流と電機子電流の関係を表したものである。V字形になるためV曲線とも呼ばれる。
電機子電流が最低の点が力率1であり、そこから、界磁電流を多くすると力率が進み、少なくすると力率が遅れとなる。
また、負荷が大きくなるにしたがって、力率が1となる点の界磁電流が大きくなり、電機子電流が大きくなる方向へ曲線が移動する。
== 始動方式 ==
=== 自己始動方式 ===
制動巻線を利用し、[[かご形三相誘導電動機]]として始動用回路を使用して始動し、同期[[速度]]付近で界磁を励磁し同期運転させる。
=== 始動電動機方式 ===
回転軸直結の始動電動機で加速し、同期速度付近で界磁・電機子を電源に接続し同期運転させる。
始動電動機としては、主電動機より極数の少ない[[三相誘導電動機]]・[[直流電動機]]などが用いられる。
== 始動と速度制御を兼ねる方式 ==
=== 可変電圧可変周波数制御電源 ===
電動機の停止中から界磁を励磁しておき[[可変電圧可変周波数制御]]電源で同期始動する。
電源としては、他の[[同期発電機]]、[[インバータ]]などが用いられる。
=== 超同期セルビウス方式(二次励磁方式)===
[[回転子]]に三相分布巻線形を用いて可変周波数制御の[[三相交流]]電源で励磁する。[[固定子]]の電源周波数を:f1、回転子の電源周波数を:f2、回転子の回転数を:f、とすると
: f=f1±f2(磁界の回転方向が、逆方向の場合+・同方向の場合-)
となる。
可変周波数制御電源の容量は小さくなるが、回転子の構造が複雑となる。大容量の可変速[[揚水発電]]用のポンプ[[発電用水車|水車]]用として用いられる。
== 関連項目 ==
* [[電磁石同期発電機]]
* [[永久磁石同期電動機]]
* [[揚水発電#電動機の始動方式による分類]]
[[category:電動機|てんしやくとうきてんとうき]]
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18,680 |
電圧源
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電圧源(でんあつげん)は、内部抵抗が小さく、定電圧電気回路として動作するものである。短絡時に大電流が流れるため、その保安装置が必要である。
電源の起電力を ES 、内部抵抗を RS 、負荷を R 、かかる電圧を V0 、電流を I とすると、
ここで、 R >> RS とすると、
V0 ≒ ES
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{{出典の明記|date=2023年1月5日 (木) 12:20 (UTC)}}
[[画像:Voltage source.png|frame|内部抵抗を含む電圧源]]
'''電圧源'''(でんあつげん)は、内部[[電気抵抗|抵抗]]が小さく、定電圧[[電気回路]]として動作するものである。短絡時に大電流が流れるため、その[[保安装置]]が必要である。
電源の[[起電力]]を ''E<sub>S</sub>'' 、内部抵抗を ''R<sub>S</sub>'' 、負荷を ''R'' 、かかる[[電圧]]を ''V<sub>0</sub>'' 、[[電流]]を ''I'' とすると、
:<math> I = \frac{E_S}{R_S + R}</math>
:<math> V_0 = IR = \frac{R}{R_S + R}E_S</math>
ここで、 ''R'' >> ''R<sub>S</sub>'' とすると、
''V<sub>0</sub>'' ≒ ''E<sub>S</sub>''
==関連項目==
*[[電流源]]
*[[電源回路]]
*[[電気回路]]
*[[直流回路]]
[[category:電気回路|てんあつけん]]
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18,681 |
電流源
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電流源(でんりゅうげん)は、内部抵抗が大きく(理想状態は内部抵抗無限大)、定電流電気回路として動作するものである。負荷変動によって電圧が大きく変動する。
電源の電流を IS 、内部コンダクタンスを GS 、負荷のコンダクタンスを G 、かかる電圧を V0 、電流を I とすると、
G >> GS とすると
また、
であるから、負荷変動により大きく出力電圧が変化する。
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{{出典の明記|date=2023年1月5日 (木) 12:20 (UTC)}}
[[画像:Current source.png|frame|内部抵抗を含む電流源]]
'''電流源'''(でんりゅうげん)は、内部[[電気抵抗|抵抗]]が大きく(理想状態は内部抵抗無限大)、定電流[[電気回路]]として動作するものである。負荷変動によって[[電圧]]が大きく変動する。
電源の[[電流]]を ''I<sub>S</sub>'' 、内部[[コンダクタンス]]を ''G<sub>S</sub>'' 、負荷のコンダクタンスを ''G'' 、かかる電圧を ''V<sub>0</sub>'' 、[[電流]]を ''I'' とすると、
:<math> I_S = \, V_0 (G_S + G) = V_0 G_S + I</math>
''G'' >> ''G<sub>S</sub>'' とすると
:''I<sub>S</sub>'' ≒ ''I''
また、
:<math> V_0 = \frac{I_S}{G_S + G}</math>
であるから、負荷変動により大きく出力電圧が変化する。
==関連項目==
*[[電圧源]]
*[[電源回路]]
*[[電気回路]]
*[[直流回路]]
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18,682 |
エル特急
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エル特急(エルとっきゅう)とは、かつて使われていた昼行で運行本数の多いJR在来線の特急列車の愛称である。特急料金は特急と同額。
1972年(昭和47年)、日本国有鉄道(国鉄)は山陽新幹線の建設遅延や国会の混乱による運賃値上げ案が審議未了で承認に至らなかった事を背景として減収を補う営業収入確保の必要性が高まり、1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会に向けて増備された車両を用いた特急の増発や当時世界最大級の新座席予約システム「マルス105」を用いた販売力の増強による新商品開発を行う事となりイギリス国鉄の「インターシティーサービス」(en)にヒントを得て「120分間隔以内の等時隔のネットダイヤ」「自由席車両を用意する」「始発駅を0分・30分発など発車時刻を極力統一する」「途中停車駅を統一または数パターンに揃える」といった商品特性で新たなイメージ戦略を図るべく開発された。
「エル特急」の名称が初めて登場したのは、国鉄時代の1972年10月2日のダイヤ改正である。このダイヤ改正では白新線・羽越本線の電化が完了し、米原駅 - 青森駅間のいわゆる日本海縦貫線の全線電化が実現した。同年3月15日のダイヤ改正における山陽新幹線の新大阪駅 - 岡山駅間と合わせて全国特急網が完成したことを機に、昼間毎時同分に発着する9種(関東地区6種、山陽地区3種)の在来線特急にニックネームとして冠したのが始まりである。ただし、この年の10月号の日本交通公社発行時刻表には「エル特急」の記載はなく、11月号からになった。
名称の「L」には特に意味はなく、Limited Express(特急) やLiner(直行便) 、あるいはLucky, Lovely, Light の頭文字を取った物、「Liner」に人々に可愛がってもらえる「Little」の意味を合わせた命名とされており、「数(かず)自慢、かっきり発車、自由席」をコンセプトとした。またシンボルマークは新幹線と同等のサービスを在来線で実現させる事をイメージしてアルファベットの「L」を0系新幹線のシルエットに似せた形とした。
まだ一般的に都市間輸送は急行列車が主力をなし、数少ない特急は全席指定が原則だった時代に特急のダイヤをパターン化して自由席を設置したり、更に自由席特急券つき回数券を販売したりして、特急大衆化に努めようという画期的な試みであり、毎時ゼロ分など等間隔の始発駅出発や自由席の選択可能な列車を一日複数本運転する形として運行。国鉄らしからぬソフトなネーミングも受け、その呼称をつけた特急はその後も増加し、例えばゴーサントオとのちに称された1978年(昭和53年)10月2日実施のダイヤ改正では25種、最盛期の昭和50年代後半には30種以上を数えるまでに成長し新幹線に並ぶ利益率を誇った。
元々「エル特急」という呼称自体に明確な定義がなかった事に加え、その後一部例外を除いてほぼすべての特急に自由席が設けられたり、全国的に急行が大幅に削減されて特急に編入されたり、新幹線の延伸により並行在来線の特急が廃止となるケースが増えたりする等様々な影響により、徐々に本数の多い特急にあえてこの呼称を与える意義が薄れてゆく。利用者からも「普通の特急とエル特急は料金も異なるのか」といった疑問も寄せられ、列車種別として区別すること自体への否定的見解も多くなっていた。
特に、1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化後は各会社間でその呼称に対する解釈の食い違いが目立った。例として「白山」の様に運行終了に近い1990年代には1往復しかないのにエル特急に分類されたり、速達列車を強調するための「スーパー○○」の本数が多いのにもかかわらずエル特急でなくなったりするケースも出てきた。また関西空港連絡特急「はるか」は1998年(平成10年)12月以降に自由席が設定されたが、運行本数が多いにも関わらずエル特急指定をされていない。
こうした風潮の中で東日本旅客鉄道(JR東日本)では「特急」との区別が分かりにくいということで、2002年(平成14年)12月1日のダイヤ改正により東海旅客鉄道(JR東海)から乗り入れる「しなの」を除いて自社内で運行しているすべてのエル特急の呼称を廃止し「特急」に改称した。
九州旅客鉄道(JR九州)では新しく設定された列車であっても、積極的にエル特急の呼称を使用していたが、これは系統分割・愛称の変更によるものであった。そのため基本的には旧国鉄時代に新幹線接続電車特急としてエル特急指定を受けた列車は引続き運転されていたが、JR時刻表・JTB時刻表の2008年7月号よりその呼称を廃止し、案内上でも使用を停止した。同様に西日本旅客鉄道(JR西日本)でも「しらさぎ」およびJR東海から乗り入れる「しなの」「ひだ」を除きJR・JTB両時刻表の2010年3月号からエル特急表記が消え、四国旅客鉄道(JR四国)でも2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正でエル特急の呼称を廃止した。
北海道旅客鉄道(JR北海道)では道内完結の列車について、「特別急行 = 気動車特急・長距離・基本的にグリーン車連結・指定席中心(自由席が少ない)」「エル特急 = 電車特急・短中距離・自由席中心(指定席はuシート車1両のみ)」という区別が守られ、エル特急は特急列車の中でも下位種別的な意味合いで使われてきた。しかし、2017年(平成29年)3月4日のダイヤ改正による道北方面特急列車再編により、グリーン車を連結した電車特急である「ライラック」の運転が始まることにあわせ、エル特急の名称を冠していた「スーパーカムイ」「すずらん」の両列車からエル特急の名称が外され(併せて「スーパーカムイ」は「カムイ」「ライラック」に名称変更)、エル特急の名称を廃止した。
最後に残った東海旅客鉄道(JR東海)も東日本旅客鉄道(JR東日本)・西日本旅客鉄道(JR西日本)に乗り入れる列車を含め、「エル特急」の呼称を使用し続けていたが、2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正をもって廃止、これにより45年続いたエル特急の名称は完全に消えることになった。JR東海での廃止に関しては、1972年(昭和47年)当時は国鉄旅客局営業課長であり、エル特急創設の準備に携わった須田寬相談役が「(特急大衆化の)目的は達成された」との理由で廃止を提案している。
2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正で廃止時点のエル特急は「ひだ」を除いて電車特急(「しらさぎ」・「しなの」)であった。国鉄時代から廃止にいたるまでエル特急の存在した全時代を通して、エル特急はもっぱら電車特急であって、気動車特急でエル特急を名乗る列車は「ひだ」などがあったものの少数派にとどまった。なお、客車特急でエル特急を名乗った列車も一部、臨時の「有明」や「踊り子」などに存在した。
国鉄時代の気動車エル特急のうち、全列車気動車であった例は伯備線が全線電化される1982年(昭和57年)7月1日以前にキハ181系気動車で運行された特急「やくも」および1986年(昭和61年)11月1日ダイヤ改正で指定された特急「しおかぜ」のみである。他には特急「しなの」が中央西線電化後も2年間はキハ181系が2往復のみ残ったケース、「にちりん」のうち、博多駅 - 西鹿児島駅間直通系統の列車1往復が日豊本線全線電化1年後の1980年までキハ80系気動車で存在していたケースのみであった。ただし、「にちりん」のうち、宮崎以北のみの系統は485系で運転されていた。
そのため、1982年(昭和57年)7月1日の「やくも」381系化から、1986年(昭和61年)11月1日のダイヤ改正に伴う「しおかぜ」のエル特急化までは、気動車のエル特急は存在していなかった。
また、1996年(平成8年)3月30日から1997年(平成9年)3月22日の秋田新幹線改軌工事に伴う田沢湖線運休時に1年間だけ暫定運転されたキハ110系気動車の「秋田リレー」がある。この列車群は従前の「たざわ」の代替であることから「エル特急」として設定されたが、結果的にJR東日本が新設した最後の「エル特急」となっていると共に、JR東日本が気動車で設定した唯一無二の定期特急ともなった。
太字はエル特急指定解除後も現在まで運転されている列車。エル特急指定解除後もヘッドマークに「L」マークを残したまま運行されている列車も存在する(現在JR西日本381系のみ)。
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"title": "かつてエル特急指定をされていた列車"
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エル特急(エルとっきゅう)とは、かつて使われていた昼行で運行本数の多いJR在来線の特急列車の愛称である。特急料金は特急と同額。
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{{複数の問題
|脚注=2023年1月26日 (木) 01:22 (UTC)
|参照方法=2023年1月26日 (木) 01:22 (UTC)
|一次資料=2023年1月26日 (木) 01:22 (UTC)
}}
[[ファイル:Name Board of L-LimitedExpress Lilac.jpg|thumb|230px|エル特急の方向幕上の表示の例<br>(JR北海道 [[国鉄781系電車|781系]])]]
'''エル特急'''(エルとっきゅう)とは、かつて使われていた昼行で運行本数の多い[[JR]][[在来線]]の[[特別急行列車|特急列車]]の[[愛称]]である。[[特別急行券|特急料金]]は特急と同額。
== 概要 ==
1972年(昭和47年)、[[日本国有鉄道]](国鉄)は山陽新幹線の建設遅延や国会の混乱による運賃値上げ案が審議未了で承認に至らなかった事を背景として減収を補う営業収入確保の必要性が高まり、1970年(昭和45年)に開催された[[日本万国博覧会]]に向けて増備された車両を用いた特急の増発や当時世界最大級の新座席予約システム「[[マルス (システム)#マルス100・200系統|マルス105]]」を用いた販売力の増強による新商品開発を行う事となりイギリス国鉄の「インターシティーサービス」([[:en:InterCity (British Rail)|en]])に範を取り「120分間隔以内の等時隔のネットダイヤ」「自由席車両を用意する」「始発駅を0分・30分発など発車時刻を極力統一する」「途中停車駅を統一または数パターンに揃える」といった商品特性で新たなイメージ戦略を図るべく開発された<ref name="ttsuda">旅と鉄道2018年増刊5月号ありがとうエル特急45年の軌跡のすべて - 天夢人</ref>。
「エル特急」の名称が初めて登場したのは、国鉄時代の[[1972年]][[10月2日]]の[[1961年-1975年の国鉄ダイヤ改正#1972年(昭和47年)|ダイヤ改正]]である。このダイヤ改正では[[白新線]]・[[羽越本線]]の[[鉄道の電化|電化]]が完了し、[[米原駅]] - [[青森駅]]間のいわゆる[[日本海縦貫線]]<!-- <ref group="注釈">このダイヤ改正当時は、[[東海道本線]]の[[大阪駅]] - [[山科駅]] - 米原駅間、[[北陸本線]]の米原駅 - [[近江塩津駅]] - [[直江津駅]]間、[[信越本線]]の直江津駅 - [[新津駅]] - [[新潟駅]]間、白新線の新潟駅 - [[新発田駅]]間、羽越本線の新津駅 - 新発田駅 - [[秋田駅]]間、[[奥羽本線]]の秋田駅 - 青森駅間の総称であった。[[湖西線]]の山科駅 - [[近江塩津駅]]間は[[1974年]](昭和49年)[[7月20日]]に開業。また、北陸本線は2015年(平成27年)3月14日に金沢駅 - 直江津駅間がJRから経営分離され、金沢駅 - [[倶利伽羅駅]]間が[[IRいしかわ鉄道]]([[IRいしかわ鉄道線]])、倶利伽羅駅 - [[市振駅]]間が[[あいの風とやま鉄道]]([[あいの風とやま鉄道線]])、市振駅 - 直江津駅間が[[えちごトキめき鉄道]]([[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]])となっている。</ref> -->の全線電化が実現した。同年[[3月15日]]の[[1972年3月15日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]における[[山陽新幹線]]の[[新大阪駅]] - [[岡山駅]]間と合わせて全国特急網が完成したことを機に、昼間毎時同分に発着する9種(関東地区6種、山陽地区3種)の在来線特急にニックネームとして冠したのが始まりである。ただし、この年の10月号の[[JTB|日本交通公社]]発行[[時刻表]]には「エル特急」の記載はなく、11月号からになった。
名称の「L」には特に意味はなく{{Refnest|group="注釈"|“(「エル特急」の「エル」は)特別の意味を持つ言葉の頭の文字をとったものではありませんが、新しい感覚で『快適な列車』のイメージを、これから作り出してゆこうという狙いをもって名付けたものです”<ref>『国鉄線(1972年10月号)』、旧[[日本国有鉄道]]営業・輸送業務誌(現・[[交通新聞社]])</ref>。}}、Limited Express(特急) やLiner([[直行便]]) 、あるいはLucky, Lovely, Light の頭文字を取った物、「Liner」に人々に可愛がってもらえる「Little」の意味を合わせた命名とされており、「数(かず)自慢、かっきり発車、自由席」をコンセプトとした<ref group="新聞" name="chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268" /><ref name="trafficnews.jp/post/79287/2" />。またシンボルマークは新幹線と同等のサービスを在来線で実現させる事をイメージしてアルファベットの「L」を[[新幹線0系電車|0系新幹線]]のシルエットに似せた形とした<ref name="ttsuda"/>。
まだ一般的に都市間輸送は[[急行列車]]が主力をなし、数少ない特急は[[座席指定席|全席指定]]<ref group="注釈">21世紀の現在と異なり当時はインターネットがなく電話予約についても新幹線など一部列車に限られており、特急券の購入にはターミナル駅のみどりの窓口まで行かなければならなかった</ref>が原則だった時代に特急のダイヤをパターン化して[[自由席]]を設置したり、更に自由席特急券つき回数券を販売したりして、特急大衆化に努めようという画期的な試みであり、毎時ゼロ分など等間隔の始発駅出発や自由席の選択可能な列車を一日複数本運転する形として運行<ref group="新聞" name="chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268" />。国鉄らしからぬソフトなネーミングも受け、その呼称をつけた特急はその後も増加し、例えば[[ゴーサントオ]]とのちに称された[[1978年]](昭和53年)[[10月2日]]実施のダイヤ改正では25種、最盛期の昭和50年代後半には30種以上を数えるまでに成長し新幹線に並ぶ利益率を誇った<ref group="新聞" name="chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268" />。
元々「エル特急」という呼称自体に明確な定義がなかった事に加え、その後一部例外を除いてほぼすべての特急に自由席が設けられたり、全国的に急行が大幅に削減されて特急に編入されたり、新幹線の延伸により並行在来線の特急が廃止となるケースが増えたりする等様々な影響により、徐々に本数の多い特急にあえてこの呼称を与える意義が薄れてゆく。利用者からも「普通の特急とエル特急は料金も異なるのか」といった疑問も寄せられ、列車種別として区別すること自体への否定的見解も多くなっていた。
特に、[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]の[[国鉄分割民営化]]後は各会社間でその呼称に対する解釈の食い違いが目立った。例として「[[あさま|白山]]」の様に運行終了に近い[[1990年代]]には1往復しかないのにエル特急に分類されたり<ref group="注釈">ただし「白山」の事例は上野駅 - 長野駅間を運行するエル特急「あさま」の一員という位置づけと見ることも出来るため、このような形でのエル特急指定は国鉄時代にも見られた。例として[[1978年]](昭和53年)[[10月2日]]実施のダイヤ改正で指定された[[つばさ (列車)#在来線特急「つばさ」|「つばさ」「やまばと」]]がある。</ref>、速達列車を強調するための「スーパー○○」の本数が多いのにもかかわらずエル特急でなくなったりするケースも出てきた。また関西[[空港連絡鉄道|空港連絡]]特急「[[はるか (列車)|はるか]]」は[[1998年]](平成10年)[[12月]]以降に自由席が設定されたが、運行本数が多いにも関わらずエル特急指定をされていない。
こうした風潮の中で[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)では「特急」との区別が分かりにくいということで、[[2002年]]([[平成]]14年)[[12月1日]]の[[2001年以降のJRダイヤ改正|ダイヤ改正]]により[[東海旅客鉄道]](JR東海)から乗り入れる「[[しなの (列車)|しなの]]」を除いて自社内で運行しているすべてのエル特急の呼称を廃止し「特急」に改称した<ref group="新聞" name="墨滴" />。
[[九州旅客鉄道]](JR九州)では新しく設定された列車であっても、積極的にエル特急の呼称を使用していたが、これは系統分割・愛称の変更によるものであった。そのため基本的には旧国鉄時代に新幹線接続電車特急としてエル特急指定を受けた列車は引続き運転されていたが、[[JR時刻表]]・[[JTB時刻表]]の2008年7月号よりその呼称を廃止し、案内上でも使用を停止した<ref group="新聞" name="墨滴" /><!--但し、JR九州の公式な発表はない。-->。同様に[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)でも「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」およびJR東海から乗り入れる「しなの」「[[ひだ (列車)|ひだ]]」を除きJR・JTB両時刻表の2010年3月号からエル特急表記が消え、[[四国旅客鉄道]](JR四国)でも2011年(平成23年)3月12日のダイヤ改正でエル特急の呼称を廃止した<!-- 。但し、JR四国の公式な発表はない<ref group="報道" name="jr-shikoku.co.jp/03_news/press/10-12-17/01" /> -->。
[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)では道内完結の列車について、「特別急行 = 気動車特急・長距離・基本的に[[グリーン車]]連結・指定席中心(自由席が少ない)」「エル特急 = 電車特急・短中距離・自由席中心(指定席は[[uシート]]車1両のみ)」という区別が守られ、エル特急は特急列車の中でも下位種別的な意味合いで使われてきた。しかし、[[2017年]](平成29年)[[3月4日]]のダイヤ改正による道北方面特急列車再編により、グリーン車を連結した電車特急である「ライラック」の運転が始まることにあわせ、エル特急の名称を冠していた「[[カムイ (列車)|スーパーカムイ]]」「[[すずらん (列車)|すずらん]]」の両列車からエル特急の名称が外され(併せて「スーパーカムイ」は「カムイ」「ライラック」に名称変更)、エル特急の名称を廃止した<ref group="報道" name="jrhokkaido.co.jp/press/2016/161216-3" />。
最後に残った[[東海旅客鉄道]](JR東海)も[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)に乗り入れる列車を含め、「エル特急」の呼称を使用し続けていたが、2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正をもって廃止、これにより45年続いたエル特急の名称は完全に消えることになった<ref group="新聞" name="mainichi.jp/articles/20171216/ddm/041/040/149000c" />。JR東海での廃止に関しては、1972年(昭和47年)当時は国鉄旅客局営業課長であり、エル特急創設の準備に携わった[[須田寬]]相談役が「(特急大衆化の)目的は達成された」との理由で廃止を提案している<ref group="新聞" name="chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268" /><ref name="trafficnews.jp/post/79287/2" />。
=== 車種に関して ===
{{出典の明記|date=2018年8月|section=1}}
2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正で廃止時点のエル特急は「[[ひだ (列車)|ひだ]]」を除いて電車特急(「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」・「[[しなの (列車)|しなの]]」)であった<ref group="新聞" name="chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268" /><ref name="trafficnews.jp/post/79287/2" />。国鉄時代から廃止にいたるまでエル特急の存在した全時代を通して、エル特急はもっぱら電車特急であって、気動車特急でエル特急を名乗る列車は「[[ひだ (列車)|ひだ]]」{{Refnest|group="注釈"|なお、「ひだ」は気動車特急で全国に先駆けてイラストヘッドマークが採用されたが、エル特急のロゴマークは入っていなかった。}}などがあったものの少数派にとどまった。なお、客車特急でエル特急を名乗った列車も一部、臨時の「[[有明 (列車)|有明]]」や「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」などに存在した。
国鉄時代の気動車エル特急のうち、全列車気動車であった例は[[伯備線]]が全線電化される[[1982年]](昭和57年)[[7月1日]]以前に[[国鉄キハ181系気動車|キハ181系気動車]]で運行された特急「[[やくも]]」および[[1986年]](昭和61年)[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|11月1日ダイヤ改正]]で指定された特急「[[しおかぜ (列車)|しおかぜ]]」のみである。他には特急「[[しなの (列車)|しなの]]」が中央西線電化後も2年間はキハ181系が2往復のみ残ったケース、「[[にちりん (列車)|にちりん]]」のうち、[[博多駅]] - [[鹿児島中央駅|西鹿児島駅]]間直通系統の列車1往復が日豊本線全線電化1年後の1980年まで[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]]で存在していたケースのみであった。ただし、「にちりん」のうち、宮崎以北のみの系統は[[国鉄485系電車|485系]]で運転されていた。
そのため、1982年(昭和57年)7月1日の「やくも」[[国鉄381系電車|381系]]化から、[[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]のダイヤ改正に伴う「しおかぜ」のエル特急化までは、気動車のエル特急は存在していなかった。
また、[[1996年]](平成8年)[[3月30日]]から[[1997年]](平成9年)[[3月22日]]の秋田新幹線改軌工事に伴う[[田沢湖線]]運休時に1年間だけ暫定運転された[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系気動車]]の「[[たざわ (列車)|秋田リレー]]」がある。この列車群は従前の「たざわ」の代替であることから「エル特急」として設定されたが、結果的にJR東日本が新設した最後の「エル特急」となっていると共に、JR東日本が気動車で設定した唯一無二の定期特急ともなった。
== かつてエル特急指定をされていた列車 ==
'''太字'''はエル特急指定解除後も現在まで運転されている列車。エル特急指定解除後もヘッドマークに「L」マークを残したまま運行されている列車も存在する(現在JR西日本381系のみ)。
=== 北海道旅客鉄道(JR北海道) ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em;"
|-
! 列車名 !! 主要運行区間 !! 主要経由線区 !! 運行開始日<ref group="*" name="運行開始" />・指定日<ref group="*" name="エル特急指定" /> !! 指定解除日<ref group="*" name="エル特急指定解除" />・運行終了日<ref group="*" name="運行終了" /> !! 指定事由<ref group="*" name="エル特急指定事由" />・解除事由<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[カムイ (列車)|いしかり]]
| [[札幌駅]] - [[旭川駅]] || [[函館本線]] || [[1975年]][[7月18日]] || 1980年10月1日 || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />運行区間変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| rowspan="2" | [[カムイ (列車)|ライラック]]<br /><ref group="注釈">2017年(平成29年)3月4日より運行されている「'''ライラック'''」は、「スーパーカムイ」から再度列車名変更により復活したものであり、「ライラック」としては一旦途絶えている。また、復活後はエル特急の指定を受けていない。</ref>
| [[室蘭駅]] - 旭川駅 || [[室蘭本線]]・[[千歳線]]・函館本線 || [[1980年]][[10月1日]] || 1992年7月1日 || 運行区間変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />運行系統変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| 札幌駅 - 旭川駅 || 函館本線 || [[1992年]][[7月1日]] || 2007年10月1日 || 運行系統変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両性能統一による列車名統一<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[カムイ (列車)|ホワイトアロー]]
| [[苫小牧駅]] - 旭川駅 || 室蘭本線・千歳線・函館本線 || [[1986年]][[3月3日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1986年[[11月1日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1990年9月1日 || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[カムイ (列車)|スーパーホワイトアロー]]
| 札幌駅 - 旭川駅 || rowspan="2" | 函館本線 || [[1990年]][[9月1日]] || 2007年10月1日 || 使用車両変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両性能統一による列車名統一<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[カムイ (列車)|スーパーカムイ]] || 札幌駅 - 旭川駅 ||[[2007年]][[10月1日]] || [[2017年]][[3月4日]] || 使用車両性能統一による列車名統一<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両運用・列車名変更および会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[すずらん (列車)|すずらん]]
| 室蘭駅 - 札幌駅 || 室蘭本線・千歳線・函館本線 || 1992年7月1日 || 2017年3月4日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 運行系統変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|}
=== 東日本旅客鉄道(JR東日本) ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em;"
|-
! 列車名 !! 主要運行区間 !! 主要経由線区 !! 運行開始日<ref group="*" name="運行開始" />・指定日<ref group="*" name="エル特急指定" /> !! 指定解除日<ref group="*" name="エル特急指定解除" />・運行終了日<ref group="*" name="運行終了" /> !! 指定事由<ref group="*" name="エル特急指定事由" />・解除事由<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| rowspan="2" | [[はつかり (列車)|はつかり]]
| [[上野駅]] - [[青森駅]] || rowspan="5" | [[東北本線]] || [[1958年]][[10月1日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1978年]][[10月2日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1982年11月15日 || 自由席設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[東北新幹線]]([[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - 盛岡駅間)開業に伴い新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[盛岡駅]] - 青森駅 || [[1982年]][[11月15日]] || [[2000年]][[3月11日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />[[2002年]][[12月1日]]<ref group="*" name="運行終了" /> || 東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)開業に伴い新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両の運用変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" /><ref group="注釈">2000年(平成12年)3月11日から2002年(平成14年)12月1日までは、「はつかり」のうち[[JR東日本E751系電車|E751系電車]]で運行される速達型列車が「スーパーはつかり」の列車名で運転されていた。</ref>
|-
| [[東北本線優等列車沿革|ひばり]] || 上野駅 - [[仙台駅]] || [[1962年]][[4月27日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1972年]][[10月2日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1982年11月15日 || 第1次指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)開業に伴い列車名を廃止<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[やまびこ (列車)|やまびこ]] || 上野駅 - 盛岡駅 || [[1965年]][[10月1日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1978年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || [[1982年]][[6月23日]] || 自由席設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)開業に伴い新幹線の列車名に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ|なすの]]<br /><ref group="注釈" name="新特急" />
| 上野駅 - [[黒磯駅]] || 1985年3月14日 || 1990年[[3月10日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />1995年12月1日<ref group="*" name="運行終了" /><ref group="注釈">同日より「[[なすの (列車)|なすの]]」は東北新幹線の列車名として使用されている。</ref> || 新特急昇格に際し指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />列車本数減少<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| rowspan="2" | [[つばさ (列車)|つばさ]]<br /><ref group="注釈" name="つばさ" />
| 上野駅 - [[秋田駅]] || rowspan="4" | [[奥羽本線]] || [[1961年]][[10月1日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1978年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1982年11月15日 || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)開業に伴い新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[福島駅 (福島県)|福島駅]] - 秋田駅 || 1982年11月15日 || 1992年7月1日 || 東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)開業により新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[山形新幹線]](福島駅 - 山形駅間)開業に伴い新幹線の列車名に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[つばさ (列車)|やまばと]]<br /><ref group="注釈" name="つばさ" />
| 上野駅 - [[山形駅]] || [[1964年]]10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1978年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1985年3月14日 || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />東北新幹線(上野駅 - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間)延伸<!--東北新幹線開業は大宮駅 - 盛岡駅間開業の1982年(昭和57年)6月23日を採るため。-->に伴い列車名廃止<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[つばさ (列車)#在来線特急「つばさ」|こまくさ]]
| 山形駅 - 秋田駅 || [[1992年]][[7月1日]] || [[1999年]][[3月12日]] || 山形新幹線(福島駅 - 山形駅間)開業に伴い運行系統再編<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />山形新幹線(山形駅 - [[新庄駅]]間)延伸に伴い運行系統廃止<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| rowspan="2" | [[たざわ (列車)|たざわ]]
| 盛岡駅 - 秋田駅 || [[田沢湖線]]・奥羽本線 || 1982年11月15日 || 1996年3月30日 || 東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)開業に伴い新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[秋田新幹線]](盛岡駅 - 秋田駅間)工事に伴い運行系統変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| 秋田駅 - 青森駅 || 奥羽本線 || [[1996年]][[3月30日]] || [[1997年]][[3月22日]] || 秋田新幹線(盛岡駅 - 秋田駅間)工事に伴い運行系統変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[たざわ (列車)#特急「秋田リレー」|秋田リレー]]
| [[北上駅]] - 秋田駅 || [[北上線]]・奥羽本線 || 1996年3月30日 || 1997年3月22日 || 秋田新幹線(盛岡駅 - 秋田駅間)工事に伴い運行系統変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />秋田新幹線(盛岡駅 - 秋田駅間)開業に伴い運行系統廃止<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[いなほ (列車)|いなほ]]<br /><ref group="注釈">「いなほ」は1969年(昭和44年)10月1日に上野駅 - 秋田駅間(羽越本線経由)の特急として運行を開始したが、1982年(昭和57年)11月15日の上越新幹線(大宮駅 - 新潟駅間)開業に伴い現在の運行系統となる以前はエル特急の指定を受けていなかった。</ref>
| [[新潟駅]] - [[酒田駅]] || [[白新線]]・[[羽越本線]] || [[1982年]][[11月15日]] || [[2002年]][[12月1日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || [[上越新幹線]](大宮駅 - 新潟駅間)開業に伴い新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|とき]]
| 上野駅 - 新潟駅 || rowspan="3" | [[上越線]] || [[1962年]]10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1972年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1982年11月15日 || 第1次指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />上越新幹線(大宮駅 - 新潟駅間)開業に伴い新幹線の列車名に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[水上 (列車)|谷川]]<ref group="注釈" name="新特急" />
| rowspan="2" | 上野駅 - [[水上駅]] || 1982年11月15日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1985年3月14日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1997年10月1日 || 新設時より設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />上越新幹線の「[[たにがわ (列車)|たにがわ]]」と重複するため列車名を「水上」に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[水上 (列車)|水上]]<br /><ref group="注釈" name="新特急" />
| [[1997年]][[10月1日]] || 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />[[2010年]][[12月4日]]<ref group="*" name="運行終了" /><ref group="注釈">定期運行は終了したが、[[臨時列車]]としては現在も設定されている。</ref> || 列車名の変更にあたり従来の「谷川」の指定を承継<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[あかぎ (列車)|あかぎ]]<br /><ref group="注釈" name="新特急" />
| 上野駅 - [[前橋駅]] || 上越線・[[両毛線]] || 1982年11月15日<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1985年]][[3月14日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[草津・四万|白根]]
| rowspan="2" | 上野駅 - [[万座・鹿沢口駅]] || rowspan="2" | 上越線・[[吾妻線]] || 1982年11月15日 || 1985年3月14日 || 臨時列車から定期列車に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><ref group="注釈">特急「白根」は[[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]に臨時特急として運行を開始し、1982年(昭和57年)11月15日から定期列車に変更された。</ref><br />新特急指定に伴い列車名を変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[草津・四万|草津]]<br /><ref group="注釈" name="新特急" />
| 1985年3月14日 || 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 列車名の変更にあたり従来の「白根」の指定を承継<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[あさま#在来線特急「あさま」「白山」|あさま]]
| 上野駅 - [[長野駅]] || [[信越本線]] || [[1966年]]10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1972年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || rowspan="2"| 1997年10月1日 || 第1次指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[北陸新幹線]]([[高崎駅]] - 長野駅間)開業により新幹線の列車名に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[あさま#在来線特急「あさま」「白山」|白山]]<br /><ref group="注釈">「白山」の直江津駅 - 金沢駅間はJR西日本の管轄区間。</ref>
| 上野駅 - [[金沢駅]] || 信越本線 || 1972年3月15日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1978年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><ref group="注釈">「白山」は1985年(昭和60年)3月14日以降は削減され、1994年(平成6年)3月14日以降は1往復のみとなるが、「あさま」と同一の運行系統であるとして指定を受けていた。</ref><br />北陸新幹線(高崎駅 - 長野駅間)開業により運行系統廃止<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[ひたち (列車)|ひたち]]<br /><ref group="注釈">2015年(平成27年)3月14日より運行されている「'''ひたち'''」は、「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」から再度列車名変更により復活したものであり、「ひたち」としては一旦途絶えている。また、復活後はエル特急の指定を受けていない。</ref>
| rowspan="2"| 上野駅 - 仙台駅 || rowspan="2"| [[常磐線]] || [[1969年]]10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1972年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || [[1998年]][[12月8日]] || 第1次指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両([[国鉄485系電車|485系電車]])の運用終了<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[ひたち (列車)|スーパーひたち]]
| [[1989年]][[3月11日]] || 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />2015年3月14日<ref group="*" name="運行終了" /> || 新型車両([[JR東日本651系電車|651系電車]])の運用開始<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[あずさ (列車)|あずさ]]
| rowspan="2" | [[新宿駅]] - [[松本駅]] || rowspan="3"| [[中央本線]] || [[1966年]][[12月12日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1973年]]10月1日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 運行本数増加<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[あずさ (列車)|スーパーあずさ]]
| [[1994年]][[12月3日]] || 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />2019年3月16日<ref group="*" name="運行終了" /> || 使用車両変更([[JR東日本E351系電車|E351系電車]])による愛称変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[かいじ (列車)|かいじ]]
| 新宿駅 - [[甲府駅]] || [[1988年]][[3月13日]] || rowspan="5" | 2002年12月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 運行系統分割<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[踊り子 (列車)|踊り子]]<br /><ref group="注釈">「踊り子」の[[熱海駅]] - [[三島駅]]間はJR東海、伊東駅 - 伊豆急下田駅間は[[伊豆急行]]、三島駅 - 修善寺駅間は[[伊豆箱根鉄道]]の管轄区間</ref>
| [[東京駅]] - [[伊豆急下田駅]]<br />東京駅 - [[修善寺駅]] || [[伊東線]] || [[1981年]]10月1日 || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[わかしお (列車)|わかしお]]
| 東京駅 - [[安房鴨川駅]] || [[外房線]] || rowspan="2" | [[1972年]][[7月15日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1972年[[10月2日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 第1次指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[さざなみ (列車)|さざなみ]]
| 東京駅 - [[館山駅]] || [[内房線]] || 第1期指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[しおさい (列車)|しおさい]]
| 東京駅 - [[銚子駅]] ||[[総武本線]] || [[1975年]][[3月10日]] || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[あやめ (列車)|あやめ]]
| 東京駅 - [[鹿島神宮駅]] || [[成田線]]・[[鹿島線]] || [[1975年]][[3月10日]] || [[1994年]][[12月3日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />[[2015年]][[3月14日]]<ref group="*" name="運行終了" /> || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />運行本数減少及び運行時間帯変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|}
=== 東海旅客鉄道(JR東海) ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em;"
|-
! 列車名 !! 主要運行区間 !! 主要経由線区 !! 運行開始日<ref group="*" name="運行開始" />・指定日<ref group="*" name="エル特急指定" /> !! 指定解除日<ref group="*" name="エル特急指定解除" />・運行終了日<ref group="*" name="運行終了" /> !! 指定事由<ref group="*" name="エル特急指定事由" />・解除事由<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[しなの (列車)|しなの]]<br /><ref group="注釈">特急「しなの」の[[塩尻駅]] - 長野駅間および臨時列車が乗り入れる松本駅 - [[白馬駅]]間はJR東日本の管轄区間。また、[[2016年]](平成28年)[[3月26日]]のダイヤ改正まで[[大阪駅]]発着の列車も設定されており、大阪駅 - 米原駅間はJR西日本の管轄区間を走行していた。</ref><ref group="注釈" name="ワイドビュー" />
| [[名古屋駅]] - [[長野駅]] || [[中央本線]] || [[1968年]][[10月1日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1973年]]10月1日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || rowspan="2"|[[2018年]][[3月16日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 増発・一部電車化<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[ひだ (列車)|ひだ]]<br /><ref group="注釈">「ひだ」の大阪駅 - 米原駅間と[[猪谷駅]] - [[富山駅]]間はJR西日本の管轄区間。</ref><ref group="注釈" name="ワイドビュー" />
| 名古屋駅 - [[高山駅]] || [[高山本線]] || 1968年10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1990年]][[3月10日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|}
=== 西日本旅客鉄道(JR西日本) ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em;"
|-
! 列車名 !! 主要運行区間 !! 主要経由線区 !! 運行開始日<ref group="*" name="運行開始" />・指定日<ref group="*" name="エル特急指定" /> !! 指定解除日<ref group="*" name="エル特急指定解除" />・運行終了日<ref group="*" name="運行終了" /> !! 指定事由<ref group="*" name="エル特急指定事由" />・解除事由<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[つばめ (列車)|つばめ]]
| [[岡山駅]] - [[熊本駅]] || [[山陽本線]]・[[鹿児島本線]] || rowspan="3" | [[1972年]][[3月15日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1972年10月2日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || rowspan="3" | 1975年3月10日 || rowspan="3" | 第1次指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[山陽新幹線]](岡山駅 - 博多駅間)延伸に伴い運行系統廃止<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[山陽本線優等列車沿革|はと]]
| 岡山駅 - [[下関駅]] || rowspan="2" | 山陽本線
|-
| [[山陽本線優等列車沿革|しおじ]]
| 新大阪駅 - 下関駅
|-
| [[サンダーバード (列車)|雷鳥]]
| [[大阪駅]] - 金沢駅 || [[湖西線]]・北陸本線 || 1964年[[12月25日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1975年3月10日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 2010年3月13日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />2011年3月12日<ref group="*" name="運行終了" /> || 自由席設定開始および増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両変更による列車名統一<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]<br /><ref group="注釈">特急「しらさぎ」の名古屋駅 - 米原駅間はJR東海の管轄区間。</ref>
| 名古屋駅 - [[金沢駅]] || rowspan="2" | [[北陸本線]] || [[1964年]][[12月25日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />[[1975年]][[3月10日]]<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 2018年3月16日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 増発および自由席設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[しらさぎ (列車)|加越]]
| [[米原駅]] - [[金沢駅]] || 1975年3月10日 || [[2003年]]10月1日 || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両変更による列車名統一<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
|[[こうのとり (列車)|北近畿]]
| [[新大阪駅]] - [[城崎温泉駅]] || [[福知山線]]・[[山陰本線]] || [[1986年]][[11月1日]] || 2010年3月13日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />2011年3月12日<ref group="*" name="運行終了" /> || 新設時より設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[くろしお (列車)|くろしお]]
| 新大阪駅 - [[新宮駅]] || [[紀勢本線]] || [[1978年]]10月2日 || rowspan="2"| 2010年3月13日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 運行系統分割<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[やくも]]
| [[岡山駅]] - [[出雲市駅]] || [[伯備線]] || 1972年10月2日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1975年3月10日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|}
=== 四国旅客鉄道(JR四国) ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em;"
|-
! 列車名 !! 主要運行区間 !! 主要経由線区 !! 運行開始日<ref group="*" name="運行開始" />・指定日<ref group="*" name="エル特急指定" /> !! 指定解除日<ref group="*" name="エル特急指定解除" />・運行終了日<ref group="*" name="運行終了" /> !! 指定事由<ref group="*" name="エル特急指定事由" />・解除事由<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" rowspan="2"| [[しおかぜ (列車)|しおかぜ]]<br /><ref group="注釈" name="岡山・児島" />
| [[高松駅 (香川県)|高松駅]] - [[宇和島駅]] || rowspan="4"| [[予讃線]] || [[1972年]][[3月15日]]<ref group="*" name="運行開始" /><br />1986年11月1日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 1988年4月10日 || 増発<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[本四備讃線]](児島駅 - [[宇多津駅]]間)開業に伴い山陽新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| 岡山駅 - 宇和島駅 || rowspan="2" | [[1988年]][[4月10日]] || rowspan="7" | [[2011年]][[3月12日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 本四備讃線(茶屋町駅 - 宇多津駅間)開業に伴い山陽新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[いしづち (列車)|いしづち]]
| 高松駅 - [[松山駅 (愛媛県)|松山駅]] || 本四備讃線(茶屋町駅 - 宇多津駅間)開業に伴い運行系統・列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[宇和海 (列車)|宇和海]]
| 松山駅 - 宇和島駅 || [[1990年]][[11月12日]] || 運行系統変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[うずしお (列車)|うずしお]]<br /><ref group="注釈" name="岡山・児島" />
| 岡山駅 - [[徳島駅]] || [[高徳線]] || rowspan="3" | 1988年4月10日 || 本四備讃線(茶屋町駅 - 宇多津駅間)開業に伴い山陽新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[南風 (列車)|南風]]<br /><ref group="注釈">「南風」は1972年(昭和47年)3月15日から高松駅 - 中村駅間で運行を開始したが、1988年(昭和63年)4月10日に岡山駅発着に変更されるまでの期間はエル特急に指定されていない。</ref><ref group="注釈" name="岡山・児島・窪川・中村・宿毛" />
| 岡山駅 - [[中村駅]] || rowspan="3"|[[土讃線]] || 本四備讃線(茶屋町駅 - 宇多津駅間)開業に伴い山陽新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[しまんと (列車)|しまんと]]<br /><ref group="注釈" name="岡山・児島・窪川・中村・宿毛" />
| 高松駅 - 中村駅 || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;"| [[あしずり (列車)|あしずり]]<br /><ref group="注釈" name="岡山・児島・窪川・中村・宿毛" />
| [[高知駅]] - 中村駅 || [[1990年]][[11月12日]] || 運行系統・列車名の変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|}
=== 九州旅客鉄道(JR九州) ===
{| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em;"
|-
! 列車名 !! 主要運行区間 !! 主要経由線区 !! 運行開始日<ref group="*" name="運行開始" />・指定日<ref group="*" name="エル特急指定" /> !! 指定解除日<ref group="*" name="エル特急指定解除" />・運行終了日<ref group="*" name="運行終了" /> !! 指定事由<ref group="*" name="エル特急指定事由" />・解除事由<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[有明 (列車)|有明]]
| [[博多駅]] - [[熊本駅]] || rowspan="4" | [[鹿児島本線]] || [[1967年]]10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1975年3月10日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || [[2009年]][[7月1日]]<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />[[2021年]][[3月12日]]<ref group="*" name="運行終了" /> || 新幹線接続特急に変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[有明 (列車)|ハイパー有明]]
| rowspan="2" | 博多駅 - 西鹿児島駅 || [[1992年]][[3月10日]] || 1992年7月15日 || 使用車両変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />運行系統変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[つばめ (JR九州)|つばめ]]
| 1992年[[7月15日]] || 2004年3月13日 || 運行系統変更による列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />[[九州新幹線]](新八代駅 - 鹿児島中央駅間)開業に伴い新幹線の列車名に変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[つばめ (JR九州)|リレーつばめ]]
| 博多駅 - [[新八代駅]] || [[2004年]][[3月13日]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />2011年3月12日<ref group="*" name="運行終了" /> || 九州新幹線(新八代駅 - 鹿児島中央駅間)開業に伴う運行系統・列車名変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[かもめ (列車)|かもめ]]
| 博多駅 - [[長崎駅]] || [[長崎本線]] || rowspan="2"| [[1976年]][[7月1日]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /><br />[[2022年]][[9月22日]]<ref group="*" name="運行終了" /> || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[みどり (列車)|みどり]]
| 博多駅 - [[佐世保駅]] || rowspan="2"|[[佐世保線]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 山陽新幹線接続特急として設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[ハウステンボス (列車)|ハウステンボス]]
| 博多駅 - [[ハウステンボス駅]] || [[1992年]][[3月25日]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 新設時より指定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[にちりん (列車)|にちりん]]
| [[別府駅 (大分県)|別府駅]] - [[宮崎空港駅]] || rowspan="6"| 日豊本線 || [[1968年]]10月1日<ref group="*" name="運行開始" /><br />1975年3月10日<ref group="*" name="エル特急指定" /> || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 山陽新幹線接続特急として再設定<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[にちりん (列車)|にちりんシーガイア]]
| 博多駅 - 宮崎空港駅 || [[1993年]][[3月18日]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 列車名の変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[にちりん (列車)|ハイパーにちりん]]
| 博多駅 - [[大分駅]] || 1992年3月10日 || 1995年4月20日 ||使用車両変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />使用車両および運転系統の変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
| [[ソニック (列車)|ソニックにちりん]]
| 博多駅 - 大分駅 || [[1995年]][[4月20日]] ||1997年3月22日 || 使用車両変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />列車名の変更<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[ソニック (列車)|ソニック]]
| 博多駅 - 大分駅 || [[1997年]][[3月22日]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> ||列車名の変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|-
! style="text-align:left;" | [[きりしま (列車)|きりしま]]
| [[宮崎駅]] - [[鹿児島中央駅]] || [[1995年]][[4月20日]] || 2009年7月1日<ref group="*" name="エル特急指定解除" /> || 運行系統変更<ref group="*" name="エル特急指定事由" /><br />会社方針<ref group="*" name="エル特急指定解除事由" />
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|refs=
<ref group="注釈" name="新特急">1985年(昭和63年)3月14日の[[1985年3月14日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]から2002年(平成14年)12月1日のダイヤ改正まで「[[新特急]]」の愛称を冠していた。</ref>
<ref group="注釈" name="ワイドビュー">[[1996年]](平成8年)[[7月25日]]よりJR東海の新規製造車両を使用する列車に「ワイドビュー」の呼称を冠するが、これはエル特急指定とは異なる。</ref>
<ref group="注釈" name="つばさ">「つばさ」の場合、1961年(昭和36年)10月1日以来の上野駅 - 秋田駅間奥羽本線特急列車が在来線特急列車としての最終期まで1往復が設定されていた。しかし、1982年(昭和57年)11月15日の上越新幹線開業に際して登場した福島駅発着の「つばさ」が1985年(昭和60年)3月14日の東北新幹線上野駅乗り入れ以降、運行本数の大多数を占めるようになった。この新幹線接続特急への変更を以て奥羽特急「つばさ」・「やまばと」は廃止、新幹線連絡特急「つばさ」と上野(暫定)乗り入れの「つばさ」・「やまばと」とみなす事例が多い。なお、「つばさ」・「やまばと」のエル特急指定は、「つばさ」の電車化による増発、運用共用化を受けてのものである。[[つばさ (列車)#奥羽本線昼行優等列車沿革|こちら]]も参照されたい。</ref>
<ref group="注釈" name="岡山・児島">特急「しおかぜ」「うずしお」の岡山駅 - [[児島駅]]間はJR西日本の管轄区間。</ref>
<ref group="注釈" name="岡山・児島・窪川・中村・宿毛">特急「南風」の岡山駅 - 児島駅間はJR西日本の管轄区間。また、「南風」「しまんと」「あしずり」の[[窪川駅]] - [[中村駅]] - [[宿毛駅]]間は[[土佐くろしお鉄道]]の管轄区間。なお、「あしずり」は2003年(平成15年)10月1日から2011年3月12日(指定解除日)まで、下り1本のみ(号数表示なし)の運行だった。</ref>
}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="trafficnews.jp/post/79287/2">{{Cite web|和書|date=2017年12月20日 |url=https://trafficnews.jp/post/79287/2 |title=「エル特急」消滅へ 国鉄の面影がまたひとつ、役割薄れひっそりと |publisher=メディア・ヴァーグ |website=乗りものニュース |accessdate=2018年8月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180213050608/https://trafficnews.jp/post/79287/2 |archivedate=2018年2月13日 }}</ref>
}}
{{Reflist|group="*"|refs=
<ref group="*" name="運行開始">運行開始。</ref>
<ref group="*" name="運行終了">運行終了。</ref>
<ref group="*" name="エル特急指定">エル特急指定。</ref>
<ref group="*" name="エル特急指定解除">エル特急指定解除。</ref>
<ref group="*" name="エル特急指定事由">エル特急指定事由。</ref>
<ref group="*" name="エル特急指定解除事由">エル特急指定解除事由。</ref>
}}
=== 報道発表資料 ===
{{Reflist|group="報道"|refs=
<ref group="報道" name="jrhokkaido.co.jp/press/2016/161216-3">{{Cite press release |和書 |title=平成29年3月ダイヤ改正について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2016年12月16日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161216-3.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2018年8月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161216091740/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2016/161216-3.pdf |archivedate=2016年12月16日}}</ref>
<!-- <ref group="報道" name="jr-shikoku.co.jp/03_news/press/10-12-17/01">{{Cite press release|author= |url=http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/10-12-17/01.htm |language=日本語 |title=平成23年3月ダイヤ改正について |work= |publisher=四国旅客鉄道 |date=2010年12月17日 |accessdate=2010-12-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101220081856/http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/10-12-17/01.htm |archivedate=2010年12月20日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> -->
}}
=== 新聞記事 ===
{{Reflist|group="新聞"|refs=
<ref group="新聞" name="chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268">{{Cite news |author=久野賢太郎 |date=2017年12月26日 |url=http://www.chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268.html |title=「エル特急 目的は達成」 JR来春ダイヤ改正で愛称廃止 |publisher=[[中日新聞社]] |newspaper=[[中日新聞]] |accessdate=2018年8月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180804015133/http://www.chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2017122602000268.html |archivedate=2018年8月4日 }}</ref>
<ref group="新聞" name="mainichi.jp/articles/20171216/ddm/041/040/149000c">{{Cite news|title=L特急 さようなら 旧国鉄からの名称、来春全廃 |publisher=[[毎日新聞社]] |newspaper=[[毎日新聞]](東京朝刊) |agency=[[ニュースサイト「毎日新聞」|毎日.jp]] |date=2017-12-16 |url=https://mainichi.jp/articles/20171216/ddm/041/040/149000c |accessdate=2017年12月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180804014314/https://mainichi.jp/articles/20171216/ddm/041/040/149000c |archivedate=2018年8月4日 }}</ref>
<ref group="新聞" name="墨滴">{{Cite news |title=墨滴 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |date=2008年6月30日 |page=1 }}</ref>
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== 参考文献 ==
* 旅鉄BOOKSシリーズ『エル特急大図鑑 45年79列車の軌跡』 - 「旅と鉄道」編集部
== 関連項目 ==
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くりはら田園鉄道
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くりはら田園鉄道株式会社(くりはらでんえんてつどう)は、かつて宮城県に本社を置いていた第三セクター方式の鉄道会社である。「くりでん」の愛称で親しまれていた。
本項では、その前身に当たる栗原電鉄などの事業者についても解説する。
「くりでん」の歴史は、栗原軌道が設立され、1921年に石越駅 - 沢辺駅間が開業して幕を開けた。この当時の路線は、非電化で軌間762 mmの典型的な軽便鉄道の様相を呈していたが、路線は軌道法に準拠していた。開業の1年後には岩ヶ崎(後の栗駒駅)までの延伸を行った。
栗原軌道は、1941年に栗原鉄道と社名を変更し、翌年に軌道法ではなく地方鉄道法準拠に変更し、細倉鉱山駅までの延伸を行った。これ以後細倉鉱山で産出した鉱石が、主要な貨物となった。第2次世界大戦後の1950年代には、電化および1067 mmへの改軌を相次いで実行し、電化に合わせて1955年には社名も栗原電鉄に改めた。
1958年に栗原電鉄は、経営難に陥っていた陸前乗合自動車に資本参加し、1964年には同社と合併し、社名を宮城中央交通に変更した。しかし、宮城県内でバス事業を統合する動きが起こり、それに応じる形で1969年にバス部門を宮城中央バスとして分離して、鉄道部門は栗原電鉄に戻った。そして当初の計画通り、宮城中央バスは、宮城バス・仙南交通と対等合併を行い、バス部門は宮城交通となった(合併以後の事象は当該記事を参照)。
元の鞘に収まった栗原電鉄だが、自家用車・トラックの普及に伴う旅客・貨物の減少により1970年頃から赤字経営に陥り、三菱金属(現:三菱マテリアル)の支援で、辛うじて経営が成り立っていた。しかし、円高のあおりで、1986年に細倉鉱山が閉山して貨物輸送が廃止され、さらに閉山に伴って過疎化が加速した結果、栗原電鉄の経営は急速に悪化した。1993年の欠損補助制度の打ち切りを受けて、三菱マテリアル(三菱鉱業セメントと合併し、社名変更した)が地元に路線廃止を打診した際に、沿線自治体は鉄道での存続を希望したため、栗原電鉄は沿線5町と宮交栗駒バスなどが出資する第三セクター鉄道への移行が決まった。この際に三菱マテリアルは、株式の譲渡に加え、累計赤字の負担と駅舎の改築費の提供を行い、経営から手を引いた。
1995年4月1日には、施設老朽化に伴う電気運転廃止により、社名をくりはら田園鉄道、路線名をくりはら田園鉄道線に改称した。しかし、その後も輸送人員は減り続け、1997年頃には年間赤字額が6千万円前後に膨れ上がった。このような状況で、欠損額の3/4を負担してきた宮城県が2001年1月に、赤字補填の補助金支給を2001年度からの3年間に限ると決定し、沿線自治体に対応を決めるよう要請した。それを受けて自治体側では、2003年4月の1か月間に限って、定期乗車券を含めた運賃を半額にするなど乗客の増加を狙った交通実験を行ったが、目標には達しなかった。
2003年10月に、宮城県は2006年4月の廃止を視野に、打ち切る予定だった補助金を、あと2年間に限りそれまでの半額で支給を継続すると自治体側に伝えた。2003年12月に、2006年度までは鉄道の運行を継続し、2007年4月にバス転換する方針が決定され、2004年6月の株主総会で鉄道の廃止が正式決定した。こうして2007年4月1日付でくりはら田園鉄道線が廃止され、会社は解散が決まった。その後2010年8月21日付で会社の清算が終了し、「くりでん」はその歴史に幕を閉じた。
2012年現在、駅舎などの建物は若柳駅、細倉マインパーク前駅を除き撤去されたが、線路はほぼ廃線時のまま残されている。また、2010年6月13日から若柳駅では動態保存が行われ、かつてくりはら田園鉄道で走っていた車両が保存されている。詳細は若柳駅のページを参照。
保線車両
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くりはら田園鉄道株式会社(くりはらでんえんてつどう)は、かつて宮城県に本社を置いていた第三セクター方式の鉄道会社である。「くりでん」の愛称で親しまれていた。 本項では、その前身に当たる栗原電鉄などの事業者についても解説する。
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{{基礎情報 会社
| 社名 = くりはら田園鉄道株式会社
| 英文社名 =Kurihara Electric Railway Co., Ltd.
| ロゴ =
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = くりでん
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 989-5501
| 本社所在地 = [[宮城県]][[栗原市]]若柳川北塚の越11
| 設立 = [[1918年]][[12月15日]](栗原軌道株式会社)
| 業種 = 5050
| 事業内容 = 鉄道事業
| 代表者 = 代表清算人 高橋勝美
| 資本金 = 2億4600万円
| 売上高 =
| 総資産 =
| 従業員数 =
| 決算期 =
| 主要株主 = [[栗原市]](56.01パーセント)<br />[[登米市]](10.82パーセント)<br />[[宮城県]](10.16パーセント)他
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク =
| 特記事項 = 2007年4月1日解散。2010年8月21日清算終了。
}}
'''くりはら田園鉄道株式会社'''(くりはらでんえんてつどう)は、かつて[[宮城県]]に本社を置いていた[[第三セクター]]方式の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。「くりでん」の愛称で親しまれていた。
本項では、その前身に当たる'''栗原電鉄'''などの事業者についても解説する。
== 沿革 ==
「くりでん」の歴史は、'''栗原軌道'''が設立され、[[1921年]]に[[石越駅]] - [[沢辺駅]]間が開業して幕を開けた。この当時の路線は、[[非電化]]で[[軌間]]762 mmの典型的な[[軽便鉄道]]の様相を呈していたが、路線は[[軌道法]]に準拠していた。開業の1年後には岩ヶ崎(後の[[栗駒駅]])までの延伸を行った。
栗原軌道は、1941年に'''栗原鉄道'''と社名を変更し、翌年に軌道法ではなく[[地方鉄道法]]準拠に変更し、[[細倉鉱山駅]]までの延伸を行った。これ以後[[細倉鉱山]]で産出した鉱石が、主要な貨物となった。第2次世界大戦後の[[1950年代]]には、[[鉄道の電化|電化]]および1067 mmへの[[改軌]]を相次いで実行し、電化に合わせて[[1955年]]には社名も'''栗原電鉄'''に改めた。
[[1958年]]に栗原電鉄は、経営難に陥っていた'''陸前乗合自動車'''に資本参加し、[[1964年]]には同社と合併し、社名を'''宮城中央交通'''に変更した。しかし、宮城県内でバス事業を統合する動きが起こり、それに応じる形で1969年にバス部門を'''宮城中央バス'''として分離して、鉄道部門は'''栗原電鉄'''に戻った。そして当初の計画通り、宮城中央バスは、[[仙北鉄道|宮城バス]]・[[仙南温泉軌道|仙南交通]]と対等合併を行い、バス部門は'''[[宮城交通]]'''となった(合併以後の事象は当該記事を参照)。
元の鞘に収まった栗原電鉄だが、[[モータリゼーション|自家用車・トラックの普及に伴う旅客・貨物の減少]]により1970年頃から赤字経営に陥り、[[三菱マテリアル|三菱金属]](現:三菱マテリアル)の支援で、辛うじて経営が成り立っていた。しかし、円高のあおりで、[[1986年]]に細倉鉱山が閉山して貨物輸送が廃止され、さらに閉山に伴って過疎化が加速した結果、栗原電鉄の経営は急速に悪化した。[[1993年]]の欠損補助制度の打ち切りを受けて<ref>{{Cite news |title=栗原、野上電鉄打ち切り 中小民鉄欠損助成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-17 |page=1 }}</ref>、三菱マテリアル(三菱鉱業セメントと合併し、社名変更した)が地元に路線廃止を打診した際に、沿線自治体は鉄道での存続を希望したため、栗原電鉄は沿線5町と宮交栗駒バスなどが出資する[[第三セクター鉄道]]への移行が決まった。この際に三菱マテリアルは、株式の譲渡に加え、累計赤字の負担と駅舎の改築費の提供を行い、経営から手を引いた。
[[1995年]]4月1日には、施設老朽化に伴う電気運転廃止により、社名を'''くりはら田園鉄道'''、路線名を[[くりはら田園鉄道線]]に改称した。しかし、その後も輸送人員は減り続け、1997年頃には年間赤字額が6千万円前後に膨れ上がった。このような状況で、欠損額の3/4を負担してきた宮城県が2001年1月に、赤字補填の補助金支給を2001年度からの3年間に限ると決定し、沿線自治体に対応を決めるよう要請した。それを受けて自治体側では、2003年4月の1か月間に限って、[[定期乗車券]]を含めた運賃を半額にするなど乗客の増加を狙った[[社会実験|交通実験]]を行ったが、目標には達しなかった。
2003年10月に、宮城県は2006年4月の廃止を視野に、打ち切る予定だった補助金を、あと2年間に限りそれまでの半額で支給を継続すると自治体側に伝えた。2003年12月に、2006年度までは鉄道の運行を継続し、2007年4月にバス転換する方針が決定され、2004年6月の[[株主総会]]で鉄道の廃止が正式決定した。こうして2007年4月1日付でくりはら田園鉄道線が廃止され、会社は解散が決まった。その後2010年8月21日付で会社の清算が終了し、「くりでん」はその歴史に幕を閉じた。
2012年現在、駅舎などの建物は[[若柳駅]]、細倉マインパーク前駅を除き撤去されたが、線路はほぼ廃線時のまま残されている。また、2010年6月13日から若柳駅では[[動態保存]]が行われ、かつてくりはら田園鉄道で走っていた車両が保存されている。詳細は[[若柳駅]]のページを参照。
=== 年表 ===
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[6月22日]] - 石越 - 鶯沢村間などで軌道敷設の特許。
** [[12月15日]] - 栗原軌道株式会社を設立。
** 12月24日-初代社長に中村小治郎が就任。
* [[1921年]](大正10年)[[12月20日]] - 石越 - 沢辺間が開業。
** 7月11日-2代目社長に佐藤新助が就任。
* [[1922年]](大正11年)[[12月17日]] - 沢辺 - 岩ヶ崎(後の栗駒)間が開業。
* [[1924年]](大正13年) - [[栗駒駅|岩ヶ崎]] - [[鶯沢村]]間の特許が失効。
* 1933年(昭和8年)1月30日-3代目社長に[[高橋文五郎]]が就任。
* [[1940年]]([[昭和]]15年) - [[栗駒駅|岩ヶ崎]] - 細倉鉱山間の特許を取得。
* [[1941年]](昭和16年)[[12月3日]] - '''栗原鉄道'''に社名変更。
* [[1942年]](昭和17年)[[8月20日]] - [[地方鉄道]]に変更。
** [[12月1日]] - 岩ヶ崎 - 細倉鉱山間開業。
* [[1950年]](昭和25年)[[9月21日]] - 電気運転開始。
* [[1952年]](昭和27年)[[9月27日]]-4代目社長に鈴木惣一が就任。
* [[1955年]](昭和30年)[[11月29日]] - '''栗原電鉄'''に社名変更。
* [[1964年]](昭和39年)[[5月1日]] - 陸前乗合自動車と合併し、社名を'''宮城中央交通'''に変更。
* [[1968年]](昭和43年)[[8月31日]] - バス部門を'''宮城中央バス'''として分離。
* [[1969年]](昭和44年)[[2月25日]] - '''栗原電鉄'''に再度社名変更。
** [[2月21日]]-5代目社長に黒木晋也が就任。
* [[1970年]](昭和45年)10月 - 宮城中央バスが[[宮城バス]]、仙南交通と合併し、社名が[[宮城交通]]に変更。
* 1971年(昭和46年)11月22日-6代目社長に平子武が就任。
* [[1975年]](昭和60年)9月-7代目社長に伊東一が就任。
* [[1976年]](昭和61年)[[6月30日]]-8代目社長に鈴森久芳が就任。
* [[1987年]](昭和62年)[[3月29日]] - 貨物営業を廃止。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[12月15日]] - [[第三セクター]]経営に移行。9代目社長に菅原郁夫が就任。
* [[1995年]](平成7年)[[4月1日]] - 電気運転廃止に伴い、'''くりはら田園鉄道'''に社名変更。
* [[1997年|1997 年]](平成9年)[[6月29日]]-10代目社長に[[佐藤勇 (政治家)|佐藤勇]]が就任。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]] - くりはら田園鉄道線が廃止、くりはら田園鉄道株式会社解散。
* [[2010年]](平成22年)[[8月21日]] - 清算終了。
* [[2017年]](平成29年)4月1日-くりでんミュージアムがオープン
== 路線 ==
[[File:KuriharaDenenTetsudo2005-9b.jpg|200px|thumb|right|若柳・谷地畑間(2005年9月撮影)]]
[[File:夏の田園を行く、くりはら田園鉄道KD95形気動車 - DSCN2192.jpg|200px|thumb|right|[[杉橋駅]]付近(2006年8月撮影)]]
* [[くりはら田園鉄道線]]:[[石越駅]] - [[細倉マインパーク前駅]](25.7 km)
** 岩手県との県境付近の宮城県側、JRの東北本線の石越駅付近から概ね西北西に向かい、かつての栗駒町役場近くにあった[[栗駒駅]]からは概ね南南西に向かっていた。
** 始発駅の石越駅は、独特な曲線的な軒先を持った駅舎だった<ref>杉崎 行恭 『百駅停車 股裂き駅にも停まります』 p.183 新潮社 2013年4月25日発行 ISBN 978-4-10-334011-9</ref>
** [[輸送密度]] 178人/日(2004年)<ref>[https://www.mlit.go.jp/singikai/koutusin/koutu/chiiki/3/images/05.pdf (社)日本民営鉄道協会]</ref>
== 車両 ==
=== 軌間762 mm時代 ===
<!--鉄道ファン2010年5月号p115表を参照-->
;蒸気機関車
:* B5(B51・B52)
:** 1919年[[雨宮製作所]]製。2両とも1944年[[士別軌道]]に譲渡。
:* B8(B81・B82)
:** [[日本車輌]]製。B81は1943年[[静岡鉄道駿遠線]]に、B82は1944年に[[仙台鉄道]]に譲渡。
:* C12(C121・C122)
:** 1923年[[雨宮製作所]]製。2両とも1947年に静岡鉄道駿遠線に譲渡。
:* C15(C151 - 155)
:** C151 - 153は1941年・1942年栗原鉄道での新製で[[立山重工業|本江機械製作所]]製。C154・155は[[日本製鉄釜石製鉄所]]からの譲渡で、それぞれ1945年[[立山重工業]]製、1911年[[ハノマーグ|ハノーバー]]製。
;電気機関車
:* [[栗原鉄道ED18形電気機関車|ED18形]](ED181 - 183)
:** 電化に際して新造した[[電気機関車]]。改軌後もED20形に改造されて使用された。
;気動車
:* キハ1形(1・2)
:** [[1929年]]に瓦斯倫動力併用の認可を受けた際に導入した[[気動車]]<ref name="A">寺田裕一『私鉄気動車30年』、JTBパブリッシング、2006年 p.42。ISBN 4-533-06532-5</ref>。
;電車
:* モハ2400形(2401 - 2403) 電化時に新造した[[電車]]。日本鉄道自動車製 台車、主電動機は東京都交通局からの譲受け品を改装<ref>中川浩一「私鉄高速電車発達史」『鉄道ピクトリアル』No.211、40頁</ref>。2401・2402と2403の差異は、2401・2402が1950年製、定員88人、前面2枚窓で2403が1951年製、定員94人、前面3枚窓。他に側面の窓配置や全長などが異なる。改軌後は[[下津井電鉄]]に譲渡され、そこで電装解除され[[付随車]](サハ1 - 3)として使用された。
:* サハ1400(1401-1405) 1919年雨宮製作所製のボギー車。客車のハフのうち5両を電車の付随車とした物。1403、1404、1405の3両が1956年に[[福島県]]の[[磐梯急行電鉄]]に譲渡され、1403と1404がボサハ12・13、形態が少し異なる1405はボサハ14となった。ボサハ12と13は福島県猪苗代町の[[猪苗代緑の村]]に保存されている。
;客車 <!--鉄道ファン2010年5月号p116表を参照-->
:* 電化直前にハフ8両が在籍。
:
;貨車 <!--鉄道ファン2010年5月号p116表を参照-->
: 1950年2月時点でワフ5両、ワ10両、トフ5両、ト13両、トナ12両、トチ4両、ホト9両、タホコ(タンク車)6両が在籍。また陸運局無登録の貨車としてケト(無蓋車)7両、タ(タンク車)3両、ケセ(石炭車)3両が存在した。
=== 栗原電鉄時代 ===
;電気機関車
: [[File:Kurihara Dentetu Railway ED203.jpg|200px|thumb|ED202とワフ71]]
:* [[栗原鉄道ED18形電気機関車|ED20形]](ED201 - 203)
:** 改軌前のED18形の台車を交換した車両。軽便サイズの機関車が改造されて車両の大型化後も使用された希有な例である。ED201はチャチャワールドいしこしで保存されていたが2017年12月に解体<ref name="kuriden20181119">[https://twitter.com/kuridenrailpark/status/1064436708844855296?s=20 保存車両は再整備のため昨年12月中頃に解体されました]【公式】くりはら田園鉄道公園 くりでんミュージアムtwitter(2018年11月19日)</ref>。細倉マインパーク前駅跡にED202が、若柳駅跡にED203が保存されている。
:* ED35形(初代)(ED351)
:** 元[[西武1形電気機関車|西武鉄道1形1]]。改軌に伴って1955年に導入された東芝戦時形35 t機。1969年に2代目ED351に代替され廃車<ref name="RP560-pp240_241">杉田肇 「西武鉄道の電気機関車」 『鉄道ピクトリアル』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] 1992年5月号(通巻560号) pp.240 - 241</ref>。
:* ED35形(2代)(ED351)
:** 元[[東武ED610形電気機関車|東武鉄道日光軌道線ED610形ED611]]。初代ED351の代替を目的として1969年に入線し、以後貨物輸送の主力となった。1987年の廃車<ref name="C">寺田裕一『私鉄機関車30年』、JTBパブリッシング、2005年、p.36, 37, 165。ISBN 4-533-06149-4</ref>後は石越駅のJRとの連絡線の跡地に放置されていたが、栃木県の鉄道愛好家に引き取られ、保存されている。
;ディーゼル機関車
:* DB10型機関車(DB101・102)
:** 石越駅構内の入換用に使用された。DB102は貨物輸送廃止時に廃車され、DB101は電気運転廃止後の2005年に除籍された<ref name=C/>。DB101が旧若柳駅にて動態保存されており、貨物列車の乗車体験が行われている。
;電車
: Mは[[動力車|電動車]]、Cは[[制御車]]を表し、その後の数字は車体長を表す。
:* [[M15形]](M151 - 153)
:** 改軌の際に[[アルナ車両|ナニワ工機]]で新造された車両。当時の地方私鉄向け車両としては優れた車内設備を持っていた。電気運転廃止まで使用された<ref name="B">寺田裕一『ローカル私鉄車輌20年 東日本編』、 JTB、2001年、43 - 45頁。ISBN 4-533-03982-0</ref>。M152はチャチャワールドいしこしで保存されていたが2017年12月に解体<ref name="kuriden20181119"></ref>。旧若柳駅にM153が保存されており、くりはら田園鉄道公園の開業時に修繕された。
:* C15形(C151・152)
:** [[阪急51形電車|阪急51形]]81・86の車体と、[[西武鉄道]]のTR14型[[鉄道車両の台車|台車]]を組み合わせたC14形(C141・142)として登場したが、老朽化により[[1960年]]と[[1961年]]に鋼体化改造されてM15形と同等の設備となり、この際に形式もC15形(C151・152)に変更された。ラッシュ時の旅客の減少により、電気運転廃止前にはほとんど使用されていなかった<ref name=B/>。C152が[[チャチャワールドいしこし]]で保存されていたが2017年12月に解体<ref name="kuriden20181119"></ref>。
:* M17形(M171)・C17形(C171)
:** 元[[国鉄50系電車]]→西武クモハ375・376。[[1977年]]に入線したが、あまり運用されず[[1987年]]に廃車された<ref name=B/>。
:* M18形(M181・182・183)
:** '''M181'''は元[[武蔵野鉄道デハ100形電車|西武モハ204]]。M161として入線したが、[[1959年]]の鋼体化改造により車体長が伸びたため、M181に改番された<ref name=B/>。M182・183の入線に伴い予備車となってからは、カラオケ機器などが設置されイベント用車両として使用された。くりはら田園鉄道になってからは若柳駅構内で留置されていたが、2009年に解体された。
:** '''M182・183'''は元[[福島交通デハ5000形電車 (初代)|福島交通モハ5300形]]で、[[福島交通飯坂線|飯坂線]]の昇圧により[[1991年]]に転入。福島交通では2両1編成で使用されていたが<ref>『ローカル私鉄車輌20年 東日本編』、 47頁。</ref>、栗原電鉄では両運転台を活かして単行運転で使用された<ref name=B/>。182には栗駒山を描いた「くりこま」、183には伊豆沼の白鳥を描いた「はくちょう」のヘッドマークが取り付けられていた。くりはら田園鉄道になってからは駐輪場として利用されていたが、その後解体された。
<gallery>
ファイル:Kurihara Electric Railway M151 19920218.jpg|M15形 M151(石越駅)
ファイル:Kurihara Denen Railway M153.jpg|M15形 M153
ファイル:Kurihara Denen Railway C151.jpg|C15形 C151
ファイル:Kurihara Denen Railway M181.jpg|M18形 M181
ファイル:Kurihara Denen Railway M182.jpg|M18形 M182
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;貨車
: [[File:Wahu74 and to102.103.JPG|200px|thumb|ワフ74号車とト102・103号車]]
:* ワフ7形(71 - 74)
:** 元[[西武鉄道#武蔵野鉄道|武蔵野鉄道]]の[[緩急車]]で[[1914年]]製。末期は除草剤の散布用に利用された<ref name=B/>。細倉マインパーク前駅跡にワフ71が、若柳駅跡にワフ74が保存されている。
:* ト10形(101 - 103)
:** [[加古川線|播丹鉄道]]から鉄道省、西武を経て当線に入線。[[1907年]][[日本車輌製造|日本車輌]]製。[[空気ブレーキ]]を持たない古典的な貨車として貴重な存在である。砂利散布に使用された<ref name=B/>。旧若柳駅にてト102・103が動態保存されており、貨物列車の乗車会が開催される際はベンチを設置して旅客が乗車できるようになっている。
'''保線車両'''
* TMC-100
** 富士重工製の[[保線]][[モーターカー]]。中古車として1993年に入線した。[[クレーン]]と転回装置を備えている。
{{-}}
=== くりはら田園鉄道時代 ===
[[File:Kurihara-Den-en-Railway-KD951.jpg|200px|thumb|right|KD95形気動車]]
[[File:Kurihara-Den-en-railway-KD11.JPG|200px|thumb|right|KD10形気動車]]
;気動車
:* [[くりはら田園鉄道KD95形気動車|KD95形気動車]](KD951 - 953)
:** 電気運転を廃止し内燃動力に移行した際に3台が新製された[[富士重工業]]製の車体長16 m級の[[LE-Car#LE-DCシリーズ|軽快気動車 (LE-DC) ]]。同じく鉱山鉄道を前身に持つ[[わたらせ渓谷鐵道]]の[[わたらせ渓谷鐵道わ89-300形気動車|わ89-300]]を参考にして設計された<ref name=A/>。第三セクター化の際に嵩上げされたホーム高に合わせた車体設計のため、乗降扉の足元の位置はやや高めで、逆に扉下段差(ステップ)の高さは極力抑えられている。内装に宮城県産木材を多用するなど凝った作りである。951には白鳥、952には野菊、953には栗駒山と馬のエンブレムがつけられていた。ワンマン対応。3両共に現存し、951と953は定期的に動態保存活動を行っていて、952は線路が分断された旧車庫内に静態保存されている。([[#動態保存]]を参照)
:* KD10形気動車(KD11・12)
:** 元[[名鉄キハ10形気動車|名鉄キハ10形]]15・16。朝の通学客対策のため1995年に名古屋鉄道から転入し、同年8月6日より快速さわべとして営業運転を開始したが当初は予備車に近い扱いであった<ref name="rf_199610">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年10月号 通巻426号 p.106 - 107</ref>。晩年にはその通学客も激減して2両で運行する必要性が無くなったため、2005年春以降は定期運用を失った<ref name=A/>。ワンマン対応工事は最後まで行われなかった。ちなみにこの気動車は、名鉄の閑散線区の電化を廃してコストダウンを図るために製造された物で、その意味ではKD95形と似た生い立ちを持つと言える。KD11が若柳駅にて保存され、動態保存活動に使用されている。 <br />
{{-}}
== 参考文献 ==
* 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くI 北海道・東北編』、JTBパブリッシング、2007年、160、 161頁。ISBN 978-4-533-06847-8
* 堀内重人『鉄道・路線廃止と代替バス』、東京堂出版、2010年、199 - 205頁。ISBN 978-4-490-20696-8
* 瀬古龍雄「電化した直後の栗原鉄道の記録」、『鉄道ファン』2010年5月号、2010年、pp.114-119。
* 「サヨナラ!くりでん」エムジー・コーポレーション、2007年
* 寺田裕一「栗原電鉄」ネコ・パブリッシング2015年
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[ミヤコーバス]]
* [[岸由一郎]]
* [[OH!バンデス]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/19991117072735/http://www.pref.miyagi.jp/soukou/k_HYODAI.html くりはら田園鉄道株式会社 公式ページ]
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[[Category:2010年廃止の企業]]
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18,690 |
アルトビール
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アルトビール(ドイツ語: Altbier)は、上面発酵のビールのスタイルの一つであり、ドイツのデュッセルドルフで発展した。
ドイツ語のドイツ語: altは、英語: oldの意味であり、下面発酵が普及する以前から作られていることに由来する。比較的高温の摂氏15度から摂氏20度で発酵させ、熟成は低温で行われる。液色は赤銅色で、アルコール度数は4.5%前後となる。
フルーティな香りが特徴であり、ホップの苦味は強めだが製品によって幅広い。
アルトビールは、同じ上面発酵のビールであるケルシュと激しい競合関係にあるが、前者は黒褐色をしているのに対し、後者は黄金色をしているほか、味覚の点でかなりの相違がある。
いずれもデュッセルドルフ。
日本でも、2009年頃からのクラフトビール隆盛に伴い、アルトビールを醸造する醸造所が複数存在する。
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アルトビールは、上面発酵のビールのスタイルの一つであり、ドイツのデュッセルドルフで発展した。
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{{出典の明記|date=2017年2月13日 (月) 15:46 (UTC)}}
[[Image:Diebels Altbier.jpg|right|200px|thumb|アルトビール]]
'''アルトビール'''({{lang-de|Altbier}})は、[[ビール#分類|上面発酵]]の[[ビール]]の[[スタイル (ビール)|スタイル]]の一つであり、[[ドイツ]]の[[デュッセルドルフ]]で発展した{{R|検定}}。
== 概要 ==
ドイツ語の{{lang-de|alt}}は、{{lang-en|old}}の意味であり、[[下面発酵]]が普及する以前から作られていることに由来する{{R|検定}}。比較的高温の摂氏15度から摂氏20度で発酵させ、熟成は低温で行われる{{R|nd}}。液色は赤銅色で、アルコール度数は4.5%前後となる{{R|nd}}。
フルーティな香りが特徴であり、ホップの苦味は強めだが製品によって幅広い{{R|nd|事典}}。
アルトビールは、同じ上面発酵のビールである[[ケルシュ]]と激しい競合関係にあるが、前者は黒褐色をしているのに対し、後者は黄金色をしているほか、味覚の点でかなりの相違がある{{要出典|date=2018年9月4日 (火) 05:45 (UTC)}}。
== 代表的な醸造所 ==
いずれもデュッセルドルフ。
*[[シューマッハ (醸造所)|シューマッハ]] - アルトビールを最初に作ったと言われている{{R|nd}}。
*[[シュルッセル]]([[:de:Brauerei zum Schlüssel]])
*[[フュックスヒェン]]([[:de:Brauerei im Füchschen]])
== 日本国内の醸造所 ==
日本でも、2009年頃からの[[クラフトビール]]隆盛に伴い、アルトビールを醸造する醸造所が複数存在する。
* [[軽井沢ブルワリー]] 商品名「赤ビール〈アルト〉」度数5%[http://brewery.co.jp/lineup/alt.html]
* [[さがみビール]] 商品名「アルト」[http://www.koganeishuzou.com/sagamibeer/alt.htm]
* [[ベアレン醸造所]] 商品名「ベアレンアルト」度数5%[http://baeren.jp/alt.shtml]
* [[田沢湖ビール]] 商品名「アルト」度数5%[http://www.warabi.or.jp/beer/alt.html]
* [[宇奈月ビール]] 商品名「トロッコ」度数5%[http://www.unazuki-beer.jp/beer.html]
== 出典 ==
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<ref name="検定">{{cite book|和書|title=改訂新版 日本ビール検定公式テキスト|author=日本ビール文化研究会|publisher=[[実業之日本社]]|year=2014|isbn=978-4408133607|page=69}}</ref>
<ref name="事典">{{cite book|和書|title=ビール事典|publisher=[[学研プラス]]|year=2014|isbn=978-4059136187|page=39}}</ref>
<ref name="nd">{{Cite web|和書|url=http://www.newsdigest.de/newsde/gourmet/beer/4946-950.html|title=古くて新しいアルトビール|date=2013-05-15|publisher=ドイツ[[ニュースダイジェスト]]|accessdate=2018-09-03}}</ref>
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18,691 |
デュッセルドルフ
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デュッセルドルフ(独: Düsseldorf)は、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン=ヴェストファーレン州の州都。人口は約63万人(2022年時点)。
ライン川河畔に位置し、ライン・ルール大都市圏地域の中心でルール工業地帯のすぐ南西部にある。金融やファッション、世界的な見本市の中心都市の一つである。また西ヨーロッパの中でもブルーバナナと呼ばれる、経済的にも人口的にもとくに発展した地域内に位置し、市内にはフォーチュン・グローバル500に含まれる5社や、いくつかのDAXに含まれている企業が本社を置いている。日本企業の進出も盛んで、デュッセルドルフ市内には約5,000人の日本人の駐在員やその家族などが居住し、日本総領事館などのあるインマーマン通りは日本人街の様相を呈している。1971年にはデュッセルドルフ日本人学校も開校し、1990年前後には生徒数1000名近くにまで達した。2011年に行われたマーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティングによる世界で最も居住に適した都市の調査では世界では5位、ドイツ国内では2位につけている。
デュッセルドルフは経済的な中心としてだけではなく、芸術的な分野でも知られた都市で、デュッセルドルフ芸術アカデミーからはヨーゼフ・ボイスやアウグスト・マッケ、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、アンドレアス・グルスキーといった画家や写真家などの芸術家を輩出している。電子音楽の先駆者で影響を与えたクラフトワークも、デュッセルドルフを起点としている。デュッセルドルフはカーニバルの開催都市としても知られている。また、毎年7月にはGrößte Kirmes am Rhein (en) が開催され、450万人以上の人々が市内を訪れる。
デュッセルドルフは低ライン(英語版)流域の中央部に位置し、街の名の由来でもあるライン川の支流であるデュッセル川(英語版)がデルタ状に市街を流れている。デュッセルドルフより上流の郊外にあるネアンデル谷では、ネアンデルタール人の化石の一部が発見されている。デュッセルドルフ市街はそのほとんどがライン川の東側に位置するが、4区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 04) だけは西側に位置している。ライン川の対岸はノイスでエルフト川(英語版)が合流している。デュッセルドルフの市域は全体が沖積層の上にあり、地層は泥や砂、粘土、砂利などの地質である。デュッセルドルフの最高地点は市域の東端の7区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 07) のフッベルラート(ドイツ語版) にあるザントベルク(ドイツ語版)で、海抜は165メートル (541 ft)である。最低地点は5区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 05) のヴィットラアー(ドイツ語版)にあるシュヴァルツバッハ (Schwarzbach) がライン川に流れ込む地点で、28メートル (92 ft)である。
ローマ帝国がヨーロッパ全土で力を強固にしていたころ、少数のゲルマン人の部族はライン川東岸の沼地の領地を手放そうとしなかった。7世紀や8世紀の農業や漁業の集落の断片が小さな川であるデュッセル川(英語版)がライン川へと流れ込む地点で見ることが出来る。デュッセルドルフの街が発展するのはそのような集落からであった。
デュッセルドルフの街(当時は地元のムーズ・ライン方言(英語版)でデュッセルドルプ Dusseldorp)の最初の記録は1135年に遡る。都市名は、「デュッセル川のほとりの村」を意味し、1065年に>Tussale<と記されたその川の名前は、現在のドイツ語で>rauschendes Wasser<(「サラサラと流れる水」)ほどの意味である。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の下、デュッセルドルフ北部のカイザースヴェルト(英語版)の小さな町はよく要塞化された駐屯地になり、兵士たちはライン川上の全ての動きを監視していた。1929年にカイザースヴェルトはデュッセルドルフの郊外になっている。1186年にデュッセルドルフはベルク伯領の治世下となる。
1288年8月14日はデュッセルドルフの歴史にとっては最も重要な日の一つで、川に面したデュッセルの村は都市特権を得た。布告に先立って、血なまぐさい権力争いがケルン大司教領とベルク公国の間で起こりヴォリンゲンの戦い(英語版)でピークに達する。ケルン大司教領の軍勢はケルンやデュッセルドルフの市民や農民の支持を受けたベルク公国の軍勢により退けられ、このことはデュッセルドルフの都市への昇格の道を固め、今日ではブルク広場にあるモニュメントによって記念されている。この戦いの後、商業的なライバルとして都市間の関係は悪化した。しばしば、ケルンとデュッセルドルフの市民の間には対抗心のようなものがあると言われている。今日、この表現は主にユーモアのある特にラインラントのカーニバルやスポーツの中で現れている。市場広場(英語版)がライン川河畔に現れ、広場は市壁により四方が保護されていた。1380年、ベルク公ヴィルヘルム1世はその中心を移し、デュッセルドルフはベルク公国の首都となった。
その後の数世紀の間に、協同教会(英語版)のランベルトゥス教会などいくつかの有名なランドマークが建てられた。1609年にユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の最後の公爵ヨハン・ヴィルヘルムが死去すると継承争いが続き、ユーリヒとベルクはヴィッテルスバッハ家のプファルツ=ノイブルク公に渡った。デュッセルドルフはその居城となり、1685年にはプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位も獲得している。ヨハン・ヴィルヘルム選帝侯(1690年 - 1716年)の下での18世紀のデュッセルドルフの成長は著しいものであった。妃であったアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの強い影響により、絵画や彫刻など莫大なコレクションがシュタットシュロス(Stadtschloss)に収蔵されている。
子供がないままヨハン・ヴィルヘルムが死去すると、デュッセルドルフの繁栄はかげりを見せ始める。カール・テオドールはバイエルン選帝侯を継承し、選帝侯の宮廷はミュンヘンに移った。美術品のコレクションは持ち去られ、その一部は現在ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに収蔵されている。もっとも、ゲーテが1774年のライン旅行の最終目的地として選んだのは、デュッセルドルフであった。それは、この街に、文人の集うヤコービ家(Familie Jakobi;フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄)の館があったからである。当時デュッセルドルフは「ヨーロッパ啓蒙主義の一中心地」(ein Zentrum des europäischen aufgeklärten Geistes)であった。ナポレオン戦争の後、破壊と貧困がデュッセルドルフを襲った。ナポレオンはベルク大公国を設け、デュッセルドルフに首都を置いた。ヨハン・クリスティアン・クラディウス・デヴァランネ(英語版)はゾーリンゲンのナポレオンの徴兵令の抵抗運動のリーダーであったが、1813年にデュッセルドルフで処刑された。ナポレオンが敗北すると、ベルクを含むラインラント全域が1815年にプロイセン王国となった。後にライン州(英語版)の議会がデュッセルドルフに設立された。
19世紀半ばにデュッセルドルフは産業革命により復興を享受し、都市の人口は1882年に10万人を擁し、1892年には倍になった。
1920年にデュッセルドルフはゼネストの中心となる。1920年4月15日に45人のドイツ炭鉱労働者労働組合の代表がドイツ義勇軍により殺害されている。第二次世界大戦の戦略爆撃(英語版)の標的となり、特にルールの戦い(英語版)では700を超える爆撃機が一晩で使用された。空襲は戦争末期まで続き、石油精製施設への攻撃の一環としてイギリス空軍は、1945年2月20日と21日にデュッセルドルフのライスホルツ地区にあるリナニア・オサックの精油所を攻撃し精製が停止した。連合国はドイツに進軍し、1945年4月半ばにはデュッセルドルフに到達している。アメリカの第97歩兵師団は組織化されたドイツの抵抗勢力がいないまま1945年4月18日に容易に街を攻略した。
1946年、デュッセルドルフは新しく制定された連邦のノルトライン=ヴェストファーレン州の州都となった。街の再建は猛烈なペースで進み、経済の変化はデュッセルドルフが行政、サービス産業、裕福な通商都市として成長したことを今日見せている。
デュッセルドルフは経済的に力強く、多様性と世界的な相互依存を強く意図した都市で、ライン・ルール地方中央に位置する機能的な優位性がある都市である。ノルトライン=ヴェスファーレン州の州都として行政的にも、人口の集積に関しても優位性がある。また、デュッセルドルフにはドイツでは3番目に大きなデュッセルドルフ空港があり、国際的なつながりでもその優位性があり、25の国際的な見本市(メッセ)が行われ、都市の経済にとって重要性がある。デュッセルドルは労働市場においてもノルトライン=ヴェストファーレン州では有力な都市である。投資には好ましい環境で、比較的多くの企業がデュッセルドルフで起業している。
デュッセルドルフをリードしている部門は、金融以外には広告や特許、通信、企業の管理部門、ファッションなどで、Collections Premieren Düsseldorf は欧州でも先導的なファッションフェアである。デュッセルドルフには600を超える様々な製品や分野のショールームがある。文化創造の分野では4,100社で年間74億ユーロの売り上げがある。デュッセルドルフにはフランクフルトに次いで2番目に大きな銀行や証券部門があり、デュッセルドルフ証券取引所がある。約170の銀行の支店や本社があり、18世紀以来の伝統があるHSBCホールディングスの HSBC Trinkaus はデュッセルドルフに本拠地を置いている。ロレアルドイツやボーダフォンドイツ(Vodafone D2)、メトロ、E.ON、ラインメタル、ヘンケル、ERGO保険グループ(英語版)など国際的な企業もデュッセルドルフに本拠地を置いている。ダイムラーはメルセデス・ベンツ スプリンターなどをデュッセルドルフで生産している。
1960年代以来、デュッセルドルフと日本の間には強い関係があり「ラインの日本」というニックネームがある。多くの日本の銀行や企業はデュッセルドルフにヨーロッパの支店や拠点機能を置いており、欧州ではロンドンやパリに次いで3番目に大きな日本人コミュティが形成されている。
デュッセルドルフ中央駅近くのインマーマン通りImmermannstraßeは日本人通りとも言われており、商工会議所に届け出をしている日系企業は200社を超える。また、飲食店の他に書店や病院、薬局、不動産屋、旅行会社、クリーニング屋など日本語でも表記された店舗が並ぶ。同じ商品でも日本に比べて割高になっている商品も多くある。日系の企業以外にもオランダやイギリス、スカンジナビア諸国、中国の企業もデュッセルドルフには多く立地している。
2008年のデュッセルドルフの総生産は420億ユーロで、労働者一人当たり88,000ユーロであり、フランクフルト共にドイツではトップを占めている。経済的には好調なデュッセルドルフではあるが、失業率はドイツの平均を超えており、ここ30年間で約50,000人分の製造業の雇用が失われている。
デュッセルドルフ市域の2011年の人口は589,682人で、ドイツでは7番目に大きな都市であった。歴史的には、工業化の進展により1882年に人口は10万人を超え、1962年には70万5千人とピークを迎えている。それ以来、市の人口は減少傾向にあるが、これは郊外部への人口移動による。1990年代後半からは人口が緩やかに増え始めている。
デュッセルドルフ市内には2008年の時点で、109,883人の外国人が居住し、外国人の大半はヨーロッパ域内出身者で、多数を占めるマイノリティーはトルコ人、ギリシャ人、イタリア人であった。また、デュッセルドルフとその周辺部はヨーロッパでは3番目、ドイツでは最大の日本人コミュニティがあり、約5,000人の日本人がデュッセルドルフで暮らしている。また、ドイツでは3番目に大きいユダヤ人コミュニティも形成され、人口の1%以上に当たる約7,600人のユダヤ人も暮らしている。
デュッセルドルフ大学(英語版)(ハインリッヒ・ハイネ大学)は市の南部に立地している。20,000人の学生が自然科学、数学、計算機科学、哲学、社会科学、芸術、言語、医学、薬学、経済、法律など幅広い分野について学んでいる。デュッセルドルフの他の学術機関には以下のようなものが含まれる。
デュッセルドルフ空港はデュッセルドルフ中心部から8kmは離れた場所にあり、Sバーン(近郊電車)により簡単にたどり着くことが出来る。デュッセルドルフ空港駅は近距離やドイツ国内の列車が発着し、自動運転の交通システムであるデュッセルドルフ・スカイトレインにより空港と結ばれている。空港にはターミナル内にある駅もあり、こちらはSバーンのS11により行くことが出来る。
デュッセルドルフ空港は年間1,800万人の旅客数を有し、フランクフルト空港やミュンヘン空港に次いでドイツでは3番目に旅客数が多い空港で、70の航空会社により4大陸180都市に就航している。空港ターミナルビルは、1996年に溶接作業中の火災事故により17名が死亡して一部が損壊した。その後、スカイトレインが導入され再建されている。
中心部にあるデュッセルドルフ中央駅にはICEやインターシティをはじめ、若干の夜行列車が発着し、ドイツ国内や近隣国と結ばれており、ドイツ鉄道によって毎日約1,000本の列車が運行されている。デュッセルドルフはライン=ルール運輸連合のエリア内に含まれ、Sバーンやトラム、路線バスなどの交通体系が一体化され、利用しやすい。
アウトバーン網も密に形成されており、A3、A44、A46、A52、A57、A59などの各路線が連絡する。
芸術を愛したヨハン・ヴィルヘルム選帝侯と妻のアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチは17世紀から18世紀のデュッセルドルフの最初の文化活動の重要な後援者であった。1997年はハインリヒ・ハイネの生誕200周年で、ロベルト・シューマンやフェリックス・メンデルスゾーンもデュッセルドルフに関連した著名な芸術家である。芸術的な刺激はしばしばデュッセルドルフ美術アカデミーから生まれ、パウル・クレーやヨーゼフ・ボイス、ゲルハルト・リヒターなどが関連している。
デュッセルドルフの文化面には、伝統やアバンギャルド、古典、華やかさが含まれる。ノルトライン=ヴェストファーレン州の世界的に有名なアートコレクションには高い定評があり、ライン・ドイツ・オペラやデュッセルドルフ劇場(英語版)、グスタフ・グリュントゲンス(英語版)の活躍などはデュッセルドルフの洗練された芸術の中心で、評価の大きな要素である。
デュッセルドルフはアルトビールで良く知られ、ホップの味がするビールは古いスタイルのビールと言い換えられ、ブリティッシュペールエールのような上面発酵酵母を使用したプレ・ラガー醸造法と関連する。時間と共にアルトイーストは低い温度に調整され、醸造者が貯蔵するアルトまたはラガーは発酵した後に混じり気のない切れのあるビールになる。
アルトビール(Altbier)は、ドイツで占めつつあった新しいヘレスと区別するために19世紀に登場した。デュッセルドルフの醸造者はモダンなのラガーのために薄い色の麦芽を使ったが、暖かく発酵させるイーストを使う古い(alt)製法を保っている。アルトの名称を最初に使った醸造所は1838年に開業したシューマッハである。創設者のマティアス・シューマッハ(Mathias Schumacher)は、ビールを通常よりも長い木製の樽で涼しい条件で熟成させ、現代のアルトビールの基礎を築いた。結果、淡いビールはラガーの切れの良い傾向だが香りの豊かさを備えている。
現在では5箇所のアルトビールを出す醸造所のパブがデュッセルドルフにある。Füchschen、Schumacher、Schlüsselと新しく開業したBrauerei Kürzerがあり、5軒のうち4軒はデュッセルドルフの歴史の中心である旧市街にあり、Schumacherは旧市街と中央駅の間に位置しており、旧市街のGoldener Kesselも店が維持されている。名称はそれぞれ異なるものの、少量の特別で隠れた季節の "Sticke" 版のビールが作られる。鍵を意味する Schlüssel の綴りから c がなくなり Stike となり、Schumacher では特別なビールを鎧板のビールを意味する "Latzenbier" と呼び、おそらくその呼び名は注がれた小さい樽が高くした棚で保存されていたからである。Füchschenの季節のビールはクリスマスビール Weihnachtsbier で、11月半ばに瓶詰が始まり、クリスマスイブにパブで提供される。
伝統的な食事にはライニシャーザウアーブラーテンとヒンメル・ウント・ヘッレ(英語版)(Himmel und Äd、天と地)と呼ばれるブラッドソーセージにシチューにしたリンゴとマッシュポテトを添えた物がある。冬にはラインスタイルのムール貝(Muscheln Rheinischer Art)が好んで食され、フライにしたジャガイモのパンケーキにリンゴのソースを添えたライベクーヘン(英語版)も食されている。
デュッセルドルファー・ゼンフロスブラーテンも名物料理で焼いたステーキの上にデュッセルドルフのマスタードを添えている。デュッセルドルフは強いディジョン風のようなマスタードで知られ、伝統的なモスターペットヒェ(Mostertpöttche)と呼ばれる容器に供され、これらは1884年にフィンセント・ファン・ゴッホの静物画に残された。
現代のポピュラー音楽の文化でデュッセルドルフに最も有名な貢献をしたのは、前衛的な電子音楽バンドのクラフトワークであることは疑いの余地がない。デュッセルドルフ出身の少数のミュージシャンにより結成され、クラフトワークは国際的に第二次世界大戦後のドイツの音楽史の中で最も重要なバンドであり、電子音楽の先駆者として知られている。Warlockなどのヘビメタバンドも良く知られている。
また2011年にはエスプリ・アレーナで第56回ユーロビジョン・ソング・コンテストが開催された。更に、近年では、日系両親のもとに地元で生まれ育ったブルーミオblumioという日系人のラッパーが、ドイツラップの分野で、ドイツ国内でも高いYouTube再生回数を記録する等、高く評価されている。
デュッセルドルフ最大のイベントはカーニバルで、毎年11月11日午前11時11分に開始され、クライマックスは「薔薇の月曜」 (Rosenmontag) に迎える。デュッセルドルフの通りでは大きなパレードが行われ、カーニバルの特徴となっている。カーニバルは「灰の水曜日」を意味する Aschermittwoch に終わる。デュッセルドルフのカーニバルは伝統的なラインラントのカーニバルの一部である。
デュッセルドルフとケルンの間には激しい地域の対抗心がある。対抗意識にはカーニバルのパレードやサッカー、ビールなどがある。ケルンの人々はケルシュを好むが、デュッセルドルフの人々はアルトを好んでいる。ケルンでアルトを、デュッセルドルフでケルシュを注文すると、軽蔑や嘲笑を受ける。このライバル関係は愛憎関係として表現されている。
デュッセルドルフでは他のドイツの地域と同様に、当然の事ながらサッカーが最も人気のスポーツとなっている。プロサッカーチームのフォルトゥナ・デュッセルドルフは、1933年のドイツ・サッカー選手権では優勝を果たしており、1979年のUEFAカップウィナーズカップでは準優勝に輝いた。1979年と1980年のDFBポカールの勝者でもあり、いわゆる古豪クラブとして認識されている。
2011-12シーズンは2部リーグに属していたが、昇格プレーオフでヘルタ・ベルリンを破り15年ぶりに1部リーグへ復帰した。さらに新スタジアムであるエスプリ・アレーナが2005年にオープンし、収容人員は54,500人を誇る。また、デュッセルドルフはドイツで行われた「1974 FIFAワールドカップ」の9都市の開催都市の一つでもあった。なお、クラブは2022-23シーズンは2部リーグに所属している。
1978年以来、ロクスクラブ・デュッセルドルフで「ワールドチームカップ」が開催されていたが2012年に終了した。その後、翌年からデュッセルドルフ・オープンが新設されたが、これも2大会で終了している。また、2017年には当地でツール・ド・フランスのプロローグが開催された。
卓球も盛んであり、卓球ブンデスリーガ1部の名門『ボルシア・デュッセルドルフ』はティモ・ボルと共にドイツで最も成功したチームであり、松下浩二や水谷隼などの日本人選手もかつて所属していた。
アメリカンフットボールでは、デュッセルドルフ・パンサー(英語版)はドイツ国内において最も成功したクラブチームの一つで、6つのジャーマン・ボウル(英語版)のタイトルと1995年にユーロボウル(英語版)で優勝している。これらに加えて、ジュニアチームも最も成功したドイツでのユース部門で15回ジャーマン・ジュニア・ボール(英語版)の勝者となっている。ライン・ファイヤーはNFLヨーロッパに属していたチームで、1998年と2000年の2度ワールドボウルで優勝を果たした。
1975年以来、デュッセルドルフ市内は10の行政区画(Bezirk)に分けられており、それぞれの区では独自の区議会(Bezirksvertretung)と区長(Bezirksvorsteher)が選出される。区議会(協議会)は助言的なものに留まっている。それぞれの区はさらに下位の地区に分けられ、デュッセルドルフには10の区の下に49の地区が分けられている。
デュッセルドルフの気候は他のラインラント地域と同様に、やや寒い冬とほどほどの暑さの夏が訪れ、年平均気温は11.5 °C (53 °F)で年間降水量は934mmである。南や南東の風が優勢で、風速は3 - 4 m/s (7 - 9 mph)で突風は3.5 - 4.8 m/s (8 - 10.7 mph)である。風は穏やかで夜間や冬に良く発生する。
デュッセルドルフでは以下の都市と姉妹都市の関係にある。
モスクワ, ロシアは2022年ロシアのウクライナ侵攻の原因で姉妹都市関係は一時停止されている。
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"text": "デュッセルドルフ(独: Düsseldorf)は、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン=ヴェストファーレン州の州都。人口は約63万人(2022年時点)。",
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"text": "ライン川河畔に位置し、ライン・ルール大都市圏地域の中心でルール工業地帯のすぐ南西部にある。金融やファッション、世界的な見本市の中心都市の一つである。また西ヨーロッパの中でもブルーバナナと呼ばれる、経済的にも人口的にもとくに発展した地域内に位置し、市内にはフォーチュン・グローバル500に含まれる5社や、いくつかのDAXに含まれている企業が本社を置いている。日本企業の進出も盛んで、デュッセルドルフ市内には約5,000人の日本人の駐在員やその家族などが居住し、日本総領事館などのあるインマーマン通りは日本人街の様相を呈している。1971年にはデュッセルドルフ日本人学校も開校し、1990年前後には生徒数1000名近くにまで達した。2011年に行われたマーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティングによる世界で最も居住に適した都市の調査では世界では5位、ドイツ国内では2位につけている。",
"title": "概要"
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"text": "デュッセルドルフは経済的な中心としてだけではなく、芸術的な分野でも知られた都市で、デュッセルドルフ芸術アカデミーからはヨーゼフ・ボイスやアウグスト・マッケ、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、アンドレアス・グルスキーといった画家や写真家などの芸術家を輩出している。電子音楽の先駆者で影響を与えたクラフトワークも、デュッセルドルフを起点としている。デュッセルドルフはカーニバルの開催都市としても知られている。また、毎年7月にはGrößte Kirmes am Rhein (en) が開催され、450万人以上の人々が市内を訪れる。",
"title": "概要"
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"text": "デュッセルドルフは低ライン(英語版)流域の中央部に位置し、街の名の由来でもあるライン川の支流であるデュッセル川(英語版)がデルタ状に市街を流れている。デュッセルドルフより上流の郊外にあるネアンデル谷では、ネアンデルタール人の化石の一部が発見されている。デュッセルドルフ市街はそのほとんどがライン川の東側に位置するが、4区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 04) だけは西側に位置している。ライン川の対岸はノイスでエルフト川(英語版)が合流している。デュッセルドルフの市域は全体が沖積層の上にあり、地層は泥や砂、粘土、砂利などの地質である。デュッセルドルフの最高地点は市域の東端の7区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 07) のフッベルラート(ドイツ語版) にあるザントベルク(ドイツ語版)で、海抜は165メートル (541 ft)である。最低地点は5区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 05) のヴィットラアー(ドイツ語版)にあるシュヴァルツバッハ (Schwarzbach) がライン川に流れ込む地点で、28メートル (92 ft)である。",
"title": "地理"
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"text": "ローマ帝国がヨーロッパ全土で力を強固にしていたころ、少数のゲルマン人の部族はライン川東岸の沼地の領地を手放そうとしなかった。7世紀や8世紀の農業や漁業の集落の断片が小さな川であるデュッセル川(英語版)がライン川へと流れ込む地点で見ることが出来る。デュッセルドルフの街が発展するのはそのような集落からであった。",
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"text": "デュッセルドルフの街(当時は地元のムーズ・ライン方言(英語版)でデュッセルドルプ Dusseldorp)の最初の記録は1135年に遡る。都市名は、「デュッセル川のほとりの村」を意味し、1065年に>Tussale<と記されたその川の名前は、現在のドイツ語で>rauschendes Wasser<(「サラサラと流れる水」)ほどの意味である。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の下、デュッセルドルフ北部のカイザースヴェルト(英語版)の小さな町はよく要塞化された駐屯地になり、兵士たちはライン川上の全ての動きを監視していた。1929年にカイザースヴェルトはデュッセルドルフの郊外になっている。1186年にデュッセルドルフはベルク伯領の治世下となる。",
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"text": "1288年8月14日はデュッセルドルフの歴史にとっては最も重要な日の一つで、川に面したデュッセルの村は都市特権を得た。布告に先立って、血なまぐさい権力争いがケルン大司教領とベルク公国の間で起こりヴォリンゲンの戦い(英語版)でピークに達する。ケルン大司教領の軍勢はケルンやデュッセルドルフの市民や農民の支持を受けたベルク公国の軍勢により退けられ、このことはデュッセルドルフの都市への昇格の道を固め、今日ではブルク広場にあるモニュメントによって記念されている。この戦いの後、商業的なライバルとして都市間の関係は悪化した。しばしば、ケルンとデュッセルドルフの市民の間には対抗心のようなものがあると言われている。今日、この表現は主にユーモアのある特にラインラントのカーニバルやスポーツの中で現れている。市場広場(英語版)がライン川河畔に現れ、広場は市壁により四方が保護されていた。1380年、ベルク公ヴィルヘルム1世はその中心を移し、デュッセルドルフはベルク公国の首都となった。",
"title": "歴史"
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"text": "その後の数世紀の間に、協同教会(英語版)のランベルトゥス教会などいくつかの有名なランドマークが建てられた。1609年にユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の最後の公爵ヨハン・ヴィルヘルムが死去すると継承争いが続き、ユーリヒとベルクはヴィッテルスバッハ家のプファルツ=ノイブルク公に渡った。デュッセルドルフはその居城となり、1685年にはプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位も獲得している。ヨハン・ヴィルヘルム選帝侯(1690年 - 1716年)の下での18世紀のデュッセルドルフの成長は著しいものであった。妃であったアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの強い影響により、絵画や彫刻など莫大なコレクションがシュタットシュロス(Stadtschloss)に収蔵されている。",
"title": "歴史"
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"text": "子供がないままヨハン・ヴィルヘルムが死去すると、デュッセルドルフの繁栄はかげりを見せ始める。カール・テオドールはバイエルン選帝侯を継承し、選帝侯の宮廷はミュンヘンに移った。美術品のコレクションは持ち去られ、その一部は現在ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに収蔵されている。もっとも、ゲーテが1774年のライン旅行の最終目的地として選んだのは、デュッセルドルフであった。それは、この街に、文人の集うヤコービ家(Familie Jakobi;フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとその兄)の館があったからである。当時デュッセルドルフは「ヨーロッパ啓蒙主義の一中心地」(ein Zentrum des europäischen aufgeklärten Geistes)であった。ナポレオン戦争の後、破壊と貧困がデュッセルドルフを襲った。ナポレオンはベルク大公国を設け、デュッセルドルフに首都を置いた。ヨハン・クリスティアン・クラディウス・デヴァランネ(英語版)はゾーリンゲンのナポレオンの徴兵令の抵抗運動のリーダーであったが、1813年にデュッセルドルフで処刑された。ナポレオンが敗北すると、ベルクを含むラインラント全域が1815年にプロイセン王国となった。後にライン州(英語版)の議会がデュッセルドルフに設立された。",
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"text": "19世紀半ばにデュッセルドルフは産業革命により復興を享受し、都市の人口は1882年に10万人を擁し、1892年には倍になった。",
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"text": "1920年にデュッセルドルフはゼネストの中心となる。1920年4月15日に45人のドイツ炭鉱労働者労働組合の代表がドイツ義勇軍により殺害されている。第二次世界大戦の戦略爆撃(英語版)の標的となり、特にルールの戦い(英語版)では700を超える爆撃機が一晩で使用された。空襲は戦争末期まで続き、石油精製施設への攻撃の一環としてイギリス空軍は、1945年2月20日と21日にデュッセルドルフのライスホルツ地区にあるリナニア・オサックの精油所を攻撃し精製が停止した。連合国はドイツに進軍し、1945年4月半ばにはデュッセルドルフに到達している。アメリカの第97歩兵師団は組織化されたドイツの抵抗勢力がいないまま1945年4月18日に容易に街を攻略した。",
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"text": "1946年、デュッセルドルフは新しく制定された連邦のノルトライン=ヴェストファーレン州の州都となった。街の再建は猛烈なペースで進み、経済の変化はデュッセルドルフが行政、サービス産業、裕福な通商都市として成長したことを今日見せている。",
"title": "歴史"
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"text": "デュッセルドルフは経済的に力強く、多様性と世界的な相互依存を強く意図した都市で、ライン・ルール地方中央に位置する機能的な優位性がある都市である。ノルトライン=ヴェスファーレン州の州都として行政的にも、人口の集積に関しても優位性がある。また、デュッセルドルフにはドイツでは3番目に大きなデュッセルドルフ空港があり、国際的なつながりでもその優位性があり、25の国際的な見本市(メッセ)が行われ、都市の経済にとって重要性がある。デュッセルドルは労働市場においてもノルトライン=ヴェストファーレン州では有力な都市である。投資には好ましい環境で、比較的多くの企業がデュッセルドルフで起業している。",
"title": "経済"
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"text": "デュッセルドルフをリードしている部門は、金融以外には広告や特許、通信、企業の管理部門、ファッションなどで、Collections Premieren Düsseldorf は欧州でも先導的なファッションフェアである。デュッセルドルフには600を超える様々な製品や分野のショールームがある。文化創造の分野では4,100社で年間74億ユーロの売り上げがある。デュッセルドルフにはフランクフルトに次いで2番目に大きな銀行や証券部門があり、デュッセルドルフ証券取引所がある。約170の銀行の支店や本社があり、18世紀以来の伝統があるHSBCホールディングスの HSBC Trinkaus はデュッセルドルフに本拠地を置いている。ロレアルドイツやボーダフォンドイツ(Vodafone D2)、メトロ、E.ON、ラインメタル、ヘンケル、ERGO保険グループ(英語版)など国際的な企業もデュッセルドルフに本拠地を置いている。ダイムラーはメルセデス・ベンツ スプリンターなどをデュッセルドルフで生産している。",
"title": "経済"
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"text": "1960年代以来、デュッセルドルフと日本の間には強い関係があり「ラインの日本」というニックネームがある。多くの日本の銀行や企業はデュッセルドルフにヨーロッパの支店や拠点機能を置いており、欧州ではロンドンやパリに次いで3番目に大きな日本人コミュティが形成されている。",
"title": "経済"
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"text": "デュッセルドルフ中央駅近くのインマーマン通りImmermannstraßeは日本人通りとも言われており、商工会議所に届け出をしている日系企業は200社を超える。また、飲食店の他に書店や病院、薬局、不動産屋、旅行会社、クリーニング屋など日本語でも表記された店舗が並ぶ。同じ商品でも日本に比べて割高になっている商品も多くある。日系の企業以外にもオランダやイギリス、スカンジナビア諸国、中国の企業もデュッセルドルフには多く立地している。",
"title": "経済"
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"text": "2008年のデュッセルドルフの総生産は420億ユーロで、労働者一人当たり88,000ユーロであり、フランクフルト共にドイツではトップを占めている。経済的には好調なデュッセルドルフではあるが、失業率はドイツの平均を超えており、ここ30年間で約50,000人分の製造業の雇用が失われている。",
"title": "経済"
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"text": "デュッセルドルフ市域の2011年の人口は589,682人で、ドイツでは7番目に大きな都市であった。歴史的には、工業化の進展により1882年に人口は10万人を超え、1962年には70万5千人とピークを迎えている。それ以来、市の人口は減少傾向にあるが、これは郊外部への人口移動による。1990年代後半からは人口が緩やかに増え始めている。",
"title": "人口"
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"text": "デュッセルドルフ市内には2008年の時点で、109,883人の外国人が居住し、外国人の大半はヨーロッパ域内出身者で、多数を占めるマイノリティーはトルコ人、ギリシャ人、イタリア人であった。また、デュッセルドルフとその周辺部はヨーロッパでは3番目、ドイツでは最大の日本人コミュニティがあり、約5,000人の日本人がデュッセルドルフで暮らしている。また、ドイツでは3番目に大きいユダヤ人コミュニティも形成され、人口の1%以上に当たる約7,600人のユダヤ人も暮らしている。",
"title": "人口"
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"text": "デュッセルドルフ大学(英語版)(ハインリッヒ・ハイネ大学)は市の南部に立地している。20,000人の学生が自然科学、数学、計算機科学、哲学、社会科学、芸術、言語、医学、薬学、経済、法律など幅広い分野について学んでいる。デュッセルドルフの他の学術機関には以下のようなものが含まれる。",
"title": "教育"
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"text": "デュッセルドルフ空港はデュッセルドルフ中心部から8kmは離れた場所にあり、Sバーン(近郊電車)により簡単にたどり着くことが出来る。デュッセルドルフ空港駅は近距離やドイツ国内の列車が発着し、自動運転の交通システムであるデュッセルドルフ・スカイトレインにより空港と結ばれている。空港にはターミナル内にある駅もあり、こちらはSバーンのS11により行くことが出来る。",
"title": "交通"
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"text": "アウトバーン網も密に形成されており、A3、A44、A46、A52、A57、A59などの各路線が連絡する。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "デュッセルドルフ最大のイベントはカーニバルで、毎年11月11日午前11時11分に開始され、クライマックスは「薔薇の月曜」 (Rosenmontag) に迎える。デュッセルドルフの通りでは大きなパレードが行われ、カーニバルの特徴となっている。カーニバルは「灰の水曜日」を意味する Aschermittwoch に終わる。デュッセルドルフのカーニバルは伝統的なラインラントのカーニバルの一部である。",
"title": "文化"
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"text": "デュッセルドルフとケルンの間には激しい地域の対抗心がある。対抗意識にはカーニバルのパレードやサッカー、ビールなどがある。ケルンの人々はケルシュを好むが、デュッセルドルフの人々はアルトを好んでいる。ケルンでアルトを、デュッセルドルフでケルシュを注文すると、軽蔑や嘲笑を受ける。このライバル関係は愛憎関係として表現されている。",
"title": "文化"
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"tag": "p",
"text": "デュッセルドルフでは他のドイツの地域と同様に、当然の事ながらサッカーが最も人気のスポーツとなっている。プロサッカーチームのフォルトゥナ・デュッセルドルフは、1933年のドイツ・サッカー選手権では優勝を果たしており、1979年のUEFAカップウィナーズカップでは準優勝に輝いた。1979年と1980年のDFBポカールの勝者でもあり、いわゆる古豪クラブとして認識されている。",
"title": "スポーツ"
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"text": "2011-12シーズンは2部リーグに属していたが、昇格プレーオフでヘルタ・ベルリンを破り15年ぶりに1部リーグへ復帰した。さらに新スタジアムであるエスプリ・アレーナが2005年にオープンし、収容人員は54,500人を誇る。また、デュッセルドルフはドイツで行われた「1974 FIFAワールドカップ」の9都市の開催都市の一つでもあった。なお、クラブは2022-23シーズンは2部リーグに所属している。",
"title": "スポーツ"
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"text": "1978年以来、ロクスクラブ・デュッセルドルフで「ワールドチームカップ」が開催されていたが2012年に終了した。その後、翌年からデュッセルドルフ・オープンが新設されたが、これも2大会で終了している。また、2017年には当地でツール・ド・フランスのプロローグが開催された。",
"title": "スポーツ"
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"text": "卓球も盛んであり、卓球ブンデスリーガ1部の名門『ボルシア・デュッセルドルフ』はティモ・ボルと共にドイツで最も成功したチームであり、松下浩二や水谷隼などの日本人選手もかつて所属していた。",
"title": "スポーツ"
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"text": "アメリカンフットボールでは、デュッセルドルフ・パンサー(英語版)はドイツ国内において最も成功したクラブチームの一つで、6つのジャーマン・ボウル(英語版)のタイトルと1995年にユーロボウル(英語版)で優勝している。これらに加えて、ジュニアチームも最も成功したドイツでのユース部門で15回ジャーマン・ジュニア・ボール(英語版)の勝者となっている。ライン・ファイヤーはNFLヨーロッパに属していたチームで、1998年と2000年の2度ワールドボウルで優勝を果たした。",
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"text": "1975年以来、デュッセルドルフ市内は10の行政区画(Bezirk)に分けられており、それぞれの区では独自の区議会(Bezirksvertretung)と区長(Bezirksvorsteher)が選出される。区議会(協議会)は助言的なものに留まっている。それぞれの区はさらに下位の地区に分けられ、デュッセルドルフには10の区の下に49の地区が分けられている。",
"title": "行政区画"
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"text": "デュッセルドルフの気候は他のラインラント地域と同様に、やや寒い冬とほどほどの暑さの夏が訪れ、年平均気温は11.5 °C (53 °F)で年間降水量は934mmである。南や南東の風が優勢で、風速は3 - 4 m/s (7 - 9 mph)で突風は3.5 - 4.8 m/s (8 - 10.7 mph)である。風は穏やかで夜間や冬に良く発生する。",
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"text": "デュッセルドルフでは以下の都市と姉妹都市の関係にある。",
"title": "対外関係"
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"text": "モスクワ, ロシアは2022年ロシアのウクライナ侵攻の原因で姉妹都市関係は一時停止されている。",
"title": "対外関係"
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] |
デュッセルドルフは、ドイツ連邦共和国の都市でノルトライン=ヴェストファーレン州の州都。人口は約63万人(2022年時点)。
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{| cellpadding="2" style="float: right; width: 307px; background: #e3e3e3; margin-left: 1em; border-spacing: 1px;"
! 紋章
! 地図
|- style="background: #ffffff; text-align: center;"
| style="width: 105px;" | [[ファイル:Wappen der Landeshauptstadt Duesseldorf.svg|140px|Stadtwappen der kreisfreien Stadt Düsseldorf]]
| style="width: 140px;" | [[ファイル:Lage der Stadt Düsseldorf in Deutschland.png|140px|Lage der kreisfreien Stadt Düsseldorf in Deutschland]]
|-
! colspan="2" | 基本情報
|- style="background: #ffffff;"
| [[連邦州]]: || [[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]
|----- bgcolor="#FFFFFF"
| 行政管区: || [[デュッセルドルフ行政管区]]
|- style="background: #ffffff;"
| 地域連合: || [[ラインラント地域連合]]
|- style="background: #ffffff;"
| 郡: || 郡独立市
|- style="background: #ffffff;"
| [[緯度]][[経度]]: || {{Coord|51|13|32|N|06|46|58|E|region:DE_type:adm2nd|display=inline,title}}
|- style="background: #ffffff;"
| 標高: || 海抜 38 m
|----- bgcolor="#FFFFFF"
| 面積: || 217.21 km<sup>2</sup>
|- style="background: #ffffff;"
| 人口: || 629,047<ref name="Pop">{{Population GER-NW|05111000|SOURCE}}</ref>
|- style="background: #ffffff;"
| 人口密度: || 2896 人/km<sup>2</sup>
|- style="background: #ffffff;"
| 郵便番号: || 40210–40629 (旧: 4000)
|- style="background: #ffffff;"
| 市外局番: || 0211、(一部 0203、02104)
|- style="background: #ffffff;"
| ナンバープレート: || D
|- style="background: #ffffff;"
| 自治体コード: || 05 1 11 000
|- style="background: #ffffff;"
| [[UN/LOコード]]: || <tt>DE DUS</tt>
|- style="background: #ffffff;"
<!--
| [[NUTS]]-Region: || Düsseldorf (DEA11)
|- style="background: #ffffff;"
-->
| 市の構成: || 10 市区、49 小街区
|- style="background: #ffffff;"
| 市庁舎の住所: || Marktplatz<br />40213 Düsseldorf
|- style="background: #ffffff;"
| ウェブサイト: || [http://www.duesseldorf.de/ www.duesseldorf.de]
|- style="background: #ffffff;"
| 上級市長: || ステファン・ケラー (Stephan Keller) ([[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]])
|- style="background: #ffffff;"
|-
! colspan="2" | 地図
|- style="background: #ffffff;"
| align="center" colspan="2" |{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=200|type=shape|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|frame-latitude=51.22|frame-longitude=6.78}}
|}
'''デュッセルドルフ'''({{Lang-de-short|Düsseldorf}}<ref group="注釈">{{IPA-de|ˈdʏsl̩ˌdɔɐ̯f|-|De-Düsseldorf.ogg}}</ref>)は、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]の都市で[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]の州都<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/デュッセルドルフ-101585 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-03-04 }}</ref>。人口は約63万人(2022年時点)。
== 概要 ==
[[ファイル:Koenigsallee okt2004.jpg|thumb|ケーニヒスアレー]]
[[ライン川]]河畔に位置し、[[ライン・ルール大都市圏地域]]の中心で[[ルール工業地帯]]のすぐ南西部にある。金融やファッション、世界的な見本市の中心都市の一つである<ref>{{cite web |url=http://www.duesseldorf.de/presse/pld/d2008/d2008_07/d2008_07_28/08072813_160.pdf |title=Communla Administration of Düsseldorf, 28 of July 2008. |format=PDF |date= |accessdate=2010-04-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090806064622/http://www.duesseldorf.de/presse/pld/d2008/d2008_07/d2008_07_28/08072813_160.pdf |archivedate=2009年8月6日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.anteon.de/images/stories/Anteon/Pressearchiv/IZ_280808.pdf |title=Immobilien Zeitung: ''Mehr Räume für die große Modenschau'' vom 28. August 2008, 1st of March 2009. |format=PDF |date= |accessdate=2010-04-16}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.europeancitiesmonitor.eu/wp-content/uploads/2010/10/ECM-2010-Full-Version.pdf|title='Cushman & Wakefield — European Cities Monitor'|accessdate=2011-06-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120504012517/http://www.europeancitiesmonitor.eu/wp-content/uploads/2010/10/ECM-2010-Full-Version.pdf|archivedate=2012年5月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また西ヨーロッパの中でも[[ブルーバナナ]]と呼ばれる、経済的にも人口的にもとくに発展した地域内に位置し、市内には[[フォーチュン・グローバル500]]に含まれる5社や、いくつかの[[ドイツ株価指数|DAX]]に含まれている企業が本社を置いている。日本企業の進出も盛んで、デュッセルドルフ市内には約5,000人の日本人の駐在員やその家族などが居住し、日本総領事館などのあるインマーマン通りは[[日本人街]]の様相を呈している<ref>[http://www.dus.emb-japan.go.jp/profile/deutsch/japan_forum/jf_2002/2002_03_japaner_in_ddorf.htm ''Japaner in Düsseldorf.'' In Japan Forum, März 2002, S. 1–2]</ref>。1971年にはデュッセルドルフ[[日本人学校]]も開校し、1990年前後には生徒数1000名近くにまで達した。2011年に行われた[[マーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティング]]による[[世界で最も居住に適した都市]]の調査では世界では5位、ドイツ国内では2位につけている<ref name="Mercer">{{cite web|url=http://www.mercer.com/summary.htm?idContent=1128060|title=Mercer's 2011 Quality of Living survey highlights — Global|date=2011-06-15|work=Mercer|accessdate=2011-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110513212442/http://www.mercer.com/summary.htm?idContent=1128060|archivedate=2011年5月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="Forbes">{{cite news |url=http://www.forbes.com/2009/04/27/cities-best-live-lifestyle-real-estate-best-places-to-live.html |title=World's 20 Best Places To Live |publisher=Forbes.com | first=Matt |last=Woolsey |date=2009-04-28}}</ref>。
デュッセルドルフは経済的な中心としてだけではなく、芸術的な分野でも知られた都市で、[[デュッセルドルフ芸術アカデミー]]からは[[ヨーゼフ・ボイス]]や[[アウグスト・マッケ]]、[[ゲルハルト・リヒター]]、[[ジグマー・ポルケ]]、[[アンドレアス・グルスキー]]といった画家や写真家などの芸術家を輩出している。電子音楽の先駆者で影響を与えた[[クラフトワーク]]も、デュッセルドルフを起点としている。デュッセルドルフはカーニバルの開催都市としても知られている。また、毎年7月には''Größte Kirmes am Rhein''{{enlink|Largest Fair on the Rhine|a=on}}が開催され、450万人以上の人々が市内を訪れる<ref>[http://www.deal-magazin.com/index.php?cont=news&news=10153 2010 survey by] Jones Lang LaSalle {{de icon}}</ref>。
== 地理 ==
デュッセルドルフは{{仮リンク|低ライン|en|Lower Rhine}}流域の中央部に位置し、街の名の由来でもある[[ライン川]]の支流である{{仮リンク|デュッセル川|en|Düssel}}が[[三角州|デルタ状]]に市街を流れている。デュッセルドルフより上流の郊外にある[[ネアンデル谷]]では、[[ネアンデルタール人]]の化石の一部が発見されている。デュッセルドルフ市街はそのほとんどがライン川の東側に位置するが、4区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 04) だけは西側に位置している。ライン川の対岸は[[ノイス]]で{{仮リンク|エルフト川|en|Erft}}が合流している。デュッセルドルフの市域は全体が[[沖積層]]の上にあり、地層は泥や砂、粘土、砂利などの地質である。デュッセルドルフの最高地点は市域の東端の7区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 07) の{{仮リンク|フッベルラート|de|Hubbelrath}} にある{{仮リンク|ザントベルク (デュッセルドルフ)|label=ザントベルク|de|Sandberg (Düsseldorf)}}で、海抜は{{convert|165|m|ft|0}}である。最低地点は5区 (Düsseldorf-Stadtbezirk 05) の{{仮リンク|ヴィットラアー|de|Wittlaer}}にあるシュヴァルツバッハ (Schwarzbach) がライン川に流れ込む地点で、{{convert|28|m|ft|0}}である。
== 歴史 ==
[[File:Duesseldorf-Kupferstich-Merian.png|thumb|1647年頃のデュッセルドルフ]]
[[File:Düsseldorf (DerHexer) 2010-08-13 084.jpg|thumb|旧市街の歴史的な市庁舎]]
[[ローマ帝国]]がヨーロッパ全土で力を強固にしていたころ、少数の[[ゲルマン人]]の部族は[[ライン川]]東岸の沼地の領地を手放そうとしなかった<ref>Weidenhaupt, Hugo: ''Kleine Geschichte der Stadt Düsseldorf'', Triltsch-Verlag, Düsseldorf 1979, ISBN 3-7998-0000-X, (only in German)</ref>。7世紀や8世紀の農業や漁業の集落の断片が小さな川である{{仮リンク|デュッセル川|en|Düssel}}がライン川へと流れ込む地点で見ることが出来る。デュッセルドルフの街が発展するのはそのような集落からであった。
デュッセルドルフの街(当時は地元の{{仮リンク|ムーズ・ライン方言|en|Low Rhenish}}でデュッセルドルプ ''Dusseldorp'')の最初の記録は1135年に遡る。都市名は、「デュッセル川のほとりの村」を意味し、[[1065年]]に>Tussale<と記されたその川の名前は、現在のドイツ語で>rauschendes Wasser<(「サラサラと流れる水」)ほどの意味である<ref>Dieter Berger: ''Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern''. Mannheim/Leipzig/Wien/Zürich: Dudenverlag, 1993 (ISBN 3-411-06251-7), S. 83.</ref>。[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の下、デュッセルドルフ北部の{{仮リンク|カイザースヴェルト|en|Kaiserswerth}}の小さな町はよく要塞化された駐屯地になり、兵士たちはライン川上の全ての動きを監視していた。1929年にカイザースヴェルトはデュッセルドルフの郊外になっている。1186年にデュッセルドルフは[[ベルク公国|ベルク伯領]]の治世下となる。
1288年8月14日はデュッセルドルフの歴史にとっては最も重要な日の一つで、川に面したデュッセルの村は[[都市法|都市特権]]を得た。布告に先立って、血なまぐさい権力争いが[[ケルン大司教領]]とベルク公国の間で起こり{{仮リンク|ヴォリンゲンの戦い|en|Battle of Worringen}}でピークに達する。ケルン大司教領の軍勢はケルンやデュッセルドルフの市民や農民の支持を受けたベルク公国の軍勢により退けられ、このことはデュッセルドルフの都市への昇格の道を固め、今日ではブルク広場にあるモニュメントによって記念されている。この戦いの後、商業的なライバルとして都市間の関係は悪化した。しばしば、ケルンとデュッセルドルフの市民の間には対抗心のようなものがあると言われている。今日、この表現は主にユーモアのある特にラインラントのカーニバルやスポーツの中で現れている。{{仮リンク|市場広場|en|market square}}がライン川河畔に現れ、広場は市壁により四方が保護されていた。1380年、ベルク公[[ヴィルヘルム1世 (ベルク公)|ヴィルヘルム1世]]はその中心を移し、デュッセルドルフはベルク公国の首都となった。
その後の数世紀の間に、{{仮リンク|協同教会|en|Collegiate church}}のランベルトゥス教会などいくつかの有名なランドマークが建てられた。1609年に[[ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国]]の最後の公爵[[ヨハン・ヴィルヘルム (ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公)|ヨハン・ヴィルヘルム]]が死去すると継承争いが続き、[[ユーリヒ公国|ユーリヒ]]とベルクは[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[プファルツ=ノイブルク公]]に渡った。デュッセルドルフはその居城となり、1685年にはプファルツ=ノイブルク公[[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]が[[プファルツ選帝侯]]位も獲得している。[[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]選帝侯(1690年 - 1716年)の下での18世紀のデュッセルドルフの成長は著しいものであった。妃であった[[アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ]]の強い影響により、絵画や彫刻など莫大なコレクションがシュタットシュロス(Stadtschloss)に収蔵されている。
子供がないままヨハン・ヴィルヘルムが死去すると、デュッセルドルフの繁栄はかげりを見せ始める。[[カール・テオドール (バイエルン選帝侯)|カール・テオドール]]は[[バイエルン選帝侯領|バイエルン選帝侯]]を継承し、選帝侯の宮廷は[[ミュンヘン]]に移った。美術品のコレクションは持ち去られ、その一部は現在ミュンヘンの[[アルテ・ピナコテーク]]に収蔵されている。もっとも、[[ゲーテ]]が[[1774年]]のライン旅行の最終目的地として選んだのは、デュッセルドルフであった。それは、この街に、文人の集うヤコービ家(Familie Jakobi;[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]とその兄)の館があったからである。当時デュッセルドルフは「ヨーロッパ啓蒙主義の一中心地」(ein Zentrum des europäischen aufgeklärten Geistes)であった<ref>Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: ''Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes.'' Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 52-55. </ref>。[[ナポレオン戦争]]の後、破壊と貧困がデュッセルドルフを襲った。ナポレオンは[[ベルク公国|ベルク大公国]]を設け、デュッセルドルフに首都を置いた。{{仮リンク|ヨハン・クリスティアン・クラディウス・デヴァランネ|en|Johann Christian Claudius Devaranne}}はゾーリンゲンのナポレオンの徴兵令の抵抗運動のリーダーであったが、1813年にデュッセルドルフで処刑された。ナポレオンが敗北すると、ベルクを含む[[ラインラント]]全域が1815年に[[プロイセン王国]]となった。後に{{仮リンク|ライン州|en|Rhine Province}}の議会がデュッセルドルフに設立された。
19世紀半ばにデュッセルドルフは[[産業革命]]により復興を享受し、都市の人口は1882年に10万人を擁し、1892年には倍になった。
1920年にデュッセルドルフは[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]の中心となる。1920年4月15日に45人のドイツ炭鉱労働者労働組合の代表が[[ドイツ義勇軍]]により殺害されている<ref>''The German Revolution 1917–1923'', by Pierre Broué, Ian H. Birchall, Brian Pearce, p278</ref>。{{仮リンク|第二次世界大戦の戦略爆撃|en|strategic bombing during World War II}}の標的となり、特に{{仮リンク|ルールの戦い|en|battle of the Ruhr}}では700を超える爆撃機が一晩で使用された。空襲は戦争末期まで続き、石油精製施設への攻撃の一環としてイギリス空軍は、1945年2月20日と21日にデュッセルドルフのライスホルツ地区にあるリナニア・オサックの精油所を攻撃し精製が停止した。連合国はドイツに進軍し、1945年4月半ばにはデュッセルドルフに到達している。アメリカの第97歩兵師団は組織化されたドイツの抵抗勢力がいないまま1945年4月18日に容易に街を攻略した<ref>Stanton, Shelby, ''World War II Order of Battle: An Encyclopedic Reference to U.S. Army Ground Forces from Battalion through Division, 1939–1946'' (Revised Edition, 2006), Stackpole Books, p. 174.</ref>。
1946年、デュッセルドルフは新しく制定された連邦の[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]の州都となった。街の再建は猛烈なペースで進み、経済の変化はデュッセルドルフが行政、サービス産業、裕福な通商都市として成長したことを今日見せている。
== 経済 ==
[[File:Düsseldorf (DerHexer) 2010-08-13 219.jpg|thumb|200px|デュッセルドルフ新市街]]
[[File:Düsseldorf 10.JPG|thumb|200px|デュッセルドルフのスカイライン]]
[[File:Düsseldorf-Stadtmitte Japanischer Supermarkt.JPG|thumb|150px|日本語の表記のあるスーパー]]
[[File:Duesseldorf Immermannstr bilingual streetname.jpg|thumb|150px|バイリンガルの道路標識 インマーマン通り (Immermannstraße)]]
デュッセルドルフは経済的に力強く、多様性と世界的な相互依存を強く意図した都市で、ライン・ルール地方中央に位置する機能的な優位性がある都市である。ノルトライン=ヴェスファーレン州の州都として行政的にも、人口の集積に関しても優位性がある。また、デュッセルドルフにはドイツでは3番目に大きな[[デュッセルドルフ空港]]があり、国際的なつながりでもその優位性があり、25の国際的な見本市(メッセ)が行われ、都市の経済にとって重要性がある。デュッセルドルは労働市場においてもノルトライン=ヴェストファーレン州では有力な都市である。投資には好ましい環境で、比較的多くの企業がデュッセルドルフで起業している。
デュッセルドルフをリードしている部門は、金融以外には広告や特許、通信、企業の管理部門、ファッションなどで、Collections Premieren Düsseldorf は欧州でも先導的なファッションフェアである。デュッセルドルフには600を超える様々な製品や分野のショールームがある。文化創造の分野では4,100社で年間74億ユーロの売り上げがある<ref>[http://nachrichten.rp-online.de/regional/mehr-selbstbewusstsein-fuer-die-kreativstadt-1.1314650 Lena Niethammer: ''Mehr Selbstbewusstsein für die Kreativstadt''], Artikel vom 25. Juni 2011 im Portal RP ONLINE, abgerufen am 25. Juni 2011</ref>。デュッセルドルフには[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に次いで2番目に大きな銀行や証券部門があり、デュッセルドルフ証券取引所がある。約170の銀行の支店や本社があり、18世紀以来の伝統がある[[HSBCホールディングス]]の HSBC Trinkaus はデュッセルドルフに本拠地を置いている。[[ロレアル]]ドイツや[[ボーダフォン]]ドイツ(Vodafone D2)、[[メトロ (小売業)|メトロ]]、[[E.ON]]、[[ラインメタル]]、[[ヘンケル]]、{{仮リンク|ERGO保険グループ|en|ERGO Insurance Group}}など国際的な企業もデュッセルドルフに本拠地を置いている。[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]は[[メルセデス・ベンツ スプリンター]]などをデュッセルドルフで生産している。
[[1960年代]]以来、デュッセルドルフと日本の間には強い関係があり「ラインの日本」というニックネームがある。多くの日本の銀行や企業はデュッセルドルフにヨーロッパの支店や拠点機能を置いており、欧州ではロンドンやパリに次いで3番目に大きな[[デュッセルドルフの日本人コミュニティ|日本人コミュティ]]が形成されている<ref name="virtualtourist.com">{{cite web|url=http://www.virtualtourist.com/travel/Europe/Germany/Land_Nordrhein_Westfalen/Duesseldorf-67466/Local_Customs-Duesseldorf-Japanese_Duesseldorf-BR-1.html |title=Japanese Düsseldorf – Düsseldorf Travel Guide – VirtualTourist.com |publisher=VirtualTourist.com |date=2003-02-11 |accessdate=2009-05-05}}</ref><ref name="Japantag in Düsseldorf: Welcome">{{cite web |url=http://www.japantag-duesseldorf-nrw.de/305.html?&L=1 |title=Japantag in Düsseldorf: Welcome |publisher=Japantag-duesseldorf-nrw.de |date= |accessdate=2009-05-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120217025744/http://www.japantag-duesseldorf-nrw.de/305.html?&L=1 |archivedate=2012年2月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
[[デュッセルドルフ中央駅]]近くのインマーマン通り''Immermannstraße''は日本人通りとも言われており、商工会議所に届け出をしている日系企業は200社を超える<ref>[http://www.netdeduessel.de/ドイツ/デュッセルドルフ市/ Düsseldorf (デュッセルドルフ) 市](ネットdeデュッセル)</ref>。また、飲食店の他に書店や病院、薬局、不動産屋、旅行会社、クリーニング屋など[[日本語]]でも表記された店舗が並ぶ。同じ商品でも日本に比べて割高になっている商品も多くある。日系の企業以外にもオランダやイギリス、スカンジナビア諸国、中国の企業もデュッセルドルフには多く立地している。
2008年のデュッセルドルフの総生産は420億ユーロ<ref>http://www.duesseldorf.de/statistik/stadtforschung/download/wirtschaft/jb2010_09_01_09_160.pdf</ref>で、労働者一人当たり88,000ユーロであり、フランクフルト共にドイツではトップを占めている<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/15_Wirtschaftslage_I.pdf Website der Stadt Frankfurt am Main: ''Wirtschaftslage 2005''. Abgefragt am 17. Mai 2009]</ref>。経済的には好調なデュッセルドルフではあるが、失業率はドイツの平均を超えており、ここ30年間で約50,000人分の製造業の雇用が失われている。
== 人口 ==
[[ファイル:Einwohnerentwicklung duesseldorf.png|thumb|デュッセルドルフの人口推移]]
デュッセルドルフ市域の2011年の人口は589,682人で<ref>{{cite web|url=http://www.it.nrw.de/statistik/a/daten/amtlichebevoelkerungszahlen/index.html|title=Amtliche Bevölkerungszahlen|publisher=Information und Technik Nordrhein-Westfalen|date=2011-06-30|accessdate=2011-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110928045301/http://www.it.nrw.de/statistik/a/daten/amtlichebevoelkerungszahlen/index.html|archivedate=2011年9月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、ドイツでは7番目に大きな都市であった。歴史的には、工業化の進展により1882年に人口は10万人を超え、1962年には70万5千人とピークを迎えている。それ以来、市の人口は減少傾向にあるが、これは郊外部への人口移動による。1990年代後半からは人口が緩やかに増え始めている。
デュッセルドルフ市内には2008年の時点で、109,883人の外国人が居住し<ref name="Statistisches Jahrbuch">{{cite web|url=http://www.duesseldorf.de/wahlen/download/statistisches_jahrbuch_2009.pdf|title=Statistisches Jahrbuch der Landeshauptstadt Düsseldorf – Bevölkerung nach Nationalität|publisher=Duesseldorf.de |date=2009-12-31 |accessdate=2011-12-03}}</ref>、外国人の大半はヨーロッパ域内出身者で、多数を占めるマイノリティーはトルコ人、ギリシャ人、イタリア人であった。また、デュッセルドルフとその周辺部はヨーロッパでは3番目、ドイツでは最大の日本人コミュニティがあり、約5,000人の日本人がデュッセルドルフで暮らしている。また、ドイツでは3番目に大きいユダヤ人コミュニティも形成され、人口の1%以上に当たる約7,600人のユダヤ人も暮らしている。
{| class="infobox" style="float:right;"
|colspan="2"|'''デュッセルドルフの外国人住民の10大グループ'''<ref name="Statistisches Jahrbuch">{{cite web|url=http://www.duesseldorf.de/wahlen/download/statistisches_jahrbuch_2009.pdf|title=Statistisches Jahrbuch der Landeshauptstadt Düsseldorf – Bevölkerung nach Nationalität|publisher=Duesseldorf.de |date=2009-12-31 |accessdate=2011-12-03}}</ref>
|-
! 出身国 || 人口 (2022)
|-
|{{flag|Turkey}} ||12,707
|-
|{{flag|Greece}} ||10,388
|-
|{{flag|Poland}} ||9,316
|-
|{{flag|Japan}} ||8,329
|-
|{{flag|Italy}} ||7,799
|-
|{{flag|Ukraine}} || 7,566
|-
|{{flag|Syria}} ||5,820
|-
|{{flag|Morocco}} ||4,941
|-
|{{flag|Romania}} || 4,756
|-
|{{flag|Spain}} ||4,477
|}
== 教育 ==
{{仮リンク|デュッセルドルフ大学|en|University of Düsseldorf}}(ハインリッヒ・ハイネ大学)は市の南部に立地している。20,000人の学生が[[自然科学]]、数学、計算機科学、哲学、[[社会科学]]、芸術、言語、医学、薬学、経済、法律など幅広い分野について学んでいる。デュッセルドルフの他の学術機関には以下のようなものが含まれる。
* クララ・シューマン音楽学校
* [[ロベルト・シューマン大学デュッセルドルフ]]
* [[デュッセルドルフ美術アカデミー]]<ref>{{cite web|url=http://www.kunstakademie-duesseldorf.de/ |title=Official Homepage |publisher=Kunstakademie-duesseldorf.de |date= |accessdate=2012-09-04}}</ref>
* {{仮リンク|デュッセルドルフ専門大学|en|Fachhochschule Düsseldorf}}<ref>{{cite web|url=http://www.fh-duesseldorf.de/english/index.html |title=Fachhochschule Düsseldorf - Home |publisher=Fh-duesseldorf.de |date= |accessdate=2012-09-04}}</ref>(応用科学大学)
* {{仮リンク|ファッション・デザインAMDアカデミー|en|AMD Academy of Fashion and Design}}<ref>{{cite web|url=http://www.amdnet.de/ |title=AMD Akademie Mode und Design|publisher=Amdnet.de |date= |accessdate=2012-09-04}}</ref>
* {{仮リンク|マックス・プランク鉄研究所|en|Max Planck Institute for Iron Research GmbH}}<ref>{{cite web|url=http://www.mpie.de/ |title=Official homepage of the institute |publisher=Mpie.de |date= |accessdate=2012-09-04}}</ref>
* [[ゲーテ学院]]<ref>{{cite web|url=http://www.goethe.de/ins/de/ort/due/deindex.htm |title=Deutsch lernen in Deutschland – Deutschkurse und Deutschprüfungen in Deutschland - Kursorte - Düsseldorf - Goethe-Institut |publisher=Goethe.de |date=2012-06-28 |accessdate=2012-09-04}}</ref>
* デュッセルドルフビジネス経営アカデミー ''Verwaltungs- und Wirtschafts-Akademie Düsseldorf''
; 日本人学校
* [[デュッセルドルフ日本人学校]]
== 交通 ==
[[File:Duesseldorf international terminal.jpg|thumb|200px|デュッセルドルフ空港]]
[[File:StadtbahnD.png|thumb|left|200px|デュッセルドルフのトラム、シュタットバーン路線網]]
=== 空港 ===
[[デュッセルドルフ空港]]はデュッセルドルフ中心部から8kmは離れた場所にあり、[[Sバーン]](近郊電車)により簡単にたどり着くことが出来る。デュッセルドルフ空港駅は近距離やドイツ国内の列車が発着し、自動運転の交通システムであるデュッセルドルフ・スカイトレインにより空港と結ばれている。空港にはターミナル内にある駅もあり、こちらはSバーンのS11により行くことが出来る。
デュッセルドルフ空港は年間1,800万人の旅客数を有し、[[フランクフルト空港]]や[[ミュンヘン空港]]に次いでドイツでは3番目に旅客数が多い空港で、70の航空会社により4大陸180都市に就航している。空港ターミナルビルは、1996年に溶接作業中の火災事故により17名が死亡して一部が損壊した。その後、スカイトレインが導入され再建されている。
=== 鉄道 ===
中心部にある[[デュッセルドルフ中央駅]]にはICEやインターシティをはじめ、若干の夜行列車が発着し、ドイツ国内や近隣国と結ばれており、ドイツ鉄道によって毎日約1,000本の列車が運行されている。デュッセルドルフは[[ライン=ルール運輸連合]]のエリア内に含まれ、Sバーンやトラム、路線バスなどの交通体系が一体化され、利用しやすい。
=== 道路 ===
アウトバーン網も密に形成されており、A3、A44、A46、A52、A57、A59などの各路線が連絡する。
== 観光 ==
[[File:Düsseldorf - Ratinger Straße + Kreuzherrenkirche + St. Lambertus (Parkhaus Ratinger Tor) 01 ies.jpg|thumb|200px|旧市街の街並み]]
[[File:Düsseldorf Rheinuferpromenade.jpg|thumb|200px|ライン川沿いのプロムナード]]
; 名所および旧跡
* [[ライン塔]] [[:en:Rheinturm Düsseldorf|Rheinturm]]
* ベンラート城 [[:en:Schloss Benrath|Schloss Benrath]]
* イェーガーホーフ城 [[:de:Schloss Jägerhof|Schloss Jägerhof]]
* デュッセルドルフ城 [[:de:Düsseldorfer Schloss|Düsseldorfer Schloss]]
== 文化 ==
芸術を愛した[[ヨハン・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|ヨハン・ヴィルヘルム]]選帝侯と妻の[[アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ]]は17世紀から18世紀のデュッセルドルフの最初の文化活動の重要な後援者であった。1997年は[[ハインリヒ・ハイネ]]の生誕200周年で、[[ロベルト・シューマン]]や[[フェリックス・メンデルスゾーン]]もデュッセルドルフに関連した著名な芸術家である。芸術的な刺激はしばしば[[デュッセルドルフ美術アカデミー]]から生まれ、[[パウル・クレー]]や[[ヨーゼフ・ボイス]]、[[ゲルハルト・リヒター]]などが関連している。
デュッセルドルフの文化面には、伝統や[[アバンギャルド]]、古典、華やかさが含まれる。ノルトライン=ヴェストファーレン州の世界的に有名なアートコレクションには高い定評があり、[[ライン・ドイツ・オペラ]]や{{仮リンク|デュッセルドルフ劇場|en|Düsseldorfer Schauspielhaus}}、{{仮リンク|グスタフ・グリュントゲンス|en|Gustaf Gründgens}}の活躍などはデュッセルドルフの洗練された芸術の中心で、評価の大きな要素である。
=== ビール ===
デュッセルドルフは[[アルトビール]]で良く知られ<ref>{{cite web |author=studio orange |url=http://www.brauer-bund.de/bierfans/sorten/alt.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070429113232/http://www.brauer-bund.de/bierfans/sorten/alt.htm |archivedate=2007年4月29日 |title=Altbier |publisher=Brauer-bund.de |date= |accessdate=2009-05-05 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、ホップの味がするビールは古いスタイルのビールと言い換えられ、ブリティッシュペールエールのような上面発酵酵母を使用したプレ・ラガー醸造法と関連する<ref>{{cite web|url=http://www.beerhunter.com/documents/19133-000838.html |title=Michael Jackson's Beer Hunter – Copper-bottom ales halt lager tide in Germany |publisher=Beerhunter.com |date= |accessdate=2009-07-08}}</ref>。時間と共にアルトイーストは低い温度に調整され、醸造者が貯蔵するアルトまたはラガーは発酵した後に混じり気のない切れのあるビールになる。
アルトビール(Altbier)は、ドイツで占めつつあった新しい[[ヘレス]]と区別するために19世紀に登場した<ref>{{cite web|url=http://www.germanbeerinstitute.com/altbier.html |title=Altbier |publisher=Germanbeerinstitute.com |date= |accessdate=2009-07-08}}</ref>。デュッセルドルフの醸造者はモダンなのラガーのために薄い色の[[麦芽]]を使ったが、暖かく発酵させるイーストを使う古い(alt)製法を保っている。アルトの名称を最初に使った醸造所は1838年に開業した[[シューマッハ (醸造所)|シューマッハ]]である<ref>{{cite web|url=http://www.europeanbeerguide.net/dussbrew.htm#schumacher |title=Düsseldorf Breweries |publisher=Europeanbeerguide.net |date= |accessdate=2009-07-08}}</ref>。創設者のマティアス・シューマッハ(Mathias Schumacher)は、ビールを通常よりも長い木製の樽で涼しい条件で熟成させ、現代のアルトビールの基礎を築いた<ref>Prost! The Story of German Beer, Horst D. Dornbusch, Brewers Publications, 1997, pp 109–110. ISBN 0-937381-55-1</ref>。結果、淡いビールはラガーの切れの良い傾向だが香りの豊かさを備えている<ref>{{cite web|url=http://www.europeanbeerguide.net/dusspubs.htm |title=Düsseldorf Pub Guide: the best beer bars, pubs and brewpubs |publisher=Europeanbeerguide.net |date= |accessdate=2009-07-08}}</ref>。
現在では5箇所のアルトビールを出す醸造所のパブがデュッセルドルフにある。Füchschen、Schumacher、Schlüsselと新しく開業したBrauerei Kürzerがあり、5軒のうち4軒はデュッセルドルフの歴史の中心である旧市街にあり、Schumacherは旧市街と中央駅の間に位置しており、旧市街のGoldener Kesselも店が維持されている。名称はそれぞれ異なるものの、少量の特別で隠れた季節の "Sticke" 版のビールが作られる。鍵を意味する Schlüssel の綴りから c がなくなり Stike となり、Schumacher では特別なビールを鎧板のビールを意味する "Latzenbier" と呼び、おそらくその呼び名は注がれた小さい樽が高くした棚で保存されていたからである<ref name="Dornbusch">Horst Dornbusch, ''Altbier.'' Boulder, CO: Brewers Publications</ref>。Füchschenの季節のビールは[[クリスマスビール]] Weihnachtsbier で、11月半ばに瓶詰が始まり、クリスマスイブにパブで提供される<ref name="Fuchschen Weihnachtsbier">[https://web.archive.org/web/20080127112721/http://www.fuechschen.de/htmlGB/start-frames-61.html Fuchschen web page on Weihnachtsbier], visited 2007.04.26</ref>。
=== 食文化 ===
[[File:Himmel-und-Erde-01.jpg|thumb|200px|Himmel und Erde]]
伝統的な食事にはライニシャー[[ザウアーブラーテン]]と{{仮リンク|ヒンメル・ウント・ヘッレ|en|Himmel und erde}}(Himmel und Äd、天と地)と呼ばれる[[ブラッドソーセージ]]にシチューにしたリンゴと[[マッシュポテト]]を添えた物がある。冬にはラインスタイルのムール貝(Muscheln Rheinischer Art)が好んで食され、フライにしたジャガイモのパンケーキにリンゴのソースを添えた{{仮リンク|ライベクーヘン|en|Reibekuchen}}も食されている。
デュッセルドルファー・ゼンフロスブラーテンも名物料理で焼いたステーキの上にデュッセルドルフのマスタードを添えている。デュッセルドルフは強いディジョン風のようなマスタードで知られ、伝統的なモスターペットヒェ(Mostertpöttche)と呼ばれる容器に供され、これらは1884年に[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の静物画に残された<ref>{{cite web|url=http://duesseldorf-altstadt.blogspot.com/2007/01/van-gogh-stilleben-mit-abb-senf.html |title=Düsseldorf Altstadt: Van Gogh, Stilleben mit ABB-Senf |publisher=Duesseldorf-altstadt.blogspot.com |date=2007-01-25 |accessdate=2009-05-05}}</ref>。
=== 音楽 ===
現代の[[ポピュラー音楽]]の文化でデュッセルドルフに最も有名な貢献をしたのは、前衛的な[[電子音楽]]バンドの[[クラフトワーク]]であることは疑いの余地がない。デュッセルドルフ出身の少数のミュージシャンにより結成され、クラフトワークは国際的に第二次世界大戦後のドイツの音楽史の中で最も重要なバンドであり、電子音楽の先駆者として知られている<ref name="graun_kraftwerk">[[The Guardian]], 2003-07-24, accessed 2010-10-31, [http://www.guardian.co.uk/music/2003/jul/25/artsfeatures.popandrock Desperately seeking Kraftwerk], "Kraftwerk were so far ahead of their time that the rest of the world has spent 25 years inventing new musical genres in an attempt to catch up. Another famous Synth-pop band to come from the city was Propaganda. House, techno, hip-hop, trip-hop, synthpop, trance, electroclash: Kraftwerk's influence looms over all of them. It's difficult to imagine what rock and pop music would sound like today if Kraftwerk had never existed"</ref>。Warlockなどのヘビメタバンドも良く知られている。
また2011年には[[エスプリ・アレーナ]]で[[ユーロビジョン・ソング・コンテスト2011|第56回ユーロビジョン・ソング・コンテスト]]が開催された。更に、近年では、日系両親のもとに地元で生まれ育った[[ブルーミオ]][[blumio]]という日系人のラッパーが、ドイツラップの分野で、ドイツ国内でも高いYouTube再生回数を記録する等、高く評価されている。
=== カーニバル ===
デュッセルドルフ最大のイベントはカーニバルで、毎年11月11日午前11時11分に開始され、クライマックスは「薔薇の月曜」{{enlink|Rosenmontag}}に迎える。デュッセルドルフの通りでは大きなパレードが行われ、カーニバルの特徴となっている。カーニバルは「[[灰の水曜日]]」を意味する Aschermittwoch に終わる。デュッセルドルフのカーニバルは伝統的なラインラントのカーニバルの一部である。
=== ケルンへの対抗 ===
デュッセルドルフと[[ケルン]]の間には激しい地域の対抗心がある<ref name="Rivalry">{{cite news|title=Giving beer a home in the Rhineland|url=http://www.thelocal.de/society/20110728-36597.html|accessdate=28 July 2011|newspaper=The Local|date=28 July 2011}}</ref>。対抗意識にはカーニバルのパレードやサッカー、ビールなどがある<ref name="Rivalry"/>。ケルンの人々は[[ケルシュ]]を好むが、デュッセルドルフの人々はアルトを好んでいる。ケルンでアルトを、デュッセルドルフでケルシュを注文すると、軽蔑や嘲笑を受ける<ref name="Rivalry"/>。このライバル関係は愛憎関係として表現されている<ref name="Rivalry"/>。
== スポーツ ==
{{Main|Category:デュッセルドルフのスポーツ}}
=== サッカー ===
{{Main|フォルトゥナ・デュッセルドルフ}}
[[File:LTU-Arena Düsseldorf.jpg|thumb|200px|[[エスプリ・アレーナ|メルクール・シュピール・アレーナ]]]]
デュッセルドルフでは他のドイツの地域と同様に、当然の事ながら[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。プロサッカーチームの'''[[フォルトゥナ・デュッセルドルフ]]'''は、1933年の[[ドイツ・サッカー選手権]]では[[優勝]]を果たしており、1979年の[[UEFAカップウィナーズカップ]]では[[準優勝]]に輝いた。1979年と1980年の[[DFBポカール]]の勝者でもあり、いわゆる[[古豪]]クラブとして認識されている。
2011-12シーズンは[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|2部リーグ]]に属していたが、昇格プレーオフで[[ヘルタ・ベルリン]]を破り15年ぶりに[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|1部リーグ]]へ復帰した。さらに新スタジアムである'''[[エスプリ・アレーナ]]'''が2005年にオープンし、収容人員は54,500人を誇る。また、デュッセルドルフはドイツで行われた「[[1974 FIFAワールドカップ]]」の9都市の開催都市の一つでもあった。なお、クラブは[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)2022-2023|2022-23シーズン]]は2部リーグに所属している。
{{See also|Category:フォルトゥナ・デュッセルドルフの選手}}
=== その他の競技 ===
[[File:ISS Dome Düsseldorf Straßensicht.jpg|thumb|200px|[[アイスホッケー]]の[[スタジアム]]「{{仮リンク|ISSドーム|en|PSD Bank Dome}}」]]
1978年以来、ロクスクラブ・デュッセルドルフで「[[ワールドチームカップ]]」が開催されていたが2012年に終了した。その後、翌年から[[デュッセルドルフ・オープン]]が新設されたが、これも2大会で終了している。また、2017年には当地で[[ツール・ド・フランス2017|ツール・ド・フランス]]のプロローグが開催された。
[[卓球]]も盛んであり、[[卓球ブンデスリーガ]]1部の名門『[[ボルシア・デュッセルドルフ]]』は[[ティモ・ボル]]と共にドイツで最も成功したチームであり、[[松下浩二]]や[[水谷隼]]などの日本人選手もかつて所属していた。
[[アメリカンフットボール]]では、{{仮リンク|デュッセルドルフ・パンサー|en|Düsseldorf Panther}}はドイツ国内において最も成功したクラブチームの一つで、6つの{{仮リンク|ジャーマン・ボウル|en|German Bowl}}のタイトルと1995年に{{仮リンク|ユーロボウル|en|Eurobowl}}で優勝している。これらに加えて、ジュニアチームも最も成功したドイツでのユース部門で15回{{仮リンク|ジャーマン・ジュニア・ボール|en|German Junior Bowl}}の勝者となっている。[[ライン・ファイヤー]]は[[NFLヨーロッパ]]に属していたチームで、1998年と2000年の2度[[ワールドボウル]]で優勝を果たした。
== 行政区画 ==
1975年以来、デュッセルドルフ市内は10の行政区画(Bezirk)に分けられており、それぞれの区では独自の区議会(Bezirksvertretung)と区長(Bezirksvorsteher)が選出される。区議会(協議会)は助言的なものに留まっている。それぞれの区はさらに下位の地区に分けられ、デュッセルドルフには10の区の下に49の地区が分けられている<ref>{{cite web |url=http://www.duesseldorf.de/bv/index.shtml |title=Landeshauptstadt Düsseldorf – Aus den Stadtteilen |publisher=Duesseldorf.de |date= |accessdate=2009-05-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141106031944/http://www.duesseldorf.de/bv/index.shtml |archivedate=2014年11月6日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
{| class="toccolours" style="margin:auto; margin:2px; background:none;"
| style="padding-right:1em;" |
; Stadtbezirk 1
: Altstadt, Carlstadt, Derendorf, Golzheim, Pempelfort, Stadtmitte
; Stadtbezirk 2
: Düsseltal, Flingern-Nord, Flingern-Süd
; Stadtbezirk 3
: Bilk, Flehe, Friedrichstadt, Hafen, Hamm, Oberbilk, Unterbilk, Volmerswerth
; Stadtbezirk 4
: Heerdt, Lörick, Niederkassel, Oberkassel
; Stadtbezirk 5
: Angermund, Kaiserswerth, Kalkum, Lohausen, Stockum, Wittlaer
| [[File:Karte D SB.svg|200px]]
|
; Stadtbezirk 6
: Lichtenbroich, Mörsenbroich, Rath, Unterrath
; Stadtbezirk 7
: Gerresheim, Grafenberg, Hubbelrath, Ludenberg
; Stadtbezirk 8
: Eller, Lierenfeld, Unterbach, Vennhausen
; Stadtbezirk 9
: Benrath, Hassels, Himmelgeist, Holthausen,Itter, Reisholz, Urdenbach, Wersten
; Stadtbezirk 10
: Garath, Hellerhof
|}
== 気候 ==
デュッセルドルフの気候は他の[[ラインラント]]地域と同様に、やや寒い冬とほどほどの暑さの夏が訪れ、年平均気温は{{convert|11.5|C|F|0}}で年間降水量は934mmである。南や南東の風が優勢で、風速は3 - 4 m/s (7 - 9 mph)で突風は3.5 - 4.8 m/s (8 - 10.7 mph)である。風は穏やかで夜間や冬に良く発生する<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061109180256/http://www.bezreg-duesseldorf.nrw.de/BezRegDdorf/autorenbereich/Dezernat_53/BarbaraAlnoch_Buber/Luftreinhalteplan_D__sseldorf__S__dliche_Innenstadt.pdf Bezirksregierung Düsseldorf – ''Luftreinhalteplan'' (2004)]}}</ref><ref>''Klimaatlas – NRW'' (1989): Der Minister für Umwelt, Raumordnung und Landwirtschaft des Landes Nordrhein-Westfalens, Düsseldorf.</ref>。
{{Weather box|location = デュッセルドルフ
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan high C = 4
|Feb high C = 5
|Mar high C = 8
|Apr high C = 12
|May high C = 17
|Jun high C = 20
|Jul high C = 22
|Aug high C = 22
|Sep high C = 18
|Oct high C = 14
|Nov high C = 8
|Dec high C = 5
|year high C =
|Jan mean C = 2
|Feb mean C = 3
|Mar mean C = 6
|Apr mean C = 9
|May mean C = 13
|Jun mean C = 16
|Jul mean C = 18
|Aug mean C = 18
|Sep mean C = 15
|Oct mean C = 11
|Nov mean C = 6
|Dec mean C = 3
|year mean C =
|Jan low C = 0
|Feb low C = 0
|Mar low C = 2
|Apr low C = 5
|May low C = 9
|Jun low C = 12
|Jul low C = 13
|Aug low C = 13
|Sep low C = 11
|Oct low C = 8
|Nov low C = 3
|Dec low C = 1
|year low C =
|Jan precipitation mm = 81.3
|Feb precipitation mm = 55.9
|Mar precipitation mm = 76.2
|Apr precipitation mm = 68.6
|May precipitation mm = 73.7
|Jun precipitation mm = 96.5
|Jul precipitation mm = 88.9
|Aug precipitation mm = 76.2
|Sep precipitation mm = 73.7
|Oct precipitation mm = 71.1
|Nov precipitation mm = 83.8
|Dec precipitation mm = 88.9
|year precipitation mm =
|Jan precipitation days =
|Feb precipitation days =
|Mar precipitation days =
|Apr precipitation days =
|May precipitation days =
|Jun precipitation days =
|Jul precipitation days =
|Aug precipitation days =
|Sep precipitation days =
|Oct precipitation days =
|Nov precipitation days =
|Dec precipitation days =
|year precipitation days =
|Jan sun = 40.5
|Feb sun = 73.9
|Mar sun = 103.8
|Apr sun = 157.4
|May sun = 193.1
|Jun sun = 188.2
|Jul sun = 194.3
|Aug sun = 188.2
|Sep sun = 136.5
|Oct sun = 107.5
|Nov sun = 53.2
|Dec sun = 36.8
|year sun = 1473.4
|source 1 = weather.com<ref>[http://www.weather.com/outlook/travel/businesstraveler/wxclimatology/monthly/GMXX0028 Weather Information for Düsseldorf](2010年12月)</ref>
|source 2 = Data derived from Deutscher Wetterdienst<ref>[http://www.dwd.de/bvbw/appmanager/bvbw/dwdwwwDesktop?_nfpb=true&_pageLabel=_dwdwww_klima_umwelt_klimadaten_deutschland&T82002gsbDocumentPath=Navigation%2FOeffentlichkeit%2FKlima__Umwelt%2FKlimadaten%2Fkldaten__kostenfrei%2Fausgabe__monatswerte__node.html%3F__nnn%3Dtrue Ausgabe der Klimadaten: Monatswerte](2013年1月)</ref>
}}
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:デュッセルドルフ出身の人物}}
*[[アン・オブ・クレーヴズ]] - [[イングランド王]]・[[ヘンリー8世]]の4番目の妃
*[[ロベルト・シューマン]] - [[作曲家]]
*[[ウリ・ジョン・ロート]] - [[ギタリスト]]
*[[ノルベルト・ブルクミュラー]] - [[作曲家]]
*[[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]] - [[哲学者]]、[[著作家]]
*[[フローリアン・シュナイダー]] - [[クラフトワーク]]創設者
*[[ハインリヒ・ハイネ]] - [[詩人]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]
*[[ジョン・ハーツ]] - [[国際政治学]]者
*[[ルイーゼ・ライナー]] - [[俳優|女優]]
*[[竹内淳 (金融家)|竹内淳]] - [[中央銀行|中央銀行家]]
*[[田村英里子]] - [[俳優#性別での分類|女優]]
*[[内田恭子]] - [[アナウンサー]]
*[[宮本笑里]] - [[ヴァイオリニスト]]
*[[柿原徹也]] - [[声優]]
*[[網野泰寛]] - [[青年実業家]]
*[[生田絵梨花]] - 女優<ref>{{Cite news|title=香取慎吾「僕…出ます!」五輪出場宣言? - 芸能ニュース : nikkansports.com|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130908-1186182.html|accessdate=2018-04-08|language=ja-JP|work=nikkansports.com}}</ref>、[[乃木坂46]]元メンバー
*[[番長みるく]] - [[YouTuber]]。5歳から11歳まで在住
*[[ニシダ]] - [[芸人]]([[ラランド (お笑いコンビ)|ラランド]])。5歳から8歳まで在住<ref>{{Citation|title=ニシダ人生どこからミスった?/前編|url=https://www.youtube.com/watch?v=7e6z6tZ-0yo|language=ja-JP|accessdate=2022-04-09}}</ref>
== 対外関係 ==
; 姉妹都市・提携都市
デュッセルドルフでは以下の都市と姉妹都市の関係にある<ref name="Düsseldorf">{{cite web |url=http://www.amazingdusseldorf.com/community-local/people/twin-towns.html |title=Twin Towns |publisher=www.amazingdusseldorf.com |accessdate=2009-10-29 }}</ref>。
=== 国内 ===
*{{flagicon|Germany}} [[ケムニッツ]], ドイツ<ref name="Düsseldorf"/>
=== 国外 ===
*{{flagicon|China}} [[重慶市]], 中国<ref name="Düsseldorf"/>
*{{flagicon|Japan}} [[千葉県]], 日本<ref name="Düsseldorf"/>
*{{flagicon|Israel}} [[ハイファ]], イスラエル<ref name="Düsseldorf"/><ref name="Haifa">{{cite web |url=http://www.haifa.muni.il/Cultures/en-US/city/CitySecretary_ForeignAffairs/EngActs.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071009084809/http://www.haifa.muni.il/Cultures/en-US/city/CitySecretary_ForeignAffairs/EngActs.htm |archivedate=2007年10月9日 |title=Twin City acitivities |publisher=Haifa Municipality |accessdate=2008-02-14 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
*{{flagicon|Italy}} [[パレルモ]], イタリア<ref name="Düsseldorf"/>
*{{flagicon|Ukraine}} [[チェルニウツィー]], ウクライナ<ref name="Düsseldorf"/>
*{{flagicon|United Kingdom}} [[レディング]], イギリス<ref name="Düsseldorf"/>
*{{flagicon|France}} [[トゥールーズ]], フランス
*{{flagicon|Poland}} [[ワルシャワ]], ポーランド<ref name="Düsseldorf"/>
{{flagicon|Russia}} [[モスクワ]], ロシアは[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]の原因で姉妹都市関係は一時停止されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[フォルトゥナ・デュッセルドルフ]]
* [[デュッセルドルフの日本人コミュニティ]]
* [[在デュッセルドルフ日本国総領事館]]
* [[ツォンス]]
* [[アルトビール]]
* [[グランプリ・デュッセルドルフ]]
** [[グランドスラム・デュッセルドルフ2018]]、[[グランドスラム・デュッセルドルフ2019|2019]]、[[グランドスラム・デュッセルドルフ2020|2020]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Düsseldorf|Düsseldorf}}
; 公式
* [https://web.archive.org/web/20161202100918/https://www.duesseldorf.de/international/business/jp.html デュッセルドルフ市公式サイト] {{ja icon}}
; 日本政府
* [https://www.dus.emb-japan.go.jp/profile/japanisch/j_top.htm 在デュッセルドルフ日本国総領事館] {{ja icon}}
; 情報サイト
;[https://duesselfrau.de/ デュッセルフラウ]
;観光
* [http://www.duesseldorf-tourismus.de/ デュッセルドルフ観光局] {{de icon}}{{en icon}}
* [http://www.visit-germany.jp/JPN/destination_germany/master_tlstadt-id1071-fstadt_allgemein.htm ドイツ政府観光局 - デュッセルドルフ] {{ja icon}}
* [http://www.panorama-cities.net/duesseldorf/duesseldorf_germany.html デュッセルドルフのパノラマ] {{en icon}} {{de icon}}
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法哲学
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法哲学(ほうてつがく、英: Philosophy of law、独: Rechtsphilosophie)とは、法に関して、その制定および運用や様ざまな人の法観念・法感覚、また、法現象とよばれる社会現象等に視点をあてて、哲学的に、平たく言えば、既存の諸概念にとらわれることなく考察する学問分野である。そのため、具体的な内容について研究者間の見解の相違が大きく、法の一般的定義は困難となっている。
法哲学という用語は、ドイツ語の Rechtsphilosophie の訳語として使用されはじめたものであり、主にヘーゲル以後に一般化したものと考えられている。しかし、法に関する哲学は、すでに古代ギリシアのソクラテスの実践知に始まり、その後のプラトンやアリストテレス、また、ソフィストにおける弁論術にも見られる。
日本では、法哲学との呼称・表記のほかに伝統的な法理学(ほうりがく)との呼称・表記を用いることもある。伝統的に法哲学の研究が盛んな京都大学などでは現在もこの名称が用いられる。
よくみられる主張としては、実定法学が実定法(positives Recht、現に存在する法)を対象とするのに対して、法哲学は、あるべき法ないし正しい法を探求する学問である、というものがある。しかし、法哲学が法価値論(以下で詳述)のみを対象としていた時代にはそのような考え方も成り立っていたが、現在では法哲学の対象が広がっているため、「あるべき法を探求する」というのも一つの立場からの考え方に過ぎないことに注意が必要である。したがって、現代では、法哲学について多様な捉え方がある。これについては、例えば、牧野英一の広範な著作は、その全目録自体にひとつの法哲学体系が示されており参考となろう。また、このことからも分かるように、実定法学者の解釈的見解と法哲学とは、全く別個で無関係なものではなく、シラバス上の様々な目的から別に講義されるということである。ただ、ハーバート・ハートの『法の概念』に代表されるように、法への巨視的考察を採る立場からの限定的内容の講説が支配的である。
次にあげる法本質論とその他の4つに大別され、独立した形で論じられることは多い。このうち、法本質論は論者のセンテンスに投影される程度で表面化せず、法観念論と法意味論がいわゆる狭い意味の法哲学であり、『法哲学』等題する書物の中には、法観念論のみを扱うものもある。なお、これら4つは相互に関連した内容を含んでいる。現代では、一方において法制度の運用を推進し、他方において法制度を変遷および崩壊させる可能性のあるコンピューターシステムに左右されない法理論が求められており、法価値・形式法論理それぞれに胚胎される内在的・外在的な法認識とその結合の法技術理論への関心が持たれはじめている。これは、平たく言えば、さまざまな法価値の組み合わせ理論とその実体的形式性の問題関心である。
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法哲学とは、法に関して、その制定および運用や様ざまな人の法観念・法感覚、また、法現象とよばれる社会現象等に視点をあてて、哲学的に、平たく言えば、既存の諸概念にとらわれることなく考察する学問分野である。そのため、具体的な内容について研究者間の見解の相違が大きく、法の一般的定義は困難となっている。
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'''法哲学'''(ほうてつがく、{{lang-en-short|Philosophy of law}}、{{lang-de-short|Rechtsphilosophie}})とは、[[法 (法学)|法]]に関して、その制定および運用や様ざまな人の法観念・法感覚、また、法現象とよばれる社会現象等に視点をあてて、[[哲学]]的に、平たく言えば、既存の諸概念にとらわれることなく考察する学問分野である。そのため、具体的な内容について研究者間の見解の相違が大きく、法の一般的定義は困難となっている。
== 概要 ==
法哲学という用語は、[[ドイツ語]]の {{lang|de|Rechtsphilosophie}} の訳語として使用されはじめたものであり、主に[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]以後に一般化したものと考えられている。しかし、[[法 (法学)|法]]に関する哲学は、すでに[[古代ギリシア]]の[[ソクラテス]]の実践知に始まり、その後の[[プラトン]]や[[アリストテレス]]、また、[[ソフィスト]]における弁論術にも見られる<ref>三島、1980年、第1章を参照。</ref>。
日本では、法哲学との呼称・表記のほかに伝統的な'''法理学'''(ほうりがく)との呼称・表記を用いることもある。伝統的に法哲学の研究が盛んな[[京都大学]]などでは現在もこの名称が用いられる<ref group="注">書名に「法理学」を冠する例も少なく、[[田中成明]]『法理学講義』([[有斐閣]]、[[1994年]])、[[青井秀夫]]『法理学概説』(有斐閣、[[2007年]])など、数例を数えるにすぎない。</ref>。<!-- '''法思想史'''などの名称で講座が置かれている大学もある。--><!-- 法思想史と法哲学は通常は別に講座が置かれている。 -->
よくみられる主張としては、[[実定法学]]が[[実定法]]({{lang|de|positives Recht}}、現に存在する法)を対象とするのに対して、法哲学は、'''あるべき法'''ないし'''正しい法'''を探求する学問である、というものがある。しかし、法哲学が法価値論(以下で詳述)のみを対象としていた時代にはそのような考え方も成り立っていたが、[[現在]]では法哲学の対象が広がっているため、「あるべき法を探求する」というのも一つの立場からの考え方に過ぎないことに注意が必要である。したがって、現代では、法哲学について多様な捉え方がある。これについては、例えば、[[牧野英一]]の広範な著作は、その全目録自体にひとつの法哲学体系が示されており参考となろう。また、このことからも分かるように、実定法学者の解釈的見解と法哲学とは、全く別個で無関係なものではなく、シラバス上の様々な目的から別に講義されるということである。ただ、[[ハーバート・ハート]]の『法の概念』に代表されるように、法への巨視的考察を採る立場からの限定的内容の講説が支配的である。
== 研究対象 ==
次にあげる法本質論とその他の4つに大別され、独立した形で論じられることは多い。このうち、法本質論は論者のセンテンスに投影される程度で表面化せず、法観念論と法意味論がいわゆる狭い意味の法哲学であり、『法哲学』等題する書物の中には、法観念論のみを扱うものもある。なお、これら4つは相互に関連した内容を含んでいる。現代では、一方において法制度の運用を推進し、他方において法制度を変遷および崩壊させる可能性のあるコンピューターシステムに左右されない法理論が求められており、法価値・形式法論理それぞれに胚胎される内在的・外在的な法認識とその結合の法技術理論への関心が持たれはじめている。これは、平たく言えば、さまざまな法価値の組み合わせ理論とその実体的形式性の問題関心である。
*[[法本質論]]
:[[法 (法学)|法]]の規範化・対象化について、一般論を行うものである。前者・後者ともに人的内面性および行為(性)が扱われるが、研究者間で最も見解の分かれるもので多様である。多様の点については、かつて、[[矢部貞治]]が指摘した[[政治学]]は研究者の数だけ存在するというものと同様である。
*[[法観念論]]
:[[法 (法学)|法]]について、現実の制度を必然的前提とすることなく、さまざまな立場から、理念的な面にも及んで、一般論を行うものである。
*法価値論
:「[[法 (法学)|法]]はどうあるべきか」という当為を問う分野である。法の中心的価値である正義の問題([[正義論]])や[[自然法]]の問題を扱うものであり、法哲学の問題領域としては最も古い。
*法概念論
:「法とは何か」という存在を問う分野である。法・[[国家]]・[[権利]]などの基本概念の定義や相互の関係、法秩序の構造に関する考察を扱う。
*[[法意味論]]
:[[法 (法学)|法]]について、現実の制度および一般論の考察により、特に、法の社会的効果および影響から法の意味を分析するものである。例えば、憲法や民法・刑法また商法など法典をもつ基本法の分類上用いられる形式的意味の法,実質的意味の法、さらに、固有の意味の法(または法の大原則ないし指導原理)とよばれるものの意味するところの関係から法の動態が考察される。ちなみに、形式的意味の法は制定・改廃時の主張に、実質的意味の法は運用実態の認識に、固有の意味の法は各法が他の法と区別されるべき本質の議論に、それぞれの意味の源泉がある。また、理論上、概念的には、形式的意味の法は法の具体性と、実質的意味の法は法の抽象性・一般性と近接している。したがって、それぞれの法の意味間の関連構図は本来的にはなく、例えば、形式vs実質という構図は別の要因により成り立つことなどが考察される。
*法変遷論
:固有の意味の法(または法の大原則ないし指導原理)における理念と史的主張に関する考察である。ここでは、例えば、近代的意味の憲法,飛鳥時代のいわゆる国憲としての十七憲法など史的性質のあるさまざまなものが考察の対象となる。なお、かつて、憲法に関し条文解釈上の前提論として限定的に用いられたことがあった(橋本博士)。
*[[法学方法論]]
: [[法解釈]]の機能や方法等を考察するものである。具体的には、法的推論の分析等がある一方、法解釈における比較衡量(利益衡量・利益考量)の位置付け等、[[法価値論]]と密接に結びつくものもあり、学問としての内容は一定していない。なお、法の正統性(正当性)に関する議論も扱われるが、法的観念論と異なり、現実の法制度を前提とするところが異なっている。例えば、形式的意味における法の動態を、固有の意味の法の方向性からの考察により、正統性の理論構成を行う。
*法機能論(法作用論)
:従来、行為規範としての法・裁判規範としての法、という法の役割に着目して論じられたものである。法への機能的側面からの考察は、[[平野龍一]]の提唱によって始まったものである。法機能論は、制定法の個別分野を超え、より一般化した抽象概念的な法について妥当すべきであるかについて見解は一致しない。一般的な法の目的性に関し、制定法的観点からすれば公法においては妥当するが、契約当事者等の主体性が法の目的と密接な私法では異なるからである。なお、法作用論というときは、客観性がより強調され、公法的視点が前面に出る。
*[[法教育論]](法学教育論)
:法の理解について、講学上または一般市民の法の認識に関して体系的な考察をするものである。例えば、[[法学]]における論理的体系的学習と判例学習の関係から、それらの一方的偏重の与える影響の考察などを行う。法は社会紛争の解決を目的のひとつとし、判例はその具体化であるが、限られた法的判断であるために法の一般的理解へ結びつかないから、法の規範的性質と規律目的の理解に及ばず、そのために法の一般的・体系的理解が必要とされることなどが明らかにされる。
== 様々な学派 ==
*[[自然法学派]]
:人間の社会的実践とは独立した普遍的に妥当する実質的な[[規範]]が存在し、それが[[自然法]]として[[実定法]]に優越する、と考え、そのような[[自然法]]の内容の把握を探求しようとする学派。[[中世]]の[[スコラ学|スコラ哲学]]以来の長い歴史を誇るが、[[形而上学]]の没落とともにかつての勢いを失い現在に至る。但し、ラテン系大陸諸国の[[フランス]]、[[イタリア]]などではなお有力である。
*[[分析法学派]]
:法哲学の対象を主として、法や権利の概念の明晰な把握や、法体系の内的構造の解明などに置く学派。[[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]や[[ジョン・オースティン (法哲学者)|オースティン]]によって創始され、[[ハーバート・ハート|ハート]]以来の英米系法哲学は概ねこの系統に属する。[[法実証主義]]を基調とし、[[自然法学派]]と対立することが多い。
*[[歴史法学派]]
:初期分析法学派への反動として[[ヘンリー・メイン|メイン]]などによって提唱された<ref group="注">メイン(Henry James Sumner Maine, 1822-1888)は、イギリス歴史法学の始祖。主著は『古代法』(信山社出版、復刻版、1995年、原著は1861年)。</ref>。法の把握は、諸概念の明晰化のみによって可能なものではなく、原始社会における法の様態が今日までどのように発展してきたか、などの歴史的考察によって初めて可能になる、と主張した。'''法哲学'''における勢力は殆どないが、[[法制史]]の領域ではなお隠然たる影響力を誇る。
== 日本の法哲学者 ==
{{See|Category:日本の法哲学者}}
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* [[穂積陳重]]
* [[尾高朝雄]]
* [[碧海純一]]
* [[長尾龍一]]
* [[井上達夫]]
* [[田中成明]]
* [[矢崎光圀]]
* [[加藤新平]]
* [[恒藤恭]]
* [[井上茂 (法哲学者)|井上茂]]
* [[三島淑臣]]
* [[長谷川晃 (法学者)|長谷川晃]]
* [[亀本洋]]
* [[服部高宏]]
* [[田村哲也 (法学者)|田村哲也]]
* [[森村進]]
* [[宇佐美誠]]
* [[深田三徳]]
* [[陶久利彦]]
* [[大屋雄裕]]
* [[土井崇弘]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<!--以下、発行年順-->
* [[大橋智之輔]]・[[三島淑臣]]・[[田中成明]]編 『法哲学綱要』青林書院、1990年。ISBN 4417007608
* [[笹倉秀夫]] 『法哲学講義』[[東京大学出版会]]、2002年。ISBN 4130323253
* [[平野仁彦]]・[[亀本洋]]・[[服部高宏]] 『法哲学』[[有斐閣]]<有斐閣アルマ>、2002年。ISBN 4641121486
* [[瀧川裕英]]・[[宇佐美誠]]・[[大屋雄裕]] 『法哲学』[[有斐閣]]、2014年。ISBN 4641125678
* 三島淑臣 『法思想史』[[青林書院]]<現代法律学講座3>、1980年。ISBN 4417004870
* [[Vicente Barretto]]. ''Dicionário de Filosofia do Direito'' (''Philosophy of Law Dictionary''). São Leopoldo, Unisinos, 2006. ISBN 85-7431-266-5
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|法学}}
* [[法学]]
== 外部リンク ==
{{IEP|law-phil|Philosophy of Law}}
*{{kotobank}}
*{{kotobank|法哲学(学問分野)}}
*{{kotobank|法理学}}
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[[Category:法哲学|*]]
[[Category:分野別の哲学]]
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門松
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門松(かどまつ)は、正月に日本の家の門前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語。古くは、木の梢に神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う。年神はこの松門を目印に降臨してくると言われる。
松は冬でも青々とした常緑高木で、新しい生命力の象徴となっている。神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。
一説には唐代にみられた、正月に松の枝を門に飾る風習が平安時代に日本に伝わったという(ただし中国で正月に松を飾る地域は限られている)。
平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われた。これは、初子の日に外出して松の小木を引き抜くという貴族の遊びで、持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣があり、門松はこれが変化したものと考えられている。現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に、白い和紙で包み金赤の水引を掛けた、根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られる。
長治年間(1104年 - 1105年)に撰された『堀河百首』には藤原顕季が門松を詠んだ歌が収められており(「#門松に関する作品」参照)、この頃には平安京(現在の京都市)で門松を飾る風習があったことが分かる。14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記され、16世紀中頃の上杉本『洛中洛外図』にも門松が描かれている。
日中戦争が激化した1938年(昭和13年)末には、大阪府の一部の町会が門松廃止運動を行った。運動を回避するものとして門松を印刷した紙ビラなども流通した。
なお、中国では正月に松を飾る地域は限られており、一般的には邪気払いの力があるとされる桃の木の人形や札を飾る風習がみられた。日本に桃が伝来したとき既に日本では松を正月飾りにする風習が出来上がっていたため桃が入り込む余地がなかったといわれている。
現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった。
竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴(ずんどう)」の2種類がある。一説では、「そぎ」は徳川家康が始めたもので、徳川家康が三方ヶ原の戦い(1572年12月)で武田信玄に敗れた直後、武田方から送られた「松枯れて 竹類いなき 明日かな」(松平氏の出自である徳川家康が滅び、武田氏が栄える)という句を、「まつかれで たけだくびなき あしたかな」(松平氏は滅びず、武田の首級が落ちる)と読み替えて、竹を斜めに切り落とした門松とともに送りつけたと伝承されている。武田氏の本国があった山梨県では現代において、竹を寸胴にしたものを「武田流門松」と称して山梨県庁舎などに飾っている。
江戸時代の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた。仙台藩の武家では、松の枝を括り付けた高さ3m程のクリやクヌギの木を門の両脇に立て、その間に竹を渡し、しめ縄と藁の飾りをかける「ケンダイ」を組み合わせる門のような構造である。仙台城に飾り付けられた門松は高さ4メートルに達し、材料は根白石村(現在は仙台市泉区の一部)に住む8人の「お門松上げ人」が納めることとされていた。豪勢であるためお門松上げ人から税免除の嘆願が出たり、幕末には藩が門松禁止令を出したりするほどであった。第二次世界大戦中の自粛や戦後の環境保護意識の高まりで仙台門松は一時廃れたが、仙台市博物館の職員が2010年代に研究・再現した。
門松の様式には、地方により差がある。関東では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。関西では3本組の竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。
兵庫県西宮市の西宮神社では、十日えびすの宵宮で市中を巡幸するえびす様に葉先があたらないよう、松を下向きに付け替えて「逆さ門松」にする。地域の言い伝えにより松を使わない所もある。東京都府中市の大國魂神社では、「待つ」に通じることから、境内には松の木が1本もなく、府中では門松に松を用いない慣習が残っている。千葉県市原市の姉埼神社やその氏子も同様に松を嫌って「門榊」を飾る。千葉県市原市には「門榊カード」も存在する。兵庫県神戸市の生田神社では、水害で倒れた松の木が社殿を壊したとの言い伝えがあり「杉盛り」を飾る。
集合住宅の発達など社会環境の変化などから、画像の様な本格的な門松が設置されることは少なくなったが、一般家庭用に小さな寄せ植え風の門松などが年末に店頭に並ぶようになったため、このタイプの門松を置く場合がある。
さらに省略版として、枝振りのいい若松に、赤白や金銀の水引を蝶結びにし、門柱などに付ける方法もあり、手軽なことから多く使われる。
生花店やホームセンター、造園業や工務店などでは、門松を造り、設置・撤去まで一括で行なうサービスもある。毎年飾ることができる造花の門松(人工門松)もある。
門松用紙とは、門松を置くスペースが確保できない店舗や住居向け、設置の簡素化目的でを実際の門松の代用として玄関先に貼る用紙である。門松などの図柄に「賀正」「謹賀新年」「迎春」等の賀詞、新年のあいさつ文や年末年始の休業期間を配したを用紙に併記することも多い。門松を紙媒体にしたことで既存の門松の形式に捕らわれない自由な様式が見られ、松竹梅の各単体のみの絵柄や鶴亀や干支など縁起が良い動物の絵柄もあるほか、和紙を使用した見栄えのいい門松用紙もある。用紙の名称は「門松用紙」が多く用いられている他に「年賀ポスター」「紙門松」「門松カード」という使用も見られる。町内会や商店街単位での配布されている場所があるが、小売りで販売している業者や文具屋、ホームセンターなどでも購入が可能である。
12月13日(もしくはその後)に、山から松の木(枝)を取ってくる「松迎え」を行なう。上り松、花迎、花伐、松ばやし、などともいう。この「松」により、山から歳神様(歳徳神)を迎え入れることとなる。なお、門松を建てることを「松迎え」と言うのは誤りである。
門松の設置は12月13日以降にすべきとされる。ただし、12月29日に飾るのは「二重苦」、さらに9の末日でもあるので「苦待つ」に通じるとされ、「苦松」といって忌む。また、旧暦の大晦日にあたる12月30日や12月31日に飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神を疎かにするということから、それぞれ避けるという風習もある。
門松がある期間のことを松の内といい、伝統的には元日から1月15日までを指し、関西などでは依然15日までのままであるが、近年では関東を中心として7日までとするのが多くなっている。松の内を1月7日までとする場合には、6日の夕方や翌7日に片づける場合が多い。左義長が行われる地域は、左義長で門松を焼くので、それに合わせて仕舞う。左義長は1月15日の小正月が多いが、地域や神社によって異なる。
門松を片付けることを「松下ろし」「松あがり」「松払い」「松引き」「松送り」「松納め」などという。門松を飾ったあとの穴にその松の梢を立てる風習もあり、鳥総松(とぶさまつ)や留守居松と呼ばれる。
正月の門松を片付けた後を「松過ぎ」と呼ぶ。
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"text": "門松(かどまつ)は、正月に日本の家の門前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語。古くは、木の梢に神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う。年神はこの松門を目印に降臨してくると言われる。",
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"text": "松は冬でも青々とした常緑高木で、新しい生命力の象徴となっている。神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。",
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"text": "一説には唐代にみられた、正月に松の枝を門に飾る風習が平安時代に日本に伝わったという(ただし中国で正月に松を飾る地域は限られている)。",
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"text": "平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われた。これは、初子の日に外出して松の小木を引き抜くという貴族の遊びで、持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣があり、門松はこれが変化したものと考えられている。現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に、白い和紙で包み金赤の水引を掛けた、根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られる。",
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"text": "長治年間(1104年 - 1105年)に撰された『堀河百首』には藤原顕季が門松を詠んだ歌が収められており(「#門松に関する作品」参照)、この頃には平安京(現在の京都市)で門松を飾る風習があったことが分かる。14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記され、16世紀中頃の上杉本『洛中洛外図』にも門松が描かれている。",
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"text": "日中戦争が激化した1938年(昭和13年)末には、大阪府の一部の町会が門松廃止運動を行った。運動を回避するものとして門松を印刷した紙ビラなども流通した。",
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"text": "なお、中国では正月に松を飾る地域は限られており、一般的には邪気払いの力があるとされる桃の木の人形や札を飾る風習がみられた。日本に桃が伝来したとき既に日本では松を正月飾りにする風習が出来上がっていたため桃が入り込む余地がなかったといわれている。",
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"text": "現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった。",
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"text": "竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴(ずんどう)」の2種類がある。一説では、「そぎ」は徳川家康が始めたもので、徳川家康が三方ヶ原の戦い(1572年12月)で武田信玄に敗れた直後、武田方から送られた「松枯れて 竹類いなき 明日かな」(松平氏の出自である徳川家康が滅び、武田氏が栄える)という句を、「まつかれで たけだくびなき あしたかな」(松平氏は滅びず、武田の首級が落ちる)と読み替えて、竹を斜めに切り落とした門松とともに送りつけたと伝承されている。武田氏の本国があった山梨県では現代において、竹を寸胴にしたものを「武田流門松」と称して山梨県庁舎などに飾っている。",
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"text": "江戸時代の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた。仙台藩の武家では、松の枝を括り付けた高さ3m程のクリやクヌギの木を門の両脇に立て、その間に竹を渡し、しめ縄と藁の飾りをかける「ケンダイ」を組み合わせる門のような構造である。仙台城に飾り付けられた門松は高さ4メートルに達し、材料は根白石村(現在は仙台市泉区の一部)に住む8人の「お門松上げ人」が納めることとされていた。豪勢であるためお門松上げ人から税免除の嘆願が出たり、幕末には藩が門松禁止令を出したりするほどであった。第二次世界大戦中の自粛や戦後の環境保護意識の高まりで仙台門松は一時廃れたが、仙台市博物館の職員が2010年代に研究・再現した。",
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"text": "門松の様式には、地方により差がある。関東では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。関西では3本組の竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。",
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"text": "兵庫県西宮市の西宮神社では、十日えびすの宵宮で市中を巡幸するえびす様に葉先があたらないよう、松を下向きに付け替えて「逆さ門松」にする。地域の言い伝えにより松を使わない所もある。東京都府中市の大國魂神社では、「待つ」に通じることから、境内には松の木が1本もなく、府中では門松に松を用いない慣習が残っている。千葉県市原市の姉埼神社やその氏子も同様に松を嫌って「門榊」を飾る。千葉県市原市には「門榊カード」も存在する。兵庫県神戸市の生田神社では、水害で倒れた松の木が社殿を壊したとの言い伝えがあり「杉盛り」を飾る。",
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"text": "集合住宅の発達など社会環境の変化などから、画像の様な本格的な門松が設置されることは少なくなったが、一般家庭用に小さな寄せ植え風の門松などが年末に店頭に並ぶようになったため、このタイプの門松を置く場合がある。",
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"text": "さらに省略版として、枝振りのいい若松に、赤白や金銀の水引を蝶結びにし、門柱などに付ける方法もあり、手軽なことから多く使われる。",
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"text": "生花店やホームセンター、造園業や工務店などでは、門松を造り、設置・撤去まで一括で行なうサービスもある。毎年飾ることができる造花の門松(人工門松)もある。",
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"text": "門松用紙とは、門松を置くスペースが確保できない店舗や住居向け、設置の簡素化目的でを実際の門松の代用として玄関先に貼る用紙である。門松などの図柄に「賀正」「謹賀新年」「迎春」等の賀詞、新年のあいさつ文や年末年始の休業期間を配したを用紙に併記することも多い。門松を紙媒体にしたことで既存の門松の形式に捕らわれない自由な様式が見られ、松竹梅の各単体のみの絵柄や鶴亀や干支など縁起が良い動物の絵柄もあるほか、和紙を使用した見栄えのいい門松用紙もある。用紙の名称は「門松用紙」が多く用いられている他に「年賀ポスター」「紙門松」「門松カード」という使用も見られる。町内会や商店街単位での配布されている場所があるが、小売りで販売している業者や文具屋、ホームセンターなどでも購入が可能である。",
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"text": "12月13日(もしくはその後)に、山から松の木(枝)を取ってくる「松迎え」を行なう。上り松、花迎、花伐、松ばやし、などともいう。この「松」により、山から歳神様(歳徳神)を迎え入れることとなる。なお、門松を建てることを「松迎え」と言うのは誤りである。",
"title": "設置期間"
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"text": "門松の設置は12月13日以降にすべきとされる。ただし、12月29日に飾るのは「二重苦」、さらに9の末日でもあるので「苦待つ」に通じるとされ、「苦松」といって忌む。また、旧暦の大晦日にあたる12月30日や12月31日に飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神を疎かにするということから、それぞれ避けるという風習もある。",
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"text": "門松がある期間のことを松の内といい、伝統的には元日から1月15日までを指し、関西などでは依然15日までのままであるが、近年では関東を中心として7日までとするのが多くなっている。松の内を1月7日までとする場合には、6日の夕方や翌7日に片づける場合が多い。左義長が行われる地域は、左義長で門松を焼くので、それに合わせて仕舞う。左義長は1月15日の小正月が多いが、地域や神社によって異なる。",
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"text": "門松を片付けることを「松下ろし」「松あがり」「松払い」「松引き」「松送り」「松納め」などという。門松を飾ったあとの穴にその松の梢を立てる風習もあり、鳥総松(とぶさまつ)や留守居松と呼ばれる。",
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"text": "正月の門松を片付けた後を「松過ぎ」と呼ぶ。",
"title": "設置期間"
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門松(かどまつ)は、正月に日本の家の門前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。新年の季語。古くは、木の梢に神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う。年神はこの松門を目印に降臨してくると言われる。
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[[file:住吉神社 (神戸市西区)2008初詣 社殿P1010466.jpg|thumb|right|神社の入り口に飾られた門松[[住吉神社 (神戸市西区)]]]]
'''門松'''(かどまつ)は、[[正月]]に[[日本]]の家の[[門]]前などに立てられる[[松]]や[[竹]]を用いた[[正月飾り]]である。'''松飾り'''、'''飾り松'''、'''立て松'''とも言う。新年の[[季語]]<ref name="kojien">『[[広辞苑]] 第5版』</ref>。古くは、木の梢に[[神]]が宿ると考えられていたことから、門松は[[年神]]を家に迎え入れるための[[依り代]]という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う<ref name="ando">フリーダ・フィッシャー、安藤勉 『明治日本美術紀行―ドイツ人女性美術史家の日記』([[講談社]] 2002年7月)p.164</ref>。[[年神]]はこの松門を目印に降臨してくると言われる<ref>{{Cite book|title=本当は怖い日本のしきたり オーディオブック|url=http://worldcat.org/oclc/1108314699|publisher=Pan roringu (Hatsubai)|date=[2019]|isbn=978-4-7759-8631-8|oclc=1108314699|last=火田, 博文}}</ref>。
== 歴史 ==
松は冬でも青々とした[[常緑]]高木で、新しい生命力の象徴となっている<ref name="washio" />。神様が宿ると思われてきた[[常盤木]]の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。
一説には[[唐]]代にみられた、正月に松の枝を門に飾る風習が[[平安時代]]に日本に伝わったという(ただし中国で正月に松を飾る地域は限られている)<ref name="washio">{{Cite journal|和書 |author=鷲尾紀吉, 劉明 |url=http://id.nii.ac.jp/1471/00001450/ |title=中国と日本の正月行事 |journal=中央学院大学人間・自然論叢 |issn=13409506 |publisher=[[中央学院大学]]商学部・法学部 |year=2009 |month=jul |issue=29 |pages=3-22 |naid=110007225842 |accessdate=2021-04-30}}</ref>。
平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われた。これは、[[初子の日]]に外出して松の小木を引き抜くという[[平安貴族|貴族]]の遊びで、持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣があり、門松はこれが変化したものと考えられている。現在も[[関西]]の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に、白い[[和紙]]で包み金赤の[[水引]]を掛けた、根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られる<ref>[http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2012/01/09/%E6%AD%A3%E6%9C%88%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF%E5%AE%AE%E5%BB%B7%E5%84%80%E7%A4%BC/ 正月行事のルーツは宮廷儀礼!!] 1089ブログ([[東京国立博物館]])2012年1月9日</ref>。
[[長治]]年間(1104年 - 1105年)に撰された『堀河百首』には[[藤原顕季]]が門松を詠んだ歌が収められており(「[[#門松に関する作品]]」参照)、この頃には[[平安京]](現在の[[京都市]])で門松を飾る風習があったことが分かる。14世紀中頃の『[[徒然草]]』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記され、16世紀中頃の上杉本『[[洛中洛外図]]』にも門松が描かれている<ref name="tanaka2017">[[田中大喜]]「{{PDFlink|[https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/plant/column/2017/364.pdf 第214回くらしの植物苑観察会 中世人と植物]}}」『くらしの植物苑だより』No.364([[国立歴史民俗博物館]])</ref>。
[[日中戦争]]が激化した[[1938年]](昭和13年)末には、[[大阪府]]の一部の町会が門松廃止運動を行った。運動を回避するものとして門松を印刷した紙ビラなども流通した<ref>紙ビラの門松、陶製の鏡餅『大阪毎日新聞』(昭和13年12月22日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p357 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
なお、中国では正月に松を飾る地域は限られており、一般的には邪気払いの力があるとされる[[モモ|桃]]の木の人形や札を飾る風習がみられた<ref name="washio" />。日本に桃が伝来したとき既に日本では松を正月飾りにする風習が出来上がっていたため桃が入り込む余地がなかったといわれている<ref name="washio" />。
== 飾り付け ==
=== 様式 ===
[[file:Pair gate with pine branches for the New Year,kadomatsu,katori-city,japan.JPG|thumb|left|240px|[[民家]]の設置例]]
[[file:"Chiisai Nikko", a smiling kimono girl at New Year in Japan (1914 by Elstner Hilton).jpg|サムネイル|竹のない飾りつけ([[大正時代]])]]
[[file:New Year Decorations in Japan, with a girl in kimono (1914 by Elstner Hilton).jpg|サムネイル|竹を二階屋根まで届くほど高くした門松(大正時代)]]
現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、[[鎌倉時代]]以後、竹も一緒に飾るようになった<ref name=ando/>。
竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴(ずんどう)」の2種類がある。一説では、「そぎ」は[[徳川家康]]が始めたもので、徳川家康が[[三方ヶ原の戦い]]([[1572年]]12月)で[[武田信玄]]に敗れた直後、武田方から送られた「松枯れて 竹類いなき 明日かな」([[松平氏]]の出自である徳川家康が滅び、武田氏が栄える)という句を、「まつかれで たけだくびなき あしたかな」(松平氏は滅びず、武田の[[首級]]が落ちる)と読み替えて、竹を斜めに切り落とした門松とともに送りつけたと伝承されている<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/45035 【浜松歴史のとびら】門松と徳川家康 武田から無礼な句、家来が怒った] [[中日新聞]](2019年12月13日)2021年12月30日閲覧</ref>。武田氏の本国があった[[山梨県]]では現代において、竹を寸胴にしたものを「武田流門松」と称して[[山梨県庁舎]]などに飾っている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASPDW72WPPDWUZOB00J.html?ref=goonews 「県庁と議事堂の正面玄関に武田流門松」][[朝日新聞デジタル]](2021年12月28日)2021年12月30日閲覧</ref>。
[[江戸時代]]の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた<ref group="注">深川江戸資料館にて、再現したものを正月に見ることができる。[https://web.archive.org/web/20171227123543/https://www.city.koto.lg.jp/011501/kuse/koho/kuho/h24/h2401/documents/010104.pdf 店先に飾られている大きな門松 (深川江戸資料館)]。</ref>。[[仙台藩]]の武家では、松の枝を括り付けた高さ3m程の[[クリ]]や[[クヌギ]]の木を門の両脇に立て、その間に竹を渡し、[[しめ縄]]と[[藁]]の飾りをかける「ケンダイ」を組み合わせる門のような構造である<ref>{{Cite web|和書|title=仙台伝統の門松お目見え 中心部の店舗など4ヵ所|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201912/20191229_15014.html|website=[[河北新報]]オンラインニュース|accessdate=2020-12-26|language=ja}}</ref>{{refnest|group="注"|[[瑞鳳殿]]、[[仙台市戦災復興記念館]]、[[仙台市縄文の森広場]]、[[仙台市博物館]]、[[仙台市歴史民俗資料館]]、[[仙台文学館]]、[[地底の森ミュージアム]]
では正月に再現したものを展示している<ref>[https://www.hm-sendai.jp/sisetu/sensai/files/1545464010.pdf 公益財団法人 仙台ひと・まち交流財団] - 2020年12月26日</ref>。}}。[[仙台城]]に飾り付けられた門松は高さ4メートルに達し、材料は[[根白石村]](現在は[[仙台市]][[泉区 (仙台市)|泉区]]の一部)に住む8人の「お門松上げ人」が納めることとされていた<ref name="日経20211230">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD1366N0T11C21A2000000/ 倉橋真紀:「仙台門松」幸も構えも大きく◇江戸時代の仙台城に据えられた高さ4メートルの正月飾り、地域の人々と再現◇]『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年12月30日(文化面)同日閲覧</ref>。豪勢であるためお門松上げ人から税免除の嘆願が出たり、[[幕末]]には藩が門松禁止令を出したりするほどであった<ref name="日経20211230"/>。[[第二次世界大戦]]中の自粛や戦後の環境保護意識の高まりで仙台門松は一時廃れたが、[[仙台市博物館]]の職員が2010年代に研究・再現した<ref name="日経20211230"/>。
門松の様式には、地方により差がある。[[関東]]では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。関西では3本組の竹を中心に、前面に[[ハボタン|葉牡丹]](紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。豪華になると[[ウメ|梅]]老木や[[ナンテン|南天]]、[[クマザサ|熊笹]]や[[ユズリハ]]などを添える。
=== 様々な門松 ===
[[兵庫県]][[西宮市]]の[[西宮神社]]では、[[西宮神社#十日えびす|十日えびす]]の宵宮で市中を巡幸する[[えびす|えびす様]]に葉先があたらないよう、松を下向きに付け替えて「逆さ門松」にする<ref>[http://nishinomiya-ebisu.com/event/event03.html 忌籠、門松、開門神事福男] 西宮神社</ref>。地域の言い伝えにより松を使わない所もある。[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]の[[大國魂神社]]では、「待つ」に通じることから、[[境内]]には松の木が1本もなく、府中では門松に松を用いない慣習が残っている<ref name="fuchu">[https://www.ookunitamajinja.or.jp/mame/ 大國魂神社の七不思議について] 大國魂神社</ref>。[[千葉県]][[市原市]]の[[姉埼神社]]やその[[氏子]]も同様に松を嫌って「門榊」を飾る<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1324451358530/ Excite Bit コネタ 紙の門松、飾りますか?][[エキサイト]]ニュース(2011年12月26日)</ref>。千葉県市原市には「門榊カード」も存在する<ref name=":0">{{Cite web |title=門松カード及び門榊カードについて |url=https://www.city.ichihara.chiba.jp/article?articleId=60237fc0ece4651c88c1928f |website=市原市 |access-date=2023-12-29 |date=2019-12-27}}</ref>。兵庫県[[神戸市]]の[[生田神社]]では、水害で倒れた松の木が社殿を壊したとの言い伝えがあり「[[杉]]盛り」を飾る<ref>[http://www.sankei.com/west/news/141227/wst1412270088-n1.html 「来年は穏やかな年に…」生田神社に正月飾りの杉盛りがお目見え] [[産経新聞|産経]]WEST(2014年12月27日)</ref>。
[[集合住宅]]の発達など社会環境の変化などから、画像の様な本格的な門松が設置されることは少なくなったが、一般家庭用に小さな[[寄せ植え]]風の'''門松'''などが年末に店頭に並ぶようになったため、このタイプの門松を置く場合がある。
さらに省略版として、枝振りのいい若松に、赤白や金銀の水引を[[蝶結び]]にし、門柱などに付ける方法もあり、手軽なことから多く使われる。
[[生花]]店や[[ホームセンター]]、[[造園業]]や[[工務店]]などでは、門松を造り、設置・撤去まで一括で行なうサービスもある。毎年飾ることができる造花の門松(人工門松)もある。
<gallery>
Kadomatu18.JPG|門松(関西地方の例)
Kadomatsu at Kabuki-za 02.jpg|寸胴の門松<br />([[歌舞伎座]])
Edo_Kadomatsu01.JPG|江戸後期の商家の門松<br />([[深川江戸資料館]])
Fuchuookunitamajinjyakadomatsu2.jpg|松を使用しない門松<br />(府中市の大國魂神社)
Monowel.jpg|門松ポスターを貼った商店
</gallery>
=== 門松用紙 ===
'''門松用紙'''とは、門松を置くスペースが確保できない店舗や住居向け、設置の簡素化目的でを実際の門松の代用として玄関先に貼る用紙である。門松などの図柄に「賀正」「謹賀新年」「迎春」等の賀詞、新年のあいさつ文や年末年始の休業期間を配したを用紙に併記することも多い。門松を紙媒体にしたことで既存の門松の形式に捕らわれない自由な様式が見られ、松竹梅の各単体のみの絵柄や鶴亀や[[干支]]など縁起が良い動物の絵柄もあるほか、和紙を使用した見栄えのいい門松用紙もある。用紙の名称は「門松用紙」が多く用いられている他に「年賀ポスター」「紙門松」「門松カード」という使用も見られる。町内会や商店街単位での配布されている場所があるが、小売りで販売している業者や文具屋、ホームセンターなどでも購入が可能である。近年はインターネット経由でのダウンロードや印刷を推奨している[[地方公共団体|地方自治体]]もある<ref name=":0" />。
<gallery>
Monowel.jpg|門松用紙を貼った店舗
</gallery>
== 設置期間 ==
=== 松迎え ===
[[12月13日]](もしくはその後)に、山から松の木(枝)を取ってくる「松迎え」を行なう<ref>[http://www.hamamatsuhachimangu.org/topics.php?id=1&schemas=type010_1_1&topics=8 浜松八幡宮]{{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>。上り松、花迎、花伐、松ばやし、などともいう<ref name=kojien />。この「松」により、山から[[歳神]]様([[歳徳神]])を迎え入れることとなる。なお、門松を建てることを「松迎え」と言うのは誤りである<ref>{{Cite journal|和書 |author=山根章弘 |title=武家故実の研究(その二) : 日本の都市における一般社会の家庭内の《正月行事》 |journal=研究紀要 |issn=02861518 |publisher=[[東京音楽大学]] |year=1990 |issue=14 |pages=A1-A26 |naid=110007147991 |url=http://id.nii.ac.jp/1300/00000713/}}</ref>。
=== 設置に関する信仰 ===
門松の設置は12月13日以降にすべきとされる<ref name="jinjahoncho">[https://www.jinjahoncho.or.jp/2022syogatsu お正月のあれこれ] [[神社本庁]]</ref>。ただし、[[12月29日]]に飾るのは「二重苦」、さらに9の末日でもあるので「苦待つ」に通じるとされ、「苦松」といって忌む<ref>[[西角井正慶]]編『年中行事事典』(1958年(昭和33年)5月23日初版発行、[[東京堂出版]])p.272</ref>。また、[[旧暦]]の[[大晦日]]にあたる[[12月30日]]<!--太陰暦では大の月でも30日までであり、大晦日は12月30日になる。-->や[[12月31日]]に飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神を疎かにするということから、それぞれ避けるという風習もある<ref name="jinjahoncho" />。
=== 松の内 ===
門松がある期間のことを'''松の内'''といい、伝統的には元日から[[1月15日]]までを指し、関西などでは依然15日までのままであるが、近年では関東を中心として7日までとするのが多くなっている<ref name=kojien />。松の内を1月7日までとする場合には、6日の夕方や翌7日に片づける場合が多い。[[左義長]]が行われる地域は、左義長で門松を焼くので、それに合わせて仕舞う。左義長は1月15日の[[小正月]]が多いが、地域や神社によって異なる。
門松を片付けることを「松下ろし」「松あがり」「松払い」「松引き」「松送り」「松納め」などという<ref name=kojien />。門松を飾ったあとの穴にその松の梢を立てる風習もあり、鳥総松(とぶさまつ)や留守居松と呼ばれる<ref name=kojien />。
正月の門松を片付けた後を「松過ぎ」と呼ぶ。
== 門松に関する作品 ==
* 和歌・俳句・[[狂歌]]
** 「門松をいとなみたてるそのほどに春明がたに夜や成ぬらん」 - 平安時代後期の歌人藤原顕季の和歌。『堀河百首』収録<ref name="tanaka2017" />。
** 「門松は冥途の旅の[[一里塚]]めでたくもありめでたくもなし」 - 室町時代の僧[[一休宗純]]の[[狂歌]]とされる<ref>『[[広辞苑]]』第5版及び『[[大辞林]]』第三版の「門松は冥途の旅の一里塚」の項</ref>。一方、一休と[[智蘊]](蜷川親当)の[[道歌]]問答での「門松は冥途の旅の一里塚馬駕籠もなく泊まりやもなし」という歌が後に変容したものともされる<ref>{{CRD|1000013178|一休さん(一休宗純)の歌「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」はこれで正しいか。この歌は骸骨の付いた杖をつきながら詠んだものらしい。|東京都立中央図書館}}</ref>。門松を飾る新年を迎えることはめでたいが、[[墓]]に向かっていく[[一里塚]]のようでもあるという意味。
** 「春立つやにほんめでたき門の松」 - [[安土桃山時代]]~江戸時代初期の[[美濃国]]出身の[[武将]]・[[俳人]]である[[斎藤徳元]]の代表句。
* 浄瑠璃
** 『寿門松』(ねびきのかどまつ) - [[近松門左衛門]]の世話物[[浄瑠璃]]<ref name=kojien />。
** 『染模様妹背門松』(そめもよういもせのかどまつ) - [[菅専助]]作の世話物浄瑠璃<ref name=kojien />。
* 随筆
** 『門松のはなし』 - [[折口信夫]]の随筆<ref>{{青空文庫|000933|5013|新字旧仮名|門松のはなし}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
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* 『[[守貞漫稿]]』
* 樋口清之監修 NHKデータ情報部編『ビジュアル百科江戸事情第一巻生活編』[[雄山閣出版]]
* 三谷一馬『江戸年中行事図聚』[[立風書房]]
* 渡辺信一郎『江戸の庶民行事事典』東京堂出版
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。-->
*[[松竹梅]]
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渡り鳥
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渡り鳥(わたりどり)とは、食糧、環境、繁殖などの事情に応じて定期的に長い距離を移動(渡り)する鳥のこと。翻って、1年を通じて同一の地域やその周辺で繁殖も含めた生活を行う鳥を留鳥という。
鳥の渡り(英語:Bird migration)の解明は、鳥類学の研究テーマのひとつで、鳥を捕獲して刻印のついた足環を付ける鳥類標識調査(バンディング)が日本を含め世界各国で行われている。また、大型の鳥では、超小型の発信機を付け、人工衛星を使って経路を調べることも行われている。
渡り鳥は地磁気を感じ取るセンサーを持ち、このセンサーを用いたナビゲーション能力を持っているとされる。海馬に認知地図を持つとも考えられている。オオミズナギドリの場合、何らかのにおいを頼りにしているとする研究結果がある。
地域をどの範囲まで広げる(狭める)かによって、同一の鳥でも異なる分け方になる場合があるが、日本を基準とした場合、以下のような分け方となる。
キョクアジサシ(北極圏ツンドラ地帯から南極周辺海域まで(約32,000km))や、ハシボソミズナギドリ(オーストラリアから北太平洋を右回りしオーストラリアへ戻る(約32,000km))など、非常に長い渡りを行う鳥がいる。
日本の記録では、南極で足環をつけられたオオトウゾクカモメが12,800kmの距離を移動した後、北海道の近海で発見された記録が最長記録である。
定住せずにあちこちを渡り歩いて生活する人を渡り鳥と呼ぶ。
政界においては、省庁や地方自治体の高級官僚が役所を退職した後、天下りで公社、公団、特殊法人、第三セクターなどを渡り歩いて退職金を稼ぐことを「渡り鳥」と呼ぶ。また、常に多数派であるために各政党を渡り歩く政治家は「政界渡り鳥」と呼ばれる。
俳句において、渡り鳥に関する季語がいくつかある。例えば、「鳥帰る」「引鳥(ひくとり)」などは春の季語、「鳥渡る」「色鳥」「小鳥来る」「燕帰る(つばかえる)」などは秋の季語である。また、「雁風呂」「雁供養」は夏の季語で、次のような「雁風呂」「雁供養」という伝説が青森県に伝わると言われていた。
月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという。
しかし、この話は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではない。また、この話の初出は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16で、他国の島での話として収められた話と判明した。
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"title": "文学と渡り鳥"
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渡り鳥(わたりどり)とは、食糧、環境、繁殖などの事情に応じて定期的に長い距離を移動(渡り)する鳥のこと。翻って、1年を通じて同一の地域やその周辺で繁殖も含めた生活を行う鳥を留鳥という。 鳥の渡りの解明は、鳥類学の研究テーマのひとつで、鳥を捕獲して刻印のついた足環を付ける鳥類標識調査(バンディング)が日本を含め世界各国で行われている。また、大型の鳥では、超小型の発信機を付け、人工衛星を使って経路を調べることも行われている。 渡り鳥は地磁気を感じ取るセンサーを持ち、このセンサーを用いたナビゲーション能力を持っているとされる。海馬に認知地図を持つとも考えられている。オオミズナギドリの場合、何らかのにおいを頼りにしているとする研究結果がある。
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{{Otheruseslist|長い距離を移動する鳥|日本の歌|わたりどり|[[[Alexandros]]]の[[シングル]]楽曲|ワタリドリ/Dracula La|『[[ギターを持った渡り鳥]]』をはじめとした[[日活]]の映画シリーズ|渡り鳥シリーズ}}
{{参照方法|date=2018-12}}
[[画像:BrantaLeucopsisMigration.jpg|250px|thumb|カオジロガン]]
'''渡り鳥'''(わたりどり)とは、[[食糧]]、[[環境]]、[[繁殖]]などの事情に応じて定期的に長い距離を移動([[渡り]])する[[鳥類|鳥]]のこと。翻って、1年を通じて同一の地域やその周辺で[[繁殖]]も含めた生活を行う鳥を[[留鳥]]という。
'''鳥の渡り'''([[英語]]:[[w:Bird migration|Bird migration]])の解明は、[[鳥類学]]の研究テーマのひとつで、鳥を捕獲して刻印のついた足環を付ける[[鳥類標識調査]]([[バンディング]])が日本を含め世界各国で行われている<ref>{{Cite web|和書|title=渡り鳥と足環|鳥類標識調査 Bird Banding|山階鳥類研究所|url=http://www.yamashina.or.jp/hp/ashiwa/ashiwa_index.html|website=渡り鳥と足環|目次|山階鳥類研究所|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。また、大型の鳥では、超小型の発信機を付け、[[人工衛星]]を使って経路を調べることも行われている<ref>{{Cite web|和書|title=渡り鳥と足環|電波を利用した標識調査|山階鳥類研究所|url=http://www.yamashina.or.jp/hp/ashiwa/ashiwa_index.html|website=渡り鳥と足環|目次|山階鳥類研究所|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。
渡り鳥は地磁気を感じ取るセンサーを持ち、このセンサーを用いたナビゲーション能力を持っているとされる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=渡り鳥は迷わない!?――驚くべきナビゲーション能力に迫る!(ブルーバックス編集部)|url=https://gendai.media/articles/-/54973|website=ブルーバックス {{!}} 講談社|date=2018-03-31|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。海馬に認知地図を持つとも考えられている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=渡り鳥は迷わない!?――驚くべきナビゲーション能力に迫る!(ブルーバックス編集部)|url=https://gendai.media/articles/-/54973|website=ブルーバックス {{!}} 講談社|date=2018-03-31|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。オオミズナギドリの場合、何らかのにおいを頼りにしているとする研究結果がある<ref>{{Cite web|和書|title=海鳥の一部、嗅覚を頼りに飛行進路を決定か 実験|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3140952|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。
== 渡り鳥の種類 ==
[[画像:Grus grus flocks.jpg|200px|thumb|クロヅル]]
地域をどの範囲まで広げる(狭める)かによって、同一の鳥でも異なる分け方になる場合があるが、[[日本]]を基準とした場合、以下のような分け方となる。
;夏鳥
:春に南方から渡来して、秋に再び南方に渡去する鳥を指す<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=野鳥における鳥インフルエンザについて|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/shizen/choujuu/toriinfluenza.html|website=千葉県|accessdate=2021-12-17|language=ja|last=千葉県}}</ref>。[[ツバメ]]、[[アマサギ]]、[[オオルリ]]、[[キビタキ]]、[[クロツグミ]]、[[ハチクマ]]、[[サシバ]]など。
;冬鳥
:秋に北方より渡来して、春に再び北方に渡去する鳥を指す<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=野鳥における鳥インフルエンザについて|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/shizen/choujuu/toriinfluenza.html|website=千葉県|accessdate=2021-12-17|language=ja|last=千葉県}}</ref>。[[ツグミ]]、[[ジョウビタキ]]、[[ユリカモメ]]、[[マガモ]]、[[オオハクチョウ]]、[[マナヅル]]、[[オオワシ]]、[[キンクロハジロ]] <ref name="キンクロハジロ">[https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/zuroku/asia/d059044.html] 2023年9月6日閲覧。</ref> <ref name="桜田濠に渡り鳥がやって来ました!">[https://fng.or.jp/koukyo/2015/10/23/post_99/] 2023年9月6日閲覧。</ref> <ref name="キンクロハジロの保護">[https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/zoo/nogeyama/details/topic107.php] 2023年9月6日閲覧。</ref>など。日本語では春に北を目指す渡りをさして「北帰行」と表現することがある<ref>{{kotobank|北帰行|2=デジタル大辞泉}}</ref>。
;旅鳥
:春と秋の一時期だけ日本を通過する鳥を指す<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=野鳥における鳥インフルエンザについて|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/shizen/choujuu/toriinfluenza.html|website=千葉県|accessdate=2021-12-17|language=ja|last=千葉県}}</ref>。[[シギ]]、[[チドリ]]の仲間に多い。
== 距離 ==
[[キョクアジサシ]]([[北極圏]][[ツンドラ地帯]]から[[南極]]周辺海域まで(約32,000km))や、[[ハシボソミズナギドリ]]([[オーストラリア]]から北[[太平洋]]を右回りしオーストラリアへ戻る(約32,000km))など、非常に長い渡りを行う鳥がいる{{要出典|date=2021-12}}。
日本の記録では、南極で足環をつけられた[[オオトウゾクカモメ]]が12,800kmの距離を移動した後、北海道の近海で発見された記録が最長記録である<ref>{{Cite web|和書|title=渡り鳥と足環|一番長い距離を渡る鳥は?|山階鳥類研究所|url=http://www.yamashina.or.jp/hp/ashiwa/ashiwa_index.html|website=渡り鳥と足環|目次|山階鳥類研究所|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。
== 比喩表現 ==
定住せずにあちこちを渡り歩いて生活する人を渡り鳥と呼ぶ<ref>{{Cite book|和書|author=日本国語大辞典第2版編集委員会|title=日本国語大辞典第2版|publisher=小学館|date=2002-01|pages=1315}}</ref>。
政界においては、省庁や地方自治体の高級[[官僚]]が役所を退職した後、[[天下り]]で[[公社]]、[[公団]]、[[特殊法人]]、[[第三セクター]]などを渡り歩いて[[退職金]]を稼ぐことを「渡り鳥」と呼ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=第156回国会 総務委員会 第11号(平成15年4月15日(火曜日))|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/009415620030415011.htm|website=www.shugiin.go.jp|accessdate=2021-12-17|publisher=衆議院}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=“渡り鳥”で 4億円懐に 公益法人への天下り官僚 小池議員追及|url=https://www.a-koike.gr.jp/hilight/2003/h2003_5_13_02.html|website=www.a-koike.gr.jp|accessdate=2021-12-17|publisher=日本共産党}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=天下り 続々/政権交代の直前に/玉突き、渡り鳥…|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-09-10/2009091001_03_1.html|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2021-12-17|publisher=日本共産党}}</ref>。また、常に多数派であるために各政党を渡り歩く[[政治家]]は「政界渡り鳥」と呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|title=信念か戦略か 政党コロコロ「政界渡り鳥」候補に聞く:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASKB65VQPKB6PTIL021.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=政界渡り鳥「小池都知事」の可能性はあるのか {{!}} 国内政治|url=https://toyokeizai.net/articles/-/125542|website=東洋経済オンライン|date=2016-07-02|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。
== 文学と渡り鳥 ==
[[俳句]]において、渡り鳥に関する季語がいくつかある<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「知って得する季語」秋の風物詩「渡り鳥」とは、どんな鳥をいうの?(tenki.jpサプリ 2018年10月21日)|url=https://tenki.jp/suppl/m_yoshino/2018/10/21/28529.html|website=tenki.jp|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。例えば、「鳥帰る」「引鳥(ひくとり)」などは春の季語、「鳥渡る」「色鳥」「小鳥来る」「燕帰る(つばかえる)」などは秋の季語である<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「知って得する季語」秋の風物詩「渡り鳥」とは、どんな鳥をいうの?(tenki.jpサプリ 2018年10月21日)|url=https://tenki.jp/suppl/m_yoshino/2018/10/21/28529.html|website=tenki.jp|accessdate=2021-12-17|language=ja}}</ref>。また、「雁風呂」「雁供養」は夏の季語で<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/top/images/tosyokanpo/tosyokanpo_12-201202.pdf|title=こんなレファレンスがありました(第12回)|publisher=青森県立図書館|accessdate=2021-12-17}}</ref>、次のような「雁風呂」「雁供養」という伝説が青森県に伝わると言われていた<ref name=":3" />。<blockquote>月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという。</blockquote>しかし、この話は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではない<ref name=":3" />。また、この話の初出は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16で、他国の島での話として収められた話と判明した<ref name=":3" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2021-12}}
*{{Cite book|和書 |author=樋口広芳 |year=2005 |title=鳥たちの旅 渡り鳥の衛星追跡 |publisher=日本放送出版協会 |id=ISBN 4-140-91038-0 |ref=nz}}
== 関連項目 ==
*[[渡り]]
*[[回遊]]
*[[留鳥]]
*[[漂鳥]]
*[[迷鳥]]
*[[渡り鳥条約]]
*[[ラムサール条約]]
*[[トリインフルエンザ]]
*[[WATARIDORI]] - 渡り鳥をテーマにしたドキュメンタリー映画。
*[[磁覚]]
*[[貯食行動]]、[[冬眠]] - 渡りを行わない鳥に見られる習性
== 外部リンク ==
*{{Wayback |url=http://www.sizenken.biodic.go.jp/flyway/ |title=水鳥と渡りについて(渡り鳥生息地ネットワーク)|date=20160112060524}}
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[[Category:鳥類学]]
[[Category:秋の季語]]
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正月
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正月(しょうがつ)は、各暦の年始め(新年を迎える月)のことである。文化的には旧年が無事に終わったことと新年を祝う行事。正月飾りをし、正月行事を行ったり、御節料理を食べたりして祝う。
日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、少なくとも3日までの「正月三が日」は仕事が休日になるところが多く、事実上の祝日となる。
かつての正月は、お盆と同じく、祖先の霊を呼び、慰霊する行事だった。それが次第に分化し、新年のお祝いと、一年の無病息災を願うものに変わっていった。
中国の“正月”は太陰暦の1月を指す。
古代ローマでは1年は10か月でMartius(英語版)が初月、Kalendae Martiae が正月であった。
紀元前713年頃、ヌマ・ポンピリウスによりIanuariusとFebruariusが加えられ、Kalendae Ianuariaeが正月になったが、執政官には紀元前153年まで使われなかった。
紀元前45年、ガイウス・ユリウス・カエサルがユリウス暦を導入、Kalendae Ianuariaeが新暦同様、正月になった。
古代のローマ暦の Kalendae Martiae を正月とする暦は、ヴェネツィア共和国で1797年まで、ロシアで988年 - 15世紀の終わりまで用いられていた。ロシアでは15世紀の終わりから1700年の西暦導入まで、9月1日が正月だった。
カトリック教会の典礼暦では待降節初日が一年の始まりとされてきた。
フランス共和暦では、秋分を正月とした。
日本での正月は中国では「正月初一」または「大年初一」いわゆる春節である。
「正月」とは、本来は旧暦1月の別名である。改暦後は新暦1月を意味する。
現在は「三が日」または「松の内」という意味で使用することがある。
松の内は元々は1月15日までだったが、現在は1月7日までとすることが多くなっている。寛文2年1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以ての飾り納めが指示される。最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられる。幕末の考証家である喜田川守貞は、この時同時に左義長も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由をこの火祭りによる火災の予防の一環だとしている。
1月15日を小正月(こしょうがつ)と呼ぶ。小正月に対しては通常の正月(元日)を「大正月」(おおしょうがつ)という。大正月はまた大年(おおどし)、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもある。
1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を「二十日正月」(はつかしょうがつ)と呼ぶ。地方によっては1月30日を「三十日正月」(みそかしょうがつ)という。
12月8日を「正月事始め」と称して、正月準備が始まる。
正月準備に関して、古い暦では12月13日が「煤はき」とされたが、実際には12月27日前後に「煤はき」をする地域が多かった。
1月1日は「元日」と命名された国民の祝日である。
行政機関は、行政機関の休日に関する法律第1条第1項第3号の規定により、12月29日から1月3日までを休日としており、一般企業でもこれに準じることが多い。銀行などの金融機関は、銀行法施行令第5条第1項第2号の規定により、12月31日から1月3日までを休日とすることが多く、システムメンテナンスを行うため長くなる事もある。公共交通機関はこの期間中は平日であっても休日ダイヤで運行する傾向にある。
一方、小売業では、1980年代前半までは松の内の頃まで休業していた店が多く、1980年頃まで百貨店・スーパーマーケットなどの大型店ですら正月三が日は休業していた。1970年から1996年まで描かれた漫画『ドラえもん』でも、のび太の母である玉子が三が日の休みに言及する一コマがある。そのくらい、当時としては三が日に休業する店が当たり前であった。しかし、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、開店日は早くなり、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店が多くなった。大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなった。2017年以降、国が推進する「働き方改革」や小売業の慢性的な人手不足を背景に、大手百貨店や飲食チェーンの一部に元日営業を見直す動きも見られるようになった。ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻る。
正月には知人などに年賀状を送る習慣があり、お年玉付き年賀はがきの抽選日までを正月とする習慣も多い。1990年代末頃から携帯電話が普及し年賀状でなくメールなどで済まされることが多くなり、スマートフォン普及後はSNSでメッセージングすることがある。新年最初に会った人とは「あけましておめでとう」という挨拶が交わされる場合が多いがこれは英語圏の「ハッピー・ニューイヤー」が年末に言われることとは異なり新年になってからでなければ言われない。年末には翌年まで会う予定のない人へは「よいお年を」という挨拶がよく交わされる。
かつて冬と夏に死霊崇拝の風習があったが、仏教の影響が強くなるにつれ、仏教行事の盂蘭盆会と習合して「お盆」となり先祖供養の行事とし、対する正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」として位置付けられるようになった。
数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなっていき、単に年が変わったことを祝う行事となっている。
喪に服している場合は正月を行わない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で、年賀状を送ったり受けたりすることもなくなる。
正月に初詣などの出掛けを行わずただ寝て過ごすことを寝正月と呼ぶ。
旧暦の1月1日{立春前後、新暦での2月頃}は旧正月と呼ばれる。中国・台湾・韓国・ベトナムなどでは、新暦の正月よりも旧正月の方が重視され、お年玉もこの日に渡される。中国では「春節」、「過年」、「農暦新年」といい、ベトナムでは「テト」といわれる。テトは「節」という漢字のベトナム語読みに相当する。また、旧暦1月のことを「正月」と呼び、旧正月を「正旦」ともいう。日本でも沖縄県や鹿児島県の奄美群島などの一部地域には旧正月を祝う地方がある。
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"text": "正月(しょうがつ)は、各暦の年始め(新年を迎える月)のことである。文化的には旧年が無事に終わったことと新年を祝う行事。正月飾りをし、正月行事を行ったり、御節料理を食べたりして祝う。",
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"text": "日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、少なくとも3日までの「正月三が日」は仕事が休日になるところが多く、事実上の祝日となる。",
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"text": "かつての正月は、お盆と同じく、祖先の霊を呼び、慰霊する行事だった。それが次第に分化し、新年のお祝いと、一年の無病息災を願うものに変わっていった。",
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"text": "紀元前45年、ガイウス・ユリウス・カエサルがユリウス暦を導入、Kalendae Ianuariaeが新暦同様、正月になった。",
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"text": "古代のローマ暦の Kalendae Martiae を正月とする暦は、ヴェネツィア共和国で1797年まで、ロシアで988年 - 15世紀の終わりまで用いられていた。ロシアでは15世紀の終わりから1700年の西暦導入まで、9月1日が正月だった。",
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"text": "フランス共和暦では、秋分を正月とした。",
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"text": "「正月」とは、本来は旧暦1月の別名である。改暦後は新暦1月を意味する。",
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"text": "現在は「三が日」または「松の内」という意味で使用することがある。",
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"text": "松の内は元々は1月15日までだったが、現在は1月7日までとすることが多くなっている。寛文2年1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以ての飾り納めが指示される。最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられる。幕末の考証家である喜田川守貞は、この時同時に左義長も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由をこの火祭りによる火災の予防の一環だとしている。",
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"text": "1月15日を小正月(こしょうがつ)と呼ぶ。小正月に対しては通常の正月(元日)を「大正月」(おおしょうがつ)という。大正月はまた大年(おおどし)、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもある。",
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"text": "1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を「二十日正月」(はつかしょうがつ)と呼ぶ。地方によっては1月30日を「三十日正月」(みそかしょうがつ)という。",
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"text": "一方、小売業では、1980年代前半までは松の内の頃まで休業していた店が多く、1980年頃まで百貨店・スーパーマーケットなどの大型店ですら正月三が日は休業していた。1970年から1996年まで描かれた漫画『ドラえもん』でも、のび太の母である玉子が三が日の休みに言及する一コマがある。そのくらい、当時としては三が日に休業する店が当たり前であった。しかし、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、開店日は早くなり、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店が多くなった。大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなった。2017年以降、国が推進する「働き方改革」や小売業の慢性的な人手不足を背景に、大手百貨店や飲食チェーンの一部に元日営業を見直す動きも見られるようになった。ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻る。",
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"text": "正月には知人などに年賀状を送る習慣があり、お年玉付き年賀はがきの抽選日までを正月とする習慣も多い。1990年代末頃から携帯電話が普及し年賀状でなくメールなどで済まされることが多くなり、スマートフォン普及後はSNSでメッセージングすることがある。新年最初に会った人とは「あけましておめでとう」という挨拶が交わされる場合が多いがこれは英語圏の「ハッピー・ニューイヤー」が年末に言われることとは異なり新年になってからでなければ言われない。年末には翌年まで会う予定のない人へは「よいお年を」という挨拶がよく交わされる。",
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"text": "かつて冬と夏に死霊崇拝の風習があったが、仏教の影響が強くなるにつれ、仏教行事の盂蘭盆会と習合して「お盆」となり先祖供養の行事とし、対する正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」として位置付けられるようになった。",
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"text": "数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなっていき、単に年が変わったことを祝う行事となっている。",
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"text": "喪に服している場合は正月を行わない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で、年賀状を送ったり受けたりすることもなくなる。",
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"text": "旧暦の1月1日{立春前後、新暦での2月頃}は旧正月と呼ばれる。中国・台湾・韓国・ベトナムなどでは、新暦の正月よりも旧正月の方が重視され、お年玉もこの日に渡される。中国では「春節」、「過年」、「農暦新年」といい、ベトナムでは「テト」といわれる。テトは「節」という漢字のベトナム語読みに相当する。また、旧暦1月のことを「正月」と呼び、旧正月を「正旦」ともいう。日本でも沖縄県や鹿児島県の奄美群島などの一部地域には旧正月を祝う地方がある。",
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正月(しょうがつ)は、各暦の年始め(新年を迎える月)のことである。文化的には旧年が無事に終わったことと新年を祝う行事。正月飾りをし、正月行事を行ったり、御節料理を食べたりして祝う。 日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、少なくとも3日までの「正月三が日」は仕事が休日になるところが多く、事実上の祝日となる。 かつての正月は、お盆と同じく、祖先の霊を呼び、慰霊する行事だった。それが次第に分化し、新年のお祝いと、一年の無病息災を願うものに変わっていった。
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{{Otheruses|年始|月名の正月|1月 (旧暦)}}
{{出典の明記|date=2012-1}}
[[File:Pair gate with pine branches for the New Year,kadomatsu,katori-city,japan.JPG|thumb|[[日本]]の[[門松]]]]
'''正月'''(しょうがつ)は、各[[暦]]の[[年]]始め([[新年]]を迎える[[月]])のことである。文化的には旧年が無事に終わったことと新年を祝う行事。[[正月飾り]]をし、正月[[年中行事|行事]]を行ったり、[[御節料理]]を食べたりして祝う。
[[日本]]では、[[1月1日]]の[[元日]]のみを[[国民の祝日]]としているが、少なくとも[[1月3日|3日]]までの「[[正月三が日]]」は[[労働|仕事]]が[[休日]]になるところが多く、事実上の祝日となる。
かつての正月は、[[お盆]]と同じく、祖先の[[霊]]を呼び、[[慰霊]]する行事であった。それが次第に分化し、新年のお祝いと、一年の無病息災を願うものに変わっていった。
== 各暦の正月 ==
[[File:Seattle - Chinese New Year 2011 - 71.jpg|thumb|[[アメリカ]]・[[シアトル]]の[[中華街]]における[[春節]]の[[獅子舞]]]]
[[中国]]の“正月”は[[太陰暦]]の1月を指す。
[[古代ローマ]]では1年は10か月で{{仮リンク|Martius|en|Martius (month)}}が初月、Kalendae Martiae が正月であった。
[[紀元前8世紀|紀元前713年]]頃、[[ヌマ・ポンピリウス]]によりIanuariusとFebruariusが加えられ、Kalendae Ianuariaeが正月になったが、[[執政官]]には[[紀元前153年]]まで使われなかった。
[[紀元前45年]]、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が[[ユリウス暦]]を導入、Kalendae Ianuariaeが新暦同様、正月になった。
*[[クリスマス]]様式の暦では、[[12月25日]]が正月で、[[ドイツ]]と[[イングランド]]で[[13世紀]]迄使われており、[[スペイン]]では[[14世紀|14]] - [[16世紀]]に導入された。
*[[受胎告知]]を新年とする暦は、[[ルーマニア]]・[[ドブロジャ]]生まれの[[僧侶]]、[[ディオニュシウス・エクシグウス]] により西暦[[525年]]に導入され、[[中世]][[ヨーロッパ]]の多くの地域で用いられていた。[[グレートブリテン王国]]では、[[1752年]]1月1日まで採用されていた。後に[[イギリス]]はユリウス暦から新暦となるが、現在でもイギリスの税制年度は[[4月6日]]を新年としている。
*復活祭の[[土曜日]]を正月とする暦は、[[フランス]]で[[11世紀]] - 16世紀に使われていた。復活祭は[[移動祝日]]で、同じ日付は隔年ごとに来る。
古代の[[ローマ暦]]の Kalendae Martiae を正月とする暦は、[[ヴェネツィア共和国]]で[[1797年]]まで、[[ロシア]]で[[988年]] - [[15世紀]]の終わりまで用いられていた。ロシアでは15世紀の終わりから[[1700年]]の[[西暦]]導入まで、[[9月1日]]が正月だった。
[[カトリック教会]]の[[典礼暦]]では[[待降節]]初日が一年の始まりとされてきた。
[[フランス共和暦]]では、[[秋分]]を正月とした。
日本での正月は中国では「正月初一」または「大年初一」いわゆる春節である。
== 日本の正月 ==
[[File:Oseti.jpg|thumb|[[御節料理]]]]
[[File:Kagamimochi gorgeous version.jpg|thumb|200px|[[鏡餅]]]]
[[File:An Instance Of New Year Card In Japan.JPG|thumb|200px|[[年賀状]]]]
[[File:The Imperial Family and Visit of the General Public to the Palace for the New Year Greeting(2012.tokyo).JPG|thumb|2012年新年一般参賀]]
=== 正月の期間 ===
「正月」とは、本来は[[1月 (旧暦)|旧暦1月]]の別名である。改暦後は新暦[[1月]]を意味する。
現在は「[[正月三が日|三が日]]」または「[[門松#松の内|松の内]]」という意味で使用することがある。
松の内は元々は[[1月15日]]までだったが、現在は[[1月7日]]までとすることが多くなっている。[[寛文]]2年[[1月6日 (旧暦)]]、江戸幕府により[[1月7日 (旧暦)]]を以ての飾り納めが指示される。最初の通達が江戸の城下に[[町触]]として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられる。幕末の考証家である喜田川守貞は、この時同時に[[左義長]]も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由をこの火祭りによる火災の予防の一環だとしている。
1月15日を[[小正月]](こしょうがつ)と呼ぶ<ref name=s>{{Cite web|和書|title=「女正月」と「男正月」を知っていますか? |url=https://weathernews.jp/s/topics/201812/270195/ |website=ウェザーニュース |access-date=2022-12-31 |language=ja}}</ref>。小正月に対しては通常の正月(元日)を「大正月」(おおしょうがつ)という<ref name=s />。大正月はまた大年(おおどし)、{{要出典範囲|date=2023年1月|男の正月と呼ぶ}}のに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもある。
[[1月20日]]までを正月とすることもあり、1月20日を「[[二十日正月]]」(はつかしょうがつ)と呼ぶ。地方によっては[[1月30日]]を「三十日正月」(みそかしょうがつ)という。
[[12月8日]]を「[[正月事始め]]」と称して、正月準備が始まる。
=== 正月準備 ===
正月準備に関して、古い暦では12月13日が「煤はき」とされたが、実際には12月27日前後に「煤はき」をする地域が多かった<ref name="kudo">{{Cite web|和書|url=http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/kenkyu31/no31p37.pdf|author=工藤紘一|title=「聞き書き 岩手の年中行事」から思うこと(岩手県立博物館研究報告 第31号 2014年3月)|publisher=岩手県立博物館|accessdate=2021-09-17}}</ref>。
* 岩手県の[[釜石市]]栗林町や[[山田町]]では11月15日に[[門松]]の中心に据える木を切り出して庭に立てておく風習がある(山田町などでは「門松節供」という)<ref name="kudo" />。
* 高知県土佐市の一部では12月1日を「正月はじめ」と称し[[注連縄]]を製作する日となっていた<ref name="kudo" />。
* 熊本県玉名郡三加和町や鳥取県智頭郡では12月13日に正月用の箸を製作した(鳥取県智頭郡などでは「十三日箸」と呼ぶ)<ref name="kudo" />。
=== 正月休み ===
1月1日は「元日」と命名された[[国民の祝日]]である<ref>{{Cite web|和書|title=国民の祝日について - 内閣府|url=https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html|website=www8.cao.go.jp|accessdate=2019-12-16|language=ja}}</ref>。
[[日本の行政機関|行政機関]]は、行政機関の休日に関する法律第1条第1項第3号の規定により、[[12月29日]]から[[1月3日]]までを[[休日]]としており<ref group="注釈">土日は休業日となるため、年によっては[[12月28日]]から[[1月5日]]、もしくは[[12月27日]]から[[1月4日]]まで休みとなるケースがある。</ref>、一般[[企業]]でもこれに準じることが多い。[[銀行]]などの[[金融機関]]は、銀行法施行令第5条第1項第2号の規定により、[[12月31日]]から1月3日までを休日とすることが多く、システムメンテナンスを行うため長くなる事もある。[[公共交通機関]]はこの期間中は[[平日]]であっても休日ダイヤで運行する傾向にある。
一方、[[小売|小売業]]では、[[1980年代]]前半までは松の内の頃まで休業していた店が多く、1980年頃まで[[百貨店]]・[[スーパーマーケット]]などの大型店ですら正月三が日は休業していた。1970年から1996年まで描かれた漫画『ドラえもん』でも、のび太の母である玉子が三が日の休みに言及する一コマがある。そのくらい、当時としては三が日に休業する店が当たり前であった。しかし、24時間営業の[[コンビニエンスストア]]の登場などの生活様式の変化により、開店日は早くなり、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店が多くなった。大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなった。2017年以降、国が推進する「働き方改革」や小売業の慢性的な人手不足を背景に、大手百貨店や飲食チェーンの一部に元日営業を見直す動きも見られるようになった。ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻る。
=== 正月の習慣 ===
正月には知人などに[[年賀状]]を送る習慣があり、お年玉付き年賀はがきの抽選日までを正月とする習慣も多い。[[1990年代]]末頃から[[携帯電話]]が普及し年賀状でなく[[電子メール|メール]]などで済まされることが多くなり、スマートフォン普及後は[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]でメッセージングすることがある。新年最初に会った人とは「あけましておめでとう」という挨拶が交わされる場合が多いが<ref group="注釈">ちなみに、正月に家族皆でおせちを食べたり神棚に新年のあいさつをしたりして縁起を担ぐのは、「年の初めに3日間なら3日間、7日間なら7日間縁起の良いことをしていれば、家族はその一年幸運になる」という考えからきている。</ref>これは[[英語圏]]の「ハッピー・ニューイヤー」が[[年末年始|年末]]に言われることとは異なり新年になってからでなければ言われない。年末には翌年まで会う予定のない人へは「よいお年を」という挨拶がよく交わされる。
かつて[[冬]]と[[夏]]に死霊崇拝の風習があったが<ref>[https://www.eflora.co.jp/f_obon/colum/01/#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E7%99%BA%E7%A5%A5%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8A%E7%9B%86%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5&text=%E5%86%AC%E3%81%A8%E5%A4%8F%E3%81%AE%E6%99%82%E6%9C%9F,%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 お盆・初盆のお話「お盆・初盆の起源」2023年【イーフローラ】]</ref>、[[仏教]]の影響が強くなるにつれ、仏教行事の[[盂蘭盆会]]と習合して「お盆」となり先祖供養の行事とし、対する正月は[[歳徳神|年神]]を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」として位置付けられるようになった。
[[数え年]]では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。[[満年齢]]を使うようになってからはそのような意味合いはなくなっていき、単に年が変わったことを祝う行事となっている。
[[喪]]に服している場合は正月を行わない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で、年賀状を送ったり受けたりすることもなくなる。
正月に[[初詣]]などの出掛けを行わずただ寝て過ごすことを'''寝正月'''と呼ぶ。
== 日本の旧正月 ==
{{Main|旧正月}}
[[旧暦]]の[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]{[[立春]]前後、[[新暦]]での[[2月]]頃}は'''旧正月'''と呼ばれる。[[中華人民共和国|中国]]・[[中華民国|台湾]]・[[大韓民国|韓国]]・[[ベトナム]]などでは、新暦の正月よりも旧正月の方が重視され、[[お年玉]]もこの日に渡される。中国では「春節」、「過年」、「農暦新年」といい、ベトナムでは「テト」といわれる<ref>{{Cite web|和書|title=テトとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%83%88-576453|website=コトバンク|accessdate=2019-12-16|language=ja|first=デジタル大辞泉,大辞林 第三版,精選版|last=日本国語大辞典}}</ref>。テトは「節」という[[漢字]]の[[ベトナム語]]読みに相当する。また、旧暦[[1月 (旧暦)|1月]]のことを「正月」と呼び、旧正月を「正旦」ともいう。日本でも[[沖縄県]]や[[鹿児島県]]の[[奄美群島]]などの一部地域には旧正月を祝う地方がある<ref>{{Cite web|和書|title=沖縄県民が今も「旧暦」を使い続ける歴史背景 {{!}} 読書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/263829|website=東洋経済オンライン|date=2019-02-20|accessdate=2019-12-16|language=ja}}</ref>。
== 正月に関する言葉 ==
* 正月買い
* 一年の計は元旦にあり
* [[一富士二鷹三茄子]]
* 元日や餅で押し出す去年糞 - <!--おおまじめです。ある意味ウィキペディアはこういうふところのふかさがあると思います-->金子兜太の父親、金子伊昔紅の句<ref>[http://www.akai-shinbunten.net/Main/chita/genki/genki278.html あかい新聞店 〜村上信夫 元気のでてくることばたち〜]</ref><ref>[https://hint.hateblo.jp/entry/2015/04/21/%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%81%AE%E6%9C%AC%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%EF%BC%9A%E3%80%8C%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%9C%E5%A4%AA%E3%81%AE%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E5%85%A5%E9%96%80%E3%80%8D%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%9C%E5%A4%AA 俳句の本を読む:「金子兜太の俳句入門」金子兜太 - 何かのヒント]</ref>めでたい福(など)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|title=本当は怖い日本のしきたり オーディオブック|url=http://worldcat.org/oclc/1108314699|publisher=Pan roringu (Hatsubai)|date=2019|isbn=|oclc=|last=火田, 博文|year=}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|正月}}
{{Commons|Category:New Year celebrations}}
* [[小正月]]
* [[旧正月]]
* [[年末年始]]
* [[正月事始め]]
* [[流行正月]]
* [[大発会・大納会]]
{{正月}}
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[[category:正月|*]]
[[category:年末年始]]
[[category:年中行事]]
[[Category:新春の季語]]
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法典化
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法典化(ほうてんか)とは、法の内容を法典とすることをいう。
法典とは、特定の法分野について当該分野における一般原則を含みつつ幅広く体系的に規律する成文法を指すことがある一方で、単に過去の法令を集めた公式の法令集を指すこともあるため、法典化という言葉も、それぞれの意味に対応して用いられる。
前者の意義に対応する法典化については、法を可視的・統一的にする役割を果たすが、他方で、法の自由な創造が妨げられることになる。このため、法典化の際には大論争が起こることがある。
日本においても明治の半ばに民法典論争が繰り広げられた。
最も有名なのは、19世紀初頭のドイツにおけるフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーとアントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボーの間の法典論争である。この論争は、サヴィニーの勝利に終わり、以後、歴史学派の活躍によって、当時の普通法 (gemeines Recht) であったローマ法の現代化が遂行されていくことになる。
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法典化(ほうてんか)とは、法の内容を法典とすることをいう。
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'''法典化'''(ほうてんか)とは、[[法 (法学)|法]]の内容を[[法典]]とすることをいう。
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[[日本]]においても[[明治]]の半ばに[[民法典論争]]が繰り広げられた。
==法典論争==
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== 関連項目 ==
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元日
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元日(がんじつ)は、新年を迎える年の最初の日。日付はグレゴリオ暦では1月1日(日本の改暦前、太陰太陽暦では旧暦の正月一日)。元旦(がんたん)ともいうが、この場合は特にその日の朝を指すこともある。
元日は正月の新年を迎える年初の日である。しかし、年は繰り返すもので、どの季節を年初にしても記年法上問題はなく、太陽暦(特にユリウス暦やグレゴリオ暦)では1月1日そのものに天文学的な意味は特にない。
なお、1月1日以外を年初とする暦法も存在する。太陽暦に基づきながらも、元日が1月1日ではない暦法もあった。例として、フランス革命暦では、葡萄月(ヴァンデミエール)1日が元日とされた。その日はグレゴリオ暦では9月22日から9月24日の間と、グレゴリオ暦1月1日とは大きなずれが生じていた(実際、フランス革命暦最終日となった1805年12月31日はフランス革命暦14年雪月(ニヴォーズ)10日であり、これは葡萄月を1月、果実月(フリュクティドール)を12月と数えると、4月10日に相当する)。
1月1日を祝日として公休日としている国は多い。
日本では明治から大正・昭和前期まで皇室行事である四方拝にちなみ、「四方節(しほうせつ)」と呼ばれて祝祭日の中の四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の一つとされてきた。
1948年(昭和23年)公布・施行の国民の祝日に関する法律(昭和23年7月20日法律第178号)第2条により、四方節に代わって「年のはじめを祝う」ことを趣旨とする国民の祝日となった。
日本各地では、元日の1月1日から1月3日まで(三が日)、または「松の内」 までを特に「お正月(おしょうがつ)」と呼んでこれを尊重し、毎年この時期独特の行事や慣習が執り行われる。
かつてはほとんどの店舗が休みであったが、1990年代にダイエーが日本のスーパーマーケットとして初めて元日営業を開始し、2013年にはそごう・西武が、大手百貨店として初めて元日営業を開始した。
フィリピンでは大晦日(12月31日)から元日にかけて爆竹や空砲によって新年を祝う風習がある。
「元日」に類似する言葉として「元旦」がある。『大辞泉』では、本来「旦」は「朝・夜明け」の意であるから「元旦」は「元日の朝」(初日の出)を指すとしている。
他方、『日本国語大辞典』等では、「元旦」は「元日」と「元日の朝」の両方の意味を持つとしている。『新撰漢和辞典』は、「旦」という漢字自体に「いちにち」という意味はあるとしており、例えば、「月旦」は、「毎月一日」のことを指す。
「
」は中国語から日本語へと輸入された語彙であるが、宋代の中国語文献においても
といった「元日」の意での用例が見られる。
日本においては、室町中期の文明本節用集が、
とする一方、17世紀の日葡辞書は、正月の「アシタ」(朝)と語釈する。
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元日(がんじつ)は、新年を迎える年の最初の日。日付はグレゴリオ暦では1月1日(日本の改暦前、太陰太陽暦では旧暦の正月一日)。元旦(がんたん)ともいうが、この場合は特にその日の朝を指すこともある。
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[[File:Mexico City New Years 2013! (8333128248).jpg|thumb|200px|[[メキシコ市]]で[[新年]]を祝う[[花火]]([[2013年]])]]
{{国民の祝日}}
[[File:Comerica Bank New Year's Parade 21.jpg|サムネイル|2010年の元日を祝うパレード]]
'''元日'''(がんじつ)は、[[新年]]を迎える[[年]]の最初の[[日]]。日付は[[グレゴリオ暦]]では[[1月1日]]([[日本]]の[[改暦]]前、[[太陰太陽暦]]では[[1月1日 (旧暦)|旧暦の正月一日]])。'''元旦'''(がんたん)ともいうが、この場合は特にその日の[[朝]]を指すこともある<ref name="daijiten">日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『[[日本国語大辞典]]』第二版、[[小学館]] 2003年 {{ISBN2|4095219017}}</ref>。
== 暦法と元日 ==
元日は[[正月]]の[[新年]]を迎える年初の日である。しかし、[[年]]は繰り返すもので、どの[[季節]]を年初にしても[[記年法]]上問題はなく、太陽暦(特に[[ユリウス暦]]や[[グレゴリオ暦]])では[[1月1日]]そのものに[[天文学]]的な意味は特にない<ref name="eco">{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1C7AFA4C8A4CFA1A92F1C7AFA4CEBBCFA4DEA4EA.html |title=1年の始まり |publisher=国立天文台 天文情報センター 暦計算室 |accessdate=2017-04-16 }}</ref>。
なお、1月1日以外を年初とする暦法も存在する<ref name="eco" />。[[太陽暦]]に基づきながらも、元日が1月1日ではない[[暦法]]もあった。例として、[[フランス革命暦]]では、葡萄月(ヴァンデミエール)1日が元日とされた。その日はグレゴリオ暦では[[9月22日]]から[[9月24日]]の間と、グレゴリオ暦1月1日とは大きなずれが生じていた(実際、フランス革命暦最終日となった[[1805年]][[12月31日]]はフランス革命暦14年雪月(ニヴォーズ)10日であり、これは葡萄月を1月、果実月(フリュクティドール)を12月と数えると、4月10日に相当する)。
== 各国の元日 ==
1月1日を[[祝日]]として[[公休|公休日]]としている国は多い。
=== 日本 ===
日本では[[明治]]から[[大正]]・[[昭和]]前期まで[[皇室]]行事である[[四方拝]]にちなみ、「四方節(しほうせつ)」と呼ばれて[[祝祭日]]の中の[[祝祭日#祝日|四大節]]([[紀元節]]、四方節、[[天皇誕生日#近世・現代|天長節]]、[[明治節]])の一つとされてきた。
[[1948年]](昭和23年)公布・施行の[[国民の祝日に関する法律]](昭和23年7月20日法律第178号)第2条により、四方節に代わって「年のはじめを祝う」ことを趣旨とする[[国民の祝日]]となった。
日本各地では、元日の[[1月1日]]から[[1月3日]]まで(三が日)、または「松の内」<ref group="注">元々は[[1月15日]]まで、現在は一部地域を除き[[1月7日|7日]]までを指す。</ref> までを特に「[[正月#日本の正月|お正月]](おしょうがつ)」と呼んでこれを尊重し、毎年この時期独特の行事や慣習が執り行われる。
かつてはほとんどの店舗が休みであったが、1990年代に[[ダイエー]]が日本の[[スーパーマーケット]]として初めて元日営業を開始し、[[2013年]]には[[そごう・西武]]が、大手百貨店として初めて元日営業を開始した。
=== フィリピン ===
[[フィリピン]]では[[大晦日]]([[12月31日]])から元日にかけて[[爆竹]]や[[空砲]]によって新年を祝う[[風習]]がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3112941 |title=新年のお祭り騒ぎ、ドゥテルテ大統領への恐怖で負傷者減 比 |publisher=[[フランス通信|AFP]] |date=2017-01-02 |accessdate=2017-04-16 }}</ref>。
== 元日と元旦 ==
「元日」に類似する言葉として「元旦」がある。『[[大辞泉]]』では、本来「旦」は「[[朝]]・[[明け方|夜明け]]」の意であるから「元旦」は「元日の朝」([[初日の出]])を指すとしている<ref>『[[大辞泉]]』[[小学館]]</ref>。
他方、『[[日本国語大辞典]]』等では、「元旦」は「元日」と「元日の朝」の両方の意味を持つとしている<ref name="daijiten" />。『[[新撰漢和辞典]]』は、「旦」という漢字自体に「いちにち」という意味はあるとしており、例えば、「月旦」は、「毎月[[一日]]」のことを指す。
「
」は[[中国語]]から日本語へと輸入された語彙であるが、[[宋代]]の中国語文献においても
{{quotation|正月朔日,謂之元旦,俗呼為新年。(正月の一日は、元旦といい、俗に[[新年]]とも呼ぶ)}}
といった「元日」の意での用例が見られる<ref>『[https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%B2%B1%E9%8C%84/%E5%8D%B701 夢粱録 第1巻]』(維基文庫)自由的圖書館(中国語版[[ウィキソース]])</ref>。
日本においては、室町中期の[[文明本節用集]]が、
{{quotation|元旦 ゲンタン 正月一日}}
とする一方、17世紀の[[日葡辞書]]は、正月の「アシタ」(朝)と語釈する。
また、[[坂口安吾]]の『新春・日本の空を飛ぶ』(1951年)において
{{quotation|元旦[[正午]]、[[ダグラス DC-4|DC四型]]四発機は滑走路を走りだした。}}
のような用例が見られる。
== 元日の行事 ==
* [[全国]]の[[郵便局]]で[[年賀はがき]]の[[配達]]出発式
* [[四方拝]]
* [[ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート]] - 毎年元日に[[ウィーン楽友協会]]の大ホールで行なわれている。
* [[全日本実業団対抗駅伝競走大会]](ニューイヤー駅伝) - [[1988年]](昭和63年)の第32回大会より元日に開催されている。
* [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]] - [[1968年]]度(昭和43年度)の第48回以降、[[2014年]]度(平成26年度)の第94回と[[2018年]]度(平成30年度)の第98回、[[2021年]]度(令和3年度)の第101回以降を除いて元日に決勝戦が開催されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:New Year celebrations}}
{{Wiktionary|元日|元旦}}
* [[正月]]
* [[元年]]
* [[年末年始]]
* [[朔]]
* [[旧暦]]
* [[旧正月]]
* [[初日の出]]
* [[1月1日]]
* [[一月一日 (曲)]]
== 外部リンク ==
* [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#ganjitsu 各「国民の祝日」について - 内閣府]
{{DEFAULTSORT:かんしつ}}
[[Category:1月]]
[[Category:1月の記念日]]
[[Category:新春の季語]]
[[Category:年中行事]]
[[Category:アイルランドの祝日]]
[[Category:アメリカ合衆国の祝日]]
[[Category:イギリスの祝日]]
[[Category:オーストラリアの祝日]]
[[Category:カナダの祝日]]
[[Category:日本の祝日]]
[[Category:ニュージーランドの祝日]]
|
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%97%A5
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18,700 |
数え年
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数え年(かぞえどし)とは年齢表現の一つ。出生時を「数え1歳」とし元日を迎える度に年齢を加算して行く。
数え年と満年齢の2つの年齢表現の存在は中国の1人2齢制にみられる。東アジア諸国では古くから数え年と満年齢の2つの年齢表現が存在し、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。英語ではEast Asian age reckoningといい、数え×歳をin one's ×th yearとも表現(満年齢は16 years oldなどと表現する)。
中国語では虚歳という(満年齢は週歳・実歳・足歳)。虚歳と実歳の存在は、旧暦と新暦に由来するともいわれ、中国的な人生観の重層を示唆するともいわれている。
2022年の時点で、数え年が一般的に用いられるのは韓国だけであった。
日本・中国・朝鮮半島・ベトナムの東アジア諸国では古くは満年齢は使われず、数え年が使われてきた。
しかし20世紀に入り、多くの国で0歳から始まる満年齢に切り替わっていった。各国とも公的に廃止された後もしばらくは民間で数え年が使われていたが、日本では第二次世界大戦後の1950年代半ば、北朝鮮では1980年代に満年齢が普及した。
ベトナムでは植民地時代の間に使われなくなった。ただし現在でも生まれた年を1歳から始め旧暦誕生日が来たら歳を取るのが一般的で、数え年と満年齢の折衷的なものとなっている。日本でも民間では1950年代前半(昭和20年代後半)まで折衷的なのを一般的に使われていた。
なお現代において数え年の表現を用いる場合に、1歳加える日は日本ではグレゴリオ暦の1月1日、中国では春節(旧正月。時憲暦の1月1日で、日本の旧正月とはずれることがある)である。ただし日本では地方や流派によって、旧正月や立春とすることがある。立春とするのは、本来旧正月としたいところを簡便にするための新しい方法である。
中国では文化大革命後、公的な場所や企業などでの使用が見られなくなったものの、都市を離れた農村部では自分の年齢を数え年で数える人は現在でも存在する。
なお、中国史の資料では人物の享年の計算基準に数え年と満年齢の違いによる齟齬がみられることがあると指摘されている。例えば雍正帝(1678年〜1735年)の享年については58歳とする資料と57歳とする資料がある。
日本でも古くから数え年が使われていたが、1873年(明治6年)2月5日の「太政官布告第36号(年齡計算方ヲ定ム)」で「幾年幾月と数える」という表現で満年齢による年齢計算が規定された。
ただしこの布告では、満年齢を原則としながらも旧暦では数え年(その生年の月数と通算し12箇月をもって1年と致す)を使用するという、双方を併用するような表現になっていた。
1902年12月22日施行の「年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日 法律第50号)」で明治6年太政官布告第36号が廃止され、「出生日を起算日として民法に定める期間計算で年齢を計算する」と規定された。これは結果的に満年齢での年齢計算を規定していることになる。
以上のように、明治以降の日本では法的には満年齢が正式の年齢計算方法であるが、一般の市民生活では法的制度を無視する形で数え年が使われ続け、後述するような混乱をきたしていた。
そこで、1950年1月1日施行の「年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年5月24日 法律第96号)」により
と国民には満年齢によって年齢を表すことを改めて推奨し
と国・地方公共団体の機関に対しては満年齢の使用を義務付け、数え年を用いる場合は明示することを義務付けた。同法制定の理由は、当時の国会議事録によると以下の4点である(詳しくは年齢のとなえ方に関する法律#背景参照)。
本来、数え年で行われてきた伝統行事である七五三や年祝い(古稀・喜寿など)も数え年・満年齢のいずれで祝ってもよいとされていることが多い。この場合、原則として数え年・満年齢のいずれを用いても同じ数字の年齢で行われるが、例外的に還暦については年齢の数字よりも「出生年と同じ干支の年」であることが重要と考えられているため、結果的に数え年61歳、満年齢60歳という異なる数字の年齢となる。一方、厄年には数え年を使い、「満年齢」を使うことはほとんどない。また、葬祭の際に記す「享年(行年)」には数え年が使われてきたが、満年齢を使うこともある。「一周忌」を除く、「年回忌」の数え方は現在も数え年に準じている。
また、日本の競走馬の年齢(馬齢)も1990年代ごろまでは数え年によっていた。しかし2001年からは馬齢の国際表記に従って、「生まれた年を0歳、(新たに1月1日を迎える毎に)1歳加齢する(=数え年から1を引いたもの)」とすることになった。つまり加齢日は現在も一律に1月1日であり、馬齢=「満年齢」ではない。他の分野の後年の例では、ジャイアント馬場の全日本プロレス(1972年創業)で1981年に10周年記念イベントを実施したほか、1989年に馬場(1960年デビュー)の30周年記念試合を実施した例がある。なお、馬場の30周年記念試合は1990年にも実施された。
なお、人の年齢ではないが、元号も数え年を用いている(改元の当年が元年で、以後元日を迎える毎に1年増える)と考えることができる。元号については、明治以降にも数え方は従前のまま変更されていない。
韓国では日常的に数え年(セヌンナイ、세는 나이)が使用されている。法律関係は「満年齢」であるが兵役法など一部法律では現在の年度から出生年度を引いた「年年齢」を採用しており年齢の表現が3種類存在する。
1962年1月1日に檀君紀元の廃止に伴い満年齢を使用する指針が公布されたが一般には浸透せず、新聞・放送などでも混在している。また、兵役法や青少年保護法では西暦から誕生年を引いた「年年齢」(ヨンナイ、연 나이)が使用される。これら3種類の年齢計算法が混乱を招くことから満年齢に統一するための法改正を求める動きもある。これを受けて、2022年12月8日、国会で「行政文書は満年齢に統一する」と明記した民法、行政基本法などの改正法が可決し、翌2023年6月28日から施行されることとなったが、「年年齢」は当面の間継続するという。
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"text": "数え年(かぞえどし)とは年齢表現の一つ。出生時を「数え1歳」とし元日を迎える度に年齢を加算して行く。",
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"text": "数え年と満年齢の2つの年齢表現の存在は中国の1人2齢制にみられる。東アジア諸国では古くから数え年と満年齢の2つの年齢表現が存在し、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。英語ではEast Asian age reckoningといい、数え×歳をin one's ×th yearとも表現(満年齢は16 years oldなどと表現する)。",
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"text": "中国語では虚歳という(満年齢は週歳・実歳・足歳)。虚歳と実歳の存在は、旧暦と新暦に由来するともいわれ、中国的な人生観の重層を示唆するともいわれている。",
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"text": "しかし20世紀に入り、多くの国で0歳から始まる満年齢に切り替わっていった。各国とも公的に廃止された後もしばらくは民間で数え年が使われていたが、日本では第二次世界大戦後の1950年代半ば、北朝鮮では1980年代に満年齢が普及した。",
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"text": "ベトナムでは植民地時代の間に使われなくなった。ただし現在でも生まれた年を1歳から始め旧暦誕生日が来たら歳を取るのが一般的で、数え年と満年齢の折衷的なものとなっている。日本でも民間では1950年代前半(昭和20年代後半)まで折衷的なのを一般的に使われていた。",
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"text": "なお現代において数え年の表現を用いる場合に、1歳加える日は日本ではグレゴリオ暦の1月1日、中国では春節(旧正月。時憲暦の1月1日で、日本の旧正月とはずれることがある)である。ただし日本では地方や流派によって、旧正月や立春とすることがある。立春とするのは、本来旧正月としたいところを簡便にするための新しい方法である。",
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"text": "中国では文化大革命後、公的な場所や企業などでの使用が見られなくなったものの、都市を離れた農村部では自分の年齢を数え年で数える人は現在でも存在する。",
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"text": "なお、中国史の資料では人物の享年の計算基準に数え年と満年齢の違いによる齟齬がみられることがあると指摘されている。例えば雍正帝(1678年〜1735年)の享年については58歳とする資料と57歳とする資料がある。",
"title": "各国の状況"
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"text": "日本でも古くから数え年が使われていたが、1873年(明治6年)2月5日の「太政官布告第36号(年齡計算方ヲ定ム)」で「幾年幾月と数える」という表現で満年齢による年齢計算が規定された。",
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},
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"text": "ただしこの布告では、満年齢を原則としながらも旧暦では数え年(その生年の月数と通算し12箇月をもって1年と致す)を使用するという、双方を併用するような表現になっていた。",
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},
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"text": "1902年12月22日施行の「年齢計算ニ関スル法律(明治35年12月2日 法律第50号)」で明治6年太政官布告第36号が廃止され、「出生日を起算日として民法に定める期間計算で年齢を計算する」と規定された。これは結果的に満年齢での年齢計算を規定していることになる。",
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},
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"text": "以上のように、明治以降の日本では法的には満年齢が正式の年齢計算方法であるが、一般の市民生活では法的制度を無視する形で数え年が使われ続け、後述するような混乱をきたしていた。",
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},
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"text": "そこで、1950年1月1日施行の「年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年5月24日 法律第96号)」により",
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"text": "と国民には満年齢によって年齢を表すことを改めて推奨し",
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"text": "と国・地方公共団体の機関に対しては満年齢の使用を義務付け、数え年を用いる場合は明示することを義務付けた。同法制定の理由は、当時の国会議事録によると以下の4点である(詳しくは年齢のとなえ方に関する法律#背景参照)。",
"title": "各国の状況"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "本来、数え年で行われてきた伝統行事である七五三や年祝い(古稀・喜寿など)も数え年・満年齢のいずれで祝ってもよいとされていることが多い。この場合、原則として数え年・満年齢のいずれを用いても同じ数字の年齢で行われるが、例外的に還暦については年齢の数字よりも「出生年と同じ干支の年」であることが重要と考えられているため、結果的に数え年61歳、満年齢60歳という異なる数字の年齢となる。一方、厄年には数え年を使い、「満年齢」を使うことはほとんどない。また、葬祭の際に記す「享年(行年)」には数え年が使われてきたが、満年齢を使うこともある。「一周忌」を除く、「年回忌」の数え方は現在も数え年に準じている。",
"title": "各国の状況"
},
{
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"text": "また、日本の競走馬の年齢(馬齢)も1990年代ごろまでは数え年によっていた。しかし2001年からは馬齢の国際表記に従って、「生まれた年を0歳、(新たに1月1日を迎える毎に)1歳加齢する(=数え年から1を引いたもの)」とすることになった。つまり加齢日は現在も一律に1月1日であり、馬齢=「満年齢」ではない。他の分野の後年の例では、ジャイアント馬場の全日本プロレス(1972年創業)で1981年に10周年記念イベントを実施したほか、1989年に馬場(1960年デビュー)の30周年記念試合を実施した例がある。なお、馬場の30周年記念試合は1990年にも実施された。",
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"text": "なお、人の年齢ではないが、元号も数え年を用いている(改元の当年が元年で、以後元日を迎える毎に1年増える)と考えることができる。元号については、明治以降にも数え方は従前のまま変更されていない。",
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"text": "韓国では日常的に数え年(セヌンナイ、세는 나이)が使用されている。法律関係は「満年齢」であるが兵役法など一部法律では現在の年度から出生年度を引いた「年年齢」を採用しており年齢の表現が3種類存在する。",
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"text": "1962年1月1日に檀君紀元の廃止に伴い満年齢を使用する指針が公布されたが一般には浸透せず、新聞・放送などでも混在している。また、兵役法や青少年保護法では西暦から誕生年を引いた「年年齢」(ヨンナイ、연 나이)が使用される。これら3種類の年齢計算法が混乱を招くことから満年齢に統一するための法改正を求める動きもある。これを受けて、2022年12月8日、国会で「行政文書は満年齢に統一する」と明記した民法、行政基本法などの改正法が可決し、翌2023年6月28日から施行されることとなったが、「年年齢」は当面の間継続するという。",
"title": "各国の状況"
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数え年(かぞえどし)とは年齢表現の一つ。出生時を「数え1歳」とし元日を迎える度に年齢を加算して行く。 数え年と満年齢の2つの年齢表現の存在は中国の1人2齢制にみられる。東アジア諸国では古くから数え年と満年齢の2つの年齢表現が存在し、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。英語ではEast Asian age reckoningといい、数え×歳をin one's ×th yearとも表現。
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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2019年2月
| 独自研究 = 2019年2月
}}
'''数え年'''(かぞえどし)とは年齢表現の一つ。出生時を「数え1歳」とし元日を迎える度に年齢を加算して行く。
数え年と満年齢の2つの年齢表現の存在は[[中国]]の1人2齢制にみられる<ref name="ritsumei16-1" />。[[東アジア]]諸国では古くから数え年と[[満年齢]]の2つの年齢表現が存在し、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。[[英語]]ではEast Asian age reckoningといい、数え×歳をin one's ×th yearとも表現(満年齢は16 years oldなどと表現する)。
== 文化的背景 ==
[[中国語]]では虚歳という<ref name="ritsumei13-1" />(満年齢は週歳・実歳・足歳)。虚歳と実歳の存在は、旧暦と新暦に由来するともいわれ、中国的な人生観の重層を示唆するともいわれている<ref name="ritsumei13-1">[https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/13-1_ka.pdf 夏剛「「了却天下事・贏得身後名」「只争朝夕・常懐千歳憂」:指導者の自意識と強迫観念(1)] [[立命館大学]]、2020年2月7日閲覧。</ref>。
=== 出生時を1歳とする理由 ===
{{出典の明記|date=2020年2月|section=1}}
# 0の概念が存在しない、あるいは序数として扱い 0 を起点としない。
#* [[西暦]]も[[元号]]や[[学年]]なども「1年」から始まり「0年」はない。同様に、「生まれて1年目の齢」=「1歳」と考える。
#* 月も0月からではなく、1月から始まる。
#* 月のうちの日も、一日(ついたち)から始まる。
#* 現在でも妊娠月齢などは、「0か月」はなく「1か月」から始まる方式となっている。
# 宗教的([[仏教]]など)な考えに基づく理由。
=== 何月生まれでも元日で一斉に加齢する理由 ===
{{出典の明記|date=2020年2月|section=1}}
# 処理の簡便化のため。
#* 家族内での多数の子供や、公的制度・地域行事での年齢基準について、個人ごとに日付で細かく加齢のタイミングを扱うのは煩雑だから。
#** 満年齢でも、1日のうち朝生まれでも夜生まれでも区別なく一律に○日生まれと扱い、日の変わり目で一斉に加齢する。それを年単位で、何月何日に生まれても年の変わり目で一斉に加齢するようにした理解でもある。
# 暦法([[太陰太陽暦]])による問題。
#* 太陰太陽暦は[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])に対して約3年に1回(約19年に7回)の割合で[[閏月]]を挿入したため、1年の長さが年によってことなる。よって満年齢を用いるのには問題が生じる。つまり約3年に1回ほど閏月が入ったので、閏月に生まれた者は閏月のない年には(正確な)誕生日がないので満年齢が正確に計算できないため。
#** 例 : [[元禄]]4年[[8月1日 (旧暦)|閏8月1日]]生まれ⇒元禄5年閏8月1日はない(元禄は、[[貞享暦]])。
#** なお、太陽暦でも[[閏日]]が存在するが4年に1度かつ1日の事であり、かつ現在の法律ではいずれも誕生日前日の満了時(誕生日前日[[真夜中|午後12時]])を以って加齢する方式が採られており、また実務的に誤差の範囲として調整できる事が陰暦の閏月と大きく異なる(誕生日前日午後12時は誕生日当日午前0時と同じ時刻ではあるが、法律上は誕生日の前日が加齢日となる)。
# 生まれてから関わった暦年の個数で年齢を表す方法
#* 上記の様に、生まれてから関わった暦年の個数で年齢を表す方法である為、生まれた年が関わった1年目になり、その後は、1月1日になり年が変わった時点で、関わった暦年が更新される為、何月生まれでも元日で一斉に加齢するのである。
== 数え年の計算方法 ==
[[File:East Asian age vs International age chart ko.jpg|thumb|250px|韓国での数え年の数え方(誕生日は6月15日の場合)。左側は数え年、右側は満年齢を示す。<br>数え年の場合、出生の日から翌年の1月1日までの年齢は「1歳」となるが、満年齢は出生時は「0歳」、次の誕生日から「1歳」となる。]]
*数え年は、生まれた時点の年齢を1歳とし、以後元日が来るごとに1歳を加算する。これに対して満年齢は、生まれた時点の年齢を0歳とし、以後[[年齢計算ニ関スル法律|誕生日の前日の24時]]に1歳を加算する。したがって、満年齢と数え年の関係は次のようになる。
** 現在の日本では太陽暦を用いており、[[和暦]]と西暦の日付は一致するので、自分の今年の数え年は、元日から[[年齢計算ニ関スル法律|誕生日の前日の24時]]直前までは「'''満年齢+2'''」、それ以降は「'''満年齢+1'''」で計算する。
** 現在も太陰太陽暦を用いている国や、太陰太陽暦([[旧暦]])を用いていた時代の物故者については、その国の当時の暦法の元日を基準として加算される。
*** 日本では[[明治]]5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1872年]][[12月31日]])まで[[天保暦]]<ref name="tenpoureki">[[弘化]]元年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1844年]][[2月18日]])〜[[明治]]5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]([[1872年]][[12月31日]])の間に用いられた和暦。</ref>が用いられていたため、新暦導入以前の和暦とグレゴリオ暦の日付には差異があり、元日が異なる。そのため、和暦の元日から換算した西暦<ref group="注">Wikipediaでは人物の生没年月日を西暦をグレゴリオ暦の実施日([[1582年]][[10月15日]])以降はグレゴリオ暦で、それ以前はユリウス暦で記載することを原則としている。</ref>の年をその和暦の西暦の年として生没年を計算しないと誤った数え年が計算されるおそれがある。
* 暦法による日付の差異
** '''[[元禄]]元年'''[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]=グレゴリオ暦'''[[1688年]]'''[[2月2日]]
* 和暦から換算した西暦の年
** 元禄元年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]=グレゴリオ暦'''[[1689年]]'''1月1日。よって、グレゴリオ暦は年が明けている。グレゴリオ暦を基準とすると数え年が「1」加算されてしまい、当時の文献などと整合が失われてしまう。'''元禄元年'''は1月1日 - [[12月29日 (旧暦)|12月29日]]<span style="font-size:90%">(グレゴリオ暦1689年[[1月20日]])</span>までを、'''西暦1688年'''として考えなければならない。
== 各国の状況 ==
[[2023年]]の時点で、数え年が一般的に用いられるのは[[大韓民国|韓国]]だけであった<ref>[https://www.chosun.com/opinion/contribution/2022/08/26/UWXPTM66LVDALMEU3PKEHXOPCU/ <nowiki>[기고]</nowiki> 이젠 한국식 ‘K-나이’에 안녕을 고할 때]、[[朝鮮日報]]、2022年8月26日。</ref>。
[[日本]]・[[中国]]・[[朝鮮半島]]・[[ベトナム]]の[[東アジア]]諸国では古くは満年齢は使われず、数え年が使われてきた。
しかし[[20世紀]]に入り、多くの国で0歳から始まる満年齢に切り替わっていった。各国とも公的に廃止された後もしばらくは民間で数え年が使われていたが、日本では[[第二次世界大戦]]後の[[1950年代]]半ば、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では[[1980年代]]<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?articleId=1996033100209126006&editNo=45&printCount=1&publishDate=1996-03-31&officeId=00020&pageNo=26&printNo=23154&publishType=00010 달력 양력만 사용…음력은「까막눈]東亜日報 1996年3月31日号26面 チョン・チョルウコラム</ref>に満年齢が普及した。
ベトナムでは[[フランス領インドシナ|植民地時代]]の間に使われなくなった。ただし現在でも生まれた年を1歳から始め旧暦誕生日が来たら歳を取るのが一般的で、数え年と満年齢の折衷的なものとなっている。{{要出典範囲|日本でも[[明治時代]]の一時期(約30年間)は生まれた年が1歳で翌年の誕生日から2歳となる折衷的なのを使われていた。|date=2023年12月}}
なお現代において数え年の表現を用いる場合に、1歳加える日は日本ではグレゴリオ暦の1月1日、中国では[[春節]]([[旧正月]]。[[時憲暦]]の1月1日で、日本の旧正月とはずれることがある)である。ただし日本では地方や流派によって、旧正月や[[立春]]とすることがある。立春とするのは、本来旧正月としたいところを簡便にするための新しい方法である。
=== 中国 ===
中国では[[文化大革命]]後、公的な場所や企業などでの使用が見られなくなったものの、都市を離れた農村部では自分の年齢を数え年で数える人は現在でも存在する。
なお、中国史の資料では人物の享年の計算基準に数え年と満年齢の違いによる齟齬がみられることがあると指摘されている<ref name="ritsumei16-1">[https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/16-1_ka.pdf 夏剛「共産党中国の4世代指導者の「順時針演変(時計廻り的移行)─理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論─」] [[立命館大学]]、2020年2月7日閲覧。</ref>。例えば[[雍正帝]](1678年〜1735年)の享年については58歳とする資料と57歳とする資料がある<ref name="ritsumei16-1" />。
=== 日本 ===
日本でも古くから数え年が使われていたが、[[1873年]]([[明治]]6年)[[2月5日]]の「[http://ja.wikisource.org/wiki/年齡計算方ヲ定ム 太政官布告第36号(年齡計算方ヲ定ム)]」で「幾年幾月と数える」という表現で満年齢による年齢計算が規定された。
ただしこの布告では、満年齢を原則としながらも旧暦では数え年(その生年の月数と通算し12箇月をもって1年と致す)を使用するという、双方を併用するような表現になっていた。
[[1902年]](明治35年)[[12月22日]]施行の「[[年齢計算ニ関スル法律]](明治35年[[12月2日]] 法律第50号)」で明治6年太政官布告第36号が廃止され、「出生日を起算日として民法に定める期間計算で年齢を計算する」と規定された。これは結果的に満年齢での年齢計算を規定していることになる。
以上のように、明治以降の日本では法的には満年齢が正式の年齢計算方法であるが、一般の市民生活では法的制度を無視する形で数え年が使われ続け、後述するような混乱をきたしていた。
そこで、[[1950年]][[1月1日]]施行の「[[年齢のとなえ方に関する法律]]([[1949年|昭和24年]][[5月24日]] 法律第96号)」により
{{quotation|国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治35年法律第50号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によってこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。}}
と国民には満年齢によって年齢を表すことを改めて推奨し
{{quotation|
国又は地方公共団体の機関が年齢を言い表わす場合においては、当該機関は、前項に規定する年数又は月数によつてこれを言い表わさなければならない。但し、特にやむを得ない事由により数え年によつて年齢を言い表わす場合においては、特にその旨を明示しなければならない。}}
と国・地方公共団体の機関に対しては満年齢の使用を義務付け、数え年を用いる場合は明示することを義務付けた。同法制定の理由は、当時の国会議事録によると以下の4点である(詳しくは[[年齢のとなえ方に関する法律#背景]]参照)。
# 「若返る」ことで日本人の気持ちを明るくさせる効果
# 正確な出生届の促進
# 国際性向上
# 配給における不合理の解消
本来、数え年で行われてきた伝統行事である[[七五三]]や[[年祝い]]([[古稀]]・[[喜寿]]など)も数え年・満年齢のいずれで祝ってもよいとされていることが多い。この場合、原則として数え年・満年齢のいずれを用いても同じ数字の年齢で行われるが、例外的に還暦については年齢の数字よりも「出生年と同じ[[干支]]の年」であることが重要と考えられているため、結果的に数え年61歳、満年齢60歳という異なる数字の年齢となる。一方、[[厄年]]には数え年を使い、「満年齢」を使うことはほとんどない。また、葬祭の際に記す「[[享年]](行年)」には数え年が使われてきたが、満年齢を使うこともある。「一周忌」を除く、「[[年忌|年回忌]]」の数え方は現在も数え年に準じている。
また、日本の[[競走馬]]の年齢([[馬齢]])も1990年代ごろまでは数え年によっていた。しかし[[2001年]]からは馬齢の国際表記に従って、「生まれた年を0歳、(新たに1月1日を迎える毎に)1歳加齢する(=数え年から1を引いたもの)」とすることになった。つまり加齢日は現在も一律に1月1日であり、馬齢=「満年齢」ではない。他の分野の後年の例では、[[ジャイアント馬場]]の[[全日本プロレス]]([[1972年]]創業)で[[1981年]]に10周年記念イベントを実施したほか、[[1989年]]に馬場([[1960年]]デビュー)の30周年記念試合を実施した例がある。なお、馬場の30周年記念試合は[[1990年]]にも実施された。
なお、人の年齢ではないが、[[元号]]も数え年を用いている(改元の当年が元年で、以後元日を迎える毎に1年増える)と考えることができる。元号については、明治以降にも数え方は従前のまま変更されていない。
=== 韓国 ===
韓国では日常的に数え年(セヌンナイ、세는 나이)が使用されている<ref name="KBS2019">[http://world.kbs.co.kr/service/contents_view.htm?lang=j&board_seq=356052 韓国式の年齢―数え年] KBS WORLD RADIO、2020年2月7日閲覧。</ref>。法律関係は「満年齢」であるが兵役法など一部法律では現在の年度から出生年度を引いた「年年齢」を採用しており年齢の表現が3種類存在する<ref name="KBS2019" />。
1962年1月1日に[[檀君紀元]]の廃止に伴い満年齢を使用する指針が公布<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.nhn?articleId=1961122900209103009&editNo=2&printCount=1&publishDate=1961-12-29&officeId=00020&pageNo=3&printNo=12320&publishType=00010 새해부터『滿年齡(만연령)』쓰기로]東亜日報 1961年12月29日号</ref>されたが一般には浸透せず、新聞・放送などでも混在している<ref>[https://www.sankei.com/article/20190124-5SS6GXVYOVI5DEQOVLE6UV2E4Q/ 【ソウルからヨボセヨ】「数え年」が困る理由]産経新聞 2019年1月24日</ref>。また、[[兵役法 (大韓民国)|兵役法]]や青少年保護法では西暦から誕生年を引いた「年年齢」(ヨンナイ、연 나이)が使用される<ref name="msn"/>。これら3種類の年齢計算法が混乱を招くことから満年齢に統一するための法改正を求める動きもある<ref name="msn">[https://www.msn.com/ko-kr/news/national/“한국식-나이-없애고-만-나이-사용하자”…-연령계산법-국회-제출/ar-BBRMGkx “한국식-나이-없애고-만-나이-사용하자”…-연령계산법-국회-제출]MSN 2019年1月4日</ref>。これを受けて、2022年12月8日、[[国会 (大韓民国) |国会]]で「行政文書は満年齢に統一する」と明記した民法、行政基本法などの改正法が可決<ref name=":0">{{Cite news |title=韓国、伝統的な年齢の数え方「数え年」廃止 満年齢に統一へ |url=https://jp.reuters.com/article/southkorea-age-system-idJPKBN2SS0QZ |work=Reuters |date=2022-12-08 |access-date=2022-12-29 |language=ja}}</ref>し、翌2023年6月28日から施行されることとなったが<ref name=":0" /><ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2022120800904 行政文書、満年齢に統一 数え年との混乱解消目指す―韓国] - 時事ドットコム 2022年12月8日</ref><ref>[https://japanese.joins.com/JArticle/298558 韓国式年齢の数え方が消える…「満年齢で統一」国会法制司法委員会で成立、来年6月から施行] - 中央日報日本語版 2022年12月8日</ref>、「年年齢」は当面の間継続するという<ref>{{Cite news |title=国民が1─2歳若返り、韓国で「数え年」廃止の新法施行 |url=https://jp.reuters.com/article/southkorea-age-idJPKBN2YE0DD |work=Reuters |date=2023-06-28 |access-date=2023-06-28 |language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[序数詞|序数]]
* [[紀年法]]
== 外部リンク ==
* [[石井研堂]]『[{{NDLDC|898142/36}} 明治事物起原]』([[国立国会図書館デジタルコレクション]])…「年齢に二様有る始 明治六年二月五日の太政官第三十六号に、自今年齢計算候儀、幾年幾月と可相数事とあり。これより、民間に数え年幾つ、満幾つと、二種の年齢をいふことゝはなれり。」
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[[Category:年齢]]
[[Category:日本の文化]]
[[Category:中国の文化]]
[[Category:人の一生]]
[[Category:時間の単位]]
[[Category:韓国の文化]]
[[Category:台湾の文化]]
[[Category:ベトナムの文化]]
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18,701 |
満年齢
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満年齢(まんねんれい)とは、年齢や年数の数え方の一種。満年齢は数え年に対する年齢の表現方法で、2つの年齢表現の存在は中国の1人2齢制にみられる。東アジア諸国では古くから、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。
生まれた日や基点となる最初の年を「0歳」「0年」から数え始め、以後1年間の満了ごとにそれぞれ1歳、1年ずつ年を加えていく考え方。ある基点からの経過年数を表す基数年である。本稿においては主に年齢に関する事柄について記述する。単に満(まん)ともいう。
0歳の場合は生後◯ヶ月と表現する。
年齢計算の方法としては、現代の日本および欧米諸国において一般的な年齢表現方法である。一方で、法的なものを含む厳密な定義においては若干の差異がある。
中国語では実歳という(数え齢は虚歳)。虚歳と実歳の存在は、旧暦と新暦に由来するともいわれ、中国的な人生観の重層を示唆するともいわれている。
中国では満年齢(実歳)の使用が一般的になっている。ただし、中国史の資料では人物の享年の計算基準に数え年と満年齢の違いによる齟齬がみられることがあると指摘されている。例えば雍正帝(1678~1735)の享年については58歳とする資料と57歳とする資料がある。
まず「満了」とは、期間中の全時間が満たされ、その期間が終了することである。よって、「1年間の満了」とは1年間の最後の日の全24時間まで経過することである。「最後の日」とは起算日応当日からみると前日であるため、期間の満了は起算日応当日の前日となる。次に「起算日」は、初日を省いて翌日とするのが原則である。つまり、期間は「初日の翌日に応当する日の前日」に満了するため、結果的に1年間の満了は初日と同月同日になる。結婚記念日や創立記念日など、日常生活上の多くの記念日が「n年間の満了日」と一致するのはこのためである。
年齢計算にあっては例外的に初日(出生日)を起算日とする。
年齢計算にあっては例外的に初日(出生日)を起算日とするため、毎年誕生日前日の午後12時をもって1歳を加えることになる。その上で各法令における年齢制限規定について、日を単位とする場合は時刻の部分(午後12時)を切り捨てるため、その効力は誕生日前日の初め(午前0時)から発生している。一方、時刻を単位とする場合、その効力は誕生日前日の午後12時になるまで(すなわち誕生日を迎えるまで)発生しない。単位を見分けるときは、「×歳に達した日」など「日」という文言が用いられている場合は日単位、「×歳以上」「×歳に満たない者」など「日」という文言が用いられていない場合は時刻単位と解するのが一般的である。なお、法令によっては「×歳に達した日の翌日」という規定がある。これは2月29日生まれの者に配慮した表現にすぎず、単純に「×歳の誕生日」と同じ意味である。
満年齢の類似として「生誕y周年」という言い方がある。「周年」とは「ある物事の開始や発生からy年後」を意味しており、満年齢は誕生日などの記念日が来た日で1歳(1年)ずつ加える数え方であるのに対して、周年は元日で1歳(1年)ずつ加える数え方である。
従って、例えば1989年11月10日生まれの人物は、2015年2月3日時点で、満年齢では25歳3か月、周年では26歳、数え年では27歳となる。年齢以外の年数計算も同様に、例えば1989年11月10日から2015年2月3日までは、満25年3か月、26周年、足掛け27年となる。
満年齢が死亡とともにカウントを停止するのに対し、「生誕y周年」は死後もカウントを続ける。また、満年齢が一般人も含め広く用いられるのに対し、「生誕y周年」は、それを多くの人が祝賀するほどの歴史上の人物や大物であることが一般的である。このほか、物故者について死亡から1年を経過した日(祥月命日)は「一周忌」と呼ぶ。
韓国では日常的には満年齢ではなく数え年が使用されている。法律関係は「満年齢」であるが兵役法など一部法律ではその年度から出生年度を引いた「年年齢」を採用しているため、年齢の表現には数え年・満年齢・年年齢の3種類存在することになる。
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満年齢(まんねんれい)とは、年齢や年数の数え方の一種。満年齢は数え年に対する年齢の表現方法で、2つの年齢表現の存在は中国の1人2齢制にみられる。東アジア諸国では古くから、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。
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'''満年齢'''(まんねんれい)とは、[[年齢]]や年数の数え方の一種。満年齢は[[数え年]]に対する年齢の表現方法で、2つの年齢表現の存在は[[中国]]の1人2齢制にみられる<ref name="ritsumei16-1" />。[[東アジア]]諸国では古くから、一般には数え年が使われてきたが、ほとんどの地域で公的には満年齢に一本化された。
== 概要 ==
生まれた日や基点となる最初の年を「0歳」「[[0年]]」から数え始め、以後1年間の満了ごとにそれぞれ1歳、1年ずつ年を加えていく考え方。ある基点からの経過年数を表す[[基数詞|基数]]年である。本稿においては主に年齢に関する事柄について記述する。単に'''満'''(まん)ともいう。
0歳の場合は生後◯ヶ月と表現する。
年齢計算の方法としては、現代の日本および欧米諸国において一般的な年齢表現方法である<ref name="kazoekata">{{Cite book|和書|author=飯倉晴武|year=2012|title=日本人の数え方がわかる小事典|pages=36-42|publisher=PHP}}</ref>。一方で、法的なものを含む厳密な定義においては若干の差異がある。
[[中国語]]では実歳という(数え齢は虚歳<ref name="ritsumei13-1" />)。虚歳と実歳の存在は、旧暦と新暦に由来するともいわれ、中国的な人生観の重層を示唆するともいわれている<ref name="ritsumei13-1">{{Cite journal|和書|author=夏剛 |title=「了却天下事・贏得身後名」「只争朝夕・常懐千歳憂」:指導者の自意識と強迫観念(1) |url=https://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/13-1_ka.pdf |format=PDF |journal=立命館国際研究 |publisher=立命館大学国際関係学会 |year=2000 |month=jul |volume=13 |issue=1 |pages=53-71 |naid=40004779485 |issn=09152008}}、2020年2月7日閲覧。</ref>。
== 各国の状況 ==
=== 中国 ===
中国では満年齢(実歳)の使用が一般的になっている。ただし、中国史の資料では人物の享年の計算基準に数え年と満年齢の違いによる齟齬がみられることがあると指摘されている<ref name="ritsumei16-1">{{Cite journal|和書|author=夏剛 |title=共産党中国の4世代指導者の「順時針演変(時計廻り的移行)」(1)理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8313289 |journal=立命館国際研究 |publisher=立命館大学国際関係学会 |year=2003 |month=jun |volume=16 |issue=1 |pages=49-100 |naid=40005878501 |issn=09152008}}、2020年9月11日閲覧。</ref>。例えば[[雍正帝]](1678~1735)の享年については58歳とする資料と57歳とする資料がある<ref name="ritsumei16-1" />。
=== 日本 ===
* 日本では[[1873年]]([[明治]]6年)[[2月5日]]に[[数え年]]から誕生日起算へ移行、生まれたら1歳で誕生日から2歳に加算されるようになり、数え年と満年齢を折衷した折衷形となった。
* 30年近くこの体制が続いたが、[[1902年]](明治35年)[[12月22日]]に法律上、公的には0歳(0歳の場合は生後◯ヶ月)から起算する満年齢へ移行するようになった。
* 公的以外ではその後も折衷形が約50年使われたが、[[1950年代]]前半([[昭和]]20年代後半)に満年齢へ一本化された。
==== 期間計算の原則 ====
まず「満了」とは、期間中の全時間が満たされ、その期間が終了することである。よって、「1年間の満了」とは1年間の最後の日の全24時間まで経過することである。「最後の日」とは起算日応当日からみると前日であるため、期間の満了は起算日応当日の前日となる<ref>民法第143条第2項「週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。」</ref>。次に「起算日」は、初日を省いて翌日とするのが原則である<ref group="注釈">初日は、それが午前0時から始まるものでない限り丸1日分を取れないため。民法第140条「日、週、月又は年によって期間を定めたときは、期間の初日は、算入しない。ただし、その期間が午前零時から始まるときは、この限りでない。」</ref>。つまり、期間は「初日の翌日に応当する日の前日」に満了するため、結果的に1年間の満了は初日と'''同月同日'''になる。[[結婚記念日]]や[[創立記念日]]など、日常生活上の多くの[[記念日]]が「n年間の満了日」と一致するのはこのためである。
==== 期間計算の例外 ====
年齢計算にあっては例外的に初日(出生日)を起算日とする<ref>年齢計算ニ関スル法律第1項「年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス」</ref>。
==== 法令上の扱い ====
{{See also|年齢計算ニ関スル法律}}
年齢計算にあっては例外的に初日(出生日)を起算日とするため、毎年誕生日前日の午後12時をもって1歳を加えることになる。その上で各法令における年齢制限規定について、日を単位とする場合は時刻の部分(午後12時)を切り捨てるため、その効力は誕生日前日の初め(午前0時)から発生している。一方、時刻を単位とする場合、その効力は誕生日前日の午後12時になるまで(すなわち誕生日を迎えるまで)発生しない<ref group="注釈">「前日午後12時」と「当日午前0時」は時刻としては同じだが、属する日は異なる。</ref><ref>[https://daihanrei.com/l/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%92%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%83%8D%EF%BC%89%EF%BC%92%EF%BC%92%EF%BC%99%EF%BC%91%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA 昭和52年(ネ)2291 東京高裁判決(後に最高裁で確定)] 大判例</ref>。単位を見分けるときは、「×歳に達した日」など「日」という文言が用いられている場合は日単位<ref>国民年金法第10条第1項第1号「(略)六十歳に達する日の属する月の前月までの期間」</ref><ref>児童手当法第3条第1項「この法律において『児童』とは、十八歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にある者をいう。」</ref>、「×歳以上」「×歳に満たない者」など「日」という文言が用いられていない場合は時刻単位<ref>民法第731条「男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。」</ref><ref>少年法第2条第1項「この法律で『少年』とは、二十歳に満たない者をいい、『成年』とは、満二十歳以上の者をいう。」</ref><ref>少年法第51条第1項「罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。」</ref>と解するのが一般的<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail3?id=22352 昭和54(行ケ)2 選挙無効請求事件 昭和54年11月22日大阪高等裁判所判決]。一般的な解釈のほか後述の公選法における例外が明示(後に最高裁で確定)</ref><ref group="注釈">ただし公職選挙法第9条では選挙権を有するのは「年齢満20年以上の者」と本来時刻単位であるところ次条で被選挙権に関する年齢は「選挙の期日により算定する」と日単位としており、選挙権にあってもこれを[[類推適用]]して日単位で運用されているため、選挙期日(投票日)の翌日が20歳の誕生日の場合、選挙権はある。</ref><ref group="注釈">ただし[[総務省]]は2009年に実施された[[定額給付金]]の加算対象について[[1990年]][[2月2日]]生まれの者は基準日(2009年2月1日)現在19歳であるが19歳に達する時刻は午前0時であり、基準日のほとんどを18歳として過ごしていることから1990年2月2日生まれの者に限り定額給付金の給付に際しては「基準日において18歳以下の者」として取り扱うこととした([http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2008/pdf/081220_3_1.pdf 定額給付金給付事業に係る留意事項について(リンク切れ)])。</ref>である。なお、法令によっては「×歳に達した日の翌日」という規定がある<ref>高等学校卒業程度認定試験規則第8条第1項「(略)その者は、十八歳に達した日の翌日から認定試験合格者となるものとする。」</ref><ref>学校教育法第17条第1項「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、(略)」</ref>。これは[[2月29日]]生まれの者に配慮した表現にすぎず、単純に「×歳の誕生日」と同じ意味である。
==== 周年 ====
満年齢の類似として「生誕y周年」という言い方がある。「周年」とは「ある物事の開始や発生からy年後」を意味しており、満年齢は'''誕生日などの記念日が来た日'''で1歳(1年)ずつ加える数え方であるのに対して、周年は'''元日'''で1歳(1年)ずつ加える数え方である{{要出典|date=2019-03-16}}。
従って、例えば1989年11月10日生まれの人物は、2015年2月3日時点で、満年齢では25歳3か月、周年では26歳、数え年では27歳となる。年齢以外の年数計算も同様に、例えば1989年11月10日から2015年2月3日までは、満25年3か月、26周年、足掛け27年となる。
満年齢が死亡とともにカウントを停止するのに対し、「生誕y周年」は死後もカウントを続ける。また、満年齢が一般人も含め広く用いられるのに対し、「生誕y周年」は、それを多くの人が祝賀するほどの歴史上の人物や大物であることが一般的である。このほか、物故者について死亡から1年を経過した日([[祥月命日]])は「[[一周忌]]」と呼ぶ。<ref group="注釈"><!-- この部分は「満年齢の類似」とは少し外れる内容のため、脚注化しました。-->なお、「周年」は、本文にある通り、吉凶を問わずに使用される為、式典の名称や挨拶の中では、凶事の場でも普通に用いられている(「東日本大震災y周年追悼式」「阪神・淡路大震災y周年追悼式典」「被爆y周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」など。)。一方で、「周年」は吉事に用いるのが一般的であるともいわれており([https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/114.html NHK放送文化研究所サイト「ことばQ&A」⇒「『d日目』と『d日ぶり』」の解説を参照])、追悼の場で用いることに違和感を持つ人もいる(2010年1月23日付け神戸新聞から『17日に兵庫県などが主催した「1・17のつどい-阪神・淡路大震災15周年追悼式典」で、吉事に使われる印象もある「周年」という語について、一部の参加者から「遺族感情にそぐわない」との疑問の声が出ている。これまでも毎年「周年」を使っている県は「周忌と同じ意味で、ほかの災害での式典にも使われている」と説明している。(後略)』[http://blogs.yahoo.co.jp/yuushi2011/60842203.html]{{リンク切れ|date=2020年9月}})。</ref>
=== 韓国 ===
韓国では日常的には満年齢ではなく数え年が使用されている<ref name="KBS2019">[http://world.kbs.co.kr/service/contents_view.htm?lang=j&board_seq=356052 韓国式の年齢―数え年] KBS WORLD RADIO、2020年2月7日閲覧。</ref>。法律関係は「満年齢」であるが兵役法など一部法律ではその年度から出生年度を引いた「年年齢」を採用しているため、年齢の表現には数え年・満年齢・年年齢の3種類存在することになる<ref name="KBS2019" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[年齢]]
* [[数え年]]
* [[基数詞|基数]]
* [[年齢計算ニ関スル法律]]
* [[年齢のとなえ方に関する法律]]
== 外部リンク ==
* [{{NDLDC|898142/36}} 石井研堂『明治事物起原』]
* [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a154154.htm 年齢の計算に関する質問主意書]
* [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b154154.htm 衆議院議員平野博文君提出年齢の計算に関する質問に対する答弁書]
* [https://www.zenkiren.com/Portals/0/html/jinji/hannrei/shoshi/03333.html 昭和52年(ネ)2291 東京高裁判決(後に最高裁で確定)]
{{デフォルトソート:まんねんれい}}
[[Category:年齢]]
[[Category:人の一生]]
[[Category:時間の単位]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B9%B4%E9%BD%A2
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18,702 |
90式戦車
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90式戦車(きゅうまるしきせんしゃ)は、日本の戦車。第二次世界大戦後に日本国内で開発生産された自衛隊の主力戦車としては61式戦車、74式戦車に続く三代目にあたり、第3世代主力戦車に分類される。
北海道に着上陸侵攻してくるソ連軍の機甲部隊に対抗することを開発目標としており、世界の第3世代戦車トップクラスに比肩する性能を有する。
製造は、車体と砲塔を三菱重工業、120mm滑腔砲を日本製鋼所が担当し、1990年(平成2年)度から2009年(平成21年)度までに61式戦車の全てと74式戦車の一部を更新するために341輌が調達された。価格は1輌あたり約8億円である。
120mm滑腔砲と高度な射撃管制装置により高い射撃能力を持つ。西側諸国の第3世代主力戦車では初となる自動装填装置を採用しており、乗員は装填手が削減され3名となっている。装甲には複合素材が用いられ、正面防御力は当時世界最高水準と評価されている。
北海道に重点配備されており、北部方面隊以外では教育部隊の富士学校・武器学校にしか配備されておらず、本州以南の機甲部隊は74式を主力とする。
平成23年度以降は冷戦の終結、防衛方針の変化や防衛費の削減、東アジアの軍事バランスの変化など、世界、国内の情勢変化を受けて、全国的な配備を目指した後継の10式戦車が配備される。一方で、平成23年度以降に係る防衛計画の大綱で示された動的防衛力の方針から、90式戦車も北海道以外の地域で活動を行えるよう、訓練が実施されるようになっている。
本車輌の開発は74式戦車が制式化された直後、1977年に神奈川県相模原市にある防衛庁技術研究本部第4研究所(現・防衛装備庁陸上装備研究所)が、新戦車の各種構成要素の研究試作をスタートさせている。当時は米ソ冷戦下にあり、ソ連軍及びワルシャワ条約機構軍の質的向上、量的増大による東側陣営の軍事的脅威が高まっていた時期でもある。同時期、ソ連軍は125mm滑腔砲を搭載させた戦車の配備を進めている。
1979年にシステム設計を開始し、1980年には開発要求書がまとめられた。1982年度-1983年度までに1次試作(その1)として日本製鋼所とダイキン工業などが主砲、弾薬、自動装填装置の試作を行った。120mm滑腔砲向けの自動装填装置の開発は世界初となったが、当初から主砲に関してはドイツのラインメタル社製44口径120mm滑腔砲Rh120をライセンス生産する方針になっていた(日本製鋼試作の120mm砲は性能面ではラインメタル製よりも若干優れていたがコストパフォーマンスの面でラインメタルに優位が認められた)。テスト用として、オリジナルのラインメタル社製120mm滑腔砲と弾薬も輸入されている。これは、アメリカ陸軍のM1エイブラムスと同じものであり、アメリカと同じ弾薬が使えるようにも配慮された。
1983年-1985年にかけて三菱重工業が参画し、試作1号車と弾薬の試作が1次試作(その2)として1次試作(その3)として試作2号車と弾薬の試作が行われた。この1次試作、2次試作で合計6輌(1次試作:2輌、2次試作:4輌)の試作車が製造され、各種試験に投入された。
1次試作の試作車による技術試験は1983年10月-1986年10月までに、機動性能・火力性能・防護性能などの試験が実施された。
試験中に1次試作の2輌は合計約11,000kmの走行試験、合計約1,220発の射撃試験を実施、また、1985年7月に実施された装備審査会議調整部会の決定により2次試作ではラインメタル社製120mm滑腔砲を採用することを決定した。
1987年9月-1988年12月までに行われた2次試作の試作車による試験は、1次試作の試作車の試験を受けた仕上げ作業に加えて、小隊行動試験も実施された。この試験では、下北試験場にて試作車への射撃試験も行われている。1989年2月からは陸上自衛隊による実用試験が、同年8月まで実施された。実用試験では潜水渡渉準備、NBC使用状況下の行動、重機関銃による対空射撃、弾薬補給などあらゆる事態を想定した試験が行われた。
試験中に2次試作の4輌は合計約20,500kmの走行試験、合計約3,100発の射撃試験を実施した。
実用試験の結果、陸上自衛隊は「部隊の使用に供し得る」との報告書をまとめ、1989年12月15日に装備審査会議調整部会において陸自側の報告内容を追認し、「制式の採用を適当と認める」との決定を下した。翌1990年8月6日に新型戦車は「90式戦車」として制式化された。同年、30輌の調達が開始された。
現在、この試作車のうちの1輌が陸上自衛隊広報センターで展示されている(広報センター開館時より2020年のリニューアル工事前までは屋内展示、リニューアル工事以降は屋外展示)。この車両は、元々日本原駐屯地に用途廃止車として屋外展示されていたものを、広報センター開設のために化粧直しをして移管したものである。これは初めて90式が公開されたときの写真と同じく、砲塔正面装甲をキャンバスで覆い隠している。また、車体前面には92式地雷原処理ローラ用の6箇所の取付け座がある。試作車は土浦駐屯地と前川原駐屯地でも1輌ずつ屋外展示されており、後者にはストレートドーザが取り付けられている。
日本の戦車開発は、世界の主力戦車が第2世代へと移行する中で制式化された第1世代相当の先々代の61式戦車や、第2世代戦車としては他国に並ぶ性能を有するがやはり世界の情勢は第3世代戦車に移行している中での制式化と一歩遅れることとなった先代の74式戦車と、他国の後塵を拝する状況であった。しかし、ようやく本車に至り、同時代の世界各国の新鋭戦車に並ぶ能力を持つに至った。
主砲には西側第3世代主力戦車の標準主砲となっているラインメタル社の44口径120mm滑腔砲を備え、弾種はAPFSDS(120mm TKG JM33装弾筒付翼安定徹甲弾)とHEAT-MP(120mm TKG JM12A1対戦車りゅう弾)を使用する。この120mm滑腔砲用砲弾の薬莢は、焼尽薬莢と呼ばれるもので、底部を残して燃えて無くなる仕組みで、射撃後に空薬莢を捨てる必要がない。照準具安定装置、自動装填装置、パッシブ型熱線映像装置、各種のセンサーと連動したデジタル計算装置を備え、照準具安定装置の自動追尾機能は車体が上下に揺れたり、左右に方向転換しても常に目標を捉え続け、砲を目標に指向できる。
射撃管制装置がレーザー測遠機や砲耳軸傾斜計、装薬温度計、横風センサーなどから送られてくる情報を計算し、弾道へ与える各種要素を割り出す。そして照準装置への入力・設定を照準制御器に送ることで、砲弾は的確な軌道を描いて目標に命中する。なお、90式戦車の滑腔砲は仰俯角範囲が狭いものの、サスペンションによって車体を傾斜させることでこれを補う。
これら国産ハイテクが導入された射撃管制装置や自動装填装置を用い、射撃には大容量のデジタル弾道コンピューターとジャイロを併用することで、目標及び自らが移動していたとしても高精度な行進間連続射撃が行え、急激な制動で車体が前後に傾いた状態でも正確な射撃が可能となった。なお、自動装填装置を採用している点については評価する声がある一方で、装填手1人分の人手がなくなったことで車体の清掃や整備、戦車用掩体を掘るといった作業における搭乗員の負担が増加したとの意見がある。メルカバやM1エイブラムスのように、技術的には可能とされながらも乗員減のデメリットを考慮し、自動装填装置の搭載を見送った例もある。人員削減の思惑もあるとされるが、砲弾装填の失敗、事故を防ぐ点は評価されている。
自動装填装置に関しては、過去に装填動作中のラマーに足を引っ掛けられて乗員が負傷した事例が報道されている。
日本の演習場では、広さの問題から行進間連続射撃や最大射程射撃訓練などが十分にできず、急減速する訓練弾(TPFSDS)を使用していたが、1996年(平成8年)度より毎年9月にアメリカ・ワシントン州のヤキマ演習場に90式を持ち込んで戦闘射撃訓練などを行っている。ヤキマ演習場で高機動テストや走行間射撃テストを行った際には、停止状態だと2km先の標的用M60パットンに高確率での命中、走行間射撃では3km先の目標に命中させるなどの性能に、アメリカ軍関係者が驚いたという。しかしこの程度の性能は21世紀では標準的なものである。00式120mm戦車砲用演習弾の導入により、富士総合火力演習でも2002年(平成14年)度から行進間射撃が披露されるようになった。
砲塔内の車長席には正面に照準潜望鏡、潜望鏡操作パネル、サーマルモニター、照準器ハンドルなどがある。潜望鏡操作パネルには28個のスイッチとランプがあり、車長はこれらを見る事で自らの車輌の状態を知る事ができる。また、車外の車長用視察・照準装置を介して外の様子を知ることができる。砲手席の後ろにはハンドルを取り付ける穴があり、装填装置が使用不能になったとしても、砲手がハンドルを取り付けて回すことで弾薬を装填できる。砲手席には正面とサイドにパネルがあり、正面のパネルには14個、サイドパネルに20個のスイッチが備わっている。砲手席左側には無線装置がある。照準ハンドルには追尾スイッチ、角速度ボタン、レーザー発射スイッチ、撃発安全レバー、撃発ボタンの計5個のボタン・スイッチがあり、両手の指を使い操作する。
砲塔後部にはラックと、円筒形の風向センサーを備えている。
90式戦車の主砲は砲弾が焼尽薬莢方式であるため空包が利用できないとされ、創立記念行事などでの訓練展示(模擬戦)では代わりに同軸機銃の74式車載7.62mm機関銃を主砲に見立てる模擬射撃が行われていた。後にメーカーから非燃焼薬莢の空包が提供されるようになり、2012年の富山駐屯地創立50周年記念行事より空包を使用しての訓練展示が行われている。
乗員向けに89式5.56mm小銃(折り曲げ銃床型)が支給される。
セラミック系複合装甲の実用化により、軽量ながら防護力は高いとされている。
セラミックは硬度があるぶん割れやすい素材だが、APFSDSなどのように、セラミックが割れる速度より高速で衝突してくる物体に対してはその硬度を防御力に転換でき、劣化ウランなどの重金属装甲よりも軽量化することができる。これによって90式戦車は防御力を維持しつつ、他の同世代戦車に比べて軽量化することに成功しており、車体そのものが小型化されたことで被弾率が低下し、発見される可能性も抑えている。
一般に公開される90式の砲塔正面装甲には迷彩塗装のキャンバス布地などが張られ、複合装甲の詳細は隠されるが、生産車輌の試験走行時に撮影された公開写真などには何も塗られていない状態のものが存在し、その形態からルクレールと同様の内装式モジュラー装甲と見られている。
砲塔前面の複合装甲が垂直の平面で避弾経始を考慮していないのは、装甲を傾斜させると前面投影面積あたりの重量が増加し車内容積が減少する点のほか、高速で衝突し流体状の振る舞いで貫通するAPFSDSに対しては装甲傾斜による避弾経始が意味を成さないこと、また、傾斜させずともそれに耐えられるだけの装甲材の開発に成功したことなどが理由に挙げられている。10式戦車も、外周モジュールは傾斜しているが、砲塔本体の装甲は垂直面になっている。
耐弾試験では、正面装甲は44口径120mm滑腔砲を使用して発射された重金属弾体APFSDSに対して自衛隊の公式発表では「良好な結果を得た」という表現が用いられ、前面装甲に関してはM1A1エイブラムスを若干上回る防御力を持ち、側面は35mm徹甲弾の掃射に耐えうる性能があり、上面は榴弾の破片に耐えうる耐弾性能を有しているとされる。
この耐弾試験の映像の一部はマスメディアに公開されており、実際に耐弾試験映像を視聴した軍事ライターの雑誌記事によると「バンカー内に納められた90式戦車の正面に対し別の90式戦車の主砲により射撃を実施(射距離250メートル程度と推測)試験終了後にバンカー内から被弾した90式戦車が自走を行い、被弾車の車体正面の複合装甲に4発(被弾痕からHEAT-MP 3発、APFSDS 1発と推定)、砲塔正面右側の複合装甲に少なくとも1発(被弾痕からAPFSDSと推定)の被弾痕が確認でき、砲塔側も車体側と同等の防護力を持つと推察できる」としている。その他に「89式装甲戦闘車らしき車輌から35mm機関砲により90式戦車の砲塔側面を射撃」する場面や、「横向きに吊るした155mm榴弾を90式戦車の上空約10メートルで爆発(曳火射撃を想定した静爆試験と推測される)」させる場面、「履帯下で地雷を爆発(地雷による静爆試験)」させる場面が試験映像中にあると紹介している。
砲塔後部にある即用弾収納部分の上面は、被弾などによって搭載する砲弾が誘爆した際にパネルが吹き飛び、エネルギーを上に逃がす「ブローオフパネル構造」であり、乗員の安全性向上が図られている。
車体の砲塔左下側に操縦手が乗車する。操縦席には位置可変T字型操向ハンドル、電気式アクセルペダルや常用ブレーキ、アシストシリンダー付の駐車ブレーキなどの操縦装置、57個のボタンや計器類がある。
ペリスコープにはワイパーが備わる。車体底部に燃料タンク、後部に冷却ファンとそれを挟む形で潜水用逆流防止弁が付いた排気管がある。その上部に変速操行機オイルクーラーとラジエーターがある。操縦席の右側が予備弾薬庫となっている。また、先々代の61式戦車、先代の74式戦車と、伝統的に踏襲されてきたヘッドライトの位置(左右フェンダー先端の上方)が、本車からは車体正面装甲板の左右両側となった。
懸架装置は、前側の第1転輪と第2転輪、後側の第5転輪と第6転輪が油気圧式、中央の第3転輪と第4転輪はトーションバー式というハイブリッド式サスペンションとなっている。車体を前後に傾斜させる機能と、車高を昇降させる機能により、丘などの稜線を利用した射撃において効率的に車体を隠すのに役立つ。74式のように左右に傾斜させることはできない。
ストレートドーザを装着した車両も存在し、待ち伏せなどでの陣地構築の際に用いられる。また、専用の装備を持つ一部の車両は車体前面に92式地雷原処理ローラが装着できる。
制式化当初からレオパルト2との形状の類似が指摘されており、防衛庁(当時)の担当官が「このような(レオパルト2のような)のが欲しい」と発言したという逸話がワールドタンクミュージアムの解説書に掲載されていた。実際には、90式戦車の複合装甲はレオパルト2の分割配置複合装甲とは異なり、ルクレールと同様に複合装甲の着脱が容易な内装式モジュール装甲だと考えられている。また、形状以外では、90式では前面投影面積や砲塔容積の削減で、主要国の主力戦車と比較してコンパクトに設計されており、新素材の採用などにより防御力を犠牲にせずとも軽量化が実現されている。
エンジンには三菱10ZG32WT水冷2ストロークV型10気筒ターボチャージド・ディーゼルエンジン、変速機には三菱MT1500オートマチックトランスミッション(前進4段 後進2段)が採用されている。これらはパワーパック化され、土浦駐屯地での公開実演では20分以内での交換が実施されている。
1972年に技術研究本部で10ZG32WTの原型となる単筒型の実機の試作が行われ、1977年-1978年にかけて10ZG32WTの8気筒型である8ZG(シリンダー内径135mm行径150mm)の試作が行われた。1978年-1979年にかけて所内試験が行われ、最大出力1,196ps/2,600rpm を達成した。これらの研究成果を元に1982年に1,500psを達成した10ZG32WTが完成した。
10ZG32WTは1,500ps級ディーゼルエンジンとしては排気量21,500ccと小型で、また、耐久性に関しても15分間における定格最大出力1,500psを達成しており、諸外国のディーゼルエンジンとの比較においても10ZG32WTは過酷な高出力下での高い耐久性を達成している。
90式戦車の加速性能0-200mまで20秒という数値であるが、諸外国の第3世代戦車と同一条件で比較した場合、レオパルト2A4が推定23.5秒、M1エイブラムスの試作車XM1が推定29秒であることから、90式の加速性能は諸外国の第3世代戦車と比較して大幅に優れていると言える。
制動能力も高く、全制動時では時速50キロの速度から2メートル以内で停止可能である。配備当初は不用意に制動を行った際に上半身を車外に出していた車長が胸部を打撲したこともあり「殺人ブレーキ」などと呼ばれていた。
10ZGの燃費性能は定格燃料消費率234g/kWh(約172.1g/PSh)、最低燃料消費率226g/kWh(約166.2g/PSh)と技術研究本部の元研究官による雑誌記事において公表されている。
同雑誌記事では、10ZGの燃費性能を他の新型1,500馬力級ディーゼルエンジンと同一条件下にて比較した場合、1990年代初期に技術研究本部が研究試作したターボコンパウンド搭載の4ストローク多気筒ディーゼルエンジン(定格燃料消費率200g/kWh、最低燃料消費率198g/kWh)や、1990年代前半に登場したドイツのMTU社製のMTU MT883 ka-500 4ストロークディーゼルエンジン(定格燃料消費率209g/kWh、最低燃料消費率198g/kWh)などより10ZGの燃費性能(前述の数値)はやや劣るとしている。
なおMTU社の公開資料によると、レオパルト2に搭載されているMTU社製エンジンの一つであるMB873の燃料消費率は約250g/kWh(1,500PS/2,600rpm時)、MT883の燃料消費率は220g/kWh(1,500PS/2,700rpm時。なお、燃料消費率の数値は±5%の誤差があるとしている)となっている。
よって10ZGの燃料消費率はMB873に対してやや優れ、MT883にはやや劣ると考えられる。
8気筒型である8ZGの燃費性能は、全負荷最低燃料消費率191g/PSh(約259.7g/kWh)と公表されている。
90式戦車は諸外国の第3世代戦車と比較して航続距離が低いとされることから10ZGエンジンの燃料消費性能が悪いという指摘があるが、同一条件下におけるエンジン単体の燃料消費量は前述の数値の差程度である。
また、戦車の種類によって車体重量、燃料搭載量などの条件が異なることに加えてメーカー、国、軍事機関などにより燃料消費率の測定基準が異なると考えられる以上、一概に航続距離の数値をもってエンジンの燃料消費性能を論ずるのは適切ではない。
平成13年度時点で開発から10年以上が経過した90式戦車は、諸外国の技術水準から取り残されつつあり、早急に国際的な技術進歩の趨勢に対応していくことが必要不可欠である、と指摘されており、諸外国戦車との比較では90式が装備していないC4I機能がM1A2、レオパルト2、ルクレールには装備されていることが示されていた。
これを是正する措置として、現在、第2戦車連隊の配備車両には戦車連隊指揮統制システム(T-ReCs)端末の搭載が開始されている。このT-ReCs搭載型は2010年8月23日-9月22日まで北部方面隊で行われた総合戦闘力演習「玄武2010」に、C4ISR部隊として参加している。ただしその後、野外通信システム・広帯域多目的無線機が配備されると、T-ReCsは使われなくなっていった。
ただし、90式の内部スペースや給電能力の制約により、これ以上に高度なC4I機能の付加は困難であるとされている。このことから、より充実したC4I機能などが付与された後継の新主力戦車として10式戦車が開発された。
実戦での運用例は無く、秘匿情報も多いが、公開される性能から第3世代型戦車としてはM1A2エイブラムス(アメリカ)やレオパルト2A6(ドイツ)などと並ぶ世界最高水準の戦車の一つとされ、2004年度のForecast International社による世界主力戦車ランキングではM1A2 SEP、メルカバMk 4に続いて第3位に評されている。
また、アメリカ陸軍雑誌『アーマー』ではアメリカ政府関係者の発言として90式戦車の高度な機能として移動目標照準時の自動追尾機能を挙げ、その他に敵目標の脅威度を認識・判定する機能の存在を推測する記述がある。
北海道以外では、富士教導団などの教育部隊を除きほとんど配備されていない。これは戦車トランスポーターの少なさから来る平時の運用に加え、調達数が減少した中で一括運用を行うためである。
開発当時の運用構想では、北海道に着上陸侵攻するソ連軍の機甲師団を北海道の原野で迎え撃つことを想定しており、北海道の北部方面隊に優先的に配備された。この方針はソビエト連邦の崩壊後も変わらず、中期防衛力整備計画(平成17年度-21年度)以降では北部方面隊の74式戦車を更新して北海道の戦車部隊を90式戦車に統一する方針だったが、平成25年度に第2戦車連隊へ10式戦車が配備され、変更された模様である。また、例外的に、第7師団隷下の第7偵察隊にも配備され、主に威力戦闘偵察に使用される。
中期防衛力整備計画 (平成26年度-平成31年度)以降、戦車定数の削減に伴う部隊廃止、10式戦車の配備・本州からの配置換え等により用途廃止が始まった。
陸上自衛隊富士学校
陸上自衛隊武器学校 - 整備教育用
北部方面隊
1990年(平成2年)度-2009年(平成21年)度までの19年間で341輌が調達された。年平均の調達台数は約18輌。調達価格は整備用工具や予備消耗部品が含まれた総合価格となっている。バブル景気の真っ只中に採用が決定され、量産効果による価格低下も見込まれて1輌約11億円という価格でも迅速に配備が可能という見通しだったが、制式化直前のバブル崩壊と翌年のソビエト連邦の崩壊に伴う防衛費の減少・削減、こんごう型護衛艦(イージス艦)など他の正面装備の拡充や戦車保有数の削減などと時期が重なったこともあって、予想通りの調達ペースは得られなかった。
調達当初の3年間は1輌約11億円前後であり、少数生産にとどまる以上は、開発費や設備投資の消化も考えると1輌当たりの価格が高騰する事情があるが、4年目以降は1輌約9.4億円となり、継続的な調達による量産効果で2001年(平成13年)度以降は1輌約8億円(最低は約7億9,000万円)まで単価が減少した。
90式戦車は他国の第3世代戦車に比べて高価であり、外国産戦車を輸入すべきだったと批判されることがあるが、他国戦車を輸入した際の価格に関しては軍事情報雑誌Jane's発行のレポートによれば、アメリカのM1A2エイブラムス及びドイツのレオパルト2A6は輸出実績でいずれも1輌あたり10億円を超えており、フランスのルクレールは自国型でもそれに並ぶ価格となっている。
90式の調達は2009年(平成21年)度で終了し、2010年(平成22年)度からは10式戦車の調達が行われている。
90式戦車は北海道の地形や道路条件を想定して開発されたものであり、他地域でのより柔軟な運用を行うには更なる小型軽量化が望ましいとされた。このため、後継の10式戦車は40トン級の戦車として開発されている。
90式戦車の重量は74式戦車を約12トン上回るため、北海道以外では通行可能な場所が限られ運用上の困難が多いとして、戦車不要論の補強や自衛隊批判の引き合いに出されることがある。実際には全国の主要国道の橋梁17,920ヶ所のうち65%は90式の通行が可能であり、より軽量化された約44トンの10式戦車ではこれが84%に向上したとされるのに対して、約62-65トンの海外主力戦車が通行可能な橋梁は約40%と想定されている。
各国の主力戦車と90式戦車の重量を比較してみた場合、
であり、90式の50トンという重量は60トン以上ある旧西側の先進各国の第3世代戦車などと比較すれば10トン以上軽量となる。大型車両の走行を前提としていない小型の橋は除いて、主要道路などのダンプやトラックが通行できる橋はすべて通行可能になっている。
実際に北海道では、90式が駐屯地と演習場の間の公道を自走で移動することがある。また、第5旅団の旅団創立記念行事への参加・撤収の際に鹿追駐屯地から帯広駐屯地までの約45kmの一般公道を自走で移動することもある。
90式が舗装路上を走行する際は、路面を傷つけないよう履帯(履板)に路面保護用のゴムパッドを装着して走行する。これは平時に無用に道路を傷めないための配慮であり、有事の際にはゴムパッド無しの履帯でそのまま走行する場合もある。欧米では実際の市街地で行われる訓練や式典などでも戦車が一般公道を自走する。
駐屯地から演習場までを繋ぐ道路が通常の履帯に対応したコンクリート舗装で補強されている場合や、スリップの恐れがある冬期の積雪時には、ゴム履帯を装着せずに道路を自走する例もある。
90式は方向指示器(ウインカー)を装備しているが、これは平時の公道走行用でレオパルト2、ルクレール、チャレンジャー2などといった欧州の主力戦車も方向指示器や前照灯を備える。これは戦車以外の装甲戦闘車両においても同様。また、一般公道を自走で移動する際はサイドミラーを取り付けるが、欧米の車両も同様に取り付けて走行する。
トランスポーターで運搬される場合は、積載量と安全面の問題から砲塔と車体を分離して夜間に運搬される。最大積載量が50トンの特大型運搬車では砲塔と車体を一体化させた状態で運搬することが可能だが、最大積載量が40トンの73式特大型セミトレーラの場合は砲塔と車体を分離して運搬する必要がある。複雑な電子装備や油圧系統を持ちながら、車体と砲塔は比較的容易に分離できる。
重量50トン以上の戦車を空輸するにはC-5 ギャラクシー(米)やC-17 グローブマスターIII(米)、An-124 ルスラーン(ウクライナのアントノフ製)といった最大級の輸送機が必要とされる。航空自衛隊はその種の大型輸送機は保有しておらず、また、航空自衛隊の輸送機であるC-2は大型の手術車や装輪装甲車の搭載は想定しているが、戦車の搭載を想定しているという情報はない。
2006年(平成18年)度から導入されたKC-767空中給油・輸送機のペイロード(積載量)はC-2より大きく、トラックなどを搭載できるが、戦車は搭載できない。
海上自衛隊の保有するおおすみ型輸送艦では最大10数輌程度を輸送可能。
また、おおすみ型輸送艦に各2艇ずつ搭載されているエア・クッション型揚陸艇(LCAC)は、積載能力が70トンあるため、90式戦車を1輌ずつ運搬し、海岸に直接上陸させることが可能である。ただし、90式の大規模な部隊をまとめて輸送するのに必要なだけの輸送艦を、自衛隊は保有していない。
民間船舶による輸送の例としては2011年11月、民間船「ナッチャンWorld」によって、訓練のため北海道の苫小牧港から大分県の大分港まで90式戦車4両と89式装甲戦闘車10両などが輸送された例がある。
74式戦車以降、自衛隊では鉄道輸送を考慮した戦車を開発・採用していないことから、それを輸送するのに必要な車両や機材の開発や調達も行われていない。
2010年8月20日、静岡県東富士演習場畑岡射場において、「富士総合火力演習」の訓練中に90式戦車の砲身先端約40cmが吹き飛ぶ砲身破裂事故が発生した。陸上自衛隊によれば、原因は砲身に土が詰まったまま発射するなど「人為ミス」を重ねたためとした。
2017年06月21日、北海道大演習場千歳・恵庭地区で、訓練中に横転し、乗っていた30代の男性隊員が戦車の下敷きになり死亡した。
チャイコフスキー作曲の1812年(序曲)は、大砲(cannon)を演奏で使うことで有名であるが、2017年の第11旅団創隊9周年・真駒内駐屯地開庁記念式典において、90式戦車6両(第11戦車大隊)による空砲を利用した演奏が実施された。
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"text": "平成23年度以降は冷戦の終結、防衛方針の変化や防衛費の削減、東アジアの軍事バランスの変化など、世界、国内の情勢変化を受けて、全国的な配備を目指した後継の10式戦車が配備される。一方で、平成23年度以降に係る防衛計画の大綱で示された動的防衛力の方針から、90式戦車も北海道以外の地域で活動を行えるよう、訓練が実施されるようになっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "本車輌の開発は74式戦車が制式化された直後、1977年に神奈川県相模原市にある防衛庁技術研究本部第4研究所(現・防衛装備庁陸上装備研究所)が、新戦車の各種構成要素の研究試作をスタートさせている。当時は米ソ冷戦下にあり、ソ連軍及びワルシャワ条約機構軍の質的向上、量的増大による東側陣営の軍事的脅威が高まっていた時期でもある。同時期、ソ連軍は125mm滑腔砲を搭載させた戦車の配備を進めている。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1979年にシステム設計を開始し、1980年には開発要求書がまとめられた。1982年度-1983年度までに1次試作(その1)として日本製鋼所とダイキン工業などが主砲、弾薬、自動装填装置の試作を行った。120mm滑腔砲向けの自動装填装置の開発は世界初となったが、当初から主砲に関してはドイツのラインメタル社製44口径120mm滑腔砲Rh120をライセンス生産する方針になっていた(日本製鋼試作の120mm砲は性能面ではラインメタル製よりも若干優れていたがコストパフォーマンスの面でラインメタルに優位が認められた)。テスト用として、オリジナルのラインメタル社製120mm滑腔砲と弾薬も輸入されている。これは、アメリカ陸軍のM1エイブラムスと同じものであり、アメリカと同じ弾薬が使えるようにも配慮された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1983年-1985年にかけて三菱重工業が参画し、試作1号車と弾薬の試作が1次試作(その2)として1次試作(その3)として試作2号車と弾薬の試作が行われた。この1次試作、2次試作で合計6輌(1次試作:2輌、2次試作:4輌)の試作車が製造され、各種試験に投入された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1次試作の試作車による技術試験は1983年10月-1986年10月までに、機動性能・火力性能・防護性能などの試験が実施された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "試験中に1次試作の2輌は合計約11,000kmの走行試験、合計約1,220発の射撃試験を実施、また、1985年7月に実施された装備審査会議調整部会の決定により2次試作ではラインメタル社製120mm滑腔砲を採用することを決定した。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1987年9月-1988年12月までに行われた2次試作の試作車による試験は、1次試作の試作車の試験を受けた仕上げ作業に加えて、小隊行動試験も実施された。この試験では、下北試験場にて試作車への射撃試験も行われている。1989年2月からは陸上自衛隊による実用試験が、同年8月まで実施された。実用試験では潜水渡渉準備、NBC使用状況下の行動、重機関銃による対空射撃、弾薬補給などあらゆる事態を想定した試験が行われた。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "試験中に2次試作の4輌は合計約20,500kmの走行試験、合計約3,100発の射撃試験を実施した。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "実用試験の結果、陸上自衛隊は「部隊の使用に供し得る」との報告書をまとめ、1989年12月15日に装備審査会議調整部会において陸自側の報告内容を追認し、「制式の採用を適当と認める」との決定を下した。翌1990年8月6日に新型戦車は「90式戦車」として制式化された。同年、30輌の調達が開始された。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "現在、この試作車のうちの1輌が陸上自衛隊広報センターで展示されている(広報センター開館時より2020年のリニューアル工事前までは屋内展示、リニューアル工事以降は屋外展示)。この車両は、元々日本原駐屯地に用途廃止車として屋外展示されていたものを、広報センター開設のために化粧直しをして移管したものである。これは初めて90式が公開されたときの写真と同じく、砲塔正面装甲をキャンバスで覆い隠している。また、車体前面には92式地雷原処理ローラ用の6箇所の取付け座がある。試作車は土浦駐屯地と前川原駐屯地でも1輌ずつ屋外展示されており、後者にはストレートドーザが取り付けられている。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "日本の戦車開発は、世界の主力戦車が第2世代へと移行する中で制式化された第1世代相当の先々代の61式戦車や、第2世代戦車としては他国に並ぶ性能を有するがやはり世界の情勢は第3世代戦車に移行している中での制式化と一歩遅れることとなった先代の74式戦車と、他国の後塵を拝する状況であった。しかし、ようやく本車に至り、同時代の世界各国の新鋭戦車に並ぶ能力を持つに至った。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "主砲には西側第3世代主力戦車の標準主砲となっているラインメタル社の44口径120mm滑腔砲を備え、弾種はAPFSDS(120mm TKG JM33装弾筒付翼安定徹甲弾)とHEAT-MP(120mm TKG JM12A1対戦車りゅう弾)を使用する。この120mm滑腔砲用砲弾の薬莢は、焼尽薬莢と呼ばれるもので、底部を残して燃えて無くなる仕組みで、射撃後に空薬莢を捨てる必要がない。照準具安定装置、自動装填装置、パッシブ型熱線映像装置、各種のセンサーと連動したデジタル計算装置を備え、照準具安定装置の自動追尾機能は車体が上下に揺れたり、左右に方向転換しても常に目標を捉え続け、砲を目標に指向できる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "射撃管制装置がレーザー測遠機や砲耳軸傾斜計、装薬温度計、横風センサーなどから送られてくる情報を計算し、弾道へ与える各種要素を割り出す。そして照準装置への入力・設定を照準制御器に送ることで、砲弾は的確な軌道を描いて目標に命中する。なお、90式戦車の滑腔砲は仰俯角範囲が狭いものの、サスペンションによって車体を傾斜させることでこれを補う。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "これら国産ハイテクが導入された射撃管制装置や自動装填装置を用い、射撃には大容量のデジタル弾道コンピューターとジャイロを併用することで、目標及び自らが移動していたとしても高精度な行進間連続射撃が行え、急激な制動で車体が前後に傾いた状態でも正確な射撃が可能となった。なお、自動装填装置を採用している点については評価する声がある一方で、装填手1人分の人手がなくなったことで車体の清掃や整備、戦車用掩体を掘るといった作業における搭乗員の負担が増加したとの意見がある。メルカバやM1エイブラムスのように、技術的には可能とされながらも乗員減のデメリットを考慮し、自動装填装置の搭載を見送った例もある。人員削減の思惑もあるとされるが、砲弾装填の失敗、事故を防ぐ点は評価されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "自動装填装置に関しては、過去に装填動作中のラマーに足を引っ掛けられて乗員が負傷した事例が報道されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本の演習場では、広さの問題から行進間連続射撃や最大射程射撃訓練などが十分にできず、急減速する訓練弾(TPFSDS)を使用していたが、1996年(平成8年)度より毎年9月にアメリカ・ワシントン州のヤキマ演習場に90式を持ち込んで戦闘射撃訓練などを行っている。ヤキマ演習場で高機動テストや走行間射撃テストを行った際には、停止状態だと2km先の標的用M60パットンに高確率での命中、走行間射撃では3km先の目標に命中させるなどの性能に、アメリカ軍関係者が驚いたという。しかしこの程度の性能は21世紀では標準的なものである。00式120mm戦車砲用演習弾の導入により、富士総合火力演習でも2002年(平成14年)度から行進間射撃が披露されるようになった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "砲塔内の車長席には正面に照準潜望鏡、潜望鏡操作パネル、サーマルモニター、照準器ハンドルなどがある。潜望鏡操作パネルには28個のスイッチとランプがあり、車長はこれらを見る事で自らの車輌の状態を知る事ができる。また、車外の車長用視察・照準装置を介して外の様子を知ることができる。砲手席の後ろにはハンドルを取り付ける穴があり、装填装置が使用不能になったとしても、砲手がハンドルを取り付けて回すことで弾薬を装填できる。砲手席には正面とサイドにパネルがあり、正面のパネルには14個、サイドパネルに20個のスイッチが備わっている。砲手席左側には無線装置がある。照準ハンドルには追尾スイッチ、角速度ボタン、レーザー発射スイッチ、撃発安全レバー、撃発ボタンの計5個のボタン・スイッチがあり、両手の指を使い操作する。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "砲塔後部にはラックと、円筒形の風向センサーを備えている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "90式戦車の主砲は砲弾が焼尽薬莢方式であるため空包が利用できないとされ、創立記念行事などでの訓練展示(模擬戦)では代わりに同軸機銃の74式車載7.62mm機関銃を主砲に見立てる模擬射撃が行われていた。後にメーカーから非燃焼薬莢の空包が提供されるようになり、2012年の富山駐屯地創立50周年記念行事より空包を使用しての訓練展示が行われている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "乗員向けに89式5.56mm小銃(折り曲げ銃床型)が支給される。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "セラミック系複合装甲の実用化により、軽量ながら防護力は高いとされている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "セラミックは硬度があるぶん割れやすい素材だが、APFSDSなどのように、セラミックが割れる速度より高速で衝突してくる物体に対してはその硬度を防御力に転換でき、劣化ウランなどの重金属装甲よりも軽量化することができる。これによって90式戦車は防御力を維持しつつ、他の同世代戦車に比べて軽量化することに成功しており、車体そのものが小型化されたことで被弾率が低下し、発見される可能性も抑えている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一般に公開される90式の砲塔正面装甲には迷彩塗装のキャンバス布地などが張られ、複合装甲の詳細は隠されるが、生産車輌の試験走行時に撮影された公開写真などには何も塗られていない状態のものが存在し、その形態からルクレールと同様の内装式モジュラー装甲と見られている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "砲塔前面の複合装甲が垂直の平面で避弾経始を考慮していないのは、装甲を傾斜させると前面投影面積あたりの重量が増加し車内容積が減少する点のほか、高速で衝突し流体状の振る舞いで貫通するAPFSDSに対しては装甲傾斜による避弾経始が意味を成さないこと、また、傾斜させずともそれに耐えられるだけの装甲材の開発に成功したことなどが理由に挙げられている。10式戦車も、外周モジュールは傾斜しているが、砲塔本体の装甲は垂直面になっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "耐弾試験では、正面装甲は44口径120mm滑腔砲を使用して発射された重金属弾体APFSDSに対して自衛隊の公式発表では「良好な結果を得た」という表現が用いられ、前面装甲に関してはM1A1エイブラムスを若干上回る防御力を持ち、側面は35mm徹甲弾の掃射に耐えうる性能があり、上面は榴弾の破片に耐えうる耐弾性能を有しているとされる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "この耐弾試験の映像の一部はマスメディアに公開されており、実際に耐弾試験映像を視聴した軍事ライターの雑誌記事によると「バンカー内に納められた90式戦車の正面に対し別の90式戦車の主砲により射撃を実施(射距離250メートル程度と推測)試験終了後にバンカー内から被弾した90式戦車が自走を行い、被弾車の車体正面の複合装甲に4発(被弾痕からHEAT-MP 3発、APFSDS 1発と推定)、砲塔正面右側の複合装甲に少なくとも1発(被弾痕からAPFSDSと推定)の被弾痕が確認でき、砲塔側も車体側と同等の防護力を持つと推察できる」としている。その他に「89式装甲戦闘車らしき車輌から35mm機関砲により90式戦車の砲塔側面を射撃」する場面や、「横向きに吊るした155mm榴弾を90式戦車の上空約10メートルで爆発(曳火射撃を想定した静爆試験と推測される)」させる場面、「履帯下で地雷を爆発(地雷による静爆試験)」させる場面が試験映像中にあると紹介している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "砲塔後部にある即用弾収納部分の上面は、被弾などによって搭載する砲弾が誘爆した際にパネルが吹き飛び、エネルギーを上に逃がす「ブローオフパネル構造」であり、乗員の安全性向上が図られている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "車体の砲塔左下側に操縦手が乗車する。操縦席には位置可変T字型操向ハンドル、電気式アクセルペダルや常用ブレーキ、アシストシリンダー付の駐車ブレーキなどの操縦装置、57個のボタンや計器類がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ペリスコープにはワイパーが備わる。車体底部に燃料タンク、後部に冷却ファンとそれを挟む形で潜水用逆流防止弁が付いた排気管がある。その上部に変速操行機オイルクーラーとラジエーターがある。操縦席の右側が予備弾薬庫となっている。また、先々代の61式戦車、先代の74式戦車と、伝統的に踏襲されてきたヘッドライトの位置(左右フェンダー先端の上方)が、本車からは車体正面装甲板の左右両側となった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "懸架装置は、前側の第1転輪と第2転輪、後側の第5転輪と第6転輪が油気圧式、中央の第3転輪と第4転輪はトーションバー式というハイブリッド式サスペンションとなっている。車体を前後に傾斜させる機能と、車高を昇降させる機能により、丘などの稜線を利用した射撃において効率的に車体を隠すのに役立つ。74式のように左右に傾斜させることはできない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ストレートドーザを装着した車両も存在し、待ち伏せなどでの陣地構築の際に用いられる。また、専用の装備を持つ一部の車両は車体前面に92式地雷原処理ローラが装着できる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "制式化当初からレオパルト2との形状の類似が指摘されており、防衛庁(当時)の担当官が「このような(レオパルト2のような)のが欲しい」と発言したという逸話がワールドタンクミュージアムの解説書に掲載されていた。実際には、90式戦車の複合装甲はレオパルト2の分割配置複合装甲とは異なり、ルクレールと同様に複合装甲の着脱が容易な内装式モジュール装甲だと考えられている。また、形状以外では、90式では前面投影面積や砲塔容積の削減で、主要国の主力戦車と比較してコンパクトに設計されており、新素材の採用などにより防御力を犠牲にせずとも軽量化が実現されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "エンジンには三菱10ZG32WT水冷2ストロークV型10気筒ターボチャージド・ディーゼルエンジン、変速機には三菱MT1500オートマチックトランスミッション(前進4段 後進2段)が採用されている。これらはパワーパック化され、土浦駐屯地での公開実演では20分以内での交換が実施されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1972年に技術研究本部で10ZG32WTの原型となる単筒型の実機の試作が行われ、1977年-1978年にかけて10ZG32WTの8気筒型である8ZG(シリンダー内径135mm行径150mm)の試作が行われた。1978年-1979年にかけて所内試験が行われ、最大出力1,196ps/2,600rpm を達成した。これらの研究成果を元に1982年に1,500psを達成した10ZG32WTが完成した。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "10ZG32WTは1,500ps級ディーゼルエンジンとしては排気量21,500ccと小型で、また、耐久性に関しても15分間における定格最大出力1,500psを達成しており、諸外国のディーゼルエンジンとの比較においても10ZG32WTは過酷な高出力下での高い耐久性を達成している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "90式戦車の加速性能0-200mまで20秒という数値であるが、諸外国の第3世代戦車と同一条件で比較した場合、レオパルト2A4が推定23.5秒、M1エイブラムスの試作車XM1が推定29秒であることから、90式の加速性能は諸外国の第3世代戦車と比較して大幅に優れていると言える。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "制動能力も高く、全制動時では時速50キロの速度から2メートル以内で停止可能である。配備当初は不用意に制動を行った際に上半身を車外に出していた車長が胸部を打撲したこともあり「殺人ブレーキ」などと呼ばれていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "10ZGの燃費性能は定格燃料消費率234g/kWh(約172.1g/PSh)、最低燃料消費率226g/kWh(約166.2g/PSh)と技術研究本部の元研究官による雑誌記事において公表されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "同雑誌記事では、10ZGの燃費性能を他の新型1,500馬力級ディーゼルエンジンと同一条件下にて比較した場合、1990年代初期に技術研究本部が研究試作したターボコンパウンド搭載の4ストローク多気筒ディーゼルエンジン(定格燃料消費率200g/kWh、最低燃料消費率198g/kWh)や、1990年代前半に登場したドイツのMTU社製のMTU MT883 ka-500 4ストロークディーゼルエンジン(定格燃料消費率209g/kWh、最低燃料消費率198g/kWh)などより10ZGの燃費性能(前述の数値)はやや劣るとしている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なおMTU社の公開資料によると、レオパルト2に搭載されているMTU社製エンジンの一つであるMB873の燃料消費率は約250g/kWh(1,500PS/2,600rpm時)、MT883の燃料消費率は220g/kWh(1,500PS/2,700rpm時。なお、燃料消費率の数値は±5%の誤差があるとしている)となっている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "よって10ZGの燃料消費率はMB873に対してやや優れ、MT883にはやや劣ると考えられる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "8気筒型である8ZGの燃費性能は、全負荷最低燃料消費率191g/PSh(約259.7g/kWh)と公表されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "90式戦車は諸外国の第3世代戦車と比較して航続距離が低いとされることから10ZGエンジンの燃料消費性能が悪いという指摘があるが、同一条件下におけるエンジン単体の燃料消費量は前述の数値の差程度である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、戦車の種類によって車体重量、燃料搭載量などの条件が異なることに加えてメーカー、国、軍事機関などにより燃料消費率の測定基準が異なると考えられる以上、一概に航続距離の数値をもってエンジンの燃料消費性能を論ずるのは適切ではない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "平成13年度時点で開発から10年以上が経過した90式戦車は、諸外国の技術水準から取り残されつつあり、早急に国際的な技術進歩の趨勢に対応していくことが必要不可欠である、と指摘されており、諸外国戦車との比較では90式が装備していないC4I機能がM1A2、レオパルト2、ルクレールには装備されていることが示されていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "これを是正する措置として、現在、第2戦車連隊の配備車両には戦車連隊指揮統制システム(T-ReCs)端末の搭載が開始されている。このT-ReCs搭載型は2010年8月23日-9月22日まで北部方面隊で行われた総合戦闘力演習「玄武2010」に、C4ISR部隊として参加している。ただしその後、野外通信システム・広帯域多目的無線機が配備されると、T-ReCsは使われなくなっていった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ただし、90式の内部スペースや給電能力の制約により、これ以上に高度なC4I機能の付加は困難であるとされている。このことから、より充実したC4I機能などが付与された後継の新主力戦車として10式戦車が開発された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "実戦での運用例は無く、秘匿情報も多いが、公開される性能から第3世代型戦車としてはM1A2エイブラムス(アメリカ)やレオパルト2A6(ドイツ)などと並ぶ世界最高水準の戦車の一つとされ、2004年度のForecast International社による世界主力戦車ランキングではM1A2 SEP、メルカバMk 4に続いて第3位に評されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、アメリカ陸軍雑誌『アーマー』ではアメリカ政府関係者の発言として90式戦車の高度な機能として移動目標照準時の自動追尾機能を挙げ、その他に敵目標の脅威度を認識・判定する機能の存在を推測する記述がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "北海道以外では、富士教導団などの教育部隊を除きほとんど配備されていない。これは戦車トランスポーターの少なさから来る平時の運用に加え、調達数が減少した中で一括運用を行うためである。",
"title": "配備(令和4年度末現在)"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "開発当時の運用構想では、北海道に着上陸侵攻するソ連軍の機甲師団を北海道の原野で迎え撃つことを想定しており、北海道の北部方面隊に優先的に配備された。この方針はソビエト連邦の崩壊後も変わらず、中期防衛力整備計画(平成17年度-21年度)以降では北部方面隊の74式戦車を更新して北海道の戦車部隊を90式戦車に統一する方針だったが、平成25年度に第2戦車連隊へ10式戦車が配備され、変更された模様である。また、例外的に、第7師団隷下の第7偵察隊にも配備され、主に威力戦闘偵察に使用される。",
"title": "配備(令和4年度末現在)"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "中期防衛力整備計画 (平成26年度-平成31年度)以降、戦車定数の削減に伴う部隊廃止、10式戦車の配備・本州からの配置換え等により用途廃止が始まった。",
"title": "配備(令和4年度末現在)"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "陸上自衛隊富士学校",
"title": "配備(令和4年度末現在)"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "陸上自衛隊武器学校 - 整備教育用",
"title": "配備(令和4年度末現在)"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "北部方面隊",
"title": "配備(令和4年度末現在)"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)度-2009年(平成21年)度までの19年間で341輌が調達された。年平均の調達台数は約18輌。調達価格は整備用工具や予備消耗部品が含まれた総合価格となっている。バブル景気の真っ只中に採用が決定され、量産効果による価格低下も見込まれて1輌約11億円という価格でも迅速に配備が可能という見通しだったが、制式化直前のバブル崩壊と翌年のソビエト連邦の崩壊に伴う防衛費の減少・削減、こんごう型護衛艦(イージス艦)など他の正面装備の拡充や戦車保有数の削減などと時期が重なったこともあって、予想通りの調達ペースは得られなかった。",
"title": "価格と調達"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "調達当初の3年間は1輌約11億円前後であり、少数生産にとどまる以上は、開発費や設備投資の消化も考えると1輌当たりの価格が高騰する事情があるが、4年目以降は1輌約9.4億円となり、継続的な調達による量産効果で2001年(平成13年)度以降は1輌約8億円(最低は約7億9,000万円)まで単価が減少した。",
"title": "価格と調達"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "90式戦車は他国の第3世代戦車に比べて高価であり、外国産戦車を輸入すべきだったと批判されることがあるが、他国戦車を輸入した際の価格に関しては軍事情報雑誌Jane's発行のレポートによれば、アメリカのM1A2エイブラムス及びドイツのレオパルト2A6は輸出実績でいずれも1輌あたり10億円を超えており、フランスのルクレールは自国型でもそれに並ぶ価格となっている。",
"title": "価格と調達"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "90式の調達は2009年(平成21年)度で終了し、2010年(平成22年)度からは10式戦車の調達が行われている。",
"title": "価格と調達"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "90式戦車は北海道の地形や道路条件を想定して開発されたものであり、他地域でのより柔軟な運用を行うには更なる小型軽量化が望ましいとされた。このため、後継の10式戦車は40トン級の戦車として開発されている。",
"title": "戦略機動性"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "90式戦車の重量は74式戦車を約12トン上回るため、北海道以外では通行可能な場所が限られ運用上の困難が多いとして、戦車不要論の補強や自衛隊批判の引き合いに出されることがある。実際には全国の主要国道の橋梁17,920ヶ所のうち65%は90式の通行が可能であり、より軽量化された約44トンの10式戦車ではこれが84%に向上したとされるのに対して、約62-65トンの海外主力戦車が通行可能な橋梁は約40%と想定されている。",
"title": "戦略機動性"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "各国の主力戦車と90式戦車の重量を比較してみた場合、",
"title": "戦略機動性"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "であり、90式の50トンという重量は60トン以上ある旧西側の先進各国の第3世代戦車などと比較すれば10トン以上軽量となる。大型車両の走行を前提としていない小型の橋は除いて、主要道路などのダンプやトラックが通行できる橋はすべて通行可能になっている。",
"title": "戦略機動性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "実際に北海道では、90式が駐屯地と演習場の間の公道を自走で移動することがある。また、第5旅団の旅団創立記念行事への参加・撤収の際に鹿追駐屯地から帯広駐屯地までの約45kmの一般公道を自走で移動することもある。",
"title": "戦略機動性"
},
{
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"text": "90式が舗装路上を走行する際は、路面を傷つけないよう履帯(履板)に路面保護用のゴムパッドを装着して走行する。これは平時に無用に道路を傷めないための配慮であり、有事の際にはゴムパッド無しの履帯でそのまま走行する場合もある。欧米では実際の市街地で行われる訓練や式典などでも戦車が一般公道を自走する。",
"title": "戦略機動性"
},
{
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"text": "駐屯地から演習場までを繋ぐ道路が通常の履帯に対応したコンクリート舗装で補強されている場合や、スリップの恐れがある冬期の積雪時には、ゴム履帯を装着せずに道路を自走する例もある。",
"title": "戦略機動性"
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{
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"text": "90式は方向指示器(ウインカー)を装備しているが、これは平時の公道走行用でレオパルト2、ルクレール、チャレンジャー2などといった欧州の主力戦車も方向指示器や前照灯を備える。これは戦車以外の装甲戦闘車両においても同様。また、一般公道を自走で移動する際はサイドミラーを取り付けるが、欧米の車両も同様に取り付けて走行する。",
"title": "戦略機動性"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "トランスポーターで運搬される場合は、積載量と安全面の問題から砲塔と車体を分離して夜間に運搬される。最大積載量が50トンの特大型運搬車では砲塔と車体を一体化させた状態で運搬することが可能だが、最大積載量が40トンの73式特大型セミトレーラの場合は砲塔と車体を分離して運搬する必要がある。複雑な電子装備や油圧系統を持ちながら、車体と砲塔は比較的容易に分離できる。",
"title": "戦略機動性"
},
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"text": "重量50トン以上の戦車を空輸するにはC-5 ギャラクシー(米)やC-17 グローブマスターIII(米)、An-124 ルスラーン(ウクライナのアントノフ製)といった最大級の輸送機が必要とされる。航空自衛隊はその種の大型輸送機は保有しておらず、また、航空自衛隊の輸送機であるC-2は大型の手術車や装輪装甲車の搭載は想定しているが、戦車の搭載を想定しているという情報はない。",
"title": "戦略機動性"
},
{
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"text": "2006年(平成18年)度から導入されたKC-767空中給油・輸送機のペイロード(積載量)はC-2より大きく、トラックなどを搭載できるが、戦車は搭載できない。",
"title": "戦略機動性"
},
{
"paragraph_id": 75,
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"text": "海上自衛隊の保有するおおすみ型輸送艦では最大10数輌程度を輸送可能。",
"title": "戦略機動性"
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{
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"tag": "p",
"text": "また、おおすみ型輸送艦に各2艇ずつ搭載されているエア・クッション型揚陸艇(LCAC)は、積載能力が70トンあるため、90式戦車を1輌ずつ運搬し、海岸に直接上陸させることが可能である。ただし、90式の大規模な部隊をまとめて輸送するのに必要なだけの輸送艦を、自衛隊は保有していない。",
"title": "戦略機動性"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "民間船舶による輸送の例としては2011年11月、民間船「ナッチャンWorld」によって、訓練のため北海道の苫小牧港から大分県の大分港まで90式戦車4両と89式装甲戦闘車10両などが輸送された例がある。",
"title": "戦略機動性"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "74式戦車以降、自衛隊では鉄道輸送を考慮した戦車を開発・採用していないことから、それを輸送するのに必要な車両や機材の開発や調達も行われていない。",
"title": "戦略機動性"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2010年8月20日、静岡県東富士演習場畑岡射場において、「富士総合火力演習」の訓練中に90式戦車の砲身先端約40cmが吹き飛ぶ砲身破裂事故が発生した。陸上自衛隊によれば、原因は砲身に土が詰まったまま発射するなど「人為ミス」を重ねたためとした。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2017年06月21日、北海道大演習場千歳・恵庭地区で、訓練中に横転し、乗っていた30代の男性隊員が戦車の下敷きになり死亡した。",
"title": "事故"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "チャイコフスキー作曲の1812年(序曲)は、大砲(cannon)を演奏で使うことで有名であるが、2017年の第11旅団創隊9周年・真駒内駐屯地開庁記念式典において、90式戦車6両(第11戦車大隊)による空砲を利用した演奏が実施された。",
"title": "その他"
}
] |
90式戦車(きゅうまるしきせんしゃ)は、日本の戦車。第二次世界大戦後に日本国内で開発生産された自衛隊の主力戦車としては61式戦車、74式戦車に続く三代目にあたり、第3世代主力戦車に分類される。
|
{{Otheruses|日本の戦車|中国の戦車|90-II式戦車}}
{{戦車
|名称= 90式戦車
|画像= [[ファイル:JGSDF Type 90.jpg|300px]]
|説明=
|全長= 9.80[[メートル|m]]
|車体長= 7.55m
|全幅= 3.40m(サイドスカートを含む)
|全高= 2.30m(標準姿勢)
|重量= 50.2[[トン|t]]
|懸架方式= [[ハイブリッド]]式<br />(油気圧・トーションバー併用)
|速度= 70[[キロメートル毎時|km/h]]<br />(加速性能0-200mまで20秒)
|整地時速度=
|不整地時速度=
|行動距離= 350[[キロメートル|km]]
|主砲= [[ラインメタル 120 mm L44|44口径120mm滑腔砲Rh120]]
|副武装= [[74式車載7.62mm機関銃]]([[主砲]][[戦車#装備と構造|同軸]])<br />[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm重機関銃M2]]([[砲塔]]上面)
|装甲= [[装甲#複合装甲|複合装甲]]<br />(砲塔前面 及び 車体前面)
|エンジン名= 三菱10ZG32WT<br />[[水冷エンジン|水冷]][[2ストローク]][[V型10気筒]][[ターボチャージャー|ターボチャージド]]・[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]]
|出力= 1,500ps/2,400rpm(15分間定格出力)<br />最大トルク4,410N・m(450kgf・m)<br />排気量21,500cc
|乗員= 3名
|備考=
}}
'''90式戦車'''(きゅうまるしきせんしゃ)は、[[日本]]の[[戦車]]。[[第二次世界大戦]]後に日本国内で開発生産された[[自衛隊]]の[[主力戦車]]としては[[61式戦車]]、[[74式戦車]]に続く三代目にあたり、[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代主力戦車]]に分類される。
== 概要 ==
{{出典の明記|date=2019年12月|section=1}}
北海道に着上陸侵攻してくる[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の機甲部隊に対抗することを開発目標としており、世界の[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]トップクラスに比肩する性能を有する。
製造は、車体と[[砲塔]]を[[三菱重工業]]、[[ラインメタル 120 mm L44|120mm滑腔砲]]を[[日本製鋼所]]が担当し、[[1990年]](平成2年)度から[[2009年]](平成21年)度までに[[61式戦車]]の全てと[[74式戦車]]の一部を更新するために341輌が調達された。価格は1輌あたり約8億円である。
120mm[[滑腔砲]]と高度な[[射撃管制装置]]により高い射撃能力を持つ。[[西側諸国]]の第3世代主力戦車では初となる[[自動装填装置]]を採用しており、乗員は装填手が削減され3名となっている。[[装甲]]には複合素材が用いられ、正面防御力は当時世界最高水準と評価されている。
[[北海道]]に重点配備されており<ref>{{Cite web|和書|url=https://motor-fan.jp/mf/article/14101/ |title=第3世代戦車の最高峰「90式戦車」、攻守の能力を高次元でまとめた陸上自衛隊の現用主力 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=Motor-Fan |date=25 Sep 2021}}</ref>、[[北部方面隊]]以外では教育部隊の[[陸上自衛隊富士学校|富士学校]]・[[陸上自衛隊武器学校|武器学校]]にしか配備されておらず{{Efn2|かつては[[第1機甲教育隊]]にも配備されていた。}}、[[本州]]以南の機甲部隊は74式を主力とする。
平成23年度以降は[[冷戦]]の終結、防衛方針の変化や防衛費の削減、[[東アジア]]の軍事バランスの変化など、世界、国内の情勢変化を受けて、全国的な配備を目指した後継の[[10式戦車]]が配備される。一方で、[[防衛計画の大綱|平成23年度以降に係る防衛計画の大綱]]で示された'''動的防衛力'''の方針から、90式戦車も北海道以外の地域で活動を行えるよう、訓練が実施されるようになっている。
== 開発 ==
本車輌の開発は[[74式戦車]]が制式化された直後、[[1977年]]に[[神奈川県]][[相模原市]]にある[[防衛省|防衛庁]][[技術研究本部]]第4研究所(現・[[防衛装備庁]]陸上装備研究所)が、新[[戦車]]の各種構成要素の研究試作をスタートさせている{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}。当時は米ソ[[冷戦]]下にあり、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]及び[[ワルシャワ条約機構]]軍の質的向上、量的増大による[[東側諸国|東側陣営]]の軍事的脅威が高まっていた時期でもある{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=112}}。同時期、ソ連軍は125mm[[滑腔砲]]を搭載させた戦車の配備を進めている{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}。
[[1979年]]にシステム設計を開始し{{Sfn |丸|2002|p=72}}、[[1980年]]には開発要求書がまとめられた{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}。[[1982年]]度-[[1983年]]度までに1次試作(その1)として[[日本製鋼所]]と[[ダイキン工業]]などが[[主砲]]、[[弾薬]]、[[自動装填装置]]の試作を行った{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}。120mm滑腔砲向けの自動装填装置の開発は世界初となったが、当初から主砲に関しては[[ドイツ]]の[[ラインメタル]]社製[[ラインメタル 120 mm L44|44口径120mm滑腔砲Rh120]]を[[ライセンス生産]]する方針になっていた{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}(日本製鋼試作の120mm砲は性能面ではラインメタル製よりも若干優れていたが[[コストパフォーマンス]]の面でラインメタルに優位が認められた<ref>{{Cite web|和書|title=『90式戦車を制式化』 |url=https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-12058899223.html |website=戦車兵のブログ |access-date=2022-11-08 |language=ja}}</ref>)。テスト用として、オリジナルのラインメタル社製120mm滑腔砲と弾薬も輸入されている{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}。これは、[[アメリカ陸軍]]の[[M1エイブラムス]]と同じものであり、アメリカと同じ弾薬が使えるようにも配慮された。
{{Multiple image|direction=vertical|width=250|align=left
|image1=JGSDF MBT Type 90 at JGSDF PI center 2.jpg
|caption1=陸上自衛隊広報センターに展示される試作車。写真は屋内展示時代のもので、現在は広報センターのリニューアルによる展示品入れ替えにより屋外展示となっている(なお、現在このスペースには[[16式機動戦闘車]]の試作車が展示されている)。
|image2=JGSDF MBT Type 90 at JGSDF PI center 3.jpg
|caption2=砲塔上面<br />手前側に[[指揮官|車長]]、[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm重機関銃M2]]を挟んだ反対側に[[砲手]]が乗車する<br />試作車のため旧型の[[発煙弾発射機|74式60mm発煙弾発射機]]が装備され、自動装填装置上面のブローオフパネルが省略されている。<br />また、車長用照準潜望鏡の形状や設置位置など量産車と異なる点がある。
}}
1983年-[[1985年]]にかけて[[三菱重工業]]が参画し、試作1号車と弾薬の試作が1次試作(その2)として1次試作(その3)として試作2号車と弾薬の試作が行われた{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=113}}。この1次試作、2次試作で合計6輌(1次試作:2輌、2次試作:4輌)の試作車が製造され、各種試験に投入された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=114}}。
1次試作の試作車による技術試験は1983年10月-[[1986年]]10月までに、機動性能・[[火力 (軍事)|火力]]性能・防護性能などの試験が実施された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=114}}。
試験中に1次試作の2輌は合計約11,000kmの走行試験、合計約1,220発の射撃試験を実施、また、1985年7月に実施された装備審査会議調整部会の決定により2次試作ではラインメタル社製120mm滑腔砲を採用することを決定した<ref name=":0">{{Cite book|title=防衛庁技術研究本部五十年史 II 技術研究開発 2.技術開発官(陸上担当)|date=2002-11-15|year=|publisher=防衛省|pages=44-45|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1283286_po_TRDI50_04.pdf?contentNo=4&alternativeNo=}}</ref>。
[[1987年]]9月-[[1988年]]12月までに行われた2次試作の試作車による試験は、1次試作の試作車の試験を受けた仕上げ作業に加えて、[[小隊]]行動試験も実施された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=114}}。この試験では、下北試験場にて試作車への射撃試験も行われている{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=114}}。[[1989年]]2月からは[[陸上自衛隊]]による実用試験が、同年8月まで実施された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=115}}。実用試験では潜水渡渉準備、[[規制が議論されている兵器|NBC]]使用状況下の行動、[[重機関銃]]による対空射撃、弾薬補給などあらゆる事態を想定した試験が行われた{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=115}}。
試験中に2次試作の4輌は合計約20,500kmの走行試験、合計約3,100発の射撃試験を実施した<ref name=":0" />。
実用試験の結果、陸上自衛隊は「部隊の使用に供し得る」との報告書をまとめ{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=115}}、1989年[[12月15日]]に装備審査会議調整部会において陸自側の報告内容を追認し{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=115}}、「制式の採用を適当と認める」との決定を下した{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=115}}。翌[[1990年]][[8月6日]]に新型戦車は「'''90式戦車'''」として制式化された{{Sfn |丸|2002|p=72}}。同年、30輌の調達が開始された{{Sfn |古是三春|一戸崇雄|p=115}}。
現在、この試作車のうちの1輌が[[陸上自衛隊広報センター]]で展示されている(広報センター開館時より2020年のリニューアル工事前までは屋内展示、リニューアル工事以降は屋外展示)。この車両は、元々[[日本原駐屯地]]に用途廃止車として屋外展示されていたものを、広報センター開設のために化粧直しをして移管したものである。これは初めて90式が公開されたときの写真と同じく、[[砲塔]]正面[[装甲]]をキャンバスで覆い隠している。また、車体前面には[[92式地雷原処理ローラ]]用の6箇所の取付け座がある。試作車は[[土浦駐屯地]]と[[前川原駐屯地]]でも1輌ずつ屋外展示されており、後者にはストレートドーザが取り付けられている。
{{-}}
== 特徴 ==
日本の戦車開発は、世界の[[主力戦車]]が[[戦車#第2世代主力戦車|第2世代]]へと移行する中で制式化された[[戦車#第1世代主力戦車|第1世代]]相当の先々代の[[61式戦車]]{{Sfn |自衛隊新戦車パーフェクトガイド|2011|p=36}}や、第2世代戦車としては他国に並ぶ性能を有するがやはり世界の情勢は[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]に移行している中での制式化と一歩遅れることとなった先代の[[74式戦車]]と、他国の後塵を拝する状況であった{{Sfn |自衛隊新戦車パーフェクトガイド|2011|p=34}}。しかし、ようやく本車に至り、同時代の世界各国の新鋭戦車に並ぶ能力を持つに至った。
=== 火力 ===
[[ファイル:JGSDF Type90 tank 20120527-09.JPG|thumb|250px|砲塔。]]
[[ファイル:Japanese_APFSDS.jpg|thumb|250px|JM33装弾筒付翼安定徹甲弾(手前)<br />JM12A1対戦車りゅう弾(奥)。]]
[[ファイル:US Army 52808 JGSDF at Yakima.jpg|thumb|250px|[[ヤキマトレーニングセンター|ヤキマ演習場]]での訓練に参加する90式戦車([[2009年]][[9月15日]])。]]
[[主砲]]には[[西側諸国|西側]][[戦車#第3世代主力戦車|第3世代主力戦車]]の標準主砲となっている[[ラインメタル]]社の[[ラインメタル 120 mm L44|44口径120mm滑腔砲]]を備え、弾種は[[APFSDS]](120mm TKG [[DM33|JM33]]装弾筒付翼安定徹甲弾)と[[成形炸薬弾#多目的対戦車榴弾|HEAT-MP]](120mm TKG JM12A1対戦車りゅう弾)を使用する。この120mm滑腔砲用砲弾の[[薬莢]]は、焼尽薬莢と呼ばれるもので、底部を残して燃えて無くなる仕組みで、射撃後に空薬莢を捨てる必要がない。照準具安定装置、[[自動装填装置]]、パッシブ型熱線映像装置<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=90式 走行中射撃も可能|url=https://www.jiji.com/jc/v2?id=20090924jgsdf_arms_06|website=時事ドットコム|accessdate=2021-01-14|language=|publisher=}}</ref>、各種の[[センサー]]と連動したデジタル計算装置を備え{{Sfn |丸|2002|p=73}}、照準具安定装置の自動追尾機能は車体が上下に揺れたり、左右に方向転換しても常に目標を捉え続け、砲を目標に指向できる<ref name=":1" />{{Sfn |丸|2002|p=73}}。
[[射撃管制装置]]が[[光波測距儀|レーザー測遠機]]や砲耳軸傾斜計、装薬温度計、横風センサーなどから送られてくる情報を計算し、弾道へ与える各種要素を割り出す{{Sfn |丸|2002|p=74}}。そして照準装置への入力・設定を照準制御器に送ることで、[[砲弾]]は的確な軌道を描いて目標に命中する{{Sfn |丸|2002|p=74}}。なお、90式戦車の[[滑腔砲]]は仰俯角範囲が狭いものの、サスペンションによって車体を傾斜させることでこれを補う。
これら国産ハイテクが導入された射撃管制装置や[[自動装填装置]]を用い、射撃には大容量のデジタル弾道コンピューターと[[ジャイロスコープ|ジャイロ]]を併用することで、目標及び自らが移動していたとしても高精度な行進間連続射撃が行え、急激な制動で車体が前後に傾いた状態でも正確な射撃が可能となった<ref name=":1" />。なお、自動装填装置を採用している点については評価する声がある一方で、装填手1人分の人手がなくなったことで車体の清掃や整備、戦車用[[掩体壕|掩体]]を掘るといった作業における搭乗員の負担が増加したとの意見がある。[[メルカバ (戦車)|メルカバ]]や[[M1エイブラムス]]のように、技術的には可能とされながらも乗員減のデメリットを考慮し、自動装填装置の搭載を見送った例もある。人員削減の思惑もあるとされるが{{Sfn |丸|2002|p=76 }}、砲弾装填の失敗、事故を防ぐ点は評価されている。
自動装填装置に関しては、過去に装填動作中のラマーに足を引っ掛けられて乗員が負傷した事例が報道されている。
日本の演習場では、広さの問題から行進間連続射撃や最大射程射撃訓練などが十分にできず、急減速する訓練弾(TPFSDS)を使用していたが、[[1996年]](平成8年)度より毎年9月に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ワシントン州]]の[[ヤキマトレーニングセンター|ヤキマ演習場]]に90式を持ち込んで戦闘射撃訓練などを行っている。ヤキマ演習場で高機動テストや走行間射撃テストを行った際には、停止状態だと2km先の標的用[[M60パットン]]に高確率での命中<ref>『月刊グランドパワー』2006年4月号では、記者が「ほぼ100パーセント」と表現している</ref>、走行間射撃では3km先の目標に命中させる<ref>[[コーエー]]刊『戦車名鑑1946〜2002 現用編』51頁</ref>などの性能をみせた。21世紀に入った現代では各国の後発の主力戦車も同様の性能を有しているとされるが、当時は稀有な能力でもあったことから、[[アメリカ軍]]関係者が驚いた<ref>『月刊グランドパワー』2006年3月号</ref>というエピソードがある。
00式120mm戦車砲用演習弾の導入により、[[富士総合火力演習]]でも[[2002年]](平成14年)度から行進間射撃が披露されるようになった。
[[砲塔]]内の[[指揮官|車長]]席には正面に[[潜望鏡|照準潜望鏡]]、潜望鏡操作パネル、サーマルモニター、[[照準器]][[ハンドル]]などがある{{Sfn |丸|2002|p=77}}。潜望鏡操作パネルには28個の[[開閉器|スイッチ]]と[[ランプ (光源)|ランプ]]があり、車長はこれらを見る事で自らの車輌の状態を知る事ができる{{Sfn |丸|2002|p=77}}。また、車外の車長用視察・照準装置を介して外の様子を知ることができる。[[砲手]]席の後ろにはハンドルを取り付ける穴があり、装填装置が使用不能になったとしても、砲手がハンドルを取り付けて回すことで[[弾薬]]を装填できる。砲手席には正面とサイドにパネルがあり、正面のパネルには14個、サイドパネルに20個のスイッチが備わっている{{Sfn |丸|2002|p=77}}。砲手席左側には無線装置がある。照準ハンドルには追尾スイッチ、角速度ボタン、レーザー発射スイッチ、撃発安全レバー、撃発ボタンの計5個のボタン・スイッチがあり、両手の指を使い操作する{{Sfn |丸|2002|p=77}}。
砲塔後部にはラックと、円筒形の風向センサーを備えている。
90式戦車の主砲は砲弾が焼尽薬莢方式であるため[[空包]]が利用できないとされ、創立記念行事などでの訓練展示(模擬戦)では代わりに[[戦車#装備と構造|同軸機銃]]の[[74式車載7.62mm機関銃]]を主砲に見立てる模擬射撃が行われていた。後にメーカーから非燃焼薬莢の空包が提供されるようになり、[[2012年]]の富山駐屯地創立50周年記念行事より空包を使用しての訓練展示が行われている。
乗員向けに[[89式5.56mm小銃#派生型|89式5.56mm小銃(折り曲げ銃床型)]]が支給される。
{{-}}
=== 防護力 ===
[[ファイル:Type90_training_unit.jpg|thumb|250px|砲塔左前面<br />マークは戦車教導隊(現:[[機甲教導連隊]])第2中隊。]]
[[セラミックス|セラミック]]系[[装甲#複合装甲|複合装甲]]の実用化により、軽量ながら防護力は高いとされている。
セラミックは硬度があるぶん割れやすい素材だが、[[APFSDS]]などのように、セラミックが割れる速度より高速で衝突してくる物体に対してはその硬度を防御力に転換でき、[[劣化ウラン]]などの[[重金属]][[装甲]]よりも軽量化することができる。これによって90式戦車は防御力を維持しつつ、他の同世代戦車に比べて軽量化することに成功しており、車体そのものが小型化されたことで被弾率が低下し、発見される可能性も抑えている。
一般に公開される90式の[[砲塔]]正面装甲には迷彩塗装のキャンバス布地などが張られ、複合装甲の詳細は隠されるが、生産車輌の試験走行時に撮影された公開写真などには何も塗られていない状態のもの<ref>{{Cite web|和書|date=2004-11-11 |url=http://www.sakamotogoji.com/report/report_6.html |title=三菱重工(株) |work=活動報告 その他 |publisher=衆議院議員 坂本剛二 |accessdate=2016-09-28 |deadlinkdate=2016-09-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060105163325/http://www.sakamotogoji.com/report/report_6.html |archivedate=2006-01-05}}</ref><ref>http://i.imgur.com/EHxDs87.jpg</ref>が存在し、その形態から[[ルクレール]]と同様の内装式モジュラー装甲と見られている。
砲塔前面の複合装甲が垂直の平面で[[避弾経始]]を考慮していないのは、装甲を傾斜させると前面投影面積あたりの重量が増加し車内容積が減少する点のほか、高速で衝突し流体状の振る舞いで貫通するAPFSDSに対しては装甲傾斜による避弾経始が意味を成さないこと、また、傾斜させずともそれに耐えられるだけの装甲材の開発に成功したことなどが理由に挙げられている。[[10式]]戦車も、外周モジュールは傾斜しているが、砲塔本体の装甲は垂直面になっている。
耐弾試験では、正面装甲は[[ラインメタル 120 mm L44|44口径120mm滑腔砲]]を使用して発射された重金属弾体APFSDSに対して[[自衛隊]]の公式発表では「良好な結果を得た」という表現が用いられ、前面装甲に関しては[[M1エイブラムス#形式|M1A1エイブラムス]]を若干上回る防御力を持ち、側面は[[APDS|35mm徹甲弾]]の掃射に耐えうる性能があり、上面は[[榴弾]]の破片に耐えうる耐弾性能を有しているとされる<ref>http://eaglet.skr.jp/MILITARY/90.htm</ref>。
この耐弾試験の映像の一部はマスメディアに公開されており、実際に耐弾試験映像を視聴した軍事ライターの雑誌記事<ref name="gunji0711">『世界のハイパワー戦車&新技術』(Japan Military Review『軍事研究』2007年12月号別冊)</ref>によると「バンカー内に納められた90式戦車の正面に対し別の90式戦車の[[主砲]]により射撃を実施(射距離250メートル程度と推測)試験終了後にバンカー内から被弾した90式戦車が自走を行い、被弾車の車体正面の複合装甲に4発(被弾痕からHEAT-MP 3発、APFSDS 1発と推定)、砲塔正面右側の複合装甲に少なくとも1発(被弾痕からAPFSDSと推定)の被弾痕が確認でき、砲塔側も車体側と同等の防護力を持つと推察できる」としている。その他に「[[89式装甲戦闘車]]らしき車輌から35mm[[機関砲]]により90式戦車の砲塔側面を射撃」する場面や、「横向きに吊るした155mm榴弾を90式戦車の上空約10メートルで爆発([[曳火]]射撃を想定した静爆試験と推測される)」させる場面、「[[無限軌道|履帯]]下で[[地雷]]を爆発(地雷による静爆試験)」させる場面が試験映像中にあると紹介している。
砲塔後部にある即用弾収納部分の上面は、被弾などによって搭載する[[砲弾]]が誘爆した際にパネルが吹き飛び、[[エネルギー]]を上に逃がす「ブローオフパネル構造」であり、乗員の安全性向上が図られている。
=== 車体 ===
[[ファイル:Sohkaen type90.jpg|thumb|250px|稜線射撃を行うため車体を前傾させた様子。]]
[[ファイル:JGSDF type90 tank.JPG|thumb|250px|車体を前傾させた様子。]]
車体の[[砲塔]]左下側に[[運転者|操縦手]]が乗車する。操縦席には位置可変T字型操向ハンドル、電気式アクセルペダルや常用[[ブレーキ]]、アシストシリンダー付の駐車ブレーキなどの操縦装置、57個のボタンや計器類がある{{Sfn |丸|2002|p=77}}{{Efn2|後継の[[10式戦車]]では情報モニターの設置など、操作計器の簡素化も行われている。}}。
[[潜望鏡|ペリスコープ]]には[[ワイパー]]が備わる。車体底部に[[燃料タンク]]、後部に冷却ファンとそれを挟む形で潜水用逆流防止弁が付いた排気管がある。その上部に変速操行機オイルクーラーとラジエーターがある。操縦席の右側が予備[[火薬庫|弾薬庫]]となっている。また、先々代の[[61式戦車]]、先代の[[74式戦車]]と、伝統的に踏襲されてきたヘッドライトの位置(左右フェンダー先端の上方)が、本車からは車体正面[[装甲|装甲板]]の左右両側となった。
懸架装置は、前側の第1転輪と第2転輪、後側の第5転輪と第6転輪が[[ハイドロニューマチック・サスペンション|油気圧式]]、中央の第3転輪と第4転輪はトーションバー式というハイブリッド式サスペンションとなっている。車体を前後に傾斜させる機能と、車高を昇降させる機能により、丘などの稜線を利用した射撃において効率的に車体を隠すのに役立つ。74式のように左右に傾斜させることはできない。
ストレートドーザを装着した車両も存在し、待ち伏せなどでの陣地構築の際に用いられる。また、専用の装備を持つ一部の車両は車体前面に[[92式地雷原処理ローラ]]が装着できる。
制式化当初から[[レオパルト2]]との形状の類似が指摘されており、防衛庁(当時)の担当官が「このような(レオパルト2のような)のが欲しい」と発言したという逸話が[[ワールドタンクミュージアム]]の解説書に掲載されていた。実際には、90式戦車の複合装甲はレオパルト2の分割配置複合装甲とは異なり、[[ルクレール]]と同様に複合装甲の着脱が容易な内装式[[装甲#増加装甲|モジュール装甲]]だと考えられている<ref>[https://web.archive.org/web/20070928122102/http://www.sakamotogoji.com/pic/pic_227.jpg](2007年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])、[https://web.archive.org/web/20120612135534/http://kago-ai-chan.net/uploader/img/naver7930.jpg](2012年6月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。また、形状以外では、90式では前面投影面積や砲塔容積の削減で、主要国の[[主力戦車]]と比較してコンパクトに設計されており、新素材の採用などにより防御力を犠牲にせずとも軽量化が実現されている。
{{-}}
=== 動力・機動性 ===
[[内燃機関|エンジン]]には三菱10ZG32WT[[水冷エンジン|水冷]][[2ストローク機関|2ストローク]][[V型10気筒]][[ターボチャージャー|ターボチャージド]]・[[ディーゼルエンジン]]、変速機には三菱MT1500[[オートマチックトランスミッション]](前進4段 後進2段)が採用されている。これらはパワーパック化され、[[土浦駐屯地]]での公開実演では20分以内での交換が実施されている。
[[1972年]]に技術研究本部で10ZG32WTの原型となる単筒型の実機の試作が行われ、[[1977年]]-[[1978年]]にかけて10ZG32WTの8気筒型である8ZG(シリンダー内径135mm行径150mm)の試作が行われた。1978年-[[1979年]]にかけて所内試験が行われ、最大出力1,196ps/2,600rpm を達成した。これらの研究成果を元に[[1982年]]に1,500psを達成した10ZG32WTが完成した。
10ZG32WTは1,500ps級ディーゼルエンジンとしては排気量21,500ccと小型で、また、耐久性に関しても15分間における定格最大出力1,500psを達成しており、諸外国のディーゼルエンジンとの比較においても10ZG32WTは過酷な高出力下での高い耐久性を達成している。
90式戦車の加速性能0-200mまで20秒という数値であるが、諸外国の[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]と同一条件で比較した場合、[[レオパルト2|レオパルト2A4]]が推定23.5秒、[[M1エイブラムス]]の試作車XM1が推定29秒<ref>『世界のハイパワー戦車&新技術』(Japan Military Review『軍事研究』2007年12月号別冊p135、一戸崇雄)</ref>であることから、90式の加速性能は諸外国の第3世代戦車と比較して大幅に優れていると言える。
制動能力も高く、全制動時では時速50キロの速度から2メートル以内で停止可能である<ref>テレビ朝日 『[[カーグラフィックTV]]』 1996年8月24日放映 No.564「陸上自衛隊の働くクルマ逹」より</ref>。配備当初は不用意に制動を行った際に上半身を車外に出していた[[指揮官|車長]]が胸部を打撲したこともあり「殺人ブレーキ」などと呼ばれていた。
=== 燃料消費性能 ===
[[ファイル:敵方を警戒する第4戦車中隊90式戦車(撮影者 不明) 教育訓練等 192.jpg|thumb|250px|普通科部隊の前進を援護する90式戦車。]]
10ZGの燃費性能は定格[[燃料消費率]]234g/kWh(約172.1g/PSh)、最低燃料消費率226g/kWh(約166.2g/PSh)と技術研究本部の元研究官による雑誌記事<ref name="gunji0711" />において公表されている。
同雑誌記事では、10ZGの燃費性能を他の新型1,500馬力級[[ディーゼルエンジン]]と同一条件下にて比較した場合、[[1990年代]]初期に技術研究本部が研究試作した[[ターボコンパウンド]]搭載の[[4ストローク機関|4ストローク]]多気筒ディーゼルエンジン(定格燃料消費率200g/kWh、最低燃料消費率198g/kWh)や、1990年代前半に登場した[[ドイツ]]のMTU社製のMTU MT883 ka-500 4ストロークディーゼルエンジン(定格燃料消費率209g/kWh、最低燃料消費率198g/kWh)などより10ZGの燃費性能(前述の数値)はやや劣るとしている。
なおMTU社の公開資料によると、[[レオパルト2]]に搭載されているMTU社製[[機関 (機械)|エンジン]]の一つであるMB873の燃料消費率は約250g/kWh(1,500PS/2,600rpm時)<ref>{{PDFlink|http://www.mtu-online-shop.de/fileadmin/dam/download_media/import_print/D_23054E_0601.pdf MTU社MB873エンジン公式資料}}</ref>、MT883の燃料消費率は220g/kWh(1,500PS/2,700rpm時。なお、燃料消費率の数値は±5%の誤差があるとしている)<ref>{{PDFlink|http://www.mtu-online-shop.de/fileadmin/dam/download_media/import_print/D_23112E_0601.pdf MTU社MT883エンジン公式資料}}</ref>となっている。
よって10ZGの燃料消費率はMB873に対してやや優れ、MT883にはやや劣ると考えられる。
8気筒型である8ZGの燃費性能は、全負荷最低燃料消費率191g/PSh(約259.7g/kWh)と公表されている<ref>{{Cite book|title=防衛庁技術研究本部五十年史 II 技術研究開発 9.第4研究所|date=2002-11-15|year=|publisher=防衛省|page=302|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1283286_po_TRDI50_11.pdf?contentNo=11&alternativeNo=}}</ref>。
90式戦車は諸外国の[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]と比較して航続距離が低いとされることから10ZGエンジンの燃料消費性能が悪いという指摘があるが、同一条件下におけるエンジン単体の燃料消費量は前述の数値の差程度である。
また、戦車の種類によって車体重量、燃料搭載量などの条件が異なることに加えてメーカー、国、軍事機関などにより燃料消費率の測定基準が異なると考えられる以上、一概に航続距離の数値をもってエンジンの燃料消費性能を論ずるのは適切ではない{{Efn2|各国の軍事機関を例に挙げても米軍の[[MIL規格]]、日本の防衛省規格NDSなど様々な基準・仕様・規格が存在する。}}。
=== C4I ===
{{See also|陸上自衛隊のC4Iシステム}}
平成13年度時点で開発から10年以上が経過した90式戦車は、諸外国の技術水準から取り残されつつあり、早急に国際的な技術進歩の趨勢に対応していくことが必要不可欠である、と指摘されており<ref name="heisei13_seisaku">{{PDFlink|https://www.mod.go.jp/j/approach/hyouka/seisaku/results/13/jizen/honbun/17.pdf 平成13年度政策評価書 事前の事業評価(本文)}}</ref>、諸外国[[戦車]]との比較では90式が装備していない[[C4Iシステム|C4I]]機能が[[M1エイブラムス#形式|M1A2]]、[[レオパルト2]]{{Efn2|自己位置評定のみ。}}、[[ルクレール]]には装備されていることが示されていた<ref name="heisei13_seisaku" />。
これを是正する措置として、現在、[[第2戦車連隊]]の配備車両には[[陸上自衛隊のC4Iシステム#普通科・戦車部隊用システム|戦車連隊指揮統制システム(T-ReCs)]]端末の搭載が開始されている<ref>{{Cite journal|和書|author=柘植優介|year=2010|month=9|title=陸自期待のルーキー、10式戦車の姿|journal=PANZER|issue=第470集|pages=22-33|publisher=アルゴノート社}}</ref>。このT-ReCs搭載型は[[2010年]][[8月23日]]-[[9月22日]]まで[[北部方面隊]]で行われた総合戦闘力演習「玄武2010」に、C4ISR部隊として参加している<ref>{{cite news |title=「イーグル・アイ」 「玄武2010」で2師団 C4ISRで継戦能力保持 |newspaper=朝雲新聞 |date=2010-11-04 |url=http://www.asagumo-news.com/news/201011/101108/10110901.html |accessdate=2010-11-17 }}</ref>。ただしその後、野外通信システム・[[広帯域多目的無線機]]が配備されると、T-ReCsは使われなくなっていった<ref>{{Citation|和書|last=鈴木|first=利治|year=2021|chapter=第2戦車連隊−訓練検閲でC4I能力を存分に発揮|title=陸上自衛隊の戦闘力−10式戦車|pages=18-23|publisher=イカロス出版|series=イカロス・ムック|isbn=978-4802210492}}</ref>。
ただし、90式の内部スペースや給電能力の制約により、これ以上に高度なC4I機能の付加は困難であるとされている。このことから、より充実したC4I機能などが付与された後継の新[[主力戦車]]として[[10式戦車]]が開発された<ref name="heisei21_seisaku">{{PDFlink|https://www.mod.go.jp/j/approach/hyouka/seisaku/results/21/jizen/honbun/02.pdf 平成21年度政策評価書 事前の事業評価(本文)}}</ref>。
=== 主力戦車としての評価 ===
[[File:90式戦車20.8.23 -42 富士総合火力演習004 R 富士総合火力演習・そうかえん 67.jpg|thumb|250px|行進間射撃を行う90式戦車。]]
実戦での運用例は無く、秘匿情報も多いが、公開される性能から[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代型戦車]]としては[[M1エイブラムス#形式|M1A2エイブラムス]](アメリカ)や[[レオパルト2#改修による強化|レオパルト2A6]](ドイツ)などと並ぶ世界最高水準の戦車の一つとされ、[[2004年]]度のForecast International社による世界主力戦車ランキングではM1A2 SEP、[[メルカバ (戦車)|メルカバMk 4]]に続いて第3位に評されている<ref>[http://www.forecastinternational.com/press/release.cfm?article=17 Forecast International Re-evaluates Main Battle Tank Market]</ref>。
また、[[アメリカ陸軍]]雑誌『アーマー』ではアメリカ政府関係者の発言として90式戦車の高度な機能として移動目標照準時の自動追尾機能を挙げ、その他に敵目標の脅威度を認識・判定する機能の存在を推測する記述がある<ref>{{PDFlink|http://doc.danfahey.com/Tanks-ArmorMag.pdf ARMOR-July-August 1999}}</ref>。
{{-}}
== 現有戦車との比較 ==
{{日本の主力戦車}}
== 配備(令和4年度末現在) ==
北海道以外では、[[富士教導団]]などの教育部隊を除きほとんど配備されていない。これは戦車トランスポーターの少なさから来る平時の運用に加え、調達数が減少した中で一括運用を行うためである。
開発当時の運用構想では、北海道に着上陸侵攻するソ連軍の機甲師団を北海道の原野で迎え撃つことを想定しており、北海道の[[北部方面隊]]に優先的に配備された。この方針は[[ソビエト連邦の崩壊]]後も変わらず、[[中期防衛力整備計画 (2005)|中期防衛力整備計画(平成17年度-21年度)]]以降では北部方面隊の[[74式戦車]]を更新して北海道の戦車部隊を90式戦車に統一する方針だったが、平成25年度に[[第2戦車連隊]]へ[[10式戦車]]が配備され、変更された模様である。また、例外的に、第7師団隷下の[[第7偵察隊]]にも配備され、主に威力戦闘偵察に使用される。
[[中期防衛力整備計画 (2014)|中期防衛力整備計画 (平成26年度-平成31年度)]]以降、戦車定数の削減に伴う部隊廃止、10式戦車の配備・本州からの配置換え等により用途廃止が始まった。
[[ファイル:戦車教導隊.jpg|thumb|250px|戦車教導隊(現:機甲教導連隊)所属車輌。]]
[[ファイル:Japanese Type 90 Tank - 2.jpg|thumb|250px|[[土浦駐屯地]][[陸上自衛隊武器学校|武器学校]]での90式戦車。]]
[[画像:JGSDF Director Directly Controled Unit.svg|20px]][[陸上自衛隊富士学校]]
* 機甲科部
*[[機甲教導連隊]](第2・3戦車中隊) - 幹部教育支援および戦術研究用
*[[部隊訓練評価隊]] - (戦車中隊)専用塗装の90式戦車を保有。
[[画像:JGSDF Director Directly Controled Unit.svg|20px]][[陸上自衛隊武器学校]] - 整備教育用
[[画像:JGSDF Northern Army.svg|20px]][[北部方面隊]]
* [[画像:JGSDF 2nd Division.svg|20px]][[第2師団 (陸上自衛隊)|第2師団]]
** [[第2戦車連隊]](第1・2・3戦車中隊)
* [[画像:JGSDF 7th Division.svg|20px]][[第7師団 (陸上自衛隊)|第7師団]]
** [[第72戦車連隊]]
** [[第73戦車連隊]]
** [[第7偵察隊]]
* [[画像:JGSDF 5th Brigade.svg|20px]][[第5旅団 (陸上自衛隊)|第5旅団]]
** [[第5戦車大隊|第5戦車隊]]:2023年3月縮小改編
* [[画像:JGSDF 11th Brigade.svg|20px]][[第11旅団 (陸上自衛隊)|第11旅団]]
**[[第11戦車大隊|第11戦車隊]]:2019年3月縮小改編
== 価格と調達 ==
[[File:90式戦車 (2)(1).jpg|thumb|250px|冬季迷彩が施された90式]]
[[File:Type 90 Prototype (1).jpg|thumb|250px|[[陸上自衛隊広報センター]]にて2020年春より屋外展示となった試作車]]
[[File:92式地雷原処理ローラ (1).jpg|thumb|250px|[[92式地雷原処理ローラ]]を装備した車輌]]
[[1990年]](平成2年)度-[[2009年]](平成21年)度までの19年間で341輌が調達された<ref>{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11591426/www.mod.go.jp/j/approach/agenda/meeting/materials/seisan/sonota/pdf/03/001.pdf 装甲車両・火器及び弾薬の開発・調達について]}} - 防衛省経理装備局艦船武器課 平成23年2月</ref>。年平均の調達台数は約18輌。調達価格は整備用工具や予備消耗部品が含まれた総合価格となっている。[[バブル景気]]の真っ只中に採用が決定され、[[大量生産|量産効果]]による価格低下も見込まれて1輌約11億円という価格でも迅速に配備が可能という見通しだったが、制式化直前の[[バブル崩壊]]と翌年の[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴う防衛費の減少・削減、[[こんごう型護衛艦]]([[イージス艦]])など他の正面装備の拡充や[[戦車]]保有数の削減などと時期が重なったこともあって、予想通りの調達ペースは得られなかった。
調達当初の3年間は1輌約11億円前後であり、少数生産にとどまる以上は、開発費や設備投資の消化も考えると1輌当たりの価格が高騰する事情があるが、4年目以降は1輌約9.4億円となり、継続的な調達による量産効果で[[2001年]](平成13年)度以降は1輌約8億円(最低は約7億9,000万円)まで単価が減少した。
90式戦車は他国の[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]に比べて高価であり、外国産戦車を輸入すべきだったと批判されることがあるが、他国戦車を輸入した際の価格に関しては軍事情報雑誌[http://www.janes.com/ Jane's]発行のレポートによれば、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[M1エイブラムス#形式|M1A2エイブラムス]]及び[[ドイツ]]の[[レオパルト2#改修による強化|レオパルト2A6]]は輸出実績でいずれも1輌あたり10億円を超えており、[[フランス]]の[[ルクレール]]は自国型でもそれに並ぶ価格となっている。
90式の調達は[[2009年]](平成21年)度で終了し、[[2010年]](平成22年)度からは[[10式戦車]]の調達が行われている。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+90式戦車の調達数<ref>[http://www.japandefense.com/ JapanDefense.com]</ref><ref>[http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_web/ 防衛白書の検索]</ref>
! 予算計上年度 !! 調達数
|-
|| 平成2年度(1990年) || 30輌
|-
|| 平成3年度(1991年) || 26輌
|-
|| 平成4年度(1992年) || 20輌
|-
|| 平成5年度(1993年) || 20輌
|-
|| 平成6年度(1994年) || 20輌
|-
|| 平成7年度(1995年) || 20輌
|-
|| 平成8年度(1996年) || 18輌
|-
|平成9年度(1997年)
|18輌
|-
|平成10年度(1998年)
|17輌
|-
|平成11年度(1999年)
|17輌
|-
|平成12年度(2000年)
|18輌
|-
|平成13年度(2001年)
|18輌
|-
|平成14年度(2002年)
|18輌
|-
|平成15年度(2003年)
|17輌
|-
|平成16年度(2004年)
|15輌
|-
|平成17年度(2005年)
|12輌
|-
|平成18年度(2006年)
|11輌
|-
|平成19年度(2007年)
|9輌
|-
|平成20年度(2008年)
|9輌
|-
|平成21年度(2009年)
|8輌
|-
|合計
|341輌
|}
== 戦略機動性 ==
90式戦車は[[北海道]]の地形や道路条件を想定して開発されたものであり、他地域でのより柔軟な運用を行うには更なる小型軽量化が望ましいとされた。このため、後継の[[10式戦車]]は40トン級の[[戦車]]として開発されている。
=== 道路を使った移動と輸送 ===
90式戦車の重量は[[74式戦車]]を約12トン上回るため、[[北海道]]以外では通行可能な場所が限られ運用上の困難が多いとして、戦車不要論の補強や自衛隊批判の引き合いに出されることがある。実際には全国の主要国道の橋梁17,920ヶ所のうち65%は90式の通行が可能であり、より軽量化された約44トンの[[10式戦車]]ではこれが84%に向上したとされるのに対して、約62-65トンの海外[[主力戦車]]が通行可能な橋梁は約40%と想定されている<ref>{{PDFlink|[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/shin-ampobouei2010/dai5/siryou1.pdf 新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会 - 第5回配布資料 「防衛生産・技術基盤」平成22年(2010年)4月(防衛省)]}}</ref>。
各国の主力戦車と90式戦車の重量を比較してみた場合、
{|class="wikitable"
|-
| 90式戦車 || 50.2トン
|-
| [[ルクレール]] || 56.5トン
|-
| [[M1エイブラムス#形式|M1A2エイブラムス]] || 62.1トン
|-
| [[チャレンジャー2]] || 62.5トン
|-
| [[レオパルト2#改修による強化|レオパルト2A5]]<br />[[スウェーデン]]仕様 || 62.5トン
|}
であり、90式の50トンという重量は60トン以上ある旧西側の先進各国の[[戦車#第3世代主力戦車|第3世代戦車]]などと比較すれば10トン以上軽量となる。大型車両の走行を前提としていない小型の橋は除いて、主要道路などの[[ダンプカー|ダンプ]]や[[貨物自動車|トラック]]が通行できる橋はすべて通行可能になっている。
; 自走による移動
[[ファイル:JGSDF MBT Type 90 at JGSDF PI center front.jpg|thumb|250px|試作車の車体前部の方向指示器及び前照灯。]]
実際に[[北海道]]では、90式が[[駐屯地]]と演習場の間の公道を自走で移動することがある。また、[[第5旅団 (陸上自衛隊)|第5旅団]]の旅団創立記念行事への参加・撤収の際に[[鹿追駐屯地]]から[[帯広駐屯地]]までの約45kmの一般公道を自走で移動することもある{{Efn2|2005年の9月12日・9月19日に90式戦車と[[74式戦車]]が、2006年の8月31日・9月13日と2007年の8月31日・9月12日と2008年の9月2日・9月10日と2009年9月1日・9月9日に90式戦車が移動。}}。
90式が舗装路上を走行する際は、路面を傷つけないよう[[無限軌道|履帯]](履板)に路面保護用のゴムパッドを装着して走行する{{Efn2|90式より5トンから10トン以上重い[[主力戦車]]を保有する欧米でもゴムパッド付きの履帯で、一般公道を自走しての移動が行われている。}}。これは平時に無用に道路を傷めないための配慮であり、[[有事]]の際にはゴムパッド無しの履帯でそのまま走行する場合もある。[[欧米]]では実際の市街地で行われる訓練や式典などでも戦車が一般公道を自走する。
駐屯地から演習場までを繋ぐ道路が通常の履帯に対応した[[コンクリート]][[舗装]]で補強されている場合や、スリップの恐れがある冬期の積雪時には、ゴム履帯を装着せずに道路を自走する例もある{{Efn2|[[上富良野駐屯地]]から[[上富良野演習場]]、鹿追駐屯地から[[然別演習場]]、[[北千歳駐屯地]]または北恵庭駐屯地から[[北海道大演習場]]といった各駐屯地から演習場までの国道や道道・市道にはアスファルトでは無くコンクリート補強された道路が設置されており、当該路面を戦車が通常の履帯で走行する状態を確認する事ができる。}}。
90式は[[方向指示器]](ウインカー)を装備しているが、これは平時の公道走行用でレオパルト2、ルクレール、チャレンジャー2などといった[[ヨーロッパ|欧州]]の[[主力戦車]]も方向指示器や[[前照灯]]を備える<ref>[[:Image:Leopard 2 A6M.JPG|レオパルト2の方向指示器(後部)が見える写真]]/[[:Image:Leclerc-IMG 1763.jpg|ルクレールの方向指示器(前部)が見える写真]]</ref>。これは戦車以外の[[装甲戦闘車両]]においても同様。また、一般公道を自走で移動する際はサイドミラーを取り付けるが、欧米の車両も同様に取り付けて走行する。
{{-}}
; トランスポーターによる輸送
[[戦車運搬車|トランスポーター]]で運搬される場合は、積載量と安全面の問題から[[砲塔]]と車体を分離して夜間に運搬される。最大積載量が50トンの[[特大型運搬車]]では砲塔と車体を一体化させた状態で運搬することが可能だが、最大積載量が40トンの[[73式特大型セミトレーラ]]の場合は砲塔と車体を分離して運搬する必要がある。複雑な電子装備や油圧系統を持ちながら、車体と砲塔は比較的容易に分離できる。
=== 航空機による輸送 ===
重量50トン以上の戦車を空輸するには[[C-5 (航空機)|C-5 ギャラクシー]](米)や[[C-17 (航空機)|C-17 グローブマスターIII]](米)、[[An-124 (航空機)|An-124 ルスラーン]]([[ウクライナ]]の[[O・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体|アントノフ]]製)といった最大級の[[輸送機]]が必要とされる。[[航空自衛隊]]はその種の大型輸送機は保有しておらず、また、航空自衛隊の輸送機である[[C-2 (航空機・日本)|C-2]]は大型の手術車や[[装輪装甲車]]の搭載は想定しているが、戦車の搭載を想定しているという情報はない。
[[2006年]](平成18年)度から導入された[[KC-767 (航空機)#日本|KC-767]][[空中給油機|空中給油・輸送機]]のペイロード(積載量)はC-2より大きく、[[貨物自動車|トラック]]などを搭載できるが、戦車は搭載できない。
=== 輸送艦による輸送 ===
[[ファイル:7D南転出発01 R 装備 68.jpg|thumb|250px|[[津軽海峡フェリー]]「[[ナッチャンWorld]]」への積み込みの様子。]]
[[海上自衛隊]]の保有する[[おおすみ型輸送艦 (2代)|おおすみ型輸送艦]]では最大10数輌程度を輸送可能。
また、おおすみ型輸送艦に各2艇ずつ搭載されている[[エア・クッション型揚陸艇]]([[LCAC-1級エア・クッション型揚陸艇|LCAC]])は、積載能力が70トンあるため、90式戦車を1輌ずつ運搬し、海岸に直接上陸させることが可能である。ただし、90式の大規模な部隊をまとめて輸送するのに必要なだけの[[輸送艦]]を、[[自衛隊]]は保有していない。
民間船舶による輸送の例としては[[2011年]]11月、民間船「[[ナッチャンWorld]]」によって、訓練のため[[北海道]]の苫小牧港から[[大分県]]の大分港まで90式戦車4両と[[89式装甲戦闘車]]10両などが輸送された例がある<ref>{{cite news |title=戦車、民間フェリーで移動…北海道から大分へ |newspaper=読売新聞 |date=2011-10-26 |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111026-OYT1T00596.htm|archive-url=https://web.archive.org/web/20111028183556/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111026-OYT1T00596.htm |archive-date=2011-10-28 }}</ref><ref>{{cite news |title=自衛隊、南西シフト鮮明=九州・沖縄で相次ぎ演習-鉄道、民間船で列島縦断 |newspaper=時事通信 |date=2011-11-03 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011103100019&google_editors_picks=true }}{{リンク切れ|date=2023年11月}}</ref>。
{{-}}
=== 鉄道輸送 ===
74式戦車以降、自衛隊では鉄道輸送を考慮した戦車を開発・採用していないことから、それを輸送するのに必要な車両や機材の開発や調達も行われていない{{Efn2|JR・旧国鉄の在来線は横幅3メートル弱の車両を前提に設計されているが、74式以降はいずれも車幅が3メートルを超えている。なお、戦車以外では、在来線で施設科などの小規模な輸送が行われている。}}。
== 事故 ==
2010年8月20日、静岡県東富士演習場畑岡射場において、「富士総合火力演習」の訓練中に90式戦車の砲身先端約40cmが吹き飛ぶ砲身破裂事故が発生した。陸上自衛隊によれば、原因は砲身に土が詰まったまま発射するなど「人為ミス」を重ねたためとした<ref>[https://web.archive.org/web/20100830013202/http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20100828ddlk22040214000c.html 追跡・静岡:戦車砲身破裂 重なった人為ミス 届かなかった中止命令 /静岡]</ref>。
2017年06月21日、北海道大演習場千歳・恵庭地区で、訓練中に横転し、乗っていた30代の男性隊員が戦車の下敷きになり死亡した<ref>[https://www.sankei.com/photo/daily/news/170621/dly1706210019-n1.html 戦車横転で隊員死亡 北海道、陸自訓練中]</ref>。
== その他 ==
[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作曲の[[1812年 (序曲)|1812年(序曲)]]は、大砲(cannon)を演奏で使うことで有名であるが、2017年の第11旅団創隊9周年・真駒内駐屯地開庁記念式典において、90式戦車6両(第11戦車大隊)による空砲を利用した演奏が実施された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=ZdPIvoSFQwQ 20170604 90式戦車と音楽隊の共同演奏@真駒内駐屯地] - Youtube</ref>。
== 派生型 ==
* [[90式戦車回収車]]
== 登場作品 ==
{{main|90式戦車に関連する作品の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite journal |和書
| journal = [[丸 (雑誌)|丸MARU]]
| publisher = 潮書房
| title = 体験的機甲史 自衛隊の戦車
| date = 2002-01
| ref = {{sfnRef|丸|2002}}
}}
* {{cite journal |和書
| journal = PANZER
| publisher = アルゴノート社
| date = 2009-01
| ref = harv
}}
* {{cite book |和書
| year = 2009
| author = 古是三春
| author2 = 一戸崇雄
| title = ストライクアンドタクティカルマガジン2009年9月号別冊 戦後の日本戦車
| asin = B002LG7978
| ref = harv
}}
* {{cite book |和書
| year = 2011
| title = 自衛隊新戦車パーフェクトガイド
| publisher = [[イカロス出版]]
| isbn = 978-4-86320-390-7
| ref = harv
}}
== 関連項目 ==
* [[主力戦車]]
* [[陸上自衛隊の装備品一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|JGSDF Type 90 tanks}}
* [https://www.mod.go.jp/gsdf/ 陸上自衛隊]
* [https://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/ 第2師団]
* [https://www.mhi.com/jp/ 三菱重工] - [http://www.mhi.co.jp/products/detail/type-90_tank.html 90式戦車]
* [https://www.jsw.co.jp/ja/index.html 日本製鋼所] - [https://www.jsw.co.jp/ja/product/army.html 製品情報:防衛機器]
{{現代戦車}}
{{自衛隊の装甲戦闘車両}}
{{三菱重工業}}
{{DEFAULTSORT:90しきせんしや}}
[[Category:陸上自衛隊の戦車]]
[[Category:主力戦車]]
[[Category:三菱重工業製の戦車]]
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18,703 |
初夢
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初夢(はつゆめ)とは、新年のある夜に見る夢。この夢の内容で、1年の吉凶を占う風習がある。
字義どおりに新年最初に見る夢ではあるが、「大晦日の夜から元日の朝」「元日の夜から2日朝」「2日夜から3日朝」の3つの説が混在する。
文献での初夢の初出は、鎌倉時代の『山家集』春 にある。すなわち「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝む まさしく見えて かなふ初夢」。ここでは、暦上の新年とは無関係に、節分から立春の夜に見る夢を初夢としている。この時代は、初夢に限らず、立春を新年の始まりと考えることが多かった。
その後、暦上の元日を新年の始まりと考えるようになったが、単純に、大晦日から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、江戸時代には「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」の3つの説が現れた。「元日から2日」は、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされる。「2日から3日」の由来ははっきりしないが、書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われる。
江戸時代後期には「2日から3日」が主流となったが、明治の改暦後は、「元日から2日」とする人が多くなった。
室町時代ごろから、良い夢を見るには、七福神の乗っている宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをする。
初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざに「一富士二鷹三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」がある。
江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった「駒込富士神社」の周辺に鷹匠屋敷(現在の駒込病院)があり、駒込茄子が名産であったため、当時の縁起物として「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた(富士信仰も参照)。
その他にこの3つの組み合わせは、『狂歌・家つと』、『続五元集』、『狂歌・巴人集』、『譬喩尽』、『黄表紙・盧生夢魂其前日』、『笈埃随筆』、『嬉遊笑覧』、『甲子夜話』、『俚言集覧』などの文献資料に記載されており、江戸時代初期にはすでにあり、それぞれの起源は次のような諸説がある。
四以降については地域・文献などからいくつか存在しており、それについても諸説ある。
七丁髷、八薔薇、九歌舞伎という説があるが、これは後付けであるという見解が有力である。
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初夢(はつゆめ)とは、新年のある夜に見る夢。この夢の内容で、1年の吉凶を占う風習がある。 字義どおりに新年最初に見る夢ではあるが、「大晦日の夜から元日の朝」「元日の夜から2日朝」「2日夜から3日朝」の3つの説が混在する。
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| footer = 縁起が良いとされる一[[富士山|富士]]二[[鷹]]三[[ナス|茄子]]
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| image1 = 'Mount Fuji' by Takeuchi Seiho, 1893, Takashimaya Historical Museum.jpg
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| alt3 = ナス
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'''初夢'''(はつゆめ)とは、[[新年]]のある[[夜]]に見る[[夢]]。この夢の内容で、1年の[[吉凶]]を[[占い|占う]]風習がある。
字義どおりに新年最初に見る夢ではあるが、「大晦日の夜から元日の朝」「元日の夜から2日朝」「2日夜から3日朝」の3つの説が混在する。
== 日付 ==
文献での初夢の初出は、[[鎌倉時代]]の『[[山家集]]』春 にある。すなわち「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝む まさしく見えて かなふ初夢」。ここでは、[[暦]]上の新年とは無関係に、[[節分]]から[[立春]]の夜に見る夢を初夢としている。{{要出典範囲|date=2014年1月|この時代は、初夢に限らず、立春を新年の始まりと考えることが多かった}}。
{{要出典範囲|date=2014年1月|その後、暦上の元日を新年の始まりと考えるようになったが、単純に、[[大晦日]]から元日の夜に見る夢が必ずしも初夢とはならず、[[江戸時代]]には「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」の3つの説が現れた。「元日から2日」は、大晦日から元日にかけての夜は[[徹夜|眠らない]]風習ができたことが理由とされる。「2日から3日」の由来ははっきりしないが、[[書初め]]や[[初商い]]など多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われる}}。
{{要出典範囲|date=2014年1月|江戸時代後期には「2日から3日」が主流となったが、[[明治]]の改暦後は、「元日から2日」とする人が多くなった}}。
== 風習 ==
=== 宝船の絵 ===
[[室町時代]]ごろから、良い夢を見るには、[[七福神]]の乗っている[[宝船]]の絵に「[[なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな]](長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という[[回文]]の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して[[縁起直し]]をする。
=== 一富士二鷹三茄子 ===
初夢に見ると縁起が良いものを表す[[ことわざ]]に「'''一[[富士山|富士]]二[[鷹]]三[[ナス|茄子]]'''(いちふじ にたか さんなすび)」がある。
[[江戸時代]]に最も古い[[富士講]]組織の一つがあった「[[駒込富士神社]]」の周辺に[[鷹匠]]屋敷(現在の[[東京都立駒込病院|駒込病院]])があり、[[駒込茄子]]が名産であったため、当時の縁起物として「[[駒込 (東京都)|駒込]]は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた([[富士信仰]]も参照)。
その他にこの3つの組み合わせは、『[[狂歌・家つと]]』、『[[続五元集]]』、『[[狂歌・巴人集]]』、『[[譬喩尽]]』、『[[黄表紙・盧生夢魂其前日]]』、『[[笈埃随筆]]』<ref>「世の人此山を夢見る時は吉瑞なりとて一ふし二鷹三茄子とて同く吉兆とす或人曰此三事夢の判にはあらす皆駿州の名産の次第をいふ事也富士は更也二鷹は富士より出る鷹は唐種にて良也こまかへりといふ三茄子は我国第一に早く出す処の名産なれはなりといへり」</ref>、『[[嬉遊笑覧]]』、『[[甲子夜話]]』<ref>「楽翁の語られしは世に一富士二鷹三茄子と謂ことあり此起りは神君駿城に御坐ありしとき初茄子の価貴くして数銭を以て買得るゆゑその価の高きを云はん迚まつ一に高きは富士山なりその次は足高山なり其次は初茄子なりと云しことなり彼土俗は足高山をたかとのみ略語に云ゆゑなるを今にては鷹と訛り其末は三物は目出度ものをよせたるなと心得画にかき掛て翫ふに至るは余りなることなり」</ref>、『[[俚言集覧]]』などの[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]に記載されており<ref name="yamanashi">{{Cite web|和書|title=レファレンス事例集 |url=https://www.lib.pref.yamanashi.jp/cgi-bin/refjirei/refs.cgi?c=common&n=10 |website=www.lib.pref.yamanashi.jp |access-date=2022-12-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=初夢の一富士二鷹三茄子の続きが十まであると聞いた。十番目まであれば知りたい。所蔵する資料から「一富士...|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000218897|website=レファレンス協同データベース|accessdate=2021-03-21|language=ja|last=国立国会図書館}}</ref>、江戸時代初期にはすでにあり{{要出典|date=2021年3月|title=出典を求める理由や求める出典内容}}、それぞれの起源は次のような諸説がある。
* [[徳川氏|徳川家]]縁の地である[[駿河国]]での高いものの順。富士山、[[愛鷹山]]、初物のなすの値段(『[[甲子夜話]]』)
* 富士山、鷹狩り、初物のなすを[[徳川家康]]が好んだことから(『[[徳川家康の影武者説|史疑 徳川家康事績]]』)
* 富士は[[日本一の一覧|日本一]]の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」
* 富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉
* {{要出典範囲|date=2022年3月|富士は[[曾我兄弟の仇討ち]](富士山の裾野)、鷹は[[忠臣蔵]](主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は[[鍵屋の辻の決闘]](伊賀の名産品が茄子)}}とする説もあるらしいが、茄子は伊賀の名産ではない(伊賀牛やメロンについての文献での記載はあるが、茄子の記述は皆無)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaiga.or.jp/?p=85|title=伊賀の農産物|publisher=JA伊賀ふるさと|date=|accessdate=2022-03-08}}</ref>。また、[[源頼朝]]にまで曾我兄弟の刃は向けられており、正月の吉事とするには決してめでたくない。また[[巴|二つ巴]](大石)なら義挙だが、違い鷹(浅野)は[[天皇|天皇陛下]]からの[[勅使]]を私怨で饗応放棄しており不敬で<ref>渡辺昇一『国民の修身』・『平成の修身』より「第三十五(乃木希典)」(2017年)など。</ref>、吉兆の対極にある。
** 元禄赤穂事件に限れば、吉良義央を守って討たれた小林央通の曾孫([[葛飾北斎]])は富士山の[[浮世絵]]で有名<ref>葛飾北斎『富嶽三十六景』(萩美術館所蔵)</ref>。吉良の子孫が治めた置賜では、江戸時代から令和の御代まで鷹の彫刻([[上杉治憲|上杉鷹山]]は「笹野一刀彫」を魔除けとして推奨した。大日本帝国『国定修身教科書』明治三十七年から)が名産品<ref>置賜総合支庁ニュース第25号「酉年を迎え、さらなる飛躍を」 笹野彫協同組合(2005年1月1日)</ref>。吉良町を含む西尾市には西尾市茄子組合があり、西三河[[茄子]]が古くから生産され、毎年茄子品評会が行われている<ref>JA西三河「最盛期を前にナスの目揃え」(2021年4月14日)</ref>。
==== 四以降 ====
四以降については地域・文献などからいくつか存在しており、それについても諸説ある。
; 四[[扇子|扇]](しおうぎ、しせん、よんせん)、五[[タバコ|煙草(多波姑)]](ごたばこ)、六[[座頭]](ろくざとう)
: [[「俚言集覧」]]に記載があり、同内容を挙げた辞典類の多くはこれを出典としている<ref name="yamanashi"/>。一説として、一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭<ref>剃髪した盲目の按摩師</ref>は毛が無く、「毛がない=怪我ない」との連想から家内安全を意味しているというものがある。
; '''四(または五)を「[[葬式|葬式・葬礼]]」としたもの<ref name="yamanashi"/>
* '''四そうろう(葬礼)に五せっちん([[便所|雪隠、便所]])''' / '''四葬式、五雪隠''' / '''四雪隠、五葬式'''
* '''四葬礼、五[[糞]]'''
* '''四に葬式、五に[[火事]]''' / '''四葬式、五火事'''
: [[俗信]]により、[[逆夢]]としたり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A2%E3%81%AF%E9%80%86%E5%A4%A2-652319 夢は逆夢] / [https://kotobank.jp/word/%E9%80%86%E5%A4%A2-509221 逆夢] コトバンク、[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/75108/m0u/%E3%81%95%E3%81%8B%E3%82%86%E3%82%81/ 逆夢] [[goo|goo辞書]]</ref>、予兆としたり、内容によって良悪が違う<ref>[http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/0080331.shtml 年中行事と民間信仰―俗信、民俗知識―] / [http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/2181154.shtml 葬送習俗] [[国際日本文化研究センター]] 怪異・妖怪伝承データベース</ref>など、いくつかの解釈がある。
=== 七以降 ===
七[[丁髷]]、八[[薔薇]]、九[[歌舞伎]]という説があるが<ref name="yamanashi" /><ref>{{Cite web|和書|title=「一富士二鷹三茄子」の初夢が示す未来の日本?|url=http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_297.html|website=on-linetrpgsite.sakura.ne.jp|accessdate=2020-10-03}}</ref>、これは後付けであるという見解が有力である<ref>{{Cite web|和書|title=【一富士だけじゃない】いい初夢をみるおまじない|url=https://rakulife.jp/blog-days-5/|website=PRECIOUS DAYS|date=2019-12-29|accessdate=2020-10-03|language=ja|first=Precious|last=Days}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[夢占い]]
{{正月}}
{{DEFAULTSORT:はつゆめ}}
[[Category:正月]]
[[Category:新春の季語]]
[[Category:縁起物]]
[[Category:夢]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%A4%A2
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18,705 |
ウマ
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ウマ(馬、英: Horse, 学名: Equus caballus)は、哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属に分類される家畜動物。
社会性が強く群れで生活する。古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われた歴史がある。
運搬用(荷役馬)、農耕(農耕馬)、乗用(乗用馬)、軍用(軍用馬・騎馬)、競技用(競技馬・競走馬)などに使われ、乳用、食用にもなる。
学名は、equus も caballus ともにラテン語で「馬」の意。
独立した種ではなく野生種であるノウマ(Equus ferus、野馬)から分かれた亜種Equus ferus caballusとする説もある。
体長は2.4〜3m程度。体重は300〜800kg程度だが、後述の重種のように1トンを超えるものもある。
首と頭が長く、長い四肢をもつ。角はない。各脚とも第3指を残し他の指は退化している。よく発達した蹄(ひづめ)を持ち、硬い土の上を走ることができる。尾と、頭から首の上部にかけての鬣(たてがみ)だけは長いが、全身の毛は短い。
本来寒冷地に生息する動物であるため、比較的寒さに強い反面、基礎体温が37〜38度と高く筋肉量も多いため、高温多湿な気候では熱中症になりやすい。
草食性であり、よく発達した門歯と臼歯で食べ物を噛み切り、擂り潰す。ウマは後腸発酵動物(英語版)であり、反芻動物とは異なり胃は一つしか持たない。しかし大腸のうち盲腸が極めて長く(約1.2 m)、結腸も発達している。これらの消化管において、微生物が繊維質を発酵分解する。胆嚢が無いことも草食に適している。 硬くて甘味の強い食物全般を好むとされている。なお、英語でロバや馬などを鼻先に釣った人参で誘導する様子を carrot and stick と言うように、英語圏や日本等では通俗的には「ウマはニンジンが好物」だと語られるが、国によって「リンゴが好物」や「角砂糖が好物」(トルコ)など、様々に言われている。実際には硬くなくても甘いものを好む個体の例もある。
優れた嗅覚を持つが、毒草や血の匂いなどを嗅ぎ分けることはできない。顔の両側に目が位置するため視野が広く350度ほどあるともされているが、反面、両眼視出来る範囲は狭いため、距離感を掴むことは苦手とするなど、ヒトとはやや異なった視覚認知を持つ。
走る際に背中が彎曲しないため乗用にできるが、鞍や鐙などの馬具無しで乗りこなすには相当の修練が必要となる。
一般に、立ったまま寝ることができることでも知られる(ヒトやサルと違い、膝関節を靭帯で固定できるので膝折れがない)が、本当に安全な場所であればリラックスし横になって休むこともある。
寿命は約25年、稀に40年を超えることもある。繁殖可能な年齢は3-15/18歳。繁殖期は春で、妊娠期間は335日。単子であること(一回の妊娠で宿す子が一頭であること)が多い。
馬の特徴の中でも、一見して最初に目につくのが毛色である。日本馬事協会は、栗毛、栃栗毛、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、芦毛、粕毛、駁毛(ぶちげ)、月毛、河原毛、佐目毛、薄墨毛、白毛の14種を定めている。
家畜馬では、鹿毛、栗毛が特に多い。家畜化以前は薄墨毛が多かったと考えられている。
毛色の他に個体の識別に使われるものとして白斑がある。白斑は主に頭部、脚部などに見られる白い毛のことで、毛色やその他の特徴(旋毛等)と合わせると無数の組み合わせがあり、個体識別に利用することができる。そのため血統登録の際記載が義務づけられている。代表的なものに、頭部では星・曲星・流星・環星・乱星・唇白・白面・鼻白・鼻梁白・作、肢部では白・半白・小白・微白・長白・細長白・長半白等がある。なお、白斑に至らない程度のものを刺毛という。
馬のつむじのことを旋毛(せんもう)という。位置に個体差があることから、白斑と同じく個体識別に利用することが出来る。位置によって「珠目」、「華粧」といった名称がある。白斑・旋毛の詳細については馬のマーキング参照のこと。
冬になるにつれて長い毛に生え変わる。そのままだと、汗をかいた時に乾燥が長くなり、体を冷やし体調を崩す原因となるほか、ブラッシングも大変となる。そのため、馬を管理している飼い主は毛刈り(クリップ)を行う。毛刈りの仕方は作業量と目的により様々な物がある。
たてがみと尻尾以外の全身の毛を刈るフルクリップ(ショークリップ)、泥がかかりやすい足と鞍が乗る背中以外を剃るハンタークリップ、足と汗をかきにくい背中全体を残すブランケットクリップ、日中も外に出す場合は首の後ろも残すチェイサークリップ、外出をよくする馬の場合は首の前側-腹-尻にかけて剃るトレースクリップ、軽作業馬や若い馬の場合は手軽に行え発汗の多い首周辺と腹だけを剃るアイリッシュクリップが行われる。
図に基づき説明する。
図に基づき説明する。
馬歯(英語版)(ばし)は一生を通じて硬い草を食べ続けるため上下に長い形状をしている。考古学においては馬歯は遺跡においても遺存しやすく、馬歯の摩耗具合から個体の年齢を推定する手法も確立している。また、乗用馬に使用する馬具であるハミは奥歯の第二前臼歯と接し続けるために摩耗する。このため野生馬と家畜馬、もしくは乗用馬と駄馬・農耕馬を区別するための指標としても活用されている。
ウマの前肢の構造を見ると、体の外側にあるのは肘から先の前腕のみで、上腕は体の内側にある(躯幹に密着している)。前腕を構成するのは橈骨と尺骨で、主に橈骨によって形成されている(尺骨の下半分は退化しており、橈骨と癒合している)。前腕の先には手根関節(前膝)がある。手根関節は7つの手根骨からなる。手根関節の先には中手骨がある。このうち最大のものが第3中手骨で、第2・第4中手骨は小さく退化している。第1・第5中手骨は退化して消滅している。第3中手骨の一部はその先にある繋骨(基節骨、第1指骨)とともに球節と呼ばれる関節を形成する。球節の後ろ側には種子骨がある。球節の先には指骨がある。指骨は繋骨(基節骨、第1指骨)・冠骨(基節骨、第2指骨)・蹄骨(末節骨、第3指骨)の3つの骨からなる。なお、ウマの指は第3指(ヒトの中指に相当)のみ存在する。つまり、人間に当てはめるとウマは手足の中指の指先だけで歩いているということになる。
後ろ脚の構造を見ると、大腿骨があり、その先に膝関節(ヒトの膝に相当)がある。膝関節の中には膝蓋骨がある。その先にあるのが下腿で、脛骨と腓骨からなるが、腓骨は前脚における尺骨と同様下半分は退化して脛骨に癒合している。その先にあるのが飛節と呼ばれる大きく屈曲した関節で、ヒトの足首に相当する。その先は前脚とまったく同様の構造をしており、第3中足骨が大きく発達した中足骨、球節、指骨(趾骨)と続く。
ウマ類は化石資料が豊富であり、進化の過程を鮮明に残している。その理由として環境の順応能力が高かったことや、草原で群体を成していたことが挙げられている。
ウマ類の最古とされる化石は、6,500万年前(始新世)の地層から発見されたヒラコテリウムである。ヒラコテリウムは北アメリカ大陸やヨーロッパの森林に生息し、若芽や草の実など柔らかい植物を摂取していたとされる。ヒラコテリウムはキツネほどの大きさで、前肢は第1指がなく、後肢は第1と第5指が退化している。
その後、始新世のオロヒップス、エピヒップス、漸新世のメソヒップス、ミオヒップス、中新世のパラヒップス、メリキップスという系統進化が明らかになっている。約1,000万年前(中新世前-中期)のメリキップスは、真の草食性を示す高冠歯を獲得したことと、より高速での走行を可能にした下肢骨(尺骨と橈骨、脛骨と腓骨)の癒合の2点で画期的であった。当時は乾燥気候が広がるとともに大草原が拡大しつつあり、メリキップスの出現は、草原への進出の結果だった。
約400万年前(中新世中〜後期)のプリオヒップスは、第2・第4指を完全に消失させることで指が1本になり、現在のウマに近い形態をしていた。ウマの仲間は、更新世の氷期にベーリング海を渡り、ユーラシア大陸やアフリカ大陸に到達し、現在のウマであるエクウス(ウマ属)に分化する。
南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷期に絶滅した。ミオヒップスやメリキップスからも多様な種分化が起こり、ウマ類は一時、大きな発展を示したが、系統の大半は既に絶滅し、現存する子孫が、ウマ、シマウマ、ロバの仲間のみとなっている現状は、反芻類の繁栄と対照的である。
ウマ類は反芻類に比べ、植物を消化してタンパク質に再構成する能力が劣っているため、反芻類に駆逐されたものと考えられているが、ウマは高い運動能力を獲得することで生き残った。野生のウマはほとんど絶滅に近いが、内燃機関が発明されるまでの長い間、人類にとって最も一般的な陸上の移動・運搬手段となることで、家畜動物として繁栄した。
馬は31対の常染色体と、XYの性染色体、計32対64本の染色体を持つ。この他に細胞小器官ミトコンドリアに小さな環状(約1万7千塩基対)のデオキシリボ核酸を持っている。馬ゲノムプロジェクトは、犬や牛など他の主要な家畜に比べれば若干遅れたが、2006年に開始された。このプロジェクトでは、日本の競走馬総合研究所も参加している。
約18億円の巨費を賭けたこのプロジェクトでは、2007年2月にまず雌のサラブレッドについて全塩基配列の解読を完了した。総配列は約27億塩基対、遺伝子の総数は約21000個と考えられている。現在読まれているゲノムは全て雌のものであり、Y染色体の配列は決定されていない。
2009年、同定された遺伝子は2万322個であることが発表され、このうち約4分の3に当たる1万5027個についてヒトの遺伝子と一致することが判明した。
馬は駆けたり、ジャンプすることが得意である。訓練次第ではさまざまな歩法で歩いたり駆けたり、ジャンプすることができる。また、群れで生活する動物であることから、複数の馬が同じ方向へ一団となって駆けるのが、乗馬等で指示しない場合は、通常である。
「後脚立ち」すること、つまり後ろ脚だけを地につけて前脚を宙に向かって上げることを英語では「rearing リアリング」と言う。ウマはさまざまな時にこのリアリングを行うが、たとえば驚いた時、興奮した時、攻撃的になっている時、人間に従いたくない時、背中に乗っている人間を振り落としたい時などに行う。野生のウマ(家畜でないウマ)で、自由に行動しているウマもこれをすることがある。飼われている馬では、訓練次第でこれを意図的にさせることができる。だが乗り手が望まないのに乗馬中に突然この動作をされると、落馬や大怪我などの結果になりがちである。
ウマが攻撃しようとする時にとりうる行動のひとつが「うしろげり」を食らわせることである。まず後脚で地面を蹴り尻を上げ気味の姿勢になると同時に後脚をやや引き付け、足先を鋭く後方に突き出す。ウマの目は頭部の側面についていて、単眼視野は350度ほどある、と言われており後方もほぼ視野に入っており、後方にいる対象がほぼ見えた状態で狙いをつけてかなり正確に蹴りを繰り出す。ウマどうしの喧嘩でも、しばしば互いに後ろ蹴りを食らわせる。人間が不用意にウマの後方から近づくと(ウマの機嫌が悪い時などは特に)ウマは突然後ろ蹴りをすることがあり、これを食らうとしばしば死亡事故に至る。そもそも馬の脚力は猛烈で、動作も素早くて避け難い上に、馬の足裏には金属性の硬い蹄鉄がつけられているので、人が頭部に食らえばしばしば頭蓋骨骨折の即死という結果となりがちなのである。胸部・肩・鎖骨などに受けても骨折するほどの大怪我となりがちである。馬の調教本の多くでも「ウマの後方に立たないように」との注意がなされており、「ウマの後ろ(尻側)に立たないこと」は乗馬クラブなどでも乗馬初心者に対してまず最初に指導されることのひとつである。
ウマどうしが喧嘩する時にとるもうひとつ行動が「かみつく」ことである。
牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「フレーメン」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にあるヤコプソン器官(鋤鼻器)と呼ばれるフェロモンを感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。発情した牝馬の生殖器の臭いをかがせるとこの現象を容易に起こせるため、ウマのフレーメンに関する歴史的エピソードがいくつかある。また、ウマはレモンなどのきつい匂いをかいだり、初めて嗅いだにおいのときにもフレーメンをし、牝馬もフレーメンをすることがある。
駆ける速度については、平均60 km/h、ともされ、最高速度は87 km/hともされる。競走用のサラブレッドならば最高87 km/hを出すことができる。また、競走用クォーターホースは、比較的容易に90 km/hを達成する。2005年のアメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず302 mのレースのラスト101 mの平均速度が92.6 km/hに達していた。(ただし、馬は速くはあるが、瞬間最高速度ではしばしば「地上最速」(駆ける速度が最速)と形容されるチーターには、さすがにかなわない。チーターのほうは(数秒程度の間は)100 km/h - 110 km/hほどで走ることができる、と言われている。)
速力に優れ、ヒトを乗せてかなり速い速度で走ることができる。実際のレースでの記録としては、クォーターホースの世界レコードで440ヤード(402 m)を20.274秒というものがあり、これは時速に換算すると71.4 km/hとなる。
もう少し長い距離ではサラブレッドが有利となり、1000 mの世界レコードが53.07秒(時速68 km)を記録している。3200 mでも世界レコードは3分12秒5(時速60 km)となっていて、なお速度を維持している。
馬は加速に時間がかかるため、特に短距離戦ではレース中の大部分を上記の速度よりも遥かに速い速度で走っている。2005年のアメリカでの調査では、330ヤード(302 m)のレースのラスト101 mの平均速度が92.6 km/h、440ヤード(402 m)のレースでも、レース中間で時速92.4 kmに達していた。402 mではサラブレッドもレース終盤で時速83.9 kmを記録している。ただし、この2005年の調査は何れも下級戦である。同じ調査で、1006 mのレースでのサラブレッドの速度は、レース中盤でも時速59.6 kmに過ぎなかった。これは、2002年に日本でほぼ同じ距離(1000 m)で記録されたレース中間の200 m区間平均時速75.0 km(9.6秒)よりかなり遅い。
馬術競技のカテゴリーに入るエンデュランス馬術競技は、ヒトにおけるウルトラマラソンに相当する競技であり、30 - 50キロメートルごとに馬体検査(心拍数が規定値を超えると失権)と休憩を挟みつつ最大160キロメートルを走破する。走路は整地されているとは限らず、山や川があったりする。平均速度はこの距離でも時速28 km近くに達することがある。使用するのは中間種でもサラブレッドでも何でもよいが、アラブ種が良く使われる。
競歩に相当する繋駕速歩競走では、Always B Mikiというスタンダードブレッドが、二輪馬車をけん引して側対歩で1マイル(約1609 m)を1分46秒(時速55 km)で完歩した。
ウマは(イヌ同様に)人の感情を読み取ってそれに敏感に反応しているということはウマに関係する人々の間ではかなり古くから言われていたものの、それについての科学的な研究はほぼ無かったが、2018年にようやく発表された。
2018年6月、北海道大学は、馬は人の表情と声を関連付けて、人の感情を読み取るという研究成果を発表した。
さまざまな分類法がある。たとえば解剖学的分類、用途による分類、運動性能による分類、体高と体長の比率による分類 等々がある。どの分類方法も曖昧さを孕んでいる。
動物分類学的にはこれらすべてがウマ(正確にはイエウマ)という単一の種である。
競走馬については現在は主に登録された血統に基づいて分類を行うのが主流である。たとえば、サラブレッドとして然るべき団体から登録を受けたウマがサラブレッドであり、サラブレッドであれば軽種である。仮にこれとまったく同一の遺伝子を備えていたとしても登録がなければサラブレッドとは認められない。
各地にそれぞれ在来種と呼ばれる固有の特徴をもった品種が少数存在する。在来種は古来のウマの特徴を比較的よく残しているが、それらも多かれ少なかれ人間の手によって改良されている。細かくみると約250種類以上確認される。混血も多い。それに対して、改良種は、スピードや耐久力、パワーなどを高めるような品種改良がなされており、ひきかえに不定期の給餌に耐える体質や危険から身を守る本能の一部を失っている。サラブレッドやポニーなど、現代人が乗馬クラブや競馬場で頻繁に目にする馬の多くは後者の「改良種」のほうである。
現在日本では、ウマを軽種とそれ以外に分類している。このうち軽種については、財団法人日本軽種馬登録協会が登録規定を行っている。軽種以外は社団法人日本馬事協会が登録を行っており、登録規定で乗系、輓系(ばんけい)、小格に分類している。ただし日常的には重種、中間種などの表現が用いられることもある。
現在では、 ノウマ(Equus ferus)の野生種(ターパンなど)は全て絶滅したとされる。
アメリカのムスタングやイタリアのジャーラ馬(英語版)、宮崎県都井岬の御崎馬などは、半野生状態で生息しているが、いずれも家畜として飼育されていたものが逃げ出し、繁殖したものである。かつては北海道では野生化した馬を狩猟・捕獲し、ばん馬として荷物や馬ソリの牽引をさせることもあった。
モンゴルに生息する「モウコノウマ」は、従来、世界で唯一とされる真の現生の野生ウマとされていたが、最近の研究で人間によって家畜化された馬の子孫であるという説が唱えられている。1968年以降、生息が確認されなくなり、本国では一度絶滅したとされる。その後、海外の動物園で飼育されていたものを里帰りさせ、自然保護区のホスタイ国立公園内で繁殖を重ね、200頭を超えるまでになっている。
主に乗用や、乗用の馬車を牽くために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。
軽種と重種の中間的な性質を持ち、軽快さと比較的温厚な性質を持つ。
主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。
北海道特有の競馬競走の一種、ばんえい競馬で用いられているのは、この重種でもペルシュロンやベルジャンの混血馬や、これらと北海道和種などの在来種の混血(重半血)が多い。軽種馬以外の登録を管轄する日本馬事協会では、平成15年度以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については、純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。
ポニーは、鬐甲(きこう)までの高さが147 cm以下の馬の総称である。かつては、14ハンド2インチ(14.2ハンドと表記する)=約147センチ(1ハンドは4インチ=10.16センチメートル)に満たないウマをポニーと称し、それ以上のものを馬として機械的に分類していた。近現代になって血統登録による品種の分類が確立するまでは、例えば下に示すシェトランドポニーでも大柄であれば「馬」と考えられていた。今でも日常的には、品種に関わらず小柄な馬をポニーと称することが多い。
現存する日本在来種は以下の8種。北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。在来馬はファラベラのような小型ポニーや、シェトランドポニーのような中型ポニーではなく、蒙古馬系に属する比較的大型のポニーに含まれる。また、大型在来馬である南部馬等は近代化による西洋種との交雑により多数の大型在来馬は絶滅した。
現存する小型在来馬は西洋種との交雑に用いられたものは少なく、当時の使役馬・駄馬の範疇に含まれるものが多く遺る。
Equus(エクウス、ウマ属)の名で呼ばれるウマやロバの直接の先祖は、200万年前から100万年前にあらわれたと考えられている。ウマは北米大陸で進化しノウマとなり、ユーラシア大陸へも広がった。
ヒトは古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にウマの姿がみられる。原種ウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。
紀元前4000年から3000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていたヒツジ、ヤギ、ウシに続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた。
これは、ウマを人間が御すために使う手綱をウマの口でとめ、ウマに手綱を引く人間の意志を伝えるための馬具であるはみ(銜)がこの時代の遺物として発見されており、ハミは馬の下顎骨の第二前臼歯と接し摩耗痕を残すことが観察されるため、馬の家畜化を判断する指標として活用されている。同じく紀元前3500年ごろ、メソポタミアで車輪が発明されたが、馬車が広く使われるようになるのは紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることが出来るようになってからである。
馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、チャリオット(戦車)として軍隊の主力となった。また、ウマの普及は、ウマを利用して耕作を行う馬耕という農法を生んだ。 ウマは反芻動物ではない上にウシやヒツジなどに比べて代謝が高く、それらと比較すると体重に対して約30パーセント以上多くの牧草を必要としたため、中東の古代国家ではウシやヒツジと同時に大量のウマを飼うことは困難だった。ウマはその貴重さから食用として発達することはなく、この地域から馬肉に関する食のタブーが生まれたと考えられている。
一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗る技術を発明することによって高度な移動・機動の能力を獲得し、ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための鐙(あぶみ)や鞍(くら)が発明され、蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、西ヨーロッパの騎士や日本の武士のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。
15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は軍馬に適したウマを育成するために競馬を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。
やがて大航海時代に入り、白色人種はアメリカ大陸に到達した。彼らが手にする鉄器や火薬の威力、乗りこなす馬の機動力や威圧感、そして彼らが持ち込んだ天然痘などの伝染病はそれらを知りえなかったアメリカ先住民を恐怖に陥れ、白人による中米や南米の民族の征服は短期間で完了。結局、インカ帝国やアステカ帝国など、独自の文明をもって栄えていた社会はほぼ壊滅させられる。しかしスー族など北米のインディアンの中には、馬の機動性をいち早く取り入れ、生活様式を向上させるものもあった。
20世紀に至り、内燃機関による自動車・戦車の実用化、また機関銃などを使った弾幕戦法の普及など、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを盲導犬のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。その他、乗馬を通じ心を癒すホースセラピーも注目を浴びている。
氷河期には日本列島はユーラシア大陸と地続きで、馬が存在していた。しかし氷河期が終わると日本列島は草原が減少し森林化が進み馬の生存に適さなくなり馬は絶滅した。
古墳時代になると、朝鮮半島南部から軍事的な要請から馬の輸入が開始された。284年(応神15年)には百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられた。「当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を生駒山と号した」などの記録がある。
4世紀末の北部九州への輸入を皮切りに、5世紀後半には日本列島各地の遺跡から出土した馬具などによって馬の存在が確認されている。 日本での大規模な馬匹生産は、5世紀前半から中頃にかけて河内湖周辺で朝鮮半島からの渡来人によって行われたのが最初で、5世紀後半には渡来人の移配とともに飼育好適地が多い東日本地域へ馬匹生産の移管が実施された。この馬匹生産の移管は雄略朝期・大和政権の東日本への支配の強化を示すものであった。486年(顕宗2年)には「天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」(天下は泰平で...馬は野を被うほどだった)。
5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。群馬県の白井北中道遺跡からは馬の足跡が4万個以上パックされた土層が確認されている。これは榛名山の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。
その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。
東北日本の蝦夷へは、馬の飼育が伝わり、騎射による優れた狩猟技術が発達した。また飼育した馬をヤマト王権側に売っていた。また帰服し俘囚となった蝦夷からは飼育法の他、乗馬や騎射などの戦闘技術がもたらされた。
646年の大化の改新による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では置始兎が率いて急行した千余騎や、勇士来目らの騎馬突撃など、騎馬隊の活躍が目立った。
7世紀に造られた藤原宮跡では、酷使により関節部の癒合・肥大化をきたした馬の骨が見つかった。宮の造営には多数の馬が用いられたようである。藤原宮跡の骨の中には、肉を取るための削り痕が残っているものと、そうした痕跡がないものがあり、部分的に食用にされたと考えられる。天武天皇4年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令以後、食用を禁止する命令がたびたび下されたが、いずれも一時的な禁令で、あまり行き渡らなかったようである。
668年(天智7年)には、「干時近江国講武 又多置牧 而放馬」(近江国は武力を整え、牧人を多く置き、馬を放牧した)とある。
平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事ごと、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、応仁の乱による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化ではもっとも歴史のある行事とされる。また藤原道長は馬を好み度々天皇の行幸を仰いでまで馬比をおこなっている。また、平安時代の大乱天慶の乱の平将門は騎馬に巧みで、関東平野を中心に騎馬による機動的な戦闘を行ったとされ、その後の源平合戦でも関東地方の武者達が騎馬に巧みであったことが平家物語などに記述されている。馬は金と並んで東国の産物とされ、「後撰和歌集」には尾駮(おぶち)の牧が歌われ、藤原秀衡が源義仲(木曾義仲)に軍馬を贈る等、軍事物資としても貴重な存在であった。
10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、「競馬」はやがて鎌倉競馬として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見ることが出来る。
『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。
武士は敵に噛みついたり蹴り飛ばすなど気性の荒い馬を好み、このような馬を乗りこなす者を豪勇としてもてはやしたことから、去勢しないまま飼育していた。
これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。
8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200 - 300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000 - 3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。
古い文書の記述では平将門の愛馬「求黒」が160 cmの大型馬で人を踏み殺したケースを含め、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高145cm以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150 cmで高幹とされた。
徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「体が大きく、おとなしい」と記録している。下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬16頭が贈呈された。。明治に入ると、外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。
江戸=====近代===== 明治に入り、明治4年6月5日(1871年7月22日)に平民の乗馬が許可され、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。日清戦争・日露戦争以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最も一般的な実用家畜であり、最大時国内で農用馬だけで250万頭が飼育されていた。
1945年、連合国軍最高司令官総司令部指令により国による馬の施策、研究、団体の解散と再編が実施された。
太平洋戦争直後の1950年に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、1960年代中頃には30万頭に、1975年には僅か42,000頭まで減った。2001年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18,000頭にすぎない。※食肉用に肥育されるウマ(肥育馬)は、農用馬に分類されている。
2005年現在では日本在来馬は8種、約2,000頭のみとなった。なお、道路交通法上、馬が引く車および人の騎乗した馬は軽車両に分類される。
昔から馬を大切にしていた地方では現代でも、馬は「蹴飛ばす」=「厄を蹴飛ばす縁起物」などと重宝しているところもある。
モンゴル高原の遊牧民の間では、現在でもウマは重要な乳用家畜の一つであり、発酵乳食品(馬乳酒:アイラグおよびヨーグルト:タラグ)の重要な原料となる。
馬肉は馬を使う民族でも食べない地域がある。
日本でも地域によって異なる。
荷物を背負わせたり、荷車、橇、運河の船などを引かせるために用いる。
馬車を引かせるためにも使う。ただし古代にチャリオットを引いていた場合は「軍用馬」(後述)と分類するほうが適切であろう。
主に畑などを耕す時にプラウや馬鍬をひかせるために用いる。他にも動力源としても。たとえばプレス(圧搾機)の動力源としても用いた。
馬の背に乗る、つまり乗馬に使うということは、おそらく紀元前4000年ころか紀元前4500年ころに始まったのだろうと推察されている。さらに近代以降は馬術と言う競技スポーツが派生している。
家畜を率いて移動するのは、一応は 徒歩(と牧羊犬、牧畜犬などと)でもできるが、馬に乗ると移動が楽であり、馬は大きく家畜を威圧できるので(牧畜犬同様に)家畜類の移動方向をコントロールしやすい。カウボーイは牛の群れなどを、馬に乗って誘導する。
軍事に使用される馬。軍馬。歴史的には、当初は荷物運びに使われ、やがてチャリオット(戦闘馬車)をひくためなどに使用され、すなわち当初は人(戦士と御者)が車の上に立ち、のちに馬の背に直接乗って戦うようになったと考えられている。戦時に人が馬の背に乗ることが広まったのは紀元前8世紀以降だと、指摘されるようになっている。スキタイは騎馬兵を用いて中央アジアから現在のロシア南部や現在のウクライナあたりで帝国を築いていった、と考えられている。騎乗したまま戦う騎兵も登場した。ヨーロッパでは長い槍(ランス)を扱う槍騎兵が活躍した。一方で騎乗しながら弓を使う弓騎兵は高度な技術(騎射)が必要なことから、モンゴルや日本など一部にとどまった。モンゴル人は騎馬弓兵で各地の軍を圧倒しヨーロッパにまで及ぶ巨大なモンゴル帝国を築いた。日本の武士は「弓馬の道」として重視した。
中世ヨーロッパの貴族には騎士という階級も生まれた。イギリスやフランスなどの騎士は長いランスをたずさえて、馬で駆けつつ突き倒すという攻撃で歩兵を圧倒した。当然騎士どうしの闘いも起き、敵騎士の攻撃から身を守ろうとプレートアーマーが重装備化し、防具の重さだけで20 kgから35 kgほどに達した。ここに武器のみならず、馬を護るための鎧(バーディング)も加わるので、こうした総重量に耐えるように、中世の騎士用の運搬能力とスタミナを有しながら、それなりの速度も出せる大型の馬(デストリア)が選ばれるようになった。火器が発達して弾丸の貫通力が増した17世紀頃からは、プレートアーマーを強化しようにも人馬が耐えられる重量には限界があり、銃弾の威力に対抗できなくなった。その結果、全身の完全防護をあきらめ、胸・腹あたりだけを分厚く護る胸甲が主流になり、軍馬が担う負担はやや軽減された。鉄砲・大砲になどの火器が普及してその性能が上がり、威力や有効射程が増大するにつれて、移動速度の大きさも優位のひとつであった騎兵の重要度は下がったが、それでも馬の突進力を生かした突撃は、時に勝敗を分ける事もあるほど強力な物であった。凛々しい軍服に身を包み戦場を颯爽と駆け抜ける姿は依然憧れの的であり、たとえばヨーロッパ大陸(旧大陸)を見ると、ナポレオン軍(1805-1815)でも騎兵は重要な存在であった。19世紀前半まで騎兵は軍隊の「花形」であり続けた。また大砲を牽引しながら取り扱う砲兵を乗せることで迅速な展開を可能とする騎馬砲兵も登場した。
新大陸に目を向けるとアメリカ独立戦争(1775-1783)の時でも軍用馬は重要な役割を果たし、南北戦争(1861-1865)でもなお軍馬は活躍できた。日露戦争(1904-1905)でも「世界最強」と称されたコサックの騎兵隊の大軍と日本の騎兵隊(秋山支隊)が激突し、その結果が同戦争の大局にも影響を与えたが、純粋な騎馬隊どうしの戦いと言うより、日本側の騎馬隊はその弱点を補うための歩兵・工兵との混成部隊となっていた。騎兵が消える大きな要因となったのは機関銃の普及であり、騎兵は機関銃の格好の的にされてしまうようになり、活躍の場が失われていった。とは言え自動車化・機械化の黎明期にあって、軍馬はなお敵後方への奇襲や輸送・偵察・伝令・警備といった任務を担い、第二次世界大戦(1939-1945)までは世界各国に存在し続けた。
なお実戦で最後に本格的な騎馬襲撃が実施されたのは、1945年に行われた老河口作戦での騎兵第4旅団の戦闘である、とも言われている。同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った。
広義の軍用である「兵器製造過程」での運搬として、零式艦上戦闘機の運搬に、北海道の馬(重種)が名古屋近郊の工場に移送されて使われたことが、吉村昭の『零式艦上戦闘機』(1978年、新潮文庫)に詳しく書かれている。当時の最新技術の成果である飛行機の生産と実用化が、名古屋の三菱重工業大江工場から各務原飛行場までの約50キロもの道のりの運搬に、当初は牛、のち生産終了まで馬に全面的に頼っていたことに吉村は強い衝撃を受け、執筆動機となったと本人が述べている。
現代の軍隊では基本的に、戦力としては用いられておらず、儀仗隊として活動している。一部の軍では「軽装甲で迅速に展開・撤収が可能な部隊」という騎兵の役割を担う部隊に「騎兵」という名称を残している。イギリス軍では1793年創立の王立騎馬砲兵が榴弾砲を扱う部隊として存続している。山岳部隊を保有している国では、峻嶮な地形での物資輸送をウマやロバで行っている事例がある。
民間療法として、馬肉・馬脂には解熱効果があるとされ、捻挫などの患部に湿布として使用される(民間薬)。馬肉パックと称して美肌効果を期待する向きもある。また馬脂(馬油は商品名)は皮膚への塗布用のものが販売されている。人間に最も近い自然の油であるため、大火傷、日焼け、虫刺され、霜焼け、しみ、皺、白髪等に効果があると言われる。
ビクトリア朝時代から、ヘビ毒抗毒素などにウマが使われている。ウマは人間への感染症リスクが牛などより少なく、毒蛇への耐性もあり、血も大量に得られることから選ばれていたが、より血清病などのリスクが低いヒツジや人間の臓器を再現したオルガノイドを使用する方向に移行しつつある。
馬革はホースハイドといい牛革(成牛革)よりも滑らかである。ホースハイドは革製品の裏革などに用いられる。また、ベンズ部をタンニンで染色加工したものはコードバンと呼ばれる最高級品で緻密で強靭な構造を持つ。コードバンはバッグ、紳士靴、財布、ランドセルなどに用いられる。
太く長いので、ヴァイオリンや胡弓、ヴィオール、二胡など擦弦楽器の弓毛に用いられる。またモンゴルの馬頭琴など、騎馬民族の擦絃楽器では弓毛に加え、弦も本来馬尾毛である。この他、織物に使用することがある。
警察が市内パトロールのために使用した。現在でも一部の国の衛視が使っているが、日本では主に明治時代から昭和初期までであり、それ以降は警察車両に取って代わられたため殆ど無用となってしまった。
警視庁(東京府・東京都の警察)では伝統を重んじる姿勢から、第三方面交通機動隊の中に騎馬隊を維持しており、平成19年6月現在16頭の警察馬を徴用している。また、京都府警でも「平安遷都1200年」を記念して1994年2月10日に京都府警平安騎馬隊が創設されている。しかし、活躍の場はいずれも交通安全パレードの時の市中警戒に使用される程度である。
騎馬警官が市街地の警備や交通整理を担う場合もある。自動車と比べ環境を劣悪化させる排気ガスや騒音を出さないクリーンな乗り物であるが、乗馬者にとっての環境が未整備ということもあり、大々的には行われていない。海外では、ニューヨークやロンドンなどの大都市で使用されている。これは騎乗することにより遠くまで見渡すことが出来、威圧感もあることと、もともと街中に乗馬のための設備がそろっていることによる。
カナダの国家警察は自動車が発明される前に創立し、馬で移動・巡回をしていたため、王立カナダ騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police)を称している。
仏教における菩薩の一尊として、馬頭観音がある。
日本では馬の守護仏としての信仰があり、馬の供養として祀られている。
日本では江戸時代後期から近代にかけて養蚕が盛んに行われ、養蚕に関係する民俗も成立した。養蚕には動物に関わる民俗があり、猫と馬に関するものが知られる。猫は養蚕が害獣であるネズミを捕食することからネズミ避けとして珍重されているが、馬と養蚕の関係は昔話の『馬娘婚姻譚』に由来する。
『馬娘婚姻譚』は人間と異者が結婚する異類婚姻譚の一種で、馬と娘との悲話が語られる。これは東北地方から九州まで日本各地に分布し、特に東北地方ではおしら様信仰と結びついてる。
日本語で馬の鳴くのを特に「嘶く」(動詞)ということがあり、古くは「嘶ゆ」(下二段動詞)といった。特定の家畜や動物の鳴き声に、特定の動詞をあてるのは、ニワトリの「ときを告げる」とこの馬の「嘶く」程度にしか例がなく、日本社会において他の動物、家畜にもまして古くから深いつながりを持っていたことが推論される。
中国の百家姓のひとつに「馬」(マー)がある。陸上競技の「馬軍団」(馬家軍)も、軍閥の馬家軍も馬姓の人の率いた集団である。 日本にも、「馬場」(ばば)、「白馬」(はくば)など、馬が付く姓がある。
日本各地に馬の字を含む地名が数多く存在する。
あん馬、跳馬、跳び箱などは、乗馬の訓練用の「馬に見立てた台」がスポーツ(競技・用具)に転じたものである。
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"text": "ウマ(馬、英: Horse, 学名: Equus caballus)は、哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属に分類される家畜動物。",
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"text": "社会性が強く群れで生活する。古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われた歴史がある。",
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"text": "運搬用(荷役馬)、農耕(農耕馬)、乗用(乗用馬)、軍用(軍用馬・騎馬)、競技用(競技馬・競走馬)などに使われ、乳用、食用にもなる。",
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"text": "学名は、equus も caballus ともにラテン語で「馬」の意。",
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"text": "独立した種ではなく野生種であるノウマ(Equus ferus、野馬)から分かれた亜種Equus ferus caballusとする説もある。",
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"text": "体長は2.4〜3m程度。体重は300〜800kg程度だが、後述の重種のように1トンを超えるものもある。",
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"text": "首と頭が長く、長い四肢をもつ。角はない。各脚とも第3指を残し他の指は退化している。よく発達した蹄(ひづめ)を持ち、硬い土の上を走ることができる。尾と、頭から首の上部にかけての鬣(たてがみ)だけは長いが、全身の毛は短い。",
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"text": "本来寒冷地に生息する動物であるため、比較的寒さに強い反面、基礎体温が37〜38度と高く筋肉量も多いため、高温多湿な気候では熱中症になりやすい。",
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"text": "草食性であり、よく発達した門歯と臼歯で食べ物を噛み切り、擂り潰す。ウマは後腸発酵動物(英語版)であり、反芻動物とは異なり胃は一つしか持たない。しかし大腸のうち盲腸が極めて長く(約1.2 m)、結腸も発達している。これらの消化管において、微生物が繊維質を発酵分解する。胆嚢が無いことも草食に適している。 硬くて甘味の強い食物全般を好むとされている。なお、英語でロバや馬などを鼻先に釣った人参で誘導する様子を carrot and stick と言うように、英語圏や日本等では通俗的には「ウマはニンジンが好物」だと語られるが、国によって「リンゴが好物」や「角砂糖が好物」(トルコ)など、様々に言われている。実際には硬くなくても甘いものを好む個体の例もある。",
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"text": "優れた嗅覚を持つが、毒草や血の匂いなどを嗅ぎ分けることはできない。顔の両側に目が位置するため視野が広く350度ほどあるともされているが、反面、両眼視出来る範囲は狭いため、距離感を掴むことは苦手とするなど、ヒトとはやや異なった視覚認知を持つ。",
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"text": "走る際に背中が彎曲しないため乗用にできるが、鞍や鐙などの馬具無しで乗りこなすには相当の修練が必要となる。",
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"text": "一般に、立ったまま寝ることができることでも知られる(ヒトやサルと違い、膝関節を靭帯で固定できるので膝折れがない)が、本当に安全な場所であればリラックスし横になって休むこともある。",
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"text": "寿命は約25年、稀に40年を超えることもある。繁殖可能な年齢は3-15/18歳。繁殖期は春で、妊娠期間は335日。単子であること(一回の妊娠で宿す子が一頭であること)が多い。",
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"text": "馬の特徴の中でも、一見して最初に目につくのが毛色である。日本馬事協会は、栗毛、栃栗毛、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、芦毛、粕毛、駁毛(ぶちげ)、月毛、河原毛、佐目毛、薄墨毛、白毛の14種を定めている。",
"title": "生物学的特徴"
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"text": "家畜馬では、鹿毛、栗毛が特に多い。家畜化以前は薄墨毛が多かったと考えられている。",
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"text": "毛色の他に個体の識別に使われるものとして白斑がある。白斑は主に頭部、脚部などに見られる白い毛のことで、毛色やその他の特徴(旋毛等)と合わせると無数の組み合わせがあり、個体識別に利用することができる。そのため血統登録の際記載が義務づけられている。代表的なものに、頭部では星・曲星・流星・環星・乱星・唇白・白面・鼻白・鼻梁白・作、肢部では白・半白・小白・微白・長白・細長白・長半白等がある。なお、白斑に至らない程度のものを刺毛という。",
"title": "生物学的特徴"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "馬のつむじのことを旋毛(せんもう)という。位置に個体差があることから、白斑と同じく個体識別に利用することが出来る。位置によって「珠目」、「華粧」といった名称がある。白斑・旋毛の詳細については馬のマーキング参照のこと。",
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"paragraph_id": 17,
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"text": "冬になるにつれて長い毛に生え変わる。そのままだと、汗をかいた時に乾燥が長くなり、体を冷やし体調を崩す原因となるほか、ブラッシングも大変となる。そのため、馬を管理している飼い主は毛刈り(クリップ)を行う。毛刈りの仕方は作業量と目的により様々な物がある。",
"title": "生物学的特徴"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "たてがみと尻尾以外の全身の毛を刈るフルクリップ(ショークリップ)、泥がかかりやすい足と鞍が乗る背中以外を剃るハンタークリップ、足と汗をかきにくい背中全体を残すブランケットクリップ、日中も外に出す場合は首の後ろも残すチェイサークリップ、外出をよくする馬の場合は首の前側-腹-尻にかけて剃るトレースクリップ、軽作業馬や若い馬の場合は手軽に行え発汗の多い首周辺と腹だけを剃るアイリッシュクリップが行われる。",
"title": "生物学的特徴"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "図に基づき説明する。",
"title": "生物学的特徴"
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"text": "図に基づき説明する。",
"title": "生物学的特徴"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "馬歯(英語版)(ばし)は一生を通じて硬い草を食べ続けるため上下に長い形状をしている。考古学においては馬歯は遺跡においても遺存しやすく、馬歯の摩耗具合から個体の年齢を推定する手法も確立している。また、乗用馬に使用する馬具であるハミは奥歯の第二前臼歯と接し続けるために摩耗する。このため野生馬と家畜馬、もしくは乗用馬と駄馬・農耕馬を区別するための指標としても活用されている。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ウマの前肢の構造を見ると、体の外側にあるのは肘から先の前腕のみで、上腕は体の内側にある(躯幹に密着している)。前腕を構成するのは橈骨と尺骨で、主に橈骨によって形成されている(尺骨の下半分は退化しており、橈骨と癒合している)。前腕の先には手根関節(前膝)がある。手根関節は7つの手根骨からなる。手根関節の先には中手骨がある。このうち最大のものが第3中手骨で、第2・第4中手骨は小さく退化している。第1・第5中手骨は退化して消滅している。第3中手骨の一部はその先にある繋骨(基節骨、第1指骨)とともに球節と呼ばれる関節を形成する。球節の後ろ側には種子骨がある。球節の先には指骨がある。指骨は繋骨(基節骨、第1指骨)・冠骨(基節骨、第2指骨)・蹄骨(末節骨、第3指骨)の3つの骨からなる。なお、ウマの指は第3指(ヒトの中指に相当)のみ存在する。つまり、人間に当てはめるとウマは手足の中指の指先だけで歩いているということになる。",
"title": "生物学的特徴"
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"text": "後ろ脚の構造を見ると、大腿骨があり、その先に膝関節(ヒトの膝に相当)がある。膝関節の中には膝蓋骨がある。その先にあるのが下腿で、脛骨と腓骨からなるが、腓骨は前脚における尺骨と同様下半分は退化して脛骨に癒合している。その先にあるのが飛節と呼ばれる大きく屈曲した関節で、ヒトの足首に相当する。その先は前脚とまったく同様の構造をしており、第3中足骨が大きく発達した中足骨、球節、指骨(趾骨)と続く。",
"title": "生物学的特徴"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "ウマ類は化石資料が豊富であり、進化の過程を鮮明に残している。その理由として環境の順応能力が高かったことや、草原で群体を成していたことが挙げられている。",
"title": "生物学的特徴"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ウマ類の最古とされる化石は、6,500万年前(始新世)の地層から発見されたヒラコテリウムである。ヒラコテリウムは北アメリカ大陸やヨーロッパの森林に生息し、若芽や草の実など柔らかい植物を摂取していたとされる。ヒラコテリウムはキツネほどの大きさで、前肢は第1指がなく、後肢は第1と第5指が退化している。",
"title": "生物学的特徴"
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{
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"text": "その後、始新世のオロヒップス、エピヒップス、漸新世のメソヒップス、ミオヒップス、中新世のパラヒップス、メリキップスという系統進化が明らかになっている。約1,000万年前(中新世前-中期)のメリキップスは、真の草食性を示す高冠歯を獲得したことと、より高速での走行を可能にした下肢骨(尺骨と橈骨、脛骨と腓骨)の癒合の2点で画期的であった。当時は乾燥気候が広がるとともに大草原が拡大しつつあり、メリキップスの出現は、草原への進出の結果だった。",
"title": "生物学的特徴"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "約400万年前(中新世中〜後期)のプリオヒップスは、第2・第4指を完全に消失させることで指が1本になり、現在のウマに近い形態をしていた。ウマの仲間は、更新世の氷期にベーリング海を渡り、ユーラシア大陸やアフリカ大陸に到達し、現在のウマであるエクウス(ウマ属)に分化する。",
"title": "生物学的特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷期に絶滅した。ミオヒップスやメリキップスからも多様な種分化が起こり、ウマ類は一時、大きな発展を示したが、系統の大半は既に絶滅し、現存する子孫が、ウマ、シマウマ、ロバの仲間のみとなっている現状は、反芻類の繁栄と対照的である。",
"title": "生物学的特徴"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ウマ類は反芻類に比べ、植物を消化してタンパク質に再構成する能力が劣っているため、反芻類に駆逐されたものと考えられているが、ウマは高い運動能力を獲得することで生き残った。野生のウマはほとんど絶滅に近いが、内燃機関が発明されるまでの長い間、人類にとって最も一般的な陸上の移動・運搬手段となることで、家畜動物として繁栄した。",
"title": "生物学的特徴"
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"text": "馬は31対の常染色体と、XYの性染色体、計32対64本の染色体を持つ。この他に細胞小器官ミトコンドリアに小さな環状(約1万7千塩基対)のデオキシリボ核酸を持っている。馬ゲノムプロジェクトは、犬や牛など他の主要な家畜に比べれば若干遅れたが、2006年に開始された。このプロジェクトでは、日本の競走馬総合研究所も参加している。",
"title": "生物学的特徴"
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"text": "約18億円の巨費を賭けたこのプロジェクトでは、2007年2月にまず雌のサラブレッドについて全塩基配列の解読を完了した。総配列は約27億塩基対、遺伝子の総数は約21000個と考えられている。現在読まれているゲノムは全て雌のものであり、Y染色体の配列は決定されていない。",
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"text": "2009年、同定された遺伝子は2万322個であることが発表され、このうち約4分の3に当たる1万5027個についてヒトの遺伝子と一致することが判明した。",
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"text": "馬は駆けたり、ジャンプすることが得意である。訓練次第ではさまざまな歩法で歩いたり駆けたり、ジャンプすることができる。また、群れで生活する動物であることから、複数の馬が同じ方向へ一団となって駆けるのが、乗馬等で指示しない場合は、通常である。",
"title": "動き"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「後脚立ち」すること、つまり後ろ脚だけを地につけて前脚を宙に向かって上げることを英語では「rearing リアリング」と言う。ウマはさまざまな時にこのリアリングを行うが、たとえば驚いた時、興奮した時、攻撃的になっている時、人間に従いたくない時、背中に乗っている人間を振り落としたい時などに行う。野生のウマ(家畜でないウマ)で、自由に行動しているウマもこれをすることがある。飼われている馬では、訓練次第でこれを意図的にさせることができる。だが乗り手が望まないのに乗馬中に突然この動作をされると、落馬や大怪我などの結果になりがちである。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ウマが攻撃しようとする時にとりうる行動のひとつが「うしろげり」を食らわせることである。まず後脚で地面を蹴り尻を上げ気味の姿勢になると同時に後脚をやや引き付け、足先を鋭く後方に突き出す。ウマの目は頭部の側面についていて、単眼視野は350度ほどある、と言われており後方もほぼ視野に入っており、後方にいる対象がほぼ見えた状態で狙いをつけてかなり正確に蹴りを繰り出す。ウマどうしの喧嘩でも、しばしば互いに後ろ蹴りを食らわせる。人間が不用意にウマの後方から近づくと(ウマの機嫌が悪い時などは特に)ウマは突然後ろ蹴りをすることがあり、これを食らうとしばしば死亡事故に至る。そもそも馬の脚力は猛烈で、動作も素早くて避け難い上に、馬の足裏には金属性の硬い蹄鉄がつけられているので、人が頭部に食らえばしばしば頭蓋骨骨折の即死という結果となりがちなのである。胸部・肩・鎖骨などに受けても骨折するほどの大怪我となりがちである。馬の調教本の多くでも「ウマの後方に立たないように」との注意がなされており、「ウマの後ろ(尻側)に立たないこと」は乗馬クラブなどでも乗馬初心者に対してまず最初に指導されることのひとつである。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ウマどうしが喧嘩する時にとるもうひとつ行動が「かみつく」ことである。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「フレーメン」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にあるヤコプソン器官(鋤鼻器)と呼ばれるフェロモンを感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。発情した牝馬の生殖器の臭いをかがせるとこの現象を容易に起こせるため、ウマのフレーメンに関する歴史的エピソードがいくつかある。また、ウマはレモンなどのきつい匂いをかいだり、初めて嗅いだにおいのときにもフレーメンをし、牝馬もフレーメンをすることがある。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "駆ける速度については、平均60 km/h、ともされ、最高速度は87 km/hともされる。競走用のサラブレッドならば最高87 km/hを出すことができる。また、競走用クォーターホースは、比較的容易に90 km/hを達成する。2005年のアメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず302 mのレースのラスト101 mの平均速度が92.6 km/hに達していた。(ただし、馬は速くはあるが、瞬間最高速度ではしばしば「地上最速」(駆ける速度が最速)と形容されるチーターには、さすがにかなわない。チーターのほうは(数秒程度の間は)100 km/h - 110 km/hほどで走ることができる、と言われている。)",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "速力に優れ、ヒトを乗せてかなり速い速度で走ることができる。実際のレースでの記録としては、クォーターホースの世界レコードで440ヤード(402 m)を20.274秒というものがあり、これは時速に換算すると71.4 km/hとなる。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "もう少し長い距離ではサラブレッドが有利となり、1000 mの世界レコードが53.07秒(時速68 km)を記録している。3200 mでも世界レコードは3分12秒5(時速60 km)となっていて、なお速度を維持している。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "馬は加速に時間がかかるため、特に短距離戦ではレース中の大部分を上記の速度よりも遥かに速い速度で走っている。2005年のアメリカでの調査では、330ヤード(302 m)のレースのラスト101 mの平均速度が92.6 km/h、440ヤード(402 m)のレースでも、レース中間で時速92.4 kmに達していた。402 mではサラブレッドもレース終盤で時速83.9 kmを記録している。ただし、この2005年の調査は何れも下級戦である。同じ調査で、1006 mのレースでのサラブレッドの速度は、レース中盤でも時速59.6 kmに過ぎなかった。これは、2002年に日本でほぼ同じ距離(1000 m)で記録されたレース中間の200 m区間平均時速75.0 km(9.6秒)よりかなり遅い。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "馬術競技のカテゴリーに入るエンデュランス馬術競技は、ヒトにおけるウルトラマラソンに相当する競技であり、30 - 50キロメートルごとに馬体検査(心拍数が規定値を超えると失権)と休憩を挟みつつ最大160キロメートルを走破する。走路は整地されているとは限らず、山や川があったりする。平均速度はこの距離でも時速28 km近くに達することがある。使用するのは中間種でもサラブレッドでも何でもよいが、アラブ種が良く使われる。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "競歩に相当する繋駕速歩競走では、Always B Mikiというスタンダードブレッドが、二輪馬車をけん引して側対歩で1マイル(約1609 m)を1分46秒(時速55 km)で完歩した。",
"title": "動き"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ウマは(イヌ同様に)人の感情を読み取ってそれに敏感に反応しているということはウマに関係する人々の間ではかなり古くから言われていたものの、それについての科学的な研究はほぼ無かったが、2018年にようやく発表された。",
"title": "人の感情を読み取る能力"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2018年6月、北海道大学は、馬は人の表情と声を関連付けて、人の感情を読み取るという研究成果を発表した。",
"title": "人の感情を読み取る能力"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "さまざまな分類法がある。たとえば解剖学的分類、用途による分類、運動性能による分類、体高と体長の比率による分類 等々がある。どの分類方法も曖昧さを孕んでいる。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "動物分類学的にはこれらすべてがウマ(正確にはイエウマ)という単一の種である。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "競走馬については現在は主に登録された血統に基づいて分類を行うのが主流である。たとえば、サラブレッドとして然るべき団体から登録を受けたウマがサラブレッドであり、サラブレッドであれば軽種である。仮にこれとまったく同一の遺伝子を備えていたとしても登録がなければサラブレッドとは認められない。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "各地にそれぞれ在来種と呼ばれる固有の特徴をもった品種が少数存在する。在来種は古来のウマの特徴を比較的よく残しているが、それらも多かれ少なかれ人間の手によって改良されている。細かくみると約250種類以上確認される。混血も多い。それに対して、改良種は、スピードや耐久力、パワーなどを高めるような品種改良がなされており、ひきかえに不定期の給餌に耐える体質や危険から身を守る本能の一部を失っている。サラブレッドやポニーなど、現代人が乗馬クラブや競馬場で頻繁に目にする馬の多くは後者の「改良種」のほうである。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現在日本では、ウマを軽種とそれ以外に分類している。このうち軽種については、財団法人日本軽種馬登録協会が登録規定を行っている。軽種以外は社団法人日本馬事協会が登録を行っており、登録規定で乗系、輓系(ばんけい)、小格に分類している。ただし日常的には重種、中間種などの表現が用いられることもある。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "現在では、 ノウマ(Equus ferus)の野生種(ターパンなど)は全て絶滅したとされる。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "アメリカのムスタングやイタリアのジャーラ馬(英語版)、宮崎県都井岬の御崎馬などは、半野生状態で生息しているが、いずれも家畜として飼育されていたものが逃げ出し、繁殖したものである。かつては北海道では野生化した馬を狩猟・捕獲し、ばん馬として荷物や馬ソリの牽引をさせることもあった。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "モンゴルに生息する「モウコノウマ」は、従来、世界で唯一とされる真の現生の野生ウマとされていたが、最近の研究で人間によって家畜化された馬の子孫であるという説が唱えられている。1968年以降、生息が確認されなくなり、本国では一度絶滅したとされる。その後、海外の動物園で飼育されていたものを里帰りさせ、自然保護区のホスタイ国立公園内で繁殖を重ね、200頭を超えるまでになっている。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "主に乗用や、乗用の馬車を牽くために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "軽種と重種の中間的な性質を持ち、軽快さと比較的温厚な性質を持つ。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "北海道特有の競馬競走の一種、ばんえい競馬で用いられているのは、この重種でもペルシュロンやベルジャンの混血馬や、これらと北海道和種などの在来種の混血(重半血)が多い。軽種馬以外の登録を管轄する日本馬事協会では、平成15年度以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については、純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ポニーは、鬐甲(きこう)までの高さが147 cm以下の馬の総称である。かつては、14ハンド2インチ(14.2ハンドと表記する)=約147センチ(1ハンドは4インチ=10.16センチメートル)に満たないウマをポニーと称し、それ以上のものを馬として機械的に分類していた。近現代になって血統登録による品種の分類が確立するまでは、例えば下に示すシェトランドポニーでも大柄であれば「馬」と考えられていた。今でも日常的には、品種に関わらず小柄な馬をポニーと称することが多い。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "現存する日本在来種は以下の8種。北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。在来馬はファラベラのような小型ポニーや、シェトランドポニーのような中型ポニーではなく、蒙古馬系に属する比較的大型のポニーに含まれる。また、大型在来馬である南部馬等は近代化による西洋種との交雑により多数の大型在来馬は絶滅した。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "現存する小型在来馬は西洋種との交雑に用いられたものは少なく、当時の使役馬・駄馬の範疇に含まれるものが多く遺る。",
"title": "種類・分類、品種"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "Equus(エクウス、ウマ属)の名で呼ばれるウマやロバの直接の先祖は、200万年前から100万年前にあらわれたと考えられている。ウマは北米大陸で進化しノウマとなり、ユーラシア大陸へも広がった。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ヒトは古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にウマの姿がみられる。原種ウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "紀元前4000年から3000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていたヒツジ、ヤギ、ウシに続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "これは、ウマを人間が御すために使う手綱をウマの口でとめ、ウマに手綱を引く人間の意志を伝えるための馬具であるはみ(銜)がこの時代の遺物として発見されており、ハミは馬の下顎骨の第二前臼歯と接し摩耗痕を残すことが観察されるため、馬の家畜化を判断する指標として活用されている。同じく紀元前3500年ごろ、メソポタミアで車輪が発明されたが、馬車が広く使われるようになるのは紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることが出来るようになってからである。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、チャリオット(戦車)として軍隊の主力となった。また、ウマの普及は、ウマを利用して耕作を行う馬耕という農法を生んだ。 ウマは反芻動物ではない上にウシやヒツジなどに比べて代謝が高く、それらと比較すると体重に対して約30パーセント以上多くの牧草を必要としたため、中東の古代国家ではウシやヒツジと同時に大量のウマを飼うことは困難だった。ウマはその貴重さから食用として発達することはなく、この地域から馬肉に関する食のタブーが生まれたと考えられている。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗る技術を発明することによって高度な移動・機動の能力を獲得し、ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための鐙(あぶみ)や鞍(くら)が発明され、蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、西ヨーロッパの騎士や日本の武士のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は軍馬に適したウマを育成するために競馬を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "やがて大航海時代に入り、白色人種はアメリカ大陸に到達した。彼らが手にする鉄器や火薬の威力、乗りこなす馬の機動力や威圧感、そして彼らが持ち込んだ天然痘などの伝染病はそれらを知りえなかったアメリカ先住民を恐怖に陥れ、白人による中米や南米の民族の征服は短期間で完了。結局、インカ帝国やアステカ帝国など、独自の文明をもって栄えていた社会はほぼ壊滅させられる。しかしスー族など北米のインディアンの中には、馬の機動性をいち早く取り入れ、生活様式を向上させるものもあった。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "20世紀に至り、内燃機関による自動車・戦車の実用化、また機関銃などを使った弾幕戦法の普及など、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを盲導犬のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。その他、乗馬を通じ心を癒すホースセラピーも注目を浴びている。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "氷河期には日本列島はユーラシア大陸と地続きで、馬が存在していた。しかし氷河期が終わると日本列島は草原が減少し森林化が進み馬の生存に適さなくなり馬は絶滅した。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "古墳時代になると、朝鮮半島南部から軍事的な要請から馬の輸入が開始された。284年(応神15年)には百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられた。「当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を生駒山と号した」などの記録がある。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "4世紀末の北部九州への輸入を皮切りに、5世紀後半には日本列島各地の遺跡から出土した馬具などによって馬の存在が確認されている。 日本での大規模な馬匹生産は、5世紀前半から中頃にかけて河内湖周辺で朝鮮半島からの渡来人によって行われたのが最初で、5世紀後半には渡来人の移配とともに飼育好適地が多い東日本地域へ馬匹生産の移管が実施された。この馬匹生産の移管は雄略朝期・大和政権の東日本への支配の強化を示すものであった。486年(顕宗2年)には「天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」(天下は泰平で...馬は野を被うほどだった)。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。群馬県の白井北中道遺跡からは馬の足跡が4万個以上パックされた土層が確認されている。これは榛名山の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "東北日本の蝦夷へは、馬の飼育が伝わり、騎射による優れた狩猟技術が発達した。また飼育した馬をヤマト王権側に売っていた。また帰服し俘囚となった蝦夷からは飼育法の他、乗馬や騎射などの戦闘技術がもたらされた。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "646年の大化の改新による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では置始兎が率いて急行した千余騎や、勇士来目らの騎馬突撃など、騎馬隊の活躍が目立った。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "7世紀に造られた藤原宮跡では、酷使により関節部の癒合・肥大化をきたした馬の骨が見つかった。宮の造営には多数の馬が用いられたようである。藤原宮跡の骨の中には、肉を取るための削り痕が残っているものと、そうした痕跡がないものがあり、部分的に食用にされたと考えられる。天武天皇4年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令以後、食用を禁止する命令がたびたび下されたが、いずれも一時的な禁令で、あまり行き渡らなかったようである。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "668年(天智7年)には、「干時近江国講武 又多置牧 而放馬」(近江国は武力を整え、牧人を多く置き、馬を放牧した)とある。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事ごと、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、応仁の乱による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化ではもっとも歴史のある行事とされる。また藤原道長は馬を好み度々天皇の行幸を仰いでまで馬比をおこなっている。また、平安時代の大乱天慶の乱の平将門は騎馬に巧みで、関東平野を中心に騎馬による機動的な戦闘を行ったとされ、その後の源平合戦でも関東地方の武者達が騎馬に巧みであったことが平家物語などに記述されている。馬は金と並んで東国の産物とされ、「後撰和歌集」には尾駮(おぶち)の牧が歌われ、藤原秀衡が源義仲(木曾義仲)に軍馬を贈る等、軍事物資としても貴重な存在であった。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、「競馬」はやがて鎌倉競馬として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見ることが出来る。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "武士は敵に噛みついたり蹴り飛ばすなど気性の荒い馬を好み、このような馬を乗りこなす者を豪勇としてもてはやしたことから、去勢しないまま飼育していた。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200 - 300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000 - 3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "古い文書の記述では平将門の愛馬「求黒」が160 cmの大型馬で人を踏み殺したケースを含め、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高145cm以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150 cmで高幹とされた。",
"title": "人間とウマ"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「体が大きく、おとなしい」と記録している。下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬16頭が贈呈された。。明治に入ると、外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。",
"title": "人間とウマ"
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"text": "江戸=====近代===== 明治に入り、明治4年6月5日(1871年7月22日)に平民の乗馬が許可され、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。日清戦争・日露戦争以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最も一般的な実用家畜であり、最大時国内で農用馬だけで250万頭が飼育されていた。",
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"text": "1945年、連合国軍最高司令官総司令部指令により国による馬の施策、研究、団体の解散と再編が実施された。",
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"paragraph_id": 89,
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"text": "太平洋戦争直後の1950年に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、1960年代中頃には30万頭に、1975年には僅か42,000頭まで減った。2001年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18,000頭にすぎない。※食肉用に肥育されるウマ(肥育馬)は、農用馬に分類されている。",
"title": "人間とウマ"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "2005年現在では日本在来馬は8種、約2,000頭のみとなった。なお、道路交通法上、馬が引く車および人の騎乗した馬は軽車両に分類される。",
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"text": "昔から馬を大切にしていた地方では現代でも、馬は「蹴飛ばす」=「厄を蹴飛ばす縁起物」などと重宝しているところもある。",
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"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "モンゴル高原の遊牧民の間では、現在でもウマは重要な乳用家畜の一つであり、発酵乳食品(馬乳酒:アイラグおよびヨーグルト:タラグ)の重要な原料となる。",
"title": "人間とウマ"
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"text": "馬肉は馬を使う民族でも食べない地域がある。",
"title": "人間とウマ"
},
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"text": "日本でも地域によって異なる。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 95,
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"text": "荷物を背負わせたり、荷車、橇、運河の船などを引かせるために用いる。",
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"text": "馬車を引かせるためにも使う。ただし古代にチャリオットを引いていた場合は「軍用馬」(後述)と分類するほうが適切であろう。",
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"text": "主に畑などを耕す時にプラウや馬鍬をひかせるために用いる。他にも動力源としても。たとえばプレス(圧搾機)の動力源としても用いた。",
"title": "人間とウマ"
},
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"paragraph_id": 98,
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"text": "馬の背に乗る、つまり乗馬に使うということは、おそらく紀元前4000年ころか紀元前4500年ころに始まったのだろうと推察されている。さらに近代以降は馬術と言う競技スポーツが派生している。",
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"paragraph_id": 99,
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"text": "家畜を率いて移動するのは、一応は 徒歩(と牧羊犬、牧畜犬などと)でもできるが、馬に乗ると移動が楽であり、馬は大きく家畜を威圧できるので(牧畜犬同様に)家畜類の移動方向をコントロールしやすい。カウボーイは牛の群れなどを、馬に乗って誘導する。",
"title": "人間とウマ"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "軍事に使用される馬。軍馬。歴史的には、当初は荷物運びに使われ、やがてチャリオット(戦闘馬車)をひくためなどに使用され、すなわち当初は人(戦士と御者)が車の上に立ち、のちに馬の背に直接乗って戦うようになったと考えられている。戦時に人が馬の背に乗ることが広まったのは紀元前8世紀以降だと、指摘されるようになっている。スキタイは騎馬兵を用いて中央アジアから現在のロシア南部や現在のウクライナあたりで帝国を築いていった、と考えられている。騎乗したまま戦う騎兵も登場した。ヨーロッパでは長い槍(ランス)を扱う槍騎兵が活躍した。一方で騎乗しながら弓を使う弓騎兵は高度な技術(騎射)が必要なことから、モンゴルや日本など一部にとどまった。モンゴル人は騎馬弓兵で各地の軍を圧倒しヨーロッパにまで及ぶ巨大なモンゴル帝国を築いた。日本の武士は「弓馬の道」として重視した。",
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"text": "中世ヨーロッパの貴族には騎士という階級も生まれた。イギリスやフランスなどの騎士は長いランスをたずさえて、馬で駆けつつ突き倒すという攻撃で歩兵を圧倒した。当然騎士どうしの闘いも起き、敵騎士の攻撃から身を守ろうとプレートアーマーが重装備化し、防具の重さだけで20 kgから35 kgほどに達した。ここに武器のみならず、馬を護るための鎧(バーディング)も加わるので、こうした総重量に耐えるように、中世の騎士用の運搬能力とスタミナを有しながら、それなりの速度も出せる大型の馬(デストリア)が選ばれるようになった。火器が発達して弾丸の貫通力が増した17世紀頃からは、プレートアーマーを強化しようにも人馬が耐えられる重量には限界があり、銃弾の威力に対抗できなくなった。その結果、全身の完全防護をあきらめ、胸・腹あたりだけを分厚く護る胸甲が主流になり、軍馬が担う負担はやや軽減された。鉄砲・大砲になどの火器が普及してその性能が上がり、威力や有効射程が増大するにつれて、移動速度の大きさも優位のひとつであった騎兵の重要度は下がったが、それでも馬の突進力を生かした突撃は、時に勝敗を分ける事もあるほど強力な物であった。凛々しい軍服に身を包み戦場を颯爽と駆け抜ける姿は依然憧れの的であり、たとえばヨーロッパ大陸(旧大陸)を見ると、ナポレオン軍(1805-1815)でも騎兵は重要な存在であった。19世紀前半まで騎兵は軍隊の「花形」であり続けた。また大砲を牽引しながら取り扱う砲兵を乗せることで迅速な展開を可能とする騎馬砲兵も登場した。",
"title": "人間とウマ"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "新大陸に目を向けるとアメリカ独立戦争(1775-1783)の時でも軍用馬は重要な役割を果たし、南北戦争(1861-1865)でもなお軍馬は活躍できた。日露戦争(1904-1905)でも「世界最強」と称されたコサックの騎兵隊の大軍と日本の騎兵隊(秋山支隊)が激突し、その結果が同戦争の大局にも影響を与えたが、純粋な騎馬隊どうしの戦いと言うより、日本側の騎馬隊はその弱点を補うための歩兵・工兵との混成部隊となっていた。騎兵が消える大きな要因となったのは機関銃の普及であり、騎兵は機関銃の格好の的にされてしまうようになり、活躍の場が失われていった。とは言え自動車化・機械化の黎明期にあって、軍馬はなお敵後方への奇襲や輸送・偵察・伝令・警備といった任務を担い、第二次世界大戦(1939-1945)までは世界各国に存在し続けた。",
"title": "人間とウマ"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "なお実戦で最後に本格的な騎馬襲撃が実施されたのは、1945年に行われた老河口作戦での騎兵第4旅団の戦闘である、とも言われている。同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った。",
"title": "人間とウマ"
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"text": "広義の軍用である「兵器製造過程」での運搬として、零式艦上戦闘機の運搬に、北海道の馬(重種)が名古屋近郊の工場に移送されて使われたことが、吉村昭の『零式艦上戦闘機』(1978年、新潮文庫)に詳しく書かれている。当時の最新技術の成果である飛行機の生産と実用化が、名古屋の三菱重工業大江工場から各務原飛行場までの約50キロもの道のりの運搬に、当初は牛、のち生産終了まで馬に全面的に頼っていたことに吉村は強い衝撃を受け、執筆動機となったと本人が述べている。",
"title": "人間とウマ"
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{
"paragraph_id": 105,
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"text": "現代の軍隊では基本的に、戦力としては用いられておらず、儀仗隊として活動している。一部の軍では「軽装甲で迅速に展開・撤収が可能な部隊」という騎兵の役割を担う部隊に「騎兵」という名称を残している。イギリス軍では1793年創立の王立騎馬砲兵が榴弾砲を扱う部隊として存続している。山岳部隊を保有している国では、峻嶮な地形での物資輸送をウマやロバで行っている事例がある。",
"title": "人間とウマ"
},
{
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"text": "民間療法として、馬肉・馬脂には解熱効果があるとされ、捻挫などの患部に湿布として使用される(民間薬)。馬肉パックと称して美肌効果を期待する向きもある。また馬脂(馬油は商品名)は皮膚への塗布用のものが販売されている。人間に最も近い自然の油であるため、大火傷、日焼け、虫刺され、霜焼け、しみ、皺、白髪等に効果があると言われる。",
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"paragraph_id": 107,
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"text": "ビクトリア朝時代から、ヘビ毒抗毒素などにウマが使われている。ウマは人間への感染症リスクが牛などより少なく、毒蛇への耐性もあり、血も大量に得られることから選ばれていたが、より血清病などのリスクが低いヒツジや人間の臓器を再現したオルガノイドを使用する方向に移行しつつある。",
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"paragraph_id": 108,
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"text": "馬革はホースハイドといい牛革(成牛革)よりも滑らかである。ホースハイドは革製品の裏革などに用いられる。また、ベンズ部をタンニンで染色加工したものはコードバンと呼ばれる最高級品で緻密で強靭な構造を持つ。コードバンはバッグ、紳士靴、財布、ランドセルなどに用いられる。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "太く長いので、ヴァイオリンや胡弓、ヴィオール、二胡など擦弦楽器の弓毛に用いられる。またモンゴルの馬頭琴など、騎馬民族の擦絃楽器では弓毛に加え、弦も本来馬尾毛である。この他、織物に使用することがある。",
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"text": "警察が市内パトロールのために使用した。現在でも一部の国の衛視が使っているが、日本では主に明治時代から昭和初期までであり、それ以降は警察車両に取って代わられたため殆ど無用となってしまった。",
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{
"paragraph_id": 111,
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"text": "警視庁(東京府・東京都の警察)では伝統を重んじる姿勢から、第三方面交通機動隊の中に騎馬隊を維持しており、平成19年6月現在16頭の警察馬を徴用している。また、京都府警でも「平安遷都1200年」を記念して1994年2月10日に京都府警平安騎馬隊が創設されている。しかし、活躍の場はいずれも交通安全パレードの時の市中警戒に使用される程度である。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 112,
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"text": "騎馬警官が市街地の警備や交通整理を担う場合もある。自動車と比べ環境を劣悪化させる排気ガスや騒音を出さないクリーンな乗り物であるが、乗馬者にとっての環境が未整備ということもあり、大々的には行われていない。海外では、ニューヨークやロンドンなどの大都市で使用されている。これは騎乗することにより遠くまで見渡すことが出来、威圧感もあることと、もともと街中に乗馬のための設備がそろっていることによる。",
"title": "人間とウマ"
},
{
"paragraph_id": 113,
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"text": "カナダの国家警察は自動車が発明される前に創立し、馬で移動・巡回をしていたため、王立カナダ騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police)を称している。",
"title": "人間とウマ"
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"text": "仏教における菩薩の一尊として、馬頭観音がある。",
"title": "文化 "
},
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"paragraph_id": 115,
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"text": "日本では馬の守護仏としての信仰があり、馬の供養として祀られている。",
"title": "文化 "
},
{
"paragraph_id": 116,
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"text": "日本では江戸時代後期から近代にかけて養蚕が盛んに行われ、養蚕に関係する民俗も成立した。養蚕には動物に関わる民俗があり、猫と馬に関するものが知られる。猫は養蚕が害獣であるネズミを捕食することからネズミ避けとして珍重されているが、馬と養蚕の関係は昔話の『馬娘婚姻譚』に由来する。",
"title": "文化 "
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "『馬娘婚姻譚』は人間と異者が結婚する異類婚姻譚の一種で、馬と娘との悲話が語られる。これは東北地方から九州まで日本各地に分布し、特に東北地方ではおしら様信仰と結びついてる。",
"title": "文化 "
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "日本語で馬の鳴くのを特に「嘶く」(動詞)ということがあり、古くは「嘶ゆ」(下二段動詞)といった。特定の家畜や動物の鳴き声に、特定の動詞をあてるのは、ニワトリの「ときを告げる」とこの馬の「嘶く」程度にしか例がなく、日本社会において他の動物、家畜にもまして古くから深いつながりを持っていたことが推論される。",
"title": "文化 "
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "中国の百家姓のひとつに「馬」(マー)がある。陸上競技の「馬軍団」(馬家軍)も、軍閥の馬家軍も馬姓の人の率いた集団である。 日本にも、「馬場」(ばば)、「白馬」(はくば)など、馬が付く姓がある。",
"title": "文化 "
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{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "日本各地に馬の字を含む地名が数多く存在する。",
"title": "文化 "
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "あん馬、跳馬、跳び箱などは、乗馬の訓練用の「馬に見立てた台」がスポーツ(競技・用具)に転じたものである。",
"title": "文化 "
}
] |
ウマは、哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属に分類される家畜動物。 社会性が強く群れで生活する。古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われた歴史がある。 運搬用(荷役馬)、農耕(農耕馬)、乗用(乗用馬)、軍用(軍用馬・騎馬)、競技用(競技馬・競走馬)などに使われ、乳用、食用にもなる。 学名は、equus も caballus ともにラテン語で「馬」の意。 独立した種ではなく野生種であるノウマから分かれた亜種Equus ferus caballusとする説もある。 ノウマは、北アメリカ大陸原産で進化し、その後、ユーラシア大陸へも広がった。ただし北アメリカ大陸では、数千年前に絶滅した。
|
{{Redirect|馬}}
{{生物分類表
|名称 = ウマ
|画像 = [[ファイル:Haflinger_horse_on_pasture_in_the_Netherlands.jpg|240px]]
|画像キャプション = 尾花栗毛のウマ(ハフリンガー種)
|省略 = 哺乳綱
|目 = [[奇蹄目]] {{sname||Perissodactyla}}
|科 = [[ウマ科]] {{sname||Equidae}}
|属 = [[ウマ属]] {{snamei|en|Equus (genus)|Equus}}
|種 = '''ウマ''' {{snamei|E. caballus}} / [[ノウマ]] ''[[w:Wild horse|E. ferus]]''
|亜種=なし / '''ウマ''' ''[[w:Horse|E. f. caballus]]''<small>(※[[ノウマ]]の亜種とする場合)</small>
|学名 = {{snamei|Equus caballus}} {{AUY|Linnaeus|1758}}<ref>Deb Bennett, Robert S. Hoffmann, [https://doi.org/10.2307/3504442 ''Equus caballus''], ''Mammalian Species'', No. 628, American Society of Mammalogists, 1999, Pages 1–14.</ref>
|和名 = ウマ<ref name="kawada_et_al">川田伸一郎・岩佐真宏・福井大・新宅勇太・天野雅男・下稲葉さやか・樽創・姉崎智子・横畑泰志 「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.58.S1 世界哺乳類標準和名目録]」『哺乳類科学』第58巻 別冊、日本哺乳類学会、2018年、1-53頁。</ref>
|英名 = [[:n:Horse|Domestic horse]]<ref>Anthea Gentry, Juliet Clutton-Brock, Colin P. Groves, “[https://doi.org/10.1016/j.jas.2003.10.006 The naming of wild animal species and their domestic derivates],” ''Journal of Archaeological Science'', Volume 31, Issue 5, Elsevier, 2004, Pages 645-651</ref>
|シノニム = <center>{{snamei|Equus ferus caballus}}<!-- {{AUY|Linnaeus|1758}} --></center>
}}
'''ウマ'''('''馬'''、英: Horse, [[学名]]: {{snamei|Equus caballus}})は、[[哺乳類|哺乳綱]][[奇蹄目]][[ウマ科]]ウマ属に分類される[[家畜]][[動物]]。
社会性が強く群れで生活する。古くから[[中央アジア]]、[[中東]]、北[[アフリカ]]などで家畜として飼われた歴史がある{{efn2|[[欧州]]南東部にいた[[ターパン]]が家畜化したという説もある。}}。
運搬用([[駄獣|荷役馬]])、農耕(農耕馬)、乗用([[乗馬|乗用馬]])、軍用([[軍用馬]]・[[騎馬]])、競技用([[馬術|競技馬]]・[[競走馬]])などに使われ、乳用、食用にもなる。
学名は、{{lang|la|equus}} も {{lang|la|caballus}} ともにラテン語で「馬」の意{{efn2|前者は[[インド・ヨーロッパ祖語]]にまで遡ることの出来る古い語彙。後者は、イタリア語の {{lang-it|cavallo}}、スペイン語の {{lang-es|caballo}}、フランス語の {{lang-fr|cheval}} などに連なる。}}。
独立した種ではなく野生種である[[ノウマ]]({{snamei||Wild horse|Equus ferus}}、野馬)から分かれた亜種{{snamei|Equus ferus caballus}}とする説もある。
* ノウマは、[[北アメリカ大陸]]原産で進化し、その後、ユーラシア大陸へも広がった。ただし[[北アメリカ大陸]]では、数千年前に絶滅した。
{{TOC limit}}
== 生物学的特徴 ==
[[体長]]は2.4〜3m程度。[[体重]]は300〜800kg程度だが、後述の重種のように1トンを超えるものもある。
首と頭が長く、長い四肢をもつ。角はない。各脚とも第3指を残し他の指は退化している。よく発達した[[蹄]](ひづめ)を持ち、硬い土の上を走ることができる。尾と、頭から首の上部にかけての[[鬣]](たてがみ)だけは長いが、全身の毛は短い。
本来寒冷地に生息する動物であるため、比較的寒さに強い反面、基礎体温が37〜38度と高く筋肉量も多いため、高温多湿な気候では熱中症になりやすい<ref>{{Cite web|和書|title=乗馬前後にしてほしい、馬の熱中症対策 |url= https://www.green-hill.net/staffblog/whisper/heatstroke/ |work=四街道グリーンヒル乗馬クラブ・スタッフブログ|date=2018-07-31|accessdate=2022-02-26}}</ref>。
[[草食性]]であり、よく発達した[[門歯]]と[[臼歯]]で食べ物を噛み切り、擂り潰す。ウマは{{ill2|後腸発酵|en|Hindgut fermentation|label=後腸発酵動物}}であり、[[反芻]]動物とは異なり胃は一つしか持たない。しかし大腸のうち盲腸が極めて長く(約1.2 m)、結腸も発達している。これらの消化管において、微生物が繊維質を発酵分解する。[[胆嚢]]が無いことも草食に適している。 硬くて甘味の強い食物全般を好むとされている。なお、英語でロバや馬などを鼻先に釣った人参で誘導する様子を [[飴と鞭|carrot and stick]] と言うように、英語圏や日本等では通俗的には「ウマは[[ニンジン]]が好物」だと語られるが、国によって「[[リンゴ]]が好物」や「[[角砂糖]]が好物」([[トルコ]])など、様々に言われている。実際には硬くなくても甘いものを好む個体の例もある。
優れた[[嗅覚]]を持つが、[[毒草]]や血の匂いなどを嗅ぎ分けることはできない。顔の両側に目が位置するため視野が広く350度ほどあるともされている<ref>[https://umas.club/hp0215 Umas! 「馬の目 馬の視野は350度」]</ref>が、反面、両眼視出来る範囲は狭いため、距離感を掴むことは苦手とするなど、ヒトとはやや異なった視覚認知を持つ<ref>[https://umas.club/hp0216 Umas!「馬の視覚 馬はどのように世界を見ているのか」]</ref>。
走る際に背中が彎曲しないため乗用にできるが、鞍や[[鐙]]などの[[馬具]]無しで乗りこなすには相当の修練が必要となる。
一般に、立ったまま寝ることができることでも知られる(ヒトやサルと違い、膝関節を靭帯で固定できるので膝折れがない)が、本当に安全な場所であればリラックスし横になって休むこともある。
[[寿命]]は約25年、稀に40年を超えることもある。繁殖可能な年齢は3-15/18歳。[[繁殖期]]は春で、[[妊娠]]期間は335日。単子であること(一回の妊娠で宿す子が一頭であること)が多い。
===体毛===
; 毛色
{{main|馬の毛色}}
馬の特徴の中でも、一見して最初に目につくのが毛色である。日本馬事協会は、[[栗毛]]、[[栃栗毛]]、[[鹿毛]]、[[黒鹿毛]]、[[青鹿毛]]、[[青毛]]、[[芦毛]]、[[粕毛]]、[[駁毛]](ぶちげ)、[[月毛]]、[[河原毛]]、[[佐目毛]]、[[薄墨毛]]、[[白毛]]の14種を定めている。
家畜馬では、鹿毛、栗毛が特に多い。家畜化以前は薄墨毛が多かったと考えられている。
; 白斑
毛色の他に個体の識別に使われるものとして白斑がある。白斑は主に頭部、脚部などに見られる白い毛のことで、毛色やその他の特徴(旋毛等)と合わせると無数の組み合わせがあり、個体識別に利用することができる。そのため血統登録の際記載が義務づけられている。代表的なものに、頭部では星・曲星・流星・環星・乱星・唇白・白面・鼻白・鼻梁白・作、肢部では白・半白・小白・微白・長白・細長白・長半白等がある。なお、白斑に至らない程度のものを刺毛という。
; 旋毛
馬のつむじのことを旋毛(せんもう)という。位置に個体差があることから、白斑と同じく個体識別に利用することが出来る。位置によって「珠目」、「華粧」といった名称がある。白斑・旋毛の詳細については[[馬のマーキング]]参照のこと。
; 冬毛と毛刈り
冬になるにつれて長い毛に生え変わる。そのままだと、汗をかいた時に乾燥が長くなり、体を冷やし体調を崩す原因となるほか、ブラッシングも大変となる。そのため、馬を管理している飼い主は毛刈り(クリップ)を行う。毛刈りの仕方は作業量と目的により様々な物がある。
たてがみと尻尾以外の全身の毛を刈るフルクリップ(ショークリップ)、泥がかかりやすい足と鞍が乗る背中以外を剃るハンタークリップ、足と汗をかきにくい背中全体を残すブランケットクリップ、日中も外に出す場合は首の後ろも残すチェイサークリップ、外出をよくする馬の場合は首の前側-腹-尻にかけて剃るトレースクリップ、軽作業馬や若い馬の場合は手軽に行え発汗の多い首周辺と腹だけを剃るアイリッシュクリップが行われる。
===身体の各部の名称===
[[ファイル:Dessin_cheval_grand.jpg|thumb]]
図に基づき説明する。
{|class="wikitable"
!英語名!!日本語名!!備考
|-
|{{lang属性|en}}|forelock||前髪||
|-
|{{lang属性|en}}|poll||<ruby>項<rp>(</rp><rt>うなじ</rt><rp>)</rp></ruby>||
|-
|{{lang属性|en}}|withers||<ruby>鬐甲<rp>(</rp><rt>きこう</rt><rp>)</rp></ruby>||
|-
|{{lang属性|en}}|back||背||
|-
|{{lang属性|en}}|loin||腰||
|-
|{{lang属性|en}}|croup||尻||
|-
|{{lang属性|en}}|dock||尾根||
|-
|{{lang属性|en}}|point of shoulder||肩先||
|-
|{{lang属性|en}}|shoulder||肩||
|-
|{{lang属性|en}}|forearm||<ruby>前膊<rp>(</rp><rt>ぜんはく</rt><rp>)</rp></ruby>||
|-
|{{lang属性|en}}|elbow||肘||
|-
|{{lang属性|en}}|knee||手根関節(前膝)||人間の手首に相当
|-
|{{lang属性|en}}|fetlock(ankle)||球節||人間の手で言うところの指の付け根の部分の関節に相当
|-
|{{lang属性|en}}|flank||<ruby>膁<rp>(</rp><rt>ひばら</rt><rp>)</rp></ruby>、脇腹||
|-
|{{lang属性|en}}|stifle||後膝||
|-
|{{lang属性|en}}|quarter||後躯||
|-
|{{lang属性|en}}|gaskin||<ruby>脛<rp>(</rp><rt>けい</rt><rp>)</rp></ruby>||
|-
|{{lang属性|en}}|hock||飛節||人間の足首に相当
|-
|{{lang属性|en}}|cannon||管||人間の手で言うところの掌部分に相当
|-
|{{lang属性|en}}|pastern||<ruby>繋<rp>(</rp><rt>つなぎ</rt><rp>)</rp></ruby>||
|-
|{{lang属性|en}}|coronet (coronary band)||蹄冠||
|-
|{{lang属性|en}}|hoof(foot)||蹄||
|}
===骨格===
[[ファイル:Horse anatomy.svg|thumb]]
図に基づき説明する。
{|class="wikitable"
!英語名!!日本語名!!備考
|-
|{{lang属性|en}}|cervical(neck) vertebrae||[[頚椎]]||
|-
|{{lang属性|en}}|coccygeal(tail) vertebrae||尾椎||
|-
|{{lang属性|en}}|scapla (shoulder blade)||[[肩甲骨]]||
|-
|{{lang属性|en}}|ulna||[[尺骨]]||
|-
|{{lang属性|en}}|radius||[[橈骨]]||
|-
|{{lang属性|en}}|carpus (knee)||副手根骨||
|-
|{{lang属性|en}}|metacarpal Bone||[[中手骨]]||
|-
|{{lang属性|en}}|patella (knee cap)||膝蓋骨||
|-
|{{lang属性|en}}|tibia||[[脛骨]]||
|-
|{{lang属性|en}}|fibula||[[腓骨]]||
|-
|{{lang属性|en}}|long pastern bone||繋骨||基節骨、第1指骨
|-
|{{lang属性|en}}|short pastern bone||冠骨||基節骨、第2指骨
|-
|{{lang属性|en}}|coffin bone(pedal bone)||[[蹄骨]]||末節骨、第3指骨
|-
|{{lang属性|en}}|cannon bone||管骨||第3中手骨および第3[[中足骨]]
|}
===歯===
{{ill2|馬歯|en|Horse teeth}}(ばし)は一生を通じて硬い草を食べ続けるため上下に長い形状をしている{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=109}}。考古学においては馬歯は遺跡においても遺存しやすく、馬歯の摩耗具合から個体の年齢を推定する手法も確立している{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=109}}。また、乗用馬に使用する[[馬具]]である[[ハミ (馬具)|ハミ]]は[[奥歯]]の第二前[[臼歯]]と接し続けるために摩耗する。このため野生馬と家畜馬、もしくは乗用馬と[[駄馬]]・[[農耕馬]]を区別するための指標としても活用されている{{sfn|山梨県立博物館|2014|pp=10,113-114}}。
===肢===
ウマの前肢の構造を見ると、体の外側にあるのは肘から先の[[腕|前腕]]のみで、上腕は体の内側にある(躯幹に密着している)。前腕を構成するのは橈骨と尺骨で、主に橈骨によって形成されている(尺骨の下半分は退化しており、橈骨と癒合している)。前腕の先には手根関節(前膝)がある。手根関節は7つの手根骨からなる。手根関節の先には中手骨がある。このうち最大のものが第3中手骨で、第2・第4中手骨は小さく退化している。第1・第5中手骨は退化して消滅している。第3中手骨の一部はその先にある繋骨(基節骨、第1指骨)とともに[[球節]]と呼ばれる関節を形成する。球節の後ろ側には種子骨がある。球節の先には指骨がある。指骨は繋骨(基節骨、第1指骨)・冠骨(基節骨、第2指骨)・蹄骨(末節骨、第3指骨)の3つの骨からなる。なお、ウマの指は第3指(ヒトの中指に相当)のみ存在する{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|1986|pp=48-51}}。つまり、人間に当てはめるとウマは手足の中指の指先だけで歩いているということになる。
後ろ脚の構造を見ると、大腿骨があり、その先に膝関節(ヒトの膝に相当)がある。膝関節の中には膝蓋骨がある。その先にあるのが下腿で、脛骨と腓骨からなるが、腓骨は前脚における尺骨と同様下半分は退化して脛骨に癒合している。その先にあるのが[[飛節]]と呼ばれる大きく屈曲した関節で、ヒトの足首に相当する。その先は前脚とまったく同様の構造をしており、第3中足骨が大きく発達した中足骨、球節、指骨(趾骨)と続く{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|1986|p=51}}。
===進化===
{{Main|ウマの進化}}
ウマ類は化石資料が豊富であり、進化の過程を鮮明に残している。その理由として環境の順応能力が高かったことや、草原で群体を成していたことが挙げられている{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=13-14}}。
ウマ類の最古とされる化石は、6,500万年前([[始新世]])の地層から発見された[[ヒラコテリウム]]である{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=14}}。ヒラコテリウムは北アメリカ大陸やヨーロッパの森林に生息し、若芽や草の実など柔らかい植物を摂取していたとされる{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=14}}。ヒラコテリウムは[[キツネ]]ほどの大きさで、前肢は第1指がなく、後肢は第1と第5指が退化している。
その後、始新世の[[オロヒップス]]、[[エピヒップス]]、漸新世の[[メソヒップス]]、[[ミオヒップス]]、中新世の[[パラヒップス]]、[[メリキップス]]という系統進化が明らかになっている{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=13-14}}。約1,000万年前([[中新世]]前-中期)のメリキップスは、真の草食性を示す高冠歯を獲得したことと、より高速での走行を可能にした下肢骨(尺骨と橈骨、脛骨と腓骨)の癒合の2点で画期的であった。当時は乾燥気候が広がるとともに大草原が拡大しつつあり、メリキップスの出現は、草原への進出の結果だった。
約400万年前(中新世中〜後期)の[[プリオヒップス]]は、第2・第4指を完全に消失させることで指が1本になり、現在のウマに近い形態をしていた。ウマの仲間は、[[更新世]]の[[氷期]]に[[ベーリング海]]を渡り、[[ユーラシア大陸]]やアフリカ大陸に到達し、現在のウマであるエクウス(ウマ属)に分化する。
南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷期に絶滅した。ミオヒップスやメリキップスからも多様な種分化が起こり、ウマ類は一時、大きな発展を示したが、系統の大半は既に絶滅し、現存する子孫が、ウマ、シマウマ、ロバの仲間のみとなっている現状は、反芻類の繁栄と対照的である。
ウマ類は反芻類に比べ、植物を消化してタンパク質に再構成する能力が劣っているため、反芻類に駆逐されたものと考えられているが、ウマは高い運動能力を獲得することで生き残った。野生のウマはほとんど絶滅に近いが、内燃機関が発明されるまでの長い間、人類にとって最も一般的な陸上の移動・運搬手段となることで、家畜動物として繁栄した。
===ゲノム===
馬は31対の[[常染色体]]と、XYの[[性染色体]]、計32対64本の[[染色体]]を持つ。この他に[[細胞小器官]][[ミトコンドリア]]に小さな環状(約1万7千塩基対)の[[デオキシリボ核酸]]を持っている。馬ゲノムプロジェクトは、犬や牛など他の主要な家畜に比べれば若干遅れたが、2006年に開始された。このプロジェクトでは、日本の[[競走馬総合研究所]]も参加している。
約18億円の巨費を賭けたこのプロジェクトでは、2007年2月にまず雌の[[サラブレッド]]について全塩基配列の解読を完了した。総配列は約27億[[塩基対]]、遺伝子の総数は約21000個と考えられている。現在読まれているゲノムは全て雌のものであり、Y染色体の配列は決定されていない。
2009年、同定された遺伝子は2万322個であることが発表され、このうち約4分の3に当たる1万5027個についてヒトの遺伝子と一致することが判明した。
== 動き ==
馬は駆けたり、[[wikt:ジャンプ|ジャンプ]]することが得意である。訓練次第ではさまざまな'''[[歩法 (馬術)|歩法]]'''で歩いたり駆けたり、ジャンプすることができる。また、群れで生活する動物であることから、複数の馬が同じ方向へ一団となって駆けるのが、乗馬等で指示しない場合は、通常である。
=== 歩法 ===
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File:Muybridge horse walking animated.gif|'''英語:Walk、日本語:なみあし(漢字表記:常歩)''' {{convert|5|–|8|km/h|mph|abbr=on}}
File:Trot animated.gif|'''英:Trot、日:はやあし(速歩) ''' {{convert|8|–|13|km/h|mph|abbr=on}}
File:Muybridge_horse_pacing_animated.gif|'''英:Pace、日:側対歩''' {{convert|8|–|13|km/h|mph|abbr=on}}。ただしこの動画はスローモーションで再現している。実際の動きはもっと速い。
File:Canter animated.gif|'''英:Canter、日:かけあし(駈歩)''' {{convert|16|–|27|km/h|mph|abbr=on}}
File:Muybridge race horse animated.gif|'''英:Gallop、日:しゅうほ(襲歩)''' {{convert|40|–|48|km/h|mph|abbr=on}}, record: {{convert|70.76|km/h|abbr=on|sortable=on}}。ただしこの動画はスローモーションで再現している。実際の動きはこれよりはるかに速い。
</gallery>
[[ファイル:Muybridge race horse animated.gif|thumb|200px|疾走するサラブレッドを連続撮影し、それを[[スローモーション]]ぎみに再現した動画。([[エドワード・マイブリッジ|マイブリッジ]]撮影『[[動く馬]]』)<br>疾走中の馬の脚の動きは速すぎて人の目では理解できず、[[高速度撮影|高速連続撮影]]が発明されるまで解明されなかった。]]
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image:A galloping horse and rider. Plate 1 Wellcome L0038057.jpg
image:A galloping horse and rider. Plate 2 Wellcome L0038058.jpg
image:A galloping horse and rider. Plate 3 Wellcome L0038059.jpg
image:A galloping horse and rider. Plate 4 Wellcome L0038060.jpg
image:A galloping horse and rider. Plate 5 Wellcome L0038061.jpg
image:A galloping horse and rider. Plate 6 Wellcome L0038062.jpg
image:A galloping horse and rider. Plate 7 Wellcome L0038063.jpg
</gallery>
=== ジャンプ ===
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ファイル:Postcard_from_1920_of_the_Waregem_Koerse.jpg|1920年の障害レース
File:004 2015 05 24 Pferde.jpg|ジャンプ
File:Show jumping.jpg|[[:en:FEI World Cup Jumping 2011/2012, Western European League|World cup competition at the 2011 Helsinki Horse Show]]にて、ウマの Untouchableとドイツ人騎手[[:de:Daniel Deußer|Daniel Deußer]]が見せた見事なジャンプ
File:CSIYH Daniel Deußer auf Irenice Horta 1.jpg|空中での一瞬の姿勢
File:Horse Jumping (4968682322).jpg|ジャンプの前半と後半
File:Muybridge horse jumping 2.jpg|ジャンプの分解写真
File:Muybridge horse jumping animated.gif|ジャンプの動画
</gallery>
=== リアリング ===
「後脚立ち」すること、つまり後ろ脚だけを地につけて前脚を宙に向かって上げることを英語では「[[:en:Rearing_(horse)|rearing]] リアリング」と言う。ウマはさまざまな時にこのリアリングを行うが、たとえば驚いた時、興奮した時、攻撃的になっている時、人間に従いたくない時、背中に乗っている人間を振り落としたい時などに行う。野生のウマ(家畜でないウマ)で、自由に行動しているウマもこれをすることがある。飼われている馬では、訓練次第でこれを意図的にさせることができる。だが乗り手が望まないのに乗馬中に突然この動作をされると、[[落馬]]や大怪我などの結果になりがちである。
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File:Haflinger.JPG|人が背に乗らない状態でリアリングするウマ
File:Horse rearing LCCN2016889717.jpg|騎乗状態での普通のリアリング
Image:Knabstrupper Baron.jpg|よく訓練されたリアリング
File:Jinete jineteada doma 8.jpg|コントロールできなくなったリアリング。こうなると乗り手は[[落馬]]してしまう。
File:Hagerman Horse rearing.jpg|リアリングしたウマの骨格
</gallery>
=== 後ろ蹴り ===
ウマが攻撃しようとする時にとりうる行動のひとつが「うしろげり」を食らわせることである。まず後脚で地面を蹴り尻を上げ気味の姿勢になると同時に後脚をやや引き付け、足先を鋭く後方に突き出す。ウマの目は頭部の側面についていて、単眼視野は350度ほどある<ref>{{Cite journal|和書|author=鎌谷美希, 瀧本-猪瀬 彩加 |title=ウマは同齢の同種他個体に視覚的選好を示すか:類似性の原則に着目した実験的検討 |journal=北海道心理学研究 |issn=0918-2756 |publisher=北海道心理学会 |year=2021 |volume=43 |pages=1-15 |naid=130008009400 |doi=10.20654/hps.43.0_1 |url=https://doi.org/10.20654/hps.43.0_1}}</ref>、と言われており後方もほぼ視野に入っており<ref>[https://umas.club/hp0215 Umas!「馬の目 馬の視野は350度」]</ref>、後方にいる対象がほぼ見えた状態で狙いをつけてかなり正確に蹴りを繰り出す。ウマどうしの[[喧嘩]]でも、しばしば互いに後ろ蹴りを食らわせる。人間が不用意にウマの後方から近づくと(ウマの機嫌が悪い時などは特に)ウマは突然後ろ蹴りをすることがあり、これを食らうとしばしば死亡事故に至る。そもそも馬の脚力は猛烈で、動作も素早くて避け難い上に、馬の足裏には金属性の硬い[[蹄鉄]]がつけられているので、人が頭部に食らえばしばしば[[頭蓋骨]][[骨折]]の即死という結果となりがちなのである{{要出典|date=2022年9月}}。胸部・肩・鎖骨などに受けても骨折するほどの大怪我となりがちである。馬の調教本の多くでも「ウマの後方に立たないように」との注意がなされており、「ウマの後ろ(尻側)に立たないこと」は乗馬クラブなどでも乗馬初心者に対してまず最初に指導されることのひとつである。
<gallery>
File:Horse Ruth kicking (rbm-QP301M8-1887-658a~4).jpg|片足での後ろ蹴り(動作の前半)
File:Horse Ruth kicking (rbm-QP301M8-1887-658a~3).jpg|片足での後ろ蹴り(後脚が伸びてゆく途中)
File:Horse Ruth kicking (rbm-QP301M8-1887-658a~2).jpg|片足での後ろ蹴り(後脚が伸びきったところ)
File:Horse Ruth kicking (rbm-QP301M8-1887-658b~5).jpg|両足での後ろ蹴り
File:Horse Ruth kicking (rbm-QP301M8-1887-658b~3).jpg|両足での後ろ蹴り(伸びきったところ)
</gallery>
=== 噛み付く ===
ウマどうしが喧嘩する時にとるもうひとつ行動が「かみつく」ことである。
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File:Hevosia Turun saaristossa.jpg|
File:Nepalese horses pick a fight.jpg|
File:Hengstauftrieb Rauris 5.jpg|
</gallery>
=== 食べる ===
<gallery>
File:Horse Ladakh.jpg|草を食べるウマ
File:Horse eating grass.jpg|草を食べるウマ
Horse_eating_MVI_7496.MOV.ogv|干草を食べるウマ(動画)
File:Horse eating tree leaves.jpg|木の葉を食べるウマ
</gallery>
=== リラックス時の動作 ===
<gallery>
File:Obergurgl - horse lying.jpg|脚を曲げ、座っているウマ
File:Horse lying down.jpg|座っているウマ
File:Grey horse lying down in field.jpg|すっかり身体を横にし、脚を伸ばしたウマ
File:Young boy lying on a horse's stomach, undated. (7019988041).jpg|すっかりリラックスして仰向けになったウマ
File:Relaxing horses.JPG|リラックスしたウマたち
</gallery>
=== フレーメン ===
[[File:Horse showing its teeth.jpg|thumb|right|170px|ウマの[[フレーメン]]]]
牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「[[フレーメン]]」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にある[[ヤコプソン器官]](鋤鼻器)と呼ばれる[[フェロモン]]を感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。発情した[[牝馬]]の生殖器の臭いをかがせるとこの現象を容易に起こせるため、ウマのフレーメンに関する歴史的エピソードがいくつかある。また、ウマは[[レモン]]などのきつい匂いをかいだり、初めて嗅いだにおいのときにもフレーメンをし、牝馬もフレーメンをすることがある。{{要出典|date=2010年12月}}
=== 速度 ===
[[File:Mongols Wrangler.jpg|thumb|right|220px|[[モンゴル]]のウマが疾走している様子。]]
駆ける速度については、平均60 [[キロメートル毎時|km/h]]、ともされ、最高速度は87 km/hともされる。競走用の[[サラブレッド]]ならば最高87 km/hを出すことができる。また、競走用[[クォーターホース]]は、比較的容易に90 km/hを達成する。2005年のアメリカでの調査では、下級戦にもかかわらず302 [[メートル|m]]のレースのラスト101 mの平均速度が92.6 km/hに達していた<ref name="A1"/>。(ただし、馬は速くはあるが、瞬間最高速度ではしばしば「地上最速」(駆ける速度が最速)と形容される[[チーター]]には、さすがにかなわない。チーターのほうは(数秒程度の間は)100 km/h - 110 km/hほどで走ることができる、と言われている。)
速力に優れ、ヒトを乗せてかなり速い速度で走ることができる。実際のレースでの記録としては、[[クォーターホース]]の世界レコードで440ヤード(402 m)を20.274秒<ref>{{Cite web |url=https://www.aqha.com/media/22294/world-records.pdf |title=World Records |format=PDF |accessdate=2019-01-03 |publisher=The American Quarter Horse Association}}</ref>というものがあり、これは時速に換算すると71.4 km/hとなる。
もう少し長い距離では[[サラブレッド]]が有利となり、1000 mの世界レコードが53.07秒(時速68 km)を記録している。3200 mでも世界レコードは3分12秒5(時速60 km)となっていて、なお速度を維持している。
馬は加速に時間がかかるため、特に短距離戦ではレース中の大部分を上記の速度よりも遥かに速い速度で走っている。2005年のアメリカでの調査では、330ヤード(302 m)のレースのラスト101 mの平均速度が92.6 km/h、440ヤード(402 m)のレースでも、レース中間で時速92.4 kmに達していた<ref name="A1">{{cite journal | author=Nielsen BD, Turner KK, Ventura BA, Woodward AD, O'Connor CI | title=アラブ種及びサラブレッド、クォーターホースの競走速度 | journal=馬獣医学雑誌 |date=2006 | pages=128-32 | volume=38 | issue=S36 }}</ref>。402 mではサラブレッドもレース終盤で時速83.9 kmを記録している<ref name="A1"/>。ただし、この2005年の調査は何れも下級戦である。同じ調査で、1006 mのレースでのサラブレッドの速度は、レース中盤でも時速59.6 kmに過ぎなかった。これは、2002年に日本でほぼ同じ距離(1000 m)で記録されたレース中間の200 m区間平均時速75.0 km(9.6秒)<ref>{{Cite web|和書|url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=1684575&year=2016&month=7&day=26 |title=最速ラップ9秒6は時速75キロ/競走馬総合研究所|極ウマ・プレミアム |publisher=日刊スポーツ新聞社 |accessdate=2019-01-03}}</ref>よりかなり遅い。
[[馬術]]競技のカテゴリーに入る[[エンデュランス馬術競技]]は、ヒトにおける[[ウルトラマラソン]]に相当する競技であり、30 - 50キロメートルごとに馬体検査(心拍数が規定値を超えると失権)と休憩を挟みつつ最大160キロメートルを走破する。走路は整地されているとは限らず、山や川があったりする。平均速度はこの距離でも時速28 km近くに達することがある。使用するのは中間種でもサラブレッドでも何でもよいが、[[アラブ種]]が良く使われる。
競歩に相当する[[繋駕速歩競走]]では、Always B Mikiという[[スタンダードブレッド]]が、二輪[[馬車]]をけん引して[[側対歩]]で1マイル(約1609 m)を1分46秒(時速55 km)で完歩した<ref>{{Cite web |url=https://www.diamondcreekfarm.com/horse/always-b-miki/ |title=Always B Miki |website= Diamond Creek Farm |accessdate=2019-01-03}}</ref>。
== 人の感情を読み取る能力 ==
ウマは(イヌ同様に)人の感情を読み取ってそれに敏感に反応しているということはウマに関係する人々の間ではかなり古くから言われていたものの、それについての科学的な研究はほぼ無かったが、2018年にようやく発表された。
2018年6月、[[北海道大学]]は、馬は人の[[表情]]と[[声]]を関連付けて、人の[[感情]]を読み取るという研究成果を発表した<ref>{{Cite news |title=馬は人の気持ちに敏感 表情と声を関連付けて感情読み取る 北大など研究(北海道新聞) |url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180621-00010004-doshin-hok |accessdate=2018-06-21 |work=Yahoo!ニュース }}{{リンク切れ|date=2019-01-03}}</ref>。
== 種類・分類、品種==
さまざまな分類法がある。たとえば解剖学的分類、用途による分類、運動性能による分類、体高と体長の比率による分類 等々がある。どの分類方法も曖昧さを孕んでいる。
動物[[分類学]]的にはこれらすべてがウマ(正確には'''イエウマ''')という単一の種である。
===解剖学的分類===
* 東洋種と西洋種
* 短頭種と長頭種
===用途による分類===
* '''乗用馬'''{{efn2|{{lang-en-short|riding horse}}}}・'''輓用馬'''{{efn2|{{lang-en-short|draft horse}}}}・'''駄馬'''{{efn2|{{lang-en-short|park horse}}}}{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}} - ウマの使用目的に沿った分類法{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。
* 外観や能力による分類法 - いずれも個々のウマの外観的特徴に基づく分類ではなく、登録されている品種単位での分類である。
** '''常歩馬'''{{efn2|{{lang-en-short|walking horse}}、{{lang|en|walker}}}}・'''速歩馬'''{{efn2|{{lang-en-short|trotter}}}}・'''駈歩馬'''{{efn2|{{lang-en-short|galloper}}、{{lang|en|runner}}}}{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}} - [[歩法_(馬術)|馬の歩法]]に着目した分類法{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。ドイツのミツテンドルフが考案したものでかつては普及していた。
* '''温血種'''{{efn2|{{lang-en-short|hot-blood horse}}}}・'''冷血種'''{{efn2|{{lang-en-short|cold-blood horse}}}}{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}} - ウマの運動性能に基づく分類法であり、大まかな分類として温血種は軽種、冷血種は重種が該当される{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。なおイギリスでは温血種をサラブレッドとアラブに限定している{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。
* '''軽種'''{{efn2|{{lang-en-short|light horse}}}}・'''中間種'''・'''重種'''{{efn2|{{lang-en-short|heavy horse}}}}{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}} - 日本で最も一般的に用いられる分類法で{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}、軽種は、サラブレッドやアラブもしくはアングロアラブに限定して適用される{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。対して重種は、ペルシュロンやブルトンといった大型の種に適用される。なお中間種は、軽種と重種の交雑された種に適用される{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。この分類法は1937年に馬政局が発令した「馬の種類呼称」という規則が発端となっている{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。
* '''正方形馬'''・'''長方形馬'''・'''高方形馬''' - 体高と体長の比率による分類法。ドイツでつくられた考え方。
* '''純血馬'''・'''半血馬''' - 純血といっても遺伝的・生物学的な根拠に基づくものではなく、公式な血統管理団体による登録による分類法である。
* '''正常馬'''・'''ポニー''' - 1899年にイギリスの王立農業協会で提唱された分類法で、体高が148センチ以下のものを機械的にポニーと称した{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。なお現代においては目安としての信頼性しか持ち得ない{{sfn|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012|p=19}}。
競走馬については現在は主に登録された[[競走馬の血統|血統]]に基づいて分類を行うのが主流である。たとえば、サラブレッドとして然るべき団体から登録を受けたウマがサラブレッドであり、サラブレッドであれば軽種である。仮にこれとまったく同一の遺伝子を備えていたとしても登録がなければサラブレッドとは認められない。
{{See also|馬の品種の一覧}}
===在来種と改良種===
各地にそれぞれ'''在来種'''と呼ばれる固有の特徴をもった品種が少数存在する。在来種は古来のウマの特徴を比較的よく残しているが、それらも多かれ少なかれ人間の手によって改良されている。細かくみると約250種類以上確認される。混血も多い。それに対して、'''改良種'''は、スピードや耐久力、パワーなどを高めるような[[品種改良]]がなされており、ひきかえに不定期の給餌に耐える体質や危険から身を守る本能の一部を失っている。サラブレッドや[[ポニー]]など、現代人が乗馬クラブや競馬場で頻繁に目にする馬の多くは後者の「改良種」のほうである。
===日本での分類===
現在日本では、ウマを軽種とそれ以外に分類している。このうち軽種については、財団法人[[日本軽種馬登録協会]]が登録規定を行っている。軽種以外は社団法人[[日本馬事協会]]が登録を行っており、登録規定で乗系、輓系(ばんけい)、小格に分類している。ただし日常的には重種、中間種などの表現が用いられることもある。
* 和種・洋種・雑種
* 甲種・乙種・丙種・丁種
===野生種===
[[ファイル:Przewalskis-horse-036437.jpg|サムネイル|220x220ピクセル|現存する唯一の野生種、[[モウコノウマ]]]]
現在では、 ノウマ(''Equus ferus'')の野生種([[ターパン]]など)は全て絶滅したとされる。
====再野生種====
アメリカの[[ムスタング]]やイタリアの{{仮リンク|ジャーラ馬|en|Giara horse|label=}}、宮崎県[[都井岬]]の[[御崎馬]]などは、半野生状態で生息しているが、いずれも家畜として飼育されていたものが逃げ出し、繁殖したものである。かつては北海道では野生化した馬を狩猟・捕獲し、ばん馬として荷物や馬ソリの牽引をさせることもあった。
[[モンゴル]]に生息する「[[モウコノウマ]]」{{efn2|[[モンゴル語]]でタヒ、学名は{{sname|Equus ferus przewalskii}}。}}は、従来、世界で唯一とされる真の現生の野生ウマとされていたが、最近の研究で人間によって家畜化された馬の子孫であるという説が唱えられている<ref>{{Cite web|和書|title=野生馬、地球上からすでに絶滅していた DNA分析で判明|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3163756|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-02-27|language=ja}}</ref>。1968年以降、生息が確認されなくなり、本国では一度絶滅したとされる。その後、海外の[[動物園]]で飼育されていたものを里帰りさせ、自然保護区の[[ホスタイ]]国立公園内で繁殖を重ね、200頭を超えるまでになっている。
<!--*{{Extinct in the wild}}-->
===軽種===
[[ファイル:Orfevre20111225(2).jpg|thumb|軽種の代表、[[サラブレッド]]([[オルフェーヴル]])]]
主に乗用や、乗用の馬車を牽くために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。
* [[サラブレッド]]
* [[アラブ種|アラブ]]
* [[アングロアラブ]]
* [[アンダルシア馬|アンダルシアン]]
* [[アハルテケ]]
* [[トラケナー]]
* [[リピッツァナー]]
===中間種===
[[ファイル:Quarter Horse(REFON)-cleaned.jpg|thumb|中間種の代表、[[クォーターホース]]]]
軽種と重種の中間的な性質を持ち、軽快さと比較的温厚な性質を持つ。
* [[セルフランセ]]
* [[スタンダードブレッド]]
* [[クォーターホース]]
* [[ハクニー]]
* {{仮リンク|ハンター(馬)|en|Field hunter|label=ハンター}}
* {{仮リンク|アングロノルマン|en|Anglo-Norman horse|label=}}
* [[フリージアン・ホース]]
===重種===
[[ファイル:Percheron 3 stehend rechts.jpg|thumb|重種の代表、[[ペルシュロン]]]]
主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い[[甲冑]]を着込んだ重装備の[[騎士]]の[[乗馬]]とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。
[[北海道]]特有の[[競馬]]競走の一種、[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]で用いられているのは、この重種でもペルシュロンやベルジャンの混血馬や、これらと北海道和種などの在来種の混血(重半血)が多い。軽種馬以外の登録を管轄する日本馬事協会では、平成15年度{{efn2|2013年3月1日 - 2014年4月30日。}}以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については、純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。
* [[ペルシュロン]]
* {{仮リンク|ブルトン種|en|Breton horse|label=ブルトン}}
* {{仮リンク|ベルジャン|en|Belgian horse}}(ベルジアン)
* [[シャイヤー]]
* [[クライズデール]]
===ポニー===
{{Main|ポニー}}
[[ファイル:Shetland pony moult1.jpg|thumb|シェトランドポニー]]
ポニーは、鬐甲(きこう)までの高さが147 cm以下の馬の総称である。かつては、14ハンド2インチ(14.2ハンドと表記する)=約147センチ(1ハンドは4インチ=10.16センチメートル)に満たないウマをポニーと称し、それ以上のものを馬として機械的に分類していた。近現代になって血統登録による品種の分類が確立するまでは、例えば下に示すシェトランドポニーでも大柄であれば「馬」と考えられていた。今でも日常的には、品種に関わらず小柄な馬をポニーと称することが多い。
* {{仮リンク|シェトランドポニー|en|Shetland pony|label=}}
* {{仮リンク|ウェルシュポニー|en|Welsh Pony and Cob|label=}}
* {{仮リンク|ハクニーポニー|en|Hackney pony|label=}}
* {{仮リンク|コネマラポニー|en|Connemara pony|label=}}
* {{仮リンク|ミニチュアホース|en|Miniature horse|label=}}
* [[アメリカンミニチュアホース]]
===日本在来種===
[[ファイル:Hokkaido_Pony.jpg|thumb|北海道和種(道産子)]]
{{main|日本在来馬}}
現存する[[日本在来馬|日本在来種]]は以下の8種。北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。在来馬はファラベラのような小型ポニーや、シェトランドポニーのような中型ポニーではなく、蒙古馬系に属する比較的大型のポニーに含まれる。また、大型在来馬である[[南部馬]]等は近代化による西洋種との交雑により多数の大型在来馬は絶滅した。
現存する小型在来馬は西洋種との交雑に用いられたものは少なく、当時の使役馬・駄馬の範疇に含まれるものが多く遺る。
* [[北海道和種]](北海道):「道産子(ドサンコ)」の俗称で親しまれている。
* [[木曽馬]]([[木曽郡]]、[[岐阜県]])
* [[野間馬]]([[今治市]]野間)
* [[対州馬]]([[対馬]])
* [[御崎馬]]([[都井岬]])
* [[トカラ馬]]([[トカラ列島]])
* [[宮古馬]]([[宮古島]])
* [[与那国馬]] ([[与那国島]])
==人間とウマ==
===人間によるウマ利用の歴史===
[[ファイル:Pelham bit.jpg|thumb|はみ]]
[[ファイル:Ramses II at Kadesh.jpg|thumb|戦闘馬車]]
[[ファイル:Stirrup.png|thumb|あぶみ]]
{{main|馬の家畜化}}
[[ファイル:Campeonato Argentino de Polo 2010 - 5237109478 e7ed034169 o.jpg|thumb|馬はスポーツでも使用されている。写真は[[ポロ]]の試合。]]
Equus(エクウス、ウマ属)の名で呼ばれるウマやロバの直接の先祖は、200万年前から100万年前にあらわれたと考えられている。ウマは北米大陸で進化し[[ノウマ]]となり、ユーラシア大陸へも広がった。
[[ヒト]]は古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、[[旧石器時代]]に属する[[ラスコー洞窟]]の壁画にウマの姿がみられる。原種ウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。
紀元前4000年から3000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていた[[ヒツジ]]、[[ヤギ]]、[[ウシ]]に続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた{{efn2|6000年前頃、野生種の[[モウコウマ]]を[[黒海]]から[[カスピ海]]の地域で家畜化したものと考えられている。ウマが家畜化されたと考えられる最古の遺跡は黒海の北岸に位置するデレイフカ遺跡から出土した馬である<ref>{{Cite book |和書 |author=松井章 |chapter=狩猟と家畜 |editor=上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦|title=暮らしと生業 |series=列島の古代史 : ひと・もの・こと ; 2 |publisher=岩波書店 |date=2005-10 |page=181}}</ref>。}}。
これは、ウマを人間が御すために使う[[手綱]]をウマの口でとめ、ウマに手綱を引く人間の意志を伝えるための馬具であるはみ(銜)がこの時代の遺物として発見されており、ハミは馬の[[下顎骨]]の第二[[前臼歯]]と接し摩耗痕を残すことが観察されるため、馬の家畜化を判断する指標として活用されている。同じく紀元前3500年ごろ、[[メソポタミア]]で[[車輪]]が発明されたが、[[馬車]]が広く使われるようになるのは紀元前2000年ごろに[[スポーク]]が発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることが出来るようになってからである。
馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、[[地中海]]世界から[[黄河]]流域の[[中国]]まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明の[[都市国家]]群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、[[チャリオット]](戦車)として軍隊の主力となった。また、ウマの普及は、ウマを利用して耕作を行う馬耕という農法を生んだ。
ウマは反芻動物ではない上にウシやヒツジなどに比べて[[代謝]]が高く、それらと比較すると体重に対して約30パーセント以上多くの[[牧草]]を必要としたため、中東の古代国家ではウシやヒツジと同時に大量のウマを飼うことは困難だった<ref name="Harris">[[マーヴィン・ハリス]]『食と文化の謎:Good to eatの人類学』 岩波書店 1988年、ISBN 4000026550 pp.110-111.</ref>。ウマはその貴重さから食用として発達することはなく、この地域から馬肉に関する[[食のタブー]]が生まれたと考えられている<ref name="Harris"/>。
一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する[[遊牧]]という生活形態が、著しく効率化し、[[キンメリア人]]、[[スキタイ|スキタイ人]]などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、[[東ヨーロッパ]]から[[モンゴル高原]]に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗る技術を発明することによって高度な移動・機動の能力を獲得し、ウマの上から[[弓 (武器)|弓]]を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、[[紀元前8世紀]]に[[アッシリア]]は、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では[[紀元前4世紀]]に北で遊牧民と境を接していた[[趙 (戦国)|趙]]の[[武霊王]]が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための[[鐙]](あぶみ)や[[鞍]](くら)が発明され、[[蹄鉄]]が普及して、非遊牧民の間でも、[[西ヨーロッパ]]の騎士や日本の[[武士]]のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。
15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は[[軍馬]]に適したウマを育成するために[[競馬]]を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。
やがて大航海時代に入り、白色人種はアメリカ大陸に到達した。彼らが手にする鉄器や火薬の威力、乗りこなす馬の機動力や威圧感、そして彼らが持ち込んだ[[天然痘]]などの伝染病はそれらを知りえなかった[[アメリカ先住民]]を恐怖に陥れ、白人による[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|中米や南米の民族の征服]]は短期間で完了。結局、[[インカ帝国]]や[[アステカ帝国]]など、独自の文明をもって栄えていた社会はほぼ壊滅させられる。しかし[[スー族]]など北米の[[インディアン]]の中には、馬の機動性をいち早く取り入れ、生活様式を向上させるものもあった。
20世紀に至り、内燃機関による自動車・戦車の実用化、また機関銃などを使った弾幕戦法の普及など、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを[[盲導犬]]のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。その他、乗馬を通じ心を癒す[[ホースセラピー]]も注目を浴びている。
====日本の馬====
=====縄文・弥生・古墳時代=====
[[File:埼玉県熊谷市上中条日向島出土_埴輪_馬-2.JPG|thumb|[[埴輪]]([[重要文化財]])。]]
氷河期には日本列島はユーラシア大陸と地続きで、馬が存在していた。しかし氷河期が終わると日本列島は草原が減少し森林化が進み馬の生存に適さなくなり馬は絶滅した{{sfn|尾崎|2012|p=16-17}}。
古墳時代になると、朝鮮半島南部から軍事的な要請から馬の輸入が開始された。284年([[応神]]15年)には[[百済]]王から、[[阿直岐]]を使者として良馬2匹が献じられた。「当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を[[生駒山]]と号した」などの記録がある{{sfn|安田初雄|1959}}。
4世紀末の北部九州への輸入を皮切りに、5世紀後半には日本列島各地の遺跡から出土した馬具などによって馬の存在が確認されている{{sfn|尾崎|2012|p=17-18}}。
日本での大規模な馬匹生産は、5世紀前半から中頃にかけて[[河内湖]]周辺で朝鮮半島からの渡来人によって行われたのが最初で<ref>{{Cite journal|和書|author=堀哲郎 |title=日本列島への騎馬文化導入とその展開 : 東日本を中心に |journal=専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報 |publisher=専修大学社会知性開発研究センター |year=2016 |month=mar |issue=2 |pages=22-24{p.17-45) |naid=120006785655 |doi=10.34360/00008231 |url=https://doi.org/10.34360/00008231 |ref={{SfnRef|堀|2016}}}}</ref>、5世紀後半には渡来人の移配とともに飼育好適地が多い東日本地域へ馬匹生産の移管が実施された<ref>堀、2016年、25‐27頁。</ref>。この馬匹生産の移管は[[雄略天皇|雄略朝]]期・[[大和政権]]の東日本への支配の強化を示すものであった<ref>{{Cite journal|和書|author=土生田純之 |title=古墳時代の渡来人 : 東日本 |journal=専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報 |publisher=専修大学社会知性開発研究センター |year=2018 |month=mar |issue=4 |pages=80, 85(p.63-87) |naid=120006785676 |doi=10.34360/00008280 |url=https://doi.org/10.34360/00008280}}</ref>。486年([[顕宗]]2年)には「天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛[[無文銀銭 |銀銭]]一文、馬被野」(天下は泰平で…馬は野を被うほどだった){{Sfn|日本書紀|720}}。
[[ファイル:蔀屋北遺跡出土 馬埋納土坑.JPG|thumb|200px|left|{{center|[[古墳時代]]の埋葬馬}}{{small|大阪府四條畷市出土。[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]展示。}}]]
5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の[[応神天皇]]の陪塚や[[仁徳天皇]]の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の[[副葬品]]も鞍、[[轡]](くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。群馬県の[[白井北中道遺跡]]からは馬の足跡が4万個以上パックされた[[土層 (考古学)|土層]]が確認されている。これは[[榛名山]]の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。
その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『[[日本書紀]]』には[[天照大神|アマテラス]]が岩戸に隠れたのは[[スサノオ]]が斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『[[古事記]]』では、スサノオの息子である[[大国主|オオクニヌシ]]が[[出雲]]国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。
東北日本の[[蝦夷]]へは、馬の飼育が伝わり、[[騎射]]による優れた狩猟技術が発達した。また飼育した馬を[[ヤマト王権]]側に売っていた。また帰服し[[俘囚]]となった蝦夷からは飼育法の他、乗馬や騎射などの戦闘技術がもたらされた。
=====飛鳥・奈良時代=====
646年の[[大化の改新]]による一連の制度の整備によって、[[駅馬]]・[[伝馬]]といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬[[牧 (古代)|牧]]も開かれた(ただし[[去勢]]の技術は導入されなかった)。当時[[律令制]]のモデルであった大陸の[[唐]]朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。[[壬申の乱]]では[[置始兎]]が率いて急行した千余騎や、勇士[[来目]]らの騎馬突撃など、[[騎馬隊]]の活躍が目立った{{sfn|小島|1998|pp=330-331,336-337}}。
7世紀に造られた[[藤原宮]]跡では、酷使により関節部の癒合・肥大化をきたした馬の骨が見つかった。宮の造営には多数の馬が用いられたようである{{sfn|山崎|2013|pp=348-349}}。藤原宮跡の骨の中には、肉を取るための削り痕が残っているものと、そうした痕跡がないものがあり、部分的に食用にされたと考えられる{{sfn|山崎|2013|p=357}}。[[天武天皇]]4年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令以後{{sfn|小島|1998|pp=362-363}}、食用を禁止する命令がたびたび下されたが、いずれも一時的な禁令で、あまり行き渡らなかったようである{{sfn|山崎|2013|p=358,360}}。
668年([[天智]]7年)には、「干時近江国講武 又多置牧 而放馬」([[近江国]]は武力を整え、牧人を多く置き、馬を放牧した)とある<ref>『[[吾妻鑑]]』。</ref>。
=====平安時代=====
[[平安時代]]には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る[[騎射]]などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが<ref>日本競馬史{{Full citation needed |date=2019-01-05 |title=出版者、出版年、巻数、ページ番号などすべて不明です。}}</ref>、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事ごと、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる[[賀茂競馬]]が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、[[応仁の乱]]による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化ではもっとも歴史のある行事とされる。また藤原道長は馬を好み度々天皇の行幸を仰いでまで馬比をおこなっている。また、平安時代の大乱[[天慶の乱]]の[[平将門]]は騎馬に巧みで、関東平野を中心に騎馬による機動的な戦闘を行ったとされ、その後の源平合戦でも関東地方の武者達が騎馬に巧みであったことが[[平家物語]]などに記述されている。馬は金と並んで東国の産物とされ、「後撰和歌集」には尾駮(おぶち)の牧が歌われ、[[藤原秀衡]]が[[源義仲|源義仲(木曾義仲)]]に軍馬を贈る等、軍事物資としても貴重な存在であった。
=====鎌倉時代=====
10世紀に武士が誕生すると、[[大鎧]]を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから[[鎌倉時代]]にかけての武士の馬術への深い関心は、[[軍記物語]]である『平家物語』に記された[[一ノ谷の戦い]]で馬に乗ったまま崖を駆け下りた[[源義経]]の[[鵯越]]などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして騎射、[[流鏑馬]]、[[犬追物]]などが盛んになり、「競馬」はやがて[[鎌倉競馬]]として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見ることが出来る。
[[ファイル:Tagezaki Suenaga,Ekotoba5.jpg|thumb|『[[蒙古襲来絵詞]]』前巻絵五 [[白石通泰]]の手勢]]
『[[蒙古襲来絵詞]]』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている<ref>[http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm 季長、奮戦する] 九州大学附属図書館 コレクション</ref>。室町時代以降[[大坪流]]馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『[[江戸図屏風]]』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている<ref>[http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/l62.html] 国立歴史民俗博物館{{リンク切れ|date=2021年7月}}</ref>。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の[[肥料]]としても貴重なものであった。
武士は敵に噛みついたり蹴り飛ばすなど気性の荒い馬を好み、このような馬を乗りこなす者を豪勇としてもてはやしたことから、去勢しないまま飼育していた。
=====江戸時代=====
[[File:Mounted samurai showing uma yoroi or bagai (horse armor) 10.jpg|thumb|220px|武士の鎧と馬の鎧]]
これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの[[江戸時代]]中期まで続いた。特に[[徳川家康]]、[[徳川家光]]、[[徳川吉宗]]らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった([[高田馬場]])。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。
8世紀初頭に制定された大宝律令では[[馬寮]](左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の[[文武天皇]]の時代には、関東に大規模な[[御料牧場]]が設けられ、年間200 - 300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に関東を制覇した[[北条氏政]]によって整備され、[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]の広い地域にまたがっていた。これを監督していた[[千葉氏]]は後に[[豊臣氏]]に滅ぼされて新領主である[[徳川氏]]の直轄地域(千葉野、後の[[小金牧]]・[[佐倉牧]])となり、同氏が[[江戸幕府|幕府]]を開いた江戸時代に入ると[[代官]]が設置されて最盛期には年間2000 - 3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の[[下総御料牧場]]の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった<ref>{{Cite book |和書|title=日本競馬史 |publisher=日本中央競馬会 |date=1966 |volume=1 |editor=日本競馬史編纂委員会}}{{要ページ番号|date=2019-01-05}}</ref>。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。
古い文書の記述を信用するのであれば、日本の馬は江戸期に小型化した。平将門の愛馬「求黒」が160 cm{{efn2|脚の先から肩までの高さ。}}もの大型馬で人を踏み殺したと言うのは誇張だとしても、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高140 cm以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150 cmで高幹{{efn2|この時代の馬の体高は四尺(≒120 cm)を基準に、何寸あるというように記される。たとえば源義経の愛馬として名が残る[[青海波]]は「七寸」で四尺七寸≒約141 cmとなる。}}とされた。戦国時代まで馬の大きさの基準は概ねこの程度であったが{{efn2|このサイズはスピード競争を目的として近代に品種改良が重ねられたサラブレッドの平均的な体高である160-170 cmと比べるとかなり小型であるが、小型種シェトランドポニーの平均的な体高である100 cmに比べると遥に大型である。モンゴル帝国の征服事業で使われた蒙古馬のような[[中央ユーラシア]]の遊牧民の優秀な軍馬も日本在来馬と同じ程度のサイズである。馬は一概に大きければ優秀というものではない。}}、江戸末期の御料牧場の繋養馬は平均して10-15 cmほど小型化していた{{efn2|小型化が意図的な改良の結果かどうかは不明。江戸期になってウマが軍用としてよりも荷駄用として重用されるようになり、小型のほうが便利だと考えられるようになった、と考える者もいる。一方で、江戸期の文書に現れるウマへの評価は、以前と同様に、大きいものが良い、というものであり、小型化は意図的なものではなく、当時の繁殖の方法論による帰結とも考えられる。}}。
改良が全く行われなかったわけではない。徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「日本の馬とは違って体が大きく、おとなしい」と称賛している。{{要出典範囲|[[下北地方|下北]]の[[蠣崎氏]]は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、|date=2008年1月}}[[薩摩国|薩摩]]の[[島津貴久]]や、[[南部駒]]の産地を支配した[[伊達政宗]]は、ペルシャ種馬を導入して[[ウマ#在来種と改良種|在来種]]の改良を行ったと伝えられている<ref>日本馬政史,帝国競馬協会,昭和3{{Full citation needed |date=2019-01-05 |title=全5巻ある文献のようですが、何巻目の何ページを用いているか不明です。}}</ref>。江戸時代の[[征夷大将軍|将軍]]徳川吉宗や[[徳川家綱|家綱]]は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした{{efn2|このうち、吉宗が[[長崎市|長崎]]の[[出島]]の貿易でオランダ商人ケーズルより購入した種馬についてはカンス、トロン、ミキルという名も残っている。ウマの品種については不明。当時の日本のウマの分類は産地によるものであり、品種ではないため、オランダ産馬とか唐馬とかペルシャウマと記録されているが、現代でいうアラブ馬に相当するかは不確かである。品種を意味すると思われるものには安永年間に汗血馬を輸入したという記録もある。}}。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代に[[フランス]]からアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍[[徳川家茂]]の時代にフランスで流行病によって[[蚕]]が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればと[[ナポレオン3世]]からアラビア馬{{efn2|下総御料牧場の記録によればサラブレッド。}}16頭が贈呈された。しかし当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解する者がおらず、珍貴な品扱いで全て家臣や諸侯等へ下賜してしまった<ref>日本馬政史{{Full citation needed |date=2019-01-05 |title=出版者、出版年、巻数、ページ番号などすべて不明です。}}</ref>{{efn2|明治時代になってフランス公使よりこの件についての抗議を受け、捜索により[[高砂 (馬)|子孫]]が発見された。この子孫からは昭和に至るまで活躍競走馬が出た。}}{{efn2|これについては、ナポレオン3世の贈呈馬は26頭で、日本に到着した年を1867年(慶応3年)とする異説もあり、日本外務省も同様の立場である。『日本馬政史』の原文と考えられる『大日本馬種略』では馬の散逸は明治政府に責任があるような記述になっている。詳しくは[[ナポレオン三世の馬]]参照。}}。明治に入ると、外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。
[[ファイル:100 views edo 086.jpg|thumb|[[歌川広重]]「[[名所江戸百景]]」より。日本馬は蹄が硬く、明治期以前は未舗装道のため蹄鉄を必要とせず、専用のわらじを履いていた。]]
江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って[[荷馬]]に用いられるものが増えてきた。(既に中世から荷馬として多く用いられていた→[[馬借]])西洋とは異なり日本では馬車は発達せず、馬に直接荷を背負わせる方法が主流であった。また、農馬は[[田]]の耕作や[[木馬道|木材の搬出]]、副次的に馬糞を田畑への肥料とするため飼養された。なお、日本馬は蹄が硬いため蹄鉄を必要とせず、馬には専用の[[わらじ]]([[馬沓]])を履かせていた。
=====近代=====
明治に入り、[[明治4年]][[6月5日 (旧暦)|6月5日]](1871年7月22日)に[[平民]]の乗馬が許可され<ref>岩波書店編集部『近代日本総合年表』1968年11月、46頁</ref>、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。[[日清戦争]]・[[日露戦争]]以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ<ref>{{Cite journal|和書|author=杉本竜 |title=日本陸軍と馬匹問題 : 軍馬資源保護法の成立に関して |journal=立命館大学人文科学研究所紀要 |issn=0287-3303 |publisher=立命館大学人文科学研究所 |year=2004 |month=dec |issue=82 |pages=83-116 |naid=120006887094 |doi=10.34382/00013783 |url=https://doi.org/10.34382/00013783 |accessdate=2021-07-01}}</ref>、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは[[競馬の歴史 (日本)]]参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最も一般的な実用家畜であり、最大時国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。
=====戦後=====
1945年、[[連合国軍最高司令官総司令部]]指令により国による馬の施策、研究、団体の解散と再編が実施された。
太平洋戦争直後の1950年に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、1960年代中頃には30万頭に、1975年には僅か42,000頭まで減った。2001年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が[[競走馬]]で、農用馬は18,000頭にすぎない。※食肉用に肥育されるウマ(肥育馬)は、農用馬に分類されている。
2005年現在では日本在来馬は8種、約2,000頭のみとなった。なお、[[道路交通法]]上、馬が引く車および人の騎乗した馬は[[軽車両]]に分類される。
昔から馬を大切にしていた地方では現代でも、馬は「蹴飛ばす」=「厄を蹴飛ばす縁起物」などと重宝しているところもある。
===乳の搾取===
モンゴル高原の[[遊牧民]]の間では、現在でもウマは重要な乳用家畜の一つであり、発酵乳食品([[馬乳酒]]:アイラグおよび[[ヨーグルト]]:タラグ)の重要な原料となる<ref>{{Cite journal|和書|author=渡辺幸一 |title=モンゴルの伝統的発酵乳(アイラグおよびタラグ)中の乳酸菌および酵母の多様性 |journal=日本乳酸菌学会誌 |issn=1343327X |publisher=日本乳酸菌学会 |year=2011 |month=nov |volume=22 |issue=3 |pages=153-161 |naid=10029863261 |doi=10.4109/jslab.22.153 |url=https://doi.org/10.4109/jslab.22.153}}</ref>。
===食肉===
[[馬肉]]は馬を使う民族でも食べない地域がある。
日本でも地域によって異なる。
===荷役(荷役馬)===
荷物を背負わせたり、荷車、[[橇]]、運河の船などを引かせるために用いる。
:[[駄獣]]・伝馬に乗せられる荷重は40貫目(150kg)までと決められていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://guidance.city.yokkaichi.mie.jp/hakubutsukan/jp/3426.html |title=3426 荷駄(にだ) | 四日市市立博物館 展示ガイド |access-date=2022-09-19 |website=guidance.city.yokkaichi.mie.jp |publisher=四日市市立博物館}}</ref>。また江戸時代に使われた馬が背負う単位として駄が使われ、江戸時代の定めでは三十六貫(135kg)を言った<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/?ndl_crd_session=fteng1u9n9agn6f6ht86r0ukv2 |title=江戸時代の単位で「駄」とは何kgのことか。 |access-date=2022-09-19 |website=crd.ndl.go.jp |publisher=レファレンス協同データベース}}</ref>。競馬などでは[[負担重量]]は年齢と体格などで決められており、だいたい60kg下である。
:道路の状態によるが一頭が引ける力は[[馬力]]と呼ばれる。馬種、馬の体格、車輪付きかそりか、道路の状態、馬具などによって運べる重量は変化する。[[ばんえい競走]]では、最高の1,000㎏のソリを運ぶ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/bannei.html |title=輓営競馬 |access-date=2022-09-19 |website=www.komazawa-u.ac.jp |publisher=駒沢大学}}</ref>。
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File:Horses carrying freight in front of the Bartlett Brothers offices , Dawson (J6147).jpg|カナダ、ユーコン、[[ドーソン・シティ|ドーソン]]で荷物を運ぶウマ([[1899年]])
File:Horse-drawn sleigh carrying hay and food (J6011).jpg|カナダで[[橇]]を引くウマ([[1900年]]ころ)
File:Horse drawn stretcher carrying a wounded man from the Battle of Slim Buttes, Dak. Terr. By Morrow, 1876 - NARA - 530894.tif|二頭のウマに2本の丸太を背負わせ[[ストレッチャー]]状にして負傷者を運ばせているところ([[1876年]])
File:Pack horse used by U.S. Army Signal Corps, carrying chest of instruments for local outfit for wireless telegraph LCCN2014683310.jpg|米軍の通信隊が無線[[電信|テレグラフ]]装置をウマに運ばせる時の背負わせ方の例。軍隊で荷役に使う場合は「軍用馬」にも分類される。
File:Pack Horse.jpg|pac saddleとpac bagを組み合わせて荷物を背負わせ運ばせている様子([[1980年]]ころ、[[オーストラリア]])
File:Horse drawn barge on the Great western Canal - geograph.org.uk - 1078726.jpg|エンジンが無かった時代、[[運河]]では狭すぎてセイリング(帆による航行)が無理なので、船はウマ(やロバ)などに引かれて進んだ。この写真はイギリスの[[:en:Grand Western Canal]](現代)。フランスで17世紀に建設された[[ミディ運河]]でもかつては同様にウマに船を引かせた。
File:Zaniskari Horse in Jammu and kashmir.jpg|インド、[[カシミール]]で芋を背負い運ぶウマ(現代)
File:Tibet - Trek 1 - 02 our guide and horse carrying our gear (150278005).jpg|チベットのガイドのウマが荷物を運ぶ様子(現代)
File:Horse Carrying load, Langtang.JPG|荷を背負いつり橋を渡るウマ(現代)
File:Horse Logging.webm|丸太を運ぶウマ(現代)。動画。
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===馬車をひく(馬車馬、ばしゃうま)===
[[馬車]]を引かせるためにも使う。ただし古代に[[チャリオット]]を引いていた場合は「軍用馬」(後述)と分類するほうが適切であろう。
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File:Greek - Black-figure Volute Krater - Walters 4829 - View B Detail cropped white-balanced.png|古代ギリシア
File:Calèche wourch (vers 1840).JPG|1840年ころのフランスの馬車の再現(博物館展示)
File:A Mud-Wagon-type stagecoach (possibly a mail stage?) with a six-horse hitch, Goldfield, Nevada, ca.1905 (CHS-5426).jpg|[[1905年]]、米国[[ネヴァダ州]]。
File:Horsedrawn carriage line art.jpg|キャリッジを引く馬([[1919年]]、El Paso Herald掲載画)
File:Finca cerca de Bacalar 02.jpg|(メキシコ、2014年)
File:WeddingCarriage.JPG|結婚式で花嫁の移動に使われた馬車(右)とそれを引いた馬(左)(2008年)
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===農業馬(農耕馬など)===
主に畑などを耕す時に[[プラウ]]や[[馬鍬]]をひかせるために用いる。他にも動力源としても。たとえば[[プレス]]([[圧搾機]])の動力源としても用いた。
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File:Bruegel,_Pieter_de_Oude_-_De_val_van_icarus_-_hi_res.jpg|プラウをひく馬([[ピーター・ブリューゲル]] 画。[[1558年]]ころ)
File:Encyclopedie volume 1-025.png|ディドロ、ダランベールの『[[百科全書]]』に掲載された、プラウをひく馬の挿絵。(1762年)
File:A Stiff Pull.jpg|(1886年)
File:Tolstoy ploughing.jpg|馬にプラウをひかせる[[レフ・トルストイ|トルストイ]]([[1887年]]画)
File:Shire horses ploughing.jpg|プラウをひく農耕馬(イギリス、[[1999年]])。
File:04-09-12-Schaupflügen-Fahrenwalde-RalfR-IMG_1232.jpg|プラウをひく農耕馬(現代)
File:Plowing with horses in the Russia.jpg|プラウをひく農耕馬([[ロシア]]、現代)
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File:Les Très Riches Heures du duc de Berry octobre.jpg|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』の「10月」のページに掲載された馬と馬鍬の絵。([[1412年]]-[[1416年]]ころ、および[[1440年]]ころ。)
File:Fotothek df tg 0001506 Ackerbau ^ Pferd ^ Egge.jpg|[[馬鍬]]を引かせているところ。([[1598年]])
File:Clydesdales-harrows.JPG|馬鍬をひく馬(2009年、オーストラリア)
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File:Cilindro-sello trillo.png|収穫に使っているところを表していると推察されている絵([[紀元前4世紀]]ころ、[[トルコ]])
File:Batteuse 1881.jpg|馬を動力として用いた[[脱穀機]]([[1881年]]、フランス。[https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k39779z.image.f596.pagination Dictionnaire encyclopédique et biographique de l'industrie et des arts]掲載挿絵。)
File:Grabie.konne.png|[[収穫]]に使われている馬。([[1900年]]ころ)
File:Chevaux Arche.jpg|農機具を馬に引かせているところ(現代)
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===乗用(乗用馬)===
馬の背に乗る、つまり[[乗馬]]に使うということは、おそらく紀元前4000年ころか紀元前4500年ころに始まったのだろうと推察されている。さらに近代以降は[[馬術]]と言う競技スポーツが派生している。
{{main|乗馬}}
===遊牧・牧畜で家畜を導く===
家畜を率いて移動するのは、一応は 徒歩(と牧羊犬、牧畜犬などと)でもできるが、馬に乗ると移動が楽であり、馬は大きく家畜を威圧できるので(牧畜犬同様に)家畜類の移動方向をコントロールしやすい。[[カウボーイ]]は牛の群れなどを、馬に乗って誘導する。
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File:American shepherd3.jpg|米国の[[羊飼い]]
File:Cowboys (Giovanni Fattori).jpg|イタリアの[[カウボーイ]](1893年、ジョバンニ・ファットーリ画)
File:ARS sheep herding.jpg
File:DSCN7245 riderwithcattleonroad e 300.jpg|馬に乗って牛の群れを誘導する
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===軍用(軍用馬)===
{{main|軍馬|騎兵}}
軍事に使用される馬。軍馬。歴史的には、当初は荷物運びに使われ、やがて[[チャリオット]](戦闘馬車)をひくためなどに使用され、すなわち当初は人(戦士と御者)が車の上に立ち、のちに馬の背に直接乗って戦うようになったと考えられている。戦時に人が馬の背に乗ることが広まったのは[[紀元前8世紀]]以降だと、指摘されるようになっている<ref>Robert DrewsEarly, ''Riders: The Beginnings of Mounted Warfare in Asia and Europe.''</ref>。[[スキタイ]]は騎馬兵を用いて中央アジアから現在のロシア南部や現在のウクライナあたりで帝国を築いていった、と考えられている。騎乗したまま戦う[[騎兵]]も登場した。ヨーロッパでは長い[[槍]]([[ランス (槍)|ランス]])を扱う[[槍騎兵]]が活躍した。一方で騎乗しながら弓を使う[[弓騎兵]]は高度な技術([[騎射]])が必要なことから、モンゴルや日本など一部にとどまった。[[モンゴル人]]は騎馬弓兵で各地の軍を圧倒しヨーロッパにまで及ぶ巨大な[[モンゴル帝国]]を築いた。日本の[[武士]]は「弓馬の道」として重視した。
中世ヨーロッパの貴族には[[騎士]]という階級も生まれた。イギリスやフランスなどの[[騎士]]は長いランスをたずさえて、馬で駆けつつ突き倒すという攻撃で歩兵を圧倒した。当然騎士どうしの闘いも起き、敵騎士の攻撃から身を守ろうと[[プレートアーマー]]が重装備化し、防具の重さだけで20 [[キログラム|kg]]から35 kgほどに達した。ここに武器のみならず、馬を護るための鎧([[バーディング]])も加わるので、こうした総重量に耐えるように、中世の騎士用の運搬能力とスタミナを有しながら、それなりの速度も出せる大型の馬(デストリア)が選ばれるようになった。[[火器]]が発達して弾丸の貫通力が増した17世紀頃からは、プレートアーマーを強化しようにも人馬が耐えられる重量には限界があり、銃弾の威力に対抗できなくなった。その結果、全身の完全防護をあきらめ、胸・腹あたりだけを分厚く護る胸甲が主流になり、軍馬が担う負担はやや軽減された。鉄砲・大砲になどの火器が普及してその性能が上がり、威力や[[有効射程距離|有効射程]]が増大するにつれて、移動速度の大きさも優位のひとつであった[[騎兵]]の重要度は下がったが、それでも馬の突進力を生かした突撃は、時に勝敗を分ける事もあるほど強力な物であった。凛々しい軍服に身を包み戦場を颯爽と駆け抜ける姿は依然憧れの的であり、たとえばヨーロッパ大陸(旧大陸)を見ると、[[大陸軍 (フランス)|ナポレオン軍]](1805-1815)でも騎兵は重要な存在であった。19世紀前半まで騎兵は軍隊の「花形」であり続けた。また大砲を牽引しながら取り扱う[[砲兵]]を乗せることで迅速な展開を可能とする[[騎馬砲兵]]も登場した。
新大陸に目を向けると[[アメリカ独立戦争]](1775-1783)の時でも軍用馬は重要な役割を果たし、[[南北戦争]](1861-1865)でもなお軍馬は活躍できた。[[日露戦争]](1904-1905)でも「世界最強」と称された[[コサック]]の騎兵隊の大軍と日本の騎兵隊([[秋山支隊]])が激突し、その結果が同戦争の大局にも影響を与えたが、純粋な騎馬隊どうしの戦いと言うより、日本側の騎馬隊はその弱点を補うための歩兵・工兵との混成部隊となっていた。騎兵が消える大きな要因となったのは[[機関銃]]の普及であり、騎兵は機関銃の格好の的にされてしまうようになり、活躍の場が失われていった。とは言え自動車化・機械化の黎明期にあって、軍馬はなお敵後方への奇襲や輸送・偵察・伝令・警備といった任務を担い、[[第二次世界大戦]](1939-1945)までは世界各国に存在し続けた。
なお実戦で最後に本格的な騎馬襲撃が実施されたのは、[[1945年]]に行われた[[老河口作戦]]での騎兵第4旅団の戦闘である、とも言われている。同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った{{efn2|欧米では、戦史上最後の騎馬突撃成功例として、第二次世界大戦の[[独ソ戦]]における[[イタリア軍]]騎兵の戦例(1942年)などが挙げられることが多い。}}。
広義の軍用である「兵器製造過程」での運搬として、[[零式艦上戦闘機]]の運搬に、北海道の馬(重種)が名古屋近郊の工場に移送されて使われたことが、吉村昭の『零式艦上戦闘機』(1978年、新潮文庫)に詳しく書かれている。当時の最新技術の成果である飛行機の生産と実用化が、名古屋の三菱重工業大江工場から各務原飛行場までの約50キロもの道のりの運搬に、当初は牛、のち生産終了まで馬に全面的に頼っていたことに吉村は強い衝撃を受け、執筆動機となったと本人が述べている。
現代の軍隊では基本的に、戦力としては用いられておらず、[[儀仗隊]]として活動している。一部の軍では「軽装甲で迅速に展開・撤収が可能な部隊」という騎兵の役割を担う部隊に「騎兵」という名称を残している。イギリス軍では1793年創立の王立騎馬砲兵が榴弾砲を扱う部隊として存続している。<!--その場合軍用馬は血統正しい競走馬から選ばれ徴用される。そして軍の施設で管理され、飼育される。(生産のほとんどが競走馬である現在の日本はともかく、一般には騎乗用なら乗用馬が選ばれるのではないか。また、軍馬が軍の厩舎に入るのは特記することではないと考える。)kurihaya -->山岳部隊を保有している国では、峻嶮な地形での物資輸送をウマや[[ロバ]]で行っている事例がある。
===医療===
[[民間療法]]として、馬肉・馬脂には解熱効果があるとされ、捻挫などの患部に湿布として使用される([[民間薬]])。馬肉パックと称して美肌効果を期待する向きもある。また[[馬脂]]([[馬油]]は商品名)は皮膚への塗布用のものが販売されている。人間に最も近い自然の油であるため、大火傷、日焼け、虫刺され、霜焼け、しみ、皺、白髪等に効果があると言われる。
ビクトリア朝時代から、ヘビ毒抗毒素などにウマが使われている<ref>[https://www.abc.net.au/news/rural/2016-12-19/snake-antivenom-thanks-to-former-racehorses/8131990 Horses provide life-saving snake antivenom for pets]ABC News </ref>。ウマは人間への感染症リスクが牛などより少なく、毒蛇への耐性もあり、血も大量に得られることから選ばれていたが、より[[血清病]]などのリスクが低い[[ヒツジ]]や人間の臓器を再現した[[オルガノイド]]を使用する方向に移行しつつある<ref>[https://www.cnn.co.jp/fringe/35151732.html ヘビの毒は研究室で生成可能に 「人命救助」につながるか] CNN 更新日:2020.06.22</ref><ref>[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/25-外傷と中毒/咬み傷と刺し傷/ヘビによる咬み傷] [[メルク・アンド・カンパニー|MSD]]マニュアル家庭版</ref>。
=== 皮革 ===
馬革はホースハイドといい牛革(成牛革)よりも滑らかである<ref name="craft">{{Cite book |和書 |author1=宮坂敦子著|author2=竹内健監修|year=2019|title=増補改訂 レザークラフトの便利帳|publisher=誠文堂新光社 |page=26}}</ref>。ホースハイドは革製品の裏革などに用いられる<ref name="craft" />。また、ベンズ部をタンニンで染色加工したものは[[コードバン]]と呼ばれる最高級品で緻密で強靭な構造を持つ<ref name="craft" />。コードバンはバッグ、紳士靴、財布、[[ランドセル]]などに用いられる<ref name="craft" />。
===尾毛===
{{main|馬毛}}
太く長いので、[[ヴァイオリン]]や[[胡弓]]、[[ヴィオール]]、[[二胡]]など[[擦弦楽器]]の[[弓 (楽器)|弓]]毛に用いられる。またモンゴルの[[馬頭琴]]など、[[騎馬民族]]の擦絃楽器では弓毛に加え、[[弦 (楽器)|弦]]も本来馬尾毛である。この他、[[織物]]に使用することがある。
===警察馬===
[[ファイル:Mounted.police.buckingham.palace.arp.jpg|thumb|バッキンガム宮殿前を通るロンドン市騎馬警官]]
{{main|騎馬警官}}
警察が市内パトロールのために使用した。現在でも一部の国の[[衛視]]が使っているが、日本では主に明治時代から昭和初期までであり、それ以降は警察車両に取って代わられたため殆ど無用となってしまった。
[[警視庁]](東京府・東京都の警察)では伝統を重んじる姿勢から、第三方面交通機動隊の中に騎馬隊を維持しており、平成19年6月現在16頭の警察馬を徴用している。また、[[京都府警]]でも「平安遷都1200年」を記念して1994年2月10日に[[平安騎馬隊|京都府警平安騎馬隊]]が創設されている。しかし、活躍の場はいずれも交通安全パレードの時の市中警戒に使用される程度である。
騎馬警官が市街地の警備や交通整理を担う場合もある。自動車と比べ環境を劣悪化させる排気ガスや騒音を出さないクリーンな乗り物であるが、乗馬者にとっての環境が未整備ということもあり、大々的には行われていない。海外では、[[ニューヨーク]]や[[ロンドン]]などの大都市で使用されている。これは騎乗することにより遠くまで見渡すことが出来、威圧感もあることと、もともと街中に乗馬のための設備がそろっていることによる。
[[カナダ]]の国家警察は[[自動車]]が発明される前に創立し、馬で移動・巡回をしていたため、[[王立カナダ騎馬警察]](''Royal Canadian Mounted Police'')を称している。
== 文化 ==
===伝承・民話・神話===
==== 馬頭観音 ====
[[仏教]]における[[菩薩]]の一尊として、[[馬頭観音]]がある。
日本では馬の守護仏としての信仰があり、馬の[[供養]]として祀られている。
==== 養蚕と馬 ====
日本では江戸時代後期から近代にかけて[[養蚕]]が盛んに行われ、養蚕に関係する民俗も成立した{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=130}}。養蚕には動物に関わる民俗があり、[[猫]]と馬に関するものが知られる{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=130}}。猫は養蚕が害獣である[[ネズミ]]を捕食することからネズミ避けとして珍重されているが、馬と養蚕の関係は昔話の『[[異類婚姻譚|馬娘婚姻譚]]』に由来する{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=130}}。
『馬娘婚姻譚』は人間と異者が結婚する異類婚姻譚の一種で、馬と娘との悲話が語られる{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=130}}。これは東北地方から[[九州]]まで日本各地に分布し、特に東北地方では[[おしら様]]信仰と結びついてる{{sfn|山梨県立博物館|2014|p=130}}。
==== 伝承 ====
* [[:Category:架空の馬]]
* [[:Category:神話・伝説の馬]]
* [[甲斐の黒駒]]
* [[異馬]]
* 絵の中の馬 - 名人の描いた馬が絵から抜け出る話が各地に存在する。
** 『[[古今著聞集]]』巻第十六には、[[仁和寺]]の御座所の壁に、名人 [[巨勢金岡]]が馬の絵を描いた。すると、寺の近隣では夜な夜な、田の稲が喰い荒らされるようになった。犯人は不明であったが、絵の中の馬の足がしばしば泥にまみれていたので、人々は絵から抜けて出して田を荒らしていると考え、壁絵の馬の目を潰すと被害は絶えた。
* [[カンタ (馬)|カンタ]]([[仏陀]]の愛馬)
* [[ブケパロス]](アレキサンダー大王([[アレクサンドロス3世]])の愛馬)
* [[赤兎馬]]([[呂布]]の乗馬)
* 『[[スーホの白い馬]]』モンゴルの民話。馬頭琴の発祥とされる。
* [[天津馳駒]]([[南アルプス]][[甲斐駒ケ岳]])
* [[磨墨塚#全国の磨墨伝説と池月伝説(外部リンク)|名馬磨墨(するすみ)・池月(いけづき)伝説]](日本各地)
* [[ユニコーン]]
* [[バイコーン]]
* [[ペーガソス]]([[ギリシア神話]])- 騎乗する者を選ぶ馬。翼が生えている馬でもある。
* [[ケンタウロス]](ギリシア神話)
* [[ケルピー]]([[スコットランド]]神話)
* [[ウッチャイヒシュラヴァス]]([[インド]]神話)
* [[スレイプニル]]([[北欧神話]])
* ヨハネの黙示録の4人の馬乗り([[新約聖書]])
* [[こうま座]]
====有名な馬====
* [[名馬一覧]]
* [[賢馬ハンス]]
{{Wikiquote|馬}}
===慣用句===
====日本語====
日本語で馬の鳴くのを特に「<ruby>嘶く<rp>(</rp><rt>いななく</rt><rp>)</rp></ruby>」(動詞)ということがあり、古くは「<ruby lang="en">嘶ゆ<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">いなゆ</rt><rp>)</rp></ruby>」(下二段動詞)といった。特定の家畜や動物の鳴き声に、特定の動詞をあてるのは、ニワトリの「ときを告げる」とこの馬の「嘶く」程度にしか例がなく、日本社会において他の動物、家畜にもまして古くから深いつながりを持っていたことが推論される。
=====あ行=====
* 当て馬
* <ruby>意馬心猿<rp>(</rp><rt>いばしんえん</rt><rp>)</rp></ruby>
* 生き馬の目を抜く
* 牛は牛づれ馬は馬づれ
* 馬が合う
* 馬並み
* 馬に<ruby>経文<rp>(</rp><rt>きょうもん</rt><rp>)</rp></ruby>
* 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ
* 馬の背を分ける
* <ruby>馬面<rp>(</rp><rt>うまづら</rt><rp>)</rp></ruby> - 縦に長い顔の人を悪く言う言い方。落語家の[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]は出演していた『[[笑点]]』でしばしばその馬面をネタにされた。
* 馬の耳に風
* 馬の耳に念仏
* 馬乗りになる
* 馬を牛に乗り換える
* 馬を水辺に連れて行くことは出来るが水を飲ませることは出来ない
* <ruby>焉馬<rp>(</rp><rt>えんば</rt><rp>)</rp></ruby>の誤まり
* 老いたる馬は路を忘れず
=====か行=====
* <ruby>牛飲馬食<rp>(</rp><rt>ぎゅういんばしょく</rt><rp>)</rp></ruby>
* 癖ある馬に乗りあり
* <ruby>鞍掛け<rp>(</rp><rt>くらかけ</rt><rp>)</rp></ruby>馬の稽古
* <ruby>犬馬<rp>(</rp><rt>けんば</rt><rp>)</rp></ruby>の労
=====さ行=====
* 鹿を指して馬となす(馬鹿)
* じゃじゃ馬(<ruby lang="ja">駻馬<rp>(</rp><rt lang="ja-Kana">かんば</rt><rp>)</rp></ruby>)
* 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ
* <ruby>尻馬<rp>(</rp><rt>しりうま</rt><rp>)</rp></ruby>に乗る
* <ruby>寸馬豆人<rp>(</rp><rt>すんばとうじん</rt><rp>)</rp></ruby>
* 千里の駒
=====た行=====
* 天高く馬肥ゆる秋
* <ruby>駑馬十駕<rp>(</rp><rt>どばじゅうが</rt><rp>)</rp></ruby>
=====な行=====
* <ruby>南船北馬<rp>(</rp><rt>なんせんほくば</rt><rp>)</rp></ruby>
* 人間<ruby>万事<rp>(</rp><rt>ばんじ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>塞翁<rp>(</rp><rt>さいおう</rt><rp>)</rp></ruby>が馬
* <ruby>寝牛起馬<rp>(</rp><rt>ねうしおきうま</rt><rp>)</rp></ruby>
=====は行=====
* <ruby>馬脚<rp>(</rp><rt>ばきゃく</rt><rp>)</rp></ruby>を現す
* <ruby>馬耳東風<rp>(</rp><rt>ばじとうふう</rt><rp>)</rp></ruby>
* <ruby>馬車馬<rp>(</rp><rt>ばしゃうま</rt><rp>)</rp></ruby>のよう
* <ruby>馬首人身<rp>(</rp><rt>ばしゅじんしん</rt><rp>)</rp></ruby>
* 人を射るには先に馬を射よ
* <ruby>肥馬<rp>(</rp><rt>ひば</rt><rp>)</rp></ruby>の塵を望む
* <ruby>隙<rp>(</rp><rt>ひま</rt><rp>)</rp></ruby>過ぐる駒
* <ruby>瓢箪<rp>(</rp><rt>ひょうたん</rt><rp>)</rp></ruby>から駒(駒=子馬)
=====ま行=====
* <ruby>馬子<rp>(</rp><rt>まご</rt><rp>)</rp></ruby>にも衣装
* 名馬に癖(難)あり
=====や行=====
* <ruby>痩せ<rp>(</rp><rt>やせ</rt><rp>)</rp></ruby>馬の先走り(道急ぎ)
=====ら行=====
* 老馬の智用うべし
====英語====
* <span lang="en">go to the dogs</span> - 「落ちぶれる」という意味。往時にどんなに愛された名馬も最後にはイヌの餌にされたことから生まれた慣用句<ref>ブライアン・フェイガン『人類と家畜の世界史』東郷えりか訳 河出書房新社 2016年、ISBN 9784309253398 p.253.</ref>。
===祭事===
* [[初午]]
* [[神馬]]
* [[絵馬]]
* [[藤崎八旛宮秋季例大祭]]
* [[相馬野馬追]]
===宗教===
* [[早馬神社]]
* [[敏馬神社]]
* [[厩猿信仰]]
===企業===
* [[フェラーリ]]
* [[ポルシェ]]
*[[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタル]]
*[[増進堂・受験研究社]]
===作品===
{{main|Category:馬を題材にした作品}}
===姓===
中国の百家姓のひとつに「馬」(マー)がある。[[陸上競技]]の「馬軍団」(馬家軍)も、軍閥の[[馬家軍]]も馬姓の人の率いた集団である。
日本にも、「馬場」(ばば)、「白馬」(はくば)など、馬が付く姓がある。
===地名===
日本各地に馬の字を含む地名が数多く存在する。
* 馬に関わりがあるとされるもの:[[馬場]]、[[伝馬町]]、[[練馬]]、[[下馬]]、[[上馬]]、[[駒場]]など
* 馬に関わりがないとされるもの:[[対馬]]など
===その他===
[[あん馬]]、[[跳馬]]、[[跳び箱]]などは、乗馬の訓練用の「馬に見立てた台」がスポーツ(競技・用具)に転じたものである。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|3}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
==参考文献==
<!-- 参考文献節は本記事の出典として使われている資料名を載せるための節ですので、ウマに関連しているだけの文献をここに載せないでください。 -->
{{参照方法|date=2019-01|section=1|title=本日現在、『HORSE CARE MANUAL -馬を飼うための完全ガイド-』および『馬の医学書』(1996年)および「馬の用語事典」は脚注がありません。}}
* {{Cite book |和書 |others=[[小島憲之]]・[[直木孝次郎]]・[[西宮一民]]・[[蔵中進]]・[[毛利正守]]校訂・訳 |publisher=小学館|title=新編日本古典文学全集 4 日本書紀 3 |date=1998 |isbn=409658004X |ref={{SfnRef|小島|1998}} }}
* {{Cite book |和書 |author=山崎健 |editor=国立文化財機構奈良文化財研究所 |publisher=国立文化財機構奈良文化財研究所 |chapter=藤原宮造営期における動物利用 使役と食を中心として |title=文化財学の新地平 |date=2013-05 |ref={{SfnRef|山崎|2013}} }}
* {{Cite book|和書 |author=COLIN VOGEL |editor=本好茂一・太田恵美子(日本語版監修) |others=鈴木勝(翻訳代表) |year=1999 |title=HORSE CARE MANUAL -馬を飼うための完全ガイド- |publisher=インターズー |isbn=4-900573-74-4 |ref=HORSE CARE MANUAL}}
* {{Cite book|和書 |editor=日本中央競馬会競走馬総合研究所 |year=1986-10 |title=馬の科学 サラブレッドはなぜ速いか |publisher=[[講談社]] |isbn=4-06-132664-3 |ref={{SfnRef|日本中央競馬会競走馬総合研究所|1986}} }}
* {{Cite book|和書 |editor=日本中央競馬会競走馬総合研究所 |year=1996 |title=馬の医学書 Equine Veterinary Medicine |publisher=チクサン出版社 |isbn=4-88500-413-6 |ref=馬の医学書}}
* {{Cite web|和書|url=http://www.equinst.go.jp/JP/arakaruto/yougo/jiten.html |title=馬の用語事典 |work=JRA競走馬総合研究所 |publisher=日本中央競馬会競走馬総合研究所 |language=日本語 |accessdate=2009年5月22日}}{{リンク切れ|date=2019年1月5日 (土) 09:27 (UTC)}}
* {{Cite book|和書 |editor=日本中央競馬会競走馬総合研究所 |year=2012 |title=新 馬の医学書 Equine Veterinary Medicine |publisher=緑書房 |isbn=978-4-89531-033-8 |ref={{SfnRef|日本中央競馬会競走馬総合研究所|2012}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=山梨県立博物館 |date=2014-10 |title=甲斐の黒駒 : 歴史を動かした馬たち |publisher=山梨県立博物館 |isbn= |ref={{SfnRef|山梨県立博物館|2014}} }}
* [[福井栄一]]『馬耳東風では済まないはなし』2013年、技報堂出版、ISBN 978-4765542463。
* {{Cite journal|和書|author=尾崎孝宏 |title=日本在来馬の歴史的変遷と現状 |journal=鹿大史学 |issn=0451-1913 |publisher=鹿児島大学 |year=2012 |issue=59 |pages=15-28|naid=40019378818 |url=https://hdl.handle.net/10232/13038 |ref={{SfnRef|尾崎|2012}}}}
*{{Cite journal |和書|author=[[安田初雄]] |authorlink= |title=古代における日本の放牧に関する歴史地理的考察 |journal=福島大学学芸学部論集 |volume=10 |issue= |publisher= |date=1959 |pages= |naid= |ref=harv }}
* {{Cite book|和書|last= |first= |author=川島王子|authorlink=川島王子|author2=他|coauthors= |translator= |editor= |others= |title=[[日本書紀]]|edition= |date= |year=720 |publisher= |location= |series= |volume= |language= |origdate= |origyear= |isbn= |ncid= |naid= |oclc= |doi= |url= |format= |accessdate= |asin= |lccn= |id= |page= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref={{sfnref|日本書紀|720}} }}
* {{Cite book|和書|last= |first= |author=帝国競馬協会 |authorlink= |coauthors= |translator= |editor= |others= |title=日本馬政史1 |edition= |date= |year= |publisher= |location= |series=明治百年史叢書 |volume=305 |language= |origdate= |origyear= |isbn= |ncid= |naid= |oclc= |doi= |url= |format= |accessdate= |asin= |lccn= |id= |page= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref=harv }} {{sfn|帝国競馬協会|1981}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|馬|commons=Equus caballus|commonscat=Horses|d=Q726|species=Equus ferus caballus}}
* [[牡馬]] - [[騸馬]]
* [[種牡馬]] - [[繁殖牝馬]]
* {{ill2|ドラフト・ホース|en|Draft horse}} ‐ 牽引馬、[[輓獣]]として運用される馬。農耕馬などに適する馬。
* {{ill2|温血種|en|Warmblood}}
* {{ill2|オリエルンタル・ホース|en|Oriental horse}} ‐ 中東などが原産の馬。
* {{ill2|厩舎に閉じ込めた際に起こす悪癖|en|Stable vices}} ‐ 厩舎などに閉じ込められた際に起こすストレスから起こす行動。
* [[扶助]] - 馬を動かすための合図(舌を鳴らす舌鼓、音声、足や拳で行う合図など)。
* {{ill2|ステイ・アパラタス|en|Stay apparatus}} - 立ったままの状態が楽になる足の構造。これによって立ったまま寝たりできる。
* [[ヘンドラウイルス感染症]] - [[馬蹄腫]]
* [[陰茎鞘洗浄]]
* [[午]]([[十二支]])
* [[騎馬像]]
* [[馬力]]
* [[乗馬]]
* [[馬術]]
* [[名馬一覧]]
* {{ill2|馬泥棒|en|Horse theft}}
*{{ill2|療馬術|de|Pferdemedizin}}
*{{ill2|結合型エストロゲン|en|Conjugated estrogens}} - 妊娠した馬の尿から分離される更年期障害などに使われる薬効成分。
*{{ill2|馬歯|en|Horse teeth}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:うま}}
[[Category:馬|*]]
[[Category:ウマ科]]
[[Category:家畜]]
[[Category:競馬]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E
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Simple API for XML
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Simple API for XML(SAX、サックス)とは、XML文書をアプリケーションソフトウェアから利用するためのAPI。
DOM API が、W3Cから勧告されたのに対して、SAX API は、XML-DEVメーリングリスト有志により策定された。そして、DOMに並ぶ標準規格としての地位を固めている。
XML文書を木構造として扱うDOMと異なり、一連のイベントとして表現するイベント駆動型のAPIである。したがって、アプリケーションソフトウェアが積極的にAPIにアクセスするDOMに対し、SAXではアプリケーションソフトウェアがイベントが来るのを待ち受ける受動的な動作が大部分を占める。
伝統的なストリームと同様に入力されたデータを次々とバトンタッチさせるような設計が可能となるため、メモリを節約でき、並列処理にも適している。XMLを読み込み、Javaのオブジェクトに変換するときはSAXの方がよく使われる。ただし、XML文書の先頭と最後を入れ替えるというようなランダムアクセスを必要とするアプリケーションソフトウェアにはDOMやXMLデータベースの方が適している。
Apache Cocoon のようなスケーラビリティの高い優れたSAXアプリケーションソフトウェアが開発されている。
以下に、プログラミング言語Javaでの使用例を示す。特別:RecentchangesのRSSを読み込み、タイトルの一覧を表示している。
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Simple API for XML(SAX、サックス)とは、XML文書をアプリケーションソフトウェアから利用するためのAPI。
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'''Simple API for XML'''('''SAX'''、サックス)とは、[[Extensible Markup Language|XML]]文書を[[アプリケーションソフトウェア]]から利用するための[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]。
== 概要 ==
[[Document Object Model|DOM]] API が、[[World Wide Web Consortium|W3C]]から勧告されたのに対して、SAX [[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]] は、[[XML-DEVメーリングリスト]]有志により策定された。そして、DOMに並ぶ[[デファクトスタンダード|標準規格]]としての地位を固めている。
XML文書を[[木構造 (データ構造)|木構造]]として扱うDOMと異なり、一連のイベントとして表現する[[イベント駆動型プログラミング|イベント駆動型]]のAPIである。したがって、[[アプリケーションソフトウェア]]が積極的にAPIにアクセスするDOMに対し、SAXではアプリケーションソフトウェアがイベントが来るのを待ち受ける受動的な動作が大部分を占める。
伝統的な[[ストリーム (プログラミング)|ストリーム]]と同様に入力されたデータを次々とバトンタッチさせるような設計が可能となるため、メモリを節約でき、[[並列処理]]にも適している。<!-- プログラムもDOMを使った場合に比べてシンプルになることも多い。 -->XMLを読み込み、Javaのオブジェクトに変換するときはSAXの方がよく使われる。ただし、XML文書の先頭と最後を入れ替えるというような[[ランダムアクセス]]を必要とするアプリケーションソフトウェアにはDOMや[[XMLデータベース]]の方が適している。
<!-- 一般的にDOMに比べて難しいと考えられている一方で、-->[[Apache Cocoon]] のような[[スケーラビリティ]]の高い優れたSAXアプリケーションソフトウェアが開発されている。
== 使用例 ==
以下に、[[プログラミング言語]][[Java]]での使用例を示す。[[特別:Recentchanges]]のRSSを読み込み、タイトルの一覧を表示している。
<syntaxhighlight lang="java">
import java.io.IOException;
import javax.xml.parsers.*;
import org.xml.sax.*;
import org.xml.sax.helpers.DefaultHandler;
public class Test {
public static void main(String[] args) throws ParserConfigurationException, SAXException, IOException {
SAXParserFactory factory = SAXParserFactory.newInstance();
SAXParser parser = factory.newSAXParser();
parser.parse("http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:Recentchanges&feed=rss", new DefaultHandler() {
private String text = "";
private boolean isItemStarted = false;
public void startElement(String uri, String localName, String qName, Attributes attributes) {
if(qName.equals("item")) {
isItemStarted = true;
}
}
public void endElement(String uri, String localName, String qName) {
if (isItemStarted && qName.equals("title")) {
System.out.println(text);
}
}
public void characters(char[] ch, int start, int length) {
text = new String(ch, start, length);
}
});
}
}
</syntaxhighlight>
== 外部リンク ==
* [http://www.saxproject.org/ SAX]
[[Category:XML]]
[[Category:API]]
[[Category:構文解析 (プログラミング)]]
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日中国交正常化
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日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。
これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の正式な国交がない状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄が現職の内閣総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの国務院総理の周恩来と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中、周が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった中華民国に断交を通告した。
ニクソン訪中発表に続く1971年10月の国連のアルバニア決議で、中華人民共和国が常任理事国の地位を取得するなど、国際的な枠組みの変容が背景にあった。 成立は田中内閣であるが、それまでに自民党は勿論、社会党、公明党、民社党もそれぞれの立場で訪中して日中間の意思疎通に重要な役割を果たし、また経済界、スポーツ界(卓球・バレーボールなど)など、多くの地道な関係改善努力の積み重ねにより成立したものである。
この国交正常化により、1973年1月11日に日本の在中日本国大使館が開設され、中華人民共和国の在日中華人民共和国大使館は同年2月1日に設置された。 また、この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へ総額3兆円を超えるODA(政府開発援助)が実施されている。
1945年に日本が中華民国を含む連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると間もなく国共内戦が始まった。1949年10月1日、これを優位に進めていた中国共産党によって中華人民共和国が建国され、敗退を続けた中国国民党率いる中華民国は台湾島とその周辺の諸島を支配するのみとなった。こうして「中国を代表する」と主張する政府が二つ存在する状態が生まれ、いわゆる「中国代表権問題」に直面することとなった。この時は日本はまだ戦後4年で連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、外交権の無い時期であった。
中華人民共和国とは、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国が早い時期に国交を結んだ。また、イギリスは西側諸国の一員であるものの、植民地として抱える香港への中華人民共和国の圧力を意識せざるを得ないため、1950年1月に中華民国との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して北京に代理大使を置き、当初から同盟国のアメリカ合衆国とは異なるスタンスを取った。そして後年に起こった国連における中国代表権の争いでは、イギリスはどちら側の提案にも賛成するという態度に終始した。
1950年に朝鮮戦争が始まり、2年後に日本が占領下を脱したころには、すでに朝鮮半島では大韓民国側についた国連軍の主力であるアメリカ軍やイギリス軍と、北朝鮮側についた中華人民共和国の人民義勇軍(「義勇軍」という名目ではあったが、事実上の中国人民解放軍だった)が砲火を交えていた。日本は西側陣営に属した中華民国を支持する立場に立ったため、中華人民共和国とは国交を持たない状態が1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を行うのみであった。
国交樹立までの日本と中華人民共和国との交流は、細々とした民間交流に過ぎなかった。1950年10月1日には「日中友好協会」が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、ソビエト連邦や北朝鮮などの東側諸国と共同歩調を取る中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。
さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。
この時期は日本が中華民国と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に中華人民共和国も参戦していた朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。
首相の吉田茂は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも中華民国を承認するとは明言しなかった。西側でもイギリスが両国とも関係を保っていることに注目して、中華民国を承認するにしても中華人民共和国の上海に「貿易事務所」を開設することに言及していた。
むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて、結果として中華民国のみを承認することになった。そして講和条約が発効した4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中華人民共和国との国交正常化で最も難しい問題となった。
吉田の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中華人民共和国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に通商産業大臣の石橋湛山は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中華人民共和国は注目していた。
1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した首相の周恩来は、「平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望する」と表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中華人民共和国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た。翌1956年9月には、中華人民共和国内の日本人の戦犯、抑留者およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。
こうした動きには中華人民共和国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。
1957年2月に石橋の病気辞任の後、岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。
そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した。親米で親華派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者 でもあり、総理就任後も対中政策重視のため に起用した外務大臣の藤山愛一郎とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」 や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」 として日中貿易を促進したい旨 を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた。
そして1958年3月に岸政権の承諾 で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で1958年5月2日に「長崎国旗事件」が起きた。これに中華人民共和国の外相の陳毅が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、二つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した石橋と周との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。
しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に文化大革命の嵐が吹き荒れた1960年代も続いた。
1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。
池田は国連中心の外交方針で、中華人民共和国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中華人民共和国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、中華民国の国連における議席を維持したまま中華人民共和国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし両国ともに「一つの中国」を原則としており、西側諸国の多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた。
池田は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾島一帯、金門島及び馬祖島)にその地位を限定することで同国の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても中華民国の議席は守られると考えていた。そのためには蒋介石を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のジョン・F・ケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は「中華人民共和国の国連加盟に対するアメリカ国内の抵抗が大きい」とするものであった。この問題はこの時で終わってしまった。
そして1964年1月に、突然フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が中華人民共和国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中華人民共和国との国交正常化をしても中華民国が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に中華民国が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田は、中華人民共和国の国連加盟が実現すれば日本も中華人民共和国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に中華民国は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した。
1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中華人民共和国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三、古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い左翼団体や、政治的立場より収益を優先する企業が中心的な役割を果たしていた。
そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日本空輸社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保証や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中華人民共和国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。
しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後中華民国へと亡命希望先を変えて、その後もとの中華人民共和国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中華人民共和国へ強制送還したが、中華民国が反発して両日関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中華人民共和国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。
さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中華人民共和国の記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。
1964年秋に池田が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は当時、歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争や沖縄返還、日米安保延長があり、そして中華人民共和国では中ソ対立や文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。
1966年3月には日本共産党の宮本顕治が訪中したが、中国共産党主席毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した。この直後、中華人民共和国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中華人民共和国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易 が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。
中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中華人民共和国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中華人民共和国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。
1971年3月に名古屋市で開催された第31回世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中華人民共和国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(当時。後に国務長官)がリチャード・ニクソン大統領の命を受けて北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。
この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには、ソ連と対立しつつ北ベトナムを支援していた中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。
また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中華人民共和国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問が実現した。
このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連が中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった
佐藤は、池田の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、中華民国を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。
そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時西側の主要国で中華人民共和国との国交が正常化していない国は日本と西ドイツだけで、他の英仏伊加がすでに承認していたことは、「日本外交が取り残されている」との認識が一般にも広がっていった。一方、当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国を支持する勢力があり(源田実や浜田幸一なども親中華民国派であった)、様々な権益が絡んでいた。
また当然のことながら、中華民国と中華人民共和国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎は周の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」 ことで右往左往することになった。
1971年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし中華民国を排除しようとすることは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案」と、中華人民共和国の常任理事国入りを認めつつ中華民国の議席も維持する「複合二重代表制決議案」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決 されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めた「アルバニア案」の採決 で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。この時のアメリカ国連大使のジョージ・H・W・ブッシュは国連総会の質疑で反対の論陣を張った(皮肉にも後に事実上の米国大使館である北京の米中連絡事務所の所長を務める)。
アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしていた。中華人民共和国の国連加盟が実現して中華民国が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都知事の美濃部が訪中した際に極秘に周宛てに1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとし保利自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の親書を渡した。これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中華人民共和国加盟/中華民国追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。この時に結果は不首尾であったが保利がそれまでの中華民国支持の立場から中華人民共和国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親中華民国派と親中華人民共和国派との力関係に変化が生じることとなった。
1971年には、日本の財界首脳が訪中団を送り込んだ。1971年9月に佐伯勇を中心とした関西財界訪中団が、同年11月には永野重雄日本商工会議所会頭と木川田一隆経済同友会代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し、北京の人民大会堂で周恩来総理と会談した。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある。
1972年1月の施政方針演説で佐藤は「中国は一つであるという認識のもとに、今後、中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。
NHKの取材により、佐藤は任期中の国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていたことが明らかになった。その後、総理の座を狙う自民党内勢力からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた福田赳夫を中国側関係者に引き合わせていたことが明らかになった。
1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入義勝委員長が訪中 して27日から3日間延べ10時間に渡って周と会談して、中華人民共和国の考え方の内容が示された。帰国後の8月4日に田中と外務大臣の大平正芳にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復(正常化)三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中はこれを読んで北京に赴くことを決意した。
この時から中華人民共和国側も田中内閣での国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中と会談する場が設けられて、その場で田中は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え、中華人民共和国側から正式に田中を本国へ招待することが伝えられた。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。
ここで田中は、アメリカよりも早く日中国交正常化を果たすことを決断した。このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中華人民共和国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった。
1972年9月25日、田中は秋晴れの北京空港に日本航空の専用機で降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、内閣総理大臣の田中角栄、外務大臣の大平正芳、内閣官房長官の二階堂進、条約局長の高島益郎、中国課長の橋本恕、条約課長の栗山尚一など8名。中国側は、首相の周恩来、外相の姫鵬飛、会長の廖承志、外交部副部長の韓念龍、顧問の張香山など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中華人民共和国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めること で中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。
26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した。午後の首脳会談で周から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、「台湾は中国の一部」とする中華人民共和国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。
27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中から出されたが周から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中、大平、二階堂の3名は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。
28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平から日本と中華民国の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周は黙認する姿勢を示した。
そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第二次世界大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。 帰国後の両院議員総会で田中は「”日中国交正常化は不可避”というのが、私はおおよその世論だと思う」と発言している。
なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。一方、1991年に江沢民総書記(最高指導者)は、「小学生、中学生から大学生まで、中国近代史、現代史及び国情教育を行うべき」であり、「1840年のアヘン戦争以降の百年にわたり、中国人民が列強から陵辱を受けたことを、史実を挙げて説明」し、「五四運動以降、中国共産党が誕生し、各族人民を指導して土地革命戦争、抗日戦争、解放戦争を経験し、中華人民共和国を建国し、中国人民が立ち上がったこと」を教育するよう要求した。これを受けて国家教育委員会は「小中学校の中国近代、現代史及び国情教育強化のための全体綱要」を作成し、歴史、地理、語文、思想政治を関連科目として指定し、各科目に対してそれぞれ近現代史、国情教育強化の指示を出し、中国共産党は「日本は、日中戦争で独立存亡の危機に中国を直面させ、他方でその日中戦争の中から中国共産党が覇権を握っていく」という「『正しい歴史』に密接にかかわる必要不可欠なキャラクター」であり、日本政府は明治維新から終戦まで一貫して、資源が乏しい中で近代化を実現するため中国を侵略する計画を持ち、戦争は周到に計画されていたとする「戦争必然論」の立場を取るようになり、王雪萍(東洋大学)は、中国の歴史教科書は、「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」という「日本軍国主義」と「日本人民」を区別してきたが、1990年代以降は階級を分けて日本国内の矛盾を説明する内容がなくなり、「日本軍国主義」と「日本人民」を区別することをやめ、戦争責任を日本国家全体に帰するようになり、反日デモの矛先が日本政府のみならず、一般国民にも向けられるようになったと分析している。
それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。
1971年1月25日、第31回世界卓球選手権名古屋大会に際し、日本卓球連盟会長の後藤鉀二が中国チームの参加を中国当局に説得。3月21日には中国が訪日し大会に出場した。このことから4月にアメリカの卓球選手団の訪中と周との会見につながり米中の緊張緩和に微力ながら貢献した。
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"text": "日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。",
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"text": "これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の正式な国交がない状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄が現職の内閣総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの国務院総理の周恩来と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中、周が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった中華民国に断交を通告した。",
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"text": "ニクソン訪中発表に続く1971年10月の国連のアルバニア決議で、中華人民共和国が常任理事国の地位を取得するなど、国際的な枠組みの変容が背景にあった。 成立は田中内閣であるが、それまでに自民党は勿論、社会党、公明党、民社党もそれぞれの立場で訪中して日中間の意思疎通に重要な役割を果たし、また経済界、スポーツ界(卓球・バレーボールなど)など、多くの地道な関係改善努力の積み重ねにより成立したものである。",
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"text": "この国交正常化により、1973年1月11日に日本の在中日本国大使館が開設され、中華人民共和国の在日中華人民共和国大使館は同年2月1日に設置された。 また、この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へ総額3兆円を超えるODA(政府開発援助)が実施されている。",
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"text": "1945年に日本が中華民国を含む連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると間もなく国共内戦が始まった。1949年10月1日、これを優位に進めていた中国共産党によって中華人民共和国が建国され、敗退を続けた中国国民党率いる中華民国は台湾島とその周辺の諸島を支配するのみとなった。こうして「中国を代表する」と主張する政府が二つ存在する状態が生まれ、いわゆる「中国代表権問題」に直面することとなった。この時は日本はまだ戦後4年で連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、外交権の無い時期であった。",
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"text": "中華人民共和国とは、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国が早い時期に国交を結んだ。また、イギリスは西側諸国の一員であるものの、植民地として抱える香港への中華人民共和国の圧力を意識せざるを得ないため、1950年1月に中華民国との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して北京に代理大使を置き、当初から同盟国のアメリカ合衆国とは異なるスタンスを取った。そして後年に起こった国連における中国代表権の争いでは、イギリスはどちら側の提案にも賛成するという態度に終始した。",
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"text": "1950年に朝鮮戦争が始まり、2年後に日本が占領下を脱したころには、すでに朝鮮半島では大韓民国側についた国連軍の主力であるアメリカ軍やイギリス軍と、北朝鮮側についた中華人民共和国の人民義勇軍(「義勇軍」という名目ではあったが、事実上の中国人民解放軍だった)が砲火を交えていた。日本は西側陣営に属した中華民国を支持する立場に立ったため、中華人民共和国とは国交を持たない状態が1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を行うのみであった。",
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"text": "国交樹立までの日本と中華人民共和国との交流は、細々とした民間交流に過ぎなかった。1950年10月1日には「日中友好協会」が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、ソビエト連邦や北朝鮮などの東側諸国と共同歩調を取る中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。",
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"text": "さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。",
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"text": "この時期は日本が中華民国と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に中華人民共和国も参戦していた朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。",
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"text": "首相の吉田茂は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも中華民国を承認するとは明言しなかった。西側でもイギリスが両国とも関係を保っていることに注目して、中華民国を承認するにしても中華人民共和国の上海に「貿易事務所」を開設することに言及していた。",
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"text": "むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて、結果として中華民国のみを承認することになった。そして講和条約が発効した4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中華人民共和国との国交正常化で最も難しい問題となった。",
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"text": "吉田の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中華人民共和国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に通商産業大臣の石橋湛山は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中華人民共和国は注目していた。",
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"text": "1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した首相の周恩来は、「平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望する」と表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中華人民共和国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た。翌1956年9月には、中華人民共和国内の日本人の戦犯、抑留者およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。",
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"text": "こうした動きには中華人民共和国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。",
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"text": "1957年2月に石橋の病気辞任の後、岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。",
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"text": "そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した。親米で親華派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者 でもあり、総理就任後も対中政策重視のため に起用した外務大臣の藤山愛一郎とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」 や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」 として日中貿易を促進したい旨 を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた。",
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"text": "そして1958年3月に岸政権の承諾 で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で1958年5月2日に「長崎国旗事件」が起きた。これに中華人民共和国の外相の陳毅が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、二つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した石橋と周との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。",
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"text": "しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に文化大革命の嵐が吹き荒れた1960年代も続いた。",
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"text": "1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸が辞任して、池田勇人が首相に就任した。池田は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。",
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"text": "池田は国連中心の外交方針で、中華人民共和国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中華人民共和国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、中華民国の国連における議席を維持したまま中華人民共和国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし両国ともに「一つの中国」を原則としており、西側諸国の多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた。",
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"text": "池田は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾島一帯、金門島及び馬祖島)にその地位を限定することで同国の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても中華民国の議席は守られると考えていた。そのためには蒋介石を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のジョン・F・ケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は「中華人民共和国の国連加盟に対するアメリカ国内の抵抗が大きい」とするものであった。この問題はこの時で終わってしまった。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "そして1964年1月に、突然フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が中華人民共和国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中華人民共和国との国交正常化をしても中華民国が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に中華民国が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田は、中華人民共和国の国連加盟が実現すれば日本も中華人民共和国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に中華民国は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中華人民共和国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして松村謙三、古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い左翼団体や、政治的立場より収益を優先する企業が中心的な役割を果たしていた。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"text": "そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日本空輸社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保証や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中華人民共和国側代表廖承志と日本側代表高碕達之助の頭文字からLT貿易と呼ばれている。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"text": "しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後中華民国へと亡命希望先を変えて、その後もとの中華人民共和国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中華人民共和国へ強制送還したが、中華民国が反発して両日関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中華人民共和国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"text": "さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中華人民共和国の記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"text": "1964年秋に池田が病気のため辞任して佐藤栄作が首相に就任した。佐藤内閣は当時、歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争や沖縄返還、日米安保延長があり、そして中華人民共和国では中ソ対立や文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"text": "1966年3月には日本共産党の宮本顕治が訪中したが、中国共産党主席毛沢東と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した。この直後、中華人民共和国では文化大革命が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中華人民共和国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易 が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。",
"title": "前史・戦後の日中関係"
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"text": "中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中華人民共和国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中華人民共和国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。",
"title": "経緯"
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"text": "1971年3月に名古屋市で開催された第31回世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中華人民共和国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にアメリカのヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(当時。後に国務長官)がリチャード・ニクソン大統領の命を受けて北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして7月15日に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。このニクソン大統領の中国訪問は翌1972年2月に行われた。",
"title": "経緯"
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"text": "この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには、ソ連と対立しつつ北ベトナムを支援していた中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。",
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"text": "また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中華人民共和国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問が実現した。",
"title": "経緯"
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"text": "このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連が中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった",
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"text": "佐藤は、池田の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、中華民国を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。",
"title": "経緯"
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"text": "そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時西側の主要国で中華人民共和国との国交が正常化していない国は日本と西ドイツだけで、他の英仏伊加がすでに承認していたことは、「日本外交が取り残されている」との認識が一般にも広がっていった。一方、当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国を支持する勢力があり(源田実や浜田幸一なども親中華民国派であった)、様々な権益が絡んでいた。",
"title": "経緯"
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"text": "また当然のことながら、中華民国と中華人民共和国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないために、佐藤の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎は周の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」 ことで右往左往することになった。",
"title": "経緯"
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"text": "1971年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし中華民国を排除しようとすることは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案」と、中華人民共和国の常任理事国入りを認めつつ中華民国の議席も維持する「複合二重代表制決議案」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決 されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めた「アルバニア案」の採決 で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。この時のアメリカ国連大使のジョージ・H・W・ブッシュは国連総会の質疑で反対の論陣を張った(皮肉にも後に事実上の米国大使館である北京の米中連絡事務所の所長を務める)。",
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"text": "アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしていた。中華人民共和国の国連加盟が実現して中華民国が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都知事の美濃部が訪中した際に極秘に周宛てに1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとし保利自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の親書を渡した。これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中華人民共和国加盟/中華民国追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。この時に結果は不首尾であったが保利がそれまでの中華民国支持の立場から中華人民共和国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親中華民国派と親中華人民共和国派との力関係に変化が生じることとなった。",
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"text": "1971年には、日本の財界首脳が訪中団を送り込んだ。1971年9月に佐伯勇を中心とした関西財界訪中団が、同年11月には永野重雄日本商工会議所会頭と木川田一隆経済同友会代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し、北京の人民大会堂で周恩来総理と会談した。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある。",
"title": "経緯"
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"text": "1972年1月の施政方針演説で佐藤は「中国は一つであるという認識のもとに、今後、中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。",
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"text": "NHKの取材により、佐藤は任期中の国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていたことが明らかになった。その後、総理の座を狙う自民党内勢力からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた福田赳夫を中国側関係者に引き合わせていたことが明らかになった。",
"title": "経緯"
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"text": "1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党の竹入義勝委員長が訪中 して27日から3日間延べ10時間に渡って周と会談して、中華人民共和国の考え方の内容が示された。帰国後の8月4日に田中と外務大臣の大平正芳にその内容を書いたメモを手渡している。この竹入メモには「国交回復(正常化)三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中はこれを読んで北京に赴くことを決意した。",
"title": "経緯"
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"text": "この時から中華人民共和国側も田中内閣での国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中と会談する場が設けられて、その場で田中は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え、中華人民共和国側から正式に田中を本国へ招待することが伝えられた。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。",
"title": "経緯"
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"text": "ここで田中は、アメリカよりも早く日中国交正常化を果たすことを決断した。このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中華人民共和国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった。",
"title": "経緯"
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"text": "1972年9月25日、田中は秋晴れの北京空港に日本航空の専用機で降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、内閣総理大臣の田中角栄、外務大臣の大平正芳、内閣官房長官の二階堂進、条約局長の高島益郎、中国課長の橋本恕、条約課長の栗山尚一など8名。中国側は、首相の周恩来、外相の姫鵬飛、会長の廖承志、外交部副部長の韓念龍、顧問の張香山など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中華人民共和国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めること で中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。",
"title": "経緯"
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"text": "26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した。午後の首脳会談で周から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、「台湾は中国の一部」とする中華人民共和国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」旨の案を提示した。",
"title": "経緯"
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{
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"text": "27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中から出されたが周から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中、大平、二階堂の3名は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。",
"title": "経緯"
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"text": "28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平から日本と中華民国の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周は黙認する姿勢を示した。",
"title": "経緯"
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"text": "そして9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が第二次世界大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。 帰国後の両院議員総会で田中は「”日中国交正常化は不可避”というのが、私はおおよその世論だと思う」と発言している。",
"title": "経緯"
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{
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"tag": "p",
"text": "なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。一方、1991年に江沢民総書記(最高指導者)は、「小学生、中学生から大学生まで、中国近代史、現代史及び国情教育を行うべき」であり、「1840年のアヘン戦争以降の百年にわたり、中国人民が列強から陵辱を受けたことを、史実を挙げて説明」し、「五四運動以降、中国共産党が誕生し、各族人民を指導して土地革命戦争、抗日戦争、解放戦争を経験し、中華人民共和国を建国し、中国人民が立ち上がったこと」を教育するよう要求した。これを受けて国家教育委員会は「小中学校の中国近代、現代史及び国情教育強化のための全体綱要」を作成し、歴史、地理、語文、思想政治を関連科目として指定し、各科目に対してそれぞれ近現代史、国情教育強化の指示を出し、中国共産党は「日本は、日中戦争で独立存亡の危機に中国を直面させ、他方でその日中戦争の中から中国共産党が覇権を握っていく」という「『正しい歴史』に密接にかかわる必要不可欠なキャラクター」であり、日本政府は明治維新から終戦まで一貫して、資源が乏しい中で近代化を実現するため中国を侵略する計画を持ち、戦争は周到に計画されていたとする「戦争必然論」の立場を取るようになり、王雪萍(東洋大学)は、中国の歴史教科書は、「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」という「日本軍国主義」と「日本人民」を区別してきたが、1990年代以降は階級を分けて日本国内の矛盾を説明する内容がなくなり、「日本軍国主義」と「日本人民」を区別することをやめ、戦争責任を日本国家全体に帰するようになり、反日デモの矛先が日本政府のみならず、一般国民にも向けられるようになったと分析している。",
"title": "経緯"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。",
"title": "経緯"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1971年1月25日、第31回世界卓球選手権名古屋大会に際し、日本卓球連盟会長の後藤鉀二が中国チームの参加を中国当局に説得。3月21日には中国が訪日し大会に出場した。このことから4月にアメリカの卓球選手団の訪中と周との会見につながり米中の緊張緩和に微力ながら貢献した。",
"title": "その他"
}
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日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。
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'''日中国交正常化'''(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、[[1972年]]9月に[[日中共同声明]]を発表して、[[日本国]]と[[中華人民共和国]]が[[国交]]を結んだことである。
==概要==
これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の正式な国交がない状態を解決した。[[1972年]][[9月25日]]に、[[田中角栄]]が現職の[[内閣総理大臣]]として中華人民共和国の[[北京市|北京]]を初めて訪問して、北京空港で出迎えの[[国務院総理]]の[[周恩来]]と握手した後、[[人民大会堂]]で数回に渡って[[首脳会談]]を行い、[[9月29日]]に「[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明]]」(日中共同声明)の調印式において、田中、周が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった[[中華民国]]に断交を通告した。
[[ニクソン大統領の中国訪問|ニクソン訪中発表]]に続く[[1971年]]10月の[[国連]]の[[アルバニア決議]]で、中華人民共和国が常任理事国の地位を取得するなど、国際的な枠組みの変容が背景にあった。
成立は田中内閣であるが、それまでに自民党は勿論、[[日本社会党|社会党]]、[[公明党]]、[[民社党]]<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110002800226 日本民社党訪中団中国中日友好協会代表団共同声明]</ref>もそれぞれの立場で訪中して日中間の意思疎通に重要な役割を果たし<ref name="武田2008" >{{Cite book|和書|author=武田晴人|authorlink=武田晴人|title=高度成長 <small>シリーズ日本近代史(8)</small>|series=[[岩波新書#新赤版|岩波新書(新赤版)]]1049|publisher=岩波書店|year=2008|isbn=9784004310495|pages=196-199}}</ref>、また経済界、スポーツ界(卓球・バレーボールなど)など、多くの地道な関係改善努力の積み重ねにより成立したものである<ref name="武田2008" />。
この国交正常化により、[[1973年]]1月11日に日本の在中日本国大使館が開設され、中華人民共和国の在日中華人民共和国大使館は同年2月1日に設置された。
また、この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へ総額3兆円を超える[[政府開発援助|ODA]](政府開発援助)が実施されている<ref>日中国交正常化45周年・日中平和友好条約締結40周年を迎えて、外務省</ref>。
== 前史・戦後の日中関係 ==
=== 二つの中国 ===
1945年に日本が中華民国を含む[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に降伏し、[[第二次世界大戦]]が終結すると間もなく[[国共内戦]]が始まった。[[1949年]][[10月1日]]、これを優位に進めていた[[中国共産党]]によって中華人民共和国が建国され、敗退を続けた[[中国国民党]]率いる中華民国は[[台湾島]]とその周辺の諸島を支配するのみとなった。こうして「中国を代表する」と主張する政府が二つ存在する状態が生まれ、いわゆる「中国代表権問題」に直面することとなった<ref>「日中関係史」41P 国分良成・添谷芳秀・高原明生・川島真[著] 有斐閣 2013年12月発行 </ref>。この時は日本はまだ戦後4年で連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、外交権の無い時期であった。
中華人民共和国とは、[[ソビエト連邦]]をはじめとする東側諸国が早い時期に国交を結んだ。また、[[イギリス]]は西側諸国の一員であるものの、[[植民地]]として抱える[[香港]]への中華人民共和国の圧力を意識せざるを得ないため、1950年1月に中華民国との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して北京に代理大使を置き、当初から同盟国の[[アメリカ合衆国]]とは異なるスタンスを取った。そして後年に起こった国連における中国代表権の争いでは、イギリスはどちら側の提案にも賛成するという態度に終始した。
1950年に[[朝鮮戦争]]が始まり、2年後に日本が占領下を脱したころには、すでに朝鮮半島では[[大韓民国]]側についた国連軍の主力である[[アメリカ軍]]や[[イギリス軍]]と、[[北朝鮮]]側についた中華人民共和国の[[中国人民志願軍|人民義勇軍]](「義勇軍」という名目ではあったが、事実上の[[中国人民解放軍]]だった)が砲火を交えていた。日本は西側陣営に属した中華民国を支持する立場に立ったため、中華人民共和国とは国交を持たない状態が1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を行うのみであった。
=== 日中民間貿易協定 ===
国交樹立までの日本と中華人民共和国との交流は、細々とした民間交流に過ぎなかった。[[1950年]]10月1日には「日中友好協会」が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、ソビエト連邦や北朝鮮などの東側諸国と共同歩調を取る中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。
さらに[[1952年]]4月、日中貿易促進会議を設立していた[[高良とみ]]、[[帆足計]]、[[宮腰喜助]]の各国会議員が、政府方針に反し[[ソビエト連邦|ソ連]]から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。
この時期は日本が中華民国と日華平和条約を結んだ頃でもあった。[[1953年]]7月に中華人民共和国も参戦していた朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして[[池田正之輔]]を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。
=== 吉田内閣と日華平和条約 ===
首相の[[吉田茂]]は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも中華民国を承認するとは明言しなかった<ref>「日中関係史」48P 有斐閣 </ref>。西側でもイギリスが両国とも関係を保っていることに注目して、中華民国を承認するにしても中華人民共和国の上海に「貿易事務所」を開設することに言及していた<ref>「日中関係史」49P 有斐閣 </ref>。
むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて<ref group="注釈">講和条約の批准が米国議会で難しくなると指摘を受けた。この時は日本はまだアメリカや中華民国、イギリスやソビエト連邦をはじめとする連合国軍による占領下にあり、自主外交はできなかった。</ref>、結果として中華民国のみを承認することになった<ref group="注釈">この背景には、アメリカの中華民国支持の強い姿勢と同時に、アメリカの後押しで講和条約発効までに日本と国交成立をめざし、合わせて戦争賠償に関する戦後処理を急ぐ中華民国の狙いがあったと言われている。講和条約発効後の二国間交渉になると中華民国の立場が弱くなるとしていたからである。</ref>。そして講和条約が発効した4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中華人民共和国との国交正常化で最も難しい問題となった。
=== 鳩山内閣と政経分離 ===
吉田の首相辞任後に[[鳩山一郎]]が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中華人民共和国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に[[経済産業大臣|通商産業大臣]]の[[石橋湛山]]は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中華人民共和国は注目していた。
[[1955年]]4月になると、[[バンドン会議]]において[[高碕達之助]]と対談した首相の[[周恩来]]は、「[[平和共存五原則]]の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望する」と表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中華人民共和国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た<ref>「日中関係史」60P 有斐閣 </ref>。翌1956年9月には、中華人民共和国内の日本人の戦犯、抑留者およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。
こうした動きには中華人民共和国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった<ref group="注釈">このような中華人民共和国側の政策を「以民促官」政策といい、民間交流によって政府レベルの関係へと昇華させていこうとするものであった。「日中関係史」62P 有斐閣 </ref>。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。
=== 岸内閣とアジア外交 ===
[[1957年]]2月に石橋の病気辞任の後、[[岸信介]]が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。
そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した<ref>原彬久『岸信介証言録』p.160.</ref>。[[親米]]で[[親台|親華]]派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102405254X02919560330 衆議院会議録情報 第024回国会 本会議 第29号] 昭和31年3月30日</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102505254X01719561212 衆議院会議録情報 第025回国会 本会議 第17号] 昭和31年12月12日</ref> でもあり、総理就任後も対中政策重視のため<ref>岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』185頁、文藝春秋社、1981年</ref> に起用した[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[藤山愛一郎]]とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」<ref>権容奭『日中貿易断絶とナショナリズムの相克』第4章</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102813968X01119580320 参議院会議録情報第028回国会外務委員会第11号] 昭和33年3月20日</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102813968X01119580320 衆議院会議録情報第028回国会外務委員会第20号] 昭和33年4月9日</ref> や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103105261X00319590203 衆議院会議録情報第031回国会予算委員会第3号]</ref> として日中貿易を促進したい旨<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102905254X00419580617 衆議院会議録情報第029回国会本会議第4号] 昭和33年4月9日</ref> を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる<ref name=syougenroku2003>原彬久『岸信介証言録』p.159.</ref>。岸は藤山とともに池田正之輔の訪中の際も打ち合わせを行っていた<ref>岸信介、矢次一夫、伊藤隆『岸信介の回想』211頁、文藝春秋、1981年</ref>。
そして[[1958年]]3月に岸政権の承諾<ref name=syougenroku2003/> で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国とアメリカから反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で[[1958年]]5月2日に「[[長崎国旗事件]]」が起きた<ref group="注釈">この日、長崎市の浜屋デパートの4階催事場で行われた中国商品展示会でその会場に掲げられた五星紅旗を1人の青年が引き摺り降ろした事件。日本の警察が「旗を破損した」器物破損という軽微な事件として犯人をすぐに釈放した。</ref>。これに中華人民共和国の外相の陳毅が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである<ref>「日中関係史」69P 有斐閣</ref>。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。この年の夏に周が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、二つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、これに嫌悪感を示した日中間はしばらく膠着状態となった。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中華人民共和国側の「政経不可分の原則」と対立し、1959年に訪中した石橋と周との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。
しかし、民間レベルでの接触は続き、企業や友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は、中華人民共和国内に[[文化大革命]]の嵐が吹き荒れた[[1960年代]]も続いた。
=== 池田内閣と二つの中国政策 ===
1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸が辞任して、[[池田勇人]]が首相に就任した。池田は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた<ref>「日中関係史」78P 有斐閣</ref>。しかし困難な問題があった。現実には「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方とは断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。
池田は国連中心の外交方針で、中華人民共和国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中華人民共和国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、中華民国の国連における議席を維持したまま中華人民共和国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。しかし両国ともに「一つの中国」を原則としており、西側諸国の多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた<ref>「日中関係史」79P 有斐閣</ref>。
池田は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾島一帯、[[金門島]]及び[[馬祖島]])にその地位を限定することで同国の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても中華民国の議席は守られると考えていた。そのためには蒋介石を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時の[[ジョン・F・ケネディ]]大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は「中華人民共和国の国連加盟に対するアメリカ国内の抵抗が大きい」とするものであった。この問題はこの時で終わってしまった<ref group="注釈">この池田政権の事実上の「二つの中国」政策は、積極的に中華人民共和国との国交樹立を図るというよりも、むしろ国連での中国代表権問題でいずれ中華民国が常任理事国の地位のみならず議席も失うとの予測から、その国際的地位を守り国連での議席を確保する方策として考えられた側面が大きい。この10年後に[[リチャード・ニクソン]]大統領が佐藤の頭越しに対中関係の樹立に踏み切り(ニクソンショック)、その後中華民国が国連から追放される事態となった</ref>。
そして1964年1月に、突然フランスの[[シャルル・ド・ゴール]]大統領が中華人民共和国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中華人民共和国との国交正常化をしても中華民国が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に中華民国が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田は、中華人民共和国の国連加盟が実現すれば日本も中華人民共和国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に中華民国は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した<ref>「日中関係史」82P 有斐閣</ref>。
=== 友好貿易とLT貿易 ===
1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中華人民共和国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして[[松村謙三]]、[[古井喜実]]、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、日本国内では反体制色の強い左翼団体や、政治的立場より収益を優先する企業が中心的な役割を果たしていた。
そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために[[1962年]]10月28日に高碕達之助通産大臣が[[岡崎嘉平太]]([[全日本空輸]]社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保証や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中華人民共和国側代表[[廖承志]]と日本側代表高碕達之助の頭文字から[[LT貿易]]と呼ばれている。
しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後中華民国へと亡命希望先を変えて、その後もとの中華人民共和国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中華人民共和国へ強制送還したが、中華民国が反発して両日関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「[[吉田書簡#第二次吉田書簡|吉田書簡]]」を当時の国府総統府秘書長[[張群]]に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中華人民共和国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。
さらに[[1964年]]4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中華人民共和国の記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった([[日中記者交換協定]])。
=== 文化大革命と覚書貿易 ===
[[1964年]]秋に池田が病気のため辞任して[[佐藤栄作]]が首相に就任した。佐藤内閣は当時、歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間は[[ベトナム戦争]]や[[沖縄返還]]、日米安保延長があり、そして中華人民共和国では[[中ソ対立]]や文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。
[[1966年]]3月には[[日本共産党]]の[[宮本顕治]]が訪中したが、[[中国共産党中央委員会主席|中国共産党主席]][[毛沢東]]と路線対立して帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した<ref group="注釈">この間の動きは[[日中共産党の関係]]を参照のこと。</ref>。この直後、中華人民共和国では[[文化大革命]]が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中華人民共和国の外交活動も停滞した。この混乱は3年後の1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも[[1968年]]3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易<ref group="注釈">これをMT貿易と表記される向きがあるが、MTとはMemorandum Tradeで覚書貿易の英語訳の略称であり、それにわざわざ貿易をつけると重言表現であり、当時は普通に覚書貿易と呼称されていたものである。</ref> が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。
== 経緯 ==
=== 米中接近 ===
中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、1950年にイギリスが、1964年にフランスが承認して国交を樹立していた。折しも1950年代後半頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中華人民共和国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中華人民共和国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。
[[1971年]]3月に名古屋市で開催された[[第31回世界卓球選手権]]に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中華人民共和国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月にアメリカの[[ヘンリー・キッシンジャー]]大統領補佐官(当時。後に国務長官)が[[リチャード・ニクソン]]大統領の命を受けて北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして[[7月15日]]に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。この[[ニクソン大統領の中国訪問]]は翌1972年2月に行われた。
この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには、ソ連と対立しつつ北ベトナムを支援していた中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。
また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中華人民共和国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問が実現した。
このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連が中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった
=== 佐藤内閣と国際情勢 ===
佐藤は、池田の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、中華民国を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった<ref>「日中関係史」95〜97P 有斐閣</ref>。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった<ref>「日中関係史」97P 有斐閣</ref>。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。
そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時西側の主要国で中華人民共和国との国交が正常化していない国は日本と西ドイツだけで、他の英仏伊加がすでに承認していたことは、「日本外交が取り残されている」との認識が一般にも広がっていった。一方、当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国を支持する勢力があり([[源田実]]や[[浜田幸一]]なども親中華民国派であった)、様々な権益が絡んでいた。
また当然のことながら、中華民国と中華人民共和国の両政府はともに、他国による中国の[[台湾問題#二重承認問題|二重承認]]を認めないために、佐藤の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎は周の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた<ref>「国交正常化交渉〜北京の5日間〜」1972年北京の5日間交渉内容 105P 鬼頭春樹著</ref>。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」<ref group="注釈">これは当時まだニクソン訪問が実現する前に、西欧各国が中国を承認する動きが出てきた頃に、いずれアメリカも承認せざるを得ないのではとの声から、日本が世界から取り残されるジョークとして週刊誌などで述べられていた。しかし由来はもっと古く、1957年から1963年まで駐米大使を務めた朝海浩一郎が、「日本にとって最大の外交的悪夢は、日本の知らない間に頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ。」と語ったことである。ニクソンショックはまさにこのジョークや悪夢が現実に起こったこととなった。</ref> ことで右往左往することになった。
1971年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし中華民国を排除しようとすることは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案<ref group="注釈">前年まで中華人民共和国の加盟は重要事項で三分の二の賛成が必要という案(1960年頃に中華人民共和国加盟案を審議する際にアメリカが反対するための方策として考えられたものであった)をずっと提出していたが、この年は中華民国の議席の追放が重要事項で三分の二が必要という案に変った。</ref>」と、中華人民共和国の常任理事国入りを認めつつ中華民国の議席も維持する「複合二重代表制決議案<ref group="注釈">当初は両国の議席を認めたうえで、国連安保理の常任理事国をそれまでの中華民国を継続させる案であったが、やがて中華人民共和国支持派の増加で結局中華人民共和国が安保理の常任理事国になることを認めたうえで、中華民国は総会での議席を認める内容に変更した。</ref>」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決<ref>賛成55、反対59、棄権15、欠席2。「ニクソン訪中と冷戦構造」第5章 米中接近と日本 139P 増田弘 編著 慶応義塾大学出版会 2006年6月発行</ref> されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めた「[[アルバニア決議|アルバニア案]]」の採決<ref>賛成76、反対35、棄権17、欠席3。「ニクソン訪中と冷戦構造」第5章 米中接近と日本 139P</ref> で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された。この時のアメリカ国連大使の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]は国連総会の質疑で反対の論陣を張った(皮肉にも後に事実上の米国大使館である北京の米中連絡事務所の所長を務める)。
アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしていた。中華人民共和国の国連加盟が実現して中華民国が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった[[保利茂]]は[[東京都]][[東京都知事|知事]]の[[美濃部亮吉|美濃部]]が訪中した際に極秘に周宛てに1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとし保利自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の親書を渡した<ref name="andou">「政客列伝」〜保利茂〜 283〜284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版</ref>。これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中華人民共和国加盟/中華民国追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。この時に結果は不首尾であったが保利がそれまでの中華民国支持の立場から中華人民共和国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親中華民国派と親中華人民共和国派との力関係に変化が生じることとなった<ref name="andou"/>。
1971年には、日本の[[財界]]首脳が訪中団を送り込んだ<ref name="japanchina">[http://www.japanchina.jp/about/enterprise.html 過去の主な事業 - 日中経済貿易センター]</ref><ref name="doyukai">[http://www.doyukai.or.jp/about/history/pdf/years30/years30_16.pdf 第十一章 民間経済外交の多角的展開 - 経済同友会] 567-572頁。</ref><ref name="追想集">{{Cite book | 和書 | title = 永野重雄追想集 | chapter = 木村一三[[日中経済貿易センター]]専務理事 | publisher = 「永野重雄追想集」刊行会 [[日本商工会議所]]・[[東京商工会議所]] | year = 1985 |pages=126-127| id = }}</ref>。1971年9月に[[佐伯勇]]を中心とした関西財界訪中団が<ref name="osaka">[https://www.osaka.cci.or.jp/Shoukai/Rekishi/06.html 戦後の大阪商工会議所(2)]</ref>、同年11月には[[永野重雄]][[日本商工会議所]]会頭と[[木川田一隆]][[経済同友会]]代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し<ref name="山下">{{Cite book|和書|author=山下静一|year=1992|title=戦後経営者の群像 私の「経済同友会」史|publisher=[[日本経済新聞社]]|isbn=4-532-16045-6|pages=117-123}}</ref>、[[北京]]の[[人民大会堂]]で周恩来総理と会談した<ref name="doyukai"/><ref name="追想集"/><ref name="山下"/><ref>{{Cite book|和書|author=劉徳有・宋堅之|year=2007|title=忘れ難き歳月 記者たちの見た中日両国関係|publisher=五洲伝播出版社|isbn=9787508511504|page=73}}</ref>。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/005818020120611005.htm 第180回国会 決算行政監視委員会 第5号(平成24年6月11日)]、[https://www.metro.tokyo.lg.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/KAIKEN/TEXT/2012/120824.htm 石原知事記者会見(平成24年8月24日)|東京都]、[http://getnews.jp/archives/116964 石原慎太郎×田原総一朗(4) 「世論とは何か。我欲の塊ではないか」]</ref>。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある<ref name="追想集"/><ref name="osaka"/><ref name="山下"/>。
1972年1月の施政方針演説で佐藤は「中国は一つであるという認識のもとに、今後、中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-shiryou-1-4.htm (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説]</ref>。
NHKの取材により、佐藤は任期中の国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていたことが明らかになった。その後、総理の座を狙う自民党内勢力からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた[[福田赳夫]]を中国側関係者に引き合わせていたことが明らかになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/tv/2017/09/22308481.html|title=日中国交回復 水面下の交渉を託された一人の男の姿|accessdate=2017-9-26}}</ref>。
=== 田中内閣 ===
1972年7月5日に自民党総裁選挙で総裁となり、7月7日に[[内閣総理大臣]]に就任した[[田中角栄]]は就任前から日中関係の打開に積極的な姿勢で、就任した7月7日の首相談話で「日中国交正常化を急ぐ」旨を語り、すぐに異例なことに直後の7月9日に周恩来は「歓迎する」旨を明らかにした。7月16日に社会党の佐々木元委員長が訪中した際には「日本の田中首相の訪中を歓迎する」メッセージを示し、そして7月25日に公明党<ref group="注釈">党創立者で当時、[[創価学会]]の会長だった[[池田大作]]は1968年に中国との国交正常化を提唱していた。</ref>の竹入義勝委員長が訪中<ref group="注釈">竹入委員長の訪中は政府の特使でもなければ、田中の意を受けたメッセンジャーでもなかった。紹介状も田中は書かなかった。竹入が後に「特使もどき」と自ら述べているが、実際には中華人民共和国側が田中の「伝言」を持ってきたと勘違いしていたところを竹入がうまく橋渡し役としての役割を果たし、田中への伝言をうまくまとめたものであったと言える。</ref> して27日から3日間延べ10時間に渡って周と会談して、中華人民共和国の考え方の内容が示された<ref group="注釈">後に竹入は交渉のやり取りを詳細に記したメモと会談記録を作成して、このメモは後に[[竹入メモ]]と呼ばれている。</ref>。帰国後の8月4日に田中と外務大臣の[[大平正芳]]にその内容を書いたメモを手渡している。この[[竹入メモ]]には「国交回復(正常化)三原則を十分理解する」「唯一合法政府として認める」「共同声明で戦争状態を終結する」「戦時賠償を放棄する」<ref group="注釈">当時の外務省条約局長栗山尚一条約課長は、後にこの対日賠償請求を放棄する意向を示さなかったら、中華人民共和国との国交正常化は国家財政上不可能であった、と述べている。「外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米密約」栗山尚一著 参照 </ref><ref group="注釈">竹入委員長は実際に周恩来から「賠償請求を放棄する」と聞いて体が震えたという。500億ドル程度は支払わなけらばならないと思っていたからである。中華民国との間で戦後の賠償交渉が終わっている(金銭による賠償はなかった)こともあり、中華人民共和国側には賠償問題を言い出せば自民党内が纏まらなくなることも見抜いていた。「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」201〜202P 証言 歴史の歯車が回った 流れを決めた周首相の判断 竹入義勝</ref>「平和五原則に同意する」「覇権主義に反対する」「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」「日米安保条約を容認する」等の内容で、田中はこれを読んで北京に赴くことを決意した<ref>「国交正常化交渉〜北京の5日間〜」第2章 竹入メモ 50〜53P 鬼頭春樹著 2012年10月発行 NHK出版</ref><ref group="注釈">この時に密かに竹入と周恩来は、「この内容で訪中することに決したならば、合図として近く来日を予定している廖承志訪日団の来日を延期することを発表すること。これで田中訪中を了解したと受け取ります。」と打ち合わせしていた。翌日の新聞に中華人民共和国代表団の訪日延期が掲載されて、これが中華人民共和国当局には田中訪中のシグナルであると了解していた。「国交正常化交渉〜北京の5日間〜」第2章 竹入メモ 52P 鬼頭春樹著 </ref><ref group="注釈">この廖承志訪日団の延期を本来の招待者であった佐々木社会党元委員長に事前連絡することなく竹入委員長が記者会見ですぐに発表して、佐々木が怒鳴り込んできて、平謝りする一幕があった。「日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉」206〜207P 証言 歴史の歯車が回った 流れを決めた周首相の判断 竹入義勝</ref>。
この時から中華人民共和国側も田中内閣での国交正常化に本腰を入れ、当時上海舞劇団団長として来日していた孫平化中日友好協会副秘書長と肖向前中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表の2人が8月15日に帝国ホテルで田中と会談する場が設けられて、その場で田中は自身の訪中の意向を初めて公式に伝え<ref>「国交正常化交渉〜北京の5日間〜」第2章 竹入メモ 74P 鬼頭春樹著</ref>、中華人民共和国側から正式に田中を本国へ招待することが伝えられた<ref>「田中政権・886日」89〜107P 中野士朗 著 1982年12月発行 行政問題研究所</ref>。ここから、日本国と中華人民共和国との交渉がスタートした。
=== 日中国交正常化交渉 ===
ここで田中は、アメリカよりも早く日中国交正常化を果たすことを決断した。このとき日本はニクソン訪中の後に日中関係の正常化へ動いたにもかかわらず、アメリカよりも先に中華人民共和国を承認したのは日本の戦後政治史において例外的なことではあるが、ただし田中は就任後7月19日にアメリカのインガソル駐日大使にその意思を伝え、8月31日と9月1日にハワイで行ったニクソン大統領との会談でも確認しており、訪中前にアメリカにとってはすでに織り込み済みの話ではあった<ref group="注釈">また一部に先に承認したことをキッシンジャーが怒ったという話があるが、皮肉にも米中関係の正常化が日中関係の正常化を促進したことは明らかであり、彼の日米安保条約の解釈を周恩来が理解したことも大きく貢献している。またこれより3ヶ月前の6月にキッシンジャーが訪中して(この時は東京から北京に飛んでいる)、周恩来が日中正常化に反対かと尋ねた時に、キッシンジャーは反対ではなくむしろ促進をと思っていると語っている。しかし彼はもともと日本嫌いで不信感を持っている。軍事的に独立した日本を全く信用せず、軍事力を持つと簡単に1930年代の政策を繰り返すと考えている。皮肉にもこの警戒心は周恩来も共有していることで、怒ったかどうかは全く問題にする話ではない。</ref>。
1972年9月25日、田中は秋晴れの北京空港に[[日本航空]]の専用機で降り立ち、自ら中華人民共和国を訪問した。ニクソン訪中から7ヶ月後であった。同日午後から第1回会談が行われた。出席者は日本側が、内閣総理大臣の田中角栄、外務大臣の[[大平正芳]]、[[内閣官房長官]]の[[二階堂進]]、条約局長の[[高島益郎]]、中国課長の[[橋本恕]]、条約課長の[[栗山尚一]]など8名。中国側は、首相の周恩来、外相の[[姫鵬飛]]、会長の[[廖承志]]、外交部副部長の韓念龍、顧問の張香山など8名。この席でまず共同声明の形で国交正常化を行うこと、中華人民共和国側が日米安保条体制を是認すること、日本側が日華平和条約を終了させることが確認された。夜の晩餐会では、周は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めること<ref group="注釈">「求道存異」。日本では小異を捨てて大同につく、という表現になるが、この場合は「小異を残して大同につく」とさらに「大同を求め、小異を克服する」ことにつながることを意味して、周が初日の首脳会談で「求道存異」を交渉の基本方針として提起して、この日中首脳会談のキーワードとなった。「国交正常化交渉〜北京の5日間〜」 114〜115p 鬼頭春樹著</ref> で中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶して、一方田中は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します<ref group="注釈">この「ご迷惑」を通訳が「添了麻煩」と訳して中華人民共和国側が猛反発した。「添了麻煩」とは日本語で「ゴメン」、英語で「ソーリー」にあたる軽い表現で小さなことでしか使われない言葉であった。</ref>」と挨拶した。
26日の午前中の外相会談で「戦争状態の終結<ref group="注釈">この当時日本と中華人民共和国との間には平和条約が結ばれず、法的には戦争状態が続いていることとなった。しかし中華民国とはすでに日華平和条約を結び、戦争状態の終結と国家賠償の請求を放棄することで決着がついていた。この時点で戦争が終結したと謳えばそれまでの日華平和条約の存在自体を過去に遡って否定するという論理的な袋小路に陥るので避けたいとの考えが外務省にあり、このことがこの26日に日中間での緊張したやり取りになった。結果的には「戦争状態」でなく「不正常な状態」が終結したことで決着し、最終日の声明によって日華平和条約はこの日に終了したことになった。</ref>」「国交回復三原則」「賠償請求の放棄」「戦争への反省」の4点に関する基本的な見解を提示した<ref group="注釈">この席で高島条約局長が日華平和条約との関係から戦争終結と賠償放棄についての整合性に言及して中国側から反発を受けた。周恩来は顔色を変えるほど高島局長を面罵したが田中は、自分と大平に伝えようと分かるほどだったとしている</ref>。午後の首脳会談で周から前夜での「御迷惑」発言と午前中の高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で厳しく指摘を受けた。これを受けて夕方に日本側からの提案で急遽外相会談が開かれ、「台湾は中国の一部」とする中華人民共和国側に対して「不可分の一部であることを再確認する」「この立場を日本政府は十分に理解し、ポツダム宣言に基づく立場を堅持する<ref group="注釈">ここで唐突に出てきた文言であるが、この時点では米国でさえ認めていない中華人民共和国が唯一合法政府であることを日本が認めてしまうと、アメリカと中華民国との関係をも損なうことになり、日本としては絶対に避けなければならないことであった。そこで栗山尚一条約課長が出した案が「ポツダム宣言の堅持」でこれで日本が中華民国が「中国を代表する唯一の政府」であるとみなすことを支持しないことを間接的に示す表現であった。</ref>」旨の案を提示した。
27日の午前中は万里の長城などへ見学に行き、夕方から首脳会談を行った。前日の厳しいやり取りから一転して穏やかな雰囲気で始まった。全般的な外交問題や政策についてが話題となり、中ソ間のことも話題となった。また尖閣列島について田中から出されたが周から「今、話し合っても相互に利益にはならない」として、それ以前のまだ正常化に向けて残っている案件の処理を急ぐこととなった。夜に田中、大平、二階堂の3名は毛沢東の私邸を訪ねて、この時に毛主席から「もうケンカは済みましたか」という言葉がかけられた。この日の深夜に外相会談が開かれて、戦争責任について「深く反省の意を表する」という表現で、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」という表現にする案でまとまった。
28日の午前中は故宮博物館を見学して午後の首脳会談で、大平から日本と中華民国の関係について今回の共同声明が発表される翌日に終了すること、しかし民間貿易などの関係は継続される旨の発言があり、周は黙認する姿勢を示した。
そして[[9月29日]]に日本国総理大臣[[田中角栄]]と[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]:[[大平正芳]]が、一方中華人民共和国国務院総理[[周恩来]]と[[中華人民共和国外交部]]部長:[[姫鵬飛]]が「[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明]]」(日中共同声明)に署名し、ここに日中国交正常化が成立した。日本が[[第二次世界大戦]]後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった<ref>9月25日から29日までの内容については全て以下のページを参照「国交正常化交渉〜北京の5日間〜」1972年北京の5日間交渉内容 260〜265P 鬼頭春樹著</ref>。
帰国後の両院議員総会で田中は「”日中国交正常化は不可避”というのが、私はおおよその世論だと思う」と発言している<ref>TBS報道特集2022年10月1日</ref>。
なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明を実現させた。この論理によれば、[[抗日民族統一戦線]]の戦いをどれほど賛美し、日本の[[軍国主義]]の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている<ref>「[https://www.recordchina.co.jp/b42545-s0-c70-d0000.html <中国首相訪日>温首相、「未来志向、それは憎しみを後代に伝えないこと」と強調]」 『[[Record China]]』、2010年5月31日。</ref>。一方、[[1991年]]に[[江沢民]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]([[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]])は、「小学生、中学生から大学生まで、中国近代史、現代史及び国情教育を行うべき」であり、「[[1840年]]の[[アヘン戦争]]以降の百年にわたり、[[中国人|中国人民]]が列強から陵辱を受けたことを、史実を挙げて説明」し、「[[五四運動]]以降、中国共産党が誕生し、各族人民を指導して土地革命戦争、[[日中戦争|抗日戦争]]、解放戦争を経験し、[[中華人民共和国]]を建国し、中国人民が立ち上がったこと」を教育するよう要求した<ref name="松田麻美子"/>。これを受けて[[中華人民共和国教育部|国家教育委員会]]は「小中学校の中国近代、現代史及び国情教育強化のための全体綱要」を作成し、[[歴史教育|歴史]]、[[地理教育|地理]]、[[国語教育|語文]]、思想政治を関連科目として指定し、各科目に対してそれぞれ近現代史、国情教育強化の指示を出し<ref name="松田麻美子"/>、中国共産党は「日本は、[[日中戦争]]で独立存亡の危機に中国を直面させ、他方でその日中戦争の中から中国共産党が[[覇権]]を握っていく」という「『正しい歴史』に密接にかかわる必要不可欠な[[キャラクター]]」であり、[[日本国政府|日本政府]]は[[明治維新]]から[[日本の降伏|終戦]]まで一貫して、[[資源]]が乏しい中で[[近代化]]を実現するため中国を侵略する[[計画]]を持ち、戦争は周到に計画されていたとする「戦争必然論」の立場を取るようになり<ref name="松田麻美子"/>、[[王雪萍]]([[東洋大学]])は、中国の[[教科書|歴史教科書]]は、「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」という「日本軍国主義」と「日本人民」を区別してきたが、[[1990年代]]以降は[[社会階級|階級]]を分けて日本国内の矛盾を説明する内容がなくなり、「日本軍国主義」と「日本人民」を区別することをやめ、[[戦争責任]]を日本国家全体に帰するようになり、[[反日デモ]]の矛先が[[日本国政府|日本政府]]のみならず、[[私人|一般国民]]にも向けられるようになったと分析している<ref name="松田麻美子">{{Cite news |author=[[松田麻美子]] |url=http://www.kokusai-shoin.co.jp/280.html |title=中国の教科書に描かれた日本: 教育の「革命史観」から「文明史観」への転換 |newspaper=[[国際書院]] |publisher= |date=2017-03-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200218212350/http://www.kokusai-shoin.co.jp/280.html |archivedate=2020-02-18 }}</ref>。
それから6年後の[[1978年]]8月、[[福田赳夫]]政権の下で[[日中平和友好条約]]が調印された。
== 参考文献 ==
*倪志敏「田中内閣における日中国交正常化と大平正芳(その1・その2・その3・その4)」『龍谷大学経済学論集』第45巻第5号/第46巻第5号/第47巻第3号/第48巻第3・4号(2006年3月・2007年3月・2007年12月・2009年3月)
:近年公開された日中双方の外交記録及びその他の第一次資料(『森田一秘書官訪中日記』等)を援用すると同時に、日中双方の当事者及び関係者への貴重なインタビュー資料も多数利用している<ref group="注釈">国交正常化当時の中国外交部アジア局長の陸維釗、中日備忘録貿易弁事所東京連絡所首席代表の肖向前、日本特派員の王泰平、会談の通訳、中日友好協会副会長の王効賢、日本側では、[[田川誠一]]、[[加藤紘一]]、[[森田一]]〔大平正芳の娘婿、秘書官、元運輸大臣〕、[[真鍋賢二]]〔大平正芳代議士の秘書官、元環境庁長官〕、[[中江要介]]〔元アジア局長、中国大使〕、[[橋本恕]]〔元アジア局長、中国大使〕、[[佐藤嘉恭]]〔元大平内閣首相補佐官、中国大使〕、[[谷野作太郎]]〔元中国課長、中国大使〕等。</ref>。日中国交正常化のプロセスを跡づけ、北京交渉の過程に考察を加えている。
*鹿雪瑩 『古井喜実と中国 日中国交正常化への道』(思文閣出版、2011年)ISBN 9784784215904
*{{Cite |和書 |author = [[服部龍二]] |title = 日中国交正常化 - 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦 |date = 2011年 |publisher = 中央公論新社 |isbn = 412102110X |series = 中公新書 }}
*西原哲也『覚醒中国 秘められた日本企業史』(社会評論社、2012年)
*中野士朗『田中政権・886日』(行政問題研究所、1982年)
*安藤俊裕『政客列伝〜保利茂〜』(日本経済新聞出版)
*鬼頭春樹『国交正常化交渉〜北京の5日間〜』 (NHK出版 2012年)
*石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』 (岩波書店 2003年)
== その他 ==
{{Main|ピンポン外交}}
[[1971年]]1月25日、第31回[[世界卓球選手権]]名古屋大会に際し、日本卓球連盟会長の[[後藤鉀二]]が中国チームの参加を中国当局に説得。3月21日には中国が訪日し大会に出場した。このことから4月にアメリカの卓球選手団の訪中と周との会見につながり米中の緊張緩和に微力ながら貢献した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[LT貿易]]
* [[ジャイアントパンダ]]
* [[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約]]
== 外部リンク ==
* {{NHK放送史|D0009030111_00000|日中国交正常化}}
* {{YouTube|hiomel4xyoE|1972年 日中国交正常化 田中角栄総理の訪中団 共同声明調印までの記録映画(2022年9月28日)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH)
* {{YouTube|Mrdsbix_hms|1972年 田中総理の「多大なご迷惑」発言 中国側が問題視 波乱の国交正常化交渉(2022年9月29日)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH)
* {{YouTube|bTSjEpOeLsc|「言いにくいことも率直に…」田中角栄総理の肉声で振り返る 日中交渉舞台裏 1972年(2022年9月29日)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH)
* {{YouTube|r-K5eJXX7_4|昭和47年10月 中日ニュース No.977_2「日中国交回復」 中日映画社}}
* {{Kotobank}}
* [https://www.britishpathe.com/asset/127646/ CHINA: CHAIRMAN MAO TSE TUNG MEETS WITH JAPANESE PRIME MINISTER KAKUEI TANAKA. (1972)] - {{仮リンク|パテ・ニュース|en|Pathé News}}(現・[https://sp3.ed-cl.com/lessons/taking British Pathé])
{{自由民主党 (日本)}}
{{文化大革命}}
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[[Category:昭和時代戦後の政治]]
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クロノ・トリガー
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『クロノ・トリガー』(Chrono Trigger)は、スクウェア(現スクウェア・エニックス)から発売された日本のゲームソフト。ジャンルはロールプレイングゲーム。スーパーファミコン用として1995年3月11日に発売された(以降に他ゲーム機などに移植された各機種版の詳細については、本項の副節#移植版を参照)。
続編にあたる『クロノ・クロス』については、リンク先の記載を参照。2019年時点で『クロノ』シリーズ(『クロノ・トリガー』 / 『クロノ・クロス』)の累計出荷数が550万本以上を達成。
主人公クロノはガルディア王国の千年祭で、会場で知り合ったマール、幼馴染みのルッカと共に、転送装置の事故をきっかけに中世へとタイムスリップしてしまう。マールは先祖であるリーネ王妃と間違われ、そのうえ過去に干渉した影響で消滅してしまう。クロノは歴史を元に戻すため、カエルの姿をした剣士カエルと協力し、本物のリーネ王妃を魔物から取り戻す。カエルと別れ、戻ってきたマールと共に現代へと帰ってきたクロノだったが、王女誘拐犯として王国裁判にかけられてしまう。空中刑務所から脱走したクロノたちは追手から逃れるため、一か八かでゲートへと飛び込む。荒廃した時代に行き着いた一行は、そこが大災害「ラヴォス」によって滅亡した「自分たちの未来」であることを知る。クロノたちは絶望の淵に突き落とされるものの、マールを助けたときのように過去に干渉することで、世界の滅亡を防ぐことを決意する。
ルッカの修理によって人間の心を持った未来のロボット、ロボを仲間に加えた一行は、現代の魔族から、”中世の魔王がラヴォスを生み出した”という情報を聞く。中世へ行き、魔王を唯一倒せるという聖剣グランドリオンと、それを使いこなせる勇者を探し求めたクロノたちは、折れたグランドリオンの柄をなぜか持っていたカエルと再会する。やがて聖剣修復の材料を求めて原始時代に飛んだクロノたちは、女酋長エイラに助けられる。彼女たち原始人は恐竜人と種の存続をかけた激しい戦いを続けていた。材料である赤い石を手に入れたクロノたちは現代に戻りグランドリオンを復活させる。勇者サイラスの親友であり、呪いで姿を変えられたカエルと協力し、魔王を倒したクロノたちだが、魔王はラヴォスを生み出したのではなく、地底に眠るラヴォスを呼び起こそうとしていただけと知る。
ラヴォス復活の儀式の影響で巨大なゲートが開き、原始時代に飛ばされるクロノたち。恐竜人との決戦に臨むエイラと共に戦い、恐竜人の首領を倒すことに成功したが、空に輝いていた赤い星が地上に墜落する。その時エイラのつぶやいた言葉「ラヴォス」にクロノたちは驚愕する。別の惑星から地球へやってきた異星知性体、それがラヴォスだったのだ。
ラヴォス墜落によってできた巨大クレーターにはゲートが開いており、クロノたちは人々が魔法を利用していた古代文明の時代にやってくる。そこでラヴォスの力を手に入れようとする女王ジールの野望を止めようとするが、ラヴォスの力は強大で、戦いの中クロノが消滅してしまう。クロノの犠牲により難を逃れた仲間たちであったが、彼を失った悲しみに暮れていた。そんな折、同じ時代に来ていた魔王から「時の賢者」であるハッシュなら、クロノを助けられる可能性を知ると聞く。「時の卵」クロノトリガーの力を借り、無事クロノを取り戻した一行は、再びラヴォスとの最終決戦に赴くのであった。
主人公たちは過去・現在・未来にわたり、時間を越えて冒険をする。冒険の舞台となる時代は5つあり、その数だけワールドマップが用意されている。また、過去での行動により現在と未来のワールドマップや人物などに変化が発生するケースもある。
次に、各時代の特色を紹介する。なお、「A.D.」は「ガルディア王国暦」、「B.C.」は「ガルディア王国暦前」で、A.D.1年はガルディア王国の成立年である。
括弧内は英語版 "Chrono Trigger" およびニンテンドーDS移植版における英語設定での名前。日本語版とは異なる名前になっているキャラクターも多い。日本語版での名前に英文字綴りがあるものは、日本語版 / 英語版の順に記す。
なお全てのプレイヤーキャラクターは登場時にプレイヤーが名前を変更できるため、その際の初期名を記す。
プレイヤーキャラクターに関して言えば、これらは初期設定の名前であり、5文字までなら自由に名前を変えることができる。また、タイムマシンである「シルバード」の名前も同様に変更可能。ただし漢字を使えないため、魔王だけは一度名前を変えると元に戻せなくなる仕様だが、DS版に限りセレクトボタンで初期設定の名前に戻すことが可能。「つよくてニューゲーム」を行った場合、全ての名前は初期設定に戻される。名前を変えた場合、エイラがクロノを呼ぶ名前は先頭の2文字、マールの本名は前3文字+ディア、魔王軍の名前は名前+軍に変わる。なお、名前を変える際はシルバードも含めて同じ名前にすることはできない。
『ファイナルファンタジーシリーズ』(以下、『FFシリーズ』)の坂口博信、『ドラゴンクエストシリーズ』(以下、『DQシリーズ』)の堀井雄二、『ドラゴンボール』で知られる漫画家の鳥山明が並ぶということで『週刊少年ジャンプ』やゲーム雑誌では大々的に取り上げられた。
元々は『クロノ・クロス』のプロデューサーでもある田中弘道による「鳥山ワールドを再現する」という企画に「クロノ・トリガー」の名が冠されていた。諸々の事情で日の目を見ることは無く、坂口によりサルベージされた形となっている。
シナリオ全体を統括しているのは加藤正人であり、当時の上層部からシナリオ名義を上記の企画3人にするという話が出たが、ディレクターの北瀬佳範・時田貴司が止めに入ったためストーリープランとして加藤の名が残った。堀井が担当した箇所は初期稿のプロットであり、加藤が全体的なストーリープランを加筆・修正した後、各場面のイベントについて多くのスタッフの手が加わっており、堀井はキャラクターの台詞や舞台となる場所の情景・仕掛け・構造などについてはタッチしていない。なお、古代編のシナリオおよびイベント、演出の制作は全て加藤によって直接行われている。
原作であるスーパーファミコン版の発売後、複数のゲーム機用に移植されている。この節では、それらについての概要を記載する。
各ゲーム機の英略称については本項冒頭のテンプレートに基づく。
続編『クロノ・クロス』発売の2週間前である1999年11月2日に、PlayStationへの移植版が発売された。2002年1月17日にはPS one Booksとして、2006年7月20日にはアルティメットヒッツとして廉価版が再発売となった。2011年9月28日からゲームアーカイブスで配信が開始された。
基本的にはSFC版と同じ内容だが、新しい要素が付加されている。
この他、一部の台詞や演出が変更されていたり、一部のバグが修正されていたりなど細かい変更点もある。
PS版ではCD-ROM読み込みのため、SFC版よりも処理がかなり遅くなっている。また音源がSFC版と違うため、音楽や効果音などの音質が若干変質している(PS移植版『ファイナルファンタジーV』なども同様)。
PS版には上記アニメーションムービーなどの追加要素のほか、ゲームデータのセーブをメモリーカードによって行うため(1ブロック使用)、3箇所しかセーブする場所の無かったSFC版とは違いセーブデータ保存数に実質限界がない、といった利点もある。
PS版のCD-ROM内にはSFC版のロムカセットのデータがそのまま納められているので(ルートディレクトリにある「Rom.bin」)、再生用の機器(書き換え可能なSFC用ロムカートリッジと書き込み機器)もしくはソフトウェア(SFC・SNESのロムデータに対応したエミュレータ)があればSFC版としてプレイ可能になっている。
2008年11月20日にニンテンドーDSでの移植版が発売された。リメイクではなくSFC版をベースにDSならではの演出や新システムを追加した移植版。SFC版のメインコンポーザー光田康典が音楽監修として参加しており、できるだけSFC版の音源を再現したという。PS版にあったアニメーションムービーやギャラリーなどの要素も搭載している。2011年8月4日には、こちらもPS版同様アルティメットヒッツとして廉価版が販売されている。
メインテーマである「クロノ・トリガー」と、このために編曲されたクロノ・トリガーメドレーを光田康典が全面監修・制作・指揮してオーケストラによる生演奏で収録したサウンドトラック『CHRONO TRIGGER ORCHESTRA EXTRA SOUNDTRACKS』がソフトの予約者に特典として配布された(数量限定)。なお、後に発売されたオリジナル・サウンドトラックのDVDにも収録されている。
携帯電話ゲーム(フィーチャーフォン)として、2011年4月25日よりFOMA向けiアプリ版が、2011年12月22日よりEZアプリ(B)版が配信。スマートフォン(タブレット端末含む)用のアプリケーションゲームとして、2011年12月9日よりiPhone / iPod touch版、2011年12月22日よりAndroid版が配信。Android版は2012年10月29日にGoogle Playでも配信開始。また、Google Play版と同時期にAmazon Androidアプリストア版も配信開始。
いずれもニンテンドーDS版がベースとなっており、DS版の追加要素である「竜の聖域」と「次元のゆがみ」も収録されている。ただし通信対戦ゲーム「次元の闘技場」および「ギャラリー」は未収録。
フィーチャーフォン版は前後編に分かれたアプリとなっており、それぞれを別々にダウンロードする形式となっている。
スマートフォン版は端末のスペックにあわせてグラフィックやインターフェイスが改良され、タッチパネル操作に対応している。こちらは2018年2月28日より、同日配信の後述のSteam版配信に合わせ「アップグレード版」にバージョンアップとなり、以前のバージョンを購入済のユーザーは無償でアップデートが可能。Steam版準拠でグラフィック、サウンド、操作性、画面レイアウトがリニューアルされ、オートセーブ、クラウドセーブ、アチーブメント(実績)機能が追加となり、ゲームパッドでのプレイにも対応。iOS版はApple TVでのプレイにも対応している。
Microsoft Windows 7/8/8.1/10対応ソフトとして、2018年2月28日よりSteamで配信開始。
スマートフォン版の内容をベースにアップグレードされており、同日にiOS版とAndroid版も本作準拠にバージョンアップされた。DS版の追加要素である「竜の聖域」と「次元のゆがみ」も収録されているが、通信対戦ゲーム「次元の闘技場」および「ギャラリー」はスマートフォン版同様に未収録。なお、前出の社外作曲家によるおまけBGM4曲は別のものに差し替えられている
ファンによる(スクウェア・エニックスの許可を得ない)非公式のリメイク(ファンメイド)版として『Chrono Trigger: Resurrection』の製作が進められていたが、2004年9月6日に製作停止が発表された。これは、『クロノ・トリガー』の著作権を持つスクウェア・エニックスに製作の中止を求められたためと発表されている。
基本的なシステムは『ファイナルファンタジーシリーズ』(以下、『FFシリーズ』)のそれに近いが、以下のような相違点もある。
本作のバトルシステムは、『FFシリーズ』のATB(Active Time Battle)を拡張したATB Ver.2となっている。Ver.2での追加要素には以下のような物がある。
「つよくてニューゲーム」とは、SFC版では「黒の夢」を攻略後にセーブして(クエストタイトルは「星の夢の終わりに」)、ゲームクリアをすることで現れるモード。PS版ではクリアを記録したシステムデータがスロット中のメモリーカードに存在すれば、DS版以降では一度でもクリアデータを記録していれば、セーブデータをロードする際に選択できるようになる。
このモードでは任意にセーブデータを選んで、そのセーブデータのレベル・技能・アイテムを引き継いだままゲームの最初から新しく始めることができる。ただし、お金、各種ポイント、プレイ時間、一部の重要イベントアイテム(グランドリオンなど)は引き継ぐことができない。DS版では「次元の闘技場」の育成モンスターのデータも初期化される。
また、このモードではゲーム開始すぐの場所にラストボスへの道筋が設置されるため、特定のイベント中以外はいつでもラストボスに挑むことができる。よって、開始直後にクロノ1人でラスボスに挑むことも可能である。エンディングはマルチイベント発生前(クロノ離脱前)までに10種類あり、イベントの進行度や特定条件によって見られるエンディングが変わる(なお、ラストボスに負けることで見られる専用のバッドエンドも存在するが、エンディングリストでは扱われない)。また、マルチイベント発生後のメインエンディングにもバリエーションがあり、それまでのプレイヤーの行動によって内容が細かく変化する(PS版以降のエンディングリストでは、魔王を仲間にするかによって大別して2種類として扱われているが、さらにそれぞれシルバードの存在によっても内容が大きく変わり、その他のイベントでも細部が変化する)。DS版以降ではさらに新たなもう1種類のエンディングが追加されている。なお、PS版ではシステムファイルに見たエンディングの履歴を蓄積することで、DS版以降ではクリアデータを更新していくことで、「おまけ」・「ギャラリー」の内容が充実していく。
BSアナログ放送のサテラビューで、以下の4つのソフトが配信されていた。
1996年7月31日に、Vジャンプフェスティバル'96にてアニメ化されて上映された。『月刊Vジャンプ』で連載されていた漫画『時空冒険ヌウマモンジャー』をベースとしたギャグアニメ作品。
なお、劇中冒頭のタイトル表示は漫画と同じくカタカナで『時空冒険ヌウマモンジャー』だが、Production I.Gによる作品名表記はひらがなで『時空冒険 ぬうまもんじゃ〜』となっている。
|
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"text": "『クロノ・トリガー』(Chrono Trigger)は、スクウェア(現スクウェア・エニックス)から発売された日本のゲームソフト。ジャンルはロールプレイングゲーム。スーパーファミコン用として1995年3月11日に発売された(以降に他ゲーム機などに移植された各機種版の詳細については、本項の副節#移植版を参照)。",
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"text": "続編にあたる『クロノ・クロス』については、リンク先の記載を参照。2019年時点で『クロノ』シリーズ(『クロノ・トリガー』 / 『クロノ・クロス』)の累計出荷数が550万本以上を達成。",
"title": null
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"text": "主人公クロノはガルディア王国の千年祭で、会場で知り合ったマール、幼馴染みのルッカと共に、転送装置の事故をきっかけに中世へとタイムスリップしてしまう。マールは先祖であるリーネ王妃と間違われ、そのうえ過去に干渉した影響で消滅してしまう。クロノは歴史を元に戻すため、カエルの姿をした剣士カエルと協力し、本物のリーネ王妃を魔物から取り戻す。カエルと別れ、戻ってきたマールと共に現代へと帰ってきたクロノだったが、王女誘拐犯として王国裁判にかけられてしまう。空中刑務所から脱走したクロノたちは追手から逃れるため、一か八かでゲートへと飛び込む。荒廃した時代に行き着いた一行は、そこが大災害「ラヴォス」によって滅亡した「自分たちの未来」であることを知る。クロノたちは絶望の淵に突き落とされるものの、マールを助けたときのように過去に干渉することで、世界の滅亡を防ぐことを決意する。",
"title": "ストーリー"
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"text": "ルッカの修理によって人間の心を持った未来のロボット、ロボを仲間に加えた一行は、現代の魔族から、”中世の魔王がラヴォスを生み出した”という情報を聞く。中世へ行き、魔王を唯一倒せるという聖剣グランドリオンと、それを使いこなせる勇者を探し求めたクロノたちは、折れたグランドリオンの柄をなぜか持っていたカエルと再会する。やがて聖剣修復の材料を求めて原始時代に飛んだクロノたちは、女酋長エイラに助けられる。彼女たち原始人は恐竜人と種の存続をかけた激しい戦いを続けていた。材料である赤い石を手に入れたクロノたちは現代に戻りグランドリオンを復活させる。勇者サイラスの親友であり、呪いで姿を変えられたカエルと協力し、魔王を倒したクロノたちだが、魔王はラヴォスを生み出したのではなく、地底に眠るラヴォスを呼び起こそうとしていただけと知る。",
"title": "ストーリー"
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"text": "ラヴォス復活の儀式の影響で巨大なゲートが開き、原始時代に飛ばされるクロノたち。恐竜人との決戦に臨むエイラと共に戦い、恐竜人の首領を倒すことに成功したが、空に輝いていた赤い星が地上に墜落する。その時エイラのつぶやいた言葉「ラヴォス」にクロノたちは驚愕する。別の惑星から地球へやってきた異星知性体、それがラヴォスだったのだ。",
"title": "ストーリー"
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{
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"text": "ラヴォス墜落によってできた巨大クレーターにはゲートが開いており、クロノたちは人々が魔法を利用していた古代文明の時代にやってくる。そこでラヴォスの力を手に入れようとする女王ジールの野望を止めようとするが、ラヴォスの力は強大で、戦いの中クロノが消滅してしまう。クロノの犠牲により難を逃れた仲間たちであったが、彼を失った悲しみに暮れていた。そんな折、同じ時代に来ていた魔王から「時の賢者」であるハッシュなら、クロノを助けられる可能性を知ると聞く。「時の卵」クロノトリガーの力を借り、無事クロノを取り戻した一行は、再びラヴォスとの最終決戦に赴くのであった。",
"title": "ストーリー"
},
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"text": "主人公たちは過去・現在・未来にわたり、時間を越えて冒険をする。冒険の舞台となる時代は5つあり、その数だけワールドマップが用意されている。また、過去での行動により現在と未来のワールドマップや人物などに変化が発生するケースもある。",
"title": "世界設定"
},
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"text": "次に、各時代の特色を紹介する。なお、「A.D.」は「ガルディア王国暦」、「B.C.」は「ガルディア王国暦前」で、A.D.1年はガルディア王国の成立年である。",
"title": "世界設定"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "括弧内は英語版 \"Chrono Trigger\" およびニンテンドーDS移植版における英語設定での名前。日本語版とは異なる名前になっているキャラクターも多い。日本語版での名前に英文字綴りがあるものは、日本語版 / 英語版の順に記す。",
"title": "登場キャラクター"
},
{
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"text": "なお全てのプレイヤーキャラクターは登場時にプレイヤーが名前を変更できるため、その際の初期名を記す。",
"title": "登場キャラクター"
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"text": "プレイヤーキャラクターに関して言えば、これらは初期設定の名前であり、5文字までなら自由に名前を変えることができる。また、タイムマシンである「シルバード」の名前も同様に変更可能。ただし漢字を使えないため、魔王だけは一度名前を変えると元に戻せなくなる仕様だが、DS版に限りセレクトボタンで初期設定の名前に戻すことが可能。「つよくてニューゲーム」を行った場合、全ての名前は初期設定に戻される。名前を変えた場合、エイラがクロノを呼ぶ名前は先頭の2文字、マールの本名は前3文字+ディア、魔王軍の名前は名前+軍に変わる。なお、名前を変える際はシルバードも含めて同じ名前にすることはできない。",
"title": "登場キャラクター"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "『ファイナルファンタジーシリーズ』(以下、『FFシリーズ』)の坂口博信、『ドラゴンクエストシリーズ』(以下、『DQシリーズ』)の堀井雄二、『ドラゴンボール』で知られる漫画家の鳥山明が並ぶということで『週刊少年ジャンプ』やゲーム雑誌では大々的に取り上げられた。",
"title": "スタッフ"
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"text": "元々は『クロノ・クロス』のプロデューサーでもある田中弘道による「鳥山ワールドを再現する」という企画に「クロノ・トリガー」の名が冠されていた。諸々の事情で日の目を見ることは無く、坂口によりサルベージされた形となっている。",
"title": "スタッフ"
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"text": "シナリオ全体を統括しているのは加藤正人であり、当時の上層部からシナリオ名義を上記の企画3人にするという話が出たが、ディレクターの北瀬佳範・時田貴司が止めに入ったためストーリープランとして加藤の名が残った。堀井が担当した箇所は初期稿のプロットであり、加藤が全体的なストーリープランを加筆・修正した後、各場面のイベントについて多くのスタッフの手が加わっており、堀井はキャラクターの台詞や舞台となる場所の情景・仕掛け・構造などについてはタッチしていない。なお、古代編のシナリオおよびイベント、演出の制作は全て加藤によって直接行われている。",
"title": "スタッフ"
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"text": "原作であるスーパーファミコン版の発売後、複数のゲーム機用に移植されている。この節では、それらについての概要を記載する。",
"title": "移植版"
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"text": "各ゲーム機の英略称については本項冒頭のテンプレートに基づく。",
"title": "移植版"
},
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"text": "続編『クロノ・クロス』発売の2週間前である1999年11月2日に、PlayStationへの移植版が発売された。2002年1月17日にはPS one Booksとして、2006年7月20日にはアルティメットヒッツとして廉価版が再発売となった。2011年9月28日からゲームアーカイブスで配信が開始された。",
"title": "移植版"
},
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"text": "基本的にはSFC版と同じ内容だが、新しい要素が付加されている。",
"title": "移植版"
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"text": "この他、一部の台詞や演出が変更されていたり、一部のバグが修正されていたりなど細かい変更点もある。",
"title": "移植版"
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"text": "PS版ではCD-ROM読み込みのため、SFC版よりも処理がかなり遅くなっている。また音源がSFC版と違うため、音楽や効果音などの音質が若干変質している(PS移植版『ファイナルファンタジーV』なども同様)。",
"title": "移植版"
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"text": "PS版には上記アニメーションムービーなどの追加要素のほか、ゲームデータのセーブをメモリーカードによって行うため(1ブロック使用)、3箇所しかセーブする場所の無かったSFC版とは違いセーブデータ保存数に実質限界がない、といった利点もある。",
"title": "移植版"
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"text": "PS版のCD-ROM内にはSFC版のロムカセットのデータがそのまま納められているので(ルートディレクトリにある「Rom.bin」)、再生用の機器(書き換え可能なSFC用ロムカートリッジと書き込み機器)もしくはソフトウェア(SFC・SNESのロムデータに対応したエミュレータ)があればSFC版としてプレイ可能になっている。",
"title": "移植版"
},
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"text": "2008年11月20日にニンテンドーDSでの移植版が発売された。リメイクではなくSFC版をベースにDSならではの演出や新システムを追加した移植版。SFC版のメインコンポーザー光田康典が音楽監修として参加しており、できるだけSFC版の音源を再現したという。PS版にあったアニメーションムービーやギャラリーなどの要素も搭載している。2011年8月4日には、こちらもPS版同様アルティメットヒッツとして廉価版が販売されている。",
"title": "移植版"
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"text": "メインテーマである「クロノ・トリガー」と、このために編曲されたクロノ・トリガーメドレーを光田康典が全面監修・制作・指揮してオーケストラによる生演奏で収録したサウンドトラック『CHRONO TRIGGER ORCHESTRA EXTRA SOUNDTRACKS』がソフトの予約者に特典として配布された(数量限定)。なお、後に発売されたオリジナル・サウンドトラックのDVDにも収録されている。",
"title": "移植版"
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"text": "携帯電話ゲーム(フィーチャーフォン)として、2011年4月25日よりFOMA向けiアプリ版が、2011年12月22日よりEZアプリ(B)版が配信。スマートフォン(タブレット端末含む)用のアプリケーションゲームとして、2011年12月9日よりiPhone / iPod touch版、2011年12月22日よりAndroid版が配信。Android版は2012年10月29日にGoogle Playでも配信開始。また、Google Play版と同時期にAmazon Androidアプリストア版も配信開始。",
"title": "移植版"
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"text": "いずれもニンテンドーDS版がベースとなっており、DS版の追加要素である「竜の聖域」と「次元のゆがみ」も収録されている。ただし通信対戦ゲーム「次元の闘技場」および「ギャラリー」は未収録。",
"title": "移植版"
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"text": "フィーチャーフォン版は前後編に分かれたアプリとなっており、それぞれを別々にダウンロードする形式となっている。",
"title": "移植版"
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"text": "スマートフォン版は端末のスペックにあわせてグラフィックやインターフェイスが改良され、タッチパネル操作に対応している。こちらは2018年2月28日より、同日配信の後述のSteam版配信に合わせ「アップグレード版」にバージョンアップとなり、以前のバージョンを購入済のユーザーは無償でアップデートが可能。Steam版準拠でグラフィック、サウンド、操作性、画面レイアウトがリニューアルされ、オートセーブ、クラウドセーブ、アチーブメント(実績)機能が追加となり、ゲームパッドでのプレイにも対応。iOS版はApple TVでのプレイにも対応している。",
"title": "移植版"
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"text": "Microsoft Windows 7/8/8.1/10対応ソフトとして、2018年2月28日よりSteamで配信開始。",
"title": "移植版"
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"text": "スマートフォン版の内容をベースにアップグレードされており、同日にiOS版とAndroid版も本作準拠にバージョンアップされた。DS版の追加要素である「竜の聖域」と「次元のゆがみ」も収録されているが、通信対戦ゲーム「次元の闘技場」および「ギャラリー」はスマートフォン版同様に未収録。なお、前出の社外作曲家によるおまけBGM4曲は別のものに差し替えられている",
"title": "移植版"
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"text": "ファンによる(スクウェア・エニックスの許可を得ない)非公式のリメイク(ファンメイド)版として『Chrono Trigger: Resurrection』の製作が進められていたが、2004年9月6日に製作停止が発表された。これは、『クロノ・トリガー』の著作権を持つスクウェア・エニックスに製作の中止を求められたためと発表されている。",
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"text": "基本的なシステムは『ファイナルファンタジーシリーズ』(以下、『FFシリーズ』)のそれに近いが、以下のような相違点もある。",
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"text": "本作のバトルシステムは、『FFシリーズ』のATB(Active Time Battle)を拡張したATB Ver.2となっている。Ver.2での追加要素には以下のような物がある。",
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"text": "「つよくてニューゲーム」とは、SFC版では「黒の夢」を攻略後にセーブして(クエストタイトルは「星の夢の終わりに」)、ゲームクリアをすることで現れるモード。PS版ではクリアを記録したシステムデータがスロット中のメモリーカードに存在すれば、DS版以降では一度でもクリアデータを記録していれば、セーブデータをロードする際に選択できるようになる。",
"title": "システム"
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"text": "このモードでは任意にセーブデータを選んで、そのセーブデータのレベル・技能・アイテムを引き継いだままゲームの最初から新しく始めることができる。ただし、お金、各種ポイント、プレイ時間、一部の重要イベントアイテム(グランドリオンなど)は引き継ぐことができない。DS版では「次元の闘技場」の育成モンスターのデータも初期化される。",
"title": "システム"
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"text": "また、このモードではゲーム開始すぐの場所にラストボスへの道筋が設置されるため、特定のイベント中以外はいつでもラストボスに挑むことができる。よって、開始直後にクロノ1人でラスボスに挑むことも可能である。エンディングはマルチイベント発生前(クロノ離脱前)までに10種類あり、イベントの進行度や特定条件によって見られるエンディングが変わる(なお、ラストボスに負けることで見られる専用のバッドエンドも存在するが、エンディングリストでは扱われない)。また、マルチイベント発生後のメインエンディングにもバリエーションがあり、それまでのプレイヤーの行動によって内容が細かく変化する(PS版以降のエンディングリストでは、魔王を仲間にするかによって大別して2種類として扱われているが、さらにそれぞれシルバードの存在によっても内容が大きく変わり、その他のイベントでも細部が変化する)。DS版以降ではさらに新たなもう1種類のエンディングが追加されている。なお、PS版ではシステムファイルに見たエンディングの履歴を蓄積することで、DS版以降ではクリアデータを更新していくことで、「おまけ」・「ギャラリー」の内容が充実していく。",
"title": "システム"
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"text": "BSアナログ放送のサテラビューで、以下の4つのソフトが配信されていた。",
"title": "サテラビュー"
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"text": "1996年7月31日に、Vジャンプフェスティバル'96にてアニメ化されて上映された。『月刊Vジャンプ』で連載されていた漫画『時空冒険ヌウマモンジャー』をベースとしたギャグアニメ作品。",
"title": "関連作品"
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"text": "なお、劇中冒頭のタイトル表示は漫画と同じくカタカナで『時空冒険ヌウマモンジャー』だが、Production I.Gによる作品名表記はひらがなで『時空冒険 ぬうまもんじゃ〜』となっている。",
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『クロノ・トリガー』は、スクウェア(現スクウェア・エニックス)から発売された日本のゲームソフト。ジャンルはロールプレイングゲーム。スーパーファミコン用として1995年3月11日に発売された(以降に他ゲーム機などに移植された各機種版の詳細については、本項の副節#移植版を参照)。 続編にあたる『クロノ・クロス』については、リンク先の記載を参照。2019年時点で『クロノ』シリーズの累計出荷数が550万本以上を達成。
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{{コンピュータゲーム
| Title = クロノ・トリガー<br />''Chrono Trigger''
| Plat = [[スーパーファミコン]](SFC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 =[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](PS)<br />[[ニンテンドーDS]](DS)<br />[[iアプリ]](i)<br/>[[バーチャルコンソール]](VC)<ref group="注" name="virtualconsole">2019年1月31日で配信終了。</ref><br />[[ゲームアーカイブス]](GA)<br />[[iPhone]] /[[iPod touch]](iOS)<br />[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]<br />[[BREW|EZアプリ(B)]]<br />[[Microsoft Windows]] ([[Steam]])}}
| Dev = '''SFC:'''[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]開発第4部<br />'''PS:'''[[トーセ]]<br />[[スクウェア・エニックス]](上記以外)
| Pub = '''SFC, PS, PS(Books):'''[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]<br />'''PS(UH), DS, DS(UH), i, VC, GA, iOS, Android, EZ, Steam:'''[[スクウェア・エニックス]]
| producer = [[坂口博信]](EP)<br />[[青木和彦]]
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| Date = '''SFC:'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[1995年]][[3月11日]]<br />{{Flagicon|USA}} 1995年8月22日{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 ='''PS:'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[1999年]][[11月2日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2001年6月29日<br />'''PS(Books):'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2002年]][[1月17日]]<br />'''PS(UH):'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2006年]][[7月20日]]<br />'''DS:'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[2008年]][[11月20日]]<br />{{Flagicon|USA}}2008年11月25日<br />{{Flagicon|EU}} 2009年2月6日<br />'''DS(UH):'''<br />{{Flagicon|JPN}}[[2011年]][[8月4日]]<br />'''i:'''<br />{{Flagicon|JPN}} 2011年4月25日<br />'''VC:'''<br />{{Flagicon|JPN}} 2011年4月26日<ref group="注" name="virtualconsole" /><br />{{Flagicon|USA}} 2011年5月16日<br />{{Flagicon|EU}} 2011年5月20日<br />'''GA:'''<br />{{Flagicon|JPN}} 2011年9月28日<br />{{Flagicon|USA}} 2011年10月4日<br />'''iOS:'''<br />2011年12月9日<br />'''Android, BREW:'''<br />2011年12月22日<br />'''Steam:'''<br />2018年2月28日}}
| Genre = [[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]
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| Sale = '''SFC:'''<br/>{{Flagicon|World}} 230万本(2022年12月末時点)<ref>{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=199}}</ref><br />{{Flagicon|JPN}} 200万本(2022年12月末時点)<ref>{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=188}}</ref><br />'''SFC & PS:'''<br/>{{Flagicon|World}}265万本{{要出典|date=2023年12月}}<br />{{Flagicon|JPN}} 236万本(2003年3月時点)<ref>[http://www.square-enix.com/jp/ir/e/explanatory/download/0404-200402090000-01.pdf#page=27]</ref>{{リンク切れ|date=2023年12月}}<br />'''DS:'''<br/>{{Flagicon|World}}134万本<ref>[http://www.vgchartz.com/game/24237/chrono-trigger/ Chrono Trigger (Nintendo DS) - Sales, Wiki, Cheats, Walkthrough, Release Date, Gameplay, ROM on VGChartz]</ref>{{信頼性要検証|date=2023-12}}<br />{{Flagicon|JPN}} 49万本{{要出典|date=2023年12月}}
| etc = '''DS:'''DSワイヤレスプレイ対応[http://biz.yahoo.com/prnews/080702/law041.html?.v=101]<br /> '''Android:'''バージョン2.2以上<br /><br />※記号注釈<br />'''PS(Books):'''[[PS one Books]]<br />'''PS(UH):'''[[アルティメットヒッツ]]
}}
『'''クロノ・トリガー'''』(''Chrono Trigger'')は、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]](現[[スクウェア・エニックス]])から発売された[[日本]]の[[ゲームソフト]]。[[コンピュータゲームのジャンル|ジャンル]]は[[コンピューターRPG|ロールプレイングゲーム]]。[[スーパーファミコン]]用として[[1995年]][[3月11日]]に発売された(以降に他ゲーム機などに移植された各機種版の詳細については、本項の副節[[#移植版]]を参照)。
続編にあたる『[[クロノ・クロス]]』については、リンク先の記載を参照。2019年時点で『クロノ』シリーズ(『クロノ・トリガー』 / 『クロノ・クロス』)の累計出荷数が550万本以上を達成<ref>{{Cite web |url=https://dengekionline.com/articles/5359/ |title=『クロノ・トリガー』『クロノ・クロス』のオーケストラコンサートが東京・大阪で開催 |access-date=2022-09-08 |publisher=電撃オンライン |date=2019-07-04}}</ref>。
== ストーリー ==
主人公クロノはガルディア王国の千年祭で、会場で知り合ったマール、幼馴染みのルッカと共に、転送装置の事故をきっかけに中世へとタイムスリップしてしまう。マールは先祖であるリーネ王妃と間違われ、そのうえ過去に干渉した影響で消滅してしまう。クロノは歴史を元に戻すため、[[カエル]]の姿をした剣士カエルと協力し、本物のリーネ王妃を魔物から取り戻す。カエルと別れ、戻ってきたマールと共に現代へと帰ってきたクロノだったが、王女誘拐犯として王国裁判にかけられてしまう。空中刑務所から脱走したクロノたちは追手から逃れるため、一か八かでゲートへと飛び込む。荒廃した時代に行き着いた一行は、そこが大災害「[[ラヴォス]]」によって滅亡した「自分たちの未来」であることを知る。クロノたちは絶望の淵に突き落とされるものの、マールを助けたときのように過去に干渉することで、世界の滅亡を防ぐことを決意する。
ルッカの修理によって人間の心を持った未来のロボット、ロボを仲間に加えた一行は、現代の魔族から、”中世の魔王がラヴォスを生み出した”という情報を聞く。中世へ行き、魔王を唯一倒せるという聖剣グランドリオンと、それを使いこなせる勇者を探し求めたクロノたちは、折れたグランドリオンの柄をなぜか持っていたカエルと再会する。やがて聖剣修復の材料を求めて原始時代に飛んだクロノたちは、女酋長エイラに助けられる。彼女たち原始人は恐竜人と種の存続をかけた激しい戦いを続けていた。材料である赤い石を手に入れたクロノたちは現代に戻りグランドリオンを復活させる。勇者サイラスの親友であり、呪いで姿を変えられたカエルと協力し、魔王を倒したクロノたちだが、魔王はラヴォスを生み出したのではなく、地底に眠るラヴォスを呼び起こそうとしていただけと知る。
ラヴォス復活の儀式の影響で巨大なゲートが開き、原始時代に飛ばされるクロノたち。恐竜人との決戦に臨むエイラと共に戦い、恐竜人の首領を倒すことに成功したが、空に輝いていた赤い星が地上に墜落する。その時エイラのつぶやいた言葉「ラヴォス」にクロノたちは驚愕する。別の惑星から地球へやってきた異星知性体、それがラヴォスだったのだ。
ラヴォス墜落によってできた巨大クレーターにはゲートが開いており、クロノたちは人々が魔法を利用していた古代文明の時代にやってくる。そこでラヴォスの力を手に入れようとする女王ジールの野望を止めようとするが、ラヴォスの力は強大で、戦いの中クロノが消滅してしまう。クロノの犠牲により難を逃れた仲間たちであったが、彼を失った悲しみに暮れていた。そんな折、同じ時代に来ていた魔王から「時の賢者」であるハッシュなら、クロノを助けられる可能性を知ると聞く。「時の卵」クロノトリガーの力を借り、無事クロノを取り戻した一行は、再びラヴォスとの最終決戦に赴くのであった。
== 世界設定 ==
主人公たちは過去・現在・未来にわたり、時間を越えて冒険をする。冒険の舞台となる時代は5つあり、その数だけワールドマップが用意されている。また、過去での行動により現在と未来のワールドマップや人物などに変化が発生するケースもある。
次に、各時代の特色を紹介する。なお、「A.D.」は「ガルディア王国暦」、「B.C.」は「ガルディア王国暦前」で、A.D.1年はガルディア王国の成立年である。
; 原始(B.C.65000000)
: 猿から進化した人間と、恐竜から進化した恐竜人が「'''大地のおきて'''」に従って生き残りを懸け争う時代。人間たちは[[竪穴建物]]を築き小集落を形成している一方、恐竜人たちはコロニーに大集落を作り上げている。また人間たちは、恐竜人と戦う「イオカ族」と、恐竜人を恐れて森に隠れ住む「ラルバ族」の2つに分かれている。各地で火山が噴煙を上げており、その合間に平野とジャングルがある。
; 古代(B.C.12000)
: 雪と氷に覆われた極寒の世界であり、現代では失われた「魔法」が使われていた時代である。陸地はわずかに残るばかりで、地表のほとんどは海で占められている。また、この時代の人間は魔法の能力を持つか否かで2つの層に分けられ、魔法を使えない人間「地の民」は、厳しい地上の環境の中貧しい生活を強いられている。一方、魔法を使える人間「光の民」は、浮遊大陸に存在する魔法王国ジールで、高度な文明の恩恵を受け豊かな暮らしをしている。後に大陸の大半が海中に沈むが、A.D.600年に地形変化などは起きていない。
; 中世(A.D.600)
: 王国を中心とする人間と魔王軍が、世界の覇権を巡り争っている時代。人間側の唯一の希望である勇者サイラスは青年剣士グレンと共に魔王討伐を志すが、サイラスは敗れ、人々は絶望の淵に立たされていた。
; 現代(A.D.1000)
: ガルディア王国建国1000年を祝う千年祭が開かれている平和な時代。電気・ガス・水道などの一般的なライフラインが普及している。王国に住む少年クロノは、祭りの会場で一人の少女と出会う。その後、幼馴染の科学者ルッカが発明したテレポッドという転送装置がきっかけとなり、遥かなる時間を巡る冒険に旅立つことになる。
; 世界崩壊(A.D.1999)
: A.D.1999年、ラヴォスの日1時24分、6000万年以上もの長きに渡って地中深くに潜んでいたラヴォスが地上に姿を現すことにより、地球は死の星となる。DS版ではタイムワープ時にこの時代にカーソルを合わせるとワールドマップが確認できるが、ラヴォスとの戦い以外で冒険の舞台として歩くことはできない。なおこの時代のラヴォスとの戦いに敗れると、それにより世界が滅ぼされる様子が描かれたバッドエンディングが流れる。
; 未来(A.D.2300)
: ラヴォスによって世界が崩壊したその後の時代。かつての地形と高度な文明は崩壊し、既存の国家や町は全て滅亡している。人々は地上に残るシェルターでわずかに生き長らえていたが、食料の枯渇が深刻化しており、生きる希望を失っていた。廃墟の街には暴走した機械や環境悪化により出現したミュータントがあふれ、人々に牙を向く。
; 時の最果て(∞)
: 全ての時代に通じていながら、どの時代にも属さない時空を越えた謎の空間。物語を進める上でクロノたちの拠点となる。
== 登場キャラクター ==
括弧内は英語版 "''Chrono Trigger''" およびニンテンドーDS移植版における英語設定での名前。日本語版とは異なる名前になっているキャラクターも多い。日本語版での名前に英文字綴りがあるものは、''日本語版'' / 英語版の順に記す。
なお全てのプレイヤーキャラクターは登場時にプレイヤーが名前を変更できるため、その際の初期名を記す。
=== パーティーメンバー ===
; [[クロノ (クロノ・トリガー)|クロノ]] (''Chrono'' / Crono)
: 本作の主人公。17歳の少年。現代のガルディア王国で母親と暮らす普通の町民だったが、マールとの出会い、ルッカの発明による事故から世界の未来を護るための戦いに身を投じることになる。
: セリフは喋らないが、特定のエンディングで唯一のセリフが用意されている。逆立った鮮やかな赤い髪とハチマキがトレードマーク。公式イラストではほとんどの場合左手で刀を持っている。最初はパーティから外すことができないが、後述の復活イベント以降はフリーメンバーとなる。
: 終盤で死亡するイベントがあり、復活させるイベントもあるが、彼を復活させなくてもクリア可能。その場合、エンディングの内容は仲間が彼を蘇らせる方法を探すものになる。
: PS版およびDS版で追加されたエンディングでは、マールと結婚するハッピーエンドが追加されている。
: 使用する武器は[[日本刀]]。属性は天で、雷系の魔法を使う。日本刀と天属性の魔法による攻撃がメインになるキャラクターである。
:『クロノ・クロス』では「クロノたちが死亡した歴史」のクロノが登場。子供の姿になっており、最初は年相応の幼い口調だった。最終決戦に向かうセルジュに対し、様々な真実を告げ、「新たなるクロノ・トリガー」という言葉を送った。
; [[マール (クロノ・トリガー)|マール]] (''Marl'' / Marle)
: 本作のヒロイン<ref>{{Cite web|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/701f9db6ed77d02a5028993b04f0aa4b1835decc|title=『クロノ・トリガー』が発売された日。時を越える冒険を描く壮大なドラマと光田康典氏の美しいサウンドが忘れられない名作RPG【今日は何の日】|publisher=ヤフー!ニュース|accessdate=2022-06-15}}</ref>。クロノが千年祭会場で出会った16歳の少女。綺麗な金髪をポニーテールにしている。A.D.1000年のガルディア王国の王女であり、本名はマールディア (Nadia) 。名前を変更した場合は、名前の最後に「ディア」がつく<ref group="注">4文字や5文字であれば4文字目以降は表示されず必ず「○○○ディア」となる。</ref>。天真爛漫でおてんばな性格。しかし、実際は臆病で泣き虫な面も持っており、自分を助けてくれたクロノには強い信頼を見せている。
: 城を抜け出した際にクロノと出会い、そのまま彼と共に千年祭を回ることになるが、ルッカの発明の事故により中世へと飛ばされてしまう。クロノによって助けられるが、現代では「クロノがマールを誘拐した」という扱いになっており、クロノは裁判にかけられることとなってしまう。大臣(実は偽物)の謀略でクロノの処刑が決定したため父親に反発し、クロノを助けて「城出」。そのまま未来の時間へ逃げる形で移動しクロノたちと旅をすることに。
: 武器は[[クロスボウ|ボウガン]]もしくは弓。属性は水で、その中でも氷系の魔法を主に使う。初期段階から回復技を使うことができ、攻撃魔法・回復魔法・蘇生魔法・補助魔法を覚えていく。魔力が高いため回復魔法の効果が高いが、一方で攻撃魔法で強力なものは覚えないので終盤は支援面が強く出る。
: PS版およびDS版で追加されたエンディングでは、クロノと結婚するハッピーエンドが追加されている。
:『クロノ・クロス』では「クロノたちが死亡した歴史」のマールが登場。子供の姿になっており、セルジュたちに様々な真実を伝え、最終決戦に向かう彼にサラを助けてほしいと懇願した。
; [[ルッカ (クロノ・トリガー)|ルッカ]] (Lucca)
: クロノの幼馴染である19歳の少女。紫のショートヘアで顔が出るタイプのヘルメットを着用しており、眼鏡を掛けている。大の発明好きで、自分の才能に強い自信を持っている。機械やロボットを作ったり直したりするのが趣味で、彼女の開発したテレポッド([[転送装置|転移装置]])が大冒険が始まるきっかけになる。10年前の母・ララの両足に関する悲劇を止められなかった自分を責め、それ以後、機械に興味を持つようになる(イベント次第で、この過去を変えることが可能)。
: ガン(銃)を武器として使う。属性は火で、炎で敵を焼き尽くす魔法を使う。火属性の魔法と各種発明品による攻撃が強力なキャラクターである。魔力が高いため、火属性の魔法は大ダメージが期待できる。特に、終盤で使用可能となるフレアは強力。
: カエルが元のグレンの姿に戻るエンディングでは、彼に対しハンサム発言をしたり、ガルディア城のある兵士(本当は女であるが)の顔には攻撃をしなかったりと、ハンサムには目が無いという一面もある。
: また、マールがクロノに対する好意をハッキリ示すのに対し、彼女には恋愛に興味を示す描写があまり無い。だが、クロノ復活のイベントではパーティからマールを外し、ルッカだけを入れている状態でのみルッカのクロノに対する「本当の気持ち」を一部知ることができる。
: 『ラジカル・ドリーマーズ』ではヒロイン・キッドの姉代わりだった。
: 『[[クロノ・クロス]]』では「ルッカ・アシュティア」というフルネームが設定されている。そちらでは孤児院を営んでおり、ヒロイン・キッドにとって姉同然の存在であった。ルッカ本人は登場しないが、「クロノたちが死亡した歴史」のルッカが登場した。子供の姿になっており、ヒロイン・キッドにまつわる様々な真実を語った。またPS版クロノ・トリガーではこのキッドらしき赤ん坊を拾うエンディングが追加された。
: 後に発売されたPSゲーム『[[ゼノギアス]]』では、最序盤に色々な情報を教えてくれるゲストキャラクターとして出演している。
: 2017年4月からリリースされているスマートフォンおよびPCゲーム『[[アナザーエデン 時空を超える猫]]』では、ストーリーの序盤からルッカの容姿に酷似した「アシュティア」が登場。『クロノ・クロス』とのコラボレーションの際に顔グラフィックが追加され、2022年11月のアップデートにてストーリー進行で加入するキャラクターとして実装された。声優は[[山崎和佳奈]]が務める。
; [[ロボ (クロノ・トリガー)|ロボ]] (Robo)
: 未来の「プロメテドーム」で壊れかけたまま放置されていたロボット。偶然通りかかったルッカが修理し仲間となった。未来での本名([[コードネーム]])は「プロメテス」だが、マールの助言を受けたクロノが勝手に「ロボ」と名付けてしまった。製造番号は「R-66Y」<ref group="注">最初の自己紹介の台詞の時のみ「R'''66-'''Y」と綴りが異なっている。DS版、スマートフォン版、Steam版では全てR-66Yに統一されている。</ref>。内蔵された[[ロケットパンチ]]や[[レーザー]]による攻撃、さらには[[ビーム (物理学)|ビーム]]による回復など多彩な技を使う。
: レーザーなどの内蔵武器を除けば、素手での打撃や体当たりを主体とするが、[[ロボットアーム|アーム]](腕)の部分が換装可能な武器となっている。ロボットのため属性はないが、スペッキオによるとレーザーなどの武器が冥攻撃によく似ているらしい。
: 本名は「プロメテス」。その正体は、未来世界において人類の駆逐を考えるコンピューターシステム「マザーブレーン」が人類抹殺のために生み出した戦闘兵器。終盤のサブイベントでは自らの正体を知りながらもクロノたちと共に戦う道を選び、力を合わせてマザーブレーンを倒した。
: ラヴォスを倒すことにより未来が変わるということは、ロボたちが開発・生産されない未来につながる可能性を認識していた。ルッカもその可能性に気付いており、ラヴォス討伐後にその別れを惜しむと共に、機械的に冷静すぎるロボに激怒していた。一方でロボも「[[泣く|オイルでセンサーがかすんで]]」その別れを惜しんだ。シルバードが大破しないエンディングにおいて、アトロポスのような機体と寄り添うロボのような機体が確認され、同一あるいは準ずる個体が生産されたことが示唆されている。
:『クロノ・クロス』では凍てついた炎を守るシステムとして「プロメテウス」が登場。ロボとは別人であるが、人格を持っており、口調はロボと酷似している。またPS版クロノ・トリガーで追加されたエンディングムービーでは、ロボを小型にしたようなロボットをルッカが連れている。
; [[カエル (クロノ・トリガー)|カエル]] (''Kaeru'' / Frog)
: 中世ガルディア王国の騎士。ガルディア王国前騎士団長であった親友サイラスの遺志を継ぎ、新たなる「勇者」として伝説の剣[[グランドリオン]]を手に戦うことになる。元はグレン (Glenn) という名の人間だったが、魔王の呪いにより[[カエル]]の姿となってしまい、それ以来正体を隠してリーネ王妃を影から守っていた。古代で魔王が死んだ場合にはエンディングで人間の姿に戻る。また、PS版のエンディングムービーでは魔王が倒されたか否かに関係なく人間の姿で登場する。元の姿に戻った後に中世の王女と結婚するパターンもある。仲間や敵、同等の相手に対しては砕けた喋り方をするが、目上の存在に対しては相応の態度をとり、クロノの母に対しても敬語で話している。
: 武器は西洋の剣。属性はマールと同じく水だが、攻撃魔法は水の力を使うウォーター系となっている。攻撃魔法と回復魔法の両方を使うことができる万能戦士。実力では人間の姿であった頃からサイラスの上を行っていたが、グランドリオンを使えなかったため魔王との戦いでは何もできなかった。
: 彼の存在は続編『クロノ・クロス』において、後世に名を残した伝説の剣士として知られている。
: 『クロノ・クロス』では、カエルの勇名にあやかって「グレン」と名づけられた青年が登場する。血縁関係は一切ない。
: 『アナザーエデン』では、刀を得物とした「サイラス」名義の二足歩行のカエルが登場する。『トリガー』内においてのサイラスと関係があるかは不明である。
; [[エイラ (クロノ・トリガー)|エイラ]] (''Eira'' / Ayla)
: 原始時代の集落“イオカ村”の長。24歳。パワフルでセクシーな女性。片言な口調が特徴。強い者を好み、特にクロノには好意を見せている。ストーリー中、マールの先祖であるらしいことが示唆される。
: 武器は使用せず、パンチ・キック・噛み付きなどの肉弾戦を得意とする。その特性上、武器は装備変更できないことになっており、「こぶし」で固定されているが、レベルアップをすることでこの「こぶし」は、段階的に同名だがクリティカル率が高い「こぶし」にレベル24とレベル48に変化し、さらにレベル72まで上がるとクリティカル率もさらに上昇して混乱の追加効果がある「てっけん」、そしてレベル96になると確率は初期の「こぶし」よりも低くなってしまうもののクリティカルが出ると9999ダメージが出る「ごうけん」へと変化する。ただし変化タイミングはレベルアップした瞬間ではない。なお、[[裏技]]を使用することでアイテムとして入手することもできる。攻略本には、「ごうけん」はレベル97と記載されているが、誤りである。
: 魔法が栄える以前の生まれのため、魔法は使えず属性も無い。しかし「いろじかけ」で相手からアイテムをプレゼント(盗む)させる技を唯一持っており、希少なアイテムなどを手に入れることが可能。
: 続編『クロノ・クロス』では似たような設定の少女リーアが登場しており、彼女は生まれた子供には「エイラ」という名前を付けると告げている。
; [[魔王 (クロノ・トリガー)|魔王]] (''Maoh'' / Magus)
: 中世ガルディア王国の平和を脅かす[[魔族]]を統べる存在。後世では「ラヴォスを生み出して人間を滅ぼそうとした」と伝えられているが、実は古代ジール王国の王子ジャキが成長した姿であり、自分と姉のサラの運命を狂わせたラヴォスに復讐するために目覚めさせようとしていた。終盤で加入する最後のパーティーメンバーだが、このキャラクターのみ、特定の選択肢を選ぶことで仲間となる。DS版で追加された隠しボス「夢喰い(ゆめくい)」戦では、「ラヴォスが倒された歴史」からやってきた魔王が登場。夢喰いに取り込まれたサラを助けようとするが力及ばず敗退。姉を助けられなかった無力さから己の存在を否定し、記憶を失った状態でどこかの時代へと流れつくというエンディングが描かれた。
: 戦闘では[[鎌]]([[大鎌]])を武器とし、回転しながら敵を切り裂く。属性は冥だが、天・火・水・冥の全4属性の最強魔法を使うことが可能で、魔力の値がかなり高い。ただし、特定の条件でしか仲間との連携技は出せない。
: 唯一[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]の名前が漢字のキャラクターであり、“魔”がゲーム中で小さい文字として表示される時、複雑な文字を限られたドットで表現できないため[[ファイル:RYAKUJI ma.png|20px]](「广+マ」の[[略字]])で表記される。
: 『[[ラジカル・ドリーマーズ]]』にも主要キャラクターとして登場しており、続編『クロノ・クロス』にではその設定を想起させるキャラクターとして「魔術師アルフ」が登場している。
プレイヤーキャラクターに関して言えば、これらは初期設定の名前であり、5文字までなら自由に名前を変えることができる。また、タイムマシンである「[[シルバード]]」の名前も同様に変更可能。ただし漢字を使えないため、魔王だけは一度名前を変えると元に戻せなくなる仕様だが、DS版に限りセレクトボタンで初期設定の名前に戻すことが可能。「つよくてニューゲーム」を行った場合、全ての名前は初期設定に戻される。名前を変えた場合、エイラがクロノを呼ぶ名前は先頭の2文字、マールの本名は前3文字+ディア、魔王軍の名前は名前+軍に変わる。なお、名前を変える際はシルバードも含めて同じ名前にすることはできない。
=== 現代のキャラクター ===
; ガルディア33世 (King Guardia XXXIII)
: 現代のガルディア国王。マールの父。真面目で融通が利かないところがあるが、マールのことは自分なりに心配している。高血圧のため、パレポリの「ハイパー干し肉」を苦手としている。虹の貝殻入手後、偽大臣にはめられ王国裁判にかけられるが、クロノたちの活躍により無事救出され、自身の不器用さを反省してマールと和解した。
; アリーチェ (Ariche)
: ガルディア王妃でマールの母。故人。
: 当初は「今わの際もガルディア33世は国務を優先したため最期を看取られなかった」とされており、マールが父親に反発する要因の一つでもあったが、それは偽大臣が国家転覆の布石とするためにマールに嘘を教えていたためだったと後に判明した。ガルディア33世は実際には王妃の最期を看取っており、最期の言葉もしっかりと記憶している。このことが明らかになり、ガルディア33世とマールが和解する切っ掛けになった。
; ボッシュ (Melchior)
: 千年祭で武器を売っていたメディーナ村の外れに住む鍛冶屋。その正体は古代ジール王国3賢者の1人で、ジール王国では“命の賢者”と呼ばれていた。
; タバン (Taban)
: ルッカの父で、同じく発明家。強力な武器や防具を造ってルッカを助ける。
; ララ (''Lala'' / Lara)
: ルッカの母。発明には無関心。10年前にある事故に巻き込まれ、両足の自由を失ってしまう。名前の綴りは日本語版では「'''''Lala'''''」、英語版では「Lara」と異なるが、彼女の名前の綴りがあるイベントに影響をもたらす(このため、DS版では言語設定によって一部の操作に変更がある)。そのイベントの成否次第で、彼女の足が回復する。
; ジナ (Mom)
: クロノの母。クロノたちの旅の行方より飼い猫の世話に関心がある。ララとタバンとも知人。何事にも動じない性格で、カエルやロボ、魔王などの仲間を見ても常にマイペースで接する。
; ノルシュティン・ベッケラー (Norstein Bekkler)
: 暗闇に浮かぶ顔と手だけの人物。千年祭にてテントを張り、「ノルシュティン・ベッケラーの実験小屋」と称して3種類のミニゲームを行っている。『[[ファイナルファンタジーVI]]』からゲストとして[[ビッグス&ウェッジ]]が新たな仲間ピエットと共に登場するほか、景品としてもらえるドッペル君(人形)はクロノの復活に必要なアイテムとなる。未来にいる元古代人のガッシュ(の意識を移植されたヌゥ)が彼のことを知っていたため、古代と何らかの関わりを持っている可能性もある。現代にいながらにしてミニゲームの景品を過去・未来に送ることができる。
; ビネガー8世 (Ozzie VIII)
: 中世のビネガー(後述)の子孫。魔物の村メディーナで村長をしており態度が大きい。終盤で魔王を仲間にした後、隠しボスのビネガーたちを倒すと、魔族と人間が仲良くなる世界へと変わっており、彼の立場も変化して村長宅で下働きとして働いている。
=== 中世のキャラクター ===
; ガルディア21世 (Guardia XXI)
: A.D.600年の時点でのガルディア国王。魔王との決戦で剣を取るが、倒れて一時期寝込んでいた。リーネ共々、クロノたちがタイムトラベルをしていることには薄々勘付いており、虹の貝がらをガルディアに運んだ際には、リーネと連名で子孫であるマール宛に手紙を残している。
; リーネ (Leene)
: A.D.600年のガルディア王妃。魔物にさらわれるが、本来の歴史では無事に助け出されている。しかし迷い込んだ子孫のマールが彼女と間違われて保護され、捜索が打ち切られてしまったため、「助け出されないまま死んだ」という歴史改変が起きかけた。
: カエルの正体については思うところをほのめかしている。年齢よりも若く見え、髪型以外はマールとそっくり。特定のエンディングではカエルと結婚する。現代で千年祭が行われているリーネ広場は彼女の名前に由来する。
; サイラス (Cyrus)
: 中世ガルディア王国の前騎士団長。必殺技はニルヴァーナ・スラッシュ。グランとリオンに挑んで聖剣[[グランドリオン]]を入手し、化け蛙ゴールデンフロッグから勇者バッジを取り戻した。10年前、グランドリオンを携え、幼馴染で親友のグレンと共にデナドロ山で魔王に闘いを挑んだが、力及ばず敗死。その後、魔族が「北の廃墟」に彼を冒涜する墓を造って葬った。それから400年後まで廃墟に亡霊として留まり続けることになるが、とあるイベントで魂が救われる。それに伴って、墓に刻まれる言葉も彼を称える言葉になる。なお、カエルがおらず魔王がいる状態でサイラスの亡霊と出会うと、通常と違うセリフを発する。
: 剣術の腕前ではカエル(グレン)の方が上であると本人が発言しているが、騎士団長に出世して、グランドリオンに認められたことからも、彼本人も屈指の実力者であったことがうかがえる。
; ビネガー (Ozzie)
: 魔王軍の将軍の1人。狡猾な罠を駆使する軍事参謀。身を守ることに非常に長けており、絶対に破ることができないバリアーを展開する術を使う。ピンチになるとすぐに逃げてしまう。後にパワーアップして「グレートビネガー」となる。魔王がいなくなってからは彼が代わって魔王の地位に就くが、器ではなかった。中世に飛ばされてきたジャキを最初に見つけた。口癖は「ビネガ〜ピ〜ンチ!」。
: 続編『クロノ・クロス』にも登場する。
; マヨネー (Flea)
: 魔王軍の将軍の1人。外見は美しく巨乳だが、実は[[オカマ]]。肩書きは“空魔士”で、その名の通り空間全体に効果をもたらす魔法を得意とする。「トキメキ熱視線」という、投げキスで相手を魅了する技も持つ。後にパワーアップして「スーパーマヨネー」となる。
: 魔王城に潜入した時はコウモリに化けており、侵入したクロノたちに付きまとってくる小さなコウモリがマヨネー。最初にマヨネーの部屋に侵入した際は「マヨネー?」という偽物と戦うが、偽物を倒すと姿を現す。
: 続編『クロノ・クロス』にも登場する。
; ソイソー (Slash)
: 魔王軍の将軍の1人。青色の皮膚を持つ。正々堂々の勝負を重んじる剣士。“外法剣士”の肩書きで呼ばれており、屍を操る術を使うが、自身が闘う場面では魔法に頼らず己の剣術の腕のみ(第一戦では素手)で戦う。ただしビネガーの「ミックスデルタ」に協力しているため、魔法自体は使える模様。彼が振るう刀は「ソイソー刀」というそのまんまの名前で、彼を倒すと実際にクロノが装備できる武器として手に入る。後にパワーアップして「スーパーソイソー」となる。パワーアップ後の武器は「ソイソー刀2」。
: ビネガー、マヨネー、ソイソーの3人をまとめて指す名称として「魔王三大将軍」がある(ビネガー本人が自称)。この他に「三魔騎士」という呼び名もあるが、ゲーム本編のテキストには登場せず、攻略本『クロノ・トリガー ザ・パーフェクト』や続編の『クロノ・クロス』で表記されている名称になっている。
: 続編『クロノ・クロス』にも登場する。
; タータ (Tata)
: ひょんなことから勇者バッジを拾ってしまった少年。それが原因で勇者として崇められることになり、引っ込みがつかなくなって実際に旅に出ることになってしまう。本人はいたずら好きで臆病な普通の村の少年であり、戦闘力は一切無いが、彼が勇者として魔王を倒しに行くエンディングも存在する。
; トマ・レバイン (Toma Levine)
: 虹色の貝殻を求めて旅をする冒険家。情報通でもあり、それに裏打ちされた推測力も中々のもの。酒が大好き。A.D.1000年のチョラスの街の酒場には彼の子孫のトマ13世がいる。
: 続編『クロノ・クロス』には子孫のトマ14世が登場する。
; フィオナ (Fiona)
: 戦争で砂漠化した森を蘇らせようとする壮大な計画を抱く女性。魔王との戦いに出た夫マルコの帰りを一人待っている。計画に膨大な時間が掛かるため、人間の寿命を遥かに超えて動き続けられるロボを頼っている。
; 魔王のしもべ
: マノリア修道院や魔王城に巣食う、魔王城の戦闘員。太めの身体で青い服を着た個体と全身紫の個体がいる。また、グランドリオンが眠るデナドロ山に登場するオウガンに似た個体も複数いる。
; バンタ
: タバンとルッカの祖先。ガルディア王の依頼でリーネ王妃へのプレゼントを作っている。才色兼備の娘を欲しがっていた(後に、時代は違うが子孫のルッカとして叶うことになる)。
; グランとリオン (Masa and Mune)
: グランドリオンに古代より宿りし精霊の兄弟。合体して巨大な姿に変身できる。赤い石で作られたナイフに込められたボッシュの希望が生命を得たもの。赤きナイフはドリストーンが持つその特性により、魔神器からラヴォスエネルギーを吸収し、グランドリオンへとその姿を変えた。
: 続編『クロノ・クロス』にも登場する。
; ヤクラ (Yakra)
: リーネ王妃を誘拐した魔物。大臣に変身していた。王国歴1000年には彼の子孫でより強力なヤクラ13世が登場、クロノたちへの恨みは子孫にまで伝わっていたことが判明する。その子孫もまた大臣に変身して王国の乗っ取りを画策していた。
=== 未来のキャラクター ===
; [[ガッシュ (クロノ・トリガー)|ガッシュ]] (Belthasar)
: 廃墟のドームで機械仕掛けのヌゥ(名前は「謎の物体」と表記される)と共に暮らし、死の山について研究している。タイムマシン「シルバード」の開発者。実は古代ジール王国3賢者の1人、“理の賢者”。物語が進むと死亡し、ヌゥに自らの頭脳を移植する。最初に未来に訪れた時期に「監視者のドーム」へ行くと、生きている彼に会うことが可能だが、すでに精神は崩壊し、正気を失っている。なぜか現代のノルシュテイン・ベッケラーのことを知っていた。
: 続編『クロノ・クロス』にも登場する。
; ドン (Doan)
: アリスドームの長。ラヴォスが覚醒した王国歴1999年の情報センター長の末裔であり、ガルディア王家の血を引く。クロノたちと出会い、「元気」という言葉を学び、生への希望を得る。
; ジョニー (Johnny)
: 32号廃墟にいる暴走ロボ軍団を率いているバイク型ロボット。スピードに全てをかけている。クロノたちがバイクのキーを持っていると現れ、バイクレースで勝負をすることになる。
; アトロポス145 (Atropos XR)
: ロボ(プロメテス)と同じRシリーズのロボット。色はピンク系で、女性的な特徴・性格を持つ。人間に例えるとロボの兄弟姉妹のような存在。ジェノサイドームでロボとの再会を果たす。
; マザーブレーン (Mother Brain)
: ロボや同型ロボットを生み出した工場の中枢コンピュータ。ラヴォスによって世界が荒廃したのを切っ掛けに「人間は不要物」「人間さえいなければこの星は持ち直す」と考えるようになり、残酷な計画を実行しようとする。
: 続編『クロノ・クロス』では、このマザーブレーンをモデルにしたクロノポリス軍事研究センターのメーンコンピュータ「フェイト」が登場する。
=== 原始時代のキャラクター ===
; キーノ (Kino)
: エイラに好意を抱く青年。幼い頃に不思議山で拾われ、後にエイラの後を継ぎイオカ村の酋長となる。当初はエイラに認められたクロノたちに嫉妬し、時間移動に使うゲートホルダーを盗み出したが、エイラから叱咤され改心する。後のガルディア王家の祖先に当たる。原始時代の人物の中で、彼のみクロノをフルネームで呼ぶことがある。
; ラルバ村の人々
: エイラたちのイオカ村と異なり、恐竜人との戦いを避け逃げた人たちが隠れ住んでいる村。空を飛ぶ巨大な生き物“[[プテラノドン|プテラン]]”の世話をしている。
; [[ディノサウロイド|恐竜人]] (Reptite)
: 原始の人間と敵対する種族。肌が緑色と紫色の個体が存在し、常に集団で行動する。打撃をものともしない強固な皮膚を持つが、雷系の攻撃を受けると感電し防御力が弱まってしまう。アザーラ亡き後は、統率者と本拠地を失ったことに加え、氷河期の訪れによって絶滅したものと思われていたが、DS版の追加シナリオでは集落「竜の聖域」を作って生き延びている。
: 続編『クロノ・クロス』では重要なキーワードとして彼らの名前が出てくる。
; アザーラ (Azala)
: 原始の人間と敵対する恐竜人のリーダー。超能力を持っており、配下としてニズベール、ブラックティラノなどを従えている。王国建国より6500万年前のこの時代において、複雑な罠や仕掛けなどを多数配備したティラン城を建築するなど、同時代の人類よりも極めて高い知能を持ち、人間を「サル共」と呼ぶ。事実、原始人たちが片言でしゃべる中で、彼とニズベールは流暢なしゃべり方をしている。ティラン城での最後の戦いに敗れた後、自分たちのことを語り継ぐよう宿敵のエイラに託す。また、ラヴォスのこともある程度知っており、衝突の際に起きる現象やその後の気候変動も正確に言い当てている。ラヴォスの衝突寸前、エイラから共に脱出するよう促されるが、大地が決めたこととしてそれを拒み、「未来を…」という言葉を残しティラン城と運命を共にした。
: なお、日本語版では性別が明確にされていないが、英語版(DS版の英語設定含む)ではアザーラを指して「she」という三人称で呼ばれており、女性として設定されている。
: 続編『クロノクロス』でも名前のみ出てくる。
; ニズベール (Nizbel)
: 怪力を誇る恐竜人。トリケラトプスに似た姿を持つ。他の恐竜人と異なり、雷系の攻撃を受けるとそれを蓄電し、放出できる。さらにパワーアップして防御力を高めた「ニズベールR」も登場する。アザーラと同じく現代的な口調で喋る。
; ブラックティラノ (Black Tyrano)
: 大型の恐竜。強力な炎「ティラノ火炎」を吐いて攻撃する。また、その予備動作に当たる咆哮にはHP減少の状態異常効果もある。
: アザーラとの決戦時にタッグを組んで登場し、戦うことになる。
: クロノたちに倒されてから数千万年後の王国暦600年には錆色の恐竜「ルストティラノ (Rust Tyrano) 」が登場する。
=== 古代のキャラクター ===
; 光の民 (Enlightened)
: 魔法の力を使うことができる人間たち。浮遊大陸にあるジール王国に住んでいる。
; 地の民 (Earthbound)
: 魔法の力を使うことができない人間たち。氷河期の大地に洞窟を掘って暮らしている。
; ジール (Queen Zeal)
: ジール王国の女王(女王の名前が国名になっている)でサラとジャキの母親。かつては優しい性格だったが、ラヴォスの力に魅入られ邪悪な存在となり、ラヴォスを絶対的な神と崇めて永遠の命の野望を抱く。浮遊大陸(ジール王国)崩壊後は黒の夢に潜み、最終的には巨大な顔と両手の怪物に変貌する。この戦闘に魔王を連れていると演出が変わる他、戦闘BGMも変化する。
; サラ (Schala)
: ジール王国の王女で、マールの持つペンダントの最初の持ち主。母であるジールをも凌ぐ強大な魔力を持つ。三賢者が失踪した後のジール王国で、魔神器を操作できるほどの魔力の持ち主はサラしかいなかったため、ジールに利用されることとなる。心優しく、魔力を持たない地上の民の元へも何度か足を運んでいる。ラヴォスが一時的に目覚めた際、悲劇的な結末を迎えて魔王誕生の原因となる人物。「無数にある未来」の1つである『クロノ・クロス』とは極めて深い関係がある。
; ジャキ (Janus)
: ジール王国の王子でサラの弟。ラヴォスの力に魅せられ変貌していく母に激しい憎しみを抱き、その行為に対し不吉な予感を訴える。姉と愛猫のアルファド以外には心を閉ざしている。王家の血筋ながら全く魔力を持たないと言われていたが、本当は母を変貌させてしまった魔力を嫌い自ら封印していただけであり、実際には子供ながらに女王はおろかサラをも凌ぐ魔力を秘めている。
: 後にゲートによって中世へ飛ばされ、成長後は魔王と呼ばれるようになる。
: 「黒い風が泣き始めた」と言い、人の死や不幸の前兆を感じ取る力がある。
; ダルトン (Dalton)
: ジール女王の側近の1人。「ダルトンゴーレム」と呼ばれる魔法生物を使役する。異空間からのゴーレムの召還や、瞬間移動など、空間を操る術に長けるが、予言者の登場により左遷されていた。有能な魔導師だが、狡猾かつ自己中心的で尊大な性格であり、常に女王を出し抜こうと目論んでいる。だがどこか間が抜けており、やることがいちいちせこい。部下からは給金をケチっていたことも手伝って、あまり尊敬はされていない。シルバードを「スカイ・ダルトン・ギョクーザ」と命名するなど物のネーミングセンスが独特。戦闘では負けるたびに負け惜しみの「オナラ」技を披露する。ジール王国崩壊後は民衆を支配し、ダルトン王国を建国しようとするが、マールたちとの戦いで異次元に飛ばされてしまう。SFC/PS版ではそのまま消息不明だったが、DS版では現代の次元の歪みで「ダルトンG」としてクロノたちの前に立ちふさがる。クロノたちのせいで地位も財産も帰る場所も失ったと逆恨みし、襲い掛かるが再度敗北。「パレポリを一大軍事国家にしてガルディアを滅ぼす」と捨て台詞を残し、逃走していった。この台詞は続編『クロノ・クロス』を意識したものとなっている。
; 予言者 (Prophet)
: ジール王国に現れた謎の男。顔のほとんどを隠すほどに長いフードに身を包んでおり、表情はあまり見えない。未来の出来事を確実に予言し、女王に取り入って三賢者を排斥し海底神殿の建設を進める。正体はクロノたちとの戦いの後中世から戻ってきたジャキ(=魔王)。続編『クロノ・クロス』でも預言者を名乗る人物が登場する。
; ボッシュ (Melchior)
: 三賢者の1人、命の賢者。強力な魔力を持つ。ドリストーンを加工する技術を持っており、三賢者による魔神器建造計画のリーダーだった。魔神器ができる前に用いられていた太陽石や虹の貝殻の加工技術も、今ではボッシュ以外に伝える者は居なくなっている。魔王が体験した歴史ではボッシュが赤きナイフで魔神器を破壊してラヴォスが現れるに至らなかったため、予言者の進言で嘆きの山に幽閉されている。後に現代へと飛ばされる。
; ハッシュ (Gaspar)
: 三賢者の1人、時の賢者。強力な魔力を持つ。予言者の登場により身を隠し、地上の離れ小島で「時の卵」について研究している。後に時の最果てに飛ばされる。
; ガッシュ (Belthasar)
: 三賢者の1人、理の賢者。強力な魔力を持ち、ジール王国の街、黒鳥号、海底神殿、シルバードの設計者であるなど、建造に天賦の才を誇る。予言者の登場により身を隠している。後に未来に飛ばされる。続編『クロノ・クロス』においても重要人物として登場する。
; ドリーン (Doreen)
: 赤い石に宿る精霊。グランとリオンの姉。続編『クロノ・クロス』でも隠しイベントに声のみ登場する。
=== その他のキャラクター ===
; ハッシュ (Gaspar)
: 時の最果てに1人たたずむ、通称「最果ての老人」。その正体は古代ジール王国三賢者の1人、“時の賢者”。クロノ死亡後には、彼の復活のためにある物をパーティーに授けてくれる。
; スペッキオ (Spekkio)
: 時の最果てに住む戦の神。クロノたちの資質を見抜き、魔法を使えるようにする。「スペッキオ」とはイタリア語で「[[鏡]]」の意味で<ref group="注">イタリア語での本来の綴りは“specchio”</ref>、強い者には恐ろしい姿、弱い者には弱そうな姿に見える。先頭キャラクターのレベルに応じて、原始ガエル型<!-- 先頭キャラのレベルが9以下の場合こうなるようです -->、マモ型、オウガン型、ギア型、グランとリオン型、ヌゥ型の6段階に姿と強さが変わっていく。彼には魔法攻撃しか通用しない。グランとリオン型からは、敵一体を虹色の光で包み込み、一撃で葬り去る強烈な攻撃を繰り出してくる。倒すと、形態に応じて能力アップ系などの様々なレアアイテムをくれるが、アイテムをくれるのは、各形態ごとに1回ずつである。
: 続編『クロノ・クロス』にも隠しボスとして登場する。
; [[ヌゥ]] (Nu)
: 原始から未来まであらゆる時代に存在している謎の存在。古代では「全ての生物はヌゥにはじまりヌゥに終わる」と記された書物が存在するが、実際のところ生物であるのかどうかすら怪しい点がある。原始の狩りの森には雨天時しか出現しない。
: DS版の追加ダンジョン「竜の聖域」では原始時代に「番人ヌゥ」、中世に「達人ヌゥ」が登場するが、この2体のヌゥは同一人物である。なお、この2体が登場する2つの時代は6500万年以上離れているが、「竜の聖域」自体はゲートを抜けた先に存在するため、実際にその時代に存在しているのか(ヌゥが6500万年以上生きているのか)どうかは明言されていない。
; [[ラヴォス]] (Lavos)
: 本作の[[最終ボス]]。原始時代に宇宙より飛来した謎の巨大生物。そして永い時を経てA.D.1999に、突如として地下から出現して一瞬で世界を滅ぼした。物語の核心そのもの。星そのものに寄生する恐るべき害獣である。
: エイラたちの時代の言葉で「ラ」は「火」、「ヴォス」は「大きい」という意味。
: ラヴォスを消滅させ、破滅の未来を変えることが本作の目的である。
: 続編『クロノ・クロス』においても物語の核心的な存在として語られている。
== スタッフ ==
=== ドリームプロジェクト ===
* [[坂口博信]] - スーパーバイザー、エグゼクティブプロデューサー
** システムやイベントなどのアイデア考案をしている。実質的な現場指揮は部長(当時)でもあるディレクターの北瀬佳範。
* [[堀井雄二]] - スーパーバイザー、ストーリー原案
** 初期[[プロット]]、シナリオ監修。
* [[鳥山明]] - キャラクターデザイン
** メインキャラクターやシーンイラストを担当。サブキャラクターのイラストは『[[Vジャンプ]]』側によるものが多い。
『[[ファイナルファンタジーシリーズ]]』(以下、『FFシリーズ』)の坂口博信、『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』(以下、『DQシリーズ』)の堀井雄二、『[[ドラゴンボール]]』で知られる漫画家の鳥山明が並ぶということで『[[週刊少年ジャンプ]]』やゲーム雑誌では大々的に取り上げられた。
元々は『[[クロノ・クロス]]』のプロデューサーでもある[[田中弘道 (プロデューサー)|田中弘道]]による「鳥山ワールドを再現する」という企画に「クロノ・トリガー」の名が冠されていた。諸々の事情で日の目を見ることは無く、坂口によりサルベージされた形となっている<ref>[http://dol.dengeki.com/soft/interview/ff3/index.html 「電撃オンライン」のインタビューにおける田中弘道の発言より]</ref>。
シナリオ全体を統括しているのは[[加藤正人 (ゲームクリエイター)|加藤正人]]であり、当時の上層部からシナリオ名義を上記の企画3人にするという話が出たが、ディレクターの[[北瀬佳範]]・[[時田貴司]]が止めに入ったためストーリープランとして加藤の名が残った<ref>{{Cite web |date=1999-11 |url=http://www.procyon-studio.com/special/mf_kato.html|title=光田康典 公式ホームページのインタビュー|work=[[光田康典]]公式ホームページ|accessdate=2015-04-11}}</ref>。堀井が担当した箇所は初期稿のプロットであり、加藤が全体的なストーリープランを加筆・修正した後、各場面のイベントについて多くのスタッフの手が加わっており、堀井はキャラクターの台詞や舞台となる場所の情景・仕掛け・構造などについてはタッチしていない。なお、古代編のシナリオおよびイベント、演出の制作は全て加藤によって直接行われている。
=== メインスタッフ ===
* [[青木和彦]](プロデューサー)
* [[北瀬佳範]](ディレクター)
* [[時田貴司]](ディレクター)
* 松井聡彦(ディレクター)
* 島本誠(企画、バトルプラン)
* [[加藤正人 (ゲームクリエイター)|加藤正人]](ストーリープラン)
* [[伊藤裕之]](イベントプラン)
* [[千葉広樹]](イベントプラン)
* 松原啓介(イベントプラン)
* [[光田康典]](音楽) - メインコンポーザー、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版のスタッフロールではクレジットされていない
* [[植松伸夫]](音楽)
* [[松枝賀子]](音楽) - 1曲作曲
* 赤尾 実(サウンドプログラム)
* 小久保啓三(メインプログラム)
* 樋口勝久(メインプログラム)
* 吉井清史(バトルプログラム)
* 成田賢(ビジュアルプログラム)
* [[杉本浩二]](ビジュアルプログラム)
* 江部 耕一(モンスターグラフィック)
* 寺田 努(モンスターグラフィック)
* 臼田 忠泰(モンスターグラフィック)
* [[高橋哲哉 (ゲーム製作者)|高橋哲哉]](グラフィックディレクター)
* 星野雅紀(グラフィックディレクター)
* 蒲田泰彦(グラフィックディレクター)
* [[野村哲也]](フィールドグラフィック)
* [[直良有祐]](フィールドグラフィック)
* [[本根康之]](フィールドグラフィック)
* 増田彰佳(フィールドグラフィック)
* 大川和宏(フィールドグラフィック)<ref>{{Cite book|和書|title=[[ファミ通|週刊ファミコン通信]] no.327|date=1995年3月24日|year=1995|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|pages=76-78}}</ref>
* [[西健一]](フィールドプランナー)
* 江藤桂大(フィールドプランナー)
== 移植版 ==
原作であるスーパーファミコン版の発売後、複数のゲーム機用に移植されている。<!--[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版が発売され、[[2008年]][[11月20日]]に[[ニンテンドーDS]]への移植版が発売された。[[2011年]]4月25日から[[iアプリ]]として配信され、2011年4月26日から[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]でスーパーファミコン版が、2011年9月28日から[[ゲームアーカイブス]]でPlayStation版が配信された。2011年12月9日には[[iPhone]] / [[iPod touch]]版が、2011年12月22日には[[Android]]版と[[BREW|EZアプリ(B)]]版が、2018年2月28日には[[Microsoft Windows]]対応の[[Steam]]版が配信された。-->この節では、それらについての概要を記載する。
各ゲーム機の英略称については本項冒頭のテンプレートに基づく。
=== PlayStation版 ===
続編『[[クロノ・クロス]]』発売の2週間前である[[1999年]][[11月2日]]に、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]への移植版が発売された。[[2002年]][[1月17日]]には[[PS one Books]]として、[[2006年]][[7月20日]]には[[アルティメットヒッツ]]として[[廉価版]]が再発売となった。[[2011年]][[9月28日]]から[[ゲームアーカイブス]]で配信が開始された。
基本的にはSFC版と同じ内容だが、新しい要素が付加されている。
; 新作アニメーションムービー
: タイトル画面および、重要な場面のいくつかでセルアニメが流れる。制作は[[東映アニメーション]]で、鳥山明のキャラクターを再現した本格的なもの。なお、ムービー中のBGMは[[関戸剛]]のアレンジによるものになっている。
: SFC版当時のオープニングデモは収録されておらず、代わりにアニメーションによるオープニングムービーに差し替えられている<ref group="注">オープニングムービーには、クロノとカエルがジャンクドラガーにエックス斬りを放つシーンが存在するが、実際はこの時点でカエルを仲間にすることはできない。</ref>。
: イベントムービーはSFC版のイベントに割り込む形でムービーが挿入される(元々のイベントシーンも削除されていない)ため、ムービーと実際のゲーム中で、同じイベントを表現したものを二重に見ることになる。また、パーティー編成が自由に可能なイベントのムービーでは、該当ムービーがそれぞれ1つしか存在しないため、そのイベント時に必ず参加する仲間メンバー以外は画面に登場しない。
: エンディングムービーでは大団円を迎えたメインキャラクターのその後が描かれている。また、特定のエンディングを見ると前記とは別の悲劇的なエンディングムービーが流れる。さらに、一度悲劇的なエンディングムービーを見た状態でシステムデータに上書きすると、以降そのシステムデータを利用する限り、通常のエンディングムービーが流れるエンディングではその後に続けて悲劇的なムービーが必ず流れるようになってしまう。この点は後述するDS版において改善された。
; おまけ
: 音楽、ムービー、一部の公式イラストや[[セル画]]、モンスターや技の詳細データ、アイテムの効果や入手場所のマップデータなどが見られる資料室。見たエンディングの種類に応じて少しずつ解禁されていく。
: なお、ここで流れる「ある晴れた日の出会い」「散りゆく華」「運命へ」の3曲とエンディングムービー後に流れる「休息 〜戦いを終えて〜(DS版では『やすらぎ 〜想いの向こうに〜』)」は、移植版の制作を担当した会社の作曲家がオマケで作曲したものであるらしい<ref>[http://www.procyon-studio.com/special/qa_past.html Q & A - 1999 - 2000] - プロキオン・スタジオ</ref>。
この他、一部の台詞や演出が変更されていたり、一部のバグが修正されていたりなど細かい変更点もある。
PS版ではCD-ROM読み込みのため、SFC版よりも処理がかなり遅くなっている。また音源がSFC版と違うため、音楽や効果音などの音質が若干変質している(PS移植版『[[ファイナルファンタジーV]]』なども同様<ref group="注">これらの記述はPS実機でのもの。PS2・3などで実ディスクを使うか、ゲームアーカイブス版などでプレイする場合は、また多少異なる。</ref>)。
PS版には上記アニメーションムービーなどの追加要素のほか、ゲームデータの[[セーブ (コンピュータ)|セーブ]]をメモリーカードによって行うため(1ブロック使用)、3箇所しかセーブする場所の無かったSFC版とは違いセーブデータ保存数に実質限界がない、といった利点もある。
=== ニンテンドーDS版 ===
[[2008年]][[11月20日]]に[[ニンテンドーDS]]での移植版が発売された。[[リメイク]]ではなくSFC版をベースにDSならではの演出や新システムを追加した移植版。SFC版のメインコンポーザー[[光田康典]]が音楽監修として参加しており、できるだけSFC版の音源を再現したという。PS版にあったアニメーションムービーやギャラリーなどの要素も搭載している。[[2011年]][[8月4日]]には、こちらもPS版同様[[アルティメットヒッツ]]として廉価版が販売されている。
==== DS版とSFC版およびPS版との相違点 ====
; システムの変更点
:* メニューなどがDSの2画面に合わせたデザインへと大きく刷新されており、キャラクターの移動や決定でDSのタッチペンを利用した操作が可能。このため、アイテムや技一覧でのL/Rボタンでのページ送りは廃止された(代わりにスクロールバーがある)。また、戦闘中の操作のみ設定でゲームモードを変えることができ、DSのインターフェイスに合わせてタッチ操作可能な「DS」と、上画面で従来そのままのデザインを再現しボタンと十字キーのみで操作する「クラシック」の2種類から選択できる。
:* アニメーションムービーはONとOFFを切り替えが可能になった。ムービー自体はPS版のものから増減していないが、エンディングムービーは流れる条件が変更され、それぞれ特定のエンディングでしか流れなくなった。なお、SFC版当時のオープニングデモはPS版同様に収録されていない。ムービーOFFにするとエンディングムービーなどもカットされるが、ギャラリーでは試聴可能になる。
:* 「入れ替え」が「編成」に名称が変わり、時の最果てにいる仲間も含めたメンバーチェンジになった。これにより、Yボタン(PS版では□ボタン)のメンバー呼び出し機能は廃止された。
:* アイテム名、技名、モンスター名はこれまでに漢字は使用されていなかったが、DS版では新たに漢字を使用している。
:* 言語設定が追加され、日本語と英語の2種類から切り替えることが可能。英語設定では過去の北米移植版のテキストに準じており、名前にアルファベットを使用可能。ゲーム開始時の言語はDS本体の言語設定に依存する。<!--ヨーロッパ版では英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語とイタリア語を切り替える予定。-->
:* PS版の「おまけ」は「ギャラリー」に変更され、アイテムや敵のデータなどは実際に入手したり遭遇したりしたもののみが随時追加されて埋まっていくようになった。PS版での誤表記が一部修正されたほか、新規追加モンスターや追加アイテムなども掲載される。
:* ゲームクリア時にクリアデータをセーブする形式となり、これによって「強くてニューゲーム」が出現するようになった。ただし、クリアデータのセーブで更新されるのはギャラリーの情報のみで、その他のデータは直前のセーブポイント時点のデータのまま変わらない(ストーリー進行度、所持アイテム、再開地点などはクリア前の最終セーブ時点のものに戻される)。
; 新規追加イベント
:* DS版新規のマルチイベントとして「竜の聖域」と「次元のゆがみ」が追加、それに伴い新たなダンジョン、アイテム、モンスター(ボスも含む)の追加。未使用曲であった「歌う山」も使われている。
:* 本編の進行には直接関係しないミニゲームとして、モンスターを育成する通信対戦ゲーム「次元の闘技場」が追加。未使用曲であった「戦い2」も使われている。
:* 一度ゲームをクリアした後に挑める所定のイベントをこなすことにより、「すでにラヴォスが倒された、『トリガー』本編とは異なる別次元」を経由して「時の闇」に行くことができるようになり、別の世界の魔王、サラ、そして『クロノ・クロス』のラストボス「時喰い」の前身である裏ボス「夢喰い」が登場する。これに伴い、PS版でのバッドエンディングムービーもこの特殊エンディングでのみ流れるよう変更がなされており、『クロノ・クロス』の世界が、『トリガー』においてプレイヤーがラヴォスを倒す前に、すでに分岐していた別の世界であるということが示されている。
==== DS版の予約特典 ====
メインテーマである「クロノ・トリガー」と、このために編曲されたクロノ・トリガーメドレーを光田康典が全面監修・制作・指揮してオーケストラによる生演奏で収録したサウンドトラック『CHRONO TRIGGER ORCHESTRA EXTRA SOUNDTRACKS』がソフトの予約者に特典として配布された(数量限定)。なお、後に発売されたオリジナル・サウンドトラックのDVDにも収録されている。
; クロノ・トリガー 〜Orchestra Version〜
: 作曲 - 光田康典
: 編曲 - 亀岡夏海
; クロノ・トリガーメドレー 〜Orchestra Version〜
: 「予感」、「ガルディア王国千年祭」、「風の憧憬」、「カエルのテーマ」、「魔王決戦」、「エピローグ 〜親しき仲間へ〜」、「遥かなる時の彼方へ」
: 作曲 - 光田康典
: 編曲 - 亀岡夏海
=== 携帯電話(フィーチャーフォン/スマートフォン)版 ===
[[携帯電話ゲーム]]([[フィーチャーフォン]])として、[[2011年]][[4月25日]]より[[FOMA]]向け[[iアプリ]]版が、[[2011年]][[12月22日]]より[[BREW|EZアプリ(B)]]版が配信。[[スマートフォン]](タブレット端末含む)用のアプリケーションゲームとして、[[2011年]][[12月9日]]より[[iPhone]] / [[iPod touch]]版、[[2011年]][[12月22日]]より[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版が配信。Android版は[[2012年]][[10月29日]]に[[Google Play]]でも配信開始。また、Google Play版と同時期にAmazon Androidアプリストア版も配信開始。
いずれもニンテンドーDS版がベースとなっており、DS版の追加要素である「竜の聖域」と「次元のゆがみ」も収録されている。ただし通信対戦ゲーム「次元の闘技場」および「ギャラリー」は未収録。
フィーチャーフォン版は前後編に分かれたアプリとなっており、それぞれを別々にダウンロードする形式となっている。
スマートフォン版は端末のスペックにあわせてグラフィックやインターフェイスが改良され、タッチパネル操作に対応している。こちらは[[2018年]][[2月28日]]より、同日配信の後述のSteam版配信に合わせ「アップグレード版」にバージョンアップとなり、以前のバージョンを購入済のユーザーは無償でアップデートが可能。Steam版準拠でグラフィック、サウンド、操作性、画面レイアウトがリニューアルされ、オートセーブ、クラウドセーブ、アチーブメント(実績)機能が追加となり、ゲームパッドでのプレイにも対応。iOS版はApple TVでのプレイにも対応している。
=== Microsoft Windows(Steam)版 ===
[[Microsoft Windows 7]]/[[Microsoft Windows 8|8/8.1]]/[[Microsoft Windows 10|10]]対応ソフトとして、[[2018年]][[2月28日]]より[[Steam]]で配信開始。
スマートフォン版の内容をベースにアップグレードされており、同日にiOS版とAndroid版も本作準拠にバージョンアップされた。DS版の追加要素である「竜の聖域」と「次元のゆがみ」も収録されているが、通信対戦ゲーム「次元の闘技場」および「ギャラリー」はスマートフォン版同様に未収録。なお、前出の社外作曲家によるおまけBGM4曲は別のものに差し替えられている
=== 非公式リメイク版 ===
ファンによる(スクウェア・エニックスの許可を得ない)非公式のリメイク(ファンメイド)版として『'''Chrono Trigger: Resurrection'''』の製作が進められていたが、[[2004年]][[9月6日]]に製作停止が発表された。これは、『クロノ・トリガー』の著作権を持つスクウェア・エニックスに製作の中止を求められたためと発表されている<ref>[http://www.opcoder.com/projects/chrono/ Chrono Resurrection - Project discontinued]</ref>。
== システム ==
基本的なシステムは『[[ファイナルファンタジーシリーズ]]』(以下、『FFシリーズ』)のそれに近いが、以下のような相違点もある。
* 装備は武器・兜・鎧・アクセサリーの4つで、基本的にどのスロットも装備を外すことはできない。新しい装備品に変更する際には、必ず既存の装備と入れ替えて装備する。ただし特定のイベント中のみ装備一切が盗まれ、この時は強制的に外されることになる。また、[[裏技]]を使用することで意図的に外すこともできる。
* 移動はそれまでの『FFシリーズ』のようなキャラクター単位ではなく、8方向へのフリー移動となっている。また、一部を除き一般の会話中でもメッセージが表示されている途中でキャラクターを移動させることができる。
** この「会話中にも自由に動ける」システムは開発段階では「エーテルシステム」と呼ばれ、どう動いたかによってゲーム展開が変わるという仕様も発表されたが、製品版ではただ動けるだけのものとなった。序盤のマールの行動などにその片鱗がわずかに残されている。
* [[エンカウント]]はシンボルエンカウント(敵にある程度接近すると戦闘に突入)とゾーンエンカウント(一定のエリアを通過しようとすると茂みなどから敵が出てくる)。フィールドの移動と戦闘の場面は分けられているが、両者の間で画面の切り替わりがないシームレスバトル。
* 戦闘メンバーが覚えている技を組み合わせ、連携技を使用することができる。連携技には2人技と3人技があり、3人技は基本的にはクロノ+他のメンバー2名だが、クロノのいない組み合わせでも、特定のアクセサリーを装備することで発動可能なものがある。
* 主な属性は「火」「水」「天」「冥」の4つ。ただしこの他にも無属性攻撃や、「?属性」という物が存在する。
** 火 - 火属性。
** 水 - 水・冷気属性。
** 天 - 風・雷・聖に属するもの。
** 冥 - 闇属性。異なる属性を組み合わせた連携技もこの属性になる(同属および無属性との組み合わせについては属性の変化はない)。
=== ATB Ver.2 ===
本作のバトルシステムは、『FFシリーズ』の[[アクティブタイムバトル|ATB]](Active Time Battle)を拡張した'''ATB Ver.2'''となっている。Ver.2での追加要素には以下のような物がある。
* 敵キャラクターはバトル中常に移動しており、行動後に元の位置に戻ろうとする者もいる。戻らない場合もあるが、その場合も接近しているキャラクターにそのまま攻撃し続けるわけではない。
* 技の効果範囲には以下のような設定がされており、使用するタイミングによってヒットする敵の数が異なることもある。
** 単体 - 通常の単体攻撃。ターゲットを1体選び、それに対して効果を発揮する。多くの技がこの効果範囲に該当する。
** 全体 - 通常の全体攻撃。こちらも多くの技で見られる。
** 直線 - 使用者とターゲットを結ぶ直線上の敵にダメージ。ターゲットより後ろにも貫通する。クロノの「かまいたち」などに設定されている効果範囲。
** 線分 - 使用者とターゲットの間にいる敵を巻き込むことができるが、ターゲットより後ろの敵にはヒットしない。ルッカの「かえんほうしゃ」などが該当。
** 横直線 - ターゲットとY座標が近い敵全員にヒットする。連携技「ハヤブサぎり」などが該当。
** 円範囲 - ターゲットを中心に一定距離内の敵キャラクターにもヒットする。クロノの「回転斬り」などが該当。
** 自分中心円範囲 - 使用者を中心に一定距離内の敵キャラクターにヒットする。ロボの「サークルボム」などが該当。
=== つよくてニューゲーム ===
「'''[[強くてニューゲーム|つよくてニューゲーム]]'''」とは、SFC版では「黒の夢」を攻略後にセーブして(クエストタイトルは「星の夢の終わりに」)、ゲームクリアをすることで現れるモード。PS版ではクリアを記録したシステムデータがスロット中のメモリーカードに存在すれば、DS版以降では一度でもクリアデータを記録していれば、セーブデータをロードする際に選択できるようになる。
このモードでは任意にセーブデータを選んで、そのセーブデータのレベル・技能・アイテムを引き継いだままゲームの最初から新しく始めることができる。ただし、お金、各種ポイント、プレイ時間、一部の重要イベントアイテム([[グランドリオン]]など)は引き継ぐことができない。DS版では「次元の闘技場」の育成モンスターのデータも初期化される。
また、このモードではゲーム開始すぐの場所に[[ボスキャラクター#ラストボス|ラストボス]]への道筋が設置されるため、特定のイベント中以外はいつでもラストボスに挑むことができる。よって、開始直後にクロノ1人でラスボスに挑むことも可能である。エンディングは[[#マルチイベント|マルチイベント]]発生前(クロノ離脱前)までに'''10種類'''あり、イベントの進行度や特定条件によって見られるエンディングが変わる(なお、ラストボスに負けることで見られる専用のバッドエンドも存在するが、エンディングリストでは扱われない)。また、マルチイベント発生後のメインエンディングにもバリエーションがあり、それまでのプレイヤーの行動によって内容が細かく変化する(PS版以降のエンディングリストでは、魔王を仲間にするかによって大別して'''2種類'''として扱われているが、さらにそれぞれシルバードの存在によっても内容が大きく変わり、その他のイベントでも細部が変化する)。DS版以降ではさらに新たなもう1種類のエンディングが追加されている。なお、PS版ではシステムファイルに見たエンディングの履歴を蓄積することで、DS版以降ではクリアデータを更新していくことで、「おまけ」・「ギャラリー」の内容が充実していく。
== サテラビュー ==
[[BSアナログ放送]]の[[サテラビュー]]で、以下の4つのソフトが配信されていた。
; クロノ・トリガー ジェットバイクスペシャル
: 本編中の[[ミニゲーム]]、ジェットバイクだけを独立させたソフト。
; クロノ・トリガー キャラクターライブラリー
: 味方、敵のキャラクターの詳細が載っているデータ集。
; クロノ・トリガー ミュージックライブラリー
: ゲーム中の音楽が聴けるデータ集、中身はオリジナルサントラとほぼ同一で、ゲーム未使用曲の2曲もサントラ同様に収録されている。ただし「風の憧憬」の曲名がライブラリ内の表示では「風のあこがれ」になっている。
; [[ラジカル・ドリーマーズ -盗めない宝石-]]
: [[サウンドノベル]]形式のゲーム。複数あるストーリーの中の1つが『クロノ・トリガー』の続編で、後に『クロノ・クロス』の原型となった。
== 関連作品 ==
=== ゲーム攻略本 ===
:* 『クロノ・トリガー』集英社(Vジャンプブックス ゲームシリーズ)、1995年3月、雑誌コード 67301-23<!-- ISBNコードは無し -->
:*: スーパーファミコン版発売と同時に刊行された攻略本。
:* 『クロノ・トリガー ザ・パーフェクト』 集英社(Vジャンプブックス ゲームシリーズ)、1995年6月、雑誌コード 67301-25<!-- ISBNコードは無し -->
:*: スーパーファミコン版の攻略本。
:* 『クロノ・トリガー ザ・コンプリート』 集英社(Vジャンプブックス ゲームシリーズ)、1999年11月、ISBN 4-08-779042-8
:*: PlayStation版の攻略本。
:* 『クロノ・トリガー パーフェクト・バイブル』 集英社(Vジャンプブックス)、2008年11月20日、ISBN 978-4-08-779483-0
:*: ニンテンドーDS版の攻略本。DS版ソフトの発売と同時刊行。
:* 『クロノ・トリガー [[アルティマニア]]』 スクウェア・エニックス、2009年1月20日、ISBN 978-4-7575-2469-9
:*: ニンテンドーDS版の攻略本。[[スタジオベントスタッフ]]による攻略本シリーズ。1999年の年末に出された『クロノ・クロス アルティマニア』の際に構想されていたもの。
=== コミック ===
:* 『時空冒険ヌウマモンジャー』 集英社(ジャンプコミックスデラックス)、キャラメル・ママ、原作:[[井沢ひろし|いざわひろし]]、漫画:菊池晃弘、1998年5月、ISBN 4-08-859022-8
:*: 『[[Vジャンプ]]』で連載されていた。タイトル通りヌウとマモが主役のギャグ漫画。
=== 楽譜 ===
:* 『楽しいバイエル併用 クロノ・トリガー オリジナル・サウンドヴァージョン』 ドレミ楽譜出版社、1995年9月30日、ISBN 4-8108-2655-4
:*: 易しめのピアノ用アレンジされた楽譜。
:* 『エレクトーンで弾く クロノ・トリガー』 ヤマハミュージックメディア、1998年12月10日、ISBN 4-636-64152-3
:* 『クロノ・トリガー ピアノソロ [楽譜]』 スカイポート出版、稲辺克弥著、2007年1月10日、ISBN 4-9024-3831-3
:* 『ピアノソロ 中級 クロノ・トリガー オリジナルサウンドトラック ベストセレクション』 ヤマハミュージックメディア、2009年11月20日、ISBN 978-4-636-84984-4
:* 『ニンテンドーDS版 クロノ・トリガー オリジナル・サウンドトラック・ピアノ・コレクションズ』 ドリームミュージックファクトリー、2009年12月19日、ISBN 978-4-904456-20-0
: 上記のほか、複数のゲームとのカップリングで楽譜が収録された書籍がいくつか存在する。
=== 音楽CD/レコード/DVD/BD ===
:; サウンドトラック
: {| class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日
!タイトル
!規格品番
!レーベル
!備考
! style="white-space:nowrap" |最高位
|-
| style="white-space:nowrap" |1995年3月25日
| style="white-space:nowrap" |Chrono Trigger<br /> Original Sound Version
|PSCN(NTCP)-5021〜3
| rowspan="2" style="white-space:nowrap" |NTT出版
|クロノ・トリガーの全曲と未使用曲2曲を収録した3枚組。<br />NTCPは2004年の再発売盤の品番(数字部分は同じ)。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |1995年6月25日
| style="white-space:nowrap" |Chrono Trigger<br /> Arrange Version THE BRINK OF TIME
|PSCN(NTCP)-5024
|アレンジバージョン。アレンジは光田康典、GUIDO(畑浩史、大槻“KALTA”英宣)による。<br />NTCPは2004年の再発売盤の品番(数字部分は同じ)。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |1999年12月18日<br />(2005年2月23日)
| style="white-space:nowrap" |Chrono Trigger<br /> Original Soundtrack
|SSCX-10039<br />(SQEX-10045)
| style="white-space:nowrap" |1999年、デジキューブ<br />→スクウェア・エニックス/[[ソニー・ミュージックディストリビューション|SMD]]
|ゲーム中よりピックアップ21曲(PS音源のもの)とPS版バージョンのムービー9曲を収録。<br />発売日・品番の下段括弧は再発売盤のもの。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |2009年7月29日
| style="white-space:nowrap" |【DS版】CHRONO TRIGGER<br /> Original Soundtrack
|SQEX-10167〜70
| rowspan="4" style="white-space:nowrap" |スクウェア・エニックス
|DS版サントラ。ムービー・おまけなどを含めた作中BGMのほぼ全曲を収録した3枚組CDと、光田康典のインタビュー、ゲームの特典CDのミュージックビデオを収録したDVD付き。
|99位
|-
| style="white-space:nowrap" |2015年10月14日
| rowspan="2" style="white-space:nowrap" |クロノ・トリガー&クロノ・クロス<br /> アレンジアルバム / ハルカナルトキノカナタへ
|SQEX-10501
| rowspan="2" |光田康典作家20周年を記念し制作されたアレンジアルバム。
| rowspan="2" |6位
|-
|2015年12月16日
| style="white-space:nowrap" |SQEX-10517〜8<br />(アナログレコード)
|-
| style="white-space:nowrap" |2019年7月10日
| style="white-space:nowrap" |Chrono Trigger Original<br /> Soundtrack Revival Disc
|SQEX-20066
|リマスターした楽曲が収録されたゲーム映像付きサウンドトラックBlu-ray。MP3音源ダウンロード機能付き。
|15位
|-
| style="white-space:nowrap" |2019年9月4日
| style="white-space:nowrap" |CHRONO TRIGGER<br /> Orchestral Arrangement
|SQEX-10724
| rowspan="2" style="white-space:nowrap" |SQUARE ENIX MUSIC
|東京フィルハーモニー交響楽団によるフルオーケストラ版。
|208位
|-
| style="white-space:nowrap" |2019年9月4日
| style="white-space:nowrap" |CHRONO Orchestral Arrangement BOX
|SQEX-10727〜9
|東京フィルハーモニー交響楽団によるフルオーケストラ版。『CHRONO CROSS Orchestral Arrangement』とのセットボックス。ピアノアレンジCD付き。
|21位
|}
:; コンピレーション
: {| class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日
!タイトル
!規格品番
!レーベル
!備考
! style="white-space:nowrap" |最高位
|-
| style="white-space:nowrap" |1996年1月21日
| style="white-space:nowrap" |オーケストラによるゲーム音楽コンサート5<br /> -ライヴ・ベスト・コレクション-
|SRCL-2739
| style="white-space:nowrap" |ソニー・<br /> ミュージックレコーズ
|様々なゲームの曲をオーケストラアレンジして実際に演奏したものを収録。「クロノ・トリガーのテーマ」の編曲は[[小野崎孝輔]]。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |2007年5月9日
| style="white-space:nowrap" |SQUARE ENIX BATTLE TRACKS<br /> Vol.1 SQUARE 1987〜1996
|SQEX-10097
| rowspan="17" style="white-space:nowrap" |スクウェア・エニックス
|スクウェア・エニックスのゲームのバトルBGMを原曲のまま集めたサウンドトラックの第1弾。「戦い」を収録(音源はSFC版サントラのものと同様)。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |2009年11月25日
| style="white-space:nowrap" |[[Love SQ]]
|SQEX-10174
|『遥かなる時の彼方へ』『クロノトリガー』『カエルのテーマ〜戦闘勝利』が収録。
|176位
|-
| style="white-space:nowrap" |2010年9月15日
| style="white-space:nowrap" |Symphonic Fantasies-music<br /> from SQUARE ENIX
|SQEX-10202
|アレンジメドレーが収録。
|102位
|-
| style="white-space:nowrap" |2010年11月24日
| style="white-space:nowrap" |クリスマス・コレクションズ music<br /> from SQUARE ENIX
|SQEX-10211
|『風の憧憬』が収録。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |2011年3月2日
| style="white-space:nowrap" |[[More SQ]]
|SQEX-10238
|『風の憧憬』『世界変革の時』が収録。
|107位
|-
| style="white-space:nowrap" |2011年9月7日
| style="white-space:nowrap" |[[SQ Chips]]
|SQEX-10248
|『クロノ・トリガー』『クロノ・トリガー・キャラクターメドレー』が収録。
|179位
|-
| style="white-space:nowrap" |2011年11月23日
| style="white-space:nowrap" |[[Cafe SQ]]
|SQEX-10276
|『愉快なスペッキオ〜ゴンザレスのお歌』『時の回廊』が収録。
|134位
|-
| rowspan="2" style="white-space:nowrap" |2012年7月4日
| rowspan="2" style="white-space:nowrap" |[[Battle SQ]]
|SQEX-10314
| rowspan="2" |『魔王決戦』が収録。
| rowspan="2" |72位
|-
|SQEX-10312〜3<br />(初回限定版)
|-
| style="white-space:nowrap" |2012年7月4日
| style="white-space:nowrap" |[[Beer SQ]]
|SQEX-10317
|『ガルディア王国千年祭』が収録。
|81位
|-
| style="white-space:nowrap" |2013年11月27日
| style="white-space:nowrap" |クリスマス・コレクションズII music<br /> from SQUARE ENIX
|SQEX-10411
|『クロノとマール〜遠い約束〜 エピローグ〜親しき仲間へ〜』が収録。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |2013年12月11日
| style="white-space:nowrap" |[[Cure SQ]]
|SQEX-10412
|『風の憧憬』が収録。
|172位
|-
| style="white-space:nowrap" |2014年5月28日
| style="white-space:nowrap" |[[SQ SWING]]
|SQEX-10434
|『カエルのテーマ』『クロノ・トリガー〜風の憧憬〜ロボのテーマ』『サラのテーマ〜時の回廊』が収録。
|109位
|-
| style="white-space:nowrap" |2014年10月1日
| style="white-space:nowrap" |Military Tune The Album
|SQEX-10448
|『風の憧憬』が収録。
|ー
|-
| style="white-space:nowrap" |2015年11月25日
| style="white-space:nowrap" |[[Last SQ]]
|SQEX-10521〜2
|『世界変革の時〜クロノ・トリガー』『魔王決戦』『クロノ・トリガー・キャラクターメドレー』が収録。
|74位
|-
| style="white-space:nowrap" |2018年12月19日
| style="white-space:nowrap" |SQUARE ENIX JAZZ Vol.2
|SQEX-10699
|『風の憧憬』『クロノ・トリガー』が収録。
|270位
|-
| style="white-space:nowrap" |2019年10月2日
| style="white-space:nowrap" |SQEX acoustic arrangements
|SQEX-10730
|『魔王決戦』が収録。
|293位
|}
=== 時空冒険 ぬうまもんじゃ〜 ===
[[1996年]][[7月31日]]に、Vジャンプフェスティバル'96にてアニメ化されて上映された。『月刊Vジャンプ』で連載されていた漫画『時空冒険ヌウマモンジャー』をベースとしたギャグアニメ作品。
なお、劇中冒頭のタイトル表示は漫画と同じくカタカナで『時空冒険ヌウマモンジャー』だが、Production I.Gによる作品名表記はひらがなで『時空冒険 ぬうまもんじゃ〜』となっている。
==== キャスト ====
* マモ - [[田中真弓]]
* ヌウ - [[茶風林]]
* ジョニー - [[三木眞一郎]]
* ゴンザレス - [[立木文彦]]
* モンスター - [[松本保典]]
* 老人モンスター - [[チョー (俳優)|長島雄一]]
* 村人A - [[中嶋聡彦]]
* 村人B - [[置鮎龍太郎]]
==== スタッフ ====
* 原作 - [[井沢ひろし|井沢寛]]、菊池晃弘(『月刊Vジャンプ』連載)
* 監督 - [[川崎逸朗]]
* 脚本 - [[あみやまさはる]]
* キャラクターデザイン - 西野理恵
* 作画監督 - [[岡村天斎]]
* 美術監督 - [[小倉宏昌]]
* 編集 - 岡田輝満、小林容子(ジェイ・フィルム)
* 音楽 - [[光田康典]](ゲーム本編のBGMがそのまま使われている)
* プロデューサー - 位下博一(読売広告社)、内田哲夫(Production I.G)
* 制作 - [[プロダクション・アイジー|Production I.G]]、[[読売広告社]]
* 制作協力 - キャラメル・ママ
* 協力 - [[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]、[[集英社]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ゼノギアス]]
* [[いけにえと雪のセツナ]]、[[LOST SPHEAR]] - 本作のゲームシステムをベースにしている。
* [[ファイナルファンタジー レジェンズ 時空ノ水晶]]
* [[アナザーエデン 時空を超える猫]]
== 外部リンク ==
;スクウェア・エニックスによる各機種公式サイト
* [https://www.jp.square-enix.com/game/detail/chronotrigger/ クロノ・トリガー] - 本作概要・各機種の商品情報を簡単に解説するポータル的ページ。
* {{Twitter|ChronoTriggerPR|クロノ・トリガーPR}}
** [https://www.jp.square-enix.com/chronotrigger/ Steam/iPhone/Android版]
;スクウェア・エニックス以外によるサイト
* {{Wiiバーチャルコンソール|chr}}
* {{App Store Preview App|479428095}}
* {{Google Play|filename=com.square_enix.android_googleplay.chrono}}
* {{Steam app|613830}}
* {{YouTube|c=UC8rdntTQXkX1VaS5QzsLSig}}
{{クロノ・トリガー}}
{{クロノシリーズ}}
{{鳥山明}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くろのとりかあ}}
[[Category:クロノ・トリガー|*]]
[[Category:クロノシリーズ|とりかあ]]
[[Category:コンピュータRPG]]
[[Category:スーパーファミコン用ソフト]]
[[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]]
[[Category:1995年のコンピュータゲーム]]
[[Category:PlayStation用ソフト]]
[[Category:ニンテンドーDS用ソフト]]
[[Category:携帯電話アプリゲーム]]
[[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ゲームアーカイブス対応ソフト]]
[[Category:iPhone用ゲームソフト]]
[[Category:Android用ゲームソフト]]
[[Category:Windows用ゲームソフト]]
[[Category:タイムトラベルを題材としたコンピュータゲーム]]
[[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]]
[[Category:ファミ通クロスレビューゴールド殿堂入りソフト]]
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2023-12-25T14:08:51Z
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18,711 |
スーパーマリオランド
|
『スーパーマリオランド』(SUPER MARIO LAND)は、任天堂がゲームボーイで発売した横スクロールアクションゲーム。日本での販売本数は約419万本で、ゲームボーイソフト史上売り上げNo.2(1位は『テトリス』の424万本)。
初代ゲームボーイ発売時のローンチタイトルで、後のマリオシリーズにも登場するキャラクター「デイジー」の初登場作品である。また、『スーパーマリオランド2 6つの金貨』(1992年)、『スーパーマリオランド3 ワリオランド』(1994年)へと続くシリーズの名称でもある。
キャッチコピーは「がんばれマリオ! それ行けマリオ!!」。
この作品は岡田智や松岡洋史などそれまでのマリオシリーズには関わっていなかったスタッフが制作しており、本作品独自のシステムがいくつか存在する。
基本的なシステムは『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)を踏襲しており、『スーパーマリオブラザーズ』・『スーパーマリオブラザーズ2』と同様、右方向のみにスクロールし引き返すことのできない横スクロール式のアクションゲームである。プレイヤーはマリオを操作し、待ち受ける敵を倒しあるいは避け、右へ右へと進んでいき、各エリアのゴールを目指す。ゴール地点には上下2つの入り口があり、上のゴールに入った場合にはボーナスステージ(マリオの残り人数が増えるなど)に挑戦できる。上のゴールへ行くには落ちるブロックを踏み台にしたり、ゴール以前の区間から上層部を進む方法など様々でかなりのテクニックが必要な場所もある。
各ワールドは3つのエリアに分かれている。3つ目のエリアには各ワールドのボスが待っている。シューティングゲームの様式になっているステージもある。最終ステージ以外の各ワールドの3つ目のエリアは奥にあるスイッチを踏むことでクリアでき、必ずしもボスを倒さなくてもよく、また、クリア時に必ずボーナスステージに挑戦可能である。最終ステージはスイッチがなく必ずボスを倒す必要があり、ボスを倒すとそのままラスボスであるタタンガ戦に突入する。
他のマリオシリーズのアクションゲームと異なり、甲羅を蹴るなどの敵を使ったアクションが一切ない。また、エリアが計12しかないこともあり、ワープやショートカットルートも一切ない。このため旧作に比べてゲーム要素が簡素になっているが、これについてはゲームボーイの初期作及びローンチタイトルであったため、当時の技術では再現できなかったとされている。
高得点を稼ぐとゲームオーバーになった時にコンティニューが可能。10万点ごとにコンティニュー回数が1回追加され、タイトル画面でキノコのカーソルを動かして「CONTINUE」を選べばそのステージから再開できる。
ワールド2-3と4-3(最終ステージ)は右方向強制スクロールのシューティングステージとなっており、乗り物に乗って敵を飛び道具で攻撃しながら進むことになる。通常時との違いは以下の通り。
ワールド2-3は水中面となっており、潜水艇マリンポップ号に乗り魚雷で攻撃する。ワールド4-3は空中面となっており、戦闘機スカイポップ号に乗りミサイルで攻撃する。どちらも操作方法やゲーム内の仕様に関しては共通。スカイポップ号は後の作品『マリオとワリオ』のエンディングに登場する。
画面ずらし等のバグ技が多数発見されているが、中でも有名なのが、2-3と4-3のシューティングステージで、マリオが左端から右端へ移ってしまうバグである。これを使うと、通常では入れない壁の内側に入ったり、ボスを倒さずに扉の裏側へ行くことができてしまう。
タタンガを倒すとタイトル画面のキノコがマリオに変わり、裏面に進める。ステージ構成は変わらないが敵と障害物の数が多くなる。ボス戦ではタマオーが2体に増える以外は通常と同じである。裏面をクリアするとタイトル画面でステージセレクトが可能になる。選択できるのは裏面のみで、表面に戻ることはできない。
ピラプト王国・ミューダ王国・イーストン王国・チャイ王国から成るサラサ・ランドと呼ばれる世界があった。
ある日、サラサ・ランドを征服する事を企む宇宙怪人タタンガが空から現れた。
タタンガは各王国の住民たちに宇宙催眠をかけ、思うがままに操ってあっという間にサラサ・ランドを乗っ取り、さらにサラサ・ランドの姫デイジー姫も連れ去ってしまった。
このことを知ったマリオはデイジー姫が捕らえられているというチャイ王国を目指す。
ゲームの舞台はサラサ・ランドとなっており、ピラプト王国・ミューダ王国・イーストン王国・チャイ王国の四王国から成り立っている。敵キャラクターは本作独自のものが多いが、一部、キノコ王国に住んでいるものと共通ないし特徴や外観が類似した種族が住んでいる。
各王国のモデルは、古代文明や伝説にゆかりのある実在の国、地域であり、設定では各国の王はそれぞれ、『スーパーマリオランド』での中ボスとなっている。
本作では上記のようにキノコ王国ではなくサラサ・ランドという別の世界が舞台となっており、クッパやピーチ姫などこれまでのマリオシリーズに登場したキャラクターは登場せず、デイジー姫や宇宙怪人タタンガなどの新キャラクターが登場している。
無敵状態でも倒せない障害物。
『コミックボンボン』で、本作のコミカライズ版が本山一城によって連載されているが、ゲームには出てこないピーチ姫、メカクリボー、ナンチャン道士、ナンキンくん、ミンメイ、スーちゃんなども登場する。なおスーパーマリオランド本編に関しては第1巻のみで終了し、第2巻では『テトリス』、第3巻では三大スポーツ(『ゴルフ』、『ベースボール』、『テニス』)、第4巻では『クイックス』と『ソーラーストライカー』を扱っている。
『スーパーマリオくん』では2巻巻末の4コマ漫画が「スーパーマリオランド」を扱ったものになっている(一話のみ)。タタンガを倒してデイジー姫を助けに来たマリオが、欄外からピーチ姫に「このうわき者!!」とスーパーキノコを投げつけられる。3巻巻末の漫画ではタタンガの手下たちがクッパに雇われているという設定でマリオたちに襲い掛かる。マリオたちが直接倒したボスはドラゴンザマスとタマオーのみで、タタンガはクッパとのやり取りが描写される1コマにしか出て来ない。
|
[
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"text": "『スーパーマリオランド』(SUPER MARIO LAND)は、任天堂がゲームボーイで発売した横スクロールアクションゲーム。日本での販売本数は約419万本で、ゲームボーイソフト史上売り上げNo.2(1位は『テトリス』の424万本)。",
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"text": "初代ゲームボーイ発売時のローンチタイトルで、後のマリオシリーズにも登場するキャラクター「デイジー」の初登場作品である。また、『スーパーマリオランド2 6つの金貨』(1992年)、『スーパーマリオランド3 ワリオランド』(1994年)へと続くシリーズの名称でもある。",
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"text": "タタンガは各王国の住民たちに宇宙催眠をかけ、思うがままに操ってあっという間にサラサ・ランドを乗っ取り、さらにサラサ・ランドの姫デイジー姫も連れ去ってしまった。",
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"text": "ゲームの舞台はサラサ・ランドとなっており、ピラプト王国・ミューダ王国・イーストン王国・チャイ王国の四王国から成り立っている。敵キャラクターは本作独自のものが多いが、一部、キノコ王国に住んでいるものと共通ないし特徴や外観が類似した種族が住んでいる。",
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"text": "各王国のモデルは、古代文明や伝説にゆかりのある実在の国、地域であり、設定では各国の王はそれぞれ、『スーパーマリオランド』での中ボスとなっている。",
"title": "設定"
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『スーパーマリオランド』は、任天堂がゲームボーイで発売した横スクロールアクションゲーム。日本での販売本数は約419万本で、ゲームボーイソフト史上売り上げNo.2(1位は『テトリス』の424万本)。
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『'''スーパーマリオランド'''』('''''SUPER MARIO LAND''''')は、[[任天堂]]が[[ゲームボーイ]]で発売した横スクロール[[アクションゲーム]]。日本での販売本数は約419万本で、[[ゲームボーイ]]ソフト史上売り上げNo.2(1位は『[[テトリス]]』の424万本)。
== 概要 ==
初代ゲームボーイ発売時の[[ローンチタイトル]]で、後のマリオシリーズにも登場するキャラクター「[[デイジー (ゲームキャラクター)|デイジー]]」の初登場作品である。また、『[[スーパーマリオランド2 6つの金貨]]』([[1992年]])、『[[スーパーマリオランド3 ワリオランド]]』([[1994年]])へと続くシリーズの名称でもある。
キャッチコピーは「'''がんばれマリオ! それ行けマリオ!!'''」。
== ゲームシステム ==
=== アクション ===
この作品は[[岡田智]]や[[松岡洋史]]などそれまでのマリオシリーズには関わっていなかったスタッフが制作しており、本作品独自のシステムがいくつか存在する。
基本的なシステムは『[[スーパーマリオブラザーズ]]』([[1985年]])を踏襲しており、『スーパーマリオブラザーズ』・『[[スーパーマリオブラザーズ2]]』と同様、右方向のみにスクロールし引き返すことのできない横スクロール式の[[アクションゲーム]]である。プレイヤーはマリオを操作し、待ち受ける敵を倒しあるいは避け、右へ右へと進んでいき、各エリアのゴールを目指す。ゴール地点には上下2つの入り口があり、上のゴールに入った場合にはボーナスステージ(マリオの残り人数が増えるなど)に挑戦できる。上のゴールへ行くには落ちるブロックを踏み台にしたり、ゴール以前の区間から上層部を進む方法など様々でかなりのテクニックが必要な場所もある。
各ワールドは3つのエリアに分かれている。3つ目のエリアには各ワールドのボスが待っている。[[シューティングゲーム]]の様式になっているステージもある。最終ステージ以外の各ワールドの3つ目のエリアは奥にあるスイッチを踏むことでクリアでき、必ずしもボスを倒さなくてもよく、また、クリア時に必ずボーナスステージに挑戦可能である。最終ステージはスイッチがなく必ずボスを倒す必要があり、ボスを倒すとそのままラスボスであるタタンガ戦に突入する。
他のマリオシリーズのアクションゲームと異なり、甲羅を蹴るなどの敵を使ったアクションが一切ない。また、エリアが計12しかないこともあり、ワープやショートカットルートも一切ない。このため旧作に比べてゲーム要素が簡素になっているが、これについてはゲームボーイの初期作及び[[ローンチタイトル]]であったため、当時の技術では再現できなかったとされている<ref>M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、4ページから5ページ</ref>。
高得点を稼ぐと[[ゲームオーバー]]になった時にコンティニューが可能。10万点ごとにコンティニュー回数が1回追加され、タイトル画面でキノコのカーソルを動かして「CONTINUE」を選べばそのステージから再開できる。
=== アイテム ===
; [[スーパーキノコ]]
: マリオが巨大化し「'''スーパーマリオ'''」になる。巨大化した状態では敵に当たっても小さくなるだけでミスにならない。ブロックを下から突き上げて壊す事もできる。『[[スーパーマリオブラザーズ]]』等と異なり、出現させると同時に右に向かって跳ね上がる。着地後は右に滑っていくが、段差を落ちる際に横方向の慣性が働かず、垂直に落ちていく。
; スーパーボールフラワー
: 他のマリオシリーズ作品のファイアフラワーに似た形の花であるが、本作ではファイアマリオではなく、スーパーボールを投げることができる「'''スーパーボールマリオ'''」に変身する(小さいマリオの状態で取った場合はスーパーマリオにしかならない)。外見はスーパーマリオと同様。スーパーボールを敵に当てると、当たった敵を倒すことができる(一部の敵には無効)。また、投げたボールがコインに触れるとコインを獲得できる。これにより、直接取りに行くことができない位置にあるコインを取ることも可能である。ファイアボールと異なり、射出後は斜め下45度の角度で直進し、地面や壁・土管などに当たると斜め直角に跳ね返り続ける。敵に当たったり、上空に飛んでいったり、穴に落ちたりすると消えるが、跳ね返って飛び続けている場合でも一定時間で消滅する。1個スーパーボールを投げると、そのスーパーボールが画面から消えるまで、次のボールは発射できない。
: スーパーマリオの時にキノコの出るブロックを叩くと出現するが、シューティング面ではスーパーマリオの時でもキノコが出現し、フラワーは出現しない。スーパーボールマリオの時にキノコを取ってもスーパーマリオには戻らない。
; スーパースター
: 取るとマリオが一定時間無敵になる。出現させるとキノコと同様に飛び上がるが、地面に落ちても跳ねずにそのまま貫通して画面外に消えてしまう。無敵状態では敵は触れるだけで倒せるが、得点は低くなる(スーパーボールなど飛び道具を1発以上当ててからならば通常通りの得点となる)。無敵中のBGMは他のマリオシリーズ作品に用いられているものとは異なり、[[ジャック・オッフェンバック|オッフェンバック]]作曲の『[[地獄のオルフェ|天国と地獄]]』が採用されている。
; コイン
: 100枚取るとマリオの残り人数が1つ増える。空中や、ブロックの中に配置されている。
; [[1UP]]ハート
: 取るとマリオの残り人数が1つ増える。挙動はキノコと同様。他のマリオシリーズ作品の1UPキノコに相当するが、ゲームボーイは[[モノクローム|モノクロ]]であるため、スーパーキノコと形が異なるアイテムとなった。
; エレベーター
: 一部ステージ限定(例:1-3)のアイテムで他のアイテムと違い飛び出さずにブロックの上に設置される。これに乗ると上昇して天井裏に行くことができる。
=== シューティングステージ ===
ワールド2-3と4-3(最終ステージ)は右方向強制スクロールのシューティングステージとなっており、乗り物に乗って敵を飛び道具で攻撃しながら進むことになる。通常時との違いは以下の通り。
* 十字キーで上下左右に自由に移動可能。上/下方向と左/右方向を同時に押せば斜め移動も可能。
* マリオの状態に関係なく飛び道具を発射できる。Bボタンで単発発射が、Aボタンを押し続ければ自動連射が可能。
* 敵に直接触れた場合、どこから衝突してもダメージを受ける(巨大化している場合は小さくなり、小さい状態であればミスになる)ので、飛び道具を撃ち込んで倒すことになる。ただし無敵状態のときは体当たりで倒すことができる。
* ボスキャラクターは飛び道具を何発も撃つことでマリオの状態に関係なく倒すことができる。2-3では1-3や3-3と同様、ボスを倒さずにスイッチに触れてクリアすることもできる。
* ブロックは直接触れて叩くことはできないが、飛び道具を撃ち込むと壊すことができる。
* 谷底に落ちることは無いが、画面のスクロールと壁に挟まれて'''完全に姿が見えなくなる'''とミス。
ワールド2-3は水中面となっており、[[潜水艇]]'''マリンポップ号'''に乗り[[魚雷]]で攻撃する。ワールド4-3は空中面となっており、[[戦闘機]]'''スカイポップ号'''に乗り[[ミサイル]]で攻撃する。どちらも操作方法やゲーム内の仕様に関しては共通。スカイポップ号は後の作品『[[マリオとワリオ]]』のエンディングに登場する。
=== バグ技 ===
画面ずらし等のバグ技が多数発見されているが、中でも有名なのが、2-3と4-3のシューティングステージで、マリオが左端から右端へ移ってしまうバグである。これを使うと、通常では入れない壁の内側に入ったり、ボスを倒さずに扉の裏側へ行くことができてしまう。
=== 裏面 ===
タタンガを倒すとタイトル画面のキノコがマリオに変わり、[[裏面 (ゲーム)|裏面]]に進める。ステージ構成は変わらないが敵と障害物の数が多くなる。ボス戦ではタマオーが2体に増える以外は通常と同じである。裏面をクリアするとタイトル画面でステージセレクトが可能になる。選択できるのは裏面のみで、表面に戻ることはできない。
== 設定 ==
=== ストーリー ===
ピラプト王国・ミューダ王国・イーストン王国・チャイ王国から成るサラサ・ランドと呼ばれる世界があった。
ある日、サラサ・ランドを征服する事を企む宇宙怪人[[タタンガ]]が空から現れた。
タタンガは各王国の住民たちに宇宙催眠をかけ、思うがままに操ってあっという間にサラサ・ランドを乗っ取り、さらにサラサ・ランドの姫[[デイジー (ゲームキャラクター)|デイジー姫]]も連れ去ってしまった。
このことを知ったマリオはデイジー姫が捕らえられているというチャイ王国を目指す。
=== 舞台 ===
ゲームの舞台はサラサ・ランドとなっており、ピラプト王国・ミューダ王国・イーストン王国・チャイ王国の四王国から成り立っている。敵キャラクターは本作独自のものが多いが、一部、キノコ王国に住んでいるものと共通ないし特徴や外観が類似した種族が住んでいる。
=== ステージ構成 ===
各王国のモデルは、古代文明や伝説にゆかりのある実在の国、地域であり、設定では各国の王はそれぞれ、『スーパーマリオランド』での中ボスとなっている。
; ピラプト王国
: モデルは[[エジプト]]。王は、[[マリオランドシリーズのキャラクター一覧#ボスキャラクター|キング・トトメス]]。
; ミューダ王国
: モデルは[[バミューダ諸島]]。王は、[[マリオランドシリーズのキャラクター一覧#ボスキャラクター|ドラゴンザマス]]。
; イーストン王国
: モデルは[[イースター島]]。王は、[[マリオランドシリーズのキャラクター一覧#ボスキャラクター|ヒョイホイ]]。
; チャイ王国
: モデルは[[中華人民共和国|中国]]。王は、[[クモクモーン#近種|パオキントン]]。
== キャラクター ==
本作では上記のようにキノコ王国ではなくサラサ・ランドという別の世界が舞台となっており、[[クッパ (ゲームキャラクター)|クッパ]]や[[ピーチ (ゲームキャラクター)|ピーチ姫]]などこれまでのマリオシリーズに登場したキャラクターは登場せず、[[デイジー (ゲームキャラクター)|デイジー姫]]や宇宙怪人タタンガなどの新キャラクターが登場している。
{{Main2|敵キャラクター|マリオランドシリーズのキャラクター一覧#スーパーマリオランド}}
=== 障害物 ===
無敵状態でも倒せない障害物。
; 毒針
: 乗るとダメージを受ける。地面やブロックに生えている。ダメージを受けるブロックとして扱われるので、無敵状態であれば足場として上に乗ることが可能。
; パンチハンド
: 4-3のステージ後半に出現する、マリオの行く手を邪魔する巨大な手。
; [[煉瓦]]
: 一定時間経過すると上から降ってくる。上以外から触れるとダメージだが、上に乗ることは可能。
; [[鍾乳石]]
: マリオが真下を通ると上から降ってくる。上以外から触れるとダメージだが、上に乗ることは可能。
== 移植版 ==
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 備考
! 出典
|-
| style="text-align:right" | 1
! スーパーマリオランド
| {{vgrelease new|JP|2000-03-01}}
| ゲームボーイ<br />([[ニンテンドウパワー]])
| 任天堂開発第一部
| 任天堂
| [[フラッシュメモリ|フラッシュロムカセット]]
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 2
! スーパーマリオランド
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| [[ニンテンドー3DS]]
| 任天堂開発第一部
| 任天堂
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]])
| CTR-RAAJ-JAN
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=佐伯憲司 |date=2011-6-02 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/450149.html |title=任天堂、「ニンテンドーeショップ」の情報を公開。DSi/LLからの3DSへのソフト・データの引っ越しについても明らかに |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2011-06-02 |url=https://www.inside-games.jp/article/2011/06/02/49380.html |title=任天堂、ゲームボーイのバーチャルコンソールや3DS新作ゲーム配信の詳細を公開 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |language= [[日本語]] |accessdate=2020-11-03}}</ref>
|}
== 音楽 ==
;サウンドトラック
*『スーパーマリオランド/マリオ・フリークス・オーケストラ』(1989年9月1日 [[日本コロムビア]])
*:ゲームBGMのアレンジ版と、メドレー形式でオリジナル版を収録。
*『GAME BOY MUSIC』(1990年3月21日 [[ポニーキャニオン]])
*『ゲームボーイグラフィティ』(1990年5月21日 日本コロムビア)
*『SUPER MARIO LAND Ambassadors of Funk feat. MC Mario』(1993年3月21日 [[アルファレコード]])
== スタッフ ==
* プロデューサー:[[横井軍平]]
* ディレクター:[[岡田智]]
* プログラマー:山本雅央、原田貴裕
* デザイン:[[松岡洋史]]、真下雅彦
* サウンド:[[田中宏和]]
* アミダデザイン:山中勝
* スペシャルサンクス:瀧良博、[[出石武宏]]、永田秀夫、[[加納誠 (任天堂)|加納誠]]、西澤健治
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
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|CVG = 93% (GB)<ref name=CVG>{{cite web |url=https://archive.org/stream/cvg-magazine-096/CVG_096_Nov_1989#page/n118/mode/1up |accessdate=April 11, 2015 |title=Marioland |last1=Rand |first1=Paul |date=November 1989 |work=[[:en:Computer and Video Games|Computer and Video Games]] |issue=96 |p=119 }}</ref>
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*ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「クロスレビュー」では、6・7・7・6の合計26点となっている<ref name="famitsu890609">{{Cite journal |和書
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|url= http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=16604
|title= スーパーマリオランド まとめ <nowiki>[ゲームボーイ]</nowiki>
|website= [[ファミ通|ファミ通.com]]
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|language= [[日本語]]
|accessdate= 2017-01-14}}</ref>。レビュアーの意見としては、「残像があるためアクションゲームは向かないんじゃないかってあちこちで言われるけど、この『マリオ』に関してはかなりいい線いってると思う」、「元祖『スーパーマリオ』に比べたらマリオの動きもなんだかチャチいし、敵も魅力的じゃない」などと評されている<ref name="famitsu890609"/>。
*ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通りとなっており、21.72点(満30点)となっている<ref name="famimaga126"/>。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ゲームボーイ オールカタログ」では、「このゲームには、今までのシリーズにはなかった、マリオのシューティング面が入っているぞ。それだけでなく、マリオの残り数が増えるボーナスステージも新しく加わっている。各ワールドのボスも、クッパではなく、オリジナルのボスになっているぞ。もちろん、水辺を進む面、地下を通る面、隠しコインのある面など、今までのシリーズにあった面も、豊富に取り込まれている。液晶画面のことを考えて作られているので敵やトラップはやや簡単になっている」と紹介されている<ref name="famimaga126"/>。
:{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%"
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! 得点
| 3.71 || 3.60 || 3.64 || 3.71 || 3.77 || 3.29
! 21.72
|}
{{Clear}}
== 関連作品 ==
=== ゲーム作品 ===
*『[[大乱闘スマッシュブラザーズX]]』 - 本作のワールド1-3,3-2,3-3のBGMが使用されている。
*『大合奏バンドブラザーズP』 - ニンテンドー3DSソフト。2016年12月25日に「スーパーマリオランドメドレー」が配信された。
*『[[Super Mario Run]]』 - リミックス10のモードのオリジナルのBGMで本作のBGMのリミックス曲が使用されている。
=== 漫画作品 ===
『[[コミックボンボン]]』で、本作のコミカライズ版が[[本山一城]]によって連載されているが、ゲームには出てこない[[ピーチ姫]]、メカクリボー、ナンチャン道士、ナンキンくん、ミンメイ、スーちゃんなども登場する。なおスーパーマリオランド本編に関しては第1巻のみで終了し、第2巻では『[[テトリス]]』、第3巻では三大スポーツ(『[[ゴルフ (任天堂)|ゴルフ]]』、『[[ベースボール (ゲームボーイ)|ベースボール]]』、『[[テニス (任天堂)|テニス]]』)、第4巻では『[[クイックス]]』と『[[ソーラーストライカー]]』を扱っている。
『[[スーパーマリオくん]]』{{要曖昧さ回避|date=2021年6月}}では2巻巻末の4コマ漫画が「スーパーマリオランド」を扱ったものになっている(一話のみ)。タタンガを倒してデイジー姫を助けに来たマリオが、欄外からピーチ姫に「この[[姦通|うわき]]者!!」とスーパーキノコを投げつけられる。3巻巻末の漫画ではタタンガの手下たちがクッパに雇われているという設定でマリオたちに襲い掛かる。マリオたちが直接倒したボスはドラゴンザマスとタマオーのみで、タタンガはクッパとのやり取りが描写される1コマにしか出て来ない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/mla/ スーパーマリオランド]
* {{3DSバーチャルコンソール|raaj}}
* {{MobyGames|id=/4275/super-mario-land/|name=Super Mario Land}}
{{Mario}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すうはあまりおらんと}}
[[Category:マリオシリーズのプラットフォームゲーム|らんと1]]
[[Category:1989年のコンピュータゲーム]]
[[Category:ゲームボーイ用ソフト]]
[[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ニンテンドウパワー書き換えソフト]]
[[Category:マリオランド|1]]
[[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]]
[[Category:横スクロールアクションゲーム]]
|
2003-09-29T08:14:07Z
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2023-12-05T06:51:25Z
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|
18,712 |
粒子線
|
粒子線(りゅうしせん、英語: particle beam)とは、主にレプトン、ハドロン、(イオン化された)原子や分子などの粒子によるビームである。つまり、粒子が束状になって進んでいく状態である。
粒子線の代表的なものとして、電子線、陽子線、重粒子線、中性子線などがある。
電子線は身近なものではテレビのブラウン管やプラズマテレビなどの放電式表示装置、研究や製造分野では、光学顕微鏡よりも高倍率で被写体深度の深い観察ができる電子顕微鏡、半導体マスク製造やウェハーなどへの直接描画による微細なパターンを形成するための電子線描画装置などに用いられる。
中性子線は物性物理学において結晶構造や磁気構造の解析(中性子散乱)の手段として利用されている。 また、イオン化した原子、分子などの粒子線を表面に当てて、表面構造を解析する手法(イオン散乱)も存在する。
荷電粒子の粒子線を人工的に作り出すためには加速器(シンクロトロン)が用いられる。
安定な放射性同位体を核破砕反応を使ってRIビームにする技術もあり、短寿命な放射性同位体の研究に利用されている。
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粒子線とは、主にレプトン、ハドロン、(イオン化された)原子や分子などの粒子によるビームである。つまり、粒子が束状になって進んでいく状態である。 粒子線の代表的なものとして、電子線、陽子線、重粒子線、中性子線などがある。
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'''粒子線'''(りゅうしせん、{{lang-en|particle beam}})とは、主に[[レプトン (素粒子)|レプトン]]、[[ハドロン]]、(イオン化された)[[原子]]や[[分子]]などの粒子による[[ビーム (物理学)|ビーム]]である。つまり、粒子が束状になって進んでいく状態である。
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==利用==
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==関連記事==
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*[[素粒子物理学]]
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*[[粒子線治療]]
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阪神なんば線
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阪神なんば線(はんしんなんばせん)は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から大阪府大阪市中央区の大阪難波駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。路線名に「阪神」を含む。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。
本項目では、前身の西大阪線(にしおおさかせん)ならびに伝法線(でんぽうせん)時代についても記述する。
1924年(大正13年)に伝法線として大物駅 - 伝法駅間が開業、同年に伝法駅 - 千鳥橋駅間が、1928年(昭和3年)に本線と並行する尼崎駅 - 大物駅間が、それぞれ延伸開業した。本線の高速新線である第二阪神線の一部として先行開業したもので、本線の出入橋駅(廃止)から分かれて千鳥橋を経て大物駅、尼崎駅へと進む新線を建設する計画であったが、出入橋駅 - 千鳥橋駅間は昭和恐慌などがあり建設されず、未成線となった。
その後、千鳥橋駅から延伸して難波に乗り入れる計画が立てられ、まず先行して1964年(昭和39年)に西九条駅まで延伸、あわせて路線名を西大阪線へと改称した。その後長きにわたり工事は中断したものの(西大阪線延伸事業を参照)、平成に入り再開された。
2001年(平成13年)3月31日にユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) がオープンし、西九条駅でJRゆめ咲線に乗り換えることでUSJへのアクセス路線として位置づけられるようになった。USJのオープンに先立ち、同年3月10日のダイヤ改正で本線の直通特急・特急が尼崎駅に停車するようになったほか、西日本旅客鉄道(JR西日本)とのタイアップで西九条駅経由ユニバーサルシティ駅への連絡乗車券(USJの入場券は別途購入)が発売された。
2009年(平成21年)3月20日、西九条駅 - 大阪難波駅間が延伸開業し、路線名を阪神なんば線へと改称した。なお、「阪神」を含む「阪神なんば線」が正式な路線名であるが、これは直通運転を行なっている近畿日本鉄道(近鉄)に難波線があり、それと区別するためである。また、終点の大阪難波駅は近鉄難波線の近鉄難波駅を改称したものである。延伸区間の線路等の鉄道施設を保有する第三種鉄道事業者である西大阪高速鉄道における路線名は「西大阪延伸線」である。
阪神本線沿線から大阪市西部・南部へのバイパス路線となっており、西九条駅 - 大阪難波駅間が開業したことで、後述する阪神と近鉄難波線・奈良線の相互直通運転も開始され、大阪・難波を経由して神戸方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶ関西の広域な鉄道アクセスルートが形成された。大阪難波駅延伸開業時のキャッチフレーズは「神戸・難波・奈良、つながる。」で、2009年12月頃から「ときめきつなぐドラマティックロード」をキャッチフレーズに加えている。
なお、近鉄線と相互直通運転を行う大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間のうち、正式路線名はそれぞれ大阪難波駅 - 大阪上本町駅間が難波線、大阪上本町駅 - 布施駅間が大阪線、布施駅 - 近鉄奈良駅間が奈良線となっているが、旅客案内上では大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間をまとめて近鉄奈良線と扱われているため、本項でも同様に扱う。
正式な起点は尼崎駅であるが、列車運行上は大阪難波駅から尼崎駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
起点である尼崎駅では4面6線のうち中央の2面2線に発着し、本線からの対面乗り換えが可能な構造となっている。尼崎駅を出ると、すぐに地平へと下り、上下線とも本線下りをアンダーパスでくぐり抜け、本線の南側で再び高架線を上り、大物駅に着く。同駅は3面4線の構造であるため本線下りと阪神なんば線上りが同一ホームとなっており、杭瀬駅や千船駅など本線下りから大阪難波方面阪神なんば線上り各駅への乗り換えが容易にできるようになっている。
大物駅を出るとそのまま高架線で南東へと直進し、左門殿川、神崎川と阪神高速3号神戸線を越えるとすぐ出来島駅に着く。出来島駅を過ぎると高架線を下りて地平となり、福駅の手前で初めて踏切を通過する。福駅を過ぎるとやや上り坂となり、架け替え工事中(後述)の淀川橋梁を渡り伝法駅に着く。
伝法駅を過ぎると千鳥橋駅の手前で東へとカーブし、高架駅の千鳥橋駅に着く。そのまま高架線を進むと、JRとの乗り換え駅である西九条駅に着く。西大阪線時代の終着駅で、将来の難波延伸に備えてJR線を越える高さで造られたものの、長らく延伸工事が中断していたため、JRの手前で線路・ホームともに途切れたままであった。その後ようやく工事が再開され、ホームがJR線の上を跨ぐように南側に延伸された。
西九条駅から先は2009年3月に延伸開業した区間で、九条駅周辺の住民に配慮し、安治川橋梁を除き車両全体を覆う高さの防音壁が設けられており(本記事冒頭の画像参照)、九条駅の手前から地下線となる。九条駅は後から開業した阪神なんば線は地下駅だが、先に開業したOsaka Metro中央線は高架駅であるため、「私鉄が地下駅・地下鉄が高架駅」という珍しい形態である。同駅を出て南東へ折れると間もなく京セラドーム大阪、イオンモール大阪ドームシティの最寄り駅で、Osaka Metro長堀鶴見緑地線(ドーム前千代崎駅)との乗り換え駅であるドーム前駅に着く。同駅は、地下鉄と道頓堀川の下を潜る必要から、地下30m(ホームは地下5階)と阪神の駅の中では最も深い位置に設けられているほか、線路のカーブもきつくスキール音が大きく響く。同駅を出ると東へと進路を変え桜川駅に着く。同駅は阪神なんば線の北側を並走するOsaka Metro千日前線や、仮称が「汐見橋駅」であったとおり南海高野線(汐見橋線)汐見橋駅との乗り換え駅であるが、南海難波駅と間違えないよう、車内での汐見橋線との乗り換え案内は(放送・表示器・路線図いずれも)一切ない。
桜川駅 - 大阪難波駅間に限り、近鉄が運行管理を担っており(後述)、桜川駅では阪神と近鉄の乗務員が交代する。そのまま直進すると終点の大阪難波駅となり、列車は近鉄難波線を経て奈良線に直通する。
尼崎駅・大阪難波駅を介する形で、神戸三宮駅 - (阪神本線) - 尼崎駅 - (阪神なんば線) - 大阪難波駅 - (近鉄難波線・大阪線・奈良線) - 近鉄奈良駅間で相互直通運転を行っており、ダイヤは直通運転先の近鉄奈良線とほぼ一体化している。
後述のとおり、快速急行が神戸三宮駅(一部は尼崎駅) - 近鉄奈良駅(一部は大阪難波駅・大和西大寺駅)間で、準急・区間準急・普通が尼崎駅 - 近鉄奈良駅間(最長運行区間)で運行されている。また、阪神なんば線内には待避設備がないため、先行する列車が必ず、尼崎方面行きは尼崎駅に、近鉄奈良方面行きは大阪難波駅に、それぞれ先着する。
阪神なんば線内で完結する列車は下り初発となる普通大阪難波発尼崎行き1本のみで、それ以外の全列車が阪神本線または近鉄奈良線と直通する。また、線内の途中駅を始発・終着とする営業列車は存在しないほか、近鉄大阪線(俊徳道駅以遠)と直通する列車は定期列車では存在しない。
神戸三宮以西(元町・神戸高速線・山陽電気鉄道)方面から当線内各駅、あるいは当線を介して近鉄(大阪難波以東)方面に行く場合は、神戸三宮駅や尼崎駅などでの乗り換えが必要となる。大阪上本町駅(地上ホーム)発着の近鉄特急や、阪神と相互直通運転をしていない大阪線の列車とは、基本的に鶴橋駅での対面乗り換えとなる。各種別ごとの列車接続状況は後節で述べる。
阪神なんば線の開業により広範囲に線路がつながったため、一部のダイヤが乱れると他線区に広く影響が及ぶことがある。そのため、近鉄線内で人身事故など輸送障害が発生した場合は、引き上げ線のある大阪難波駅や桜川駅では折り返さず、西九条駅で運行を打ち切り西九条駅 - 大阪難波駅間は運休となる(快速急行は西九条駅発着ないし本線も含め全区間運休としている)。また、台風接近など災害時も同様に、西九条駅 - 大阪難波駅間のみ運休させることがある。
平日日中1時間あたりの基本的な運行本数は以下のようになっている。
尼崎行きは時間帯により始発駅が異なるが、いずれの時間帯も阪神なんば線内で毎時6本は確保されている。
阪神なんば線内で唯一通過運転を行っている種別である。また、一般列車の種別としては唯一本線に乗り入れる。
尼崎駅 - 西九条駅間は途中無停車で、西九条駅 - 大阪難波駅間は各駅に停車する。
基本的に神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運行され、この区間を約80分(昼間時間帯)、最速76分で結んでいる。平日朝ラッシュ時は12分間隔(尼崎駅発で7時台と8時台に続行がある)、平日日中と全日夜間は概ね30分間隔、その他の時間帯は概ね20分間隔で運行している。なお、早朝・夜間は本線には乗り入れず、尼崎駅発着となっており、尼崎駅で本線の直通特急・特急と接続としている。また、近鉄線内で障害が発生した場合は、運休もしくは延伸区間・近鉄線内には乗り入れず西九条駅発着に変更することがある。
2012年3月20日より土曜・休日朝の初発から3本の運行区間が延長され、神戸高速線新開地駅始発へと変更された。また、それまで平日日中のみ各駅に停車していたのが他の時間帯と同様に尼崎駅 - 西九条駅間で通過運転を行うようになり、阪神なんば線内の停車駅が統一された。2016年3月19日のダイヤ改正からは、それまで神戸三宮駅到着後は回送として折り返していた列車を営業列車化した(詳細は後述)大和西大寺行きが平日朝に1本、神戸三宮駅 → 大阪難波駅間は大阪難波行き快速急行として運行し大阪難波駅で近鉄線の普通に変更する列車が平日朝に1本、この他にも近鉄奈良発大阪難波行きの一部を区間延長する形で尼崎行きに変更した列車も合わせて増発した。これにより、平日ダイヤでは上りの朝7時台に快速急行が2本続行するパターンが生まれている。2020年3月14日のダイヤ改正では、朝と夜間に増発・運転区間延長し、平日の朝と夜には大阪難波行きが大阪難波駅で近鉄線の準急ないし普通へ変更する列車が2本増発された。ただ、2022年12月17日のダイヤ改正では平日は朝8時台も快速急行が2本続行するようになったほか、日中は減便、16時台には尼崎駅始発が設定された。また、土曜・休日は朝の新開地駅始発が廃止され神戸三宮駅発に戻されるなど、大きな変化が見られた。
編成は6・8・10両いずれかで運転されているが、本線での停車駅のホーム長の関係から、8・10両の列車については長らく尼崎駅にて増結・切り離しを行い、本線内では6両で運転していた。その後、2020年3月14日のダイヤ改正から本線でも一部の列車で8両での運転を開始したことで増結・切り離しの回数は大きく減少し、2022年12月17日のダイヤ改正以降では10両は減少し、6両または8両での運転が主体となっている。尼崎駅発基準では、平日は16時台以降は神戸三宮駅発着も含めほぼ8両(それ以前は6両)で運転され、土曜・休日は朝の一部を除き8両で運転されている。
準急・区間準急・普通は、いずれの種別も阪神なんば線内は各駅に停車する(準急・区間準急は近鉄線内で通過運転を行っている)。全列車とも6両編成で、尼崎駅 - 東花園駅・瓢箪山駅・石切駅・東生駒駅・大和西大寺駅・近鉄奈良駅間で運行されており、阪神本線には乗り入れない。基本的に3種別合わせて1時間あたり6本運行されている。
準急・区間準急・普通としてそのまま本線へ直通する列車はないが、例外的に、平日朝に終着の尼崎駅にて快速急行神戸三宮行きに変更して本線へ直通する普通尼崎行きが3本存在する。
尼崎駅では本線の直通特急・特急との接続が考慮されている。また、大物駅では早朝の上り(尼崎発)普通の一部は本線の下り普通との接続が考慮されている。
2012年3月20日のダイヤ改正より快速急行が平日昼間時間帯においても通過運転を実施することになったため、通過駅となる大物駅 - 千鳥橋駅間の削減分は近鉄奈良方面 - 大阪難波駅発着の区間準急を尼崎駅発着に延長して代替した。なお、2016年(平成28年)3月19日のダイヤ改正で平日昼間時間帯の尼崎行き区間準急が普通に変更され、2020年3月14日のダイヤ改正でも土曜・休日の昼間時間帯の尼崎行き区間準急も普通に変更されたため、尼崎行きはほぼ全てが普通となった(尼崎発は準急・区間準急も多数あり)。また、同改正で本線内を快速急行として運転し尼崎駅で普通に種別変更する上り列車が消滅した。
2021年4月29日から新型コロナウイルス感染症蔓延拡大による政府からの緊急事態宣言発出及び沿線自治体からの協力要請を受けて、暫定的に終電とその1本前の尼崎発普通東花園行き2本を近鉄線内での旅客営業を取り止め、大阪難波行きに変更する措置をとっていた。この措置は同年7月3日の近鉄のダイヤ変更で通常ダイヤとなり、大阪難波駅延伸後初めて上りでも線内完結列車が設定されることになった。ただ、2022年12月17日のダイヤ改正で深夜時間帯の減便を行ったため、上りでは線内完結列車は廃止され、再び全列車が近鉄奈良線まで運転されるようになった。
2009年の開業以降、毎年8月に開催されるみなとこうべ海上花火大会当日と12月の神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜において、夜間の尼崎始発の普通の一部を神戸三宮発に延長し、本線区間を臨時快速急行として運転している。なお、2020年以降は新型コロナウイルス感染症拡大の影響でイベントが中止されているため、本線での臨時快速急行も運転されていない。
2011年4月18日、天理教の祭典に合わせ、初の阪神・近鉄直通臨時列車として、三宮(現・神戸三宮)発天理行き臨時快速急行が運転された。当日は、通常は神戸三宮駅に到着後回送として折り返す列車を客扱いとし、大阪難波経由天理行きのヘッドマークを取り付け、阪神線内では快速急行の、近鉄線内では急行の、それぞれの停車駅で運転された。2012年1月26日にも春季大祭開催に伴う臨時列車が運行され、同年3月26日以降も平日の祭典日に限り運行した。
この臨時快速急行は、2016年3月19日のダイヤ改正で大和西大寺行き快速急行として定期列車に変更されており、同改正以降は平日の祭典日に限り大和西大寺駅から天理行き臨時急行に変更して延長運転していた(大和西大寺駅で奈良行き急行と接続)が、上記の通り、2021年7月より毎日運行となった(詳細に案内はなされていないが、大和西大寺駅で急行天理行きに変更してそのまま天理駅まで直通運転されている)。また、土曜・休日の祭典日には天理発神戸三宮行きの臨時列車も設定されたが、これも2021年7月より土曜・休日ダイヤでは定期運行となった。2022年12月のダイヤ変更で、平日朝8時台にも尼崎 → 大阪難波間を続行する快速急行(先行列車は尼崎発近鉄奈良行き、後続列車は神戸三宮発大阪難波行き)が設定されたが、このうち先行列車の近鉄奈良行きについては天理教祭典日に限り、後ろの4両が大和西大寺駅で切り離されたのち臨時急行天理行きとなる。
2013年2月24日には、阪神なんば線開業後初めて山陽姫路駅から近鉄奈良駅を直通で結ぶイベント列車が運行された。さらに2014年7月13日には、近鉄奈良駅から山陽姫路駅までを直通で結ぶイベント列車も運行した。2019年の開業10周年の節目にも阪神・近鉄の2社および山陽・阪神・近鉄の3社直通のイベント列車が運行される。
近鉄難波駅(現・大阪難波駅)西側の引き上げ線3線のうち、両端2線を阪神なんば線と接続した代替として、桜川駅のドーム前駅寄りに新たに引き上げ線2本を設けたため、阪神直通非対応の近鉄の一般車や特急車も、回送列車として桜川駅まで乗り入れることとなった。このため阪神の路線ながら桜川駅 - 大阪難波駅間に限り特例で近鉄が運行管理を担っており、信号設備が近鉄仕様になっているほか、列車保安装置も近鉄用のATS-SPが設置され、運転指令も阪神の尼崎列車指令室(阪神指令)ではなく近鉄の大阪運転指令室・奈良線担当(近鉄奈良指令)の担当となっている。
近鉄と阪神の乗務員交代は、前述の回送列車の運行上の関係で、境界駅の大阪難波駅ではなく桜川駅にて行われる。またこれに合わせて、同じく桜川駅にて阪神用の電鈴と近鉄用の電鈴の設定・ATS・列車無線・列車選別装置もワンタッチ式の相直切替スイッチにより変更される。タブレット端末の操作による車内自動放送についても、各社の乗務員がそれぞれ携行する端末を用いて放送する。
阪神なんば線のダイヤを検討する中で一番苦慮した点は、朝ラッシュ時の本線となんば線との運転本数比の設定であった。どの程度シフトするのか見極めが難しく、本線の運転本数を減らすことには不安も感じていた。しかし需要予測等を勘案した結果、本線は12分サイクルに変更し運行種別も整理することで解決した。
阪神は約2年間にわたり相互直通運転を実現するために近鉄と協議を行った。
神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間の快速急行の所要時分については競争力確保の点から最速80分未満での運行を目標とし最終的に最速76分運行を実現している。一方、編成両数については快速急行の速達性確保や尼崎駅での連結開放作業の負担軽減のため、近鉄奈良線の輸送力範囲で問題にならない6両とし、朝ラッシュ時の難波・奈良方面列車及び土休日の昼間時間帯は6両編成で運行することになった。
快速急行の運転本数及び運転区間は旅客需要や要員計画等の制約も踏まえ検討を行った。特に平日日中は尼崎駅折り返しも検討したが、深夜帯以外は基本的に三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運転することを重視し、1時間あたり3本運転することとした。
阪神なんば線開業に伴うダイヤ改正に合わせて本線ダイヤの課題も解消した。
本線のダイヤは長きにわたり基本形態を変えていなかったため最混雑区間(淀川駅 - 野田駅間)におけるラッシュ時1時間あたりの混雑率が115%と他社に比べて著しく低い一方で、最も混雑する区間特急は190%、待避の多い準急等は60%前後と大きなばらつきがあった。また大半の列車を神戸・姫路方面から梅田駅(現在の大阪梅田駅)まで運転しており各区間で混雑率に大きな差が生じていた。このため、普通車を除く全ての速達列車を梅田駅先着とし、列車種別ごとに輸送を分担することにした。その結果、最混雑率は135%となりばらつきも解消された。加えて本線の列車種別を削減して種別ごとの停車駅を可能な限り統一し、簡明なダイヤを目指した。
さらに、山陽電鉄との相互直通運転ではこれまで両社間で運転業務を受委託する形態を取っていたが須磨浦公園行き特急が山陽線内普通車の役割を担うことで、山陽乗務員の大石駅乗り入れ負担を解消すると同時に(一部時間帯を除く)、特急は全て高速神戸駅で乗務交代を行うことになり阪神乗務員の山陽乗り入れ負担も解消された。
かつては本線に直通する西大阪線特急が運転されていたことがあったが、1974年11月の同特急廃止後は大阪難波延伸開業まで本線に直通する列車はなくなり、線内折り返しの普通列車のみの運転となっていた。本線ではそれぞれ急行系と普通列車用とでおおむね使い分けられている赤胴車とジェットカーの両方が、西大阪線においては2009年1月22日まで混成運用されていた。特に1970年代後半から1983年4月の完全冷房化達成までは冷房化が進んでいた前者が優先的に運行されていたことから、普通列車しか運転されなくなった後も冷房車両に乗れる確率は非常に高く、夏場は好評だった。
2009年(平成21年)1月23日からは営業列車による延伸区間(西九条駅 - 桜川駅間)への試運転に伴い、近鉄直通対応車である9000系・1000系での運転となり、同時に従来の4両編成から6両編成に変更されている。
西大阪線のダイヤは平日の日中で10分間隔だが、本線との接続の関係からか、夕方ラッシュ時には12分間隔と、ラッシュ時に運転間隔が間延びする状態になっていた。また、休日は早朝・深夜を除くと10分間隔を保っていた。
前述の通り、1965年(昭和40年)9月15日から1974年(昭和49年)11月30日まで西九条駅 - 元町駅間(1968年の神戸高速鉄道開業以降は西九条駅 - 三宮駅間)に西大阪線・本線直通で運行されていたのが「西大阪線特急」(「西大阪特急」や「N特」とも呼ばれた)である。「西大阪線特急」の名称は列車愛称ではなく正式な種別名であり、本線の「特急」に相当する。
大阪市西南部から神戸への短絡ルートを作る目的で設定されたが、西九条駅が都心でない不便な位置にあったことなどから利用が低迷した。その本意に反し、西宮駅や尼崎駅から神戸に出る際の速達列車として使う旅客が多かったという。
結局、2 - 3両編成の電車が西大阪線内ではガラ空きで運行している状態が続くことが珍しくなくなったため、設定からわずか9年で廃止された。しかも、西大阪線内はそのような状態であった一方で、本線に入ると混んでいたこともある皮肉な結果となった。本線では、梅田駅 - 元町駅間を走る特急に上りは後追い、下りは先行するダイヤとなっていた。なお、1966年には4両編成で運行されているという記録がある。
この西大阪線特急には列車種類選別装置導入時に“N”の種別記号が付与された。これは、西大阪線特急廃止後長らく使われなかったが、時を経て快速急行が設定され、その後のダイヤ改正の際にこの種別の記号として復活した。大阪難波駅延伸後はその快速急行が本線と阪神なんば線を直通している。
なお、正式には「西大阪特急」ではなく「西大阪線特急」であり、阪神電気鉄道の公式年表でも「西大阪線特急」と明記されている。また、当時の自動放送でも「西大阪線特急がまいります。」とアナウンスされていた。
快速急行の種別色は、阪神が水色( 快速急行 〈先頭車正面〉または 快急 〈各車両側面〉)、近鉄が赤色(快速 急行 、急行の字は縦書き。本節の画像参照)と異なっており、直通列車は桜川駅 - 大阪難波駅間で表示を切り替えている。近鉄車の阪神仕様の方向幕は、フォントも阪神のフォーマットにあわせた丸ゴシック(ナールに近いもの)となっている。なお、準急・区間準急・普通には阪神仕様の幕は用意されておらず、阪神なんば線内でも近鉄仕様のものを使用している。
近鉄と阪神で車両の長さやドア数が異なるため、相互直通運転開始にあたり、乗車位置案内の整備が行われた。駅のホーム上や発車標などで、阪神は阪神車(山陽車も含む)を○、近鉄車を△で、近鉄では近鉄車を○、阪神車を△で案内し、乗客を誘導している。また、2018年3月17日配信開始のスマートフォンアプリ「阪神アプリ」の駅時刻表、列車走行位置サービスでも、各列車の乗車位置(○・△)を確認できる。
2016年(平成28年)3月から近鉄の路線で車内放送が自動化されたのに合わせて、近鉄の車掌が乗務している桜川駅 - 大阪難波駅間のみで近鉄仕様の自動放送を開始した。
2019年3月20日からは阪神でも同様にタブレット端末による多言語車内自動放送を開始し、原則として7 - 20時の快速急行および桜川駅 - 尼崎駅間の全列車に導入された。
阪神電鉄は阪神なんば線の開業に併せて1000系を新造し、2007年度から順次導入している。また9000系も全編成が近鉄乗り入れ対応改造を受けた。
近鉄からの回送車を除けば、すべてVVVFインバータ制御・ボルスタレス台車で、バリアフリーに対応しているのが特徴である。阪神車両と近鉄車両の運用比率は、昼間時間帯ではほぼ1:1ではあるが、快速急行に関しては近鉄車での運用が多い。なお、両社間で使用車両の走行距離を調整する関係上、阪神車両は近鉄線内のみで運転される列車の一部にも充当されている(「近鉄奈良線」の項も参照)。
なお、近鉄の車両でラッピングが施されている一部の車両に関しては特別なイベントのPRなど企業色の薄いものは阪神本線まで乗り入れているが、企業や教育機関のラッピング広告は兵庫県の屋外広告物条例により規制されていた(なお、尼崎市内は尼崎市独自の屋外広告物条例が適用されるため、兵庫県の本条例は対象外である)。このためラッピング広告車の阪神電鉄線内での運用は阪神なんば線のみに限られていたが、2010年からはそのラッピング規制が廃止され、阪神本線でも他のラッピングが見られるようになった。
阪神本線・近鉄奈良線とは異なり、阪神なんば線を走る列車には女性専用車両が設定されない。
優等列車用の車両のうち、以下の近鉄線直通対応の2系列が使用される。前述のとおり、阪神・近鉄両社間の走行距離調整の関係上、近鉄線内のみで運転される列車の一部にも充当されている。なお、阪神車両に掲示されている停車駅案内には当初、近鉄奈良線急行の停車駅表示がなかったが、2012年3月20日のダイヤ改正での更新を機に表示されている。2014年現在近鉄線直通対応の2系列には近鉄が制定している電算記号が付与されている。
9000系・1000系は西大阪線時代にも運用しており、当時は短期間ではあったが西九条行きの行先表示を見ることができた。なお、現在でも近鉄線内で輸送障害が発生した際には西九条 - 大阪難波間を運休させ西九条駅折り返しで運用することがあるため、突発的に西九条行きの行先表示が見られることもある。
上記をはじめとしたジェットカー(普通のみ)・赤胴車(普通・西大阪線特急とも)が西大阪線時代に使用されていたが、阪神なんば線開業で近鉄直通車両には前節の1000系と9000系が使用されることになり撤退した。
近鉄車両で阪神乗り入れ対応の一般種別用車両には、それを示す蝶をモチーフにしたステッカーが前面の運転席側窓下と側面の乗務員室扉横に貼付されている。以下では阪神乗り入れ対応車両のみ記載。大阪難波駅 - 桜川駅間では近鉄線からの回送列車として近鉄難波線に入線する全ての車両(「近鉄特急」および「近鉄奈良線#車両」を参照)が運行される。
車内案内表示器は大阪難波駅を境に、阪神電鉄線内では阪神の、近鉄線内では近鉄のそれぞれの表示内容に変わる。
阪神なんば線のうち新設区間の西九条駅 - 大阪難波駅間には加算運賃が設定されており、阪神の他の区間を含めて4km以内のみを乗車した場合には60円、それを超える場合は90円が普通運賃に上乗せされる。そのため、新線区間の初乗り運賃は大人で220円となる(2023年4月1日現在)。特に、Osaka Metro千日前線と並行する区間においては、同線を利用するよりも運賃が割高となる。開業から10年となる2018年(平成30年)度末までの加算運賃の回収率は55.5%である。
阪神なんば線・大阪難波駅経由の阪神・近鉄両社にまたがる区間の運賃は、両社の運賃を単純に加算したものであり、乗継割引や特定運賃などは設定されていない。
延伸開業にあわせ、阪神本線(武庫川線を含む)- 新規開業区間(九条駅 - 大阪難波駅)の通勤定期(大物駅 - 九条駅間を有効区間に含んでいる通勤定期)を利用する場合、大阪梅田駅でも乗降が可能な「OSAKAどっちも定期」というサービスが設定された。このサービスは二区間定期券の一種であるが、他事業者の二区間定期券のような追加金額は不要となっている。
大阪難波への延伸開業に伴い、阪神・JR・近鉄の3社連絡定期券は2009年3月21日以降が有効期限末日になるものの発売を取りやめている。定期券自動券売機では有効期限にかかわらず2008年8月31日をもって発売を終了している。
2009年(平成21年)7月7日から9月30日まで、2009年(平成21年)7月6日以前に購入した阪神本線の杭瀬駅から梅田駅を1駅以上含む定期券(小児定期券を除く)を、阪神なんば線新線区間(九条駅 - 大阪難波駅間)を含む定期券に区間変更(変更時に有効期限内であること)すると「らくやんカード」がもらえる「阪神なんば線にチェンジ!キャンペーン」を始めた。
2012年(平成24年)12月1日には、近鉄でのICOCA発売開始に合わせ、阪神 - 近鉄連絡のIC定期券の発行を開始した。阪神ではPiTaPa、近鉄ではICOCAで発売される。
阪神なんば線の開業により、阪神地域、姫路方面から大阪ミナミの繁華街である難波・道頓堀、さらに奈良県方面、そして大阪上本町駅または鶴橋駅で近鉄大阪線乗り換えで三重県・名古屋方面へのアクセスが大幅に改善、強化されている。また、大阪難波駅では南海電気鉄道と乗り換えが可能となり、関西国際空港や高野山、和歌山などの南海沿線へのアクセス利便性も向上した。これは中河内の近鉄沿線および泉州・南河内の南海沿線から神戸方面への移動において、一旦梅田へ出る必要が大幅に低減し、難波のターミナル性を飛躍的に向上させている。
さらに、近鉄・阪神沿線から大阪ドーム(京セラドーム大阪)への直通アクセスや、近鉄沿線から甲子園球場への直通アクセスも可能となり、利便性の向上による集客の拡大が期待されている反面、既存の路線の乗客が大きく減少する可能性もあると見られている。
阪神なんば線と本線を直通する種別は快速急行のみだが、阪神なんば線延伸にあわせて行われた尼崎駅構内の改良(詳しくは「尼崎駅」の項を参照)によって、尼崎駅で下り列車同士、上り列車同士の対面乗り換えが可能となっており、阪神なんば線と本線の乗り継ぎを容易にしている。また、難波延伸の恩恵を直接には受けない旧西大阪線区間 - 尼崎以西の利用者にとっても、尼崎乗り換えの利便性が向上している。
この開業により、阪神・山陽発売分の奈良・斑鳩1dayチケットや高野山1dayチケットは、いずれも阪神なんば線経由で利用するように改められ、その一方で従来から利用できていた大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)・ニュートラムは利用できなくなった。大阪市営地下鉄を経由する必要がなくなった分奈良・斑鳩1dayチケットは200円の値下げ(2000円→1800円)が行われたこと(2023年時点では2000円)や奈良方面への注目の高まりもあり、阪神・山陽沿線での売上が大幅に増加している。
阪神なんば線の開業により、阪神電鉄は大阪市内の2大ターミナルである梅田・難波の双方に進出することになった。自社路線のみで梅田・難波の2大ターミナル進出は関西の私鉄では初めてである。ただし、阪神電鉄では「大阪」を単独で用いるときはJR大阪駅と隣接する大阪梅田駅にのみ用いており、一部の駅の方面案内標で「尼崎・大阪(梅田)・難波・奈良方面」というように「大阪」が梅田のみに冠され、正式駅名の「大阪難波」ではなく「難波」を用いるなどの区別が見られる。
初年度は1日あたり6万7,000人の利用を見込み、このうち阪神電鉄線や他社線からの移転を除いた新規需要は4万5,000人、運賃収入は38億円を予想している。2009年6月に発表された調査結果によると、阪神なんば線の平均乗客数は1日あたり約5万7,000人で、目標値の約8割である。開通2年目には平均乗客数は1日あたり約6万5,000人となった。定期客は初年度から22%増の3万人、定期外客は5%増の3万5000人だった。
月間運輸収入は、休日を中心に定期外客・長距離利用者が多く、阪神電鉄と近畿日本鉄道ともに想定の1 - 2割増だった。3月末までの12日間の増収効果は計画比20%増の1億1700万円、4月は12%増の2億8700万円、4 - 6月は16%増の8億9200万円、4 - 12月は11%増の25億5000万円。
2009年(平成21年)5月に発表された調査結果によると、阪神本線では定期券利用者が全体の半数を占めているのに対し、阪神なんば線では競合路線からの切替が進まず定期券の利用が全体の約3割にとどまっており、今後の定期券利用者の増加が課題としている。2011年3月の発表によると、初年度の定期券利用者比率は42%、2年目は46%であった。
阪神なんば線の開業により、近鉄奈良駅 - 神戸三宮駅間だけではなく、近鉄名古屋駅あるいは賢島駅から山陽姫路駅(全長はそれぞれ 282.7 km、269.9 km)間など、近畿日本鉄道・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道の1435mm軌間(標準軌)の私鉄路線がつながり、技術上直通運転が可能となったことから、近鉄社長の小林哲也が伊勢志摩と姫路を結ぶ特急の乗り入れを検討しており、2007年には阪神と交渉中と報道され、2008年には2010年春を目標とする山陽電気鉄道への乗り入れ構想が報道された。一方、阪神社長の坂井信也は線内の過密ダイヤを理由に早期の近鉄特急乗り入れに難色を示し、2010年3月には2010年度中の実現は難しいと述べた。
臨時特急列車を中心に不定期運行する計画であるが、2013年12月の協議でまずは団体臨時列車としての運転に合意し、翌2014年1月23日に近鉄・阪神両社から正式発表があり、同年3月22日から近鉄の特急車両(22600系)を使用して神戸三宮駅 - 賢島駅間で運行が開始された。
近鉄と阪神・山陽の車両の長さの違いなどから、近鉄特急の神戸三宮駅以西への直通には、専用車両の新造もしくは神戸高速線および山陽電鉄線内のホーム改良や一部区間の建築限界拡張を要するが、名古屋・伊勢志摩 - 神戸三宮・姫路間の直通運転が実現すれば、私鉄の特急としては日本最長の運転区間となる。
西大阪線は西九条駅から近鉄難波駅までの延伸が計画され、2009年(平成21年)3月20日に阪神なんば線として開業した。西九条駅から高架で大阪環状線と安治川を乗り越し、九条付近から大阪難波駅までが地下線となっている。
元々、九条駅と桜川駅の2駅のみが新駅として計画されていたが、大阪ドームが開業したこともあって、最初期の計画ルートと比べ大阪ドーム寄りに変更されたため、当初計画より500m程延び、大阪ドーム近くにも駅(ドーム前駅)が設けられた。このため九条駅とドーム前駅の間が短くなっている。
西九条駅 - 九条駅間の安治川に架かる鉄橋を架設するにあたっては、現地が住宅や工場が密集していることから通常のクレーンを使用した工事ができないということで、別の場所であらかじめ製作した重さ530tのアーチを船上で組み立てて、大阪湾の引き潮を利用して船を下ろす「ポンツーン」という工法を使って敷設した。
また、九条駅 - 大阪難波駅の各駅間のトンネルは、外径6800mm、内径6300mmのセグメントを用いたシールド工法で施工されている。
西大阪線延伸の総事業費は当初1,071億円と見積もられていたが、阪神電鉄社長(当時)の坂井信也によって実際には900億円程度にとどまるという見通しが示され、その後総事業費は890億円と西大阪高速鉄道の公式サイトに記されている。
太平洋戦争後、阪神本線の野田駅から難波を経て近鉄の鶴橋駅を結ぶ路線が計画され、阪神電鉄と近鉄は共同で大阪高速鉄道(大阪モノレールを運営する現在の大阪高速鉄道とは無関係)を設立し、1946年(昭和21年)11月8日に同区間の軌道事業特許(橋梁2本1km・トンネル1km・資本金2億円・建設経費2億3千万円)を申請した。しかし、市内交通公営主義(市営モンロー主義)を掲げる大阪市が反対、これに対抗して同じルートを通る地下鉄5号線(千日前線)の建設計画を立て、1948年(昭和23年)9月2日に軌道事業特許を申請した。そこで阪神電鉄と近鉄は、阪神電鉄が持つ伝法線西九条延伸計画を近鉄が建設する難波線の近鉄難波駅まで延伸する計画に変更した上で1948年(昭和23年)9月に特許申請した。この時も大阪市は前述の理由で強硬に反対し運輸省に2度も陳情書を提出する。だが、復興に伴う市内の交通需要の高まりに対して市の交通網整備は遅遅として進まず、業を煮やした赤間文三大阪府知事が近鉄・阪神側を支持する事態となり、市と府との対立が新たな問題となってきた。そこで政府の仲裁で都市交通審議会が設けられ、1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)にかけての市側と近鉄・阪神側との話し合いと政府による強い要請もあって、1957年(昭和32年)6月の大阪部会の席上、市側が譲歩し、1958年(昭和33年)3月の答申3号で千鳥橋 - 難波 - 上本町間が認められた(ただし千日前線も加えられる)。以上のような紆余曲折の末に、1959年(昭和34年)2月に軌道法による特許を取得した。
阪神西大阪線は、1964年(昭和39年)5月21日に千鳥橋駅 - 西九条駅間が開通し、1967年(昭和42年)8月から西九条駅 - 近鉄難波駅間も用地買収に取り掛かったが、西大阪線の延伸によって町が分断されることや、神戸・難波方面に買い物客が逃げることを懸念し、九条商店街などが激しい反対運動を行ったことから、工事を一度中断させて事態の沈静化を図った。それが故、西大阪延伸線を地下に建設するように求める「もぐれ!!阪神」なる抗議活動まで起きたほどである。
ところが、1970年代後半に入ると阪神本線の需要は伸び悩み、2度の石油ショックを経て建設費も高騰したことから、自社単独での延伸工事は凍結状態となってしまった。一方で、西大阪線の延長計画は1971年(昭和46年)と1989年(平成元年)の運輸政策審議会において「目標年次までに整備すべき路線」と位置付けられ、1997年(平成9年)には延伸予定区域に大阪ドームが開業するなど、沿線の再開発も進められていたことから、延伸への社会的要請は高まってきていた。1992年(平成4年)度からは、阪神からの要請で西大阪線の延長路線が日本鉄道建設公団のP線の調査線に入った。
1990年代に入ると、工事に反対していた商店街は衰退傾向を打破するために延伸を期待するようになり、さらに大阪市西部地域の活性化策が検討されるようになったことなどで、再度脚光を浴び始めた。このため、施設の建設・保有と運営を別会社が行う上下分離方式で事業が進められることになり、阪神と近鉄をはじめ大阪府、大阪市、沿線に再開発用地を所有する大阪ガス、関西電力、金融機関などの出資によって、建設主体となる第三セクターの「西大阪高速鉄道」が2001年(平成13年)に設立された。かつて同計画に強硬に対抗していた大阪市が一転して阪神電鉄に協力した背景には、大阪市が出資するものの経営が芳しくない大阪ドームでの阪神タイガースの試合数を増やしてもらおうとの思惑もあるといわれる。2003年(平成15年)1月23日に工事施行認可が下り、同年10月7日から着工された。
こうした経過の末に延伸区間の建設を開始したが、使用車両の製造においても紆余曲折が見られた。当初は3801形の製造時に発電ブレーキと抑速ブレーキを装備して急勾配に備えたが、延伸計画が凍結状態になるに及んで製造は4両編成×3本の12両で終了し、その後大量増備された8000系では延伸計画について特段の考慮は払われなかった。
阪神なんば線淀川橋梁は両端の線路部分が堤防の高さより低く、堤防には防潮鉄扉(水防鉄扉)が設置されており、淀川(新淀川)の増水時や台風の接近による高潮の恐れがある場合には鉄扉を閉鎖し、全線を運休とする措置がとられる。平常時でも水面から橋梁まで4 m強しかないうえに橋脚が多く、洪水時には流れを阻害する可能性が指摘され、橋梁の改築が検討されてきたが、新淀川河口近くの橋梁は長大である上に工事費用が高額となることや、住宅密集地であることから調整が難航し、2000年(平成12年)の事業化決定後も具体的な計画策定が進んでいなかった。のち2017年1月11日、国土交通省近畿地方整備局、大阪府、大阪市、阪神電鉄の四者が会合で橋梁改築の方針を確認した。
新橋梁は現在地より下流側に整備され、堤防より約3 m高い橋を架ける予定で、桁下高は約7 m上がり、防潮鉄扉は廃止される。架け替えに併せて線路を移設のうえ周辺部を高架化、完成後は阪神なんば線全線が立体交差化される。事業区間は2.4kmで、2018年12月9日に工事着手、2032年度に完了する予定。福駅周辺は北東側に仮線・仮駅を設け元の位置に戻すが、福駅 - 淀川橋梁 - 伝法駅 - 正蓮寺川(既に暗渠化)区間は南西側に移設となる。
なお、かつては大物駅 - 出来島駅間を流れる左門殿川や神崎川の橋梁にも淀川同様の防潮鉄扉があったが、これらは高架化による線路架け替えにより解消した。また、本線の淀川橋梁もかつては阪神なんば線同様に防潮鉄扉があったが、1969年3月31日に現在の淀川橋梁に架け替えられている(旧橋梁部分には現在阪神高速3号神戸線が通る)。
ドーム前駅 - 桜川駅間で下り線がわずかに大阪市大正区を通る。
前述のような歴史的経緯から、阪神なんば線では距離を示すキロポストが3つに分かれている。(矢印の方向にキロ数が増える)
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"text": "阪神なんば線(はんしんなんばせん)は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から大阪府大阪市中央区の大阪難波駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。路線名に「阪神」を含む。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。",
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"text": "本項目では、前身の西大阪線(にしおおさかせん)ならびに伝法線(でんぽうせん)時代についても記述する。",
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"text": "1924年(大正13年)に伝法線として大物駅 - 伝法駅間が開業、同年に伝法駅 - 千鳥橋駅間が、1928年(昭和3年)に本線と並行する尼崎駅 - 大物駅間が、それぞれ延伸開業した。本線の高速新線である第二阪神線の一部として先行開業したもので、本線の出入橋駅(廃止)から分かれて千鳥橋を経て大物駅、尼崎駅へと進む新線を建設する計画であったが、出入橋駅 - 千鳥橋駅間は昭和恐慌などがあり建設されず、未成線となった。",
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"text": "その後、千鳥橋駅から延伸して難波に乗り入れる計画が立てられ、まず先行して1964年(昭和39年)に西九条駅まで延伸、あわせて路線名を西大阪線へと改称した。その後長きにわたり工事は中断したものの(西大阪線延伸事業を参照)、平成に入り再開された。",
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"text": "2001年(平成13年)3月31日にユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) がオープンし、西九条駅でJRゆめ咲線に乗り換えることでUSJへのアクセス路線として位置づけられるようになった。USJのオープンに先立ち、同年3月10日のダイヤ改正で本線の直通特急・特急が尼崎駅に停車するようになったほか、西日本旅客鉄道(JR西日本)とのタイアップで西九条駅経由ユニバーサルシティ駅への連絡乗車券(USJの入場券は別途購入)が発売された。",
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"text": "2009年(平成21年)3月20日、西九条駅 - 大阪難波駅間が延伸開業し、路線名を阪神なんば線へと改称した。なお、「阪神」を含む「阪神なんば線」が正式な路線名であるが、これは直通運転を行なっている近畿日本鉄道(近鉄)に難波線があり、それと区別するためである。また、終点の大阪難波駅は近鉄難波線の近鉄難波駅を改称したものである。延伸区間の線路等の鉄道施設を保有する第三種鉄道事業者である西大阪高速鉄道における路線名は「西大阪延伸線」である。",
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"text": "阪神本線沿線から大阪市西部・南部へのバイパス路線となっており、西九条駅 - 大阪難波駅間が開業したことで、後述する阪神と近鉄難波線・奈良線の相互直通運転も開始され、大阪・難波を経由して神戸方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶ関西の広域な鉄道アクセスルートが形成された。大阪難波駅延伸開業時のキャッチフレーズは「神戸・難波・奈良、つながる。」で、2009年12月頃から「ときめきつなぐドラマティックロード」をキャッチフレーズに加えている。",
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"text": "なお、近鉄線と相互直通運転を行う大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間のうち、正式路線名はそれぞれ大阪難波駅 - 大阪上本町駅間が難波線、大阪上本町駅 - 布施駅間が大阪線、布施駅 - 近鉄奈良駅間が奈良線となっているが、旅客案内上では大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間をまとめて近鉄奈良線と扱われているため、本項でも同様に扱う。",
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"text": "正式な起点は尼崎駅であるが、列車運行上は大阪難波駅から尼崎駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "起点である尼崎駅では4面6線のうち中央の2面2線に発着し、本線からの対面乗り換えが可能な構造となっている。尼崎駅を出ると、すぐに地平へと下り、上下線とも本線下りをアンダーパスでくぐり抜け、本線の南側で再び高架線を上り、大物駅に着く。同駅は3面4線の構造であるため本線下りと阪神なんば線上りが同一ホームとなっており、杭瀬駅や千船駅など本線下りから大阪難波方面阪神なんば線上り各駅への乗り換えが容易にできるようになっている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "大物駅を出るとそのまま高架線で南東へと直進し、左門殿川、神崎川と阪神高速3号神戸線を越えるとすぐ出来島駅に着く。出来島駅を過ぎると高架線を下りて地平となり、福駅の手前で初めて踏切を通過する。福駅を過ぎるとやや上り坂となり、架け替え工事中(後述)の淀川橋梁を渡り伝法駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "伝法駅を過ぎると千鳥橋駅の手前で東へとカーブし、高架駅の千鳥橋駅に着く。そのまま高架線を進むと、JRとの乗り換え駅である西九条駅に着く。西大阪線時代の終着駅で、将来の難波延伸に備えてJR線を越える高さで造られたものの、長らく延伸工事が中断していたため、JRの手前で線路・ホームともに途切れたままであった。その後ようやく工事が再開され、ホームがJR線の上を跨ぐように南側に延伸された。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "西九条駅から先は2009年3月に延伸開業した区間で、九条駅周辺の住民に配慮し、安治川橋梁を除き車両全体を覆う高さの防音壁が設けられており(本記事冒頭の画像参照)、九条駅の手前から地下線となる。九条駅は後から開業した阪神なんば線は地下駅だが、先に開業したOsaka Metro中央線は高架駅であるため、「私鉄が地下駅・地下鉄が高架駅」という珍しい形態である。同駅を出て南東へ折れると間もなく京セラドーム大阪、イオンモール大阪ドームシティの最寄り駅で、Osaka Metro長堀鶴見緑地線(ドーム前千代崎駅)との乗り換え駅であるドーム前駅に着く。同駅は、地下鉄と道頓堀川の下を潜る必要から、地下30m(ホームは地下5階)と阪神の駅の中では最も深い位置に設けられているほか、線路のカーブもきつくスキール音が大きく響く。同駅を出ると東へと進路を変え桜川駅に着く。同駅は阪神なんば線の北側を並走するOsaka Metro千日前線や、仮称が「汐見橋駅」であったとおり南海高野線(汐見橋線)汐見橋駅との乗り換え駅であるが、南海難波駅と間違えないよう、車内での汐見橋線との乗り換え案内は(放送・表示器・路線図いずれも)一切ない。",
"title": "沿線概況"
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"text": "桜川駅 - 大阪難波駅間に限り、近鉄が運行管理を担っており(後述)、桜川駅では阪神と近鉄の乗務員が交代する。そのまま直進すると終点の大阪難波駅となり、列車は近鉄難波線を経て奈良線に直通する。",
"title": "沿線概況"
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"text": "尼崎駅・大阪難波駅を介する形で、神戸三宮駅 - (阪神本線) - 尼崎駅 - (阪神なんば線) - 大阪難波駅 - (近鉄難波線・大阪線・奈良線) - 近鉄奈良駅間で相互直通運転を行っており、ダイヤは直通運転先の近鉄奈良線とほぼ一体化している。",
"title": "運行形態"
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"text": "後述のとおり、快速急行が神戸三宮駅(一部は尼崎駅) - 近鉄奈良駅(一部は大阪難波駅・大和西大寺駅)間で、準急・区間準急・普通が尼崎駅 - 近鉄奈良駅間(最長運行区間)で運行されている。また、阪神なんば線内には待避設備がないため、先行する列車が必ず、尼崎方面行きは尼崎駅に、近鉄奈良方面行きは大阪難波駅に、それぞれ先着する。",
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"text": "阪神なんば線内で完結する列車は下り初発となる普通大阪難波発尼崎行き1本のみで、それ以外の全列車が阪神本線または近鉄奈良線と直通する。また、線内の途中駅を始発・終着とする営業列車は存在しないほか、近鉄大阪線(俊徳道駅以遠)と直通する列車は定期列車では存在しない。",
"title": "運行形態"
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"text": "神戸三宮以西(元町・神戸高速線・山陽電気鉄道)方面から当線内各駅、あるいは当線を介して近鉄(大阪難波以東)方面に行く場合は、神戸三宮駅や尼崎駅などでの乗り換えが必要となる。大阪上本町駅(地上ホーム)発着の近鉄特急や、阪神と相互直通運転をしていない大阪線の列車とは、基本的に鶴橋駅での対面乗り換えとなる。各種別ごとの列車接続状況は後節で述べる。",
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"text": "阪神なんば線の開業により広範囲に線路がつながったため、一部のダイヤが乱れると他線区に広く影響が及ぶことがある。そのため、近鉄線内で人身事故など輸送障害が発生した場合は、引き上げ線のある大阪難波駅や桜川駅では折り返さず、西九条駅で運行を打ち切り西九条駅 - 大阪難波駅間は運休となる(快速急行は西九条駅発着ないし本線も含め全区間運休としている)。また、台風接近など災害時も同様に、西九条駅 - 大阪難波駅間のみ運休させることがある。",
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"text": "平日日中1時間あたりの基本的な運行本数は以下のようになっている。",
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"text": "尼崎行きは時間帯により始発駅が異なるが、いずれの時間帯も阪神なんば線内で毎時6本は確保されている。",
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"text": "阪神なんば線内で唯一通過運転を行っている種別である。また、一般列車の種別としては唯一本線に乗り入れる。",
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"text": "尼崎駅 - 西九条駅間は途中無停車で、西九条駅 - 大阪難波駅間は各駅に停車する。",
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"text": "基本的に神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運行され、この区間を約80分(昼間時間帯)、最速76分で結んでいる。平日朝ラッシュ時は12分間隔(尼崎駅発で7時台と8時台に続行がある)、平日日中と全日夜間は概ね30分間隔、その他の時間帯は概ね20分間隔で運行している。なお、早朝・夜間は本線には乗り入れず、尼崎駅発着となっており、尼崎駅で本線の直通特急・特急と接続としている。また、近鉄線内で障害が発生した場合は、運休もしくは延伸区間・近鉄線内には乗り入れず西九条駅発着に変更することがある。",
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日より土曜・休日朝の初発から3本の運行区間が延長され、神戸高速線新開地駅始発へと変更された。また、それまで平日日中のみ各駅に停車していたのが他の時間帯と同様に尼崎駅 - 西九条駅間で通過運転を行うようになり、阪神なんば線内の停車駅が統一された。2016年3月19日のダイヤ改正からは、それまで神戸三宮駅到着後は回送として折り返していた列車を営業列車化した(詳細は後述)大和西大寺行きが平日朝に1本、神戸三宮駅 → 大阪難波駅間は大阪難波行き快速急行として運行し大阪難波駅で近鉄線の普通に変更する列車が平日朝に1本、この他にも近鉄奈良発大阪難波行きの一部を区間延長する形で尼崎行きに変更した列車も合わせて増発した。これにより、平日ダイヤでは上りの朝7時台に快速急行が2本続行するパターンが生まれている。2020年3月14日のダイヤ改正では、朝と夜間に増発・運転区間延長し、平日の朝と夜には大阪難波行きが大阪難波駅で近鉄線の準急ないし普通へ変更する列車が2本増発された。ただ、2022年12月17日のダイヤ改正では平日は朝8時台も快速急行が2本続行するようになったほか、日中は減便、16時台には尼崎駅始発が設定された。また、土曜・休日は朝の新開地駅始発が廃止され神戸三宮駅発に戻されるなど、大きな変化が見られた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "編成は6・8・10両いずれかで運転されているが、本線での停車駅のホーム長の関係から、8・10両の列車については長らく尼崎駅にて増結・切り離しを行い、本線内では6両で運転していた。その後、2020年3月14日のダイヤ改正から本線でも一部の列車で8両での運転を開始したことで増結・切り離しの回数は大きく減少し、2022年12月17日のダイヤ改正以降では10両は減少し、6両または8両での運転が主体となっている。尼崎駅発基準では、平日は16時台以降は神戸三宮駅発着も含めほぼ8両(それ以前は6両)で運転され、土曜・休日は朝の一部を除き8両で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "準急・区間準急・普通は、いずれの種別も阪神なんば線内は各駅に停車する(準急・区間準急は近鉄線内で通過運転を行っている)。全列車とも6両編成で、尼崎駅 - 東花園駅・瓢箪山駅・石切駅・東生駒駅・大和西大寺駅・近鉄奈良駅間で運行されており、阪神本線には乗り入れない。基本的に3種別合わせて1時間あたり6本運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "準急・区間準急・普通としてそのまま本線へ直通する列車はないが、例外的に、平日朝に終着の尼崎駅にて快速急行神戸三宮行きに変更して本線へ直通する普通尼崎行きが3本存在する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "尼崎駅では本線の直通特急・特急との接続が考慮されている。また、大物駅では早朝の上り(尼崎発)普通の一部は本線の下り普通との接続が考慮されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日のダイヤ改正より快速急行が平日昼間時間帯においても通過運転を実施することになったため、通過駅となる大物駅 - 千鳥橋駅間の削減分は近鉄奈良方面 - 大阪難波駅発着の区間準急を尼崎駅発着に延長して代替した。なお、2016年(平成28年)3月19日のダイヤ改正で平日昼間時間帯の尼崎行き区間準急が普通に変更され、2020年3月14日のダイヤ改正でも土曜・休日の昼間時間帯の尼崎行き区間準急も普通に変更されたため、尼崎行きはほぼ全てが普通となった(尼崎発は準急・区間準急も多数あり)。また、同改正で本線内を快速急行として運転し尼崎駅で普通に種別変更する上り列車が消滅した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2021年4月29日から新型コロナウイルス感染症蔓延拡大による政府からの緊急事態宣言発出及び沿線自治体からの協力要請を受けて、暫定的に終電とその1本前の尼崎発普通東花園行き2本を近鉄線内での旅客営業を取り止め、大阪難波行きに変更する措置をとっていた。この措置は同年7月3日の近鉄のダイヤ変更で通常ダイヤとなり、大阪難波駅延伸後初めて上りでも線内完結列車が設定されることになった。ただ、2022年12月17日のダイヤ改正で深夜時間帯の減便を行ったため、上りでは線内完結列車は廃止され、再び全列車が近鉄奈良線まで運転されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2009年の開業以降、毎年8月に開催されるみなとこうべ海上花火大会当日と12月の神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜において、夜間の尼崎始発の普通の一部を神戸三宮発に延長し、本線区間を臨時快速急行として運転している。なお、2020年以降は新型コロナウイルス感染症拡大の影響でイベントが中止されているため、本線での臨時快速急行も運転されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2011年4月18日、天理教の祭典に合わせ、初の阪神・近鉄直通臨時列車として、三宮(現・神戸三宮)発天理行き臨時快速急行が運転された。当日は、通常は神戸三宮駅に到着後回送として折り返す列車を客扱いとし、大阪難波経由天理行きのヘッドマークを取り付け、阪神線内では快速急行の、近鉄線内では急行の、それぞれの停車駅で運転された。2012年1月26日にも春季大祭開催に伴う臨時列車が運行され、同年3月26日以降も平日の祭典日に限り運行した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "この臨時快速急行は、2016年3月19日のダイヤ改正で大和西大寺行き快速急行として定期列車に変更されており、同改正以降は平日の祭典日に限り大和西大寺駅から天理行き臨時急行に変更して延長運転していた(大和西大寺駅で奈良行き急行と接続)が、上記の通り、2021年7月より毎日運行となった(詳細に案内はなされていないが、大和西大寺駅で急行天理行きに変更してそのまま天理駅まで直通運転されている)。また、土曜・休日の祭典日には天理発神戸三宮行きの臨時列車も設定されたが、これも2021年7月より土曜・休日ダイヤでは定期運行となった。2022年12月のダイヤ変更で、平日朝8時台にも尼崎 → 大阪難波間を続行する快速急行(先行列車は尼崎発近鉄奈良行き、後続列車は神戸三宮発大阪難波行き)が設定されたが、このうち先行列車の近鉄奈良行きについては天理教祭典日に限り、後ろの4両が大和西大寺駅で切り離されたのち臨時急行天理行きとなる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2013年2月24日には、阪神なんば線開業後初めて山陽姫路駅から近鉄奈良駅を直通で結ぶイベント列車が運行された。さらに2014年7月13日には、近鉄奈良駅から山陽姫路駅までを直通で結ぶイベント列車も運行した。2019年の開業10周年の節目にも阪神・近鉄の2社および山陽・阪神・近鉄の3社直通のイベント列車が運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "近鉄難波駅(現・大阪難波駅)西側の引き上げ線3線のうち、両端2線を阪神なんば線と接続した代替として、桜川駅のドーム前駅寄りに新たに引き上げ線2本を設けたため、阪神直通非対応の近鉄の一般車や特急車も、回送列車として桜川駅まで乗り入れることとなった。このため阪神の路線ながら桜川駅 - 大阪難波駅間に限り特例で近鉄が運行管理を担っており、信号設備が近鉄仕様になっているほか、列車保安装置も近鉄用のATS-SPが設置され、運転指令も阪神の尼崎列車指令室(阪神指令)ではなく近鉄の大阪運転指令室・奈良線担当(近鉄奈良指令)の担当となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "近鉄と阪神の乗務員交代は、前述の回送列車の運行上の関係で、境界駅の大阪難波駅ではなく桜川駅にて行われる。またこれに合わせて、同じく桜川駅にて阪神用の電鈴と近鉄用の電鈴の設定・ATS・列車無線・列車選別装置もワンタッチ式の相直切替スイッチにより変更される。タブレット端末の操作による車内自動放送についても、各社の乗務員がそれぞれ携行する端末を用いて放送する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線のダイヤを検討する中で一番苦慮した点は、朝ラッシュ時の本線となんば線との運転本数比の設定であった。どの程度シフトするのか見極めが難しく、本線の運転本数を減らすことには不安も感じていた。しかし需要予測等を勘案した結果、本線は12分サイクルに変更し運行種別も整理することで解決した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "阪神は約2年間にわたり相互直通運転を実現するために近鉄と協議を行った。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間の快速急行の所要時分については競争力確保の点から最速80分未満での運行を目標とし最終的に最速76分運行を実現している。一方、編成両数については快速急行の速達性確保や尼崎駅での連結開放作業の負担軽減のため、近鉄奈良線の輸送力範囲で問題にならない6両とし、朝ラッシュ時の難波・奈良方面列車及び土休日の昼間時間帯は6両編成で運行することになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "快速急行の運転本数及び運転区間は旅客需要や要員計画等の制約も踏まえ検討を行った。特に平日日中は尼崎駅折り返しも検討したが、深夜帯以外は基本的に三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運転することを重視し、1時間あたり3本運転することとした。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線開業に伴うダイヤ改正に合わせて本線ダイヤの課題も解消した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "本線のダイヤは長きにわたり基本形態を変えていなかったため最混雑区間(淀川駅 - 野田駅間)におけるラッシュ時1時間あたりの混雑率が115%と他社に比べて著しく低い一方で、最も混雑する区間特急は190%、待避の多い準急等は60%前後と大きなばらつきがあった。また大半の列車を神戸・姫路方面から梅田駅(現在の大阪梅田駅)まで運転しており各区間で混雑率に大きな差が生じていた。このため、普通車を除く全ての速達列車を梅田駅先着とし、列車種別ごとに輸送を分担することにした。その結果、最混雑率は135%となりばらつきも解消された。加えて本線の列車種別を削減して種別ごとの停車駅を可能な限り統一し、簡明なダイヤを目指した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "さらに、山陽電鉄との相互直通運転ではこれまで両社間で運転業務を受委託する形態を取っていたが須磨浦公園行き特急が山陽線内普通車の役割を担うことで、山陽乗務員の大石駅乗り入れ負担を解消すると同時に(一部時間帯を除く)、特急は全て高速神戸駅で乗務交代を行うことになり阪神乗務員の山陽乗り入れ負担も解消された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "かつては本線に直通する西大阪線特急が運転されていたことがあったが、1974年11月の同特急廃止後は大阪難波延伸開業まで本線に直通する列車はなくなり、線内折り返しの普通列車のみの運転となっていた。本線ではそれぞれ急行系と普通列車用とでおおむね使い分けられている赤胴車とジェットカーの両方が、西大阪線においては2009年1月22日まで混成運用されていた。特に1970年代後半から1983年4月の完全冷房化達成までは冷房化が進んでいた前者が優先的に運行されていたことから、普通列車しか運転されなくなった後も冷房車両に乗れる確率は非常に高く、夏場は好評だった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)1月23日からは営業列車による延伸区間(西九条駅 - 桜川駅間)への試運転に伴い、近鉄直通対応車である9000系・1000系での運転となり、同時に従来の4両編成から6両編成に変更されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "西大阪線のダイヤは平日の日中で10分間隔だが、本線との接続の関係からか、夕方ラッシュ時には12分間隔と、ラッシュ時に運転間隔が間延びする状態になっていた。また、休日は早朝・深夜を除くと10分間隔を保っていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、1965年(昭和40年)9月15日から1974年(昭和49年)11月30日まで西九条駅 - 元町駅間(1968年の神戸高速鉄道開業以降は西九条駅 - 三宮駅間)に西大阪線・本線直通で運行されていたのが「西大阪線特急」(「西大阪特急」や「N特」とも呼ばれた)である。「西大阪線特急」の名称は列車愛称ではなく正式な種別名であり、本線の「特急」に相当する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "大阪市西南部から神戸への短絡ルートを作る目的で設定されたが、西九条駅が都心でない不便な位置にあったことなどから利用が低迷した。その本意に反し、西宮駅や尼崎駅から神戸に出る際の速達列車として使う旅客が多かったという。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "結局、2 - 3両編成の電車が西大阪線内ではガラ空きで運行している状態が続くことが珍しくなくなったため、設定からわずか9年で廃止された。しかも、西大阪線内はそのような状態であった一方で、本線に入ると混んでいたこともある皮肉な結果となった。本線では、梅田駅 - 元町駅間を走る特急に上りは後追い、下りは先行するダイヤとなっていた。なお、1966年には4両編成で運行されているという記録がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "この西大阪線特急には列車種類選別装置導入時に“N”の種別記号が付与された。これは、西大阪線特急廃止後長らく使われなかったが、時を経て快速急行が設定され、その後のダイヤ改正の際にこの種別の記号として復活した。大阪難波駅延伸後はその快速急行が本線と阪神なんば線を直通している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "なお、正式には「西大阪特急」ではなく「西大阪線特急」であり、阪神電気鉄道の公式年表でも「西大阪線特急」と明記されている。また、当時の自動放送でも「西大阪線特急がまいります。」とアナウンスされていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "快速急行の種別色は、阪神が水色( 快速急行 〈先頭車正面〉または 快急 〈各車両側面〉)、近鉄が赤色(快速 急行 、急行の字は縦書き。本節の画像参照)と異なっており、直通列車は桜川駅 - 大阪難波駅間で表示を切り替えている。近鉄車の阪神仕様の方向幕は、フォントも阪神のフォーマットにあわせた丸ゴシック(ナールに近いもの)となっている。なお、準急・区間準急・普通には阪神仕様の幕は用意されておらず、阪神なんば線内でも近鉄仕様のものを使用している。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "近鉄と阪神で車両の長さやドア数が異なるため、相互直通運転開始にあたり、乗車位置案内の整備が行われた。駅のホーム上や発車標などで、阪神は阪神車(山陽車も含む)を○、近鉄車を△で、近鉄では近鉄車を○、阪神車を△で案内し、乗客を誘導している。また、2018年3月17日配信開始のスマートフォンアプリ「阪神アプリ」の駅時刻表、列車走行位置サービスでも、各列車の乗車位置(○・△)を確認できる。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2016年(平成28年)3月から近鉄の路線で車内放送が自動化されたのに合わせて、近鉄の車掌が乗務している桜川駅 - 大阪難波駅間のみで近鉄仕様の自動放送を開始した。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2019年3月20日からは阪神でも同様にタブレット端末による多言語車内自動放送を開始し、原則として7 - 20時の快速急行および桜川駅 - 尼崎駅間の全列車に導入された。",
"title": "旅客案内"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "阪神電鉄は阪神なんば線の開業に併せて1000系を新造し、2007年度から順次導入している。また9000系も全編成が近鉄乗り入れ対応改造を受けた。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "近鉄からの回送車を除けば、すべてVVVFインバータ制御・ボルスタレス台車で、バリアフリーに対応しているのが特徴である。阪神車両と近鉄車両の運用比率は、昼間時間帯ではほぼ1:1ではあるが、快速急行に関しては近鉄車での運用が多い。なお、両社間で使用車両の走行距離を調整する関係上、阪神車両は近鉄線内のみで運転される列車の一部にも充当されている(「近鉄奈良線」の項も参照)。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、近鉄の車両でラッピングが施されている一部の車両に関しては特別なイベントのPRなど企業色の薄いものは阪神本線まで乗り入れているが、企業や教育機関のラッピング広告は兵庫県の屋外広告物条例により規制されていた(なお、尼崎市内は尼崎市独自の屋外広告物条例が適用されるため、兵庫県の本条例は対象外である)。このためラッピング広告車の阪神電鉄線内での運用は阪神なんば線のみに限られていたが、2010年からはそのラッピング規制が廃止され、阪神本線でも他のラッピングが見られるようになった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "阪神本線・近鉄奈良線とは異なり、阪神なんば線を走る列車には女性専用車両が設定されない。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "優等列車用の車両のうち、以下の近鉄線直通対応の2系列が使用される。前述のとおり、阪神・近鉄両社間の走行距離調整の関係上、近鉄線内のみで運転される列車の一部にも充当されている。なお、阪神車両に掲示されている停車駅案内には当初、近鉄奈良線急行の停車駅表示がなかったが、2012年3月20日のダイヤ改正での更新を機に表示されている。2014年現在近鉄線直通対応の2系列には近鉄が制定している電算記号が付与されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "9000系・1000系は西大阪線時代にも運用しており、当時は短期間ではあったが西九条行きの行先表示を見ることができた。なお、現在でも近鉄線内で輸送障害が発生した際には西九条 - 大阪難波間を運休させ西九条駅折り返しで運用することがあるため、突発的に西九条行きの行先表示が見られることもある。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "上記をはじめとしたジェットカー(普通のみ)・赤胴車(普通・西大阪線特急とも)が西大阪線時代に使用されていたが、阪神なんば線開業で近鉄直通車両には前節の1000系と9000系が使用されることになり撤退した。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "近鉄車両で阪神乗り入れ対応の一般種別用車両には、それを示す蝶をモチーフにしたステッカーが前面の運転席側窓下と側面の乗務員室扉横に貼付されている。以下では阪神乗り入れ対応車両のみ記載。大阪難波駅 - 桜川駅間では近鉄線からの回送列車として近鉄難波線に入線する全ての車両(「近鉄特急」および「近鉄奈良線#車両」を参照)が運行される。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "車内案内表示器は大阪難波駅を境に、阪神電鉄線内では阪神の、近鉄線内では近鉄のそれぞれの表示内容に変わる。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線のうち新設区間の西九条駅 - 大阪難波駅間には加算運賃が設定されており、阪神の他の区間を含めて4km以内のみを乗車した場合には60円、それを超える場合は90円が普通運賃に上乗せされる。そのため、新線区間の初乗り運賃は大人で220円となる(2023年4月1日現在)。特に、Osaka Metro千日前線と並行する区間においては、同線を利用するよりも運賃が割高となる。開業から10年となる2018年(平成30年)度末までの加算運賃の回収率は55.5%である。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線・大阪難波駅経由の阪神・近鉄両社にまたがる区間の運賃は、両社の運賃を単純に加算したものであり、乗継割引や特定運賃などは設定されていない。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "延伸開業にあわせ、阪神本線(武庫川線を含む)- 新規開業区間(九条駅 - 大阪難波駅)の通勤定期(大物駅 - 九条駅間を有効区間に含んでいる通勤定期)を利用する場合、大阪梅田駅でも乗降が可能な「OSAKAどっちも定期」というサービスが設定された。このサービスは二区間定期券の一種であるが、他事業者の二区間定期券のような追加金額は不要となっている。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "大阪難波への延伸開業に伴い、阪神・JR・近鉄の3社連絡定期券は2009年3月21日以降が有効期限末日になるものの発売を取りやめている。定期券自動券売機では有効期限にかかわらず2008年8月31日をもって発売を終了している。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)7月7日から9月30日まで、2009年(平成21年)7月6日以前に購入した阪神本線の杭瀬駅から梅田駅を1駅以上含む定期券(小児定期券を除く)を、阪神なんば線新線区間(九条駅 - 大阪難波駅間)を含む定期券に区間変更(変更時に有効期限内であること)すると「らくやんカード」がもらえる「阪神なんば線にチェンジ!キャンペーン」を始めた。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)12月1日には、近鉄でのICOCA発売開始に合わせ、阪神 - 近鉄連絡のIC定期券の発行を開始した。阪神ではPiTaPa、近鉄ではICOCAで発売される。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線の開業により、阪神地域、姫路方面から大阪ミナミの繁華街である難波・道頓堀、さらに奈良県方面、そして大阪上本町駅または鶴橋駅で近鉄大阪線乗り換えで三重県・名古屋方面へのアクセスが大幅に改善、強化されている。また、大阪難波駅では南海電気鉄道と乗り換えが可能となり、関西国際空港や高野山、和歌山などの南海沿線へのアクセス利便性も向上した。これは中河内の近鉄沿線および泉州・南河内の南海沿線から神戸方面への移動において、一旦梅田へ出る必要が大幅に低減し、難波のターミナル性を飛躍的に向上させている。",
"title": "大阪難波延伸開業による利便性の向上"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "さらに、近鉄・阪神沿線から大阪ドーム(京セラドーム大阪)への直通アクセスや、近鉄沿線から甲子園球場への直通アクセスも可能となり、利便性の向上による集客の拡大が期待されている反面、既存の路線の乗客が大きく減少する可能性もあると見られている。",
"title": "大阪難波延伸開業による利便性の向上"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線と本線を直通する種別は快速急行のみだが、阪神なんば線延伸にあわせて行われた尼崎駅構内の改良(詳しくは「尼崎駅」の項を参照)によって、尼崎駅で下り列車同士、上り列車同士の対面乗り換えが可能となっており、阪神なんば線と本線の乗り継ぎを容易にしている。また、難波延伸の恩恵を直接には受けない旧西大阪線区間 - 尼崎以西の利用者にとっても、尼崎乗り換えの利便性が向上している。",
"title": "大阪難波延伸開業による利便性の向上"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "この開業により、阪神・山陽発売分の奈良・斑鳩1dayチケットや高野山1dayチケットは、いずれも阪神なんば線経由で利用するように改められ、その一方で従来から利用できていた大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)・ニュートラムは利用できなくなった。大阪市営地下鉄を経由する必要がなくなった分奈良・斑鳩1dayチケットは200円の値下げ(2000円→1800円)が行われたこと(2023年時点では2000円)や奈良方面への注目の高まりもあり、阪神・山陽沿線での売上が大幅に増加している。",
"title": "大阪難波延伸開業による利便性の向上"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線の開業により、阪神電鉄は大阪市内の2大ターミナルである梅田・難波の双方に進出することになった。自社路線のみで梅田・難波の2大ターミナル進出は関西の私鉄では初めてである。ただし、阪神電鉄では「大阪」を単独で用いるときはJR大阪駅と隣接する大阪梅田駅にのみ用いており、一部の駅の方面案内標で「尼崎・大阪(梅田)・難波・奈良方面」というように「大阪」が梅田のみに冠され、正式駅名の「大阪難波」ではなく「難波」を用いるなどの区別が見られる。",
"title": "大阪難波延伸開業による利便性の向上"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "初年度は1日あたり6万7,000人の利用を見込み、このうち阪神電鉄線や他社線からの移転を除いた新規需要は4万5,000人、運賃収入は38億円を予想している。2009年6月に発表された調査結果によると、阪神なんば線の平均乗客数は1日あたり約5万7,000人で、目標値の約8割である。開通2年目には平均乗客数は1日あたり約6万5,000人となった。定期客は初年度から22%増の3万人、定期外客は5%増の3万5000人だった。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "月間運輸収入は、休日を中心に定期外客・長距離利用者が多く、阪神電鉄と近畿日本鉄道ともに想定の1 - 2割増だった。3月末までの12日間の増収効果は計画比20%増の1億1700万円、4月は12%増の2億8700万円、4 - 6月は16%増の8億9200万円、4 - 12月は11%増の25億5000万円。",
"title": "利用状況"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)5月に発表された調査結果によると、阪神本線では定期券利用者が全体の半数を占めているのに対し、阪神なんば線では競合路線からの切替が進まず定期券の利用が全体の約3割にとどまっており、今後の定期券利用者の増加が課題としている。2011年3月の発表によると、初年度の定期券利用者比率は42%、2年目は46%であった。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線の開業により、近鉄奈良駅 - 神戸三宮駅間だけではなく、近鉄名古屋駅あるいは賢島駅から山陽姫路駅(全長はそれぞれ 282.7 km、269.9 km)間など、近畿日本鉄道・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道の1435mm軌間(標準軌)の私鉄路線がつながり、技術上直通運転が可能となったことから、近鉄社長の小林哲也が伊勢志摩と姫路を結ぶ特急の乗り入れを検討しており、2007年には阪神と交渉中と報道され、2008年には2010年春を目標とする山陽電気鉄道への乗り入れ構想が報道された。一方、阪神社長の坂井信也は線内の過密ダイヤを理由に早期の近鉄特急乗り入れに難色を示し、2010年3月には2010年度中の実現は難しいと述べた。",
"title": "近鉄特急の乗り入れ計画"
},
{
"paragraph_id": 80,
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"text": "臨時特急列車を中心に不定期運行する計画であるが、2013年12月の協議でまずは団体臨時列車としての運転に合意し、翌2014年1月23日に近鉄・阪神両社から正式発表があり、同年3月22日から近鉄の特急車両(22600系)を使用して神戸三宮駅 - 賢島駅間で運行が開始された。",
"title": "近鉄特急の乗り入れ計画"
},
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"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "近鉄と阪神・山陽の車両の長さの違いなどから、近鉄特急の神戸三宮駅以西への直通には、専用車両の新造もしくは神戸高速線および山陽電鉄線内のホーム改良や一部区間の建築限界拡張を要するが、名古屋・伊勢志摩 - 神戸三宮・姫路間の直通運転が実現すれば、私鉄の特急としては日本最長の運転区間となる。",
"title": "近鉄特急の乗り入れ計画"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "西大阪線は西九条駅から近鉄難波駅までの延伸が計画され、2009年(平成21年)3月20日に阪神なんば線として開業した。西九条駅から高架で大阪環状線と安治川を乗り越し、九条付近から大阪難波駅までが地下線となっている。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "元々、九条駅と桜川駅の2駅のみが新駅として計画されていたが、大阪ドームが開業したこともあって、最初期の計画ルートと比べ大阪ドーム寄りに変更されたため、当初計画より500m程延び、大阪ドーム近くにも駅(ドーム前駅)が設けられた。このため九条駅とドーム前駅の間が短くなっている。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "西九条駅 - 九条駅間の安治川に架かる鉄橋を架設するにあたっては、現地が住宅や工場が密集していることから通常のクレーンを使用した工事ができないということで、別の場所であらかじめ製作した重さ530tのアーチを船上で組み立てて、大阪湾の引き潮を利用して船を下ろす「ポンツーン」という工法を使って敷設した。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、九条駅 - 大阪難波駅の各駅間のトンネルは、外径6800mm、内径6300mmのセグメントを用いたシールド工法で施工されている。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "西大阪線延伸の総事業費は当初1,071億円と見積もられていたが、阪神電鉄社長(当時)の坂井信也によって実際には900億円程度にとどまるという見通しが示され、その後総事業費は890億円と西大阪高速鉄道の公式サイトに記されている。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "太平洋戦争後、阪神本線の野田駅から難波を経て近鉄の鶴橋駅を結ぶ路線が計画され、阪神電鉄と近鉄は共同で大阪高速鉄道(大阪モノレールを運営する現在の大阪高速鉄道とは無関係)を設立し、1946年(昭和21年)11月8日に同区間の軌道事業特許(橋梁2本1km・トンネル1km・資本金2億円・建設経費2億3千万円)を申請した。しかし、市内交通公営主義(市営モンロー主義)を掲げる大阪市が反対、これに対抗して同じルートを通る地下鉄5号線(千日前線)の建設計画を立て、1948年(昭和23年)9月2日に軌道事業特許を申請した。そこで阪神電鉄と近鉄は、阪神電鉄が持つ伝法線西九条延伸計画を近鉄が建設する難波線の近鉄難波駅まで延伸する計画に変更した上で1948年(昭和23年)9月に特許申請した。この時も大阪市は前述の理由で強硬に反対し運輸省に2度も陳情書を提出する。だが、復興に伴う市内の交通需要の高まりに対して市の交通網整備は遅遅として進まず、業を煮やした赤間文三大阪府知事が近鉄・阪神側を支持する事態となり、市と府との対立が新たな問題となってきた。そこで政府の仲裁で都市交通審議会が設けられ、1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)にかけての市側と近鉄・阪神側との話し合いと政府による強い要請もあって、1957年(昭和32年)6月の大阪部会の席上、市側が譲歩し、1958年(昭和33年)3月の答申3号で千鳥橋 - 難波 - 上本町間が認められた(ただし千日前線も加えられる)。以上のような紆余曲折の末に、1959年(昭和34年)2月に軌道法による特許を取得した。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "阪神西大阪線は、1964年(昭和39年)5月21日に千鳥橋駅 - 西九条駅間が開通し、1967年(昭和42年)8月から西九条駅 - 近鉄難波駅間も用地買収に取り掛かったが、西大阪線の延伸によって町が分断されることや、神戸・難波方面に買い物客が逃げることを懸念し、九条商店街などが激しい反対運動を行ったことから、工事を一度中断させて事態の沈静化を図った。それが故、西大阪延伸線を地下に建設するように求める「もぐれ!!阪神」なる抗議活動まで起きたほどである。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ところが、1970年代後半に入ると阪神本線の需要は伸び悩み、2度の石油ショックを経て建設費も高騰したことから、自社単独での延伸工事は凍結状態となってしまった。一方で、西大阪線の延長計画は1971年(昭和46年)と1989年(平成元年)の運輸政策審議会において「目標年次までに整備すべき路線」と位置付けられ、1997年(平成9年)には延伸予定区域に大阪ドームが開業するなど、沿線の再開発も進められていたことから、延伸への社会的要請は高まってきていた。1992年(平成4年)度からは、阪神からの要請で西大阪線の延長路線が日本鉄道建設公団のP線の調査線に入った。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1990年代に入ると、工事に反対していた商店街は衰退傾向を打破するために延伸を期待するようになり、さらに大阪市西部地域の活性化策が検討されるようになったことなどで、再度脚光を浴び始めた。このため、施設の建設・保有と運営を別会社が行う上下分離方式で事業が進められることになり、阪神と近鉄をはじめ大阪府、大阪市、沿線に再開発用地を所有する大阪ガス、関西電力、金融機関などの出資によって、建設主体となる第三セクターの「西大阪高速鉄道」が2001年(平成13年)に設立された。かつて同計画に強硬に対抗していた大阪市が一転して阪神電鉄に協力した背景には、大阪市が出資するものの経営が芳しくない大阪ドームでの阪神タイガースの試合数を増やしてもらおうとの思惑もあるといわれる。2003年(平成15年)1月23日に工事施行認可が下り、同年10月7日から着工された。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "こうした経過の末に延伸区間の建設を開始したが、使用車両の製造においても紆余曲折が見られた。当初は3801形の製造時に発電ブレーキと抑速ブレーキを装備して急勾配に備えたが、延伸計画が凍結状態になるに及んで製造は4両編成×3本の12両で終了し、その後大量増備された8000系では延伸計画について特段の考慮は払われなかった。",
"title": "西大阪線延伸事業"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線淀川橋梁は両端の線路部分が堤防の高さより低く、堤防には防潮鉄扉(水防鉄扉)が設置されており、淀川(新淀川)の増水時や台風の接近による高潮の恐れがある場合には鉄扉を閉鎖し、全線を運休とする措置がとられる。平常時でも水面から橋梁まで4 m強しかないうえに橋脚が多く、洪水時には流れを阻害する可能性が指摘され、橋梁の改築が検討されてきたが、新淀川河口近くの橋梁は長大である上に工事費用が高額となることや、住宅密集地であることから調整が難航し、2000年(平成12年)の事業化決定後も具体的な計画策定が進んでいなかった。のち2017年1月11日、国土交通省近畿地方整備局、大阪府、大阪市、阪神電鉄の四者が会合で橋梁改築の方針を確認した。",
"title": "阪神なんば線淀川橋梁改築事業"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "新橋梁は現在地より下流側に整備され、堤防より約3 m高い橋を架ける予定で、桁下高は約7 m上がり、防潮鉄扉は廃止される。架け替えに併せて線路を移設のうえ周辺部を高架化、完成後は阪神なんば線全線が立体交差化される。事業区間は2.4kmで、2018年12月9日に工事着手、2032年度に完了する予定。福駅周辺は北東側に仮線・仮駅を設け元の位置に戻すが、福駅 - 淀川橋梁 - 伝法駅 - 正蓮寺川(既に暗渠化)区間は南西側に移設となる。",
"title": "阪神なんば線淀川橋梁改築事業"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "なお、かつては大物駅 - 出来島駅間を流れる左門殿川や神崎川の橋梁にも淀川同様の防潮鉄扉があったが、これらは高架化による線路架け替えにより解消した。また、本線の淀川橋梁もかつては阪神なんば線同様に防潮鉄扉があったが、1969年3月31日に現在の淀川橋梁に架け替えられている(旧橋梁部分には現在阪神高速3号神戸線が通る)。",
"title": "阪神なんば線淀川橋梁改築事業"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ドーム前駅 - 桜川駅間で下り線がわずかに大阪市大正区を通る。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "前述のような歴史的経緯から、阪神なんば線では距離を示すキロポストが3つに分かれている。(矢印の方向にキロ数が増える)",
"title": "キロポストについて"
}
] |
阪神なんば線(はんしんなんばせん)は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から大阪府大阪市中央区の大阪難波駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。路線名に「阪神」を含む。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。 本項目では、前身の西大阪線(にしおおさかせん)ならびに伝法線(でんぽうせん)時代についても記述する。
|
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2017年11月
| 独自研究 = 2017年11月
}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Hanshin-logo.svg|35px|link=阪神電気鉄道]] 阪神なんば線
|路線色 = #1f64b1
|ロゴ = Number prefix Hanshin line.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Hanshin-nishi-kujo9202.jpg<!-- 阪神なんば線内の画像をお願いします。-->
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 西九条 - 九条間の防音シールド区間を走る<br />[[阪神9000系電車|9000系電車]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[兵庫県]]、[[大阪府]]
|起点 = [[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]
|終点 = [[大阪難波駅]]
|駅数 = 11駅
|路線記号 = HS
|開業 = [[1924年]](大正13年)[[1月20日]]
|全通 = [[2009年]](平成21年)[[3月20日]]
|廃止 =
|所有者 = [[阪神電気鉄道]]<br>(尼崎 - 西九条間 第1種鉄道事業者)<br>[[西大阪高速鉄道]]<br>(西九条 - 大阪難波間 第3種鉄道事業者)
|運営者 = 阪神電気鉄道<br>(尼崎 - 西九条間 第1種鉄道事業者、西九条 - 大阪難波間 第2種鉄道事業者)
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 10.1 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
|最大勾配 = 40[[‰]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|阪神型ATS]] (尼崎 - 桜川間)<br>[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]] (桜川 - 大阪難波間)
|車両基地 = [[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫]]
|最高速度 = 106 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 = Hanshin Electric Railway Linemap.svg
}}
'''阪神なんば線'''(はんしんなんばせん)は、[[兵庫県]][[尼崎市]]の[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]から[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[大阪難波駅]]までを結ぶ[[阪神電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。路線名に「阪神」を含む。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''HS'''。
本項目では、前身の'''西大阪線'''(にしおおさかせん)ならびに'''伝法線'''(でんぽうせん)時代についても記述する。
== 概要 ==
{{See also|第二阪神線|Osaka Metro千日前線}}
[[1924年]]([[大正]]13年)に'''伝法線'''として[[大物駅]] - [[伝法駅]]間が開業、同年に伝法駅 - [[千鳥橋駅]]間が、[[1928年]]([[昭和]]3年)に[[阪神本線|本線]]と並行する尼崎駅 - 大物駅間が、それぞれ延伸開業した。本線の高速新線である[[第二阪神線]]の一部として先行開業したもので、本線の[[出入橋駅]](廃止)から分かれて千鳥橋を経て大物駅、尼崎駅へと進む新線を建設する計画であったが、出入橋駅 - 千鳥橋駅間は[[昭和恐慌]]などがあり建設されず、[[未成線]]となった。
その後、千鳥橋駅から延伸して[[難波]]に乗り入れる計画が立てられ、まず先行して[[1964年]](昭和39年)に[[西九条駅]]まで延伸、あわせて路線名を'''西大阪線'''へと改称した。その後長きにわたり工事は中断したものの([[#西大阪線延伸事業|西大阪線延伸事業]]を参照)、[[平成]]に入り再開された。
[[2001年]](平成13年)[[3月31日]]に[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] (USJ) がオープンし、西九条駅で[[桜島線|JRゆめ咲線]]に乗り換えることでUSJへのアクセス路線として位置づけられるようになった。USJのオープンに先立ち、同年[[3月10日]]のダイヤ改正で本線の直通特急・特急が尼崎駅に停車するようになったほか、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)とのタイアップで西九条駅経由[[ユニバーサルシティ駅]]への連絡乗車券(USJの入場券は別途購入)が発売された。
[[2009年]](平成21年)[[3月20日]]、西九条駅 - [[大阪難波駅]]間が延伸開業し<ref name="kaigyou">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR200808013N2.pdf 平成21年3月20日(祝)阪神なんば線開通(予定)]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2008年8月1日</ref>、路線名を'''阪神なんば線'''へと改称した<ref name="line-name">{{Cite press release|title=西大阪線及び西大阪延伸線の路線名を「阪神なんば線」に決定しました あわせて新設する3駅の駅名も決定|publisher=阪神電気鉄道|date=2007-08-09|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20070809.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-09-29|quote=当社が運営する路線であること及び阪神間・神戸方面へ伸びる路線であることを訴求するため「阪神」という語句を}}</ref>。なお、「阪神」を含む「阪神なんば線」が正式な路線名であるが<ref group="注">本線(阪神本線)の正式路線名には「阪神」は付かない。</ref>、これは[[直通運転]]を行なっている[[近畿日本鉄道]](近鉄)に[[近鉄難波線|難波線]]があり、それと区別するためである{{Refnest|group="注"|路線名決定時の発表によると、「阪神」の語句に阪神電気鉄道が運営する路線であることのほか、阪神間・神戸方面へ伸びる路線であるという意味も持たせている<ref name="line-name" />。}}。また、終点の大阪難波駅は近鉄難波線の近鉄難波駅を改称したものである<ref name="osaka-namba">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/ekimeihenkou%2020080331.pdf 阪神なんば線開業に合わせ、「近鉄難波駅」を「大阪難波駅」に、「上本町駅」を「大阪上本町駅」に駅名変更します。 ]}} 近畿日本鉄道、2008年3月31日。</ref>。延伸区間の線路等の鉄道施設を保有する第三種鉄道事業者である[[西大阪高速鉄道]]における路線名は「西大阪延伸線」である<ref>令和4年度『[[鉄道要覧]]』(電気車研究会・鉄道図書刊行会刊)161ページ</ref>。
[[阪神本線]]沿線から大阪市西部・南部へのバイパス路線となっており、西九条駅 - 大阪難波駅間が開業したことで、後述する阪神と近鉄難波線・[[近鉄奈良線|奈良線]]の[[直通運転|相互直通運転]]も開始され、[[大阪市|大阪]]・[[難波]]を経由して[[神戸市|神戸]]方面と[[奈良県|奈良]]などの近鉄沿線を直接結ぶ関西の広域な鉄道アクセスルートが形成された。大阪難波駅延伸開業時のキャッチフレーズは「神戸・難波・奈良、つながる。」で、2009年12月頃から「ときめきつなぐドラマティックロード」をキャッチフレーズに加えている。
なお、近鉄線と相互直通運転を行う大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間のうち、正式路線名はそれぞれ大阪難波駅 - [[大阪上本町駅]]間が難波線、大阪上本町駅 - [[布施駅]]間が[[近鉄大阪線|大阪線]]、布施駅 - 近鉄奈良駅間が奈良線となっているが、旅客案内上<!--近鉄アプリなど-->では大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間をまとめて近鉄奈良線と扱われているため、本項でも同様に扱う。
正式な起点は尼崎駅であるが、列車運行上は大阪難波駅から尼崎駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている{{Efn2|東京に向かう方が上りになるため。尼崎よりも大阪の方が東京に近い。}}。
=== 路線データ ===
*管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長10.1 km
**阪神電気鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
***尼崎 - 西九条間 6.3 km
**阪神電気鉄道([[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])、[[西大阪高速鉄道]]([[鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]):
***西九条 - 大阪難波間 3.8 km
*[[軌間]]:1435mm
*駅数:11駅(起終点駅含む)
*複線区間:全線
*電化区間:全線電化(直流1500V)
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
*[[自動列車保安装置|保安装置]]:
**尼崎 - 桜川間:[[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|阪神型ATS]]
**桜川 - 大阪難波間:[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]
*[[運転指令所]]
**尼崎 - 桜川間:尼崎運転指令室(阪神指令)
**桜川 - 大阪難波間:近畿日本鉄道大阪統括部・大阪総合指令室・奈良線担当(近鉄奈良指令)
* 営業最高速度:106km/h
* 最大編成両数:10両
* 混雑率:73%(2020年度:千鳥橋駅→西九条駅間 7:32 - 8:32)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf#page=5|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2022-03-03|publisher=国土交通省|page=5|format=PD}}</ref>
== 沿線概況 ==
<!-- 煩雑になるため、高架は表現していません -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#1f64b1
|collapse=yes
|title-color=white
|map=
{{BS|STR|||{{rint|osaka|hsm}} [[阪神本線|本線]]|}}
{{BS3|KRW+l|KRWgr|||||}}
{{BS3|DST|KRWgl|KRW+r|||[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎工場・尼崎車庫]]|}}
{{BS3|STR|XBHF-L|XBHF-R|0.0|HS 09 [[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]||}}
{{BS3|KRWl|KRWg+r|STR||||}}
{{BS3||eKRZo|eKRZo|||''[[日本国有鉄道|国鉄]]:[[福知山線]](尼崎港線)''|}}
{{BS3||XBHF-L|XBHF-R|0.9|HS 08 [[大物駅]]||}}
{{BS3||STR|STRl|||{{rint|osaka|hsm}} 本線|}}
{{BS|hKRZWae+GRZq|||[[左門殿川]] ↓[[大阪府]]/[[兵庫県]]↑|}}
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{{BS|BHF|2.3|HS 49 [[出来島駅]]||}}
{{BS|BHF|3.3|HS 48 [[福駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[淀川|新淀川]]|}}
{{BS|BHF|4.8|HS 47 [[伝法駅]]||}}
{{BS|WBRÜCKE1|||[[正蓮寺川]]|}}
{{BS|BHF|5.5|HS 46 [[千鳥橋駅]]||}}
{{BS|hKRZWae||||}}
{{BS3|STR+4|STR||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{rint|ja|wkp}} [[桜島線]](JRゆめ咲線)|}}
{{BS3|STR|BHF|O2=HUBaq|HUBlg|6.3|HS 45 [[西九条駅]]||}}
{{BS3|ABZql|KRZo|BHFq|O3=HUBe|||JR西:{{rint|ja|wko}} [[大阪環状線]]|}}
{{BS|hKRZWae|||[[旧淀川|安治川]]|}}
{{BS|tSTRa||||}}
{{BS3|STRq|tKRZ|BHFq|O3=HUBa|||[[大阪市高速電気軌道|地下鉄]]:{{rint|osaka|c}} [[Osaka Metro中央線|中央線]]|}}
{{BS3||tBHF|O2=HUBaq|HUBrf|7.6|HS 44 [[九条駅 (大阪府)|九条駅]]||}}
{{BS|tBHF|8.2|HS 43 [[ドーム前千代崎駅#阪神電気鉄道(ドーム前駅)|ドーム前駅]]|{{rint|osaka|n}}([[ドーム前千代崎駅]])|}}
{{BS|tKRZW|||[[木津川 (大阪府)|木津川]]|}}
{{BS3|HUBrg|tBHF|O2=HUBeq||9.0|HS 42 [[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]] {{rint|osaka|s}}||}}
{{BS3|KBHFeq|O1=HUBe|tSTR||||[[汐見橋駅]] [[南海電気鉄道|南海]]:[[南海高野線|高野線]](汐見橋線)|}}
{{BS|tSTR|||←JR西:[[関西本線]]({{rint|ja|wkq}} [[大和路線]])|}}
{{BS3|etKBHFxeq|O1=HUBa|etKRZto||||[[JR難波駅]] [[なにわ筋線]](JRルート)→|}}
{{BS3|extBHFq|O1=HUB|etKRZto||||''南海新難波駅'' なにわ筋線(南海ルート)|}}
{{BS3|HUBtl|tBHF+GRZq|O2=HUBeq||10.1|HS 41 [[大阪難波駅]]|{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|y}} {{rint|osaka|s}}([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])}}
{{BS3|KBHFeq|O1=HUBe|tSTR||||[[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線|本線]]・{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]([[難波駅 (南海)|難波駅]])|}}
{{BS|tSTR|||[[近畿日本鉄道|近鉄]]:{{rint|osaka|ktam}} [[近鉄難波線|難波線]]|}}
}}
起点である尼崎駅では4面6線のうち中央の2面2線に発着し、本線からの[[対面乗り換え]]が可能な構造となっている。尼崎駅を出ると、すぐに地平へと下り、上下線とも本線下りをアンダーパスでくぐり抜け、本線の南側で再び高架線を上り<ref group="注">下りは尼崎駅 - 大物駅間で尼崎車庫への引き込み線と繋がっているため大物駅始発・終着の設定も可能だが、現状ではその設定はない。</ref>、大物駅に着く。同駅は3面4線の構造であるため本線下りと阪神なんば線上りが同一ホームとなっており、[[杭瀬駅]]や[[千船駅]]など本線下りから大阪難波方面阪神なんば線上り各駅への乗り換えが容易にできるようになっている。
大物駅を出るとそのまま高架線で南東へと直進し、[[左門殿川]]、[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]と[[阪神高速3号神戸線]]を越えるとすぐ出来島駅に着く。出来島駅を過ぎると高架線を下りて地平となり、福駅の手前で初めて踏切を通過する。福駅を過ぎるとやや上り坂となり、架け替え工事中(後述)の[[淀川]]橋梁を渡り伝法駅に着く。
伝法駅を過ぎると千鳥橋駅の手前で東へとカーブし、高架駅の千鳥橋駅に着く。そのまま高架線を進むと、JRとの乗り換え駅である西九条駅に着く。西大阪線時代の終着駅で、将来の難波延伸に備えてJR線を越える高さで造られたものの、長らく延伸工事が中断していたため、JRの手前で線路・ホームともに途切れたままであった。その後ようやく工事が再開され、ホームがJR線の上を跨ぐように南側に延伸された。
西九条駅から先は2009年3月に延伸開業した区間で、九条駅周辺の住民に配慮し、[[安治川]]橋梁を除き車両全体を覆う高さの防音壁が設けられており([[#top|本記事冒頭]]の画像参照)、[[九条駅 (大阪府)|九条駅]]の手前から地下線となる。九条駅は後から開業した阪神なんば線は地下駅だが、先に開業した[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]][[Osaka Metro中央線|中央線]]は高架駅であるため、「私鉄が地下駅・地下鉄が高架駅」という珍しい形態である<ref group="注">同様の例は[[東京都]][[荒川区]]の[[南千住駅]]([[東京メトロ日比谷線]]が高架、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス]]が地下)、[[愛知県]][[名古屋市]][[名東区]]の[[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘駅]]でも見られる([[名古屋市営地下鉄東山線]]が高架、[[愛知高速交通東部丘陵線]]〈リニモ〉が地下)。</ref>。同駅を出て南東へ折れると間もなく[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]、[[イオンモール大阪ドームシティ]]の最寄り駅で、Osaka Metro[[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]](ドーム前千代崎駅)との乗り換え駅である[[ドーム前千代崎駅|ドーム前駅]]に着く。同駅は、地下鉄と[[道頓堀川]]の下を潜る必要から、地下30m(ホームは地下5階)と阪神の駅の中では最も深い位置に設けられているほか、線路のカーブもきつく[[スキール音]]が大きく響く。同駅を出ると東へと進路を変え[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]に着く。同駅は阪神なんば線の北側を並走するOsaka Metro[[Osaka Metro千日前線|千日前線]]や、仮称が「汐見橋駅」であったとおり[[南海高野線]](汐見橋線)[[汐見橋駅]]との乗り換え駅であるが、南海[[難波駅 (南海)|難波駅]]と間違えないよう、車内での汐見橋線との乗り換え案内は(放送・表示器・路線図いずれも)一切ない。
桜川駅 - 大阪難波駅間に限り、近鉄が運行管理を担っており(後述)、桜川駅では阪神と近鉄の乗務員が交代する。そのまま直進すると終点の大阪難波駅となり、列車は近鉄難波線を経て奈良線に直通する。
== 運行形態 ==
{{See also|近鉄奈良線#運行形態}}
尼崎駅・大阪難波駅を介する形で、[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]] - (阪神[[阪神本線|本線]]) - 尼崎駅 - (阪神なんば線) - 大阪難波駅 - (近鉄[[近鉄難波線|難波線]]・[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]) - [[近鉄奈良駅]]間で相互直通運転を行っており、ダイヤは直通運転先の近鉄奈良線とほぼ一体化している。
後述のとおり、[[快速急行]]が神戸三宮駅(一部は尼崎駅) - 近鉄奈良駅(一部は大阪難波駅・大和西大寺駅)間で、[[準急列車|準急・区間準急]]・[[普通列車|普通]]が尼崎駅 - 近鉄奈良駅間(最長運行区間)で運行されている<ref name="Hanshin20080829-1">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20080829-1.pdf 阪神なんば線の運賃認可と実施運賃について]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2008年8月29日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090116-2.pdf 阪神なんば線【3月20日(金・祝)】の開通に伴うダイヤ改正の実施!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2009年1月16日</ref>。また、阪神なんば線内には待避設備がないため、先行する列車が必ず、尼崎方面行きは尼崎駅に、近鉄奈良方面行きは大阪難波駅に、それぞれ先着する。
阪神なんば線内で完結する列車は下り初発となる普通大阪難波発尼崎行き1本のみで、それ以外の全列車が阪神本線または近鉄奈良線と直通する。また、線内の途中駅を始発・終着とする営業列車は存在しないほか、[[近鉄大阪線]](俊徳道駅以遠)と直通する列車は定期列車では存在しない。
神戸三宮以西([[元町駅 (兵庫県)|元町]]・[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]・[[山陽電気鉄道]])方面から当線内各駅、あるいは当線を介して近鉄(大阪難波以東)方面に行く場合は、神戸三宮駅や尼崎駅などでの乗り換えが必要となる。[[大阪上本町駅]](地上ホーム)発着の[[近鉄特急]]や、阪神と相互直通運転をしていない大阪線の列車とは、基本的に[[鶴橋駅]]での[[対面乗り換え]]となる<ref group="注">大阪上本町駅でも乗り換え自体は可能だが、ホームが離れているため対面乗り換えができない。</ref>。各種別ごとの列車接続状況は後節で述べる。
阪神なんば線の開業により広範囲に線路がつながったため、一部のダイヤが乱れると他線区に広く影響が及ぶことがある<ref group="注">開業日である2009年(平成21年)3月20日には、尼崎駅での列車増解結時の混乱による本線の遅れが[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]を介して阪神神戸高速線・[[山陽電気鉄道本線]]および阪急神戸高速線・[[阪急神戸本線]]にも波及している。</ref>。そのため、近鉄線内で人身事故など輸送障害が発生した場合は、[[引き上げ線]]のある大阪難波駅や桜川駅では折り返さず、西九条駅<ref group="注">引き上げ線はないが、中間駅となった現在でも異常時に対応できるよう[[分岐器#形状による分類|片渡り線]]が設置されている。</ref>で運行を打ち切り西九条駅 - 大阪難波駅間は運休となる(快速急行は西九条駅発着ないし本線も含め全区間運休としている)。また、台風接近など災害時も同様に、西九条駅 - 大阪難波駅間のみ運休させることがある。
<!--また、阪神では尼崎駅での[[増解結]]や[[大和西大寺駅]]の構造に起因する3 - 5分程度の遅れが慢性化している<ref>{{cite web
| url = http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001919998.shtml
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20090521183454/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001919998.shtml
| title = 乗客増、沿線に恩恵 阪神なんば線開通2か月
| publisher = [[神戸新聞]]
| date = 2009-5-16
| accessdate = 2009-5-16
| archivedate = 2009-5-21
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
これは、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[湘南新宿ライン]]・[[上野東京ライン]]、JR西日本の[[アーバンネットワーク]]や、[[小竹向原駅]]の交差を抱え、かつ複数の会社に乗り入れる[[東京地下鉄]]の[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]など、複雑な直通運転を行っている路線網の問題点として指摘されるものと同様である。
(記事が古い、直接関係ない内容)-->
=== 運行本数 ===
平日日中1時間あたりの基本的な運行本数は以下のようになっている。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center"
|-
|+平日日中の運行パターン(2022年12月17日以降)
|-
|-
!colspan="2"|駅名<br>\<br>種別
!本線<br>直通先
!style="width:1em"|尼崎
!…
!style="width:1em"|大阪難波
!近鉄線<br>直通先
|-
!rowspan="8" style="width:1em"|運行本数
|style="background-color:#9cf"|快速急行
|style="text-align:right;"|神戸三宮←
|colspan="3" style="background:#9cf"|2本
|style="text-align:left;"|→近鉄奈良
|-
|style="background-color:#ccc" rowspan="5"|普通
|-
|style="text-align:right;"|
|colspan="3" style="background:#ccc"|4本→
|style="text-align:left;"|→大和西大寺
|-
|style="text-align:right;"|
|colspan="3" style="background:#ccc"|←4-6本
|style="text-align:left;"|←大和西大寺
|-
|style="text-align:right;"|
|colspan="3" style="background:#ccc"|2本→
|style="text-align:left;"|→東花園
|-
|style="text-align:right;"|
|colspan="3" style="background:#ccc"|←0-2本
|style="text-align:left;"|←東花園
|}
尼崎行きは時間帯により始発駅が異なるが、いずれの時間帯も阪神なんば線内で毎時6本は確保されている。
=== 列車種別 ===
[[ファイル:Hanshin railway map.png|thumb|500px|none|2016年3月改正時点の停車駅(現在とは異なる)]]
==== 快速急行 ====
阪神なんば線内で唯一通過運転を行っている種別である。また、一般列車の種別としては唯一本線に乗り入れる。
尼崎駅 - 西九条駅間は途中無停車で、西九条駅 - 大阪難波駅間は各駅に停車する。
基本的に神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運行され、この区間を約80分(昼間時間帯)、最速76分で結んでいる。平日朝ラッシュ時は12分間隔(尼崎駅発で7時台と8時台に続行がある)、平日日中と全日夜間は概ね30分間隔、その他の時間帯は概ね20分間隔で運行している<ref name="hanshin20221012">{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)にダイヤ改正を実施します ~朝・夕ラッシュ時間帯の利便性向上とご利用状況に応じた運転本数の見直しを行います~|publisher=阪神電気鉄道|date=2022-10-12|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221012-unyu-daiyakaisei-2.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。なお、早朝・夜間は本線には乗り入れず、尼崎駅発着となっており、尼崎駅で本線の[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]・特急と接続としている。また、近鉄線内で障害が発生した場合は、運休もしくは延伸区間・近鉄線内には乗り入れず西九条駅発着に変更することがある。
2012年3月20日より土曜・休日朝の初発から3本の運行区間が延長され、[[阪神神戸高速線|神戸高速線]][[新開地駅]]始発へと変更された<ref name="hansin20120120">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201201206N1.pdf 3月20日(火・祝)全線のダイヤ改正を実施!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース、2012年1月20日</ref>。また、それまで平日日中のみ各駅に停車していたのが他の時間帯と同様に尼崎駅 - 西九条駅間で通過運転を行うようになり、阪神なんば線内の停車駅が統一された。2016年3月19日のダイヤ改正からは、それまで神戸三宮駅到着後は[[回送]]として折り返していた列車を営業列車化した([[#臨時列車|詳細は後述]])大和西大寺行き{{refnest |group="注" |大和西大寺駅にて[[近鉄橿原線#急行|急行]][[天理駅|天理]]行きへと変更するため、厳密には近鉄[[近鉄橿原線|橿原線]]・[[近鉄天理線|天理線]]経由天理行きである。従来は大和西大寺駅止まりで、毎月26日の月次祭など[[天理教]]の祭典日に限り臨時急行として大和西大寺駅 - 天理駅間を延長運転してきたが、[[1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更#2021年7月3日変更|2021年7月のダイヤ変更]]で定期列車化され、平日ダイヤ適用日においては毎日運行となった。なお、天理教の祭典日に限り、特製ヘッドマークを掲出する<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |title=7月26日(月)臨時情報 |url=https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/wp-content/uploads/2021----7---26------HP---------------.pdf |website=[[天理教]]輸送部 |date=2021-07-13 |accessdate=2021-07-21 |language=ja |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210718011622/https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/wp-content/uploads/2021----7---26------HP---------------.pdf |archivedate=2021-07-18 }}</ref>。}}が平日朝に1本、神戸三宮駅 → 大阪難波駅間は大阪難波行き快速急行として運行し大阪難波駅で近鉄線の普通に変更する列車が平日朝に1本、この他にも近鉄奈良発大阪難波行きの一部を区間延長する形で尼崎行きに変更した列車も合わせて増発した。これにより、平日ダイヤでは上りの朝7時台に快速急行が2本続行するパターンが生まれている。2020年3月14日のダイヤ改正<ref name="press200306" />では、朝と夜間に増発・運転区間延長し、平日の朝と夜には大阪難波行きが大阪難波駅で近鉄線の準急ないし普通へ変更する列車が2本増発された。ただ、2022年12月17日のダイヤ改正では平日は朝8時台も快速急行が2本続行するようになったほか、日中は減便、16時台には尼崎駅始発が設定された。また、土曜・休日は朝の新開地駅始発が廃止され神戸三宮駅発に戻されるなど、大きな変化が見られた<ref name="hanshin20221012" />。
編成は6・8・10両いずれかで運転されているが、本線での停車駅のホーム長の関係から、8・10両の列車については長らく尼崎駅にて増結・切り離しを行い<ref group="注">阪神電鉄において、途中駅で増結・切り離しを伴う列車が運行されるのは、1987年12月のダイヤ改正で本線の普通列車が終日4両編成化されて以来約22年ぶりとなった。</ref>、本線内では6両で運転していた。その後、2020年3月14日のダイヤ改正から本線でも一部の列車で8両での運転を開始した<ref name="press200306">{{Cite press release|和書|format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/9fa658c4fef9e678766f09d85018670f9e07216e.pdf |title=2020.3/14SAT 全線ダイヤ改正 |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-03-06 |accessdate=2020-03-14 }}</ref>ことで増結・切り離しの回数は大きく減少し、2022年12月17日のダイヤ改正以降では10両は減少し、6両または8両での運転が主体となっている。尼崎駅発基準では、平日は16時台以降は神戸三宮駅発着も含めほぼ8両(それ以前は6両)で運転され、土曜・休日は朝の一部を除き8両で運転されている<ref name="hanshin20221012" />。
==== 準急・区間準急・普通 ====
準急・区間準急・普通は、いずれの種別も阪神なんば線内は各駅に停車する(準急・区間準急は近鉄線内で通過運転を行っている)。全列車とも6両編成で、尼崎駅 - [[東花園駅]]・[[瓢箪山駅 (大阪府)|瓢箪山駅]]・[[石切駅]]・[[東生駒駅]]・[[大和西大寺駅]]・近鉄奈良駅間で運行されており、阪神本線には乗り入れない。基本的に3種別合わせて1時間あたり6本運行されている。
準急・区間準急・普通としてそのまま本線へ直通する列車はないが、例外的に、平日朝に終着の尼崎駅にて快速急行神戸三宮行きに変更して本線へ直通する普通尼崎行きが3本存在する。
尼崎駅では本線の直通特急・特急との接続が考慮されている。また、大物駅では早朝の上り(尼崎発)普通の一部は本線の下り普通との接続が考慮されている。
2012年3月20日のダイヤ改正より快速急行が平日昼間時間帯においても通過運転を実施することになったため、通過駅となる大物駅 - 千鳥橋駅間の削減分は近鉄奈良方面 - 大阪難波駅発着の区間準急を尼崎駅発着に延長して代替した<ref name="hansin20120120" />。なお、2016年(平成28年)3月19日のダイヤ改正で平日昼間時間帯の尼崎行き区間準急が普通に変更され、2020年3月14日のダイヤ改正でも土曜・休日の昼間時間帯の尼崎行き区間準急も普通に変更されたため、尼崎行きはほぼ全てが普通となった(尼崎発は準急・区間準急も多数あり)<ref>[https://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/pdf/200314/100501.pdf 大阪難波駅掲出時刻表] - 近畿日本鉄道ホームページ、2020年2月15日参照</ref>。また、同改正で本線内を快速急行として運転し尼崎駅で普通に種別変更する上り列車が消滅した。
[[2021年]][[4月29日]]から[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]蔓延拡大による政府からの[[非常事態宣言|緊急事態宣言]]発出及び沿線自治体からの協力要請を受けて、暫定的に終電とその1本前の尼崎発普通東花園行き2本を近鉄線内での旅客営業を取り止め、大阪難波行きに変更する措置をとっていた<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/10d7301f0e44296ea34ae321898fa05c8848de35.pdf |title=4月 29 日(木・祝)から一部列車の運休及び行先変更を行います |publisher=阪神電気鉄道 |date=2021-04-26 |accessdate=2021-04-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210427071024/https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/10d7301f0e44296ea34ae321898fa05c8848de35.pdf |archivedate=2021-04-27 }}</ref>。この措置は同年[[7月3日]]の近鉄のダイヤ変更で通常ダイヤとなり<ref group="注">阪神ではダイヤ変更を実施しなかったため区間短縮のみで、阪神電鉄線内での列車時刻は変更されていない。</ref>、大阪難波駅延伸後初めて上りでも線内完結列車が設定されることになった<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/e17284ab8aa89e1ba83877fc5e763786b47fc047.pdf |title=阪神なんば線の一部の列車で行先変更を実施します~7 月3日(土)から実施~|publisher=阪神電気鉄道 |date=2021-05-21 |accessdate=2021-05-21}}</ref>。ただ、2022年12月17日のダイヤ改正で深夜時間帯の減便を行ったため、上りでは線内完結列車は廃止され、再び全列車が近鉄奈良線まで運転されるようになった<ref name="hanshin20221012" />。
==== 臨時列車 ====
2009年の開業以降、毎年8月に開催される[[みなとこうべ海上花火大会]]当日と12月の[[神戸ルミナリエ]]開催期間中の土曜・日曜において、夜間の尼崎始発の普通の一部を神戸三宮発に延長し、本線区間を臨時快速急行として運転している。なお、2020年以降は新型コロナウイルス感染症拡大の影響でイベントが中止されているため、本線での臨時快速急行も運転されていない。
2011年4月18日、天理教の祭典に合わせ、初の阪神・近鉄直通臨時列車として、三宮(現・神戸三宮)発[[天理駅|天理]]行き臨時快速急行が運転された<ref>{{PDFlink|[http://www.tenrikyo.or.jp/ja/serv/trans/pdf/kintetsu.pdf 「阪神三宮駅→近鉄天理駅 臨時直通列車の運行について」天理教ホームページより]}}</ref>。当日は、通常は神戸三宮駅に到着後回送として折り返す列車を客扱いとし、大阪難波経由天理行きのヘッドマークを取り付け、阪神線内では快速急行の、近鉄線内では急行の、それぞれの停車駅で運転された<ref group="注">阪神線内では、車両の方向幕は行先非表示の「快速急行(水色)」で、駅では「快速急行難波行き、難波から臨時急行天理行き」と案内された。近鉄線内では、「急行天理行き」として案内された。</ref>。2012年1月26日にも春季大祭開催に伴う臨時列車が運行され、同年3月26日以降も平日の祭典日に限り運行した<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/wp-content/uploads/2012/08/2012.hanshintyokutsuu.pdf
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20121020042546/http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/wp-content/uploads/2012/08/2012.hanshintyokutsuu.pdf
| title = 阪神三宮駅から近鉄天理駅への臨時直通列車の運転について
| format = PDF
| publisher = [[天理教]]
| date = 2012-3-6
| accessdate = 2012-3-27
| archivedate = 2012-10-20
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
この臨時快速急行は、2016年3月19日のダイヤ改正で大和西大寺行き快速急行として定期列車に変更されており、同改正以降は平日の祭典日に限り大和西大寺駅から天理行き臨時急行に変更して延長運転していた<ref name="tenrikyo-20160321">{{Cite web|和書|url=http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/wp-content/uploads/h28-hanshin-sannomiya-tenri.pdf|title=阪神三宮-近鉄天理間の臨時直通列車の運転について|format=PDF|publisher=天理教公式サイト|date=2016-3-21|accessdate=2016-3-21}}</ref>(大和西大寺駅で奈良行き急行と接続)が、[[#快速急行|上記]]の通り、2021年7月より毎日運行となった(詳細に案内はなされていないが、大和西大寺駅で急行天理行きに変更してそのまま天理駅まで直通運転されている<ref name="tenri20230412">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/8591cb9e620ecada40d99d1822254b3ffe1981fb.pdf |title=【平日ダイヤ】天理教祭典日の運転について |publisher=阪神電気鉄道 |date=2023-04-12 |accessdate=2023-11-13 }}</ref>)。また、土曜・休日の祭典日には天理発神戸三宮行きの臨時列車も設定された<ref group="注">天理発の編成は、2020年3月のダイヤ変更までは臨時急行として大和西大寺駅まで運転し、同駅で神戸三宮行き定期快速急行に連結し尼崎駅にて切り離ししていた。</ref><ref name="tenrikyo-20160321" />が、これも2021年7月より土曜・休日ダイヤでは定期運行となった<ref group="注">大和西大寺駅で先着の近鉄奈良駅発の列車と併結し、快速急行神戸三宮行きに変更して運転。この列車は近鉄奈良駅発・天理駅発ともに近鉄車両4両で運用されるが、阪神乗り入れ対応車に4両編成はないため、2両編成を4本連ねて運転される。</ref>。2022年12月のダイヤ変更で、平日朝8時台にも尼崎 → 大阪難波間を続行する快速急行(先行列車は尼崎発近鉄奈良行き、後続列車は神戸三宮発大阪難波行き)が設定されたが、このうち先行列車の近鉄奈良行きについては天理教祭典日に限り、後ろの4両が大和西大寺駅で切り離されたのち臨時急行天理行きとなる<ref name="tenri20230412" />。
2013年2月24日には、阪神なんば線開業後初めて山陽姫路駅から近鉄奈良駅を直通で結ぶイベント列車が運行された<ref name="kintetsu20121221">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/121221himejinarachokutuu.pdf -山陽・阪神・近鉄合同企画-「姫路〜奈良 直通列車で行く山陽・阪神・近鉄 私鉄3社車庫巡り」]}} - 近畿日本鉄道、2012年12月21日</ref>。さらに2014年7月13日には、近鉄奈良駅から山陽姫路駅までを直通で結ぶイベント列車も運行した<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/oudantua.pdf 近鉄・阪神・山陽合同企画「奈良〜姫路 直通列車で行く!近鉄・阪神・山陽 横断ツアー」]}} - 近畿日本鉄道、2014年5月22日</ref>。2019年の開業10周年の節目にも阪神・近鉄の2社および山陽・阪神・近鉄の3社直通のイベント列車が運行される<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/10tunagatte.pdf 〜阪神なんば線開業及び阪神・近鉄つながって10周年〜10周年記念旅行商品第五弾・第六弾を発売します。「車庫」にまつわる“鉄分濃い商品”で鉄道の魅力を味わっていただきます。]}} - 近畿日本鉄道、2019年4月15日</ref>。
==== 回送列車の運行 ====
[[ファイル:Hanshin-sakuragawa-21000.JPG|thumb|200px|right|桜川駅に停車中の[[近鉄21000系電車|近鉄21000系]]回送列車]]
近鉄難波駅(現・大阪難波駅)西側の[[引き上げ線]]3線のうち、両端2線を阪神なんば線と接続した代替として、桜川駅のドーム前駅寄りに新たに引き上げ線2本を設けたため、阪神直通非対応の近鉄の一般車や特急車も、[[回送]]列車として桜川駅まで乗り入れることとなった。このため阪神の路線ながら桜川駅 - 大阪難波駅間に限り特例で近鉄が運行管理を担っており、信号設備が近鉄仕様になっているほか、[[自動列車保安装置|列車保安装置]]も近鉄用の[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]が設置され、[[運転指令所|運転指令]]も阪神の尼崎列車指令室(阪神指令)ではなく近鉄の大阪運転指令室・奈良線担当(近鉄奈良指令)の担当となっている。
===== 乗務員交代 =====
近鉄と阪神の乗務員交代は、前述の回送列車の運行上の関係で、[[境界駅]]の大阪難波駅ではなく桜川駅にて行われる。またこれに合わせて、同じく桜川駅にて阪神用の[[発車ベル#車両の電鈴|電鈴]]と近鉄用の電鈴の設定・[[自動列車停止装置|ATS]]・[[列車無線]]・[[列車選別装置]]もワンタッチ式の相直切替スイッチにより変更される<ref group="注">電鈴は、阪神用が連打式(押し続けると「ジリリリ…」と鳴る)であるのに対して、近鉄用は単打式(1回押すたびに「チン」と鳴る)となっている。</ref>。[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]端末の操作による[[車内放送|車内自動放送]]についても、各社の乗務員がそれぞれ携行する端末を用いて放送する。
=== 大阪難波延伸に伴うダイヤの検討 ===
阪神なんば線のダイヤを検討する中で一番苦慮した点は、朝ラッシュ時の本線となんば線との運転本数比の設定であった。どの程度シフトするのか見極めが難しく、本線の運転本数を減らすことには不安も感じていた。しかし需要予測等を勘案した結果、本線は12分サイクルに変更し運行種別も整理することで解決した。
==== 近鉄との協議 ====
阪神は約2年間にわたり相互直通運転を実現するために近鉄と協議を行った。
神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間の快速急行の所要時分については競争力確保の点から最速80分未満での運行を目標とし最終的に最速76分運行を実現している。一方、編成両数については快速急行の速達性確保や[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]での連結開放作業の負担軽減のため、近鉄奈良線の輸送力範囲で問題にならない6両とし、朝ラッシュ時の難波・奈良方面列車及び土休日の昼間時間帯は6両編成で運行することになった。
快速急行の運転本数及び運転区間は旅客需要や要員計画等の制約も踏まえ検討を行った。特に平日日中は尼崎駅折り返しも検討したが、深夜帯以外は基本的に三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運転することを重視し、1時間あたり3本運転することとした。
* 当節の参考文献:『鉄道ピクトリアル』 2017年12月臨時増刊号 阪神電気鉄道特集。
==== 本線ダイヤの改善 ====
阪神なんば線開業に伴うダイヤ改正に合わせて本線ダイヤの課題も解消した。
本線のダイヤは長きにわたり基本形態を変えていなかったため最混雑区間([[淀川駅]] - [[野田駅 (阪神)|野田駅]]間)におけるラッシュ時1時間あたりの混雑率が115%と他社に比べて著しく低い一方で、最も混雑する区間特急は190%、待避の多い準急等は60%前後と大きなばらつきがあった。また大半の列車を神戸・姫路方面から梅田駅(現在の大阪梅田駅)まで運転しており各区間で混雑率に大きな差が生じていた。このため、普通車を除く全ての速達列車を梅田駅先着とし、列車種別ごとに輸送を分担することにした。その結果、最混雑率は135%となりばらつきも解消された。加えて本線の列車種別を削減して種別ごとの停車駅を可能な限り統一し、簡明なダイヤを目指した。
さらに、山陽電鉄との相互直通運転ではこれまで両社間で運転業務を受委託する形態を取っていたが須磨浦公園行き特急が山陽線内普通車の役割を担うことで、山陽乗務員の大石駅乗り入れ負担を解消すると同時に(一部時間帯を除く)、特急は全て高速神戸駅で乗務交代を行うことになり阪神乗務員の山陽乗り入れ負担も解消された。
* 当節の参考文献:『阪神なんば線(西大阪延伸線)整備事業誌』 阪神電気鉄道・西大阪高速鉄道、2012年1月。
=== 大阪難波延伸以前の運行形態 ===
かつては本線に直通する'''[[#西大阪線特急|西大阪線特急]]'''が運転されていたことがあったが、1974年11月の同特急廃止後は大阪難波延伸開業まで本線に直通する列車はなくなり、線内折り返しの普通列車のみの運転となっていた。本線ではそれぞれ急行系と普通列車用とでおおむね使い分けられている赤胴車と[[ジェットカー]]の両方が、西大阪線においては2009年1月22日まで混成運用されていた。特に1970年代後半から1983年4月の完全冷房化達成までは冷房化が進んでいた前者が優先的に運行されていたことから、普通列車しか運転されなくなった後も冷房車両に乗れる確率は非常に高く、夏場は好評だった。
2009年(平成21年)1月23日からは営業列車による延伸区間(西九条駅 - 桜川駅間)への試運転に伴い、近鉄直通対応車である[[阪神9000系電車|9000系]]・[[阪神1000系電車|1000系]]での運転となり、同時に従来の4両編成から6両編成に変更されている。
西大阪線のダイヤは平日の日中で10分間隔だが、本線との接続の関係からか、夕方ラッシュ時には12分間隔と、ラッシュ時に運転間隔が間延びする状態になっていた。また、休日は早朝・深夜を除くと10分間隔を保っていた。
==== 西大阪線特急 ====
前述の通り、[[1965年]](昭和40年)9月15日から[[1974年]](昭和49年)11月30日まで西九条駅 - 元町駅間(1968年の神戸高速鉄道開業以降は西九条駅 - 三宮駅間)に西大阪線・本線直通で運行されていたのが「西大阪線特急」(「西大阪特急」や「N特」とも呼ばれた)である。「西大阪線特急」の名称は列車愛称ではなく正式な種別名であり、本線の「特急」に相当する。
大阪市西南部から[[神戸市|神戸]]への短絡ルートを作る目的で設定されたが、西九条駅が都心でない不便な位置にあったことなどから利用が低迷した<ref group="注">当時は西九条駅から都心へのアクセスが[[大阪市営バス|市バス]]しかなかったうえ、阪神電鉄沿線 - [[天王寺]]方面の移動においても、西九条駅で接続していた大阪環状線の日中の列車本数が当時はまだ少なかったこともあり、利便性の面において梅田駅を経由するルートには敵うものではなかった。</ref>。その本意に反し、[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]や尼崎駅から神戸に出る際の速達列車として使う旅客が多かったという。
結局、2 - 3両編成の電車が西大阪線内ではガラ空きで運行している状態が続くことが珍しくなくなったため、設定からわずか9年で廃止された。しかも、西大阪線内はそのような状態であった一方で、本線に入ると混んでいたこともある皮肉な結果となった。本線では、梅田駅 - 元町駅間を走る特急に上りは後追い、下りは先行するダイヤとなっていた。なお、1966年には4両編成で運行されているという記録がある。
;停車駅
:西九条駅 - 尼崎駅 - [[西宮駅 (阪神)|西宮駅]] - 三宮駅 - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]
:なお、当時の本線特急は尼崎駅に停車せず、尼崎駅 - 三宮駅間で西宮駅のほか、[[御影駅 (阪神)|御影駅]]や[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]にも停車していた。
;運行時間帯・間隔
:9時半から16時まで12分間隔で西九条・元町(後に三宮)両駅を発車した。
;所要時間
:西九条駅 - 三宮駅間を25分で結んでいた。
この西大阪線特急には[[列車選別装置|列車種類選別装置]]導入時に“N”の種別記号が付与された。これは、西大阪線特急廃止後長らく使われなかったが、時を経て[[快速急行]]が設定され、その後のダイヤ改正の際にこの種別の記号として復活した。大阪難波駅延伸後はその快速急行が本線と阪神なんば線を直通している。
なお、正式には「西大阪特急」ではなく「西大阪'''線'''特急」であり、阪神電気鉄道の公式年表でも「西大阪線特急」と明記されている。また、当時の自動放送でも「西大阪線特急がまいります。」とアナウンスされていた。
== 旅客案内 ==
[[ファイル:Hanshin Kintetsu Rapid Express.jpg|thumb|200px|right|[[近鉄1220系電車#1020系|近鉄1026系]]の快速急行の側面方向幕。上が阪神仕様、下が近鉄仕様。]]
快速急行の種別色は、阪神が水色( {{Colors|white|#00aacc| 快速急行 }}〈先頭車正面〉または {{Colors|white|#00aacc| 快急 }}〈各車両側面〉)、近鉄が赤色(<span style="background-color:#CC0000; color:white; border:3px solid #CC0000; text-align:center">快速 <span style="background-color:white; color:#CC0000; border:1px solid white; text-align:center">急行</span></span> 、急行の字は縦書き<!--「su」テンプレートで無理に縦書きを再現しようとすると表示が崩れるので使用しない事-->。本節の画像参照)と異なっており、直通列車は桜川駅 - 大阪難波駅間で表示を切り替えている<ref>{{Cite book |和書 |author=所澤秀樹 |authorlink=所澤秀樹 |year=2015 |title=「快速」と「準急」はどっちが速い? |publisher=[[光文社]] |series=[[光文社新書]] |pages=112-114 |isbn=978-4-334-03869-4 }}</ref>。近鉄車の阪神仕様の[[方向幕]]は、フォントも阪神のフォーマットにあわせた丸ゴシック([[ナール]]に近いもの)となっている<ref group="注">但し、阪神の方向幕の仕様は種別の部分は○(厳密には横に長い楕円形)内に『快急』と書かれたものであるため、近鉄が使用しているものは厳密には阪神の方向幕の仕様とは異なる。また、三宮駅が神戸三宮駅へ改称されたあとも長らく「快急 三 宮」の幕が使用され続けたが、2022年12月17日のダイヤ改正に合わせて「快急 神戸三宮」に取り替えられた。なお、シリーズ21や阪神車両はLED式のため改称後すぐに「神戸三宮」に変更されている。</ref><ref group="注">[[京都市営地下鉄烏丸線]]直通向け車両でも同様で、近鉄[[近鉄3200系電車|3200系]]の「竹田」・「国際会館」幕は京都市営地下鉄にあわせて黒地に白文字となっている。</ref>。なお、準急・区間準急・普通には阪神仕様の幕は用意されておらず、阪神なんば線内でも近鉄仕様のものを使用している<ref group="注">近鉄1026系・1252系・5800系には種別のみの「快速急行」「普通」の阪神向けの幕が用意されている。</ref>。
近鉄と阪神で車両の長さやドア数が異なるため、相互直通運転開始にあたり、乗車位置案内の整備が行われた。駅のホーム上や発車標などで、阪神は阪神車(山陽車も含む)を○、近鉄車を△で、近鉄では近鉄車を○、阪神車を△で案内し、乗客を誘導している<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001776165.shtml
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20090327121216/https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001776165.shtml
| title = 異なる乗車口ご注意を 阪神・近鉄直通運転
| publisher = [[神戸新聞]]
| date = 2009-3-25
| accessdate = 2009-3-26
| archivedate = 2009-3-27
| deadlinkdate = 2011年1月
}}</ref>。また、[[2018年]][[3月17日]]配信開始の[[モバイルアプリケーション|スマートフォンアプリ]]「阪神アプリ」の駅時刻表、列車走行位置サービスでも、各列車の乗車位置(○・△)を確認できる<ref name="hanshin_app">[https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2212 3月17日(土)から『阪神アプリ』の配信を開始 ~遅延/運休情報・列車走行位置・行先案内などの案内サービスを開始します~] - 阪神電気鉄道ニュースリリース、2018年3月15日</ref>。
=== 車内自動放送 ===
2016年(平成28年)3月から近鉄の路線で[[車内放送]]が自動化<ref group="注">厳密には、車掌が予め音声が録音されたデータを挿入したタブレット端末を車両と接続し、手動にて端末を操作し放送する言語を選択した上で再生している。</ref>されたのに合わせて、近鉄の車掌が乗務している桜川駅 - 大阪難波駅間のみで近鉄仕様の自動放送を開始した。
[[2019年]][[3月20日]]からは阪神でも同様にタブレット端末による多言語車内自動放送を開始し、原則として7 - 20時の快速急行および桜川駅 - 尼崎駅間の全列車に導入された<ref>[https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2501 ~訪日外国人のお客様にも快適にご利用いただける阪神電車を目指して~ 車内多言語自動放送の導入など、インバウンド施策を進めます] - 阪神電気鉄道ニュースリリース、2018年3月15日(阪神は音声合成ソフトによる人工音声)</ref>。
== 使用車両 ==
阪神電鉄は阪神なんば線の開業に併せて[[阪神1000系電車|1000系]]を新造し、2007年度から順次導入している。また[[阪神9000系電車|9000系]]も全編成が近鉄乗り入れ対応改造を受けた。
近鉄からの回送車を除けば、すべて[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]・[[ボルスタレス台車]]で、[[バリアフリー]]に対応しているのが特徴である。阪神車両と近鉄車両の運用比率は、昼間時間帯ではほぼ1:1ではあるが、快速急行に関しては近鉄車での運用が多い。なお、両社間で使用車両の走行距離を調整する関係上、阪神車両は近鉄線内のみで運転される列車の一部にも充当されている(「[[近鉄奈良線]]」の項も参照)。
なお、近鉄の車両で[[ラッピング広告|ラッピング]]が施されている一部の車両に関しては特別なイベントのPRなど企業色の薄いものは阪神本線まで乗り入れているが、企業や教育機関のラッピング広告は[[兵庫県]]の屋外広告物条例により規制されていた(なお、尼崎市内は尼崎市独自の屋外広告物条例が適用されるため、兵庫県の本条例は対象外である)。このためラッピング広告車の阪神電鉄線内での運用は阪神なんば線のみに限られていたが、2010年からはそのラッピング規制が廃止され、阪神本線でも他のラッピングが見られるようになった<ref>{{Cite news |title=「ラッピング電車、兵庫もGO 鉄道網広域化に対応 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2009-06-29 |url=http://www.sankei-kansai.com/2009/06/29/20090629-011698.php |publisher=産経新聞社 |accessdate=2017-10-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090701022835/http://www.sankei-kansai.com/2009/06/29/20090629-011698.php |archivedate=2009-07-01}}</ref>。
阪神本線・近鉄奈良線とは異なり、阪神なんば線を走る列車には[[日本の女性専用車両|女性専用車両]]が設定されない。
=== 阪神車両 ===
==== 現在の使用車両 ====
優等列車用の車両のうち、以下の近鉄線直通対応の2系列が使用される。前述のとおり、阪神・近鉄両社間の走行距離調整の関係上、<!-- 近鉄奈良線の急行など、 -->近鉄線内のみで運転される列車の一部にも充当されている。なお、阪神車両に掲示されている停車駅案内には当初、近鉄奈良線急行の停車駅表示がなかったが、2012年3月20日のダイヤ改正での更新を機に表示されている。2014年現在近鉄線直通対応の2系列には近鉄が制定している[[編成 (鉄道)#編成番号|電算記号]]が付与されている。
* [[阪神9000系電車|9000系]](電算記号:HQ)
* [[阪神1000系電車|1000系]](電算記号:6両編成はHS・2両編成はHT)
9000系・1000系は西大阪線時代にも運用しており、当時は短期間ではあったが西九条行きの行先表示を見ることができた。なお、現在でも近鉄線内で輸送障害が発生した際には西九条 - 大阪難波間を運休させ西九条駅折り返しで運用することがあるため、突発的に西九条行きの行先表示が見られることもある。
<gallery>
ファイル:Hanshin 1207F at Deyashiki Station.JPG|阪神1000系
ファイル:Hanshin-9000-kintetsuishikiri.JPG|阪神9000系
</gallery>
==== 過去の使用車両 ====
* [[阪神7801・7901形電車|7801・7901形]]
* [[阪神5001形電車 (2代)|5001形]]
* [[阪神5131形・5331形電車|5131形・5331形]]
* [[阪神5500系電車|5500系]]
上記をはじめとした[[ジェットカー]](普通のみ)・[[赤胴車]](普通・西大阪線特急とも)が西大阪線時代に使用されていたが、阪神なんば線開業で近鉄直通車両には前節の1000系と9000系が使用されることになり撤退した。
<gallery>
ファイル:Hanshin-7838.JPG|7801・7901形2次車
ファイル:Hanshin5000Series01.jpg|連結器交換前の5001形
</gallery>
=== 近鉄車両 ===
近鉄車両で阪神乗り入れ対応の一般種別用車両には、それを示す蝶をモチーフにしたステッカーが前面の運転席側窓下と側面の乗務員室扉横に貼付されている。以下では阪神乗り入れ対応車両のみ記載。大阪難波駅 - 桜川駅間では近鉄線からの回送列車として[[近鉄難波線]]に入線する全ての車両(「[[近鉄特急]]」および「[[近鉄奈良線#車両]]」を参照)が運行される。
*[[近鉄9020系電車|9020系・9820系]]([[シリーズ21]])
*[[近鉄1220系電車|1026系(1026F - 1029F)・1252系(1271F - 1277F)]]
*[[近鉄5800系電車|5800系]](L/Cカー、原則はロングシート運用<ref name="cross-seat" group="注">平日ダイヤの10 - 16時・土休日ダイヤの終日は近鉄側の裁量によりクロスシート運用の場合あり</ref>)
*[[近鉄5820系電車|5820系]](L/Cカー・シリーズ21、原則はロングシート運用<ref name="cross-seat" group="注" />)
*[[近鉄22600系電車|22600系]](Ace・[[近鉄特急|特急用車両]]、現時点での運用は団体臨時列車のみ<ref group="注">使用編成は対応改造されている4両編成の22601F, 22602Fと、2両編成の22651F, 22652Fのみ。</ref>)
車内案内表示器は大阪難波駅を境に、阪神電鉄線内では阪神の、近鉄線内では近鉄のそれぞれの表示内容に変わる。
<gallery>
Kintetsu-9020-hanshin-oishi.JPG|近鉄9020系
Kintetsu-9820.JPG|近鉄9820系
Kintetsu Series 5820.jpg|近鉄5820系
Kintetsu-1252-uozaki.JPG|近鉄1252系
Kintetsu1026 hanshin.JPG|近鉄1026系
Kintetsu 5800 Kosaka(2010).jpg|近鉄5800系
Kintetsu22600 hanshin testrun.jpg|近鉄22600系
</gallery>
== 運賃 ==
=== 普通運賃 ===
阪神なんば線のうち新設区間の西九条駅 - 大阪難波駅間には加算運賃が設定されており、阪神の他の区間を含めて4km以内のみを乗車した場合には60円、それを超える場合は90円が普通運賃に上乗せされる。そのため、新線区間の初乗り運賃は大人で220円となる(2023年4月1日現在)<ref>{{PDFlink|[https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20220803-keikakubu-barifuri-2.pdf 鉄道駅バリアフリー料金制度の導入について]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2022年8月3日</ref>{{Refnest|group="注"|開業時は200円<ref name="unchin">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR200808012N1.pdf 阪神なんば線の運賃認可申請について]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2008年8月1日</ref>。}}。特に、[[Osaka Metro千日前線]]と並行する区間においては、同線を利用するよりも運賃が割高となる<ref group="注">2023年4月時点で、桜川駅 - 大阪難波駅間の運賃は220円だが、千日前線桜川駅 - [[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]]間の運賃は190円である。また、直通する大阪難波以東は他社線(近鉄)となり両社の運賃を合算するため、千日前線桜川駅 - 鶴橋駅間の運賃が240円に対し、(阪神)桜川駅 - (近鉄)鶴橋駅間の運賃は460円<!-- 阪神220円(鉄道駅BF料金10円含む)・近鉄240円(左記料金を含まずに運賃改定) -->となっている<!-- (西九条駅 - 鶴橋駅間も阪神・近鉄経由(乗車時間優先)で同じ460円で、JR大阪環状線を利用した場合は210円(運賃優先)となる。) -->。</ref>。開業から10年となる[[2018年]](平成30年)度末までの加算運賃の回収率は55.5%である<ref>{{Cite press release
| 和書
| title = (参考)加算運賃の現状(平成25年以降公表資料)
| publisher = 阪神電気鉄道
| url =https://rail.hanshin.co.jp/pdf/kasanunchin2019.pdf}}</ref>。
阪神なんば線・大阪難波駅経由の阪神・近鉄両社にまたがる区間の運賃は、両社の運賃を単純に加算したものであり、乗継割引や特定運賃などは設定されていない。
=== 定期券 ===
延伸開業にあわせ、阪神本線([[阪神武庫川線|武庫川線]]を含む)- 新規開業区間(九条駅 - 大阪難波駅)の通勤定期(大物駅 - 九条駅間を有効区間に含んでいる通勤定期)を利用する場合、[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]でも乗降が可能な「OSAKAどっちも定期」というサービスが設定された<ref name="Hanshin20080829-2">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20080829-2.pdf 阪神なんば線新線区間を含む通勤定期で、阪神梅田駅での乗降も可能となります!]}} 阪神電気鉄道プレスリリース 2008年8月29日。</ref><ref name="Hanshin20090122-4">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090122-4.pdf 阪神なんば線新線区間を含む通勤定期で、阪神梅田駅の乗降も可能となる新サービス名称を 「OSAKAどっちも定期」 に決定!!]}} - 阪神プレスリリース 2009年1月22日</ref><ref group="注">券面に「梅田乗降可能」と表示している。</ref>{{Refnest|group="注"|2023年3月には、阪神なんば線の「OSAKAどっちも定期」にならって[[相鉄新横浜線]]にも「[[相模鉄道#YOKOHAMAどっちも定期|YOKOHAMAどっちも定期]]」が設定され、阪神と[[相模鉄道|相鉄]]の2社からPRされた<ref>[https://twitter.com/hanshin_pr/status/1565248099899113472 阪神電車【公式】(阪神電気鉄道) 2022年9月1日17時00分]</ref><ref>[https://twitter.com/sotetsu_group/status/1565248900067299328 相鉄 公式 2022年9月1日17時03分]</ref>。}}。このサービスは二区間定期券の一種であるが、他事業者の二区間定期券のような追加金額は不要となっている。
大阪難波への延伸開業に伴い、阪神・JR・近鉄の3社連絡定期券は[[2009年]][[3月21日]]以降が有効期限末日になるものの発売を取りやめている。定期券自動券売機では有効期限にかかわらず2008年8月31日をもって発売を終了している<ref>[http://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/81076e3374b60840cc62f6522b25d8b89f57dba1.pdf 阪神-JR-近鉄の3社線連絡定期券をお持ちのお客様へ] - 阪神電気鉄道プレスリリース</ref>。
2009年(平成21年)7月7日から9月30日まで、2009年(平成21年)7月6日以前に購入した阪神本線の杭瀬駅から梅田駅を1駅以上含む定期券(小児定期券を除く)を、阪神なんば線新線区間(九条駅 - 大阪難波駅間)を含む定期券に区間変更(変更時に有効期限内であること)すると「らくやんカード」がもらえる「阪神なんば線にチェンジ!キャンペーン」を始めた<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090706.pdf 阪神なんば線にチェンジ!キャンペーンを実施します]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2009年7月6日</ref>。
2012年(平成24年)12月1日には、近鉄でのICOCA発売開始に合わせ、阪神 - 近鉄連絡のIC定期券の発行を開始した。阪神ではPiTaPa、近鉄ではICOCAで発売される<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20120709hanshinkintetsuICteiki.pdf 「近鉄・阪神連絡IC定期券」の発売について]}} - 近畿日本鉄道・阪神電気鉄道、2012年7月9日。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hanshinkintetsu20121018.pdf 「近鉄・阪神連絡IC定期券」の発売開始日について]}} - 近畿日本鉄道・阪神電気鉄道、2012年10月18日。</ref>。
== 大阪難波延伸開業による利便性の向上 ==
[[ファイル:Sanyo-5000 Kintetsu-9020 Hanshin-8000 hanshin-amagasaki.JPG|thumb|200px|right|阪神なんば線の開業で、尼崎駅では近鉄・阪神・[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]の3社の車両が見られるようになった]]
阪神なんば線の開業により、[[阪神間|阪神地域]]、[[姫路市|姫路]]方面から大阪[[ミナミ]]の繁華街である[[難波]]・[[道頓堀]]、さらに[[奈良県]]方面、そして大阪上本町駅または鶴橋駅で[[近鉄大阪線]]乗り換えで[[三重県]]・[[名古屋市|名古屋]]方面へのアクセスが大幅に改善、強化されている。また、大阪難波駅では[[南海電気鉄道]]と乗り換えが可能となり、[[関西国際空港]]や[[高野山]]、[[和歌山市|和歌山]]などの南海沿線へのアクセス利便性も向上した<ref group="注">南海対阪神の連絡輸送においてはそれのみならず、南海高野線と相互直通運転を行っている[[泉北高速鉄道線|泉北高速鉄道]]が準急を中心に難波駅へ乗り入れているため、[[泉北ニュータウン]]や[[トリヴェール和泉]]などから兵庫県南部方面へのアクセス利便性も向上した。<br>桜川駅も南海[[汐見橋駅]]に隣接しているが、汐見橋駅発着の列車本数は30分に1本程度と少なく、同駅からの列車の終着駅である[[岸里玉出駅]]は普通・各駅停車しか停車しないため、[[南海本線]]や[[南海高野線]]高野山方面への乗り継ぎも便利ではなく、関西国際空港・和歌山方面へのルートとしては一般的ではない。</ref>。これは[[中河内 (大阪府)|中河内]]の近鉄沿線および[[和泉|泉州]]・[[南河内 (大阪府)|南河内]]の南海沿線から神戸方面への移動において、一旦[[梅田]]へ出る必要が大幅に低減し、難波のターミナル性を飛躍的に向上させている。
さらに、近鉄・阪神沿線から大阪ドーム(京セラドーム大阪)への直通アクセスや、近鉄沿線から[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]への直通アクセスも可能となり、利便性の向上による集客の拡大が期待されている反面、既存の路線の乗客が大きく減少する可能性もあると見られている<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.sankei-kansai.com/2009/09/04/20090904-014220.php
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20090908153511/http://www.sankei-kansai.com/2009/09/04/20090904-014220.php
| title = 大阪地下鉄、客足"急ブレーキ" 1日あたり5万人減少
| work = 産経関西
| publisher = [[産経新聞大阪本社]]
| date = 2009-9-4
| accessdate = 2009-9-5
| archivedate = 2009-9-8
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
阪神なんば線と本線を直通する種別は快速急行のみだが、阪神なんば線延伸にあわせて行われた尼崎駅構内の改良(詳しくは「[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]」の項を参照)によって、尼崎駅で下り列車同士、上り列車同士の[[対面乗り換え]]が可能となっており、阪神なんば線と本線の乗り継ぎを容易にしている。また、難波延伸の恩恵を直接には受けない旧西大阪線区間 - 尼崎以西の利用者にとっても、尼崎乗り換えの利便性が向上している。
この開業により、阪神・山陽発売分の[[奈良・斑鳩1dayチケット]]や[[高野山1dayチケット]]は、いずれも阪神なんば線経由で利用するように改められ、その一方で従来から利用できていた大阪市営地下鉄(現・[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]])・ニュートラムは利用できなくなった。大阪市営地下鉄を経由する必要がなくなった分奈良・斑鳩1dayチケットは200円の値下げ(2000円→1800円)が行われたこと(2023年時点では2000円)や奈良方面への注目の高まりもあり、阪神・山陽沿線での売上が大幅に増加している{{R|sankei20090806}}。
阪神なんば線の開業により、阪神電鉄は大阪市内の2大ターミナルである梅田・難波の双方に進出することになった。自社路線のみで梅田・難波の2大ターミナル進出は[[関西私鉄|関西の私鉄]]では初めてである<ref group="注">他社路線乗り入れでは南海が[[1901年]]に梅田進出を実現しているが、現在は乗り入れていない。なお、南海は[[なにわ筋線]]経由での梅田(大阪駅)乗り入れを計画中である。</ref>。ただし、阪神電鉄では「大阪」を単独で用いるときはJR[[大阪駅]]と隣接する大阪梅田駅にのみ用いており、一部の駅の方面案内標で「尼崎・大阪(梅田)・難波・奈良方面」というように「大阪」が梅田のみに冠され、正式駅名の「大阪難波」ではなく「難波」を用いるなどの区別が見られる。
== 利用状況 ==
初年度は1日あたり6万7,000人の利用を見込み、このうち阪神電鉄線や他社線からの移転を除いた新規需要は4万5,000人、運賃収入は38億円を予想している。2009年6月に発表された調査結果によると、阪神なんば線の平均乗客数は1日あたり約5万7,000人で、目標値の約8割である。開通2年目には平均乗客数は1日あたり約6万5,000人となった。定期客は初年度から22%増の3万人、定期外客は5%増の3万5000人だった<ref name="kobe20110319">{{Cite web|和書
| url = http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0003877754.shtml
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20110323165208/http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0003877754.shtml
| title = 阪神なんば線開通2年 収入、乗客ともに増
| publisher = [[神戸新聞]]
| date = 2011-3-19
| accessdate = 2011-4-26
| archivedate = 2011-3-23
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
月間運輸収入は、休日を中心に定期外客・長距離利用者が多く、阪神電鉄と近畿日本鉄道ともに想定の1 - 2割増だった。3月末までの12日間の増収効果は計画比20%増の1億1700万円、4月は12%増の2億8700万円<ref name="asahi20090515">{{Cite web|和書
| url = http://www.asahi.com/national/update/0515/OSK200905150101.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20090519050945/http://www.asahi.com/national/update/0515/OSK200905150101.html
| title = 阪神なんば線、出足順調「初年度目標は達成できそう」
| publisher = [[朝日新聞]]
| date = 2009-5-15
| accessdate = 2009-5-15
| archivedate = 2009-5-19
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>、4 - 6月は16%増の8億9200万円<ref name="sankei20090806">{{Cite web|和書
| url = http://www.sankei-kansai.com/2009/08/06/20090806-013141.php
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20090807222832/http://www.sankei-kansai.com/2009/08/06/20090806-013141.php
| title = 阪神なんば線、効果絶大 「奈良・斑鳩1dayチケット」売り上げ11.5倍
| work = [[産経関西]]
| publisher = [[産経新聞大阪本社]]
| date = 2009-8-6
| accessdate = 2009-8-6
| archivedate = 2009-8-7
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>、4 - 12月は11%増の25億5000万円<ref name="sankei20100313">{{Cite web|和書
| url = http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/100313/sty1003131728002-n1.htm
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20100323061758/http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/100313/sty1003131728002-n1.htm
| title = 阪神なんば線快走続く
| work = [[MSN産経ニュース]]
| date = 2010-3-13
| accessdate = 2010-3-13
| archivedate = 2010-3-23
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
2009年(平成21年)5月に発表された調査結果によると、阪神本線では定期券利用者が全体の半数を占めているのに対し、阪神なんば線では競合路線からの切替が進まず定期券の利用が全体の約3割にとどまっており、今後の定期券利用者の増加が課題としている{{R|sankei20090806|asahi20090515}}。2011年3月の発表によると、初年度の定期券利用者比率は42%、2年目は46%であった<ref name="kobe20110319" />。
== 近鉄特急の乗り入れ計画 ==
阪神なんば線の開業により、近鉄奈良駅 - 神戸三宮駅間だけではなく、[[近鉄名古屋駅]]あるいは[[賢島駅]]から[[山陽姫路駅]](全長はそれぞれ 282.7 km、269.9 km)間など、近畿日本鉄道・阪神電気鉄道・[[山陽電気鉄道]]の1435mm軌間([[標準軌]])の私鉄路線がつながり、技術上直通運転が可能となった<ref group="注">現状、近鉄から山陽に乗り入れ可能な車両は阪神の[[阪神1000系電車|1000系]]と[[阪神9000系電車|9000系]]のみで、近鉄車の山陽直通、山陽車の近鉄直通は不可能。</ref>ことから、近鉄社長の[[小林哲也 (近畿日本鉄道)|小林哲也]]が伊勢志摩と姫路を結ぶ[[近鉄特急|特急]]の乗り入れを検討しており、2007年には阪神と交渉中と報道され<ref>奈良などへ大型ホテル展開へ=阪神との特急乗り入れ充実に意欲-近鉄社長 - 時事通信、2007年9月7日。</ref>、2008年には2010年春を目標とする山陽電気鉄道への乗り入れ構想が報道された<ref>[https://web.archive.org/web/20080714070458/http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0001216392.shtml 姫路と奈良・伊勢結ぶ 近鉄、山陽に乗り入れ計画] (Internet Archive) - 神戸新聞 2008年7月9日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20080929225512/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/080927/biz0809270130001-n1.htm 姫路-賢島に直通特急 私鉄最長250キロ、22年にも] - 産経新聞 2008年9月27日</ref>。一方、阪神社長の坂井信也は線内の過密ダイヤを理由に早期の近鉄特急乗り入れに難色を示し<ref name="interview" />、2010年3月には2010年度中の実現は難しいと述べた<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002770979.shtml
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20100313172157/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002770979.shtml
| title = 近鉄の姫路乗り入れは11年度以降 阪神電鉄社長
| publisher = [[神戸新聞]]
| date = 2010-3-10
| accessdate = 2010-3-15
| archivedate = 2010-3-13
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref><!--(ただし阪神本線においては開業に伴うダイヤ改正で大幅な減便が行われており、開業前より過密ダイヤは緩和されている、ただし近鉄奈良線布施駅から尼崎センタープール前まで列車の追越ができないなどノンストップ運転などに関しては問題となる、また近鉄の乗務員が阪神電鉄線の運転を行うことになるため、訓練など時間が必要となる -->。
臨時特急列車を中心に不定期運行する計画であるが、2013年12月の協議でまずは団体臨時列車としての運転に合意し<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASHD1600S_W3A211C1LDA000/ 近鉄特急、阪神三宮駅へ乗り入れ 来春から団体客向け]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20131217075011/http://www.sankeibiz.jp/business/news/131217/bsd1312171136009-n1.htm 三宮-賢島の「直通特急」運行へ 近鉄社長、事業再編にも言及] - SankeiBiz(サンケイビズ)、2013年12月17日。</ref>、翌2014年1月23日に近鉄・阪神両社から正式発表があり、同年3月22日から近鉄の特急車両([[近鉄22600系電車|22600系]])を使用して神戸三宮駅 - 賢島駅間で運行が開始された<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20140123.pdf 阪神三宮から近鉄沿線の観光地へ 近鉄特急車両(22600系)による団体向け臨時列車を3月22 日から運行開始します]}} - 阪神電気鉄道、2014年1月23日。</ref><ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.asahi.com/articles/ASG3N36MFG3NPTIL008.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20140322215443/http://www.asahi.com/articles/ASG3N36MFG3NPTIL008.html
| title = 三宮―賢島間に初の直通列車 阪神と近鉄、観光シフト
| work = [[朝日新聞デジタル]]
| publisher = [[朝日新聞社]]
| date = 2014-3-22
| accessdate = 2014-3-22
| archivedate = 2014-3-22
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
近鉄と阪神・山陽の車両の長さの違い<ref group="注">近鉄:21m、阪神・山陽:19m。近鉄では19m級の特急用車両[[近鉄18200系電車|18200系]]が存在したが、阪神なんば線全線開業前の2006年に全車廃車され現存しない。山陽は過去に[[山陽電気鉄道700形電車|700形]]で20m級車両を使用した実績があるが、700形の運行終了後に地下化や高架化された区間や新設された駅は非対応。</ref>などから、近鉄特急の神戸三宮駅以西への直通には、専用車両の新造もしくは神戸高速線および山陽電鉄線内のホーム改良や一部区間の[[建築限界]]拡張を要するが、名古屋・伊勢志摩 - 神戸三宮・姫路間の直通運転が実現すれば、私鉄の特急としては日本最長の運転区間となる。
== 歴史 ==
* [[1924年]]([[大正]]13年)
** [[1月20日]] 伝法線として大物駅 - 伝法駅間が開業。
** [[8月1日]] 伝法駅 - 千鳥橋駅間が開業。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月28日]] 尼崎駅 - 大物駅間が開業。
* [[1960年]](昭和35年)6月 難波延長線第1期工事(千鳥橋駅 - 西九条駅間)着工。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[5月20日]] 西大阪線に改称。
** [[5月21日]] 難波延長線第1期工事が完成し、千鳥橋駅 - 西九条駅間が開業。
*** この年の3月22日に[[大阪環状線]]の全線複線化が完成し環状運転が開始されている。
* [[1965年]](昭和40年)9月 西大阪線特急を運転開始。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[8月10日]] 難波延長線第2期工事(西九条駅 - 九条駅間)着工。
** 9月 難波延長線第2期工事中止。
** [[11月12日]] 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1968年]](昭和43年)[[3月17日]] ATS設置
* [[1974年]](昭和49年)[[12月1日]] 西大阪線特急を廃止。
* [[1978年]](昭和53年)[[12月27日]] 全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。
* [[1994年]]([[平成]]6年)[[2月20日]] 大物駅 - 福駅間が高架化工事のため上り線部分のみを残して単線化<ref>{{Cite news |title=阪神西大阪線 大物-福間高架化 単線運転に変更 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-02-22 |page=1 }}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[1月17日]] [[阪神・淡路大震災]]で不通に<ref>{{Cite news |title=阪神間の鉄道分断状態 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-19 |page=1 }}</ref>。翌日夕方から運行再開<ref>{{Cite news |title=完全復旧に数ヵ月以上 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-20 |page=1 }}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[8月31日]] 大物駅 - 福駅間の下り線部分が高架化(単線で高架化)<ref>{{Cite news |title=阪神西大阪線大物-福間 下り線高架化完成 31日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-08-23 |page=1 }}</ref><ref>{{Cite news |title=31日、西大阪線大物駅-福駅間下り線の高架運転開始 |newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1996-08-22 |page=26 }}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[9月26日]] 高架化工事完成により大物駅 - 福駅間が複線に復帰。
* [[2001年]](平成13年)[[7月10日]] 延伸区間の建設と、開業後の第三種鉄道事業を行うため、[[西大阪高速鉄道]]を設立。
* [[2003年]](平成15年)
** [[7月26日]] 尼崎駅改良工事に伴い尼崎駅 - 大物駅(構内)間が単線となる。
** [[10月7日]] [[大阪ドーム]]において、延伸区間(西九条駅 - 近鉄難波駅間)の工事起工式。
* [[2004年]](平成16年)[[3月27日]] 尼崎駅 - 大物駅間の仮線切替に伴い、大物駅構内が複線に復帰。
* [[2007年]](平成19年)
** [[4月21日]] 正蓮寺川橋梁立体交差工事に伴い伝法駅 - 千鳥橋駅間が単線となる。
** [[8月9日]] 難波延伸開業時の既存区間を含めた新路線名が「阪神なんば線」と正式に決定<ref name="line-name" />。
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月2日]] 尼崎駅 - 大物駅間の営業線切替に伴い、再び大物駅構内が単線(上下共用ホーム)となる。
** [[3月10日]] 九条駅 - 近鉄難波駅間の地下区間が貫通する。
** [[3月31日]] 阪神なんば線全通に合わせ近鉄難波駅が「大阪難波駅」に改称することが発表される。
** [[8月30日]] 正蓮寺川橋梁立体交差工事の進捗に伴い伝法駅 - 千鳥橋駅間が複線に復帰。
** [[10月16日]] 近鉄難波駅引上線西端において、延伸区間の軌道と締結。
** [[11月9日]] 桜川駅(西側引上線) - 近鉄難波駅間で初列車を運転<ref>ホッと!HANSHIN 2008年12月号より</ref>。
** [[12月20日]] 尼崎駅改良工事の進捗に伴い尼崎駅 - 大物駅間が複線に復帰。
* [[2009年]](平成21年)
** 1月中旬 延伸区間全線において、試運転を開始。
** [[1月23日]] 営業列車の延伸区間試運転に伴い、6両編成での運転を開始。
** [[3月20日]] 西九条駅 - 大阪難波駅(同日近鉄難波駅から改称<ref name="osaka-namba" />)間が開業し<ref name="kaigyou" />、西大阪線から阪神なんば線に改称<ref name="line-name" />。近鉄奈良線との直通運転開始。三宮駅(現在の神戸三宮駅) - 近鉄奈良駅間で快速急行の運転を開始。
** [[10月14日]] 阪神なんば線が、[[鉄道の日#日本鉄道賞|日本鉄道賞]]を受賞<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20091014.pdf 阪神なんば線が「第8回 日本鉄道賞」を受賞!]}} - 阪神電気鉄道・西大阪高速鉄道プレスリリース 2009年10月14日</ref><ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002427540.shtml
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20091009131652/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002427540.shtml
| title = 日本鉄道賞に阪神なんば線 関西圏活性化に貢献
| publisher = [[神戸新聞]]
| date = 2009-10-8
| accessdate = 2009-10-15
| archivedate = 2009-10-9
| deadlinkdate = 2018年3月30日
}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[3月20日]] ダイヤ改正で快速急行が平日昼間時も大物駅 - 千鳥橋駅の各駅を通過するようになる。代わりに同時間帯の近鉄線からの区間準急を大阪難波発着から尼崎発着に延長。
* [[2014年]](平成26年)4月 [[駅ナンバリング]]を導入<ref name="holdings20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201304304N1.pdf 阪神「三宮」を「神戸三宮」に駅名変更のうえ、駅ナンバリングを導入し、全てのお客さまに分かりやすい駅を目指します]}} - 阪急阪急ホールディングス、2013年4月30日。</ref>。
* 2026年([[令和]]8年)度 出来島駅 - 千鳥橋駅間の下り線を高架に切り替える予定<ref name="大阪市">{{Cite conference |和書 |url=https://www.city.osaka.lg.jp/shiseikaikakushitsu/cmsfiles/contents/0000590/590520/11_fukumachijuusou_setsumeishiryo.pdf#page=11 |title=福町十三線立体交差事業(阪神なんば線) |author=大阪市建設局 |year=2022 |month=11 |conference=令和4年度 第2回 大阪市建設事業評価有識者会議 |conferenceurl=https://www.city.osaka.lg.jp/shiseikaikakushitsu/page/0000585469.html |page=11 |format=PDF |accessdate=2023-04-26}}</ref>。
* 2029年(令和11年)度 出来島駅 - 千鳥橋駅間の上り線を高架に切り替える予定<ref name="大阪市" />。
== 西大阪線延伸事業 ==
西大阪線は西九条駅から[[大阪難波駅|近鉄難波駅]]までの延伸が計画され、2009年(平成21年)3月20日に阪神なんば線として開業した。西九条駅から高架で[[大阪環状線]]と[[旧淀川|安治川]]を乗り越し、九条付近から大阪難波駅までが地下線となっている。
元々、九条駅と桜川駅の2駅のみが新駅として計画されていたが、大阪ドームが開業したこともあって、最初期の計画ルートと比べ大阪ドーム寄りに変更されたため、当初計画より500m程延び、大阪ドーム近くにも駅(ドーム前駅)が設けられた。このため九条駅とドーム前駅の間が短くなっている。
西九条駅 - 九条駅間の安治川に架かる鉄橋を架設するにあたっては、現地が住宅や工場が密集していることから通常のクレーンを使用した工事ができないということで、別の場所であらかじめ製作した重さ530tのアーチを船上で組み立てて、[[大阪湾]]の[[潮汐|引き潮]]を利用して船を下ろす「[[ポンツーン]]」という工法を使って敷設した。
また、九条駅 - 大阪難波駅の各駅間のトンネルは、外径6800mm、内径6300mmのセグメントを用いた[[シールドトンネル|シールド工法]]で施工されている<ref name=tunnel>{{PDFlink|[http://www.nishiosaka-railway.co.jp/pdf/070119shield.pdf 西大阪延伸線のうち土木工事(第2工区)シールド工法について]}} 西大阪高速鉄道、2007年2月20日。
*{{PDFlink|[http://www.nishiosaka-railway.co.jp/business/outline/images/pdf_nishi_1.pdf 計画の概要(大阪市西区・その1)]}} 同上
*{{PDFlink|[http://www.nishiosaka-railway.co.jp/business/outline/images/pdf_nishi_2.pdf 計画の概要(大阪市西区・その2)]}} 同上
*{{PDFlink|[http://www.nishiosaka-railway.co.jp/business/outline/images/pdf_taisyo.pdf 計画の概要(大阪市大正区・大阪市浪速区)]}} 同上</ref>。
西大阪線延伸の総事業費は当初1,071億円と見積もられていたが、阪神電鉄社長(当時)の[[坂井信也]]によって実際には900億円程度にとどまるという見通しが示され<ref name=interview>2009年3月14日[[朝日新聞]]朝刊11面の坂井信也インタビューによる。</ref>、その後総事業費は890億円と西大阪高速鉄道の公式サイトに記されている<ref>[http://www.nishiosaka-railway.co.jp/business/ 西大阪高速鉄道]「事業計画の概要」項の表中「総事業費」を参照</ref>。
=== 建設の経緯 ===
{{右|
[[ファイル:Hanshin Ajigawa Bridge Osaka JPN 001.jpg|thumb|none|200px|阪神なんば線安治川橋梁]]
[[ファイル:Nishi-Kujo Station2.JPG|thumb|none|200px|阪神西九条駅(この写真の右側から安治川・難波へ向けて鉄道路線が延伸された)]]
}}
太平洋戦争後、阪神本線の[[野田駅 (阪神)|野田駅]]から難波を経て[[近畿日本鉄道|近鉄]]の[[鶴橋駅]]を結ぶ路線が計画され、阪神電鉄と近鉄は共同で大阪高速鉄道(大阪モノレールを運営する現在の[[大阪高速鉄道]]とは無関係)を設立し、[[1946年]](昭和21年)11月8日に同区間の軌道事業特許(橋梁2本1km・トンネル1km・資本金2億円・建設経費2億3千万円)を申請した。しかし、市内交通公営主義([[市営モンロー主義]])を掲げる[[大阪市]]が反対<ref>『市営交通事業の現状と将来(都市交通審議会大阪部会公述書)、大阪市、昭和31年10月』</ref>、これに対抗して同じルートを通る[[Osaka Metro千日前線|地下鉄5号線(千日前線)]]の建設計画を立て、[[1948年]](昭和23年)9月2日に軌道事業特許を申請した。そこで阪神電鉄と近鉄は、阪神電鉄が持つ伝法線西九条延伸計画を近鉄が建設する[[近鉄難波線|難波線]]の近鉄難波駅まで延伸する計画に変更した上で1948年(昭和23年)9月に特許申請した。この時も大阪市は前述の理由で強硬に反対し[[運輸省]]に2度も陳情書を提出する。だが、復興に伴う市内の交通需要の高まりに対して市の交通網整備は遅遅として進まず、業を煮やした[[赤間文三]][[大阪府知事]]が近鉄・阪神側を支持する事態となり、市と府との対立が新たな問題となってきた。そこで[[政府]]の仲裁で都市交通審議会が設けられ、[[1956年]](昭和31年)から[[1958年]](昭和33年)にかけての市側と近鉄・阪神側との話し合いと政府による強い要請もあって、[[1957年]](昭和32年)6月の大阪部会の席上、市側が譲歩し、1958年(昭和33年)3月の答申3号で千鳥橋 - 難波 - 上本町間が認められた(ただし千日前線も加えられる)。以上のような紆余曲折の末に、[[1959年]](昭和34年)2月に軌道法による特許を取得した。
=== 約40年越しの延伸計画 ===
阪神西大阪線は、[[1964年]](昭和39年)[[5月21日]]に[[千鳥橋駅]] - 西九条駅間が開通し、[[1967年]](昭和42年)8月から西九条駅 - 近鉄難波駅間も用地買収に取り掛かったが、西大阪線の延伸によって町が分断されることや、神戸・難波方面に買い物客が逃げることを懸念し、九条商店街などが激しい反対運動を行ったことから、工事を一度中断させて事態の沈静化を図った。それが故、西大阪延伸線を地下に建設するように求める「もぐれ!!阪神」なる抗議活動<ref>[https://osakadeep.info/hanshin-namba-line-delayed-40years/#google_vignette 【九条-西九条】住民エゴのせいだった?「阪神なんば線」延伸工事が40年間遅れた理由](大阪Deep案内)</ref>まで起きたほどである。
ところが、[[1970年代]]後半に入ると[[阪神本線]]の需要は伸び悩み、2度の[[オイルショック|石油ショック]]を経て建設費も高騰したことから、自社単独での延伸工事は凍結状態となってしまった。一方で、西大阪線の延長計画は[[1971年]](昭和46年)と[[1989年]](平成元年)の[[運輸政策審議会]]において「目標年次までに整備すべき路線」と位置付けられ、[[1997年]](平成9年)には延伸予定区域に[[大阪ドーム]]が開業するなど、沿線の[[都市再開発|再開発]]も進められていたことから、延伸への社会的要請は高まってきていた。[[1992年]](平成4年)度からは、阪神からの要請で西大阪線の延長路線が[[日本鉄道建設公団]]の[[日本鉄道建設公団#P線(大都市における民営鉄道)|P線]]の調査線に入った<ref>[[川島令三]]『どうなる新線鉄道計画 西日本編』[[産調出版]]、1994年、132頁。ISBN 4-88282-129-X。</ref>。
[[ファイル:阪神なんば線-工事中.jpg|サムネイル|199x199ピクセル|建設中の延伸区間。大阪市西区九条南3丁目付近。2007年撮影。]]
1990年代に入ると、工事に反対していた商店街は衰退傾向を打破するために延伸を期待するようになり<ref>川島令三『どうなる新線鉄道計画 西日本編』133頁。</ref>、さらに大阪市西部地域の活性化策が検討されるようになったことなどで、再度脚光を浴び始めた。このため、施設の建設・保有と運営を別会社が行う[[上下分離方式]]で事業が進められることになり、阪神と近鉄をはじめ[[大阪府]]、[[大阪市]]、沿線に再開発用地を所有する[[大阪瓦斯|大阪ガス]]、[[関西電力]]、金融機関などの出資によって、建設主体となる[[第三セクター]]の「[[西大阪高速鉄道]]」が[[2001年]](平成13年)に設立された。かつて同計画に強硬に対抗していた大阪市が一転して阪神電鉄に協力した背景には、大阪市が出資するものの経営が芳しくない大阪ドームでの[[阪神タイガース]]の試合数を増やしてもらおうとの思惑もあるといわれる<ref group="注">なお、阪神電鉄自身も大阪ドームの旧運営法人(第三セクター)に出資していた。</ref>。[[2003年]](平成15年)[[1月23日]]に工事施行認可が下り、同年[[10月7日]]から着工された。
こうした経過の末に延伸区間の建設を開始したが、使用車両の製造においても紆余曲折が見られた。当初は[[阪神3801・3901形電車|3801形]]の製造時に[[発電ブレーキ]]と[[抑速ブレーキ]]を装備して急勾配に備えたが、延伸計画が凍結状態になるに及んで製造は4両編成×3本の12両で終了し<ref group="注">うち1編成は脱線を度々起こすなどで12年で廃車となり、残った8両は6両と2両に組み替えられたが、本線用の6両編成はなんば線延伸を前にして廃車となり、残り2両も性能上武庫川線専用であるため、延伸なったなんば線へ乗り入れることはなかった。</ref>、その後大量増備された[[阪神8000系電車|8000系]]では延伸計画について特段の考慮は払われなかった。
== 阪神なんば線淀川橋梁改築事業 ==
阪神なんば線淀川橋梁は両端の線路部分が堤防の高さより低く、堤防には防潮鉄扉(水防鉄扉)<ref group="注">[[国土交通省]]の名称では『阪神[[陸閘]]』と呼ぶ。</ref>が設置されており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hanshin.co.jp/railfan/2866.htm |title=淀川橋梁の水防鉄扉 |publisher=まにあっく・阪神([[阪神電気鉄道]]) |date=2001-06 |accessdate=2021-08-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090608160912/http://www.hanshin.co.jp/railfan/2866.htm |archivedate=2009-06-08}}</ref>、淀川(新淀川)の増水時や[[台風]]の接近による[[高潮]]の恐れがある場合には鉄扉を閉鎖し、全線を運休とする措置がとられる。平常時でも水面から橋梁まで4 m強しかないうえに橋脚が多く、洪水時には流れを阻害する可能性が指摘され、橋梁の改築が検討されてきたが、新淀川河口近くの橋梁<ref group="注">新淀川を跨ぐ鉄道用の橋梁としては最下流部に位置する。</ref>は長大である上に工事費用が高額となることや、住宅密集地であることから調整が難航し<ref name="mai20170111">[https://mainichi.jp/articles/20170111/k00/00e/040/255000c 淀川橋梁 消える「水面すれすれ橋」 架け替え決定] - 毎日新聞 2017年1月11日</ref>、[[2000年]](平成12年)の事業化決定後も具体的な計画策定が進んでいなかった<ref name="mai20170111" />。のち[[2017年]][[1月11日]]、国土交通省近畿地方整備局、大阪府、大阪市、阪神電鉄の四者が会合で橋梁改築の方針を確認した<ref name="mai20170111" />。
新橋梁は現在地より下流側に整備され、堤防より約3 m高い橋を架ける予定で<ref name="mai20170111" />、桁下高は約7 m上がり、防潮鉄扉は廃止される。架け替えに併せて線路を移設のうえ周辺部を高架化、完成後は阪神なんば線全線が立体交差化される。事業区間は2.4kmで、2018年12月9日に工事着手<ref name="mai20170111" /><ref>{{Cite news |title=近畿整備局ら4者 / 阪神なんば線淀川橋梁改築計画案 / 現橋西側に新橋梁整備 |url=http://www.decn.co.jp?p=81332 |newspaper=建設工業新聞 |date=2017-01-12 |accessdate=2017-01-12}}</ref>、[[2032年]]度に完了する予定<ref>{{Cite web|和書|title=平成31年度(2019年度)予算案・説明 |url=https://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/cmsfiles/contents/0000431/431761/gaiyou.pdf#page=60 |publisher=大阪市 |format=PDF |page=60 |accessdate=2019-10-29}}</ref>。福駅周辺は北東側に仮線・仮駅を設け元の位置に戻すが、福駅 - 淀川橋梁 - 伝法駅 - [[正蓮寺川]](既に暗渠化)区間は南西側に移設となる。
なお、かつては大物駅 - 出来島駅間を流れる[[左門殿川]]や[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]の橋梁にも淀川同様の防潮鉄扉があったが、これらは高架化による線路架け替えにより解消した。また、本線の淀川橋梁もかつては阪神なんば線同様に防潮鉄扉があったが、[[1969年]][[3月31日]]に現在の淀川橋梁に架け替えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/history/index_4.html |title=年譜 昭和 後期 |publisher=[[阪神電気鉄道]] |date= |accessdate=2021-08-23 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>(旧橋梁部分には現在[[阪神高速3号神戸線]]が通る)。
== 駅一覧 ==
; 凡例
:●:停車、|:通過
:普通・区間準急・準急は阪神なんば線内各駅に停車する。特急列車(団体臨時列車のみ)については「[[近鉄特急]]」の項目を参照。
:接続路線内の括弧内は該当駅の[[駅ナンバリング|駅番号]]を示す。
* 駅番号は2014年4月より導入<ref name="holdings20130430" /><ref>[http://rail.hanshin.co.jp/station/osakanamba.html 大阪難波駅] - 阪神電車、2014年4月1日閲覧。</ref>。
* 駅番号順に記述。正式な起点は尼崎駅。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #1f64b1"|駅番号
!style="width: 6em; border-bottom:solid 3px #1f64b1"|駅名
!style="width: 2.5em; border-bottom:solid 3px #1f64b1"|駅間キロ
!style="width: 2.5em; border-bottom:solid 3px #1f64b1"|営業キロ
!style="width:1em; line-height:1.2em; background:#9cf; border-bottom:solid 3px #1f64b1"|{{縦書き|快速急行}}
!style="border-bottom: solid 3px #1f64b1"|接続路線
!style="border-bottom:3px solid #1f64b1; width:1em"|{{縦書き|地上/地下|height=6em}}
!colspan="2" style="border-bottom: solid 3px #1f64b1"|所在地
|-
!HS 41
|[[大阪難波駅]]
|style="text-align: center"|-
|style="text-align: right"|0.0
|style="text-align: center; background:#9cf"|●
|'''[[近畿日本鉄道]]:'''{{近鉄駅番号|A}} '''[[近鉄難波線|難波線]] (A01)([[近鉄奈良線]][[近鉄奈良駅]]まで直通運転)<!--→(最長の)目的地だけで結構。-->'''<br>[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M20)・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] (Y15)・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] (S16)([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])<br>[[南海電気鉄道]]:[[ファイル:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] [[南海本線]]・[[ファイル:Nankai koya line simbole.svg|15px|NK]] [[南海高野線|高野線]]<ref name="linename" group="*">運転系統としての「高野線」。同線の正式な起点は[[汐見橋駅]]。</ref>([[難波駅 (南海)|難波駅]]:NK01)<br>[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])([[JR難波駅]]:JR-Q17)
|rowspan="4" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em"|{{縦書き|地下区間|height=5em}}
|rowspan="9" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em"|{{縦書き|[[大阪府]][[大阪市]]|height=12em}}
|[[中央区 (大阪市)|中央区]]
|-
!HS 42
|[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]
|style="text-align: right"|1.1
|style="text-align: right"|1.1
|style="text-align: center; background:#9cf"|●
|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] 千日前線 (S15)<br>南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai koya line simbole.svg|15px|NK]] 高野線(汐見橋線)([[汐見橋駅]]:NK06-5)
|[[浪速区]]
|-
!HS 43
|[[ドーム前千代崎駅|ドーム前駅]]
|style="text-align: right"|0.8
|style="text-align: right"|1.9
|style="text-align: center; background:#9cf"|●
|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Nagahori_Tsurumi-ryokuchi_line_symbol.svg|15px|N]] [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]](ドーム前千代崎駅:N12)
|rowspan="2"|[[西区 (大阪市)|西区]]
|-
!HS 44
|[[九条駅 (大阪府)|九条駅]]
|style="text-align: right"|0.6
|style="text-align: right"|2.5
|style="text-align: center; background:#9cf"|●
|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Chuo_line_symbol.svg|15px|C]] [[Osaka Metro中央線|中央線]] (C14)
|-
!HS 45
|[[西九条駅]]
|style="text-align: right"|1.3
|style="text-align: right"|3.8
|style="text-align: center; background:#9cf"|●
|西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]] (JR-O14)・{{JR西路線記号|K|P}} [[桜島線|桜島線(JRゆめ咲線)]](JR-P14)
|rowspan="7" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em"|{{縦書き|地上区間|height=5em}}
|rowspan="3"|[[此花区]]
|-
!HS 46
|[[千鳥橋駅]]
|style="text-align: right"|0.8
|style="text-align: right"|4.6
|style="text-align: center; background:#9cf"||
|
|-
!HS 47
|[[伝法駅]]
|style="text-align: right"|0.7
|style="text-align: right"|5.3
|style="text-align: center; background:#9cf"||
|
|-
!HS 48
|[[福駅]]
|style="text-align: right"|1.5
|style="text-align: right"|6.8
|style="text-align: center; background:#9cf"||
|
|rowspan="2" style="white-space:nowrap"|[[西淀川区]]
|-
!HS 49
|[[出来島駅]]
|style="text-align: right"|1.0
|style="text-align: right"|7.8
|style="text-align: center; background:#9cf"||
|
|-
!HS 08
|[[大物駅]]
|style="text-align: right"|1.4
|style="text-align: right"|9.2
|style="text-align: center; background:#9cf"||
|[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]]
|rowspan="2" colspan="2"|[[兵庫県]]<br>[[尼崎市]]
|-
!HS 09
|[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]
|style="text-align: right"|0.9
|style="text-align: right"|10.1
|style="text-align: center; background:#9cf"|●
|阪神電気鉄道:'''[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] 本線(快速急行は一部を除き[[三宮駅|神戸三宮駅]]まで直通運転)'''
|}
{{Reflist|group="*"}}
ドーム前駅 - 桜川駅間で下り線がわずかに大阪市[[大正区]]を通る。
== その他 ==
{{雑多な内容の箇条書き
| date = 2023年7月
| section = 1
}}
*阪神なんば線の開業を記念して以下のような企画や乗車券の発売が行われた。
**[[山崎製パン]]の一部の商品で、阪神なんば線のロゴや車両の絵が印刷されたものが発売された<ref>[https://railf.jp/news/2009/03/12/112500.html 阪神なんば線のロゴ入りパン、発売中]、『鉄道ファン railf.jp』鉄道ニュース 交友社、2009年3月12日掲載。</ref>。また、開業日からは大阪新阪急ホテルで阪神1000系をあしらった和風ロールケーキ「阪神なんば線ロール」を発売した<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/HH200903173N1.pdf 阪神なんば線開通を記念し、新型車両をイメージした「阪神なんば線ロール」を発売]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2009年3月18日。</ref>。
**2009年(平成21年)3月8日から、「御堂筋オープンフェスタ2009」が開催される5月10日まで、[[御堂筋]]に開業記念バナーを掲出していた。また、3月6日から約1か月間は南堀江のオレンジストリートにもバナーが掲出された<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090305-2.pdf 御堂筋に阪神なんば線PRバナーを掲揚します!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2009年3月5日。</ref>。
**開業1か月前の2009年(平成21年)2月20日から、近鉄奈良線(近鉄奈良駅 - 大阪難波駅)、阪神なんば線と[[阪神本線]](大阪難波駅 - 尼崎駅 - 三宮駅)が1日間乗り放題となる「阪神⇔近鉄お試しチケット」が大人用20000枚、小人用2000枚の枚数限定で発売されたが、大人用については発売後わずか半日で完売した<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001714251.shtml
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20090324090722/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001714251.shtml
| title = 限定切符、初日に完売 阪神・近鉄1日乗り放題
| author = 金海隆至
| publisher = [[神戸新聞]]
| date = 2009-2-21
| accessdate = 2009-5-5
| archivedate = 2009-3-24
| deadlinkdate = 2018年3月30日 }}</ref>。
**同年5月20日から6月29日には、「阪神・近鉄直通運転開始記念 お伊勢さんきっぷ」を大人用10000枚、小人用1000枚の枚数限定で発売した。これには往復(加えて伊勢志摩地区内)の近鉄特急券の引き換え券、そして近鉄の最寄り駅から[[伊勢神宮]]までの[[三重交通]]バス往復乗車券がそれぞれ付いた。
*開業1周年を記念してラジオドラマ『[[三月の花嫁 on ドラマティックロード]]』が2010年2月20日から3月20日まで[[エフエム大阪|FM大阪]]で放送され、3月27日と29日に[[エフエムキタ]]でも放送された。
*2009年(平成21年)に初めて発売された南海電気鉄道・[[阪堺電気軌道]]・[[南海バス]]などとの共同企画乗車券「堺・住吉まん福チケット」の阪神版・山陽版が2010年に発売され、阪神なんば線なども利用できるようになった<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20100415-2.pdf 「堺・住吉まん福チケット」阪神版・山陽版を発売します!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2010年4月15日。</ref>。反対に、南海電気鉄道は同社沿線から神戸方面へ行くための企画乗車券を発売していなかったが、2012年1月から「『[[KOBE de 清盛 2012|KOBE de 清盛]]』1dayパス(南海版)」<ref>{{Wayback|url=http://www.nankai.co.jp/traffic/otoku/kobe1day/index.html|title= 「KOBE de 清盛」1dayパス|date=20120303031213}}</ref>を、さらにそれに続いて同年5月25日からも[[関西空港駅]]のみでの発売ではあるが「[http://www.nankai.co.jp/traffic/otoku/kobe_access/index.html 神戸アクセスきっぷ]」 <ref group="注">阪神沿線から南海線経由で関西空港へは「[http://rail.hanshin.co.jp/ticket/otoku/?mode=detail&seq=88 関空アクセスきっぷ【阪神版】]」を発売。</ref>をそれぞれ発売開始した。
*2018年3月17日配信開始の阪神電車公式[[モバイルアプリケーション|アプリ]]において、当日より乗り入れ先の近鉄と<ref name="hanshin_app" />、2020年3月24日から(大阪)難波・桜川(汐見橋)駅で接続する南海と<ref>{{PDFlink|[https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20200323-hanshin-apuri-3.pdf 『阪神アプリ』に山陽・南海アプリとの連携機能が加わります]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2020年3月23日。</ref>、2021年11月1日から西九条・大阪難波駅で接続するJR西日本(WESTER)<ref>[https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/3337 列車走行位置情報サービスの公式アプリ間連携を拡大しました!] - 阪神電気鉄道プレスリリース 2021年11月1日。</ref>の各公式アプリとそれぞれ「列車走行位置」での連携を行っている。
*2023年には、阪神なんば線沿線の京セラドーム大阪を[[専用球場|本拠地]]とする[[オリックス・バファローズ]]と、本線沿線の[[阪神甲子園球場]]を本拠地とする[[阪神タイガース]]の両球団がリーグ優勝、[[クライマックスシリーズ]]も勝ち抜いて[[2023年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で対戦することとなり、阪神電鉄でも「なんば線シリーズ」と題して記念乗車券を発売した<ref>{{PDFLink|[https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/683d523a3b6451e7b51acade136ab9de0fdda142.pdf SMBC日本シリーズ なんば線シリーズ記念乗車券&入場券セットの発売について]}} 阪神電気鉄道、2023年10月21日(2023年10月23日閲覧)。</ref>。
== キロポストについて ==
前述のような歴史的経緯から、阪神なんば線では距離を示す[[距離標|キロポスト]]が3つに分かれている。(矢印の方向にキロ数が増える)
# 尼崎駅→千鳥橋駅
#: 旧伝法線として開通した区間を尼崎起点でキロポストを打っているため。
# 千鳥橋駅→西九条駅
#: 西九条への延伸(難波延長線第1期工事)に際して、千鳥橋から西九条へ向けての新たな0キロポストを設けたため。
# 西九条駅→大阪難波駅
#: 西大阪高速鉄道が建設した区間を西九条起点でキロポストを打っているため。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 佐藤信之 「<small>鉄道・軌道プロジェクトの事例研究 23</small> 西大阪高速鉄道と阪神西大阪延伸線関連工事」 『[[鉄道ジャーナル]]』2003年10月号、鉄道ジャーナル社、125-127頁。
* 久保田晃司 「<small>2008年度完成予定</small> 西大阪延伸線の概要」『[[鉄道ピクトリアル]]』2004年3月号、[[電気車研究会]]、98-102頁。
* 森口誠之『鉄道未成線を歩く NO・4 大阪市交通局』とれいん工房 2007年8月 自費出版 11-13,41-43,97頁。
* 三木理史 「【特集】大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)」『鉄道ピクトリアル』2019年8月号臨時増刊、電気車研究会、95-100頁。
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄難波線]]
*[[真弓明信]] - [[阪神タイガース]]監督を務めていた2009年1月より阪神なんば線開業告知のポスター・CMに出演し、阪神球団の監督が初めて阪神のCMに出演。
*[[ガヴォット (ゴセック)|ガボット]] - 2008年3月に放送された「阪神なんば線 来春開業」のCMソングに使われた楽曲。
*[[市営モンロー主義]]
*[[関西ダービー (日本プロ野球)]]
**[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Hanshin Namba Line}}
{{Wikinews|阪神電鉄なんば線開業 近鉄線との直通で阪神間と奈良が一本に}}
*[https://www.nishiosaka-railway.co.jp/ 西大阪高速鉄道公式サイト]
*{{Wayback |url=http://www.hanshin.co.jp/nambasen/ |title=阪神なんば線サイト(阪神電鉄ホームページ内) |date=20090118155224}}
*{{Wayback |url=http://www.hanshin.co.jp/group/close-up/nishi-osaka.html |title=クローズアップHANSHIN 西大阪難波延伸事業 |date=20071025055901}}
*[https://www-1.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/activity/comit/bridge-reconst.html 阪神なんば線淀川橋梁改築事業に関する取り組み] - 国土交通省 近畿地方整備局 淀川河川事務所
* [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2009年11月号レポート1{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/PCOtydYfPTQm.pdf 「阪神なんば線(西大阪延伸線)の駅デザインと環境に配慮した取り組みについて」]}}(pp.23 - 28掲載)
{{阪神電気鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:はんしんなんはせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|なんはせん]]
[[Category:阪神電気鉄道|路なんはせん]]
[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:大阪府の交通]]
|
2003-09-29T09:19:32Z
|
2023-12-04T08:25:09Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%B0%E7%B7%9A
|
18,716 |
阪神武庫川線
|
武庫川線(むこがわせん)は、兵庫県西宮市の武庫川駅から武庫川団地前駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。
武庫川西岸の築堤沿いに走る、西宮市南東にある武庫川団地の通勤・通学路線である。全線単線だが、武庫川駅 - 洲先駅間は複線分の用地が確保されている。
キロポストは武庫川団地前駅から武庫川駅に向かって純粋に数字が増えていく。洲先駅と東鳴尾駅間にある東鳴尾踏切北側に2キロポスト、武庫川駅の高架下に3キロポストがある。これは今津出屋敷線の前大浜への延伸計画があったときに前大浜を0キロポストとする予定だったため。以前は洲先駅付近に建設途中の今津出屋敷線の橋脚が長期放置されたが、現在は撤去されている。
東鳴尾駅 - 洲先駅間の駅間距離(営業キロ)は0.4 kmで、これは阪神電鉄全線で最短である。
線内折り返し列車がワンマン運転で運行されている。全列車が2両編成で、朝夕は2編成が運用に入り、東鳴尾駅で交換を行う。早朝・日中と深夜近くから終電までの間は1編成のみの運用である。全列車が普通列車であり、武庫川駅 - 武庫川団地前駅間の運転である。昼間は20分間隔、平日朝は12分間隔、土休日朝と夕方は10分間隔、早朝・夜間は12 - 15分間隔での運転である。
信号現示は、停止(赤)、警戒(黄×2)、注意(黄)の3種類のみで、全線で最高速度が注意信号相当の45km/hに制限されている。よって、線内の信号機には、進行現示に用いる青色灯が入換信号機を除いて存在しない。また、警戒現示は東鳴尾駅の場内信号機で、2編成運用時のみに見られる。架線は高速運転が可能なコンパウンドカテナリー式となっている。
ワンマン運転については、ドア開閉スイッチが運転席になく、ドア扱い時は運転士が直接目視で確認しつつ行う(必ず運転席から離れる)ようになっている。
阪神の現有路線の中で唯一他路線との直通運転を行っておらず、また車両も他社の乗り入れがなく自社の2両編成のみが運行されている。また大晦日から元日にかけての終夜運転は実施しない。
使用する編成は、ワンマン運転対応改造を受けた5500系に限定されている。この車両は武庫川線用の4編成全てが野球にちなんだ内外装(阪神タイガースと阪神甲子園球場、トラッキー、TORACO)としており、それぞれ「タイガース号」、「甲子園号」、「トラッキー号」、「TORACO号」として運行されている。
1967年から1984年の武庫川団地開業前までは、3301形が単行(1両編成)で使用されていた。冷房改造後も1両で運用される当路線ではMG容量の問題により、冷房を使用することが出来なかった。また、方向幕に「武庫川⇔洲先」が収録されていないため、方向幕に「普通」と表示し、「武庫川⇔洲先」のサボを掲示した。
1984年からは7861形(7964F、7966F、7968F)が使用され、1986年からは7890形(7890F)も加わり、2000年10月1日からのワンマン運転開始に伴いワンマン運転対応の改造が施工されたが、これらの車両は2020年6月3日に5500系に置き換えられて運用を終了した。7890形のうち1両はUR都市機構に寄贈した上で武庫川団地内に展示することになり、2021年3月4日未明に現地に搬入された。
なお、5500系の導入以前は全て赤とクリーム色の特急・急行用車両の塗装を纏った赤胴車を使用していたが、前述の通りすべて普通列車(各駅停車)としての運行である。なお、試運転で1000系の2両編成が入線したことがある。
現在は武庫川団地となっている西宮市高須町にあった軍需工場、川西航空機(現・新明和工業)鳴尾製作所への従業員および資材輸送のために建設され、1943年(昭和18年)11月21日に武庫川 - 洲先間、1944年(昭和19年)8月17日に武庫大橋 - 武庫川間が開業した。軍の要請での路線建設であったため、阪神の一般社員や学生の勤労奉仕隊なども動員した突貫工事が行われた。用地は全線複線分を確保していたが単線で建設され、武庫大橋、武庫川、東鳴尾の各駅で上下列車が交換できるようになっていた。開業当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅付近にあたる。開業後1年経たないうちに川西航空機の工場とともに空襲の被害を受け、期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えている。
西ノ宮駅(現・西宮駅)から国有鉄道(鉄道省→日本国有鉄道)貨物列車の乗り入れのため、武庫大橋 - 洲先間は三線軌条化されていた。国有鉄道の貨物列車のみが乗り入れる西ノ宮 - 武庫大橋間は阪神の路線としては未開業(未成線)扱いとされ、貨物列車は全線にわたって国有鉄道の管理下で運行されていた。なお、後の調査で、阪神も省線甲子園口駅に駅を設ける計画があり、昭和18年(1943年)3月19日付の官報に、阪神武庫川線が甲子園口駅までの運行の特許を受けたことが掲載されていたことが判明した(現在の駅南東の線路に沿って延びる駐輪場が、阪神甲子園口駅予定地であったという)。
旅客営業としては、戦後すぐに全線の旅客営業が休止とされた後、1948年10月に武庫川から現在の洲先駅までの1.1kmのみ運行が再開された。その後、武庫川団地の開発にともなって1984年(昭和59年)4月3日に武庫川団地駅まで延伸され、現在に至っている。
貨物輸送は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあって戦後も続けられたが、1950年代には運行が停止され、1958年(昭和33年)に正式に休止(廃止)となった。
なお、廃止された区間のうち、武庫川 - 武庫大橋間1.5kmは、本線との合流のための引き上げ線の部分とその先の100mほどの敷地を除いて民間に売却され、駐車場や住宅となっているが、住宅が武庫川沿いに細長く均一に連続している状態から、往時の軌道敷の跡を想像することもできる。武庫大橋 - 西ノ宮間は、甲子園口駅東方の東海道本線(JR神戸線)との合流部であった場所までは空き地が目立つが、その合流部には阪神園芸所有の建物が建てられていた(のち解体、現在は分譲マンション)。また、甲子園口駅では、武庫川線の廃線跡が下り外側線に転用され、内側線には折り返し設備が設けられている。
西ノ宮駅 - (甲子園口駅) - 武庫大橋駅 - 小松駅 - 武庫川駅
この路線との競合相手は阪神バスの路線バスで、バスは甲子園駅もしくはJR神戸線の甲子園口駅から発着し、なおかつ運行本数が武庫川線よりも多い。加えて武庫川線と本線の乗換駅である武庫川駅が特急(直通特急含む)通過駅であるのに対し、バスだと特急(平日朝の上りの直通特急を除く)停車駅の甲子園駅発着であるため利便性が高い。また、武庫川団地駅が団地北側の少し離れた場所に立地しているのに対し、バスは団地内をくまなく巡回するという利便性もあり、武庫川線よりもバスを利用する団地住民も多い。
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"text": "武庫川線(むこがわせん)は、兵庫県西宮市の武庫川駅から武庫川団地前駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。",
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"text": "武庫川西岸の築堤沿いに走る、西宮市南東にある武庫川団地の通勤・通学路線である。全線単線だが、武庫川駅 - 洲先駅間は複線分の用地が確保されている。",
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"text": "キロポストは武庫川団地前駅から武庫川駅に向かって純粋に数字が増えていく。洲先駅と東鳴尾駅間にある東鳴尾踏切北側に2キロポスト、武庫川駅の高架下に3キロポストがある。これは今津出屋敷線の前大浜への延伸計画があったときに前大浜を0キロポストとする予定だったため。以前は洲先駅付近に建設途中の今津出屋敷線の橋脚が長期放置されたが、現在は撤去されている。",
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"text": "東鳴尾駅 - 洲先駅間の駅間距離(営業キロ)は0.4 kmで、これは阪神電鉄全線で最短である。",
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"text": "線内折り返し列車がワンマン運転で運行されている。全列車が2両編成で、朝夕は2編成が運用に入り、東鳴尾駅で交換を行う。早朝・日中と深夜近くから終電までの間は1編成のみの運用である。全列車が普通列車であり、武庫川駅 - 武庫川団地前駅間の運転である。昼間は20分間隔、平日朝は12分間隔、土休日朝と夕方は10分間隔、早朝・夜間は12 - 15分間隔での運転である。",
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"text": "信号現示は、停止(赤)、警戒(黄×2)、注意(黄)の3種類のみで、全線で最高速度が注意信号相当の45km/hに制限されている。よって、線内の信号機には、進行現示に用いる青色灯が入換信号機を除いて存在しない。また、警戒現示は東鳴尾駅の場内信号機で、2編成運用時のみに見られる。架線は高速運転が可能なコンパウンドカテナリー式となっている。",
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"text": "阪神の現有路線の中で唯一他路線との直通運転を行っておらず、また車両も他社の乗り入れがなく自社の2両編成のみが運行されている。また大晦日から元日にかけての終夜運転は実施しない。",
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"text": "使用する編成は、ワンマン運転対応改造を受けた5500系に限定されている。この車両は武庫川線用の4編成全てが野球にちなんだ内外装(阪神タイガースと阪神甲子園球場、トラッキー、TORACO)としており、それぞれ「タイガース号」、「甲子園号」、「トラッキー号」、「TORACO号」として運行されている。",
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"text": "1967年から1984年の武庫川団地開業前までは、3301形が単行(1両編成)で使用されていた。冷房改造後も1両で運用される当路線ではMG容量の問題により、冷房を使用することが出来なかった。また、方向幕に「武庫川⇔洲先」が収録されていないため、方向幕に「普通」と表示し、「武庫川⇔洲先」のサボを掲示した。",
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"text": "1984年からは7861形(7964F、7966F、7968F)が使用され、1986年からは7890形(7890F)も加わり、2000年10月1日からのワンマン運転開始に伴いワンマン運転対応の改造が施工されたが、これらの車両は2020年6月3日に5500系に置き換えられて運用を終了した。7890形のうち1両はUR都市機構に寄贈した上で武庫川団地内に展示することになり、2021年3月4日未明に現地に搬入された。",
"title": "使用車両"
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"text": "なお、5500系の導入以前は全て赤とクリーム色の特急・急行用車両の塗装を纏った赤胴車を使用していたが、前述の通りすべて普通列車(各駅停車)としての運行である。なお、試運転で1000系の2両編成が入線したことがある。",
"title": "使用車両"
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"text": "現在は武庫川団地となっている西宮市高須町にあった軍需工場、川西航空機(現・新明和工業)鳴尾製作所への従業員および資材輸送のために建設され、1943年(昭和18年)11月21日に武庫川 - 洲先間、1944年(昭和19年)8月17日に武庫大橋 - 武庫川間が開業した。軍の要請での路線建設であったため、阪神の一般社員や学生の勤労奉仕隊なども動員した突貫工事が行われた。用地は全線複線分を確保していたが単線で建設され、武庫大橋、武庫川、東鳴尾の各駅で上下列車が交換できるようになっていた。開業当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅付近にあたる。開業後1年経たないうちに川西航空機の工場とともに空襲の被害を受け、期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "西ノ宮駅(現・西宮駅)から国有鉄道(鉄道省→日本国有鉄道)貨物列車の乗り入れのため、武庫大橋 - 洲先間は三線軌条化されていた。国有鉄道の貨物列車のみが乗り入れる西ノ宮 - 武庫大橋間は阪神の路線としては未開業(未成線)扱いとされ、貨物列車は全線にわたって国有鉄道の管理下で運行されていた。なお、後の調査で、阪神も省線甲子園口駅に駅を設ける計画があり、昭和18年(1943年)3月19日付の官報に、阪神武庫川線が甲子園口駅までの運行の特許を受けたことが掲載されていたことが判明した(現在の駅南東の線路に沿って延びる駐輪場が、阪神甲子園口駅予定地であったという)。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "旅客営業としては、戦後すぐに全線の旅客営業が休止とされた後、1948年10月に武庫川から現在の洲先駅までの1.1kmのみ運行が再開された。その後、武庫川団地の開発にともなって1984年(昭和59年)4月3日に武庫川団地駅まで延伸され、現在に至っている。",
"title": "歴史"
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"text": "貨物輸送は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあって戦後も続けられたが、1950年代には運行が停止され、1958年(昭和33年)に正式に休止(廃止)となった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "なお、廃止された区間のうち、武庫川 - 武庫大橋間1.5kmは、本線との合流のための引き上げ線の部分とその先の100mほどの敷地を除いて民間に売却され、駐車場や住宅となっているが、住宅が武庫川沿いに細長く均一に連続している状態から、往時の軌道敷の跡を想像することもできる。武庫大橋 - 西ノ宮間は、甲子園口駅東方の東海道本線(JR神戸線)との合流部であった場所までは空き地が目立つが、その合流部には阪神園芸所有の建物が建てられていた(のち解体、現在は分譲マンション)。また、甲子園口駅では、武庫川線の廃線跡が下り外側線に転用され、内側線には折り返し設備が設けられている。",
"title": "歴史"
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"text": "西ノ宮駅 - (甲子園口駅) - 武庫大橋駅 - 小松駅 - 武庫川駅",
"title": "駅一覧"
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"text": "この路線との競合相手は阪神バスの路線バスで、バスは甲子園駅もしくはJR神戸線の甲子園口駅から発着し、なおかつ運行本数が武庫川線よりも多い。加えて武庫川線と本線の乗換駅である武庫川駅が特急(直通特急含む)通過駅であるのに対し、バスだと特急(平日朝の上りの直通特急を除く)停車駅の甲子園駅発着であるため利便性が高い。また、武庫川団地駅が団地北側の少し離れた場所に立地しているのに対し、バスは団地内をくまなく巡回するという利便性もあり、武庫川線よりもバスを利用する団地住民も多い。",
"title": "競合路線"
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武庫川線(むこがわせん)は、兵庫県西宮市の武庫川駅から武庫川団地前駅までを結ぶ阪神電気鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。 武庫川西岸の築堤沿いに走る、西宮市南東にある武庫川団地の通勤・通学路線である。全線単線だが、武庫川駅 - 洲先駅間は複線分の用地が確保されている。 キロポストは武庫川団地前駅から武庫川駅に向かって純粋に数字が増えていく。洲先駅と東鳴尾駅間にある東鳴尾踏切北側に2キロポスト、武庫川駅の高架下に3キロポストがある。これは今津出屋敷線の前大浜への延伸計画があったときに前大浜を0キロポストとする予定だったため。以前は洲先駅付近に建設途中の今津出屋敷線の橋脚が長期放置されたが、現在は撤去されている。 東鳴尾駅 - 洲先駅間の駅間距離(営業キロ)は0.4 kmで、これは阪神電鉄全線で最短である。
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{{Redirect|武庫川線|阪急バスのバス路線|阪急バス西宮営業所#武庫川線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Hanshin-logo.svg|35px|link=阪神電気鉄道]] 武庫川線
|路線色 = #1f64b1
|ロゴ = Number prefix Hanshin line.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Hanshin 5500 Series 5511F between Mukogawa and Higashi-Naruo.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 武庫川線用の5500系「TORACO号」<br/>(武庫川駅 - [[東鳴尾駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[兵庫県]][[西宮市]]
|起点 = [[武庫川駅]]
|終点 = [[武庫川団地前駅]]
|駅数 = 4駅
|路線記号 = HS
|開業 = [[1943年]][[11月21日]]
|廃止 =
|所有者 = [[阪神電気鉄道]]
|運営者 = 阪神電気鉄道
|使用車両 = [[阪神5500系電車#武庫川線転用|5500系]]
|路線距離 = 1.7 km
|軌間 = 1,435 mm([[標準軌]])
|線路数 = [[単線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度 = 45 km/h<ref name="kansai">『関西圏の鉄道のすべて』 - PHP研究所</ref>
|路線図 = Hanshin Electric Railway Linemap.svg
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#1f64b1
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{{BS||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[東海道本線]]({{JR西路線記号|K|A}} [[JR神戸線]])}}
{{BS5|eABZq+r|BHFq|HSTq|hKRZWaeq|STRq|||右:[[甲子園口駅]]}}
{{BS5|exSTRl|exDSTq|exSTR+r|WASSER|||''[[西宮駅 (JR西日本)|西ノ宮駅]]''||}}
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{{BS5||DSTq|KRZur|hKRZWaeq|O4=BHFq|P4=HUBa||||[[武庫川信号場]] {{rint|osaka|hsm}} [[阪神本線]]}}
{{BS5|||BHF|O3=HUBaq|WASSER|O4=HUBrf||0.0|HS 12 [[武庫川駅]]}}
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{{BS5|||BHF|WASSER||1.1|HS 52 [[洲先駅]]}}
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}}
'''武庫川線'''(むこがわせん)は、[[兵庫県]][[西宮市]]の[[武庫川駅]]から[[武庫川団地前駅]]までを結ぶ[[阪神電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''HS'''。
[[武庫川]]西岸の築堤沿いに走る、西宮市南東にある[[武庫川団地]]の通勤・通学路線である。全線[[単線]]だが、武庫川駅 - [[洲先駅]]間は[[複線]]分の用地が確保されている。
[[距離標|キロポスト]]は武庫川団地前駅から武庫川駅に向かって純粋に数字が増えていく。洲先駅と[[東鳴尾駅]]間にある東鳴尾踏切北側に2キロポスト、武庫川駅の高架下に3キロポストがある。これは[[阪神尼崎海岸線|今津出屋敷線]]の前大浜への延伸計画があったときに前大浜を0キロポストとする予定だったため。洲先駅付近や[[武庫川]]の下流の一部に建設途中の今津出屋敷線の橋脚が長期放置されたが、のち[[1980年代]]後半ごろに撤去されたため現存しない。
東鳴尾駅 - 洲先駅間の駅間距離([[営業キロ]])は0.4 [[キロメートル|km]]で、これは阪神電鉄全線で最短である。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):1.7km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:4駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:連動閉塞式<ref>鉄道統計年報平成28年度版 - 国土交通省</ref>
*最高速度:45km/h<ref name="kansai" />
== 運行形態 ==
線内折り返し列車が[[ワンマン運転]]で運行されている<ref name="交通20000823">{{Cite news |title=武庫川線ワンマン化 阪神、10月1日から実施 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-08-23 |page=1 }}</ref>。全列車が2両編成で、朝夕は2編成が運用に入り、[[東鳴尾駅]]で[[列車交換|交換]]を行う。早朝・日中と深夜近くから終電までの間は1編成のみの運用である。全列車が普通列車であり、武庫川駅 - 武庫川団地前駅間の運転である。昼間は20分間隔、平日朝は12分間隔、土休日朝と夕方は10分間隔、早朝・夜間は12 - 15分間隔での運転である。
[[日本の鉄道信号|信号現示]]は、停止(赤)、警戒(黄×2)、注意(黄)の3種類のみで、全線で最高速度が注意信号相当の45km/hに制限されている。よって、線内の信号機には、進行現示に用いる青色灯が入換信号機を除いて存在しない。また、警戒現示は東鳴尾駅の場内信号機で、2編成運用時のみに見られる。架線は高速運転が可能な[[架空電車線方式#カテナリー吊架式|コンパウンドカテナリー式]]となっている。
ワンマン運転については、ドア開閉スイッチが運転席になく、ドア扱い時は運転士が直接目視で確認しつつ行う(必ず運転席から離れる)ようになっている。
阪神の現有路線の中で唯一他路線との[[直通運転]]を行っておらず、また車両も他社の乗り入れがなく自社の2両編成のみが運行されている。また[[大晦日]]から[[元日]]にかけての[[終夜運転]]は過去に実施したことがない。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
ファイル:Higashi-naruo stn. (1).JPG|東鳴尾駅にて、[[列車交換|交換]]する列車。<br />(2008年)
ファイル:Mukogawa Signal Base.JPG|本線との接続箇所になる武庫川信号所。<br />(2013年)
</gallery>
== 使用車両 ==
使用する編成は、ワンマン運転対応改造を受けた[[阪神5500系電車#武庫川線転用|5500系]]<ref group="注釈">本線での運用は通常は武庫川線への入出庫時の回送のみで、事実上、武庫川線専用車となっている。ただし、2編成を併結すれば本線での運用も可能であり、2023年に阪神タイガースがリーグ優勝および日本一を達成した際には、特別に本線普通運用に入った。</ref>に限定されている。この車両は武庫川線用の4編成全てが[[野球]]にちなんだ内外装([[阪神タイガース]]と[[阪神甲子園球場]]、[[トラッキー]]、[[阪神ファン|TORACO]])としており<ref>{{Cite press release |和書 |title=(武庫川線)車両置換え時期の変更について |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-05-22 |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2799 |accessdate=2020-05-27 |quote=武庫川線の車両置換え時期につきまして、同年6月以降に変更しますのでお知らせいたします。}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=武庫川線で新たなデザインの車両が運行! 2020年5月末に運行開始予定! このほど2編成が完成しました。〜「野球」にちなんだデザインの車両に置き換わります〜 |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-02-21 |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2799 |accessdate=2020-02-23 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-21 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/202002/0013135299.shtml |title=阪神武庫川線に新車両 タイガース号と甲子園号 |website= |work=ひょうご経済プラス |publisher=神戸新聞社 |accessdate=2020-02-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-21 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202002/p5_0013133984.shtml |title=さよなら阪神の赤胴車、青胴車 昭和のツートンカラー完全引退へ |website=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |accessdate=2020-02-23}}</ref>、それぞれ「タイガース号」、「甲子園号」、「トラッキー号」、「TORACO号」として運行されている。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
ファイル:Hanshin 5500 mukogawaline 5912F higasinaruo.jpg|5912F トラッキー号
ファイル:Hanshin 5500 mukogawaline 5914F.jpg|5914F 甲子園号
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
1967年から1984年の武庫川団地開業前までは、[[阪神3301形・3501形電車|3301形]]が単行(1両編成)で使用されていた。冷房改造後も1両で運用される当路線では[[電動発電機|MG]]容量の問題により、冷房を使用することが出来なかった。また、[[方向幕]]に「武庫川⇔洲先」が収録されていないため、方向幕に「普通」と表示し、「武庫川⇔洲先」の[[行先標|サボ]]を掲示した。
1984年からは[[阪神7861・7961形電車|7861形]](7964F、7966F、7968F)が使用され、1986年からは[[阪神7890・7990形電車|7890形]](7890F)も加わり、2000年10月1日からのワンマン運転開始に伴いワンマン運転対応の改造が施工されたが、これらの車両は2020年6月3日に5500系に置き換えられて運用を終了した<ref name="kobe-np-next-akadousha">{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202006/0013393022.shtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200928125147/https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202006/0013393022.shtml|title=伝統車両、ひっそり引退 阪神電鉄の「赤胴車」が運行終了|newspaper=神戸新聞|publisher=神戸新聞社|date=2020-06-03|accessdate=2021-03-05|archivedate=2020-09-28}}</ref>。7890形のうち1両は[[都市再生機構|UR都市機構]]に寄贈した上で武庫川団地内に展示することになり<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20200316UR.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201108092129/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20200316UR.pdf|title=阪神電鉄とUR都市機構が包括連携協定を締結 沿線のUR団地を中心とした地域活性化への取組みを開始 〜阪神電車の「赤胴車」を武庫川団地内に設置し、地域のコミュニティ拠点に〜|date=2020-03-16|archivedate=2020-11-04|accessdate=2020-11-04|publisher=阪神電気鉄道/独立行政法人都市再生機構西日本支社|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASNB06R68NB0PTIL004.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201104105135/https://www.asahi.com/articles/ASNB06R68NB0PTIL004.html|title=阪神引退の赤胴車、団地に譲渡 活躍60年さらに活用|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2020-10-31|accessdate=2020-11-04|archivedate=2020-11-04}}</ref>、2021年3月4日未明に現地に搬入された<ref>{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202103/0014123815.shtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210305101438/https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202103/0014123815.shtml|title=阪神電鉄「赤胴車」が団地へお引越し|newspaper=神戸新聞|publisher=神戸新聞社|date=2021-03-04|accessdate=2021-03-05|archivedate=2021-03-05}}</ref>。
5500系の導入以前は全て赤とクリーム色の特急・急行用車両の塗装を纏った[[赤胴車]]を使用していたが、前述の通りすべて普通列車([[各駅停車]])としての運行である。このほか、[[試運転]]で[[阪神1000系電車|1000系]]の2両編成が入線したことがある。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Hanshin3302.jpg|武庫川駅で発車を待つ3301形電車。<br>(1981年6月)
Hanshin-7868.jpg|武庫川線を走行する7861形電車。<br>(2017年9月16日)
Hanshin Mukogawa Line Higashi Naruo 2.JPG|東鳴尾駅付近を走る7861形電車。右側は武庫川の堤防と松の木。<br>(2013年)
Hanshin7890mukogawa.JPG|武庫川駅北方の本線の真下に留置される7890形電車。<br>(2015年)
</gallery>
== 歴史 ==
[[ファイル:Mukogawa station 1943.jpg|thumb|right|250px|1954年頃の武庫川駅、右側に停車中の1121号は標識灯が二灯化され、川側にはステップが装着されている。左側の線路は[[三線軌条]]になっており、国鉄の蒸気機関車が乗り入れている]]
[[ファイル:Mukogawasen_northern.jpg|thumb|right|250px|武庫川線の北端(本線[[武庫川信号場]]からの連絡線と合流する引上げ線)を旧国道より臨む。ここより国道2号(旧[[武庫大橋駅]])までの廃線跡には、戸建の住宅地が続いている。]]
[[File:19480220 Hanshin Muko-oohashi Sta.jpg|thumb|right|250px|1948年2月の国鉄甲子園口駅 - 武庫大橋駅(休止中) 画像左上の甲子園口駅よりカーブを経て武庫川西岸へ沿う貨物線が見られる。画像下の国道2号をくぐった南側に見える横倒しのコの字が武庫大橋駅の跨線橋とホーム。 [[国土地理院]] [https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 地図・空中写真閲覧サービス]を基に作成]]
現在は武庫川団地となっている西宮市高須町にあった軍需工場、[[川西航空機]](現・[[新明和工業]])鳴尾製作所への従業員および資材輸送のために建設され、[[1943年]]([[昭和]]18年)[[11月21日]]に武庫川 - 洲先間、[[1944年]](昭和19年)[[8月17日]]に[[武庫大橋駅|武庫大橋]] - 武庫川間が開業した。軍の要請での路線建設であったため、阪神の一般社員や学生の[[勤労奉仕隊]]なども動員した突貫工事が行われた。用地は全線複線分を確保していたが単線で建設され、武庫大橋、武庫川、東鳴尾の各駅で上下列車が[[列車交換|交換]]できるようになっていた。開業当時の洲先駅は現在の武庫川団地前駅付近にあたる。開業後1年経たないうちに川西航空機の工場とともに空襲の被害を受け、期待された目的を十分に果たせないまま終戦を迎えている。
西ノ宮駅(現・[[西宮駅 (JR西日本)|西宮駅]])から国有鉄道([[鉄道省]]→[[日本国有鉄道]])[[貨物列車]]の乗り入れのため、武庫大橋 - 洲先間は[[三線軌条]]化されていた。国有鉄道の貨物列車のみが乗り入れる西ノ宮 - 武庫大橋間は阪神の路線としては未開業([[未成線]])扱いとされ、貨物列車は全線にわたって国有鉄道の管理下で運行されていた。なお、後の調査で、阪神も省線[[甲子園口駅]]に駅を設ける計画があり、昭和18年([[1943年]])[[3月19日]]付の[[官報]]に、阪神武庫川線が甲子園口駅までの運行の特許を受けたことが掲載されていたことが判明した(現在の駅南東の線路に沿って延びる駐輪場が、阪神甲子園口駅予定地であったという)<ref name="kobenp20201210">{{Cite news |author= |title=幻の甲子園口駅、阪神電鉄が計画 太平洋戦争末期 大学教授が“発掘” |newspaper=[[神戸新聞]] |pages= |language = |publisher=[[神戸新聞社]] |location= |agency= |date=2020-12-10 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202012/0013928058.shtml |accessdate=2021-01-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123181628/https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202012/0013928058.shtml |archivedate=2021-01-23 }}</ref>。
旅客営業としては、戦後すぐに全線の旅客営業が休止とされた後、1948年10月に武庫川から現在の洲先駅までの1.1kmのみ運行が再開された。その後、[[武庫川団地]]の開発にともなって[[1984年]](昭和59年)[[4月3日]]に武庫川団地駅まで延伸され、現在に至っている<ref name="交通84">{{Cite news |title=営業運転始まる 阪神電鉄武庫川線延長区間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1984-04-06 |page=2 }}</ref>。
貨物輸送は川西航空機工場を接収した進駐軍の要請もあって戦後も続けられたが、[[1950年代]]には運行が停止され、[[1958年]](昭和33年)に正式に休止(廃止)となった。
なお、廃止された区間のうち、武庫川 - 武庫大橋間1.5kmは、本線との合流のための引き上げ線の部分とその先の100mほどの敷地を除いて民間に売却され、駐車場や住宅となっているが、住宅が武庫川沿いに細長く均一に連続している状態から、往時の軌道敷の跡を想像することもできる。武庫大橋 - 西ノ宮間は、[[甲子園口駅]]東方の[[東海道本線]]([[JR神戸線]])との合流部であった場所までは空き地が目立つが、その合流部には[[阪神園芸]]所有の建物が建てられていた(のち解体、現在は[[マンション|分譲マンション]])。また、甲子園口駅では、武庫川線の廃線跡が下り外側線に転用され、内側線には折り返し設備が設けられている。
=== 年表 ===
* [[1943年]]([[昭和]]18年)[[11月21日]]:武庫川 - 洲先間が開業。
* [[1944年]](昭和19年)
** [[8月17日]]:武庫大橋 - 武庫川間が開業し[[阪神国道線|国道線]]と連絡。
** [[11月15日]]:国鉄[[東海道本線]]の西ノ宮 - 洲先間の貨物線が開業。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[6月9日]]:空襲により洲先駅が被災。
** [[8月23日]]:武庫大橋 - 洲先間の電車運転を停止。
* [[1946年]](昭和21年)[[1月6日]]:武庫大橋 - 洲先間の旅客営業を休止。
* [[1948年]](昭和23年)[[10月10日]]:武庫川 - 洲先間の旅客営業を再開。
* [[1958年]](昭和33年)[[7月1日]]:西ノ宮 - 洲先間の貨物線休止。
* [[1966年]](昭和41年)[[1月20日]]:営業キロを1.7キロメートルから1.1キロメートルに変更。
* [[1967年]](昭和42年)[[11月12日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1970年]](昭和45年)[[11月5日]]:西ノ宮 - 洲先間の貨物線廃止。
* [[1978年]](昭和53年)[[12月27日]]:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。
* [[1983年]](昭和58年)[[1月31日]]:武庫川団地への延伸工事に着手<ref name="交通83">{{Cite news |title=武庫川線の延伸工事に着手 阪神電鉄 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-01-30 |page=1 }}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[3月18日]]:ATS設置。
** [[4月3日]]:洲先 - 武庫川団地前間が延伸開業{{R|交通84}}。同時に、武庫川駅構内に[[改札#改札口|中間改札]]を設置して改札外連絡を廃止、東鳴尾駅と洲先駅のホームを改築、列車増発と輸送力増強(単行から2両編成へ変更{{R|交通84}}、昼間30分間隔を20分間隔へ変更、東鳴尾駅に交換設備の新設など)を実施。
* [[1985年]](昭和60年)[[4月13日]]:休止中の武庫大橋 - 武庫川間が廃止。
* [[1995年]]([[平成]]7年)
** [[1月17日]]:[[阪神・淡路大震災]]で不通となる<ref>{{Cite news |title=阪神間の鉄道分断状態 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-19 |page=1 }}</ref>。
** [[1月26日]]:全線で運行再開<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |title = 阪神大震災から1年 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |pages = 86-88 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[10月1日]]:全列車ワンマン化<ref name="交通20000823"/>。行先板廃止、専用字幕使用開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hanshin.co.jp/railfan/9089.htm |title=武庫川線がワンマン化されました |accessdate=2017-08-16 |publisher=まにあっく・阪神(阪神電気鉄道公式ファンサイト) |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090328105837/http://www.hanshin.co.jp/railfan/9089.htm |archivedate=2009-03-28 |deadlinkdate=2017-08-16}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref name="holdings20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201304304N1.pdf 阪神「三宮」を「神戸三宮」に駅名変更のうえ、駅ナンバリングを導入し、全てのお客さまに分かりやすい駅を目指します]}} - 阪急阪急ホールディングス、2013年4月30日。</ref>。
* [[2016年]](平成28年)3月19日:[[阪神電気鉄道のダイヤ改正|ダイヤ改正]]で[[終電]]を約20分繰り下げ。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[6月2日]]:[[阪神7861・7961形電車|7861形]]、[[阪神7890・7990形電車|7890形]]の営業運転を終了<ref name="kobe-np-next-akadousha" />。
** [[6月3日]]:[[阪神5500系電車#武庫川線転用|5500系]]電車が営業運転を開始<ref name="kobe-np-next-akadousha" />。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[兵庫県]][[西宮市]]内に所在。
; 凡例
: 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可、|:列車交換不可
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|駅番号
!style="width:8em; border-bottom: solid 3px #1f64b1;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom: solid 3px #1f64b1;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom: solid 3px #1f64b1;"|営業キロ
!style="border-bottom: solid 3px #1f64b1;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom: solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|線路}}
|-
!HS 12
|[[武庫川駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]]
|style="text-align:center;"||
|-
!HS 53
|[[東鳴尾駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|0.7
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!HS 52
|[[洲先駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|1.1
|
|style="text-align:center;"||
|-
!HS 51
|[[武庫川団地前駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|1.7
|
|style="text-align:center;"||
|}
=== 廃止区間 ===
[[西宮駅 (JR西日本)|西ノ宮駅]] - ([[甲子園口駅]]{{Refnest|group="注釈"|甲子園口駅は計画のみ<ref name="kobenp20201210" />}}) - [[武庫大橋駅]] - 小松駅 - 武庫川駅<ref>『日本鉄道旅行地図帳 関西2』P.52</ref>
* 西ノ宮 - 武庫大橋間は貨物営業のみ。
=== 過去の接続路線 ===
* 西ノ宮駅:国鉄[[東海道本線]](貨物のみ)
* 武庫大橋駅:[[阪神国道線]]
== 競合路線 ==
この路線との競合相手は[[阪神バス]]の路線バスで、バスは[[甲子園駅]]もしくは[[JR神戸線]]の[[甲子園口駅]]から発着し、なおかつ運行本数が武庫川線よりも多い。加えて武庫川線と本線の乗換駅である武庫川駅が特急([[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]含む)通過駅であるのに対し、バスだと特急(平日朝の上りの直通特急を除く)停車駅の甲子園駅発着であるため利便性が高い。また、武庫川団地駅が団地北側の少し離れた場所に立地している<ref group="注釈">本来は団地の中心部に設置される予定であったが、国からの補助金等の問題でやむなく現在の場所となった。詳細は当該項目を参照のこと。</ref>のに対し、バスは団地内をくまなく巡回するという利便性もあり、武庫川線よりもバスを利用する団地住民も多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hanshin Mukogawa Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
{{阪神電気鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:はんしんむこかわせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|むこかわせん]]
[[Category:阪神電気鉄道|路むこかわせん]]
[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:部分廃止路線|むこかわせん]]
|
2003-09-29T09:26:49Z
|
2023-12-21T11:40:36Z
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18,717 |
伊勢鉄道
|
伊勢鉄道株式会社(いせてつどう)とは、旧日本国有鉄道(国鉄)特定地方交通線の鉄道路線であった伊勢線を運営している、三重県及び関係市町、民間企業が出資する第三セクター方式の鉄道会社である。本社は三重県鈴鹿市。
保有路線の伊勢線は22.3kmと比較的短いが、両端を東海旅客鉄道(JR東海)の関西本線と紀勢本線に挟まれ、本来の建設目的である関西本線の河原田駅と紀勢本線の津駅の間を結ぶ短絡線として、特急「南紀」や快速「みえ」といった中・長距離の速達列車が直通運転を行い、名古屋と津・松阪・鳥羽・南紀方面等を結ぶ路線の一部分を担っている。
路線は河原田 - 中瀬古間が複線、中瀬古 - 津間が単線となっている。旧国鉄時代より線路の用地が確保されており、伊勢鉄道転換後に一部複線化されている。それ以外の単線区間である中瀬古 - 津間でも、中瀬古 - 伊勢上野間のトンネルや伊勢上野 - 津間の高架橋などほぼ全線に渡って複線の用地が確保されているが、この区間の複線化は現在も白紙状態である。
自社車両の形式は以下のとおり「イセ○○型」となっている。専ら普通列車にのみ使われており、特急「南紀」や快速「みえ」に使う車両は所有していない(特急や快速はJR東海の車両が乗り入れる)。
TOICA、ICOCA、PiTaPa、manacaなどのICカード乗車券は使用不可。運賃は現金で支払う。連絡運輸範囲のJRグループの駅で乗車券を購入する場合であれば、クレジットカードで購入可能である。
乗車券が発売されていない駅から乗車の場合は、乗車時に整理券を取って乗車し、降車時に現金で運賃箱へ投入するか、降車駅で精算する。
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伊勢鉄道株式会社(いせてつどう)とは、旧日本国有鉄道(国鉄)特定地方交通線の鉄道路線であった伊勢線を運営している、三重県及び関係市町、民間企業が出資する第三セクター方式の鉄道会社である。本社は三重県鈴鹿市。
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{{Otheruseslist|現存する第三セクター鉄道会社の'''伊勢鉄道'''|この企業が運営する鉄道路線|伊勢鉄道伊勢線|かつて存在した伊勢電気鉄道(現在の[[近畿日本鉄道]]〈近鉄〉の一部)の前身の'''伊勢鉄道'''|伊勢電気鉄道}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 伊勢鉄道株式会社
| 英文社名 = Ise Tetsudo Railway Company
| ロゴ = [[File:Ise Railway Logomark.svg|150px]]
| 画像 = [[ファイル:Ise Railway Headquarters 20120115.jpg|250px|本社(2012年撮影)]]
| 画像説明 = [[玉垣駅]]の車庫に併設されている本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 513-0817
| 本社所在地 = [[三重県]][[鈴鹿市]]桜島町一丁目20番
| 設立 = [[1986年]]([[昭和]]61年)[[10月1日]]<ref name="RJ241">{{Cite journal|和書 |date = 1987-01 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 1 |page = 121 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業 他
| 代表者 = 代表取締役社長 [[渡邉信一郎]]
| 資本金 = 3億6000万円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.isetetu.co.jp/koukoku/kessan/33th.pdf |title=第33期事業報告 |format=PDF |publisher=伊勢鉄道株式会社 |accessdate=2019-07-22}}</ref>
| 発行済株式総数 = 7,200株<br />(2019年3月31日現在)<ref name="fy" />
| 売上高 = 5億8650万4023円<br />(2019年3月期)<ref name="fy" />
| 営業利益 = △181万696円<br />(2019年3月期)<ref name="fy" />
| 純利益 = △49万9520円<br />(2019年3月期)<ref name="fy" />
| 純資産 = 5億1818万7524円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="fy" />
| 総資産 = 6億2664万8505円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 34人(2011年3月31日現在)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.mie.lg.jp/SKEIEI/HP/gaikaku/E/h2303/02seisaku.pdf 県の主要出資法人に係る経営状況等の審査及び評価の結果に関する報告書]}}(三重県ウェブサイト)</ref>
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[三重県]] 40.0%<br />[[ダイヘン]] 13.89%<br />[[三岐鉄道]] 6.39%<br />[[鈴鹿市]] 4.72%<br />[[津市]] 3.74%<br />(2018年3月31日現在<ref>平成30年度鉄道要覧</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[石垣英一]](元社長)
| 外部リンク = https://isetetu.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''伊勢鉄道株式会社'''(いせてつどう)は、旧[[日本国有鉄道]](国鉄)[[特定地方交通線]]の鉄道路線であった[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]を運営している、[[三重県]]及び関係市町、民間企業が出資する[[第三セクター]]方式の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。本社は三重県[[鈴鹿市]]。
== 歴史 ==
* [[1986年]]([[昭和]]61年)[[10月1日]]:設立<ref name="RJ241"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[3月27日]]:国鉄伊勢線を転換し、開業<ref>[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 28頁]]</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[12月15日]]:鈴鹿駅旅行センター営業開始。
* [[2017年]]([[平成]]29年)[[3月26日]]:玉垣駅東側で「伊勢鉄道30thアニバーサリーフェスタ」を開催。
== 路線 ==
<!-- 運行形態などの詳細は[[伊勢鉄道伊勢線]]に記述してください。-->
{{Main|伊勢鉄道伊勢線}}
; 現有路線
: [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]: [[河原田駅]] - [[津駅]] 22.3km
保有路線の伊勢線は22.3kmと比較的短いが、両端を[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[関西線 (名古屋地区)|関西本線]]と[[紀勢本線]]に挟まれ、本来の建設目的である関西本線の河原田駅と紀勢本線の津駅の間を結ぶ[[連絡線|短絡線]]として、特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」や快速「[[みえ (列車)|みえ]]」といった中・長距離の速達列車が直通運転を行い、[[名古屋市|名古屋]]と[[津市|津]]・[[松阪市|松阪]]・[[鳥羽市|鳥羽]]・[[南紀]]方面等を結ぶ路線の一部分を担っている。
路線は河原田 - 中瀬古間が[[複線]]、中瀬古 - 津間が[[単線]]となっている。旧国鉄時代より線路の用地が確保されており、伊勢鉄道転換後に一部複線化されている。それ以外の単線区間である中瀬古 - 津間でも、中瀬古 - 伊勢上野間のトンネルや伊勢上野 - 津間の高架橋などほぼ全線に渡って複線の用地が確保されている<ref>[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 P.27]]</ref>が、この区間の複線化は現在も白紙状態である。
== 車両 ==
自社車両の形式は以下のとおり「イセ○○型」となっている。専ら普通列車にのみ使われており、特急「南紀」や快速「みえ」に使う車両は所有していない(特急や快速はJR東海の車両が乗り入れる)。
=== 現有車両 ===
; イセIII型(101・102・103・104)
: {{Main|伊勢鉄道イセIII型気動車}}
: イセI型、イセII型の老朽化による置き換え用に、富士重工業(101のみ)および[[新潟トランシス]](102 - 104)で製造された[[気動車]]である<ref name="sone26 33">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 P.33]]</ref>。車体は軽量ステンレス製(前頭部は鋼製)となり、18m級に大型化された<ref name="sone26 33"/>。走行性能も、最高運転速度100km/hと、従来車の80km/hに比べ、大幅に向上している<ref name="sone26 33"/>。[[2003年]](平成15年)[[2月17日]]に営業運転を開始した<ref name="sone26 33"/><ref name="rail fan">{{Cite journal|和書|author=外山勝彦|date=2003-05-01|title=鉄道記録帳2003年2月|journal=RAIL FAN|issue=5|volume=50|publisher=鉄道友の会|pages=21}}</ref>。イセI型、イセII型と同様に走行距離が短いことからトイレは設置されていない。旅客用乗降扉は従来の折り戸から片開き引き戸に変更された。
: 現在伊勢鉄道の列車として運行されている車両はすべてこのイセIII型を使用している。
: 101は鉄道車両事業から撤退した富士重工業最後の気動車でもある。
: [[2009年]](平成21年)から[[2010年]](平成22年)にかけて、[[自動列車停止装置|ATS-PT]]の設置工事を行った<ref>{{PDFlink|[http://www.isetetu.co.jp/anzen/a2011.pdf 2011年 安全報告書(2010年度について)]}} - 伊勢鉄道</ref>。
{| class="wikitable"
|[[ファイル:Ise Railway-ISEiii.JPG|thumb|200px|center|イセIII型101<br />([[徳田駅 (三重県)|徳田駅]]にて 2008年撮影)]]
|[[ファイル:Ise III series inside.jpg|thumb|200px|center|イセIII型の車内<br />(2012年撮影)]]
|}
=== 過去の在籍車両 ===
; イセI型(1・2・3)
: {{Main|伊勢鉄道イセI型気動車}}
: [[1987年]](昭和62年)[[3月27日]]の伊勢鉄道開業用に新製されたもので、[[富士重工業]]が開発した軽快[[気動車]][[LE-Car|LE-CarII]]シリーズである<ref name="sone26 33"/>。車体は15.5m、前面は非貫通構造で運転台は中央に配置されている<ref name="sone26 33"/>。老朽化のため、[[2004年]](平成16年)[[12月31日]]限りで運用を終了、全車が廃車となり、[[ミャンマー]]に輸出された<ref name="sone26 33"/>。ミャンマーでは赤と白の塗装に変更した上で使用されている。
; イセII型(4)
: {{Main|伊勢鉄道イセI型気動車}}
: [[1989年]](平成元年)に1両のみ増備された、富士重工業製LE-CarIIシリーズの軽快気動車である<ref name="sone26 33"/>。前面が貫通型となったのがイセI型と異なる<ref name="sone26 33"/>。[[2005年]](平成17年)[[9月30日]]で営業運転を終了、廃車となる予定だったが新製車イセ104が搬入時に車体の一部を破損したため、継続運転されていた。同年[[12月18日]]に営業運転終了。
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|[[ファイル:ISE%E2%85%A1.JPG|thumb|180px|center|営業運転終了の際、記念ヘッドマークを付けたイセ4<br />(玉垣車庫にて 2005年撮影)]]
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== 乗車券類 ==
[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[manaca]]などのICカード乗車券は使用不可。運賃は現金で支払う。[[連絡運輸]]範囲の[[JR]]グループの駅で乗車券を購入する場合であれば、クレジットカードで購入可能である。
乗車券が発売されていない駅から乗車の場合は、乗車時に整理券を取って乗車し、降車時に現金で運賃箱へ投入するか、降車駅で精算する。
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道事業者一覧]]
* [[第三セクター鉄道]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 長良川鉄道・明知鉄道・樽見鉄道・三岐鉄道・伊勢鉄道|date=2011-09-18|ref=sone26}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ise Railway}}
* [https://isetetu.co.jp/ 公式サイト]
* [https://facebook.com/isetetu 公式Facebook]
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[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:第三セクター鉄道]]
[[Category:三重県の交通]]
[[Category:鈴鹿市の企業]]
[[Category:伊勢鉄道|*]]
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伊勢鉄道伊勢線
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伊勢線(いせせん)は、三重県四日市市の河原田駅から三重県津市の津駅に至る伊勢鉄道の鉄道路線である。
関西本線の名古屋方面と紀勢本線の津以南を短絡する目的で、日本鉄道建設公団(鉄道公団)が「主要幹線」(C線)として、1965年(昭和40年)11月から建設を開始し、1973年(昭和48年)9月1日に日本国有鉄道(国鉄)の伊勢線として開業した。それまで名古屋方面と津方面は亀山駅(関西本線)経由で連絡されていたが、伊勢線の開業により、四日市 - 津間の距離(伊勢線経由で29.2 km)は従来より約9 km短縮、亀山駅での列車の方向転換(スイッチバック)も不要になったことから所要時間も急行列車は15分、普通列車は29分それぞれ短縮できた。
しかし、開業後は後述の事情から線内の利用客数が伸び悩み、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)における廃止基準を下回ったことで第2次特定地方交通線に選定され、1987年(昭和62年)3月27日以降は沿線自治体が出資する第三セクター「伊勢鉄道」が経営を継承した。現在も特急「南紀」や快速「みえ」が当路線を経由し、名古屋と鳥羽・新宮方面の間に運転されている。
建設当初から全線に亘って複線分の用地が確保され、将来の電化に備えて架線柱用の用地または架線柱の基礎があり、ほとんどが高架になっているなど幹線級の設備を持っている。津駅北方には紀勢本線亀山方面への線路を乗り越える将来の四日市方面への線路用となる立体交差用の橋梁も架設済み。踏切は鈴鹿市内(鈴鹿 - 玉垣間)に1か所存在するのみである。トンネルは中瀬古 - 伊勢上野間に1か所のみ存在する。
第三セクター転換後も苦戦する例が多い旧国鉄路線としては優良路線の一つに数えられることもあるが、小野澤正彦は種村直樹の編集した著書『国鉄・JR 鉄道廃線カタログ』(新人物往来社・1996年)にて「このような性格の路線を線名(区間)だけを基準にして機械的に特定地方交通線に指定したことは利用者を馬鹿にしている。JR東海も自社路線として(伊勢線を)買収せず、伊勢鉄道に車両などの無駄な投資をさせていることは行政共々許せない」と指摘している。また鉄道評論家(鉄道アナリスト)・川島令三は「伊勢線の営業成績が悪かった理由は、(伊勢鉄道に継承された時点で)普通の運転本数は1日7往復のまま、優等列車も『南紀』1日4往復のままという国鉄の消極的経営の結果であり、名古屋と南紀・伊勢志摩方面の短絡線として積極経営すれば国鉄の重要路線となったはずだ。当時の国鉄の経営姿勢や、当路線を機械的に特定地方交通線に指定して第三セクターに転換したことには疑問の声が大きかった」と、寺田裕一 (2004) も「伊勢線は機能的には紀勢本線の一部であったが、『伊勢線』という独立線区であったことから、特定地方交通線に指定されてしまった」とそれぞれ述べている。
2017年(平成29年)度の輸送密度は約3,639人/日である(1986年度からの毎年度の輸送密度は「利用状況」の節を参照)。
東海旅客鉄道(JR東海)の名古屋駅 - 新宮駅・紀伊勝浦駅間の特急「南紀」や、名古屋駅 - 伊勢市駅・鳥羽駅間の快速「みえ」が直通運転され、その間に自社車両(イセIII型)による四日市駅・河原田駅 - 津駅間の普通列車が1時間あたり1本程度運行されている。ただし河原田駅を始発・終着にする列車は平日朝の1往復のみである。夜間滞泊を行うための玉垣駅発着の列車も朝晩に運行されている。また、沿線にある鈴鹿サーキットでのレース開催時には名古屋方面から臨時列車が運転される(後述)。中瀬古駅には快速「みえ」が数本停車していたが、2015年(平成27年)6月20日現在は上り3本のみの停車である。
伊勢線内において特急「南紀」や快速「みえ」の乗務員交代は行われず、JR東海の運転士・車掌によりそのまま伊勢線内を運行する。逆に、自社車両がJR線である四日市駅 - 河原田駅間に乗り入れる場合も乗務員交代が行われず、伊勢鉄道の運転士によりJR線を運行する。普通列車はすべて1両編成でありワンマン運転を実施している。自社車両の保有数が4両と少ないこともあり、2両編成以上になることは後述のF1グランプリの開催日を除いて基本的にない。普通列車は有人駅の鈴鹿駅を含めた途中の駅では車内精算となる(四日市駅では下車の際に申し出るとJR線名古屋方面への連絡乗車券を発売される。津駅では運賃支払いと引き換えに精算券を渡され、JR線の運賃は乗り換え先で別払いとなる。鈴鹿駅または中瀬古駅(上りのみ一部の快速「みえ」が停車)で後続の快速「みえ」または特急「南紀」に乗り換える場合、降車時に運転士に申し出ることになる。河原田駅でJR線亀山方面に乗り換える場合も津駅での場合と同様に、車内で伊勢鉄道線の運賃を支払った上で乗り換えることになり、JR線の運賃は乗り換え先で別払いとなる。有人駅で普通列車乗車前に駅で乗車券を買わなかった場合は乗車整理券を取ることになる)。
なお、2016年(平成28年)に三重県内のJR線で運用される気動車が所属していた伊勢車両区が廃止となり、名古屋車両区へ転属したキハ11形・キハ25形の検査・修理等に伴う回送列車についても本路線経由にて自走で運転されることとなった。回送列車でも乗務員交代は行わない。
JR東海の車両で伊勢線を経由して運転される特急「南紀」や快速「みえ」では、伊勢鉄道がJR東海へ車両使用料を支払っている。伊勢線は伊勢鉄道が第一種鉄道事業者であるため、特急「南紀」や快速「みえ」への線路使用料は発生しない。JR東海の乗務員が伊勢線内において乗務を行うため、人件費分をJR東海に支払っていることになる。F1グランプリ開催時の臨時列車を運行する際にJR東海の車両を借入する場合は同様に伊勢鉄道がJR東海に車両使用料を支払う。一方で上述した名古屋車両区との回送列車については旅客扱いを行わないため、JR東海から伊勢鉄道に線路使用料が支払われている形になる。
伊勢鉄道の車両を使用する普通列車は関西本線の河原田駅 - 四日市駅間に乗り入れるため、JR東海から伊勢鉄道への車両使用料が発生している。
かつて運行されていた貨物列車(後述)では、第二種鉄道事業者であるJR貨物から線路使用料を受け取っていた。
かつては日本貨物鉄道(JR貨物)の第二種鉄道事業線であり、ダイヘン多気工場から変圧器を輸送するため紀勢本線多気駅からの特大貨物列車が臨時で運転されていた。紀勢本線亀山駅 - 下庄駅間のトンネル断面が小さく大物車である国鉄シキ800形貨車が通れないため、特大貨物列車は以前から伊勢線経由であった(ダイヘンが伊勢鉄道に出資しているのもこの理由による)。
2013年(平成25年)3月15日までは稲沢駅と紀勢本線鵜殿駅を結ぶ高速貨物列車が1日1往復設定されていた。この列車は2008年3月15日のダイヤ改正で伊勢線経由に変更されるまで亀山経由で運転され、亀山駅 - 鵜殿駅間の紀勢本線区間はJR貨物の運転士が運転を担当していた。
定期貨物列車廃止から約3年後の2016年(平成28年)3月31日をもって、伊勢線での貨物営業(日本貨物鉄道の第二種鉄道事業)が廃止された。
鈴鹿サーキット稲生駅を最寄とする鈴鹿サーキットでは、1987年(昭和62年)からほぼ毎年、FIA(国際自動車連盟)主催F1世界選手権日本グランプリが開催されている(2007年〈平成19年〉と2008年〈平成20年〉は富士スピードウェイで開催、2020年〈令和2年〉、2021年〈令和3年〉は新型コロナウイルス感染症の影響で中止)。開催当日は多くの観客が伊勢鉄道を利用するため、特別ダイヤが組まれる。
開催日には伊勢鉄道の定期普通列車はイセIII型2両編成となり車掌が乗務するツーマン運転になる(ワンマン用のホーム確認ミラーが2両停車位置にないため)。特急「南紀」や快速「みえ」の大半が鈴鹿サーキット稲生駅に臨時停車するほか、この日のみは自社車両の予備車を全て使用し車両が不足するため、JR東海から車両(名古屋車両区のHC85系(2022年まではキハ85系)やキハ75形・キハ25形のほか、HC85系以外は美濃太田車両区の車両も応援に入ることがある)を借用するなどして輸送力確保に努めているが、通常時に比べ輸送量が大きいことや鈴鹿サーキット稲生駅には渡り線などの折り返し設備が存在しないため、最混雑時には鈴鹿サーキット稲生駅に長蛇の列ができる。これにより乗降にも時間がかかり、開催日などは朝から10分程度の遅延が毎年恒例のように起きている。また、快速「みえ」は全車自由席になる。
キハ75形の車内表示は快速「みえ」の臨時停車に対応しており走行中は「次は鈴鹿サーキット稲生」・停車時は「鈴鹿サーキット稲生」と、どちらもスクロールで表示される。
なお、臨時列車が出るのはF1日本グランプリ開催時のみであり、スーパーフォーミュラや鈴鹿10耐、鈴鹿8耐など他カテゴリのレースに関しては特急「南紀」・快速「みえ」の臨時停車(もしくは増結)がある程度でその他は通常運行となる。
臨時列車に対応するため、鈴鹿駅と鈴鹿サーキット稲生駅のホームは6両以上の列車に対応している。
JR各社と通過連絡運輸協定を結んでおり、河原田 - 津を挟んで前後のJR線のキロ数を通算して運賃・料金を算出した切符の購入が可能である。なお通過連絡ではない連絡運輸については、河原田か津を経由して鈴鹿駅または鈴鹿サーキット稲生駅に発着する場合は無制限であるが、それ以外は関西本線蟹江駅 - 亀山駅、紀勢本線紀伊勝浦駅以北、参宮線、および東海道新幹線の主要駅(在来線経由含む)とその周辺に限られている。関西本線名古屋方面と紀勢本線新宮方面を行き来する場合、伊勢鉄道線経由の運賃は基本的に亀山駅経由より安い。
2019年(平成31年)3月に河原田駅でICカード「TOICA」の取り扱いが開始されたが、伊勢鉄道線では津駅を含めた全線で利用できない(四日市駅 - 河原田駅は関西本線であるためこの区間のみの利用であれば伊勢鉄道線直通の普通列車でも利用できる。ただしICカード利用でも乗車の際に整理券を取らなければならず、車内チャージはできない)。河原田駅を通過する特急「南紀」や快速「みえ」で四日市駅を越えて伊勢鉄道線に入った場合、車内での精算はできない。
なお、国鉄時代には河原田 - 津間において、関西本線・紀勢本線(亀山経由)との間に経路特定区間が設定されていた。
伊勢線では全線で特急料金(2019年〈令和元年〉10月1日現在で320円)が設定されているが、指定席料金・グリーン料金は不要となっている。また急行料金の設定はなく、臨時列車として運転される急行列車では伊勢鉄道線内の料金は不要である。
ただし、特急「南紀」、快速「みえ」の伊勢鉄道線内のみでの指定席車やグリーン車の利用はできない。名古屋駅で東海道新幹線と特急「南紀」を乗り継いで伊勢鉄道線に入った場合、JR部分のみ乗継割引が適用され伊勢鉄道の特急料金には割引が行われない。
「青春18きっぷ」、「フルムーン夫婦グリーンパス」、「ジャパンレールパス」などJRの一部企画乗車券は使用できない。「快速みえ得ダネ4回数券」、「青空フリーパス」、「JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ」、「伊勢路フリーきっぷ」、「南紀・熊野古道フリーきっぷ」などは伊勢鉄道線経由で利用でき、伊勢鉄道線がフリー区間に含まれている「青空フリーパス」、「JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ」では伊勢鉄道線内の駅で乗降できる。
伊勢鉄道線で利用できない企画乗車券で河原田駅(特急や快速の場合は四日市駅)または津駅を越えて伊勢鉄道線に入った場合、河原田駅または津駅から下車駅まで(通過利用する場合は伊勢鉄道線全線)の運賃を支払わなければならず、伊勢鉄道で有効な乗車券を別に購入する必要がある。
伊勢線の輸送実績を下表に記す。輸送量は、国鉄からの移管後に飛躍的に増加し、最近では、快速みえの運行開始・増結・割引回数券発売開始の影響による利用増もあって過去最高を記録している。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、1987年度(昭和62年度)以降の最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
『鉄道統計年報』、『数字でみる鉄道』(国土交通省鉄道局監修)、国土交通省中部運輸局『数字で見る中部の運輸』より抜粋
伊勢線の営業成績を下表に記す。営業収益は、国鉄移管後に飛躍的に増加した。最近では、多少の増減はあるものの大きくは変化していない。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、1987年度(昭和62年度)以降の最高値最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)、伊勢鉄道ホームページより抜粋
従来、名古屋・四日市方面と南紀(尾鷲・新宮)・伊勢志摩(伊勢市・鳥羽)方面間を行き来するためには、四日市市から津市の間で伊勢湾沿岸から外れて、関西本線・紀勢本線の結節点である亀山駅を経由しなければならなかった。また、亀山駅を経由して名古屋方面と津方面を結ぶ列車は同駅で列車の方向転換(スイッチバック)を必要としており、これも所要時間の面で障害となっていた。
このため、関西本線の南四日市駅と紀勢本線の津駅の間を方向転換せずに短距離で結ぶ短絡線として、日本鉄道建設公団(鉄道公団)が「主要幹線」(C線)として建設することになり、1964年(昭和39年)4月22日に「工事線」となる。
また、1962年(昭和37年)には中南勢地区に伊勢線から分岐する臨港鉄道としての南伊勢線が予定線に指定された。当時は津市 - 松阪市の海岸を埋め立て、四日市臨海工業地帯級の開発を行う構想があり、伊勢線はその貨物輸送路としての役割に加え、沿線の住宅開発に合わせた通勤路線としての役割も期待されていた。
しかし、伊勢線沿線の工業開発計画は四日市ぜんそくに端を発して猛反対に遭い、第1次オイルショックもあって頓挫し、南伊勢線の建設も凍結された。このため、伊勢線の建設計画そのものも縮小され、路盤こそ複線規格で建設されたものの、レールは単線で敷設された。それでも名古屋方面と南紀方面のバイパス線としての機能は果たすことになったが、1973年(昭和48年)の開業時には1日に特急「くろしお」1往復、急行「紀州」(いずれも特急「南紀」の前身)3往復、普通7往復しか運転されず、中間駅の乗降客数は150人/日にも満たなかった。また、伊勢線を経由する貨物列車は運転されず、国道23号の整備による貨物のトラック輸送への転移が進む中でも、関西線名古屋・四日市方面と紀勢線津以南方面間を往復する貨物列車は亀山経由で運転され続けた。並行している近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線では伊勢線開業当時は1日あたり特急44往復、急行34往復、準急9往復、普通62往復運転され、同社には鈴鹿線もあるため、伊勢線は全くと言ってよいほど利用されなかった。
そのため、この路線単独での利用者数は伸び悩み、開業10年後の1983年(昭和58年)には営業係数が646という超赤字路線となった上に、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)にてバス転換が妥当とされた輸送密度4,000人/日未満を下回った(1981年〈昭和56年〉度当時1,495人/日)ため、第2次特定地方交通線に選定された。本路線は従来の市街地を外れた場所を走行していた区間が多かったため、利用者からの廃止反対運動は盛り上がらず、行政側が中心となって陳情運動を行うこととなり、1986年(昭和61年)に第三セクター鉄道への転換が決定し、翌1987年には伊勢鉄道の路線になった。
伊勢鉄道への移管にあたり、起点を従来の南四日市駅から河原田駅に変更した。転換当時は全線単線で、列車交換(行き違い)設備は玉垣駅のみだったが、転換後には河芸駅に交換設備を新設したほか、河原田 - 中瀬古間を複線化して輸送力を増強し、線路容量は四日市 - 津間で普通12往復+線内通過の「南紀」4往復(転換当時)が55往復(1993年〈平成5年〉8月・河原田 - 中瀬古間の複線化完了時)まで増加した。輸送人員はその大半が線内通過の「南紀」「みえ」利用客だが、中瀬古駅付近に鈴鹿国際大学(現:鈴鹿大学)が進出するなど沿線の宅地化も進んだことから、通勤・通学利用の線内乗降客も増加し、1996年度(平成8年度)以降は黒字経営に転じた。
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"text": "開催日には伊勢鉄道の定期普通列車はイセIII型2両編成となり車掌が乗務するツーマン運転になる(ワンマン用のホーム確認ミラーが2両停車位置にないため)。特急「南紀」や快速「みえ」の大半が鈴鹿サーキット稲生駅に臨時停車するほか、この日のみは自社車両の予備車を全て使用し車両が不足するため、JR東海から車両(名古屋車両区のHC85系(2022年まではキハ85系)やキハ75形・キハ25形のほか、HC85系以外は美濃太田車両区の車両も応援に入ることがある)を借用するなどして輸送力確保に努めているが、通常時に比べ輸送量が大きいことや鈴鹿サーキット稲生駅には渡り線などの折り返し設備が存在しないため、最混雑時には鈴鹿サーキット稲生駅に長蛇の列ができる。これにより乗降にも時間がかかり、開催日などは朝から10分程度の遅延が毎年恒例のように起きている。また、快速「みえ」は全車自由席になる。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "キハ75形の車内表示は快速「みえ」の臨時停車に対応しており走行中は「次は鈴鹿サーキット稲生」・停車時は「鈴鹿サーキット稲生」と、どちらもスクロールで表示される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "なお、臨時列車が出るのはF1日本グランプリ開催時のみであり、スーパーフォーミュラや鈴鹿10耐、鈴鹿8耐など他カテゴリのレースに関しては特急「南紀」・快速「みえ」の臨時停車(もしくは増結)がある程度でその他は通常運行となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "臨時列車に対応するため、鈴鹿駅と鈴鹿サーキット稲生駅のホームは6両以上の列車に対応している。",
"title": "運行形態"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "JR各社と通過連絡運輸協定を結んでおり、河原田 - 津を挟んで前後のJR線のキロ数を通算して運賃・料金を算出した切符の購入が可能である。なお通過連絡ではない連絡運輸については、河原田か津を経由して鈴鹿駅または鈴鹿サーキット稲生駅に発着する場合は無制限であるが、それ以外は関西本線蟹江駅 - 亀山駅、紀勢本線紀伊勝浦駅以北、参宮線、および東海道新幹線の主要駅(在来線経由含む)とその周辺に限られている。関西本線名古屋方面と紀勢本線新宮方面を行き来する場合、伊勢鉄道線経由の運賃は基本的に亀山駅経由より安い。",
"title": "運賃等"
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{
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"tag": "p",
"text": "2019年(平成31年)3月に河原田駅でICカード「TOICA」の取り扱いが開始されたが、伊勢鉄道線では津駅を含めた全線で利用できない(四日市駅 - 河原田駅は関西本線であるためこの区間のみの利用であれば伊勢鉄道線直通の普通列車でも利用できる。ただしICカード利用でも乗車の際に整理券を取らなければならず、車内チャージはできない)。河原田駅を通過する特急「南紀」や快速「みえ」で四日市駅を越えて伊勢鉄道線に入った場合、車内での精算はできない。",
"title": "運賃等"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、国鉄時代には河原田 - 津間において、関西本線・紀勢本線(亀山経由)との間に経路特定区間が設定されていた。",
"title": "運賃等"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "伊勢線では全線で特急料金(2019年〈令和元年〉10月1日現在で320円)が設定されているが、指定席料金・グリーン料金は不要となっている。また急行料金の設定はなく、臨時列車として運転される急行列車では伊勢鉄道線内の料金は不要である。",
"title": "運賃等"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ただし、特急「南紀」、快速「みえ」の伊勢鉄道線内のみでの指定席車やグリーン車の利用はできない。名古屋駅で東海道新幹線と特急「南紀」を乗り継いで伊勢鉄道線に入った場合、JR部分のみ乗継割引が適用され伊勢鉄道の特急料金には割引が行われない。",
"title": "運賃等"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "「青春18きっぷ」、「フルムーン夫婦グリーンパス」、「ジャパンレールパス」などJRの一部企画乗車券は使用できない。「快速みえ得ダネ4回数券」、「青空フリーパス」、「JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ」、「伊勢路フリーきっぷ」、「南紀・熊野古道フリーきっぷ」などは伊勢鉄道線経由で利用でき、伊勢鉄道線がフリー区間に含まれている「青空フリーパス」、「JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ」では伊勢鉄道線内の駅で乗降できる。",
"title": "運賃等"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "伊勢鉄道線で利用できない企画乗車券で河原田駅(特急や快速の場合は四日市駅)または津駅を越えて伊勢鉄道線に入った場合、河原田駅または津駅から下車駅まで(通過利用する場合は伊勢鉄道線全線)の運賃を支払わなければならず、伊勢鉄道で有効な乗車券を別に購入する必要がある。",
"title": "運賃等"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "伊勢線の輸送実績を下表に記す。輸送量は、国鉄からの移管後に飛躍的に増加し、最近では、快速みえの運行開始・増結・割引回数券発売開始の影響による利用増もあって過去最高を記録している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、1987年度(昭和62年度)以降の最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "『鉄道統計年報』、『数字でみる鉄道』(国土交通省鉄道局監修)、国土交通省中部運輸局『数字で見る中部の運輸』より抜粋",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "伊勢線の営業成績を下表に記す。営業収益は、国鉄移管後に飛躍的に増加した。最近では、多少の増減はあるものの大きくは変化していない。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、1987年度(昭和62年度)以降の最高値最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)、伊勢鉄道ホームページより抜粋",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "従来、名古屋・四日市方面と南紀(尾鷲・新宮)・伊勢志摩(伊勢市・鳥羽)方面間を行き来するためには、四日市市から津市の間で伊勢湾沿岸から外れて、関西本線・紀勢本線の結節点である亀山駅を経由しなければならなかった。また、亀山駅を経由して名古屋方面と津方面を結ぶ列車は同駅で列車の方向転換(スイッチバック)を必要としており、これも所要時間の面で障害となっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "このため、関西本線の南四日市駅と紀勢本線の津駅の間を方向転換せずに短距離で結ぶ短絡線として、日本鉄道建設公団(鉄道公団)が「主要幹線」(C線)として建設することになり、1964年(昭和39年)4月22日に「工事線」となる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "また、1962年(昭和37年)には中南勢地区に伊勢線から分岐する臨港鉄道としての南伊勢線が予定線に指定された。当時は津市 - 松阪市の海岸を埋め立て、四日市臨海工業地帯級の開発を行う構想があり、伊勢線はその貨物輸送路としての役割に加え、沿線の住宅開発に合わせた通勤路線としての役割も期待されていた。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、伊勢線沿線の工業開発計画は四日市ぜんそくに端を発して猛反対に遭い、第1次オイルショックもあって頓挫し、南伊勢線の建設も凍結された。このため、伊勢線の建設計画そのものも縮小され、路盤こそ複線規格で建設されたものの、レールは単線で敷設された。それでも名古屋方面と南紀方面のバイパス線としての機能は果たすことになったが、1973年(昭和48年)の開業時には1日に特急「くろしお」1往復、急行「紀州」(いずれも特急「南紀」の前身)3往復、普通7往復しか運転されず、中間駅の乗降客数は150人/日にも満たなかった。また、伊勢線を経由する貨物列車は運転されず、国道23号の整備による貨物のトラック輸送への転移が進む中でも、関西線名古屋・四日市方面と紀勢線津以南方面間を往復する貨物列車は亀山経由で運転され続けた。並行している近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線では伊勢線開業当時は1日あたり特急44往復、急行34往復、準急9往復、普通62往復運転され、同社には鈴鹿線もあるため、伊勢線は全くと言ってよいほど利用されなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "そのため、この路線単独での利用者数は伸び悩み、開業10年後の1983年(昭和58年)には営業係数が646という超赤字路線となった上に、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)にてバス転換が妥当とされた輸送密度4,000人/日未満を下回った(1981年〈昭和56年〉度当時1,495人/日)ため、第2次特定地方交通線に選定された。本路線は従来の市街地を外れた場所を走行していた区間が多かったため、利用者からの廃止反対運動は盛り上がらず、行政側が中心となって陳情運動を行うこととなり、1986年(昭和61年)に第三セクター鉄道への転換が決定し、翌1987年には伊勢鉄道の路線になった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "伊勢鉄道への移管にあたり、起点を従来の南四日市駅から河原田駅に変更した。転換当時は全線単線で、列車交換(行き違い)設備は玉垣駅のみだったが、転換後には河芸駅に交換設備を新設したほか、河原田 - 中瀬古間を複線化して輸送力を増強し、線路容量は四日市 - 津間で普通12往復+線内通過の「南紀」4往復(転換当時)が55往復(1993年〈平成5年〉8月・河原田 - 中瀬古間の複線化完了時)まで増加した。輸送人員はその大半が線内通過の「南紀」「みえ」利用客だが、中瀬古駅付近に鈴鹿国際大学(現:鈴鹿大学)が進出するなど沿線の宅地化も進んだことから、通勤・通学利用の線内乗降客も増加し、1996年度(平成8年度)以降は黒字経営に転じた。",
"title": "歴史"
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] |
伊勢線(いせせん)は、三重県四日市市の河原田駅から三重県津市の津駅に至る伊勢鉄道の鉄道路線である。
|
{{Infobox rail line
| box_width = 300px
| name = [[File:Ise Railway Logomark.svg|20px]] 伊勢線
| color = 0000ff
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| image_width = 200px
| image_alt = 非電化で複線の伊勢線を行くイセIII型気動車
| caption = 非電化で複線の伊勢線を行くイセIII型気動車<br />2007年8月8日
| start = 起点:[[河原田駅]]<ref name="sone26 3">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 3頁]]</ref>
| end = 終点:[[津駅]]{{R|sone26 3}}
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| event1label = [[第三セクター鉄道|三セク]]転換
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| gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}}
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{| {{Railway line header|collapse=yes}}
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|}
[[ファイル:Ise-railway Ise-line 2.JPG|thumb|220px|right|伊勢鉄道伊勢線を行く特急「南紀」号。<br />(鈴鹿駅、2007年8月8日)]]
'''伊勢線'''(いせせん)は、[[三重県]][[四日市市]]の[[河原田駅]]から三重県[[津市]]の[[津駅]]に至る[[伊勢鉄道]]の[[鉄道路線]]である。
== 概要 ==
[[関西本線]]の[[名古屋駅|名古屋]]方面と[[紀勢本線]]の津以南を短絡する目的で{{R|kawashima}}、[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団)が「主要幹線」(C線)<ref group="注" name="C線"/>として{{Sfn|日本鉄道建設公団|1974|p=55}}、[[1965年]](昭和40年)11月から建設を開始し{{R|sone26 28}}、[[1973年]](昭和48年)[[9月1日]]に[[日本国有鉄道]](国鉄)の伊勢線として開業した{{R|1973kokuji-119}}。それまで名古屋方面と津方面は[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]](関西本線)経由で連絡されていたが、伊勢線の開業により、四日市 - 津間の距離(伊勢線経由で29.2 [[キロメートル|km]])は従来より約9 km短縮、亀山駅での列車の方向転換([[スイッチバック]])も不要になったことから所要時間も[[急行列車]]は15分、普通列車は29分それぞれ短縮できた<ref name="中日新聞1973-08-31"/>。
しかし、開業後は後述の事情から線内の利用客数が伸び悩み、[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)における廃止基準を下回ったことで第2次[[特定地方交通線]]に選定され、[[1987年]](昭和62年)[[3月27日]]以降は沿線自治体が出資する[[第三セクター]]「伊勢鉄道」が経営を継承した<ref name="RJ247">{{Cite journal|和書|date=1987年6月号|journal=[[鉄道ジャーナル]]|volume=21|issue=7|pages=92-99|publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。現在も[[特別急行列車|特急]]「[[南紀 (列車)|南紀]]」や[[快速列車|快速]]「[[みえ (列車)|みえ]]」が当路線を経由し、名古屋と[[鳥羽駅|鳥羽]]・[[新宮駅|新宮]]方面の間に運転されている{{R|sone26 28}}。
{{Main|#歴史}}
建設当初から全線に亘って複線分の用地が確保され{{Efn2|『鉄道辞典 補遺版』 (1966) によれば、[[線路等級]]は「甲線」、線路本数は複線とされている{{Sfn|日本国有鉄道|1966|p=317}}。}}、将来の[[鉄道の電化|電化]]に備えて架線柱用の用地または架線柱の基礎があり{{Efn2|ただし、『鉄道辞典 補遺版』 (1966) では伊勢線は「電化するもの」とはされていない{{Sfn|日本国有鉄道|1966|p=317}}。}}、ほとんどが高架になっているなど[[幹線]]級の設備を持っている<ref name="sone26 27">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 27頁]]</ref>。津駅北方には紀勢本線亀山方面への線路を乗り越える将来の四日市方面への線路用となる[[立体交差]]用の橋梁も架設済み。[[踏切]]は鈴鹿市内(鈴鹿 - 玉垣間)に1か所存在するのみである。トンネルは中瀬古 - 伊勢上野間に1か所のみ存在する。
第三セクター転換後も苦戦する例が多い旧国鉄路線としては優良路線の一つに数えられることもあるが{{Sfn|寺田裕一|2004|p=12}}、小野澤正彦は[[種村直樹]]の編集した著書『国鉄・JR 鉄道廃線カタログ』([[新人物往来社]]・1996年)にて「このような性格の路線を線名(区間)だけを基準にして機械的に特定地方交通線に指定したことは利用者を馬鹿にしている。JR東海も自社路線として(伊勢線を)買収せず、伊勢鉄道に車両などの無駄な投資をさせていることは行政共々許せない」と指摘している<ref name="鉄道廃線カタログ">{{Cite book|和書|title=国鉄・JR 鉄道廃線カタログ 昭和24年以降廃止された98路線完全収録|series=別冊歴史読本|volume=73|author=種村直樹|authorlink=種村直樹|publisher=新人物往来社|date=1996-11-14|edition=発行(1996年10月14日印刷)|page=90|isbn=978-4404024305}}</ref>。また鉄道[[評論家]](鉄道[[アナリスト]])・[[川島令三]]は「伊勢線の営業成績が悪かった理由は、(伊勢鉄道に継承された時点で)普通の運転本数は1日7往復のまま、優等列車も『南紀』1日4往復のままという国鉄の消極的経営の結果であり、名古屋と南紀・伊勢志摩方面の短絡線として積極経営すれば国鉄の重要路線となったはずだ。当時の国鉄の経営姿勢や、当路線を機械的に特定地方交通線に指定して第三セクターに転換したことには疑問の声が大きかった」と{{R|kawashima}}、[[寺田裕一]] (2004) も「伊勢線は機能的には紀勢本線の一部であったが、『伊勢線』という独立線区であったことから、特定地方交通線に指定されてしまった」とそれぞれ述べている{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}。
[[2017年]](平成29年)度の[[輸送密度]]は約3,639人/日である{{Sfn|数字でみる鉄道|2019|p=68}}(1986年度からの毎年度の輸送密度は「[[#利用状況|利用状況]]」の節を参照)。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):22.3 [[キロメートル|km]]{{R|sone26 3}}
* 管轄:伊勢鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]{{R|sone26 3}}
* 駅数:10駅(起終点駅含む){{R|sone26 3}}
* 線路規格:[[線路等級|甲線]]<ref>鉄道ピクトリアル1973年10月号 57頁</ref>{{Sfn|日本国有鉄道|1966|p=317}}
* 複線区間:河原田 - 中瀬古間{{R|sone26 27}}
* 電化区間:なし(全線[[非電化]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-ST]](津駅構内、河原田駅以北は[[自動列車停止装置#ATS-PT形 (JR東海ATS-P)|ATS-PT]]使用)
* 最高速度:110 [[キロメートル毎時|km/h]]{{R|sone26 28}}(特急[[南紀 (列車)|南紀]]・快速[[みえ (列車)|みえ]]などJR東海所属車両で運行する列車)、100 km/h(伊勢鉄道[[伊勢鉄道イセIII型気動車|イセIII型]]普通列車)
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:なし
== 運行形態 ==
[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[名古屋駅]] - [[新宮駅]]・[[紀伊勝浦駅]]間の特急「南紀」や、名古屋駅 - [[伊勢市駅]]・[[鳥羽駅]]間の快速「みえ」が直通運転され、その間に自社車両([[伊勢鉄道イセIII型気動車|イセIII型]])による四日市駅・河原田駅 - 津駅間の普通列車が1時間あたり1本程度運行されている。ただし河原田駅を始発・終着にする列車は平日朝の1往復のみである<ref name="JRtimetable201507">交通新聞社『JR時刻表』2015年7月号</ref>。[[夜間滞泊]]を行うための玉垣駅発着の列車も朝晩に運行されている。また、沿線にある[[鈴鹿サーキット]]でのレース開催時には名古屋方面から臨時列車が運転される(後述)。[[中瀬古駅]]には快速「みえ」が数本停車していたが、[[2015年]](平成27年)6月20日現在{{R|JRtimetable201507}}は上り3本のみの停車である。
伊勢線内において特急「南紀」や快速「みえ」の乗務員交代は行われず、JR東海の運転士・車掌によりそのまま伊勢線内を運行する。逆に、自社車両がJR線である四日市駅 - 河原田駅間に乗り入れる場合も乗務員交代が行われず、伊勢鉄道の運転士によりJR線を運行する。普通列車はすべて1両編成であり[[ワンマン運転]]を実施している。自社車両の保有数が4両と少ないこともあり、2両編成以上になることは後述のF1グランプリの開催日を除いて基本的にない。普通列車は有人駅の鈴鹿駅を含めた途中の駅では車内精算となる(四日市駅では下車の際に申し出るとJR線名古屋方面への連絡乗車券を発売される。津駅では運賃支払いと引き換えに精算券を渡され、JR線の運賃は乗り換え先で別払いとなる。鈴鹿駅または中瀬古駅(上りのみ一部の快速「みえ」が停車)で後続の快速「みえ」または特急「南紀」に乗り換える場合、降車時に運転士に申し出ることになる。河原田駅でJR線亀山方面に乗り換える場合も津駅での場合と同様に、車内で伊勢鉄道線の運賃を支払った上で乗り換えることになり、JR線の運賃は乗り換え先で別払いとなる。有人駅で普通列車乗車前に駅で乗車券を買わなかった場合は乗車整理券を取ることになる)。
なお、[[2016年]](平成28年)に三重県内のJR線で運用される気動車が所属していた伊勢車両区が廃止となり、[[名古屋車両区]]へ転属した[[JR東海キハ11形気動車|キハ11形]]・[[JR東海キハ25形気動車|キハ25形]]の[[鉄道車両の検査|検査]]・修理等に伴う[[回送]]列車についても本路線経由にて自走で運転されることとなった{{Efn2|亀山駅を経由するとスイッチバックが発生し車両の向きが逆になり運用上不都合が生じるため。同様の理由による車両回送の場合、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)においては長距離の迂回や[[機関車]]による牽引を行ってまで他社線の通過を極力回避しているのとは対応が大きく分かれる形となっている。}}。回送列車でも乗務員交代は行わない。
=== 車両使用料と線路使用料 ===
JR東海の車両で伊勢線を経由して運転される特急「南紀」や快速「みえ」では、伊勢鉄道がJR東海へ[[車両使用料]]を支払っている。伊勢線は伊勢鉄道が第一種鉄道事業者であるため、特急「南紀」や快速「みえ」への[[線路使用料]]は発生しない。JR東海の乗務員が伊勢線内において乗務を行うため、人件費分をJR東海に支払っていることになる。F1グランプリ開催時の臨時列車を運行する際にJR東海の車両を借入する場合は同様に伊勢鉄道がJR東海に車両使用料を支払う。一方で上述した名古屋車両区との回送列車については旅客扱いを行わないため、JR東海から伊勢鉄道に線路使用料が支払われている形になる<ref>[http://www.isetetu.co.jp/koukoku/kessan/31th.pdf 第31期(平成28年度)決算公告 - 伊勢鉄道株式会社ホームページ]</ref>。
伊勢鉄道の車両を使用する普通列車は関西本線の河原田駅 - 四日市駅間に乗り入れるため、JR東海から伊勢鉄道への車両使用料が発生している。
かつて運行されていた貨物列車(後述)では、第二種鉄道事業者であるJR貨物から線路使用料を受け取っていた。
=== 貨物列車 ===
かつては[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の第二種鉄道事業線であり、[[ダイヘン]]多気工場から[[変圧器]]を輸送するため紀勢本線[[多気駅]]からの[[大物車|特大貨物]]列車が臨時で運転されていた。紀勢本線[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]] - [[下庄駅]]間の[[トンネル]]断面が小さく[[大物車]]である[[国鉄シキ800形貨車]]が通れないため、特大貨物列車は以前から伊勢線経由であった(ダイヘンが伊勢鉄道に出資しているのもこの理由による)。
[[2013年]](平成25年)3月15日までは[[稲沢駅]]と紀勢本線[[鵜殿駅]]を結ぶ[[高速貨物列車]]が1日1往復設定されていた。この列車は2008年3月15日のダイヤ改正で伊勢線経由に変更されるまで亀山経由で運転され、亀山駅 - 鵜殿駅間の紀勢本線区間はJR貨物の運転士が運転を担当していた。
定期貨物列車廃止から約3年後の[[2016年]](平成28年)3月31日をもって、伊勢線での貨物営業(日本貨物鉄道の第二種鉄道事業)が廃止された。
=== F1日本グランプリ開催時 ===
[[鈴鹿サーキット稲生駅]]を最寄とする[[鈴鹿サーキット]]では[[1987年]](昭和62年)から、FIA([[国際自動車連盟]])主催[[フォーミュラ1|F1世界選手権]][[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]がほぼ毎年<ref group="注">2007年(平成19年)・2008年(平成20年)は[[富士スピードウェイ]]で開催、2020年([[令和]]2年)・2021年(令和3年)は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]流行の影響で中止。</ref>開催されている。開催当日は多くの観客が伊勢鉄道を利用するため、特別ダイヤが組まれる。
開催日には伊勢鉄道の定期普通列車はイセIII型2両編成となり車掌が乗務するツーマン運転になる(ワンマン用の[[カーブミラー|ホーム確認ミラー]]が2両停車位置にないため)。特急「南紀」や快速「みえ」の大半が鈴鹿サーキット稲生駅に臨時停車するほか、この日のみは自社車両の予備車を全て使用し車両が不足するため、JR東海から車両(名古屋車両区の[[JR東海HC85系気動車|HC85系]](2022年までは[[JR東海キハ85系気動車|キハ85系]])や[[JR東海キハ75形気動車|キハ75形]]・キハ25形のほか、HC85系以外は[[美濃太田車両区]]の車両も応援に入ることがある)を借用するなどして輸送力確保に努めているが、通常時に比べ輸送量が大きいことや鈴鹿サーキット稲生駅には渡り線などの折り返し設備が存在しないため、最混雑時には鈴鹿サーキット稲生駅に長蛇の列ができる。これにより乗降にも時間がかかり、開催日などは朝から10分程度の遅延が毎年恒例のように起きている。また、快速「みえ」は全車自由席となる。
キハ75形の車内表示は快速「みえ」の臨時停車に対応しており走行中は「次は鈴鹿サーキット稲生」・停車時は「鈴鹿サーキット稲生」と、どちらもスクロールで表示される。
なお、臨時列車が出るのはF1日本グランプリ開催時のみであり、[[スーパーフォーミュラ]]や[[鈴鹿10時間耐久レース|鈴鹿10耐]]、[[鈴鹿8時間耐久ロードレース|鈴鹿8耐]]など他カテゴリのレースに関しては、特急「南紀」・快速「みえ」の臨時停車(もしくは増結)がある程度でその他は通常運行となる。
臨時列車に対応するため、鈴鹿駅と鈴鹿サーキット稲生駅のホームは6両以上の列車に対応している。
== 運賃等 ==
JR各社と[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]協定を結んでおり、河原田 - 津を挟んで前後のJR線のキロ数を通算して運賃・料金を算出した切符の購入が可能である。なお通過連絡ではない連絡運輸については、河原田か津を経由して鈴鹿駅または鈴鹿サーキット稲生駅に発着する場合は無制限であるが、それ以外は関西本線[[蟹江駅]] - [[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]、紀勢本線[[紀伊勝浦駅]]以北、[[参宮線]]、および東海道新幹線の主要駅(在来線経由含む)とその周辺に限られている。関西本線名古屋方面と紀勢本線新宮方面を行き来する場合、伊勢鉄道線経由の運賃は基本的に亀山駅経由より安い。
[[2019年]](平成31年)3月に河原田駅でICカード「[[TOICA]]」の取り扱いが開始されたが、伊勢鉄道線では津駅を含めた全線で利用できない(四日市駅 - 河原田駅は関西本線であるためこの区間のみの利用であれば伊勢鉄道線直通の普通列車でも利用できる。ただしICカード利用でも乗車の際に整理券を取らなければならず、車内チャージはできない)。河原田駅を通過する特急「南紀」や快速「みえ」で四日市駅を越えて伊勢鉄道線に入った場合、車内での精算はできない。
なお、国鉄時代には河原田 - 津間において、関西本線・紀勢本線(亀山経由)との間に[[経路特定区間]]が設定されていた{{Efn2|特急「[[紀伊 (列車)|紀伊]]」などは、当路線開通後も亀山経由で運行されていた。}}。
=== 特別料金について ===
伊勢線では全線で[[特別急行券|特急料金]]([[2019年]]〈令和元年〉10月1日現在で320円<ref>{{PDFlink|1=[http://www.isetetu.co.jp/2019unchin/20190905-1.pdf#page=2 2019年10月1日からの普通運賃・特急料金]}} - 伊勢鉄道、2019年10月29日閲覧</ref>)が設定されているが、[[指定席|指定席料金]]・[[グリーン車|グリーン料金]]は不要となっている。また[[急行券|急行料金]]の設定はなく、[[臨時列車]]として運転される[[急行列車]]では伊勢鉄道線内の料金は不要である。
ただし、特急「南紀」、快速「みえ」の伊勢鉄道線内のみでの指定席車やグリーン車の利用はできない。名古屋駅で東海道新幹線と特急「南紀」を乗り継いで伊勢鉄道線に入った場合、JR部分のみ乗継割引が適用され伊勢鉄道の特急料金には割引が行われない。
=== 企画乗車券の扱い ===
「[[青春18きっぷ]]」、「[[フルムーン夫婦グリーンパス]]」、「[[ジャパンレールパス]]」などJRの一部[[特別企画乗車券|企画乗車券]]は使用できない。「[[快速みえ得ダネ4回数券]]」、「[[青空フリーパス]]」、「[[JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ]]」、「伊勢路フリーきっぷ」、「南紀・熊野古道フリーきっぷ」などは伊勢鉄道線経由で利用でき<ref>[http://www.isetetu.co.jp/topi/jr/1.html JRの企画乗車券で伊勢鉄道をご利用のお客様へ] - 伊勢鉄道</ref>、伊勢鉄道線がフリー区間に含まれている「青空フリーパス」、「JR東海&16私鉄 乗り鉄☆たびきっぷ」では伊勢鉄道線内の駅で乗降できる。
伊勢鉄道線で利用できない企画乗車券で河原田駅(特急や快速の場合は四日市駅)または津駅を越えて伊勢鉄道線に入った場合、河原田駅または津駅から下車駅まで(通過利用する場合は伊勢鉄道線全線)の運賃を支払わなければならず、伊勢鉄道で有効な乗車券を別に購入する必要がある。
== 利用状況 ==
=== 輸送実績 ===
伊勢線の輸送実績を下表に記す。輸送量は、国鉄からの移管後に飛躍的に増加し、最近では、快速みえの運行開始・増結・割引回数券発売開始の影響による利用増もあって過去最高を記録している。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、[[1987年]]度(昭和62年度)以降の最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
! colspan="7"|年度別輸送実績
|-
! rowspan="2"|年度
! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人/年度
! rowspan="2"|輸送密度<br />人/1日
! rowspan="2"|特記事項
|-
|通勤定期
|通学定期
|定期外
|合計
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|0.0
|0.0
|1.6
|'''1.6'''
|2,634
| style="text-align:left;"|国鉄より運営移管(5日間の数値) 伊勢上野駅開業
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
| style="background-color: #ccffcc;"|2.4
| style="background-color: #ccffcc;"|2.9
| style="background-color: #ccffcc;"|49.7
| style="background-color: #ccffcc;"|'''55.0'''
| style="background-color: #ccffcc;"|1,268
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|3.3
|4.1
|52.1
|'''59.5'''
|1,330
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年)
|4.0
|5.1
|58.2
|'''67.3'''
|1,480
| style="text-align:left;"|快速「みえ」運転開始
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|4.8
|5.3
|74.7
|'''84.8'''
|1,876
| style="text-align:left;"|徳田駅が開業
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|5.8
|5.8
|95.7
|'''107.3'''
|2,429
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|6.2
|6.5
|110.9
|'''123.6'''
|2,862
| style="text-align:left;"|河原田 - 玉垣間複線化
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|6.8
|8.2
|114.9
|'''129.9'''
|2,994
| style="text-align:left;"|玉垣 - 中瀬古間複線化
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|8.0
|10.8
|110.1
|'''128.9'''
|2,905
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|8.0
|10.9
|112.3
|'''131.2'''
|2,954
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|10.8
|11.1
|123.5
|'''145.4'''
|3,286
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|8.9
|12.5
|119.3
|'''140.7'''
|3,212
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|9.2
|13.8
|115.7
|'''138.7'''
|3,138
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|9.7
|14.7
|115.0
|'''139.4'''
|3,151
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|9.8
|16.2
|112.8
|'''138.8'''
|3,062
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|9.9
|16.4
|112.0
|'''138.3'''
|3,037
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|9.7
|19.2
|110.6
|'''139.5'''
|3,026
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|9.0
|19.7
|106.8
|'''135.5'''
|2,931
| style="text-align:left;"|新型車両(イセIII型)導入開始
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|10.5
|21.6
|97.6
|'''129.7'''
|2,644
| style="text-align:left;"|快速みえ割引回数券発売開始
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|11.1
|22.1
|105.7
|'''138.9'''
|2,868
| style="text-align:left;"|全車両を新型車両に置き換え完了
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|11.8
| style="background-color: #ffcccc;"|22.9
|124.3
|'''159.0'''
|3,474
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
|12.3
|22.3
|128.5
|'''163.1'''
| 3,667
| style="text-align:left;"|
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|
|
|
|
| 3,760
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|13.5
|20.0
|126.4
|'''159.9'''
|3,441
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|
|
|
|'''157.5'''
|3,387<ref>{{Cite book|和書|title=数字でみる鉄道 2012年版|publisher=([[一般財団法人]])[[運輸政策研究機構]]|date=2012-10-31|author=監修:国土交通省鉄道局|authorlink=鉄道局|isbn=978-4903876443}}>{{Cite web|和書|url=http://www.jterc.or.jp/tosho/New_mokuro/seigo_2012tetudo-20130122.pdf|title='''「数字でみる鉄道 2012」正誤表'''|accessdate=2014-08-26|publisher=ITPS([[運輸政策研究機構]])|date=2013-01-22|page=1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140826115438/http://www.jterc.or.jp/tosho/New_mokuro/seigo_2012tetudo-20130122.pdf|archivedate=2014-08-26|deadlinkdate=2020-11-22}}</ref>
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|
|
|
|'''159.1'''
|3,432
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|16.1
|19.3
|134.2
|'''169.6'''
|3,691
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|17.2
|20.7
| style="background-color: #ffcccc;"|147.0
| style="background-color: #ffcccc;"|'''184.9'''
| style="background-color: #ffcccc;"|4,041
| style="text-align:left;"|神宮式年遷宮 旅客輸送実績最高値を記録
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|17.6
|19.7
|134.6
|'''171.9'''
|3,707{{Sfn|数字でみる鉄道|2016|p=66}}
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|18.9
|19.9
|131.1
|'''169.9'''
|3,605
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|19.2
|18.4
|132.5
|'''170.1'''{{Sfn|数字でみる鉄道|2018|p=68}}
|3,641{{Sfn|数字でみる鉄道|2018|p=68}}
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年)
|19.6
|19.6
|131.2
|'''170.4'''{{Sfn|数字でみる鉄道|2019|p=68}}
|3,639{{Sfn|数字でみる鉄道|2019|p=68}}
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年)
| style="background-color: #ffcccc;"|20.7
|20.3
|130.5
|'''171.5'''
|3,597
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年)
|20.3
|22.3
|123.2
|'''165.8'''
|3,404
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年)
| style="background-color: #ccffff;"|19.0
| style="background-color: #ccffff;"|17.0
| style="background-color: #ccffff;"|46.6
| style="background-color: #ccffff;"|'''82.6'''
| style="background-color: #ccffff;"|1,552
|
|}
『鉄道統計年報』、『数字でみる鉄道』([[国土交通省]][[鉄道局]]監修)、国土交通省中部運輸局『数字で見る中部の運輸』より抜粋<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/chubu/kousei/suuji/data/1_zentai.pdf 国土交通省中部運輸局 数字で見る中部の運輸 2019] 2020年9月26日閲覧</ref><ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/chubu/kousei/suuji/data/2-2-1-1_soukatsu2020.pdf 国土交通省中部運輸局 数字で見る中部の運輸 2020] 2020年9月26日閲覧</ref>
=== 営業成績 ===
伊勢線の営業成績を下表に記す。営業収益は、国鉄移管後に飛躍的に増加した。最近では、多少の増減はあるものの大きくは変化していない。
表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、[[1987年]]度(昭和62年度)以降の最高値最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
! colspan="12"|年度別営業成績
|-
! rowspan="2"|年度
! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度
! rowspan="2"|鉄道線路<br />使用料収入<br />千円/年度
! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度
! rowspan="2"|営業収益<br />千円/年度
! rowspan="2"|営業経費<br />千円/年度
! rowspan="2"|営業損益<br />千円/年度
! rowspan="2"|営業<br />係数
|-
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|定期外
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|合計
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|216
|←←←←
|5,621
|''0''
|'''5,837'''
|''0''
|2,596
|'''8,433'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
| style="background-color: #ccffcc;"|4,626
| style="background-color: #ccffcc;"|3,702
| style="background-color: #ccffcc;"|183,210
|''0''
| style="background-color: #ccffcc;"|'''191,538'''
|''175''
| style="background-color: #ffcccc;"|89,892
| style="background-color: #ccffcc;"|'''281,605'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|5,888
|4,872
|195,499
|''0''
|'''206,259'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|74,577
|'''280,843'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年)
|6,876
|6,377
|276,321
|''0''
|'''289,574'''
|''325''
|23,573
|'''313,472'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|8,091
|6,338
|324,546
|''0''
|'''338,975'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|22,396
|'''361,371'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|9,903
|7,076
|405,606
|''0''
|'''422,585'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|22,963
|'''445,548'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|11,148
|7,733
|526,844
|''0''
|'''545,725'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|19,564
|'''565,289'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|12,318
|10,157
|529,703
|''0''
|'''552,178'''
|''245''
|19,269
|'''571,692'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|14,190
|13,248
|513,320
|''0''
|'''540,758'''
|''51''
|19,990
|'''560,799'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|14,220
|13,015
|524,045
|''0''
|'''551,280'''
|''81''
|27,195
|'''578,556'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|19,840
|13,581
| style="background-color: #ffcccc;"|587,766
|''0''
|'''621,187'''
|''747''
|35,464
|'''657,398'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|16,926
|14,904
|565,176
|''0''
|'''597,006'''
|''615''
|35,858
|'''633,479'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|17,362
|16,526
|540,234
|''0''
|'''574,122'''
|''640''
|37,645
|'''612,407'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|18,523
|17,729
|538,163
|''0''
|'''574,415'''
|''222''
|17,270
|'''591,907'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|18,353
|19,054
|535,266
|''0''
|'''572,673'''
|''301''
|23,756
|'''596,730'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|18,166
|19,406
|515,749
|''0''
|'''553,321'''
|''274''
|15,700
|'''569,295'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|17,918
|22,079
|506,973
|''0''
|'''546,970'''
|''251''
| style="background-color: #ccffff;"|15,287
|'''562,508'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|16,542
|23,161
|486,785
|''0''
|'''526,488'''
|''197''
|33,070
|'''559,755'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|19,046
|25,568
|448,728
|''0''
|'''493,342'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|31,021
|'''524,363'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|20,427
|25,974
|481,168
|''0''
|'''527,569'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|32,076
|'''543,774'''
|'''558,154'''
|'''△14,381'''
|102.6
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|22,267
| style="background-color: #ffcccc;"|26,351
|519,913
|''0''
|'''568,531'''
| style="background-color: #ccffcc;"|''0''
|18,448
|'''586,979'''
|'''584,463'''
|'''2,516'''
|99.6
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
|
|
|
|
|
|
|
|'''597,635'''
|'''581,302'''
|'''16,332'''
|97.3
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|
|
|
|
|
|
|
|'''598,718'''
|'''580,144'''
|'''18,573'''
|96.9
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
| style="background-color: #ffcccc;"|25,006
| style="background-color: #ccffff;"|22,677
|505,350
|''0''
|'''553,033'''
| style="background-color: #ffcccc;"|''7,107''
|15,746
|'''575,887'''
|'''572,087'''
|'''3,799'''
|99.3
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|
|
|
|
|
|
|
|'''567,378'''
|'''580,438'''
|'''△13,059'''
|102.3
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|
|
|
|
|
|
|
|'''554,677'''
|'''599,929'''
|'''△45,252'''
|108.2
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|51,999
|←←←←
|530,007
|''0''
|'''582,006'''
|''4,605''
|19,833
|'''606,444'''
|'''613,145'''
|'''△6,701'''
|101.1
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|55,328
|←←←←
|586,577
|''0''
| style="background-color: #ffcccc;"|'''641,905'''
| style="background-color: #ccffff;"|''250''
|16,227
| style="background-color: #ffcccc;"|'''658,382'''
|'''647,573'''
|'''10,809'''
|98.4
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|54,110
|←←←←
|519,455
|''0''
|'''573,565'''
|''446''
|15,922
|'''589,933'''
|'''607,818'''
|'''△17,885'''
|103.0
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|56,466
|←←←←
|505,150
|''0''
|'''561,616'''
|''418''
|16,185
|'''578,219'''
|'''594,816'''
|'''△16,597'''
|102.9
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|55,137
|←←←←
|496,929
|''0''
|'''552,066'''
|''4,831''
|21,571
|'''578,468'''
|'''602,921'''
|'''△24,453'''
|104.2
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年)
|57,237
|←←←←
|491,685
|''0''
|'''548,922'''
|''4,844''
|16,651
|'''570,417'''
|'''577,108'''
|'''△6,691'''
|101.2
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年)
|60,092
|←←←←
|489,746
|''0''
|'''549,838'''
|''4,834''
|16,344
|'''571,016'''
|'''587,211'''
|'''△16,195'''
|102.8
|-
! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年)
|60,810
|←←←←
|456,386
|''0''
|'''517,196'''
|''4,874''
|16,725
|'''538,795'''
|'''615,896'''
|'''△77,101'''
|114.3
|-
! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年)
|54,980
|←←←←
| style="background-color: #ccffff;"|176,559
|''0''
| style="background-color: #ccffff;"|'''231,539'''
|''5,194''
|18,652
| style="background-color: #ccffff;"|'''255,385'''
|'''558,476'''
|'''△303,091'''
|218.7
|}
『鉄道統計年報』(国土交通省鉄道局監修)、伊勢鉄道ホームページより抜粋
== 歴史 ==
=== 前史 ===
従来、[[名古屋駅|名古屋]]・[[四日市駅|四日市]]方面と[[南紀]]([[尾鷲駅|尾鷲]]・[[新宮駅|新宮]])・[[伊勢志摩]]([[伊勢市駅|伊勢市]]・[[鳥羽駅|鳥羽]])方面間を行き来するためには、[[四日市市]]から[[津市]]の間で[[伊勢湾]]沿岸から外れて、[[関西本線]]・[[紀勢本線]]の結節点である[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]を経由しなければならなかった{{R|kawashima}}。また、亀山駅を経由して名古屋方面と津方面を結ぶ列車は同駅で列車の方向転換(スイッチバック)を必要としており、これも所要時間の面で障害となっていた{{R|kawashima}}。
このため、関西本線の[[南四日市駅]]と紀勢本線の津駅の間を方向転換せずに短距離で結ぶ[[連絡線|短絡線]]として{{R|kawashima}}、[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団)が「主要幹線」(C線){{Efn2|name="C線"|主要幹線(C線)には伊勢線以外にも、[[根岸線]]や落合線・狩勝線・紅葉山線・追分線(後に[[石勝線]]として開業)、浦上線([[長崎本線]]:[[長崎トンネル]]経由の新線)、[[愛知環状鉄道線|岡多線]]・[[瀬戸線]]などが含まれる{{Sfn|日本鉄道建設公団|1974|p=55}}。}}として建設{{Sfn|日本鉄道建設公団|1974|p=55}}することになり、[[1964年]](昭和39年)4月22日に「工事線」となる{{R|sone26 28}}。
また、[[1962年]](昭和37年)には中南勢地区に伊勢線から分岐する臨港鉄道としての[[南伊勢線]]が予定線に指定された<ref name="kawashima">{{Cite book|和書|title=[[全国鉄道事情大研究]] 名古屋都心部・三重篇|author=川島令三|publisher=[[草思社]]|date=1996-06-26|edition=第1刷発行|pages=93-94|ISBN=978-4794207005}}</ref>。当時は津市 - [[松阪市]]の海岸を埋め立て、四日市臨海工業地帯級の開発を行う構想があり、伊勢線はその貨物輸送路としての役割に加え、沿線の住宅開発に合わせた通勤路線としての役割も期待されていた{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}。
=== 開業後 ===
しかし、伊勢線沿線の工業開発計画は[[四日市ぜんそく]]に端を発して猛反対に遭い、[[オイルショック#第1次|第1次オイルショック]]もあって頓挫し、南伊勢線の建設も凍結された{{R|kawashima}}。このため、伊勢線の建設計画そのものも縮小され、路盤こそ複線規格で建設されたものの、レールは単線で敷設された<ref name="中日新聞1973-08-31"/>。それでも名古屋方面と南紀方面のバイパス線としての機能は果たすことになったが{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}、[[1973年]](昭和48年)の開業時には1日に[[特別急行列車|特急]]「[[くろしお (列車)|くろしお]]」1往復、急行「紀州」(いずれも特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」の前身)3往復、[[普通列車|普通]]7往復しか運転されず{{R|kawashima}}、中間駅の乗降客数は150人/日にも満たなかった{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}。また、伊勢線を経由する[[貨物列車]]は運転されず、[[国道23号]]の整備による貨物のトラック輸送への転移が進む中でも、関西線名古屋・四日市方面と紀勢線津以南方面間を往復する貨物列車は亀山経由で運転され続けた。並行している[[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄名古屋線|名古屋線]]では伊勢線開業当時は1日あたり[[近鉄特急|特急]]44往復、[[急行列車|急行]]34往復、[[準急列車|準急]]9往復、普通62往復運転され、同社には[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]もあるため、伊勢線は全くと言ってよいほど利用されなかった{{R|kawashima}}。
そのため、この路線単独での利用者数は伸び悩み、開業10年後の1983年(昭和58年)には[[営業係数]]が646という超赤字路線となった上に{{R|kawashima}}、[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)にて[[代行バス|バス転換]]が妥当とされた[[輸送密度]]4,000人/日未満を下回った(1981年〈昭和56年〉度当時1,495人/日)ため、第2次[[特定地方交通線]]に選定された{{R|RJ247}}。本路線は従来の市街地を外れた場所を走行していた区間が多かったため、利用者からの廃止反対運動は盛り上がらず、行政側が中心となって陳情運動を行うこととなり{{Efn2|沿線住民からの廃止反対運動は発生せず、むしろ伊勢線経由の特急が乗り入れる南紀地方が積極的に伊勢線の存続を唱えていた{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}。そのような経緯から、出資比率は沿線自治体(20%)と同じく、[[尾鷲市]]・[[熊野市]]など沿線外自治体による比率も20%に達している{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}。}}{{R|鉄道廃線カタログ}}、[[1986年]](昭和61年)に[[第三セクター鉄道]]への転換が決定し、翌1987年には伊勢鉄道の路線になった{{R|RJ247}}。
伊勢鉄道への移管にあたり、起点を従来の南四日市駅から河原田駅に変更した{{R|sone26 28}}。転換当時は全線単線で、[[列車交換]](行き違い)設備は[[玉垣駅]]のみだったが{{Sfn|寺田裕一|2004|p=10}}、転換後には[[河芸駅]]に交換設備を新設したほか、河原田 - [[中瀬古駅|中瀬古]]間を[[複線化]]して輸送力を増強し、線路容量は四日市 - 津間で普通12往復+線内通過の「南紀」4往復{{Efn2|ほかに津 - 玉垣の1往復{{Sfn|寺田裕一|2004|p=12}}。}}(転換当時)が55往復(1993年〈平成5年〉8月・河原田 - 中瀬古間の複線化完了時)まで増加した{{Sfn|寺田裕一|2004|p=12}}。輸送人員はその大半が線内通過の「南紀」「みえ」利用客だが、中瀬古駅付近に鈴鹿国際大学(現:[[鈴鹿大学]])が進出するなど沿線の宅地化も進んだことから、通勤・通学利用の線内乗降客も増加し、1996年度(平成8年度)以降は黒字経営に転じた{{Sfn|寺田裕一|2004|p=12}}。
=== 年表 ===
* [[1961年]]([[昭和]]36年)[[6月16日]]:[[鉄道敷設法]]改正により四日市 - 津間が予定線に追加される{{R|sone26 28}}。
* [[1964年]](昭和39年)[[4月22日]]:鉄道建設審議会により、日本鉄道建設公団の工事線となる{{R|sone26 28}}。分類は主要幹線(C線)<ref group="注" name="C線"/>{{Sfn|日本鉄道建設公団|1974|p=55}}。
* [[1965年]](昭和40年)[[11月4日]]:着工{{R|sone26 28}}。工費は109億円<ref name="中日新聞1973-08-31">『[[中日新聞]]』1973年8月31日朝刊第11版第三社会面17頁「【津】伊勢線あす店開き 四日市⇄津を一直線」([[中日新聞社]])</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)
** [[9月1日]]:国鉄伊勢線として南四日市駅 - 津駅間 (26.0 km) が開業。鈴鹿駅、玉垣駅、稲生駅、中瀬古駅、河芸駅、東一身田駅が開業<ref name="1973kokuji-119">1973年(昭和48年)8月14日日本国有鉄道公示第119号「旅客運輸営業の開始の件」</ref><ref name="中日新聞1973-08-31"/>。河原田駅 - 津駅間が[[経路特定区間]]となる<ref>1973年(昭和48年)8月30日日本国有鉄道公示第132号「旅客及び荷物営業規則の一部改正」</ref>。南四日市駅 - 河原田駅間は[[関西本線]]と[[鉄道路線の名称|線路名称]]が重複する区間であった{{R|sone26 28}}。
** [[10月1日]]:同日のダイヤ改正で<ref name="中日新聞1973-08-31"/>、特急「[[くろしお (列車)|くろしお]]」のうち名古屋発着1往復と、急行「紀州」の一部列車{{R|sone26 28}}(3往復)が、亀山駅経由から当線経由に変更される<ref name="中日新聞1973-08-31"/>。寝台急行「[[紀伊 (列車)|紀伊]]」(1975年3月10日より特急に格上げ、1984年2月1日廃止)は亀山駅経由のまま。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月2日]]:名古屋発着の特急「くろしお」が廃止、特急「南紀」運転開始{{R|sone26 28}}。
* [[1982年]](昭和57年)[[5月17日]]:一部列車が当線を経由・停車(鈴鹿駅)していた急行「紀州」がすべて亀山駅経由に変更{{R|sone26 28}}(急行「紀州」は1985年3月13日廃止)。
* [[1984年]](昭和59年)[[6月22日]]:第2次特定地方交通線として廃止承認{{R|sone26 28}}。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[9月22日]]:伊勢線特定地方交通対策協議会で国鉄伊勢線の代替輸送計画決定。
** [[9月29日]]:第三セクター鉄道への転換を決定{{R|RJ247}}。
** 10月1日:伊勢鉄道が設立される{{R|sone26 28}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[3月27日]]:国鉄伊勢線廃止<ref>1987年(昭和62年)2月19日日本国有鉄道公示第232号「旅客運輸営業の廃止」</ref>、伊勢鉄道伊勢線 河原田駅 - 津駅間 (22.3 km) が開業{{R|RJ247}}。伊勢上野駅が開業{{Sfn|寺田裕一|2004|p=11}}。稲生駅が鈴鹿サーキット稲生駅に改称{{R|sone26 28}}。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[3月10日]]:快速「みえ」運転開始{{R|sone26 28}}。
** [[8月1日]]:最高速度が85 km/hから95 km/hに引き上げられる{{R|sone26 28}}。
* [[1991年]](平成3年)
** [[3月16日]]
***徳田駅が開業{{R|sone26 28}}。
***最高速度が110 km/hに引き上げられる{{R|sone26 28}}。
* [[1993年]](平成5年)
** [[3月7日]]:河原田駅 - 玉垣駅間が[[複線|複線化]]{{R|sone26 28}}<ref>{{Cite news |title=河原田-玉垣間複線使用を開始 伊勢鉄道 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-03-11 |page=1 }}</ref>。
** [[7月4日]]:玉垣駅 - 中瀬古駅間が複線化{{R|sone26 28}}<ref>{{Cite news |title=伊勢鉄道 複線運転スタート |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-07-07 |page=3 }}</ref>。河原田 - 中瀬古間 (12.7 km) の複線化に当たり算出された工事費は約20億5,000万円で、伊勢鉄道はうち4億3,000万円を負担したほか、国・三重県・沿線自治体も工事費を分担した{{Sfn|寺田裕一|2004|p=12}}。
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月15日]]:貨物営業(日本貨物鉄道の第二種鉄道事業<!-- 単に「貨物営業」では伊勢鉄道が貨物営業を行うように読めるので念のため断り書き-->)開始。定期貨物列車を設定。
** [[8月1日]]:[[駅ナンバリング]]を導入。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:定期貨物列車を廃止。
* [[2016年]](平成28年)[[4月1日]]:貨物営業(日本貨物鉄道の第二種鉄道事業)廃止<ref>電気車研究会『平成二十八年度 鉄道要覧』14頁</ref>。
* [[2018年]](平成30年):徳田 - 東一身田の各駅に接近放送設置。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[三重県]]内に所在。
* 四日市駅 - 河原田駅間は[[東海旅客鉄道|JR東海]][[関西本線]]。JRの設定したナンバリングをカッコ書きで記した。
* 累計営業キロは河原田駅からのもの。
* 普通列車はすべての駅に停車する。
* 快速「[[みえ (列車)|みえ]]」、特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」については列車記事も参照のこと。
; 凡例
: 停車駅 … ●:全列車停車、▲:一部列車が停車、*:鈴鹿サーキットでのレース<!--F1に限らないかと?-->開催時に限り一部列車が停車
: 駅名 … *印は転換時(後)に設置された新駅。
: 駅員配置 … ○:駅員配置駅(玉垣駅は定期券窓口のみで乗車券取り扱いなし)、※:JR東海駅員配置駅、×:無人駅
: 線路 … ∥:複線区間、|:単線区間([[列車交換]]不可)、◇:単線区間(列車交換可能)、∧:これより下は複線、∨:これより下は単線
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:1em;"|{{縦書き|運営会社|height=5em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|路線名|height=4em}}
!style="width:3.5em;"|駅番号
!style="width:10em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ
!style="width:1em; background:#fd8;"|{{縦書き|快速[[みえ (列車)|みえ]]|height=5em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|特急[[南紀 (列車)|南紀]]|height=5em}}
!接続路線
!style="width:1em;"|{{縦書き|駅員配置|height=5em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|線路|height=2em}}
!style="width:5em;"|所在地
|-
!colspan="6"|直通運転区間
|colspan="6"|○快速みえ、特急南紀…{{JR海駅番号|CJ}} 関西本線[[名古屋駅]]まで
|-
|rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|東海旅客鉄道|height=7em}}
|rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|関西本線|height=5em}}
! (CJ11)
|[[四日市駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"| 6.9
|style="text-align:center; background:#fd8; "|●
|style="text-align:center;"|●
|東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]]([[名古屋駅|名古屋]]方面)
|style="text-align:center;"|※
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="4"|[[四日市市]]
|-
! (CJ12)
|[[南四日市駅]]
|style="text-align:right;"| 3.2
|style="text-align:right;"| 3.7
|style="text-align:center; background:#fd8; "||
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"|∧
|-
! (CJ13)
|rowspan="2"|[[河原田駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"| 3.7
|rowspan="2" style="text-align:right;"| 0.0
|rowspan="2" style="text-align:center; background:#fd8; "||
|rowspan="2" style="text-align:center;"||
|rowspan="2"|東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CJ}} 関西本線([[亀山駅 (三重県)|亀山]]方面)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|×
|rowspan="2" style="text-align:center;"|∥
|-
|rowspan="10" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|'''伊勢鉄道'''|height=5em}}
|rowspan="10" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|'''伊勢線'''|height=4em}}
! 3
|-
! 4
|[[鈴鹿駅]]
|style="text-align:right;"| 3.8
|style="text-align:right;"| 3.8
|style="text-align:center; background:#fd8; "|●
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|○
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="5"|[[鈴鹿市]]
|-
! 5
|[[玉垣駅]]
|style="text-align:right;"| 3.2
|style="text-align:right;"| 7.0
|style="text-align:center; background:#fd8; "||
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|○
|style="text-align:center;"|∥
|-
! 6
|[[鈴鹿サーキット稲生駅]]
|style="text-align:right;"| 2.1
|style="text-align:right;"| 9.1
|style="text-align:center; background:#fd8; "|*
|style="text-align:center;"|*
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"|∥
|-
! 7
|*[[徳田駅 (三重県)|徳田駅]]
|style="text-align:right;"| 2.0
|style="text-align:right;"| 11.1
|style="text-align:center; background:#fd8; "||
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"|∥
|-
! 8
|[[中瀬古駅]]<br/><small>(鈴鹿国際大学前)</small>
|style="text-align:right;"| 1.6
|style="text-align:right;"| 12.7
|style="text-align:center; background:#fd8; "|▲
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"|∨
|-
! 9
|*[[伊勢上野駅]]
|style="text-align:right;"| 1.3
|style="text-align:right;"| 14.0
|style="text-align:center; background:#fd8; "||
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"||
|rowspan="4"|[[津市]]
|-
! 10
|[[河芸駅]]
|style="text-align:right;"| 2.4
|style="text-align:right;"| 16.4
|style="text-align:center; background:#fd8; "||
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"|◇
|-
! 11
|[[東一身田駅]]
|style="text-align:right;"| 3.0
|style="text-align:right;"| 19.4
|style="text-align:center; background:#fd8; "||
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|×
|style="text-align:center;"||
|-
! 12
|[[津駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|22.3
|style="text-align:center; background:#fd8; "|●
|style="text-align:center;"|●
|東海旅客鉄道:{{Color|#f77321|■}}[[紀勢本線]]<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]] (E39)
|style="text-align:center;"|○
|style="text-align:center;"|◇
|-
!colspan="6"|直通運転区間
|colspan="6"|○快速みえ…{{Color|#f77321|■}}紀勢本線経由{{Color|#f77321|■}}[[参宮線]][[伊勢市駅]]・[[鳥羽駅]]まで<br />○特急南紀…{{Color|#f77321|■}}{{JR西路線記号|K|W}}紀勢本線[[新宮駅]]、[[紀伊勝浦駅]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])まで
|}
== 沿線 ==
* [[鈴鹿川]]
* [[味の素AGF|AGF]]鈴鹿
* [[石垣池公園]]
* [[中勢バイパス]]
* 太陽の街
* [[鈴鹿大学]]
* 千里団地
* 杜の街
* 津市河芸総合支所
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{出典の明記|section=1|date=2020年1月24日 (金) 12:39 (UTC)}}
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|url=https://transport.or.jp/tetsudoujiten/pages/leaves/1966_%e9%89%84%e9%81%93%e8%be%9e%e5%85%b8_%e8%a3%9c%e9%81%ba%e7%89%88_P0317.pdf|title=鉄道辞典 補遺版|date=1966-03-31|page=317|editor=日本国有鉄道|publisher=[[日本国有鉄道]]|format=PDF|language=ja|doi=|accessdate=2020-03-05|archivedate=2020-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200305131215/https://transport.or.jp/tetsudoujiten/pages/leaves/1966_%e9%89%84%e9%81%93%e8%be%9e%e5%85%b8_%e8%a3%9c%e9%81%ba%e7%89%88_P0317.pdf|ref={{SfnRef|日本国有鉄道|1966}}}} - [[鉄道辞典]](公益財団法人 交通協力会のウェブサイトより)
* {{Cite book|和書|title=日本鉄道建設公団十年史|publisher=[[日本鉄道建設公団]]|date=1974-10-20|ref={{SfnRef|日本鉄道建設公団|1974}}|editor=日本鉄道建設公団十年史編さん委員会}}
* 伊勢鉄道株式会社パンフレット「夢乗せて愛乗せて」{{Full citation needed|date=2015年12月}}<!--国立国会図書館サーチ等で調べる限りでは所蔵されているところがなく、検証可能性に乏しい資料と言わざるを得ません-->
* {{Cite book|和書|title=ローカル私鉄列車ダイヤ25年 西日本編 60線1600kmのダイヤ変遷史|publisher=[[JTB]]|date=2004-10-01|ref={{SfnRef|寺田裕一|2004}}|author=寺田裕一|authorlink=寺田裕一|edition=初版|isbn=978-4533055850|pages=10-13|chapter=伊勢鉄道}}
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 長良川鉄道・明知鉄道・樽見鉄道・三岐鉄道・伊勢鉄道|date=2011-09-18|ref=sone26}}
* {{Cite book|和書|title=数字でみる鉄道 2016|publisher=運輸政策研究機構|date=2016-10-01|ref={{SfnRef|数字でみる鉄道|2016}}|editor=国土交通省鉄道局(監修)|isbn=978-4903876719|pages=66-67}}
* {{Cite book|和書|title=数字でみる鉄道 2018|publisher=一般財団法人 運輸総合研究所|date=2019-01|ref={{SfnRef|数字でみる鉄道|2018}}|editor=国土交通省鉄道局(監修)|isbn=978-4903876870|pages=68-69}}
* {{Cite book|和書|title=数字でみる鉄道 2019|publisher=一般財団法人 運輸総合研究所|date=2020-01|ref={{SfnRef|数字でみる鉄道|2019}}|editor=国土交通省鉄道局(監修)|isbn=978-4903876931|pages=68-69}}
* {{Cite book|和書|title=第三セクター鉄道等の概要|publisher=第三セクター鉄道等協議会|date=2020-09|ref={{SfnRef|第三セクター鉄道等の概要|2020}}|editor=第三セクター鉄道等協議会事務局|pages=187-194}}
* {{Cite journal|和書|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|author=長田寛|title=正遷宮祭を前に 伊勢線完成|volume=23|issue=284|pages=56-58|date=1973-10-1|publisher=[[電気車研究会]]|language=ja|doi=10.11501/3294417|ref=長田284}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[近鉄特急史]]
* [[高速化 (鉄道)#高速新線]]
== 外部リンク ==
* [http://www.isetetu.co.jp/ 伊勢鉄道ホームページ]
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|いせせん]]
[[Category:第三セクター路線]]
[[Category:伊勢鉄道|路いせせん]]
[[Category:三重県の交通]]
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箱館府
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箱館府(はこだてふ)は、1868年(明治元年)から1869年(明治2年)7月までの間、蝦夷地を統治するために箱館(現在の函館市)に設けられた地方政治機関である。箱館裁判所の改称によって成立し、開拓使の設置によって廃止された。なお、開拓使への移行時には、一時的に箱館県と改称していた。
箱館府は、府藩県三治制の導入の一環として、慶応4年閏4月24日の箱館府知事以下の任命によって設けられた。明治2年の廃止まで、府知事は清水谷公考が務めた。箱館裁判所から改称したものだが、これが現地の箱館で適用されるのは7月か8月に下り、しかもそれ以後も裁判所という表現が併用された。移行時期がはっきりしないため、本記事では5月の裁判所段階も箱館府と呼んでこの項目で扱う。
開設直後の箱館府は、まず、「人倫の道を尽くして禁制の邪教に迷わざること」といった内容の、人民を教化する布告をいくつか出した。具体的な経綸としては、情勢不穏のために流入が滞った米を運びこむための手段を講じようとした。当時蝦夷地では米を本州からの移入に頼っていたため、この問題は重要であった。また6月には、日露雑居の北蝦夷地(樺太)に権判事の岡本監輔を派遣して、久春古丹(くしゅんこたん)に公議所を置いた。箱館に着任したのは小人数の高官だけだったので、上層の役人を除く、旧幕府の役人の大半が箱館府の下級官吏として採用された。
しかし、本格的な施策を打ち出す前に、箱館府は戊辰戦争に直面した。当時の蝦夷地には、松前藩、盛岡藩、仙台藩、会津藩、弘前藩、庄内藩の領地があり、警備の兵力も諸藩が出していた。しかし箱館裁判所が機能しはじめた5月には、早くも奥羽越列藩同盟が結成された。それでも清水谷府知事らは、兵力を持たずに着任したのに、奥羽諸藩から攻撃を受けずにすみ、5月末には軍需物資を秋田方面に輸送することができた。7月から8月にかけて、東北諸藩は次々と任地を放棄して引き上げ、松前藩だけが兵力を留めた。箱館府は、官吏と徴募兵で府兵二個小隊を作ったが、その戦力は期待できなかった。
やがて奥羽の戦線が新政府軍の勝利のうちに終息すると、榎本武揚の率いる旧幕府の艦隊が北上をはじめ、10月20日に蝦夷地に到来した。箱館府の官吏は、来援したばかりの諸藩兵とともに、25日に箱館を出航して本州に退いた。
清水谷府知事は青森口総督を兼務して箱館戦争を戦い、明治2年 (1869年) 5月17日に箱館に入って府務の再開を触れた。戦後の箱館府は、焼失した町・村・怪我人などへの米や金の給与や貸付、困窮者の免税、榎本政権の発行した通貨の回収などの戦後処理にあたった。
戦争中に政府は蝦夷地の統治機構を一新する案を練りはじめ、戦後の7月8日に箱館府に変わるべきものとして開拓使を設置した。しかし、人事面の難航から、開拓使が実効を表すのは7月24日からであり、新しい職員の着任は9月にまでずれこんだ。この間、7月17日から7月24日まで箱館府は箱館県と改称していた。
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箱館府(はこだてふ)は、1868年(明治元年)から1869年(明治2年)7月までの間、蝦夷地を統治するために箱館(現在の函館市)に設けられた地方政治機関である。箱館裁判所の改称によって成立し、開拓使の設置によって廃止された。なお、開拓使への移行時には、一時的に箱館県と改称していた。
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'''箱館府'''(はこだてふ)は、[[1868年]]([[明治]]元年)から[[1869年]](明治2年)7月までの間、[[蝦夷地]]を統治するために箱館(現在の[[函館市]])に設けられた地方政治機関である。[[箱館裁判所]]の改称によって成立し、[[開拓使]]の設置によって廃止された。なお、開拓使への移行時には、一時的に'''箱館県'''と改称していた。
==概要==
箱館府は、[[府藩県三治制]]の導入の一環として、慶応4年閏4月24日の箱館府知事以下の任命によって設けられた。明治2年の廃止まで、府知事は[[清水谷公考]]が務めた。箱館裁判所から改称したものだが、これが現地の箱館で適用されるのは7月か8月に下り、しかもそれ以後も裁判所という表現が併用された。移行時期がはっきりしないため、本記事では5月の裁判所段階も箱館府と呼んでこの項目で扱う。
開設直後の箱館府は、まず、「人倫の道を尽くして禁制の邪教に迷わざること」といった内容の、人民を教化する布告をいくつか出した。具体的な経綸としては、情勢不穏のために流入が滞った米を運びこむための手段を講じようとした。当時蝦夷地では米を本州からの移入に頼っていたため、この問題は重要であった。また6月には、日露雑居の[[北蝦夷地]](樺太)に権判事の[[岡本監輔]]を派遣して、[[久春古丹]](くしゅんこたん)に公議所を置いた。箱館に着任したのは小人数の高官だけだったので、上層の役人を除く、旧幕府の役人の大半が箱館府の下級官吏として採用された。
しかし、本格的な施策を打ち出す前に、箱館府は[[戊辰戦争]]に直面した。当時の蝦夷地には、[[松前藩]]、[[盛岡藩]]、[[仙台藩]]、[[会津藩]]、[[弘前藩]]、[[庄内藩]]の領地があり、警備の兵力も諸藩が出していた。しかし箱館裁判所が機能しはじめた5月には、早くも[[奥羽越列藩同盟]]が結成された。それでも清水谷府知事らは、兵力を持たずに着任したのに、奥羽諸藩から攻撃を受けずにすみ、5月末には軍需物資を秋田方面に輸送することができた。7月から8月にかけて、東北諸藩は次々と任地を放棄して引き上げ、松前藩だけが兵力を留めた。箱館府は、官吏と徴募兵で府兵二個小隊を作ったが、その戦力は期待できなかった。
やがて奥羽の戦線が新政府軍の勝利のうちに終息すると、[[榎本武揚]]の率いる旧幕府の艦隊が北上をはじめ、10月20日に蝦夷地に到来した。箱館府の官吏は、来援したばかりの諸藩兵とともに、25日に箱館を出航して本州に退いた。
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戦争中に政府は蝦夷地の統治機構を一新する案を練りはじめ、戦後の7月8日に箱館府に変わるべきものとして[[開拓使]]を設置した。しかし、人事面の難航から、開拓使が実効を表すのは7月24日からであり、新しい職員の着任は9月にまでずれこんだ。この間、7月17日から7月24日まで箱館府は箱館県と改称していた。
==箱館府の人事==
*府知事 [[清水谷公考]] 慶応4年 (1868年) 閏4月24日 - 明治2年 (1869年) 7月24日
**府判事 [[井上石見]] 明治元年 (1868年) 9月、択捉島視察の帰途に遭難、行方不明。
**府判事 [[松浦武四郎]]
==箱館府の制度==
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*慶応4年 (1868年) 5月の官制
**民政方 (公事、訴訟、刑獄、寺社、病院、作事、勧農、拓地の事を掌る)
**文武方 (文武、講習、器械、製造、防火、捕逮の事を掌る)
**外国方 (諸藩交際、外国船出入、運上などの諸務を掌る)
**物産方 (産物財本の基礎を立て、商法、運送、沖の出入船の事を掌る)
**勘定方 (金穀出入、賦税植□諸倉稟を掌る)
**監察方 (内外の得失を論じ、諸司監察の作法を正し、総て弾勘の事を掌る)
**執達方 (諸藩ならびに市民応接、使命伝送の事を掌る)
*明治2年 (1869年) 3月30日の官制
**議事局
**施事局
***庶務局
***外国局
***刑法局
***会計局
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[[Category:北海道の政治史]]
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井筒俊彦
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井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年(大正3年)5月4日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。文学博士、エラノス会議メンバー、日本学士院会員。
語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている。
アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語等の30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教の不二一元論、大乗仏教(特に禅)、および哲学道教の形而上学と哲学的知恵、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。
東京府出身。父の井筒信太郎はオイルマン。また、書家で、在家の禅修行者。坐禅や公案に親しんで育つ。
旧制青山学院中学で初めてキリスト教に触れる。当初はキリスト教に激しい嫌悪感を抱き、礼拝の最中に嘔吐したこともある。このころ、西脇順三郎のシュルレアリスム文学理論に傾倒。
文学部志望だったが父の反対を受け、1931年4月慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に加藤守雄や池田彌三郎がいた。しかし経済学の講義に興味なく、西脇順三郎教授を慕って、1934年4月、文学部英文科に転じる。
在学中、旧約聖書に関心を持ち、神田の夜学で小辻節三からヘブライ語を習う。さらに、夜学の先輩関根正雄と意気投合し、アラビア語の教科書をドイツから取り寄せて、関根と共にアラビア語を学ぶ。同時にロシア語や古典ギリシア語・ラテン語も学習。1度に10の言語を学んだ。
1937年に卒業後、直ちに慶應義塾大学文学部の助手となる。
彼は「新しい外国語を一つ習得する時は、その国の大使館のスタッフを自宅に下宿させた」という有名な伝説は「生きた人間とはやらない」と自ら否定しているが、アラビア語に関してはイスラーム専門家2名に長期間師事している。
アラビア語については自著『アラビア語入門』で完全に理解し自由自在に活用できることの困難さを述べており、
と記している。
独学期間を経て井筒は大学卒業後(1937年以降)に在日タタール人イスラーム学者(ウラマー)アブデュルレシト・イブラヒムに再三面会を求めアラビア語を教えてほしいと依頼。アラビア語の生音声を聞き大喜びした井筒青年に対し、同師はイスラーム諸学を同時に学ぶという条件を出し、2年余り毎日通い詰めて教えを受けることを許した。
その後アブドゥルレシト・イブラヒム師から他のタタール人大学者ムーサ・ビギエフを紹介され、彼が日本で暮らしていた2年間の間多くの日々を共に過ごしたという。
この頃井筒はアラビア語で生活し、朝早くから明け方近くに就寝するまでアラビア語を読み書きし・話し、さらには教えるというアラビア語漬けの生活を送っており、『アラビア語入門』原稿はそうした中昭和16年に書き上げたものだったという。
戦時中は軍部に駆り出されて中近東の要人を相手としたアラビア語の通訳をした。
保守思想家でイスラム研究者でもあった大川周明の依頼を受け、満鉄系の東亜経済調査局や回教圏研究所で膨大なアラビア語文献を読破し、イスラーム研究を本格化させた。前嶋信次はその時の同僚で、のち共に慶應義塾大教授(東洋史)。
1958年に『コーラン』の邦訳を完成させた。井筒訳の『コーラン』は、厳密な言語学的研究を基礎とした秀逸な訳として、現在に至るまで高い評価を受けている。『コーラン』についての意味論的研究『意味の構造』(原著英語)の評価も高く、コーランやイスラーム思想研究では、言語を問わずたびたび引用されている。
ちなみに、語学的な才能に富んでいた井筒は、アラビア語を習い始めて1か月で『コーラン』を読破したという。語学能力は天才的と称され30数言語を使いこなしたとも言われる。司馬遼太郎は、対談冒頭で井筒を評し「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と語っている。
1959年より、ロシア・フォルマリストのローマン・ヤーコブソンの推薦を得てロックフェラー財団フェローとして、レバノン、エジプト、シリア、ドイツ、パリなど中近東・欧米での研究生活に入る。
思想研究の主要な業績はイスラム思想、特にペルシア思想とイスラム神秘主義に関する数多くの著作を出版したことだが、自身は仏教徒で、晩年には研究を仏教哲学(禅、唯識、華厳などの大乗仏典)、老荘思想、朱子学、西洋中世哲学、ユダヤ思想などの分野にまで広げた。古代ギリシア哲学やロシア文学に関する専門書も若くして出版している。東洋思想の「共時的構造化」を試みた『意識と本質』は、井筒の広範な思想研究の成果が盛り込まれた代表的著作とされる。
東洋思想の「共時的構造化」の本格的具現化の試みの第一弾として、1992年に「中央公論」で「東洋哲学覚書 意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学」を3回に分け連載したが、翌93年1月7日、就寝中の脳出血により78歳で急逝。遺著として1993年3月に中央公論社で出版。旧蔵書は同大学の記念図書として架蔵され「井筒俊彦文庫目録」 が発行(アラビア語・ペルシア語図書/和漢書・洋書部の2冊、2002年)された。
独自の内観法を父親から学び、形而上学的・神秘主義的な原体験を得た。その後、西洋の神秘主義も同じような感覚を記述していることに気付き、古今東西の形而上学・神秘主義の研究に打ち込んだ。世界的に権威ある空前絶後の碩学であり、現代フランスの思想家の一人ジャック・デリダも、井筒を「巨匠」と呼んで尊敬の念を表していた。なお夫人の井筒豊子(1925年-2017年4月)は、美学の研究者で英文著作があり国際的に知られている。
中沢新一は河合隼雄との対談で、「井筒はイスラム教から入り仏教やユダヤ教、キリスト教にも何でも深い理解を持ち、宗教の枠組みを超えたメタ宗教の可能性を構想した。その後円熟し、しだいにイスラム教と仏教を同等に捉え「アッラー」は普通言われている「神」ではなく、イスラム教が最も深いところで理解している「アッラー」というのは仏教が言う「真如」と同じだと発言した」と述べている。
その後は著書『大乗起信論』で、仏教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教などありとあらゆる宗教が井筒の思考内で合流し、どの宗教も単独では歴史上実現できなかった宗教の夢のようなものを現出させて見せた。仏教は単なる宗教の一つではなく、諸宗教が宗教であることの限界を超えてメタ宗教を目指す過程で必ず仏教のような思想形態があらわれるというのが井筒の思想で、中沢にも強い影響を与える。
一方で、井筒の解釈には個人的な関心に基づくゆえの偏りがみられるという池内恵の指摘がある。
2018年には、彼のドキュメンタリー映画The Eastern(邦訳:シャルギー(東洋人))が公開された。日本では2018年7月24日に公開された。
2019年、NHKドキュメンタリー/BS1スペシャル「イスラムに愛された日本人~知の巨人井筒俊彦~」が制作され、同年11月8日にNHK BS1にて放送された。
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"text": "文学部志望だったが父の反対を受け、1931年4月慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に加藤守雄や池田彌三郎がいた。しかし経済学の講義に興味なく、西脇順三郎教授を慕って、1934年4月、文学部英文科に転じる。",
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"text": "2019年、NHKドキュメンタリー/BS1スペシャル「イスラムに愛された日本人~知の巨人井筒俊彦~」が制作され、同年11月8日にNHK BS1にて放送された。",
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井筒 俊彦は、日本の言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。文学博士、エラノス会議メンバー、日本学士院会員。
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{{Infobox Scholar
|生年月日=<!--{{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}}-->| name = 井筒俊彦
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'''井筒 俊彦'''(いづつ としひこ、[[1914年]](大正3年)[[5月4日]] - [[1993年]](平成5年)[[1月7日]])は、[[日本]]の[[言語学者]]、[[イスラーム]]学者、[[東洋思想]]研究者、[[神秘主義]][[哲学者]]。[[慶應義塾大学]][[名誉教授]]。[[文学博士]]、[[エラノス会議]]メンバー、[[日本学士院]]会員。
== 紹介 ==
'''語学の[[天才]]'''と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-izutsu_guidance/ |title=思想家紹介 井筒俊彦 |publisher=京都大学大学院文学研究科・文学部 |accessdate=2019-04-21}}</ref>。
[[アラビア語]]、[[ペルシャ語]]、[[サンスクリット語]]、[[パーリ語]]、[[ロシア語]]、[[ギリシャ語]]等の30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『[[コーラン]]』の原典訳を刊行し、[[ギリシア哲学]]、[[ギリシャ]][[神秘主義]]と[[言語学]]の[[研究]]に取り組み、イスラム[[スーフィズム]]、[[ヒンドゥー教]]の不二一元論、[[大乗仏教]](特に[[禅]])、および哲学道教の[[形而上学]]と哲学的知恵、後期には[[仏教]]思想・[[老荘]]思想・[[朱子学]]などを視野に収め、[[禅]]、[[密教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[道教]]、[[儒教]]、[[ギリシア哲学]]、[[ユダヤ教]]、[[スコラ哲学]]などを横断する独自の[[東洋哲学]]の構築を試みた。
== 来歴・人物 ==
=== 幼少期・青少年期 ===
[[東京府]]出身。父の井筒信太郎はオイルマン。また、書家で、在家の禅修行者。[[坐禅]]や[[公案]]に親しんで育つ。
旧制[[青山学院]]中学で初めて[[キリスト教]]に触れる。当初はキリスト教に激しい嫌悪感を抱き、礼拝の最中に嘔吐したこともある<ref name = "idutu">{{Cite book |和書 |author=安岡章太郎ほか|authorlink=安岡章太郎|title=安岡章太郎15の対話|chapter=思想と芸術 |publisher=[[新潮社]] |date=1997 |isbn=4103219084}}</ref>。このころ、[[西脇順三郎]]の[[シュルレアリスム]]文学理論に傾倒。
=== 大学時代 ===
[[文学部]]志望だったが父の反対を受け、[[1931年]]4月[[慶應義塾大学]][[経済学部]]予科に入学。同級に[[加藤守雄]]や[[池田彌三郎]]がいた。しかし経済学の講義に興味なく、西脇順三郎教授を慕って、[[1934年]]4月、文学部英文科に転じる。
在学中、[[旧約聖書]]に関心を持ち、[[神田 (千代田区)|神田]]の夜学で[[小辻節三]]から[[ヘブライ語]]を習う。さらに、夜学の先輩[[関根正雄]]と意気投合し、[[アラビア語]]の教科書を[[ドイツ]]から取り寄せて、関根と共にアラビア語を学ぶ。同時に[[ロシア語]]や[[古典ギリシア語]]・[[ラテン語]]も学習。1度に10の言語を学んだ。
=== 大学卒業後と2人のタタール人イスラーム法学者からのアラビア語伝授 ===
[[1937年]]に卒業後、直ちに慶應義塾大学文学部の[[助手 (教育)|助手]]となる。
彼は「新しい外国語を一つ習得する時は、その国の[[大使館]]のスタッフを自宅に下宿させた」という有名な伝説は「生きた人間とはやらない」と自ら否定している<ref name="idutu" />が、アラビア語に関してはイスラーム専門家2名に長期間師事している。
アラビア語については自著『アラビア語入門』で完全に理解し自由自在に活用できることの困難さを述べており、
* アラビア語がこれほど重要であることは誰にも分かっているのに、実際はこの言葉を完全に学習し、山積する貴重な文献を自由自在に活用できるような学者は、日本はおろかヨーロッパの東洋学者にも数える程しか居ないのだ。何故だろう?簡単に言って了えば、アラビア語があまりにもむずかしいからである。
* 英仏独のような近代ヨーロッパ語の一つを学習するつもりでこの言葉に向ったなら、挫折することは初めからわかり切っている。
* アラビア語は西アジアに現に行われている文化語のうちで恐らく最も学習困難な言語である。
と記している。
独学期間を経て井筒は大学卒業後(1937年以降)に在日タタール人イスラーム学者(ウラマー)[[アブデュルレシト・イブラヒム]]に再三面会を求めアラビア語を教えてほしいと依頼。アラビア語の生音声を聞き大喜びした井筒青年に対し、同師はイスラーム諸学を同時に学ぶという条件を出し、2年余り毎日通い詰めて教えを受けることを許した。
その後アブドゥルレシト・イブラヒム師から他のタタール人大学者{{仮リンク|ムーサー・ビギエフ|tt|Муса Бигиев|en|Musa Bigiev|label=ムーサ・ビギエフ}}を紹介され、彼が日本で暮らしていた2年間の間多くの日々を共に過ごしたという<ref>{{Cite web|和書|title=二人のタタール人 {{!}} 特設サイト「井筒俊彦入門」 {{!}} 慶應義塾大学出版会 |url=https://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x7y5.html |website=www.keio-up.co.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>。
この頃井筒はアラビア語で生活し、朝早くから明け方近くに就寝するまでアラビア語を読み書きし・話し、さらには教えるというアラビア語漬けの生活を送っており、『アラビア語入門』原稿はそうした中昭和16年に書き上げた<ref>{{Cite book|和書 |title=井筒俊彦全集 第十二巻 アラビア語入門 |year=2016/03/25 |publisher=慶應義塾大学出版会 |pages=7-8}}</ref>ものだったという。
=== イスラーム研究の本格化 ===
戦時中は軍部に駆り出されて中近東の要人を相手としたアラビア語の通訳をした。
保守思想家でイスラム研究者でもあった[[大川周明]]の依頼を受け、[[南満州鉄道|満鉄]]系の[[東亜経済調査局]]や[[回教圏研究所]]で膨大なアラビア語文献を読破し、[[イスラーム]]研究を本格化させた。[[前嶋信次]]はその時の同僚で、のち共に慶應義塾大教授(東洋史)。
[[1958年]]に『[[クルアーン|コーラン]]』の日本語訳を完成させた。井筒訳の『コーラン』は、厳密な言語学的研究を基礎とした秀逸な訳として、現在に至るまで高い評価を受けている。『コーラン』についての[[意味論 (言語学)|意味論]]的研究『意味の構造』(原著英語)の評価も高く、コーランやイスラーム思想研究では、言語を問わずたびたび引用されている。
ちなみに、語学的な才能に富んでいた井筒は、アラビア語を習い始めて1か月で『コーラン』を読破したという。語学能力は天才的と称され30数言語を使いこなしたとも言われる<ref>{{Cite book |和書 |series=Aera mook |editor=蜷川真夫ほか |title=哲学がわかる |author=牧野信也 |chapter=井筒俊彦 |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1995}}</ref>。[[司馬遼太郎]]は、対談冒頭で井筒を評し「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と語っている<ref>{{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎ほか|title=司馬遼太郎歴史歓談|chapter=二十世紀末の闇と光 |publisher=[[中央公論新社]] |date=2000 |isbn=4120030695}}</ref>。
=== 思想研究 ===
[[1959年]]より、[[ロシア・フォルマリズム|ロシア・フォルマリスト]]の[[ローマン・ヤーコブソン]]の推薦を得て[[ロックフェラー財団]]フェローとして、[[レバノン]]、[[エジプト]]、[[シリア]]、[[ドイツ]]、[[パリ]]など中近東・欧米での研究生活に入る。
思想研究の主要な業績はイスラム思想、特に[[ペルシア]]思想と[[イスラム神秘主義]]に関する数多くの著作を出版したことだが、自身は[[仏教徒]]で、晩年には研究を[[仏教哲学]]([[禅]]、[[唯識]]、[[華厳宗|華厳]]などの[[大乗仏教|大乗]]仏典)、[[老荘思想]]、[[朱子学]]、西洋[[中世哲学]]、[[ユダヤ哲学|ユダヤ思想]]などの分野にまで広げた。古代[[ギリシア哲学]]や[[ロシア文学]]に関する専門書も若くして出版している。東洋思想の「共時的構造化」を試みた『意識と本質』は、井筒の広範な思想研究の成果が盛り込まれた代表的著作とされる。
東洋思想の「共時的構造化」の本格的具現化の試みの第一弾として、[[1992年]]に「[[中央公論]]」で「東洋哲学覚書 意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学」を3回に分け連載したが、翌93年1月7日、就寝中の[[脳出血]]により78歳で急逝。遺著として1993年3月に中央公論社で出版。旧蔵書は同大学の記念図書として架蔵され「井筒俊彦文庫目録」<ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.lib.keio.ac.jp/publication/medianet/article/pdf/0110740.pdf |format=PDF |journal=MediaNet No.11 |date=2004-10|title=慶應義塾図書館編・刊『井筒俊彦文庫目録』 |author=平尾行藏 |publisher=慶應義塾大学メディアセンター}}</ref> が発行(アラビア語・ペルシア語図書/和漢書・洋書部の2冊、2002年)された。
独自の[[内観|内観法]]を父親から学び、形而上学的・神秘主義的な原体験を得た。その後、西洋の神秘主義も同じような感覚を記述していることに気付き、古今東西の形而上学・神秘主義の研究に打ち込んだ。世界的に権威ある空前絶後の碩学であり、現代フランスの思想家の一人[[ジャック・デリダ]]も、井筒を「巨匠」と呼んで尊敬の念を表していた{{efn2|著作集刊行に際して、牧野信也の紹介の一節。}}。なお夫人の[[井筒豊子]](1925年-2017年4月)は、美学の研究者で英文著作があり国際的に知られている<ref>井筒豊子名で出版した日本語文献は、訳書『アラビア文学史』([[ハミルトン・ギブ]]、[[人文書院]]、のち「アラビア人文学」講談社学術文庫)、『さまよう ポストモダンの非/神学』(マーク・テイラー、岩波書店)や、小説『白磁盒子』([[中公文庫]])がある。</ref>。
[[中沢新一]]は[[河合隼雄]]との対談で、「井筒は[[イスラム教]]から入り[[仏教]]や[[ユダヤ教]]、キリスト教にも何でも深い理解を持ち、宗教の枠組みを超えた'''メタ宗教'''の可能性を構想した。その後円熟し、しだいにイスラム教と仏教を同等に捉え「[[アッラー]]」は普通言われている「[[神]]」ではなく、イスラム教が最も深いところで理解している「アッラー」というのは仏教が言う「[[真如]]」と同じだと発言した」と述べている。
その後は著書『[[大乗起信論]]』で、仏教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教などありとあらゆる宗教が井筒の思考内で合流し、どの宗教も単独では歴史上実現できなかった宗教の夢のようなものを現出させて見せた。仏教は単なる宗教の一つではなく、諸宗教が宗教であることの限界を超えてメタ宗教を目指す過程で必ず仏教のような思想形態があらわれるというのが井筒の思想で、中沢にも強い影響を与える<ref name="asahi">{{Cite book |和書 |author1=河合隼雄 |author2=中沢新一|title=仏教が好き! |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=[[朝日文庫]] |date=2008-06-30 |isbn=9784022615688}}{{要ページ番号|date=2019-04-21}}</ref>。
一方で、井筒の解釈には個人的な関心に基づくゆえの偏りがみられるという[[池内恵]]の指摘がある<ref>{{Cite journal |和書|title=井筒俊彦の主要著作に見る日本的イスラーム理解 |author=池内恵 |series=国際日本文化研究センター創立二十周年記念特集(続)|journal=日本研究 |volume=36 |publisher=[[国際日本文化研究センター]] |date=2007-09}}{{要ページ番号|date=2019-04-21}}</ref>。
== 職歴 ==
*[[1937年]](23歳) - [[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|慶應義塾大学文学部]]英文学科卒業。
*1937年(23歳) - 慶應義塾大学文学部[[助手 (教育)|助手]]。
*[[1942年]](28歳) - 慶應義塾語学研究所研究員兼任{{efn2|[[西脇順三郎]]、[[松本信広]]、[[辻直四郎]]、[[服部四郎]]、[[福原麟太郎]]、[[市河三喜]]らが同僚。}}。
*同[[助教授]]。
*[[1954年]](40歳) - 慶應義塾大学文学部[[教授]]。
*[[1959年]](45歳) - [[ロックフェラー財団]]研究員。
*[[1961年]](47歳) - [[カナダ]]・[[マギル大学]]客員教授。
*[[1962年]](48歳) - 慶應義塾大学言語文化研究所教授。
*[[1967年]](53歳) - スイス・[[エラノス会議]]会員。
*[[1969年]](55歳) - カナダ・マギル大学イスラーム研究所正教授。
*[[1975年]](61歳)~[[1979年]](65歳) - イラン王立研究所教授。
*パリ国際哲学研究院正会員。
*[[1981年]](67歳) - 慶應義塾大学[[名誉教授]]。
*[[1982年]](68歳) - [[日本学士院]]会員。
== 賞歴 ==
*1949年(35歳) - 『神秘哲学』第一回[[福澤賞]]・義塾賞。
*1982年(68歳) - 『イスラーム文化――その根底にあるもの』 [[毎日出版文化賞]]。
*1982年(68歳) - [[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 1971-2000年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738070 |accessdate=2022-09-02}}</ref>。
*1984年(70歳) - 『意識と本質――精神的東洋を索めて』 [[読売文学賞]](研究・翻訳部門)。
*2009年(故人) - [[ファーラービー国際賞]](故人部門)
== 著書 ==
*『アラビア思想史―回教神學と回教哲學』([[博文館]]〈興亜全書〉、1941年)
*『神秘哲學―ギリシアの部』(哲学修道院〈世界哲學講座〉、1949年)
*『アラビア語入門』(慶應出版社、1950年)
*『マホメット』([[弘文堂]]〈アテネ文庫〉、1952年、復刻2010年/[[講談社学術文庫]]、1989年)
*『ロシア的人間―近代ロシア文学史』(弘文堂、1953年/北洋社、1978年/[[中公文庫]]、1989年、改版2022年、[[佐藤優 (作家)|佐藤優]]解説)
*『神秘哲学 第1部―自然神秘主義とギリシア』([[人文書院]]、1978年)
*『神秘哲学 第2部―神秘主義のギリシア哲学的展開』(人文書院、1978年)
*『イスラーム生誕』(人文書院、1979年/中公文庫、1990年、改版2003年)
*『イスラーム哲学の原像』([[岩波新書]] 黄版、1980年、復刊1998年、2013年){{efn2|「超越のことば」に再収録。}}
*『イスラーム文化―その根底にあるもの』([[岩波書店]]、1981年/[[岩波文庫]]、1991年、ワイド版1994年)
*『イスラーム思想史―神学・神秘主義・哲学』(岩波書店、1982年/中公文庫、1991年、新版2005年、改版2009年)
*『コーランを読む』(岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1983年/[[岩波現代文庫]]、2013年、若松英輔解説)
*『意識と本質―精神的東洋を索めて』(岩波書店、1983年/岩波文庫、1991年、ワイド版2001年)
**独訳版 ''Bewusstsein und Wesen'', Hans Peter Liederbach, Iudicium Verlag, München, 2006
*『意味の深みへ―東洋哲学の水位』(岩波書店、1985年、復刊2013年/岩波文庫、2019年3月、斎藤慶典解説)
*『コスモスとアンチコスモス―東洋哲学のために』(岩波書店、1989年、復刊2005年/岩波文庫、2019年5月、[[河合俊雄]]解説)
*『超越のことば―イスラーム・ユダヤ哲学における神と人』(岩波書店、1991年、復刊2004年)
*『意識の形而上学―「[[大乗起信論]]」の哲学』(中央公論社、1993年/中公文庫、2001年)
*『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、2009年、若松英輔編){{efn2|著作集未収録の文章を集成。}}
*『神秘哲学―ギリシアの部』(慶應義塾大学出版会、2010年、[[若松英輔]]校訂・解説/岩波文庫、2019年2月、竹下政孝・[[山内志朗]]校訂、[[納富信留]]解説)
*『アラビア哲学―回教哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年、若松英輔校訂){{efn2|解題・鎌田繁([[東京大学東洋文化研究所]]教授)、「アラビア哲學」(光の書房、1948年)を復刻。他に「東印度に於ける回教法則(概説)」(東亜研究所、1942年)を収録。各・初版を、新字新かなに改めた版。}}
*『露西亜文学』(慶應義塾大学出版会、2011年、若松英輔校訂、[[亀山郁夫]]解説)
=== 英文著作 ===
*''Structure of Ethical Terms in the Quran'', Kazi Pubns Inc, 2000 - 以下各・[[ペーパーバック]]版
*''Concept of Belief in Islamic Theology'', Islamic Book Trust, 2001
*''Toward a Philosophy of Zen Buddhism'', Shambhala, 2001
*''Ethico-religious Concepts in the Qu'ran'', [[マギル=クイーンズ大学出版局]](McGill–Queen's University Press・ハードカバー版), 2002.Islamic Book Trust, 2010
*''God and Man in the Quran'', Islamic Book Trust, 2002
*''Concept and Reality of Existence''Islamic Book Trust, 2009
*''Sufism and Taoism: A Comparative Study of Key Philosophical Concepts'', Univ of California Press, 2016(Reprint版)
*[[老子]] ''Lao-Tzu The way and its virtue''
:〈The Izutu library series on Oriental philosophy〉(慶應義塾大学出版会 2001年)
*''The Structure of Oriental Philosophy Collected Papers of the Eranos Conference''(2分冊)
:〈The Izutu Library Series on Oriental Philosophy〉(慶應義塾大学出版会 2008年)
*''Language and Magic : Studies in the Magical Function of Speech''(慶應義塾大学出版会、2011年)
*''God and Man in the Koran Semantics of the Koranic Weltanschauung''
:〈The Izutu Library Series on Oriental Philosophy〉(慶應義塾大学出版会 2015年)
*''The Concept of Belief in Islamic Theology''
:〈The Izutu Library Series on Oriental Philosophy〉(慶應義塾大学出版会 2016年)
=== 英文著作(訳書)===
*『意味の構造―コーランにおける宗教道徳概念の分析』<ref>''The structure of the ethical terms in the Koran''(1959)および''Ethico-Religious Concepts in the Quran''(1966)より編訳</ref>(新泉社、1972年、[[牧野信也]]訳)
*『禅仏教の哲学に向けて』(ぷねうま舎、2014年、新版2019年、野平宗弘訳注、[[頼住光子]]解説)
*『井筒俊彦英文著作翻訳コレクション』(全7巻(全8冊)、慶應義塾大学出版会)
#『[[老子道徳経]]』([[古勝隆一]]訳、2017年4月)
#『クルアーンにおける神と人間―クルアーンの世界観の意味論』(鎌田繁監訳、仁子寿晴訳、2017年6月)
#『存在の概念と実在性』(鎌田繁監訳、仁子寿晴訳、2017年10月)
#『言語と呪術』([[安藤礼二]]監訳、小野純一訳、2018年9月)
#『イスラーム神学における信の構造―イーマーンとイスラームの意味論的分析』(鎌田繁監訳、仁子寿晴・橋爪烈訳、2018年2月)
#『東洋哲学の構造―[[エラノス会議]]講演集』([[澤井義次]]監訳、金子奈央・古勝隆一・[[西村玲]]訳、2019年3月)
#『[[スーフィズム]]と[[老荘思想]]―比較哲学試論』(上・下、仁子寿晴訳、2019年6月)
=== 翻訳 ===
*『[[クルアーン|コーラン]]』(岩波文庫(上中下)、1957-58年、改版1964年、新版2009年/ワイド版2004年)
*マルティン・C・ダーシー『愛のロゴスとパトス』(三辺文子共訳、[[創文社]]、1957年/[[未來社]]、1962年/[[上智大学]]出版部、1966年)
*[[ジャラール・ウッディーン・ルーミー|ジャラール・ルーミー]]『ルーミー語録』(イスラーム古典叢書:[[岩波書店]]、1978年)
*モッラー・サドラー『存在認識の道 存在と本質について』(イスラーム古典叢書:岩波書店、1978年{{efn2|[[イスラーム哲学]]における[[タウヒード]]([[価値観]])の原典。}})
=== 全集 ===
*井筒俊彦著作集(全11巻・別巻、[[中央公論新社|中央公論社]]、1991年-1993年)
#神秘哲学
#イスラーム文化
#ロシア的人間
#意味の構造 コーランにおける宗教道徳概念の分析([[牧野信也]]訳)
#イスラーム哲学
#意識と本質 東洋的思惟の構造的整合性を索めて
#コーラン(翻訳)
#コーランを読む
#東洋哲学
#存在認識の道 存在と本質について([[モッラー・サドラー]]、井筒訳・解説)
#ルーミー語録([[ジャラール・ウッディーン・ルーミー|ジャラール・ルーミー]]、井筒訳・解説)
#別巻 対談鼎談集・著作目録
*井筒俊彦全集(全12巻・別巻、[[慶應義塾大学出版会]]、2013年-2016年)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html |title=「井筒俊彦全集」 特設サイト「井筒俊彦」~言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者 |publisher= 慶應義塾大学出版会 |accessdate=2019-03-13}}</ref>
: (編集顧問 [[鈴木孝夫]] [[鳥居泰彦]] [[松原秀一]])
: (編集委員 [[岩見隆]]、[[鎌田繁]]、[[坂上弘]]、[[澤井義次]]、[[野元晋]])
: (編集担当 木下雄介、[[若松英輔]])
#アラビア哲学 1935年-1948年
#神秘哲学 1949年-1951年
#ロシア的人間 1951年-1953年
#イスラーム思想史 1954年-1975年
#存在顕現の形而上学 1978年-1980年
#意識と本質 1980年-1981年
#イスラーム文化 1981年-1983年
#意味の深みへ 1983年-1985年
#コスモスとアンチコスモス 1985年-1989年
#意識の形而上学 1988年-1993年
#意味の構造 1992年
#アラビア語入門(横組み)
#別巻 補遺・目録・年譜・索引(付・講演音声CD)
== 対談・評伝 ==
*『叡知の台座 井筒俊彦対談集』(岩波書店、1986年)
*[[若松英輔]] 『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年5月){{efn2|全10章の評伝。2009-2010年に「季刊 [[三田文学]]」に『井筒俊彦 存在とコトバの神秘哲学』を全6回連載。書き下ろしを加えた。}}
*若松英輔 『叡知の詩学 [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会、2015年10月){{efn2|「三田文学」に一部連載。また『霊性の哲学』(角川選書、2015年3月)にも「第5章 コトバの形而上学―詩人哲学者・井筒俊彦の起源」を収録。}}
* 井筒豊子 『井筒俊彦の学問遍路 <small>同行二人半</small>』(慶應義塾大学出版会、2017年9月){{efn2|豊子夫人(1925年-2017年4月)の回想記。澤井義次編・解説。}}
*『井筒俊彦とイスラーム <small>回想と書評</small>』([[松原秀一]]・坂本勉編、慶應義塾大学出版会、2012年10月)
*『井筒俊彦ざんまい』(若松英輔編、慶應義塾大学出版会、2019年10月)
*[[安藤礼二]] 『井筒俊彦 起源の哲学』(慶應義塾大学出版会、2023年9月)
=== 研究・英文記念論集 ===
*『井筒俊彦 <small>言語の根源と哲学の発生</small>』([[河出書房新社]]【[[KAWADE道の手帖]]】、2014年6月、増補版2017年6月){{efn2|若松英輔・[[安藤礼二]]責任編集。対談、[[高橋巌]]、[[末木文美士]]、[[中沢新一]]、[[鎌田東二]]、[[山城むつみ]]、[[吉村萬壱]]ほかが寄稿。}}
*『井筒俊彦の東洋哲学』([[澤井義次]]・鎌田繁編、慶應義塾大学出版会、2018年9月){{efn2|13名の論考集。}}
* [[斎藤慶典]]『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』([[講談社]]選書メチエ、2018年2月)
* バフマン・ザキプール『井筒俊彦の比較哲学』([[知泉書館]]、2019年2月)
* [[西平直]]『井筒俊彦と二重の見 東洋哲学序説』(未来哲学研究所、2021年2月)
* 小野純一『井筒俊彦 世界と対話する哲学』(慶應義塾大学出版会、2023年9月)
*『特集井筒俊彦 理想 第706号』(理想社、2021年9月){{efn2|9名の論考。}}
*『Consciousness and Reality――<small>Studies in Memory of Toshihiko Izutsu</small>』(松原秀一ほか編、岩波書店、1998年2月){{efn2|26名による追悼論集。}}
== 関連作品・番組 ==
2018年には、彼のドキュメンタリー映画『The Eastern』(日本語訳:『[[シャルギー(東洋人)]]』)が公開された<ref>{{Cite web |url=https://financialtribune.com/articles/art-and-culture/87858/documentary-on-life-of-japanese-qur-an-scholar |title=Documentary on Life of Japanese Qur’an Scholar |accessdate=2018年7月27日 |publisher=}}</ref>。日本では2018年7月24日に公開された<ref>{{Cite web|和書|url=http://parstoday.com/ja/news/japan-i46687 |title=日本で、井筒俊彦氏関連のドキュメンタリー映画「東洋人」(シャルギー)が公開 |accessdate=2018年7月27日 |publisher=}}</ref>。
2019年、NHKドキュメンタリー/BS1スペシャル『イスラムに愛された日本人~知の巨人井筒俊彦~』が制作され、同年11月8日にNHK BS1にて放送された。
* 『[[シャルギー(東洋人)]]』 - イラン制作、2018年。井筒の生涯と思想を紹介するドキュメンタリー映画。監督マスウード・ターヘリー、日本語字幕<ref>{{Cite web|和書|url=http://webneo.org/archives/46083|title=ドキュメンタリーが示す新たな井筒俊彦とその可能性|website=neoneo web|date=2018-09-01|accessdate=2018-09-01}}</ref>。
*[[NHK BS1]]スペシャル『イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦』、2019年11月8日。案内人[[サヘル・ローズ]]
== 関連人物 ==
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*[[鈴木大拙]](仏教・哲学)
*[[折口信夫]](大学時代に受講)
*[[上田閑照]](東洋哲学・エックハルト研究)
*[[河合隼雄]](ユング心理学)
*[[今道友信]](哲学)
*[[大川周明]](満鉄)
*[[前嶋信次]](イスラーム学)
*[[黒田寿郎|黒田壽郎]](イスラーム学)
*[[牧野信也]](イスラーム学)
*[[中村廣治郎]](イスラーム学)
*[[五十嵐一]](イスラーム学)
*[[深田甫]](ドイツ文学)
*[[鈴木孝夫]](言語社会学)
*[[柏木英彦]]([[中世哲学]])
*[[丸山圭三郎]](言語学)
*[[カール・グスタフ・ユング]](深層心理学)
*[[ルドルフ・オットー]](宗教学)
*[[アンドレアス・シュパイザー]](数学)
*[[アンリ・コルバン]](イスラム神秘主義)
*[[ゲルショム・ショーレム]](ユダヤ神秘主義)
*[[ルイ・マシニョン]](オリエント学)
*[[フーゴー・ラーナー]](教会史)
*[[ハインリヒ・ツィンマー]](インド学)
*[[ミルチャ・エリアーデ]](宗教学)
*[[エーリッヒ・ノイマン|エーリヒ・ノイマン]](精神医学・神話学)
*[[エルンスト・ベンツ]](東方教会史・神秘主義)
*[[カール・ケレーニイ]](神話学・古典文献学)
*[[ジル・クィスペル]](グノーシス学)
*[[アドルフ・ポルトマン]](生物学)
*[[パウル・ティリッヒ]](組織神学)
*[[ファン・デル・レーウ]](宗教現象学)
*[[マルティン・ブーバー]](宗教哲学)
*[[カール・レーヴィット|カール・レーヴィト]](哲学)
*{{仮リンク|ムーサー・ビギエフ|tt|Муса Бигиев|en|Musa Bigiev}}(イスラーム学)
{{Div col end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[井筒俊彦学術賞]]
== 外部リンク ==
{{Scholia}}
* [http://www.mitabungaku.jp/backnumber96.html 『三田文学No.96.特集井筒俊彦』(2009年冬季号)] - 三田文學
* [http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/index.html 「井筒俊彦入門」(若松英輔)] - 慶應義塾大学出版会
* [http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-izutsu_guidance/ 思想家紹介 井筒俊彦] - 京都大学大学院文学研究科日本哲学史研究室
* [http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html 「井筒俊彦全集」] - 慶應義塾大学出版会
* [http://webneo.org/archives/46083 吉田悠樹彦 「ドキュメンタリーが示す新たな井筒俊彦とその可能性」] - neoneo web
* {{kotobank}}
* {{kotobank|井筒 俊彦}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いつつ としひこ}}
[[Category:日本の思想家]]
[[Category:20世紀日本の哲学者]]
[[Category:日本の東洋学者]]
[[Category:クルアーン翻訳者]]
[[Category:アラビア語通訳]]
[[Category:日本の思想史家]]
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[[Category:満鉄調査部の人物]]
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[[Category:1914年生]]
[[Category:1993年没]]
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18,722 |
前嶋信次
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前嶋 信次(まえじま しんじ、1903年7月20日 - 1983年6月3日)は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。
現在の山梨県笛吹市八代町に生まれる。山梨県立日川中学校、東京外国語学校仏語科を経て、1928年東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、アラビア語を学ぶ。卒業後は、台北帝国大学助手や台南州立台南第一中学校教諭を務め、戦時中は南満州鉄道東亜経済調査局に勤めた。戦後、1953年「東西交通史上に於けるイスラム勢力の消長」で文学博士。1954年慶應義塾大学文学部専任講師、1956年同教授。1971年定年退職、名誉教授。
学会でも日本イスラム協会、日本オリエント学会の設立運営に貢献し、日本でのイスラム学、オリエント学研究の発展に尽力した。
アラビア語文献に基づいた東西交渉史(シルクロード学)の実証的研究を数多く行う一方で、文学的情趣をあわせもった一般的向けの啓蒙書を数多く著してアラブ文化・イスラーム文化を日本に広く紹介した。
初のアラビア語原典での日本語訳となった『アラビアン・ナイト』が名高い。弟子に家島彦一や三木亘・坂本勉らがいる。多くの編著刊行にも関わった。
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前嶋 信次は、日本のイスラム学者、東洋史家、東洋学者。慶應義塾大学名誉教授。
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'''前嶋 信次'''(まえじま しんじ、[[1903年]][[7月20日]]<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=|date=1971-11|title=前嶋信次略歴|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-19711100-0112|journal=史学|volume=44|issue=1|pages=112-114|publisher=三田史学会|ref=harv}}</ref> - [[1983年]][[6月3日]]<ref>{{Kotobank|前嶋信次}}</ref>)は、日本の[[イスラム]]学者、[[東洋史]]家、[[東洋学者]]。[[慶應義塾大学]]名誉教授。
==来歴==
現在の[[山梨県]][[笛吹市]]八代町に生まれる<ref name=":0" /><ref>[http://navi.lib.pref.yamanashi.jp/country/files/ma2.pdf 山梨県] 2018年8月21日閲覧。</ref>。[[山梨県立日川高等学校|山梨県立日川中学校]]<ref name=":0" />、[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]仏語科<ref name=":0" />を経て、1928年[[東京大学|東京帝国大学]]文学部東洋史学科を卒業<ref name=":0" />。当時は日本ではほとんど研究する者がなかったイスラム史を志し、[[アラビア語]]を学ぶ。卒業後は、[[台北帝国大学]]助手や台南州立台南第一中学校教諭を務め<ref name=":0" />、戦時中は[[南満州鉄道]][[東亜経済調査局]]に勤めた<ref name=":0" />。戦後、1953年「東西交通史上に於けるイスラム勢力の消長」で文学博士<ref name=":0" />。1954年[[慶應義塾大学]]文学部専任講師<ref name=":0" />、1956年同教授<ref name=":0" />。[[1971年]]定年退職<ref name=":0" />、名誉教授<ref name=":0" />。
学会でも日本イスラム協会<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.islamkyokai.org/about |title=設立の経緯 |publisher=日本イスラム協会 |accessdate=2023-11-18}}</ref>、[http://www.j-orient.com/ 日本オリエント学会]の設立運営に貢献し、日本での[[イスラーム文学|イスラム学]]、[[オリエント学]]研究の発展に尽力した。
[[アラビア語]]文献に基づいた東西交渉史([[シルクロード]]学)の実証的研究を数多く行う一方で、文学的情趣をあわせもった一般的向けの啓蒙書を数多く著して[[イスラム世界|アラブ文化]]・[[イスラーム文化]]を日本に広く紹介した。
初のアラビア語原典での日本語訳となった『[[千夜一夜物語|アラビアン・ナイト]]』が名高い。弟子に[[家島彦一]]や[[三木亘]]・[[坂本勉 (トルコ学者)|坂本勉]]らがいる。多くの編著刊行にも関わった。
== 主な著書 ==
*『[[玄奘]][[三蔵]] 史実[[西遊記]]』([[岩波新書]]) 1952、復刊1988・2010ほか
*『[[サラセン]]文化』([[弘文堂]]、アテネ文庫) 1955 - 小冊子
*『[[イスラム]]の文化圏 回教の文化』([[至文堂]]、世界史新書) 1962
*『[[アラビア]]史』(修道社) 1958、増補版1971
*『アラビアの医術』([[中公新書]]) 1965/[[平凡社ライブラリー]] 1996(三木亘解説)。電子書籍 2023
*『世界の歴史8 イスラム世界』([[河出書房新社]]) 1968、新版1977/[[河出文庫]] 1989。[[電子書籍]] 2014
*『[[アラビアン・ナイト]]の世界』([[講談社現代新書]]) 1970/[[平凡社]]ライブラリー 1995(杉田英明解説)。電子書籍 2017
*『シルクロードの秘密国 [[ブハラ]]』(芙蓉書房) 1972、新版1977
*『生活の世界歴史7 イスラムの蔭に』(河出書房新社) 1975、新版1980/河出文庫 1991。電子書籍(Kindle版ほか) 2014
*『世界の歴史10 イスラムの時代』([[講談社]]) 1977/『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』([[講談社学術文庫]]) 2002 - 改題単著
*『アラビア学への途 わが人生のシルクロード』([[NHK出版|日本放送出版協会]]、[[NHKブックス]]) 1982 - 学問的自伝
*『アラビアに魅せられた人びと』(芙蓉書房) 1982/[[中公文庫]] 1993([[矢島文夫]]解説)
*「東西文化交流の諸相」([[誠文堂新光社]]) 1971 - 著者自選での論考集
*#『シルクロード史上の群像』
*#『民族・戦争』
*#『文化の東西交流』
*#『東西物産の交流』 - 最晩年の1982年に全4巻(カバー装)で改訂刊行
*『[[空海]]入唐記』(誠文堂新光社) 1983 - 上記 未収録の論考
*『[[日持]]上人の大陸渡航 [[宣化]]出土遺物を中心として』(誠文堂新光社) 1983 - 上記 未収録の論考
*『イスラム文化と歴史』([[湯川武]]解題、誠文堂新光社) 1984 - 上記 未収録の論考
*『インド学の曙』(窪寺紘一編・解説、世界聖典刊行協会、ぼんブックス) 1985 - 没後刊行の論考
*『イスラムの宗教と歴史』(窪寺紘一編・解説、世界聖典刊行協会、ぼんブックス) 1987 - 没後刊行の論考
*「前嶋信次著作選」 [[杉田英明]]編、[[東洋文庫 (平凡社)|平凡社東洋文庫]] 全4巻、2000。Kindle版 2020
*#『千夜一夜物語と中東文化』
*#『イスラムとヨーロッパ』
*#『〔華麗島〕 台湾からの眺望』
*#『書物と旅 東西往還』
::※単行本未収録を中心にした論文集、3巻に書誌、4巻に年譜を収録
== 主な訳書 ==
*『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|三大陸周遊記]]』([[イブン・バットゥータ]]、河出書房、世界探検紀行全集2) 1954、再訂版1977
**『三大陸周遊記』(河出書房新社、世界探検全集02:[[高野秀行 (ノンフィクション作家)|高野秀行 新版解説]]) 2023 - 改訂新版で電子書籍も同時刊
**『三大陸周遊記』([[角川文庫]]) 1961、新装復刊1989
**『三大陸周遊記 <small>抄</small>』([[中公文庫]]) 2004。※各編訳版
*『アジア史』([[ルネ・グルッセ]]、[[白水社]]・[[文庫クセジュ]]) 1955
*『アラビアン・ナイト』全18巻(平凡社東洋文庫、第12巻まで) 1966 - 1981(電子書籍 2015)、別巻(実質上の訳者は[[坂本勉 (トルコ学者)|坂本勉]]) 1985
*:※13巻目以降は[[池田修 (アラブ文学者)|池田修]]訳、1993年に最終18巻が刊行し完結。ワイド版([[オンデマンド印刷|オンデマンド出版]])は各・2006
**『アラビアン・ナイト』全5巻、[[平凡社]] 1984。名作選
*『[[バルバリア海賊]]盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』(スタンリー・レーン=プール([[:en:Stanley Lane-Poole]])、[[リブロポート]]「冒険の世界史シリーズ」 1981
== 関連文献 ==
{{脚注の不足|section=1|date=2023-05}}
*『世界各国史11 西アジア史』(編著、[[山川出版社]])1955、新版 1972、1989ほか
*『世界の文化史蹟10 イスラムの世界』(編著、講談社) 1969
*『メッカ』(編著、芙蓉書房) 1975
*『シルクロード事典』([[加藤九祚]]共編、芙蓉書房) 1975、新版 1993
*『オリエント史講座』全6巻([[杉勇]]、[[護雅夫]]共編、[[学生社]]) 1982ほか
*『西と東と 前嶋信次先生追悼論文集』([[汲古書院]]) 1985 - 弟子達による紹介・書誌
*『イスラム学事始 前嶋信次の生涯』([[窪寺紘一]]、世界聖典刊行協会、ぼんブックス) 1989 - 元平凡社編集担当者による詳細な伝記
== 関連項目 ==
*[[大川周明]] - 東亜経済調査局理事長
*[[井筒俊彦]] - 著名な[[イスラーム哲学]]研究者。満鉄・慶応義塾で同僚。
*[[松田壽男]] - 終生の友人
*[[足利惇氏]] - [[ペルシア]]史研究、[[オリエント学]]者
*[[蒲生礼一]] - [[ペルシア文学]]者、共にイスラム学を開拓
*[[水上源蔵]] - 陸軍将校。姉の夫。<ref>{{Cite book|和書 |title=東西文化交流の諸相 |date=1971年3月 |year=1971年 |publisher=東西文化交流の諸相刊行会 |page=1178}}</ref>
== 脚注 ==
<references />
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まえしま しんし}}
[[Category:中東イスラーム研究者]]
[[Category:日本の歴史学者]]
[[Category:日本の東洋学者]]
[[Category:シルクロード]]
[[Category:満鉄調査部の人物]]
[[Category:慶應義塾大学の教員]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
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[[Category:1903年生]]
[[Category:1983年没]]
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18,724 |
目黒区
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目黒区(めぐろく)は、東京都の区部南西部に位置する特別区。
東京23区の南西部、武蔵野台地の南東部に位置する。目黒川と呑川が形成する谷とその支谷が台地を刻んでおり、標高5m未満から35m以上まで起伏に富んだ坂が多いことが特徴である。
面積は1,470haであり、これは東京23区中で16番目となる。
次の特別区に囲まれている。
港区は三田(港区の三田とは別)一丁目の近傍にあるが、わずかに接していない。
区内には、以下の二級河川がある。
これらの川は、呑川の一部と目黒川のみが地表を流れており、他は支流の羅漢寺川なども含めて区内では暗渠にされている。
主な池は以下の通りである。
2005年の夜間人口(居住者)は248,749人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は271,320人で昼は夜の1.091倍の人口になる。
区内の町丁数は88で、これは東京23区の中で6番目に少ない。 目黒区では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
目黒区は、品川ナンバー(東京運輸支局本庁舎)を割り当てられている。
新しく移転した区役所は、2000年に経営破綻した旧千代田生命保険本社ビル(設計・村野藤吾)を区が買収し、総合庁舎として改修したもの。旧区役所は床面積の狭さに問題があり、移転が課題となっていた。2006年12月ごろ、多数の区議が政務調査費を不正に使用もしくは私的流用をしているとオンブズマン(代表は元自民党区議会議員・その後無所属議員)が主張したことが原因で政治的混乱が起こった(目黒ショック)。
目黒区では、行政の単位として地区・住区という地域単位を設定している。
目黒区では住民の利便性を図り、地域ごとの特色ある街づくりを支援するため、独自の行政上の単位として小学校の通学区域を基本とした22の住区を設定している。住区は住人の生活に最も密着した地域社会が形成されるような地域単位であると想定され、区の地域政策の基本単位である。
各住区には住区センターが設置され、住民の交流活動や学校外教育活動の場として利用されてきた。また各住区では個人、町会、自治会、PTA、商店会、社会教育関係団体などにより住区住民会議という組織が作られ、住区の問題に対して対応するようになっている。
もともと各住区センターには住区サービス事務所が設けられ、区が行う行政サービスの一部が受けられるようになっていた。しかし後により広い範囲を基本とした地区サービス事務所が開設されると、行政サービスは地区サービス事務所に移り、現在住区センターは住区住民会議や住民の集会を行う場として使われている。住区センターには児童館や老人憩いの場などが併設されている例もある。
行政の効率化を図り、従来、住区サービス事務所で提供されてきた行政サービスの範囲を拡大するために、4つの地区サービス事務所が設置されている。地区はその中で生活が充足できるような地域単位として想定され、住区よりも広い範囲を対象とするような地域政策の単位である。地区サービス事務所では住民票の届出や証明をはじめ、各種の基本的な行政サービスを受けることができる。
地区サービス事務所の窓口業務を補完する存在として、特に人の集まる場所などに設置されている。利用できる行政サービスは、特に利用頻度の高い窓口サービスに限られる。
以下の事業所は、特記がない限り本社を示す。
東京23区の中で鉄道駅の数が最も少ない。
京王電鉄
東急電鉄
東京地下鉄
目黒駅は目黒区に近接しているが、品川区内に所在する。また、山手線は区内(三田一丁目)をわずかに通るが駅はないため、区内にはJRの駅は存在しない。
池尻大橋駅は隣接する世田谷区池尻と目黒区大橋の合成地名であり、構内の一部は目黒区に跨っているが、駅の所在地としては世田谷区となる。同様に大岡山駅は駅名が目黒区の地名に由来し、構内の一部は目黒区に跨っているが、駅の所在地としては隣接する大田区となる。
かつては都営バスが区内で東98系統(東急バスと共同運行)および宿91系統を運行していたが、2013年4月1日をもって前者は共同運行から撤退(東急バスの単独運行化)、後者は路線短縮による区内区間の廃止により、目黒区は東京23区で唯一都営バスの営業路線が存在しない区となった。
区内には高速バスのターミナルとなる地点はないが、大橋の国道246号沿いに小田急ハイウェイバスの池尻大橋停留所(東急バス大橋停留所に併設)があり、御殿場駅や箱根方面へ行くことが可能。なお、降車停留所(上り)は世田谷区池尻にある。
なお、池尻大橋にはジェイアールバス関東なども停留所を設けているが、こちらは降車専用となっている。
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目黒区(めぐろく)は、東京都の区部南西部に位置する特別区。
|
{{東京都の特別区
|画像 = Meguro Meguro River Cherry Trees 1.JPG
|画像の説明 = [[目黒川]]
|区旗 = [[File:Flag of Meguro, Tokyo.svg|border|100px]]
|区旗の説明 = 目黒[[市町村旗|区旗]]<br />[[1977年]][[10月1日]]制定
|区章 = [[File:Emblem of Meguro, Tokyo.svg|75px]]
|区章の説明 = 目黒[[市町村章|区章]]<br />[[1977年]][[10月1日]]制定
|自治体名 = 目黒区
|コード = 13110-5
|隣接自治体 = [[品川区]]、[[大田区]]、[[世田谷区]]、[[渋谷区]]
|木 = [[シイ]]
|花 = [[ハギ]]
|シンボル名 = 区の鳥
|鳥など = [[シジュウカラ]]
|郵便番号 = 153-8573
|所在地 = 目黒区上目黒二丁目19番15号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[画像:Meguro, Tokyo City Office.jpg|250px|目黒区役所]]<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=区庁舎位置}}
|外部リンク = {{Official website}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|110|image=Meguro-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
|特記事項 =
}}
'''目黒区'''(めぐろく)は、[[東京都]]の[[東京都区部|区部]]南西部に位置する[[特別区]]<ref>大辞林 第三版</ref>。
== 地理 ==
[[東京都区部|東京23区]]の南西部、[[武蔵野台地]]の南東部に位置する。[[目黒川]]と[[呑川]]が形成する谷とその支谷が台地を刻んでおり、標高5m未満から35m以上まで起伏に富んだ坂が多いことが特徴である<ref name="tochi2017_1">{{Cite web|和書|title=目黒区の土地利用2017 第1章 目黒区の概要 |url=https://www.city.meguro.tokyo.jp/kurashi/sumai/tochi/tochiriyou.html |publisher=目黒区 |date=2018-08-13 |accessdate=2022-12-31}}</ref>。
面積は1,470haであり、これは東京23区中で16番目となる<ref name="tochi2017_1" />。
=== 隣接する自治体・行政区 ===
次の特別区に囲まれている。
:[[渋谷区]]・[[世田谷区]]・[[品川区]]・[[大田区]]
[[港区 (東京都)|港区]]は[[三田 (目黒区)|三田]]([[三田 (東京都港区)|港区の三田]]とは別)一丁目の近傍にあるが、わずかに接していない。
=== 河川・水路・池 ===
区内には、以下の[[二級河川]]がある。
* [[目黒川]]
* [[蛇崩川]]
* [[立会川]]
* [[呑川]]
** 柿の木坂支流
** 駒沢支流
* [[九品仏川]]
これらの川は、呑川の一部と目黒川のみが地表を流れており、他は支流の[[羅漢寺川]]なども含めて区内では[[暗渠]]にされている<ref>{{Cite web|和書|title=歴史を訪ねて 目黒の川 1 目黒川 |url=https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/megurorekishi/kawa1.html |publisher=目黒区 |date=2013-10-01 |accessdate=2022-12-31}}</ref>。
主な池は以下の通りである。
* 碑文谷池 - [[碑文谷公園]]内
* 清水池 - [[清水池公園]]内
== 歴史 ==
;原始、古墳時代
:[[東山貝塚遺跡]]:23区内の3大貝塚の一つ。[[旧石器時代]]から[[古墳時代]]の遺跡が重層的に発見されており、[[氷期]]、[[縄文海進|縄文海進期]]、古代海退期と超長期的に利用された場所である。[[縄文時代]]の遺跡は区内に数多い。
;古代
:武蔵国荏原郡に属す。
:9世紀ごろ大鳥神社、目黒不動、法眼寺が建てられる。
:[[横山党]]目黒氏の荘園「菅刈荘」であったと伝えられる(目黒高校近辺が居館であったという伝承がある)。
;中世
:区内に鎌倉道幹線が整備された。
:後北条氏勢力下となってからは、吉良氏の所領となった。
;近世
:江戸時代には[[孟宗竹]]の産地であり、現在の目黒区南部、品川区境で採れる筍は名産品であった。
;近・現代
* [[1874年]] 八雲小学校設置。
* [[1896年]] [[ビール]]工場開場。
* [[1907年]] [[目黒競馬場]]開設。
* [[1927年]] [[東急東横線]]開通。
* [[1933年]] 目黒競馬場廃止。
* [[1994年]] [[防衛省|防衛庁]]移転計画に基づき統合幕僚学校・三自衛隊の幹部学校が移駐、[[防衛省目黒地区|目黒駐屯地]]として開設。
* [[2003年]] - [[路上喫煙禁止条例|目黒区ポイ捨てなどのないまちをみんなでつくる条例]]制定。
;区の沿革
* [[1867年]] [[武蔵知県事]]管轄地となる。
* [[1869年]] [[品川県]]の一部となる。
* [[1871年]] [[東京府]]の一部となる。
* [[1889年]][[5月1日]] 荏原郡三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が[[目黒町 (東京府)|目黒村]]に、碑文谷村、衾村が[[碑衾町|碑衾村]]になる。
* [[1922年]][[12月1日]] 荏原郡目黒村が荏原郡[[目黒町 (東京府)|目黒町]]になる。
* [[1927年]][[4月1日]] 荏原郡碑衾村が荏原郡[[碑衾町]]になる。
* [[1932年]][[10月1日]] 目黒町と碑衾町が[[東京市]]に編入、2町の区域をもって東京市目黒区となる。
* [[1936年]] 区役所を中央町二丁目に移転。
* [[1980年]][[9月20日]] [[区歌]]「[[めぐろ・みんなの歌]]」を制定。
* [[1981年]][[8月1日]] [[市町村防災行政無線|防災行政無線]]運用開始。
* [[2003年]][[1月6日]] 区役所を上目黒二丁目に移転。
== 人口 ==
{{人口統計|code=13110|name=目黒区|image=Population distribution of Meguro, Tokyo, Japan.svg}}
=== 昼夜間人口 ===
[[2005年]]の夜間人口([[居住]]者)は248,749人であるが、区外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの区内に昼間残留する[[人口]]の合計である[[昼間人口]]は271,320人で[[昼]]は[[夜]]の1.091倍の人口になる<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2005』2008年発行、pp.128-129。国勢調査では[[年齢]]不詳の者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳の者を含める。昼夜間人口に関しては年齢不詳のものは含めないので2つの数字の間に誤差は生じる。</ref>。
== 地域 ==
=== 祭事、イベント ===
* 目黒のSUNまつり(目黒区民まつり):[[落語]]「[[目黒のさんま]]」に因んだ行事である。なお、この祭りについては類似の祭りが[[品川区]]の目黒駅付近などでも行われる。落語の詳細は[[目黒のさんま#「目黒のさんま」にちなんだ祭り]]参照。
* 自由が丘女神まつり
* 祐天寺み魂まつり
* 中目黒夏祭り
* 大鳥神社、氷川神社の剣の舞
* 目黒ばやし
* 日蓮宗寺院御会式
* 目黒区商工まつり(目黒リバーサイドフェスティバル)
* MIFA国際交流フェスティバル
* 目黒川さくらフェスタ
* 中目黒祭り
=== 町丁 ===
{{See also|目黒区の町名}}
区内の町丁数は88で、これは東京23区の中で6番目に少ない<ref>[[東京都総務局]]統計部人口統計課 編集・発行「[[住民基本台帳]]による東京都の[[世帯]]と人口」平成22年1月分、平成22年3月発行、p.22より</ref>。
目黒区では、全域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。
====目黒区役所管内====
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!style="width:12%" border-bottom:1px solid"|町名
!style="width:15%"|町丁新設年月日
!style="width:15%"|住居表示実施年月日
!style="width:40%"|住居表示実施直前町名
!style="width:25%"|備考
|+目黒区役所管内(88町丁)
|{{ruby|'''[[青葉台 (目黒区)|青葉台]]'''|あおばだい}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒1・6〜8、駒場町
|
|-
|'''青葉台二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒1・6〜8、駒場町
|
|-
|'''青葉台三丁目'''
|1969年1月1日
|1969年1月1日
|上目黒1・6〜8、駒場町
|
|-
|'''青葉台四丁目'''
|1969年1月1日
|1969年1月1日
|上目黒1・6〜8、駒場町
|
|-
|{{ruby|'''[[大岡山]]'''|おおおかやま}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|大岡山(全)
|
|-
|'''大岡山二丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|大岡山(全)
|
|-
|{{ruby|'''[[大橋 (目黒区)|大橋]]'''|おおはし}}'''一丁目'''
|1969年1月1日
|1969年1月1日
|上目黒7・8
|
|-
|'''大橋二丁目'''
|1969年1月1日
|1969年1月1日
|上目黒7・8
|
|-
|{{ruby|'''[[柿の木坂]]'''|かきのきざか}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|柿ノ木坂、中根町
|
|-
|'''柿の木坂二丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|柿ノ木坂、中根町
|
|-
|'''柿の木坂三丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|柿ノ木坂、中根町
|
|-
|{{ruby|'''[[上目黒]]'''|かみめぐろ}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒2・3(全)、上目黒1・4・6、中目黒2
|
|-
|'''上目黒二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒2・3(全)、上目黒1・4・6、中目黒2
|
|-
|'''上目黒三丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒2・3(全)、上目黒1・4・6、中目黒2
|
|-
|'''上目黒四丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒2・3(全)、上目黒1・4・6、中目黒2
|
|-
|'''上目黒五丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒2・3(全)、上目黒1・4・6、中目黒2
|
|-
|{{ruby|'''[[五本木]]'''|ごほんぎ}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒5、中目黒3、三谷町
|
|-
|'''五本木二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒5、中目黒3、三谷町
|
|-
|'''五本木三丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒5、中目黒3、三谷町
|
|-
|{{ruby|'''[[駒場 (目黒区)|駒場]]'''|こまば}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|駒場町
|
|-
|'''駒場二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|駒場町
|
|-
|'''駒場三丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|駒場町
|
|-
|'''駒場四丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|駒場町
|
|-
|{{ruby|'''[[下目黒]]'''|しもめぐろ}}'''一丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|下目黒1〜4
|
|-
|'''下目黒二丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|下目黒1〜4
|
|-
|'''下目黒三丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|下目黒1〜4
|
|-
|'''下目黒四丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|下目黒1〜4
|
|-
|'''下目黒五丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|下目黒1〜4
|
|-
|'''下目黒六丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|下目黒1〜4
|
|-
|{{ruby|'''[[自由が丘]]'''|じゆうがおか}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|自由ヶ丘(全)、緑ヶ丘
|
|-
|'''自由が丘二丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|自由ヶ丘(全)、緑ヶ丘
|
|-
|'''自由が丘三丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|自由ヶ丘(全)、緑ヶ丘
|
|-
|{{ruby|'''[[洗足]]'''|せんぞく}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|洗足、原町、富士見台
|
|-
|'''洗足二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|洗足、原町、富士見台
|
|-
|{{ruby|'''[[平町 (目黒区)|平町]]'''|たいらまち}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|平町
|
|-
|'''平町二丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|平町
|
|-
|{{ruby|'''[[鷹番]]'''|たかばん}}'''一丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|鷹番町、本郷町、碑文谷2、清水町、三谷町
|
|-
|'''鷹番二丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|鷹番町、本郷町、碑文谷2、清水町、三谷町
|
|-
|'''鷹番三丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|鷹番町、本郷町、碑文谷2、清水町、三谷町
|
|-
|{{ruby|'''[[中央町 (目黒区)|中央町]]'''|ちゅうおうちょう}}'''一丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|唐ヶ崎町(全)、鷹番町、中目黒4、上目黒5
|
|-
|'''中央町二丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|唐ヶ崎町(全)、鷹番町、中目黒4、上目黒5
|
|-
|{{ruby|'''[[中町 (目黒区)|中町]]'''|なかちょう}}'''一丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒3・4、下目黒4、上目黒5
|
|-
|'''中町二丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒3・4、下目黒4、上目黒5
|
|-
|{{ruby|'''[[中根 (目黒区)|中根]]'''|なかね}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|中根町、平町
|
|-
|'''中根二丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|中根町、平町
|
|-
|{{ruby|'''[[中目黒]]'''|なかめぐろ}}'''一丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1〜3、上目黒1、三田
|
|-
|'''中目黒二丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1〜3、上目黒1、三田
|
|-
|'''中目黒三丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1〜3、上目黒1、三田
|
|-
|'''中目黒四丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1〜3、上目黒1、三田
|
|-
|'''中目黒五丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1〜3、上目黒1、三田
|
|-
|{{ruby|'''[[原町 (目黒区)|原町]]'''|はらまち}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|原町
|
|-
|'''原町二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|原町
|
|-
|{{ruby|'''[[東が丘]]'''|ひがしがおか}}'''一丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|芳窪町、大原町
|
|-
|'''東が丘二丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|芳窪町、大原町
|
|-
|{{ruby|'''[[東山 (目黒区)|東山]]'''|ひがしやま}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒6・7
|
|-
|'''東山二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒6・7
|
|-
|'''東山三丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒6・7
|
|-
|{{ruby|'''[[碑文谷]]'''|ひもんや}}'''一丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|碑文谷3(全)、碑文谷1・2、清水町、宮ヶ丘、本郷町、柿ノ木坂、三谷町
|
|-
|'''碑文谷二丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|碑文谷3(全)、碑文谷1・2、清水町、宮ヶ丘、本郷町、柿ノ木坂、三谷町
|
|-
|'''碑文谷三丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|碑文谷3(全)、碑文谷1・2、清水町、宮ヶ丘、本郷町、柿ノ木坂、三谷町
|
|-
|'''碑文谷四丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|碑文谷3(全)、碑文谷1・2、清水町、宮ヶ丘、本郷町、柿ノ木坂、三谷町
|
|-
|'''碑文谷五丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|碑文谷3(全)、碑文谷1・2、清水町、宮ヶ丘、本郷町、柿ノ木坂、三谷町
|
|-
|'''碑文谷六丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|碑文谷3(全)、碑文谷1・2、清水町、宮ヶ丘、本郷町、柿ノ木坂、三谷町
|
|-
|{{ruby|'''[[三田 (目黒区)|三田]]'''|みた}}'''一丁目'''
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|三田、下目黒1、中目黒1
|
|-
|'''三田二丁目'''
|1967年5月1日
|1967年5月1日
|三田、下目黒1、中目黒1
|
|-
|{{ruby|'''[[緑が丘 (目黒区)|緑が丘]]'''|みどりがおか}}'''一丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|緑ヶ丘
|
|-
|'''緑が丘二丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|緑ヶ丘
|
|-
|'''緑が丘三丁目'''
|1965年1月1日
|1965年1月1日
|緑ヶ丘
|
|-
|{{ruby|'''[[南 (目黒区)|南]]'''|みなみ}}'''一丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|高木町(全)、富士見台、宮ヶ丘
|
|-
|'''南二丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|高木町(全)、富士見台、宮ヶ丘
|
|-
|'''南三丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|高木町(全)、富士見台、宮ヶ丘
|
|-
|{{ruby|'''[[目黒 (目黒区)|目黒]]'''|めぐろ}}'''一丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1・3、下目黒1〜4、三田
|
|-
|'''目黒二丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1・3、下目黒1〜4、三田
|
|-
|'''目黒三丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1・3、下目黒1〜4、三田
|
|-
|'''目黒四丁目'''
|1967年3月1日
|1967年3月1日
|中目黒1・3、下目黒1〜4、三田
|
|-
|{{ruby|'''[[目黒本町]]'''|めぐろほんちょう}}'''一丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|月光町、東町、向原町(以上全)、清水町、碑文谷1・2
|
|-
|'''目黒本町二丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|月光町、東町、向原町(以上全)、清水町、碑文谷1・2
|
|-
|'''目黒本町三丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|月光町、東町、向原町(以上全)、清水町、碑文谷1・2
|
|-
|'''目黒本町四丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|月光町、東町、向原町(以上全)、清水町、碑文谷1・2
|
|-
|'''目黒本町五丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|月光町、東町、向原町(以上全)、清水町、碑文谷1・2
|
|-
|'''目黒本町六丁目'''
|1966年3月1日
|1966年3月1日
|月光町、東町、向原町(以上全)、清水町、碑文谷1・2
|
|-
|{{ruby|'''[[八雲 (目黒区)|八雲]]'''|やくも}}'''一丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|衾町、宮前町(以上全)、中根町、大原町、芳窪町
|
|-
|'''八雲二丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|衾町、宮前町(以上全)、中根町、大原町、芳窪町
|
|-
|'''八雲三丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|衾町、宮前町(以上全)、中根町、大原町、芳窪町
|
|-
|'''八雲四丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|衾町、宮前町(以上全)、中根町、大原町、芳窪町
|
|-
|'''八雲五丁目'''
|1964年7月1日
|1964年7月1日
|衾町、宮前町(以上全)、中根町、大原町、芳窪町
|
|-
|{{ruby|'''[[祐天寺]]'''|ゆうてんじ}}'''一丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒4・5、中目黒3
|
|-
|'''祐天寺二丁目'''
|1968年1月1日
|1968年1月1日
|上目黒4・5、中目黒3
|
|}
=== ナンバープレート ===
目黒区は、品川ナンバー([[東京運輸支局]]本庁舎)を割り当てられている。
=== ケーブルテレビ ===
* [[イッツ・コミュニケーションズ]](区内全域)
== 行政 ==
新しく移転した[[目黒区役所|区役所]]は、[[2000年]]に経営破綻した旧[[千代田生命保険]][[本社]][[オフィスビル|ビル]](設計・[[村野藤吾]])を区が買収し、総合庁舎として改修したもの。旧区役所は床面積の狭さに問題があり、移転が課題となっていた。[[2006年]]12月ごろ、多数の区議が[[政務調査費]]を不正に使用もしくは私的流用をしていると[[オンブズマン]](代表は元自民党区議会議員・その後無所属議員)が主張したことが原因で[[政治]]的混乱が起こった([[目黒ショック]])。
=== 区長 ===
* [[青木英二]]
** [[2004年]][[4月25日]]就任。[[2008年]]再選、[[2012年]]3選、[[2016年]]4選、[[2020年]]5選。任期は[[2024年]][[4月24日]]まで
** 都議会[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の前政策調査会長である。[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[公明党]]推薦の桜井雅彦を破り当選。
=== 地域行政・行政サービス ===
目黒区では、[[行政]]の単位として地区・住区という[[地域]]単位を設定している。
==== 住区・住区住民会議 ====
目黒区では[[住民]]の利便性を図り、地域ごとの特色ある街づくりを支援するため、独自の行政上の単位として[[小学校]]の通学区域を基本とした22の'''住区'''を設定している。住区は住人の生活に最も密着した[[地域社会]]が形成されるような地域単位であると想定され、区の地域[[政策]]の基本単位である。
各住区には住区センターが設置され、住民の交流活動や学校外教育活動の場として利用されてきた。また各住区では個人、[[町会]]、[[町内会|自治会]]、[[PTA]]、商店会、[[社会教育]]関係団体などにより住区住民会議という組織が作られ、住区の問題に対して対応するようになっている。
もともと各住区センターには住区サービス[[事務所]]が設けられ、区が行う行政サービスの一部が受けられるようになっていた。しかし後により広い範囲を基本とした地区サービス事務所が開設されると、行政サービスは地区サービス事務所に移り、現在住区センターは住区住民会議や住民の集会を行う場として使われている。住区センターには[[児童館]]や老人憩いの場などが併設されている例もある。
==== 地区サービス事務所 ====
行政の効率化を図り、従来、住区サービス事務所で提供されてきた行政サービスの範囲を拡大するために、4つの地区サービス事務所が設置されている。地区はその中で生活が充足できるような地域単位として想定され、住区よりも広い範囲を対象とするような地域政策の単位である。地区サービス事務所では[[住民票]]の届出や証明をはじめ、各種の基本的な行政サービスを受けることができる。
==== 行政サービス窓口 ====
地区サービス事務所の窓口業務を補完する存在として、特に人の集まる場所などに設置されている。利用できる行政サービスは、特に利用頻度の高い窓口サービスに限られる。
== 議会 ==
=== 目黒区議会 ===
{{Main|目黒区議会}}
* 定数:36人
* 任期:[[2019年]][[5月1日]] - [[2023年]][[4月30日]]
*[[議長]]:小野瀬康裕 (自由民主党目黒区議団)
*副議長:飯島和代(公明党目黒区議団)
;会派
{|class="wikitable"
!会派名!!略称!!議席数!!幹事長!!副幹事長
|-
![[自由民主党 (日本)|自由民主党]]目黒区議団
|style="text-align:center"|自民
|style="text-align:right"|10
|style="text-align:center"|佐藤昇
|style="text-align:center"|鈴木まさし
|-
![[公明党]]目黒区議団
|style="text-align:center"|公明
|style="text-align:right"|6
|style="text-align:center"|武藤まさひろ
|style="text-align:center"|川原のぶあき
|-
!フォーラム目黒([[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主]]・無所属の会)
|style="text-align:center"|フォ
|style="text-align:right"|5
|style="text-align:center"|鴨志田リエ
|style="text-align:center"|金井ひろし
|-
![[日本共産党]]目黒区議団
|style="text-align:center"|共産
|style="text-align:right"|5
|style="text-align:center"|岩崎ふみひろ
|style="text-align:center"|松嶋祐一郎
|-
!新風めぐろ
|style="text-align:center"|新風
|style="text-align:right"|3
|style="text-align:center"|かいでん和弘
|style="text-align:center"|吉野正人
|-
!会派に属さない議員
|style="text-align:center"|無
|style="text-align:right"|5
|
|
|}
;委員会
{|class="wikitable"
!委員会名!!略称!!議席数!!委員長!!副委員長
|-
!企画総務委員会
|style="text-align:center"|企総
|style="text-align:right"|9
|style="text-align:center"|川原のぶあき(公明)
|style="text-align:center"|かいでん和弘(無・新風)
|-
!生活福祉委員会
|style="text-align:center"|生福
|style="text-align:right"|9
|style="text-align:center"|鴨志田リエ(フォ)
|style="text-align:center"|松嶋祐一郎(共産)
|-
!都市環境委員会
|style="text-align:center"|都環
|style="text-align:right"|8
|style="text-align:center"|岩崎ふみひろ(共産)
|style="text-align:center"|いその弘三(自民)
|-
!文教・子ども委員会
|style="text-align:center"|文教
|style="text-align:right"|8
|style="text-align:center"|田島けんじ(自民)
|style="text-align:center"|金井ひろし(フォ)
|-
!議会運営委員会
|style="text-align:center"|議運
|style="text-align:right"|10
|style="text-align:center"|おのせ康裕(自民)
|style="text-align:center"|武藤まさひろ(公明)
|-
!総合戦略・感染症対策等調査特別委員会
|style="text-align:center"|
|style="text-align:right"|10
|style="text-align:center"|河野陽子(自民)
|style="text-align:center"|佐藤ゆたか(公明)
|}
=== 東京都議会 ===
;2021年東京都議会議員選挙
* 選挙区:目黒区選挙区
* 定数:3人
* 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日
* 投票日:2021年7月4日
* 当日有権者数:232,430人
* 投票率:43.03%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 伊藤悠 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 44 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 23,117票
|-
| 斉藤泰宏 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 58 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 16,515票
|-
| 西崎翔 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 37 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 16,044票
|-
| 星見定子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 63 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 現 || 16,038票
|-
| 鈴木隆道 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 70 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 元 || 13,509票
|-
| 栗山芳士 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 51 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 元 || 10,342票
|-
| 平松健詩 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 25 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 2,662票
|}
;2017年東京都議会議員選挙
* 選挙区:目黒区選挙区
* 定数:3人
* 任期:2017年7月23日 - 2021年7月22日
* 投票日:2017年7月2日
* 当日有権者数:229,319人
* 投票率:50.36%
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 伊藤悠 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 40 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 元 || 47,674票
|-
| 斉藤泰宏 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 54 || 公明党 || style="text-align:center" | 現 || 19,077票
|-
| 星見定子 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 59 || 日本共産党 || style="text-align:center" | 新 || 18,572票
|-
| 栗山芳士 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 47 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 14,455票
|-
| 鈴木隆道 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 66 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 現 || 13,912票
|}
=== 衆議院 ===
;東京都第5区
* 選挙区:[[東京都第5区|東京5区]](目黒区の一部、[[世田谷区]]の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 当日有権者数:464,694人
* 投票率:60.03%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[手塚仁雄]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 55 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 111,246票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[若宮健嗣]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 60 || style="background-color:#ffdddd;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffdddd;" | 105,842票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○
|-
| || [[田淵正文]] || style="text-align:center;" | 63 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 54,363票 || style="text-align:center;" | ○
|}
;東京都第7区
* 選挙区:[[東京都第7区|東京7区]]([[渋谷区]]、[[中野区]]の一部、[[杉並区]]方南、[[品川区]]の一部、目黒区の一部)
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:459,575人
* 投票率:56.47%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[長妻昭]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 61 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 124,541票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| || [[松本文明]] || style="text-align:center;" | 72 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 81,087票 || style="text-align:center;" | ○
|-
| || 辻健太郎 || style="text-align:center;" | 35 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 37,781票 || style="text-align:center;" | ○
|-
| || 込山洋 || style="text-align:center;" | 47 || [[無所属]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 5,665票 ||
|-
| || 猪野恵司 || style="text-align:center;" | 38 || <small>[[NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 3,822票 ||
|}
== 対外関係 ==
=== 友好都市 ===
* {{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]][[北京市]][[東城区 (北京市)|東城区]](旧崇文区)
* {{Flagicon|KOR}}[[大韓民国]][[ソウル特別市]][[中浪区]]
* [[宮城県]][[角田市]]
* 宮城県[[気仙沼市]]
** [[2010年]][[9月18日]]締結。魚の[[サンマ]]にまつわる縁(気仙沼は一大産地であり、[[東京]]の目黒区は[[落語]]の演目「[[目黒のさんま]]」の由来地)によって友好都市協定が締結され、締結式として「[[目黒のさんま祭]]」が行われた。また[[東日本大震災]]においては、目黒区によって「友好都市・気仙沼市被災募金」が行われるなど関係を深めている<ref>{{Cite web|和書|title=「友好都市・気仙沼市被災募金」を受け付けています |url=http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/yukotoshi/index.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher='''目黒区''' |date= |accessdate=2012-07-09}}</ref>。
* [[石川県]][[金沢市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/yukotoshi/domestic/kanazawa_oboegaki.html |title=友好都市 目黒区 |publisher=[[金沢市]] |date=2017-10-28 |accessdate=2021-05-05}}</ref>
**[[2017年]][[10月28日]]締結。金沢を居城とした[[加賀藩]]主宗家第16代の[[前田利為]]が、目黒区駒場に邸宅を構えた縁に因んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/yukotoshi/domestic/kanazawa_oboegaki.html |title=金沢市と友好交流都市協定に向けての覚書を締結しました |publisher=目黒区 |date=2016-10-12 |accessdate=2021-05-05}}</ref>。
=== 外国公館 ===
* [[大使館]]
** {{Flagicon|AZE}} [[駐日アゼルバイジャン大使館|アゼルバイジャン共和国大使館]](東が丘)
** {{Flagicon|ALG}} [[駐日アルジェリア大使館|アルジェリア民主人民共和国大使館]](三田)
** {{Flagicon|EGY}} [[駐日エジプト大使館|エジプト・アラブ共和国大使館]](青葉台)
** {{Flagicon|GAB}} [[駐日ガボン大使館|ガボン共和国大使館]](東が丘)
** {{Flagicon|KEN}} [[駐日ケニア大使館|ケニア共和国大使館]](八雲)
** {{Flagicon|SUD}} [[駐日スーダン大使館|スーダン共和国大使館]](八雲)
** {{Flagicon|SEN}} [[駐日セネガル大使館|セネガル共和国大使館]](青葉台)
** {{Flagicon|THA}} [[駐日タイ大使館|タイ王国大使館]]武官事務所(下目黒)
** {{Flagicon|TOG}} [[日本とトーゴの関係#駐日トーゴ大使館|トーゴ共和国大使館]](八雲)
** {{Flagicon|NEP}} [[駐日ネパール大使館|ネパール大使館]](下目黒)
** {{Flagicon|PNG}} [[駐日パプアニューギニア大使館|パプアニューギニア独立国大使館]](下目黒)
** {{Flagicon|POL}} [[駐日ポーランド大使館|ポーランド共和国大使館]](三田)
** {{Flagicon|FSM}} [[駐日ミクロネシア連邦大使館|ミクロネシア連邦大使館]](目黒)
** {{Flagicon|MRT}} [[駐日モーリタニア大使館|モーリタニア・イスラム共和国大使館]](五本木)
== 産業 ==
=== 目黒区の主な事業所 ===
{{main|Category:目黒区の企業}}
以下の事業所は、特記がない限り本社を示す。
==== 製造業・IT ====
{{Columns-list|2|
* [[i2テクノロジーズ]]、[[JDAソフトウェア・ジャパン]]
* [[Amazon.co.jp|アマゾンジャパン]]
* [[サクマ製菓]]
* [[敷島製パン|敷島製パン(Pasco)]]イーストカンパニー
* [[スタンレー電気]]
* [[スピックインターナショナル]]
* [[ダノンジャパン]]
* [[日本ビール]]
* [[博水社]]
* [[ハーゲンダッツジャパン]]
* [[牧野フライス製作所]]
* [[モノリスソフト]]
* [[ユニリーバ・ジャパン]]
* [[LITALICO]]
}}
==== 芸能事務所 ====
{{Columns-list|2|
* [[生島企画室]]
* [[LDH (芸能プロダクション)|LDH]]
* [[芸映]]
* [[サムライプロモーション]]
* [[スマイルモンキー]]
* [[田辺エージェンシー]]
* [[バカラ (芸能事務所)|バカラ]]
* [[ホリプロ]]
}}
==== その他 ====
{{Columns-list|2|
* [[アドバンテッジリスクマネジメント]]
* [[オークラ出版]]
* [[紀伊国屋書店]]
* [[東急ストア]]
* [[東急トランセ]]
* [[東急バス]]
* [[パスコ (航空測量)|パスコ]]
* [[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス]]
** [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]
* [[目黒雅叙園]]
* [[目黒信用金庫]]
* [[ラヴィジュール]]
* [[若築建設]]
}}
== 交通 ==
=== 道路 ===
:一般道路
::放射道路
:::北側から
:::*玉川通り([[国道246号]])
:::*駒沢通り([[東京都道416号古川橋二子玉川線]])
:::*目黒通り([[東京都道312号白金台町等々力線]])
:::*淡島通り([[東京都道423号渋谷経堂線]])
:::*[[航研通り]]
::環状道路
:::都心側から
:::*旧山手通り([[東京都道317号環状六号線]]支線)
:::*山手通り(東京都道317号環状六号線)
:::*26号線通り、三宿通り([[東京都道420号鮫洲大山線]])
:::*環七通り([[東京都道318号環状七号線]])
:::*自由通り([[東京都道426号上馬奥沢線]])
:高速道路
::*[[首都高速道路]][[首都高速3号渋谷線|3号渋谷線]]
::*首都高速道路[[首都高速中央環状線|中央環状線]]
=== 鉄道 ===
東京23区の中で鉄道駅の数が最も少ない。
'''[[京王電鉄]]'''
: [[ファイル:Number prefix Keio-Inokashira-line.svg|17px|IN|left]] [[京王井の頭線|井の頭線]]
::* [[駒場東大前駅]]
'''[[東急電鉄]]'''
: [[ファイル:Tokyu TY line symbol.svg|17px|TY|left]] [[東急東横線|東横線]]
::* [[中目黒駅]] - [[祐天寺駅]] - [[学芸大学駅]] - [[都立大学駅]] - [[自由が丘駅]]
: [[ファイル:Tokyu OM line symbol.svg|17px|OM|left]] [[東急大井町線|大井町線]]
::* 自由が丘駅 - [[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]
: [[ファイル:Tokyu MG line symbol.svg|17px|MG|left]] [[東急目黒線|目黒線]]
::* [[洗足駅]]
'''[[東京地下鉄]]'''
: [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|17px|MG|left]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]
::* 中目黒駅
[[目黒駅]]は目黒区に近接しているが、[[品川区]]内に所在する。また、[[山手線]]は区内(三田一丁目)をわずかに通るが駅はないため、区内には[[JR]]の駅は存在しない。
[[池尻大橋駅]]は隣接する世田谷区池尻と目黒区大橋の合成地名であり、構内の一部は目黒区に跨っているが、駅の所在地としては[[世田谷区]]となる。同様に[[大岡山駅]]は駅名が目黒区の地名に由来し、構内の一部は目黒区に跨っているが、駅の所在地としては隣接する[[大田区]]となる。
=== バス ===
* [[東急バス]] - 東山に本社、目黒本町に[[東急バス目黒営業所|目黒営業所]]がある<ref group="注釈">かつては[[東急バス不動前営業所|不動前営業所]]、[[東急バス大橋営業所|大橋営業所]]も区内にあった。</ref>。区内を走る路線バスの大多数は同社の運行。目黒営業所の他、[[東急バス淡島営業所|淡島]]、[[東急バス弦巻営業所|弦巻]]、[[東急バス下馬営業所|下馬]]、[[東急バス瀬田営業所|瀬田]]の各営業所が担当。
* [[東急トランセ]] - 東急バス子会社(本社所在地は東急バスと同じ)。代官山循環線の一部区間が目黒区にまたがるほか、区内路線の一部を東急バスから運行受託。
* [[小田急バス]] - 国道246号(渋24・26系統)、淡島通り(渋54系統)、環七(下61系統、駒沢陸橋停留所の下北沢方向)を走行。
* [[フジエクスプレス]] - 住友不動産青葉台タワーと渋谷駅を結ぶバスを運行。
* サンクスネイチャーバス - 自由が丘周辺を走る無料巡回バス。2経路あり、一部世田谷区にもまたがる。
かつては[[都営バス]]が区内で[[都営バス港南支所#東98系統|東98系統]](東急バスと共同運行)および[[都営バス杉並支所#宿91系統|宿91系統]]を運行していたが、2013年4月1日をもって前者は共同運行から撤退(東急バスの単独運行化)、後者は路線短縮による区内区間の廃止により、目黒区は'''東京23区で唯一都営バスの営業路線が存在しない区'''となった<ref>[[日本経済新聞]] 2013年3月5日 東京・首都圏経済面</ref><ref group="注釈">品97系統の回送ルートに限り、目黒区内を走行する。なお、かつて存在した[[都営バス港南支所|目黒自動車営業所]]は、目黒駅前の品川区上大崎に所在した。</ref>。
==== 高速バス ====
区内には高速バスのターミナルとなる地点はないが、大橋の国道246号沿いに[[小田急ハイウェイバス]]の池尻大橋停留所(東急バス大橋停留所に併設)があり、[[御殿場駅]]や[[箱根]]方面へ行くことが可能。なお、降車停留所(上り)は世田谷区池尻にある。
なお、池尻大橋には[[ジェイアールバス関東]]なども停留所を設けているが、こちらは降車専用となっている。
== 住宅 ==
=== 大規模マンション ===
*[[クロスエアタワー]]
*[[中目黒アトラスタワー]]
*恵比寿ガーデンテラス
*パークホームズ目黒ザ・レジデンス
*プラウド駒場
*プリズムタワー
=== 住宅団地 ===
* [[中目黒ゲートタウン]]([[上目黒]]2丁目再開発事業) - UR([[都市再生機構]])住宅を含む
* [[中目黒アトラスタワー]](上目黒1丁目再開発事業) - UR住宅を含む
* 上目黒団地(上目黒、分譲68 1958年)
* 上目黒大橋団地(大橋 市街地住宅 賃貸104 1963年 現存 譲渡返還)
* 目黒鷹番町団地(鷹番 市街地住宅 賃貸24 1958年)
* 都営大橋二丁目アパート(大橋 2-13、1967年)
* 都営東が丘一丁目第3アパート(東が丘 1-10、1996年)
* 都営目黒南二丁目アパート(南 2-1、1992年)
* 都営八雲一丁目アパート(八雲 1-1、1997 - 1999年)
* 都営碑文谷二丁目アパート(碑文谷 2-4、2000 - 2002年)
* 都営碑文谷五丁目アパート(碑文谷 5-16、1978年)
* 都営碑文谷五丁目第2アパート(碑文谷 5-17、1993年)
* 都営目黒一丁目アパート(目黒 1-1、1966 - 1969年)
== 教育 ==
=== 大学 ===
* [[東京大学駒場地区キャンパス|東京大学駒場キャンパス]]
* [[東京工業大学]]大岡山キャンパス
* [[産業能率大学]]代官山キャンパス
*[[東京音楽大学]]中目黒・代官山キャンパス
*[[東京医療保健大学]]国立病院機構キャンパス
:[[東京学芸大学]]は[[1964年]]に[[小金井市]]へ、[[東京都立大学 (1949-2011)]]は[[1991年]]に[[八王子市]]へそれぞれ移転した(附属高校など、一部施設は存続)が、駅名にその名が残されている。その後の駅名改称に関する議論については各駅の項目を参照。
=== 専門学校 ===
* [[グレッグ外語専門学校]] 自由が丘校
* [[東京染色美術専門学校]]
* [[レコールバンタン]] 東京校
* 日本書道専門学校
* [[杉野学園]] [[ドレスメーカー学院]]
=== 中等教育学校 ===
* 公立
** [[東京都立桜修館中等教育学校]]
=== 高等学校 ===
* 公立
** [[東京都立目黒高等学校]]
** [[東京都立駒場高等学校]]
** [[東京都立国際高等学校]]
* 私立
** [[目黒日本大学中学校・高等学校|目黒日本大学高等学校]] - 日出高等学校から改称。
** [[トキワ松学園中学校・高等学校|トキワ松学園高等学校]]
** [[日本工業大学駒場中学校・高等学校|日本工業大学駒場高等学校]]
** [[多摩大学目黒中学校・高等学校|多摩大学目黒高等学校]]
** [[八雲学園中学校・高等学校|八雲学園高等学校]]
** [[目黒学院中学校・高等学校|目黒学院高等学校]]
** [[自由ヶ丘学園高等学校]]
=== 中学校 ===
;私立
* [[トキワ松学園中学校・高等学校|トキワ松学園中学校]]
* [[八雲学園中学校・高等学校|八雲学園中学校]]
* [[目黒日本大学中学校・高等学校|目黒日本大学中学校]] - 日出中学校から改称。
* [[目黒学院中学校・高等学校|目黒学院中学校]]
;公立
{{Col-begin}}{{Col-break}}
* [[目黒区立第一中学校]]
* [[目黒区立第七中学校]]
* [[目黒区立第八中学校]]
* [[目黒区立第九中学校]]
* [[目黒区立第十中学校]]
{{Col-break}}
* [[目黒区立第十一中学校]]
* [[目黒区立東山中学校]]
* [[目黒区立目黒中央中学校]]
* [[目黒区立大鳥中学校]]-[[目黒区立第三中学校]]と[[目黒区立第四中学校]]が統合
{{Col-end}}
=== 小学校 ===
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
;私立
* [[目黒星美学園小学校]]
* [[トキワ松学園小学校]]
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
;公立
* [[目黒区立八雲小学校]]
* [[目黒区立菅刈小学校]]
* [[目黒区立下目黒小学校]]
* [[目黒区立碑小学校]]
* [[目黒区立中目黒小学校]]
* [[目黒区立大岡山小学校]]
{{Col-break}}
* [[目黒区立油面小学校]]
* [[目黒区立烏森小学校]]
* [[目黒区立向原小学校]]
* [[目黒区立五本木小学校]]
* [[目黒区立鷹番小学校]]
* [[目黒区立田道小学校]]
* [[目黒区立月光原小学校]]
* [[目黒区立駒場小学校]]
{{Col-break}}
* [[目黒区立緑ヶ丘小学校]]
* [[目黒区立原町小学校]]
* [[目黒区立不動小学校]]
* [[目黒区立上目黒小学校]]
* [[目黒区立東根小学校]]
* [[目黒区立中根小学校]]
* [[目黒区立宮前小学校]]
* [[目黒区立東山小学校]]
{{Col-end}}
=== 幼稚園 ===
;公立
*からすもり幼稚園
*げっこうはら幼稚園
*みどりがおか幼稚園
*ふどう幼稚園
*ひがしやま幼稚園
;私立
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
*碑文谷教会付属幼稚園
*柿の木坂幼稚園
*目黒サレジオ幼稚園
*ベテル幼稚園
*アゼイリア幼稚園
*東光寺幼稚園
*円融寺幼稚園
*育英幼稚園
{{Col-break}}
*駒場幼稚園
*[[枝光会|枝光会駒場幼稚園]]
*[[枝光会|枝光学園幼稚園]]
*志のぶ幼稚園
*中目黒幼稚園
*日出幼稚園
*平塚幼稚園
*目黒幼稚園
{{Col-break}}
*祐天寺附属幼稚園
*[[若草幼稚園 (目黒区)|若草幼稚園]]
*若水幼稚園
*学校法人 田村学園 目黒幼稚園
*恵泉バプテスト教会附属めぐみ幼稚園
*双葉の園幼稚園
{{Col-end}}
=== インターナショナルスクール ===
* 東京インドネシア共和国学校
* [[アオバ・ジャパン・インターナショナルスクール]]目黒キャンパス
== 施設 ==
=== 防衛省・自衛隊 ===
* [[防衛省目黒地区]](中目黒2-2-1)
** [[防衛装備庁]]艦艇装備研究所
** [[統合幕僚学校]]
** [[陸上自衛隊教育訓練研究本部]](旧・[[陸上自衛隊幹部学校]])
** [[海上自衛隊幹部学校]]
** [[航空自衛隊幹部学校]]
=== 司法 ===
* [[知的財産高等裁判所・東京地方裁判所中目黒庁舎]](ビジネス・コート)(中目黒2-4-1)
** [[知的財産高等裁判所]]
** [[東京地方裁判所]] 商事部・知的財産権部・倒産部
* 東京地方裁判所 民事執行センター(目黒本町2-26-14)
=== 警察 ===
*[[警視庁]]
**[[目黒警察署]](中目黒2-7-13)
**[[碑文谷警察署]](碑文谷4-24-17)
=== 消防 ===
*[[東京消防庁]][[目黒消防署]](下目黒6-1-22)[[特別救助隊]]・[[救急隊]]2
**中目黒出張所(上目黒2-9-14)救急隊無
**碑文谷出張所(碑文谷2-11-14)[[特別消火中隊]]・救急隊無
**八雲出張所(八雲3-29-14)救急隊無
**大岡山出張所(大岡山1-37-15)救急隊1
=== 図書館 ===
{{See|目黒区立図書館}}
区内8か所に区立図書館があるほか、区内の次の大学図書館は事前申請により一般利用が可能。
* 東京大学附属駒場図書館<ref>{{Cite web|和書|title=学外の方 |url=https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/ja/library/komaba/user-guide/outside/public |publisher=東京大学附属図書館 |accessdate=2023-01-09}}</ref>
* 東京工業大学附属大岡山図書館<ref>{{Cite web|和書|title=利用案内(学外の方) |url=https://www.libra.titech.ac.jp/guide/visitors/guide |publisher=東京工業大学附属図書館 |accessdate=2023-01-09}}</ref>
=== 児童館 ===
子育て支援のための施設。
*休館日:毎月第2・4日曜日、祝日、正月休み
*開館時間:9時から18時、土曜・日曜は9時から17時
*利用料:無料(参加費、材料費の実費がかかることがある)
:児童は、工作室やプレールームなどがあり、専任スタッフの指導があり、児童の安全な居場所、遊びや他の子どもたちとの関わりの中で成長する場所となっている。
:乳幼児とその保護者は、遊戯室で遊べるほか、講師を呼んでの体操講習会、年齢別の集まり(登録制)がある。
=== 学童保育 ===
共働き家庭などの子供を預かる施設。
=== 劇場・多目的ホール ===
* [[めぐろパーシモンホール]]([[めぐろ区民キャンパス]])
* 目黒区中小企業センターホール
* [[中目黒ゲートタウン|中目黒GTプラザ]]ホール
* 中目黒[[キンケロ・シアター]]
* ウッディシアター中目黒
=== 美術館・博物館 ===
{{columns-list|colwidth=15em|
* [[東京大学駒場博物館]]
* [[東京工業大学博物館]]
* [[東京都写真美術館]]
* [[日本近代文学館]]
* [[目黒区美術館]]
* [[めぐろ歴史資料館]]
* [[目黒寄生虫館]]
* [[日本民藝館]]
* [[郷さくら美術館]]
* [[長泉院附属現代彫刻美術館]]
* [[駒場公園 (目黒区)|旧前田侯爵家本邸]]
* アクセサリーミュージアム
* [[美空ひばり]]記念館
}}
=== 医療 ===
* [[国立病院機構東京医療センター]](東が丘2-5-1)
* [[総合病院厚生中央病院]](三田1-11-7)
* [[東京共済病院]](中目黒2-3-8)
* [[東邦大学医療センター大橋病院]](大橋2-17-6)
* [[三宿病院]](上目黒5-33-12)
===公園===
==== 都立公園 ====
* [[駒沢オリンピック公園]]
* [[林試の森公園]]
==== 区立公園 ====
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
; 区民公園
* [[碑文谷公園]]
* [[駒場公園 (目黒区)|駒場公園]]
* [[駒場野公園]]
{{Col-break}}
; 地域公園
* [[西郷山公園]]
* [[菅刈公園]]
* [[中目黒公園]]
* [[清水池公園]]
* [[中根公園]]
* [[衾町公園]]
* [[東山公園 (目黒区)|東山公園]]
{{Col-break}}
; 都市緑地
* [[すずめのお宿緑地公園]]
* [[目黒天空庭園]]
{{Col-end}}
=== 宗教施設 ===
==== 神社 ====
{{columns-list|colwidth=15em|
*[[大鳥神社 (目黒区)|大鳥神社]]
*[[中目黒八幡神社]]
*[[上目黒氷川神社]]
*[[天祖神社]]
*[[八雲氷川神社]]
*[[碑文谷八幡宮]]
*[[熊野神社 (目黒区)|熊野神社]]
*[[烏森稲荷神社]]
*十日森神社
}}
{{Gallery
|画像:Meguro ootori jinja.JPG|大鳥神社
|画像:Nakameguro hachiman.JPG|中目黒八幡神社
|画像:Himonya hachimangu.JPG|碑文谷八幡宮
}}
==== 仏教寺院 ====
{{main|Category:目黒区の寺}}
* 目黒不動([[天台宗]][[瀧泉寺]])
*:目赤、目黄、目白、目黒、目青の[[五色不動]]のうちの一つ。
* [[浄土宗]][[祐天寺]]
* [[五百羅漢寺]]
==== キリスト教会 ====
[[画像:Catholic himonya church.JPG|150px|カトリック碑文谷教会]]
{{columns-list|colwidth=20em|
* [[カトリック碑文谷教会]]
:「サレジオ教会」の愛称で呼ばれ,著名人の結婚式が多いことで有名。
* [[日本聖公会]]聖パウロ教会
* [[ロシア正教]]聖サクレクサンドル・ネフスキー教会
}}
== 文化団体・スポーツチーム ==
=== 音楽関連団体 ===
* [[ひばり児童合唱団]] - [[皆川和子]]により創立された日本を代表する児童合唱団。アニメやCMの歌の録音も多数。
== 関連人物 ==
=== 出身者 ===
==== 芸能人 ====
<!--五十音順に-->
{{columns-list|colwidth=20em|
* [[秋元康]]([[放送作家]]・[[作詞家]])
* [[朝葉ことの]]([[宝塚歌劇団]][[花組 (宝塚歌劇)|花組]]娘役)
* [[朝比奈愛子]](歌手、女優、作家)
* [[アンラッキー後藤]](元お笑いタレント)
* [[石井希和]](アナウンサー)
* [[石田純一]]([[俳優]]・[[タレント]])
* [[石原まき子]]([[興行|芸能プロモーター]]・元女優)
* [[泉谷しげる]]([[歌手]])
* [[伊藤咲子]](歌手)
* [[彩みちる]](宝塚歌劇団[[月組 (宝塚歌劇)|月組]]娘役)
* [[梅津弥英子]](アナウンサー)
* [[大竹まこと]](タレント)
* [[尾美としのり]](俳優)
* [[小山田圭吾]]([[音楽家|ミュージシャン]])
* [[笠原秀幸]](俳優)
* [[片岡サチ]](元宝塚歌劇団[[専科 (宝塚歌劇)|専科]]男役)
* [[片寄明人]](シンガーソングライター)
* [[門脇知子]](タレント)
* [[金子貴俊]](俳優)
* [[喜谷知純]](アナウンサー)
* [[小杉保夫]]([[作曲家]]、歌手)
* [[桜井浩子]]([[俳優#性別での分類|女優]])
* [[ささきいさお]](歌手)
* [[佐藤勝利]]([[Sexy Zone]])
* [[佐藤隆太]](俳優)
* [[三代目海沼実]](作曲家)
* [[高橋真美]](タレント)
* [[高橋幸宏]](ミュージシャン)
* [[高橋良明]](俳優、アイドル歌手)
* [[寺尾聰]](俳優)
* [[徳光和夫]](司会者)
* [[野呂一生]](ジャズギタリスト)
* [[箱崎みどり]](アナウンサー)
* [[はたえ金次郎]](アナウンサー)
* [[浜木綿子]](女優)
* [[HALCALI]](ラッパー)
* [[ピストン西沢]](ディスクジョッキー)
* [[深水真紀子]](女優)
* [[藤田弓子]](女優、声優)
* [[船山基紀]](作曲家・編曲家・キーボーディスト・音楽プロデューサー)
* [[牧伸二]]([[ウクレレ]][[漫談家]])
* [[松尾嘉代]](女優)
* [[松尾紀子]](アナウンサー)
* [[松島トモ子]](女優)
* [[マミヤ狂四郎]](漫画家、イラストレーター)
* [[水沢アキ]](女優)
* [[水谷加奈]](アナウンサー)
* [[水の江瀧子]](女優・映画プロデューサー)
* [[本仮屋ユイカ]](女優)
* [[森永卓郎]](タレント・獨協大学教授)
* [[毛利八郎]](アナウンサー)
* [[山藤章二]](漫画家)
* [[山本耕一 (俳優)|山本耕一]](俳優)
* [[山本麻里安]]([[声優]])
* [[雪村いづみ]](歌手、女優)
* [[若山セツ子]](女優)
* [[渡辺智佳]](ミュージカル俳優)
}}
==== 諸分野 ====
<!--五十音順に-->
{{columns-list|colwidth=20em|
*[[阿部知子]](医師、政治家)
*[[甘利俊一]](工学者)
*[[安斎颯馬]](サッカー選手)
*[[安藤庄平]]([[撮影監督]])
*[[石坂鉄平]]([[KAIENTAI-DOJO]]プロレス)
*[[岩崎達也]]([[空手家]])
*[[大谷昭宏]]([[評論家]])
*[[おたっきぃ佐々木]](ラジオディレクター、パーソナリティー)
*[[小名木善行]]([[作家]])
*[[鹿島勤]]([[映画監督]])
*[[木原敏江]](漫画家)
*[[桑原邦郎]]([[物理学者]])
*[[ケニー野村]](プロ野球選手)
*[[斉藤実 (警察官僚)|斉藤実]](警察官僚)
*[[佐々木淳子]](漫画家)
*[[佐藤謙一郎]](元ジャーナリスト、元政治家)
*[[佐藤弥斗]]([[座間市]]長)
*[[下田美馬]](女子[[プロレスラー]])
*[[白鳥智香子]](女子プロレスラー)
*[[高橋利枝]]([[社会学者]])
*[[田代真一]]([[サッカー選手]])
*[[出﨑統]](アニメ監督)
*[[照井誉之介]]([[政治家]]、新聞記者)
*[[中川雅治]](政治家、元[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[環境大臣]]、元[[環境省#環境事務次官|環境事務次官]])
*[[根本敬]]([[漫画家]]、[[エッセイスト]])
*[[野村克則]]([[プロ野球選手]])
*[[橋本テツヤ]]([[コラムニスト]])
*[[平井伸和]]([[全日本プロレス]])
*[[平田オリザ]](劇作家、演出家)
*[[前田雅英]](刑法学者)
*[[町田忍]](エッセイスト)
*[[米良はるか]](実業家)
*[[盛田隆二]](作家)
*[[安原顯]]([[編集者]])
*[[頼本奈菜]]([[女流棋士 (将棋)|将棋女流棋士]])
*[[若い浪剛史]](元[[力士]])
}}
=== ゆかりがある人物 ===
==== 皇族 ====
*[[皇后雅子]](出生は東京都[[港区 (東京都)|港区]])
==== 居住者 ====
<!--五十音順に-->
{{columns-list|colwidth=20em|
* [[足立正]](実業家)
* [[市川團十郎 (12代目)|十二世市川團十郎]](歌舞伎俳優)
* [[小和田恆]](外務官僚、皇后雅子の父)
* [[ガタルカナル・タカ]](タレント)
* [[金田正一]](元野球選手)
* [[亀井久興]](政治家)
* [[川合孝典]](政治家)
* [[木村健悟]](プロレスラー、品川区議会議員)
* [[ゴリ (お笑い芸人)|ゴリ]](お笑い芸人、[[ガレッジセール]]の一員)
* [[佐藤信二]](政治家)
* [[財部彪]](海軍大将)
* [[タモリ]](タレント)
* [[仲本工事]](タレント、[[ザ・ドリフターズ]]の一員)
* [[原辰徳]](元野球選手)
* [[佐藤信二]](政治家)
* [[藤城清治]](影絵作家)
* [[藤林益三]](法曹家、第7代[[最高裁判所長官]]、目黒区名誉区民)
* [[藤山一郎]](歌手、目黒区名誉区民)
* [[町村信孝]](政治家)
* [[美空ひばり]](歌手)
}}
== 関連作品 ==
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* 落語『[[目黒のさんま]]』
* [[黒柳徹子]]自伝『[[窓ぎわのトットちゃん]]』
* 漫画『[[少年アシベ]]』
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 外部リンク ==
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* {{Official website|name=目黒区}}
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ムサピィのチョコマーカー
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ムサピィのチョコマーカー (Musapey's Choco Marker) は、株式会社エコールソフトウェアが開発した、ファンタスティックな3Dアクションパズルゲームである。
チョコマーカーは、三次元空間に立体的に配置された「チョコ」と呼ばれる立方体のブロックを、「ジャム」と呼ばれる行為で消していくアクションパズルである。最終的には、ジャム不可能な「ボスチョコ」以外のすべてのチョコを消すことを目的とする。
えこーる森のムササビ神社に住んでいる精霊の兄弟ムサピィとムサッパ。お賽銭やお供え物が少なくなった事を危惧した2匹は、参拝に来た人々の願いを叶えればお賽銭もお供え物も増えるのではないかと考え、神の元へと向かう。しかし神に会えるのは知力と感性に優れた者のみ。それを証明するため、2匹は知感パズル『チョコマーカー』に挑む。
下記の外部リンク「チョコマーカー普及委員会」に図入りで説明されているのでそちらを参照されたい。
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ムサピィのチョコマーカー は、株式会社エコールソフトウェアが開発した、ファンタスティックな3Dアクションパズルゲームである。
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'''ムサピィのチョコマーカー''' ('''Musapey's Choco Marker''') は、[[株式会社]][[エコールソフトウェア]]が開発した、ファンタスティックな3D[[アクションパズル]]ゲームである。
==概要==
チョコマーカーは、三次元空間に立体的に配置された「チョコ」と呼ばれる[[立方体]]のブロックを、「ジャム」と呼ばれる行為で消していくアクションパズルである。最終的には、ジャム不可能な「ボスチョコ」以外のすべてのチョコを消すことを目的とする。
==ストーリー==
えこーる森のムササビ神社に住んでいる[[精霊]]の兄弟ムサピィとムサッパ。お賽銭やお供え物が少なくなった事を危惧した2匹は、参拝に来た人々の願いを叶えればお賽銭もお供え物も増えるのではないかと考え、[[神]]の元へと向かう。しかし神に会えるのは知力と感性に優れた者のみ。それを証明するため、2匹は知感パズル『チョコマーカー』に挑む。
==ルール==
下記の外部リンク「チョコマーカー普及委員会」に図入りで説明されているのでそちらを参照されたい。
==歴史==
*[[2002年]][[6月27日]]、[[NAOMI]]-GD用として、[[アーケードゲーム|アーケード]]版が稼動開始。発売元はセガ(後の[[セガ・インタラクティブ]])。
*2002年[[12月26日]]、[[ドリームキャスト]]版が定価5,800円で発売。
*[[2006年]][[8月1日]]、新チョコマーカーの開発開始を発表。
*[[2007年]][[1月27日]]、PC版チョコマーカーのダウンロード配布を開始。
==外部リンク==
*[http://e56.info/ エコールソフトウェア]
*[http://e56.info/choco/ チョコマーカー普及委員会]
*{{Wayback |url=http://e56.info/product1.html |title=ムサピィのチョコマーカー |date=20130603210028 }}
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熱田神宮
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熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区神宮にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。
三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている(「天叢雲剣」を参照)。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は景行天皇43年、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年(大化2年)と伝わる。古くは尾張国(現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)(『熱田明神講式』)、「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る。
建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。
初詣には毎年200万人以上が訪れる。
主祭神である熱田大神について、熱田神宮は「三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代としてよらせる天照大神」とする。すなわち、草薙神剣の「正体」としての天照大神をいい、いい換えれば、草薙神剣そのものが天照大神の「霊代(実体)」としての「熱田大神」である。戦前までは、主祭神を「草薙大御剣神」(『熱田神宮略記』(1877年(明治10年)))、「天璽草薙大御劔(あまつみしるしくさなぎのおほみつるぎ)」(『熱田神宮略記』(1939年(昭和14年)))などとしながら表現上における正体と霊代の区別がなされていなかった。ただし、草薙神剣を天照大神とする捉えかたそのものは『熱田明神講式』(平安時代末期)にすでに現れる古いものである。しかし、より古い『尾張国風土記』逸文には、日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を手渡す際に自らの形影(みかげ)とするようにと言い残したとあり、奈良時代には日本武尊を草薙神剣の正体とする見かたがあったともいわれる。平安時代以降は、伊勢の皇大神宮(内宮)の祭神である天照大御神を草薙神剣の正体とすることが通説であり、このことで伊勢と熱田は「一体分身の神」を祀る神社であり、日本国を支える2柱であるとさえされてきたのである。
相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。
『延喜式』の巻三神祇三(臨時祭)や巻九神名帳上に「熱田神社一座」とあるように、古代までは神剣のみを祀っていた可能性が高い。伝承では都から神剣が遷座した686年(朱鳥元年)、実際にはおそらく神仏習合の影響が顕著になった中世以降、土用殿に神剣が、正殿に5座の神が祀られるようになる。1893年(明治26年)に土用殿が廃されてからは、本殿に主神の草薙神剣および相殿神の5座が祀られるようになっている。
草薙神剣は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治したときにその尾から生まれたものという。『古事記』(上巻)に「都牟刈の大刀(つむがりのたち)」(鋭利な太刀の美称)として登場し、『日本書紀』(巻第一神代上第八段一書の1)は元の名を「天叢雲劔(あまのむらくものつるぎ)」というとする。一説に、天照大神が天岩屋から招出されたときの礼代(いやじろ)として八咫鏡と共に奉られ、後にヤマタノオロチに奪われたものの素盞嗚尊がそれを取り返したともいわれるが、この神剣が素盞嗚尊によって天照大神へ献上あるいは返還されたことにより、厳然たる「大御神の霊物」として神威をふるうことになる。 天照大神が天孫降臨の神勅を下すにあたってこの神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共に邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けて以来、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀ってきた。しかし第10代崇神天皇の治世に至って天照大神の神威がますます盛んとなり、同殿共床にあるのは畏れ多いという理由から、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をしてその神霊を斎き奉らしめながら宮中より出ることになる。豊鍬入姫命を「御杖代」とし、理想的な鎮座地を求めて始まった天照大神の遍歴は、御杖代を引き継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)の代に、伊勢国の五十鈴川河畔の地をもって終焉を迎える。すなわち、神宮(伊勢神宮)の創祀であり、ここに皇居と神宮の分離が初めてなされることになる。
この後、神剣は伊勢の神宮から氷上邑(ひかみのさと、現在の名古屋市緑区大高町火上山付近を指すと言われる)を経て、さらに熱田へ遷ることになるのだが、この経緯を記すのは『記紀』や『尾張国風土記』逸文(8世紀頃、『釈日本紀』七)の他に、熱田神宮に関する最古にして根本を成す縁起として知られた『尾張国熱田太神宮縁記(おわりのくにあつただいじんぐうえんぎ)』がある。本書は874年(貞観16年)に熱田社別当であった尾張清稲により記述され、さらに890年(寛平2年)10月に国司であった藤原村椙が筆削を加えたものといわれるが、尾張清稲・藤原村椙という両名の人物像が不確かなこと、当時代の記述としてはいくつか矛盾をはらんでいることなどから、その成立は平安時代ではなく鎌倉時代初頭の成立とする説も根強い。以下は、本書による神剣創祀までの経緯である。
景行天皇40年10月2日、景行天皇の意を受けて東征の旅に出た皇子日本武尊は、途中神宮に立ち寄り、姨(おば)にあたる倭姫命から嚢(ふくろ)と共に草薙神剣を賜る。さらに旅を続けて尾張国の愛知郡に至ったとき、侍従の将であった建稲種命に誘われ、命の故郷であった氷上邑の館で休息することになった。尊はそこで、見目うるわしい娘がいるのを知り、その名を問うたところ、娘は建稲種命の妹で宮酢媛といった。尊は媛を召し出して契りを交わし、いつくしみ、この地に長く逗留したが、やがて旅立ちの時になり、媛との別れを惜しんだ。
やがて東征を成して再び氷上邑の館に到着した尊は、宮酢媛と再会し、数首の歌を交わすなどしながら媛との日々を過ごす毎日であった。旅立ちに際して剣を解き、これを宝物として持ち床の守りとするよう、媛に差し出した。これから向かう伊吹山に暴悪の神がはびこるのを懸念する近習(大伴建日臣)であったが、尊は剣を留めたまま出発した。その伊吹山において尊は暴風雨にさらされて心身を痛め、尾張国に戻ろうとしたが、鈴鹿山を越えたあたりで危篤となり、媛の床にある大刀を偲ぶ辞世の歌を詠じた後、鈴鹿川の中瀬でみまかってしまう。
皇子の訃報を耳にした天皇は昼夜を問わずにむせび泣き、尊の遺骸を能褒野(のぼの)の地に葬らせた。このとき、尊は白鳥の姿となって御陵から飛び出し、大和国琴弾原、河内国志紀郡古市里に転々と降り立った後、そのまま天に昇っていった。 宮酢媛は、尊との約束を違えず、独りで床を守り、草薙神剣を奉っていた。やがて老いたとき、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮った。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。ここを熱田と号して、社地に定めたという。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになる。
『尾張国熱田太神宮縁記』による熱田神宮および氷上姉子神社創建までの顛末は上記のようである。本書は『日本書紀』を主として『古事記』や『尾張国風土記』を含む多くの資料を引用しているとみられており、本書自体に独自性は乏しいといわれる。他方、原典の記述に対して曲解がほとんどみられず忠実な引用がなされているともいわれ、成立は鎌倉時代であっても、内容そのものは平安時代もしくはそれ以前のものとしての資料的価値を有するとされる。そして何より、建稲種命に氷上邑の館へ案内されたこと、ここで宮酢媛と出会い共に日々を過ごしたこと、東征の帰途に再び氷上邑に立ち寄ったことなどは本書独特の記述であり、とりわけ草薙神剣を預かった宮酢媛が占卜によって熱田を創祀の地に選んだとする記述は、天照大神の神器が天皇家・伊勢神宮を経て熱田にもたらされたことを示し、熱田神宮がその尊貴な正統性を誇示する重要なポイントとなっている。 ただし尾崎久彌が指摘するように、『尾張国熱田太神宮縁記』では社地に選んだ地(熱田)がなぜ熱田と呼ばれるようになったのかという説明がなされるだけで、社地を定めたはよいものの社祠がいつ創建され草薙神剣がいつそちらに遷座されたか、あるいは社祠の創建や遷座そのものがなされたかどうかが記されていない。また、尊亡きあと媛が草薙神剣を守り奉じていたところ、すなわち遷座元も、じつは曖昧な記述になっている(熱田であったとも氷上邑であったとも記されていない)。こうした『尾張国熱田太神宮縁記』の不明瞭さを補うのが後年に登場する各種縁起や史書となる。
熱田神宮は創祀1,900年目に当たるとされた2013年(平成25年)に「創祀千九百年大祭」を執行しているが、これは創祀年を景行天皇43年(西暦に換算すると113年にあたるという)とした中世の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』などの説に基づいたものである。ところがこの創祀年についても近代よりまちまちにいわれ、景行天皇43年とする説のほかに、同41年、同49年などとする説も生まれた。 景行天皇41年は『熱田宮旧記』(1699年(元禄12年))などにみえ、その根拠は『日本書紀』が景行天皇27年に日本武尊の年齢を16歳と記し、40年から43年の間に30歳で没したと記しているためで、明治時代に至っても角田忠行が採用していた説である。日本武尊の御陵ともいわれた白鳥御陵(白鳥古墳)において毎年4月8日に行われていた祭典は日本武尊が景行天皇41年4月8日に没したとする伝承に基づくものであった。景行天皇49年は上記の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』が一説として紹介している年で、江戸時代には天野信景らが支持した説である。尾張にあった神剣が一度は伊勢に戻され、詔勅により改めて尾張に届けられたという時間的ロスに伴う年代の繰り下げである。
ところで、草薙神剣の創祀と熱田神宮の創建とは年代が異なることについて角田忠行が注意を喚起している点は興味深い。景行天皇43年(もしくは41年、49年)は草薙神剣が宮簀媛によって創祀された初年を指すのであって、熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。 『尾張志』は、『尾張国氷上宮開始正伝本起』にある宮簀媛命の死去年を仲哀天皇4年とする記述に着目し、天皇の在位期間や宮簀媛命の年齢などをさまざまに勘案した上で、草薙神剣が尾張国にもたらされた(草薙神剣が日本武尊から宮簀媛命に預けられた)のが景行天皇40年(媛の年齢は15歳ほど)、草薙御剣の創祀を景行天皇43年(媛の年齢は18歳ほど)、老媛が草薙神剣の遷座地を熱田に占定したのを成務天皇年間末から仲哀天皇元年(媛の年齢は92歳ほど)であると見なした。老媛はこの4年後に96歳ほどで死去することになる。角田もまた、日本武尊の死去からおよそ80年間、草薙神剣は尾張国造の神床において宮簀媛命に奉斎されてきたことを指摘する。 かたや、『朱鳥官符』(平安時代末期頃か)は646年(大化2年)5月1日に熱田大明神の託宣によって草薙神剣が愛知郡衛崎松姖嶋機綾村(えさきまつこのしまはたやのむら)に遷されたと記す。『熱田正縁記』はこれを補強し、景行天皇41年に草薙御剣が氷上邑にもたらされ、やがて老いた宮簀媛によって松姖嶋に社が立てられ草薙神剣が収められ、646年(大化2年)に尾張忠命という人物によって愛知郡会崎機綾村(えさきはたやのむら)に遷座されたという。
大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。以降は子孫の藤原南家藤原氏・千秋家が大宮司、尾張氏は権宮司を務め続けている。なお、この季範の娘は源頼朝の母(由良御前)である。また、季範の養女(実孫)は足利義康(足利氏の祖)に嫁いでおり、足利氏にもその血脈を伝えている。さらに季範の妹は二階堂行政の母であり、二階堂氏との関係も深い。
『海道記』には「熱田の宮の御前を過ぐれば」とあるほか、『東關紀行』に「尾張の國熱田の宮に到りぬ」とある。また同書には、
或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。
と記載されている。
瑞渓周鳳の『臥雲日件録』1465年(寛正6年)6月18日条に「日本所謂三大宮司、盖厳島・熱田・富士之三所也」とあり、熱田大宮司は厳島神主家・富士氏と共に日本三大宮司に数えられている。
戦国時代、千秋家は武将として織田家に仕え、千秋季光が織田信秀に、季光の子季忠は織田信長に仕えている。信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願して見事に勝利を収めたが、季忠は前哨戦で討死、信長は大宮司職と遺領を、まだ胎内にいた季忠の子季信に相続させた。
江戸時代は当社周辺に東海道五十三次の43番目「宮宿」が設けられ、当地から桑名宿への七里の渡しが運行されていた。また『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載されている。
慶応4年(1868年)6月、神宮号を宣下されて熱田神社から熱田神宮に改められた。1871年7月1日(明治4年5月14日)の近代社格制度の制定により、熱田神宮は官幣大社に列格した。熱田神宮には「三種の神器の一つを祀っているから、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張があり、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願したものの、この請願は却下されている。次いで大宮司となった角田忠行も同様の請願を続け、1889年(明治22年)までに伊勢神宮に準じた神璽勅封・権宮司設置などが認められた。
それまで熱田神宮は尾張造という尾張地方特有の建築様式で建てられていたが、1889年(明治22年)、伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営が計画された。また、熱田神宮の国への働きかけにより、1890年(明治23年)9月、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が閣議に提出された(案の段階では熱田神宮を「尾張神宮」に改称する事項も含まれていたが、これは外された)。しかし、この勅令案は否決され、熱田神宮の社格の件は従前の通りとすることとなった。その背景には伊勢神宮の反対があったという。神明造による社殿の造営は進められ、1893年(明治26年)に竣工した。しかし、この社殿は他の建物共々太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月9日に行われた熱田空襲により焼失した。
また、終戦直前、神体である草薙剣を守るために飛騨一宮水無神社への一時的な遷座が計画されたが、同年8月15日の終戦により一時中止された。しかし、今度は上陸したアメリカ軍に神体が奪われるおそれがあるとして、同年8月21日、陸軍の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。同年9月19日に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、神職が鉄道で移動した。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、1955年(昭和30年)10月に再建された。新しい建物のため、指定文化財ではない。
<>は関連事項。
境内には本宮を始めとして別宮1社・摂社8社・末社19社が、境外には摂社4社・末社12社があり、合わせて45社(本宮含む)を祀っている。
かつて、信長塀と繋がっていた1920年(大正9年)に国宝に指定された海上門(海蔵門)や同じく国宝の鎮皇門や春敲門の3つの門が存在していたが、太平洋戦争時の名古屋大空襲の空襲の戦災で焼失した。戦後以降、これら戦災で失った熱田神宮に存在していた文化財の建造物は再建や復元はされなかった。2022年(令和4年)に熱田区役所の熱田の歴史体感事業の一環の拡張現実事業で、建築学者の三浦正幸広島大学教授に依頼・監修のもと、海上門が絵図や古写真や現存している海上門の礎石の痕跡などの資料を元に海上門の復元図が制作され3DCGで海上門が再現された。
6月5日の例祭(「熱田まつり」・「尚武祭(しょうぶさい)」とも称される)を最大規模の祭事とし、年間を通して以下の祭事が行われている。
草薙剣が御神体である所以から熱田神宮には多くの刀剣が市井から奉納されてきており、約450口の刀剣を所蔵する。そのうち30口以上が国と県の指定文化財である。
典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による(ト書きは現代式表記に改める)。
他に旧国宝建造物の海上門と鎮皇門があったが、第二次世界大戦時の空襲で焼失した。
古神宝類
当初指定日は1957年2月19日。1977年に檜扇1握、鏡台5基、冠箱1合、入帷1領、朱漆弓3張、平胡籙1腰を追加指定(昭和52年6月11日文部省告示第116号)。2014年に朱漆弓2張、梓弓10張を追加指定(平成26年8月21日文部科学省告示第117号)。
(以下は附(つけたり)指定)
1987年6月6日、「金銅装唐鞍 一具 附 黒漆鞍2背、飾鞍図1巻」として重要文化財に指定。2015年9月4日付けで以下の物件を追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)。
熱田神宮にかつて門前町があり、賑わっていた事から、伊勢のおかげ横丁の様な賑わいのある門前町を熱田神宮付近に再現する計画で、2011年から構想があった。河村たかし名古屋市長も、2017年4月の市長選で『熱田草薙横丁』の整備を公約で掲げていた。
東門駐車場(約300台)、南門駐車場(約60台)、西門駐車場(約40台)がある。ただし、祭典行事などで駐車が制限されることがある。
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"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 2,
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"text": "三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている(「天叢雲剣」を参照)。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は景行天皇43年、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年(大化2年)と伝わる。古くは尾張国(現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)(『熱田明神講式』)、「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る。",
"title": "概要"
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"text": "建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。",
"title": "概要"
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"text": "初詣には毎年200万人以上が訪れる。",
"title": "概要"
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"text": "主祭神である熱田大神について、熱田神宮は「三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代としてよらせる天照大神」とする。すなわち、草薙神剣の「正体」としての天照大神をいい、いい換えれば、草薙神剣そのものが天照大神の「霊代(実体)」としての「熱田大神」である。戦前までは、主祭神を「草薙大御剣神」(『熱田神宮略記』(1877年(明治10年)))、「天璽草薙大御劔(あまつみしるしくさなぎのおほみつるぎ)」(『熱田神宮略記』(1939年(昭和14年)))などとしながら表現上における正体と霊代の区別がなされていなかった。ただし、草薙神剣を天照大神とする捉えかたそのものは『熱田明神講式』(平安時代末期)にすでに現れる古いものである。しかし、より古い『尾張国風土記』逸文には、日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を手渡す際に自らの形影(みかげ)とするようにと言い残したとあり、奈良時代には日本武尊を草薙神剣の正体とする見かたがあったともいわれる。平安時代以降は、伊勢の皇大神宮(内宮)の祭神である天照大御神を草薙神剣の正体とすることが通説であり、このことで伊勢と熱田は「一体分身の神」を祀る神社であり、日本国を支える2柱であるとさえされてきたのである。",
"title": "祭神"
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"text": "相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。",
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"text": "『延喜式』の巻三神祇三(臨時祭)や巻九神名帳上に「熱田神社一座」とあるように、古代までは神剣のみを祀っていた可能性が高い。伝承では都から神剣が遷座した686年(朱鳥元年)、実際にはおそらく神仏習合の影響が顕著になった中世以降、土用殿に神剣が、正殿に5座の神が祀られるようになる。1893年(明治26年)に土用殿が廃されてからは、本殿に主神の草薙神剣および相殿神の5座が祀られるようになっている。",
"title": "祭神"
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"text": "草薙神剣は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治したときにその尾から生まれたものという。『古事記』(上巻)に「都牟刈の大刀(つむがりのたち)」(鋭利な太刀の美称)として登場し、『日本書紀』(巻第一神代上第八段一書の1)は元の名を「天叢雲劔(あまのむらくものつるぎ)」というとする。一説に、天照大神が天岩屋から招出されたときの礼代(いやじろ)として八咫鏡と共に奉られ、後にヤマタノオロチに奪われたものの素盞嗚尊がそれを取り返したともいわれるが、この神剣が素盞嗚尊によって天照大神へ献上あるいは返還されたことにより、厳然たる「大御神の霊物」として神威をふるうことになる。 天照大神が天孫降臨の神勅を下すにあたってこの神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共に邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けて以来、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀ってきた。しかし第10代崇神天皇の治世に至って天照大神の神威がますます盛んとなり、同殿共床にあるのは畏れ多いという理由から、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)をしてその神霊を斎き奉らしめながら宮中より出ることになる。豊鍬入姫命を「御杖代」とし、理想的な鎮座地を求めて始まった天照大神の遍歴は、御杖代を引き継いだ倭姫命(やまとひめのみこと)の代に、伊勢国の五十鈴川河畔の地をもって終焉を迎える。すなわち、神宮(伊勢神宮)の創祀であり、ここに皇居と神宮の分離が初めてなされることになる。",
"title": "創祀と創建"
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"text": "この後、神剣は伊勢の神宮から氷上邑(ひかみのさと、現在の名古屋市緑区大高町火上山付近を指すと言われる)を経て、さらに熱田へ遷ることになるのだが、この経緯を記すのは『記紀』や『尾張国風土記』逸文(8世紀頃、『釈日本紀』七)の他に、熱田神宮に関する最古にして根本を成す縁起として知られた『尾張国熱田太神宮縁記(おわりのくにあつただいじんぐうえんぎ)』がある。本書は874年(貞観16年)に熱田社別当であった尾張清稲により記述され、さらに890年(寛平2年)10月に国司であった藤原村椙が筆削を加えたものといわれるが、尾張清稲・藤原村椙という両名の人物像が不確かなこと、当時代の記述としてはいくつか矛盾をはらんでいることなどから、その成立は平安時代ではなく鎌倉時代初頭の成立とする説も根強い。以下は、本書による神剣創祀までの経緯である。",
"title": "創祀と創建"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "景行天皇40年10月2日、景行天皇の意を受けて東征の旅に出た皇子日本武尊は、途中神宮に立ち寄り、姨(おば)にあたる倭姫命から嚢(ふくろ)と共に草薙神剣を賜る。さらに旅を続けて尾張国の愛知郡に至ったとき、侍従の将であった建稲種命に誘われ、命の故郷であった氷上邑の館で休息することになった。尊はそこで、見目うるわしい娘がいるのを知り、その名を問うたところ、娘は建稲種命の妹で宮酢媛といった。尊は媛を召し出して契りを交わし、いつくしみ、この地に長く逗留したが、やがて旅立ちの時になり、媛との別れを惜しんだ。",
"title": "創祀と創建"
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"text": "やがて東征を成して再び氷上邑の館に到着した尊は、宮酢媛と再会し、数首の歌を交わすなどしながら媛との日々を過ごす毎日であった。旅立ちに際して剣を解き、これを宝物として持ち床の守りとするよう、媛に差し出した。これから向かう伊吹山に暴悪の神がはびこるのを懸念する近習(大伴建日臣)であったが、尊は剣を留めたまま出発した。その伊吹山において尊は暴風雨にさらされて心身を痛め、尾張国に戻ろうとしたが、鈴鹿山を越えたあたりで危篤となり、媛の床にある大刀を偲ぶ辞世の歌を詠じた後、鈴鹿川の中瀬でみまかってしまう。",
"title": "創祀と創建"
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"text": "皇子の訃報を耳にした天皇は昼夜を問わずにむせび泣き、尊の遺骸を能褒野(のぼの)の地に葬らせた。このとき、尊は白鳥の姿となって御陵から飛び出し、大和国琴弾原、河内国志紀郡古市里に転々と降り立った後、そのまま天に昇っていった。 宮酢媛は、尊との約束を違えず、独りで床を守り、草薙神剣を奉っていた。やがて老いたとき、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮った。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。ここを熱田と号して、社地に定めたという。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになる。",
"title": "創祀と創建"
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"text": "『尾張国熱田太神宮縁記』による熱田神宮および氷上姉子神社創建までの顛末は上記のようである。本書は『日本書紀』を主として『古事記』や『尾張国風土記』を含む多くの資料を引用しているとみられており、本書自体に独自性は乏しいといわれる。他方、原典の記述に対して曲解がほとんどみられず忠実な引用がなされているともいわれ、成立は鎌倉時代であっても、内容そのものは平安時代もしくはそれ以前のものとしての資料的価値を有するとされる。そして何より、建稲種命に氷上邑の館へ案内されたこと、ここで宮酢媛と出会い共に日々を過ごしたこと、東征の帰途に再び氷上邑に立ち寄ったことなどは本書独特の記述であり、とりわけ草薙神剣を預かった宮酢媛が占卜によって熱田を創祀の地に選んだとする記述は、天照大神の神器が天皇家・伊勢神宮を経て熱田にもたらされたことを示し、熱田神宮がその尊貴な正統性を誇示する重要なポイントとなっている。 ただし尾崎久彌が指摘するように、『尾張国熱田太神宮縁記』では社地に選んだ地(熱田)がなぜ熱田と呼ばれるようになったのかという説明がなされるだけで、社地を定めたはよいものの社祠がいつ創建され草薙神剣がいつそちらに遷座されたか、あるいは社祠の創建や遷座そのものがなされたかどうかが記されていない。また、尊亡きあと媛が草薙神剣を守り奉じていたところ、すなわち遷座元も、じつは曖昧な記述になっている(熱田であったとも氷上邑であったとも記されていない)。こうした『尾張国熱田太神宮縁記』の不明瞭さを補うのが後年に登場する各種縁起や史書となる。",
"title": "創祀と創建"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "熱田神宮は創祀1,900年目に当たるとされた2013年(平成25年)に「創祀千九百年大祭」を執行しているが、これは創祀年を景行天皇43年(西暦に換算すると113年にあたるという)とした中世の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』などの説に基づいたものである。ところがこの創祀年についても近代よりまちまちにいわれ、景行天皇43年とする説のほかに、同41年、同49年などとする説も生まれた。 景行天皇41年は『熱田宮旧記』(1699年(元禄12年))などにみえ、その根拠は『日本書紀』が景行天皇27年に日本武尊の年齢を16歳と記し、40年から43年の間に30歳で没したと記しているためで、明治時代に至っても角田忠行が採用していた説である。日本武尊の御陵ともいわれた白鳥御陵(白鳥古墳)において毎年4月8日に行われていた祭典は日本武尊が景行天皇41年4月8日に没したとする伝承に基づくものであった。景行天皇49年は上記の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』が一説として紹介している年で、江戸時代には天野信景らが支持した説である。尾張にあった神剣が一度は伊勢に戻され、詔勅により改めて尾張に届けられたという時間的ロスに伴う年代の繰り下げである。",
"title": "創祀と創建"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "ところで、草薙神剣の創祀と熱田神宮の創建とは年代が異なることについて角田忠行が注意を喚起している点は興味深い。景行天皇43年(もしくは41年、49年)は草薙神剣が宮簀媛によって創祀された初年を指すのであって、熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。 『尾張志』は、『尾張国氷上宮開始正伝本起』にある宮簀媛命の死去年を仲哀天皇4年とする記述に着目し、天皇の在位期間や宮簀媛命の年齢などをさまざまに勘案した上で、草薙神剣が尾張国にもたらされた(草薙神剣が日本武尊から宮簀媛命に預けられた)のが景行天皇40年(媛の年齢は15歳ほど)、草薙御剣の創祀を景行天皇43年(媛の年齢は18歳ほど)、老媛が草薙神剣の遷座地を熱田に占定したのを成務天皇年間末から仲哀天皇元年(媛の年齢は92歳ほど)であると見なした。老媛はこの4年後に96歳ほどで死去することになる。角田もまた、日本武尊の死去からおよそ80年間、草薙神剣は尾張国造の神床において宮簀媛命に奉斎されてきたことを指摘する。 かたや、『朱鳥官符』(平安時代末期頃か)は646年(大化2年)5月1日に熱田大明神の託宣によって草薙神剣が愛知郡衛崎松姖嶋機綾村(えさきまつこのしまはたやのむら)に遷されたと記す。『熱田正縁記』はこれを補強し、景行天皇41年に草薙御剣が氷上邑にもたらされ、やがて老いた宮簀媛によって松姖嶋に社が立てられ草薙神剣が収められ、646年(大化2年)に尾張忠命という人物によって愛知郡会崎機綾村(えさきはたやのむら)に遷座されたという。",
"title": "創祀と創建"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。以降は子孫の藤原南家藤原氏・千秋家が大宮司、尾張氏は権宮司を務め続けている。なお、この季範の娘は源頼朝の母(由良御前)である。また、季範の養女(実孫)は足利義康(足利氏の祖)に嫁いでおり、足利氏にもその血脈を伝えている。さらに季範の妹は二階堂行政の母であり、二階堂氏との関係も深い。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "『海道記』には「熱田の宮の御前を過ぐれば」とあるほか、『東關紀行』に「尾張の國熱田の宮に到りぬ」とある。また同書には、",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。",
"title": "歴史"
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"text": "と記載されている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "瑞渓周鳳の『臥雲日件録』1465年(寛正6年)6月18日条に「日本所謂三大宮司、盖厳島・熱田・富士之三所也」とあり、熱田大宮司は厳島神主家・富士氏と共に日本三大宮司に数えられている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "戦国時代、千秋家は武将として織田家に仕え、千秋季光が織田信秀に、季光の子季忠は織田信長に仕えている。信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮に戦勝を祈願して見事に勝利を収めたが、季忠は前哨戦で討死、信長は大宮司職と遺領を、まだ胎内にいた季忠の子季信に相続させた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "江戸時代は当社周辺に東海道五十三次の43番目「宮宿」が設けられ、当地から桑名宿への七里の渡しが運行されていた。また『東海道名所図会』に「熱田大神宮」と記載されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "慶応4年(1868年)6月、神宮号を宣下されて熱田神社から熱田神宮に改められた。1871年7月1日(明治4年5月14日)の近代社格制度の制定により、熱田神宮は官幣大社に列格した。熱田神宮には「三種の神器の一つを祀っているから、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張があり、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願したものの、この請願は却下されている。次いで大宮司となった角田忠行も同様の請願を続け、1889年(明治22年)までに伊勢神宮に準じた神璽勅封・権宮司設置などが認められた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "それまで熱田神宮は尾張造という尾張地方特有の建築様式で建てられていたが、1889年(明治22年)、伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営が計画された。また、熱田神宮の国への働きかけにより、1890年(明治23年)9月、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が閣議に提出された(案の段階では熱田神宮を「尾張神宮」に改称する事項も含まれていたが、これは外された)。しかし、この勅令案は否決され、熱田神宮の社格の件は従前の通りとすることとなった。その背景には伊勢神宮の反対があったという。神明造による社殿の造営は進められ、1893年(明治26年)に竣工した。しかし、この社殿は他の建物共々太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月9日に行われた熱田空襲により焼失した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "また、終戦直前、神体である草薙剣を守るために飛騨一宮水無神社への一時的な遷座が計画されたが、同年8月15日の終戦により一時中止された。しかし、今度は上陸したアメリカ軍に神体が奪われるおそれがあるとして、同年8月21日、陸軍の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。同年9月19日に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、神職が鉄道で移動した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。",
"title": "歴史"
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"text": "社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、1955年(昭和30年)10月に再建された。新しい建物のため、指定文化財ではない。",
"title": "歴史"
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"text": "<>は関連事項。",
"title": "歴史"
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"text": "境内には本宮を始めとして別宮1社・摂社8社・末社19社が、境外には摂社4社・末社12社があり、合わせて45社(本宮含む)を祀っている。",
"title": "別宮・摂末社"
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"text": "かつて、信長塀と繋がっていた1920年(大正9年)に国宝に指定された海上門(海蔵門)や同じく国宝の鎮皇門や春敲門の3つの門が存在していたが、太平洋戦争時の名古屋大空襲の空襲の戦災で焼失した。戦後以降、これら戦災で失った熱田神宮に存在していた文化財の建造物は再建や復元はされなかった。2022年(令和4年)に熱田区役所の熱田の歴史体感事業の一環の拡張現実事業で、建築学者の三浦正幸広島大学教授に依頼・監修のもと、海上門が絵図や古写真や現存している海上門の礎石の痕跡などの資料を元に海上門の復元図が制作され3DCGで海上門が再現された。",
"title": "過去の建造物"
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"text": "6月5日の例祭(「熱田まつり」・「尚武祭(しょうぶさい)」とも称される)を最大規模の祭事とし、年間を通して以下の祭事が行われている。",
"title": "祭事"
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"text": "草薙剣が御神体である所以から熱田神宮には多くの刀剣が市井から奉納されてきており、約450口の刀剣を所蔵する。そのうち30口以上が国と県の指定文化財である。",
"title": "文化財"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による(ト書きは現代式表記に改める)。",
"title": "文化財"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "他に旧国宝建造物の海上門と鎮皇門があったが、第二次世界大戦時の空襲で焼失した。",
"title": "文化財"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "古神宝類",
"title": "文化財"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "当初指定日は1957年2月19日。1977年に檜扇1握、鏡台5基、冠箱1合、入帷1領、朱漆弓3張、平胡籙1腰を追加指定(昭和52年6月11日文部省告示第116号)。2014年に朱漆弓2張、梓弓10張を追加指定(平成26年8月21日文部科学省告示第117号)。",
"title": "文化財"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "(以下は附(つけたり)指定)",
"title": "文化財"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1987年6月6日、「金銅装唐鞍 一具 附 黒漆鞍2背、飾鞍図1巻」として重要文化財に指定。2015年9月4日付けで以下の物件を追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)。",
"title": "文化財"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "熱田神宮にかつて門前町があり、賑わっていた事から、伊勢のおかげ横丁の様な賑わいのある門前町を熱田神宮付近に再現する計画で、2011年から構想があった。河村たかし名古屋市長も、2017年4月の市長選で『熱田草薙横丁』の整備を公約で掲げていた。",
"title": "熱田おかげ横丁計画"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "東門駐車場(約300台)、南門駐車場(約60台)、西門駐車場(約40台)がある。ただし、祭典行事などで駐車が制限されることがある。",
"title": "現地情報"
}
] |
熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区神宮にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
|
{{神社
|名称 = 熱田神宮
|画像 = [[File:Atsuta-jingu_Shrine_Haiden,_Jingu_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|270px]]<br />外玉垣御門(拝殿)外観<br />(2023年(令和5年)1月)
|所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]][[神宮 (名古屋市)|神宮]]1丁目1-1
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|7|38.5|N|136|54|31.2|E|display=inline,title}}
|祭神 = 熱田大神
|神体 = [[天叢雲剣|草薙神剣(草薙剣)]]
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br />[[尾張国]][[一宮|三宮]]<br/>旧[[官幣大社]]<br />[[勅祭社]]<br />[[別表神社]]
|創建 = 伝・[[仲哀天皇]]元年<!--西暦は記載しない([[プロジェクト‐ノート:紀年法#天皇の在位と西暦をどこまで対応させるか]]の議論に基づき)--><BR/>伝・[[大化]]2年(646年)
|本殿 = [[神明造]]
|別名 =
|例祭 = [[6月5日]](熱田祭)
|神事 = 歩射神事<br />御煤納神事
|地図 = {{Location map|Nagoya|lat_deg=35|lat_min=7|lat_sec=38.5|lon_deg=136|lon_min=54|lon_sec=31.2|label=熱田神宮|position=right|width=200|float=center|caption=|mark=Shinto torii icon vermillion.svg|marksize=20}}
{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=200|coord={{coord|35|7|38.5|N|136|54|31.2|E}}}}
}}
{{座標一覧}}
'''熱田神宮'''(あつたじんぐう)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]][[神宮 (名古屋市)|神宮]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[尾張国]][[一宮|三宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。宮中の[[四方拝]]で遥拝される一社。[[神紋]]は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
== 概要 ==
[[File:Minami Torii in Atsuta Jingu Shrine 2014.jpg|thumb|南鳥居と初詣の人波<br />(2014年(平成26年)1月)]]
[[名古屋市]]南部の[[熱田台地]]の南端に鎮座する。古くは[[伊勢湾]]に突出した[[岬]]上に位置していたが、周辺の[[干拓]]が進んだ現在はその面影は見られない<ref>『愛知県の地名』熱田神宮項。</ref>。
[[三種の神器]]の1つである[[天叢雲剣|草薙剣]](くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「[[草薙剣盗難事件]]」を参照)、[[形代]]が[[壇ノ浦の戦い]]で遺失するなどの受難にみまわれている(「[[天叢雲剣]]」を参照)。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は[[景行天皇]]43年<ref name="HP神宮歴史">[http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/history.html 熱田神宮の歴史 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮](熱田神宮公式サイト、2018年(平成30年)11月7日閲覧)</ref>、熱田社の創建は[[仲哀天皇]]元年{{#tag:ref|「神宮御造営は同天皇(仲哀天皇)の元年頃なるへし、」(『熱田神宮略記』<ref name="神宮史料縁起由緒344">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:344ページ</ref>)|group="注"}}あるいは646年([[大化]]2年){{#tag:ref|「御神(熱田大明神)被<sub>㆑</sub>入-<sub>㆓</sub>座王城<small>ニ</small><sub>㆒</sub><ruby><rb>御詫宣</rb><rt>コタクセン</rt></ruby><small>ニ</small><ruby><rb>偁</rb><rt>イハ</rt></ruby><small>ク</small>、我<ruby><rb>已</rb><rt>スデ</rt></ruby><small>ニ</small><ruby><rb>彼</rb><rt>カノ</rt></ruby>国愛智郡<ruby><rb>衛崎</rb><rt>ヱサキ</rt></ruby><ruby><rb>松炬嶋</rb><rt>マツコノシマ</rt></ruby><ruby><rb>機綾</rb><rt>ハタヤノ</rt></ruby>村<small>ニ</small>以<small>テ</small><sub>㆓</sub>去<small>ル</small><ruby><rb>大化</rb><rt>タイクハ</rt></ruby>二年<small><ruby><rb>丁未</rb><rt>(マヽ)</rt></ruby></small>歳五月一日<small>ヲ</small><sub>㆒</sub>、天下<small>リ</small><ruby><rb>座著</rb><rt>マシマス</rt></ruby>神也、」(『朱鳥官符』<ref name="神宮史料縁起由緒13">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:13ページ</ref>)|group="注"}}と伝わる。古くは[[尾張国]](現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守<ref name="神宮史料縁起由緒21">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:21ページ</ref>」([[伊勢神宮]]、[[石清水八幡宮]]に継ぐとする意)(『熱田明神講式』)、「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)<ref name="略記3">『熱田神宮略記』:3ページ</ref>とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る<ref name="中世熱田社2">『中世熱田社の構造と展開』:2ページ</ref>。
建物は[[伊勢神宮]]と同じ[[神明造]]であるが、[[1893年]]([[明治]]26年)までは[[尾張造]]と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の[[氷上姉子神社]]に尾張造の建築様式が残っている){{要出典|date=2017年8月7日 (月) 07:49 (UTC)}}。
[[初詣]]には毎年200万人以上の参拝客が訪れる<ref>[https://www.mapple.net/xp/hatsumode 第6位 熱田神宮【愛知県】約230万人]</ref>。
== 祭神 ==
; 主祭神
* '''熱田大神'''(あつたのおおかみ)
** [[三種の神器]]の1つ・'''草薙神剣'''(くさなぎのみつるぎ、草薙剣・天叢雲剣とも)<ref>「草薙神剣」:熱田神宮における公称。</ref>を[[神体]]とする'''[[天照大神]]'''を指すとしている<ref>神社由緒書。</ref>。
; 相殿神
* [[天照大神]](あまてらすおおかみ)
* [[スサノオ|素盞嗚尊]](すさのおのみこと)
* [[ヤマトタケル|日本武尊]](やまとたけるのみこと)
* [[宮簀媛|宮簀媛命]](みやすひめのみこと)
* [[建稲種命]](たけいなだねのみこと)
主祭神である熱田大神について、熱田神宮は「三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代としてよらせる天照大神」とする<ref name="神宮7">『熱田神宮』:7ページ</ref>。すなわち、草薙神剣の「正体」としての天照大神をいい、いい換えれば、草薙神剣そのものが天照大神の「霊代(実体)」としての「熱田大神」である<ref name="新名古屋市史1_523">『新修名古屋市史 第1巻』:523ページ</ref>。[[戦前#日本|戦前]]までは、主祭神を「草薙大御剣神」(『熱田神宮略記』(1877年(明治10年)))<ref name="神宮史料縁起由緒339">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:339ページ</ref>、「天璽草薙大御劔(あまつみしるしくさなぎのおほみつるぎ)」(『熱田神宮略記』(1939年(昭和14年)))<ref name="略記1">『熱田神宮略記』:1ページ</ref>などとしながら表現上における正体と霊代の区別がなされていなかった。ただし、草薙神剣を天照大神とする捉えかたそのものは『熱田明神講式』(平安時代末期)にすでに現れる古いものである{{#tag:ref|「倩尋レハ<sub>㆓</sub>旧典ヲ<sub>㆒</sub>、彼ノ<ruby><rb>'''叢'''</rb><rt>ムラ</rt></ruby>'''雲釼'''<ruby><rb>者</rb><rt>ハ</rt></ruby>、'''天照大神ノ御正躰'''、今ノ大宮権現是也(つらつら旧典を尋ぬれば、かの叢雲釼は、天照大神の御正体、今の大宮権現これなり。)」(『熱田明神講式』<ref name="神宮史料縁起由緒22">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:22ページ</ref>)|group="注"}}。しかし、より古い『尾張国風土記』逸文には、日本武尊が宮簀媛に草薙神剣を手渡す際に自らの形影(みかげ)とするようにと言い残したとあり{{#tag:ref|「卽ち宮簀媛に<ruby><rb>謂</rb><rt>の</rt></ruby>りたまひしく、此の劔は神の<ruby><rb>氣</rb><rt>け</rt></ruby>あり。<ruby><rb>齋</rb><rt>いは</rt></ruby>ひ<ruby><rb>奉</rb><rt>まつ</rt></ruby>りて、吾が<ruby><rb>形影</rb><rt>みかげ</rt></ruby>と<ruby><rb>爲</rb><rt>せ</rt></ruby>よ、とのりたまひき。<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>りて<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>を立て、<ruby><rb>鄕</rb><rt>さと</rt></ruby>(熱田郷のこと)に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>りて名と<ruby><rb>爲</rb><rt>な</rt></ruby>しき。」((『尾張国風土記』逸文(『釈日本紀』巻七述議三神代上)<ref name="風土記246">『日本古典全書 「風土記」下』:246ページ</ref>)|group="注"}}、奈良時代には日本武尊を草薙神剣の正体とする見かたがあったともいわれる<ref name="新名古屋市史1_524">『新修名古屋市史 第1巻』:524ページ</ref>。平安時代以降は、伊勢の皇大神宮(内宮)の祭神である天照大御神を草薙神剣の正体とすることが通説であり<ref name="新名古屋市史2_334">『新修名古屋市史 第2巻』:334ページ</ref>、このことで伊勢と熱田は「一体分身の神」を祀る神社であり、日本国を支える2柱であるとさえされてきたのである{{#tag:ref|「伊勢太神宮ト申ハ熱田太神宮也、'''一躰分身ノ神'''、御在処ニ随テ伊勢トモ熱田トモ申也、'''日本二'''<ruby><rb>'''并'''</rb><rt>ハシラ</rt></ruby>'''ノ神'''ニテ、天ヲ伝テ土地也ヲ得テ、三国ノ主ニテ、日本ヲ神国ト号シ、衆生ヲ利益ノ為ニ、南閻扶提ニ跡ヲ垂テ、神明ト号シ給、仏出世シテ此一大事ヲ為<sub>㆑</sub>説カン也、」(『熱田宮秘釈見聞』<ref name="神宮史料縁起由緒28">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:28ページ</ref>)|group="注"}}。
相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、[[ヤマタノオロチ]]退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を[[天孫降臨]]の際に[[ニニギ|迩迩芸命]](ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って[[蝦夷征討|蝦夷征伐]]を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を[[占い#卜(ぼく)|卜定]]して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した<ref name="尾張国熱田太神宮縁記5">『尾張国熱田太神宮縁記 現代語訳』:5ページ</ref>。
『延喜式』の巻三神祇三(臨時祭)や巻九神名帳上に「熱田神社一座」とあるように<ref name="延喜式一94">『延喜式 第一』:94ページ</ref><ref name="延喜式二123">『延喜式 第二』:123ページ</ref>、古代までは神剣のみを祀っていた可能性が高い<ref name="新名古屋市史1_522">『新修名古屋市史 第1巻』:522ページ</ref>。伝承では都から神剣が遷座した686年(朱鳥元年)、実際にはおそらく神仏習合の影響が顕著になった中世以降、土用殿に神剣が、正殿に5座の神が祀られるようになる{{#tag:ref|「天武天皇ノ御宇ニ、宮古(都)ヨリ還座ノ時、改テ土用御殿ヲ建立シ玉ヒテ、神剣ハ石ノ辛櫃ニ入御ナシ奉リ、土中ニ安鎮シ奉ル」(『尾州神宮秘伝』<ref name="神宮史料縁起由緒続一3">『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』:3ページ</ref>)|group="注"}}。1893年(明治26年)に土用殿が廃されてからは、本殿に主神の草薙神剣および相殿神の5座が祀られるようになっている<ref name="名古屋市史社寺45">『名古屋市史 社寺編』:45ページ</ref><ref name="新名古屋市史1_522-523">『新修名古屋市史 第1巻』:522-523ページ</ref>。
== 創祀と創建 ==
草薙神剣は、素盞嗚尊が[[ヤマタノオロチ]]を退治したときにその尾から生まれたものという{{#tag:ref|「そさのをの尊すなはちはかせる十つかの劔をぬいて、<ruby><rb>ずた</rb><rt>ずた〱</rt></ruby>にその<ruby><rb>蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>をきる。<ruby><rb>尾</rb><rt>お</rt></ruby>にいたつて、<ruby><rb>劔</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>刄</rb><rt>は</rt></ruby>すこしかけぬ。故、その尾をさいてみそなはすれば、中に一の劔あり。是いはゆる<ruby><rb>草薙</rb><rt>くさなぎの</rt></ruby><ruby><rb>劔</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>なり。」(『日本書紀』(巻第一神代上第八段)<ref name="日本書紀上67">『仮名日本書紀 上巻』:67ページ</ref>)|group="注"}}。『古事記』(上巻)に「都牟刈の大刀(つむがりのたち)」(鋭利な太刀の美称)として登場し<ref name="古事記29">『表註 今文古事記』:29ページ</ref>、『日本書紀』(巻第一神代上第八段一書の1)は元の名を「'''天叢雲劔'''(あまのむらくものつるぎ)」というとする<ref name="日本書紀上67">『仮名日本書紀 上巻』:67ページ</ref>。一説に、天照大神が[[天岩戸|天岩屋]]から招出されたときの[[礼代]](いやじろ)として八咫鏡と共に奉られ{{#tag:ref|「此神剣ハ、天照大御神の天岩屋に<ruby><rb>屛</rb><rt>コモ</rt></ruby>り坐しとき、招出し奉らむ祈の礼代と榊に取懸て、神鏡・神剣・神玉と此三神器を奉られたりと聞ゆるを、…」(『熱田神宮略記』<ref name="神宮史料縁起由緒340">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:340ページ</ref>)|group="注"}}、後にヤマタノオロチに奪われたものの素盞嗚尊がそれを取り返したともいわれるが{{#tag:ref|「もと、<ruby><rb>天照大御神</rb><rt>あまてらすおほミかミ</rt></ruby>の御物なるを、出雲国に<ruby><rb>住</rb><rt>すめ</rt></ruby>る<ruby><rb>八俣大蛇</rb><rt>やまたをろち</rt></ruby>といふ<ruby><rb>邪神</rb><rt>まがゝミ</rt></ruby>の盗みもてるを、<small>この八俣大蛇が住る上に、雲と立たりし故に、村雲の御剣といふ、</small>大御神の御弟<ruby><rb>健速須佐乃男尊</rb><rt>たけはやすさのをのみこと</rt></ruby>取り得て、大御神に奉り給へるなり、」(『熱田神宮御神徳略記』<ref name="神宮史料縁起由緒335">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:335ページ</ref>)|group="注"}}、この神剣が素盞嗚尊によって天照大神へ献上あるいは返還されたことにより、厳然たる「大御神の霊物」{{#tag:ref|『熱田神宮略記』<ref name="神宮史料縁起由緒340"/>|group="注"}}として神威をふるうことになる。
<br/>天照大神が天孫降臨の[[神勅]]を下すにあたってこの神剣に霊魂を込め、神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共に[[邇邇芸命]](ににぎのみこと)に授けて以来、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀ってきた{{#tag:ref|「<ruby><rb>天照太神</rb><rt>あまてらすおほんかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>[[日本大国魂神|和大國魂]]</rb><rt>やまとのおほくにたま</rt></ruby>、二はしらの神を、<ruby><rb>天皇</rb><rt>すへらみこと</rt></ruby>の<ruby><rb>大殿</rb><rt>みあらか</rt></ruby>の内に、ならべいはひまつる。」(『日本書紀』(巻第五崇神天皇)<ref name="日本書紀上205">『仮名日本書紀 上巻』:205ページ</ref>)|group="注"}}。しかし第10代崇神天皇の治世に至って天照大神の神威がますます盛んとなり、同殿共床にあるのは畏れ多いという理由から、[[豊鍬入姫命]](とよすきいりびめのみこと)をしてその神霊を斎き奉らしめながら宮中より出ることになる{{#tag:ref|「しかれどもその神のみいきほひをおそれて、ともに住給ふことやすからず。<ruby><rb>故</rb><rt>かれ</rt></ruby>、<ruby><rb>天照太神</rb><rt>あまてらすおほんかみ</rt></ruby>をもては、<ruby><rb>豐鍬入姬命</rb><rt>とよすきいりひめのみこと</rt></ruby>をつけまつりて、やまとの<ruby><rb>笠縫</rb><rt>かさぬひ</rt></ruby>の<ruby><rb>邑</rb><rt>むら</rt></ruby>にいはひまつる。よて<ruby><rb>磯堅城神籬</rb><rt>しかたきのひもろき</rt></ruby>をたつ。亦<ruby><rb>日本大國魂神</rb><rt>やまとのおほくにたまのかみ</rt></ruby>をもては、<ruby><rb>[[渟名城入媛命|渟名城入姬命]]</rb><rt>ぬなきいりひめのみこと</rt></ruby>に<ruby><rb>託</rb><rt>つけ</rt></ruby>て、いはひまつる。…」(『日本書紀』(巻第五崇神天皇)<ref name="日本書紀上205"/>)|group="注"}}。豊鍬入姫命を「御杖代」とし、理想的な鎮座地を求めて始まった[[元伊勢|天照大神の遍歴]]は、御杖代を引き継いだ[[倭姫命]](やまとひめのみこと)の代に、伊勢国の[[五十鈴川]]河畔の地をもって終焉を迎える{{#tag:ref|「垂仁天皇廿五年丙辰春三月。伊勢百船度會國。玉撥伊蘇國仁入座。(中略)然後。隨<sup>㆓</sup>神誨<sup>㆒</sup>。造<sup>㆓</sup>建神籬<sup>㆒</sup>。取<sup>㆓</sup>丁巳年冬十月甲子<sup>㆒</sup>。奉<sup>㆑</sup>遷<sup>㆓</sup>。於五十鈴川上<sup>㆒</sup>之後。覔<sup>㆓</sup>清麗膏地<sup>㆒</sup><small>天</small>。和妙之機殿乎。同與<sup>㆓</sup>于五十鈴川上側<sup>㆒</sup>。令倭姫命居焉。于時。天棚機姫神。令<sup>㆑</sup>織太神和妙御衣<sup>㆒</sup>給<small>倍利</small>。是名號礒宮矣。…」(『倭姫命世記』<ref name="国史大系7_496">『国史大系 第七巻』:496ページ</ref>)|group="注"}}。すなわち、[[伊勢神宮|神宮]](伊勢神宮)の創祀であり、ここに皇居と神宮の分離が初めてなされることになる。
この後、神剣は伊勢の神宮から氷上邑(ひかみのさと、現在の名古屋市緑区大高町火上山付近を指すと言われる)を経て、さらに熱田へ遷ることになるのだが、この経緯を記すのは『記紀』や『[[尾張国風土記]]』逸文(8世紀頃、『[[釈日本紀]]』七)の他に、熱田神宮に関する最古にして根本を成す縁起として知られた『'''尾張国熱田太神宮縁記'''(おわりのくにあつただいじんぐうえんぎ)』がある<ref name="神宮史料縁起由緒解説11">『熱田神宮史料 縁起由緒編』解説:11ページ</ref>。本書は874年(貞観16年)に熱田社[[別当]]であった[[尾張清稲]]により記述され、さらに890年(寛平2年)10月に国司であった[[藤原村椙]]が筆削を加えたものといわれるが、尾張清稲・藤原村椙という両名の人物像が不確かなこと、当時代の記述としてはいくつか矛盾をはらんでいることなどから、その成立は平安時代ではなく鎌倉時代初頭の成立とする説も根強い<ref name="神宮史料縁起由緒解説13">『熱田神宮史料 縁起由緒編』解説:13ページ</ref>。以下は、本書による神剣創祀までの経緯である。
[[File:Yamatotakeru-Owari Meisho Zue.jpg|thumb|left|「日本武尊宮簀媛命と一別の時形見に寳剱を授たまふ圖」(『尾張名所図会』より)]]
[[景行天皇]]40年10月2日、景行天皇の意を受けて東征の旅に出た皇子日本武尊は{{#tag:ref|「冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_853">『群書類従 第一集』:853ページ</ref>)|group="注"}}、途中神宮に立ち寄り、姨(おば)にあたる倭姫命から嚢(ふくろ)と共に草薙神剣を賜る{{#tag:ref|「戊午。抂<sup>㆑</sup>道奉<sup>㆓</sup>拜伊勢大神宮<sup>㆒</sup>。啓<sup>㆓</sup>齋王倭姬命<sup>㆒</sup>。…(中略)…日本武尊拜-<sup>㆓</sup>領劔嚢<sup>㆒</sup>行。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_853"/>)|group="注"}}。さらに旅を続けて尾張国の愛知郡に至ったとき、侍従の将であった建稲種命に誘われ、命の故郷であった氷上邑の館で休息することになった{{#tag:ref|「道路到<sup>㆓</sup>尾張國愛智郡<sup>㆒</sup>。時稻種公啓曰。當郡氷上邑有<sup>㆓</sup>桑梓之地<sup>㆒</sup>。伏請大王税<sup>㆑</sup>駕息<sup>㆑</sup>之。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_853-854">『群書類従 第一集』:853-854ページ</ref>)|group="注"}}。尊はそこで、見目うるわしい娘がいるのを知り、その名を問うたところ、娘は建稲種命の妹で宮酢媛といった{{#tag:ref|「(日本武尊、)側見<sup>㆓</sup>一佳麗之娘<sup>㆒</sup>。問<sup>㆓</sup>其姓字<sup>㆒</sup>。知<sup>㆓</sup>稻種公之妹。名宮酢媛<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_854">『群書類従 第一集』:854ページ</ref>)|group="注"}}。尊は媛を召し出して契りを交わし、いつくしみ、この地に長く逗留したが、やがて旅立ちの時になり、媛との別れを惜しんだ{{#tag:ref|「即命<sup>㆓</sup>稻種公<sup>㆒</sup>。聘-<sup>㆓</sup>納佳娘<sup>㆒</sup>。合卺之後。寵幸固厚。數日淹留。不<sup>㆑</sup>忍<sup>㆑</sup>分<sup>㆑</sup>手。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_854"/>)|group="注"}}。
やがて東征を成して再び氷上邑の館に到着した尊は、宮酢媛と再会し、数首の歌を交わすなどしながら媛との日々を過ごす毎日であった。旅立ちに際して剣を解き、これを宝物として持ち床の守りとするよう、媛に差し出した{{#tag:ref|「(日本武尊、)即解<sup>㆑</sup>劔授曰。寳-<sup>㆓</sup>持此劔<sup>㆒</sup>。爲<sup>㆓</sup>我床守<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_856">『群書類従 第一集』:856ページ</ref>)。|group="注"}}。これから向かう[[伊吹山]]に暴悪の神がはびこるのを懸念する近習(大伴建日臣)であったが、尊は剣を留めたまま出発した{{#tag:ref|「時近習之人大伴建日臣諫曰。此不<sup>㆑</sup>可<sup>㆑</sup>留。何者。承-<sup>㆔</sup>聞前程氣吹山有<sup>㆓</sup>暴惡神<sup>㆒</sup>。若非<sup>㆓</sup>劔氣<sup>㆒</sup>。何除<sup>㆓</sup>毒害<sup>㆒</sup>。日本武尊高言曰。縱有<sup>㆓</sup>彼暴神<sup>㆒</sup>。擧<sup>㆑</sup>足蹴殺。遂留<sup>㆑</sup>劔上<sup>㆑</sup>道。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_856"/>)。|group="注"}}。その伊吹山において尊は暴風雨にさらされて心身を痛め{{#tag:ref|「暴風<sup>㆓</sup>吹淫雨<sup>㆒</sup>。山谷杳冥。之棲遑不<sup>㆑</sup>知<sup>㆓</sup>其所<sup>㆒</sup>。跋渉冐<sup>㆑</sup>雨强行。僅得<sup>㆑</sup>出<sup>㆓</sup>山脚<sup>㆒</sup>。失<sup>㆑</sup>意如<sup>㆑</sup>醉。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_856"/>)。|group="注"}}、尾張国に戻ろうとしたが、[[鈴鹿山脈|鈴鹿山]]を越えたあたりで危篤となり{{#tag:ref|「自後日本武尊體中不豫。欲<sup>㆑</sup>歸<sup>㆓</sup>尾張<sup>㆒</sup>。…(中略)…逮<sup>㆓</sup>于能褒野<sup>㆒</sup>。異<sup>㆑</sup>常委惙。…(中略)…既而過<sup>㆓</sup>鈴鹿山<sup>㆒</sup>。病痛危迫。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_856-857">『群書類従 第一集』:856-857ページ</ref>)。|group="注"}}、媛の床にある大刀を偲ぶ辞世の歌を詠じた後、鈴鹿川の中瀬でみまかってしまう{{#tag:ref|「渡<sup>㆓</sup>鈴鹿河中瀨<sup>㆒</sup>。忽隨<sup>㆓</sup>逝水<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_857">『群書類従 第一集』:857ページ</ref>)。|group="注"}}。
{{Quotation|遠登賣能(をとめの)。登許能辨爾(とこのへに)。和賀於岐斯(わかおきし)。都留岐能多知(つるきのたち)。曾能多知波夜(そのたちはや)。|日本武尊|『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_857"/>}}
皇子の訃報を耳にした天皇は昼夜を問わずにむせび泣き、尊の遺骸を[[能褒野王塚古墳|能褒野]](のぼの)の地に葬らせた{{#tag:ref|「天皇聞<sup>㆑</sup>之。寢不<sup>㆑</sup>安。食無<sup>㆑</sup>味。晝夜嗚咽。…(中略)…即勅<sup>㆓</sup>群卿百寮<sup>㆒</sup>。仍葬<sup>㆓</sup>伊勢國能褒野<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_857"/>)|group="注"}}。このとき、尊は白鳥の姿となって御陵から飛び出し、[[大和国]][[琴弾原]]、[[河内国]][[志紀郡]][[古市里]]に転々と降り立った後、そのまま天に昇っていった{{#tag:ref|「時日本武尊化<sup>㆓</sup>白鳥<sup>㆒</sup>。從<sup>㆓</sup>陵墓<sup>㆒</sup>出。指<sup>㆓</sup>大和國<sup>㆒</sup>而飛去。群臣等開<sup>㆓</sup>其棺槨<sup>㆒</sup>而視之。明衣空留。不<sup>㆑</sup>見<sup>㆓</sup>骸骨<sup>㆒</sup>。於<sup>㆑</sup>是馳使追尋。白鳥集<sup>㆓</sup>於大和國琴驒原<sup>㆒</sup>。仍於<sup>㆓</sup>其處<sup>㆒</sup>造陵。白鳥更飛至<sup>㆓</sup>河内國志紀郡<sup>㆒</sup>。留<sup>㆓</sup>舊市邑<sup>㆒</sup>。亦其處造<sup>㆑</sup>陵。故時人號<sup>㆓</sup>是三陵<sup>㆒</sup>曰<sup>㆓</sup>白鳥陵<sup>㆒</sup>。然遂騫翥昇<sup>㆑</sup>天。徒葬<sup>㆓</sup>衣冠<sup>㆒</sup>而已。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_857"/>)|group="注"}}。
<br/>宮酢媛は、尊との約束を違えず、独りで床を守り、草薙神剣を奉っていた{{#tag:ref|「宮酢媛不<sup>㆑</sup>違<sup>㆓</sup>平日之約<sup>㆒</sup>。獨守<sup>㆓</sup>御床<sup>㆒</sup>安<sup>㆓</sup>置神劔<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_858">『群書類従 第一集』:858ページ</ref>)|group="注"}}。やがて老いたとき、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮った{{#tag:ref|「宮酢媛會<sup>㆓</sup>集親舊<sup>㆒</sup>。相議曰。我身衰耄。昏曉難<sup>㆑</sup>期。事須<sup>㆘</sup>未<sup>㆑</sup>瞑之前。占<sup>㆑</sup>社奉<sup>㆖</sup><sup>㆑</sup>遷<sup>㆓</sup>神劔<sup>㆒</sup>。衆<sup>㆓</sup>議感之。定<sup>㆓</sup>其社地<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_858"/>)|group="注"}}。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。ここを熱田と号して、社地に定めたという{{#tag:ref|「有楓樹一株。自然炎燒。倒<sup>㆓</sup>水田中<sup>㆒</sup>。光㷔不<sup>㆑</sup>銷。水田尚熱。仍號<sup>㆓</sup>熱田社<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_858"/>)|group="注"}}。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになる{{#tag:ref|「宮酢媛下世之後。建<sup>㆑</sup>祠崇-<sup>㆓</sup>祭之<sup>㆒</sup>。號<sup>㆓</sup>氷上姊子天神<sup>㆒</sup>。」(『尾張国熱田太神宮縁記』<ref name="群書類従1_859">『群書類従 第一集』:859ページ</ref>)|group="注"}}。
『尾張国熱田太神宮縁記』による熱田神宮および氷上姉子神社創建までの顛末は上記のようである。本書は『日本書紀』を主として『古事記』や『尾張国風土記』を含む多くの資料を引用しているとみられており、本書自体に独自性は乏しいといわれる<ref name="寛平縁記61">『増強改訂 尾張国熱田太神宮縁記(熱田神宮文化叢書第一)』:61ページ</ref>。他方、原典の記述に対して曲解がほとんどみられず忠実な引用がなされているともいわれ、成立は鎌倉時代であっても、内容そのものは平安時代もしくはそれ以前のものとしての資料的価値を有するとされる<ref name="寛平縁記59">『増強改訂 尾張国熱田太神宮縁記(熱田神宮文化叢書第一)』:59ページ</ref>。そして何より、建稲種命に氷上邑の館へ案内されたこと、ここで宮酢媛と出会い共に日々を過ごしたこと、東征の帰途に再び氷上邑に立ち寄ったことなどは本書独特の記述であり、とりわけ草薙神剣を預かった宮酢媛が占卜によって熱田を創祀の地に選んだとする記述は、'''天照大神の神器が天皇家・伊勢神宮を経て熱田にもたらされた'''ことを示し、熱田神宮がその尊貴な正統性を誇示する重要なポイントとなっている。
<br/>ただし[[尾崎久彌]]が指摘するように、『尾張国熱田太神宮縁記』では社地に選んだ地(熱田)がなぜ熱田と呼ばれるようになったのかという説明がなされるだけで、社地を定めたはよいものの社祠がいつ創建され草薙神剣がいつそちらに遷座されたか、あるいは社祠の創建や遷座そのものがなされたかどうかが記されていない<ref name="史料考36">『熱田神宮史料考』:36ページ</ref>。また、尊亡きあと媛が草薙神剣を守り奉じていたところ、すなわち遷座元も、じつは曖昧な記述になっている(熱田であったとも氷上邑であったとも記されていない)<ref name="史料考36"/>。こうした『尾張国熱田太神宮縁記』の不明瞭さを補うのが後年に登場する各種縁起や史書となる。
[[File:The Condensed Lifetime Chronologies of Yamato Takeru and Miyazuhime.png|thumb|150px|right|『尾張志』に基づく日本武尊と宮簀媛命の生涯略年表(草薙神剣の創祀年を景行天皇43年、熱田社の創建を仲哀天皇元年とみた場合)]]
熱田神宮は創祀1,900年目に当たるとされた2013年(平成25年)に「創祀千九百年大祭」を執行しているが<ref>[http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/shinto/announce/2013/05/08143014.html 今月の祭典・行事 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮](熱田神宮公式サイト、2018年(平成30年)11月5日閲覧)</ref>、これは創祀年を'''景行天皇43年'''(西暦に換算すると113年にあたるという)とした中世の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』などの説{{#tag:ref|「四十三年、<small>一云四十九年未己</small>、至経営大宮、」(『熱田大神宮御鎮座次第本紀』<ref name="神宮史料縁起由緒135">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:135ページ</ref>)|group="注"}}に基づいたものである。ところがこの創祀年についても近代よりまちまちにいわれ、景行天皇43年とする説のほかに、同41年、同49年などとする説も生まれた。
<br/>景行天皇41年は『熱田宮旧記』(1699年(元禄12年))などにみえ{{#tag:ref|「人皇一十二代景行天皇四十一<small>辛亥</small>年、始鎮坐、」(『熱田宮旧記』<ref name="神宮史料縁起由緒181">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:181ページ</ref>)|group="注"}}、その根拠は『日本書紀』が景行天皇27年に日本武尊の年齢を16歳と記し、40年から43年の間に30歳で没したと記しているためで、明治時代に至っても[[角田忠行]]が採用していた説である。日本武尊の御陵ともいわれた白鳥御陵([[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]])において毎年4月8日に行われていた祭典は日本武尊が景行天皇41年4月8日に没したとする伝承に基づくものであった{{#tag:ref|「崩日ハ四十一年四月八日なりとて、今にその日御陵の祭典を行ふ也、」(『熱田神宮略記』<ref name="神宮史料縁起由緒344">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:344ページ</ref>)|group="注"}}。景行天皇49年は上記の『熱田大神宮御鎮座次第本紀』が一説として紹介している年で、江戸時代には[[天野信景]]らが支持した説である{{#tag:ref|「(景行天皇)御宇四十九年己未、<small>一説ニ四十一年ト云ハ非ナリ、</small>以<sub>㆓</sub>草薙剣<sub>㆒</sub>、蔵<sub>㆓</sub>尾張国愛智郡熱田郷<sub>㆒</sub>而、即為<sub>㆓</sub>神璽<sub>㆒</sub>也、」(『熱田本社末社神体尊命記集説』<ref name="神宮史料縁起由緒続一15">『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』:15ページ</ref>)|group="注"}}。尾張にあった神剣が一度は伊勢に戻され、詔勅により改めて尾張に届けられたという時間的ロスに伴う年代の繰り下げである{{#tag:ref|「此宝剣ハ、武尊東征ニ因テ、倭姫命是ヲ授ケ、速ニ朝敵ヲ伐シメントノ意也、然ルニ今東夷既ニ王化ニ伏シヌレハ、宝剣ヲ天照大神ニ返シ給フ事、実ニ利ノ当然也、(中略)然レハ即、一度ハ伊勢ニ返シ給フ説ヲ取ヘキ矣、後ニ熱田<small>ノ</small>神祠<small><RUBY><RB>ハ</RB><RT>(ママ)</RT></RUBY></small>奉納ハ、疑ラクハ、是勅命ニシテ、当時尾張国造等ノ所<sub>㆑</sub>謂ナラン、猶後賢ノ補ヲ俟<RUBY><RB>爾已</RB><RT>(ママ)</RT></RUBY>、」(『熱田本社末社神体尊命記集説』<ref name="神宮史料縁起由緒続一15-16">『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』:15-16ページ</ref>)|group="注"}}。
ところで、'''草薙神剣の創祀と熱田神宮の創建とは年代が異なる'''ことについて角田忠行が注意を喚起している点は興味深い{{#tag:ref|「神宮御造営は同天皇(仲哀天皇)の元年頃なるへし、…(中略)…今の神宮の御鎮座を景行天皇四十一年なる由書等に記せるは、事実を考へず甚あらき記ざまにて誤なり、」(『熱田神宮略記』<ref name="神宮史料縁起由緒344">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:344ページ</ref>)|group="注"}}。景行天皇43年(もしくは41年、49年)は草薙神剣が宮簀媛によって創祀された初年を指すのであって、熱田神宮の創建はずっと時代が下った仲哀天皇元年であるとも646年(大化2年)であるともいわれる。
<br/>『[[尾張志]]』は、『尾張国氷上宮開始正伝本起』にある宮簀媛命の死去年を仲哀天皇4年とする記述に着目し{{#tag:ref|「<RUBY><RB>竟</RB><RT>ツイニ</RT></RUBY><RUBY><RB>'''足仲彦'''</RB><RT>タラシナカツヒコノ</RT></RUBY><RUBY><RB>'''天皇'''</RB><RT>スベラギ</RT></RUBY><RUBY><RB>'''四年'''</RB><RT>ヨトセ</RT></RUBY><RUBY><RB>霊運</RB><RT>アツジレ</RT></RUBY><RUBY><RB>当遷</RB><RT>タマフ</RT></RUBY>矣、<RUBY><RB>乃</RB><RT>スナハチ</RT></RUBY>永<small>ク</small><RUBY><RB>隠</RB><RT>カク</RT></RUBY><small>レマシキ</small><sub>㆓</sub><RUBY><RB>霊根嶋</RB><RT>タマ子ジマ</RT></RUBY><small>ニ</small><sub>㆒</sub>、」(『尾張国氷上宮開始正伝本起』<ref name="神宮史料縁起由緒405">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:405ページ</ref>)|group="注"}}、天皇の在位期間や宮簀媛命の年齢などをさまざまに勘案した上で、草薙神剣が尾張国にもたらされた(草薙神剣が日本武尊から宮簀媛命に預けられた)のが景行天皇40年(媛の年齢は15歳ほど)、草薙御剣の創祀を景行天皇43年(媛の年齢は18歳ほど)、老媛が草薙神剣の遷座地を熱田に占定したのを成務天皇年間末から仲哀天皇元年(媛の年齢は92歳ほど)であると見なした{{#tag:ref|「彼比賣命の倭建命にはしめて御合給へる年をかりに十五<RUBY><RB>許</RB><RT>バカリ</RT></RUBY>と定めて數ふるに仲哀天皇四年に至りて九十六許なり」(『尾張志』<ref name="尾張志熱田11">『尾張志熱田』:11ページ</ref>)|group="注"}}。老媛はこの4年後に96歳ほどで死去することになる<ref name="尾張志熱田11"/>。角田もまた、日本武尊の死去からおよそ80年間、草薙神剣は尾張国造の神床において宮簀媛命に奉斎されてきたことを指摘する{{#tag:ref|「神剣ハ是ヨリ凡八十年余リ国造邸ナル神床ニ坐リ、」(『熱田神宮記』<ref name="神宮史料縁起由緒355">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:355ページ</ref>)|group="注"}}。
<br/>かたや、『朱鳥官符』(平安時代末期頃か)は646年(大化2年)5月1日に熱田大明神の[[託宣]]によって草薙神剣が愛知郡衛崎松姖嶋機綾村(えさきまつこのしまはたやのむら)に遷されたと記す{{#tag:ref|「右朱鳥元年三月廿一日<small>ノ</small><RUBY><RB>宣旨</RB><RT>センジ</RT></RUBY>以<small>㆓</small>同<small>ク</small>廿八日<small>ノ</small><sub>㆒</sub>到来<small>シテ</small><RUBY><RB>偁</RB><RT>イハク</RT></RUBY>、以<small>テ</small><sub>㆓</sub>去<small>ル</small>白鳳廿一年十二月一日<small>ヲ</small><sub>㆒</sub>、被<sub>㆑</sub>称<small>セ</small><sub>㆓</sub>熱田大明神<sub>㆒</sub>之由<small>ヲ</small>、御神被<sub>㆑</sub>入-<sub>㆓</sub>座王城<small>ニ</small><sub>㆒</sub><RUBY><RB>御詫宣</RB><RT>コタクセン</RT></RUBY><small>ニ</small><RUBY><RB>偁</RB><RT>イハク</RT></RUBY>、我<RUBY><RB>已</RB><RT>スデ</RT></RUBY><small>ニ</small><RUBY><RB>彼</RB><RT>カノ</RT></RUBY>国愛智郡<RUBY><RB>衛崎</RB><RT>ヱサキ</RT></RUBY><RUBY><RB>松姖嶋</RB><RT>マツコノシマ</RT></RUBY><RUBY><RB>機綾</RB><RT>ハタヤノ</RT></RUBY>村<small>ニ</small>以<small>テ</small><sub>㆓</sub>去<small>ル</small><RUBY><RB>大化</RB><RT>タイクハ</RT></RUBY>二年<small><RUBY><RB>丁未</RB><RT>(マヽ)</RT></RUBY></small>歳五月一日<small>ヲ</small><sub>㆒</sub>、天下<small>リ</small><RUBY><RB>座著</RB><RT>マシマス</RT></RUBY>神<small>ナリ</small>也、」(『朱鳥官符』<ref name="神宮史料縁起由緒13">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:13ページ</ref>)|group="注"}}。『熱田正縁記』はこれを補強し、景行天皇41年に草薙御剣が氷上邑にもたらされ、やがて老いた宮簀媛によって松姖嶋に社が立てられ草薙神剣が収められ、646年(大化2年)に尾張忠命という人物によって愛知郡会崎機綾村(えさきはたやのむら)に遷座されたという{{#tag:ref|「熱田正縁記云、景行天皇四十一年、草薙劔氷上村に留る、其後宮簀媛、老後松姖島に社を建て納む。孝徳天皇大化二年尾張忠<RUBY><RB>命</RB><RT>ナガ</RT></RUBY>等、託宣に依て愛知郡<RUBY><RB>會崎</RB><RT>ヱサキ</RT></RUBY>棧綾村に遷座なさしむ、則今の大宮是なり。熱田本記亦同し、右木下宇左衛門説。」(『厚覧草』<ref name="厚覧草1">『厚覧草』:1ページ</ref>)|group="注"}}。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2017年8月7日 (月) 07:49 (UTC)|section=1}}
=== 概史 ===
[[宮司|大宮司]]職は代々尾張国造の子孫である[[尾張氏]]が務めていたが、[[平安時代]]後期に尾張員職の[[外孫]]で[[藤原南家]]の[[藤原季範]]にその職が譲られた。以降は子孫の[[藤原南家]][[藤原氏]]・{{Ruby|[[:Category:千秋家|千秋]]|せんしゅう}}家が大宮司、尾張氏は権宮司を務め続けている。なお、この季範の娘は[[源頼朝]]の母([[由良御前]])である。また、季範の養女(実孫)は[[足利義康]]([[足利氏]]の祖)に嫁いでおり、足利氏にもその血脈を伝えている。さらに季範の妹は[[二階堂行政]]の母であり、[[二階堂氏]]との関係も深い。
『[[海道記]]』には「熱田の宮の御前を過ぐれば」とあるほか、『[[東関紀行|東關紀行]]』に「尾張の國熱田の宮に到りぬ」とある。また同書には、
{{Quotation|
或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。
|國民圖書株式會社|東關紀行(校註日本文學大系 3)}}
と記載されている。
[[瑞渓周鳳]]の『臥雲日件録』[[1465年]]([[寛正]]6年)6月18日条に「'''日本所謂三大宮司'''、盖厳島・熱田・富士之三所也」とあり、熱田大宮司は[[厳島神主家]]・[[富士氏]]と共に日本三大宮司に数えられている<ref>{{Cite book|和書|author=[[東京大学史料編纂所]]|title=大日本古記録 臥雲日件録抜尤|date=1961|publisher=岩波書店|isbn=|pages=161}}</ref>。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、千秋家は武将として織田家に仕え、[[千秋季光]]が[[織田信秀]]に、季光の子[[千秋季忠|季忠]]は[[織田信長]]に仕えている。信長は[[桶狭間の戦い]]の前に熱田神宮に戦勝を祈願して見事に勝利を収めたが、季忠は前哨戦で討死、信長は大宮司職と遺領を、まだ胎内にいた季忠の子[[千秋季信|季信]]に相続させた。
[[江戸時代]]は当社周辺に[[東海道五十三次]]の43番目「[[宮宿]]」が設けられ、当地から[[桑名宿]]への[[七里の渡し]]が運行されていた。また『[[東海道名所図会]]』に「熱田大神宮」と記載されている。
[[慶応]]4年([[1868年]])6月、[[神宮]]号を宣下されて熱田神社から熱田神宮に改められた。[[1871年]][[7月1日]](明治4年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]])の[[近代社格制度]]の制定により、熱田神宮は[[官幣大社]]に列格した。熱田神宮には「三種の神器の一つを祀っているから、[[伊勢神宮]]と同格であるべきだ」という主張があり、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願したものの、この請願は却下されている。次いで大宮司となった角田忠行も同様の請願を続け、[[1889年]](明治22年)までに伊勢神宮に準じた神璽勅封・権宮司設置などが認められた。
それまで熱田神宮は尾張造という尾張地方特有の建築様式で建てられていたが、1889年(明治22年)、伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営が計画された。また、熱田神宮の国への働きかけにより、[[1890年]](明治23年)9月、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の[[勅令]]案が閣議に提出された(案の段階では熱田神宮を「尾張神宮」に改称する事項も含まれていたが、これは外された)。しかし、この勅令案は否決され、熱田神宮の社格の件は従前の通りとすることとなった。その背景には伊勢神宮の反対があったという。神明造による社殿の造営は進められ、[[1893年]](明治26年)に竣工した。しかし、この社殿は他の建物共々[[太平洋戦争]]中の[[1945年]]([[昭和]]20年)6月9日に行われた[[熱田空襲]]により焼失した。
また、終戦直前、神体である草薙剣を守るために[[飛騨一宮水無神社]]への一時的な遷座が計画されたが、同年[[8月15日]]の終戦により一時中止された。しかし、今度は上陸した[[アメリカ軍]]に神体が奪われるおそれがあるとして、同年[[8月21日]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。同年[[9月19日]]に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、神職が鉄道で移動した。
[[1948年]](昭和23年)に[[神社本庁]]の[[別表神社]]に加列されている。
社殿は伊勢神宮の[[神宮式年遷宮|式年遷宮]]の際の古用材を譲り受け、[[1955年]](昭和30年)10月に再建された。新しい建物のため、指定文化財ではない。
=== 神階 ===
;熱田社(本宮)
*822年(弘仁13年)6月21日 - '''従四位下'''[熱田神](『[[日本紀略]]』)
{{Quotation|○庚辰。尾張國熱田神奉<sub>㆑</sub>授<sub>㆓</sub>従四位下<sub>㆒</sub>。|『日本紀略』(前篇十四嵯峨天皇)<ref name="国史大系5_438">『国史大系 第五巻』:438ページ</ref>}}
*833年(天長10年)6月27日 - '''従三位'''から'''正三位'''[熱田大神](『[[続日本後紀]]』)
{{Quotation|○壬午。詔奉<sub>㆑</sub>授<sub>下</sub>坐<sub>㆓</sub>尾張國<sub>㆒</sub>従三位熱田大神正三位<sub>上</sub>。|『続日本後紀』(巻二)<ref name="国史大系3_181">『国史大系 第三巻』:181ページ</ref>}}
*859年(貞観元年)正月27日 - 正三位から'''従二位'''[熱田神](『[[日本三代実録]]』)
{{Quotation|○廿七日甲申。奉<sub>㆑</sub>授<sub>㆓</sub>尾張國正三位熱田神従二位<sub>㆒</sub>。|『日本三代実録』(巻二)<ref name="国史大系4_21">『国史大系 第四巻』:21ページ</ref>}}
*859年(貞観元年)2月17日 - 従二位から'''正二位'''[熱田神](『日本三代実録』)
{{Quotation|○十七日癸卯。授<sub>㆓</sub>尾張國従二位熱田神正二位<sub>㆒</sub>。|『日本三代実録』(巻二)<ref name="国史大系4_24">『国史大系 第四巻』:24ページ</ref>}}
*966年(康保3年)3月22日 - '''正一位'''[熱田大明神](『日本紀略』)
{{Quotation|○廿二日丁亥。尾張國言上。'''正一位熱田大明神'''自<sub>㆓</sub>今月一日三箇日<sub>㆒</sub>。(後略)|『日本紀略』(後篇四村上天皇)<ref name="国史大系5_909">『国史大系 第五巻』:909ページ</ref>}}
{{colbegin|2}}
;八剣宮
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正一位'''[八劔名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808">『神社覈録 上編』:808ページ</ref>)
;日割御子神社
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[日割名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;孫若御子神社
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''従三位'''[孫若御子天神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;御田神社
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''従三位'''[三田天神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上809">『神社覈録 上編』:809ページ</ref>)
*元亀年間(1570年 -1573年) - '''正四位'''[三田天神](『尾張国内神名帳』元亀本<ref name="尾張志熱田10">『尾張志熱田』:10ページ</ref>)
;下知我麻神社
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[千竈下名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;上知我麻神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[知我麻上天神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田16">『尾張志熱田』:16ページ</ref>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[千竈上名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
*元亀年間(1570年 -1573年) - '''正二位'''[千竈上名神](『尾張国内神名帳』元亀本<ref name="尾張志熱田10"/>)
;乙子社
*平安時代末期 - '''正二位'''[乙子名神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田10"/>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[乙子名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;姉子神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[氷上明神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田12">『尾張志熱田』:12ページ</ref>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[氷上名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
*元亀年間(1570年 -1573年) - '''正二位'''[殊上名神](『尾張国内神名帳』元亀本<ref name="尾張志熱田10"/>)
;今彦神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[今孫明神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田12"/>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[今彦名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;水向神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[水向天神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田12"/>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[水向天神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;素盞嗚神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[素盞烏明神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田12"/>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''従一位'''[素戔雄名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;日長神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[日長明神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田12"/>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[日長天神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;高座結御子神社
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[高藏名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
;氷上姉子神社
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''従三位'''[氷上姉子天神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="大高町誌90">『大高町誌』:90ページ</ref>)
*元亀年間(1570年 -1573年) - '''正四位下'''[氷上姉子天神](『尾張国内神名帳』元亀本<ref name="大高町誌90"/>)
*江戸時代前期 - '''正二位'''[氷上大明神](『熱田宮由緒書』<ref name="神宮史料縁起由緒165">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:165ページ</ref>)
;青衾神社
*平安時代末期 - '''従二位'''[青衾明神](『尾張国内神名帳』古本<ref name="尾張志熱田12"/>)
*1364年(貞治3年・正平19年) - '''正二位'''[青衾名神](『尾張国内神名帳』貞治本<ref name="神社覈録上808"/>)
{{colend}}
=== 年表 ===
<>は関連事項。
*(伝)孝安天皇年間 - 日割御子神社が創立される<ref name="神宮20">『熱田神宮』:20ページ</ref>。
*(伝)景行天皇年間以前 - 孫若御子神社が創建される(『熱田大神宮尊名祭神記』<ref name="神宮史料縁起由緒320">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:320ページ</ref>)。
*(伝)景行天皇43年 - [[ヤマトタケル|日本武尊]]が能褒野で薨去。草薙神剣が創祀される。
*(伝)景行天皇年間 - 一之御前神社が創祀される(『熱田大神宮御鎮座次第神体本記』<ref name="神宮史料縁起由緒139">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:139ページ</ref>)。
*(伝)仲哀天皇4年 - 宮簀媛命が死去し、元宮の地に神祠(氷上姉子神社)が創建される(『尾張国氷上宮開始正伝本起』<ref name="神宮史料縁起由緒405">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:405ページ</ref>)。
*[[668年]]([[天智天皇]]7年) - 草薙剣が[[新羅]]の僧道行により盗難(『日本書紀』)([[草薙剣盗難事件]])。
*天武天皇年間 - 御田神社が創建される(『熱田大神宮尊名祭神記』<ref name="神宮史料縁起由緒320"/>)。
**同年間 - 下知我麻神社が創建される(『熱田大神宮尊名祭神記』<ref name="神宮史料縁起由緒329">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:329ページ</ref>)。
**同年間 - 上知我麻神社が創建される(『熱田大神宮尊名祭神記』<ref name="神宮史料縁起由緒325">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:325ページ</ref>)。
**同年間 - 龍神社が創建される(『熱田大神宮尊名祭神記』<ref name="神宮史料縁起由緒318">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:318ページ</ref>)。
**同年間 - 青衾神社が創建される(『熱田大神宮尊名祭神記』<ref name="神宮史料縁起由緒316">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:316ページ</ref>)。
*[[686年]]([[朱鳥]]元年) - 草薙剣が熱田神宮へ返還(『日本書紀』)。
*686年(朱鳥元年) - 尾張稲置見が大宮司を称する(『熱田大宮司千秋家譜』<ref name="千秋家文書下312">『熱田神宮文書 千秋家文書 下巻』:312ページ</ref>)。
*[[708年]]([[和銅]]元年)9月9日 - 八剣宮が創建される(『熱田太神宮神体伝記』<ref name="神宮史料縁起由緒157">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:157ページ</ref>)。
**686年(朱鳥元年)の創建とする説もある(『熱田太神宮正縁記』<ref name="神宮史料縁起由緒131">『熱田神宮史料 縁起由緒編』:131ページ</ref>)。
*[[712年]](和銅5年)1月28日 - <『[[古事記]]』完成>
*[[720年]]([[養老]]4年) - <『[[日本書紀]]』完成>
*9世紀中頃 - 神宮寺が建立される<ref name="新名古屋市史2_335">『新修名古屋市史 第2巻』:335ページ</ref>。
*[[907年]]([[延喜]]7年) - [[延喜式]][[名神大社]]に加列。
*[[927年]]([[延長 (元号)|延長]]5年)12月26日 - <『[[延喜式]]』完成>
*[[967年]]([[康保]]4年)7月9日 - <『延喜式』施行>
*1000年(長保2年) - 南新宮社が創建される(『熱田大神宮神体伝聞書』<ref name="神宮史料縁起由緒続一179">『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』:179ページ</ref>)。
**1023年([[治安 (元号)|治安]]3年)の創建とする説もある。
*1093年(寛治7年) - 「諸卿尾張の国火上の社臥木起き立つ事を定め申す」(『百錬抄』<ref name="国史大系14_56">『国史大系 第拾四巻』:56ページ</ref>)。
**氷上姉子神社で倒木が起き立ったという怪異が出来し、朝廷にて対策会議が行われたことを示している<ref name="緑区の歴史290">『名古屋区史シリーズ⑥ 緑区の歴史』:290ページ</ref>。
*1160年(平治2年)正月 - 平治の乱で敗走する[[源義朝]]が氷上姉子神社に立ち寄り、源氏の繁栄を祈願し太刀一刀を献じる(『張州府志』<ref name="張州府志一88">『張州府志一』:88ページ</ref>)。
*[[1190年]]([[建久]]元年) - [[源頼朝]]が御剣を奉納(上洛途上社参奉幣)。
*[[1194年]](建久5年)・[[1195年]](建久6年) - 源頼朝が2回に分けて御剣を奉納。それぞれ使[[大江広元]]進献・上京帰路奉幣。
*[[1335年]]([[建武 (日本)|建武]]2年) - [[足利尊氏]]が剣を奉納(上洛途上参詣)。
*[[1377年]]([[永和 (日本)|永和]]3年) - 『[[日本書紀]]』(熱田本)を奉納。
*[[1382年]]([[永徳]]3年) - 火上姉子神社で火災。これにより、地名が火高(ほだか)火上から大高氷上へと改名。
*1419年7月9日(応永26年6月17日) - 渡殿の遷宮に際し、[[足利義持]]が剣、鏡、法華経などを奉納する(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上60">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:60ページ</ref>)。
*1423年2月6日(応永29年12月25日) - 1415年(応永22年)に焼失した大福田社の造営・遷宮に際し、足利義持が神馬を奉納する(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上61-62">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:61-62ページ</ref>)。
*1445年1月5日(文安元年11月27日) - 源太夫社正殿の棟上げに際し、足利将軍家が剣、馬を奉納する(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上66">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:66ページ</ref>)。
*1451年7月9日(宝徳3年6月11日) - 大宮渡用殿の造営に際し、足利将軍家が剣、馬を奉納する(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上67">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:67ページ</ref>)。
*[[1560年]]([[永禄]]3年) - [[織田信長]]が[[築地塀]]を奉納(信長塀)。
*[[1571年]]([[元亀]]2年) - 織田信長が社殿を修造し、海蔵門(海上門)を新造する<ref name="atsutarekishi">[https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000054494.html 名古屋市の維持向上すべき歴史的風致2]</ref>。
*1572年3月31日(元亀3年2月18日) - [[佐久間信盛]]、渡用殿を再興する(『御造営年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上78">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:78ページ</ref>)。
*1590年6月2日(天正18年5月1日) - [[大政所]]が参拝し、初穂料として123貫文を奉納する(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上71">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:71ページ</ref>)。
*1591年(天正19年) - [[豊臣秀吉]]が社殿を修理する<ref name="atsutarekishi"/>。
*1593年(文禄2年) - 豊臣秀吉が大施主となり、正殿の上葺が修復される(『御造営年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上78"/>)。
*1598年7月22日(慶長3年6月19日) - 天王 豊臣秀吉(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上71"/>)。
*1599年(慶長4年8月吉日) - [[浅野長政]]、八剣宮本殿を再興する(『御造営年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上78-79">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:78-79ページ</ref>)。
*1600年(慶長5年) - [[徳川家康]]が社殿を修理し、[[加藤清正]]が鎮皇門を造営する<ref name="atsutarekishi"/>。
*1601年(慶長6年6月吉日) - 八剣宮上葺 浅野長政(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上72">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:72ページ</ref>)。
*1603年(慶長8年7月) - 徳川家康、八剣宮を再興する(『御造営年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上79">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:79ページ</ref>)。
*1606年(慶長11年9月吉日) - [[豊臣秀頼]]、[[片桐且元]]に命じて神宮寺宝塔9輪を再興させる(『御造営年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上79"/>)。
*1613年8月27日(慶長18年7月12日) - [[徳川秀忠]](『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上72"/>)。
*1618年(元和4年3月吉日) - [[蜂須賀家政]]、高座結御子神社を造営する(『御造営年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上79"/>)。
*1619年6月12日(元和5年5月1日) - [[徳川義直]]、本社築地を修造(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上73">『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』:73ページ</ref>)。
*1623年1月29日(元和8年12月29日) - 徳川義直、海蔵門、三蔵、楽所、透垣、春敲門、御供所を修理(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上73"/>)。
*1629年12月21日(寛永6年11月7日) - [[徳川家光]]、初穂料として米100石を奉納する(『熱田宮年代記』<ref name="神宮史料造営遷宮上73"/>)。
*[[1839年]]([[天保]]10年)1月19日 - 八剣宮の御神体を妖僧が盗み出すも未遂。
*[[1868年]]([[明治]]元年)
** 3月:<[[神仏分離令]]>
** 6月:神宮号を宣下。
*[[1871年]](明治4年)[[5月14日 (旧暦)|5月14日]] - [[近代社格制度]]制定に伴い、官幣大社に列格。
*[[1893年]](明治26年) - [[尾張造]]から神明造に改築。
*[[1914年]](大正3年)4月7日:「日本武尊千八百年祭」を催行。
*1933年(昭和8年)8月 - 昭和大礼に際して宮内庁から熱田神宮に下賜された[[名古屋城#本丸御殿|名古屋離宮]]仮賢所の建物が氷上姉子神社に移築され、拝殿となる<ref name="大高町誌92">『大高町誌』:92ページ</ref>。
*[[1945年]]([[昭和]]20年)
**この年は数次の空襲による被害を受けている。
**5月17日 - 各種社殿・織田信長が造営した[[国宝]]海上門<ref>[http://network2010.org/article/117 Network2010(大正時代の名古屋・熱田神宮 信長塀と海上門)]</ref>を焼失。
**6月9日 - [[熱田空襲]]により被害。
**7月29日 - 加藤清正が造営した国宝鎭皇門<ref>[http://network2010.org/article/593 Network2010(昭和初期の名古屋・熱田神宮鎮皇門)]</ref>を焼失。
**8月21日 - 御神体を[[飛騨一宮水無神社]]に遷座。
**9月19日 - 御神体を熱田神宮に遷座。
**12月15日 - <[[神道指令]]>
*1946年(昭和21年)1月4日 - 上知我麻神社の本殿が再建され、還座祭が執行される<ref name="昭和造営誌539">『熱田神宮昭和造営誌』:539ページ</ref>。
*1947年(昭和22年)3月2日 - 高座結御子神社の本殿が再建され、還座祭が執行される<ref name="昭和造営誌539"/>。
*[[1955年]](昭和30年)10月 - 再建。
*[[1963年]](昭和38年) - 高座結御子神社を再建。
*1970年(昭和45年)6月28日 - 琴瀬山神社の鎮座祭が執行される<ref name="神宮32">『熱田神宮』:32ページ</ref>。
*[[2007年]]([[平成]]19年)10月22日 - 本殿の改修に伴い、神体を仮殿に移す「仮殿遷座祭」を行う。
*[[2009年]](平成21年)10月10日 - 神体を本殿に移す「本殿遷座祭」を行う。
*[[2013年]](平成25年)5月8日 - 「創祀千九百年大祭」が行われる。
*[[2021年]](令和4年)- 天皇即位を記念した奉祝事業の一環として、7月にくさなぎ広場(リニューアル)、10月に[[剣の宝庫 草薙館]](新設)が整備される。
=== 近年の皇族の参拝 ===
* [[1868年]](明治元年)9月27日:[[明治天皇]]
* [[1878年]](明治11年):明治天皇
* [[1906年]](明治39年):皇太子嘉仁親王(当時、後の[[大正天皇]])
* [[1916年]](大正5年):大正天皇
* [[1946年]](昭和21年):[[昭和天皇]]
* [[1991年]](平成3年):[[上皇明仁|明仁天皇]]・[[上皇后美智子|美智子皇后]](いずれも当時)
* [[2005年]](平成17年)7月12日:明仁天皇・美智子皇后(いずれも当時、[[2005年日本国際博覧会]]行幸啓の折)
* [[2016年]](平成28年)8月8日 : 皇太子徳仁親王(当時、[[今上天皇]])
== 境内 ==
=== 垣内 ===
{{right|
<gallery widths="140px" heights="140px">
The placement of main shrine buildings in Atsuta Jingu Shrine, 2015.png|垣内の建造物配置図
Atsuta-jinguu shaden.JPG|翼廊空隙より中重及び中重鳥居、瑞垣御門、本殿屋根を望む<BR/>(2013年(平成25年)7月)
尾張名所図会. 前編 巻3 愛智郡 熱田大宮全図 其二.jpg|[[尾張造]]であった頃の熱田神宮(『[[尾張名所図会]]. 前編 巻3 愛智郡』より「熱田大宮全図 其二」)
</gallery>
}}
* 本殿 - 本宮の中心である本殿は、[[1893年]]([[明治]]26年)に造営された社殿を元とし、現在までに数度にわたり改修を受けたものである。建築面積は60.7平方メートル、建築様式は神明造で屋根には銅板を葺き、[[千木・鰹木|千木・勝男木]]を冠する。四方に廻椽と勾欄がめぐらされ、南正面に木階段が敷かれている。掘立柱が沓石で据えられている。
* 東宝殿
* 西宝殿
* 幄舎
* 瑞垣北御門
* 瑞垣御門
* 守衛舎
* 東掖御門
* 西掖御門
* 内玉垣御門
* 翼廊
* 拝殿
** 四尋殿
** 外玉垣御門
=== その他 ===
* 土用殿
* 授与所
* 神楽殿
* 斎館・勅使館
* 宮庁(社務所)
* 熱田神宮会館(結婚式場)
* 祈祷殿(車祓い)
* 宝蔵
* 神輿庫
* 西楽所
* 信長塀 - [[永禄]]3年([[1560年]])[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]、[[織田信長]]とその手勢が[[桶狭間の戦い]]に赴く際に立ち寄り、戦勝祈願を行った。合戦後、信長が勝利した御礼として築いたとされる塀の一部が現存し、「日本三大土塀」の一つとされる。
* 大[[クスノキ|楠]]
* 千秋閣 - [[1950年]]([[昭和]]25年)6月25日に竣工した数寄屋造りの茶席。[[1989年]]([[平成]]元年)7月に改築。
* 客殿
* 又兵衛(国[[登録有形文化財]]) - 旧坂上家住宅。[[江戸時代]]中期築で[[飛騨]]地方から移築、[[1936年]](昭和11年)に[[昭和区]]へ移築、[[1957年]](昭和32年)に神野金之助氏より寄進され、現在地に再移築。
* 茶室「清雪庵」 - 錦糸商・伊東信一氏の邸内にあった茶席。[[1948年]](昭和23年)6月に現在地に移された。
* 茶室「六友軒」 - 美術商の集まりである六友会が建築し、[[益田孝|益田鈍翁]]が命名した。[[1947年]](昭和22年)に熱田神宮献茶会の設立を機に六友会より献納され、現在地に移された。
* 茶室「蓬庵」 - 高橋彦二郎氏が献納した数寄屋造りの茶席。[[1966年]](昭和41年)10月1日竣工。
* 茶室「蓬乾亭」 - 元はお茶所。蓬乾の名はこの茶席を改築した高橋彦二郎氏の俳名・蓬庵の「蓬」と乾豊彦氏の「乾」に由来する。[[1977年]](昭和52年)修復。
* [[龍影閣]](国登録有形文化財) - 旧名古屋博物館品評所。[[1878年]](明治11年)築、[[1932年]](昭和7年)に庄内公園へ移築、[[1968年]](昭和43年)に現在地に移築。
* みなも神殿
* 庭園「勾玉苑」 - 曲玉池がある池泉[[回遊式庭園]]。
* [[熱田神宮宝物館|宝物館]](文化殿) - [[国宝]]や[[重要文化財]]を始め、[[皇室]]や[[徳川将軍家]]及び[[尾張徳川家]]などから寄進された品々約6,000点を所蔵。
* 宝物館別館
* 佐久間燈籠 - 御器所城主[[佐久間盛次]]の四男[[佐久間勝之|勝之]]が海上で台風に遭った際、熱田神宮に守護を祈ったところ難を逃れたので、[[寛永]]7年([[1630年]])にお礼として寄進した。日本三大灯籠として知られる<ref>現地案内板より</ref>。
* 二十五丁橋
* 南神池
* くさなぎ広場
* [[剣の宝庫 草薙館]]
* 清雪門(不開門) - 旧本宮北門。
* 令和記念館
* 土俵
* 愛知県神社庁
* 熱田神宮学院
<gallery widths="140px" heights="140px">
Atsuta Jingu1.jpg|神楽殿<BR/>(2021年(令和3年)10月)
Atsutajinguu01.jpg|斎館・勅使館<BR/>(2013年(平成25年)6月)
Atsuta Jingu5.jpg|文化殿(宝物館)<BR/>(2021年(令和3年)10月)
Atsuta Jingu4.jpg|龍影閣<BR/>(2021年(令和3年)10月)
Magatama-ike in Atsuta Jingu Shrine 2014.jpg|曲玉池<BR/>(2014年(平成26年)8月)
Camphor_Tree_in_Atsuta-jingu_Shrine_Keidai,_Jingu_1-chome_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|大楠<BR/>(2023年(令和5年)2月)
Nishi-Gakusho_in_Atsuta-jingu_Shrine_Keidai,_Jingu_1-chome_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|西楽所<BR/>(2023年(令和5年)2月)
Seisetsumon_in_Atsuta-jingu_Shrine_Keidai,_Jingu_1-chome_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|清雪門<BR/>(2023年(令和5年)2月)
Nobunagabei_in_Atsuta-jingu_Shrine_Keidai,_Jingu_1-chome_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|信長塀<BR/>(2023年(令和5年)2月)
Sakuma-tourou_in_Atsuta-jingu_Shrine_Keidai,_Jingu_1-chome_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|佐久間燈籠<BR/>(2023年(令和5年)2月)
Atsuta Jingu2.jpg|二十五丁橋<BR/>(2021年(令和3年)10月)
Atsuta Jingu3.jpg|源頼朝の曾祖母である松御前(尾張職子)之碑<BR/>(2021年(令和3年)10月)
Atsuta-jingu Doyoden.JPG|土用殿<BR/>(2014年(平成26年)11月)
Atsuta Jingu6.jpg|くさなぎ広場(左奥の建物は剣の宝庫 草薙館)<BR/>(2021年(令和3年)10月)
</gallery>
== 別宮・摂末社 ==
境内には本宮を始めとして別宮1社・摂社8社・末社19社が、境外には摂社4社・末社12社があり、合わせて45社(本宮含む)を祀っている{{#tag:ref|高座結御子神社、氷上姉子神社の境内にある末社も、すべて熱田神宮の境外末社である。|group="注"}}<ref>[http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/yukari/ 別宮・摂社・末社](熱田神宮公式サイト)。</ref>。
{| class="wikitable"
|+
!colspan=2|区分
!社名
!よみ
!祭神
!style="width:25em"|備考
|-
|rowspan=28 style="color:#fff; background-color:#4BACC6"|'''境内'''||style="color:#fff; background-color:#F36F43"|別宮||[[八剣宮]]||はっけんぐう||本宮同前||社格:式内社「八剣神社」
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||[[一之御前神社]]||いちのみさきじんじゃ||天照大神[[荒魂]](あまてらすおおかみあらみたま)||
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||日割御子神社||ひさきみこじんじゃ||[[アメノオシホミミ|天忍穂耳尊]](あまのおしほみみのみこと)||社格:名神大社「日割御子神社」
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||孫若御子神社||ひこわかみこじんじゃ||[[天火明命]](あまのほあかりのみこと)||社格:名神大社「孫若御子神社」論社
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||[[南新宮社]]||みなみしんぐうしゃ||素盞嗚尊(すさのおのみこと)||
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||御田神社||みたじんじゃ||[[大年神]] (おおとしのかみ)||社格:式内社「御田神社」論社
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||下知我麻神社||しもちかまじんじゃ||[[真敷刀俾命]](ましきとべのみこと)||社格:式内社「下知我麻神社」後継社
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||上知我麻神社||かみちかまじんじゃ||[[乎止與命]](おとよのみこと)||社格:式内社「上知我麻神社」後継社
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||龍神社||りゅうじんじゃ||[[吉備武彦命]](きびたけひこのみこと)<br/>[[大伴武日命]](おおとものたけひのみこと)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||大幸田神社||おおさきだじんじゃ||[[宇迦之御魂神]](うかのみたまのかみ)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||清水社||しみずしゃ||[[罔象女神]](みずはのめのかみ)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||東八百萬社||ひがしやおよろずしゃ||東国坐[[神 (神道)#八百万の神|八百萬神]](とうごくにますやおよろずのかみ)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||西八百萬社||にしやおよろずしゃ||西国坐八百萬神(さいごくにますやおよろずのかみ)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||内天神社||うちてんじんしゃ||[[少彦名命]](すくなびこなのみこと)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||乙子社||おとごしゃ||弟彦連(おとひこのむらじ)||六末社
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||姉子神社||あねごじんじゃ||宮簀媛命(みやすひめのみこと)||六末社
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||今彦神社||いまひこじんじゃ||建稲種命(たけいなだねのみこと)||六末社
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||水向神社||みかじんじゃ||[[弟橘媛命]](おとたちばなひめのみこと)||六末社
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||素盞嗚神社||すさのおじんじゃ||素盞嗚尊(すさのおのみこと)||六末社
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||日長神社||ひながじんじゃ||日長命(ひながのみこと)||六末社
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||楠之御前社||くすのみまえしゃ||[[伊弉諾尊]](いざなぎのみこと)<br/>[[伊弉册尊]](いざなみのみこと)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||菅原社||すがわらしゃ||[[菅原道真]](すがわらのみちざね)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||[[徹社]]||とおすのやしろ||天照大神[[和魂]](あまてらすおおかみにぎみたま)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||[[南新宮社#八子社|八子社]]||やこのやしろ||天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)<br/>[[熊野櫲樟日命]](くまのくすびのみこと)<br/>[[天穂日命]](あまのほひのみこと)<br/>[[田心姫命]](たごりひめのみこと)<br/>[[天津彦根命]](あまつひこねのみこと)<br/>[[市杵島姫命]](いちきしまひめのみこと)<br/>[[イクツヒコネ|活津彦根命]](いくつひこねのみこと)<br/>[[湍津姫命]](たぎつひめのみこと))||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||[[南新宮社#曽志茂利社|曽志茂利社]]||そしもりのやしろ||居茂利大神(こもりのおおかみ)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||大国主社||おおくにぬししゃ||[[大国主|大国主命]](おおくにぬしのみこと)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||事代主社||ことしろぬししゃ||[[事代主|事代主命]](ことしろぬしのみこと)||
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||影向間社||ようごうのましゃ||熱田大神(あつたのおおかみ)||
|-
|rowspan=16 style="color:#fff; background-color:#9BBB59"|'''境外'''||style="background-color:#FDD1AF"|摂社||[[高座結御子神社]]||たかくらむすびみこじんじゃ||[[高倉下|高倉下命]](たかくらじのみこと)||所在地:名古屋市熱田区高蔵町9番9号<small>({{Coord|35|08|07.47|N|136|54|16.03|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外摂社:高座結御子神社}})</small><br/>社格:名神大社「高座結御子神社」
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||鉾取社||ほことりしゃ||鉾取神(ほことりのかみ)||高座結御子神社境内
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||新宮社||しんぐうしゃ||素盞嗚尊(すさのおのみこと)||高座結御子神社境内
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||御井社||みいしゃ||[[御井神]](みいのかみ)||高座結御子神社境内
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||稲荷社||いなりしゃ||宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)||高座結御子神社境内
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||[[氷上姉子神社]]||ひかみあねごじんじゃ||宮簀媛命(みやすひめのみこと)||所在地:名古屋市緑区大高町字火上山1番地の3<small>({{Coord|35|03|41.33|N|136|55|48.96|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外摂社:氷上姉子神社}})</small><br/>社格:式内社「火上姉子神社」
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||元宮||もとみや||宮簀媛命(みやすひめのみこと)||氷上姉子神社境内
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||神明社||しんめいしゃ||天照大神(あまてらすおおかみ)||氷上姉子神社境内
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||玉根社||たまねしゃ||少彦名命(すくなびこなのみこと)||氷上姉子神社境内
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||青衾神社||あおふすまじんじゃ||[[天道日女命]](あまのみちひめのみこと)||所在地:名古屋市熱田区白鳥2丁目6番1号<small>({{Coord|35|07|28.18|N|136|54|21.18|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外摂社:青衾神社}})</small><br/>社格:式内社「青衾神社」
|-
|style="background-color:#FDD1AF"|摂社||松姤社||まつごしゃ||宮簀媛命(みやすひめのみこと)||所在地:名古屋市熱田区神宮2丁目10番<small>({{Coord|35|07|19.64|N|136|54|31.45|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外摂社:松姤社}})</small>
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||南楠社||みなみくすしゃ||別宮同前||所在地:名古屋市熱田区伝馬1丁目7番<small>({{Coord|35|07|11.83|N|136|54|30.93|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外末社:南楠社}})</small>
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||[[鈴之御前社]]||れいのみまえしゃ||[[天鈿女命]](あまのうずめのみこと)||所在地:名古屋市熱田区伝馬2丁目6番<small>({{Coord|35|07|9.74|N|136|54|39.72|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外末社:鈴之御前社}})</small>
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||浮島社||うきしましゃ||天穂日命(あまのほひのみこと)||所在地:名古屋市瑞穂区浮島町6番<small>({{Coord|35|06|58.83|N|136|54|51.73|E|region:JP-23_type:landmark|name=境外末社:浮島社}})</small>
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||[[朝苧社]]||あさおしゃ||火上老婆霊(ひかみうばのみたま)||所在地:名古屋市緑区大高町字東姥神<br/>日本武尊が草薙剣を宮簀媛命へ渡してから熱田に剣を奉斎鎮守するまでの間、剣が火上山に置かれていたことから、「元熱田」とも呼ばれる。
|-
|style="background-color:#FEF2D9"|末社||琴瀬山神社||ことせやまじんじゃ||熱田大神(あつたのおおかみ)<br/>[[大山津見神]](おおやまつみのかみ)<br/>[[久久能智神]](くくのちのかみ)||所在地:[[北設楽郡]][[東栄町]]大字東薗目字琴瀬山
|}
<gallery widths="140px" heights="140px">
Hakkenguu (Atsuta-jinguu)-2.jpg|八剣宮<BR/>(2017年(平成29年)12月)
</gallery>
<gallery widths="140px" heights="140px">
Ichinomisaki-jinja (Atsuta-jingu).JPG|一之御前神社<BR/>(2014年(平成26年)11月)
Hisakinomiko-jinja (Atsuta-jinguu).JPG|日割御子神社<BR/>(2013年(平成25年)7月)
Hikowakamiko-jinja (Atsuta-jinguu).JPG|孫若御子神社<BR/>(2013年(平成25年)7月)
Minamishingu-sha (Atsuta-jingu).JPG|南新宮社<BR/>(2014年(平成26年)11月)
Mita-jinja (Atsuta-jingu).JPG|御田神社<BR/>(2014年(平成26年)11月)
Shimochikama-jinja (Atsuta-jinguu).JPG|下知我麻神社<BR/>(2013年(平成25年)7月)
Kamichikama-jinja_Shrine_Haiden,_Jingu_1-chome_Atsuta_Ward_Nagoya_2023.jpg|上知我麻神社<BR/>(2023年(令和5年)2月)
Ryu-jinja (Atsuta-jingu).JPG|龍神社<BR/>(2014年(平成26年)11月)
Takakuramusubimiko-jinja haiden-2.JPG|高座結御子神社<BR/>(2013年(平成25年)7月)
Hikami Anego Jinja Haiden, Midori Ward Nagoya 2015.JPG|氷上姉子神社<BR/>(2015年(平成27年)7月)
Atsuta-jingu Aofusuma-jinja.JPG|青衾神社<BR/>(2014年(平成26年)11月)
Matsugo-jinja (Atsuta-jingu).JPG|松姤社<BR/>(2014年(平成26年)11月)
</gallery>
<gallery widths="140px" heights="140px">
Ohsakida Jinja, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|大幸田神社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Higashi Yaoyorozu-sha, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|東八百萬神社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Nishi Yaoyorozu-sha, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|西八百萬神社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Kusunomimae-sha, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|楠之御前社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Sugawara-sha in Atsuta Jingu Shrine 2014.jpg|菅原社<BR/>(2014年(平成26年)8月)
Tohsu no Yashiro, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|徹社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Yakonoyashiro, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|八子社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Soshimori-sha, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|曽志茂利社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Ohkuninushi-sha, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|大国主社<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Kotoshironushi-sha, Atsuta Ward Nagoya 2014.JPG|事代主命<BR/>(2014年(平成26年)4月)
Yougonomasha.jpg|影向間社<BR/>(2018年(平成30年)4月)
Hokotori-sha Shrine, Takakura-cho Atsuta Ward Nagoya 2021.jpg|鉾取社<BR/>(2021年(令和3年)3月)
Shingu-sha Shrine, Takakura-cho Atsuta Ward Nagoya 2021.jpg|新宮社<BR/>(2021年(令和3年)3月)
Mii-sha Shrine, Takakura-cho Atsuta Ward Nagoya 2021.jpg|御井社<BR/>(2021年(令和3年)3月)
Takakura Inari-sha Shrine, Takakura-cho Atsuta Ward Nagoya 2021.jpg|稲荷社<BR/>(2021年(令和3年)3月)
Hikami-Anego-jinja Motomiya-1.JPG|元宮<BR/>(2015年(平成27年)9月)
Hikami-Anego-jinja Shinmei-sha.JPG|神明社<BR/>(2015年(平成27年)9月)
Hikami-Anego-jinja Tamane-sha.JPG|玉根社<BR/>(2015年(平成27年)9月)
Minami-kusu-sha.jpg|南楠社<BR/>(2022年(令和4年)7月)
Rei-no-mimae-sha Shinto-Shrine 20150517.JPG|鈴之御前社<BR/>(2015年(平成27年)5月)
Hikami-Anego-jinja Asao-sha.JPG|朝苧社<BR/>(2015年(平成27年)9月)
</gallery>
==過去の建造物==
かつて、信長塀と繋がっていた[[1920年]](大正9年)に国宝に指定された海上門(海蔵門)や同じく国宝の鎮皇門や春敲門の3つの門が存在していたが、太平洋戦争時の名古屋大空襲の空襲の戦災で焼失した。戦後以降、これら戦災で失った熱田神宮に存在していた文化財の建造物は再建や復元はされなかった。[[2022年]](令和4年)に熱田区役所の熱田の歴史体感事業<ref>[https://www.city.nagoya.jp/atsuta/page/0000155998.html 熱田区の歴史体感事業「熱田歴史探訪」が始まりました!(PDF:6306KB) - 名古屋市]</ref>の一環の[[拡張現実]]事業で、建築学者の[[三浦正幸]][[広島大学]]教授に依頼・監修のもと、海上門が絵図や古写真や現存している海上門の礎石の痕跡などの資料を元に海上門の復元図が制作され3DCGで海上門が再現された<ref>[https://www.city.nagoya.jp/atsuta/cmsfiles/contents/0000155/155998/panelAR.pdf 旧国宝、熱田神宮海上門の復元(PDF:6306KB) - 名古屋市]</ref>。
{{right|
<gallery widths="140px" heights="140px" perrow="2">
Postcard of Gate Chinko-Mon Atsuta Shrine Scan10005.jpg|旧国宝建造物・鎮皇門(現存せず)の絵葉書
Postcard of Gate Kaijo-Mon Atsuta Shrine Scan10007.jpg|旧国宝建造物・海上門(海蔵門、現存せず)の絵葉書
</gallery>
}}
* 海上門(海蔵門)
* 春敲門
* 鎮皇門
* 権殿
* 長殿
* 祭器庫
* 旧政所
* 旧宮庁
* 旧斎館
* 旧勅使館
* [[熱田神宮能楽殿]](2006年(平成18年)閉鎖)
== 祭事 ==
[[6月5日]]の[[例祭]](「熱田まつり」・「尚武祭(しょうぶさい)」とも称される)を最大規模の祭事とし、年間を通して以下の祭事が行われている。
{{Div col|2}}
;1月
* [[歳旦祭]]([[1月1日]])
* [[元始祭]]([[1月3日]])
* 初えびす([[1月5日]])
* 世様(よだめし)神事([[1月7日]])
* 踏歌(とうか)神事([[1月11日]])
* 封水世様(ふうすいよだめし)神事([[1月12日]])
* 歩射(ほしゃ)神事([[1月15日]])
;2月
* [[紀元節|紀元祭]]([[2月11日]])
* [[天皇誕生日|天長祭]]([[2月23日]])
;3月
* [[祈年祭]]([[3月17日]])
* 御田神社祈年祭(3月17日)
* 春季[[皇霊祭]]遥拝(しゅんきこうれいさいようはい)([[春分の日]])
* 氷上姉子神社[[神楽|太々神楽]](だいだいかぐら)(最終週の日曜日)
;4月
* 幼児成育祈願祭([[4月3日]])
;5月
* [[舞|舞楽]]神事([[5月1日]])
* 酔笑人(えようど)神事([[5月4日]])
* [[神輿]]渡御(しんよとぎょ)神事([[5月5日]])
* 氷上姉子神社頭人祭(とうにんさい)([[5月6日]])
* 豊年祭([[5月8日]])
* 熱田講社春季大祭([[5月9日]])
* 御衣祭(おんぞさい)([[5月13日]])
* 高座結御子神社例祭宵宮祭([[5月31日]])
;6月
* 高座結御子神社例祭([[6月1日]])
* 例祭(熱田まつり)(6月5日)
* 献茶祭(6月5日)
* 献花式(6月5日)
* [[南新宮社#南新宮社祭|南新宮社祭]](6月5日)
* 御田神社御田植祭([[6月18日]])
* 大高斎田御田植祭(第4日曜日)
* [[大祓]]([[6月30日]])
;7月
* 高座御井社祭(たかくらみいしゃさい)([[土用]]入の日)
* 鈴之御前社祭(れいのみまえしゃさい)(茅の輪くぐり)([[7月31日]])
;8月
* 神輿渡御神事([[8月8日]])
;9月
* 秋季皇霊祭遥拝(しゅうきこうれいさいようはい)([[秋分の日]])
* 大高斎田抜穂祭(9月28日)
;10月
* 氷上姉子神社例祭(第1日曜日)
* [[新嘗祭]]([[10月17日]])
* 御田神社新嘗祭(10月17日)
* 熱田恵比須講社大祭([[10月20日]])
;11月
* 熱田講社秋季大祭([[11月1日]])
* [[明治節|明治祭]]([[11月3日]])
* 奉賛会大祭(11月3日)
* 献詠祭(11月3日)
;12月
* 農業感謝祭([[12月20日]])
* 御煤納(おすすおさめ)神事([[12月25日]])
* 大祓([[12月31日]])
* 除夜祭(12月31日)
{{Div col end}}
== 文化財 ==
草薙剣が御神体である所以から熱田神宮には多くの刀剣が市井から奉納されてきており、約450口の刀剣を所蔵する。そのうち30口以上が国と県の指定文化財である<ref>[https://web.archive.org/web/20211020140049/https://www.asahi.com/articles/ASPB36S3NPB3OIPE00F.html 熱田神宮に伝わる宝刀を展示「草薙館」が開業 展示方法も剣独特に] 朝日新聞 2021年10月4日</ref>。
[[File:Hokekyo Yujutsubon, Atsuta Jingu Shrine.jpg|thumb|180px|紙本著色法華経涌出品]]
[[File:Mirror box with Mount Penglai, Atsuta Jingu, Aichi, Japan, Muromachi period, 1400s AD, maki-e lacquer - Tokyo National Museum - Tokyo, Japan - DSC08862.jpg|thumb|180px|蓬莱蒔絵鏡箱 蓋表]]
[[File:Mirror box with Mount Penglai, Atsuta Jingu, Aichi, Japan, Muromachi period, 1400s AD, maki-e lacquer - Tokyo National Museum - Tokyo, Japan - DSC08870.jpg|thumb|180px|蓬莱蒔絵鏡箱 蓋・身]]
[[File:Mirror, from the Mirror box with Mount Penglai, Atsuta Jingu, Aichi, Japan, Muromachi period, 1400s AD - Tokyo National Museum - Tokyo, Japan - DSC08867.jpg|thumb|180px|松竹双鶴文八稜鏡]]
=== 国宝 ===
*短刀 銘来国俊 正和五年十一月日
=== 重要文化財 ===
* 紙本著色法華経涌出品
* 木造舞楽面 12面(陵王1、納曽利2、還城楽1、崑崙八仙4、二ノ舞2、抜頭1、貴徳1)
* 菊蒔絵手筥
* 鏡及鏡箱
** 松竹双鶴文円鏡・桐鳳凰蒔絵鏡箱
** 松竹双鶴文八稜鏡・蓬莱蒔絵鏡箱
** 松竹双鶴文八稜鏡・蓬莱蒔絵鏡箱
* 古神宝類一括(明細は後出)
* 金銅装唐鞍 一具(附 黒漆鞍3背及び付属品、飾鞍図1巻)(明細は後出)<ref>付属品の一部は2015年に追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)。</ref>
* 金銅兵庫鎖太刀
* 太刀 銘国友
* 太刀 銘則国
* 剣 銘吉光
* 太刀 銘了戒嘉元三年三月日 山城国住人九郎左(以下切)
* 脇指 銘長谷部国信
* 短刀 銘長谷部国信 (切付銘)藤原友吉
* 短刀 銘国光 元徳三年(以下切)
* 太刀 銘宗吉作(1911年重文指定)
* 太刀 銘宗吉作(1912年重文指定)
* 剣 銘為清 身に熱田太神宮宗久と切付あり
* 太刀 銘長光
* 太刀 銘備州長船兼光
* 太刀 銘備州長船重光
* 太刀 銘元弘三年六月一日実阿作 鎬地に文祿四年守勝の寄進銘あり
* 剱 銘□利(包利)
* 太刀 銘真行 身の表に元亀二年辛未八月八日大久保与九郎、裏に熱田大名神奉寄進之と切付あり
* 太刀 無銘(伝真長)
* 脇指 銘指表に奉納尾州熱田大明神、指裏に両御所様被召出於武州江戸御劔作御紋康之字被下罷上刻籠越前康継とあり
* 日本書紀(紙背和歌懐紙)15巻 永和元年二年三年浄阿寄進奥書(附 永和三年霜月四日寄進状1巻)
* 後花園天皇宸翰御消息 永享五年十二月十二日(附 足利義教内書)
典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による(ト書きは現代式表記に改める)。
他に旧国宝建造物の海上門と鎮皇門があったが、第二次世界大戦時の空襲で焼失した。
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">重要文化財「古神宝類」「金銅装唐鞍」の明細</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
'''古神宝類'''
*表着(うわぎ) 萌黄小葵地桐竹鳳凰文二重織 2領
*重袿(かさねうちき) 白桐竹鳳凰唐草文固綾織 10襲2領
*単(ひとえ) 萌黄繁菱文固綾織 1領
*裳 白三重襷文羅織 2腰
*彩絵檜扇 3握
*表袴(うえのはかま) 白窠霰文二重織 3腰
*襪(しとうず) 白繁菱文固綾織 2双
*錦包挿鞋(そうかい) 3双
*黒漆根古志形鏡台 5基
*黒漆菊亀甲蒔絵冠箱 1合
*入帷(いれかたびら) 紫小葵地浮線綾二重織 2領
*朱漆弓 5張
*黒漆平胡籙(ひらやなぐい) 1腰
*朱塗唐櫃 2合
*附:入帷残欠 一括
*附:梓弓 10張
当初指定日は1957年2月19日。1977年に檜扇1握、鏡台5基、冠箱1合、入帷1領、朱漆弓3張、平胡籙1腰を追加指定(昭和52年6月11日文部省告示第116号)。2014年に朱漆弓2張、梓弓10張を追加指定(平成26年8月21日文部科学省告示第117号)。
;金銅装唐鞍
*鞍 1背
*銀面 1面
*轡(くつわ) 1口
*輪鐙(わあぶみ) 1双
*面繋(おもがい) 2懸
*胸繋(むながい) 2懸
*尻繋(しりがい) 2懸
*韉(したぐら)(扁は「革」、旁は「薦」)1双
*障泥(あおり) 1双
*鞍褥(くらしき) 2枚
*毛氈 1枚
*力革 2条
*差縄(さしなわ) 2条
(以下は附(つけたり)指定)
*黒漆鞍 3背
*面繋 3懸
*胸繋 3懸
*尻繋 3懸
*鼻革 1枚
*韉(扁は「革」、旁は「薦」)3双
*障泥 3双
*鞍褥 3枚
*馬氈 4枚
*力革残欠 2条
*飾鞍図 1巻
1987年6月6日、「金銅装唐鞍 一具 附 黒漆鞍2背、飾鞍図1巻」として重要文化財に指定。2015年9月4日付けで以下の物件を追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)。
:「金銅装唐鞍」の付属品のうち「面繋」「胸繋」「尻繋」各1懸、および「韉」「障泥」「鞍褥」「毛氈」「差縄」の全点。附指定物件の「黒漆鞍3背」のうち1背。附指定物件のうち「面繋」から「力革残欠」までの全点。
</div>
</div>
=== 国登録有形文化財 ===
* 又兵衛(旧坂上家住宅)
* 龍影閣(旧名古屋博物館品評所)
=== 愛知県指定有形文化財 ===
* 紙本著色熱田神宮古絵図 11枚
* 神事面(老爺) 1面 - 南北朝時代。
* 神事面(壮年男) 1面 - 南北朝時代。
* 神事面(若人) 1面 - 室町時代。
* 神事面(若人) 1面 - 室町時代初期。
* 太刀 友重(越前国)1口 - 鎌倉時代後期(南北朝時代)。
* 太刀 直胤(武蔵国)1口 - 嘉永2年(1849年)。
* 太刀 守利(備中国)1口 - 鎌倉時代。
* 太刀 行平(豊後国)1口 - 鎌倉時代。
* 瑞花双鳳文八稜鏡 1面 - 平安時代後期、延喜式和鏡の形式。
* 鳥獣花文鏡 1面 - 唐後期か又は平安時代、文様唐風。
* 瑞花双鸞文八稜鏡 1面 - 平安時代後期。
* 瑞花唐草双鳥文五花鏡 1面 - 平安時代後期から鎌倉時代前期。
* 双竜雲文鏡 1面 - 元時代、大型銅鏡。
* 尺八 1管 - 室町時代前期、1節5孔。
* 大鈴(天文元年在銘) 1口 - 天文元年(1532年)。
* 脇差 長門守藤原氏雲 1口 - 慶長13年(1608年)。
* 太刀 銘 兼武 1口 - 慶長16年(1611年)。
* 春敲門額 1面 - 鎌倉時代、(伝)小野道風筆。
* 古箙 1個 - 室町時代、儀典用、貴族風。
* 鐃鈸(建武五年在銘)1揃 - 建武5年(1338年)紀年銘。
* 短刀 銘 長谷部国信 1口 - 文和年間。
* 短刀 銘 村正 1口 - 室町時代。
* 太刀 銘 兼房 1口 - 永禄11年(1568年)。
* 倶利迦羅剣 1口 - 室町時代。
* 明治天皇御奉幣大判 2枚 - 万延元年(1860年)。
* 鋳鉄釣灯籠 1基 - 正保4年(1647年)。
* 金銅釘隠 1個 - 永正14年(1517年)。
* 荷太鼓 1具 - 室町時代、神事用。
* 鼉太鼓 1具 - 平安時代、神事用。
* 青貝梨子地刳抜文鞍 1背 - 南北朝時代。
* 御飯台 5基 附:粥柄杓 1柄・御飯器 1口 - 室町時代、神事用。
* 脇差 無銘 1口 - 平安時代から鎌倉時代、号あざ丸。
* 脇差 銘 表吉光 裏亀王丸 1口 - 鎌倉時代、蜘蛛切丸と伝承。
* 熱田神宮踏歌祭頌文 2巻 - 鎌倉時代から室町時代、文永年間の頌文珍し、1・文永七年、2・天文十五年。
* 熱田神宮修造勧進状 2巻1幅 - 室町時代、修造資料、1・文明十一年三月日、2・天文十一年、3・尾州熱田社幹縁疏並序残簡。
* 紺紙金字般若心経 1巻 - 鎌倉時代、見返しに説法聴聞図。
* 極細字法華経 2巻 - 徳治3年、法華経写経と神宮信仰資料。
*「熱田太神宮」神号 1幅 - 江戸時代、後水尾天皇宸筆か。
* 法華経安楽行品 1巻 - 鎌倉時代、巻子本、装飾表紙。
* 阿弥陀経 1巻 - 鎌倉時代、装飾料紙墨書。
* 般若心経 1巻 - 嘉暦3年、紙本墨書。
* 三位法印常関(三好吉房)書状 1幅 - 江戸時代、紙本墨書。
* 法楽歌仙連歌懐紙 1帖 - 室町時代、応永30年、料紙に下絵。
* 寛永十三・四年熱田万句 312帖 - 江戸時代、俳文学史資料、1寛永十三年熱田万句、2寛永十三年熱田万句追加、3寛永十四年熱田万句(甲類)、4寛永十四年熱田万句(乙類)
* 熱田神宮馬場家文書 8巻 - 鎌倉時代から江戸時代、神宮信仰資料。
* 鉄地金銅張馬具 1具 - 古墳時代、慶応3年奉納、白鳥古墳出土、考古資料。
=== その他 ===
* [[算額]] 文化3年(1806年)5月 日下誠門人江原政教奉納(復元)
* 算額 天保12年(1841年)11月 御粥安本門人三輪恒徳奉納(復元)
* 算額 天保15年(1844年)2月 竹内修敬門人松岡愿奉納(復元)
== 備考 ==
* [[平安時代]]後期に定められた[[一宮]]において、尾張国の一宮は[[真清田神社]]、熱田神宮は三宮とされた。これについては諸説があり、[[井上寛司]]は熱田神宮は当初別格として扱われていたこと<ref>永万元年六月日神祇官諸社注文(『平安遺文』3358号)には「尾張国 一宮 二宮 熱田社」と記され、熱田社は三宮とはみなされていなかった。</ref>や真清田神社側の積極的な働きかけがあったことが原因になったとする説<ref>井上寛司『日本中世国家と諸国一宮制』岩田書院、2009年、P95-98。</ref>を、[[上島享]]は当初は一宮の格式を持っていたものの、後に国衙と熱田神宮の対立が影響して一宮の交替が起きたとする説<ref>上島享『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、2010年、P269-272。 </ref>を出している。いずれにしても、平安時代末期(12世紀後期)に一宮を中心とした国内の神社の秩序が確立される中で、熱田神宮は三宮として位置づけられることになり、熱田神宮は「鎮守三社」<ref>嘉禄元年付尾張国司庁宣案(『鎌倉遺文』3401号)</ref>などの表現を用いて自らを三宮と称するのを避けたという。
*[[西行]]法師が腰をかけて休んだという伝承がある「二十五丁橋」<ref>25枚の板石から成る。</ref>は、[[尾張名所図会]]や名古屋甚句に登場し、名古屋では最古の石橋とされる。
* 11月に開催される[[全日本大学駅伝対校選手権大会]]では西門鳥居前([[国道19号]])がスタート地点として使われる。
* [[1936年]]の[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]で、水泳女子の[[前畑秀子]]がレース直前、熱田神宮のお守りを数点飲み込んで胃に収め、見事金メダルを獲得した。
* [[明治天皇]]の便殿(休息所)として造られた龍影閣は、国の[[登録有形文化財]]に登録されている。北の窓からは、日本三大土塀のひとつで[[織田信長]]奉納の「信長塀」を、南の窓からは勾玉池と四季折々の草花に彩られた庭園を眺めることができる。
* 勾玉苑内にある、[[三種の神器]]の一つである[[勾玉]]を模した池を勾玉(曲玉)池という。そこに架かる橋の一つに「赤橋」という橋があり、この橋の上で愛を誓う二人は幸せになるという話から、地元では福が寄る橋「福寄橋(ふくよせばし)」とも呼ばれている。
== 熱田おかげ横丁計画 ==
熱田神宮にかつて門前町があり、賑わっていた事から、伊勢の[[おかげ横丁]]の様な賑わいのある門前町を熱田神宮付近に再現する計画で、2011年から構想があった<ref>[http://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h22/shimin1.pdf 熱田神宮に門前街を... - 公益財団法人名古屋まちづくり公社トップページ]</ref>。[[河村たかし]]名古屋市長も、2017年4月の市長選で『熱田草薙横丁』の整備を公約で掲げていた。
== 現地情報 ==
===所在地===
:* [[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]][[神宮 (名古屋市)|神宮]]1-1-1
===付属施設===
:* 愛知県神社庁、[[神職]][[養成施設|養成機関]]の熱田神宮学院がある。社務所に当たる組織は「熱田神宮宮庁」と呼ばれる。
===交通アクセス===
====鉄道====
;[[File:JR logo (central).svg|25px]][[東海旅客鉄道|JR東海]]
:{{JR海駅番号|CA}}[[東海道本線]]
:*'''(CA65)[[熱田駅]]'''<small>({{Coord|35|07|48.6|N|136|54|31.74|E|scale:2500}})</small> - 熱田神宮境内の北東にあたる。
;[[File:Meitetsu logo.png|40px]][[名古屋鉄道|名鉄]]
:{{名鉄駅番号|NH}}[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]・{{名鉄駅番号|TA}}[[名鉄常滑線|常滑線]]
:*'''(NH33)[[神宮前駅]]'''<small>({{Coord|35|07|32.87|N|136|54|44.9|E|scale:2500}})</small> - 熱田神宮境内の東にあたる。
;[[File:Nagoya Subway Logo (black).svg|15px]][[名古屋市営地下鉄]]
: [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|18px]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]
:*'''(M26)[[熱田神宮伝馬町駅]]'''<small>({{Coord|35|07|14.65|N|136|54|37.37|E|scale:2500}})</small> - 熱田神宮境内の南にあたる。
:*'''(M27)[[熱田神宮西駅]]'''<small>({{Coord|35|07|40.16|N|136|54|23.84|E|scale:2500}})</small> - 熱田神宮境内の北西角にあたる。
====バス====
;[[名古屋市営バス]]
:*'''神宮東門'''停留所
:*'''熱田伝馬町'''停留所
:*'''熱田駅西'''停留所
:*'''熱田区役所'''停留所
:*'''名鉄神宮前'''停留所 - 名鉄神宮前駅の東側にあるため、距離がある。
====自動車====
東門駐車場(約300台)、南門駐車場(約60台)、西門駐車場(約40台)がある<ref name="HPアクセス">[http://www.atsutajingu.or.jp/access/ アクセス・駐車場 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮](熱田神宮公式サイト、2018年(平成30年)11月7日閲覧)</ref>。ただし、祭典行事などで駐車が制限されることがある<ref name="HPアクセス"/>。
===周辺===
* [[宮宿]] - [[東海道五十三次]]の41番目[[宿場]]。熱田神宮の[[門前町]]
* [[白鳥古墳 (名古屋市)|白鳥古墳]] - 日本武尊の陵墓と伝える。
* [[断夫山古墳]] - 東海地方最大の[[前方後円墳]]。宮簀媛の墓と伝える。
== 伝承 ==
*熱田神宮の熱田の地は古来より「[[蓬萊|蓬萊島]]」の名でも呼ばれており、鎌倉時代の書物でも記されてきた。これは古来より{{読み仮名|年魚市潟|あゆちがた}}<ref>{{読み仮名|年魚市潟|あゆちがた}}とは、[[氷河時代|氷河期]]の終わりに[[縄文海進]]と呼ばれる海面上昇により出現した[[愛知郡 (愛知県)|旧愛知郡]]一帯にかけて広がっていた[[干潟]]のこと。</ref>に面し、樹齢千年を越える、老松古杉の生い茂る熱田の社が海に突き出る岬のように見え、巨大な亀の甲羅上にあると例えられたことから、熱田神宮のことを不老不死の[[神仙]]の住む蓬莱島(日本を紹介した書物での唐の時代の中国の伝説からより)に擬せられたからであろうとされている<ref>[http://homepage1.nifty.com/uni-hp/atsutakko/kyoudosi/hourai/hourai.html 熱田『蓬莱伝説』]</ref>。
*熱田神宮には[[楊貴妃]]に纏わる伝説がある。中国の[[唐]]の時代に野心的な[[玄宗 (唐)|玄宗皇帝]]が日本侵略の隙をうかがっていた。そのことをいち早く知った日本の神々が集まり、それに対応するため、話し合った結果、熱田大明神が刺客として絶世の美女の姿に変身し、玄宗に近づき、その美貌で日本を侵略させないように玄宗をたぶらかした。最初の作戦は成功していたが正体がばれ、後に殺された。そして楊貴妃に変身していた熱田大明神の魂が、熱田に戻ったというもの。楊貴妃の伝説に因んで、清水社に楊貴妃の墓が建てられたが、明治初期に熱田神宮の改装工事で取り壊された。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
;注釈
<references group="注"/>
;出典
{{reflist|3}}
== 参考文献 ==
* 『日本歴史地名大系 愛知県の地名』([[平凡社]])熱田区 熱田神宮項
* 『熱田神宮名宝図録』(宝物館開館20周年記念、昭和63年、熱田神宮)
* 『熱田神宮の宝刀』(鑑賞のしおり、平成19年、熱田神宮神社庁)
* [[尾張名所図会|『尾張名所図会』 第三巻 熱田大宮全圖]]、1844年
*『国史大系 第三巻』 経済雑誌社、1897年(明治30年)7月3日
*『国史大系 第四巻』 経済雑誌社、1897年(明治30年)7月19日
*『国史大系 第五巻』 経済雑誌社、1897年(明治30年)12月30日
*深田正韶 等編 『尾張志熱田』 博文社、1898年(明治31年)
*[[塙保己一]] 検校 『群書類従 第壱輯』 経済雑誌社、1898年(明治31年)4月4日
*『国史大系 第七巻』 経済雑誌社、1898年(明治31年)8月6日
*鈴鹿義鯨 『神社覈録 上編』 会通社、1902年(明治35年)1月23日
*堀貞高 『厚覧草』 名古屋史談会、1911年(明治44年)3月5日
*池田常太郎 『表註 今文古事記』 日就社出版部、1911年(明治44年)5月3日
*名古屋市役所 『名古屋市史 社寺編』 名古屋市役所、1915年(大正4年)7月10日
*植松安 『仮名日本書紀 上巻』 阪本眞三、1920年(大正9年)6月28日
*正宗敦夫編纂 『延喜式 第二』 日本古典全集刊行会、1929年(昭和4年)11月30日
*吉村龍雄 『熱田神宮略記』 熱田神宮宮庁、1939年(昭和14年)6月25日
*尾崎久彌 『熱田神宮史料考』 大雅堂、1944年(昭和19年)8月30日
*大高町誌編纂委員会 『大高町誌』 大高町、1965年(昭和40年)3月20日
*久松濳一校註 『日本古典全書 「風土記」下』 朝日新聞社、1960年(昭和35年)10月30日
*熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 造営遷宮編 上巻』 熱田神宮宮庁、1980年(昭和55年)3月20日
*熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 造営遷宮編 下巻』 熱田神宮宮庁、1993年(平成5年)6月5日
*新修名古屋市史編集委員会 『新修名古屋市史 第1巻』 名古屋市、1997年(平成9年)3月31日
*熱田神宮宮庁 『熱田神宮』 熱田神宮宮庁、1997年(平成9年)12月30日
*新修名古屋市史編集委員会 『新修名古屋市史 第2巻』 名古屋市、1998年(平成10年)3月31日
*熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 縁起由緒編』 熱田神宮宮庁、2002年(平成14年)3月17日
*藤本元啓 『中世熱田社の構造と展開』 続群書類従完成会、2003年(平成15年)2月11日 ISBN 4797107391
*熱田神宮宮庁 『熱田神宮史料 縁起由緒続編(一)』 熱田神宮宮庁、2005年(平成17年)7月7日
*熱田神宮熱田文庫 『増強改訂 尾張国熱田太神宮縁記(熱田神宮文化叢書第一)』 熱田神宮宮庁、2011年(平成23年)9月9日
== 関連項目 ==
* [[八雲神社 (八雲町)|八雲神社]]([[北海道]][[二海郡]][[八雲町]]) - 明治20年3月に熱田大神の御分霊を正式に許可された全国で唯一の分社。
* [[熱田神楽・宮流神楽]]
* [[草薙剣盗難事件]] - [[668年]]([[天智天皇]]7年)、新羅人により盗まれた事件。
* [[熱田公]] - 歴史学者・入婿として熱田姓を継いでいる。
* [[大宮熱田神社]]([[長野県]][[松本市]]) - 熱田神宮から熱田大神を勧請された神社。
* [[熱田神社 (伊那市)]](長野県[[伊那市]]) - 日本武尊の恩沢を慕い、尾張国熱田神宮の形影を移し勧請したのが始まりと伝えられる神社。
* [[熱田神社 (浜松市)]]([[静岡県]][[浜松市]]) - 鎌倉時代に尾州熱田神宮よりこの地の守護神として勧請された神社。
* [[大宮神社 (岩出市)]]([[和歌山県]][[岩出市]]) - 元明天皇御代(712年)、尾張の熱田神宮より日本武尊を勧請し、村社となったと伝える。
* [[尾張戸神社]](愛知県名古屋市[[守山区]]・[[瀬戸市]]) - 尾張氏の始祖を祀る為、第13代[[成務天皇]]5年に宮簀媛の勧請によって創建されたと言う、尾張氏の霊山の地[[東谷山]]の山頂に鎮座する神社で、別名「熱田の奥の院」。
* [[中尾熱田神社]]([[熊本県]][[阿蘇郡]][[小国町 (熊本県)|小国町]]) - 熱田大神を主祭神する神社。
* [[十団子|藤団子]](十団子) - 熱田神宮周辺で売られている名物菓子。
* [[神の井酒造]] - 三代当主が熱田神宮の斎田を寄進した事に因んで命名された酒造会社。
* [[千秋季隆]] - 大宮司千秋氏出身、貴族院男爵議員。
* [[熱田神宮伝馬町駅]](南門の最寄り駅)
* [[熱田神宮西駅]](最寄り駅)
== 外部リンク ==
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* [https://www.atsutajingu.or.jp/ 熱田神宮] - 公式サイト
* {{Facebook|atsutajingu|熱田神宮(公式)}}
* {{Instagram|atsutajingu.official|熱田神宮(公式)}}
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/090101.html 熱田神社]、[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/096002.html 日割御子神社]、[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/096003.html 孫若御子神社] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」
* [https://www.aichi-now.jp/spots/detail/10/愛知の公式観光ガイド AICHI NOW 熱田神宮]
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炊飯器
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炊飯器(すいはんき)とは、米を炊いて飯にするための調理器具。主に電気式とガス式があり、電気式は自動調理電気鍋として扱える場合もある。
本項では特記がない限り、ジャポニカ米用を中心に記述する。
高度経済成長期以後の日本の主食を支える重要な家電である。家庭用においては電気式(電気炊飯器)とガス式(ガス炊飯器)、それに他の調理機器と組み合わせて使うものがあり、それぞれ電気釜・ガス釜・炊飯鍋ともいう。業務用ではライス・ボイラーといわれる大型のものや、洗米から炊飯までこなす全自動炊飯器なるもの(こちらは炊飯機とも呼ばれる)まで多様な種類が存在する。
日本では炊飯の省力化に対する需要は大きく、戦前から製品開発が行われてきたが、人間が行うような細かな加熱制御が難しく、高品質な炊飯が可能になるまでには50年以上が掛かっている。1923年に三菱電機から世界初かつ業務用の電気炊飯器が登場したが、未だ自動ではなく、一般人にとっては利用が難しいものでもあった。その後、一般に普及するに至る自動炊飯器は、高度経済成長期の1955年に東京芝浦電気(現在の東芝)から世界で初めて発売された。日本で自動炊飯器が発明に至った背景として、日本人にとって米は重要な主食で炊きあがり方にも細かな拘りがあり、また伝統的な「かまど」による炊飯が重労働であったことや、創意工夫する家電メーカーが多数登場し、自動炊飯器を生み出す文化的素地があったことが挙げられる。日本で主流のジャポニカ米の炊飯の工程は釜だけで完結するため自動化しやすく、海外で主流のインディカ米の炊飯の工程は茹でこぼしが必要(釜で炊くというよりも鍋でパスタのように茹でる)であるため自動化しにくい点も、日本と海外の炊飯器の開発状況に差を付けている。
電気式のものでは炊飯には30分(蒸らし時間を入れると1時間弱)程度の時間が掛かる。日本では1990年代より主流のマイコン内蔵の高度化した機種では、内蔵されたマイコンの演算機能により、炊き上がりの設定時間から炊飯開始の時刻を逆算、任意の時間に炊き上がるような製品も見られる。また、マイコンにソフトウェアが搭載された事と、第二次AIブームの影響を受けた事で、加熱のON/OFF制御から脱却し、ファジィコントロール,ニューロ・ファジィなど、加熱の初歩的な最適化も可能になった。なお炊飯に掛かる時間は、米の量、熱源の能力(電熱ヒーターのワット数や入力電圧あるいは火力)、外気温や気圧などによって一様ではない。高級機種では外気圧の影響を受けにくいような圧力釜状の機能を持つ製品も多く、廉価版の安価で単純な機能のみの製品との差別化が図られている。一般大衆にとっては、1990年代には実用上十分な品質の炊飯を行えるようになっているが、2020年代初頭においては第三次AIブームの影響を受けて、クラウドに実装されたAIとの連携によって、投入された米の状態を判別し、高品質の炊飯を可能にするような製品も出回り初めている。
電気式で家庭用の、いわゆる白物家電に属する炊飯器は、1955年の発売当初は日本国内でのみ製造・販売・購入されていた。日本食ブームに乗って欧米へ、またアジア諸国の米飯を食べる地域でも家庭所得の増大と省力化の波に乗って輸出され、後に現地生産、さらには日本への輸出もされるようになっている。
さらに単身世帯の増加や個食化により、1合以下の少量でも炊飯できる電子レンジ用炊飯器や、電気式ライスクッカー(ミニ電気炊飯器)、ガスコンロ用炊飯鍋も市場に出回り、選択の幅が広がっている。
なお、日本では「ジャー炊飯器」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており電気式のものは電気機械器具品質表示規程に定めがある。
一般家庭用としては、小は単身者用の1合(180ミリリットル)程度のものから、大は10合(1.8リットル=1升)程度まである(業務用の製品では3升程度のものまである)。大きさ、機能、使用する素材、原産国によって価格の開きは大きく、5000円 - 12万円程度までの幅がある。特に高級機について、メーカー各社は競って味や保温性などを改良しており、高性能な釜に留まらず、加熱制御を最適化するための高度な機構や設定項目を持つ製品も登場している。更には、米の銘柄毎の炊き分けやIoTなど、もはや実用的かどうか分からない程に高度な機能が用意されている事もある。
安価な製品はアルミ製の内釜を電熱ヒーターで加熱している。現在はIH(Induction Heating)で釜自体を発熱させる方式を採用したものも多い。いずれも加熱や保温、タイマー機能などはマイコンで制御されている。IH式に圧力釜を併用したものもあり、より高温高圧(1.4気圧110°C程度で炊飯できる。また、最近はスチームによって加熱・保温するものも出ている。業務用においては、マイクロ波式のものもある。
内釜には、熱伝導率の高い銅やダイヤモンドなどを張り合わせたり、遠赤外線を放射する炭やセラミックを使ったり、ディンプル加工をしたりして蓄熱性を持たせたり、真空断熱によって発熱効率を上げかつ省電力で保温できるようにしたりといった工夫も行われている。
炊き上がりのバラツキを低減するために、温度センサの他、赤外線センサや重量センサなどが使われる。また、高級機には炎の揺らぎによる加熱ムラを再現した製品や、ユーザーが米の銘柄や食後の感想を入力するなどして加熱制御を最適化したり、IoTに対応する製品もある。
その他、耐久性を上げるため、フレームにアルミダイキャストを使ったものや、内釜に特殊コーティングを施して内釜の長期保を行っているものが存在する。逆に、炭素や陶器など、素材によっては割れやすい釜も存在する。
以前は、炊飯機能だけでなく保温機能も備えている炊飯器を炊飯ジャー、ジャー炊飯器等といったが、1980年代以降の電気式はこれが大半であり、ことさらそのような呼び方はしなくなった。ガス式でも電気による保温機能を備えているものがある。
普通の飯だけでなく、おこわや粥なども美味しく炊けるような付加価値をつけているものも多数あり、さらに機種によってはパンを焼き上げる機能や、パン生地、ヨーグルトの発酵に適した温度を維持する機能なども付加されている場合もある。
2000年代に入り、日本国内では、炊飯器でスープや肉じゃがなどの煮込み料理やスポンジケーキなどを調理することが消費者の間で流行し、炊飯器だけで調理できるレシピを収録した書籍も刊行されている。しかし使用する機種によっては内釜や炊飯器本体を傷める可能性もある。特に釜内側にテフロン加工をしてある機種では、中に陶磁器の食器を入れて調理する際に、その糸底でこのテフロン加工に傷が付くおそれがある。また内釜に焦げ付きが出来たり、内部のパッキングが傷む・匂いが染み付いて炊飯時に臭いが残るなどのトラブルも聞かれる(当然、用途以外に使った場合の故障には、無料修理保証は適用されない)。日本国外では、そのような機能が日本メーカーの製品も含めて標準となっていて、自動調理電気鍋と化しているものもある。
2020年代に入り、糖質カット機能を有した炊飯器が販売されるようになったが、虚偽であることが判明。景品表示法違反として消費者庁が4社に措置命令をだした。
日本初の民生用炊飯器は1923年に発売された三菱電機の炊飯器である。だがヒーターの上に釜を乗せた形状で、船舶用として使われいた。また三菱電機は1930年頃にも炊飯器を制作しており、こちらは自動的に温度に達したら電気が切れる仕組みとなっていた。「電気を使用して飯を炊く」と言う発想自体は古くから存在する。現に大日本帝国陸軍が1937年に制式採用した九七式炊事自動車には炊飯櫃という原始的な電気炊飯器が装備されていた。これは四角い木製の箱の両端に電極を付けたものである。炊飯櫃の中に研いだ米と水と少量の食塩を入れて電極に通電すると、中の水が通電により発熱して炊飯を行う。そして米が炊きあがると、水分が減少するため抵抗値が上昇して発熱量が少なくなり、そのまま保温に移行するという原理であった。しかし、この方式では水の種類や米の研ぎ加減によって発熱量が変化して炊き加減がばらつく上に、感電の危険が大きく、家庭用とするには不向きであった。
家庭用の電気炊飯器は、初期の開発中のものは、単にヒーターで加熱し一定温度になると切れる、という単純な構造のものであった。だが、この方式では外気温の影響を受けやすい(加えて日本では四季により季節の寒暖の差が激しい)ことから、炊き上がりにばらつきがあった。各メーカーは失敗続きのまま、試行錯誤を繰り返していた。この段階では櫃の中に電熱線を入れ込んだ試作機すらみられた。これについては東京通信工業(現在のソニー)が設立当初に取り組んでいる。また1950年代には熱源が練炭で、炊きあがりを電気式のブザーで知らせる練炭炊飯器も存在した。
1950年7月、東芝川崎本社にて家庭電気課による新製品開発予定の会議が開かれた。この開発予定リストの25番目に出たのが炊飯器であった。この会議の結果、試作計画が立てられた。ところが、先行する三菱の電気釜に対してメリットを出そうとするが難航、松下も三菱同様の二層形の製品を出したことで更にタイミングを逸し、開発は一時棚上げとなった。
3年後、家庭電気課は部に昇格。それとともに凍結していた電気釜の開発が再スタートすることになる。東芝の山田正吾は料理教室を主催する岡松喜与子による示唆を受けて、炊飯におけるアルファ化は98度以上であれば20分で完了する点に至った。協力会社の光伸社においてこれが実証された。
ヒーターで温度をあげる事は可能だが、問題は時間だった。水量や外気の関係でタイムスイッチでは不可能であり、サーモスタットを利用するとして、窯の中で水分が減少し釜の温度が上がるタイミングでは焦げてしまう。これを解決するための間接中炊き、つまり20分で蒸発する量の水を釜と釜の間に入れ、釜底の温度が確実にあがった段階でサーモスタットが入る仕掛けが考案され、協力会社にて実証された。。
最初に実用的な電気炊飯器を発明したのは、東京の町工場である「光伸社」の三並義忠である。釜を三重化する方法を採用することで、実用的な炊飯が可能となった(これは空気の層による保熱機能で、温度を高めるようにしたもの)。
やがて1955年に自動式電気釜という名で東京芝浦電気(現在の東芝)から世界初の発明品が発売された。「二重釜間接炊き」という方式が導入された。これは外釜と内釜の間に少量の水を入れておき、炊きあがると水分が減って温度が上がるのをバイメタルが検知して、自動式で電源オフにする機能である。他には磁石によってスイッチを電源オンに保持し、温度が磁石のキューリー点を超えると磁力を失って電源オフとするものあった。
このおかげで、いったん電源オンにすれば、あとは自動的に電源オフになるので、炊飯中に常時見張っている必要がなくなった。さらに、自動的に電源オンになるタイマーも別途併売された。これらにより、電源のON・OFFが自動化されたので、いったんタイマーをかけておけば、夜眠っている間に炊飯されて、朝起きたら炊き上がっているようになった。全自動化されて便利だったため、電気釜は大ヒット商品となった(東芝内では製品化する際、「寝ている間に米を炊こうなどという女と結婚したいのか」と製品化に反対、または製品化しても売れないという声もあった)。
なお、電気釜の開発と自動化の開発が混同されたり、電気釜の開発と電気釜の製品化が混同されるなど、「東芝が電気釜を開発した」という誤解も世間では広がっているが、これは正しくない。東芝は電気釜の開発過程では、光伸社に協力はしたが、主導したわけではない。
後の1956年には、松下電器も電気炊飯器を製品化している。松下電器製のものは鍋と釜を二層構造とすることで、比較的外気温に影響されない炊飯が可能であった(この方式を二層形電気釜という。その後二層形は炊飯に時間がかかることや消費電力が大きい欠点があり、1960年代以降は次第に廃れていった)。
この当時の炊飯器は保温機能を備えておらず、最後におひつに移す作業が必要で、またすぐに冷めてしまっていた。そうした中で、象印マホービンが1965年に半導体のPTCヒーターによる電子制御の保温機能を備えた電子ジャーを発売。同商品は年間200万個を売る大ヒット商品となった。その後、三菱電機が1967年(昭和42年)に保温機能を備えた炊飯器を発売する。
これらの登場によって、従来、家庭において洗米から水張り・火加減を行って、最後におひつに釜から移すという主婦の作業を軽減させる事にもつながり、洗濯機と並んで日本の家庭の必需品とまでなっている。1960年代を通してタイマーにより前夜にセットしておけば、早朝に炊飯する手間が省ける機能を備えた機種が登場、普及を見せた。東芝では保温機能を持つ機種を「保温釜」、持たないものを「電気釜」と呼んでいるが、純然たる「電気釜」は業務用を除き1990年代までに絶滅し、東芝の商品一覧からその名を消している。さらに「保温釜」の呼び名も一時期できるだけ使わないようにしていた時期があったが現在は普通に使われている。
1980年代よりマイコン制御を取り入れる機種が登場して多機能化(時計を内蔵し、タイマー設定も2つまで記憶できるなど)も進み、1990年代にはマイコンによる各種機能によって好みの炊き加減(硬い、柔らかいなど)が選択出来るように成った他、玄米や麦飯など、健康ブームにも関連して、様々な食品が調理できるものも登場している。中には蒸し器としても利用できる機種もある。
なお1980年代末には早くもIH(Induction Heating)方式による加熱を採用した機種も登場したが、これらでは様々な設定の組み合わせて加熱を細かく制御する事により、よりおいしいご飯が炊けると主張している。圧力釜仕様の製品では1.2 - 1.7気圧程度(家庭用は法規制で1.4気圧程度迄)の圧力がかかるようにして沸点を100°Cより高くしたり、高価な機種ではスチーム加熱などの機能を備えていることが多い。
1990年代には、中国で、機能は限られるが安価な炊飯器が大量に生産されるようになり、日本を含む各国に輸出されるようになった。このため、日本のメーカーは商品の機能を増やすなど、付加価値をつけることで対抗することとなった。
2000年代になり、内釜に金属以外の素材を使用し、遠赤外線の作用などによって、ご飯の風味が良くなることを特徴とした高級品が出現し、注目を集めている。三菱電機は「本炭釜」と称する炭素材削り出しの内釜を使用した高額商品を販売した。また、有田焼などの陶器の内釜を使用した商品もある。陶器を使用した粥や生薬用の電気調理器具は中国に1980年代からあり、近年は炊飯器も製造されている。
電気式の炊飯器の一部には、コンセントからプラグを抜いた状態でも時計を機能させ、タイマーや炊飯設定を記憶させておくためのリチウム電池が内蔵されている。電池が消耗すると通電していない状態では時計表示が消え、タイマー予約もできないが、炊飯や保温は支障なく行える製品がほとんどである。電池は基板にはんだ付けされた接片にスポット溶接されており、ユーザー自身による交換は想定されていない。そのため有料修理となるが、電池代+技術料(さらに部品代が加わる場合や基板交換の場合もある)でおおよそ4000円 - 8000円程度となる。
1980年代以降、中国、韓国など、米食を主体とする国でも、電気炊飯器が製造・販売されているが、価格競争重視のため単純な炊飯機能のみの単機能モデルがほとんどであった。
このため、日本に観光目的でやってくる高所得者層から出稼ぎでやってくる労働者まで、上手に美味しく炊ける日本国内向けの多機能炊飯器を土産に選ぶケースも多かった。しかし、日本国内向けに販売されている炊飯器はほぼ全て100V専用品のため電圧の差などの関係で日本国外ではそのまま使用できないケースもある。なお、秋葉原などの電気街に行くと、外国人観光客向けに115V/120V/200V/240Vなど、さまざまな国の電源に対応した多種多様の炊飯器が販売されており、観光客が英語などで表記されている炊飯器の箱を持っている姿が見られる。
また、これらの炊飯器は、日本の粘り気のある米(ジャポニカ米)を炊くために加熱パターンなどを最適化しており、特にインディカ米(タイなど東南アジアなどで広く栽培されている長粒種)をこれで炊くと、美味しく炊けない場合が多い。
本来、インディカ米には鍋で沸騰させた湯に投じて茹で、煮上がった所で湯を切って蒸らす湯取(ゆとり)という調理法を取る。これは日本の水加減を調節するやりかたとの違いが大きいが、これを炊飯器で再現させる事が難しい。このためインディカ米を日本の米と同じように(やや水を多めにして)炊くこととなるが、伝統的な調理法と比べると、どうしても風味が違ってしまうようである。特にチャーハンのように炒めて食べる場合には、炊飯器を使うと、出来た飯の炊け具合が良くない(表面がベタベタする)と言われている。
また、西アジアなど、内釜の底におこげができることを好む地域の場合、日本国内向けの商品では満足できない場合がある。このため、メーカーもこのような地域には、加熱パターンが異なる製品を投入している。
2005年の世界の家庭用電気炊飯器の生産量は約8500万台といわれ、内、中国が約6000万台で、大多数は広東省湛江市と廉江市で製造されている。他は、日本、韓国が主な産地である。
ちなみに、中国語では「電飯煲」というが、これは本来広東語の言い方で、最後の漢字も方言字であるが、広東省が生産基地のため、従来の「電飯鍋」という言い方を淘汰させてしまったものである。
炊飯釜を約1200度のバーナーによる直火で熱するのが特徴で、IH炊飯器に比べ複雑な機構が必要なく、調理時間もやや短い。ガスコンロ上に炊飯釜を乗せた形状のため、同容量の電気炊飯器に比べ全高は高くなる。都市ガス(12A・13A)用とプロパンガス(LPG)用があり、同じ機種でも燃料ごとに型番が異なる。
飲食店などの業務用は、ほとんどの場合ガス炊飯器やガスを使った大型の器具で、数十合(数升=数リットル)を一度に炊ける容量を持つ。こちらは炊き上がりよりも所要時間の短縮に注力される場合が多い。また、釜の形状も積み重ねができるものがあるなど、家庭用と違う需要に応えられるようにデザインされている。
なお、ガス炊飯器でも電気によって放電点火する方式のものや、保温できる機能を付加機能として備えているものもある。
日本国内でのガス炊飯器は、1902年(明治35年)に「ガスかまど」が開発され、改良を重ねながら各ガス会社により1960年代まで販売された。味にこだわる一部の料亭などでは現在でも使用されている。
1957年(昭和32年)にはガス自動炊飯器が開発され、1979年(昭和54年)になると電子ジャー(保温機能)付きガス炊飯器も登場。
1991年(平成3年)には、かまどでの炊飯を忠実に再現した家庭用高級機「αかまど炊き」が発売され、マイナーチェンジされながらロングセラーとなった。
2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以後、節電意識の高まりや電気料金の値上げが相次いだことから、炊飯時に電力消費量の少ないガス炊飯器に注目が集まり、一時的に品薄状態となったり、当初予想を大幅に越える出荷数を記録した。それだけでなく、旧来から電気炊飯器よりもガス炊飯器の方が火力が高いため美味であるとの意見も存在し、ガス炊飯器の根強いファンは居た。
2012年(平成24年)には、21年ぶりにフルモデルチェンジされた「直火匠(じかびのたくみ)」(リンナイ・東京ガス・大阪ガス・東邦ガス共同開発)が販売開始されている。各地域のガス会社との共同開発のため、「地域的な好み」を乗り越えての開発となった。
単体では炊飯できないが、他の調理機器のエネルギーを利用することで炊飯する調理器具も、炊飯器と呼ばれることがある(「電子レンジ用炊飯器」など)。ただし、ガスレンジやIHクッキングヒーターを用いるものでは、同様のものでも「炊飯鍋」と呼ばれることが多い。どちらも炊飯容量の少ないものが一般的で、参入メーカーも多岐にわたる。
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"text": "炊飯器(すいはんき)とは、米を炊いて飯にするための調理器具。主に電気式とガス式があり、電気式は自動調理電気鍋として扱える場合もある。",
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"text": "本項では特記がない限り、ジャポニカ米用を中心に記述する。",
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"text": "高度経済成長期以後の日本の主食を支える重要な家電である。家庭用においては電気式(電気炊飯器)とガス式(ガス炊飯器)、それに他の調理機器と組み合わせて使うものがあり、それぞれ電気釜・ガス釜・炊飯鍋ともいう。業務用ではライス・ボイラーといわれる大型のものや、洗米から炊飯までこなす全自動炊飯器なるもの(こちらは炊飯機とも呼ばれる)まで多様な種類が存在する。",
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"text": "日本では炊飯の省力化に対する需要は大きく、戦前から製品開発が行われてきたが、人間が行うような細かな加熱制御が難しく、高品質な炊飯が可能になるまでには50年以上が掛かっている。1923年に三菱電機から世界初かつ業務用の電気炊飯器が登場したが、未だ自動ではなく、一般人にとっては利用が難しいものでもあった。その後、一般に普及するに至る自動炊飯器は、高度経済成長期の1955年に東京芝浦電気(現在の東芝)から世界で初めて発売された。日本で自動炊飯器が発明に至った背景として、日本人にとって米は重要な主食で炊きあがり方にも細かな拘りがあり、また伝統的な「かまど」による炊飯が重労働であったことや、創意工夫する家電メーカーが多数登場し、自動炊飯器を生み出す文化的素地があったことが挙げられる。日本で主流のジャポニカ米の炊飯の工程は釜だけで完結するため自動化しやすく、海外で主流のインディカ米の炊飯の工程は茹でこぼしが必要(釜で炊くというよりも鍋でパスタのように茹でる)であるため自動化しにくい点も、日本と海外の炊飯器の開発状況に差を付けている。",
"title": "概要"
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"text": "電気式のものでは炊飯には30分(蒸らし時間を入れると1時間弱)程度の時間が掛かる。日本では1990年代より主流のマイコン内蔵の高度化した機種では、内蔵されたマイコンの演算機能により、炊き上がりの設定時間から炊飯開始の時刻を逆算、任意の時間に炊き上がるような製品も見られる。また、マイコンにソフトウェアが搭載された事と、第二次AIブームの影響を受けた事で、加熱のON/OFF制御から脱却し、ファジィコントロール,ニューロ・ファジィなど、加熱の初歩的な最適化も可能になった。なお炊飯に掛かる時間は、米の量、熱源の能力(電熱ヒーターのワット数や入力電圧あるいは火力)、外気温や気圧などによって一様ではない。高級機種では外気圧の影響を受けにくいような圧力釜状の機能を持つ製品も多く、廉価版の安価で単純な機能のみの製品との差別化が図られている。一般大衆にとっては、1990年代には実用上十分な品質の炊飯を行えるようになっているが、2020年代初頭においては第三次AIブームの影響を受けて、クラウドに実装されたAIとの連携によって、投入された米の状態を判別し、高品質の炊飯を可能にするような製品も出回り初めている。",
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"text": "電気式で家庭用の、いわゆる白物家電に属する炊飯器は、1955年の発売当初は日本国内でのみ製造・販売・購入されていた。日本食ブームに乗って欧米へ、またアジア諸国の米飯を食べる地域でも家庭所得の増大と省力化の波に乗って輸出され、後に現地生産、さらには日本への輸出もされるようになっている。",
"title": "概要"
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"text": "さらに単身世帯の増加や個食化により、1合以下の少量でも炊飯できる電子レンジ用炊飯器や、電気式ライスクッカー(ミニ電気炊飯器)、ガスコンロ用炊飯鍋も市場に出回り、選択の幅が広がっている。",
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"text": "なお、日本では「ジャー炊飯器」として家庭用品品質表示法の適用対象となっており電気式のものは電気機械器具品質表示規程に定めがある。",
"title": "概要"
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"text": "一般家庭用としては、小は単身者用の1合(180ミリリットル)程度のものから、大は10合(1.8リットル=1升)程度まである(業務用の製品では3升程度のものまである)。大きさ、機能、使用する素材、原産国によって価格の開きは大きく、5000円 - 12万円程度までの幅がある。特に高級機について、メーカー各社は競って味や保温性などを改良しており、高性能な釜に留まらず、加熱制御を最適化するための高度な機構や設定項目を持つ製品も登場している。更には、米の銘柄毎の炊き分けやIoTなど、もはや実用的かどうか分からない程に高度な機能が用意されている事もある。",
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"text": "安価な製品はアルミ製の内釜を電熱ヒーターで加熱している。現在はIH(Induction Heating)で釜自体を発熱させる方式を採用したものも多い。いずれも加熱や保温、タイマー機能などはマイコンで制御されている。IH式に圧力釜を併用したものもあり、より高温高圧(1.4気圧110°C程度で炊飯できる。また、最近はスチームによって加熱・保温するものも出ている。業務用においては、マイクロ波式のものもある。",
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"text": "内釜には、熱伝導率の高い銅やダイヤモンドなどを張り合わせたり、遠赤外線を放射する炭やセラミックを使ったり、ディンプル加工をしたりして蓄熱性を持たせたり、真空断熱によって発熱効率を上げかつ省電力で保温できるようにしたりといった工夫も行われている。",
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"text": "炊き上がりのバラツキを低減するために、温度センサの他、赤外線センサや重量センサなどが使われる。また、高級機には炎の揺らぎによる加熱ムラを再現した製品や、ユーザーが米の銘柄や食後の感想を入力するなどして加熱制御を最適化したり、IoTに対応する製品もある。",
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"text": "その他、耐久性を上げるため、フレームにアルミダイキャストを使ったものや、内釜に特殊コーティングを施して内釜の長期保を行っているものが存在する。逆に、炭素や陶器など、素材によっては割れやすい釜も存在する。",
"title": "電気炊飯器"
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{
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"text": "以前は、炊飯機能だけでなく保温機能も備えている炊飯器を炊飯ジャー、ジャー炊飯器等といったが、1980年代以降の電気式はこれが大半であり、ことさらそのような呼び方はしなくなった。ガス式でも電気による保温機能を備えているものがある。",
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},
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"text": "普通の飯だけでなく、おこわや粥なども美味しく炊けるような付加価値をつけているものも多数あり、さらに機種によってはパンを焼き上げる機能や、パン生地、ヨーグルトの発酵に適した温度を維持する機能なども付加されている場合もある。",
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"text": "2000年代に入り、日本国内では、炊飯器でスープや肉じゃがなどの煮込み料理やスポンジケーキなどを調理することが消費者の間で流行し、炊飯器だけで調理できるレシピを収録した書籍も刊行されている。しかし使用する機種によっては内釜や炊飯器本体を傷める可能性もある。特に釜内側にテフロン加工をしてある機種では、中に陶磁器の食器を入れて調理する際に、その糸底でこのテフロン加工に傷が付くおそれがある。また内釜に焦げ付きが出来たり、内部のパッキングが傷む・匂いが染み付いて炊飯時に臭いが残るなどのトラブルも聞かれる(当然、用途以外に使った場合の故障には、無料修理保証は適用されない)。日本国外では、そのような機能が日本メーカーの製品も含めて標準となっていて、自動調理電気鍋と化しているものもある。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "2020年代に入り、糖質カット機能を有した炊飯器が販売されるようになったが、虚偽であることが判明。景品表示法違反として消費者庁が4社に措置命令をだした。",
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"text": "日本初の民生用炊飯器は1923年に発売された三菱電機の炊飯器である。だがヒーターの上に釜を乗せた形状で、船舶用として使われいた。また三菱電機は1930年頃にも炊飯器を制作しており、こちらは自動的に温度に達したら電気が切れる仕組みとなっていた。「電気を使用して飯を炊く」と言う発想自体は古くから存在する。現に大日本帝国陸軍が1937年に制式採用した九七式炊事自動車には炊飯櫃という原始的な電気炊飯器が装備されていた。これは四角い木製の箱の両端に電極を付けたものである。炊飯櫃の中に研いだ米と水と少量の食塩を入れて電極に通電すると、中の水が通電により発熱して炊飯を行う。そして米が炊きあがると、水分が減少するため抵抗値が上昇して発熱量が少なくなり、そのまま保温に移行するという原理であった。しかし、この方式では水の種類や米の研ぎ加減によって発熱量が変化して炊き加減がばらつく上に、感電の危険が大きく、家庭用とするには不向きであった。",
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"text": "家庭用の電気炊飯器は、初期の開発中のものは、単にヒーターで加熱し一定温度になると切れる、という単純な構造のものであった。だが、この方式では外気温の影響を受けやすい(加えて日本では四季により季節の寒暖の差が激しい)ことから、炊き上がりにばらつきがあった。各メーカーは失敗続きのまま、試行錯誤を繰り返していた。この段階では櫃の中に電熱線を入れ込んだ試作機すらみられた。これについては東京通信工業(現在のソニー)が設立当初に取り組んでいる。また1950年代には熱源が練炭で、炊きあがりを電気式のブザーで知らせる練炭炊飯器も存在した。",
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"text": "1950年7月、東芝川崎本社にて家庭電気課による新製品開発予定の会議が開かれた。この開発予定リストの25番目に出たのが炊飯器であった。この会議の結果、試作計画が立てられた。ところが、先行する三菱の電気釜に対してメリットを出そうとするが難航、松下も三菱同様の二層形の製品を出したことで更にタイミングを逸し、開発は一時棚上げとなった。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "3年後、家庭電気課は部に昇格。それとともに凍結していた電気釜の開発が再スタートすることになる。東芝の山田正吾は料理教室を主催する岡松喜与子による示唆を受けて、炊飯におけるアルファ化は98度以上であれば20分で完了する点に至った。協力会社の光伸社においてこれが実証された。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "ヒーターで温度をあげる事は可能だが、問題は時間だった。水量や外気の関係でタイムスイッチでは不可能であり、サーモスタットを利用するとして、窯の中で水分が減少し釜の温度が上がるタイミングでは焦げてしまう。これを解決するための間接中炊き、つまり20分で蒸発する量の水を釜と釜の間に入れ、釜底の温度が確実にあがった段階でサーモスタットが入る仕掛けが考案され、協力会社にて実証された。。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "最初に実用的な電気炊飯器を発明したのは、東京の町工場である「光伸社」の三並義忠である。釜を三重化する方法を採用することで、実用的な炊飯が可能となった(これは空気の層による保熱機能で、温度を高めるようにしたもの)。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "やがて1955年に自動式電気釜という名で東京芝浦電気(現在の東芝)から世界初の発明品が発売された。「二重釜間接炊き」という方式が導入された。これは外釜と内釜の間に少量の水を入れておき、炊きあがると水分が減って温度が上がるのをバイメタルが検知して、自動式で電源オフにする機能である。他には磁石によってスイッチを電源オンに保持し、温度が磁石のキューリー点を超えると磁力を失って電源オフとするものあった。",
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"text": "このおかげで、いったん電源オンにすれば、あとは自動的に電源オフになるので、炊飯中に常時見張っている必要がなくなった。さらに、自動的に電源オンになるタイマーも別途併売された。これらにより、電源のON・OFFが自動化されたので、いったんタイマーをかけておけば、夜眠っている間に炊飯されて、朝起きたら炊き上がっているようになった。全自動化されて便利だったため、電気釜は大ヒット商品となった(東芝内では製品化する際、「寝ている間に米を炊こうなどという女と結婚したいのか」と製品化に反対、または製品化しても売れないという声もあった)。",
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"text": "なお、電気釜の開発と自動化の開発が混同されたり、電気釜の開発と電気釜の製品化が混同されるなど、「東芝が電気釜を開発した」という誤解も世間では広がっているが、これは正しくない。東芝は電気釜の開発過程では、光伸社に協力はしたが、主導したわけではない。",
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"text": "後の1956年には、松下電器も電気炊飯器を製品化している。松下電器製のものは鍋と釜を二層構造とすることで、比較的外気温に影響されない炊飯が可能であった(この方式を二層形電気釜という。その後二層形は炊飯に時間がかかることや消費電力が大きい欠点があり、1960年代以降は次第に廃れていった)。",
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"text": "この当時の炊飯器は保温機能を備えておらず、最後におひつに移す作業が必要で、またすぐに冷めてしまっていた。そうした中で、象印マホービンが1965年に半導体のPTCヒーターによる電子制御の保温機能を備えた電子ジャーを発売。同商品は年間200万個を売る大ヒット商品となった。その後、三菱電機が1967年(昭和42年)に保温機能を備えた炊飯器を発売する。",
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"text": "これらの登場によって、従来、家庭において洗米から水張り・火加減を行って、最後におひつに釜から移すという主婦の作業を軽減させる事にもつながり、洗濯機と並んで日本の家庭の必需品とまでなっている。1960年代を通してタイマーにより前夜にセットしておけば、早朝に炊飯する手間が省ける機能を備えた機種が登場、普及を見せた。東芝では保温機能を持つ機種を「保温釜」、持たないものを「電気釜」と呼んでいるが、純然たる「電気釜」は業務用を除き1990年代までに絶滅し、東芝の商品一覧からその名を消している。さらに「保温釜」の呼び名も一時期できるだけ使わないようにしていた時期があったが現在は普通に使われている。",
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"text": "1980年代よりマイコン制御を取り入れる機種が登場して多機能化(時計を内蔵し、タイマー設定も2つまで記憶できるなど)も進み、1990年代にはマイコンによる各種機能によって好みの炊き加減(硬い、柔らかいなど)が選択出来るように成った他、玄米や麦飯など、健康ブームにも関連して、様々な食品が調理できるものも登場している。中には蒸し器としても利用できる機種もある。",
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"text": "なお1980年代末には早くもIH(Induction Heating)方式による加熱を採用した機種も登場したが、これらでは様々な設定の組み合わせて加熱を細かく制御する事により、よりおいしいご飯が炊けると主張している。圧力釜仕様の製品では1.2 - 1.7気圧程度(家庭用は法規制で1.4気圧程度迄)の圧力がかかるようにして沸点を100°Cより高くしたり、高価な機種ではスチーム加熱などの機能を備えていることが多い。",
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"text": "1990年代には、中国で、機能は限られるが安価な炊飯器が大量に生産されるようになり、日本を含む各国に輸出されるようになった。このため、日本のメーカーは商品の機能を増やすなど、付加価値をつけることで対抗することとなった。",
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"text": "2000年代になり、内釜に金属以外の素材を使用し、遠赤外線の作用などによって、ご飯の風味が良くなることを特徴とした高級品が出現し、注目を集めている。三菱電機は「本炭釜」と称する炭素材削り出しの内釜を使用した高額商品を販売した。また、有田焼などの陶器の内釜を使用した商品もある。陶器を使用した粥や生薬用の電気調理器具は中国に1980年代からあり、近年は炊飯器も製造されている。",
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"text": "電気式の炊飯器の一部には、コンセントからプラグを抜いた状態でも時計を機能させ、タイマーや炊飯設定を記憶させておくためのリチウム電池が内蔵されている。電池が消耗すると通電していない状態では時計表示が消え、タイマー予約もできないが、炊飯や保温は支障なく行える製品がほとんどである。電池は基板にはんだ付けされた接片にスポット溶接されており、ユーザー自身による交換は想定されていない。そのため有料修理となるが、電池代+技術料(さらに部品代が加わる場合や基板交換の場合もある)でおおよそ4000円 - 8000円程度となる。",
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"text": "1980年代以降、中国、韓国など、米食を主体とする国でも、電気炊飯器が製造・販売されているが、価格競争重視のため単純な炊飯機能のみの単機能モデルがほとんどであった。",
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"text": "このため、日本に観光目的でやってくる高所得者層から出稼ぎでやってくる労働者まで、上手に美味しく炊ける日本国内向けの多機能炊飯器を土産に選ぶケースも多かった。しかし、日本国内向けに販売されている炊飯器はほぼ全て100V専用品のため電圧の差などの関係で日本国外ではそのまま使用できないケースもある。なお、秋葉原などの電気街に行くと、外国人観光客向けに115V/120V/200V/240Vなど、さまざまな国の電源に対応した多種多様の炊飯器が販売されており、観光客が英語などで表記されている炊飯器の箱を持っている姿が見られる。",
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"text": "また、これらの炊飯器は、日本の粘り気のある米(ジャポニカ米)を炊くために加熱パターンなどを最適化しており、特にインディカ米(タイなど東南アジアなどで広く栽培されている長粒種)をこれで炊くと、美味しく炊けない場合が多い。",
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"text": "本来、インディカ米には鍋で沸騰させた湯に投じて茹で、煮上がった所で湯を切って蒸らす湯取(ゆとり)という調理法を取る。これは日本の水加減を調節するやりかたとの違いが大きいが、これを炊飯器で再現させる事が難しい。このためインディカ米を日本の米と同じように(やや水を多めにして)炊くこととなるが、伝統的な調理法と比べると、どうしても風味が違ってしまうようである。特にチャーハンのように炒めて食べる場合には、炊飯器を使うと、出来た飯の炊け具合が良くない(表面がベタベタする)と言われている。",
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"text": "また、西アジアなど、内釜の底におこげができることを好む地域の場合、日本国内向けの商品では満足できない場合がある。このため、メーカーもこのような地域には、加熱パターンが異なる製品を投入している。",
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"text": "2005年の世界の家庭用電気炊飯器の生産量は約8500万台といわれ、内、中国が約6000万台で、大多数は広東省湛江市と廉江市で製造されている。他は、日本、韓国が主な産地である。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "ちなみに、中国語では「電飯煲」というが、これは本来広東語の言い方で、最後の漢字も方言字であるが、広東省が生産基地のため、従来の「電飯鍋」という言い方を淘汰させてしまったものである。",
"title": "電気炊飯器"
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"text": "炊飯釜を約1200度のバーナーによる直火で熱するのが特徴で、IH炊飯器に比べ複雑な機構が必要なく、調理時間もやや短い。ガスコンロ上に炊飯釜を乗せた形状のため、同容量の電気炊飯器に比べ全高は高くなる。都市ガス(12A・13A)用とプロパンガス(LPG)用があり、同じ機種でも燃料ごとに型番が異なる。",
"title": "ガス炊飯器"
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"text": "飲食店などの業務用は、ほとんどの場合ガス炊飯器やガスを使った大型の器具で、数十合(数升=数リットル)を一度に炊ける容量を持つ。こちらは炊き上がりよりも所要時間の短縮に注力される場合が多い。また、釜の形状も積み重ねができるものがあるなど、家庭用と違う需要に応えられるようにデザインされている。",
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"text": "なお、ガス炊飯器でも電気によって放電点火する方式のものや、保温できる機能を付加機能として備えているものもある。",
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"text": "日本国内でのガス炊飯器は、1902年(明治35年)に「ガスかまど」が開発され、改良を重ねながら各ガス会社により1960年代まで販売された。味にこだわる一部の料亭などでは現在でも使用されている。",
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"text": "1957年(昭和32年)にはガス自動炊飯器が開発され、1979年(昭和54年)になると電子ジャー(保温機能)付きガス炊飯器も登場。",
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"text": "1991年(平成3年)には、かまどでの炊飯を忠実に再現した家庭用高級機「αかまど炊き」が発売され、マイナーチェンジされながらロングセラーとなった。",
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"text": "2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以後、節電意識の高まりや電気料金の値上げが相次いだことから、炊飯時に電力消費量の少ないガス炊飯器に注目が集まり、一時的に品薄状態となったり、当初予想を大幅に越える出荷数を記録した。それだけでなく、旧来から電気炊飯器よりもガス炊飯器の方が火力が高いため美味であるとの意見も存在し、ガス炊飯器の根強いファンは居た。",
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"text": "2012年(平成24年)には、21年ぶりにフルモデルチェンジされた「直火匠(じかびのたくみ)」(リンナイ・東京ガス・大阪ガス・東邦ガス共同開発)が販売開始されている。各地域のガス会社との共同開発のため、「地域的な好み」を乗り越えての開発となった。",
"title": "ガス炊飯器"
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"text": "単体では炊飯できないが、他の調理機器のエネルギーを利用することで炊飯する調理器具も、炊飯器と呼ばれることがある(「電子レンジ用炊飯器」など)。ただし、ガスレンジやIHクッキングヒーターを用いるものでは、同様のものでも「炊飯鍋」と呼ばれることが多い。どちらも炊飯容量の少ないものが一般的で、参入メーカーも多岐にわたる。",
"title": "他の熱源を利用する炊飯器"
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炊飯器(すいはんき)とは、米を炊いて飯にするための調理器具。主に電気式とガス式があり、電気式は自動調理電気鍋として扱える場合もある。 本項では特記がない限り、ジャポニカ米用を中心に記述する。
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[[画像:Zojirushi NS-JSS10 with scoop 20050801.jpg|thumb|200px|right|[[象印マホービン|象印]]製電気炊飯器]]
'''炊飯器'''(すいはんき)とは、[[米]]を炊いて[[飯]]にするための[[調理]]器具。主に電気式とガス式があり、電気式は自動調理[[電気鍋]]として扱える場合もある。
本項では特記がない限り、[[ジャポニカ米]]用を中心に記述する。
== 概要 ==
[[高度経済成長|高度経済成長期]]以後の日本の主食を支える重要な家電である。[[家庭]]用においては[[電気]]式(電気炊飯器)と[[ガス燃料|ガス]]式(ガス炊飯器)、それに他の調理機器と組み合わせて使うものがあり、それぞれ'''電気釜'''・'''ガス釜'''・'''炊飯鍋'''ともいう。業務用ではライス・[[ボイラー]]といわれる大型のものや、洗米から炊飯までこなす全自動炊飯器なるもの(こちらは炊飯'''機'''とも呼ばれる)まで多様な種類が存在する。
[[日本]]では[[飯|炊飯]]の[[合理化|省力化]]に対する需要は大きく、[[戦前]]から[[商品開発|製品開発]]が行われてきたが、[[人間]]が行うような細かな[[熱|加熱]]制御が難しく、[[品質|高品質]]な[[飯|炊飯]]が可能になるまでには50年以上が掛かっている。[[1923年]]に三菱電機から世界初かつ業務用の電気炊飯器が登場したが、未だ自動ではなく、一般人にとっては利用が難しいものでもあった。その後、一般に普及するに至る自動炊飯器は、[[高度経済成長|高度経済成長期]]の[[1955年]]に東京芝浦電気(現在の東芝)から世界で初めて発売された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=台所革命!世界初の電気炊飯器の誕生物語|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/292625/|website=[マーケティング] All About|accessdate=2019-12-17|language=ja}}</ref>。日本で自動炊飯器が発明に至った背景として、日本人にとって米は重要な主食で炊きあがり方にも細かな拘りがあり、また伝統的な「かまど」による炊飯が重労働であったことや、創意工夫する家電メーカーが多数登場し、自動炊飯器を生み出す文化的素地があったことが挙げられる<ref>{{Cite web|和書|title=日本で生まれた「自動炊飯器」の歴史、海外の人に説明できますか {{!}} かまどからの解放とかまど味への回帰|url=https://courrier.jp/news/archives/213142/|website=クーリエ・ジャポン|date=2020-09-24|accessdate=2021-06-30|language=ja}}</ref>。日本で主流の[[ジャポニカ米]]の炊飯の工程は釜だけで完結するため自動化しやすく、海外で主流の[[インディカ米]]の炊飯の工程は茹でこぼしが必要(釜で炊くというよりも鍋でパスタのように茹でる)であるため自動化しにくい点も、日本と海外の炊飯器の開発状況に差を付けている。
電気式のものでは炊飯には30分(蒸らし時間を入れると1時間弱)程度の時間が掛かる。日本では[[1990年代]]より主流の[[マイクロコントローラ|マイコン]]内蔵の高度化した機種では、内蔵されたマイコンの演算機能により、炊き上がりの設定時間から炊飯開始の時刻を逆算、任意の時間に炊き上がるような製品も見られる。また、マイコンにソフトウェアが搭載された事と、{{独自研究範囲|第二次AIブームの影響を受けた事で|date=2022年6月}}、加熱のON/OFF制御から脱却し、[[ファジィ制御|ファジィコントロール]],[[人工知能|ニューロ・ファジィ]]など、加熱の初歩的な最適化も可能になった。なお炊飯に掛かる時間は、米の量、熱源の能力(電熱[[ヒーター]]の[[ワット]]数や入力[[電圧]]あるいは[[火力]])、[[気温|外気温]]や[[気圧]]などによって一様ではない。高級機種では外気圧の影響を受けにくいような[[圧力釜]]状の機能を持つ製品も多く、[[廉価版]]の安価で単純な機能のみの製品との[[差別化戦略|差別化]]が図られている。一般大衆にとっては、[[1990年代]]には実用上十分な品質の炊飯を行えるようになっているが、{{独自研究範囲|[[2020年代]]初頭においては第三次AIブームの影響を受けて|date=2022年6月}}、クラウドに実装されたAIとの連携によって、投入された米の状態を判別し、高品質の炊飯を可能にするような製品も出回り初めている。
電気式で家庭用の、いわゆる[[白物家電]]に属する炊飯器は、1955年の発売当初は日本国内でのみ製造・販売・購入されていた。[[日本料理|日本食]]ブームに乗って[[欧米]]へ、また[[アジア]]諸国の米飯を食べる地域でも家庭所得の増大と省力化の波に乗って[[輸出]]され、後に現地生産、さらには日本への輸出もされるようになっている。
さらに単身世帯の増加や[[個食]]化により、1合以下の少量でも炊飯できる[[電子レンジ]]用炊飯器や、電気式ライスクッカー(ミニ電気炊飯器)、ガスコンロ用炊飯鍋も市場に出回り、選択の幅が広がっている。
なお、日本では「ジャー炊飯器」として[[家庭用品品質表示法]]の適用対象となっており電気式のものは電気機械器具品質表示規程に定めがある<ref name="caa">{{Cite web|和書|url=http://www.caa.go.jp/hinpyo/law/law_06.html#17|title=電気機械器具品質表示規程|publisher=消費者庁|accessdate=2013-05-23}}</ref>。
== 電気炊飯器 ==
=== 機能・仕様・価格 ===
一般家庭用としては、小は単身者用の1[[合]](180[[ミリリットル]])程度のものから、大は10合(1.8[[リットル]]=1[[升]])程度まである(業務用の製品では3升程度のものまである)。大きさ、機能、使用する素材、原産国によって[[価格]]の開きは大きく、5000円 - 12万円程度までの幅がある。特に高級機について、メーカー各社は競って味や保温性などを改良しており、高性能な釜に留まらず、加熱制御を最適化するための高度な機構や設定項目を持つ製品も登場している。更には、米の銘柄毎の炊き分けや[[モノのインターネット|IoT]]など、もはや実用的かどうか分からない程に高度な機能が用意されている事もある。
安価な製品は[[アルミ]]製の内釜を電熱[[ヒーター]]で加熱している。現在は[[誘導加熱|IH(Induction Heating)]]で釜自体を発熱させる方式を採用したものも多い。いずれも加熱や保温、タイマー機能などはマイコンで制御されている。IH式に[[圧力釜]]を併用したものもあり、より高温高圧(1.4気圧110{{℃}}程度で炊飯できる。また、最近はスチームによって加熱・保温するものも出ている。業務用においては、マイクロ波式のものもある。
内釜には、[[熱伝導率]]の高い[[銅]]や[[ダイヤモンド]]などを張り合わせたり、[[遠赤外線]]を放射する炭やセラミックを使ったり、ディンプル加工をしたりして蓄熱性を持たせたり、[[魔法瓶|真空断熱]]によって発熱効率を上げかつ省電力で保温できるようにしたりといった工夫も行われている。
炊き上がりのバラツキを低減するために、温度センサの他、赤外線センサや重量センサなどが使われる。また、高級機には炎の揺らぎによる加熱ムラを再現した製品や、ユーザーが米の銘柄や食後の感想を入力するなどして加熱制御を最適化したり、[[モノのインターネット|IoT]]に対応する製品もある。
その他、耐久性を上げるため、フレームにアルミダイキャストを使ったものや、内釜に特殊コーティングを施して内釜の長期保を行っているものが存在する。逆に、炭素や陶器など、素材によっては割れやすい釜も存在する。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+ 採用技術の例
!colspan="2"|メーカー!!吸水!!温度上昇!!炊きムラ抑制!!蒸気のうまみ還元!!保温!!内釜の耐久性!!その他
|-
|colspan="2"|三菱||可変超音波吸水||炭素釜||全面加熱||蒸気密封・うまさカートリッジ||||炭素により脆弱||米の銘柄毎の加熱制御最適化
|-
|colspan="2"|東芝||真空ひたし||圧力釜||ダイアモンドチタンコート・遠赤ダイアモンド銀コート・全面ディンプル||うまみドーム蒸気口||真空美白保温||ダイアモンドチタンコート||
|-
|rowspan="2"|パナソニック||旧松下|| ||高温スチーム・高硬度中空セラミックス・高断熱中空セラミックス||全面加熱・遠赤ハードコート(ダイアモンド含有)|| ||スチーム再加熱||遠赤ハードコート(ダイアモンド含有)||
|-
|旧三洋||可変圧力吸水||圧力釜||純銅仕込み釜||うまみタンク||最適加熱||||
|-
|colspan="2"|日立|| ||圧力スチーム||||蒸気カット||スチーム・真空断熱||ゴールドフッ素加工||
|-
|colspan="2"|タイガー|| ||圧力釜・剛火IH・熱封土鍋コーティング(セラミックビーズ+中空ガラスビーズ)||遠赤土鍋コーティング・土鍋風大かきまぜ技(大沸騰)|| ||||高耐久フッ素加工||
|-
|colspan="2"|象印||プラチナナノ粒子を使った水質アルカリ化によるたんぱく質分解||圧力釜||側面加熱・羽釜リング|| ||最適温度保温||||
|-
|colspan="2"|シャープ||かき混ぜによる粒引き離し||中空ビーズ||かき混ぜによる温度ムラ抑制||かき混ぜによる泡切り||||液晶ガラス入りフッ素コート||かき混ぜによる洗米
|}
=== 付加機能 ===
以前は、炊飯機能だけでなく保温機能も備えている炊飯器を'''炊飯ジャー'''、'''ジャー炊飯器'''等といったが、[[1980年代]]以降の電気式はこれが大半であり、ことさらそのような呼び方はしなくなった。ガス式でも電気による保温機能を備えているものがある。
普通の飯だけでなく、[[おこわ]]や[[粥]]なども美味しく炊けるような付加価値をつけているものも多数あり、さらに機種によっては[[パン]]を焼き上げる機能や、パン生地、[[ヨーグルト]]の[[発酵]]に適した温度を維持する機能なども付加されている場合もある。
[[2000年代]]に入り、日本国内では、炊飯器で[[スープ]]や[[肉じゃが]]などの煮込み料理や[[スポンジケーキ]]などを調理することが消費者の間で流行し、炊飯器だけで調理できる[[レシピ]]を収録した書籍も刊行されている。しかし使用する機種によっては内釜や炊飯器本体を傷める可能性もある。特に釜内側に[[テフロン]]加工をしてある機種では、中に[[陶磁器]]の食器を入れて調理する際に、その糸底でこのテフロン加工に傷が付くおそれがある。また内釜に焦げ付きが出来たり、内部のパッキングが傷む・匂いが染み付いて炊飯時に[[臭い]]が残るなどのトラブルも聞かれる(当然、用途以外に使った場合の[[故障]]には、無料修理[[保証]]は適用されない)。日本国外では、そのような機能が日本メーカーの製品も含めて標準となっていて、自動調理電気鍋と化しているものもある。
==== 糖質カット機能 ====
2020年代に入り、糖質カット機能を有した炊飯器が販売されるようになったが、虚偽であることが判明。[[景品表示法違反]]として[[消費者庁]]が4社に措置命令をだした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6541b956e4b02c5617dadb0f|title=炊飯器「最大54% 驚異の糖質カット」は根拠なし。消費者庁が4社に措置命令。「そんなうまい話はない」との声も|accessdate=2023-11-02|publisher=Huffpost}}</ref>。
=== 歴史 ===
==== 前史 ====
日本初の民生用炊飯器は1923年に発売された[[三菱電機]]の炊飯器である。だがヒーターの上に釜を乗せた形状で、船舶用として使われいた。また三菱電機は1930年頃にも炊飯器を制作しており、こちらは自動的に温度に達したら電気が切れる仕組みとなっていた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/12309557/]</ref>。「電気を使用して飯を炊く」と言う発想自体は古くから存在する。現に[[大日本帝国陸軍]]が[[1937年]]に制式採用した[[九七式炊事自動車]]には炊飯櫃という原始的な電気炊飯器が装備されていた。これは四角い木製の箱の両端に電極を付けたものである。炊飯櫃の中に研いだ米と水と少量の食塩を入れて電極に通電すると、中の水が通電により発熱して炊飯を行う。そして米が炊きあがると、水分が減少するため抵抗値が上昇して発熱量が少なくなり、そのまま保温に移行するという原理であった。しかし、この方式では水の種類や米の研ぎ加減によって発熱量が変化して炊き加減がばらつく上に、感電の危険が大きく、家庭用とするには不向きであった。
家庭用の電気炊飯器は、初期の開発中のものは、単にヒーターで加熱し一定温度になると切れる、という単純な構造のものであった。だが、この方式では外気温の影響を受けやすい(加えて日本では[[四季]]により[[季節]]の寒暖の差が激しい)ことから、炊き上がりにばらつきがあった。各メーカーは失敗続きのまま、[[試行錯誤]]を繰り返していた。この段階では櫃の中に電熱線を入れ込んだ試作機すらみられた。これについては東京通信工業(現在の[[ソニー]])が設立当初に取り組んでいる<ref>『MADE IN JAPAN』([[朝日新聞社]]、[[盛田昭夫]]、[[下村満子]]、E・M・ラインゴールド共著、ISBN 978-4022605825)</ref>。また1950年代には熱源が練炭で、炊きあがりを電気式のブザーで知らせる練炭炊飯器も存在した<ref>[http://sinanengroup.co.jp/company/history.html 「くらしと煉炭」(昭和35年)] [[シナネンホールディングス]]沿革</ref>。
==== 電気炊飯器の開発 ====
1950年7月、東芝川崎本社にて家庭電気課による新製品開発予定の会議が開かれた。この開発予定リストの25番目に出たのが炊飯器であった。この会議の結果、試作計画が立てられた。ところが、先行する三菱の電気釜に対してメリットを出そうとするが難航、松下も三菱同様の二層形の製品を出したことで更にタイミングを逸し、開発は一時棚上げとなった。
3年後、家庭電気課は部に昇格。それとともに凍結していた電気釜の開発が再スタートすることになる。東芝の山田正吾は料理教室を主催する岡松喜与子による示唆を受けて、炊飯におけるアルファ化は98度以上であれば20分で完了する点に至った。協力会社の光伸社においてこれが実証された。
ヒーターで温度をあげる事は可能だが、問題は時間だった。水量や外気の関係でタイムスイッチでは不可能であり、サーモスタットを利用するとして、窯の中で水分が減少し釜の温度が上がるタイミングでは焦げてしまう。これを解決するための間接中炊き、つまり20分で蒸発する量の水を釜と釜の間に入れ、釜底の温度が確実にあがった段階でサーモスタットが入る仕掛けが考案され、協力会社にて実証された。<ref>家電今昔物語、山田正吾 述 他、三省堂、1987、P140-148</ref>。
最初に実用的な電気炊飯器を発明したのは、東京の町工場である「光伸社」の[[三並義忠]]<ref>[http://homepage1.nifty.com/sagi/projectx.html プロジェクトX 挑戦者たち]</ref><ref>[http://www2u.biglobe.ne.jp/~tougyuu/nikki3a01.htm プロジェクトXの詳しい紹介]</ref>である。釜を三重化する方法を採用することで、実用的な炊飯が可能となった(これは空気の層による保熱機能で、温度を高めるようにしたもの)。
[[File:Electric Rice Cooker 1956.jpg|thumb|東芝の「自動式電気釜」の広告(1956年)]]
やがて[[1955年]]に'''自動式電気釜'''という名で東京芝浦電気(現在の東芝)から世界初の発明品が発売された<ref name=":0" />。「二重釜間接炊き」<ref>[http://kagakukan.toshiba.co.jp/history/1goki/1955cooker/index.html 東芝科学館]</ref>という方式が導入された。これは外釜と内釜の間に少量の水を入れておき、炊きあがると水分が減って温度が上がるのをバイメタルが検知して、'''[[自動]]式'''で電源オフにする機能である。他には磁石によってスイッチを電源オンに保持し、温度が磁石の[[キューリー点]]を超えると磁力を失って電源オフとするものあった。
このおかげで、いったん電源オンにすれば、あとは自動的に電源オフになるので、炊飯中に常時見張っている必要がなくなった。さらに、自動的に電源オンになる[[タイマー]]も別途併売された。これらにより、電源のON・OFFが自動化されたので、いったんタイマーをかけておけば、夜眠っている間に炊飯されて、朝起きたら炊き上がっているようになった。全自動化されて便利だったため、電気釜は大ヒット商品となった(東芝内では製品化する際、「寝ている間に米を炊こうなどという女と結婚したいのか」と製品化に反対、または製品化しても売れないという声もあった)<ref>発明の技術 : 創造に生きる企業家の体験秘話、布川周二, 坂根鶴夫 著、叢文社、1967、P97</ref>。
なお、電気釜の開発と自動化の開発が混同されたり、電気釜の開発と電気釜の製品化が混同されるなど、「東芝が電気釜を開発した」という誤解も世間では広がっているが、これは正しくない。東芝は電気釜の開発過程では、光伸社に協力はしたが、主導したわけではない。
後の[[1956年]]には、[[パナソニック|松下電器]]も電気炊飯器を製品化している。松下電器製のものは鍋と釜を二層構造とすることで、比較的外気温に影響されない炊飯が可能であった(この方式を二層形電気釜という。その後二層形は炊飯に時間がかかることや消費電力が大きい欠点があり、1960年代以降は次第に廃れていった)。
この当時の炊飯器は保温機能を備えておらず、最後におひつに移す作業が必要で、またすぐに冷めてしまっていた。そうした中で、[[象印マホービン]]が1965年に[[半導体]]の[[PTC]]ヒーターによる電子[[制御]]の保温機能を備えた電子ジャーを発売。同商品は年間200万個を売る大ヒット商品となった。その後、[[三菱電機]]が[[1967年]](昭和42年)に保温機能を備えた炊飯器を発売する<ref>2007年10月14日 産経iza『“お米文化”救った 「電子ジャー」開発の秘密』</ref>。
これらの登場によって、従来、家庭において洗米から水張り・火加減を行って、最後におひつに釜から移すという主婦の作業を軽減させる事にもつながり、[[洗濯機]]と並んで日本の家庭の必需品とまでなっている。[[1960年代]]を通してタイマーにより前夜にセットしておけば、早朝に炊飯する手間が省ける機能を備えた機種が登場、普及を見せた。東芝では保温機能を持つ機種を「保温釜」、持たないものを「電気釜」と呼んでいるが、純然たる「電気釜」は業務用を除き1990年代までに絶滅し、東芝の商品一覧からその名を消している。さらに「保温釜」の呼び名も一時期できるだけ使わないようにしていた時期があったが現在は普通に使われている。
[[1980年代]]より[[マイコン]]制御を取り入れる機種が登場して[[多機能化]]([[時計]]を内蔵し、タイマー設定も2つまで記憶できるなど)も進み、[[1990年代]]には[[マイコン]]による各種機能によって好みの炊き加減(硬い、柔らかいなど)が選択出来るように成った他、[[玄米]]や[[ムギ|麦]]飯など、[[健康ブーム]]にも関連して、様々な食品が調理できるものも登場している。中には蒸し器としても利用できる機種もある。
なお[[1980年代]]末には早くも[[誘導加熱|IH(Induction Heating)]]方式による加熱を採用した機種も登場した<ref>[http://panasonic.jp/labo/history/product/cook/suihan/1990/ パナソニック1990年(平成2年)5万円の炊飯器、口コミで大ブームに!|開発物語]</ref>が、これらでは様々な設定の組み合わせて加熱を細かく制御する事により、よりおいしいご飯が炊けると主張している。圧力釜仕様の製品では1.2 - 1.7[[気圧]]程度(家庭用は法規制で1.4気圧程度迄)の圧力がかかるようにして沸点を100{{℃}}より高くしたり、高価な機種では[[水蒸気|スチーム]]加熱などの機能を備えていることが多い。
[[1990年代]]には、[[中華人民共和国|中国]]で、機能は限られるが安価な炊飯器が大量に生産されるようになり、日本を含む各国に[[輸出]]されるようになった。このため、日本のメーカーは商品の機能を増やすなど、付加価値をつけることで対抗することとなった。
[[2000年代]]になり、内釜に金属以外の素材を使用し、[[赤外線|遠赤外線]]の作用などによって、ご飯の[[風味]]が良くなることを特徴とした高級品が出現し、注目を集めている。[[三菱電機]]は「[[本炭釜]]」と称する[[炭素]]材削り出しの内釜を使用した高額商品を販売した。また、[[有田焼]]などの[[陶器]]の内釜を使用した商品もある。陶器を使用した[[粥]]や生薬用の電気調理器具は中国に[[1980年代]]からあり、近年は炊飯器も製造されている。
=== 内蔵電池 ===
電気式の炊飯器の一部には、[[配線用差込接続器|コンセントからプラグ]]を抜いた状態でも[[時計]]を機能させ、[[タイマー]]や炊飯設定を記憶させておくための[[リチウム電池]]が内蔵されている。電池が消耗すると通電していない状態では時計表示が消え、タイマー予約もできないが、炊飯や保温は支障なく行える製品がほとんどである。電池は[[基板]]に[[はんだ付け]]された接片に[[スポット溶接]]されており、ユーザー自身による交換は想定されていない。そのため有料修理となるが、電池代+技術料(さらに部品代が加わる場合や基板交換の場合もある)でおおよそ4000円 - 8000円程度となる。
=== 国外から見た日本の炊飯器 ===
{{出典の明記|section=1|date=2015年2月}}
1980年代以降、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]など、米食を主体とする国でも、電気炊飯器が製造・販売されているが、価格競争重視のため単純な炊飯機能のみの単機能モデルがほとんどであった。
このため、[[日本]]に[[観光]]目的でやってくる高所得者層から[[出稼ぎ]]でやってくる[[労働者]]まで、上手に美味しく炊ける日本国内向けの多機能炊飯器を[[土産]]に選ぶケースも多かった。しかし、日本国内向けに販売されている炊飯器はほぼ全て100[[電圧|V]]専用品のため[[電圧]]の差などの関係で日本国外ではそのまま使用できないケースもある。なお、[[秋葉原]]などの[[電気街]]に行くと、外国人観光客向けに115V/120V/200V/240Vなど、さまざまな国の電源に対応した多種多様の炊飯器が販売されており、観光客が英語などで表記されている炊飯器の箱を持っている姿が見られる。
また、これらの炊飯器は、日本の粘り気のある米([[ジャポニカ米]])を炊くために加熱パターンなどを最適化しており、特に[[インディカ米]](タイなど東南アジアなどで広く栽培されている長粒種)をこれで炊くと、美味しく炊けない場合が多い。
本来、インディカ米には鍋で沸騰させた湯に投じて茹で、煮上がった所で湯を切って蒸らす湯取(ゆとり)という調理法を取る。これは日本の水加減を調節するやりかたとの違いが大きいが、これを炊飯器で再現させる事が難しい。このためインディカ米を日本の米と同じように(やや水を多めにして)炊くこととなるが、伝統的な調理法と比べると、どうしても風味が違ってしまうようである。特に[[チャーハン]]のように炒めて食べる場合には、炊飯器を使うと、出来た飯の炊け具合が良くない(表面がベタベタする)と言われている。
また、[[西アジア]]など、内釜の底におこげができることを好む地域の場合、日本国内向けの商品では満足できない場合がある。このため、[[メーカー]]もこのような地域には、加熱パターンが異なる製品を投入している。
=== 生産量 ===
[[2005年]]の世界の家庭用電気炊飯器の[[生産]]量は約8500万台といわれ、内、[[中華人民共和国|中国]]が約6000万台で、大多数は[[広東省]][[湛江市]]と[[廉江市]]で製造されている。他は、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]が主な産地である。
ちなみに、[[中国語]]では「{{Lang|zh|電飯煲}}」というが、これは本来[[広東語]]の言い方で、最後の漢字も[[方言字]]であるが、広東省が生産基地のため、従来の「電飯鍋」という言い方を淘汰させてしまったものである。
== ガス炊飯器 ==
[[File:Gas suihanki 01.jpg|thumb|200px|ガス炊飯器(家庭用)]]
=== 仕様 ===
炊飯釜を約1200度の[[バーナー]]による直火で熱するのが特徴で、IH炊飯器に比べ複雑な機構が必要なく、調理時間もやや短い<ref>[http://home.tokyo-gas.co.jp/living/kitchen/suihanki/merit/index.html ガス炊飯器のメリット] - 東京ガス</ref><!-- リンク先の「おいしさ」についてはガス会社の調査で、第三者の調査ではないため記事には記載していません -->。[[焜炉#ガス焜炉(気体燃料)|ガスコンロ]]上に炊飯釜を乗せた形状のため、同容量の電気炊飯器に比べ全高は高くなる。[[都市ガス]](12A・13A)用と[[液化石油ガス|プロパンガス]](LPG)用があり、同じ機種でも燃料ごとに型番が異なる。
=== 業務用炊飯器 ===
[[飲食店]]などの[[業務用]]は、ほとんどの場合ガス炊飯器やガスを使った大型の器具で<ref group="注">電気では200Vの動力線が必要になり、時間がかかる上に水気の多い厨房では[[感電]]や[[漏電]]などの危険が大きい。パナソニックは3升炊きが可能なIHジャー炊飯器「[http://panasonic.jp/appliance/product/cook_biz/sr_pgb54.html SR-PGB54P/AP]」を発売(前者は単相200V、後者は三相200V。象印マホービン・タイガー魔法瓶にもOEM)しているが、あまりにも出力が高く、型式認定の対象外であるため、[[電波法]]に基づく許可が必要となっている(詳細は電磁調理器の項目を参照のこと)。</ref>、数十合(数升=数リットル)を一度に炊ける容量を持つ。こちらは炊き上がりよりも所要時間の短縮に注力される場合が多い。また、釜の形状も積み重ねができるものがあるなど、家庭用と違う需要に応えられるようにデザインされている。
なお、ガス炊飯器でも電気によって放電点火する方式のものや、保温できる機能を付加機能として備えているものもある。
=== 歴史 ===
日本国内でのガス炊飯器は、[[1902年]](明治35年)に「'''ガスかまど'''」が開発され<ref>{{Citation|ref=none|editor=東京ガス株式会社|date=2016年|title=東京ガス : 会社案内 / コーポレートメッセージ / 東京ガス130年、挑戦の歴史|url=http://www.tokyo-gas.co.jp/Annai/corporate/130year.html|accessdate=2017年2月19日}}</ref><ref group="注">2月25日、東京瓦斯会社はガス炊飯かまどの専売特許を取得した。東京瓦斯七十年史</ref>、改良を重ねながら各ガス会社により1960年代まで販売された。味にこだわる一部の料亭などでは現在でも使用されている<ref>[http://home.tokyo-gas.co.jp/living/jikabigohan/jikabinotakumi/evolution.html 直火ごはん「進化」] - 東京ガス</ref>。
1957年(昭和32年)にはガス自動炊飯器が開発され、[[1979年]](昭和54年)になると電子ジャー(保温機能)付きガス炊飯器も登場。
[[1991年]](平成3年)には、かまどでの炊飯を忠実に再現した家庭用高級機「'''αかまど炊き'''」が発売され、マイナーチェンジされながらロングセラーとなった。
[[2011年]]の[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])以後、[[節電]]意識の高まりや電気料金の値上げが相次いだことから、炊飯時に電力消費量の少ないガス炊飯器に注目が集まり、一時的に品薄状態となったり、当初予想を大幅に越える出荷数を記録した<ref name="gas">[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20130304/1047858/?ST=life ガス炊飯器の実力検証【前篇】] - 日経トレンディネット(2013年3月14日)</ref>。それだけでなく、旧来から電気炊飯器よりもガス炊飯器の方が火力が高いため美味であるとの意見も存在し、ガス炊飯器の根強いファンは居た。
[[2012年]](平成24年)には、21年ぶりにフルモデルチェンジされた「'''直火匠(じかびのたくみ)'''」([[リンナイ]]・[[東京ガス]]・[[大阪ガス]]・[[東邦ガス]]共同開発)が販売開始されている<ref name="gas"/>。各地域のガス会社との共同開発のため、「地域的な好み」を乗り越えての開発となった<ref>[http://www.tohogas.co.jp/approach/technologies/interview/takumi/ 開発担当者インタビュー #04] - 東邦ガス</ref>。
== 他の熱源を利用する炊飯器 ==
[[File:Range suihanki 01.jpg|thumb|200px|電子レンジ用炊飯器]]
単体では炊飯できないが、他の調理機器のエネルギーを利用することで炊飯する調理器具も、炊飯器と呼ばれることがある(「[[電子レンジ]]用炊飯器」など)。ただし、ガスレンジやIHクッキングヒーターを用いるものでは、同様のものでも「炊飯鍋」と呼ばれることが多い。どちらも炊飯容量の少ないものが一般的で、参入メーカーも多岐にわたる。
== 主な製造メーカー ==
* [[象印マホービン]](炊飯器の国内シェアトップ)
* [[タイガー魔法瓶]]
* [[東芝ホームテクノ]](販売は[[東芝ライフスタイル]])
* [[パナソニック]]
** [[三洋電機]](可変圧力式機種「Wおどり炊き」シリーズを製造)
* [[シャープ]]
* [[三菱電機]]([[三菱電機ホーム機器]])
* [[日立グローバルライフソリューションズ]]
* [[アイリスオーヤマ]]
* [[クク電子]]
* [[山善]]
* [[リンナイ]](ガス炊飯器)
* [[パロマ (企業)|パロマ]](ガス炊飯器)
* [[貝印]](電子レンジ用炊飯器)
* 森井(電子レンジ用炊飯器)
* [[HARIO]](電子レンジ用炊飯器)
* [[ハイアール]]
* {{仮リンク|大同公司|zh|大同公司}}([[大同電鍋]]を販売する台湾企業)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commons|Rice cooker}}
* [[米]]
* [[飯]]
* [[家庭用電気機械器具]](家電)
* [[電気製品の一覧]]
* [[圧力鍋]]
== 外部リンク ==
* [http://home.tokyo-gas.co.jp/living/kitchen/suihanki/ 東京ガス:ガス炊飯器]
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[[Category:米]]
[[Category:米料理]]
[[Category:家電機器]]
[[Category:調理容器]]
[[Category:加熱]]
[[Category:日本の発明]]
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廃線
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廃線(はいせん)とは、鉄道路線などの営業を廃止すること。またはその廃止された路線のこと。事務手続き上の扱いは「休止」となっているが、実態としては廃線状態になっている場合も含めることもある。
日本においては、かつては鉄道の廃止は「許可制」だった。国は鉄道事業者から提出された申請により廃止を許可するか否かを判断し、許可された場合のみ廃止が可能だった。1999年の鉄道事業法改正では、国の許可を得る必要がなくなり、廃止日の1年前までに廃止届を提出することで鉄道事業者の独断で廃止にすることが可能になった。これにより廃止のハードルは大きく下がり、赤字路線の廃止が急増した。
ある鉄道路線が廃線になる要因としては以下のようなものが挙げられる。
なお、下記の複数の条件に当てはまりながらも地道な努力と周辺の支援により運行を継続している鉄道もある。銚子電気鉄道もその一つである。
この要因が廃線の原因としては最も多い。その多くはローカル線であり、開業以来1度も黒字になったことがなく廃線になることも珍しくない。日本の鉄道では国鉄(JR)やその他の鉄道会社が自主的に廃止を決定したもののほか、1968年(昭和43年)から行われた赤字83線に指定されたもの、1980年代に行われた国鉄再建法に基づく特定地方交通線に指定されたものなどがある。
太平洋戦争中に「不要不急線」として休止されレールなどの資材が剥がされ、戦後鉄道路線として復活されないまま廃止となった路線 もある。
旅客・貨物の減少の要因としては、1960年代まではバスやトラックの発達が主要因であったが、それ以降は自家用車の普及(モータリゼーション)が主要因となっている。仙北鉄道の場合、営業末期には旅客・貨物ともに最盛期より減少していたが、赤字を出すほどではなかった。しかし車両および施設の更新に多額の費用がかかることから、鉄道を存続させるよりもバスに転換する方が得策という経営的判断による廃止であった。すでに昭和初期においてバスやトラックとの競合に敗れて廃線・廃業となっていた軽便鉄道や人車鉄道も多かった。
また沿線人口の減少(過疎化)が利用客の減少を招く場合も多い。近郊部でも国鉄改革に伴う、貨物輸送の大幅な変更(詳しくは1984年ダイヤ改正での貨物列車整理を参照)による車扱貨物の減少で別府鉄道のように廃線に追い込まれた路線もある。
ローカル線沿線の人口の減少については、1960年代から1970年代には鉱業・林業の衰退や離農の増加など産業構造の変化によるものが要因の一つであったが、21世紀初頭では出生率の低下による影響も大きい。自家用車の普及により通勤需要の少ないローカル線では高校生を中心とした通学利用が主要な収入源(実際は運賃割引率が高い通学利用だけでは採算が取れないことが多い)となっているため、少子化による通学利用客の大幅な減少は廃線につながる要因の一つとなっている。
利用減少の赤字による廃線ではあるが、鉄道会社そのものの倒産や廃業など経営破綻をしたことが直接の原因となって廃線となった例もある。この例としては武州鉄道・磐梯急行電鉄・雄別鉄道がある。また、布引電気鉄道や光明電気鉄道は末期には事実上の経営破綻状態で、電気代が支払えずに送電を止められとどめを刺されたことで廃線となった。
慢性的な赤字状態で、ついには地域の公共交通の維持のためとして地方公共団体から支給されていた補助金が打ち切られて会社存続が不可能となり会社解散・廃線となったものもある。この例としては野上電気鉄道やくりはら田園鉄道がある。第3セクターの三木鉄道の場合は、慢性的な赤字と三木市の財政難のため、市長選挙で鉄道廃止派の薮本吉秀が当選したことが直接のきっかけとなり、廃線となったものである。
接続する路線が廃線となったことで連鎖的に廃線となった例もある。肥前電気鉄道がそれで、この場合は起点の塩田駅で接続し、省線への連絡手段となっていた祐徳軌道が廃線となったことでとどめを刺される形となった。
また東武日光鋼索鉄道線も第二いろは坂(道路)の開通と、馬返駅で接続していた東武日光軌道線の廃止によって廃線となった。別府鉄道野口線の場合は接続する国鉄高砂線の廃止前に廃止されたが、同線の廃止への動きの影響を受けたものだといえる。これに近い例として石川県南部の温泉地を結ぶ観光路線であった北陸鉄道加南線は、国鉄接続駅に優等列車が停まらなくなったことがだめ押しとなり、廃線に追い込まれた。類似のケースとして東北新幹線延伸に伴い、接続路線が青い森鉄道に移管されたことで優等列車が停車しなくなった影響を受けた十和田観光電鉄線がある。
乗客流動と関係しない例として、阪神甲子園線は廃止直前でも12分間隔で運行するなど比較的利用者があったが、車庫のあった阪神国道線が廃止されることとなり、道連れとなる形で廃止となった。
技術の進歩により、長大なトンネル・橋梁などの敷設が可能となったことを活かして、緩勾配で重量貨物列車が運行可能な新線が引かれ、それ以前の旧線が放棄されることがある。北陸本線や東北本線などのように新線が旧線と全くかけ離れた場所に敷設され旧線が廃線となった事例もあるが、高度成長期には地域の利便性よりも都市間輸送に重点を置いた側面もある。また、電化に際してトンネルの断面が狭く、電化の障害になるとして新たなトンネルが開削され、旧トンネルとその取付部の区間が廃線となった例もある。
また勾配改良ではないが、急曲線が連続している区間のスピードアップや輸送力強化のため旧線に近い場所に緩い曲線の新線を設け、当該区間の旧線が廃線となった例もある。さらには、急勾配や急曲線の改良・電化のための新しいトンネルの開削などの複合的な改良を伴う新線の建設により、旧線が廃線となった例も多い。
なお、風光明媚な廃線が観光鉄道として復活する例がある。山陰本線の旧線 を転用した嵯峨野観光鉄道や台湾鉄路管理局旧山線、スイスのマッターホルン・ゴッタルド鉄道の新フルカトンネル開通に伴い廃線となった区間がフルカ山岳蒸気鉄道として復活した例などがある。
上の例に似ているが、運行形態などの全く異なる新線を敷設したことで並行する在来の路線が廃止された例もある。
大都市部では従来の路線に並行して別の事業者による地下鉄路線を敷設し、その路線に乗り入れる運行形態に変更して従来の路線を廃止する事例が見られる。この例としては筑肥線(博多 - 姪浜間・福岡市地下鉄1号線乗り入れ)・京阪京津線(京津三条 - 御陵間・京都市営地下鉄東西線乗り入れ)・東急東横線(横浜 - 桜木町間・横浜高速鉄道みなとみらい線乗り入れ)などが該当する。なお名鉄小牧線(味鋺 - 上飯田間)は営業主体が変わらないため上記の「線形の改良」にも分類できるが、建設主体は別であり事業種別も「第1種」から「第2種」へ変更されていることから、この分類に該当する。
近年では、整備新幹線の開業に伴い並行する在来線の事業者が変わる場合もある。路線自体がなくなるわけではないが、JRの路線としては廃線扱いとなり、翌日からは新事業者による新規開業の扱いとなる。
これ以外の例としては、高規格・高速路線が並行区間・至近区間に開通したために在来路線が廃止された例も多々ある。例えば西大寺鉄道や赤穂鉄道は国鉄赤穂線が開業したことにより廃止された。また、大阪市南部を走っていた南海平野線は、大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間開通に伴い、大部分が並行区間となるため廃止された。北陸新幹線の一部先行開業で廃止された、並行在来線である信越本線の横川 - 軽井沢間(碓氷峠)等、新幹線の開業に伴う廃止や経営分離も広い意味ではこれに当てはまる。
箕面温泉の箕面鋼索鉄道等、かつて日本国内の数箇所に存在した温泉旅館内のケーブルカーは、現在は鉄道営業法上の正式な「鉄道」扱いのものはすべて廃線になっているが、これは技術革新による長大なエレベーターやエスカレーターの設置が可能になったための廃線で鉄道の新線に置き換わったわけではないものの、広い意味でこの例に含めることができる。また、関電トンネルトロリーバスは、2019年に車両の更新に際して充電式のバスに置き換えられ、営業実態は大きく変わらないものの、鉄道事業法の適用される無軌条電車事業としては廃止された。
乗客数の増加に対して、複線化のための敷地確保の難しさや予算不足で廃止になった珍しい例もある。これに該当するのは単線の路面電車であった名鉄起線である。休止の時点でバスに代替され、バスが好評だったために1年後に正式に廃止された。他に同社の高富線などがある。
なお、路線の廃止を伴わず、単に別の線路に切り替えることによって線路が廃止されただけのものは、本項の意味での「廃線」には含めない。そのようなものは無数にあるが、例として、1970年代に近鉄大阪線の列車衝突事故を機に、まだ計画段階だった複線化計画を前倒しして工事を行った例がある。この例では、単線の旧線が複線新線の完成と共に切り替えられて廃止となっている。2017年現在、事故があった総谷トンネルを含む旧線のトンネルは残存しているものの、線路は取り払われている。この例のように線路の変更が大規模な場合、路線の廃止を伴っていなくても「廃線」と呼ばれる場合もある。
ダム建設予定地にかかっていたり、河川や道路の改修などの公共事業において障害となるため廃止・線路付け替えとなった路線もある。これは東武伊勢崎線(鐘ヶ淵駅 - 北千住駅 - 西新井駅間。荒川放水路建設に伴うルート変更)、大井川鐵道井川線、福塩線、飯田線の各一部区間などが該当する。この場合は旧線での営業を続けながら新線を建設し、運休期間をほとんど作らないことが多いが、東急新玉川線(2000年に田園都市線に編入)のように、旧線である玉川線とは別途で免許を取得し、玉川線の廃止から新玉川線の開業までに8年近くの期間が開いた事例もある。また稀な例ではあるが、新線の完成前に旧線からルートの異なる暫定的な新線へ切り替えた例もあり、草木ダム建設時の足尾線(現:わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)がその一例である。
また名鉄岐阜市内線の岐阜駅前 - 新岐阜駅前間は道路工事のため2003年12月から営業休止となったが、この区間は岐阜市内線が不採算のため2005年3月末で全線廃止となったため、その後一度も電車が走ることがないまま廃止されてしまった。
また名岐バイパス建設に伴い、交差する踏切回避のために立体交差化か廃線かの判断を迫られて結局廃線となった名鉄一宮線や、わずか半年間の一時的な地方博に過ぎないぎふ中部未来博覧会開催に伴いアクセス道路の自動車通行の阻害になることを指摘され廃線となった名鉄岐阜市内線(長良線)も、ここに含められるものである。
新線の建設予定地に既存の鉄道路線がある場合、線路用地確保のためにその鉄道路線が廃止された例もある。江若鉄道・名鉄挙母線・宮崎交通線は、国鉄新線の建設(それぞれ湖西線・岡多線・日南線)における用地確保のため廃止された。
他にも定山渓鉄道の一部は札幌市営地下鉄南北線の、南海天王寺支線の一部は大阪市営地下鉄堺筋線の、土佐電気鉄道安芸線は土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線(計画時は国鉄阿佐線)用地の一部になっている。このような場合戦前はその民間の鉄道路線を買収して国鉄線に直接編入していたが、戦後は車両・路盤などの諸設備において国鉄と私鉄の規格の差が大きくなったためいったん私鉄路線を廃止して線路や設備を撤去し、その用地上に改めて線路を建設する方策に変わっていった。また、江若鉄道のように代替路線が高速運転・大量輸送を行う高規格の路線の場合は線路用地の流用率が低く、新線開業に伴う廃止補償に近い側面を持つ場合もある。
しかし廃止してから新線が開業するまでに鉄道空白期間が生じる短所もある。かつては、路線自体が全く並行していなくとも路線の目的が国鉄新線と重なるため補償金を払って既存の鉄道を廃止させた例もあった。たとえば朝倉軌道は国鉄甘木線の開業に伴い廃止されたが、「福岡・久留米と甘木を結ぶ」という点以外甘木線と競合する要素は全くなく、並行する区間もなかった。
また北恵那鉄道のように国鉄下呂線の敷設を前提に廃止されたものの、国鉄路線が未成線のままに建設が中止された例もある。この場合は結果的に、「旅客・貨物の減少」による廃線と同様の形態となっている。
北丹鉄道の廃止も、その後北近畿タンゴ鉄道宮福線がほぼ同ルートに開通しているのでこの例に含まれると思われがちだが、実際には宮福線は当初は北丹鉄道の北側終点付近と宮津を結ぶ計画であり、福知山とを結ぶ計画に変更されたのは北丹鉄道の廃止後であった。従ってこの例は「利用者や貨物の減少による廃線」に分類する方が適切といえる。
光明電気鉄道の跡地の一部は二俣線(現・天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線)の用地に転用されたが、光明電気鉄道が廃止されたのは前述したように経営破綻による。
他には国鉄路線の開通によって既存の国鉄路線が廃止された例もあり、中央本線の支線である下河原線(国分寺 - 東京競馬場前間の大半が武蔵野線の建設予定地と重複・並行していたため)や内子線の一部区間(予讃本線新線との接続・高規格化のため)がそれにあたる。
淡路鉄道の場合は、本州および四国と橋が架けられ地続きになった際には国鉄直通路線を敷設する計画もあった。明石海峡大橋が道路専用橋として建設されたため、四国新幹線はトンネルを経由する構想になっている。
東日本旅客鉄道(JR東日本)の東北本線東京 - 上野間の列車線は、東北新幹線の東京延伸のために、1983年1月31日限りで廃止され線路用地を譲った。ただしこれは路線の廃止ではなく、これまでに挙げたものとは性格を異にする。なおこの線路は、上野東京ラインとして2015年3月14日に復活した。
地震・水害・土砂崩落といった災害により路線が寸断されたことが原因で廃止された路線も数多くある。また、被災前から「沿線人口や旅客・貨物の減少」という廃線の基礎条件があり、自然災害での被害をきっかけに廃止された路線も少なくなく、広義では経営の悪化による廃線といえなくも無い。
仙北鉄道・草軽電気鉄道・近鉄八王子線・松本電鉄上高地線・気仙沼線・大船渡線・日高本線のそれぞれ一部区間や、岩泉線・柚木線・東濃鉄道駄知線・鹿児島交通枕崎線・高千穂鉄道高千穂線などが該当する。
現在では災害で大被害を受けた場合に災害復旧事業の一環として鉄道を復旧させる事例も多いが、被災状況によっては予算を捻出できず廃止となることもある。また、災害やその復旧に伴う線形改良で旧線が廃止となる例も存在する。
重要幹線は復旧工事の費用を当該路線の運賃収入や損害保険で充当できることが多いため、突貫工事で復旧工事が進められ阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた山陽新幹線・阪急電鉄・阪神電気鉄道などが数か月で全線復旧した一方、ローカル線では沿線の被害も甚大で沿線の工事用道路から先に復旧しなければならなかったり、復旧費用の捻出が困難なことから国・地元自治体に復旧費用の一部を負担を要請せざるを得ず、結果として年単位での長期間を要する例も見受けられる。また長期間の不通の後に復旧しても利用者の逸走が著しく、結果として廃線となってしまうこともある。
なお、阪神・淡路大震災では山陽電気鉄道の西代駅 - 板宿駅間の地下化工事が完成間近であり、周辺被害も相当であったため従来の地上区間の復旧は行わず地下線で開通させた事例もあり、旧路線はそのまま廃止された。東日本大震災でも同様に架け替え工事完了を控えていた水郡線の那珂川橋梁が復旧時にそのまま新橋梁へ切り替えられた。これらは路線の廃止を伴わないため本項の意味での「廃線」ではないが、これらも「廃線」とよばれることがある。
戦争が鉄道の廃止を招いた事例も存在する。これの代表的なものは前記に示した不要不急線であるが、太平洋戦争で戦場となった沖縄県の鉄道は戦闘で破壊され、戦後沖縄県がアメリカ合衆国により統治されたこともあり、そのまま消滅した。
日本統治時代の台湾屏東線海岸地帯の林辺 - 枋寮間もレールが撤去され、廃線(休止)となった。また戦争の影響による鉄材価格の暴騰に乗じて鉄道を廃止し、資材を売却した例も銚子遊覧鉄道(廃線6年後に、銚子鉄道→銚子電気鉄道として復活)などのように少数ながら存在する。しかしこれも、背景に旅客・貨物の減少があったものが多い。
日本国外でもヒジャーズ鉄道やスーダンの鉄道などの例がある。また朝鮮半島では第二次世界大戦後の南北朝鮮の分断と朝鮮戦争の影響で、軍事境界線をまたいでいた4路線の一部または全区間が廃線となった。このうち京義線など2路線は2007年に復活運行が行われている。
異質な例としては敗戦により日本陸軍が解体されたため廃線となった鉄道連隊演習線がある。後に新京成電鉄と陸上自衛隊演習線として復活したが、後者はその後の環境の変化もあって再び廃線となっている。
鉄道事故を起こしたことにより運行停止処分を受け、そのまま廃止になった例もある。今のところ該当するのは京福電気鉄道永平寺線のみ。なお運行停止処分の原因となった事故は越前本線で発生し(詳細は京福電気鉄道越前本線列車衝突事故を参照)、京福側は事故以前から京福電気鉄道福井支社の全線廃止の意向を示していたが、地元の強硬な反対運動で永平寺線のみ廃止、越前本線・三国芦原線はえちぜん鉄道に引き継がれている。そのため、この例は「利用者や貨物の減少による廃線」にも分類できる。
点検時に車両や線路などに老朽化や設計強度不足による安全上の欠陥が発見され、その鉄道会社または運輸局の判断により運行が停止となり、改修せずにそのまま廃止になった例もある。
今のところ、これに該当するのはドリーム開発ドリームランド線・小田急向ヶ丘遊園モノレール線・北陸鉄道金名線である。ドリーム開発ドリームランド線については、のちに親会社となったダイエーがHSSTでの再開を模索したが、ダイエーの経営難と横浜ドリームランドの閉鎖(2002年)があって事業再開を断念し2003年、正式に廃止となった。
記録上の「廃止日」とは、最終営業運行日の翌日である。例えば「4月1日廃止」といえば3月31日が営業運行の最終日であり、「3月31日限りで廃止(廃線)」ということである。最終列車が0時を過ぎる場合は、暦の上では廃止日と同日になる。廃止区間内に夜間滞泊する列車がある場合は、最終列車後に臨時列車として存続する区間内まで回送されることも多い。これは、踏切は翌朝を待つことなく深夜のうちに撤去されるので、翌日は列車の運行ができないためである。
資料によっては、しばしば最終営業運行日で記述されることがあり、後年の調査の際に解釈の違いによって混乱を招くことがある。ただし、公式の「廃止日」に、営業運行ではなく、イベントとして無料で廃止記念列車の運行を行った例もある。例えば名古屋市電は1974年(昭和49年)3月30日まで営業運転され、3月31日に無料運転を行っているが、公式な廃止日は3月31日である。新潟交通電車線は1999年(平成11年)4月4日を営業運転最終日として運行し、廃止日の4月5日には営業運転を行わず、静態保存する電車2両と雪かき車の回送運転を行っている。
廃線となった区間の鉄道用地や駅などの建造物、またトンネルや橋梁などが道路ほかに転用されたり、もしくは転用されないまま山野の中に土木構造物の遺構として放置されている状態を廃線跡という。
鉄道路線は細長く、他に転用することが難しいため、廃線後何十年も当時のまま放置されている廃線跡も多い。また、道路に転用されていても、鉄道路線独特の、直線や緩やかなカーブを主体とした線形を保っている場合が多い(バス専用道路、サイクリングロード、遊歩道、緑道となる場合もある)。跨線橋・橋台など鉄道施設の撤去はそれまで鉄道事業を行っていた者が行うことが基本であるが、乗客減による資金難で廃線になった路線などでは撤去資金が捻出できずに放置されてしまうこともある。
廃線跡が鉄道施設ごと沿線自治体に無償譲渡されることもあり、その場合は用地の測量、鉄道施設の調査、設備撤去に要する費用の確定を行い、鉄道事業者が国土交通省に対して、鉄道施設に係る財産譲渡について許可を得る必要がある。無償譲渡後に沿線自治体が鉄道施設を撤去する場合、撤去相当額を鉄道事業者が負担することもある。施設が行政に譲渡された場合などには、駅跡などにはそれを示すモニュメントなどが造られていることもある。廃線区間内でも市街地に位置する駅の跡地についてはバスターミナルや交通広場として再整備された例も多い。
趣味的な観点ではなく、地元になじみのあった鉄道路線が後年まで住民に認識されている例も見られる。一例として、山梨県甲府市徳行地区には「廃軌道」と呼ばれる通りがあり、バス路線の名称にもなっている。店舗などの案内地図や山梨交通が配布するバス路線図にも記載されているが、これは山梨交通電車線の廃線跡のことである。かつて鉄道路線があったことをうかがわせるものは(名前以外に)特に現存しないが「廃軌道」の通称は地元で認知されている存在である。
他方、山間部などでは廃線後に線路が撤去され、その後長い年月を経て完全に元の自然の姿に還り、トンネルも崩落するなど現在では近づくことも安全とは言い難い廃線跡というのも少なくない。また、都市部の場合には都市開発や宅地化の進展、農村部でも圃場整備に伴う区画整理などによって、廃線跡の痕跡が完全に消滅している場所も珍しくない。その他、特に線路敷として道路脇や河川敷・堤防上を利用していた場合には、道路の拡幅や河川改修などによって廃線跡が全く痕跡を留めない例も多い。
なお、本項でいう(路線としての)「廃線」ではなく、線路が他の線路に切り替えられて廃止となっただけのものも、「廃線跡」と呼ばれることが多い。例として、複線電化を別線建設で行ったことにより廃止され、うち一部区間が有名な遊歩道となっている、JR福知山線の生瀬 - 三田間の旧線などが挙げられる。
鉄道の廃止後も、整備・改修の上、廃線跡が活用されている事例としては、以下のようなものがある。
概して廃線跡は、利便性のあまり高くない場所に幅数メートルの狭い土地が延々と細長く延びるという形状になりがちであり、道路・線路・保存以外の活用例は少ない。
廃線後も復活に期待して線路などが維持・放置される例もあるが(手宮線や越後交通長岡線など)、実際に復活した例は、他の鉄道線とするために一時的に廃止にした事例を除けばほとんどない(前述の銚子電気鉄道線や、可部線の一部区間など)。また、レールや枕木、架線などの施設等は撤去したものの、前例のように将来の復活に期待して跡地・用地は元の鉄道事業者が所有している場合もあるが、これも前記の例同様、復活を遂げた例はない(鹿児島交通枕崎線など)。
ただし、路線単位ではなく線路単位では、東北本線の東京 - 上野間の列車線が、線路用地を東北新幹線に転用するために1983年1月31日限りで廃止されたが、上野東京ラインとして2015年3月14日に復活した。路線単位の廃線復活ではない理由は、廃止された区間を並走する京浜東北線と山手線も、同区間は正式には東北本線だからである。
スコットランドでは1969年にビーチングによる不採算路線整理の一環として廃線になったウェイヴァリー線(英語版)の一部区間(全48キロ)がリニューアルされ、2015年9月9日にボーダーズ・レールウェイとして復活している。
なお、一度廃止にした時点で路線がなくなるので、法手続き上は「復活」「営業再開」ではなく「新規開業」の扱いになる。復活(新規開業)させること自体も難しいことだが、「新しい路線」なのでバリアフリー等も現行法に従う必要があり、例えば既存駅では努力義務とされているエレベーター設置が必須になり(その分コストが増える)、踏切新設の認可もかなり厳しくなっているので、その面でもハードルは高い。
廃線跡は、廃止から長い時間を経ている場所もあり、歴史の流れの中で宅地化したり、逆に自然に還るなどで、そこにかつて鉄道が存在したことを想像できないような場所に、周囲と不似合いな構造物が存在する情景に興味を持つ廃線跡マニアという者も存在し、鉄道ファンのうちに分類される。
地道に研究を続ける鉄道史研究者や愛好家は以前から存在したが、1980年(昭和55年)頃より一部の鉄道趣味の出版物でも取り上げられ、鉄道・土木技術の発展の流れが産業考古学の一分野として注目されるようになり、1990年代には廃線跡そのものを題材とした書籍が多数発売されたり、一般情報誌などでも取り上げられることで、廃線跡を訪ねて歩くことも、世間に認知されつつある。この場合の探訪の対象には、廃線だけでなく、建設中に何らかの理由で放棄された未成線も含む。この分野で有名な文筆家には堀淳一、宮脇俊三が、写真家には丸田祥三がいる。
たとえ廃線「同様」の状態となっていたとしても、廃線に含めないものがある。例えば、
などは廃線とはいえない。前者については廃線に含める場合もあるが、正式な廃線ではない。また、後者は、そもそも路線として営業されたことがないので、字義上、「廃止された路線」の廃線の定義には該当しない。
※日本語版に記事がある廃線のみ掲載。
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"text": "日本においては、かつては鉄道の廃止は「許可制」だった。国は鉄道事業者から提出された申請により廃止を許可するか否かを判断し、許可された場合のみ廃止が可能だった。1999年の鉄道事業法改正では、国の許可を得る必要がなくなり、廃止日の1年前までに廃止届を提出することで鉄道事業者の独断で廃止にすることが可能になった。これにより廃止のハードルは大きく下がり、赤字路線の廃止が急増した。",
"title": null
},
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "ある鉄道路線が廃線になる要因としては以下のようなものが挙げられる。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "なお、下記の複数の条件に当てはまりながらも地道な努力と周辺の支援により運行を継続している鉄道もある。銚子電気鉄道もその一つである。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この要因が廃線の原因としては最も多い。その多くはローカル線であり、開業以来1度も黒字になったことがなく廃線になることも珍しくない。日本の鉄道では国鉄(JR)やその他の鉄道会社が自主的に廃止を決定したもののほか、1968年(昭和43年)から行われた赤字83線に指定されたもの、1980年代に行われた国鉄再建法に基づく特定地方交通線に指定されたものなどがある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"text": "太平洋戦争中に「不要不急線」として休止されレールなどの資材が剥がされ、戦後鉄道路線として復活されないまま廃止となった路線 もある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"text": "旅客・貨物の減少の要因としては、1960年代まではバスやトラックの発達が主要因であったが、それ以降は自家用車の普及(モータリゼーション)が主要因となっている。仙北鉄道の場合、営業末期には旅客・貨物ともに最盛期より減少していたが、赤字を出すほどではなかった。しかし車両および施設の更新に多額の費用がかかることから、鉄道を存続させるよりもバスに転換する方が得策という経営的判断による廃止であった。すでに昭和初期においてバスやトラックとの競合に敗れて廃線・廃業となっていた軽便鉄道や人車鉄道も多かった。",
"title": "廃線の要因"
},
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"text": "また沿線人口の減少(過疎化)が利用客の減少を招く場合も多い。近郊部でも国鉄改革に伴う、貨物輸送の大幅な変更(詳しくは1984年ダイヤ改正での貨物列車整理を参照)による車扱貨物の減少で別府鉄道のように廃線に追い込まれた路線もある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"text": "ローカル線沿線の人口の減少については、1960年代から1970年代には鉱業・林業の衰退や離農の増加など産業構造の変化によるものが要因の一つであったが、21世紀初頭では出生率の低下による影響も大きい。自家用車の普及により通勤需要の少ないローカル線では高校生を中心とした通学利用が主要な収入源(実際は運賃割引率が高い通学利用だけでは採算が取れないことが多い)となっているため、少子化による通学利用客の大幅な減少は廃線につながる要因の一つとなっている。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"text": "利用減少の赤字による廃線ではあるが、鉄道会社そのものの倒産や廃業など経営破綻をしたことが直接の原因となって廃線となった例もある。この例としては武州鉄道・磐梯急行電鉄・雄別鉄道がある。また、布引電気鉄道や光明電気鉄道は末期には事実上の経営破綻状態で、電気代が支払えずに送電を止められとどめを刺されたことで廃線となった。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"text": "慢性的な赤字状態で、ついには地域の公共交通の維持のためとして地方公共団体から支給されていた補助金が打ち切られて会社存続が不可能となり会社解散・廃線となったものもある。この例としては野上電気鉄道やくりはら田園鉄道がある。第3セクターの三木鉄道の場合は、慢性的な赤字と三木市の財政難のため、市長選挙で鉄道廃止派の薮本吉秀が当選したことが直接のきっかけとなり、廃線となったものである。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"tag": "p",
"text": "接続する路線が廃線となったことで連鎖的に廃線となった例もある。肥前電気鉄道がそれで、この場合は起点の塩田駅で接続し、省線への連絡手段となっていた祐徳軌道が廃線となったことでとどめを刺される形となった。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"text": "また東武日光鋼索鉄道線も第二いろは坂(道路)の開通と、馬返駅で接続していた東武日光軌道線の廃止によって廃線となった。別府鉄道野口線の場合は接続する国鉄高砂線の廃止前に廃止されたが、同線の廃止への動きの影響を受けたものだといえる。これに近い例として石川県南部の温泉地を結ぶ観光路線であった北陸鉄道加南線は、国鉄接続駅に優等列車が停まらなくなったことがだめ押しとなり、廃線に追い込まれた。類似のケースとして東北新幹線延伸に伴い、接続路線が青い森鉄道に移管されたことで優等列車が停車しなくなった影響を受けた十和田観光電鉄線がある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"tag": "p",
"text": "乗客流動と関係しない例として、阪神甲子園線は廃止直前でも12分間隔で運行するなど比較的利用者があったが、車庫のあった阪神国道線が廃止されることとなり、道連れとなる形で廃止となった。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "技術の進歩により、長大なトンネル・橋梁などの敷設が可能となったことを活かして、緩勾配で重量貨物列車が運行可能な新線が引かれ、それ以前の旧線が放棄されることがある。北陸本線や東北本線などのように新線が旧線と全くかけ離れた場所に敷設され旧線が廃線となった事例もあるが、高度成長期には地域の利便性よりも都市間輸送に重点を置いた側面もある。また、電化に際してトンネルの断面が狭く、電化の障害になるとして新たなトンネルが開削され、旧トンネルとその取付部の区間が廃線となった例もある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また勾配改良ではないが、急曲線が連続している区間のスピードアップや輸送力強化のため旧線に近い場所に緩い曲線の新線を設け、当該区間の旧線が廃線となった例もある。さらには、急勾配や急曲線の改良・電化のための新しいトンネルの開削などの複合的な改良を伴う新線の建設により、旧線が廃線となった例も多い。",
"title": "廃線の要因"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "なお、風光明媚な廃線が観光鉄道として復活する例がある。山陰本線の旧線 を転用した嵯峨野観光鉄道や台湾鉄路管理局旧山線、スイスのマッターホルン・ゴッタルド鉄道の新フルカトンネル開通に伴い廃線となった区間がフルカ山岳蒸気鉄道として復活した例などがある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "上の例に似ているが、運行形態などの全く異なる新線を敷設したことで並行する在来の路線が廃止された例もある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "大都市部では従来の路線に並行して別の事業者による地下鉄路線を敷設し、その路線に乗り入れる運行形態に変更して従来の路線を廃止する事例が見られる。この例としては筑肥線(博多 - 姪浜間・福岡市地下鉄1号線乗り入れ)・京阪京津線(京津三条 - 御陵間・京都市営地下鉄東西線乗り入れ)・東急東横線(横浜 - 桜木町間・横浜高速鉄道みなとみらい線乗り入れ)などが該当する。なお名鉄小牧線(味鋺 - 上飯田間)は営業主体が変わらないため上記の「線形の改良」にも分類できるが、建設主体は別であり事業種別も「第1種」から「第2種」へ変更されていることから、この分類に該当する。",
"title": "廃線の要因"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "近年では、整備新幹線の開業に伴い並行する在来線の事業者が変わる場合もある。路線自体がなくなるわけではないが、JRの路線としては廃線扱いとなり、翌日からは新事業者による新規開業の扱いとなる。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "これ以外の例としては、高規格・高速路線が並行区間・至近区間に開通したために在来路線が廃止された例も多々ある。例えば西大寺鉄道や赤穂鉄道は国鉄赤穂線が開業したことにより廃止された。また、大阪市南部を走っていた南海平野線は、大阪市営地下鉄谷町線の天王寺 - 八尾南間開通に伴い、大部分が並行区間となるため廃止された。北陸新幹線の一部先行開業で廃止された、並行在来線である信越本線の横川 - 軽井沢間(碓氷峠)等、新幹線の開業に伴う廃止や経営分離も広い意味ではこれに当てはまる。",
"title": "廃線の要因"
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{
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"text": "箕面温泉の箕面鋼索鉄道等、かつて日本国内の数箇所に存在した温泉旅館内のケーブルカーは、現在は鉄道営業法上の正式な「鉄道」扱いのものはすべて廃線になっているが、これは技術革新による長大なエレベーターやエスカレーターの設置が可能になったための廃線で鉄道の新線に置き換わったわけではないものの、広い意味でこの例に含めることができる。また、関電トンネルトロリーバスは、2019年に車両の更新に際して充電式のバスに置き換えられ、営業実態は大きく変わらないものの、鉄道事業法の適用される無軌条電車事業としては廃止された。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "乗客数の増加に対して、複線化のための敷地確保の難しさや予算不足で廃止になった珍しい例もある。これに該当するのは単線の路面電車であった名鉄起線である。休止の時点でバスに代替され、バスが好評だったために1年後に正式に廃止された。他に同社の高富線などがある。",
"title": "廃線の要因"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "なお、路線の廃止を伴わず、単に別の線路に切り替えることによって線路が廃止されただけのものは、本項の意味での「廃線」には含めない。そのようなものは無数にあるが、例として、1970年代に近鉄大阪線の列車衝突事故を機に、まだ計画段階だった複線化計画を前倒しして工事を行った例がある。この例では、単線の旧線が複線新線の完成と共に切り替えられて廃止となっている。2017年現在、事故があった総谷トンネルを含む旧線のトンネルは残存しているものの、線路は取り払われている。この例のように線路の変更が大規模な場合、路線の廃止を伴っていなくても「廃線」と呼ばれる場合もある。",
"title": "廃線の要因"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "ダム建設予定地にかかっていたり、河川や道路の改修などの公共事業において障害となるため廃止・線路付け替えとなった路線もある。これは東武伊勢崎線(鐘ヶ淵駅 - 北千住駅 - 西新井駅間。荒川放水路建設に伴うルート変更)、大井川鐵道井川線、福塩線、飯田線の各一部区間などが該当する。この場合は旧線での営業を続けながら新線を建設し、運休期間をほとんど作らないことが多いが、東急新玉川線(2000年に田園都市線に編入)のように、旧線である玉川線とは別途で免許を取得し、玉川線の廃止から新玉川線の開業までに8年近くの期間が開いた事例もある。また稀な例ではあるが、新線の完成前に旧線からルートの異なる暫定的な新線へ切り替えた例もあり、草木ダム建設時の足尾線(現:わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線)がその一例である。",
"title": "廃線の要因"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "また名鉄岐阜市内線の岐阜駅前 - 新岐阜駅前間は道路工事のため2003年12月から営業休止となったが、この区間は岐阜市内線が不採算のため2005年3月末で全線廃止となったため、その後一度も電車が走ることがないまま廃止されてしまった。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また名岐バイパス建設に伴い、交差する踏切回避のために立体交差化か廃線かの判断を迫られて結局廃線となった名鉄一宮線や、わずか半年間の一時的な地方博に過ぎないぎふ中部未来博覧会開催に伴いアクセス道路の自動車通行の阻害になることを指摘され廃線となった名鉄岐阜市内線(長良線)も、ここに含められるものである。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "新線の建設予定地に既存の鉄道路線がある場合、線路用地確保のためにその鉄道路線が廃止された例もある。江若鉄道・名鉄挙母線・宮崎交通線は、国鉄新線の建設(それぞれ湖西線・岡多線・日南線)における用地確保のため廃止された。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "他にも定山渓鉄道の一部は札幌市営地下鉄南北線の、南海天王寺支線の一部は大阪市営地下鉄堺筋線の、土佐電気鉄道安芸線は土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線(計画時は国鉄阿佐線)用地の一部になっている。このような場合戦前はその民間の鉄道路線を買収して国鉄線に直接編入していたが、戦後は車両・路盤などの諸設備において国鉄と私鉄の規格の差が大きくなったためいったん私鉄路線を廃止して線路や設備を撤去し、その用地上に改めて線路を建設する方策に変わっていった。また、江若鉄道のように代替路線が高速運転・大量輸送を行う高規格の路線の場合は線路用地の流用率が低く、新線開業に伴う廃止補償に近い側面を持つ場合もある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "しかし廃止してから新線が開業するまでに鉄道空白期間が生じる短所もある。かつては、路線自体が全く並行していなくとも路線の目的が国鉄新線と重なるため補償金を払って既存の鉄道を廃止させた例もあった。たとえば朝倉軌道は国鉄甘木線の開業に伴い廃止されたが、「福岡・久留米と甘木を結ぶ」という点以外甘木線と競合する要素は全くなく、並行する区間もなかった。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また北恵那鉄道のように国鉄下呂線の敷設を前提に廃止されたものの、国鉄路線が未成線のままに建設が中止された例もある。この場合は結果的に、「旅客・貨物の減少」による廃線と同様の形態となっている。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "北丹鉄道の廃止も、その後北近畿タンゴ鉄道宮福線がほぼ同ルートに開通しているのでこの例に含まれると思われがちだが、実際には宮福線は当初は北丹鉄道の北側終点付近と宮津を結ぶ計画であり、福知山とを結ぶ計画に変更されたのは北丹鉄道の廃止後であった。従ってこの例は「利用者や貨物の減少による廃線」に分類する方が適切といえる。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "光明電気鉄道の跡地の一部は二俣線(現・天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線)の用地に転用されたが、光明電気鉄道が廃止されたのは前述したように経営破綻による。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "他には国鉄路線の開通によって既存の国鉄路線が廃止された例もあり、中央本線の支線である下河原線(国分寺 - 東京競馬場前間の大半が武蔵野線の建設予定地と重複・並行していたため)や内子線の一部区間(予讃本線新線との接続・高規格化のため)がそれにあたる。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "淡路鉄道の場合は、本州および四国と橋が架けられ地続きになった際には国鉄直通路線を敷設する計画もあった。明石海峡大橋が道路専用橋として建設されたため、四国新幹線はトンネルを経由する構想になっている。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)の東北本線東京 - 上野間の列車線は、東北新幹線の東京延伸のために、1983年1月31日限りで廃止され線路用地を譲った。ただしこれは路線の廃止ではなく、これまでに挙げたものとは性格を異にする。なおこの線路は、上野東京ラインとして2015年3月14日に復活した。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "地震・水害・土砂崩落といった災害により路線が寸断されたことが原因で廃止された路線も数多くある。また、被災前から「沿線人口や旅客・貨物の減少」という廃線の基礎条件があり、自然災害での被害をきっかけに廃止された路線も少なくなく、広義では経営の悪化による廃線といえなくも無い。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "仙北鉄道・草軽電気鉄道・近鉄八王子線・松本電鉄上高地線・気仙沼線・大船渡線・日高本線のそれぞれ一部区間や、岩泉線・柚木線・東濃鉄道駄知線・鹿児島交通枕崎線・高千穂鉄道高千穂線などが該当する。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "現在では災害で大被害を受けた場合に災害復旧事業の一環として鉄道を復旧させる事例も多いが、被災状況によっては予算を捻出できず廃止となることもある。また、災害やその復旧に伴う線形改良で旧線が廃止となる例も存在する。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "重要幹線は復旧工事の費用を当該路線の運賃収入や損害保険で充当できることが多いため、突貫工事で復旧工事が進められ阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた山陽新幹線・阪急電鉄・阪神電気鉄道などが数か月で全線復旧した一方、ローカル線では沿線の被害も甚大で沿線の工事用道路から先に復旧しなければならなかったり、復旧費用の捻出が困難なことから国・地元自治体に復旧費用の一部を負担を要請せざるを得ず、結果として年単位での長期間を要する例も見受けられる。また長期間の不通の後に復旧しても利用者の逸走が著しく、結果として廃線となってしまうこともある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、阪神・淡路大震災では山陽電気鉄道の西代駅 - 板宿駅間の地下化工事が完成間近であり、周辺被害も相当であったため従来の地上区間の復旧は行わず地下線で開通させた事例もあり、旧路線はそのまま廃止された。東日本大震災でも同様に架け替え工事完了を控えていた水郡線の那珂川橋梁が復旧時にそのまま新橋梁へ切り替えられた。これらは路線の廃止を伴わないため本項の意味での「廃線」ではないが、これらも「廃線」とよばれることがある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "戦争が鉄道の廃止を招いた事例も存在する。これの代表的なものは前記に示した不要不急線であるが、太平洋戦争で戦場となった沖縄県の鉄道は戦闘で破壊され、戦後沖縄県がアメリカ合衆国により統治されたこともあり、そのまま消滅した。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本統治時代の台湾屏東線海岸地帯の林辺 - 枋寮間もレールが撤去され、廃線(休止)となった。また戦争の影響による鉄材価格の暴騰に乗じて鉄道を廃止し、資材を売却した例も銚子遊覧鉄道(廃線6年後に、銚子鉄道→銚子電気鉄道として復活)などのように少数ながら存在する。しかしこれも、背景に旅客・貨物の減少があったものが多い。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本国外でもヒジャーズ鉄道やスーダンの鉄道などの例がある。また朝鮮半島では第二次世界大戦後の南北朝鮮の分断と朝鮮戦争の影響で、軍事境界線をまたいでいた4路線の一部または全区間が廃線となった。このうち京義線など2路線は2007年に復活運行が行われている。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "異質な例としては敗戦により日本陸軍が解体されたため廃線となった鉄道連隊演習線がある。後に新京成電鉄と陸上自衛隊演習線として復活したが、後者はその後の環境の変化もあって再び廃線となっている。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "鉄道事故を起こしたことにより運行停止処分を受け、そのまま廃止になった例もある。今のところ該当するのは京福電気鉄道永平寺線のみ。なお運行停止処分の原因となった事故は越前本線で発生し(詳細は京福電気鉄道越前本線列車衝突事故を参照)、京福側は事故以前から京福電気鉄道福井支社の全線廃止の意向を示していたが、地元の強硬な反対運動で永平寺線のみ廃止、越前本線・三国芦原線はえちぜん鉄道に引き継がれている。そのため、この例は「利用者や貨物の減少による廃線」にも分類できる。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "点検時に車両や線路などに老朽化や設計強度不足による安全上の欠陥が発見され、その鉄道会社または運輸局の判断により運行が停止となり、改修せずにそのまま廃止になった例もある。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "今のところ、これに該当するのはドリーム開発ドリームランド線・小田急向ヶ丘遊園モノレール線・北陸鉄道金名線である。ドリーム開発ドリームランド線については、のちに親会社となったダイエーがHSSTでの再開を模索したが、ダイエーの経営難と横浜ドリームランドの閉鎖(2002年)があって事業再開を断念し2003年、正式に廃止となった。",
"title": "廃線の要因"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "記録上の「廃止日」とは、最終営業運行日の翌日である。例えば「4月1日廃止」といえば3月31日が営業運行の最終日であり、「3月31日限りで廃止(廃線)」ということである。最終列車が0時を過ぎる場合は、暦の上では廃止日と同日になる。廃止区間内に夜間滞泊する列車がある場合は、最終列車後に臨時列車として存続する区間内まで回送されることも多い。これは、踏切は翌朝を待つことなく深夜のうちに撤去されるので、翌日は列車の運行ができないためである。",
"title": "廃止日"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "資料によっては、しばしば最終営業運行日で記述されることがあり、後年の調査の際に解釈の違いによって混乱を招くことがある。ただし、公式の「廃止日」に、営業運行ではなく、イベントとして無料で廃止記念列車の運行を行った例もある。例えば名古屋市電は1974年(昭和49年)3月30日まで営業運転され、3月31日に無料運転を行っているが、公式な廃止日は3月31日である。新潟交通電車線は1999年(平成11年)4月4日を営業運転最終日として運行し、廃止日の4月5日には営業運転を行わず、静態保存する電車2両と雪かき車の回送運転を行っている。",
"title": "廃止日"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "廃線となった区間の鉄道用地や駅などの建造物、またトンネルや橋梁などが道路ほかに転用されたり、もしくは転用されないまま山野の中に土木構造物の遺構として放置されている状態を廃線跡という。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "鉄道路線は細長く、他に転用することが難しいため、廃線後何十年も当時のまま放置されている廃線跡も多い。また、道路に転用されていても、鉄道路線独特の、直線や緩やかなカーブを主体とした線形を保っている場合が多い(バス専用道路、サイクリングロード、遊歩道、緑道となる場合もある)。跨線橋・橋台など鉄道施設の撤去はそれまで鉄道事業を行っていた者が行うことが基本であるが、乗客減による資金難で廃線になった路線などでは撤去資金が捻出できずに放置されてしまうこともある。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "廃線跡が鉄道施設ごと沿線自治体に無償譲渡されることもあり、その場合は用地の測量、鉄道施設の調査、設備撤去に要する費用の確定を行い、鉄道事業者が国土交通省に対して、鉄道施設に係る財産譲渡について許可を得る必要がある。無償譲渡後に沿線自治体が鉄道施設を撤去する場合、撤去相当額を鉄道事業者が負担することもある。施設が行政に譲渡された場合などには、駅跡などにはそれを示すモニュメントなどが造られていることもある。廃線区間内でも市街地に位置する駅の跡地についてはバスターミナルや交通広場として再整備された例も多い。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "趣味的な観点ではなく、地元になじみのあった鉄道路線が後年まで住民に認識されている例も見られる。一例として、山梨県甲府市徳行地区には「廃軌道」と呼ばれる通りがあり、バス路線の名称にもなっている。店舗などの案内地図や山梨交通が配布するバス路線図にも記載されているが、これは山梨交通電車線の廃線跡のことである。かつて鉄道路線があったことをうかがわせるものは(名前以外に)特に現存しないが「廃軌道」の通称は地元で認知されている存在である。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "他方、山間部などでは廃線後に線路が撤去され、その後長い年月を経て完全に元の自然の姿に還り、トンネルも崩落するなど現在では近づくことも安全とは言い難い廃線跡というのも少なくない。また、都市部の場合には都市開発や宅地化の進展、農村部でも圃場整備に伴う区画整理などによって、廃線跡の痕跡が完全に消滅している場所も珍しくない。その他、特に線路敷として道路脇や河川敷・堤防上を利用していた場合には、道路の拡幅や河川改修などによって廃線跡が全く痕跡を留めない例も多い。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "なお、本項でいう(路線としての)「廃線」ではなく、線路が他の線路に切り替えられて廃止となっただけのものも、「廃線跡」と呼ばれることが多い。例として、複線電化を別線建設で行ったことにより廃止され、うち一部区間が有名な遊歩道となっている、JR福知山線の生瀬 - 三田間の旧線などが挙げられる。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "鉄道の廃止後も、整備・改修の上、廃線跡が活用されている事例としては、以下のようなものがある。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "概して廃線跡は、利便性のあまり高くない場所に幅数メートルの狭い土地が延々と細長く延びるという形状になりがちであり、道路・線路・保存以外の活用例は少ない。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "廃線後も復活に期待して線路などが維持・放置される例もあるが(手宮線や越後交通長岡線など)、実際に復活した例は、他の鉄道線とするために一時的に廃止にした事例を除けばほとんどない(前述の銚子電気鉄道線や、可部線の一部区間など)。また、レールや枕木、架線などの施設等は撤去したものの、前例のように将来の復活に期待して跡地・用地は元の鉄道事業者が所有している場合もあるが、これも前記の例同様、復活を遂げた例はない(鹿児島交通枕崎線など)。",
"title": "廃線跡"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ただし、路線単位ではなく線路単位では、東北本線の東京 - 上野間の列車線が、線路用地を東北新幹線に転用するために1983年1月31日限りで廃止されたが、上野東京ラインとして2015年3月14日に復活した。路線単位の廃線復活ではない理由は、廃止された区間を並走する京浜東北線と山手線も、同区間は正式には東北本線だからである。",
"title": "廃線跡"
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"text": "スコットランドでは1969年にビーチングによる不採算路線整理の一環として廃線になったウェイヴァリー線(英語版)の一部区間(全48キロ)がリニューアルされ、2015年9月9日にボーダーズ・レールウェイとして復活している。",
"title": "廃線跡"
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"text": "なお、一度廃止にした時点で路線がなくなるので、法手続き上は「復活」「営業再開」ではなく「新規開業」の扱いになる。復活(新規開業)させること自体も難しいことだが、「新しい路線」なのでバリアフリー等も現行法に従う必要があり、例えば既存駅では努力義務とされているエレベーター設置が必須になり(その分コストが増える)、踏切新設の認可もかなり厳しくなっているので、その面でもハードルは高い。",
"title": "廃線跡"
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"text": "廃線跡は、廃止から長い時間を経ている場所もあり、歴史の流れの中で宅地化したり、逆に自然に還るなどで、そこにかつて鉄道が存在したことを想像できないような場所に、周囲と不似合いな構造物が存在する情景に興味を持つ廃線跡マニアという者も存在し、鉄道ファンのうちに分類される。",
"title": "廃線跡"
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"text": "地道に研究を続ける鉄道史研究者や愛好家は以前から存在したが、1980年(昭和55年)頃より一部の鉄道趣味の出版物でも取り上げられ、鉄道・土木技術の発展の流れが産業考古学の一分野として注目されるようになり、1990年代には廃線跡そのものを題材とした書籍が多数発売されたり、一般情報誌などでも取り上げられることで、廃線跡を訪ねて歩くことも、世間に認知されつつある。この場合の探訪の対象には、廃線だけでなく、建設中に何らかの理由で放棄された未成線も含む。この分野で有名な文筆家には堀淳一、宮脇俊三が、写真家には丸田祥三がいる。",
"title": "廃線跡"
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"text": "たとえ廃線「同様」の状態となっていたとしても、廃線に含めないものがある。例えば、",
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"text": "などは廃線とはいえない。前者については廃線に含める場合もあるが、正式な廃線ではない。また、後者は、そもそも路線として営業されたことがないので、字義上、「廃止された路線」の廃線の定義には該当しない。",
"title": "廃線ではないもの"
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廃線(はいせん)とは、鉄道路線などの営業を廃止すること。またはその廃止された路線のこと。事務手続き上の扱いは「休止」となっているが、実態としては廃線状態になっている場合も含めることもある。 日本においては、かつては鉄道の廃止は「許可制」だった。国は鉄道事業者から提出された申請により廃止を許可するか否かを判断し、許可された場合のみ廃止が可能だった。1999年の鉄道事業法改正では、国の許可を得る必要がなくなり、廃止日の1年前までに廃止届を提出することで鉄道事業者の独断で廃止にすることが可能になった。これにより廃止のハードルは大きく下がり、赤字路線の廃止が急増した。
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{{複数の問題|ソートキー=鉄
|出典の明記=2012年8月28日 (火) 03:26 (UTC)
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{{正確性 <!--疑問点の要約パラメータを示すために別テンプレにしています。-->
|date=2010年12月23日 (木) 03:48 (UTC)
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[[File:Kurayosisen n.jpg|thumb|1985年に廃止された[[倉吉線]](2023年)]]
'''廃線'''(はいせん)とは、[[鉄道路線]]などの営業を廃止すること。またはその廃止された路線のこと。事務手続き上の扱いは「休止」となっているが、実態としては廃線状態になっている場合も含めることもある。
日本においては、かつては鉄道の廃止は「許可制」だった。国は鉄道事業者から提出された申請により廃止を許可するか否かを判断し、許可された場合のみ廃止が可能だった。1999年の[[鉄道事業法]]改正では、国の許可を得る必要がなくなり、廃止日の1年前までに廃止届を提出することで鉄道事業者の独断で廃止にすることが可能になった。これにより廃止のハードルは大きく下がり、赤字路線の廃止が急増した。
== 廃線の要因 ==
{{出典の明記|date=2017年4月|section=1}}
[[ファイル:Taushubetsu-bridge.jpg|thumb|220px|旧[[士幌線]] [[タウシュベツ川橋梁]]。ダム建設に伴った線路切り替えによる廃線区間にある。]]
[[ファイル:Rail trail-Kiso shinrin-Railway,木曾森林鉄道廃線跡.JPG|thumb|180px|right|[[木曽森林鉄道]]廃線跡]]
ある鉄道路線が廃線になる要因としては以下のようなものが挙げられる。
なお、下記の複数の条件に当てはまりながらも地道な努力と周辺の支援により運行を継続している鉄道もある。[[銚子電気鉄道]]もその一つである。
=== 経営の悪化による廃線 ===
==== 利用者や貨物の減少 ====
この要因が廃線の原因としては最も多い。その多くは[[ローカル線]]であり、開業以来1度も黒字になったことがなく廃線になることも珍しくない。[[日本の鉄道]]では[[日本国有鉄道|国鉄]]([[JR]])やその他の[[鉄道事業者|鉄道会社]]が自主的に廃止を決定したもののほか、[[1968年]](昭和43年)から行われた[[赤字83線]]に指定されたもの、[[1980年代]]に行われた[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]に基づく[[特定地方交通線]]に指定されたものなどがある{{efn|特定地方交通線の中には[[勝田線]]や[[清水港線]]のように沿線[[人口]]自体は多く、適切な[[ダイヤグラム|ダイヤ設定]]がなされてさえいれば存続できたと見なされている路線も存在した。}}。
[[太平洋戦争]]中に「[[不要不急線]]」として休止され[[軌条|レール]]などの資材が剥がされ、[[戦後]]鉄道路線として復活されないまま廃止となった路線{{efn|例としては[[白棚線]]や[[愛宕山鉄道]]、[[えちぜん鉄道三国芦原線|京福電気鉄道三国芦原線]]三国 - 東尋坊口間、[[観光]]が主目的の[[ケーブルカー]]。}} もある。
[[旅客]]・[[貨物]]の減少の要因としては、[[1960年代]]までは[[路線バス|バス]]や[[貨物自動車|トラック]]の発達が主要因であったが、それ以降は[[自家用自動車|自家用車]]の普及([[モータリゼーション]])が主要因となっている。[[仙北鉄道]]の場合、営業末期には旅客・貨物ともに最盛期より減少していたが、[[黒字と赤字|赤字]]を出すほどではなかった。しかし[[鉄道車両|車両]]および施設の更新に多額の費用がかかることから、鉄道を存続させるよりもバスに転換する方が得策という[[経営戦略|経営的判断]]による廃止であった。すでに[[昭和]]初期においてバスやトラックとの競合に敗れて廃線・廃業となっていた[[軽便鉄道]]や[[人車鉄道]]も多かった{{efn|軽便鉄道と人車鉄道は普通鉄道のような高速大量輸送が困難だったため、自動車との競合に対抗できなかった。}}。
また沿線人口の減少([[過疎|過疎化]])が利用客の減少を招く場合も多い。[[郊外|近郊]]部でも[[国鉄改革]]に伴う、[[貨物輸送]]の大幅な変更(詳しくは[[1984年2月1日国鉄ダイヤ改正#貨物列車の大整理|1984年ダイヤ改正での貨物列車整理]]を参照)による[[車扱貨物]]の減少で[[別府鉄道]]のように廃線に追い込まれた路線もある。
ローカル線沿線の人口の減少については、1960年代から[[1970年代]]には[[鉱業]]・[[林業]]の衰退や[[離農]]の増加など[[産業構造]]の変化によるものが要因の一つであったが、[[21世紀]]初頭では[[出生率]]の低下による影響も大きい。自家用車の普及により[[通勤]]需要の少ないローカル線では高校生を中心とした[[通学]]利用が主要な収入源(実際は[[学生割引|運賃割引率が高い通学利用]]だけでは採算が取れないことが多い)となっているため、[[少子化]]による通学利用客の大幅な減少は廃線につながる要因の一つとなっている{{efn|特定地方交通線の頃までは高齢者は多くが運転免許を持たない[[明治]]・[[大正]]生まれしかいなかったため、高齢者の移動手段としてローカル線は必要不可欠な存在であったが、[[2000年代]]後半以降は高齢者の世代も次第に世代交代して、高齢でも70代以下の年代ではまだ現役ドライバーという者も多くなったので、高齢者のローカル線利用も大幅に減少している。}}。
{{-}}
==== 経営破綻 ====
[[ファイル:Miki railway 三木鉄道廃線跡宗佐駅8302578.jpg|thumb|180px|right|[[2008年]][[4月1日]]に廃止された[[三木鉄道三木線]]の廃線]]
利用減少の赤字による廃線ではあるが、鉄道会社そのものの[[倒産]]や廃業など経営破綻をしたことが直接の原因となって廃線となった例もある。この例としては[[武州鉄道]]・[[磐梯急行電鉄]]・[[雄別鉄道]]がある。また、[[布引電気鉄道]]や[[光明電気鉄道]]は末期には事実上の経営破綻状態で、電気代が支払えずに[[送電]]を止められとどめを刺されたことで廃線となった。
慢性的な赤字状態で、ついには地域の公共交通の維持のためとして[[地方公共団体]]から支給されていた[[補助金]]が打ち切られて会社存続が不可能となり会社解散・廃線となったものもある。この例としては[[野上電気鉄道]]や[[くりはら田園鉄道]]がある。[[第三セクター鉄道|第3セクター]]の[[三木鉄道]]の場合は、慢性的な赤字と[[三木市]]の財政難のため、市長選挙で鉄道廃止派の[[薮本吉秀]]が当選したことが直接のきっかけとなり、廃線となったものである。
{{-}}
==== 接続路線の廃線の影響 ====
接続する路線が廃線となったことで連鎖的に廃線となった例もある。[[肥前電気鉄道]]がそれで、この場合は起点の[[塩田駅 (佐賀県)|塩田駅]]で接続し、[[省線]]への連絡手段となっていた[[祐徳軌道]]が廃線となったことでとどめを刺される形となった。
また[[東武日光鋼索鉄道線]]も[[いろは坂|第二いろは坂]](道路)の開通と、馬返駅で接続していた[[東武日光軌道線]]の廃止によって廃線となった。[[別府鉄道野口線]]の場合は接続する国鉄[[高砂線]]の廃止前に廃止されたが、同線の廃止への動きの影響を受けたものだといえる。これに近い例として[[石川県]]南部の温泉地を結ぶ観光路線であった[[北陸鉄道加南線]]は、国鉄接続駅に[[優等列車]]が停まらなくなったことがだめ押しとなり、廃線に追い込まれた。類似のケースとして[[東北新幹線]]延伸に伴い、接続路線が[[青い森鉄道]]に移管されたことで優等列車が停車しなくなった影響を受けた[[十和田観光電鉄線]]がある。
乗客流動と関係しない例として、阪神甲子園線は廃止直前でも12分間隔で運行するなど比較的利用者があったが、車庫のあった[[阪神国道線]]が廃止されることとなり、道連れとなる形で廃止となった。
=== 新線開業による廃線 ===
==== 線形の改良(急勾配の緩和など) ====
[[ファイル:Old track of Furka-Oberalp-Bahn,Oberwald,Valais,Switzerland.JPG|thumb|right|220px|新フルカトンネルの開通によって廃線となった[[アプト式]]線路。[[2010年]]に復活(スイス、オーバーヴァルト)。]]
技術の進歩により、長大な[[トンネル]]・[[橋|橋梁]]などの敷設が可能となったことを活かして、緩勾配で重量貨物列車が運行可能な新線が引かれ、それ以前の旧線が放棄されることがある。[[北陸本線]]や[[東北本線]]などのように新線が旧線と全くかけ離れた場所に敷設され旧線が廃線となった事例もあるが、高度成長期には地域の利便性よりも都市間輸送に重点を置いた側面もある。また、[[鉄道の電化|電化]]に際してトンネルの断面が狭く、電化の障害になるとして新たなトンネルが開削され、旧トンネルとその取付部の区間が廃線となった例もある。
また勾配改良ではないが、急曲線が連続している区間のスピードアップや輸送力強化のため旧線に近い場所に緩い曲線の新線を設け、当該区間の旧線が廃線となった例もある。さらには、急勾配や急曲線の改良・電化のための新しいトンネルの開削などの複合的な改良を伴う新線の建設により、旧線が廃線となった例も多い。
なお、風光明媚な廃線が[[観光]]鉄道として復活する例がある。[[山陰本線]]の旧線{{efn|新線に切替え後、列車の運行は無くなったものの山陰本線の一部としてJR西日本が所有するため、正しくは「廃線」でなく「旧線」となる。}} を転用した[[嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線|嵯峨野観光鉄道]]や[[台湾鉄路管理局]][[旧山線]]、[[スイス]]の[[マッターホルン・ゴッタルド鉄道]]の[[新フルカトンネル]]開通に伴い廃線となった区間が[[フルカ山岳蒸気鉄道]]として復活した例などがある。
==== 代替路線開業によるもの ====
上の例に似ているが、運行形態などの全く異なる新線を敷設したことで並行する在来の路線が廃止された例もある。
大都市部では従来の路線に並行して別の事業者による[[地下鉄]]路線を敷設し、その路線に乗り入れる運行形態に変更して従来の路線を廃止する事例が見られる。この例としては[[筑肥線]]([[博多駅|博多]] - [[姪浜駅|姪浜]]間・[[福岡市地下鉄空港線|福岡市地下鉄1号線]]乗り入れ)・[[京阪京津線]]([[京津三条駅|京津三条]] - [[御陵駅|御陵]]間・[[京都市営地下鉄東西線]]乗り入れ)・[[東急東横線]]([[横浜駅|横浜]] - [[桜木町駅|桜木町]]間・[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]乗り入れ)などが該当する。なお[[名鉄小牧線]]([[味鋺駅|味鋺]] - [[上飯田駅|上飯田]]間)は営業主体が変わらないため上記の「線形の改良」にも分類できるが、建設主体は別であり事業種別も「[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第1種]]」から「[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第2種]]」へ変更されていることから、この分類に該当する。
近年では、[[整備新幹線]]の開業に伴い並行する在来線の事業者が変わる場合もある。路線自体がなくなるわけではないが、JRの路線としては廃線扱いとなり、翌日からは新事業者による新規開業の扱いとなる。
これ以外の例としては、高規格・[[高速鉄道|高速路線]]が並行区間・至近区間に開通したために在来路線が廃止された例も多々ある。例えば[[西大寺鉄道]]や[[赤穂鉄道]]は国鉄[[赤穂線]]が開業したことにより廃止された。また、大阪市南部を走っていた[[南海平野線]]は、[[大阪市営地下鉄谷町線]]の[[天王寺駅|天王寺]] - [[八尾南駅|八尾南]]間開通に伴い、大部分が並行区間となるため廃止された{{efn|平野線運行最終日の1980年11月27日は地下鉄開通日でもあったため、この日に限り、地上と地下で鉄道が営業運転していたことになる。ただし、当時は開業日に[[始発列車]]から運行を開始しない(例えば[[正午]]から運行を開始する)例も多く見られたため、始発列車から[[終電|最終列車]]まで双方が運行していたとは限らない。}}。[[北陸新幹線]]の一部先行開業で廃止された、[[在来線|並行在来線]]である[[信越本線]]の[[横川駅 (群馬県)|横川]] - [[軽井沢駅|軽井沢]]間([[碓氷峠]])等、新幹線の開業に伴う廃止や経営分離も広い意味ではこれに当てはまる。
[[箕面温泉]]の[[箕面鋼索鉄道]]等、かつて日本国内の数箇所に存在した温泉[[旅館]]内のケーブルカーは、現在は[[鉄道営業法]]上の正式な「鉄道」扱いのものはすべて廃線になっているが、これは技術革新による長大な[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]の設置が可能になったための廃線で鉄道の新線に置き換わったわけではないものの、広い意味でこの例に含めることができる。また、[[関電トンネルトロリーバス]]は、[[2019年]]に車両の更新に際して[[電気バス|充電式のバス]]に置き換えられ、営業実態は大きく変わらないものの、[[鉄道事業法]]の適用される[[無軌条電車]]事業としては廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.atpress.ne.jp/news/184863|title=富山県と長野県とを直接結ぶ 唯一の交通路「立山黒部アルペンルート」 日本でここにしかない乗り物「トロリーバス」が活躍中!|accessdate=2019年6月11日|publisher=@press}}</ref>。
乗客数の増加に対して、複線化のための敷地確保の難しさや予算不足で廃止になった珍しい例もある。これに該当するのは単線の路面電車であった[[名鉄起線]]である。休止の時点でバスに代替され、バスが好評だったために1年後に正式に廃止された。他に同社の[[名鉄高富線|高富線]]などがある。
なお、路線の廃止を伴わず、単に別の線路に切り替えることによって線路が廃止されただけのものは、本項の意味での「廃線」には含めない。そのようなものは無数にあるが、例として、1970年代に[[近鉄大阪線列車衝突事故|近鉄大阪線の列車衝突事故]]を機に、まだ計画段階だった[[複線]]化計画を前倒しして工事を行った例がある。この例では、単線の旧線が複線新線の完成と共に切り替えられて廃止となっている。2017年現在、事故があった総谷トンネルを含む旧線のトンネルは残存しているものの、線路は取り払われている。この例のように線路の変更が大規模な場合、路線の廃止を伴っていなくても「廃線」と呼ばれる場合もある。
==== 公共事業によるもの ====
[[ダム]]建設予定地にかかっていたり、[[河川]]や[[道路]]の改修などの[[公共事業]]において障害となるため廃止・線路付け替えとなった路線もある。これは[[東武伊勢崎線]]([[鐘ヶ淵駅]] - [[北千住駅]] - [[西新井駅]]間。[[荒川 (関東)#荒川放水路|荒川放水路]]建設に伴うルート変更)、[[大井川鐵道井川線]]、[[福塩線]]、[[飯田線]]の各一部区間などが該当する。この場合は旧線での営業を続けながら新線を建設し、運休期間をほとんど作らないことが多いが、[[東急田園都市線|東急新玉川線]](2000年に田園都市線に編入)のように、旧線である[[東急玉川線|玉川線]]とは別途で免許を取得し、玉川線の廃止から新玉川線の開業までに8年近くの期間が開いた事例もある。また稀な例ではあるが、新線の完成前に旧線からルートの異なる暫定的な新線へ切り替えた例もあり、[[草木ダム]]建設時の足尾線(現:[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線]])がその一例である。
また[[名鉄岐阜市内線]]の[[岐阜駅前駅|岐阜駅前]] - [[名鉄岐阜駅|新岐阜駅前]]間は道路工事のため[[2003年]]12月から営業休止となったが、この区間は岐阜市内線が不採算のため[[2005年]]3月末で全線廃止となったため、その後一度も電車が走ることがないまま廃止されてしまった。
また[[名岐バイパス]]建設に伴い、交差する[[踏切]]回避のために[[立体交差]]化か廃線かの判断を迫られて結局廃線となった[[名鉄一宮線]]や、わずか半年間の一時的な地方博に過ぎない[[ぎふ中部未来博覧会]]開催に伴いアクセス道路の自動車通行の阻害になることを指摘され廃線となった名鉄岐阜市内線(長良線)も、ここに含められるものである。
=== 線路が新線の建設予定地にあったことによる廃線 ===
新線の建設予定地に既存の鉄道路線がある場合、線路用地確保のためにその鉄道路線が廃止された例もある。[[江若鉄道]]・[[名鉄挙母線]]・[[宮崎交通線]]は、国鉄新線の建設(それぞれ[[湖西線]]・[[愛知環状鉄道線|岡多線]]・[[日南線]])における用地確保のため廃止された。
他にも[[定山渓鉄道線|定山渓鉄道]]の一部は[[札幌市営地下鉄南北線]]の、[[南海天王寺支線]]の一部は[[大阪市営地下鉄堺筋線]]の、[[土佐電気鉄道安芸線]]は[[土佐くろしお鉄道]][[土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線|ごめん・なはり線]](計画時は国鉄[[阿佐線]])用地の一部になっている。このような場合戦前はその民間の鉄道路線を買収して国鉄線に直接編入していたが、戦後は車両・路盤などの諸設備において国鉄と私鉄の規格の差が大きくなったためいったん私鉄路線を廃止して線路や設備を撤去し、その用地上に改めて線路を建設する方策に変わっていった。また、江若鉄道のように代替路線が高速運転・大量輸送を行う高規格の路線の場合は線路用地の流用率が低く、新線開業に伴う廃止補償に近い側面を持つ場合もある。
しかし廃止してから新線が開業するまでに鉄道空白期間が生じる短所もある。かつては、路線自体が全く並行していなくとも路線の目的が国鉄新線と重なるため補償金を払って既存の鉄道を廃止させた例もあった。たとえば[[朝倉軌道]]は国鉄[[甘木鉄道甘木線|甘木線]]の開業に伴い廃止されたが、「[[福岡市|福岡]]・[[久留米市|久留米]]と[[甘木市|甘木]]を結ぶ」という点以外甘木線と競合する要素は全くなく、並行する区間もなかった。
また[[北恵那鉄道線|北恵那鉄道]]のように国鉄[[下呂線]]の敷設を前提に廃止されたものの、国鉄路線が[[未成線]]のままに建設が中止された例もある。この場合は結果的に、「旅客・貨物の減少」による廃線と同様の形態となっている。
[[北丹鉄道]]の廃止も、その後[[北近畿タンゴ鉄道]][[京都丹後鉄道宮福線|宮福線]]がほぼ同ルートに開通しているのでこの例に含まれると思われがちだが、実際には宮福線は当初は北丹鉄道の北側終点付近と宮津を結ぶ計画であり、福知山とを結ぶ計画に変更されたのは北丹鉄道の廃止後であった。従ってこの例は「利用者や貨物の減少による廃線」に分類する方が適切といえる。
[[光明電気鉄道]]の跡地の一部は二俣線(現・[[天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線]])の用地に転用されたが、光明電気鉄道が廃止されたのは[[#経営破綻|前述]]したように経営破綻による。
他には国鉄路線の開通によって既存の国鉄路線が廃止された例もあり、[[中央本線]]の支線である[[下河原線]]([[国分寺駅|国分寺]] - [[東京競馬場前駅|東京競馬場前]]間の大半が[[武蔵野線]]の建設予定地と重複・並行していたため)や[[内子線]]の一部区間([[予讃線|予讃本線]]新線との接続・高規格化のため)がそれにあたる。
[[淡路鉄道]]の場合は、[[本州]]および[[四国]]と橋が架けられ地続きになった際には国鉄直通路線を敷設する計画もあった。[[明石海峡大橋]]が道路専用橋として建設されたため、[[四国新幹線]]はトンネルを経由する構想になっている。
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[東北本線]][[東京駅|東京]] - [[上野駅|上野]]間の[[電車線・列車線|列車線]]は、[[東北新幹線]]の東京延伸のために、[[1983年]][[1月31日]]限りで廃止され線路用地を譲った。ただしこれは路線の廃止ではなく、これまでに挙げたものとは性格を異にする。なおこの線路は、[[上野東京ライン]]として[[2015年]][[3月14日]]に復活した。
=== 災害による廃線 ===
[[地震]]・[[水害]]・[[土砂崩れ|土砂崩落]]といった[[災害]]により路線が寸断されたことが原因で廃止された路線も数多くある。また、被災前から「沿線人口や旅客・貨物の減少」という廃線の基礎条件があり、自然災害での被害をきっかけに廃止された路線も少なくなく、広義では経営の悪化による廃線といえなくも無い。
[[仙北鉄道]]・[[草軽電気鉄道]]・[[四日市あすなろう鉄道八王子線|近鉄八王子線]]・[[アルピコ交通上高地線|松本電鉄上高地線]]・[[気仙沼線]]・[[大船渡線]]・[[日高本線]]<!-- 日田彦山線は法手続き上、休止状態のまま -->のそれぞれ一部区間や、[[岩泉線]]・[[柚木線]]・[[東濃鉄道駄知線]]・[[鹿児島交通枕崎線]]・[[高千穂鉄道高千穂線]]などが該当する。
現在では災害で大被害を受けた場合に災害復旧事業の一環として鉄道を復旧させる事例も多いが、被災状況によっては[[予算]]を捻出できず廃止となることもある。また、災害やその復旧に伴う線形改良で旧線が廃止となる例も存在する。
重要幹線は復旧工事の費用を当該路線の運賃収入や[[損害保険]]で充当できることが多いため、[[突貫工事]]で復旧工事が進められ[[阪神・淡路大震災]]で甚大な被害を受けた[[山陽新幹線]]・[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]などが数か月で全線復旧した一方、ローカル線では沿線の被害も甚大で沿線の工事用道路から先に復旧しなければならなかったり、復旧費用の捻出が困難{{efn|ローカル線の多くは幹線とは異なり、復旧費用が運賃収入を大きく上回ることも多い。}}なことから国・地元自治体に復旧費用の一部を負担を要請せざるを得ず、結果として年単位での長期間{{efn|例として被災から運転再開までに[[越美北線]]や[[高山本線]]が3年、[[名松線]]は6年半、[[只見線]]は11年もの期間を要している。}}を要する例も見受けられる。また長期間の不通の後に復旧しても利用者の逸走が著しく、結果として廃線となってしまうこともある{{efn|[[島原鉄道線]]の一部区間や[[三江線]]などが該当する。}}。
なお、阪神・淡路大震災では[[山陽電気鉄道]]の[[西代駅]] - [[板宿駅]]間の地下化工事が完成間近であり、周辺被害も相当であったため従来の地上区間の復旧は行わず地下線で開通させた事例もあり、旧路線はそのまま廃止された。[[東日本大震災]]でも同様に架け替え工事完了を控えていた[[水郡線]]の[[那珂川]]橋梁が復旧時にそのまま新橋梁へ切り替えられた。これらは路線の廃止を伴わないため本項の意味での「廃線」ではないが、これらも「廃線」とよばれることがある。
=== 戦争による廃線 ===
[[戦争]]が鉄道の廃止を招いた事例も存在する。これの代表的なものは前記に示した不要不急線であるが、太平洋戦争で戦場となった[[沖縄県の鉄道]]は戦闘で破壊され、戦後沖縄県が[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ合衆国により統治]]されたこともあり、そのまま消滅した。
[[日本統治時代の台湾]][[屏東線]]海岸地帯の[[林辺駅|林辺]] - [[枋寮駅|枋寮]]間もレールが撤去され、廃線(休止)となった。また戦争の影響による鉄材価格の暴騰に乗じて鉄道を廃止し、資材を売却した例も銚子遊覧鉄道(廃線6年後に、[[銚子電気鉄道|銚子鉄道→銚子電気鉄道]]として復活)などのように少数ながら存在する。しかしこれも、背景に旅客・貨物の減少があったものが多い。
日本国外でも[[ヒジャーズ鉄道]]や[[スーダンの鉄道]]などの例がある。また[[朝鮮半島]]では[[第二次世界大戦]]後の南北朝鮮の分断と[[朝鮮戦争]]の影響で、[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]をまたいでいた[[南北分断路線|4路線の一部または全区間]]が廃線となった。このうち[[京義線]]など2路線は[[2007年]]に復活運行が行われている。
異質な例としては敗戦により[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]が解体されたため廃線となった[[鉄道連隊演習線]]がある。後に[[新京成電鉄]]と[[第101建設隊|陸上自衛隊演習線]]として復活したが、後者はその後の環境の変化もあって再び廃線となっている。
=== 事故による廃線 ===
[[鉄道事故]]を起こしたことにより運行停止処分を受け、そのまま廃止になった例もある。今のところ該当するのは[[京福電気鉄道永平寺線]]のみ。なお運行停止処分の原因となった事故は越前本線で発生し(詳細は[[京福電気鉄道越前本線列車衝突事故]]を参照)、京福側は事故以前から[[京福電気鉄道]]福井支社の全線廃止の意向を示していたが、地元の強硬な反対運動で永平寺線のみ廃止、[[えちぜん鉄道勝山永平寺線|越前本線]]・[[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]]は[[えちぜん鉄道]]に引き継がれている。そのため、この例は「利用者や貨物の減少による廃線」にも分類できる。
=== 構造物や車両の欠陥による廃線 ===
点検時に車両や線路などに老朽化や設計強度不足による安全上の欠陥が発見され、その鉄道会社または[[地方運輸局|運輸局]]の判断により運行が停止となり、改修せずにそのまま廃止になった例もある。
今のところ、これに該当するのは[[ドリーム開発ドリームランド線]]・[[小田急向ヶ丘遊園モノレール線]]・[[北陸鉄道金名線]]である。ドリーム開発ドリームランド線については、のちに親会社となった[[ダイエー]]が[[HSST]]での再開を模索したが、ダイエーの経営難<!-- 会社更生法や民事再生法は適用されていないので、破綻とは言い切れない -->と[[横浜ドリームランド]]の閉鎖(2002年)があって事業再開を断念し2003年、正式に廃止となった。
== 廃止日 ==
記録上の「廃止日」とは、最終営業運行日の'''翌日'''である。例えば「4月1日廃止」といえば3月31日が営業運行の最終日であり、「3月31日限りで廃止(廃線)」ということである。[[終電|最終列車]]が0時を過ぎる場合は、暦の上では廃止日と同日になる。廃止区間内に[[夜間滞泊]]する列車がある場合は、最終列車後に[[臨時列車]]として存続する区間内まで[[回送]]されることも多い。これは、踏切は翌朝を待つことなく深夜のうちに撤去されるので、翌日は列車の運行ができないためである。
資料によっては、しばしば最終営業運行日で記述されることがあり、後年の調査の際に解釈の違いによって混乱を招くことがある。ただし、公式の「廃止日」に、営業運行ではなく、イベントとして無料で廃止記念列車の運行を行った例もある。例えば[[名古屋市電]]は[[1974年]](昭和49年)[[3月30日]]まで営業運転され、[[3月31日]]に無料運転を行っているが、公式な廃止日は3月31日である<ref>{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/bus_subway_pdf_25/H25p52-54.pdf 交通局のあゆみ]}} - 名古屋市交通局ウェブサイト、2014年7月6日閲覧。なお、名古屋市電の営業運転最終日の1974年(昭和49年)3月30日には[[名古屋市営地下鉄名城線]] [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] - [[新瑞橋駅]]間が開業しているが、営業開始は正午である。そのため、当日午後のみは市電と地下鉄の営業運転が共存した。</ref>。[[新潟交通電車線]]は[[1999年]](平成11年)[[4月4日]]を営業運転最終日として運行し、廃止日の[[4月5日]]には営業運転を行わず、[[静態保存]]する電車2両と[[雪かき車]]の回送運転を行っている。
== 廃線跡 ==
[[ファイル:旧士幌線 三の沢橋梁.jpg|thumb|旧士幌線 三の沢橋梁。廃線跡を遊歩道に整備中。]]
廃線となった区間の鉄道用地や駅などの建造物、またトンネルや橋梁などが道路ほかに転用されたり、もしくは転用されないまま山野の中に土木構造物の[[遺構]]として放置されている状態を'''廃線跡'''という。
鉄道路線は細長く、他に転用することが難しいため、廃線後何十年も当時のまま放置されている廃線跡も多い。また、道路に転用されていても、鉄道路線独特の、直線や緩やかなカーブを主体とした線形を保っている場合が多い([[バス専用道路]]、[[サイクリングロード]]、[[歩道|遊歩道]]、[[緑道]]となる場合もある)。[[跨線橋]]・[[橋台]]など鉄道施設の撤去はそれまで鉄道事業を行っていた者が行うことが基本であるが、乗客減による資金難で廃線になった路線などでは撤去資金が捻出できずに放置されてしまうこともある。
廃線跡が鉄道施設ごと沿線自治体に無償譲渡されることもあり、その場合は用地の測量、鉄道施設の調査、設備撤去に要する費用の確定を行い、鉄道事業者が[[国土交通省]]に対して、鉄道施設に係る財産譲渡について許可を得る必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/13487/4%EF%BD%90.pdf|title=JR札沼線の跡地利用について|accessdate=2021-06-06|publisher=北海道月形町|work=広報花の里つきがた-令和2年6月号(635号)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210519091248/http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/secure/13487/4%EF%BD%90.pdf|archivedate=2021-05-19}}</ref>。無償譲渡後に沿線自治体が鉄道施設を撤去する場合、撤去相当額を鉄道事業者が負担することもある<ref>{{Cite news|title=2016年廃止のJR留萌―増毛間 施設撤去費用11億円をJRが負担 留萌市、鉄道橋回収などに活用検討|date=2021-03-15|newspaper=北海道新聞|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/521752|accessdate=2021-06-06|archivedate=2021-03-15|archiveurl=https://archive.fo/Qb2sd}}</ref>。施設が行政に譲渡された場合などには、駅跡などにはそれを示す[[モニュメント]]などが造られていることもある。廃線区間内でも市街地に位置する駅の跡地についてはバスターミナルや交通広場として再整備された例も多い。
趣味的な観点ではなく、地元になじみのあった鉄道路線が後年まで住民に認識されている例も見られる。一例として、[[山梨県]][[甲府市]]徳行地区には「廃軌道」と呼ばれる通りがあり、バス路線の名称にもなっている。店舗などの案内地図や[[山梨交通]]が配布するバス路線図にも記載されているが、これは[[山梨交通電車線]]の廃線跡のことである。かつて鉄道路線があったことをうかがわせるものは(名前以外に)特に現存しないが「廃軌道」の通称は地元で認知されている存在である。
他方、山間部などでは廃線後に線路が撤去され、その後長い年月を経て完全に元の自然の姿に還り、トンネルも崩落するなど現在では近づくことも安全とは言い難い廃線跡というのも少なくない。また、都市部の場合には都市開発や宅地化の進展、農村部でも圃場整備に伴う[[区画整理]]などによって、廃線跡の痕跡が完全に消滅している場所も珍しくない。その他、特に線路敷として道路脇や[[河川敷]]・[[堤防]]上を利用していた場合には、道路の拡幅や河川改修などによって廃線跡が全く痕跡を留めない例も多い。
なお、本項でいう(路線としての)「廃線」ではなく、線路が他の線路に切り替えられて廃止となっただけのものも、「廃線跡」と呼ばれることが多い。例として、複線電化を別線建設で行ったことにより廃止され、うち一部区間が有名な遊歩道となっている、JR福知山線の生瀬 - 三田間の旧線などが挙げられる。
=== 活用例 ===
[[ファイル:Hikoujoumae station.jpg|thumb|220px|線路跡の転用例。[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[天北線]]・[[飛行場前駅]]跡と、[[北オホーツクサイクリングロード]]に転用された線路跡。]]
鉄道の廃止後も、整備・改修の上、廃線跡が活用されている事例としては、以下のようなものがある。
; [[公園]]
: [[ニューヨーク]]などでは鉄道高架路線の跡地が公園として整備されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2609633 廃線の鉄道高架跡地を公園にリサイクル、ニューヨーク] AFP(2009年6月9日)</ref>。
; [[遊歩道]]、[[緑道]]
: [[東武熊谷線]](埼玉県)、[[下河原線|中央本線下河原支線]](東京都)、[[山形交通高畠線]](山形県)など多数の例がある。
; 一般道路
: [[単線]] の鉄道を道路に転用する場合、拡幅するのでなければ、トンネル部分を[[信号機|信号]]で制御するなど行き違いへの対策が必要になる。
: [[柳ヶ瀬線]](福井県)、[[大隅線]](鹿児島県)など多数。
; [[バス専用道路]]
: [[白棚線]](福島県)、[[秋保電鉄]](宮城県)、[[名鉄岡崎市内線]](愛知県)、[[富山地方鉄道射水線]](富山県)などがあり、[[仙北鉄道]]や上記の柳ヶ瀬線も廃止直後はバス専用道路だった。
; [[高速道路]]
: [[東海道本線]][[大谷駅 (滋賀県)|大谷駅]] - [[稲荷駅]]間の旧線跡のほとんどは[[名神高速道路]]の建設に利用された。
: [[東北自動車道]]の[[川口ジャンクション]]北側から[[浦和本線料金所]]の少し北側までの区間は、戦前に存在した[[武州鉄道]]の神根駅 - 武州野田駅間のルートを廃線後30年以上を経て改修し再利用している。
; [[サイクリングロード]]
: 廃線跡は[[線形 (路線)#勾配|勾配]]が緩く、峠越えの区間でも通常2 - 2.5%以下であるため、[[サイクリング]]ロードへの活用に適する。
: [[筑波鉄道筑波線|筑波鉄道]]→[[茨城県道505号桜川土浦潮来自転車道線]](つくば霞ヶ浦りんりんロード)、[[湧網線]]→[[北海道道1087号網走常呂自転車道線]](オホーツク自転車道)など。
; [[保存鉄道]]
: 観光向けに[[ボランティア]]団体などにより運営されるもの。[[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線|北海道ちほく高原鉄道]]の車両を旧[[陸別駅]]構内で[[動態保存]]している「[[ふるさと銀河線りくべつ鉄道]]」などの例がある。[[高千穂鉄道高千穂線|高千穂線]]→[[高千穂あまてらす鉄道]](宮崎県)も保存鉄道化を目指している。欧米には多数の例がある。
; [[軌道自転車]]の運転用
: 観光用の軌道自転車(レールバイク)運転用として活用するもので、欧米には多数の例がある。
: 日本では、[[美幸線]](北海道)跡の活用による[[トロッコ王国美深]]がある。
; 歴史的建造物
: 廃線跡は、公に歴史的な価値を認められ、遺産として保全・整備される場合もある。
: 北海道の[[士幌線]]([[登録有形文化財]]、[[北海道遺産]]に指定)、[[碓氷峠]](群馬県)の旧[[信越本線]]([[碓氷第三橋梁]]などが[[重要文化財]]に指定、一時期[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]である[[富岡製糸場と絹産業遺産群]]の構成資産候補であったが最終的に除外された)、神奈川県横浜市の[[汽車道]]([[横浜市認定歴史的建造物]]に認定)など。
; 世界遺産
: 歴史的建造物の延長線上に位置付けられるが、[[世界遺産条約]]では[[所有者]]の[[財産権]]を保証していることから、観光向けに公開・開放する義務は生じない。
: [[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業]]の構成資産に[[三井三池炭鉱|三池炭鉱]][[三池鉄道|専用鉄道敷跡]]と[[橋野高炉跡|橋野鉄鉱山]] の「採掘場と運搬路」にトロッコ軌道跡の廃線が含まれている。
; 住宅
: 大都市では廃線跡のような狭幅の土地でも住宅用地として転用されることが少なくなく、不動産業者などにより廃線跡を区画割りして一戸建て住宅や集合住宅が建てられることがある。特に鉄道のカーブは緩やかなため、[[航空写真]]や[[衛星写真]]で廃線跡に建てられた建物を見た場合には、そこだけかつての線路の形状に沿って建てられており、同じ地域の住宅の並び方とは異なるものになっていることがある。
: [[日立製作所]]亀有工場専用線(東京都)、[[南海平野線]][[西平野停留場|西平野電停]] - [[平野停留場|平野電停]]間、[[福知山線]](尼崎港線)[[金楽寺駅]] - [[尼崎港駅]]間など。
概して廃線跡は、利便性のあまり高くない場所に幅数メートルの狭い土地が延々と細長く延びるという形状になりがちであり、道路・線路・保存以外の活用例は少ない。
=== 廃線の復活 ===
廃線後も復活に期待して線路などが維持・放置される例もあるが([[手宮線]]や[[越後交通長岡線]]など)、実際に復活した例は、他の鉄道線とするために一時的に廃止にした事例を除けばほとんどない(前述の[[銚子電気鉄道線]]や、[[可部線]]の一部区間など)。また、レールや枕木、架線などの施設等は撤去したものの、前例のように将来の復活に期待して跡地・用地は元の鉄道事業者が所有している場合もあるが、これも前記の例同様、復活を遂げた例はない([[鹿児島交通枕崎線]]など)。
ただし、路線単位ではなく線路単位では、[[東北本線]]の[[東京駅|東京]] - [[上野駅|上野]]間の[[電車線・列車線|列車線]]が、線路用地を[[東北新幹線]]に転用するために[[1983年]][[1月31日]]限りで廃止されたが、[[上野東京ライン]]として[[2015年]]3月14日に復活した。路線単位の廃線復活ではない理由は、廃止された区間を並走する[[京浜東北線]]と[[山手線]]も、同区間は正式には東北本線だからである。
[[スコットランド]]では1969年に[[ビーチング・アックス|ビーチングによる不採算路線整理]]の一環として廃線になった{{仮リンク|ウェイヴァリー線|en|Waverley Route|label=}}の一部区間(全48キロ)がリニューアルされ、2015年9月9日に[[ボーダーズ・レールウェイ]]として復活している<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3060374 スコットランド「ウォルター・スコット特急」46年ぶり復活] AFP(2015年9月15日)</ref>。
なお、一度廃止にした時点で路線がなくなるので、法手続き上は「復活」「営業再開」ではなく「新規開業」の扱いになる。復活(新規開業)させること自体も難しいことだが、「新しい路線」なのでバリアフリー等も現行法に従う必要があり、例えば既存駅では努力義務とされているエレベーター設置が必須になり(その分コストが増える)、踏切新設の認可もかなり厳しくなっているので、その面でもハードルは高い。
=== 研究者・愛好家など ===
廃線跡は、廃止から長い時間を経ている場所もあり、歴史の流れの中で宅地化したり、逆に自然に還るなどで、そこにかつて鉄道が存在したことを想像できないような場所に、周囲と不似合いな構造物が存在する情景に興味を持つ'''廃線跡マニア'''という者も存在し、[[鉄道ファン]]のうちに分類される。
地道に研究を続ける鉄道史研究者や愛好家は以前から存在したが、[[1980年]](昭和55年)頃より一部の鉄道趣味の出版物でも取り上げられ、鉄道・土木技術の発展の流れが[[産業考古学]]の一分野として注目されるようになり、[[1990年代]]には廃線跡そのものを題材とした書籍が多数発売されたり、一般情報誌などでも取り上げられることで、廃線跡を訪ねて歩くことも、世間に認知されつつある。この場合の探訪の対象には、廃線だけでなく、建設中に何らかの理由で放棄された[[未成線]]も含む。この分野で有名な文筆家には[[堀淳一]]、[[宮脇俊三]]が、写真家には[[丸田祥三]]がいる。
== 廃線ではないもの ==
たとえ廃線「同様」の状態となっていたとしても、廃線に含めないものがある。例えば、
* 実際には正式な廃止手続きが行われていない路線([[不要不急線]]で戦後再開しなかったものや[[沖縄県の鉄道]]の一部、[[田沢湖線]]の赤渕 - 橋場間、[[水根線]]など)。
* 工事途中で廃棄され、遺物が残る[[未成線]]。
などは廃線とはいえない。前者については廃線に含める場合もあるが、正式な廃線ではない。また、後者は、そもそも路線として営業されたことがないので、字義上、「'''廃'''止された路'''線'''」の廃線の定義には該当しない。
== 廃線の一覧 ==
※日本語版に記事がある廃線のみ掲載。
* [[日本]]
** →[[日本の廃止鉄道路線一覧]]を参照(現在の日本国内に存在したもののみを対象とする)
* [[アメリカ合衆国]]
** [[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]
** [[デンバー軌道]]
** [[パシフィック電鉄]]
** [[ヒューストン・ガルベストン電鉄]]
** [[ポートランド・ルイストン・インターアーバン]]
** [[ロチェスター地下鉄]]
** [[センターヴィル軍用鉄道]]
** [[グラニット鉄道]]
** [[モーク・チャンク・スイッチバック鉄道]]
** [[サリー鉄道]]
* [[ドイツ]]の[[バイエルン州]]
** ションガウ・カウフボイレン線
** マルクトオベルドルフ・レヒブルク線
** [[イーザル川]]谷線の一部
** [[ミュンヘン]]・[[ランツフート]]線の一部
** ランドスフート・ロッテン城線
** ランゲンバッハ・ロルバッハ線
** ドルフェン・フェルデン線
* [[メキシコ]]
** [[エルパソ電鉄]]
* [[大韓民国|韓国]]
** [[金剛山電気鉄道]]
** [[ソウル市電]]
** [[釜山市電]]
** [[韓国鉄道公社|韓国鉄道庁]][[水仁線]]
** [[韓国鉄道公社]][[旌善線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[京春線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[忠北線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[長項線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[中央線 (韓国)|中央線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[嶺東線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[太白線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[全羅線]](一部)
** 韓国鉄道公社[[慶全線]](一部)
* [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]
** [[金剛山電気鉄道]]
** [[東海北部線]]
* [[台湾]]
** [[新北投線 (台湾鉄路管理局)|新北投線]]
** [[淡水線 (台湾鉄路管理局)|淡水線]]
** [[東港線 (台湾)|東港線]]
** [[中和線 (台湾鉄路管理局)|中和線]]
** [[東勢線]]
** [[新店線 (台湾鉄路管理局)|新店線]]
** [[神岡線 (台湾)|神岡線]]
** 多数の軽便鉄道([[台湾糖業鉄道|糖業鉄道]]・塩業鉄道・林業鉄道・鉱業鉄道など)
* [[中華人民共和国]]
** [[鞍山市電]]
** [[上海市電]]
** [[ハルビン市電]]
** [[北京市電]]
** [[葦河森林鉄路]]
** [[東満洲鉄道]]
** [[天理鉄道]]
** [[天図軽便鉄路]]
** [[潮汕鉄道]]
** [[斉昂軽便鉄路]]
** [[渓堿鉄路]]
* [[タイ王国]]
** [[南本線|ハジャイ分岐駅 - ソンクラー駅・旧泰緬鉄道]]
** [[パークナーム鉄道]]
** [[タールア駅#プラバート軌道|プラバート軌道]]
* [[ミャンマー]]
** [[泰緬鉄道]](ミャンマー国内は全区間廃止)
* [[マレーシア]]
** [[サラワク国有鉄道]]
* [[サウジアラビア]]
** [[ヒジャーズ鉄道]]
* [[フランス]]
** [[プティト・サンチュール]]
** [[コルシカ鉄道]]東海岸線
** [[ソー線]]
* [[オーストラリア]]
** [[ロンセストン市電]]
** [[シドニーモノレール]]
* [[ルーマニア]]
** [[モルタビッタ森林鉄道]]
** [[シンプルチャタッイ森林鉄道]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Former railway lines}}
* [[赤字83線]]
* [[軽便鉄道]]
* [[特定地方交通線]]
* [[廃駅]]
* [[廃墟]]
* [[廃道]]
* [[宮脇俊三]]
* [[丸田祥三]]
* [[日本の廃止鉄道路線一覧]]
* [[七つの廃線跡]]
* [[鉄道廃線跡の旅]]
* [[国鉄分割民営化]]
* [[鉄道空白地帯]]
* [[ビーチング・アックス]]
* [[過疎]]
* [[過疎地域]]
* [[モータリゼーション]]
* [[アーカイブス秘蔵映像でよみがえる にっぽんの廃線100]] - [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]・[[NHK BSプレミアム|BSプレミアム]]で2020年に放送された特別番組。
* [[アメリカ路面電車スキャンダル]] - 「[[ゼネラルモーターズ|GM]]など自動車関連企業がバス転換による需要増を狙って路面電車会社を買収、廃止に追い込んだ」という[[陰謀論]]で、事実とすれば廃線の理由として相当特異な例であるが、否定する意見もある。
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[[Category:鉄道の歴史]]
[[Category:廃線|*]]
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京急逗子線
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逗子線(ずしせん)は、神奈川県横浜市金沢区の金沢八景駅と逗子市の逗子・葉山駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
途中経路は異なるものの、品川駅・横浜駅 - 逗子・葉山駅間は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の横須賀線品川駅・横浜駅 - 逗子駅間と競合関係にある。
終点の逗子・葉山駅(旧・新逗子駅)は、葉山御用邸などの別荘地やマリンリゾートを擁する葉山町への観光の拠点であり、京急は「葉山女子旅きっぷ」などのお得な企画乗車券を売り出している。なお、葉山町には鉄道駅はないため、最寄りの逗子・葉山駅から京浜急行バスなどでアクセスする必要がある。
逗子線内は各駅に停車する。2023年11月25日改正のダイヤでは、平日は上り5本、下り4本、土休日は上下各1本が設定されている。
なお、現行の特急は1999年7月31日のダイヤ改正で設定されたものだが、過去にも1974年(夏期のみ1976年まで設定)まで特急が設定されていたことがあり、こちらは六浦駅・神武寺駅は通過していた。
2010年5月16日に「エアポート急行」として設定され、2023年に急行に改称された。一部を除き、空港線羽田空港方面に直通する種別で、逗子線内は各駅に停車する。日中は20分毎に運転され、羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 逗子・葉山駅間での運転が基本だが、京成高砂発、品川発、京急川崎発、神奈川新町発着、金沢文庫発の列車も設定されている。基本的には6両または8両で運転するが、8両に関しては都営車や4+4両(600形・1500形・新1000形)で運転される列車もある。
主に金沢文庫駅・金沢八景駅 - 逗子・葉山駅で運行され、品川、羽田空港第1・第2ターミナル(着のみ)、京急川崎、神奈川新町発着の列車も少数設定されている。基本的には6両または8両だが、4両で運転する列車もある。夜の金沢文庫行きは都営車も使用される。
正式名称が「快速特急」から「快特」となった1999年より、金沢文庫で品川方面発着の快特と増解結する多層建て列車として登場した。逗子線内 - 金沢文庫間は普通で運行され、金沢文庫で種別変更された。品川または羽田空港発着。羽田空港発着の列車のみ京急川崎で快特と増解結し、京急川崎 - 羽田空港間は特急として運転された。
1999年7月30日まで運行されていた急行は、主に京急本線内の神奈川県内での速達種別であったが、当線に直通する列車も主に京急川崎 - 新逗子(現:逗子・葉山)間で運行されていた。1999年7月31日のダイヤ改正で廃止。朝ラッシュ時には青砥・京成高砂行きおよび北総線直通の急行(土休日は品川行き)が運転され、日中は新逗子 - 金沢文庫の区間列車と本線直通急行の交互運転、夕ラッシュ時は本線直通急行が10分毎で運転されていた。廃止時点で都営車のほか、北総開発鉄道(現:北総鉄道)車や住宅・都市整備公団車(現在は千葉ニュータウン鉄道所有)も乗り入れていた。逗子線内は各駅に停車していた。
1970年7月 - 1973年8月まで海水浴ダイヤ時に京成電鉄との乗り入れ臨時列車「パシフィック号」・「逗子号」が逗子海岸 - 京成成田駅間で運転されていた。毎年7月と8月に京急と京成の車両を3本ずつ使用して3往復ずつ運転されていた。ただし、1970年当時はパシフィック号は北行は逗子海岸発は片道1本のみであり、残りは京急久里浜駅発と浦賀駅発が片道1本ずつである。また「逗子号」も最初の1本が京成津田沼駅発であった。
この間合い運用で京成の車両(赤電)が品川 - 逗子海岸間の海水浴特急ではない臨時特急で1編成当たり3往復程度運用されていた。
当時の停車駅は京急・京成線は当時の特急停車駅と同一、都営線内は各駅であった。
1952年3月から1965年にかけて、休日にハイキング客輸送向けとして、「油壺」「鷹取」等の列車名で主に逗子海岸 - 品川で運転されていた。ただし、「油壺」は往路のみ逗子海岸行き、逗子から三浦半島周遊 - 復路は浦賀(後に久里浜)発だった。
全列車が全駅に停車するため停車駅は省略。全駅神奈川県内に所在。2010年10月21日より六浦 - 神武寺間2.8kmが京急線における最長駅間距離となっている。
本線の金沢八景駅 - 金沢文庫駅間に隣接する総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輛製造横浜製作所)から甲種輸送される車両は逗子線の三線軌条を経由してJR横須賀線の逗子駅へ送り込まれる。また川崎車両で製造された京急の車両や、日本車輌製造で製造された京急の相互直通運転先である京成電鉄や北総鉄道の車両、同事業所で改造工事を行う車両が、JR横須賀線の逗子駅構内から逗子線の三線軌条を経由して横浜事業所へ送り込まれる。そのため、本来の台車ではないうえ自走ではないものの川崎車両で製造された京急の車両が最初に走る京急の線路は逗子線となる。
総合車両製作所横浜事業所 - 神武寺駅間での車両輸送は終電後に線路閉鎖の手続きを行った後に行われる。しかし東急車輛製造時代の1970年代後半には、旧型国電が解体のため日中に自力回送を行ったことがあり、1980年代前半頃では日中に列車を運休させてまで新車搬入を実施していた。
本路線には葉山町内への延伸計画があり、かつての逗子海岸駅も延伸を想定した配線となっていた。しかしながら延伸を断念し現在に至っている。この件についてNHKの「ブラタモリ」(2020年7月11日放送)の中では、逗子と葉山の境界にある桜山が葉山層群という硬い地質であり、トンネルを掘削することが困難であったためという見解が説明された。
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"text": "1999年7月30日まで運行されていた急行は、主に京急本線内の神奈川県内での速達種別であったが、当線に直通する列車も主に京急川崎 - 新逗子(現:逗子・葉山)間で運行されていた。1999年7月31日のダイヤ改正で廃止。朝ラッシュ時には青砥・京成高砂行きおよび北総線直通の急行(土休日は品川行き)が運転され、日中は新逗子 - 金沢文庫の区間列車と本線直通急行の交互運転、夕ラッシュ時は本線直通急行が10分毎で運転されていた。廃止時点で都営車のほか、北総開発鉄道(現:北総鉄道)車や住宅・都市整備公団車(現在は千葉ニュータウン鉄道所有)も乗り入れていた。逗子線内は各駅に停車していた。",
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"text": "1970年7月 - 1973年8月まで海水浴ダイヤ時に京成電鉄との乗り入れ臨時列車「パシフィック号」・「逗子号」が逗子海岸 - 京成成田駅間で運転されていた。毎年7月と8月に京急と京成の車両を3本ずつ使用して3往復ずつ運転されていた。ただし、1970年当時はパシフィック号は北行は逗子海岸発は片道1本のみであり、残りは京急久里浜駅発と浦賀駅発が片道1本ずつである。また「逗子号」も最初の1本が京成津田沼駅発であった。",
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"text": "この間合い運用で京成の車両(赤電)が品川 - 逗子海岸間の海水浴特急ではない臨時特急で1編成当たり3往復程度運用されていた。",
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"text": "当時の停車駅は京急・京成線は当時の特急停車駅と同一、都営線内は各駅であった。",
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"text": "1952年3月から1965年にかけて、休日にハイキング客輸送向けとして、「油壺」「鷹取」等の列車名で主に逗子海岸 - 品川で運転されていた。ただし、「油壺」は往路のみ逗子海岸行き、逗子から三浦半島周遊 - 復路は浦賀(後に久里浜)発だった。",
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"text": "全列車が全駅に停車するため停車駅は省略。全駅神奈川県内に所在。2010年10月21日より六浦 - 神武寺間2.8kmが京急線における最長駅間距離となっている。",
"title": "駅一覧"
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"text": "本線の金沢八景駅 - 金沢文庫駅間に隣接する総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輛製造横浜製作所)から甲種輸送される車両は逗子線の三線軌条を経由してJR横須賀線の逗子駅へ送り込まれる。また川崎車両で製造された京急の車両や、日本車輌製造で製造された京急の相互直通運転先である京成電鉄や北総鉄道の車両、同事業所で改造工事を行う車両が、JR横須賀線の逗子駅構内から逗子線の三線軌条を経由して横浜事業所へ送り込まれる。そのため、本来の台車ではないうえ自走ではないものの川崎車両で製造された京急の車両が最初に走る京急の線路は逗子線となる。",
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"text": "総合車両製作所横浜事業所 - 神武寺駅間での車両輸送は終電後に線路閉鎖の手続きを行った後に行われる。しかし東急車輛製造時代の1970年代後半には、旧型国電が解体のため日中に自力回送を行ったことがあり、1980年代前半頃では日中に列車を運休させてまで新車搬入を実施していた。",
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"text": "本路線には葉山町内への延伸計画があり、かつての逗子海岸駅も延伸を想定した配線となっていた。しかしながら延伸を断念し現在に至っている。この件についてNHKの「ブラタモリ」(2020年7月11日放送)の中では、逗子と葉山の境界にある桜山が葉山層群という硬い地質であり、トンネルを掘削することが困難であったためという見解が説明された。",
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] |
逗子線(ずしせん)は、神奈川県横浜市金沢区の金沢八景駅と逗子市の逗子・葉山駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
|
{{統合文字|逗}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keikyu logo small.svg|50px|link=京浜急行電鉄]] 逗子線
|路線色=deepskyblue
|ロゴ=File:Number prefix Keikyū.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=京急逗子線.jpg
|画像サイズ=
|画像説明=逗子線を走行する列車。片側は三線軌条区間<br />(2020年3月 六浦駅)
|国={{JPN}}
|所在地=[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]、[[逗子市]]
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|開業=[[1930年]][[4月1日]]
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|使用車両=[[京浜急行電鉄#車両]]<br />及び[[#運行形態|運行形態]]を参照
|路線距離=5.9 [[キロメートル|km]]
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|路線図=
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{| {{Railway line header}}
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|}
|}
'''逗子線'''(ずしせん)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]の[[金沢八景駅]]と[[逗子市]]の[[逗子・葉山駅]]を結ぶ、[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KK'''。
== 概要 ==
途中経路は異なるものの、[[品川駅]]・[[横浜駅]] - 逗子・葉山駅間は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]品川駅・横浜駅 - [[逗子駅]]間と競合関係にある<ref>『京急電鉄のひみつ』PHP研究所、2013年 p.32</ref><ref>今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』5号 首都圏私鉄、新潮社、2010年、p.10</ref>。
終点の逗子・葉山駅(旧・新逗子駅)は、[[御用邸|葉山御用邸]]などの[[別荘|別荘地]]<ref>{{Cite web|和書|title=【別荘文化が消えてゆく?!】葉山の海辺に建つ築90年の貸別荘で過ごす7日間 |url=https://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00116/ |website=LIFULL HOME'S PRESS |date=2014-09-28|access-date=2023-06-12 |language=ja}}</ref>や[[リゾート|マリンリゾート]]を擁する[[葉山町]]への観光の拠点であり、京急は「葉山女子旅きっぷ」などのお得な[[特別企画乗車券|企画乗車券]]を売り出している<ref>{{Cite web|和書|title=葉山女子旅きっぷ |work=おトクなきっぷ |url=https://www.keikyu.co.jp/visit/otoku/otoku_hayamagirl/index.html |publisher=京浜急行電鉄 |access-date=2023-06-12 |language=ja}}</ref>。なお、葉山町には鉄道駅はないため、最寄りの逗子・葉山駅から[[京浜急行バス]]などでアクセスする必要がある<ref>{{Cite web|和書|title=女子旅MAP |work=葉山女子旅きっぷ |url=https://www.keikyu.co.jp/visit/otoku/otoku_hayamagirl/map.html |publisher=京浜急行電鉄 |access-date=2023-06-12 |language=ja}}</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離:5.9 km
* [[軌間]]:1435 mm(金沢八景駅 - [[神武寺駅]]間の上り線は、[[総合車両製作所]]横浜事業所(旧・東急車輛製造横浜製作所)からJR[[逗子駅]]までの回送線を併設しているため、1435 mmと1067 mmの[[三線軌条]]区間となっている)
* 駅数:4駅(起終点駅を含む)
* 複線区間:全線(ただし、逗子・葉山駅構内は単線)
* 電化区間:全線(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
* [[列車無線]]:[[誘導無線]]方式(IR)、デジタル空間波無線方式(デジタルSR)(併用)
* 最高速度:100 km/h<ref name="terada" />
<gallery widths="180px">
ファイル:Kanazawa hatsukei kounai No2.JPG|逗子線特有の三線軌条区間<br />(2010年6月 金沢八景駅)
ファイル:Keikyu-Mutsuura Station-platform.jpg|片側三線軌条区間<br />(2007年10月 京急六浦駅)
ファイル:Keikyu 1000series 1232.jpg|六浦駅 - 神武寺駅間(2021年4月)
</gallery>
== 運行形態 ==
=== 現行の列車種別 ===
==== 特急 ====
逗子線内は各駅に停車する。2023年11月25日改正のダイヤでは、平日は上り5本、下り4本、土休日は上下各1本が設定されている。
; 京急線内系統
:* 金沢文庫発逗子・葉山行き
:** 平日朝に2本設定されている。
:* 逗子・葉山発着 - 羽田空港第1・第2ターミナル発着
:** 平日朝に上り3本、平日夜に下り1本が設定されている。
:*泉岳寺発逗子・葉山行き
:**平日深夜に1本、土休日夜に1本設定されている。土休日の担当車両は都営車である。
:*逗子・葉山発神奈川新町行き
:**土休日深夜に1本設定されている。担当車両は都営車である。
; 都営浅草線直通系統
:* 逗子・葉山発青砥行き、京成高砂行き
:** 平日朝に上り2本が設定されている。[[都営地下鉄浅草線|浅草線]]・[[京成押上線]]・[[京成本線]]内は普通となる。京成高砂行きの担当車両は都営車である。
なお、現行の特急は[[1999年]][[7月31日]]のダイヤ改正で設定された<ref name="RP677">{{Cite journal|和書 |title=京急ダイヤ全面改正 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |date = 1998-11 |volume = 49 |issue = 11 |pages = 30-35 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>ものだが、過去にも1974年(夏期のみ1976年まで設定)まで特急が設定されていたことがあり、こちらは[[六浦駅]]・[[神武寺駅]]は通過していた。
==== 急行 ====
{{Main2|1999年7月30日まで走っていた急行は「[[#急行(旧)|急行(旧)]]」の節を}}
2010年5月16日に「エアポート急行」として設定され、2023年に急行に改称された。一部を除き、[[京急空港線|空港線]][[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港方面]]に直通する種別で、逗子線内は各駅に停車する。日中は20分毎に運転され、羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 逗子・葉山駅間での運転が基本だが、京成高砂発、品川発、京急川崎発、神奈川新町発着、金沢文庫発の列車も設定されている。基本的には6両または8両で運転するが、8両に関しては都営車や4+4両(600形・1500形・新1000形)で運転される列車もある。
==== 普通 ====
主に[[金沢文庫駅]]・[[金沢八景駅]] - 逗子・葉山駅で運行され、品川、羽田空港第1・第2ターミナル(着のみ)、京急川崎、神奈川新町発着の列車も少数設定されている。基本的には6両または8両だが、4両で運転する列車もある。夜の金沢文庫行きは都営車も使用される。
=== 過去の列車種別 ===
==== エアポート急行 ====
{{Main2|「[[#急行|急行]]」の節}}
==== 快特 ====
正式名称が「快速特急」から「快特」となった1999年より、金沢文庫で品川方面発着の快特と増解結する[[多層建て列車]]として登場した。逗子線内 - 金沢文庫間は普通で運行され、金沢文庫で種別変更された。品川または羽田空港発着。羽田空港発着の列車のみ京急川崎で快特と増解結し、京急川崎 - 羽田空港間は特急として運転された。
==== 急行(旧) ====
1999年7月30日まで運行されていた急行は、主に[[京急本線]]内の神奈川県内での速達種別であったが、当線に直通する列車も主に[[京急川崎駅|京急川崎]] - 新逗子(現:逗子・葉山)間で運行されていた。1999年7月31日のダイヤ改正で廃止。朝ラッシュ時には[[青砥駅|青砥]]・[[京成高砂駅|京成高砂]]行きおよび北総線直通の急行(土休日は品川行き)が運転され、日中は新逗子 - 金沢文庫の区間列車と本線直通急行の交互運転、夕ラッシュ時は本線直通急行が10分毎で運転されていた。廃止時点で都営車のほか、[[北総鉄道|北総開発鉄道(現:北総鉄道)]]車や[[住宅・都市整備公団]]車(現在は[[千葉ニュータウン鉄道]]所有)も乗り入れていた。逗子線内は各駅に停車していた。
=== 臨時列車 ===
==== 「パシフィック」・「逗子」 ====
[[1970年]]7月 - [[1973年]]8月まで[[ダイヤグラム#形態|海水浴ダイヤ]]時に[[京成電鉄]]との乗り入れ[[臨時列車]]「パシフィック号」・「逗子号」が逗子海岸 - [[京成成田駅]]間で運転されていた。毎年7月と8月に京急と京成の車両を3本ずつ使用して3往復ずつ運転されていた。ただし、1970年当時はパシフィック号は北行は逗子海岸発は片道1本のみであり、残りは[[京急久里浜駅]]発と[[浦賀駅]]発が片道1本ずつである。また「逗子号」も最初の1本が[[京成津田沼駅]]発であった。
この[[間合い運用]]で京成の車両([[赤電 (京成)|赤電]])が品川 - 逗子海岸間の海水浴特急ではない臨時特急で1編成当たり3往復程度運用されていた。
当時の停車駅は京急・京成線は当時の特急停車駅と同一、都営線内は各駅であった<ref>鉄道ピクトリアル 1997年1月臨時増刊号「京成電鉄」</ref>。
==== ハイキング特急 ====
[[1952年]]3月から[[1965年]]にかけて、休日にハイキング客輸送向けとして、「油壺」「鷹取」等の列車名で主に逗子海岸 - 品川で運転されていた。ただし、「油壺」は往路のみ逗子海岸行き、逗子から三浦半島周遊 - 復路は浦賀(後に久里浜)発だった。
== 使用車両 ==
* [[京急1000形電車 (2代)]]
* [[京急600形電車 (3代)]]
* [[京急1500形電車]]
* [[東京都交通局5500形電車 (鉄道)]]
== 歴史 ==
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[4月1日]] - [[湘南電気鉄道]]の1路線として、'''金沢八景駅''' - '''湘南逗子駅'''間が標準軌(1435 mm)にて開業。
* [[1931年]](昭和6年)4月1日 - 金沢八景駅 - 湘南逗子駅間に'''神武寺駅'''開業。路線を0.4 km延長し'''湘南逗子駅葉山口乗降場'''開設。従来の湘南逗子駅は'''湘南逗子駅沼間口乗降場'''と改称。
* [[1941年]](昭和16年)[[11月1日]] - 京浜電気鉄道に統合され、同社の路線となる。
* [[1942年]](昭和17年)
**[[5月1日]] - 京浜電気鉄道が[[東京急行電鉄]]に合併([[大東急]])。東急の路線(東急湘南線の一部)となる。
** [[9月1日]] - 湘南逗子駅葉山口乗降場を閉鎖。路線は湘南逗子駅沼間口乗降場まで短縮し、沼間口を'''湘南逗子駅'''に改称。
* [[1943年]](昭和18年)
** [[2月15日]] - 海軍関係者専用駅として'''六浦荘仮駅'''が金沢八景駅 - 神武寺駅間に開業。
** [[10月15日]] - 金沢八景駅 - 湘南逗子駅間が単線化。
* [[1944年]](昭和19年)9月1日 - 神武寺駅を現在地に移転。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[6月1日]] - 東京急行電鉄から京浜急行電鉄が分離発足。
** [[7月3日]] - '''逗子海岸駅'''として湘南逗子駅葉山口を復活。
** [[8月16日]] - 金沢八景駅 - 神武寺駅間が再複線化。
** [[9月6日]] - [[横浜駅]] - 逗子海岸駅間の直通運転を開始。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[3月1日]] - 六浦荘仮駅を'''六浦駅'''として現在地に移転開業。
** [[7月10日]] - [[品川駅]] - 逗子海岸駅間の直通運転を開始。
* [[1950年]](昭和25年)[[7月1日]] - 品川駅 - 逗子海岸駅間直通の急行の運転を開始。
* [[1952年]](昭和27年)
** [[6月24日]] - 神武寺駅 - 湘南逗子駅間が再複線化。
** [[7月6日]] - 品川駅 - 逗子海岸駅間直通の特急の運転を開始。
* [[1958年]](昭和33年)6月 - 湘南逗子駅 - 逗子海岸駅間を複線化。
* [[1963年]](昭和38年)[[11月1日]] - 湘南逗子駅を京浜逗子駅に改称。
* [[1969年]](昭和44年)[[12月9日]] - [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]を設置。
* [[1974年]](昭和49年)
** [[2月10日]] - 誘導式列車無線の使用開始。
** [[6月30日]] - 品川駅 - 逗子海岸駅間の特急を廃止。
* [[1976年]](昭和51年)[[6月10日]] - 平日朝ラッシュ時に、逗子海岸駅発[[都営地下鉄浅草線]]直通急行(3本)を新設。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月2日]] - 京浜逗子駅と逗子海岸駅を統合し、中間地点に'''新逗子駅'''を開設。現在の5.9kmの路線となる。
* [[1988年]](昭和63年)[[8月1日]] - 神武寺駅 - 新逗子駅間に逗子フライホイールポスト([[フライホイール・バッテリー]])を設置して、回生電力の貯蔵と再放出を開始<ref>{{PDFlink|1=[http://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2013-2014/p098-118.pdf#page=5 京急グループ会社要覧 2013-2014]}} p.105、2014年1月11日アクセス</ref><ref>{{PDFlink|1=[http://www.keikyu.co.jp/csr/environment/pdf/12ecorepo_04.pdf#page=4 京急環境活動レポート「エコレポ 2012」]}} p.8、2014年1月11日アクセス</ref>。
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[6月20日]] - 全列車の終日前照灯点灯運転を開始。室内灯も常点灯となる。
* [[1999年]](平成11年)[[7月31日]] - [[ダイヤ改正]]により当線を含む京急蒲田以南の急行を廃止、北総車の乗り入れが消滅。同時に特急の運転(平日朝3往復のみ)を開始<ref name="RP677"/>。
* [[2009年]](平成21年)[[2月14日]] - 保安装置を[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]に更新。
* [[2010年]](平成22年)
** [[5月16日]] - エアポート急行の運転が開始され、逗子線全駅が停車駅となる。
** [[10月21日]] - [[駅ナンバリング]]開始。
* [[2015年]](平成27年)[[7月7日]] - デジタル空間波列車無線(デジタルSR無線)の使用を開始<ref>『鉄道ピクトリアル』2017年8月号 (No.935) p238 - p239、電気車研究会</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]] - 新逗子駅を逗子・葉山駅に改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|title=京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-16|publisher=京浜急行電鉄株式会社|format=PDF}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)11月25日 - エアポート急行が急行に改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2023/20231024HP_23082TE.html |title=京急線ダイヤ改正を実施します |access-date=2023-11-26 |publisher=京浜急行電鉄 |date=2023-10-24}}</ref>。
== 駅一覧 ==
全列車が全駅に停車するため停車駅は省略。全駅[[神奈川県]]内に所在。2010年10月21日より六浦 - 神武寺間2.8kmが京急線における最長駅間距離となっている。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|[[駅ナンバリング|駅番号]]<br><ref>駅番号は[[2010年]][[10月21日]]から導入。</ref>
!rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅間<br />営業キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|接続路線
!rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|金沢八景<br />から
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|品川<br />から
|-
!KK50
|[[金沢八景駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|40.9
|[[京浜急行電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] '''[[京急本線|本線]]([[品川駅|品川]]方面直通運転)'''<br />[[横浜シーサイドライン]]:{{Color|#F68B1E|■}}[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]] (14)
|rowspan="2"|[[横浜市]]<br />[[金沢区]]
|-
!KK51
|[[六浦駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|42.2
|
|-
!KK52
|[[神武寺駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|45.0
|
|rowspan="2"|[[逗子市]]
|-
!KK53
|[[逗子・葉山駅]]<br /><small>【旧駅名 新逗子】</small>
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|5.9
|style="text-align:right;"|46.8
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀線]]・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]]([[逗子駅]]:JO 06・JS 06)
|}
== その他 ==
[[ファイル:京急甲種輸送.jpg|サムネイル|川崎重工業で製造された車輌の甲種輸送(逗子駅構内 - 神武寺駅間)]]
[[京急本線|本線]]の金沢八景駅 - 金沢文庫駅間に隣接する[[総合車両製作所]]横浜事業所(旧・[[東急車輛製造]]横浜製作所)から[[車両輸送|甲種輸送]]される車両は逗子線の[[三線軌条]]を経由してJR[[横須賀線]]の[[逗子駅]]へ送り込まれる。また[[川崎車両]]で製造された京急の車両や、[[日本車輌製造]]で製造された京急の相互直通運転先である[[京成電鉄]]や[[北総鉄道]]の車両、同事業所で改造工事を行う車両が、JR横須賀線の逗子駅構内から逗子線の三線軌条を経由して横浜事業所へ送り込まれる。そのため、本来の台車ではないうえ自走ではないものの川崎車両で製造された京急の車両が最初に走る京急の線路は逗子線となる。
総合車両製作所横浜事業所 - 神武寺駅間での車両輸送は終電後に[[線路閉鎖]]の手続きを行った後に行われる。しかし東急車輛製造時代の1970年代後半には、[[旧型国電]]が解体のため日中に自力回送を行ったことがあり、1980年代前半頃では日中に列車を運休させてまで新車搬入を実施していた<ref>電気車研究会発行「鉄道ピクトリアル」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)190ページ</ref>。
本路線には葉山町内への延伸計画があり、かつての逗子海岸駅も延伸を想定した配線となっていた。しかしながら延伸を断念し現在に至っている。この件についてNHKの「[[ブラタモリ]]」([[2020年]][[7月11日]]放送)の中では、逗子と葉山の境界にある桜山が葉山層群という硬い地質であり、トンネルを掘削することが困難であったためという見解が説明された。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/ 路線図・各駅情報] - 京浜急行電鉄(KEIKYU)
{{京浜急行電鉄の路線}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|すしせん]]
[[Category:京浜急行電鉄の鉄道路線|すし]]
[[Category:神奈川県の交通|けいきゆうすしせん]]
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京急本線
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本線(ほんせん)は、東京都港区の泉岳寺駅から神奈川県横須賀市の浦賀駅を結ぶ京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
正式な起点は品川駅で、後年延伸された泉岳寺駅 - 品川駅間は支線の扱いとなっており、キロポストは品川駅からの距離に基づいて設置されているほか、『鉄道要覧』でも同区間は品川駅 - 浦賀駅間と分けて記載されている。
東京都区部南部の品川から東京湾沿いに南下し、神奈川県横浜市南東部・横須賀市東部を経て三浦半島南部へと延びる都市間鉄道(インターアーバン)である。泉岳寺駅からは都営浅草線および同線を介して京成電鉄・北総鉄道と相互直通運転を行っており、芝山鉄道とも都営浅草線・京成線を介して直通運転を行っている。ただし、京急線から芝山鉄道線へは直通運転を行なっているが、芝山鉄道線から京急線への直通列車は設定されていない。
快特などほとんどの優等列車は堀ノ内駅以南は久里浜線に直通して三崎口駅に至るため久里浜線が実質的な本線として機能しており、堀ノ内駅 - 浦賀駅間は本線の一部でありながら支線のような扱いになっている。急行を中心に逗子線の列車も乗り入れている。
空港線とともに羽田空港への空港連絡鉄道としても機能しており、直通先の京成電鉄が成田空港に乗り入れているため、羽田・成田の2空港を連絡している。羽田空港へのアクセス路線としては東京モノレールと競合関係にあるがそれぞれ都心側のターミナルが異なることと、京急は横浜方面からのアクセスも有することに違いがある。
品川駅 - 横浜駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)の東海道線・京浜東北線と線路が並行しており、競合関係にある。この区間は京急の中でも線形がよく、JRの路線との距離も近いことから首都圏の鉄道路線の中では競争が激しいため、120km/hの高速運転でJRに対抗している。他にも、品川駅・横浜駅 - 横須賀駅(横須賀中央駅)・逗子駅(逗子・葉山駅)・ 久里浜駅(京急久里浜駅)間では途中経路は少し異なるもののJRの横須賀線と競合している。品川・横浜 - 横須賀間の移動においては、京急の横須賀中央駅の方が中心市街地に近く、より直線的に結んでいることから京急の方が優位に立っている。
原則的に10分サイクルのパターンダイヤが組まれている。
本線からは大師線を除く京急各線へ直通列車が運転され、快特はすべて堀ノ内駅から久里浜線に直通する。ただし、朝ラッシュ時には浦賀発着の特急列車(一部は金沢文庫駅以北快特)も運転される。空港線へは品川・横浜両方面から直通列車が設定されている。
都営地下鉄浅草線や京成電鉄各線などと相互乗り入れを行っており、以下に挙げる路線の各駅へ直通列車が存在する。空港線へ乗り入れる列車が多く、一部は久里浜線や逗子線と直通する。現在、京急蒲田駅以南への直通はほぼ自社の車両に限られ、朝・夜に東京都交通局の車両が数本乗り入れる程度だが、かつては京成電鉄や北総開発鉄道・住宅・都市整備公団(現・北総鉄道)の車両も乗り入れていた。なお、2018年12月8日以降は京成車については平日のみ久里浜線京急久里浜駅まで1往復設定される。
現行ダイヤにおける拠点駅の1時間あたりの運行本数は、横浜駅では日中15本、平日朝のピーク時で23本である。また品川駅では、京急蒲田方面が日中18本、平日朝21本、泉岳寺方面は朝 - 日中がおおむね12本、夜間9本となっている。
京浜間では開業時より伝統的に高速運転が行われてきた。これは、東海道本線や東急東横線、三浦半島方面へは横須賀線、羽田空港アクセスでは東京モノレールと競合するためである。
京急の前身で1898年に創立された大師電気鉄道は、最高速度がわずか8マイル/h (12.8km/h) であった。その後、1931年には急行運転、1936年には待避線による追い越し運転が実施され、緩急結合運転が始まった。
第二次世界大戦後では認可速度80km/hから始まり、1953年に90km/h、1958年秋には100km/h、1967年からは特急で105km/h 運転となった。1995年以降は品川 - 横浜間で120km/h(増圧ブレーキ非装備の車両と、成田スカイアクセス線乗り入れ対応の京成車と都営車以外の車両は110km/h)、横浜以南で110km/h となり、関東の私鉄路線としては京成成田スカイアクセス・つくばエクスプレスに次いで高速の部類に入る。
軌間が標準軌という点は高速運転に有利だが、軌道や信号設備の改良など120km/h運転を行う準備に数年を要した。首都圏の鉄道事業者は、直接他社線と競合する路線が少ないこと、限られた線路容量や線形の中でほぼ終日にわたり高密度ダイヤで運転されること、また高速化よりもまず安全性や定時性、ラッシュ時の輸送力重視という傾向もあることなどから、首都圏の鉄道事業者で一般列車の120km/h以上の運転を実施しているのは2022年の時点で京急、前記つくばエクスプレス・京成成田スカイアクセスおよびJR東日本と少数である。
なお、品川駅 - 横浜駅間の120km/h区間では、信号機にYG現示を明滅させる抑速信号(C-ATSの照査速度105km/h)を採用している。これは最高速度を105km/hから120km/hとするにあたり、信号機の移設・増設、閉塞数の変更を行わずにブレーキ距離を確保するためである(京急本線の閉塞区間の平均間隔は290mである)。抑速現示による速度制限を受けている状態では従前の進行現示と同等の距離で停止でき、最高速度の向上が可能となった。運転士による各種試験の結果、抑速現示の明滅回数は80回/分、点灯割合50%としている。抑速現示は京急が日本で初めて採用した方式であり、その後は2009年に北総鉄道北総線で、2010年に京成成田スカイアクセスでも採用された。
なお、120km/hで運転できるのは京急車による快特だけで、特急および急行の最高速度は110km/hである。ただし、使用車両の最高速度が低い場合はそれに従うことになる(かつての800形使用の快特および特急の最高速度は100km/hであった)。
1999年に快速特急を「快特」と改称。
2023年11月25日改正時点では以下の7種別で構成されている。停車駅についての詳細は「停車駅表」を参照。また、速達列車は種別ごとに種別色(停車駅表参照)を定めており、英語での案内にはその色を用いる場合もある。
平日朝方の上り方面に3本運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「ホームライナー」に相当する。1本目は横須賀中央発品川行き、2本目は三浦海岸発品川行き、3本目は三浦海岸発泉岳寺行きとして運転される。三浦海岸駅、横須賀中央駅、金沢文庫駅、上大岡駅から乗車する場合には「Wing Ticket」(300円)または「Wing Pass」(5500円)が必要である。降車は品川駅・泉岳寺駅のみで可能である。
車両は2ドアオールクロスシート8両編成が専用で使用されており、2019年現在は2100形で運転されている。なお2021年5月6日より三浦海岸6:09発のモーニング・ウィング3号については、金沢文庫駅までは1000形1890番台4両編成で運転され、金沢文庫駅からは前方に2100形8両を増結した12両編成で運転される。
平日夜間の下り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「ホームライナー」に相当する。始発駅である品川駅から乗車する場合には「Wing Ticket」(300円)が必要だが、上大岡駅 - 三崎口駅(一部列車は京急久里浜駅または金沢文庫駅)間については一般の「快特」として運行されるため、乗車券のみで乗車できる。停車駅や着席整理料金など一般の快特とは趣を異にするが、正式な種別は「快特」となっている。本線の泉岳寺駅 - 品川駅間や堀ノ内駅 - 浦賀駅間、都営浅草線などには乗り入れない。
車両は、2ドアクロスシート8両編成または3ドアL/Cカー4両編成が専用で用いられており、運行開始当初は2000形、2023年現在は2100形または1000形1890番台となっている。一部の列車は前8両の品川始発快特三崎口行きに併結する形で後ろに4両金沢文庫までのイブニング・ウィング号として運行される。快特と併結する列車については、快特停車駅である京急蒲田・京急川崎・横浜に(運転)停車するが、後ろ4両のイブニング・ウィング号として運行される車両は扉が開かない。
京急蒲田駅・京急川崎駅・横浜駅を通過駅としているのが特徴である。品川駅から上大岡駅までの所要時間は32分。
都心方面と東京国際空港(羽田空港)を結ぶ特急料金不要の最速達列車で、品川駅 - 羽田空港第3ターミナル駅間をノンストップで走行し、羽田空港第1・第2ターミナル駅に着発する列車である。全列車・全区間8両編成で運転される。
2012年(平成24年)10月ダイヤ改正以降は、日中の列車は都営浅草線に直通し、押上駅からの京成線内は種別を「アクセス特急」に変更の上で成田スカイアクセス線経由で成田空港駅に向かうダイヤが40分間隔で組まれている。また成田空港駅からは、逆のパターンが組まれている。
現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。
「エアポート快特」は、1998年(平成10年)に設定された「エアポート快速特急」を前身とする。当時は羽田空港へのアクセスのみならず、羽田空港駅(当時。現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)と京成線の成田空港駅を乗り換えなしで結ぶ最上位の種別として登場し、京急線・都営浅草線内では「エアポート快速特急」、京成線内では「エアポート特急」として全区間で通過運転がされていた。なお、これらの列車は京成高砂駅で、京成本線の京成上野駅 - 京成高砂駅間を運転する「エアポート特急」に接続していた。特に都営浅草線内で通過運転を行ったことが画期的であったが、京急線内での扱いは快速特急と同じであり、名前だけを差別化した形であった。1999年(平成11年)にエアポート快特に改称する。2000年代の一時期(2002年頃)は京成線内の扱いが快速への格下げと運転区間の短縮により成田空港駅まで到達しない列車が大半となり、当初の目的を果たしているとは言い難い状況になっていたが、2010年(平成22年)7月17日に京成成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し、京成線内を京成本線経由から、こちらに切り替えることで再び両空港を乗り換えなしで結ぶ列車として運転されるようになった。これに先立ち、2010年(平成22年)5月のダイヤ改正において京急蒲田駅を通過するようになり、京急線内でも快特との実質的な差別化が図られるようになった。2012年(平成24年)10月のダイヤ改正からは種別の色をオレンジに変更し、快特との差別化および京成線アクセス特急との共通化が図られるようになった。
現行ダイヤでは堀ノ内駅から久里浜線に直通して京急久里浜駅や三崎口駅を発着駅とする系統と、京急蒲田駅から空港線に直通して羽田空港第1・第2ターミナル駅を発着駅とする系統があり、ほぼ終日の設定がある。
1968年(昭和43年)に設定された「快速特急」を前身とする。快速特急は特急よりもさらに上位の種別で、それまで運転されていた三浦半島の観光地に向けた列車、ハイキング特急を格上げする形で登場した。このため当初は土休日に特急の合間に何本か設定されているにすぎなかったが、通勤需要の拡大とともに徐々に設定時間と運転本数が拡大されていき、また本線末端部よりも久里浜線へ直通するダイヤへとなって行った。1999年夏のダイヤ改正からは通称・略称として用いられていた「快特」が正式名称となり、同時に「特急」を置き換える形で大増発を行い、日中はほぼ10分に1本は確保されるようになった。この時都営浅草線・京成線・北総線(以下:都心方面)へ直通する快特も設定された。さらに2012年10月21日改正では、日中の北総線 - 都営浅草線 - 羽田空港の系統のエアポート急行が快特へ格上げされ、品川駅では約5分間隔で京急久里浜・三崎口方面の列車と羽田空港方面の列車が交互に運転する形となっていたが、2022年11月26日のダイヤ改正より、日中の都営線方面と横浜方面を直通する快特と北総線方面と羽田空港を直通する快特が特急に変更された。
平日朝ラッシュ時上りの快特は京急久里浜駅・浦賀駅 → 金沢文庫駅間は特急として運転され、汐入駅・追浜駅にも停車する(1999年以前の通勤快特)。
車両は8両編成を基本とするが、金沢文庫駅 - 品川駅間では4両編成を連結して、大手私鉄最長である12両編成で運転される快特も設定されている。その場合、金沢文庫駅・品川駅において連結・切り離し作業を行う。原則進行方向後部に連結する。この12両編成の運用には京急の車両だけが充当される。京急以外の8両編成が用いられることは少なく、京急蒲田駅以南で京急以外の車両は原則羽田空港方面の運用が中心のため、横浜方面ではほとんど見ることができないほか、方向幕が京成車は京成の種別に合わせて「快速特急」となる。都営車は、本線をそのまま走り三崎口駅を発着駅とする運用も設定されている。
運行当初は久里浜線の津久井浜駅まで通過運転を行っていたが、近年は停車駅が増加しており、1998年に空港線が羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)まで延伸開業すると同時に京急蒲田駅が停車駅となり、1999年夏のダイヤ改正からは久里浜線内各駅停車となった。さらに、2010年5月16日からのダイヤ改正からは、金沢八景駅も停車駅に追加された。なお、自社路線内では最速の列車であるが、都営浅草線内ではすべての列車が各駅停車となる。詳細は「都営地下鉄浅草線」や「エアポート快特」を参照されたい。
列車番号の末尾のアルファベットはA、B、SHの3つが使用されている(他社局の車両が使用される場合をのぞく)。基本的に、Aは京急線内のみの運用、Bは平日朝の上りの金沢文庫以南が特急・以北が快特の列車とその送り込み(1999年まで存在した通勤快特と同様)、SHは地下鉄に直通する快特の運用に用いられるが、一部例外もある。
現行ダイヤでの運行形態は以下の通り。
●:停車 -:通過
なお、1987年5月まで、現在の京急○○はそれぞれ京浜○○という駅名だった。例:京急蒲田駅→京浜蒲田駅、京急川崎駅→京浜川崎駅など。
特急は、1968年(昭和43年)に「快速特急」(1999年のダイヤ改正より「快特」に名称変更)が設定されるまで本線最上位の種別であり、「快特」設定後も本数の多いダイヤの中心的な種別であったが、1999年夏のダイヤ改正から空港線に乗り入れる列車を除いた日中のすべての特急が快特に置き換わった。2022年11月25日までは、早朝深夜・朝夕ラッシュ時のみの運転であった。しかし、その運転範囲は広く大師線を除く全線で見ることができる。
2022年11月26日のダイヤ改正から、快特を置き換える形で本線・空港線系統とも日中に20分間隔で再設定され、本線においては1999年夏のダイヤ改正前以来23年ぶりの復活となった。
基本的には8両編成での運転だが、品川駅 - 金沢文庫駅(下りは京急川崎駅)間では12両編成で運転されている。連結パターンについては後述する。現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。
平日ラッシュ時間帯においては、京急線で完結する運用が多い「快特」に対し、当種別は都心方面直通列車となるものが多い。上り列車は金沢文庫駅 → 品川駅間の本線内は「快特」同様の最大12両編成となるが、都営浅草線及び京成線内は最大8両編成での運転であるため、品川駅で切り離し作業を行う。ただし、下り列車は神奈川新町駅の下りホーム有効長が8両分のため、品川駅 → 京急川崎駅の区間のみで12両運転を行う。余った4両は京急川崎駅から客扱いをせずに車両基地のある神奈川新町駅までそのまま連結するか、京急川崎駅で切り離して普通列車として運転される。
平日朝ラッシュ時の一部特急は金沢文庫駅以北は快特として運転される(1999年以前の通勤快特)。
列車番号の末尾に付けられるアルファベットはC、H、Bが使用されている(京急以外の車両が使用される場合を除く)。Cは線内運転の列車、Bは平日朝の上りの金沢文庫以南が特急・以北が快特の列車とその送り込み(1999年まで存在した通勤快特と同様)、Hは地下鉄直通の運用に用いられている。ただし三崎口駅・京急久里浜駅・浦賀駅 - 品川駅・泉岳寺駅間を通して運転される自社線内完結の列車及び折り返しの送り込みとしてHをつける列車が早朝・深夜に存在する。
1999年の改正以後、日中の特急は羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 京急蒲田駅 - 京急川崎駅間のみで見られた。この列車は京急川崎駅 - 金沢文庫駅間で快特と併結、自身の列車種別を快特に変更して羽田空港駅と横浜方面とを結んでいた。この列車の下り方面行きは併結相手の快特に先行して京急蒲田駅を発車し、京急川崎駅構内の引き上げ線に一時停車して、品川方面からやってきた快特を先にホームに進入させた後、その後部に連結するという珍しい方法で運転されていた。
定期列車としての「特急」が設定されたのは1954年3月22日で、設定当初は平日の朝ラッシュ時のみの運転であった。1957年3月17日には20分間隔で終日運転されるようになった。1965年2月20日までは神奈川新町駅ではなく子安駅に停車していた。
2010年5月16日から2023年11月24日までは「エアポート急行」として運行されていた。列車種別名を改称した理由は、京急蒲田駅 - 新逗子駅(現:逗子・葉山駅)間においても新たにエアポート急行を設定するにあたり、かつて同区間を運行していた「急行」とは停車駅が異なることから、「急行」と「エアポート急行」は別の種別であることを位置付ける目的があり、既存の羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 京急蒲田駅 - 泉岳寺方面間の急行と合わせて種別名の統一を図ったものである。
おもに都心方面 - 羽田空港間を本線・空港線経由で結ぶ列車(一部は都営浅草線・京成線・北総線からの直通列車)と、逗子・葉山駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル間を逗子線・本線・空港線を経由して結ぶ列車の2系統があり、ラッシュ時間帯は主に前者が10分間隔、日中は後者が20分間隔で運転されている。 また、平日朝に1本と土休日夜間に2本は品川方面から横浜方面に直通する下り列車もある。
2023年11月25日(土休日ダイヤ)及び27日(平日ダイヤ)に実施のダイヤ改正において、「エアポート急行」の種別名が「急行」に変更された。停車駅の変更は行われないが、種別表示の「飛行機マークと急行」からは飛行機マークが削除される。インバウンド(訪日外国人)客の増加により、外国人が誤って羽田空港駅に行かない列車に乗車してしまうのを防止するためとしている。これにより、「急行」からの改称によって登場した「エアポート急行」の名称は、登場から約13年半で元の名称に戻される形で消滅することとなった。また、このダイヤ改正により、品川方面と逗子・葉山駅とを結ぶ列車が設定されるようになった。
2010年(平成22年)5月15日まで運行されていた「急行」から列車種別名を変更し、2023年11月24日まで「エアポート急行」として運行されていたものである。
2012年10月21日のダイヤ改正から、日中と土休日夜間のエアポート急行については、快特へ格上げされたため、これらの時間は運行されなかった。その後再度復活するも、2022年11月26日のダイヤ改正から日中は特急、土休日夜間は快特へそれぞれ格上げされるため一部の時間帯の運行となった。
朝ラッシュ時間帯においては、品川方面からの列車が増発されたが、2010年5月15日まで空港線内のみの運用である急行が毎時3本運行されていたが廃止され、同時間帯はすべての列車が本線直通列車となった。
大多数の列車は、泉岳寺駅から先の都営浅草線と京成押上線を介して京成本線成田空港駅、芝山鉄道芝山千代田駅および北総線印旛日本医大駅まで相互直通運転を行っている。このため、北側の急行は乗り入れ先の車両で運用されていることが多い。
運行パターンとしては例として以下のタイプが存在する。
原則として後続の横浜方面行きの快特(または特急)には追い抜かれない。
泉岳寺方面行きは京急蒲田駅で横浜方面からの快特からの接続をうける。鮫洲駅で普通列車を追い抜くのは朝夕の一部のみ設定されている。
横浜方面から羽田空港へのアクセスを向上させるため、普通列車を格上げする形で2010年(平成22年)5月16日に新設された。
この区間にはかつて「急行」が存在したことは前記したが、1999年(平成11年)7月31日に実施されたダイヤ改正により廃止されたため、この「エアポート急行」は約10年ぶりとなる事実上の急行の復活である。ただし、当時の急行とは停車駅が異なっており、かつて急行停車駅であった鶴見市場駅・花月園前駅(現:花月総持寺駅)・生麦駅・子安駅・黄金町駅・京急富岡駅は通過駅となり、逆に急行が通過していた仲木戸駅(現:京急東神奈川駅)・井土ヶ谷駅・弘明寺駅・杉田駅・能見台駅がエアポート急行の停車駅となった。なおエアポート急行の停車駅は京急鶴見駅や京急東神奈川駅、杉田駅など京浜東北線・根岸線と至近の駅が多い。なお、2023年11月25日のダイヤ改正による「エアポート急行」から「急行」への改称により、この区間においては約24年ぶりに「急行」の種別名が復活した。
日中を中心に10分間隔(1時間に6本)、8両編成または6両編成での運行であり、ほとんどの列車が逗子・葉山駅 - 羽田空港方面間を運行するが、途中駅である京急川崎駅・神奈川新町駅・横浜駅(始発のみ)・金沢文庫駅を始発・終着とする列車も存在する。運行時間帯は平日ダイヤでは主に日中と夕ラッシュ時、土休日ダイヤではほぼ終日である。急行が運行されていない時間帯には、羽田空港方面発着の快特・特急・普通が運行される。平日夕ラッシュ時の下りの一部には、イブニング・ウィング号を介し、横浜駅 - 京急久里浜駅方面の先着列車となるパターンも存在する。
普通は全線を運行し各駅に停車する。ただし、現行ダイヤでは主に運行されるのは品川駅以南の区間となる。品川駅 - 泉岳寺駅間には途中駅はないが、この区間を走る列車の多くは京急線内品川駅以南(横浜・羽田空港方面)の区間で急行以上の速達列車として運転されてきたものが直通する形となっている。このため、品川駅を境に以北・以南ともに普通列車として運転するものは平日・土休日合わせても1本もない。
日中は9 - 11分間隔(1時間に6本)で運転される。速達列車は多くが8両または12両編成であるのに対し、ほとんどの列車が4・6両編成である。現在のダイヤでは品川駅 - 浦賀駅間の運転がほとんどだが、品川、羽田空港第1・第2ターミナル、京急川崎、神奈川新町、金沢文庫、羽田空港第1・第2ターミナル(発のみ)、平和島(発のみ)、京急川崎、神奈川新町、横浜(発のみ)、上大岡(着のみ)、金沢文庫、逗子・葉山、堀ノ内(発のみ)、浦賀、京急久里浜各駅発着の列車が設定されている。また本線(品川駅 - 泉岳寺駅間を除く)を走る列車はほぼすべての列車が京急車で運転されるが平日夜上りの逗子・葉山発金沢文庫行き1本のみ都営車で運転されている。2017年10月28日以降は土休日の夜にも同じく1本設定される。
2010年5月16日のダイヤ改正では「エアポート急行」が新設されたことにより減便され、2011年4月の節電対策ダイヤでさらに減便されたが、2012年10月21日のダイヤ改正では日中に運転されていた品川駅 - 羽田空港方面間のエアポート急行を快特へ格上げしたことに伴い、エアポート急行停車駅である青物横丁駅・立会川駅・平和島駅の利便性確保のため、品川駅 - 京急蒲田駅間の区間運転列車が新規に設定され、品川駅 - 京急蒲田駅間では5 - 10分間隔(1時間に9本)の運行となっていた。しかし、新型コロナウィルス感染拡大の影響を受け、日中の品川駅 - 京急蒲田駅間の区間運転列車は2020年5月9日より運休となり、そのまま2021年3月27日のダイヤ改正を以って正式に廃止された。
前述のように他社との競争の観点から、伝統的に速達列車の本数が多く、早朝深夜を除くと、ほとんどの待避駅で通過待ち・接続待ちを行う。接続待ちによって、速達列車通過駅から主要駅までの利便性が確保されている反面、「普通」だけで主要駅間を乗り通すとかなり時間がかかる。例えば日中ダイヤの場合、品川駅 - 堀ノ内駅間の52.3kmを快特は上下とも47分で運転するところを、普通は下りが1時間52 - 53分、上りが1時間42分かけて走っており、所要時間差は実に1時間ほどとなっている。また途中で上りが快特6本・エアポート急行2本、下りが快特7本・エアポート急行3本に追い抜かれる。
ほとんどの普通が、京急線内のみの運行である。しかし、ごく少数ながら品川駅を終着とする都営浅草線や京成線方面直通の普通も存在する。
毎年大晦日から翌年の元日にかけては、横浜駅 - 品川駅・泉岳寺駅・東京都心方面間で終夜運転を行っているが、その際は普通列車のみの運転となる。
昼間時40分あたりの運行本数は次のようになっている(2022年11月19日時点)。
このほか、都営浅草線・京成線直通列車は泉岳寺駅ではなく、品川駅で列車種別の表示・案内を京成線の種別に変更するので、これらの表示・案内を見ることもでき、品川駅 - 泉岳寺駅間の上り列車に限りこれらの種別を名乗って運行する列車が存在する。これまでは品川駅における案内上の措置に過ぎなかったが、現在では駅や車内に掲載されている京急の路線図においても、泉岳寺駅 - 品川駅間において、「アクセス特急」「通勤特急」「快速」の表記がなされるようになった。反対に、京成線方面からの京急線直通列車は押上駅で京急線の種別に変更する。「エアポート快特」は京急線の種別であるが、都営浅草線の種別でもあり、同線のみで「エアポート快特」となる列車(主に京急線内「エアポート急行」)もある。「快速特急」は正式種別としては「快特」だが、京成線での案内に合わせて「快速特急」と案内される。「エアポート快特」を除き、いずれの種別も都営浅草線内は各駅に停車する。都営浅草線内の駅が終点の場合は「エアポート快特」を除き、「普通」と表示・案内される。泉岳寺行きの場合は、種別は変更せずに運行される。朝ラッシュ時、品川から「普通」京成高砂行きとなる列車の一部は京成高砂駅で行先・種別変更して運行を継続する列車がある。
1981年6月22日のダイヤ改正より、品川駅・京浜川崎駅(現:京急川崎駅)のホーム12両延伸、京浜鶴見駅(現:京急鶴見駅)上りホーム待避設備完成により、それまで平日朝に運転されていた線内特急(C特急・8両編成)を金沢文庫駅以北を快速特急停車駅・12両編成で運転する種別として登場した。平日朝の上り及びそれの送り込み用の下りが運転され、横浜駅以南では特急停車駅、以北では登場当時の快速特急停車駅に停車する。車両の種別幕は快速特急同様緑色で、縦に「通勤」横に「快特」と表示されていた。また、列車種別表示灯は「通勤快特」を表す表示はなく、上大岡駅以南は「特急」、横浜駅以北は「快速特急」として扱われていた。「快特」と異なり、本線の全線に乗り入れていた。久里浜線以外の京急線や都営浅草線へは乗り入れない。
1995年7月24日より京急蒲田にも停車するようになった。このときから、停車駅路線図での種別色に紫色が使用され、「快速特急」と「特急」から独立するようになった。尚前記したが、この種別色は公式ホームページの時刻表にてB快特(B特急)の種別色として使用されている。1998年11月18日ダイヤ改正から上り1本が泉岳寺駅まで延長された。この列車には2100形が充当され、同形初の泉岳寺駅乗り入れとなっている。
1999年7月に名称廃止となり、現在は同じ形態の列車が金沢文庫駅以南を特急として扱う快特という形で運転されている。設定時より通勤快特が正式種別名であり、通勤快速特急とは称さない。しかし、株式会社協和企画発行の『京浜急行電車全駅時刻表』(平成7年度版)には「通勤快速特急」の記載がある。
なお、運行開始は1981年だが、車両の前面に掲げる種別板(サボ)は、それよりも以前から用意されていた。
京成本線の京成高砂駅・青砥駅と羽田空港を結ぶ列車。京成高砂駅で、京成上野駅 - 成田空港駅間の「エアポート特急」と接続していた。京急線内では特急、都営浅草線内ではエアポート快特、京成線内では特急(現在の快速特急)と同じ駅に停車しており、途中の平和島駅にて快速特急の通過待避を行っていた。詳細は「エアポート快特」の項目を参照。
1950年4月1日に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 - 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した。
運行パターンは大きく3種類に分けられる。これらは原則として、途中停車駅は京浜川崎駅と横浜駅のみである。
1952年春のダイヤ改正で学校裏駅(現・平和島駅)、子安駅、上大岡駅の3駅での待避線の使用が開始されると「三崎」と新設された「城ヶ島」が品川駅 - 浦賀駅間をノンストップ運転で65分で結んだ。この時の表定速度は51km/hだった。また、品川駅 - 浦賀駅間では「灯台」と新設された「大島」「鋸山」「第一房総」「第二房総」が京浜川崎駅と横浜駅に停車して69分で結んだ。そのほか、逗子線方面では逗子海岸駅行きの「油壺」と神武寺行きの「鷹取」があった。1953年秋からはノンストップ運転の列車は「第二房総」と「城ヶ島」の2本に増え、3分短縮の62分運転となった。
1954年春から「第二房総」は房総半島への日帰りハイキングが楽しめることから人気が集中したため6両編成に増強し、秋には4分短縮の58分運転となった。「第二房総」は1956年秋には表定速度68km/hで走行し、品川駅 - 浦賀駅間48分運転となった。ハイキング特急はこの頃が最盛期となり、浦賀駅行きの「第三房総」、京浜久里浜駅行きの「白秋」も設定され、最大で9本が運行されるときもあった。しかしマイカーによる道路混雑が始まると連絡バスが上りハイキング特急の発車時刻までに到着しない事態が発生し、1965年秋をもってハイキング特急は廃止された。
廃止後はその代替として休日の定期特急の一部に「房総」「三浦」などの愛称名をつけて運転し、のちに快速特急「マリンパーク号」となった。
1956年3月より、大島・金谷航路接続を目的として品川駅 - 浦賀駅間に設定された特急列車。途中停車駅は京浜川崎駅、横浜駅、金沢文庫駅、横須賀中央駅の4駅だった。品川駅12時40分発の列車には「ラ・メール号」(フランス語で「海」の意)、13時40分発の列車には「パルラータ」(イタリア語で「甘き語らい」の意)の名称が与えられた。ハイキング特急とは異なり定員制ではなかった。しかし、沿線人口の増加と通勤需要の増大に加え、伊豆大島へのメインルートが東海道新幹線の開業後、熱海駅・熱海港経由に移行したことなどにより、1968年6月8日に快速特急(現・快特)へと発展的に解消した。
1958年に金沢八景駅のホーム延伸により、それまでの逗子海岸駅発着の週末特急を改称したもの。略称は「海特」。停車駅は品川駅・京浜川崎駅・子安駅・横浜駅・上大岡駅・金沢文庫駅・金沢八景駅・湘南逗子駅・逗子海岸駅であった。1959年には子安駅・上大岡駅が通過になった。1962年には京浜久里浜駅発着も運行された。1968年に快速特急が運転されたが、休日ダイヤのみ三浦海岸駅発着の海水浴特急が残ると当時に停車駅が見直され、当時の快速特急が通過する京浜蒲田駅・金沢八景駅・堀ノ内駅に停車するという若干異なるものの現在の快特停車駅に近い停車駅となった。これらの列車も1973年に名称が消え、不定期の快速特急として運行されるようになった。
1954年3月22日ダイヤ改正で設定された特急のうち、上り特急が通勤特急とも呼ばれていた。当初の停車駅は品川駅・学校裏駅(現:平和島駅)・京浜川崎駅(現:京急川崎駅)・京浜鶴見駅(現:京急鶴見駅)・子安駅・横浜駅・上大岡駅・金沢文庫駅・金沢八景駅・追浜駅・横須賀汐留駅(現:汐入駅)・横須賀中央駅・横須賀堀内駅(現:堀ノ内駅)・湘南大津駅(現:京急大津駅)・馬堀海岸駅・浦賀駅であった。同年7月7日のダイヤ改正で久里浜線直通運転が開始されたが、久里浜線内は各駅停車であった。また京浜蒲田駅(現:京急蒲田駅)が停車駅に追加された代わりに、京浜鶴見駅が停車駅から外された。1957年3月17日のダイヤ改正で特急停車駅に横須賀汐留駅・横須賀堀内駅・湘南大津駅および久里浜線の新大津駅・湘南井田駅(現:北久里浜駅)が追加され、通勤特急と停車駅が変わらなくなったことに伴い、特急に統一された。現在では品川駅で、京成線に直通する「通勤特急」を見ることができる。
急行は、2010年5月15日までにも運行されていた。空港線の羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)から京急本線を経由して都営浅草線・京成押上線を介して京成本線京成成田駅および北総線印旛日本医大駅までを結んでいた。
1999年7月30日までは京急蒲田駅 - 逗子線新逗子駅(現:逗子・葉山駅)間においても運行されていたが、翌31日に実施されたダイヤ改正により廃止された。この区間における急行は、主に新逗子駅 - 京急川崎駅間のみの運転であったが、平日朝ラッシュ時間帯に限り設定されていた新逗子駅発の都営浅草線方面へ直通する急行は、金沢八景駅で通勤快特の連絡後、平和島駅まで先行し、同駅で後続の特急を待ち合わせていた。
ただし、京急蒲田駅以南の急行が廃止された後も、毎年正月に開催される箱根駅伝に協力するため、選手が京急蒲田駅付近にある第一京浜の踏切を通過する予定時間帯に限り、空港線の運転規制により京急川崎駅発着の急行が設定されていた。
2010年5月16日に実施されたダイヤ改正に伴い、種別名を「エアポート急行」に改称する形で廃止した。
新逗子駅発着の急行は、基本的に上り列車は子安駅で、下り列車は神奈川新町駅で後続の特急や快特に通過で追い抜かれるが、平日・土休日共に日中の列車は神奈川新町駅 - 新逗子駅間の運転のため優等列車通過待ちは存在しなかった。普通列車とは上下線共に金沢文庫駅、上大岡駅、神奈川新町駅で接続、平日朝上り列車に限り京急富岡駅と神奈川新町駅で普通列車と接続していた。都営浅草線方面へ直通する列車と京急川崎駅発着の急行は、平和島駅で後続の快特の通過待ちを行っていたが、1998年11月18日の羽田空港駅開業後、本線と空港線との直通列車の増発に伴い、日中時間帯における平和島駅での待避は廃止され、平日朝ラッシュ時間帯や夜間に限り京急ウィング号・快特・特急のいずれかに追い抜かれる列車が設定されていた。
また、浦賀・久里浜方面に設定されていた時期もある。当初は金沢文庫駅以南で現在の特急とほぼ同じく金沢八景駅、追浜駅、横須賀中央駅、堀ノ内駅、馬堀海岸駅、浦賀駅に停車したが、1957年3月からは金沢文庫駅以南各駅停車となった。1970年6月にすべての急行が逗子線直通となり消滅した。
このほか、1957年から1972年までは大師線にも直通しており、大師線内の停車駅は川崎大師駅のみであった。しかし1966年のみ、京浜川崎駅の高架化工事のため休止された。
2023年11月25日のダイヤ改正に伴い「エアポート急行」を「急行」に改称する形で再度設定され、京急蒲田駅以南においては約24年ぶりに「急行」の種別名が復活したが、前述の通り当時とは停車駅が異なっている。
1957年3月17日に登場し、平日朝に運転された。金沢文庫駅以南各駅停車となった急行の一部を従来のまま残し名称変更したもので、1958年9月7日には特急増発に代えて消滅した。
1950年4月1日のダイヤ改正より急行運転再開と共に登場した種別。当初は横浜駅以南各駅停車であったが、1951年12月16日のダイヤ改正から全区間で準急運転を行うようになった。1954年7月7日のダイヤ改正で消滅。
ハイキング特急や週末特急以外の一般の特急・快特や急行にも愛称がついている列車が存在し、中には定員制の列車も存在した。
都営線・京成線への乗り入れ開始の翌年である1969年より三浦海岸駅から成田駅間に2往復の夜行直通特急「招運号」が運転を開始した。以降毎年運転されていたが1973年 - 1974年の運転が東京都からの終夜運転中止の通告に伴い中止、そのまま運転されることなく廃止となった。
1970年より1月、4月末 - 5月、9月 - 10月に京成成田駅 - 三浦海岸駅(後に三崎口駅)間で運転された臨時直通列車(京急線内快速特急・京成線内特急)。列車名は京成成田駅行きは「成田山号」、三崎口駅行きは「城ケ島・マリンパーク号」に統一されていた。午前・午後に2往復ずつの計4往復が運転され、車両は午前の「成田山号」と午後の「城ケ島・マリンパーク号」は京急が、午前の「城ケ島・マリンパーク号」と午後の「成田山号」には京成の電車がそれぞれ用いられた。のちに運転期間が1月のみとなり1978年に廃止。
2018年7月7日・8日と8月18日・19日には、3社局直通運転開始50周年を記念して復活運転が実施された。
車両は初日の「成田山号」及び延長運転する列車が関係する久里浜線内ローカル運用は京急1500形1707編成が、「城ケ島・マリンパーク号」は京成3000形3038編成が用いられ、2日目はその逆で「成田山号」と関係運用に京成3000形3038編成、「城ケ島・マリンパーク号」に京急1500形1707編成が運用された。このため、久里浜線ローカル運用2本も京成車が代走している。
1970年の夏季ダイヤより夏季のみ京成成田駅 - 逗子海岸駅間(ただし京成成田駅行きのうち午前中の2本がそれぞれ久里浜駅発と浦賀駅発、逗子海岸駅行きの1本は京成津田沼駅始発で運転)で運転された直通特急。「城ケ島・マリンパーク」「成田山」と同じく列車の方向で列車名が統一されており、パシフィックが京成成田駅行き、逗子が逗子海岸駅行きであった。午前・午後3往復ずつ計6往復が運転され、車両の受け持ちも「城ケ島・マリンパーク」「成田山」と似ており午前の「パシフィック」と午後の「逗子」は京急が、午前の「逗子」と午後「パシフィック」には京成の電車がそれぞれ用いられた。
1970年7月11日から8月15日までの間に実施された夏季休日ダイヤで「みうらビーチ」が3往復、7月18日から8月8日までの平日に1往復納涼特急「ハワイアン」が運転された。これらの列車は定員制で「みうらビーチ」は往復で100円であった。これらの列車に使用された600形(2代)のうちの1編成のみは車内の蛍光灯がすべて濃いブルーに交換されていてまたそのまま通勤列車にも充当されていた。
「ハワイアン」の運転は1970年夏季限りであったが「みうらビーチ」は1972年に1往復のみになるものの運転が継続された。ただし、愛称が変わった時期もあり、「みうらビーチ・ビバハッピー」(1974年)や「ハッピー1240」(1975年)の愛称で運転された後、1976年は再び「みうらビーチ」に戻ったものの、翌年から再度改称され「ミュージックトレイン」(1977年-1980年)、「アメリカンエクスプレス」(1981年)など、様々な愛称での運転となっていたが、1982年からは1990年まで再び「ミュージックトレイン」として運転されていた。その後1991年より最後の1994年までは三たび「みうらビーチ」に戻った。なお、夏季休日ダイヤ最後の年となった1995年には列車の設定がなくなった(同年夏季休日ダイヤでは「みうらビーチ」の運転をせず、一般の快速特急の増発と延長運転、京急蒲田駅への臨時停車のみとなった)。また、翌1996年以降は夏季休日ダイヤそのものが消滅した。
使用車両は最初の1970年のみは全列車600形(2代)、1971年に2往復が1000形(初代)、1往復が600形(2代)の冷房改造車、1972年より1000形のみで運転され、1983年より下りのみ、翌1984年からは上下とも2000形での運転となっている。ロングシートの1000形で運転されている期間・列車も定員制であり、一時期の横須賀中央以南での乗車を除いて座席券が必要であった。
1968年9月より休日にも快速特急が運行されるようになり、快速特急3往復に「マリンパーク」という愛称をつけて運転を開始した。その後1972年より愛称を1往復ずつ変更し「南房総」「城ケ島」「油壺マリンパーク」の3つの列車名で運転されるようになった。また、この時土曜日に運転されていた後ろ2両のみ座席指定とした快速特急にも同時に「南房総」という愛称がつけられた。その後の記録は十分では無く、これらの愛称がいつ無くなったのかは不明であるが、1977年には「南房総」と名乗る列車が品川駅から平日・休日ともに1本(平日は特急・休日は快速特急)運転されていた。
京急油壺マリンパークが沖縄国際海洋博覧会(海洋博、1975 - 1976年)のサブ会場となったことから、1973年4月末から10月末までのおよそ半年、平日休日ともに1往復「海洋博」という愛称がつけられた快速特急が運転された。
1983年7月24日に快速特急「マリンパーク」が復活した。「マリンパーク」として運転されるときは愛称板取り付けが困難な2000形および3代目600形を除き前面に丸いイルカの愛称板を取り付け運転された。また、同年10月1日より都営線からの特急にも1往復快速特急と同じ愛称板を付け「マリンパーク」として運転した。これらの列車は羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業に伴うダイヤ改正で愛称が廃止された。
1949年には休日運転で、愛称付きの急行も運転されていた。愛称には「銀鱗」「大島」「房総」「剣崎」「三崎」「灯台」「鷹取」などが使用され、上記のハイキング特急の前身ともいえる列車であった。
横浜駅を7時30分から8時26分の間に発車する上りの特急品川行き6本については品川寄りの先頭車を「女性専用車」としている。
2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は戸部駅 → 横浜駅間であり、ピーク時(7:30 - 8:30)の混雑率は110%である。
京急で最も乗降人員が多い駅は横浜駅であり、同駅は6社局の路線が乗り入れるターミナル駅である。品川駅 - 横浜駅間は一部を除き複線であるため、朝ラッシュ時の上り列車は、最も停車駅が少ない快特であっても同区間で30分程度を要する。この区間で競合する東海道線、横須賀線は平行ダイヤであり、所要時間・行先等で圧倒的に有利である。渋谷、新宿、池袋の3大副都心へのアクセスも、湘南新宿ライン、東急東横線(東京メトロ副都心線)が横浜駅から直通しており、利便性が高い。
そのため、都心側のターミナル駅である品川駅手前よりも、郊外側のターミナル駅である横浜駅手前のほうがラッシュ時の輸送人員が多く、混雑率も高い。朝ラッシュ時に運転される快特及び特急は、金沢文庫駅で増結して12両編成で運転する運用がある。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
この路線は、川崎大師への参詣鉄道を運行していた大師電気鉄道が、京浜間の連絡鉄道の開業を目的に、京浜電気鉄道と社名を変更した上で、東京都南部から神奈川県川崎市付近に軌道線を開業させたのが始まりである。
その後、軌道線を順次延伸し、明治時代末には東京と横浜を結ぶ都市間連絡鉄道が形成された。東京方への乗り入れに際しては、東京市電への乗り入れを見込んで、標準軌 (1435mm) で敷設されていた当線を、東京市電の馬車軌間 (1372mm) に改軌し、大正末期には北品川駅(乗り入れ開始時は品川駅〈初代〉)を介して市電品川線への乗り入れを行い、さらに高輪駅まで延伸した。
一方、市電への乗り入れと同じ頃、京浜電気鉄道は、横浜と横須賀を結ぶ郊外路線の開業を企図しながら関東大震災の影響により打撃を受けていた湘南電気鉄道に対し、資本参加を行った。京浜電気鉄道の出資により経営危機を乗り越えた湘南電気鉄道は、昭和時代に入り、黄金町駅 - 浦賀駅間および金沢八景駅 - 湘南逗子駅(現在の逗子・葉山駅北口)間といった、現在の京急本線と京急逗子線の一部に相当する路線を開業させた。
その後、横浜で京浜電気鉄道線と湘南電気鉄道線を接続させ、直通運転を行うことが計画された。しかし、京浜電気鉄道線が馬車軌間に改軌していた一方、湘南電気鉄道線は地方鉄道法によって免許を受けて標準軌で開業しており、直通させるためには、どちらかの路線を改軌する必要があった。地方鉄道法では馬車軌間による敷設が認められていなかったため、湘南電気鉄道線を馬車軌間に改軌することはできず、結論として京浜電気鉄道線を標準軌に改軌させた。1931年(昭和6年)12月に両鉄道会社は日ノ出町駅で結ばれ、念願の直通運転が開始された(両社の会社分界点は日ノ出町駅より黄金町駅方0.2 km地点)。それにより東京市電への乗り入れは中止された。高輪駅も廃止され、代わる東京都心側のターミナルとして、国鉄品川駅前への延伸を果たした。こうして、昭和初期に現在に至る路線の概形が完成した。
なお、東京市電乗り入れ中止に代わる都心乗り入れ案として、京浜電気鉄道は、日本初の地下鉄を開業していた東京地下鉄道、湘南電気鉄道と合弁して、京浜地下鉄道を設立。既に浅草駅 - 新橋駅間を開業していた東京地下鉄道線の延伸線を、新橋から品川まで建設することで、浅草 - 浦賀間の直通運転を計画した。ところが、新橋駅を介し、東京地下鉄道線への直通をもくろんでいた東京高速鉄道は、この京浜地下鉄道設立の動きを問題視し、東京地下鉄道と京浜電気鉄道の株を買い集め、京浜電気鉄道は東京高速鉄道の傘下に入ることとなった。東京の鉄道網を揺るがす事態に政府が仲裁に入り、地下鉄網の延伸は棚上げとなったが、京浜電気鉄道は依然、東京高速鉄道傘下のままに収まった。これが前史となって、東京高速鉄道社長である五島慶太が京浜電気鉄道社長に就任。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)には、五島が他に経営していた東京横浜電鉄、小田急電鉄と合併することとなり、当路線も大東急の一角をなすこととなった。
大東急時代の1943年(昭和18年)に旧京浜電気鉄道の品川線と旧湘南電気鉄道の湘南線が統合されて東急湘南線となり、京浜急行電鉄発足後に本線と改称されたが、都市計画の上では湘南線の呼称が残っているものもある。
戦後は設備の改良によって輸送力増強や所要時間短縮を図り、直通先の多様化などを経て現在に至っている。
平均駅間距離は、都市部では700m前後、路線全体でも1.2km弱で、並行するJR各線よりこまめに駅を設けている。また緩急接続を頻繁に行なうため、おおむね3 - 7駅ごとという頻度で待避可能駅を配置している。全て有人駅であり、自動改札機・自動券売機を備える。また2006年には全駅にAEDが設置された。
各駅のホーム有効長は停車種別により異なり、品川駅 - 金沢文庫駅の特急停車駅は12両(品川駅3番線及び、神奈川新町駅下りホームのみ8両)、その他の特急・急行停車駅(以前の運転区間を含む)は8両、普通列車のみ停車する駅は6両編成に対応する。ホーム番線は下り線側から1番線、2番線とされている。
頭に社名(京急)や金沢が付く駅や神奈川新町駅などは、冒頭部分を省略して「川崎」「新町」「文庫」「八景」などと略記されることもある。以前は列車の方向幕や時刻表でも省略形が多く見られた。
当路線には、軌道線から高速鉄道化への過程や戦時休止などにより、多くの廃駅が存在する。
この区間はおおむね国道15号(第一京浜)と並行し、北北東から南南西へと線路が延びる。並行する東海道本線より東京湾側を通り、臨海部の工業地域にも近い。
海岸線近くの平地を進むが、京急川崎以南では高架区間と地上区間が入り混じるため、その行き来のため急勾配となる箇所も複数存在する。路面電車を源流とする区間であるが、立会川駅以南では大きな速度制限を受ける曲線はない。京急線としては高架区間の比率が高いが、一部では地上を走行している。
都営浅草線に接続する泉岳寺駅と高架駅である品川駅の間には下り線33‰、上り線38‰の急勾配が存在し、品川駅の南側では最小半径100mの急曲線で左に折れて JR各線を乗り越えており、速度も25km/hに制限される。直後に40km/h制限の半径140mのカーブで八ツ山通り・旧東海道の踏切を過ぎると北品川駅である。同駅先の踏切を過ぎると25‰の勾配で高架に駆け上がり、この先は六郷土手駅付近まで続く高架区間となる。
京急蒲田駅では空港線が分岐する。六郷土手駅を過ぎると多摩川を渡って神奈川県川崎市へ入り、京急川崎駅では高架上の本線から大師線への連絡線が分かれる。横浜市に入ると鶴見線や東海道貨物支線などと交差し、高架区間と地上区間を行き来しながら東海道本線と並行して進む。子安駅手前で東海道本線と離れると間もなく子安駅に着く。子安駅 - 神奈川新町駅は上り線が2線ある3線区間となっており、神奈川新町駅には新町検車区が隣接する。盛り土となっている京急東神奈川駅を超えると東海道本線と並行し、神奈川駅を通過して首都高速三ツ沢線金港JCTをくぐると横浜駅に到着する。
横浜以南では線路を南に向け、おおむね国道16号と並行する。横浜駅以北とは一転して丘陵地帯を縫うように進み、山岳トンネルも現れるようになる。沿線は拠点駅周辺を除くと住宅地となっている区間が多い。日ノ出町駅以南はかつて湘南電気鉄道により地方鉄道線として敷設された区間であり、断続的に曲線区間が現れる。
横浜駅の南側では急曲線で根岸線をくぐり、野毛山をトンネルで抜けると日ノ出町駅へ。ここから井土ヶ谷駅付近までは鉄道省が建設を計画していた京浜線(現:京浜東北線)延長区間の用地が転用されており(詳細は「湘南電気鉄道#鉄道路線」を参照)、また、黄金町駅 - 上大岡駅間は横浜市営地下鉄ブルーラインがおおむね南に並行する。その区間を抜けると南へ進路を変え、杉田付近で再び根岸線をくぐる。運行上の拠点である金沢文庫駅と金沢八景駅の間は複々線化されており、東に金沢検車区、西側には総合車両製作所横浜事業所が立地する。
三浦半島へと入り、沿線は海岸近くまで山が迫る地形となる。そのためトンネルが連続し、谷となる箇所に駅が設けられている。曲線区間や勾配のある区間が多い。山がちな地形のため沿線の平地は密集した住宅地・商業地となっており、傾斜が急な箇所にも住宅地が造成されている。
金沢八景駅では追浜方で逗子線が平面交差して右手へ分岐する。横須賀市に入ると横須賀線が接近し、京急田浦駅 - 安針塚駅、逸見駅 - 汐入駅の両区間で京急本線が乗り越す。短いトンネルを抜けると横須賀市の中心市街地に位置する横須賀中央駅を通過する。
堀ノ内駅からは久里浜線が分岐し、快特や特急のほとんどは久里浜方面へ直通する。馬堀海岸から観音崎の付け根をトンネルで抜けると、黒船来航の町としても知られる終点の浦賀となる。
平面交差している環状8号線、第一京浜などの道路と鉄道を立体交差化することにより、踏切における慢性的な交通渋滞の解消を図ると共に、道路・鉄道それぞれの安全性向上、鉄道による地域分断の解消を事業目的とした。事業主体は東京都建設局である。2000年12月の事業認可取得に始まり、2012年10月に下り線を高架化して事業は完了した。
東京都は、泉岳寺駅 - 新馬場駅間において連続立体交差事業の事業化を進めている。2020年4月1日に国土交通省から都市計画事業の認可を取得。2029年度に事業完了予定。
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"text": "東京都区部南部の品川から東京湾沿いに南下し、神奈川県横浜市南東部・横須賀市東部を経て三浦半島南部へと延びる都市間鉄道(インターアーバン)である。泉岳寺駅からは都営浅草線および同線を介して京成電鉄・北総鉄道と相互直通運転を行っており、芝山鉄道とも都営浅草線・京成線を介して直通運転を行っている。ただし、京急線から芝山鉄道線へは直通運転を行なっているが、芝山鉄道線から京急線への直通列車は設定されていない。",
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"text": "快特などほとんどの優等列車は堀ノ内駅以南は久里浜線に直通して三崎口駅に至るため久里浜線が実質的な本線として機能しており、堀ノ内駅 - 浦賀駅間は本線の一部でありながら支線のような扱いになっている。急行を中心に逗子線の列車も乗り入れている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "空港線とともに羽田空港への空港連絡鉄道としても機能しており、直通先の京成電鉄が成田空港に乗り入れているため、羽田・成田の2空港を連絡している。羽田空港へのアクセス路線としては東京モノレールと競合関係にあるがそれぞれ都心側のターミナルが異なることと、京急は横浜方面からのアクセスも有することに違いがある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "品川駅 - 横浜駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)の東海道線・京浜東北線と線路が並行しており、競合関係にある。この区間は京急の中でも線形がよく、JRの路線との距離も近いことから首都圏の鉄道路線の中では競争が激しいため、120km/hの高速運転でJRに対抗している。他にも、品川駅・横浜駅 - 横須賀駅(横須賀中央駅)・逗子駅(逗子・葉山駅)・ 久里浜駅(京急久里浜駅)間では途中経路は少し異なるもののJRの横須賀線と競合している。品川・横浜 - 横須賀間の移動においては、京急の横須賀中央駅の方が中心市街地に近く、より直線的に結んでいることから京急の方が優位に立っている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "原則的に10分サイクルのパターンダイヤが組まれている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "本線からは大師線を除く京急各線へ直通列車が運転され、快特はすべて堀ノ内駅から久里浜線に直通する。ただし、朝ラッシュ時には浦賀発着の特急列車(一部は金沢文庫駅以北快特)も運転される。空港線へは品川・横浜両方面から直通列車が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "都営地下鉄浅草線や京成電鉄各線などと相互乗り入れを行っており、以下に挙げる路線の各駅へ直通列車が存在する。空港線へ乗り入れる列車が多く、一部は久里浜線や逗子線と直通する。現在、京急蒲田駅以南への直通はほぼ自社の車両に限られ、朝・夜に東京都交通局の車両が数本乗り入れる程度だが、かつては京成電鉄や北総開発鉄道・住宅・都市整備公団(現・北総鉄道)の車両も乗り入れていた。なお、2018年12月8日以降は京成車については平日のみ久里浜線京急久里浜駅まで1往復設定される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤにおける拠点駅の1時間あたりの運行本数は、横浜駅では日中15本、平日朝のピーク時で23本である。また品川駅では、京急蒲田方面が日中18本、平日朝21本、泉岳寺方面は朝 - 日中がおおむね12本、夜間9本となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "京浜間では開業時より伝統的に高速運転が行われてきた。これは、東海道本線や東急東横線、三浦半島方面へは横須賀線、羽田空港アクセスでは東京モノレールと競合するためである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "京急の前身で1898年に創立された大師電気鉄道は、最高速度がわずか8マイル/h (12.8km/h) であった。その後、1931年には急行運転、1936年には待避線による追い越し運転が実施され、緩急結合運転が始まった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後では認可速度80km/hから始まり、1953年に90km/h、1958年秋には100km/h、1967年からは特急で105km/h 運転となった。1995年以降は品川 - 横浜間で120km/h(増圧ブレーキ非装備の車両と、成田スカイアクセス線乗り入れ対応の京成車と都営車以外の車両は110km/h)、横浜以南で110km/h となり、関東の私鉄路線としては京成成田スカイアクセス・つくばエクスプレスに次いで高速の部類に入る。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "軌間が標準軌という点は高速運転に有利だが、軌道や信号設備の改良など120km/h運転を行う準備に数年を要した。首都圏の鉄道事業者は、直接他社線と競合する路線が少ないこと、限られた線路容量や線形の中でほぼ終日にわたり高密度ダイヤで運転されること、また高速化よりもまず安全性や定時性、ラッシュ時の輸送力重視という傾向もあることなどから、首都圏の鉄道事業者で一般列車の120km/h以上の運転を実施しているのは2022年の時点で京急、前記つくばエクスプレス・京成成田スカイアクセスおよびJR東日本と少数である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "なお、品川駅 - 横浜駅間の120km/h区間では、信号機にYG現示を明滅させる抑速信号(C-ATSの照査速度105km/h)を採用している。これは最高速度を105km/hから120km/hとするにあたり、信号機の移設・増設、閉塞数の変更を行わずにブレーキ距離を確保するためである(京急本線の閉塞区間の平均間隔は290mである)。抑速現示による速度制限を受けている状態では従前の進行現示と同等の距離で停止でき、最高速度の向上が可能となった。運転士による各種試験の結果、抑速現示の明滅回数は80回/分、点灯割合50%としている。抑速現示は京急が日本で初めて採用した方式であり、その後は2009年に北総鉄道北総線で、2010年に京成成田スカイアクセスでも採用された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "なお、120km/hで運転できるのは京急車による快特だけで、特急および急行の最高速度は110km/hである。ただし、使用車両の最高速度が低い場合はそれに従うことになる(かつての800形使用の快特および特急の最高速度は100km/hであった)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1999年に快速特急を「快特」と改称。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2023年11月25日改正時点では以下の7種別で構成されている。停車駅についての詳細は「停車駅表」を参照。また、速達列車は種別ごとに種別色(停車駅表参照)を定めており、英語での案内にはその色を用いる場合もある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "平日朝方の上り方面に3本運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「ホームライナー」に相当する。1本目は横須賀中央発品川行き、2本目は三浦海岸発品川行き、3本目は三浦海岸発泉岳寺行きとして運転される。三浦海岸駅、横須賀中央駅、金沢文庫駅、上大岡駅から乗車する場合には「Wing Ticket」(300円)または「Wing Pass」(5500円)が必要である。降車は品川駅・泉岳寺駅のみで可能である。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "車両は2ドアオールクロスシート8両編成が専用で使用されており、2019年現在は2100形で運転されている。なお2021年5月6日より三浦海岸6:09発のモーニング・ウィング3号については、金沢文庫駅までは1000形1890番台4両編成で運転され、金沢文庫駅からは前方に2100形8両を増結した12両編成で運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "平日夜間の下り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「ホームライナー」に相当する。始発駅である品川駅から乗車する場合には「Wing Ticket」(300円)が必要だが、上大岡駅 - 三崎口駅(一部列車は京急久里浜駅または金沢文庫駅)間については一般の「快特」として運行されるため、乗車券のみで乗車できる。停車駅や着席整理料金など一般の快特とは趣を異にするが、正式な種別は「快特」となっている。本線の泉岳寺駅 - 品川駅間や堀ノ内駅 - 浦賀駅間、都営浅草線などには乗り入れない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "車両は、2ドアクロスシート8両編成または3ドアL/Cカー4両編成が専用で用いられており、運行開始当初は2000形、2023年現在は2100形または1000形1890番台となっている。一部の列車は前8両の品川始発快特三崎口行きに併結する形で後ろに4両金沢文庫までのイブニング・ウィング号として運行される。快特と併結する列車については、快特停車駅である京急蒲田・京急川崎・横浜に(運転)停車するが、後ろ4両のイブニング・ウィング号として運行される車両は扉が開かない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "京急蒲田駅・京急川崎駅・横浜駅を通過駅としているのが特徴である。品川駅から上大岡駅までの所要時間は32分。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "都心方面と東京国際空港(羽田空港)を結ぶ特急料金不要の最速達列車で、品川駅 - 羽田空港第3ターミナル駅間をノンストップで走行し、羽田空港第1・第2ターミナル駅に着発する列車である。全列車・全区間8両編成で運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)10月ダイヤ改正以降は、日中の列車は都営浅草線に直通し、押上駅からの京成線内は種別を「アクセス特急」に変更の上で成田スカイアクセス線経由で成田空港駅に向かうダイヤが40分間隔で組まれている。また成田空港駅からは、逆のパターンが組まれている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "「エアポート快特」は、1998年(平成10年)に設定された「エアポート快速特急」を前身とする。当時は羽田空港へのアクセスのみならず、羽田空港駅(当時。現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)と京成線の成田空港駅を乗り換えなしで結ぶ最上位の種別として登場し、京急線・都営浅草線内では「エアポート快速特急」、京成線内では「エアポート特急」として全区間で通過運転がされていた。なお、これらの列車は京成高砂駅で、京成本線の京成上野駅 - 京成高砂駅間を運転する「エアポート特急」に接続していた。特に都営浅草線内で通過運転を行ったことが画期的であったが、京急線内での扱いは快速特急と同じであり、名前だけを差別化した形であった。1999年(平成11年)にエアポート快特に改称する。2000年代の一時期(2002年頃)は京成線内の扱いが快速への格下げと運転区間の短縮により成田空港駅まで到達しない列車が大半となり、当初の目的を果たしているとは言い難い状況になっていたが、2010年(平成22年)7月17日に京成成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業し、京成線内を京成本線経由から、こちらに切り替えることで再び両空港を乗り換えなしで結ぶ列車として運転されるようになった。これに先立ち、2010年(平成22年)5月のダイヤ改正において京急蒲田駅を通過するようになり、京急線内でも快特との実質的な差別化が図られるようになった。2012年(平成24年)10月のダイヤ改正からは種別の色をオレンジに変更し、快特との差別化および京成線アクセス特急との共通化が図られるようになった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤでは堀ノ内駅から久里浜線に直通して京急久里浜駅や三崎口駅を発着駅とする系統と、京急蒲田駅から空港線に直通して羽田空港第1・第2ターミナル駅を発着駅とする系統があり、ほぼ終日の設定がある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1968年(昭和43年)に設定された「快速特急」を前身とする。快速特急は特急よりもさらに上位の種別で、それまで運転されていた三浦半島の観光地に向けた列車、ハイキング特急を格上げする形で登場した。このため当初は土休日に特急の合間に何本か設定されているにすぎなかったが、通勤需要の拡大とともに徐々に設定時間と運転本数が拡大されていき、また本線末端部よりも久里浜線へ直通するダイヤへとなって行った。1999年夏のダイヤ改正からは通称・略称として用いられていた「快特」が正式名称となり、同時に「特急」を置き換える形で大増発を行い、日中はほぼ10分に1本は確保されるようになった。この時都営浅草線・京成線・北総線(以下:都心方面)へ直通する快特も設定された。さらに2012年10月21日改正では、日中の北総線 - 都営浅草線 - 羽田空港の系統のエアポート急行が快特へ格上げされ、品川駅では約5分間隔で京急久里浜・三崎口方面の列車と羽田空港方面の列車が交互に運転する形となっていたが、2022年11月26日のダイヤ改正より、日中の都営線方面と横浜方面を直通する快特と北総線方面と羽田空港を直通する快特が特急に変更された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時上りの快特は京急久里浜駅・浦賀駅 → 金沢文庫駅間は特急として運転され、汐入駅・追浜駅にも停車する(1999年以前の通勤快特)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "車両は8両編成を基本とするが、金沢文庫駅 - 品川駅間では4両編成を連結して、大手私鉄最長である12両編成で運転される快特も設定されている。その場合、金沢文庫駅・品川駅において連結・切り離し作業を行う。原則進行方向後部に連結する。この12両編成の運用には京急の車両だけが充当される。京急以外の8両編成が用いられることは少なく、京急蒲田駅以南で京急以外の車両は原則羽田空港方面の運用が中心のため、横浜方面ではほとんど見ることができないほか、方向幕が京成車は京成の種別に合わせて「快速特急」となる。都営車は、本線をそのまま走り三崎口駅を発着駅とする運用も設定されている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "運行当初は久里浜線の津久井浜駅まで通過運転を行っていたが、近年は停車駅が増加しており、1998年に空港線が羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)まで延伸開業すると同時に京急蒲田駅が停車駅となり、1999年夏のダイヤ改正からは久里浜線内各駅停車となった。さらに、2010年5月16日からのダイヤ改正からは、金沢八景駅も停車駅に追加された。なお、自社路線内では最速の列車であるが、都営浅草線内ではすべての列車が各駅停車となる。詳細は「都営地下鉄浅草線」や「エアポート快特」を参照されたい。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "列車番号の末尾のアルファベットはA、B、SHの3つが使用されている(他社局の車両が使用される場合をのぞく)。基本的に、Aは京急線内のみの運用、Bは平日朝の上りの金沢文庫以南が特急・以北が快特の列車とその送り込み(1999年まで存在した通勤快特と同様)、SHは地下鉄に直通する快特の運用に用いられるが、一部例外もある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤでの運行形態は以下の通り。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "●:停車 -:通過",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、1987年5月まで、現在の京急○○はそれぞれ京浜○○という駅名だった。例:京急蒲田駅→京浜蒲田駅、京急川崎駅→京浜川崎駅など。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "特急は、1968年(昭和43年)に「快速特急」(1999年のダイヤ改正より「快特」に名称変更)が設定されるまで本線最上位の種別であり、「快特」設定後も本数の多いダイヤの中心的な種別であったが、1999年夏のダイヤ改正から空港線に乗り入れる列車を除いた日中のすべての特急が快特に置き換わった。2022年11月25日までは、早朝深夜・朝夕ラッシュ時のみの運転であった。しかし、その運転範囲は広く大師線を除く全線で見ることができる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2022年11月26日のダイヤ改正から、快特を置き換える形で本線・空港線系統とも日中に20分間隔で再設定され、本線においては1999年夏のダイヤ改正前以来23年ぶりの復活となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "基本的には8両編成での運転だが、品川駅 - 金沢文庫駅(下りは京急川崎駅)間では12両編成で運転されている。連結パターンについては後述する。現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "平日ラッシュ時間帯においては、京急線で完結する運用が多い「快特」に対し、当種別は都心方面直通列車となるものが多い。上り列車は金沢文庫駅 → 品川駅間の本線内は「快特」同様の最大12両編成となるが、都営浅草線及び京成線内は最大8両編成での運転であるため、品川駅で切り離し作業を行う。ただし、下り列車は神奈川新町駅の下りホーム有効長が8両分のため、品川駅 → 京急川崎駅の区間のみで12両運転を行う。余った4両は京急川崎駅から客扱いをせずに車両基地のある神奈川新町駅までそのまま連結するか、京急川崎駅で切り離して普通列車として運転される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時の一部特急は金沢文庫駅以北は快特として運転される(1999年以前の通勤快特)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "列車番号の末尾に付けられるアルファベットはC、H、Bが使用されている(京急以外の車両が使用される場合を除く)。Cは線内運転の列車、Bは平日朝の上りの金沢文庫以南が特急・以北が快特の列車とその送り込み(1999年まで存在した通勤快特と同様)、Hは地下鉄直通の運用に用いられている。ただし三崎口駅・京急久里浜駅・浦賀駅 - 品川駅・泉岳寺駅間を通して運転される自社線内完結の列車及び折り返しの送り込みとしてHをつける列車が早朝・深夜に存在する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1999年の改正以後、日中の特急は羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 京急蒲田駅 - 京急川崎駅間のみで見られた。この列車は京急川崎駅 - 金沢文庫駅間で快特と併結、自身の列車種別を快特に変更して羽田空港駅と横浜方面とを結んでいた。この列車の下り方面行きは併結相手の快特に先行して京急蒲田駅を発車し、京急川崎駅構内の引き上げ線に一時停車して、品川方面からやってきた快特を先にホームに進入させた後、その後部に連結するという珍しい方法で運転されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "定期列車としての「特急」が設定されたのは1954年3月22日で、設定当初は平日の朝ラッシュ時のみの運転であった。1957年3月17日には20分間隔で終日運転されるようになった。1965年2月20日までは神奈川新町駅ではなく子安駅に停車していた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2010年5月16日から2023年11月24日までは「エアポート急行」として運行されていた。列車種別名を改称した理由は、京急蒲田駅 - 新逗子駅(現:逗子・葉山駅)間においても新たにエアポート急行を設定するにあたり、かつて同区間を運行していた「急行」とは停車駅が異なることから、「急行」と「エアポート急行」は別の種別であることを位置付ける目的があり、既存の羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 京急蒲田駅 - 泉岳寺方面間の急行と合わせて種別名の統一を図ったものである。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "おもに都心方面 - 羽田空港間を本線・空港線経由で結ぶ列車(一部は都営浅草線・京成線・北総線からの直通列車)と、逗子・葉山駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル間を逗子線・本線・空港線を経由して結ぶ列車の2系統があり、ラッシュ時間帯は主に前者が10分間隔、日中は後者が20分間隔で運転されている。 また、平日朝に1本と土休日夜間に2本は品川方面から横浜方面に直通する下り列車もある。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2023年11月25日(土休日ダイヤ)及び27日(平日ダイヤ)に実施のダイヤ改正において、「エアポート急行」の種別名が「急行」に変更された。停車駅の変更は行われないが、種別表示の「飛行機マークと急行」からは飛行機マークが削除される。インバウンド(訪日外国人)客の増加により、外国人が誤って羽田空港駅に行かない列車に乗車してしまうのを防止するためとしている。これにより、「急行」からの改称によって登場した「エアポート急行」の名称は、登場から約13年半で元の名称に戻される形で消滅することとなった。また、このダイヤ改正により、品川方面と逗子・葉山駅とを結ぶ列車が設定されるようになった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2010年(平成22年)5月15日まで運行されていた「急行」から列車種別名を変更し、2023年11月24日まで「エアポート急行」として運行されていたものである。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2012年10月21日のダイヤ改正から、日中と土休日夜間のエアポート急行については、快特へ格上げされたため、これらの時間は運行されなかった。その後再度復活するも、2022年11月26日のダイヤ改正から日中は特急、土休日夜間は快特へそれぞれ格上げされるため一部の時間帯の運行となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "朝ラッシュ時間帯においては、品川方面からの列車が増発されたが、2010年5月15日まで空港線内のみの運用である急行が毎時3本運行されていたが廃止され、同時間帯はすべての列車が本線直通列車となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大多数の列車は、泉岳寺駅から先の都営浅草線と京成押上線を介して京成本線成田空港駅、芝山鉄道芝山千代田駅および北総線印旛日本医大駅まで相互直通運転を行っている。このため、北側の急行は乗り入れ先の車両で運用されていることが多い。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "運行パターンとしては例として以下のタイプが存在する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "原則として後続の横浜方面行きの快特(または特急)には追い抜かれない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "泉岳寺方面行きは京急蒲田駅で横浜方面からの快特からの接続をうける。鮫洲駅で普通列車を追い抜くのは朝夕の一部のみ設定されている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "横浜方面から羽田空港へのアクセスを向上させるため、普通列車を格上げする形で2010年(平成22年)5月16日に新設された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この区間にはかつて「急行」が存在したことは前記したが、1999年(平成11年)7月31日に実施されたダイヤ改正により廃止されたため、この「エアポート急行」は約10年ぶりとなる事実上の急行の復活である。ただし、当時の急行とは停車駅が異なっており、かつて急行停車駅であった鶴見市場駅・花月園前駅(現:花月総持寺駅)・生麦駅・子安駅・黄金町駅・京急富岡駅は通過駅となり、逆に急行が通過していた仲木戸駅(現:京急東神奈川駅)・井土ヶ谷駅・弘明寺駅・杉田駅・能見台駅がエアポート急行の停車駅となった。なおエアポート急行の停車駅は京急鶴見駅や京急東神奈川駅、杉田駅など京浜東北線・根岸線と至近の駅が多い。なお、2023年11月25日のダイヤ改正による「エアポート急行」から「急行」への改称により、この区間においては約24年ぶりに「急行」の種別名が復活した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日中を中心に10分間隔(1時間に6本)、8両編成または6両編成での運行であり、ほとんどの列車が逗子・葉山駅 - 羽田空港方面間を運行するが、途中駅である京急川崎駅・神奈川新町駅・横浜駅(始発のみ)・金沢文庫駅を始発・終着とする列車も存在する。運行時間帯は平日ダイヤでは主に日中と夕ラッシュ時、土休日ダイヤではほぼ終日である。急行が運行されていない時間帯には、羽田空港方面発着の快特・特急・普通が運行される。平日夕ラッシュ時の下りの一部には、イブニング・ウィング号を介し、横浜駅 - 京急久里浜駅方面の先着列車となるパターンも存在する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "普通は全線を運行し各駅に停車する。ただし、現行ダイヤでは主に運行されるのは品川駅以南の区間となる。品川駅 - 泉岳寺駅間には途中駅はないが、この区間を走る列車の多くは京急線内品川駅以南(横浜・羽田空港方面)の区間で急行以上の速達列車として運転されてきたものが直通する形となっている。このため、品川駅を境に以北・以南ともに普通列車として運転するものは平日・土休日合わせても1本もない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "日中は9 - 11分間隔(1時間に6本)で運転される。速達列車は多くが8両または12両編成であるのに対し、ほとんどの列車が4・6両編成である。現在のダイヤでは品川駅 - 浦賀駅間の運転がほとんどだが、品川、羽田空港第1・第2ターミナル、京急川崎、神奈川新町、金沢文庫、羽田空港第1・第2ターミナル(発のみ)、平和島(発のみ)、京急川崎、神奈川新町、横浜(発のみ)、上大岡(着のみ)、金沢文庫、逗子・葉山、堀ノ内(発のみ)、浦賀、京急久里浜各駅発着の列車が設定されている。また本線(品川駅 - 泉岳寺駅間を除く)を走る列車はほぼすべての列車が京急車で運転されるが平日夜上りの逗子・葉山発金沢文庫行き1本のみ都営車で運転されている。2017年10月28日以降は土休日の夜にも同じく1本設定される。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2010年5月16日のダイヤ改正では「エアポート急行」が新設されたことにより減便され、2011年4月の節電対策ダイヤでさらに減便されたが、2012年10月21日のダイヤ改正では日中に運転されていた品川駅 - 羽田空港方面間のエアポート急行を快特へ格上げしたことに伴い、エアポート急行停車駅である青物横丁駅・立会川駅・平和島駅の利便性確保のため、品川駅 - 京急蒲田駅間の区間運転列車が新規に設定され、品川駅 - 京急蒲田駅間では5 - 10分間隔(1時間に9本)の運行となっていた。しかし、新型コロナウィルス感染拡大の影響を受け、日中の品川駅 - 京急蒲田駅間の区間運転列車は2020年5月9日より運休となり、そのまま2021年3月27日のダイヤ改正を以って正式に廃止された。",
"title": "列車種別"
},
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "前述のように他社との競争の観点から、伝統的に速達列車の本数が多く、早朝深夜を除くと、ほとんどの待避駅で通過待ち・接続待ちを行う。接続待ちによって、速達列車通過駅から主要駅までの利便性が確保されている反面、「普通」だけで主要駅間を乗り通すとかなり時間がかかる。例えば日中ダイヤの場合、品川駅 - 堀ノ内駅間の52.3kmを快特は上下とも47分で運転するところを、普通は下りが1時間52 - 53分、上りが1時間42分かけて走っており、所要時間差は実に1時間ほどとなっている。また途中で上りが快特6本・エアポート急行2本、下りが快特7本・エアポート急行3本に追い抜かれる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "ほとんどの普通が、京急線内のみの運行である。しかし、ごく少数ながら品川駅を終着とする都営浅草線や京成線方面直通の普通も存在する。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "毎年大晦日から翌年の元日にかけては、横浜駅 - 品川駅・泉岳寺駅・東京都心方面間で終夜運転を行っているが、その際は普通列車のみの運転となる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 63,
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"text": "昼間時40分あたりの運行本数は次のようになっている(2022年11月19日時点)。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "このほか、都営浅草線・京成線直通列車は泉岳寺駅ではなく、品川駅で列車種別の表示・案内を京成線の種別に変更するので、これらの表示・案内を見ることもでき、品川駅 - 泉岳寺駅間の上り列車に限りこれらの種別を名乗って運行する列車が存在する。これまでは品川駅における案内上の措置に過ぎなかったが、現在では駅や車内に掲載されている京急の路線図においても、泉岳寺駅 - 品川駅間において、「アクセス特急」「通勤特急」「快速」の表記がなされるようになった。反対に、京成線方面からの京急線直通列車は押上駅で京急線の種別に変更する。「エアポート快特」は京急線の種別であるが、都営浅草線の種別でもあり、同線のみで「エアポート快特」となる列車(主に京急線内「エアポート急行」)もある。「快速特急」は正式種別としては「快特」だが、京成線での案内に合わせて「快速特急」と案内される。「エアポート快特」を除き、いずれの種別も都営浅草線内は各駅に停車する。都営浅草線内の駅が終点の場合は「エアポート快特」を除き、「普通」と表示・案内される。泉岳寺行きの場合は、種別は変更せずに運行される。朝ラッシュ時、品川から「普通」京成高砂行きとなる列車の一部は京成高砂駅で行先・種別変更して運行を継続する列車がある。",
"title": "列車種別"
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"paragraph_id": 65,
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"text": "1981年6月22日のダイヤ改正より、品川駅・京浜川崎駅(現:京急川崎駅)のホーム12両延伸、京浜鶴見駅(現:京急鶴見駅)上りホーム待避設備完成により、それまで平日朝に運転されていた線内特急(C特急・8両編成)を金沢文庫駅以北を快速特急停車駅・12両編成で運転する種別として登場した。平日朝の上り及びそれの送り込み用の下りが運転され、横浜駅以南では特急停車駅、以北では登場当時の快速特急停車駅に停車する。車両の種別幕は快速特急同様緑色で、縦に「通勤」横に「快特」と表示されていた。また、列車種別表示灯は「通勤快特」を表す表示はなく、上大岡駅以南は「特急」、横浜駅以北は「快速特急」として扱われていた。「快特」と異なり、本線の全線に乗り入れていた。久里浜線以外の京急線や都営浅草線へは乗り入れない。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1995年7月24日より京急蒲田にも停車するようになった。このときから、停車駅路線図での種別色に紫色が使用され、「快速特急」と「特急」から独立するようになった。尚前記したが、この種別色は公式ホームページの時刻表にてB快特(B特急)の種別色として使用されている。1998年11月18日ダイヤ改正から上り1本が泉岳寺駅まで延長された。この列車には2100形が充当され、同形初の泉岳寺駅乗り入れとなっている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1999年7月に名称廃止となり、現在は同じ形態の列車が金沢文庫駅以南を特急として扱う快特という形で運転されている。設定時より通勤快特が正式種別名であり、通勤快速特急とは称さない。しかし、株式会社協和企画発行の『京浜急行電車全駅時刻表』(平成7年度版)には「通勤快速特急」の記載がある。",
"title": "列車種別"
},
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、運行開始は1981年だが、車両の前面に掲げる種別板(サボ)は、それよりも以前から用意されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "京成本線の京成高砂駅・青砥駅と羽田空港を結ぶ列車。京成高砂駅で、京成上野駅 - 成田空港駅間の「エアポート特急」と接続していた。京急線内では特急、都営浅草線内ではエアポート快特、京成線内では特急(現在の快速特急)と同じ駅に停車しており、途中の平和島駅にて快速特急の通過待避を行っていた。詳細は「エアポート快特」の項目を参照。",
"title": "列車種別"
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"text": "",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1950年4月1日に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 - 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した。",
"title": "列車種別"
},
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"paragraph_id": 72,
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"text": "運行パターンは大きく3種類に分けられる。これらは原則として、途中停車駅は京浜川崎駅と横浜駅のみである。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 73,
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"text": "1952年春のダイヤ改正で学校裏駅(現・平和島駅)、子安駅、上大岡駅の3駅での待避線の使用が開始されると「三崎」と新設された「城ヶ島」が品川駅 - 浦賀駅間をノンストップ運転で65分で結んだ。この時の表定速度は51km/hだった。また、品川駅 - 浦賀駅間では「灯台」と新設された「大島」「鋸山」「第一房総」「第二房総」が京浜川崎駅と横浜駅に停車して69分で結んだ。そのほか、逗子線方面では逗子海岸駅行きの「油壺」と神武寺行きの「鷹取」があった。1953年秋からはノンストップ運転の列車は「第二房総」と「城ヶ島」の2本に増え、3分短縮の62分運転となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 74,
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"text": "1954年春から「第二房総」は房総半島への日帰りハイキングが楽しめることから人気が集中したため6両編成に増強し、秋には4分短縮の58分運転となった。「第二房総」は1956年秋には表定速度68km/hで走行し、品川駅 - 浦賀駅間48分運転となった。ハイキング特急はこの頃が最盛期となり、浦賀駅行きの「第三房総」、京浜久里浜駅行きの「白秋」も設定され、最大で9本が運行されるときもあった。しかしマイカーによる道路混雑が始まると連絡バスが上りハイキング特急の発車時刻までに到着しない事態が発生し、1965年秋をもってハイキング特急は廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "廃止後はその代替として休日の定期特急の一部に「房総」「三浦」などの愛称名をつけて運転し、のちに快速特急「マリンパーク号」となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1956年3月より、大島・金谷航路接続を目的として品川駅 - 浦賀駅間に設定された特急列車。途中停車駅は京浜川崎駅、横浜駅、金沢文庫駅、横須賀中央駅の4駅だった。品川駅12時40分発の列車には「ラ・メール号」(フランス語で「海」の意)、13時40分発の列車には「パルラータ」(イタリア語で「甘き語らい」の意)の名称が与えられた。ハイキング特急とは異なり定員制ではなかった。しかし、沿線人口の増加と通勤需要の増大に加え、伊豆大島へのメインルートが東海道新幹線の開業後、熱海駅・熱海港経由に移行したことなどにより、1968年6月8日に快速特急(現・快特)へと発展的に解消した。",
"title": "列車種別"
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"text": "",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1958年に金沢八景駅のホーム延伸により、それまでの逗子海岸駅発着の週末特急を改称したもの。略称は「海特」。停車駅は品川駅・京浜川崎駅・子安駅・横浜駅・上大岡駅・金沢文庫駅・金沢八景駅・湘南逗子駅・逗子海岸駅であった。1959年には子安駅・上大岡駅が通過になった。1962年には京浜久里浜駅発着も運行された。1968年に快速特急が運転されたが、休日ダイヤのみ三浦海岸駅発着の海水浴特急が残ると当時に停車駅が見直され、当時の快速特急が通過する京浜蒲田駅・金沢八景駅・堀ノ内駅に停車するという若干異なるものの現在の快特停車駅に近い停車駅となった。これらの列車も1973年に名称が消え、不定期の快速特急として運行されるようになった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "1954年3月22日ダイヤ改正で設定された特急のうち、上り特急が通勤特急とも呼ばれていた。当初の停車駅は品川駅・学校裏駅(現:平和島駅)・京浜川崎駅(現:京急川崎駅)・京浜鶴見駅(現:京急鶴見駅)・子安駅・横浜駅・上大岡駅・金沢文庫駅・金沢八景駅・追浜駅・横須賀汐留駅(現:汐入駅)・横須賀中央駅・横須賀堀内駅(現:堀ノ内駅)・湘南大津駅(現:京急大津駅)・馬堀海岸駅・浦賀駅であった。同年7月7日のダイヤ改正で久里浜線直通運転が開始されたが、久里浜線内は各駅停車であった。また京浜蒲田駅(現:京急蒲田駅)が停車駅に追加された代わりに、京浜鶴見駅が停車駅から外された。1957年3月17日のダイヤ改正で特急停車駅に横須賀汐留駅・横須賀堀内駅・湘南大津駅および久里浜線の新大津駅・湘南井田駅(現:北久里浜駅)が追加され、通勤特急と停車駅が変わらなくなったことに伴い、特急に統一された。現在では品川駅で、京成線に直通する「通勤特急」を見ることができる。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "急行は、2010年5月15日までにも運行されていた。空港線の羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)から京急本線を経由して都営浅草線・京成押上線を介して京成本線京成成田駅および北総線印旛日本医大駅までを結んでいた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1999年7月30日までは京急蒲田駅 - 逗子線新逗子駅(現:逗子・葉山駅)間においても運行されていたが、翌31日に実施されたダイヤ改正により廃止された。この区間における急行は、主に新逗子駅 - 京急川崎駅間のみの運転であったが、平日朝ラッシュ時間帯に限り設定されていた新逗子駅発の都営浅草線方面へ直通する急行は、金沢八景駅で通勤快特の連絡後、平和島駅まで先行し、同駅で後続の特急を待ち合わせていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "ただし、京急蒲田駅以南の急行が廃止された後も、毎年正月に開催される箱根駅伝に協力するため、選手が京急蒲田駅付近にある第一京浜の踏切を通過する予定時間帯に限り、空港線の運転規制により京急川崎駅発着の急行が設定されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2010年5月16日に実施されたダイヤ改正に伴い、種別名を「エアポート急行」に改称する形で廃止した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "新逗子駅発着の急行は、基本的に上り列車は子安駅で、下り列車は神奈川新町駅で後続の特急や快特に通過で追い抜かれるが、平日・土休日共に日中の列車は神奈川新町駅 - 新逗子駅間の運転のため優等列車通過待ちは存在しなかった。普通列車とは上下線共に金沢文庫駅、上大岡駅、神奈川新町駅で接続、平日朝上り列車に限り京急富岡駅と神奈川新町駅で普通列車と接続していた。都営浅草線方面へ直通する列車と京急川崎駅発着の急行は、平和島駅で後続の快特の通過待ちを行っていたが、1998年11月18日の羽田空港駅開業後、本線と空港線との直通列車の増発に伴い、日中時間帯における平和島駅での待避は廃止され、平日朝ラッシュ時間帯や夜間に限り京急ウィング号・快特・特急のいずれかに追い抜かれる列車が設定されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、浦賀・久里浜方面に設定されていた時期もある。当初は金沢文庫駅以南で現在の特急とほぼ同じく金沢八景駅、追浜駅、横須賀中央駅、堀ノ内駅、馬堀海岸駅、浦賀駅に停車したが、1957年3月からは金沢文庫駅以南各駅停車となった。1970年6月にすべての急行が逗子線直通となり消滅した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "このほか、1957年から1972年までは大師線にも直通しており、大師線内の停車駅は川崎大師駅のみであった。しかし1966年のみ、京浜川崎駅の高架化工事のため休止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2023年11月25日のダイヤ改正に伴い「エアポート急行」を「急行」に改称する形で再度設定され、京急蒲田駅以南においては約24年ぶりに「急行」の種別名が復活したが、前述の通り当時とは停車駅が異なっている。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1957年3月17日に登場し、平日朝に運転された。金沢文庫駅以南各駅停車となった急行の一部を従来のまま残し名称変更したもので、1958年9月7日には特急増発に代えて消滅した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1950年4月1日のダイヤ改正より急行運転再開と共に登場した種別。当初は横浜駅以南各駅停車であったが、1951年12月16日のダイヤ改正から全区間で準急運転を行うようになった。1954年7月7日のダイヤ改正で消滅。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ハイキング特急や週末特急以外の一般の特急・快特や急行にも愛称がついている列車が存在し、中には定員制の列車も存在した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "都営線・京成線への乗り入れ開始の翌年である1969年より三浦海岸駅から成田駅間に2往復の夜行直通特急「招運号」が運転を開始した。以降毎年運転されていたが1973年 - 1974年の運転が東京都からの終夜運転中止の通告に伴い中止、そのまま運転されることなく廃止となった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1970年より1月、4月末 - 5月、9月 - 10月に京成成田駅 - 三浦海岸駅(後に三崎口駅)間で運転された臨時直通列車(京急線内快速特急・京成線内特急)。列車名は京成成田駅行きは「成田山号」、三崎口駅行きは「城ケ島・マリンパーク号」に統一されていた。午前・午後に2往復ずつの計4往復が運転され、車両は午前の「成田山号」と午後の「城ケ島・マリンパーク号」は京急が、午前の「城ケ島・マリンパーク号」と午後の「成田山号」には京成の電車がそれぞれ用いられた。のちに運転期間が1月のみとなり1978年に廃止。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2018年7月7日・8日と8月18日・19日には、3社局直通運転開始50周年を記念して復活運転が実施された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "車両は初日の「成田山号」及び延長運転する列車が関係する久里浜線内ローカル運用は京急1500形1707編成が、「城ケ島・マリンパーク号」は京成3000形3038編成が用いられ、2日目はその逆で「成田山号」と関係運用に京成3000形3038編成、「城ケ島・マリンパーク号」に京急1500形1707編成が運用された。このため、久里浜線ローカル運用2本も京成車が代走している。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "1970年の夏季ダイヤより夏季のみ京成成田駅 - 逗子海岸駅間(ただし京成成田駅行きのうち午前中の2本がそれぞれ久里浜駅発と浦賀駅発、逗子海岸駅行きの1本は京成津田沼駅始発で運転)で運転された直通特急。「城ケ島・マリンパーク」「成田山」と同じく列車の方向で列車名が統一されており、パシフィックが京成成田駅行き、逗子が逗子海岸駅行きであった。午前・午後3往復ずつ計6往復が運転され、車両の受け持ちも「城ケ島・マリンパーク」「成田山」と似ており午前の「パシフィック」と午後の「逗子」は京急が、午前の「逗子」と午後「パシフィック」には京成の電車がそれぞれ用いられた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "1970年7月11日から8月15日までの間に実施された夏季休日ダイヤで「みうらビーチ」が3往復、7月18日から8月8日までの平日に1往復納涼特急「ハワイアン」が運転された。これらの列車は定員制で「みうらビーチ」は往復で100円であった。これらの列車に使用された600形(2代)のうちの1編成のみは車内の蛍光灯がすべて濃いブルーに交換されていてまたそのまま通勤列車にも充当されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "「ハワイアン」の運転は1970年夏季限りであったが「みうらビーチ」は1972年に1往復のみになるものの運転が継続された。ただし、愛称が変わった時期もあり、「みうらビーチ・ビバハッピー」(1974年)や「ハッピー1240」(1975年)の愛称で運転された後、1976年は再び「みうらビーチ」に戻ったものの、翌年から再度改称され「ミュージックトレイン」(1977年-1980年)、「アメリカンエクスプレス」(1981年)など、様々な愛称での運転となっていたが、1982年からは1990年まで再び「ミュージックトレイン」として運転されていた。その後1991年より最後の1994年までは三たび「みうらビーチ」に戻った。なお、夏季休日ダイヤ最後の年となった1995年には列車の設定がなくなった(同年夏季休日ダイヤでは「みうらビーチ」の運転をせず、一般の快速特急の増発と延長運転、京急蒲田駅への臨時停車のみとなった)。また、翌1996年以降は夏季休日ダイヤそのものが消滅した。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "使用車両は最初の1970年のみは全列車600形(2代)、1971年に2往復が1000形(初代)、1往復が600形(2代)の冷房改造車、1972年より1000形のみで運転され、1983年より下りのみ、翌1984年からは上下とも2000形での運転となっている。ロングシートの1000形で運転されている期間・列車も定員制であり、一時期の横須賀中央以南での乗車を除いて座席券が必要であった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "1968年9月より休日にも快速特急が運行されるようになり、快速特急3往復に「マリンパーク」という愛称をつけて運転を開始した。その後1972年より愛称を1往復ずつ変更し「南房総」「城ケ島」「油壺マリンパーク」の3つの列車名で運転されるようになった。また、この時土曜日に運転されていた後ろ2両のみ座席指定とした快速特急にも同時に「南房総」という愛称がつけられた。その後の記録は十分では無く、これらの愛称がいつ無くなったのかは不明であるが、1977年には「南房総」と名乗る列車が品川駅から平日・休日ともに1本(平日は特急・休日は快速特急)運転されていた。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "京急油壺マリンパークが沖縄国際海洋博覧会(海洋博、1975 - 1976年)のサブ会場となったことから、1973年4月末から10月末までのおよそ半年、平日休日ともに1往復「海洋博」という愛称がつけられた快速特急が運転された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "1983年7月24日に快速特急「マリンパーク」が復活した。「マリンパーク」として運転されるときは愛称板取り付けが困難な2000形および3代目600形を除き前面に丸いイルカの愛称板を取り付け運転された。また、同年10月1日より都営線からの特急にも1往復快速特急と同じ愛称板を付け「マリンパーク」として運転した。これらの列車は羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業に伴うダイヤ改正で愛称が廃止された。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "1949年には休日運転で、愛称付きの急行も運転されていた。愛称には「銀鱗」「大島」「房総」「剣崎」「三崎」「灯台」「鷹取」などが使用され、上記のハイキング特急の前身ともいえる列車であった。",
"title": "列車種別"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "横浜駅を7時30分から8時26分の間に発車する上りの特急品川行き6本については品川寄りの先頭車を「女性専用車」としている。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は戸部駅 → 横浜駅間であり、ピーク時(7:30 - 8:30)の混雑率は110%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "京急で最も乗降人員が多い駅は横浜駅であり、同駅は6社局の路線が乗り入れるターミナル駅である。品川駅 - 横浜駅間は一部を除き複線であるため、朝ラッシュ時の上り列車は、最も停車駅が少ない快特であっても同区間で30分程度を要する。この区間で競合する東海道線、横須賀線は平行ダイヤであり、所要時間・行先等で圧倒的に有利である。渋谷、新宿、池袋の3大副都心へのアクセスも、湘南新宿ライン、東急東横線(東京メトロ副都心線)が横浜駅から直通しており、利便性が高い。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "そのため、都心側のターミナル駅である品川駅手前よりも、郊外側のターミナル駅である横浜駅手前のほうがラッシュ時の輸送人員が多く、混雑率も高い。朝ラッシュ時に運転される快特及び特急は、金沢文庫駅で増結して12両編成で運転する運用がある。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "この路線は、川崎大師への参詣鉄道を運行していた大師電気鉄道が、京浜間の連絡鉄道の開業を目的に、京浜電気鉄道と社名を変更した上で、東京都南部から神奈川県川崎市付近に軌道線を開業させたのが始まりである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "その後、軌道線を順次延伸し、明治時代末には東京と横浜を結ぶ都市間連絡鉄道が形成された。東京方への乗り入れに際しては、東京市電への乗り入れを見込んで、標準軌 (1435mm) で敷設されていた当線を、東京市電の馬車軌間 (1372mm) に改軌し、大正末期には北品川駅(乗り入れ開始時は品川駅〈初代〉)を介して市電品川線への乗り入れを行い、さらに高輪駅まで延伸した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "一方、市電への乗り入れと同じ頃、京浜電気鉄道は、横浜と横須賀を結ぶ郊外路線の開業を企図しながら関東大震災の影響により打撃を受けていた湘南電気鉄道に対し、資本参加を行った。京浜電気鉄道の出資により経営危機を乗り越えた湘南電気鉄道は、昭和時代に入り、黄金町駅 - 浦賀駅間および金沢八景駅 - 湘南逗子駅(現在の逗子・葉山駅北口)間といった、現在の京急本線と京急逗子線の一部に相当する路線を開業させた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "その後、横浜で京浜電気鉄道線と湘南電気鉄道線を接続させ、直通運転を行うことが計画された。しかし、京浜電気鉄道線が馬車軌間に改軌していた一方、湘南電気鉄道線は地方鉄道法によって免許を受けて標準軌で開業しており、直通させるためには、どちらかの路線を改軌する必要があった。地方鉄道法では馬車軌間による敷設が認められていなかったため、湘南電気鉄道線を馬車軌間に改軌することはできず、結論として京浜電気鉄道線を標準軌に改軌させた。1931年(昭和6年)12月に両鉄道会社は日ノ出町駅で結ばれ、念願の直通運転が開始された(両社の会社分界点は日ノ出町駅より黄金町駅方0.2 km地点)。それにより東京市電への乗り入れは中止された。高輪駅も廃止され、代わる東京都心側のターミナルとして、国鉄品川駅前への延伸を果たした。こうして、昭和初期に現在に至る路線の概形が完成した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "なお、東京市電乗り入れ中止に代わる都心乗り入れ案として、京浜電気鉄道は、日本初の地下鉄を開業していた東京地下鉄道、湘南電気鉄道と合弁して、京浜地下鉄道を設立。既に浅草駅 - 新橋駅間を開業していた東京地下鉄道線の延伸線を、新橋から品川まで建設することで、浅草 - 浦賀間の直通運転を計画した。ところが、新橋駅を介し、東京地下鉄道線への直通をもくろんでいた東京高速鉄道は、この京浜地下鉄道設立の動きを問題視し、東京地下鉄道と京浜電気鉄道の株を買い集め、京浜電気鉄道は東京高速鉄道の傘下に入ることとなった。東京の鉄道網を揺るがす事態に政府が仲裁に入り、地下鉄網の延伸は棚上げとなったが、京浜電気鉄道は依然、東京高速鉄道傘下のままに収まった。これが前史となって、東京高速鉄道社長である五島慶太が京浜電気鉄道社長に就任。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)には、五島が他に経営していた東京横浜電鉄、小田急電鉄と合併することとなり、当路線も大東急の一角をなすこととなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "大東急時代の1943年(昭和18年)に旧京浜電気鉄道の品川線と旧湘南電気鉄道の湘南線が統合されて東急湘南線となり、京浜急行電鉄発足後に本線と改称されたが、都市計画の上では湘南線の呼称が残っているものもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "戦後は設備の改良によって輸送力増強や所要時間短縮を図り、直通先の多様化などを経て現在に至っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "平均駅間距離は、都市部では700m前後、路線全体でも1.2km弱で、並行するJR各線よりこまめに駅を設けている。また緩急接続を頻繁に行なうため、おおむね3 - 7駅ごとという頻度で待避可能駅を配置している。全て有人駅であり、自動改札機・自動券売機を備える。また2006年には全駅にAEDが設置された。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "各駅のホーム有効長は停車種別により異なり、品川駅 - 金沢文庫駅の特急停車駅は12両(品川駅3番線及び、神奈川新町駅下りホームのみ8両)、その他の特急・急行停車駅(以前の運転区間を含む)は8両、普通列車のみ停車する駅は6両編成に対応する。ホーム番線は下り線側から1番線、2番線とされている。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "頭に社名(京急)や金沢が付く駅や神奈川新町駅などは、冒頭部分を省略して「川崎」「新町」「文庫」「八景」などと略記されることもある。以前は列車の方向幕や時刻表でも省略形が多く見られた。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "当路線には、軌道線から高速鉄道化への過程や戦時休止などにより、多くの廃駅が存在する。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "この区間はおおむね国道15号(第一京浜)と並行し、北北東から南南西へと線路が延びる。並行する東海道本線より東京湾側を通り、臨海部の工業地域にも近い。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "海岸線近くの平地を進むが、京急川崎以南では高架区間と地上区間が入り混じるため、その行き来のため急勾配となる箇所も複数存在する。路面電車を源流とする区間であるが、立会川駅以南では大きな速度制限を受ける曲線はない。京急線としては高架区間の比率が高いが、一部では地上を走行している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "都営浅草線に接続する泉岳寺駅と高架駅である品川駅の間には下り線33‰、上り線38‰の急勾配が存在し、品川駅の南側では最小半径100mの急曲線で左に折れて JR各線を乗り越えており、速度も25km/hに制限される。直後に40km/h制限の半径140mのカーブで八ツ山通り・旧東海道の踏切を過ぎると北品川駅である。同駅先の踏切を過ぎると25‰の勾配で高架に駆け上がり、この先は六郷土手駅付近まで続く高架区間となる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "京急蒲田駅では空港線が分岐する。六郷土手駅を過ぎると多摩川を渡って神奈川県川崎市へ入り、京急川崎駅では高架上の本線から大師線への連絡線が分かれる。横浜市に入ると鶴見線や東海道貨物支線などと交差し、高架区間と地上区間を行き来しながら東海道本線と並行して進む。子安駅手前で東海道本線と離れると間もなく子安駅に着く。子安駅 - 神奈川新町駅は上り線が2線ある3線区間となっており、神奈川新町駅には新町検車区が隣接する。盛り土となっている京急東神奈川駅を超えると東海道本線と並行し、神奈川駅を通過して首都高速三ツ沢線金港JCTをくぐると横浜駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "横浜以南では線路を南に向け、おおむね国道16号と並行する。横浜駅以北とは一転して丘陵地帯を縫うように進み、山岳トンネルも現れるようになる。沿線は拠点駅周辺を除くと住宅地となっている区間が多い。日ノ出町駅以南はかつて湘南電気鉄道により地方鉄道線として敷設された区間であり、断続的に曲線区間が現れる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "横浜駅の南側では急曲線で根岸線をくぐり、野毛山をトンネルで抜けると日ノ出町駅へ。ここから井土ヶ谷駅付近までは鉄道省が建設を計画していた京浜線(現:京浜東北線)延長区間の用地が転用されており(詳細は「湘南電気鉄道#鉄道路線」を参照)、また、黄金町駅 - 上大岡駅間は横浜市営地下鉄ブルーラインがおおむね南に並行する。その区間を抜けると南へ進路を変え、杉田付近で再び根岸線をくぐる。運行上の拠点である金沢文庫駅と金沢八景駅の間は複々線化されており、東に金沢検車区、西側には総合車両製作所横浜事業所が立地する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "三浦半島へと入り、沿線は海岸近くまで山が迫る地形となる。そのためトンネルが連続し、谷となる箇所に駅が設けられている。曲線区間や勾配のある区間が多い。山がちな地形のため沿線の平地は密集した住宅地・商業地となっており、傾斜が急な箇所にも住宅地が造成されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "金沢八景駅では追浜方で逗子線が平面交差して右手へ分岐する。横須賀市に入ると横須賀線が接近し、京急田浦駅 - 安針塚駅、逸見駅 - 汐入駅の両区間で京急本線が乗り越す。短いトンネルを抜けると横須賀市の中心市街地に位置する横須賀中央駅を通過する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "堀ノ内駅からは久里浜線が分岐し、快特や特急のほとんどは久里浜方面へ直通する。馬堀海岸から観音崎の付け根をトンネルで抜けると、黒船来航の町としても知られる終点の浦賀となる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "平面交差している環状8号線、第一京浜などの道路と鉄道を立体交差化することにより、踏切における慢性的な交通渋滞の解消を図ると共に、道路・鉄道それぞれの安全性向上、鉄道による地域分断の解消を事業目的とした。事業主体は東京都建設局である。2000年12月の事業認可取得に始まり、2012年10月に下り線を高架化して事業は完了した。",
"title": "連続立体交差事業"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "東京都は、泉岳寺駅 - 新馬場駅間において連続立体交差事業の事業化を進めている。2020年4月1日に国土交通省から都市計画事業の認可を取得。2029年度に事業完了予定。",
"title": "連続立体交差事業"
}
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本線(ほんせん)は、東京都港区の泉岳寺駅から神奈川県横須賀市の浦賀駅を結ぶ京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。 正式な起点は品川駅で、後年延伸された泉岳寺駅 - 品川駅間は支線の扱いとなっており、キロポストは品川駅からの距離に基づいて設置されているほか、『鉄道要覧』でも同区間は品川駅 - 浦賀駅間と分けて記載されている。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keikyu logo small.svg|45px|link=京浜急行電鉄]] 本線
|路線色=deepskyblue
|ロゴ=File:Number prefix Keikyū.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Keikyu-1500-2100 Shinagawa.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=京急本線を走行する[[京急1500形電車|1500形]]と[[京急2100形電車|2100形]]<br />(2021年1月、[[品川駅]] - [[北品川駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]、[[神奈川県]]
|起点=[[品川駅]]
|終点=[[浦賀駅]]・[[泉岳寺駅]]
|駅数=50駅
|路線記号=KK
|開業=[[1901年]][[2月1日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[京浜急行電鉄]]
|運営者=京浜急行電鉄
|車両基地=[[京浜急行電鉄車両管理区]]<br/>[[新町検車区]]<br/>[[金沢検車区]]
|使用車両=[[京浜急行電鉄#車両]]<br />及び[[#列車種別|列車種別]]を参照
|路線距離=56.7 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]](下記以外)<br/>[[複々線#三線|三線]](子安 - 神奈川新町間)<br/>[[複々線]](金沢文庫 - 金沢八景間)
|複線区間=
|電化区間=
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]], [[架空電車線方式]]
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|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
|最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="himitu">『京急電鉄のひみつ』([[PHP研究所]])</ref>
|路線図=[[File:Keikyu Corporation Linemap.svg|220px]]
}}
{{京急本線路線図}}
'''本線'''(ほんせん)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[泉岳寺駅]]から[[神奈川県]][[横須賀市]]の[[浦賀駅]]を結ぶ[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KK'''。
正式な起点は[[品川駅]]で、後年延伸された泉岳寺駅 - 品川駅間は[[支線]]の扱いとなっており、[[距離標|キロポスト]]は品川駅からの距離に基づいて設置されているほか、『[[鉄道要覧]]』でも同区間は品川駅 - 浦賀駅間と分けて記載されている{{Efn|同様の例として[[東京メトロ千代田線]]があり、同線は[[北綾瀬駅]]から[[代々木上原駅]]までを結ぶ路線だが、起点は北綾瀬駅から1つ隣の[[綾瀬駅]]であり、綾瀬駅 - 北綾瀬駅間は支線の扱いで、『鉄道要覧』では綾瀬駅 - 代々木上原駅間とは分けて記載されている。}}。
== 概要 ==
[[東京都区部]]南部の[[品川 (東京都)|品川]]から[[東京湾]]沿いに南下し、神奈川県[[横浜市]]南東部・[[横須賀市]]東部を経て[[三浦半島]]南部へと延びる都市間鉄道([[インターアーバン]])である。[[泉岳寺駅]]からは[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]および同線を介して[[京成電鉄]]・[[北総鉄道]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行っており、[[芝山鉄道]]とも都営浅草線・京成線を介して直通運転を行っている<!--芝山鉄道の車両は京急線まで来ないので「相互」直通ではない-->。ただし、京急線から芝山鉄道線へは直通運転を行なっているが、芝山鉄道線から京急線への直通列車は設定されていない。
[[快速特急|快特]]などほとんどの優等列車は[[堀ノ内駅]]以南は[[京急久里浜線|久里浜線]]に直通して[[三崎口駅]]に至るため久里浜線が実質的な本線として機能しており、堀ノ内駅 - 浦賀駅間は本線の一部でありながら支線のような扱いになっている。急行を中心に[[京急逗子線|逗子線]]の列車も乗り入れている。
[[京急空港線|空港線]]とともに[[東京国際空港|羽田空港]]への[[空港連絡鉄道]]としても機能しており、直通先の京成電鉄が[[成田国際空港|成田空港]]に乗り入れているため、羽田・成田の2空港を連絡している。羽田空港へのアクセス路線としては[[東京モノレール]]と競合関係にあるがそれぞれ都心側の[[ターミナル駅|ターミナル]]が異なることと、京急は横浜方面からのアクセスも有することに違いがある。
[[品川駅]] - [[横浜駅]]間は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[京浜東北線]]と線路が並行しており、競合関係にある。この区間は京急の中でも線形がよく、JRの路線との距離も近いことから[[首都圏 (日本)|首都圏]]の鉄道路線の中では競争が激しいため、120km/hの高速運転でJRに対抗している。他にも、品川駅・横浜駅 - [[横須賀駅]]([[横須賀中央駅]])・[[逗子駅]]([[逗子・葉山駅]])・ [[久里浜駅]]([[京急久里浜駅]])間では途中経路は少し異なるもののJRの[[横須賀線]]と競合している。品川・横浜 - 横須賀間の移動においては、京急の横須賀中央駅の方が[[中心市街地]]に近く、より直線的に結んでいることから京急の方が優位に立っている。
=== 路線データ ===
* 路線距離:56.7 km
* [[軌間]]:1435 mm
* 駅数:50駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線(うち[[子安駅]] - [[神奈川新町駅]]間は3線、[[金沢文庫駅]] - [[金沢八景駅]]間は[[複々線]])
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[直流電化|直流]]1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
* [[列車無線]]:[[誘導無線]]方式 (IR)、デジタル空間波無線方式(デジタルSR)(併用)
* 最高速度:120 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="himitu" />{{Efn|品川駅 - 横浜駅間。その他の区間はおおむね90 - 110km/h}}
== 運行形態 ==
原則的に10分サイクルの[[パターンダイヤ]]が組まれている。
本線からは[[京急大師線|大師線]]を除く京急各線へ直通列車が運転され、[[快速特急|快特]]はすべて[[堀ノ内駅]]から[[京急久里浜線|久里浜線]]に直通する。ただし、朝[[ラッシュ時]]には浦賀発着の[[特別急行列車|特急列車]](一部は金沢文庫駅以北快特)も運転される。[[京急空港線|空港線]]へは品川・横浜両方面から直通列車が設定されている。
都営地下鉄浅草線や京成電鉄各線などと[[直通運転|相互乗り入れ]]を行っており、以下に挙げる路線の各駅へ直通列車が存在する。空港線へ乗り入れる列車が多く、一部は久里浜線や[[京急逗子線|逗子線]]と直通する。現在、[[京急蒲田駅]]以南への直通はほぼ自社の車両に限られ、朝・夜に[[東京都交通局]]の車両が数本乗り入れる程度だが、かつては京成電鉄や北総開発鉄道・[[住宅・都市整備公団]](現・北総鉄道)の車両も乗り入れていた。なお、2018年12月8日以降は京成車については平日のみ久里浜線[[京急久里浜駅]]まで1往復設定される。
* 都営地下鉄浅草線・[[京成押上線]]・[[京成本線]]経由[[成田空港駅]]
** 京成本線・[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由成田空港駅
** 京成本線・[[北総鉄道北総線]]経由[[印旛日本医大駅]]
** 京成本線・[[京成東成田線]]・[[芝山鉄道線]]経由[[芝山千代田駅]]
現行ダイヤにおける拠点駅の1時間あたりの運行本数は、横浜駅では日中15本、平日朝のピーク時で23本である。また品川駅では、京急蒲田方面が日中18本、平日朝21本、泉岳寺方面は朝 - 日中がおおむね12本、夜間9本となっている。
=== 最高速度と所要時間 ===
京浜間では開業時より伝統的に高速運転が行われてきた。これは、[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]や[[東急東横線]]、[[三浦半島]]方面へは[[横須賀線]]、羽田空港アクセスでは[[東京モノレール]]と競合するためである。
京急の前身で[[1898年]]に創立された[[大師電気鉄道]]は、最高速度がわずか8[[マイル毎時|マイル/h]] (12.8km/h) であった。その後、[[1931年]]には急行運転、[[1936年]]には[[待避線]]による追い越し運転が実施され、緩急結合運転が始まった<ref name="speed-up">道平隆「京急のスピードアップと2灯明滅信号」『鉄道と電気技術』8巻4号(一般社団法人日本鉄道電気技術協会、1997年4月)61-63頁。ISSN 0915-9231</ref>。
[[第二次世界大戦]]後では[[鉄道の最高速度|認可速度]]80km/hから始まり、[[1953年]]に90km/h<ref name="2011-21">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.21。</ref>、[[1958年]]秋には100km/h<ref name="2011-23">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.23。</ref>、[[1967年]]からは特急で105km/h 運転となった<ref name="2011-25">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.25。</ref>。[[1995年]]以降は品川 - 横浜間で120km/h(増圧ブレーキ非装備の車両と、成田スカイアクセス線乗り入れ対応の京成車と都営車以外の車両は110km/h)、横浜以南で110km/h となり<ref name="2011-50">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.50。</ref>、関東の私鉄路線としては[[京成成田空港線|京成成田スカイアクセス]]・[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]に次いで高速の部類に入る。
軌間が[[標準軌]]という点は高速運転に有利だが、軌道や信号設備の改良など120km/h運転を行う準備に数年を要した。首都圏の鉄道事業者は、直接他社線と競合する路線が少ないこと、限られた線路容量や線形の中でほぼ終日にわたり高密度ダイヤで運転されること、また高速化よりもまず安全性や定時性、ラッシュ時の輸送力重視という傾向もあることなどから、首都圏の鉄道事業者で一般列車の120km/h以上の運転を実施しているのは2022年の時点で京急、前記つくばエクスプレス・京成成田スカイアクセスおよびJR東日本と少数である{{Efn|通勤形・近郊形車両による一般列車に関して、同じ首都圏ではつくばエクスプレス、JR東日本で130km/h、京成で120km/h、[[関西|関西圏]]では[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[新快速]]で130km/h、[[中国・四国地方]]ではJR西日本・[[四国旅客鉄道|JR四国]]の快速[[マリンライナー]]で130km/h、[[中京圏]]では[[東海旅客鉄道|JR東海]]、[[名古屋鉄道|名鉄]]で120km/h運転が実施されている。[[大手私鉄]]や[[第三セクター鉄道]]の有料特急では京成と[[北越急行]]で160km/h(北越急行は2015年3月13日を最後に終了)、[[近畿日本鉄道|近鉄]]・[[智頭急行]]で130km/h、[[東武鉄道|東武]]・名鉄・[[南海電気鉄道|南海]]で120km/h運転が実施されている。}}。
なお、品川駅 - 横浜駅間の120km/h区間では、[[鉄道信号機|信号機]]にYG現示を明滅させる[[日本の鉄道信号#抑速現示|抑速信号]]([[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]の[[速度照査|照査]]速度105km/h)を採用している<ref name="2011-50" />。これは最高速度を105km/hから120km/hとするにあたり、信号機の移設・増設、[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]数の変更を行わずにブレーキ距離を確保するためである(京急本線の閉塞区間の平均間隔は290mである)。抑速現示による速度制限を受けている状態では従前の進行現示と同等の距離で停止でき、最高速度の向上が可能となった。[[運転士]]による各種試験の結果、抑速現示の明滅回数は80回/分、点灯割合50%としている<ref name="speed-up"/>。抑速現示は京急が日本で初めて採用した方式であり<ref name="2011-50" />、その後は2009年に[[北総鉄道北総線]]で、2010年に京成成田スカイアクセスでも採用された。
なお、120km/hで運転できるのは京急車による快特だけで、特急および急行の最高速度は110km/hである<ref name="2011-50" />。ただし、使用車両の最高速度が低い場合はそれに従うことになる(かつての[[京急800形電車 (2代)|800形]]使用の快特および特急の最高速度は100km/hであった)<ref>[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p25</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center"
|-
|+スピードアップの変遷<ref name="speed-up"/>
|-
! rowspan="2" | 実施年月
! rowspan="2" | 最高速度<br>(km/h)
! rowspan="2" | 種別
! colspan="2" | 所要時分
! rowspan="2" | 備考
|-
! 品川 - 横浜
! 品川 - 京急久里浜
|-
! 1950年4月
| 80 || 普通 || 47分00秒 || - || -
|-
! 1953年7月
| 90 || 特急 || 31分00秒 || - || ノンストップ特急
|-
! 1958年9月
| 100 || 特急 || 23分40秒 || - || [[逸見駅]]待避線新設
|-
! 1967年3月
| 105 || 特急 || 20分40秒 || 59分40秒 || -
|-
! 1968年6月
| 105 || 快速特急 || 18分10秒 || 52分15秒 || 快速特急設定
|-
! 1983年10月
| 105 || 快速特急 || 17分40秒 || 49分10秒 || -
|-
! 1995年4月
| 120 || 快速特急 || 15分10秒 || 44分55秒 || -
|}
1999年に快速特急を「快特」と改称。
== 列車種別 ==
=== 現行の列車種別 ===
2023年11月25日改正時点では以下の7種別で構成されている。停車駅についての詳細は「[[#駅一覧|停車駅表]]」を参照。また、速達列車は種別ごとに[[日本の鉄道ラインカラー一覧|種別色]](停車駅表参照)を定めており、英語での案内にはその色を用いる場合もある。
==== モーニング・ウィング号 ====
{{Main|ウィング号 (京急)}}
平日朝方の上り方面に3本運転される<ref name="keikyu20180829">{{Cite web|和書|title=座れる通勤列車「モーニング・ウィング号」増発!「ウィング・シート」サービスも提供開始|publisher=京浜急行電鉄|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190829HP_19112EW.html|date=2019-08-29|accessdate=2019-08-31}}</ref>、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「[[ホームライナー]]」に相当する。1本目は[[横須賀中央駅|横須賀中央]]発品川行き、2本目は[[三浦海岸駅|三浦海岸]]発品川行き、3本目は三浦海岸発泉岳寺行きとして運転される。三浦海岸駅、横須賀中央駅、金沢文庫駅、[[上大岡駅]]から乗車する場合には「[[乗車整理券|Wing Ticket]]」(300円)または「Wing Pass」(5500円)が必要である。降車は品川駅・泉岳寺駅のみで可能である<ref name="wing">{{Cite web|和書|title=座席指定「ウィング」サービス|url=https://www.keikyu.co.jp/ride/train/wing.html|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2020-06-23|language=ja}}</ref>。
車両は2ドア[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|オールクロスシート]]8両編成が専用で使用されており、2019年現在は[[京急2100形電車|2100形]]で運転されている。なお2021年5月6日より三浦海岸6:09発のモーニング・ウィング3号については、金沢文庫駅までは[[京急1000形電車 (2代)#20次車「Le Ciel」|1000形1890番台]]4両編成で運転され、金沢文庫駅からは前方に2100形8両を増結した12両編成で運転される<ref name="kq20210127" />。
; 停車駅
: [[三浦海岸駅]] → [[横須賀中央駅]] → [[金沢文庫駅]] → [[上大岡駅]] → [[品川駅]] → [[泉岳寺駅]]
==== イブニング・ウィング号 ====
{{Main|ウィング号 (京急)}}
平日夜間の下り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「[[ホームライナー]]」に相当する。始発駅である品川駅から乗車する場合には「[[乗車整理券|Wing Ticket]]」(300円)が必要だが、上大岡駅 - [[三崎口駅]](一部列車は京急久里浜駅または金沢文庫駅)間については一般の「快特」として運行されるため、乗車券のみで乗車できる<ref name="wing" />。停車駅や着席整理料金など一般の快特とは趣を異にするが、正式な種別は「快特」となっている。本線の泉岳寺駅 - 品川駅間や堀ノ内駅 - 浦賀駅間、[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]などには乗り入れない。
車両は、2ドアクロスシート8両編成または3ドアL/Cカー4両編成が専用で用いられており、運行開始当初は[[京急2000形電車|2000形]]、2023年現在は[[京急2100形電車|2100形]]または[[京急1000形電車|1000形1890番台]]となっている。一部の列車は前8両の品川始発快特三崎口行きに併結する形で後ろに4両金沢文庫までのイブニング・ウィング号として運行される。快特と併結する列車については、快特停車駅である京急蒲田・京急川崎・横浜に(運転)停車するが、後ろ4両のイブニング・ウィング号として運行される車両は扉が開かない。
; 停車駅
: [[品川駅]] → [[上大岡駅]] → [[金沢文庫駅]] → [[金沢八景駅]] → [[横須賀中央駅]] → [[堀ノ内駅]] - (久里浜線内各駅) - [[京急久里浜駅]] - [[三崎口駅]]
[[京急蒲田駅]]・[[京急川崎駅]]・[[横浜駅]]を通過駅としているのが特徴である。品川駅から上大岡駅までの所要時間は32分。
[[File:京急2100形2173編成.JPG|thumb|180px|none|京急ウィング号(現 イブニング・ウィング号)<br/>(2016年1月)]]<!-- 右寄せだと(PC版でウィンドウサイズによっては)経路図を展開すると画像が節の外に移動するのでnone指定-->
==== エアポート快特 ====
{{Main|エアポート快特}}
都心方面と[[東京国際空港]](羽田空港)を結ぶ特急料金不要の最速達列車で、[[品川駅]] - [[羽田空港第3ターミナル駅]]間を[[直行便|ノンストップ]]で走行し、[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]に着発する列車である。全列車・全区間8両編成で運転される。
2012年(平成24年)10月ダイヤ改正以降は、日中の列車は[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]に直通し、[[押上駅]]からの京成線内は種別を「アクセス特急」に変更の上で[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由で[[成田空港駅]]に向かうダイヤが40分間隔で組まれている。また成田空港駅からは、逆のパターンが組まれている。<!-- 日中といっても15時まで--->
現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 成田スカイアクセス線経由成田空港駅
** 浅草線内はエアポート快特で、京成線・北総線・成田スカイアクセス線内はアクセス特急として運転されている。
** 車両は成田スカイアクセス線に乗り入れ可能な京急新1000形10次車以降、600形、1500形<ref> 『私鉄車両年鑑2023』p.133 </ref>、都営5500形、京成3000形、3100形、3700形が使用される。また、京急車での運用は土休日ダイヤのみとなっている。
「エアポート快特」は、1998年(平成10年)に設定された「エアポート快速特急」を前身とする<ref name=":0">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、P31</ref>。当時は羽田空港へのアクセスのみならず、羽田空港駅(当時。現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)と京成線の成田空港駅を乗り換えなしで結ぶ最上位の種別として登場し、京急線・都営浅草線内では「エアポート快速特急」、京成線内では「エアポート特急」として全区間で通過運転がされていた。なお、これらの列車は京成高砂駅で、京成本線の京成上野駅 - 京成高砂駅間を運転する「エアポート特急」に接続していた。特に都営浅草線内で通過運転を行ったことが画期的であったが、京急線内での扱いは快速特急と同じであり、名前だけを差別化した形であった。1999年(平成11年)にエアポート快特に改称する<ref name="RP677-47">[[#RP677|鉄道ピクトリアル(1999)]] 、pp.47-53、「京急ダイヤ全面改正」、萬谷 彰。</ref>。2000年代の一時期(2002年頃)は京成線内の扱いが快速への格下げと運転区間の短縮により成田空港駅まで到達しない列車が大半となり、当初の目的を果たしているとは言い難い状況になっていたが、2010年([[平成]]22年)7月17日に[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)が開業し、京成線内を京成本線経由から、こちらに切り替えることで再び両空港を乗り換えなしで結ぶ列車として運転されるようになった<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001330.html 成田スカイアクセス線開業にともない7月17日(土)から羽田空港駅⇔成田空港駅直通電車を運行いたします] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141222122100/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001330.html |date=2014年12月22日 }} - 京浜急行電鉄 報道発表資料 2010年5月28日</ref>。これに先立ち、2010年(平成22年)5月のダイヤ改正において[[京急蒲田駅]]を通過するようになり、京急線内でも快特との実質的な差別化が図られるようになった<ref name=":8" />。2012年(平成24年)10月のダイヤ改正からは種別の色をオレンジに変更し、快特との差別化および京成線アクセス特急との共通化が図られるようになった<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/20120919HP%E3%80%8010%E6%9C%8821%E6%97%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3%EF%BC%88%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%89.pdf 品川⇔羽田国際線12分! 10月21日(日)ダイヤ改正で,羽田へ都心方面からも さらに速く] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141108024500/http://www.keikyu.co.jp/company/20120919HP%E3%80%8010%E6%9C%8821%E6%97%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3%EF%BC%88%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%89.pdf |date=2014年11月8日 }} - 京浜急行電鉄 報道発表資料 2012年9月19日</ref>。
[[ファイル:Keisei-Type3050-3056.jpg|なし|サムネイル|180x180ピクセル|京成3050形によるエアポート快特<br>(2021年7月 [[新馬場駅]])]]<!-- 右寄せだと(PC版でウィンドウサイズによっては)経路図を展開すると画像が節の外に移動するのでnone指定-->
==== 快特 ====
現行ダイヤでは[[堀ノ内駅]]から久里浜線に直通して[[京急久里浜駅]]や[[三崎口駅]]を発着駅とする系統と、[[京急蒲田駅]]から空港線に直通して[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]を発着駅とする系統があり、ほぼ終日の設定がある。
1968年(昭和43年)に設定された「快速特急」を前身とする<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.152。</ref>。快速特急は特急よりもさらに上位の種別で、それまで運転されていた[[三浦半島]]の観光地に向けた列車、ハイキング特急を格上げする形で登場した。このため当初は土休日に特急の合間に何本か設定されているにすぎなかったが、通勤需要の拡大とともに徐々に設定時間と運転本数が拡大されていき、また本線末端部よりも久里浜線へ直通するダイヤへとなって行った。[[1999年]]夏のダイヤ改正からは通称・略称として用いられていた「快特」が正式名称となり<ref name=":0" />、同時に「特急」を置き換える形で大増発を行い、日中はほぼ10分に1本は確保されるようになった<ref name=":0" /><ref name="RP677-47"/>。この時[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京成押上線|京成線]]・[[北総鉄道北総線|北総線]](以下:都心方面)へ直通する快特も設定された<ref name="RP677-30">[[#RP677|鉄道ピクトリアル(1999)]] 、pp.30-35、「京急ダイヤ全面改正」、京急同趣会。</ref>。さらに2012年10月21日改正では、日中の北総線 - 都営浅草線 - 羽田空港の系統のエアポート急行が快特へ格上げされ、品川駅では約5分間隔で京急久里浜・三崎口方面の列車と羽田空港方面の列車が交互に運転する形となっていたが、2022年11月26日のダイヤ改正より、日中の都営線方面と横浜方面を直通する快特と北総線方面と羽田空港を直通する快特が特急に変更された。
平日朝[[ラッシュ時]]上りの快特は京急久里浜駅・浦賀駅 → 金沢文庫駅間は特急として運転され、[[汐入駅]]・[[追浜駅]]にも停車する(1999年以前の通勤快特<ref name="RP677-30"/>)。
車両は8両編成を基本とするが、金沢文庫駅 - 品川駅間では4両編成を連結して、大手私鉄最長である12両編成で運転される快特も設定されている<ref name=":1">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p24</ref>{{Efn|ただし、京急が18m車であるのに対して並行して走るJR[[横須賀線]]は20m車であるため、横須賀線で「短い編成」と案内される11両編成よりも、編成の長さとしては短い。}}。その場合、金沢文庫駅・品川駅において連結・切り離し作業を行う。原則進行方向後部に連結する。この12両編成の運用には京急の車両だけが充当される。京急以外の8両編成が用いられることは少なく、京急蒲田駅以南で京急以外の車両は原則羽田空港方面の運用が中心のため、横浜方面ではほとんど見ることができないほか、方向幕が京成車は京成の種別に合わせて「快速特急」となる。都営車は、本線をそのまま走り三崎口駅を発着駅とする運用も設定されている。
運行当初は久里浜線の[[津久井浜駅]]まで通過運転を行っていたが、近年は停車駅が増加しており、[[1998年]]に空港線が羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)まで延伸開業すると同時に京急蒲田駅が停車駅となり、1999年夏のダイヤ改正からは久里浜線内各駅停車となった<ref name=":2">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p31</ref>。さらに、[[2010年]][[5月16日]]からのダイヤ改正からは、[[金沢八景駅]]も停車駅に追加された<ref name=":2" />。なお、自社路線内では最速の列車であるが、都営浅草線内ではすべての列車が[[各駅停車]]となる。詳細は「[[都営地下鉄浅草線]]」や「[[エアポート快特]]」を参照されたい。
[[列車番号]]の末尾のアルファベットはA、B、SHの3つが使用されている(他社局の車両が使用される場合をのぞく)<ref name=":3">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p22</ref>。基本的に、Aは京急線内のみの運用、Bは平日朝の上りの金沢文庫以南が特急・以北が快特の列車とその送り込み(1999年まで存在した通勤快特と同様)、SHは地下鉄に直通する快特の運用に用いられる<!-- この段落では「どの列車がどのような『列車番号』(のアルファベット)を使っているか」を解説している。出典は2011年時点のものなので、出典を更新しないのならその後の追加分や例外はこの出典の後に書く。-->が<ref name=":3" /><ref name="RF538">『鉄道ジャーナル』2011年8月号(通算538号) pp.47 鉄道ジャーナル社</ref>、一部例外もある。
現行ダイヤでの運行形態は以下の通り。
; 本線内運転系統
:* 泉岳寺駅・品川駅 - 京急久里浜駅・三崎口駅
:** 日中時間帯は2ドアの2100形を中心に使用され、泉岳寺駅まで乗り入れる。泉岳寺駅で浅草線(京成本線経由)快速成田空港行きに接続する。
:** 2019年10月28日のダイヤ改正より、土休日の一部の快特の2号車にウィングシートが設定されている<ref name="keikyu20180829" />。
:** 平日朝・夕ラッシュ時において品川駅 - 金沢文庫駅間については12両編成で運転される。平日朝下り・夜上りについては基本編成8両の前に付属編成4両を、品川駅着20時台後半以降の列車については基本編成8両の後ろに付属編成4両を、平日朝上り・夕方下りについては基本編成8両の後ろに付属編成4両を、土休日朝に下りは品川駅 - 金沢文庫駅で、上りは金沢文庫駅 - 京急川崎駅間において基本編成8両の後ろに付属編成4両を連結して運転される。
:** 日中時間帯以外は平日においては品川駅発着となるが夜に泉岳寺行きが1本設定されている。
; 本線都営浅草線直通系統
:* 京成線 - 京急久里浜駅・三崎口駅
:** 原則、他事業者線内は普通となる。ただし、平日に1本のみ、青砥始発の快速特急として運転される列車が設定されている。
:** 原則3ドア直通運転対応の京急車で運転される。
:** 日中時間帯において途中、押上駅で[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由エアポート快特・アクセス特急に接続する列車がある。
:** 前者による横浜駅 - 成田空港駅間の所要時間は1時間40分台。
:
; 空港線直通系統
:* 泉岳寺駅・品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅
:* 成田空港駅(着のみ)・京成成田駅(着のみ)・宗吾参道駅(発のみ)・京成高砂駅・青砥駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅
:** 京成車・都営車による運転が中心。
:** エアポート快特と交互に40分間隔で運転される。
:** 京成高砂・青砥発着は京成線内では普通で運転する(都営線内は各駅に停車)。宗吾参道始発と京成成田行き、京成本線成田空港行きは京成線内では快速・通勤特急・特急、都営線内ではエアポート快特として運転する。
:* 北総線印旛日本医大駅・印西牧の原駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅
:** 他事業者線内は原則普通
:** 北総車と都営車による運転が中心。
:* 羽田空港第1・第2ターミナル発[[成田空港駅|成田空港]]行き
:** 浅草線・京成線(成田スカイアクセス線含む)内ではアクセス特急として運転されている。
:** 車両は成田スカイアクセス線に乗り入れ可能な京成車のそれぞれ8両が使用される。
:* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - [[三浦海岸駅]](発のみ)
{| class="wikitable" style="font-size:85%"
|-
|+停車駅の変遷
|-style="letter-spacing:0.1em;"
!駅名
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[泉岳寺駅|泉岳寺]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[品川駅|品川]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[京急蒲田駅|京急蒲田]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[京急川崎駅|京急川崎]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[横浜駅|横浜]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[上大岡駅|上大岡]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[金沢文庫駅|金沢文庫]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[金沢八景駅|金沢八景]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[横須賀中央駅|横須賀中央]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[堀ノ内駅|堀ノ内]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[新大津駅|新大津]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[北久里浜駅|北久里浜]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[京急久里浜駅|京急久里浜]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[YRP野比駅|YRP野比]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[京急長沢駅|京急長沢]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[津久井浜駅|津久井浜]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[三浦海岸駅|三浦海岸]]}}
!style="width:1em;"{{vert header|va=middle|[[三崎口駅|三崎口]]}}
!備考
|-
|1968年6月15日 -
| ||●||-||●||●||●||●||-||●||-||-||-||●||-||-||●||●||
|運転開始
|-
|1975年4月26日 -
| ||●||-||●||●||●||●||-||●||-||-||-||●||-||-||●||●||●
|三浦海岸駅 - 三崎口駅間開業
|-
|1996年7月20日 -
| ||●||-||●||●||●||●||-||●||-||-||-||●||●||●||●||●||●
|野比駅(1998年4月にYRP野比駅と改称)・京急長沢駅に停車となり、京急久里浜駅以南各駅停車化
|-
|1998年11月18日 -
| ||●||●||●||●||●||●||-||●||-||-||-||●||●||●||●||●||●
|京急蒲田駅に停車
|-
|1999年7月31日 -
| ||●||●||●||●||●||●||-||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●
|堀ノ内駅、新大津駅、北久里浜駅に停車となり、久里浜線内各駅停車化
|-
|2002年10月12日 -
|●||●||●||●||●||●||●||-||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●
|一部を泉岳寺駅まで延長
|-
|2010年5月16日 -
|●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●
|金沢八景駅に停車
|}
●:停車 -:通過
なお、1987年5月まで、現在の京急○○はそれぞれ京浜○○という駅名だった。例:京急蒲田駅→京浜蒲田駅、京急川崎駅→京浜川崎駅など。
[[File:Keikyu-Type2100-73.jpg|thumb|180px|none|主に京急本線の快特に用いられる2100形<br/>(2021年7月 大森海岸駅)]]<!-- 右寄せだと(PC版でウィンドウサイズによっては)経路図を展開すると画像が節の外に移動するのでnone指定-->
==== 特急 ====
[[特別急行列車|特急]]は、1968年(昭和43年)に「快速特急」(1999年のダイヤ改正より「快特」に名称変更)が設定されるまで本線最上位の種別であり、「快特」設定後も本数の多いダイヤの中心的な種別であったが<ref>{{Cite web|和書|title=横浜駅時刻表 平日|url=https://web.archive.org/web/19980702140529/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/jikoku/yokohama.html|website=web.archive.org|date=1998-07-02|accessdate=2019-08-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=横浜駅時刻表 土休日|url=https://web.archive.org/web/19980702140537/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/jikoku/yokohama1.html|website=web.archive.org|date=1998-07-02|accessdate=2019-08-31}}</ref>、1999年夏のダイヤ改正から空港線に乗り入れる列車を除いた日中のすべての特急が快特に置き換わった<ref name=":0" /><ref name="RP677-30"/>。2022年11月25日までは、早朝深夜・朝夕ラッシュ時のみの運転であった。しかし、その運転範囲は広く[[京急大師線|大師線]]を除く全線で見ることができる。
2022年11月26日のダイヤ改正から、快特を置き換える形で本線・空港線系統とも日中に20分間隔で再設定され<ref name="kq20221024">{{Cite press release |和書 |title=京急線が23年ぶりに大幅ダイヤ改正を実施します |url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2022/20221024_22098TE.html |publisher=京浜急行電鉄 |date=2022-10-24 |access-date=2022-10-24 |language=ja}}</ref>、本線においては1999年夏のダイヤ改正前以来23年ぶりの復活となった。
基本的には8両編成での運転だが、品川駅 - 金沢文庫駅(下りは京急川崎駅)間では12両編成で運転されている。連結パターンについては後述する。現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。
; 京急線内系統
:* 三崎口駅・三浦海岸駅(着のみ)・京急久里浜駅・浦賀駅(発のみ)・堀ノ内駅(発のみ)・逗子・葉山駅・金沢文庫駅(着のみ)・[[神奈川新町駅]](着のみ)・京急蒲田駅(発のみ) - 金沢文庫駅・神奈川新町駅・品川駅・泉岳寺駅発着
:** 平日夕ラッシュ時上りについては品川駅 - 金沢文庫駅間、土曜朝上りについては品川駅 - 金沢文庫駅間は12両編成で運転される。基本編成8両の前に付属編成4両を連結する。なお2017年10月28日以降は京急蒲田行きは京急久里浜行きに延長され、廃止された。
:* 堀ノ内駅発浦賀駅行き・金沢文庫駅発[[逗子・葉山駅]]行き
:** 送り込みとして設定されている。なお逗子・葉山駅行きの1本は都営車で運転されている。
:* 京急久里浜駅・浦賀駅(発のみ)・逗子・葉山駅 ・品川駅(発のみ)- 羽田空港第1・第2ターミナル発着
:** 平日朝ラッシュ上りの一部列車は金沢文庫駅 - 神奈川新町駅間を12両編成(基本編成8両の前に付属編成4両を連結)で運転される。
; 都営浅草線直通系統
:* 三崎口駅・三浦海岸駅(着のみ)・京急久里浜駅・浦賀駅(発のみ)・逗子・葉山駅・金沢文庫駅(着のみ)・神奈川新町駅・羽田空港第1・第2ターミナル発着 - 浅草線押上駅、京成線青砥駅・京成高砂駅・京成佐倉駅(着のみ)・成田空港駅(発のみ)、北総線印西牧の原駅・印旛日本医大駅、成田スカイアクセス線成田空港駅発着
:** 浅草線・京成押上線・京成本線・北総線直通。新1000形などの3ドアの直通運転対応の京急車で運転される。なお京成佐倉駅・成田空港駅発着は原則として新1000形及び600形、1500形での運転。
:** 押上線内は特急・普通、京成本線内は快速・普通、北総線内は普通、浅草線(北行のみ)内はアクセス特急・快速・普通、浅草線(南行のみ)内は特急となる。
:* 三崎口駅発着 - 京成佐倉駅(着のみ)・成田空港駅(発のみ)
:** 浅草線・京成押上線・京成本線直通。新1000形及び600形、1500形での運転。平日夕方に南行1本設定されている。なお2017年10月28日に土休日朝に浦賀発京成佐倉行きが1本設定されたが、2022年2月26日のダイヤ改正で三崎口発京成佐倉行きに変更された。また、2019年10月28日以降は京成佐倉発三崎口行きが成田空港駅発に延長された(平日のみ運転)。
:** 京成線内は快速、浅草線(北行のみ)内は快速、浅草線(南行のみ)内は特急となる。
:* 三崎口駅(発のみ)・京急久里浜駅・神奈川新町駅(発のみ) - 成田空港駅(着のみ)
:** 浅草線・京成押上線・京成本線・成田スカイアクセス線直通。大半は新1000形及び600形、1500形での運転。ただし、平日夜1本は京成電鉄の3100形で運転。
:** 浅草線(北行のみ)・京成線・成田スカイアクセス線内はアクセス特急で、浅草線(南行のみ)内は特急として運転。
:* 平日朝ラッシュ時は品川駅 - 金沢文庫駅(下りは京急川崎駅)では12両編成で運転されている。平日朝ラッシュ時上りの大半の列車は基本編成8両の前に付属編成4両を連結し、それ以外の列車は基本編成8両の後ろに付属編成4両を連結して運転する。なお朝ラッシュ時に運行される後4両が京急川崎駅止まりとなる列車はダイヤ上は神奈川新町駅までの運行とされ<ref name=":4">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p48</ref>、京急川崎駅で切り離しを行わずに旅客案内上、同駅以南を[[回送]]扱いとして運行し、次の神奈川新町駅で前8両と切り離す<ref name=":4" />。
:
; 深夜特急
: 平日の本線下り[[終電]]が「特急」であることに由来する{{Efn|横須賀中央駅の下りホームには、平日の本線下りの終電である特急京急久里浜駅行きを「深夜特急」と案内する掲示が存在した。}}。品川駅発0時台の京急久里浜行きは金沢文庫駅以遠において、成田空港駅発[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由金沢文庫行き(京成・成田スカイアクセス線内アクセス特急)は京急線内全区間{{Efn|品川駅で上り最終とすれ違うと金沢文庫駅まで一切他の営業列車とのすれ違い・追い抜き等がない。}}で途中駅での普通列車など京急線内で他の列車との接続がなかった。一般に他社では終電は各駅停車としていることから、終電間際に他の特急と区別するために用いられていた。また、土休日は本線全区間において普通列車が終電であった。なお金沢文庫行きの列車(北総線印旛日本医大駅始発)は都営車で運転されていたが、2017年10月28日以降は京急久里浜駅行き・金沢文庫駅行きのどちらも京急車で運転されており、成田空港駅発は新1000形及び600形、1500形で運転されていた。
: 2021年1月20日、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]による東京都と神奈川県からの要請で、終電を繰り上げる際に、金沢文庫行きの品川駅 - 金沢文庫駅間、京急久里浜行きの金沢文庫駅 - 京急久里浜駅間の運行を休止し<ref>{{Cite press_release | url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210113HP_20144EW.pdf | title=緊急事態宣言に伴う、終列車時刻繰り上げについて | publisher=[[京浜急行電鉄]] | date=2021-01-13 | accessdate=2022-01-06| format=PDF }}</ref>、運行を再開することなく同年3月27日のダイヤ改正にて正式に廃止された<ref name="kq20210127" />。
平日ラッシュ時間帯においては、京急線で完結する運用が多い「快特」に対し、当種別は都心方面直通列車となるものが多い。上り列車は金沢文庫駅 → 品川駅間の本線内は「快特」同様の最大12両編成となるが、都営浅草線及び京成線内は最大8両編成での運転であるため、品川駅で切り離し作業を行う。ただし、下り列車は神奈川新町駅の下りホーム有効長が8両分のため、品川駅 → [[京急川崎駅]]の区間のみで12両運転を行う<ref name=":4" />。余った4両は京急川崎駅から客扱いをせずに[[車両基地]]のある神奈川新町駅までそのまま連結するか<ref name=":4" />、京急川崎駅で切り離して普通列車として運転される。
平日朝ラッシュ時の一部特急は金沢文庫駅以北は快特として運転される(1999年以前の通勤快特<ref name="RP677-30"/>)。
列車番号の末尾に付けられるアルファベットはC、H、Bが使用されている(京急以外の車両が使用される場合を除く)<ref name=":3" />。Cは線内運転の列車、Bは平日朝の上りの金沢文庫以南が特急・以北が快特の列車とその送り込み(1999年まで存在した通勤快特と同様)、Hは地下鉄直通の運用に用いられている<ref name=":3" /><ref name="RF538"/><ref>『鉄道ダイヤ情報』2013年3月号 p.30-p.39</ref>。ただし三崎口駅・京急久里浜駅・浦賀駅 - 品川駅・泉岳寺駅間を通して運転される自社線内完結の列車及び折り返しの送り込みとしてHをつける列車が早朝・深夜に存在する。
1999年の改正以後、日中の特急は羽田空港駅(現在の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]) - 京急蒲田駅 - 京急川崎駅間のみで見られた。この列車は京急川崎駅 - 金沢文庫駅間で快特と併結、自身の列車種別を快特に変更して羽田空港駅と横浜方面とを結んでいた。この列車の下り方面行きは併結相手の快特に先行して京急蒲田駅を発車し、京急川崎駅構内の[[引き上げ線]]に一時停車して、品川方面からやってきた快特を先にホームに進入させた後、その後部に連結するという珍しい方法で運転されていた<ref>[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p48 - 50</ref><ref>{{Citation|title=京急川崎駅でのD特急併合|url=https://www.nicovideo.jp/watch/sm10134805|accessdate=2019-08-31|language=ja}}</ref>。
定期列車としての「特急」が設定されたのは1954年3月22日で、設定当初は平日の朝ラッシュ時のみの運転であった。1957年3月17日には20分間隔で終日運転されるようになった。1965年2月20日までは神奈川新町駅ではなく子安駅に停車していた。
; 停車駅の変遷
: 特記事項のないものは、空港線・逗子線内は各駅に停車する。
:* 1954年3月22日から
:** 品川駅 - 学校裏駅(平和島駅) - 京浜川崎駅(京急川崎駅) - 京浜鶴見駅〈上りのみ〉 - 子安駅 - 横浜駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 追浜駅〈上りのみ〉- 横須賀汐留駅(汐入駅)〈上りのみ〉 - 横須賀中央駅 - 横須賀堀内駅(堀ノ内駅)〈上りのみ〉 - 浦賀駅
:* 1954年7月7日(久里浜線直通運転開始。京浜蒲田駅・馬堀海岸駅が停車駅に追加され、上りのみ停車していた京浜鶴見駅、追浜駅、横須賀汐留駅、横須賀堀内駅は上下とも通過駅になる)
:** 品川駅 - 学校裏駅 - 京浜蒲田駅(京急蒲田駅) - 京浜川崎駅 - 子安駅 - 横浜駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 横須賀中央駅 - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅
:*** 久里浜線直通の特急は、横須賀中央駅・湘南久里浜駅(京急久里浜駅)間無停車。
:* 1958年3月17日(追浜・横須賀汐留・横須賀堀内・湘南大津の各駅が停車駅に追加)
:** 品川駅 - 学校裏駅 - 京浜蒲田駅 - 京浜川崎駅 - 子安駅 - 横浜駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 追浜駅 - 横須賀汐留駅 - 横須賀中央駅 - 横須賀堀内駅 - 湘南大津駅(京急大津駅) - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅
:*** 久里浜線直通の特急は、久里浜線内各駅停車となる。
:* 1965年2月21日(神奈川新町駅が停車駅に追加され、子安駅が通過駅になる)
:** 品川駅 - 平和島駅 - 京浜蒲田駅 - 京浜川崎駅 - 神奈川新町駅 - 横浜駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 追浜駅 - 汐入駅 - 横須賀中央駅 - 堀ノ内駅 - 京浜大津駅(京急大津駅) - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅
:* 1968年6月21日(青物横丁が停車駅に追加される)
:** 品川駅 - 青物横丁駅 - 平和島駅 - 京浜蒲田駅 - 京浜川崎駅 - 神奈川新町駅 - 横浜駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 追浜駅 - 汐入駅 - 横須賀中央駅 - 堀ノ内駅 - 京浜大津駅 - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅
[[File:Keikyu-Type1000-041.jpg|thumb|180px|none|2022年11月より、日中の一部の快特を置き換える形で特急が設定されている(2023年2月 新馬場駅)]]<!-- 右寄せだと(PC版でウィンドウサイズによっては)経路図を展開すると画像が節の外に移動するのでnone指定-->
==== 急行 ====
{{Redirect|エアポート急行|[[南海電気鉄道]]の空港急行|南海本線#空港急行}}
{{Main2|2010年5月15日まで走っていた急行は「[[#急行(旧)|急行(旧)]]」の節を}}
===== 概要および運行形態 =====
2010年5月16日から2023年11月24日までは「エアポート急行」として運行されていた。列車種別名を改称した理由は、京急蒲田駅 - 新逗子駅(現:[[逗子・葉山駅]])間においても新たにエアポート急行を設定するにあたり、かつて同区間を運行していた「急行」とは停車駅が異なることから、「急行」と「エアポート急行」は別の種別であることを位置付ける目的があり、既存の羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅) - 京急蒲田駅 - 泉岳寺方面間の急行と合わせて種別名の統一を図ったものである。
おもに都心方面 - [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]間を本線・[[京急空港線|空港線]]経由で結ぶ列車(一部は[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京成押上線|京成線]]・[[北総鉄道北総線|北総線]]からの直通列車)と、[[逗子・葉山駅]] - 羽田空港第1・第2ターミナル間を逗子線・本線・空港線を経由して結ぶ列車の2系統があり<ref name=":8">{{Cite web|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/100507.shtml |title=5月16日(日)ダイヤ改正を実施します |accessdate=2015-05-14 |date=2010-05-07 |publisher=京浜急行電鉄 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141222122441/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html |archivedate=2014年12月22日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、ラッシュ時間帯は主に前者が10分間隔、日中は後者が20分間隔で運転されている。
また、平日朝に1本と土休日夜間に2本は品川方面から横浜方面に直通する下り列車もある。
2023年11月25日(土休日ダイヤ)及び27日(平日ダイヤ)に実施のダイヤ改正において、「エアポート急行」の種別名が「急行」に変更された<ref name=":9">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2023/20231024HP_23082TE.html |title=京急線ダイヤ改正を実施します |access-date=2023-10-24 |publisher=京浜急行電鉄 |date=2023-10-24}}</ref><ref name=":10">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/128910 |title=京急「エアポート急行」消滅へ 11月ダイヤ改正でただの「急行」に名称変更 |access-date=2023-10-24 |website=乗りものニュース |date=2023-10-24}}</ref>。停車駅の変更は行われないが、種別表示の「飛行機マークと急行」からは飛行機マークが削除される<ref name=":9" /><ref name=":10" />。[[訪日外国人旅行|インバウンド]](訪日外国人)客の増加により、[[外国人]]が誤って羽田空港駅に行かない列車に乗車してしまうのを防止するためとしている<ref>{{Cite web |title=京急「エアポート急行」13年の歴史に幕 背景に外国人客への気遣い |url=https://www.asahi.com/articles/ASRCQ7TDFRCPULOB011.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2023-11-22 |access-date=2023-11-28 |author=小林直子}}</ref>。これにより、「急行」からの改称によって登場した「エアポート急行」の名称は、登場から約13年半で元の名称に戻される形で消滅することとなった。また、このダイヤ改正により、品川方面と逗子・葉山駅とを結ぶ列車が設定されるようになった。
===== 泉岳寺方面 - 羽田空港第1・第2ターミナル間 =====
[[2010年]](平成22年)[[5月15日]]まで運行されていた「急行」から列車種別名を変更し、2023年11月24日まで「エアポート急行」として運行されていたものである。
[[2012年]][[10月21日]]のダイヤ改正から、日中と土休日夜間のエアポート急行については、[[#快特|快特]]へ格上げされたため<ref name="kq20120731">{{Cite press_release | url=http://www.keikyu.co.jp/company/20120731HP%E3%80%8010月21日ダイヤ改正.pdf | title=10月21日(日)から京急線 ダイヤ改正 | publisher=[[京浜急行電鉄]] | date=2012-07-31 | accessdate=2012-08-01 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20141108024500/http://www.keikyu.co.jp/company/20120731%EF%BC%A8%EF%BC%B0%E3%80%8010%E6%9C%8821%E6%97%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3.pdf | archivedate=2014年11月8日 | format=PDF}}</ref>、これらの時間は運行されなかった。その後再度復活するも、2022年11月26日のダイヤ改正から日中は特急、土休日夜間は快特へそれぞれ格上げされるため一部の時間帯の運行となった<ref name="kq20221024" />。
朝[[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]においては、品川方面からの列車が増発されたが、2010年5月15日まで[[京急空港線|空港線]]内のみの運用である急行が毎時3本運行されていたが廃止され、同時間帯はすべての列車が本線直通列車となった{{Efn|このため、空港線内のエアポート急行だけで見ると毎時12本から9本に減少している。}}。
大多数の列車は、泉岳寺駅から先の[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]と[[京成押上線]]を介して[[京成本線]][[成田空港駅]]、[[芝山鉄道]][[芝山千代田駅]]および[[北総鉄道北総線|北総線]][[印旛日本医大駅]]まで[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。このため、北側の急行は乗り入れ先の車両で運用されていることが多い。
運行パターンとしては例として以下のタイプが存在する。
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 品川駅・泉岳寺駅
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 浅草線押上駅、京成線青砥駅・京成高砂駅、北総線印西牧の原駅・印旛日本医大駅
** 浅草線(北行のみ)ではエアポート快特・普通で、浅草線南行は急行で、京成線では特急・普通で、北総線内は特急(北行のみ)・普通で運転する。
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 成田スカイアクセス線経由成田空港駅
** 浅草線(北行のみ)・京成線(成田スカイアクセス線含む)内はアクセス特急で、浅草線南行は急行またはエアポート快特で運転される。
** 成田スカイアクセス線直通系統の車両は成田スカイアクセス線に乗り入れ可能な京急新1000形、1500形、600形、都営5500形、京成3000形、3000形50番台、3100形{{Efn|name=代走1}}の8両編成が使用される。
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅(発のみ) - 押上線普通・成田スカイアクセス線アクセス特急系統
** 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 京成高砂駅 - 成田空港駅
** 浅草線・押上線内は普通で、成田スカイアクセス線内はアクセス特急で運転される。京成高砂駅で行先・種別の変更を行う。
** 平日ダイヤの北行1本のみの運転で、都営車(5500形)での運行。
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 京成本線経由京成佐倉駅・宗吾参道駅・京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅(着のみ)
** 浅草線(北行)内はエアポート快特・快速特急・特急・通勤特急・快速、浅草線(南行)内は急行・エアポート快特で、京成線内は快速特急・特急・通勤特急(北行のみ)・快速で運転されている。京成車または都営車で運転される。
* 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 押上線普通・京成本線快速系統
** 羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 京成高砂駅 - 京成佐倉駅・成田空港駅(発のみ)
** 浅草線(北行のみ)・押上線内は普通で、浅草線(南行のみ)内は急行で、京成本線内は快速で運転される。京成高砂駅で行先・種別の変更を行う。
** 平日朝北行2本、全日夜間南行1本のみ運転される。
原則として後続の横浜方面行きの快特(または特急)には追い抜かれない。
泉岳寺方面行きは京急蒲田駅で横浜方面からの快特からの接続をうける。[[鮫洲駅]]で普通列車を追い抜くのは朝夕の一部のみ設定されている。
; 車両
: 京浜急行電鉄・[[東京都交通局]]・[[京成電鉄]]・[[北総鉄道]]の各事業者に所属する8両編成で運行される。
===== 逗子・葉山 - 羽田空港第1・第2ターミナル間 =====
横浜方面から[[東京国際空港|羽田空港]]へのアクセスを向上させるため、普通列車を格上げする形で[[2010年]](平成22年)[[5月16日]]に新設された。
この区間にはかつて「急行」が存在したことは前記したが、[[1999年]](平成11年)[[7月31日]]に実施されたダイヤ改正により廃止された<ref name="RP677-30"/>ため、この「エアポート急行」は約10年ぶりとなる事実上の急行の復活である。ただし、当時の急行とは停車駅が異なっており、かつて急行停車駅であった[[鶴見市場駅]]{{Efn|平日朝の通勤時間帯の上り列車のみ臨時停車。}}・花月園前駅(現:[[花月総持寺駅]]){{Efn|花月園競輪開催日に6両編成の列車のみ臨時停車。}}・[[生麦駅]]・[[子安駅]]・[[黄金町駅]]・[[京急富岡駅]]は通過駅となり、逆に急行が通過していた仲木戸駅(現:京急東神奈川駅)・井土ヶ谷駅・弘明寺駅・杉田駅・能見台駅{{Efn|ただし井土ヶ谷、弘明寺、能見台の各駅は通勤時間帯に急行が臨時停車していた実績がある。}}がエアポート急行の停車駅となった。なおエアポート急行の停車駅は京急鶴見駅や京急東神奈川駅、杉田駅など[[京浜東北線]]・[[根岸線]]と至近の駅が多い。なお、2023年11月25日のダイヤ改正による「エアポート急行」から「急行」への改称により、この区間においては約24年ぶりに「急行」の種別名が復活した。
日中を中心に10分間隔(1時間に6本)、8両編成または6両編成{{Efn|なお、運転開始当初は6両編成の[[京急800形電車 (2代)|800形]]は片側4ドアでかつ羽田空港国際線ターミナル駅にホームドアが設置されたため、入線できなかった。そのため、6両編成を使用する際は必ず1500形と新1000形に限定されていた。}}での運行であり<ref name=":1" />、ほとんどの列車が逗子・葉山駅 - 羽田空港方面間を運行するが、途中駅である京急川崎駅・神奈川新町駅・横浜駅(始発のみ)・金沢文庫駅を始発・終着とする列車も存在する。運行時間帯は平日ダイヤでは主に日中と夕ラッシュ時、土休日ダイヤではほぼ終日である。急行が運行されていない時間帯には、羽田空港方面発着の快特・特急・普通が運行される。平日夕ラッシュ時の下りの一部には、イブニング・ウィング号を介し、横浜駅 - 京急久里浜駅方面の先着列車となるパターンも存在する{{Efn|特急列車の運転のない概ね横浜駅発20時以降の一部列車。上大岡駅または金沢文庫駅でイブニング・ウィング号に接続する。}}。
{{Main|京浜急行電鉄のダイヤ改正}}
; 2010年5月16日以前の運行形態
: 横浜方面と羽田空港のアクセスは快特・特急の増結車{{Efn|name=hanedazouketusha|12両編成の快特・特急が京急川崎で分割・併合をし、付属編成4両編成が京急川崎駅 - 羽田空港間において「特急」として運行していた}}が担っていた。
: しかし、羽田空港方面 - 京急川崎駅間が特急、京急川崎駅 - 金沢文庫駅間が快特・特急、金沢文庫駅以南が普通と複雑なダイヤであった。
: 主に、平日は新逗子駅(現:逗子・葉山駅)発着、土休日は新逗子駅発着と浦賀駅発着であったが、金沢文庫駅発着も存在した。
; 2010年5月16日ダイヤ改正
: 平日日中と土休日終日を中心に20分間隔で運行を開始した。平日早朝を除き、8両編成で運行された。
: 羽田空港方面は南太田駅・子安駅・京急鶴見駅で普通を追い抜き、神奈川新町駅で快特の通過待ちをする。新逗子方面は生麦駅・南太田駅で普通を追い抜き、京急川崎駅と上大岡駅で快特と接続する。
: 2010年5月15日まで運行していた羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)駅発着の快特・特急の増結車{{Efn|name=hanedazouketusha}}と普通を統廃合した性質の列車であるため、京急川崎駅 - 金沢文庫駅間の普通列車は毎時12本から9本に減便され<ref name=":0" />、金沢文庫駅- 京急川崎駅間の快特・特急で実施されていた品川方面発着列車(8両)への羽田空港発着列車(4両)の増結は平日夜間の下り列車4本を除き廃止された。
: また前述のように快特の待避を行うため、横浜と羽田空港を結ぶ最速達列車とはならず<ref>『京急時刻表』平成22年版と平成21年版より</ref>、速達性に問題があり改善は2012年10月21日の京急蒲田完全高架化まで待たなければならなかった<ref>{{Cite press release |和書 |title=品川⇔羽田国際線12分! 10月21日(日)ダイヤ改正で、羽田へ都心方面からも さらに速く |publisher=京浜急行電鉄 |date=2012-09-19 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/20120919HP%E3%80%8010%E6%9C%8821%E6%97%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3%EF%BC%88%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%89.pdf |format=PDF |accessdate=2015-05-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141108024500/http://www.keikyu.co.jp/company/20120919HP%E3%80%8010%E6%9C%8821%E6%97%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3%EF%BC%88%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%89.pdf |archivedate=2014年11月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
; [[京浜急行電鉄のダイヤ改正#3月22日 - 4月3日|第1次節電特別ダイヤ]](2011年3月22日 - 4月3日)
: 2011年3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])および[[福島第一原子力発電所]]などの各発電所の停止の影響による[[東日本大震災による電力危機|電力危機]]に伴い実施された節電ダイヤでは、金沢文庫駅発羽田空港行きの「エアポート急行」1本が[[京急久里浜駅]] - 金沢文庫駅間で「特急」として運転された<ref name=":5">{{Cite press release |和書 |title=特別ダイヤによる電車の運転について |publisher=京浜急行電鉄 |date=2011-03-29 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/cms_pdf/特別ダイヤによる電車の運転について.pdf |format=PDF |accessdate=2015-05-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110408205127/http://www.keikyu.co.jp/company/cms_pdf/%E7%89%B9%E5%88%A5%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E9%9B%BB%E8%BB%8A%E3%81%AE%E9%81%8B%E8%BB%A2%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf |archivedate=2011年4月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。これ以外にも、節電ダイヤとして待避内容が変更となっている場合がある。
; [[京浜急行電鉄のダイヤ改正#4月4日 - 4月17日|第2次節電特別ダイヤ]](2011年4月4日以降)
: 普通列車は1時間に6本の運行となり<ref name=":6">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p30</ref>、日中に運行する一部の「エアポート急行」は4両編成に減車している<ref name=":6" />。
; 2011年9月23日ダイヤ改正
: 節電による減車がなくなり、震災前の8両編成に戻った。
: さらに、新逗子方面の列車の接続が見直され、生麦駅・上大岡駅で普通を追い抜き・接続し、金沢文庫駅で快特の接続をするようになった。
; 2012年10月21日ダイヤ改正
: これまでは平日日中と土休日を中心に20分間隔で運行されていたが、日中・平日夕ラッシュに増発され、10分間隔の運行となった<ref name="kq20120731" />。また、日中でも6両編成が運転されるようになった。
: 普通列車との接続・追い抜きは、上下とも[[南太田駅]]で普通を追い抜き、羽田空港行きは[[京急鶴見駅]]で、新逗子方面行は京急川崎駅と神奈川新町駅で普通に接続する<ref>[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p48</ref>。土休日の朝方の新逗子方面行は、生麦駅で普通を追い抜き、上大岡駅で普通に接続する。それに加えて、一部は金沢文庫駅でも普通に接続する。<!-- 横浜以南の進む先はプレスに明記なし -->
: 快特・特急との接続・通過待ちに関して、平日の日中と土休日の日中以降は、上下線ともに上大岡駅で快特に接続するのみ。平日ダイヤの夕方下りは、京急川崎駅で快特に(一部は京急ウィング号〈現在のイブニング・ウィング号〉の通過待ち)、上大岡駅で特急に、金沢文庫駅で快特(もしくは京急ウィング号)に接続する。夕ラッシュが過ぎると、神奈川新町駅で快特の通過待ち、金沢文庫駅で快特との接続を行う。このうちどちらか一方の駅で京急ウィング号との二重待避になる。平日夕ラッシュと土休日の朝方の上りは無待避で、下りは神奈川新町駅で特急との接続もしくは快特の通過待ちを行う。加えて金沢文庫駅で快特または特急に接続する列車も存在する。
: 平日の夜間においてはエアポート急行設立以前の運行形態である、羽田空港発の特急が4両編成で運行されていたが、この改正で消滅した。ダイヤ改正前は4本のみで、すべて新逗子駅行きで運転されていた。
; 2013年10月26日ダイヤ改正
: 平日夕ラッシュ時下りの列車の接続・通過待ち・追い抜きが見直された。
: 京急川崎駅で普通と接続、神奈川新町駅で快特の通過待ち、上大岡駅で特急の接続、金沢文庫駅で快特の接続を行う。
; 2023年11月25日ダイヤ改正
: 列車種別名を「エアポート急行」から「急行」に改称。
; 車両
: 逗子・葉山駅 - 羽田空港間の「急行」は京急車による運用が原則で、8両(8両固定編成または4両+4両)<ref name=":1" />または6両で運行される。ごく一部に都営車([[東京都交通局5500形電車 (鉄道)|5500形]])によって運行される列車もある。
[[ファイル:Keikyu Series 1000 1893 between Hatcho-nawate and Tsurumi-ichiba.jpg|thumb|180px|none|京急1000形21次車による急行 <br/>(2023年11月 [[八丁畷駅]] - [[鶴見市場駅]]間)]]<!-- 右寄せだと(PC版でウィンドウサイズによっては)経路図を展開すると画像が節の外に移動するのでnone指定-->
==== 普通 ====
[[普通列車|普通]]は全線を運行し各駅に停車する。ただし、現行ダイヤでは主に運行されるのは品川駅以南の区間となる。品川駅 - 泉岳寺駅間には途中駅はないが、この区間を走る列車の多くは京急線内品川駅以南(横浜・羽田空港方面)の区間で急行以上の速達列車として運転されてきたものが直通する形となっている。このため、品川駅を境に以北・以南ともに普通列車として運転するものは平日・土休日合わせても1本もない{{Efn|ただし、京急線品川以南の区間で速達列車でも都営浅草線内に直通する列車の多くは浅草線内は普通列車として運転され、種別の変更は品川駅で行われるために、それを含めると同区間の普通は多いとも言える。また、朝および深夜に印旛日本医大・印西牧の原・京成高砂・青砥・泉岳寺発の普通品川行きの設定がある。}}。
日中は9 - 11分間隔(1時間に6本)で運転される<ref>[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p47 - p48</ref>。速達列車は多くが8両または12両編成であるのに対し、ほとんどの列車が4・6両編成である<ref name=":1" />{{Efn|普通のみが停車する駅の多くは、ホームの有効長が6両編成分しかないため、本線で8両編成の普通が走るのは金沢文庫駅 - 金沢八景駅間と堀ノ内駅 - 浦賀駅間および前述の品川駅 - 泉岳寺駅間に限られる。前者2区間は速達列車の折り返し運用、後者は都営浅草線に直通する運用のため8両編成が用いられる。}}。現在のダイヤでは品川駅 - 浦賀駅間の運転がほとんどだが、品川、羽田空港第1・第2ターミナル、京急川崎、神奈川新町、金沢文庫、羽田空港第1・第2ターミナル(発のみ)、平和島(発のみ)、京急川崎、神奈川新町、横浜(発のみ)、上大岡(着のみ)、金沢文庫、逗子・葉山、堀ノ内(発のみ)、浦賀、京急久里浜各駅発着の列車が設定されている。また本線(品川駅 - 泉岳寺駅間を除く)を走る列車はほぼすべての列車が京急車で運転されるが平日夜上りの逗子・葉山発金沢文庫行き1本のみ都営車で運転されている。2017年10月28日以降は土休日の夜にも同じく1本設定される。
2010年5月16日のダイヤ改正では「エアポート急行」が新設されたことにより減便され、2011年4月の節電対策ダイヤでさらに減便されたが、2012年10月21日のダイヤ改正では日中に運転されていた品川駅 - 羽田空港方面間のエアポート急行を快特へ格上げしたことに伴い、エアポート急行停車駅である青物横丁駅・立会川駅・平和島駅の利便性確保のため、品川駅 - 京急蒲田駅間の区間運転列車が新規に設定され、品川駅 - 京急蒲田駅間では5 - 10分間隔(1時間に9本)の運行となっていた<ref>[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p48</ref>。しかし、[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウィルス感染拡大の影響]]を受け、日中の品川駅 - 京急蒲田駅間の区間運転列車は2020年5月9日より運休となり、そのまま2021年3月27日のダイヤ改正を以って正式に廃止された<ref name="kq20210127">{{Cite press_release | url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210127HP_20136EW.pdf | title=京急線ダイヤ改正を実施します | publisher=[[京浜急行電鉄]] | date=2021-01-27 | accessdate=2021-01-27| archiveurl=https://web.archive.org/web/20210127230342/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210127HP_20136EW.pdf | archivedate=2021-01-27 | format=PDF }}</ref>。
前述のように他社との競争の観点から、伝統的に速達列車の本数が多く<ref name=":7">[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p16</ref>、早朝深夜を除くと、ほとんどの待避駅で通過待ち・接続待ちを行う。接続待ちによって、速達列車通過駅から主要駅までの利便性が確保されている反面、「普通」だけで主要駅間を乗り通すとかなり時間がかかる<ref name=":7" />。例えば日中ダイヤの場合、品川駅 - 堀ノ内駅間の52.3kmを快特は上下とも47分で運転するところを、普通は下りが1時間52 - 53分、上りが1時間42分かけて走っており、所要時間差は実に1時間ほどとなっている。また途中で上りが快特6本・エアポート急行2本、下りが快特7本・エアポート急行3本に追い抜かれる。
ほとんどの普通が、京急線内のみの運行である。しかし、ごく少数ながら品川駅を終着とする都営浅草線や京成線方面直通の普通も存在する。
毎年[[大晦日]]から翌年の[[元日]]にかけては、横浜駅 - 品川駅・泉岳寺駅・東京都心方面間で[[終夜運転]]を行っているが、その際は普通列車のみの運転となる<ref>[[#佐藤2014|佐藤 (2014)]]、p62</ref>。
[[File:Keikyu-Main-line Series1000-1500.jpg|thumb|180px|none|1000形と1500形による普通。大半は4 - 6両編成で運行される。<br/>(2021年7月 大森海岸駅)]]<!-- 右寄せだと(PC版でウィンドウサイズによっては)経路図を展開すると画像が節の外に移動するのでnone指定-->
=== 運行本数 ===
昼間時40分あたりの運行本数は次のようになっている(2022年11月19日時点)。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ 昼間時間帯の運行本数
! colspan="2" |種別\駅名
! style="width:7em" |浅草線・<br />京成・北総線内<br />種別
! style="width:7em" |直通先
! style="width:1em" |泉岳寺
! style="width:1em" |品川
! …
! colspan="2" style="width:1em" |京急蒲田
! …
! style="width:1em" |京急川崎
! …
! style="width:1em" |金沢文庫
! colspan="2" style="width:1em" |金沢八景
! …
! colspan="2" style="width:1em" |堀ノ内
! …
! style="width:1em" | 浦賀
|-
! rowspan="8" style="width:1em" |運行区間
| style="background-color:#fdb" |エアポート快特
| style="background-color:#fdb" |アクセス特急<br />(京成線内)
| style="background-color:#fdb; text-align:right" | 成田空港←
| colspan="4" style="background-color:#fdb" | 1本
| colspan="12" style="background-color:white; text-align:left" | →羽田空港
|-
| rowspan="2" style="background-color:#9db" |快特
| colspan="2" style="background-color:white" |
| colspan="13" style="background-color:#9db" |2本
| colspan="3" |→京急久里浜
|-
| style="background-color:#ddd" |普通
| style="background-color:#ddd; text-align:right" |青砥←
| colspan="4" style="background-color:#9db" | 1本
| colspan="12" style="background-color:white; text-align:left" | →羽田空港
|-
! rowspan="3" style="background-color:#faa" |特急
|style="background-color:#ddd" |普通
| style="background-color:#ddd; text-align:right" |青砥←
| colspan="13" style="background-color:#faa" |1本
| colspan="3" rowspan="2" |→三崎口
|-
| style="background-color:#faa" | 特急
| style="background-color:#faa; text-align:right" | 京成高砂←
| style="background-color:#faa;" colspan="13" |1本
|-
| style="background-color:#ddd;" | 普通
| style="background-color:#ddd; text-align:right" | 印旛日本医大←
| style="background-color:#faa;"colspan="3" |2本
| colspan="12" style="background-color:white; text-align:left" | →羽田空港
|-
| style="background-color:skyblue" |急行
| colspan="5" style="background-color:white; text-align:right" | 羽田空港←
| colspan="7" style="background-color:skyblue" |2本<ref name="文庫" group="*">一部、金沢文庫で系統分割</ref>
| colspan="6" style="background-color:white; text-align:left" | →逗子・葉山
|-
| style="background-color:#ddd" |普通
| colspan="3" style="background-color:white" |
| colspan="15" style="background-color:#ddd" |4本<ref name="新町" group="*">一部、神奈川新町、金沢文庫で系統分割</ref>
|-
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 直通先の列車種別 ===
{{出典の明記|date=2018年8月|section=1|ソートキー=鉄}}
==== エアポート快特・快特(快速特急)・アクセス特急・特急・通勤特急・快速・普通 ====
このほか、都営浅草線・京成線直通列車は泉岳寺駅ではなく、品川駅で列車種別の表示・案内を京成線の種別に変更するので、これらの表示・案内を見ることもでき、品川駅 - 泉岳寺駅間の上り列車に限りこれらの種別を名乗って運行する列車が存在する<ref>[http://norikae.keikyu.co.jp/transit/norikae/T5?uid=33303&dir=46&path=2012100510104699&slCode=250-1&time=0000&d=1&dw=0&tdKey=20141108&pFlg=0 品川駅時刻表]</ref>。これまでは品川駅における案内上の措置に過ぎなかったが、現在では駅や車内に掲載されている京急の路線図においても、泉岳寺駅 - 品川駅間において、「アクセス特急」「通勤特急」「快速」の表記がなされるようになった。反対に、京成線方面からの京急線直通列車は押上駅で京急線の種別に変更する。「エアポート快特」は京急線の種別であるが、都営浅草線の種別でもあり、同線のみで「エアポート快特」となる列車(主に京急線内「エアポート急行」)もある。「快速特急」は正式種別としては「快特」だが、京成線での案内に合わせて「快速特急」と案内される。「エアポート快特」を除き、いずれの種別も都営浅草線内は各駅に停車する。都営浅草線内の駅が終点の場合は「エアポート快特」を除き、「普通」と表示・案内される。泉岳寺行きの場合は、種別は変更せずに運行される。朝ラッシュ時、品川から「普通」京成高砂行きとなる列車の一部は京成高砂駅で行先・種別変更して運行を継続する列車がある{{Efn|京成本線の京成中山駅・海神駅に6両編成までしか停車できず、京成高砂駅 - 京成津田沼駅間を通る8両編成の列車は快速以上の種別に限られるため。}}。
=== 過去の列車種別 ===
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月|ソートキー=鉄}}
==== エアポート急行 ====
{{Main2|「[[#急行|急行]]」の節}}
==== 通勤快特 ====
1981年6月22日のダイヤ改正より、品川駅・京浜川崎駅(現:京急川崎駅)のホーム12両延伸、京浜鶴見駅(現:京急鶴見駅)上りホーム待避設備完成により、それまで平日朝に運転されていた線内特急(C特急・8両編成)を金沢文庫駅以北を快速特急停車駅・12両編成で運転する種別として登場した<ref>[[#佐藤2003|佐藤(2003)]]、P.109。</ref>。平日朝の上り及びそれの送り込み用の下りが運転され、横浜駅以南では特急停車駅、以北では登場当時の快速特急停車駅に停車する<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.196 - 197。</ref>。車両の種別幕は快速特急同様緑色で、縦に「通勤」横に「快特」と表示されていた。また、列車種別表示灯は「通勤快特」を表す表示はなく、上大岡駅以南は「特急」、横浜駅以北は「快速特急」として扱われていた。「快特」と異なり、本線の全線に乗り入れていた。久里浜線以外の京急線や都営浅草線へは乗り入れない。
1995年7月24日より京急蒲田にも停車するようになった。このときから、停車駅路線図での種別色に紫色が使用され、「快速特急」と「特急」から独立するようになった。尚前記したが、この種別色は公式ホームページの時刻表にてB快特(B特急)の種別色として使用されている。1998年11月18日ダイヤ改正から上り1本が泉岳寺駅まで延長された。この列車には2100形が充当され、同形初の泉岳寺駅乗り入れとなっている<ref>[[#佐藤2003|佐藤(2003)]]、P.170。</ref>。
1999年7月に名称廃止となり、現在は同じ形態の列車が金沢文庫駅以南を特急として扱う快特という形で運転されている<ref name="RP677-30"/>。設定時より通勤快特が正式種別名であり、通勤快速特急とは称さない。しかし、株式会社協和企画発行の『京浜急行電車全駅時刻表』(平成7年度版)には「通勤快速特急」の記載がある。
なお、運行開始は1981年だが、車両の前面に掲げる種別板(サボ)は、それよりも以前から用意されていた。
; 廃止時の停車駅
: 泉岳寺駅 - 品川駅 - 京急蒲田駅 - 京急川崎駅 - 横浜駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 追浜駅 - 汐入駅 - 横須賀中央駅 - 堀ノ内駅 - 京急大津駅 - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅
: 久里浜線内は各駅停車
==== エアポート特急 ====
京成本線の[[京成高砂駅]]・[[青砥駅]]と羽田空港を結ぶ列車。京成高砂駅で、[[京成上野駅]] - [[成田空港駅]]間の「エアポート特急」と接続していた。京急線内では特急、都営浅草線内ではエアポート快特、京成線内では特急(現在の快速特急)と同じ駅に停車しており、途中の平和島駅にて快速特急の通過待避を行っていた。詳細は「[[エアポート快特]]」の項目を参照。
==== ハイキング特急 ====
<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.82 - 93。</ref> <!-- 節全体の出典。節見出しの中や後ろに付けると節見出しが正しく表示されない場合があるので避けてください。-->
[[1950年]][[4月1日]]に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 - 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した。
運行パターンは大きく3種類に分けられる。これらは原則として、途中停車駅は京浜川崎駅と横浜駅のみである<ref>[[#佐藤2003|佐藤(2003)]]、P.95。</ref>。
; 上下で運行区間が異なり下り終着駅と上り始発駅でそれぞれバスに接続するもの
:* 品川駅発逗子海岸駅行き、浦賀駅発(1954年から京浜久里浜駅発)品川駅行き
:: 「油壺」
:* 品川駅発浦賀駅(1954年から京浜久里浜駅)行き、逗子海岸駅発品川駅行き
:: 「城ケ島」「三崎」
:: 下り「城ケ島」は1952年 - 1953年までを除き、下り「三崎」は1952年は無停車。
:* 品川駅発京浜久里浜駅行き、逗子海岸駅発品川駅行き
:: 「白秋」
:
; 上下とも浦賀駅発着で浦賀で船に接続するもの
:* 「鋸山」「大島」「房総」「第一房総」「第二房総」「第三房総」「第四房総」
:: 下り「第二房総」は1953年 - 1963年の間、無停車。
:
; 下りのみの運転があるもの{{Efn|ダイヤ上では予備用として上りの設定もあったが、通常時は回送として運転された。}}
:* 「鷹取」「灯台」「剣崎」
:: 「鷹取」は神武寺、「灯台」は1952年から金沢文庫駅・馬堀海岸駅にも停車。
1952年春のダイヤ改正で学校裏駅(現・平和島駅)、子安駅、上大岡駅の3駅での待避線の使用が開始されると「三崎」と新設された「城ヶ島」が品川駅 - 浦賀駅間をノンストップ運転で65分で結んだ。この時の表定速度は51km/hだった。また、品川駅 - 浦賀駅間では「灯台」と新設された「大島」「鋸山」「第一房総」「第二房総」が京浜川崎駅と横浜駅に停車して69分で結んだ。そのほか、逗子線方面では逗子海岸駅行きの「油壺」と神武寺行きの「鷹取」があった。1953年秋からはノンストップ運転の列車は「第二房総」と「城ヶ島」の2本に増え、3分短縮の62分運転となった。
1954年春から「第二房総」は[[房総半島]]への日帰り[[ハイキング]]が楽しめることから人気が集中したため6両編成に増強し、秋には4分短縮の58分運転となった{{Efn|当時、[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[内房線|房総西線]]は全線[[単線]]非電化であるうえ[[蒸気機関車|SL]]牽引の客車列車で速度も遅く、さらに[[両国駅]]発着であったため、[[東京都区部]](特に城南地区)から房総半島へは久里浜駅まで京急を利用し、[[フェリー]]で[[浜金谷港|金谷港]](千葉県[[富津市]])に出た方が便利であった。}}。「第二房総」は1956年秋には表定速度68km/hで走行し、品川駅 - 浦賀駅間48分運転となった。ハイキング特急はこの頃が最盛期となり、浦賀駅行きの「第三房総」、京浜久里浜駅行きの「白秋」も設定され、最大で9本が運行されるときもあった。しかしマイカーによる道路混雑が始まると連絡バスが上りハイキング特急の発車時刻までに到着しない事態が発生し、1965年秋をもってハイキング特急は廃止された。
廃止後はその代替として休日の定期特急の一部に「房総」「三浦」などの愛称名をつけて運転し、のちに快速特急「マリンパーク号」となった。
==== 週末特急 ====
1956年3月より、大島・金谷航路接続を目的として品川駅 - 浦賀駅間に設定された特急列車。途中停車駅は京浜川崎駅、横浜駅、金沢文庫駅、横須賀中央駅の4駅だった。品川駅12時40分発の列車には「ラ・メール号」([[フランス語]]で「海」の意){{Efn|2020年度に導入された[[京急1000形電車 (2代)#20次車「Le Ciel」|新1000形20次車]]の車両愛称「Le Ciel」(ル・シエル、フランス語で「空」の意)は、この「ラ・メール号」へのオマージュが込められたネーミングだという<ref>[https://www.keikyu.co.jp/cp/1000gata-name/ 新造車両 愛称募集入賞作品発表](京浜急行電鉄)</ref>。}}、13時40分発の列車には「パルラータ」([[イタリア語]]で「甘き語らい」の意)の名称が与えられた。ハイキング特急とは異なり定員制ではなかった。しかし、沿線人口の増加と通勤需要の増大に加え、[[伊豆大島]]へのメインルートが[[東海道新幹線]]の開業後、[[熱海駅]]・[[熱海港]]経由に移行したことなどにより、1968年6月8日に快速特急(現・快特)へと発展的に解消した。
==== 海水浴特急 ====
<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.94 - 109。</ref> <!-- 節全体の出典。節見出しの中や後ろに付けると節見出しが正しく表示されない場合があるので避けてください。-->
1958年に金沢八景駅のホーム延伸により、それまでの逗子海岸駅発着の週末特急を改称したもの。略称は「海特」{{Efn|読み方には「かいとく」と「うみとく」がある。これは快速特急の略称である「快特(かいとく)」と同一の読み方になってしまうためである。ただし、海水浴特急が登場した当時、快速特急はまだ存在していなかったため、略称の読み方が同じになるという懸念はなかった。}}。停車駅は品川駅・京浜川崎駅・子安駅・横浜駅・上大岡駅・金沢文庫駅・金沢八景駅・湘南逗子駅・逗子海岸駅であった。1959年には子安駅・上大岡駅が通過になった。1962年には京浜久里浜駅発着も運行された。1968年に快速特急が運転されたが、休日ダイヤのみ三浦海岸駅発着の[[海水浴]]特急が残ると当時に停車駅が見直され、当時の快速特急が通過する京浜蒲田駅・金沢八景駅・堀ノ内駅に停車するという若干異なるものの現在の快特停車駅に近い停車駅となった。これらの列車も1973年に名称が消え、不定期の快速特急として運行されるようになった。
==== 通勤特急 ====
1954年3月22日ダイヤ改正で設定された特急のうち、上り特急が通勤特急とも呼ばれていた<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、p.68。<!--吉本では1954年7月改正時に記述--></ref>。当初の停車駅は品川駅・学校裏駅(現:平和島駅)・京浜川崎駅(現:京急川崎駅)・京浜鶴見駅(現:京急鶴見駅)・子安駅・横浜駅・上大岡駅・金沢文庫駅・金沢八景駅・追浜駅・横須賀汐留駅(現:汐入駅)・横須賀中央駅・横須賀堀内駅(現:堀ノ内駅)・湘南大津駅(現:京急大津駅)・馬堀海岸駅・浦賀駅であった。同年7月7日のダイヤ改正で久里浜線直通運転が開始されたが、久里浜線内は各駅停車であった。また京浜蒲田駅(現:京急蒲田駅)が停車駅に追加された代わりに、京浜鶴見駅が停車駅から外された。1957年3月17日のダイヤ改正で特急停車駅に横須賀汐留駅・横須賀堀内駅・湘南大津駅および久里浜線の新大津駅・湘南井田駅(現:北久里浜駅)が追加され、通勤特急と停車駅が変わらなくなったことに伴い、特急に統一された。現在では品川駅で、京成線に直通する「通勤特急」を見ることができる。
==== 急行(旧) ====
[[急行列車|急行]]は、[[2010年]][[5月15日]]までにも運行されていた。[[京急空港線|空港線]]の羽田空港駅(現在の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])から京急本線を経由して[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京成押上線]]を介して[[京成本線]][[京成成田駅]]および[[北総鉄道北総線|北総線]][[印旛日本医大駅]]までを結んでいた。
[[1999年]]7月30日までは[[京急蒲田駅]] - [[京急逗子線|逗子線]]新逗子駅(現:[[逗子・葉山駅]])間においても運行されていたが、翌[[7月31日|31日]]に実施されたダイヤ改正により廃止された<ref name="RP677-47"/>。この区間における急行は、主に新逗子駅 - [[京急川崎駅]]間のみの運転であったが、平日朝ラッシュ時間帯に限り設定されていた新逗子駅発の都営浅草線方面へ直通する急行は、[[金沢八景駅]]で通勤快特の連絡後、平和島駅まで先行し、同駅で後続の特急を待ち合わせていた。
ただし、京急蒲田駅以南の急行が廃止された後も、毎年正月に開催される[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]に協力するため、選手が京急蒲田駅付近にある[[国道15号|第一京浜]]の踏切を通過する予定時間帯に限り、空港線の運転規制により京急川崎駅発着の急行が設定されていた。
2010年[[5月16日]]に実施されたダイヤ改正に伴い、種別名を「エアポート急行」に改称する形で廃止した。<!--現在のエアポート急行の運行形態は、急行をそのまま踏襲している。←停車駅も運転本数も運転区間もほとんど踏襲していないので独自研究としてコメントアウト-->
新逗子駅発着の急行は、基本的に上り列車は[[子安駅]]で、下り列車は[[神奈川新町駅]]で後続の特急や快特に通過で追い抜かれるが、平日・土休日共に日中の列車は神奈川新町駅 - 新逗子駅間の運転のため優等列車通過待ちは存在しなかった。普通列車とは上下線共に[[金沢文庫駅]]、[[上大岡駅]]、神奈川新町駅で接続、平日朝上り列車に限り[[京急富岡駅]]と神奈川新町駅で普通列車と接続していた。都営浅草線方面へ直通する列車と京急川崎駅発着の急行は、[[平和島駅]]で後続の快特の通過待ちを行っていたが、[[1998年]][[11月18日]]の羽田空港駅開業後、本線と空港線との直通列車の増発に伴い、日中時間帯における平和島駅での待避は廃止され、平日朝ラッシュ時間帯や夜間に限り京急ウィング号・快特・特急のいずれかに追い抜かれる列車が設定されていた。
また、浦賀・久里浜方面に設定されていた時期もある。当初は金沢文庫駅以南で現在の特急とほぼ同じく金沢八景駅、追浜駅、横須賀中央駅、堀ノ内駅、馬堀海岸駅、浦賀駅に停車したが、1957年3月からは金沢文庫駅以南各駅停車となった。1970年6月にすべての急行が逗子線直通となり消滅した。
このほか、1957年から1972年までは大師線にも直通しており、大師線内の停車駅は川崎大師駅のみであった。しかし1966年のみ、京浜川崎駅の高架化工事のため休止された。
2023年11月25日のダイヤ改正に伴い「エアポート急行」を「急行」に改称する形で再度設定され、京急蒲田駅以南においては約24年ぶりに「急行」の種別名が復活したが、前述の通り当時とは停車駅が異なっている<ref name=":9" /><ref name=":10" />。
{| class="wikitable" style="font-size:80%"
|+ 停車駅の変遷
|-
!旧駅名 !! style="width:1em;"| !! style="width:1em;" |高輪 !! style="width:1em;" |青物横丁 !! style="width:1em;"|立会川 !! style="width:1em;"|海岸 !! style="width:1em;"|学校裏 !! style="width:1em;"|京浜蒲田 !! style="width:1em;"|出村 !! style="width:1em;"|雑色 !! style="width:1em;"|六郷土手 !! style="width:1em;"|京浜川崎 !! style="width:1em;"|八丁畷 !! style="width:1em;"|鶴見市場 !! style="width:1em;"|京浜鶴見 !! style="width:1em;"|総持寺 !! style="width:1em;"|花月園前 !! style="width:1em;"|生麦 !! style="width:1em;"|子安 !! style="width:1em;"|神奈川新町 !! style="width:1em;"|仲木戸 !! style="width:1em;"|横浜 !! style="width:1em;"|日ノ出町 !! style="width:1em;"|黄金町 !! style="width:1em;"|井土<br>ヶ谷 !! style="width:1em;"|弘明寺 !! style="width:1em;"|上大岡 !! style="width:1em;"|杉田 !! style="width:1em;"|湘南富岡 !! style="width:1em;"|谷津坂 !! style="width:1em;"|金沢文庫 !! style="width:1em;"|金沢八景 !! style="width:1em;"|追浜 !! style="width:1em;"|横須賀中央 !! style="width:1em;"|横須賀堀内 !! style="width:1em;"|馬堀海岸 !! style="width:1em;"|浦賀 !! 備考
|-
| 1931年1月1日- || || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● || - || - || - || - || ● || || || || || || || || || || || || || || || ||
|-
| 1949年4月24日- || || ● || - || - || - || - || ● || - || - || - || ● || - || - || ● || - || - || ● || - || - || - || ● || ● || ● || - || - || ● || - || - || - || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● ||
|-
| 1950年4月1日- || || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || - || ● || - || - || ● || ● || - || - || ● || ● || ● || - || - || ● || - || - || - || ● || ● || ● || ● || ● || ● || ● ||
|-
| 1968年6月15日- || || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || - || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || - || - || ● || - || - || - || ● || ● || rowspan="7" colspan="5" |→逗子線内各停 ||
|-
| 1968年6月21日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || - || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || - || - || ● || - || - || - || ● || ● ||
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| 1971年2月- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || - || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ◁ || - || ● || - || - || - || ● || ● ||
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| 1983年5月2日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || - || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ◁ || - || ● || - || ◁ || ◁ || ● || ● ||
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| 1987年6月1日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || - || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ◁ || - || ● || - || ● || ◁ || ● || ● ||
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| 1987年12月- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || - || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ◒ || ◒ || ● || - || ● || ◁ || ● || ● || 弘明寺駅ホームを延伸し、8両に対応。
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| 1990年4月2日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || ◁ || ● || - || ✻ || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ◒ || ◒ || ● || - || ● || ◁ || ● || ● ||
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| 1999年7月31日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || colspan=5|→空港線内各停 || || || || || || || || || || || || || || || || || || || || || || || || || 白紙ダイヤ改正
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| 2010年5月16日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || △ || - || - || - || ● || - || - || ● || - || - || - || - || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || colspan=5|→逗子線内各停 ||「エアポート急行」に改称する。
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| 2023年11月25日- || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || - || - || - || ● || - || - || ● || - || - || - || - || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || ● || - || ● || ● || ● || colspan="5" |→逗子線内各停 ||「急行」に改称し、蒲田跨ぎの急行復活。
|-
!現駅名 !! style="width:1em;"|泉岳寺 !! style="width:1em;"|品川 !! style="width:1em;"|青物横丁 !! style="width:1em;"|立会川 !! style="width:1em;"|大森海岸 !! style="width:1em;"|平和島 !! style="width:1em;"|京急蒲田 !! style="width:1em;"| !! style="width:1em;"|雑色 !! style="width:1em;"|六郷土手 !! style="width:1em;"|京急川崎 !! style="width:1em;"|八丁畷 !! style="width:1em;"|鶴見市場 !! style="width:1em;"|京急鶴見 !! style="width:1em;"| !! style="width:1em;"|花月総持寺 !! style="width:1em;"|生麦 !! style="width:1em;"|子安 !! style="width:1em;"|神奈川新町 !! style="width:1em;"|京急東神奈川 !! style="width:1em;"|横浜 !! style="width:1em;"|日ノ出町 !! style="width:1em;"|黄金町 !! style="width:1em;"|井土<br>ヶ谷 !! style="width:1em;"|弘明寺 !! style="width:1em;"|上大岡 !! style="width:1em;"|杉田 !! style="width:1em;"|京急富岡 !! style="width:1em;"|能見台 !! style="width:1em;"|金沢文庫 !! style="width:1em;"|金沢八景 !! style="width:1em;"|追浜 !! style="width:1em;"|横須賀中央 !! style="width:1em;"|堀ノ内 !! style="width:1em;"|馬堀海岸 !! style="width:1em;"|浦賀 !! 備考
|}
* ● 停車
* - 通過
* ◁ 平日朝上りのみ停車
* ◒ 平日朝夕下り、土曜・休日朝上りと夕方下りが停車
* ✻ 競輪開催日に限り夕方に6両編成の急行のみ臨時停車
* 品川駅方面から京急蒲田駅で空港線に乗り入れる急行は、同駅から各駅に停車していた。
* 2010年5月16日から2023年11月25日までは「エアポート急行」。△ 定期列車は品川方面 - 羽田空港と横浜方面 - 羽田空港のみ運行。
==== 通勤急行 ====
1957年3月17日に登場し、平日朝に運転された。金沢文庫駅以南各駅停車となった急行の一部を従来のまま残し名称変更したもので、1958年9月7日には特急増発に代えて消滅した。
==== 準急 ====
1950年4月1日のダイヤ改正より急行運転再開と共に登場した種別。当初は横浜駅以南各駅停車であったが、1951年12月16日のダイヤ改正から全区間で準急運転を行うようになった。1954年7月7日のダイヤ改正で消滅。
; 廃止時の停車駅
: 品川駅 - 青物横丁駅 - 立会川駅 - 学校裏駅(現・平和島駅)- 京浜蒲田駅(現・京急蒲田駅)- 京浜川崎駅(現・京急川崎駅)- 八丁畷駅 - 鶴見市場駅 - 京浜鶴見駅(現・京急鶴見駅)- 生麦駅 - 子安駅 - 横浜駅 - 日ノ出町駅 - 黄金町駅 - 上大岡駅 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅 - 追浜駅 - 横須賀汐留駅(現・汐入駅) - 横須賀中央駅 - 横須賀堀内駅(現・堀ノ内駅) - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅
=== 過去の列車愛称 ===
ハイキング特急や週末特急以外の一般の特急・快特や急行にも愛称がついている列車が存在し、中には定員制の列車も存在した。
==== 「招運号」 ====
都営線・京成線への乗り入れ開始の翌年である1969年より三浦海岸駅から成田駅間に2往復の[[夜行列車|夜行]]直通特急「招運号」が運転を開始した<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.162。</ref>。以降毎年運転されていたが1973年 - 1974年の運転が東京都からの終夜運転中止の通告に伴い中止、そのまま運転されることなく廃止となった<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、pp.119。</ref>。
==== 「城ケ島・マリンパーク号」「成田山号」 ====
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
|1=KEISEI 3000 SERIES 3038- 20180707.jpg
|2=臨時快特・三浦海岸行<br>「城ヶ島・マリンパーク号」復活運転<br>京成3000形3038編成<br>(2018年7月7日 屏風浦駅)
|3=Keikyu 1500 Series 1707- 20180707.jpg
|4=臨時特急・成田行<br>「成田山号」復活運転<br>京急1500形1707編成<br>(2018年7月7日)
}}
1970年より1月、4月末 - 5月、9月 - 10月に京成成田駅 - 三浦海岸駅(後に三崎口駅)間で運転された臨時直通列車(京急線内快速特急・京成線内特急)。列車名は[[京成成田駅]]行きは「[[成田山新勝寺|成田山]]号」、三崎口駅行きは「城ケ島・マリンパーク号」に統一されていた。午前・午後に2往復ずつの計4往復が運転され、車両は午前の「成田山号」と午後の「城ケ島・マリンパーク号」は京急が、午前の「城ケ島・マリンパーク号」と午後の「成田山号」には京成の電車がそれぞれ用いられた。のちに運転期間が1月のみとなり1978年に廃止<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.164 - 166。</ref>。
2018年7月7日・[[7月8日|8日]]と[[8月18日]]・[[8月19日|19日]]には、3社局直通運転開始50周年を記念して復活運転が実施された<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180618HP_18064EW.html 6月21日で、神奈川県~東京都~千葉県が結ばれて50年 京急×都営交通×京成「相互直通50周年記念」キャンペーン実施 「成田山号」「城ヶ島・マリンパーク号」復刻運行や記念乗車券の発売!] - 京浜急行電鉄 2018年6月18日</ref><ref>[http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20180618_174518664514.pdf ≪京急電鉄・都営交通・京成電鉄≫相互直通50周年記念キャンペーンを実施] - 京成電鉄 2018年6月18日</ref>。
* 「成田山号」(三崎口駅発京成成田駅行)は三崎口駅発[[京成高砂駅]]行定期特急からの延長運転(都営浅草線・[[京成押上線]]内普通)、京成高砂駅からは特急停車駅に[[京成小岩駅]](定期快速を待避)を追加。
* 「城ケ島・マリンパーク号」(京成成田駅発三浦海岸駅行)は、全区間[[臨時列車]]で、京成線内[[押上駅]]までは特急、押上駅から都営浅草線・京急線内は快特で運転。
車両は初日の「成田山号」及び延長運転する列車が関係する[[京急久里浜線|久里浜線]]内ローカル運用は[[京急1500形電車|京急1500形1707編成]]が、「城ケ島・マリンパーク号」は[[京成3000形電車 (2代)|京成3000形3038編成]]が用いられ、2日目はその逆で「成田山号」と関係運用に京成3000形3038編成、「城ケ島・マリンパーク号」に京急1500形1707編成が運用された<ref>{{Cite web|和書|website=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2018-07-08 |url=https://railf.jp/news/2018/07/08/201000.html |title="成田山号"・"城ケ島マリンパーク号"運転 | publisher=[[交友社]] |accessdate=2018-08-30}}</ref>。このため、久里浜線ローカル運用2本も京成車が代走している<ref>{{Cite web|和書|website=railf.jp(鉄道ニュース) |date=2018-07-09 |url=https://railf.jp/news/2018/07/09/150000.html |title=京成3000形が久里浜線の特急に使用される | publisher=交友社 |accessdate=2018-08-30}}</ref>。
{{-}}
==== 「パシフィック」「逗子」 ====
1970年の夏季ダイヤより夏季のみ京成成田駅 - 逗子海岸駅間(ただし京成成田駅行きのうち午前中の2本がそれぞれ久里浜駅発と浦賀駅発、逗子海岸駅行きの1本は[[京成津田沼駅]]始発で運転)で運転された直通特急。「城ケ島・マリンパーク」「成田山」と同じく列車の方向で列車名が統一されており、パシフィックが京成成田駅行き、逗子が逗子海岸駅行きであった。午前・午後3往復ずつ計6往復が運転され、車両の受け持ちも「城ケ島・マリンパーク」「成田山」と似ており午前の「パシフィック」と午後の「逗子」は京急が、午前の「逗子」と午後「パシフィック」には京成の電車がそれぞれ用いられた<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.166。</ref>。
==== 「みうらビーチ」「ハワイアン」「ミュージックトレイン」など ====
1970年7月11日から8月15日までの間に実施された夏季休日ダイヤで「みうらビーチ」が3往復、7月18日から8月8日までの平日に1往復納涼特急「ハワイアン」が運転された。これらの列車は定員制で「みうらビーチ」は往復で100円であった。これらの列車に使用された600形(2代)のうちの1編成のみは車内の[[蛍光灯]]がすべて濃いブルーに交換されていてまたそのまま通勤列車にも充当されていた<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、pp.170-171。</ref>。
「ハワイアン」の運転は1970年夏季限りであったが「みうらビーチ」は1972年に1往復のみになるものの運転が継続された。ただし、愛称が変わった時期もあり、「みうらビーチ・ビバハッピー」(1974年)や「ハッピー[[ニッポン放送|1240]]」(1975年)の愛称で運転された後、1976年は再び「みうらビーチ」に戻ったものの、翌年から再度改称され「[[アール・エフ・ラジオ日本|ミュージックトレイン]]」(1977年-1980年)、「アメリカンエクスプレス」(1981年)など、様々な愛称での運転となっていたが、1982年からは1990年まで再び「ミュージックトレイン」として運転されていた。その後1991年より最後の1994年までは三たび「みうらビーチ」に戻った<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』1998年7月臨時増刊号「京浜急行電鉄」</ref><ref>[[#佐藤2003|佐藤 (2003)]]</ref>。なお、夏季休日ダイヤ最後の年となった1995年には列車の設定がなくなった(同年夏季休日ダイヤでは「みうらビーチ」の運転をせず、一般の快速特急の増発と延長運転、京急蒲田駅への臨時停車のみとなった)。また、翌1996年以降は夏季休日ダイヤそのものが消滅した。
使用車両は最初の1970年のみは全列車600形(2代)、1971年に2往復が1000形(初代)、1往復が600形(2代)の冷房改造車、1972年より1000形のみで運転され、1983年より下りのみ、翌1984年からは上下とも2000形での運転となっている。ロングシートの1000形で運転されている期間・列車も定員制であり、一時期の横須賀中央以南での乗車を除いて座席券が必要であった<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、pp.172-174。</ref>。
==== 「南房総」「城ケ島」「油壺マリンパーク」「マリンパーク」 ====
1968年9月より休日にも快速特急が運行されるようになり、快速特急3往復に「マリンパーク」という愛称をつけて運転を開始した。その後1972年より愛称を1往復ずつ変更し「南房総」「城ケ島」「油壺マリンパーク」の3つの列車名で運転されるようになった。また、この時土曜日に運転されていた後ろ2両のみ座席指定とした快速特急にも同時に「南房総」という愛称がつけられた。その後の記録は十分では無く、これらの愛称がいつ無くなったのかは不明であるが、1977年には「南房総」と名乗る列車が品川駅から平日・休日ともに1本(平日は特急・休日は快速特急)運転されていた<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、pp.174-175。</ref>。
[[京急油壺マリンパーク]]が[[沖縄国際海洋博覧会]](海洋博、1975 - 1976年)のサブ会場となったことから<ref name="吉本1999-p175" />、1973年4月末から10月末までのおよそ半年、平日休日ともに1往復「海洋博」という愛称がつけられた快速特急が運転された<ref name="吉本1999-p175">[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、p.175。</ref>。
1983年7月24日に快速特急「マリンパーク」が復活{{Efn|休日の快速特急運転開始から4年で「油壺マリンパーク」となったため}}した。「マリンパーク」として運転されるときは愛称板取り付けが困難な2000形および3代目600形を除き前面に丸いイルカの愛称板を取り付け運転された。また、同年10月1日より都営線からの特急にも1往復快速特急と同じ愛称板を付け「マリンパーク」として運転した。これらの列車は羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業に伴うダイヤ改正で愛称が廃止された<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、pp.175-176。</ref>{{Efn|1995年に京浜急行電鉄が限定発売した前面展望ビデオ『快走!KEIKYU 海をめざして風になる』では所定の2000形での運用を3代目600形の第1編成に差し替えて収録をしているが、この3代目600形で代走したマリンパーク号ではヘッドマークステーが2000形と同様設置されていなかったため、[[方向幕|ヘッドマーク]]は無表示であった。}}。
==== その他 ====
1949年には休日運転で、愛称付きの急行も運転されていた。愛称には「銀鱗」「大島」「房総」「剣崎」「三崎」「灯台」「鷹取」などが使用され、上記のハイキング特急の前身ともいえる列車であった。
== 女性専用車 ==
横浜駅を7時30分から8時26分の間に発車する上りの特急品川行き6本については品川寄りの先頭車を「[[女性専用車両|女性専用車]]」としている<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/csr/womenonly.html 女性専用車両のご案内] 京浜急行電鉄、2022年11月29日閲覧。</ref>。
== 利用状況 ==
2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は[[戸部駅]] → 横浜駅間であり、ピーク時(7:30 - 8:30)の[[混雑率]]は'''110%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。
京急で最も乗降人員が多い駅は横浜駅であり、同駅は6社局の路線が乗り入れるターミナル駅である。品川駅 - 横浜駅間は一部を除き複線であるため、朝ラッシュ時の上り列車は、最も停車駅が少ない快特であっても同区間で30分程度を要する。この区間で競合する東海道線、横須賀線は平行ダイヤであり、所要時間・行先等で圧倒的に有利である。[[渋谷駅|渋谷]]、[[新宿駅|新宿]]、[[池袋駅|池袋]]の3大副都心へのアクセスも、湘南新宿ライン、東急東横線(東京メトロ副都心線)が横浜駅から直通しており、利便性が高い。
そのため、都心側のターミナル駅である品川駅手前よりも、郊外側のターミナル駅である横浜駅手前のほうがラッシュ時の輸送人員が多く、混雑率も高い。朝ラッシュ時に運転される快特及び特急は、金沢文庫駅で増結して12両編成で運転する運用がある。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2" style="min-width:11em;"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(戸部駅 → 横浜駅間)輸送実績<ref>『都市交通年報』各年度版</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1960年(昭和35年)
| 18 || 10,400 || style="background-color: #ccffcc;"|25,668 || style="background-color: #ccffcc;"|'''247'''
|
|-
|1961年(昭和36年)
| 18 || 11,320 || 29,545 || '''261'''
|
|-
|1962年(昭和37年)
| 18 || 11,320 || 31,290 || '''272'''
|
|-
|1963年(昭和38年)
| 18 || 11,199 || 32,224 || style="background-color: #ffcccc;"|'''288'''
|
|-
|1964年(昭和39年)
| 24 || 13,585 || 36,844 || '''271'''
|
|-
|1965年(昭和40年)
| 24 || 13,807 || 36,885 || '''267'''
|
|-
|1966年(昭和41年)
| 24 || 15,579 || 37,328 || '''240'''
|
|-
|1967年(昭和42年)
| 24 || 16,567 || 38,342 || '''231'''
|
|-
|1968年(昭和43年)
| 24 || 18,030 || 39,216 || '''218'''
|style="text-align:left;"|1968年6月21日、泉岳寺駅 - 品川駅間が開業<br />都営地下鉄1号線(現:都営地下鉄浅草線)と相互直通運転開始
|-
|1969年(昭和44年)
| 24 || 18,468 || 40,074 || '''217'''
|
|-
|1970年(昭和45年)
| 24 || 20,955 || 40,915 || '''195'''
|
|-
|1971年(昭和46年)
| 24 || 21,687 || 42,092 || '''194'''
|
|-
|1972年(昭和47年)
| 24 || 21,065 || 42,592 || '''202'''
|
|-
|1973年(昭和48年)
| 24 || 22,967 || 45,842 || '''200'''
|
|-
|1974年(昭和49年)
| 24 || 23,150 || 45,906 || '''198'''
|style="text-align:left;"|1974年12月2日、朝ラッシュ時に特急で12両編成の運転を開始
|-
|1975年(昭和50年)
| 24 || 24,512 || 47,354 || '''193'''
|
|-
|1976年(昭和51年)
| 24 || 25,604 || 47,128 || '''184'''
|
|-
|1977年(昭和52年)
| 24 || 26,295 || 47,694 || '''181'''
|
|-
|1978年(昭和53年)
| 24 || 26,295 || 48,235 || '''183'''
|
|-
|1979年(昭和54年)
| 24 || 27,396 || 48,998 || '''179'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 24 || 28,712 || 50,320 || '''175'''
|
|-
|1981年(昭和56年)
| 24 || 28,968 || 50,722 || '''175'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 24 || 28,968 || 51,270 || '''177'''
|
|-
|1983年(昭和58年)
| 24 || 28,968 || 51,782 || '''179'''
|
|-
|1984年(昭和59年)
| 24 || 29,184 || 52,036 || '''178'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 24 || 29,184 || 52,540 || '''180'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 24 || 29,184 || 53,191 || '''182'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 24 || 29,184 || 53,246 || '''182'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 27 || 32,256 || 53,907 || '''167'''
|
|-
|1989年(平成元年)
| 27 || 32,256 || 54,231 || '''168'''
|style="text-align:left;"|1989年7月5日、金沢シーサイドライン開業
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 27 || 32,768 || 54,850 || '''167'''
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 27 || 33,024 || style="background-color: #ffcccc;"|55,161 || '''167'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 27 || 33,536 || 53,683 || '''160'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 27 || 33,792 || 53,242 || '''158'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 27 || 33,792 || 52,895 || '''157'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 27 || 33,792 || 52,866 || '''156'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 27 || 33,792 || 51,600 || '''153'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 27 || 33,792 || 51,499 || '''152'''
|
|-
|1998年(平成10年)
| 27 || 33,792 || 51,473 || '''152'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 27 || 33,792 || 51,087 || '''151'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 27 || 33,792 || 50,950 || '''151'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 27 || 33,792 || || '''151'''
|style="text-align:left;"|2001年12月1日、湘南新宿ライン開業
|-
|2002年(平成14年)
| 27 || 33,792 || || '''151'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| 27 || 33,792 || 50,963 || '''151'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 27 || || || '''151'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 27 || || || '''151'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 27 || || || '''151'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 27 || 32,256 || 49,203 || '''153'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 27 || 32,256 || 49,390 || '''153'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 27 || 32,256 || 49,154 || '''152'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 27 || 31,500 || 48,085 || '''153'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 27 || 31,500 || 47,274 || '''150'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 27 || 32,000 || 45,334 || '''142'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 27 || 32,000 || 44,179 || '''138'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 27 || 32,000 || 46,804 || '''146'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 27 || 32,000 || 46,559 || '''145'''
|style="text-align:left;"|2015年12月7日、モーニング・ウィング号の運転を開始
|-
|2016年(平成28年)
| 27 || 32,000 || 46,444 || '''145'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 27 || 32,000 || 46,223 || '''144'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 27 || 32,000 || 45,909 || '''143'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 27 || 32,000 || 45,889 || '''143'''
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|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 27 || 32,000 || style="background-color: #ccffff;"|29,201 || style="background-color: #ccffff;"|'''91'''
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|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 27 || 31,500 || 29,899 || '''95'''
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|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 25 || 27,539 || 30,236 || '''110'''
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|}
== 歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月|ソートキー=鉄}}
この路線は、[[平間寺|川崎大師]]への参詣鉄道を運行していた大師電気鉄道が、京浜間の連絡鉄道の開業を目的に、[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]と社名を変更した上で、[[東京都]]南部から[[神奈川県]][[川崎市]]付近に軌道線を開業させたのが始まりである。
その後、軌道線を順次延伸し、[[明治]]時代末には東京と横浜を結ぶ都市間連絡鉄道が形成された。東京方への乗り入れに際しては、[[東京都電車|東京市電]]への乗り入れを見込んで、[[標準軌]] (1435mm) で敷設されていた当線を、東京市電の[[馬車軌間]] (1372mm) に[[改軌]]し、[[大正]]末期には[[北品川駅]](乗り入れ開始時は品川駅〈初代〉)を介して[[都電品川線|市電品川線]]への乗り入れを行い、さらに[[高輪駅]]まで延伸した。
一方、市電への乗り入れと同じ頃、京浜電気鉄道は、横浜と横須賀を結ぶ郊外路線の開業を企図しながら[[関東大震災]]の影響により打撃を受けていた[[湘南電気鉄道]]に対し、資本参加を行った。京浜電気鉄道の出資により経営危機を乗り越えた湘南電気鉄道は、[[昭和]]時代に入り、[[黄金町駅]] - [[浦賀駅]]間および[[金沢八景駅]] - 湘南逗子駅(現在の[[逗子・葉山駅]]北口)間といった、現在の京急本線と[[京急逗子線]]の一部に相当する路線を開業させた<ref name="R1927">[https://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/shokai/rekishi/nenpyo1.html 磯子区歴史年表 昭和2年~20年] 磯子区総務部</ref>。
その後、横浜で京浜電気鉄道線と湘南電気鉄道線を接続させ、[[直通運転]]を行うことが計画された。しかし、京浜電気鉄道線が馬車軌間に改軌していた一方、湘南電気鉄道線は[[地方鉄道法]]によって免許を受けて標準軌で開業しており、直通させるためには、どちらかの路線を改軌する必要があった。地方鉄道法では馬車軌間による敷設が認められていなかったため、湘南電気鉄道線を馬車軌間に改軌することはできず、結論として京浜電気鉄道線を標準軌に改軌させた。1931年(昭和6年)12月に両鉄道会社は[[日ノ出町駅]]で結ばれ、念願の直通運転が開始された<ref name="R1927" />(両社の会社分界点は日ノ出町駅より黄金町駅方0.2 km地点<ref name="分界点">[{{NDLDC|2957976/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年1月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)。それにより東京市電への乗り入れは中止された。高輪駅も廃止され、代わる東京都心側のターミナルとして、国鉄[[品川駅]]前への延伸を果たした。こうして、昭和初期に現在に至る路線の概形が完成した。
なお、東京市電乗り入れ中止に代わる都心乗り入れ案として、京浜電気鉄道は、日本初の[[地下鉄]]を開業していた[[東京地下鉄道]]、湘南電気鉄道と合弁して、京浜地下鉄道を設立。既に[[浅草駅]] - [[新橋駅]]間を開業していた東京地下鉄道線の延伸線を、新橋から品川まで建設することで、浅草 - 浦賀間の直通運転を計画した。ところが、新橋駅を介し、東京地下鉄道線への直通をもくろんでいた[[東京高速鉄道]]は、この京浜地下鉄道設立の動きを問題視し、東京地下鉄道と京浜電気鉄道の株を買い集め、京浜電気鉄道は東京高速鉄道の傘下に入ることとなった。東京の鉄道網を揺るがす事態に政府が仲裁に入り、地下鉄網の延伸は棚上げとなったが、京浜電気鉄道は依然、東京高速鉄道傘下のままに収まった。これが前史となって、東京高速鉄道社長である[[五島慶太]]が京浜電気鉄道社長に就任。[[第二次世界大戦]]中の1942年(昭和17年)には、五島が他に経営していた[[東京横浜電鉄]]、[[小田急電鉄]]と合併することとなり、当路線も[[大東急]]の一角をなすこととなった。
大東急時代の1943年(昭和18年)に旧京浜電気鉄道の品川線と旧湘南電気鉄道の湘南線が統合されて東急湘南線となり{{Efn|name=K80T50|東京急行電鉄が1943年(昭和18年)7月14日に神奈川県土木部に提出した「総未第三十六号 軌道ヲ地方鉄道ニ変更実施ノ件」による。これによれば、同年6月1日に実施した軌道から地方鉄道に変更した際に品川線の呼称をやめ、品川営業局管内の全線を湘南線と呼称することとしたと記載されている。また、『京浜急行八十年史』では1943年(昭和18年)に品川線と湘南線が統合され品川 - 浦賀間を湘南線としたとする記述があるが<ref name="shonan43">{{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄株式会社社史編集班(編)|year=1980|title=京浜急行八十年史|publisher=京浜急行電鉄|pages=161-162}}</ref>、『東京急行電鉄50年史』では営業局制から管理部制の変更の項、戦時中の駅休廃止の項、戦後の京急独立の項のいずれにおいても一貫して旧京浜線を品川線、旧湘南線を湘南線としており、1943年の路線名統合の記述はない<ref>{{Cite book|和書|author=東京急行電鉄株式会社社史編纂事務局(編)|year=1973|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄|pages=289-290, 302, 384頁ほか}}</ref>。また、「[https://www.keikyu.co.jp/history/chronology04.html 京浜急行復活を告げるポスター]」など、京急側においても京急独立時まで「品川線」「湘南線」の区分けがあった資料が散見される<ref>{{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄株式会社社史編集班(編)|year=1980|title=京浜急行八十年史|publisher=京浜急行電鉄|page=173}}</ref>。}}、京浜急行電鉄発足後に本線と改称されたが、都市計画の上では湘南線の呼称が残っているものもある<ref name="rittai-tokyo">{{Cite report |title=都市計画案および環境影響評価書案の説明会 質疑概要 |url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_54.pdf|publisher=東京都都市整備局 都市基盤部 交通企画課 |format=PDF <!--|date=2017-12 -->|accessdate=2018-11-07}}</ref>。
戦後は設備の改良によって輸送力増強や所要時間短縮を図り、直通先の多様化などを経て現在に至っている。
=== 年表 ===
* [[1901年]]([[明治]]34年)[[2月1日]] - [[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]により、大森停車場前駅(後の[[大森駅 (東京都)|大森駅]])- 川崎駅(後の[[六郷橋駅]])間が開業。大森停車場前駅、八幡駅(現在の[[大森海岸駅]])、海岸駅、沢田駅(現在の[[平和島駅]])、山谷駅(現在の[[大森町駅]])、[[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]]、蒲田駅(現在の[[京急蒲田駅]])、下町駅、[[出村駅]]、[[雑色駅]] 、(駅名不詳)駅、六郷駅、中町駅(、川崎駅)が開業。1435mm軌間を使用し、直流600Vで運行開始。
* [[1902年]](明治35年)
**[[9月1日]] - 川崎駅が六郷橋駅に改称。六郷橋駅 - 川崎駅(現在の[[京急川崎駅]])間が開業。下新宿駅(後の新宿駅)、川崎駅が開業。
** (月日不詳) - 六郷駅が八幡塚駅に改称<ref name="2006-65">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.65。</ref>。
* [[1904年]](明治37年)
**[[3月1日]] - 軌道を1372mmに改軌。
** [[5月8日]] - 品川駅(現在の[[北品川駅]] )- 八幡駅間が開業。品川駅、大横町駅、黒門駅、北馬場駅(現在の[[新馬場駅]]北口)、南馬場駅(現在の[[新馬場駅]]南口)、青物横町駅(現在の[[青物横丁駅]])、海晏寺駅、[[鮫洲駅]]、浜川駅、土佐山駅、[[立会川駅]] 、鈴ヶ森駅が開業。八幡駅 - 大森停車場前駅間が[[京浜電気鉄道大森支線|大森支線]]となり、品川方からの分岐となる。海岸駅が廃止され、停車場道駅(後の大森八幡駅)が開業<ref name="2006-55">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.55。</ref>。八幡駅 - 沢田駅間の[[併用軌道]]が[[専用軌道]]に付け替えられる。
** 12月 - 黒門駅<ref name="2006-45">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.45。</ref>、海晏寺駅<ref name="2006-47">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.47。</ref>が廃止。
* [[1905年]](明治38年)
** (月日不詳) - 八幡駅が海岸駅、停車場道駅が八幡駅に改称<ref name="2006-55" />。
** [[12月24日]] - 川崎駅 - 神奈川停車場前駅(後の京浜神奈川駅)間が開業。市場駅(現在の[[鶴見市場駅]])、鶴見駅(現在の[[京急鶴見駅]])、[[生麦駅]]、[[子安駅]]、中木戸駅(現在の[[京急東神奈川駅]])、反町駅、神奈川停車場前駅が開業。
* [[1906年]](明治39年)[[10月1日]] - 雑色駅 - 六郷橋駅間の旧線廃止。雑色駅 - 川崎駅間の新線開業。旧線上の(駅名不詳)駅、八幡塚駅、中町駅が廃止。新線上に六郷堤駅(現在の[[六郷土手駅]])が開業。川崎駅 - 六郷橋駅間が[[京急大師線|大師線]] に移管され、大師線分岐駅が川崎駅に変更。沢田駅 - 梅屋敷駅間を併用軌道から専用軌道に切り替え。
* [[1908年]](明治41年)- 大横町駅が廃止。
* [[1909年]](明治42年)- 市場駅 - 鶴見駅間に(駅名不詳)駅が臨時駅として開業(廃止時期不明)。
* [[1910年]](明治43年)[[3月27日]] - 新子安駅(現在の[[京急新子安駅]])が開業。
* [[1911年]](明治44年)[[11月1日]] - [[総持寺駅 (神奈川県)|総持寺駅]]が開業<ref name="2006-78">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.78。</ref>。
* [[1912年]](明治45年)[[5月9日]] - 土佐山駅が廃止<ref name="2006-49">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.49。</ref>。
* [[1914年]]([[大正]]3年)[[4月12日]] - 花月園前駅(現在の[[花月総持寺駅]])が開業。
* [[1915年]](大正4年)
** [[8月21日]] - 新町駅(現在の[[神奈川新町駅]])が開業。
** (月日不詳) - 市場駅が廃止。[[八丁畷駅]] が開業(開業年月日を[[1916年]](大正5年)[[12月25日]]や[[1917年]](大正6年)[[1月14日]] とする場合もある)。
* [[1916年]](大正5年)- 市場駅が再開業。
* [[1923年]](大正12年)[[4月1日]] - 下町駅が廃止<ref name="2006-62">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.62。</ref>。梅屋敷駅 - 雑色駅間の併用軌道を専用軌道に付け替え。
* [[1925年]](大正14年)
** 1月 - 川崎駅から国鉄[[川崎駅]]まで貨物専用側線敷設<ref name="2006-71">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.71。</ref>。
** [[3月11日]] - [[高輪駅]] - 品川駅間が開業。高輪駅が開業。品川駅が200m神奈川駅寄りに移設。
** [[7月17日]] - 川崎駅の貨物専用側線が貨物営業線に変更され、川崎貨物駅が開業<ref name="2006-71" />。
** 11月1日 - 品川駅が北品川駅、蒲田駅が京浜蒲田駅、川崎駅が京浜川崎駅、鶴見駅が京浜鶴見駅、神奈川駅が京浜神奈川駅に改称。
* [[1926年]](大正15年)
** (月日不詳) - 大森海水浴場前駅が夏季営業のみの臨時駅として開業<ref name="2006-55" />。
** 12月24日 - 新宿駅が廃止。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)4月 - 市場駅が鶴見市場駅、新町駅が神奈川新町駅に改称。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[6月22日]] - 京浜神奈川駅 - 横浜駅間が開業。横浜駅は仮駅で、月見橋付近に設けられる。
** (月日不明) - 大森海水浴場前駅が廃止<ref name="2006-55" />。
* [[1930年]](昭和5年)
** [[2月5日]] - [[横浜駅]]が移転し国鉄横浜駅に乗り入れ。
** [[3月29日]] - 反町駅が廃止<ref name="2006-87">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.87。</ref>。青木橋駅(現在の[[神奈川駅]])が開業。
** 4月1日 - [[湘南電気鉄道]]により、[[黄金町駅]] - [[浦賀駅]]が開業<ref name="R1927" />。黄金町駅、[[南太田駅]]、[[井土ヶ谷駅]]、[[弘明寺駅 (京急)|弘明寺駅]]、[[上大岡駅]]、屏風ヶ浦駅(現在の[[屏風浦駅]])、[[金沢文庫駅]]、[[金沢八景駅]]、[[追浜駅]]、湘南田浦駅(現在の[[京急田浦駅]])、[[逸見駅]]、横須賀軍港駅(現在の[[汐入駅]])、[[横須賀中央駅]]、横須賀公郷駅(現在の[[県立大学駅]])、横須賀堀内駅(現在の[[堀ノ内駅]])、湘南大津駅(現在の[[京急大津駅]])、[[馬堀海岸駅]] 、浦賀駅が開業。軌間1435mm、直流1500Vで運行開始。
** [[4月6日]] - 青木橋駅と京浜神奈川駅が統合。旧青木橋駅の位置で京浜神奈川駅として営業開始<ref name="2006-89">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.89。</ref> 。
** [[7月10日]] - [[杉田駅 (神奈川県)|杉田駅]]、湘南富岡駅(現在の[[京急富岡駅]])が仮駅として開業。
* [[1931年]](昭和6年)
**[[1月1日]] - 高輪駅 - 京浜蒲田駅間で急行が運転開始。
** [[5月1日]] - 杉田駅、湘南富岡駅が駅に昇格。
** [[12月26日]] - 京浜電気鉄道横浜駅 - 湘南電鉄分界点2.8 km、湘南電気鉄道京浜電気分界点 - 黄金町駅間0.6 kmが開業<ref name="分界点"/>。[[平沼駅 (京浜電気鉄道)|平沼駅]]、[[戸部駅]]、[[日ノ出町駅]] 開業。京浜電気鉄道と湘南電気鉄道との間で軌間が異なるため、湘南電気鉄道の軌間である1435mmで敷設<ref name="R1927" />。
* [[1932年]](昭和7年)[[7月25日]] - キリンビール前駅(後の[[キリン駅]])が開業。
* [[1933年]](昭和8年)
**4月1日 - 国鉄品川駅に乗り入れ。高輪駅が廃止。[[品川駅]]が開業。横浜駅以北が1372mmから1435mmに改軌され、品川駅 - 浦賀駅間の直通運転開始<ref name="R1927" />。
** [[7月1日]] - 海岸駅が大森海岸駅に改称。
* [[1934年]](昭和9年)10月1日 - 軍需部前駅(現在の[[安針塚駅]])が開業。
* [[1935年]](昭和10年)7月10日 - 東京湾汽船(現在の[[東海汽船]])との[[連絡運輸]]開始。これに伴い、[[伊豆大島]]航路連絡列車「大島号」運行開始。
* [[1936年]](昭和11年)12月25日 - 黄金町駅 - 上大岡駅間の架線電圧を600Vに降圧し、急行運転区間を品川駅 - 上大岡駅間に延長。
* [[1937年]](昭和12年)[[3月8日]] - 大森支線(大森海岸駅 - 大森駅間)が廃止。大森駅が廃止。
** この頃、[[東京地下鉄道]]線(現在の[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ銀座線|銀座線]][[新橋駅]] 以北を建設)との直通運転を計画し、それを考慮した車両を製造する。
* [[1938年]](昭和13年)[[7月15日]] - 京浜川崎駅 - 川崎貨物駅間が廃止<ref name="2006-71" />。川崎貨物駅が廃止。なお、貨物線自体は1932年(昭和7年)頃から使用されなくなっていた。
* [[1940年]](昭和15年)10月1日 - 軍需部前駅が安針塚駅、横須賀軍港駅が横須賀汐留駅に改称。
* [[1941年]](昭和16年)11月1日 - 湘南電気鉄道が京浜電気鉄道に合併。
* [[1942年]](昭和17年)
** 5月1日 - 京浜電気鉄道が[[小田急電鉄]]と共に[[東京横浜電鉄]]に合併。合併と同時に[[東急電鉄|東京急行電鉄]]([[大東急]])に改称したため、東急の路線(東急品川線、東急湘南線)となる。
** 7月1日 - 浜川駅、鈴ヶ森駅、総持寺駅が営業休止。
* [[1943年]](昭和18年)
** [[6月1日]] - 品川駅 - 横浜駅間を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく地方鉄道に変更{{Efn|[{{NDLDC|2961425/12}} 「軌道ヲ地方鉄道ニ変更許可」『官報』1943年6月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)には"特許セル軌道品川、横浜間、…"とある。}}。旧京浜電気鉄道の路線の呼称が湘南線に統一{{Efn|name=K80T50}}<ref name="shonan43" />。
** 7月1日 - 北馬場駅<ref name="2006-45" />、大森八幡駅<ref name="2006-55" />、平沼駅<ref name="2006-97">[[#佐藤2006|佐藤 (2006)]]、p.97。</ref>が営業休止。
** 11月1日 - 新子安駅が京浜新子安駅に改称。
* [[1944年]](昭和19年)
** 5月1日 - 品川駅 - 黄金町駅間と横浜駅 - 浦賀駅間に運転系統を分離。急行が運転休止。
*** 旧京浜電気鉄道と旧湘南電気鉄道との間で架線電圧が異なるため、電車運用の効率化を行うための措置。
** [[5月10日]] - 谷津坂駅(現在の[[能見台駅]])が開業。
** [[10月20日]] - キリンビール前駅がキリン駅に改称。
** [[11月10日]] - 北馬場駅<ref name="2006-45" />、浜川駅<ref name="2006-49" />、大森八幡駅<ref name="2006-55" />が廃止。
** [[11月20日]] - 総持寺駅<ref name="2006-78" />、平沼駅<ref name="2006-97" />が廃止。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[2月24日]] - 品川駅 - 北品川駅間を軌道法に基づく軌道から地方鉄道法に基づく地方鉄道に変更認可。
** [[6月10日]] - 湘南富岡駅が営業休止。
** [[12月22日]] - 横浜駅 - 上大岡駅間の架線電圧を1500Vに昇圧。
* [[1946年]](昭和21年)10月 - 北馬場駅が再開業<ref name="2006-45" />。
* [[1947年]](昭和22年)
** [[1月10日]] - 湘南富岡駅が廃止。
** 3月1日 - 湘南富岡駅が移転の上で再開業。
** 12月25日 - 横浜駅以北の架線電圧を1500Vに昇圧、全線1500Vに統一。
* [[1948年]](昭和23年)
** 6月1日 - 東京急行電鉄から[[京浜急行電鉄]]が分離発足。
** 7月15日 - 品川駅 - 浦賀駅間の直通運転が再開。
* [[1949年]](昭和24年)
**[[4月24日]] -「ハイキング急行」が運行開始。
** 7月1日 - 大森山谷駅、出村駅、キリン駅(3駅とも休止済み)が廃止。
* [[1950年]](昭和25年)4月1日 - 急行が運行再開。準急と「ハイキング特急」が運行開始。
* [[1952年]](昭和27年)
**[[7月6日]] - 品川駅 - [[京急逗子線|逗子線]]逗子海岸駅(現在の[[逗子・葉山駅]]南口)間で「海水浴特急」が運行開始。
** [[12月15日]] - 大森町駅(前の大森山谷駅)が再開業。
* [[1954年]](昭和29年)
**[[3月22日]] - 特急が運行開始。当初は平日ラッシュ時のみ。
** 3月27日 -「週末特急」が運行開始。
**7月7日 - 準急が運行終了。
* [[1956年]](昭和31年)
** 3月27日 -「週末特急」に「ラメール」、「パルラータ」の愛称が与えられる。
** [[4月20日]] - 京浜神奈川駅が神奈川駅に改称。
** [[6月27日]] - 品川駅 - 北品川駅間が専用軌道化される(併用軌道区間が全て消滅)<ref>{{Cite news |和書|title=姿消す八ッ山併用軌道 京浜急行 あすから専用軌道へ切替 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1956-06-26 |page=1 }}</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)[[3月17日]] - 特急が終日運行化される。
* [[1961年]](昭和36年)9月1日 - 学校裏駅が平和島駅、横須賀汐留駅が汐入駅、横須賀堀内駅が堀ノ内駅に改称。
* [[1963年]](昭和38年)11月1日 - 湘南富岡駅が京浜富岡駅、湘南田浦駅が京浜田浦駅、横須賀公郷駅が京浜安浦駅、湘南大津駅が京浜大津駅に改称。
* [[1967年]](昭和42年)[[3月19日]] - 特急の最高速度が105km/hに引き上げ。
* [[1968年]](昭和43年)
** 4月1日 品川駅 - 堀ノ内駅間に[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]を設置し、使用開始<ref>{{Cite news |和書|title=ATS装置の使用開始 来月から関東の四私鉄が |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-03-27 |page=2 }}</ref>。
** [[6月15日]] - 従前運行されていた「週末特急」、「海水浴特急」を定期化する形で快速特急が運転開始。
** [[6月21日]] - [[泉岳寺駅]] - 品川駅間が開業。泉岳寺駅が開業。現在の本線区間が全線開通。都営地下鉄1号線(現在の[[都営地下鉄浅草線]] )と相互乗り入れ開始<ref>{{Cite news |和書|title=湘南 - 京葉 地下で結ぶ/京浜急行←→都営地下鉄←→京成電鉄/相互乗り入れの開通式 |newspaper=[[読売新聞]] |date=1968-06-20 |edition=夕刊 |location=東京都 |publisher=[[読売新聞社]] |page=10 }}</ref> 。主に急行、特急が乗り入れ。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[12月9日]] - 本線全線に1号型ATSが設置完了。
** [[12月31日]] - [[三浦海岸駅]] - [[京成成田駅]] 間で初詣用夜行直通特急「招運号」を2往復運転。以降1978年(昭和53年)頃まで春季や夏季などに京成線との直通特急を散発的に運転。
* [[1970年]](昭和45年)
** 1月20日 - 旧鈴ヶ森駅 - 平和島駅間の上り線が高架化<ref name=交通1971-0128>{{Cite news |和書|title=鈴ヶ森-平和島間 高架化工事完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1971-01-28 |page=1 }}</ref>。
** [[3月9日]] - 横浜駅 - 金沢文庫駅間で朝ラッシュ時における特急の10両編成運転が開始される<ref>京浜急行 八十年史 p681</ref>。
** [[12月1日]] - 旧鈴ヶ森駅 - 平和島駅間の下り線が高架化{{R|交通1971-0128}}。
* [[1974年]](昭和49年)[[12月2日]] - 朝ラッシュ時に金沢文庫駅 - 横浜駅間で特急の12両編成運転が開始。
* [[1975年]](昭和50年)[[8月27日]] - 北品川駅 - 青物横丁駅間の下り線が高架化。北馬場駅と南馬場駅の下り線を統合し、北馬場・南馬場駅(下り専用、現在の[[新馬場駅]])が開業。
* [[1976年]](昭和51年)[[10月15日]] - 北品川駅 - 青物横丁駅間の上り線も高架化<ref>{{Cite news |和書|title=北品川-青物横丁 15日から全面使用 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1976-10-13 |page=1 }}</ref>。北馬場駅と南馬場駅の上り線も統合され、北馬場・南馬場駅が新馬場駅(上り線も利用可)に改称。
* [[1978年]](昭和53年)
**[[3月6日]] - 子安駅 - 神奈川新町駅間が三線化。
** [[3月10日]] - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間が三線化。
** [[12月19日]] - 鶴見市場駅 - 花月園前駅間が高架化(上り線は3月1日に先行高架化)。
* [[1981年]](昭和56年)6月22日 - 通勤快特が運行開始。
* [[1982年]](昭和57年)12月1日 - 谷津坂駅が能見台駅に改称。
* [[1986年]](昭和61年)4月1日 - 夕時間帯以降、快速特急の12両運転が開始。
* [[1987年]](昭和62年)6月1日 - 京浜蒲田駅が京急蒲田駅、京浜川崎駅が京急川崎駅、京浜鶴見駅が京急鶴見駅、京浜新子安駅が京急新子安駅、京浜富岡駅が京急富岡駅、京浜田浦駅が京急田浦駅、京浜安浦駅が京急安浦駅、京浜大津駅が京急大津駅に改称。
* [[1990年]]([[平成]]2年)12月2日 - 青物横丁駅 - 大森海岸駅間が高架化。
* [[1992年]](平成4年)[[4月16日]] -「京急ウィング号」(現在の「[[イブニング・ウィング号]] 」)が運行開始。
* [[1995年]](平成7年)
**[[2月21日]] - 快速特急の最高速度が品川駅 - 横浜駅間で120km/hに引き上げ{{Efn|乗務員の習熟運転のためダイヤ改正に先だって昼間のみ実施<ref name="RF412">{{Cite journal|和書 |date = 1995-08 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 35 |issue = 8 |pages = 100-102 |publisher = [[交友社]] }}</ref>。}}。
** 4月1日 - 快速特急の最高速度が横浜駅以南で110km/hに引き上げ。特急は全線110km/hで運行。
** [[7月24日]] - [[8月24日]] - 最後の夏季ダイヤ実施<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999)]] 、pp.229 - 228。</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[5月12日]] - 上大岡駅 - 屏風浦駅間の上り線が高架化<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-08 |journal = 鉄道ジャーナル |volume = 30 |issue = 08 |page = 91 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** 4月7日 - 京急田浦駅 - 安針塚駅間で土砂崩れによる脱線事故<ref name="交通970409">{{Cite news |和書|title=土砂崩れで脱線 京急田浦-安針塚間 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1997-04-09 |page=3 }}</ref>。19名重軽傷{{R|交通970409}}。詳細は「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京浜急行電鉄脱線事故|京浜急行電鉄脱線事故]]」を参照。
** [[10月4日]] - 都営浅草線直通の特急の12両運転区間が品川駅まで延長される<ref name="交通970904">{{Cite news |和書|title=京急、来月ダイヤ改正 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1997-09-04 |page=1 }}</ref>。 空港線直通の特急が運行開始{{R|交通970904}}。
* [[1998年]](平成10年)[[11月18日]] - 空港線の羽田空港駅(現在の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])の開業に伴い、エアポート快速特急(現在の[[エアポート快特]])、[[エアポート特急]]が運行開始<ref name="交通981012">{{Cite news |和書|title=モノレールより安く 京急の品川-羽田空港間 来月18日に延伸部開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-12 |page=1 }}</ref>。京急蒲田駅が快特停車駅に追加{{R|交通981012}}。
* [[1999年]](平成11年)
** 7月 - 金沢文庫駅 - 金沢八景駅間が複々線化<ref name="RP677-30"/>。
** [[7月31日]] - 白紙ダイヤ改正実施。快速特急、エアポート快速特急がそれぞれ快特、エアポート快特に改称。
*** 通勤快特、京急蒲田駅以南の急行が廃止。ただし、通勤快特は金沢文庫駅で快特に種別を変更する特急として運行継続<ref name="RP677-47"/>。
*** 都営浅草線直通の横浜方面発着の特急のうち、日中の全列車とラッシュ時の一部列車を快特に格上げ<ref name="RP677-30"/>。
*** 金沢文庫駅で快特と増解結を行い、品川駅 - 新逗子駅(現在の[[逗子・葉山駅]])間・浦賀駅間を結ぶ列車を設定<ref name="RP677-30"/>。当初は休日のみであったが、後に平日にも拡大。
*** 空港線内の区間列車の大半を本線、都営浅草線直通列車に変更。
* [[2002年]](平成14年)[[10月12日]] - 京急川崎駅、金沢文庫駅で増解結を行う羽田空港駅 - 新逗子駅間、浦賀駅間の快特も設定される(空港線内は特急として運転)。日中の品川駅発着快特を泉岳寺駅発着に変更。
* [[2004年]](平成16年)2月1日 - 京急安浦駅が県立大学駅に改称。
* [[2007年]](平成19年)
**[[1月27日]] - 品川駅の引上線で回送列車(6両編成)が脱線。一時品川駅 - 京急川崎駅間で不通。
** [[3月18日]] - ICカード乗車券[[PASMO]]導入。
* [[2009年]](平成21年)[[2月14日]] - 保安装置を[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]に更新<ref>[https://web.archive.org/web/20090304102835/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/090206_2.shtml 高機能ATSの運用を開始いたします](京浜急行電鉄報道発表・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
**[[5月16日]] - 平和島駅 - 六郷土手駅間の上り線が高架化<ref>{{Cite press release|和書|title=京急蒲田駅付近連続立体交差事業]の進捗に伴い、上り線を高架化します|publisher=京浜急行電鉄|date=2010-03-23|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001303.html|accessdate=2021-10-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141107202613/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001303.html|archivedate=2014-11-07}}</ref>。エアポート快特が京急蒲田駅を通過開始。急行が廃止され、エアポート急行が新設。金沢八景駅が快特、「京急ウィング号」の停車駅に追加<ref>{{Cite press release|和書|title=5月16日(日)ダイヤ改正を実施します|publisher=京浜急行電鉄|date=2010-05-07|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html|accessdate=2021-10-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110704193131/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html|archivedate=2014-07-04}}</ref>。
** 7月17日 - [[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)の開業に伴い、同線との直通運転が開始。
** [[10月21日]] - 空港線の羽田空港国際線ターミナル駅(現在の[[羽田空港第3ターミナル駅]])の開業を機に、全線で[[駅ナンバリング]]が導入<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001333.html |title=京急線全駅にて駅ナンバリングを開始します |accessdate=2015-05-14 |author=京浜急行電鉄 |date=2010-06-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141107201828/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001333.html |archivedate=2014年11月7日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> 。路線記号は「'''KK'''」('''K'''ei'''K'''yū)。
* [[2012年]](平成24年)
** [[9月24日]] - 追浜駅 - 京急田浦駅間で土砂崩れによる脱線事故。乗務員を含む32名が重軽傷。この日から27日朝まで金沢八景駅 - 逸見駅間が運休となる。詳細は「[[日本の鉄道事故_(2000年以降)#京急本線土砂崩れ列車脱線事故|京急本線土砂崩れ列車脱線事故]]」を参照。
** 10月21日 - 平和島駅 - 六郷土手駅間の下り線が高架化され、同区間の高架化が完成<ref>{{Cite press release |和書 |title=京急蒲田駅付近の上下線が全線高架化します! |publisher=京浜急行電鉄 |date=2012-07-12 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/20120717HP%E3%80%80%E9%AB%98%E6%9E%B6%E5%88%87%E6%9B%BF%E6%97%A5%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%EF%BC%88%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%89.pdf |format=PDF |accessdate=2015-05-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141108024500/http://www.keikyu.co.jp/company/20120717HP%E3%80%80%E9%AB%98%E6%9E%B6%E5%88%87%E6%9B%BF%E6%97%A5%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%EF%BC%88%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%89.pdf |archivedate=2014年11月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name="highten">[https://www.youtube.com/watch?v=JDuFBAZqKkA 京浜急行本線及び同空港線(京急蒲田駅付近)連続立体交差事業の全線高架化までの記録] 東京都 Tokyo Metropolitan Government</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[10月16日]] - 午前8時頃、県立大学駅付近で土砂崩れが発生。午後0時50分までに復旧<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1016/TKY201310160049.html 朝日新聞デジタル:京急の線路上に土砂崩落 一時運転見合わせ 横須賀] - 朝日新聞、2013年10月16日</ref><ref>[http://www.kanaloco.jp/sp/article/62714 【動画】京急・県立大学駅付近で土砂流入、一時運転見合わせ/横須賀] - 神奈川新聞、2013年10月16日 2015年5月14日閲覧</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** 7月7日 - デジタル空間波列車無線(デジタルSR無線)の使用を開始<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 (No.935) p238 - p239、[[電気車研究会]]。</ref> 。
** [[12月7日]] -「[[モーニング・ウィング号]]」が運行開始<ref name="kq20151205">{{Cite press release |和書 |title=2015年12月5日(土)土休日ダイヤ・12月7日(月)平日ダイヤ改正 京急初!上り「モーニング・ウィング号」新設 |publisher=京浜急行電鉄 |date=2015-09-09 |url=http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2015/20150909HP_15083MT.pdf |format=PDF |accessdate=2019-12-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150913015126/http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2015/20150909HP_15083MT.pdf |archivedate=2015-09-13}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** 7月1日 - 朝ラッシュ時の平和島駅 - 品川駅間での普通列車利用者に、「KQスタんぽ」を付与して快特からの乗り換えを促すことによる混雑緩和の取り組みを開始<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190624HP_19073TK.html 特急列車等の混雑を緩和する「KQスタんぽ」アプリを配信]京浜急行電鉄ニュースリリース(2019年06月24日)2020年1月29日閲覧</ref>。
** 9月5日 - 神奈川新町第1踏切で[[青砥駅]]発[[三崎口駅]]行の快特が、立往生した大型トラックと衝突する事故が発生<ref>[https://www.sankei.com/article/20190905-MI3DH3SON5MRZC2V3MBCWRU37I/ 「トラック側を捜査へ 京急踏切で衝突、電車脱線 30人死傷」] - 産経新聞、2019年9月5日</ref>。詳細は「[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故|京浜急行本線神奈川新町第1踏切衝突事故]]」を参照。7日昼まで<ref>[https://web.archive.org/web/20191109134613/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019090700162&g=soc 京急、全線で運転再開=脱線車両を搬出-事故発生から2日] - [[時事通信]]、2019年9月7日</ref>京急川崎駅 - 上大岡駅(6日のみ横浜駅)間の上下線で運転を見合せ。
** 10月26日 - ダイヤ改正により、土休日の一部の快特に[[ウィング・シート]] が新設。「京急ウィング号」が「イブニング・ウィング号」に改称<ref name="keikyu20180829" />。
* [[2020年]](令和2年)
** [[3月14日]] - 花月園前駅が花月総持寺駅、仲木戸駅が京急東神奈川駅に改称<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します|publisher=京浜急行電鉄|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191216064450/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|archivedate=2019-12-16}}</ref>。
** [[4月1日]] - 泉岳寺駅 - 新馬場駅間における連続立体交差事業に着手<ref name="2020-04-01">{{Cite press release|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/04/01/13.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200401103902/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/04/01/13.html|language=日本語|title=京浜急行本線の連続立体交差事業に着手します 泉岳寺駅から新馬場駅間の3箇所の踏切を除却します|publisher=東京都建設局|date=2020-04-01|accessdate=2020-04-01|archivedate=2020-04-01}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[11月25日]] - エアポート急行を急行に改称<ref name=":9" />。
== 駅一覧 ==
平均駅間距離は、都市部では700m前後、路線全体でも1.2km弱<ref>{{PDFlink|1=[http://www.jterc.or.jp/topics/seibisuijyun/seibisuijyun.pdf#PAGE=45 大都市圏の鉄道サービス水準の実態について]}} - 一般財団法人運輸政策研究機構、2003年3月。</ref>で、並行するJR各線よりこまめに駅を設けている。また[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を頻繁に行なうため、おおむね3 - 7駅ごとという頻度で待避可能駅を配置している。全て有人駅であり、[[自動改札機]]・[[自動券売機]]を備える。また2006年には全駅に[[自動体外式除細動器|AED]]が設置された。
各駅の[[プラットホーム|ホーム]][[有効長]]は停車種別により異なり、品川駅 - 金沢文庫駅の特急停車駅は12両(品川駅3番線及び、神奈川新町駅下りホームのみ8両)、その他の特急・急行停車駅([[#急行|以前の運転区間]]を含む)は8両、普通列車のみ停車する駅は6両編成に対応する。ホーム番線は下り線側から1番線、2番線とされている。
頭に社名(京急)や金沢が付く駅や神奈川新町駅などは、冒頭部分を省略して「川崎」「新町」「文庫」「八景」などと略記されることもある。以前は列車の[[方向幕]]や時刻表でも省略形が多く見られた<ref>{{Cite web|和書|title=京急 主要駅時刻表|url=https://web.archive.org/web/19980702135813/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/jikoku/jikoku.html|website=web.archive.org|date=1998-07-02|accessdate=2019-08-31}}</ref>。
* 普通は全区間で運転、全駅に停車。列車の折り返しは泉岳寺・品川・京急蒲田・京急川崎・神奈川新町・横浜・上大岡・金沢文庫・金沢八景・逸見・堀ノ内・浦賀の各駅で可能{{Efn|ただしダイヤが乱れた場合はこの限りでない。}}。
<!--* 急行の京急蒲田 - 京急川崎(△)は箱根駅伝(復路)開催時のみ臨時運転。-->
* 下表では、快速・通勤特急・アクセス特急は泉岳寺 - 品川間のみの設定のため省略。
* [[8月15日]]、[[大田区]]平和都市宣言記念[[花火]]の祭典が行われた場合は臨時に六郷土手駅始発の空港線直通普通列車が運転されるほか、折り返しウィング号となる回送列車を特急列車として臨時停車させる。
* 8月上旬、[[三笠公園]]周辺での「よこすか開国祭花火大会」開催時には[[汐入駅]]に数本の快特が臨時停車する。さらに、特急と普通の臨時列車が運転される。
* 累計営業キロは品川駅からのもの。
; 凡例
: 駅名の【】は副駅名標、()は副駅名称<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190125HP_18229TS.pdf#page=3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200309182021/https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190125HP_18229TS.pdf#page=3|format=PDF|title=沿線地域の活性化を目的に2020年3月 4駅の駅名を変更します|publisher=京浜急行電鉄|page=3|date=2019-01-25|accessdate=2022-04-07|archivedate=2020-03-09}}</ref>
: 停車駅 … ●・◎:停車(◎:定期列車の始発・終着のある駅)、|・↓・↑:通過(↓・↑:矢印の方向のみ運転)
: 列車待避 … ◇:上下とも待避可能、△:上りのみ待避可能、▽:下りのみ待避可能、(空欄):待避不可
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;"
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|[[駅ナンバリング|駅番号]]<br />{{Efn|[[2010年]][[10月21日]]より導入。}}
!style="width:10em; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|駅間<br />営業<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|累計<br />営業<br />キロ
!style="width:1em; background:skyblue; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|急行|height=11em}}
!style="width:1em; background:#faa; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|特急|height=11em}}
!style="width:1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|快特|height=11em}}
!style="width:1em; background:#fdb; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|エアポート快特|height=11em}}
!style="width:1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|イブニング・ウィング号|height=12em}}
!style="width:1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|モーニング・ウィング号|height=12em}}
!style="border-bottom:solid 3px #00bfff;"|接続路線・備考
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00bfff;"|{{縦書き|列車待避|height=5em}}
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #00bfff;"|所在地
|-
!A-07
|[[泉岳寺駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:center; background:skyblue;"|◎
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|style="text-align:center; background:#fdb;"|◎
|
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|'''[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-07)([[押上駅|押上]]方面直通運転)'''<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] ・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] ([[高輪ゲートウェイ駅]]:JY 26・JK 21)
|
|rowspan="14" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[港区 (東京都)|港区]]
|-
!KK01
|[[品川駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:skyblue;"|◎
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|style="text-align:center; background:#fdb;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px]] [[東海道新幹線]]<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]([[上野東京ライン]])(JT 03)・[[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]] (JO 17)・[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 25)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 20)
|
|-
!KK02
|[[北品川駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|rowspan="6" colspan="2"|[[品川区]]
|-
!KK03
|[[新馬場駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK04
|[[青物横丁駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK05
|[[鮫洲駅]]<br /><small>【[[鮫洲運転免許試験場]]】</small>
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|◇
|-
!KK06
|[[立会川駅]]<br /><small>([[大井競馬場]])</small>
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK07
|[[大森海岸駅]]<br /><small>【[[しながわ水族館]]】</small>
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK08
|[[平和島駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|5.7
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|◇
|rowspan="6" colspan="2"|[[大田区]]
|-
!KK09
|[[大森町駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|6.5
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK10
|[[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]]<br /><small>([[東邦大学]]前)</small>
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|7.2
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK11
|[[京急蒲田駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|8.0
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|[[京浜急行電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急空港線|空港線]](品川方面・横浜方面から[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]まで直通運転)
|◇
|-
!KK18
|[[雑色駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|9.4
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|rowspan="38" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|空港線直通|height=6em}}
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK19
|[[六郷土手駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|10.6
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK20
|[[京急川崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|11.8
|style="text-align:center; background:skyblue;"|◎
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|京浜急行電鉄:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急大師線|大師線]]<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] 東海道線(上野東京ライン)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線・[[ファイル:JR_JN_line_symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]]([[川崎駅]]:JT 04・JK 16・JN 01)
|◇
|rowspan="36" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[神奈川県]]|height=8em}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[川崎市]]<br />[[川崎区]]
|-
!KK27
|[[八丁畷駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|13.1
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JN_line_symbol.svg|18px|JN]] 南武線(浜川崎支線) (JN 51)
|
|-
!KK28
|[[鶴見市場駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|13.8
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|rowspan="23" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[横浜市]]|height=6em}}
|rowspan="4"|[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]
|-
!KK29
|[[京急鶴見駅]]<br /><small>([[京三製作所]]本社)【大本山[[總持寺]]】</small>
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|15.3
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線・[[ファイル:JR_JI_line_symbol.svg|18px|JI]] [[鶴見線]]([[鶴見駅]]:JK 15・JI 01)
|△
|-
!KK30
|[[花月総持寺駅]]<br /><small>【旧駅名 花月園前】</small>
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|16.1
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK31
|[[生麦駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|16.9
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|▽
|-
!KK32
|[[京急新子安駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|18.3
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[神奈川区]]
|-
!KK33
|[[子安駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|19.3
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|◇
|-
!KK34
|[[神奈川新町駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|20.0
|style="text-align:center; background:skyblue;"|◎
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|''車庫所在駅''
|◇
|-
!KK35
|[[京急東神奈川駅]]<br /><small>【旧駅名 仲木戸】</small>
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|20.5
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線・[[ファイル:JR_JH_line_symbol.svg|18px|JH]] [[横浜線]]([[東神奈川駅]]:JK 13・JH 13)
|
|-
!KK36
|[[神奈川駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|21.5
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK37
|[[横浜駅]]<br /><small>([[そごう横浜店|そごう]]・[[横浜ポルタ|ポルタ]]前)</small>
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|22.2
|style="text-align:center; background:skyblue;"|◎
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] 東海道線(上野東京ライン)(JT 05)・[[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|18px|JO]] 横須賀線 (JO 13)・[[ファイル:JR_JS_line_symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 13)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 12)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[根岸線]] (JK 12)・[[ファイル:JR_JH_line_symbol.svg|18px|JH]] 横浜線<br />[[東急電鉄]]:[[File:Tokyu TY line symbol.svg|18px|TY]] [[東急東横線|東横線]] (TY21)<br />[[横浜高速鉄道]]:[[File:Number prefix Minatomirai.svg|18px|MM]] [[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]] (MM01)<br />[[相模鉄道]]:[[File:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線|本線]] (SO01)<br />[[横浜市営地下鉄]]:[[ファイル:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|18px|B]] [[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン(3号線)]] (B20)
|
|rowspan="2"|[[西区 (横浜市)|西区]]
|-
!KK38
|[[戸部駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|23.4
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK39
|[[日ノ出町駅]]<br /><small>【[[野毛山動物園]]】</small>
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|24.8
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|[[中区 (横浜市)|中区]]
|-
!KK40
|[[黄金町駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|25.6
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|rowspan="4"|[[南区 (横浜市)|南区]]
|-
!KK41
|[[南太田駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|26.5
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|◇
|-
!KK42
|[[井土ヶ谷駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|27.7
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK43
|[[弘明寺駅 (京急)|弘明寺駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|29.1
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK44
|[[上大岡駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|30.8
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|横浜市営地下鉄:[[ファイル:Yokohama Municipal Subway Blue Line symbol.svg|18px|B]] [[横浜市営地下鉄ブルーライン|ブルーライン(1号線)]] (B11)
|◇
|[[港南区]]
|-
!KK45
|[[屏風浦駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|33.0
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|rowspan="2"|[[磯子区]]
|-
!KK46
|[[杉田駅 (神奈川県)|杉田駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|34.3
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] 根岸線 (JK 05)<br />[[横浜シーサイドライン]]:{{Color|#f68b1e|■}}[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]]([[新杉田駅]]:1)
|
|-
!KK47
|[[京急富岡駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|36.7
|style="text-align:center; background:skyblue;"||
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|△
|rowspan="4"|[[金沢区]]
|-
!KK48
|[[能見台駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|37.4
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK49
|[[金沢文庫駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|39.5
|style="text-align:center; background:skyblue;"|◎
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|''車庫所在駅''
|◇
|-
!KK50
|[[金沢八景駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|40.9
|style="text-align:center; background:skyblue;"|●
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|京浜急行電鉄:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急逗子線|逗子線]](品川方面から[[逗子・葉山駅]]まで直通運転)<br />横浜シーサイドライン:{{Color|#f68b1e|■}}金沢シーサイドライン (14)
|◇
|-
!KK54
|[[追浜駅]]<br /><small>【[[横須賀スタジアム]]】</small>
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|42.8
|rowspan="11" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|逗子線直通|height=6em}}
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|rowspan="11" colspan="2"|[[横須賀市]]
|-
!KK55
|[[京急田浦駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|44.5
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK56
|[[安針塚駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|47.1
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK57
|[[逸見駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|48.1
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|◇
|-
!KK58
|[[汐入駅]]<br /><small>【[[横須賀芸術劇場]]】</small>
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|49.2
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK59
|[[横須賀中央駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|49.9
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|
|
|-
!KK60
|[[県立大学駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|51.1
|style="text-align:center; background:#faa;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#9db;"|↓
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|
|-
!KK61
|[[堀ノ内駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|52.3
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|京浜急行電鉄:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急久里浜線|久里浜線]](品川方面から[[三崎口駅]]まで直通運転)
|▽
|-
!KK62
|[[京急大津駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|53.1
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|久里浜線直通|height=7em}}
|
|
|
|
|-
!KK63
|[[馬堀海岸駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|54.2
|style="text-align:center; background:#faa;"|●
|
|
|
|
|-
!KK64
|[[浦賀駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|55.5
|style="text-align:center; background:#faa;"|◎
|
|
|
|
|}
=== 廃駅 ===
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月|ソートキー=鉄}}
当路線には、軌道線から高速鉄道化への過程や戦時休止などにより、多くの[[廃駅]]が存在する。
; [[大横町駅]]
: [[1904年]][[5月8日]]開業。現在の[[北品川駅]]と新馬場駅の間に存在した。[[1908年]]廃止。
; [[黒門駅]]
: 1904年5月8日開業。上記の大横町駅と現在の新馬場駅の間に存在した。1904年12月廃止。
; 北馬場駅、南馬場駅<ref name="今尾2008−34">[[#今尾2008|今尾(2008)]]、p.34。</ref>
: 両駅とも1904年5月8日開業。北馬場駅は[[1943年]][[7月1日]]営業休止。[[1944年]][[11月10日]]廃止。[[1946年]]10月再開業。高架化の際に統合され'''[[新馬場駅]]'''となった。
; [[海晏寺駅]]
: 1904年5月8日開業。現在の[[青物横丁駅]]と[[鮫洲駅]]の間に存在した。1904年12月廃止。
; [[浜川駅]]<ref name="今尾2008−34" />
: 1904年5月8日開業。鮫洲駅と[[立会川]]駅の間、大井消防署前交差点付近に存在した。[[1942年]]7月1日営業休止。1944年11月10日<ref name="今尾2008−34" />廃止。
; [[土佐山駅]]<ref name="今尾2008−34" />
: 1904年5月8日開業。上記の浜川駅と立会川駅の間に存在した。[[1912年]][[5月9日]]廃止。駅名を'''体育会前駅'''<ref name="今尾2008−34" /><!--この文献に「土佐山」と「体育会前」の両説明記-->や'''学校前駅'''とする文献もある。
; [[鈴ヶ森駅]]
: 1904年5月8日開業<ref name="今尾2008−34" />。立会川駅と現在の[[大森海岸駅]]の間、[[国道15号]]架道橋の海岸側に存在した。高所に存在したが柵などの設備があまり整っていなかったことや、[[戦中|戦時中]]の[[防諜]]([[スパイ]]防止)などの理由により、1942年7月1日営業休止。廃止時期不明。[[1990年]]の架道橋架け替えまで、ホーム跡が長く形跡をとどめていた。
; [[大森駅 (東京都)|大森駅]]
: [[1901年]][[2月1日]]、'''大森停車場前駅'''として開業。開業から1904年[[5月7日]]までは本線の起点、5月8日からは[[京浜電気鉄道大森支線|大森支線]]の終点で、現在の大森海岸駅の隣に存在した。その後、'''大森駅'''に改称(改称時期不明)。[[1937年]][[3月8日]]廃止。
; [[大森八幡駅]]
: 1901年2月1日、'''海岸駅'''として開業。現在の大森海岸駅と[[平和島駅]]の間、大森北交差点付近に存在した。1904年5月8日、'''停車場道駅'''に改称。1904年 - [[1905年]]頃、'''八幡駅'''に改称。その後、'''大森八幡駅'''に改称(改称時期不明)。1943年7月1日営業休止。1944年11月10日<ref name="今尾2008−34" />廃止。
; [[大森海水浴場前駅]]
: [[1926年]] 、夏季営業のみの[[臨時駅]]として開業。上記の八幡駅と現在の平和島駅の間に存在した。[[1929年]]廃止。
; [[下町駅]]<ref name="今尾2008−34" />
: 1901年2月1日開業。現在の[[京急蒲田駅]]と[[雑色駅]]の間、南蒲田交差点付近に存在した。[[1923年]][[4月1日]]廃止。
; [[出村駅]]
: 1901年2月1日開業<ref name="今尾2008−34" />。上記の下町駅と雑色駅の間に存在した。車両の待避が可能な急行停車駅であったが、戦争により営業休止(休止時期不明)。[[1949年]]7月1日廃止。その後、跡地は京急蒲田駅付近高架化工事の用地となった。
; (駅名不詳)駅、八幡塚駅、中町駅
: 3駅とも1901年2月1日開業。八幡塚駅は'''六郷駅'''として開業。[[1902年]]、'''八幡塚駅'''に改称。[[1906年]][[10月1日]]の専用軌道化の際に3駅が統合され、'''六郷堤駅'''(現在の[[六郷土手駅]])となった。
; (駅名不詳)駅
: [[1909年]]に臨時駅として開業。現在の[[鶴見市場駅]]と[[京急鶴見駅]]の間に存在した。廃止時期不明。
; [[総持寺駅 (神奈川県)|総持寺駅]]
: [[1911年]][[11月1日]]開業<ref name="2006-78" /> 。現在の京急鶴見駅と[[花月総持寺駅]]の間、旧[[総持寺踏切]]南側に存在した。[[總持寺]]参拝のために設置された駅で、後に[[海岸電気軌道]]との乗換駅となった。1942年7月1日営業休止。1944年[[11月20日]]<ref name="2006-78" /><ref name="今尾2008−34" />廃止。
; [[キリン駅]]
: [[1932年]][[7月25日]]、'''キリンビール前駅'''として開業<ref name="今尾2008−34" />。生麦駅と現在の京急新子安駅の間に存在した。駅名の通り[[麒麟麦酒|キリンビール]]の工場付近に設置されていた。ビールは贅沢品であるという理由により、1944年10月20日、'''キリン駅'''に改称。戦争により営業休止<ref name="今尾2008−34" />(休止時期不明)。1949年7月1日廃止。
; [[反町駅 (京浜電気鉄道)|反町駅]]
: 1905年[[12月24日]]開業。現在の[[京急東神奈川駅]]と神奈川駅の間に存在した。[[1930年]][[3月29日]]廃止<ref name="今尾2008−34" />、それと同時に青木橋駅(現在の[[神奈川駅]])が開業。
; 京浜神奈川駅
: 1905年12月24日、'''神奈川停車場前駅'''として開業。開業から1929年[[6月21日]]までは本線の終点で、現在の神奈川駅と[[横浜駅]]の間、[[東海道本線]][[神奈川駅 (国鉄)|神奈川駅]](1928年廃止)と同じ位置に存在した。その後、'''神奈川駅'''に改称(改称時期不明)。[[1925年]]11月1日、'''京浜神奈川駅'''に改称。1930年[[4月6日]]に青木橋駅に統合されて廃止<ref name="今尾2008−34" /><ref>{{Cite web|和書|title=京急にも反町駅があった!? 二つの反町駅の歴史にせまる! - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト|url=https://web.archive.org/web/20200528045153/http://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=2752|website=web.archive.org|date=2020-05-28|accessdate=2020-05-28}}</ref> 、それと同時に青木橋駅が'''京浜神奈川駅'''(現在の神奈川駅)に改称<ref name="今尾2008−34" />。
; [[平沼駅 (京浜電気鉄道)|平沼駅]]<ref name="今尾2008−34" />
: [[1931年]][[12月26日]]開業。横浜駅と戸部駅の間に存在した。1943年7月1日営業休止。1944年11月20日<ref name="今尾2008−34" />廃止<ref>{{Cite web|和書|title=京急線の「旧平沼駅」って今後はどうなるの? - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト|url=https://web.archive.org/web/20200528042915/http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=569|website=web.archive.org|date=2020-05-28|accessdate=2020-05-28}}</ref>。なお、かつて東海道本線に存在した[[平沼駅 (国鉄)|平沼駅]] とは無関係。
== 沿線概況 ==
[[ファイル:京急衛星画像050.jpg|170px|thumb|京急の路線。本線は赤([[ランドサット]]衛星写真画像)]]
[[ファイル:Keikyu Main Line view from New Soutetsu Building.jpg|200px|サムネイル|根岸線をくぐる京急本線の列車(横浜駅の南側)]]
=== 泉岳寺 - 横浜 ===
この区間はおおむね[[国道15号]](第一京浜)と並行し、北北東から南南西へと線路が延びる。並行する[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]より[[東京湾]]側を通り、臨海部の[[工業地域]]にも近い。
海岸線近くの平地を進むが、京急川崎以南では[[高架橋|高架]]区間と地上区間が入り混じるため、その行き来のため急勾配となる箇所も複数存在する。[[路面電車]]を源流とする区間であるが{{Efn|大師線は創業時は全区間路面電車であったが京急本線は川崎以北のみ一部[[併用軌道]]が存在した。}}<ref>[[#吉本1999|吉本(1999)]] 、pp.12。</ref>、立会川駅以南では大きな速度制限を受ける曲線はない。京急線としては高架区間の比率が高いが、一部では地上を走行している。
都営浅草線に接続する泉岳寺駅と[[高架駅]]である品川駅の間には下り線33[[パーミル|‰]]、上り線38‰の急勾配が存在し、品川駅の南側では最小半径100m{{Efn|1956年の改良まで京急で最後の併用軌道が残っており当時の最小半径は50mであった}}<ref>『鉄道ピクトリアル』1998年7月号臨時増刊号(通算656号) pp.104 電気車研究会</ref>の急曲線で左に折れて JR各線を乗り越えており、速度も25km/hに制限される。直後に40km/h制限の半径140mのカーブで八ツ山通り・旧[[東海道]]の踏切を過ぎると北品川駅である。同駅先の踏切を過ぎると25‰の勾配で高架に駆け上がり、この先は六郷土手駅付近まで続く高架区間となる。
京急蒲田駅では空港線が分岐する。六郷土手駅を過ぎると[[多摩川]]を渡って神奈川県川崎市へ入り、京急川崎駅では高架上の本線から大師線への連絡線が分かれる。横浜市に入ると[[鶴見線]]や東海道貨物支線などと交差し、高架区間と地上区間を行き来しながら東海道本線と並行して進む。子安駅手前で東海道本線と離れると間もなく子安駅に着く。子安駅 - 神奈川新町駅は上り線が2線ある3線区間となっており、神奈川新町駅には[[新町検車区]]が隣接する。盛り土となっている京急東神奈川駅を超えると東海道本線と並行し、神奈川駅を通過して[[首都高速神奈川2号三ツ沢線|首都高速三ツ沢線]][[金港ジャンクション|金港JCT]]をくぐると横浜駅に到着する。
=== 横浜 - 金沢八景 ===
横浜以南では線路を南に向け、おおむね[[国道16号]]と並行する。横浜駅以北とは一転して丘陵地帯を縫うように進み、山岳トンネルも現れるようになる。沿線は拠点駅周辺を除くと住宅地となっている区間が多い。日ノ出町駅以南はかつて[[湘南電気鉄道]]により[[地方鉄道法|地方鉄道線]]として敷設された区間であり<ref>[{{NDLDC|1073631/10}} 鉄道省『鉄道統計資料』昭和7年度 第3編 監督](国立国会図書館デジタルコレクションより)</ref>、断続的に曲線区間が現れる。
横浜駅の南側では急曲線で[[根岸線]]をくぐり、[[野毛山公園|野毛山]]をトンネルで抜けると日ノ出町駅へ。ここから井土ヶ谷駅付近までは[[鉄道省]]が建設を計画していた京浜線(現:[[京浜東北線]])延長区間の用地が転用されており(詳細は「[[湘南電気鉄道#鉄道路線]]」を参照)、また、黄金町駅 - 上大岡駅間は[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]がおおむね南に並行する。その区間を抜けると南へ進路を変え、杉田付近で再び根岸線をくぐる。運行上の拠点である金沢文庫駅と金沢八景駅の間は複々線化されており、東に[[金沢検車区]]、西側には[[総合車両製作所]]横浜事業所が立地する。
=== 金沢八景 - 浦賀 ===
三浦半島へと入り、沿線は海岸近くまで山が迫る地形となる。そのためトンネルが連続し、谷となる箇所に駅が設けられている。曲線区間や勾配のある区間が多い。山がちな地形のため沿線の平地は密集した住宅地・商業地となっており、傾斜が急な箇所にも住宅地が造成されている。
金沢八景駅では追浜方で逗子線が平面交差して右手へ分岐する。横須賀市に入ると横須賀線が接近し、京急田浦駅 - 安針塚駅、逸見駅 - 汐入駅の両区間で京急本線が乗り越す。短いトンネルを抜けると横須賀市の[[横須賀中央駅#駅周辺|中心市街地]]に位置する横須賀中央駅を通過する。
堀ノ内駅からは[[京急久里浜線|久里浜線]]が分岐し、快特や特急のほとんどは久里浜方面へ直通する。[[馬堀海岸]]から[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]の付け根をトンネルで抜けると、[[黒船]]来航の町としても知られる終点の[[浦賀駅|浦賀]]となる。
== 連続立体交差事業 ==
=== 平和島駅 - 六郷土手駅間、京急蒲田駅 - 大鳥居駅間 ===
平面交差している[[東京都道311号環状八号線|環状8号線]]、[[国道15号|第一京浜]]などの道路と鉄道を立体交差化することにより、踏切における慢性的な交通渋滞の解消を図ると共に、道路・鉄道それぞれの安全性向上、鉄道による地域分断の解消を事業目的とした<ref name="highten"/>。事業主体は東京都建設局である。2000年12月の事業認可取得に始まり<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/cpproject/traffic/8_9_24/toshishisetsu8.html 京浜急行電鉄本線・空港線(京急蒲田駅付近)連続立体交差事業] 東京都都市整備局</ref>、2012年10月に下り線を高架化して<ref>{{Cite journal|和書|author=太田和幸 |date=2013-11 |url=https://doi.org/10.3151/coj.51.874 |title=京急蒲田駅付近連続立体交差事業 |journal=コンクリート工学 |ISSN=03871061 |publisher=日本コンクリート工学会 |volume=51 |issue=11 |pages=874-875 |naid=10031197029 |doi=10.3151/coj.51.874}}</ref>事業は完了した。
=== 泉岳寺駅 - 新馬場駅間 ===
東京都は、泉岳寺駅 - 新馬場駅間において[[連続立体交差事業]]の事業化を進めている<ref>{{Cite web|和書|title=品川は地上、北品川は高架…東京都、京急線連立化のアセス調査計画書作成|url=https://response.jp/article/2017/01/31/289709.html|publisher=[[Response.]]|date=2017-01-31|accessdate=2017-05-18}}</ref><ref name="rittai-tokyo" /><ref>[https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/road/kensetsu/gaiyo/renritsu23.html 京浜急行本線(泉岳寺駅~新馬場駅間)連続立体交差事業] 東京都建設局</ref>。2020年4月1日に国土交通省から都市計画事業の認可を取得<ref name="2020-04-01"/>。2029年度に事業完了予定<ref name="2020-04-01"/>。
== 注釈 ==
{{Notelist|refs=
{{Efn|name=代走1|京成3000形・3700形が代走するときがある。}}
}}
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book| 和書 | title=京急クロスシート車の系譜 | author=佐藤良介 | publisher=[[JTBパブリッシング]] | date=2003-09-01 | ISBN=4533049095 | ref=佐藤2003}}
* {{Cite book| 和書 | title=京急の駅 今昔・昭和の面影 | author=佐藤良介 | publisher=JTBパブリッシング | date=2006-02 | ISBN=9784533061752 | ref=佐藤2006}}
* {{Cite book| 和書 | title=京急電車の運転と車両探検 向上した羽田空港アクセスと車両の現況 | author=佐藤良介 | publisher=JTBパブリッシング | date=2014 | ref=佐藤2014 | ISBN=9784533097058 }}
* {{Cite book| 和書 | title=京急ダイヤの歴史 | author=高野光雄 | year=2011 | ref=高野2011}}<!--この書籍は調べてみると限定100部販売の私製本で東京都下・神奈川県下の公立図書館には所蔵がないため検証可能性の点で疑問です-->
* {{Cite book| 和書 | title=京急ダイヤ100年史 1899−1999 | author=吉本尚 | publisher=[[電気車研究会]] | date=1999-04-01 | ISBN=4885480930 | ref=吉本1999}}
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] | publisher = [[新潮社]] | volume = 4 関東2 | year = 2008 | ISBN=978-4-10-790022-7 |ref=今尾2008 }}
* {{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |date = 1998-11 |volume = 49 |issue = 11 |publisher = [[電気車研究会]] |ref=RP677 }}
* [http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/100507.shtml 京急報道発表資料]
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[百恵白書]] - [[山口百恵]]のスタジオ・アルバム。収録曲『I CAME FROM 横須賀』にて、京急本線の12駅が歌詞内に登場する。
== 外部リンク ==
* [https://www.keikyu.co.jp/ 京急電鉄(KEIKYU/京浜急行電鉄)]
* [https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/ 路線図・各駅情報] - 京浜急行電鉄(KEIKYU)
* [https://www.keikyu.co.jp/visit/haneda-airport/ 羽田空港アクセスガイド]- 京浜急行電鉄(KEIKYU)
{{日本における列車種別一覧}}
{{京浜急行電鉄の路線}}
{{デフォルトソート:けいきゆうほんせん}}
[[Category:京浜急行電鉄の鉄道路線|ほん]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|ほんせん]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:神奈川県の交通]]
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京急久里浜線
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久里浜線(くりはません)は、神奈川県横須賀市の堀ノ内駅と三浦市の三崎口駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
京急本線の快特や特急といった優等列車が多数乗り入れるため、支線であるにもかかわらず、本線である堀ノ内駅 - 浦賀駅間に対して実質的に本線の一部のような形で機能している。また、品川駅・横浜駅 - 京急久里浜駅(久里浜駅)間は東日本旅客鉄道(JR東日本)の横須賀線と競合関係にある。
三崎口駅からは三浦市の中心市街地である三崎地区や油壺地区への延伸計画があったが、2016年に計画は凍結された(「#路線の延伸計画」節を参照)。三崎漁港方面へは京浜急行バスが連絡している。沿線の三浦市は人口減少や高齢化に悩まされているものの、京急電鉄は企画乗車券「みさきまぐろきっぷ」の販売といった取り組みなどで首都圏の観光客や羽田空港からの訪日外国人客の誘致を行うことで、交流人口の増加に努めている。
京急本線は堀ノ内駅から浦賀方面へ向かうが、ほとんどの速達列車が久里浜線に直通し、実質的には久里浜線の方が本線のようになっている。1996年(平成8年)7月以前は快速特急(現・快特)が野比駅(現・YRP野比駅)・京急長沢駅を、1999年(平成11年)7月までは堀ノ内駅・新大津駅・北久里浜駅を通過していたが、同改正以降は全種別が久里浜線内各駅停車となっていた。2015年(平成27年)12月より「モーニング・ウィング号」の運行が開始され、16年ぶりに久里浜線内に通過駅のある列車が復活した。
久里浜線内のみ運転の列車はすべて停車駅が同一である。普通は平日朝に京急久里浜以北で設定され、それ以外の時間と京急久里浜以南では快特・特急のみが運行される。また土休日には普通の設定が1本もない。
快特と特急は8両編成、普通は6両編成で運行される。走行する車両はほとんどが京急車だが、朝夕のラッシュ時には東京都交通局の車両も一部使用され、2018年(平成30年)12月8日のダイヤ改正からは、平日に1往復のみ京成電鉄の車両も乗り入れている。
単線区間が多く残されており、久里浜線内では本線の快特よりもスピードが出にくくなっている。
2023年現在は以下の種別が運行されている。「モーニング・ウィング号」以外は久里浜線内ではいずれも各駅に停車する。
2015年12月7日運転開始。平日朝方の上り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、JRの「ホームライナー」に相当する。久里浜線内の乗車駅は三浦海岸駅のみであり、横須賀中央駅・金沢文庫駅・上大岡駅に停車するが、品川駅まで降車することはできない。乗車するにはWing Ticket(座席指定券)またはWing Pass(1か月定期券タイプ)が必要である。線内での使用車両は、3号が1000形1890番台4両編成、5号が2100形8両編成である。
平日夜間の下り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「ホームライナー」に相当する。すべての列車が久里浜線に乗り入れ、三崎口行または京急久里浜行(終点で三崎口行に接続)として運転されている。始発駅である品川駅から乗車する場合にはWing Ticket(座席指定券)またはWing Pass(1か月定期券タイプ)が必要だが、久里浜線内を含む上大岡駅 - 三崎口駅間については一般の「快特」として運行されるため、乗車券のみで乗車できる。
車両は、2ドアクロスシート8両編成が専用で用いられており、運行開始当初は2000形、2020年現在は2100形となっている。
現行ダイヤでは堀ノ内駅から本線に直通する系統・京急蒲田駅から空港線に直通する羽田空港発着系統・線内運転の系統があり、早朝・深夜を除くほぼ終日の設定がある。
1968年(昭和43年)に設定された「快速特急」が前身で、特急よりもさらに上位の種別として、それまで運転されていた三浦半島の観光地に向けた列車「ハイキング特急」を格上げする形で登場した。当初は土休日に特急の合間に何本か設定されているにすぎなかったが、通勤需要の拡大とともに徐々に設定時間と運転本数が拡大されていき、また本線末端の浦賀方面よりも久里浜線へ直通するダイヤに移行していった。1999年夏のダイヤ改正で、通称・略称として用いられていた「快特」が正式名称となり、同時に「特急」を置き換える形で大増発を行い、日中はほぼ10分に1本は確保されるようになった。この時都営浅草線・京成線・北総線(以下:都心方面)へ直通する快特も登場している。1999年以前より平日朝ラッシュ時上りにて運行されていた通勤快特(B特)は、旅客案内上、金沢文庫駅までは特急(汐入・追浜停車)として運転されるように変更された。そのため、平日朝ラッシュ時の久里浜線内は特急のみの運転となっている。 運行当初は久里浜線の津久井浜駅まで通過運転を行っていたが、1999年夏のダイヤ改正からは久里浜線内各駅停車となった。
2022年11月26日のダイヤ改正により、日中の快特の一部が特急に置き換えられ、日中は快特と特急が交互に運行される形となった。
現行ダイヤでの運行形態は以下の通り。
特急は、1968年(昭和43年)に「快速特急」(1999年のダイヤ改正より「快特」に名称変更)が設定されるまで最上位の種別であり、「快特」設定後も本数の多いダイヤの中心的な種別であったが、1999年夏のダイヤ改正から空港線に乗り入れる列車を除いた日中のすべての特急が快特に置き換わり、早朝深夜・朝夕ラッシュ時のみの運転となった。 2022年11月26日のダイヤ改正により、日中の快特の一部が特急に置き換えられ、日中は快特と特急が交互に運行される形となった。
現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。
現行ダイヤでは平日朝ラッシュ時のみの運転で、品川・羽田空港第1・第2ターミナル(着のみ)・京急川崎・金沢文庫 - 京急久里浜間の列車が設定されている。6両編成で運行されている。
京急久里浜駅 - 三崎口駅間は普通が設定されておらず、この区間のみを運転する列車も種別は快特もしくは特急となる。ただし、1998年のダイヤ改正までは三崎口発着の普通も設定されていた。
平日朝上りのみに設定。特急品川行きのうち、横浜駅に7時29分 - 8時25分に到着する列車は品川方先頭車が女性専用車となる。泉岳寺・都営線方面との直通列車には設定されていない。
毎年5月下旬頃に、久里浜工場(京急ファインテック久里浜事業所)で行われる『京急ファミリー鉄道フェスタ』開催時にのみ運行される臨時列車。「お帰り」という名の通り、久里浜工場信号所→京急久里浜駅間の下り列車のみであり、京急久里浜駅→久里浜工場信号所間の上り列車の運行はない。30分間隔で運転され、終点の京急久里浜駅では中線に到着し、上下線のどちらの列車にも同一ホームで乗り換えができるようになっている。運賃は京急久里浜駅から計算され、京急久里浜駅までの場合は入場券が必要となる。
成田山新勝寺参拝客の輸送を目的として、1969年(昭和44年)より1972年(昭和47年)まで三浦海岸 - 京成成田間に終夜運転で2往復運行された。車両は1000形、停車駅は京急線・都営線内は特急と同一、京成線内は臨時特急停車駅(京成津田沼 - 京成成田間無停車。押上 - 京成津田沼間でも特急と一部異なる)であった。1973年(昭和48年)も運行する予定であったが、東京都交通局の労働争議による反対から終夜運転を急遽中止し、そのまま廃止された。
1983年(昭和58年)より油壺マリンパーク集客を目的として、全日の快特・特急各1往復にヘッドマークを取付けて運転した。
快特については2000形が充当されるようになった時点でヘッドマークの取り付けが廃され、特急の1往復が京急の定期列車では唯一のヘッドマーク付きとなっていた。また、三崎口駅を発着する平日の快特は「マリンパーク号」だけであった。1998年(平成10年)11月のダイヤ改正で平日の快特がすべて三崎口駅発着となったこともあり、快特・特急ともに廃止された。
三崎口駅 - 油壺駅 - 三崎駅 (#路線の延伸計画を参照)
起点駅である堀ノ内駅は京急本線からの分岐点。本線は浦賀方面に続くがほとんどの速達列車は久里浜線に直通する。堀ノ内駅から新大津駅を抜け久里浜線内で利用客第2位の北久里浜駅に至る。北久里浜駅と京急久里浜駅の間には輸送上の拠点となる車両基地がある。
平作川に架かる鉄橋を渡ると路線の名前の由来にもなった京急久里浜駅である。京急久里浜駅は横須賀市内でも本線の横須賀中央駅に次いで乗降人員が多い駅であり駅ビルのウィング久里浜が隣接している。また、横須賀線の終着駅である久里浜駅に隣接するため乗換客も多い。ここからバスを利用し久里浜港に向かえる。久里浜港からは、南房総の金谷港を結ぶ東京湾フェリー及び、期間限定で東京港・伊豆諸島を結ぶ東海汽船に乗船することができる。
京急久里浜 - 京急長沢間は単線区間である。高架部分とトンネルを通過するとYRP野比駅に到着する。YRPとは電波情報通信技術に特化した研究開発拠点横須賀リサーチパークの略である。朝のラッシュ時には品川方面から乗車してきた旅客の多くがここで下車する。YRP野比駅から京急長沢駅、津久井浜駅にかけては車窓から現在でも住宅地混じりの田園風景が広がる。京急長沢付近から山側をみると大仏や五重塔を見ることができるがこれらは付近の霊園が昭和の終りごろに建造したものである。
京急長沢 - 三浦海岸間は複線区間に戻る。海岸付近を通っているが住宅や山林などがあるため車窓からはほとんどに海を見ることはできない。なお、この近くには北下浦海岸や三浦海岸といった海水浴場があるため夏を中心に賑わう。三浦海岸駅から終着駅三崎口駅へかけては再び内陸を走行する。付近には最近分譲された住宅地もあるがほとんどは農地か山林である。
久里浜線は三崎口駅で終点となり、三浦市の市役所所在地の三崎や城ヶ島、油壺、横須賀市の相模湾沿い地区方面へはここから京浜急行バスでアクセスする。
京急の前身である湘南電気鉄道は、三浦半島を一周する路線と途中の長井から分岐し三崎までの支線を計画しており、1923年(大正12年)8月27日にそのための地方鉄道の免許を取得していた。
京急は戦後、三浦半島南部の開発を進めるため、湘南電鉄が取得していた免許を活用し、久里浜線を三浦半島南部の三崎港付近に予定されていた「三崎駅(仮称)」まで延伸する構想を抱いていた。 しかし、市街地となっている三崎港付近での用地確保が困難なことから油壺以南の免許は1970年に取り下げられ、延伸計画は三浦海岸 - 油壺間4.3 km に短縮された。
1968年に油壺地区に京急油壺マリンパークが完成すると油壺延伸の機運は高まった。計画では油壺地区の東側にある丘陵地帯に駅を設け、付近にバスターミナルや住宅団地を併設、さらに駅前整備に連動する形で油壺地区や小網代地区の道路が整備される予定であった。
しかし、三浦海岸駅から2.2 kmの国道134号線との交点付近までは建設が進んだものの、そこから先では用地買収が難航し、さらには計画路線上の小網代地区が風致地区に指定されたことで、同地を通る鉄道建設とそれに付随するゴルフ場などの観光開発が困難になった。このため1975年に国道134号線と計画路線の交点付近に暫定的なターミナルとして三崎口駅を設置した。
三崎口 - 油壺間は、運輸政策審議会答申第18号にて2015年までに開業することが適当である路線として答申されていた。しかしながら、延伸には貴重な自然林であり神奈川県が保護を打ち出している「小網代の森」を通過する形で路線が敷設される計画のため環境保護団体の反対があり、三浦市初声町三戸地内での土地の買収も難航したため、京浜急行電鉄は一度三崎口 - 油壺間2.1 kmの免許を廃止することを決定、2005年(平成17年)10月7日、事業廃止届出書を国土交通省に提出した(12月24日廃止実施)。この時点では、免許の廃止は延伸計画を断念するものではなく、延伸工事を周辺開発計画と一体的に進める必要があることから、今後の周辺の農地造成事業の進捗等を踏まえ、土地区画整理事業等に合わせて事業計画を見直した上で再度事業許可申請を行うとしていたが、2016年(平成28年)3月16日、沿線人口の減少等を理由に、延伸事業と土地区画整理事業等による大規模宅地開発事業の凍結が決定され、延伸計画は事実上白紙となった。
三崎口駅南の国道134号を潜る形で僅かな距離だが線路は続いている。
1000形や1500系などの多くの車両に三崎駅行きの方向幕も用意されていたが、現在はない。
|
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"text": "久里浜線(くりはません)は、神奈川県横須賀市の堀ノ内駅と三浦市の三崎口駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。",
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"text": "京急本線の快特や特急といった優等列車が多数乗り入れるため、支線であるにもかかわらず、本線である堀ノ内駅 - 浦賀駅間に対して実質的に本線の一部のような形で機能している。また、品川駅・横浜駅 - 京急久里浜駅(久里浜駅)間は東日本旅客鉄道(JR東日本)の横須賀線と競合関係にある。",
"title": "概要"
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"text": "三崎口駅からは三浦市の中心市街地である三崎地区や油壺地区への延伸計画があったが、2016年に計画は凍結された(「#路線の延伸計画」節を参照)。三崎漁港方面へは京浜急行バスが連絡している。沿線の三浦市は人口減少や高齢化に悩まされているものの、京急電鉄は企画乗車券「みさきまぐろきっぷ」の販売といった取り組みなどで首都圏の観光客や羽田空港からの訪日外国人客の誘致を行うことで、交流人口の増加に努めている。",
"title": "概要"
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"text": "京急本線は堀ノ内駅から浦賀方面へ向かうが、ほとんどの速達列車が久里浜線に直通し、実質的には久里浜線の方が本線のようになっている。1996年(平成8年)7月以前は快速特急(現・快特)が野比駅(現・YRP野比駅)・京急長沢駅を、1999年(平成11年)7月までは堀ノ内駅・新大津駅・北久里浜駅を通過していたが、同改正以降は全種別が久里浜線内各駅停車となっていた。2015年(平成27年)12月より「モーニング・ウィング号」の運行が開始され、16年ぶりに久里浜線内に通過駅のある列車が復活した。",
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"text": "久里浜線内のみ運転の列車はすべて停車駅が同一である。普通は平日朝に京急久里浜以北で設定され、それ以外の時間と京急久里浜以南では快特・特急のみが運行される。また土休日には普通の設定が1本もない。",
"title": "運行形態"
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"text": "快特と特急は8両編成、普通は6両編成で運行される。走行する車両はほとんどが京急車だが、朝夕のラッシュ時には東京都交通局の車両も一部使用され、2018年(平成30年)12月8日のダイヤ改正からは、平日に1往復のみ京成電鉄の車両も乗り入れている。",
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"text": "単線区間が多く残されており、久里浜線内では本線の快特よりもスピードが出にくくなっている。",
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"text": "2023年現在は以下の種別が運行されている。「モーニング・ウィング号」以外は久里浜線内ではいずれも各駅に停車する。",
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"text": "2015年12月7日運転開始。平日朝方の上り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、JRの「ホームライナー」に相当する。久里浜線内の乗車駅は三浦海岸駅のみであり、横須賀中央駅・金沢文庫駅・上大岡駅に停車するが、品川駅まで降車することはできない。乗車するにはWing Ticket(座席指定券)またはWing Pass(1か月定期券タイプ)が必要である。線内での使用車両は、3号が1000形1890番台4両編成、5号が2100形8両編成である。",
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"text": "平日夜間の下り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「ホームライナー」に相当する。すべての列車が久里浜線に乗り入れ、三崎口行または京急久里浜行(終点で三崎口行に接続)として運転されている。始発駅である品川駅から乗車する場合にはWing Ticket(座席指定券)またはWing Pass(1か月定期券タイプ)が必要だが、久里浜線内を含む上大岡駅 - 三崎口駅間については一般の「快特」として運行されるため、乗車券のみで乗車できる。",
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"text": "車両は、2ドアクロスシート8両編成が専用で用いられており、運行開始当初は2000形、2020年現在は2100形となっている。",
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"text": "現行ダイヤでは堀ノ内駅から本線に直通する系統・京急蒲田駅から空港線に直通する羽田空港発着系統・線内運転の系統があり、早朝・深夜を除くほぼ終日の設定がある。",
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"text": "1968年(昭和43年)に設定された「快速特急」が前身で、特急よりもさらに上位の種別として、それまで運転されていた三浦半島の観光地に向けた列車「ハイキング特急」を格上げする形で登場した。当初は土休日に特急の合間に何本か設定されているにすぎなかったが、通勤需要の拡大とともに徐々に設定時間と運転本数が拡大されていき、また本線末端の浦賀方面よりも久里浜線へ直通するダイヤに移行していった。1999年夏のダイヤ改正で、通称・略称として用いられていた「快特」が正式名称となり、同時に「特急」を置き換える形で大増発を行い、日中はほぼ10分に1本は確保されるようになった。この時都営浅草線・京成線・北総線(以下:都心方面)へ直通する快特も登場している。1999年以前より平日朝ラッシュ時上りにて運行されていた通勤快特(B特)は、旅客案内上、金沢文庫駅までは特急(汐入・追浜停車)として運転されるように変更された。そのため、平日朝ラッシュ時の久里浜線内は特急のみの運転となっている。 運行当初は久里浜線の津久井浜駅まで通過運転を行っていたが、1999年夏のダイヤ改正からは久里浜線内各駅停車となった。",
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"text": "2022年11月26日のダイヤ改正により、日中の快特の一部が特急に置き換えられ、日中は快特と特急が交互に運行される形となった。",
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"text": "現行ダイヤでの運行形態は以下の通り。",
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"text": "特急は、1968年(昭和43年)に「快速特急」(1999年のダイヤ改正より「快特」に名称変更)が設定されるまで最上位の種別であり、「快特」設定後も本数の多いダイヤの中心的な種別であったが、1999年夏のダイヤ改正から空港線に乗り入れる列車を除いた日中のすべての特急が快特に置き換わり、早朝深夜・朝夕ラッシュ時のみの運転となった。 2022年11月26日のダイヤ改正により、日中の快特の一部が特急に置き換えられ、日中は快特と特急が交互に運行される形となった。",
"title": "列車種別"
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"text": "現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。",
"title": "列車種別"
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"text": "現行ダイヤでは平日朝ラッシュ時のみの運転で、品川・羽田空港第1・第2ターミナル(着のみ)・京急川崎・金沢文庫 - 京急久里浜間の列車が設定されている。6両編成で運行されている。",
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"text": "京急久里浜駅 - 三崎口駅間は普通が設定されておらず、この区間のみを運転する列車も種別は快特もしくは特急となる。ただし、1998年のダイヤ改正までは三崎口発着の普通も設定されていた。",
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"text": "平日朝上りのみに設定。特急品川行きのうち、横浜駅に7時29分 - 8時25分に到着する列車は品川方先頭車が女性専用車となる。泉岳寺・都営線方面との直通列車には設定されていない。",
"title": "列車種別"
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"text": "毎年5月下旬頃に、久里浜工場(京急ファインテック久里浜事業所)で行われる『京急ファミリー鉄道フェスタ』開催時にのみ運行される臨時列車。「お帰り」という名の通り、久里浜工場信号所→京急久里浜駅間の下り列車のみであり、京急久里浜駅→久里浜工場信号所間の上り列車の運行はない。30分間隔で運転され、終点の京急久里浜駅では中線に到着し、上下線のどちらの列車にも同一ホームで乗り換えができるようになっている。運賃は京急久里浜駅から計算され、京急久里浜駅までの場合は入場券が必要となる。",
"title": "列車種別"
},
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"text": "成田山新勝寺参拝客の輸送を目的として、1969年(昭和44年)より1972年(昭和47年)まで三浦海岸 - 京成成田間に終夜運転で2往復運行された。車両は1000形、停車駅は京急線・都営線内は特急と同一、京成線内は臨時特急停車駅(京成津田沼 - 京成成田間無停車。押上 - 京成津田沼間でも特急と一部異なる)であった。1973年(昭和48年)も運行する予定であったが、東京都交通局の労働争議による反対から終夜運転を急遽中止し、そのまま廃止された。",
"title": "列車種別"
},
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"text": "1983年(昭和58年)より油壺マリンパーク集客を目的として、全日の快特・特急各1往復にヘッドマークを取付けて運転した。",
"title": "列車種別"
},
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"text": "快特については2000形が充当されるようになった時点でヘッドマークの取り付けが廃され、特急の1往復が京急の定期列車では唯一のヘッドマーク付きとなっていた。また、三崎口駅を発着する平日の快特は「マリンパーク号」だけであった。1998年(平成10年)11月のダイヤ改正で平日の快特がすべて三崎口駅発着となったこともあり、快特・特急ともに廃止された。",
"title": "列車種別"
},
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"text": "三崎口駅 - 油壺駅 - 三崎駅 (#路線の延伸計画を参照)",
"title": "駅一覧"
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"text": "起点駅である堀ノ内駅は京急本線からの分岐点。本線は浦賀方面に続くがほとんどの速達列車は久里浜線に直通する。堀ノ内駅から新大津駅を抜け久里浜線内で利用客第2位の北久里浜駅に至る。北久里浜駅と京急久里浜駅の間には輸送上の拠点となる車両基地がある。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "平作川に架かる鉄橋を渡ると路線の名前の由来にもなった京急久里浜駅である。京急久里浜駅は横須賀市内でも本線の横須賀中央駅に次いで乗降人員が多い駅であり駅ビルのウィング久里浜が隣接している。また、横須賀線の終着駅である久里浜駅に隣接するため乗換客も多い。ここからバスを利用し久里浜港に向かえる。久里浜港からは、南房総の金谷港を結ぶ東京湾フェリー及び、期間限定で東京港・伊豆諸島を結ぶ東海汽船に乗船することができる。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "京急久里浜 - 京急長沢間は単線区間である。高架部分とトンネルを通過するとYRP野比駅に到着する。YRPとは電波情報通信技術に特化した研究開発拠点横須賀リサーチパークの略である。朝のラッシュ時には品川方面から乗車してきた旅客の多くがここで下車する。YRP野比駅から京急長沢駅、津久井浜駅にかけては車窓から現在でも住宅地混じりの田園風景が広がる。京急長沢付近から山側をみると大仏や五重塔を見ることができるがこれらは付近の霊園が昭和の終りごろに建造したものである。",
"title": "沿線概況"
},
{
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"text": "京急長沢 - 三浦海岸間は複線区間に戻る。海岸付近を通っているが住宅や山林などがあるため車窓からはほとんどに海を見ることはできない。なお、この近くには北下浦海岸や三浦海岸といった海水浴場があるため夏を中心に賑わう。三浦海岸駅から終着駅三崎口駅へかけては再び内陸を走行する。付近には最近分譲された住宅地もあるがほとんどは農地か山林である。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "久里浜線は三崎口駅で終点となり、三浦市の市役所所在地の三崎や城ヶ島、油壺、横須賀市の相模湾沿い地区方面へはここから京浜急行バスでアクセスする。",
"title": "沿線概況"
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"text": "京急の前身である湘南電気鉄道は、三浦半島を一周する路線と途中の長井から分岐し三崎までの支線を計画しており、1923年(大正12年)8月27日にそのための地方鉄道の免許を取得していた。",
"title": "路線の延伸計画"
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"text": "京急は戦後、三浦半島南部の開発を進めるため、湘南電鉄が取得していた免許を活用し、久里浜線を三浦半島南部の三崎港付近に予定されていた「三崎駅(仮称)」まで延伸する構想を抱いていた。 しかし、市街地となっている三崎港付近での用地確保が困難なことから油壺以南の免許は1970年に取り下げられ、延伸計画は三浦海岸 - 油壺間4.3 km に短縮された。",
"title": "路線の延伸計画"
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"text": "1968年に油壺地区に京急油壺マリンパークが完成すると油壺延伸の機運は高まった。計画では油壺地区の東側にある丘陵地帯に駅を設け、付近にバスターミナルや住宅団地を併設、さらに駅前整備に連動する形で油壺地区や小網代地区の道路が整備される予定であった。",
"title": "路線の延伸計画"
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"text": "しかし、三浦海岸駅から2.2 kmの国道134号線との交点付近までは建設が進んだものの、そこから先では用地買収が難航し、さらには計画路線上の小網代地区が風致地区に指定されたことで、同地を通る鉄道建設とそれに付随するゴルフ場などの観光開発が困難になった。このため1975年に国道134号線と計画路線の交点付近に暫定的なターミナルとして三崎口駅を設置した。",
"title": "路線の延伸計画"
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"text": "三崎口 - 油壺間は、運輸政策審議会答申第18号にて2015年までに開業することが適当である路線として答申されていた。しかしながら、延伸には貴重な自然林であり神奈川県が保護を打ち出している「小網代の森」を通過する形で路線が敷設される計画のため環境保護団体の反対があり、三浦市初声町三戸地内での土地の買収も難航したため、京浜急行電鉄は一度三崎口 - 油壺間2.1 kmの免許を廃止することを決定、2005年(平成17年)10月7日、事業廃止届出書を国土交通省に提出した(12月24日廃止実施)。この時点では、免許の廃止は延伸計画を断念するものではなく、延伸工事を周辺開発計画と一体的に進める必要があることから、今後の周辺の農地造成事業の進捗等を踏まえ、土地区画整理事業等に合わせて事業計画を見直した上で再度事業許可申請を行うとしていたが、2016年(平成28年)3月16日、沿線人口の減少等を理由に、延伸事業と土地区画整理事業等による大規模宅地開発事業の凍結が決定され、延伸計画は事実上白紙となった。",
"title": "路線の延伸計画"
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"text": "三崎口駅南の国道134号を潜る形で僅かな距離だが線路は続いている。",
"title": "路線の延伸計画"
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"tag": "p",
"text": "1000形や1500系などの多くの車両に三崎駅行きの方向幕も用意されていたが、現在はない。",
"title": "路線の延伸計画"
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] |
久里浜線(くりはません)は、神奈川県横須賀市の堀ノ内駅と三浦市の三崎口駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keikyu logo small.svg|50px|link=京浜急行電鉄]] 久里浜線
|路線色=deepskyblue
|ロゴ=File:Number prefix Keikyū.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Keikyu-Kurihama-Line Kawazu-cherry-blossoms.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=2100形電車による快特<br>(2019年3月 [[三浦海岸駅]] - [[三崎口駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[神奈川県]][[横須賀市]]、[[三浦市]]
|起点=[[堀ノ内駅]]
|終点=[[三崎口駅]]
|駅数=9駅
|路線記号=KK
|開業=[[1942年]][[12月1日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[京浜急行電鉄]]
|運営者=京浜急行電鉄
|車両基地=
|使用車両=[[京浜急行電鉄#車両]]<br />及び[[#運行形態|運行形態]]を参照
|路線距離=13.4 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]](堀ノ内 - 京急久里浜間、京急長沢 - 三浦海岸間)、[[単線]](左記以外)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]], <br> [[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図=
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|deepskyblue|white}}
{{BS-table}}
{{BS|HST|||KK01 [[品川駅]]}}
{{BS|LSTR|||}}
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{{BS3|STR+r|STR||||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[横須賀線]]}}
{{BS3|KBHFe|STR||||[[久里浜駅]]}}
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{{BS|TUNNEL1|||}}
{{BS|BHF|8.5|KK69 [[京急長沢駅]]|}}
{{BS|TUNNEL1|||}}
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{{BS|BHF|9.7|KK70 [[津久井浜駅]]|}}
{{BS|BHF|11.2|KK71 [[三浦海岸駅]]|}}
{{BS|KBHFe|13.4|KK72 [[三崎口駅]]|}}
|}
|}
[[ファイル:京急衛星画像100南.jpg|thumb|264x264px|赤色が[[京急本線]]、緑色の路線が'''久里浜線'''である。]]
'''久里浜線'''(くりはません)は、[[神奈川県]][[横須賀市]]の[[堀ノ内駅]]と[[三浦市]]の[[三崎口駅]]を結ぶ、[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道路線]]。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KK'''。
== 概要 ==
[[京急本線]]の[[快速特急|快特]]や[[特別急行列車|特急]]といった優等列車が多数乗り入れるため<ref>{{Cite web|和書|title=堀ノ内駅|work=路線図・各駅情報 |url=https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/KK61.html |publisher=京浜急行電鉄 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>、支線であるにもかかわらず、本線である堀ノ内駅 - [[浦賀駅]]間に対して実質的に本線の一部のような形で機能している。また、[[品川駅]]・[[横浜駅]] - [[京急久里浜駅]]([[久里浜駅]])間は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[横須賀線]]と競合関係にある。
三崎口駅からは三浦市の[[中心市街地]]である[[三崎町 (神奈川県)|三崎]]地区や[[油壺]]地区への延伸計画があったが、[[2016年]]に計画は凍結された(「[[#路線の延伸計画]]」節を参照)<ref>{{Cite web|和書|title=閉館するマリンパーク、この油壺への延伸を計画していた京急線 |url=https://www.tetsudo.com/column/150/ |website=鉄道コム |date=2021-09-30 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>。[[三崎漁港]]方面へは[[京浜急行バス]]が連絡している。沿線の三浦市は人口減少や高齢化に悩まされているものの<ref>{{Cite web|和書|title=京急、久里浜線延伸凍結 宅地開発も初の最終赤字 |url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/entry-72979.html |website=カナロコ by 神奈川新聞 |publisher=神奈川新聞社 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>、京急電鉄は[[特別企画乗車券|企画乗車券]]「[[みさきまぐろきっぷ]]」の販売といった取り組みなどで[[首都圏 (日本)|首都圏]]の観光客や[[東京国際空港|羽田空港]]からの[[訪日外国人旅行|訪日外国人客]]の誘致を行うことで、交流人口の増加に努めている<ref>{{Cite web|和書|title=第4回 かながわ観光大賞 受賞者の取組及び評価ポイント |url=https://www.pref.kanagawa.jp/docs/b6m/cnt/f80022/p726300.html |access-date=2023-01-29 |language=ja |publisher=神奈川県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20210512HP_21026TK02.pdf |title=都市近郊リゾート みうらの創生 |access-date=2023/01/30 |publisher=京浜急行電鉄}}</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離:13.4 km
* [[軌間]]:1435 mm
* 駅数:9駅(起終点駅含む)
* 複線区間:堀ノ内駅 - 京急久里浜駅、京急長沢駅 - 三浦海岸駅
* 電化区間:全線(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
* [[列車無線]]:[[誘導無線]]方式(IR)、デジタル空間波無線方式(デジタルSR)(併用)
* [[最高速度]]:110 km/h<ref name="terada" />
* その他特記事項:1954年に日本で初めての[[列車集中制御装置|CTC]]が導入された<ref name="yosimoto1999">吉本尚『京急ダイヤ100年史 1899〜1999』電気車研究会、1999年、pp.66,279</ref>。<!--{{要出典範囲|date=2020年4月|京急の路線でCTCが整備されているのは、当路線と[[京急大師線|大師線]]のみである}}。-->
== 運行形態 ==
[[京急本線]]は堀ノ内駅から[[浦賀駅|浦賀]]方面へ向かうが、ほとんどの[[優等列車|速達列車]]が久里浜線に直通し、実質的には久里浜線の方が[[本線]]のようになっている{{Efn|[https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/pdf/ros_vertical_map.pdf 京急の路線図]でも堀ノ内 - 三崎口(久里浜線)が本線格、堀ノ内 - 浦賀(本線)が支線格のように描かれている。}}。[[1996年]]([[平成]]8年)7月以前は快速特急(現・[[快速特急|快特]])が野比駅(現・YRP野比駅)・京急長沢駅を、[[1999年]](平成11年)7月までは堀ノ内駅・新大津駅・北久里浜駅を通過していたが、同改正以降は全種別が久里浜線内各駅停車となっていた。[[2015年]](平成27年)12月より「モーニング・ウィング号」の運行が開始され、16年ぶりに久里浜線内に通過駅のある列車が復活した。
久里浜線内のみ運転の列車はすべて停車駅が同一である。普通は平日朝に京急久里浜以北で設定され、それ以外の時間と京急久里浜以南では快特・特急のみが運行される<ref name=":0">{{PDFlink|[https://www.keikyu.co.jp/file.jsp?/assets/pdf/train-info/jikoku/KK65.pdf 新大津駅発電車標準時刻表]}} - 京浜急行電鉄</ref><ref name="KK67jikoku">{{PDFlink|[https://www.keikyu.co.jp/file.jsp?/assets/pdf/train-info/jikoku/KK67.pdf 京急久里浜駅発標準時刻表]}} - 京浜急行電鉄</ref>。また土休日には普通の設定が1本もない<ref name=":0" />。
快特と特急は8両編成、普通は6両編成で運行される。走行する車両はほとんどが京急車だが、朝夕のラッシュ時には[[東京都交通局]]の車両も一部使用され、[[2018年]](平成30年)12月8日のダイヤ改正からは、平日に1往復のみ[[京成電鉄]]の車両も乗り入れている。
単線区間が多く残されており、久里浜線内では本線の快特よりもスピードが出にくくなっている。
== 列車種別 ==
{{複数の問題
|section = 1
|出典の明記 = 2022年11月
|独自研究 = 2022年11月
|更新 = 2022年11月
|内容過剰 = 2022年11月
}}
{{See also|京急本線#列車種別}}
=== 現行の列車種別 ===
2023年現在は以下の種別が運行されている。「モーニング・ウィング号」以外は久里浜線内ではいずれも各駅に停車する。
==== モーニング・ウィング号 ====
{{Main|ウィング号 (京急)}}
2015年12月7日運転開始<ref name="kq20151205">{{Cite press release|和書|date=2015-09-09 |url=http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2015/20150909HP_15083MT.pdf |title=京急初!上り「モーニング・ウィング号」新設!12月5日土休日ダイヤ、7日平日ダイヤを改正 |publisher=京浜急行電鉄 |format=PDF |accessdate=2021-09-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304101328/http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2015/20150909HP_15083MT.pdf |archivedate=2016-03-04 }}</ref>。平日朝方の上り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、JRの「[[ホームライナー]]」に相当する。久里浜線内の乗車駅は三浦海岸駅のみであり、横須賀中央駅・金沢文庫駅・上大岡駅に停車するが、[[品川駅]]まで降車することはできない。乗車するにはWing Ticket(座席指定券)またはWing Pass(1か月[[定期券]]タイプ)が必要である。線内での使用車両は、3号が[[京急1000形電車 (2代)#20・21次車『Le Ciel』|1000形1890番台]]4両編成、5号が[[京急2100形電車|2100形]]8両編成である。
; 停車駅
: [[三浦海岸駅]] → [[横須賀中央駅]] → [[金沢文庫駅]] → [[上大岡駅]] → [[品川駅]] → [[泉岳寺駅]]
:* 品川駅・泉岳寺駅以外は降車不可
==== イブニング・ウィング号 ====
{{Main|ウィング号 (京急)}}
平日夜間の下り方面にのみ運転される、着席通勤を目的とした列車であり、他社の「[[ホームライナー]]」に相当する。すべての列車が久里浜線に乗り入れ、三崎口行または京急久里浜行(終点で三崎口行に接続)として運転されている。始発駅である品川駅から乗車する場合にはWing Ticket(座席指定券)またはWing Pass(1か月定期券タイプ)が必要だが、久里浜線内を含む上大岡駅 - 三崎口駅間については一般の「快特」として運行されるため、乗車券のみで乗車できる。
車両は、2ドアクロスシート8両編成が専用で用いられており、運行開始当初は[[京急2000形電車|2000形]]、2020年現在は[[京急2100形電車|2100形]]となっている。
; 停車駅
: [[品川駅]] → [[上大岡駅]] → [[金沢文庫駅]] → [[金沢八景駅]] → [[横須賀中央駅]] → [[堀ノ内駅]] -(久里浜線内各駅) - [[三崎口駅]]
==== 快特 ====
現行ダイヤでは[[堀ノ内駅]]から本線に直通する系統・[[京急蒲田駅]]から空港線に直通する[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]発着系統・線内運転の系統があり、早朝・深夜を除くほぼ終日の設定がある。
1968年(昭和43年)に設定された「快速特急」が前身で、特急よりもさらに上位の種別として、それまで運転されていた[[三浦半島]]の観光地に向けた列車「ハイキング特急」を格上げする形で登場した。当初は土休日に特急の合間に何本か設定されているにすぎなかったが、通勤需要の拡大とともに徐々に設定時間と運転本数が拡大されていき、また本線末端の浦賀方面よりも久里浜線へ直通するダイヤに移行していった。[[1999年]]夏のダイヤ改正で、通称・略称として用いられていた「快特」が正式名称となり、同時に「特急」を置き換える形で大増発を行い、日中はほぼ10分に1本は確保されるようになった。この時[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京成押上線|京成線]]・[[北総鉄道北総線|北総線]](以下:都心方面)へ直通する快特も登場している。1999年以前より平日朝ラッシュ時上りにて運行されていた通勤快特(B特)は、旅客案内上、金沢文庫駅までは特急([[汐入駅|汐入]]・[[追浜駅|追浜]]停車)として運転されるように変更された。そのため、平日朝ラッシュ時の久里浜線内は特急のみの運転となっている。
運行当初は久里浜線の[[津久井浜駅]]まで通過運転を行っていたが、1999年夏のダイヤ改正からは久里浜線内各駅停車となった。
2022年11月26日のダイヤ改正により、日中の快特の一部が特急に置き換えられ、日中は快特と特急が交互に運行される形となった<ref name="202211kaisei">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/cp/timetablerevision2022/index.html|title=京急線ダイヤ改正2022|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2022-12-04}}</ref>。
現行ダイヤでの運行形態は以下の通り。
; 本線直通系統
:* 泉岳寺・品川 - 京急久里浜・三崎口間
:** 日中時間帯は2ドアの2100形を中心に使用され、泉岳寺駅まで乗り入れる。泉岳寺駅では西馬込発着の快速と接続。朝夕は品川発着が多くなる。
:** 平日の日中は京急久里浜折返し、土休日は三崎口駅まで運行される。
:* 北総線 - 京急久里浜・三崎口間
:** 印旛日本医大発着は平日上り2本、下り1本のみ
:** 原則他事業者線内は普通となる。
:** 3ドア車8両編成で運転される。
:** 平日上り1本(都営車)、下り2本のみ印西牧の原 - 京急久里浜間。
:* '''成田スカイアクセス線''' 成田空港 - 京急久里浜間
:** 平日上り1本、土休日下り2本のみ
:** 京成線内はアクセス特急として運転される。
:** 2019年10月28日改正以降、平日上りについては京成車で運転される。
:** 3ドア直通運転対応車両が使用される。
:* 京成高砂・青砥 - 三崎口間(京成線内普通)
:** 1日の約半分がこの区間を往復している。
:** 原則京急車で運転される。
:** 平日下り1本のみ全区間快特。
; 空港線直通系統
:* 羽田空港 - 三浦海岸
:* 上り1本のみ
:* 上りの始発として、2100形を中心に使用されている。
; 線内運転系統
:* 2023年現在、久里浜線の全ての快特が本線と直通するため存在しない。
==== 特急 ====
[[ファイル:Toei_5300_Kitakurihama.JPG|thumb|200px|都営5300形による特急(北久里浜駅)]]
[[特別急行列車|特急]]は、1968年(昭和43年)に「快速特急」(1999年のダイヤ改正より「快特」に名称変更)が設定されるまで最上位の種別であり、「快特」設定後も本数の多いダイヤの中心的な種別であったが、1999年夏のダイヤ改正から空港線に乗り入れる列車を除いた日中のすべての特急が快特に置き換わり、早朝深夜・朝夕ラッシュ時のみの運転となった。
2022年11月26日のダイヤ改正により、日中の快特の一部が特急に置き換えられ、日中は快特と特急が交互に運行される形となった<ref name="202211kaisei"/>。
現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。
* 泉岳寺・品川 - 京急久里浜・三崎口
** 朝の時間帯と夕方以降の時間帯に運転される。
** 平日朝の下り1本の泉岳寺始発の担当車は都営車である。
** 平日夕方の下り1本の泉岳寺始発の担当車は京成車である。
** 土休日夜間は2100形も運転される。
* 印旛日本医大 - 三浦海岸
** 土休日下り1本のみ
** 他事業者線内は普通として運転される。
* 堀ノ内 - 京急久里浜 - 三浦海岸・三崎口
** 送り込みや車両交換のために設定されている。
* 金沢文庫 - 京急久里浜・三崎口
** 京急久里浜発は土休日上りの深夜1本のみ。
** 三崎口行きは平日、土休日の早朝1本のみ。
** 平日朝ラッシュ時の金沢文庫行は、金沢文庫駅にて増結及び快特に種別変更されて品川まで運転。この列車のみ女性車両連結。
* '''成田スカイアクセス線''' 成田空港 - 三崎口
** 成田スカイアクセス線経由
** 土休日上り3本のみで京成内はアクセス特急として運転。
* '''京成本線''' 成田空港 - 三崎口
** 京成本線経由
** 平日下り1本のみ。京成内は快速。
* 京成高砂・青砥 -京急久里浜・三崎口
** 原則他事業者線内は普通だが、一部列車において全区間特急として運転される。
* 京成佐倉 - 三崎口
** 上り1本のみ
** 京成佐倉にて、上野方面からの成田空港行きに接続。
* 押上 - 三崎口
** 上り1本・下り1本のみ
* 羽田空港第1・第2ターミナル - 京急久里浜
** 平日上り1本・下り1本のみ
==== 普通 ====
現行ダイヤでは平日朝ラッシュ時のみの運転で、品川・羽田空港第1・第2ターミナル(着のみ)・京急川崎・金沢文庫 - 京急久里浜間の列車が設定されている<ref name="KK67jikoku" />。6両編成で運行されている。
京急久里浜駅 - 三崎口駅間は普通が設定されておらず、この区間のみを運転する列車も種別は快特もしくは特急となる。ただし、1998年のダイヤ改正までは三崎口発着の普通も設定されていた<ref>{{Cite web|和書|title=京急久里浜駅時刻表 平日|url=https://web.archive.org/web/19980702140652/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/jikoku/kurihama.html|website=web.archive.org|date=1998-07-02|accessdate=2019-08-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=品川駅時刻表 平日|url=https://web.archive.org/web/19980702140458/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/jikoku/shinagawa.html|website=web.archive.org|date=1998-07-02|accessdate=2019-08-31}}</ref>。
=== 女性専用車 ===
平日朝上りのみに設定。特急品川行きのうち、横浜駅に7時29分 - 8時25分に到着する列車は品川方先頭車が[[女性専用車両|女性専用車]]となる。泉岳寺・都営線方面との直通列車には設定されていない。
=== 臨時列車 ===
==== お帰り臨時電車 ====
毎年5月下旬頃に、久里浜工場(京急ファインテック久里浜事業所)で行われる『[[京急ファミリー鉄道フェスタ]]』開催時にのみ運行される臨時列車。「お帰り」という名の通り、[[久里浜工場信号所]]→京急久里浜駅間の下り列車のみであり、京急久里浜駅→久里浜工場信号所間の上り列車の運行はない。30分間隔で運転され、終点の京急久里浜駅では中線に到着し、上下線のどちらの列車にも同一ホームで乗り換えができるようになっている。運賃は京急久里浜駅から計算され、京急久里浜駅までの場合は入場券が必要となる。
=== 過去の愛称付き定期列車・臨時列車 ===
==== 招運号 ====
[[成田山新勝寺]]参拝客の輸送を目的として、[[1969年]]([[昭和]]44年)より[[1972年]](昭和47年)まで三浦海岸 - [[京成成田駅|京成成田]]間に[[終夜運転]]で2往復運行された。車両は[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]、停車駅は京急線・都営線内は特急と同一、京成線内は臨時特急停車駅([[京成津田沼駅|京成津田沼]] - 京成成田間無停車。[[押上駅|押上]] - 京成津田沼間でも特急と一部異なる)であった。[[1973年]](昭和48年)も運行する予定であったが、[[東京都交通局]]の[[労働争議]]による反対から終夜運転を急遽中止し、そのまま廃止された<ref>鉄道ピクトリアル 1998年7月臨時増刊号「京浜急行電鉄」</ref><ref>鉄道ピクトリアル 1997年1月臨時増刊号「京成電鉄」</ref>。
==== マリンパーク号 ====
[[1983年]](昭和58年)より[[油壺マリンパーク]]集客を目的として、全日の快特・特急各1往復に[[ヘッドマーク]]を取付けて運転した。
快特については[[京急2000形電車|2000形]]が充当されるようになった時点でヘッドマークの取り付けが廃され、特急の1往復が京急の定期列車では唯一のヘッドマーク付きとなっていた{{Efn|ただし、快特のマリンパーク号については代走で数回[[京急600形電車 (3代)|3代目600形]]を充当したことがある。1995年10月に京浜急行電鉄により発売されたVHSビデオ『快走! KEIKYU 海を目指して風になる』では快特の方のマリンパーク号に運用された3代目600形による前面展望がこのビデオに収録されている(撮影のため本来の2000形の運用から振り替えたものであった。また、3代目600形もヘッドマークが掲出できない)。}}。また、三崎口駅を発着する平日の快特は「マリンパーク号」だけであった。[[1998年]](平成10年)11月のダイヤ改正で平日の快特がすべて三崎口駅発着となったこともあり、快特・特急ともに廃止された。
== 歴史 ==
* [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月1日]] - [[東京急行電鉄]]が湘南線の一部として、横須賀堀内(現・堀ノ内) - (仮)久里浜間を開業。
* [[1943年]](昭和18年)[[9月21日]] - (仮)久里浜 - 久里浜(現・京急久里浜)間が開業。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]] - 久里浜駅を湘南久里浜駅に改称。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[2月1日]] - 鳴神駅を新大津駅に、昭南駅を湘南井田駅に改称。
** [[6月1日]] - 東京急行電鉄から京浜急行電鉄が分離発足。
* [[1954年]](昭和29年)
** [[6月15日]] - 横須賀堀内 - 湘南井田間が複線化。
** [[6月25日]] - [[列車集中制御装置|CTC]]化<ref name="yosimoto1999" />。
* [[1959年]](昭和34年)[[3月15日]] - 湘南井田 - 湘南久里浜間が複線化。
* [[1961年]](昭和36年)[[9月1日]] - 横須賀堀内駅を堀ノ内駅に改称。
* [[1963年]](昭和38年)[[11月1日]] - 京浜久里浜 - 野比(現・YRP野比)間が開業。湘南井田駅を北久里浜に、湘南久里浜駅を京浜久里浜駅に改称。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[3月27日]] - 野比(現・YRP野比) - 津久井浜間が開業。
** [[7月7日]] - 津久井浜 - 三浦海岸間が開業。当初から複線。
* [[1975年]](昭和50年)[[4月26日]] - 三浦海岸 - 三崎口間が開業<ref>{{Cite news |和書|title=関東の私鉄に二つの新線 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-04-23 |page=2 }}</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)[[6月27日]] - 京浜長沢(現・京急長沢) - 津久井浜間が複線化。
* [[1987年]](昭和62年)[[6月1日]] - 京浜久里浜駅を京急久里浜駅に、京浜長沢駅を京急長沢駅に改称。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月19日]] - 京成車が乗り入れを開始。
* [[1993年]](平成5年)4月1日 - 都営車が乗り入れを開始。
* [[1998年]](平成10年)4月1日 - 野比駅をYRP野比駅に改称。
* [[2009年]](平成21年)[[2月14日]] - 保安装置を[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]に更新。
* [[2015年]](平成27年)[[7月7日]] - デジタル空間波列車無線(デジタルSR無線)の使用を開始<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 (No.935) p238 - p239、[[電気車研究会]]。</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[10月18日]] - 京急久里浜 - 三崎口間において、平日11時から15時を20分間隔にダイヤ改正。
* [[2022年]](令和4年)[[11月26日]] - ダイヤ改正。日中に10分間隔で運転されていた快特が、快特と特急の交互運行に変更される<ref name="202211kaisei"/>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[神奈川県]]内に所在。
* 「イブニング・ウィング号」・快特・特急・普通は全駅に停車する。
* 「モーニング・ウィング号」は三浦海岸駅のみの停車<ref name="kq20151205"/>。
; 凡例
: 停車駅 … ◎:停車(始発駅)、↑:通過(矢印の方向のみ運転)
: 線路 … ∥:複線区間、◇・△:単線区間([[列車交換]]可能)、△:単線区間の終点、∧:これより下は複線、∨:これより下は単線
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|[[駅ナンバリング|駅番号]]<br/>{{Efn|[[2010年]][[10月21日]]より導入。}}
!rowspan="2" style="width:8.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅間<br />営業キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px #00bfff; font-size:70%;"|{{縦書き|モーニング・ウィング号|height=11em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|所在地
|-
!style="width:3em; border-bottom:solid 3px deepskyblue; font-size:85%;"|堀ノ内から
!style="width:3em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|品川<br />から
|-
!KK61
|[[堀ノ内駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|52.3
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|京浜急行電鉄:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] '''[[京急本線|本線]]([[品川駅|品川]]方面直通運転)'''<br />※待避可能駅
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="8" style="white-space:nowrap;"|[[横須賀市]]
|-
!KK65
|[[新大津駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|53.1
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!KK66
|[[北久里浜駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|54.0
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!
|[[久里浜工場信号所]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|(2.6)
|style="text-align:right;"|(54.9)
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!KK67
|[[京急久里浜駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|56.8
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]]([[久里浜駅]]:JO 01)※待避可能駅・車庫所在駅
|style="text-align:center;"|∨
|-
!KK68
|[[YRP野比駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|7.2
|style="text-align:right;"|59.5
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!KK69
|[[京急長沢駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|8.5
|style="text-align:right;"|60.8
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|style="text-align:center;"|∧
|-
!KK70
|[[津久井浜駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|9.7
|style="text-align:right;"|62.0
|style="text-align:center; background:#9db;"|↑
|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!KK71
|[[三浦海岸駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|11.2
|style="text-align:right;"|63.5
|style="text-align:center; background:#9db;"|◎
|
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="2"|[[三浦市]]
|-
!KK72
|[[三崎口駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|13.4
|style="text-align:right;"|65.7
|
|
|style="text-align:center;"|△
|}
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]より京急久里浜駅とJR横須賀線久里浜駅との間の[[連絡運輸]]を[[定期乗車券|定期券]]に限り設定<ref>[http://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/index.html JR東日本:連絡定期券の発売範囲を拡大しました。]</ref>。
=== 未成区間 ===
[[三崎口駅]] - [[#路線の延伸計画|油壺駅]] - [[#路線の延伸計画|三崎駅]] ([[#路線の延伸計画]]を参照)
== 沿線概況 ==
起点駅である堀ノ内駅は京急本線からの分岐点。本線は[[浦賀駅|浦賀]]方面に続くがほとんどの速達列車は久里浜線に直通する。堀ノ内駅から新大津駅を抜け久里浜線内で利用客第2位の北久里浜駅に至る。北久里浜駅と[[京急久里浜駅]]の間には輸送上の拠点となる車両基地がある。
[[平作川]]に架かる鉄橋を渡ると路線の名前の由来にもなった京急久里浜駅である。京急久里浜駅は横須賀市内でも本線の[[横須賀中央駅]]に次いで乗降人員が多い駅であり駅ビルの[[京急ショッピングセンター|ウィング]]久里浜が隣接している。また、[[横須賀線]]の[[終着駅]]である[[久里浜駅]]に隣接するため乗換客も多い。ここからバスを利用し[[久里浜港]]に向かえる。久里浜港からは、[[房総半島|南房総]]の[[金谷港]]を結ぶ[[東京湾フェリー]]及び、期間限定で[[東京港]]・[[伊豆諸島]]を結ぶ[[東海汽船]]に乗船することができる。
京急久里浜 - 京急長沢間は[[単線]]区間である。高架部分とトンネルを通過するとYRP野比駅に到着する。YRPとは電波情報通信技術に特化した研究開発拠点[[横須賀リサーチパーク]]の略である。朝の[[ラッシュ時]]には品川方面から乗車してきた旅客の多くがここで下車する。YRP野比駅から京急長沢駅、津久井浜駅にかけては車窓から現在でも住宅地混じりの田園風景が広がる。京急長沢付近から山側をみると[[大仏]]や[[五重塔]]を見ることができるがこれらは付近の[[霊園]]が[[昭和]]の終りごろに建造したものである。
京急長沢 - 三浦海岸間は複線区間に戻る。海岸付近を通っているが住宅や山林などがあるため車窓からはほとんどに海を見ることはできない。なお、この近くには北下浦海岸や[[三浦海岸]]といった[[海水浴場]]があるため夏を中心に賑わう。三浦海岸駅から終着駅三崎口駅へかけては再び内陸を走行する。付近には最近分譲された住宅地もあるがほとんどは農地か山林である。
久里浜線は三崎口駅で終点となり、[[三浦市]]の市役所所在地の[[三崎町 (神奈川県)|三崎]]や[[城ヶ島]]、[[油壺]]、横須賀市の[[西 (横須賀市)|相模湾沿い地区]]方面へはここから[[京浜急行バス三崎営業所|京浜急行バス]]でアクセスする。
== 路線の延伸計画 ==
京急の前身である[[湘南電気鉄道]]は、[[三浦半島]]を一周する路線と途中の長井から分岐し[[三崎町 (神奈川県)|三崎]]までの支線を計画しており<ref name=pict>{{Cite journal |和書|author=青木栄一|authorlink= |title=京急電鉄のあゆみ〔戦後編〕-路線網の形成と地域開発- |date=1998-07 |publisher=電気車研究会 |journal=鉄道ピクトリアル |volume=48 |issue=7 |pages=106}}</ref>、1923年(大正12年)8月27日にそのための[[地方鉄道法|地方鉄道]]の免許を取得していた<ref>[{{NDLDC|2955484/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1923年10月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
京急は戦後、三浦半島南部の開発を進めるため、湘南電鉄が取得していた免許を活用し、久里浜線を三浦半島南部の[[三崎漁港|三崎港]]付近に予定されていた「三崎駅(仮称)」まで延伸する構想を抱いていた<ref name="pict"/><ref name=release051007/>。
しかし、市街地となっている三崎港付近での用地確保が困難なことから油壺以南の免許は1970年に取り下げられ<ref name=release051007/><ref>{{Cite book |和書 |author=森口誠之 |year=2001 |title=鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉 |publisher=JTB |pages=pp.77, 185}}</ref>、延伸計画は三浦海岸 - 油壺間4.3 km に短縮された。
[[1968年]]に[[油壺]]地区に[[京急油壺マリンパーク]]が完成すると油壺延伸の機運は高まった<ref name="hamarepo">{{Cite web|和書|author=やまだひさえ|date=2016-07-29|website=はまれぽ.com|url=https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=5439 |title=京急線が三崎口駅から先の延伸を凍結した理由は?|format= |work= |accessdate=2019-09-17}}</ref>。計画では油壺地区の東側にある丘陵地帯に駅を設け、付近にバスターミナルや住宅団地を併設、さらに駅前整備に連動する形で油壺地区や小網代地区の道路が整備される予定であった。
しかし、三浦海岸駅から2.2 kmの国道134号線との交点付近までは建設が進んだものの、そこから先では用地買収が難航し<ref name="toyo">{{Cite web|和書|author=草町 義和|date=2016-07-29|website=東洋経済オンライン|url=https://toyokeizai.net/articles/-/129121?page=2 |title=京急「赤字決算」があぶり出した幻の路線計画|format= |work= |accessdate=2019-09-17}}</ref>、さらには計画路線上の小網代地区が風致地区に指定されたことで、同地を通る鉄道建設とそれに付随するゴルフ場などの観光開発が困難になった<ref name="hamarepo"/>。このため1975年に国道134号線と計画路線の交点付近に暫定的な[[ターミナル駅|ターミナル]]として三崎口駅を設置した<ref name="toyo"/>。
三崎口 - 油壺間は、[[運輸政策審議会答申第18号]]にて[[2015年]]までに開業することが適当である路線として答申されていた<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/images/kotumo.pdf|title=具体的路線|work=東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(答申)|publisher=国土交通省|date=2000-01-27|accessdate=2019-09-16}}</ref>。しかしながら、延伸には貴重な自然林であり神奈川県が保護を打ち出している「[[小網代の森]]」を通過する形で路線が敷設される計画のため環境保護団体の反対があり、三浦市初声町三戸地内での土地の買収も難航したため、京浜急行電鉄は一度三崎口 - 油壺間2.1 kmの免許を廃止することを決定、2005年(平成17年)10月7日、事業廃止届出書を国土交通省に提出した<ref name=release051007>{{Cite press release |和書 |title=当社久里浜線延伸区間[三崎口〜油壺(仮称)間]の免許一旦取下げについて |publisher=京浜急行電鉄 |date=2005-10-07 |url=http://www.keikyu.co.jp/press/2005/20051007.html |accessdate=2016-03-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051212235606/http://www.keikyu.co.jp/press/2005/20051007.html |archivedate=2005年12月12日 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="h18youran-p14" />(12月24日廃止実施<ref name="h18youran-p14">{{Cite book |和書 |author=国土交通省鉄道局 監修 |year=2006 |title=[[鉄道要覧]] |volume=平成18年度 |publisher=電気車研究会・鉄道図書刊行会 |page=14}}</ref>)。この時点では、免許の廃止は延伸計画を断念するものではなく、延伸工事を周辺開発計画と一体的に進める必要があることから、今後の周辺の農地造成事業の進捗等を踏まえ、土地区画整理事業等に合わせて事業計画を見直した上で再度事業許可申請を行うとしていた<ref name=release051007/>が、2016年(平成28年)3月16日、沿線人口の減少等を理由に、延伸事業と土地区画整理事業等による大規模宅地開発事業の凍結が決定され、延伸計画は事実上白紙となった<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03-16 |url=http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1337371 |title=棚卸資産評価損および減損損失の計上に関するお知らせ |publisher=[[京浜急行電鉄]] |format=PDF |accessdate=2019-09-16 | archivedate=2017年11月10日 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20171110061552/http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1337371 | deadlinkdate=2019年9月}}</ref>。
三崎口駅南の[[国道134号]]を潜る形で僅かな距離だが線路は続いている。
<!--
計画当時、油壺駅との間は地下にされ、市役所の下にあらかじめ用意されていたスペースに当駅を置くつもりだった{{要出典|date=2015年12月}}。-->
[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]や[[京急1500形電車|1500系]]などの多くの車両に三崎駅行きの[[方向幕]]も用意されていたが<ref>吉本尚『京急ダイヤ100年史 1899〜1999』電気車研究会、1999年、p.187</ref>、現在はない。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Osm box|r|1994312}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[未成線]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keikyu.co.jp/ 京浜急行電鉄]
** [https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/ 路線図・各駅情報] - 京浜急行電鉄(KEIKYU)
{{京浜急行電鉄の路線}}
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[[Category:京浜急行電鉄の鉄道路線|くりはま]]
[[Category:関東地方の鉄道路線|くりはません]]
[[Category:神奈川県の交通]]
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京急大師線
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大師線(だいしせん)は、京急川崎駅と小島新田駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。全線が神奈川県川崎市川崎区内にある。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
「京急の創業路線」であり、路線名の通り沿線の川崎大師(平間寺)の参拝路線として開業した。寺社仏閣へのアクセスを目的とした日本初の参詣鉄道であった。また、当路線の輸送サービスと新聞などのプロモーションの影響により、正月に川崎大師に参拝することが庶民の間で人気となり、近代以降の初詣の一般化に大きな影響を与えた。現在は臨海部の京浜工業地帯への通勤路線としても機能している。基本的に線内折り返しの普通列車のみで、京急川崎駅で京急本線と接続している。
大師線は多摩川の南側を大師道(国道409号)に沿って東西方向に走っている。
京急川崎駅1階の大師線ホームを発車すると、北東へ直進して本線への連絡線および川崎変電所へ至る車両基地を右折し、東方へ直進して大師道(国道409号)を平面交差する。やがてカーブで減速し六郷橋(および旧六郷橋駅)の下をくぐる。そのまま徐行運転を続け、東南東方向にカーブし港町駅に至る。そして、ほぼ東へ直進し、運河橋梁付近を高架で通過し鈴木町駅付近で地上に戻る。そのまま地上を直進し川崎大師最寄りの川崎大師駅を出た付近で再び大師道(国道409号)と平面交差する。川崎大師駅からは東北東方向に約0.2kmほど進み、国道と並行して東方へ直進する。そのまま東門前駅を通ると、2019年に地下化された大師橋駅へ至り、ここで産業道路(神奈川県道6号)と、首都高速横羽線を立体交差で通過する。大師橋駅を過ぎると東南東方向に向きを変えて地上に上がり、終点の小島新田駅に達する。
2005年頃から港町駅 - 大師橋駅間の沿線で大規模マンション建設が相次ぎ、2007年から2016年の10年間だけでも沿線人口は33%増加した。鈴木町駅、川崎大師駅、東門前駅の南側は昔ながらの商店街も賑わっており、商店街の周辺に閑静な住宅地も広がっている。大師道(国道409号)より北側は多摩川リバーサイド地区、大師河原・殿町地区として大師線地下化事業や首都高速川崎線整備とともに都市再整備が進められ、工場跡地を利用した大規模マンションや複合商業施設の建設も行われた。
川崎大師で有名な大師線ではあるが、大師橋・産業道路以東に広がる工業地帯や、60を超える企業・機関が誘致されているキングスカイフロントへの通勤路線としての一面もあり、小島新田駅周辺からは浮島地区各社の通勤バスも発着している。また、大師線沿線から東京都心、横浜方面、羽田空港へのアクセスが良好なこともあり、沿線人口の増加とともに朝夕の乗客の流れに変化が起きている。
普通列車のみ運行されている。全列車が京急川崎駅 - 小島新田駅間を往復する運用で、他路線との直通や途中駅での折り返しはない。ワンマン運転は行われていない。
毎年大晦日から元日にかけては川崎大師参拝客のため終夜運転が行われる(2021年以降は未実施)。また、かつては本線からの直通電車が年末年始に運転されることがあった。1956年から1972年まで(1965年と1971年は工事の影響で運転せず)は品川からの直通急行が運転され、2000年代初頭の正月ダイヤでは本線からの直通列車が運転されたことがある。
基本的に平日ラッシュ時5分間隔、日中は10分間隔の運転となっているが、1月上旬の川崎大師参拝客輸送を始め、沿線行事やイベントのある日には日中6分間隔に増発される。
原則、京急川崎駅では3番線を使用する。車庫に入る場合のみ1番線を使用する。
各形式ともホーム有効長の関係上4両編成のみが運用される。このため、8両固定編成しかない2100形は入線できない。1500形、新1000形以外の形式は年末年始などに行われる増発時や検査時における車両不足の際にまれに運用されることがある。1500形以外の車両についても、1500形の廃車本格化に伴い、恒常的な運行を開始した。
1500V昇圧以降は140形、230形、400形、500形、700形、1000形、2000形などが使用された。800形については3両編成時代も含めて運用実績がなかった。
1899年(明治32年)川崎大師への参拝客輸送を目的として開業した、京浜急行電鉄最古の路線である。営業運転を行う鉄道としては日本で初めて標準軌を採用し、また電車による運行は関東で初めてのものである。人力車組合の反対で遅れていた現在の京急川崎駅への乗り入れも3年後の1902年に果たした。なお、大師駅から先、総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月総持寺駅間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の海岸電気軌道の手で1926年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・JR東日本鶴見線)に買収されたのち1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の川崎大師駅 - 大師橋駅間とほぼ一致しているが、大師橋駅からは産業道路に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である(「海岸電気軌道#海岸電軌廃線跡の現状」も参照)。
同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参拝客で大いに賑わうこととなり、それまで初詣といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である。開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった。
太平洋戦争中は陸上交通事業調整法により1942年から東京急行電鉄の運営となり、防諜上の理由により一部駅名を変更した。また、工業地帯への通勤輸送を担うため、海岸電気軌道の廃線跡を一部活用して桜本駅まで延伸された。
戦後、京浜急行電鉄として独立後の1952年に塩浜駅 - 桜本駅間を川崎市交通局(当時は交通部)に譲渡し、1964年には国鉄塩浜操車場(塩浜操駅・現在の川崎貨物駅)建設のため小島新田駅 - 塩浜駅間が休止され(小島新田駅も西に移転)、1970年に正式に廃止、現在の路線が確定した(「海岸電気軌道#京急大師線と川崎市電の臨海部延長」も参照)。
1949年より鈴木町駅 - 桜本駅間で下り線が1067 mm軌間との三線軌条となり、沿線の味の素川崎工場と、日本冶金工業から国鉄の貨物線への貨物輸送が行われた(さらに三線軌条の内側の1067 mm軌間は川崎市電日本鋼管前電停まで繋がっていた)。その後、前述の線路変更の結果、1964年以降は塩浜操車場(塩浜操駅)から川崎大師駅先にある味の素川崎工場までに短縮され、大師線の旅客列車終車後に味の素へ出入りする貨物列車が運転されていた(運行は神奈川臨海鉄道が請け負っていた)。1960年代の最盛期には1日2便運行されたが、トラック輸送およびコンテナへの移行により貨物列車の運行が減り(末期は不定期に週2日程度)、1997年に貨物輸送が廃止されたため、現在は通常の二線軌条となっている(「神奈川臨海鉄道#歴史」、「川崎市電#特徴のあった区間」も参照)。
廃止・譲渡区間の駅は「廃止・譲渡区間」の節を参照
小島新田駅 - 塩浜駅 - 入江崎駅 - 桜本駅
2019年度の1日平均乗降人員は下記のとおり。括弧内は2000年度の1日平均乗車人員。(乗車人員と乗降人員は異なる)
踏切解消等を目的とした「京浜急行大師線連続立体交差事業」として、小島新田駅を除くほぼ全線で地下化工事が計画されていた。JR川崎駅地下で川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄)に乗り入れる計画だったが、川崎縦貫高速鉄道は計画廃止となったため、大師線の地下化も計画が縮小された。
第1期区間とされた小島新田 - 川崎大師間のうち、大師橋駅の東側で大師線と直交する「産業道路」(神奈川県道6号東京大師横浜線)の踏切を優先的に解消させるため、小島新田 - 東門前間は2019年3月3日に地下化が完了した。
残る東門前 - 鈴木町間は2019年度に工事着手し(その後、2020年度に変更)、2023年度にそれぞれ地下化される計画となっていた。しかし、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行による社会経済状況の変化や、川崎市の財政難により事業費や工期・設計等の詳細な検討や精査を要することなどから、2020年度の工事着手は見送られることとなった。今後の計画については2021年度第3期実施計画(素案)で検討結果を明らかにする。これについて京急は感染症の影響等による減収・減益があり、工事着手は困難であると説明している。
第2期区間とされた川崎大師 - 京急川崎間は、路線を大きく南側に移設して地下化し、さらに国道15号との交差地点に新駅「宮前駅(仮称)」の設置が予定され、市役所など市の中枢機能が集中する同地区やカルッツかわさきへのアクセス改善が計画されていた。しかし、すぐに工事着手できない状況であることから、2016年3月29日付けで休止となり、その後、2017年10月27日に行われた平成29年度第1回川崎市公共事業評価審査委員会にて審議した結果、第2期区間と並行して都市決定されている川崎縦貫道路(高速部)1期事業も休止中で一体的な整備が困難であることや費用対効果などを勘案し、中止が決まった。今後は都市計画廃止・変更(鈴木町すり付け)手続きが予定されているほか、計画中止により残される踏切のうち、京急川崎 - 港町間の「本町踏切」(国道409号との交差箇所)は立体交差化による自動車ボトルネックの解消が検討されており、工法によって300億 - 550億円の概算見積りがなされている。一方、第2期区間中止の主因となった川崎縦貫道路は、東京外かく環状道路と一体化する形で国土交通省、東京都、川崎市の間で検討が進められ、整備再開の可能性も出てきている。
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"text": "2019年度の1日平均乗降人員は下記のとおり。括弧内は2000年度の1日平均乗車人員。(乗車人員と乗降人員は異なる)",
"title": "乗降人員"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "踏切解消等を目的とした「京浜急行大師線連続立体交差事業」として、小島新田駅を除くほぼ全線で地下化工事が計画されていた。JR川崎駅地下で川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄)に乗り入れる計画だったが、川崎縦貫高速鉄道は計画廃止となったため、大師線の地下化も計画が縮小された。",
"title": "連続立体交差事業(地下化)"
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"tag": "p",
"text": "第1期区間とされた小島新田 - 川崎大師間のうち、大師橋駅の東側で大師線と直交する「産業道路」(神奈川県道6号東京大師横浜線)の踏切を優先的に解消させるため、小島新田 - 東門前間は2019年3月3日に地下化が完了した。",
"title": "連続立体交差事業(地下化)"
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{
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"text": "残る東門前 - 鈴木町間は2019年度に工事着手し(その後、2020年度に変更)、2023年度にそれぞれ地下化される計画となっていた。しかし、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行による社会経済状況の変化や、川崎市の財政難により事業費や工期・設計等の詳細な検討や精査を要することなどから、2020年度の工事着手は見送られることとなった。今後の計画については2021年度第3期実施計画(素案)で検討結果を明らかにする。これについて京急は感染症の影響等による減収・減益があり、工事着手は困難であると説明している。",
"title": "連続立体交差事業(地下化)"
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"text": "第2期区間とされた川崎大師 - 京急川崎間は、路線を大きく南側に移設して地下化し、さらに国道15号との交差地点に新駅「宮前駅(仮称)」の設置が予定され、市役所など市の中枢機能が集中する同地区やカルッツかわさきへのアクセス改善が計画されていた。しかし、すぐに工事着手できない状況であることから、2016年3月29日付けで休止となり、その後、2017年10月27日に行われた平成29年度第1回川崎市公共事業評価審査委員会にて審議した結果、第2期区間と並行して都市決定されている川崎縦貫道路(高速部)1期事業も休止中で一体的な整備が困難であることや費用対効果などを勘案し、中止が決まった。今後は都市計画廃止・変更(鈴木町すり付け)手続きが予定されているほか、計画中止により残される踏切のうち、京急川崎 - 港町間の「本町踏切」(国道409号との交差箇所)は立体交差化による自動車ボトルネックの解消が検討されており、工法によって300億 - 550億円の概算見積りがなされている。一方、第2期区間中止の主因となった川崎縦貫道路は、東京外かく環状道路と一体化する形で国土交通省、東京都、川崎市の間で検討が進められ、整備再開の可能性も出てきている。",
"title": "連続立体交差事業(地下化)"
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] |
大師線(だいしせん)は、京急川崎駅と小島新田駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。全線が神奈川県川崎市川崎区内にある。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keikyu logo small.svg|50px|link=京浜急行電鉄]] 大師線
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|画像説明=大師線を走行する[[京急1500形電車|1500形]]<br>(2023年7月 [[京急川崎駅]] - [[港町駅]]間)
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|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
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{| {{Railway line header}}<!-- 地下化工事区間・1067mm引き込み線未筆、位置関係ご存じのかたは加筆お願いします -->
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*<nowiki>*</nowiki>: 1964休止、1970廃止
*<nowiki>**</nowiki>: 1951休止、1952川崎市に譲渡
*<nowiki>***</nowiki>: 1951以降に川崎市電停留所として開業
|}
|}
[[File:keikyu kawasakidaisi.JPG|thumb|180px|京浜急行電鉄発祥の地記念碑([[川崎大師駅]])]]
'''大師線'''(だいしせん)は、[[京急川崎駅]]と[[小島新田駅]]を結ぶ、[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道路線]]である。全線が[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]内にある。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KK'''。
== 概要 ==
「京急の創業路線」であり、路線名の通り沿線の[[平間寺|川崎大師]](平間寺)の参拝路線として開業した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=京急の最初の路線「大師電気鉄道」が開業した日 川崎~大師間 -1899.1.21 |url=https://trafficnews.jp/post/114281 |website=乗りものニュース| date=2022-01-21 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>。寺社仏閣へのアクセスを目的とした日本初の参詣鉄道であった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=鉄道トリビア(286) 初詣の慣習は鉄道会社の集客競争がきっかけで広まった |url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-286/ |website=マイナビニュース |date=2015-01-10 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>。また、当路線の輸送サービスと[[新聞]]などのプロモーションの影響により、[[正月]]に川崎大師に参拝することが庶民の間で人気となり、近代以降の[[初詣]]の一般化に大きな影響を与えた<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=初詣の成り立ちは鉄道のプロモーション?!初詣の意外な歴史に迫る! |url=https://omatsurijapan.com/blog/railroad-hatsumode/ |website=マツログ |publisher=オマツリジャパン |date=2020-12-28 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=初詣は「日本の伝統」じゃない! 実は、鉄道会社がつくり上げたものだった |url=https://merkmal-biz.jp/post/11152 |website=Merkmal(メルクマール) |date=2022-05-21 |access-date=2023-01-29 |language=ja}}</ref>。現在は臨海部の[[京浜工業地帯]]への通勤路線としても機能している<ref name=":0" />。基本的に線内折り返しの普通列車のみで、京急川崎駅で[[京急本線]]と接続している。
=== 路線データ ===
* 路線距離:4.5 km
* [[軌間]]:1435 mm
* 駅数:7駅(起・終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:60 km/h<ref name="himitu" />
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
* [[列車無線]]:[[誘導無線]]方式(IR)、デジタル空間波無線方式(デジタルSR)(併用)
== 沿線概況 ==
大師線は[[多摩川]]の南側を[[国道409号|大師道(国道409号)]]に沿って東西方向に走っている。
[[京急川崎駅]]1階の大師線ホームを発車すると、北東へ直進して本線への連絡線および川崎変電所へ至る車両基地を右折し、東方へ直進して大師道(国道409号)を平面交差する。やがてカーブで減速し[[六郷橋]](および旧[[六郷橋駅]])の下をくぐる。そのまま徐行運転を続け、東南東方向にカーブし[[港町駅]]に至る。そして、ほぼ東へ直進し、運河橋梁付近を高架で通過し[[鈴木町駅]]付近で地上に戻る。そのまま地上を直進し[[平間寺|川崎大師]]最寄りの[[川崎大師駅]]を出た付近で再び大師道(国道409号)と平面交差する。川崎大師駅からは東北東方向に約0.2kmほど進み、国道と並行して東方へ直進する。そのまま[[東門前駅]]を通ると、2019年に地下化された[[大師橋駅]]へ至り、ここで[[東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線|産業道路(神奈川県道6号)]]と、[[首都高速神奈川1号横羽線|首都高速横羽線]]を立体交差で通過する。大師橋駅を過ぎると東南東方向に向きを変えて地上に上がり、終点の[[小島新田駅]]に達する。
2005年頃から港町駅 - 大師橋駅間の沿線で大規模[[マンション]]建設が相次ぎ、2007年から2016年の10年間だけでも沿線人口は33%増加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/170/cmsfiles/contents/0000092/92587/rittaipawapo.pdf|title=京急大師線連続立体交差事業|accessdate=2020-10-11|publisher=川崎市}}</ref>。鈴木町駅、川崎大師駅、東門前駅の南側は昔ながらの商店街も賑わっており、商店街の周辺に閑静な住宅地も広がっている。大師道(国道409号)より北側は多摩川リバーサイド地区、大師河原・殿町地区として大師線地下化事業や[[首都高速神奈川6号川崎線|首都高速川崎線]]整備とともに都市再整備が進められ、工場跡地を利用した大規模マンションや[[複合商業施設]]の建設も行われた。
川崎大師で有名な大師線ではあるが、大師橋・産業道路以東に広がる工業地帯や、60を超える企業・機関が誘致されている[[キングスカイフロント]]への通勤路線としての一面もあり、小島新田駅周辺からは浮島地区各社の通勤バスも発着している。また、大師線沿線から東京都心、横浜方面、羽田空港へのアクセスが良好なこともあり、沿線人口の増加とともに朝夕の乗客の流れに変化が起きている。
== 運行形態 ==
普通列車のみ運行されている。全列車が京急川崎駅 - 小島新田駅間を往復する運用で、他路線との直通や途中駅での折り返しはない。[[ワンマン運転]]は行われていない。
毎年[[大晦日]]から[[元日]]にかけては川崎大師参拝客のため[[終夜運転]]が行われる(2021年以降は未実施)。また、かつては本線からの直通電車が年末年始に運転されることがあった。1956年から1972年まで(1965年と1971年は工事の影響で運転せず)は品川からの直通急行が運転され<ref>吉本尚 『京急ダイヤ100年史 1899−1999』 電気車研究会、1999年4月1日 p.110-p119</ref>、2000年代初頭の正月ダイヤでは本線からの直通列車が運転されたことがある<ref>{{Cite press release |和書 |title=京急初の横須賀方面〜川崎大師直通特別電車「だるまエクスプレス2003」運転 12月1日(日)から会員480名募集 |publisher=京浜急行電鉄 |date=2002-11-22 |url=http://www.keikyu.co.jp/press/2002/1122.html |accessdate=2015-08-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030202012933/http://www.keikyu.co.jp/press/2002/1122.html |archivedate=2003年2月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=年末年始、電車・バス輸送ダイヤについて |publisher=京浜急行電鉄 |date=2003-12-09 |url=http://www.keikyu.co.jp/press/mk_pre/20041209.pdf |format=PDF |accessdate=2015-08-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050210042226/http://www.keikyu.co.jp/press/mk_pre/20041209.pdf |archivedate=2005年2月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
基本的に平日ラッシュ時5分間隔、日中は10分間隔の運転となっているが、1月上旬の川崎大師参拝客輸送を始め、沿線行事やイベントのある日には日中6分間隔に増発される。
原則、京急川崎駅では3番線を使用する。車庫に入る場合のみ1番線を使用する。
== 使用車両 ==
* [[京急1500形電車|1500形]](2005年 - )
* [[京急1000形電車 (2代)|新1000形]](2008年 - )<ref>[http://railf.jp/news/2008/01/09/093900.html 京急新1000形が大師線運用に|鉄道ファンrailf.jp]2008年1月9日閲覧</ref>
* [[京急600形電車 (3代)|600形]](2016年 - )
各形式ともホーム[[有効長]]の関係上4両編成のみが運用される。このため、8両固定編成しかない[[京急2100形電車|2100形]]は入線できない。1500形、新1000形以外の形式は年末年始などに行われる増発時や検査時における車両不足の際にまれに運用されることがある。1500形以外の車両についても、1500形の廃車本格化に伴い、恒常的な運行を開始した。
=== 過去の使用車両 ===
1500V昇圧以降は[[京浜電気鉄道51号形電車|140形]]、[[湘南電気鉄道デ1形電車|230形]]、[[京急600形電車 (初代)|400形]]、[[京急500形電車|500形]]、[[京急700形電車 (2代)|700形]]、[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]、[[京急2000形電車|2000形]]などが使用された。[[京急800形電車 (2代)|800形]]については3両編成時代も含めて運用実績がなかった。
== 歴史 ==
1899年(明治32年)[[平間寺|川崎大師]]への参拝客輸送を目的として開業した、京浜急行電鉄最古の路線である。営業運転を行う鉄道としては日本で初めて[[標準軌]]を採用し、また電車による運行は関東で初めてのものである。[[人力車]]組合の反対で遅れていた現在の[[京急川崎駅]]への乗り入れも3年後の1902年に果たした。なお、大師駅から先、[[総持寺駅 (神奈川県)|総持寺駅]]([[京急本線]]の[[京急鶴見駅]] - [[花月総持寺駅]]間にあった駅)まで当初京浜電気鉄道(当時)自ら建設する予定であったが、別会社で建設されることになり、子会社の[[海岸電気軌道]]の手で1926年10月16日に大師 - 総持寺間が全通した。海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道(現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[鶴見線]])に買収されたのち1937年12月1日に廃止となった。海岸電気軌道線の大師 - 大師河原間は現在の[[川崎大師駅]] - [[大師橋駅]]間とほぼ一致しているが、大師橋駅からは[[東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線|産業道路]]に並行して総持寺へ向かっていた。同駅の手前から産業道路横浜方面へ伸びる細い道が海岸電気軌道線の跡である(「[[海岸電気軌道#海岸電軌廃線跡の現状]]」も参照)。
同線の開通以降川崎大師へは毎年各地からの参拝客で大いに賑わうこととなり、それまで[[初詣]]といえば地元の神社仏閣へ参拝するのが習慣であったものを、各地の有名社寺まで電車に乗って初詣をするという習慣に変えた歴史的にも意義のある路線である<ref>[[朝日放送テレビ|朝日放送]]『[[ビーバップ!ハイヒール]]』2009年12月17日放送。</ref>。開業後、会社の予想を大幅に超える収益を上げたことから京浜間に路線網を拡大する基礎を築くとともに、各地の電気軌道計画に影響を与えることとなった{{efn|開業後の一か月平均の収入が70 - 80円。火力発電などの経費を差し引いた純益が50円前後に上ったが、一因としては運賃が六郷橋 - 大師間で上等8銭・下等5銭と高かったこともある。1932年3月2日、[[横浜生絲取引所|横浜蚕糸外四品取引所]]に額面20円で株式上場したところ前場で22円80銭、後場で23円まで高騰した。}}。
[[太平洋戦争]]中は[[陸上交通事業調整法]]により1942年から[[東京急行電鉄]]の運営となり、防諜上の理由により一部駅名を変更した。また、工業地帯への通勤輸送を担うため、海岸電気軌道の廃線跡を一部活用して[[桜本駅]]まで延伸された。
戦後、京浜急行電鉄として独立後の1952年に[[塩浜駅 (神奈川県)|塩浜駅]] - 桜本駅間を[[川崎市交通局]](当時は交通部)に譲渡し、1964年には[[日本国有鉄道|国鉄]]塩浜操車場(塩浜操駅・現在の[[川崎貨物駅]])建設のため[[小島新田駅]] - 塩浜駅間が休止され(小島新田駅も西に移転)、1970年に正式に廃止、現在の路線が確定した(「[[海岸電気軌道#京急大師線と川崎市電の臨海部延長]]」も参照)。
1949年より鈴木町駅 - 桜本駅間で下り線が1067 mm軌間との[[三線軌条]]となり、沿線の[[味の素]]川崎工場と、[[日本冶金工業]]から国鉄の貨物線への貨物輸送が行われた(さらに三線軌条の内側の1067 mm軌間は[[川崎市電]]日本鋼管前電停まで繋がっていた)。その後、前述の線路変更の結果、1964年以降は塩浜操車場(塩浜操駅)から川崎大師駅先にある味の素川崎工場までに短縮され、大師線の旅客列車終車後に味の素へ出入りする[[貨物列車]]が運転されていた(運行は[[神奈川臨海鉄道]]が請け負っていた<ref>{{Cite book|和書|year=1993|month=03|title=鉄道ピクトリアル|publisher=電気車研究会}}</ref>)。1960年代の最盛期には1日2便運行されたが、[[貨物自動車|トラック]]輸送および[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]への移行により貨物列車の運行が減り(末期は不定期に週2日程度)、1997年に貨物輸送が廃止されたため、現在は通常の二線軌条となっている(「[[神奈川臨海鉄道#歴史]]」、「[[川崎市電#特徴のあった区間]]」も参照)。
=== 年表 ===
* [[1899年]]([[明治]]32年)
**[[1月21日]] - 大師電気鉄道により川崎駅(後の[[六郷橋駅]]) - 大師駅(現在の[[川崎大師駅]])間が開業。川崎駅、池端駅、大師駅が開業。
**[[4月25日]] - 大師電気鉄道が京浜電気鉄道に社名変更。
**[[11月29日]] - 全線が複線化。
* [[1902年]](明治35年)[[9月1日]] - 川崎駅が六郷橋駅に改称。本線の一部として川崎駅(現在の[[京急川崎駅]]) - 六郷橋駅間が開業。川崎駅、下新宿駅(後の新宿駅)が開業。
* [[1904年]](明治37年)[[3月1日]] - 全線が1372 mmに改軌。
* [[1906年]](明治39年)[[10月1日]] - 本線の川崎駅 - 六郷橋駅間が編入され起点駅が川崎駅に変更。
* [[1918年]]([[大正]]7年) - 発電所前駅が久根崎駅に改称。
* [[1925年]](大正14年)11月 - 川崎駅が京浜川崎駅、大師駅が川崎大師駅に改称。
<!--* [[1926年]](大正15年)[[10月16日]] - 海岸電気軌道大師 - 総持寺間開業。-->
* [[1926年]](大正15年)[[12月24日]] - 京浜国道(現・[[国道15号]])の改築に伴い六郷橋駅が新線上に移転し、京浜川崎駅 - 六郷橋駅間が経路変更・専用軌道化。旧線上の新宿駅が廃止。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月28日]] - 六郷橋駅 - 川崎大師駅間が経路変更・専用軌道化。旧線上の久根崎駅、池端駅が廃止。
* [[1929年]](昭和4年)
** (月日不明) - 河川事務所前駅(現在の[[港町駅]])が臨時駅として開業。
** [[12月10日]] - 味の素前駅(現在の[[鈴木町駅]])が開業。
* [[1931年]](昭和6年) - 河川事務所前駅が廃止。
* [[1932年]](昭和7年)[[3月21日]] - 河川事務所前駅がコロムビア前駅として再開業。
* [[1933年]](昭和8年)[[4月1日]] - 全線が1435 mmに再改軌。
<!--* [[1937年]](昭和12年)[[12月1日]] - 海岸電気軌道大師 - 総持寺間廃止。-->
* [[1942年]](昭和17年)[[5月1日]] - 京浜電気鉄道が[[東京急行電鉄]]に合併([[大東急]])。東急の路線(東急品川線の一部)となる。
* [[1943年]](昭和18年)
**[[6月1日]] - [[軌道法]]に基づく軌道線から[[地方鉄道法]]に基づく地方鉄道線に変更。
** [[6月30日]] - コロムビア前駅が休止。
* [[1944年]](昭和19年)
** (月日不明) - 六郷橋駅が休止。
** [[2月1日]] - コロムビア前駅が港町駅に改称され営業再開。
** 6月1日 - 川崎大師駅 - 産業道路駅(現在の[[大師橋駅]])間が開業(軌道法に基づく軌道線)。[[東門前駅]]、産業道路駅が開業。
** 10月1日 - 産業道路駅 - [[入江崎駅]]間が開業(軌道法に基づく軌道線)。[[小島新田駅]]、[[塩浜駅 (神奈川県)|塩浜駅]]、入江崎駅が開業。
** [[10月20日]] - 味の素前駅が鈴木町駅に改称。
* [[1945年]](昭和20年)[[1月7日]] - 入江崎駅 - [[桜本駅]]間が開業(軌道法に基づく軌道線)。大師線全通。桜本駅が開業。
* [[1948年]](昭和23年)6月1日 - 東京急行電鉄から京浜急行電鉄が分離発足。
** (月日不明) - 塩浜駅 - 桜本駅間が単線化。
* [[1949年]](昭和24年)[[7月1日]] - 休止中の六郷橋駅が廃止。
* [[1951年]](昭和26年)
** 3月 - 塩浜駅 - 桜本駅間が休止。
** [[3月16日]] - 京浜川崎駅 - 塩浜駅間の架線電圧が1500 V に昇圧され、塩浜駅 - 桜本駅間を除き京浜急行電鉄全線で架線電圧統一。600 V のままの塩浜駅 - 桜本駅間に[[川崎市電]]が乗り入れ開始。
* [[1952年]](昭和27年)[[1月1日]] - 塩浜駅 - 桜本駅間を川崎市へ譲渡し、川崎市電の一部となる。
* [[1956年]](昭和31年)
** [[10月18日]] - 港町駅が京浜川崎寄りに300 m移転。
** [[11月1日]] - [[列車集中制御装置]] (CTC) を新設<ref>{{Cite journal|和書|title=鉄道ニュース|journal=信号保安|date=1956-12-01|volume=11|issue=12|page=16|publisher=信号保安協会|issn=0286-3006|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2369650/1/10|quote=信号場の開設}}</ref>。
* [[1964年]](昭和39年)[[3月25日]] - 小島新田駅 - 塩浜駅間が塩浜操駅(現在の[[川崎貨物駅]])建設のため休止。小島新田駅が京浜川崎駅寄りに300m移転。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[11月12日]] - [[京急空港線|空港線]]とともに[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]の使用を開始。京浜急行電鉄全線のATS化が完了。
** [[11月20日]] - 小島新田駅 - 塩浜駅間が正式に廃止。現在の路線が確定。
* [[1977年]](昭和52年)[[5月10日]] - 川崎大師駅 - 小島新田駅間が軌道法に基づく軌道線から地方鉄道法に基づく地方鉄道線に変更。
* [[1987年]](昭和62年)6月1日 - 京浜川崎駅が京急川崎駅に改称。
* [[2009年]]([[平成]]21年)[[2月14日]] - 保安装置が[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]に更新。
* [[2010年]](平成22年)[[3月14日]] - 小島新田駅が1面2線化。
* [[2015年]](平成27年)[[7月7日]] - デジタル空間波列車無線(デジタルSR無線)の使用を開始<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 (No.935) p238 - p239、[[電気車研究会]]。</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月3日]] - 東門前駅 - 小島新田駅間が地下化。同時に産業道路駅-小島新田駅間が複線化され、全線複線化が完了<ref name="1期1区間地下化切り替え完了">[http://www.city.kawasaki.jp/530/page/0000105006.html 京急大師線連続立体交差事業(1期(1)区間)地下運行を開始しました。] - 川崎市建設緑政局、2019年3月5日閲覧。</ref>。
** 前日の[[3月2日]]営業運転終了後から地下化切替工事を開始。当日は始発から午前10時頃まで大師線全線を運休し、JR[[川崎駅]]東口バスターミナル([[横浜岡田屋|川崎モアーズ]]前) - ([[国道409号]]経由) - 小島新田児童公園前間で[[バス代行]]輸送が実施された(運行は[[川崎鶴見臨港バス]]が担当。一部駅付近の臨時バス停以外は各駅付近の同社既存バス停を活用)<ref>{{Cite web|和書|title=3月3日(日)大師線運休およびバス代行輸送実施のお知らせ |url=https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20190201HP_18232EW.html|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2020-05-19|language=ja}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)3月14日 - 産業道路駅が大師橋駅に改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|title=京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-16|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅が[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]内に所在する。ホーム[[有効長]]は4両編成分となっている。
* 京急川崎駅 - 港町駅間について、京急川崎駅の港町方には本線との連絡線があり、車両の検査や入れ替えの際に使用される。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|[[駅ナンバリング|駅番号]] <ref>[[2010年]][[10月21日]]より導入。</ref>
!style="width:8em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|接続路線
|-
!KK20
|[[京急川崎駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[京浜急行電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急本線|本線]]<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]([[上野東京ライン]])・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]]・[[ファイル:JR JN line symbol.svg|18px|JN]] [[南武線]]([[川崎駅]]:JT 04・JK 16・JN 01<ref group="*">京急川崎駅とJR東日本の川崎駅との間の[[連絡運輸]]は定期券でのみ行われている。</ref>)
|-
!KK21
|[[港町駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.2
|
|-
!KK22
|[[鈴木町駅]]
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|style="text-align:right;"|2.0
|
|-
!KK23
|[[川崎大師駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|2.5
|
|-
!KK24
|[[東門前駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|3.2
|
|-
!KK25
|[[大師橋駅]]<br /><small>【旧駅名 産業道路】</small>
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|3.8
|
|-
!KK26
|[[小島新田駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|4.5
|
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 廃駅 ===
廃止・譲渡区間の駅は「[[#廃止・譲渡区間|廃止・譲渡区間]]」の節を参照
; [[六郷橋駅]]
: 京急川崎 - 港町、1899年開業、1949年7月1日廃止
; 池端駅
: 六郷橋 - 川崎大師の旧線上、1899年開業、1928年12月28日廃止
=== 廃止・譲渡区間 ===
小島新田駅 - [[塩浜駅 (神奈川県)|塩浜駅]] - [[入江崎駅]] - [[桜本駅]]
* 塩浜駅 - 桜本駅間 : 架線電圧600Vのまま存置され、大師線の1500V昇圧時に川崎市に譲渡された。
* 小島新田駅 - 塩浜駅間 : 国鉄塩浜操車場の建設に伴い、1964年(昭和39年)に休止、1970年(昭和45年)正式に廃止となった。なお、川崎市電の塩浜電停 - 池上新田電停(旧入江崎駅と桜本駅の間に存在した電停)間は一足先の1967年(昭和42年)に廃止となっている。{{main|海岸電気軌道#塩浜操車場と市電撤去|川崎市電#塩浜 - 池上新田間の休止後}}{{see also|京浜急行バス羽田営業所#生見尾線|塩浜駅 (神奈川県)#休止後の代替バス}}
== 乗降人員 ==
2019年度の1日平均乗降人員は下記のとおり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/pdf/train-info_kakueki_avr.pdf|title=駅別一日平均乗降人員|accessdate=2021-4-9|publisher=京急電鉄}}</ref>。括弧内は2000年度の1日平均乗車人員<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/170/cmsfiles/contents/0000014/14044/hyo071.xls|title=川崎市統計書|accessdate=2021-1-1|publisher=川崎市}}</ref>。(乗車人員と乗降人員は異なる)
* 京急川崎駅:132,524人(52,445人) - 本線の旅客を含む
* 港町駅:7,963人(2,470人)
* 鈴木町駅:11,229人(3,841人)
* 川崎大師駅:18,231人(8,024人)
* 東門前駅:13,062人(3,644人)
* 大師橋駅:10,803人(4,262人)
* 小島新田駅:22,743人(12,056人)
== 連続立体交差事業(地下化) ==
[[踏切]]解消等を目的とした「京浜急行大師線連続立体交差事業」として、小島新田駅を除くほぼ全線で地下化工事が計画されていた。JR川崎駅地下で[[川崎縦貫高速鉄道]](川崎市営地下鉄)に乗り入れる計画だったが、川崎縦貫高速鉄道は計画廃止となったため、大師線の地下化も計画が縮小された。
第1期区間とされた小島新田 - 川崎大師間のうち、大師橋駅の東側で大師線と直交する「[[産業道路]]」([[東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線|神奈川県道6号東京大師横浜線]])の踏切を優先的に解消させるため、小島新田 - 東門前間は2019年3月3日に地下化が完了した<ref name="1期1区間地下化切り替え完了" />。
残る東門前 - 鈴木町間は2019年度に工事着手し<ref>{{Cite web|和書|title=道路施設等の計画的な老朽化・地震対策の推進について |url=https://www.city.kawasaki.jp/230/cmsfiles/contents/0000001/1421/h31_kunizentai3.pdf#page=8 |publisher=川崎市 |format=PDF |page=8 |accessdate=2019-01-25}}</ref>(その後、2020年度に変更<ref name="川崎市連立工事着手見送り">{{Cite conference|title=令和2年度 川崎市まちづくり委員会|url=https://www.city.kawasaki.jp/980/page/0000116491.html|conference=令和3年1月29日 大規模投資的事業についての資料|conferenceurl=https://www.city.kawasaki.jp/980/cmsfiles/contents/0000116/116491/210129-4.pdf#page=8|author=川崎市建設緑政局|format=PDF|pages=8-10|date=2021-1-29|accessdate=2021-02-06}}</ref>)、2023年度にそれぞれ地下化される計画となっていた<ref>{{Cite web|和書|title=京浜急行大師線連続立体交差事業 都市計画事業認可の変更について |url=https://www.city.kawasaki.jp/980/cmsfiles/contents/0000067/67733/280212machi3-2.pdf |publisher=川崎市 |format=PDF |accessdate=2016-04-29}}</ref>。しかし、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]](COVID-19)の流行による社会経済状況の変化や、川崎市の財政難により事業費や工期・設計等の詳細な検討や精査を要することなどから、2020年度の工事着手は見送られることとなった<ref name="川崎市連立工事着手見送り" />。今後の計画については2021年度第3期実施計画(素案)で検討結果を明らかにする<ref name="川崎市連立工事着手見送り" />。これについて京急は感染症の影響等による減収・減益があり、工事着手は困難であると説明している<ref name="川崎市連立工事着手見送り" />。
第2期区間とされた川崎大師 - 京急川崎間は、路線を大きく南側に移設して地下化し、さらに[[国道15号]]との交差地点に新駅「宮前駅(仮称)」の設置が予定され、市役所など市の中枢機能が集中する同地区や[[川崎市スポーツ・文化総合センター|カルッツかわさき]]へのアクセス改善が計画されていた。しかし、すぐに工事着手できない状況であることから、[[2016年]][[3月29日]]付けで休止となり<ref>{{Cite web|和書|title=京浜急行大師線連続立体交差事業 |url=https://www.city.kawasaki.jp/530/page/0000018287.html |publisher=川崎市 |date=2016-04-13 |accessdate=2016-04-27}}</ref>、その後、2017年10月27日に行われた平成29年度第1回川崎市公共事業評価審査委員会にて審議した結果、第2期区間と並行して都市決定されている[[川崎縦貫道路]](高速部)1期事業も休止中で一体的な整備が困難であることや費用対効果などを勘案し、中止が決まった<ref>{{PDFlink|[https://www.city.kawasaki.jp/170/cmsfiles/contents/0000092/92587/rittaisaihyoukatyousyo.pdf 連続立体交差事業 京浜急行大師線 平成29年度再評価実施事業 調書]}} - 川崎市、2019年3月3日閲覧。</ref>。今後は[[都市計画]]廃止・変更(鈴木町すり付け)手続きが予定されているほか、計画中止により残される踏切のうち、京急川崎 - 港町間の「本町踏切」([[国道409号]]との交差箇所)は立体交差化による自動車[[ボトルネック]]の解消が検討されており、工法によって300億 - 550億円の概算見積りがなされている<ref>{{Cite web|和書|title=京急大師線連続立体交差事業の今後の進め方について |url=https://www.city.kawasaki.jp/530/cmsfiles/contents/0000018/18287/town_planning_material.pdf |publisher=川崎市議会まちづくり委員会 |date=2019-02-08 |accessdate=2019-06-07}}</ref>。一方、第2期区間中止の主因となった川崎縦貫道路は、[[東京外かく環状道路]]と一体化する形で国土交通省、東京都、川崎市の間で検討が進められ<ref>{{Cite web|和書|title=東京都区間 {{!}} 道路 {{!}} 国土交通省 関東地方整備局|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000135.html|website=www.ktr.mlit.go.jp|accessdate=2020-04-09}}</ref>、整備再開の可能性も出てきている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<!-- 著者の五十音順 -->
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介 | title = 関東2 | series = 日本鉄道旅行地図帳 | publisher = [[新潮社]] | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790022-7 }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[海岸電気軌道]]
* [[川崎縦貫高速鉄道]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Keikyū Daishi Line}}
* [https://www.keikyu.co.jp/ride/kakueki/ 路線図・各駅情報] - 京浜急行電鉄(KEIKYU)
* {{Wayback|url=http://www2.famille.ne.jp/~masa-tee/l_kaigan/index.html|title=海岸電気軌道|date=20120306140713}}
* [https://news.mynavi.jp/article/20190203-keikyu120th/ 京急電鉄120年の歴史は大師線から始まった - 開業当時の経路を歩く] - マイナビニュース
{{京浜急行電鉄の路線}}
{{デフォルトソート:けいきゆうたいしせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|たいしせん]]
[[Category:京浜急行電鉄の鉄道路線|たいし]]
[[Category:神奈川県の交通]]
[[Category:部分廃止路線]]
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2003-09-29T12:34:21Z
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2023-12-29T06:54:27Z
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京急空港線
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空港線(くうこうせん)は、東京都大田区の京急蒲田駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。大田区内を東西に走り、東京国際空港(羽田空港)への空港アクセス路線としての役割を担うが、元々は羽田空港内に鎮座していた穴守稲荷神社への参詣路線「穴守線」として開業した。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
現在は東京モノレール羽田空港線と並ぶ「空港アクセス路線」であるが、当初は現在の羽田空港内に鎮座していた穴守稲荷神社の参拝客や、その周辺に整備された観光施設の利用客向けの観光路線「穴守線」として開業し、神社へのアクセスを目的とした日本初の参詣電車であった。現在でも穴守稲荷駅や大鳥居駅など、参詣電車として開業した名残が駅名に残っている。
1931年に現在の羽田空港の前身となる東京飛行場(羽田飛行場)が開港すると、徐々に飛行場の利用客も増加していったが、太平洋戦争後に連合国軍によって東京飛行場は接収され、飛行場拡張のために穴守稲荷神社や地域住民は強制退去となり、穴守線も海老取川以東が強制接収となった。
戦後長らくの間、空港アクセス路線としては事実上運用されず、沿線に遷った穴守稲荷神社の参拝客や沿線住民のみが利用するローカル支線であったが、1990年代末に羽田空港ターミナル下まで延伸を果たしてからは、再び空港アクセス路線の地位を得た。
現在は空港アクセスを主軸に沿線部の通勤路線としても機能している。
京急の支線としては唯一東京都内のみを経由する路線である。おおむね環八通りと併走しており、京浜間の主要道路との交点も多い。京浜工業地帯の一角ではあるが、中小・家内工業的な雰囲気のある地域を走っている。
京急蒲田駅の2階(本線上り)と3階(本線下り)からそれぞれ単線が分岐し、半径100mでほぼ直角にカーブしながら第一京浜と立体交差する。それぞれの線路は糀谷駅手前のシーサスクロッシングまで併走する単線並列区間となり、高架の糀谷駅に進入する。この区間は京急蒲田駅周辺の連続立体交差事業により2012年に高架化された区間(詳細は「京急蒲田駅#高架化」を参照)で、これによって京急蒲田駅構内のボトルネック(本線とは単線で接続していた)と第一京浜との平面交差が解消され、ダイヤの制約が大幅に軽減された。なお、第一京浜との立体交差が最初に計画されたのは大正時代であり、それから約90年を経ての完成となる(「国道15号#京浜国道改築」を参照)。
糀谷駅を発車すると急勾配を下り、短い地上区間を経て地下に潜り、産業道路と環八通りの交差点の直下に位置する大鳥居駅へ進入する。大鳥居駅付近は1985年から1997年にかけて地下化されたもので、これにより産業道路・環八通りとの平面交差が解消され、地上部の交差点改良も実施された。大鳥居駅を出ると地上に戻って首都高速羽田線羽田出入口の下をくぐる。
穴守稲荷駅を過ぎると、再び地下線区間に入り、海老取川をくぐった付近で南北に走る東海道貨物線と交差し、天空橋駅で同じく地下線の東京モノレールと連絡する。ここから東京国際空港(羽田空港)の敷地内となり、一部高架線のモノレールとほぼ並行しながら、第3旅客ターミナルの地下に位置する羽田空港第3ターミナル駅に到着する。この先、南へ迂回しながら新整備場駅を経由するモノレールに対し、空港線には途中駅がなく、直線的に空港の中心部へ向かう。終点の羽田空港第1・第2ターミナル駅は、第1旅客ターミナルと第2旅客ターミナルの間の地下にあり、東京湾岸道路(首都高速湾岸線・国道357号)と直交している。
全ての列車が京急蒲田駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間の全線通しで運転し、途中駅での折り返しはない。下り(羽田空港第1・第2ターミナル駅行き)の行き先はすべて「羽田空港行き」として案内される(羽田空港第3ターミナル駅および羽田空港第1・第2ターミナル駅の総称)。大半の列車は京急本線(品川方面・横浜方面)に直通し、線内折り返しは朝夕ラッシュ時にのみ見られる。快特とエアポート快特は線内に通過駅があり、それ以外の種別は各駅に停車する。線内の各駅は通過線を持たないため、緩急待避は行われない。
本線品川方面に直通する列車の多くはそのまま都営地下鉄浅草線に直通し、京成押上線・京成本線を経て北総鉄道北総線、京成成田空港線(成田スカイアクセス線)、京成東成田線、芝山鉄道線まで乗り入れる。成田スカイアクセス線の開業後は、スカイアクセス線と線路を共有している北総線方面に直通する列車が増発された。一方で京成本線京成船橋駅・京成佐倉駅・京成成田駅方面に直通していた列車の多くは青砥駅・京成高砂駅発着に変更された。
かつては毎年12月31日から翌年1月1日にかけて終夜運転を行っており、近年では最終電車を繰り下げていた。ただし羽田空港の警備上、営業区間は京急蒲田駅 - 穴守稲荷駅間とされ、穴守稲荷駅 -羽田空港国内線ターミナル駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)間は穴守稲荷駅での折り返しが不可能なことによる折り返しのための回送として運転されていた。2019年(2018年12月31日 - 2019年1月1日)以降は最終電車の繰り下げも実施されなくなった。
エアポート快特・快特・特急・急行・普通の5種別が運行される。日中(おおむね平日10時台 - 15時台、ならびに土休日9:30 - 19:30)は40分単位でダイヤが編成されており、40分あたりエアポート快特1本、快特(品川方面)1本、特急(品川方面)2本、急行(横浜方面)2本の割合で運行され、普通列車は運行されない。
都営浅草線への直通列車には京急の車両はあまり使われず、乗り入れ各社(京成・北総・都営)の車両による運用が中心となる。なお、速達列車はラインカラーで呼称される場合もある。
日中の運行パターンは以下の通りである。
各種別ごとの運行形態は以下の通り。
品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間で途中羽田空港第3ターミナル駅のみに停車する空港線の最速達列車で、40分間隔で運行される。空港線で唯一の品川方面専用種別である。2012年10月20日までは20分間隔となっていたが、翌10月21日の改正で約半数が快特に切り替えられたことで40分間隔となり、大部分の列車が成田スカイアクセス線直通列車となっている。2014年11月8日改正後の品川駅 - 羽田空港第3ターミナル駅間の所要時間は11分、品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間の所要時間は14分である。基本的に空港連絡を担う列車であり、平日の朝ラッシュ時には運転されない。
品川方面や横浜方面との直通列車が設定されている。空港線内の停車駅は京急蒲田駅と羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅のみとなっている。
なお、京急の支線内で通過駅を有する速達種別は空港線の「快特」・「エアポート快特」、久里浜線の「モーニング・ウィング号」のみである。
品川・都営浅草線方面への直通列車として、1997年10月に運行を開始した。それまで品川との間で運行されていた急行を置き換え、浅草線の西馬込 - 押上系統を統合したうえで浅草線直通としたもので、空港線内では各駅に停車する。1998年11月から1999年7月にはエアポート特急が存在したが、エアポート快特に統合された。その後は本線・都営浅草線直通列車として20分間隔で運転されるようになる。また、早朝には本線下り方(横浜方面)から直通する列車も後に登場している。
2002年10月には京急蒲田駅の改良によって本線下り方への直通が容易になり、同駅で進行方向を変え横浜方面へ直通する列車が大幅に増発された。日中には本線京急川崎駅 - 金沢文庫駅間で快特と併結され、新逗子駅(現逗子・葉山駅)・浦賀駅を発着する4両編成の列車が20分間隔で運行を始めた。羽田空港発の列車は京急川崎駅手前で一旦引上線上で停車し、後続の快特を先にホーム入線させ、その後部に連結していた。またこの列車は京急蒲田駅で本線の快特(下りは品川駅〈一部泉岳寺駅〉始発、上りは都営浅草線直通)と相互接続を図っていた。
2003年7月になると品川方面への列車はすべてエアポート快特・快特および急行に整理され、特急は本線横浜方面への列車のみとなった。この改正により、京急では日中に運行される特急列車は本線の快特と併結する空港線列車のみとなった。2010年5月、空港線直通列車の併結作業は基本的に中止となり、横浜方面への直通は単独で運転されるエアポート急行(後節参照)に変更された。
横浜方面との直通列車は、平日朝に京急久里浜、浦賀、逗子・葉山発羽田空港第1・第2ターミナル行きの列車と、平日深夜に羽田空港第1・第2ターミナル発金沢文庫、逗子・葉山、京急久里浜行きの運転がある。また、品川方面との直通については、2022年2月26日のダイヤ改正より品川始発1本、同年11月26日より、日中の北総線との直通電車も特急として運転されている。
品川・横浜方面への直通列車として、2010年5月16日に「エアポート急行」の名称で登場した。主に8両編成で運行され、品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面の2系統が運行されている。かつては早朝 - 朝ラッシュ時・夕方以降は品川・都営浅草線方面が中心に運行され、日中は品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面がそれぞれ20分間隔で運行されていた。2022年11月改正時点で日中は品川・都営浅草線方面の列車は快特または特急となり、京急川崎・横浜方面の列車が20分間隔で運行されている。空港線内は各駅に停車しており、北総線方面の特急(20分間隔)と交互運転で、日中に運行されない普通列車の代わりとなっている。品川・都営浅草線方面のエアポート急行は2010年5月15日までは「急行」として運転されていたが、翌日のダイヤ改正から「エアポート急行」に改称した。また、京急蒲田折り返し列車も当初は急行と名乗っていたものの、乗客から「紛らわしい」「分かりにくい」との声ですぐに普通に変更されている。同様の理由から2023年11月25日に実施されるダイヤ改正をもって品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面の双方とも「急行」に再び改称、「エアポート急行」は消滅した。
各駅停車で、早朝 - 朝ラッシュ時・夕方以降のみ運行される。基本的に線内ピストン運転で運行されるが、京急久里浜(発のみ)、浦賀、逗子・葉山(発のみ)、神奈川新町(着のみ)、品川(着のみ) - 羽田空港第1・第2ターミナル間で設定されている。線内運転の列車は多くが8両編成だが、本線直通列車および一部の線内運転列車は4両または6両の編成で運行される。
東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)では、2012年(第88回)まで往路1区と復路10区が京急蒲田駅そばの第一京浜にかかる踏切を通過していた。1月2日の往路では全出場校がすぐに通過するが、1月3日の復路ではトップの通過から最後尾までの差が30分程度開く。そのため、毎年1月3日には競技への影響を抑えるため、本線からの直通運転を中止し、以下の通り臨時ダイヤを組んでいた。
2011年(第87回)・2012年の臨時ダイヤは以下の通り。2010年、京急蒲田付近立体交差化事業の進捗に伴い、同年5月から一部高架の使用を開始した結果、当該踏切は、選手通過時間帯には列車を通過させない措置が可能となった。
2010年(第86回)までの臨時ダイヤは以下の通り。
2010年までは踏切付近に特設本部を設置、鶴見中継所(鶴見市場交番)と雑色駅付近に連絡要員を配備し、その情報と日本テレビで放送されるテレビ中継(『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』)を元に列車の運行と踏切閉鎖を決定していた。なお、選手が踏切で足止めされた時間はロスタイムとして計上された。
なお上下線共に高架化が完了した2013年(第89回)以降は、臨時ダイヤは実施せず通常通り運行されている。
1902年(明治35年)、現在の羽田空港にあたる鈴木新田にあった穴守稲荷神社への参拝客輸送のため、京浜電気鉄道(京浜電鉄)の穴守線として、蒲田駅(現在の京急蒲田駅)から現在の海老取川の手前に設けられた穴守駅間が単線の専用軌道で開業した。
当初は、まず川崎大師への参拝を済ませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった。その人々は多摩川を渡し船で渡り、穴守稲荷神社へと向かっていた。そこで、海老取川の岸から南側に曲がり、多摩川に突き当たった所で土手沿いに西へ進み、今の大師橋(その手前に羽田の渡しがあった)を越え、現在大師橋緑地になっている所にあり、川崎大師に最も近い渡し場であった中村の「新渡し」から渡し船を利用して、大師線に結ぶという構想がたてられた。その後、現在のルートである当時の京浜電鉄の駅で最も穴守稲荷神社に近い京浜蒲田から延伸することになった。なお、「神社」参詣者を輸送する「参詣電車」としては、日本初の開業である。
品川駅への延伸より先に穴守線が開通したのは、川崎大師への参詣客輸送の大成功が大きく影響し、これ以降、京浜電鉄は川崎大師と穴守稲荷の回遊を呼び物として、新聞での広告、回遊割引券の発売などあの手この手で集客を図るようになった。「川崎大師へ詣でるなら、穴守稲荷へも寄らなければ片参り」といった宣伝も行われたという。また、海老取川手前までの開通になったのは、神社周辺が既に住宅密集地であったことと、1903年(明治36年)に架橋された 稲荷橋 から穴守稲荷神社までの続く参道「稲荷道」の商店主や人力車稼業の人々が、商売にならなくなると反対した為といわれている。
当時は羽田支線とも呼称され、大森停車場前駅(後の大森駅)と穴守駅を結ぶ列車が運行されていた。1904年(明治36年)に品川駅(現在の北品川駅)- 海岸駅(現在の大森海岸駅)が開業すると、大森支線となった大森駅方面への直通はなくなり、(品川駅 - 大師駅〈現在の川崎大師駅〉間と)品川駅 - 穴守駅間の直通運転が主となった。当初穴守稲荷神社への参詣者輸送を主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家の押川春浪や押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた中沢臨川の働きかけにより、1909年(明治42年)に陸上トラック・野球場・テニスコート・弓道場・土俵のほか、花壇や遊園地も兼ね備えた羽田運動場(野球場)を神社裏手の江戸見崎に設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発に乗り出し、境内には動物園までつくられた。
1910年(明治43年)3月には、穴守線の複線化が行われ、8分間隔での運行が行われた。1911年(明治44年)7月5日には、京浜電鉄は羽田穴守海水浴場を開設し、報知新聞社と提携し同社の主催で、元内閣総理大臣大隈重信伯爵や渋沢栄一、樺太探検で有名な白瀬矗中尉などを来賓に迎え、開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後の同年7月16日には、1日1万人を越える入場者が来場したと新聞の記録に残されている。その後、羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には海の家や浄化海水プールも新設されている。これらの施設は、当時の海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩場2棟、収容人数は1万人、特別休憩室64室、3500人分の更衣室、東洋一と謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台やボートもあり、総タイル張りでシャワー設備等も設けた温浴場、滑り台やシーソー等を設置した陸上遊戯場、余興場、各種売店等、あらゆる施設を備えた一大娯楽施設だった。
同年10月、京浜電鉄は穴守線を神社のすぐ近くまで延伸することを計画し、東京府に申請を行った。しかし、この動きに対して再び「稲荷道」関係者が150名以上による延伸反対の陳情書を東京府知事に対して提出するなど反対運動を展開、これを受けて警視庁などが調停に乗り出し、稲荷橋駅から穴守新駅までの間は別に運賃を徴収するということで落着し、延伸が決まった。そして、1913年(大正2年)12月31日には、遂に穴守線が海老取川を渡って神社前までの延伸を果たし新穴守駅が開業した。
1931年、羽田飛行場(現在の東京国際空港)が建設されると、飛行場への旅客輸送も行われるように変化していった。
第二次世界大戦終結直前の1945年には空襲により駅が被災するなどしたが、列車の運行は続けられた。しかし、終戦を迎えると羽田飛行場が連合国軍に接収され、周辺の町も飛行場の拡張用地に充てられることになった。穴守稲荷神社や住民は強制退去となり、穴守線も稲荷橋以東の末端部が営業休止、残る区間も貨物線を建設するため単線化された。翌年には省線蒲田駅から空港内への貨物線が開業し、蒸気機関車による貨物輸送が開始された。さらに被災により車両数が減っていた中、先頭車両の半室を仕切る形で連合国軍専用車の運転も行われていた。当時は列車交換設備のない単線運転で、運転間隔は20分以上に開いてしまったとされる。
空港返還後は空港アクセスに使用されることもあったが、1964年に空港敷地内に乗り入れた東京モノレールの開業後は、地域輸送や現在の穴守稲荷駅近くへ遷座した穴守稲荷神社への参拝者輸送に徹することになった。京急元鉄道本部長中根啓介の証言によれば、東京オリンピックを前に運輸省からなされた空港乗り入れの打診を、本線の輸送力増強に専念するため断ったことで、1972年に再乗り入れの検討を始めて以降も、空港ターミナルへの乗り入れは長らく運輸省・東京都とも門前払いが続くことになった。
なお、この時期にも羽田空港駅が存在したが、空港とは海老取川を挟んだ対岸に位置し、空港ターミナルからは距離があった。羽田沖合展開工事が始まる頃にようやくバス連絡を始めたが、駅前が狭く小型から中型のバスしか入れないなど、空港アクセスとしてはほとんど機能していなかった。当時は本線との直通列車もなく(1966年 - 1968年にはわずかに存在)孤立した状態だったため、京急最古参の車両が常に使用されるなど近代化は大きく遅れ、冷房車の投入も1986年と本線に比べ著しく遅かった(この時に全列車が800形となり京急線でいち早く完全冷房化したが、1993年から約2年間は非冷房の都営5000形も入線している)。
羽田空港の沖合展開事業(沖展)の中、拡大する空港及びターミナルに対して東京モノレールだけでは増大する輸送量に対応できないとの判断から、念願の羽田空港乗り入れが認められた。1993年に羽田駅(現在の天空橋駅)が空港島内に開業して都心方面(本線・都営地下鉄浅草線)からの直通運転が開始。この時点では暫定的に同駅から東京モノレールへ乗り継ぐ形で空港アクセスを図っていたが、1998年には羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)が開業し旅客ターミナルビルと直結、羽田空港へのアクセス路線として本格的に機能するようになった。
この際に「京急、搭乗。」という航空会社のカウンターや旅客機の傍らに京急の車両(600形が使われた)が横付けするイメージ広告ポスターを製作して、京急線各駅や東日本旅客鉄道(JR東日本)の車両や駅などに掲出したほか(2002年に東京モノレールがJR東日本の傘下となって以降はJR線内ではほとんど行われなくなった)、他空港とそのアクセス鉄道・バス(南海電気鉄道、大阪モノレール、福岡市地下鉄など)にも積極的に出稿した。
さらに横浜、逗子・葉山方面や成田国際空港への直通列車も設定され、空港アクセス路線としてさらに積極的に活用されることになり、東京モノレールと激しい乗客獲得競争を繰り広げている。
東洋経済新報社は、2015年頭時点での羽田アクセスに対する京急と東京モノレールのシェア比を「6対4程度」と見込んだ上で、この年開通するJRの上野東京ラインが東京モノレールとの連絡駅の浜松町駅を通過して京急との連絡駅の品川駅に乗り入れることから、さらに京急が優位に立つだろうと分析している。
列車運用に関する内容の詳細は列車種別の節を参照。
天空橋駅 - 羽田空港駅(現・羽田空港第1・第2ターミナル駅)間開業当初より、羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅と穴守稲荷駅以遠の間を乗車する場合には対キロ程運賃に定額を加算する加算運賃が設定されている。
導入開始当初は加算額が170円(大人普通運賃、以下この節内同じ)で、穴守稲荷駅、大鳥居駅、糀谷駅および京急蒲田駅各駅との相互間は加算後の運賃から20 - 30円の割引を適用した特定運賃が設定されていた。この加算運賃で京急が得た収入は開業から2014年度末まででおよそ606億円にのぼる一方、羽田空港延伸に要した工事費はおよそ700億円、開業から2014年度末までに利払いや土地・施設の使用料として発生した金額はおよそ325億円である。
2022年頃には加算運賃の廃止時期を迎えるとする予想があったが、2019年2月19日に京急は同年10月の消費税率改定に伴う運賃改定と同時に、加算運賃を50円に変更する改定(及び空港線内における特定運賃設定の廃止)を行った。
一方、羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅から空港線・京急本線を経由して都営地下鉄浅草線やその直通先との間を乗車した際に、各社線の運賃合算額から60円(成田空港駅・空港第2ビル駅発着は80円)を割り引く「空港連絡特殊割引」制度が導入されていたが、2019年10月の加算運賃引き下げ後もこの割引額が変更されなかったため、空港線糀谷駅 - 天空橋駅間各駅発着の都営地下鉄方面との運賃が羽田空港発着よりも割高になる逆転現象が生じた。これの緩和のため、加算運賃引き下げ日より空港線の糀谷駅・大鳥居駅・穴守稲荷駅・天空橋駅と都営地下鉄・京成線(成田空港駅・空港第2ビル駅・千原線を除く)・北総線の各駅との間に企画乗車券「羽田みらいきっぷ」を発売した(往復方向で利用可能だが、空港線内該当駅でのみ販売)。
2022年3月12日より「空港連絡特殊割引」の割引額が10円引き下げられ50円(成田空港駅・空港第2ビル駅発着は70円)となり、加算運賃との逆転現象がなくなることから「羽田みらいきっぷ」の販売も終了。さらに2023年10月1日の運賃改定に伴って「空港連絡特殊割引」は全面廃止された。
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"text": "空港線(くうこうせん)は、東京都大田区の京急蒲田駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。大田区内を東西に走り、東京国際空港(羽田空港)への空港アクセス路線としての役割を担うが、元々は羽田空港内に鎮座していた穴守稲荷神社への参詣路線「穴守線」として開業した。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。",
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"text": "現在は東京モノレール羽田空港線と並ぶ「空港アクセス路線」であるが、当初は現在の羽田空港内に鎮座していた穴守稲荷神社の参拝客や、その周辺に整備された観光施設の利用客向けの観光路線「穴守線」として開業し、神社へのアクセスを目的とした日本初の参詣電車であった。現在でも穴守稲荷駅や大鳥居駅など、参詣電車として開業した名残が駅名に残っている。",
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"text": "1931年に現在の羽田空港の前身となる東京飛行場(羽田飛行場)が開港すると、徐々に飛行場の利用客も増加していったが、太平洋戦争後に連合国軍によって東京飛行場は接収され、飛行場拡張のために穴守稲荷神社や地域住民は強制退去となり、穴守線も海老取川以東が強制接収となった。",
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"text": "戦後長らくの間、空港アクセス路線としては事実上運用されず、沿線に遷った穴守稲荷神社の参拝客や沿線住民のみが利用するローカル支線であったが、1990年代末に羽田空港ターミナル下まで延伸を果たしてからは、再び空港アクセス路線の地位を得た。",
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"text": "現在は空港アクセスを主軸に沿線部の通勤路線としても機能している。",
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"text": "京急の支線としては唯一東京都内のみを経由する路線である。おおむね環八通りと併走しており、京浜間の主要道路との交点も多い。京浜工業地帯の一角ではあるが、中小・家内工業的な雰囲気のある地域を走っている。",
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"text": "京急蒲田駅の2階(本線上り)と3階(本線下り)からそれぞれ単線が分岐し、半径100mでほぼ直角にカーブしながら第一京浜と立体交差する。それぞれの線路は糀谷駅手前のシーサスクロッシングまで併走する単線並列区間となり、高架の糀谷駅に進入する。この区間は京急蒲田駅周辺の連続立体交差事業により2012年に高架化された区間(詳細は「京急蒲田駅#高架化」を参照)で、これによって京急蒲田駅構内のボトルネック(本線とは単線で接続していた)と第一京浜との平面交差が解消され、ダイヤの制約が大幅に軽減された。なお、第一京浜との立体交差が最初に計画されたのは大正時代であり、それから約90年を経ての完成となる(「国道15号#京浜国道改築」を参照)。",
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"text": "糀谷駅を発車すると急勾配を下り、短い地上区間を経て地下に潜り、産業道路と環八通りの交差点の直下に位置する大鳥居駅へ進入する。大鳥居駅付近は1985年から1997年にかけて地下化されたもので、これにより産業道路・環八通りとの平面交差が解消され、地上部の交差点改良も実施された。大鳥居駅を出ると地上に戻って首都高速羽田線羽田出入口の下をくぐる。",
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"text": "穴守稲荷駅を過ぎると、再び地下線区間に入り、海老取川をくぐった付近で南北に走る東海道貨物線と交差し、天空橋駅で同じく地下線の東京モノレールと連絡する。ここから東京国際空港(羽田空港)の敷地内となり、一部高架線のモノレールとほぼ並行しながら、第3旅客ターミナルの地下に位置する羽田空港第3ターミナル駅に到着する。この先、南へ迂回しながら新整備場駅を経由するモノレールに対し、空港線には途中駅がなく、直線的に空港の中心部へ向かう。終点の羽田空港第1・第2ターミナル駅は、第1旅客ターミナルと第2旅客ターミナルの間の地下にあり、東京湾岸道路(首都高速湾岸線・国道357号)と直交している。",
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"text": "全ての列車が京急蒲田駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間の全線通しで運転し、途中駅での折り返しはない。下り(羽田空港第1・第2ターミナル駅行き)の行き先はすべて「羽田空港行き」として案内される(羽田空港第3ターミナル駅および羽田空港第1・第2ターミナル駅の総称)。大半の列車は京急本線(品川方面・横浜方面)に直通し、線内折り返しは朝夕ラッシュ時にのみ見られる。快特とエアポート快特は線内に通過駅があり、それ以外の種別は各駅に停車する。線内の各駅は通過線を持たないため、緩急待避は行われない。",
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"text": "本線品川方面に直通する列車の多くはそのまま都営地下鉄浅草線に直通し、京成押上線・京成本線を経て北総鉄道北総線、京成成田空港線(成田スカイアクセス線)、京成東成田線、芝山鉄道線まで乗り入れる。成田スカイアクセス線の開業後は、スカイアクセス線と線路を共有している北総線方面に直通する列車が増発された。一方で京成本線京成船橋駅・京成佐倉駅・京成成田駅方面に直通していた列車の多くは青砥駅・京成高砂駅発着に変更された。",
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"text": "かつては毎年12月31日から翌年1月1日にかけて終夜運転を行っており、近年では最終電車を繰り下げていた。ただし羽田空港の警備上、営業区間は京急蒲田駅 - 穴守稲荷駅間とされ、穴守稲荷駅 -羽田空港国内線ターミナル駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)間は穴守稲荷駅での折り返しが不可能なことによる折り返しのための回送として運転されていた。2019年(2018年12月31日 - 2019年1月1日)以降は最終電車の繰り下げも実施されなくなった。",
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"text": "エアポート快特・快特・特急・急行・普通の5種別が運行される。日中(おおむね平日10時台 - 15時台、ならびに土休日9:30 - 19:30)は40分単位でダイヤが編成されており、40分あたりエアポート快特1本、快特(品川方面)1本、特急(品川方面)2本、急行(横浜方面)2本の割合で運行され、普通列車は運行されない。",
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"text": "都営浅草線への直通列車には京急の車両はあまり使われず、乗り入れ各社(京成・北総・都営)の車両による運用が中心となる。なお、速達列車はラインカラーで呼称される場合もある。",
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"text": "日中の運行パターンは以下の通りである。",
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"text": "各種別ごとの運行形態は以下の通り。",
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"text": "品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間で途中羽田空港第3ターミナル駅のみに停車する空港線の最速達列車で、40分間隔で運行される。空港線で唯一の品川方面専用種別である。2012年10月20日までは20分間隔となっていたが、翌10月21日の改正で約半数が快特に切り替えられたことで40分間隔となり、大部分の列車が成田スカイアクセス線直通列車となっている。2014年11月8日改正後の品川駅 - 羽田空港第3ターミナル駅間の所要時間は11分、品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間の所要時間は14分である。基本的に空港連絡を担う列車であり、平日の朝ラッシュ時には運転されない。",
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"text": "品川方面や横浜方面との直通列車が設定されている。空港線内の停車駅は京急蒲田駅と羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅のみとなっている。",
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"text": "なお、京急の支線内で通過駅を有する速達種別は空港線の「快特」・「エアポート快特」、久里浜線の「モーニング・ウィング号」のみである。",
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"text": "品川・都営浅草線方面への直通列車として、1997年10月に運行を開始した。それまで品川との間で運行されていた急行を置き換え、浅草線の西馬込 - 押上系統を統合したうえで浅草線直通としたもので、空港線内では各駅に停車する。1998年11月から1999年7月にはエアポート特急が存在したが、エアポート快特に統合された。その後は本線・都営浅草線直通列車として20分間隔で運転されるようになる。また、早朝には本線下り方(横浜方面)から直通する列車も後に登場している。",
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"text": "2002年10月には京急蒲田駅の改良によって本線下り方への直通が容易になり、同駅で進行方向を変え横浜方面へ直通する列車が大幅に増発された。日中には本線京急川崎駅 - 金沢文庫駅間で快特と併結され、新逗子駅(現逗子・葉山駅)・浦賀駅を発着する4両編成の列車が20分間隔で運行を始めた。羽田空港発の列車は京急川崎駅手前で一旦引上線上で停車し、後続の快特を先にホーム入線させ、その後部に連結していた。またこの列車は京急蒲田駅で本線の快特(下りは品川駅〈一部泉岳寺駅〉始発、上りは都営浅草線直通)と相互接続を図っていた。",
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"text": "2003年7月になると品川方面への列車はすべてエアポート快特・快特および急行に整理され、特急は本線横浜方面への列車のみとなった。この改正により、京急では日中に運行される特急列車は本線の快特と併結する空港線列車のみとなった。2010年5月、空港線直通列車の併結作業は基本的に中止となり、横浜方面への直通は単独で運転されるエアポート急行(後節参照)に変更された。",
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"text": "横浜方面との直通列車は、平日朝に京急久里浜、浦賀、逗子・葉山発羽田空港第1・第2ターミナル行きの列車と、平日深夜に羽田空港第1・第2ターミナル発金沢文庫、逗子・葉山、京急久里浜行きの運転がある。また、品川方面との直通については、2022年2月26日のダイヤ改正より品川始発1本、同年11月26日より、日中の北総線との直通電車も特急として運転されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "品川・横浜方面への直通列車として、2010年5月16日に「エアポート急行」の名称で登場した。主に8両編成で運行され、品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面の2系統が運行されている。かつては早朝 - 朝ラッシュ時・夕方以降は品川・都営浅草線方面が中心に運行され、日中は品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面がそれぞれ20分間隔で運行されていた。2022年11月改正時点で日中は品川・都営浅草線方面の列車は快特または特急となり、京急川崎・横浜方面の列車が20分間隔で運行されている。空港線内は各駅に停車しており、北総線方面の特急(20分間隔)と交互運転で、日中に運行されない普通列車の代わりとなっている。品川・都営浅草線方面のエアポート急行は2010年5月15日までは「急行」として運転されていたが、翌日のダイヤ改正から「エアポート急行」に改称した。また、京急蒲田折り返し列車も当初は急行と名乗っていたものの、乗客から「紛らわしい」「分かりにくい」との声ですぐに普通に変更されている。同様の理由から2023年11月25日に実施されるダイヤ改正をもって品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面の双方とも「急行」に再び改称、「エアポート急行」は消滅した。",
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"text": "各駅停車で、早朝 - 朝ラッシュ時・夕方以降のみ運行される。基本的に線内ピストン運転で運行されるが、京急久里浜(発のみ)、浦賀、逗子・葉山(発のみ)、神奈川新町(着のみ)、品川(着のみ) - 羽田空港第1・第2ターミナル間で設定されている。線内運転の列車は多くが8両編成だが、本線直通列車および一部の線内運転列車は4両または6両の編成で運行される。",
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"text": "東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)では、2012年(第88回)まで往路1区と復路10区が京急蒲田駅そばの第一京浜にかかる踏切を通過していた。1月2日の往路では全出場校がすぐに通過するが、1月3日の復路ではトップの通過から最後尾までの差が30分程度開く。そのため、毎年1月3日には競技への影響を抑えるため、本線からの直通運転を中止し、以下の通り臨時ダイヤを組んでいた。",
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"text": "2011年(第87回)・2012年の臨時ダイヤは以下の通り。2010年、京急蒲田付近立体交差化事業の進捗に伴い、同年5月から一部高架の使用を開始した結果、当該踏切は、選手通過時間帯には列車を通過させない措置が可能となった。",
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"text": "2010年(第86回)までの臨時ダイヤは以下の通り。",
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"text": "2010年までは踏切付近に特設本部を設置、鶴見中継所(鶴見市場交番)と雑色駅付近に連絡要員を配備し、その情報と日本テレビで放送されるテレビ中継(『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』)を元に列車の運行と踏切閉鎖を決定していた。なお、選手が踏切で足止めされた時間はロスタイムとして計上された。",
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"text": "なお上下線共に高架化が完了した2013年(第89回)以降は、臨時ダイヤは実施せず通常通り運行されている。",
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"text": "1902年(明治35年)、現在の羽田空港にあたる鈴木新田にあった穴守稲荷神社への参拝客輸送のため、京浜電気鉄道(京浜電鉄)の穴守線として、蒲田駅(現在の京急蒲田駅)から現在の海老取川の手前に設けられた穴守駅間が単線の専用軌道で開業した。",
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"text": "当初は、まず川崎大師への参拝を済ませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった。その人々は多摩川を渡し船で渡り、穴守稲荷神社へと向かっていた。そこで、海老取川の岸から南側に曲がり、多摩川に突き当たった所で土手沿いに西へ進み、今の大師橋(その手前に羽田の渡しがあった)を越え、現在大師橋緑地になっている所にあり、川崎大師に最も近い渡し場であった中村の「新渡し」から渡し船を利用して、大師線に結ぶという構想がたてられた。その後、現在のルートである当時の京浜電鉄の駅で最も穴守稲荷神社に近い京浜蒲田から延伸することになった。なお、「神社」参詣者を輸送する「参詣電車」としては、日本初の開業である。",
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"text": "当時は羽田支線とも呼称され、大森停車場前駅(後の大森駅)と穴守駅を結ぶ列車が運行されていた。1904年(明治36年)に品川駅(現在の北品川駅)- 海岸駅(現在の大森海岸駅)が開業すると、大森支線となった大森駅方面への直通はなくなり、(品川駅 - 大師駅〈現在の川崎大師駅〉間と)品川駅 - 穴守駅間の直通運転が主となった。当初穴守稲荷神社への参詣者輸送を主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家の押川春浪や押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた中沢臨川の働きかけにより、1909年(明治42年)に陸上トラック・野球場・テニスコート・弓道場・土俵のほか、花壇や遊園地も兼ね備えた羽田運動場(野球場)を神社裏手の江戸見崎に設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発に乗り出し、境内には動物園までつくられた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "1910年(明治43年)3月には、穴守線の複線化が行われ、8分間隔での運行が行われた。1911年(明治44年)7月5日には、京浜電鉄は羽田穴守海水浴場を開設し、報知新聞社と提携し同社の主催で、元内閣総理大臣大隈重信伯爵や渋沢栄一、樺太探検で有名な白瀬矗中尉などを来賓に迎え、開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後の同年7月16日には、1日1万人を越える入場者が来場したと新聞の記録に残されている。その後、羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には海の家や浄化海水プールも新設されている。これらの施設は、当時の海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩場2棟、収容人数は1万人、特別休憩室64室、3500人分の更衣室、東洋一と謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台やボートもあり、総タイル張りでシャワー設備等も設けた温浴場、滑り台やシーソー等を設置した陸上遊戯場、余興場、各種売店等、あらゆる施設を備えた一大娯楽施設だった。",
"title": "歴史"
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"text": "同年10月、京浜電鉄は穴守線を神社のすぐ近くまで延伸することを計画し、東京府に申請を行った。しかし、この動きに対して再び「稲荷道」関係者が150名以上による延伸反対の陳情書を東京府知事に対して提出するなど反対運動を展開、これを受けて警視庁などが調停に乗り出し、稲荷橋駅から穴守新駅までの間は別に運賃を徴収するということで落着し、延伸が決まった。そして、1913年(大正2年)12月31日には、遂に穴守線が海老取川を渡って神社前までの延伸を果たし新穴守駅が開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "1931年、羽田飛行場(現在の東京国際空港)が建設されると、飛行場への旅客輸送も行われるように変化していった。",
"title": "歴史"
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"text": "第二次世界大戦終結直前の1945年には空襲により駅が被災するなどしたが、列車の運行は続けられた。しかし、終戦を迎えると羽田飛行場が連合国軍に接収され、周辺の町も飛行場の拡張用地に充てられることになった。穴守稲荷神社や住民は強制退去となり、穴守線も稲荷橋以東の末端部が営業休止、残る区間も貨物線を建設するため単線化された。翌年には省線蒲田駅から空港内への貨物線が開業し、蒸気機関車による貨物輸送が開始された。さらに被災により車両数が減っていた中、先頭車両の半室を仕切る形で連合国軍専用車の運転も行われていた。当時は列車交換設備のない単線運転で、運転間隔は20分以上に開いてしまったとされる。",
"title": "歴史"
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"text": "空港返還後は空港アクセスに使用されることもあったが、1964年に空港敷地内に乗り入れた東京モノレールの開業後は、地域輸送や現在の穴守稲荷駅近くへ遷座した穴守稲荷神社への参拝者輸送に徹することになった。京急元鉄道本部長中根啓介の証言によれば、東京オリンピックを前に運輸省からなされた空港乗り入れの打診を、本線の輸送力増強に専念するため断ったことで、1972年に再乗り入れの検討を始めて以降も、空港ターミナルへの乗り入れは長らく運輸省・東京都とも門前払いが続くことになった。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、この時期にも羽田空港駅が存在したが、空港とは海老取川を挟んだ対岸に位置し、空港ターミナルからは距離があった。羽田沖合展開工事が始まる頃にようやくバス連絡を始めたが、駅前が狭く小型から中型のバスしか入れないなど、空港アクセスとしてはほとんど機能していなかった。当時は本線との直通列車もなく(1966年 - 1968年にはわずかに存在)孤立した状態だったため、京急最古参の車両が常に使用されるなど近代化は大きく遅れ、冷房車の投入も1986年と本線に比べ著しく遅かった(この時に全列車が800形となり京急線でいち早く完全冷房化したが、1993年から約2年間は非冷房の都営5000形も入線している)。",
"title": "歴史"
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"text": "羽田空港の沖合展開事業(沖展)の中、拡大する空港及びターミナルに対して東京モノレールだけでは増大する輸送量に対応できないとの判断から、念願の羽田空港乗り入れが認められた。1993年に羽田駅(現在の天空橋駅)が空港島内に開業して都心方面(本線・都営地下鉄浅草線)からの直通運転が開始。この時点では暫定的に同駅から東京モノレールへ乗り継ぐ形で空港アクセスを図っていたが、1998年には羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)が開業し旅客ターミナルビルと直結、羽田空港へのアクセス路線として本格的に機能するようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "この際に「京急、搭乗。」という航空会社のカウンターや旅客機の傍らに京急の車両(600形が使われた)が横付けするイメージ広告ポスターを製作して、京急線各駅や東日本旅客鉄道(JR東日本)の車両や駅などに掲出したほか(2002年に東京モノレールがJR東日本の傘下となって以降はJR線内ではほとんど行われなくなった)、他空港とそのアクセス鉄道・バス(南海電気鉄道、大阪モノレール、福岡市地下鉄など)にも積極的に出稿した。",
"title": "歴史"
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"text": "さらに横浜、逗子・葉山方面や成田国際空港への直通列車も設定され、空港アクセス路線としてさらに積極的に活用されることになり、東京モノレールと激しい乗客獲得競争を繰り広げている。",
"title": "歴史"
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"text": "東洋経済新報社は、2015年頭時点での羽田アクセスに対する京急と東京モノレールのシェア比を「6対4程度」と見込んだ上で、この年開通するJRの上野東京ラインが東京モノレールとの連絡駅の浜松町駅を通過して京急との連絡駅の品川駅に乗り入れることから、さらに京急が優位に立つだろうと分析している。",
"title": "歴史"
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"text": "列車運用に関する内容の詳細は列車種別の節を参照。",
"title": "歴史"
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"text": "天空橋駅 - 羽田空港駅(現・羽田空港第1・第2ターミナル駅)間開業当初より、羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅と穴守稲荷駅以遠の間を乗車する場合には対キロ程運賃に定額を加算する加算運賃が設定されている。",
"title": "加算運賃"
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"text": "導入開始当初は加算額が170円(大人普通運賃、以下この節内同じ)で、穴守稲荷駅、大鳥居駅、糀谷駅および京急蒲田駅各駅との相互間は加算後の運賃から20 - 30円の割引を適用した特定運賃が設定されていた。この加算運賃で京急が得た収入は開業から2014年度末まででおよそ606億円にのぼる一方、羽田空港延伸に要した工事費はおよそ700億円、開業から2014年度末までに利払いや土地・施設の使用料として発生した金額はおよそ325億円である。",
"title": "加算運賃"
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"text": "2022年頃には加算運賃の廃止時期を迎えるとする予想があったが、2019年2月19日に京急は同年10月の消費税率改定に伴う運賃改定と同時に、加算運賃を50円に変更する改定(及び空港線内における特定運賃設定の廃止)を行った。",
"title": "加算運賃"
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"text": "一方、羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅から空港線・京急本線を経由して都営地下鉄浅草線やその直通先との間を乗車した際に、各社線の運賃合算額から60円(成田空港駅・空港第2ビル駅発着は80円)を割り引く「空港連絡特殊割引」制度が導入されていたが、2019年10月の加算運賃引き下げ後もこの割引額が変更されなかったため、空港線糀谷駅 - 天空橋駅間各駅発着の都営地下鉄方面との運賃が羽田空港発着よりも割高になる逆転現象が生じた。これの緩和のため、加算運賃引き下げ日より空港線の糀谷駅・大鳥居駅・穴守稲荷駅・天空橋駅と都営地下鉄・京成線(成田空港駅・空港第2ビル駅・千原線を除く)・北総線の各駅との間に企画乗車券「羽田みらいきっぷ」を発売した(往復方向で利用可能だが、空港線内該当駅でのみ販売)。",
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"text": "2022年3月12日より「空港連絡特殊割引」の割引額が10円引き下げられ50円(成田空港駅・空港第2ビル駅発着は70円)となり、加算運賃との逆転現象がなくなることから「羽田みらいきっぷ」の販売も終了。さらに2023年10月1日の運賃改定に伴って「空港連絡特殊割引」は全面廃止された。",
"title": "加算運賃"
}
] |
空港線(くうこうせん)は、東京都大田区の京急蒲田駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅を結ぶ、京浜急行電鉄(京急)の鉄道路線である。大田区内を東西に走り、東京国際空港(羽田空港)への空港アクセス路線としての役割を担うが、元々は羽田空港内に鎮座していた穴守稲荷神社への参詣路線「穴守線」として開業した。駅ナンバリングで使われる路線記号はKK。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keikyu logo small.svg|50px|link=京浜急行電鉄]] 空港線
|路線色=deepskyblue
|ロゴ=File:Number prefix Keikyū.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Keikyu-Type1000-113.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=京急空港線を走行する「エアポート快特」<br>(2023年2月 [[糀谷駅]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]][[大田区]]
|起点=[[京急蒲田駅]]
|終点=[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]
|駅数=7駅
|路線記号=KK
|開業=[[1902年]][[6月28日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[京浜急行電鉄]]
|運営者=京浜急行電鉄
|車両基地=[[京浜急行電鉄車両管理区]]<br/>[[新町検車区]]<br/>[[金沢検車区]]
|使用車両=[[京浜急行電鉄#車両]]<br />及び[[#列車種別|列車種別]]を参照
|路線距離=6.5 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線並列]](京急蒲田 - 糀谷間)<br/>[[複線]](糀谷 - 羽田空港第1・第2ターミナル間)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]], [[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
|最高速度=110 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図=
}}
{|{{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|deepskyblue|white}}
{{BS-table}}
{{BS5|||||||'''空港線列車直通区間'''|}}
{{BS5-startCollapsible||||||||}}
{{BS5||KHSTa||||||↑[[芝山鉄道線]]:{{rint|tokyo|sr}} [[芝山千代田駅]]|}}
{{BS3|tSTRa|tKHSTa|FLUG|||KS42 [[成田空港駅]]|}}
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{{BS-endCollapsible}}
{{BS3||hABZq+l|hBHFq|0.0|KK11<ref group="注" name="eki-numbering">[[駅ナンバリング]](駅番号)は[[羽田空港第3ターミナル駅]]が開業した[[2010年]][[10月21日]]から導入。</ref> [[京急蒲田駅]]|←{{rint|tokyo|kk}} [[京急本線|本線]]→}}
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{{BS5|exhSTR+l|ehABZgr|tSTR|||||}}
{{BS5|exhSTR|hBHF|tBHF|FLUG||4.5|KK16 [[羽田空港第3ターミナル駅]]||}}
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|}
|}
'''空港線'''(くうこうせん)は、[[東京都]][[大田区]]の[[京急蒲田駅]]と[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]を結ぶ、[[京浜急行電鉄]](京急)の鉄道路線である。大田区内を東西に走り、[[東京国際空港]](羽田空港)への[[空港連絡鉄道|空港アクセス路線]]としての役割を担うが、元々は羽田空港内に鎮座していた[[穴守稲荷神社]]への参詣路線「穴守線」として開業した。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KK'''。
== 概要 ==
現在は[[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]]と並ぶ「空港アクセス路線」であるが、当初は現在の羽田空港内に鎮座していた[[穴守稲荷神社]]の参拝客や、その周辺に整備された[[観光]]施設の利用客向けの観光路線「穴守線」として開業し、神社へのアクセスを目的とした日本初の参詣電車であった。現在でも[[穴守稲荷駅]]や[[大鳥居駅]]など、参詣電車として開業した名残が駅名に残っている。
[[1931年]]に現在の羽田空港の前身となる東京飛行場(羽田飛行場)が開港すると、徐々に飛行場の利用客も増加していったが、[[太平洋戦争]]後に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]によって東京飛行場は接収され、飛行場拡張のために穴守稲荷神社や地域住民は強制退去となり、穴守線も[[海老取川]]以東が強制接収となった。
戦後長らくの間、空港アクセス路線としては事実上運用されず、沿線に遷った穴守稲荷神社の参拝客や沿線住民のみが利用する[[ローカル線|ローカル支線]]であったが、1990年代末に羽田空港ターミナル下まで延伸を果たしてからは、再び空港アクセス路線の地位を得た。
現在は空港アクセスを主軸に沿線部の通勤路線としても機能している。
=== 路線データ ===
* 路線距離:6.5 km
* [[軌間]]:1435 mm
* 駅数:7駅(起終点駅を含む)
* 複線区間:全線(ただし京急蒲田駅 - 糀谷駅間は[[単線並列]])
* 電化区間:全線(直流1500 V、[[架空電車線方式]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
* [[列車無線]]:[[誘導無線]]方式(IR)、デジタル空間波無線方式(デジタルSR)(併用)
* [[最高速度]]
** 京急蒲田駅 - 糀谷駅間:60 km/h
** 糀谷駅 - 天空橋駅間:90 km/h
** 天空橋駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間:110 km/h<ref name="terada" />
=== 沿線 ===
京急の支線としては唯一東京都内のみを経由する路線である。おおむね[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]と併走しており、京浜間の主要道路との交点も多い。[[京浜工業地帯]]の一角ではあるが、[[中小企業|中小]]・[[家内制手工業|家内工業]]的な雰囲気のある地域を走っている。
[[京急蒲田駅]]の2階(本線上り)と3階(本線下り)からそれぞれ[[単線]]が分岐し、半径100m<ref group="注">1986年までは半径60m、同年以降2012年までは半径80m。</ref>でほぼ直角にカーブしながら[[国道15号|第一京浜]]と立体交差する。それぞれの線路は[[糀谷駅]]手前のシーサスクロッシングまで併走する[[単線並列]]区間となり、高架の糀谷駅に進入する。この区間は京急蒲田駅周辺の[[連続立体交差事業]]により2012年に高架化された区間(詳細は「[[京急蒲田駅#高架化]]」を参照)で、これによって京急蒲田駅構内のボトルネック(本線とは単線で接続していた)と第一京浜との平面交差が解消され、ダイヤの制約が大幅に軽減された。なお、第一京浜との立体交差が最初に計画されたのは[[大正|大正時代]]であり、それから約90年を経ての完成となる(「[[国道15号#京浜国道改築]]」を参照)。
糀谷駅を発車すると急勾配を下り、短い地上区間を経て地下に潜り、[[国道131号|産業道路]]と環八通りの交差点の直下に位置する[[大鳥居駅]]へ進入する。大鳥居駅付近は1985年から1997年にかけて地下化されたもので、これにより産業道路・環八通りとの平面交差が解消され、地上部の交差点改良も実施された。大鳥居駅を出ると地上に戻って[[首都高速1号羽田線|首都高速羽田線]][[羽田出入口]]の下をくぐる。
[[穴守稲荷駅]]を過ぎると、再び地下線区間に入り、[[海老取川]]をくぐった付近で南北に走る[[東海道貨物線]]と交差し、[[天空橋駅]]で同じく地下線の[[東京モノレール羽田空港線|東京モノレール]]と連絡する。ここから[[東京国際空港]](羽田空港)の敷地内となり、一部高架線のモノレールとほぼ並行しながら、第3旅客ターミナルの地下に位置する[[羽田空港第3ターミナル駅]]に到着する。この先、南へ迂回しながら[[新整備場駅]]を経由するモノレールに対し、空港線には途中駅がなく、直線的に空港の中心部へ向かう。終点の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]は、第1旅客ターミナルと第2旅客ターミナルの間の地下にあり、[[東京湾岸道路]]([[首都高速湾岸線]]・[[国道357号]])と直交している。
<gallery>
ファイル:Keikyu-airport-line-Route 15-railroad crossing. 20121006.jpg|京急蒲田駅付近の第一京浜の踏切と、工事中の立体交差(2012年10月)
ファイル:Kamata-kojiya crossing.jpg|糀谷駅高架ホームより京急蒲田駅方を眺む。分岐器により京急蒲田1・4番線と接続する(2010年8月)
ファイル:Anamori-inari ー Tenkubashi.jpg|穴守稲荷駅付近の地下区間への入り口(2019年8月)
ファイル:Keikyu HanedaAirport Station.jpg|地下区間となる羽田空港第1・第2ターミナル駅(2010年3月)
</gallery>
== 運行形態 ==
全ての列車が京急蒲田駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間の全線通しで運転し、途中駅での折り返しはない。下り(羽田空港第1・第2ターミナル駅行き)の行き先はすべて「羽田空港行き」として案内される(羽田空港第3ターミナル駅および羽田空港第1・第2ターミナル駅の総称)。大半の列車は[[京急本線]](品川方面・横浜方面)に直通し、線内折り返しは朝夕[[ラッシュ時]]にのみ見られる。[[快速特急|快特]]と[[エアポート快特]]は線内に通過駅があり、それ以外の種別は各駅に停車する。線内の各駅は通過線を持たないため、緩急待避は行われない。
本線品川方面に直通する列車の多くはそのまま[[都営地下鉄浅草線]]に直通し、[[京成押上線]]・[[京成本線]]を経て[[北総鉄道北総線]]、[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)、[[京成東成田線]]、[[芝山鉄道線]]まで乗り入れる。成田スカイアクセス線の開業後は、スカイアクセス線と線路を共有している北総線方面に直通する列車が増発された。一方で京成本線[[京成船橋駅]]・[[京成佐倉駅]]・[[京成成田駅]]方面に直通していた列車の多くは[[青砥駅]]・[[京成高砂駅]]発着に変更された。
かつては毎年[[12月31日]]から翌年[[1月1日]]にかけて[[終夜運転]]を行っており、近年では最終電車を繰り下げていた。ただし羽田空港の警備上、営業区間は京急蒲田駅 - 穴守稲荷駅間とされ、穴守稲荷駅 -羽田空港国内線ターミナル駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)間は穴守稲荷駅での折り返しが不可能なことによる折り返しのための回送として運転されていた。[[2019年]](2018年12月31日 - 2019年1月1日)以降は最終電車の繰り下げも実施されなくなった<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20171206HP_17176EW.html 三浦半島で初日の出を見よう!京急の年末年始特別ダイヤ] - 2017年12月6日</ref><ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20181203HP_18189EW.html 京急線に乗って平成最後の初日の出を三浦半島で見よう!京急の年末年始特別ダイヤ] - 2018年12月3日</ref>。
=== 列車種別 ===
エアポート快特・快特・特急・急行・普通の5種別が運行される。日中(おおむね平日10時台 - 15時台、ならびに土休日9:30 - 19:30)は40分単位でダイヤが編成されており、40分あたりエアポート快特1本、快特(品川方面)1本、特急(品川方面)2本、急行(横浜方面)2本の割合で運行され、普通列車は運行されない。
都営浅草線への直通列車には京急の車両はあまり使われず、乗り入れ各社(京成・北総・都営)の車両による運用が中心となる。なお、速達列車はラインカラーで呼称される場合もある。
日中の運行パターンは以下の通りである。
* 品川・泉岳寺・浅草線方面
** エアポート快特(京急蒲田駅通過、浅草線内エアポート快特、押上線・成田スカイアクセス線内アクセス特急)成田空港駅発着 1.5本/h
** 快特(京急蒲田駅停車、浅草線・京成線内普通)青砥駅発着 1.5本/h
** 特急(空港線内各駅停車、浅草線・京成線・北総線内普通)印旛日本医大駅(一部は印西牧の原駅)発着 3本/h
* 京急川崎・横浜・金沢文庫方面
** 急行 逗子・葉山駅・金沢文庫駅発着 3本/h
各種別ごとの運行形態は以下の通り。
==== エアポート快特 ====
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{{Main|エアポート快特|京急本線#エアポート快特}}
品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間で途中羽田空港第3ターミナル駅のみに停車する空港線の最速達列車で、40分間隔で運行される。空港線で唯一の品川方面専用種別である。2012年10月20日までは20分間隔となっていたが、翌10月21日の改正で約半数が快特に切り替えられたことで40分間隔となり、大部分の列車が成田スカイアクセス線直通列車となっている。2014年11月8日改正後の品川駅 - 羽田空港第3ターミナル駅間の所要時間は11分、品川駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間の所要時間は14分である。基本的に空港連絡を担う列車であり、平日の朝ラッシュ時には運転されない。
==== 快特 ====
{{Main|京急本線#快特}}
品川方面や横浜方面との直通列車が設定されている。空港線内の停車駅は京急蒲田駅と羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅のみとなっている。
なお、京急の支線内で通過駅を有する速達種別は空港線の「快特」・「エアポート快特」、[[京急久里浜線|久里浜線]]の「[[京急ウィング号|モーニング・ウィング号]]」のみである。
==== 特急 ====
品川・都営浅草線方面への直通列車として、1997年10月に運行を開始した<ref name="交通970904">{{Cite news |title=京急、来月ダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-09-04 |page=1 }}</ref>。それまで品川との間で運行されていた[[急行列車|急行]]を置き換え、浅草線の[[西馬込駅|西馬込]] - 押上系統を統合したうえで浅草線直通としたもので、空港線内では各駅に停車する。1998年11月から1999年7月にはエアポート特急が存在したが、エアポート快特に統合された。その後は本線・都営浅草線直通列車として20分間隔で運転されるようになる。また、早朝には本線下り方(横浜方面)から直通する列車も後に登場している。
2002年10月には京急蒲田駅の改良によって本線下り方への直通が容易になり、同駅で進行方向を変え横浜方面へ直通する列車が大幅に増発された。日中には本線京急川崎駅 - 金沢文庫駅間で快特と併結され、[[逗子・葉山駅|新逗子駅]](現逗子・葉山駅)・[[浦賀駅]]を発着する4両編成の列車が20分間隔で運行を始めた。羽田空港発の列車は[[京急川崎駅]]手前で一旦[[引上線]]上で停車し、後続の快特を先にホーム入線させ、その後部に連結していた。またこの列車は京急蒲田駅で本線の快特(下りは品川駅〈一部[[泉岳寺駅]]〉始発、上りは都営浅草線直通)と相互接続を図っていた。
[[2003年]]7月になると品川方面への列車はすべてエアポート快特・快特および急行に整理され、特急は本線横浜方面への列車のみとなった<ref name="2011-56">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.56。</ref>。この改正により、京急では日中に運行される特急列車は本線の快特と併結する空港線列車のみとなった。2010年5月、空港線直通列車の併結作業は基本的に中止となり、横浜方面への直通は単独で運転されるエアポート急行(後節参照)に変更された。
横浜方面との直通列車は、平日朝に京急久里浜、浦賀、逗子・葉山発羽田空港第1・第2ターミナル行きの列車と、平日深夜に羽田空港第1・第2ターミナル発金沢文庫、逗子・葉山、京急久里浜行きの運転がある。また、品川方面との直通については、[[2022年]]2月26日のダイヤ改正より品川始発1本、同年11月26日より、日中の北総線との直通電車も特急として運転されている。
==== 急行 ====
{{Main|京急本線#急行}} <!-- 他の記事から記述内容をそのままコピーしないでください(コピーする場合は[[Wikipedia:ウィキペディア内でのコピー]]の手順で行ってください)。全く同じことを書くなら誘導で十分です。-->
品川・横浜方面への直通列車として、[[2010年]]5月16日に「エアポート急行」の名称で登場した。主に8両編成で運行され、品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面の2系統が運行されている。かつては早朝 - 朝ラッシュ時・夕方以降は品川・都営浅草線方面が中心に運行され、日中は品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面がそれぞれ20分間隔で運行されていた。[[2022年]]11月改正時点で日中は品川・都営浅草線方面の列車は快特または特急となり、京急川崎・横浜方面の列車が20分間隔で運行されている。空港線内は各駅に停車しており、北総線方面の特急(20分間隔)と交互運転で、日中に運行されない普通列車の代わりとなっている。品川・都営浅草線方面のエアポート急行は2010年5月15日までは「急行」として運転されていたが、翌日のダイヤ改正から「エアポート急行」に改称した。また、京急蒲田折り返し列車も当初は急行と名乗っていたものの、乗客から「紛らわしい」「分かりにくい」との声ですぐに普通に変更されている。同様の理由から[[2023年]]11月25日に実施されるダイヤ改正をもって品川・都営浅草線方面と京急川崎・横浜方面の双方とも「急行」に再び改称、「エアポート急行」は消滅した。
==== 普通 ====
各駅停車で、早朝 - 朝ラッシュ時・夕方以降のみ運行される。基本的に線内ピストン運転で運行されるが、京急久里浜(発のみ)、浦賀、逗子・葉山(発のみ)、神奈川新町(着のみ)、品川(着のみ) - 羽田空港第1・第2ターミナル間で設定されている。線内運転の列車は多くが8両編成だが、本線直通列車および一部の線内運転列車は4両または6両の編成で運行される。
=== 1月3日の臨時ダイヤ ===
[[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝)では、2012年([[第88回東京箱根間往復大学駅伝競走|第88回]])まで往路1区と復路10区が京急蒲田駅そばの[[国道15号|第一京浜]]にかかる[[踏切]]を通過していた。[[1月2日]]の往路では全出場校がすぐに通過するが、[[1月3日]]の復路ではトップの通過から最後尾までの差が30分程度開く。そのため、毎年1月3日には競技への影響を抑えるため、本線からの直通運転を中止し、以下の通り臨時ダイヤを組んでいた。
[[2011年]]([[第87回東京箱根間往復大学駅伝競走|第87回]])・2012年の臨時ダイヤは以下の通り<ref>{{Cite web|和書|date= 2010-12-10 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/003165.html |title=年末年始の電車・バスダイヤについて |publisher=[[京浜急行電鉄]] |accessdate=2011-04-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101213160938/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/003165.html |archivedate=2010-12-13}}</ref>。2010年、京急蒲田付近立体交差化事業の進捗に伴い、同年5月から一部高架の使用を開始した結果、当該踏切は、選手通過時間帯には列車を通過させない措置が可能となった。
* 品川方面・横浜方面からの列車は空港線へ入線せず、本線[[京急蒲田駅|京急蒲田]]発着に変更。
* 空港線は京急蒲田 - 羽田空港国内線ターミナル(現在の羽田空港第1・第2ターミナル)間での折り返し運転とし、京急蒲田駅2階ホームの4番線に発着(当該踏切は使用せず、1階1番線は降車専用ホーム化)。京急蒲田で行先変更となった列車に接続。
* エアポート快特は快特に種別変更し、泉岳寺 - 京急蒲田間の運行とする。また[[京成成田空港線|京成成田スカイアクセス線]]直通アクセス特急も都営浅草線内は各駅停車とする(2012年大会のみ<ref>{{Cite web|和書|date=2011-12-08 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2011/detail/003666.html |title=京急電鉄・京浜急行バス 年末年始ダイヤについて |publisher=[[京浜急行電鉄]] |accessdate=2012-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120109052045/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2011/detail/003666.html |archivedate=2012-01-09 }}</ref>)。
* 行先変更となった列車は、エアポート快特とエアポート急行・都営浅草線方面系統は[[神奈川新町駅|神奈川新町]]まで、エアポート急行・新逗子(現在の逗子・葉山)発着系統は[[品川駅|品川]]まで[[回送]]の上で折り返す。
[[2010年]]([[第86回東京箱根間往復大学駅伝競走|第86回]])までの臨時ダイヤは以下の通り<ref>{{Cite web|和書|date=2009-12-14 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2009/detail/001366.html |title=12月30日(水)から1月3日(日)の電車・バスダイヤおよび 第86回箱根駅伝の対応について |publisher=[[京浜急行電鉄]] |accessdate=2011-01-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110704214051/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2009/detail/001366.html |archivedate=2011-07-04}}</ref>。
* 品川方面からの列車は空港線へ入線せず、本線[[京急川崎駅|京急川崎]]発着に変更。
* 横浜方面からの列車は品川発着とし、通常は京急川崎で行う泉岳寺発着快特との分割併合を品川に変更。
* 空港線は快特運転を中止、京急蒲田 - 羽田空港国内線ターミナル間で全車普通列車(8両編成)による折り返し運転とし、京急蒲田で行先変更となった列車に接続。
2010年までは踏切付近に特設本部を設置、鶴見中継所(鶴見市場[[交番]])と[[雑色駅]]付近に連絡要員を配備し、その情報と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送されるテレビ中継(『[[新春スポーツスペシャル箱根駅伝]]』)を元に列車の運行と踏切閉鎖を決定していた。なお、選手が踏切で足止めされた時間はロスタイムとして計上された。
なお上下線共に高架化が完了した2013年([[第89回東京箱根間往復大学駅伝競走|第89回]])以降は、臨時ダイヤは実施せず通常通り運行されている<ref>{{PDFlink|[http://www.keikyu.co.jp/company/20121206HP%20%20%E5%B9%B4%E6%9C%AB%E5%B9%B4%E5%A7%8B%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4.pdf 京急電鉄・京急バス 年末年始の終夜運転・特別ダイヤについて]}}{{リンク切れ|date=2016年9月}} - 京浜急行電鉄、2012年12月6日</ref>。
== 歴史 ==
[[ファイル:Anamori Station in 1916.jpg|サムネイル|穴守駅 1916年]]
=== 開業から第二次世界大戦まで ===
{{See also|穴守稲荷神社}}
[[ファイル:穴守神社拝殿.jpg|サムネイル|穴守稲荷神社]]
[[1902年]]([[明治]]35年)、現在の[[羽田空港 (大田区)|羽田空港]]にあたる[[鈴木新田 (大田区)|鈴木新田]]にあった[[穴守稲荷神社]]への参拝客輸送のため、京浜電気鉄道(京浜電鉄)の穴守線として、蒲田駅(現在の[[京急蒲田駅]])から現在の[[海老取川]]の手前に設けられた[[穴守駅]]間が単線の[[専用軌道]]で開業した<ref>[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.16。</ref>。
当初は、まず[[川崎大師]]への参拝を済ませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった。その人々は多摩川を渡し船で渡り、穴守稲荷神社へと向かっていた。そこで、海老取川の岸から南側に曲がり、多摩川に突き当たった所で土手沿いに西へ進み、今の[[大師橋]](その手前に羽田の渡しがあった)を越え、現在大師橋緑地になっている所にあり、川崎大師に最も近い渡し場であった中村の「新渡し」から渡し船を利用して、[[京急大師線|大師線]]に結ぶという構想がたてられた<ref name=":15">{{Cite book|和書 |title=京急グループ110年史 最近の10年 |date=2-25 |year=2008 |publisher=京浜急行電鉄株式会社 |page=16}}</ref>。その後、現在のルートである当時の京浜電鉄の駅で最も穴守稲荷神社に近い[[京急蒲田駅|京浜蒲田]]から延伸することになった。なお、「神社」参詣者を輸送する「参詣電車」としては、日本初の開業である。
{{Quotation|門前町の繁昌についての歌
: {{ruby|鎮|しづ}}りませるくしみたま、{{ruby|奇|くし}}きみいづの{{ruby|祐|たす}}けにや、
: ななとせ{{ruby|八年前|やとせまへ}}のころ、{{ruby|良水|よきみづ}}{{ruby|得|え}}むとゆくりなく、
: {{ruby|一|ひとつ}}の{{ruby|井戸|ゐど}}を{{ruby|掘|ほ}}りければ、{{ruby|礦泉|くわうせん}}たちまち{{ruby|湧出|わきい}}でて、
: たほく{{ruby|病者|びゃうしゃ}}を{{ruby|癒|いや}}しけり、さればその{{ruby|後|のち}}たれ{{ruby|彼|かれ}}も、
: {{ruby|之|これ}}に{{ruby|倣|なら}}ひて{{ruby|井|ゐ}}を{{ruby|掘|ほ}}りて、たか{{ruby|楼|どの}}{{ruby|建|た}}てて{{ruby|客|きゃく}}を{{ruby|待|ま}}つ、
: {{ruby|社前|しゃぜん}}につらなる{{ruby|種々|くさくさ}}の、{{ruby|店|みせ}}もひとしく{{ruby|客|きゃく}}を{{ruby|呼|よ}}ぶ、
: よりて{{ruby|益々|ますます}}たよりよく、{{ruby|名|な}}には{{ruby|背|そむ}}かぬいな{{ruby|妻|づま}}の、
: くるまも{{ruby|疾|はや}}く{{ruby|通|かよ}}ふなり、{{ruby|嗚呼|ああ}}ありがたき{{ruby|穴守|あなもり}}の、
: {{ruby|神|かみ}}の{{ruby|御稜威|みいづ}}をかかぶるは、いく{{ruby|千万|ちよろづ}}のひとならむ、
: かくいやちこの{{ruby|神御霊|かむみたま}}、かなめの{{ruby|島|しま}}のあふぎ{{ruby|浦|うら}}、
: みすゑ{{ruby|広|ひろ}}くぞ{{ruby|栄|さか}}ゆべき、
: みやしろの{{ruby|為|ため}}に{{ruby|凡|すべ}}ての{{ruby|営業|なりはひ}}を いとなむ{{ruby|人|ひと}}やいかに{{ruby|思|おも}}ふらむ|詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より}}
[[品川駅]]への延伸より先に穴守線が開通したのは、川崎大師への参詣客輸送の大成功が大きく影響し、これ以降、京浜電鉄は川崎大師と穴守稲荷の回遊を呼び物として、新聞での広告、回遊割引券の発売などあの手この手で集客を図るようになった<ref>{{Cite book|和書 |title=鉄道が変えた社寺参詣 |date=2012-10-15 |publisher=株式会社交通新聞社 |author=平山昇}}</ref>。「川崎大師へ詣でるなら、穴守稲荷へも寄らなければ片参り」といった宣伝も行われたという<ref name=":14">{{Cite book|和書 |title=東京人 |date=2015-04-03 |year= |publisher=都市出版 |page=78 |issue=352}}</ref>。また、海老取川手前までの開通になったのは、神社周辺が既に住宅密集地であったことと、1903年(明治36年)に架橋された [http://www.djq.jp/bridge_liblary/river_nomi/tokyo_bridge_ebitori003_inari.php 稲荷橋] <ref>{{Cite book|和書 |title=ふるさと東京 今昔物語 第2巻羽田・大森・蒲田編 |date=2021-5-1 |year= |publisher=株式会社フォト・パブリッシング |page=8}}</ref><ref name=":31">{{Cite book|和書 |title=電鉄は聖地をめざす |date=2019-5-10 |publisher=講談社 |page=120 |author=鈴木勇一郎}}</ref>から穴守稲荷神社までの続く参道「稲荷道」の商店主や[[人力車]]稼業の人々が、商売にならなくなると反対した為といわれている<ref name=":152">{{Cite book|和書 |title=京急グループ110年史 最近の10年 |date=2-25 |year=2008 |publisher=京浜急行電鉄株式会社 |page=16}}</ref>。
{{Quotation|元旦初大師として京浜電車によりて川崎へ詣でたるもの多く、序に穴守稲荷へ廻りしもの尠からず。電車会社にては此日絵葉書に初詣記念スタンプを押捺したるを切符に代用せしめ、以て参詣人の一興に供へたり|『東京朝日新聞』明治40年1月3日付けより}}
{{Quotation|川崎大師にお詣りする人で停留場は黒山だ。そして何れも川崎と穴守の廻遊券を買つて居る。|『東京日日新聞』大正2年1月2日付けより}}
当時は羽田支線とも呼称され、大森停車場前駅(後の[[大森駅 (東京都)|大森駅]])と[[穴守駅]]を結ぶ列車が運行されていた。[[1904年]](明治36年)に品川駅(現在の[[北品川駅]])- 海岸駅(現在の[[大森海岸駅]])が開業すると、[[京浜電気鉄道大森支線|大森支線]]となった大森駅方面への直通はなくなり、(品川駅 - 大師駅〈現在の[[川崎大師駅]]〉間と)品川駅 - 穴守駅間の直通運転が主となった<ref>[[#吉本1999|吉本 (1999) pp.12-13]]</ref>。当初穴守稲荷神社への参詣者輸送を主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家の[[押川春浪]]や押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた[[中沢臨川]]の働きかけにより、[[1909年]](明治42年)に陸上トラック・野球場・テニスコート・弓道場・土俵のほか、花壇や遊園地も兼ね備えた[[羽田運動場]](野球場)を神社裏手の江戸見崎に設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発に乗り出し<ref>[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、pp.18-19。</ref>、境内には動物園までつくられた。
[[1910年]](明治43年)3月には、穴守線の複線化が行われ<ref name="kq110-18">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.18。</ref>、8分間隔での運行が行われた。[[1911年]](明治44年)[[7月5日]]には、京浜電鉄は羽田穴守海水浴場を開設し、[[報知新聞社]]と提携し同社の主催で、元[[内閣総理大臣]][[大隈重信]]伯爵や[[渋沢栄一]]、[[樺太]]探検で有名な[[白瀬矗]]中尉などを来賓に迎え、開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後の同年7月16日には、1日1万人を越える入場者が来場したと新聞の記録に残されている<ref>{{Cite book|和書 |title=報知七十年 |year=1941 |publisher=報知新聞社 |page=55 |author=青木武雄}}</ref>。その後、羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には[[海の家]]<ref>[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.23。</ref>や[[プール|浄化海水プール]]も新設されている<ref>{{Cite book|和書 |title=京浜急行八十年史 |year=1980 |publisher=京浜急行電鉄株式会社 |page=135 |author=京浜急行電鉄株式会社社史編纂班}}</ref>。これらの施設は、当時の海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩場2棟、収容人数は1万人、特別休憩室64室、3500人分の更衣室、東洋一と謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台やボートもあり、総タイル張りでシャワー設備等も設けた温浴場、滑り台やシーソー等を設置した陸上遊戯場、余興場、各種売店等、あらゆる施設を備えた一大娯楽施設だった<ref>{{Cite book|和書 |title=京急グループ110年史 最近の10年 |date=2008-02-25 |year= |publisher=京浜急行電鉄株式会社 |page=23}}</ref>。
同年10月、京浜電鉄は穴守線を神社のすぐ近くまで延伸することを計画し、東京府に申請を行った<ref>{{Cite book|和書 |title=大正五年 鉄道軌道 冊ノ十二 羽田支線延長敷設御願 |publisher=東京府 |date=1916}}</ref>。しかし、この動きに対して再び「稲荷道」関係者が150名以上による延伸反対の陳情書を東京府知事に対して提出するなど反対運動を展開<ref>{{Cite book|和書 |title=大正五年 鉄道軌道 冊ノ十二 京浜電鉄穴守線延長ニ関スル陳情書 |date=1916 |publisher=東京府}}</ref>、これを受けて[[警視庁]]などが調停に乗り出し、稲荷橋駅から穴守新駅までの間は別に運賃を徴収するということで落着し、延伸が決まった<ref>{{Cite book|和書 |title=電鉄は聖地をめざす |date=2019-5-20 |publisher=講談社 |page=126 |author=鈴木勇一郎}}</ref>。そして、[[1913年]](大正2年)[[12月31日]]には、遂に穴守線が海老取川を渡って神社前までの延伸を果たし新穴守駅が開業した。
[[1931年]]、羽田飛行場(現在の[[東京国際空港]])が建設されると、飛行場への旅客輸送も行われるように変化していった。
=== 戦後 ===
[[第二次世界大戦]]終結直前の[[1945年]]には空襲により駅が被災するなどしたが、列車の運行は続けられた。しかし、終戦を迎えると羽田飛行場が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍に接収され、周辺の町も飛行場の拡張用地に充てられることになった。穴守稲荷神社や住民は強制退去となり、穴守線も稲荷橋以東の末端部が営業休止、残る区間も貨物線を建設するため単線化された<ref name="kq110-28">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.28。</ref>。翌年には省線[[蒲田駅]]から空港内への貨物線が開業し、[[蒸気機関車]]による貨物輸送が開始された<ref name="kq110-30">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.30。</ref>。さらに被災により車両数が減っていた中、先頭車両の半室を仕切る形で連合国軍専用車の運転も行われていた。当時は[[列車交換]]設備のない単線運転で、運転間隔は20分以上に開いてしまったとされる。
空港返還後は空港アクセスに使用されることもあったが、[[1964年]]に空港敷地内に乗り入れた[[東京モノレール羽田空港線|東京モノレール]]の開業後は、地域輸送や現在の穴守稲荷駅近くへ遷座した穴守稲荷神社への参拝者輸送に徹することになった。京急元鉄道本部長中根啓介の証言によれば、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]を前に運輸省からなされた空港乗り入れの打診を、[[京急本線|本線]]の輸送力増強に専念するため断ったことで、[[1972年]]に再乗り入れの検討を始めて以降も、空港ターミナルへの乗り入れは長らく[[運輸省]]・[[東京都]]とも門前払いが続くことになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/airtravel/TKY201010210234.html |title=「羽田の時代来る」 京急乗り入れ訴えたOB、思い格別 - 航空特集 |website=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2010-10-21 |accessdate=2022-03-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101023191720/http://www.asahi.com/airtravel/TKY201010210234.html |archivedate=2010-10-23}}</ref>。
なお、この時期にも[[天空橋駅#歴史|羽田空港駅]]が存在したが、空港とは[[海老取川]]を挟んだ対岸に位置し、空港ターミナルからは距離があった。羽田沖合展開工事が始まる頃にようやくバス連絡を始めたが、駅前が狭く小型から中型のバスしか入れないなど、空港アクセスとしてはほとんど機能していなかった。当時は本線との直通列車もなく([[1966年]]<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.25。</ref> - [[1968年]]にはわずかに存在)孤立した状態だったため、京急最古参の車両が常に使用されるなど近代化は大きく遅れ、冷房車の投入も[[1986年]]と本線に比べ著しく遅かった(この時に全列車が[[京急800形電車 (2代)|800形]]となり京急線でいち早く完全冷房化したが、[[1993年]]から約2年間は非冷房の[[東京都交通局5000形電車 (鉄道)|都営5000形]]も入線している)。
=== 羽田空港再乗り入れ ===
羽田空港の[[東京国際空港#沖合展開事業|沖合展開事業]](沖展)の中、拡大する空港及びターミナルに対して東京モノレールだけでは増大する輸送量に対応できないとの判断から、念願の羽田空港乗り入れが認められた。[[1993年]]に羽田駅(現在の天空橋駅)が空港島内に開業して都心方面(本線・都営地下鉄浅草線)からの直通運転が開始。この時点では暫定的に同駅から東京モノレールへ乗り継ぐ形で空港アクセスを図っていたが、[[1998年]]には羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)が開業し旅客ターミナルビルと直結、羽田空港へのアクセス路線として本格的に機能するようになった。
この際に「京急、搭乗。」という[[航空会社]]のカウンターや[[旅客機]]の傍らに京急の車両([[京急600形電車 (3代)|600形]]が使われた)が横付けするイメージ[[広告]]ポスターを製作して、京急線各駅や[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の車両や駅などに掲出したほか(2002年に東京モノレールがJR東日本の傘下となって以降はJR線内ではほとんど行われなくなった)、他空港とそのアクセス鉄道・バス([[南海電気鉄道]]、[[大阪高速鉄道|大阪モノレール]]、[[福岡市交通局|福岡市地下鉄]]など)にも積極的に出稿した。
さらに[[横浜駅|横浜]]、[[逗子・葉山駅|逗子・葉山]]方面や[[成田国際空港]]への直通列車も設定され、空港アクセス路線としてさらに積極的に活用されることになり、東京モノレールと激しい乗客獲得競争を繰り広げている。
[[東洋経済新報社]]は、2015年頭時点での羽田アクセスに対する京急と東京モノレールのシェア比を「6対4程度」と見込んだ上で、この年開通するJRの[[上野東京ライン]]が東京モノレールとの連絡駅の[[浜松町駅]]を通過して京急との連絡駅の[[品川駅]]に乗り入れることから、さらに京急が優位に立つだろうと分析している<ref>{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/62566?page=2|title=上野東京ライン、「漁夫の利」を得るのは? 3月14日開業!北関東と羽田が近くなる|work=[[週刊東洋経済|東洋経済オンライン]]|date=2015-03-07|accessdate=2015-05-07}}</ref>。
=== 年表 ===
列車運用に関する内容の詳細は[[#列車種別|列車種別]]の節を参照。
* [[1902年]]([[明治]]35年)[[6月28日]] - 羽田支線(穴守線)として蒲田駅(現在の[[京急蒲田駅]]) - [[穴守駅]]間が開業<ref name="kq110-132">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.132。</ref>。(蒲田駅、)[[糀谷駅]]、[[大鳥居駅]]、穴守駅が開業。穴守駅には列車折り返し用のループ線が設置される。
* [[1904年]](明治37年)[[3月1日]] - [[軌間]]を[[標準軌]]の 1435mm から[[東京電車鉄道]](後の[[東京都電車|都電]])などと同じ 1372mmの[[4フィート6インチ軌間|馬車軌間]]へ変更。
* [[1906年]](明治39年)9月以前 - 本線との直通運転が中止され、蒲田駅に穴守駅と同様のループ線が設置される。
* [[1910年]](明治43年)[[3月31日]] - 全線複線化<ref name="kq110-132" />。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[12月31日]] - [[穴守駅]]を移設し、0.8km 延伸<ref name="kq110-132" />。
* [[1914年]](大正3年)1月 - (初代)穴守駅の位置に羽田駅(現在の[[穴守稲荷駅]])が開業。
* [[1915年]](大正4年)1月 - 羽田駅が穴守方へ約 40m 移設。羽田駅が稲荷橋駅に改称<ref name="kq110-54">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.54。</ref>。
* [[1923年]](大正12年)[[4月1日]] - 蒲田駅が専用軌道上に移設され、ループ線が廃止。
* [[1925年]](大正14年)[[11月1日]] - 蒲田駅が京浜蒲田駅に改称。
* [[1929年]]([[昭和]]4年)9月 - 羽田競馬が開催されたことに伴い、競馬場前駅が臨時駅として開設。
* [[1933年]](昭和8年)4月1日 - 1372mmの馬車軌間から標準軌に改軌。
* [[1940年]](昭和15年)10月 - 稲荷橋駅が京浜蒲田方へ 0.2km 移設される。
* [[1942年]](昭和17年)[[5月1日]] - 京浜電気鉄道が[[東京急行電鉄]]に合併され<ref name="kq110-25">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.25。</ref>、東急([[大東急]])の路線(東急品川線の一部)となる。
* [[1943年]](昭和18年)[[6月1日]] - [[軌道法]]に基づく軌道線から[[地方鉄道法]]に基づく地方鉄道線に変更。
* [[1945年]](昭和20年)[[9月27日]] - 連合軍の接収により京浜蒲田駅 - 稲荷橋駅間が単線化。稲荷橋駅 - 穴守駅間が営業休止。単線化した区間には省線[[蒲田駅]]から軌間 1067mm の貨物線を敷設<ref name="kq110-28" />。
* [[1946年]](昭和21年)[[8月15日]] - 稲荷橋駅が京浜蒲田方へ約340m移設される<ref name="kq110-28" />。
* [[1947年]](昭和22年)[[12月25日]] - 架線電圧を直流 600V から同 1500V へ昇圧。
* [[1948年]](昭和23年)6月1日 - 東京急行電鉄から[[京浜急行電鉄]]が分離発足。
* [[1952年]](昭和27年)11月1日 - 京浜蒲田駅 - 稲荷橋駅間の上り線が連合軍より返還され複線運転再開<ref name="kq110-35">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.35。</ref>。
* [[1956年]](昭和31年)[[4月20日]] - 稲荷橋駅が穴守稲荷駅に改称。穴守稲荷駅 - (初代)[[天空橋駅#歴史|羽田空港駅]]間が延伸開業(復活)<ref name="kq110-36">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.36。</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)11月1日 - 穴守線から空港線に改称<ref name="kq110-36" />。
* [[1970年]](昭和45年)[[11月12日]] - 空港線と大師線で [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]] の使用を開始。これにより京浜急行電鉄全線の ATS 化が完了<ref name="kq110-138">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.138。</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)[[1月24日]] - 羽田空港駅 - 穴守駅間が正式に廃止<ref name="kq110-138" /><ref group="注">和久田康雄『私鉄史ハンドブック』(電気車研究会、1993年)では1月22日となっているが[http://www.tetsupic.com/seigohyo/index.html 正誤表]で1月24日と訂正。</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)[[8月1日]] - 車両の大型化を実施<ref name="kq110-139">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.139。</ref>(18m 級車両導入)し、[[京急400形電車 (2代)|400形]]運行開始。
* [[1986年]](昭和61年)[[8月29日]] - 車両を[[京急800形電車 (2代)|800形]]に統一。冷房化率が0%から100%になる<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.42。</ref>。
*1987年(昭和62年)[[6月1日]] - 京浜蒲田駅が京急蒲田駅に改称。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[1月16日]] - 第1期空港線延伸工事の進捗に伴い穴守稲荷駅 - 羽田空港駅間が営業休止<ref name="kq110-142">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.142。</ref>。この時運転していた車両の方向幕に「蒲田⇔穴守稲荷」の表示がないため、方向板を装着して対応していた。また、この日から1993年3月末まで、[[京浜急行バス]]による穴守稲荷駅 - 羽田空港駅間の鉄道代行輸送実施<ref>{{PDFlink|[https://www.keikyu-bus.co.jp/company/history/pdf/history.pdf 京急バスWEB年譜]}} - 京浜急行バスホームページ</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** 4月1日 - 第1期空港線延伸工事が竣工し、穴守稲荷駅 - 羽田駅(現在の[[天空橋駅]])間が開業<ref name="kq110-43">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.43。</ref>。羽田駅が開業。全駅でホームを3両編成対応から6両編成対応に延長。本線を介して都営浅草線方面への直通運転を開始<ref name="kq110-142" />。
**[[9月12日]] - 日中の普通列車を品川まで直通する急行列車に置き換え、日中は急行列車のみ毎時6本の運転となる<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.48。</ref>。
** 9月27日 - [[東京国際空港#第1ターミナル(T1)|羽田空港新ターミナル]](ビッグバード)の開業に伴い羽田駅で東京モノレールと接続、連絡運輸が開始<ref name="kq110-142" />。
** 年度中 - 全駅に[[自動改札機]]が設置。
* [[1994年]](平成6年)[[12月10日]] - 輸送力増強策として各駅のホーム延伸工事が完了。本線直通急行列車の8両編成運行が開始<ref name="kq110-142" />。
* [[1997年]](平成9年)
**[[10月4日]] - 本線および都営浅草線へ直通する特急列車の運行が開始{{R|交通970904}}。
**[[11月23日]] - 大鳥居駅付近が地下化<ref name="kq110-40">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.40。</ref>。
*[[1998年]](平成10年)[[11月18日]] 第2期空港線延伸工事の完成に伴い羽田駅が天空橋駅に改称<ref name="Keikyu199809">[https://web.archive.org/web/19991008013949/http://www.keikyu.co.jp/n/topics/199809/19980910a.html 「羽田駅」を「天空橋(てんくうばし)駅」に改称します](京浜急行電鉄トピックス・インターネットアーカイブ・1999年時点の版)。</ref>。天空橋駅 - (2代)羽田空港駅(現在の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])間が開業<ref name="Keikyu199807">[https://web.archive.org/web/19991008004551/http://www.keikyu.co.jp/n/topics/199807/19980710-21.html 「羽田空港駅」を11月18日(水)開業](京浜急行電鉄トピックス・インターネットアーカイブ・1999年時点の版)。</ref><ref name="kq110-47">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.47。</ref>。エアポート快速特急(現在の[[エアポート快特]])および[[エアポート特急]]が運行開始<ref name="Keikyu199811">[https://web.archive.org/web/19991008062018/http://www.keikyu.co.jp/n/topics/199811/19981111-3.html 「エアポート快速特急」運転開始を記念して羽田空港駅で出発式を行います](京浜急行電鉄トピックス・インターネットアーカイブ・1999年時点の版)。</ref>。最高速度が60km/hから90km/hへ向上<ref name="名前なし-1">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.51。</ref>。
* [[1999年]](平成11年)
** [[7月31日]] - 京急全線で白紙ダイヤ改正。早朝に本線横浜方面からの直通列車を運行開始<ref name="Keikyu199907">[https://web.archive.org/web/19991104202157/http://www.keikyu.co.jp/n/topics/199907/19990702.html 7月31日、電車のダイヤを全面的に改正](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・1999年時点の版)。</ref><ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.52。</ref>。
** 12月31日 前年まで空港線でも行われていた<ref name="名前なし-1"/>[[終夜運転]]が、この年は行われなくなる<ref name="2011-53">[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.53。</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[7月22日]] - 天空橋 - 羽田空港間の最高速度を100km/hへ向上<ref name="2011-53" />。
* [[2001年]](平成13年)
** 2月 - 京急蒲田駅付近連続立体交差事業に着手<ref name="kq110-67">[[#keikyu110|京急電鉄 (2008)]]、p.67。</ref>。
** [[9月15日]] - 都営浅草線との直通列車を10分の等間隔に揃える<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.54。</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[10月12日]] 京急蒲田駅改良により本線横浜方面との終日直通運転開始。昼間時は羽田空港を発着する4両編成の特急が、京急川崎 - 金沢文庫間で快特に併結されるという運行形態となる<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.55。</ref>。
* [[2003年]](平成15年)
** [[7月19日]] - 品川方面直通の列車が快特と急行に統一され、昼間は10分ヘッドで交互に運転される(特急は廃止)<ref name="Keikyu200303">[https://web.archive.org/web/20040806051038/http://www.keikyu.co.jp/press/2003/0625.html 品川→羽田空港が快特で14分に!](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref><ref name="2011-56" />。
** 12月25日 - 天空橋→羽田空港間(下り)の最高速度を110km/hに向上<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.57。</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** [[10月30日]] - 羽田空港駅への[[夜間滞泊]]を開始<ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.60。</ref>。
** [[12月1日]] - [[東京国際空港#第2ターミナル|羽田空港第2旅客ターミナル]]の開業に伴い羽田空港駅に第2旅客ターミナル口開設<ref name="Keikyu200409">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20050522103153/http://www.keikyu.co.jp/press/mk_pre2004/20040909.pdf 京急線・羽田空港駅「第2旅客ターミナル口」12月1日開設]}}(京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)。</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[2月14日]] - 保安装置を[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]に更新<ref>[https://web.archive.org/web/20090304102835/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/090206_2.shtml 高機能ATSの運用を開始いたします](京浜急行電鉄報道発表・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)</ref><ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.73。</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
**[[5月16日]] - 京急蒲田 - 大鳥居間の上り線が高架化<ref>[https://web.archive.org/web/20110704220134/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2009/detail/001303.html 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い、上り線を高架化します](京浜急行電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref>。エアポート快特の停車駅変更およびエアポート急行を新設<ref name="Keikyu2010">[https://web.archive.org/web/20110704193131/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html 5月16日(日)ダイヤ改正を実施します](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref><ref>[[#高野2011|高野 (2011)]]、p.77。</ref>。
** [[7月17日]] - 京成成田空港線(成田スカイアクセス)開業に伴い、同線との直通運転を開始。
** [[10月21日]] - [[東京国際空港#第3ターミナル|羽田空港新国際線ターミナル]]開業に伴い羽田空港国際線ターミナル駅が開業、羽田空港駅が羽田空港国内線ターミナル駅に改称<ref name="press100514">{{Cite web|和書|date=2010-05-14 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001322.html |title=10月21日(木)京急線「羽田空港国際線ターミナル」駅 開業! |publisher=[[京浜急行電鉄]] |accessdate=2010-05-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110704201415/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001322.html |archivedate=2011-07-04}}</ref>。同時に駅ナンバリングが使用開始<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-25 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001333.html |title=京急線全駅にて駅ナンバリングを開始します |publisher=[[京浜急行電鉄]] |accessdate=2010-06-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110704192906/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001333.html |archivedate=2011-07-04}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)10月21日 - 京急蒲田 - 大鳥居間の下り線が高架化され、同区間の高架化が完成<ref>{{Cite web|和書|date=2012-07-17 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/20120717HP%E3%80%80%E9%AB%98%E6%9E%B6%E5%88%87%E6%9B%BF%E6%97%A5%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%EF%BC%88%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%89.pdf |title=京急蒲田駅付近の上下線が全線高架化します! |format=PDF |publisher=[[京浜急行電鉄]] |accessdate=2012-07-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120813061906/http://www.keikyu.co.jp/company/20120717HP%E3%80%80%E9%AB%98%E6%9E%B6%E5%88%87%E6%9B%BF%E6%97%A5%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%EF%BC%88%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%89.pdf |archivedate=2012-08-13 }}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)7月7日 - デジタル空間波列車無線(デジタルSR無線)の使用を開始<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 (No.935) p238 - p239、[[電気車研究会]]。</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)10月1日 - 天空橋 - 羽田空港国内線ターミナル駅間と他の区間をまたがって乗車した場合の加算運賃の値下げを実施(普通旅客運賃で170円を50円へ)。また羽田空港国内線ターミナル駅および羽田空港国際線ターミナル駅と穴守稲荷駅、大鳥居駅、糀谷駅および京急蒲田駅各駅の相互間に設定されていた特定運賃を廃止(詳細は[[#加算運賃|後述]])。これにより、空港連絡割引(60円)が適用される都営線各駅 - 羽田空港国際線ターミナル駅(現在の羽田空港第3ターミナル駅)間の運賃より同割引の対象外となる都営線各駅 - 手前の糀谷〜天空橋間の運賃の方が高額となる逆転現象が発生したため、その対策として企画乗車券「[[#加算運賃|羽田みらいきっぷ]]」の発売を開始。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月14日]] - 羽田空港国際線ターミナル駅が羽田空港第3ターミナル駅に、羽田空港国内線ターミナル駅が羽田空港第1・第2ターミナル駅に改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20191216HP_19166TS.pdf|title=京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します|date=2019-12-16|accessdate=2019-12-16|publisher=京浜急行電鉄株式会社|format=PDF}}</ref>。
* 2022年(令和4年)[[3月12日]] 都営線各駅から羽田空港両駅への空港連絡割引額を60円から50円に引き下げ。これに伴い、2019年に発生した逆転現象が解消されたため、「羽田みらいきっぷ」の発売を終了。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]][[大田区]]内に所在。
* 特急・急行および普通列車は各駅に停車する。
* ●:停車 |:通過
{| class="wikitable" rules="all"
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|[[駅ナンバリング|駅番号]] <ref group="注" name="eki-numbering"/>
!style="width:16em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|駅間<br>営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|累計<br>営業キロ
!style="width:1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|{{縦書き|快特}}
!style="width:1em; background:#fdb; border-bottom:solid 3px deepskyblue; line-height:1em;"|{{縦書き|エアポート快特}}
!style="border-bottom:solid 3px deepskyblue;"|接続路線
|-
!KK11
|[[京急蒲田駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|[[京浜急行電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京急本線|本線]]([[品川駅|品川]]・[[横浜駅|横浜]]方面直通運転)
|-
!KK12
|[[糀谷駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|
|-
!KK13
|[[大鳥居駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|
|-
!KK14
|[[穴守稲荷駅]]<br /><small>([[ヤマトグループ]] [[羽田クロノゲート]]前)</small>
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|
|-
!KK15
|[[天空橋駅]]<br /><small>(羽田イノベーションシティ)</small>
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:center; background:#9db;"||
|style="text-align:center; background:#fdb;"||
|[[東京モノレール]]:[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|18px|MO]] [[東京モノレール羽田空港線]] (MO 07)
|-
!KK16
|[[羽田空港第3ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:center;background:#9db;"|●
|style="text-align:center;background:#fdb;"|●
|東京モノレール:[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|18px|MO]] 東京モノレール羽田空港線 (MO 08)
|-
!KK17
|[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|6.5
|style="text-align:center; background:#9db;"|●
|style="text-align:center; background:#fdb;"|●
|東京モノレール:[[File:Tokyo Monorail Line symbol.svg|18px|MO]] 東京モノレール羽田空港線([[羽田空港第1ターミナル駅]]:MO 10・[[羽田空港第2ターミナル駅]]:MO 11)
|}
* 羽田空港ターミナル内の2駅における東京モノレールとの[[連絡運輸]]は行っていない。
== 加算運賃 ==
{{See also|京浜急行電鉄#運賃}}
天空橋駅 - 羽田空港駅(現・羽田空港第1・第2ターミナル駅)間開業当初より、羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅と穴守稲荷駅以遠の間を乗車する場合には対キロ程運賃に定額を加算する[[運賃#加算運賃|加算運賃]]が設定されている。
導入開始当初は加算額が170円(大人普通運賃、以下この節内同じ)で、穴守稲荷駅、大鳥居駅、糀谷駅および京急蒲田駅各駅との相互間は加算後の運賃から20 - 30円の割引を適用した特定運賃が設定されていた<ref name="keikyu20190219">[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20190219HP_18239TS.html 加算運賃の引下げ実施に関するお知らせ] - 京浜急行電鉄、2019年2月19日</ref>。この加算運賃で京急が得た収入は開業から[[2014年]]度末まででおよそ606億円にのぼる一方、羽田空港延伸に要した工事費はおよそ700億円、開業から2014年度末までに利払いや土地・施設の使用料として発生した金額はおよそ325億円である<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.keikyu.co.jp/file.jsp%3Fassets/pdf/train-info/tetsudoueigyou/kasanunchin.pdf&sa=U&ved=0ahUKEwiUvPC99KDKAhXEtqYKHY5ODbcQFggEMAA&client=internal-uds-cse&usg=AFQjCNFXklN6hR6rPhlwa70aEoncAZ5RuA |title=加算運賃の状況について |publisher=京浜急行電鉄 |accessdate=2016-01-11}}</ref>。
2022年頃には加算運賃の廃止時期を迎えるとする予想があった<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/201944 京急空港線「5年後に大幅値下げ」実現するか] - 東洋経済オンライン、2017年12月27日</ref>が、2019年2月19日に京急は同年10月の消費税率改定に伴う運賃改定と同時に、加算運賃を50円に変更する改定(及び空港線内における特定運賃設定の廃止)を行った<ref name="keikyu20190219"/><ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-31 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51589210Q9A031C1TJ3000/ |title=羽田線値下げ、京急「損して得」 シェア独走へ先手 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2019-10-30}}</ref>。
一方、羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅から空港線・京急本線を経由して都営地下鉄浅草線やその直通先との間を乗車した際に、各社線の運賃合算額から60円([[成田空港駅]]・[[空港第2ビル駅]]発着は80円)を割り引く「空港連絡特殊割引」制度が導入されていたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.fastcloud.jp/keikyufaq/keikyucall/web/knowledge179.html|title=空港連絡特殊割引について|website=京浜急行電鉄|accessdate=2022-01-26}}{{リンク切れ|date=2023年10月}}</ref>、2019年10月の加算運賃引き下げ後もこの割引額が変更されなかったため、空港線糀谷駅 - 天空橋駅間各駅発着の都営地下鉄方面との運賃が羽田空港発着よりも割高になる逆転現象が生じた。これの緩和のため、加算運賃引き下げ日より空港線の糀谷駅・大鳥居駅・穴守稲荷駅・天空橋駅と都営地下鉄・京成線(成田空港駅・空港第2ビル駅・[[京成千原線|千原線]]を除く)・北総線の各駅との間に企画乗車券「羽田みらいきっぷ」を発売した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-10 |url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1206415.html |title=京急、空港線 糀谷/大鳥居/穴守稲荷/天空橋〜他社線の各駅間対象の「羽田みらいきっぷ」を10月1日発売。加算運賃引き下げに伴う運賃の逆転事象に対応 |website=トラベルWatch |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2020-02-12}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=「羽田みらいきっぷ」を2019年10月1日(火)から発売いたします |publisher=京浜急行電鉄 |date=2019-09-10 |url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/2019091002HP_19116TS.pdf |format=PDF |accessdate=2020-02-12 }}</ref>(往復方向で利用可能だが、空港線内該当駅でのみ販売)。
2022年3月12日より「空港連絡特殊割引」の割引額が10円引き下げられ50円(成田空港駅・空港第2ビル駅発着は70円)となり、加算運賃との逆転現象がなくなることから「羽田みらいきっぷ」の販売も終了<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20211224HP_21106IT.pdf |title=「空港連絡特殊割引」の割引額の見直し(割引縮小)に関するお知らせ |publisher=京浜急行電鉄 |date=2021-12-24 |accessdate=2022-01-26}}</ref>。さらに2023年10月1日の運賃改定に伴って「空港連絡特殊割引」は全面廃止された<ref>{{Cite press release|title=鉄道旅客運賃の改定申請が認可されました|publisher=京浜急行電鉄|date=2023-04-21|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20230421HP_23009TE.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-02}}</ref>。
== その他 ==
* 羽田空港の国際線・国内線カウンターでは、国際線と国内線の乗り継ぎ客を対象に乗継乗車票を配布していて、これを利用すると羽田空港第3ターミナル - 羽田空港第1・第2ターミナル間を利用出来る。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 青木武雄『報知七十年』報知新聞社、1941年。
* 京浜急行電鉄株式会社社史編纂班『京浜急行八十年史』京浜急行電鉄株式会社、1980年。
* {{Cite book | 和書 | title=京急グループ110年史 最近の10年 | publisher=[[京浜急行電鉄]] | year=2008 |ref=keikyu110}}
* {{Cite book| 和書 | title=京急ダイヤの歴史 | author=高野光雄 | year=2011 | ref=高野2011}}
* 平山昇『鉄道が変えた社寺参詣』株式会社交通新聞社、2012年。
* 鈴木勇一郎『電鉄は聖地をめざす』講談社、2019年。
* 坂崎幸之助・生田誠『ふるさと東京 今昔散歩 第2巻羽田・大森・蒲田編』フォト・パブリッシング、2021年。
* {{Cite book| 和書| author=吉本尚 | title=京急ダイヤ100年史 | publisher=電気車研究会 |year=1999 |ref=吉本1999}}
* 佐藤良介「京急空港線 最近の25年 <small>-車両と運転の変遷-</small>」
** 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』1999年1月号(通巻664号) pp. 76-84.
* 佐藤良介『京急の駅 今昔・昭和の面影』JTBキャンブックス、2006年、pp. 60-61, 132-140.
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[京浜急行電鉄#路線]]
* [[空港連絡鉄道]]
* [[東京国際空港]]
* [[穴守稲荷神社]]
* [[エアポート快特]]
* [[多層建て列車]]
* [[蒲蒲線]]
* [[第84回東京箱根間往復大学駅伝競走]] - 京急蒲田駅付近高架化前の当時、10区を走っていた[[東海大学]]の走者が当線の踏切で足を取られて故障し、棄権した。
== 外部リンク ==
* [https://www.keikyu.co.jp/ 京急電鉄(KEIKYU/京浜急行電鉄)]
* [https://www.keikyu.co.jp/visit/haneda-airport/ 羽田空港アクセスガイド]- 京浜急行電鉄(KEIKYU)
* [https://web.archive.org/web/19991006163554/http://www.keikyu.co.jp/n/s1/haneda/ayumi.html 空港線のあゆみ](京浜急行電鉄・インターネットアーカイブ)
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松浦亜弥
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松浦 亜弥(まつうら あや、1986年6月25日 - )は、日本の歌手、タレント、女優で、元アイドル。愛称は、あやや。
兵庫県姫路市出身。元ハロー!プロジェクトの一員。身長156cm。
夫はw-inds.の橘慶太。2017年9月15日以前はアップフロントクリエイトに所属していた。
幼い頃から母親の影響で歌うことが好きであり、漠然と歌手になれたらいいと考えていた。しかし歌手になる方法を考えたことはなかった。そんな中、友達から借りたCD「ハッピーサマーウェディング」 に「第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の案内が同封されており、同オーディションに応募した。同オーディションで歌った曲は浜崎あゆみの「Far away」であるが、歌ったことをよく覚えておらず、オーディションの審査員からの質問にもうまく答えられていない「気がする。」と述懐している。しかし2000年8月29日、同オーディションに合格。オーディションの状況から「予想外」であったと述べている。
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
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2018年
2020年
2022年
愛称である「あやや」は、デビュー当時にテレビ東京の音楽番組『MUSIX!』にて飯田圭織が命名したものであり、モーニング娘。の曲「恋のダンスサイト」の一節「アイヤイヤー」が「あやや」と聞こえることに由来する。「AYAYA」(呼称アヤヤ)が株式会社アップフロントグループの商標として2006年3月24日出願、2006年10月13日に登録済である(出願番号:商願2006-26123 登録番号:第4995372号)。
近眼でコンタクトレンズを使用していたが、2007年にレーシック手術を受けた。
好きなアイドルグループは光GENJIとSPEEDで、松浦が初めて好きになったのが光GENJIであり、芸能界に入りたいと思ったきっかけはSPEEDに影響されたからである。
藤本美貴とはかつて同じハロー!プロジェクトに所属し、自他共に認める大親友だといわれている。
ハロー!プロジェクトからのソロアイドルデビューは異例かつ初めてのことであり、ハロプロ系アイドルブームの一端を担った。それより後のアイドルシーンが、従来のグループアイドルから踏み込んだ「会いに行けるアイドル」をコンセプトとしてストーリー性に重きを置いた「成長実感型」のグループアイドルが主流となったことから、後に「平成最後のソロアイドル」とも称されている。
2012年現在、オリコン最高位は2位(シングル5作、オリジナル・アルバム2作、ベスト・アルバム1作)で、ユニット参加ではごまっとう、DEF.DIVAとして1位を獲得。売上認定では日本レコード協会のプラチナディスク(25万枚以上)が最高(オリジナル・アルバム2作)である。
太字は主演
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松浦 亜弥は、日本の歌手、タレント、女優で、元アイドル。愛称は、あやや。 兵庫県姫路市出身。元ハロー!プロジェクトの一員。身長156cm。 夫はw-inds.の橘慶太。2017年9月15日以前はアップフロントクリエイトに所属していた。
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{{独自研究|date=2010年5月}}
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}}
{{Infobox HelloProject <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = 松浦 亜弥
| Img = 『ATARIMAE(あたりまえ)プロジェクト』サポーター任命式1.jpg
| Img_capt = 『ATARIMAE(あたりまえ)プロジェクト』サポーター任命式にて[[舛添要一]]と(2008年)
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| Background = singer
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| Nickname = あやや
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| Born = {{生年月日と年齢|1986|6|25}}
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| Instrument =
| Genre = [[J-POP]]
| Occupation = [[歌手]]、[[タレント]]
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| Label = [[アップフロントワークス#zetima|zetima]]<br/>(2001年-2013年)<br /> [[ワーナーミュージック・ジャパン]]<br/>(2022年-)
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| URL = {{Wayback|url=http://www.up-front-create.com/aya_matsuura/|title=アーティスト情報松浦亜弥 アップフロントクリエイト|date=20160406021807}}
}}
'''松浦 亜弥'''(まつうら あや、[[1986年]][[6月25日]] - )は、[[日本]]の[[歌手]]、[[タレント]]、[[俳優#性別での分類|女優]]で、元[[アイドル]]。愛称は、'''あやや'''。
[[兵庫県]][[姫路市]]出身。元[[ハロー!プロジェクト]]の一員。[[身長]]156cm<ref>https://www.imdb.com/name/nm1564255/bio?ref_=nm_ov_bio_sm</ref>。
夫は[[w-inds.]]の[[橘慶太]]。2017年9月15日以前は[[アップフロントクリエイト]]に所属していた。
== 略歴 ==
=== オーディション合格まで ===
幼い頃から母親の影響で歌うことが好きであり、漠然と歌手になれたらいいと考えていた<ref name="oricon20010416">{{Cite journal | 和書 | author=斉藤貴志(株式会社オリコン編集部) | title=松浦亜弥3週連続interview① PAST(過去) | journal=オリコン・ウィーク The Ichiban | volume=23 | issue=15 | page=57 | publisher=[[オリコン・エンタテインメント|株式会社オリコン]]}}2001年4月16日発行。</ref>。しかし歌手になる方法を考えたことはなかった<ref name="oricon20010416"/>。そんな中、友達から借りたCD「[[ハッピーサマーウェディング]]」<ref group="注">2000年5月にリリースされた[[モーニング娘。]]のシングル。</ref> に「[[ハロー!プロジェクトのメンバーオーディション#第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション|第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション]]」の案内が同封されており、同オーディションに応募した<ref name="oricon20010416"/>。同オーディションで歌った曲は[[浜崎あゆみ]]の「[[Far away (浜崎あゆみの曲)|Far away]]」であるが、歌ったことをよく覚えておらず、オーディションの審査員からの質問にもうまく答えられていない「気がする。」と述懐している<ref name="oricon20010416"/>。しかし[[2000年]]8月29日、同オーディションに合格。オーディションの状況から「予想外」であったと述べている<ref name="oricon20010416"/>。
=== 2000年 - 2004年 ===
'''[[2000年]]'''
*10月、歌手デビューに先立ち「美・少女日記」<ref group="注">[[テレビ東京]]の深夜枠『[[少女日記]]』内ミニドラマ</ref> に出演し、14歳で女優としてデビューした。
'''[[2001年]]'''
*「[[ハロー!プロジェクトの作品・出演一覧#Hello! Project コンサート|Hello! Project 2001 すごいぞ! 21世紀(1月2日 - 2月25日)]]」が歌手御披露目。「100回のKISS」(2番の歌詞が当時未完成だった)を歌う。
*4月11日、「[[ドッキドキ!LOVEメール]]」で歌手としてメジャーデビュー。
*2001年ニッポン放送の春のキャンペーンのイメージキャラクターに選ばれ、[[松浦亜弥Let's do it!!|番組]]開始。
*第39回[[ゴールデン・アロー賞]]最優秀新人賞に選ばれる。
*12月31日、[[第52回NHK紅白歌合戦]]に初出場。歌唱曲は「[[LOVE涙色]]」。
'''[[2002年]]'''
*3月、「Mの黙示録」にて男声コーラスグループ[[Baby Boo]]と共演した折に「LOVE涙色」をアカペラコーラス付で歌わせて貰い、歌い終わると感動で号泣する。
*5月14日、[[日本のプロ野球|日本プロ野球]]の[[太平洋戦争|戦後]]初となる海外公式戦「[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]」([[台湾]]・[[台北市立天母棒球場]])で[[始球式]]と[[国歌独唱]]を務める。
*8月9日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にて放送された『[[天使の歌声 〜小児病棟の奇跡〜]]』に([[より子]]役で)主演。ドラマ主役を演じるのは初(第29回[[放送文化基金賞]]の出演者賞を受賞)。
*日中国交正常化30周年記念ASIA2002 MUSIC FESTIVAL IN 上海に出場。10月20日にNHKにて放送。
*11月20日、[[後藤真希]]、[[藤本美貴]]と[[ごまっとう]]を結成。
*12月31日、[[第53回NHK紅白歌合戦]]に2年連続2回目の出場。歌唱曲は「Yeah! めっちゃホリディ」。
'''[[2003年]]'''
*3月15日、初出演映画『[[青の炎]]』が公開される。この映画で第18回[[高崎映画祭]]最優秀新人女優賞を受賞。
*9月9日、[[Gatas Brilhantes H.P.]](ガッタス ブリリャンチス H.P.)結成に参加(2004年3月に脱退)。
*10月1日、[[新幹線]][[のぞみ (列車)|のぞみ]][[姫路駅]]発着開始記念一日駅長([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])。
*12月31日、[[第54回NHK紅白歌合戦]]に3年連続3回目の出場。歌唱曲は「ね〜え?」。
'''[[2004年]]'''
*3月13日、[[J1リーグ|J1]]の開幕戦[[ヴィッセル神戸|神戸]]対[[ジェフユナイテッド市原・千葉|市原]]の[[御崎公園球技場|試合]]前に開催されたオープニングセレモニーの特別ゲストとして招待された。
*4月2日、春の全国交通安全運動の一環として、[[警視庁]][[丸の内警察署]]の[[一日署長]]を務める。
*6月28日、18歳の誕生日直後に「[[あなたがいるから、矢口真里]]」にゲスト出演し生放送の[[深夜放送]]に進出。
*7月 - 9月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系連続[[テレビドラマ]]『[[愛情イッポン!]]』(毎週土曜日21時〜21時54分)で初主演。
*8月8日、[[神宮外苑花火大会]]のイベント([[日刊スポーツ]]主催)で、[[W (ハロー!プロジェクト)|W]]や[[Berryz工房]]と、[[国立霞ヶ丘競技場]]にてライブ出演。
*9月17日、「第44回ACC・CMフェスティバル」(全日本シーエム放送連盟 (ACC) 主催)で「演技賞」を受賞。受賞作は[[江崎グリコ|グリコ]][[プリッツ]]の「ツップリどすこい」篇。
*10月6日、[[後浦なつみ]]結成(後藤真希、[[安倍なつみ]]と3人で)。
*10月20日、「[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]」で品評会メンバーとして登場。
*12月31日、「後藤真希&松浦亜弥」として[[第55回NHK紅白歌合戦]]に出場。デビュー以来4年連続の出場。歌唱曲は「冬の童謡〜メリークリスマス&ハッピーニュー2005年〜」。
=== 2005年 - 2009年 ===
[[File:061209 Aya Matsuura at V Power "Music Storm" (2).jpg|thumb|2006年撮影]]
'''[[2005年]]'''
*1月26日、第16回[[日本ジュエリーベストドレッサー賞]]([[東京国際展示場|東京ビッグサイト]](東京・有明)会場)の「10代部門」で受賞。
*3月6日、J1の開幕戦神戸対[[セレッソ大阪|C大阪]]の[[御崎公園球技場|試合]]前に開催されたオープニングセレモニーの特別ゲストとして招待された。
*4月、深夜放送パーソナリティーと複数のバラエティ番組のレギュラー出演者に一気に就任。
*5月10日、「[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]」会場にて世界湖沼会議を記念した'''ジャパン・ラブリバーコンサート'''が一日三回開催され参加「[[夏の思い出]]」([[江間章子]](えましょうこ)作詞、[[中田喜直]]作曲)等を歌う。
*5月27日、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]にて行われた日本[[プロ野球]][[セ・パ交流戦]][[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]にて[[始球式]]に参加。
*6月24日、「歌声はひばりと共に2005〜6.24 [[美空ひばり]]17thメモリアルコンサート in 武道館〜」に出場。草原の人を歌う。
*8月19日、[[石見利勝]]姫路市長から「ひめじ観光大使」に任命される。
*8月20日、兵庫県姫路市[[姫路城]]三の丸広場特設ステージに於いて「新姫路市誕生記念松浦亜弥・W・メロン記念日 コンサート in 姫路城 〜松浦亜弥 里帰りスペシャル〜」が行われる。
*9月25日、[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]の[[愛知万博の閉会式|閉会式]]に出席。[[徳仁]]皇太子、[[小泉純一郎]]首相、[[中川昭一]]経産相、[[豊田章一郎]][[2005年日本国際博覧会協会|万博協会]]会長をはじめ内外の要人が列席する中、閉会式イメージソング「Friend Love Believing〜EXPO2005」を歌う。
*10月19日、安倍なつみ、後藤真希、[[石川梨華]]とともに「[[DEF.DIVA]]」(デフ.ディヴァ)を結成。
*11月、[[日本郵政公社]]の[[ゆうパック]]CMキャラクターに抜擢。全国の[[郵便局]]に等身大の縦看板を設置。郵便貯金のCMキャラクターを務めていた[[牧瀬里穂]]以来約13年ぶり。ステージ衣装(楽曲を歌うときのもの)をイメージしたコスチューム。
*11月16日、[[サッカー日本代表]]強化試合「[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ]]」日本対[[サッカーアンゴラ代表|アンゴラ]]戦([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]])で、[[国歌]][[ソロ (音楽)|独唱]]。
*12月31日、「松浦亜弥&DEF.DIVA」として[[第56回NHK紅白歌合戦]]に出場。デビュー以来5年連続の出場。歌唱曲は「気がつけば好きすぎて♪盛り上がって♪LOVEマシーン!」(モーニング娘。と同枠での出演)。
'''[[2006年]]'''
*2月5日、映画「[[スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ]]」制作発表。4代目[[麻宮サキ]]就任。
*3月18日 - 4月16日、[[六本木ヒルズ]]内の森アーツセンターギャラリーで開催された、写真家{{仮リンク|ウィン・シャ|zh|夏永康}}による写真展「ウィン・シャ エキシビション」にて、モデル出演。
*6月9日、[[中華人民共和国|中国]]・[[上海市|上海]]のライブハウス「[[新天地]]ARK」にて、単独ライブを開催。
*6月14日、藤本美貴とユニット[[GAM (音楽ユニット)|GAM]]を結成。
*6月16日、薬物乱用防止キャンペーン「ダメ。ゼッタイ」のイメージキャラクターとして、[[総理大臣官邸|首相官邸]]にて[[小泉純一郎]]首相を表敬訪問<ref>[https://web.archive.org/web/20060622222445/http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiphoto/2006/06/16yakubutu.html 首相官邸ホームページ - 小泉総理の動き]</ref>。
*6月28日、パチンコ台「CR松浦亜弥」([[ビスティ]])を発表。
*9月13日に、GAMとしてのデビューシングル「[[Thanks!]]」をリリース。
*10月9日、[[顎関節症]]のため、コンサートツアー「進化ノ季節…」[[相模原市|相模原]]([[グリーンホール相模大野]])の公演を直前で中止。
*12月31日、「GAM」として[[モーニング娘。]]と共に[[第57回NHK紅白歌合戦]]に出場。史上4人目(女性では後藤真希に次いで2人目、藤本美貴も同時達成)となる「'''三度目の初出場'''」を達成。歌唱曲は「Thanks! 歩いてる2006 Ambitiousバージョン」。
'''[[2007年]]'''
*5月26日 - 7月3日「GAM 1stコンサートツアー2007初夏 〜グレイト亜弥&美貴〜」公演を行う(7会場19公演)。
*6月19日、薬物乱用防止キャンペーン「ダメ。ゼッタイ」のイメージキャラクターとして、[[総理大臣官邸|首相官邸]]にて[[安倍晋三]]首相を表敬訪問<ref>[https://web.archive.org/web/20070705050726/http://www.kantei.go.jp/jp/abephoto/2007/06/15yakubutu.html 首相官邸ホームページ - 安倍総理の動き]</ref>。
*8月5日 - 14日、主演舞台「すけだち」、[[新宿コマ劇場]]で上演。
*10月13日 - 11月24日、1年振りのソロツアーとなる「松浦亜弥コンサートツアー2007秋 〜ダブル レインボウ〜」公演を行う(5会場14公演)。
'''[[2008年]]'''
*3月7日、「[[きずな (松浦亜弥の曲)|きずな]]」が[[スペシャルオリンピックス]]日本冬季ナショナルゲームの大会応援歌に選定され、[[山形市]]総合スポーツセンターで行われた開会式にシークレットゲストとして登場し同曲を披露した。
*3月18日、「第25回[[全国菓子大博覧会]]・兵庫(姫路菓子博2008)」([[兵庫県]][[姫路市]]にて4月18日から5月11日まで開催)の、広報宣伝局長に任命される。
*4月12日、[[両国国技館]]での「[[NSD (企業)|NSD]] Challenge 2008 Value up」に[[タケカワユキヒデ]]と出演。
*10月24日、[[厚生労働省]]による[[障害者]]雇用促進活動「[http://atarimae.jp/ ATARIMAEプロジェクト]」の[[サポーター]]代表に任命され、[[舛添要一]][[厚生労働大臣|厚生労働相]]から任命証等を授与される<ref>[http://mainichi.jp/enta/geinou/graph/200810/24_2/index.html 松浦亜弥:障害者雇用サポーターに 舛添厚労相もデレデレ]</ref>。
'''[[2009年]]'''
*1月5日、自宅にて左足薬指を強打し、左第四趾末節骨折。全治6週間と診断される。所属事務所からの発表は[[1月9日]]。発表翌日の[[1月10日]]から始まった[[エルダークラブ]][[コンサート]]には患部を[[テーピング]]で固定して出演した<ref>[http://www.helloproject.com/newslist/aya_0901091250.html 松浦亜弥に関するお知らせ]</ref>。
*3月31日、ハロー!プロジェクト卒業。翌月から[[ファンクラブ]]も「ハロー!プロジェクト」から「'''AYAWAY'''」として[[独立]]。
*8月26日、[[スタ☆ブロ]]にて公式[[ブログ]]を開始。初回の書き込みで、翌週から開始するコンサートツアーを最後にツアー活動を当面休止すると宣言。但し単発でのライブ・コンサートは継続するとのこと。
=== 2010年 - ===
'''[[2010年]]'''
*3月30日、[[明治神宮野球場|神宮球場]]で行われた[[プロ野球]]「[[東京ヤクルトスワローズ]]対[[中日ドラゴンズ]]」戦にて、[[国歌独唱]]および[[始球式]]を務める<ref>{{Cite news|url= http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100330/bbl1003301853021-n1.htm |title= 【プロ野球】神宮開幕戦で松浦亜弥が始球式 |newspaper= MSN産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2010-03-30 |accessdate= 2017-09-16 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20100408233911/http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100330/bbl1003301853021-n1.htm |archivedate= 2010-04-08 }}</ref>。
*10月から缶コーヒー「[[ルーツ (缶コーヒー)|Roots]]」CMに出演するユニット「コーラスジャパン」に参加<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110110/ent11011000340012-n1.htm 布施明にあややも!コーラスジャパン結成] MSN産経ニュース、2010年10月5日。</ref>。
'''[[2011年]]'''
*3月27日、『[[FNS音楽特別番組 上を向いて歩こう 〜うたでひとつになろう日本〜]]』にコーラスジャパンの一員として出演。
*4月1日放送のテレビドラマ『サクラとさつき』([[朝日放送テレビ|朝日放送]]、関西ローカル)に主演<ref>[https://web.archive.org/web/20110322060416/http://www.sanspo.com/geino/news/110318/gnj1103181047022-n1.htm あやや、播州弁女トラック野郎でドラマ主演] サンケイスポーツ、2011年3月18日。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20110323150300/http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20110318-OHO1T00021.htm 松浦亜弥、関西弁の役は貴重かも…ABCテレビ「サクラとさつき」] スポーツ報知大阪版、2011年3月18日。</ref>。
*4月11日、歌手としてデビューから10周年を迎える。
*8月30日、4年程前から[[子宮内膜症]]の診断を受けていたことを公表した<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20110830-827817.html |title= あやや頑張れ「子宮内膜症」を公表 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2011-08-30 |accessdate= 2017-09-16 }}</ref>。
*12月21日、10周年記念ベストアルバム「[[松浦亜弥 10TH ANNIVERSARY BEST]]」を発売。それに合わせ12月8日・9日に丸の内、発売日は名古屋でライブを行った。
'''[[2012年]]'''
*2月5日、[[赤坂BLITZ]]にてファンクラブ会員限定ライブ「Aya Matsuura Maniac Live Vol 4」開催。
'''[[2013年]]'''
*8月4日、2001年頃から交際していた[[w-inds.]]の[[橘慶太]]との結婚を発表、同日の未明に東京都内の区役所へ婚姻届を提出した<ref>{{Cite web|和書| date=2013-08-04 | url=http://www.up-fc.jp/ayaway/news_Info.php?id=4860 | title=松浦亜弥からのご報告 | work=松浦亜弥オフィシャルファンクラブ - Ayaway - | accessdate=2013-08-04}}</ref><ref>{{Cite news |title=松浦亜弥とw-inds.橘慶太が結婚! |newspaper=SANSPO.COM |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=2013-08-04 |author= |url=http://www.sanspo.com/geino/news/20130804/mar13080405070000-n1.html |accessdate=2013-08-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130805223411/http://www.sanspo.com/geino/news/20130804/mar13080405070000-n1.html|archivedate=2013-08-05}}</ref><ref>{{Cite news |title=松浦亜弥 橘慶太と結婚! 交際12年「私の青春には、すべて彼がいます」 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex 芸能 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2013-08-04 |author= |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/08/04/kiji/K20130804006354700.html |accessdate=2013-08-04}}</ref>。
*10月1日、所属事務所をアップフロントプロモーションから同[[アップフロントグループ]]の[[アップフロントクリエイト]]へ移籍。
<!--*10月8日、ハワイで挙式した<ref>[https://mdpr.jp/news/detail/1287181 w-inds.橘慶太&松浦亜弥夫妻、ハワイ挙式で涙 出席者が感動の式を振り返る]</ref><ref>[https://mdpr.jp/news/detail/1289270 松浦亜弥、2年ぶりテレビ復帰 挙式したハワイで家庭的な一面アピール]</ref>。-->
*12月20日〜21日、東京・丸の内にあるライブレストラン・コットンクラブにて、「松浦亜弥 - ラグジュアリー・クリスマス・ナイト2013」を開催。
*12月31日、「Hello! Project COUNTDOWN PARTY 2013 〜 GOOD BYE & HELLO! 〜」出演。同イベントを以て、無期限活動休止に入る。
'''[[2014年]]'''
*3月31日、ファンクラブ「AYAWAY」運営終了。
<!--* 9月22日、夫の橘との連名FAXで、[[妊娠]]7か月であることを発表<ref>{{cite news |title=あやや妊娠7カ月を発表した。「新たな絆が」 |author= |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2014-09-22 |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/09/22/0007353798.shtml |accessdate=2014-09-22}}</ref>。年末に出産を予定しているという。-->
*12月24日、夫の橘との連名FAXで、第1子女児出産を報告<ref>{{Cite news |title=あやや病気乗り越え出産 子宮内膜症とは |author= |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2014-12-24 |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/12/24/0007609405.shtml |accessdate=2014-12-25}}</ref>。出産日、名前等は非公表。
'''[[2017年]]'''
*9月15日付で、アップフロントクリエイトとの専属マネジメント契約を終了し、夫の橘の個人事務所に移籍<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201709160000662.html |title= 松浦亜弥が所属先との契約終了 夫の事務所移籍へ |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2017-09-16 |accessdate= 2017-09-16 }}</ref>。
'''[[2018年]]'''
*7月31日、第2子出産を夫の橘がインスタグラムで報告<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2116667/full/ |title= 橘慶太&松浦亜弥に第2子誕生 橘がインスタで発表「家族が増えました」 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2018-07-31 |accessdate= 2018-07-31 }}</ref>。性別は非公表。
'''[[2020年]]'''
*12月9日、第3子出産を橘がインスタグラムで報告<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/12/09/kiji/20201209s00041000394000c.html |title= 橘慶太&松浦亜弥夫妻に第3子誕生「日本で一番バキバキに歌って踊れる3児の父を目指します」 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2020-12-09 |accessdate= 2020-12-09 }}</ref>。
'''[[2022年]]'''
*1月27日、Amazon[[Audible]]にて配信開始された[[藤井隆|マシュー南]]の[[ポッドキャスト]]番組『Matthew's Matthew マシュー南の部屋の中のマシュー』の初回ゲストとして特別出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/463320|title=マシュー南が大人の都合を宇宙へ捨てて緊急来日、ポッドキャストの初回ゲストは松浦亜弥|publisher=音楽ナタリー|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2222513/full/|title=マシュー南のポッドキャスト番組始動「心ゆくまで楽しんで」 松浦亜弥が初回ゲスト出演|publisher=ORICON NEWS|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-28}}</ref>。
*4月18日から放送の、[[ネスレ日本]]「[[ネスカフェ]] エクセラ」のテレビCMで、11年半振りにCM出演し、オリジナルCMソングで歌声を披露<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/104923/1|title=松浦亜弥、約11年半ぶりのテレビCM 自然体の撮影で「子供達にママ可愛いね!と言ってもらいたい」|website=[[ブロードメディア#クランクイン!|クランクイン!]]|publisher=[[ブロードメディア]]株式会社|date=2022-04-14|accessdate=2022-04-14}}</ref>。
*11月25日、夫の[[橘慶太]]プロデュースによる配信シングル「[[Addicted (曲)|Addicted]]」リリース。アップフロント退所後初の作品で、シングルとしては「[[チョコレート魂]]」以来13年半ぶりとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2210/27/news213.html|title=あややおかえり! 松浦亜弥、13年半ぶり新曲「Addicted」で“天才的な歌声”響かせる 夫・橘慶太とのコラボ曲に「ゾワっと鳥肌立った…」|website=ねとらぼ|date=2022-10-27|accessdate=2022-10-29}}</ref>。
== 人物 ==
愛称である「'''あやや'''」は、デビュー当時に[[テレビ東京]]の音楽番組『[[MUSIX!]]』にて[[飯田圭織]]が命名したものであり、[[モーニング娘。]]の曲「[[恋のダンスサイト]]」の一節「アイヤイヤー」が「あやや」と聞こえることに由来する。「AYAYA」(呼称アヤヤ)が[[アップフロントグループ|株式会社アップフロントグループ]]の商標として2006年3月24日出願、2006年10月13日に登録済である(出願番号:商願2006-26123 登録番号:第4995372号)。
近眼で[[コンタクトレンズ]]を使用していたが、[[2007年]]に[[レーシック]]手術を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/5714|title=歴代アイドル歌姫の「深刻闘病」現場(1) あやや|publisher=[[アサヒ芸能|アサ芸]]プラス|date=2012-06-12|accessdate=2014-03-14}}</ref>。
好きなアイドルグループは[[光GENJI]]と[[SPEED]]で、松浦が初めて好きになったのが光GENJIであり、芸能界に入りたいと思ったきっかけはSPEEDに影響されたからである<ref>[[UP to boy]]([[ワニブックス]])2001年8月号より。</ref>。
[[藤本美貴]]とはかつて同じハロー!プロジェクトに所属し、自他共に認める大親友だといわれている<ref>{{Cite news | url = https://www.cinematoday.jp/news/N0055336 | title = 幸せ絶頂あややの写真を大親友ミキティが公開 | publisher = シネマトゥデイ | date = 2013-08-05 | accessdate = 2014-03-14 }}</ref>。
ハロー!プロジェクトからのソロアイドルデビューは異例かつ初めてのことであり、ハロプロ系アイドルブームの一端を担った。それより後のアイドルシーンが、従来のグループアイドルから踏み込んだ「<!-- 会えるアイドル -->会いに行けるアイドル」をコンセプトとしてストーリー性に重きを置いた「成長実感型」のグループアイドルが主流となったことから、後に「平成最後のソロアイドル」とも称されている<ref>{{Cite web|和書|publisher=オリコンニュース |work= |url=https://www.oricon.co.jp/special/54199/ |title=松浦亜弥「桃色片想い」カバー話題、沸き起こる実力派ソロアイドル待望論|date=2020-01-20|accessdate=2020-01-20}}</ref>。
== 作品 ==
[[2012年]]現在、[[オリコンチャート|オリコン]]最高位は2位(シングル5作、オリジナル・アルバム2作、ベスト・アルバム1作)で、ユニット参加ではごまっとう、DEF.DIVAとして1位を獲得。売上認定では[[日本レコード協会]]の[[ゴールドディスク#日本|プラチナディスク]](25万枚以上)が最高(オリジナル・アルバム2作)である。
=== シングル ===
# [[ドッキドキ!LOVEメール]](2001年4月11日)
# [[トロピカ〜ル恋して〜る]](2001年6月13日)
# [[LOVE涙色]](2001年9月5日)
# [[100回のKISS]](2001年11月28日)
# [[♡桃色片想い♡]](2002年2月6日)
# [[Yeah! めっちゃホリディ]](2002年5月29日)
# [[The 美学]](2002年9月19日)
# [[草原の人]](2002年12月11日)
# [[ね〜え?]](2003年3月12日)
# [[GOOD BYE 夏男]](2003年6月4日)
# [[THE LAST NIGHT]](2003年9月26日)
# [[奇跡の香りダンス。]](2004年1月28日)
# [[風信子 (松浦亜弥の曲)|風信子(ヒヤシンス)]](2004年3月10日)
# [[YOUR SONG〜青春宣誓〜]](2004年7月14日)
# [[渡良瀬橋 (曲)#松浦亜弥のシングル|渡良瀬橋]](2004年10月20日)
# [[ずっと 好きでいいですか]](2005年2月23日)
# [[気がつけば あなた]](2005年9月21日)
# [[砂を噛むように…NAMIDA]](2006年2月1日)
# [[笑顔 (松浦亜弥の曲)|笑顔]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000033849|title=松浦亜弥「誰もが敵に思える時があった」と告白 ─新曲「笑顔」インタヴュー|work=BARKS|accessdate=2020-05-27|date=2007-08-28}}</ref>(2007年8月29日)
# [[きずな (松浦亜弥の曲)|きずな]](2008年5月21日)
# [[チョコレート魂]](2009年2月11日)
=== デジタル・シングル ===
# [[Addicted (曲)|Addicted]](2022年11月25日)
=== 企画シングル ===
# 天才!LET'S GO あややム(2004年11月26日)(「[[あややムwithエコハムず]]」名義)
=== アルバム ===
==== オリジナル・アルバム ====
# [[ファーストKISS]](2002年1月1日)
# [[T・W・O]](2003年1月29日)
# [[×3]](2004年1月1日)
# [[ダブル レインボウ]](2007年10月10日)
# [[想いあふれて]](2009年1月21日)
==== 企画アルバム ====
* [[Naked Songs]](2006年11月29日)
**バンド演奏によるスタジオライブ形式のセルフカバー・洋楽カバー・新曲を加えた企画盤。
* [[Click you Link me]](2010年11月24日)
**セルフカバー洋楽カバー・新曲を加えた企画盤。2011年2月23日にアナログ盤を発売。
==== ベスト・アルバム ====
# [[松浦亜弥ベスト1]](2005年3月24日)
# [[松浦亜弥 10TH ANNIVERSARY BEST]](2011年12月21日)
==== ハワイ限定ベスト・アルバム ====
# シングル・ベスト SPECIAL EDITION FOR HAWAII (2003年度ハワイ限定盤)(2003年12月15日)
# シングル・ベスト SPECIAL EDITION FOR HAWAII (2005年度ハワイ限定盤)(2005年3月25日)
#*ともに、かつて出店していたハワイのハロー!プロジェクトオフィシャルショップおよび、ファンクラブ通販のみで発売。
==== サウンドトラック ====
* 松浦亜弥ミュージカル「草原の人」オリジナルキャスト盤(2003年3月5日)
* 「リボンの騎士 ザ・ミュージカル」ソング・セレクション(2006年7月26日)
==== その他参加作品 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!曲名
!収録された作品
!CDレーベル
!備考
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2002年]]5月22日
|「[[神田川 (曲)|神田川]]」「[[冬が来る前に]]」「[[ひこうき雲 (荒井由実の曲)|ひこうき雲]]」「[[てんとう虫のサンバ]]」「[[長い間]]」「[[さとうきび畑]]」
|[[FOLK SONGS#FOLK SONGS 2|FOLK SONGS 2]]
| rowspan="2" |[[アップフロントワークス#PICCOLO TOWN|PICCOLO TOWN]]
|
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2004年]]2月25日
|「[[なごり雪]]」「[[スカボロー・フェア]]」
| [[FOLK SONGS#FS5 卒業|FS5〜卒業〜]]
|
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2007年]]10月17日
|[[日野皓正]]のトランペット演奏で[[笠置シヅ子|「ラッパと娘」]]
| [[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜]]
| rowspan="2" | [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック]]
|このアルバムの[[服部良一]]、[[服部克久]]、[[服部隆之]]に2007年日本レコード大賞特別賞
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2008年]]10月22日
|「[[道化師のソネット]]」
| [[さだまさしトリビュート さだのうた]]
|
|-
|style="white-space:nowrap" | 2008年11月19日
|「[[あなたに逢いたくて]]」
| [[男と女 -TWO HEARTS TWO VOICES-]]
|[[ユニバーサルミュージック (日本)#USMジャパン|ユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパン]]
|このアルバムを含む「男と女」シリーズにてデュエット相手の[[稲垣潤一]]とユニバーサルが2009年日本レコード大賞企画賞
|-
|style="white-space:nowrap" | 2008年12月10日
|「花いちもんめ」
| [[プッチベスト#プッチベスト9|プッチベスト9]]
| [[アップフロントワークス#zetima|zetima]]
| [[青山商事#CM出演者|洋服の青山]]CMソング
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2009年]]2月25日
|「ヘイ・ポーラ」(原題・Hey! Paula -1962-)
|アメリカンポップス&スタンダード 〜テネシーワルツ〜
| [[キングレコード在籍アーティスト一覧#現在のキングレコード販売委託分|ファイブズエンタテインメント]]
|[[五木ひろし]]とデュエット
|-
|style="white-space:nowrap" | 2009年3月25日
|「[[飾りじゃないのよ涙は]]」
|[[Many Happy Returns]]
| [[ユニバーサルミュージック (日本)#ユニバーサルシグマ|ユニバーサル シグマ]]
|[[CHAGE]]とデュエット
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2010年]]2月
|(詩の朗読)
|「子供の詩 [[有本芳水]]賞創設20周年記念 受賞作品朗読CD」
|[[姫路信用金庫#文化・社会貢献|ひめしん文化会]]
|(朗読者の一員として参加)非売品
|-
|style="white-space:nowrap" | 2010年10月13日
|「[[根の歌]]」
|根の歌(シングル)
|ユニバーサル シグマ
|[[堂珍嘉邦]][[杏里]][[布施明]][[石川さゆり]][[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]参加のユニットコーラスジャパン([[ルーツ (缶コーヒー)|Rootsアロマインパクト]]の[[CMソング]])
|-
|style="white-space:nowrap" | [[2011年]]3月18日
|「[[ふたり大阪]]」
|[[着うた]]などDL販売のみ
|ABC[[朝日放送テレビ|朝日放送]]携帯サイト,[[iTunes Store]]
|松浦亜弥主演朝日放送ドラマサクラとさつきテーマソング
|}
=== DVD/VHS(シングル) ===
# 松浦シングルMクリップス 1(2002年10月9日)
# シングルV・草原の人(2002年12月11日)
# シングルV・ね〜え?(2003年3月12日)
# シングルV・GOOD BYE 夏男(2003年6月4日)
# シングルV・THE LAST NIGHT(2003年9月26日)
# シングルV・奇跡の香りダンス。(2004年1月28日)
# 松浦亜弥シングルVクリップス 2(2004年4月14日)
# シングルV・YOUR SONG 〜青春宣誓〜(2004年7月28日)
# シングルV・渡良瀬橋(2004年11月10日)
# シングルV・ずっと好きでいいですか(2005年3月2日)
# シングルV・気がつけば あなた(2005年9月28日)
# シングルV・砂を噛むように…NAMIDA(2006年2月8日)
# 砂を噛むように…NAMIDA〜スタジオライブ〜(2006年3月29日)
# シングルV・笑顔(2007年9月12日)
# シングルV・きずな(2008年6月4日)
# シングルV・チョコレート魂(2009年2月25日)
=== DVD/VHS(コンサート) ===
# 松浦亜弥ファーストコンサートツアー2002春 〜ファーストデート〜 2002.6.02 at 東京国際フォーラム(2002年8月7日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2002秋 〜Yeah! めっちゃライブ〜 at 中野サンプラザ(2003年2月19日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2003春 〜松リング PINK〜 (2003年9月18日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2003秋 〜あややヒットパレード!〜 (2004年2月4日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2004春 〜私と私とあなた〜 (2004年8月11日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2004秋 〜◇松クリスタル◇代々木スペシャル〜(2004年12月1日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2005春 〜101回目のKISS~HAND IN HAND~〜 (2005年7月20日)
# 後浦なつみファーストコンサートツアー2005春トライアングルエナジー(2005年8月3日)
# ハロ☆プロパーティ〜! 2005〜松浦亜弥キャプテン公演〜(2005年12月7日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2006春 〜OTONA no NAMIDA〜(2006年9月6日)
# 松浦亜弥 上海ライブ(2006年10月25日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2006秋 〜進化ノ季節…〜(2007年1月17日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2007秋 〜ダブル レインボウ〜(2008年1月23日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2008春 『AYA The Witch』(2008年9月24日)
# 松浦亜弥コンサートツアー2009秋 〜想いあふれて〜(2009年12月23日)
=== Blu-ray(コンサート) ===
# 松浦亜弥 ラグジュアリー・クリスマス・ナイト 2013 at COTTON CLUB (2015年2月11日)
== 公演 ==
=== コンサート ===
* Hello! Project 2001 すごいぞ! 21世紀(1月2日 - 2月25日)
* モーニング娘。CONCERT TOUR 2001 “ライブレボリューション春”(3月20日 - 4月15日)※ゲスト出演
* Hello! Project 2001 -TOGETHER! サマーパーティー!(7月14日 - 29日)
* Hello! Project 2002〜今年もすごいぞ〜(2002年)
* 松浦亜弥 ファーストコンサートツアー2002春 「First Date」(3月30日 - 6月2日)
* Hello! Project 2002 ONE HAPPY SUMMER DAY-
* 松浦亜弥 サマーライブ2002コンサート
* 松浦亜弥 コンサートツアー2002秋 「Yeah!めっちゃライブ」
* Hello! Project 2003 Winter 〜楽しんじゃってます!〜
* 松浦亜弥 コンサートツアー2003春 「松リングPINK」
* Hello! Project 2003夏〜よっしゃ! ビックリサマー!!〜
* 松浦亜弥コンサートツアー2003秋 〜あややヒットパレード!〜(8月30日 - 12月7日)
* [[慶應義塾大学]]第45回[[三田祭]]前夜祭 〜あややヒットパレード!特別編~ in KEIO!(11月15日、慶應義塾大学日吉記念館)
* Hello! Project 2004 Winter 〜C'MON! ダンスワールド〜(1月3日 - 6日:中野サンプラザ、10日・11日:大阪厚生年金会館・大ホール、17日・18日:名古屋市民会館・大ホール、24日・25日:横浜アリーナ)
* 第25回記念日刊スポーツ主催 2004神宮花火大会 ハナビアンナイト[[国立霞ヶ丘競技場]]観覧会場に出演
* 松浦亜弥コンサートツアー2004春 〜私と私とあなた〜(4月3日 - 6月27日)
* Hello! Project 2004 SUMMER 〜夏のドーン!〜(7月17日・18日:名古屋市総合体育館レインボーホール、24日・25日:大阪城ホール、7月31日・8月1日:国立代々木競技場第一体育館)
* 松浦亜弥コンサートツアー2004秋 〜松◇クリスタル◇〜(9月18日 - 11月30日)
* 松浦亜弥コンサートツアー2004秋 〜松◇クリスタル◇ 代々木スペシャル〜(9月25日・26日、国立代々木競技場第一体育館)
* Hello! Project 2005 Winter A HAPPY NEW POWER! 紅組(1月3日 - 6日:中野サンプラザ、15日・16日:大阪厚生年金会館・大ホール、22日・23日:名古屋市民会館・大ホール)
* 松浦亜弥コンサートツアー2005春 『101回目のKISS〜HAND IN HAND〜』(2月25日 - 5月7日)
* 愛・地球博前夜祭記念スペシャルコンサート 松浦亜弥コンサートツアー2005春『101回目のKISS〜HAND IN HAND〜』(3月20日・21日)
* 後浦なつみコンサートツアー2005春「トライアングルエナジー」(4月10日 - 5月8日)
* ハロ☆プロパーティー! 2005 〜松浦亜弥キャプテン公演〜(5月21日 - 6月26日)
* 新姫路市誕生記念 松浦亜弥・W・メロン記念日 コンサート in 姫路城〜松浦亜弥 里帰りスペシャル〜(2005年8月20日)
* ハロ☆プロパーティー! 2005 〜松浦亜弥キャプテン公演NEO〜(9月3日 - 11月27日)
* Hello! Project 2006 Winter 〜エルダークラブ〜(1月2日 - 21日)
* 松浦亜弥コンサートツアー2006春 『OTONA no NAMIDA』(4月1日 - 6月25日)
* 松浦亜弥特別演唱 (新天地ARK 中華人民共和国・上海)(6月9日)
* 松浦亜弥コンサートツアー2006秋 『進化ノ季節…』(9月9日 - 11月5日)
* Hello! Project 2007 Winter 〜集結! 10th Anniversary〜(2007年1月27日・28日、横浜アリーナ)
* GAM 1stコンサートツアー2007初夏 『グレイト亜弥&美貴』(5月26日 - 7月3日)
* 松浦亜弥コンサートツアー2007秋 『ダブル レインボウ』(10月13日 - 11月24日)
* 松浦亜弥コンサートツアー2008春 『AYA The Witch』(5月24日 - 7月5日)
* 松浦亜弥コンサートツアー2009秋 『想いあふれて』(9月5日 - 10月10日)
* Hello! Project COUNTDOWN PARTY 2013 〜GOOD BYE & HELLO!〜(2013年12月31日 - 2014年1月1日、中野サンプラザ)
=== イベント ===
* 松浦亜弥ファンクラブツアー in ハワイ(2003年12月22日 - 28日、[[ハワイ]])ゲスト:[[カントリー娘。]]
* 松浦亜弥ファンの集い(2004年10月11日、[[Zepp Osaka]] / 10月17日、新木場スタジオコースト)
* 松浦亜弥ファンクラブツアー in ハワイ vol.2(2005年3月25日 - 30日、ハワイ)
* 2005年6月度 ハロー!プロジェクト ファンクラブ限定イベント(2005年6月16日・17日・21日、[[パシフィックヘブン]])
* 「ほんとにあった怖い話」〜3D恐怖シアター(2005年7月16日 - 、[[お台場冒険王]]イベント内で上映)
* あややと過ごすファンの集い(2006年7月8日、ラフォーレミュージアム六本木 / 7月9日、大阪・[[シアターBRAVA!]])
* カジュアルディナーショー(2006年7月16日・17日、広尾ラ・クロシェット)
* カジュアルディナーショー(2007年4月7日・8日、広尾ラ・クロシェット / 4月15日、大阪 フラミンゴ ジ アルーシャ)
* GREAT HAWAIIAN TOUR with GAM〜まだ夏は終わらない。終わらせない〜(2007年9月6日 - 12日、ハワイ)
* 松浦亜弥ファンクラブイベント2008(2008年7月12日、御堂会館 / 7月13日、[[横浜BLITZ]])位置付けは「マニアックライブ vol.1」に相当。
* [[お台場冒険王]]ファイナル〜君が来なくちゃ終われない!〜 「ともえちゃんフォークジャンボリー」メインゲスト出演(2008年)
* 松浦亜弥 Special Live 2008 at STB139(2008年10月20日・21日・26日・11月9日、六本木[[スイートベイジルSTB139]])
* 松浦亜弥ファンクラブイベント「マニアックライブ vol.2」(2009年7月18日・御堂会館 / 7月25日・横浜BLITZ)
* 松浦亜弥 Special Live 2010 at STB139(2010年2月14日・3月13日・3月14日、六本木スイートベイジルSTB139)
* 松浦亜弥ファンクラブイベント「マニアックライブ vol.3」(2010年6月26日・[[森ノ宮ピロティホール]] / 6月27日・横浜BLITZ)
* 松浦亜弥 COTTON CLUB LIVE(2010年9月11日・12日、COTTON CLUB)
* 松浦亜弥ファンクラブイベント「マニアックライブ vol.4」(2012年2月5日・[[赤坂BLITZ]])
* 松浦亜弥ファンクラブイベント「マニアックライブ vol.5」(2013年7月14日・原宿クエストホール)
=== ディナーショー ===
* MATSUURA AYA First Dinner Show 2006 Winter([[ルネッサンスサッポロホテル]]、[[品川プリンスホテル]]、[[ウェスティンナゴヤキャッスル]]、[[リーガロイヤルホテル]])
* 松浦亜弥X'masディナーショー2007(山形国際ホテル、品川プリンスホテル、リーガロイヤルホテル、ウェスティンナゴヤキャッスル)
* 松浦亜弥X'masディナーショー2008(リーガロイヤルホテル、リーガロイヤルホテル広島、品川プリンスホテル)
* 松浦亜弥X'masディナーショー2009(品川プリンスホテル)
* 松浦亜弥 ラグジュアリー・クリスマス・ナイト2013(2013年12月20日・21日、COTTON CLUB)
=== ミュージカル ===
* 草原の人(2003年2月7日 - 11日:大阪・[[万博記念公園#かつて存在した施設|万国博ホール]]、15日 - 23日:[[ル テアトル銀座]])- 主演(井上愛子役)
** 同年5月21日にVHSとDVDが発売されている。
* リアルオーディション(2004年2月6日 - 12日:[[メルパルク東京]]、18日 - 22日:[[大阪厚生年金会館|大阪厚生年金会館芸術ホール]])- 主演(水島あすか役)
** 同年5月12日にDVDが発売されている。
* [[リボンの騎士#リボンの騎士 ザ・ミュージカル|リボンの騎士]]ザ・ミュージカル(2006年8月、[[新宿コマ劇場]] 演出:[[木村信司]]) - フランツ王子役([[石川梨華]]・[[安倍なつみ]]とのトリプルキャスト、松浦は8月13・14・15・19・20日公演に出演)
* [[竹内まりや]]ソングミュージカル 『[[キスよりもせつなく#ミュージカル|本気でオンリーユー]]』(2008年9月12日 - 10月5日、[[PARCO劇場]])- 主演(葉山知可子役)
=== 演劇 ===
* すけだち(2007年8月5日 - 14日、[[新宿コマ劇場]])- [[筧利夫]]とのダブル主演
** 2007年12月5日にDVDが[[ポニーキャニオン]]より発売されている。(規格番号:QWBT-50006)
== 出演 ==
=== バラエティ番組 ===
;現在のレギュラー番組
;過去の出演番組
<!--ゲスト出演はキリがないため記述しないこと-->
* [[少女日記]](2000年10月2日 - 2001年3月30日、テレビ東京系)
* [[アイドルをさがせ!]] 亜弥のDNA(2002年1月22 - 3月、テレビ東京系)
* 松浦亜弥の台湾あやや化計画!(2002年、[[RKB毎日放送]]制作・TBS系)
* [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]「国境なき家族の絆〜松浦亜弥16歳 感動カンボジア体験記」(2002年、NTV系)
* [[美少女日記III]](2002年10月 - 2003年3月、テレビ東京系)
* [[Mの黙示録]](2001年10月3日 - 2003年9月30日、テレビ朝日)
* [[ティンティンTOWN!]](2002年7月5日 - 2004年3月26日、日本テレビほか)
* [[ハローキッズ]](2003年3月31日 - 6月27日)
* 生放送!いよいよ始まる!愛・地球博開幕スペシャル EXPOスーパーガイド(2005年3月25日、CBC)司会
* [[ミンナのテレビ]](2005年4月13日 - 9月28日、日本テレビ系)司会
* [[A (テレビ番組)|A]](2005年4月17日 - 6月26日、日本テレビ系) - [[久米宏]]と司会担当
* [[ウタワラ]](2005年10月16日 - 2007年1月28日、日本テレビ系)司会
* [[あややゴルフ]](2006年4月4日 - 9月26日、日本テレビ)
* [[ハロー!モーニング。]](2000年4月 - 2007年4月1日、テレビ東京系) - 第1回ハロプロ超感謝祭SP(2004年11月28日)、ワールドプッチゲーム(2006年9月17日)などのコーナーに出演。
* [[あややゴルフ2]](2007年4月4日 - 9月26日、日本テレビ)
* あややNEWS(2007年8月25日放送開始、[[日テレNEWS24]])
* コラボ☆ラボ 〜夢の音楽工房〜(2008年4月8日 - 2009年3月24日、[[WOWOW]])コラボ☆ラボ“ウォッチャー”
* みんなスタースペシャル 2010年5月[[ディズニーチャンネル]] 日本の[[ケーブルテレビ|CATV]]各局とディズニーとのコラボレーション。司会
* [[メレンゲの気持ち]](2007年4月7日 - 2011年9月24日<ref>{{Cite news | title=芦田愛菜、7歳最年少司会…日テレ「メレンゲの気持ち」 | date=2011-08-02 | url=http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110802-OHT1T00007.htm | publisher=スポーツ報知 | accessdate=2011-08-03 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20110802000159/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20110802-OHT1T00007.htm | archivedate=2011年8月2日 | deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
* [[2006年]](平成18年、[[第57回NHK紅白歌合戦]])は[[GAM]]としてモーニング娘と合同で出演。
{| class="wikitable"
|-
! 年度/放送回!! 回!! 曲目!! 出演順!! 対戦相手!! 備考
|-
|[[2001年]](平成13年)/[[第52回NHK紅白歌合戦|第52回]]||初||LOVE涙色||01/27||[[えなりかずき]]||
|-
|[[2002年]](平成14年)/[[第53回NHK紅白歌合戦|第53回]]||2||Yeah! めっちゃホリディ||06/27||[[TOKIO]]||
|-
|[[2003年]](平成15年)/[[第54回NHK紅白歌合戦|第54回]]||3||ね〜え?||08/30||[[布施明]]||
|-
|[[2004年]](平成16年)/[[第55回NHK紅白歌合戦|第55回]]||4||冬の童謡〜メリークリスマス<br />&ハッピーニュー2005年〜<ref group="注">「ママがサンタにキスをした(ママがサンタにキッスした)」「風も雪も友達だ」「奇跡の香りダンス。」「手を握って歩きたい」「お正月」のメドレー</ref>||08/28||[[nobodyknows+]]||後藤真希と合同で出演
|-
|[[2005年]](平成17年)/[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]||5||気がつけば好きすぎて♪<br />盛り上がって♪LOVEマシーン!<ref group="注">「気がつけば あなた」「好きすぎてバカみたい」「LOVEマシーン」のメドレー</ref>||05/29||[[コブクロ]]||DEF.DIVA &モーニング娘。と合同で出演
|}
;注意点
* 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
=== テレビドラマ ===
'''太字'''は主演
* 美・少女日記 (2000年10月2日 - 12月、テレビ東京)
*: 全編鎌倉、七里ヶ浜ロケ作品。バラエティ番組『[[少女日記]]』内のドラマ。
* 美・少女日記 II (2001年1月 - 3月30日、テレビ東京)
*: ナオ役。全編沖縄ロケ作品。バラエティ番組『少女日記』内のドラマ。
* [[最後の家族]](2001年、[[テレビ朝日]]系)内山知美 役
* [[ゴールデンボウル]] 第9話(2002年6月22日、日本テレビ系)吉沢都 役
* [[天使の歌声 〜小児病棟の奇跡〜]](2002年8月9日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)'''小笠原より子''' 役
** 第29回放送文化基金賞をこのドラマで受賞。
* 新春ワイド時代劇『[[忠臣蔵〜決断の時]]』(2003年1月2日、[[テレビ東京]]系)[[大石良金|大石主税]]の許婚 [[仮名手本忠臣蔵#主な登場人物|小波]] 役
* [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]スペシャルドラマ「[[ふたり 私たちが選んだ道]]」(2003年、日本テレビ系) 高木鈴 役
* [[生放送はとまらない!]](2003年10月10日、テレビ朝日)
* [[VICTORY!〜フットガールズの青春〜]](2003年11月22日、フジテレビ系)'''足田蹴子''' 役
* [[愛情イッポン!]] (2004年7月17日 - 9月18日、日本テレビ系)'''夏八木巴''' 役
* あの日にかえりたい。〜東京キャンティ物語〜2004(2004年10月10日、日本テレビ系)
* [[1242kHz こちらニッポン放送]] 第1話(2005年6月22日、フジテレビ[[ディビジョン1 (テレビドラマ)|ディビジョン1]])
*[[ほんとにあった怖い話]]・夏の特別編「黒髪の女」(2005年8月23日、フジテレビ系) '''伊藤詩織''' 役
* 命の奇跡([[2006年]]10月15日、[[TBSテレビ|TBS]]系) '''平井佳美''' 役
** CBCテレビ開局50周年記念スペシャルドラマ、平成18年度[[文化庁]][[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]参加作品
* [[ザ・クイズショウ]] (2009年4月18日 - 6月20日、日本テレビ系)高杉玲奈 役
* サクラとさつき(2011年4月1日、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]) '''春野サクラ''' 役
=== ナレーション ===
* ワールドキャラバン〜世界の家族〜(2005年 - 2006年、フジテレビ系[[めざましテレビ]]内企画)
* めざまし地球紀行(2006年 - 2007年9月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系[[めざましテレビ]]内企画)
* [[奥山貴宏#テレビ|オレを覚えていてほしい 〜ガン漂流・作家と読者の850日〜]](2005年7月23日放送、NHK教育ETV特集にて)
* 延長18回の伝説〜女子高生がみた「松山商業 vs 三沢」(2008年6月28日、[[青森放送]]・[[南海放送]]開局55周年記念番組)
* [[課外授業 ようこそ先輩]](NHK総合)
** 「ぶつかりあって作れ おもしろキャラ」(2008年4月20日)
** 「レッツ"イイ"ダンス!」(2009年4月26日)
* 世紀の歌声 ザンジバル島・推定95歳の歌姫(2008年8月16日、NHK BS-2)
** タンザニアのザンジバル島に住む推定95歳の歌姫、ビ・キドゥデ。いぶし銀の歌声と豪快な人生を、季節風がもたらしたどこか懐かしい調べとともに紹介する。
* [[報道発 ドキュメンタリ宣言]]「[[石川遼]] 17歳の奇跡 〜日本人最年少で全英OP挑戦〜」(2009年7月13日、テレビ朝日)
* [[ハワイに恋して]](2013年10月19日・11月2日・11月16日、BS12ch [[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]])
=== ラジオ番組 ===
; レギュラー
* 「つんくばん」(2001年8月18日 - 2002年10月5日、[[TBSラジオ]])内'''「コラッ!みゃとぅーら」'''コーナー
* [[松浦亜弥Let's do it!!]](2001年3月 - 2005年3月、[[ニッポン放送]]制作全国ネット)
* [[松浦亜弥のオールナイトニッポン]](2005年3月30日 - 2006年12月27日、ニッポン放送制作全国ネット)
* [[ヤングタウン土曜日|MBSヤングタウン土曜日]](2002年4月6日 - 2003年3月22日、[[MBSラジオ]])
* [[FIVE STARS]](2007年10月2日 - 2009年9月29日、[[エフエムインターウェーブ|Inter FM]])
** 火曜日のDJ担当
; 単発
* [[TBC FUNふぃーるど・モーレツモーダッシュ]](2005年9月19日 - 23日・10月3日 - 7日、[[東北放送]])
* [[ハロプロやねん!]](2004年3月12日・2005年10月1日、[[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]])
; [[ハロー!プロジェクトラジオドラマ]]
* 星砂の島・私の島(2003年8月11日、ニッポン放送)
* 浪花エンジェルズ 悪徳スーパーの裏を暴け!ナニワ三姉妹!(2004年3月28日、朝日放送)
=== インターネット ===
* 第18回ハロプロビデオチャット(2005年7月19日、[https://web.archive.org/web/20050507063214/http://hellopro-on-flets.jp/intro_onflets.html ハロー!プロジェクト on フレッツ])
* [[GYAO!#GyaO|GyaO]]「[[ハロプロアワー]]」
** 第9回 - 司会:松浦亜弥、ゲスト:安倍なつみ・夏焼雅(2006年6月23日 - )
** 第10回 - 松浦亜弥スペシャルライブ in 上海(2006年7月7日 - )
** 第11回 - 松浦亜弥スペシャルライブ in 上海 Vol.2(2006年7月21日 - )
** 第12回 - 司会:後藤真希、ゲスト:松浦亜弥・菅谷梨沙子(2006年8月4日 - )
* 松浦亜弥のオールナイトニッポン"水深25時" (2006年9月28日〜12月28日 [[ニッポン放送 ポッドキャスティングステーション]])
* [[Yahoo!]]ライブトーク(2008年5月27日)
=== 映画 ===
* [[青の炎]](2003年、[[東宝]]) - 福原紀子 役
** 第18回[[高崎映画祭]] 最優秀新人女優賞をこの映画で受賞。
* [[とっとこハム太郎 (アニメ)#劇場版|劇場版とっとこハム太郎 はむはむぱらだいちゅ! ハム太郎とふしぎのオニの絵本塔]](2004年、東宝) - [[声優]]・[[とっとこハム太郎の登場人物#劇場版のキャラクター|あややム]] 役
* [[スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ]](2006年、[[東映]]) - 主演・K(四代目[[麻宮サキ]]) 役
=== DVD(イメージビデオ) ===
* [[アロハロ]]! 松浦亜弥(2003年2月26日、[[アップフロントワークス]])
* アロハロ!2 松浦亜弥(2004年7月7日、アップフロントワークス)
=== CM ===
CM好感度調査(CM総合研究所調べ)の上位<!--根拠の無い憶測のためコメント化、異論があるならノートに記述してください:(「組織票」という声もあるが)-->に何度もランキングされている。
* [[アサヒ飲料]]「[[三ツ矢サイダー]]」(2002年)
* [[江崎グリコ]]「[[プリッツ]]」「[[ポッキー]]」(2002年-2006年)、「[[パピコ]]」(2004年-2006年)
* [[資生堂|エフティ資生堂]]「[[ティセラ]]」(2002年 - 2004年)、「肌水 浸透スパウォーター」(2004年-2005年)
* [[キリンビバレッジ]]「[[午後の紅茶]]」(2003年4月 - 2008年3月)
* [[セイコーエプソン]]「[[カラリオ]]プリンター」(2003年 - 2005年)- 2004年末には、[[モーニング娘。]]・[[W (ハロー!プロジェクト)|W]]とも共演。
* [[兵庫県警察|兵庫県警]]「夏の全国交通安全運動」(2003年) - ポスターのみ。
* [[尾崎商事]]「カンコー学生服」(2003年 - 2004年)
* [[セガ]]「[[ぷよぷよフィーバー]]」(2004年) - 夏には、[[前田健 (タレント)|前田健]]と共演。
* [[スカパーJSAT|スカイパーフェクト・コミュニケーションズ]]「[[スカパー!プレミアムサービス|SKY PerfecTV!]]」(2004年 - 2005年) - 2005年には、[[大関]]・[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]と共演。
* エフティ資生堂「スーパーマイルドシャンプー」(2004年 - 2005年)
* [[スズキ (企業)|SUZUKI]]「[[スクーター]][[スズキ・レッツ|Let's4]]」 (2004年 - 2005年)
* [[日本郵政公社]]「平成17年度[[お年玉付郵便はがき|お年玉付年賀はがき]]」(2004年)
* [[シルク・ドゥ・ソレイユ]]「[[アレグリア|アレグリア2]]」(2004年 - 2005年)
* [[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]「"アジアの子どもたちの秋の植樹祭"運動」(2004年 - 2005年)
* [[青山商事|洋服の青山]](2005年2月 - 2009年1月)
* [[日清食品]]「[[日清焼そばU.F.O.]]」(2005年 - 2006年)
* [[日本民間放送連盟]]「テレビCMの日」(2005年)
* 日本郵政公社(現・[[郵便事業]])「[[ゆうパック]]」(2005年 - )
* [http://www.dapc.or.jp/ 財団法人麻薬・覚せい剤乱用防止センター]「薬物乱用防止キャンペーン『[[ダメ。ゼッタイ。]]』」(2006年) - ポスターのみ。
* SUZUKI「スクーター[[スズキ・アドレス|アドレスV50]]」(2006年)
* [[厚生労働省]]「平成18年度『薬と健康の週間』」(2006年10月17日 - 23日) - ポスターのみ。
* [[道路システム高度化推進機構|財団法人道路システム高度化推進機構]]「[[ETC]]普及促進PR」(2007年<!-- CMとはあまり関係のない「ETCカード比較ナビ」に転換したためコメント化。[http://www.cm-etc.jp/ テレビCM放映開始]-->) - CM中の歌のみ([[スーダラ節]])。
* [[ユニ・チャーム]]「生理用ナプキン『CENTER-IN』」(2007年、[http://www.unicharm.co.jp/centerin/cm/index.html テレビCM放映開始])
* [[ファミリーマート]]「キチンとチキン」(2008年12月 - ) - [[藤岡藤巻]]の作詞・作曲によるCMソングも歌う。
* [[高橋書店]]「2009年版「手帳は高橋」年末広告」(2008年12月) - CM中の歌のみ(Yeah!めっちゃホリディ)。
* [[農林水産省]]「めざましごはんキャンペーン」(2009年1月 - 3月)
* [[ライオン (企業)|ライオン]]「[[トップ (洗剤)|トップ クリアリキッド]]」(2009年2月 - )
* [[サントリー]]「ビタミンウォーター」(2009年3月 - )
* [[日本たばこ産業|JT]][[ルーツ (缶コーヒー)|Rootsアロマインパクト]](2010年10月 - ) - 6人ユニット[[コーラスジャパン]]に参加
* [[ネスレ日本]]「[[ネスカフェ#現行商品|ネスカフェ エクセラ]]」(2022年4月18日 - )<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20220414-2321251/|title=松浦亜弥、11年半ぶりCM出演で歌声も披露「皆様のお耳に記憶に残るよう」|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2022-04-14|accessdate=2022-04-14}}</ref><ref>出身地の兵庫県に本社があり、かつ出身地の姫路市に工場の1つがあるため、事実上地元企業への出演。</ref>
== 書籍 ==
<!-- 基本的に本人の著書を書く。 -->
* あややになりたい!(2003年7月26日、ワニブックス)ISBN 4-8470-1469-3
;共著
* 小貫信昭『亜弥とあやや』(2004年3月、[[ソニー・マガジンズ]])ISBN 4-7897-2231-7
=== 写真集 ===
* 松浦亜弥 1st写真集(2001年12月1日、[[ワニブックス]])ISBN 4-8470-2691-8
* ファースト・デート(2002年6月4日、[[講談社]]、撮影:[[根本好伸]]、講談社写真部)ISBN 4-06-330162-1
* アロハロ! 松浦亜弥写真集(2003年2月14日、[[角川書店]]、撮影:根本好伸)ISBN 4-04-853591-9
* アヤヤとミキティ(2003年4月11日、ワニブックス、撮影:水飼啓子)ISBN 4-8470-2761-2
* 松浦亜弥 in Hello! Project 2003夏(2003年9月30日、[[竹書房]])ISBN 4-8124-1369-9
* まっ!ちゅら(2004年1月14日、ワニブックス、撮影:[[細野晋司]])ISBN 4-8470-2788-4
* Aya Matsuura in Hello! Project 2004 Winter(2004年3月13日、竹書房) ISBN 4-8124-1596-9
* アロハロ!2(2004年6月25日、角川書店、撮影:[[西條彰仁]])ISBN 4-04-894255-7
* AYA MATSUURA Concert Tour 2004 Spring~私と私とあなた~Photobook(2004年7月7日、竹書房)ISBN 4-8124-1755-4
* Hello! project 2004 summer 松浦亜弥(2004年9月28日、竹書房)ISBN 4-8124-1838-0
* a(2005年3月21日、ワニブックス、撮影:新津保建秀)ISBN 4-8470-2849-X
* 後浦なつみ TRIANGLE ENERGY 写真集(2005年7月6日、竹書房)ISBN 4-8124-2249-3
* AYA MATSUURA & COUNTRY MUSUME。―Hello!Project2005 夏の歌謡ショー 05’セレクション!コレクション!(2005年10月11日、[[大誠社]])ISBN 4-902577-03-8
* 後藤真希&松浦亜弥in Hello!Project 2006 Winter(2006年4月7日、竹書房)ISBN 4-8124-2676-6
=== 関連書籍 ===
<!-- 他人による関連書籍は、ここに書く。 -->
* 僕らの音楽 対談集 1(2005年8月、ソニー・マガジンズ)ISBN 4-7897-2507-3
== ゲーム ==
* 必勝パチンコ★パチスロ攻略シリーズ Vol.8 CR松浦亜弥([[PlayStation 2]]、[[ディースリー・パブリッシャー]])
== キャラクター・グッズ ==
* [[サンリオ]]とのコラボレーションで「アヤンキー」と言うキャラクター商品を展開。[[ハローキティ]]のデザイナー・山口裕子制作。
** [[ショウワノート]]の文具
** [[フェルナンデス (楽器メーカー)|フェルナンデス]]の、[[フェルナンデス・ZO-3|ギター]]、ギターピック
** [[広島県]]にある[[田中食品]]のふりかけ
* [[ティンティンTOWN!]](日本テレビ系)の、「プリンセス☆アヤヤ」の手品グッズ、幼児用コスチューム
** 三菱鉛筆のえんぴつ、色えんぴつ、筆箱
* [[とっとこハム太郎 (アニメ)#劇場版|アニメ映画]]([[東宝]])のキャラクターで、「[[とっとこハム太郎の登場人物#劇場版のキャラクター|あややム]]」の人形、羽ペン
== ユニット活動 ==
* [[シャッフルユニット]]
** 三人祭(2001年)
** おどる11(2002年)
** SALT5(2003年)
** [[H.P.オールスターズ]](2004年)
* スペシャルユニット
** [[ごまっとう]](2002年)
** [[後浦なつみ]](2004年 - 2005年)
** [[DEF.DIVA]](2005年 - 2007年)
** [[GAM (音楽ユニット)|GAM]](2006年 - 2007年)
* [[Gatas Brilhantes H.P.]](2003年 - 2004年)
* [[あややムwithエコハムず]](2004年 - 2005年)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ハロー!プロジェクト]]
* [[藤原虹気]] - 元[[埼玉西武ライオンズ]]のプロ野球選手。中学校時代の同級生。
* [[長良じゅん]] - 「草原の人」リリースのきっかけとなった。自分の事務所でないにも関わらずインタビューで松浦を絶賛。松浦は長良の葬儀にも顔を見せている。
== 外部リンク ==
{{Commons|Aya Matsuura}}
* [http://www.up-front-works.jp/release/search/?a=aya_matsuura 松浦亜弥 リリース作品情報] - [[アップフロントワークス|UP-FRONT WORKS]]
* {{YouTube|playlist=PLFMni9aeqKTw8G3gCcMDBUKwDCAts-Cj-}}
* [https://www.tsunku.net/producework.php?Music_ArtistID=74 つんく♂オフィシャルウェブサイト 音楽プロデュース一覧 松浦亜弥]
{{松浦亜弥}}
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あおいちゃんパニック!
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『あおいちゃんパニック!』は竹本泉による日本の漫画。『なかよし』(講談社)において、1983年2月号から翌1984年7月号まで連載された。
「もしも宇宙人が地球で暮らしたら」ということを想定した、ソフトなSFコメディである。基本的に作者の執筆傾向から数話読み切り連作になっており、中学二年の三学期から高校一年になる間の約1年半の物語である。
単行本は講談社KCなかよし版・宙出版ミッシィコミックスDX版・メディアファクトリーMF文庫版の3種類存在するが全て絶版となっている。2016年現在、MF文庫版が電子書籍として配信されている。
森村ひろしは、某私立中高一貫教育校中等部の2年生。ある土曜日に原因不明の頭痛になやまされていた。彼には、金曜日の記憶がとんでいることと「ミナミサカエサンチョーメ」という言葉に反応して頭痛がすることに不審に思っていた。そしてかわいい転入生の早川あおいが異常に自分をさけることも気になっていた。
ある日、彼は、友人のひとり岡崎あきらの提案で仲のよい高橋みどり、山崎たかしとともに、早川あおいをさそって映画を見に行くが、その帰り道によった喫茶店で、中等部の教頭とテスト業者が話しているのを目撃し、あおいの超人的な聴力で校長や教頭がテスト業者からのリベートを受け取っていたことを知ってしまう。高橋は、何とかして証拠をつかみたいと仲間たちにさそいをかけ、森村は、校長室にしのびこんだ。
あおいは、もといた父の故郷が高重力の惑星だったため、スポーツ万能少女ぶりを示し、運動部総出のスカウトを受け、追いかけられていた。校長たちに見つかりまいと隠れた掃除ロッカーで森村は、運動部からのがれたあおいとロッカーに閉じこめられてしまう。そこで今度は、体育館の寄附金使い込みを糊塗するための二重帳簿を発見してしまった。森村、高橋、山崎、岡崎に加えてあおいの仲良しグループは、この二重帳簿を手に入れるために校長室にしのびこみ、帳簿を手に入れるがみつかってしまう。あおいが時速60kmで走る校長たちの車をおいかけ帳簿をとりかえし、校長たちは、驚いて事故を起こして入院することになる。
森村、高橋、山崎、岡崎の4人組は、早川あおいが高重力星の宇宙人の父親と地球人の母親のハーフであること、森村ひろしの頭痛の原因は、早川一家の引っ越しの際に道を教えた彼の記憶を消すために吹きかけられた薬のせいだったことを知る。
中学三年になって5人は同じクラスになるが、休暇を利用して地球にチャチャ(早川あおい)をたずねてきたトートにであう。トートの性格は、女の子に声をかけまくる岡崎にそっくりであきれる森村と高橋。あおいは、学校にまでつきまとうトートの行動と浮き沈みの激しい彼の性格になやまされた。トートは無免許で「空飛ぶ円盤」を運転してきた。近くの駐車場にとめていたために駐車料金を払わされる森村たち。結局父親が迎えに来て彼は星へ帰っていった。
あおいにとって、低重力の地球は、ちょっとつまずくとバッタのように飛び跳ねてしまうという悩みがあった。これをなんとかできないかと親たちに相談する。父親であるヌートは、おもり付きのベストを彼女に着せることにした。しかし、飛び跳ねないことに関しては解決したものの、走ると慣性がついてしまって、友人を押し倒したり、体育の時間にトラックを普通に曲がれず直進したまま止まれなかったり、学校の備品を壊したりしてしまう。やむをえず父親は、あおいには副作用があるので使用をためらってきた低重力星で自分が使用する薬を飲むことを提案する。その副作用とは、ヌート本人にはなんともないが、地球人の血の流れるあおいにとっては強力な眠気を断続的にもよおすというものだった。案の定、授業中に黒板で計算しながらねてみたり、横断歩道のど真ん中でねてみたりと「眠り姫」ぶりを「発揮」するあおい。そのたびに森村たちは走り回らされた。
仲間たちで、あそびにいったとき、デパートのテレビに見覚えのある円盤が映っているのを森村たちとあおいは見てしまう。実は、あおいの小学校時代の恩師トーオリが地球に植物採集をかねて遊びに来た際に「くるま」の調子がおかしくなり山のなかに不時着したので、早川家(ヌート・モチャノチャ邸)に修理部品をもってきてくれるよう連絡をしてきた。
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『あおいちゃんパニック!』は竹本泉による日本の漫画。『なかよし』(講談社)において、1983年2月号から翌1984年7月号まで連載された。
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|タイトル=あおいちゃんパニック!
|作者=[[竹本泉]]
|作画=
|出版社=[[講談社]]
|他出版社=[[主婦と生活社]]<br />[[メディアファクトリー]]
|掲載誌=[[なかよし]]
|レーベル=[[講談社コミックスなかよし]]<br />ミッシィコミックスDX<br />MF文庫
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|開始=1983年2月号
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『'''あおいちゃんパニック!'''』は[[竹本泉]]による[[日本]]の[[漫画]]。『[[なかよし]]』([[講談社]])において、1983年2月号から翌1984年7月号まで連載された。
== 概要 ==
「もしも[[宇宙人]]が[[地球]]で暮らしたら」ということを想定した、ソフトな[[サイエンス・フィクション|SF]]コメディである。基本的に作者の執筆傾向から数話読み切り連作になっており、中学二年の三学期から高校一年になる間の約1年半の物語である。<!--著者の出世作であり、当時の少女漫画家の卵やSFファンに多大な影響を与えることとなる。-->
単行本は[[講談社]][[講談社コミックスなかよし|KCなかよし]]版・[[宙出版]]ミッシィコミックスDX版・[[メディアファクトリー]]MF文庫版の3種類存在するが全て絶版となっている。2016年現在、MF文庫版が電子書籍として配信されている。
<!--
1980年代の中頃から後半にかけて、本作は[[テレビアニメ]]化希望作品について『[[アニメディア]]』等の[[アニメ雑誌]]が読者[[アンケート]]を取った際には、必ずと言っていいほど常に上位にランクインしており、アニメファンとアニメ業界にはアニメ化を待望されていた。実際にアニメ業界からもアニメ化の企画が何度か挙げられたが、その都度なにがしかの問題が発生して中止になってしまったと作者は説明しており、本作以降も竹本の作品・[[キャラクターデザイン|デザイン]]によるテレビアニメは、アニメ業界や出版社サイドなどで何度か計画されたものの、悉く頓挫している。
-->
==主要登場人物==
[[画像:Genealogical Tree of Mochanocha's.JPG|thumb|400px|right|モチャノチャ家系図。男性を青、女性をピンクで示す。]]
;早川あおい
:本作の主人公。高重力の[[惑星]]から来た宇宙人の父親と地球人の母親の[[混血|ハーフ]]の少女。森村ひろしの中学校に転校してきた。父方の郷里での名前は、チャチャ・モチャノチャ・ヌートの1(モチャノチャ家のヌートの長女チャチャという意味)。
;森村ひろし
:本作の準主人公。ごく普通の[[中学校|中学]]生。あおいに淡い恋心をいだく。作品自体は彼の視点から展開する。妹がひとりいて、1コマのみ登場した。
;高橋みどり
:森村くんの友人でしっかり者の女の子。おさげとそばかすが特徴。たかしの幼なじみで彼の世話をやいている。
;山崎たかし
:[[眼鏡]]をかけた少年。高橋みどりの幼なじみ。勉強が[[趣味]]で、いつも本から手をはなさず、翌年度の[[教科書]]を読んでいる。言葉少なで物知りであるが、基本的には無器用で、食べ物や飲み物をこぼしたりする。早川あおいが転入した当初は保健委員に就いていたが、のちに早川あおいと図書委員の仕事をする(第2巻参照)。性格は、意外に友達思いで義理堅く、機転がきくところがある。『パイナップルみたい』の主人公「山崎かおり」と似ている。
;岡崎あきら
:前髪が額にかかるヘアスタイルが特徴的な、自他共に[[二枚目]]と認めているように見受けられる少年。[[諸星あたる]]的な性格で、女の子に声をかけることに人生をかけている。しかしあおいには相手にされず、みどりにも突っ込まれる次第である。
;マメミム
:あおいのいとこで友人。トマトの末娘。フルネームは、マメミム・モチャノチャ・トマトの7。三つ子姉妹の3番目。さらに4つ子の兄姉がいる。彼女の三つ子の姉にアルケ・M・トマトの5とナネニ・M・トマトの6がいる。命名は発声練習の際の文言「マメミムメモマモ」から。
;トート
:フルネームは、トート・トクタプ・タータの2。金髪でハンサムな少年。むこうの星では、ヌート邸のとなりにすんでいた。性格は、岡崎あきらとほぼ同じであるが、浮き沈みがはげしいところに特徴がある。チャチャ(あおい)が好きだった。
;あおいのパパ
:ヒューマノイド(ヒト)タイプのハンサムな宇宙人。容姿は地球人と変わらない。本名は、ヌート・モチャノチャ・トメルの3(モチャノチャ家のトメルの第3子ヌート)。[[空飛ぶ円盤]](通称「くるま」)で通勤している。
;あおいのママ
:早川ひろこ。ヌート・モチャノチャの惑星では、ヒロコ・モチャノチャ・ヌートのサイ(モチャノチャ家のヌートの妻ひろこ)と呼ばれている。
;トマト
:あおいの[[伯父]]で、ヌート・モチャノチャの[[兄]]。トマト・モチャノチャ・トメルの1。[[職業]]は[[医師]]。末っ子マメミムを含めた7人の子の父親。
;ムーニーさん
:[[ワシ]]型の容姿をもつ宇宙人。人語を解し、会話も出来る。早川あおいのじいや兼教育係。
;トーオリ先生
:フルネームは、トーオリ・マキアノ・トミタウロ。早川あおいの小学校の頃の担任。[[植物]]学者。名前が[[牧野富太郎]]に由来することは、[[ファン]]の間でよく知られている。小人型宇宙人で、あおいの父方の[[祖父母|祖父]]、トメル・モチャノチャの友人でもある。
;秋本あきお
:ひろしの友人。[[新聞]]部と[[写真]]部と放送部と[[芸能界|芸能]]研究同好会を兼部している[[報道機関|マスコミ]]指向のミーハー少年。あおいに興味を持ち、彼女の「正体」を探ろうとするが...。
==ヌート=モチャノチャの惑星の環境、文化、習慣==
===環境===
*とにかく高[[重力]]。その重力は2Gとも10Gともいわれる。そのため、住民は地球人よりも体が頑丈にできている。彼らが地球に来ることは、地球人が[[月]]に行った時同様に重力の影響を受ける。
*地球からは、空飛ぶ円盤を使った「通常の」通勤距離にはない非常に遠い星である。<!--長距離[[ワープ]]が必要? 以下、明確でない情報をコメントアウト。-->
*あおいの両親がともに[[宇宙服]]などを着用せずに暮らすことが出来た描写があることから、大気組成は地球と同じ、あるいは地球人が生息するに支障がないものと考えられる。
<!--*早川あおいの驚異的な聴力から推定して騒々しい星と考えられる。(第1巻)-->
*地球を「いなか」という位に、地球とくらべて相対的に「都会」であって「ヒト」タイプ以外の宇宙人(知的生命体)も暮らしている。[[トカゲ]]型のトプシド、植物型のポポパイポ、[[トロール]]型のディルディル、魚型のトンビナイ魚、あおいが憧れていた前の学校のハンサムくん「トゥクトゥプ」に代表される[[火星人]]型など。トプシドは寒さに弱いので暖かい星と考えられる。
===文化、習慣等===
*服のボタンは電池式である。<!--強い腕力で服やボタンを破ったり壊したりしないためか?-->
*言葉は、V,P,Yの[[子音]]を多く使用する[[言語]]である。
*各人の名前を一文字で表す「名前文字」というものがあり、それぞれの服などに使用している。
*医療薬などは、地球のような飲み薬ではなく、基本的に噴霧式である。携帯用カプセルと噴霧器がある。
*火星人型が「ハンサム」「美男子」とみなされるように地球と美的感覚が異なる部分がある。
*入浴は空気につかることを意味する。
*「いっしょに[[絵]]をかこう」という言葉か、いっしょに絵を描く行為がプロポーズになる。ただし、直接好きである旨意志も伝えることも可能。
*一般人は、自家用車として[[ジョージ・アダムスキー|アダムスキー]]型の円盤を使用している。円盤は、お休み運転機構つきでモータのスイッチが入っていると障害物と動くものを避けて自動運転する。運転には[[免許]]制度があり、[[未成年者|未成年]]は運転できない。宇宙の「バス」([[葉巻きたばこ|葉巻]]型の円盤)路線が通っている。
*この惑星の住民は、ひそかに地球、さらに日本に訪れている。そのため地球原産の[[菓子]]として[[柿の種|柿ピー]]が知られている。また、この星の人々の好物は[[ラッカセイ|ピーナッツ]]であり、ヌートは[[卒業論文|卒論]]テーマに「地球産落花生の流通マージンに関する一考察」を選んだ。
*地球語の教材テープを作成している会社が複数ある。うち、ニコニコ社のものは、「~である。」調を教えるため、評判がよくない(第3巻)。
*科学技術は進んでいるが、「ファーストネーム・家名・父親の第何子」という名前に反映されるように、住民の考え方には、[[家父長制]]なところがあり、未成年は親にしたがわなければならない、親の決めた縁談には逆らいがたいという感覚が生きている。
*記憶をなくす薬、低重力星での「力を抑える薬」、「力を元に戻す薬」がある。「力を抑える薬」には、地球人とのハーフにとっては、眠気をもよおす副作用がある。この薬は[[神経伝達物質]]である[[アセチルコリン]]を分解する[[コリンエステラーゼ]]の働きをどうこうするものだそうであるから、生理作用のかなりな部分まで人類と共通らしい。
*地球人の文化、慣習については、あいさつに[[接吻|キス]]をすること、[[ポップコーン]]を食べながら[[映画]]をみたあと、[[チョコレート]][[パフェ]]を食べながら映画について語るのが地球の楽しみとして伝わっている。
*小学校には運動会がある。
==あらすじ==
森村ひろしは、某私立[[中高一貫教育]]校中等部の2年生。ある土曜日に原因不明の[[頭痛]]になやまされていた。彼には、金曜日の記憶がとんでいることと「ミナミサカエサンチョーメ」という言葉に反応して頭痛がすることに不審に思っていた。そしてかわいい転入生の早川あおいが異常に自分をさけることも気になっていた。
ある日、彼は、友人のひとり岡崎あきらの提案で仲のよい高橋みどり、山崎たかしとともに、早川あおいをさそって映画を見に行くが、その帰り道によった喫茶店で、中等部の[[教頭]]とテスト業者が話しているのを目撃し、あおいの超人的な聴力で[[校長]]や教頭がテスト業者からの[[リベート]]を受け取っていたことを知ってしまう。高橋は、何とかして証拠をつかみたいと仲間たちにさそいをかけ、森村は、校長室にしのびこんだ。
あおいは、もといた父の故郷が高重力の惑星だったため、スポーツ万能少女ぶりを示し、運動部総出のスカウトを受け、追いかけられていた。校長たちに見つかりまいと隠れた掃除ロッカーで森村は、運動部からのがれたあおいとロッカーに閉じこめられてしまう。そこで今度は、体育館の[[寄附]]金使い込みを糊塗するための二重帳簿を発見してしまった。森村、高橋、山崎、岡崎に加えてあおいの仲良しグループは、この二重帳簿を手に入れるために校長室にしのびこみ、帳簿を手に入れるがみつかってしまう。あおいが時速60kmで走る校長たちの車をおいかけ帳簿をとりかえし、校長たちは、驚いて事故を起こして入院することになる。
森村、高橋、山崎、岡崎の4人組は、早川あおいが高重力星の宇宙人の父親と地球人の母親のハーフであること、森村ひろしの頭痛の原因は、早川一家の引っ越しの際に道を教えた彼の記憶を消すために吹きかけられた薬のせいだったことを知る。
中学三年になって5人は同じクラスになるが、休暇を利用して地球にチャチャ(早川あおい)をたずねてきたトートにであう。トートの性格は、女の子に声をかけまくる岡崎にそっくりであきれる森村と高橋。あおいは、学校にまでつきまとうトートの行動と浮き沈みの激しい彼の性格になやまされた。トートは無免許で「空飛ぶ円盤」を運転してきた。近くの駐車場にとめていたために駐車料金を払わされる森村たち。結局父親が迎えに来て彼は星へ帰っていった。
あおいにとって、低重力の地球は、ちょっとつまずくとバッタのように飛び跳ねてしまうという悩みがあった。これをなんとかできないかと親たちに相談する。父親であるヌートは、おもり付きのベストを彼女に着せることにした。しかし、飛び跳ねないことに関しては解決したものの、走ると[[慣性]]がついてしまって、友人を押し倒したり、体育の時間に[[トラック (陸上競技)|トラック]]を普通に曲がれず直進したまま止まれなかったり、学校の備品を壊したりしてしまう。やむをえず父親は、あおいには副作用があるので使用をためらってきた低重力星で自分が使用する薬を飲むことを提案する。その副作用とは、ヌート本人にはなんともないが、地球人の血の流れるあおいにとっては強力な眠気を断続的にもよおすというものだった。案の定、授業中に黒板で計算しながらねてみたり、[[横断歩道]]のど真ん中でねてみたりと「眠り姫」ぶりを「発揮」するあおい。そのたびに森村たちは走り回らされた。
仲間たちで、あそびにいったとき、デパートのテレビに見覚えのある円盤が映っているのを森村たちとあおいは見てしまう。実は、あおいの[[小学校]]時代の恩師トーオリが地球に植物採集をかねて遊びに来た際に「くるま」の調子がおかしくなり山のなかに不時着したので、早川家(ヌート・モチャノチャ邸)に修理部品をもってきてくれるよう連絡をしてきた。
*トーオリ先生のおみやげの観葉植物フワフワが、蛇口の故障で水を吸って劇的に増えてしまい、早川邸は...
*写生会の際に降ったにわか雨でフワフワが劇的に増えてしまって...
*「絵を描くの手伝おうか」と言う言葉を父方の郷里の星の言葉に直訳して[[プロポーズ]]とあおいが思い込んで...
*芸能レポーター志望の少年秋本あきおにおいかけられ、必死にあおいのことを隠そうとする森村たち。
*「力を抑える薬」と「[[風邪]]薬」で寝たきりになったあおいをおこすために、トマト医師は特効薬をとりだしたはいいものの...
*大病院星のぐうたら息子との結婚話がいやで家出をしたあおいのいとこマメミムをかくまう山崎家と森村たち、おいかけて連れ戻そうとする伯父のトマトと宇宙の私立[[探偵]]たち。
*あおいパパ(ヌート=モチャノチャ)とあおいママ(早川ひろ子)のなれそめ物語。
*猫もどき宇宙人(?)「きぴきゃぴ」との戦い?と和解?
==竹本作品へのカメオ出演==
早川あおいを初めとして本作のキャラクターは、特に講談社時代の作品を中心にカメオ出演している。
*[[あんみつ姫]]で、城が迷宮状態となった際に森村くんを探しながら駆け回る早川あおいの姿が見える。
*[[アニーパトロール]]で、[[西暦]]2200年代の[[火星]]の動物園にパパさんとあおいが客としている。
*[[ルプ★さらだ]]で、[[成層圏]]近くのレストランに、あおいがトゥクトゥプたち異星人仲間とUFOでやってくる。
*ゲーム[[ゆみみみっくす]]で、主人公の同級生たちの中にあおいの姿があり、台詞もある。なお、本作では選択肢の中に唐突に'''「弓美ちゃんパニック!」'''なるものが登場したりホルグルウを初めとするキャラクターも顔を見せる。
*[[苺タイムス]]では「[[ウィザードリィ]]専用キャラ」として「チャチャ2」を初め本作の登場人物たちが揃う回がある。これは[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]版『I』『II』『III』をクリアした作者自身のデータである。
==外部リンク==
*[http://www2a.biglobe.ne.jp/~abebe/Comic/takenm.htm Izumi Takemoto Character’s Guide](バックが第3巻登場の「きぴきゃぴ」になっている。)
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小松未歩
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小松 未歩(こまつ みほ、3月30日 - )は、ビーインググループの関西を拠点としたレーベルGIZA studioに所属していた日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家。血液型A型。兵庫県神戸市出身。所属事務所はAding。
1997年のデビューから2009年に至るまで活動を続けた。1995年には阪神・淡路大震災を経験。
趣味はカラオケ・ドライブ・写真撮影など。小松自身による撮り下ろし写真は、公式サイトやエッセイ集、CDのフライヤーなどで公開されている。
音楽活動をメインとしているが、それ以外にも、月刊音楽雑誌『J-groove magazine』(ジェイロックマガジン社、現在休刊)の2001年7月号から最終号の2006年5月号まで、エッセイ『小松未歩のヘンな物さし。』を連載し、書籍としても刊行するなど、エッセイストとしての活動も行っていた。
2009年以降、新たな情報は無くなり、活動停止状態である。
デビューに先立ち、1997年4月より小松の楽曲「謎」が読売テレビ制作・日本テレビ系列のテレビアニメ『名探偵コナン』のオープニングテーマとしてオンエア開始。同月、FIELD OF VIEWへ楽曲提供し作家デビュー。翌5月にZAIN RECORDSのSpoonfulレーベルからメジャーデビュー。
ほとんどの楽曲を自ら作詞作曲しているほか(提供曲に数曲の例外あり)、同じビーインググループ所属のFIELD OF VIEWやDEEN、WANDS(第3期)、愛内里菜、三枝夕夏 IN db、北原愛子、岩田さゆりへの楽曲提供も行う。
アルバムタイトルには自分の名前を冠するセルフタイトルが恒例となっている(ただし、1stアルバム『謎』とバラードセレクションアルバム『lyrics』は例外)。
かつてビーインググループでは、女性アーティストのメディア露出を極力抑えるメディア・コントロール戦略がよく取られていたが、その中でも特に小松は、デビュー以降、テレビ、ラジオの番組出演は全く行わず、GIZA studio本社ビル「hillsパン工場・ライブハウス」を含め、ライブ等も一切行っていない。
両親が音楽好きで、兄の影響もあり、3歳の頃よりエレクトーンを始める。また、兄と2人で合唱団にも入っていた。中学時代から、邦楽洋楽問わずに興味を持つ。この頃、初めて組んだバンドにキーボードで参加する。高校時代より、バンドのボーカルとして京阪神のライブハウスに出演するようになり、楽曲制作と並行してライブを続けていくようになる。
大手航空会社に勤務していたが、ビーインググループのビーグラム大阪で行われた中途採用の面接にて、長戸大幸に作曲を勧められる。
在京広域テレビ局(NHK、テレビ朝日、日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ、テレビ東京)の全ての局で、タイアップがついている。
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小松 未歩は、ビーインググループの関西を拠点としたレーベルGIZA studioに所属していた日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家。血液型A型。兵庫県神戸市出身。所属事務所はAding。
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{{other people|シンガーソングライターの|元読売巨人軍公式マスコットガール|ヴィーナス (マスコットガール)}}
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| 出生 = [[3月30日]]<ref name="Born">MUSIC CROSS ROAD 小松未歩“3月30日生まれ。オリジナル曲の作詞・作曲を続けながら、WANDS、DEENなどに楽曲提供もしている。”『[[WHAT's IN?]] (1997年12月号)』、[[ソニー・マガジンズ]]。</ref>
| 出身地 = {{JPN}}・[[兵庫県]][[神戸市]]<ref name="TELEVISION">{{Cite web2|url=https://thetv.jp/person/0000138448/|title=小松未歩のプロフィール|work=[[WEBザテレビジョン]]|publisher=[[KADOKAWA]]|accessdate=2022-08-22}}</ref>
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| 事務所 = [[Ading]]<br />(1997年 - 2006年)
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| 公式サイト = [http://miho-komatsu.com/ Miho Komatsu Official Website]
| メンバー = <!-- グループのみ -->
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}}
'''小松 未歩'''(こまつ みほ、[[3月30日]]<ref name="Born" /> - )は、[[ビーイング|ビーインググループ]]の[[関西]]を拠点としたレーベル[[GIZA studio]]に所属していた[[日本]]の[[シンガーソングライター]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]。血液型A型<ref>“気配り上手?な私は牡羊座のA型さん。”「型にはまる人となり」『ヘンな物さし。』2003年11月26日、ジェイロックマガジン社。</ref>。[[兵庫県]][[神戸市]]出身<ref name="TELEVISION"/>。所属事務所は[[Ading]]。
== 概要 ==
=== 人物 ===
1997年のデビューから2009年に至るまで活動を続けた。1995年には[[阪神・淡路大震災]]を経験<ref>“あの阪神淡路の大きな地震が来るまでは話し半分でしたね。一瞬にして町も価値観も変えてしまうくらいの揺れはもう一生忘れられない衝撃です。”「温故知新」『ヘンな物さし。』2003年11月26日、ジェイロックマガジン社。</ref><ref>“あの震災から10年。神戸を愛する私の中に刻まれた記憶は、一生消えることはありません。”『Miho's Diary』2005年1月17日、公式サイトの[[Web日記]]。</ref>。
趣味は[[カラオケ]]<ref name="Karaoke1">[[長戸大幸]]は、社員募集で面接に来た小松が、趣味のカラオケでヒット曲を沢山知っていたため、ヒット曲のツボも心得ている可能性があると考え、作曲を勧めた。([[寺尾広]]「Being Works 第5回 謎」『music freak Es Vol.20 (2011年8月号)』、[[エムアールエム]]。)</ref>{{efn|name="OldiesGoodies1"|2021年4月10日放送『[[OLDIES GOODIES]]』([[エフエム滋賀|FM滋賀]])にて、長戸大幸が(長戸の秘書の面接試験を受けに来た小松に対し)「歌でも歌っているの?」と尋ねたところ、小松が「私、カラオケが大好きなんです。カラオケの曲は大体歌えるんです。」と答えたエピソードが紹介された<ref name="OLDIES GOODIES 2021年4月10日放送">[https://note.com/mrm_mfm/n/n60e58ff05a46 OLDIES GOODIES #28_女性ヴォーカル特集パート2]、ミュージックフリークマガジン、2022年5月12日。</ref>。}}・[[ドライブ]]<ref>“ドライブは私の趣味のひとつ。”「ハイテク?な生活」『ヘンな物さし。』2003年11月26日、ジェイロックマガジン社。</ref>・[[写真#写真の撮影|写真撮影]]など。小松自身による撮り下ろし写真は、公式サイトや[[随筆|エッセイ集]]、CDの[[チラシ|フライヤー]]などで公開されている。
音楽活動をメインとしているが、それ以外にも、月刊[[音楽雑誌]]『J-groove magazine』(ジェイロックマガジン社、現在休刊)の2001年7月号から最終号の2006年5月号まで、エッセイ『小松未歩のヘンな物さし。』を連載し、[[本|書籍]]としても刊行するなど、[[随筆家|エッセイスト]]としての活動も行っていた。
2009年以降、新たな情報は無くなり、活動停止状態である{{efn|name="OldiesGoodies2"|2021年4月10日放送『[[OLDIES GOODIES]]』([[エフエム滋賀|FM滋賀]])にて、[[ばんばひろふみ]]が「小松さんは残念ですね。もっと頑張ってやっていれば。」と語ったところ、長戸大幸は「彼女自身は、もう表に出たくなかったそうなので。」と答えている<ref name="OLDIES GOODIES 2021年4月10日放送" />。}}。
=== 音楽活動 ===
デビューに先立ち、1997年4月より小松の楽曲「[[謎 (曲)|謎]]」が読売テレビ制作・日本テレビ系列のテレビアニメ『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』のオープニングテーマとしてオンエア開始。同月、[[FIELD OF VIEW]]へ楽曲提供し作家デビュー。翌5月に[[ZAIN RECORDS]]のSpoonfulレーベルからメジャーデビュー。
ほとんどの楽曲を自ら作詞作曲しているほか(提供曲に数曲の[[#楽曲提供作品・セルフカバー|例外あり]])、同じビーインググループ所属のFIELD OF VIEWや[[DEEN]]、[[WANDS|WANDS(第3期)]]、[[愛内里菜]]、[[三枝夕夏 IN db]]、[[北原愛子]]、[[岩田さゆり]]への楽曲提供も行う。
アルバムタイトルには自分の名前を冠する[[セルフタイトル]]が恒例となっている(ただし、1stアルバム『[[謎 (アルバム)|謎]]』とバラードセレクションアルバム『[[lyrics (小松未歩のアルバム)|lyrics]]』は例外)。
かつてビーインググループでは、女性アーティストのメディア露出を極力抑えるメディア・コントロール戦略<ref>鹿島良雄「“隠れる女”たちの魅惑」『別冊宝島1474 音楽誌が書かないJポップ批評50 ZARD&アーリー90'sグラフィティ』2007年10月19日、[[宝島社]]。(ISBN 978-4-7966-5946-8)</ref>がよく取られていたが、その中でも特に小松は、デビュー以降、[[テレビ]]、[[ラジオ]]の番組出演は全く行わず、GIZA studio本社ビル「[[hills パン工場|hillsパン工場・ライブハウス]]」を含め、ライブ等も一切行っていない<ref name="sponichi">“年齢非公表の上、テレビやラジオにも出演せず、ステージにも出ないという徹底ぶり。”「[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/06/kiji/K20110629001100930.html 【1997年6月】謎/タイトル通り ナゾに包まれた小松未歩]」[[スポーツニッポン]]Webサイト『Sponichi Annex』2011年6月29日付記事</ref><ref>{{Twitter status2|livehillspan|289206700047753217|2013年1月10日12時7分}}「ライブハウスhillsパン工場はオープン当初はGIZA/ビーイング所属アーティスト専用のライブハウスでした。そのため、大物新人問わずあらゆる所属アーティストが一度はあのステージに登場しています。唯一、出演が実現しなかったアーティスト、それは小松未歩さんでした。」</ref>。
== 来歴 ==
両親が音楽好きで、兄の影響もあり、3歳の頃より[[エレクトーン]]を始める。また、兄と2人で[[合唱|合唱団]]にも入っていた<ref>artist express 小松未歩「音楽は兄からの影響が大きかった、兄が[[カセットテープ|テープ]]に入れてくれた曲をいつも聴いていました。」『[[JUNON]] (2000年4月号)』、[[主婦と生活社]]。</ref>。中学時代から、[[邦楽]][[洋楽]]問わずに興味を持つ。この頃、初めて組んだ[[バンド (音楽)|バンド]]に[[キーボード (楽器)|キーボード]]で参加する。高校時代より、バンドの[[ボーカル]]として[[京阪神]]の[[ライブハウス]]に出演するようになり、楽曲制作と並行して[[演奏会|ライブ]]を続けていくようになる。
大手航空会社に勤務していたが、[[ビーイング]]グループの[[B-Gram RECORDS|ビーグラム]]大阪で行われた[[転職|中途採用]]の面接にて、[[長戸大幸]]に作曲を勧められる{{efn|name="before_the_debuts"|[http://www.miho-komatsu.com/menu/biography.html 公式プロフィール]では、小松はデビュー前に「3歳の頃よりエレクトーンを始める」「中学時代から、オリジナルで作詞作曲を始める」「バンドにキーボードで参加」としているが、GIZA制作チーフディレクターの[[寺尾広]]によるコラム(「Being Works 第5回 謎」『music freak Es Vol.20 (2011年8月号)』、[[エムアールエム]])によると、小松は[[長戸大幸]]に作曲を勧められるまで、作曲デモを作成した事が無く、歌いながらキーボードを指1本、または、指2〜3本で弾いていたとしている。また、2021年4月10日放送『[[OLDIES GOODIES]]』([[エフエム滋賀|FM滋賀]])にて、[[長戸大幸]]が(長戸の秘書の面接試験を受けに来た小松に対し)「楽器弾ける?」と尋ねたところ、小松が「いえ、弾けません」と答えたエピソードを紹介した<ref name="OLDIES GOODIES 2021年4月10日放送" />。}}<ref name="Karaoke1" /><ref name="debut_musicfreakEs">“大手航空会社勤務だった小松未歩さんは、音楽制作会社ビーイング系列のビーグラム大阪で行われた、中途採用の社員面接に訪れました。この時、プロデューサーの長戸大幸さんと出会います。”([[寺尾広]]「Being Works 第5回 謎」『music freak Es Vol.20 (2011年8月号)』、[[エムアールエム]]。)</ref>。
; 1996年
*8月26日、初めての作曲デモ(デモ番号「O-K-1」、仮タイトル「レイン」)を作成(その後、手直しを経たのが、1stアルバム『[[謎 (アルバム)|謎]]』収録の「おとぎ話」)<ref>“小松さんの最初に作られたデモは、96年8月26日に作られたもので、O-K-1(ギザでは小松さんの場合はKというように作家毎にデモ番号をつけています)、仮タイトルは「レイン」です。”([[寺尾広]]「Being Works 第5回 謎」『music freak Es Vol.20 (2011年8月号)』、[[エムアールエム]]。)</ref>。
*12月16日、30曲目の作曲デモ(デモ番号「O-K-30」、仮タイトル「夕映え」)を作成(その後、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビ系列]]の[[テレビアニメ]]『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』のオープニングテーマとして、手直しを経たのが、1stシングル「[[謎 (曲)|謎]]」)<ref name="Nazo">仮タイトルは「夕映え」であったが、テレビアニメ『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』のオープニングテーマとしてプレゼンするにあたり、歌詞に『名探偵コナン』の内容も意識した「謎」という言葉が入り、結局タイトルも「謎」とした。([[寺尾広]]「Being Works 第5回 謎」『music freak Es Vol.20 (2011年8月号)』、[[エムアールエム]]。)</ref>。
; 1997年
*4月7日、読売テレビ制作・日本テレビ系列のテレビアニメ『名探偵コナン』のオープニングテーマとして「[[謎 (曲)|謎]]」がオンエアされる。テレビアニメ『名探偵コナン』の主題歌史上最長となる計44話、1998年3月23日まで使われ続けた。
*4月23日、小松が初めて楽曲提供をした[[FIELD OF VIEW]]の7thシングル「[[この街で君と暮らしたい]]」がリリース。
*5月28日、[[ZAIN RECORDS]]のSpoonfulレーベルより1stシングル「[[謎 (曲)|謎]]」をリリース。オリコン最高位9位、また、100位以内に32週ランクインするロングヒットを記録する。
*6月18日、小松が楽曲提供をした[[辻尾有紗]]の1stシングル「[[青い空に出逢えた]]」がリリース。
*7月1日、Spoonfulレーベルがレコード会社[[Amemura O-town Record]]としてZAIN RECORDSより独立したことに伴い、移籍。
*7月5日、[[テレビ朝日]]系列のテレビアニメ『[[忍ペンまん丸]]』のエンディングテーマとして「[[輝ける星]]」がオンエアされる。1998年3月28日の最終回までの間、全30回で使われ続けた。
*8月27日、小松が楽曲提供をした[[DEEN]]の12thシングル「[[君がいない夏]]」がリリース。
*9月3日、小松が楽曲提供をした[[WANDS|WANDS(第3期)]]の12thシングル「[[錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こう]]」がリリース{{efn|「錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こう」は、ボーカルが[[上杉昇]]から[[和久二郎]]に変更後のWANDS(第3期)にとって初のシングル。}}。
*9月25日、移籍後初となる2ndシングル「[[輝ける星]]」をリリース。
*10月8日、小松が楽曲提供した「大空へ」が収録されたFIELD OF VIEWのベスト・アルバム『[[SINGLES COLLECTION+4]]』がリリース。
*12月3日、1stアルバム『[[謎 (アルバム)|謎]]』をリリース。新人では異例のオリコン初登場5位。60万枚の大ヒットを記録。
*12月8日、読売テレビ制作・日本テレビ系列のテレビアニメ『名探偵コナン』のエンディングテーマとして「[[願い事ひとつだけ]]」がオンエアされる。1998年7月6日までの間、計25話で使われ続けた。
; 1998年
*1月14日、3rdシングル「[[願い事ひとつだけ]]」をリリース。オリコン最高位8位、また、100位以内に17週ランクイン、累計50万枚のセールスを記録する。以降、同年に発売した作品全てがオリコンチャートトップ10以内にランクインした。
*2月18日、小松が楽曲提供をしたDEENの14thシングル「[[遠い空で]]」がリリース。
*3月4日、前年に発売した1stシングル「謎」および1stアルバム『謎』で、第12回[[日本ゴールドディスク大賞]]「ベスト・ニュー・アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.golddisc.jp/award/12/ |title=第12回 日本ゴールドディスク大賞 |publisher=[[日本レコード協会]] |accessdate=2021-07-31}}</ref>。
*3月18日、4thシングル「[[anybody's game]]」をリリース。
*3月30日、[[フジテレビ系列]]の[[朝の情報番組]]『[[めざましテレビ]]』テーマソングとして「[[チャンス (小松未歩の曲)|チャンス]]」がオンエアされる。1999年3月31日まで使われ続けた。
*5月20日、小松が楽曲提供をしたFIELD OF VIEWの8thシングル「[[渇いた叫び]]」がリリース。
*5月27日、小松が楽曲提供をしたDEENの15thシングル「[[君さえいれば (DEENの曲)|君さえいれば]]」がリリース。
*7月13日、読売テレビ制作・日本テレビ系列のテレビアニメ『名探偵コナン』のエンディングテーマとして「[[氷の上に立つように]]」がオンエアされる。1999年1月18日までの間、計23話で使われ続けた。
*8月19日、5thシングル「[[チャンス (小松未歩の曲)|チャンス]]」をリリース。シングルチャートにおいて初登場3位という自己最高位をマークした。
*10月14日、6thシングル「[[氷の上に立つように]]」をリリース。
*11月18日、小松が楽曲提供をしたDEENの16thシングル「[[手ごたえのない愛]]」がリリース。
*12月19日、2ndアルバム『[[小松未歩 2nd〜未来〜]]』をリリース。オリコン初登場3位、80万枚のセールス。売上、最高位ともに自己最高を記録した。
; 1999年
*1月、テレビ朝日系列の[[情報番組|情報]][[バラエティ番組]]『[[PAKU2グルメんぼ|PAKU{{sup|2}}グルメんぼ]]』のエンディングテーマとして「[[さよならのかけら]]」がオンエアされる。
*3月3日、7thシングル「[[さよならのかけら]]」をリリース(Amemura O-town Record時代の最後のシングル)。
*4月、所属レーベルを[[GIZA studio]]に移籍(これに伴いAmemura O-town Recordは運営終了)。
*4月3日、[[TBSテレビ|TBS]]系列の情報バラエティ番組『[[ランク王国]]』のオープニングテーマとして「[[最短距離で]]」がオンエアされる。また、[[CBCテレビ|CBC]]制作・TBS系列のテレビアニメ『[[モンスターファーム (アニメ)|モンスターファーム 〜円盤石の秘密〜]]』のオープニングテーマとして「[[風がそよぐ場所]]」がオンエアされる。1999年10月30日までの間、計28話で使われ続けた他、2000年3月25日放送の最終話(第48話)ではエンディングテーマとして使われた。
*5月8日、2度目の移籍後初となる8thシングル「[[最短距離で]]」をリリース。
*6月30日、9thシングル「[[風がそよぐ場所]]」をリリース。
; 2000年
*1月3日、テレビ朝日系列{{efn|name="Yaziuma1"|ただし、小松の活動拠点である近畿[[広域放送|広域圏]]の[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]では、『やじうまワイド』に内包される[[ANNニュース]](5:50~5:59)のみの[[ネットワーク (放送)|ネット]]のため、「[[小松未歩 3rd〜everywhere〜#収録曲|BEAUTIFUL LIFE]]」はオンエアされていない。}}の朝の情報番組『[[やじうまワイド]]』テーマソングとして「[[小松未歩 3rd〜everywhere〜#収録曲|BEAUTIFUL LIFE]]」{{efn|name="Yaziuma2"|[[新星堂]]の新譜情報「SOUND CUE」2000年2月号では、『「やじうまワイド」テーマソング(1/3よりオンエア)「HAPPY HOLID'''''E'''''AYS」』(原文ママ)と、異なる曲名で紹介されていた。}}がオンエアされる。2000年7月1日まで使われ続けた。
*2月16日、3rdアルバム『[[小松未歩 3rd〜everywhere〜]]』をリリース。オリコン初登場5位。
*3月22日、[[週刊少年サンデー]]の連載漫画『[[名探偵コナン]]』(作者・[[青山剛昌]])の登場人物として、小松が[[カメオ出演]]。
*4月22日、劇場版アニメ『[[名探偵コナン 瞳の中の暗殺者]]』が公開(主題歌は「[[あなたがいるから (小松未歩の曲)|あなたがいるから]]」)。
*6月21日、10thシングル「[[あなたがいるから (小松未歩の曲)|あなたがいるから]]」をリリース。オリコン初登場9位、トップ10入り最後の作品になる。
*10月18日、11thシングル「[[君の瞳には映らない]]」をリリース。
; 2001年
*1月24日、小松が楽曲提供した「Her Lament 〜誰にも聞こえない彼女の叫び」が収録された[[愛内里菜]]の1stアルバム『[[Be Happy]]』がリリース。
*1月31日、12thシングル「[[Love gone]]」をリリース。
*3月7日、4thアルバム『[[小松未歩 4〜A thousand feelings〜]]』をリリース。アルバムの中で最後のトップ10に入る。
*5月30日、13thシングル「[[とどまることのない愛]]」をリリース。初のノンタイアップ作品となる。
*6月18日、読売テレビ制作・日本テレビ系列のテレビアニメ『名探偵コナン』の登場人物として、小松がカメオ出演(声の出演なし)。
*8月8日、14thシングル「[[さいごの砦]]」をリリース。
*{{要出典範囲|10月1日、テレビ朝日系列の朝の情報番組『[[スーパーモーニング]]』テーマソングとして、小松の[[器楽曲|インスト曲]](曲名なし)がオンエアされる。2002年3月29日まで使われ続けた|date=2022年5月}}。
*10月初旬、公式サイトトップにて、小松自身による撮り下ろし写真の掲載開始。2009年2月28日までの間、概ね月2回の頻度で更新{{efn|name="Photo"|小松自身による撮り下ろし写真は、2001年10月15日付から2008年8月31日付までの間は、公式サイトトップに掲載後に、公式サイトのphotographのコーナーに再掲載されている。しかし、2001年10月初旬付および2008年9月15日付から2009年2月15日付で、公式サイトトップに掲載されていた計13枚の写真は再掲載されていない。月2回の頻度での更新が保てなかったのは2004年12月だけ、逆に月に3回更新したのは2001年10月だけである。}}。
*12月5日、15thシングル「[[愛してる...]]」をリリース。この作品からフルサイズの[[プロモーションビデオ]]が作られる。
*なお、この年から音楽雑誌『J-groove magazine』にてエッセイ『小松未歩のヘンな物さし。』の連載がスタートする。2001年7月号から2006年5月号の休刊まで毎月掲載されていた。
; 2002年
*5月28日、デビュー5周年を迎える。
*5月29日、16thシングル「[[dance (小松未歩の曲)|dance]]」をリリース。
*9月25日、5thアルバム『[[小松未歩 5〜source〜]]』をリリース。
*11月27日、リミックスアルバム『[[WONDERFUL WORLD 〜SINGLE REMIXES & MORE〜]]』、17thシングル「[[mysterious love]]」の2作品を同時リリース。
; 2003年
*3月19日、18thシングル「[[ふたりの願い]]」をリリース。
*6月25日、19thシングル「[[私さがし]]」をリリース。
*8月11日、公式サイトにて、[[Web日記]]『Miho's Diary』の執筆開始。2009年1月12日までの間、原則月曜日に概ね週1回の頻度で更新{{efn|name="Diary"|公式サイトの[[Web日記]]『Miho's Diary』への投稿は、2003年8月11日から2009年1月12日までの累計で278回。週1回の頻度での更新が保てなかったのは、2003年末~2004年始・2005年末~2006年始・2006年末~2007年始・2007年4月下旬~2007年5月上旬・2007年末~2008年始、の5回だけである。}}。
*9月25日、6thアルバム『[[小松未歩 6th〜花野〜]]』をリリース。
*11月26日、バラードセレクションアルバム『[[Lyrics (小松未歩のアルバム)|lyrics]]』、20thシングル「[[翼はなくても]]」、初のエッセイ集『ヘンな物さし。』の3作品を同時発売。
; 2004年
*4月28日、21stシングル「[[涙キラリ飛ばせ]]」をリリース。
*7月28日、22ndシングル「[[砂のしろ]]」をリリース。
*10月20日、23rdシングル「[[I〜誰か...]]」をリリース。
*11月17日、小松が楽曲提供した「私を許さないで」が収録された[[三枝夕夏 IN db]]の2ndアルバム『[[U-ka saegusa IN db II]]』がリリース。
; 2005年
*1月20日、7thアルバム『[[小松未歩 7〜prime number〜]]』をリリース。
*4月3日、[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]のテレビアニメ『[[MÄR#アニメ(メルヘヴン)|メルヘヴン]]』のエンディングテーマとして「[[I just wanna hold you tight]]」がオンエアされる。2005年6月26日までの間、計13話で使われ続けた。
*5月11日、小松が楽曲提供した「Message」が収録された[[北原愛子]]の2ndアルバム『[[Message (北原愛子のアルバム)|Message]]』がリリース。
*5月18日、24thシングル「[[I just wanna hold you tight]]」をリリース。
*7月27日、小松が楽曲提供をした[[岩田さゆり]]の3rdシングル「[[不機嫌になる私]]」がリリース。
*8月17日、25thシングル「[[あなた色]]」をリリース。
*12月7日、現在のところ、最後のシングルとなる26thシングル「[[恋になれ...]]」がリリース。小松が楽曲提供した「ひとりじゃない」が収録された岩田さゆりの1stアルバム『[[Thank You For…]]』がリリース。
; 2006年
*3月29日、小松が楽曲提供した「PRECIOUS PLACE」が収録された愛内里菜の26thシングル『[[GLORIOUS/PRECIOUS PLACE]]』がリリース。
*4月26日、8thアルバム『[[小松未歩 8〜a piece of cake〜]]』をリリース。
*11月22日、初の[[ベスト・アルバム]]『[[小松未歩ベスト 〜once more〜]]』、エッセイ集第2弾となる『ヘンな物さし2。』の2作品を同時発売。
; 2007年
*5月28日、デビュー10周年を迎える。
*この年以降、楽曲の発表は行わず、公式サイトで公開されているWeb日記『Miho's Diary』の執筆と、小松自身による撮り下ろし写真の掲載だけに活動をとどめるようになる。
; 2009年
*1月12日、この日を最後に、2003年8月11日から原則月曜日に概ね週1回の頻度で更新されていた、公式サイトのWeb日記『Miho's Diary』への投稿が止まる{{efn|name="Diary"}}。
*2月28日、この日を最後に、2001年10月初旬から概ね月2回の頻度で更新されていた、公式サイトトップの小松自身による撮り下ろし写真の掲載が止まる{{efn|name="Photo"}}。これ以降、活動は確認されていない。
; 2011年
*4月7日、GIZA studio本社ビル「[[hills パン工場|hillsパン工場・ライブハウス]]」支配人の斉田才が[[Twitter]]上で「小松さんは実質、限りなく引退に近い状態です」とツイート<ref>{{Twitter status2|saidasai|56004818816335872|2011年4月7日23時46分}} 「[[宇津本直紀|宇津本]]さんは辞めました。[[FEEL SO BAD]]関係の皆さんは色々と活動中です。小松さんは実質、限りなく引退に近い状態です。以上、私の知る限りでは…。」</ref>。
*6月、Being official websiteにおいてother artistカテゴリー{{efn|解散・引退もしくは他レーベルへ移籍したアーティストに類される。}}に入った。
*8月、GIZA制作チーフディレクターの[[寺尾広]]が、音楽雑誌『music freak Es』のコラムにて、小松のデビューの経緯が公式プロフィールとは異なることなどを明らかにした<ref name="debut_musicfreakEs" />{{efn|name="before_the_debuts"}}。
; 2021年
*4月10日、プロデューサーの[[長戸大幸]]が、[[エフエム滋賀|FM滋賀]]の音楽番組『[[OLDIES GOODIES]]』にて、小松のデビューの経緯が公式プロフィールとは異なることや、小松が活動休止中である理由などを明らかにした{{efn|name="OldiesGoodies2"}}。また、番組内でデビューシングル「[[謎 (曲)|謎]]」と15thシングル「[[愛してる...]]」のデモテープが公開される{{efn|公開されたデモテープについて、「[[謎 (曲)|謎]]」は2つ流されたが、1つ目は原曲に対し歌詞とBメロが大きく異なるもの、2つ目は原曲に近いものであった。また「[[愛してる...]]」は、指1本でキーボードを弾きながら英語の仮歌を歌ったものであった。}}。
;2022年
*5月28日、デビュー25周年を迎える。これを記念して、シングル及びアルバム全曲の[[サブスクリプション|サブスク]]解禁が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/479411|title=小松未歩メジャーデビュー25周年を記念して「名探偵コナン」主題歌含む全曲サブスク解禁|date=2022-05-28|website=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2022-05-28}}</ref>。
== ディスコグラフィ ==
{{Infobox Artist Discography
| Artist = 小松未歩
| Image =
| Image size =
| Caption =
| Studio = 8
| Studio link = オリジナルアルバム
| Live =
| Live link =
| Compilation = 2
| Comp link = コンピレーションアルバム
| Best = 1
| Best link = ベストアルバム
| Internet =
| Internet link =
| Video =
| Video link =
| Music videos =
| MV link =
| EP =
| EPs link =
| Singles = 26
| Singles link = シングル
| B-sides =
| B link =
| Soundtrack =
| Soundtrack link =
| Tribute =
| Trib link =
| Option =
| Option name =
| Option link =
| Option color =
| 1Option =
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| 4Option =
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| 5Option =
| 5Option name =
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| 5Option color =
| References =
| Ref link =
}}
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格
!規格品番
!オリコン
!初収録アルバム
|-
!1st
|1997年5月28日
|'''[[謎 (曲)|謎]]'''
|rowspan="6"|[[8センチCD|8cm CD]]
|ZADS-1001
|9位
|rowspan="2"|[[謎 (アルバム)|謎]]
|-
!2nd
|1997年9月25日
|'''[[輝ける星]]'''
|AODS-1001
|20位
|-
!3rd
|1998年1月14日
|'''[[願い事ひとつだけ]]'''
|AODS-1003
|8位
|rowspan="4"|[[小松未歩 2nd〜未来〜]]
|-
!4th
|1998年3月18日
|'''[[anybody's game]]'''
|AODS-1004
|9位
|-
!5th
|1998年8月19日
|'''[[チャンス (小松未歩の曲)|チャンス]]'''
|AODS-1005
|3位
|-
!6th
|1998年10月14日
|'''[[氷の上に立つように]]'''
|AODS-1006
|5位
|-
!7th
|1999年3月3日
|'''[[さよならのかけら]]'''
|[[コンパクトディスク|12cm CD]]
|AOCS-1004
|17位
|rowspan="3"|[[小松未歩 3rd〜everywhere〜]]
|-
!8th
|1999年5月8日
|'''[[最短距離で]]'''
|rowspan="2"|8cm CD
|GZDA-1005
|16位
|-
!9th
|1999年6月30日
|'''[[風がそよぐ場所]]'''
|GZDA-1008
|rowspan="2"|9位
|-
!10th
|2000年6月21日
|'''[[あなたがいるから (小松未歩の曲)|あなたがいるから]]'''
|rowspan="17"|12cm CD
|GZCA-1038
|rowspan="3"|[[小松未歩 4〜A thousand feelings〜]]
|-
!11th
|2000年10月18日
|'''[[君の瞳には映らない]]'''
|GZCA-1047
|19位
|-
!12th
|2001年1月31日
|'''[[Love gone]]'''
|GZCA-1060
|26位
|-
!13th
|2001年5月30日
|'''[[とどまることのない愛]]'''
|GZCA-1080
|22位
|rowspan="4"|[[小松未歩 5〜source〜]]
|-
!14th
|2001年8月8日
|'''[[さいごの砦]]'''
|GZCA-2006
|30位
|-
!15th
|2001年12月5日
|'''[[愛してる…]]'''
|GZCA-2023
|rowspan="2"|28位
|-
!16th
|2002年5月29日
|'''[[dance (小松未歩の曲)|dance]]'''
|GZCA-2038
|-
!17th
|2002年11月27日
|'''[[mysterious love]]'''
|GZCA-7003
|16位
|rowspan="3"|[[小松未歩 6th〜花野〜]]
|-
!18th
|2003年3月19日
|'''[[ふたりの願い]]'''
|GZCA-7012
|rowspan="3"|30位
|-
!19th
|2003年6月25日
|'''[[私さがし]]'''
|GZCA-7021
|-
!20th
|2003年11月26日
|'''[[翼はなくても]]'''
|GZCA-7035
|rowspan="4"|[[小松未歩 7〜prime number〜]]
|-
!21st
|2004年4月28日
|'''[[涙キラリ飛ばせ]]'''
|GZCA-7050
|31位
|-
!22nd
|2004年7月28日
|'''[[砂のしろ]]'''
|GZCA-4007
|32位
|-
!23rd
|2004年10月20日
|'''[[I〜誰か...]]'''
|GZCA-4023
|29位
|-
!24th
|2005年5月18日
|'''[[I just wanna hold you tight]]'''
|GZCA-4039
|36位
|rowspan="3"|[[小松未歩 8〜a piece of cake〜]]
|-
!25th
|2005年8月17日
|'''[[あなた色]]'''
|GZCA-4048
|38位
|-
!26th
|2005年12月7日
|'''[[恋になれ...]]'''
|GZCA-4057
|39位
|}
=== オリジナルアルバム ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格
!規格品番
!オリコン
|-
!1st
|1997年12月3日
|'''[[謎 (アルバム)|謎]]'''
|rowspan="8"|[[コンパクトディスク|CD]]
|AOCS-1001
|5位
|-
!2nd
|1998年12月19日
|'''[[小松未歩 2nd〜未来〜]]'''
|AOCS-1003
|3位
|-
!3rd
|2000年2月16日
|'''[[小松未歩 3rd〜everywhere〜]]'''
|GZCA-1022
|5位
|-
!4th
|2001年3月7日
|'''[[小松未歩 4〜A thousand feelings〜]]'''
|GZCA-1064
|9位
|-
!5th
|2002年9月25日
|'''[[小松未歩 5〜source〜]]'''
|GZCA-5020
|23位
|-
!6th
|2003年9月25日
|'''[[小松未歩 6th〜花野〜]]'''
|GZCA-5034
|27位
|-
!7th
|2005年1月26日
|'''[[小松未歩 7〜prime number〜]]'''
|GZCA-5062
|30位
|-
!8th
|2006年4月26日
|'''[[小松未歩 8〜a piece of cake〜]]'''
|GZCA-5078
|35位
|}
=== リミックスアルバム ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格
!規格品番
!オリコン
|-
!1st
|2002年11月27日
|'''[[WONDERFUL WORLD 〜SINGLE REMIXES & MORE〜]]'''
|[[コンパクトディスク|CD]]
|GZCA-5023
|20位
|}
=== コンピレーションアルバム ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格
!規格品番
!オリコン
|-
!1st
|2003年11月26日
|'''[[lyrics (小松未歩のアルバム)|lyrics]]'''
|[[コンパクトディスク|CD]]
|GZCA-5043
|45位
|}
=== ベストアルバム ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格
!規格品番
!オリコン
|-
!1st
|2006年11月22日
|'''[[小松未歩ベスト〜once more〜]]'''
|2[[コンパクトディスク|CD]]
|GZCA-5096〜97
|21位
|}
=== オムニバス ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small"
!発売日!!タイトル!!規格品番!!参加曲
|-
|2000年11月29日||[[THE BEST OF DETECTIVE CONAN 〜名探偵コナン テーマ曲集〜]]||ZACL-1055||M-1.謎<br />M-8.願い事ひとつだけ<br />M-9.氷の上に立つように<br />M-16.あなたがいるから
|-
|2001年3月7日||[[野村昌之#作品|COOL CITY PRODUCTION vol.1 *PARTY IN A HOUSE]]||TCR-007||M-6.最短距離で<br />Blue Monday's Love Child Mix
|-
|2001年12月19日||[[GIZA studio Masterpiece BLEND 2001]]||GZCA-5007〜8||DISC 1:M-12.Love gone<br />DISC 2:M-1.とどまることのない愛
|-
|2002年12月18日||[[GIZA studio Masterpiece BLEND 2002]]||GZCA-5025〜6||DISC 1:M-4.dance<br />DISC 2:M-4.gift
|-
|2003年12月17日||[[GIZA studio Masterpiece BLEND 2003]]||GZCA-5044~5||DISC 1:M-4.私さがし<br />DISC 2:M-5.ふたりの願い
|-
|2004年10月17日||It's TV SHOW!! TBSテレビ&フジテレビ 主題歌&テーマ曲BEST{{efn|[[東京放送ホールディングス]]と[[フジ・メディア・ホールディングス]]の合弁会社[[ム・ーハ]] (Mu-Ha) による企画アルバム。}}||JBCJ-9009〜10||DISC 2:M-7.チャンス
|-
|2005年11月||[[COUNTDOWN BEING]]([[通販CD]])||JDCV-1001〜4||DISC 3:M-13.輝ける星<br />DISC 4:M-7.謎
|-
|2005年11月23日||[[DEEN The Best キセキ]]【初回限定盤】||BVCR-18056~7||Premium Disc:<br />M-4.君さえいれば<br />M-7.手ごたえのない愛<br />M-8.遠い空で
|-
|2006年3月1日||For you…〜花・卒業ソング〜(配信限定アルバム)||''[[iTunes Store]]''||M-5.愛してる...
|-
|2006年6月||[[FUN Greatest Hits of 90's]]([[通販CD]])||DRF-11101〜5||DISC 2:M-11.謎
|-
|2006年12月13日||[[THE BEST OF DETECTIVE CONAN 〜The Movie Themes Collection〜]]||JBCJ-9021||M-7.あなたがいるから
|-
|2007年3月14日||[[MÄR#CD|メルヘヴン THEME SONG BEST]]||GZCA-5098||M-2.I just wanna hold you tight
|-
|2008年12月24日||[[GIZA studio 10th Anniversary Masterpiece BLEND 〜LOVE Side〜]]||GZCA-5149||M-4.あなたがいるから
|-
|2009年12月||[[BEST HIT BEING]]([[通販CD]])||JDCV-1005〜8||DISC 1:M-13.願い事ひとつだけ<br />DISC 2:M-1.謎<br />DISC 4:M-11.チャンス
|-
|2011年10月12日||[[GIZA studio presents -Girls-]]||GZCA-5233〜4||DISC 1:M-14.謎<br />M-15.願い事ひとつだけ<br />M-16.チャンス
|-
|2017年3月22日||[[劇場版 名探偵コナン 主題歌集 〜“20”All Songs〜]]||【初回限定盤】<br />JBCZ-9045~6<br />【通常盤】<br />JBCZ-9047~8||DISC 1:M-4.あなたがいるから
|-
|2018年2月28日||[[DEEN The Best FOREVER 〜Complete Singles +〜]]【初回限定盤】||ESCL-4988~92||PREMIUM DISC:<br />M-5.君がいない夏<br />M-7.君さえいれば<br />M-9.手ごたえのない愛<br />M-10.遠い空で
|-
|2020年4月8日
|[[キミが好きだと叫びたい 〜Love & Yell〜]]
|JBCZ-9105
|M-19.チャンス
|}
=== 参加作品 ===
{|class="wikitable"
!発売日!!タイトル!!規格品番!!参加曲
|-
|2002年7月17日||[[GIZA studio MAI-K & FRIENDS HOTROD BEACH PARTY]]||GZCA-5017||M-5.[[サーフィン・U.S.A.|SURFIN' U.S.A]] (guest vocals){{efn|ソロパートは、[[倉木麻衣]]→[[北原愛子]]→[[三枝夕夏]]→[[上原あずみ]]→[[愛内里菜]]→小松の順。}}
|-
|2005年7月27日||[[岩田さゆり]]「[[不機嫌になる私]]」||GZCA-4046||M-1.不機嫌になる私 (Background Vocals)
|-
|2005年12月7日||岩田さゆり『[[Thank You For…]]』||GZCA-5076||M-10.不機嫌になる私 (Background Vocals)
|}
== タイアップ一覧 ==
[[在京テレビジョン放送局|在京広域テレビ局]]([[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ朝日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[TBSテレビ]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[テレビ東京]])の全ての局で、タイアップがついている。
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!楽曲!!タイアップ!!備考
|-
|[[謎 (曲)|謎]]{{efn|name="Arrange"|CDとはアレンジが異なる。}}
|[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビ系列]][[テレビアニメ]]『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』オープニングテーマ{{efn|name="Conan-OP"|『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』オープニングテーマとして、同じ曲「謎」が2度起用された(小松によるオリジナルと、[[La PomPon]]によるカバー)。}}||第53話(1997年4月7日) - 第96話(1998年3月23日)(計44話)
|-
|[[謎 (曲)#収録曲|言葉にできない]]
|[[名古屋テレビ放送]]『吉本御前様パーティー』エンディングテーマ||
|-
|[[輝ける星]]
|[[テレビ朝日]]系列テレビアニメ『[[忍ペンまん丸]]』エンディングテーマ{{efn|テレビアニメ『[[忍ペンまん丸]]』最終回のサブタイトルは、同曲のタイトルより「輝ける未来、輝ける星」であった。}}||第1回(1997年7月5日) - 最終回(1998年3月28日)(計30回・60話)
|-
|rowspan="2"|[[謎 (アルバム)#収録曲|Dream'in Love]]
|[[毎日放送]](テレビ・[[MBSラジオ|ラジオ]])『[[全国高等学校ラグビーフットボール大会|全国高校ラグビー選手権大会]]』1997年度大会公式テーマソング||
|-
||毎日放送『[[MBSスポーツドーム]]』テーマソング||
|-
|[[謎 (アルバム)#収録曲|alive]]
|[[アステル関西]]CFイメージソング||
|-
|[[願い事ひとつだけ]]{{efn|name="Arrange"}}
|読売テレビ制作・日本テレビ系列テレビアニメ『名探偵コナン』エンディングテーマ||第84話(1997年12月8日) - 第108話(1998年7月6日)(計25話)
|-
|[[願い事ひとつだけ#収録曲|銀河]]
|[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]][[夕方ワイド番組]]『[[ワイドABCDE〜す]]』エンディングテーマ||使用期間 1998年1月
|-
|rowspan="3"|[[anybody's game]]||[[フジテレビ系列]][[情報番組]]『[[えすえふ]]』エンディングテーマ(2代目)||
|-
||[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]][[水曜ドラマ (NHK)|水曜ドラマ]]シリーズ『[[おじさん改造講座#テレビドラマ|おじさん改造講座]]』主題歌||放送期間 1998年4月1日 - 1998年4月29日(全5回)
|-
||[[京都放送|KBS京都]]制作・[[全国独立UHF放送協議会|UHF]]34局ネット[[音楽番組]]『[[J-ROCK ARTIST COUNT DOWN 50|J-ROCK ARTIST BEST50]]』オープニングテーマ||
|-
|rowspan="3"|[[anybody's game#収録曲|1万メートルの景色]]||読売テレビ制作・日本テレビ系列『[[鳥人間コンテスト選手権大会]]』1998年度テーマソング||放送日 1998年9月5日
|-
||[[静岡朝日テレビ]]スポーツ[[情報番組]]『[[スポーツパラダイス]]』エンディングテーマ||使用期間 1998年4月
|-
||[[いわき明星大学]]ラジオ[[コマーシャルソング|CMソング]]||
|-
|[[チャンス (小松未歩の曲)|チャンス]]{{efn|番組での起用開始当初はCDとはアレンジが異なりキーも半音上げの状態で歌唱されていたが、CD化にあたり、CD収録のバージョンに変更された。}}
|フジテレビ系列[[朝の情報番組]]『[[めざましテレビ]]』テーマソング||使用期間 1998年3月30日 - 1999年3月31日
|-
|[[氷の上に立つように]]{{efn|name="Arrange"}}
|読売テレビ制作・日本テレビ系列テレビアニメ『名探偵コナン』エンディングテーマ||第109話(1998年7月13日) - 第131話(1999年1月18日)(計23話)
|-
|[[小松未歩 2nd〜未来〜#収録曲|未来]]
|[[九州電力]]企業イメージアップキャンペーンCMソング||
|-
|[[小松未歩 2nd〜未来〜#収録曲|手ごたえのない愛]]{{efn|[[DEEN]]への提供曲「[[手ごたえのない愛]]」の[[セルフカバー]]版をタイアップ。}}
|[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用[[ビジュアルノベル|デジタルノベル]]『[[Lの季節 〜A piece of memories〜]]』([[トンキンハウス]])オープニングテーマ||当初はノンタイアップだったが、アルバム発売後に起用
|-
|[[さよならのかけら]]
|テレビ朝日系列[[情報番組|情報]][[バラエティ番組]]『[[PAKU2グルメんぼ|PAKU{{sup|2}}グルメんぼ]]』エンディングテーマ||使用期間 1999年1月 - 1999年3月
|-
|[[最短距離で]]
|[[TBSテレビ|TBS]]系列情報バラエティ番組『[[ランク王国]]』オープニングテーマ||使用期間 1999年4月3日 - 1999年5月
|-
|rowspan="2"|[[風がそよぐ場所]]{{efn|第1話から第28話までのオープニングテーマはCDとはアレンジが異なっていたが、最終話のエンディングテーマはCD収録のバージョンが採用された。}}
|[[CBCテレビ|CBC]]制作・TBS系列テレビアニメ『[[モンスターファーム (アニメ)|モンスターファーム 〜円盤石の秘密〜]]』オープニングテーマ||第1話(1999年4月3日) - 第28話(1999年10月30日)(計28話)
|-
||CBC制作・TBS系列テレビアニメ『モンスターファーム 〜円盤石の秘密〜』エンディングテーマ||最終話(第48話)(2000年3月25日)
|-
|[[小松未歩 3rd〜everywhere〜#収録曲|BEAUTIFUL LIFE]]{{efn|name="Arrange"}}
|テレビ朝日系列{{efn|name="Yaziuma1"}}朝の情報番組『[[やじうまワイド]]』テーマソング{{efn|name="Yaziuma2"}}||使用期間 2000年1月3日 - 2000年7月1日
|-
|[[あなたがいるから (小松未歩の曲)|あなたがいるから]]
|[[アニメーション映画|劇場版アニメ]]『[[名探偵コナン 瞳の中の暗殺者]]』主題歌||公開日 2000年4月22日
|-
|[[君の瞳には映らない]]
|[[テレビ大阪]]制作音楽番組『アメロク』エンディングテーマ||
|-
|[[君の瞳には映らない#収録曲|あなたを愛してくこと]]
|UHF14局ネット[[厚生年金事業振興団]]『風に乗って素敵に』テーマソング||
|-
|rowspan="2"|[[Love gone]]||TBS系列『ココロTV』エンディングテーマ||
|-
||[[日音]]制作音楽番組『[[P.S. -Pop Shake-|P.S. 〜Pop Shake〜]]』オープニングテーマ||使用期間 2001年2月
|-
|[[小松未歩 4〜A thousand feelings〜#収録曲|Hold me tight]]
|[[PlayStation 2]]用ビジュアルノベル『[[Missing Blue]]』(トンキンハウス)オープニングテーマ||発売日 2001年7月26日
|-
|[[小松未歩 4〜A thousand feelings〜#収録曲|I don't know the truth]]
|PlayStation 2用ビジュアルノベル『Missing Blue』(トンキンハウス)エンディングテーマ||発売日 2001年7月26日
|-
|([[器楽曲|インスト曲]])''※曲名なし''
|テレビ朝日系列朝の情報番組『[[スーパーモーニング]]』テーマソング||使用期間 2001年10月1日 - 2002年3月29日
|-
|[[dance (小松未歩の曲)|dance]]
|日本テレビ系列『C/Wラブ(カップリングラブ)』エンディングテーマ||使用期間 2002年5月 - 2002年6月
|-
|[[mysterious love]]
|日本テレビ系列{{efn|ただし、小松の活動拠点である近畿[[広域放送|広域圏]]の[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]や中京広域圏の[[中京テレビ放送|中京テレビ]]では[[ネットワーク (放送)|ネット]]されていなかった。}}[[番宣番組|番宣バラエティ番組]]『[[TVおじゃマンボウ]]』エンディングテーマ||使用期間 2002年10月 - 2002年12月
|-
|[[ふたりの願い]]
|日本テレビ系列音楽番組『[[AX MUSIC-TV]]』AX POWER PLAY #026||
|-
|[[I〜誰か...]]
|日本テレビ系列音楽バラエティ番組『[[音楽戦士 MUSIC FIGHTER]]』POWER PLAY||使用期間 2004年10月
|-
|[[I just wanna hold you tight]]
|[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]テレビアニメ『[[MÄR#アニメ(メルヘヴン)|メルヘヴン]]』エンディングテーマ||第1話(2005年4月3日) - 第13話(2005年6月26日)(計13話)
|-
|[[あなた色]]
|日本テレビ映画番組『[[映画楽園 〜シネパラ〜|映画天国 チネ★パラ]]』グランドオープニングテーマ||使用期間 2005年8月9日 -
|-
|[[恋になれ...]]
|TBS系列バラエティ番組『[[所萬遊記]]』エンディングテーマ||使用期間 2005年12月9日 - 2006年1月
|}
== 楽曲提供作品・セルフカバー ==
a …アルバム曲 / s …シングル曲
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!アーティスト!!発売日!!*!!提供曲!!セルフカバー収録!!備考
|-
|rowspan="3"|[[FIELD OF VIEW]]||1997年4月23日||s||[[この街で君と暮らしたい]]||1stアルバム『[[謎 (アルバム)|謎]]』||この曲で音楽家デビューする<br />[[テレビ朝日]]系列『[[超次元タイムボンバー]]』エンディングテーマ<br />(1997年4月 - 1997年6月)
|-
|1997年10月8日||a||[[SINGLES COLLECTION+4#収録曲|大空へ]]||6thアルバム『[[小松未歩 6th〜花野〜]]』||[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビ系列]]『[[鳥人間コンテスト選手権大会]]』1997年度テーマソング{{efn|1997年度の[[鳥人間コンテスト選手権大会]]は[[平成9年台風第9号|台風]]直撃のため競技全面中止となり、放送当日(1997年7月26日)は「大会中止ドキュメント」と「過去20回のダイジェスト」をスタジオから生放送した。}}
|-
|1998年5月20日||s||[[渇いた叫び]]||6thアルバム『小松未歩 6th〜花野〜』||テレビ朝日系列([[東映アニメーション]]制作版)『[[遊☆戯☆王 (アニメ第1作)|遊☆戯☆王]]』オープニングテーマ{{efn|歌詞の一部(「闇がもう一人の自分を作る」「駆け引きがカギ」)が、本編の内容およびオープニング映像とリンクしており、小松が本編の[[アニメソング]]として用いられることを意識した上で[[FIELD OF VIEW]]へ提供した曲である。また、第3話まではCDとはアレンジが異なる。}}<br />全27話(1998年4月4日 - 1998年10月10日)
|-
|[[辻尾有紗]]||1997年6月18日||s||[[青い空に出逢えた]]||1stアルバム『謎』||[[フジテレビ系列]]『[[中華一番!]]』エンディングテーマ<br/>第1話(1997年4月27日) - 第20話(1997年11月2日)
|-
|rowspan="4"|[[DEEN]]||1997年8月27日||s||[[君がいない夏]]||1stアルバム『謎』||読売テレビ制作・日本テレビ系列『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』エンディングテーマ<br />第71話(1997年8月11日) - 第83話(1997年12月1日)
|-
|1998年2月18日||s||[[遠い空で]]||20thシングル「[[翼はなくても]]」||[[吉江一男]]と共同作曲{{efn|小松による楽曲のうち、現在のところ唯一、作曲が共作([[吉江一男]]との)である。}}<br />[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]]「[[Least Cost Routing|スーパーLCR]]」CMソング{{efn|遠距離恋愛をしている彼女との長距離電話をイメージした歌詞であり、[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]]の「[[Least Cost Routing|スーパーLCR]]」CMソングとして用いられることを意識した上で[[DEEN]]へ提供した曲である。}}
|-
|1998年5月27日||s||[[君さえいれば (DEENの曲)|君さえいれば]]||6thアルバム『小松未歩 6th〜花野〜』||フジテレビ系列『中華一番!』オープニングテーマ{{efn|name="Arrange"}}<br />第37話(1998年5月3日) - 第52話(1998年9月13日)<br />[[中日ドラゴンズ]]の外野手[[平田良介]]の登場曲として使用された。(2015年)
|-
|1998年11月18日||s||[[手ごたえのない愛]]||2ndアルバム『[[小松未歩 2nd〜未来〜]]』<br />バラードセレクションアルバム『[[lyrics (小松未歩のアルバム)|lyrics]]』||[[TBSテレビ|TBS]]系列『[[筋肉番付シリーズ|筋肉番付]]』エンディングテーマ
|-
|colspan="6"|DEENに提供した全4曲は、DEENのコンプリート・ベスト・アルバム『[[DEEN The Best FOREVER 〜Complete Singles +〜]]』初回限定盤 PREMIUM DISC にも小松によるセルフカバーが収録されている。<br/>また、「遠い空で」、「君さえいれば」、「手ごたえのない愛」の3曲は、DEENのセルフカバーアルバム『[[DEEN The Best キセキ]]』初回限定盤 Premium Disc にも小松によるセルフカバーが収録されている。
|-
|[[WANDS|WANDS(第3期)]]||1997年9月3日||s||[[錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こう]]||1stアルバム『謎』||フジテレビ系列『[[ドラゴンボールGT]]』エンディングテーマ{{efn|name="Arrange"}}<br />第51話(1997年7月2日)- 第64話(1997年11月19日)
|-
|rowspan="2"|[[愛内里菜]]||2001年1月24日||a||[[Be Happy#収録曲|Her Lament 〜誰にも聞こえない彼女の叫び〜]]|| ||作詞:愛内里菜
|-
|2006年3月29日||s||[[GLORIOUS/PRECIOUS PLACE#収録曲|PRECIOUS PLACE]]|| ||作詞:愛内里菜<br />[[バンプレスト]][[PlayStation 2]]用[[アクションゲーム]]『[[Another Century's Episode#Another Century's Episode 2|Another Century's Episode 2]]』エンディングテーマ
|-
|[[三枝夕夏 IN db]]||2004年11月7日||a||[[U-ka saegusa IN db II#収録曲|私を許さないで]]|| ||作詞:[[三枝夕夏]]
|-
|[[北原愛子]]||2005年5月11日||a||[[Message (北原愛子のアルバム)#収録曲|Message]]|| ||作詞:北原愛子<br />日本テレビ系列『[[世界!超マネー研究所]]』エンディングテーマ
|-
|rowspan="2"|[[岩田さゆり]]||2005年7月27日||s||[[不機嫌になる私]]||8thアルバム『[[小松未歩 8〜a piece of cake〜]]』||[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]『[[MÄR#アニメ(メルヘヴン)|メルヘヴン]]』エンディングテーマ<br />第14話(2005年7月3日) - 第26話(2005年9月25日)
|-
|2005年12月7日||a||[[Thank You For…#収録曲|ひとりじゃない]]|| ||作詞作曲共に小松による楽曲提供で、セルフカバー収録されていないのは、現在のところ本作品のみである。
|}
== 著書 ==
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!発売日!!タイトル!!出版社!![[ISBN#旧規格(2006年12月31日まで)|ISBN-10]]!!備考
|-
|2003年11月26日||ヘンな物さし。<br />Miho Komatsu Essay & Photograph||ジェイロックマガジン社||ISBN 4-916019-39-3||J-groove magazineの連載エッセイ『小松未歩のヘンな物さし。』の単行本。(2001年7月号~2003年12月号掲載分のエッセイ30話に、新たなエッセイ4話、散文詩、小松をモデルにした写真を加えた構成{{efn|name="Hennamonosashi"|ただし、J-groove magazine連載時に毎回掲出されていた序文の全てと、小松自身による撮り下ろし写真の一部が省かれている。}})<br />通販先着予約特典ポストカード付
|-
|2006年11月22日||ヘンな物さし2。<br />Miho Komatsu Essay & Photograph||ジェイロックマガジン社||ISBN 4-916019-48-2||J-groove magazineの連載エッセイ『小松未歩のヘンな物さし。』の単行本。(2004年1月号~2006年5月号掲載分のエッセイ29話に、新たなエッセイ4話、散文詩、小松をモデルにした写真を加えた構成{{efn|name="Hennamonosashi"}})<br />通販先着予約特典2007年卓上カレンダー付
|}
== 他アーティストによるカバー ==
他の楽曲とのメドレーとなっているものやインストゥルメンタル、コンサートでの歌唱や動画共有サービスへの投稿のみのものは割愛。
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!アーティスト!!タイトル!!原曲収録先・備考
|-
|{{日本語版にない記事リンク|ステファニー・ナドルニー|en|Stephanie Nadolny}}||Mystery(英語)||1stシングル「[[謎 (曲)|謎]]」
|-
|[[ジュエリー (音楽グループ)|JEWELRY]]||謎 -PUZZLE- [Korean TV Version](韓国語)||1stシングル「[[謎 (曲)|謎]]」
|-
|rowspan="2"|[[愛内里菜&三枝夕夏]]||[[100もの扉#収録曲|謎 -rearrange version-]]||1stシングル「謎」
|-
|[[七つの海を渡る風のように#収録曲|願い事ひとつだけ -rearrange version-]]||3rdシングル「[[願い事ひとつだけ]]」
|-
|[[下川みくに]]||[[下川みくに#企画盤|願い事ひとつだけ]]||3rdシングル「願い事ひとつだけ」
|-
|[[THE_IDOLM@STERの登場人物#水瀬 伊織(みなせ いおり)|水瀬伊織]]([[釘宮理恵]])||[[THE_IDOLM@STER_MASTER_SPECIAL#SPRING|はるのきおく]]{{efn|原曲とカバー版とでは、2番サビの歌詞がひらがな1文字だけであるが違っている。(原曲では「君との季節(ひび)'''が'''」である部分が「君との季節(ひび)'''は'''」になっている。)}}||8thアルバム『[[小松未歩 8〜a piece of cake〜]]』
|-
|rowspan="2"|[[La PomPon]]||[[謎 (曲)|謎]]||rowspan="2"|1stシングル「謎」<br/>[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビ系列]]『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』オープニングテーマ{{efn|name="Conan-OP"}}<br/>第790話(2015年9月5日) - 第803話(2015年12月12日)
|-
|[[謎 (曲)|謎 -love remix-]]{{efn|「謎/[[ヤダ!嫌だ!ヤダ! 〜Sweet Teens ver.〜]]」のうち、「名探偵コナン盤」のみ収録。}}
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ビーイング]]
** [[GIZA studio]] - 小松の移籍以降、関西唯一のメジャーレコード会社と称している。
*** [[Ading]] - GIZA studio所属アーティストのマネージメントオフィス。
** [[Amemura O-town Record]] - かつて存在した、関西初のメジャーレコード会社。実質的には小松専用のレーベルとして運営されていた。実質的にGIZA studioと一体であったと見做されることもある。
** [[ZAIN RECORDS]] - 関西専用のサブレーベルであるSpoonfulの第1号アーティストとしてメジャーデビュー。
== 外部リンク ==
* {{Official website|http://miho-komatsu.com}}
{{小松未歩}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:こまつ みほ}}
[[Category:日本の女性シンガーソングライター]]
[[Category:日本の女性ポップ歌手]]
[[Category:アニメソング歌手]]
[[Category:アニメ音楽の作詞家]]
[[Category:日本のアニメ音楽の作曲家]]
[[Category:日本の女性作詞家]]
[[Category:日本の女性作曲家]]
[[Category:20世紀日本の音楽家]]
[[Category:21世紀日本の音楽家]]
[[Category:過去のビーイング系列所属者]]
[[Category:神戸市出身の人物]]
[[Category:近況が不明な人物]]
[[Category:生年非公表]]
[[Category:存命人物]]
|
2003-09-29T14:46:32Z
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2023-12-11T13:24:26Z
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18,740 |
大阪モノレール
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大阪モノレール株式会社(おおさかモノレール)は、大阪府内で大阪モノレール線(本線)および、国際文化公園都市モノレール線(彩都線)の2つの跨座式モノレールの路線を運営している大阪府出資の第三セクター会社である。本社は大阪府吹田市のモノレール車両基地内に所在する。
1998年に当時の営業距離21.2kmが世界最長のモノレールとしてギネス世界記録に認められ、2007年には28.0kmまで延長されたが、2011年に中国重慶市の重慶軌道交通が39.1kmの新路線(重慶軌道交通3号線)を開業したため、世界最長ではなくなっている(現在は世界2位)。
大阪モノレールの路線には、関西大手私鉄では阪急と京阪の路線のみが接続しているが、大阪モノレールの株主には路線接続のない近鉄なども含まれている。また、JR西日本の路線とも接続する駅は存在しないが、本線の延伸計画では、JR学研都市線(片町線)や近鉄の奈良線との接続が予定されている。
大阪都市圏は大阪市を中心として発展してきたため一点集中型の都市構造となっており、鉄軌道網についてもその都市構造を反映して放射状に形成整備されてきた経緯がある。都市圏の拡大発展に伴って、都心部では過度の集中による混雑、周辺地域では市街地の拡大による既存鉄道の不足という問題が発生した。このため、都心部の混雑緩和・都市業務地域の分散・周辺都市総合の公共輸送機関サービスの提供・自動車交通抑制に伴う代替交通機関の提供等、府下均衡ある発展を目指す環状鉄軌道の必要性が唱えられた。
1966年(昭和41年)8月、1970年(昭和45年)に開催される日本万国博覧会の輸送対策として、都心から放射状に伸びている国鉄(現・JR西日本)・私鉄9路線と接続し、これら沿線からの来場客の利便の向上とともに博覧会終了後も近畿圏整備に中核的機能を果たす鉄道建設の提案がなされた(万博輸送対策に関連する中央環状線鉄道建設の提案・佐伯構想)。当面は府道大阪中央環状線に沿って阪急千里線と国鉄関西本線との間、延長約26.1kmを建設し、将来は堺市ならびに西宮市方面へ延長することが考えられた。
1967年(昭和42年)に策定された大阪府の大阪地方計画では、「府下の交通網は従来からの既成市街地を中心として主として放射状に整備されているが、都市整備の観点からも地域開発の観点からも環状路線および周辺地域間の交通路線に早急に整備する必要がある」とされた。
1971年(昭和46年)1月の大阪府企画室試案では、「都心部への過度集中を緩和し多核心的な都市構造の形成が必要である。このため東大阪を南北に貫き、北大阪、南大阪を東西で結ぶ「中央環状鉄道」の建設が有力な戦略となる。この環状鉄道には、モノレール等の新しい輸送方式を導入することを検討する。新しい駅周辺の開発により、鉄道の開発先導性を発揮する」とされた。
以下の2路線を営業している。
2004年には近畿地方交通審議会から「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として大阪モノレール線の門真市 - 鴻池新田 - 荒本 - 瓜生堂(東大阪市・近鉄奈良線との交点付近)間 (8.7km) 延伸が答申に示されている。この答申の区間については永らく動きがなかったものの、2013年4月に当時の大阪府知事 松井一郎が「2001年度から続く黒字経営を府民に還元するべき」として事業化に向けたルート等検討業務の開始を関係各部局に指示した。2018年7月11日、国土交通大臣宛に門真市 - 瓜生堂間の軌道運輸事業の特許が申請され、2019年3月19日に申請通り特許された。2029年の開業を予定している(「大阪モノレール本線#延伸計画」も参照)。
彩都線は万博記念公園 - 阪大病院前間2.6kmが1998年10月1日、阪大病院前 - 彩都西間4.2kmが2007年3月19日に開業し、それより先の(仮称)東センターまでの区間が、国際文化公園都市(彩都)の開発の進展に応じて整備される予定であったが、2017年1月に採算が取れないとして延伸断念が決定された(「大阪モノレール彩都線#延伸計画」も参照)。
最急勾配は50パーミル(複数個所にある)。最急曲線は蛍池駅 - 柴原阪大前駅間の半径100メートルとなっている。
どの車両もすべての線区の運用に入っている。2007年3月19日の国際文化公園都市モノレール線(彩都線)の延伸後、彩都線列車が定期運用で大阪モノレール線(本線)千里中央駅まで乗り入れするようになったが、その後本線の各駅で本線方面の乗客が誤って彩都線の列車に乗車する例があり、2007年7月頃から側面方向幕が設置されていない編成は、誤乗防止策として彩都線の運用にはできるだけ入らないようになっていた。その後全車に側面方向幕の設置が完了したため、再びどの編成もすべての線区の運用に入っている。4桁の車番の下2桁が編成番号となっており、2009年から先頭車両に車番とは別に編成番号が貼付されている。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。
全駅でPiTaPaやICOCAなどの交通系ICカードが利用できる。PiTaPaは利用回数割引と区間指定割引が利用できる。IC定期券サービスは2017年4月1日からICOCAで提供を開始した。
「モノカード」などのスルッとKANSAIカードは2018年1月31日をもってモノレール各駅の改札機での利用を終了した。スルッとKANSAIカードに印字されていた符号はOMであった。また、自社で発行していたプリペイドカード「金額カード」も、2018年3月現在取り扱いを終了している。
通年発売の一日乗車券の設定は無いが、ガンバ大阪ホームゲーム開催日に限り、観戦チケットを提示することで購入できる「ガンバ大阪 1day乗車券」(大人600円・小児用なし)や、第三土曜日に限り利用でき、有効日の1週間前から前日までに購入できる「モノレール沿線ぶらり1dayチケット」(大人600円・小児200円)を発売している。また、「スルッとKANSAI 3dayチケット」(加盟各社の交通機関に発売日から3日間乗り放題)を、期間限定でモノレール各駅で販売していたが、2016年の『秋の3dayチケット』を最後に、加盟各社と共に販売を終了した。
定期券発売所は蛍池・千里中央・南茨木・門真市の各駅に設置されている。なお、2008年11月11日より各駅に設置されているピンク色の自動券売機で、継続定期券及び有効期限が過ぎた定期券を使った旧券と同区間の新規定期券の発売を開始した。
第一種身体障害者手帳または、第一種療育手帳を持っている本人と介護者が一緒に乗車する場合は、本人と介護者を合わせた2人が割引乗車券を購入できる。身体障害者用車椅子の利用者が乗車する場合は、本人と介護者2名までが割引乗車券を購入できる。いずれの場合でも、事前に係員に障害者手帳を提示する必要がある。
以下のケースは割引が適用されない場合である。
特に第二種身体障害者手帳の所有者が利用する場合、介護者が同時乗車するとしても、割引運賃は適用されない。
各駅の構内には、大阪府現代美術コレクションの中からいくつかの作品を展示する大阪モノレール美術館がある。豊川駅および彩都西駅を除く、各駅の改札内に設置されている(大阪空港駅は、改札外に設置)。なお、豊川駅および彩都西駅にも、順次展示される予定になっている。また、本の貸出・返却の手続きが不要で、何冊でも借りることができる「モノレール文庫」が各駅に設置されている(後述)。大阪空港駅以外の駅には、レンタサイクルがあり、一日200円で利用できる。豊川駅以外の改札内コンコースには「モノドリンク」と名づけられた椅子とテーブルを備えた飲料自動販売機コーナーがある。
駅構内のコンビニエンスストアや売店は、子会社の大阪モノレールサービス株式会社によって運営されている。千里中央駅と門真市駅のコンビニエンスストアは「生活彩家 モノウェル」という名称で、2011年4月に生活彩家にフランチャイズ加盟し、2015年11月にはセブン-イレブンに加盟しなおしている。生活彩家にフランチャイズ加盟する前は単に「モノウェル」という名称であった。2015年11月には万博記念公園駅にもセブン-イレブンが、たこ焼きの道頓堀くくるとの一体型店舗を開業している。
また、以前は以下の駅に改札口と一体型の小型売店が設置されており、「モノショップ」という名称で、改札口係員が販売を担当していた。なお、モノショップはキヨスク形式ではなく、ドアから店内に入るウォークイン形式である。これは何かの事情で改札口係員が全員改札口を離れる時に、売店を閉鎖できるようにするためであった。ただし、最初に設置された少路駅のモノショップにだけはドアがなかったが、2009年1月下旬に他の駅のモノショップと同様のウォークイン形式となった。2018年にすべて閉店となった。
南茨木駅には「モノレールショップ」という名称の大阪モノレール唯一のキヨスク形式の売店があった。しかし、すぐ隣の阪急電鉄の駅コンビニエンスストアアズナスや駅売店ラガールショップと競合することもあり、2008年1月31日限りで閉店した。そのあとには「モノベーカリー」という名称のパンの店が開業したが、これも2011年11月末で閉店した。大日駅には2階改札口にモノショップが短い期間併設されていたが、2008年10月に閉店した。
千里中央駅など構内スペースにゆとりのある駅や、蛍池駅のように改札を出てすぐにスペースのある駅には、臨時で、シュウマイ、菓子パン類、和菓子類などのイベント型店舗が開店する場合がある。
一部の売店非設置駅では、改札で新聞のみの販売を行っている駅がある。
千里中央駅には壁面に常設された「モノレール文庫」がある(他の駅にはまったくない駅もある)。これは、乗降客が読まなくなった本を自主的に「リサイクル」し、読みたい人が自由に持って行けるタイプの私設の無人「図書館」類似簡易システムである。ただし、当初の意図通りによく利用されている訳でもなく、利用を促進しようという会社側の姿勢も見受けられない。
2023年から、人ひとりが入れて座れる箱型のテレワーキングボックス「CHATBOX」が設置された。設置は大阪空港駅、蛍池駅、千里中央駅(以上、大阪府豊中市)、南茨木駅(同茨木市)、大日駅(同守口市)の5駅で、それぞれ1 - 2台が置かれた。ボックス内にはフリーWi-FiやUSB充電コンセントがあり、利用にはアプリをダウンロードし会員登録を行い、目的のCHATBOXのドアをアプリから解錠する仕組みとされている 。
1990年度から2020年度の年間利用者数は以下の通りである。
2020年度の利用者数(3586.5万人)を1日平均に換算すると、9万8260人になる。
2008年2月6日に大阪府知事に就任した橋下徹は、大阪府が出資する法人について民営化(非第三セクター化を含む)を含めた検討を行うとしていた。
|
[
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"text": "大阪モノレール株式会社(おおさかモノレール)は、大阪府内で大阪モノレール線(本線)および、国際文化公園都市モノレール線(彩都線)の2つの跨座式モノレールの路線を運営している大阪府出資の第三セクター会社である。本社は大阪府吹田市のモノレール車両基地内に所在する。",
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"text": "1998年に当時の営業距離21.2kmが世界最長のモノレールとしてギネス世界記録に認められ、2007年には28.0kmまで延長されたが、2011年に中国重慶市の重慶軌道交通が39.1kmの新路線(重慶軌道交通3号線)を開業したため、世界最長ではなくなっている(現在は世界2位)。",
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"text": "大阪モノレールの路線には、関西大手私鉄では阪急と京阪の路線のみが接続しているが、大阪モノレールの株主には路線接続のない近鉄なども含まれている。また、JR西日本の路線とも接続する駅は存在しないが、本線の延伸計画では、JR学研都市線(片町線)や近鉄の奈良線との接続が予定されている。",
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"text": "大阪都市圏は大阪市を中心として発展してきたため一点集中型の都市構造となっており、鉄軌道網についてもその都市構造を反映して放射状に形成整備されてきた経緯がある。都市圏の拡大発展に伴って、都心部では過度の集中による混雑、周辺地域では市街地の拡大による既存鉄道の不足という問題が発生した。このため、都心部の混雑緩和・都市業務地域の分散・周辺都市総合の公共輸送機関サービスの提供・自動車交通抑制に伴う代替交通機関の提供等、府下均衡ある発展を目指す環状鉄軌道の必要性が唱えられた。",
"title": "歴史"
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"text": "1966年(昭和41年)8月、1970年(昭和45年)に開催される日本万国博覧会の輸送対策として、都心から放射状に伸びている国鉄(現・JR西日本)・私鉄9路線と接続し、これら沿線からの来場客の利便の向上とともに博覧会終了後も近畿圏整備に中核的機能を果たす鉄道建設の提案がなされた(万博輸送対策に関連する中央環状線鉄道建設の提案・佐伯構想)。当面は府道大阪中央環状線に沿って阪急千里線と国鉄関西本線との間、延長約26.1kmを建設し、将来は堺市ならびに西宮市方面へ延長することが考えられた。",
"title": "歴史"
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"text": "1967年(昭和42年)に策定された大阪府の大阪地方計画では、「府下の交通網は従来からの既成市街地を中心として主として放射状に整備されているが、都市整備の観点からも地域開発の観点からも環状路線および周辺地域間の交通路線に早急に整備する必要がある」とされた。",
"title": "歴史"
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"text": "1971年(昭和46年)1月の大阪府企画室試案では、「都心部への過度集中を緩和し多核心的な都市構造の形成が必要である。このため東大阪を南北に貫き、北大阪、南大阪を東西で結ぶ「中央環状鉄道」の建設が有力な戦略となる。この環状鉄道には、モノレール等の新しい輸送方式を導入することを検討する。新しい駅周辺の開発により、鉄道の開発先導性を発揮する」とされた。",
"title": "歴史"
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"text": "以下の2路線を営業している。",
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"text": "2004年には近畿地方交通審議会から「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として大阪モノレール線の門真市 - 鴻池新田 - 荒本 - 瓜生堂(東大阪市・近鉄奈良線との交点付近)間 (8.7km) 延伸が答申に示されている。この答申の区間については永らく動きがなかったものの、2013年4月に当時の大阪府知事 松井一郎が「2001年度から続く黒字経営を府民に還元するべき」として事業化に向けたルート等検討業務の開始を関係各部局に指示した。2018年7月11日、国土交通大臣宛に門真市 - 瓜生堂間の軌道運輸事業の特許が申請され、2019年3月19日に申請通り特許された。2029年の開業を予定している(「大阪モノレール本線#延伸計画」も参照)。",
"title": "路線"
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"text": "彩都線は万博記念公園 - 阪大病院前間2.6kmが1998年10月1日、阪大病院前 - 彩都西間4.2kmが2007年3月19日に開業し、それより先の(仮称)東センターまでの区間が、国際文化公園都市(彩都)の開発の進展に応じて整備される予定であったが、2017年1月に採算が取れないとして延伸断念が決定された(「大阪モノレール彩都線#延伸計画」も参照)。",
"title": "路線"
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"text": "最急勾配は50パーミル(複数個所にある)。最急曲線は蛍池駅 - 柴原阪大前駅間の半径100メートルとなっている。",
"title": "路線"
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"text": "どの車両もすべての線区の運用に入っている。2007年3月19日の国際文化公園都市モノレール線(彩都線)の延伸後、彩都線列車が定期運用で大阪モノレール線(本線)千里中央駅まで乗り入れするようになったが、その後本線の各駅で本線方面の乗客が誤って彩都線の列車に乗車する例があり、2007年7月頃から側面方向幕が設置されていない編成は、誤乗防止策として彩都線の運用にはできるだけ入らないようになっていた。その後全車に側面方向幕の設置が完了したため、再びどの編成もすべての線区の運用に入っている。4桁の車番の下2桁が編成番号となっており、2009年から先頭車両に車番とは別に編成番号が貼付されている。",
"title": "車両"
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"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。",
"title": "運賃"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "全駅でPiTaPaやICOCAなどの交通系ICカードが利用できる。PiTaPaは利用回数割引と区間指定割引が利用できる。IC定期券サービスは2017年4月1日からICOCAで提供を開始した。",
"title": "運賃"
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"text": "「モノカード」などのスルッとKANSAIカードは2018年1月31日をもってモノレール各駅の改札機での利用を終了した。スルッとKANSAIカードに印字されていた符号はOMであった。また、自社で発行していたプリペイドカード「金額カード」も、2018年3月現在取り扱いを終了している。",
"title": "運賃"
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"text": "通年発売の一日乗車券の設定は無いが、ガンバ大阪ホームゲーム開催日に限り、観戦チケットを提示することで購入できる「ガンバ大阪 1day乗車券」(大人600円・小児用なし)や、第三土曜日に限り利用でき、有効日の1週間前から前日までに購入できる「モノレール沿線ぶらり1dayチケット」(大人600円・小児200円)を発売している。また、「スルッとKANSAI 3dayチケット」(加盟各社の交通機関に発売日から3日間乗り放題)を、期間限定でモノレール各駅で販売していたが、2016年の『秋の3dayチケット』を最後に、加盟各社と共に販売を終了した。",
"title": "運賃"
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{
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"text": "定期券発売所は蛍池・千里中央・南茨木・門真市の各駅に設置されている。なお、2008年11月11日より各駅に設置されているピンク色の自動券売機で、継続定期券及び有効期限が過ぎた定期券を使った旧券と同区間の新規定期券の発売を開始した。",
"title": "運賃"
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"text": "第一種身体障害者手帳または、第一種療育手帳を持っている本人と介護者が一緒に乗車する場合は、本人と介護者を合わせた2人が割引乗車券を購入できる。身体障害者用車椅子の利用者が乗車する場合は、本人と介護者2名までが割引乗車券を購入できる。いずれの場合でも、事前に係員に障害者手帳を提示する必要がある。",
"title": "運賃"
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"text": "以下のケースは割引が適用されない場合である。",
"title": "運賃"
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"text": "特に第二種身体障害者手帳の所有者が利用する場合、介護者が同時乗車するとしても、割引運賃は適用されない。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "各駅の構内には、大阪府現代美術コレクションの中からいくつかの作品を展示する大阪モノレール美術館がある。豊川駅および彩都西駅を除く、各駅の改札内に設置されている(大阪空港駅は、改札外に設置)。なお、豊川駅および彩都西駅にも、順次展示される予定になっている。また、本の貸出・返却の手続きが不要で、何冊でも借りることができる「モノレール文庫」が各駅に設置されている(後述)。大阪空港駅以外の駅には、レンタサイクルがあり、一日200円で利用できる。豊川駅以外の改札内コンコースには「モノドリンク」と名づけられた椅子とテーブルを備えた飲料自動販売機コーナーがある。",
"title": "駅内設備"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "駅構内のコンビニエンスストアや売店は、子会社の大阪モノレールサービス株式会社によって運営されている。千里中央駅と門真市駅のコンビニエンスストアは「生活彩家 モノウェル」という名称で、2011年4月に生活彩家にフランチャイズ加盟し、2015年11月にはセブン-イレブンに加盟しなおしている。生活彩家にフランチャイズ加盟する前は単に「モノウェル」という名称であった。2015年11月には万博記念公園駅にもセブン-イレブンが、たこ焼きの道頓堀くくるとの一体型店舗を開業している。",
"title": "駅内設備"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "また、以前は以下の駅に改札口と一体型の小型売店が設置されており、「モノショップ」という名称で、改札口係員が販売を担当していた。なお、モノショップはキヨスク形式ではなく、ドアから店内に入るウォークイン形式である。これは何かの事情で改札口係員が全員改札口を離れる時に、売店を閉鎖できるようにするためであった。ただし、最初に設置された少路駅のモノショップにだけはドアがなかったが、2009年1月下旬に他の駅のモノショップと同様のウォークイン形式となった。2018年にすべて閉店となった。",
"title": "駅内設備"
},
{
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"text": "南茨木駅には「モノレールショップ」という名称の大阪モノレール唯一のキヨスク形式の売店があった。しかし、すぐ隣の阪急電鉄の駅コンビニエンスストアアズナスや駅売店ラガールショップと競合することもあり、2008年1月31日限りで閉店した。そのあとには「モノベーカリー」という名称のパンの店が開業したが、これも2011年11月末で閉店した。大日駅には2階改札口にモノショップが短い期間併設されていたが、2008年10月に閉店した。",
"title": "駅内設備"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "千里中央駅など構内スペースにゆとりのある駅や、蛍池駅のように改札を出てすぐにスペースのある駅には、臨時で、シュウマイ、菓子パン類、和菓子類などのイベント型店舗が開店する場合がある。",
"title": "駅内設備"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一部の売店非設置駅では、改札で新聞のみの販売を行っている駅がある。",
"title": "駅内設備"
},
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"tag": "p",
"text": "千里中央駅には壁面に常設された「モノレール文庫」がある(他の駅にはまったくない駅もある)。これは、乗降客が読まなくなった本を自主的に「リサイクル」し、読みたい人が自由に持って行けるタイプの私設の無人「図書館」類似簡易システムである。ただし、当初の意図通りによく利用されている訳でもなく、利用を促進しようという会社側の姿勢も見受けられない。",
"title": "駅内設備"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2023年から、人ひとりが入れて座れる箱型のテレワーキングボックス「CHATBOX」が設置された。設置は大阪空港駅、蛍池駅、千里中央駅(以上、大阪府豊中市)、南茨木駅(同茨木市)、大日駅(同守口市)の5駅で、それぞれ1 - 2台が置かれた。ボックス内にはフリーWi-FiやUSB充電コンセントがあり、利用にはアプリをダウンロードし会員登録を行い、目的のCHATBOXのドアをアプリから解錠する仕組みとされている 。",
"title": "駅内設備"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "1990年度から2020年度の年間利用者数は以下の通りである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2020年度の利用者数(3586.5万人)を1日平均に換算すると、9万8260人になる。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "2008年2月6日に大阪府知事に就任した橋下徹は、大阪府が出資する法人について民営化(非第三セクター化を含む)を含めた検討を行うとしていた。",
"title": "民営化論議"
}
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大阪モノレール株式会社(おおさかモノレール)は、大阪府内で大阪モノレール線(本線)および、国際文化公園都市モノレール線(彩都線)の2つの跨座式モノレールの路線を運営している大阪府出資の第三セクター会社である。本社は大阪府吹田市のモノレール車両基地内に所在する。 1998年に当時の営業距離21.2kmが世界最長のモノレールとしてギネス世界記録に認められ、2007年には28.0kmまで延長されたが、2011年に中国重慶市の重慶軌道交通が39.1kmの新路線(重慶軌道交通3号線)を開業したため、世界最長ではなくなっている(現在は世界2位)。 大阪モノレールの路線には、関西大手私鉄では阪急と京阪の路線のみが接続しているが、大阪モノレールの株主には路線接続のない近鉄なども含まれている。また、JR西日本の路線とも接続する駅は存在しないが、本線の延伸計画では、JR学研都市線(片町線)や近鉄の奈良線との接続が予定されている。
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{{Otheruses|大阪府でモノレールを運行する会社|ファンクバンド|オーサカ{{=}}モノレール}}
{{Redirectlist|大阪高速鉄道|かつて近畿日本鉄道と阪神電気鉄道が共同で設立を企図した同名の未成立企業|近鉄難波線|地下鉄を運営する会社|大阪市高速電気軌道}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 大阪モノレール株式会社
| 英文社名 = OSAKA MONORAIL CO.,LTD.
| ロゴ = Osaka monorail logo.svg
| ロゴサイズ = 150px
| 画像 = Osaka Monorail Headquarter.jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 = 大阪モノレール本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 565-0826
| 本社所在地 = [[大阪府]][[吹田市]]千里万博公園1番8号<br />(大阪モノレール車両基地)<ref name="ho">[http://www.osaka-monorail.co.jp/info/news-247.html 【企業関連】本社移転のお知らせ] - 大阪高速鉄道・2016年7月25日</ref>
| 本社緯度度 = 34|本社緯度分 = 48|本社緯度秒 = 22.8|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 135|本社経度分 = 31|本社経度秒 = 38.5|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1980年]](昭和55年)[[12月15日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=9 }}</ref><br />(大阪高速鉄道株式会社)
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 軌道事業、販売事業、賃貸事業
| 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[佐藤広章]]
| 資本金 = 145億3800万円(2021年3日31日現在)<ref name="fy">第41期決算公告、2021年(令和3年)7月6日付「官報」(号外第151号)67頁。</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 80億3500万円(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = △2億6200万円(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 = △4億6700万円(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 = △3億4300万円(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 = 236億2300万円(2021年3日31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 = 437億3300万円(2021年3日31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 263人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[大阪府]] 65.09%<br />[[三井住友銀行]] 2.67%<br />[[りそな銀行]] 2.67%<br />[[三菱UFJ銀行]] 2.67%<br />[[阪急電鉄]] 2.67%<br />[[京阪ホールディングス]] 2.67%<br />[[近鉄グループホールディングス]] 2.67%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
| 主要子会社 = [http://www.omsv.co.jp/ 大阪モノレールサービス株式会社]
| 関係する人物 =
| 外部リンク = http://www.osaka-monorail.co.jp/ <!-- URL表記は省略しないこと(テンプレート貼付も含む) -->
| 特記事項 =
}}
'''大阪モノレール株式会社'''(おおさかモノレール)は、[[大阪府]]内で[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線]](本線)および、[[大阪モノレール彩都線|国際文化公園都市モノレール線]](彩都線)の2つの跨座式[[モノレール]]の路線を運営している大阪府出資の[[第三セクター]]会社である。本社は大阪府[[吹田市]]のモノレール車両基地内に所在する<ref name="gaiyo"/>。
1998年に当時の営業距離21.2kmが世界最長のモノレールとして[[ギネス世界記録]]に認められ、2007年には28.0kmまで延長されたが、2011年に[[中華人民共和国|中国]][[重慶市]]の[[重慶軌道交通]]が39.1kmの新路線([[重慶軌道交通3号線]])を開業したため、世界最長ではなくなっている(現在は世界2位)<ref group="注釈">なお、重慶や大阪は跨座式であり、懸垂式に限れば[[千葉都市モノレール]]の15.2kmが世界最長路線としてギネス世界記録に認定されている。</ref>。
大阪モノレールの路線には、関西[[大手私鉄]]では[[阪急電鉄|阪急]]と[[京阪電気鉄道|京阪]]の路線のみが接続しているが、大阪モノレールの[[株主]]には路線接続のない[[近畿日本鉄道|近鉄]]なども含まれている<!-- →単なる接続の話ではなく、(まだ)接続していない近鉄や南海、阪神も出資し役員となっていることを述べている--><ref name="gaiyo"/>。また、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の路線とも接続する駅は存在しないが、[[#路線|本線の延伸計画]]では、JR学研都市線([[片町線]])や近鉄の[[近鉄奈良線|奈良線]]との接続が予定されている。
== 歴史 ==
=== 事業の経緯 ===
[[大阪都市圏]]は[[大阪市]]を中心として発展してきたため一点集中型の都市構造となっており、鉄軌道網についてもその都市構造を反映して放射状に形成整備されてきた経緯がある。都市圏の拡大発展に伴って、都心部では過度の集中による混雑、周辺地域では市街地の拡大による既存鉄道の不足という問題が発生した。このため、都心部の混雑緩和・都市業務地域の分散・周辺都市総合の公共輸送機関サービスの提供・自動車交通抑制に伴う代替交通機関の提供等、府下均衡ある発展を目指す環状鉄軌道の必要性が唱えられた<ref name="kensetsukiroku">大阪モノレール建設記録 大阪府土木部 大阪高速鉄道株式会社 1990年6月発行</ref>。
[[1966年]](昭和41年)8月、1970年(昭和45年)に開催される[[日本万国博覧会]]の輸送対策として、都心から放射状に伸びている[[日本国有鉄道|国鉄]](現・JR西日本)・私鉄9路線と接続し、これら沿線からの来場客の利便の向上とともに博覧会終了後も近畿圏整備に中核的機能を果たす鉄道建設の提案がなされた(万博輸送対策に関連する中央環状線鉄道建設の提案・佐伯構想)。当面は府道[[大阪府道2号大阪中央環状線|大阪中央環状線]]に沿って[[阪急千里線]]と国鉄[[関西本線]]との間、延長約26.1kmを建設し、将来は[[堺市]]ならびに[[西宮市]]方面へ延長することが考えられた<ref name="kensetsukiroku" />。
[[1967年]](昭和42年)に策定された大阪府の大阪地方計画では、「府下の交通網は従来からの既成市街地を中心として主として放射状に整備されているが、都市整備の観点からも地域開発の観点からも環状路線および周辺地域間の交通路線に早急に整備する必要がある」とされた<ref name="kensetsukiroku" />。
[[1971年]](昭和46年)1月の大阪府企画室試案では、「都心部への過度集中を緩和し多核心的な都市構造の形成が必要である。このため東大阪を南北に貫き、北大阪、南大阪を東西で結ぶ「中央環状鉄道」の建設が有力な戦略となる。この環状鉄道には、モノレール等の新しい輸送方式を導入することを検討する。新しい駅周辺の開発により、鉄道の開発先導性を発揮する」とされた<ref name="kensetsukiroku" />。
=== 年表 ===
[[File:Osaka Monorail Headoffice.JPG|thumb|right|250px|大阪モノレール千里中央ビル(旧本社所在地)]]
* [[1980年]](昭和55年)[[12月15日]]:'''大阪高速鉄道株式会社'''として設立<ref name="sone30"/>。
* [[1982年]](昭和57年)[[11月17日]]:大阪モノレール線 南茨木 - 千里中央間に着工<ref>{{Cite news |title=「大阪モノレール」起工式 まず千里中央-南茨木間七キロ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1982-11-19 |page=1 }}</ref>。
* [[1990年]](平成2年)[[6月1日]]:大阪モノレール線 南茨木 - 千里中央間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[1991年]](平成3年)[[7月25日]]:大阪モノレール線 南茨木 - 門真市間の工事の起工式が行われる<ref>1991年7月26日『朝日新聞』朝刊 p26</ref>。
* [[1994年]](平成6年)[[9月30日]]:大阪モノレール線 柴原(現在の柴原阪大前) - 千里中央間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[4月1日]]:大阪モノレール線 大阪空港 - 柴原間が開業。同時に「茨木」駅から「宇野辺」駅へと駅名変更<ref name="sone30"/>。
** [[8月22日]]:大阪モノレール線 南茨木 - 門真市間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[1998年]](平成10年)[[10月1日]]:国際文化公園都市モノレール線(彩都線)万博記念公園 - 阪大病院前間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[2006年]](平成18年)[[2月1日]]:[[PiTaPa]]導入<ref name="sone30"/>。同時に[[ICOCA]]も利用可能に。
* [[2007年]](平成19年)
** 2月1日:通学定期券の割引率を50%から60%に拡大し値下げ。
** [[3月19日]]:国際文化公園都市モノレール線(彩都線)阪大病院前 - 彩都西間が開業<ref name="sone30"/>。全線で[[駅ナンバリング]]導入。
* [[2013年]](平成25年)[[3月23日]]:[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始で、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
* [[2016年]](平成28年)[[8月1日]]:本社を[[大阪府]][[豊中市]]新千里東町1-1-5の千里中央ビルから現在地に移転<ref name="ho" />。
* [[2017年]](平成29年)4月1日:大阪モノレール各駅でICOCA、およびICOCA定期券の発売、ならびに[[阪急電鉄]]・[[北大阪急行電鉄]]などとのIC連絡定期の発売を開始<ref>{{PDFlink|[http://www.osaka-monorail.co.jp/wp-content/uploads/2015/11/press151126_.pdf ICカード乗車券を活用した連携サービスの拡大について]}} - 大阪高速鉄道、2015年11月26日</ref><ref name="osaka-monorail20170203">{{PDFlink|[https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2017/02/press170203_1_.pdf ICOCA および ICOCA定期券の発売開始日について]}} - 大阪高速鉄道、2017年2月3日</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2017/02/hppress170203_2_.pdf 大阪モノレールにおけるICOCAによる連絡定期券の発売開始について]}} - 大阪高速鉄道、2017年2月3日</ref>。
* [[2019年]](平成31年)3月21日:千里中央駅で[[ホームドア|可動式ホーム柵]]が稼働開始<ref>{{PDFlink|[https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2019/03/press_20190314_2.pdf 千里中央駅「可動式ホーム柵」の使用を開始します]}} - 大阪高速鉄道、2019年3月14日</ref>。以後、順次各駅に導入<ref>{{PDFlink|1=[http://www.osaka-monorail.co.jp/jpn/company/safe/pdf/anzen_2019.pdf#page=25 安全報告書2019]}} - 大阪高速鉄道</ref><ref group="注釈">稼働駅([[南茨木駅]]や[[彩都西駅]]などの始発・終着がある駅)では放送が変更されている。</ref>。
* [[2020年]](令和2年)6月1日:社名を'''大阪モノレール株式会社'''に変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2020/05/pressrelease_20200511.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200523055241/https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2020/05/pressrelease_20200511.pdf|format=PDF|language=日本語|title=社名変更について|publisher=大阪高速鉄道|date=2020-05-11|accessdate=2020-06-02|archivedate=2020-05-23}}</ref>。
== 路線 ==
以下の2路線を営業している。
* [[大阪モノレール本線|大阪モノレール線]](本線) : [[大阪空港駅]] - [[門真市駅]] 21.2km
* [[大阪モノレール彩都線|国際文化公園都市モノレール線]](彩都線) : [[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]] - [[彩都西駅]] 6.8km
2004年には近畿地方交通審議会から「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として大阪モノレール線の[[門真市駅|門真市]] - [[鴻池新田駅|鴻池新田]] - [[荒本駅|荒本]] - [[瓜生堂駅|瓜生堂]]([[東大阪市]]・[[近鉄奈良線]]との交点付近)間 (8.7km) 延伸が答申に示されている<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/chousa/keikaku/index.htm 鉄道整備・地方交通計画] - 国土交通省近畿運輸局</ref><ref name="Kensetsu-Tsuushinn.NP.20130404" />。この答申の区間については永らく動きがなかったものの、2013年4月に当時の[[大阪府知事一覧|大阪府知事]] [[松井一郎]]が「2001年度から続く黒字経営を府民に還元するべき」として事業化に向けたルート等検討業務の開始を関係各部局に指示した<ref name="Kensetsu-Tsuushinn.NP.20130404">[http://www.kensetsunews.com/?p=10358 大阪モノレール延伸/第1四半期に一般入札/大阪府8.7㌔のルート検討] - [[建設通信新聞]]、2013年4月4日配信及紙面掲載、2013年4月4日閲覧。</ref>。2018年7月11日、[[国土交通大臣]]宛に門真市 - 瓜生堂間の軌道運輸事業の特許が申請され、2019年3月19日に申請通り特許された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www1.mlit.go.jp/common/001280047.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190321093015/http://www1.mlit.go.jp/common/001280047.pdf|format=PDF|language=日本語|title=大阪高速鉄道株式会社申請の軌道事業の特許について|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|date=2019-03-18|accessdate=2021-02-05|archivedate=2019-03-21}}</ref>。2029年の開業を予定している(「[[大阪モノレール本線#延伸計画]]」も参照)。
彩都線は万博記念公園 - 阪大病院前間2.6kmが1998年10月1日、阪大病院前 - 彩都西間4.2kmが2007年3月19日に開業し、それより先の(仮称)東センターまでの区間が、[[国際文化公園都市]](彩都)の開発の進展に応じて整備される予定であったが、2017年1月に採算が取れないとして延伸断念が決定された<ref name="sankei20170127">[https://www.sankei.com/article/20170127-S43SWBYIN5M5VC7STYQLHV7JOE/ 大阪モノレール「彩都線」延伸を断念 採算取れず 大阪府] - 産経新聞、2017年1月27日</ref>(「[[大阪モノレール彩都線#延伸計画]]」も参照)。
最急勾配は50[[パーミル]](複数個所にある)。最急曲線は[[蛍池駅]] - [[柴原阪大前駅]]間の半径100メートルとなっている。
{|
|-
|[[ファイル:Osaka Airport Station.jpg|thumb|none|200px|大阪モノレール大阪空港駅(2007年5月撮影)]]
|[[ファイル:Kadoma_Station4.jpg|thumb|none|200px|大阪モノレールの最南端駅・門真市駅]]
|[[ファイル:2019_Osakamonorail.png|thumb|none|320px|路線図]]
|}
== 車両 ==
どの車両もすべての線区の運用に入っている。[[2007年]]3月19日の国際文化公園都市モノレール線(彩都線)の延伸後、彩都線列車が定期運用で大阪モノレール線(本線)千里中央駅まで乗り入れするようになったが、その後本線の各駅で本線方面の乗客が誤って彩都線の列車に乗車する例があり、2007年7月頃から側面[[方向幕]]が設置されていない編成は、誤乗防止策として彩都線の運用にはできるだけ入らないようになっていた。その後全車に側面方向幕の設置が完了したため、再びどの編成もすべての線区の運用に入っている。4桁の車番の下2桁が編成番号となっており、2009年から先頭車両に車番とは別に編成番号が貼付されている。
* 現有車両
** [[大阪高速鉄道1000系電車|1000系]]
** [[大阪高速鉄道2000系電車|2000系]]
** [[大阪高速鉄道3000系電車|3000系]]
<gallery widths="200">
ファイル:大阪モノレール1000系02編成.JPG|1000系(初期車・側面方向幕設置済、[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]付近)
ファイル:OsakaMonorail1000Series01.jpg|1000系(後期車、[[南茨木駅]]付近)
ファイル:大阪モノレール2000系17編成.JPG|2000系(イエローライン、[[彩都西駅]]付近)
ファイル:Osaka Monorail 3000 series.jpg|3000系(万博記念公園駅付近)
ファイル:Osakamonorail maintenance car.jpg|保守作業に使用される工作車(大阪空港駅付近)
</gallery>
== 運賃 ==
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>[http://www.osaka-monorail.co.jp/info/news-407.html 2019年10月1日(火)から消費税率改定に伴う運賃改定と遠距離区間の普通運賃値下げを実施いたします] - 大阪高速鉄道、2019年9月5日</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;"
|-
!キロ程!!運賃(円)
|-
|初乗り1 - 2km||200
|-
|3 - 4||250
|-
|5 - 6||290
|-
|7 - 8||340
|-
|9 - 10||380
|-
|11 - 12||410
|-
|13 - 14||440
|-
|15 - 16||470
|-
|17 - 18||500
|-
|19 - 20||500
|-
|21 - 22||500
|}
全駅で[[PiTaPa]]や[[ICOCA]]などの交通系ICカードが利用できる。PiTaPaは利用回数割引と区間指定割引が利用できる。IC定期券サービスは2017年4月1日からICOCAで提供を開始した<ref name="osaka-monorail20170203" />。
「モノカード」などの[[スルッとKANSAI]]カードは2018年1月31日をもってモノレール各駅の改札機での利用を終了した<ref>{{PDFlink|[https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2016/07/press160701-1.pdf スルッとKANSAI「モノカード」の発売と利用終了について]}} - 大阪高速鉄道 2016年7月1日 </ref>。スルッとKANSAIカードに印字されていた符号は'''OM'''であった。また、自社で発行していたプリペイドカード「金額カード」も、2018年3月現在取り扱いを終了している<ref>[http://www.osaka-monorail.co.jp/faq/faq-7.html 金額カードは今でも使えますか?] - よくいただくご質問 2018年3月26日閲覧</ref>。
通年発売の[[一日乗車券]]の設定は無いが、休日ダイヤの運行日に使用できる「休日満喫1dayモバイルチケット」(大人700円・小児300円)や、平日の日中時間帯に限り使用できる「オフピークモバイルチケット」(大人600円・小児用なし)を、[[ジョルダン (企業)|ジョルダン]]乗換案内アプリ上で発売している(改札窓口での発売はなし)。2021年末までは[[ガンバ大阪]]ホームゲーム開催日に限り、観戦チケットを提示することで購入できる「ガンバ大阪 1day乗車券」(大人600円・小児用なし)を、2023年春までは第三土曜日に限り利用でき、有効日の1週間前から前日までに購入できる「モノレール沿線ぶらり1dayチケット」(大人600円・小児200円)をそれぞれ発売していたが、いずれも現在は販売を終了している。また、「[[スルッとKANSAI 3dayチケット]]」(加盟各社の交通機関に発売日から3日間乗り放題)を、期間限定でモノレール各駅で販売していたが、2016年の『秋の3dayチケット』を最後に、加盟各社と共に販売を終了した。
定期券発売所は蛍池・千里中央・南茨木・門真市の各駅に設置されている。なお、2008年11月11日より各駅に設置されているピンク色の自動券売機で、継続定期券及び有効期限が過ぎた定期券を使った旧券と同区間の新規定期券の発売を開始した。
第一種身体障害者手帳または、第一種療育手帳を持っている本人と介護者が一緒に乗車する場合は、本人と介護者を合わせた2人が割引乗車券を購入できる。身体障害者用車椅子の利用者が乗車する場合は、本人と介護者2名までが割引乗車券を購入できる。いずれの場合でも、事前に係員に[[障害者手帳]]を提示する必要がある。
以下のケースは割引が適用されない場合である。
* 身体障害者手帳所有者が単独で乗車する場合
* 第二種身体障害者手帳所有者が利用する場合
特に第二種身体障害者手帳の所有者が利用する場合、介護者が同時乗車するとしても、割引運賃は適用されない。
== 駅内設備 ==
[[ファイル:大阪モノレール阪大病店前駅構内.JPG|thumb|right|200px|阪大病院前駅コンコースに設置された諸施設]]
[[ファイル:大阪高速鉄道山田駅モノショップ.JPG|thumb|right|200px|山田駅のモノショップ]]
[[ファイル:大阪モノレール南茨木駅モノレールショップ.JPG|thumb|right|200px|南茨木駅にあった「モノレールショップ」]]
各駅の構内には、大阪府現代美術コレクションの中からいくつかの作品を展示する'''[[大阪モノレール美術館]]'''がある。豊川駅および彩都西駅を除く、各駅の改札内に設置されている(大阪空港駅は、改札外に設置)。なお、豊川駅および彩都西駅にも、順次展示される予定になっている。また、本の貸出・返却の手続きが不要で、何冊でも借りることができる「モノレール文庫」が各駅に設置されている(後述)。大阪空港駅以外の駅には、[[レンタサイクル]]があり、一日200円で利用できる。豊川駅以外の改札内コンコースには「モノドリンク」と名づけられた椅子とテーブルを備えた飲料自動販売機コーナーがある。
駅構内の[[コンビニエンスストア]]や売店は、子会社の大阪モノレールサービス株式会社によって運営されている。千里中央駅と門真市駅のコンビニエンスストアは「生活彩家 モノウェル」という名称で、2011年4月に[[ポプラ (コンビニエンスストア)|生活彩家]]にフランチャイズ加盟し、2015年11月には[[セブン-イレブン]]に加盟しなおしている。生活彩家にフランチャイズ加盟する前は単に「モノウェル」という名称であった。2015年11月には万博記念公園駅にもセブン-イレブンが、[[たこ焼き]]の[[白ハト食品工業|道頓堀くくる]]との一体型店舗を開業している。
また、以前は以下の駅に[[改札|改札口]]と一体型の小型売店が設置されており、「モノショップ」という名称で、改札口係員が販売を担当していた。なお、モノショップは[[キヨスク]]形式ではなく、ドアから店内に入るウォークイン形式である。これは何かの事情で改札口係員が全員改札口を離れる時に、売店を閉鎖できるようにするためであった。ただし、最初に設置された少路駅のモノショップにだけはドアがなかったが、2009年1月下旬に他の駅のモノショップと同様のウォークイン形式となった。2018年にすべて閉店となった。
; モノショップ設置駅
:* 本線
:** [[少路駅]]
:** [[山田駅 (大阪府)|山田駅]]
:** [[沢良宜駅]]
:** [[摂津駅]]
:** [[南摂津駅]]
:* 彩都線
:** [[阪大病院前駅]]
:** [[彩都西駅]]
[[南茨木駅]]には「モノレールショップ」という名称の大阪モノレール唯一のキヨスク形式の売店があった。しかし、すぐ隣の阪急電鉄の駅コンビニエンスストア[[アズナス]]や駅売店ラガールショップと競合することもあり、2008年1月31日限りで閉店した。そのあとには「モノベーカリー」という名称のパンの店が開業したが、これも2011年11月末で閉店した。[[大日駅]]には2階改札口にモノショップが短い期間併設されていたが、2008年10月に閉店した。
千里中央駅など構内スペースにゆとりのある駅や、蛍池駅のように改札を出てすぐにスペースのある駅では、臨時のイベント型店舗が開店し、[[焼売|シュウマイ]]、[[菓子パン]]類、[[和菓子]]類のほか、平日朝の通勤時間帯にはお弁当が販売されることもある。
一部の売店非設置駅では、改札で新聞のみの販売を行っている駅がある。
=== モノレール文庫 ===
各駅に壁面に常設された私設図書館「モノレール文庫」がある。乗客が読まなくなった書籍を寄贈するもので、手続きや返却期限なしに自由に借りることができる<ref>{{Cite web |title=大阪モノレールの駅ナカ文庫30年 愛されるワケは「郊外路線」? |url=https://mainichi.jp/articles/20220701/k00/00m/040/329000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-11-23 |language=ja}}</ref>。
2022年には[[大阪府立中央図書館]]が200冊の本を寄贈した<ref>{{Cite web |url=https://www.osaka-monorail.co.jp/info/detail/133 |title=大阪府立中央図書館様よりモノレール文庫に本を寄贈いただきました |access-date=2023-11-24 |publisher=大阪モノレール}}</ref>。
=== テレワーキングボックス ===
2023年から、人ひとりが入れて座れる箱型の[[テレワーク|テレワーキング]]ボックス「CHATBOX」が設置された。設置は大阪空港駅、蛍池駅、千里中央駅(以上、大阪府豊中市)、南茨木駅(同茨木市)、大日駅(同守口市)の5駅で、それぞれ1 - 2台が置かれた。ボックス内には[[公衆無線LAN|フリーWi-Fi]]やUSB充電コンセントがあり、利用にはアプリをダウンロードし会員登録を行い、目的のCHATBOXのドアをアプリから解錠する仕組みとされている<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000010.000084123.html 大阪モノレールとの提携により大阪地区の「CHATBOX」サービス大幅拡充] - チャットボックス株式会社、2023年2月24日(PR TIMES)</ref> 。
== 利用状況 ==
1990年度から2020年度の年間利用者数は以下の通りである<ref>[http://www.osaka-monorail.co.jp/jpn/company/co_pop_unyu02.html 大阪モノレール 運輸成績](2021年8月29日閲覧)</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;"
|-
!年度!!利用者数(万人)
|-
|1990年度||470
|-
|1991年度||736
|-
|1992年度||782
|-
|1993年度||837
|-
|1994年度||876
|-
|1995年度||1052
|-
|1996年度||1099
|-
|1997年度||2148
|-
|1998年度||2629
|-
|1999年度||2759
|-
|2000年度||2849
|-
|2001年度||2842
|-
|2002年度||2901
|-
|2003年度||2974
|-
|2004年度||3062
|-
|2005年度||3184
|-
|2006年度||3331
|-
|2007年度||3566
|-
|2008年度||3672
|-
|2009年度||3616
|-
|2010年度||3639
|-
|2011年度||3661
|-
|2012年度||3735
|-
|2013年度||3872
|-
|2014年度||3940
|-
|2015年度||4455
|-
|2016年度||4735
|-
|2017年度||4799
|-
|2018年度||4900
|-
|2019年度||4933
|-
|2020年度||3586
|}
2020年度の利用者数(3586.5万人)を1日平均に換算すると、9万8260人になる。
== 民営化論議 ==
[[2008年]]2月6日に[[大阪府知事一覧|大阪府知事]]に就任した[[橋下徹]]は、大阪府が出資する法人について民営化(非第三セクター化を含む)を含めた検討を行うとしていた<ref>[https://web.archive.org/web/20080207005958/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080205-OYT1T00081.htm 「図書館以外は不要」橋下氏、大阪府施設の廃止・売却検討](Internet Archive) 読売新聞、2008年2月5日。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="gaiyo">{{Cite web|和書|url=https://www.osaka-monorail.co.jp/company/corporate-info/info/ |publisher=大阪モノレール |title=企業情報:会社概要|accessdate=2022-07-23}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Osaka Monorail}}
{{Multimedia|大阪モノレールの画像}}
* [[空港連絡鉄道]]
* [[東京モノレール]] - 大阪モノレールと同じく空港に連絡する跨座式モノレール。
* [[沖縄都市モノレール]] - 大阪モノレールと同じく空港に連絡する跨座式モノレール。
* [[重慶軌道交通2号線]] - 大阪モノレールと同形の車両が使用されている。
* [[近鉄難波線]] - 当社の旧社名と同じ大阪高速鉄道株式会社を設立し、建設が計画された鉄道路線。
* [[オーサカ=モノレール]] - 大阪モノレールにちなんで名づけられた音楽グループ。
== 外部リンク ==
* [http://www.osaka-monorail.co.jp/ 大阪モノレール公式サイト]
* {{Twitter|OsakaMonorailPR|大阪モノレール<公式>}}
* {{Instagram|osaka_monorail|大阪モノレール<公式>}}
* [https://www.pref.osaka.lg.jp/toshikotsu/monorail/ モノレールに関すること] - 大阪府ホームページ
{{スルッとKANSAI}}
{{ICOCA}}
{{日本のモノレール}}
{{DEFAULTSORT:おおさかものれえる}}
[[Category:大阪モノレール|*]]
[[Category:日本の軌道事業者]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:吹田市の企業]]
[[Category:日本のモノレール]]
[[Category:第三セクター鉄道]]
[[Category:大阪国際空港]]
|
2003-09-29T14:50:43Z
|
2023-11-23T19:10:49Z
| false | false | false |
[
"Template:Cite press release",
"Template:ICOCA",
"Template:Otheruses",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:日本のモノレール",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB
|
18,742 |
音価
|
音価(おんか)
|
[
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}
] |
音価(おんか) 音価 (音楽):ある音(または休止)に与えられた楽譜上の時間の長さのこと
音価 (言語学):書き表される文字がどのような音声を表しているかを示す語
|
'''音価'''(おんか)
*[[音価 (音楽)]]:ある[[音]](または休止)に与えられた[[楽譜]]上の時間の長さのこと
*[[単音|音価 (言語学)]]:書き表される[[文字]]がどのような[[音声]]を表しているかを示す語
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2021-02-10T08:52:25Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E4%BE%A1
|
18,745 |
大阪モノレール彩都線
|
彩都線(さいとせん)は、大阪府吹田市の万博記念公園駅から大阪府茨木市の彩都西駅を結ぶ大阪モノレールの跨座式モノレール路線である。正式な路線名は国際文化公園都市モノレール線(こくさいぶんかこうえんとしモノレールせん)であるが、旅客案内上は使用されていない。
万博記念公園駅から万博記念公園の東側を半周して北進し、阪大病院前駅を経て、茨木市北部の国際文化公園都市(彩都)の彩都西駅まで路線が延びている。
平日朝ラッシュ時は約6 - 10分間隔、平日の夕方以降や土休日の朝は約10分間隔で運転される。また、平日の朝と夕方以降は一部を除き本線の千里中央駅 - 彩都西駅間の直通運転が行われるが、それ以外は線内折り返し運転となる。平日の昼間時間帯や土休日の11時台以降は約12分間隔での運行となる。
公園東口駅前の万博記念競技場でアメリカンフットボールの試合など、多くの観客が訪れると予想されるイベントがあるときは臨時列車が設定されるほか、行事の終了時など一気に多くの乗客が乗車する時間帯には、定期列車も合わせて5分間隔の運行が行われるときもある。この臨時列車は土・休日でも千里中央までの直通列車が設定されることがある。この臨時列車は彩都西駅延伸後しばらくの間は全区間で運転されていたが、2008年9月に阪大病院前駅近隣の茨木カンツリー倶楽部で行われたパナソニックオープンの観客輸送のための臨時列車から、かつて阪大病院前駅が終着駅だったときに使われていた折り返し用のポイントを活用して万博記念公園駅から阪大病院前駅までの区間運転となり、それ以降の臨時列車も10分間隔となる場合は大半が阪大病院前駅折り返しとなった。この折り返し列車はポイントが阪大病院前駅の万博記念公園側にあるため、彩都西方面行きホームである1番線に到着後そのまま折り返す。ただし臨時列車も含めて5分間隔となる場合は、1番線での停車時間を確保できないため従来どおり彩都西駅折り返しとなる。
2015年までJリーグのガンバ大阪が万博記念競技場を本拠地としていたため、ホーム戦がある時は必ず臨時列車が運転されていたが、本拠地の移転により臨時列車の運転機会が激減した。その他、彩都西駅が最寄の大阪大学外国語学部(旧大阪外国語大学)のオープンキャンパス開催日に臨時列車の運転が行われた年もあったが、現在は大阪大学のオープンキャンパスが予約制となり人数が絞られたこともあり臨時列車は運転されていない。
千里中央発の平日ダイヤの最終列車は、門真市行きよりも23分遅い午前0時6分に彩都西行きが設定されており、彩都線の各駅は本線の各駅より遅い時間まで営業列車が運転されている。この列車は彩都西駅の到着ホームに到着後、折り返し線を使って出発ホームへ転線後に一晩留置される。
彩都線が万博記念公園駅に入場するすぐ手前で、わずかの距離であるが本線と軌道を共有している。このため行楽シーズンなどで本線が遅延している時や、万博記念競技場でのイベント終了時などで彩都線が遅延している時には、別の線のダイヤに影響を与えることになる。
2010年3月28日のダイヤ改正により、夕方以降の千里中央駅直通列車が深夜1本を除くすべての列車に拡大された。また2017年6月3日のダイヤ改正で平日朝のみ、大阪空港駅行きの直通列車1本(2023年2月27日のダイヤ改正以降は彩都西駅6時50分発)が設定された。
国際文化公園都市(彩都)へのアクセス路線としては、当初阪急千里線を延長することが検討されていたが、人口規模からモノレールが選択された。万博記念公園 - 阪大病院前間は、大阪大学医学部と大阪大学医学部附属病院の要請を受けて1998年に先行開業した区間であり、この区間にある阪大病院前駅と公園東口駅は本線と駅舎の形状が共通している。一方、2007年に開業した豊川駅・彩都西駅はそれぞれ独自のデザインを採用している。
今後の彩都の開発をふまえて、彩都西駅から彩都の中地区の中部駅(仮称)を経て、東地区の東センター駅(仮称)までの区間が整備される予定となっていた。彩都の中地区は物流拠点として開発されることが決定しており、東地区が当初計画の住宅地として開発が行われるかどうかは不透明であった。大阪モノレールは彩都の開発が中地区だけの場合は、中地区に設ける予定の中部駅までの延伸は行わない方針で、2015年の彩都中地区のオープンに際しても現実に路線の延長は行われなかった。中部駅は彩都線が東センター駅まで延伸された時だけに作られる中間駅とされていた。
彩都東地区は2015年に社会情勢の変化を踏まえて住宅地が中心の開発から、産業団地が中心に変更されている。住宅地を中心とする当初計画では、3万人の人口が計画されていたが、変更された計画では人口が5千人になり、乗客が少なくなると予想されている。ただ、開発が始まった彩都東地区の「中央東地区」には「モノレール車庫用地」が用意されている。しかし、2017年1月27日には、採算が取れないとして大阪府が彩都西駅以東の延伸を断念することを決定した。
2019年1月11日、未着工区間である彩都西駅以東の軌道運輸事業の廃止を国土交通省近畿運輸局に申請し、3月19日付で許可された。
全駅大阪府内に所在。
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"text": "国際文化公園都市(彩都)へのアクセス路線としては、当初阪急千里線を延長することが検討されていたが、人口規模からモノレールが選択された。万博記念公園 - 阪大病院前間は、大阪大学医学部と大阪大学医学部附属病院の要請を受けて1998年に先行開業した区間であり、この区間にある阪大病院前駅と公園東口駅は本線と駅舎の形状が共通している。一方、2007年に開業した豊川駅・彩都西駅はそれぞれ独自のデザインを採用している。",
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"text": "今後の彩都の開発をふまえて、彩都西駅から彩都の中地区の中部駅(仮称)を経て、東地区の東センター駅(仮称)までの区間が整備される予定となっていた。彩都の中地区は物流拠点として開発されることが決定しており、東地区が当初計画の住宅地として開発が行われるかどうかは不透明であった。大阪モノレールは彩都の開発が中地区だけの場合は、中地区に設ける予定の中部駅までの延伸は行わない方針で、2015年の彩都中地区のオープンに際しても現実に路線の延長は行われなかった。中部駅は彩都線が東センター駅まで延伸された時だけに作られる中間駅とされていた。",
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"text": "彩都東地区は2015年に社会情勢の変化を踏まえて住宅地が中心の開発から、産業団地が中心に変更されている。住宅地を中心とする当初計画では、3万人の人口が計画されていたが、変更された計画では人口が5千人になり、乗客が少なくなると予想されている。ただ、開発が始まった彩都東地区の「中央東地区」には「モノレール車庫用地」が用意されている。しかし、2017年1月27日には、採算が取れないとして大阪府が彩都西駅以東の延伸を断念することを決定した。",
"title": "延伸計画"
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"text": "2019年1月11日、未着工区間である彩都西駅以東の軌道運輸事業の廃止を国土交通省近畿運輸局に申請し、3月19日付で許可された。",
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"text": "全駅大阪府内に所在。",
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彩都線(さいとせん)は、大阪府吹田市の万博記念公園駅から大阪府茨木市の彩都西駅を結ぶ大阪モノレールの跨座式モノレール路線である。正式な路線名は国際文化公園都市モノレール線(こくさいぶんかこうえんとしモノレールせん)であるが、旅客案内上は使用されていない。 万博記念公園駅から万博記念公園の東側を半周して北進し、阪大病院前駅を経て、茨木市北部の国際文化公園都市(彩都)の彩都西駅まで路線が延びている。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Osaka monorail logo.svg|25px|link=大阪モノレール]] 国際文化公園都市モノレール線
|路線色 = #111986
|画像 = Saito Line.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 彩都西駅付近を走行する[[大阪高速鉄道1000系電車|1000系]]
|種類 = [[モノレール|跨座式モノレール]](日本跨座式)
|通称 = 彩都線
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]
|起点 = [[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]
|終点 = [[彩都西駅]]
|駅数 = 5駅
|開業 = [[1998年]][[10月1日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=9 }}</ref>
|最終延伸 = [[2007年]][[3月19日]]<ref name="sone30"/>
|廃止 =
|所有者 = [[大阪モノレール]]
|運営者 = 大阪モノレール
|使用車両 = [[大阪モノレール#車両]]を参照
|路線距離 = 6.8 [[キロメートル|km]]
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|最高速度 = {{convert|75|kph|mph|lk=on|abbr=on}}<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 = 2019_Osakamonorail.png
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#111986
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|map=
{{BS2||hHST|||'''15''' [[千里中央駅]]|}}
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'''彩都線'''(さいとせん)は、[[大阪府]][[吹田市]]の[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]から大阪府[[茨木市]]の[[彩都西駅]]を結ぶ[[大阪モノレール]]の跨座式[[モノレール]]路線である。正式な路線名は'''国際文化公園都市モノレール線'''(こくさいぶんかこうえんとしモノレールせん)であるが、旅客案内上は使用されていない。
万博記念公園駅から[[万博記念公園]]の東側を半周して北進し、[[阪大病院前駅]]を経て、茨木市北部の[[国際文化公園都市]](彩都)の彩都西駅まで路線が延びている。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):6.8 km
* 方式:跨座式モノレール
* 駅数:5駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化方式:直流1500V
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号式
* 最高速度:75km/h<ref name="terada" />
* 最急勾配:50[[パーミル|‰]](万博記念公園 - 公園東口・豊川 - 彩都西)
* 最急曲線:120m(公園東口 - 阪大病院前)
* [[対面交通|走行方向]]:左側通行
[[ファイル:Osaka Monorail Saito Line train view.jpg|thumb|none|300px|豊川 - 彩都西付近の沿線風景]]
== 運行形態 ==
平日朝ラッシュ時は約6 - 10分間隔、平日の夕方以降や土休日の朝は約10分間隔で運転される。また、平日の朝と夕方以降は一部を除き本線の千里中央駅 - 彩都西駅間の直通運転が行われるが、それ以外は線内折り返し運転となる。平日の昼間時間帯や土休日の11時台以降は約12分間隔での運行となる。
[[公園東口駅]]前の[[万博記念競技場]]でアメリカンフットボールの試合など、多くの観客が訪れると予想されるイベントがあるときは臨時列車が設定されるほか、行事の終了時など一気に多くの乗客が乗車する時間帯には、定期列車も合わせて5分間隔の運行が行われるときもある。この臨時列車は土・休日でも千里中央までの直通列車が設定されることがある。この臨時列車は[[彩都西駅]]延伸後しばらくの間は全区間で運転されていたが、2008年9月に[[阪大病院前駅]]近隣の[[茨木カンツリー倶楽部]]で行われた[[アジアパシフィック・パナソニックオープン|パナソニックオープン]]の観客輸送のための臨時列車から、かつて阪大病院前駅が終着駅だったときに使われていた折り返し用のポイントを活用して[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]から阪大病院前駅までの区間運転となり、それ以降の臨時列車も10分間隔となる場合は大半が阪大病院前駅折り返しとなった。この折り返し列車はポイントが阪大病院前駅の万博記念公園側にあるため、彩都西方面行きホームである1番線に到着後そのまま折り返す。ただし臨時列車も含めて5分間隔となる場合は、1番線での停車時間を確保できないため従来どおり彩都西駅折り返しとなる。
2015年まで[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]のガンバ大阪が万博記念競技場を本拠地としていたため、ホーム戦がある時は必ず臨時列車が運転されていたが、本拠地の移転により臨時列車の運転機会が激減した。その他、彩都西駅が最寄の[[大阪大学]]外国語学部(旧[[大阪外国語大学]])の[[オープンキャンパス]]開催日に臨時列車の運転が行われた年もあったが、現在は大阪大学のオープンキャンパスが予約制となり人数が絞られたこともあり臨時列車は運転されていない。
千里中央発の平日ダイヤの最終列車は、門真市行きよりも23分遅い午前0時6分に彩都西行きが設定されており、彩都線の各駅は本線の各駅より遅い時間まで営業列車が運転されている。この列車は彩都西駅の到着ホームに到着後、折り返し線を使って出発ホームへ転線後に一晩留置される。
彩都線が万博記念公園駅に入場するすぐ手前で、わずかの距離であるが本線と軌道を共有している。このため行楽シーズンなどで本線が遅延している時や、万博記念競技場でのイベント終了時などで彩都線が遅延している時には、別の線のダイヤに影響を与えることになる。
2010年3月28日のダイヤ改正により、夕方以降の千里中央駅直通列車が深夜1本を除くすべての列車に拡大された。また2017年6月3日のダイヤ改正で平日朝のみ、大阪空港駅行きの直通列車1本(2023年2月27日のダイヤ改正以降は彩都西駅6時50分発)が設定された。
== 歴史 ==
国際文化公園都市(彩都)へのアクセス路線としては、当初[[阪急千里線]]を延長することが検討されていたが、人口規模からモノレールが選択された<ref>『鉄道ファン』2009年7月号、141頁</ref>。万博記念公園 - 阪大病院前間は、[[大阪大学]]医学部と[[大阪大学医学部附属病院]]の要請を受けて1998年に先行開業した区間であり<ref>『鉄道ファン』2009年7月号、142頁</ref>、この区間にある阪大病院前駅と公園東口駅は本線と駅舎の形状が共通している。一方、2007年に開業した豊川駅・彩都西駅はそれぞれ独自のデザインを採用している。
* [[1998年]](平成10年)[[10月1日]]:万博記念公園 - 阪大病院前間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[2002年]](平成14年):阪大病院前 - 彩都西間着工<ref>[https://8984.jp/3110/kurashi/index05.html 彩都のあゆみ|彩都での暮らし|【阪急阪神のまち】ジオガーデン彩都茨木|阪急阪神不動産]</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月19日]]:阪大病院前 - 彩都西間が開業<ref name="sone30"/>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[6月18日]]:[[大阪府北部地震]]により全線で運転見合わせとなる<ref name="mynavi20180619">[https://news.mynavi.jp/article/20180619-650277/ 大阪北部地震で運休の大阪モノレール、6/20始発から一部区間再開] - マイナビニュース、2018年6月19日</ref><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001238993.pdf#page=11 大阪府北部を震源とする地震について(第3報)]}} - 国土交通省 災害情報、2018年6月18日 11:00現在</ref>。
** [[6月22日]]:始発より万博記念公園 - 阪大病院前間が、13時から阪大病院前 - 彩都西間が運転再開<ref>
{{Twitter status|OsakaMonorail|1009830751334879232|大阪モノレール運行情報<公式> (@OsakaMonorail) 2018年6月22日 02:09 (JST) のTwitterコメント}}</ref><ref>
{{Twitter status|OsakaMonorail|1010004563514888193|大阪モノレール運行情報<公式> (@OsakaMonorail) 2018年6月22日 12:40 (JST) のTwitterコメント}}</ref><ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001239976.pdf#page=13 大阪府北部を震源とする地震について(第13報)]}} - 国土交通省 災害情報、2018年6月22日 15:00現在</ref>。
** [[6月24日]]:部品が落下する可能性のある車両が見つかったため始発から運行を取り止めた<ref>{{Cite news|title=大阪震度6弱:大阪モノレール、再び不通に 全車両点検 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180624/k00/00e/040/169000c|accessdate=2018-06-24|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)6月1日:運営会社が大阪高速鉄道株式会社から大阪モノレール株式会社に社名変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2020/05/pressrelease_20200511.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200523055241/https://www.osaka-monorail.co.jp/monorailwp/wp-content/uploads/2020/05/pressrelease_20200511.pdf|format=PDF|language=日本語|title=社名変更について|publisher=大阪高速鉄道|date=2020-05-11|accessdate=2020-06-02|archivedate=2020-05-23}}</ref>
== 延伸計画 ==
今後の彩都の開発をふまえて、彩都西駅から彩都の中地区の中部駅(仮称)を経て、東地区の東センター駅(仮称)までの区間が整備される予定となっていた<ref name="sankei20170127" />。彩都の中地区は物流拠点として開発されることが決定しており、東地区が当初計画の住宅地として開発が行われるかどうかは不透明であった。大阪モノレールは彩都の開発が中地区だけの場合は、中地区に設ける予定の中部駅までの延伸は行わない方針で、2015年の彩都中地区のオープンに際しても現実に路線の延長は行われなかった。中部駅は彩都線が東センター駅まで延伸された時だけに作られる中間駅とされていた。
彩都東地区は2015年に社会情勢の変化を踏まえて住宅地が中心の開発から、産業団地が中心に変更されている。住宅地を中心とする当初計画では、3万人の人口が計画されていたが、変更された計画では人口が5千人になり、乗客が少なくなると予想されている。ただ、開発が始まった彩都東地区の「中央東地区」には「モノレール車庫用地」が用意されている<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.urlk.co.jp/news/?p=808 | title=【事例紹介】彩都東部中央東土地区画整理事業(西日本支社) | publisher=株式会社URリンケージ | archiveurl=https://web.archive.org/web/20160316105831/http://www.urlk.co.jp/news/?p=808 | archivedate=2016年3月16日 | accessdate=2020年6月10日 | deadlinkdate=2020年6月}}</ref>。しかし、2017年1月27日には、採算が取れないとして大阪府が彩都西駅以東の延伸を断念することを決定した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170127/k00/00e/040/255000c 大阪モノレール 彩都線の延伸断念「採算見通し立たず] 毎日新聞 2017年1月27日 11時58分<!--大阪府の幹部会議で決定する前の報道--></ref><ref name="sankei20170127">[https://www.sankei.com/article/20170127-S43SWBYIN5M5VC7STYQLHV7JOE/ 大阪モノレール「彩都線」延伸を断念 採算取れず 大阪府] - 産経新聞、2017年1月27日<!-- 大阪府の幹部会議で決定した後の報道--></ref>。
2019年1月11日、未着工区間である彩都西駅以東の軌道運輸事業の廃止を[[国土交通省]]近畿運輸局に申請し、3月19日付で許可された<ref>{{PDFlink|[http://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/content/3pdf19-280.pdf 大阪高速鉄道株式会社 国際文化公園都市モノレール線 一部区間の軌道運輸事業廃止許可について]}} - 国土交通省 2019年3月19日</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/84552 大阪モノレール彩都線の延伸計画中止が確定 沿線開発変更で採算見込めず 南側は延伸へ] - 乗りものニュース 2019年3月19日</ref>。
== 駅一覧 ==
全駅[[大阪府]]内に所在。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #111986;"|駅番号
!style="width:9em; border-bottom:solid 3px #111986;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #111986;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #111986;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #111986;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #111986;"|所在地
|-
!17
|[[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|大阪モノレール:[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線(本線)]]
|rowspan="2"|[[吹田市]]
|-
!51
|[[公園東口駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|1.1
|
|-
!52
|[[阪大病院前駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|2.6
|
|rowspan="3"|[[茨木市]]
|-
!53
|[[豊川駅 (大阪府)|豊川駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|4.4
|
|-
!54
|[[彩都西駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|6.8
|
|}
* 駅はないが、豊川駅 - 彩都西駅間の一部では[[箕面市]]を走る。
== 沿線の施設 ==
* [[万博記念公園]]
** [[万博記念競技場]]
* [[大阪大学]][[大阪大学#吹田キャンパス|吹田キャンパス]]
* [[国際文化公園都市]](彩都)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[大阪府道1号茨木摂津線]] - この府道の直上を彩都線が通る
== 外部リンク ==
* [http://www.osaka-monorail.co.jp/ 大阪モノレール公式サイト]
* [https://web.archive.org/web/20060928052229/http://www.osaka-monorail.co.jp/admin/pdf/180905kaigyou.pdf 彩都線開業日決定](PDF)
{{日本のモノレール}}
{{DEFAULTSORT:おおさかものれえるさいとせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|さいとせん]]
[[Category:大阪モノレール|路さいとせん]]
[[Category:日本のモノレール路線]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:跨座式モノレール]]
|
2003-09-29T15:05:55Z
|
2023-11-18T02:07:36Z
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[
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"Template:Cite web",
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"Template:日本のモノレール",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%BD%A9%E9%83%BD%E7%B7%9A
|
18,746 |
音色
|
音色(おんしょく、ねいろ、英語: timbre)とは、音の質を表現するために用いられる用語である。音高や音圧が同じであっても音色の異なる音は異なる聞こえ方をする。専門的な場面では「おんしょく」と読まれる。一般語としては「ねいろ」の読みも見られる。
JISでは「聴覚に関する音の属性の一つで、物理的に異なる二つの音が、たとえ同じ音の大きさ及び高さであっても異なった感じに聞こえるとき、その相違に対応する属性」と定義されている。
音響学的には、音の波形の違いが音色である。
一般に、音は、たとえ1つの音であってもさまざまな周波数の音を含んでおり、それらが合成された振動となっている。このような音の波形を分解(フーリエ変換)すると、音を構成している周波数成分に分けることができる(このようにして分けたものを、音のスペクトルという)。各周波数成分のうち、最も周波数の低いものを基音、それ以外を上音という。このうち、通常は基音の周波数がその音の「高さ」として聞こえ(例外については後述)、上音にどのような周波数の音がどのくらいの強さで含まれているか、が音色の違いとして聞こえる。
上音の周波数が基音の周波数の倍数であればそれを倍音と呼ぶ。音楽に多く使われる人声や弦楽器、管楽器の音は主に基音と倍音から成り立っている(このような音を楽音と呼ぶ)ので、そのような場合には、倍音のそれぞれの強度の比が音色を決定するということができる。
逆に、意図的に人声や弦楽器、管楽器の音に倍音以外の上音を混ぜ込むことによって、独特の音色を出すこともある。日本人にとって身近な例としては、三味線のサワリといわれる仕組みを挙げることができる。
実際の音にあっては、同じ音の高さ、同じ音の強さ、同じ(音響学的な意味での)音色が持続するということはあまりない。打ったりはじいたりして音を出した場合(楽器であってもそうでなくても)、音の出た瞬間が強くてそのあとは減衰する。実際にはそれだけでなく、音の高さや音色も特に音の出た直後に急激に変化することがわかっている。擦弦楽器や管楽器のように音を持続させるように作られた楽器であっても、音の出た瞬間には音が安定しないし、そもそも音が急速に強くなるという変化がある。
ヒトの聴覚は実際にはこういった変化も、音色の一部として聞き取っている。このような変化、特に音の強さの変化をエンベロープと呼び、電子楽器で音色を作るときの、重要な要素となっている。
また、ビブラートや、トレモロ、装飾音などは、このことを実際の演奏に古くから応用させたものと言うことができるだろう。
声楽にあっては、歌詞による発音の違いも音色の違いに当たる。したがって、歌詞による音色の変化を作曲者が利用しようとした場合、歌詞を翻訳すると、その意図を十分に実現できないことが起こりうる。
なお、基音は、どのような場合にも音の支配的な周波数(高さとしてとらえられる周波数)であるというわけではない。支配的な周波数は最も強く聞こえる周波数であり、それが基音の倍音である場合も多い(フルートのD5以上の音など)。
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音色とは、音の質を表現するために用いられる用語である。音高や音圧が同じであっても音色の異なる音は異なる聞こえ方をする。専門的な場面では「おんしょく」と読まれる。一般語としては「ねいろ」の読みも見られる。
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'''音色'''(おんしょく、ねいろ、{{lang-en|timbre|timbre}})とは、[[音]]の質を表現するために用いられる用語である。[[音高]]や[[音圧]]が同じであっても音色の異なる音は異なる聞こえ方をする。専門的な場面では「おんしょく」と読まれる。一般語としては「ねいろ」の読みも見られる。
== 概説 ==
[[JIS]]では「聴覚に関する音の属性の一つで、物理的に異なる二つの音が、たとえ同じ音の大きさ及び高さであっても異なった感じに聞こえるとき、その相違に対応する属性」<ref>JIS Z 8106:2000 音響用語</ref>と定義されている。
[[音響学]]的には、音の[[波形]]の違いが音色である。
一般に、音は、たとえ1つの音であってもさまざまな周波数の音を含んでおり、それらが合成された振動となっている。このような音の波形を分解([[フーリエ変換]])すると、音を構成している[[周波数]]成分に分けることができる(このようにして分けたものを、音の[[スペクトル]]という)。各周波数成分のうち、最も周波数の低いものを[[基音]]、それ以外を上音という。このうち、通常は基音の周波数がその音の「高さ」として聞こえ(例外については後述)、上音にどのような周波数の音がどのくらいの強さで含まれているか、が音色の違いとして聞こえる。
上音の周波数が基音の周波数の倍数であればそれを[[倍音]]と呼ぶ。[[音楽]]に多く使われる[[声楽|人声]]や[[弦楽器]]、[[管楽器]]の音は主に基音と倍音から成り立っている(このような音を[[楽音]]と呼ぶ)ので、そのような場合には、倍音のそれぞれの強度の比が音色を決定するということができる。
逆に、意図的に[[声楽|人声]]や[[弦楽器]]、[[管楽器]]の音に倍音以外の上音を混ぜ込むことによって、独特の音色を出すこともある。日本人にとって身近な例としては、[[三味線]]のサワリといわれる仕組みを挙げることができる。
実際の音にあっては、同じ音の高さ、同じ音の強さ、同じ(音響学的な意味での)音色が持続するということはあまりない。打ったりはじいたりして音を出した場合(楽器であってもそうでなくても)、音の出た瞬間が強くてそのあとは減衰する。実際にはそれだけでなく、音の高さや音色も特に音の出た直後に急激に変化することがわかっている。[[擦弦楽器]]や管楽器のように音を持続させるように作られた楽器であっても、音の出た瞬間には音が安定しないし、そもそも音が急速に強くなるという変化がある。
ヒトの聴覚は実際にはこういった変化も、音色の一部として聞き取っている。このような変化、特に音の強さの変化を[[エンベロープ]]と呼び、[[電子楽器]]で音色を作るときの、重要な要素となっている。
また、[[ビブラート]]や、[[トレモロ]]、[[装飾音]]などは、このことを実際の演奏に古くから応用させたものと言うことができるだろう。
[[声楽]]にあっては、[[歌詞]]による発音の違いも音色の違いに当たる。したがって、歌詞による音色の変化を作曲者が利用しようとした場合、歌詞を翻訳すると、その意図を十分に実現できないことが起こりうる。
なお、基音は、どのような場合にも音の支配的な周波数(高さとしてとらえられる周波数)であるというわけではない。支配的な周波数は最も強く聞こえる周波数であり、それが基音の倍音である場合も多い(フルートのD5以上の音など)。
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
{{wiktionary}}
* [https://kotobank.jp/word/%E9%9F%B3%E8%89%B2-111116#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 音色(ねいろ)とは] - [[コトバンク]]
* [http://www.weblio.jp/content/%E9%9F%B3%E8%89%B2 音色とは] - [[Weblio]]辞書
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北大阪急行電鉄
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北大阪急行電鉄株式会社(きたおおさかきゅうこうでんてつ、英: KITA-OSAKA KYUKO RAILWAY CO.,LTD.)は、大阪府豊中市と吹田市の市境付近を走る鉄道(南北線)を運営している鉄道会社。通称および略称は北大阪急行、北急(きたきゅう、Kitakyu)。
千里ニュータウンと日本万国博覧会(大阪万博)の会場アクセスのために阪急電鉄や大阪府などの出資で設立された第三セクター鉄道会社である。阪急電鉄の子会社であるとともに阪急阪神ホールディングスの連結子会社であり、阪急阪神東宝グループ所属企業の一つともなっている。全営業区間は5.9kmと短いが、準大手私鉄に分類されている。本社所在地は大阪府豊中市寺内二丁目4番1号で、緑地公園駅に併設している。
社紋は「輸送の安全と平和」を二羽のハトで象徴すると共に、ハトの姿をかりて北大阪急行の「北」と「大」の文字を表している。コーポレートカラーは赤◆(乗り入れ先の御堂筋線に準じた色)とマルーン◆(親会社の阪急電鉄の阪急マルーンに準じた色)のツートンカラー。
スルッとKANSAIでカードに印字される符号はKEである。
北大阪急行電鉄は1967年(昭和42年)12月11日に当時の京阪神急行電鉄(後の阪急電鉄。以下「阪急」と略す)の子会社として設立された。路線は当初、相互直通運転を行っている地下鉄御堂筋線(当時は大阪市営地下鉄1号線、現在のOsaka Metro)の延伸線、そして日本万国博覧会(大阪万博)会場への路線として計画された。現在はベッドタウンとして千里丘陵に開発された千里ニュータウンから、梅田や淀屋橋などの大阪市中心部への通勤・通学路線としての役割も担っている。
当初計画では、御堂筋線のこの地域への延長は早くて1971年度を想定していた。だが、1965年(昭和40年)に日本万国博覧会の千里丘陵での開催が決定し事態は一変する。会場へのアクセス路線として重要視されたため、地下鉄6号線(現・堺筋線)・阪急千里山線(現・千里線)延長線ともども早期着工を促されたのである。
しかし、大阪市側の動きは遅かった。大阪市域外のため、当該自治体である吹田市ならびに豊中市との協議が必要となるうえに大阪府の補助金が出ないことや、そもそも市域外に地下鉄を建設すること(計画自体は戦前から榎坂への延伸計画があったが)に対する市民の理解を得られるかという懸念、建設費と万博閉幕後に発生するであろう莫大な赤字、そして御堂筋線のパンクなど、これらがネックであった。ついには、「会場輸送は江坂駅からのバスで十分」という態度にまで出る始末であった。同時に依頼されていた阪急も同様の考えであり、早々と自社線の会場への直接の延伸は諦めていた。路線計画に積極的だったのは財団法人日本万国博覧会協会と府、消極的だったのは市と阪急であった。
路線延伸計画に積極的だった協会と府は三木武夫通産大臣兼万博担当大臣の調停を仰ぎ、市と阪急に改めてプラン呈示を要求した。大阪市は建設費を120億 - 206億円と試算し、阪急は86億 - 115億円と試算した。その結果、比較的費用を安く抑えられる阪急案が採用され、路線自体も阪急主導で建設されることになった。
南北線は主要地方道大阪箕面線と、会場線は中国自動車道・主要地方道大阪中央環状線と一体で建設されたものの、軌道法ではなく地方鉄道法での建設となった。
1970年(昭和45年)2月24日、南北線・会場線 江坂 - 千里中央(仮駅) - 万国博中央口間が開業。万国博開催中、千里中央(仮駅) - 万国博中央口駅間は、現在の中国自動車道の上り線部分を会場線として使用した。万国博閉幕後の同年9月14日、会場線千里中央(仮駅) - 万国博中央口間が廃止され、現在の千里中央駅が開業(駅そのものは事前に建設済み)。会場線廃線跡のうち地上部分は中国自動車道上り線に転用され、トンネル部分は資材置き場として現存している(→大阪万博の交通も参照)。また、万国博会場への大量な旅客輸送での収益で建設費を償却できたことに加え、会場線の撤去費用は跡地に中国自動車道の建設が決定済みだったので国が負担し、北大阪急行としてはほとんど支出が無かったことは、現在も初乗り運賃(2017年〈平成29年〉4月1日現在100円)を低金額で設定できている理由の一つである。
駅の一覧・運行形態などは以下の項目を参照のこと。
2000形と8000形は阪急系列のアルナ工機製であったが、9000形は近鉄系列の近畿車輛製である。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年(令和元年)10月1日改定。単位 円。
対距離区間制運賃であり、1駅で1区、2駅で2区、3駅で3区となっている。
2014年(平成26年)3月31日までの1区運賃の大人80円は日本国内の鉄道でもっとも低額の運賃であった。低廉な運賃体系は、地下鉄御堂筋線との相互直通運転が行われることから輸送人員が非常に多くかつ2社間を跨いで乗車する利用客が非常に多いこと、両路線を跨いで利用すると2社の運賃がそれぞれ必要となることから割高感を抑えていることおよび、徹底した合理化が行われていることなどにより実現しているが、開業時から万国博閉幕後の運営について考慮された結果、建設費の償還を期間中にできるだけ進めるという目論見がなされ、実際には想定以上の結果(運賃収入)を得られたことも大きな理由である。
2016年(平成28年)12月16日、安全関係への投資などを理由に、1区・2区運賃を10円、3区運賃を20円値上げする旨の発表を行った。値上げ実施日は2017年4月1日。実施後の初乗り運賃は100円となり若桜鉄道や岡山電気軌道などと並んだ。2024年3月に箕面萱野駅までの延伸開業が予定されているが、それに伴う値上げは行わないことを明らかにしている。
江坂駅で北大阪急行の1区・2区(桃山台駅まで)とOsaka Metroの1区(大人190円区間・新大阪駅まで)を乗り継ぐときは、大人運賃で両社それぞれ10円(合計20円)が割引される(小児半額)。北大阪急行の本来の運賃が低廉であることも相まって、2社を乗り継いでいるにもかかわらず割高感をできるだけ抑えている。
磁気カードの導入は1989年10月に回数券カードとして「KITA Q CARD」が発売されたのが最初で、自社線内だけでなく大阪市営地下鉄との連絡回数券も発売された。
1996年3月20日よりスルッとKANSAIが導入され、北大阪急行電鉄ではこれに対応するプリペイドカードとして「レジオンカード」を発売していたが、2017年3月31日で発売を終了した。関西のほどんどの鉄軌道事業者が西日本旅客鉄道(JR西日本)主導のICカード「ICOCA」を発売し、それに移行する中、2017年4月1日より阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄のみで利用できる磁気プリペイドカード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売していたが、2019年2月28日に発売を終了し、同年9月30日でレールウェイカードのほか、スルッとKANSAI時代から続いていた全ての磁気プリペイドカードの自動改札機での利用も終了した。なお、かつては自社で発行していたが、2000年から阪急電鉄による発行となった。
なお、千里中央駅構内の売店では阪急電鉄の「ラガールカード」を購入することができた。
2006年(平成18年)2月1日より、ICカード乗車券としてポストペイ式の「PiTaPa」を導入し、同時にJR西日本のプリペイド式IC乗車カード「ICOCA」が、2013年(平成25年)3月23日には交通系ICカード全国相互利用サービスへの対応を開始し、Suica、PASMOなども利用できるようになっている。2019年3月1日より、北大阪急行電鉄においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始した。
阪急電鉄西宮北口駅今津南線ホームの高架化工事においては、北大阪急行電鉄が国土交通省の鉄道駅総合改善事業における補助金を受けられる第三セクターであることから事業主体となった。
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}
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北大阪急行電鉄株式会社は、大阪府豊中市と吹田市の市境付近を走る鉄道(南北線)を運営している鉄道会社。通称および略称は北大阪急行、北急(きたきゅう、Kitakyu)。 千里ニュータウンと日本万国博覧会(大阪万博)の会場アクセスのために阪急電鉄や大阪府などの出資で設立された第三セクター鉄道会社である。阪急電鉄の子会社であるとともに阪急阪神ホールディングスの連結子会社であり、阪急阪神東宝グループ所属企業の一つともなっている。全営業区間は5.9kmと短いが、準大手私鉄に分類されている。本社所在地は大阪府豊中市寺内二丁目4番1号で、緑地公園駅に併設している。 社紋は「輸送の安全と平和」を二羽のハトで象徴すると共に、ハトの姿をかりて北大阪急行の「北」と「大」の文字を表している。コーポレートカラーは赤◆(乗り入れ先の御堂筋線に準じた色)とマルーン◆(親会社の阪急電鉄の阪急マルーンに準じた色)のツートンカラー。 スルッとKANSAIでカードに印字される符号はKEである。
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{{Otheruseslist|江坂駅 - 千里中央駅間で鉄道路線を運営している鉄道事業者|この事業者が運営する鉄道路線|北大阪急行電鉄南北線|戦前に十三駅 - 千里山駅間で鉄道路線を運営していた鉄道事業者|北大阪電気鉄道}}
{{Pathnav|阪急阪神東宝グループ|阪急阪神ホールディングス|阪急電鉄|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 北大阪急行電鉄株式会社
| 英文社名 = KITA-OSAKA KYUKO RAILWAY CO.,LTD.
| ロゴ = [[File:Kitakyu-logo.svg|100px]]
| 画像 = [[File:Kita-Osaka Kyuko Railway Headoffice.JPG|300px]]
| 画像説明 = 本社が入居する「緑地駅ビル」
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = 北大阪急行、北急
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 561-0872
| 本社所在地 = [[大阪府]][[豊中市]]寺内二丁目4番1号<br />(緑地駅ビル)<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|34|46|31.47|N|135|29|40.86|E}}</small>
| 設立 = [[1967年]](昭和42年)[[12月11日]]
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業、不動産事業
| 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 内芝伸一 <ref>{{PDFlink|[http://www.kita-kyu.co.jp/upload/091.pdf 役員人事について]}} - 北大阪急行電鉄、2018年6月6日</ref>
| 資本金 = 15億円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan2018">{{PDFlink|[https://www.kita-kyu.co.jp/company/pdf/kessan2018.pdf 2018年度貸借対照表、損益計算書および個別注記表]}} - 北大阪急行電鉄</ref>
|発行済株式総数 = 300万株<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan2018" />
| 売上高 = 62億2183万6000円<br />(2019年3月期)<ref name="kessan2018" />
| 営業利益 = 5億5365万6000円<br />(2019年3月期)<ref name="kessan2018" />
| 純利益 = 3億154万3000円<br />(2019年3月期)<ref name="kessan2018" />
| 純資産 = 89億6156万4000円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan2018" />
| 総資産 = 311億630万1000円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan2018" />
| 従業員数 = 133人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
| 決算期 = 3月31日
| 主要株主 = [[阪急電鉄]] 54.0%<br />[[大阪府]] 25.0%<br />[[関西電力]] 5.0%<br />[[大阪瓦斯]] 4.0%<br />[[三菱UFJ銀行]] 4.0%<br />[[三井住友銀行]] 4.0%<br />[[りそな銀行]] 4.0%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[太田垣貴美]](元社長)
| 外部リンク = [https://www.kita-kyu.co.jp/ https://www.kita-kyu.co.jp/]
| 特記事項 = [[阪急阪神ホールディングス]]の[[連結子会社]]である。
}}
'''北大阪急行電鉄株式会社'''(きたおおさかきゅうこうでんてつ、{{Lang-en-short|KITA-OSAKA KYUKO RAILWAY CO.,LTD.}})は、[[大阪府]][[豊中市]]と[[吹田市]]の市境付近を走る鉄道([[北大阪急行電鉄南北線|南北線]])を運営している[[鉄道事業者|鉄道会社]]。通称および略称は'''北大阪急行'''、'''北急'''(きたきゅう、{{en|Kitakyu}}<ref group="注釈">公式サイトのドメインなどに使われている。</ref><ref group="注釈">[[北神急行電鉄]]も北急と略称されることがあるが読み方は「ほくきゅう」。</ref>)。
[[千里ニュータウン]]と[[日本万国博覧会]](大阪万博)の会場アクセスのために[[阪急電鉄]]や大阪府などの出資で設立された[[第三セクター鉄道|第三セクター鉄道会社]]である。阪急電鉄の子会社であるとともに[[阪急阪神ホールディングス]]の[[連結子会社]]であり、[[阪急阪神東宝グループ]]所属企業の一つともなっている。全営業区間は5.9kmと短いが、[[準大手私鉄]]に分類されている。本社所在地は大阪府豊中市寺内二丁目4番1号で、[[緑地公園駅]]に併設している。<!--運賃の件は運賃の章に移動-->
社紋は「輸送の安全と平和」を二羽の[[ハト]]で象徴すると共に、ハトの姿をかりて北大阪急行の「北」と「大」の文字を表している。コーポレートカラーは赤{{Color|#ed1a3d|◆}}(乗り入れ先の[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]に準じた色)と[[マルーン (色)|マルーン]]{{Color|#640125|◆}}(親会社の阪急電鉄の[[阪急マルーン]]に準じた色)のツートンカラー<ref group="注釈">Osaka Metroや北大阪急行の路線図、御堂筋線車両の車内案内表示装置でのカラーも赤であるが、[[北大阪急行電鉄9000形電車|9000形]]の車内案内表示装置でのカラーは青である。</ref>。
[[スルッとKANSAI]]でカードに印字される符号は'''KE'''である。
== 概要 ==
{{出典の明記|date=2017年5月|section=1}}
北大阪急行電鉄は[[1967年]]([[昭和]]42年)[[12月11日]]に当時の京阪神急行電鉄(後の[[阪急電鉄]]。以下「阪急」と略す)の子会社として設立された。路線は当初、相互直通運転を行っている[[Osaka Metro御堂筋線|地下鉄御堂筋線]](当時は[[大阪市営地下鉄]]1号線、現在の[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]])の延伸線、そして[[日本万国博覧会]](大阪万博)会場への路線として計画された。現在は[[ベッドタウン]]として[[千里丘陵]]に開発された[[千里ニュータウン]]から、[[梅田]]や[[淀屋橋]]などの[[大阪市]]中心部への通勤・通学路線としての役割も担っている。
当初計画では、御堂筋線のこの地域への延長は早くて[[1971年]]度を想定していた。だが、[[1965年]](昭和40年)に日本万国博覧会の[[千里丘陵]]での開催が決定し事態は一変する。会場へのアクセス路線として重要視されたため、[[Osaka Metro堺筋線|地下鉄6号線]](現・堺筋線)・[[阪急千里線|阪急千里山線]](現・千里線)延長線ともども早期着工を促されたのである<ref group="注釈">当初の構想では、地下鉄6号線(開業時に堺筋線となる)・阪急千里山線がメインルートで、御堂筋線延伸線はサブルートに位置づけられていた。</ref>。
しかし、大阪市側の動きは遅かった。大阪市域外のため、当該自治体である[[吹田市]]ならびに[[豊中市]]との協議が必要となるうえに[[大阪府]]の補助金が出ないことや、そもそも市域外に地下鉄を建設すること(計画自体は戦前から[[江坂|榎坂]]への延伸計画があったが)に対する市民の理解を得られるかという懸念、建設費と万博閉幕後に発生するであろう莫大な赤字、そして御堂筋線のパンクなど、これらがネックであった。ついには、「会場輸送は[[江坂駅]]からの[[バス (交通機関)|バス]]で十分」という態度にまで出る始末であった。同時に依頼されていた阪急も同様の考えであり、早々と自社線の会場への直接の延伸は諦めていた。路線計画に積極的だったのは財団法人日本万国博覧会協会と府、消極的だったのは市と阪急であった。
路線延伸計画に積極的だった協会と府は[[三木武夫]]<!--と『鉄道未成線を歩く 大阪市交通局篇』には書いてあるが、1966年 - 1967年の話なので後任の[[菅野和太郎]]と間違えている可能性がある-->[[経済産業大臣|通産大臣兼万博担当大臣]]の調停を仰ぎ、市と阪急に改めてプラン呈示を要求した。大阪市は建設費を120億 - 206億円と試算し、阪急は86億 - 115億円と試算した。その結果、比較的費用を安く抑えられる阪急案が採用され<ref group="注釈">実際の建設費は現路線+会場線で118億円かかり、うち25億円は万博協会持ち。また、差額も協会が面倒を見るということであった。</ref>、路線自体も阪急主導で建設されることになった。
南北線は[[主要地方道]]大阪箕面線<ref group="注釈">その後[[1981年]](昭和56年)[[4月30日]]に一般[[国道423号]]へ昇格。</ref>と、会場線は[[中国自動車道]]・[[大阪中央環状線|主要地方道大阪中央環状線]]と一体で建設されたものの、[[軌道法]]ではなく[[地方鉄道法]]での建設となった。
[[1970年]](昭和45年)[[2月24日]]、南北線・会場線 [[江坂駅|江坂]] - [[千里中央駅|千里中央]](仮駅) - [[万国博中央口駅|万国博中央口]]間が開業。万国博開催中、千里中央(仮駅) - 万国博中央口駅間は、現在の中国自動車道の上り線部分を会場線として使用した<ref group="注釈">このため、中国自動車道開通当初の上下線は現在の下り線を[[暫定2車線]]で供用していた。</ref>。万国博閉幕後の同年[[9月14日]]、会場線千里中央(仮駅) - 万国博中央口間が廃止され、現在の[[千里中央駅]]が開業(駅そのものは事前に建設済み)。会場線廃線跡のうち地上部分は中国自動車道上り線に転用され、トンネル部分は資材置き場として現存している(→[[大阪万博の交通]]も参照)。また、万国博会場への大量な旅客輸送での収益で建設費を償却できたことに加え、会場線の撤去費用は跡地に中国自動車道の建設が決定済みだったので国が負担し、北大阪急行としてはほとんど支出が無かったことは、現在も初乗り運賃(2017年〈平成29年〉4月1日現在100円<ref name="sankei20161216" /><ref name="kita-kyu20170224" />)を低金額で設定できている理由の一つである。
== 歴史 ==
* [[1966年]](昭和41年)
**5月23日 - 日本万国博覧会会場第4回計画委員会にて会場中心部シンボルゾーン付近に中央口駅を置く大阪市内直結の鉄軌道新設の想定案が作成される<ref name="official3kensetsu"/>。
**8月 - 万国博鉄軌道問題懇親会にて大阪市営地下鉄1号線乗り入れを前提とする要望書を万国博協会に提出<ref name="official3kensetsu"/>。
**10月15日 - 万国博会場基本計画の周辺アプローチ計画にて地下鉄1号線を用いた江坂-上新田間の永久路線と上新田-会場中央口間の仮路線による新設鉄軌道計画が盛り込まれる<ref name="official3kensetsu">日本万国博覧会公式記録第3巻 建設 会場基本計画 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)</ref>。
*[[1967年]](昭和42年)
**2月:万国博会場アクセスの地下鉄1号線延長案について通商産業省が江坂-会場中央口間10kmの大阪府・大阪市・阪急・関西電力による新会社または公社での建設運営を行う案を発表<ref name="official2">日本万国博覧会公式記録第2巻 観客輸送 場外輸送 北大阪急行電鉄(株) - 日本万国博覧会記念協会(1972年)</ref>。
**6月20日: 政府の万国博関係閣僚協議会にて江坂-上新田-会場間の鉄道建設方針を正式決定<ref name="official2"/>。
**6月28日:運輸大臣・通産大臣・大阪府知事・大阪市長・阪急社長が東京で会合し地下鉄1号線延伸による万博会場乗り入れ案に合意<ref name="official2"/>。
**7月28日:江坂 - 上新田間・上新田 - 万国博会場間の鉄道敷設免許申請を提出<ref name="official2"/>。
**[[10月13日]]:[[地方鉄道法|地方鉄道]]敷設免許取得<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成18年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.155</ref>。
**[[12月11日]]:会社設立<ref name="youran" />。大阪市が新大阪-江坂間、北大阪急行電鉄が江坂-上新田間の南北線5.8kmと上新田-万国博中央口間の会場線3.6kmの建設を決定。
*[[1968年]](昭和43年)
**7月9日:鉄道工事施工認可<ref name="official2"/>。
**[[7月16日]]:着工<ref>鉄道ピクトリアル18巻9号p82 1968</ref>。
**8月31日:日本万国博覧会協会と会場線について建設運営協定を結ぶ。
*[[1969年]](昭和44年)<ref name="official2"/>
**6月27日:日本万国博覧会協会と会場線建設運営の契約書を結ぶ。
**9月26日:試運転開始。
*[[1970年]](昭和45年)<ref name="official2"/>
**[[2月24日]]:南北線・会場線 江坂 - 千里中央(仮駅) - 万国博中央口間開業。
**[[9月14日]]:会場線 千里中央(仮駅) - 万国博中央口間廃止。現在地の千里中央駅に乗り入れ。
**[[12月15日]]:会場線の撤去を完了。
*[[1975年]](昭和50年)[[3月30日]]:緑地公園駅開業。
*[[1986年]](昭和61年)[[7月1日]]:8000形ポールスター運転開始。<!-- 20周年の件は[[北大阪急行電鉄8000形電車]]に移しました。 -->
*[[1993年]](平成5年)
**夏頃:自社線内(相互乗り入れ区間の地下鉄御堂筋線も含む)冷房化率100%達成。
**[[10月1日]]:自社線内での車内放送の自動放送開始。
**[[10月2日]]:2000形運転終了。
*[[1996年]](平成8年)[[3月20日]]:阪急ほか3社局と共通乗車カードシステム「[[スルッとKANSAI]]」開始。
*[[2004年]](平成16年)7月1日:[[駅ナンバリング|駅番号]]制を導入。
*[[2006年]](平成18年)
**[[2月1日]]:[[PiTaPa]]導入。同時に[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[ICOCA]]も利用可能に。
**7月1日:PiTaPa対応カードを用いた定期券サービス「[[PiTaPa#交通料金割引|PiTaPa定期サービス]]」開始。
*[[2013年]](平成25年)3月23日:[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]への対応を開始し、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
*[[2014年]](平成26年)4月28日:9000形ポールスターII運転開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/021..pdf|format=PDF|title=新型車両9000形「POLESTARⅡ」営業運転開始および記念式典について|website=北大阪急行電鉄株式会社|date=2014-03-26|accessdate=2023-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140327221512/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/021..pdf|archivedate=2014-03-27}}</ref>。
*[[2015年]](平成27年)12月25日:千里中央 - 箕面船場(当時の仮称。後の箕面船場阪大前)間の[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業]]の許可と箕面船場 - 新箕面(当時の仮称。後の箕面萱野)間の[[軌道法|軌道事業]]の特許を取得<ref name="kita-kyu20151225">{{Cite press release|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/040.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210129170032/https://www.kita-kyu.co.jp/upload/040.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北大阪急行電鉄南北線延伸線の「第一種鉄道事業の許可」、「軌道事業の特許」を取得しました|publisher=北大阪急行電鉄|date=2015-12-25|accessdate=2021-01-29|archivedate=2021-01-29}}</ref>。
*[[2017年]](平成29年)
**[[1月19日]]:千里中央 - 新箕面間着工<ref name="2017-1-29Asahi">{{cite news|url=http://www.asahi.com/sp/articles/ASK1K6FQVK1KPPTB00J.html|title=北大阪急行延伸へ起工式 建設費600億円、新駅二つ|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|date=2017-01-19|accessdate=2017-01-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170120013320/http://www.asahi.com/articles/ASK1K6FQVK1KPPTB00J.html|archivedate=2017-01-12}}</ref>。
**[[4月1日]]:[[大阪モノレール]]とのIC連絡定期券を発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/067.pdf|format=PDF|title=IC定期券の発売範囲拡大について|website=北大阪急行電鉄株式会社|date=2017-02-03|accessdate=2023-09-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170204004442/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/067.pdf|archivedate=2017-02-04}}</ref>。
*[[2018年]](平成30年)7月24日:延伸区間の新設2駅の名称が、箕面船場阪大前駅(仮称:箕面船場駅)、箕面萱野駅(仮称:新箕面駅)に決定<ref name="kitakyu20180724">{{Cite press release|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180724093343/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北大阪急行電鉄南北線延伸線の新駅の名称が本日決定しました|publisher=北大阪急行電鉄/箕面市|date=2018-07-24|accessdate=2022-03-21|archivedate=2018-07-24}}</ref>。
*[[2019年]](平成31年)3月1日:北大阪急行電鉄においてプリペイド式ICカード「ICOCA」、および「ICOCA定期券」を発売開始<ref>{{PDFlink|[http://www.kita-kyu.co.jp/upload/104.pdf 阪急、阪神、能勢、北急におけるICOCAおよびICOCA定期券の発売開始日について]}} - 北大阪急行電鉄、2019年1月24日</ref>。
*[[2024年]](令和6年)[[3月23日]]:千里中央 - 箕面萱野間が開業予定<ref name="開業時期">{{Cite press release|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/206.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北大阪急行電鉄 南北線延伸線(千里中央駅〜箕面萱野駅)の開業日が2024年(令和6年)3月23日(土)に決定!|publisher=箕面市/北大阪急行電鉄|date=2023-08-23}}</ref>。
== 路線 ==
駅の一覧・運行形態などは以下の項目を参照のこと。
; 営業中
:* [[北大阪急行電鉄南北線|南北線]]: 江坂 - 千里中央 5.9 km(江坂駅からはOsaka Metro御堂筋線と相互直通運転を実施)
; 開業予定
:* [[北大阪急行電鉄南北線|南北線延伸線]]: 千里中央 - [[箕面萱野駅|箕面萱野]] 2.5 km(2024年3月23日開業予定<ref name="開業時期" />)
; 廃止
:* [[北大阪急行電鉄南北線|会場線]](東西線): 分岐点 - [[万国博中央口駅|万国博中央口]] 3.6 km(1970年9月14日廃止)
[[ファイル:Kita-Osaka Kyuko Railway Linemap.svg|thumb|none|350px|北大阪急行電鉄路線図]]
== 車両 ==
=== 自社車両 ===
2000形と8000形は阪急系列の[[アルナ工機]]製であったが、9000形は[[近鉄グループ|近鉄系列]]の[[近畿車輛]]製である。
*[[北大阪急行電鉄8000形電車|8000形]](ポールスター。1986年 - )
*[[北大阪急行電鉄9000形電車|9000形]](ポールスターII。2014年 - )<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/news_release/pdf/20131211_2095.pdf 新型車両 9000形を平成26年春より導入します。〜「やすらぎ」と「省エネルギー」を追求〜(北大阪急行電鉄)]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年12月11日。</ref>
<gallery widths="250">
ファイル:Kitaosaka-kyuko-railway 8000 renewalcar.jpg|8000形
ファイル:Kitakyū 9000 momoyamadai.JPG|9000形
ファイル:Kitakyu 9000 9003F.JPG|9000形(第3編成)
</gallery>
==== 過去の車両 ====
*[[大阪市交通局30系電車|7000・8000系]](1969年 - 1970年)
*[[北大阪急行電鉄2000形電車|2000形]](1969年 - 1993年)
=== 乗り入れ車両 ===
*[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro)
**[[大阪市交通局30000系電車|30000系]](2011年 - )
**[[大阪市交通局20系電車|21系]](1991年 - )
<gallery widths="250">
ファイル:Osaka Subway 31904 at Nishinakajima-Minamigata Station.jpg|30000系
ファイル:大阪メトロ_21系_24609f.jpg|21系
</gallery>
=== 過去の乗り入れ車両 ===
*大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro)
**[[大阪市交通局10系電車|10系・10A系]](1976年 - 2022年)
<gallery widths="250">
ファイル:Osaka-metro-Series10A.jpg|10A系
</gallery>
== 運賃 ==
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年(令和元年)10月1日改定<ref name="kita-kyu20190905">{{PDFlink|[https://www.kita-kyu.co.jp/upload/122.pdf 消費税率・地方消費税率の引き上げに伴う鉄道旅客運賃の改定について]}} - 北大阪急行電鉄、2019年9月5日</ref>。単位 円。
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!区!!運賃
|-
|1区||100
|-
|2区||130
|-
|3区||140
|}
対距離区間制運賃<ref>『数字でみる鉄道 2005』財団法人運輸政策研究機構、2005年 p.105</ref>であり、1駅で1区、2駅で2区、3駅で3区となっている。
2014年(平成26年)3月31日までの1区運賃の大人80円は[[鉄道に関する日本一の一覧#路線・事業者|日本国内の鉄道でもっとも低額の運賃]]であった<ref group="注釈">[[箱根登山鉄道鋼索線]]の初乗り運賃が2014年4月1日以降も同額の80円である。<!--なお、運賃は無料となっているものの、利用時に寄付金名目で100円が必要とされていた[[鞍馬山鋼索鉄道]]を除く(2016年に200円に改定)。-->また、2007年(平成19年)3月31日までは[[若桜鉄道]]の60円 (1-2km) が日本国内の鉄道でもっとも低額な運賃であった。</ref>。低廉な運賃体系は、地下鉄御堂筋線との相互直通運転が行われることから輸送人員が非常に多くかつ2社間を跨いで乗車する利用客が非常に多いこと、両路線を跨いで利用すると2社の運賃がそれぞれ必要となることから割高感を抑えていることおよび、徹底した合理化が行われていることなどにより実現しているが、開業時から万国博閉幕後の運営について考慮された結果、<!--万国博輸送での収益にすべてを賭けて--><!--「賭ける」について、何を賭けたのか(リスクをとったのか?)不明瞭のためコメントアウト。-->建設費の償還を期間中にできるだけ進めるという目論見がなされ、実際には想定以上の結果(運賃収入)を得られたことも大きな理由である。
2016年(平成28年)12月16日、安全関係への投資などを理由に、1区・2区運賃を10円、3区運賃を20円値上げする旨の発表を行った<ref name="sankei20161216">[https://www.sankei.com/article/20161216-MLMSIKYPIBJVNNH6BIFT6QDUYY/ 北大阪急行、10〜20円の値上げ申請 千里中央など3駅にホーム柵設置へ] - 産経新聞、2016年12月16日</ref><ref name="trafficnews20161216" />。値上げ実施日は2017年4月1日<ref name="kita-kyu20170224">{{Cite web|和書|title=鉄道事業の旅客運賃上限変更認可ならびに運賃改定の実施について|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/068.pdf|publisher=北大阪急行電鉄|format=PDF |date=2017-02-24|accessdate=2017-03-24}}</ref>。実施後の初乗り運賃は100円となり[[若桜鉄道]]や[[岡山電気軌道]]などと並んだ<ref name="trafficnews20161216">[https://trafficnews.jp/post/61626/ 日本一安い初乗り90円、値上げへ 北大阪急行が運賃の上限変更を申請] - 乗りものニュース、2016年12月16日<!-- 本文中に「現在の1区運賃90円は、全国の普通鉄道のなかで」と断り書きあり--></ref>。2024年3月に[[北大阪急行電鉄南北線#延伸計画|箕面萱野駅までの延伸開業]]が予定されているが、それに伴う値上げは行わないことを明らかにしている<ref>{{Cite web|和書|title=延伸でも「値上げなし」 日本一安い鉄道初乗り100円|url=https://www.asahi.com/articles/ASP6L5402P67UTIL056.html|website=朝日新聞|accessdate=2021-06-21|date=2021-06-21}}</ref>。
=== 乗継割引 ===
江坂駅で北大阪急行の1区・2区(桃山台駅まで)とOsaka Metroの1区(大人190円区間・新大阪駅まで)を乗り継ぐときは、大人運賃で両社それぞれ10円(合計20円)が割引される(小児半額)<ref>[https://www.kita-kyu.co.jp/ticket/fares.html 乗車券のご案内] - 北大阪急行電鉄、2023年4月1日閲覧</ref>。北大阪急行の本来の運賃が低廉であることも相まって、2社を乗り継いでいるにもかかわらず割高感をできるだけ抑えている。
=== 乗車カード ===
[[乗車カード|磁気カード]]の導入は[[1989年]]10月に回数券カードとして「KITA Q CARD」が発売されたのが最初で、自社線内だけでなく大阪市営地下鉄との連絡回数券も発売された<ref>{{Cite |和書|author=北大阪急行電鉄株式会社 編|title=北大阪急行25年史|date=1994|pages=156}}</ref>。
1996年3月20日より[[スルッとKANSAI]]が導入され、北大阪急行電鉄ではこれに対応する[[プリペイドカード]]として「レジオンカード」を発売していたが<ref>{{Cite |和書|author=北大阪急行電鉄株式会社 編|title=北大阪急行50年史 1967-2017|date=2018|pages=96}}</ref>、2017年3月31日で発売を終了した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/2016.7.1_1.pdf|format=PDF|title=阪急電鉄 ・ 阪神電気鉄道 ・ 能勢電鉄 ・ 北大阪急行電鉄の4社における スルッとKANSAI対応カードの取扱いについて|website=北大阪急行電鉄株式会社|date=2016-07-01|accessdate=2023-10-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161022001356/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/2016.7.1_1.pdf|archivedate=2016-10-22}}</ref>。関西のほどんどの鉄軌道事業者が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)主導のICカード「[[ICOCA]]」を発売し、それに移行する中、2017年4月1日より阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄のみで利用できる磁気プリペイドカード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売していたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/066.pdf|format=PDF|title=阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄 4共通の磁気カード 「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」 を 2017年4月1日より発売します|website=北大阪急行電鉄株式会社|date=2016-12-27|accessdate=2023-10-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161227202045/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/066.pdf|archivedate=2016-12-27}}</ref>、2019年2月28日に発売を終了し、同年9月30日でレールウェイカードのほか、スルッとKANSAI時代から続いていた全ての磁気プリペイドカードの自動改札機での利用も終了した<ref>{{PDFlink|[http://www.kita-kyu.co.jp/upload/103.pdf 「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売終了、改札機での利用終了と払い戻しについて]}} - 北大阪急行電鉄、2019年1月24日</ref>。なお、{{要出典範囲|かつては自社で発行していたが、2000年から阪急電鉄による発行となった|title=事実関係の疑義ではありませんが、出典を提示ください。|date=2010年11月22日 (月) 14:25 (UTC)}}。
なお、[[千里中央駅]]構内の売店では阪急電鉄の「[[ラガールカード]]」を購入することができた。
2006年(平成18年)2月1日より、ICカード乗車券としてポストペイ式の「[[PiTaPa]]」を導入し、同時にJR西日本のプリペイド式IC乗車カード「ICOCA」が、2013年(平成25年)3月23日には[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]への対応を開始し、[[Suica]]、[[PASMO]]なども利用できるようになっている。2019年3月1日より、北大阪急行電鉄においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始した。
== 施設 ==
[[阪急電鉄]][[西宮北口駅]]今津南線ホームの高架化工事においては、北大阪急行電鉄が[[国土交通省]]の鉄道駅総合改善事業における補助金を受けられる[[第三セクター]]であることから事業主体となった<ref>{{PDFlink|[http://web.pref.hyogo.lg.jp/governor/documents/000166435.pdf 阪急今津線高架切替記念式典の開催]}} - 西宮北口駅総合開発事業の施行者に「北大阪急行電鉄(株)」と記してある。</ref>。
== その他 ==
* [[公衆無線LAN]]は、江坂駅をのぞく全3駅に設置されている<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201302272N2.pdf 〜主要携帯電話会社3社すべてのサービスが利用可能に!〜 鉄道駅の「公衆無線LANサービス」サービスの拡大について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年2月27日。</ref>。利用できる無線LANは「[[阪神電気鉄道#公衆無線LAN]]」を参照。
* [[自動券売機]]は開業当初より[[高見沢サイバネティックス]]製が設置されている。当時[[万国博中央口駅]]で使用されていたものが[[公衆浴場]]で利用された後、高見沢サイバネティックスに引き取られ、保存されている。また現在でも作動する状態となっており、2011年に[[機械遺産]]に認定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tacy.co.jp/example/kikaiisan2011-vtac/|title=日本機械学会 2011年度機械遺産認定のお知らせ|publisher=高見沢サイバネティックス|accessdate=2020-05-26}}</ref>。
* 2017年(平成29年)から[[江坂駅]]を除く全駅に[[ホームドア]]が設置されている。江坂駅にも2020年(令和2年)に設置された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[国道423号]]([[新御堂筋]])
* [[日本万国博覧会|大阪万博]]
* [[埴生の宿]] - 千里中央駅の到着放送チャイムに使用されている曲
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kita-Osaka Kyuko Railway}}
* [https://www.kita-kyu.co.jp/ 北大阪急行電鉄ウェブサイト]
* [https://www.city.minoh.lg.jp/kitakyu/kitakyu-enshin.html 北大阪急行線延伸/箕面市]
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{{大手私鉄}}
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[[Category:北大阪急行電鉄|*]]
[[Category:大手私鉄・準大手私鉄]]
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[[Category:第三セクター鉄道]]
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能勢電鉄妙見線
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妙見線(みょうけんせん)は、兵庫県川西市の川西能勢口駅から大阪府豊能郡豊能町の妙見口駅までを結ぶ能勢電鉄の鉄道路線である。
能勢電鉄が資本的に阪急電鉄との繋がりが強いこともあって、実質的に阪急宝塚本線の支線のような扱いとなっているが、阪急各線とは異なり山岳路線的な性格を持ち、トンネルも多い。
本来は妙見山の能勢妙見堂への参拝客を当て込んで建設された路線であり、線形の悪い山間の路線を単行の小型車が行き交うようなローカル色の強い路線であったが、沿線人口の増大に伴い路線改良の必要に迫られ、大改造の末に現在のようなニュータウン路線へと変貌を遂げた経緯を持つ。現在では、能勢妙見堂の参拝客よりも、通勤・通学客の利用が主となっている。
能勢妙見堂へは終点の妙見口駅で妙見の森ケーブルに乗り換えとなる。ただし、妙見口駅から妙見の森ケーブルの黒川駅までは直線距離で1.3kmほどある。
日中は日生線の日生中央駅発着の普通列車を10分おきに運転し、妙見口駅発着のシャトル列車と山下駅で接続させる、10分サイクルのダイヤとなっている。なお、2022年12月17日のダイヤ改正以前では妙見線妙見口駅発着の普通と10分おきに交互に運転し、山下駅でそれぞれ日生中央駅行き、妙見口駅行きのシャトル列車に接続する10分ヘッド20分サイクルの運行形態になっていた。
優等列車では、平日朝夕に阪急宝塚線直通の特急「日生エクスプレス」が日生中央 - 川西能勢口 - 阪急大阪梅田間に運転されている。
日生エクスプレスが阪急から譲渡された自社の6000系6002Fのほか、阪急の6000系、8000系、1000系による8両編成で運転され、それ以外は自社車両のみを使用し、川西能勢口発着列車は全て4両編成で運転されるほか、山下 - 妙見口間で運転される区間列車については2両編成も使用される。日生エクスプレス運転開始前は6両編成の列車も存在した。列車は日生エクスプレスを除き全てワンマン運転である。
2022年12月17日のダイヤ改正まで阪急宝塚線では廃止されていた土曜ダイヤを使用していた。しかし、このダイヤ改正で日曜・休日ダイヤと統合され、土休日ダイヤとなった(実際に土曜ダイヤと日曜・休日ダイヤの違いは6、7時台の本数と時間、山下駅にてシャトル列車の接続が行われるか否かのみであり、日中以降は一切の差がなかった)。2017年3月のダイヤ改正で廃止された日生急行は土曜ダイヤのみの運転であった。
川西村の中里喜代吉は、妙見山の能勢妙見堂への参拝客輸送と、能勢の特産である三白(酒・米・寒天)と三黒(黒牛・栗・炭)の輸送を目的として能勢電気軌道株式会社を設立、阪鶴鉄道池田駅(現在のJR福知山線川西池田駅)から、現在の一の鳥居駅付近に至る鉄道を請願した。しかし、阪鶴鉄道池田駅を起点にすることは認められず、小花村字大畑三〇番地地先(現在の、猪名川西岸の阪急が交差する辺り)への変更を経て、現在の場所に定められた。これにより阪鶴鉄道との連絡は不可能となったため、当時建設中だった箕面有馬電気鉄道(現在の阪急宝塚線)と連絡させる目的で軌間も1,067mmから1,435mmに変更して建設することとなった。これに前後して、1912年には吉川村(現在の豊能町)までの路線も請願している。
工事の認可は1910年に下りていたが、社内のトラブルなどにより建設は遅れた。1913年になってようやく能勢口(現在の川西能勢口) - 一の鳥居間が開業し、旅客と貨物の輸送を開始、貨物は当時沿線で製造されていた帝国鉱泉の三ツ矢サイダーが主であった。しかし、工事費用などの負債がかさみ、能勢電軌は1914年に破産してしまう。つぎに開業した区間は、会社再建の一環として、貨物の増収を図るために建設した能勢口 - 池田駅前間で、その三分の二が荷車によって能勢口駅から官線池田駅に運ばれていた三ツ矢サイダーの輸送を鉄道に振り替えることが目的だった。一の鳥居 - 妙見(現在の妙見口)間の建設は、着工が困難であったため先送りされていたが、その代替として同区間で行っていた乗合自動車事業の失敗により着工せざるを得なくなり、阪急の資本参加などにより資本金を増資して1923年に開業。これによりようやく全線開業にこぎ着けた。
このようにして建設された路線には、半径100m以内のカーブが52箇所も存在した。一部のカーブは曲線が急すぎて連結運転も不可能なほどで、このためにラッシュ時などには続行運転をして対処していた。戦後までこのままで推移したが、連結運転を行って人件費を抑制するために1957年に阪急から10形・20形(元新京阪P-4・P-5形)を導入し、その際に半径30m以内の曲線を改良。1964年にも320形導入に備えて最小限の線形改良を行った。
1960年代に入ると沿線の宅地開発が進み、輸送力の増強が至上課題となった。1966年には前述の320形を導入し、1967年には第1期複線化工事となる川西能勢口 - 鶯の森間の複線化を完了。第2期複線化工事となる鶯の森 - 平野間では皷滝 -多田間の併用軌道が解消され、軌道法から地方鉄道法に適用対象を変更して車体長や最高速度の制限を解除することが可能となった。
つづいて、日生ニュータウンの開発に伴って平野 - 山下間を複線化する必要が生じた。ひとまず交通量の増加している国道173号の拡幅を目的として塩川信号所(1965年廃止) - 畦野間で線路の付け替えと複線化の下地作りが図られることとなり、1973年に完成。1977年には平野 - 山下間の複線化が完成した。同じ年には、光風台団地の開発に伴い、光風台駅の新設と駅付近の曲線改良も完成している。1983年には初めて大型車(1500系)を導入し、この際にトンネル断面の不足する笹部隧道は笹部第一隧道に付け替えられた。さらに、1997年には阪急宝塚線に乗り入れる特急「日生エクスプレス」が新設され、大阪の都心まで特急が直通するようになり現在に至る。
かつては、川西能勢口駅から国鉄川西池田駅前にある川西国鉄前駅まで能勢電鉄の路線が延びていた。両駅の間は徒歩で連絡できる範囲にあるため、能勢電鉄の当該区間も744mに過ぎなかったが、線路の付け替えを除けば能勢電鉄で唯一の廃止区間となっている。「歴史」節で解説したように、三ツ矢サイダーを始めとする貨物輸送を目的として開業し、一時は同区間の収入が全体の収入の20%を占め、苦境に立たされていた能勢電軌の経営を支えていたこともある。
しかし、昭和に入ると貨物輸送は次第にトラックに置き換えられ、戦後には全廃された。また、池田駅前から妙見駅までの全線を通しで運転する旅客列車も1955年には朝夕のみとなり、1959年には全廃。以降、川西国鉄前駅 - 川西能勢口駅間は同区間での折り返し運転のみとなり、完全な盲腸線と化した。車両は「本線」の車両大型化以降も小型車が使用され、1959年から1966年までは31形31・32、1966年から廃線までは50形51と60形61が専用車両としてあてがわれた。ただし、末期においては61は予備車扱いで、もっぱら51が使用されていた。
当時は連絡する国鉄福知山線の本数も少なく、利用増の見込めない当該区間は、1975年2月以降は朝3往復・夕2往復にまで減便され(日祝日はさらに朝一往復減便)、川西能勢口駅付近の駅前再開発や連続立体化事業に伴って1981年に廃止となった。廃線跡は住宅地や駅前広場などに消え、その痕跡を認めることは難しいが、川西能勢口駅前には廃止を記念したモニュメントなどが設置され、かろうじて鉄道が走っていたことが窺い知れる。
かつて能勢口(現・川西能勢口)から阪急伊丹線伊丹駅までの延長計画が存在した。1922年(大正11年)12月に能勢電軌は同区間の免許を申請。兵庫県側は難色を示したが、政府は翌年6月に免許を下付し、これを受けて能勢電軌は測量・設計に手を付け、1924年4月に軌道工事施行認可申請を提出した。しかし、兵庫県は延長部分と県道との交差部が県の指示に沿ったものでないとして、この申請書を県のもとに12年間もの間留め置いた。1935年4月に県はようやく申請書を鉄道大臣および内務大臣に通達するが、認可されるはずもなく翌年4月には却下された。戦後の1956年(昭和31年)に延長計画は再び取り沙汰されるが、建設予定地の市街地化が進み、もはや用地取得は困難になっていたため、1958年(昭和33年)に延長の計画は正式に断念された。
なお、この他に吉川(妙見口駅)から妙見鋼索鉄道(現在の妙見の森ケーブル)黒川駅までの延長線を1925年に、同じく吉川から亀岡までの延長線を1949年に申請しているが、いずれも断念している。
川西能勢口駅 - 川西国鉄前駅
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"text": "かつては、川西能勢口駅から国鉄川西池田駅前にある川西国鉄前駅まで能勢電鉄の路線が延びていた。両駅の間は徒歩で連絡できる範囲にあるため、能勢電鉄の当該区間も744mに過ぎなかったが、線路の付け替えを除けば能勢電鉄で唯一の廃止区間となっている。「歴史」節で解説したように、三ツ矢サイダーを始めとする貨物輸送を目的として開業し、一時は同区間の収入が全体の収入の20%を占め、苦境に立たされていた能勢電軌の経営を支えていたこともある。",
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"text": "かつて能勢口(現・川西能勢口)から阪急伊丹線伊丹駅までの延長計画が存在した。1922年(大正11年)12月に能勢電軌は同区間の免許を申請。兵庫県側は難色を示したが、政府は翌年6月に免許を下付し、これを受けて能勢電軌は測量・設計に手を付け、1924年4月に軌道工事施行認可申請を提出した。しかし、兵庫県は延長部分と県道との交差部が県の指示に沿ったものでないとして、この申請書を県のもとに12年間もの間留め置いた。1935年4月に県はようやく申請書を鉄道大臣および内務大臣に通達するが、認可されるはずもなく翌年4月には却下された。戦後の1956年(昭和31年)に延長計画は再び取り沙汰されるが、建設予定地の市街地化が進み、もはや用地取得は困難になっていたため、1958年(昭和33年)に延長の計画は正式に断念された。",
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"text": "なお、この他に吉川(妙見口駅)から妙見鋼索鉄道(現在の妙見の森ケーブル)黒川駅までの延長線を1925年に、同じく吉川から亀岡までの延長線を1949年に申請しているが、いずれも断念している。",
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"text": "川西能勢口駅 - 川西国鉄前駅",
"title": "駅一覧"
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妙見線(みょうけんせん)は、兵庫県川西市の川西能勢口駅から大阪府豊能郡豊能町の妙見口駅までを結ぶ能勢電鉄の鉄道路線である。
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|路線名 = [[File:Noseden-logo.svg|20px|link=能勢電鉄]] 妙見線
|路線色 = green
|画像 = Nose-Myoken-Line.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 妙見口 - ときわ台間を走行する普通列車<br>(2020年11月)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[兵庫県]][[川西市]]、[[大阪府]][[豊能郡]][[豊能町]]ほか<!-- 大阪府池田市を通過 -->
|起点 = [[川西能勢口駅]]
|終点 = [[妙見口駅]]
|駅数 = 14駅
|路線記号 = [[File:Number prefix Nose Railway line.png|20px|]] NS
|開業 = [[1913年]][[4月13日]]
|最終延伸 = [[1923年]][[11月3日]]
|休止 =
|廃止 =
|所有者 = [[能勢電鉄]]
|運営者 = 能勢電鉄
|車両基地 = 平野車庫
|使用車両 = [[能勢電鉄#車両]]を参照
|路線距離 = 12.2 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]](川西能勢口 - 山下間)<br />[[単線]](山下 - 妙見口間)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最大勾配 =
|最小曲線半径 =
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = 連続速度照査式[[自動列車停止装置|ATS]](阪急形ATS)
|最高速度 = 70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="nenpu">[https://noseden.hankyu.co.jp/company/chronicle03.html 年譜] - 能勢電鉄</ref>
|路線図 = Nose Electric Railway Linemap.svg
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=green
|collapse=yes
|title-color=white
|map=
{{BS||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線]](JR宝塚線)|}}
{{BS4|STRq|STRq|STRq|O3=HUBrg|BHFq|O4=HUBlg|||[[川西池田駅]]|}}
{{BS4|||HUB|exKBHFa|O4=HUBe|0.7|''[[川西国鉄前駅]]''|-[[1981年|1981]]|}}
{{BS4|||HUB|exSTR|||←[[阪急電鉄|阪急]]:{{rint|osaka|hko}} [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]→|}}<!--川西能勢口駅の下の行に置くと妙見線の旧線が宝塚本線のようにも見える-->
{{BS4|hSTRq|hABZq+l|hBHFq|O3=HUBe|xKRZh|0.0|NS01 [[川西能勢口駅]]|}}
{{BS4|exSTR+l|ehKRZe|exBHFq|exSTRr|0.0|''川西能勢口駅(旧)''|-[[1996年|1996]]|}}
{{BS4|exKRWl|eKRWg+r||||||}}
{{BS2|eABZgl|exKDSTeq||''絹延橋車庫''||-[[1966年|1966]]|}}
{{BS2|BHF||1.2|NS02 [[絹延橋駅]]||}}
{{BS2|BHF||2.1|NS03 [[滝山駅]]||}}
{{BS2|BHF||2.7|NS04 [[鶯の森駅]]||}}
{{BS4|exSTR+l|eABZgr||||}}
{{BS4|exSTR|TUNNEL1||||鶯の森隧道|}}
{{BS4|exSTRl|eKRZ|exBHFq|exSTR+r|3.2|''矢問駅''|-[[1953年|1953]]|}}
{{BS4|WASSERq|hKRZWae|WASSERq|exhKRZWae|||[[猪名川]]|-[[1969年|1969]]}}
{{BS4||TUNNEL1|exSTRc2|exBHF3|3.4|鼓滝隧道 / ''皷滝駅(旧)''|}}
{{BS4||BHF|O2=exSTRc2|exSTR3+1|exSTRc4|3.5|NS05 [[鼓滝駅]]|1969-|}}
{{BS2|eABZg+1|exSTRc4||||}}
{{BS2|BHF||4.2|NS06 [[多田駅 (兵庫県)|多田駅]]||}}
{{BS4|KDSTaq|ABZg+r||||平野車庫||}}
{{BS2|BHF||5.2|NS07 [[平野駅 (兵庫県)|平野駅]]||}}
{{BS2|eDST|||''塩川信号所''|-[[1965年|1965]]|}}
{{BS2|eABZgl|exSTR+r||}}
{{BS4|WASSERq|hKRZWa|exWBRÜCKE1||||塩川|}}
{{BS4|exSTR+l|ehKRZe|exSTRr|||塩川隧道|}}
{{BS4|exBHF|TUNNEL1||||''一の鳥居駅(旧)''|-[[1973年|1973]]|}}
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{{BS2|BHF||6.4|NS08 [[一の鳥居駅]]|1973-|}}
{{BS2|eABZgl|exSTR+r||畦野隧道|}}
{{BS2|TUNNEL1|exBHF||''畦野駅(旧)''|-[[1974年|1974]]|}}
{{BS4||BHF|O2=exSTRc2|exSTR3||7.1|NS09 [[畦野駅]]|1974-|}}
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{{BS2|eABZg2|exSTRc3|}}
{{BS4||exSTRc1|O2=hSTRa|exSTR2+4|exSTRc3|}}
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{{BS4||hXBHF-L|hXBHF-R|exBHF|8.2|NS10 [[山下駅 (兵庫県)|山下駅]]|}}
{{BS4||TUNNEL1|hSTRl|xKRZh|||{{rint|osaka|nsn}} [[能勢電鉄日生線|日生線]]|}}
{{BS4||eABZg+l|exSTRq|exSTRr||山下上隧道|}}
{{BS2|BHF||8.6|NS11 [[笹部駅]]|}}
{{BS2|eABZgl|exSTR+r|}}
{{BS2|TUNNEL1|exTUNNEL1||左:笹部第1隧道|}}
{{BS2|eABZg+l|exSTRr||右:''笹部隧道''|}}
{{BS2|eDST|||''隧道東口信号所''|-[[1977年|1977]]|}}<!-- 1952-65年頃駅から信号所に変更。最終的な名称で -->
{{BS2|eABZgl|exSTR+r|||兵庫県・大阪府境|}}
{{BS2|TUNNEL1+GRZq|exSTR+GRZq||笹部第2隧道||}}
{{BS2|hBHF|exSTR|10.3|NS12 [[光風台駅 (大阪府)|光風台駅]]|}}
{{BS2|TUNNEL1|exSTR||光風台第1隧道|}}
{{BS2|TUNNEL1|exSTR||光風台第2隧道|}}
{{BS2|eABZg+l|exSTRr|}}
{{BS2|BHF||11.2|NS13 [[ときわ台駅 (大阪府)|ときわ台駅]]||}}
{{BS4|exSTR+l|eABZgr|||}}
{{BS4|exSTR|TUNNEL1||||吉川隧道|}}
{{BS4|exSTRl|eABZg+r|||}}
{{BS2|KBHFe||12.2|NS14 [[妙見口駅]]||}}
{{BS4||exFUNI|||||''[[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見の森ケーブル]]'' -2023}}
}}
'''妙見線'''(みょうけんせん)は、[[兵庫県]][[川西市]]の[[川西能勢口駅]]から[[大阪府]][[豊能郡]][[豊能町]]の[[妙見口駅]]までを結ぶ[[能勢電鉄]]の[[鉄道路線]]である。
== 概要 ==
能勢電鉄が資本的に[[阪急電鉄]]との繋がりが強いこともあって、実質的に[[阪急宝塚本線]]の支線のような扱いとなっているが、阪急各線とは異なり[[山岳路線]]的な性格を持ち、トンネルも多い。
本来は[[妙見山 (大阪府・兵庫県)|妙見山]]の[[能勢妙見山 (日蓮宗)|能勢妙見堂]]への参拝客を当て込んで建設された路線であり、線形の悪い山間の路線を単行の小型車が行き交うようなローカル色の強い路線であったが、沿線人口の増大に伴い路線改良の必要に迫られ、大改造の末に現在のようなニュータウン路線へと変貌を遂げた経緯を持つ。現在では、能勢妙見堂の参拝客よりも、通勤・通学客の利用が主となっている。
能勢妙見堂へは終点の妙見口駅から直線距離で1.3kmほど離れた場所にあった[[能勢電鉄妙見の森ケーブル#駅一覧|黒川駅]]から発着する[[ケーブルカー]]([[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見の森ケーブル]])に乗り換えとなっていたが、妙見の森ケーブルは2023年12月4日に廃止された。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):12.2km<ref name="sone14 3">[[#sone14|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』14号 3頁]]</ref>
* [[軌間]]:1435mm<ref name="sone14 3"/>
* 駅数:14駅(起終点駅含む)<ref name="sone14 3"/>
* 複線区間:川西能勢口 - 山下間
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]]
* 最高速度:70km/h<ref name="nenpu" />
== 運行形態 ==
{{Main2|使用車両|能勢電鉄#車両}}
日中は[[能勢電鉄日生線|日生線]]の[[日生中央駅]]発着の普通列車を10分おきに運転し、妙見口駅発着のシャトル列車と山下駅で接続させる、10分サイクルのダイヤとなっている。なお、2022年12月17日のダイヤ改正以前では妙見線妙見口駅発着の普通と10分おきに交互に運転し、山下駅でそれぞれ日生中央駅行き、妙見口駅行きのシャトル列車に接続する10分ヘッド20分サイクルの運行形態になっていた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=能勢電鉄 ダイヤ改正(2022年12月17日) |url=https://www.tetsudo.com/event/39644/ |website=鉄道コム |date=2022-10-12 |access-date=2022-10-12}}</ref><ref name="noseden20221012">{{Cite press release|和書|title=鉄道線のダイヤ改正について|publisher=能勢電鉄|date=2022-10-12|url=https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202210121.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。
優等列車では、平日朝夕に[[阪急宝塚本線|阪急宝塚線]]直通の特急「[[日生エクスプレス]]」が日生中央 - 川西能勢口 - 阪急大阪梅田間に運転されている。
日生エクスプレスが阪急から譲渡された自社の[[阪急6000系電車|6000系]]6002Fのほか、阪急の[[阪急6000系電車|6000系]]、[[阪急8000系電車|8000系]]、[[阪急1000系電車 (2代)|1000系]]による8両編成で運転され、それ以外は自社車両のみを使用し、川西能勢口発着列車は全て4両編成で運転されるほか、山下 - 妙見口間で運転される区間列車については2両編成も使用される。日生エクスプレス運転開始前は6両編成の列車も存在した。列車は日生エクスプレスを除き全て[[ワンマン運転]]である。
2022年12月17日のダイヤ改正まで阪急宝塚線では廃止されていた土曜ダイヤを使用していた。しかし、このダイヤ改正で日曜・休日ダイヤと統合され、土休日ダイヤとなった(実際に土曜ダイヤと日曜・休日ダイヤの違いは6、7時台の本数と時間、山下駅にてシャトル列車の接続が行われるか否かのみであり、日中以降は一切の差がなかった)<ref name="noseden20221012" />。2017年3月のダイヤ改正で廃止された日生急行は土曜ダイヤのみの運転であった。
=== 列車種別 ===
; {{Color|#f15b5b|■}} 特急「[[日生エクスプレス]]」
: 日生線の日生中央駅から阪急宝塚線の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]まで運転されている。平日のみの運転で、朝に大阪梅田行きが、夕方に日生中央行きが、それぞれ7本ずつ運転されている。妙見線内では、[[川西能勢口駅]]、[[平野駅 (兵庫県)|平野駅]]、[[畦野駅]]、[[山下駅 (兵庫県)|山下駅]]に停車する。
: 2009年春以降、春・秋の行楽期の土曜・休日や[[つるやオープンゴルフトーナメント]]の開催日に臨時列車が運行されていたが、2015年春を最後に運転されていない。
; {{Color|black|■}} 普通
: 終日運転(休日はすべて普通)。区間列車は平野駅発川西能勢口駅行きが平日1本、山下 - 日生中央間のシャトル列車が上下ともに平日4本土休日3本のみで、川西能勢口 - 妙見口間(山下駅で前述のシャトル列車に接続)の運転は平日上り3本下り2本(土休日はさらに1本ずつ減少)。残りは全て川西能勢口 - 日生中央間(大半が山下駅で山下 - 妙見口間シャトル列車に接続)となっており、前述のダイヤ改正で少なかった区間列車がさらに削減されている。
=== 過去の種別など ===
; [[直行 (列車)|直行]]
: 川西能勢口 - 鶯の森間の複線化完成直後の[[1967年]](昭和42年)12月3日改正から運転を開始した、能勢電鉄最初の優等列車。絹延橋駅と滝山駅のみ通過。後の妙見急行のルーツ。[[1969年]](昭和44年)10月の鶯の森 - 平野間の複線化を機に、急行に発展的解消となる。
; {{Color|red|□}} 妙見急行
: 1969年(昭和44年)10月5日の鶯の森 - 平野間の複線化を機に、急行として運転を開始。[[1981年]](昭和56年)3月9日改正で「妙見急行」に改称された。停車駅は妙見口 - 平野間の各駅で、平野 - 川西能勢口間は無停車だった。2017年(平成29年)3月18日のダイヤ改正で廃止<ref name="noseden20170120" />。廃止直前時点で平日朝6 - 8時台、土曜朝7時台に妙見口発川西能勢口行きのみを平日5本、土曜は2本運転。平日の5本はすべて[[川西能勢口駅]]始発の[[阪急宝塚本線]]の通勤特急に接続していた。
; {{Color|red|□}} 日生急行
: 特急日生エクスプレスが運転されない土曜日の朝7時台に、上り日生中央発川西能勢口行きが2本運転されていた。[[2000年]](平成12年)6月4日改正で日生エクスプレスが15分間隔運転になる前は、平日(月-金曜日)の朝にも上りのみ運転されていたほか、1996年・1997年は平日の夕方に下り日生中央行きも運転されていた(後述)。妙見線内の停車駅は日生エクスプレスと同じ。日生線開業後の1981年(昭和56年)3月9日改正で運転を開始<ref name="rekishi-chizucho">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』10号 関西私鉄、新潮社、2011年、p.58</ref>。運転開始当時は畦野 - 川西能勢口間は無停車で、後に平野駅に停車するようになった。2017年(平成29年)3月18日のダイヤ改正で廃止<ref name="noseden20170120" />。
: 2018年6月の[[大阪北部地震]]発生時は日生エクスプレスに代わり、川西能勢口駅始発の下り列車が数年ぶりに運転された。停車駅は平野駅・畦野駅・山下駅。
: 以後、阪急宝塚本線のダイヤが乱れ、特急日生エクスプレスの運転が中止された際は度々臨時で運行している。
; 下りの急行
: 1969年(昭和44年)10月5日改正より1980年頃まで、平日朝の平野車庫への入庫回送列車の一部を営業列車とする形で運転を開始。運転区間は川西能勢口 - 平野間で、途中ノンストップであった。その後下りの急行は廃止され、[[1996年]](平成8年)のダイヤ改正時に阪急宝塚本線の特急と接続する日生急行日生中央行が平日夕方に設定された。当時の日生急行の妙見線内の停車駅は上り、下りとも山下駅・畦野駅で平野駅は通過していた。翌年、日生エクスプレスの設定と同時に廃止されている。
== 歴史 ==
=== 全線開業まで ===
川西村の中里喜代吉は、妙見山の能勢妙見堂への参拝客輸送と、能勢の特産である三白(酒・米・寒天)と三黒(黒牛・栗・炭)の輸送を目的として能勢電気軌道株式会社を設立、[[阪鶴鉄道]]池田駅(現在のJR[[福知山線]][[川西池田駅]])から、現在の[[一の鳥居駅]]付近に至る鉄道を請願した。しかし、阪鶴鉄道池田駅を起点にすることは認められず、小花村字大畑三〇番地地先(現在の、猪名川西岸の阪急が交差する辺り)への変更を経て、現在の場所に定められた。これにより阪鶴鉄道との連絡は不可能となったため、当時建設中だった箕面有馬電気鉄道(現在の阪急宝塚線)と連絡させる目的で軌間も1,067mmから1,435mmに変更して建設することとなった。これに前後して、[[1912年]]には吉川村(現在の[[豊能町]])までの路線も請願している。
工事の認可は[[1910年]]に下りていたが、社内のトラブルなどにより建設は遅れた。[[1913年]]になってようやく能勢口(現在の川西能勢口) - 一の鳥居間が開業し、旅客と貨物の輸送を開始、貨物は当時沿線で製造されていた帝国鉱泉の[[三ツ矢サイダー]]が主であった。しかし、工事費用などの負債がかさみ、能勢電軌は[[1914年]]に破産してしまう。つぎに開業した区間は、会社再建の一環として、貨物の増収を図るために建設した能勢口 - 池田駅前間で、その三分の二が荷車によって能勢口駅から官線<ref>阪鶴鉄道は[[1907年]]に国有化されている</ref>池田駅に運ばれていた三ツ矢サイダーの輸送を鉄道に振り替えることが目的だった。一の鳥居 - 妙見(現在の妙見口)間の建設は、着工が困難であったため先送りされていたが、その代替として同区間で行っていた乗合自動車事業の失敗により着工せざるを得なくなり、阪急の資本参加などにより資本金を増資して[[1923年]]に開業。これによりようやく全線開業にこぎ着けた。
=== 相次ぐ路線改良と車両の大型化 ===
このようにして建設された路線には、半径100m以内のカーブが52箇所も存在した。一部のカーブは曲線が急すぎて連結運転も不可能なほどで、このためにラッシュ時などには続行運転をして対処していた。戦後までこのままで推移したが、連結運転を行って人件費を抑制するために[[1957年]]に阪急から[[新京阪鉄道P-4形電車|10形・20形]](元新京阪P-4・P-5形)を導入し、その際に半径30m以内の曲線を改良。[[1964年]]にも[[阪急320形電車|320形]]導入に備えて最小限の線形改良を行った。
1960年代に入ると沿線の宅地開発が進み、輸送力の増強が至上課題となった。[[1966年]]には前述の320形を導入し、[[1967年]]には第1期複線化工事となる川西能勢口 - 鶯の森間の複線化を完了。第2期複線化工事となる鶯の森 - 平野間では皷滝 -多田間の併用軌道が解消され、軌道法から地方鉄道法に適用対象を変更して車体長や最高速度の制限を解除することが可能となった。
つづいて、[[阪急日生ニュータウン|日生ニュータウン]]の開発に伴って平野 - 山下間を複線化する必要が生じた。ひとまず交通量の増加している[[国道173号]]の拡幅を目的として塩川信号所([[1965年]]廃止) - 畦野間で線路の付け替えと複線化の下地作りが図られることとなり、[[1973年]]に完成。[[1977年]]には平野 - 山下間の複線化が完成した。同じ年には、光風台団地の開発に伴い、光風台駅の新設と駅付近の曲線改良も完成している。[[1983年]]には初めて大型車([[阪急2000系電車|1500系]])を導入し、この際にトンネル断面の不足する笹部隧道は笹部第一隧道に付け替えられた。さらに、[[1997年]]には阪急宝塚線に乗り入れる特急「日生エクスプレス」が新設され、大阪の都心まで特急が直通するようになり現在に至る。
=== 年表 ===
* [[1913年]](大正2年)[[4月13日]] - 能勢口(現在の川西能勢口) - 一ノ鳥居間(現在の一の鳥居)が開業<ref name="sone14 16">[[#sone14|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』14号 16頁]]</ref>。
** 開業当時の停留所は能勢口、絹延橋、滝山、皷ヶ滝(現:鼓滝)、多田、平野、一ノ鳥居であり、皷ヶ滝に離合線路を設置。多田駅付近には[[併用軌道]]があった。
* [[1916年]](大正5年)[[9月5日]] - 滝山 - 皷ヶ滝間に矢問停留場を新設(旧猪名川橋梁の南詰)。
* [[1917年]](大正6年)[[8月8日]] - 池田駅前(のちの川西国鉄前) - 能勢口間が開業<ref name="sone14 16"/>。
* [[1923年]](大正12年)[[11月3日]] - 一ノ鳥居 - 妙見(現在の妙見口)間が開業し全通<ref name="sone14 16"/>。
** 開業当時の停留所は畦野、山下、笹部、隧道東口、妙見であり、畦野、山下、隧道東口に離合線路を設置。
* [[1935年]](昭和10年)[[11月14日]] - 矢問 - 皷ヶ滝間、平野 - 一の鳥居間、隧道東口 - 妙見間の曲線改良。
* [[1948年]](昭和23年)[[6月20日]] - 笹部 - 妙見間で電車二両と貨車一両が絡む衝突事故が発生<ref>『能勢電鉄80年史』 能勢電鉄株式会社、1991年、70, 71頁</ref>。
* [[1952年]](昭和27年)[[6月8日]] - 多田停留所を移転。多田停留所の前後にあった併用軌道を廃止し、新設の専用軌道に切り替え。
<!--* 1952年-[[1965年]]頃 - 隧道東口停留所を信号所に変更。-->
* [[1953年]](昭和28年)[[8月21日]] - 鶯の森停留所を新設<ref name="sone14 16"/>。矢問停留所を廃止。
* [[1955年]](昭和30年)[[5月1日]] - 平野 - 一ノ鳥居間に塩川信号所(停留所?)を新設。
* [[1958年]](昭和33年)[[4月10日]] - 2両編成での運転を開始<ref name="sone14 16"/>。
* [[1959年]](昭和34年)8月21日 - 能勢口以北から池田駅前駅への直通運転を廃止。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[1月25日]] - 塩川信号所を廃止。
** [[4月1日]] - 池田駅前を川西国鉄前に、能勢口を川西に、皷ヶ滝駅を皷滝駅に、妙見を能勢妙見口に改称<ref name="sone14 16"/>。
** [[7月1日]] - 川西を川西能勢口に、能勢妙見口を妙見口に改称<ref name="sone14 16"/>。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[1月17日]] - 車両の集電装置を[[集電装置#トロリーポール|トロリーポール]]から[[集電装置#パンタグラフ|パンタグラフ]]に変更。
** 1月25日 - 平野車庫完成し、絹延橋車庫を廃止<ref name="sone14 16"/>。架線吊下方式をカテナリー式に変更。
** [[4月20日]] - 川西能勢口駅改良完成で0.1km短縮。
** [[12月27日]] - 旧塩川停留所付近の曲線を改良。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[8月9日]] - 一の鳥居駅付近の曲線を改良
** [[11月30日]] - 川西能勢口 - 鶯の森間が複線化<ref name="sone14 16"/>。
** [[12月3日]] - 川西能勢口 - 平野間を[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|通票閉塞]]から自動閉塞に変更<ref name="fuusetsu60">能勢電気軌道株式会社編 『風雪60年』、1970年、139 - 141頁。</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[4月24日]] - 3両編成での運転を開始。
** [[7月7日]] - 隧道東口 - 妙見口間にときわ台停留所を新設<ref name="sone14 16"/>。
** [[7月25日]] - 平野 - 妙見口間を自動閉塞に変更、これにより通票閉塞を全廃<ref name="fuusetsu60" />。
** [[12月5日]] - 多田 - 平野間を新線路に切り替え<ref>『能勢電鉄80年史』、365頁</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[5月25日]] - 鶯の森 - 皷滝間を新線に切替え<ref name="sone14 16"/>、0.1km短縮。同時に皷滝停留所を移転<ref name="sone14 16"/>。
** [[10月5日]] - 鶯の森 - 平野間が複線化<ref name="sone14 16"/>。最高速度を40km/hから60km/hに向上。急行の運転を開始。
* [[1971年]](昭和46年)[[4月7日]] - 川西能勢口 - 平野間で4両編成列車の運転を開始<ref name="sone14 16"/>。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月20日]] - ときわ台駅 - 妙見口駅間で曲線改良、吉川トンネル開通<ref name="sone14 17">[[#sone14|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』14号 17頁]]</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)4月1日 - 一ノ鳥居駅を一の鳥居駅に改称。平野 - 一の鳥居間を新線に切替え<ref name="sone14 17"/>、0.1km短縮。
* [[1974年]](昭和49年)[[5月19日]] - 一の鳥居 - 畦野間を新線に切替え<ref name="sone14 17"/>。
* [[1975年]](昭和50年)[[4月9日]] - 5両編成列車の運転を開始<ref name="sone14 17"/>。
* [[1976年]](昭和51年)[[4月11日]] - 山下駅付近高架化<ref name="sone14 17"/>。0.1km短縮。
* [[1977年]](昭和52年)
** 4月24日 - 平野 - 山下間が複線化<ref name="sone14 17"/>。
** [[10月16日]] - 笹部 - ときわ台間を新線に切替え<ref name="sone14 17"/>、0.1km短縮。隧道東口信号所を廃止。
** 12月27日 - 川西国鉄前 - 妙見口間を[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更<ref name="sone14 17"/>。
* [[1978年]](昭和53年)10月16日 - 笹部 - ときわ台間に光風台駅を新設<ref name="sone14 17"/>。
* [[1981年]](昭和56年)[[12月20日]] - 川西国鉄前 - 川西能勢口間が廃止<ref name="sone14 17"/>。
* [[1983年]](昭和58年)3月20日 - 大型車両導入に対応するため、笹部第一トンネル(旧笹部トンネルに隣接)を使用開始<ref name="sone14 17"/>。
<!--* [[1990年代]] 皷滝駅を鼓滝駅に改称。-->
* [[1988年]](昭和63年)7月2日 - 日中の川西能勢口 - 山下間で、普通列車を20分間隔から10分間隔に増発。
* [[1995年]](平成7年)[[3月26日]] - 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧<ref name="sone14 17" />。
* [[1996年]](平成8年)[[11月16日]] - 朝夕ラッシュ時を除きワンマン運転開始。
* [[1997年]](平成9年)
** [[11月15日]] - 川西能勢口駅付近連続立体交差事業が竣工。
** 11月16日 - ダイヤ改正。特急「日生エクスプレス」を新設(運行開始は翌日から<ref name="sone14 17"/>)。線内最高速度を60km/hから70km/hに向上
* [[2000年]](平成12年)[[6月4日]] - 平日夕方にもワンマン運転実施。
* [[2003年]](平成15年)[[5月6日]] - 日生エクスプレスを除き終日ワンマン運転実施<ref name="sone14 17"/>。
* [[2013年]](平成25年)[[12月21日]] - 全駅に[[駅ナンバリング]]導入。
* [[2017年]](平成29年)[[3月18日]] - 妙見急行・日生急行を廃止<ref name="noseden20170120">{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20170120newsrelease1.pdf 鉄道線のダイヤ改正について]}} - 能勢電鉄、2017年1月20日</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[12月17日]] - 普通列車は川西能勢口 - 日生中央間の運行を基本とし、川西能勢口 - 妙見口間の普通列車の運行を早朝と深夜のみに限定、土曜ダイヤ廃止<ref name=":0" /><ref name="noseden20221012" />。
== 廃止区間(川西国鉄前 - 川西能勢口間) ==
[[ファイル:能勢電車川西国鉄前駅.jpg|thumb|200px|right|川西国鉄前駅におけるさよなら電車。(1981年12月19日)]]
[[ファイル:国鉄連絡線モニュメント.JPG|thumb|200px|廃止を記念したモニュメント]]
かつては、川西能勢口駅<ref name="sta. name">川西国鉄前駅、川西能勢口駅、妙見口駅は1965年まで、それぞれ池田駅前駅、能勢口駅、妙見駅と呼称。また、川西池田駅は1951年まで池田駅と呼称</ref>から[[日本国有鉄道|国鉄]][[川西池田駅]]<ref name="sta. name"/>前にある[[川西国鉄前駅]]<ref name="sta. name"/>まで能勢電鉄の路線が延びていた。両駅の間は徒歩で連絡できる範囲にあるため<ref>ただし[[1980年]]まで川西池田駅は現在の位置よりも200m福知山寄りにあり、川西能勢口駅とは現在よりも離れていた</ref>、能勢電鉄の当該区間も744mに過ぎなかったが、線路の付け替えを除けば能勢電鉄で唯一の廃止区間となっている。「歴史」節で解説したように、三ツ矢サイダーを始めとする貨物輸送を目的として開業し、一時は同区間の収入が全体の収入の20%を占め<ref>『ひょうご懐かしの鉄道 廃線ノスタルジー』 神戸新聞総合出版センター、2005年、84頁</ref>、苦境に立たされていた能勢電軌の経営を支えていたこともある。
しかし、昭和に入ると貨物輸送は次第にトラックに置き換えられ、戦後には全廃された。また、池田駅前<ref name="sta. name"/>から妙見駅<ref name="sta. name"/>までの全線を通しで運転する旅客列車も[[1955年]]には朝夕のみとなり、[[1959年]]には全廃。以降、川西国鉄前駅 - 川西能勢口駅間は同区間での折り返し運転のみとなり、完全な[[盲腸線]]と化した。車両は「本線」の車両大型化以降も小型車が使用され、1959年から[[1966年]]までは[[能勢電気軌道31形電車|31形]]31・32、1966年から廃線までは[[能勢電気軌道50形電車|50形]]51と[[能勢電気軌道50形電車|60形]]61が専用車両としてあてがわれた<ref>『能勢電鉄80年史』、210頁</ref>。ただし、末期においては61は予備車扱いで、もっぱら51が使用されていた<ref>『レイル No. 24』 エリエイ出版部/プレス・アイゼンバーン、1989年、28頁</ref>。
当時は連絡する国鉄[[福知山線]]の本数も少なく、利用増の見込めない当該区間は、[[1975年]]2月以降は朝3往復・夕2往復にまで減便され(日祝日はさらに朝一往復減便<ref name="寺田">寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』、[[JTBパブリッシング]]、2008年、102頁。ISBN 978-4-533-07145-4</ref>)、川西能勢口駅付近の駅前再開発や連続立体化事業に伴って[[1981年]]に廃止となった。廃線跡は住宅地や駅前広場などに消え<ref name="寺田"/>、その痕跡を認めることは難しいが、川西能勢口駅前には廃止を記念したモニュメントなどが設置され、かろうじて鉄道が走っていたことが窺い知れる。
== 未成に終わった延長計画 ==
かつて能勢口(現・川西能勢口)から[[阪急伊丹線]][[伊丹駅 (阪急)|伊丹駅]]までの延長計画が存在した。[[1922年]](大正11年)12月に能勢電軌は同区間の免許を申請。兵庫県側は難色を示したが、政府は翌年6月に免許を下付し、これを受けて能勢電軌は測量・設計に手を付け、[[1924年]]4月に軌道工事施行認可申請を提出した。しかし、兵庫県は延長部分と県道との交差部が県の指示に沿ったものでないとして、この申請書を県のもとに12年間もの間留め置いた。1935年4月に県はようやく申請書を鉄道大臣および内務大臣に通達するが、認可されるはずもなく翌年4月には却下された。戦後の[[1956年]](昭和31年)に延長計画は再び取り沙汰されるが、建設予定地の市街地化が進み、もはや用地取得は困難になっていたため、[[1958年]](昭和33年)に延長の計画は正式に断念された。
<!--『川西市史第三巻』p.290, 292-->
なお、この他に吉川(妙見口駅)から妙見鋼索鉄道(後の妙見の森ケーブル)黒川駅までの延長線を[[1925年]]に、同じく吉川から[[亀岡駅|亀岡]]までの延長線を[[1949年]]に申請しているが、いずれも断念している<ref>岡本弥・高間恒雄 『能勢電むかしばなし』 ネコ・パブリッシング、2008、4, 5頁。ISBN 978-4-7770-5233-2</ref>。
<!--摂丹鉄道は別会社を立てて建設する予定であったため、この項における記載対象ではないと思われる-->
== 駅一覧 ==
*特急 …'''特急「日生エクスプレス」''':平日朝に日生中央発阪急大阪梅田行き、平日夕方に阪急大阪梅田発日生中央行きを運転
*普通列車は各駅に停車するため省略
;凡例
: 特急 … ●:停車、|:通過
: 線路 … ∥・‡:複線(‡:上り線のみ[[待避駅|列車待避]]可能駅)、∨:ここから下は単線、◇・|:単線(◇は[[列車交換]]可能)
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px green"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px green"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|営業キロ
!style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:solid 3px green"|{{縦書き|特急}}
!style="border-bottom:solid 3px green"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px green"|{{縦書き|線路}}
!style="border-bottom:solid 3px green;white-space:nowrap;"|所在地
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="4"|'''川西能勢口駅から'''<br />○特急「日生エクスプレス」…[[ファイル:Number_prefix_Hankyu_Takarazuka_line.svg|18x18ピクセル|HK]] [[阪急宝塚本線]][[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]まで
|-
!NS01
|[[川西能勢口駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|[[阪急電鉄]]:[[ファイル:Number_prefix_Hankyu_Takarazuka_line.svg|18x18ピクセル|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]] (HK-50)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線|福知山線(JR宝塚線)]]([[川西池田駅]]: JR-G54)
|∥
|rowspan="11"|[[兵庫県]]<br />[[川西市]]
|-
!NS02
|[[絹延橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|
|∥
|-
!NS03
|[[滝山駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|
|∥
|-
!NS04
|[[鶯の森駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
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|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|
|∥
|-
!NS05
|[[鼓滝駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
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|
|∥
|-
!NS06
|[[多田駅 (兵庫県)|多田駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|4.2
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|
|∥
|-
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|[[平野駅 (兵庫県)|平野駅]]
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|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|
|‡
|-
!NS08
|[[一の鳥居駅]]
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|∥
|-
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|
|∥
|-
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|[[山下駅 (兵庫県)|山下駅]]
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|[[能勢電鉄]]:[[ファイル:Number_prefix_Nose_Railway_line.png|18x18ピクセル|NS]] [[能勢電鉄日生線|日生線]]
|∨
|-
!NS11
|[[笹部駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|8.6
| rowspan="4" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|日生線直通}}
|
||
|-
!NS12
|[[光風台駅 (大阪府)|光風台駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|10.3
|
|◇
|rowspan="3"|[[大阪府]]<br />[[豊能郡]]<br />[[豊能町]]
|-
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|[[ときわ台駅 (大阪府)|ときわ台駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|11.2
|
||
|-
!NS14
|[[妙見口駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
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|
|◇
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="4"|'''山下駅から'''<br />○特急「日生エクスプレス」…日生線[[日生中央駅]]まで
|}
* 鶯の森駅 - 鼓滝駅の一部で大阪府[[池田市]]を通過する。
=== 過去の接続路線 ===
* 妙見口駅:[[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見の森ケーブル]]([[黒川駅 (兵庫県)|黒川駅]])
=== 廃止区間 ===
川西能勢口駅 - [[川西国鉄前駅]]
=== 廃駅 ===
* 矢問駅(滝山駅 - 鶯の森駅間)- 1953年8月21日、鶯の森停留所の新設に伴い廃止
* 塩川信号所(平野駅 - 一の鳥居駅間)- 1965年1月25日廃止。
* 隧道東口信号所(笹部駅 - ときわ台駅間) - 1977年10月16日廃止。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 能勢電鉄株式会社編 『能勢電鉄100年史』、2008年、21, 26, 30 - 41, 49, 151 - 173頁。
* 川西市史編集専門委員会編 『かわにし 川西市史第三巻』、1980年、276頁 - 282, 290, 292頁。
* 佐藤信之 「能勢電鉄の現状と輸送力増強の軌跡」『鉄道ジャーナル』2006年1月号、2006年、146 - 149頁。
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=14号 神戸電鉄・能勢電鉄・北条鉄道・北近畿タンゴ鉄道|date=2011-06-19|ref=sone14}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[メタルギアソリッド]] - コナミの戦略諜報アクションゲーム。このゲームに登場する[[サイボーグ忍者]]が当線の駅名を「川西能勢口、絹延橋、滝山、鴬の森、鼓滝…」と終点の妙見口まで呪文のように呟いている。またその後のシリーズにおいても駅名の羅列が定番ネタとなっている。シリーズの監督[[小島秀夫 (ゲームデザイナー)|小島秀夫]]がかつて沿線に住んでいたことが由来。
{{DEFAULTSORT:のせてんてつみようけんせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|みようけんせん]]
[[Category:能勢電鉄|路みようけんせん]]
[[Category:部分廃止路線|みようけんせん]]
[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:大阪府の交通]]
|
2003-09-29T15:50:38Z
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18,750 |
能勢電鉄日生線
|
日生線(にっせいせん)は、兵庫県川西市の山下駅から兵庫県川辺郡猪名川町の日生中央駅までを結ぶ能勢電鉄の鉄道路線である。
川西市・猪名川町の両市町にまたがる地域に、日本生命保険・新星和不動産が開発した阪急日生ニュータウンへのアクセスのために建設された。路線の約34%がトンネルとなっている。それ以外の部分の大半は高架線で、踏切は1つもない。
山下駅で妙見線に乗り入れて川西能勢口駅に直通する列車が中心に運行されている。早朝と深夜には線内折り返し列車があり、早朝の下り始発と深夜の上り最終列車以外は妙見線妙見口 - 川西能勢口間で運行されている列車に接続する。平日朝夕のラッシュ時には、阪急宝塚線直通の特急「日生エクスプレス」が日生中央 - 川西能勢口 - 阪急大阪梅田間に運転されている。日生エクスプレスを除く全ての列車がワンマン列車である。
日生中央駅南方にある山の原ゴルフクラブで開催されるつるやオープンゴルフトーナメントの開催期間中において、臨時ダイヤを組むことがある。
日生エクスプレスの運行の無い土曜日には、日生急行が川西能勢口行きのみ運行されていたが、2017年3月18日のダイヤ改正で廃止された。ただし、ダイヤ乱れが発生した場合には当路線で通常運行している4両編成により同一の時刻と停車駅で日生急行として川西能勢口駅から運行することがある。なお、この場合でも駅ホームの発車表示では「特急」と表示される。
日生線建設当時、土地を提供した一庫自治会が日生中央 - 山下間に駅の設置を要望しており、1985年には早期開発を目指すとする協定書を締結したものの、利用客が見込めないことから断念されている。2008年12月10日には川西市議会で再び新駅設置の計画が発表されている。
日生中央駅ホームを過ぎると2本の留置線がある。この留置線を本線とし、更に猪名川パークタウン(イオンモール猪名川の付近)まで延伸する計画案がかつてあったものの、環境問題などから頓挫している。
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日生線(にっせいせん)は、兵庫県川西市の山下駅から兵庫県川辺郡猪名川町の日生中央駅までを結ぶ能勢電鉄の鉄道路線である。 川西市・猪名川町の両市町にまたがる地域に、日本生命保険・新星和不動産が開発した阪急日生ニュータウンへのアクセスのために建設された。路線の約34%がトンネルとなっている。それ以外の部分の大半は高架線で、踏切は1つもない。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Noseden-logo.svg|20px|link=能勢電鉄]] 日生線
|路線色 = green
|画像 = Nissei Line.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 日生線を走る列車
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|終点 = [[日生中央駅]]
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|所有者 = [[能勢電鉄]]
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|使用車両 = [[能勢電鉄#車両]]を参照
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|閉塞方式 = 自動閉塞式
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|最高速度 = 80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="nenpu">[https://noseden.hankyu.co.jp/company/chronicle03.html 年譜] - 能勢電鉄</ref>
|路線図 = Nose Electric Railway Linemap.svg
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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|map=
{{BS|KHSTa|||HK-01 [[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]([[阪急電鉄|阪急]])|}}
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'''日生線'''(にっせいせん)は、[[兵庫県]][[川西市]]の[[山下駅 (兵庫県)|山下駅]]から兵庫県[[川辺郡]][[猪名川町]]の[[日生中央駅]]までを結ぶ[[能勢電鉄]]の[[鉄道路線]]である。
川西市・猪名川町の両市町にまたがる地域に、[[日本生命保険]]・[[新星和不動産]]が開発した[[阪急日生ニュータウン]]へのアクセスのために建設された。路線の約34%がトンネルとなっている。それ以外の部分の大半は高架線で、踏切は1つもない。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):2.6km<ref name="sone14 3">[[#sone14|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』14号 3頁]]</ref>
* [[軌間]]:1435mm<ref name="sone14 3"/>
* 駅数:2駅(起終点駅含む)<ref name="sone14 3"/>
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:80km/h<ref name="nenpu" />
== 運行形態 ==
山下駅で[[能勢電鉄妙見線|妙見線]]に乗り入れて川西能勢口駅に直通する列車が中心に運行されている。早朝と深夜には線内折り返し列車があり、早朝の下り始発と深夜の上り最終列車以外は妙見線妙見口 - 川西能勢口間で運行されている列車に接続する。平日朝夕のラッシュ時には、[[阪急宝塚本線|阪急宝塚線]]直通の特急「[[日生エクスプレス]]」が日生中央 - 川西能勢口 - [[大阪梅田駅 (阪急)|阪急大阪梅田]]間に運転されている。日生エクスプレスを除く全ての列車が[[ワンマン運転|ワンマン列車]]である。
日生中央駅南方にある山の原ゴルフクラブで開催される[[つるやオープンゴルフトーナメント]]の開催期間中において、臨時ダイヤを組むことがある。
日生エクスプレスの運行の無い土曜日には、日生急行が川西能勢口行きのみ運行されていたが、2017年3月18日のダイヤ改正で廃止された<ref name="noseden20170120" />。ただし、ダイヤ乱れが発生した場合には当路線で通常運行している4両編成により同一の時刻と停車駅で日生急行として川西能勢口駅から運行することがある。なお、この場合でも駅ホームの発車表示では「特急」と表示される。
== 歴史 ==
* [[1976年]](昭和51年)[[5月20日]] - 起工式。
* [[1978年]](昭和53年)[[12月12日]] - 山下 - 日生中央間が開業<ref name="sone14 17">[[#sone14|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』14号 17頁]]</ref>。
* [[1995年]]([[平成]]7年)[[3月26日]] - 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧<ref name="sone14 17"/>。
* [[1997年]](平成9年)[[11月16日]] - ダイヤ改正。最高速度を60km/hから80km/hに向上。特急「日生エクスプレス」を新設(翌日から運行開始<ref name="sone14 17"/>)。平日日中および土休日にワンマン運転を開始<ref name=nose>『能勢電鉄100年史』 能勢電鉄株式会社、2008年、49頁。</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[6月4日]] - 平日夕方においてワンマン運転を開始<ref name=nose/>。
* [[2003年]](平成15年)[[5月6日]] - 日生エクスプレスを除き終日ワンマン運転を開始<ref name="sone14 17"/>。
* [[2013年]](平成25年)[[12月21日]] - 全駅に[[駅ナンバリング]]導入。
* [[2017年]](平成29年)[[3月18日]] - 日生急行を廃止<ref name="noseden20170120">{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20170120newsrelease1.pdf 鉄道線のダイヤ改正について]}} - 能勢電鉄、2017年1月20日</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[12月17日]] - ダイヤ改正。妙見線に直通する列車を基本とし、線内折り返し列車を早朝と深夜のみに限定、土曜ダイヤ廃止<ref name="noseden20221012">{{Cite press release|和書|title=鉄道線のダイヤ改正について|publisher=能勢電鉄|date=2022-10-12|url=https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202210121.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[兵庫県]]内に所在。
* 特急「日生エクスプレス」:平日朝に日生中央発阪急大阪梅田行き、平日夕方に阪急大阪梅田発日生中央行きを運転。日生線内は各駅に停車。妙見線内の停車駅は「[[能勢電鉄妙見線]]」を参照。
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|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px green"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px green"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px green"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px green"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px green"|所在地
|-
!colspan="3"|直通運転区間
|colspan="2"|'''山下駅から'''<br />○特急「日生エクスプレス」…妙見線経由で[[ファイル:Number_prefix_Hankyu_Takarazuka_line.svg|18x18ピクセル|HK]] [[阪急宝塚本線]][[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]まで
|-
!NS10
|[[山下駅 (兵庫県)|山下駅]]
|style="text-align: right;"|0.0
|能勢電鉄:[[ファイル:Number_prefix_Nose_Railway_line.png|18x18ピクセル|NS]] [[能勢電鉄妙見線|妙見線]]
|[[川西市]]
|-
!NS21
|[[日生中央駅]]
|style="text-align: right;"|2.6
|
|[[川辺郡]]<br>[[猪名川町]]
|}
== 新駅計画 ==
日生線建設当時、土地を提供した一庫自治会が日生中央 - 山下間に駅の設置を要望しており、1985年には早期開発を目指すとする協定書を締結したものの、利用客が見込めないことから断念されている<ref>[https://web.archive.org/web/20091010172341/http://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/0001608471.shtml 動き始めた新駅計画 能勢電鉄「日生中央-山下」間] 神戸新聞 2008年12月11日</ref>。2008年12月10日には[[川西市議会]]で再び新駅設置の計画が発表されている<ref>[https://web.archive.org/web/20081220222813/http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK200812100056.html 「日生中央駅と山下駅の間に新駅 能勢電鉄が計画」] asahi.com 2008年12月11日付 [http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK200812100056.html オリジナル]の2008年12月20日時点によるアーカイブ。</ref>。
<!--計画は進展していない模様-->
== 延伸計画 ==
[[ファイル:The end of Nissei-chuo stn.jpg|thumb|right|250px|日生中央駅の留置線末端部]]
日生中央駅ホームを過ぎると2本の留置線がある。この留置線を本線とし、更に[[猪名川パークタウン]]([[イオンモール猪名川]]の付近)まで延伸する計画案がかつてあったものの、環境問題などから頓挫している{{要出典|date=2011年10月}}。
== 脚注 ==
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{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=14号 神戸電鉄・能勢電鉄・北条鉄道・北近畿タンゴ鉄道|date=2011-06-19|ref=sone14}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
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[[Category:能勢電鉄|路につせいせん]]
[[Category:兵庫県の交通|のせてんてつにつせいせん]]
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18,751 |
能勢電鉄妙見の森ケーブル
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妙見の森ケーブル(みょうけんのもりケーブル)は、兵庫県川西市の黒川駅からケーブル山上駅に至る能勢電鉄が運営していたケーブルカー路線である。2013年3月16日に妙見ケーブルから改称した。正式な路線名称は鋼索線(こうさくせん)であるが、国土交通省監修の『鉄道要覧』に路線名称は記載されていない。2023年12月3日限りで営業を終了し、翌12月4日に廃止された。
能勢妙見堂のある妙見山への足である。山上へはさらにケーブル山上駅から5分ほど歩いたふれあい広場駅から出ている妙見の森リフトに乗り継ぐ。
1067mm軌間の多い日本のケーブルカーとしては珍しく標準軌を採用していた。車両は1号車に「ほほえみ」、2号車に「ときめき」という愛称がついている。車両はナニワ工機製(アルナ工機を経て現在はアルナ車両)で、1960年の再開業時の車両である。
通常は20分間隔の運行で、多客期は臨時便で対応することもあった。所要時間は5分。
2006年12月から、冬期は年始(正月三が日)と能勢妙見堂の行事がある2月11日の祝日および「のせでんハイキング」の日を除き、週末も含めて運休するようになった。
2022年3月から、祝日と行楽期を除く水曜・木曜が定休日となっていた。
1919年、東谷村、多田村、川西村(いずれも現在の川西市)の有志8名が妙見山の麓から山上までを結ぶ妙見鋼索鉄道を申請したが、能勢電気軌道(現在の能勢電鉄)も同様の計画を持っていたので、交渉の結果、能勢電気軌道が妙見鋼索鉄道の資本金の半分を出資することになった。1922年に鋼索線の免許状が下付され、1924年に鋼索線と能勢電気軌道妙見駅(妙見口駅)を連絡すべく電気鉄道線(軌間1435mm、距離1哩24鎖、建設費15万円)の免許を得た(1937年免許失効)。1925年になり完成した鋼索線(ケーブルカー)は滝谷 - 中間間の下部線と中間 - 妙見山間の上部線からなり、年間約37万人の乗客を運んだが、戦時中に不要不急線として全線の撤去という憂き目に遭うことになる。ちなみに、このとき撤去された上部線の機材は、戦後1956年に開通した十国峠ケーブルカー(静岡県)に転用され、現在も1925年の製造当時のまま使用されている。
戦後、妙見線の乗客誘致策の一環として能勢電気軌道により下部線が復活され、現在の妙見の森ケーブルとなる(上部線は妙見の森リフトに代替)。妙見の森ケーブル・リフトの乗客は1974年度には20万人近くに達したものの、阪急池田駅から山頂に直通する路線バス(阪急バス東能勢線)の存在や、能勢妙見堂への参拝客自体の減少により、戦前の1/2 - 1/3程度に留まり、以後は減少傾向が続いた。一方で、妙見の森ケーブル・リフトの存在は阪急池田駅から山頂に直通する阪急バス東能勢線を減便や廃止に追い込んだ。
2023年6月23日、施設自体の老朽化が進み、大規模な更新投資が必要となる見込みであり、厳しい経営環境が続く状況で今後の営業継続が困難であるとして、妙見の森リフトやバーベキュー施設などを含めた妙見の森関連事業の営業終了を発表し、あわせて国土交通省近畿運輸局に2024年6月24日を廃止予定日とする鋼索鉄道事業の廃止届を提出した。能勢電鉄は当初から、意見聴取の結果公衆の利便を阻害するおそれがないと認められた場合には廃止日を繰り上げることを示唆しており、2023年12月の冬季休業期間前後にあわせて廃止したい意向を示していた。その後2023年9月12日に廃止日を繰り上げても公衆の利便を阻害するおそれがないと近畿運輸局から認められ、能勢電鉄は9月22日に廃止日を同年12月4日(最終営業日:同年12月3日)に繰り上げる届け出を行った。
黒川駅が麓側、ケーブル山上駅が名前の通り山上側に位置した。戦前の下部線の撤去前には、黒川駅を滝谷駅、ケーブル山上駅を中間駅と称し、中間駅が下部線と上部線との乗り換え駅となっていた。かつての妙見山駅の位置には、同じ名前で妙見の森リフトの乗り場が設置されていた。
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妙見の森ケーブル(みょうけんのもりケーブル)は、兵庫県川西市の黒川駅からケーブル山上駅に至る能勢電鉄が運営していたケーブルカー路線である。2013年3月16日に妙見ケーブルから改称した。正式な路線名称は鋼索線(こうさくせん)であるが、国土交通省監修の『鉄道要覧』に路線名称は記載されていない。2023年12月3日限りで営業を終了し、翌12月4日に廃止された。 能勢妙見堂のある妙見山への足である。山上へはさらにケーブル山上駅から5分ほど歩いたふれあい広場駅から出ている妙見の森リフトに乗り継ぐ。 1067mm軌間の多い日本のケーブルカーとしては珍しく標準軌を採用していた。車両は1号車に「ほほえみ」、2号車に「ときめき」という愛称がついている。車両はナニワ工機製(アルナ工機を経て現在はアルナ車両)で、1960年の再開業時の車両である。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Noseden-logo.svg|20px|link=能勢電鉄]] 鋼索線
|路線色 = #451C1D<!-- 阪急マルーン -->
|画像 = 妙見ケーブル黒川駅ホーム.JPG
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 黒川駅に停車中の1号車「ほほえみ」
|通称 = 妙見の森ケーブル
|種類 = [[ケーブルカー|鋼索鉄道]](単線2両交走式)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[兵庫県]][[川西市]]
|起点 = 黒川駅
|終点 = ケーブル山上駅
|駅数 = 2駅
|開業 = [[1925年]][[8月1日]]
|項目1 = 廃止
|日付1 = [[1944年]][[2月11日]]
|項目2 = 再開
|日付2 = [[1960年]][[4月22日]](下部線のみ)
|項目3 = 再廃止 <!-- 再開より後に表示させるため項目1・2・3を使用 -->
|日付3 = [[2023年]][[12月4日]]
|所有者 = [[能勢電鉄]]
|運営者 = 能勢電鉄
|使用車両 = 1号車「ほほえみ」、2号車「ときめき」
|路線距離 = 0.6 [[キロメートル|km]]
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|路線図 =
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{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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{{BS2|KBHFa||0.0|黒川駅||標高 237 m}}
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'''妙見の森ケーブル'''(みょうけんのもりケーブル)は、[[兵庫県]][[川西市]]の黒川駅からケーブル山上駅に至る[[能勢電鉄]]が運営していた[[ケーブルカー]]路線である。2013年3月16日に'''妙見ケーブル'''から改称した<ref name="noseden20130228" />。正式な路線名称は'''鋼索線'''(こうさくせん)であるが、国土交通省監修の『[[鉄道要覧]]』に路線名称は記載されていない。2023年12月3日限りで営業を終了し、翌12月4日に廃止された<ref name="noseden230922" /><ref name="mainichi20231203">{{Cite news |title=妙見山ケーブル、約100年の歴史に幕 惜別のファンが長い列 |newspaper=毎日新聞 |date=2023-12-03 |url=https://mainichi.jp/articles/20231203/k00/00m/040/082000c |access-date=2023-12-04 |publisher=毎日新聞社 |language=ja}}</ref>。
[[能勢妙見山 (日蓮宗)|能勢妙見堂]]のある[[妙見山 (大阪府・兵庫県)|妙見山]]への足である。山上へはさらにケーブル山上駅から5分ほど歩いたふれあい広場駅から出ている[[妙見の森リフト]]に乗り継ぐ。
[[3フィート6インチ軌間|1067mm軌間]]の多い日本のケーブルカーとしては珍しく[[標準軌]]を採用していた{{Efn|標準軌の日本のケーブルカーは、当ケーブルカーの他に2023年時点で当ケーブルカーの旧・上部線の機材を転用して開業した[[十国峠十国鋼索線]](十国峠ケーブルカー)があるのみであり、当ケーブルカーが廃止されたことで十国峠ケーブルカーが日本国内で唯一の標準軌のケーブルカーとなった。}}。車両は1号車に「ほほえみ」、2号車に「ときめき」という愛称がついている。車両はナニワ工機製(アルナ工機を経て現在は[[アルナ車両]])で、1960年の再開業時の車両である。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):0.6km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:2駅(起終点駅含む)
* 高低差:229m<!-- 公式サイトに223mとあるが? -->
* 最急勾配:424[[パーミル|‰]](約22[[度 (角度)|°]]58[[分 (角度)|′]])
* 最緩勾配:151‰
<gallery>
File:Myoken Cable 1 Hohoemi 201708.jpg|1号車「ほほえみ」(2017年8月)
File:Myoken Cable.jpg|1号車「ほほえみ」(2007年11月)
File:能勢電鉄 妙見ケーブル-03.jpg|1号車(1991年5月)
File:Kurokawa Station of Myoken Cable.jpg|2号車「ときめき」(2017年8月)
File:能勢電鉄 妙見ケーブル-02.jpg|2号車(1991年5月)
</gallery>
== 運行形態 ==
通常は20分間隔の運行で、多客期は臨時便で対応することもあった。所要時間は5分。
2006年12月から、冬期は年始([[正月三が日]])と能勢妙見堂の行事がある2月11日の祝日および「のせでんハイキング」の日を除き、週末も含めて運休するようになった。
2022年3月から、祝日と行楽期を除く水曜・木曜が定休日となっていた<ref>{{Cite press release|title=『妙見の森』の営業に関するご案内|publisher=能勢電鉄|date=2022-02-01|url=https://noseden.hankyu.co.jp/news/9861f87a9eaf400.html|language=ja|access-date=2023-08-04}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1919年]]、東谷村、多田村、川西村(いずれも現在の[[川西市]])の有志8名が妙見山の麓から山上までを結ぶ'''妙見鋼索鉄道'''を申請したが、能勢電気軌道(現在の能勢電鉄)も同様の計画を持っていたので、交渉の結果、能勢電気軌道が妙見鋼索鉄道の資本金の半分を出資することになった。1922年に鋼索線の免許状が下付され、1924年に鋼索線と能勢電気軌道妙見駅([[妙見口駅]])を連絡すべく電気鉄道線(軌間1435mm、距離1哩24鎖、建設費15万円)の免許を得た(1937年免許失効){{Efn|計画線の大部分は山間地であり建設には比較的多額の工費を要し、開業の初期においては収支相償し難きと申請書に記載されている<ref>「吉川村東谷村間延長線敷設免許ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・妙見鋼索鉄道・巻一・大正十一年~大正十五年』</ref>}}。[[1925年]]になり完成した鋼索線(ケーブルカー)は滝谷 - 中間間の下部線と中間 - 妙見山間の上部線からなり、年間約37万人の乗客を運んだが、戦時中に[[不要不急線]]として全線の撤去という憂き目に遭うことになる。ちなみに、このとき撤去された上部線の機材は、戦後[[1956年]]に開通した[[十国峠十国鋼索線|十国峠ケーブルカー]]([[静岡県]])に転用され、現在も1925年の製造当時のまま使用されている。
戦後、妙見線の乗客誘致策の一環として能勢電気軌道により下部線が復活され、現在の妙見の森ケーブルとなる(上部線は[[妙見の森リフト]]に代替)。妙見の森ケーブル・リフトの乗客は1974年度には20万人近く<ref name="mainichi20231203" />に達したものの、[[阪急電鉄|阪急]][[池田駅 (大阪府)|池田駅]]から山頂に直通する路線バス([[阪急バス]][[阪急バス豊能営業所#東能勢線|東能勢線]])の存在や、能勢妙見堂への参拝客自体の減少により、戦前の1/2 - 1/3程度に留まり、以後は減少傾向が続いた。一方で、妙見の森ケーブル・リフトの存在は阪急池田駅から山頂に直通する阪急バス東能勢線を減便や廃止に追い込んだ。
[[2023年]][[6月23日]]、施設自体の老朽化が進み、大規模な更新投資が必要となる見込みであり、厳しい経営環境が続く状況で今後の営業継続が困難であるとして、妙見の森リフトや[[バーベキュー]]施設などを含めた妙見の森関連事業の営業終了を発表し、あわせて[[国土交通省]][[近畿運輸局]]に[[2024年]][[6月24日]]を廃止予定日とする鋼索鉄道事業の廃止届を提出した<ref name="noseden20230623">{{Cite press release|title=妙見山で展開する「妙見の森関連事業」の終了および 鋼索線(ケーブル)の廃止届の提出について|publisher=能勢電鉄|date=2023-06-23|url=https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202306231.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-06-24}}</ref><ref name="mlit20230623">[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/content/000298046.pdf 能勢電鉄株式会社の鉄道事業(鋼索鉄道)を廃止する届出] 近畿運輸局(2023年6月23日)</ref>。能勢電鉄は当初から、意見聴取の結果公衆の利便を阻害するおそれがないと認められた場合には廃止日を繰り上げることを示唆しており、2023年12月の冬季休業期間前後にあわせて廃止したい意向を示していた<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF2368T0T20C23A6000000/ 能勢電鉄、妙見山事業撤退へ ケーブルカー廃止を届け出]」『日本経済新聞』2023年6月23日</ref>。その後2023年9月12日に廃止日を繰り上げても公衆の利便を阻害するおそれがないと近畿運輸局から認められ<ref>{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/content/000302901.pdf 能勢電鉄株式会社の鉄道事業(鋼索鉄道)を廃止する届出に係る 廃止の日の繰り上げの是非の通知について]}} - 国土交通省 2023年9月12日</ref>、能勢電鉄は9月22日に廃止日を同年12月4日(最終営業日:同年12月3日)に繰り上げる届け出を行った<ref name="noseden230922">{{PDFlink|[https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202309221.pdf 妙見山で展開する「妙見の森関連事業」の営業終了の繰上げ および 鋼索線(ケーブル)の廃止繰上届の提出について]}} - 能勢電鉄 2023年9月22日</ref>。
* [[1922年]]([[大正]]11年)
** [[2月18日]] - 妙見鋼索鉄道発起人に対し鉄道免許状下付<ref>[{{NDLDC|2954979/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1922年2月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[5月29日]] - 妙見鋼索鉄道株式会社設立<ref>[{{NDLDC|1190630/73}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|1077392/495}} 『日本全国諸会社役員録. 第42回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。能勢電気軌道も出資<ref name="kawanishi-p283">川西市史編集専門委員会『川西市史』第三巻、兵庫県川西市、1980年、p.283</ref>。
* [[1924年]](大正13年)
** 7月18日 - 鉄道延長敷設免許状下付(大阪府豊能郡[[吉川村 (大阪府)|吉川村]]-兵庫県[[川辺郡]][[東谷村 (兵庫県)|東谷村]]間)<ref>[{{NDLDC|2955723/4}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年7月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。自社鋼索線と能勢電気軌道妙見線との連絡。
** 11月30日 - 工事竣工期限延期許可(1回目)(理由 工事困難ノ為 期限1925年5月31日迄)<ref>No.11「黒川妙見山間工事竣功期限延期ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・妙見鋼索鉄道・巻一・大正十一年~大正十五年』</ref>
* 1925年(大正14年)
** 6月16日 - 工事竣工期限延期許可(2回目)(理由 土木工事方法変更申請中ノ為 期限1925年8月31日迄)<ref>No.12「黒川妙見山間工事竣功期限延期ノ件」『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・妙見鋼索鉄道・巻一・大正十一年~大正十五年』</ref>
** [[8月1日]] - 妙見鋼索鉄道 下部線滝谷 - 中間間、上部線中間 - 妙見山間開業<ref>[{{NDLDC|2956038/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年8月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1937年]](昭和12年)2月5日 - 鉄道免許失効(大阪府豊能郡吉川村-兵庫県川辺郡東谷村間、指定の期限まで工事施工の認可申請を為さざるため)<ref>[{{NDLDC|2959508/7}} 「鉄道免許失効」『官報』1937年2月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1944年]]([[昭和]]19年)[[2月11日]] - 妙見鋼索鉄道 下部線・上部線を[[不要不急線]]として廃止。資材は供出<ref name="kawanishi-p386">川西市史編集専門委員会『川西市史』第三巻、兵庫県川西市、1980年、p.386</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)[[4月1日]] - 妙見鋼索鉄道株式会社が解散<ref name="kawanishi-p386" />。
* [[1949年]](昭和24年) - ケーブルカー再建のため能勢妙見鋼索鉄道株式会社設立<ref name="kawanishi-p568">川西市史編集専門委員会『川西市史』第三巻、兵庫県川西市、1980年、p.568</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)[[5月18日]] - 能勢妙見鋼索鉄道が下部線・上部線の敷設免許取得<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成十八年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.189</ref><ref name="moriguchi">森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』、JTB、2001年、p.178</ref><ref name="kawanishi-p568" />。
* [[1952年]](昭和27年)4月 - 能勢妙見鋼索鉄道が下部線・上部線の敷設免許を能勢電気軌道に譲渡<ref name="moriguchi" /><ref name="kawanishi-p568" />。
* [[1959年]](昭和34年)[[6月16日]] - 上部線の敷設免許失効<ref name="moriguchi" />。リフトに変更するため。
* [[1960年]](昭和35年)[[4月22日]] - 能勢電気軌道が黒川 - 山上間を再開業<ref name="youran" /><ref name="kawanishi-p568" />。
* [[1965年]](昭和40年)[[4月1日]] - 山上駅をケーブル山上駅に改称<ref name="kawanishi-p571">川西市史編集専門委員会『川西市史』第三巻、兵庫県川西市、1980年、p.571</ref>。
* [[2013年]]([[平成]]25年)[[3月16日]] - 「妙見ケーブル」から「妙見の森ケーブル」に改称<ref name="noseden20130228">{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_detail/noseden/information/newsrelease20130228.pdf 妙見山の各施設が生まれ変わります!]}} - 能勢電鉄ニュースリリース、2013年2月28日</ref>。
* [[2023年]]([[令和]]5年)
** [[6月23日]] - 能勢電鉄が国土交通大臣宛てに全線の鉄道事業廃止届を提出<ref name="noseden20230623" /><ref name="mlit20230623" />。
** 12月4日 - 全線 (0.6 km) の運輸営業を廃止<ref name="noseden230922"/>。
== 駅一覧 ==
{{maplink2|frame=yes|zoom=13|frame-width=300
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|coord={{coord|34|55|18.3|N|135|27|3.3|E}}|title=黒川駅
|coord2={{coord|34|55|25.8|N|135|27|25.6|E}}|title2=ケーブル山上駅
|coord3={{coord|34|55|27|N|135|27|35.4|E}}|title3=ふれあい広場乗り場
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黒川駅が麓側、ケーブル山上駅が名前の通り山上側に位置した。戦前の下部線の撤去前には、黒川駅を'''滝谷駅'''、ケーブル山上駅を'''中間駅'''と称し、中間駅が下部線と上部線との乗り換え駅となっていた。かつての妙見山駅の位置には、同じ名前で妙見の森リフトの乗り場が設置されていた。
; 鋼索線(旧下部線)
: [[黒川駅 (兵庫県)|黒川駅]] ({{ウィキ座標|34|55|18.3|N|135|27|3.3|E|region:JP_type:railwaystation|地図|name=黒川駅}}) - [[ケーブル山上駅 (妙見山)|ケーブル山上駅]]({{Coord|34|55|25.8|N|135|27|25.6|E|region:JP_type:railwaystation|name=ケーブル山上駅}})
; 上部線(廃止)
: 中間駅 - 妙見山駅
<gallery>
ファイル:Myoken Cable Kurokawa Station 201708.jpg|黒川駅
File:Cable Sanjo Station of Myoken Cable.jpg|ケーブル山上駅
</gallery>
== 接続路線 ==
* 黒川駅:[[能勢電鉄妙見線]] [[妙見口駅]]まで徒歩1.4km(20分)、または[[阪急バス]]5分「ケーブル黒川駅」停留所下車、または豊能町AIオンデマンド交通(HANI+)で「Y-010」ミーティンポイント下車後、徒歩450m。
** 平日に限り、[[千里中央駅]]から阪急バス箕面森町線「箕面森町地区センター」利用、阪急バス妙見口能勢線に乗り換えて「ケーブル黒川駅」下車(千里中央駅から約55分)が利用できる。
** 妙見口駅(吉川)- ケーブル黒川駅間のバスは、日曜祝日に区間便が増発される。ただし、正月三が日を除く冬期期間(12月1日 - 3月14日)は運休する。
*** 吉川(能勢電妙見口駅)- ケーブル前間のバスはかつて[[京都交通 (亀岡)|京都交通]](吉川線・森上線・野間線)によって運行されており、吉川 - ケーブル前間の増発バスは日曜祝日のみ運行されていた。 この京都交通の路線は2003年7月1日に廃止され、能勢町の運行補助による廃止代替路線として、同日から阪急バス(妙見口能勢線)による運行に変わった。
*** 能勢町による運行補助金の減額によって、2021年4月1日から 箕面森町地区センター - 妙見口駅(吉川)- ケーブル前 - 倉垣方面の路線は運行本数の削減され、平日のみの運行となったことで、土曜日のバス運行は無くなった。
*** 阪急バス妙見口能勢線は、能勢町地域公共交通会議によって今後の運行について議論されていたが、2024年春に路線廃止となり町民向けの定時定路線型乗合タクシーへ移行することが決まった。当初の妙見ケーブルの廃止時期よりも早くにバス路線が廃止される計画であったことから、妙見ケーブルの廃止時期の繰り上げにもつながった。
* ケーブル山上:[[妙見の森リフト]](ふれあい広場のりば)
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!旅客輸送人員(千人)
!一日1km平均通過人員(人)
!鉄道業営業収入(千円)
!鉄道業営業費(千円)
|-
|1979||148||||||
|-
|1982||145||417||||
|-
|1983||||||||
|-
|1984||131||381||||
|-
|1985||||||||
|-
|1986||120||347||||
|-
|1987||110||318||||
|-
|1988||105||306||||
|-
|1989||115||333||22,432||95,196
|-
|1990||108||312||20,962||105,811
|-
|1991||117||343||22,956||118,801
|-
|1992||120||354||24,682||98,753
|-
|1993||136||393||28,318||109,800
|-
|1994||147||440||30,939||134,099
|-
|1995||131||373||33,524||97,494
|-
|1996||134||389||34,193||124,696
|-
|1997||129||374||32,698||111,811
|-
|1998||131||383||33,133||108,586
|-
|1999||129||449||32,735||68,332
|-
|2000||108||376||27,946||60,560
|-
|2001||131||458||34,445||63,814
|-
|2002||120||451||31,617||68,786
|-
|2003||102||364||26,970||55,352
|-
|2004||98||345||||
|-
|}
*民鉄主要統計『年鑑世界の鉄道』1983年、朝日新聞社、『年鑑日本の鉄道』1985、1987、1989-2007年、鉄道ジャーナル社
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;"
|-
|+妙見鋼索鉄道
!年度
!輸送人員(人)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!営業益金(円)
!その他益金(円)
!その他損金(円)
!支払利子(円)
|-
|1925||273,375||60,976||40,066||20,910||他事業649||償却金2,226||12,620
|-
|1926||391,803||88,015||49,810||38,205||土地建物賃貸業1,033||||15,826
|-
|1927||355,030||80,776||44,746||36,030||||||15,249
|-
|1928||318,501||89,956||49,863||40,093||||土地業46償却金1,000||14,796
|-
|1929||280,116||79,772||44,272||35,500||||土地建物2,625<br>償却金500||9,950
|-
|1930||251,728||70,113||42,329||27,784||||土地建物業其他3,757||9,084
|-
|1931||215,344||61,941||35,769||26,172||||土地建物業2,137<br>雑損1,907||8,804
|-
|1932||198,515||56,993||34,494||22,499||||土地業6,084<br>償却金6,800||5,857
|-
|1933||204,911||56,377||34,239||22,138||||土地建物12,047||5,024
|-
|1934||223,098||60,347||33,467||26,880||||土地建物業4,746<br>償却金8,000||2,660
|-
|1935||220,828||61,962||34,470||27,492||土地建物業112||償却金4,000||6,250
|-
|1936||236,450||66,817||38,639||28,178||土地建物業720||償却金2,000||5,358
|-
|1937||217,307||61,278||37,389||23,889||土地建物業其の他888||雑損4,150||5,378
|-
|1939||305,703||||||||||||
|-
|1941||377,335||||||||||||
|-
|1943||351,256||||||||||||
|-
|}
* 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版より
== その他 ==
* ケーブル山上駅は[[鉄道事業法]]および[[軌道法]]に基づく路線の駅において、兵庫県内では最東端の駅であった。当ケーブルは冬期運休であったため通年営業している駅に限れば、当ケーブル廃止後は営業期間の条件なく[[阪急神戸本線]][[園田駅]]([[尼崎市]])が兵庫県内で最東端の駅となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 川西市史編集専門委員会『川西市史』第三巻、兵庫県川西市、1980年、pp.283,386, 568-569, 571
* 『能勢電鉄80年史』 能勢電鉄株式会社、1991年、p54, 55, 84
* 森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.178
*『第十門・地方鉄道及軌道・二、地方鉄道・妙見鋼索鉄道・巻一・大正十一年~大正十五年』([[国立公文書館]]デジタルアーカイブ で画像閲覧可)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Myoken Cable}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://noseden.hankyu.co.jp/station/cable.html 妙見の森ケーブル|路線図・駅情報] - 能勢電鉄
{{能勢電鉄}}
{{日本のケーブルカー}}
{{北摂山系の交通、名所}}
{{DEFAULTSORT:のせてんてつみようけんけふる}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線 (廃止)|みようけんけふる]]
[[Category:日本の鋼索式鉄道|廃みようけんのもり]]
[[Category:能勢電鉄|路みようけんけふる]]
[[Category:川西市の交通]]
|
2003-09-29T16:02:08Z
|
2023-12-30T16:02:00Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%8B%A2%E9%9B%BB%E9%89%84%E5%A6%99%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%A3%AE%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB
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18,753 |
御木本幸吉
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御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。
志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、イギリスの軍艦シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うやらせにあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。
1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月の東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員などを務め地元の名士になっていた。
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科を出た才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会のため上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く、経費倒れに終わった。このため発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。
中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年)に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教神父B.E.X.アントレコールが1734年にフランス本国に報告している。また、イギリスのD.T.マッゴーワンは1853年にこの方法を詳しく首都ロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。
日本では、1881年(明治14年)11月発行の『海産論』に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。
1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による広島県厳島での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。
1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。
1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。
1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった久米楠太郎、幸吉の次弟・御木本松助夫妻、三弟・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、1897年(明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、猪野若造(猪野三平の子息)、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島(現・多徳島)に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。
その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究を始めた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。
1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。
「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)
この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。
1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)
なお真円真珠についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。
御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、
がある。
1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳で没した。
志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。
四日市の万古焼商人だった親友の川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾製糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。
他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)に森村組を創設して日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。
1924年(大正13年)三重県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日に就任し、公正会に所属して1925年(大正14年)9月28日まで1期在任した。
1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展した。御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年(大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。
1926年には、1万2760個の養殖真珠であしらった五重塔を米国独立150周年記念万国博覧会に出品した。一方で、1932年には日本産の粗悪真珠36貫を兵庫県神戸市で燃やして見せ、ミキモト真珠の品質を世界へアピールした。
生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞。一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていたクウェートなどの中東諸国の経済を破壊した。中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、そのことが油田開発を後押しした。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。
第二次世界大戦での日本の降伏後、幸吉は占領軍将校らを多徳養殖場に招き、真珠輸出で外貨を稼ぎ戦後復興に寄与することにも努めた。
1954年(昭和29年)9月21日、幸吉は老衰のため96歳で死去した。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったが、まだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。戒名は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。葬儀は幸吉自らの出資と助言で建設された鳥羽小学校校舎で行われた。
ミキモト真珠島の中には幸吉の銅像が建っている。これは存命中の1953年に建てられた。これとは別に近鉄鳥羽駅前にも1993年に建てられた幸吉の銅像がある。両者はデザインが異なる。
幸吉の長男・隆三は一高時代にイギリスの思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、しかし1937年(昭和12年)に破産、準禁治産宣告へと至っている。四女あい(1889年12月20日 ‐ 1983年2月21日)の夫は、教育学者の乙竹岩造。幸吉の孫で隆三の息子・美隆の妻はピアニストの御木本澄子。
縁戚関係のある著名人が多数存在するため、下記では親族の範囲に該当する者のみを記載した。
かつて真珠は天然産にのみ限られ、世界の市場を独占していたのはペルシア湾奥、特にクウェート沿岸地域であった。御木本の真珠養殖成功によりクウェートの真珠漁業は壊滅状態となり、別の収入源の確保に必死になったクウェート王家は、それまで拒んできた外資による石油探鉱を許可した。まもなく大規模油田が相次いで発見され、世界のエネルギー地図が塗り替えられて、20世紀は安価な石油の大量供給に立脚する「石油の世紀」となった。
1905年(明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切り、周囲の人間を大いに慌てさせたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。また、第二次世界大戦後、日本各地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。
幸吉は月1回、ミキモトの従業員と鰻丼を食す「どんぶり会」を開き、意見交換を行っていた。ウナギ登りに肖るのと真珠の天敵であるウナギを食べてしまうという意図があった。英虞湾に養殖場を開設して以降、幸吉は通り道のウナギ料理店・川うめに足しげく通い、店主に羽織を贈るなど贔屓にしていた。
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"text": "御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。",
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"text": "志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。",
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"text": "早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、イギリスの軍艦シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うやらせにあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。",
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"text": "1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月の東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員などを務め地元の名士になっていた。",
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"text": "幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科を出た才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。",
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"text": "世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会のため上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く、経費倒れに終わった。このため発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。",
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"text": "中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年)に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教神父B.E.X.アントレコールが1734年にフランス本国に報告している。また、イギリスのD.T.マッゴーワンは1853年にこの方法を詳しく首都ロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。",
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"text": "日本では、1881年(明治14年)11月発行の『海産論』に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。",
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"text": "1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。",
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"text": "1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による広島県厳島での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。",
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"text": "1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。",
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"text": "1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。",
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"text": "1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった久米楠太郎、幸吉の次弟・御木本松助夫妻、三弟・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、1897年(明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、猪野若造(猪野三平の子息)、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島(現・多徳島)に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。",
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"text": "その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究を始めた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。",
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"text": "1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。",
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"text": "「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)",
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"text": "この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。",
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"text": "1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。",
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"text": "「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)",
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"text": "なお真円真珠についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。",
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"text": "御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、",
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"text": "がある。",
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"text": "1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳で没した。",
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"text": "志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。",
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"text": "四日市の万古焼商人だった親友の川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾製糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。",
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"text": "他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)に森村組を創設して日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。",
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"text": "1924年(大正13年)三重県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年12月13日に就任し、公正会に所属して1925年(大正14年)9月28日まで1期在任した。",
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"text": "1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展した。御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年(大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。",
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"text": "1926年には、1万2760個の養殖真珠であしらった五重塔を米国独立150周年記念万国博覧会に出品した。一方で、1932年には日本産の粗悪真珠36貫を兵庫県神戸市で燃やして見せ、ミキモト真珠の品質を世界へアピールした。",
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"text": "生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞。一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていたクウェートなどの中東諸国の経済を破壊した。中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、そのことが油田開発を後押しした。",
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"text": "幸吉の長男・隆三は一高時代にイギリスの思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、しかし1937年(昭和12年)に破産、準禁治産宣告へと至っている。四女あい(1889年12月20日 ‐ 1983年2月21日)の夫は、教育学者の乙竹岩造。幸吉の孫で隆三の息子・美隆の妻はピアニストの御木本澄子。",
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"text": "縁戚関係のある著名人が多数存在するため、下記では親族の範囲に該当する者のみを記載した。",
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"text": "1905年(明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切り、周囲の人間を大いに慌てさせたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。また、第二次世界大戦後、日本各地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。",
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御木本 幸吉は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。
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|国籍 = {{JPN1947}}
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|生誕地 = [[志摩国]][[答志郡]][[鳥羽 (鳥羽市)|鳥羽大里町]]
|死没日 = {{死亡年月日と没年齢|1858|3|10|1954|9|21}}
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|職業 = [[ミキモト]]創業者
|配偶者 = [[久米うめ|うめ]]
|両親 = 父:音吉、母:もと
|子供 = [[御木本隆三]](長男)
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|成果 = [[真珠]]の養殖とブランド化
|受賞歴 =
|署名 =
|公式サイト =[http://kokichi.mikimoto.com/ 創業者 御木本幸吉]
|補足 =
}}
'''御木本 幸吉'''(みきもと こうきち、[[1858年]][[3月10日]]([[安政]]5年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[1954年]]([[昭和]]29年)[[9月21日]]<ref name=貴参>『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』222-223頁。</ref>)は、[[日本]]の[[実業家]]。[[真珠]]の[[養殖業|養殖]]とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・[[ミキモト]])創業者。ミキモト・パール、'''真珠王'''とも呼ばれた。
== 生涯 ==
=== 誕生 ===
[[File:Toba Mikimoto Kokichi birthplace 2020-12 ac (1).jpg|thumb|御木本幸吉生誕地]]
[[志摩国]][[答志郡]][[鳥羽城]]下の大里町(現在の[[三重県]][[鳥羽市]][[鳥羽 (鳥羽市)|鳥羽一丁目]])で代々[[うどん]]の製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、[[1881年]](明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大[[伝馬船]]を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか[[薪]]、[[木炭|炭]]、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、[[明治維新]]によって失業した[[士族]]の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書き[[ソロバン]]、読書などを習った。
=== 商才と向上心と社交性 ===
早くから1杯8[[厘#金銭の単位|厘]]のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の[[行商]]を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の軍艦シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言う[[やらせ]]にあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。
=== 真珠に到る助走路 ===
[[1876年]](明治9年)の[[地租改正]]で、納税が米納から金納に変わったのを機会に[[米]]が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。[[1878年]](明治11年)には20歳で[[家督]]を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月の[[東京]]、[[横浜市|横浜]]への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自ら[[アワビ]]、[[天然真珠]]、[[ナマコ]]、[[イセエビ|伊勢海老]]、[[カキ (貝)|牡蠣]]、[[テングサ|天草]]、[[サザエ]]、[[ハマグリ]]、[[泡盛]]など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員などを務め地元の名士になっていた。
=== 時代の転換期に ===
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり[[富国強兵]]のスローガンの下で海国日本の[[殖産興業]]政策により[[1882年]](明治15年)、[[大日本水産会]]が創設された。[[1881年]](明治14年)、結婚。妻・[[久米うめ|うめ]]は当時17歳。[[鳥羽藩]]士族・[[久米盛蔵]]の娘で新しい学制の小学校とその高等科を出た才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。[[1883年]](明治16年)、父・音吉が54歳で死去。
=== アコヤ貝の養殖 ===
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国の[[アコヤガイ|アコヤ貝]]は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して[[1888年]](明治21年)6月、第2回全国水産品評会のため上京した折、主催者である大日本水産会の[[柳楢悦]]を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年[[9月11日]]に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く、経費倒れに終わった。このため発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で[[東京大学|東京帝国大学]]の[[箕作佳吉]]と当時大学院生だった[[岸上謙吉]]を[[1890年]](明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。
==== 外国での養殖例 ====
[[中国]]で実際行われた方法は[[乾道 (宋)|乾道]]3年([[1167年]])に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、[[浙江省]]で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては[[清]]に滞在したキリスト教[[神父]]B.E.X.アントレコールが[[1734年]]に[[フランス]]本国に報告している。また、イギリスのD.T.マッゴーワンは[[1853年]]にこの方法を詳しく首都[[ロンドン]]の芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。
日本では、[[1881年]](明治14年)11月発行の『海産論』に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。
=== 養殖実験開始 ===
[[1890年]](明治23年)、[[阿児町神明|神明浦]]と相島(おじま、現在の[[ミキモト真珠島]])の2箇所で実験を開始した。この時[[小川多門]]、[[猪野三平]]等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、[[赤潮]]による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
[[1891年]](明治24年)、[[農商務省 (日本)|農商務省]]技手・[[山本由方]]による[[広島県]][[厳島]]での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は[[英虞湾]]から幸吉らが移送に協力した。
[[1892年]](明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。
=== 縁者の協力 ===
[[1893年]](明治26年)[[7月11日]]、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。
[[1896年]](明治29年)[[1月27日]]、半円真珠の[[特許]](第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年[[4月21日]]、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった[[久米楠太郎]]、幸吉の次弟・[[御木本松助]]夫妻、三弟・[[森井常蔵]]夫妻、[[須藤卯吉]]、[[1897年]](明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、[[1899年]](明治32年)には[[竹内久吉]]、[[猪野若造]]([[猪野三平]]の子息)、[[藤田嘉助]]、[[大谷幸助]]らが従業員として田徳島(現・[[多徳島]])に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・[[乙竹あい]]が後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。
その他研究には元歯科医だった[[桑原乙吉]]、次女みねの夫・[[西川藤吉]]が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、[[1905年]](明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究を始めた。しかし[[1909年]](明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に[[見瀬辰平]]、[[西川藤吉]]の研究を引き継いだ[[藤田輔世]]、[[藤田昌世]]らがいる。
=== 出店の歩み ===
*[[1899年]](明治32年) [[東京府]][[東京市]][[京橋区]]弥左衛門町に御木本真珠店(本店)を開設。
*[[1902年]](明治35年) 御木本真珠店を京橋区元数寄屋町に移転。
*[[1906年]](明治39年) 御木本真珠店を京橋区[[銀座]]四丁目に移転。
*[[1907年]](明治40年) 市川源次郎専属下請工場を買収し、京橋区[[築地]]に御木本金細工工場を開設。
*[[1908年]](明治41年) 御木本金細工工場を東京市[[麹町区]][[内幸町]]に移転。
*[[1913年]](大正2年) [[ロンドン]]支店を開設。[[大阪府]][[大阪市]][[東区 (大阪市)|東区]][[淡路町 (大阪市)|淡路町]]に大阪支店を開設。
*[[1916年]](大正5年) [[中華民国の歴史|中国]]視察にでかけ、[[上海]]支店を開設。
*[[1919年]](大正8年) 東京市[[芝区]][[三田 (東京都港区)|三田豊岡町]]に貴金属第二工場を開設。
*[[1921年]](大正10年) 本店横に御木本装身具店を開設。
*[[1923年]](大正12年) 貴金属工場を統合して真珠店工場とする。
*[[1927年]](昭和2年) [[ニューヨーク]]支店を開設。
*[[1928年]](昭和3年) [[パリ]]支店を開設。
*[[1929年]](昭和4年) [[ムンバイ|ボンベイ]]支店を開設。
*[[1931年]](昭和6年) [[ロサンゼルス]]支店を開設。大阪支店を閉鎖し、[[兵庫県]][[神戸市]][[神戸区]]仲町に神戸支店を開設。
*[[1933年]](昭和8年) [[シカゴ]]支店を開設。
*[[1937年]](昭和12年) ロサンゼルス支店を閉鎖し、[[サンフランシスコ]]支店を開設。
*[[1942年]](昭和17年) 内幸町工場を東京市[[目黒区]][[上目黒]]に移転。
=== 特許取得 ===
[[1896年]](明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。
「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)
この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は[[北村幸一郎]]他2名を特許侵害で訴えたが[[大審院]]で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。
[[1916年]](大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)
なお[[真円真珠]]についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。
御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、
# 半円真珠から真円真珠に到る特許
# 特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)
# アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)
# [[1924年]](大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)
がある。
=== 人々の協力 ===
[[1896年]](明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の[[小川小太郎]]([[1865年]] - [[1889年]])であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳で没した。
志摩国[[答志郡]]の郡長であった[[河原田俊蔵]]は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。
[[四日市市|四日市]]の[[万古焼]]商人だった親友の[[川村又助]]はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。[[藤田四郎]]([[1861年]] - [[1934年]])は同郷で[[藩校]]・[[尚志館]]の句讀師([[漢学者]])龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち[[事務次官]]、日本火災社長、[[台湾製糖]]社長)、[[宮内省]][[御用達]]となる際の保証人になった。
他にも[[愛知県]]出身の農商務省局長・[[織田一]]([[1865年]] - [[1914年]])、[[埼玉県]][[深谷市|深谷]]出身の財界の重鎮・[[渋沢栄一]]は幸吉の渡米にあたって発明王・[[トーマス・エジソン|エジソン]]らに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。[[土佐国|土佐]]出身の[[森村市左衛門]]は[[1875年]](明治8年)に森村組を創設して日米貿易協会長、[[日本銀行]]監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。
=== 貴族院多額納税者議員 ===
1924年(大正13年)三重県多額納税者として補欠選挙で[[貴族院 (日本)#勅任議員|貴族院議員]]に互選され、同年12月13日に就任し<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。</ref>、[[公正会]]に所属して1925年(大正14年)9月28日まで1期在任した{{R|貴参}}。
=== 量産体制 ===
[[1918年]](大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、[[1921年]](大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展した。御木本側ではイギリスでは[[オックスフォード大学]]の[[リスター・ジェームソン]]、[[フランス第三共和政|フランス]]では[[ボルドー大学]]のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。[[1924年]](大正13年)[[5月24日]]、[[パリ]]で起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。[[1927年]](昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。
1926年には、1万2760個の養殖真珠であしらった[[五重塔]]を[[国際博覧会#歴史|米国独立150周年記念万国博覧会]]に出品した。一方で、1932年には日本産の粗悪真珠36[[貫#質量単位|貫]]を[[兵庫県]][[神戸市]]で燃やして見せ、ミキモト真珠の品質を世界へアピールした<ref name="朝日20210612">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14934798.html?iref=pc_photo_gallery_breadcrumb 【はじまりを歩く】養殖真珠(三重県、長崎県)「真円」求めた真珠王の情熱][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2021年6月12日(6-7面)同日閲覧</ref>。
生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。[[1949年]](昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して[[中日文化賞]]受賞<ref><!-- {{Cite web|url=http://www.chunichi.co.jp/info/award/culture/page01.html|title=中日文化賞:第1回-第10回受賞者|publisher=中日新聞|accessdate=2009-10-31}} -->{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/info/c_culture_award/winner_list|title=中日文化賞 受賞者一覧|accessdate=2022-05-15|publisher=[[中日新聞]]|date = |}}</ref>。一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていた[[クウェート]]などの中東諸国の経済を破壊した。中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、そのことが[[油田]]開発を後押しした。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。
=== 大往生 ===
[[第二次世界大戦]]での[[日本の降伏]]後、幸吉は[[連合国軍占領下の日本|占領軍]][[将校]]らを多徳養殖場に招き、真珠輸出で外貨を稼ぎ戦後復興に寄与することにも努めた<ref name="朝日20210612"/>。
[[1954年]](昭和29年)9月21日、幸吉は[[老衰]]のため96歳で死去した。持病は[[胆石]]があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は[[朝鮮戦争]]が終わって[[景気]]は悪くなかったが、まだ[[米穀通帳]]やら[[外食券食堂]]があり、旅行には米を持参する時代であった。[[戒名]]は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。[[葬儀]]は幸吉自らの出資と助言で建設された[[旧鳥羽小学校校舎|鳥羽小学校校舎]]で行われた{{sfn|鳥羽市教育委員会|2015|p=2}}。
ミキモト真珠島の中には幸吉の銅像が建っている。これは存命中の1953年に建てられた。これとは別に近鉄[[鳥羽駅]]前にも1993年に建てられた幸吉の銅像がある。両者はデザインが異なる。
== 家族・親族 ==
幸吉の長男・[[御木本隆三|隆三]]は[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代にイギリスの思想家[[ジョン・ラスキン]]の著作に出会い、[[オックスフォード大学]]留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ[[銀座]]に開設した[[ラスキン文庫]]内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷[[道玄坂]]に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、しかし[[1937年]](昭和12年)に[[破産]]、[[準禁治産]]宣告へと至っている。四女あい(1889年12月20日 ‐ 1983年2月21日)の夫は、教育学者の[[乙竹岩造]]<ref>吉村利男「大正・昭和初期の海女調査と真珠養殖における海女」資料9</ref>。幸吉の孫で隆三の息子・美隆の妻はピアニストの御木本澄子。
縁戚関係のある著名人が多数存在するため、下記では[[親族]]の範囲に該当する者のみを記載した。
<!--1世代前-->
* 御木本音吉([[父]])<!--1親等の自然血族--> - 自営業
<!--1世代後-->
* [[御木本隆三]]([[長男]])<!--1親等の自然血族--> - [[文学者]]
* [[武藤稲太郎]]([[娘婿]])<!--1親等の姻族--> - [[海軍軍人]]
* [[西川藤吉]](娘婿)<!--1親等の姻族--> - [[生物学者]]
* [[池田嘉吉]](娘婿)<!--1親等の姻族--> - 実業家
* [[乙竹岩造]](娘婿)<!--1親等の姻族--> - [[教育学者]]
<!--2世代後-->
* [[御木本美隆]]([[孫]])<!--2親等の自然血族--> - 実業家
* [[乙竹宏]](孫)<!--2親等の自然血族--> - 実業家
* [[御木本澄子]]([[義孫]])<!--2親等の姻族--> - ピアニスト
* [[本間利章]](義孫)<!--2親等の姻族--> - 実業家
<!--3世代後-->
* [[御木本香]]([[曾孫]])<!--3親等の自然血族--> - 実業家
* [[春日豊彦]](元[[義曾孫]]・元[[養曾孫]])<!--3親等の姻族、3親等の法定血族--> - 実業家
== 系譜 ==
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* [[春日豊彦]]は、御木本美隆・澄子の[[養子]]として[[御木本豊彦]]となったが、[[養子縁組]]を解消し春日豊彦に戻った。
* 本間香は、御木本豊彦と結婚して御木本香となり、そのまま没した。
== 逸話 ==
[[File:The monument of Pearl King.jpg|thumb|150px|ミキモト本社にある「真珠王記念碑」]]
かつて真珠は天然産にのみ限られ、世界の市場を独占していたのは[[ペルシア湾]]奥、特に[[クウェート]]沿岸地域であった。御木本の真珠養殖成功によりクウェートの真珠漁業は壊滅状態となり、別の収入源の確保に必死になったクウェート王家は、それまで拒んできた外資による[[石油]]探鉱を許可した。まもなく大規模油田が相次いで発見され、世界のエネルギー地図が塗り替えられて、20世紀は安価な石油の大量供給に立脚する「石油の世紀」となった。
[[1905年]](明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、[[明治天皇]]に拝謁する栄誉を与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切り、周囲の人間を大いに慌てさせたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。また、[[第二次世界大戦]]後、日本各地を行幸した[[昭和天皇]]が幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が[[人間宣言]]をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。
幸吉は月1回、ミキモトの従業員と[[鰻丼]]を食す「どんぶり会」を開き、意見交換を行っていた<ref name="ah">幸吉ゆかり、ウナギ満喫 ミキモト真珠島「どんぶり会」再現『[[朝日新聞]]』朝刊2004年1月26日付(三重版20ページ)</ref>。ウナギ登りに肖るのと真珠の[[天敵]]であるウナギを食べてしまうという意図があった<ref name="ah"/>。英虞湾に養殖場を開設して以降、幸吉は通り道のウナギ料理店・[[川うめ]]に足しげく通い、店主に[[羽織]]を贈るなど贔屓にしていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://iseshima.keizai.biz/headline/283/|title=志摩の鰻料理店「川うめ」で御木本幸吉翁の羽織など展示|publisher=[[伊勢志摩経済新聞]]|date=2007-10-10|accessdate=2014-11-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141103095457/http://iseshima.keizai.biz/headline/283/|archivedate=2014-11-03}}</ref>。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=農商務省|authorlink=|date=1894年(明治27年)|title=農商務省職員録|}}
*{{Cite book|和書|author=農商務省|authorlink=|date=1896年(明治29年)|title=農商務省職員録|}}
*{{Cite book|和書|author=農商務省|authorlink=|date=1899年(明治32年)|title=農商務省職員録|}}
*{{Cite book|和書|author=|authorlink=|date=1896年(明治29年)|title=漁業誌 全 長崎県|}}
*{{Cite book|和書|author=農商務省|authorlink=|date=1894年(明治27年)|title=水産調査書事業報告|publisher=[[有斐閣]]}}
*{{Cite book|和書|author=農商務省|authorlink=|date=1895年(明治28年)|title=水産調査書事業報告|publisher=有斐閣}}
*{{Cite book|和書|author=農商務省|authorlink=|date=1896年(明治29年)|title=水産調査書事業報告|publisher=有斐閣}}
*{{Cite book|和書|author=新渡戸稲造|authorlink=|date=1896年(明治29年)|title=故農学士藤田九三郎小傳|publisher=江草斧太郎}}
*{{Cite book|和書|author=松井佳一|authorlink=松井佳一|date=1965年(昭和40年)|title=真珠の事典|publisher=[[北隆館]]|id=ASIN: B000JADINC}}
*{{Cite book|和書|author=大林日出雄|authorlink=|date=1971年(昭和46年)|title=御木本幸吉|publisher=[[吉川弘文館]]}}
*{{Cite book|和書|author=ミキモト|coauthors=株式会社御木本真珠島・御木本製薬株式会社・株式会社御木本装身具 共同刊行|date=1994年([[平成]]6年)7月|title=御木本真珠発明100年史|publisher=株式会社ミキモト}}
* {{cite book|和書|title=旧鳥羽小学校校舎保存活用計画|publisher=鳥羽市教育委員会|date=2015-03|page=99|ref={{sfnref|鳥羽市[[教育委員会]]|2015}}}}
*『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
*衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
*[[牧野輝智]]著[https://dl.ndl.go.jp/pid/777757/1/60 『現代発明家伝』帝国発明協会、1911年(国立国会図書館デジタルコレクション)]
==伝記など==
*[[間々田隆]]『養殖真珠の発明者御木本幸吉』日本出版社 近世日本興業偉人伝 1942年
*乙竹岩造『御木本幸吉』培風館 1948年/『伝記御木本幸吉』[[講談社]] 1960年
*[[御木本隆三]]『御木本幸吉』[[時事通信社]] 一業一人伝 1961年
*乙竹宏『御木本幸吉』国土社 少年伝記文庫 1962年
*[[御木本美隆]]『御木本幸吉の思い出』御木本真珠島資料編纂室 1979年
*[[笠原秀]]『志摩の海にかけた夢 真珠づくりに一生をささげた御木本幸吉』[[PHP研究所]]・こころのノンフィクション 1985年
*乙竹あい『父、御木本幸吉を語る』御木本グループ 1993年
===伝記小説===
*[[永井竜男]]『幸吉八方ころがし 真珠王・御木本幸吉の生涯』[[筑摩書房]]、1963年 のち[[文春文庫]](副題は文庫)
*[[源氏鶏太]]『真珠誕生 御木本幸吉伝』講談社 1980年
== 関連項目 ==
* [[日本の十大発明家]]
* [[東京さぬき倶楽部]] - 御木本の別邸跡
== 外部リンク ==
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* [https://www.mikimoto-pearl-island.jp/ ミキモト真珠島]
* {{Kotobank}}
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[[Category:真珠|人]]
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