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1033年
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1033年(1033 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1033年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[日本]]
** [[長元]]6年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1693年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[明道 (北宋)|明道]]2年
** [[遼]] : [[重熙]]2年
** [[西夏]] : [[顕道]]2年
** [[大理国]] : [[正治 (大理)|正治]]7年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天成 (李朝)|天成]]6年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1033|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:1033年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アンセルムス]]、[[カンタベリー大主教|カンタベリー大司教]]、[[哲学者]](+ [[1109年]])
* [[程頤]]、[[北宋]]の[[儒学者]](+ [[1107年]])
* [[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]]、[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](+ [[1097年]])
* [[藤原宗円]]、[[平安時代]]の[[武将]](+ [[1111年]])
* [[永観 (僧)|永観]]、平安時代の[[三論宗]]の[[僧]](+ 1111年)
== 死去 ==
{{see also|Category:1033年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1033}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,426 |
1097年
|
1097年(1097 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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1097年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丁丑]]
* [[日本]]
** [[永長]]2年、[[承徳]]元年
** [[皇紀]]1757年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[紹聖]]4年
** [[遼]] : [[寿昌]]3年
** [[西夏]] : [[天祐民安]]8年
** [[大理国]] : [[開明 (大理)|開明]]元年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[会豊]]6年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1097|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[1月3日]](嘉保3年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[永長]]と改元する。
* [[9月29日]](永長2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[白河天皇|白河法皇]]が故[[媞子内親王|郁芳門院]]のために[[無量光院]]を建立し、落慶供養を行う。
* [[11月17日]](永長2年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[堀河天皇]]が新造[[高陽院 (邸宅)|高陽院]]に遷る。
* [[12月27日]](永長2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[承徳]]と改元する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1097年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月15日]](承徳元年[[1月29日 (旧暦)|閏1月29日]]) - [[藤原忠通]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[1164年]])
* [[イジャスラフ2世]]、[[キエフ大公]](+ [[1154年]])
* [[行玄]]、平安時代の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[1155年]])
* [[張浚]]、[[南宋]]の[[政治家]](+ [[1164年]])
* [[藤原成通]]、平安時代の公卿(+ [[1162年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1097年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月20日]](永長2年[[1月6日 (旧暦)|閏1月6日]]) - [[源経信]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](* [[1016年]])
* [[3月13日]](承徳元年[[1月27日 (旧暦)|閏1月27日]]) - [[源頼綱]]、平安時代の[[武将]]、歌人(* [[1025年]])
* [[献宗 (高麗王)|献宗]]、第14代[[高麗王]](* [[1084年]])
* [[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1033年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1097}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,427 |
1094年
|
1094年(1094 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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1094年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲戌]]
* [[日本]]
** [[寛治]]8年、[[嘉保]]元年
** [[皇紀]]1754年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[元祐]]9年、[[紹聖]]元年
** [[遼]] : [[太安 (遼)|太安]]10年
** [[西夏]] : [[天祐民安]]5年
** [[大理国]] : [[天祐 (大理)|天祐]]末年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[会豊]]3年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1094|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[美作国]]の申請により、新立荘園の制止を議定する
== 誕生 ==
{{see also|Category:1094年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[聖恵法親王]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1137年]])
* [[藤原顕頼]]、平安時代の[[公卿]]、[[正二位]][[権中納言]](+ [[1148年]])
* [[源雅定]]、平安時代の公卿、[[歌人]](+ [[1162年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1094年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月3日]](寛治8年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) - [[禎子内親王]]、[[後朱雀天皇]][[皇后]]、[[女院]](* [[1013年]])
* [[6月4日]] - [[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ1世]]、[[アラゴン王国]]、[[ナバラ王国]]の[[国王]](* [[1042年]]?)
* [[10月14日]](寛治8年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[藤原信長]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[太政大臣]](* [[1022年]])
* [[10月16日]](寛治8年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[源顕房]]、平安時代の公卿、[[右大臣]]、[[歌人]](* [[1037年]])
* [[11月12日]] - [[ダンカン2世 (スコットランド王)|ダンカン2世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1060年]]?)
* [[沈括]]、[[北宋]]の政治家、学者(* [[1030年]])
* [[宣宗 (高麗王)|宣宗]]、[[高麗]]の第13代国王(* [[1049年]])
* [[素意]]、平安時代の[[僧]]、歌人(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1094}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,428 |
ジョン・ディクスン・カー
|
ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr, 1906年11月30日 - 1977年2月27日)はアメリカ合衆国の小説家である。本格推理小説の作家で密室殺人の第一人者。筆名カーター・ディクスン (Carter Dickson) でも知られる。日本では80冊を超える著書のほとんどに翻訳がある。
ペンシルベニア州ユニオンタウン生まれ。少年時代はスポーツの傍ら大デュマ、コナン・ドイル、チェスタトンなどを耽読した。1921年にハイスクールの同人誌に掲載した推理小説が最初の創作である。ハバフォード大学に進学後も同様に歴史小説や推理小説を発表した。2年で中退しパリに遊学した。
帰国後1930年『夜歩く』でプロデビュー。怪事件の連続と多様なトリック、複雑な話を読ませる筆力で地歩を築く。1932年英国人と結婚して渡英。英国が舞台になっても米語表現や米国人の登場が多く、作者は元在米英国人や英国に帰化などと誤解された。1933年に違う版元とも契約し『弓弦城殺人事件』を書く。同書の米版は本名同然のカー・ディクスン (Carr Dickson) 名義で従来の出版社が抗議、筆名はカーター・ディクスンに変えた。1934年にはロジャー・フェアベーン (Roger Fairbairn) の名で時代小説を刊行。1936年英国ディテクションクラブの会員になる。
第二次世界大戦の勃発で帰国もBBCの要請で再び渡英、ラジオドラマの脚本を多数執筆した。空襲で家を失い、戦後の物不足と労働党政権になじめず、1947年ニューヨーク州に移住。グリーンビル (サウスカロライナ州)に定住するまで移住を重ねる。1963年に半身不随となっても執筆を続け、創作を断念した晩年も、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』で月評「陪審席」 (The Jury Box) を、1977年に肺ガンで死去する直前まで連載した。
1950年に公認の伝記『コナン・ドイル』がMWA賞特別賞、1963年に同グランドマスター賞、1969年に『火よ燃えろ!』がフランス推理小説大賞外国作品賞、1970年に40年の作家活動により再び特別賞を受賞した。
自費出版、再録主体の作品集、日本語以外の翻訳は割愛。邦題は最新を優先。筆名で刊行の書目は姓を付記。原題は最初に世に出た単行本。
以上3冊は日本では『カー短編全集2 妖魔の森の家』『カー短編全集3 パリから来た紳士』の2冊にまとめられている。
「密室派 (Locked Room School)の総帥」「密室の王者」の異名を持つ。一貫して密室殺人他、人には不可能なはずの犯罪を披露し続けた。『三つの棺』の第17章「密室の講義」は、密室トリックを分類したエッセイとして知られる。
初期作品はマジックショーにたとえられた。演目は怪奇趣味で奇妙な装置とグロテスクな配役を取り合わせる。種明かしはことさら曲がりくねった道筋を示す。二つの名義は、カーが謎が謎を呼ぶ状況、ディクスンは常套プラス密室殺人と使い分けた。バーレスク調や一度きりの試みも手掛ける。伏線が巧みで説得力皆無でも理解不能には至らない。第三者の介在や偶然の乱用、動機づけが薄弱で不合理に陥る、トリッキーに過ぎてアンフェア、戯作調の文章が泥臭い、ユーモアのセンスが異常、登場人物が千篇一律、など欠陥も指摘された。
40年代のカー名義は怪奇趣味を抑え、感情のもつれとサスペンスの醸成に力を入れてややシンプルでスマートになった。ディクスン名義はスラップスティックが基調をなす。50年代以降は同時代への嫌悪と過去への憧れが嵩じて時代推理中心になる。特徴はレギュラー探偵がなく年代が1670年から1927年と広い、巻末に「好事家のためのノート (Notes for the Curious)」と題する注釈を付すことである。初期の時代物は古い時代を描きスリラー寄り、後期は現代に近づき内容は純然たる本格推理小説である。
パロディやパスティーシュは多い。日本への紹介は第二次大戦後進んだ。江戸川乱歩は「密室の講義」から「類別トリック集成」を着想しエッセイ「カー問答」で称揚した。横溝正史は本格推理作家として再出発する際の影響を語った。その後も一定の人気がある。
探偵役は片言隻句から手口や動機に思い至り事件の全体像を一気に把握する。デビュー前の中短編と最初期の長編はパリの予審判事アンリ・バンコランが登場する。冷笑的でサディスティックな性格に作者が満足せず後に以前の姿は演技と述懐させた。続く英国人のギデオン・フェル博士とヘンリー・メリヴェール卿は長く活躍する。フェルはカー名義に登場する歴史学者。蓬髪と山賊髭にリボンのついた眼鏡をかけ、巨体を二本のステッキで支える。丁寧なしゃべり方に咳払いや独自の間投詞をはさむ。メリヴェールはディクスン名義に登場、頭文字H・Mでも名が通る。やはり肥満体に眼鏡だが髪や髭はない。陸軍省の情報機関長で医師と法廷弁護士の資格を持つ。Gドロッピング式の粗いしゃべり方でスラップスティックの主役も張る。ディクスン名義には奇妙な訴えを扱うロンドン警視庁D3課の課長マーチ大佐の連作短編もある。ダグラス・G・グリーンはバンコランは魔王で他の探偵はエクソシストと評した。フェルのモデルはチェスタトン、マーチはジョン・ロード、H・Mはウィンストン・チャーチル説や作者の父説がある。他ユーモラスな探偵の第1号『毒のたわむれ』のパット・ロシター、度外れた自信家で『疑惑の影』に登場後『バトラー弁護に立つ』で探偵役になるパトリック・バトラーなどがいる。
|
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"text": "ペンシルベニア州ユニオンタウン生まれ。少年時代はスポーツの傍ら大デュマ、コナン・ドイル、チェスタトンなどを耽読した。1921年にハイスクールの同人誌に掲載した推理小説が最初の創作である。ハバフォード大学に進学後も同様に歴史小説や推理小説を発表した。2年で中退しパリに遊学した。",
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"text": "帰国後1930年『夜歩く』でプロデビュー。怪事件の連続と多様なトリック、複雑な話を読ませる筆力で地歩を築く。1932年英国人と結婚して渡英。英国が舞台になっても米語表現や米国人の登場が多く、作者は元在米英国人や英国に帰化などと誤解された。1933年に違う版元とも契約し『弓弦城殺人事件』を書く。同書の米版は本名同然のカー・ディクスン (Carr Dickson) 名義で従来の出版社が抗議、筆名はカーター・ディクスンに変えた。1934年にはロジャー・フェアベーン (Roger Fairbairn) の名で時代小説を刊行。1936年英国ディテクションクラブの会員になる。",
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ジョン・ディクスン・カーはアメリカ合衆国の小説家である。本格推理小説の作家で密室殺人の第一人者。筆名カーター・ディクスン でも知られる。日本では80冊を超える著書のほとんどに翻訳がある。
|
{{Portal|文学}}
ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr, 1906年11月30日 - 1977年2月27日)はアメリカ合衆国の小説家である。[[本格推理小説]]の作家で[[密室殺人]]の第一人者。筆名カーター・ディクスン (Carter Dickson) でも知られる。日本では80冊を超える著書のほとんどに翻訳がある。
==経歴==
[[ペンシルベニア州]]ユニオンタウン生まれ。少年時代はスポーツの傍ら[[大デュマ]]、[[コナン・ドイル]]、[[チェスタトン]]などを耽読した。1921年にハイスクールの同人誌に掲載した推理小説が最初の創作である。[[ハバフォード大学]]に進学後も同様に歴史小説や推理小説を発表した。2年で中退しパリに遊学した。
帰国後1930年『夜歩く』<ref>前年同人誌に連載した『[[グラン・ギニョール (小説)|グラン・ギニョール]]』(Grand Guignol)の長編化。</ref>でプロデビュー。怪事件の連続と多様なトリック、複雑な話を読ませる筆力で地歩を築く。1932年英国人と結婚して渡英。英国が舞台になっても米語表現や米国人の登場が多く、作者は元在米英国人や英国に帰化などと誤解された。1933年に違う版元とも契約し『[[弓弦城殺人事件]]』を書く。同書の米版は本名同然のカー・ディクスン (Carr Dickson) 名義で従来の出版社が抗議、筆名はカーター・ディクスンに変えた。1934年にはロジャー・フェアベーン (Roger Fairbairn) の名で時代小説を刊行。1936年英国[[ディテクションクラブ]]の会員になる。
[[第二次世界大戦]]の勃発で帰国も[[BBC]]の要請で再び渡英、ラジオドラマの脚本<ref>“Appointment with Fear”、米[[CBS]]の“Suspense”など。</ref>を多数執筆した。[[ザ・ブリッツ|空襲]]で家を失い、戦後の物不足と労働党政権になじめず、1947年[[ニューヨーク州]]に移住。[[グリーンビル (サウスカロライナ州)]]に定住するまで移住を重ねる。1963年に半身不随となっても執筆を続け、創作を断念した晩年も、『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]』で月評「陪審席」 (The Jury Box) を、1977年に肺ガンで死去する直前まで連載した。
1950年に公認の伝記『コナン・ドイル』が[[MWA賞]]特別賞、1963年に同[[アメリカ探偵作家クラブ#名誉賞・功労賞等|グランドマスター賞]]、1969年に『火よ燃えろ!』が[[フランス推理小説大賞]]外国作品賞、1970年に40年の作家活動により再び特別賞を受賞した。
==著書リスト==
自費出版、再録主体の作品集、日本語以外の翻訳は割愛。邦題は最新を優先。筆名で刊行の書目は姓を付記。原題は最初に世に出た単行本。
===長編===
====アンリ・バンコランもの====
*1930年 ''It Walks by Night'' 『夜歩く』<ref group="別題">『夜あるく』『夜歩くもの―オオカミ男殺人事件』</ref>
*1931年 ''The Lost Gallows'' 『絞首台の謎』 <ref group="別題">『絞首台の秘密』</ref>
*1931年 ''Castle Skull'' 『髑髏城』 <ref group="別題">『どくろ城』</ref>
*1932年 ''The Corpse in the Waxworks'' 『蠟人形館の殺人』<ref group="別題">『蝋人形館の殺人』『ろう人形館の殺人』『ろう人形館の恐怖』</ref>
*1937年 ''The Four False Weapons'' 『四つの凶器』<ref group="別題">『四つの兇器』</ref>
====ギデオン・フェル博士もの====
*1933年 ''Hag's Nook'' 『[[魔女の隠れ家]]』<ref group="別題">『魔女のかくれ家』『妖女の隠れ家』</ref>
*1933年 ''The Mad Hatter Mystery'' 『[[帽子収集狂事件]]』<ref group="別題">『帽子蒐集狂事件』</ref>
*1934年 ''The Eight of Swords'' 『[[剣の八]]』
*1934年 ''The Blind Barber'' 『[[盲目の理髪師]]』<ref group="別題">『ビクトリア号の殺人』『ビクトリア号怪事件』</ref>
*1935年 ''Death-Watch'' 『死時計』<ref group="別題">『死の時計』</ref>
*1935年 ''The Three Coffins'' 『[[三つの棺]]』<ref group="別題">『魔棺殺人事件』</ref>
*1936年 ''The Arabian Nights Murder'' 『アラビアンナイトの殺人』<ref group="別題">『アラビアン・ナイト殺人事件』</ref>
*1937年 ''To Wake the Dead'' 『[[死者はよみがえる]]』<ref group="別題">『死人を起す』『二つの腕輪』</ref>
*1938年 ''The Crooked Hinge'' 『[[曲った蝶番|曲がった蝶番]]』<ref group="別題">『曲った蝶番』『動く人形のなぞ』</ref>
*1939年 ''The Problem of the Green Capsule'' 『[[緑のカプセルの謎]]』<ref group="別題">『緑のカプセル』</ref>
*1939年 ''The Problem of the Wire Cage'' 『[[テニスコートの殺人]]』<ref group="別題">『テニスコートの謎』『足跡のない殺人』</ref>
*1940年 ''The Man Who Could Not Shudder'' 『幽霊屋敷』<ref group="別題">『震えない男』</ref>
*1941年 ''The Case of the Constant Suicides'' 『[[連続自殺事件]]』<ref group="別題">『連続殺人事件』『古城の連続殺人』</ref>
*1941年 ''Death Turns the Table'' 『猫と鼠の殺人』<ref group="別題">『嘲るものの座』</ref>
*1944年 ''Till Death Do Us Part'' 『死が二人をわかつまで』<ref group="別題">『毒殺魔』</ref>
*1946年 ''He Who Whispers'' 『囁く影』
*1947年 ''The Sleeping Sphinx'' 『眠れるスフィンクス』
*1949年 ''Below Suspicion'' 『疑惑の影』
*1958年 ''The Dead Man's Knock'' 『死者のノック』
*1960年 ''In Spite of Thunder'' 『雷鳴の中でも』
*1965年 ''The House at Satan's Elbow'' 『[[悪魔のひじの家]]』
*1966年 ''Panic in Box C'' 『[[仮面劇場の殺人]]』
*1967年 ''Dark of the Moon'' 『[[月明かりの闇]]』
====ヘンリー・メリヴェール卿もの(ディクスン名義)====
*1934年 ''The Plague Court Murders'' 『[[プレーグ・コートの殺人|黒死荘の殺人]]』<ref group="別題">『[[プレーグ・コートの殺人]]』『黒死荘』『黒死荘殺人事件』</ref>
*1934年 ''The White Priory Murders'' 『[[白い僧院の殺人]]』<ref group="別題">『修道院の殺人』『修道院殺人事件』</ref>
*1935年 ''The Red Widow Murders'' 『赤後家の殺人』<ref group="別題">『赤後家怪事件』</ref>
*1935年 ''The Unicorn Murders'' 『[[一角獣の殺人]]』<ref group="別題">『一角獣の怪』『一角獣殺人事件』</ref>
*1936年 ''The Magic Lantern Murders'' 『[[パンチとジュディ (推理小説)|パンチとジュディ]]』
*1937年 ''The Peacock Feather Murders'' 『孔雀の羽根』
*1938年 ''The Judas Window'' 『[[ユダの窓]]』
*1938年 ''Death in Five Boxes'' 『五つの箱の死』
*1939年 ''The Reader Is Warned'' 『[[読者よ欺かるるなかれ]]』<ref group="別題">『読者よ欺かるる勿れ』『予言殺人事件』</ref>
*1940年 ''And So to Murder'' 『[[かくして殺人へ]]』
*1940年 ''Nine-and Death Makes Ten'' 『[[九人と死で十人だ]]』<ref group="別題">『九人と死人で十人だ』</ref>
*1941年 ''Seeing Is Believing'' 『殺人者と恐喝者』<ref group="別題">『この目で見たんだ』</ref>
*1942年 ''The Gilded Man'' 『[[メッキの神像|仮面荘の怪事件]]』<ref group="別題">『[[メッキの神像]]』</ref>
*1943年 ''She Died a Lady'' 『[[貴婦人として死す]]』
*1944年 ''He Wouldn't Kill Patience'' 『爬虫類館の殺人』<ref group="別題">『爬虫館殺人事件』『彼が蛇を殺すはずはない』</ref>
*1945年 ''The Curse of the Bronze Lamp'' 『[[青銅ランプの呪]]』
*1946年 ''My Late Wives'' 『青ひげの花嫁』<ref group="別題">『別れた妻たち』</ref>
*1948年 ''The Skeleton in the Clock'' 『時計の中の骸骨』
*1949年 ''A Graveyard to Let'' 『墓場貸します』
*1950年 ''Night at the Mocking Widow'' 『[[魔女が笑う夜]]』<ref group="別題">『わらう後家』</ref>
*1952年 ''Behind the Crimson Blind'' 『赤い鎧戸のかげで』
*1953年 ''The Cavalier's Cup'' 『[[騎士の盃]]』
====時代推理小説====
*1934年 ''Devil Kinsmere'' - フェアベーン名義
*1950年 ''The Bride of Newgate'' 『ニューゲイトの花嫁』
*1951年 ''The Devil in Velvet'' 『ビロードの悪魔』
*1955年 ''Captain Cut-Throat'' 『喉切り隊長』
*1956年 ''Fear Is the Same'' 『恐怖は同じ』 - ディクスン名義
*1957年 ''Fire, Burn!'' 『火よ燃えろ!』
*1959年 ''Scandal at High Chimneys'' 『ハイチムニー荘の醜聞』
*1961年 ''The Witch of the Low-Tide'' 『引き潮の魔女』
*1962年 ''The Demoniacs'' 『ロンドン橋が落ちる』
*1964年 ''Most Secret'' 『[[深夜の密使]]』 - ''Devil Kinsmere'' の改訂版。
*1968年 ''Papa Là-Bas'' 『ヴードゥーの悪魔』
*1969年 ''The Ghosts' High Noon'' 『亡霊たちの真昼』
*1971年 ''Deadly Hall'' 『死の館の謎』
*1972年 ''The Hungry Goblin'' 『[[血に飢えた悪鬼]]』
====ノン・シリーズ====
*1932年 ''Poison in Jest'' 『毒のたわむれ』
*1933年 ''The Bowstring Murders'' 『[[弓弦城殺人事件]]』<ref group="別題">『黒い密室』</ref><ref name="関連">シリーズ作品と関連が見られる。</ref> - ディクスン名義
*1937年 ''The Burning Court'' 『[[火刑法廷]]』<ref name="関連"/>
*1937年 ''The Third Bullet'' 『[[第三の銃弾]]』<ref group="別題">『第三の弾丸』</ref> - ディクスン名義
*1942年 ''The Emperor's Snuff-Box'' 『[[皇帝のかぎ煙草入れ]]』<ref group="別題">『皇帝の嗅煙草入』『皇帝の嗅煙草入れ』『皇帝のかぎタバコ入れ』『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』</ref><ref name="関連"/>
*1952年 ''The Nine Wrong Answers'' 『九つの答』
*1956年 ''Patrick Butler for the Defence'' 『バトラー弁護に立つ』<ref name="関連"/>
===短編集===
*1940年 ''The Department of Queer Complaints''<ref>ディクスン名義</ref> 『カー短編全集1 不可能犯罪捜査課』 <ref group="別題">『カー短編集1』</ref>
*1947年 ''Dr.Fell, Detective and Other Stories''
*1954年 ''The Third Bullet and Other Stories''
*1963年 ''The Men Who Explained Miracles''
以上3冊は日本では『カー短編全集2 [[妖魔の森の家]]』<ref group="別題">『カー短編集2』</ref>『カー短編全集3 パリから来た紳士』<ref group="別題">『カー短編集3』</ref>の2冊にまとめられている。
*1980年 ''The Door to Doom and Other Detections'' 『カー短編全集4 幽霊射手』『カー短編全集5 黒い塔の恐怖』
*1999年 『[[グラン・ギニョール (小説)|グラン・ギニョール]]』 - 日本で独自に編集。
*2022年 ''The Kindling Spark: Early Tales of Mystery, Horror, and Adventure''
===ラジオ・ドラマ集===
*1983年 ''The Dead Sleep Lightly'' 『カー短編全集6 ヴァンパイアの塔』
*1994年 ''Speak of the Devil'' 『幻を追う男』
*2020年 ''The Island of Coffins and Other Mysteries from the Casebook of Cabin B-13''
===その他===
*1936年 ''The Murder of Sir Edmund Godfrey'' 『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』 - 実話
*1949年 ''The Life of Sir Arthur Conan Doyle'' 『コナン・ドイル』 - 伝記
*2004年 ''The Helmsmen of Atlantis and Other Poems'' - 詩集
===共著===
*1939年 ''Fatal Descent'' 『エレヴェーター殺人事件』 - 長編小説。ジョン・ロードとディクスン名義で合作。
*1954年 ''The Exploits of Sherlock Holmes'' 『シャーロック・ホームズの功績』 - アドリアン・コナン・ドイルの短編集。一部を合作。
*1984年 ''Crime on the Coast & No Flowers by Request'' 『[[殺意の海辺]]』 - 連作集。一編に参加。
*2008年 ''13 to the Gallows'' - 戯曲集。一部はヴァル・ギールグッドと合作。
==作風==
「密室派 (Locked Room School)<ref>[[クレイトン・ロースン]]や[[アントニー・バウチャー]]などがいた。</ref>の総帥」「密室の王者」の異名を持つ。一貫して密室殺人他<ref>『黒死荘の殺人』『ユダの窓』『連続自殺事件』『死が二人をわかつまで』『爬虫類館の殺人』は中で施錠された部屋、『夜歩く』『弓弦城殺人事件』『孔雀の羽根』『囁く影』は外に人目があった部屋の殺人。『三つの棺』『火刑法廷』『墓場貸します』『魔女が笑う夜』は人が密室から消え、『白い僧院の殺人』『三つの棺』『テニスコートの殺人』『貴婦人として死す』『引き潮の魔女』は四方が雪やぬかるみの現場に犯人の足跡がない。『一角獣の殺人』『曲がった蝶番』『幽霊屋敷』『火よ燃えろ!』『雷鳴の中でも』は怪死の目撃者が他に人の姿はなかったと証言する。『読者よ欺かるるなかれ』『囁く影』『ロンドン橋が落ちる』は死因が不明、『赤後家の殺人』『五つの箱の死』『かくして殺人へ』『殺人者と恐喝者』『九つの答』はすり替えや毒害の方法が不明。</ref>、人には不可能なはずの犯罪を披露し続けた。『三つの棺』の第17章「[[三つの棺#密室講義|密室の講義]]」は、密室トリックを分類したエッセイとして知られる。
初期作品はマジックショーにたとえられた。演目<ref>毒々しい外題は上記の通り。演出は残虐な手口や性的な暗示に露わな煽情性と、章を突然の登場や意外な発言で締め大詰めに稲妻を走らせるマンネリズムが見られる。</ref>は怪奇趣味<ref>『夜歩く』の狼憑きを思わせる供述と壁の中の死体、『絞首台の謎』の[[ジャック・ケッチ]]に死体が運転する自動車や幻の街の出現、『髑髏城』の炎に包まれ墜落する人間、『毒のたわむれ』の手が徘徊する石像、『魔女の隠れ家』の因縁と儀式、『黒死荘の殺人』の幽霊屋敷縁起、『死時計』の天窓から覗き見る殺人、『三つの棺』の墓から這い出る人影、『アラビアンナイトの殺人』の深夜の博物館、『パンチとジュディ』の[[アストラル投射]]と遠隔感応、『火刑法廷』の扉を通り抜ける女、『読者よ欺かるるなかれ』の念力による殺人、『青銅ランプの呪』のファラオの呪い、『眠れるスフィンクス』の動く棺、『疑惑の影』の悪魔崇拝他。</ref>で奇妙な装置<ref>『蠟人形館の殺人』の秘密クラブ、『弓弦城殺人事件』の甲冑、『黒死荘の殺人』『一角獣の殺人』の凶器、『剣の八』の[[タロットカード|タロック]]、『アラビアンナイトの殺人』『五つの箱の死』の遺留品、『パンチとジュディ』の窓と瓜二つの死体、『四つの凶器』のバセットというカードゲーム、『孔雀の羽根』の「十客のティカップ」と椅子、『死者はよみがえる』のスーツケースと怪建築、『曲がった蝶番』の[[オートマトン]]、『青ひげの花嫁』の風船人形、『眠れるスフィンクス』の殺人ゲーム、『時計の中の骸骨』の鏡の迷路他。</ref>とグロテスクな配役<ref>高慢、傍若無人、放心状態、ヒステリック、高圧的など一面から成る戯画が毎回舞台に上がる。主人公格の青年は全くの没個性が多い。作者も皆名前が違うだけと認めていた。</ref>を取り合わせる。種明かしはことさら曲がりくねった道筋<ref>一例として『[[三つの棺]]』を参照のこと。</ref>を示す。二つの名義は、カーが謎が謎を呼ぶ状況<ref>万引きが原因の殺人を捜査中の警官が時計の針で殺される『死時計』、怪老人の出没をきっかけに、博物館に集う人々が様々な行為に耽っていたと判明する『アラビアンナイトの殺人』、ホテルのボーイが田舎屋敷に現れ人を殺し、その後ロンドンのホテルでも殺人が発生する『死者はよみがえる』他。</ref>、ディクスンは常套<ref>『黒死荘の殺人』の降霊術、『白い僧院の殺人』の雪上の足跡、『赤後家の殺人』の人を殺す部屋、『一角獣の殺人』の怪盗対名探偵、『パンチとジュディ』の巻き込まれ型スリラー、『孔雀の羽根』の警察への挑戦状。</ref>プラス密室殺人と使い分けた。[[バーレスク]]調<ref>『盲目の理髪師』『アラビアンナイトの殺人』他。</ref>や一度きりの試み<ref>『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』は1678年の殺人事件の顛末を史料から再構成、諸説を検討して自説を添えた。『火刑法廷』は[[ド・ブランヴィリエ侯爵夫人|ブランヴィリエ侯爵夫人]]の肖像画に生き写しの女を巡る物語。ディテールと筆致は推理小説とも怪奇小説ともつかない。『ユダの窓』は密室で死体と共に見つかった男の裁判の模様が全編を占める。</ref>も手掛ける。伏線が巧みで説得力皆無でも理解不能には至らない。第三者の介在や偶然の乱用、動機づけが薄弱で不合理に陥る、トリッキーに過ぎてアンフェア、戯作調の文章が泥臭い、ユーモアのセンスが異常、登場人物が千篇一律、など欠陥も指摘された。
40年代のカー名義は怪奇趣味を抑え、感情のもつれとサスペンスの醸成に力を入れてややシンプルでスマートになった。ディクスン名義は[[スラップスティック・コメディ|スラップスティック]]が基調をなす。50年代以降は同時代への嫌悪と過去への憧れが嵩じて時代推理中心になる。特徴はレギュラー探偵がなく年代が1670年から1927年と広い、巻末に「好事家のためのノート (Notes for the Curious)」と題する注釈を付すことである。初期の時代物は古い時代を描きスリラー寄り<ref>『ビロードの悪魔』『恐怖は同じ』『火よ燃えろ!』では現代人が過去に戻る。</ref>、後期は現代に近づき内容は純然たる本格推理小説である。
パロディやパスティーシュは多い<ref>ウィリアム・ブリテン『ジョン・ディクスン・カーを読んだ男』の主人公は読み過ぎて密室殺人に走る。[[ドナルド・E・ウェストレイク]]『二役は大変!』の主人公は『三つの棺』のトリックを実演し窮地を脱する。[[87分署シリーズ|スティーヴ・キャレラ]]は『殺意の楔』で密室殺人に遭遇「カーに問い合わせようか」と考える。日本では生誕百周年を記念して書下ろしアンソロジー『密室と奇蹟』が刊行された。作家[[柄刀一]]や評論家河田陸村の名はカーに由来する。</ref>。日本への紹介は第二次大戦後進んだ。[[江戸川乱歩]]は「密室の講義」から「[[類別トリック集成]]」を着想しエッセイ「カー問答」で称揚した。[[横溝正史]]は本格推理作家として再出発する際の影響を語った。その後も一定の人気がある<ref>カーに否定的な本格推理小説作家は[[天城一]]・[[都筑道夫]]・[[加田伶太郎]]・[[佐野洋]]などがいる。</ref>。
==探偵役==
探偵役は片言隻句から手口や動機に思い至り事件の全体像を一気に把握する。デビュー前の中短編と最初期の長編はパリの予審判事[[アンリ・バンコラン]]が登場する。冷笑的でサディスティックな性格に作者が満足せず後に以前の姿は演技と述懐させた。続く英国人の[[ギデオン・フェル]]博士と[[ヘンリー・メリヴェール]]卿は長く活躍する。フェルはカー名義に登場する歴史学者。蓬髪と山賊髭にリボンのついた眼鏡をかけ、巨体を二本のステッキで支える。丁寧なしゃべり方に咳払いや独自の間投詞をはさむ。メリヴェールはディクスン名義に登場、頭文字H・Mでも名が通る。やはり肥満体に眼鏡だが髪や髭はない。陸軍省の情報機関長で医師と法廷弁護士の資格を持つ。Gドロッピング式の粗いしゃべり方でスラップスティックの主役も張る。ディクスン名義には奇妙な訴えを扱う[[ロンドン警視庁]]D3課の課長[[マーチ大佐]]の連作短編もある。ダグラス・G・グリーンはバンコランは魔王で他の探偵はエクソシストと評した。フェルのモデルは[[G・K・チェスタトン|チェスタトン]]、マーチはジョン・ロード<ref>推理作家で『エレヴェーター殺人事件』を合作した。</ref>、H・Mは[[ウィンストン・チャーチル]]説<ref>[[山藤章二]]の挿絵(講談社『世界推理小説大系』第10巻、1972年。)などに窺える。</ref>や作者の父説<ref>H・Mと同じ1871年2月6日生まれ。弁護士で下院議員や郵便局長も務めた。</ref>がある。他ユーモラスな探偵の第1号『毒のたわむれ』のパット・ロシター、度外れた自信家で『疑惑の影』に登場後『バトラー弁護に立つ』で探偵役になるパトリック・バトラー<ref>父アーサーの伝記を依頼し『シャーロック・ホームズの功績』を合作したアドリアン・コナン・ドイルがモデル。</ref>などがいる。
==文献==
*{{Cite book|和書|author=ダグラス・G・グリーン|translator=[[森英俊]], 西村真裕美, 高田朔|year=1996|month=11|title=ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉|publisher=[[国書刊行会]]|isbn=978-4336038845}}
*{{Cite book|和書|author=S・T・ジョシ|translator=平野義久|year=2005|month=8|title=ジョン・ディクスン・カーの世界|publisher=創英社/[[三省堂書店]]|isbn=978-4881422649}}
*The John Dickson Carr Companion. By James E. Keirans, Ramble House, 2015.
==脚注==
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===別題===
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{{ジョン・ディクスン・カー}}
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神戸線
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神戸線
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神戸線
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'''神戸線'''
; こうべせん
:* [[阪急神戸本線]]および同線の支線を含めた総称
:* [[阪神高速3号神戸線]]
; かんべせん
:* [[近鉄鈴鹿線]]の旧称(さらに以前は「伊勢神戸線」)
== 関連項目 ==
* [[JR神戸線]]
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自由民主党 (曖昧さ回避)
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自由民主党(じゆうみんしゅとう)は、自由主義および民主主義を主な党是に掲げる政党の名前。中にはロシア自由民主党のような民族主義政党や、日本の自由民主党(自民党)のような改革を掲げる保守政党が使用している場合もある。
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自由民主党(じゆうみんしゅとう)は、自由主義および民主主義を主な党是に掲げる政党の名前。中にはロシア自由民主党のような民族主義政党や、日本の自由民主党(自民党)のような改革を掲げる保守政党が使用している場合もある。
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'''自由民主党'''(じゆうみんしゅとう)は、[[自由主義]]および[[民主主義]]を主な党是に掲げる[[政党]]の名前。中には[[ロシア自由民主党]]のような[[民族主義]]政党や、日本の[[自由民主党 (日本)|自由民主党]](自民党)のような[[改革]]を掲げる[[保守政党]]が使用している場合もある。
== 現存する政党 ==
* {{Flagicon|AFG}} {{仮リンク|アフガニスタン自由民主党|en|Liberal Democratic Party of Afghanistan}} - [[アフガニスタン]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|GBR}} [[自由民主党 (イギリス)]] - [[自由党 (イギリス)|自由党]]と[[社会民主党 (イギリス)|社会民主党]]の一部が合併して成立
* {{Flagicon|UKR}} {{仮リンク|ウクライナ自由民主党|uk|Ліберально-демократична партія України}} - [[ウクライナ]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|UZB}} [[ウズベキスタン自由民主党]] - [[ウズベキスタン]]の政党
* {{Flagicon|SLV}} [[自由民主党 (エルサルバドル)]] - [[エルサルバドル]]の政党
* {{Flagicon|AUS}} {{仮リンク|自由民主党 (オーストラリア)|en|Liberal Democratic Party (Australia)}} - [[オーストラリア]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|HRV}} {{仮リンク|自由民主党 (クロアチア)|hr|Hrvatska narodna stranka - liberalni demokrati}} - [[クロアチア]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|SVN}} [[スロベニア自由民主党]] - [[スロベニア]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|SER}} {{仮リンク|自由民主党 (セルビア)|sr|Либерално-демократска партија (Србија)}} - [[セルビア]]の親欧州・コソボ独立容認・[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|DEU}} [[自由民主党 (ドイツ)]] - [[ドイツ]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|TUR}} {{仮リンク|自由民主党 (トルコ)|tr|Liberal Demokrat Parti (Türkiye)}} - [[トルコ]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|JPN}} [[自由民主党 (日本)]] - [[日本]]の[[保守政党]] [[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]と[[日本民主党]]が[[保守合同|合同]]して成立
* {{Flagicon|BAN}} {{仮リンク|自由民主党 (バングラデシュ)|bn|লিবারেল ডেমোক্র্যাটিক পার্টি (বাংলাদেশ)}} - [[バングラデシュ]]の[[民族主義]]政党
* {{Flagicon|BEL}} [[フラマン系自由民主党]] - [[ベルギー]]の[[中道右派]]政党
* {{Flagicon|BIH}} {{仮リンク|自由民主党 (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|bs|Liberalno demokratska stranka Bosne i Hercegovine|sh|Liberalna demokratska stranka (BiH)}} - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|MKD}} {{仮リンク|自由民主党 (マケドニア共和国)|mk|Либерално-демократска партија (Македонија)}} - [[マケドニア共和国]]の[[自由主義]]・[[中道右派]]政党
* {{Flagicon|MAL}} {{仮リンク|自由民主党 (マレーシア)|ms|Parti Liberal Demokratik}} - [[マレーシア]]の政党
* {{Flagicon|MOZ}} {{仮リンク|モザンビーク自由民主党|en|Liberal Democratic Party of Mozambique}} - [[モザンビーク]]の政党
* {{Flagicon|LIT}} [[秩序と正義]](旧・自由民主党) - [[リトアニア]]の[[国民保守主義]]政党
* {{Flagicon|RUS}} [[政党エル・デー・ペー・エル]](旧・ロシア自由民主党) - [[ロシア]]の[[民族主義]]政党
* {{Flagicon|TWN}} [[中国自由民主党]] - [[台湾]]の24番目に認証された政党
* {{Flagicon|NLD}} [[自由民主国民党]] - [[オランダ]]の[[中道右派]]政党、略称(VVD)、日本の[[マスメディア|マスコミ]]では自由民主党と訳されることがある
== かつてあった政党 ==
* {{Flagicon|ANG}} [[自由民主党 (アンゴラ)]] - [[アンゴラ]]の[[自由主義]]政党
* {{Flagicon|USA}} [[沖縄自由民主党]] - [[アメリカ合衆国による沖縄統治]]時代の[[保守政党]]
* {{Flagicon|KOR}} [[自由民主党 (韓国)]] - [[第三共和国 (大韓民国)|第三共和国]]時代の[[大韓民国]]の[[保守政党]]で、準[[与党]]的存在
* {{Flagicon|KEN}} {{仮リンク|自由民主党 (ケニア)|en|Liberal Democratic Party (Kenya)}} - [[ケニア]]の政党
* {{Flagicon|CHI}} {{仮リンク|自由民主党 (チリ)|es|Partido Liberal Democrático (Chile, 1893-1932)}} - [[チリ]]の政党
* {{Flagicon|DDR}} [[ドイツ自由民主党]] - 旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[衛星政党]]
* {{Flagicon|FRA}} {{仮リンク|自由民主党 (フランス)|fr|Liberal Democracy (France)}} - [[フランス]]の政党
* {{Flagicon|ROM}} {{仮リンク|自由民主党 (ルーマニア)|ro|Partidul Liberal Democrat (România, 2006)}} - [[ルーマニア]]の政党
* {{Flagicon|USSR}} {{仮リンク|ソ連自由民主党|en|Liberal Democratic Party of the Soviet Union}} - [[ソビエト連邦]]の政党。ロシア自由民主党を経て、現在、[[政党エル・デー・ペー・エル]]。
== 関連項目 ==
* [[自由民主主義]]
* [[自由党 (曖昧さ回避)]]
* [[民主党 (曖昧さ回避)]]
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[[Category:同名の政党]]
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18,437 |
コイサン諸語
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コイサン諸語(コイサンしょご)は、アフリカの言語群。吸着音を共通の特徴として持つ。
歴史的にコイとサンの人々によって話されてきた。今日では南西アフリカのカラハリ砂漠とタンザニアの一部地域で(サンダウェ語、ハヅァ語)話される。
特徴は吸着音を音素とすることや、50を超える吸着音と140を超える音素を持つクン語や、厖大な音素の目録を持つコン語を含むことである。
話者のコイサン人種は現生人類最古の系統とされ、吸着音は現生人類最古の言語の特徴を今に伝えるものと推測されている。
含まれる5言語群は共通して吸着音を持つことから、かつては「コイサン語族」と呼ばれていたが、同系統とは証明されていないため、現在では独立した語族とされる。
かつてはソマリア・バアー・ヘイブ(英語版)でもコイサン諸語が話されていたようである。
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コイサン諸語(コイサンしょご)は、アフリカの言語群。吸着音を共通の特徴として持つ。
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'''コイサン諸語'''(コイサンしょご)は、[[アフリカ]]の[[言語]]群。[[吸着音]]を共通の特徴として持つ。
== 概要 ==
歴史的に[[コイコイ人|コイ]]と[[サン人|サン]]の人々によって話されてきた。今日では南西アフリカの[[カラハリ砂漠]]とタンザニアの一部地域で([[サンダウェ語]]、[[ハヅァ語]])話される<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=中川裕 |date=1998 |url=https://doi.org/10.24467/onseikenkyu.2.3_52 |title=コイサン諸語のクリック子音の記述的枠組み(<特集>アフリカ諸語の音声) |journal=音声研究 |ISSN=13428675 |publisher=日本音声学会 |volume=2 |issue=3 |pages=52-62 |doi=10.24467/onseikenkyu.2.3_52 |CRID=1390282679764935168 |ref=harv}}</ref>。
特徴は[[吸着音]]を[[音素]]とすることや、50を超える吸着音と140を超える音素を持つ[[クン語]]や、厖大な音素の目録を持つ[[コン語]]を含むことである<ref name=":0" />。
話者の[[コイサン人種]]は[[現生人類]]最古の系統とされ<ref>{{Cite web|和書|title=人類発祥の地は東アフリカか、南アフリカか |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/b/091500034/ |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |access-date=2023-06-29 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=africa science: Documentary Redraws Humans' Family Tree |url=http://africascience.blogspot.com/2007/07/documentary-redraws-humans-family-tree.html |website=africa science |date=2007-07-13 |access-date=2023-06-29 |last=Lmurx}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Schuster|first=Stephan C.|last2=Miller|first2=Webb|last3=Ratan|first3=Aakrosh|last4=Tomsho|first4=Lynn P.|last5=Giardine|first5=Belinda|last6=Kasson|first6=Lindsay R.|last7=Harris|first7=Robert S.|last8=Petersen|first8=Desiree C.|last9=Zhao|first9=Fangqing|date=2010-02|title=Complete Khoisan and Bantu genomes from southern Africa|url=https://www.nature.com/articles/nature08795|journal=[[ネイチャー|Nature]]|volume=463|issue=7283|pages=943–947|language=en|doi=10.1038/nature08795|issn=1476-4687}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Pickrell|first=Joseph K.|last2=Patterson|first2=Nick|last3=Loh|first3=Po-Ru|last4=Lipson|first4=Mark|last5=Berger|first5=Bonnie|last6=Stoneking|first6=Mark|last7=Pakendorf|first7=Brigitte|last8=Reich|first8=David|date=2014-02-18|title=Ancient west Eurasian ancestry in southern and eastern Africa|url=http://arxiv.org/abs/1307.8014|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=111|issue=7|pages=2632–2637|doi=10.1073/pnas.1313787111|issn=0027-8424}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.science.org/content/article/dwindling-african-tribe-may-have-been-most-populous-group-planet |title=Dwindling African tribe may have been most populous group on planet |access-date=2023-06-30 |publisher=[[サイエンス|Science]] |date=2014-12-04}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Ragsdale|first=Aaron P.|last2=Weaver|first2=Timothy D.|last3=Atkinson|first3=Elizabeth G.|last4=Hoal|first4=Eileen G.|last5=Möller|first5=Marlo|last6=Henn|first6=Brenna M.|last7=Gravel|first7=Simon|date=2023-05|title=A weakly structured stem for human origins in Africa|url=https://www.nature.com/articles/s41586-023-06055-y|journal=Nature|volume=617|issue=7962|pages=755–763|language=en|doi=10.1038/s41586-023-06055-y|issn=1476-4687}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v10/n11/%E3%82%B2%E3%83%8E%E3%83%A0%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A7%BB%E5%8B%95%E5%8F%B2/48343 |title=ゲノムが教えるアフリカ人の移動史 |access-date=2023-06-30}}</ref>、[[吸着音]]は現生人類最古の言語の特徴を今に伝えるものと推測されている<ref>{{Cite book|和書 |title=人類20万年 遙かなる旅路 |url=https://www.amazon.co.jp/gp/product/416376240X/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o00_s00?ie=UTF8&psc=1 |publisher=文藝春秋 |date=2013-05-15 |isbn=978-4-16-376240-1 |translator=[[野中香方子]] |first2=Alice |last2=Roberts |pages=45 - 48 |author=[[アリス・ロバーツ]]}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Knight|first=Alec|last2=Underhill|first2=Peter A.|last3=Mortensen|first3=Holly M.|last4=Zhivotovsky|first4=Lev A.|last5=Lin|first5=Alice A.|last6=Henn|first6=Brenna M.|last7=Louis|first7=Dorothy|last8=Ruhlen|first8=Merritt|last9=Mountain|first9=Joanna L.|date=2003-03-18|title=African Y chromosome and mtDNA divergence provides insight into the history of click languages|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/12646128/|journal=Current biology: CB|volume=13|issue=6|pages=464–473|doi=10.1016/s0960-9822(03)00130-1|issn=0960-9822|pmid=12646128}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Traunmuller|first=Hartmut|year=2003|title=Clicks and the idea of a human protolanguage|url=https://www.academia.edu/71183587/Clicks_and_the_idea_of_a_human_protolanguage|journal=Umeå University, Department of Philosophy and Linguistics PHONUM}}</ref>。
含まれる5言語群は共通して吸着音を持つことから、かつては「'''コイサン[[語族]]'''」と呼ばれていたが、同系統とは証明されていないため、現在では独立した語族とされる<ref>Bonny Sands (1998) Eastern and Southern African Khoisan: Evaluating Claims of Distant Linguistic Relationships. Rüdiger Köppe Verlag, Cologne</ref><ref>Gerrit Dimmendaal (2008) "Language Ecology and Linguistic Diversity on the African Continent", in Language and Linguistics Compass 2(5)</ref>。
{{see also|[[アフリカの言語]]}}
== 分類 ==
*[[ハヅァ語]](Hadza)
*[[サンダウェ語]](Sandawe)
*[[コエ・クワディ語族]](Khoe-Kwadi)
**[[クワディ語]](Kwadi)
**[[コエ諸語]](Khoe)
***[[ナマ語]]({{lang-en-short|Nàmá}})
***{{仮リンク|ガーナ語|en|Gǁana language}}
***{{仮リンク|ナロ語|en|Naro language}}
*[[クン・ホアン語族]](Kx'a)
**[[クン語]](!Kung)
**{{仮リンク|ホアン語|en|ǂ’Amkoe language}}(ǂ’Amkoe)
*[[ツウ語族]](Tuu)
**[[コン語]](ǃXóõ)
**{{仮リンク|ケグウィ語|en|ǁXegwi language}}
==話者==
*[[カポイド]]
*[[コイコイ人]]
*[[サン人]]
==その他==
かつては[[ソマリア]]・{{仮リンク|バアー・ヘイブ|en|Buur Heybe}}でもコイサン諸語が話されていたようである<ref name="Abdullahi1011">{{cite book|last1=Abdullahi|first1=Mohamed Diriye|title=Culture and Customs of Somalia|date=2001|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=0313313334|pages=10-11|url=https://www.google.com/books?id=2Nu918tYMB8C|accessdate=2015-7}}</ref>。
==脚注==
<references />
== 関連項目 ==
*[[ニカウ]] - ブッシュマンシリーズ主演俳優
*[[矢部太郎]] - [[進ぬ!電波少年|番組]]の企画で当言語を習得。
{{世界の語族}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こいさんしよこ}}
[[category:語族]]
[[Category:アフリカの言語]]
[[Category:仮説段階の語族]]
[[Category:クリック言語]]
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2003-09-26T20:56:26Z
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2023-10-15T01:37:48Z
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18,440 |
定義域
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数学における写像の定義域(ていぎいき、英: domain of definition)あるいは始域(しいき、英: domain; 域, 領域)とは、写像の値の定義される引数(「入力」)の取り得る値全体からなる集合である。つまり、写像はその定義域の各元に対して(「出力」としての)値を与える。
例えば、実数の範囲での議論において、余弦函数の定義域はふつう実数全体の成す集合(実数直線)であるし、正の平方根函数の定義域は 0 以上の実数全体の成す集合であるものとする。定義域が実数から成る集合(実数全体の成す集合の部分集合)であるような実数値函数は、その定義域が x-軸上にあるものとして xy-直交座標系に表すことができる。
対応 f: A → B(あるいは二項関係 Rf ⊂ A × B)が与えられたとき、A を f の始集合あるいは始域、域 (domain) と呼び、対して B を終集合、終域、余域 (codomain) などと呼ぶ。対応、特に部分写像(あるいは右一意的二項関係)f: A → B に対し、(a, b) ∈ Rf なる b ∈ B が存在するような a ∈ A 全体から成る始域の部分集合 X ⊂ A を f の定義域 (domain of definition) という。これは f の制限(後述)として得られる対応 f: X → B が写像となることといっても同じである。対して、(a, b) ∈ Rf なる a ∈ A が存在するような b ∈ B 全体からなる終域の部分集合 Y ⊂ B を f の値域という。
従って特に、写像 f: A → B において、その定義域は始集合 A それ自身であるから、しばしば始域と定義域の概念は特に区別されない。写像 f: A → B の定義域 A の各元 x に対応する終域 B の元を f(x) なる式で表すとき、x を f の引数と呼び、f(x) は f の x における値または x の f による像と呼ぶ。f の値域または像は、定義域 A の各元の f による像となることのできる B の元全体の成す集合 f(A) = {f(x) ∈ B | x ∈ A} に一致する。
任意の写像は、定義域をその任意の部分集合に限ることができる。写像 g: A → B の S ⊆ A なる集合への制限 (restriction) は g|S: S → B と書く。逆に、写像 f: S → B が f = g|S を満たすとき、g は f の A への拡張あるいは延長 (extension) であるという。
数式の自然な定義域 (natural domain) とは、その式の値が(典型的には実数として、あるいは整数として、複素数としてなど)定義されるような引数(変数)として取りうる限りの値全体の成す集合をいう。例えば、平方根函数の自然な定義域は(それを実函数として考える限りにおいては)非負実数全体の成す集合である。また特に定義域に言及することなく写像の値域を扱う場合、それは自然な定義域を考えたときの、写像のとりうる値全体の成す集合のことであるのが普通である。
きちんと定義された函数は、定義域の各元を終域の元へ写すものでなければならない。例えば、実函数 f(x) = 1⁄x は値 f(0) を持たないから、実数全体の成す集合 R はその定義域にはなり得ない。この場合、R ∖ {0} を自然な定義域と考えたり、f(0) を明示的に与えて「穴埋め」を考えたりすることもできる。例えば
として f を延長すれば、これは任意の実数 x に対して定義することができるので、R を f の定義域に採用することができる。
このような函数の定義域の「穴埋め」は、しばしばそこで函数の持つ一貫した性質(連続性、可微分性など)が失われ、特異点を生じうる。それとは対照的に、複素解析において、見かけ上孤立した特異点であるものが、滑らかまたは解析的に延長して特異性を解消できる場合がある。このような特異点は可除特異点と呼ばれる。また、局所的に与えられた解析函数は解析的延長の原則に基づいて大域的に定義域の延長を受ける。そのような可能な限りの延長を行って得られる(一価の)解析函数の定義域を自然な定義域と呼ぶことがある。
函数解析学においてしばしば部分写像であるような作用素が扱われ、作用素 f: X → Y の定義域 D(f) が始域 X において稠密であるようなものがしばしば重要な役割を果たす。このように定義域が始域の中で稠密であるような部分写像は、稠密に定義されているという。
写像 f: X → Y の場合には始域 (domain) X の全ての元 x に対して値 f(x) が定義されるから、その意味において定義域 (domain of definition) は X であり、始域と定義域を区別することは必要でない。しかし値 f(x) が未定義であることを許す部分写像に対しては差異が生じる。ゆえにこの場合、"domain of definition" を短く "domain" と呼ぶか否かは問題になる。
現代数学的な用法において部分写像 f: X → Y の domain とは、定義域 (domain of definition) の事であるのが殆どであり、従って f の domain とは制限 f: X′ → Y が写像となるような X の最大の部分集合 X′ である。
一方、圏論では写像のかわりに射(対象から対象への矢印)を扱うが、射の域 (domain) とは矢印のでている対象のことであり(矢の指している対象は射の余域 (codomain) と呼ぶ)、部分写像などの場合に domain が定義域の事を指すのとでは流儀が異なる。この文脈では domain に関する集合論的な考え方の多くが使えなかったりより抽象的な形に定式化しなおされなければならない。例えば、射の域を部分対象へ制限するという概念は、写像の場合から修正を加えなければならない。そういった意味でこの文脈では、圏の射が部分写像で与えられるような圏の場合でも、上記とは異なり射としての部分写像 f: X → Y の domain は(各点 x ∈ X で f(x) が定義されるか否かに関わらず)X のことを言う。
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"text": "きちんと定義された函数は、定義域の各元を終域の元へ写すものでなければならない。例えば、実函数 f(x) = 1⁄x は値 f(0) を持たないから、実数全体の成す集合 R はその定義域にはなり得ない。この場合、R ∖ {0} を自然な定義域と考えたり、f(0) を明示的に与えて「穴埋め」を考えたりすることもできる。例えば",
"title": "例"
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"text": "として f を延長すれば、これは任意の実数 x に対して定義することができるので、R を f の定義域に採用することができる。",
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"text": "このような函数の定義域の「穴埋め」は、しばしばそこで函数の持つ一貫した性質(連続性、可微分性など)が失われ、特異点を生じうる。それとは対照的に、複素解析において、見かけ上孤立した特異点であるものが、滑らかまたは解析的に延長して特異性を解消できる場合がある。このような特異点は可除特異点と呼ばれる。また、局所的に与えられた解析函数は解析的延長の原則に基づいて大域的に定義域の延長を受ける。そのような可能な限りの延長を行って得られる(一価の)解析函数の定義域を自然な定義域と呼ぶことがある。",
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"text": "函数解析学においてしばしば部分写像であるような作用素が扱われ、作用素 f: X → Y の定義域 D(f) が始域 X において稠密であるようなものがしばしば重要な役割を果たす。このように定義域が始域の中で稠密であるような部分写像は、稠密に定義されているという。",
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"text": "現代数学的な用法において部分写像 f: X → Y の domain とは、定義域 (domain of definition) の事であるのが殆どであり、従って f の domain とは制限 f: X′ → Y が写像となるような X の最大の部分集合 X′ である。",
"title": "注意"
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"text": "一方、圏論では写像のかわりに射(対象から対象への矢印)を扱うが、射の域 (domain) とは矢印のでている対象のことであり(矢の指している対象は射の余域 (codomain) と呼ぶ)、部分写像などの場合に domain が定義域の事を指すのとでは流儀が異なる。この文脈では domain に関する集合論的な考え方の多くが使えなかったりより抽象的な形に定式化しなおされなければならない。例えば、射の域を部分対象へ制限するという概念は、写像の場合から修正を加えなければならない。そういった意味でこの文脈では、圏の射が部分写像で与えられるような圏の場合でも、上記とは異なり射としての部分写像 f: X → Y の domain は(各点 x ∈ X で f(x) が定義されるか否かに関わらず)X のことを言う。",
"title": "注意"
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数学における写像の定義域あるいは始域とは、写像の値の定義される引数(「入力」)の取り得る値全体からなる集合である。つまり、写像はその定義域の各元に対して(「出力」としての)値を与える。 例えば、実数の範囲での議論において、余弦函数の定義域はふつう実数全体の成す集合(実数直線)であるし、正の平方根函数の定義域は 0 以上の実数全体の成す集合であるものとする。定義域が実数から成る集合(実数全体の成す集合の部分集合)であるような実数値函数は、その定義域が x-軸上にあるものとして xy-直交座標系に表すことができる。
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{{Otheruses|数学の定義域|データベースの定義域|定義域 (データベース)}}
[[数学]]における写像の'''定義域'''(ていぎいき、{{lang-en-short|domain of definition}})あるいは'''始域'''(しいき、{{lang-en-short|domain}}; '''域''', '''領域'''<ref group="注釈">領域という語を充てている文献として、例えば {{harvtxt|ケリー|1968|p=7}}, {{harvtxt|銀林|1971}} など。ただし「領域」というと複素解析などで「連結開集合」の意味で用いることが多く紛らわしい。</ref>)とは、[[写像]]の値の定義される[[引数]](「入力」)の取り得る値全体からなる[[集合]]である。つまり、写像はその定義域の各元に対して(「出力」としての)値を与える。
例えば、実数の範囲での議論において、余弦函数の定義域はふつう実数全体の成す集合([[実数直線]])であるし、正の平方根函数の定義域は {{math|0}} 以上の実数全体の成す集合であるものとする。定義域が実数から成る集合(実数全体の成す集合の部分集合)であるような実数値函数は、その定義域が {{mvar|x}}-軸上にあるものとして {{mvar|xy}}-[[座標平面|直交座標系]]に表すことができる。
[[Image:Codomain2.SVG|right|thumb|写像 {{mvar|f}} の定義域は {{mvar|X}}。]]
== 定義 ==
[[対応 (数学)|対応]] {{math|''f'': ''A'' → ''B''}}(あるいは[[二項関係]] {{math|''R''<sub>''f''</sub> ⊂ ''A'' × ''B''}})が与えられたとき、{{mvar|A}} を {{mvar|f}} の'''始集合'''あるいは'''始域'''、'''域''' (domain) と呼び、対して {{mvar|B}} を'''終集合'''、'''終域'''、余域 (codomain) などと呼ぶ。対応、特に部分写像(あるいは右一意的二項関係){{math|''f'': ''A'' → ''B''}} に対し、{{math|(''a'', ''b'') ∈ ''R''<sub>''f''</sub>}} なる {{math|''b'' ∈ ''B''}} が存在するような {{math|''a'' ∈ ''A''}} 全体から成る始域の部分集合 {{math|''X'' ⊂ ''A''}} を {{mvar|f}} の'''定義域''' (domain of definition) という<ref>{{harvtxt|松坂|1968|pp=24-25}}など。</ref>。これは {{mvar|f}} の制限(後述)として得られる対応 {{math|''f'': ''X'' → ''B''}} が[[写像]]となることといっても同じである。対して、{{math|(''a'', ''b'') ∈ ''R''<sub>''f''</sub>}} なる {{math|''a'' ∈ ''A''}} が存在するような {{math|''b'' ∈ ''B''}} 全体からなる終域の部分集合 {{math|''Y'' ⊂ ''B''}} を {{mvar|f}} の'''値域'''という。
従って特に、写像 {{math|''f'': ''A'' → ''B''}} において、その定義域は始集合 {{mvar|A}} それ自身であるから、しばしば始域と定義域の概念は特に区別されない。写像 {{math|''f'': ''A'' → ''B''}} の定義域 {{mvar|A}} の各元 {{mvar|x}} に対応する終域 {{mvar|B}} の元を {{math|''f''(''x'')}} なる式で表すとき、{{mvar|x}} を {{mvar|f}} の[[引数]]と呼び、{{math|''f''(''x'')}} は {{mvar|f}} の {{mvar|x}} における'''値'''または {{mvar|x}} の {{mvar|f}} による[[像 (数学)|像]]と呼ぶ。{{mvar|f}} の[[値域]]または'''像'''は、定義域 {{mvar|A}} の各元の {{mvar|f}} による像となることのできる {{mvar|B}} の元全体の成す集合 {{math|''f''(''A'') {{=}} {''f''(''x'') ∈ ''B'' {{!}} ''x'' ∈ ''A''}}} に一致する。
== 定義域の制限と延長 ==
任意の写像は、定義域をその任意の[[部分集合]]に限ることができる。写像 {{math|''g'': ''A'' → ''B''}} の {{math|''S'' ⊆ ''A''}} なる集合への'''[[制限 (数学)|制限]]''' (restriction) は {{math|''g''|<sub>''S''</sub>: ''S'' → ''B''}} と書く。逆に、写像 {{math|''f'': ''S'' → ''B''}} が {{math|''f'' {{=}} ''g''|<sub>''S''</sub>}} を満たすとき、''g'' は {{mvar|f}} の ''A'' への'''拡張'''あるいは'''延長''' (extension) であるという。
== 自然な定義域 ==
数式の'''自然な定義域''' {{lang|en|(natural domain)}} とは、その式の値が(典型的には実数として、あるいは整数として、複素数としてなど)定義されるような引数(変数)として取りうる限りの値全体の成す集合をいう。例えば、平方根函数の自然な定義域は(それを実函数として考える限りにおいては)非負実数全体の成す集合である。また特に定義域に言及することなく写像の値域を扱う場合、それは自然な定義域を考えたときの、写像のとりうる値全体の成す集合のことであるのが普通である<ref>{{cite book|title=Calculus: basic concepts and applications|first1=Robert A.|last1=Rosenbaum|first2=G. Philip|last2=Johnson|page=60|year=1984|isbn=0-521-25012-9|publisher=Cambridge University Pressd}}</ref>。
== 例 ==
[[well-defined|きちんと定義された]]函数は、定義域の各元を終域の元へ写すものでなければならない。例えば、実函数 {{math|''f''(''x'') {{=}} 1⁄''x''}} は値 {{math|''f''(0)}} を持たないから、実数全体の成す集合 {{math|'''R'''}} はその定義域にはなり得ない。この場合、{{math|'''R''' ∖ {0}}} を自然な定義域と考えたり、{{math|''f''(0)}} を明示的に与えて「穴埋め」を考えたりすることもできる。例えば
: <math>f(x)=\begin{cases} 1/x & (x\ne 0)\\ 0 & (x=0)\end{cases}</math>
として {{mvar|f}} を延長すれば、これは任意の実数 ''x'' に対して定義することができるので、{{math|'''R'''}} を {{mvar|f}} の定義域に採用することができる。
このような函数の定義域の「穴埋め」は、しばしばそこで函数の持つ一貫した性質([[連続写像|連続性]]、[[微分可能函数|可微分性]]など)が失われ、[[特異点 (数学)|特異点]]を生じうる。それとは対照的に、[[複素解析]]において、見かけ上[[孤立点|孤立]]した特異点であるものが、[[滑らかな函数|滑らか]]または[[解析函数|解析的]]に延長して特異性を解消できる場合がある。このような特異点は[[可除特異点]]と呼ばれる。また、局所的に与えられた解析函数は[[解析接続|解析的延長]]の原則に基づいて大域的に定義域の延長を受ける。そのような可能な限りの延長を行って得られる(一価の)解析函数の定義域を自然な定義域<ref>{{MathWorld|urlname=NaturalDomain|title=Natural Domain}}</ref>と呼ぶことがある。
[[函数解析学]]においてしばしば部分写像であるような作用素が扱われ、作用素 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} の定義域 {{math|''D''(''f'')}} が始域 {{mvar|X}} において[[稠密部分集合|稠密]]であるようなものがしばしば重要な役割を果たす。このように定義域が始域の中で稠密であるような部分写像は、[[密定義作用素|稠密に定義されている]]という。
== 注意 ==
写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} の場合には始域 (domain) {{mvar|X}} の全ての元 {{mvar|x}} に対して値 {{math|''f''(''x'')}} が定義されるから、その意味において定義域 (domain of definition) は {{mvar|X}} であり、始域と定義域を区別することは必要でない。しかし値 {{math|''f''(''x'')}} が未定義であることを許す[[部分写像]]に対しては差異が生じる。ゆえにこの場合、"domain of definition" を短く "domain" と呼ぶか否かは問題になる。
現代数学的な用法において部分写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} の domain とは、定義域 (domain of definition) の事であるのが殆どであり、従って {{mvar|f}} の domain とは制限 {{math|''f'': ''X''′ → ''Y''}} が写像となるような {{mvar|X}} の最大の部分集合 {{mvar|X′}} である。
一方、[[圏論]]では写像のかわりに[[射 (圏論)|射]](対象から対象への矢印)を扱うが、射の'''域''' (domain) とは矢印のでている対象のことであり(矢の指している対象は射の'''余域''' (codomain) と呼ぶ)、部分写像などの場合に domain が定義域の事を指すのとでは流儀が異なる。この文脈では domain に関する集合論的な考え方の多くが使えなかったりより抽象的な形に定式化しなおされなければならない。例えば、射の域を[[部分対象]]へ制限するという概念は、写像の場合から修正を加えなければならない。そういった意味でこの文脈では、圏の射が部分写像で与えられるような圏の場合でも、上記とは異なり射としての部分写像 {{math|''f'': ''X'' → ''Y''}} の domain は(各点 {{math|''x'' ∈ ''X''}} で {{math|''f''(''x'')}} が定義されるか否かに関わらず){{mvar|X}} のことを言う。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=松坂和夫|title=集合・位相入門|publisher=岩波書店|year=1968|isbn=978-4000054249}}
* {{cite book|和書|author=銀林浩|title=集合の数学|publisher=明治図書出版|year=1971}}
* {{cite book|和書|author=ジョン.L.ケリ-|translator=児玉之宏|title=位相空間論|publisher=吉岡書店|year=1968}}
== 関連項目 ==
* [[単射]]
* [[全射]]
* [[全単射]]
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|urlname=Domain|title=Domain}}
* {{PlanetMath|urlname=Domain|title=function}}
{{DEFAULTSORT:ていきいき}}
[[Category:写像]]
[[Category:集合の基本概念]]
[[Category:数学に関する記事]]
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2003-09-26T21:34:32Z
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2023-08-06T10:55:34Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E7%BE%A9%E5%9F%9F
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ワンダースワン
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ワンダースワン(WonderSwan)は、バンダイの携帯型ゲーム機。1999年3月4日発売。定価4,800円。据置機最安値、カセットビジョンJr.の定価5000円を更に下回る。略称は「WS」。
互換機種としてワンダースワンカラーとスワンクリスタルがある。
任天堂のゲームボーイを製作した横井軍平が任天堂を退職後に起業したコト社が、企画・開発に大きく関わった。
前年にゲームボーイカラーが、またほぼ同時期にネオジオポケットカラーが発売される中で、電池の持ちや価格の安さを優先してあえてモノクロ仕様での発売に踏み切った。しかし、この時代は携帯ゲーム機のカラー化が低コストの時代になっていたため、流れには抗しきれず、翌年にはワンダースワンカラーを発売することになった。
本機は、子供向けのゲームボーイシリーズ、マニア向けのネオジオポケットシリーズに対して、若者向けのおしゃれなイメージを打ち出し、携帯ゲーム機市場で少ないながらも一定の市場占有率を獲得することに成功した。しかし、後継機のワンダースワンカラーでの人気作品の不足などによりジリ貧傾向となり、後発のゲームボーイアドバンスに市場を席巻された。
1998年10月8日に行われた発表会では低価格、小型で軽量、単三電池1本で1日以上使える省電力といった「スモールイズベストを追求した製品」と主張しており15歳~19歳をターゲットに、携帯ゲーム機の概念を大きく変える事を狙いとしていた。発表会はティーンエイジャーを意識した華やかなパフォーマンスを見せていた。
秋葉原の販売店によると、購入するのは20代のサラリーマン風の人が多いようで、「問い合わせはなく、あれば買う様な印象でした」との事で、ライトユーザーよりもマニア層からのウケが良い結果を出した。
2003年2月18日バンダイの中期計画発表にて、最後の機種スワンクリスタルが受注生産へ移行する事が明らかにされ、事実上の撤退となった。(この時スワンクリスタルの販売に合わせてワンダースワンカラーは定価4,800円に値下げされた)
尚、海外では未発売である。
内蔵EEPROMに名前、生年月日、血液型等の個人情報を記録でき、記録した名前は起動時に表示される。本体を縦に持ち替えて『クレイジー・クライマー』等の縦画面のゲームがプレイできる(斜め持ち用のゲームも存在する)。電池残量や音量等の様々な状態がアイコンとして液晶画面スタティック部に表示される。
ヘッドホン端子はなく、本体右側(横向きに持った場合)にある拡張端子に専用のアダプタを経由して接続する。この拡張端子は通信ケーブルでも使用し、ヘッドホンアダプタとは排他仕様となっている。
縦にも横にも持てることを考慮したため、主要な操作キーには十字キーのような固定的な形状・役割のものはなく、そのかわりX・Yボタン群(各4個)が十字キーの役割を担っている。また、ロムカセットの端子がむき出しなので汚れやすく、任天堂ハードのロムカセットに比べ、頻繁な掃除が必要。そのためしっかり刺すと起動せず少し隙間を作ると起動する等の事例もあった。
CPUその他の処理能力は、大体セガ・マスターシステム(同じ基板のゲームギアも含む)<ワンダースワン<スーパーファミコンといったところ。
A、B、X1 - X4、Y1 - Y4の各操作ボタンに加え
がある。
電源を投入すると、本体に登録した名前とバンダイのロゴが表示され、「キュイーン」という音が鳴る。
サウンドボタンは音量を大・小・オフと切り替えるものである。しかしこの設定は保存されず、電源を投入するたびに大に戻る。そのため、上記の起動音が鳴ることを避けたい場合には、電源オン直後にサウンドボタンを2連打して音量をオフにする必要があった。ワンダースワンカラーで初期音量を設定できるようになり、この問題は解消された。
STARTボタンを押しながら電源を投入すると、ユーザー登録画面になり、以下の項目を登録できる。
電池の種類によって厚さが違うのは、本機は比較的薄型に設計されており、単3電池使用時は背面に飛び出す形の電池カバーを装着するためである。
電池の持ちのよさは本機の大きな特長で、競合他機種と異なり単3電池を1本しか使用しないにもかかわらず、それらをしのぐ使用時間の長さを誇っている(これは当初の設計思想でバッテリーの持ちを優先させたためで、その結果モノクロ液晶の採用となった)。
STN液晶は画面が暗く残像が激しいという欠点があったため、この欠点を省みてスワンクリスタルが開発されることとなった。
型番はSW-001。
従来のものと異なり透明、白ではなく透明な青色の単三電池ケースの形をしている。専用ACアダプタが接続可能でアダプタを使用することにより電池が入ってなくてもプレイが可能。電池を入れて普通のケースと同様に使うこともできる。
ローンチタイトルは『GUNPEY』、『チョコボの不思議なダンジョン』、『電車でGO!』、『新日本プロレスリング闘魂烈伝』の4タイトル。他の主なタイトルとして『風のクロノア ムーンライトミュージアム』、『カードキャプターさくら さくらとふしぎなクロウカード』、『はたらくチョコボ』(ワンダースワンカラーと兼用)、『デジモン(ワンダースワン版)』などがある。
なお、2003年3月の時点でのカラー用ソフトも含めた販売本数ベスト5は、『ファイナルファンタジー』、『ファイナルファンタジーII』、『チョコボの不思議なダンジョン』、『スーパーロボット大戦COMPACT』、『GUNPEY』の順である。
非売品タイトルとして、イベント会場でのみ販売された『テノリオン』等もある。
ユーザー向けの開発ソフトとして、サードパーティーのキュートから『ワンダーウィッチ』が開発・販売された。専用カートリッジおよび8086用のC言語コンパイラとライブラリとシリアル通信ケーブルから構成されている。このソフトを使って作成されたプログラムコンテスト受賞作品のゲームソフト(ワンダースワンカラー用)が2作品、キュートより期間限定で発売された。
ワンダースワンシリーズの展開中の時には当時の子会社であった旧バンプレスト(後のバンダイナムコエンターテインメント)とベック(後のB.B.スタジオ)は一時的はセカンドパーティーになっていた。
特にバンダイナムコエンターテインメントとは同一法人にあたる旧ナムコ(ソフトウェア開発部門は現在のバンダイナムコスタジオ)は最大のセカンドパーティーであり、開発側の意向で例外的にサードパーティとして自社で発売した『ミスタードリラー』を除いた全タイトルが該当していた。このことから2005年にバンダイと旧ナムコが経営統合し、バンダイナムコホールディングスを発足するきっかけの一つとなった。
PlayStationシリーズのハードメーカーであるソニー・コンピューターエンタテインメント(SCE)も2001年から本機のセカンドパーティーとして関わっている。2タイトルの供給のみに留まったが、それが縁でPlayStationシリーズ初の携帯ゲーム機であるPlayStation Portable(PSP)の開発陣は本機の開発スタッフをバンダイやコトからヘッドハンティングの形で携帯ゲーム機のノウハウが無かったSCEに移籍したメンバーが多く関わっていたため、事実上の後継機として扱われている。
コトが開発協力として関わったベネッセのカートリッジ交換式の電子教材「ポケットチャレンジV2」はワンダースワンのOEMとみられる(本体の形状は幾分異なるが、カートリッジの形状がワンダースワンのそれによく似ている)。また、実際にポケットチャレンジV2のカートリッジは操作こそ出来ないがワンダースワン上で動作する(ただしカートリッジを削るか本体のカバーを外して挿し込む等工夫が必要、また逆も本体のカバーを外すと表示されるが遊べない)。
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"text": "CPUその他の処理能力は、大体セガ・マスターシステム(同じ基板のゲームギアも含む)<ワンダースワン<スーパーファミコンといったところ。",
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"text": "従来のものと異なり透明、白ではなく透明な青色の単三電池ケースの形をしている。専用ACアダプタが接続可能でアダプタを使用することにより電池が入ってなくてもプレイが可能。電池を入れて普通のケースと同様に使うこともできる。",
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"text": "ローンチタイトルは『GUNPEY』、『チョコボの不思議なダンジョン』、『電車でGO!』、『新日本プロレスリング闘魂烈伝』の4タイトル。他の主なタイトルとして『風のクロノア ムーンライトミュージアム』、『カードキャプターさくら さくらとふしぎなクロウカード』、『はたらくチョコボ』(ワンダースワンカラーと兼用)、『デジモン(ワンダースワン版)』などがある。",
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"text": "非売品タイトルとして、イベント会場でのみ販売された『テノリオン』等もある。",
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"text": "ユーザー向けの開発ソフトとして、サードパーティーのキュートから『ワンダーウィッチ』が開発・販売された。専用カートリッジおよび8086用のC言語コンパイラとライブラリとシリアル通信ケーブルから構成されている。このソフトを使って作成されたプログラムコンテスト受賞作品のゲームソフト(ワンダースワンカラー用)が2作品、キュートより期間限定で発売された。",
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"text": "特にバンダイナムコエンターテインメントとは同一法人にあたる旧ナムコ(ソフトウェア開発部門は現在のバンダイナムコスタジオ)は最大のセカンドパーティーであり、開発側の意向で例外的にサードパーティとして自社で発売した『ミスタードリラー』を除いた全タイトルが該当していた。このことから2005年にバンダイと旧ナムコが経営統合し、バンダイナムコホールディングスを発足するきっかけの一つとなった。",
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"text": "PlayStationシリーズのハードメーカーであるソニー・コンピューターエンタテインメント(SCE)も2001年から本機のセカンドパーティーとして関わっている。2タイトルの供給のみに留まったが、それが縁でPlayStationシリーズ初の携帯ゲーム機であるPlayStation Portable(PSP)の開発陣は本機の開発スタッフをバンダイやコトからヘッドハンティングの形で携帯ゲーム機のノウハウが無かったSCEに移籍したメンバーが多く関わっていたため、事実上の後継機として扱われている。",
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"title": "その他"
}
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ワンダースワン(WonderSwan)は、バンダイの携帯型ゲーム機。1999年3月4日発売。定価4,800円。据置機最安値、カセットビジョンJr.の定価5000円を更に下回る。略称は「WS」。 互換機種としてワンダースワンカラーとスワンクリスタルがある。
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{{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = ワンダースワン
|ロゴ = [[File:Bandai WonderSwan logo.svg|230px]]
|画像 = [[ファイル:WonderSwan-Black-Left.png|280px]]
|画像コメント = ワンダースワン スケルトンブラック
|メーカー = [[バンダイ]]
|種別 = [[携帯型ゲーム|携帯型ゲーム機]]
|世代 =[[ゲーム機|第4世代]]
|発売日 = {{flagicon|JPN}} [[1999年]][[3月4日]]
|CPU =
|GPU =
|メディア = [[ロムカセット]]
|ストレージ =
|コントローラ =
|外部接続端子 =
|オンラインサービス = [[#周辺機器|モバイルワンダーゲート]]
|売上台数 = '''ワンダースワンシリーズ'''<br />{{Flagicon|JPN}} 332万台<ref>社団法人コンピュータエンターテインメント協会 2008 CESAゲーム白書 第11章 CESAゲームアーカイブス 第6部 参考資料 3.ハードウェア累計出荷台数 193頁 2008年7月発行/2022年8月18日参照</ref>
|最高売上ソフト = {{Flagicon|JPN}} [[チョコボの不思議なダンジョン|チョコボの不思議なダンジョンforワンダースワン]]/17.5万本(単独)<br />[[デジモン (ワンダースワン版)|デジモンアドベンチャー アノードテイマー/カソードテイマー]] /21万本(2本合計)
|互換ハード = [[ワンダースワンカラー]]<br />スワンクリスタル
|前世代ハード =
|次世代ハード =
}}
'''ワンダースワン'''(''WonderSwan'')は、[[バンダイ]]の[[携帯型ゲーム]]機。[[1999年]][[3月4日]]発売。定価4,800円<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、55ページ</ref>。据置機最安値、[[カセットビジョンJr.]]の定価5000円を更に下回る。略称は「'''WS'''」。
互換機種として[[ワンダースワンカラー]]と[[スワンクリスタル]]がある。
== 概要 ==
[[任天堂]]の[[ゲームボーイ]]を製作した[[横井軍平]]が任天堂を退職後に起業した[[コト (企業)|コト]]社が、企画・開発に大きく関わった{{Efn|ただし、横井自身はワンダースワンの完成を見届けることなく死去。}}<ref name="natsukashiGB"/>。
前年に[[ゲームボーイカラー]]が、またほぼ同時期に[[ネオジオポケットカラー]]が発売される中で、電池の持ちや価格の安さを優先してあえてモノクロ仕様での発売に踏み切った。しかし、この時代は携帯ゲーム機のカラー化が低コストの時代になっていたため、流れには抗しきれず、翌年には[[ワンダースワンカラー]]を発売することになった<ref name="natsukashiGB"/>。
本機は、子供向けの[[ゲームボーイ]]シリーズ、[[マニア]]向けの[[ネオジオポケット]]シリーズに対して、若者向けのおしゃれなイメージを打ち出し、携帯ゲーム機市場で少ないながらも一定の市場占有率を獲得することに成功した。しかし、後継機のワンダースワンカラーでの人気作品の不足などによりジリ貧傾向となり、後発の[[ゲームボーイアドバンス]]に市場を席巻された。
[[1998年]][[10月8日]]に行われた発表会では低価格、小型で軽量、単三電池1本で1日以上使える省電力といった「スモールイズベストを追求した製品」と主張しており15歳~19歳をターゲットに、携帯ゲーム機の概念を大きく変える事を狙いとしていた。発表会は[[ティーンエイジャー]]を意識した華やかなパフォーマンスを見せていた<ref>{{Cite book|和書|title=セガサターンマガジン|date=1998年10月30日|year=1998|publisher=ソフトバンク株式会社出版事業部|page=6}}</ref>。
[[秋葉原]]の販売店によると、購入するのは20代のサラリーマン風の人が多いようで、「問い合わせはなく、あれば買う様な印象でした」との事で、[[ライトユーザー]]よりもマニア層からのウケが良い結果を出した<ref>{{Cite book|和書 |title=[[ゲーム批評]] 5月号 |date=1999年5月1日 |year=1999 |publisher=[[マイクロマガジン社]] |page=67}}</ref>。
[[2003年]][[2月18日]]バンダイの中期計画発表にて、最後の機種[[スワンクリスタル]]が受注生産へ移行する事が明らかにされ、事実上の撤退となった。(この時[[スワンクリスタル]]の販売に合わせて[[ワンダースワンカラー]]は定価4,800円に値下げされた)
尚、海外では未発売である。
== 沿革 ==
* 1999年[[1月13日]] - 同年3月4日に発売することを発表<ref name="gamemachine19990215">{{Cite news |和書|title=「ワンダースワン」 3月4日に発売に 同時発売は5タイトル |newspaper=ゲームマシン |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19990215p.pdf |format=PDF |agency=アミューズメント通信社 |issue=581 |page=8 |date=1999-02-15}}</ref>。
* 1999年3月4日 - ワンダースワン発売。
* [[2000年]][[12月9日]] - 液晶をカラー化した『'''[[ワンダースワンカラー]]'''』発売。
* [[2002年]][[7月12日]] - ワンダースワンカラーの液晶をSTN液晶からTFT液晶に変更した『'''[[スワンクリスタル]]'''』発売。
== ハードウェア ==
{{節スタブ}}
内蔵[[EEPROM]]に[[名前]]、[[生年月日]]、[[ABO式血液型|血液型]]等の個人情報を記録でき、記録した名前は起動時に表示される。本体を縦に持ち替えて『[[クレイジー・クライマー]]』等の縦画面のゲームがプレイできる(斜め持ち用のゲームも存在する)<ref name="natsukashiGB"/>。電池残量や音量等の様々な状態が[[アイコン]]として液晶画面スタティック部に表示される。
ヘッドホン端子はなく、本体右側(横向きに持った場合)にある拡張端子に専用のアダプタを経由して接続する。この拡張端子は通信ケーブルでも使用し、ヘッドホンアダプタとは排他仕様となっている。
縦にも横にも持てることを考慮したため、主要な操作キーには[[十字キー]]のような固定的な形状・役割のものはなく、そのかわりX・Yボタン群(各4個)が十字キーの役割を担っている。また、[[ロムカセット]]の端子がむき出しなので汚れやすく、任天堂ハードのロムカセットに比べ、頻繁な掃除が必要。そのためしっかり刺すと起動せず少し隙間を作ると起動する等の事例もあった。
CPUその他の処理能力は、大体[[セガ・マスターシステム]](同じ基板の[[ゲームギア]]も含む)<ワンダースワン<[[スーパーファミコン]]といったところ。
=== 操作 ===
[[Image:WonderSwan.jpg|thumb|220px|ワンダースワン(縦方向の場合、手前右がX1〜X4ボタン、左がY1〜Y4ボタン、右奥がA/Bボタン。手前中央下が電源スイッチ)]]
A、B、X1 - X4、Y1 - Y4の各操作ボタンに加え
* スタートボタン
* サウンドボタン
* 電源スイッチ
* コントラスト調整つまみ
がある。
電源を投入すると、本体に登録した名前とバンダイのロゴが表示され、「キュイーン」という音が鳴る。
サウンドボタンは音量を大・小・オフと切り替えるものである。しかしこの設定は保存されず、電源を投入するたびに大に戻る。そのため、上記の起動音が鳴ることを避けたい場合には、電源オン直後にサウンドボタンを2連打して音量をオフにする必要があった。この仕様は当時全国でワンダースワンを持ち込んで授業中にプレイしていた学生たちに不評であり、苦い想い出話になることも多い(逆に教師たちにとっては摘発し易く好評であったという)。
ワンダースワンカラーで初期音量を設定できるようになり、この問題は解消された。
STARTボタンを押しながら電源を投入すると、ユーザー登録画面になり、以下の項目を登録できる。
* 名前(英数字、記号)
* 生年月日
* 性別
* 血液型
== 仕様 ==
* サイズ
** 本体 74.3×121×24.3(mm)単3電池使用時
** 本体 74.3×121×17.5(mm)別売専用充電式電池使用時
* 重量
** 約93g(電池含まず)
** 約110g(電池含む)
* 電源
** 単3型アルカリ乾電池 使用本数1本(約30時間使用可)
** 別売専用充電式電池使用可能(約12時間使用可、充電時間約60分)
* ワンダースワン用ワンチップLSI
** ASWAN<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koto.co.jp/products/semicon.html |title=半導体ソリューション|製品情報|株式会社コト |accessdate=2012年11月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070217135534/http://www.koto.co.jp/products/semicon.html |archivedate=2007年2月17日 }}
</ref>
* CPU :ASWANに内蔵 80186相当([[NEC Vシリーズ#V30|V30MZ]]コア)16bit 動作クロック 3.072MHz
* メインメモリ :16KB<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/105.html ケータイWatch - バンダイ、ワンダースワンのカラー版を12月に発売]</ref>
* 表示
** LCD:FSTN反射型LCD
** 224×144ドット ドットマトリックス部
** 2.49インチ ドットマトリックス部
** モノクロ8階調(16階調中8階調選択)、異なるパレットテーブルによるスクリーン2枚を重ね合わせることで同時16階調表示も可能
** スタティック部に6種類のマークを表示
* 画面機能
** 定義キャラ 8×8ドット 最大512個
** スプライト表示数 8×8ドット 1画面中128個、1水平ライン中32個
** スクリーン 2枚(重ね合わせ可能)
** スクリーンウインドウ・スプライトウインドウ有り
* サウンド
** 音源 デジタル音源4ch・ステレオ([[波形メモリ音源]]、1chを[[PCM音源]]として使用可)
** 本体 圧電発音体
** 外部出力 別売ヘッドホン付ステレオ専用アダプター使用時
** 音量 2段階+消音
* 内蔵EEPROM
** 本体に1Kbit(128バイト)の読み取り、書き込み可能なメモリを内蔵
** パーソナルデータ(名前、生年月日、性別、血液型)やゲームデータの保存に使用される
*** 0-11バイトは管理用テーブル
*** 12-95バイトは12バイトのセーブデータが7個まで保存できる
*** 96-127バイトにパーソナルデータが保存される
* カセット容量
** ROM 最大128Mbit
** RAM 最大2Mbit
* 温度範囲
** 動作温度範囲 10〜40℃
** 保存温度範囲 5〜45℃
電池の種類によって厚さが違うのは、本機は比較的薄型に設計されており、単3電池使用時は背面に飛び出す形の電池カバーを装着するためである。
電池の持ちのよさは本機の大きな特長で、競合他機種と異なり単3電池を1本しか使用しないにもかかわらず、それらをしのぐ使用時間の長さを誇っている(これは当初の設計思想でバッテリーの持ちを優先させたためで、その結果モノクロ液晶の採用となった)<ref name="natsukashiGB"/>。
STN液晶は画面が暗く残像が激しいという欠点があったため、この欠点を省みてスワンクリスタルが開発されることとなった<ref name="natsukashiGB"/>。
== カラーバリエーション ==
型番はSW-001。
* オリジナルカラー
** シルバーメタリック(1999年3月4日-)
** ブルーメタリック(1999年3月4日-)
** パールホワイト(1999年3月4日-)
** スケルトンピンク(1999年3月4日-)
** スケルトンブルー(1999年3月4日-)
** スケルトングリーン(1999年3月4日-)
** スケルトンブラック(1999年3月4日-)
* サマーバージョン:ツートンカラー。累計販売台数100万台突破を記念して発売された。<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/games/news/9906/03/news02.html ワンダースワン本体にツートンカラー3種登場]</ref>
** ソーダブルー(1999年7月22日-)
** フローズンミント(1999年7月22日-)
** シャーベットメロン(1999年7月22日-)
* 同梱版限定カラー
** デジモンオレンジ
** デジモンブルー
** たれぱんだホワイト
** チョコボイエロー
** MSVS連邦軍カラー (スカイブルー)
** MSVSジオン軍カラー (オリーブ)
* その他
** [[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]プレゼント用 迷彩カラー
** [[ジャスコ]]限定販売 パープル
** イベントプレゼント用 ゴールド
<gallery>
File:Wonder Swan.jpg|ソーダブルー
</gallery>
== 周辺機器 ==
;バンダイ発売
; [[ワンダーウェーブ]]
: [[File:Headphoneadapter wonderwave.jpg|thumb|230px|ワンダーウェーブ]]
: [[File:WonderSwan-WonderWave-PocketStation.jpg|thumb|330px|ワンダーウェーブとPocketStation]]
: 赤外線通信アダプタ。[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]にとりつけた[[PocketStation]]との通信も可能(両機種版の『[[デジモン]]』でデータの連携が可能、など)。
; ワンダーボーグ
: 完全自律型昆虫ロボット。対応ソフト("ROBOT WORKS")内蔵の赤外線LEDを通じ制御する。各種センサー等による行動パターンをプログラミングすることができた)<ref>[http://www.bandai.co.jp/catalog/item/4902425774046000.html 完全自律型昆虫ロボット ワンダーボーグ 株式会社バンダイ公式サイト BANDAI Co., Ltd]</ref>。なおPC版が[[内田洋行]]から出ている。
; [[ワンダーウィッチ]]
: C言語による開発環境。CD-ROM、開発説明書、ケーブル、専用カートリッジのセット。
; モバイルワンダーゲート
: [[NTTドコモ]]の携帯電話と接続するモデムケーブルと[[mopera]]接続用カセットで構成されている。付属のカートリッジにブラウザ、メーラー、ミニゲームダウンロードツール(配信されたミニゲームは[[15パズル]]のみ)が収録されている。他の対応ソフトでは追加データをダウンロードしたり、全国ランキングに登録できた)ダウンロードしたミニゲームはカセット(32KB)に保存される。ダウンロードする際には通信料がかかる。<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=電撃王 通巻112号 |date=2000年9月1日 |year=2000 |publisher=[[メディアワークス]] |pages=48,49,50,51,52,53,}}</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000316/toy.htm 2000東京おもちゃショーレポート]</ref><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/review/3287.html 大和 哲の「モバイルワンダーゲート」レビュー 携帯ゲーム機を本格インターネット機器に]</ref>。(メールの送信は約1000文字、受信は約4000文字まで可能、受信メールは128件(32KB)までの保存。アドレス帳として最大20件までの登録が可能) moperaPOPメールは月額500円(税別)<ref name=":0" />。
;サミー発売
; 通信ケーブル
: 対戦用。
; 専用充電式電池、充電器
: 単三電池ケースの代わりに使用することで、裏面をフラットな状態にできる。
; ヘッドホンアダプタ
: ステレオサウンド対応。旧型と新型がある。旧型はケーブル([[ドングル]])状で、しかも本体横置き時に前方に伸びる格好になるため、取り回しがしづらかった。新型は改善されてコンパクトになっている。
; ワンダーコイン
: コイン状のプラスチックの板。X/Yボタン群に貼り付けることで操作性の向上を図ったものだが、中央の支点が存在しないため、[[十字キー]]のような使用感は得られない。格闘ゲーム『[[GUILTY GEARシリーズ|GUILTY GEAR PETIT]]』には標準添付されている。一部純正オプションは[[サミー]]より発売されていた。
; '''KARAT([[サイバーガジェット|カラット]])発売'''
; '''WS用 ACアダプタセット(WSカラー対応)'''
従来のものと異なり透明、白ではなく透明な青色の単三電池ケースの形をしている。専用ACアダプタが接続可能でアダプタを使用することにより電池が入ってなくてもプレイが可能。電池を入れて普通のケースと同様に使うこともできる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cybergadget.co.jp/product/Pws_wsc/index.html |title=CYBER(WS/WSC用)関連商品 |accessdate=2016年5月14日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070407082417/http://www.cybergadget.co.jp/product/Pws_wsc/index.html |archivedate=2007年4月7日}} [[サイバーガジェット]]</ref>。
== ソフトウェア ==
{{Main|[[ワンダースワンのゲームタイトル一覧]]}}
[[ローンチタイトル]]は『[[GUNPEY]]』、『[[チョコボの不思議なダンジョン]]』、『[[電車でGO!]]』、『[[新日本プロレスリング闘魂烈伝]]』の4タイトル{{Efn|本体発売日の発表時は『[[ワンダースタジアム]]』を含めた5タイトルだった<ref name="gamemachine19990215" />。}}。他の主なタイトルとして『[[風のクロノア ムーンライトミュージアム]]』、『[[カードキャプターさくら]] さくらとふしぎなクロウカード』、『[[はたらくチョコボ]]』(ワンダースワンカラーと兼用)、『[[デジモン (ワンダースワン版)|デジモン(ワンダースワン版)]]』などがある。
なお、[[2003年]][[3月]]の時点でのカラー用ソフトも含めた販売本数ベスト5は、『[[ファイナルファンタジー]]』、『[[ファイナルファンタジーII]]』、『チョコボの不思議なダンジョン』、『[[スーパーロボット大戦COMPACT]]』、『GUNPEY』の順である<ref>[http://www.famitsu.com/game/serial/2003/03/07/364,1047015949,11347,0,0.html ファミ通.com TV GAME - 第21回 スワンクリスタル受注生産へ!ワンダースワンのこれまでとこれからを探る!]</ref>。
非売品タイトルとして、イベント会場でのみ販売された『テノリオン』等もある<ref>[http://jironosuke.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-62d2.html 【オタク旦那と一般人嫁】ワンダースワンの非売品ゲームソフト]</ref>。
ユーザー向けの開発ソフトとして、[[サードパーティー]]のキュートから『[[ワンダーウィッチ]]』が開発・販売された。専用カートリッジおよび[[8086]]用の[[C言語]][[コンパイラ]]と[[ライブラリ]]と[[シリアルポート|シリアル通信ケーブル]]から構成されている。このソフトを使って作成されたプログラムコンテスト受賞作品のゲームソフト(ワンダースワンカラー用)が2作品、キュートより期間限定で発売された。
== その他 ==
ワンダースワンシリーズの展開中の時には当時の子会社であった旧[[バンプレスト]](後の[[バンダイナムコエンターテインメント]])と[[ベック (ゲーム会社)|ベック]](後の[[B.B.スタジオ]])は一時的は[[セカンドパーティー]]になっていた。
特にバンダイナムコエンターテインメントとは同一法人にあたる旧ナムコ([[ソフトウェア開発]]部門は現在の[[バンダイナムコスタジオ]])は最大のセカンドパーティーであり、開発側の意向で[[例外]]的に[[サードパーティ]]として自社で発売した『[[ミスタードリラー]]』を除いた全タイトル{{efn|セカンドパーティータイトルの著作権表記は当初はサードパーティタイトルと同じナムコのみであったが、2000年から“NAMCO LIMITED”とバンダイの表記に変更された。}}が該当していた。このことから2005年にバンダイと旧ナムコが[[経営統合]]し、[[バンダイナムコホールディングス]]を発足するきっかけの一つとなった。
[[PlayStation]]シリーズのハードメーカーである[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピューターエンタテインメント(SCE)]]も2001年から本機のセカンドパーティーとして関わっている。2タイトルの供給のみに留まったが、それが縁でPlayStationシリーズ初の携帯ゲーム機である[[PlayStation Portable]](PSP)の開発陣は本機の開発スタッフをバンダイやコトから[[ヘッドハンティング]]の形で携帯ゲーム機のノウハウが無かったSCEに[[移籍]]したメンバーが多く関わっていたため、事実上の後継機として扱われている。
コトが開発協力として関わった[[ベネッセコーポレーション|ベネッセ]]のカートリッジ交換式の電子教材「ポケットチャレンジV2」はワンダースワンのOEMとみられる(本体の形状は幾分異なるが、カートリッジの形状がワンダースワンのそれによく似ている)。また、実際にポケットチャレンジV2のカートリッジは操作こそ出来ないがワンダースワン上で動作する(ただしカートリッジを削るか本体のカバーを外して挿し込む等工夫が必要、また逆も本体のカバーを外すと表示されるが遊べない)<ref>[http://nekokabu.s7.xrea.com/blog/2007/10/20071021144021.html ポケットチャレンジV2はワンダースワン ねこかぶのblog 2(仮)]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[RX-78 (パソコン)|RX-78]]
* [[プレイディア]]
* [[ピピンアットマーク]]
* [[たまごっち]]
* [[デジタルモンスター]]
* [[Atari Lynx]] - [[アタリ (企業)|アタリ社]]から[[1989年]]に発売された縦持ちでも横持ちでも遊べる携帯型コンピューターゲーム機。
* [[仮面ライダーエグゼイド]] - 第1話にて劇中の小道具として登場。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|WonderSwan}}
* {{Wayback|url=http://www.bandaigames.channel.or.jp/games/games_ws.html|title=バンダイゲーム情報 ワンダースワン|date=20160304213308}}
* {{Wayback|url=http://www.swan.channel.or.jp/|title=WonderSwanWeb|date=20031223100510}}
{{家庭用ゲーム機/その他}}
{{DEFAULTSORT:わんたあすわん}}
[[Category:携帯型ゲーム機]]
[[Category:1999年のコンピュータゲーム|*わんたあすわん]]
[[Category:バンダイのハードウェア]]
[[Category:1990年代の玩具]]
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18,444 |
高所恐怖症
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高所恐怖症(こうしょきょうふしょう)は、特定の恐怖症のひとつ。高い所(人によって程度の差がある)に登ると、それが安全な場所であっても、下に落ちてしまうのではないかという不安が生じる。例えば、エレベーター、エスカレーター、ショッピングモールの上階などが怖く、利用を避ける場合がある。
厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる(こちらは正確には「高所恐怖癖」という。高い場所で本能的に危険を感じ怖がるのは、身を守るための正常な反応である)。高所恐怖症の患者は、明らかに安全が確保された場所であっても、柵を乗り越えて落ちる、床が崩れ落ちる、手すりが外れる、窓ガラスが割れる、などといった、一般的に考えてまず起こりえないような事態を想像し、恐怖を感じてしまう。真性患者にもなると、全高1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み動けなくなり、さらに重度の場合はパニックになり嘔吐するといった症状が見られる。また、自身は地上の安全な場所にいるのにもかかわらず、高所で作業をしている他人を見て恐怖を感じたり、高層ビルを見上げるだけで恐怖を感じたりするほか、ゲームや動画など、自身に害が及びようがない状況でさえ、高所のシーンが出てくるだけで恐怖を感じてしまうことさえある。その為、日常生活においても影響を及ぼし、治療が必須とされる不安障害ともされている。一方、高所恐怖症の患者であっても飛行機は問題ない、というケースもあり、飛行機に対して恐怖を感じる症状は「飛行機恐怖症」という別の症状として区別される。
例として、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも恐怖感を感じるわけで、このような「リスクが明らかな形で目に見えている状況」で怖がるのは人間の持つ本能としてごく自然な反応である(恐怖を感じ始める高さは15メートル前後であるという。第1空挺団の降下訓練塔もこの高さ)。むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない状態を高所平気症と呼び病的なのではないか、と言う専門家もいる。このことから赤ちゃんは本当は「高い高い」が怖いのではないかという説もある(TBS系のクイズ番組『どうぶつ奇想天外!』で同様の実験を行ったことがある)。
2017年のシステマティック・レビューは、曝露療法は短期間においては有効だが長期間ではそうではないことが判明し、系統的脱感作法では長期的な調査はなかった。
バーチャルリアリティ (VR) を活用した曝露療法(VRエクスポージャー療法)の有効性が示されている。
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高所恐怖症(こうしょきょうふしょう)は、特定の恐怖症のひとつ。高い所(人によって程度の差がある)に登ると、それが安全な場所であっても、下に落ちてしまうのではないかという不安が生じる。例えば、エレベーター、エスカレーター、ショッピングモールの上階などが怖く、利用を避ける場合がある。 厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる(こちらは正確には「高所恐怖癖」という。高い場所で本能的に危険を感じ怖がるのは、身を守るための正常な反応である)。高所恐怖症の患者は、明らかに安全が確保された場所であっても、柵を乗り越えて落ちる、床が崩れ落ちる、手すりが外れる、窓ガラスが割れる、などといった、一般的に考えてまず起こりえないような事態を想像し、恐怖を感じてしまう。真性患者にもなると、全高1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み動けなくなり、さらに重度の場合はパニックになり嘔吐するといった症状が見られる。また、自身は地上の安全な場所にいるのにもかかわらず、高所で作業をしている他人を見て恐怖を感じたり、高層ビルを見上げるだけで恐怖を感じたりするほか、ゲームや動画など、自身に害が及びようがない状況でさえ、高所のシーンが出てくるだけで恐怖を感じてしまうことさえある。その為、日常生活においても影響を及ぼし、治療が必須とされる不安障害ともされている。一方、高所恐怖症の患者であっても飛行機は問題ない、というケースもあり、飛行機に対して恐怖を感じる症状は「飛行機恐怖症」という別の症状として区別される。 例として、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも恐怖感を感じるわけで、このような「リスクが明らかな形で目に見えている状況」で怖がるのは人間の持つ本能としてごく自然な反応である(恐怖を感じ始める高さは15メートル前後であるという。第1空挺団の降下訓練塔もこの高さ)。むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない状態を高所平気症と呼び病的なのではないか、と言う専門家もいる。このことから赤ちゃんは本当は「高い高い」が怖いのではないかという説もある(TBS系のクイズ番組『どうぶつ奇想天外!』で同様の実験を行ったことがある)。
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{{出典の明記|date=2016年4月13日 (水) 04:19 (UTC)}}
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| Image = Glass Floor of the CN Tower.JPG
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}}
'''高所恐怖症'''(こうしょきょうふしょう)は、[[特定の恐怖症]]のひとつ。高い所(人によって程度の差がある)に登ると、それが安全な場所であっても、下に落ちてしまうのではないかという不安が生じる。例えば、エレベーター、エスカレーター、ショッピングモールの上階などが怖く、利用を避ける場合がある<ref>{{Cite book|和書|author=ティモシー・A.サイズモア|translator=坂井誠、首藤祐介、山本竜也|title=セラピストのためのエクスポージャー療法ガイドブック:その実践とCBT、DBT、ACTへの統合|publisher=創元社|date=2015|isbn=978-4-422-11600-6|page=194-195}}</ref>。
{{要出典範囲|厳密に言えば「単に高い場所が苦手なこと」とは異なる|date=2023年1月}}(こちらは正確には「高所恐怖'''癖'''」という。高い場所で本能的に危険を感じ怖がるのは、身を守るための正常な反応である<ref>[http://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20071212/index.html 誰も教えてくれなかった!高所恐怖症のナゾ] - [[ためしてガッテン]]</ref>)。高所恐怖症の患者は、明らかに安全が確保された場所であっても、柵を乗り越えて落ちる、床が崩れ落ちる、手すりが外れる、窓ガラスが割れる、などといった、一般的に考えてまず起こりえないような事態を想像し、恐怖を感じてしまう。真性患者にもなると、全高1メートル弱の脚立の上でも身体が竦み動けなくなり、さらに重度の場合はパニックになり嘔吐するといった症状が見られる。また、自身は地上の安全な場所にいるのにもかかわらず、高所で作業をしている他人を見て恐怖を感じたり、高層ビルを見上げるだけで恐怖を感じたりするほか、ゲームや動画など、自身に害が及びようがない状況でさえ、高所のシーンが出てくるだけで恐怖を感じてしまうことさえある。その為、日常生活においても影響を及ぼし、治療が必須とされる[[不安障害]]ともされている。一方、高所恐怖症の患者であっても飛行機は問題ない、というケースもあり、飛行機に対して恐怖を感じる症状は「飛行機恐怖症」という別の症状として区別される。
例として、30階建てのビルの屋上から宙吊りにされれば、誰でも恐怖感を感じるわけで、このような「[[リスク]]が明らかな形で目に見えている状況」で怖がるのは人間の持つ[[本能]]としてごく自然な反応である({{要出典範囲|恐怖を感じ始める高さは15メートル前後であるという|date=2023年1月}}。[[第1空挺団]]の降下訓練塔もこの高さ)。{{要出典範囲|むしろ、こういう状況においても恐怖を感じない状態を[[高所平気症]]と呼び病的なのではないか、と言う専門家もいる|date=2023年1月}}。このことから[[赤ちゃん]]は本当は「高い高い」が怖いのではないかという説もある([[Japan News Network|TBS系]]のクイズ番組『[[どうぶつ奇想天外!]]』で同様の実験を行ったことがある{{Full citation needed|date=2016年12月}}<!--要出典詳細-->)。
==治療==
2017年のシステマティック・レビューは、[[曝露療法]]は短期間においては有効だが長期間ではそうではないことが判明し、系統的脱感作法では長期的な調査はなかった<ref name="pmid28359010">{{cite journal|author=Arroll B, Wallace HB, Mount V, Humm SP, Kingsford DW|title=A systematic review and meta-analysis of treatments for acrophobia|journal=Med. J. Aust.|issue=6|pages=263–267|date=April 2017|pmid=28359010}}</ref>。
[[バーチャル・リアリティ|バーチャルリアリティ (VR)]] を活用した曝露療法(VRエクスポージャー療法)の有効性が示されている<ref>{{Cite journal|author=宮野 秀市|year=2015|title=全周囲パノラマ動画を利用したVRエクスポージャー療法:高所恐怖症の1症例|journal=VR医学|volume=13|page=1-10}}</ref><ref>{{Cite journal|author=藤井 靖・小林 加奈・小泉 壮汰|year=2020|title=バーチャルリアリティー(VR)エクスポージャー療法による高所恐怖の治療|journal=精神科|volume=37|page=44-49}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=認知行動療法事典|year=2019|publisher=丸善出版|page=310-311}}</ref>。
==出典==
<references />
== 関連項目 ==
* [[めまい (映画)]]
* [[江川卓 (野球)|江川卓]]
* [[さくまあきら]]
* [[水島新司]]
*[[毛利小五郎]]
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紀州鉄道
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紀州鉄道株式会社(きしゅうてつどう、英: Kishu Railway)は、日本の不動産開発業者であり鉄道事業者である。鶴屋産業の子会社で、東京都中央区に本社を置く。鉄道路線として和歌山県御坊市で紀州鉄道線を運営している。
1928年に御坊臨港鉄道として、国鉄紀勢西線から離れた御坊市街地との連絡を目的に設立され、鉄道を1931年に開業した。当初から経営は厳しく、戦後も風水害などの被災やモータリゼーションの進展によって、1960年代には廃止の危機に追い込まれていた。
1972年、磐梯急行電鉄(1968年倒産、1969年鉄道廃止)の旧経営陣が設立していた磐梯電鉄不動産が「鉄道会社」の肩書きを求め御坊臨港鉄道を約1億円で買収した。翌年1月には、紀州鉄道と社名を変更した。
1975年、紀州鉄道不動産株式会社を設立する。1978年に本社を大阪府大阪市に移転する。1979年には不動産・リゾート開発を営む鶴屋産業の傘下に入り、紀鉄ホテル株式会社を設立し、翌年には本社を東京都千代田区に移転する。
現在に至るまでリゾート開発を軸とする不動産業を主力部門としており、鉄道事業収益の割合は微少かつ慢性的な赤字となっている。しかし、不動産業などを営む際に、鉄道会社ということが信頼に繋がるという利点があり、また社名と鉄道への愛情をもたらすことから、赤字に関わらず営業を続けている。
那須高原・北軽井沢(嬬恋村)・房総白浜(南房総市)・熱海・箱根・伊豆一碧湖(伊東市)・名古屋市・大阪市など、日本各地にホテルを展開しており、関連会社の紀鉄ホテルが運営している。
また、群馬県において嬬恋村との共同出資で第三セクター会社のパルコール嬬恋を設立し、「パルコール嬬恋ゴルフコース」やスキー場「パルコール嬬恋スキーリゾート」を運営していたが、同社は2014年3月に民事再生法の適用を申請し、2014年4月からは紀州鉄道グループから離脱してブリーズベイホテル傘下となっている。
そのほか、長野県の軽井沢(軽井沢町・御代田町)と塩嶺高原(岡谷市)で別荘の分譲・管理事業や、関連会社の紀州鉄道不動産による会員制リゾート事業、紀鉄航空サービスによる旅行事業(東京都知事認可第2種旅行業)を行っている。
和歌山県御坊市内を走る紀州鉄道線(御坊駅 - 西御坊駅間、2.7km)を保有・運営している。1989年4月1日に末端区間の西御坊駅 - 日高川駅の0.7kmが廃止され、全列車のワンマン化が実施されている。2010年の営業係数は367.8であり、現存する日本国内の鉄道では最も悪い数値であるものの、現状では廃止の話はない。また、「学門駅入場券」など記念切符・記念グッズの販売も行っている。
かつては日本一保有する路線が短い鉄道事業者であったことから「日本一のミニ鉄道」と称していたが、2002年10月にその座を千葉県の芝山鉄道に明け渡した。ただし、芝山鉄道は全列車が京成電鉄との相互直通運転を行っているなどの背景があるため、定義によっては、紀州鉄道線がなお日本一短いとみなす余地もある。御坊市の公式サイト内では「日本一短いローカル私鉄」と紹介されている。
運輸政策研究機構の資料によると、2012年度の輸送密度は1日242人で、阿佐海岸鉄道の1日88人に次いで2番目に少ない数値となっている(各年度の輸送密度は「紀州鉄道線#利用状況」を参照)。
2021年4月時点で、気動車3両が在籍する。いずれも他社からの譲渡車両である。
2003年7月まで西御坊駅で使われていた「回転式乗車券箱」が、埼玉県さいたま市の鉄道博物館の収蔵資料となっている。
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紀州鉄道株式会社は、日本の不動産開発業者であり鉄道事業者である。鶴屋産業の子会社で、東京都中央区に本社を置く。鉄道路線として和歌山県御坊市で紀州鉄道線を運営している。
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{{Otheruses|企業|この企業が運営する鉄道路線|紀州鉄道線}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 紀州鉄道株式会社
|英文社名 = Kishu Railway Co.,Ltd.
|ロゴ = [[File:Kishu Railway Logomark.svg|200px]]
|画像 = [[ファイル:Kitetsu.jpg|300px|会社外観]]
|画像説明 = 紀州鉄道本社
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 = 非上場
|略称 = 紀鉄(きてつ)
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 103-0015
|本社所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋箱崎町]]1番7号<br/>千歳ビル6F
|設立 = [[1928年]][[12月24日]]
|業種 = 陸運業
|事業内容 = 不動産事業、リゾート施設運営業、鉄道事業他
|代表者 = [[代表取締役]]社長 中川源行
|資本金 = 9500万円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
|売上高 = 7億5560万6000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|営業利益 = 1億1128万6000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|純利益 = 4億7593万2000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|純資産 = △17億3213万9000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />)
|総資産 = 51億3844万9000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />)
|従業員数 =
|決算期 = 3月31日
|主要株主 = [[鶴屋産業]] 47.3%<br />[[鶴屋商事]] 17.8%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
|主要子会社 =
|関係する人物 =
|外部リンク = http://www.kitetsu.co.jp/
|特記事項 = 鉄道事業部事務所は[[和歌山県]][[御坊市]]薗275([[紀伊御坊駅]])に所在
}}
'''紀州鉄道株式会社'''(きしゅうてつどう、{{lang-en-short|Kishu Railway}})は、日本の[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発業者]]であり[[鉄道事業者]]である。[[鶴屋産業]]の子会社で、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]に本社を置く。鉄道路線として[[和歌山県]][[御坊市]]で[[紀州鉄道線]]を運営している。
== 歴史 ==
[[1928年]]に'''御坊臨港鉄道'''として、国鉄[[紀勢本線|紀勢西線]]から離れた御坊市街地との連絡を目的に設立され、鉄道を[[1931年]]に開業した。当初から経営は厳しく、[[戦後]]も風水害などの被災や[[モータリゼーション]]の進展によって、1960年代には廃止の危機に追い込まれていた。
[[1972年]]、[[磐梯急行電鉄]](1968年倒産、1969年鉄道廃止)の旧経営陣が設立していた磐梯電鉄不動産が「鉄道会社」の肩書きを求め<ref>{{Cite |和書 |author=[[寺田裕一]] |title=データブック日本の私鉄 |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |year=2002 |page=140 }}</ref>御坊臨港鉄道を約1億円で買収した。翌年1月には、'''紀州鉄道'''と社名を変更した。
1975年、紀州鉄道不動産株式会社を設立する。1978年に本社を大阪府大阪市に移転する。1979年には不動産・リゾート開発を営む鶴屋産業の傘下に入り、[[紀鉄ホテル]]株式会社を設立し、翌年には本社を東京都千代田区に移転する。
現在に至るまでリゾート開発を軸とする[[不動産業]]を主力部門としており、鉄道事業収益の割合は微少かつ慢性的な赤字となっている。しかし、不動産業などを営む際に、鉄道会社ということが信頼に繋がるという利点があり、また社名と鉄道への愛情をもたらすことから、赤字に関わらず営業を続けている<ref>{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/92607 |title = 赤字鉄道部門 紀州鉄道なぜ存続させるか?ホテルリゾートで知られる企業 社長に聞いた |publisher = 乗りものニュース |accessdate = 2020-04-21 }}</ref><ref>{{YouTube|zWTVfxW9k8Q|日本一短いローカル鉄道「紀州鉄道」が赤字なのに走り続ける"意外すぎる"ワケ}}{{Accessdate|2020-04-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://maonline.jp/articles/kishuutetudou?page=3 |title = 意外な子会社 紀州鉄道|不動産業の「逆転の発想」 |publisher = M&A ONLINE |accessdate = 2020-04-21 }}</ref>。
== ホテル・リゾート事業 ==
[[那須高原]]・[[北軽井沢]]([[嬬恋村]])・[[房総半島|房総]]白浜([[南房総市]])・[[熱海市|熱海]]・[[箱根]]・伊豆[[一碧湖]]([[伊東市]])・[[名古屋市]]・[[大阪市]]など、日本各地にホテルを展開しており、関連会社の[[紀鉄ホテル]]が運営している。
また、[[群馬県]]において嬬恋村との共同出資で[[第三セクター]]会社のパルコール嬬恋を設立し、「パルコール嬬恋ゴルフコース」やスキー場「[[パルコール嬬恋スキーリゾート]]」を運営していたが、同社は2014年3月に民事再生法の適用を申請し、2014年4月からは紀州鉄道グループから離脱して[[ブリーズベイホテル]]傘下となっている。
そのほか、[[長野県]]の[[軽井沢]]([[軽井沢町]]・[[御代田町]])と[[塩嶺]]高原([[岡谷市]])で[[別荘]]の分譲・管理事業や、関連会社の紀州鉄道不動産による会員制リゾート事業、紀鉄航空サービスによる[[旅行会社|旅行事業]](東京都知事認可第2種旅行業)を行っている。
== 鉄道事業 ==
和歌山県御坊市内を走る[[紀州鉄道線]]([[御坊駅]] - [[西御坊駅]]間、2.7km)を保有・運営している。[[1989年]][[4月1日]]に末端区間の西御坊駅 - [[日高川駅]]の0.7kmが[[廃線|廃止]]され、全列車の[[ワンマン運転|ワンマン]]化が実施されている。2010年の[[営業係数]]は367.8であり、現存する日本国内の鉄道では最も悪い数値であるものの、現状では廃止の話はない<ref>[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2010/09/post-2846.php 紀州鉄道 運営難で5往復減便] - [[日高新報]]、2010年9月5日。</ref>。また、「[[学門駅]][[入場券]]」など記念切符・記念グッズの販売も行っている。
かつては日本一保有する路線が短い鉄道事業者であったことから「日本一のミニ鉄道」と称していたが、[[2002年]]10月にその座を[[千葉県]]の[[芝山鉄道]]に明け渡した{{Refnest|group=注釈|ただし普通(粘着式)鉄道のみの第一種鉄道事業者に限った場合。線路を全く保有しない第二種鉄道事業者を除き、自身で運送を行わず線路保有のみを行う第三種鉄道事業者を含めれば、南海和歌山港線のうち久保町駅 - 水軒駅間4.6kmを保有していた和歌山県が、 この年5月に和歌山港駅 - 水軒駅間2.6kmが廃止されたことによって、保有区間が久保町駅(現・県社分界点) - 和歌山港駅間2.0kmだけとなり、保有路線日本最短になっている<ref>[https://trafficnews.jp/post/79744 意外? 日本一短い鉄道は「和歌山県」だった 南海和歌山港線の不思議] - 乗りものニュース、2018年3月5日</ref>。<br>また、普通鉄道以外の[[鉄道事業法]]に基づく事業者を含めた場合は[[鞍馬山鋼索鉄道]]([[ケーブルカー]]。路線距離191m)を保有する宗教法人[[鞍馬寺]]が最も路線距離が短い鉄道事業者となる。}}。ただし、芝山鉄道は全列車が[[京成電鉄]]との相互直通運転を行っているなどの背景があるため、定義によっては、紀州鉄道線がなお日本一短いとみなす余地もある。御坊市の公式サイト内では「日本一短いローカル私鉄<ref>[http://www.city.gobo.wakayama.jp/kanko/kankou/miru_asobu/1395033338530.html 紀州鉄道/御坊市ホームページ]</ref>」と紹介されている。
[[運輸政策研究機構]]の資料によると、2012年度の[[輸送密度]]は1日242人で、[[阿佐海岸鉄道]]の1日88人に次いで2番目に少ない数値となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.jterc.or.jp/tosho/New_mokuro/seigo_2012tetudo-20130122.pdf 「数字でみる鉄道2012」正誤表]}} - 運輸政策研究機構、2013年1月22日</ref>(各年度の輸送密度は「[[紀州鉄道線#利用状況]]」を参照)。
<!-- 沿線・運賃については[[紀州鉄道線]]に移動 -->
=== 路線 ===
* [[紀州鉄道線]]:[[御坊駅]] - [[西御坊駅]](2.7km。第一種鉄道事業)
=== 車両 ===
{{Main|紀州鉄道線#車両}}
2021年4月時点で、[[気動車]]3両が在籍する<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/wakayama/news/20210401-OYTNT50029/|title=レトロな赤に塗り替え 紀州鉄道が車両1台一新|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021年4月1日|accessdate=2021-08-12}}</ref>。いずれも他社からの譲渡車両である。
* キテツ2 - 休車中
* KR301
* KR205
=== その他 ===
2003年7月まで西御坊駅で使われていた「回転式乗車券箱」が、[[埼玉県]][[さいたま市]]の[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]の収蔵資料となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.railway-museum.jp/exhibition/199.html |title=鉄道博物館 展示資料紹介 <nowiki>[紀州鉄道で使用されていた回転式の乗車券箱]</nowiki> |publisher=鉄道博物館 |accessdate=2020-05-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070527220017/http://www.railway-museum.jp/exhibition/199.html |archivedate=2007-05-27}}</ref>。
== 関連会社 ==
* 鶴屋商事
* 紀州鉄道不動産
* 紀鉄航空サービス
* [[紀鉄ホテル]]
== 注釈 ==
{{Reflist|group=注釈}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* キテツ1型:月刊「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]」2004年11月号(通巻 523号)92・93ページ
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Kishu Railway}}
*{{Official website}}
*[http://kishu-railway.com/ 紀州鉄道 鉄道事業]
*{{Twitter|kishu_railway|【公式】紀州鉄道株式会社}}
*{{Facebook|紀州鉄道株式会社-352474385223430}}
{{デフォルトソート:きしゆうてつとう}}
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:紀州鉄道|*]]
[[Category:1928年設立の企業]]
[[Category:東京都中央区の企業]]
[[Category:日本のホスピタリティ関連企業]]
[[Category:日本の鉄道系不動産会社]]
|
2003-09-27T01:43:19Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93
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18,450 |
仮想フォント
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仮想フォント(かそうフォント)とは、コンピュータにおいて、実際にはインストールされていないフォントを使用する仕組み。これ自体はフォントではない。
多くの場合、プリンタフォントの存在を前提とし、他のフォントを用いて代用書体として表示を行い、プリンタやセッタなどへの出力時に自動的に置き換える。
代用書体は、基本的にはシステム標準搭載のフォントが用いられる。(Windowsの場合MS明朝やMSゴシック)プリンタやセッタ(出力機器)側に該当する書体が無い場合、コンピュータ側の代用書体、もしくは出力機器のデフォルト(初期設定)のフォントに置き換わる。
等幅フォントの場合は通常、画面表示に代用書体を用いておいて置換すれば良いが、プロポーショナルフォントの場合は、英数文字の字幅が異なることや、それに伴い禁則処理やハイフネーションの問題が生じ、より複雑になる。一般的には、置き換えるフォントの字幅情報ファイル(AFMファイルなど)を使用し、「本来この書体であればこれだけの字間の空白が必要」などの処理を行う。そのため、代用書体における画面表示では文字がパラパラと開いて見えたり、逆に文字間が接して見えるなどの現象が生じる。
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仮想フォント(かそうフォント)とは、コンピュータにおいて、実際にはインストールされていないフォントを使用する仕組み。これ自体はフォントではない。 多くの場合、プリンタフォントの存在を前提とし、他のフォントを用いて代用書体として表示を行い、プリンタやセッタなどへの出力時に自動的に置き換える。 代用書体は、基本的にはシステム標準搭載のフォントが用いられる。(Windowsの場合MS明朝やMSゴシック)プリンタやセッタ(出力機器)側に該当する書体が無い場合、コンピュータ側の代用書体、もしくは出力機器のデフォルト(初期設定)のフォントに置き換わる。 等幅フォントの場合は通常、画面表示に代用書体を用いておいて置換すれば良いが、プロポーショナルフォントの場合は、英数文字の字幅が異なることや、それに伴い禁則処理やハイフネーションの問題が生じ、より複雑になる。一般的には、置き換えるフォントの字幅情報ファイル(AFMファイルなど)を使用し、「本来この書体であればこれだけの字間の空白が必要」などの処理を行う。そのため、代用書体における画面表示では文字がパラパラと開いて見えたり、逆に文字間が接して見えるなどの現象が生じる。
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'''仮想フォント'''(かそうフォント)とは、[[コンピュータ]]において、実際には[[インストール]]されていない[[フォント]]を使用する仕組み。これ自体はフォントではない。
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代用書体は、基本的にはシステム標準搭載のフォントが用いられる。([[Microsoft Windows|Windows]]の場合MS明朝やMSゴシック)プリンタやセッタ(出力機器)側に該当する書体が無い場合、コンピュータ側の代用書体、もしくは出力機器の[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]](初期設定)のフォントに置き換わる。
[[等幅フォント]]の場合は通常、画面表示に代用書体を用いておいて置換すれば良いが、[[プロポーショナルフォント]]の場合は、英数文字の字幅が異なることや、それに伴い[[禁則処理]]やハイフネーションの問題が生じ、より複雑になる。一般的には、置き換えるフォントの字幅情報ファイル([[AFMファイル]]など)を使用し、「本来この書体であればこれだけの字間の空白が必要」などの処理を行う。そのため、代用書体における画面表示では文字がパラパラと開いて見えたり、逆に文字間が接して見えるなどの現象が生じる。
==関連項目==
*[[Adobe Font Metrics]] (AFM)
*[[フォント]]
*[[PostScript]]
*[[DTP]]
*[[写研]]
[[Category:DTP|かそうふおんと]]
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2019-12-12T08:36:04Z
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有田鉄道
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有田鉄道株式会社(ありだてつどう)は、和歌山県有田郡有田川町に本社を置くバス事業者である。略称は有鉄(ありてつ)。かつては鉄道事業を行っており、鉄道路線として有田鉄道線があったが、2003年1月1日に廃止し、その後は路線バス事業・貸切バス事業のみを行っている。
独立系の交通事業者である。同じ和歌山県内に有田交通(ありたこうつう)というバス事業者があるが関係はない。
当社の創業事業であったが、2003年1月1日に廃止し、以降は鉄道事業は行っていない。
和歌山県内を拠点に、乗合バス事業、貸切バス事業を行っている。バス事業は「有田鉄道バス」と呼ばれることもある。現在の主力は貸切バス事業である。
路線バスの運行経路には狭隘路線が多く、需要も限られるなどの理由で、大半がマイクロバスによる運行である。交通系ICカードや磁気式バスカードは未導入である。このため運賃の支払いは現金のみだったが、2020年7月1日に委託路線を除く全線で、QRコード決済(PayPayのみ)を導入した。
路線用車は、2022年3月31日時点で12台のバス車両(うちノンステップバスは1台)を保有する。ヤマト運輸との貨客混載輸送を記念したラッピングバスも運行されている。過去には1975年頃に、6人乗りのトヨタ・クラウンセダンを路線バス車両(乗合タクシー)として使用していたことがあった。
大型スーパーハイデッカーも在籍する。過去にはネオプラン・スカイライナーも在籍していた。
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有田鉄道株式会社(ありだてつどう)は、和歌山県有田郡有田川町に本社を置くバス事業者である。略称は有鉄(ありてつ)。かつては鉄道事業を行っており、鉄道路線として有田鉄道線があったが、2003年1月1日に廃止し、その後は路線バス事業・貸切バス事業のみを行っている。 独立系の交通事業者である。同じ和歌山県内に有田交通(ありたこうつう)というバス事業者があるが関係はない。
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{{基礎情報 会社
| 社名 = 有田鉄道株式会社
| 英文社名 = Arida Tetsudo Co.,Ltd.
| ロゴ = [[File:Arida Tetsudo Logomark.svg|150px]]
| 画像 = File:Atiretsu 801.jpg
| 画像説明 = 有田鉄道の貸切バス
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = 有鉄
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 641-0801
| 本社所在地 = [[和歌山県]][[有田郡]][[有田川町]]徳田178
| 設立 = [[1913年]][[2月17日]]
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = [[乗合バス|一般乗合旅客自動車運送事業]]<br/>[[貸切バス|一般貸切旅客自動車運送事業]]<br/>[[旅行業]]ほか
| 代表者 = [[代表取締役]]社長 川村 健一郎
| 資本金 = 3,000万円
| 売上高 =
| 総資産 =
| 従業員数 =
| 決算期 =
| 主要株主 =
| 主要子会社 =有鉄観光タクシー株式会社
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://aritetsu.com/
| 特記事項 =
}}
'''有田鉄道株式会社'''(ありだてつどう)は、[[和歌山県]][[有田郡]][[有田川町]]に[[本社]]を置く[[バス (交通機関)|バス]]事業者である。略称は'''有鉄'''(ありてつ)。かつては[[鉄道事業者|鉄道事業]]を行っており、[[鉄道路線]]として[[有田鉄道線]]があったが、[[2003年]][[1月1日]]に[[廃線|廃止]]し、その後は[[路線バス]]事業・[[貸切バス]]事業のみを行っている。
独立系の交通事業者である。同じ和歌山県内に[[有田交通]](ありたこうつう)というバス事業者があるが関係はない。
== 歴史 ==
* [[1912年]]([[明治]]45年)[[3月9日]] : 有田軽便鉄道に対し鉄道免許状下付(有田郡の湯浅町と屋城村との間)<ref>[{{NDLDC|2951975/4}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年3月14日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。
* [[1913年]](大正2年)[[2月17日]] : 有田軽便鉄道株式会社設立。
* [[1913年]](大正2年)6月 : 有田鉄道株式会社に[[商号]]変更。
* [[1915年]](大正4年)[[5月28日]] : [[海岸駅 (和歌山県)|海岸駅]] - [[下津野駅]]間開業<ref>[{{NDLDC|2952955/4}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年6月2日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。
* 1916年(大正5年)1月1日 : 旅客運輸営業休止(海岸 - 湯浅間)<ref>[{{NDLDC|2953141/7}} 「軽便鉄道一時旅客取扱休止」『官報』1916年1月12日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。
* [[1916年]](大正5年)[[7月1日]] : 下津野駅 - [[金屋口駅]]間延伸開業<ref>[{{NDLDC|2953289/9}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1916年7月6日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。
* 1940年(昭和15年)4月9日 : 旅客運輸営業廃止(海岸 - 湯浅間)<ref>[{{NDLDC|2960477/18}} 「旅客運輸営業廃止」『官報』1940年4月13日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[12月10日]] : 海岸駅 - [[藤並駅]]間休止。1959年(昭和34年)廃止。
* [[1947年]](昭和22年)5月 : 一般乗合旅客自動車運送事業運輸開始。
* [[1953年]](昭和28年)1月 : 一般貸切旅客自動車運送事業運輸開始。
* [[1976年]](昭和51年)8月 : 広告宣伝業開業。
* [[1977年]](昭和52年)12月 : 不動産賃貸業開業。
* [[1983年]](昭和58年)4月 : 農産業開業。
* [[1992年]](平成4年)4月 : 特定旅客自動車([[スクールバス]])運送事業開始。
* [[1994年]](平成6年)2月 : 国内旅行斡旋業開業。
* [[2003年]](平成15年)[[1月1日]] : 鉄道路線全線廃止。<!-- 廃止日は最終営業日の翌日 -->
* [[2013年]](平成25年)7月30日 : [[ツアーバス|新高速乗合バス事業]]に係る[[管理の受委託 (バス)|管理の受委託]]認可。
== 鉄道事業 ==
当社の創業事業であったが、2003年1月1日に廃止し、以降は鉄道事業は行っていない。
{{main|有田鉄道線}}
== バス事業 ==
[[File:Arita Railway Bus.jpg|thumb|right|有田鉄道の路線バス [[三菱ふそう・ローザ]](1996年撮影)]]
[[File:Tadonoguchi-Sta.jpg|thumb|right|有田鉄道の路線バス [[いすゞ・ジャーニー]](1996年撮影)]]
和歌山県内を拠点に、乗合バス事業、貸切バス事業を行っている。バス事業は「有田鉄道バス」と呼ばれることもある。現在の主力は貸切バス事業である。
=== 営業所 ===
;本社営業所(路線バス・自治体受託バス)
: 和歌山県有田郡有田川町大字徳田178
;花園営業所
: 和歌山県[[伊都郡]][[かつらぎ町]]大字花園梁瀬633
;和歌山営業所(貸切バス)
: 和歌山県[[和歌山市]]西浜1660-24
=== 路線バス ===
路線バスの運行経路には[[狭隘路線]]が多く、需要も限られるなどの理由で、大半が[[マイクロバス]]による運行である。[[交通系ICカード]]や磁気式[[バスカード]]は未導入である。このため運賃の支払いは現金のみだったが、2020年7月1日に委託路線を除く全線で、[[QRコード決済]]([[PayPay]]のみ)を導入した<ref>{{Cite web|和書|title=路線バス全線でPayPayでのキャッシュレス支払が可能となりました。|publisher=有田鉄道バス |date=2020-07-01 |url=https://aritetsu.com/info/72/ |accessdate=2021-01-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200921131645/https://aritetsu.com/info/72/ |archivedate=2020-09-21}}</ref>。
==== 現行路線 ====
;藤並線
: [[藤並駅|JR藤並駅]]止まりと、[[済生会有田病院]]直通の2系統がある。済生会有田病院へ直通する系統の停留所名は「藤並駅東口」となっており、駅の東口に停車する。また[[有田川町立吉備中学校|吉備中学校]]前より藤並駅方面は、藤並駅行きは[[和歌山県道22号吉備金屋線|県道22号線]]の旧道、済生会直通は[[吉備金屋バイパス]]を経由するため、停留所も異なる。
: 花園では[[かつらぎ町コミュニティバス]]新城・花園コースへ乗継が可能である。双方の停留所は、有田川を挟んで橋の南北で別々に設けられているが、徒歩数分で移動できる。
* 藤並駅 - 金屋口 - 二川 - [[清水町 (和歌山県)|清水]] - [[花園村 (和歌山県)|花園]]
* 済生会有田病院 - 金屋口
;美山線
: [[有田川町]]及び[[日高川町]][[美山村 (和歌山県)|旧美山村]]地域から[[和歌山市]]、[[海南市]]に直通する唯一の路線。[[海南駅|海南駅前]]〜野田口間は[[阪和自動車道]]の[[海南インターチェンジ|海南IC]]から[[有田インターチェンジ|有田IC]]を経由する。以降終点までは[[和歌山県道22号吉備金屋線|県道22号]]の旧道、[[国道480号|国道480号線]]、[[国道424号|国道424号線]]を通る。平日のみ、2往復運行。
: 川原河では[[御坊南海バス|熊野御坊南海バス]]、[[日高川町コミュニティバス]]、[[田辺市住民バス]]との乗継が可能。
* [[和歌山市駅|和歌山市駅前]] - 金屋口 - 川原河([[美山村 (和歌山県)|美山]])
==== 委託運行 ====
;和歌山市地域バスの委託運行<ref>{{Cite web|和書|title=和歌山市地域バス 紀三井寺団地線 |date=2010-01-07 |url=http://www.aritetsu.com/media/aritetsu001003.pdf |format=pdf |publisher=有田鉄道株式会社 |accessdate=2017-08-26}}</ref>
: 2013年4月1日に運行開始。2009年10月1日に廃止された[[和歌山バス]]紀三井寺団地線(和歌山市内線 28系統)の一部区間を踏襲した路線<ref>{{Cite news|title =紀三井寺団地に地域バス 4月待望の運行開始 |publisher=[[和歌山新報]] |date=2013-03-31 |url=http://www.wakayamashimpo.co.jp/2013/03/20130331_23843.html |accessdate=2017-08-28}}</ref>。
: 運賃の支払い方法は、現金のみである。
=== 廃止路線 ===
* 和歌山市駅 - 花園
* 金屋口 - 田殿口 - 宮原
* 湯川線:清水 - 上湯川(2018年4月1日廃止)
* 高野線:花園 - [[高野山]] - 一の橋(2018年4月1日廃止)
* 有田川町観光施設巡回バス(有田川町コミュニティバス受託):[[藤並駅|JR藤並駅東口]] - 地域交流センターALEC - どんどん広場 - [[有田川鉄道公園|鉄道公園]] - [[かなや明恵峡温泉]] - [[道の駅明恵ふるさと館|明恵ふるさと館]] - [[二川温泉]] - [[道の駅あらぎの里|あらぎの里]] - 清水庵 - [[しみず温泉|清水温泉]] - [[道の駅しみず|スポーツパーク]](2018年4月1日廃止)
=== 車両 ===
路線用車は、2022年3月31日時点で12台のバス車両(うち[[ノンステップバス]]は1台)を保有する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/020500/book_d/fil/R4siryou.pdf |title=令和4年度公共交通機関等資料集 |access-date=2023/10/10}}</ref>。[[ヤマト運輸]]との貨客混載輸送を記念したラッピングバスも運行されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://aritetsu.com/route.html |title=有田鉄道株式会社ホームページ 路線バス |access-date=2022-09-05 |publisher=}}</ref>。過去には[[1975年]]頃に、6人乗りの[[トヨタ・クラウン]][[セダン]]を路線バス車両([[乗合タクシー]])として使用していたことがあった<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』通巻331号、p.87。</ref>。
大型[[ハイデッカー|スーパーハイデッカー]]も在籍する。過去には[[ネオプラン・スカイライナー]]も在籍していた。
=== 受託運行 ===
* 受託運行の形式で[[WILLER EXPRESS]]の一部の便の運行を担当している<ref>[http://www.willer.co.jp/news/press/detail.php?id=147 7月31日 WILLER EXPRESSが高速路線バスを運行開始] [[WILLER EXPRESS]]</ref>。
* [[イオンモール和歌山]]とJR[[和歌山駅]]西口を結ぶ直行バス「イオン和歌山お買い物バス」を受託運行している。[[無料送迎バス]]だが、JR和歌山駅行きの乗車にはイオンモール店内のレシートを提示する必要がある。専用車両として大型車の[[三菱ふそう・エアロクイーン#エアロクイーン(初代)|三菱ふそう・エアロクイーン]]を導入した<ref>[https://wakayama-aeonmall.com/static/detail/access-bus アクセスガイド - イオンお買物バスのご案内 大型バス導入しました!!ぜひ、ご利用くださいませ。] イオンモール和歌山</ref>。
== 関連会社 ==
* 有鉄観光タクシー株式会社(ありてつかんこうタクシー)
** 1972年にタクシー事業を分社化した。本社は有田鉄道本社と同じ場所に所在する。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[有田川町鉄道公園]] - 有田川町により2010年に開園。かつて有田鉄道が保有していた鉄道車両も保存されている。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Arida Railway}}
* [https://aritetsu.com/ 有田鉄道]
* [https://aritetsu.com/arikan-taxi.html 有鉄観光タクシー]
* [https://www.town.aridagawa.lg.jp/top/kakuka/kanaya/9/2/koen_camp/644.html 有田川町鉄道交流館]
{{bus-stub}}
{{Pref-stub|pref=和歌山県}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ありたてつとう}}
[[Category:有田鉄道|社]]
[[Category:近畿地方の乗合バス事業者]]
[[Category:近畿地方の貸切バス事業者]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:有田川町の企業]]
[[Category:和歌山県の交通]]
[[Category:有田川町の交通]]
[[Category:1913年設立の企業]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%94%B0%E9%89%84%E9%81%93
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有田鉄道線
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有田鉄道線(ありだてつどうせん)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現在の有田川町)の藤並駅と金屋口駅とを結んでいた有田鉄道の鉄道路線である。2002年12月31日限りで廃止された。
有田鉄道は、沿線で穫れた木材やみかん(有田みかん)などの農産品を、その積出港であった湯浅港まで運搬する目的で1913年2月に設立された。1915年(大正4年)5月28日に海岸駅 - 下津野駅間、1916年(大正5年)7月1日に下津野駅 - 金屋口駅間が開業した。
1926年(大正15年)8月8日に鉄道省紀勢西線(現・紀勢本線)が藤並駅まで開通し、有田鉄道も藤並駅を新設して同線との連絡を行った。これにより、藤並駅から国鉄線を通して、みかんを満載した「蜜柑列車」で出荷するようになった。 旅客に関しては、沿線の井ノ口大師の参詣者が利用することもあり、8月の祭事には満員となるほど活況を呈した。しかし1935年(昭和10年)8月18日、田殿駅西方でガソリンカー同士が正面衝突。双方に多くの乗客が乗っていたため、重軽傷者50余人を出す惨事となった。原因は増発のための臨時列車を出した際、タブレットの交換を省略した事によるものであった。
一方で、1927年(昭和2年)8月14日に紀勢西線が紀伊湯浅駅(現・湯浅駅)まで延伸すると、これに並行する海岸駅 - 湯浅駅 - 藤並駅間は不要不急路線となり、1944年12月10日に休止されレールが撤去された。1950年4月から紀勢西線の湯浅駅まで乗り入れるようになり、藤並駅 - 海岸駅間は1959年(昭和34年)4月3日に正式に廃止された。なお、廃線敷の一部は、後年紀勢本線の複線化の際に転用された。
しかし、みかんなどの輸送は次第にトラック輸送への切り替えが進み、1984年(昭和59年)2月1日に貨物営業は廃止された。この結果、大きな収入源を失い、人員の大幅削減、車両保守を近くの自動車整備工場へ委託するなどの合理化が図られた。また、紀勢本線への乗り入れは、信楽高原鐵道列車衝突事故の後の1992年(平成4年)12月1日に廃止された。
この頃になると、利用者は沿線の和歌山県立吉備高等学校(現・和歌山県立有田中央高等学校)への通学生にほぼ限られるようになったため、1995年3月6日から第2・第4土曜日と日曜・休日(いずれも学校の休日)は全列車を運休し、並行する道路を走る路線バスで代替しつつ、1日の運行本数も次第に減少していった。さらに駅舎や軌道の状態は、とても現役路線とは思えないほど荒廃していた。一部の踏切は遮断棹が下りず、列車通過の際に係員が車を制止して対応する事例が何度も発生した。
金屋口駅の出札窓口は、ハイモ180-101導入に伴うワンマン運転開始の際に閉鎖され、鉄道線において乗車券の販売は行われなくなった。鉄道線専用の定期乗車券・回数乗車券の販売も行わず、バスの定期乗車券・回数乗車券にて並行する鉄道区間にも乗車可能という扱いが行われた。後に出札窓口を鉄道案内所として再開し、鉄道ファンに対しては記念グッズとしての各種乗車券類の販売を行い、一般乗客に対しては降車時の現金払いを案内していた。
2001年11月1日からは、運行日の運転本数が1日2往復(藤並駅発10時00分・12時00分)に減らされ、公共交通機関としては極めて少ない運行本数となった。この事実は「最も運行本数の少ない私鉄路線」として、愛好家の間にて有田鉄道の名を知らしめた。また、末期の有田鉄道には、鉄道車両の運転免許を所持していた社員が、1人しかいなかった。晩年期の利用者数は1日平均29人で、有田鉄道が鉄道輸送廃止の意向を示した時も、元々バスの定期券で並行する同社鉄道線の利用が可能だったため、さほど本数の減少及び廃止による影響はなかったらしく、地元から廃止反対の声はほとんど上がらなかった。このため、2002年10月に廃止予定日を2003年10月31日として路線廃止の申請を行ったものの、廃止を早めても影響は全くないと判断されたため、2002年11月29日に廃止繰上届を提出し、10か月繰り上げた2002年12月31日限りで廃止された。
なお、有田鉄道は金屋口から先、清水町へ延伸する構想があったものの、具体化しなかった。
藤並駅にあった切符売り場や近辺の線路などは、施設の撤去費用が出せず放置せざるを得なかったため、朽ちながらも廃止当時のまま残されていた。藤並駅の特急「くろしお」停車駅への昇格に向けてJR西日本と地元自治体で協議が行われた結果、駅舎の建て替えとホームの延長が計画され、それに先立って有田鉄道のレールはようやく撤去された。なお、ホームおよび切符売り場の撤去は2009年度に実施されている。
廃線後まもなく一部踏切が撤去・舗装されつつも、本線はほとんどレールが引かれたまま放置されていた。しかし、自転車歩行者専用道路として活用するため2006年夏頃からレール・枕木の撤去が始まり、2008年には田殿口駅と下津野駅の駅舎を解体してプラットホームを改修、御霊駅は駅舎を残しプラットホームとともに整備・改修された。この自転車道としての整備は完了し、全区間で供用中である。
一方で、在籍車両2両は、処遇が決まらないまま金屋口駅の車庫奥に留置され、錆などの損傷が目立ってきていたが、鉄道用地譲渡と同時に沿線自治体に車両も譲渡された。2010年3月20日に地元自治体の有田川町の手によって金屋口駅構内が有田川町鉄道公園として開園し、園内で動態保存されている。
有田鉄道線の最終期を語るにあたり、ふるさと鉄道保存協会の存在が挙げられる。同会は有田鉄道と直接の関連はないが、同社公認会を自称し、同社もこれを否定しなかった。最多時には8両の車両と国鉄コンテナ4個を構内に保存していた。廃止当時の有田鉄道の2両(保線用モーターカー1両を加えても3両)をはるかに凌ぐ両数を所有した。同社線廃線後も構内にて活動していたが、その後は活動を休止した。これに伴い、構内全域が同社から有田川町に譲渡され、有田川鉄道公園が開園した現在も同町の許可を得て一部の車両が園内に残る。ただし現在は同会に代わって金屋口鉄道保存協会が組織され、所有車の整備を同協会に委託している。
鉄道路線廃止に伴う代替バスは、廃止前から並行して運行していた有田鉄道バスの藤並線の増発という形が取られた。すなわち、従来は平日鉄道2往復・バス17往復であったのが、バス19往復に変更され、本数の上では従来と変わらなかった。しかし、廃止半年後の2003年6月に行われた調査によると、廃止時の1日あたり輸送人員は鉄道29人・バス57人であったのに、半年後にはバスの輸送人員は1日あたり33人に激減していた。
2018年4月1日現在、同区間のバス路線は平日12往復、土日祝日7往復に減少した。使用車両は小型バスであるが、それで何の問題もない程度の利用実態である。
海岸駅 - 湯浅駅 - 吉川駅 - 藤並駅
廃線時まで在籍した車両は、ハイモ180-101とキハ58003の2両のみであった。なお有田鉄道では、JR西日本新宮鉄道部から購入した保線用モーターカーを加え自社所有車両3両としていた。
木製2軸客車とガソリンカーからの改造車があった。
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"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "有田鉄道は、沿線で穫れた木材やみかん(有田みかん)などの農産品を、その積出港であった湯浅港まで運搬する目的で1913年2月に設立された。1915年(大正4年)5月28日に海岸駅 - 下津野駅間、1916年(大正5年)7月1日に下津野駅 - 金屋口駅間が開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "1926年(大正15年)8月8日に鉄道省紀勢西線(現・紀勢本線)が藤並駅まで開通し、有田鉄道も藤並駅を新設して同線との連絡を行った。これにより、藤並駅から国鉄線を通して、みかんを満載した「蜜柑列車」で出荷するようになった。 旅客に関しては、沿線の井ノ口大師の参詣者が利用することもあり、8月の祭事には満員となるほど活況を呈した。しかし1935年(昭和10年)8月18日、田殿駅西方でガソリンカー同士が正面衝突。双方に多くの乗客が乗っていたため、重軽傷者50余人を出す惨事となった。原因は増発のための臨時列車を出した際、タブレットの交換を省略した事によるものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "一方で、1927年(昭和2年)8月14日に紀勢西線が紀伊湯浅駅(現・湯浅駅)まで延伸すると、これに並行する海岸駅 - 湯浅駅 - 藤並駅間は不要不急路線となり、1944年12月10日に休止されレールが撤去された。1950年4月から紀勢西線の湯浅駅まで乗り入れるようになり、藤並駅 - 海岸駅間は1959年(昭和34年)4月3日に正式に廃止された。なお、廃線敷の一部は、後年紀勢本線の複線化の際に転用された。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、みかんなどの輸送は次第にトラック輸送への切り替えが進み、1984年(昭和59年)2月1日に貨物営業は廃止された。この結果、大きな収入源を失い、人員の大幅削減、車両保守を近くの自動車整備工場へ委託するなどの合理化が図られた。また、紀勢本線への乗り入れは、信楽高原鐵道列車衝突事故の後の1992年(平成4年)12月1日に廃止された。",
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"text": "この頃になると、利用者は沿線の和歌山県立吉備高等学校(現・和歌山県立有田中央高等学校)への通学生にほぼ限られるようになったため、1995年3月6日から第2・第4土曜日と日曜・休日(いずれも学校の休日)は全列車を運休し、並行する道路を走る路線バスで代替しつつ、1日の運行本数も次第に減少していった。さらに駅舎や軌道の状態は、とても現役路線とは思えないほど荒廃していた。一部の踏切は遮断棹が下りず、列車通過の際に係員が車を制止して対応する事例が何度も発生した。",
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"text": "金屋口駅の出札窓口は、ハイモ180-101導入に伴うワンマン運転開始の際に閉鎖され、鉄道線において乗車券の販売は行われなくなった。鉄道線専用の定期乗車券・回数乗車券の販売も行わず、バスの定期乗車券・回数乗車券にて並行する鉄道区間にも乗車可能という扱いが行われた。後に出札窓口を鉄道案内所として再開し、鉄道ファンに対しては記念グッズとしての各種乗車券類の販売を行い、一般乗客に対しては降車時の現金払いを案内していた。",
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"text": "2001年11月1日からは、運行日の運転本数が1日2往復(藤並駅発10時00分・12時00分)に減らされ、公共交通機関としては極めて少ない運行本数となった。この事実は「最も運行本数の少ない私鉄路線」として、愛好家の間にて有田鉄道の名を知らしめた。また、末期の有田鉄道には、鉄道車両の運転免許を所持していた社員が、1人しかいなかった。晩年期の利用者数は1日平均29人で、有田鉄道が鉄道輸送廃止の意向を示した時も、元々バスの定期券で並行する同社鉄道線の利用が可能だったため、さほど本数の減少及び廃止による影響はなかったらしく、地元から廃止反対の声はほとんど上がらなかった。このため、2002年10月に廃止予定日を2003年10月31日として路線廃止の申請を行ったものの、廃止を早めても影響は全くないと判断されたため、2002年11月29日に廃止繰上届を提出し、10か月繰り上げた2002年12月31日限りで廃止された。",
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"text": "なお、有田鉄道は金屋口から先、清水町へ延伸する構想があったものの、具体化しなかった。",
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"text": "藤並駅にあった切符売り場や近辺の線路などは、施設の撤去費用が出せず放置せざるを得なかったため、朽ちながらも廃止当時のまま残されていた。藤並駅の特急「くろしお」停車駅への昇格に向けてJR西日本と地元自治体で協議が行われた結果、駅舎の建て替えとホームの延長が計画され、それに先立って有田鉄道のレールはようやく撤去された。なお、ホームおよび切符売り場の撤去は2009年度に実施されている。",
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"text": "廃線後まもなく一部踏切が撤去・舗装されつつも、本線はほとんどレールが引かれたまま放置されていた。しかし、自転車歩行者専用道路として活用するため2006年夏頃からレール・枕木の撤去が始まり、2008年には田殿口駅と下津野駅の駅舎を解体してプラットホームを改修、御霊駅は駅舎を残しプラットホームとともに整備・改修された。この自転車道としての整備は完了し、全区間で供用中である。",
"title": "歴史"
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"text": "一方で、在籍車両2両は、処遇が決まらないまま金屋口駅の車庫奥に留置され、錆などの損傷が目立ってきていたが、鉄道用地譲渡と同時に沿線自治体に車両も譲渡された。2010年3月20日に地元自治体の有田川町の手によって金屋口駅構内が有田川町鉄道公園として開園し、園内で動態保存されている。",
"title": "歴史"
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"text": "有田鉄道線の最終期を語るにあたり、ふるさと鉄道保存協会の存在が挙げられる。同会は有田鉄道と直接の関連はないが、同社公認会を自称し、同社もこれを否定しなかった。最多時には8両の車両と国鉄コンテナ4個を構内に保存していた。廃止当時の有田鉄道の2両(保線用モーターカー1両を加えても3両)をはるかに凌ぐ両数を所有した。同社線廃線後も構内にて活動していたが、その後は活動を休止した。これに伴い、構内全域が同社から有田川町に譲渡され、有田川鉄道公園が開園した現在も同町の許可を得て一部の車両が園内に残る。ただし現在は同会に代わって金屋口鉄道保存協会が組織され、所有車の整備を同協会に委託している。",
"title": "歴史"
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"text": "鉄道路線廃止に伴う代替バスは、廃止前から並行して運行していた有田鉄道バスの藤並線の増発という形が取られた。すなわち、従来は平日鉄道2往復・バス17往復であったのが、バス19往復に変更され、本数の上では従来と変わらなかった。しかし、廃止半年後の2003年6月に行われた調査によると、廃止時の1日あたり輸送人員は鉄道29人・バス57人であったのに、半年後にはバスの輸送人員は1日あたり33人に激減していた。",
"title": "歴史"
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"text": "2018年4月1日現在、同区間のバス路線は平日12往復、土日祝日7往復に減少した。使用車両は小型バスであるが、それで何の問題もない程度の利用実態である。",
"title": "歴史"
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"text": "海岸駅 - 湯浅駅 - 吉川駅 - 藤並駅",
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"text": "廃線時まで在籍した車両は、ハイモ180-101とキハ58003の2両のみであった。なお有田鉄道では、JR西日本新宮鉄道部から購入した保線用モーターカーを加え自社所有車両3両としていた。",
"title": "車両"
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"text": "木製2軸客車とガソリンカーからの改造車があった。",
"title": "車両"
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] |
有田鉄道線(ありだてつどうせん)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現在の有田川町)の藤並駅と金屋口駅とを結んでいた有田鉄道の鉄道路線である。2002年12月31日限りで廃止された。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Arida Tetsudo Logomark.svg|20px]] 有田鉄道線
|画像 = Arita-Haimo180-DC2.JPG
|画像サイズ = 280px
|画像説明 = 有田鉄道線を走ったハイモ180形気動車。<br />(下津野 - 田殿口 2002年12月13日)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[和歌山県]]
|起点 = [[藤並駅]]
|終点 = [[金屋口駅]]
|駅数 = 5駅
|開業 = 1915年5月28日
|廃止 = 2003年1月1日
|所有者 = [[有田鉄道]]
|運営者 = 有田鉄道
|路線距離 = 5.6 [[キロメートル|km]] (最長時 9.1 km)
|軌間 = 1067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数 = [[単線]]
|電化方式 = [[非電化]]
|最高速度=40 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.139]]</ref>
|最小曲線半径 = 180 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/>
|最大勾配 = 9.0 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/>
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#808080
|title-color=white
|map=
{{BS3|||exKBHFa|0.0|''海岸駅''|-1959|}}
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{{BS3||STR+r|exSTR|||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[紀勢本線]]|}}
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{{BS3||STR2|exSTR3|O3=STRc3||||}}<!-- 平面交差 -->
{{BS3||exSTR+1|O2=STRc1|STR+4||||}}
{{BS3||exABZg+l|eABZgr||||}}
{{BS3||exBHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|3.3|[[藤並駅]]||}}
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{{BS|exSKRZ-Au|||[[海南湯浅道路]](当時)|}}
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{{BS|exBHF|7.5|''[[御霊駅]]''||}}
{{BS3|exSTR+l|exABZgr|||||}}
{{BS3|exKDSTe|exKBHFe||9.1|''[[金屋口駅]]''||}}
}}
[[File:Arita-Railway Orange-Field.JPG|thumb|220px|沿線の特産品であるミカンの畑の中を通っていた有田鉄道線の線路。<br />(下津野 - 田殿口 2002年12月13日)]]
'''有田鉄道線'''(ありだてつどうせん)は、かつて[[和歌山県]][[有田郡]][[吉備町 (和歌山県)|吉備町]](現在の[[有田川町]])の[[藤並駅]]と[[金屋口駅]]とを結んでいた[[有田鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[2002年]][[12月31日]]限りで廃止された。
== 歴史 ==
有田鉄道は、沿線で穫れた木材や[[ウンシュウミカン|みかん]]([[有田みかん]])などの農産品を、その積出港であった[[湯浅港]]まで運搬する目的で1913年2月に設立された。[[1915年]](大正4年)5月28日に海岸駅 - [[下津野駅]]間、[[1916年]](大正5年)7月1日に下津野駅 - [[金屋口駅]]間が開業した。
[[1926年]](大正15年)8月8日に[[鉄道省]]紀勢西線(現・[[紀勢本線]])が藤並駅まで開通し、有田鉄道も藤並駅を新設して同線との連絡を行った。これにより、藤並駅から国鉄線を通して、みかんを満載した「蜜柑列車」で出荷するようになった。
旅客に関しては、沿線の井ノ口大師の参詣者が利用することもあり、8月の祭事には満員となるほど活況を呈した。しかし[[1935年]](昭和10年)[[8月18日]]、田殿駅西方でガソリンカー同士が正面衝突。双方に多くの乗客が乗っていたため、重軽傷者50余人を出す惨事となった<ref>有田鉄道でガソリンカーが正面衝突『大阪毎日新聞』昭和10年8月19日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p782 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。原因は増発のための[[臨時列車]]を出した際、[[閉塞 (鉄道)|タブレット]]の交換を省略した事によるものであった<ref>タブレット省略が原因、有田鉄道事故『大阪毎日新聞』昭和10年8月20日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p783)</ref>。
一方で、1927年(昭和2年)8月14日に紀勢西線が紀伊湯浅駅(現・[[湯浅駅]])まで延伸すると、これに並行する海岸駅 - 湯浅駅 - 藤並駅間は[[不要不急線|不要不急路線]]となり、[[1944年]]12月10日に休止され[[軌条|レール]]が撤去された。[[1950年]]4月から紀勢西線の湯浅駅まで乗り入れるようになり、藤並駅 - 海岸駅間は[[1959年]](昭和34年)4月3日に正式に廃止された。なお、廃線敷の一部は、後年紀勢本線の複線化の際に転用された。
しかし、みかんなどの輸送は次第にトラック輸送への切り替えが進み、[[1984年]](昭和59年)2月1日に貨物営業は廃止された。この結果、大きな収入源を失い、人員の大幅削減、車両保守を近くの自動車整備工場へ委託するなどの合理化が図られた。また、紀勢本線への乗り入れは、[[信楽高原鐵道列車衝突事故]]の後の[[1992年]](平成4年)12月1日に廃止された。
この頃になると、利用者は沿線の和歌山県立吉備高等学校(現・[[和歌山県立有田中央高等学校]])への通学生にほぼ限られるようになったため、[[1995年]]3月6日から第2・第4土曜日と日曜・休日(いずれも学校の休日)は全列車を運休し、並行する道路を走る[[路線バス]]で代替しつつ、1日の運行本数も次第に減少していった。さらに駅舎や軌道の状態は、とても現役路線とは思えないほど荒廃していた。一部の踏切は遮断棹が下りず、列車通過の際に係員が車を制止して対応する事例が何度も発生した。
金屋口駅の出札窓口は、ハイモ180-101導入に伴う[[ワンマン運転]]開始の際に閉鎖され<ref group="注">運転取扱上は駅長常勤のため駅自体の無人化ではない。</ref>、鉄道線において乗車券の販売は行われなくなった。鉄道線専用の定期乗車券・回数乗車券の販売も行わず、バスの定期乗車券・回数乗車券にて並行する鉄道区間にも乗車可能という扱いが行われた。後に出札窓口を鉄道案内所として再開し<ref group="注">ただし監督官庁許認可の都合上、駅の出札窓口としては最後まで閉鎖したままとの扱い。</ref>、[[鉄道ファン]]に対しては記念グッズとしての各種乗車券類の販売を行い、一般乗客に対しては降車時の現金払いを案内していた。
[[2001年]]11月1日からは、運行日の運転本数が1日2往復(藤並駅発10時00分・12時00分)に減らされ、公共交通機関としては極めて少ない運行本数となった。この事実は「最も運行本数の少ない私鉄路線」として、愛好家の間にて有田鉄道の名を知らしめた。また、<!--合理化の余波なのか、-->末期の有田鉄道には、鉄道車両の運転免許を所持していた社員が、1人しかいなかった。晩年期の利用者数は1日平均29人<!--(輸送密度5.17人/キロ)←輸送密度と計算方法が違う-->で、有田鉄道が鉄道輸送廃止の意向を示した時も、元々バスの定期券で並行する同社鉄道線の利用が可能だったため、さほど本数の減少及び廃止による影響はなかったらしく、地元から廃止反対の声はほとんど上がらなかった。このため、[[2002年]]10月に廃止予定日を2003年10月31日として路線廃止の申請を行ったものの、廃止を早めても影響は全くないと判断されたため、2002年11月29日に廃止繰上届を提出し<ref name="rail fan">{{Cite journal|和書 |author = 外山勝彦 |date = 2003-02-01 |title = 鉄道記録帳2002年11月 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 21 }}</ref><ref group="注">日本の[[鉄道事業法]]では、廃止予定日1年前までに届け出る旨が定められている。ただし、関係自治体などへの意見聴取で反対が無ければ廃止予定日を繰り上げても良いとの例外規定も設けられており、この規定を活用した。</ref>、10か月繰り上げた2002年12月31日限りで廃止された<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2003-03-01 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 23 }}</ref>。
なお、有田鉄道は金屋口から先、[[清水町 (和歌山県)|清水町]]へ延伸する構想があったものの、具体化しなかった<ref>[http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/03/post_1230.html 有田川町鉄道交流館オープン。(下)] - 編集長敬白、鉄道ホビダス、2010年3月25日</ref>。
=== 廃止後 ===
[[藤並駅]]にあった切符売り場や近辺の線路などは、施設の撤去費用が出せず放置せざるを得なかったため、朽ちながらも廃止当時のまま残されていた<ref group="注">勿論保存目的ではなく、保存の計画は当初から存在していなかった</ref>。藤並駅の特急「[[くろしお (列車)|くろしお]]」停車駅への昇格に向けて[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]と地元自治体で協議が行われた結果、駅舎の建て替えとホームの延長が計画され、それに先立って有田鉄道のレールはようやく撤去された<ref group="注">藤並駅に特急「くろしお」が停車するようになったのは、[[2008年]]3月15日である。</ref>。なお、ホームおよび切符売り場の撤去は2009年度に実施されている。
[[廃線]]後まもなく一部踏切が撤去・舗装されつつも、本線はほとんどレールが引かれたまま放置されていた。しかし、[[自転車歩行者専用道路]]として活用するため[[2006年]]夏頃からレール・枕木の撤去が始まり、2008年には田殿口駅と下津野駅の駅舎を解体してプラットホームを改修、御霊駅は駅舎を残しプラットホームとともに整備・改修された。この自転車道としての整備は完了し、全区間で供用中である。
一方で、在籍車両2両は、処遇が決まらないまま金屋口駅の車庫奥に留置され、錆などの損傷が目立ってきていたが、鉄道用地譲渡と同時に沿線自治体に車両も譲渡された。2010年3月20日に地元自治体の[[有田川町]]の手によって金屋口駅構内が[[有田川町鉄道公園]]として開園し、園内で[[動態保存]]されている。
有田鉄道線の最終期を語るにあたり、ふるさと鉄道保存協会の存在が挙げられる。同会は有田鉄道と直接の関連はないが、同社公認会を自称し、同社もこれを否定しなかった。最多時には8両の車両と国鉄コンテナ4個を構内に保存していた。廃止当時の有田鉄道の2両(保線用モーターカー1両を加えても3両)をはるかに凌ぐ両数を所有した。同社線廃線後も構内にて活動していたが、その後は活動を休止した。これに伴い、構内全域が同社から有田川町に譲渡され、有田川鉄道公園が開園した現在も同町の許可を得て一部の車両が園内に残る。ただし現在は同会に代わって金屋口鉄道保存協会が組織され、所有車の整備を同協会に委託している。
=== 代替バス ===
鉄道路線廃止に伴う代替バスは、廃止前から並行して運行していた有田鉄道バスの藤並線の増発という形が取られた。すなわち、従来は平日鉄道2往復・バス17往復であったのが、バス19往復に変更され、本数の上では従来と変わらなかった<ref group="注">所要時間は逆にバスが1分短かった。</ref>。しかし、廃止半年後の2003年6月に行われた調査によると、廃止時の1日あたり[[輸送人員]]は鉄道29人・バス57人であったのに、半年後にはバスの輸送人員は1日あたり33人に激減していた<ref>{{PDFlink|[http://wwwtb.mlit.go.jp/hokkaido/bunyabetsu/tiikikoukyoukoutsuu/kakuhoijikaizen/sonota/katsupro/kakomono/tetsudoudaitai/tetsudoudaitaikentoui.pdf 北海道における鉄道廃止代替バス追跡調査検討]}} - [[国土交通省]][[北海道運輸局]]</ref>。
2018年4月1日現在、同区間のバス路線は平日12往復、土日祝日7往復に減少した<ref>{{PDFlink|[http://www.aritetsu.com/route.html 有田鉄道株式会社 | 路線バス]}}(平成30年4月1日改正) - 有田鉄道</ref>。使用車両は小型バスであるが、それで何の問題もない程度の利用実態である。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):5.6 km
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:5駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:なし(全線[[非電化]])(内燃動力)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:票券閉塞式(実質的にはスタフ閉塞)
* 最高速度:40 km/h<ref name="datebook"/>
* 交換可能駅:なし(全線1閉塞)
=== 駅一覧 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #f39800;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f39800;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f39800;"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #f39800;"|接続路線
|-
|[[藤並駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
||[[西日本旅客鉄道]]:[[紀勢本線]](きのくに線)
|-
|[[田殿口駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|1.4
|
|-
|[[下津野駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|2.9
|
|-
|[[御霊駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|4.2
|
|-
|[[金屋口駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|5.6
|
|}
==== 1959年廃止区間 ====
[[海岸駅]] - [[湯浅駅]] - 吉川駅 - 藤並駅
* 有田鉄道湯浅駅は紀勢西線の[[湯浅駅]](当時は紀伊湯浅駅、1965年3月1日改称)とは別地点にあった。
* 海岸 - 藤並間は1934年休止、1937年吉川駅廃止、1938年貨物営業再開、1940年旅客営業廃止、1944年貨物営業休止、1959年貨物営業廃止。
==== 廃駅 ====
*明王寺駅(藤並駅 - 田殿口駅間) 1926年に休止<ref>1926年9月7日休止[{{NDLDC|2956372/6}} 「地方鉄道駅設置並閉鎖」『官報』1926年9月18日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>、1930年までに再開、1931年に廃止、1935年3月29日再開業、1946年までに廃止<ref>今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』新潮社、2008年、p.40</ref>。
<gallery>
ファイル:Kanayaguchi-Sta.jpg|金屋口駅の駅舎<br />(1996年2月)
ファイル:Kanayaguchi-Sta-2.jpg|金屋口駅の構内<br />(1996年2月)
ファイル:Goryo-Sta.jpg|御霊駅の駅舎<br />(1996年2月)
ファイル:Shimotsuno-Sta.jpg|下津野駅の駅舎<br />(1996年2月)
ファイル:Tadonoguchi-Sta.jpg|田殿口駅と有田鉄道バス<br />(1996年2月)
ファイル:Fujinami stn Arida-RW ruins.jpg|藤並駅のJRホームに面した改札口<br />(2003年3月6日)
ファイル:Aritetsu-Fujinami-Sta.jpg|藤並駅の窓口<br />(1996年2月)
</gallery>
=== 輸送実績 ===
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center;"
|- style="background: #ddd;"
! 年度
! 1950年
! 1960年
! 1965年
! 1970年
! 1975年
! 1980年
! 1985年
! 1990年
! 1995年
! 2000年
|- style="text-align:right;"
! 旅客輸送密度(人/日)
| 1,429
| 3,657
| 3,426
| 2,072
| 1,422
| 1,252
| 702
| 319
| 67
| 43
|}
* 地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報、民鉄統計年報、鉄道統計年報各年度版
== 車両 ==
廃線時まで在籍した車両は、[[樽見鉄道ハイモ180-100形気動車|ハイモ180-101]]とキハ58003の2両のみであった。なお有田鉄道では、JR西日本新宮鉄道部から購入した保線用[[モーターカー]]を加え自社所有車両3両としていた。
=== 気動車 ===
; ハイモ180形(ハイモ180-101)
: 岐阜県の[[樽見鉄道]]から譲渡された[[レールバス]]で、[[富士重工業]]がローカル線向けの軽快気動車として開発した[[LE-Car|LE-CarII]]の初の実用車である。塗装変更等の整備を受け[[1994年]]5月16日{{#tag:ref|当初は5月21日からの予定だった<ref>『RM LIBRARY 190』、p.45</ref>。|group="注"}}から運行を開始した。車内は通路を挟んで逆向きに[[日本のバスの座席#座席形状|固定シート]]と[[鉄道車両の座席|ロングシート]]が並んでいる。有田鉄道線初の冷房装備車両で、最末期の主力であった。廃線後暫くは同社が所有していたが、その後の自治体への鉄道用地譲渡と同時に当車も自治体に譲渡された。2010年3月20日に[[有田川町鉄道公園]]が開園し、当車は同園で[[動態保存]]されている。
<gallery>
ファイル:Arita-Haimo180-DC.JPG|ハイモ180-101。<br />(2002年12月13日)
ファイル:Aritetsu-Haimo180-101-inside.jpg|車内<br />(1996年2月19日撮影)
ファイル:1994-3-arida-haimo180-101.JPG|整備中のハイモ180-101(1994年3月。樽見鉄道カラーのまま)
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; キハ58形(キハ58001・キハ58002・キハ58003)[[File:1994-3-arida-kiha58001.JPG|thumb|240px|キハ58001<br />(1994年4月)]] [[File:Arita-Kiha58003.JPG|thumb|240px|キハ58003<br />(2002年12月13日)]]
: 山梨県の[[富士急行]]が[[日本国有鉄道]](国鉄)[[中央本線]]との直通運転用に投入した[[国鉄キハ58系気動車#富士急行のキハ58|キハ58系富士急行向け仕様車]]を同社より譲り受けた。その中でも特筆すべき存在はキハ58003で、国鉄の[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]には無かった、製造時からの両運転台車であり、単行での営業運転ができたことから有田鉄道では特にハイモ180-101譲受前の主力として用いられた。なお、1980年にエンジンを1台取り外したので、実質はエンジン1基の[[国鉄キハ58系気動車#車両形式|キハ28形]]相当の性能である。
: これ以外に国鉄末期の1987年に廃車となったキハ58 86とキハ58 136<ref group="注">1987年2月10日廃車。最終配置は[[亀山鉄道部|亀山機関区]]。</ref>を譲受していた。2両とも車籍を有せず[[部品取り]]目的での譲受というのが通説だが、キハ58 136についてはキハ58001と併結し、社線内の藤並発8時48分の列車に運用されていたとのルポが記録されている<ref>『[[旅 (雑誌)|旅]]』1992年9月号、p.131</ref>ほか、営業運転で湯浅駅まで運行している映像が存在する<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=fb2rBBO3lh0 湯浅駅を出発する有田鉄道キハ58(136)他(1992年頃)]</ref>。
: キハ58001とキハ58002は片運転台車で、新製時は[[列車便所|トイレ]]や[[洗面所]]が設置されていたが、同社への譲渡時に撤去された。003にはトイレや洗面所は新製時から設置されていない。なお一連の改造は1980年に[[日本国有鉄道高砂工場|国鉄高砂工場]]に入場して行われた。003には永らくこの際の検査標記の痕跡が車体に残っていたが、有田川鉄道公園開園に先立って実施された車体の全面塗装時に塗りつぶされた。現在はシール式で同等の表示が再現されている。
: 経歴上、国鉄所有となった実績は無いものの、客室天井に設置の扇風機にはJNRのマークがあるなど、国鉄車と同一の部品を多く使用している。
: 1975年7月10日に入線し、1976年5月10日からキハ07に代わり使用を開始した。入線後しばらくしてから廃線近くまでに撮られた写真では、妻面は恒常的に油煙と錆に汚れ、整備が行き届いていない様子が窺われた<ref group="注">鉄を使った車両に発生した錆は、一般に鉄材の内部にまで進行するため、錆を放置すると問題が発生する恐れがある。</ref>。001・002は、ハイモ180-101の本格的な営業開始後に不要車両として廃車解体された。003のみ廃線時まで予備車として残されたが、実態は整備不良でエンジンの始動すらおぼつかない状態であった。
: 廃線後暫くは同社が所有したが、その後の自治体への鉄道用地譲渡と同時に当車も自治体に譲渡された。有田川町鉄道公園の開園に先立って起動可能な状態にまで整備され、同園で動態保存車となっている。ただしその後エンジンが故障したため自走できなくなり、2022年現在はディーゼル機関車による牽引で展示運転している。
; キハ07形(キハ07206・キハ07207)
: 元[[国鉄キハ07形気動車#称号改正と液体式への改造|国鉄キハ07 206・207]]。1970年8月より使用を開始し、1976年5月9日まで使用され、以降は予備車になった。1982年9月15日は廃車にされ、1983年3月に解体された。
; キハ250
: 1954年[[富士車輌]]製で、[[山鹿温泉鉄道]]の注文流れの車両であった。湘南窓と客用扉の2段ステップが特徴。キハ07206・07207の使用開始より、予備車になった。最終運転は1970年10月20日で、1976年に廃車され、1980年7月に解体された。
; キハ210
: 元[[国鉄キハ07形気動車|国鉄キハ42037]]。1975年に廃車解体された。
; キハ202・キハ205・キハ206
: 元[[国鉄キハ04形気動車|国鉄キハ04]] 29・41038・41078。202は[[一畑電気鉄道立久恵線]]での運用を経て入線し、後に[[紀州鉄道]]に譲渡された。
;キハ201
: 元[[国鉄キハ40000形気動車|国鉄キハ40001]]。一畑電気鉄道立久恵線での運用を経て入線{{#tag:ref|同社からはキハ1も譲り受けたが未入籍に終わった。<ref>『RM LIBRARY 190』、p.43</ref>。|group="注"}}。キハ07206・07207の使用開始により、1971年に廃車され、1975年8月に解体された。
[[File:1994-3-arida-dd353.JPG|thumb|DD353。奥にDB20が見える。]]
=== ディーゼル機関車 ===
; D353形(DD353)
: [[1963年]]に[[日本車輌製造]]で製造された[[新日本製鐵]](新製時は[[八幡製鐵]]、現・[[日本製鉄]])[[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鐵所]]の凸型ディーゼル機関車35-DD9形<ref group="注">八幡製鐵には同型が35両存在し、そのうちの1両は[[近江鉄道D35形ディーゼル機関車]]である。</ref>。DB20と共に貨物輸送に従事した。車両番号はDが1つ多い。
; DB20形(DB20)
: [[1965年]]に[[三菱ロジスネクスト|日本輸送機]]で製造された15t機。[[有田川町鉄道公園]]のDB107は、同機を再現したもの。
=== 客車 ===
木製[[二軸車 (鉄道)|2軸]][[客車]]と[[気動車|ガソリンカー]]からの改造車があった。
; 1-4
: 梅鉢鉄工所製で1915年に使用開始。2・3は1932年に廃車。残りは1948年に廃車。
; 5・6
: 1917年に[[南海電気鉄道|南海鉄道]]より購入。旧番号は、は60・69(製造年製造所不明)。1932年に廃車。
; か1・2(荷物車)
: 1917年に南海鉄道より購入。旧番号は、に3・7(1906年南海鉄道製)。1920年に2両とも[[佐久鉄道]]に売却。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{cite journal | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | author = 藤井信夫 | title = 有田鉄道 | year = 1966 | volume = No. 186 | issue = 1966年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり7 | pages = pp. 62-67, 101-102 }}(再録:{{cite book | 和書 | title = 私鉄車両めぐり特輯 | volume = 2 | year = 1977 | editor = 鉄道ピクトリアル編集部 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 }})
* {{cite journal | journal = 鉄道ピクトリアル | author = [[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]] | title = 有田鉄道ノート | year = 1966 | volume = No. 186 | issue = 1966年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり7 | pages = pp. 67-69 }}(再録:同上)
* {{cite journal | journal = 鉄道ピクトリアル | author = 立命館大学鉄道研究同好会 | title = 有田鉄道 | year = 1977 | volume = No. 331 | issue = 1977年3月号 | pages = pp. 85-88}}
* {{cite journal | journal = 鉄道ピクトリアル | author = 小林隆雄 | title = 有田鉄道 | year = 1985 | volume = No. 445 | issue = 1985年3月臨時増刊号 | pages = pp. 116-118}}
* {{cite book | 和書 | pages = p. 406 | title = 昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧 | author = [[鉄道省]] | publisher = 鉄道史資料保存会(1986年覆刻) | year = 1937 | location = 東京 | id = ISBN 4-88540-048-1 }}
* {{cite book | 和書 | title = RM LIBRARY 190 有田鉄道 | author = [[寺田裕一]] | publisher = [[ネコ・パブリッシング]] | year = 2015 | location = 東京 | id = ISBN 4-77705-381-4 }}
* 澤内一晃「南海の二軸客車」『鉄道ピクトリアル』No.835
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Arita Railway Line}}
* [http://www.tetsuhai.com/arida.html 有田鉄道] - 路線跡の散策レポート
* {{Facebook|kiha58003|有田川町鉄道交流館ホームページ}}
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[[Category:近畿地方の鉄道路線 (廃止)]]
[[Category:有田鉄道|路ありたてつとうせん]]
[[Category:和歌山県の交通史]]
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紀州鉄道線
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紀州鉄道線(きしゅうてつどうせん)は、和歌山県御坊市にある御坊駅から西御坊駅までを結ぶ紀州鉄道の鉄道路線である。
有田鉄道の廃止後、和歌山県で唯一の全線非電化の私鉄路線となっている。また、国鉄特定地方交通線や日本鉄道建設公団建設線を転換した第三セクター鉄道を除けば近畿地方で全線が非電化の私鉄路線は当路線のみである。
街外れにある紀勢本線御坊駅と御坊市街地とを結ぶ目的で、地元有志により1927年11月に鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣宛に申請した。発起人総代の田淵栄次郎は田淵豊吉の実兄で御坊の大地主であり実家の造酒屋を継ぎ、会社経営もしていた。田淵は単身上京し鉄道省へ運動を続け、発起人総会までの諸費用を立替えるなど鉄道敷設に注力し、1928年3月に鉄道敷設免許状が下付され12月に御坊臨港鉄道が設立されると初代社長に就任した。
国鉄紀勢西線(現在の紀勢本線)紀伊由良駅 - 御坊駅間の開通(1929年4月21日)に間に合わせるべく準備をはじめたが、土地買収では停滞をみた。湯川村では土地所有者から土地を買収したところ小作人が耕作権を主張して補償を要求してきたため、示談をみるまで一年を費やし、御坊駅 - 御坊町駅(現在の紀伊御坊駅)間の開業は1931年6月となった。その後延長工事は財界不況による資金難や一部用地の土地収用法のよる収容審査会の手続きにより遅れ、ようやく1934年8月に日高川駅まで開通した。
営業成績は当初から振るわず毎年欠損を重ねていた。1935年上期にはじめて純益金を計上したが主力銀行の日高銀行の破綻とその債務棚上げ操作によるものであったという。会社は増収策として日出紡織(大和紡績)分工場の拡大を機会に西御坊より貨物線の敷設や大阪鉄道管理局のハイキングコース(「御坊大浜日ノ岬コース」)指定をうけ行楽客の誘致に努めた。一方、1937年下期より政府補助金の交付を受けたものの1941年下期の累積欠損金は14,487円に達した。
やがて第二次世界大戦下の戦時体制に入り1943年から1944年にかけて大和紡績第一・二工場が日本アルミニューム製造所に買収され軍需工場(航空機部品工場)に転換されると旅客は激増した。しかしガソリン規制によりガス発生炉装置を取付けた気動車は出力不足であり、物資不足により修理もままならず、1945年6月の御坊空襲では機関庫に直撃弾をうけて気動車2両が被災した。
戦後になり国鉄より気動車キハニ40801の購入と蒸気機関車2両の借入、八幡製鐵所からBタンク機関車を購入し戦後の混乱期をのりきった。
ところが1953年7月には紀州大水害により日高川が氾濫し全線が冠水し復旧まで2か月かかる被害をうけることになる。それでも乗客数は徐々に増加し1960年半ばには100万人を数えていた。しかし1965年前後から乗客数は減少、遅れて貨物も減少していく。さらに1970年に組合の賃上げストライキによる賃金の上昇もあり、バスや他事業を持たない会社にとっては致命的となった。そして1973年に東京の不動産業者 磐梯電鉄不動産(磐梯急行電鉄倒産後、同社の旧経営陣が設立した企業)に鉄道事業が買収され紀州鉄道となった。今でも地元では御坊臨港鉄道が由来の「りんこう」と呼ぶ人が多い。
また、1955年から1984年までの間、西御坊駅から西方の大和紡績和歌山工場までの引込線(専用線)があり、貨物輸送を行なっていた。
2017年1月22日に脱線事故を起こし、原因を木製枕木などの老朽化とする報告を出した。そこでPC枕木への交換が始まり、2017年12月には全線の14%が、2018年10月時点では全線の33%がPC化された。
2023年(令和5年)9月に「紀州鉄道及び旧御坊臨港鉄道廃線部分」として土木学会選奨土木遺産に認定された。
2023年3月18日改正時点では、すべて御坊駅 - 西御坊駅間の運転で、1時間あたりの本数は日中時間帯でおおむね1本程度、朝夕の一部時間帯のみ2本の運転間隔で1日あたり18往復運転されており、主にJR紀勢本線の普通列車に接続するダイヤパターンとなっている。特急列車との接続はあまり考慮されていない。また最終列車が西御坊発19時51分、御坊発20時08分と早い。
2010年9月時点では26往復運行されており、同年10月1日のダイヤ改正で経費削減の観点から5往復が減便されたが、2011年3月12日のダイヤ改正で以前の本数に戻っている。しかし、2012年3月17日のダイヤ改正で再び3往復の減便となった。さらにその後減便され現在の運行体制となっている。
車庫が紀伊御坊駅にある関係で、朝と夜には紀伊御坊駅 - 西御坊駅間に回送列車が設定されている。かつては紀伊御坊発着の区間列車も少数設定されていた。
紀州鉄道線の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
紀州鉄道線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋
西御坊駅 - 日出紡績前駅 - 日高川駅
西御坊駅 - (大和紡績和歌山工場)
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2004年12月1日現在。
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] |
紀州鉄道線(きしゅうてつどうせん)は、和歌山県御坊市にある御坊駅から西御坊駅までを結ぶ紀州鉄道の鉄道路線である。 有田鉄道の廃止後、和歌山県で唯一の全線非電化の私鉄路線となっている。また、国鉄特定地方交通線や日本鉄道建設公団建設線を転換した第三セクター鉄道を除けば近畿地方で全線が非電化の私鉄路線は当路線のみである。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Kishu Railway Logomark.svg|30px]] 紀州鉄道線
|画像 = Kishu Railway Kiha 600 003.JPG
|画像サイズ = 200px
|画像説明 = 御坊駅を出発したキハ600形<br />(2008年4月6日撮影)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[和歌山県]][[御坊市]]
|起点 = [[御坊駅]]
|終点 = [[西御坊駅]]
|駅数 = 5駅
|開業 = 1931年6月15日
|項目1 = 全通 <!-- 時系列が逆転しないよう「全通」引数の代替とします -->
|日付1 = 1934年8月10日
|項目2 = 部分廃止
|日付2 = 1989年4月1日
|廃止 =
|所有者 = [[紀州鉄道]]
|運営者 = 紀州鉄道
|路線距離 = 2.7 km
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数 = [[単線]]
|電化方式 = [[非電化]]
|閉塞方式 = スタフ閉塞式
|最高速度 = 40km/h<ref name="speed">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2018-1-2.pdf 鉄道事故調査報告書]}} - 運輸安全委員会</ref>
}}
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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|map=
{{BS3||STRq|BHFq|O3=HUBa|||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{JR西路線記号|K|W}} [[紀勢本線]]||}}
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}}
'''紀州鉄道線'''(きしゅうてつどうせん)は、[[和歌山県]][[御坊市]]にある[[御坊駅]]から[[西御坊駅]]までを結ぶ[[紀州鉄道]]の[[鉄道路線]]である。
[[有田鉄道線|有田鉄道]]の廃止後、和歌山県で唯一の全線[[非電化]]の私鉄路線となっている<ref group="注釈">和歌山県の非電化鉄道線は[[JR線]]を含めば他に[[紀勢本線]]の[[新宮駅]]以東がある。</ref>。また、[[日本国有鉄道|国鉄]][[特定地方交通線]]や[[日本鉄道建設公団]]建設線を転換した[[第三セクター鉄道]]<ref group="注釈">三重県含む近畿地方では[[信楽高原鐵道信楽線]]、[[WILLER TRAINS]]各路線(全線非電化は[[京都丹後鉄道宮舞線|宮舞線]]のみ)、[[北条鉄道北条線]]、[[智頭急行智頭線]]、[[伊勢鉄道伊勢線]]がある。</ref>を除けば近畿地方で全線が非電化の私鉄路線は当路線のみである。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):2.7km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:5駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:なし(全線[[非電化]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:スタフ閉塞式
* 最高速度:40km/h<ref name="speed" />
== 歴史 ==
街外れにある[[紀勢本線]]御坊駅と御坊市街地とを結ぶ目的で、地元有志により1927年11月に鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣宛に申請した。発起人総代の田淵栄次郎<ref name="tab">[{{NDLDC|2127126/934}} 『人事興信録. 9版(昭和6年)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>は[[田淵豊吉]]の実兄で御坊の大地主であり実家の造酒屋を継ぎ、会社経営もしていた。田淵は単身上京し[[鉄道省]]へ運動を続け、発起人総会までの諸費用を立替えるなど鉄道敷設に注力し、1928年3月に鉄道敷設免許状が下付され12月に'''御坊臨港鉄道'''が設立されると初代社長に就任した。
国鉄紀勢西線(現在の紀勢本線)紀伊由良駅 - 御坊駅間の開通(1929年4月21日)に間に合わせるべく準備をはじめたが、土地買収では停滞をみた。湯川村では土地所有者から土地を買収したところ小作人が耕作権を主張して補償を要求してきたため、示談をみるまで一年を費やし、御坊駅 - 御坊町駅(現在の紀伊御坊駅)間の開業は1931年6月となった。その後延長工事は財界不況による資金難や一部用地の[[土地収用法]]のよる収容審査会の手続きにより遅れ、ようやく1934年8月に[[日高川駅]]まで開通した。
営業成績は当初から振るわず毎年欠損を重ねていた。1935年上期にはじめて純益金を計上したが主力銀行の日高銀行の破綻とその債務棚上げ操作によるものであったという<ref>『日本の地方鉄道網形成史』247頁</ref>。会社は増収策として日出紡織([[ダイワボウホールディングス|大和紡績]])分工場の拡大を機会に西御坊より貨物線の敷設や大阪鉄道管理局のハイキングコース(「御坊大浜日ノ岬コース」)指定をうけ行楽客の誘致に努めた。一方、1937年下期より[[地方鉄道補助法|政府補助金]]の交付を受けたものの1941年下期の累積欠損金は14,487円に達した{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2017年6月|明確な定義はないが、現在の紙幣価値で数千万円の規模となる。}}}}<ref>『日本の地方鉄道網形成史』250頁</ref>。
やがて[[第二次世界大戦]]下の[[戦時体制]]に入り1943年から1944年にかけて大和紡績第一・二工場が[[日本アルミ|日本アルミニューム製造所]]に買収され軍需工場(航空機部品工場)に転換されると旅客は激増した。しかしガソリン規制によりガス発生炉装置を取付けた気動車は出力不足であり、物資不足により修理もままならず、1945年6月の御坊空襲では機関庫に直撃弾をうけて気動車2両が被災した。
戦後になり[[日本国有鉄道|国鉄]]より[[気動車]]キハニ40801の購入と[[蒸気機関車]]2両の借入、[[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鐵所]]からB[[タンク機関車]]を購入し戦後の混乱期をのりきった。
ところが1953年7月には[[紀州大水害]]により[[日高川]]が氾濫し全線が冠水し復旧まで2か月かかる被害をうけることになる。それでも乗客数は徐々に増加し1960年半ばには100万人を数えていた。しかし1965年前後から乗客数は減少、遅れて貨物も減少していく。さらに1970年に組合の賃上げ[[ストライキ]]による賃金の上昇もあり、バスや他事業を持たない会社にとっては致命的となった。そして1973年に東京の不動産業者 磐梯電鉄不動産([[磐梯急行電鉄]]倒産後、同社の旧経営陣が設立した企業)に鉄道事業が買収され'''紀州鉄道'''となった。今でも地元では御坊臨港鉄道が由来の「りんこう」と呼ぶ人が多い。
また、1955年から1984年までの間、西御坊駅から西方の[[ダイワボウホールディングス|大和紡績]]和歌山工場までの引込線([[専用鉄道|専用線]])があり、貨物輸送を行なっていた。
2017年1月22日に[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#紀州鉄道脱線事故|脱線事故]]を起こし、原因を木製[[枕木]]などの老朽化とする報告を出した<ref>{{PDFlink|[http://www.kitetsu.co.jp/2016safe.pdf 安全報告書 2016年度]}} - 紀州鉄道</ref>。そこで[[プレストレスト・コンクリート|PC]]枕木への交換が始まり、2017年12月には全線の14%が<ref name="hidaka20171210">{{Cite web|和書|url=http://www.hidakashimpo.co.jp/news1/2017/12/post-7698.html| title = 紀州鉄道 枕木のコンクリート化進む | newspaper = [[日高新報]] | date = 2017-12-22 | publisher = 日高新報社 |accessdate=2018-10-02}}</ref>、2018年10月時点では全線の33%がPC化された<ref name="hidaka20181116">{{Cite web|和書|url=https://www.hidakashimpo.co.jp/news1/2018/11/%e7%b4%80%e5%b7%9e%e9%89%84%e9%81%93%e3%80%80%e6%9e%95%e6%9c%a8%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%88%e5%8c%96%e9%80%b2%e3%82%80.html| title = 紀州鉄道 枕木のコンクリート化進む | newspaper = 日高新報 | date = 2018-11-16 | publisher = 日高新報社 |accessdate=2020-10-15}}</ref>。
[[2023年]]([[令和]]5年)9月に「紀州鉄道及び旧御坊臨港鉄道廃線部分」として[[土木学会選奨土木遺産]]に認定された<ref>{{Cite web|和書|title=土木学会 令和5年度度選奨土木遺産紀州鉄道及び旧御坊臨港鉄道廃線部分 |url=https://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2023_12.shtml |website=www.jsce.or.jp |publisher=土木学会 |access-date=2023-09-25 }}</ref>。
=== 年表 ===
* [[1928年]](昭和3年)
** 3月22日 - 御坊臨港鉄道に対し鉄道免許状下付(日高郡[[湯川村 (和歌山県)|湯川村]]-同郡[[御坊町]]間 動力 瓦斯倫)<ref group="官報">[{{NDLDC|2956831/21}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年3月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 12月13日 - 御坊臨港鉄道株式会社設立<ref name="kid">[{{NDLDC|1190630/78}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|1077362/782}} 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1931年]](昭和6年)[[6月15日]] - 御坊駅 - 御坊町駅(現在の紀伊御坊駅)間 (1.74km) が開業<ref group="官報">[{{NDLDC|2957810/9}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年6月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1932年]](昭和7年)[[4月10日]] - 紀伊御坊駅 - 松原口駅(現在の西御坊駅)間 (0.9km) が開業<ref group="官報">[{{NDLDC|2958066/12}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1934年]](昭和9年) [[8月10日]] - 西御坊駅 - 日高川駅間 (0.7km) が開業し全通(貨物運輸開始)<ref group="官報">[{{NDLDC|2958765/3}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1934年8月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。松原口駅を西御坊駅に改称<ref name="chizucho" />。
* [[1941年]](昭和16年)[[12月8日]] - 財部駅<ref name="chizucho" /><ref name="haisenato2" />、中学前駅<ref name="chizucho" /><ref name="haisenato2" /><ref group="注釈" name="chugaumae">宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩くII』(JTB、1996年)p.167の石野哲「廃線私鉄の停車場一覧・25」、今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』(新潮社、2008年)p.40 では「中学前」。</ref>、日出紡績前駅<ref name="haisenato2">宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩くII』JTB、1996年p.167</ref>廃止。
* [[1953年]](昭和28年)7月18日 - 集中豪雨により日高川が氾濫し([[紀州大水害]])、全線で浸水し路盤の崩壊が発生。また日高川の機関庫が流出、車両も[[国鉄B20形蒸気機関車|B2012]]が横転。当時2両いた気動車は床下浸水のためエンジンの修理をすることとなった。御坊-西御坊間が9月15日に再開<ref>藤井信夫「御坊臨港鉄道」『私鉄車両めぐり特輯 1』89頁</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)6月15日 - 大和紡績和歌山工場(美浜町吉原、のちのダイワボウプログレス和歌山工場)までの専用線 (0.85km) 開通。
* [[1967年]](昭和42年)[[8月30日]] - 市役所前駅新設<ref name="chizucho">今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』新潮社、2008年、p.40</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)[[1月1日]] - 御坊臨港鉄道から紀州鉄道に事業譲渡{{要出典|date=2018年9月}}。
* [[1979年]](昭和54年)8月10日 - 中学前駅跡近くに学門駅新設<ref name="chizucho" />。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[2月1日]] - 国鉄の貨物合理化に伴い貨物営業を廃止<ref name="shitetu_haisenato">寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII』JTBパブリッシング、2008年、p.103</ref>。
** [[6月26日]] - 大和紡績和歌山工場専用線廃止<ref name="shitetu_haisenato" />。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[4月1日]] - 西御坊駅 - 日高川駅間が廃止<ref name="shitetu_haisenato" />。[[ワンマン運転]]開始<ref name="shitetu_haisenato" />。
* [[2017年]](平成29年)
** [[1月22日]] - 御坊駅 - 学門駅間で[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#紀州鉄道脱線事故|脱線事故]]発生、怪我人はなかった<ref name="asahi2017123">{{Cite news | title = 紀州鉄道が脱線 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2017-01-23 | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 }}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20170202025223/http://www.asahi.com/articles/ASK1Q4PTGK1QPXLB009.html 紀州鉄道が脱線、けが人なし 「西日本一短い私鉄」] - 朝日新聞デジタル、2017年1月22日</ref>。以来運休<ref name="asahi2017222">{{Cite news | title = 紀州鉄道、あすから運転再開 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2017-02-22 | author = 金子和史 | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 和歌山全県版 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2018年1月25日 |url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2018-1-2.pdf |title=鉄道事故調査報告書(RA2018-1-2) |format=PDF |publisher=[[運輸安全委員会]] |accessdate=2018年9月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901100426/http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2018-1-2.pdf |archivedate=2018年9月1日 |deadlinkdate=}}</ref>。
** [[2月23日]] - 始発より運転再開<ref name="asahi2017222"/><ref>[http://wbs.co.jp/news/2017/02/23/96313.html 紀州鉄道が1か月ぶりに運転再開(写真付)] - WBS和歌山放送ニュース、2017年2月23日</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** 8月27日 - 西御坊駅を無人化<ref>{{Cite web|和書|title=西御坊駅の完全無人化の実施について|publisher=紀州鉄道|url=http://kishu-railway.com/news/2018/05/000009.html|date=2018-05-18|accessdate=2021-05-12|language=ja}}</ref>。
** 9月 - [[平成30年台風第21号|台風21号]]で全線運休となるも、御坊駅 - 紀伊御坊駅間は9月6日に運転再開。紀伊御坊駅 - 西御坊駅間は踏切故障により月末まで運休<ref>{{Cite web|和書|url=http://kishu-railway.com/news/2018/09/000016.html|title=【運行状況について】9月6日(木)|accessdate=2021-05-14|publisher=紀州鉄道|date=2018-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180913071145/http://kishu-railway.com/news/2018/09/000016.html|archivedate=2018-09-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://kishu-railway.com/news/2018/09/000017.html|title=【運行状況について】9月13日(木)|accessdate=2021-05-14|publisher=紀州鉄道|date=2018-09-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180913071124/http://kishu-railway.com/news/2018/09/000017.html|archivedate=2018-09-13}}</ref>。
== 運行形態 ==
2023年3月18日改正時点では、すべて御坊駅 - 西御坊駅間の運転で、1時間あたりの本数は日中時間帯でおおむね1本程度、朝夕の一部時間帯のみ2本の運転間隔で1日あたり18往復運転されており<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://kishu-railway.com/time/ |title=運賃表・時刻表|publisher=紀州鉄道|accessdate=2023年4月8日}}</ref>、主にJR紀勢本線の普通列車に接続するダイヤパターンとなっている。特急列車との接続はあまり考慮されていない。また最終列車が西御坊発19時51分、御坊発20時08分と早い。
[[2010年]]9月時点では26往復運行されており、同年[[10月1日]]のダイヤ改正で経費削減の観点から5往復が減便されたが<ref>[https://web.archive.org/web/20100920012010/http://www.asahi.com/travel/rail/news/OSK201009170142.html 紀州鉄道、10月から5往復減 開業以来初の大幅減便] (Internet Archive) - 朝日新聞、2010年9月18日</ref>、<!--利用者からクレームが続出したため、-->[[2011年]][[3月12日]]のダイヤ改正で以前の本数に戻っている。しかし、[[2012年]][[3月17日]]のダイヤ改正で再び3往復の減便となった。さらにその後減便され現在の運行体制となっている。
車庫が紀伊御坊駅にある関係で、朝と夜には紀伊御坊駅 - 西御坊駅間に回送列車が設定されている。かつては紀伊御坊発着の区間列車も少数設定されていた。
== 利用状況 ==
=== 輸送実績 ===
紀州鉄道線の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
! colspan="8"|年度別輸送実績
|-
! rowspan="2"|年度
! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人/年度
! rowspan="2" style="width:5em"|輸送密度<br />人/1日
! rowspan="2" style="width:5em"|貨物<br />トン
! rowspan="2"|備考
|-
|style="width:5em"|通勤定期
|style="width:5em"|通学定期
|style="width:5em"|定期外
|style="width:5em"|合計
|-
! style="font-weight: normal;"|1965年(昭和40年)
|53.4
|←←←←
|34.5
|
|1,642
|42,612
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1970年(昭和45年)
|36.6
|←←←←
|28.7
|
|1,230
|32,627
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
| style="background-color: #ffcccc;"|9.8
| style="background-color: #ffcccc;"|7.6
| style="background-color: #ffcccc;"|16.5
| style="background-color: #ffcccc;"|'''33.9'''
| style="background-color: #ffcccc;"|552
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成{{0}}2年)
|7.6
|4.0
|12.6
|'''24.2'''
|526
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成{{0}}7年)
|6.2
| style="background-color: #ccffff;"|1.0
|12.1
|'''19.3'''
|414
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
| style="background-color: #ccffff;"|4.2
|1.6
|6.2
|'''12.0'''
|259
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|4.7
|1.5
|5.3
|'''11.5'''
|249
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|5.0
|1.4
|4.4
|'''10.8'''
|236
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|4.8
|1.8
|4.1
|'''10.7'''
|234
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|5.0
|1.3
|3.9
|'''10.2'''
| style="background-color: #ccffff;"|222
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|
|
|3.4
|'''9.0'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|
|
|3.5
|'''8.5'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
|
|
|3.5
|'''9.1'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|
|
|3.9
|'''10.0'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|
|
|5.1
|'''11.7'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|
|
|4.7
|'''11.3'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|
|
|4.7
|'''11.5'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|
|
|4.7
|'''11.0'''
|236
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|
|
|4.2
|'''11.2'''
|241
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|
|
|4.4
|'''10.5'''
|225
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|
|
|4.4
|'''10.5'''
|247
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|colspan="2"|6.5
|4.2
|'''10.7'''
|293
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年)
|colspan="2"|6.1
|4.2
|'''10.3'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年)
|colspan="2"|6.4
|4.6
|'''11.0'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年)
|colspan="2"|5.6
|4.3
|'''9.9'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年)
|colspan="2"|4.8
| style="background-color: #ccffff;"|3.0
| style="background-color: #ccffff;"|'''7.8'''
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2021年(令和3年)
|colspan="2"|5.0
|3.6
|'''8.6'''
|
|
|
|}
* 2016年以降の出典<ref>{{Cite web|和書|format=XLSX|url=https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/020300/r4_nenkan_index_d/fil/l2022.xlsx|title=和歌山県統計年鑑(令和4年度刊行) L 運輸・通信 11 鉄道輸送 A 私鉄(JR除く)|publisher=和歌山県|date=2023年3月30日|accessdate=2023年4月8日}}</ref>
=== 収入実績 ===
紀州鉄道線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
! colspan="9"|年度別営業成績
|-
! rowspan="2"|年 度
! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度
! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度
! rowspan="2"|総合計<br />千円/年度
|-
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|合 計
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
| style="background-color: #ffcccc;"|7,914
|←←←←
| style="background-color: #ffcccc;"|19,443
|''0''
| style="background-color: #ffcccc;"|'''27,537'''
| style="background-color: #ffcccc;"|975
| style="background-color: #ffcccc;"|'''28,332'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|5,019
| style="background-color: #ffcccc;"|1,682
|17,141
|''0''
|'''23,842'''
|129
|'''23,971'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|3,912
| style="background-color: #ccffff;"|421
|16,078
|''0''
|'''20,411'''
|326
|'''20,737'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
| style="background-color: #ccffff;"|2,919
|733
|8,936
|''0''
|'''12,588'''
|171
|'''12,759'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|3,309
|637
|7,627
|''0''
|'''11,573'''
|128
|'''11,701'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|3,462
|674
|6,407
|''0''
|'''10,543'''
|231
|'''10,774'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|3,342
|826
|5,910
|''0''
|'''10,078'''
|99
|'''10,177'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|3,390
|630
| style="background-color: #ccffff;"|5,626
|''0''
| style="background-color: #ccffff;"|'''9,646'''
| style="background-color: #ccffff;"|79
| style="background-color: #ccffff;"|'''9,725'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|
|
|
|
|
|
|
|}
鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋
=== 戦前の輸送収支実績 ===
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
! colspan="10"|年度別実績
|-
!年度
!輸送人員(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!営業益金(円)
!その他益金(円)
!その他損金(円)
!支払利子(円)
!政府補助金(円)
|-
|1931|| colspan="2"|報告書未着||7,910||6,057||1,853||||||3,401||
|-
|1932||193,602||622||14,219||11,200||3,019||||||7,196||
|-
|1933||245,880||1,758||17,399||10,756||6,643||||||7,839||
|-
|1934||275,874||3,453||20,716||13,969||6,747||||||7,292||
|-
|1935||285,477||4,290||23,212||16,263||6,949||債務免除金8,628||償却金1,035||4,635||
|-
|1936||298,443||4,876||24,859||19,746||5,113||債務免除1,866||||4,202||
|-
|1937||324,968||5,843||46,207||23,199||23,008||運送業2,596||償却金6,039雑損18,913||3,511||1,971
|-
|1945||702,210||5,496||||||||||||||
|-
|}
*鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
== 車両 ==
=== 現有車両 ===
; キテツ1形
: [[1985年]](昭和60年)富士重工業(現・[[SUBARU]])製の軽快[[気動車]]である。[[北条鉄道]]から大型車導入で余剰となった[[北条鉄道フラワ1985形気動車|フラワ1985形]]フラワ1985-1・フラワ1985-2を譲り受けたもの。車体の形式表記はそれぞれ「キテツ-1」「キテツ-2」となっている。キテツ1号は[[2000年]](平成12年)7月10日、キテツ2号は[[2009年]](平成21年)10月30日から運用を開始した。
: 富士重工業が[[日本のバス車両|バス車体]]をベースとして開発した[[二軸車 (鉄道)|二軸]]([[車軸懸架|固定車軸]]では無い[[一軸台車]])の[[レールバス]]「[[LE-Car]]」で、鉄道車両用の[[台枠]]に富士重工R15系バスをベースにした車体を持ち、正面スタイルも15型Eボディと同一。機関も[[UDトラックス|日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)]]製のバス用[[日産ディーゼル・P系エンジン|PE6H]] (180PS) を搭載する。車内はオール[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]。当初から冷房付きのため、紀州鉄道初の冷房車となり、旅客サービスの改善に貢献した。
: キテツ1号は紀州鉄道初の[[ラッピング車両]]として御坊市内の[[パチンコ]]店の[[ラッピング広告]]が施されていたが、2009年(平成21年)7月ごろからラッピングが剥がされ、原型に近い塗装に戻された。キテツ2号については塗装変更された以外はほとんど改造されなかった。いずれも[[スノープラウ]]を取り付けたままとなっている。
: [[2015年]](平成27年)の時点でキテツ1号は老朽化し、高額な検査を受けずに休車していたため、代替車両として後述の[[信楽高原鐵道]][[信楽高原鐵道SKR300形気動車|SKR300形]]SKR301号車の導入に至った<ref name="webhikadaka151002">[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2015/10/post-4128.html 紀州鉄道が新気動車導入へ] 日高新報 Web Hidaka 2015年10月2日掲載</ref>。その後、キテツ1号は[[2017年]]3月に[[有田川町鉄道公園]]に無償譲渡された<ref>紀州新聞、2017年3月18日11面</ref><ref>[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2017/03/post-6715.html 紀州鉄道のキテツ 有田川鉄道公園へ] - 日高新報 Web Hidaka、2017年3月16日</ref>。
:日本国内最後の営業用二軸レールバスとなったキテツ2号は、2016年1月に元信楽高原鐵道SKR301号車のKR301の運行が始まるとほとんど走ることはなくなり<ref name="sankei20170505">[https://www.sankei.com/article/20170505-6B5DSWZDUVM5VAFU743CIBXUBI/ 国内最後のレールバス「キテツ2号」が引退 和歌山・紀伊御坊駅でセレモニー] - 産経WEST、2017年5月5日</ref>、2017年4月に後述の信楽高原鐵道[[信楽高原鐵道SKR200形気動車|SKR200形]]SKR205号車を導入したことに伴い<ref name="yomiuri20170505">[http://www.yomiuri.co.jp/local/wakayama/news/20170504-OYTNT50061.html さよなら レールバス] - 読売新聞、2017年5月5日</ref>、2017年5月4日に紀伊御坊駅でさよならイベントが行われ、無料試乗会として同駅構内で最後の運転を行った<ref group="広報">[http://www.kitetsu.co.jp/cafe/html/art/00049.html キテツ2号さよならイベント終了。] - 紀州鉄道ブログ、2017年5月4日</ref><ref name="sankei20170505" /><ref name="yomiuri20170505" /><ref>[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2017/05/post-6898.html 紀州鉄道のキテツ2号がラストラン] - 日高新報 Web Hidaka、2017年5月7日</ref><ref name="asahi2017514">{{Cite news | title = こちら移動支局 御坊かいわい さよならキテツ2号 国内最後のレールバス | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2017-05-14 | author = 金居達朗 | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 和歌山全県版 }}</ref>。しかし、2021年現在でもキテツ2は休車扱いで車籍が存在する<ref name="yomiuri202104021">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/wakayama/news/20210401-OYTNT50029/|title=レトロな赤に塗り替え 紀州鉄道が車両1台一新|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021年4月1日|accessdate=2021-08-12}}</ref>。
<gallery style="margin-left:3em;">
Kishu Railway Kitetsu 1.jpg|キテツ1号(ラッピング時)
Kishu Railway Kitetsu-1.jpg|キテツ1号
Kishu Railway-Kitetsu-2.jpg|キテツ2号
KITETSU02.JPG|キテツ2号の車内
</gallery>
; KR301
: 元[[信楽高原鐵道]][[信楽高原鐵道SKR300形気動車|SKR300形]]SKR301号車<ref name="sankei160218">[https://www.sankei.com/article/20160218-BK7ZLOZ3EJORBA4AE7T7RCBWBQ/ 姿変え、紀州快走 信楽鉄道の引退車両 滋賀] 産経ニュース 2016年2月18日掲載</ref>。休車していたキテツ1号の代替車両の導入が模索されていたが<ref name="webhikadaka151002" />、老朽化により[[信楽高原鐵道SKR400形気動車|SKR400形]]に置き換えられ、2015年10月3日をもって営業運転を終了した同車を無償で譲受した<ref name="sankei160218" /><ref>『Rail Magazine』2015年12月号(No.387) 株式会社ネコ・パブリッシング発行 60頁</ref>。
:<!---出典の記事には具体的な駅名は書かれていないので、記述しないこと--->同年10月19日夜にトレーラーに載せられて[[滋賀県]]を出発し、翌20日朝に御坊に到着した<ref name="hidakashimpo20151021">[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2015/10/post-4343.html 紀州鉄道に気動車到着] 日高新報 Web Hidaka 2015年10月21日掲載</ref>。その後整備が行われ<ref name="webhidaka160120">[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2016/01/post-5127.html 31日 紀州鉄道で新気動車デビュー] 日高新報 Web Hidaka 2016年1月20日掲載</ref>、[[2016年]](平成28年)1月31日に営業運転を開始した<ref name="asahi2016131">{{Cite news | title = 滋賀・信楽高原を引退“移籍” 紀州鉄道にきょう新車両 | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2016-01-31 | author = 宋潤敏 | publisher = 朝日新聞社 | page = 朝刊 和歌山全県版 }}</ref><ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2016/02/kr301.html 【紀州鉄道】KR301形 運行開始] RMニュース 鉄道ホビダス</ref>。なお、同日付で編入登録されている<ref name="pic1610z">『鉄道ピクトリアル』2016年10月臨時増刊号(通巻No.923 「鉄道車両年鑑2016年版」) 株式会社電気者研究会発行 226頁</ref>。
: 導入にあたり、車体に描かれていた「信楽焼のタヌキ」は御坊市観光協会提供の「[[藤原宮子|宮子姫]]」のイラスト<ref name="webhidaka160120"/>に変更されたが<ref name="sankei160218" />、白地に緑のラインのデザインはそのまま残された<ref name="sankei160218" />。
: 2019年10月からの全般検査でキハ603を彷彿とさせる緑とクリームのツートンカラーに塗装変更され、2020年1月3日から運行している<ref group="広報">[http://kitetsurinko.blog.fc2.com/blog-entry-98.html KR301塗装変更] - 紀州鉄道ブログ、2020年1月3日</ref>。
<gallery style="margin-left:3em;">
Kitetsu-kr301-2016-12-18.jpg|旧塗装時代のKR301
</gallery>
; KR205<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK2B3TVWK2BPXLB009.html 和歌山)紀州鉄道に新車両 運行再開は未定] - 朝日新聞デジタル、2017年2月11日</ref>
: 元[[信楽高原鐵道]][[信楽高原鐵道SKR200形気動車|SKR200形]]SKR205号車。信楽高原鐵道での新車導入に伴い、SKR301号車同様無償で譲受した。[[2017年]](平成29年)2月9日に搬入され<ref name="webhidaka20170210">[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2017/02/post-6594.html 紀州鉄道に2台目の気動車到着] 日高新報 Web Hidaka 2017年2月10日掲載</ref>、同年4月15日に営業運転を開始した<ref>[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2017/04/post-6833.html 紀州鉄道の新車両がデビュー] - 日高新報 Web Hidaka、2017年4月16日</ref>。車体のイラストは宮子姫と、[[第70回国民体育大会|わかやま国体]]のマスコット「きいちゃん」になった<ref>[http://www.hidakashimpo.co.jp/news/2017/04/post-6824.html 紀州鉄道 15日にKR205号がデビュー] - 日高新報 Web Hidaka、2017年4月14日</ref>。
: 2021年3月31日から、赤とクリームのツートンカラーに塗り替えて運行している<ref name="yomiuri202104021" />。
<gallery style="margin-left:3em;">
Kishu Railway KR205 2021.jpg|KR205
Kishu Railway KR205 at Gobo Station 02.jpg|旧塗装時代のKR205
</gallery>
=== 過去の車両 ===
; キハ1形(キハ1, 2)
: ガソリンカー。御坊臨港鉄道の開業に先だって、東京の松井工作所(松井車輌とも称する。個人経営工場のため名称不統一な記載が多い)で製造された木造(外板鋼板張り)4輪両運転台車。車両の新製に際しては御坊臨港側の書類手続きの不備が多く、監督官庁から多々叱責を受けた。
: 製造は[[1929年]]3月であったが、用地買収難航による開業の大幅遅れで、東京の工場から発送できず、ようやく御坊まで[[回送]]したが、なお就役できないまま、実に2年以上も待機させられた。当時はガソリンカーの技術発展が急速な時期で、この間にガソリンカーでも半鋼製車体が当たり前となり、木造車体は時代遅れになっていた。後からガソリンカー導入を試みた[[有田鉄道]]の方が先にガソリンカー運行を開始し([[1930年]])、御坊臨港の乗務員も有田鉄道でガソリンカー運転の講習を受けることになった。
: ガソリンカーで貨車も牽引をすることを考えていたが、キハ1は日高川側、キハ2は御坊側に外付けの荷台を装備しており、この荷台が[[連結器]]を完全に妨害していた。このためキハ1は御坊行き、キハ2は日高川行きの時のみにしか貨車を牽引できない。
: 木造車のため開業から数年で老朽化が進行していた。[[1939年]]10月にキハニ101を製造するにあたり、書類上の改造種車はキハ1であるとして届け出がされたが、実際にはキハ2が改造種車となった。残ったキハ1は、書類名目上「キハ2」としてそのままとどまり、[[太平洋戦争]]中にキハ102と改番した。[[木炭自動車|木炭代燃化]]改造もされたが後に客車代用となり、[[空襲]]被災で損傷、戦後廃車された。
; キハニ101形(キハニ101)
: 木造車が老朽化したが[[戦時体制]]による気動車製造禁止で、代替となる新車を製造できないことから、木造車の改造名義で製作された半鋼製車体の[[二軸車 (鉄道)|4輪]]ガソリンカー。1939年10月加藤車輌製作所製。書類上はキハ1が種車だが、実際にはキハ2の車軸、エンジンなどを流用・強化して、片荷台付の軽快な半鋼製車体を新製した。連結器に支障をきたす荷台の欠陥は解消されている。キハ2(→102)と同様な経緯を辿って戦後廃車された。
; キハ103形(キハ103)
: [[ファイル:Kishu_Railway_Kiha_103.jpg|thumb|250px|right|待合室となったキハ103]]
: 沿線軍需工場の工員輸送増強を目的に、戦時中の[[1942年]][[6月2日]]認可で鉄道省から払い下げを受けた、御坊臨港初のボギー式ガソリンカー。[[1943年]]8月に入線した。元は1931年[[日本車輌製造|日本車輌]]本店製の半鋼製ボギー車である[[富山地方鉄道不二越線|富山鉄道]]ジハ3である。[[1933年]]の富山鉄道部分廃止・富南鉄道への路線譲渡で余剰となり、[[新宮鉄道]]に売却されて同社のキハ205となったが、翌[[1934年]]には新宮鉄道の国鉄買収(紀勢中線)で鉄道省キハ40304になったという流転ぶりで、この間、新宮鉄道入線時から、[[1940年]]に紀勢中線が紀勢西線に連絡して孤立が解消するまでは[[連結器#ねじ式連結器|ねじ式連結器]]を付けていたこともある。
: 戦後の更新時に車端に荷台を取り付けたが、その際に車体への[[鉄道の車両番号|番号表記]]を「103」ではなく「108」と書いてしまい、その後も訂正されないままに放置されていた。後にエンジンを降ろされ、客車代用となった。
: [[1970年]]の廃車後は[[市役所前駅 (和歌山県)|市役所前駅]]の[[待合室]]として使用されていたが、すでに撤去されており、存在しない。
; キハ41000形(キハ40801)
: 元は[[芸備線|JR芸備線]]の前身である芸備鉄道が[[1936年]]10月に日本車輌本店で製造した最後の増備車キハニ19。[[国鉄キハ04形気動車|国鉄キハ41000形]]と類似クラスの戦前としては大形の気動車で、エンジンも国鉄式のGMF13形であった。車体の一端に[[荷物車|荷物室]]を備えるほか、車体両端に柵で囲われた車外荷台を備える。[[1937年]]の芸備鉄道国有化で鉄道省キハニ40801となったが、1943年に廃車された。
: [[1947年]]に御坊臨港鉄道に払い下げられ、当初無動力の客車として使用した。その後燃料事情の改善に伴ってディーゼルエンジンを搭載され、気動車として復活した。「国鉄41000形」ではなかった車両で、車内の荷物室も戦後撤去されて「キハ」になっていたが、御坊臨港では「形式は41000形で実車表記はキハ'''ニ'''40801」という付番をされていた。1976年のキハ603・604入線により休車となり、[[1981年]]に廃車された。
; キハ41000形(キハ308)
: [[1951年]]3月に国鉄から払い下げを受けたキハ41000形41055(1934年川崎車輌製、[[1950年]]国鉄廃車)。入線に当たって富士車輌で整備され、ディーゼルカーへの改造を受けている。[[1953年]]の[[紀州大水害]]でも生き残り、長く主力車であったが、1970年以降は休車となり、[[1979年]]に廃車となった。
; キハ41000形(キハ202)
: 元は1933年田中車輌製の国鉄キハ41000形41328で、後にキハ0429に改番された。[[1961年]]に[[一畑電気鉄道]][[一畑電気鉄道立久恵線|立久恵線]]に移ってキハ5となった。[[1965年]]に同線が廃止され、有田鉄道に移ってキハ202となっていたものを1970年代に購入した。
; キハ41000形(キハ16)
: 1970年に、前年廃線となった[[江若鉄道]]から譲受した。元は国鉄キハ41000形41044(1933年日本車輌製)で、[[1949年]]の廃車後に江若鉄道払い下げ。江若ではC14形キハ16となり、ディーゼルカー化されて使われていた。
: 御坊臨港入線時にも形式こそ41000形に改めたが車名表記の変更はなかった。入線後も大きな改造はなく、大分交通車2両の入線で予備車化、[[1984年]]に廃車となった。
; キハ1000形(キハ605)
: [[ファイル:Kitetsu-DC605.jpg|thumb|200px|right|キハ605]]
: 書類上は[[1952年]]宇都宮車輌(後の[[富士重工業]])製。[[常磐興産|常磐炭礦]]キハ21として1951年に専用線での炭鉱職員輸送用に製造された、全長11.5 m・[[定員]]80名(岡山臨港譲渡後82名に増加)・オールロングシートの半鋼製小型車。戦前の[[国鉄キハ40000形気動車]]に類似するが、宇都宮車輌の同時期の製品に見られる張り上げ屋根を備える。製造許可を取るために木炭ガス気動車として申請されたが、実際には日野DA55形ディーゼルエンジンを搭載し、ヤミ物資の[[軽油]]で走る普通の機械式ディーゼルカーとして完成された。しかし常磐炭礦に気動車を運転できる運転士がいなかったため、1951年3月に納入されてから翌1952年1月まで運行できずに放置されていたが、1950年代後半頃まで職員輸送に使われた。
: その後、[[1959年]]に[[汽車製造|汽車会社]]東京支店で改装工事を受けて[[岡山臨港鉄道]]に譲渡されキハ1003となる。低かったステップを切り上げ、[[前照灯]]や逆転機の変更、車内の[[蛍光灯]]化改造などが行われたが、岡山臨港ではより大型の車両が主力で、キハ1003は小型のためもっぱら予備車であった。なお岡山臨港在籍時に、原因不明だが書類上の製造年が1年遅い1952年になっている。
: 紀州鉄道では岡山臨港鉄道の廃線に伴い、キハ16に代わる予備車として1984年10月に譲受した。1987年二前面の中央を1枚窓化、キハ603などと合わせた塗装への変更、側面の乗降扉の交換<ref group=注釈>引き戸であったが、折り戸に改造し自動化</ref>などの改造が行われた。だが、入線後の[[試運転]]で振動がかなり大きいことが判明し、長く紀伊御坊駅構内側線(2008年現在キハ604が置かれている場所)に放置されていた。すでに元・大分交通車の2両で予備車まで賄える運用状態であったため、キハ605は一度も一般営業で運転されなかった。
: [[2000年]]1月に廃車され、[http://furutetu.web.fc2.com/ ふるさと鉄道保存協会]に譲渡されて、有田鉄道[[金屋口駅]]構内に保存場所を求めた。当車を有田鉄道が購入したとするのは誤りである。同駅跡を整備した[[有田川町鉄道公園]]での保管を経て[[高岡市]]の[[伏木駅|伏木ヤード]]に移動し修復作業が行われた。現在では[[羽島市]]の施設で保存されている。
; キハ600形(キハ603, 604)
: [[1960年]][[新潟鐵工所]]製。元大分交通[[大分交通耶馬渓線|耶馬渓線]]の車両<ref>604は大分交通時代、当初の[[大分交通国東線|国東線]]の廃止に伴い、耶馬溪線に移っている。</ref>で、同線が廃止された[[1975年]]に同社から譲り受けた。正面2枚窓・両運転台の18 m級車体だが、側窓がいわゆる[[バス窓]]でその下に補強帯([[ウィンドウ・シル/ヘッダー|ウインドウシル]])を残すこと、[[DMH17系エンジン|DMH17Bエンジン]](160 PS)搭載、小断面車体など、[[国鉄キハ10系気動車]]の影響が強く見られ、近年では珍しくなった古典的気動車として[[鉄道ファン]]から人気を集めていた。
: [[ファイル:Kishu Railway Kiha 600 001.JPG|thumb|250px|right|キハ600形 (603)]]
: [[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式|液体式]]変速機を搭載するが、新造当初から[[総括制御]]が不可能な仕様で、紀州鉄道転入後もそのままであった。座席はボックスシートと、車端部のロングシートとの[[鉄道車両の座席#セミクロスシート|セミクロスシート]]。床は油引きの板張り、室内灯は[[白熱電球|白熱灯]]、エンジンの[[排気ガス]]は屋上ではなく床下で排気するなど、随所に古典的な構造を残す。また、現在の気動車とは異なり、右手で[[マスター・コントローラー|マスコン]]、左手で[[ブレーキ]]を操作する。形式・車番から塗色や車番、接客設備に至るまで大分交通時代の内容をそのまま踏襲しているが、前面窓は譲受の十数年後に[[Hゴム]]固定から[[サッシ|アルミサッシ]]化され、天地寸法が小さくなるとともに四隅にあった丸みがなくなり、また前照灯が[[尾灯]]の位置に増設されたため、印象が変わっている。また、駆動軸を持つ[[鉄道車両の台車|ボギー台車]]は、粘着力を稼ぐ目的で、台車の中心が駆動軸側にオフセットした偏心台車と呼ばれる珍しいものである。
: かつては2両とも運行に使われていたが、冷房がなく車齢が高いことからキテツ1形導入後は主力の地位を退き、キハ603のみが主に金曜日から日曜日および祝日に運行していた。キハ604はキハ603の[[部品取り|部品確保]]用で、扱い上は予備車だが燃料[[噴射ポンプ]]などの主要部品が取り外されているため運行に入ることはできず、キハ603が定期検査中にキテツ1に車両故障が発生した際も運行されることはなかった(この場合は列車の運行自体を中止する)。キハ604については2010年12月に解体された。
: 製造から50年近く経ち老朽化{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2017年6月|晩年はドアエンジンの老朽化により、ドアが閉まるスピードが相当遅く、閉まり切る前に出発することもしばしばあり、安全上に問題があった}}。}}が進んでおり、上述のキテツ2を導入したため、キハ603は2009年[[10月25日]]に定期運行を終了した。定期運行最終日には、前面に地元有志が製作した特製[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]が装着された<ref>[http://railf.jp/news/2009/10/26/185700.html 紀州鉄道 キハ603が定期運用を離脱] - 鉄道ファン・railf.jp、2009年10月26日</ref>。
: [[ファイル:Kishu Railway Kiha 600 (2018).jpg|thumb|「ほんまち広場603」に保存されているキハ603]]
: 定期運行終了後の2009年[[11月29日]]、御坊[[商工会議所]]主催の商工祭の一環としてキハ603の[[さよなら運転]]が行われた<ref>[http://railf.jp/news/2009/11/30/115600.html 紀州鉄道キハ603、さよなら運転を実施] - 鉄道ファン・railf.jp、2009年11月30日</ref>。その後、キハ603については、営業運転復活を視野に車籍は抹消せず休車扱いとしていたが、2012年6月1日付をもって除籍された。なお、2011年ごろにイベントのために西御坊寄りの前面を譲渡直後に近い姿に復元する工事をうけ、前後で顔の印象が違うようになった。
: 除籍後は紀伊御坊駅の[[停車場#側線|側線]]に保管され、解体の話も出ていたが、御坊市の本町商店街振興組合が譲り受け、2017年11月に紀伊御坊駅にほど近い本町商店街にある空き地にレールを敷き移設された<ref>紀州新聞、2017年1月15日1面</ref><ref>日高新報、2017年11月7日1面</ref><ref>紀州新聞、2017年12月1日1面</ref>。キハ603にはたこ焼き屋と軽食屋が入居し、車両が置かれた広場は「キハ603広場(仮称)」として2017年12月16日にオープンした<ref>{{Cite news |title=御坊の本町商店街にキハ広場オープン |newspaper=日高新報 |date=2017-12-17 |url=http://www.hidakashimpo.co.jp/news1/2017/12/post-7727.html |accessdate=2018-08-09}}</ref>。2018年1月、広場の名称は公募により「ほんまち広場603」に決まった<ref>紀州新聞、2018年1月12日</ref><ref>日高新報、2018年1月12日</ref>。なお、2022年12月現在、飲食店は閉店し、設計事務所が入居している<ref>{{Cite news |title=御坊のキハ603に設計事務所オープン |newspaper=日高新報 |date=2022-12-02 |url=https://hidakashimpo.co.jp/?p=85046}}</ref>。
<gallery style="margin-left:3em;">
Kishu Railway Kiha 600 011.JPG|運転台 (603)
Builder's plate of Niigata tekko 001.JPG|新潟鉄工の製造銘板 (603)
Kishu Railway Kiha 600 012.JPG|室内 (603)
Kishu Railway Kiha 600 027.JPG|ボギーセンターが偏った動力台車 (603)
Kitetsu600.jpg|休車状態の604(2003年3月31日撮影)
Kitetu-2 & Kiha600.JPG|キテツ2とキハ603([[紀伊御坊駅]])
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|-
!年
!増加
!減少
|-
|1942||キハ103→108||
|-
|1947||キハ40801||
|-
|1951||キハ308||
|-
|1970||キハ16||キハ108
|-
|1974||キハ202||
|-
|1976||キハ603、キハ604||
|-
|1977||||キハ202
|-
|1979||||キハ308
|-
|1984||||キハ40801、キハ16
|-
|1985||キハ605||
|-
|2000||キテツ1||キハ605
|-
|2009||キテツ2||
|-
|2015||KR301||
|-
|2017||KR205||キテツ1
|-
|}
* 判明分のみ
<!-- ほかにも古い車両がいくつかあったようです。ご存じの方は加筆ください。 -->
== 駅一覧 ==
* 全駅[[和歌山県]][[御坊市]]に所在。
* 全区間単線。全駅[[列車交換]]は不可能。
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|-
!style="width: 6em;"|駅名
!style="width: 2.5em;"|駅間キロ
!style="width: 2.5em;"|営業キロ
!接続路線
|-
|[[御坊駅]]
|style="text-align: right;"|-
|style="text-align: right;"|0.0
|[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|W}} [[紀勢本線|紀勢本線(きのくに線)]]
|-
|[[学門駅]]
|style="text-align: right;"|1.5
|style="text-align: right;"|1.5
|
|-
|[[紀伊御坊駅]]
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|style="text-align: right;"|1.8
|
|-
|[[市役所前駅 (和歌山県)|市役所前駅]]
|style="text-align: right;"|0.6
|style="text-align: right;"|2.4
|
|-
|[[西御坊駅]]
|style="text-align: right;"|0.3
|style="text-align: right;"|2.7
|
|}
=== 廃止駅 ===
* 財部駅(たからえき、御坊駅 - 中学前駅間) - 1941年12月8日廃止
* 中学前駅<ref group="注釈" name="chugaumae" />(財部駅 - 紀伊御坊駅間) - 1941年12月8日廃止、1979年8月10日から同駅跡地付近に[[学門駅]]が開業
=== 廃止区間 ===
[[ファイル:Kishu Railway 001.JPG|thumb|200px|right|西御坊 - 日高川間(2008年4月)]]
西御坊駅 - 日出紡績前駅 - [[日高川駅]]
* 日出紡績前駅{{Refnest|駅名は日出「紡績」前<ref>[{{NDLDC|1207554/229}} 鉄道省『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>}}はこの区間の廃止前に廃止。駅名の「日出紡績」とは[[ダイワボウホールディングス|大和紡績]]の前身の[[日出紡織]]<ref>[{{NDLDC|1077368/568}} 『日本全国諸会社役員録. 第41回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>のこと。
* [[踏切]]跡など、一部撤去されたり埋められている場所はあるが[[線路 (鉄道)|線路]]([[軌条|レール]])がほぼそのまま残されている。これは、将来的に日高川河口の港湾整備が進んだ場合の復活を考慮しているためと説明されている。ただし放置状態なので線路の状態は悪く、また途中にあった橋梁も撤去されている。
西御坊駅 - (大和紡績和歌山工場)
* 貨物の[[専用鉄道|専用線]]で、この軌道跡も半分ほどの部分に線路(レール)が残っている。また、ダイワボウプログレス和歌山工場の正門横には、この専用線が通っていたゲートの跡が確認できる。
== 沿線 ==
* [[熊野古道]]
* [[和歌山県立日高高等学校・附属中学校]]
* [[御坊市|御坊市役所]]
== 運賃 ==
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2004年12月1日現在。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!キロ程!!運賃(円)
|-
|0.1 - 1.0km||120
|-
|1.1 - 2.0||150
|-
|2.1 - 2.7||180
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
==== 官報 ====
{{Reflist|group="官報"}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
== 参考文献 ==
* 今城光英「紀州鉄道の誕生」『鉄道ピクトリアル』No.284
* [[岡田誠一 (鉄道研究家)|岡田誠一]]「キハ41000とその一族(下)」ネコパブリッシング、1999年、31頁
* 紀州鉄道社史編さん委員会「紀州鉄道50年のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』No.355
* 武知京三『日本の地方鉄道網形成史』柏書房、1990年、238-263頁
* 寺田裕一『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』 JTB、2002年、92-93、177頁
* 湯口徹『丹波の煙 伊勢の経 (上)』プレスアイゼンバーン、2000年
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Kishu Railway}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Official website|kishu-railway.com/}}
* {{Twitter|kishu_railway|【公式】紀州鉄道株式会社}}
{{デフォルトソート:きしゆうてつとうせん}}
[[Category:紀州鉄道|路きしゆうてつとうせん]]
[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:部分廃止路線]]
[[Category:和歌山県の交通]]
[[Category:土木学会選奨土木遺産]]
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18,458 |
縦組み
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縦組み(たてぐみ)とは、日本語組版で、文字の中心を縦方向に並べ揃えて版面を構成すること。手書きの場合は縦書きという。
和文書体の活字は各文字が基本的に正方形であり、同じ活字で縦組と横組を使い分けることができる。縦横両用の書体は表現力に限界があり、縦組と横組それぞれに特化して設計されたものもある。
同じ活字を縦組と横組で使い分けることは、日本語の特徴のひとつで、同様の処理が必要になる言語は中国語など主に漢字を使うものに限られる。
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縦組み(たてぐみ)とは、日本語組版で、文字の中心を縦方向に並べ揃えて版面を構成すること。手書きの場合は縦書きという。 和文書体の活字は各文字が基本的に正方形であり、同じ活字で縦組と横組を使い分けることができる。縦横両用の書体は表現力に限界があり、縦組と横組それぞれに特化して設計されたものもある。 同じ活字を縦組と横組で使い分けることは、日本語の特徴のひとつで、同様の処理が必要になる言語は中国語など主に漢字を使うものに限られる。
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== 関連項目 ==
* [[横組み]]
* [[編集]]
* [[組版]] - [[写植]] - [[DTP]]
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18,459 |
キャプテンシステム
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キャプテンシステム(CAPTAIN System、Character And Pattern Telephone Access Information Network System)は、日本のビデオテックスサービス。
1970年代後期から将来に向けて計画され、1984年11月に日本電信電話公社がサービスを開始。その後、日本電信電話(NTT)、NTT分割後はNTTコミュニケーションズが、電気通信役務として提供していた。当初は将来性を期待されていたものの、インターネットの普及に伴い縮小を余儀なくされ、2002年3月にサービス終了。なお、サービス的には類似したフランスのビデオテックスサービスであるミニテルも、2012年に終了している。
ロゴは、「P」の部分が「?」、「I」が「!」とし「CA?TA!N」と読める様にデザインされていた。
電電公社は、第五次5ヵ年計画により、一般加入電話の積滞解消と全国自動即時化という2大目標達成後、1978年から始まる第六次5ヵ年計画で今後高度化、多様化が予想された画像通信、ディジタル通信ネットワーク等に関する高度情報化に向けた取組みを始めた。この一連の取組みによるシステムは、ニューメディアという言葉で紹介された。武蔵野市に武蔵野電気通信研究所(現 NTT武蔵野研究開発センタ)が設置されていたこともあり、1984年には、武蔵野・三鷹地区でINSモデルシステムの実験が開始された。衛星放送、高速ディジタル伝送サービスといった高度伝送サービス、ファクシミリ通信網やVRS(ビデオレスポンスシステム、オンデマンドビデオシステムのこと)などの画像システムが実用化された。 キャプテンシステムもこれら一連のニューメディアサービスのひとつとして、1984年に当時の電電公社(現在のNTTグループ各社)が、大都市圏を中心にサービスを開始した。
当時は日本国外でもニューメディアサービスの開発が盛んに行われており、ビデオテックスについては北米地域ではNAPLPS、フランスではミニテルが実用化されていた。なおCAPTAIN Systemは、NAPLPSの仕様を参考にして作られている。
テレビをモニターとしたテレビアダプター型端末(キャプメイト)をアナログ電話回線を利用して情報センターに接続することで、センターに蓄積された文字・画像情報の提供を行った。接続時にセンター番号入力することにより、センター番号で指定された情報センターに接続していた。日本電信電話公社が用意した情報センターは、センター番号「36100」でキャプテン情報センター(全国キャプテン)という。まずビデオテックス接続の特番である166をダイヤルし、プププという発信音を確認して、センター番号を入力すると情報センターに接続される。情報センター接続後に表示されるページ間の移動は、画面上に表示されている数字と#(例: 01#)を入力、もしくは*と数桁の数字を入力し移動する仕様になっていた。
各地に第三セクターの情報提供会社が設立され、郷土情報、生活情報の提供を行った。自治体、日本国有鉄道(「ホットポット」)などの公共機関や、近畿日本鉄道の「テレメイト」などの企業も情報提供ページを設置していた。情報提供内容としては、ネットショッピングや座席予約、BBSや、オホーツクに消ゆ、ポートピア連続殺人事件等のゲーム試遊といったサービスも提供されていた。これらの情報提供者を、インフォメーションプロバイダ (ISP) と読んでいた。
画面の解像度は横248ドット×縦204ドットで、上部の12ドットはヘッダ情報の表示領域で固定となる。本文表示領域は標準文字であれば15文字×8行、小型文字は21文字×16行が表示可能。グラフィックは4×4ドット単位で16色中の2色が指定可能。
キャプテンシステムの利用は、一般電話回線を利用したため個人の自宅の電話回線からビデオテックス通信網にアクセスすることも可能だった。
サービスを利用するためには専用端末機器の購入が必要である。通信料(ビデオテックス網への接続料)は時間課金による従量制で、距離区分はなく全国均一で3分30円、夜間、土・日・祝日は5分30円だった。なお、この約款は2008年4月1日に廃止されている。
また、情報発信を行う場合は、下記の形式があった。
サービスの普及や建物の構内案内などを目的として、人が集まる屋内に公衆(キオスク)端末が設置され、その端末を利用する事もできた。
いずれの場合も、キャプテンシンタックスに従った画面(画像)データを作成するための端末、情報入力端末 (IT) または編集型簡易入力端末 (ET) が必要で、サービスの提供を行うための機器に要する費用が必要なため企業中心で、主にコスト面から個人で情報提供ページを設けることが困難であり、草の根的な情報発信はほとんど行われなかった。
しかしそんな状況の中でも、個人が情報発信・情報提供を試みた事例はある。小説家・パズル作家の雅孝司が第1号として6年間、菅直人が第2号として2年間ほど独自のページを運営していた。また普段はBBSを通じてコミュニケーションを取る仲間を作り、時に回線を通じないで直接に顔を合わせるオフラインミーティングなど、現在の「オフ会」につながる活動をしていたユーザーも少ないながら存在した。
なお、キャプテン情報センターのためキャプテンサービス株式会社が設立された。この会社は画面(画像)データの作成請負もその業務とし、情報入力端末を持たず画面作成をこの会社に依頼する事も多かった。また、画面作成代行を業務として請負うインフォメーションサービスプロバイダー (ISP) も多かった。なお、キャプテンサービスは1995年9月にNTTビジュアル通信株式会社に社名変更し、2010年12月31日で営業活動を終了した。
利用者は、NTTの電話料金のほかに3分30円の通信料金と、有料情報サービスの場合は情報料を支払う必要があり、長時間続けるとかなり値が張っていた。なお、公衆端末では原則的に無料である。また、接続料の他に、情報センター利用に際し情報料を必要とするサイトもあった。情報料の有無とその料金は情報提供者が情報ごとに設定した。NTTは情報料代行徴収するサービスを情報提供者に提供しており、通信料の徴収時に情報料を一緒に徴収し、情報提供者に徴収した情報料(代行徴収)を納めた。
また、サービス時間は24時間ではなく、キャプテン情報センタで提供していたオーダーエントリーサービスや情報料代行徴収サービスのデータやキャプテン情報センタに蓄積されている情報のバックアップのため、深夜1:00 - 早朝6:00の間はサービス休止された。
キャプテンシステムは、その後のパソコンの急速な普及とそれにともなう処理速度や伝送速度の向上、および文字と画像を扱うサービス(特にWWW)の利用が可能なインターネットの普及により、その役割を終えたと判断され、2002年にサービスを終了した。
キャプテンシステムは現在のパソコンや携帯電話などのインターネットの発展に大きな影響力を持つ発想を固めたシステムといっても良い。オーダーエントリサービスは、現在のインターネットショップとほぼ同じ事が可能である。情報料代行徴収は、携帯電話の情報料を携帯事業者がサービス提供者になりかわり徴収するサービスと同じ発想である。郵便貯金もキャプテンシステムを利用した振込みサービスを行っていたとともに、郵便貯金と情報提供者間での契約をする事によりオーダーエントリで購入した商品を郵貯口座から引き落とす事ができた。また、個人モニターに端末を貸し出した東京都三鷹市や公共端末を鉄道駅や市立施設などの市内公共施設に配置した多摩市、神奈川県厚木市、川崎市などの様に一応の成果が見られた事例もあった。厚木市の場合、ニューメディア事業の一環として第三セクターの運営会社を起ち上げていた。
当時「高度情報通信社会」と呼ばれていた時代は、インターネットによって20年以上遅れて実現した。
当時郵政省が推進していたテレトピア構想の影響もあり、全国各地にキャプテンシステムへの情報提供を行う運営会社(情報センタ)が設立された。
PTは電話回線を利用し、通信処理関門交換機を経由しビデオテックス通信網接続する。また、PTは166+センタ番号を入力することで接続する情報センタを指定する。加入交換機と中継交換機は、166を最初に受信する事でビデオテックス通信網への接続要求であると識別し通信処理関門交換機にセンタ番号を送出する。
ビデオテックス通信網の接続に電話回線を利用する事により、加入者端末とビデオテックス利用契約をするだけでキャプテンシステムを利用できる。
通信処理関門交換機は、複数の地域の中継交換機からの接続要求を処理する。また、通信処理関門交換機はファクシミリ通信網と共用されており、166で始まる番号はビデオテックス通信網に003501、003502で始まる番号はファクシミリ通信網に接続する。
ビデオテックス通信網は、東京2か所、大阪1か所に設置された。ビデオテックス通信網は、VICT、VCX、VCV、VGW等複数の装置から構成されている。これら複数の装置は、FSNという装置を用い二重化されたループ型光ファイバに接続される。これは、LANのリング型トポロジを先んじて取り入れている。
複数存在するビデオテックス通信網同士は中継回線で接続されており、ビデオテックス通信網VCXにて交換処理されるため、加入者端末やインフォメーションセンタ、ダイレクトインフォメーションセンタがどのビデオテックス通信網に接続されているか意識する必要は無い。
ビデオテックス通信網が複数存在する理由は、加入者増の際にビデオテックス通信網を追加設置し、既存ビデオテックス通信網間加える方式とする事で将来の設備拡張の容易性を確保するためである。
キャプテン情報センタは、NTTが用意した情報センタであり、画像情報を蓄積するためのディスクスペースを貸出していた。センタ番号は36100。また、ビデオテックス通信網にて情報提供している情報センタ案内も行っていた。
キャプテン情報センタのディスクスペースを利用する情報提供者は、情報入力端末を設置し回線を経由しキャプテン情報センタに転送する。
ダイレクトインフォメーションセンタは、自らコンピュータ装置を用意し「ビデオテックス通信網サービスのインタフェース(センタ編)」に記載されているプロトコルに従い、ゲートウエイを介してビデオテックス通信網に接続し情報提供を行う。センタ毎にセンタ番号を割振られている。
インフォメーションセンタも、自らコンピュータ装置を用意するが、ゲートウエイではなく、キャプテン情報センタに接続する。「キャプテンシステムサービスのインタフェース」に記載されているプロトコルに従い情報提供を行う。キャプテン情報センタと連携することで、情報提供のためのインフォメーションセンタ側の処理が軽減される。また、キャプテン情報センタが提供するオーダーエントリサービス、資金決済サービスを簡易に利用できた。
情報入力端末は、キャプテンシステムで使用する画像データを作成する装置。編集型入力端末は情報入力端末の簡易版である。
情報センタとして機能するコンピュータ上にビデオテックス通信網をエミュレートするソフトウエアを実装し、集合FAXモデム装置をコンピュータに接続するハードウエア構成にて、ビデオテックス通信網を介さず、一般加入者電話網のみを利用し、情報センタに接続する方式のセンタも存在した。このような、情報センタ方式をローカルキャプテンシステムと呼ぶ。加入者端末からの接続は、代表電話番号を端末に入力しセンタ接続を行った。またこの方式による情報センタは単にローカルキャプテンあるいはプライベートキャプテンと呼ばれることもあった。情報センタが所在する場所により、ローカルキャプテンという用語も使われていた。
キャプテンリサーチは、NTTビジュアル通信株式会社がキャプテンシステムを利用して実施していた市場調査サービスである。
市場調査を行いたい顧客企業から同社が調査委託を受けて実施するもので、新聞広告や電話営業などで調査対象者を募集し、キャプテンシステムを利用していない人には機器を無償で提供した。キャプテンリサーチのセンタ番号は「36166」で、接続料金は無料。
1991年4月に開始され、キャプテンシステムのサービスが終了するまで運用された。キャプテンシステムのサービス終了後は、同社のインターネット調査サービスであるダイナミックリサーチに受け継がれた。
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"text": "また、サービス時間は24時間ではなく、キャプテン情報センタで提供していたオーダーエントリーサービスや情報料代行徴収サービスのデータやキャプテン情報センタに蓄積されている情報のバックアップのため、深夜1:00 - 早朝6:00の間はサービス休止された。",
"title": "概要"
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"text": "キャプテンシステムは、その後のパソコンの急速な普及とそれにともなう処理速度や伝送速度の向上、および文字と画像を扱うサービス(特にWWW)の利用が可能なインターネットの普及により、その役割を終えたと判断され、2002年にサービスを終了した。",
"title": "概要"
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"text": "キャプテンシステムは現在のパソコンや携帯電話などのインターネットの発展に大きな影響力を持つ発想を固めたシステムといっても良い。オーダーエントリサービスは、現在のインターネットショップとほぼ同じ事が可能である。情報料代行徴収は、携帯電話の情報料を携帯事業者がサービス提供者になりかわり徴収するサービスと同じ発想である。郵便貯金もキャプテンシステムを利用した振込みサービスを行っていたとともに、郵便貯金と情報提供者間での契約をする事によりオーダーエントリで購入した商品を郵貯口座から引き落とす事ができた。また、個人モニターに端末を貸し出した東京都三鷹市や公共端末を鉄道駅や市立施設などの市内公共施設に配置した多摩市、神奈川県厚木市、川崎市などの様に一応の成果が見られた事例もあった。厚木市の場合、ニューメディア事業の一環として第三セクターの運営会社を起ち上げていた。",
"title": "概要"
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"text": "当時「高度情報通信社会」と呼ばれていた時代は、インターネットによって20年以上遅れて実現した。",
"title": "概要"
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"text": "当時郵政省が推進していたテレトピア構想の影響もあり、全国各地にキャプテンシステムへの情報提供を行う運営会社(情報センタ)が設立された。",
"title": "主なキャプテン情報センタ"
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"text": "PTは電話回線を利用し、通信処理関門交換機を経由しビデオテックス通信網接続する。また、PTは166+センタ番号を入力することで接続する情報センタを指定する。加入交換機と中継交換機は、166を最初に受信する事でビデオテックス通信網への接続要求であると識別し通信処理関門交換機にセンタ番号を送出する。",
"title": "システム構成"
},
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"text": "ビデオテックス通信網の接続に電話回線を利用する事により、加入者端末とビデオテックス利用契約をするだけでキャプテンシステムを利用できる。",
"title": "システム構成"
},
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"text": "通信処理関門交換機は、複数の地域の中継交換機からの接続要求を処理する。また、通信処理関門交換機はファクシミリ通信網と共用されており、166で始まる番号はビデオテックス通信網に003501、003502で始まる番号はファクシミリ通信網に接続する。",
"title": "システム構成"
},
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"text": "ビデオテックス通信網は、東京2か所、大阪1か所に設置された。ビデオテックス通信網は、VICT、VCX、VCV、VGW等複数の装置から構成されている。これら複数の装置は、FSNという装置を用い二重化されたループ型光ファイバに接続される。これは、LANのリング型トポロジを先んじて取り入れている。",
"title": "システム構成"
},
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"text": "複数存在するビデオテックス通信網同士は中継回線で接続されており、ビデオテックス通信網VCXにて交換処理されるため、加入者端末やインフォメーションセンタ、ダイレクトインフォメーションセンタがどのビデオテックス通信網に接続されているか意識する必要は無い。",
"title": "システム構成"
},
{
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"text": "ビデオテックス通信網が複数存在する理由は、加入者増の際にビデオテックス通信網を追加設置し、既存ビデオテックス通信網間加える方式とする事で将来の設備拡張の容易性を確保するためである。",
"title": "システム構成"
},
{
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"text": "キャプテン情報センタは、NTTが用意した情報センタであり、画像情報を蓄積するためのディスクスペースを貸出していた。センタ番号は36100。また、ビデオテックス通信網にて情報提供している情報センタ案内も行っていた。",
"title": "システム構成"
},
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"text": "キャプテン情報センタのディスクスペースを利用する情報提供者は、情報入力端末を設置し回線を経由しキャプテン情報センタに転送する。",
"title": "システム構成"
},
{
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"text": "ダイレクトインフォメーションセンタは、自らコンピュータ装置を用意し「ビデオテックス通信網サービスのインタフェース(センタ編)」に記載されているプロトコルに従い、ゲートウエイを介してビデオテックス通信網に接続し情報提供を行う。センタ毎にセンタ番号を割振られている。",
"title": "システム構成"
},
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"text": "インフォメーションセンタも、自らコンピュータ装置を用意するが、ゲートウエイではなく、キャプテン情報センタに接続する。「キャプテンシステムサービスのインタフェース」に記載されているプロトコルに従い情報提供を行う。キャプテン情報センタと連携することで、情報提供のためのインフォメーションセンタ側の処理が軽減される。また、キャプテン情報センタが提供するオーダーエントリサービス、資金決済サービスを簡易に利用できた。",
"title": "システム構成"
},
{
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"text": "情報入力端末は、キャプテンシステムで使用する画像データを作成する装置。編集型入力端末は情報入力端末の簡易版である。",
"title": "システム構成"
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"text": "情報センタとして機能するコンピュータ上にビデオテックス通信網をエミュレートするソフトウエアを実装し、集合FAXモデム装置をコンピュータに接続するハードウエア構成にて、ビデオテックス通信網を介さず、一般加入者電話網のみを利用し、情報センタに接続する方式のセンタも存在した。このような、情報センタ方式をローカルキャプテンシステムと呼ぶ。加入者端末からの接続は、代表電話番号を端末に入力しセンタ接続を行った。またこの方式による情報センタは単にローカルキャプテンあるいはプライベートキャプテンと呼ばれることもあった。情報センタが所在する場所により、ローカルキャプテンという用語も使われていた。",
"title": "システム構成"
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"text": "キャプテンリサーチは、NTTビジュアル通信株式会社がキャプテンシステムを利用して実施していた市場調査サービスである。",
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},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "市場調査を行いたい顧客企業から同社が調査委託を受けて実施するもので、新聞広告や電話営業などで調査対象者を募集し、キャプテンシステムを利用していない人には機器を無償で提供した。キャプテンリサーチのセンタ番号は「36166」で、接続料金は無料。",
"title": "システム構成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1991年4月に開始され、キャプテンシステムのサービスが終了するまで運用された。キャプテンシステムのサービス終了後は、同社のインターネット調査サービスであるダイナミックリサーチに受け継がれた。",
"title": "システム構成"
}
] |
キャプテンシステムは、日本のビデオテックスサービス。 1970年代後期から将来に向けて計画され、1984年11月に日本電信電話公社がサービスを開始。その後、日本電信電話(NTT)、NTT分割後はNTTコミュニケーションズが、電気通信役務として提供していた。当初は将来性を期待されていたものの、インターネットの普及に伴い縮小を余儀なくされ、2002年3月にサービス終了。なお、サービス的には類似したフランスのビデオテックスサービスであるミニテルも、2012年に終了している。 ロゴは、「P」の部分が「?」、「I」が「!」とし「CA?TA!N」と読める様にデザインされていた。
|
{{出典の明記|date=2011年1月}}
{{Infobox オンラインサービス
| 名称 = キャプテンシステム
| ロゴ = [[ファイル:CAPTAIN Syetem Logomark.svg|thumb]]
| スクリーンショット =
| 説明文 =
| 提供元 = [[日本電信電話公社]]→[[日本電信電話]]→[[NTTコミュニケーションズ]]
| 種別 = [[ビデオテックス]]
| サービス開始 = {{Start date and age|1984|11}}
| 地域 = 日本
}}
'''キャプテンシステム'''(CAPTAIN System、'''C'''haracter '''A'''nd '''P'''attern '''T'''elephone '''A'''ccess '''I'''nformation '''N'''etwork System)は、[[日本]]の[[ビデオテックス]]サービス。
1970年代後期から将来に向けて計画され、[[1984年]]11月に[[日本電信電話公社]]がサービスを開始。その後、[[日本電信電話]](NTT)、NTT分割後は[[NTTコミュニケーションズ]]が、[[電気通信役務]]として提供していた。当初は将来性を期待されていたものの、インターネットの普及に伴い縮小を余儀なくされ、2002年3月にサービス終了。なお、サービス的には類似したフランスのビデオテックスサービスである[[ミニテル]]も、2012年に終了している。
ロゴは、「P」の部分が「?」、「I」が「!」とし「'''CA?TA!N'''」と読める様にデザインされていた。
== 概要 ==
=== システム開始の背景 ===
[[日本電信電話公社|電電公社]]は、第五次5ヵ年計画により、一般加入電話の積滞解消と全国自動即時化という2大目標達成後、1978年から始まる第六次5ヵ年計画で今後高度化、多様化が予想された画像通信、ディジタル通信ネットワーク等に関する高度情報化に向けた取組みを始めた。この一連の取組みによるシステムは、[[ニューメディア]]という言葉で紹介された。[[武蔵野市]]に[[武蔵野電気通信研究所]](現 NTT武蔵野研究開発センタ)が設置されていたこともあり、1984年には、武蔵野・三鷹地区で[[INSネット|INS]]モデルシステムの実験が開始された<ref>[http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/historytable/index.html NTT技術資料館 年表 1984(昭和59)の記述]</ref>。衛星放送、高速ディジタル伝送サービスといった高度伝送サービス、ファクシミリ通信網やVRS(ビデオレスポンスシステム、オンデマンドビデオシステムのこと)などの画像システムが実用化された。 キャプテンシステムもこれら一連のニューメディアサービスのひとつとして、1984年に当時の[[日本電信電話公社|電電公社]](現在の[[NTTグループ]]各社)が、大都市圏を中心にサービスを開始した。
当時は日本国外でもニューメディアサービスの開発が盛んに行われており、[[ビデオテックス]]については北米地域では[[NAPLPS]]、フランスでは[[ミニテル]]が実用化されていた。なおCAPTAIN Systemは、NAPLPSの仕様を参考にして作られている。
=== システム内容 ===
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| width =
| header =
| image1 = Captain2.jpg
| alt1 = Captain2.jpg
| caption1 =
| image2 = CaptainMasque.jpg
| alt2 = CaptainMasque.jpg
| caption2 = 画像情報の一例
}}
[[テレビ]]をモニターとしたテレビアダプター型端末(キャプメイト)を[[アナログ回線|アナログ]][[固定電話|電話]]回線を利用して情報センターに接続することで、センターに蓄積された[[文字]]・[[画像]][[情報]]の提供を行った。接続時にセンター番号入力することにより、センター番号で指定された情報センターに接続していた。日本電信電話公社が用意した情報センターは、センター番号「36100」でキャプテン情報センター(全国キャプテン)という。まずビデオテックス接続の特番である166をダイヤルし、プププという発信音を確認して、センター番号を入力すると情報センターに接続される。情報センター接続後に表示されるページ間の移動は、画面上に表示されている数字と#(例: 01#)を入力、もしくは*と数桁の数字を入力し移動する仕様になっていた。
各地に[[第三セクター]]の情報提供会社が設立され、郷土情報、生活情報の提供を行った。[[地方公共団体|自治体]]、[[日本国有鉄道]](「ホットポット」)などの公共機関や、[[近畿日本鉄道]]の「テレメイト」などの企業も情報提供ページを設置していた。情報提供内容としては、[[ネットショッピング]]や[[座席指定席|座席予約]]、[[電子掲示板|BBS]]や、[[北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ|オホーツクに消ゆ]]、[[ポートピア連続殺人事件]]等のゲーム試遊といったサービスも提供されていた。これらの情報提供者を、インフォメーションプロバイダ (ISP) と読んでいた。
画面の解像度は横248ドット×縦204ドットで、上部の12ドットはヘッダ情報の表示領域で固定となる。本文表示領域は標準文字であれば15文字×8行、小型文字は21文字×16行が表示可能。グラフィックは4×4ドット単位で16色中の2色が指定可能。
キャプテンシステムの利用は、一般電話回線を利用したため個人の自宅の電話回線からビデオテックス通信網にアクセスすることも可能だった。
サービスを利用するためには専用端末機器の購入が必要である。通信料(ビデオテックス網への接続料)は時間課金による従量制で、距離区分はなく全国均一で3分30円、夜間、土・日・祝日は5分30円だった<ref>{{PDFlink|[http://www.ntt.com/tariff/comm/pdf/c09.pdf ビデオテックス通信サービス契約約款]}}</ref>。なお、この約款は2008年4月1日に廃止されている<ref>[http://www.ntt-west.co.jp/ISDN/service/02_S/090.HTM]</ref>。
また、情報発信を行う場合は、下記の形式があった。
# キャプテン情報センタにスペースを借りる
# 自身でセンターを用意し、キャプテン情報センタに接続する (IF)
# 自身でセンターを用意し、ビデオテックス通信網に接続する (DF)
サービスの普及や建物の構内案内などを目的として、人が集まる屋内に公衆(キオスク)端末が設置され、その端末を利用する事もできた。
いずれの場合も、キャプテンシンタックスに従った画面(画像)データを作成するための端末、情報入力端末 (IT) または編集型簡易入力端末 (ET) が必要で、サービスの提供を行うための機器に要する費用が必要なため企業中心で、主にコスト面から個人で情報提供ページを設けることが困難であり、草の根的な情報発信はほとんど行われなかった。
しかしそんな状況の中でも、個人が情報発信・情報提供を試みた事例はある。小説家・パズル作家の[[雅孝司]]が第1号として6年間、[[菅直人]]が第2号として2年間ほど独自のページを運営していた<ref>[http://www.puzzle-j.com/cap.htm 日本最初の個人ホームページオーナー]、電脳内革命(雅孝司ホームページ)。 - 2017年9月25日閲覧。</ref>。また普段はBBSを通じてコミュニケーションを取る仲間を作り、時に回線を通じないで直接に顔を合わせる[[オフラインミーティング]]など、現在の「オフ会」につながる活動をしていたユーザーも少ないながら存在した。
なお、キャプテン情報センターのためキャプテンサービス株式会社が設立された。この会社は画面(画像)データの作成請負もその業務とし、情報入力端末を持たず画面作成をこの会社に依頼する事も多かった。また、画面作成代行を業務として請負うインフォメーションサービスプロバイダー (ISP) も多かった。なお、キャプテンサービスは1995年9月にNTTビジュアル通信株式会社に社名変更<ref name="nttv_edinet24">エヌ・ティ・ティ・ビジュアル通信株式会社(提出者EDINETコード:E04423) 有価証券報告書 第24期(平成18年4月1日 ‐ 平成19年3月31日)</ref>し、2010年12月31日で営業活動を終了した<ref>[http://www.nttvics.co.jp/ NTTビジュアル通信株式会社の営業活動を終了の告知]</ref>。
利用者は、NTTの電話料金のほかに3分30円の通信料金と、有料情報サービスの場合は情報料を支払う必要があり、長時間続けるとかなり値が張っていた。なお、公衆端末では原則的に無料である。また、接続料の他に、情報センター利用に際し情報料を必要とするサイトもあった。情報料の有無とその料金は情報提供者が情報ごとに設定した。NTTは情報料代行徴収するサービスを情報提供者に提供しており、通信料の徴収時に情報料を一緒に徴収し、情報提供者に徴収した情報料(代行徴収)を納めた。
また、サービス時間は24時間ではなく、キャプテン情報センタで提供していたオーダーエントリーサービスや情報料代行徴収サービスのデータやキャプテン情報センタに蓄積されている情報のバックアップのため、深夜1:00 - 早朝6:00の間はサービス休止された。
=== 状況の変化 ===
キャプテンシステムは、その後のパソコンの急速な普及とそれにともなう処理速度や伝送速度の向上、および文字と画像を扱うサービス(特に[[World Wide Web|WWW]])の利用が可能な[[インターネット]]の普及により、その役割を終えたと判断され、2002年にサービスを終了した。
キャプテンシステムは現在の[[パソコン通信|パソコン]]や携帯電話などのインターネットの発展に大きな影響力を持つ発想を固めたシステムといっても良い。オーダーエントリサービスは、現在のインターネットショップとほぼ同じ事が可能である。情報料代行徴収は、携帯電話の情報料を携帯事業者がサービス提供者になりかわり徴収するサービスと同じ発想である。郵便貯金もキャプテンシステムを利用した振込みサービスを行っていたとともに、郵便貯金と情報提供者間での契約をする事によりオーダーエントリで購入した商品を郵貯口座から引き落とす事ができた。また、個人モニターに端末を貸し出した[[東京都]][[三鷹市]]や公共端末を鉄道駅や市立施設などの市内公共施設に配置した[[多摩市]]、[[神奈川県]][[厚木市]]、[[川崎市]]などの様に一応の成果が見られた事例もあった。厚木市の場合、ニューメディア事業の一環として第三セクターの運営会社を起ち上げていた。
当時「高度情報通信社会」と呼ばれていた時代は、インターネットによって20年以上遅れて実現した。
== サービス期間 ==
* [[1984年]][[11月30日]] - サービス開始<ref name="nttv_edinet24" />
* [[2002年]][[3月31日]] - サービス終了<ref>デジタル大辞泉に終了年月の記載がある。また、[http://www.chiaki.sakura.ne.jp/nttcaptian/nttcaptian.html NTTコミュニケーションズ株式会社からの「キャプテンサービス終了のお知らせ」]</ref>
== 主なキャプテン情報センタ ==
当時[[郵政省]]が推進していた[[テレトピア構想]]の影響もあり、全国各地にキャプテンシステムへの情報提供を行う運営会社(情報センタ)が設立された。
{| class="wikitable"
|+ 地域ビデオテックス全国協議会 加盟社
|-
! 事業者名 !! センタ番号
|-
| 北海道情報サービス(アリストロン) || 22311
|-
| [[函館インフォメーション・ネットワーク]]<br>(HINET) || 23711
|-
| キャプテンあおもり(CAPNET) || 24251
|-
| インフォメーションプラザ秋田 || 25251
|-
| キャプテン山形 || 25700
|-
| [[インフォメーション・ネットワーク福島]] || 27151
|-
| NTTキャプテンサービス<br>(NTTビジュアル通信) || 36100
|-
| 厚木総合情報センター(AI-NET) || 47155
|-
| メディア・ミックス静岡 || 52741
|-
| 名古屋情報センター(namos) || 55758
|-
| [[飛騨高山テレ・エフエム|飛騨高山テレトピア]] || 58555
|-
| [[グレートインフォメーションネットワーク]]<br>(G・I・NET) || 58645
|-
| 北勢インフォメーション・サービス || 59143
|-
| キャプテン三重 || 59244
|-
| テレコムわかやま || 69031
|-
| スーパーステーション新潟 || 71242
|-
| キャプテン信州 || 74100
|-
| 日本ビデオテックスサービス || 76241
|-
| [[ネスク|日本海ネット]] || 76841
|-
| 丸八 || 77143
|-
| 神戸ポートキャプテン(かぼちゃBAR) || 81100
|-
| 姫路メディアネットワーク || 82631
|-
| [[鳥取テレトピア]](キャプテンとっとり) || 83181
|-
| [[松江情報センター]](MAC、まつえキャプテン) || 83831
|-
| キャプテンセンター岡山 || 84100
|-
| [[中国コミュニケーションネットワーク]] || 86633
|-
| 山口ニューメディアセンター || 88100
|-
| 北九州情報ひろば<br>(北九州情報ネットワーク) || 94121
|-
| 久留米・鳥栖広域情報 || 94521
|-
| [[FMたんと|有明ニューメディアサービス]] || 94721
|-
| 福岡ニューメディア・サービス || 95220
|-
| ナガサキ・メディアセンター || 96021
|-
| 大分ニューメディアサービス || 97311
|-
| 熊本ビデオテックスサービス(KINGS) || 97621
|-
| キャプテン鹿児島 || 98721
|}
== システム構成 ==
[[File:Videotex.jpg|thumb|left|420px|システム構成]]
{{-}}
* PT:加入者端末
* LS:加入者交換機
* TS:中継交換機
* TGS:通信処理関門交換機
* VCP:ビデオテックス通信網
* DVCP:新ビデオテックス通信網
* GW:ゲートウエイ
* CAPF:キャプテン情報センタ
* DF:ダイレクトインフォメーションセンタ
* IF:インフォメーションセンタ
* IT:情報入力端末
* ET:編集型入力端末
PTは電話回線を利用し、通信処理関門交換機を経由しビデオテックス通信網接続する。また、PTは166+センタ番号を入力することで接続する情報センタを指定する。加入交換機と中継交換機は、166を最初に受信する事でビデオテックス通信網への接続要求であると識別し通信処理関門交換機にセンタ番号を送出する。
ビデオテックス通信網の接続に電話回線を利用する事により、加入者端末とビデオテックス利用契約をするだけでキャプテンシステムを利用できる。
通信処理関門交換機は、複数の地域の中継交換機からの接続要求を処理する。また、通信処理関門交換機は[[ファクシミリ通信網]]と共用されており、166で始まる番号はビデオテックス通信網に003501、003502で始まる番号はファクシミリ通信網に接続する。
ビデオテックス通信網は、東京2か所、大阪1か所に設置された。ビデオテックス通信網は、VICT、VCX、VCV、VGW等複数の装置から構成されている。これら複数の装置は、FSNという装置を用い二重化されたループ型光ファイバに接続される。これは、LANのリング型トポロジを先んじて取り入れている。
複数存在するビデオテックス通信網同士は中継回線で接続されており、ビデオテックス通信網VCXにて交換処理されるため、加入者端末やインフォメーションセンタ、ダイレクトインフォメーションセンタがどのビデオテックス通信網に接続されているか意識する必要は無い。
ビデオテックス通信網が複数存在する理由は、加入者増の際にビデオテックス通信網を追加設置し、既存ビデオテックス通信網間加える方式とする事で将来の設備拡張の容易性を確保するためである。
キャプテン情報センタは、NTTが用意した情報センタであり、画像情報を蓄積するためのディスクスペースを貸出していた。センタ番号は36100。また、ビデオテックス通信網にて情報提供している情報センタ案内も行っていた。
キャプテン情報センタのディスクスペースを利用する情報提供者は、情報入力端末を設置し回線を経由しキャプテン情報センタに転送する。
ダイレクトインフォメーションセンタは、自ら[[コンピュータ]]装置を用意し「ビデオテックス通信網サービスのインタフェース(センタ編)」に記載されているプロトコルに従い、ゲートウエイを介してビデオテックス通信網に接続し情報提供を行う。センタ毎にセンタ番号を割振られている。
インフォメーションセンタも、自らコンピュータ装置を用意するが、ゲートウエイではなく、キャプテン情報センタに接続する。「キャプテンシステムサービスのインタフェース」に記載されているプロトコルに従い情報提供を行う。キャプテン情報センタと連携することで、情報提供のためのインフォメーションセンタ側の処理が軽減される。また、キャプテン情報センタが提供するオーダーエントリサービス、資金決済サービスを簡易に利用できた。
情報入力端末は、キャプテンシステムで使用する画像データを作成する装置。編集型入力端末は情報入力端末の簡易版である。
=== ローカルキャプテンシステム ===
情報センタとして機能するコンピュータ上にビデオテックス通信網を[[エミュレータ|エミュレート]]するソフトウエアを実装し、集合FAXモデム装置をコンピュータに接続するハードウエア構成にて、ビデオテックス通信網を介さず、一般加入者電話網のみを利用し、情報センタに接続する方式のセンタも存在した。このような、情報センタ方式をローカルキャプテンシステムと呼ぶ。加入者端末からの接続は、[[電話番号|代表電話番号]]を端末に入力しセンタ接続を行った。またこの方式による情報センタは単にローカルキャプテンあるいはプライベートキャプテンと呼ばれることもあった。情報センタが所在する場所により、ローカルキャプテンという用語も使われていた。
=== キャプテンリサーチ ===
キャプテンリサーチは、NTTビジュアル通信株式会社がキャプテンシステムを利用して実施していた市場調査サービスである。
市場調査を行いたい顧客企業から同社が調査委託を受けて実施するもので、新聞広告や電話営業などで調査対象者を募集し、キャプテンシステムを利用していない人には機器を無償で提供した。キャプテンリサーチのセンタ番号は「36166」で、接続料金は無料。
1991年4月に開始され<ref name="nttv_edinet24" />、キャプテンシステムのサービスが終了するまで運用された。キャプテンシステムのサービス終了後は、同社のインターネット調査サービスであるダイナミックリサーチに受け継がれた。
== 情報利用者端末機器 ==
* テレビアダプタ型キャプテン端末キャプメイト Cap Mate
* ディスプレイ一体型キャプテン端末キャプメイトV10
* 街頭端末用キャプメイトV14
* ディスプレイ一体型キャプテン端末キャプメイトV15
* 多機能電話型キャプテン端末テレアシスト5100
* 高密度ハイブリッド端末アダプタ TU-CP410[型式認定番号B-59-0120] [[パナソニック|松下電器産業株式会社]] 映像機器事業部
* ハイブリッド TU-CP200[型式認定番号B-59-0168] 松下電器産業株式会社 映像機器事業部
* C&Cビデオテックスシステム キャプテンターミナル NTX-2000 [[日本電気ホームエレクトロニクス]]株式会社
* C&Cビデオテックスシステム キャプテンターミナル 高密度ハイブリッド NTX-3000 日本電気ホームエレクトロニクス株式会社
* C&Cビデオテックスシステム キャプテンターミナル 高密度コマンド NTX-5000 日本電気ホームエレクトロニクス株式会社
* キャプテンマルチステーション - NTT・[[アスキー (企業)|アスキー]]・[[高岳製作所]]が共同開発した[[MSX2]]規格のキャプテン端末<ref>MSXアソシエーション「[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/616/2616794/?r=1 MSXはネットワークゲームの先駆け!? THE LINKSがスゴい!:MSX30周年]」『週刊アスキー』 角川アスキー総合研究所、2013年7月16日</ref>
* ビデオテックスターミナル MPC-S1 三洋電機株式会社<ref name="Ascii198509">「月刊ASCII 1985年6月号」アスキー、1985年、66-67ページ</ref>
* キャプテンユニット KA-MPC-CAP1 三洋電機株式会社<ref name="Ascii198509" /> - 同社の[[MSX (初代規格)]]のパソコン(MPC-10mkII・MPC-10・MPC-11・MPC-6)専用の拡張ユニット
* MSXキャプテンアダプタユニット SCA-01 [[日本楽器製造株式会社]] - メインRAM128KBのMSX2専用。キャプテンモデム(MD-01)が別途必要
* 硬貨作動式テーブル型キャプテン端末機 CP-1000/CP-3000 太平技術工業株式会社 - 100円で3分間の利用が可能<ref name="tgm">アミューズメント通信社「ゲームマシン」1985年6月15日号</ref>
* 硬貨作動式アップライト型キャプテン端末機 NM-21 ダイナエレクトロニクス有限会社 - 100円で3分間の利用が可能<ref name="tgm" />
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* やさしい画像通信、田中務,香月泰編著、社団法人電気通信協会、1985年(昭和60年)8月5日
* キャプテンシステム、秦英遠,杉本迪雄著、オーム社、1986年(昭和61年)12月
* [http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/exhibit/technologies/technologies_16.html NTT技術資料館 史料 文字・画像の通信とサービスの技術]
== 関連項目 ==
* [[ビデオテックス]]
**フランス: [[ミニテル]]
* [[ニューメディア]]
** [[文字多重放送#アナログ放送の文字放送(モジネット)|文字放送]]
* [[iモード]]
* [[Lモード]]
* [[データ放送]]
* [[ユビキタス社会]]
* [[パソコン通信]]
*[[古舘伊知郎]] 1985年に[[テレビCM]]に出演
== 外部リンク ==
* [http://www.puzzle-j.com/cap.htm 日本最初の個人ホームページオーナー]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/1971/captain/frame.htm |title=キャプテンありがとう |date=20040707134818}}
* [http://www.web-sanin.co.jp/captain/ キャプテンINDEX] - 松江情報センター 自社が作成していたコンテンツを、キャプチャ画像で掲載
{{NTT}}
{{Telecommunications}}
{{DEFAULTSORT:きやふてんしすてむ}}
[[Category:電話の付加サービス]]
[[Category:日本の情報技術史]]
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川越街道
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川越街道(かわごえかいどう)とは江戸時代から(一部)続く街道である。江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る。伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった。
但し、後の1941年(昭和16年)に当街道を拡幅したり、商店街などで拡幅が難しい区間はほぼ平行して川越街道新道(国道254号)を建設し、現在ではこの新道のうち東京都豊島区の池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市の新宿(あらじゅく)町(北)交差点までの通称となっている。
新道(国道254号)との並行区間にある元の川越街道は「旧川越街道(都内区間の名称)」や「埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道=埼玉区間の公式通称)」と称する。区間により新旧川越街道が重複、分岐を繰り返している。
一般に川越街道という場合、新道を指すことが多く、宿場が置かれた歴史街道とは経路が異なる。
このページでは歴史街道としての川越街道と、国道254号の川越街道部分の両方を記す。
現在は旧川越街道と呼ばれる部分を含む、歴史街道としての川越街道。
平尾追分は現在板橋三丁目交差点となっており、同交差点付近は国道17号が当街道の道筋を踏襲しているが、通称は「中山道」となっている(同国道は日本橋から群馬県高崎市にかけて、中山道の道筋を踏襲、または同街道の道筋と並行している)。また、中山道の道筋を踏襲している道路の通称は「旧中山道」となっている。
江戸城と川越城を繋ぐ古道 室町時代の長禄元年(1457年)、上杉持朝の家臣・太田道灌が江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。
戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永16年(1639年)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「川越道中」「川越児玉往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからである。この頃の川越街道は、板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ、川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、埼玉県道109号新座和光線)。
江戸時代 宿設置 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。各宿場には、川越城のある川越から見て「上宿」「中宿」「下宿」が置かれ、それぞれに本陣や脇本陣があった。宿場の出入口には木戸が設けられ警備が行われた。川越からはさらに児玉街道となり上野国藤岡に通じて中山道に合流しており、この2つの道を合わせて川越児玉往還と指定された。
賑わいと重要交易路、参勤交代路 中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり五街道に準じる往還に指定された街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。
物資の輸送を行う新河岸川舟運と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の参勤交代の道でもあったが、距離が短く大名の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。
川越の焼き芋 寛政年間(1789年から1801年)に江戸で焼き芋が流行すると、文化年間(1804年から1818年)に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝文句として、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。
乗合馬車と今に残る並木道、馬頭観音 1880年(明治13年)から川越街道にも一日二回の乗合馬車(白子馬車という)が通るようになったが乗る人はそう多くなかったという。
新座市の北の入間郡三芳町、ふじみ野市近辺では、現在も街道筋の「竹間沢の欅並木」「藤久保の松並木」などが残り、当時の風情を伝えている。またこのために拡幅を避けて富士見川越バイパスが建設された。またふじみ野市亀久保など一里塚跡が残っている箇所も少なくない。道標として馬頭観音もあちこちに残っている。
朝霞市「膝折(ひざおり)」はかつて村だったがこの地名の由来には、小栗助重の馬がこの付近で足を骨折したため、という伝説がある。また別に、江戸から徒歩で川越まで歩く行程でくたびれ、膝が痛くなり、さらに歩き鶴ヶ島市「脚折(すねおり)」では脚が折れるほどくたびれたことから、それぞれ膝折と脚折と呼ばれたともいわれ、この二か所は対(つい)となっている。
徒歩から自動車道へ、新道の建設 1914年(大正3年)、川越街道に沿って池袋駅から田面沢駅を結ぶ東上鉄道(現在の東武鉄道東上本線)が開通し、鉄道時代の幕開けとなった。
昭和初期になると、交通手段は徒歩から自動車となった。川越街道も東京都内において道路拡張工事がなされたり、商店街が発達するなどして用地買収が難しい区間は近くに並行して新道を建設し、現在の川越街道の形になった。並行区間では元の川越街道は「旧川越街道」と呼ばれ、部分的に新道(国道254号)と重なる。関越自動車道が開通するまでは交通情報の渋滞名所として名高かった上板橋の「五本けやき」は、昭和初期の川越街道の拡幅工事の際に上板橋村村長であった飯島弥十郎が屋敷庭の木を残すことを条件に土地を提供したもので、現在も道路の中央に5本のけやきが残っている。
大井宿から川越宿の間に藤馬中宿もあった(現在の川越市藤間)
沿道では川越街道に宿場が置かれたり、参勤交代道だったことなどの歴史に因み、様々なイベントが催されている。
池袋六ツ又交差点は、見通しが悪いことや自転車の通行が多いことなどから、都内交差点として、2010年ワースト2、2011年ワースト4、2015年ワースト1を記録するなど、交通事故の多い交差点であり、通行の際には注意が必要である。また、東京都練馬区の東埼橋交差点から埼玉県新座市の英インターチェンジまでの区間は、かつて国道254号(川越街道)の一部であった埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道)のバイパスとして建設された区間で、「新座バイパス」という名称がある。
※左が上り線、右が下り線である。
都内区間 旧川越街道起点・平尾追分辺りから、6つか7つほどの商店街、細道や坂道などを通り、その間、国道254号と合流や分岐を繰り返しながら、埼玉県境(東埼橋)の都内側で埼玉県道109号新座和光線に分岐、接続される。旧川越街道と川越街道(254号)の分岐(合流)点は都内区間では6箇所ある。平尾追分から東埼橋までの総距離のうち、254号との重複区間は約2.7Km、重複していない区間は約5.5Km。
都内区間の順路(現在の呼称) 板橋区
練馬区
川越児玉往還は、江戸から川越を経て上州藤岡を結ぶ、川越街道と児玉街道(川越道)を合わせた28里半の街道を合わせて往還として宿駅整備されたものである。中山道脇往還川越道ともいう(往還という場合は川越街道では無く川越児玉往還を指すので、川越往還や児玉往還という呼び方は正確には間違いである)。巡見使や役人は主にこの街道を通った。また女性の利用者が多く「姫街道」という呼称が残っていることでも知られる。川越児玉往還に指定された区間のうち川越から児玉までの区間は「児玉街道(児玉道)」「川越道」とも呼ばれ、(塚越宿・石井宿・高坂宿・菅谷宿・志賀宿・奈良梨宿・今市宿・赤浜宿・小前田宿・広木宿・児玉宿・藤岡宿)の旅には通常さらに3日を要した。
江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道は大名などが利用していたのに対し、川越児玉往還は役人などが多く利用していた。中山道より距離が短いこともあり、その通行者はかなり多かったようである。
現在の国道254号のルーツとなった道であるが、国道254号は各市町村を経由しているので川越市-東松山市間(川島町を経由)、嵐山町-寄居町間(小川町や寄居町を経由)などで一部区間では大きくルートを外れる。
川越児玉往還の全行程を示す。通し番号付きが宿場であり、「何番の宿場(宿場町)」であるかを示す。江戸側が上り、上州(藤岡)側が下りである。上板橋宿、下練馬宿などは旧川越街道にある。歴史的に古い川越児玉往還は、1937年(昭和12年)の都市計画で計画され1941年(昭和16年)に開通した川越街道新道(国道254号)とは経路が違うので注意が必要。
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川越街道(かわごえかいどう)とは江戸時代から(一部)続く街道である。江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る。伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった。 但し、後の1941年(昭和16年)に当街道を拡幅したり、商店街などで拡幅が難しい区間はほぼ平行して川越街道新道(国道254号)を建設し、現在ではこの新道のうち東京都豊島区の池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市の新宿(あらじゅく)町(北)交差点までの通称となっている。 新道(国道254号)との並行区間にある元の川越街道は「旧川越街道(都内区間の名称)」や「埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道=埼玉区間の公式通称)」と称する。区間により新旧川越街道が重複、分岐を繰り返している。 一般に川越街道という場合、新道を指すことが多く、宿場が置かれた歴史街道とは経路が異なる。 このページでは歴史街道としての川越街道と、国道254号の川越街道部分の両方を記す。
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'''川越街道'''(かわごえかいどう)とは[[江戸時代]]から(一部)続く[[街道]]である。[[江戸]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]より[[中山道]]を進み、[[江戸四宿]]の1つ[[板橋宿]]の平尾[[追分]]で分岐して[[川越城]]下に至る。[[伊能忠敬]]「[[大日本沿海輿地全図]]」では実測、10里34町33間半(約43km)だった<ref name="wako254"/>。
但し、後の1941年(昭和16年)に当街道を拡幅したり、[[商店街]]などで拡幅が難しい区間はほぼ平行して川越街道新道([[国道254号]])を建設し、現在ではこの新道のうち[[東京都]][[豊島区]]の池袋六ツ又交差点から[[埼玉県]][[川越市]]の[[新宿町 (川越市)|新宿(あらじゅく)町]](北)交差点までの[[通称]]となっている<ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf 東京都通称道路名一覧表] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305043815/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf |date=2016年3月5日 }}[[東京都建設局]]</ref><ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/kubu.pdf 東京都通称道路名地図(区部拡大版)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305013228/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/kubu.pdf |date=2016年3月5日 }}東京都建設局</ref><ref name="wako254">[http://www.city.wako.lg.jp/var/rev0/0012/6242/9enjoy.pdf 和光市民なら知っておきたい川越街道の真実] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160304214115/http://www.city.wako.lg.jp/var/rev0/0012/6242/9enjoy.pdf |date=2016年3月4日 }}和光市</ref>。
新道(国道254号)との並行区間にある元の川越街道は「'''旧川越街道'''(都内区間の名称)」や「埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道=埼玉区間の公式通称)」と称する。区間により新旧川越街道が重複、分岐を繰り返している。
一般に川越街道という場合、新道を指すことが多く、宿場が置かれた歴史街道とは経路が異なる。
このページでは歴史街道としての川越街道と、国道254号の川越街道部分の両方を記す。
== 元の川越街道 ==
現在は旧川越街道と呼ばれる部分を含む、歴史街道としての川越街道。
=== 起点・終点 (歴史街道) ===
* 起点:江戸・日本橋(中山道との分岐は板橋宿平尾追分<ref name="atomi80">{{Cite web|和書|url=http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter%202/01ka03.htm|title=副学長室からの花便り第80便 歴史散歩(14) 川越街道(その3) 上板橋宿から下練馬宿へ|website=[[跡見学園女子大学]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170809171334/http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter%202/01ka03.htm|date=2004-8-12|archivedate=2017-8-9|accessdate=2019-9-5}}</ref>)
* 終点:[[川越]]・江戸町・西大手門(現在の大手町・[[川越市役所]]付近)<ref name="wako254" />
平尾追分は現在[[板橋 (板橋区)|板橋]]三丁目交差点となっており、同交差点付近は[[国道17号]]が当街道の道筋を踏襲しているが、通称は「中山道」となっている(同国道は日本橋から[[群馬県]][[高崎市]]にかけて、中山道の道筋を踏襲、または同街道の道筋と並行している)。また、中山道の道筋を踏襲している道路の通称は「旧中山道」となっている<ref name="atomi80" />。
=== 歴史 ===
==== 概要 ====
'''江戸城と川越城を繋ぐ古道'''<br>
[[室町時代]]の[[長禄]]元年([[1457年]])、[[上杉持朝]]の家臣・[[太田道灌]]が[[江戸城]](千代田城)と[[川越城]](河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。[[古河公方]]に対する[[扇谷上杉家]]の防衛線であった。後に[[豊島泰経]]が道灌に対抗するために[[練馬城]]を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『[[太田道灌状]]』)。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って[[寛永]]16年([[1639年]])に[[川越藩]]主になった[[松平信綱]]と嫡男の[[松平輝綱]]が、中山道の[[脇往還]]としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「'''川越道中'''」{{efn|name=上板橋村|『[[新編武蔵風土記稿]]』の[[上板橋村]]に、「当所は川越道中の馬次」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 上板橋村}}。}}「'''川越児玉往還'''」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは[[明治]]に入ってからである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/kanko/rekishi/kawagoeKaido.html|title=川越街道|website=三芳町ホームページ|publisher=三芳町|accessdate=2019-9-3}}</ref>{{efn|『新編武蔵風土記稿』、内務省地理局、1884年、の下白子村には、「河越街道」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 下白子村}}。}}。この頃の川越街道は、板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ、[[川越城]]西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、[[埼玉県道109号新座和光線]])。
'''江戸時代 宿設置'''<br>
街道には、上板橋{{efn|name=上板橋村}}、下練馬{{efn|『新編武蔵風土記稿』の[[下練馬村]]に、「当所は河越道中の馬次」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 下練馬村}}。}}、白子{{efn|『新編武蔵風土記稿』の下白子村に、「東は白子の駅家あり」「[[小字#小字と小名|小名]] 白子宿 村内河越街道入口の宿」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 下白子村}}。}}、[[膝折宿|膝折]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の[[膝折宿]]に、「川越街道村内に係り馬継の宿あり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 膝折宿}}。}}、大和田、大井{{efn|『新編武蔵風土記稿』の大井村に、「河越城に至る街道の宿駅」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 大井村}}。}}の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。各宿場には、川越城のある川越から見て「上宿」「中宿」「下宿」が置かれ、それぞれに[[本陣]]や[[脇本陣]]があった。宿場の出入口には木戸が設けられ警備が行われた。川越からはさらに[[児玉街道]]となり[[上野国]][[藤岡市|藤岡]]に通じて中山道に合流しており、この2つの道を合わせて[[川越・児玉往還|川越児玉往還]]と指定された。
'''賑わいと重要交易路、参勤交代路'''<br>
中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり[[五街道]]に準じる往還に指定された街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。
物資の輸送を行う[[新河岸川]][[舟運]]と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の[[参勤交代]]の道でもあったが、距離が短く[[大名]]の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。
'''川越の焼き芋'''<br>
[[寛政]]年間(1789年から1801年)に江戸で[[焼き芋]]が流行すると、[[文化 (元号)|文化年間]](1804年から1818年)に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝文句として、「''栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)''」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。
'''乗合馬車と今に残る並木道、馬頭観音'''<br>
1880年(明治13年)から川越街道にも一日二回の[[乗合馬車]](白子馬車という)が通るようになったが乗る人はそう多くなかったという<ref name = "kushi">『練馬区史 現勢編』北町地区より。</ref>。
[[新座市]]の北の[[入間郡]][[三芳町]]、[[ふじみ野市]]近辺では、現在も街道筋の「竹間沢の欅並木」「藤久保の松並木」などが残り、当時の風情を伝えている。またこのために拡幅を避けて[[富士見川越バイパス]]が建設された。また[[ふじみ野市]]亀久保など一里塚跡が残っている箇所も少なくない。道標として[[馬頭観音]]もあちこちに残っている{{efn|例えば練馬区北町の旧川越街道沿いの北町浅間神社にも馬頭観音がある}}。
朝霞市「膝折(ひざおり)」はかつて村だったがこの地名の由来には、[[小栗助重]]の馬がこの付近で足を骨折したため、という伝説がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter%202/01ka05.htm |title=副学長室からの花便り第82便 歴史散歩(16) 川越街道(その5) 膝折(ひざおり)宿|website=跡見学園女子大学|date=2004-9-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304131435/http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Historical%20Matter%202/01ka05.htm|archivedate=2016-3-4|accessdate=2019-9-4}}</ref>{{sfn|新編武蔵風土記稿 膝折宿}}。また別に、江戸から徒歩で川越まで歩く行程でくたびれ、膝が痛くなり、さらに歩き[[鶴ヶ島市]]「脚折(すねおり)」では脚が折れるほどくたびれたことから、それぞれ膝折と脚折と呼ばれたともいわれ、この二か所は対(つい)となっている。
'''徒歩から自動車道へ、新道の建設'''<br>
[[1914年]]([[大正]]3年)、川越街道に沿って[[池袋駅]]から[[田面沢駅]]を結ぶ東上鉄道(現在の[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上本線]])が開通し、鉄道時代の幕開けとなった。
[[昭和]]初期になると、交通手段は徒歩から[[自動車]]となった。川越街道も東京都内において道路拡張工事がなされたり、商店街が発達するなどして[[用地買収]]が難しい区間は近くに並行して新道を建設し、現在の川越街道の形になった。並行区間では元の川越街道は「旧川越街道」と呼ばれ、部分的に新道(国道254号)と重なる。[[関越自動車道]]が開通するまでは交通情報の渋滞名所として名高かった上板橋の「五本けやき」は、昭和初期の川越街道の拡幅工事の際に[[上板橋村]]村長であった[[飯島彌十郎|飯島弥十郎]]が屋敷庭の木を残すことを条件に土地を提供したもので、現在も道路の中央に5本の[[けやき]]が残っている。
==== 宿駅の一覧 ====
[[大井宿 (川越街道)|大井宿]]から川越宿の間に藤馬中宿もあった(現在の川越市藤間){{efn|『[[江戸名所図会]]』『[[新編武蔵風土記稿]]』は[[野火止 (新座市)|野火止]]を膝折宿と大和田宿の間の宿としている{{sfn|江戸名所図会|1927|p=77}}{{sfn|新編武蔵風土記稿 野火止宿}}。}}
# 板橋宿(東京都[[板橋区]]):現在の平尾交番付近。
# 上板橋宿(東京都板橋区):豊敬稲荷神社に板橋区教育委員会の設置した板橋宿の碑がある。
# 下練馬宿(東京都[[練馬区]]):浅間神社に練馬区教育委員会の設置した下練馬宿の碑がある。
# [[白子宿 (川越街道)|白子宿]](埼玉県[[和光市]]):現在の白子郵便局付近。
# [[膝折宿]](埼玉県[[朝霞市]]):現在の膝折宿町内会館付近。
# [[大和田宿]](埼玉県新座市):鬼鹿毛の馬頭観音{{efn|大和田字鬼鹿毛。新座市指定有形民俗文化財(彫刻)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.niiza.lg.jp/site/bunkazai/shitei-onikagenobatoukannon.html|title=鬼鹿毛の馬頭観音|website=新座市ホームページ|date=2016-11-25|accessdate=2019-9-14}}</ref>。}}に新座市教育委員会の設置した大和田宿の碑がある。
# [[大井宿 (川越街道)|大井宿]](埼玉県ふじみ野市):現在の「大井中宿」バス停付近。
# 川越宿(埼玉県川越市):[[城下町]]であるが、川越の商人町である上五ヶ町の1つ「高澤町」(たかざわまち)から北の一帯に[[旅籠]]が多かった。
==== 文化、イベント ====
{{節スタブ}}
沿道では川越街道に宿場が置かれたり、参勤交代道だったことなどの歴史に因み、様々なイベントが催されている。
*「下練馬宿まつり・将軍綱吉と練馬大根-練馬だいこん献上絵巻 再現劇」(2019年11月24日,[[北町 (練馬区)|北町]])
*「徳川御殿鷹狩りショー」(2020年10月2日,北町)
== 現在、川越街道新道(国道254号)と旧川越街道 ==
{{also|国道254号}}
=== 概要 ===
* 起点:東京都豊島区[[東池袋]] 池袋六ツ又交差点
* 終点:埼玉県川越市新宿町 新宿町(北)交差点
* 通過する自治体:東京都板橋区・練馬区、埼玉県和光市・朝霞市・新座市・入間郡三芳町・[[富士見市]]・ふじみ野市
池袋六ツ又交差点は、見通しが悪いことや自転車の通行が多いことなどから、都内交差点として、2010年ワースト2<ref>[http://www.sonpo.or.jp/protection/kousaten/kousatenmap22/13/1305.html ワースト2:池袋六ツ又交差点][[日本損害保険協会]]</ref>、2011年ワースト4<ref>{{Cite web|和書|url =http://www.sonpo.or.jp/efforts/reduction/kousaten/kousatenmap23/13/1305.html|title=交通事故多発交差点マップ(平成23年データ準拠)東京都ワースト4:池袋六ツ又交差点|publisher=日本損害保険協会|website=日本損害保険協会ホームページ|accessdate=2019-9-3}}</ref>、2015年ワースト1<ref>{{Cite web|和書|url =http://www.sonpo.or.jp/efforts/reduction/kousaten/kousatenmap27/13/1301.html|title=交通事故多発交差点マップ(平成27年データ準拠)東京都ワースト1:池袋六ツ又交差点|publisher=日本損害保険協会|website=日本損害保険協会ホームページ|accessdate=2019-9-3}}</ref>を記録するなど、交通事故の多い交差点であり、通行の際には注意が必要である<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/jiko/data/w01.pdf | title=典型的な交通事故事例| website = [[警視庁]]ホームページ|publisher=警視庁総務部広報課|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305070930/http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/jiko/data/w01.pdf|archivedate=2016-5-5|accessdate=2019-9-3}}</ref>。また、東京都練馬区の東埼橋交差点から埼玉県新座市の[[英インターチェンジ]]までの区間は、かつて国道254号(川越街道)の一部であった埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道)のバイパスとして建設された区間で、「[[新座バイパス]]」という名称がある。
=== 接続する主な道路 ===
※左が上り線、右が下り線である。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!colspan="2" style="border-bottom: 3px solid red;"|交差する道路
!style="border-bottom: 3px solid red;"|交差点名<br />(空欄は名称なし)
!colspan="2" style="border-bottom: 3px solid red;"|自治体名
|-
|colspan="5" style="text-align:center; background-color:#CCC;"|[[ファイル:Japanese National Route Sign 0254.svg|24px]]国道254号(春日通り)[[大塚 (文京区)|大塚]]・[[小石川]]・[[本郷 (文京区)|本郷]]方面
|-
|style="text-align:center;"|[[東京都道305号芝新宿王子線]]([[明治通り (東京都)|明治通り]])
|style="text-align:center;"|[[東京都道435号音羽池袋線]]<br />東京都道305号芝新宿王子線(明治通り)
|池袋六ツ又
|豊島区
| rowspan="13" |東京都
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道317号環状六号線]](山手通り)
|[[熊野町 (板橋区)|熊野町]]
|rowspan="6" |板橋区
|-
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|[[東京都道420号鮫洲大山線]]
|
|-
|style="text-align:center;"|東京都道420号鮫洲大山線
|style="text-align:center;"|
|[[大山西町]]
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道318号環状七号線]](環七通り)
|板橋中央陸橋
|-
|style="text-align:center;"|[[東京都道445号常盤台赤羽線]](前野中央通り)
|style="text-align:center;"|
|[[東新町 (板橋区)|東新町]]
|-
|style="text-align:center;"|旧川越街道(上板橋1丁目-練馬区北町3丁目まで。上板南口銀座商店街、東上線沿線最長の北一商店街、[[きたまち商店街]]など途中住宅エリアを挟み長大な商店街が連なる)
|style="text-align:center;"|
|上板橋1丁目
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道311号環状八号線|東京都道311号環状八号線(環八通り)]]または[[富士街道]]
|練馬[[北町 (練馬区)|北町]]陸橋
|rowspan="4" |練馬区
|-
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Japanese National Route Sign 0017.svg|24px]]国道17号[[新大宮バイパス]]
|style="text-align:center;"|東京都道311号環状八号線支線
|
|-
|style="text-align:center;"|旧川越街道
|style="text-align:center;"|
|北町3丁目
|-
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|[[東京都道442号北町豊玉線]](旧埼玉道)
|
|-
|style="text-align:center;"|[[東京都道446号長後赤塚線]](松月院通り)
|style="text-align:center;"|
|[[成増]]2丁目
|板橋区
|-
|style="text-align:center;"|埼玉県道109号新座和光線
|style="text-align:center;"|
|東埼橋
|練馬区
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道・埼玉県道68号練馬川口線|埼玉県道68号練馬川口線]]([[笹目通り]])
|和光陸橋
|rowspan="2"|和光市
| rowspan="13" |埼玉県
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[埼玉県道88号和光インター線]]<br/>{{Ja Exp Route Sign|C3}}[[東京外環自動車道]]
|[[理化学研究所]]西門
|-
| colspan="2" style="text-align:center;" |[[東京都道・埼玉県道108号東京朝霞線|埼玉県道108号東京朝霞線]]
|[[朝霞警察署]]前
| rowspan="2" |朝霞市
|-
| style="text-align:center;" |埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道)<br />[[埼玉県道79号朝霞蕨線]]・埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道)
| style="text-align:center;" |
|幸町2丁目
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[東京都道・埼玉県道36号保谷志木線|埼玉県道36号保谷志木線]](片山県道)
|榎木ガード
| rowspan="4" |新座市
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[埼玉県道・東京都道40号さいたま東村山線|埼玉県道40号さいたま東村山線]](志木街道)
|[[野火止]]
|-
| style="text-align:center;" |[[埼玉県道113号川越新座線]]
| style="text-align:center;" |
|大和田
|-
|style="text-align:center;"|埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道)<br />[[ファイル:Japanese National Route Sign 0254.svg|24px]]国道254号バイパス・[[ファイル:Japanese National Route Sign 0463.svg|24px]]国道463号([[浦和所沢バイパス]])
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Japanese National Route Sign 0463.svg|24px]]国道463号(浦和所沢バイパス)
|[[英インターチェンジ|英IC]]
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|[[埼玉県道334号三芳富士見線]]
|藤久保
|入間郡三芳町
|-
|style="text-align:center;"|[[埼玉県道266号ふじみ野朝霞線]]
|style="text-align:center;"|
|[[東入間警察署]]入口
|rowspan="2" |ふじみ野市
|-
|style="text-align:center;"|[[埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線]](富士見通り)
|style="text-align:center;"|埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線・[[埼玉県道163号狭山ふじみ野線]]
|亀久保
|-
|style="text-align:center;"|[[埼玉県道336号今福木野目線]]
|style="text-align:center;"|[[埼玉県道8号川越入間線]]・埼玉県道336号今福木野目線
|
|rowspan="2" |川越市
|-
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Japanese National Route Sign 0016.svg|24px]]国道16号[[川越バイパス (国道16号)|川越バイパス]]・[[ファイル:Japanese National Route Sign 0254.svg|24px]]'''国道254号'''
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Japanese National Route Sign 0016.svg|24px]]国道16号川越バイパス
|新宿町(北)
|-
| colspan="5" style="text-align:center;"|[[埼玉県道51号川越上尾線]] 松江町・[[上尾市|上尾]]方面
|}
=== 交差する鉄道・河川 ===
* [[山手線]](富士見橋、[[池袋駅]] - [[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]間)
* [[埼京線]](富士見橋、池袋駅 - [[板橋駅]]間)
* [[東武東上本線]](富士見橋、池袋駅 - [[北池袋駅]]間)
* [[石神井川]](上板橋)
* [[白子川]](東埼橋)
* [[黒目川]](黒目川橋)
* [[武蔵野線]]([[東所沢駅]] - [[新座駅]]間)
=== 沿線の主な施設 ===
* [[北池袋出入口]](熊野町交差点手前直上、東京都豊島区)
* [[板橋区立板橋第六小学校]](大山駅の近く)
* 北一・[[きたまち商店街]](旧川越街道沿いに、隣駅の上板南口銀座商店街から途中住宅地を挟み、長大な商店街が続いている)
**下練馬宿が置かれた旧川越街道近くの公園(電車の見える公園、浅間神社、北町上宿公園)で2019年(令和元年)11月24日、「下練馬宿まつり・将軍綱吉と練馬大根-練馬だいこん献上絵巻 再現劇」が行われた。また2020年(令和2年)10月2日は「徳川御殿鷹狩りショー」が行われた。北町にはかつて[[徳川綱吉]]御殿があった(北町小学校横に記念碑あり)。
* [[トーホープラザビル|トーホーボール]](ドン・キホーテ)
* [[国際興業バス]]・練馬北町車庫
* [[練馬駐屯地]]
* [[地下鉄赤塚駅]](東京都練馬区)
* [[和光市立広沢小学校]]
* [[朝霞駐屯地]]
* [[埼玉県立朝霞高等学校]]
* [[朝霞警察署]]
* [[新座警察署]]
* [[新座駅]]
* [[跡見学園女子大学]]新座キャンパス
* [[淑徳大学]]埼玉キャンパス(埼玉県入間郡三芳町)
* [[ふじみ野市立大井小学校]](埼玉県ふじみ野市)
* [[川越市立高階中学校]]
=== 旧川越街道 ===
{{節スタブ}}
'''都内区間'''<br>
旧川越街道起点・平尾追分辺りから、6つか7つほどの商店街{{efn|四つ叉通り、遊座大山、ハッピーロード大山、上板南口銀座、北一、きたまち商店街の6つ。そこに店がまばらな下頭橋を含むなら7つ。また連続している商店街、北一・きたまち、四つ叉通り・遊座大山・ハッピーロード大山をそれぞれ一つと数えるなら上板南口銀座を合わせ3つ、下頭橋を合わせるなら4つ。}}、細道や坂道などを通り、その間、国道254号と合流や分岐を繰り返しながら、埼玉県境(東埼橋)の都内側で埼玉県道109号新座和光線に分岐、接続される。旧川越街道と川越街道(254号)の分岐(合流)点は都内区間では6箇所ある。平尾追分から東埼橋までの総距離のうち、254号との重複区間は約2.7Km、重複していない区間は約5.5Km。
都内区間の順路(現在の呼称)<br>
板橋区
*旧中山道の板橋宿平尾追分(旧川越街道起点)
*四ツ又通り商店街(旧川越街道と旧高田道《山の手通り・首都高5号池袋線》の交差点の辺り)
*[[遊座大山商店街]]の通り
*[[ハッピーロード大山]](商店街)
*国道254号に合流
*下頭橋通り(下頭橋通り共栄会。上板橋宿が置かれた場所。大山町と弥生町の境、日大病院入口交差点で254号から分岐し下頭橋通りに入る)
*長命寺坂
*国道254号(下頭橋通りのまばらな商店街、[[石神井川]]にかかる下頭橋、長命寺坂を経て、板橋中央陸橋で254号に合流)
*ガッカラ坂/上板南口銀座(城北中央公園の近くで254号から分岐、ガッカラ坂へ)
練馬区
*北一商店街(上板南口銀座から住宅地エリアを経て、下練馬宿があった北一商店街へ。途中、[[富士街道|ふじ大山道]]とも交差)
*きたまち商店街(旧川越街道)
*国道254号に合流(北町3丁目と赤塚新町1丁目の境、豊島通りや練馬区立北八風の子公園の辺りで254号に合流)
*埼玉県道109号新座和光線(白子川にかかる東埼橋、朝霞署和光交番の辺りで254号から分岐。東京と埼玉の境界。埼玉県和光市へ)
== 川越児玉往還 (旧道) ==
'''川越児玉往還'''は、江戸から川越を経て[[上野国|上州]][[藤岡市|藤岡]]を結ぶ、川越街道と児玉街道(川越道)を合わせた28里半の街道を合わせて[[脇往還|往還]]として宿駅整備されたものである。中山道脇往還川越道ともいう(往還という場合は川越街道では無く川越児玉往還を指すので、川越往還や児玉往還という呼び方は正確には間違いである)。[[巡見使]]や役人は主にこの街道を通った。また女性の利用者が多く「姫街道」という呼称が残っていることでも知られる{{efn|群馬県下仁田町での呼称}}。川越児玉往還に指定された区間のうち川越から児玉までの区間は「'''児玉街道(児玉道)'''」「'''川越道'''」とも呼ばれ、([[塚越宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「塚越村」に、「秩父辺及び西上州へ行く道にて石井村と当村で伝馬の役を勤めり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 塚越村}}。}}・[[石井宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「石井村」に、「川越城下より上野国或いは秩父大里の方へ行く路にてここは駅家なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 石井村}}。}}・[[高坂宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「[[高坂村 (埼玉県)|高坂村]]」に「当村は(中略)江戸より川越にかかりて秩父郡の辺及び西上州へ往く馬継なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 高坂村}}。}}・[[菅谷宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「菅谷村」に「秩父郡或いは中山道に出る脇往還にして人馬継立を成せり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 菅谷村}}。}}・志賀宿{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「志賀村」に「古くは菅谷村の内で、分村したのは[[寛文]]年中と伝えられ、菅谷村と共に人馬次立を行った」旨記述がある{{sfn|新編武蔵風土記稿 志賀村}}。}}・[[奈良梨宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「奈良梨村」に「西上州及び児玉郡八幡山{{efn|武蔵国[[児玉郡]]八幡山町。児玉郡[[児玉町]]を経て、現[[本庄市]]児玉町八幡山。}}辺への通路にして人馬の継場なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 奈良梨村}}。}}・[[今市宿 (武蔵国)|今市宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「[[男衾村|今市村]]」に「一条の街道は江戸及び川越より上州への通路にして当所はその継場なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 今市村}}。}}・[[赤浜宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「赤浜村」に「往還は江戸より川越にかかり上州への通路にて中山道の裏道なりかつ当所はその継場」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 赤浜村}}。}}・[[小前田宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「小前田村」に「当所は江戸より秩父及び上野国への往還係りて(中略)数村へ又馬の継立をなし民家軒を並べて宿駅のさま頗る賑えり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 小前田村}}。}}・[[広木宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「広木村」に「当所は(中略)児玉郡八幡山町へ30町余の人馬の継立をなす」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 広木村}}。}}・[[児玉宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「八幡山町」に「江戸より西上州へ至る脇往還の駅家」{{sfn|新編武蔵風土記稿 八幡山町}}、同「児玉町」に「八幡山町と隔月でその役を務めた」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 児玉町}}。}}・藤岡宿)の旅には通常さらに3日を要した。
=== 概要 ===
江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道は[[大名]]などが利用していたのに対し、川越児玉往還は役人などが多く利用していた。中山道より距離が短いこともあり、その通行者はかなり多かったようである。
現在の国道254号のルーツとなった道であるが、国道254号は各市町村を経由しているので川越市-東松山市間(川島町を経由)、嵐山町-寄居町間(小川町や寄居町を経由)などで一部区間では大きくルートを外れる。
=== 行程 ===
川越児玉往還の全行程を示す。通し番号付きが宿場であり、「何番の宿場(宿場町)」であるかを示す。江戸側が上り、上州(藤岡)側が下りである。上板橋宿、下練馬宿などは旧川越街道にある。歴史的に古い川越児玉往還は、1937年(昭和12年)の都市計画で計画され1941年(昭和16年)に開通した川越街道新道(国道254号)とは経路が違うので注意が必要。
{| class="wikitable"
|-
! rowspan="2" width=15 | !! rowspan="2" | 宿場!! colspan="2" | 江戸期の行政区分!! colspan="3" | 現在の自治体 !! rowspan="2" | 過去の自治体 !! rowspan="2" | 特記事項
|-
! 令制国 !! 郡 !! 都道府県 !! colspan="2" | 市区町村
|-
| rowspan="9" | 川越街道
| 起点:日本橋
| rowspan="20" | [[武蔵国]]
| rowspan="4" | [[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]
| rowspan="4" | 東京都
| colspan="2" | [[中央区 (東京都)|中央区]]
|[[日本橋区]]
| ここから板橋宿平尾追分までは中山道。
|-
| 1. 板橋宿
| rowspan="2" colspan="2" | 板橋区
|北豊島郡[[板橋町]]
| 平尾追分で中山道から分岐。
|-
| 2. 上板橋宿
|北豊島郡[[上板橋村]]
|
|-
| 3. 下練馬宿
| colspan="2" | 練馬区
|北豊島郡[[練馬町]]
|
|-
| 4. [[白子宿 (川越街道)|白子宿]]
| rowspan="3" | [[新座郡]]
| rowspan="16" | 埼玉県
| colspan="2" | 和光市
| [[北足立郡]][[白子村]]
|
|-
| 5. [[膝折宿]]
| colspan="2" | 朝霞市
| 新座郡膝折村
|
|-
| 6. [[大和田宿]]
| colspan="2" | 新座市
| 北足立郡[[大和田町 (埼玉県)|大和田町]]
|
|-
| 7. [[大井宿 (川越街道)|大井宿]]
| rowspan="5" | 入間郡
| colspan="2" | ふじみ野市
| 入間郡[[大井町 (埼玉県)|大井町]]
| 川越宿との間に藤馬中宿あり。
|-
| rowspan="2" |8. 川越宿
| rowspan="2" colspan="2" | 川越市
| rowspan="2" |
| 川越城下。ここまでが川越街道。
|-
| rowspan="12" | [[児玉街道]]
| 児玉街道はここを起点とする。
|-
| 9. [[塚越宿]]
| rowspan="2" colspan="2" | [[坂戸市]]
| rowspan="2" | 入間郡[[勝呂村]]
|
|-
| 10. [[石井宿]]
|
|-
| 11. [[高坂宿]]
| rowspan="3" | [[比企郡]]
| colspan="2" | [[東松山市]]
| 比企郡[[高坂村 (埼玉県)|高坂村]]
|
|-
| 12. [[菅谷宿]]
| rowspan="2" | 比企郡
| [[嵐山町]]
|
|
|-
| 13. [[奈良梨宿]]
| [[小川町]]
| 比企郡[[八和田村]]
|
|-
| 14. [[今市宿 (武蔵国)|今市宿]]
| rowspan="2" | [[男衾郡]]
| rowspan="2" | [[大里郡]]
| rowspan="2" | [[寄居町]]
| rowspan="2" | 大里郡[[男衾村]]
|
|-
| 15. [[赤浜宿]]
|
|-
| 16. [[小前田宿]]
| [[榛沢郡]]
| colspan="2" | [[深谷市]]
| 大里郡[[花園町]]
|
|-
| 17. [[広木宿]]
| [[那珂郡 (埼玉県)|那珂郡]]
| 児玉郡
| [[美里町 (埼玉県)|美里町]]
| 児玉郡[[松久村]]
|
|-
| 18. [[児玉宿]]
| [[児玉郡]]
| colspan="2" | 本庄市
| 児玉郡[[児玉町]]
|
|-
| 19. 藤岡宿
| 上野国
| [[緑野郡]]
| 群馬県
| colspan="2" | 藤岡市
|
| 下仁田道(上州姫街道)と結ぶ。
|}
=== 現在の平行道路 ===
* 国道254号(板橋区-川越市川越城)
* [[埼玉県道344号高坂上唐子線]]([[東松山橋]]南交差点-上唐子交差点)
* 国道254号(上唐子交差点-嵐山町菅谷交差点)
* [[埼玉県道296号菅谷寄居線]](菅谷交差点-深谷市[[花園橋]]北交差点)
* [[埼玉県道175号小前田児玉線]](花園橋北交差点-美里町野中交差点)
* 国道254号(野中交差点-藤岡市)
== 関連道路 ==
* 和光富士見バイパス
* 富士見川越バイパス
* 埼玉県道109号新座和光線(通称:旧川越街道)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ12豊島郡ノ4.上板橋村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|763977/31}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 上板橋村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ13豊島郡ノ5.下練馬村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|763977/49}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 下練馬村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ131新座郡ノ3.野火止宿|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|763996/30}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 野火止宿}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ132新座郡ノ4.膝折宿|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|763996/55}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 膝折宿}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ134新座郡ノ6.下白子村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|763996/75}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 下白子村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ164入間郡ノ9.大井村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764002/76}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 大井村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ169入間郡ノ14.塚越村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764003/24}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 塚越村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ170入間郡ノ15.石井村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764003/28}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 石井村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ190比企郡ノ5.高坂村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764006/20}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 高坂村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ194比企郡ノ9.奈良梨村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764006/80}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 奈良梨村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ195比企郡ノ10.菅谷村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764006/95}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 菅谷村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ195比企郡ノ10.志賀村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764006/96}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 志賀村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ224男衾郡ノ3.赤浜村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764010/68}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 赤浜村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ224男衾郡ノ3.今市村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764010/70}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 今市村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ234榛沢郡ノ5.小前田村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764011/102}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 小前田村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ236那賀郡ノ2.広木村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764012/13}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 広木村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ241児玉郡ノ4.八幡山町|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764012/49}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 八幡山町}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ241児玉郡ノ4.児玉町|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764012/51}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 児玉町}}}}
* {{cite book|和書|title=[[江戸名所図会]]|id={{NDLJP|1174157/43}}|publisher=有朋堂書店|editor=斎藤長秋|volume=3|series=有朋堂文庫|year=1927|chapter=巻之四 天権之部 野火止|pages=77-78,83|ref={{sfnref|江戸名所図会|1927}}}}
== 関連項目 ==
* [[日本の道路一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|url=http://www.city.nerima.tokyo.jp/jo_kokai/memory/f25.html|title=ふるさと練馬の思い出写真 第25話|website=練馬区ホームページ|publisher=練馬区役所|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100109011422/https://www.city.nerima.tokyo.jp/jo_kokai/memory/f25.html|archivedate=2010-01-10|accessdate=2019-9-3}} - 1967年頃の練馬区北町一丁目の街道風景
{{国道254号}}
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かわこえかいとう}}
[[Category:街道]]
[[Category:川越街道|*]]
[[Category:江戸時代の東京]]
[[Category:東京都の交通史]]
[[Category:埼玉県の交通史]]
[[Category:群馬県の交通史]]
[[Category:東京都の道路]]
[[Category:埼玉県の道路]]
[[Category:群馬県の道路]]
[[Category:江戸時代の交通]]
[[Category:国道254号]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E8%A1%97%E9%81%93
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18,461 |
横組み
|
横組み (よこぐみ)とは、日本語組版において、文字の中心を縦方向にして、読む向きを横に並べて版面を構成すること。手書きの場合は横書きという。
現代の和文書体の一文字は、捨て仮名も含めて、基本的に正方形にデザインされる。いわゆる「連綿体」を再現した活字は、これに当てはまらない。
一文字ごとに縦横の長さが異なる欧文書体と異なり、同一の活字で縦組と横組の二種類の組み方向を使い分けることができる。現代のコンピュータ用フォントは、字ごとに字幅が異なる「プロポーショナルフォント」もある。これらは字形に応じて字間が変化するため、平仮名と片仮名を含む文字列を組むときに、縦横の組み方向を替えると同じ字数でも行長が異なることがある。縦横両用の書体は表現力の限界があり、仮名書体を中心に縦組用と横組用の書体が設計された。鈴木勉が設計した写植書体「スーシャ」は、横組専用書体の代表例である。
等幅書体以外の欧文書体は、活字の横幅を示すセットが文字ごとに異なるため、一行あたりの字数は内容によって異なる。活版の組版で誤植があった場合、ピンセットで単純に差し替えることは難しく、単語間の空量調整などを要する。和文活字はセットが等しく差し替えは容易である。欧文の植字で誤植を誘発し易い'y'と'j'などの文字はセットがほぼ等しく崩れは大きくならない。
日本語の文章は、縦組と横組で句読点を変えることがある。縦組で「、。」を使うが、横組で「,。」「,.」の組合せを用いる組み方である。
「書籍を組む」視点で、横組み本は以下の特徴がある。
|
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横組み (よこぐみ)とは、日本語組版において、文字の中心を縦方向にして、読む向きを横に並べて版面を構成すること。手書きの場合は横書きという。
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{{出典の明記|date=2012年8月}}
'''横組み''' (よこぐみ)とは、[[日本語]][[組版]]において、[[文字]]の中心を縦方向にして、読む向きを横に並べて版面を構成すること。手書きの場合は[[縦書きと横書き|横書き]]という。
== 組版と書体 ==
現代の和文[[書体]]の一文字は、[[捨て仮名]]も含めて、基本的に[[正方形]]に[[デザイン]]される。いわゆる「[[連綿体]]」を再現した[[活字]]は、これに当てはまらない。
一文字ごとに縦横の長さが異なる欧文書体と異なり、同一の活字で縦組と横組の二種類の組み方向を使い分けることができる。現代のコンピュータ用[[フォント]]は、字ごとに字幅が異なる「[[プロポーショナルフォント]]」もある。これらは字形に応じて字間が変化するため、[[平仮名]]と[[片仮名]]を含む文字列を組むときに、縦横の組み方向を替えると同じ字数でも行長が異なることがある。縦横両用の書体は表現力の限界があり、[[仮名 (文字)|仮名]]書体を中心に縦組用と横組用の書体が設計された。[[鈴木勉]]が設計した[[写植]]書体「[[スーシャ]]」は、横組専用書体の代表例である。
[[等幅フォント|等幅]]書体以外の欧文書体は、活字の横幅を示す'''セット'''が文字ごとに異なるため、一行あたりの字数は内容によって異なる。活版の組版で[[誤植]]があった場合、[[ピンセット]]で単純に差し替えることは難しく、単語間の空量調整などを要する。和文活字はセットが等しく差し替えは容易である。欧文の植字で誤植を誘発し易い'y'と'j'などの文字はセットがほぼ等しく崩れは大きくならない。
== 組み方向と句読点 ==
日本語の文章は、縦組と横組で[[句読点]]を変えることがある。縦組で「、。」を使うが、横組で「,。」「,.」の組合せを用いる組み方である。{{Main|[[句読点]]}}
== 横組の書籍 ==
「書籍を組む」視点で、横組み本は以下の特徴がある。
* 一行あたりの文字数が少なく、文中に欧文が混ざる(混植)頻度が高い。
* 欧文や数式を挿入しやすいため、学術的な書籍が多い。
* 一頁あたりの行数が多いため、[[禁則処理]]を必要とする箇所が縦組よりも頻繁に現れる。混植により行長に端数が出るために、縦組に比べ、より高度な文字送りの調整が必要になる。
== 関連項目 ==
* [[縦組み]]
* [[組版]] - [[写植]] - [[DTP]]
* [[書体]] - [[活字]] - [[フォント]]
* [[日本語]]
* [[縦組み|縦組]]
* [[縦書きと横書き]]
== 外部リンク ==
* [http://www2.chokai.ne.jp/~assoonas/UC408.HTML 横書き文書の読点]
{{タイポグラフィ用語}}
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[[Category:タイポグラフィ]]
[[Category:書字方向]]
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"Template:出典の明記",
"Template:Main",
"Template:タイポグラフィ用語"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%B5%84%E3%81%BF
|
18,463 |
快速急行
|
快速急行(かいそくきゅうこう)とは、日本の私鉄で運行されている列車種別のひとつであり、英語表記はRapid Express。また事業者によっては日本語表記が快急、英語表記がRapid Exp.と略されることもある。
特急と急行の中間に相当する種別であり、停車駅は基本的に特急より多く(例外あり)、急行より少なく設定される。特急の補完あるいは急行の速達化を目的に設けられるが、特急・急行のどちらに近い種別と位置付けられるかは事業者・路線によって異なる。なお同時に運行している特急が有料列車のみであるときは、料金が別にかからない列車としては最速達種別(JRにおける「特別快速」もしくは「新快速」に相当する種別)となる。なお急行が運行されない路線(あるいはその停車駅が多い路線)では代わりに料金不要の特急が運行され、その上位種別として同じく料金不要の「快速特急」「快特」が運行されるケースもある(快速特急と快速急行が併存している路線も存在する)。
定期列車では南海電気鉄道が1958年(昭和33年)に設定したことが始まり(臨時列車を含めれば前年の1957年に小田急電鉄で運転開始)とされ、以降1972年(昭和47年)に近畿日本鉄道、1976年(昭和51年)に東武鉄道でも設定されたのが初期の例として挙げられる。
日本国有鉄道およびJRでは快速と急行が混ざっており、急行料金を必要とする急行と、普通車の自由席は料金不要の快速との間で混乱をきたす恐れがあるため、「快速急行」の種別名は使用していない。
各社の運行状況は以下の項目を参照のこと。
西武鉄道は池袋線で1980年(昭和55年)3月17日から運転している。2012年(平成24年)6月までは新宿線でも運転していた。2020年(令和2年)3月14日にダイヤ改正を実施し、新宿線で再び運行を開始した。
池袋線では、2022年(令和2年)3月12日より平日朝の通勤ラッシュ時間帯の上り1本のみ飯能 → 池袋駅間、土休日夕方に西武秩父 → 池袋間および東京メトロ(地下鉄)直通の快速急行が、平日9 - 16時台、土休日は8 - 17時台に30 - 60分間隔で設定され、横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から飯能まで最速95分で結ぶ。なお平日のみ有楽町線新木場発の列車も設定されている。
(西武線)池袋駅行き列車の停車駅は池袋 - 石神井公園 - ひばりヶ丘 - 所沢 - 小手指 - 入間市 - 飯能で、飯能 - 西武秩父間は各駅に停車する。地下鉄有楽町線・副都心線直通電車の停車駅は小竹向原 - 練馬 - 石神井公園 - ひばりヶ丘 - 所沢 - 小手指(平日すべてと土休日の一部はここで終着) - 入間市 - 飯能である。飯能より先東飯能方面へは臨時列車以外営業運転は行わない。埼玉西武ライオンズの主催試合など、西武ドームでのイベント開催時には、小手指行きのみなとみらい線・東急東横線・副都心線直通快速急行を西武球場前行きの快速に変更する場合がある。この場合、ひばりヶ丘駅始発の快速急行小手指行きを臨時運行し、所沢・小手指方面への速達性を保っている。
かつては所沢 - 飯能間はノンストップであったが、1993年(平成5年)12月6日のダイヤ改正で現在の停車駅となった。
かつて存在した秩父鉄道秩父本線直通列車にはボックスシートを持つ4000系が使われ、三峰口発着と長瀞発着が併結運転され、横瀬駅で分割・併合を行っていた。西武線内の列車は一般の4扉車を使用する。
1960年代頃より、春・秋の観光シーズンに池袋 - 吾野に「急行 奥武蔵」「急行 伊豆ヶ岳」「急行 正丸」などの愛称が付けられた列車が運行されていた(西武秩父線開業後は西武秩父に延長)。後に「奥武蔵」に愛称が統一された。「奥武蔵」が1980年3月17日改正で快速急行に格上げ後もヘッドマーク表示は「急行」のままであったが、その後ヘッドマークを新デザインに更新した際に急行の文字が取り払われ、現在は「奥武蔵」のみの表示となっている。その他、不定期にヘッドマークを付けて運行される列車もある。
2013年(平成25年)の快速急行の地下鉄直通設定に伴い、同年3月15日まで運転されていた平日昼間の池袋 - 飯能間の快速急行は急行に格下げされた。ただし、直通先で輸送障害が起きて直通運転中止になると、臨時として西武線池袋まで運行することがある。その際、東京メトロ10000系電車や東急5050系電車が運用される場合もある。
2016年3月26日のダイヤ改正以降は、日中時間帯のみなとみらい線元町・中華街駅 - 小手指駅・飯能駅発着の列車でみなとみらい線・東横線内を特急、副都心線内を急行運転する列車に、「Fライナー」の愛称が付けられる。
なお、2020年3月7日まで休日には行楽用として朝の下り2本と夕方上り1本運転され、西武線池袋駅から飯能を経て西武秩父線へ直通し、一部列車はさらに秩父鉄道へ直通した列車が存在した。
また2020年3月14日ダイヤ改正から新桜台駅を通過するようになった。
新宿線の快速急行は、1998年(平成10年)3月から2012年(平成24年)6月まで運転されていた。2008年(平成20年)6月14日ダイヤ改正までは「川越号」の愛称があった。平日の昼間時に急行の速達列車及び特急「小江戸」号の補完列車として西武新宿駅 - 本川越駅間で運行されていた。廃止時の停車駅は西武新宿線を参照のこと。2020年3月14日にダイヤ改正を行い、土休日の日中に、本川越行き下り2本の運行を開始した。
1998年(平成10年)3月のダイヤ改正以前に運転されていた快速急行には、以下の例がある。
東武鉄道では現在、東上本線で運行されている。
2008年(平成20年)6月14日のダイヤ改正よりTJライナーの運行が開始されたことに伴い、改正前の特急に相当する列車の種別として導入された。登場時の停車駅は、池袋 - 和光市 - 志木 - 川越 - 川越市 - 坂戸 - 東松山以北の各駅。従来から運行されている急行や、2013年(平成25年)から運行が開始された快速の上位列車となる。また、TJライナーと比較すると、和光市と志木に停まる一方でふじみ野を通過する。しかし、2023年(令和5年)3月18日のダイヤ改正により、Fライナー急行がFライナー快速急行に格上げされた。また、停車駅が志木駅から朝霞台に変更となり、川越から先は各駅に停まるようになった。朝霞台駅への停車駅変更は武蔵野線との乗り換え客が多いためであり、川越駅以北の各停化は日中時間帯に運行されるFライナーの快速急行化に伴い、川越市駅から先の区間でダイヤを等間隔にするためである。
2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正から、みなとみらい線元町・中華街駅から東急東横線・東京メトロ副都心線直通森林公園発着の快速急行が下りは午前中に3本(うち2本は菊名発、副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内は元町・中華街発1本が特急、菊名発2本が急行)、上りは夕方に2本新設された(副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内特急)。車両は下り1本が東京メトロ車、それ以外は東急車が使用されている。2019年3月16日のダイヤ改正では、下り列車の運行区間が森林公園から小川町まで延長された。
そして2023年3月18日ダイヤ改正から菊名発の1本が相鉄線の海老名始発となった(相鉄線内特急、東横・副都心線内急行)。
全列車10両編成で運転される。池袋発着は平日土休日問わず上下方向どちらも午前中に運転され、上り1本のみTJライナーの送り込みのため、深夜に運転され50090型限定運用で、座席をクロスシートにして運行されている。 2023年のダイヤ改正前の夕方上りは、土休日の副都心線直通列車を除いてTJライナーの送り込みを兼ねていた。TJライナーの送り込み以外の列車は特に使用車両は限定されない。
地下鉄直通列車で運転される快速急行は、全て副都心線方面へ直通する。日中時間帯を中心に設定されており、ほとんどがFライナーである。
小田急電鉄では、遠近の利用者分離と速達化や湘南新宿ラインとの対抗を目的に、それまで存在した湘南急行を発展させるかたちで、2004年12月11日より運転を開始した。
2018年3月17日のダイヤ改正で、多摩線への乗り入れを開始し、停車駅に登戸駅、栗平駅、小田急永山駅、小田急多摩センター駅、唐木田駅が追加された。
小田原線の新宿 - 小田原で運行される系統と、江ノ島線に直通し新宿 - 藤沢で運行される系統が存在している。日中時は毎時各3本(新宿 - 相模大野間は併せて毎時6本)、平日朝ラッシュ時の上りでは毎時各6本(後者は江ノ島線内では急行、新宿 - 相模大野間は併せて毎時12本)設定されている。平日夕ラッシュ時の下りでは毎時各2本のほか、多摩線に直通し新宿 - 唐木田で運行される系統が毎時2本設定されている(新宿 - 新百合ヶ丘間は併せて毎時6本)。
全列車が10両編成で、途中駅での分割併合はない。輸送障害時など、所定の行先ではなく町田・相模大野など途中駅で打ち切りや折り返しとなる場合がある。かつては深夜帯に相模大野ゆきが平日に2本設定されていたが、2018年3月のダイヤ改正で消滅した。
新宿 - 相模大野間の停車駅は、代々木上原・下北沢・登戸・新百合ヶ丘・町田である。これは、急行よりも3駅(経堂・成城学園前・向ヶ丘遊園)少ない。また、2018年3月19日より運行を開始した通勤急行とは千鳥停車の関係にあり、通勤急行が通過する登戸に停車し、通勤急行が停車する成城学園前・向ヶ丘遊園を通過する。
なお、定期列車には存在しないものの、東京メトロ千代田線直通の臨時快速急行(湘南マリン号、丹沢もみじ号)が運行されることがある。
新宿 - 小田原間を結ぶ列車のうち、相模大野より西側は、途中海老名と本厚木 - 新松田間の各駅に停車する。全列車が10両編成で運転されるため、2018年3月16日まで6両編成の急行(●急行、通称赤丸急行)が停車していた開成 - 足柄間は、ホーム有効長の関係から通過する。これは10両編成で運行される急行も同様(これらの駅では2018年3月17日からは急行停車駅から外れた)。このうち、開成駅では10両編成対応工事の完了に伴い、2019年3月16日のダイヤ改正で、2018年3月のダイヤ改正以来1年ぶりの急行停車の再開と同時に、ほぼ全ての快速急行を新松田 - 小田原間で急行に種別変更する形で停車する。
なお、2012年3月17日ダイヤ改正までは平日のみ毎時1本運行で、休日は朝夕の3本のみだった。 同ダイヤ改正から、それまで土休日に設定されていた江ノ島線直通の特急「えのしま」のスジを転用して日中にも毎時1本運行されるようになった。その後、2016年3月26日のダイヤ改正では、日中時間帯における小田原方面の快速急行を毎時3本20分間隔での運行となるが、このうち1本は新松田発着となっていた。
なお日中は上り・下り共に新百合ヶ丘で新宿発着(2018年3月16日までは千代田線直通)の多摩線唐木田発着急行と接続する(ただし、下りは相互接続ではないので快速急行から急行への乗り換えはできない)。
新宿 - 藤沢間のうち、相模大野より南側(江ノ島線内)では、途中中央林間・大和・湘南台・藤沢のみ停車し、江ノ島線急行の停車する南林間と長後は通過する。また、片瀬江ノ島発着の列車は土曜・休日ダイヤのみで、2018年3月16日まで6両編成の急行が停車していた本鵠沼・鵠沼海岸もホーム有効長の関係から通過する(これらの駅では2018年3月17日からは急行停車駅から外れた)。2016年3月26日実施のダイヤ改正以降では、昼間時間帯に藤沢方面の快速急行を従来の毎時2本30分間隔から毎時3本20分間隔となり、小田原線系統と重複する新宿 - 相模大野間では毎時6本約10分間隔での運転に増強されている。全列車が藤沢行き。
2018年3月16日までは、日中の上り・下り共に、代々木上原で千代田線直通の急行と、相模大野で新宿発着の小田原方面の急行と接続するダイヤが組まれていた(ただし代々木上原では相互接続ではないので下りは急行から快速急行へ、上りは快速急行から急行へ乗り換えることはできない)。2018年3月17日から2022年3月11日までは、前者は新宿発着となったため代々木上原での接続が無くなり、後者は上りでは新百合ヶ丘で新宿発着の小田原方面の急行と接続するダイヤが組まれている(下りは引き続き相模大野で接続する)。
2022年3月12日ダイヤ改正までは、休日ダイヤにおいて多くの列車が片瀬江ノ島駅まで乗り入れていた。
2018年3月17日から平日朝夕下り、土休日朝下り・上りと夜下りに設定されている。多摩線内では、急行停車駅と同一である。なお、日中帯は運行されないものの、先述の通り新宿行きの急行が新百合ヶ丘で小田原方面からの快速急行と接続している。
富山地方鉄道の本線・立山線では1997年より平日朝に、電鉄富山駅 - 立山駅間で下り1本が運行されている。本線急行との差異は電鉄富山駅 - 寺田駅間でも速達運転を行う点にある。
なお自動方向幕に快速急行の種別幕が無いため紙に印刷した物が置かれている(車両によってはヘッドマークが掲出される)。種別幕には「急行」の表示が出ている。ワンマン運転時の放送は快速急行の放送が設定されており平日朝は車掌が乗務する。
かつては本線の宇奈月温泉駅 - 電鉄富山駅間にも上りに1本が設定されていたが、2018年3月のダイヤ改正では急行に変更され廃止されている。
大井川鐵道の大井川本線では2023年10月1日より、毎週金曜日とSL急行「かわね路4号」運行日に、新金谷駅 - 家山駅間で1往復が運行されている。大井川鐵道の急行は有料で乗車には急行券が必要だが、快速急行は急行券を必要としない。上り列車(新金谷行き)は新金谷駅到着後、普通金谷行きに変更して運行する。
急行は福用駅を通過するため、停車駅数では急行より多くなっている。また、同時に設定された区間急行も福用駅は通過するが代官町駅には停車するため、快速急行運行区間における停車駅数は同一となっている。
名古屋鉄道における快速急行は1995年から2003年にかけて運転されていたものと、2005年以降に運転系統を変えて再度運転されるようになったものがある。また、1995年以前にも「快速急行」の名称が用いられたことがある。
1983年に、正式な種別ではなかったが、移転した日本福祉大学の美浜キャンパスへの通学輸送のために増発した内海行き急行が「快速急行」と表示されて運行されていた。これは神宮前駅以南に多くの特別通過が設定されたことにより、通常の急行と比べて停車駅が大幅に少なくなっていたためで、 誤乗車を防止するために行われた措置であった。
1988年以降は「高速」に昇格したため、この「快速急行」は消滅している。
このほかにも、臨時列車として増発された1993年7月29日に三河線豊田市行の急行に「快速急行」の名称が使用されたことがある。
1995年4月5日のダイヤ改正で、全車一般席の特急を改称した快速急行が登場した。その後、金山駅発着の常滑線への普通列車を延長する形で新一宮駅(現在の名鉄一宮駅)から運行する列車も設定されていた(新一宮駅 - 金山駅間:快速急行、金山駅以南:普通)。しかし、この快速急行は、改正毎に運転本数が減らされ、2003年3月27日の改正で一部特別車特急に統合され消滅した。
当時の快速急行の停車駅は特急停車駅(当時特別停車扱いだった国府宮駅と新安城駅を含む)+鳴海駅だったが、特急への統合後も停車駅の変更はなく、鳴海駅に特別停車する扱いとなっていた。その後豊橋駅まで延長運転するようになったため、延長運転時より国府駅にも特別停車していた。
このほかにも、正月の豊川線での折り返し運転列車で「快速急行」の名称が使用されたことがある。ただし7000系電車が豊川線の増発列車として快速急行に用いられた際は種別幕は白幕となっており、「快速急行 豊川稲荷」と書かれた特別の系統版を装着しての運行だった。
2005年1月29日の空港線開業に伴うダイヤ改正から、それ以前の急行の標準停車駅及び特別停車駅の整理を行った形で再登場した。急行以上特急未満の位置付けは同じだが、旧快速急行は特急系列車だったのに対し、現快速急行は急行系列車となっており、その性質は全く異なる。名古屋本線と常滑線でのみ、急行と標準停車駅が異なる。以下は現在運転されている快速急行についての記述である。
2005年1月29日のダイヤ改正より終日設定され、改正以前より急行標準停車駅にのみ止まっていた列車を「快速急行」とし、急行標準停車駅と栄生、大里にも特別停車していた列車を「急行」とした(これにより、栄生、大里は急行標準停車駅に格上げ)。なお、豊川線内の停車駅は急行と同一であった。同線では、それまで本線系統(豊橋 - 岐阜間)と豊川線直通系統(豊川稲荷 - 岐阜)の急行がそれぞれ毎時2本運行していたが、そのうち本線系統が快速急行となった。ただし、日中の下り(岐阜方面)は、豊川線直通系統が快速急行となり、本線系統は急行だった。
特別停車を減らす一環で登場させた快速急行であったが、本線東部区間(豊橋 - 神宮前)の標準停車駅は同じであり、朝ラッシュ時間帯には快速急行も特別停車や種別変更する列車が存在した。
2008年12月27日の改正からは、設定区間が名古屋本線神宮前駅 - 岐阜駅間に短縮、上り(豊橋・中部国際空港方面)のみの運転となった。昼間帯以降の快速急行は急行へ変更され、設定は朝方の数本のみとなる(2011年3月26日の改正で数本増発)。
2005年1月29日のダイヤ改正で毎時1本設定されていた佐屋 - 西尾間の急行が快速急行となった。ただし、津島線・尾西線内は上り(名鉄名古屋・西尾方面)のみ快速急行で、下り(佐屋ゆき)は普通となった。津島線、尾西線、西尾線内の停車駅は急行同一だが、直通先の名古屋本線では栄生駅を通過した(改正前は、栄生駅に特別停車していた)。同区間には、全車特別車の特急が毎時1本設定されており、両系統を合わせて優等種別が約30分間隔で運行されるダイヤとなっていた。
2008年6月29日の改正で上述の特急が廃止され、また蒲郡線のワンマン運転区間が吉良吉田 - 蒲郡間に縮小されたため、快速急行の運転区間を吉良吉田まで延長(一部を除く)し、毎時2本へ増発された。また、西尾線では、同日に開業した南桜井駅にも停車する「準急」が新たに設定され、朝と夕方以降の快速急行は、西尾線内は準急に種別変更された。2008年12月27日の改正以降は快速急行が急行に格下げされ、現在に至る。
なお、2008年12月27日改正から2011年3月26日の改正まで、平日の朝ラッシュ帯において、津島線、尾西線では須ヶ口駅から名鉄名古屋駅まで快速急行に変わる国府ゆき(津島線・尾西線内普通。名鉄名古屋から急行)が1本設定され、また、名鉄岐阜駅から名鉄名古屋駅まで快速急行として運行する吉良吉田ゆき(名鉄名古屋から急行。西尾線内は準急)が1本設定されていた。
常滑線では2005年1月29日のダイヤ改正より、急行特別停車駅であった大江駅を通過する列車を「快速急行」とし、同駅にも停車していた列車を「急行」とした。空港線、河和線、知多新線の停車駅は急行と同じであり、運行本数は朝ラッシュ時間帯に数本設定されるのみであった。河和線、知多新線はこの時設定されたタイプの快速急行を現在まで踏襲している。
一方、常滑線、空港線では2008年12月27日の改正より全車一般車特急として運行されていた列車を快速急行へ改称し、停車駅も特急と同一にするなど、1995年に登場した初代快速急行に近い位置付けに変更された。2011年3月26日の改正では深夜便が再び全車一般車特急に戻されたが、朝ラッシュ時間帯においては減便となった中部国際空港ゆき一部特別車の特急を補完する形で快速急行が増発された。
犬山線では2005年1月29日のダイヤ改正で、同線の急行が特別停車していた名古屋本線の栄生駅を通過する列車が「快速急行」、停車する列車が「急行」になった。一方、同じく急行の特別停車駅であった扶桑駅は準急停車駅となったが、名古屋方面の快速急行のみ特別停車していた。設定本数は朝方の数本と少なく、犬山方面の1本には6000系列、名古屋方面の4本には3300・3500・3700系電車のいずれかが使用され、いずれも犬山駅(上りの2本のみ新鵜沼駅)以南は8両で運転されていた。なお、快速急行はこの時各務原線と広見線にも設定されていたが、実際に線内を快速急行として運行される列車はなく、また設定上の停車駅も急行と同一だった。
2008年12月27日改正以降は扶桑駅が快速急行停車駅となり、上り(名鉄名古屋方面)のみの設定となった。平日朝ラッシュ帯に上り4本が運行され、すべての列車が名鉄名古屋駅で種別変更する。2011年3月26日の改正からは2本に減少したが、このうち1本は各務原線の名鉄岐阜発で、各務原線内も快速急行として運行する(これにより、各務原線で初めて快速急行が運行されたことになる。なお、2023年3月18日の改正で各務原線内の列車は普通のみとなり、快速急行は消滅した)。また、使用車両が2本とも5000系電車の8両編成(いずれも犬山駅以南)に変更された。
近畿日本鉄道では、難波線・奈良線・大阪線・山田線・鳥羽線で定期に運転されているほか、南大阪線・吉野線でも臨時に運転されることがある。また、京都線でも過去に運転されていた。英語表記は“RAPID EXP.”。
難波線・奈良線では、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間でほぼ終日運行されている。同区間の主力列車で、一般車両を使う列車種別では最上位である。
その前身は、1956年に運転開始した、鶴橋・西大寺のみ停車する上本町 - 近畿日本奈良(当時)間に設定された料金不要の特急だが、他線区で設定されていた有料特急と紛らわしいということもあり、1972年に特急から快速急行に種別変更し、同時に生駒駅・学園前駅を停車駅に加えている。なお、翌年からは同区間に有料特急も新たに設定されている。快速急行は1980年から平日の朝に10両編成で運行される列車が登場し、現在は平日ラッシュ時のほとんどの列車は10両編成となっている。2000年3月15日より、新大宮駅にも停車するようになった。2022年時点の近鉄線内の停車駅は、近鉄日本橋駅 - 大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 生駒駅 - 学園前駅 - 大和西大寺駅 - 新大宮駅で、平日の朝に菖蒲池駅に臨時停車する列車もある。
2009年3月20日、阪神なんば線の開業に伴い、阪神三宮(当時)-近鉄奈良間で相互直通運転が開始された。快速急行については、神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通する唯一の列車種別として位置づけられ、一部の列車が大阪難波駅発着である以外は、早朝・夜間以降は尼崎駅まで、それ以外は神戸三宮駅まで直通している。この阪神直通の快速急行も朝晩の列車はほぼ8両または10両編成となっているが、阪神側の駅ホーム設備の都合により、尼崎駅で増解結を行い阪神本線内(尼崎以西)は6両となる。阪神本線内の快速急行停車駅(芦屋駅を除く)でホームが近鉄車両8両編成に対応する長さに延伸されたため、2020年3月14日のダイヤ変更より、土休日ダイヤにおいては、これまで6両編成で運転されていた列車のほぼすべてが8両編成で運転される。
現行のダイヤは、主に準急または区間準急と東花園以東奈良方面各駅停車が、準急または区間準急とセットとして運行している。準急・区間準急は、上下とも8割方が、石切・布施(一部は、東花園)で通過追越を、東花園以東近鉄奈良方面各駅停車は、布施・八戸ノ里・東花園・瓢箪山・石切・東生駒のいずれかで通過追越を行い、奈良県内(生駒・奈良市内)の各駅から大阪市内を結ぶ速達列車との位置づけである。なお、かつては日中のみ急行と交互に運行されていたが、後に夕方以降も一部の快速急行が急行に置き換えられたこともあり、以前と比べて運行本数は減少している。
毎月26日の天理教祭典日には、大阪難波行き快速急行の折り返し回送列車を営業列車化させる形で大阪難波駅発天理行き臨時急行が増発されるほか、平日ダイヤで朝に1本設定されている神戸三宮駅発大和西大寺行きが天理行きに延長される(大和西大寺まで快速急行、大和西大寺から臨時急行の扱い)。この運用は2021年7月のダイヤ変更で定期運用に変更されている。なお、通常ダイヤでは快速急行が急行を待避・通過待ちさせることはないが、前者は通常ダイヤでは大阪難波駅折り返し後の入庫回送列車であるため、布施駅で快速急行を待避する。
車両面では阪神電鉄直通列車においては、相互直通運転対応工事が行われたシリーズ21ないしL/CカーおよびVVVFインバータ制御車両に限定して運用されるが、近鉄線内で完結する大阪難波駅発着列車に限ってはそれ以外の一般車両も運用されている。
大阪線・山田線・鳥羽線では、大阪上本町駅 - 名張駅・青山町駅・松阪駅(下りのみ)・宇治山田駅(平日下りのみ)・五十鈴川駅(土休日下りのみ)・鳥羽駅(夕方下りのみ)間で運行されている。最長運転区間の大阪上本町駅 - 鳥羽駅間の運転距離は150.4kmと、料金不要一般列車では非常に長い距離を走行する。
停車駅は、大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 五位堂駅 - 大和高田駅 - 大和八木駅 - 桜井駅 - 榛原駅 - 室生口大野駅 - 赤目口駅から青山町駅までの各駅 - 榊原温泉口駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅 - 伊勢市駅 から鳥羽駅までの各駅である。
運行時間帯は朝晩のみで、編成両数は6両を基本に青山町駅以西では最大10両で運転されており、大阪府大阪市の鶴橋から奈良県香芝市の五位堂までの26kmをノンストップで走り、通勤時間帯の大阪市内と奈良県内(中和地区・宇陀市)、三重県内(名張市・伊賀市)間の速達列車としての位置づけである。これは、布施駅の駅構造の問題(通過線がホームの無いところにあり、緩急接続ができない)や、急行が停車する河内国分駅、大和朝倉駅、長谷寺駅、三本松駅のホーム有効長が6両分しかなく、ラッシュ時の急行6両運転では輸送力に問題が生じることによるものである(ドアカットは行っていない)。また松阪駅以東発着の一部列車については伊勢中川駅で名古屋方面からの急行に、名張駅・青山町駅発着の一部列車については名張駅・青山町駅で伊勢中川方面からの普通列車に接続を受ける。朝ラッシュ名張発上りは鳥羽線、山田線内発の急行名張行きとして運行して当駅で増結した上で改めて快速急行となる運用がある。
快速急行は、布施駅の3層化改造工事の完成にともなって1978年3月に行われたダイヤ改正から、従来運行していた旧・急行を名称変更する形で登場した(五位堂駅は2001年3月、美旗駅は2003年3月から停車で、それ以前は通過していた。また五位堂は1987年9月まで区間快速急行・急行も通過していた)。また、同様に区間快速急行も「区間急行」の名称を変更して登場した。その上で、昼間時にのみ、従来の急行・区間急行に代わって布施駅・榛原 - 榊原温泉口間各駅に停車する現・急行が新設された。このダイヤ改正時に奈良線にも布施駅に停車する現・急行が新設され、布施駅での大阪線・奈良線の連絡が改善され、現在のダイヤの基本形が完成している。また2012年3月20日の白紙ダイヤ変更までは室生口大野駅と赤目口駅を通過し、伊賀上津駅・西青山駅・東青山駅に停車していた。
この路線の快速急行は前述の奈良線とは異なり難波線には乗り入れていない。
2016年ダイヤ変更以前までは大和八木駅終着の列車、2003年ダイヤ変更以前と2012年度ダイヤでは伊勢中川駅始発の列車、2020年ダイヤ変更までは鳥羽駅始発の列車も設定されていた。
以前は、大阪線・山田線のみに設定されている種別で、わずか2駅(室生口大野駅、赤目口駅)だけ当時の快速急行より停車駅が多く、運行本数は快速急行より多かった区間快速急行もあった。方向幕や案内では略称の区間快速と表記、案内されていた。英語表記は "SUB. RAPID EXP." ("Suburban Rapid Express" の略) であった。廃止直前の運転区間は大阪上本町駅 - 大和八木駅(下り最終の1本のみ)・名張駅(上り最終の1本のみ)・青山町駅・伊勢中川駅(上り1本のみ)または松阪駅間(越年終夜運転時は五十鈴川駅まで延長)。2012年3月20日のダイヤ改正で、区間快速急行は快速急行と統合され、廃止された。
廃止前の停車駅は、大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 五位堂駅 - 大和高田駅 - 大和八木駅 - 桜井駅 - 榛原駅 - 室生口大野駅 - 赤目口駅から榊原温泉口駅までの各駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅であった。
車両面では、快速急行および廃止された区間快速急行共に青山町駅以東を運行する列車は運転距離が100kmを超える関係から、原則として大阪線および名古屋線所属車両の中でも5200系やL/Cカーなどのクロスシートを備えた車両(これらの車両はトイレ付き車両が連結されている)か、ロングシート車両の中でもトイレ付き車両を連結する(2610系や1200系など)の形式に限定されて運用される(増結編成はこの限りでない) 。
南大阪線・吉野線では、春の行楽期に臨時列車として「さくら号」などの愛称がついた快速急行が運転される。ただし、愛称無しで運転されることもある。
2012年3月の白紙ダイヤ変更で、一部の特急が古市駅に停車するようになって以降は、快速急行と古市停車の特急では停車駅が同一となっているが、吉野線が単線であることから、長時間停車がある。
過去には、秋の行楽期や藤井寺球場での野球開催日にも運転されたことがあり、愛称も「ぼたん号」「あすか・みよしの号」「なし狩号」(「20世紀号」より改称)「バファローズ号」などがあった。梨狩りの時期に限っては大阿太駅に、野球開催時には藤井寺駅にも臨時停車していた。
1970年代までは列車種別を「快速」(近鉄では快速は急行より上位種別)としていたが、奈良線に快速急行が運転されるようになったのと相前後して快速急行に改称した。
京都線には、1988年のなら・シルクロード博覧会の際に臨時運行したのを契機に、土日の昼間時間帯に臨時列車として快速急行が1時間に1本設定されていた(当時の停車駅は竹田駅、近鉄丹波橋駅、大和西大寺駅)が、定期列車として1998年3月17日から2003年3月6日まで、京都駅 - 近鉄奈良駅間に快速急行が運転されていた。定期列車時の停車駅は竹田駅 - 近鉄丹波橋駅 - 大和西大寺駅 - 新大宮駅(2000年改正以降)と、同区間を運転する急行と比べてはるかに少なく、特急停車駅に竹田と新大宮を追加した形だった。
新設時の運転本数は土日午前2本、午後2本の計4本であった。その頃の快速急行待避駅は奈良県内では高の原駅で、同駅を通過する快速急行を急行が待避していた。2000年からは京都 - 奈良間の昼間の急行が全面的に快速急行へ格上げされた。快速急行が通過する急行停車駅の利用者は同年から新設された京都市営地下鉄烏丸線直通(国際会館駅発着)の急行を竹田駅で連絡することで補った。
京都線の快速急行は2003年3月6日に急行に統合され廃止された。
高野線の快速急行は2003年5月31日に昼間時間帯の難波駅 - 極楽橋駅間の急行の一部を千早口駅・天見駅・紀見峠駅通過に変更して登場した。また2008年11月1日のダイヤ改正から平日の夕方のラッシュ時に難波発橋本行きを運行している。なお極楽橋発着は2扉車のズームカーで平日の夕方のラッシュ時に運行される難波発橋本行きは20m4扉車でそれぞれ運用される。
また高野線では1958年~1968年にも快速急行が存在していたが(現在の急行)、この時の停車駅は新今宮駅・堺東駅・北野田駅と河内長野駅以南の各駅であった(新今宮駅は1966年の駅開設時より停車)。当時の急行はこれに加え住吉東駅・三国ヶ丘駅・初芝駅に停車していた。極楽橋駅の行灯式案内表示機における「快急」の表示はこの当時のもので30数年ぶりに定期使用されたことになる。現在の停車駅は難波駅 - 新今宮駅 - 天下茶屋駅 - 堺東駅 - 北野田駅 - 金剛駅 - 河内長野駅 - 三日市町駅 - 美加の台駅 - 林間田園都市駅から極楽橋駅までの各駅である。
輸送障害時などに20m4扉車が代走する場合があり、この場合は難波駅 - 橋本駅間のみで運行され、以降は運転打ち切りとなる。
京阪電気鉄道では2008年10月19日に中之島線開業に合わせて同線および京阪本線・鴨東線にて運転が開始された。また、深夜には交野線直通の列車も運行されていた。なお、京阪の快速急行運転開始で、関西の五大大手私鉄すべてに快速急行が存在することとなった。
阪神電気鉄道では本線・神戸高速線と阪神なんば線で運転されている。英語表記は“RPD. EXP.”。
阪神本線においては、1983年(昭和58年)に運行を開始した。当初は梅田 - 三宮(当時)間に休日昼間時の西宮止まりの急行を延長する形で設定された。他社の快速急行と大きく異なる点は、通常は特急と急行の中間の種別として設定されるのに対し、阪神本線においては設定以来千鳥停車により実質特急と同等か、区間によってはそれ以上の種別として扱われている点にある。同様の例は他に2007年3月6日のダイヤ改正以前の西武新宿線に見られる程度であったが、特急が有料、快速急行が無料という差はあった。設定当初は、西宮までは従来の急行停車駅(野田・尼崎・甲子園)に停車し、西宮 - 三宮間は無停車(大阪方面行きはこれに青木が加わっていた)での運行であった。当時12分ヘッドであった特急と併せて、実質阪神間を6分ヘッドで優等列車が走るようになったが、運行開始当初は大阪方面行きは青木で特急待避したため、6分ヘッドとなったのは実質神戸方面行きのみであった。
その後平日にも快速急行の運行が拡大し、青木待避を中止するなどして特急とともに阪神本線の主要優等列車となった。西宮 - 三宮間は完全に無停車で特急より上位の最優等列車となる。のちに六甲ライナーとの連絡のため魚崎が停車駅に追加される。2009年3月20日の阪神なんば線大阪難波延伸開業までは、西宮 - 三宮(当時)間では、特急より1駅停車駅が少ない状態が続いた。
山陽電気鉄道との直通特急運転開始のダイヤ改正で日中が10分ヘッドに変更され直通特急・特急が増発されたことと引き換えに、快速急行は平日夕方の梅田 - 三宮(当時)間のみの運行に縮小された、併せて魚崎を通過とする代わりに青木に再び停車して上りでは普通と連絡したほか、HAT神戸へのアクセスも考慮して岩屋にも新規で停車したが、特に上りでは、三宮(当時)の発車ホームが異なる上に梅田方面の阪神普通が到着する直前に発車してしまうため接続が悪く(特に上りの三宮(当時) - 山陽須磨間で直通特急が停車しない駅からの普通利用の場合。夕ラッシュの山陽普通は高速神戸で阪神普通に接続する)、利用率はあまり高くなかった。
西大阪線(現:阪神なんば線)では1974年の西大阪線特急廃止後、長きにわたって線内を往復する普通のみが運転されていたが、2009年3月20日の阪神なんば線延伸開業に伴い、三宮(当時)から当路線を介して上記の近鉄奈良線近鉄奈良駅の間で相互直通運転が開始され、快速急行は神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通する種別として運転されるようになった。阪神なんば線開業直後の本線内の停車駅は魚崎 - 芦屋 - 西宮 - (今津) - 甲子園 - (武庫川) - 尼崎だった。なお今津は土休日に、武庫川は平日昼間と土休日に停車(これは選択停車の形態と言える)。これに伴い、梅田 - 西宮間で運転されていた急行の一部が梅田 - 尼崎間の運転となり、尼崎で快速急行に接続する形に変更された。また西宮 - 神戸三宮間(今津・武庫川を通過する時間帯では尼崎 - 神戸三宮間)において、御影に停車しない分、実質的に特急より上位の種別となる。御影に関しては利用客数も多く、停車の要望も大きかったが、ホームが急カーブ上にあるため21m級と大柄な近鉄車両に合わせたホーム延伸が不可能であること、オーバーハングが大きくホームと車両との隙間が大きくなりすぎて危険なため通過となった。このため御影は通過駅ではあるが、分岐器制限との関係もあり、超低速で通過する。
2012年3月20日のダイヤ改正より土休日ダイヤの朝7時 - 8時台の近鉄奈良行き快速急行3本が新開地始発となり、神戸高速線を走行する快速急行が新たに設定された。神戸高速線内では各駅に停車する。なおこの3本はともに神戸三宮発新開地行き普通(2016年3月19日のダイヤ改正前までは特急)の折り返しとなるため1000系・9000系の限定である。このほか夜間に神戸三宮発尼崎行き(尼崎で普通に種別変更し阪神なんば線に直通)が設定されている。
2020年3月14日のダイヤ改正より、土休日ダイヤにおいてこれまで6両編成で運転されていた列車のほぼすべてが8両編成で運転されるようになり、踏切に挟まれてホームを延伸できない芦屋駅をすべての列車が通過する(平日はすべて本線内を6両編成で運転するため終日停車)。また平日昼間には、武庫川に停車する列車が今津にも停車するようになった。これにより、神戸三宮 - 尼崎間の停車駅は魚崎 - (芦屋) - 西宮 - (今津) - 甲子園 - (武庫川) - 尼崎となっている(平日の昼間と土休日は今津・武庫川に停車し、土休日は芦屋を通過)。
阪急神戸本線と同様、毎年開催されているみなとこうべ海上花火大会当日または神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜に限り、阪神なんば線の定期列車を延長する形で、夜間に神戸三宮発尼崎行き臨時快速急行が運転されている。
阪神なんば線では西九条 - 大阪難波間が延伸開業した2009年3月20日より運行を開始。快速急行は基本的に神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通して運行されるが、早朝・夜間に限り本線には乗り入れず尼崎 - 近鉄奈良間での運転となるほか、平日朝には大阪難波行き(大阪難波で普通に種別変更)の設定がある。阪神なんば線内では尼崎から西九条までの旧西大阪線区間の中間駅を全て通過し、新規に開業した西九条 - 大阪難波間は各駅に停車する。種別の色表示は阪神(水色)と近鉄(赤色)とで異なるため、近鉄線方面行きは桜川駅発車後に、阪神線方面行きは大阪難波発車後にそれぞれ表示変更する。なお、当線での当種別の運行開始直後は、近鉄線から乗り入れる各駅停車の本数の都合上、平日昼間時間帯のみ尼崎 - 大阪難波間で各駅に停車して旧西大阪線区間における各駅停車の機能も担っていたが、2012年3月20日のダイヤ改正で旧西大阪線区間の中間駅への停車は取り止められた。
かつては、毎月26日の天理教祭典日のうち平日ダイヤに該当する日のみ、朝に臨時快速急行天理行き(大阪難波から臨時急行に種別変更)が1本あったが、これは現在は大和西大寺行きとして定期列車化されている(前出の天理教祭典日のみ、大和西大寺で急行に種別を変更した上で天理まで延長運転)。
かつて東武鉄道では、伊勢崎・日光線系統で特急「けごん」・「きぬ」の補完を果たす列車として、1976年(昭和51年)より1991年(平成3年)まで、快速用としても用いられる6000系(1976〈昭和51〉- 1986〈昭和61〉)・6050系(1985〈昭和60〉- 1991〈平成3〉)および5700系(1976〈昭和51〉- 1988〈昭和63〉)を用い、全車座席指定席制として快速急行券(1988年〈昭和63年〉より座席指定券)を徴収する優等列車として運転されていた。昼行列車の停車駅は、北千住駅に下り列車が停車するようになる1997年(平成9年)以前の急行のそれとほぼ同じであった。
快速急行の設定以前、同列車は「急行」として運転されていた。しかし、伊勢崎線急行(当時)「りょうもう」用の1800系と比較して停車駅・車両設備(非冷房でボックスシート)ともに劣るため、「快速急行」として種別を分けたものである。すなわち、一般的な例とは逆に、この快速急行は急行よりも下位の種別となっており、この列車の場合は「快速な急行」(急行の派生種別扱い)ではなく、「全車指定席の快速」に「快速急行」の種別を割り当てたもの(快速の派生種別扱い)である。
1991年(平成3年)に定期列車は急行用車両300系・350系(いずれも前述の1800系からの改造車)へ置き換えられ、車両設備がふさわしいものとなったため「急行」に種別を改めた。同年以降も快速急行は夜行列車「スノーパル」・「尾瀬夜行」を中心に臨時列車として運行されたが、夜行列車についても使用車両の変更に伴い、2001年(平成13年)に急行へ、さらに2006年(平成18年)からは特急へ格上げされており、これ以降「快速急行」は事実上運行されていない。
なお、料金不要の「急行」が運行されている現行体制において、同様の性格の列車(一般車両による座席指定列車)が設定される場合、「THライナー」のように列車愛称名が種別を兼ねる形を採っている。
西日本鉄道の天神大牟田線においては、2001年1月20日のダイヤ改正において、大牟田駅・西鉄柳川駅 - 西鉄福岡(天神)駅間で朝ラッシュ時に上りのみ運行開始された。それまでは朝ラッシュ時の上り急行は、8両編成を使用する運用に限り、二日市以北の急行停車駅(大橋駅・春日原駅・下大利駅)を通過していたが、同日のダイヤ改正により全列車が停車することになったので、その代替として運行されるようになった。
快速急行は、西鉄で唯一8両編成で運行され(他の列車は最大7両)、車両も4扉の6000形・6050形が限定的に使用された(なお、2編成繋いだだけであるため、編成間での通り抜けはできなかった)。停車駅は、急行の停車駅から春日原駅・下大利駅を除いたものとされた。停車駅から2駅を除いたのは、遠距離通勤客と近距離通勤客を分離するため、および上記2駅がホーム端に踏切があるためホーム延長に対応できないと言った制約などにより、8両編成の列車が停車できないためである。また、女性専用車両の設定に関して、乗車位置が快速急行に限り、他の種別と異なる駅も存在するが、その場合は種別カラーのオレンジ色を用いて他の種別と専用車両の乗車位置の違いを区別した。
この運用は、2010年3月27日のダイヤ改正で折り返しの送り込み列車である「直行」とともに廃止され、すべての列車が7両で運行されるようになった。
2001年3月から2007年3月まで平日夕方に大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋駅から阪急京都本線直通河原町行きを運行していた(通称「堺筋快速急行」)。堺筋線内は各駅に停車していた。
1987年から2022年まで運行されていた。神戸本線・京都本線で運転されていた。英語表記は“Rapid Exp.”。また過去に宝塚本線でも運転されていた。2022年12月のダイヤ改正において快速急行の種別は消滅となり「準特急」と名称が変更された。
神戸本線では1987年に運行を開始した。設定の趣旨は、特急運転終了後の深夜帯の速達サービスの充実で、当時の特急停車駅に塚口・夙川・六甲を追加して従来の急行(西宮北口以西各駅)を格上げする形で登場した。快速急行はその後も定着し、2019年時点で早朝と深夜に大阪梅田駅 - 神戸高速線新開地駅間(深夜に上りの西宮北口行きあり)で運行されている。停車駅は十三・塚口・西宮北口・夙川・岡本・六甲・神戸三宮 - 新開地間の各駅。2006年10月28日からのダイヤでは通勤特急の停車駅に夙川駅が加わり、快速急行との停車駅の違いが六甲駅を通過するか否かだけとなっている。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災までは、正月三が日や行楽期の午前中、あるいは沿線の中学・高校の登校日の土曜日昼間(ただし下りのみ)にも梅田 - 三宮(当時)間に臨時快速急行が運転されていた。正月三が日や行楽期の運転では六甲駅で特急を待避するダイヤで、登校日の土曜日昼間は梅田駅発特急の1分後(続いてその1 - 2分後に普通が発車)に発車し、そのまま三宮(当時)まで逃げ切るダイヤであった。現在では、毎年開催されているみなとこうべ海上花火大会当日または神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜に限り、梅田行きのみ運転されていた。なお、表示幕には『臨時快速急行』も用意されているが、臨時列車でも定期列車と同じく『快速急行』を掲示している。
京都本線では1997年3月2日ダイヤ改正から導入された。当時の特急の停車駅に桂駅を加えたもので、当初は平日朝1本と夜間の特急運転終了後に4本、いずれも梅田(当時)発河原町(当時)行きとして運行していた。
その後2001年3月24日のダイヤ改正で特急系統・急行系統の整理が行われ、それまでの快速急行は快速特急に名称が変更され、同時に従来の急行が快速急行と名称を変更されて運行されるようになった。なお、2001年以降「急行」は従来の停車駅に南茨木駅と高槻市以北(以東)の各駅を加えて運転されている。しかし同線の急行は2007年3月のダイヤ改正で「準急」に変わって休止された。
現在の快速急行は平日の日中を除く時間帯と休日の早朝・深夜に大阪梅田 - 京都河原町間(特急系統よりも始発が早く、終車が遅い)で運行されている。停車駅は十三・淡路・茨木市・高槻市・長岡天神・桂・西院・大宮・烏丸。平日ダイヤの朝夕ラッシュ時は通勤特急と交互に運行されている(通勤特急は淡路を通過する)。深夜の下り1本のみ高槻市行きである。なお平日夕方に大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋発河原町(当時)行きでも運行されていたが(通称「堺筋快速急行」)、2007年3月のダイヤ改正で準急(通称「堺筋準急」)に変更された。
宝塚本線では2003年8月30日より2006年10月28日の改正まで昼間時間帯にそれまで運行されていた特急・急行に代わり梅田(当時) - 宝塚間で運行されていた。2006年の改正で全列車が急行に格下げされ廃止された。
停車駅は十三・豊中・蛍池・石橋(現:石橋阪大前)・池田・川西能勢口・雲雀丘花屋敷・山本(急行は十三・豊中 - 宝塚間の各駅。廃止前の特急は蛍池・雲雀丘花屋敷を通過)。
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"text": "快速急行(かいそくきゅうこう)とは、日本の私鉄で運行されている列車種別のひとつであり、英語表記はRapid Express。また事業者によっては日本語表記が快急、英語表記がRapid Exp.と略されることもある。",
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"text": "特急と急行の中間に相当する種別であり、停車駅は基本的に特急より多く(例外あり)、急行より少なく設定される。特急の補完あるいは急行の速達化を目的に設けられるが、特急・急行のどちらに近い種別と位置付けられるかは事業者・路線によって異なる。なお同時に運行している特急が有料列車のみであるときは、料金が別にかからない列車としては最速達種別(JRにおける「特別快速」もしくは「新快速」に相当する種別)となる。なお急行が運行されない路線(あるいはその停車駅が多い路線)では代わりに料金不要の特急が運行され、その上位種別として同じく料金不要の「快速特急」「快特」が運行されるケースもある(快速特急と快速急行が併存している路線も存在する)。",
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"text": "定期列車では南海電気鉄道が1958年(昭和33年)に設定したことが始まり(臨時列車を含めれば前年の1957年に小田急電鉄で運転開始)とされ、以降1972年(昭和47年)に近畿日本鉄道、1976年(昭和51年)に東武鉄道でも設定されたのが初期の例として挙げられる。",
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"text": "日本国有鉄道およびJRでは快速と急行が混ざっており、急行料金を必要とする急行と、普通車の自由席は料金不要の快速との間で混乱をきたす恐れがあるため、「快速急行」の種別名は使用していない。",
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"text": "各社の運行状況は以下の項目を参照のこと。",
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"text": "西武鉄道は池袋線で1980年(昭和55年)3月17日から運転している。2012年(平成24年)6月までは新宿線でも運転していた。2020年(令和2年)3月14日にダイヤ改正を実施し、新宿線で再び運行を開始した。",
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"text": "池袋線では、2022年(令和2年)3月12日より平日朝の通勤ラッシュ時間帯の上り1本のみ飯能 → 池袋駅間、土休日夕方に西武秩父 → 池袋間および東京メトロ(地下鉄)直通の快速急行が、平日9 - 16時台、土休日は8 - 17時台に30 - 60分間隔で設定され、横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から飯能まで最速95分で結ぶ。なお平日のみ有楽町線新木場発の列車も設定されている。",
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"text": "(西武線)池袋駅行き列車の停車駅は池袋 - 石神井公園 - ひばりヶ丘 - 所沢 - 小手指 - 入間市 - 飯能で、飯能 - 西武秩父間は各駅に停車する。地下鉄有楽町線・副都心線直通電車の停車駅は小竹向原 - 練馬 - 石神井公園 - ひばりヶ丘 - 所沢 - 小手指(平日すべてと土休日の一部はここで終着) - 入間市 - 飯能である。飯能より先東飯能方面へは臨時列車以外営業運転は行わない。埼玉西武ライオンズの主催試合など、西武ドームでのイベント開催時には、小手指行きのみなとみらい線・東急東横線・副都心線直通快速急行を西武球場前行きの快速に変更する場合がある。この場合、ひばりヶ丘駅始発の快速急行小手指行きを臨時運行し、所沢・小手指方面への速達性を保っている。",
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"text": "かつては所沢 - 飯能間はノンストップであったが、1993年(平成5年)12月6日のダイヤ改正で現在の停車駅となった。",
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"text": "かつて存在した秩父鉄道秩父本線直通列車にはボックスシートを持つ4000系が使われ、三峰口発着と長瀞発着が併結運転され、横瀬駅で分割・併合を行っていた。西武線内の列車は一般の4扉車を使用する。",
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"text": "1960年代頃より、春・秋の観光シーズンに池袋 - 吾野に「急行 奥武蔵」「急行 伊豆ヶ岳」「急行 正丸」などの愛称が付けられた列車が運行されていた(西武秩父線開業後は西武秩父に延長)。後に「奥武蔵」に愛称が統一された。「奥武蔵」が1980年3月17日改正で快速急行に格上げ後もヘッドマーク表示は「急行」のままであったが、その後ヘッドマークを新デザインに更新した際に急行の文字が取り払われ、現在は「奥武蔵」のみの表示となっている。その他、不定期にヘッドマークを付けて運行される列車もある。",
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"text": "2013年(平成25年)の快速急行の地下鉄直通設定に伴い、同年3月15日まで運転されていた平日昼間の池袋 - 飯能間の快速急行は急行に格下げされた。ただし、直通先で輸送障害が起きて直通運転中止になると、臨時として西武線池袋まで運行することがある。その際、東京メトロ10000系電車や東急5050系電車が運用される場合もある。",
"title": "西武鉄道"
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"text": "2016年3月26日のダイヤ改正以降は、日中時間帯のみなとみらい線元町・中華街駅 - 小手指駅・飯能駅発着の列車でみなとみらい線・東横線内を特急、副都心線内を急行運転する列車に、「Fライナー」の愛称が付けられる。",
"title": "西武鉄道"
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"tag": "p",
"text": "なお、2020年3月7日まで休日には行楽用として朝の下り2本と夕方上り1本運転され、西武線池袋駅から飯能を経て西武秩父線へ直通し、一部列車はさらに秩父鉄道へ直通した列車が存在した。",
"title": "西武鉄道"
},
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"tag": "p",
"text": "また2020年3月14日ダイヤ改正から新桜台駅を通過するようになった。",
"title": "西武鉄道"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "新宿線の快速急行は、1998年(平成10年)3月から2012年(平成24年)6月まで運転されていた。2008年(平成20年)6月14日ダイヤ改正までは「川越号」の愛称があった。平日の昼間時に急行の速達列車及び特急「小江戸」号の補完列車として西武新宿駅 - 本川越駅間で運行されていた。廃止時の停車駅は西武新宿線を参照のこと。2020年3月14日にダイヤ改正を行い、土休日の日中に、本川越行き下り2本の運行を開始した。",
"title": "西武鉄道"
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"tag": "p",
"text": "1998年(平成10年)3月のダイヤ改正以前に運転されていた快速急行には、以下の例がある。",
"title": "西武鉄道"
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"text": "東武鉄道では現在、東上本線で運行されている。",
"title": "東武鉄道"
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"text": "2008年(平成20年)6月14日のダイヤ改正よりTJライナーの運行が開始されたことに伴い、改正前の特急に相当する列車の種別として導入された。登場時の停車駅は、池袋 - 和光市 - 志木 - 川越 - 川越市 - 坂戸 - 東松山以北の各駅。従来から運行されている急行や、2013年(平成25年)から運行が開始された快速の上位列車となる。また、TJライナーと比較すると、和光市と志木に停まる一方でふじみ野を通過する。しかし、2023年(令和5年)3月18日のダイヤ改正により、Fライナー急行がFライナー快速急行に格上げされた。また、停車駅が志木駅から朝霞台に変更となり、川越から先は各駅に停まるようになった。朝霞台駅への停車駅変更は武蔵野線との乗り換え客が多いためであり、川越駅以北の各停化は日中時間帯に運行されるFライナーの快速急行化に伴い、川越市駅から先の区間でダイヤを等間隔にするためである。",
"title": "東武鉄道"
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"text": "2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正から、みなとみらい線元町・中華街駅から東急東横線・東京メトロ副都心線直通森林公園発着の快速急行が下りは午前中に3本(うち2本は菊名発、副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内は元町・中華街発1本が特急、菊名発2本が急行)、上りは夕方に2本新設された(副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内特急)。車両は下り1本が東京メトロ車、それ以外は東急車が使用されている。2019年3月16日のダイヤ改正では、下り列車の運行区間が森林公園から小川町まで延長された。",
"title": "東武鉄道"
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"text": "そして2023年3月18日ダイヤ改正から菊名発の1本が相鉄線の海老名始発となった(相鉄線内特急、東横・副都心線内急行)。",
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"text": "全列車10両編成で運転される。池袋発着は平日土休日問わず上下方向どちらも午前中に運転され、上り1本のみTJライナーの送り込みのため、深夜に運転され50090型限定運用で、座席をクロスシートにして運行されている。 2023年のダイヤ改正前の夕方上りは、土休日の副都心線直通列車を除いてTJライナーの送り込みを兼ねていた。TJライナーの送り込み以外の列車は特に使用車両は限定されない。",
"title": "東武鉄道"
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"text": "地下鉄直通列車で運転される快速急行は、全て副都心線方面へ直通する。日中時間帯を中心に設定されており、ほとんどがFライナーである。",
"title": "東武鉄道"
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"text": "小田急電鉄では、遠近の利用者分離と速達化や湘南新宿ラインとの対抗を目的に、それまで存在した湘南急行を発展させるかたちで、2004年12月11日より運転を開始した。",
"title": "小田急電鉄"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で、多摩線への乗り入れを開始し、停車駅に登戸駅、栗平駅、小田急永山駅、小田急多摩センター駅、唐木田駅が追加された。",
"title": "小田急電鉄"
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"text": "小田原線の新宿 - 小田原で運行される系統と、江ノ島線に直通し新宿 - 藤沢で運行される系統が存在している。日中時は毎時各3本(新宿 - 相模大野間は併せて毎時6本)、平日朝ラッシュ時の上りでは毎時各6本(後者は江ノ島線内では急行、新宿 - 相模大野間は併せて毎時12本)設定されている。平日夕ラッシュ時の下りでは毎時各2本のほか、多摩線に直通し新宿 - 唐木田で運行される系統が毎時2本設定されている(新宿 - 新百合ヶ丘間は併せて毎時6本)。",
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "全列車が10両編成で、途中駅での分割併合はない。輸送障害時など、所定の行先ではなく町田・相模大野など途中駅で打ち切りや折り返しとなる場合がある。かつては深夜帯に相模大野ゆきが平日に2本設定されていたが、2018年3月のダイヤ改正で消滅した。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "新宿 - 相模大野間の停車駅は、代々木上原・下北沢・登戸・新百合ヶ丘・町田である。これは、急行よりも3駅(経堂・成城学園前・向ヶ丘遊園)少ない。また、2018年3月19日より運行を開始した通勤急行とは千鳥停車の関係にあり、通勤急行が通過する登戸に停車し、通勤急行が停車する成城学園前・向ヶ丘遊園を通過する。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "なお、定期列車には存在しないものの、東京メトロ千代田線直通の臨時快速急行(湘南マリン号、丹沢もみじ号)が運行されることがある。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "新宿 - 小田原間を結ぶ列車のうち、相模大野より西側は、途中海老名と本厚木 - 新松田間の各駅に停車する。全列車が10両編成で運転されるため、2018年3月16日まで6両編成の急行(●急行、通称赤丸急行)が停車していた開成 - 足柄間は、ホーム有効長の関係から通過する。これは10両編成で運行される急行も同様(これらの駅では2018年3月17日からは急行停車駅から外れた)。このうち、開成駅では10両編成対応工事の完了に伴い、2019年3月16日のダイヤ改正で、2018年3月のダイヤ改正以来1年ぶりの急行停車の再開と同時に、ほぼ全ての快速急行を新松田 - 小田原間で急行に種別変更する形で停車する。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、2012年3月17日ダイヤ改正までは平日のみ毎時1本運行で、休日は朝夕の3本のみだった。 同ダイヤ改正から、それまで土休日に設定されていた江ノ島線直通の特急「えのしま」のスジを転用して日中にも毎時1本運行されるようになった。その後、2016年3月26日のダイヤ改正では、日中時間帯における小田原方面の快速急行を毎時3本20分間隔での運行となるが、このうち1本は新松田発着となっていた。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお日中は上り・下り共に新百合ヶ丘で新宿発着(2018年3月16日までは千代田線直通)の多摩線唐木田発着急行と接続する(ただし、下りは相互接続ではないので快速急行から急行への乗り換えはできない)。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "新宿 - 藤沢間のうち、相模大野より南側(江ノ島線内)では、途中中央林間・大和・湘南台・藤沢のみ停車し、江ノ島線急行の停車する南林間と長後は通過する。また、片瀬江ノ島発着の列車は土曜・休日ダイヤのみで、2018年3月16日まで6両編成の急行が停車していた本鵠沼・鵠沼海岸もホーム有効長の関係から通過する(これらの駅では2018年3月17日からは急行停車駅から外れた)。2016年3月26日実施のダイヤ改正以降では、昼間時間帯に藤沢方面の快速急行を従来の毎時2本30分間隔から毎時3本20分間隔となり、小田原線系統と重複する新宿 - 相模大野間では毎時6本約10分間隔での運転に増強されている。全列車が藤沢行き。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日までは、日中の上り・下り共に、代々木上原で千代田線直通の急行と、相模大野で新宿発着の小田原方面の急行と接続するダイヤが組まれていた(ただし代々木上原では相互接続ではないので下りは急行から快速急行へ、上りは快速急行から急行へ乗り換えることはできない)。2018年3月17日から2022年3月11日までは、前者は新宿発着となったため代々木上原での接続が無くなり、後者は上りでは新百合ヶ丘で新宿発着の小田原方面の急行と接続するダイヤが組まれている(下りは引き続き相模大野で接続する)。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2022年3月12日ダイヤ改正までは、休日ダイヤにおいて多くの列車が片瀬江ノ島駅まで乗り入れていた。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日から平日朝夕下り、土休日朝下り・上りと夜下りに設定されている。多摩線内では、急行停車駅と同一である。なお、日中帯は運行されないものの、先述の通り新宿行きの急行が新百合ヶ丘で小田原方面からの快速急行と接続している。",
"title": "小田急電鉄"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "富山地方鉄道の本線・立山線では1997年より平日朝に、電鉄富山駅 - 立山駅間で下り1本が運行されている。本線急行との差異は電鉄富山駅 - 寺田駅間でも速達運転を行う点にある。",
"title": "富山地方鉄道"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお自動方向幕に快速急行の種別幕が無いため紙に印刷した物が置かれている(車両によってはヘッドマークが掲出される)。種別幕には「急行」の表示が出ている。ワンマン運転時の放送は快速急行の放送が設定されており平日朝は車掌が乗務する。",
"title": "富山地方鉄道"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "かつては本線の宇奈月温泉駅 - 電鉄富山駅間にも上りに1本が設定されていたが、2018年3月のダイヤ改正では急行に変更され廃止されている。",
"title": "富山地方鉄道"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "大井川鐵道の大井川本線では2023年10月1日より、毎週金曜日とSL急行「かわね路4号」運行日に、新金谷駅 - 家山駅間で1往復が運行されている。大井川鐵道の急行は有料で乗車には急行券が必要だが、快速急行は急行券を必要としない。上り列車(新金谷行き)は新金谷駅到着後、普通金谷行きに変更して運行する。",
"title": "大井川鐵道"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "急行は福用駅を通過するため、停車駅数では急行より多くなっている。また、同時に設定された区間急行も福用駅は通過するが代官町駅には停車するため、快速急行運行区間における停車駅数は同一となっている。",
"title": "大井川鐵道"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "名古屋鉄道における快速急行は1995年から2003年にかけて運転されていたものと、2005年以降に運転系統を変えて再度運転されるようになったものがある。また、1995年以前にも「快速急行」の名称が用いられたことがある。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1983年に、正式な種別ではなかったが、移転した日本福祉大学の美浜キャンパスへの通学輸送のために増発した内海行き急行が「快速急行」と表示されて運行されていた。これは神宮前駅以南に多くの特別通過が設定されたことにより、通常の急行と比べて停車駅が大幅に少なくなっていたためで、 誤乗車を防止するために行われた措置であった。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1988年以降は「高速」に昇格したため、この「快速急行」は消滅している。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "このほかにも、臨時列車として増発された1993年7月29日に三河線豊田市行の急行に「快速急行」の名称が使用されたことがある。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1995年4月5日のダイヤ改正で、全車一般席の特急を改称した快速急行が登場した。その後、金山駅発着の常滑線への普通列車を延長する形で新一宮駅(現在の名鉄一宮駅)から運行する列車も設定されていた(新一宮駅 - 金山駅間:快速急行、金山駅以南:普通)。しかし、この快速急行は、改正毎に運転本数が減らされ、2003年3月27日の改正で一部特別車特急に統合され消滅した。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "当時の快速急行の停車駅は特急停車駅(当時特別停車扱いだった国府宮駅と新安城駅を含む)+鳴海駅だったが、特急への統合後も停車駅の変更はなく、鳴海駅に特別停車する扱いとなっていた。その後豊橋駅まで延長運転するようになったため、延長運転時より国府駅にも特別停車していた。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "このほかにも、正月の豊川線での折り返し運転列車で「快速急行」の名称が使用されたことがある。ただし7000系電車が豊川線の増発列車として快速急行に用いられた際は種別幕は白幕となっており、「快速急行 豊川稲荷」と書かれた特別の系統版を装着しての運行だった。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2005年1月29日の空港線開業に伴うダイヤ改正から、それ以前の急行の標準停車駅及び特別停車駅の整理を行った形で再登場した。急行以上特急未満の位置付けは同じだが、旧快速急行は特急系列車だったのに対し、現快速急行は急行系列車となっており、その性質は全く異なる。名古屋本線と常滑線でのみ、急行と標準停車駅が異なる。以下は現在運転されている快速急行についての記述である。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2005年1月29日のダイヤ改正より終日設定され、改正以前より急行標準停車駅にのみ止まっていた列車を「快速急行」とし、急行標準停車駅と栄生、大里にも特別停車していた列車を「急行」とした(これにより、栄生、大里は急行標準停車駅に格上げ)。なお、豊川線内の停車駅は急行と同一であった。同線では、それまで本線系統(豊橋 - 岐阜間)と豊川線直通系統(豊川稲荷 - 岐阜)の急行がそれぞれ毎時2本運行していたが、そのうち本線系統が快速急行となった。ただし、日中の下り(岐阜方面)は、豊川線直通系統が快速急行となり、本線系統は急行だった。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "特別停車を減らす一環で登場させた快速急行であったが、本線東部区間(豊橋 - 神宮前)の標準停車駅は同じであり、朝ラッシュ時間帯には快速急行も特別停車や種別変更する列車が存在した。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2008年12月27日の改正からは、設定区間が名古屋本線神宮前駅 - 岐阜駅間に短縮、上り(豊橋・中部国際空港方面)のみの運転となった。昼間帯以降の快速急行は急行へ変更され、設定は朝方の数本のみとなる(2011年3月26日の改正で数本増発)。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2005年1月29日のダイヤ改正で毎時1本設定されていた佐屋 - 西尾間の急行が快速急行となった。ただし、津島線・尾西線内は上り(名鉄名古屋・西尾方面)のみ快速急行で、下り(佐屋ゆき)は普通となった。津島線、尾西線、西尾線内の停車駅は急行同一だが、直通先の名古屋本線では栄生駅を通過した(改正前は、栄生駅に特別停車していた)。同区間には、全車特別車の特急が毎時1本設定されており、両系統を合わせて優等種別が約30分間隔で運行されるダイヤとなっていた。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2008年6月29日の改正で上述の特急が廃止され、また蒲郡線のワンマン運転区間が吉良吉田 - 蒲郡間に縮小されたため、快速急行の運転区間を吉良吉田まで延長(一部を除く)し、毎時2本へ増発された。また、西尾線では、同日に開業した南桜井駅にも停車する「準急」が新たに設定され、朝と夕方以降の快速急行は、西尾線内は準急に種別変更された。2008年12月27日の改正以降は快速急行が急行に格下げされ、現在に至る。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、2008年12月27日改正から2011年3月26日の改正まで、平日の朝ラッシュ帯において、津島線、尾西線では須ヶ口駅から名鉄名古屋駅まで快速急行に変わる国府ゆき(津島線・尾西線内普通。名鉄名古屋から急行)が1本設定され、また、名鉄岐阜駅から名鉄名古屋駅まで快速急行として運行する吉良吉田ゆき(名鉄名古屋から急行。西尾線内は準急)が1本設定されていた。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "常滑線では2005年1月29日のダイヤ改正より、急行特別停車駅であった大江駅を通過する列車を「快速急行」とし、同駅にも停車していた列車を「急行」とした。空港線、河和線、知多新線の停車駅は急行と同じであり、運行本数は朝ラッシュ時間帯に数本設定されるのみであった。河和線、知多新線はこの時設定されたタイプの快速急行を現在まで踏襲している。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "一方、常滑線、空港線では2008年12月27日の改正より全車一般車特急として運行されていた列車を快速急行へ改称し、停車駅も特急と同一にするなど、1995年に登場した初代快速急行に近い位置付けに変更された。2011年3月26日の改正では深夜便が再び全車一般車特急に戻されたが、朝ラッシュ時間帯においては減便となった中部国際空港ゆき一部特別車の特急を補完する形で快速急行が増発された。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "犬山線では2005年1月29日のダイヤ改正で、同線の急行が特別停車していた名古屋本線の栄生駅を通過する列車が「快速急行」、停車する列車が「急行」になった。一方、同じく急行の特別停車駅であった扶桑駅は準急停車駅となったが、名古屋方面の快速急行のみ特別停車していた。設定本数は朝方の数本と少なく、犬山方面の1本には6000系列、名古屋方面の4本には3300・3500・3700系電車のいずれかが使用され、いずれも犬山駅(上りの2本のみ新鵜沼駅)以南は8両で運転されていた。なお、快速急行はこの時各務原線と広見線にも設定されていたが、実際に線内を快速急行として運行される列車はなく、また設定上の停車駅も急行と同一だった。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2008年12月27日改正以降は扶桑駅が快速急行停車駅となり、上り(名鉄名古屋方面)のみの設定となった。平日朝ラッシュ帯に上り4本が運行され、すべての列車が名鉄名古屋駅で種別変更する。2011年3月26日の改正からは2本に減少したが、このうち1本は各務原線の名鉄岐阜発で、各務原線内も快速急行として運行する(これにより、各務原線で初めて快速急行が運行されたことになる。なお、2023年3月18日の改正で各務原線内の列車は普通のみとなり、快速急行は消滅した)。また、使用車両が2本とも5000系電車の8両編成(いずれも犬山駅以南)に変更された。",
"title": "名古屋鉄道"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "近畿日本鉄道では、難波線・奈良線・大阪線・山田線・鳥羽線で定期に運転されているほか、南大阪線・吉野線でも臨時に運転されることがある。また、京都線でも過去に運転されていた。英語表記は“RAPID EXP.”。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "難波線・奈良線では、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間でほぼ終日運行されている。同区間の主力列車で、一般車両を使う列車種別では最上位である。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "その前身は、1956年に運転開始した、鶴橋・西大寺のみ停車する上本町 - 近畿日本奈良(当時)間に設定された料金不要の特急だが、他線区で設定されていた有料特急と紛らわしいということもあり、1972年に特急から快速急行に種別変更し、同時に生駒駅・学園前駅を停車駅に加えている。なお、翌年からは同区間に有料特急も新たに設定されている。快速急行は1980年から平日の朝に10両編成で運行される列車が登場し、現在は平日ラッシュ時のほとんどの列車は10両編成となっている。2000年3月15日より、新大宮駅にも停車するようになった。2022年時点の近鉄線内の停車駅は、近鉄日本橋駅 - 大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 生駒駅 - 学園前駅 - 大和西大寺駅 - 新大宮駅で、平日の朝に菖蒲池駅に臨時停車する列車もある。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2009年3月20日、阪神なんば線の開業に伴い、阪神三宮(当時)-近鉄奈良間で相互直通運転が開始された。快速急行については、神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通する唯一の列車種別として位置づけられ、一部の列車が大阪難波駅発着である以外は、早朝・夜間以降は尼崎駅まで、それ以外は神戸三宮駅まで直通している。この阪神直通の快速急行も朝晩の列車はほぼ8両または10両編成となっているが、阪神側の駅ホーム設備の都合により、尼崎駅で増解結を行い阪神本線内(尼崎以西)は6両となる。阪神本線内の快速急行停車駅(芦屋駅を除く)でホームが近鉄車両8両編成に対応する長さに延伸されたため、2020年3月14日のダイヤ変更より、土休日ダイヤにおいては、これまで6両編成で運転されていた列車のほぼすべてが8両編成で運転される。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "現行のダイヤは、主に準急または区間準急と東花園以東奈良方面各駅停車が、準急または区間準急とセットとして運行している。準急・区間準急は、上下とも8割方が、石切・布施(一部は、東花園)で通過追越を、東花園以東近鉄奈良方面各駅停車は、布施・八戸ノ里・東花園・瓢箪山・石切・東生駒のいずれかで通過追越を行い、奈良県内(生駒・奈良市内)の各駅から大阪市内を結ぶ速達列車との位置づけである。なお、かつては日中のみ急行と交互に運行されていたが、後に夕方以降も一部の快速急行が急行に置き換えられたこともあり、以前と比べて運行本数は減少している。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "毎月26日の天理教祭典日には、大阪難波行き快速急行の折り返し回送列車を営業列車化させる形で大阪難波駅発天理行き臨時急行が増発されるほか、平日ダイヤで朝に1本設定されている神戸三宮駅発大和西大寺行きが天理行きに延長される(大和西大寺まで快速急行、大和西大寺から臨時急行の扱い)。この運用は2021年7月のダイヤ変更で定期運用に変更されている。なお、通常ダイヤでは快速急行が急行を待避・通過待ちさせることはないが、前者は通常ダイヤでは大阪難波駅折り返し後の入庫回送列車であるため、布施駅で快速急行を待避する。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "車両面では阪神電鉄直通列車においては、相互直通運転対応工事が行われたシリーズ21ないしL/CカーおよびVVVFインバータ制御車両に限定して運用されるが、近鉄線内で完結する大阪難波駅発着列車に限ってはそれ以外の一般車両も運用されている。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "大阪線・山田線・鳥羽線では、大阪上本町駅 - 名張駅・青山町駅・松阪駅(下りのみ)・宇治山田駅(平日下りのみ)・五十鈴川駅(土休日下りのみ)・鳥羽駅(夕方下りのみ)間で運行されている。最長運転区間の大阪上本町駅 - 鳥羽駅間の運転距離は150.4kmと、料金不要一般列車では非常に長い距離を走行する。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "停車駅は、大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 五位堂駅 - 大和高田駅 - 大和八木駅 - 桜井駅 - 榛原駅 - 室生口大野駅 - 赤目口駅から青山町駅までの各駅 - 榊原温泉口駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅 - 伊勢市駅 から鳥羽駅までの各駅である。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "運行時間帯は朝晩のみで、編成両数は6両を基本に青山町駅以西では最大10両で運転されており、大阪府大阪市の鶴橋から奈良県香芝市の五位堂までの26kmをノンストップで走り、通勤時間帯の大阪市内と奈良県内(中和地区・宇陀市)、三重県内(名張市・伊賀市)間の速達列車としての位置づけである。これは、布施駅の駅構造の問題(通過線がホームの無いところにあり、緩急接続ができない)や、急行が停車する河内国分駅、大和朝倉駅、長谷寺駅、三本松駅のホーム有効長が6両分しかなく、ラッシュ時の急行6両運転では輸送力に問題が生じることによるものである(ドアカットは行っていない)。また松阪駅以東発着の一部列車については伊勢中川駅で名古屋方面からの急行に、名張駅・青山町駅発着の一部列車については名張駅・青山町駅で伊勢中川方面からの普通列車に接続を受ける。朝ラッシュ名張発上りは鳥羽線、山田線内発の急行名張行きとして運行して当駅で増結した上で改めて快速急行となる運用がある。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "快速急行は、布施駅の3層化改造工事の完成にともなって1978年3月に行われたダイヤ改正から、従来運行していた旧・急行を名称変更する形で登場した(五位堂駅は2001年3月、美旗駅は2003年3月から停車で、それ以前は通過していた。また五位堂は1987年9月まで区間快速急行・急行も通過していた)。また、同様に区間快速急行も「区間急行」の名称を変更して登場した。その上で、昼間時にのみ、従来の急行・区間急行に代わって布施駅・榛原 - 榊原温泉口間各駅に停車する現・急行が新設された。このダイヤ改正時に奈良線にも布施駅に停車する現・急行が新設され、布施駅での大阪線・奈良線の連絡が改善され、現在のダイヤの基本形が完成している。また2012年3月20日の白紙ダイヤ変更までは室生口大野駅と赤目口駅を通過し、伊賀上津駅・西青山駅・東青山駅に停車していた。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "この路線の快速急行は前述の奈良線とは異なり難波線には乗り入れていない。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2016年ダイヤ変更以前までは大和八木駅終着の列車、2003年ダイヤ変更以前と2012年度ダイヤでは伊勢中川駅始発の列車、2020年ダイヤ変更までは鳥羽駅始発の列車も設定されていた。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "以前は、大阪線・山田線のみに設定されている種別で、わずか2駅(室生口大野駅、赤目口駅)だけ当時の快速急行より停車駅が多く、運行本数は快速急行より多かった区間快速急行もあった。方向幕や案内では略称の区間快速と表記、案内されていた。英語表記は \"SUB. RAPID EXP.\" (\"Suburban Rapid Express\" の略) であった。廃止直前の運転区間は大阪上本町駅 - 大和八木駅(下り最終の1本のみ)・名張駅(上り最終の1本のみ)・青山町駅・伊勢中川駅(上り1本のみ)または松阪駅間(越年終夜運転時は五十鈴川駅まで延長)。2012年3月20日のダイヤ改正で、区間快速急行は快速急行と統合され、廃止された。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "廃止前の停車駅は、大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 五位堂駅 - 大和高田駅 - 大和八木駅 - 桜井駅 - 榛原駅 - 室生口大野駅 - 赤目口駅から榊原温泉口駅までの各駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅であった。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "車両面では、快速急行および廃止された区間快速急行共に青山町駅以東を運行する列車は運転距離が100kmを超える関係から、原則として大阪線および名古屋線所属車両の中でも5200系やL/Cカーなどのクロスシートを備えた車両(これらの車両はトイレ付き車両が連結されている)か、ロングシート車両の中でもトイレ付き車両を連結する(2610系や1200系など)の形式に限定されて運用される(増結編成はこの限りでない) 。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "南大阪線・吉野線では、春の行楽期に臨時列車として「さくら号」などの愛称がついた快速急行が運転される。ただし、愛称無しで運転されることもある。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2012年3月の白紙ダイヤ変更で、一部の特急が古市駅に停車するようになって以降は、快速急行と古市停車の特急では停車駅が同一となっているが、吉野線が単線であることから、長時間停車がある。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "過去には、秋の行楽期や藤井寺球場での野球開催日にも運転されたことがあり、愛称も「ぼたん号」「あすか・みよしの号」「なし狩号」(「20世紀号」より改称)「バファローズ号」などがあった。梨狩りの時期に限っては大阿太駅に、野球開催時には藤井寺駅にも臨時停車していた。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1970年代までは列車種別を「快速」(近鉄では快速は急行より上位種別)としていたが、奈良線に快速急行が運転されるようになったのと相前後して快速急行に改称した。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "京都線には、1988年のなら・シルクロード博覧会の際に臨時運行したのを契機に、土日の昼間時間帯に臨時列車として快速急行が1時間に1本設定されていた(当時の停車駅は竹田駅、近鉄丹波橋駅、大和西大寺駅)が、定期列車として1998年3月17日から2003年3月6日まで、京都駅 - 近鉄奈良駅間に快速急行が運転されていた。定期列車時の停車駅は竹田駅 - 近鉄丹波橋駅 - 大和西大寺駅 - 新大宮駅(2000年改正以降)と、同区間を運転する急行と比べてはるかに少なく、特急停車駅に竹田と新大宮を追加した形だった。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "新設時の運転本数は土日午前2本、午後2本の計4本であった。その頃の快速急行待避駅は奈良県内では高の原駅で、同駅を通過する快速急行を急行が待避していた。2000年からは京都 - 奈良間の昼間の急行が全面的に快速急行へ格上げされた。快速急行が通過する急行停車駅の利用者は同年から新設された京都市営地下鉄烏丸線直通(国際会館駅発着)の急行を竹田駅で連絡することで補った。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "京都線の快速急行は2003年3月6日に急行に統合され廃止された。",
"title": "近畿日本鉄道"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "高野線の快速急行は2003年5月31日に昼間時間帯の難波駅 - 極楽橋駅間の急行の一部を千早口駅・天見駅・紀見峠駅通過に変更して登場した。また2008年11月1日のダイヤ改正から平日の夕方のラッシュ時に難波発橋本行きを運行している。なお極楽橋発着は2扉車のズームカーで平日の夕方のラッシュ時に運行される難波発橋本行きは20m4扉車でそれぞれ運用される。",
"title": "南海電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また高野線では1958年~1968年にも快速急行が存在していたが(現在の急行)、この時の停車駅は新今宮駅・堺東駅・北野田駅と河内長野駅以南の各駅であった(新今宮駅は1966年の駅開設時より停車)。当時の急行はこれに加え住吉東駅・三国ヶ丘駅・初芝駅に停車していた。極楽橋駅の行灯式案内表示機における「快急」の表示はこの当時のもので30数年ぶりに定期使用されたことになる。現在の停車駅は難波駅 - 新今宮駅 - 天下茶屋駅 - 堺東駅 - 北野田駅 - 金剛駅 - 河内長野駅 - 三日市町駅 - 美加の台駅 - 林間田園都市駅から極楽橋駅までの各駅である。",
"title": "南海電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "輸送障害時などに20m4扉車が代走する場合があり、この場合は難波駅 - 橋本駅間のみで運行され、以降は運転打ち切りとなる。",
"title": "南海電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "京阪電気鉄道では2008年10月19日に中之島線開業に合わせて同線および京阪本線・鴨東線にて運転が開始された。また、深夜には交野線直通の列車も運行されていた。なお、京阪の快速急行運転開始で、関西の五大大手私鉄すべてに快速急行が存在することとなった。",
"title": "京阪電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "阪神電気鉄道では本線・神戸高速線と阪神なんば線で運転されている。英語表記は“RPD. EXP.”。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "阪神本線においては、1983年(昭和58年)に運行を開始した。当初は梅田 - 三宮(当時)間に休日昼間時の西宮止まりの急行を延長する形で設定された。他社の快速急行と大きく異なる点は、通常は特急と急行の中間の種別として設定されるのに対し、阪神本線においては設定以来千鳥停車により実質特急と同等か、区間によってはそれ以上の種別として扱われている点にある。同様の例は他に2007年3月6日のダイヤ改正以前の西武新宿線に見られる程度であったが、特急が有料、快速急行が無料という差はあった。設定当初は、西宮までは従来の急行停車駅(野田・尼崎・甲子園)に停車し、西宮 - 三宮間は無停車(大阪方面行きはこれに青木が加わっていた)での運行であった。当時12分ヘッドであった特急と併せて、実質阪神間を6分ヘッドで優等列車が走るようになったが、運行開始当初は大阪方面行きは青木で特急待避したため、6分ヘッドとなったのは実質神戸方面行きのみであった。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "その後平日にも快速急行の運行が拡大し、青木待避を中止するなどして特急とともに阪神本線の主要優等列車となった。西宮 - 三宮間は完全に無停車で特急より上位の最優等列車となる。のちに六甲ライナーとの連絡のため魚崎が停車駅に追加される。2009年3月20日の阪神なんば線大阪難波延伸開業までは、西宮 - 三宮(当時)間では、特急より1駅停車駅が少ない状態が続いた。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "山陽電気鉄道との直通特急運転開始のダイヤ改正で日中が10分ヘッドに変更され直通特急・特急が増発されたことと引き換えに、快速急行は平日夕方の梅田 - 三宮(当時)間のみの運行に縮小された、併せて魚崎を通過とする代わりに青木に再び停車して上りでは普通と連絡したほか、HAT神戸へのアクセスも考慮して岩屋にも新規で停車したが、特に上りでは、三宮(当時)の発車ホームが異なる上に梅田方面の阪神普通が到着する直前に発車してしまうため接続が悪く(特に上りの三宮(当時) - 山陽須磨間で直通特急が停車しない駅からの普通利用の場合。夕ラッシュの山陽普通は高速神戸で阪神普通に接続する)、利用率はあまり高くなかった。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "西大阪線(現:阪神なんば線)では1974年の西大阪線特急廃止後、長きにわたって線内を往復する普通のみが運転されていたが、2009年3月20日の阪神なんば線延伸開業に伴い、三宮(当時)から当路線を介して上記の近鉄奈良線近鉄奈良駅の間で相互直通運転が開始され、快速急行は神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通する種別として運転されるようになった。阪神なんば線開業直後の本線内の停車駅は魚崎 - 芦屋 - 西宮 - (今津) - 甲子園 - (武庫川) - 尼崎だった。なお今津は土休日に、武庫川は平日昼間と土休日に停車(これは選択停車の形態と言える)。これに伴い、梅田 - 西宮間で運転されていた急行の一部が梅田 - 尼崎間の運転となり、尼崎で快速急行に接続する形に変更された。また西宮 - 神戸三宮間(今津・武庫川を通過する時間帯では尼崎 - 神戸三宮間)において、御影に停車しない分、実質的に特急より上位の種別となる。御影に関しては利用客数も多く、停車の要望も大きかったが、ホームが急カーブ上にあるため21m級と大柄な近鉄車両に合わせたホーム延伸が不可能であること、オーバーハングが大きくホームと車両との隙間が大きくなりすぎて危険なため通過となった。このため御影は通過駅ではあるが、分岐器制限との関係もあり、超低速で通過する。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日のダイヤ改正より土休日ダイヤの朝7時 - 8時台の近鉄奈良行き快速急行3本が新開地始発となり、神戸高速線を走行する快速急行が新たに設定された。神戸高速線内では各駅に停車する。なおこの3本はともに神戸三宮発新開地行き普通(2016年3月19日のダイヤ改正前までは特急)の折り返しとなるため1000系・9000系の限定である。このほか夜間に神戸三宮発尼崎行き(尼崎で普通に種別変更し阪神なんば線に直通)が設定されている。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正より、土休日ダイヤにおいてこれまで6両編成で運転されていた列車のほぼすべてが8両編成で運転されるようになり、踏切に挟まれてホームを延伸できない芦屋駅をすべての列車が通過する(平日はすべて本線内を6両編成で運転するため終日停車)。また平日昼間には、武庫川に停車する列車が今津にも停車するようになった。これにより、神戸三宮 - 尼崎間の停車駅は魚崎 - (芦屋) - 西宮 - (今津) - 甲子園 - (武庫川) - 尼崎となっている(平日の昼間と土休日は今津・武庫川に停車し、土休日は芦屋を通過)。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "阪急神戸本線と同様、毎年開催されているみなとこうべ海上花火大会当日または神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜に限り、阪神なんば線の定期列車を延長する形で、夜間に神戸三宮発尼崎行き臨時快速急行が運転されている。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線では西九条 - 大阪難波間が延伸開業した2009年3月20日より運行を開始。快速急行は基本的に神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通して運行されるが、早朝・夜間に限り本線には乗り入れず尼崎 - 近鉄奈良間での運転となるほか、平日朝には大阪難波行き(大阪難波で普通に種別変更)の設定がある。阪神なんば線内では尼崎から西九条までの旧西大阪線区間の中間駅を全て通過し、新規に開業した西九条 - 大阪難波間は各駅に停車する。種別の色表示は阪神(水色)と近鉄(赤色)とで異なるため、近鉄線方面行きは桜川駅発車後に、阪神線方面行きは大阪難波発車後にそれぞれ表示変更する。なお、当線での当種別の運行開始直後は、近鉄線から乗り入れる各駅停車の本数の都合上、平日昼間時間帯のみ尼崎 - 大阪難波間で各駅に停車して旧西大阪線区間における各駅停車の機能も担っていたが、2012年3月20日のダイヤ改正で旧西大阪線区間の中間駅への停車は取り止められた。",
"title": "阪神電気鉄道"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "かつては、毎月26日の天理教祭典日のうち平日ダイヤに該当する日のみ、朝に臨時快速急行天理行き(大阪難波から臨時急行に種別変更)が1本あったが、これは現在は大和西大寺行きとして定期列車化されている(前出の天理教祭典日のみ、大和西大寺で急行に種別を変更した上で天理まで延長運転)。",
"title": "阪神電気鉄道"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "かつて東武鉄道では、伊勢崎・日光線系統で特急「けごん」・「きぬ」の補完を果たす列車として、1976年(昭和51年)より1991年(平成3年)まで、快速用としても用いられる6000系(1976〈昭和51〉- 1986〈昭和61〉)・6050系(1985〈昭和60〉- 1991〈平成3〉)および5700系(1976〈昭和51〉- 1988〈昭和63〉)を用い、全車座席指定席制として快速急行券(1988年〈昭和63年〉より座席指定券)を徴収する優等列車として運転されていた。昼行列車の停車駅は、北千住駅に下り列車が停車するようになる1997年(平成9年)以前の急行のそれとほぼ同じであった。",
"title": "かつての有料快速急行"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "快速急行の設定以前、同列車は「急行」として運転されていた。しかし、伊勢崎線急行(当時)「りょうもう」用の1800系と比較して停車駅・車両設備(非冷房でボックスシート)ともに劣るため、「快速急行」として種別を分けたものである。すなわち、一般的な例とは逆に、この快速急行は急行よりも下位の種別となっており、この列車の場合は「快速な急行」(急行の派生種別扱い)ではなく、「全車指定席の快速」に「快速急行」の種別を割り当てたもの(快速の派生種別扱い)である。",
"title": "かつての有料快速急行"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "1991年(平成3年)に定期列車は急行用車両300系・350系(いずれも前述の1800系からの改造車)へ置き換えられ、車両設備がふさわしいものとなったため「急行」に種別を改めた。同年以降も快速急行は夜行列車「スノーパル」・「尾瀬夜行」を中心に臨時列車として運行されたが、夜行列車についても使用車両の変更に伴い、2001年(平成13年)に急行へ、さらに2006年(平成18年)からは特急へ格上げされており、これ以降「快速急行」は事実上運行されていない。",
"title": "かつての有料快速急行"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "なお、料金不要の「急行」が運行されている現行体制において、同様の性格の列車(一般車両による座席指定列車)が設定される場合、「THライナー」のように列車愛称名が種別を兼ねる形を採っている。",
"title": "かつての有料快速急行"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "西日本鉄道の天神大牟田線においては、2001年1月20日のダイヤ改正において、大牟田駅・西鉄柳川駅 - 西鉄福岡(天神)駅間で朝ラッシュ時に上りのみ運行開始された。それまでは朝ラッシュ時の上り急行は、8両編成を使用する運用に限り、二日市以北の急行停車駅(大橋駅・春日原駅・下大利駅)を通過していたが、同日のダイヤ改正により全列車が停車することになったので、その代替として運行されるようになった。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "快速急行は、西鉄で唯一8両編成で運行され(他の列車は最大7両)、車両も4扉の6000形・6050形が限定的に使用された(なお、2編成繋いだだけであるため、編成間での通り抜けはできなかった)。停車駅は、急行の停車駅から春日原駅・下大利駅を除いたものとされた。停車駅から2駅を除いたのは、遠距離通勤客と近距離通勤客を分離するため、および上記2駅がホーム端に踏切があるためホーム延長に対応できないと言った制約などにより、8両編成の列車が停車できないためである。また、女性専用車両の設定に関して、乗車位置が快速急行に限り、他の種別と異なる駅も存在するが、その場合は種別カラーのオレンジ色を用いて他の種別と専用車両の乗車位置の違いを区別した。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "この運用は、2010年3月27日のダイヤ改正で折り返しの送り込み列車である「直行」とともに廃止され、すべての列車が7両で運行されるようになった。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2001年3月から2007年3月まで平日夕方に大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋駅から阪急京都本線直通河原町行きを運行していた(通称「堺筋快速急行」)。堺筋線内は各駅に停車していた。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1987年から2022年まで運行されていた。神戸本線・京都本線で運転されていた。英語表記は“Rapid Exp.”。また過去に宝塚本線でも運転されていた。2022年12月のダイヤ改正において快速急行の種別は消滅となり「準特急」と名称が変更された。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "神戸本線では1987年に運行を開始した。設定の趣旨は、特急運転終了後の深夜帯の速達サービスの充実で、当時の特急停車駅に塚口・夙川・六甲を追加して従来の急行(西宮北口以西各駅)を格上げする形で登場した。快速急行はその後も定着し、2019年時点で早朝と深夜に大阪梅田駅 - 神戸高速線新開地駅間(深夜に上りの西宮北口行きあり)で運行されている。停車駅は十三・塚口・西宮北口・夙川・岡本・六甲・神戸三宮 - 新開地間の各駅。2006年10月28日からのダイヤでは通勤特急の停車駅に夙川駅が加わり、快速急行との停車駅の違いが六甲駅を通過するか否かだけとなっている。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災までは、正月三が日や行楽期の午前中、あるいは沿線の中学・高校の登校日の土曜日昼間(ただし下りのみ)にも梅田 - 三宮(当時)間に臨時快速急行が運転されていた。正月三が日や行楽期の運転では六甲駅で特急を待避するダイヤで、登校日の土曜日昼間は梅田駅発特急の1分後(続いてその1 - 2分後に普通が発車)に発車し、そのまま三宮(当時)まで逃げ切るダイヤであった。現在では、毎年開催されているみなとこうべ海上花火大会当日または神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜に限り、梅田行きのみ運転されていた。なお、表示幕には『臨時快速急行』も用意されているが、臨時列車でも定期列車と同じく『快速急行』を掲示している。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "京都本線では1997年3月2日ダイヤ改正から導入された。当時の特急の停車駅に桂駅を加えたもので、当初は平日朝1本と夜間の特急運転終了後に4本、いずれも梅田(当時)発河原町(当時)行きとして運行していた。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "その後2001年3月24日のダイヤ改正で特急系統・急行系統の整理が行われ、それまでの快速急行は快速特急に名称が変更され、同時に従来の急行が快速急行と名称を変更されて運行されるようになった。なお、2001年以降「急行」は従来の停車駅に南茨木駅と高槻市以北(以東)の各駅を加えて運転されている。しかし同線の急行は2007年3月のダイヤ改正で「準急」に変わって休止された。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "現在の快速急行は平日の日中を除く時間帯と休日の早朝・深夜に大阪梅田 - 京都河原町間(特急系統よりも始発が早く、終車が遅い)で運行されている。停車駅は十三・淡路・茨木市・高槻市・長岡天神・桂・西院・大宮・烏丸。平日ダイヤの朝夕ラッシュ時は通勤特急と交互に運行されている(通勤特急は淡路を通過する)。深夜の下り1本のみ高槻市行きである。なお平日夕方に大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋発河原町(当時)行きでも運行されていたが(通称「堺筋快速急行」)、2007年3月のダイヤ改正で準急(通称「堺筋準急」)に変更された。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "宝塚本線では2003年8月30日より2006年10月28日の改正まで昼間時間帯にそれまで運行されていた特急・急行に代わり梅田(当時) - 宝塚間で運行されていた。2006年の改正で全列車が急行に格下げされ廃止された。",
"title": "過去の事業者"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "停車駅は十三・豊中・蛍池・石橋(現:石橋阪大前)・池田・川西能勢口・雲雀丘花屋敷・山本(急行は十三・豊中 - 宝塚間の各駅。廃止前の特急は蛍池・雲雀丘花屋敷を通過)。",
"title": "過去の事業者"
}
] |
快速急行(かいそくきゅうこう)とは、日本の私鉄で運行されている列車種別のひとつであり、英語表記はRapid Express。また事業者によっては日本語表記が快急、英語表記がRapid Exp.と略されることもある。 特急と急行の中間に相当する種別であり、停車駅は基本的に特急より多く(例外あり)、急行より少なく設定される。特急の補完あるいは急行の速達化を目的に設けられるが、特急・急行のどちらに近い種別と位置付けられるかは事業者・路線によって異なる。なお同時に運行している特急が有料列車のみであるときは、料金が別にかからない列車としては最速達種別(JRにおける「特別快速」もしくは「新快速」に相当する種別)となる。なお急行が運行されない路線(あるいはその停車駅が多い路線)では代わりに料金不要の特急が運行され、その上位種別として同じく料金不要の「快速特急」「快特」が運行されるケースもある(快速特急と快速急行が併存している路線も存在する)。 定期列車では南海電気鉄道が1958年(昭和33年)に設定したことが始まり(臨時列車を含めれば前年の1957年に小田急電鉄で運転開始)とされ、以降1972年(昭和47年)に近畿日本鉄道、1976年(昭和51年)に東武鉄道でも設定されたのが初期の例として挙げられる。 日本国有鉄道およびJRでは快速と急行が混ざっており、急行料金を必要とする急行と、普通車の自由席は料金不要の快速との間で混乱をきたす恐れがあるため、「快速急行」の種別名は使用していない。 各社の運行状況は以下の項目を参照のこと。
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'''快速急行'''(かいそくきゅうこう)とは、[[日本]]の[[私鉄]]で運行されている[[列車種別]]のひとつであり、英語表記は'''Rapid Express'''。また事業者によっては日本語表記が'''快急'''、英語表記が'''Rapid Exp.'''と略されることもある。
[[特別急行列車#私鉄の特別急行列車|特急]]と[[急行列車#私鉄・第三セクター鉄道の急行列車|急行]]の中間に相当する種別であり、[[停車 (鉄道)|停車]][[鉄道駅|駅]]は基本的に特急より多く([[電車線・列車線#電車の「各駅停車」と列車の「普通」|例外あり]])、急行より少なく設定される。特急の補完あるいは急行の速達化を目的に設けられるが、特急・急行のどちらに近い種別と位置付けられるかは[[鉄道事業者|事業者]]・[[鉄道路線|路線]]によって異なる。なお同時に運行している特急が有料列車のみであるときは、[[特別急行券|料金]]が別にかからない列車としては最速達種別([[JR]]における「[[特別快速]]」もしくは「[[新快速]]」に相当する種別)となる。なお急行が運行されない路線(あるいはその停車駅が多い路線)では代わりに料金不要の特急が運行され、その上位種別として同じく料金不要の「[[快速特急]]」「快特」が運行されるケースもある(快速特急と快速急行が併存している路線も存在する)。
[[定期列車]]では[[南海電気鉄道]]が[[1958年]]([[昭和]]33年)に設定したことが始まり([[臨時列車]]を含めれば前年の[[1957年]]に[[小田急電鉄]]で運転開始)とされ、以降[[1972年]](昭和47年)に[[近畿日本鉄道]]、[[1976年]](昭和51年)に[[東武鉄道]]でも設定されたのが初期の例として挙げられる。
[[日本国有鉄道]]および[[JR]]では快速と急行が混ざっており、急行料金を必要とする急行と、[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]の[[自由席]]は料金不要の[[快速列車|快速]]との間で混乱をきたす恐れがあるため、「快速急行」の種別名は使用していない。
各社の運行状況は以下の項目を参照のこと。
== 西武鉄道 ==
[[西武鉄道]]は[[西武池袋線|池袋線]]で[[1980年]](昭和55年)[[3月17日]]から運転している。[[2012年]]([[平成]]24年)6月までは[[西武新宿線|新宿線]]でも運転していた。[[2020年]](令和2年)[[3月14日]]にダイヤ改正を実施し、新宿線で再び運行を開始した<ref name="西武ダイヤ改正2020年3月14日">{{Cite press release|和書|title=2020年3月14日(土)ダイヤ改正を実施します |url=https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20200129diagram.pdf#page=5 |publisher=西武鉄道 |formatPDF |page=5 |date=2020-1-29 |accessdate=2020-1-31}}</ref>。
=== 池袋線 ===
[[ファイル:急行奥武蔵のヘッドマーク.jpg|right|thumb|[[横瀬車両基地]]での[[イベント]]時に運転された「急行 奥武蔵」の[[ヘッドマーク]]を付けた快速急行|200px]]
池袋線では、[[2022年]](令和2年)3月12日より[[平日]][[朝]]の[[通勤]][[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]の上り1本のみ[[飯能駅|飯能]] → [[池袋駅#西武鉄道 2|池袋駅]]間、土休日夕方に[[西武秩父駅|西武秩父]] → 池袋間および[[東京地下鉄|東京メトロ]]([[地下鉄]])直通の快速急行が、平日9 - 16時台、土休日は8 - 17時台に30 - 60分間隔で設定され、[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]から飯能まで最速95分で結ぶ。なお平日のみ有楽町線新木場発の列車も設定されている。
(西武線)池袋駅行き列車の停車駅は池袋 - [[石神井公園駅|石神井公園]] - [[ひばりヶ丘駅|ひばりヶ丘]] - [[所沢駅|所沢]] - [[小手指駅|小手指]] - [[入間市駅|入間市]] - 飯能で、飯能 - [[西武秩父駅|西武秩父]]間は各駅に停車する。地下鉄[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]直通電車の停車駅は[[小竹向原駅|小竹向原]] - [[練馬駅|練馬]] - 石神井公園 - ひばりヶ丘 - 所沢 - 小手指(平日すべてと土休日の一部はここで終着) - 入間市 - 飯能である。飯能より先[[東飯能駅|東飯能]]方面へは臨時列車以外営業運転は行わない。[[埼玉西武ライオンズ]]の主催試合など、[[西武ドーム]]でのイベント開催時には、小手指行きのみなとみらい線・[[東急東横線]]・副都心線直通快速急行を[[西武球場前駅|西武球場前]]行きの'''快速'''に変更する場合がある。この場合、'''ひばりヶ丘駅始発の快速急行小手指行き'''を臨時運行し、所沢・小手指方面への速達性を保っている。
かつては所沢 - 飯能間は[[直行便|ノンストップ]]であったが、[[1993年]](平成5年)[[12月6日]]の[[ダイヤ改正]]で現在の停車駅となった。
かつて存在した[[秩父鉄道秩父本線]]直通列車には[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|ボックスシート]]を持つ[[西武4000系電車|4000系]]が使われ、[[三峰口駅|三峰口]]発着と[[長瀞駅|長瀞]]発着が併結運転され、[[横瀬駅]]で[[増解結|分割・併合]]を行っていた。西武線内の列車は一般の[[通勤形車両 (鉄道)|4扉車]]を使用する。
[[1960年代]]頃より、春・秋の[[観光]]シーズンに池袋 - [[吾野駅|吾野]]に「急行 奥武蔵」「急行 伊豆ヶ岳」「急行 正丸」などの愛称が付けられた列車が運行されていた(西武秩父線開業後は西武秩父に延長)。後に「奥武蔵」に愛称が統一された。「奥武蔵」が[[1980年]]3月17日改正で快速急行に格上げ後もヘッドマーク表示は「急行」のままであったが、その後ヘッドマークを新デザインに更新した際に急行の文字が取り払われ、現在は「奥武蔵」のみの表示となっている。その他、不定期にヘッドマークを付けて運行される列車もある。
[[2013年]](平成25年)の快速急行の地下鉄直通設定に伴い、同年[[3月15日]]まで運転されていた平日昼間の池袋 - 飯能間の快速急行は急行に格下げされた。ただし、直通先で[[輸送障害]]が起きて[[運転整理|直通運転中止]]になると、[[臨時列車|臨時]]として西武線池袋まで運行することがある。その際、[[東京メトロ10000系電車]]や[[東急5000系電車 (2代)#5050系|東急5050系電車]]が運用される場合もある。
[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正以降は、日中時間帯のみなとみらい線元町・中華街駅 - 小手指駅・飯能駅発着の列車でみなとみらい線・東横線内を特急、副都心線内を急行運転する列車に、「[[Fライナー]]」の愛称が付けられる。
なお、[[2020年]][[3月7日]]まで[[休日]]には[[行楽]]用として朝の下り2本と[[夕方]]上り1本運転され、西武線池袋駅から飯能を経て[[西武秩父線]]へ直通し、一部列車はさらに秩父鉄道へ直通した列車が存在した。
また[[2020年]]3月14日ダイヤ改正から[[新桜台駅]]を通過するようになった。
=== 新宿線 ===
新宿線の快速急行は、[[1998年]](平成10年)3月から[[2012年]](平成24年)6月まで運転されていた。[[2008年]](平成20年)[[6月14日]]ダイヤ改正までは「川越号」の[[列車愛称|愛称]]があった。平日の昼間時に急行の速達列車及び特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」号の補完列車として西武新宿駅 - 本川越駅間で運行されていた。廃止時の停車駅は[[西武新宿線#2代|西武新宿線]]を参照のこと。[[2020年]]3月14日にダイヤ改正を行い、土休日の日中に、本川越行き下り2本の運行を開始した<ref name="西武ダイヤ改正2020年3月14日" />。
[[1998年]](平成10年)3月のダイヤ改正以前に運転されていた快速急行には、以下の例がある。
* [[西武新宿駅]] - [[本川越駅]]間。土休日運転で通称「'''ゴルフ急行'''」。停車駅は西武新宿駅 - [[高田馬場駅]] - [[鷺ノ宮駅]] - [[田無駅]] - [[所沢駅]] - [[狭山市駅]] - 本川越駅。[[1993年]](平成5年)のダイヤ改正により特急「小江戸」の運転が開始されたことで一旦廃止となった。
* 西武新宿駅 - [[西武園駅]]間、西武新宿駅 - 西武遊園地駅(現:[[多摩湖駅]])間。土休日運転(西武園発着列車は[[西武園競輪場|西武園競輪]]開催時(平日も含む)のみ運転)。停車駅は[[西武新宿線#駅一覧|急行停車駅]]から[[花小金井駅]]と[[久米川駅]]を除いたもの。なお、久米川駅は一列車あたりの乗降客数が新宿線では上位にあるにもかかわらず、通過扱いとなったため、快速急行廃止運動が展開された。[[2012年]](平成24年)の快速急行廃止は、結果として久米川住民の悲願が叶ったことになる。また、西武遊園地行きの[[小平駅]]以西停車駅は[[萩山駅]]のみであったのが、[[1996年]]のダイヤ改正からは[[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]・[[武蔵大和駅]]のホーム延伸工事の完成によって両駅に停車するようになった(その影響で、多摩湖線[[国分寺駅]] - 西武遊園地駅間に運転されていた[[準急列車|準急]]はこの改正で各駅停車に格下げされた)。[[1998年]](平成10年)のダイヤ改正により同区間運転の急行へと格下げされた(その後、西武遊園地→多摩湖行き急行は現存、西武園行き急行は廃止)。
* 西武ライオンズ球場での野球開催時には、西武新宿駅始発で[[西武狭山線|狭山線]]に乗り入れる西武球場前駅行きの快速急行(これは前述の西武遊園地行きの快速急行を行き先変更したもの)が運転されていたが、[[1998年]]3月のダイヤ改正で急行に格下げされている。
* 2021年より、快速急行が復活。運行は、土日祝日に2本(西武新宿→本川越)。途中停車駅は、高田馬場・田無・東村山・所沢・新所沢と、新所沢からの各駅。2022年には1本に減便。
== 東武鉄道 ==
{{Main2|過去に運行されていた日光線系統の快速急行(有料列車)|#かつての有料快速急行}}
[[東武鉄道]]では現在、[[東武東上本線|東上本線]]で運行されている。
[[2008年]](平成20年)6月14日のダイヤ改正より[[TJライナー]]の運行が開始されたことに伴い、改正前の特急に相当する列車の種別として導入された。登場時の停車駅は、池袋 - [[和光市駅|和光市]] - [[志木駅|志木]] - [[川越駅|川越]] - [[川越市駅|川越市]] - [[坂戸駅|坂戸]] - [[東松山駅|東松山]]以北の各駅。従来から運行されている急行や、2013年(平成25年)から運行が開始された快速の上位列車となる。また、TJライナーと比較すると、和光市と志木に停まる一方で[[ふじみ野駅|ふじみ野]]を通過する。しかし、[[2023年]](令和5年)[[3月18日]]のダイヤ改正により、[[Fライナー]][[急行列車|急行]]がFライナー快速急行に格上げされた。また、停車駅が志木駅から[[朝霞台駅|朝霞台]]に変更となり、[[川越駅|川越]]から先は各駅に停まるようになった。朝霞台駅への停車駅変更は[[武蔵野線]]との乗り換え客が多いためであり、川越駅以北の各停化は日中時間帯に運行されるFライナーの快速急行化に伴い、川越市駅から先の区間でダイヤを等間隔にするためである。
[[2016年]](平成28年)[[3月26日]]のダイヤ改正から、みなとみらい線元町・中華街駅から東急東横線・東京メトロ副都心線直通[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園]]発着の快速急行が下りは午前中に3本(うち2本は菊名発、副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内は元町・中華街発1本が特急、菊名発2本が急行)、上りは夕方に2本新設された(副都心線内急行、東横線・みなとみらい線内特急)。車両は下り1本が東京メトロ車、それ以外は東急車が使用されている。[[2019年]][[3月16日]]のダイヤ改正では、下り列車の運行区間が森林公園から[[小川町駅 (埼玉県)|小川町]]まで延長された<ref>[https://www.tobu.co.jp/file/pdf/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f/190129_1.pdf?date=20190129171435 東武東上線でダイヤ改正を実施! - 東武鉄道](2019年1月19日 東武鉄道)</ref>。
そして[[2023年]][[3月18日]]ダイヤ改正から菊名発の1本が相鉄線の[[海老名駅|海老名]]始発となった(相鉄線内特急、東横・副都心線内急行)。
全列車10両編成で運転される。池袋発着は平日土休日問わず上下方向どちらも午前中に運転され、上り1本のみTJライナーの送り込みのため、深夜に運転され[[東武50000系電車#50090型|50090型]]限定運用で、座席をクロスシートにして運行されている。 2023年のダイヤ改正前の夕方上りは、土休日の副都心線直通列車を除いてTJライナーの送り込みを兼ねていた。TJライナーの送り込み以外の列車は特に使用車両は限定されない。
地下鉄直通列車で運転される快速急行は、全て副都心線方面へ直通する。日中時間帯を中心に設定されており、ほとんどがFライナーである。
<gallery>
ファイル:Tobu-Tojo-Line-Series11634F.jpg|東上本線の快速急行([[東武10000系電車|10030型]])
ファイル:Rapid-exp-tojo-tokyu.JPG|みなとみらい線・東横線・副都心線直通の快速急行(東急5050系4000番台)
</gallery>
== 小田急電鉄 ==
[[ファイル:Rapid Express of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|right|200px|小田急電鉄の快速急行(2007年6月撮影)]]
[[小田急電鉄]]では、{{要出典範囲|遠近の利用者分離と速達化や[[湘南新宿ライン]]との対抗を目的に|date=2021年11月}}、それまで存在した[[湘南急行]]を発展させるかたちで、[[2004年]][[12月11日]]より運転を開始した。
[[2018年]]3月17日のダイヤ改正で、[[小田急多摩線|多摩線]]への乗り入れを開始し、停車駅に[[登戸駅]]、[[栗平駅]]、[[永山駅 (東京都)|小田急永山駅]]、[[多摩センター駅|小田急多摩センター駅]]、[[唐木田駅]]が追加された<ref name="oer20180228">{{Cite press release|和書|title=2018年3月、新ダイヤでの運行開始 |publisher=小田急電鉄 |date=2018-02-28 |url=https://www.odakyu.jp/voice-station/pdf/diagram-new.pdf |format=PDF |accessdate=2018-03-24}} </ref>。
[[小田急小田原線|小田原線]]の新宿 - [[小田原駅|小田原]]で運行される系統と、[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]に直通し新宿 - [[藤沢駅|藤沢]]で運行される系統が存在している。日中時は毎時各3本(新宿 - [[相模大野駅|相模大野]]間は併せて毎時6本)、平日朝ラッシュ時の上りでは毎時各6本(後者は江ノ島線内では急行、新宿 - 相模大野間は併せて毎時12本)設定されている。平日夕ラッシュ時の下りでは毎時各2本のほか、多摩線に直通し新宿 - 唐木田で運行される系統が毎時2本設定されている(新宿 - 新百合ヶ丘間は併せて毎時6本)<ref name="oer20180228"/>。
全列車が10両編成で、途中駅での分割併合はない。輸送障害時など、所定の行先ではなく町田・相模大野など途中駅で打ち切りや折り返しとなる場合がある。かつては深夜帯に相模大野ゆきが平日に2本設定されていたが、[[2018年]]3月のダイヤ改正で消滅した。
新宿 - 相模大野間の停車駅は、[[代々木上原駅|代々木上原]]・[[下北沢駅|下北沢]]・[[登戸駅|登戸]]・[[新百合ヶ丘駅|新百合ヶ丘]]・[[町田駅|町田]]である。これは、急行よりも3駅([[経堂駅|経堂]]・[[成城学園前駅|成城学園前]]・[[向ヶ丘遊園駅|向ヶ丘遊園]])少ない。また、[[2018年]][[3月19日]]より運行を開始した[[列車種別#通勤種別|通勤急行]]とは[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]の関係にあり、通勤急行が通過する登戸に停車し、通勤急行が停車する成城学園前・向ヶ丘遊園を通過する<ref name="oer20180228"/>。
なお、定期列車には存在しないものの、[[東京メトロ千代田線]]直通の臨時快速急行(湘南マリン号、丹沢もみじ号)が運行されることがある。
=== 小田原方面 ===
新宿 - 小田原間を結ぶ列車のうち、相模大野より西側は、途中[[海老名駅|海老名]]と[[本厚木駅|本厚木]] - [[新松田駅|新松田]]間の各駅に停車する。全列車が10両編成で運転されるため、[[2018年]]3月16日まで6両編成の急行(●急行、通称'''赤丸急行''')が停車していた[[開成駅|開成]] - [[足柄駅 (神奈川県)|足柄]]間は、ホーム有効長の関係から通過する。これは10両編成で運行される急行も同様(これらの駅では[[2018年]]3月17日からは急行停車駅から外れた<ref name="oer20180228"/>)。このうち、開成駅では10両編成対応工事の完了に伴い、[[2019年]]3月16日のダイヤ改正で、[[2018年]]3月のダイヤ改正以来1年ぶりの急行停車の再開と同時に、ほぼ全ての快速急行を新松田 - 小田原間で急行に種別変更する形で停車する<ref name="odakyu20181214">{{Cite press release|和書|title=2019年3月16日(土)小田急線ダイヤ改正を実施します |publisher=小田急電鉄 |date=2018-12-14 |url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001eqdu-att/o5oaa1000001eqe1.pdf |format=PDF |accessdate=2018-12-14}} </ref>。
なお、[[2012年]]3月17日ダイヤ改正までは平日のみ毎時1本運行で、休日は朝夕の3本のみだった。<br>
同ダイヤ改正から、それまで土休日に設定されていた江ノ島線直通の特急「えのしま」のスジを転用して日中にも毎時1本運行されるようになった<ref>置き換えられた「えのしま」は、新宿 - 相模大野間を「さがみ」「あさぎり」と併結運転する形で時刻変更して存続している。</ref>。その後、[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正では、日中時間帯における小田原方面の快速急行を毎時3本20分間隔での運行となるが、このうち1本は新松田発着となっていた。
なお日中は上り・下り共に新百合ヶ丘で新宿発着([[2018年]]3月16日までは千代田線直通)の多摩線唐木田発着急行と接続する(ただし、下りは相互接続ではないので快速急行から急行への乗り換えはできない)<ref name="oer20180228"/>。
=== 藤沢方面 ===
新宿 - 藤沢間のうち、相模大野より南側(江ノ島線内)では、途中[[中央林間駅|中央林間]]・[[大和駅 (神奈川県)|大和]]・[[湘南台駅|湘南台]]・藤沢のみ停車し、江ノ島線急行の停車する[[南林間駅|南林間]]と[[長後駅|長後]]は通過する。また、片瀬江ノ島発着の列車は土曜・休日ダイヤのみで、[[2018年]]3月16日まで6両編成の急行が停車していた[[本鵠沼駅|本鵠沼]]・[[鵠沼海岸駅|鵠沼海岸]]もホーム有効長の関係から通過する(これらの駅では[[2018年]]3月17日からは急行停車駅から外れた)。[[2016年]]3月26日実施のダイヤ改正以降では、昼間時間帯に藤沢方面の快速急行を従来の毎時2本30分間隔から毎時3本20分間隔となり、小田原線系統と重複する新宿 - 相模大野間では毎時6本約10分間隔での運転に増強されている。全列車が藤沢行き。
[[2018年]]3月16日までは、日中の上り・下り共に、代々木上原で千代田線直通の急行と、相模大野で新宿発着の小田原方面の急行と接続するダイヤが組まれていた(ただし代々木上原では相互接続ではないので下りは急行から快速急行へ、上りは快速急行から急行へ乗り換えることはできない)。[[2018年]]3月17日から2022年3月11日までは、前者は新宿発着となったため代々木上原での接続が無くなり、後者は上りでは新百合ヶ丘で新宿発着の小田原方面の急行と接続するダイヤが組まれている(下りは引き続き相模大野で接続する)。
2022年3月12日ダイヤ改正までは、休日ダイヤにおいて多くの列車が片瀬江ノ島駅まで乗り入れていた。
=== 唐木田方面 ===
[[2018年]]3月17日から平日朝夕下り、土休日朝下り・上りと夜下りに設定されている。多摩線内では、急行停車駅と同一である。なお、日中帯は運行されないものの、先述の通り新宿行きの急行が新百合ヶ丘で小田原方面からの快速急行と接続している<ref name="oer20180228"/>。
== 富山地方鉄道 ==
[[富山地方鉄道]]の[[富山地方鉄道本線|本線]]・[[富山地方鉄道立山線|立山線]]では[[1997年]]より平日朝に、[[富山駅|電鉄富山駅]] - [[立山駅]]間で下り1本が運行されている。本線急行との差異は電鉄富山駅 - 寺田駅間でも速達運転を行う点にある。
* 停車駅(電鉄富山 - 立山間)
** [[電鉄富山駅]] - [[寺田駅 (富山県)|寺田駅]] - [[五百石駅]] - [[岩峅寺駅]] - [[千垣駅]] - [[有峰口駅]] - [[本宮駅 (富山県)|本宮駅]] - [[立山駅]]
なお自動[[方向幕]]に快速急行の種別幕が無いため紙に印刷した物が置かれている(車両によってはヘッドマークが掲出される)。種別幕には「急行」の表示が出ている。[[ワンマン運転]]時の[[車内放送|放送]]は快速急行の放送が設定されており平日朝は[[車掌]]が乗務する。
かつては本線の[[宇奈月温泉駅]] - 電鉄富山駅間にも上りに1本が設定されていたが<ref>{{PDFlink|1=[https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2016/03/43cef94e35d82447575c8bdb257053301.pdf#page=5 地鉄電車時刻表 平日 本線上り 平成28年3月26日改正]}} - 富山地方鉄道<!--下りページの電鉄富山 - 寺田間の快急は立山線の列車--></ref>、[[2018年]]3月のダイヤ改正では急行に変更され廃止されている<ref>{{PDFlink|[https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2018/03/3e2a115aa49b56a38c43f44be899de27.pdf 地鉄電車時刻表 平日 本線上り 平成30年3月17日改正]}} - 富山地方鉄道</ref>。
* 停車駅(宇奈月温泉 - 電鉄富山間)
** [[宇奈月温泉駅]] - [[音沢駅]] - [[内山駅]] - [[愛本駅]] - [[下立駅]] - [[下立口駅]] - [[浦山駅]] - [[栃屋駅]] - [[若栗駅]] - [[舌山駅]] - [[黒部宇奈月温泉駅|新黒部駅]] - [[長屋駅]] - [[荻生駅]] - [[東三日市駅]] - [[電鉄黒部駅]] - [[電鉄石田駅]] - [[経田駅]] - [[魚津駅|新魚津駅]] - [[電鉄魚津駅]] - [[西魚津駅]] - [[滑川駅]] - [[中滑川駅]] - [[中加積駅]] - [[上市駅]] - [[寺田駅 (富山県)|寺田駅]] - [[稲荷町駅 (富山県)|稲荷町駅]] - 電鉄富山駅
== 大井川鐵道 ==
[[大井川鐵道]]の[[大井川鐵道大井川本線|大井川本線]]では[[2023年]][[10月1日]]より、毎週金曜日と[[かわね路号|SL急行「かわね路4号」]]運行日に、[[新金谷駅]] - [[家山駅]]間で1往復が運行されている<ref>{{Cite web |url=https://daitetsu.jp/ft/timetable|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231004055356/https://daitetsu.jp/ft/timetable|title=時刻表|大井川鐵道【公式】|access-date=2023-10-01|archivedate=2023-10-05|publisher=大井川鐡道}}</ref>。大井川鐵道の急行は有料で乗車には急行券が必要だが<ref group="注釈">定期券で乗車する場合は急行券は不要。</ref>、快速急行は急行券を必要としない。上り列車(新金谷行き)は新金谷駅到着後、普通金谷行きに変更して運行する。
* 停車駅(新金谷 - 家山間)
**[[新金谷駅]] - [[福用駅]] - [[家山駅]]
急行は福用駅を通過するため、停車駅数では急行より多くなっている。また、同時に設定された区間急行も福用駅は通過するが[[代官町駅]]には停車するため、快速急行運行区間における停車駅数は同一となっている。
== 名古屋鉄道 ==
[[名古屋鉄道]]における快速急行は1995年から2003年にかけて運転されていたものと、2005年以降に運転系統を変えて再度運転されるようになったものがある。また、1995年以前にも「快速急行」の名称が用いられたことがある。
=== 1995年以前の快速急行 ===
{{Main|名鉄特急#河和線・知多新線}}
1983年に、正式な種別ではなかったが、移転した[[日本福祉大学]]の美浜キャンパスへの通学輸送のために増発した内海行き急行が「快速急行」と表示されて運行されていた。これは[[神宮前駅]]以南に多くの特別通過が設定されたことにより、通常の急行と比べて停車駅が大幅に少なくなっていたためで、
誤乗車を防止するために行われた措置であった。
* 停車駅(神宮前 - 内海間)
** 神宮前駅 - [[太田川駅]] - [[知多半田駅]] - [[知多武豊駅]] - [[富貴駅]] - [[上野間駅]] - [[知多奥田駅]] - [[野間駅]] - [[内海駅 (愛知県)|内海駅]]
1988年以降は「高速」に昇格したため、この「快速急行」は消滅している。
このほかにも、臨時列車として増発された1993年7月29日に[[名鉄三河線|三河線]][[豊田市駅|豊田市]]行の急行に「快速急行」の名称が使用されたことがある。
=== 快速急行(初代) ===
{{Main|名鉄特急#快速急行(初代)}}
[[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1995年4月5日改正|1995年4月5日のダイヤ改正]]で、全車一般席の特急を改称した'''快速急行'''が登場した。その後、[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]発着の[[名鉄常滑線|常滑線]]への[[普通列車]]を延長する形で新一宮駅(現在の[[名鉄一宮駅]])から運行する列車も設定されていた(新一宮駅 - 金山駅間:快速急行、金山駅以南:普通)。しかし、この快速急行は、改正毎に運転本数が減らされ、[[1987年から2004年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#2003年3月27日改正|2003年3月27日の改正]]で一部特別車特急に統合され消滅した。
当時の快速急行の停車駅は特急停車駅(当時特別停車扱いだった国府宮駅と新安城駅を含む)+[[鳴海駅]]だったが、特急への統合後も停車駅の変更はなく、鳴海駅に特別停車する扱いとなっていた。その後豊橋駅まで延長運転するようになったため、延長運転時より国府駅にも特別停車していた。
このほかにも、正月の豊川線での折り返し運転列車で「快速急行」の名称が使用されたことがある<ref>{{Cite journal|和書|author = 白井良和|title = 名鉄に見る運転と施設の興味|date =1996-07 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 624|page=115}}</ref>。ただし[[名鉄7000系電車|7000系電車]]が豊川線の増発列車として快速急行に用いられた際は種別幕は白幕となっており、「快速急行 豊川稲荷」と書かれた特別の系統版を装着しての運行だった。
=== 快速急行(2代) ===
2005年1月29日の[[名鉄空港線|空港線]]開業に伴う[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2005年1月29日改正|ダイヤ改正]]から、それ以前の急行の標準停車駅及び[[停車 (鉄道)|特別停車駅]]の整理を行った形で再登場した。急行以上特急未満の位置付けは同じだが、旧快速急行は特急系列車だったのに対し、現快速急行は急行系列車となっており、その性質は全く異なる。[[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]と常滑線でのみ、急行と標準停車駅が異なる。以下は現在運転されている快速急行についての記述である。
==== 名古屋本線・豊川線 ====
[[ファイル:Meitetsu Rapid Exp. 3500 series.JPG|thumb|right|200px|現在では名鉄岐阜 - 神宮前間のみ設定されている名古屋本線の快速急行(二ツ杁駅、2014年9月撮影)。本線東部へ向かう列車は名鉄名古屋駅で急行以下に種別変更される。]]
2005年1月29日のダイヤ改正より終日設定され、改正以前より急行標準停車駅にのみ止まっていた列車を「快速急行」とし、急行標準停車駅と[[栄生駅|栄生]]、[[大里駅|大里]]にも特別停車していた列車を「急行」とした(これにより、栄生、大里は急行標準停車駅に格上げ)。なお、[[名鉄豊川線|豊川線]]内の停車駅は急行と同一であった。同線では、それまで本線系統(豊橋 - 岐阜間)と豊川線直通系統([[豊川稲荷駅|豊川稲荷]] - 岐阜)の急行がそれぞれ毎時2本運行していたが、そのうち本線系統が快速急行となった。ただし、日中の下り(岐阜方面)は、豊川線直通系統が快速急行となり、本線系統は急行だった。
特別停車を減らす一環で登場させた快速急行であったが、本線東部区間(豊橋 - 神宮前)の標準停車駅は同じであり、朝ラッシュ時間帯には快速急行も特別停車や種別変更する列車が存在した。
[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年12月27日改正|2008年12月27日の改正]]からは、設定区間が名古屋本線[[神宮前駅]] - [[名鉄岐阜駅|岐阜駅]]間に短縮、上り(豊橋・[[中部国際空港駅|中部国際空港]]方面)のみの運転となった。昼間帯以降の快速急行は急行へ変更され、設定は朝方の数本のみとなる([[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2011年3月26日改正|2011年3月26日の改正]]で数本増発)。
==== 西尾線・津島線・尾西線 ====
[[ファイル:NagoyaRailwayCompanyType6500.jpg|thumb|right|200px|西尾線の快速急行(西尾駅、2006年3月撮影)。同列車は2008年6月の改正で吉良吉田に延長され、同年12月の改正で急行に変更された。]]
2005年1月29日のダイヤ改正で毎時1本設定されていた[[佐屋駅|佐屋]] - [[西尾駅|西尾]]間の急行が快速急行となった。ただし、[[名鉄津島線|津島線]]・[[名鉄尾西線|尾西線]]内は上り(名鉄名古屋・西尾方面)のみ快速急行で、下り(佐屋ゆき)は普通となった。津島線、尾西線、[[名鉄西尾線|西尾線]]内の停車駅は急行同一だが、直通先の名古屋本線では栄生駅を通過した(改正前は、栄生駅に特別停車していた)。同区間には、[[名鉄特急#西尾線方面(特急)|全車特別車の特急]]が毎時1本設定されており、両系統を合わせて優等種別が約30分間隔で運行されるダイヤとなっていた。
[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年6月29日改正|2008年6月29日の改正]]で上述の特急が廃止され、また[[名鉄蒲郡線|蒲郡線]]のワンマン運転区間が[[吉良吉田駅|吉良吉田]] - [[蒲郡駅|蒲郡]]間に縮小されたため、快速急行の運転区間を吉良吉田まで延長(一部を除く)し、毎時2本へ増発された。また、西尾線では、同日に開業した[[南桜井駅 (愛知県)|南桜井駅]]にも停車する「準急」が新たに設定され、朝と夕方以降の快速急行は、西尾線内は準急に種別変更された。[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年12月27日改正|2008年12月27日の改正]]以降は快速急行が急行に格下げされ、現在に至る。
なお、2008年12月27日改正から2011年3月26日の改正まで、平日の朝ラッシュ帯において、津島線、尾西線では須ヶ口駅から名鉄名古屋駅まで快速急行に変わる[[国府駅 (愛知県)|国府]]ゆき(津島線・尾西線内普通。名鉄名古屋から急行)が1本設定され、また、名鉄岐阜駅から名鉄名古屋駅まで快速急行として運行する吉良吉田ゆき(名鉄名古屋から急行。西尾線内は準急)が1本設定されていた。
==== 常滑線・空港線・河和線・知多新線 ====
[[ファイル:Meitetsu 3300 series ( III ) 012.JPG|thumb|right|200px|急行派生形としての快速急行(太田川駅、2008年7月撮影)。2008年12月の改正で中部国際空港ゆきの系統は特急に近い位置付けに変更された。]]
{{See also|名鉄特急#快速急行(常滑・空港線系統)}}
[[名鉄常滑線|常滑線]]では2005年1月29日のダイヤ改正より、急行特別停車駅であった[[大江駅 (愛知県)|大江駅]]を通過する列車を「快速急行」とし、同駅にも停車していた列車を「急行」とした。[[名鉄空港線|空港線]]、[[名鉄河和線|河和線]]、[[名鉄知多新線|知多新線]]の停車駅は急行と同じであり、運行本数は朝ラッシュ時間帯に数本設定されるのみであった。河和線、知多新線はこの時設定されたタイプの快速急行を現在まで踏襲している。
一方、常滑線、空港線では[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年12月27日改正|2008年12月27日の改正]]より全車一般車特急として運行されていた列車を快速急行へ改称し、停車駅も特急と同一にするなど、1995年に登場した初代快速急行に近い位置付けに変更された。[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2011年3月26日改正|2011年3月26日の改正]]では深夜便が再び全車一般車特急に戻されたが、朝ラッシュ時間帯においては減便となった中部国際空港ゆき一部特別車の特急を補完する形で快速急行が増発された。
==== 犬山線・各務原線・広見線 ====
[[名鉄犬山線|犬山線]]では2005年1月29日のダイヤ改正で、同線の急行が特別停車していた名古屋本線の[[栄生駅]]を通過する列車が「快速急行」、停車する列車が「急行」になった。一方、同じく急行の特別停車駅であった[[扶桑駅]]は準急停車駅となったが、名古屋方面の快速急行のみ特別停車していた。設定本数は朝方の数本と少なく、犬山方面の1本には[[名鉄6000系電車|6000系列]]、名古屋方面の4本には[[名鉄3300系電車 (3代) |3300]]・[[名鉄3500系電車 (2代) |3500・3700系電車]]のいずれかが使用され、いずれも[[犬山駅]](上りの2本のみ[[新鵜沼駅]])以南は8両で運転されていた。なお、快速急行はこの時[[名鉄各務原線|各務原線]]と[[名鉄広見線|広見線]]にも設定されていたが、実際に線内を快速急行として運行される列車はなく、また設定上の停車駅も急行と同一だった。
[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2008年12月27日改正|2008年12月27日改正]]以降は扶桑駅が快速急行停車駅となり、上り(名鉄名古屋方面)のみの設定となった。平日朝ラッシュ帯に上り4本が運行され、すべての列車が名鉄名古屋駅で種別変更する。[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2011年3月26日改正|2011年3月26日の改正]]からは2本に減少したが、このうち1本は各務原線の名鉄岐阜発で、各務原線内も快速急行として運行する(これにより、各務原線で初めて快速急行が運行されたことになる。なお、[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2023年3月18日改正|2023年3月18日の改正]]で各務原線内の列車は普通のみとなり、快速急行は消滅した)。また、使用車両が2本とも[[名鉄5000系電車 (2代) |5000系電車]]の8両編成(いずれも犬山駅以南)に変更された。
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== 近畿日本鉄道 ==
[[近畿日本鉄道]]では、難波線・奈良線・大阪線・山田線・鳥羽線で定期に運転されているほか、南大阪線・吉野線でも臨時に運転されることがある。また、京都線でも過去に運転されていた。英語表記は“RAPID EXP.”。
=== 奈良線 ===
{{See also|#阪神電気鉄道}}
[[ファイル:Kintetsu Series5800.jpg|thumb|難波線から奈良線へ直通する快速急行は奈良線の主力。<br />写真は鶴橋-今里-布施間の複々線区間を走行する奈良行快速急行。]]
[[ファイル:Hanshin-9000-kintetsuishikiri (2).JPG|サムネイル|阪神車([[阪神9000系電車|9000系]])による快速急行([[石切駅]])]]
[[近鉄難波線|難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]では、[[大阪難波駅]] - [[近鉄奈良駅]]間でほぼ終日運行されている。同区間の主力列車で、一般車両を使う列車種別では最上位である。
その前身は、1956年に運転開始した、鶴橋・西大寺のみ停車する上本町 - [[近鉄奈良駅|近畿日本奈良(当時)]]間に設定された料金不要の特急だが、他線区で設定されていた[[近鉄特急|有料特急]]と紛らわしいということもあり、1972年に特急から快速急行に種別変更し、同時に生駒駅・学園前駅を停車駅に加えている。なお、翌年からは同区間に有料特急も新たに設定されている。快速急行は1980年から平日の朝に10両編成で運行される列車が登場し、現在は平日ラッシュ時のほとんどの列車は10両編成となっている。2000年3月15日より、新大宮駅にも停車するようになった。2022年時点の近鉄線内の停車駅は、[[近鉄日本橋駅]] - [[大阪上本町駅]] - [[鶴橋駅]] - [[生駒駅]] - [[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]] - [[大和西大寺駅]] - [[新大宮駅]]で、平日の朝に[[菖蒲池駅]]に臨時停車する列車もある。
2009年3月20日、阪神なんば線の開業に伴い、阪神三宮(当時)-近鉄奈良間で相互直通運転が開始された。快速急行については、神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通する唯一の列車種別として位置づけられ、一部の列車が大阪難波駅発着である以外は、早朝・夜間以降は尼崎駅まで、それ以外は神戸三宮駅まで直通している。この阪神直通の快速急行も朝晩の列車はほぼ8両または10両編成となっているが、阪神側の駅ホーム設備の都合により、尼崎駅で増解結を行い阪神本線内(尼崎以西)は6両となる。阪神本線内の快速急行停車駅(芦屋駅を除く)でホームが近鉄車両8両編成に対応する長さに延伸されたため、2020年3月14日のダイヤ変更より、土休日ダイヤにおいては、これまで6両編成で運転されていた列車のほぼすべてが8両編成で運転される。
現行のダイヤは、主に準急または区間準急と東花園以東奈良方面各駅停車が、準急または区間準急とセットとして運行している。準急・区間準急は、上下とも8割方が、石切・布施(一部は、東花園)で通過追越を、東花園以東近鉄奈良方面各駅停車は、[[布施駅|布施]]・[[八戸ノ里駅|八戸ノ里]]・[[東花園駅|東花園]]・[[瓢箪山駅 (大阪府)|瓢箪山]]・[[石切駅|石切]]・[[東生駒駅|東生駒]]のいずれかで通過追越を行い、奈良県内(生駒・奈良市内)の各駅から大阪市内を結ぶ速達列車との位置づけである。なお、かつては日中のみ急行と交互に運行されていたが、後に夕方以降も一部の快速急行が急行に置き換えられたこともあり、以前と比べて運行本数は減少している。
毎月26日の[[天理教]]祭典日には、大阪難波行き快速急行の折り返し回送列車を営業列車化させる形で大阪難波駅発[[天理駅|天理]]行き臨時急行が増発されるほか、平日ダイヤで朝に1本設定されている神戸三宮駅発大和西大寺行きが天理行きに延長される(大和西大寺まで快速急行、大和西大寺から臨時急行の扱い)。この運用は2021年7月のダイヤ変更で定期運用に変更されている。なお、通常ダイヤでは快速急行が急行を待避・通過待ちさせることはないが、前者は通常ダイヤでは大阪難波駅折り返し後の入庫回送列車であるため、布施駅で快速急行を待避する。
車両面では阪神電鉄直通列車においては、相互直通運転対応工事が行われた[[シリーズ21]]ないし[[L/Cカー]]および[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]車両に限定して運用されるが、近鉄線内で完結する大阪難波駅発着列車に限ってはそれ以外の一般車両も運用されている。
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=== 大阪線・山田線・鳥羽線 ===
[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄山田線|山田線]]・[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]では、大阪上本町駅 - [[名張駅]]・[[青山町駅]]・[[松阪駅]](下りのみ)・[[宇治山田駅]](平日下りのみ)・[[五十鈴川駅]](土休日下りのみ)・[[鳥羽駅]](夕方下りのみ)間で運行されている。最長運転区間の大阪上本町駅 - 鳥羽駅間の運転距離は150.4kmと、料金不要一般列車では非常に長い距離を走行する。
停車駅は、大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - [[五位堂駅]] - [[大和高田駅]] - [[大和八木駅]] - [[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]] - [[榛原駅]] - [[室生口大野駅]] - [[赤目口駅]]から青山町駅までの各駅 - [[榊原温泉口駅]] - [[伊勢中川駅]] - 松阪駅 - [[伊勢市駅]] から鳥羽駅までの各駅である。
運行時間帯は朝晩のみで、編成両数は6両を基本に青山町駅以西では最大10両で運転されており、大阪府大阪市の鶴橋から奈良県香芝市の五位堂までの26kmをノンストップで走り、通勤時間帯の大阪市内と奈良県内([[中和 (奈良県)|中和]]地区・[[宇陀市]])、三重県内([[名張市]]・[[伊賀市]])間の速達列車としての位置づけである。これは、布施駅の駅構造の問題(通過線がホームの無いところにあり、緩急接続ができない)や、急行が停車する[[河内国分駅]]、[[大和朝倉駅]]、[[長谷寺駅]]、[[三本松駅 (奈良県)|三本松駅]]のホーム有効長が6両分しかなく、ラッシュ時の急行6両運転では輸送力に問題が生じることによるものである(ドアカットは行っていない)。また松阪駅以東発着の一部列車については伊勢中川駅で名古屋方面からの急行に、名張駅・青山町駅発着の一部列車については名張駅・青山町駅で伊勢中川方面からの普通列車に接続を受ける。朝ラッシュ名張発上りは鳥羽線、山田線内発の急行名張行きとして運行して当駅で増結した上で改めて快速急行となる運用がある。
快速急行は、[[布施駅]]の3層化改造工事の完成にともなって1978年3月に行われたダイヤ改正から、従来運行していた旧・急行を名称変更する形で登場した(五位堂駅は2001年3月、[[美旗駅]]は2003年3月から停車で、それ以前は通過していた。また五位堂は1987年9月まで区間快速急行・急行も通過していた)。また、同様に区間快速急行も「区間急行」の名称を変更して登場した。その上で、昼間時にのみ、従来の急行・区間急行に代わって布施駅・榛原 - 榊原温泉口間各駅に停車する現・急行が新設された。このダイヤ改正時に奈良線にも布施駅に停車する現・急行が新設され、布施駅での大阪線・奈良線の連絡が改善され、現在のダイヤの基本形が完成している。また2012年3月20日の白紙ダイヤ変更までは室生口大野駅と赤目口駅を通過し、[[伊賀上津駅]]・[[西青山駅]]・[[東青山駅]]に停車していた。
この路線の快速急行は前述の奈良線とは異なり難波線には乗り入れていない。
2016年ダイヤ変更以前までは大和八木駅終着の列車、2003年ダイヤ変更以前と2012年度ダイヤでは伊勢中川駅始発の列車、2020年ダイヤ変更までは鳥羽駅始発の列車も設定されていた。
以前は、大阪線・山田線のみに設定されている種別で、わずか2駅(室生口大野駅、赤目口駅)だけ当時の快速急行より停車駅が多く、運行本数は快速急行より多かった'''区間快速急行'''もあった<ref>同種の種別は他に東武東上線の快速、西武新宿・拝島線の拝島快速がある。</ref>。方向幕や案内では略称の'''区間快速'''と表記、案内されていた。英語表記は "SUB. RAPID EXP." ("Suburban Rapid Express" の略) であった。廃止直前の運転区間は大阪上本町駅 - 大和八木駅(下り最終の1本のみ)・名張駅(上り最終の1本のみ)・青山町駅・伊勢中川駅(上り1本のみ)または松阪駅間(越年終夜運転時は五十鈴川駅まで延長)。2012年3月20日のダイヤ改正で、区間快速急行は快速急行と統合され、廃止された。
廃止前の停車駅は、大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 五位堂駅 - 大和高田駅 - 大和八木駅 - 桜井駅 - 榛原駅 - 室生口大野駅 - 赤目口駅から榊原温泉口駅までの各駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅であった。
車両面では、快速急行および廃止された区間快速急行共に青山町駅以東を運行する列車は運転距離が100kmを超える関係から、原則として大阪線および名古屋線所属車両の中でも[[近鉄5200系電車|5200系]]やL/Cカーなどのクロスシートを備えた車両(これらの車両はトイレ付き車両が連結されている)か、ロングシート車両の中でもトイレ付き車両を連結する([[近鉄2600系電車#2610系|2610系]]や[[近鉄1400系電車#1200系|1200系]]など)の形式に限定されて運用される(増結編成はこの限りでない) 。
=== 南大阪線・吉野線 ===
[[近鉄南大阪線|南大阪線]]・[[近鉄吉野線|吉野線]]では、春の行楽期に臨時列車として「さくら号」などの愛称がついた快速急行が運転される。ただし、愛称無しで運転されることもある。
2012年3月の白紙ダイヤ変更で、一部の特急が[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]に停車するようになって以降は、快速急行と古市停車の特急では停車駅が同一となっているが、吉野線が単線であることから、長時間停車がある。
過去には、秋の行楽期や[[藤井寺球場]]での野球開催日にも運転されたことがあり、愛称も「ぼたん号」「あすか・みよしの号」「なし狩号」(「20世紀号」より改称)「[[大阪近鉄バファローズ|バファローズ]]号」などがあった。梨狩りの時期に限っては[[大阿太駅]]に、野球開催時には[[藤井寺駅]]にも臨時停車していた。
[[1970年代]]までは列車種別を「快速」(近鉄では快速は急行より上位種別)としていたが、奈良線に快速急行が運転されるようになったのと相前後して快速急行に改称した。
=== 京都線 ===
[[近鉄京都線|京都線]]には、1988年の[[なら・シルクロード博覧会]]の際に臨時運行したのを契機に、土日の昼間時間帯に臨時列車として快速急行が1時間に1本設定されていた(当時の停車駅は[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]、[[近鉄丹波橋駅]]、大和西大寺駅)が、定期列車として1998年3月17日から2003年3月6日まで、[[京都駅]] - 近鉄奈良駅間に快速急行が運転されていた。定期列車時の停車駅は竹田駅 - 近鉄丹波橋駅 - 大和西大寺駅 - 新大宮駅(2000年改正以降)と、同区間を運転する急行と比べてはるかに少なく、特急停車駅に竹田と新大宮を追加した形だった。
新設時の運転本数は土日午前2本、午後2本の計4本であった。その頃の快速急行待避駅は奈良県内では[[高の原駅]]で、同駅を通過する快速急行を急行が待避していた。2000年からは京都 - 奈良間の昼間の急行が全面的に快速急行へ格上げされた。快速急行が通過する急行停車駅の利用者は同年から新設された[[京都市営地下鉄烏丸線]]直通([[国際会館駅]]発着)の急行を竹田駅で連絡することで補った。
京都線の快速急行は2003年3月6日に急行に統合され廃止された。
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== 南海電気鉄道 ==
[[南海高野線|高野線]]の快速急行は2003年5月31日に昼間時間帯の[[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[極楽橋駅]]間の急行の一部を[[千早口駅]]・[[天見駅]]・[[紀見峠駅]]通過に変更して登場した。また2008年11月1日のダイヤ改正から平日の夕方のラッシュ時に難波発[[橋本駅 (和歌山県)|橋本]]行きを運行している。なお極楽橋発着は2扉車の[[ズームカー]]で平日の夕方のラッシュ時に運行される難波発橋本行きは20m4扉車でそれぞれ運用される。
また高野線では1958年~1968年にも快速急行が存在していたが(現在の急行)、この時の停車駅は新今宮駅・堺東駅・北野田駅と河内長野駅以南の各駅であった(新今宮駅は1966年の駅開設時より停車)。当時の急行はこれに加え[[住吉東駅]]・[[三国ヶ丘駅]]・[[初芝駅]]に停車していた。極楽橋駅の[[発車標|行灯式案内表示機]]における「快急」の表示はこの当時のもので30数年ぶりに定期使用されたことになる。現在の停車駅は難波駅 - [[新今宮駅]] - [[天下茶屋駅]] - [[堺東駅]] - [[北野田駅]] - [[金剛駅]] - [[河内長野駅]] - [[三日市町駅]] - [[美加の台駅]] - [[林間田園都市駅]]から極楽橋駅までの各駅である。
輸送障害時などに20m4扉車が代走する場合があり、この場合は難波駅 - 橋本駅間のみで運行され、以降は[[運転整理#運転休止・運転打ち切り(部分運休)・計画運休(事前運休)|運転打ち切り]]となる。
== 京阪電気鉄道 ==
[[ファイル:Keihan-3000.JPG|thumb|right|200px|京阪の快速急行(2008年10月撮影)]]
{{main|京阪特急}}
[[京阪電気鉄道]]では2008年10月19日に[[京阪中之島線|中之島線]]開業に合わせて同線および[[京阪本線]]・[[京阪鴨東線|鴨東線]]にて運転が開始された。また、深夜には交野線直通の列車も運行されていた。なお、京阪の快速急行運転開始で、関西の五大大手私鉄すべてに快速急行が存在することとなった<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h20/2008-08-25.pdf 中之島線開業にあわせ10月19日(日)初発から、京阪線で新ダイヤを実施します]}}</ref>。
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== 阪神電気鉄道 ==
{{See also|#難波線・奈良線}}
[[阪神電気鉄道]]では本線・神戸高速線と阪神なんば線で運転されている。英語表記は“RPD. EXP.”。
=== 本線・神戸高速線 ===
[[ファイル:Hanshin 1000 series 1203F (49904023131).jpg|thumb|right|200px|阪神本線を走行する1000系の快速急行(2019年11月撮影)]]
[[阪神本線]]においては、1983年(昭和58年)に運行を開始した。当初は[[大阪梅田駅 (阪神)|梅田]] - [[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|三宮(当時)]]間に休日昼間時の[[西宮駅 (阪神)|西宮]]止まりの急行を延長する形で設定された。他社の快速急行と大きく異なる点は、通常は特急と急行の中間の種別として設定されるのに対し、阪神本線においては設定以来[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]により実質特急と同等か、区間によってはそれ以上の種別として扱われている点にある。同様の例は他に2007年3月6日のダイヤ改正以前の西武新宿線に見られる程度であったが、特急が有料、快速急行が無料という差はあった。設定当初は、西宮までは従来の急行停車駅(野田・尼崎・甲子園)に停車し、西宮 - 三宮間は無停車(大阪方面行きはこれに[[青木駅|青木]]が加わっていた)での運行であった。当時12分ヘッドであった特急と併せて、実質阪神間を6分ヘッドで優等列車が走るようになったが、運行開始当初は大阪方面行きは青木で特急待避したため、6分ヘッドとなったのは実質神戸方面行きのみであった。
その後平日にも快速急行の運行が拡大し、青木待避を中止するなどして特急とともに阪神本線の主要優等列車となった。西宮 - 三宮間は完全に無停車で特急より上位の最優等列車となる。のちに[[神戸新交通六甲アイランド線|六甲ライナー]]との連絡のため[[魚崎駅|魚崎]]が停車駅に追加される。2009年3月20日の[[阪神なんば線]]大阪難波延伸開業までは、西宮 - 三宮(当時)間では、特急より1駅停車駅が少ない状態が続いた。
[[山陽電気鉄道]]との[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]運転開始のダイヤ改正で日中が10分ヘッドに変更され直通特急・特急が増発されたことと引き換えに、快速急行は平日夕方の梅田 - 三宮(当時)間のみの運行に縮小された、併せて魚崎を通過とする代わりに青木に再び停車して上りでは普通と連絡したほか、[[HAT神戸]]へのアクセスも考慮して[[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋]]にも新規で停車したが、特に上りでは、三宮(当時)の発車ホームが異なる上に梅田方面の阪神普通が到着する直前に発車してしまうため接続が悪く(特に上りの三宮(当時) - [[山陽須磨駅|山陽須磨]]間で直通特急が停車しない駅からの普通利用の場合。夕ラッシュの山陽普通は[[高速神戸駅|高速神戸]]で阪神普通に接続する)、利用率はあまり高くなかった。
西大阪線(現:阪神なんば線)では1974年の西大阪線特急廃止後、長きにわたって線内を往復する普通のみが運転されていたが、2009年3月20日の阪神なんば線延伸開業に伴い、三宮(当時)から当路線を介して上記の近鉄奈良線近鉄奈良駅の間で相互直通運転が開始され、快速急行は神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通する種別として運転されるようになった。阪神なんば線開業直後の本線内の停車駅は魚崎 - [[芦屋駅 (阪神)|芦屋]] - 西宮 - ([[今津駅 (兵庫県)|今津]]) - [[甲子園駅|甲子園]] - ([[武庫川駅|武庫川]]) - [[尼崎駅 (阪神)|尼崎]]だった。なお今津は土休日に、武庫川は平日昼間と土休日に停車(これは[[停車 (鉄道)#選択停車|選択停車]]の形態と言える)。これに伴い、梅田 - 西宮間で運転されていた急行の一部が梅田 - 尼崎間の運転となり、尼崎で快速急行に接続する形に変更された。また西宮 - 神戸三宮間(今津・武庫川を通過する時間帯では尼崎 - 神戸三宮間)において、[[御影駅 (阪神)|御影]]に停車しない分、実質的に特急より上位の種別となる。御影に関しては利用客数も多く、停車の要望も大きかったが、ホームが急カーブ上にあるため21m級と大柄な近鉄車両に合わせたホーム延伸が不可能であること、オーバーハングが大きくホームと車両との隙間が大きくなりすぎて危険なため通過となった。このため御影は通過駅ではあるが、分岐器制限との関係もあり、超低速で通過する。
2012年3月20日のダイヤ改正より土休日ダイヤの朝7時 - 8時台の近鉄奈良行き快速急行3本が新開地始発となり、[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]を走行する快速急行が新たに設定された。神戸高速線内では各駅に停車する。なおこの3本はともに神戸三宮発新開地行き普通(2016年3月19日のダイヤ改正前までは特急)の折り返しとなるため[[阪神1000系電車|1000系]]・[[阪神9000系電車|9000系]]の限定である。このほか夜間に神戸三宮発尼崎行き(尼崎で普通に種別変更し阪神なんば線に直通)が設定されている。
2020年3月14日のダイヤ改正より、土休日ダイヤにおいてこれまで6両編成で運転されていた列車のほぼすべてが8両編成で運転されるようになり、踏切に挟まれてホームを延伸できない芦屋駅をすべての列車が通過する(平日はすべて本線内を6両編成で運転するため終日停車)。また平日昼間には、武庫川に停車する列車が今津にも停車するようになった。これにより、神戸三宮 - 尼崎間の停車駅は魚崎 - (芦屋) - 西宮 - (今津) - 甲子園 - (武庫川) - 尼崎となっている(平日の昼間と土休日は今津・武庫川に停車し、土休日は芦屋を通過)。
阪急神戸本線と同様、毎年開催されている[[みなとこうべ海上花火大会]]当日または[[神戸ルミナリエ]]開催期間中の土曜・日曜に限り、阪神なんば線の定期列車を延長する形で、夜間に神戸三宮発尼崎行き臨時快速急行が運転されている。
=== 阪神なんば線 ===
[[ファイル:Kintetsu-1252-uozaki.JPG|thumb|right|阪神なんば線を走行する近鉄車の奈良行快速急行。<br />阪神電鉄線内の快速急行は阪神に合わせた方向幕を使用。<!-- 長くなるので例外は省略 -->]]
阪神なんば線では[[西九条駅|西九条]] - [[大阪難波駅|大阪難波]]間が延伸開業した2009年3月20日より運行を開始。快速急行は基本的に神戸三宮 - 近鉄奈良間を直通して運行されるが、早朝・夜間に限り本線には乗り入れず尼崎 - 近鉄奈良間での運転となるほか、平日朝には大阪難波行き(大阪難波で普通に種別変更)の設定がある。阪神なんば線内では尼崎から西九条までの旧西大阪線区間の中間駅<ref name="hanshin-nishiosaka">大物から千鳥橋の各駅。</ref>を全て通過し、新規に開業した西九条 - 大阪難波間は各駅に停車する。種別の色表示は阪神(水色)と近鉄(赤色)とで異なるため、近鉄線方面行きは[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]発車後に、阪神線方面行きは大阪難波発車後にそれぞれ表示変更する。なお、当線での当種別の運行開始直後は、近鉄線から乗り入れる各駅停車の本数の都合上、平日昼間時間帯のみ尼崎 - 大阪難波間で各駅に停車して旧西大阪線区間における各駅停車の機能も担っていたが、[[阪神電気鉄道のダイヤ改正#2012年3月20日改正|2012年3月20日のダイヤ改正]]で旧西大阪線区間の中間駅<ref name="hanshin-nishiosaka" />への停車は取り止められた<ref>代替として、それまで大阪難波止まりであった近鉄奈良線・難波線の区間準急列車の運転区間を尼崎まで延長する事で対応した。</ref>。
かつては、毎月26日の天理教祭典日のうち平日ダイヤに該当する日のみ、朝に臨時快速急行天理行き(大阪難波から臨時急行に種別変更)が1本あったが、これは現在<ref>厳密には、[[1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更#2016年3月19日変更|2016年3月19日のダイヤ改正]]以降。</ref>は大和西大寺行きとして定期列車化されている(前出の天理教祭典日のみ、大和西大寺で急行に種別を変更した上で天理まで延長運転)。
== かつての有料快速急行 ==
[[ファイル:Tobu 5700 daiya.jpg|thumb|200px|5700系 快速急行 「だいや」]]
{{See also|きりふり#東武日光線旧急行・快速急行列車沿革}}
かつて[[東武鉄道]]では、[[東武伊勢崎線|伊勢崎]]・[[東武日光線|日光線]]系統で特急「[[けごん]]」・「きぬ」の補完を果たす列車として、[[1976年]](昭和51年)より[[1991年]](平成3年)まで、快速用としても用いられる[[東武6000系電車|6000系]]([[1976年|1976]]〈昭和51〉- [[1986年|1986]]〈昭和61〉)・[[東武6050系電車|6050系]]([[1958年|1985]]〈昭和60〉- [[1991年|1991]]〈平成3〉)および[[東武5700系電車|5700系]](1976〈昭和51〉- [[1988年|1988]]〈昭和63〉)を用い、全車[[座席指定席]]制として快速急行券(1988年〈昭和63年〉より[[座席指定券]])を徴収する[[優等列車]]として運転されていた。昼行列車の停車駅は、[[北千住駅]]に下り列車が停車するようになる[[1997年]](平成9年)以前の急行のそれとほぼ同じであった。
快速急行の設定以前、同列車は「急行」として運転されていた。しかし、伊勢崎線急行(当時)「[[りょうもう]]」用の[[東武1800系電車|1800系]]と比較して停車駅・車両設備(非冷房でボックスシート)ともに劣るため、「快速急行」として種別を分けたものである。すなわち、一般的な例とは逆に、この快速急行は急行よりも下位の種別となっており<ref>同種の列車には[[小田急電鉄]]の準特急があり、こちらものちに設定される[[近畿日本鉄道]]や[[京王電鉄]]の事例とは異なり、停車駅の違いよりも接客設備の格差によるものであり、停車駅は新宿 - 小田原間ノンストップであった。[[小田急小田原線]]・[[小田急電鉄のダイヤ改正]]も参照。</ref>、この列車の場合は「快速な'''急行'''」(急行の派生種別扱い)ではなく、「全車指定席の'''快速'''」に「快速急行」の種別を割り当てたもの(快速の派生種別扱い)である。
1991年(平成3年)に定期列車は急行用車両[[東武300系電車|300系・350系]](いずれも前述の1800系からの改造車)へ置き換えられ、車両設備がふさわしいものとなったため「急行」に種別を改めた。同年以降も快速急行は[[東武鉄道夜行列車|夜行列車「スノーパル」・「尾瀬夜行」]]を中心に臨時列車として運行されたが、夜行列車についても使用車両の変更に伴い、[[2001年]](平成13年)に急行へ、さらに[[2006年]](平成18年)からは特急へ格上げされており、これ以降「快速急行」は事実上運行されていない。
なお、[[急行列車#料金不要の「急行」|料金不要の「急行」]]が運行されている現行体制において、同様の性格の列車(一般車両による座席指定列車)が設定される場合、「[[THライナー]]」のように列車愛称名が種別を兼ねる形を採っている。
== 過去の事業者 ==
=== 西日本鉄道 ===
[[ファイル:Nishitetsukaisoku.jpg|thumb|right|200px|6000・6050形8連で運行される快速急行(西日本鉄道)]]
[[西日本鉄道]]の[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]においては、[[2001年]][[1月20日]]のダイヤ改正において、[[大牟田駅]]・[[西鉄柳川駅]] - [[西鉄福岡(天神)駅]]間で朝ラッシュ時に上りのみ運行開始された。それまでは朝ラッシュ時の上り急行は、8両編成を使用する運用に限り、二日市以北の急行停車駅([[大橋駅 (福岡県)|大橋駅]]・[[春日原駅]]・[[下大利駅]])を通過していたが、同日のダイヤ改正により全列車が停車することになったので、その代替として運行されるようになった。
快速急行は、西鉄で唯一8両編成で運行され(他の列車は最大7両)、車両も4扉の[[西鉄6000形電車|6000形・6050形]]が限定的に使用された(なお、2編成繋いだだけであるため、編成間での通り抜けはできなかった)。停車駅は、急行の停車駅から春日原駅・下大利駅を除いたものとされた。停車駅から2駅を除いたのは、遠距離通勤客と近距離通勤客を分離するため、および上記2駅がホーム端に踏切があるためホーム延長に対応できないと言った制約などにより、8両編成の列車が停車できないためである。また、[[女性専用車両]]の設定に関して、乗車位置が快速急行に限り、他の種別と異なる駅も存在するが、その場合は種別カラーのオレンジ色を用いて他の種別と専用車両の乗車位置の違いを区別した。
この運用は、[[2010年]][[3月27日]]のダイヤ改正で折り返しの送り込み列車である「直行」とともに廃止され、すべての列車が7両で運行されるようになった。
=== 大阪市交通局 ===
[[2001年]]3月から[[2007年]]3月まで平日夕方に大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋駅から阪急京都本線直通河原町行きを運行していた(通称「'''堺筋快速急行'''」)。堺筋線内は各駅に停車していた。
=== 阪急電鉄 ===
1987年から2022年まで運行されていた。神戸本線・京都本線で運転されていた。英語表記は“Rapid Exp.”。また過去に宝塚本線でも運転されていた。2022年12月のダイヤ改正において快速急行の種別は消滅となり「[[準特急]]」と名称が変更された<ref>[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf]</ref>。
==== 神戸本線 ====
[[阪急神戸本線|神戸本線]]では1987年に運行を開始した。設定の趣旨は、特急運転終了後の深夜帯の速達サービスの充実で、当時の特急停車駅に[[塚口駅 (阪急)|塚口]]・[[夙川駅|夙川]]・[[六甲駅|六甲]]を追加して従来の急行(西宮北口以西各駅)を格上げする形で登場した。快速急行はその後も定着し、2019年時点で早朝と深夜に[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] - [[阪急神戸高速線|神戸高速線]][[新開地駅]]間(深夜に上りの西宮北口行きあり)で運行されている。停車駅は[[十三駅|十三]]・塚口・[[西宮北口駅|西宮北口]]・夙川・[[岡本駅 (兵庫県)|岡本]]・六甲・[[三宮駅|神戸三宮]] - 新開地間の各駅。2006年10月28日からのダイヤでは通勤特急の停車駅に夙川駅が加わり、快速急行との停車駅の違いが六甲駅を通過するか否かだけとなっている。
1995年1月17日に発生した[[阪神・淡路大震災]]までは、[[正月三が日]]や行楽期の午前中、あるいは沿線の中学・高校の登校日の土曜日昼間(ただし下りのみ)にも梅田 - 三宮(当時)間に臨時快速急行が運転されていた。正月三が日や行楽期の運転では六甲駅で特急を待避するダイヤで、登校日の土曜日昼間は梅田駅発特急の1分後(続いてその1 - 2分後に普通が発車)に発車し、そのまま三宮(当時)まで逃げ切るダイヤであった。現在では、毎年開催されている[[みなとこうべ海上花火大会]]当日または[[神戸ルミナリエ]]開催期間中の土曜・日曜に限り、梅田行きのみ運転されていた。なお、表示幕には『'''<small>臨時</small>快速急行'''』も用意されているが、臨時列車でも定期列車と同じく『快速急行』を掲示している。
==== 京都本線 ====
[[阪急京都本線|京都本線]]では1997年3月2日ダイヤ改正から導入された。当時の特急の停車駅に桂駅を加えたもので、当初は平日朝1本と夜間の特急運転終了後に4本、いずれも梅田(当時)発[[京都河原町|河原町(当時)]]行きとして運行していた。
その後2001年3月24日のダイヤ改正で特急系統・急行系統の整理が行われ、それまでの快速急行は[[快速特急]]に名称が変更され、同時に従来の急行が'''快速急行'''と名称を変更されて運行されるようになった。なお、2001年以降「急行」は従来の停車駅に[[南茨木駅]]と高槻市以北(以東)の各駅を加えて運転されている。しかし同線の急行は2007年3月のダイヤ改正で「準急」に変わって休止された。
現在の快速急行は平日の日中を除く時間帯と休日の早朝・深夜に大阪梅田 - 京都河原町間(特急系統よりも始発が早く、終車が遅い)で運行されている。停車駅は十三・[[淡路駅|淡路]]・[[茨木市駅|茨木市]]・[[高槻市駅|高槻市]]・[[長岡天神駅|長岡天神]]・[[桂駅|桂]]・[[西院駅|西院]]・[[大宮駅 (京都府)|大宮]]・[[烏丸駅|烏丸]]。平日ダイヤの朝夕ラッシュ時は通勤特急と交互に運行されている(通勤特急は淡路を通過する)。深夜の下り1本のみ高槻市行きである。なお平日夕方に[[大阪市営地下鉄]][[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]][[天下茶屋駅|天下茶屋]]発河原町(当時)行きでも運行されていたが(通称「'''堺筋快速急行'''<ref group="注釈">淡路駅と堺筋線内各駅停車。</ref>」)、2007年3月のダイヤ改正で準急(通称「'''堺筋準急'''」)に変更された。
==== 宝塚本線 ====
[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]では2003年8月30日より2006年10月28日の改正まで昼間時間帯にそれまで運行されていた特急・急行に代わり梅田(当時) - [[宝塚駅|宝塚]]間で運行されていた。2006年の改正で全列車が急行に格下げされ廃止された。
停車駅は十三・[[豊中駅|豊中]]・[[蛍池駅|蛍池]]・[[石橋阪大前駅|石橋]](現:石橋阪大前)・[[池田駅 (大阪府)|池田]]・[[川西能勢口駅|川西能勢口]]・[[雲雀丘花屋敷駅|雲雀丘花屋敷]]・[[山本駅 (兵庫県)|山本]](急行は十三・豊中 - 宝塚間の各駅。廃止前の特急は蛍池・雲雀丘花屋敷を通過)。<!--これに対しては、豊中から山本までと比較的に長い区間各駅に停車するため「遅い」「連続停車が多すぎる」という批判的な意見も多数あった。その中でも[[蛍池駅]]の停車に対する批判的な意見が多かった。-->
== 参考文献 ==
* 交友社『鉄道ファン』2007年10月号 特集「列車種別バラエティ」
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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== 関連項目 ==
* [[羽川英樹の快速急行・神戸発!!]] - 「快速急行」を冠した[[ラジオ番組]]。
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太陽戦隊サンバルカン
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『太陽戦隊サンバルカン』(たいようせんたいサンバルカン)は、1981年2月7日から1982年1月30日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:30(JST)に全50話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。「スーパー戦隊シリーズ」第5作にあたる。
『秘密戦隊ゴレンジャー』から連綿と受け継がれたコミカルな痛快活劇を中心としつつも、宇宙からの侵略者と手を組んだ悪の機械人間軍団に人間の英知と勇気、そして正義と友情、愛の心で立ち向かう主人公たちの地球人類の未来を賭けた戦いをハードかつドラマチックに描いた。本作品の放送時にはすでに書籍資料で「スーパー戦隊」という表現が使われているのが確認でき、『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えて5作品を「スーパー戦隊シリーズ」と銘打ち、各作品の特色を比較した特集記事などが児童雑誌などで掲載され、広く一般にもこれらがシリーズ作品であると認識され始めた。
主役側の基地周辺関連ロケ地は、シリーズ前半の基地が群馬サファリパーク、シリーズ後半の基地では城ヶ崎海岸をロケ地としている。
本作品は、戦隊チームが男性3人のみで構成されており、女性メンバーが1人も存在しないことが最大の特徴である。この設定の意図は、基本を踏襲しつつマンネリ化しないように前作から人数を少なくさせることで強い印象を生み出して予防線を張り、そして陸・海・空の三軍の代表の兵士という設定を反映させるためである。人数の減少によりアクションはよりスピード感を増し、連携技も多用するなど、シリーズの基礎が確立された。しかし、女性メンバーの不在に対しては、放映当時から女児層をはじめとした視聴者から女性メンバーの復活を望む声が多数寄せられた。そのため、次作『大戦隊ゴーグルファイブ』では女性メンバーが復活した5人構成となり、以後のシリーズにも男性メンバーのみの作品は存在しない。
本作品ではヒーローの個性を印象付けるためシリーズで初めてヒーローのモチーフに動物が用いられた。陸海空の中で最も強い動物であるワシ、サメ、ヒョウが選ばれ、それらのイメージを強く押し出すため、主題歌の歌詞にも入れられている。そして、決定されたモチーフの動物に合わせて色も設定され、青と黄色のほかに、視認性が高く、遠くからでも人気しやすく、他の色に比べて際立って強く、男女共通して圧倒的に好きな色である赤が選ばれ、以降の作品でも戦隊の中心になるのは赤となっている。また、サンバルカンロボは戦隊シリーズ初の複数のメカが合体して完成するロボットであり、2代目バルイーグルは戦隊シリーズ初の「刀剣をメイン武器にしたレッド」である。本作品以降、「刀剣を個人武器とするのはレッド」という傾向が多く見られるようになる。東映プロデューサーの吉川進や鈴木武幸は、本作品がシリーズの基礎を確立したと評している。
そのほかの特徴として、前作『電子戦隊デンジマン』のラストで姿を消した敵役・ヘドリアン女王がブラックマグマの手によって復活した、という設定で引き続きレギュラー出演したことが挙げられる。ヘドリアン女王が本作品の作中でデンジマンやバンリキ魔王のことに言及するほか、嵐山長官がデンジマンやデンジ星人のことも詳しく知っていることが語られるなど、『デンジマン』と『サンバルカン』が同じ世界のストーリーであることの表れの1つである。また、『デンジマン』の項目でも述べられているように、デンジマンに変身して戦った5人がカメオ出演する案もあった。作品ごとに世界観をリセットするスーパー戦隊シリーズにおいて、クロスオーバー企画以外の続編が作られた唯一のケースである。ただし、当初から続編を作ろうという試みがあったわけではなく、へドリアン女王役の曽我町子の演技を高く評価した東映プロデューサーの吉川が、引き続き彼女が活躍できる場を作ったというのが実情である。
サンバルカンのリーダーであるバルイーグルは、物語中盤においてNASAに「パイロットとしての技量を見込まれ、転任する」という設定で交代している(詳細は#バルイーグルの交代に関してを参照)。それと平行して敵組織ブラックマグマでも、「前線司令官を務めたゼロワンが戦死した後に新たな女幹部アマゾンキラーが現れる」という交代劇が描かれている。プロデューサーの鈴木武幸は、「ゼロガールズだけでは手詰まりになり、これくらいの設定変更をしなければ番組が一年間はもたないという危機感があった」と語っている。ほかにも矢沢助八や松田姉妹の登場や、サンバルカンロボの技である「太陽剣オーロラプラズマ返し」の演出強化など、中盤で投入された新要素は数多い。
番組終盤では『デンジマン』同様に敵組織の内紛が描かれたが、終盤でベーダー一族の中の異分子であるバンリキ魔王が混乱を巻き起こす前作に対し、本作品ではヘルサターン・ヘドリアン・イナズマギンガーが三つ巴の抗争を繰り広げており、作劇面での深化を見せた。これ以降のシリーズ作品でも、敵側のドラマに重点が置かれた作品が多くなっている。
決定名称の「サンバルカン」の由来は、「サン(太陽)」+「バルカン(ローマ神話の火の神)」である。企画当初の名称は単に「バルカン」だったが、この名前は化粧品などですでに使われていたので、商標を登録するためには前か後に語を足す必要が生じ、当時のスポンサーだった後楽園スタヂアムのマークから「太陽」を取り入れたという経緯がある。また、「サン」にはヒーローの人数である「3」が、「バルカン」には連射機関砲であるバルカン砲や歴史上しばしば動乱の舞台となったバルカン半島の激しいイメージが込められている。
東映とマーベル・コミックとの契約作品は本作品が最後となったが、マーベル・コミックをモチーフにしたキャラクターは、まったく設定されていない。
シリーズが定着したことから、本作品の企画は早期に進められ、番組序盤では制作が遅れ気味であった前作とは別班体制で制作された。
プロデューサーの吉川は、アメリカから海外版制作のオファーがあったが実現には至らなかったことを証言している。
敵キャラであるゼロガールズは撮影時もオフでも演者同士の仲がかなり悪く、ヘドリアン女王役の曽我もその仲の悪さにかなり手を焼いていたという。途中から登場したアマゾンキラー役の賀川は曽我からゼロガールズのまとめ役も依頼されたが、賀川も「自分でもダメだった、ゼロワン役の方も苦労されたと思います」と後に語っている。また賀川によると監督からゼロガールズの一部の演者を降板させる話が出ていたらしいが、賀川の尽力により降板にはいたらなかった。しかし賀川は最後までゼロガールズの演者たちの不仲に悩まされたという。なおゼロワン役の北川は脚本の構成上途中降板することが最初から決まっていたので、賀川もそれを承知の上でアマゾンキラー役を引き受けたという。また賀川はゼロガールズたちの仲の悪さが不思議で仕方が無かったとも語っている。
地球征服を企んだベーダー一族はバンリキ魔王の反乱と電子戦隊デンジマンの活躍により倒された。だがほどなくして北極に本拠を置く機械帝国ブラックマグマが世界征服を目指して動き始め、火山国である日本の地熱を狙って日本への侵略活動を開始した。
これに対抗すべく、サミットは世界最高水準の軍事力と国家権力を有した直属の特殊軍隊・地球平和守備隊(正式名称・“Guardians of World Peace”)の設立を決定。同部隊の中から選抜されたメンバーによる特殊部隊の結成を満場一致で決議した。嵐山大三郎が率いる彼らこそが太陽戦隊サンバルカンである。サンバルカンは華麗な陸・海・空の動物的アクションと巨大メカサンバルカンロボなどを駆使してブラックマグマとの戦いを展開する。
集合時の名乗りは、「輝け! 太陽戦隊サンバルカン!!」。
サンバルカンに変身する主人公たちの下名は演じた役者本人と同じ名前だった。これは企画書段階で太陽戦隊の役名がそれぞれ「大鷲太郎・豹次郎・鮫島三郎」であり、これではつまらないと思った吉川進の判断で変更された。しかし、このことは俳優陣にはすぐに伝えられなかったため、スチール撮影会の現場で、自分の名前を織り込んだ役名を突然、呼ばれた川崎や杉は驚愕したという。豹と美佐が学校に潜入するために教育実習をした際は「小林朝夫」「根本」と出演者の実名をそのまま偽名として使っていた。
サンバルカンの装備は太陽光を変換したプラズマエネルギーが用いられている。
ベーダー一族壊滅後に現れた北極海の氷の奥深くの要塞鉄の爪を拠点とする機械生命体の帝国。邪悪な黒い太陽神を信仰し、メカ人間による世界支配を目論む。強大な科学力と冷徹な作戦行動で、世界各地で異常気象や超常現象などのテロの嵐を吹き荒れさせた。機械生命体はマグマエネルギーを動力源としており、そのためにマグマが豊富な火山国・日本を第一攻撃目標とした。
各キャラクターの身長・体重などの設定はない。
バルイーグルの交代劇については、杉も川崎の交代劇は突然だったと証言しており、川崎の降板は共演者たちはおろか、当人も台本を手にするまで知らず驚いていたという。
プロデューサーの鈴木武幸は「毎週 1話完結で、敵も味方も変化がないのはもう古い」と考えており、このリーダー交代劇を番組強化策の最たるものとして挙げている。
※ナレーター以外は全てノンクレジット。
参照東映スーパー戦隊大全 2003
撮影早々にバルイーグルのスーツアクターの新堀が腕を骨折するアクシデントが発生し、初期はバルシャークのスーツアクターである柴原や岡本美登、春田純一らが代役を務めた。柴原は本作品が初めて最初からレギュラーを務めた作品だったうえに主役のイーグルを代演、なおかつ、自分の代わりのシャーク役には、既に俳優としての地歩を築きはじめていた大葉健二がやってきたため、緊張の余り、シャークのアクションについてうまく説明できなかったと回想している。
前作でダイデンジン役を務めた日下秀昭は、本作品でも引き続きサンバルカンロボ役を務めたほかヘルサターン総統役も担当し、以後のシリーズでも戦隊ロボ役と敵首領役を兼ねることが多くなった。
怪人役の竹田道弘は、前作『デンジマン』でマットなしでの飛び降りを成功させたことから、本作品では怪人の飛び降りを多く任されるようになった。劇場版では、体型が全く違うにもかかわらず主演の五代高之の吹き替えでヘリコプターからの飛び降りを務めた。
ちなみに、アクション部はスタッフ同様おなじみの面子だったという。
メインライターは5作続けて上原正三。
演出陣では当時の戦隊最多演出監督でシリーズの基礎を作り上げた竹本弘一がパイロット作品4本を撮影したのち体調不良により降板。竹本の特撮作品における演出は本作品が最後となった。以降は前作から続投の小林義明、服部和史、平山公夫に加えて、円谷作品で実績のあった東条昭平が『ウルトラマン80』の終了に伴い、演出陣に新たに加わっている。東條は、『ミラーマン』などで旧知であった特撮監督の矢島信男から東映プロデューサーの吉川進を紹介され、竹本の降板も重なり参加することとなったという。また同時期の『仮面ライダースーパー1』が終了に伴い終盤にて山田稔が復帰しそのまま最終回を担当している。
東映プロデューサーは吉川に加え、『超力戦隊オーレンジャー』まで15年連続でかかわることになる鈴木武幸が初めて戦隊シリーズに参加。
本作品の主題歌・挿入歌全14曲は、すべて山川啓介が作詞、渡辺宙明が作曲を担当。
音盤ソフトとしては放送当時、コロムビアのラインナップに「音楽集」の発売日を含めた販売予告がされたが、特に理由も説明されないまま発売中止となった。劇伴はその後番組終了から10余年を経て、「放送当時に予告されながら発売されなかった幻の音楽集」と銘打って1996年に商品化され、2005年にも再発売された。
他の挿入歌として、第6話で榊原郁恵の「ROBOT」が使用されている。
36・37話のサブタイトルが通常より短いのは、人気アイドル・三原順子の出演を新聞のテレビ欄に記載する余地を確保するためであり、同話数はこうした手法の先駆けに当たる。
いずれも発売元は東映ビデオ。
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"text": "地球征服を企んだベーダー一族はバンリキ魔王の反乱と電子戦隊デンジマンの活躍により倒された。だがほどなくして北極に本拠を置く機械帝国ブラックマグマが世界征服を目指して動き始め、火山国である日本の地熱を狙って日本への侵略活動を開始した。",
"title": "あらすじ"
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"text": "これに対抗すべく、サミットは世界最高水準の軍事力と国家権力を有した直属の特殊軍隊・地球平和守備隊(正式名称・“Guardians of World Peace”)の設立を決定。同部隊の中から選抜されたメンバーによる特殊部隊の結成を満場一致で決議した。嵐山大三郎が率いる彼らこそが太陽戦隊サンバルカンである。サンバルカンは華麗な陸・海・空の動物的アクションと巨大メカサンバルカンロボなどを駆使してブラックマグマとの戦いを展開する。",
"title": "あらすじ"
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"text": "集合時の名乗りは、「輝け! 太陽戦隊サンバルカン!!」。",
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"text": "サンバルカンに変身する主人公たちの下名は演じた役者本人と同じ名前だった。これは企画書段階で太陽戦隊の役名がそれぞれ「大鷲太郎・豹次郎・鮫島三郎」であり、これではつまらないと思った吉川進の判断で変更された。しかし、このことは俳優陣にはすぐに伝えられなかったため、スチール撮影会の現場で、自分の名前を織り込んだ役名を突然、呼ばれた川崎や杉は驚愕したという。豹と美佐が学校に潜入するために教育実習をした際は「小林朝夫」「根本」と出演者の実名をそのまま偽名として使っていた。",
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"text": "サンバルカンの装備は太陽光を変換したプラズマエネルギーが用いられている。",
"title": "サンバルカンの戦力"
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"text": "ベーダー一族壊滅後に現れた北極海の氷の奥深くの要塞鉄の爪を拠点とする機械生命体の帝国。邪悪な黒い太陽神を信仰し、メカ人間による世界支配を目論む。強大な科学力と冷徹な作戦行動で、世界各地で異常気象や超常現象などのテロの嵐を吹き荒れさせた。機械生命体はマグマエネルギーを動力源としており、そのためにマグマが豊富な火山国・日本を第一攻撃目標とした。",
"title": "機械帝国ブラックマグマ"
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"text": "各キャラクターの身長・体重などの設定はない。",
"title": "機械帝国ブラックマグマ"
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"text": "バルイーグルの交代劇については、杉も川崎の交代劇は突然だったと証言しており、川崎の降板は共演者たちはおろか、当人も台本を手にするまで知らず驚いていたという。",
"title": "キャスト"
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"text": "プロデューサーの鈴木武幸は「毎週 1話完結で、敵も味方も変化がないのはもう古い」と考えており、このリーダー交代劇を番組強化策の最たるものとして挙げている。",
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"text": "※ナレーター以外は全てノンクレジット。",
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"text": "参照東映スーパー戦隊大全 2003",
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"text": "撮影早々にバルイーグルのスーツアクターの新堀が腕を骨折するアクシデントが発生し、初期はバルシャークのスーツアクターである柴原や岡本美登、春田純一らが代役を務めた。柴原は本作品が初めて最初からレギュラーを務めた作品だったうえに主役のイーグルを代演、なおかつ、自分の代わりのシャーク役には、既に俳優としての地歩を築きはじめていた大葉健二がやってきたため、緊張の余り、シャークのアクションについてうまく説明できなかったと回想している。",
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"text": "前作でダイデンジン役を務めた日下秀昭は、本作品でも引き続きサンバルカンロボ役を務めたほかヘルサターン総統役も担当し、以後のシリーズでも戦隊ロボ役と敵首領役を兼ねることが多くなった。",
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"text": "怪人役の竹田道弘は、前作『デンジマン』でマットなしでの飛び降りを成功させたことから、本作品では怪人の飛び降りを多く任されるようになった。劇場版では、体型が全く違うにもかかわらず主演の五代高之の吹き替えでヘリコプターからの飛び降りを務めた。",
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"text": "ちなみに、アクション部はスタッフ同様おなじみの面子だったという。",
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"text": "メインライターは5作続けて上原正三。",
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"text": "演出陣では当時の戦隊最多演出監督でシリーズの基礎を作り上げた竹本弘一がパイロット作品4本を撮影したのち体調不良により降板。竹本の特撮作品における演出は本作品が最後となった。以降は前作から続投の小林義明、服部和史、平山公夫に加えて、円谷作品で実績のあった東条昭平が『ウルトラマン80』の終了に伴い、演出陣に新たに加わっている。東條は、『ミラーマン』などで旧知であった特撮監督の矢島信男から東映プロデューサーの吉川進を紹介され、竹本の降板も重なり参加することとなったという。また同時期の『仮面ライダースーパー1』が終了に伴い終盤にて山田稔が復帰しそのまま最終回を担当している。",
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"text": "東映プロデューサーは吉川に加え、『超力戦隊オーレンジャー』まで15年連続でかかわることになる鈴木武幸が初めて戦隊シリーズに参加。",
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"text": "本作品の主題歌・挿入歌全14曲は、すべて山川啓介が作詞、渡辺宙明が作曲を担当。",
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"text": "音盤ソフトとしては放送当時、コロムビアのラインナップに「音楽集」の発売日を含めた販売予告がされたが、特に理由も説明されないまま発売中止となった。劇伴はその後番組終了から10余年を経て、「放送当時に予告されながら発売されなかった幻の音楽集」と銘打って1996年に商品化され、2005年にも再発売された。",
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"text": "他の挿入歌として、第6話で榊原郁恵の「ROBOT」が使用されている。",
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"text": "36・37話のサブタイトルが通常より短いのは、人気アイドル・三原順子の出演を新聞のテレビ欄に記載する余地を確保するためであり、同話数はこうした手法の先駆けに当たる。",
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"text": "いずれも発売元は東映ビデオ。",
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] |
『太陽戦隊サンバルカン』(たいようせんたいサンバルカン)は、1981年2月7日から1982年1月30日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:30(JST)に全50話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。「スーパー戦隊シリーズ」第5作にあたる。
|
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{{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}}
{| style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap"
|-
|colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]'''
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第4作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[電子戦隊デンジマン|電子戦隊<br />デンジマン]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1980年2月<br />- 1981年1月
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第5作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''太陽戦隊<br />サンバルカン'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1981年2月<br />- 1982年1月
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第6作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[大戦隊ゴーグルファイブ|大戦隊<br />ゴーグルファイブ]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1982年2月<br />- 1983年1月
|}
{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=太陽戦隊サンバルカン
|ジャンル=[[特撮]][[テレビドラマ]]
|放送時間=土曜 18:00 - 18:30
|放送枠=スーパー戦隊シリーズ
|放送分=30
|放送期間=[[1981年]][[2月7日]] -<br />[[1982年]][[1月30日]]
|放送回数=全50
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[テレビ朝日]]
|放送局=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|企画=
|製作総指揮=
|監督=[[竹本弘一]] 他
|演出=
|原作=[[八手三郎]]
|脚本=[[上原正三]] 他
|プロデューサー= {{Plainlist|
* [[碓氷夕焼]](テレビ朝日)
* [[吉川進]]
* [[鈴木武幸]](東映)
}}
|出演者={{Plainlist|
* [[川崎龍介]]
* [[五代高之]]
* [[杉欣也]]
* [[小林朝夫]]
* [[根本由美]]
* [[岸田森]]
* [[山田隆夫]]
* [[曽我町子]]
* [[賀川ゆき絵|賀川雪絵]] 他
}}
|声の出演={{Plainlist|
* [[飯塚昭三]]
* [[太地琴恵|江川菜子]]
* [[蟹江栄司]]
}}
|ナレーター=[[大平透]]
|音声={{Plainlist|
* [[モノラル放送]]
* [[シネテープ]]
}}
|字幕=
|データ放送=
|音楽=[[渡辺宙明]]
|OPテーマ=「太陽戦隊サンバルカン」<br />歌:[[串田アキラ]]、[[こおろぎ'73]]
|EDテーマ={{Plainlist|
* 「若さはプラズマ」( - 第33話)<br />歌:串田アキラ、こおろぎ'73
* 「1たす2たすサンバルカン」(第34話 - )<br />歌:串田アキラ、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]]
}}
|言語=[[日本語]]
|外部リンク=
|外部リンク名=
|特記事項=「[[スーパー戦隊シリーズ]]」 第5作
}}
{{external media|align=right|image1=[[:en:File:SunVulcanTitleCard.jpg|タイトルロゴ
|英語版Wikipedia]]}}
『'''太陽戦隊サンバルカン'''』(たいようせんたいサンバルカン)は、[[1981年]][[2月7日]]から[[1982年]][[1月30日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週土曜18:00 - 18:30([[日本標準時|JST]])に全50話が放送された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。「[[スーパー戦隊シリーズ]]」第5作にあたる。
== 概要 ==
『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』から連綿と受け継がれたコミカルな痛快活劇を中心としつつも、宇宙からの侵略者と手を組んだ悪の機械人間軍団に人間の英知と勇気、そして正義と友情、愛の心で立ち向かう主人公たちの地球人類の未来を賭けた戦いをハードかつドラマチックに描いた。本作品の放送時にはすでに書籍資料で「スーパー戦隊」という表現が使われているのが確認でき{{Sfn|スーパー戦隊の常識|2012|p=16}}、『秘密戦隊ゴレンジャー』から数えて5作品を「スーパー戦隊シリーズ」と銘打ち、各作品の特色を比較した特集記事などが児童雑誌などで掲載され、広く一般にもこれらがシリーズ作品であると認識され始めた{{R|THM64139}}。
主役側の基地周辺関連ロケ地は、シリーズ前半の基地が[[群馬サファリパーク]]、シリーズ後半の基地では[[城ヶ崎海岸]]をロケ地としている。
=== 特徴 ===
本作品は、戦隊チームが'''男性3人のみ'''で構成されており、'''女性メンバーが1人も存在しない'''ことが最大の特徴である{{R|20th4}}。この設定の意図は、基本を踏襲しつつマンネリ化しないように前作から人数を少なくさせることで強い印象を生み出して予防線を張り、そして'''陸・海・空'''の三軍の代表の兵士という設定を反映させるためである{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀156|SHSV|特撮全史}}}}。人数の減少によりアクションはよりスピード感を増し、連携技も多用するなど、シリーズの基礎が確立された{{R|大全集32}}。しかし、女性メンバーの不在に対しては、放映当時から女児層をはじめとした視聴者から女性メンバーの復活を望む声が多数寄せられた{{R|U41}}。そのため、次作『[[大戦隊ゴーグルファイブ]]』では女性メンバーが復活した5人構成となり、以後のシリーズにも男性メンバーのみの作品は存在しない{{efn|後のスーパー戦隊シリーズでも開始当初3人メンバーの作品はいくつか存在するが、いずれもシリーズ途中で何らかの形で追加戦士が登場することにより、最終的に5人以上のメンバーとなっている。また、このような開始当初メンバーが5人に満たない作品でも、初期メンバーの段階で必ず1人は女性メンバーが存在している。}}。
本作品ではヒーローの個性を印象付けるためシリーズで初めてヒーローのモチーフに動物が用いられた{{R|超世紀156|material29}}。陸海空の中で最も強い動物であるワシ、サメ、ヒョウ{{efn|陸の中ではライオンが主だが、既に『[[未来ロボ ダルタニアス]]』を始めとした多くの子供作品に取り上げられていたため、力強さではなくスピードをイメージさせるヒョウがあえてモチーフとして設定された{{R|material29}}。}}が選ばれ、それらのイメージを強く押し出すため、主題歌の歌詞にも入れられている{{R|material29}}。そして、決定されたモチーフの動物に合わせて色も設定され、青と黄色のほかに、視認性が高く、遠くからでも人気しやすく、他の色に比べて際立って強く、男女共通して圧倒的に好きな色である赤が選ばれ、以降の作品でも戦隊の中心になるのは赤となっている{{R|material29}}。また、サンバルカンロボは戦隊シリーズ初の複数のメカが合体して完成する[[ロボット]]であり{{R|超世紀156}}{{Sfn|スーパー戦隊の常識|2012|pp=106 - 107}}、2代目バルイーグルは戦隊シリーズ初の「刀剣をメイン武器にしたレッド」である{{R|超世紀18|20th30}}。本作品以降、「刀剣を個人武器とするのはレッド」という傾向が多く見られるようになる{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|大全集|1986|p=197|loc=シリーズを支える影の主人公}}{{R|超世紀18|20th30}}}}。東映プロデューサーの[[吉川進]]や[[鈴木武幸]]は、本作品がシリーズの基礎を確立したと評している{{R|20th5a|20th5b}}。
そのほかの特徴として、前作『[[電子戦隊デンジマン]]』のラストで姿を消した敵役・ヘドリアン女王がブラックマグマの手によって復活した、という設定で引き続きレギュラー出演したことが挙げられる{{R|大全集166|超世紀156}}。ヘドリアン女王が本作品の作中でデンジマンやバンリキ魔王のことに言及するほか、嵐山長官がデンジマンやデンジ星人のことも詳しく知っていることが語られるなど、『デンジマン』と『サンバルカン』が同じ世界のストーリーであることの表れの1つである{{R|超世紀156}}。また、『デンジマン』の項目でも述べられているように、デンジマンに変身して戦った5人が[[カメオ出演]]する案もあった。作品ごとに世界観をリセットするスーパー戦隊シリーズにおいて、クロスオーバー企画以外の続編が作られた唯一のケースである。ただし、当初から続編を作ろうという試みがあったわけではなく、へドリアン女王役の[[曽我町子]]の演技を高く評価した東映プロデューサーの吉川が、引き続き彼女が活躍できる場を作ったというのが実情である{{R|sentaitaizen11}}。
サンバルカンのリーダーであるバルイーグルは、物語中盤において[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]に「パイロットとしての技量を見込まれ、転任する」という設定で交代している(詳細は[[#バルイーグルの交代に関して]]を参照)。それと平行して敵組織ブラックマグマでも、「前線司令官を務めたゼロワンが戦死した後に新たな女幹部アマゾンキラーが現れる」という交代劇が描かれている。プロデューサーの鈴木武幸は、「ゼロガールズだけでは手詰まりになり、これくらいの設定変更をしなければ番組が一年間はもたないという危機感があった」と語っている{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=230}}。ほかにも矢沢助八や松田姉妹の登場や、サンバルカンロボの技である「太陽剣オーロラプラズマ返し」の演出強化など、中盤で投入された新要素は数多い。
番組終盤では『デンジマン』同様に敵組織の内紛が描かれたが、終盤でベーダー一族の中の異分子であるバンリキ魔王が混乱を巻き起こす前作に対し、本作品ではヘルサターン・ヘドリアン・イナズマギンガーが三つ巴の抗争を繰り広げており、作劇面での深化を見せた{{R|大全集166}}{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=169}}。これ以降のシリーズ作品でも、敵側のドラマに重点が置かれた作品が多くなっている{{Sfn|全怪獣怪人 上|1990|p=387}}。
決定名称の「サンバルカン」の由来は、「サン([[太陽]])」+「[[ウゥルカーヌス|バルカン]](ローマ神話の火の神)」である{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集166|超世紀156|20th5a}}}}。企画当初の名称は単に「バルカン」だったが、この名前は化粧品などですでに使われていたので、商標を登録するためには前か後に語を足す必要が生じ、当時のスポンサーだった[[東京ドーム (企業)|後楽園スタヂアム]]のマークから「太陽」を取り入れたという経緯がある{{R|material29}}。また、「サン」にはヒーローの人数である「3」{{efn|だが、これは意図して狙ったものではなく、結果的に二つの意味を持ったものとなっている{{R|material29}}。}}が、「バルカン」には連射機関砲である[[M61 バルカン|バルカン砲]]や歴史上しばしば動乱の舞台となった[[バルカン半島]]の激しいイメージが込められている{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=168}}{{R|20th5a}}。
東映と[[マーベル・コミック]]との契約作品は本作品が最後となったが、マーベル・コミックをモチーフにしたキャラクターは、まったく設定されていない{{R|THM15}}。
シリーズが定着したことから、本作品の企画は早期に進められ、番組序盤では制作が遅れ気味であった前作とは別班体制で制作された{{R|大全集166}}。
プロデューサーの吉川は、アメリカから海外版制作のオファーがあったが実現には至らなかったことを証言している{{Sfn|大全集|1993|pp=145-147|loc=「新たな世紀に向けて 企画者インタビュー [[吉川進]]」}}{{R|20th5a}}。
=== その他 ===
敵キャラであるゼロガールズは撮影時もオフでも演者同士の仲がかなり悪く、ヘドリアン女王役の曽我もその仲の悪さにかなり手を焼いていたという。途中から登場したアマゾンキラー役の賀川は曽我からゼロガールズのまとめ役も依頼されたが、賀川も「自分でもダメだった、ゼロワン役の方も苦労されたと思います」と後に語っている。また賀川によると監督からゼロガールズの一部の演者を降板させる話が出ていたらしいが、賀川の尽力により降板にはいたらなかった。しかし賀川は最後までゼロガールズの演者たちの不仲に悩まされたという。なおゼロワン役の北川は脚本の構成上途中降板することが最初から決まっていたので、賀川もそれを承知の上でアマゾンキラー役を引き受けたという。また賀川はゼロガールズたちの仲の悪さが不思議で仕方が無かったとも語っている<ref>[http://kochi-toku.org/kagawa_interview002.html こちら特撮情報局 特撮男優・女優スペシャルインタビュー 第1弾]</ref>。
== あらすじ ==
地球征服を企んだベーダー一族はバンリキ魔王の反乱と電子戦隊デンジマンの活躍により倒された。だがほどなくして[[北極]]に本拠を置く機械帝国ブラックマグマが世界征服を目指して動き始め、火山国である日本の地熱を狙って日本への侵略活動を開始した。
これに対抗すべく、サミット{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=19}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=31}}は世界最高水準の軍事力と国家権力を有した直属の特殊軍隊・地球平和守備隊(正式名称・“Guardians of World Peace”)の設立を決定。同部隊の中から選抜されたメンバーによる特殊部隊の結成を満場一致で決議した。嵐山大三郎が率いる彼らこそが'''太陽戦隊サンバルカン'''である。サンバルカンは華麗な'''陸・海・空'''の動物的アクションと巨大メカ'''サンバルカンロボ'''などを駆使してブラックマグマとの戦いを展開する。
== 登場人物 ==
=== 太陽戦隊サンバルカン ===
集合時の名乗りは、「'''輝け! 太陽戦隊サンバルカン!!'''」{{R|20th6}}。
サンバルカンに変身する主人公たちの下名は演じた役者本人と同じ名前だった。これは企画書段階で太陽戦隊の役名がそれぞれ「大鷲太郎・豹次郎・鮫島三郎」であり{{R|大全集166}}、これではつまらないと思った吉川進の判断で変更された。しかし、このことは俳優陣にはすぐに伝えられなかったため、スチール撮影会の現場で、自分の名前を織り込んだ役名を突然、呼ばれた川崎や杉は驚愕したという{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=231}}。豹と美佐が学校に潜入するために教育実習をした際は「小林朝夫」「根本」と出演者の実名をそのまま偽名として使っていた{{R|group="ep"|16話}}。
; {{Visible anchor|{{読み仮名|大鷲 龍介|おおわし りゅうすけ}}|大鷲龍介}}
: 元・地球平和守備隊の空軍将校{{R|20th8|学研の図鑑18}}。25歳{{R|20th8|学研の図鑑18}}。東都大学ロケット研究所の滝本所長に師事していた。航空学に秀でており{{R|material20}}、飛行機の操縦はプロ中のプロで、名前の如く「空を飛ぶために生まれてきたような男」{{R|20th8|学研の図鑑18}}。寡黙だが、軍人らしく、真面目な性格で洞察力にも優れ、的確なリーダーシップを発揮{{R|20th8}}。巧みな変装術も身に着けている{{R|20th8}}。
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:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|飛羽 高之|ひば たかゆき}}|飛羽高之}}
: 元・地球平和守備隊の空軍将校{{R|学研の図鑑18}}で、大鷲とは同期{{R|20th10}}。25歳{{R|20th10|学研の図鑑18}}。平和守備隊時代はヘリコプターのパイロットを務めており{{Sfn|赤の伝説|2012|p=31}}、飛行機の操縦の腕前も大鷲に匹敵するほど。第23話より、大鷲の後任{{Sfn|赤の伝説|2012|p=31}}{{R|学研の図鑑18}}として、サンバルカンの一員になった{{efn|長官の推薦によるものだが、第44話では次期イーグルの座を巡る選抜が行われたことが示唆されており、飛羽の同期の山根一郎も候補だった{{R|group="ep"|44話}}。}}。
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:* 剣の達人という設定は、演じる[[五代高之]]が剣道三段の腕前であったことから、東映プロデューサーの[[吉川進]]によって提案されたものである{{Sfn|大全集|1993|p=185|loc=「戦隊シリーズ キャストインタビュー [[五代高之]]」}}。
:* [[2012年]]放送の『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』第49話、最終話にもゲスト出演。立派な[[肩章]]の付いた制服を着用しているため、演者の五代高之は「地球平和守備隊でも、かなり上のポジションに就いた」と推測している{{R|豪快}}。
:; {{Visible anchor|バルイーグル}}
:: 大鷲龍介および飛羽高之が変身する[[ワシ]]の能力を持つ戦士{{R|大全集32|20th8}}。スーツカラーはレッド。
:: パンチ攻撃や飛行攻撃を得意とし、2代目は日本刀による秘剣技も用いる{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集32|20th8|20th10|学研の図鑑18}}{{Sfn|完全超百科|2006|p=16}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=12}}}}。
:: 名乗り時は初代イーグルが片足と右手を上げて、カタカナの「イ」の字のポーズを取るのに対し、2代目イーグルは低い体勢で右手を大きく振り上げる。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|鮫島 欣也|さめじま きんや}}|鮫島欣也}}
: 元・地球平和守備隊の海軍将校{{R|20th12|学研の図鑑18}}。23歳{{R|20th12|学研の図鑑18}}。海を愛する男であり、[[海洋学]]者でもある{{R|20th12}}。[[マリンスポーツ]]が得意{{R|20th12|学研の図鑑18}}。考古学者の父らとともにかつて[[アフリカ]]に住んでいた時、その両親と弟の勝を戦争で亡くしたため、平和を乱す暴力に対して憎悪を持っている{{R|group="ep"|20話}}{{R|学研の図鑑18}}。自ら志願して、サンバルカンの一員になった。
: 基本的には明るい性格だが、寡黙にギターを弾く、クールな面も持つ{{R|20th12}}。出身大学では小坂教授に師事していた{{R|group="ep"|9話}}。水から水素エネルギーを取り出す、ユージオ電解装置の開発者・中尾博士とも親交がある{{R|group="ep"|19話}}。
: ブラックマグマ壊滅後は研究室に戻り、海洋学の研究を再開{{R|group="ep"|50話}}。
:; {{Visible anchor|バルシャーク}}
:: 鮫島欣也が変身する[[サメ]]の能力を持つ戦士{{R|大全集32|20th12}}。スーツカラーはブルー。
:: 水中戦を得意とし、空中からの攻撃も可能である{{R|大全集32|20th12}}。サメのように水中では無敵で、水中だけでなく、地上戦でも突進攻撃を仕掛け、腕のパワーも凄い{{Sfn|完全超百科|2006|p=16}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=12}}。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|豹 朝夫|ひょう あさお}}|豹朝夫}}
: 元・地球平和守備隊のレンジャー部隊将校{{R|20th14|学研の図鑑18}}。19歳{{R|20th14|学研の図鑑18}}。飛騨の実家では、林業を営む父、朝太郎と2人暮らしだった{{R|group="ep"|38話}}。
: 女性には甘い明朗な性格の持ち主で{{R|学研の図鑑18}}、驚いた時などには「ひょひょーっ」と奇声をあげる{{R|20th14}}。美佐からはたまに、この口癖で呼ばれている。細身の体に似合わず、大食漢で、スナックサファリの[[カレーライス]]を食べる場面が劇中では頻出した{{R|20th14|学研の図鑑18}}。助八が未熟な腕で作るカレーには辟易し、[[ビーフステーキ|ビフテキ]]や[[天丼]]を食べたがることもあった{{R|group="ep"|26話}}。[[犬]]が苦手{{R|学研の図鑑18}}なことから、シーシーのことも怖がっている。
: 俊足の持ち主でもあり、どんな絶壁でも軽々とこなす身軽な運動神経を持っているが、[[槌#金鎚|かなづち]]{{R|学研の図鑑18}}。
: ブラックマグマ壊滅後は父の仕事を手伝うことを決意。地球平和守備隊を退職し、帰郷した{{R|group="ep"|50話}}。
:* 『秘密戦隊ゴレンジャー』のキレンジャー同様、「イエローはカレーが好き」というイメージに合ったキャラクターだが、それに該当するのは彼らのみで、名称にもイエローが付いていない{{R|学研の図鑑18}}。
; {{Visible anchor|バルパンサー}}
:: 豹朝夫が変身する[[ヒョウ]]の能力を持つ戦士{{R|大全集32|20th14}}。スーツカラーはイエロー。
:: 身軽さと力技が特徴で、崖登りや地中移動も可能である{{R|大全集32|20th14}}。ヒョウのような怪力と敏捷さを併せ持ち、回転技を得意とする{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}。
=== 地球平和守備隊 ===
; {{Visible anchor|{{読み仮名|嵐山 大三郎|あらしやま だいざぶろう}}|嵐山大三郎}}
: 太陽戦隊の長官。[[ロボット工学]]の権威であり、サンバルカンロボも彼の設計によるもの。祖先は忍者であることが、第24話で判明している。戦略家としても科学者としても一流で、デンジ星人など様々な分野の知識にも精通している{{R|学研の図鑑18}}。世を忍ぶ仮の姿として、[[喫茶店]]'''スナックサファリ'''を営んでいるが、マスターとしての料理の腕前も一流で、50種類のスパイスを混ぜ合わせ、3日がかりで作っているという、'''サファリカレー'''が名物になっている。[[ベーゴマ]]や[[竹とんぼ]]を使った遊びも上手く、長官としての冷静沈着な振る舞いとは異なる明るい面を見せ、町の子供たちからの人気者だった。[[植物学]]者の植村博士とは互いに家族ぐるみで親交があった{{R|group="ep"|11話}}。最終決戦ではバルカンスティックで、全能の神を倒した{{R|group="ep"|50話}}。
: ブラックマグマ壊滅後は美佐の婿探しをすることにした。
:
; {{Visible anchor|{{読み仮名|嵐山 美佐|あらしやま みさ}}|嵐山美佐}}
: 嵐山の一人娘で{{efn|第1話の準備稿では「美樹」という大学生の妹の登場が予定されていた{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=169}}。}}、太陽戦隊の秘書兼通信係を務める{{R|学研の図鑑18}}。自らも戦士の一員と自負しており、第29話では、'''白バラ仮面'''として登場し、得意なフェンシングで戦った{{R|学研の図鑑18}}{{R|group="ep"|29話}}{{efn|制作サイドの要請を受けた久保宗雄によって、美佐用にバル強化服型のバトルスーツもデザインされていたが、実製作には至らなかった{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=169}}。}}。仮の姿として、普段はスナックサファリのウエイトレスを務めている{{R|学研の図鑑18}}。[[水泳]]が得意で{{R|学研の図鑑18}}、スレンダーなビキニの水着姿を何度か披露していた{{efn|うち1度は機械生命体をおびき出す目的であった。}}。[[ローラースケート]]は不得手。[[植物学]]者の植村博士とは互いに家族ぐるみで親交があった{{R|group="ep"|11話}}。また、友人には[[海人|海女]]の波子{{R|group="ep"|21話}}、ファッション モデルのゆかり{{R|group="ep"|34話}}などがいる。第8話と最終決戦では敵に囚われるが、いずれも無事に救出されている。
: ブラックマグマ壊滅後に飛羽たち3人から同時に求婚されるが、回答を保留している{{R|group="ep"|50話}}。
:
; {{Visible anchor|シーシー}}
: 美佐が飼っているペットの犬。見た目こそ普通の犬だが、実はサイボーグ犬という設定となっており、人語を解し喋ることも出来るが{{R|学研の図鑑18}}、その言葉遣いは少々乱暴である。豹に対しては強気に出る。動物への仲間意識も強い{{R|group="ep"|41話}}。
=== 関係者 ===
; {{Visible anchor|{{読み仮名|矢沢 助八|やざわ すけはち}}|矢沢助八}}
: 第23話から登場。通称 '''助八どん'''。スナックサファリにコック見習いとして雇われたが、料理の腕は今一つ。[[あんみつ]]が好物。明朗で滑稽な性格の持ち主で軽はずみな面もある{{efn|このために第28話では敵の作戦行動のだしに使われた。}}が場を和ませる、ムードメーカーでもある。嵐山たちが終盤、店を空けるようになってからは一人で店を切り盛りした。彼は嵐山や飛羽たちの正体については何も知らされていないが、彼らがサンバルカンではないかと疑ったことは何度かある。
; {{読み仮名|坂井 次郎|さかい じろう}}、{{読み仮名|秋野 正男|あきの まさお}}、{{読み仮名|小川 まり|おがわ まり}}、{{読み仮名|松田 エミ|まつだ エミ}}、{{読み仮名|松田 ルミ|まつだ ルミ}}
: スナックサファリの常連客である小学生。よく店に顔を出す大鷲たちがサンバルカンであることは知らなかったが、第16話で知ることになる。松田姉妹は第23話から登場している。
== サンバルカンの戦力 ==
=== 武器・装備 ===
サンバルカンの装備は太陽光を変換したプラズマエネルギーが用いられている。
; ブレスレット{{Refnest|group="出典"|name="SB"|{{R|大全集206|sentaitaizen180|gahou104}}}}{{efn|資料によっては'''バルカンブレス'''と記している{{R|20th6}}。}}
: サンバルカンの3人が右腕に装備している変身用ブレスレット{{R|大全集206}}で、通信装置{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}。それぞれのメンバーのモチーフとなる動物のレリーフが施されている。個人のコードネームまたは「'''サンバルカン!'''」の発声で、バルカンスーツが射出され、サンバルカンへの変身を完了する。
: 各レリーフは取り外し可能で、初めてスナックサファリに集合した3人は、嵐山が用意した装置にレリーフをセットすることで基地への案内装置が作動し、秘密通路を通って基地へと向かった{{R|group="ep"|1話}}。
; バルカンスーツ{{Refnest|group="出典"|name="SB2"|{{R|sentaitaizen180|gahou104|20th6}}}}(別名・バル強化服{{Refnest|group="出典"|name="SB3"|{{R|大全集206|sentaitaizen180|gahou104|20th6}}}}、サンバルカンスーツ{{R|大全集206|20th6}})
: サンバルカンが用いる強化服。どんな砲弾を受けてもその衝撃を吸収するSA繊維、どんな高熱にも耐えるファイヤーベスト、どんな薬品にも溶けないハイパワー繊維などの多重構造となっている。優秀な強化服ではあるが、激しい損傷を受けると爆発する{{R|20th4}}。スーツには動物の能力が反映されており、バルイーグル用は鷲を初めとした鳥類、バルシャーク用は鮫を初めとした海洋生物、バルパンサー用は豹を初めとした猫科陸上動物が用いられている。頭部には各自のモチーフの動物のレリーフがある。予備のスーツも存在し、スーツが破壊された場合は、新しいバルカンブレスをジャガーバルカンのケースミサイルで届ける。
: デンジマンの技術を元に作られたとも言われ{{R|gahou104}}、装着シーンもデンジマンのものと酷似している。
; バルカンスティック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen180|gahou104|30大235|20th6}}}}
: 右腰のホルスターに収納されている戦闘用のスティック{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=12}}{{R|20th6}}。打撃のほか、ショックを与えたり{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}、先端から通信機を発射したり、柄の太陽マークから光線を発したり、メンバーごとに先端のパーツを変化させることでアームやナイフになり{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=19}}、火炎や水流を放射したり、地割れを起こしたりできる。主に戦闘参加への前振りとして機械生命体に投げつけてサンバルカンが登場というパターンで用いられた。変形機能もあり、2代目イーグル用の日本刀や全員用のバットに変形した。最終回では、嵐山が用いて全能の神を仕留めた。
; バルカンボール{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen180|gahou104|20th6}}}}{{efn|書籍によっては、名称を'''サンバルカンボール'''と記述している{{Refnest|group="出典"|{{R|30大236|material20}}{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}}}。}}
: サンバルカンの必殺武器である三色のボール型爆弾。バレーボールの形状をしている。3人がトスを繰り返しスイッチを入れていき{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}、最後にイーグルがアタックを決めることで威力が発揮される。第15話よりサッカー方式のパス・シュートに変わり、その途中でパンサーが両足に挟みバック転を繰り返すというアクションを経るようになった{{efn|書籍『東映スーパー戦隊大全』では前者を'''バルカンボールタイプA'''、後者を'''バルカンボールタイプB'''と{{R|sentaitaizen180}}、書籍『スーパー戦隊画報 第1巻』では前者を'''前期フォーメーション'''、後者を'''後期フォーメーション'''{{R|gahou104}}、書籍『30大スーパー戦隊超全集』では前者をバレーボールタイプ、後者をサッカータイプ{{R|30大236}}と記述している。}}。第39話からはボールに変形機能が備わり、玉乗りサイズ{{R|group="ep"|39話}}、超音波探知ミサイル{{R|group="ep"|40話}}、ライター{{R|group="ep"|41話}}、玉入れカゴ{{R|group="ep"|42話}}、消火器{{R|group="ep"|44話}}になった。
; ニューバルカンボール{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen180|gahou104|30大236|20th6}}}}
: イナズマギンガーにバルカンボールを破られたため、新たに開発された新必殺武器{{R|group="ep"|45話}}。3つのラグビーボール型強化爆弾{{R|material20}}を「トリプルクロス」の掛け声とともに蹴り上げて空中で合体、三色のトゲ付きボール爆弾に変化させてアタックして合体させ、イーグルがアタック。威力はバルカンボールの2倍{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}で、戦車を一撃で大破させる威力を誇る。シュートしたボールをさらに3人で再度シュートすることで時間差をつけて決める'''時間差アタック'''もある。
; バルカンアイ{{R|sentaitaizen180}}
: ゴーグル部分に装備された透視スコープ。'''バルカンアイズーム'''で望遠、'''バルカンアイシースルー'''{{R|group="出典"|SB}}で海底の物体も透視可能で、併用することも可能{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}。
; バルカンイヤー{{R|sentaitaizen180}}
: 10キロメートル先の針の落ちる音も聞き取れる。
; 超音波探知ミサイル
: 超音波を利用してバルカンボールをかわすコウモリモンガーに対抗して作られた、超音波を探知して追尾する必殺の小型ミサイル。バルカンボールが2つに割れてその中から出現する。
=== 個人技 ===
; バルイーグル
:; 剣
:: 2代目イーグルの使う日本刀。バルカンスティックを変形させたもの。刀に空気中の静電気を集め、メカを狂わせ倒す{{読み仮名|'''飛羽返し'''|ひばがえし}}{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集32|sentaitaizen179|gahou106|30大235|20th10}}}}{{efn|資料によっては、名称を{{読み仮名|'''飛羽がえし'''|ひわがえし}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=12}}、'''秘剣・飛羽返し'''{{R|学研の図鑑18}}と記述している。}}、その強化版の'''新飛羽返し'''{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen179|gahou106|30大235|20th10}}}}、敵を素早く十字に切り裂く'''秘剣流れ十文字'''{{R|大全集206|sentaitaizen179}}{{efn|資料によっては、名称を'''秘剣流れ十文字斬り'''と記述している{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou106|30大235|20th10}}}}。}}、ジャンプして空中回転しながら急降下斬りを決める'''イーグル回転斬り'''{{R|sentaitaizen179|20th10}}{{efn|資料によっては、名称を'''イーグル回転切り'''と記述している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}。}}などの技がある。
:: 『海賊戦隊ゴーカイジャー』の第49話と『[[特命戦隊ゴーバスターズVS海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE]]』ではゴーカイレッドが豪快チェンジしたバルイーグルが飛羽返しを使用した。
:; イーグルファイヤー{{Refnest|group="出典"|{{R|sentaitaizen173|gahou106|30大235|20th8}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では'''イーグルファイア'''と表記している{{R|大全集206}}。}}
:: バルカンスティックから火炎を放射する。
:; 電撃稲妻走り
:: 刀を地面に突き刺し、電撃を放出する。複数の敵に有効。
:; 太陽電撃剣{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen179|20th10}}}}
:: バルカンスティックを地面に突き刺し、敵に向かって火花をスパークさせる技。剣を使うパターンもある。
:; イーグルフラッシュ{{R|sentaitaizen179|20th10}}
:: 刀を垂直に構え、電撃状の光線を放つ。40話で使用。
:; イーグルウイング{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen173|gahou106|30大235|20th8|学研の図鑑18}}}}
:: 両腕を広げ、鷲が飛ぶかのように敵に向かって飛び込む。
:; 太陽パンチ{{R|sentaitaizen173|20th8}}
:: イーグルウイングから繋いで使用する技。両手を広げて、左右から打撃を決める。
:; イーグルダイビング{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|gahou106|30大235|20th8}}}}
:: 太陽で目をくらませながらジャンプして頭から飛び込むように敵に体当たりする{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}。
:; スカイイーグル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen173|gahou106|30大235|20th8}}}}
:: 空を飛びながら敵を蹴散らす。
:; イーグルキック{{R|sentaitaizen173|20th8}}
:: 空から両足で[[ドロップキック]]を食らわす{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}。
:
; バルシャーク
:; シャークウォッシャー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen175|gahou106|30大235|20th12}}}}
:: バルカンスティックから金属を溶かす腐食液を噴射する{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen175|gahou106|20th12}}}}。
:; シャークジョーズ{{Refnest|group="出典"|{{R|sentaitaizen175|gahou106|30大235|20th12|学研の図鑑18}}}}
:: 両腕を前に突き出し、鮫が相手をかみ砕くかのように両腕で相手の頭を鮫のあご(ジョー)のように上下左右からはさんで攻撃する。マシンマンのみならず機械生命体にも有効だが、レスラーモンガーには効かなかった。
:; シャークタイフーン{{R|gahou106|20th12}}
:: 空中きりもみ回転しながら頭から体当たりする。
:; シャークダイビング{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|gahou106|30大235|20th12}}}}
:: 海や川に飛び込み、水中から敵に奇襲をしかける。
:; シャークローリング{{R|30大235|20th12}}
:: 地面に横たわって全身を回転させながら突進し、敵の足を払う。
:; スカイシャーク{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen175|gahou106|30大235|20th12}}}}
:: グライダーのように滑空して敵を蹴散らす。
:; ジョーズアタック{{R|sentaitaizen175|20th12}}
:: 敵を体当たりで跳ね飛ばす。別名・シャークアタック{{R|gahou106}}。スカイシャークの後に使うこともある。
:; 水面蹴り
:: 敵の足元を狙う技。
:
; バルパンサー
:; パンサーギャラクシー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen177|30大235|20th14}}}}
:: バルカンスティックを地面に突き刺し、地割れを起こす。
:; パンサークロー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen177|gahou106|30大235|20th14|学研の図鑑18}}}}
:: 豹の手のように曲げた両手でパンチを連打する。
:; ローリングパンサー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|gahou106|30大235|20th14}}}}
:: 高速でバク転しながら体当たりする。
:; パンサー投げ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|30大235|20th14}}}}
:: 2人の敵の間でバック転し、その勢いを利用して投げ飛ばす。
:; パンサーボンバー{{R|30大235|20th14}}
:: 敵に飛びかかっての必殺パンチ。
:; パンサーもぐら{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|sentaitaizen177|gahou106|30大235|20th14}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''パンサーモグラ'''と表記している{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}。}}
:: 両手で地中を掘り進む。3人で使用したこともある。
:; スカイパンサー{{R|gahou106|20th14}}
:: 空中に飛び上がる。
:; パンサー将棋倒し{{R|gahou106|20th14}}
:: 数人のマシンマンを、将棋倒しの応用でまとめて倒す。
:; パンサーキック{{R|gahou106|20th14}}
:: 第16話で使用。ロープにぶら下がって奇襲をかける。
=== 合体技 ===
; 太陽ジャンプ{{R|sentaitaizen180}}
: 3人で一斉に回転ジャンプする。主に名乗りの前に行う。
; 太陽キック{{Refnest|group="出典"|name="BARU"|{{R|大全集206|sentaitaizen180|gahou104|30大236|20th6}}}}
: 3人が空中で横に並び、同時に飛び蹴りを繰り出して、最後に回転してドロップキックを放つ。一人ずつ連続で蹴るパターンもある。太陽ジャンプを3回行ってから放つ'''3段飛びキック'''{{R|sentaitaizen180}}{{efn|資料によっては、名称を'''三段跳びキック''''''と表記している{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}。}}というバリエーションもある。後半はトリプルアタックが破られた後で使われることが多かった。また終盤の強力な機械生命体には通用しないこともあった。
; 太陽シャワー{{R|sentaitaizen180}}
: 太陽スパーク{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}や太陽フラッシュ{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}とも呼ばれる。バルカンスティックを合わせて閃光を放ち、敵の目を眩ます。集団催眠にかかった人々を元に戻すことも可能。
; バルカンスティック3段叩き
: 3人で一斉にバルカンスティックで殴りつける。
; バルカンスティック3段打ち{{R|sentaitaizen180|gahou104}}
: 3人のバルカンスティックを合わせてエネルギーを溜め、一斉に投げつける。バルカンスティックでも破壊できないペッタンモンガーの仮面を破壊した。
; サンバルカン合体剣{{R|group="出典"|SB2}}
: 3人で櫓を組み、バルカンスティックの先端を合わせて光線を放つ。実体の無い敵にも有効で、ノロイモンガーの亡霊たちを退け、亡霊の世界から脱出したこともある。
; バルカンシュート{{Refnest|group="出典"|{{R|gahou104|30大235|20th6}}}}
: 3本のバルカンスティックを地面に突き刺して電撃を走らせる。
; スカイジェッター{{R|group="出典"|BARU}}
: ジャンプして、イーグルウイング、シャークジョーズ、パンサークローの3つを連続で決める。似た技として、スカイイーグル、シャークジョーズ、パンサークローの3つを連続で決める'''アニマルアタック'''{{R|sentaitaizen180|gahou104}}もある。終盤ではトリプルアタック、太陽キックが破られた後で使われていた。
; スクラムハリケーン{{Refnest|group="出典"|{{R|sentaitaizen180|gahou104|30大236|20th6}}}}
: 3人が背中合わせになって回転し、その風圧で敵の攻撃を跳ね返す。
; トリプルアタック{{R|group="出典"|SB}}
: イーグルダイビング、シャークタイフーン、ローリングパンサーを連続で放つ{{R|大全集36}}。後半の強化された機械生命体には通用しないことが多かった{{efn|最後の機械生命体であるイナズマモンガーには通用した。}}。
; トリプルタックル{{R|sentaitaizen180|20th6}}
: 3人同時に敵にタックルし、何度も殴りつける。イソギンモンガーに使用。
; トリプルキック{{R|sentaitaizen180}}
: 3人同時にジャンプして、宙返りから飛び蹴りを放つ。
; サンバルカンもぐら叩き{{R|group="出典"|SB3}}
: 3人がバルカンスティックを変形させたハンマーを持ち、地中から出てきた敵の頭を殴る{{R|大全集206}}。アルマジロモンガーに使用。
; スクランブルステップ{{R|sentaitaizen180}}
: 足踏みをして地響きを起こす。第14話で地中に潜ったマシンマンに使用。
; ストロボアタック{{R|sentaitaizen180|gahou104}}
: 3人で並んで敵に向かって消えたり現れたりしながら突進し、1人ずつバルカンスティックで攻撃する。チャガマモンガーに使用。
=== 基地・メカニック ===
; 太陽戦隊基地{{Refnest|group="出典"|{{R|sentaitaizen183|gahou108|20th6}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''バルカンベース'''と記述している{{R|超世紀171|30大237}}。}}
: サンバルカン本部。サファリパークの地下に隠されており、スナックサファリや地球守備隊基地とも繋がっている。内部には高性能通信機や策敵システム、解析装置まで備える司令室や、各メカニックの格納庫などがある。第23話でオオダコモンガーの襲撃を受けて破壊された。
; バルカンベース{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen183|gahou108|20th6}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''ニューバルカンベース'''と記述している{{R|超世紀171|30大237}}。}}
: 太陽戦隊基地が破壊された後の新しい基地。岬先端{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}の地下にあり、ジャガーバルカン発進時には地上に姿を見せる。基地内プールの設備なども前基地を踏襲しているが、こちらではそこに基地へ侵入してくる敵を誘導・撃退する仕掛けが忍ばせてある{{R|group="ep"|28話}}。高い防衛力を持つ{{Sfn|完全超百科|2006|p=17}}。劇中での呼称は「バルカンベース」のまま変わっていない。基地の大きさはジャガーバルカンが小さく見えるほど巨大。
:
; サンドバルカン
: バルイーグルの[[ジープ]]形スーパーカー。最高時速500キロメートル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集36|sentaitaizen183|gahou110|30大237|20th22}}}}{{efn|資料によっては時速350キロメートルともされる{{R|超世紀171|gahou110}}。}}で、北極を走破可能{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=21}}。レーダー{{R|material20}}、ホーミングミサイル{{R|超世紀171|20th22}}、急停止装置、[[自動車電話]]を搭載{{R|20th22}}。第40話では運転練習を行うシーンが描かれた{{R|group="ep"|40話}}。ナンバーは、「品川58と96-65」{{R|大全集206}}。
:* ベース実車は[[ミニ・モーク]]{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』ではミニモーク・カリフォルニアン{{R|大全集36}}、書籍『東映スーパー戦隊大全』ではオースチン・ミニモーク{{R|sentaitaizen183}}と記述している。}}。
; シャークマシーン
: バルシャークのバイク。非武装で、水上も走れたり{{R|超世紀171}}、荒地などの走行に向いている{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=21}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=13}}。カラーリングは銀色。最高時速400キロメートル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集206|超世紀171|sentaitaizen183|gahou110}}}}{{efn|資料によっては、「300{{nbsp}}km/h」と記述しており{{R|gahou110|20th22}}、書籍『スーパー戦隊画報』では「400{{nbsp}}km/h」は異説として記述している{{R|gahou110}}。}}。
:* ベース実車はスズキ・GSX400{{R|大全集36|sentaitaizen183}}。
; パンサーマシーン
: バルパンサーのバイク。非武装で、ジャンプ力が優れている{{R|超世紀171}}。カラーリングは緑。最高時速400キロメートル{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE"|{{R|大全集206|gahou110|20th22}}}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では「350キロメートル」と記述している{{R|超世紀171}}。}}。
: 第38話では、サンバルカンにしか探知できないSOS信号'''バルカンオキシダント'''{{R|sentaitaizen183|20th22}}を排気ガスに混ぜて排出した。
:* ベース実車は[[スズキ・TS#TS250|スズキ・TS250]]{{R|大全集36|sentaitaizen183}}。
:
; ジャガーバルカン
: コズモバルカンとブルバルカンを格納して運ぶ巨大母艦。前部発進口に動物のような顔を持ち、目と口で表情の変化を見せ、展開して鋭い牙でかみつく攻撃も行う{{R|material20|学研の図鑑41}}。
: 通常の武装は2門のミサイル砲{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE2"|{{Sfn|赤の伝説|2012|p=29}}{{R|大全集36|超世紀171|gahou110|20th22}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''ジャガーミサイル'''{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=82}}と記述している。}}、救助用クレーン{{R|大全集206|gahou110}}、バリヤー破壊ビーム{{R|group="ep"|43話}}{{R|20th22}}、バルカンスーパーミサイル{{R|material20}}。劇場版では'''ジャガーかみつき'''・'''ジャガーパクリ戦法'''{{efn|資料によっては、名称を'''パクリ戦法'''{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=21}}と記述している。}}などの技も披露した{{R|group="出典"|MACHINE}}。
:* ミニチュアは2メートル大のものが制作された{{R|大全集36|超世紀68}}{{efn|1993年の時点ではシリーズ最大のミニチュアであったと評されている{{R|超世紀68}}。}}。実際にコズモバルカン・ブルバルカンの2尺サイズのミニチュアを格納することができる{{R|20th82}}。
:
; コズモバルカン
: バルイーグルが操縦するデルタ翼を持つ大型戦闘機。宇宙空間を航行することもできる。武器はロケット砲、レーダーや毒ガス探知機などを装備している。赤外線航空写真を撮ることができ、空からの敵の基地の捜索にも用いられる。第48話ではイナズマギンガーに捕らわれていたバルイーグルの代わりに、バルシャークが操縦した。劇場版では自動操縦で浜名湖にいるイーグルのもとに向かった。
: サンバルカンロボの両手と脚部以外の部分全てを形成。
: 武装は2門のバルカン砲{{R|group="出典"|MACHINE2}}。
:* 当初は「コスモバルカン」だったが、玩具名称の決定とともに劇中でも16話から、コズモバルカンに変更された{{R|sentaitaizen232}}。
:* ミニチュアは、2尺サイズと3尺サイズが存在し、前者は合体シーンなどに用いられた{{R|20th82}}。後者は、1993年の時点でロボットに合体するメカのものとしてはシリーズ最大であったと評されている{{R|超世紀68}}。
; ブルバルカン
: バルシャーク、バルパンサーが操縦する重戦車。戦闘だけでなく、救助活動にも用いられる。2人乗りだが、コクピットは別々にある。
: 第48話では、バルシャークがバルイーグルの代わりにコズモバルカンを操縦していたため、バルパンサーが単独で操縦。
: サンバルカンロボの脚部と両手を形成。両手はロボの足首となる底部に収納されており、コズモバルカンとの連結後に底部(ロボのかかととなる部分)から射出される{{efn|第1話の合体シーンでその様子が見られる。}}。合体時には脚の内部にキャタピラが収納される{{R|material29}}。
: 武器はミサイル、チェーン、'''バルカンクレーン'''{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=13}}{{R|超世紀171|20th22}}}}。
:* ミニチュアは、2尺サイズと3尺サイズが存在する{{R|20th82}}。
:
; サンバルカンロボ
: コズモバルカンとブルバルカンが合体した巨大ロボット。嵐山長官によって設計、建造された。バルイーグルの「'''合体 グランドクロス'''」{{efn|第5話から(第1話〜第4話までは「合体」)。}}の合図後にコズモバルカンとブルバルカンが合体。バルイーグルの「'''チェンジ サンバルカンロボ'''」の合図で両腕に拳を装着し、合体完了する。合体は手動操縦で行われており、訓練{{R|group="ep"|1話}}を経た3人の呼吸を合わせる高度な技術を要する{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=185}}。そのため、バルシャークが重傷を負っていた第20話において、一度は合体をミスする描写も見られた。なお第48話ではイナズマギンガーに捕らわれていたバルイーグルの代わりに、バルシャークが合体コールを行った。装甲は超硬金属バル鉄鋼製{{R|material20}}。太陽光を変換したプラズマエネルギーを動力源に戦う{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=21}}{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=13}}{{R|学研の図鑑41}}}}。宇宙空間を航行することも可能{{R|group="ep"|2話}}{{R|学研の図鑑41}}。
:* [[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]]の[[超合金 (玩具)|DX超合金]]のパッケージ表記は「太陽合体サンバルカン」。戦隊ロボの玩具では唯一、「世界の超合金」の表記が入っている。これは当時ポピーが超合金玩具を各国に輸出していたためである{{R|TH35|TH4524}}。
:* サンバルカンロボのボディは青を基調としているが、初期デザイン画では黒く描かれていた{{Sfn|スーパー戦隊アートコレクション戦隊ロボ編|2002|メディアワークス|p=125}}。同時期のポピーの商品『[[百獣王ゴライオン|DX超合金・未来獣合体ゴライオン]]』もメインメカの胴体色が黒いロボットだったので、競合を避けるために青へと変更されたと思われる{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=248}}。
:* スーツはアップ用・アクション用とも高下駄構造で造形されており、アニメ風のスタイルを強調している{{R|21st15}}。後年ではこの手法は、2体以上のロボットが合体する超巨大ロボットに用いられることが多い{{R|21st15}}。
:; 装備
::; 太陽剣{{Refnest|group="出典"|name="ROBO"|{{R|大全集36|超世紀171|sentaitaizen185|gahou110|30大237|20th22}}}}
::: サンバルカンロボの主装備。全長25メートル・重量20トン{{R|20th22}}。地面に突き立てて光線を走らせることも可能。前期では額の太陽戦隊マークから出現し、後期は空中に現れたオーロラが集まって剣となった。
::; バルシールド{{R|group="出典"|ROBO}}
::: 打撃武器としても使用される周囲に回転刃の付いた盾。直径20メートル・重量30トン{{R|大全集206|20th22}}。
::; バルトンファ{{R|group="出典"|ROBO}}
::: 主にバルシールドとセットで使用するトンファー。全長5メートル・重量10トン{{R|大全集206|20th22}}。
::; バルハンド{{R|group="出典"|ROBO}}
::: 全長200メートルの鎖が付いたマジックハンド{{R|20th22}}。
::; バルカン砲{{Refnest|group="出典"|name="ROBO2"|{{R|sentaitaizen185|gahou110|30大237|20th22}}}}
::: 両腕に備えられている銃器。
:; 技
::; 太陽剣・オーロラプラズマ返し'''{{R|group="出典"|ROBO2}}
::: 頭上で一回転させて虹色の光を発生させた後、太陽剣で敵を斬るサンバルカンロボの必殺技。プラズマエネルギーは太陽の光によってチャージされるため、日食の時には使用できない。大鷲編では横に切断。飛羽編からは縦斬りのバンクができ、従来の横斬りに加え、縦斬り、二つのバンクを組み合わせた十字斬りとなり、十字斬りが多用された{{efn|書籍『東映スーパー戦隊大全』では、横斬りを'''オーロラプラズマ返しタイプA'''、縦斬りを'''オーロラプラズマ返しタイプB'''と記述している{{R|sentaitaizen185}}。}}。イーグルが最初に技名を呼称、続いてシャーク、パンサーが「オーロラプラズマ返し」と復唱し、最後にサンバルカンロボ自身が復唱{{efn|声は、ポピー超合金のCMナレーションと同じく蟹江栄司{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|pp=226-227}}。}}して敵を斬る。バラモンガー、サターンモンガーとの初戦ではかわされてしまった。
::; バルカンビクトリー{{Refnest|group="出典"|name="ROBO3"|{{R|sentaitaizen185|gahou110|20th22}}}}
::: 胸から放つV字型光線。'''バルカンサン'''{{R|大全集206|30大237}}の別名を持つ。
::; ファイヤーパンチ{{Refnest|group="出典"|name="ROBO4"|{{R|大全集36|超世紀171|sentaitaizen185|gahou110|20th22}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では'''ファイアーパンチ'''とも表記している{{R|大全集206}}。}}
::: 両拳を炎で燃やし、破壊力を上げて放つパンチ{{Sfn|完全超百科|2006|p=18}}。
::; 鉄拳モグラたたき{{Refnest|group="出典"|name="ROBO5"|{{R|大全集36|sentaitaizen185|gahou110|20th22}}}}
::: バルイーグルの操縦席にある右上のスイッチレバーを手前に引くことで右手を巨大化させて敵を叩くパンチ技。ゴキブリ叩きやモンガー叩きとも呼ばれた。
::; 太陽スクリュー{{R|group="出典"|ROBO5}}
::: 額の太陽戦隊マークから放つ渦状光線。シノワナモンガー戦においては、同じ部分から放つ熱線を太陽剣に反射させた{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|pp=186}}。
::; バルカンフラッシュ{{R|gahou110|20th22}}
::: 目から放つ閃光。透視光線の'''バルカンフラッシュシースルー'''{{R|sentaitaizen185|gahou110}}にもなる。
::; 太陽クロス{{R|group="出典"|ROBO3}}
::: バルトンファと太陽剣を交差させて放つ技。十字架を弱点とするサターンモンガー戦で使用する。
::; プラズマハリケーン{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|pp=185、224}}{{R|20th22}}
::: 全身からプラズマエネルギーを放つ。第48話で操縦席に侵入したイナズマギンガーを強制排除した。
:
; スペック
:{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1"
|-
! 名称 !! 全長 !! 重量 !! スピード !! 出力
|-
! ジャガーバルカン
|150{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="SPEC"|{{R|超世紀171|sentaitaizen183|gahou110|20th22}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では「200メートル」と記述している{{Sfn|大全集|1988|pp=37、206}}。}}
|50,000{{nbsp}}[[トン|t]]{{Refnest|group="出典"|name="SPEC2"|{{R|大全集36|超世紀171|sentaitaizen183|gahou110|20th22}}}}
|{{Plainlist|
* [[マッハ数|マッハ]]8(飛行){{R|group="出典"|SPEC2}}
* 680{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]](走行){{Refnest|group="出典"|name="SPEC3"|{{R|sentaitaizen183|gahou110|20th22}}}}
* 270{{nbsp}}[[ノット|kt]](水中){{R|gahou110|20th22}}
}}
|
|-
! コズモバルカン
|30{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="SPEC4"|{{R|大全集206|超世紀171|sentaitaizen183|gahou110|20th22}}}}
|1,300{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC4}}
|マッハ12{{R|group="出典"|SPEC4}}
|200万馬力{{R|group="出典"|SPEC3}}
|-
! ブルバルカン
|37{{nbsp}}m{{R|group="出典"|SPEC}}
|3,200{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC}}
|走行速度:580{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|SPEC}}
|300万馬力{{R|gahou110|20th22}}
|-
! 名称 !! 全高 !! 重量 !! スピード !! 出力
|-
! サンバルカンロボ
|50{{nbsp}}m{{R|group="出典"|ROBO}}
|4,500{{nbsp}}t{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀171|sentaitaizen185|gahou110|30大237|20th22}}}}
|飛行速度:マッハ10{{R|超世紀171|gahou110|20th22}}
|500万馬力{{R|group="出典"|ROBO4}}
|}
== 機械帝国ブラックマグマ ==
ベーダー一族壊滅後に現れた北極海の氷の奥深く{{Sfn|赤の伝説|2012|p=31}}の要塞'''鉄の爪'''を拠点とする機械生命体の帝国。邪悪な'''黒い太陽神'''を信仰し、メカ人間による世界支配を目論む。強大な科学力と冷徹な作戦行動で、世界各地で異常気象や超常現象などのテロの嵐を吹き荒れさせた{{R|material20}}。機械生命体はマグマエネルギーを動力源としており、そのためにマグマが豊富な火山国・日本を第一攻撃目標とした。
各キャラクターの身長・体重などの設定はない{{R|20th24}}。
; {{Visible anchor|ヘルサターン総統}}
: ブラックマグマのリーダー。黒い仮面と黒服をまとい、黒い杖を持った怪人物。その正体は機械人間で、ずっと機械帝国の最高権力者のように振る舞っていたが、実は全能の神の忠実な部下だった。右手の爪から放射状に破壊光線を発射する'''サターン鉄の爪'''、眼から放つ光線'''サターン眼力光'''、杖から放つ渦巻状熱線'''地獄の剣'''といった技を操る。空間転移も可能。帝国の乗っ取りを狙うヘドリアン女王の目論みを看破するも、イナズマギンガーとの[[一騎討ち]]に敗れる{{R|group="ep"|47話}}。その後は亡霊として{{R|group="ep"|48話}}、また最終回には「全能の神」の使いとして登場した。
:* デザインは『[[スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ]]』にインスパイアを受けている{{R|百化51}}。
; {{Visible anchor|全能の神}}
: 第48 - 50話に登場。ブラックマグマの真の支配者。「黒い太陽神」とも呼ばれる。容器に入った人間の脳のような外見をしている。エネルギー光波で一度死亡した者を実体として復活させ、操ることができる。また、設備を復元する自己再生能力や、脳から熱線を発する能力も持つ。脳自体は脆い。最終話では、美佐を人質に嵐山長官に敗北宣言を迫る{{R|group="ep"|50話}}。正体が何であるかは最後まで明かされなかった{{R|20th24}}{{efn|書籍『全怪獣怪人大事典 上巻』では、「超頭脳コンピューター」と記載している{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=350}}。}}。
:
; ヘドリアン女王
: 第5 - 50話に登場。かつてデンジマンと戦ったベーダー一族の女王。北極の氷の中で眠っていたが、第5話でメカ心臓を移植され機械人間として蘇生し、人類征服のため共通の敵となるサンバルカンを倒すべくブラックマグマと手を組んだ。
:{{Main|電子戦隊デンジマン#ヘドリアン女王}}
:
; {{Visible anchor|アマゾンキラー}}
: 第23話より登場した、ベーダー一族の行動隊長で「銀河無宿」を名乗り、前作に登場したベーダーの幹部・[[電子戦隊デンジマン#ヘドラー将軍|ヘドラー将軍]]とも互角以上の実力の持ち主とされる。ヘドリアン女王に招かれ、ブラックマグマに参入した。短剣を掌に突き立てるポーズで起こす怪光線が得意技。女王にのみ絶対服従で、女王も彼女に全幅の信頼を寄せている。常に「です、ます」調で話す、丁寧な言葉遣いが特徴。爆死したゼロワンに替わりゼロガールズを率いて前線の指揮を執る。ゼロガールズ同様、変装が得意で、浅川霧子、マダム・キーラーと名乗ったこともある{{efn|初登場の第23話早々に新聞記者に化けて、その手腕を発揮。第38話で変装した際は大帝国探偵社の浅川霧子と名乗った。住所は東京都千代田区神田小川町3-26-7、電話番号は03 (713) 9667。}}。諜報活動はお手の物で、バルカンベースやロケット発射基地の破壊工作を成功させた他、自身もゼロガールズたちや多数の戦闘員相手に素手で圧倒したばかりで無く、サンバルカンをまとめて相手にできるほど戦闘力が非常に高く、組織への貢献度は抜群である。終盤、ヘドリアン女王とともに機械帝国乗っ取りを画策するが、全能の神の策謀でヘドリアン女王から野心を疑われた揚句、肝心のサンバルカンとの決戦では孤立無援の戦いを強いられる破目となった。サンバルカンを単独で相手にして堂々と戦ったが、3人のコンビネーションに力及ばず敗れ、バルイーグルに全能の神の居場所を告げると、自分の短剣で自らを刺し貫き、自害して果てた{{R|group="ep"|50話}}。だが、その敵ながら勇敢な戦いぶりに対し、サンバルカンの3人は敬礼し最高の敬意を示した。主武器は光線を放つ短剣で、目から放つ熱線や兜の角からの電撃も強力。その眼光を豹の父からは「蛇の目」と形容された。
:* デザインは久保宗雄が担当{{R|百化53}}。SF・ファンタジー分野のイラストレーター[[フランク・フラゼッタ]]による古代の女戦士がイメージされている{{R|百化53}}。デザイン段階で配役が決定していたため、[[賀川ゆき絵]]が過去に演じた東映版『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』のアマゾネスでの改善点が意識されている{{R|百化53}}。
:
; {{Visible anchor|ゼロガールズ}}
: スパイ活動を担当する女性型のメカ人間の女性指揮官{{Sfn|赤の伝説|2012|p=31}}。4人1組(ゼロワン、ゼロツー、ゼロスリー、ゼロフォー)で行動していたが、第22話でゼロワンが死亡し、以後はアマゾンキラーの指揮下に入る。イナズマギンガー登場後、総統がベーダー一族出身派と対立すると、総統最後の盾として再び存在感を示す。
:; ゼロワン
:: 衣裳は赤を基調としている。変装が得意で、武器は投げナイフ、刀、火薬玉、マシンガン、風船爆弾など。第1話ではサンバルカンになる3人を殺害するために行動していた。第22話で独断でサンバルカンたちを追ったために洞窟の落盤に巻き込まれ死亡。
:; ゼロツー
:: 衣裳は黒褐色の豹柄メッシュを基調としている。マシンの扱いに長け、武器は尖ったカード。
::* デザインでは衣装の脇から脚にかけての模様は地肌を露出させることを想定していた{{R|百化53}}。
:; ゼロスリー
:: 衣裳は緑を基調としている。肉弾戦に長け、普段からタカ派。武器はサイ。
:; ゼロフォー
:: 衣裳は紫を基調としている。通信や索敵を得意とし、武器はヨーヨー。
:
; {{Visible anchor|イナズマギンガー}}
: 第45 - 49話に登場。利害が合えば手を組む相手も状況によっては平気で裏切る油断ならぬ野心家。かつてアマゾンキラーと組んで宇宙海賊をしていた「銀河無敵の電気男」。銀河連邦警察に追われ、地球に逃げ込んできた無法者。二丁拳銃を自在に操り、剣と盾による接近戦やバイクの操縦も得意。両肩のイナズマキャノン、腹部からのイナズマチェーン、瞬間移動、バルカンボールも破壊する頭部からのイナズマ光線、剣から落雷を発生させるスーパーサンダー、空中回転蹴りのギンガーキック、5秒間だけニューバルカンボールも防ぐイナズマバリアー、腹部からの必殺爆弾アンドロメダボールと、多才な技を持つ強敵。策略家としても優れている。アマゾンキラーとはイナズマ信号で連絡を取る。ブラックマグマ・ベーダー一族に対し第三の勢力として三つ巴の争いを繰り広げるが、全能の神の怒りに触れて機械生命体イナズマモンガーに改造されてしまい、サンバルカンと対決するも敗北・戦死した{{R|group="ep"|49話}}。敗死の際には因縁浅からぬ仲だったアマゾンキラーも哀悼の言葉を贈った。
:
; {{Visible anchor|機械生命体}}/モンガー
: ブラックマグマの尖兵(序盤では用心棒的存在)として送り込まれる、作戦遂行用の怪物。機械元素体と動植物の生命などを合成させて作られ、名前はすべて「○○モンガー」となっている。一般に性格は獰猛であり、作戦を忠実に遂行できる程度の知能はあるが、中には作戦遂行よりも破壊そのものを好む者もいる。通常は一話限りで倒されるキャラクター。鉄の爪からの指令電波を受けると体内の歯車が高速回転して巨大化システムが起動し、「大モンガー!<ref group="ep">第2話など。</ref>」または「巨大モンガー!<ref group="ep">第12話など。</ref>」と叫びながら巨大化する。基本的に大ダメージを受けると巨大化するが、戦略上必要な場合はいきなり巨大化できる。物語の前半では「機械生命体」と呼ばれ、後半では「モンガー」と呼ばれていた。
:
; {{Visible anchor|ダークQ}}
: ブラックマグマのスパイ用機械人間。後述のマシンマンと同じく量産されるが、厳しい訓練で選別されるため実際に活躍する数は少ない。人工皮膚をかぶって人間の社会に潜り込み、人間と変わらない暮らしを営みながら諜報活動や破壊工作を行う。メカ人間は組立工場で製造されるが、厳しいテストをくぐり抜けて生き残った者だけがダークQとしての任務を与えられる。そのダークQが製造されるまでの過程が第9話で示唆されている。運動神経、性癖、仕草や身体的特徴まで本物の人間そっくりにコピーされるので、簡単には見破れない。さらに、特殊素材ミエナインでコーティングされれば、バルカンアイの透視能力でも見破れない{{R|group="ep"|18話}}。両目からの光線や腕の小型マシンガンなどが武器だが、スパイが本職なので戦闘力は低い。
: 自爆装置も内蔵されており、太陽戦隊の基地に潜入したこともあるが、この時は嵐山長官に正体を見破られ、基地の防衛システムの働きで外へ放り出されて爆発・消滅する結果となった{{R|group="ep"|1話}}。任務に失敗したダークQは死刑にされ、すぐさま代役のダークQが派遣されるシステムになっている。中には人間と一緒に生活するうちに人間と同じ感情を持ち、任務に背いたダークQもいたが、これも問答無用で爆殺処分された{{R|group="ep"|11話}}。
:* アマゾンキラーの参入以降はストーリーの単純化のため使われなくなった。
:
; {{Visible anchor|マシンマン}}
: ブラックマグマの機械兵士。工場で大量生産されている。戦闘からダークQの製造の補助まで、幅広い任務をこなす。武器は三叉の剣やマシンガン{{R|20th24}}。指揮するモンガーの特性に合わせて訓練された者たちもいる。機械にもかかわらず居眠りをすることがある。ダークQを製造する時などに、よく白衣やマスクを着用している。そのため、全話通して、白衣やマスクを着用していることが多い。
:* 顔の模様はブラックマグマのシンボルマークと同一である{{R|百化51}}。
=== ブラックマグマの戦力 ===
; 要塞鉄の爪
: 北極に存在するブラックマグマの拠点。掌の円形部分は自衛用の熱線を放射{{R|20th24}}、ヘルファイター発進口ともなっている。要塞内には瞬間移動装置を備えており、人員の各地への移動に用いる{{R|20th24}}。
:* デザインはヘルサターン総統の手首を模している{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=89}}。
; {{Visible anchor|ヘルファイター}}
: ブラックマグマの紋章を象った小型戦闘機。武器は6門のレーザー砲。最高速度はマッハ2。マシンマンが操縦する。
; ジープ(未呼称)
: ゼロガールズ、アマゾンキラーが前線での足に用いる。
; {{Visible anchor|キングマグマー}}{{R|20th24}}{{efn|書籍によっては、'''キングマグマ'''と記載している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=355}}。}}
: 最終回で本拠地の北極に攻め込んできたサンバルカンに対抗するため、全能の神が要塞鉄の爪内部の機材を結集・合成させて造り出した巨大ロボット。武装はハンマー{{R|20th24}}、鎖鉄球、右腕のミサイル、冷凍ガス{{R|20th24}}、レーザー{{R|20th24}}。ゼロガールズが操縦して日食で無力化したサンバルカンロボを氷漬けにして破壊寸前に追い込むまで善戦するも、あと一息のところで日食が終わってオーロラが発生してしまったことで逆転され、オーロラプラズマ返しでゼロガールズもろとも破壊された。
:* 上半身は機械生命体製造マシンがモチーフ{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=68}}。
== キャスト ==
=== バルイーグルの交代に関して ===
バルイーグルの交代劇については、杉も川崎の交代劇は突然だったと証言しており、川崎の降板は共演者たちはおろか、当人も台本を手にするまで知らず驚いていたという{{R|sentaitaizen232}}。
プロデューサーの鈴木武幸は「毎週 1話完結で、敵も味方も変化がないのはもう古い」と考えており、このリーダー交代劇を番組強化策の最たるものとして挙げている{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=229}}。
=== レギュラー・準レギュラー ===
* 大鷲龍介 / バルイーグル - [[川崎龍介]](第1 - 23話)
* 飛羽高之 / バルイーグル{{efn|第23話のオープニングクレジットでは「新バルイーグル」。}} - [[五代高之]](第23 - 50話)
* 鮫島欣也 / バルシャーク - [[杉欣也]]
* 豹朝夫 / バルパンサー - [[小林朝夫]]
* 嵐山美佐 - [[根本由美]]
* 嵐山長官 - [[岸田森]](岸田は本作が最期の出演となった)
* 坂井次郎 - 武田弘樹
* 秋野正男 - 伊藤巧実
* 小川まり - 山口由美
* 松田エミ - 村尾由紀子(第23 - 50話)
* 松田ルミ - [[富岡香織]](第23 - 50話)
* 矢沢助八 - [[山田隆夫]](第23 - 50話)
* ゼロワン - [[北河多香子|北川たか子]](第1 - 22話)
* ゼロツー - [[東まり子]]
* ゼロスリー - 宇田川由紀
* ゼロフォー - 高島敏子(第1 - 4話)、 広京子(第5 - 50話)
* ヘドリアン女王 - [[曽我町子]](第4 - 50話)
* アマゾンキラー - [[賀川ゆき絵|賀川雪絵]](第23 - 50話)
=== 声の出演 ===
※ナレーター以外は全てノンクレジット。
* ヘルサターン総統 - [[飯塚昭三]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://sigma7.co.jp/actors/iizuka_shozo |title=飯塚 昭三|株式会社シグマ・セブン |publisher=[[シグマ・セブン]] |accessdate=2019-12-14}}</ref>
* シーシー - [[太地琴恵|江川菜子]]
* 黒い太陽神 - [[大宮悌二]](第5話)
* サンバルカンロボ - [[蟹江栄司]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/kanie-eiji.html |title=蟹江 栄司 | 株式会社青二プロダクション |publisher=[[青二プロダクション]] |accessdate=2019-12-14}}</ref>
* 全能の神 - [[柴田秀勝]](第48 - 50話)
* イナズマギンガー - [[渡部猛]](第45 - 49話)
* ナレーター - [[大平透]]
=== ゲスト出演者 ===
参照{{Harvnb|東映スーパー戦隊大全|2003}}
* 影山令子 - 彩瀬晶子(第1話)
* 少女 - [[小林綾子]](第1話)
* 滝本所長 - [[長沢大]](第2話)
* 女ダークQ - [[宗方奈美]](第4話)
* 野村高子 - [[松香ふたみ]](第5話)
* 山本愛子 - 池ヶ谷和美(第5話)
* 高瀬秀一 - [[春田純一]](第7話)
* 千恵子 - [[立花愛子|増田めぐみ]](第7話)
* 洋品店の女店員 - [[川村万梨阿|川村繁代]](第8話)
* 小坂教授 - 富岡浩太郎(第9話)
* 小坂智子 - [[三好美智子]](第9話)
* 小坂浩一 - 加瀬悦孝(第9話)
* 大木俊子 - 志茂由佳(第10話)
* 蜘蛛五郎 - [[岡本美登]](第10話)
* 上村博士 - [[牧田正嗣]](第11話)
* 上村ユミ - [[片岡みえ]](第11話)
* シャドーX{{efn|書籍によっては'''シャドウX'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}。}} - [[上田耕一]](第12話)
* アルバート総長 - ラセム・ワハフ(第14話)
* ミルズ捜査官 - [[クリスチャン・ハース]](第14話)
* 村井達夫 / 村井達之進 / 村井達五郎 - 高橋淳(3役)(第15話)
* 大村先生 - [[鹿沼絵里|鹿沼えり]](第16話)
* 倉田 - [[田島真吾]](第17話)
* 安原誠 - [[高橋利道]](第18話)
* 中尾博士 - [[原口剛 (俳優)|原口剛]](第19話)
* 中尾宏 - 仲田勇(第19話)
* 鮫島勝 - 三須志雄(第20話)
* 村上波子 - 幡野芳美(第21話)
* 村上ひろし - 斎藤浩一(第21話)
* 二ノ宮ひろみ - 塩月徳子(第22話)
* 倉田支配人 - 秦幸志(第24話)
* 嵐山森蔵 - [[岸田森]](第24話)
* 黒服の男 - 岡本美登(第25話)
* 松原忍 - [[柿崎澄子]](第25話)
* 松原健太 - 吉野広司(第25話)
* 松原正助 - [[西尾徳]](第25話)
* 松原春子 - [[中真千子]](第25話)
* 砂村春子 - [[藤山律子]](第26話)
* 人形劇団員 - [[伊倉一恵]](第27話)
* 患者 - [[森篤夫]](第27話)
* 五木三郎 - 秋原充(第30話)
* 五木小百合 - 戸田真理(第30話)
* 五木徳三郎 - [[増田順司]](第30話)
* 五木とめ - 板倉加代子(第30話)
* 小林修 - 富士圭一(第31話)
* 小林勇吉 - [[住吉正博|住吉道博]](第31話)
* 青柳大介 - 野内俊司(第32話)
* 青柳勇介 - 斎藤喜幸(第32話)
* 太田和子 - 高橋みどり(第33話)
* 太田由紀 - 原和美(第33話)
* ジャンヌ・ダルクの亡霊 - [[藤枝亜弥]](第34話)
* ビリー・ザ・キッドの亡霊 - 高橋利通(第34話)
* ドラキュラ伯爵の亡霊 - [[新堀和男]](第34話)
* ゆかり - 後藤いずみ(第34話)
* 内藤安夫 - 青木英隆(第35話)
* 北沢日見子 - [[三原じゅん子|三原順子]](第36・37話)
* 北沢加美子 - 木本恵(第36・37話)
* 洋介 - 船引秀秋(第36・37話)
* オカルト・ジョー - 斎藤等(第36話)
* 豹朝太郎 - [[小林亜星]](第38話)
* 川村みどり - [[叶和貴子]](第39話)
* 兼太 - [[大原和彦]](第39話)
* 鉄男 - [[佐藤美樹晴]](第40話)
* 林田サユリ - 新井備子(第40話)
* 純一 - 斎藤雅晴(第41話)
* 春野かおり - [[関谷ますみ]](第41話)
* 浅田和夫 - 福原時浩(第42話)
* 明 - 倉形敏正(第43話)
* 山根淳一 - [[飯田道朗|飯田道郎]](第44話)
=== スーツアクター ===
撮影早々にバルイーグルのスーツアクターの新堀が腕を骨折するアクシデントが発生し、初期はバルシャークのスーツアクターである柴原や[[岡本美登]]、[[春田純一]]らが代役を務めた。柴原は本作品が初めて最初からレギュラーを務めた作品だったうえに主役のイーグルを代演、なおかつ、自分の代わりのシャーク役には、既に俳優としての地歩を築きはじめていた[[大葉健二]]がやってきたため、緊張の余り、シャークのアクションについてうまく説明できなかったと回想している{{R|Shibahara}}。
前作でダイデンジン役を務めた[[日下秀昭]]は、本作品でも引き続きサンバルカンロボ役を務めたほかヘルサターン総統役も担当し、以後のシリーズでも[[戦隊ロボ]]役と敵首領役を兼ねることが多くなった{{R|仮面俳優133|21st5}}。
怪人役の[[竹田道弘]]は、前作『デンジマン』でマットなしでの飛び降りを成功させたことから、本作品では怪人の飛び降りを多く任されるようになった{{R|仮面俳優181}}。劇場版では、体型が全く違うにもかかわらず主演の[[五代高之]]の吹き替えでヘリコプターからの飛び降りを務めた{{R|仮面俳優181}}。
ちなみに、アクション部はスタッフ同様おなじみの面子だったという{{R|Shibahara}}。
* バルイーグル{{R|大全集32}}{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=254}} - [[新堀和男]]
* バルイーグル(代役){{R|Shibahara}} - [[益田てつ|益田哲夫]]
* バルイーグル(代役){{R|Shibahara}} - 鈴木玄秀
* バルイーグル(第3 - 10話){{R|大全集32}} - [[岡本美登]]
* バルシャーク{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集32|20th83}}{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=254}}}}、バルイーグル(第1 - 2話名乗り{{R|Shibahara}}、トランポリン代役{{R|20th83}}) - [[柴原孝典]]
* バルシャーク(第1 - 2話名乗り){{R|Shibahara}} - [[大葉健二]]
* バルシャーク(第30話){{R|watari}} - [[渡洋史]]
* バルパンサー{{R|大全集32}}{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=254}} - [[伊藤久二康]]
* サンバルカンロボ{{Refnest|group="出典"|name="SUIT"|{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=254}}{{R|仮面俳優133|21st5}}}}、ヘルサターン総統{{R|group="出典"|SUIT}} - [[日下秀昭]]
* イナズマギンガー{{Sfn|東映スーパー戦隊大全|2003|p=254}}、バルイーグル(第3 - 10話){{Sfn|大全集|1988|p=33}} - [[春田純一]]
* モンガー{{R|tsujii}} - [[山田一善]]
* モンガー{{R|tsujii}}、イナズマギンガー(初期){{R|tsujii}} - [[山口仁]]
* モンガー{{R|tsujii|仮面俳優181}} - [[竹田道弘]]
* マシンマン{{R|tsujii}}、モンガー(第45話ほか){{R|tsujii}} - [[辻井啓伺]]
* マシンマン{{R|THM31}} - [[卯木浩二]]
* その他 - [[城谷光俊]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190330051747/http://sports.geocities.jp/kenbukai_004/p_shiroya.htm |title=SAP剣武会 城谷光俊 プロフィール |access-date=2023/10/14}}</ref>
== スタッフ ==
メインライターは5作続けて上原正三。
演出陣では当時の戦隊最多演出監督でシリーズの基礎を作り上げた竹本弘一がパイロット作品4本を撮影したのち体調不良により降板{{R|20th33}}。竹本の特撮作品における演出は本作品が最後となった。以降は前作から続投の小林義明{{efn|小林は、当初参加する予定ではなかったが、竹本の降板に伴い急遽吉川に要請され参加することとなった{{R|20th33}}。}}、服部和史、平山公夫に加えて、円谷作品で実績のあった東条昭平が『[[ウルトラマン80]]』の終了に伴い、演出陣に新たに加わっている{{R|20th88}}。東條は、『[[ミラーマン]]』などで旧知であった特撮監督の[[矢島信男]]から東映プロデューサーの[[吉川進]]を紹介され、竹本の降板も重なり参加することとなったという{{R|20th88}}。また同時期の『[[仮面ライダースーパー1]]』が終了に伴い終盤にて山田稔が復帰しそのまま最終回を担当している。
東映プロデューサーは吉川に加え、『[[超力戦隊オーレンジャー]]』まで15年連続でかかわることになる鈴木武幸が初めて戦隊シリーズに参加。
* 原作 - [[八手三郎]]
* 連載 - [[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]]、[[冒険王 (漫画雑誌) |冒険王]]
* 脚本 - [[上原正三]]、[[曽田博久]]、[[高久進]]、[[酒井あきよし]]、[[松下幹夫]]、[[筒井ともみ]]
* 音楽 - [[渡辺宙明]]
* 技斗 - [[山岡淳二]]・横山稔([[ジャパンアクションクラブ]])
* 監督 - [[竹本弘一]]、[[小林義明]]、服部和史、[[東條昭平|東条昭平]]、平山公夫、[[奥中惇夫]]、加島昭、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]
* 撮影 - 石橋英敏、加藤弘章、高岩震
* 照明 - 中川勇雄、斉藤久、石垣敏雄
* 美術 - 森田ふみよし、野本幸男
* キャラクターデザイン - [[野口竜]]、久保宗雄、渡部昌彦、島野公、[[品田冬樹]]
* 録音 - 上出栄二郎
* 効果 - 阿部作二→[[大泉音映]]
* 選曲 - 石川孝
* 編集 - 伊吹勝雄、山口一喜
* 進行 - 小原武羅夫、奈良場稔、桐山勝、小迫進
* 計測 - 黒須健雄、内田正司
* 記録 - 伊藤明子、石川和枝、浅井ひろ子、福島勇子
* 助監督 - 加島忠義、[[小中肇]]、[[坂本太郎 (テレビドラマ監督)|坂本太郎]]、[[三ツ村鐵治]]
* 製作担当 - 佐々木丸正
* 装置 - 東映美術センター
* 操演 - 船越幹雄
* 美粧 - 太陽かつら→サン・メイク
* 衣裳 - 鷹志衣裳
* 装飾 - [[装美社]]
* 企画協力 - [[企画者104]]
* キャラクター制作 - [[エキスプロダクション]]、[[レインボー造型企画]]
* 視覚効果 - デン・フィルム・エフェクト
* 合成 - [[チャンネル16]]
* 音楽制作 - あんだんて
* 現像 - [[東映化学工業|東映化学]]
* 車輌制作 - 十和モータース
* 撮影協力 - [[群馬サファリパーク|群馬サファリワールド]]、リステル浜名湖
* オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|鈴木自動車]]
* 車輌協力 - [[富士重工業|無限オートセルス]]
* 特撮 - [[特撮研究所]]
** 操演 - [[鈴木昶]]
** 美術 - [[大澤哲三]]
** 撮影 - 高橋政千
** 照明 - 日出明義
* 特撮監督 - [[矢島信男]]
* プロデューサー - [[碓氷夕焼]](テレビ朝日)、[[吉川進]]・[[鈴木武幸]](東映)
* 制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[東映エージエンシー]]
== 音楽 ==
本作品の主題歌・挿入歌全14曲は、すべて[[山川啓介]]が作詞、渡辺宙明が作曲を担当。
音盤ソフトとしては放送当時、コロムビアのラインナップに「音楽集」の発売日を含めた販売予告がされたが、特に理由も説明されないまま発売中止となった。劇伴はその後番組終了から10余年を経て、「放送当時に予告されながら発売されなかった幻の音楽集」と銘打って1996年に商品化され、2005年にも再発売された。
; 主題歌
:; オープニングテーマ「太陽戦隊サンバルカン」
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:[[串田アキラ]]、[[こおろぎ'73]]
:: フルサイズ、テレビサイズともにボーカルのテイクが異なる2バージョンが存在しており、歌い方が力強いバージョンが商品化されている。
:: もう一方の歌い方が静かなバージョンは、作中で使用されている{{efn|第2話を除く、第9話以降は力強いバージョン。}}。また、[[たいらいさお]]によるカバー・バージョンも存在する。
:: 第1 - 16、18 - 29、31、33、35 - 50話では挿入歌として使用された。
:; エンディングテーマ
::; 「若さはプラズマ」(第1 - 33話)
::: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73
::: 第1、2、5、6、17、21、26、32、50話では挿入歌として使用された。
::; 「1たす2たすサンバルカン」(第34 - 50話)
::: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]]
::: エンディングが変更になって以降も、時々オープニングの際に前のエンディングの曲名が誤って表示されることがある。
::: 第46話では挿入歌として使用された。
:
; 挿入歌
:; 「たたかいのテーマ」(第14、17、18、22、27 - 29、40、44、46、48話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73
:; 「君はパンサー」(第38話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:[[いちひさし]] / 歌:[[水木一郎]]
:; 「輝け!サンバルカン」(第16、19、30 - 32、35、43話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:水木一郎、こおろぎ'73、コロムビアゆりかご会
:: 第16話・第19話・第35話ではこの曲に合わせて「サンバルカン体操」を踊るシーンが挿入されている{{R|21st4}}。振り付けは技斗の山岡淳二が担当した{{R|21st4}}。
::* 書籍『スーパー戦隊 Official Mook 21世紀 vol.4 特捜戦隊デカレンジャー』では、これをシリーズで初の本格的なダンスと位置づけている{{R|21st4}}。
:; 「スーパーウーマンゼロガールズ」(第10、12話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:いちひさし / 歌:[[かおりくみこ]]
:; 「ファイト!サンバルカンロボ」(第7 - 10、14、15、18 - 21、23、24、26話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:いちひさし / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73
:: 『[[非公認戦隊アキバレンジャー|非公認戦隊アキバレンジャー シーズン痛]]』の第2痛のEDでは横山優子([[荻野可鈴]])が本曲をカバーしている。
:; 「夢の翼を」(第20話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:いちひさし / 歌:串田アキラ
:: 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』では、「剣の戦士」紹介時の挿入歌として使用されている。
:; 「海が呼んでいる」(第9話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:水木一郎
:; 「太陽マーチ」(第20、21話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:いちひさし / 歌:水木一郎、こおろぎ'73、[[ザ・チャープス]]
:: 最終話ではインストゥルメンタル版が使用された。
:; 「ぼくらのサンバルカン」(第3、5、6、8、10、11、15、19、27話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:いちひさし / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73、コロムビアゆりかご会
:; 「あしたがあるさ」(未使用)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:水木一郎
:; 「戦う仲間サンバルカン」(第34、36、42、49話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73
:: 「1たす2たすサンバルカン」(ED2) が発表されたのが主題歌・挿入歌LPの発売後だったため、同シングルのB面曲として「戦う仲間サンバルカン」が作られた。
他の挿入歌として、第6話で[[榊原郁恵]]の「ROBOT」が使用されている。
== 放送日程 ==
36・37話のサブタイトルが通常より短いのは、人気アイドル・[[三原じゅん子|三原順子]]の出演を新聞のテレビ欄に記載する余地を確保するためであり、同話数はこうした手法の先駆けに当たる{{R|sentaitaizen220}}。
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
!放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!監督
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1981年{{0}}2月{{0}}7日
|1||北極の機械帝国
|style="text-align: left;"|
* ジムシモンガー(声 - [[大宮悌二]])
|style="text-align: left;" rowspan="9"|上原正三
|style="text-align: left;" rowspan="4"|竹本弘一
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|2月14日
|2||人類が消滅する日
|style="text-align: left;"|
* シーラモンガー(声 - [[依田英助]])
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|2月21日
|3||日本に挑む鉄の爪
|style="text-align: left;"|
* ナウマンモンガー(声 - 依田英助)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|2月28日
|4||少年探偵とスパイ
|style="text-align: left;"|
* トリモンガー(声 - 大宮悌二)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月{{0}}7日
|5||邪悪な太陽神
|style="text-align: left;"|
* マジンモンガー(声 - 大宮悌二)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|小林義明
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月14日
|6||機械の支配する家
|style="text-align: left;"|
* キカイモンガー(声 - 大宮悌二)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月21日
|7||野獣バッターと涙
|style="text-align: left;"|
* ヤキュウモンガー{{efn|書籍によっては'''野球モンガー'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}。}}(声 - 依田英助)
* 野獣化人間{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|3月28日
|8||父が歌う手まり唄
|style="text-align: left;"|
* ムゲンモンガー(声 - 依田英助)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月{{0}}4日
|9||怪物になったパパ
|style="text-align: left;"|
* サソリモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|小林義明
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月11日
|10||待ちぶせ毒ぐも館
|style="text-align: left;"|
* クモモンガー(声 - 依田英助)
* メカグモ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}
|style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月18日
|11||哀しみのメカ少女
|style="text-align: left;"|
* シダモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|4月25日
|12||ダイヤを食う女王
|style="text-align: left;"|
* ダイヤモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|上原正三
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月{{0}}2日
|13||生命を持つ{{Ruby|黒い玉|ブラックボール}}
|style="text-align: left;"|
* アイアンモンガー{{efn|書籍によっては'''アイアンモンガー(超重量金)'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}。}}(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|平山公夫
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月{{0}}9日
|14||地球が降伏する日
|style="text-align: left;"|
* アルマジロモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|高久進
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月16日
|15||女王の欲ばり踊り
|style="text-align: left;"|
* タイムモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月23日
|16||悪魔が校庭を走る
|style="text-align: left;"|
* トビバコモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|上原正三
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|5月30日
|17||怪談!お化けの谷
|style="text-align: left;"|
* ガスモンガー(声 - 依田英助)
* お化け軍団(ダークQ)
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|小林義明
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月{{0}}6日
|18||びっくり大スター
|style="text-align: left;"|
* カメラモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|上原正三
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月13日
|19||危険な100点少年
|style="text-align: left;"|
* ガマモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月20日
|20||機械レスラーの罠
|style="text-align: left;"|
* レスラーモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|上原正三
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|6月27日
|21||潮風がはこぶ愛
|style="text-align: left;"|
* イソギンモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|酒井あきよし
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|7月{{0}}4日
|22||東京大パニック!
|style="text-align: left;"|
* カブトガニモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|松下幹夫
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|7月11日
|23||銀河魔境の女隊長
|style="text-align: left;"|
* オオダコモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|上原正三
|style="text-align: left;" rowspan="4"|平山公夫
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|7月18日
|24||浜名湖のネッシー
|style="text-align: left;"|
* タガメモンガー(声 - 依田英助)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|{{efn|7月25日は休止。}}8月{{0}}1日
|25||ドッキリ海蛇の穴
|style="text-align: left;"|
* ウミヘビモンガー(声 - [[渡部猛]])
|style="text-align: left;"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月{{0}}8日
|26||ハラペコ満腹料理
|style="text-align: left;"|
* ハラペコモンガー(声 - 渡部猛)
|style="text-align: left;" rowspan="3"|上原正三
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月15日
|27||真夏の夜の大恐怖
|style="text-align: left;"|
* エイリアンモンガー(声 - 依田英助)
* 狼人間
|style="text-align: left;"|小林義明
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月22日
|28||助八は敵か味方か
|style="text-align: left;"|
* クリスタルモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|8月29日
|29||美剣士白バラ仮面
|style="text-align: left;"|
* バラモンガー(人間態(赤バラの剣士) - [[森永奈緒美]]、声 - [[瀬能礼子]])
|style="text-align: left;"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月{{0}}5日
|30||大暴れ夢の大怪獣
|style="text-align: left;"|
* バッファローモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|上原正三
|style="text-align: left;" rowspan="2"|平山公夫
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月12日
|31||大東京シビレ音頭
|style="text-align: left;"|
* カミナリモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月19日
|32||顔泥棒を逮捕せよ
|style="text-align: left;"|
* ペッタンモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久
|style="text-align: left;"|小林義明
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|9月26日
|33||憎いおしゃれ泥棒
|style="text-align: left;"|
* カニモンガー(声 - [[西尾徳]])
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月{{0}}3日
|34||呪われた亡霊たち
|style="text-align: left;"|
* ノロイモンガー(声 - 依田英助)
* 亡霊(ドラキュラ伯爵、ビリー・ザ・キッド、ジャンヌ・ダルク)
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月10日
|35||友達!? クカラッチャ
|style="text-align: left;"|
* ゴキブリモンガー(声 - [[神山卓三]])
|style="text-align: left;"|曽田博久
|style="text-align: left;" rowspan="3"|奥中惇夫
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月17日
|36||エスパー
|style="text-align: left;" rowspan="2"|
* サターンモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;" rowspan="3"|上原正三
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月24日
|37||日見子よ
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|10月31日
|38||豹朝夫のおやじ殿
|style="text-align: left;"|
* トーテムポールモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|加島昭
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月{{0}}7日
|39||尻もちおてんば娘
|style="text-align: left;"|
* ムカデモンガー(声 - 依田英助)
* メカ虫{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月14日
|40||なかよし暗殺天使
|style="text-align: left;"|
* コウモリモンガー(人間態(コウモリ魔人)、声 - [[井上三千男]])
* コウモリ少年{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}
|style="text-align: left;"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月21日
|41||七化けドロンパ狸
|style="text-align: left;"|
* チャガマモンガー(声 - 神山卓三)
** にせバルイーグル
** にせバルシャーク
** にせバルパンサー
** にせヘルサターン総統
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|style="text-align: left;" rowspan="2"|東条昭平
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|11月28日
|42||寝坊少年の白昼夢
|style="text-align: left;"|
* ドラゴンモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|曽田博久
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月{{0}}5日
|43||君も天才になれる
|style="text-align: left;"|
* メカメカモンガー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|酒井あきよし
|style="text-align: left;"|加島昭
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月12日
|44||大脱走・ヘリ爆破
|style="text-align: left;"|
* ムササビモンガー(声 - 依田英助)
|style="text-align: left;"|筒井ともみ
|style="text-align: left;"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月19日
|45||銀河無敵の電気男
|style="text-align: left;"|
* ボクサーモンガー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;" rowspan="6"|上原正三
|style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|12月26日
|46||女隊長の(秘)作戦
|style="text-align: left;"|
* シノワナモンガー(声 - 依田英助)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1982年{{0}}1月{{0}}9日{{efn|1月2日は休止。}}
|47||機械帝国の反乱
|style="text-align: left;"|
* ファイターモンガー(声 - 西尾徳)
|style="text-align: left;"|服部和史
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1月16日
|48||奪われた巨大空母
|style="text-align: left;"|
* 全能の神
* ミイラモンガー(声 - 依田英助)
* ヘルサターン総統(亡霊)
* サムソンモンガーの設計図{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=118}}
|style="text-align: left;" rowspan="3"|山田稔
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1月23日
|49||女王最期の妖魔術
|style="text-align: left;"|
* 全能の神
* イナズマモンガー(イナズマギンガー)
* ヘルサターン総統(亡霊)
|-style="text-align: center;"
|style="text-align: right;"|1月30日
|50||輝け北極オーロラ
|style="text-align: left;"|
* 全能の神
* キングマグマー
* ヘルサターン総統(亡霊)
* ヘドリアン女王(亡霊)
* アマゾンキラー(亡霊)
|}
== 放送局 ==
{{出典の明記|date=2019年6月|section=1}}
* [[テレビ朝日]]:土曜 18:00 - 18:30
* [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]
* [[青森放送]]
* [[秋田放送]]
* [[山形放送]]:水曜 17:30 - 18:00<ref>『[[河北新報]]』1981年10月7日 - 10月28日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[東日本放送]]:土曜 18:00 - 18:30<ref>『[[福島民報]]』1981年2月7日 - 1982年1月30日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[福島中央テレビ]]:火曜 17:00 - 17:30 (1981年8月25日まで)<ref>『福島民報縮刷版 昭和56年8月号』(福島民報社)、434頁(1981年8月25日『福島民報』朝刊8面、テレビ欄。</ref>
** [[福島放送]]:土曜 18:00 - 18:30 (1981年9月19日から){{efn|サービス放送期間中、開局は1981年10月1日。}}<ref>『福島民報』1981年9月19日 - 1982年1月30日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[新潟放送]]:金曜 17:30 - 18:00<ref>『福島民報』1982年2月5日 - 2月26日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[山梨放送]]
* [[北日本放送]]:月曜 17:00 - 17:30<ref>『北國新聞』1981年6月1日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[北陸放送]]:金曜 17:00 - 17:30<ref>『北國新聞』1981年6月5日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]:木曜 17:25 - 17:55<ref>『北國新聞』1981年6月4日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[テレビ信州]]:土曜 18:00 - 18:30<ref>『[[日刊スポーツ]]』1981年3月7日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[静岡朝日テレビ|静岡けんみんテレビ]]
* [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]
* [[朝日放送テレビ|朝日放送]]
* [[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]
* [[瀬戸内海放送]]
* [[広島ホームテレビ]]
* [[テレビ山口]]
* [[四国放送]]
* [[テレビ愛媛|愛媛放送]]
* [[テレビ高知]]
* [[九州朝日放送]]
* [[長崎放送]]
* [[テレビ熊本]]
* [[宮崎放送]]:木曜 17:25 - 17:55<ref>『宮崎日日新聞』1982年4月29日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]
* [[琉球放送]]
== 他媒体展開 ==
<!--[[プロジェクト‐ノート:特撮]]での議論に基づく形式にしています。反対意見があれば[[プロジェクト‐ノート:特撮]]に意見をください。-->
=== 映像ソフト化 ===
いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。
* ビデオ([[VHS]]、セル・レンタル共通)は1990年12月28日から1992年11月25日にかけて全8巻がリリースされた。各巻3話収録で、第24話までがソフト化された。
* [[DVD]]は[[2005年]][[11月21日]]から[[2006年]][[3月21日]]にかけて全5巻がリリースされ、現在も発売されている。各巻2枚組で10話収録、初めての全話収録となった。またVol.1には初回生産分限定で全巻収納BOXが付属した。
* [[2021年]][[4月14日]]発売の『スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1975 - 1981』に計6話{{efn|第1・23・24・45・49・50話。}}が収録されている<ref>[https://www.toei-video.co.jp/special/supersentai-ikkyo/ 東映ビデオ:「スーパー戦隊一挙見Blu-ray」特集]</ref>。
* 劇場版はDVD「スーパー戦隊 THE MOVIE BOX」([[2003年]][[7月21日]]発売){{R|U106}}、「スーパー戦隊 THE MOVIE Vol.2」([[2004年]]7月21日発売)、「スーパー戦隊 THE MOVIE Blu-ray BOX 1976-1995」([[2011年]][[6月21日]]発売)に収録されている。
=== 他テレビシリーズ ===
; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』
: 第1話などのレジェンド大戦のシーンにサンバルカン3人が登場するほか、ゴーカイジャーが食事をするシーンでサンバルカンの秘密基地への入り口でもあった「スナックサファリ」が登場する。
: ゴーカイジャーの二段変身としても登場。第49、51話では、二代目バルイーグルこと飛羽高之が登場。
=== 映画作品 ===
; 『太陽戦隊サンバルカン<!--副題なし-->』
: 1981年7月18日公開。[[東映まんがまつり]]の一編として公開された。上映時間29分。
:* 脚本:上原正三
:* 特撮監督:矢島信男
:* 監督:東条昭平
:* 登場怪人:ハナビモンガー(声:依田英助)
: バルイーグルが2代目となっていることから、時系列的には23話以降の話である。
: 撮影も第23話・第24話と並行していた{{R|大全集166}}。監督の東條は、東映出身者ではない者が監督を務めることに不満を感じる関係者もいたと述べている{{R|20th88}}。
; 『[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]』
: 冒頭のレジェンド大戦のシーンにサンバルカン3人が登場するほか、黒十字王が悪用した力としても登場する。
; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]]』
: 合体戦闘員を構成する存在としてマシンマンが登場。
; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』
: スーパー戦隊シリーズと仮面ライダーシリーズのクロスオーバー作品で、サンバルカンの3人が登場。
; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー THE MOVIE 赤い戦い! オール戦隊大集会!!]]』
: 『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の劇場作品。バルイーグルが登場。
=== オリジナルビデオ・オリジナルDVD ===
; 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』
: 終盤、歴代レッドが集まるシーンにバルイーグルが登場。
; 『[[轟轟戦隊ボウケンジャーVSスーパー戦隊]]』
: アカレッドの力の源として歴代レッドが映るシーンにバルイーグルが登場。
=== 漫画===
* [[テレビランド]]([[徳間書店]]) - 作画:細井雄二
* [[テレビマガジン]]([[講談社]])- 作画:[[津原義明]]
* [[てれびくん]]([[小学館]])- 作画:[[シュガー佐藤 (漫画家)|シュガー佐藤]]
* [[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]([[秋田書店]])- 作画:大谷章
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
=== 参照話数 ===
{{Reflist|group="ep"|3
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<ref name="1話">第1話。</ref>
<ref name="2話">第2話。</ref>
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}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="大全集32">{{Harvnb|大全集|1988|pp=32-33|loc=「太陽戦隊サンバルカン」}}</ref>
<ref name="大全集36">{{Harvnb|大全集|1988|pp=36-37|loc=「地球平和守備隊のスーパーメカ」}}</ref>
<ref name="大全集166">{{Harvnb|大全集|1988|pp=166-167|loc=「シリーズのジャンプ 太陽戦隊サンバルカン」}}</ref>
<ref name="大全集206">{{Harvnb|大全集|1988|pp=206-207|loc=「スーパー戦隊全戦力データ 太陽戦隊サンバルカン」}}</ref>
<ref name="超世紀18">{{Harvnb|大全集|1993|pp=18-19|loc=「剣劇 剣術」}}</ref>
<ref name="超世紀156">{{Harvnb|大全集|1993|p=156|loc=「戦隊20年の戦い シリーズの変遷 動物のキャラクター化 太陽戦隊サンバルカン」}}</ref>
<ref name="超世紀68">{{Harvnb|大全集|1993|pp=68-74|loc=「ザ・特撮」}}</ref>
<ref name="超世紀171">{{Harvnb|大全集|1993|p=171|loc=「超世紀全戦隊メカニックファイル」}}</ref>
<ref name="SHSV">{{Cite book|和書|author=|year=2002|month=1|title=SENTAI HERO SUPER VISUAL スーパー戦隊25シリーズ記念写真集|pages=161|publisher=[[徳間書店]]|location=|id=|isbn=978-4-19-720181-5|asin=}}</ref>
<ref name="material20">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|pp=20-23}}</ref>
<ref name="material29">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|pp=29-30}}</ref>
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<ref name = "百化51">{{Harvnb|百化繚乱 上之巻|2011|p=51}}</ref>
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<ref name="TH4524">{{Harvnb|TH45|2022|p=24|loc=「太陽戦隊サンバルカン」}}</ref>
<ref name="Shibahara">{{Cite web|和書|date=2006-02-24|url=http://moon.ap.teacup.com/wild/94.html|title=「スタントマン23」|publisher=柴原孝典ブログ「危険請負人」|accessdate=2014-09-24|deadlinkdate=2017年10月|archiveurl=https://archive.is/20130104221358/http://moon.ap.teacup.com/wild/94.html|archivedate=2013年1月4日}}</ref>
<ref name="watari">{{Cite web|和書|date=2010-05-13|publisher=渡 洋史の気ままなブログ|url=https://web.archive.org/web/20160304141948/http://anime.ap.teacup.com/watari/63.html|title=初ヒーロー!!!|accessdate=2014-09-24}}</ref>
}}
=== 出典(リンク) ===
{{Reflist|group="出典"|2}}
== 参考文献 ==
* 大全集シリーズ([[講談社]])
**{{Cite book|和書|date=1988-04-25|title=スーパー戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178408-0|ref={{SfnRef|大全集|1988}}}}
**{{Cite book|和書|date=1993-11-14|title=[[テレビマガジン]]特別編集 戦隊シリーズ20周年記念 超世紀全戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178416-1|ref={{SfnRef|大全集|1993}}}}
* {{Cite book|和書 |date = 1990-03-24|title = [[全怪獣怪人]] |publisher = [[勁文社]] |volume = 上巻 |id=C0676|isbn = 4-7669-0962-3|ref={{SfnRef|全怪獣怪人 上|1990}}}}
* {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 上巻|publisher = [[勁文社]]|isbn = 4-7669-3975-1|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 上巻|2002}}}}
* {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 下巻|publisher = 勁文社|isbn = 4-7669-4108-X|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 下巻|2002}}}}
** {{Cite book|和書|others = 編集:[[井上嘉大]]|date = 2003-03-20|title = 全怪獣怪人大辞典(上巻)東映篇|publisher = [[英知出版]]|isbn = 4-7542-2016-1|ref = {{SfnRef|全怪獣怪人・上|2003}}}}
* 大全シリーズ([[双葉社]])
** {{Cite book |和書|editor = 安藤幹夫 編|date = 2003-02-28|title = 東映スーパー戦隊大全 バトルフィーバーJ・デンジマン・サンバルカンの世界|publisher = 双葉社|isbn = 4-575-29520-5|ref = {{SfnRef|東映スーパー戦隊大全|2003}}}}
** {{Cite book |和書 |editor=安藤幹夫 編 |date=2004-7-30|title=ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 東映スーパー戦隊大全2|publisher=双葉社|isbn=4-575-29688-0|ref={{SfnRef|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2005-09-07 |title = スーパー戦隊画報 |volume = 第1巻 |publisher = [[竹書房]] |ISBN = 4-8124-2219-1 |ref = {{SfnRef|スーパー戦隊画報1|2005}} }}
* {{Cite book|和書|date = 2006-04-25|title =決定版 全スーパー戦隊 完全超百科|publisher = 講談社|isbn = 4-06-304567-6|ref = {{SfnRef|完全超百科|2006}}}}
* {{Cite book|和書|others=構成 間宮“TAKI”尚彦|date=2007-03-08|title=30大スーパー戦隊[[超全集]]|publisher=[[小学館]]|isbn=9784091051127|ref = {{SfnRef|30大スーパー戦隊超全集|2007}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2011-05-25|title =決定版 全スーパー戦隊 パーフェクト超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304815-5|ref = {{SfnRef|パーフェクト超百科|2011}}}}
* {{Cite book|和書|date=2011-12-15|title=東映スーパー戦隊35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995|publisher=グライドメディア|isbn=978-4813021636|ref={{SfnRef|百化繚乱 上之巻|2011}} }}
* {{Cite book |和書|date = 2012-04-22|title = スーパー戦隊の常識 ド派手に行くぜ!レジェンド戦隊篇|publisher = 双葉社 |isbn = 978-4-575-30413-8|ref = {{SfnRef|スーパー戦隊の常識|2012}}}}
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*『スーパー戦隊 Official Mook』講談社〈講談社シリーズMOOK〉
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* {{Cite book|和書|date = 2021-04-20<!--奥付表記-->|title =スーパー戦隊|series=学研の図鑑|publisher = 学研プラス|isbn = 978-4-0540-6788-2|ref = {{SfnRef|学研の図鑑|2021}}}}
* {{Cite journal|和書|date=2022-02-15<!--奥付表記-->|journal=東映ヒーローMAX|volume=VOLUME 64|issue=(2022 SPRING)|publisher=辰巳出版|isbn=978-4-7778-2865-4|ref={{SfnRef|東映HM64|2022}}}}
* {{Cite book |和書 |date=2022-04-01 |title=スーパー戦隊 TOY HISTORY 45 1975-2021 |series = ホビージャパンMOOK |publisher=[[ホビージャパン]] |isbn=978-4-7986-2745-8 |ref={{SfnRef|TH45|2022}} }}
== 関連項目 ==
* [[愛國戰隊大日本|愛国戦隊大日本]]
* [[桂正和コレクション#学園部隊3パロかん|学園部隊3パロかん]]
== 外部リンク ==
* [http://www.super-sentai.net/sentai/sun.html 太陽戦隊サンバルカン](スーパー戦隊ネット内の紹介記事)
* [https://web.archive.org/web/20100511155925/http://www.toei-video.co.jp/DVD/sp21/sunbalkan.html DVD 太陽戦隊サンバルカン特集](東映ビデオ内にあるサイト)
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雲
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雲(くも)は、大気中にかたまって浮かぶ水滴または氷の粒(氷晶)のことをいう。雨や雪などの降水は雲の中で成長して地表へ落下する。
地球上のほとんどの雲は対流圏内で発生する。雲はその形や性質から十種雲形や種・変種などに分類される。なお、雲が地表に接しているものは霧という。
雲の粒子(雲粒)は大気中に浮かんで存在し、可視光線により人間の目に見えている。同様に、大気をもつ惑星表面において気体成分と液体・固体粒子が浮かぶものを雲と呼ぶ。
雲の粒子の成分はほとんど水であり、微量ながら水以外の成分、例えば土壌成分や火山噴出物、塵埃などからなる微粒子(エアロゾル)が混ざっているほか、空気の成分(窒素、酸素、二酸化炭素など)が溶解している。
地球上のほとんどの雲は対流圏内で発生し、高さごとに特徴をもつ。一方、極地や高緯度地方の高度20 - 30km(成層圏)では、水のほか硫酸塩や硝酸塩から成る真珠母雲(極成層圏雲)が発生する。他方、高緯度地方の高度約80km(中間圏)で見られる夜光雲(極中間圏雲)は主に水からなるという報告がある。
1つ1つの雲粒(水滴や氷晶)の大きさは、半径にして0.001mm - 0.01mm(1μm - 10μm)程度のものが多くを占める。このオーダーでは落下速度は約1cm/秒だが、大気中ではこれを上回る上昇気流がありふれて存在するので落下することはほとんどなく、いわば「空に浮かんだ」状態となる。雲の中での雲粒の数(密度)は、1mあたり1000万 - 数百億程度である。
詳しくは降水過程参照。また、雨粒の成長の計算はメイスンの方程式(Mason equation)などにまとめられている。
氷晶は、六角柱、六角板、針状、樹枝状などの独特な結晶を形成する。氷晶がくっついて重なり成長したものが雪の粒子(雪片)である。
たいていの場合、雲は白色や灰色に見えることが多い。白色に見えるのは雲粒が太陽光を散乱するからだが、雲粒の大きさの粒子は可視光線領域のいずれの波長の光(色)も同じように散乱するミー散乱が起こっているので無彩色の白色となる。そして、厚みのある雲は灰色、特に雲の底の部分は黒色に近い暗い色に見えるが、これは濃度の高い雲粒により雲内で何度も太陽光が散乱・吸収された結果、光が弱まるためである。なお、雲は分散系の中でもエアロゾルに分類できる。
また、雲粒を通して太陽光が回折、屈折、散乱などを起こすことで生じる大気光学現象はたくさんの種類がある。氷晶にみられるのが暈(ハロ)、環天頂アーク、環水平アーク、幻日など。水滴にみられるのが彩雲、光冠など。
上昇気流が強い場合は、上昇や落下を繰り返すうち、雨粒や雪の結晶同士が衝突してさらに大きな粒となって落下する。これが雨・ひょう・雪。また、上昇や落下を繰り返すと霰や雹などの大きな氷粒になり、氷粒同士の衝突で静電気が発生し、それが蓄積されて雷の原因になる。
空気中の水蒸気と、それが凝結(凝縮ともいう)されて液体(水)になるか、凍結(凝固)または昇華されて固体(氷)になったもので雲が作られる。
大気中に含まれる水蒸気の量は環境により異なるが、一定量の大気中に存在できる水蒸気の最大量を(別の表現では湿度(相対湿度)100%のとき=飽和のときの水蒸気の量にあたるが)、飽和水蒸気量と呼び、物理的に定まっている。また、飽和水蒸気量は気温により変化し、冷たい大気ほどその量は少なくなる。例えば、20°Cでは17.2g/m、0°Cでは4.85g/mである。
水蒸気を含む湿った大気が冷やされると、湿度100%に達した(気温が露点温度に達した)ところで、その気温における飽和水蒸気量を超えた水蒸気が凝結し(低温下では昇華し)、雲粒が形成される(雲ができる)。
なお、水蒸気の凝結・昇華、また水滴の凍結には、微粒子(エアロゾル)の存在が不可欠である。雲粒(水滴や氷晶)は微粒子を「芯」にして形成され、このプロセスを核形成(雲核形成・氷晶核形成)という。
物理学の領域になるが、見かけ上凝結や蒸発が起こっていない気液平衡の状態にあっても、分子レベルでは、水分子が一時的に寄り集まって凝結したり、逆に離れて蒸発したりといった運動は起こっている。言い換えると、水滴が大きく成長できない状態である。水滴が自発的に成長できる大きさ(臨界半径)より大きくなるためには、不純物を含まない清浄な大気(純水)では気温0°Cで相対湿度430%、-23°Cで630%、17°Cで350%とそれぞれ非常に大きな過飽和度が必要であることが、実験で確かめられている。実際の大気では200%を超える湿度が観測されることはないため、微粒子なしで水滴が形成(均質核形成)されるのは不可能と考えられる。
実際の大気には核となる微粒子が存在するので、相対湿度100%をわずかに超え、過飽和度1%(相対湿度101%)以下のレベルで雲粒が生成される。なお、微粒子によって水滴の核形成に作用し始める(活性化する)過飽和度や温度は異なり、作用が高い微粒子が存在する場合は、過飽和度0.1%でも雲粒が生成される。微粒子(エアロゾル)の種類は、海塩粒子、硫酸塩(硫酸アンモニウムなど)、土壌粒子や鉱物粒子(火山灰や黄砂を含む)、有機成分(バクテリアなど)を含むバイオエアロゾルなど。
大気の冷却は、主に大気の上昇(上昇流)によって起こる。大気が何らかの力を受けて上昇するとき、その気圧は減少して膨張する(断熱膨張)とともに、外部からではなく自ら温度を下げる(断熱冷却)。
このように断熱的に気温が下がる割合を断熱減率というが、飽和の有無により値が異なる。飽和していない大気の乾燥断熱減率は上昇100mにつき約1°C、飽和している大気の湿潤断熱減率は上昇100mにつき約0.6°C(温帯の地表付近における値で、気温や気圧により異なる)である。この差は、飽和した湿潤大気中では、上昇とともに凝結が進んで潜熱が放出され温められることで生じる。
一方、特に霧(地表に達した層雲)のなかには違う原因で生じるものもある。夜間の放射冷却により平野や盆地で見られる放射霧は、地表付近の大気が冷やされて生じる。冷たい海に暖かく湿った気流が入ったとき見られる移流霧(混合霧、海霧)は、海面で冷やされた大気と暖かく湿った大気が混ざり合い、冷却・加湿され生じる。暖かい川に冷たい気流が入ったとき見られる蒸気霧(川霧)は、移流霧の逆で、水面から暖かく湿った大気が上昇し冷たい大気と混ざり合い、冷却され生じる。また逆転層に覆われた低い層雲の下では、冷たい下降流と雨粒の蒸発による冷却・加湿により、雲底が次第に低下、地表に近づいて霧になることがある。
また雲粒の大きさでは核形成の限界から、層状の雲では0 °Cから -10 °Cくらいまで、対流性の雲では -25 °Cくらいまで、ほとんどが過冷却水滴で構成され、またこれらより低く -40 °Cくらいまでは氷晶と過冷却の混在、 -40 °C以下では氷晶が多い構成になると考えられている。
大気中において、上昇流により断熱冷却を引き起こすメカニズムはいくつかあるが、主なものを挙げる。
小規模なものであれば、雲を製造することは容易であり、理科の実験や身近にできる科学実験として、広く行われている。
密閉可能な容器の中を少し濡らし、線香の煙などの凝結(固)核を充満させて密閉し、ポンプなどで気圧を下げると、減圧冷却によって中の温度が露点を下回って凝結(固)をはじめ、雲ができる。
熱湯から立ち上る「湯気」、ドライアイスや氷から流れ落ちるような白い冷気、冬の寒い日に白くなる吐いた息、工場や排気などから出る白い蒸気なども、人工的に作ることができる雲だといえる。
また、普通の雲に比べて粒が大きい、霧吹きで作る水滴でも、風をうまくコントロールして空中に浮かべることができれば、雲だといえる。
ただ、雨を降らせるような大規模な雲の製造は容易ではない。現状では、ヨウ化銀などの凝結(固)核を大量に散布することで雲の素をつくる「雲の種まき」が実用化の限度となっている。しかも、「雲の種まき」においても空気中の水蒸気が過飽和あるいはそれに近い状態になければ雲はできにくく、条件も限られる。
雲には多くの俗称があるが、学術分野では統一した分類と呼称がある。世界気象機関が発行する国際雲図帳に基づいて、雲は10の基本形(類、十種雲形)に分類され、さらに雲によっては数十の種・変種・副変種に分類できる。
この項目では基本形について解説する。種・変種・副変種や特殊な雲について詳しくは雲形を参照のこと。
現在の雲の分類は、ルーク・ハワードが4つに分類しラテン語名を付けたのが原型で1803年に論文が発表されている。同時期に博物学者ラマルクも分類を行ったが広まらなかった。その後ヒルデブランドソン(英語版)、ラルフ・アバークロンビーはタイプ写真による雲形図を作成、世界中で共通の分類が行えることを確認して分類を提案した。更に国際気象会議による議論を経て、十種雲形を定めた『国際雲図帳』の発行(1896年)に至る。
なお、乱層雲は上層や下層にもつながっていることがある。高層雲は上層にもつながっていることがある。発達した積雲や積乱雲は雲頂が中層や上層に達する。
国際雲図帳1932年版では、巻雲、巻積雲、巻層雲からなる上層雲、高積雲、高層雲からなる中層雲、乱層雲、層積雲、層雲からなる下層雲、積雲、積乱雲からなる対流雲、さらに上層雲、中層雲、下層雲を層状雲とする大分類を行っていた。1956年版の改正でこの大分類が上層雲、中層雲、下層雲の3つに変更され出現高度も修正、乱層雲は下層雲から中層雲に変更、また種・変種・副変種の分類が再編整理されている。近年でも資料によっては、特にしゅう雨性降水をもたらす対流性の雲(積雲と積乱雲)の説明の意味もあって、対流雲の区分が用いられている場合がある。
対流圏以上の中層大気にできる雲として、以下のものがある。
20世紀に入ってからは上空の気温や風をラジオゾンデなどの高層気象観測で直接測定できるようになったが、19世紀までは、気象学に雲の形や動きなどと気象現象の対応を研究する雲学(くもがく, nephology)という分野があり、天気予報の重要な資料として活かされていた。
雲は測雲器若しくは測雲気球などの器具を用い、または目視によって観測される(気象業務法第1条の2、気象業務法第1条の3も参照)。雲量は天気の基準のひとつで、雲量8/10以下を晴れ、9/10以上をくもりという。
また、レーダーでも雲を観測できる(雲高計)。雲粒は雨粒や雪片よりも小さいため、レーダー電波の波長は降雨レーダーより小さいものを用いる。波長1mm - 10mm程度のミリ波を用いることが多い。ただ、地上や航空機搭載のレーダーによる雲の観測は、観測範囲が狭く、用途は規模の小さい気象現象の観測や飛行用などに限られる。
広い気象状態を捉えるには、気象衛星による観測が行われる。気象庁では静止衛星ひまわりにより、宇宙から雲などの観測を実施している。複数の波長の可視光線、雲が放射する赤外線を通して雲の分布を観測している。マイクロ波やミリ波の利用も拡大しつつある。赤外線に関しては、大気成分に吸収されて観測できない波長が多いので、その影響が少ない大気の窓領域の波長を観測している。
地球の表面を広く覆う雲は、その様態により、太陽光を反射して地表を冷やす効果を生じたり、反対に地表からの赤外線放射(外向き長波放射(英語版))を吸収して地表の冷却を抑える(温める)効果を生じたりする。どちらに作用するかは、雲の高さや厚さ、雲粒の大きさや凝結核の構成などによって異なる。低い厚い雲は冷却、高く薄い雲は加熱の効果をもつと考えられている。研究によれば、地球全体の平均では、反射率(アルベド、雲アルベド(英語版))の効果、冷却効果の方が上回ると考えられている。
大気汚染によるエアロゾルの増加は、それ自身は地表に届く太陽光を減少させ冷やす日傘効果をもつ一方で、雲の物理過程に作用して天候への間接的効果をもっている。積乱雲に伴う降水において、降水を増やす傾向があるとの研究がある。低湿度下の低い雲では、雲粒の粒径増加を遅らせるため、反射率を上げ雲の寿命は長くなり、降水量は減る。ただ、地球の気候変動のレベルで気温を下げるのか上げるのか、その値がどれくらいかの評価には幅がある。
大気を持つ太陽系の惑星のほとんどでは、地球と同じように雲が発生する。金星はほぼ全体を雲が覆い、高度50 kmから70 kmに分厚い硫酸の雲の層がある。火星では水が成分の雲がわずかに生じる。木星や土星も全体をアンモニアなどの雲が覆い、表面の模様を形成している。天王星や海王星はメタンでできた雲がある。また、土星の衛星のタイタンにもメタンの雲らしきものがあることが分かっている。
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一方、特に霧(地表に達した層雲)のなかには違う原因で生じるものもある。夜間の放射冷却により平野や盆地で見られる放射霧は、地表付近の大気が冷やされて生じる。冷たい海に暖かく湿った気流が入ったとき見られる移流霧(混合霧、海霧)は、海面で冷やされた大気と暖かく湿った大気が混ざり合い、冷却・加湿され生じる。暖かい川に冷たい気流が入ったとき見られる蒸気霧(川霧)は、移流霧の逆で、水面から暖かく湿った大気が上昇し冷たい大気と混ざり合い、冷却され生じる。また逆転層に覆われた低い層雲の下では、冷たい下降流と雨粒の蒸発による冷却・加湿により、雲底が次第に低下、地表に近づいて霧になることがある。",
"title": "雲の形成"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また雲粒の大きさでは核形成の限界から、層状の雲では0 °Cから -10 °Cくらいまで、対流性の雲では -25 °Cくらいまで、ほとんどが過冷却水滴で構成され、またこれらより低く -40 °Cくらいまでは氷晶と過冷却の混在、 -40 °C以下では氷晶が多い構成になると考えられている。",
"title": "雲の形成"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "大気中において、上昇流により断熱冷却を引き起こすメカニズムはいくつかあるが、主なものを挙げる。",
"title": "雲の形成"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "小規模なものであれば、雲を製造することは容易であり、理科の実験や身近にできる科学実験として、広く行われている。",
"title": "雲をつくる"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "密閉可能な容器の中を少し濡らし、線香の煙などの凝結(固)核を充満させて密閉し、ポンプなどで気圧を下げると、減圧冷却によって中の温度が露点を下回って凝結(固)をはじめ、雲ができる。",
"title": "雲をつくる"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "熱湯から立ち上る「湯気」、ドライアイスや氷から流れ落ちるような白い冷気、冬の寒い日に白くなる吐いた息、工場や排気などから出る白い蒸気なども、人工的に作ることができる雲だといえる。",
"title": "雲をつくる"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、普通の雲に比べて粒が大きい、霧吹きで作る水滴でも、風をうまくコントロールして空中に浮かべることができれば、雲だといえる。",
"title": "雲をつくる"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ただ、雨を降らせるような大規模な雲の製造は容易ではない。現状では、ヨウ化銀などの凝結(固)核を大量に散布することで雲の素をつくる「雲の種まき」が実用化の限度となっている。しかも、「雲の種まき」においても空気中の水蒸気が過飽和あるいはそれに近い状態になければ雲はできにくく、条件も限られる。",
"title": "雲をつくる"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "雲には多くの俗称があるが、学術分野では統一した分類と呼称がある。世界気象機関が発行する国際雲図帳に基づいて、雲は10の基本形(類、十種雲形)に分類され、さらに雲によっては数十の種・変種・副変種に分類できる。",
"title": "種類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この項目では基本形について解説する。種・変種・副変種や特殊な雲について詳しくは雲形を参照のこと。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "現在の雲の分類は、ルーク・ハワードが4つに分類しラテン語名を付けたのが原型で1803年に論文が発表されている。同時期に博物学者ラマルクも分類を行ったが広まらなかった。その後ヒルデブランドソン(英語版)、ラルフ・アバークロンビーはタイプ写真による雲形図を作成、世界中で共通の分類が行えることを確認して分類を提案した。更に国際気象会議による議論を経て、十種雲形を定めた『国際雲図帳』の発行(1896年)に至る。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、乱層雲は上層や下層にもつながっていることがある。高層雲は上層にもつながっていることがある。発達した積雲や積乱雲は雲頂が中層や上層に達する。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "国際雲図帳1932年版では、巻雲、巻積雲、巻層雲からなる上層雲、高積雲、高層雲からなる中層雲、乱層雲、層積雲、層雲からなる下層雲、積雲、積乱雲からなる対流雲、さらに上層雲、中層雲、下層雲を層状雲とする大分類を行っていた。1956年版の改正でこの大分類が上層雲、中層雲、下層雲の3つに変更され出現高度も修正、乱層雲は下層雲から中層雲に変更、また種・変種・副変種の分類が再編整理されている。近年でも資料によっては、特にしゅう雨性降水をもたらす対流性の雲(積雲と積乱雲)の説明の意味もあって、対流雲の区分が用いられている場合がある。",
"title": "種類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "対流圏以上の中層大気にできる雲として、以下のものがある。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ってからは上空の気温や風をラジオゾンデなどの高層気象観測で直接測定できるようになったが、19世紀までは、気象学に雲の形や動きなどと気象現象の対応を研究する雲学(くもがく, nephology)という分野があり、天気予報の重要な資料として活かされていた。",
"title": "雲の研究史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "雲は測雲器若しくは測雲気球などの器具を用い、または目視によって観測される(気象業務法第1条の2、気象業務法第1条の3も参照)。雲量は天気の基準のひとつで、雲量8/10以下を晴れ、9/10以上をくもりという。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、レーダーでも雲を観測できる(雲高計)。雲粒は雨粒や雪片よりも小さいため、レーダー電波の波長は降雨レーダーより小さいものを用いる。波長1mm - 10mm程度のミリ波を用いることが多い。ただ、地上や航空機搭載のレーダーによる雲の観測は、観測範囲が狭く、用途は規模の小さい気象現象の観測や飛行用などに限られる。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "広い気象状態を捉えるには、気象衛星による観測が行われる。気象庁では静止衛星ひまわりにより、宇宙から雲などの観測を実施している。複数の波長の可視光線、雲が放射する赤外線を通して雲の分布を観測している。マイクロ波やミリ波の利用も拡大しつつある。赤外線に関しては、大気成分に吸収されて観測できない波長が多いので、その影響が少ない大気の窓領域の波長を観測している。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "地球の表面を広く覆う雲は、その様態により、太陽光を反射して地表を冷やす効果を生じたり、反対に地表からの赤外線放射(外向き長波放射(英語版))を吸収して地表の冷却を抑える(温める)効果を生じたりする。どちらに作用するかは、雲の高さや厚さ、雲粒の大きさや凝結核の構成などによって異なる。低い厚い雲は冷却、高く薄い雲は加熱の効果をもつと考えられている。研究によれば、地球全体の平均では、反射率(アルベド、雲アルベド(英語版))の効果、冷却効果の方が上回ると考えられている。",
"title": "気候との関係"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "大気汚染によるエアロゾルの増加は、それ自身は地表に届く太陽光を減少させ冷やす日傘効果をもつ一方で、雲の物理過程に作用して天候への間接的効果をもっている。積乱雲に伴う降水において、降水を増やす傾向があるとの研究がある。低湿度下の低い雲では、雲粒の粒径増加を遅らせるため、反射率を上げ雲の寿命は長くなり、降水量は減る。ただ、地球の気候変動のレベルで気温を下げるのか上げるのか、その値がどれくらいかの評価には幅がある。",
"title": "気候との関係"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "大気を持つ太陽系の惑星のほとんどでは、地球と同じように雲が発生する。金星はほぼ全体を雲が覆い、高度50 kmから70 kmに分厚い硫酸の雲の層がある。火星では水が成分の雲がわずかに生じる。木星や土星も全体をアンモニアなどの雲が覆い、表面の模様を形成している。天王星や海王星はメタンでできた雲がある。また、土星の衛星のタイタンにもメタンの雲らしきものがあることが分かっている。",
"title": "地球以外の雲"
}
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雲(くも)は、大気中にかたまって浮かぶ水滴または氷の粒(氷晶)のことをいう。雨や雪などの降水は雲の中で成長して地表へ落下する。 地球上のほとんどの雲は対流圏内で発生する。雲はその形や性質から十種雲形や種・変種などに分類される。なお、雲が地表に接しているものは霧という。 雲の粒子(雲粒)は大気中に浮かんで存在し、可視光線により人間の目に見えている。同様に、大気をもつ惑星表面において気体成分と液体・固体粒子が浮かぶものを雲と呼ぶ。
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{{Otheruses}}
[[File:Img20050526 0007 at tannheim cumulus.jpg|thumb|300px|積雲]]
[[File:Wolken Zeitraffer - Clouds Timelapse (Royalty Free) (Kostenlos) 3840x2160p 30FPS.webm|thumb|200px|早送り映像で見る雲。異なる高度に異なる形の雲が動いていく。]]
'''雲'''(くも)は、[[地球の大気|大気]]中にかたまって浮かぶ[[滴|水滴]]または氷の粒([[結晶|氷晶]])のことをいう。[[雨]]や[[雪]]などの[[降水]]は雲の中で成長して地表へ落下する<ref name="荒木p22-25">[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.22-25</ref><ref name="木村1">[[#木村|『日本大百科全書』、木村「雲」]] 、冒頭文および「宇宙から見た雲」節、2023年3月5日閲覧</ref>。
[[地球]]上のほとんどの雲は[[対流圏]]内で発生する。雲はその形や性質から十種雲形や種・変種などに分類される<ref name="荒木p22-25"/><ref>[[#木村|『日本大百科全書』、木村「雲」]] 、「雲の分類」節、2023年3月5日閲覧</ref>。なお、雲が地表に接しているものは[[霧]]という<ref name="木村1"/>。
雲の粒子([[雲粒]])は大気中に浮かんで存在し、[[可視光線]]により人間の[[目]]に見えている<ref name="荒木p22-25"/><ref>「[https://kotobank.jp/word/%E9%9B%B2%E7%B2%92-670427 雲粒]」、『デジタル大辞泉』(コトバンク収録)、小学館、2023年3月5日閲覧</ref><ref>「[https://kotobank.jp/word/%E9%9B%B2%E7%B2%92-670427 雲粒]」、『百科事典マイペディア』(コトバンク収録)、平凡社、2023年3月5日閲覧</ref>。同様に、[[大気]]をもつ[[惑星]]表面において[[気体]]成分と[[液体]]・[[固体]]粒子が浮かぶものを雲と呼ぶ<ref name="木村1"/>。
[[File:Cumulonimbus seen from Milano-Malpensa airport, 2010 08.JPG|thumb|200px|積乱雲全体の望遠写真]]
[[File:Clouds between the Bahamas & North Carolina (23 June 2010) 3 (31433250127).jpg|thumb|200px|[[航空機]]から見たさまざまな雲]]
[[File:Hvannasund, Faroe Islands (9).JPG|thumb|200px|水面近くにできた層雲]]
[[File:Banner Cloud formation on the Matterhorn.jpg|thumb|200px|山頂の片側に生じた[[層雲|山旗雲]]]]
[[File:Wildfire in Yellowstone NP produces Pyrocumulus cloud.jpg|thumb|200px|山火事の煙の上端に積雲が生じている]]
[[File:Sky Riyadh.jpg|thumb|200px|夕暮れの太陽と雲により[[薄明光線|光芒]]が差している]]
== 物理化学的特徴 ==
=== 成分 ===
雲の粒子の成分はほとんど[[水]]であり<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.38</ref>、微量ながら水以外の成分、例えば[[土壌]]成分や[[火山噴出物]]、[[塵]]埃などからなる微粒子([[大気エアロゾル粒子|エアロゾル]])が混ざっているほか<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.116-118,pp.126-127,p.136</ref>、[[空気]]の成分(窒素、酸素、二酸化炭素など)が溶解している。
地球上のほとんどの雲は[[対流圏]]内で発生し、高さごとに特徴をもつ。<ref name="荒木p22-25"/>一方、極地や高緯度地方の高度20 - 30km([[成層圏]])では、水のほか[[硫酸塩]]や[[硝酸塩]]から成る[[真珠母雲]](極成層圏雲)が発生する<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.71</ref>。他方、高緯度地方の高度約80km([[中間圏]])で見られる[[夜光雲]](極中間圏雲)は主に水からなるという報告がある<ref>{{citation|author=Hervig, Mark; Thompson, Robert E.; McHugh, Martin; Gordley, Larry L.; Russel, James M.; Summers, Michael E.|title=First Confirmation that Water Ice is the Primary Component of Polar Mesospheric Clouds|journal=Geophysical Research Letters|year=2001|month=March|volume=28|issue=6|pages=971–974|doi=10.1029/2000GL012104|bibcode=2001GeoRL..28..971H}}</ref>。
=== 形状 ===
1つ1つの雲粒(水滴や氷晶)の大きさは、半径にして0.001mm - 0.01mm(1μm - 10μm)程度のものが多くを占める。このオーダーでは落下速度は約1cm/秒だが、大気中ではこれを上回る上昇気流がありふれて存在するので落下することはほとんどなく、いわば「空に浮かんだ」状態となる。雲の中での雲粒の数(密度)は、1m<sup>3</sup>あたり1000万 - 数百億程度である<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.77-82</ref>。
詳しくは[[降水過程]]参照。また、雨粒の成長の計算はメイスンの方程式([[:en:Mason equation|Mason equation]])などにまとめられている。
氷晶は、六角柱、六角板、針状、樹枝状などの独特な[[結晶]]を形成する。氷晶がくっついて重なり成長したものが[[雪]]の粒子(雪片)である<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.82-86</ref>。
=== 光学的特徴 ===
たいていの場合、雲は[[白|白色]]や[[灰色]]に見えることが多い。白色に見えるのは雲粒が[[太陽光]]を[[散乱]]するからだが、雲粒の大きさの粒子は[[可視光線]]領域のいずれの波長の光([[色]])も同じように散乱する[[ミー散乱]]が起こっているので無彩色の白色となる。そして、厚みのある雲は灰色、特に雲の底の部分は黒色に近い暗い色に見えるが、これは濃度の高い雲粒により雲内で何度も太陽光が散乱・吸収された結果、光が弱まるためである<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.22-23,pp.111-113</ref>。なお、雲は[[分散系]]の中でも[[エアロゾル]]に分類できる<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%BE%E3%83%AB-443988 エーロゾル]」、『世界大百科事典 第2版』、平凡社、2023年3月5日閲覧</ref>。
また、雲粒を通して太陽光が[[回折]]、[[屈折]]、散乱などを起こすことで生じる[[大気光学現象]]はたくさんの種類がある。氷晶にみられるのが[[暈]](ハロ)、[[環天頂アーク]]、[[環水平アーク]]、[[幻日]]など。水滴にみられるのが[[彩雲]]、[[光冠]]など<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.108-111</ref>。
=== 電気的性質 ===
上昇気流が強い場合は、上昇や落下を繰り返すうち、雨粒や[[雪]]の結晶同士が衝突してさらに大きな粒となって落下する。これが雨・ひょう・雪。また、上昇や落下を繰り返すと[[霰]]や[[雹]]などの大きな氷粒になり、氷粒同士の衝突で[[静電気]]が発生し、それが蓄積されて[[雷]]の原因になる。
== 雲の形成 ==
[[空気]]中の[[水蒸気]]と、それが凝結([[凝縮]]ともいう)されて[[液体]]([[水]])になるか、凍結([[凝固]])または[[昇華 (化学)|昇華]]されて[[固体]]([[氷]])になったもので雲が作られる。
=== 水蒸気量(湿度)の観点から ===
大気中に含まれる水蒸気の量は環境により異なるが、一定量の大気中に存在できる水蒸気の最大量を(別の表現では湿度([[相対湿度]])100%のとき=[[飽和]]のときの水蒸気の量にあたるが)、[[飽和水蒸気量]]と呼び、物理的に定まっている。また、飽和水蒸気量は気温により変化し、冷たい大気ほどその量は少なくなる<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.45-47, pp.51-53</ref>。例えば、20℃では17.2g/m<sup>3</sup>、0℃では4.85g/m<sup>3</sup>である。
水蒸気を含む湿った大気が冷やされると、湿度100%に達した(気温が[[露点温度]]に達した)ところで、その気温における[[飽和水蒸気量]]を超えた水蒸気が凝結し(低温下では昇華し)、雲粒が形成される(雲ができる)<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.53</ref>。
なお、水蒸気の凝結・昇華、また水滴の凍結には、[[微粒子]]([[大気エアロゾル粒子|エアロゾル]])の存在が不可欠である。雲粒(水滴や氷晶)は微粒子を「芯」にして形成され、このプロセスを[[核生成|核形成]](雲核形成・氷晶核形成)という<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.116, pp.118-122</ref>。
[[物理学]]の領域になるが、見かけ上凝結や蒸発が起こっていない[[気液平衡]]の状態にあっても、分子レベルでは、水[[分子]]が一時的に寄り集まって凝結したり、逆に離れて蒸発したりといった運動は起こっている。言い換えると、水滴が大きく成長できない状態である。水滴が自発的に成長できる大きさ(臨界半径)より大きくなるためには、不純物を含まない清浄な大気([[純水]])では気温0℃で相対湿度430%、-23℃で630%、17℃で350%とそれぞれ非常に大きな[[過飽和]]度が必要であることが、実験で確かめられている。実際の大気では200%を超える湿度が観測されることはないため、微粒子なしで水滴が形成(均質核形成)されるのは不可能と考えられる<ref name="荒木p118-128">[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.118-128</ref>。
実際の大気には核となる微粒子が存在するので、相対湿度100%をわずかに超え、過飽和度1%(相対湿度101%)以下のレベルで雲粒が生成される。なお、微粒子によって水滴の核形成に作用し始める(活性化する)過飽和度や温度は異なり、作用が高い微粒子が存在する場合は、過飽和度0.1%でも雲粒が生成される<ref name="荒木p118-128"/>。微粒子(エアロゾル)の種類は、[[海塩粒子]]、[[硫酸塩]]([[硫酸アンモニウム]]など)<ref name="荒木p118-128"/>、[[土壌]]粒子や鉱物粒子([[火山灰]]や[[黄砂]]を含む)、有機成分([[バクテリア]]など)を含むバイオエアロゾル<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.136</ref>など。
=== 熱力学の観点から ===
大気の冷却は、主に大気の上昇([[上昇気流|上昇流]])によって起こる。大気が何らかの力を受けて上昇するとき、その[[気圧]]は減少して膨張する([[断熱過程|断熱膨張]])とともに、外部からではなく自ら温度を下げる([[断熱冷却]])<ref name="荒木p53-55">[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.53-55</ref>。
このように[[断熱過程|断熱的]]に気温が下がる割合を断熱減率というが、飽和の有無により値が異なる。飽和していない大気の[[気温減率#乾燥断熱減率|乾燥断熱減率]]は上昇100mにつき約1℃、飽和している大気の[[気温減率#湿潤断熱減率|湿潤断熱減率]]は上昇100mにつき約0.6℃(温帯の地表付近における値で、気温や気圧により異なる)である。この差は、飽和した湿潤大気中では、上昇とともに凝結が進んで潜熱が放出され温められることで生じる<ref name="荒木p53-55"/>。
一方、特に[[霧]](地表に達した層雲)のなかには違う原因で生じるものもある。夜間の[[放射冷却]]により[[平野]]や[[盆地]]で見られる放射霧は、地表付近の大気が冷やされて生じる。冷たい海に暖かく湿った気流が入ったとき見られる移流霧(混合霧、海霧)は、海面で冷やされた大気と暖かく湿った大気が混ざり合い、冷却・加湿され生じる。暖かい川に冷たい気流が入ったとき見られる蒸気霧(川霧)は、移流霧の逆で、水面から暖かく湿った大気が上昇し冷たい大気と混ざり合い、冷却され生じる。また[[逆転層]]に覆われた低い[[層雲]]の下では、冷たい[[下降気流|下降流]]と雨粒の蒸発による冷却<ref group="注">蒸発に伴い周囲の空気から気化熱を奪う</ref>・加湿により、[[雲底]]が次第に低下、地表に近づいて霧になることがある<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.190-193, pp.201-202</ref>。
また雲粒の大きさでは核形成の限界から、層状の雲では0 ℃から -10 ℃くらいまで、対流性の雲では -25 ℃くらいまで、ほとんどが[[過冷却]]水滴で構成され、またこれらより低く -40 ℃くらいまでは氷晶と過冷却の混在、 -40 ℃以下では氷晶が多い構成になると考えられている<ref name="CIMO"/>。
=== 大局的気象の観点から ===
大気中において、上昇流により断熱冷却を引き起こすメカニズムはいくつかあるが、主なものを挙げる<ref name="荒木p172-173">[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.172-173</ref>。
*[[対流]]性 : 日差し([[太陽放射]])による加熱は、[[地形]]の起伏や雲による遮蔽の有無などによりムラがあり、周囲よりも暖かい地表に接する空気は[[浮力]]を得て、上昇する<ref name="荒木p172-173"/>。特に、加熱に起因し山岳の尾根から湧き上がるような上昇流を熱上昇気流(サーマル)と呼ぶ。
*[[収束]]性 : [[低気圧]]の中心や[[収束線]]([[シアーライン]])でみられる。地表に接する大気の下層では、集まった大気がぶつかり、行き場を失って上空へ向かう<ref name="荒木p172-173"/><ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、p.62</ref>。
*地形性
** [[滑昇風]]<ref name="荒木p172-173"/> : 風の穏やかな朝、谷間に[[大気境界層|安定成層]]が発達しているとき、斜面に接する大気は朝日に温められるが鉛直には上昇できず、尾根に向かって斜面に沿いゆるやかに上昇する。
** [[山岳波]] : 山などの起伏のある地形に沿って強い水平風(山越え気流)が吹くと、強制的に大気が持ち上げられる。尾根を越えると冷やされているため下降するが、再び温められ上昇、その後も上下に振動を繰り返すことでパターンが風下の上空、山から離れたところに伝播する。山に掛かる[[レンズ雲|レンズ雲、笠雲、吊るし雲]]や、上空に見える[[波状雲]]、[[放射状雲]]をつくる<ref name="荒木p172-173"/><ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.91-93</ref>。
**
*[[前線 (気象)|前線]]性 : 暖気と寒気がぶつかる前線では、暖気が寒気の上に乗り上げ、前線面に沿って上昇する<ref name="荒木p172-173"/><ref name="荒木p66-67">[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.66-67</ref>。
**温暖前線の上昇流は比較的弱い。典型的には前線面に沿い、地上の前線に近い順に層雲、乱層雲、高層雲、高積雲、巻層雲、巻積雲、巻雲がみられる<ref name="荒木p66-67"/>。
**寒冷前線の上昇流は比較的強い。典型的には地上の前線の真上に積乱雲、その後面に層積雲や積雲、前面に積雲や層積雲、高積雲がみられる<ref name="荒木p66-67"/>。
**発達した積乱雲のそばでは、下降流が地表にぶつかって水平に流れ局地前線([[ガストフロント]])が形成され、これに沿って[[アーチ雲]]がみられることがある<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.97-99</ref>。
*他の自然現象起源や人為起源
**[[山火事]]や[[火山]]の[[噴火]]、[[飛行機]]の航跡、工場の排熱などを起源に発生する雲がある<ref>{{Cite web|url=https://cloudatlas.wmo.int/en/flammagenitus.html|title=Flammagenitus|work=International Cloud Atlas|publisher=World Meteorological Organization|date=2017|accessdate=2023-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://cloudatlas.wmo.int/en/homogenitus.html|title=Homogenitus|work=International Cloud Atlas|publisher=World Meteorological Organization|date=2017|accessdate=2023-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://cloudatlas.wmo.int/en/aircraft-condensation-trails.html|title=Aircraft condensation trails|work=International Cloud Atlas|publisher=World Meteorological Organization|date=2017|accessdate=2023-03-04}}</ref>。
== 雲をつくる ==
=== 雲をつくる実験 ===
小規模なものであれば、雲を製造することは容易であり、[[理科]]の[[実験]]や身近にできる科学実験として、広く行われている。
密閉可能な容器の中を少し濡らし、[[線香]]の[[煙]]などの凝結(固)核を充満させて密閉し、[[ポンプ]]などで気圧を下げると、減圧冷却によって中の温度が[[露点]]を下回って凝結(固)をはじめ、雲ができる。
[[熱湯]]から立ち上る「[[湯気]]」、[[ドライアイス]]や[[氷]]から流れ落ちるような白い冷気、冬の寒い日に白くなる吐いた息、工場や排気などから出る白い蒸気なども、人工的に作ることができる雲だといえる。
また、普通の雲に比べて粒が大きい、霧吹きで作る水滴でも、風をうまくコントロールして空中に浮かべることができれば、雲だといえる。
=== 「雲の種まき」 ===
ただ、[[人工降雨|雨を降らせるような大規模な雲の製造]]は容易ではない。現状では、[[ヨウ化銀]]などの凝結(固)核を大量に散布することで雲の素をつくる「雲の種まき」が実用化の限度となっている。しかも、「雲の種まき」においても空気中の水蒸気が[[過飽和]]あるいはそれに近い状態になければ雲はできにくく、条件も限られる。
== 種類 ==
[[File:Clouds Atlas2.svg|thumb|300px|主な雲種・変種の模式図{{En icon}}]]
雲には多くの俗称があるが、学術分野では統一した分類と呼称がある。[[世界気象機関]]が発行する[[国際雲図帳]]に基づいて、雲は10の基本形(類、十種雲形)に分類され、さらに雲によっては数十の種・変種・副変種に分類できる<ref>{{Cite web|url=https://cloudatlas.wmo.int/en/principles-of-cloud-classification.html|title=Principles of cloud classification|work=International Cloud Atlas|publisher=World Meteorological Organization|date=2017|accessdate=2023-03-04}}</ref><ref name="田中">田中達也、『雲・空』〈ヤマケイポケットガイド 25〉、山と溪谷社、2001年 ISBN 978-4-635-06235-0 pp.4-15.</ref>。
この項目では基本形について解説する。種・変種・副変種や特殊な雲について詳しくは'''[[雲形]]'''を参照のこと。
現在の雲の分類は、[[ルーク・ハワード]]が4つに分類しラテン語名を付けたのが原型で[[1803年]]に論文が発表されている。同時期に博物学者[[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]も分類を行ったが広まらなかった。その後{{仮リンク|ヒルデブランド・ヒルデブランドソン|label=ヒルデブランドソン|en|Hugo Hildebrand Hildebrandsson}}、[[ラルフ・アバークロンビー (気象学者)|ラルフ・アバークロンビー]]はタイプ[[写真]]による雲形図を作成、世界中で共通の分類が行えることを確認して分類を提案した。更に[[世界気象機関|国際気象会議]]による議論を経て、十種雲形を定めた『[[国際雲図帳]]』の発行(1896年)に至る<ref name="小倉p99">[[#小倉|小倉 (1999)]]、pp.99-102 §4.7「雲の分類」</ref><ref name="荒木14p23">[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.23-38 §1.2「雲の分類―十種雲形」</ref><ref name="岩槻p200">[[#岩槻|岩槻 (2012)]]、pp.200-208 §6.6「雲の分類」</ref><ref>{{Cite kotobank|word=雲|encyclopedia=[[木村龍治 (気象学者)|木村龍治]], 小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|accessdate=2023-03-04}}</ref>。
=== 基本の雲 ===
{{-}}
{| class="wikitable"
|+ 雲の基本形(類、十種雲形)<ref name="CIMO">{{Cite web|url=https://library.wmo.int/doc_num.php?explnum_id=3161|format=pdf|title=Chapter 15. Observation of clouds|work=[https://community.wmo.int/en/activity-areas/imop/cimo-guide WMO Guide to Meteorological Instruments and Methods of Observation] (WMO-No.8, the CIMO Guide)|publisher=World Meteorological Organization|date=2014 edition, Updated in 2017|accessdate=2023-03-04}}</ref><ref name="小倉p99"/><ref name="荒木14p23"/><ref name="岩槻p200"/><ref name="ICA">{{Cite web|url=https://cloudatlas.wmo.int/en/clouds-definitions.html|title=Definitions of clouds|work=International Cloud Atlas|publisher=World Meteorological Organization|date=2017|accessdate=2023-03-04}}</ref><ref name="田中"/>
|-
! 高度
! 類<br />''学術名, 略号''
! '''主な俗称'''<br />特徴
|-
|rowspan="3" nowrap="true"| 上層雲
| '''[[巻雲]]''' {{small|けんうん}}<br />''Cirrus, Ci''
| ''すじ雲 はね雲 しらす雲'' ※以前は''絹雲''と称した<br /> 白色 すじ状、毛状
|-
|nowrap="true"| '''[[巻積雲]]''' {{small|けんせきうん}}<br />''Cirrocumulus, Cc''
| ''うろこ雲 いわし雲 さば雲''<br /> 白色 うろこ状に分布 視直径1度以下の小さな雲片の集団 陰影がない
|-
| '''[[巻層雲]]''' {{small|けんそううん}}<br />''Cirrostratus, Cs''
| ''うす雲''<br /> 白色 ベール状 陰影がある [[暈]]が生じうる
|-
|rowspan="3"| 中層雲
| '''[[高積雲]]''' {{small|こうせきうん}}<br />''Altocumulus, Ac''
| ''ひつじ雲 むら雲 まだら雲 (うろこ雲)''<br /> 白色で影が灰色 まだら状に分布 視直径1度 - 5度のやや小さな雲片の集団 陰影がある
|-
| '''[[高層雲]]''' {{small|こうそううん}}<br />''Altostratus, As''
| ''おぼろ雲''<br /> 灰色 太陽を覆いぼんやりと霞む
|-
| '''[[乱層雲]]''' {{small|らんそううん}}<br />''Nimbostratus, Ns''
| ''雨雲 雪雲''<br /> 灰色、暗灰色 連続した[[雨]]や[[雪]]を伴う
|-
|rowspan="4"| 下層雲
| '''[[層積雲]]''' {{small|そうせきうん}}<br />''Stratocumulus, Sc''
| ''うね雲 かさばり雲 くもり雲''<br /> 白色や灰色 団塊状、ロール状 視直径5度以上の塊
|-
| '''[[層雲]]''' {{small|そううん}}<br />''Stratus, St''
| ''霧雲''<br /> 白色、灰色 ぼやけた霧状
|-
| '''[[積雲]]''' {{small|せきうん}}<br />''Cumulus, Cu''
| ''綿雲 積み雲 入道雲''<br /> 白色で濃い陰影をもつ 下面が水平 上面がドーム形 対流により上空へ発達する
|-
| '''[[積乱雲]]''' {{small|せきらんうん}}<br />''Cumulonimbus, Cb''
| ''[[雷]]雲 入道雲 [[かなとこ雲]]''<br /> 白色で濃い陰影をもつ 上空へ大きく発達したもの 下面が水平 上面がドーム形またはつぶれ横に広がる 強い雨や[[雷]]を伴う
|}
なお、乱層雲は上層や下層にもつながっていることがある。高層雲は上層にもつながっていることがある。発達した積雲や積乱雲は雲頂が中層や上層に達する<ref name="ICA"/>。
{| class="wikitable"
|+ 高度の目安<ref name="ICA"/>
|-
! 層
! 高緯度(極・寒帯)
! 中緯度(温帯)
! 低緯度(熱帯)
|-
| 上層
| 3 - 8 km
| 5 - 13 km
| 6 - 18 km
|-
| 中層
| 2 - 4km
| 2 - 7 km
| 2 - 8 km
|-
| 下層
| 地表 - 2 km
| 地表 - 2 km
| 地表 - 2 km
|}
<gallery caption="十種雲形の写真例" mode="packed">
Cirrusclouds-Georgia-Oct1st.jpg|巻雲
Cirrocumulus in Hong Kong.jpg|巻積雲
Cirrostratus02.jpg|巻層雲
Altocumulus1.jpg|高積雲
Altostratus with sun and Cu con.JPG|高層雲
Nov20-05-Nimbostratus.jpg|乱層雲
Large Stratocumulus.JPG|層積雲
Tree and sun through Stratus.JPG|層雲
Brosen clouds lake1.jpg|積雲
Wagga-Cumulonimbus.jpg|積乱雲
</gallery>
国際雲図帳1932年版では、巻雲、巻積雲、巻層雲からなる上層雲、高積雲、高層雲からなる中層雲、乱層雲、層積雲、層雲からなる下層雲、積雲、積乱雲からなる対流雲、さらに上層雲、中層雲、下層雲を層状雲とする大分類を行っていた。1956年版の改正でこの大分類が上層雲、中層雲、下層雲の3つに変更され出現高度も修正、乱層雲は下層雲から中層雲に変更、また種・変種・副変種の分類が再編整理されている。近年でも資料によっては、特に[[驟雨|しゅう雨]]性降水をもたらす対流性の雲(積雲と積乱雲)の説明の意味もあって、対流雲の区分が用いられている場合がある<ref name="小倉p99"/><ref name="岩槻p200"/><ref>{{PDFlink|[https://cloudatlas.wmo.int/docs/ICA_1956-Vol_I_low_res.pdf International Cloud Atlas Vol.I]}}, 1956 {{En icon}}、2023年2月24日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[https://cloudatlas.wmo.int/docs/ICA1930-optimized-for-web.pdf International Cloud Atlas]}}, 1932 {{En icon}}、2023年2月24日閲覧</ref>。
=== 中層大気の雲 ===
[[対流圏]]以上の中層大気にできる雲として、以下のものがある。
* [[成層圏]]
** [[極成層雲]]([[真珠母雲]])
* [[中間圏]]
** [[夜光雲]]
== 雲の研究史 ==
[[20世紀]]に入ってからは上空の気温や風を[[ラジオゾンデ]]などの高層気象観測で直接測定できるようになったが、[[19世紀]]までは、[[気象学]]に雲の形や動きなどと気象現象の対応を研究する雲学(くもがく, nephology)という分野があり、天気予報の重要な資料として活かされていた<ref>木村龍治「[https://kotobank.jp/word/%E9%9B%B2%E5%AD%A6-251819 雲学]」、『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、2023年3月5日閲覧</ref>。
== 観測 ==
[[File:The Life of Hurricane Irene from Caribbean to Canada Viewed by Satellites.webm|thumb|気象衛星の合成雲画像(赤外線)に見る[[ハリケーン]]。]]
雲は測雲器若しくは[[測雲気球]]などの器具を用い、または目視によって観測される([[気象業務法]]第1条の2、気象業務法第1条の3も参照)。[[雲量]]は[[天気]]の基準のひとつで、雲量8/10以下を[[晴れ]]、9/10以上を[[くもり]]という<ref name="田中"/><ref>[[#木村|『日本大百科全書』、木村「雲」]] 、「雲量」節、2023年3月5日閲覧</ref>。
また、レーダーでも雲を観測できる([[雲高計]])。雲粒は雨粒や雪片よりも小さいため、レーダー[[電波]]の波長は降雨レーダーより小さいものを用いる。波長1mm - 10mm程度のミリ波を用いることが多い。ただ、地上や[[航空機]]搭載のレーダーによる雲の観測は、観測範囲が狭く、用途は規模の小さい気象現象の観測や飛行用などに限られる。
{{Seealso|雲画像}}
広い気象状態を捉えるには、[[気象衛星]]による観測が行われる。[[気象庁]]では静止衛星ひまわりにより、宇宙から雲などの観測を実施している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jma-net.go.jp/sat/himawari/satellite.html |title=気象衛星観測について|publisher=気象庁|accessdate=2020-7-19}}</ref>。複数の波長の[[可視光線]]、雲が放射する[[赤外線]]を通して雲の分布を観測している。[[マイクロ波]]や[[ミリ波]]の利用も拡大しつつある<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.287-291.</ref>。赤外線に関しては、大気成分に吸収されて観測できない波長が多いので、その影響が少ない[[大気の窓]]領域の波長を観測している。
== 気候との関係 ==
地球の表面を広く覆う雲は、その様態により、[[太陽光]]を[[反射]]して地表を冷やす効果を生じたり、反対に地表からの[[赤外線]]放射({{仮リンク|外向き長波放射|en|Outgoing longwave radiation}})を吸収して地表の冷却を抑える(温める)効果を生じたりする。どちらに作用するかは、雲の高さや厚さ、雲粒の大きさや凝結核の構成などによって異なる。低い厚い雲は冷却、高く薄い雲は加熱の効果をもつと考えられている。研究によれば、地球全体の平均では、反射率([[アルベド]]、{{仮リンク|雲アルベド|en|Cloud albedo}})の効果、冷却効果の方が上回ると考えられている<ref>{{Cite web|url=https://earthobservatory.nasa.gov/features/Clouds/clouds.php|title=clouds and radiation|author=Steve Graham|date=1999-03-01|accessdate=2023-03-04}}</ref>。
[[大気汚染]]によるエアロゾルの増加は、それ自身は地表に届く太陽光を減少させ冷やす[[日傘効果]]をもつ一方で、雲の物理過程に作用して天候への間接的効果をもっている。積乱雲に伴う降水において、降水を増やす傾向があるとの研究がある。低湿度下の低い雲では、雲粒の粒径増加を遅らせるため、反射率を上げ雲の寿命は長くなり、降水量は減る。ただ、地球の[[気候変動]]のレベルで気温を下げるのか上げるのか、その値がどれくらいかの評価には幅がある<ref>[[#荒木2014|荒木 (2014)]]、pp.148-154,184-186,198-200.</ref>。
== 地球以外の雲 ==
大気を持つ[[太陽系]]の[[惑星]]のほとんどでは、地球と同じように雲が発生する。[[金星]]はほぼ全体を雲が覆い、高度50 kmから70 kmに分厚い[[硫酸]]の雲の層がある<ref name="木村1"/>。[[火星]]では[[水]]が成分の雲がわずかに生じる<ref name="木村1"/>。[[木星]]や[[土星]]も全体を[[アンモニア]]などの雲が覆い、表面の模様を形成している<ref name="木村1"/>。[[天王星]]や[[海王星]]は[[メタン]]でできた雲がある。また、土星の衛星の[[タイタン (衛星)|タイタン]]にも[[メタン]]の雲らしきものがあることが分かっている。
== 関連項目 ==
* [[雲形]]
* [[雲量]]
* [[キノコ雲]]
* [[天気予報]]
* [[降水過程]]
* [[スベンスマルク効果]] - [[銀河宇宙線]]によって[[雲粒]]となる微粒子が形成されるという仮説
* [[火山ガス|噴火雲]]
* [[地震雲]]
* [[彩雲]]
* [[穴あき雲]]
* [[星雲]]
* [[星間雲]]
* [[トール・ベルシェロン]] - 雲物理学の父
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Anchors|小倉}}小倉義光 『一般気象学』 [[東京大学出版会]]、1999年、第2版。ISBN 4-13-062706-6
* {{Anchors|岩槻}}岩槻秀明 『最新気象学のキホンがよ〜くわかる本』第2版、秀和システム、2012年 ISBN 978-4-7980-3511-6
* {{Anchors|荒木2014}}荒木健太郎 『雲の中では何が起こっているのか』第2版、ベレ出版、2014年 ISBN 978-4-86064-397-3
* {{Anchors|木村}}[[木村龍治 (気象学者)|木村龍治]] 「雲」、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』(''[[コトバンク]], [[CARTA HOLDINGS|株式会社DIGITALIO]]'')
* "[https://cloudatlas.wmo.int/en/home.html International Cloud Atlas]"([[国際雲図帳]]), WMO([[世界気象機関]]), 2017年 {{En icon}}
* Hamblyn, Richard ''The Invention of Clouds — How an Amateur Meteorologist Forged the Language of the Skies'' Picador; Reprint edition (August 3, 2002). ISBN 0-312-42001-3
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|b=no|s=no|n=no|v=no}}
* {{Kotobank}}
* [https://www.weblio.jp/content/%E9%9B%B2 雲] - [[Weblio]]辞書
* "[https://earthobservatory.nasa.gov/topic/atmosphere The Earth Observatory]"{{en icon}}([[NASA Earth Observatory]]), [[NASA]] - 衛星などの雲画像
** "[https://earthobservatory.nasa.gov/GlobalMaps/view.php?d1=MODAL2_M_CLD_FR# Cloud Fraction : Global Maps]"{{en icon}} - 衛星センサによる2000年からの地球上の雲の厚さの推移
* "Shuttle Views the Earth > [https://www.lpi.usra.edu/publications/slidesets/clouds/clouds_index.shtml Clouds from Space]"{{en icon}}, [[月惑星研究所]] - スペースシャトルの雲画像と解説
* "[https://www.theairlinepilots.com/forumarchive/met/clouds.php Clouds]"{{en icon}} < Airline Pilots Forum and Resource
* "[https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#contents=himawari 気象衛星]" - 気象庁による気象衛星[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]の雲画像
{{雲形}}
{{気象現象}}
{{Normdaten}}
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[[Category:雲|*]]
[[Category:大気]]
[[Category:水環境]]
[[Category:気候変動の原因]]
|
2003-09-27T05:04:01Z
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2023-12-04T13:44:41Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2
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小山市
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小山市(おやまし)は、栃木県南部にある市。市域は関東大都市圏に含まれている。総人口数は約17万人で、県庁所在地の宇都宮市に次ぐ栃木県第2の都市である。1954年(昭和29年)市制施行。
関東平野の中北部に位置し、山や丘陵はなく、ほぼ平坦の地形のため土砂災害等の危険性は低いが、河川氾濫の危険がある。市の中央部を渡良瀬川の支流である思川(おもいがわ)が流れ、市西端には巴波川(うずまがわ)、市東端に田川、さらに東側に鬼怒川が流れる。また田川の西側を吉田用水が流れ、付近の水田を潤している。
市西部の思川流域、および市東部の吉田用水・田川・鬼怒川流域は水田地帯となっており、その間の台地部は畑作地帯及び住宅地・商業地・工業団地となっている。
東北新幹線、東北本線(宇都宮線)、両毛線及び水戸線が東西南北に走り、市中央部には南北に国道4号、東西に国道50号、市東部に新4号国道が走り、農業集散地、「陸の工業地」として県下第2の都市の地位を維持している。
また、市北部には桑地区、絹地区(旧桑絹町)があり、結城紬を産出するための地域的分業がなされていることでも著名である。
茨城県結城市との繋がりが深く、かつては現在の結城市付近とともに下総国の一部であった地区もある。
気候区分は太平洋岸気候関東型気候区に属す。詳細はこちらを参照のこと。夏暑く冬寒い。夏は佐野市とともに県内で暑さが厳しく、38°Cぐらいになることもある。極地は2020年8月11日の38.9°C。一方冬は最低気温-8°Cぐらいまで下がることもあり、降雪日数も年数日ある。降水量は夏多く冬場は乾燥する。夏季は夕立が頻繁に発生し、発雷日数も全国有数である。
小山アメダス(市内出井:JT葉たばこ研究所内)観測、1991年(昭和56年)から2020年(平成22年)までの平均
小山アメダス観測
気象庁の設置しているアメダス(市内出井、JT研究所内)により観測された数値である。
観測期間は降水量は1976年(昭和51年)3月〜、気温は1978年(昭和53年)1月〜である。
「小山」の地名は1,000年以上前の醍醐天皇の延長年間に和名抄の都賀郡の条に記載があり、古くからこの地名が使われていたことがわかっている。起源について定説は無いが、もっとも流布されているのはこの地が思川に臨む台地にあり、西の低地から望むと小さな山の形をしていることからというものである。また、一説にはアイヌ語で「オ」は持つ、「ヤマ」は丘といい、丘に富んでいることから小山になったというアイヌ語起源説もある。
市内からは多くの土器や石器などが発見され、古墳などの遺跡が広範囲に分布していることから、古くから人類が生活し、集落をつくっていたと推察されている。古くは縄文時代中期頃の遺跡も発見されている(寺野東遺跡等)。
小山は鎌倉時代、鎌倉幕府の有力武家藤原秀郷流小山氏の居城、祇園城(ぎおんじょう)の城下であった。室町時代に幕府が京に移ると、守護の地位は国司・宇都宮氏や関東管領・上杉氏に授けられた。その後小山義政が守護に復帰するが、鎌倉府の不興を買い討伐される(小山義政の乱)。後に小山氏傍系の結城氏一門が小山氏に養子に入り再興されたが、戦国期には後北条氏の攻撃により祇園城を明け渡した。豊臣秀吉による小田原征伐の折、遺領は結城氏に与えられたが、越前に移封となった後、無嗣断絶となった。江戸時代初期には祇園城に本多正純が3万石で入るが、間もなく16万石で宇都宮城へ移封となり、祇園城は廃城となった。以降、一時、城域の一部は将軍日光参宮のための休憩所「小山御殿」として使われたが、古河藩の財政難のおり廃止された。
江戸期の小山市域は日光街道の宿場町(小山宿、間々田宿等)及び、江戸川に通ずる思川の舟運によって栄えた。思川の河岸である乙女河岸は世に言う「小山評定」(徳川家康が、関ヶ原の戦いのため上杉景勝討伐をやめ、西に向かう評定をしたこと)時、上杉討伐のための兵馬の運搬に使われていたことから、以降、徳川幕府の厚い恩恵を受け日光東照宮造営のための資材船下ろし場となるなどして発展した。
○...二給以上の村
『平成の大合併』では1998年3月18日に隣接する栃木市と2市での法定協議会設置を求める住民発議について、2市が可決。その後、栃木市と1998年4月1日に法定協議会「栃木市・小山市合併協議会」を設置したが、それぞれの周辺市町との合併が優先課題として合併協議会は2000年6月30日に休止された。
2001年1月12日に栃木県が県内市町村合併の5つのパターンを含む「栃木県市町村合併推進要綱」を策定。それによると、「小山市、河内郡南河内町、下都賀郡国分寺町・野木町」(AパターンとBパターンで示された可能性があるが、どのパターンであるかは不明)、Cパターンでは「栃木市、小山市」が示された。他のパターンが示されたかどうかは不明。
その後、近隣する南河内町・国分寺町・野木町の1市3町で2002年1月28日に市町村合併合同研究会を設置したが、南河内町と国分寺町は2006年1月10日に石橋町と新設合併し下野市となる。
2007年2月8日に開かれた栃木県合併推進審議会にて栃木地区対象地域の拡大が決定され小山市も対象地域となった。なお、審議会が栃木地区として追加指定したのは小山市及び下都賀郡野木町の1市1町を加えた栃木市、上都賀郡西方町、下都賀郡大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町の計2市6町である。
2007年11月27日に「栃木県市町村合併推進構想」が改定され、構想対象市町村の組合せに「栃木市・西方町・大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町・小山市・野木町」と「栃木市・西方町・大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町」が追加された。
なお、栃木地区の合併に関しては栃木地区1市4町(栃木市・西方町・大平町・藤岡町・都賀町)で合併協議が行われ、西方町が途中で合併協議から離脱したことにより栃木市・大平町・藤岡町・都賀町の1市3町による合併協定調印式が2009年10月7日に行われ、2010年3月29日に新設合併により新・栃木市となった。その後、西方町は2011年10月1日に栃木市に編入。岩舟町は佐野市との間で設置した「佐野市・岩舟町合併協議会」を廃止し、栃木市との間で設置した「栃木市・岩舟町合併協議会」で合併を協議した結果、2014年4月5日に栃木市に編入された。
小山市としては将来の中核市を目指して旧・栃木市との合併を進め県南30万都市の形成を想定していたが、今後どのように進むかは不透明である。なお、小山市と旧・栃木市との間に設置されていた「栃木市・小山市合併協議会」は2000年6月に休止されて以降活動することなく、旧・栃木市の新設合併に伴い合併前日の2010年3月28日付で解散された。
2012年7月22日、小山市長選で「県南広域合併」(栃木市、小山市、下都賀郡野木町、茨城県結城市)を訴える現職の大久保寿夫が4回目の当選。
※1...人口は各年の10月1日現在(国勢調査による)※2...1965年(昭和40年)以前は現市域の自治体の人口の合計で計算。
小山市の外国人登録者数は約5,200人であり、その多くはブラジル人やペルー人である。
当地に常住する15歳以上就業者は78,582人。うち他市区町村で従業している者は29,148人と、全体の37.1%である。
他市区町村への就業先1位は栃木市(旧上都賀郡西方町及び旧下都賀郡岩舟町を除く)の3,829人、2位は東京都特別区部の3,289人、3位は宇都宮市の2,927人、4位は下野市の2,722人、5位は茨城県結城市の2,439人、6位は茨城県古河市の2,130人、7位は下都賀郡野木町の1,389人、8位は茨城県筑西市の1,192人、9位は埼玉県さいたま市の888人、10位は佐野市の816人。
他市区町村からの当地への就業者は、28,811人。就学者を含めた昼夜間人口は、ほぼ同数である。
※平成22年国勢調査による
注)生涯学習センターの市民課関係窓口業務は住民票の写し、印鑑登録証明書、記載事項証明書の発行のみ。
小山市消防本部が小山市及び野木町(事務委託)を管轄している。小山市消防本部庁舎は国道50号沿いに位置していたが、庁舎の老朽化と国道50号高架化にともなう狭隘とのため、2013年(平成25年)9月17日に旧本部より約1.5km南の小山環状線沿いの大字神鳥谷地内に新築移転した。
他に、大谷、間々田、豊田、桑、野木(野木町)の各分署がある。
大久保寿夫小山市長は2015年6月29日の小山市議会定例会において、小山市、下野市、野木町及び茨城県結城市からなる「小山地区定住自立圏構想」を説明し、小山市をその中心市とする宣言を行った。2016年3月、各関係市町議会で定住自立圏形成協定を可決。今後、定住自立圏共生ビジョンを策定する予定。
小山市内には栃木県の出先機関として以下のものがある。
なお、県税事務は栃木県税事務所、教育行政は下都賀教育事務所・県南児童相談所、農政は下都賀農業振興事務所、建設は栃木土木事務所(いずれも栃木市)の管轄となっている。
Tochigi Agrinet によると、2002年(平成14年)に、小山市は県内でかんぴょうは第2位(43ha,11%)、繭は第1位(21t, 38%)、落花生は第3位(15ha, 8%)の作付または生産を記録している。 また、全国一のハトムギの生産地(2009年、110ha、440t) となっていて、道の駅思川では小山産のハトムギと塩谷町にある尚仁沢湧水とを使ったハトムギ茶を販売している。小麦「イワイノダイチ」の栽培が盛んで、それを用いたうどんの普及に力を入れており、「小山うどん」を地元に愛される名物料理として全国にアピールしようと「開運小山うどん会」が2011年に設立された。
購買力のある豊富な労働人口と交通の結節点である鉄道・道路網の存在を背景として、小山駅東口周辺及び旧市街地縁辺部に大規模商業施設が立地しており、2013年3月には駅ナカのDilaが新規開業している。 また、イオンモールやおやまゆうえんハーヴェストウォーク、国道50号沿線のロードサイド店など、旧市街地縁辺部にも商業施設が立地するなど活気を帯びている。
特に小山駅東口に立地していた工場の撤退や移転に伴う再開発で、近年は駅東口の発展が目覚ましく、旧来の市街地である西口を凌ぐ勢いである。また小山駅東西自由通路の完成を皮切りに駅ビルや駅ナカへの商業集積が著しく、西口商店街の規模が縮小しつつある。対策として市を主導に駅西口に再開発マンションを誘致するなどてこ入れを行っている。
周辺の小山市、栃木市、下野市、壬生町、野木町の3市2町により組織される組合によって運営されている。
地区分けは小山市ホームページの栃木県小山市大字町丁名別世帯数および人口推計(毎月1日)における10地区分けに基づく。
市立義務教育学校 1校
市立中学校 10校
市立小学校 25校
平成26年1月、「市学校適正配置等検討懇話会」は小規模校を中心に計11小学校を統合対象として4校に再編、児童数増加が見込まれる城南地区で小学校を新設するなどの検討案を示した。
具体的には、乙女中学区の3校(乙女小・網戸小・下生井小)を乙女小に、絹中学区の3校(福良小・延島小・梁小)を福良小に、豊田中学区の2校と美田中学区の3校もそれぞれ統合する案を出しており、絹地区に関しては平成29年度からの義務教育学校への統合・改組が決定した。また、城南地区の新設校は、旭小と大谷東小学区の一部を学区として遅くとも2019年度に開校できることが望ましいと指摘した。用地は東城南地内の自由ヶ丘公園付近の公有地が有力とされている。
これらに合わせ、小中一貫校設置への検討及び小学校統合に際してスクールバスの導入などが検討されている。
私立
郵便番号は以下が該当する。3集配局が集配を担当する。
一部地域(後述)を除く市内全域が小山MAの管轄となり、市外局番は「0285」。収容局は以下の6ビルが該当し、市内局番は以下の通り。
下記地域は小山市外の収容局が管轄となる。
本市は小山駅を中心に東西南北に鉄道路線が伸びており、鉄道交通の要衝として機能している。
※JR東日本小山車両センター(旧小山電車区)は隣接する下野市にある。なお、東北新幹線の小山新幹線車両センター(旧小山新幹線運転所)は小山市内の喜沢地区にある。
近年は国道50号を中心に幹線道路の道路整備が進みつつある。しかしながら、一部地域では、まちづくり協議会等を組織し、住宅地を中心に道路の拡幅化、新規建設が進行中であるが、依然として本市に隘路が多いことは、モータリゼーションの進展により地域社会の問題となっている。
また、本市を通過する高速道路はない。(最寄りの高速道路インターチェンジは東北自動車道の栃木インターチェンジ・佐野藤岡インターチェンジ。もしくは新4号国道を利用して圏央道の五霞インターチェンジも利用できる。)
|
[
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"text": "小山市(おやまし)は、栃木県南部にある市。市域は関東大都市圏に含まれている。総人口数は約17万人で、県庁所在地の宇都宮市に次ぐ栃木県第2の都市である。1954年(昭和29年)市制施行。",
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"text": "関東平野の中北部に位置し、山や丘陵はなく、ほぼ平坦の地形のため土砂災害等の危険性は低いが、河川氾濫の危険がある。市の中央部を渡良瀬川の支流である思川(おもいがわ)が流れ、市西端には巴波川(うずまがわ)、市東端に田川、さらに東側に鬼怒川が流れる。また田川の西側を吉田用水が流れ、付近の水田を潤している。",
"title": "地理"
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"text": "市西部の思川流域、および市東部の吉田用水・田川・鬼怒川流域は水田地帯となっており、その間の台地部は畑作地帯及び住宅地・商業地・工業団地となっている。",
"title": "地理"
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"text": "東北新幹線、東北本線(宇都宮線)、両毛線及び水戸線が東西南北に走り、市中央部には南北に国道4号、東西に国道50号、市東部に新4号国道が走り、農業集散地、「陸の工業地」として県下第2の都市の地位を維持している。",
"title": "地理"
},
{
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"text": "また、市北部には桑地区、絹地区(旧桑絹町)があり、結城紬を産出するための地域的分業がなされていることでも著名である。",
"title": "地理"
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"text": "茨城県結城市との繋がりが深く、かつては現在の結城市付近とともに下総国の一部であった地区もある。",
"title": "地理"
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"text": "気候区分は太平洋岸気候関東型気候区に属す。詳細はこちらを参照のこと。夏暑く冬寒い。夏は佐野市とともに県内で暑さが厳しく、38°Cぐらいになることもある。極地は2020年8月11日の38.9°C。一方冬は最低気温-8°Cぐらいまで下がることもあり、降雪日数も年数日ある。降水量は夏多く冬場は乾燥する。夏季は夕立が頻繁に発生し、発雷日数も全国有数である。",
"title": "地理"
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"text": "小山アメダス(市内出井:JT葉たばこ研究所内)観測、1991年(昭和56年)から2020年(平成22年)までの平均",
"title": "地理"
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{
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"text": "小山アメダス観測",
"title": "地理"
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{
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"text": "気象庁の設置しているアメダス(市内出井、JT研究所内)により観測された数値である。",
"title": "地理"
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{
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"text": "観測期間は降水量は1976年(昭和51年)3月〜、気温は1978年(昭和53年)1月〜である。",
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"text": "「小山」の地名は1,000年以上前の醍醐天皇の延長年間に和名抄の都賀郡の条に記載があり、古くからこの地名が使われていたことがわかっている。起源について定説は無いが、もっとも流布されているのはこの地が思川に臨む台地にあり、西の低地から望むと小さな山の形をしていることからというものである。また、一説にはアイヌ語で「オ」は持つ、「ヤマ」は丘といい、丘に富んでいることから小山になったというアイヌ語起源説もある。",
"title": "歴史"
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"text": "市内からは多くの土器や石器などが発見され、古墳などの遺跡が広範囲に分布していることから、古くから人類が生活し、集落をつくっていたと推察されている。古くは縄文時代中期頃の遺跡も発見されている(寺野東遺跡等)。",
"title": "歴史"
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"text": "小山は鎌倉時代、鎌倉幕府の有力武家藤原秀郷流小山氏の居城、祇園城(ぎおんじょう)の城下であった。室町時代に幕府が京に移ると、守護の地位は国司・宇都宮氏や関東管領・上杉氏に授けられた。その後小山義政が守護に復帰するが、鎌倉府の不興を買い討伐される(小山義政の乱)。後に小山氏傍系の結城氏一門が小山氏に養子に入り再興されたが、戦国期には後北条氏の攻撃により祇園城を明け渡した。豊臣秀吉による小田原征伐の折、遺領は結城氏に与えられたが、越前に移封となった後、無嗣断絶となった。江戸時代初期には祇園城に本多正純が3万石で入るが、間もなく16万石で宇都宮城へ移封となり、祇園城は廃城となった。以降、一時、城域の一部は将軍日光参宮のための休憩所「小山御殿」として使われたが、古河藩の財政難のおり廃止された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "江戸期の小山市域は日光街道の宿場町(小山宿、間々田宿等)及び、江戸川に通ずる思川の舟運によって栄えた。思川の河岸である乙女河岸は世に言う「小山評定」(徳川家康が、関ヶ原の戦いのため上杉景勝討伐をやめ、西に向かう評定をしたこと)時、上杉討伐のための兵馬の運搬に使われていたことから、以降、徳川幕府の厚い恩恵を受け日光東照宮造営のための資材船下ろし場となるなどして発展した。",
"title": "歴史"
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"text": "○...二給以上の村",
"title": "歴史"
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"text": "『平成の大合併』では1998年3月18日に隣接する栃木市と2市での法定協議会設置を求める住民発議について、2市が可決。その後、栃木市と1998年4月1日に法定協議会「栃木市・小山市合併協議会」を設置したが、それぞれの周辺市町との合併が優先課題として合併協議会は2000年6月30日に休止された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "2001年1月12日に栃木県が県内市町村合併の5つのパターンを含む「栃木県市町村合併推進要綱」を策定。それによると、「小山市、河内郡南河内町、下都賀郡国分寺町・野木町」(AパターンとBパターンで示された可能性があるが、どのパターンであるかは不明)、Cパターンでは「栃木市、小山市」が示された。他のパターンが示されたかどうかは不明。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、近隣する南河内町・国分寺町・野木町の1市3町で2002年1月28日に市町村合併合同研究会を設置したが、南河内町と国分寺町は2006年1月10日に石橋町と新設合併し下野市となる。",
"title": "歴史"
},
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"text": "2007年2月8日に開かれた栃木県合併推進審議会にて栃木地区対象地域の拡大が決定され小山市も対象地域となった。なお、審議会が栃木地区として追加指定したのは小山市及び下都賀郡野木町の1市1町を加えた栃木市、上都賀郡西方町、下都賀郡大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町の計2市6町である。",
"title": "歴史"
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"text": "2007年11月27日に「栃木県市町村合併推進構想」が改定され、構想対象市町村の組合せに「栃木市・西方町・大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町・小山市・野木町」と「栃木市・西方町・大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町」が追加された。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、栃木地区の合併に関しては栃木地区1市4町(栃木市・西方町・大平町・藤岡町・都賀町)で合併協議が行われ、西方町が途中で合併協議から離脱したことにより栃木市・大平町・藤岡町・都賀町の1市3町による合併協定調印式が2009年10月7日に行われ、2010年3月29日に新設合併により新・栃木市となった。その後、西方町は2011年10月1日に栃木市に編入。岩舟町は佐野市との間で設置した「佐野市・岩舟町合併協議会」を廃止し、栃木市との間で設置した「栃木市・岩舟町合併協議会」で合併を協議した結果、2014年4月5日に栃木市に編入された。",
"title": "歴史"
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"text": "小山市としては将来の中核市を目指して旧・栃木市との合併を進め県南30万都市の形成を想定していたが、今後どのように進むかは不透明である。なお、小山市と旧・栃木市との間に設置されていた「栃木市・小山市合併協議会」は2000年6月に休止されて以降活動することなく、旧・栃木市の新設合併に伴い合併前日の2010年3月28日付で解散された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "2012年7月22日、小山市長選で「県南広域合併」(栃木市、小山市、下都賀郡野木町、茨城県結城市)を訴える現職の大久保寿夫が4回目の当選。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "※1...人口は各年の10月1日現在(国勢調査による)※2...1965年(昭和40年)以前は現市域の自治体の人口の合計で計算。",
"title": "人口"
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"text": "小山市の外国人登録者数は約5,200人であり、その多くはブラジル人やペルー人である。",
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},
{
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"text": "当地に常住する15歳以上就業者は78,582人。うち他市区町村で従業している者は29,148人と、全体の37.1%である。",
"title": "人口"
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"text": "他市区町村への就業先1位は栃木市(旧上都賀郡西方町及び旧下都賀郡岩舟町を除く)の3,829人、2位は東京都特別区部の3,289人、3位は宇都宮市の2,927人、4位は下野市の2,722人、5位は茨城県結城市の2,439人、6位は茨城県古河市の2,130人、7位は下都賀郡野木町の1,389人、8位は茨城県筑西市の1,192人、9位は埼玉県さいたま市の888人、10位は佐野市の816人。",
"title": "人口"
},
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"text": "他市区町村からの当地への就業者は、28,811人。就学者を含めた昼夜間人口は、ほぼ同数である。",
"title": "人口"
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{
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"text": "※平成22年国勢調査による",
"title": "人口"
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"text": "注)生涯学習センターの市民課関係窓口業務は住民票の写し、印鑑登録証明書、記載事項証明書の発行のみ。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "小山市消防本部が小山市及び野木町(事務委託)を管轄している。小山市消防本部庁舎は国道50号沿いに位置していたが、庁舎の老朽化と国道50号高架化にともなう狭隘とのため、2013年(平成25年)9月17日に旧本部より約1.5km南の小山環状線沿いの大字神鳥谷地内に新築移転した。",
"title": "行政"
},
{
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"text": "他に、大谷、間々田、豊田、桑、野木(野木町)の各分署がある。",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "大久保寿夫小山市長は2015年6月29日の小山市議会定例会において、小山市、下野市、野木町及び茨城県結城市からなる「小山地区定住自立圏構想」を説明し、小山市をその中心市とする宣言を行った。2016年3月、各関係市町議会で定住自立圏形成協定を可決。今後、定住自立圏共生ビジョンを策定する予定。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "小山市内には栃木県の出先機関として以下のものがある。",
"title": "行政"
},
{
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"text": "なお、県税事務は栃木県税事務所、教育行政は下都賀教育事務所・県南児童相談所、農政は下都賀農業振興事務所、建設は栃木土木事務所(いずれも栃木市)の管轄となっている。",
"title": "行政"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "Tochigi Agrinet によると、2002年(平成14年)に、小山市は県内でかんぴょうは第2位(43ha,11%)、繭は第1位(21t, 38%)、落花生は第3位(15ha, 8%)の作付または生産を記録している。 また、全国一のハトムギの生産地(2009年、110ha、440t) となっていて、道の駅思川では小山産のハトムギと塩谷町にある尚仁沢湧水とを使ったハトムギ茶を販売している。小麦「イワイノダイチ」の栽培が盛んで、それを用いたうどんの普及に力を入れており、「小山うどん」を地元に愛される名物料理として全国にアピールしようと「開運小山うどん会」が2011年に設立された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "購買力のある豊富な労働人口と交通の結節点である鉄道・道路網の存在を背景として、小山駅東口周辺及び旧市街地縁辺部に大規模商業施設が立地しており、2013年3月には駅ナカのDilaが新規開業している。 また、イオンモールやおやまゆうえんハーヴェストウォーク、国道50号沿線のロードサイド店など、旧市街地縁辺部にも商業施設が立地するなど活気を帯びている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "特に小山駅東口に立地していた工場の撤退や移転に伴う再開発で、近年は駅東口の発展が目覚ましく、旧来の市街地である西口を凌ぐ勢いである。また小山駅東西自由通路の完成を皮切りに駅ビルや駅ナカへの商業集積が著しく、西口商店街の規模が縮小しつつある。対策として市を主導に駅西口に再開発マンションを誘致するなどてこ入れを行っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "周辺の小山市、栃木市、下野市、壬生町、野木町の3市2町により組織される組合によって運営されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "地区分けは小山市ホームページの栃木県小山市大字町丁名別世帯数および人口推計(毎月1日)における10地区分けに基づく。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "市立義務教育学校 1校",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "市立中学校 10校",
"title": "地域"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "市立小学校 25校",
"title": "地域"
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"text": "平成26年1月、「市学校適正配置等検討懇話会」は小規模校を中心に計11小学校を統合対象として4校に再編、児童数増加が見込まれる城南地区で小学校を新設するなどの検討案を示した。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "具体的には、乙女中学区の3校(乙女小・網戸小・下生井小)を乙女小に、絹中学区の3校(福良小・延島小・梁小)を福良小に、豊田中学区の2校と美田中学区の3校もそれぞれ統合する案を出しており、絹地区に関しては平成29年度からの義務教育学校への統合・改組が決定した。また、城南地区の新設校は、旭小と大谷東小学区の一部を学区として遅くとも2019年度に開校できることが望ましいと指摘した。用地は東城南地内の自由ヶ丘公園付近の公有地が有力とされている。",
"title": "地域"
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{
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"text": "これらに合わせ、小中一貫校設置への検討及び小学校統合に際してスクールバスの導入などが検討されている。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "私立",
"title": "地域"
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{
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"tag": "p",
"text": "郵便番号は以下が該当する。3集配局が集配を担当する。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一部地域(後述)を除く市内全域が小山MAの管轄となり、市外局番は「0285」。収容局は以下の6ビルが該当し、市内局番は以下の通り。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "下記地域は小山市外の収容局が管轄となる。",
"title": "地域"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "本市は小山駅を中心に東西南北に鉄道路線が伸びており、鉄道交通の要衝として機能している。",
"title": "交通"
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{
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"text": "※JR東日本小山車両センター(旧小山電車区)は隣接する下野市にある。なお、東北新幹線の小山新幹線車両センター(旧小山新幹線運転所)は小山市内の喜沢地区にある。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "近年は国道50号を中心に幹線道路の道路整備が進みつつある。しかしながら、一部地域では、まちづくり協議会等を組織し、住宅地を中心に道路の拡幅化、新規建設が進行中であるが、依然として本市に隘路が多いことは、モータリゼーションの進展により地域社会の問題となっている。",
"title": "交通"
},
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"paragraph_id": 54,
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"text": "また、本市を通過する高速道路はない。(最寄りの高速道路インターチェンジは東北自動車道の栃木インターチェンジ・佐野藤岡インターチェンジ。もしくは新4号国道を利用して圏央道の五霞インターチェンジも利用できる。)",
"title": "交通"
}
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小山市(おやまし)は、栃木県南部にある市。市域は関東大都市圏に含まれている。総人口数は約17万人で、県庁所在地の宇都宮市に次ぐ栃木県第2の都市である。1954年(昭和29年)市制施行。
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{{日本の市
| 自治体名 = 小山市
| 都道府県 = 栃木県
| 画像 = Oyama-jo.4.jpg
| 画像の説明 = [[小山城 (下野国)|祇園城址]]
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Oyama, Tochigi.svg|100px|小山市旗]]
| 市旗の説明 = 小山[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Oyama, Tochigi.svg|75px|小山市章]]
| 市章の説明 = 小山[[市町村章|市章]]<br />[[1954年]][[9月18日]]制定
| コード = 09208-8
| 隣接自治体 = [[栃木市]]、[[下野市]]、[[真岡市]]、[[下都賀郡]][[野木町]]<br/>[[茨城県]]:[[結城市]]、[[筑西市]]、[[古河市]]
| 木 = [[シラカシ]]
| 花 = [[オモイガワ]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など = 市の鳥:[[セグロセキレイ]]<br />市の歌:小山わがまち
| 郵便番号 = 323-8686
| 所在地 = 小山市中央町一丁目1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-09|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Oyama City Hall Nov. 2022.jpg|center|250px|小山市役所本庁舎]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|09|208|image=Oyama in Tochigi Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=36.31|frame-longitude=139.8|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:Omoigawa-2.JPG|thumb|right|250px|思川 八幡町近辺(2006年7月)]]
[[ファイル:R50 Oyama C..JPG|thumb|right|250px|国道50号に立ち並ぶロードサイドショップ(2007年5月)]]
'''小山市'''(おやまし)は、[[栃木県]]南部にある[[市]]。市域は[[東京を中心とする地域の定義一覧#関東大都市圏|関東大都市圏]]に含まれている<ref>[https://www.stat.go.jp/data/e-census/topics/topi831.html#topi83b 総務省統計局 経済センサスと統計地図(大都市圏の売上高)【1.関東大都市圏】]</ref>。総人口数は約17万人で、県庁所在地の[[宇都宮市]]に次ぐ栃木県[[第二都市|第2の都市]]である<ref>[http://www.pref.tochigi.lg.jp/c05/kensei/aramashi/sugata/jinkou-menseki.html 人口・面積] 栃木県庁 2019年4月1日更新, 2019年9月28日閲覧</ref><ref>[https://www.city.oyama.tochigi.jp/soshiki/10/1921.html 人口世帯数] 小山市役所 2019年9月4日更新, 2019年10月1日閲覧</ref>。1954年(昭和29年)[[市制]]施行。
== 地理 ==
[[関東平野]]の中北部に位置し、[[山]]や[[丘陵]]はなく、ほぼ平坦の地形のため土砂災害等の危険性は低いが、河川氾濫の危険がある。市の中央部を[[渡良瀬川]]の支流である[[思川 (栃木県)|思川]](おもいがわ)が流れ、市西端には[[巴波川]](うずまがわ)、市東端に[[田川 (利根川水系)|田川]]、さらに東側に[[鬼怒川]]が流れる。また田川の西側を[[吉田用水]]が流れ、付近の[[水田]]を潤している。
市西部の思川流域、および市東部の吉田用水・田川・鬼怒川流域は水田地帯となっており、その間の台地部は畑作地帯及び住宅地・商業地・工業団地となっている。
東北新幹線、東北本線(宇都宮線)、両毛線及び水戸線が東西南北に走り、市中央部には南北に[[国道4号]]、東西に[[国道50号]]、市東部に[[新4号国道]]が走り、農業集散地、「陸の工業地」として県下第2の都市の地位を維持している。
また、市北部には[[桑村|桑地区]]、絹地区(旧[[桑絹町]])があり、[[結城紬]]を産出するための地域的分業がなされていることでも著名である。
茨城県結城市との繋がりが深く、かつては現在の結城市付近とともに[[下総国]]の一部であった地区もある。
{{Wide image|Oyama city center area Aerial photograph.1986.jpg|400px|1986年(昭和61年)撮影の小山市中心部周辺の空中写真。<br />1986年撮影の8枚を合成作成。{{国土航空写真}}}}
=== 気候 ===
<div style="font-size:smaller">
{{climate chart|'''小山市'''
|-3.1|8.6|27.3
|-2.2|9.1|45.4
|1.2|12.4|84.4
|6.9|18.4|99.6
|12.2|22.5|126.0
|16.9|24.9|155.6
|20.5|28.3|160.6
|22.0|30.2|152.6
|18.4|26.0|190.6
|11.6|20.8|119.1
|4.9|15.5|61.0
|-0.9|11.0|22.9
|float=right
|source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=41&prec_ch=%93%C8%96%D8%8C%A7&block_no=0341&block_ch=%8F%AC%8ER&year=&month=&day=&elm=normal&view=]
}}</div>
[[気候区分]]は[[太平洋岸気候]][[関東型気候区]]に属す。詳細は[[宇都宮市#地理・人口|こちら]]を参照のこと。夏暑く冬寒い。夏は[[佐野市]]とともに県内で暑さが厳しく、38℃ぐらいになることもある。極地は[[2020年]][[8月11日]]の38.9℃。一方冬は最低気温-8℃ぐらいまで下がることもあり、降雪日数も年数日ある。降水量は夏多く冬場は乾燥する。夏季は夕立が頻繁に発生し、発雷日数も全国有数である。
==== 小山市の気象平年値(1991-2020) ====
小山[[アメダス]](市内出井:JT葉たばこ研究所内)観測、[[1991年]](昭和56年)から[[2020年]](平成22年)までの平均
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|- style="text-align:center"
! !! 1月 !! 2月 !! 3月 !! 4月 !! 5月 !! 6月 !! 7月 !! 8月 !! 9月 !! 10月 !! 11月 !! 12月 !! 年 !! 単位
|-
! 気温
| 2.9 || 4.0 || 7.7 || 13.1 || 18.0 || 21.5 || 25.2 || 26.3 || 22.6 || 16.8 || 10.5 || 5.1 || 14.5 || ℃
|-
! 降水量
| 36.2 || 38.8 || 80.4 || 102.2 || 130.6 || 135.1 || 170.3 || 138.4 || 180.5 || 161.7 || 61.9 || 39.7 || 1275.7 || mm
|}
==== 小山市の気象観測極値 ====
小山アメダス観測
{| class="wikitable"
!要素!!観測値!!観測年月日
|-
|最高気温の最高値||style="text-align:right"|38.9℃||[[2020年]](令和2年)[[8月11日]]
|-
|最高気温の最低値||style="text-align:right"|-0.6℃||[[1984年]](昭和59年)[[1月19日]]
|-
|最低気温の最高値||style="text-align:right"|26.9℃||[[1996年]](平成8年)[[8月15日]]<br />[[2019年]](令和元年)[[8月6日]]
|-
|最低気温の最低値||style="text-align:right"|-10.8℃||[[1985年]](昭和60年)[[1月18日]]
|-
|最大風速||style="text-align:right"|15.1m/s||[[2012年]](平成24年)[[4月3日]]
|-
|最大瞬間風速||style="text-align:right"|26.5m/s||[[2018年]](平成30年)[[10月1日]]
|-
|日降水量||style="text-align:right"|213.5mm||2019年(令和元年)[[10月12日]]
|-
|最大1時間降水量|| style="text-align:right" |87mm||[[2003年]](平成15年)[[8月5日]]
|}
気象庁の設置しているアメダス(市内出井、JT研究所内)により観測された数値である。
観測期間は降水量は1976年(昭和51年)3月〜、気温は1978年(昭和53年)1月〜である。
{{Weather box|location=小山(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=18.6|Feb record high C=23.5|Mar record high C=26.6|Apr record high C=31.4|May record high C=34.9|Jun record high C=38.5|Jul record high C=38.7|Aug record high C=38.9|Sep record high C=36.9|Oct record high C=33.6|Nov record high C=24.9|Dec record high C=25.4|year record high C=38.9|Jan high C=9.3|Feb high C=10.3|Mar high C=13.9|Apr high C=19.4|May high C=23.7|Jun high C=26.3|Jul high C=30.2|Aug high C=31.5|Sep high C=27.5|Oct high C=21.8|Nov high C=16.4|Dec high C=11.5|year high C=20.1|Jan mean C=2.9|Feb mean C=4.0|Mar mean C=7.7|Apr mean C=13.1|May mean C=18.0|Jun mean C=21.5|Jul mean C=25.2|Aug mean C=26.3|Sep mean C=22.6|Oct mean C=16.8|Nov mean C=10.5|Dec mean C=5.1|year mean C=14.5|Jan low C=-2.8|Feb low C=-1.8|Mar low C=1.8|Apr low C=7.2|May low C=12.9|Jun low C=17.5|Jul low C=21.5|Aug low C=22.5|Sep low C=18.8|Oct low C=12.5|Nov low C=5.4|Dec low C=-0.4|year low C=9.6|Jan record low C=-10.8|Feb record low C=-9.7|Mar record low C=-6.9|Apr record low C=-3.2|May record low C=0.5|Jun record low C=9.0|Jul record low C=13.1|Aug record low C=13.9|Sep record low C=7.1|Oct record low C=0.1|Nov record low C=-4.4|Dec record low C=-8.3|year record low C=-10.8|Jan precipitation mm=36.2|Feb precipitation mm=38.8|Mar precipitation mm=80.4|Apr precipitation mm=102.2|May precipitation mm=130.6|Jun precipitation mm=135.1|Jul precipitation mm=170.3|Aug precipitation mm=138.4|Sep precipitation mm=180.5|Oct precipitation mm=161.7|Nov precipitation mm=61.9|Dec precipitation mm=39.7|year precipitation mm=1275.7|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=4.1|Feb precipitation days=5.0|Mar precipitation days=8.7|Apr precipitation days=9.9|May precipitation days=10.9|Jun precipitation days=12.5|Jul precipitation days=13.4|Aug precipitation days=9.8|Sep precipitation days=11.3|Oct precipitation days=10.4|Nov precipitation days=6.3|Dec precipitation days=4.5|year precipitation days=106.9|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=41&block_no=0341&year=&month=&day=&view= |title=小山 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-03-09 |publisher=気象庁}}</ref>|Dec sun=191.2|Nov sun=160.3|Oct sun=140.6|Sep sun=127.3|Aug sun=162.8|Jul sun=138.1|Jun sun=126.8|May sun=181.1|Apr sun=186.3|Mar sun=196.1|Feb sun=190.7|Jan sun=206.6|year sun=2004.3}}
== 歴史 ==
=== 概略 ===
「小山」の地名は1,000年以上前の[[醍醐天皇]]の[[延長 (元号)|延長]]年間に和名抄の都賀郡の条に記載があり、古くからこの地名が使われていたことがわかっている。起源について定説は無いが、もっとも流布されているのはこの地が思川に臨む台地にあり、西の低地から望むと小さな山の形をしていることからというものである。また、一説には[[アイヌ語]]で「オ」は持つ、「ヤマ」は丘といい、丘に富んでいることから小山になったというアイヌ語起源説もある。
市内からは多くの土器や石器などが発見され、古墳などの遺跡が広範囲に分布していることから、古くから人類が生活し、集落をつくっていたと推察されている。古くは[[縄文時代]]中期頃の遺跡も発見されている(寺野東遺跡等)。
小山は[[鎌倉時代]]、[[鎌倉幕府]]の有力武家[[藤原秀郷]]流[[小山氏]]の居城、祇園城(ぎおんじょう)の城下であった。[[室町時代]]に幕府が[[京都|京]]に移ると、[[守護]]の地位は[[国司]]・[[宇都宮氏]]や[[関東管領]]・[[上杉氏]]に授けられた。その後[[小山義政]]が守護に復帰するが、[[鎌倉府]]の不興を買い討伐される([[小山義政の乱]])。後に小山氏傍系の[[結城氏]]一門が小山氏に養子に入り再興されたが、戦国期には[[後北条氏]]の攻撃により祇園城を明け渡した。[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]の折、遺領は結城氏に与えられたが、[[越前国|越前]]に移封となった後、無嗣断絶となった。江戸時代初期には祇園城に[[本多正純]]が3万石で入るが、間もなく16万石で[[宇都宮城]]へ移封となり、祇園城は廃城となった。以降、一時、城域の一部は将軍日光参宮のための休憩所「小山御殿」として使われたが、古河藩の財政難のおり廃止された。
江戸期の小山市域は[[日光街道]]の宿場町([[小山宿]]、[[間々田宿]]等)及び、[[江戸川]]に通ずる[[思川 (栃木県)|思川]]の舟運によって栄えた。思川の[[河岸]]である乙女河岸は世に言う「[[関ヶ原の戦い#東軍諸大名の反転|小山評定]]」([[徳川家康]]が、[[関ヶ原の戦い]]のため[[上杉景勝]]討伐をやめ、西に向かう評定をしたこと)時、上杉討伐のための兵馬の運搬に使われていたことから、以降、徳川幕府の厚い恩恵を受け[[日光東照宮]]造営のための資材船下ろし場となるなどして発展した。
=== 明治以降 ===
* [[1869年]]([[明治]]2年)- [[小山宿]]は宇都宮藩に属す。
* [[1871年]](明治4年)[[7月14日]] - 小山宿が[[宇都宮県]]に属す→[[大区小区制]]により第三大区七小区、[[都賀郡]]小山宿と呼称。
* [[1872年]](明治5年)- 間々田・小山・羽川に郵便取扱所を設置。
* [[1873年]](明治6年)[[6月]] - 宇都宮県の廃止及び各県管理地の整理により現市域全域が栃木県管轄となる。栃木県第一大区七小区と改める。同時に小山宿近隣15カ村の[[連合戸長役場]]を小山宿に設置。
* [[1875年]](明治8年)[[4月]] - [[栃木警察署]]小山分署開設。
* [[1878年]](明治11年)[[7月22日]] - [[郡区町村編制法]]により都賀郡が[[上都賀郡]]、[[下都賀郡]]に分割。現小山市域は下都賀郡に属す。
* [[1885年]](明治18年)[[7月16日]] - [[日本鉄道]]本線の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[宇都宮駅]]間が開通、[[小山駅]]開業。
* [[1888年]](明治21年)[[5月22日]] - [[両毛線|両毛鉄道]]小山-足利間が開通。
* [[1889年]](明治22年)[[1月16日]] - [[水戸線|水戸鉄道]]小山-水戸間が開通。
* 同年[[4月1日]] - 市制・町村制施行により小山町・稲葉村・神鳥谷村が合併し[[下都賀郡]]'''[[小山町 (栃木県)|小山町]]'''が誕生する。町役場は常光寺内に設置。
* [[1894年]](明治27年)[[4月1日]] - [[間々田駅]]開業。
* [[1899年]](明治32年)[[11月5日]] - 観晃橋落成。
* [[1907年]](明治40年)[[11月]] - 小山町に電話架設、通話始まる。
* [[1911年]](明治44年)[[4月10日]] - [[思川駅]]開業。
* 同年[[11月20日]] - 町役場を新築移転。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[1月]] - 小山町で初めて電灯点灯。
* [[1921年]](大正10年)- 小山町で乗合自動車・貸切自動車の運行始まる。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[5月]] - [[日本無線電信]](現[[KDDI]])、神鳥谷に小山送信所開設。
* [[1945年]](昭和20年)[[8月4日]] - 小山駅付近、[[空襲]]による[[機銃掃射]]により3人死亡。
* [[1954年]](昭和29年)[[3月31日]] - 下都賀郡小山町と[[大谷村 (栃木県)|大谷村]]が新設合併。市制施行。
* 1954年(昭和29年)[[9月18日]] - 市制施行記念事業として市の紋章を公募・厳選のうえ決定。<ref>図典 日本の市町村章 p62</ref>
* [[1960年]](昭和35年) - [[小山ゆうえんち|小山遊園地]]オープン。
* [[1962年]](昭和37年)[[5月5日]] - 桑絹町羽川小学校前の[[国道4号]]に日本初の通学用歩道橋「愛の橋」完成。
* [[1963年]](昭和38年)[[4月18日]] - 下都賀郡[[間々田町]]と[[美田村]]を編入。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月31日]] - 市役所本庁舎(旧庁舎)落成。
* [[1965年]](昭和40年)[[4月24日]] - 国立[[小山工業高等専門学校]]開校。
* 同年[[9月30日]] - 下都賀郡桑絹町を編入。
* 同年[[10月10日]] - 国道4号[[小山バイパス]]開通。
* [[1968年]](昭和43年) - [[栃木県立小山高等学校|県立小山高校]]が[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]出場。
* [[1969年]](昭和44年)[[6月10日]] - 市の人口が10万人を突破する。
* [[1980年]](昭和55年)[[6月1日]] - 茨城県結城市と境界変更。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[1月1日]] - 下都賀郡[[国分寺町 (栃木県)|国分寺町]]と境界変更。
* 同年[[7月]] - 第1回おやまサマーフェスティバル開催。
* [[1992年]](平成4年) - 犬塚に[[栃木県庁]]小山庁舎開設。
* [[1993年]](平成5年) - 城東に市立中央図書館開館。外城に県立県南体育館開館。
* [[1995年]](平成7年) - 市の人口が15万人を突破する。
* [[1998年]](平成10年)[[7月1日]] - 茨城県結城市と境界変更。
* [[2000年]](平成12年) - 外城に県立県南温水プール館開館。
* [[2004年]](平成16年)[[2月1日]] - 下都賀郡[[野木町]]と境界変更。
* [[2011年]](平成23年)[[3月11日]] - [[東日本大震災]]発生。市内で最大震度5強を観測。負傷者4名、半壊1棟、一部損壊2,127棟などの被害が出る。
* [[2013年]](平成25年)[[9月17日]] - 神鳥谷に[[小山市消防本部]]、小山市消防署を新築移転。
* [[2015年]](平成27年)[[6月29日]] - 小山地区定住自立圏の中心市宣言。
* 同年[[9月9日]]〜[[9月10日]] - [[平成27年9月関東・東北豪雨]]により市内に史上初の大雨特別警報発令。932戸が床上浸水、593戸が床下浸水した。また、羽川西・鶉島の各浄水場が浸水し市内36,000世帯が断水または水圧低下となる。
* [[2016年]](平成28年) [[2月29日]] - 神鳥谷に[[小山警察署]]が新築移転。
* 同年[[3月]] - 小山地区定住自立圏(小山市・下野市・下都賀郡野木町・茨城県結城市の3市1町)の定住自立圏形成協定を関係市町行政で議決。
* 同年、小山市民病院が[[新小山市民病院]](神鳥谷)として新築移転。
* [[2017年]](平成29年)[[2月13日]] - [[BCリーグ|ベースボール・チャレンジ・リーグ]]に所属する[[栃木ゴールデンブレーブス]]のホームタウンに決定する。
* 同年 [[11月4日]] - 市内初(栃木県内3局目)となるコミュニティFM(おーラジ)が開局。
* [[2021年]](令和3年)[[5月6日]] - 小山市役所新庁舎が開庁<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/448673|title=明るく開放的、未来を予感 小山市役所新庁舎が開庁|date=2021-05-06|publisher=下野新聞|accessdate=2022-11-23}}</ref>。
=== 関連図表 ===
{|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small"
!colspan="9" style="font-size:small"|小山市域の明治初頭の所属
|-
!明治初年
!明治2年2月 - 明治4年7月
!明治4年7月 - 明治4年11月
!明治4年11月 - 明治6年6月
!明治6年6月 -
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小山宿
|rowspan="1" style="background-color:#ffd700"|宇都宮藩小山宿
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#ffd700"|宇都宮県小山宿
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県小山宿
|-
|style="background-color:#99CCFF"|間々田宿
|rowspan="1" style="background-color:#ffd700"|宇都宮藩間々田宿
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#ffd700"|宇都宮県間々田宿
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県間々田宿
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○小薬村
|rowspan="1" style="background-color:#00fa9a"|大田原藩小薬村
|rowspan="1" style="background-color:#00fa9a"|大田原県小薬村
|rowspan="1" style="background-color:#ffd700"|宇都宮県小薬村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県小薬村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|稲葉郷
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県稲葉郷
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県稲葉郷
|-
|style="background-color:#99CCFF"|雨ヶ谷村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県雨ヶ谷村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県雨ヶ谷村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大町新田(羽川)
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県大町新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県大町新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|喜沢村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県喜沢村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県喜沢村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|三拝河岸村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県三拝河岸村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県三拝河岸村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|半田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県半田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県半田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|泉崎村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県泉崎村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県泉崎村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|土塔村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県土塔村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県土塔村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|犬塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県犬塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県犬塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中久喜村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県中久喜村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県中久喜村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県中島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県中島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|鉢形村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県鉢形村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県鉢形村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下萱橋村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県下萱橋村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下萱橋村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|向野村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県向野村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県向野村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|福良村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県福良村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県福良村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下福良村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県下福良村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下福良村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中河原村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県中河原村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県中河原村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上梁村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県上梁村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上梁村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下梁村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県下梁村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下梁村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上高椅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県上高椅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上高椅村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中高椅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県中高椅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県中高椅村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下高椅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県下高椅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下高椅村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|延島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県延島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県延島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|延島新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県延島新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県延島新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|船戸村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県船戸村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県船戸村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|篠原村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県篠原村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県篠原村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|乙女村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県乙女村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県乙女村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|田間村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県田間村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県田間村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|横倉村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県横倉村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県横倉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|横倉新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県横倉新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県横倉新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|塚崎村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県塚崎村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県塚崎村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|東黒田新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県東黒田新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県東黒田新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|西黒田新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県西黒田新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県西黒田新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|白鳥村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県白鳥村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県白鳥村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下国府塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県下国府塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下国府塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|今里村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県今里村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県今里村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|立木村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県立木村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県立木村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大行寺村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県大行寺村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県大行寺村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|石ノ上村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県石ノ上村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県石ノ上村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|塩沢村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県塩沢村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県塩沢村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|黒本村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県黒本村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県黒本村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|桶田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県桶田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県桶田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|岡村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県岡村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県岡村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|松沼村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県松沼村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県松沼村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大内川村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県大内川村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県大内川村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|荒川村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県荒川村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県荒川村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|島田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県島田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県島田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|荒井村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県荒井村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県荒井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|向原新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県向原新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県向原新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|梁村新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県梁村新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県梁村新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○上国府塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県上国府塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上国府塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○卒島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県卒島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県卒島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○下石塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県下石塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下石塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○小薬村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県小薬村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県小薬村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○出井村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県出井村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県出井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○飯田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|日光県飯田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県飯田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|和泉新田
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生藩和泉新田
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生県和泉新田
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県和泉新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|武井村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生藩武井村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生県武井村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県武井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|萩島村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生藩萩島村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生県萩島村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県萩島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小宅村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生藩小宅村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生県小宅村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県小宅村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|野田村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生藩野田村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生県野田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県野田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○下石塚村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生藩下石塚村
|rowspan="1" style="background-color:#afeeee"|壬生県下石塚村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下石塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|神鳥谷村
|rowspan="1" style="background-color:#7fff00"|結城藩神鳥谷村
|rowspan="1" style="background-color:#7fff00"|結城県神鳥谷村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県神鳥谷村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県神鳥谷村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|粟宮村
|rowspan="1" style="background-color:#7fff00"|結城藩粟宮村
|rowspan="1" style="background-color:#7fff00"|結城県粟宮村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県粟宮村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県粟宮村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|千駄塚村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿藩千駄塚村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿県千駄塚村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県千駄塚村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県千駄塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上初田村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿藩上初田村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿県上初田村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県上初田村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上初田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|間中村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿藩間中村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿県間中村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県間中村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県間中村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿藩卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#ff7f50"|関宿県卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県卒島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|飯田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩飯田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県飯田村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県飯田村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県飯田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|飯田新田
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩飯田新田
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県飯田新田
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県飯田新田
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県飯田新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下生井村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩下生井村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県下生井村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県下生井村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下生井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下初田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩下初田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee83ee"|古河県下初田村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県下初田村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下初田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小林村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩小林村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県小林村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県小林村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県小林村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大川島村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩大川島村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県大川島村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県大川島村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県大川島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上泉村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩上泉村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県上泉村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県上泉村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上泉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下泉村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩下泉村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県下泉村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県下泉村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下泉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|押切村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩押切村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県押切村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県押切村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県押切村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中里村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩中里村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県中里村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県中里村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県中里村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|鏡村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩鏡村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県鏡村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県鏡村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県鏡村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|網戸村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩網戸村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県網戸村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県網戸村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県網戸村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|馬場村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩馬場村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県馬場村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県馬場村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県馬場村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|楢木村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩楢木村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県楢木村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県楢木村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県楢木村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|生井新田
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩生井新田
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県生井新田
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県生井新田
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県生井新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上生井村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩上生井村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県上生井村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県上生井村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上生井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|迫間田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩迫間田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県迫間田村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県迫間田村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県迫間田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|寒川村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩寒川村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県寒川村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県寒川村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県寒川村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小袋村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩小袋村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県小袋村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県小袋村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県小袋村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|井岡村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩井岡村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県井岡村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県井岡村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県井岡村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩上河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県上河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県上河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上河原田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩下河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県下河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県下河原田村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県下河原田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○上国府塚村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河藩上国府塚村
|rowspan="1" style="background-color:#ee82ee"|古河県上国府塚村
|rowspan="1" style="background-color:#008000"|印旛県上国府塚村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上国府塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上石塚村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻藩上石塚村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻県上石塚村
|rowspan="1" style="background-color:#00ff00"|茨城県上石塚村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上石塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|渋井村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻藩渋井村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻県渋井村
|rowspan="1" style="background-color:#00ff00"|茨城県渋井村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県渋井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○出井村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻藩出井村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻県出井村
|rowspan="1" style="background-color:#00ff00"|茨城県出井村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県出井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻藩卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#9400d3"|下妻県卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#00ff00"|茨城県卒島村
|rowspan="1" style="background-color:#66FFFF"|栃木県卒島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|山田村
|rowspan="1" style="background-color:#ffc0cb"|秋田藩山田村
|rowspan="1" style="background-color:#ffc0cb"|秋田県山田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県山田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上萱橋村
|rowspan="1" style="background-color:#ffc0cb"|秋田藩上萱橋村
|rowspan="1" style="background-color:#ffc0cb"|秋田県上萱橋村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県上萱橋村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|○飯田村
|rowspan="1" style="background-color:#ffc0cb"|秋田藩飯田村
|rowspan="1" style="background-color:#ffc0cb"|秋田県飯田村
|rowspan="1" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|栃木県飯田村
|}
○…二給以上の村
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small"
|-
!colspan="9" style="font-size:small"|小山市の明治以降の合併
|-
!明治22年以前
!明治22年4月1日
!colspan="2"|明治22年 - 昭和19年
!colspan="2"|昭和20年 - 昭和35年
!昭和36年 - 昭和39年
!昭和40年 - 昭和64年
!平成元年 - 現在
|-
|style="background-color:#66FFFF"|小山町
|rowspan="3" style="background-color:#66FFFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />'''小山町'''
|rowspan="3" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|下都賀郡<br />'''小山町'''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="17" colspan="2" |昭和29年3月31日<br />下都賀郡大谷村と合併<br />同日市制<br />'''小山市'''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="17" |'''小山市'''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="66" |'''小山市'''
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="86" |'''小山市'''
|-
|style="background-color:#99CCFF"|神鳥谷村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|稲葉郷村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|雨ヶ谷村
|rowspan="14" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[大谷村 (栃木県)|大谷村]]
|rowspan="14" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|大谷村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|塚崎村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|東野田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|南和泉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|武井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|田間村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|横倉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|犬塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中久喜村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|泉崎村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|土塔村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|雨ヶ谷新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|向原新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|横倉新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|間々田宿
|rowspan="8" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />間々田村
|rowspan="8" colspan="2" style="background-color:#66FFFF"|大正11年4月1日<br />町制<br />[[間々田町]]
|rowspan="14" style="background-color:#66FFFF"|昭和30年4月25日<br />生井村を編入<br />間々田町
|rowspan="19" style="background-color:#66FFFF"|昭和31年9月30日<br />寒川村を編入<br />間々田町
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="19" |昭和38年4月18日<br />間々田町を編入
|-
|style="background-color:#99CCFF"|乙女村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|南飯田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|平和村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|千駄塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|粟ノ宮村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|東黒田新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|西黒田新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上生井村
|rowspan="6" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[生井村]]
|rowspan="6" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|生井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下生井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|生良村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|網戸村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|楢木村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|白鳥村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|寒川村
|rowspan="5" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[寒川村 (栃木県)|寒川村]]
|rowspan="5" colspan="3" style="background-color:#99CCFF"|寒川村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中里村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|鏡村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|迫間田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|押切村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|萩島村
|rowspan="9" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[穂積村 (栃木県)|穂積村]]
|rowspan="9" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|穂積村
|rowspan="30" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|昭和30年2月11日<br />下都賀郡<br />[[美田村]]
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="30" |昭和38年4月18日<br />美田村を編入
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大行寺村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上石塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下石塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上国府塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下国府塚村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|石上村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|塩沢村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|間中村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|卒島村
|rowspan="12" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[豊田村 (栃木県)|豊田村]]
|rowspan="12" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|豊田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|松沼村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|荒川村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大本村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小薬村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小宅村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|黒本村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|島田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|渋井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|立木村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|今里村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上初田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下初田村
|rowspan="9" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[中村 (栃木県下都賀郡)|中村]]
|rowspan="9" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|中村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|大川島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|南小林村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上泉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下泉村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|上河原田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|下河原田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|小袋村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|井岡村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|羽川宿
|rowspan="12" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[桑村]]
|rowspan="12" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|桑村
|rowspan="20" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|昭和31年9月30日<br />下都賀郡<br />桑絹村
|rowspan="20" style="background-color:#66FFFF"|昭和36年7月1日<br />町制<br />下都賀郡<br />[[桑絹町]]
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="20" |昭和40年9月30日<br />桑絹町を編入
|-
|style="background-color:#99CCFF"|南半田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|飯塚新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|三拝川岸村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|喜沢村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|荒井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|出井村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|鉢形村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|東山田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|北飯田村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|萱橋村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|向野村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|福良村
|rowspan="8" style="background-color:#99CCFF"|明治22年4月1日<br />下都賀郡<br />[[絹村]]
|rowspan="8" colspan="2" style="background-color:#99CCFF"|絹村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|高椅村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|梁村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中河原村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|中島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|延島村
|-
|style="background-color:#99CCFF"|延島新田
|-
|style="background-color:#99CCFF"|田川村
|}
=== 平成の大合併 ===
『[[平成の大合併]]』では[[1998年]][[3月18日]]に隣接する栃木市と2市での法定協議会設置を求める住民発議について、2市が可決。その後、栃木市と1998年[[4月1日]]に法定協議会「栃木市・小山市合併協議会」を設置したが、それぞれの周辺市町との合併が優先課題として合併協議会は[[2000年]][[6月30日]]に休止された。
[[2001年]][[1月12日]]に栃木県が県内市町村合併の5つのパターンを含む「栃木県市町村合併推進要綱」を策定。それによると、「小山市、[[河内郡]][[南河内町]]、下都賀郡国分寺町・野木町」(AパターンとBパターンで示された可能性があるが、どのパターンであるかは不明)、Cパターンでは「栃木市、小山市」が示された。他のパターンが示されたかどうかは不明。
その後、近隣する南河内町・国分寺町・野木町の1市3町で[[2002年]][[1月28日]]に市町村合併合同研究会を設置したが、南河内町と国分寺町は[[2006年]][[1月10日]]に[[石橋町]]と新設合併し[[下野市]]となる。
[[2007年]][[2月8日]]に開かれた栃木県合併推進審議会にて栃木地区対象地域の拡大が決定され小山市も対象地域となった。なお、審議会が栃木地区として追加指定したのは小山市及び下都賀郡野木町の1市1町を加えた栃木市、[[上都賀郡]][[西方町]]、下都賀郡[[大平町]]・[[藤岡町 (栃木県)|藤岡町]]・[[岩舟町]]・[[都賀町]]の計2市6町である。
2007年[[11月27日]]に「栃木県市町村合併推進構想」が改定され、構想対象市町村の組合せに「栃木市・西方町・大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町・小山市・野木町」と「栃木市・西方町・大平町・藤岡町・岩舟町・都賀町」が追加された。
なお、栃木地区の合併に関しては栃木地区1市4町(栃木市・西方町・大平町・藤岡町・都賀町)で合併協議が行われ、西方町が途中で合併協議から離脱したことにより栃木市・大平町・藤岡町・都賀町の1市3町による合併協定調印式が[[2009年]][[10月7日]]に行われ、[[2010年]][[3月29日]]に新設合併により新・栃木市となった。その後、西方町は[[2011年]][[10月1日]]に栃木市に編入。岩舟町は[[佐野市]]との間で設置した「佐野市・岩舟町合併協議会」を廃止し、栃木市との間で設置した「栃木市・岩舟町合併協議会」で合併を協議した結果、[[2014年]][[4月5日]]に栃木市に編入された。
小山市としては将来の中核市を目指して旧・栃木市との合併を進め県南30万都市の形成を想定していたが、今後どのように進むかは不透明である。なお、小山市と旧・栃木市との間に設置されていた「栃木市・小山市合併協議会」は2000年6月に休止されて以降活動することなく、旧・栃木市の新設合併に伴い合併前日の2010年[[3月28日]]付で解散された<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.city.tochigi.lg.jp/ct/other000015000/211050gappe.pdf |title=合併推進室の分掌事務は |format=PDF |publisher=栃木市 |accessdate=2011-12-28 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2016-03-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160305082456/http://www.city.tochigi.lg.jp/ct/other000015000/211050gappe.pdf}}</ref>。
[[2012年]][[7月22日]]、小山市長選で「県南広域合併」(栃木市、小山市、下都賀郡野木町、茨城県結城市)を訴える現職の[[大久保寿夫]]が4回目の当選。
== 人口 ==
=== 人口分布図 ===
{{人口統計|code=09208|name=小山市|image=Population distribution of Oyama, Tochigi, Japan.svg}}
=== 人口推移 ===
* [[1920年]](大正9年) - '''52,163'''人
* [[1930年]](昭和5年) - '''57,959'''人
* [[1947年]](昭和22年) - '''82,116'''人
* [[1950年]](昭和25年) - '''82,880'''人(764増)
* [[1955年]](昭和30年) - '''83,758'''人(878増)
* [[1960年]](昭和35年) - '''83,455'''人(303減)
* [[1965年]](昭和40年) - '''90,632'''人(6,874増)
* [[1970年]](昭和45年) - '''105,346'''人(14,714増)
* [[1975年]](昭和50年) - '''120,264'''人(14,918増)
* [[1980年]](昭和55年) - '''127,226'''人(6,962増)
* [[1985年]](昭和60年) - '''134,242'''人(7,016増)
* [[1990年]](平成2年) - '''142,263'''人(8,021増)
* [[1995年]](平成7年) - '''150,115'''人(7,852増)
* [[2000年]](平成12年) - '''155,198'''人(5,083増)
* [[2005年]](平成17年) - '''160,150'''人(4,952増)
* [[2010年]](平成22年) - '''164,454'''人(4,304増)
* [[2015年]](平成27年) - '''166,760'''人(2,306増)
* [[2020年]](令和2年) - '''166,666'''人(94減)
※1…人口は各年の10月1日現在([[国勢調査]]による)<br />※2…1965年(昭和40年)以前は現市域の自治体の人口の合計で計算。
==== 外国人登録者 ====
小山市の[[外国人登録制度|外国人登録者数]]は約5,200人であり、その多くは[[在日ブラジル人|ブラジル人]]や[[在日ペルー人|ペルー人]]である<ref>山下俊輔 「とちぎ発信箱:高い『日本語の壁』」 『毎日新聞』 2009年10月26日、栃木版、25面。</ref>。
=== 15歳以上就業者について ===
当地に常住する15歳以上就業者は78,582人。うち他市区町村で従業している者は29,148人と、全体の37.1%である。
他市区町村への就業先1位は[[栃木市]](旧[[上都賀郡]][[西方町]]及び旧[[下都賀郡]][[岩舟町]]を除く)の3,829人、2位は[[東京都]]特別区部の3,289人、3位は[[宇都宮市]]の2,927人、4位は[[下野市]]の2,722人、5位は[[茨城県]][[結城市]]の2,439人、6位は茨城県[[古河市]]の2,130人、7位は下都賀郡[[野木町]]の1,389人、8位は茨城県[[筑西市]]の1,192人、9位は[[埼玉県]][[さいたま市]]の888人、10位は[[佐野市]]の816人。
他市区町村からの当地への就業者は、28,811人。就学者を含めた昼夜間人口は、ほぼ同数である。
※平成22年国勢調査による
== 行政 ==
* 市長:[[浅野正富]]([[2020年]][[7月31日]]就任、1期目)
=== 歴代首長 ===
{|class="wikitable"
|+小山町長
!代(通算)!!氏名!!就任年月!!退任年月!!備考
|-
|初代||福田定吉||1889年5月||1889年7月||
|-
|2||天野為三郎||1889年8月||1893年8月||
|-
|3||塚原欣次郎||1893年8月||1894年6月||
|-
|4||[[田村達三郎]]||1894年6月||1899年8月||
|-
|5||福田定吉||1899年8月||1907年12月||
|-
|6||早乙女源吉||1907年12月||1908年12月||
|-
|7||渡辺常作||1908年12月||1915年12月||
|-
|8||塚原善四郎||1915年12月||1919年12月||
|-
|9||沼部信介||1919年6月||1923年12月||
|-
|10||小野塚久平||1923年12月||1927年12月||
|-
|11||新井安二郎||1927年12月||1931年3月||
|-
|12||永山宗太郎||1931年4月||1932年3月||
|-
|13||塚原善四郎||1932年5月||1936年5月||
|-
|14||佐藤次郎||1936年6月||1944年6月||
|-
|15||[[江部順治]]||1944年9月||1946年3月||
|-
|16||高崎秀雄||1946年3月||1954年3月||
|-
|}
{|class="wikitable"
|+小山市長
!代(通算)!!氏名!!就任年月!!退任年月!!備考
|-
|初代||山中泰輔||1954年3月||1970年4月||
|-
|2||栗田政夫||1970年4月||1984年9月||
|-
|3||[[小林武夫]]||1984年10月||1988年6月11日||収賄容疑で逮捕され辞職
|-
|4||[[船田章]]||1988年7月31日||2000年7月30日||
|-
|5||[[大久保寿夫]]||2000年7月31日||2020年7月30日||
|-
|6||[[浅野正富]]||2020年7月31日||||
|}
=== 出張所 ===
{{see also|小山市役所}}
{| class="wikitable" cellpadding="4"
|-
!出張所名!!住所!!概要
|-
|大谷出張所||大字横倉新田8番地2||旧大谷村役場。昭和29年3月31日大谷支所、昭和38年4月18日現名称
|-
|間々田出張所||大字間々田1960番地1(間々田市民交流センター内)||移転前は旧間々田町役場。昭和38年4月18日間々田支所、昭和46年4月1日機構改革により現名称。平成21年4月4日現在地に移転
|-
|生井出張所||大字生良1054番地2||旧生井村役場。昭和30年4月25日間々田町役場生井支所、昭和38年4月18日現名称
|-
|寒川出張所||大字中里869番地1||旧寒川村役場。昭和31年9月30日間々田町役場寒川支所、昭和38年4月18日現名称
|-
|豊田出張所||大字松沼467番地||旧豊田村役場→旧美田村役場。昭和38年4月18日美田支所、昭和46年4月1日機構改革により現名称
|-
|中出張所||大字下河原田864番地||旧中村役場。昭和30年2月11日美田村役場中支所、昭和38年4月18日現名称
|-
|穂積出張所||大字萩島61番地||旧穂積村役場。昭和30年2月11日美田村役場穂積支所、昭和38年4月18日現名称
|-
|桑出張所||大字羽川858番地1(桑市民交流センター内)||旧桑村役場→旧桑絹村役場→旧桑絹町役場。昭和40年9月30日桑絹支所、昭和46年4月1日機構改革により現名称。平成28年3月28日現在地に移転。
|-
|絹出張所||大字福良1119番地1||旧絹村役場。昭和31年9月30日桑絹町役場絹支所。昭和40年9月30日現名称
|-
|小山東出張所||犬塚3丁目1番地3||平成8年10月1日、旧栃の葉会館跡に開設
|-
|小山城南出張所||東城南4丁目1番地12||平成25年4月1日現在地に開設
|-
|生涯学習センター||中央町3丁目7番1号 ロブレ6階||平成6年6月9日、駅前再開発ビルロブレ開業に合わせ開設
|}
注)生涯学習センターの市民課関係窓口業務は住民票の写し、印鑑登録証明書、記載事項証明書の発行のみ。
<!--画像は「小山市役所」の記事に移動しました-->
=== 警察 ===
* 栃木県警察小山警察署
** 小山駅交番
** 城南交番
** 城東交番
** 間々田駅前交番
** 喜沢交番
** 犬塚交番(平成25年3月27日開設)
**若木交番(平成31年3月25日開設、旧小山警察署跡地)
** (神鳥谷駐在所…犬塚交番開設に伴い廃止)
** 東野田駐在所
** (犬塚駐在所…犬塚交番開設に伴い廃止)
** 生井駐在所
** (羽川駐在所…平成31年3月24日、喜沢交番移管に伴い廃止)
** (扶桑駐在所…平成31年3月24日、喜沢交番移管に伴い廃止)
** 鉢形駐在所
** 福良駐在所
** 中駐在所
** 穂積駐在所
** 豊田駐在所
=== 消防 ===
小山市消防本部が小山市及び野木町(事務委託)を管轄している。小山市消防本部庁舎は国道50号沿いに位置していたが、庁舎の老朽化と国道50号高架化にともなう狭隘とのため、2013年(平成25年)[[9月17日]]に旧本部より約1.5km南の[[栃木県道33号小山環状線|小山環状線]]沿いの大字神鳥谷地内に新築移転した。
他に、大谷、間々田、豊田、桑、野木(野木町)の各分署がある。
=== 小山地区定住自立圏構想 ===
[[大久保寿夫]]小山市長は[[2015年]][[6月29日]]の小山市議会定例会において、小山市、下野市、野木町及び茨城県結城市からなる「小山地区定住自立圏構想」を説明し、小山市をその中心市とする宣言を行った。2016年3月、各関係市町議会で定住自立圏形成協定を可決。今後、定住自立圏共生ビジョンを策定する予定。
=== 県出先機関 ===
小山市内には栃木県の出先機関として以下のものがある。
* 栃木県庁小山庁舎(犬塚)
** 小山環境管理事務所
** 県南健康福祉センター
** 小山県民相談室
** 小山労政事務所
** 栃木土木事務所小山詰所
* [[栃木県立県南体育館]](外城)
* [[栃木県立温水プール館]](外城)
* [[栃木県紬織物技術支援センター]](福良)
なお、県税事務は[[栃木県税事務所]]、教育行政は下都賀教育事務所・県南児童相談所、農政は下都賀農業振興事務所、建設は栃木土木事務所(いずれも栃木市)の管轄となっている。
<gallery>
Tochigi prefectural office Oyama Branch.jpg|栃木県庁小山庁舎(2011年6月)
</gallery>
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|小山市議会}}
=== 県議会 ===
{{Main|2023年栃木県議会議員選挙}}
* 選挙区:小山市・野木町選挙区
* 定数:5人
* 投票日:2023年4月9日
* 当日有権者数:154,978人
* 投票率:41.34%
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 白石資隆 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 47 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 13,060票
|-
| 中屋大 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 44 || 無所属 || align="center" | 現 || 10,115票
|-
| 西村眞治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 61 || [[公明党]] || align="center" | 現 || align="right" | 8,972票
|-
| 大木英憲 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 42 || 自由民主党 || align="center" | 新 || align="right" | 8,288票
|-
| 板橋一好 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 82 || 自由民主党 || align="center" | 現 || align="right" | 7,674票
|-
| 平田廣一 || align="center" | 落 || align="center" | 43 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 7,363票
|-
| 大橋勇太 || align="center" | 落 || align="center" | 46 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 4,182票
|-
| 小鹿翔矢 || align="center" | 落 || align="center" | 39 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 3,400票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[栃木県第4区|栃木4区]]([[栃木市]](旧[[大平町]]・[[藤岡町 (栃木県)|藤岡町]]・[[都賀町]]・[[岩舟町]]域)、小山市、[[真岡市]]、[[下野市]](旧[[石橋町]]・[[国分寺町 (栃木県)|国分寺町]]域)、[[芳賀郡]]、[[下都賀郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:402,456人
* 投票率:55.37%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[佐藤勉]] || align="center" | 69 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 111,863票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd"
| 比当 || [[藤岡隆雄]] || align="center" | 44 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 107,043票 || align="center" | ○
|}
== 経済 ==
; [[日本の年間商品販売額一覧|年間商品販売額]](万円)(2014年)
: 38,266,382 (県内第2位)
; 小売業売場面積(m<sup>2</sup>)(2014年)
: 220,130 (県内第2位)
; 製造品出荷額(百万円)(2014年)
: 81,388,729 (県内第2位)
; 農業産出額(千万円)(2005年)<ref>農林水産省「平成17年作物統計調査」</ref>
: 1,419 (栃木県全体の5.18%=県内第5位)
; 耕地面積(ha)(2005年)
: 8,330 (栃木県全体の6.40%=県内第4位)
=== 農業 ===
[https://agrinet.pref.tochigi.jp Tochigi Agrinet] によると、2002年(平成14年)に、小山市は県内で[[かんぴょう]]は第2位(43ha,11%)、[[繭]]は第1位(21t, 38%)、落花生は第3位(15ha, 8%)の作付または生産を記録している。
また、全国一の[[ハトムギ]]の生産地(2009年、110ha、440t)<ref name="yomiuri">「ひと紀行:小山のハトムギ」 『読売新聞』 2009年11月21日、地域面。</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=2009-09-15|title=おやま表情:おいしくて健康・美容に効能のあるはとむぎ料理を広く普及させたい|journal=広報小山|volume=|issue=2009年9月15日号|pages=p4|publisher=小山市|url=http://www.city.oyama.tochigi.jp/cgi-bin/odb-get.exe/1-12.pdf?wit_oid=icityv2::Content::10162&wit_ctype=application/pdf&wit_jasminecharset=SHIFTJIS|format=PDF|accessdate=2009-12-03}}</ref> となっていて、[[道の駅思川]]では小山産のハトムギと[[塩谷町]]にある[[尚仁沢湧水]]とを使ったハトムギ茶を販売している。[[小麦]]「イワイノダイチ」の栽培が盛んで、それを用いた[[うどん]]の普及に力を入れており<ref>読売新聞栃木版 2017年4月30日 23面。</ref>、「[[うどん#小山うどん|小山うどん]]」を地元に愛される名物料理として全国にアピールしようと「開運小山うどん会」が2011年に設立された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.oyama.tochigi.jp/site/udon-oyama/ |title=小山でうどんを食べよう! |author= |publisher=小山市公式サイト|date=2021-10-15更新 |accessdate=2022-01-23 }}</ref>。
* [http://www.at-oyama.jp/ 小山地域情報検索]
* [http://www.oyamabrand.jp/ おやまブランド応援団]
* [[小山農業協同組合|JAおやま(小山農業協同組合)]]
=== 工業 ===
==== 工業団地 ====
* [[小山工業団地]]
* [[小山第二工業団地]]
* [[小山第三工業団地]]・[[小山流通工業団地]]
* [[小山外城工業団地]]
* [[小山梁工業団地]]
* [[小山東部工業団地]]
* [[小山南工業団地]]
* [[小山第四工業団地]]
* [[小山東工業団地]]
==== 製造業 ====
* [[小松製作所|コマツ]](ディーゼルエンジン・油圧機器)
* [[コマツユーティリティ]](フォークリフト)
* [[三和シヤッター工業]](シャッター・ドアー・鋼製建具)
* [[レゾナック]](アルミ事業)
* [[東光高岳]](変圧器)
* [[東京鐵鋼]](電気炉による特殊鋼製造)
* [[東京鋼鐵]](電気炉による特殊鋼製造)
* [[大陽日酸]](旧[[日本酸素]])(高圧ガス製造)
* [[富士通]](ネットワーク機器)
* [[デンソーテン]](自動車用電子機器・インフォテインメント機器の製造)旧・富士通テン
* [[オリジン電気]](半導体デバイス・精密機構部品)
* [[古河機械金属]](運搬機械設備・環境機械設備など)
* UACJ押出加工小山(アルミ押出・鋳物・鍛造、[[UACJ]]の子会社)
* [[文化シヤッター]](シャッター・エクステリア製品)
* [[森永製菓]](キャラメル、チョコボール、エンゼルパイ、[[森永製菓]]小山工場が初代[[チョコボール]]を生産)
* [[日成ビルド工業]](立体駐車場など)
* [[日本起重機製作所]](跨型クレーン)
* [[巴コーポレーション]](橋梁・鉄塔・鉄骨)
* [[小平産業]](特装車)
=== 商業 ===
購買力のある豊富な労働人口と交通の結節点である鉄道・道路網の存在を背景として、[[小山駅]]東口周辺及び旧市街地縁辺部に大規模商業施設が立地しており、2013年3月には[[駅ナカ]]の[[Dila]]が新規開業している。
また、[[イオンモール]]や[[おやまゆうえんハーヴェストウォーク]]、国道50号沿線の[[ロードサイド店舗|ロードサイド店]]など、旧市街地縁辺部にも商業施設が立地するなど活気を帯びている。
特に小山駅東口に立地していた工場の撤退や移転に伴う再開発で<ref group="注釈">[[日本製粉]]小山工場が閉鎖され、[[森永製菓]]小山工場は郊外に移転した。</ref>、近年は駅東口の発展が目覚ましく、旧来の市街地である西口を凌ぐ勢いである。また小山駅東西自由通路の完成を皮切りに駅ビルや駅ナカへの商業集積が著しく、西口商店街の規模が縮小しつつある。対策として市を主導に駅西口に再開発マンションを誘致するなどてこ入れを行っている。
==== 市場 ====
* 栃木県南公設地方卸売市場
周辺の小山市、栃木市、下野市、壬生町、野木町の3市2町により組織される組合によって運営されている。
==== 駅ビル・駅ナカ ====
* [[VAL|VAL小山]](小山駅ビル)
* [[Dila#Dila小山|Dila小山]](駅ナカ)
* [[ロブレ]]
==== ショッピングモール ====
* [[おやまゆうえんハーヴェストウォーク]]
* [[イオンモール小山]]
==== スーパー ====
* [[イオン (店舗ブランド)|イオン]]小山店(イオンモール小山内)
* [[とりせん]]小山東店、美しが丘店、羽川店、土塔店
* [[マルエツ]]小山店
* [[ジョイフーズ]]小山店
* [[ヤオハン (栃木市)|ヤオハン]]城東店
* [[ヨークベニマル]]小山ゆうえんち店、小山雨ケ谷店
* [[ベイシア]]小山店
* [[結城ショッピングセンター|うおとみ]]小金井店(下野市との境に立地するが住所は小山市である)
* [[結城ショッピングセンター|スーパーフレッシュ]]小山店
* [[フジタコーポレーション (群馬県)|マルシェ]]小山店
* [[エコス|たいらや]]犬塚店、本郷店、間々田店
* [[ベルク (企業)|ベルク]]フォルテ間々田店
* [[オータニ (スーパーマーケット)|オータニ]]小山店
* [[トライアルカンパニー|トライアル]]小山店、間々田店
* [[かましん]]小山天神町店
* [[ジョイホン小山駅前店#フロアーとテナント|ジャパンミート生鮮館小山店]]
==== ドラッグストア ====
* [[ウエルシア薬局|ウエルシア]]小山羽川店、小山花垣店、小山天神店、小山城東店、小山西城南店、小山駅南町店、小山神鳥谷店、小山雨ヶ谷店、小山犬塚店、美しが丘店、小山間々田店
* [[カワチ薬品]]小山西店、小山東店、東城南店、小山駅東通り店、間々田店
* [[サンドラッグ]]小山雨ヶ谷店
* [[スギ薬局]]小山西城南店
* [[富士薬品|ドラッグセイムス]]小山小金井店、小山花垣店、乙女店
* [[マツモトキヨシ]]VAL小山店、小山東城南店
* トライウェル小山犬塚店
==== 家電量販店 ====
* [[コジマ]]×[[ビックカメラ]]小山店
* [[ヤマダデンキ]]家電住まいる館YAMADA小山店
* [[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]小山店、ハーヴェストウォーク小山
==== ホームセンター ====
* [[ケーヨー|ケーヨーデイツー]]小山店
* [[ロイヤルホームセンター]]小山店
* スーパー[[ビバホーム]]小山店
* [[ニトリ]]小山店
* [[カインズ]]小山店
* [[ホームプラザナフコ]]小山店
* [[ジョイホン小山駅前店]]
==== 書店 ====
* つるみ書店
* ナカジマ
* [[宮脇書店]]小山店
* [[未来屋書店]]小山店(イオンモール小山2階)
* [[ワンダーコーポレーション|ワンダーグー]]小山店
* [[TSUTAYA]]小山城南店、小山ロブレ店
* TSUTAYA BOOK STOREおやまゆうえんハーヴェストウォーク店
=== 通信・放送 ===
* [[KDDI]](小山国際通信センター)
* [[テレビ小山放送]]([[ケーブルテレビ|CATV]])
=== 伝統工芸 ===
* [[結城紬]]
* 間々田紐([[組み紐]])
* 下野しぼり
* 下野人形(しもつけひとがた)
=== 経済団体 ===
* [http://www.oyama-cci.or.jp/ 小山商工会議所]
* [http://kuwakinu.shokokai-tochigi.or.jp/ 小山市桑絹商工会]
* [http://mamada.shokokai-tochigi.or.jp/ 小山市間々田商工会]
* [http://mita-oyama.shokokai-tochigi.or.jp/ 小山市美田商工会]
* 『[[まちの駅]]・[[思季彩館]]』 - [[アンテナショップ]]
== 姉妹都市・友好都市 ==
=== 姉妹都市・友好都市 ===
* {{Flagicon|CHN}} [[紹興市]]([[中華人民共和国|中国]]・[[浙江省]])([[2010年]][[10月22日]]、友好交流関係都市調印)
* {{Flagicon|CHN}} [[本渓市|本溪市]]([[中華人民共和国|中国]]・[[遼寧省]])([[2014年]][[10月26日]]、友好交流関係都市調印)
* {{Flagicon|AUS}} [[オーストラリア]]の[[ケアンズ|ケアンズ市]]([[2006年]][[5月15日]]、姉妹都市協定締結)
* {{Flagicon|JPN}} [[茨城県]][[結城市]]([[2014年]][[10月2日]]、友好都市協定締結<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/politics/news/20141003/1735971 |title=小山市と結城市が友好都市に 結城紬振興など交流促進へ |publisher=下野新聞 |date=2014-10-03 |accessdate=2014-10-04 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2014-10-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141006093008/http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/politics/news/20141003/1735971}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14122564490734|title =お隣同士、紬の縁 結城、小山と友好都市に|publisher = 茨城新聞|date=2014-10-03|accessdate = 2014-10-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tochigi-tv.jp/news2/?date=2014-10-02#14988 |title=小山市と結城市が友好都市に |publisher=とちぎテレビ |date=2014-10-02 |accessdate=2014-10-04 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2014-10-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141006113123/https://www.tochigi-tv.jp/news2/?date=2014-10-02#14988}}</ref>、県境で接する自治体同士の友好都市は全国初)
=== 災害時相互応援協定締結都市 ===
* [[兵庫県]][[西宮市]]
* [[静岡県]][[富士宮市]]
* [[富山県]][[南砺市]]
* [[福井県]][[あわら市]]
* [[群馬県]][[富岡市]]
* [[東京都]][[世田谷区]]
== 地域 ==
=== 町名一覧 ===
地区分けは小山市ホームページの栃木県小山市大字町丁名別世帯数および人口推計(毎月1日)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.oyama.tochigi.jp/gyosei/tokei/seitaijinko.html |title=小山市大字町丁名別世帯数および人口推計 |access-date=2022-05-02 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2017-09-10 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170910083224/http://www.city.oyama.tochigi.jp/gyosei/tokei/seitaijinko.html |website=小山市}}</ref>における10地区分けに基づく。
{{Columns-start|num=4}}
==== 小山地区 ====
* 大字稲葉郷
* 駅東通り1-3丁目
* 駅南町1-6丁目
* 大字小山
* 神山1-2丁目
* 城北1-6丁目
* 城山町1-3丁目
* 神明町1-2丁目
* 中央町1-3丁目
* 天神町1-2丁目
* 大字外城
* 西城南1-7丁目
* 花垣町1-2丁目
* 東城南1-5丁目
* 大字神鳥谷
* 神鳥谷1-6丁目
* 粟宮1-2丁目
* 本郷町1-3丁目
* 三峯1-2丁目
* 宮本町1-3丁目
* 八幡町1-2丁目
* 若木町1-3丁目
==== 大谷地区 ====
* 大字雨ケ谷
* 大字雨ケ谷新田
* 大字犬塚
* 犬塚1-8丁目
* 城東1-7丁目
* 大字武井
* 大字田間
* 大字塚崎
* 大字土塔
* 大字中久喜
* 中久喜1-5丁目
* 大字東野田
* 大字南和泉
* 大字向原新田
* 大字横倉
* 大字横倉新田
{{Column}}
==== 間々田地区 ====
* 暁1-3丁目
* 大字粟宮
* 美しが丘1-3丁目
* 大字乙女
* 乙女1-3丁目
* 大字千駄塚
* 大字西黒田
* 大字東黒田
* 東間々田1-3丁目
* 大字平和
* 大字間々田
* 大字南飯田
* 南乙女1-2丁目
==== 生井地区 ====
* 大字網戸
* 大字上生井
* 大字生良
* 大字下生井
* 大字白鳥
* 大字楢木
==== 寒川地区 ====
* 大字押切
* 大字鏡
* 大字寒川
* 大字中里
* 大字迫間田
{{Column}}
==== 豊田地区 ====
* 大字荒川
* 大字今里
* 大字大本
* 大字小宅
* 大字上初田
* 大字黒本
* 大字小薬
* 大字渋井
* 大字島田
* 大字卒島
* 大字立木
* 大字松沼
==== 中地区 ====
* 大字井岡
* 大字生駒
* 大字大川島
* 大字上泉
* 大字小袋
* 大字下泉
* 大字下河原田
* 大字下初田
* 大字南小林
==== 穂積地区 ====
* 大字石ノ上
* 大字上石塚
* 大字上国府塚
* 大字塩沢
* 大字下石塚
* 大字下国府塚
* 大字大行寺
* 大字萩島
* 大字間中
{{Column}}
==== 桑地区 ====
* 大字荒井
* 大字飯塚
* 大字出井
* 大字萱橋
* 大字喜沢
* 大字北飯田
* 大字三拝川岸
* 大字鉢形
* 大字羽川
* 大字東島田
* 大字東山田
* 扶桑1-3丁目
* 大字南半田
* 大字向野
==== 絹地区 ====
* 大字高椅
* 大字田川
* 大字中河原
* 大字中島
* 大字延島
* 大字延島新田
* 大字福良
* 大字梁
{{Columns-end}}
=== 教育 ===
==== 大学 ====
* [[白鷗大学]]
==== 高等専門学校 ====
* [[小山工業高等専門学校]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/news/202112120000070.html |title=ロボコンで廃炉に興味を、遠隔操作で除染作業想定 小山高専が最優秀賞 |publisher=日刊スポーツ |date=2021-12-12 |accessdate=2021-12-12 |deadlinkdate=2022-05 |archive-date=2021-12-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211212071758/https://www.nikkansports.com/general/news/202112120000070.html}}</ref>
==== 専修学校 ====
* [[国際テクニカル調理師専門学校]]
* [[国際テクニカルデザイン☆自動車専門学校]]
* [[国際テクニカル美容専門学校]]
* [[中央福祉医療専門学校]]
* [[中央アートスクール]]
* [[小山歯科衛生士専門学校]]
* [[センス美容専修学校]]
==== 高等学校 ====
* [[栃木県立小山高等学校]]
* [[栃木県立小山城南高等学校]]
* [[栃木県立小山北桜高等学校]]
* [[栃木県立小山南高等学校]]
* [[栃木県立小山西高等学校]]
* [[学芸館高等学校]]小山学習センター
==== 義務教育学校 ====
市立義務教育学校 1校
* [[小山市立絹義務教育学校]](2017年4月、絹中学校・福良小学校・梁小学校・延島小学校を統合して開設。栃木県内初の[[義務教育学校]])
==== 中学校 ====
市立中学校 10校
* [[小山市立小山中学校]]
* [[小山市立小山第二中学校]]
* [[小山市立小山第三中学校]]
* [[小山市立小山城南中学校]]
* [[小山市立大谷中学校]]
* [[小山市立間々田中学校]]
* [[小山市立乙女中学校]]
* [[小山市立豊田中学校]]
* [[小山市立美田中学校]]
* [[小山市立桑中学校]]
==== 小学校 ====
市立小学校 25校
{{Multicol}}
* 小山市立小山第一小学校
* 小山市立小山第二小学校
* 小山市立小山第三小学校
* 小山市立小山城南小学校
* 小山市立東城南小学校
* 小山市立旭小学校
* 小山市立小山城北小学校
* 小山市立若木小学校
* 小山市立小山城東小学校
{{Multicol-break}}
* 小山市立大谷東小学校
* 小山市立大谷南小学校
* 小山市立大谷北小学校
* 小山市立間々田小学校
* 小山市立乙女小学校
* 小山市立間々田東小学校
* 小山市立下生井小学校
* 小山市立網戸小学校
* 小山市立寒川小学校
{{Multicol-break}}
* 小山市立豊田南小学校
* 小山市立豊田北小学校
* 小山市立穂積小学校
* 小山市立中小学校
* 小山市立羽川小学校
* 小山市立羽川西小学校
* 小山市立萱橋小学校
{{Multicol-end}}
===廃校となった学校===
* 小山市立絹中学校(2017年4月に「絹義務教育学校」に統合され廃校)
* 小山市立福良小学校(2017年4月に「絹義務教育学校」に統合され廃校)
* 小山市立梁小学校(2017年4月に「絹義務教育学校」に統合され廃校)
* 小山市立延島小学校(2017年4月に「絹義務教育学校」に統合され廃校)
平成26年1月、「市学校適正配置等検討懇話会」は小規模校を中心に計11小学校を統合対象として4校に再編、児童数増加が見込まれる城南地区で小学校を新設するなどの検討案を示した。
具体的には、乙女中学区の3校(乙女小・網戸小・下生井小)を乙女小に、絹中学区の3校(福良小・延島小・梁小)を福良小に、豊田中学区の2校と美田中学区の3校もそれぞれ統合する案を出しており、絹地区に関しては平成29年度からの義務教育学校への統合・改組が決定した。また、城南地区の新設校は、旭小と大谷東小学区の一部を学区として遅くとも2019年度に開校できることが望ましいと指摘した。用地は東城南地内の自由ヶ丘公園付近の公有地が有力とされている。
これらに合わせ、小中一貫校設置への検討及び小学校統合に際してスクールバスの導入などが検討されている。
==== 幼稚園 ====
私立
{{Multicol}}
* 早蕨幼稚園
* つぼみ幼稚園
* 間々田幼稚園
* 静林幼稚園
* 興徳幼稚園
* 清芳幼稚園
* 梅ヶ原幼稚園
* ことぶき幼稚園
{{Multicol-break}}
* みのり幼稚園
* 楠エンゼル幼稚園
* あおぞら幼稚園
* 小山幼稚園
* 乙女幼稚園
* 羽川幼稚園
* 栗の実幼稚園
* 白鷗大学はくおう幼稚園
{{Multicol-break}}
* 小山西幼稚園
* 安房神社幼稚園
* のぶしま幼稚園
* 大谷幼稚園
* 生井ゆりかご幼稚園
* ひまわり幼稚園
{{Multicol-end}}
==== 学校教育以外の施設 ====
===== 保育所 =====
{{Multicol}}
* やはた保育所
* 桑保育所
* 絹保育所
* 間々田保育所
* 城東保育所
* もみじ保育所
* 中久喜保育所
* 網戸保育所
* 若木保育所
{{Multicol-break}}
* 出井保育所
* 間々田北保育所
* あけぼの保育所
* 城北保育所
* 保育室 木の実
* すみれ保育園
* つくし保育園
* 小山西保育園
* こばと保育園
{{Multicol-break}}
* 黒田保育園
* 小山みなみ保育園
* みどり丘保育園
* さくら保育園
* 生光保育園
* あさひ保育園
* 栗の実保育園
{{Multicol-end}}
===== 職業訓練 =====
* [[関東職業能力開発大学校]](旧小山職業能力開発短期大学校、[[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発大学校]])
===== フリースクール =====
* 小山フリースクールおるたの家([[フォルケホイスコーレ]]を参考とした施設<ref>読売新聞 栃木版 2016年9月2日 29面掲載。</ref>)
=== 郵便 ===
郵便番号は以下が該当する。3集配局が集配を担当する。
* [[小山郵便局]]:「323-00xx」「323-08xx」
* [[間々田郵便局]]:「329-02xx」
* [[下野小金井郵便局]](下野市内):「323-01xx」<ref group="注釈">「323-01xx」地域は元・延島郵便局管轄。2006年に延島郵便局の無集配局化に伴って下野小金井郵便局へ移管</ref>
==== 郵便局 ====
{{Columns-start|num=2}}
* 小山郵便局(07011)
* 間々田郵便局(07021)
* 南小林郵便局(07047)
* 延島郵便局(07065)
* 小山上生井郵便局(07083)
* 小山城南郵便局(07092)
* 卒島郵便局(07094)
* 小山東野田郵便局(07146)
* 小山羽川郵便局(07189)
* 小山下石塚郵便局(07194)
{{Column}}
* 小山中里郵便局(07210)
* 小山天神郵便局(07227)
* 小山犬塚郵便局(07235)
* 小山花垣郵便局(07242)
* 小山間々田三郵便局(07269)
* 小山乙女郵便局(07278)
* 小山駅東通郵便局(07281)
* 小山雨ヶ谷新田郵便局(07289)
* 小山扶桑郵便局(07297)
* 小山中央二郵便局(07299)
{{Columns-end}}
=== 電話番号 ===
一部地域(後述)を除く市内全域が小山[[単位料金区域|MA]]の管轄となり、市外局番は「0285」。収容局は以下の6ビルが該当し、市内局番は以下の通り。
* 栃木小山局:20-25,30
* 雨ヶ谷局:27,28,31
* 卒島局:32,37
* 小山西局:33,38
* 間々田局:41,45
* 延島局:39,49
下記地域は小山市外の収容局が管轄となる。
* 部屋局(栃木MA):大字上生井・大字白鳥が該当。
* 栃木小金井局(小山MA):大字荒井の一部地域が該当。
* 薬師寺局(小山MA):大字田川・大字延島新田の一部地域が該当。
* 新野木局(古河MA):大字下生井が該当。
* 茨城三和局(古河MA):大字東野田の一部地域が該当。
* 結城局(下館MA):大字中河原および大字中島・大字福良・大字梁のそれぞれ一部地域が該当。
== 文化・医療 ==
=== 公共施設 ===
[[ファイル:OyamaCityArchives.JPG|thumb|240px|小山市文書館]]
* '''医療機関'''
** [[新小山市民病院]]
* '''図書館'''
** [[小山市立図書館|小山市立中央図書館]]
** 小山市立中央図書館小山分館
** 小山市立中央図書館間々田分館(間々田市民交流センター内)
** 小山市立中央図書館桑分館(桑市民交流センター内)
* '''文書館'''
** 小山市文書館
* '''博物館'''
** [[小山市立博物館]]
* '''美術館'''
** [[小山市立車屋美術館]]
**富張木版画美術館
* '''文化センター'''
** [[小山市立文化センター]]
* '''生涯学習センター'''
** [[小山市立生涯学習センター]](ROBLE6階)
* '''公民館'''
** 小山市立中央公民館
** 小山市立大谷公民館
** 小山市立間々田公民館
** 小山市立生井公民館
** 小山市立寒川公民館
** 小山市立豊田公民館
** 小山市立中公民館
** 小山市立穂積公民館
** 小山市立桑公民館
** 小山市立絹公民館
**: ※中央公民館以外はすべて市役所出張所に併設
* '''勤労青少年ホーム'''
** [[小山勤労青少年ホーム]]
* '''コミュニティーセンター'''
* [[小山城南市民交流センター]](ゆめまち)
** 小山市コミュニティーセンター
* '''運動施設'''
** [[栃木県立県南体育館]]
** [[栃木県立温水プール館]]
** [[小山運動公園]]
** [[小山勤労者体育センター]]
** [[あけぼの公園]]
** [[原の内公園]]テニスコート
** 思川緑地
** 小山市立弓道場
** 小山市立武道館
** 小山市民キャンプ場([[茨城県]][[茨城町]]・涸沼自然公園内)
== 交通 ==
=== 鉄道 ===
[[ファイル:OyamaSta-ekimae(West).JPG|thumb|right|250px|小山駅西口市街地(2005年5月)]]
本市は[[小山駅]]を中心に東西南北に鉄道路線が伸びており、鉄道交通の要衝として機能している。
* [[東日本旅客鉄道]]
** [[東北新幹線]]:小山駅
*: 1982年6月23日、東北新幹線大宮 - [[盛岡駅|盛岡]]間暫定開業と同時に開業。東北新幹線開業に先駆けて、小山試験線(延長42.8 km、1978年8月7日〜1980年6月試験実施)が建設された。当駅始発の東京行「[[なすの (列車)|なすの]]」が朝に1本設定されているが、当駅終着の列車は設定されていない。
** [[宇都宮線]]・[[湘南新宿ライン]]([[横須賀線]]直通)・[[上野東京ライン]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[伊東線]]直通):小山駅 - [[間々田駅]]
*: 東北本線小山駅は1885年7月16日に、間々田駅は1894年4月1日に、いずれも[[日本鉄道]]の駅として開業。
** [[両毛線]]:小山駅 - [[思川駅]]
*: 両毛線小山駅は1888年5月22日、両毛鉄道(現在の両毛線)開通と同時に開業。思川駅は1911年4月10日開業。
** [[水戸線]]:小山駅
*: 水戸線小山駅は1889年1月16日、水戸鉄道(現在の水戸線)開通と同時に開業。
※JR東日本[[小山車両センター]](旧小山電車区)は隣接する下野市にある。なお、東北新幹線の[[小山新幹線車両センター]](旧小山新幹線運転所)は小山市内の喜沢地区にある。
=== 路線バス ===
[[ファイル:Tomoi-taxi poncho O-bus mamada-route.jpg|thumb|250px|コミュニティバス「おーバス」]]
* [[関東自動車県南営業所|関東自動車]]<ref group="注釈">小山市ホームページでは「おーバス」の1路線として紹介しているが、正式には関東自動車が運行する一般路線。[https://www.city.oyama.tochigi.jp/site/o-bus/279.html 小山市ホームページ「おーバスQ&A」]の項も参照。</ref>
** 小山駅東口循環線
** 小山駅東口・新市民病院循環線
* [[おーバス]]([[コミュニティバス]])
*: 小山駅を中心に方面別に[[小山中央観光バス]]・[[友井タクシー]]・[[大山タクシー]]の3社が担当する。[https://www.city.oyama.tochigi.jp/site/o-bus/]
** 間々田線
** 羽川線
** ハーヴェストウォーク線
** 新市民病院線
** 間々田東西線
** 道の駅線
** 思川駅線<ref group="注釈" name=noritsugi>思川駅線と渡良瀬ラインでは、それぞれ栃木市ふれあいバスとの乗り継ぎを平成30年度より開始した。</ref>
** 高岳線
** 城東中久喜線
** 土塔平成通り線
** 大谷中央線
** 渡良瀬ライン<ref group="注釈" name=noritsugi />
** デマンドバス桑絹エリア
** デマンドバス大谷・間々田エリア
** デマンドバス豊田エリア
** デマンドバス中・穂積エリア
** デマンドバス寒川・生井エリア
=== 道路 ===
近年は国道50号を中心に幹線道路の道路整備が進みつつある。しかしながら、一部地域では、まちづくり協議会等を組織し、住宅地を中心に道路の拡幅化、新規建設が進行中であるが、依然として本市に隘路が多いことは、モータリゼーションの進展により地域社会の問題となっている。
また、本市を通過する[[高速道路]]はない。(最寄りの高速道路インターチェンジは[[東北自動車道]]の[[栃木インターチェンジ]]・[[佐野藤岡インターチェンジ]]。もしくは[[新4号国道]]を利用して[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]の[[五霞インターチェンジ]]も利用できる。)
==== 国道 ====
* [[国道4号]]:[[小山バイパス]]
** 北方面 - [[下野市|下野]]・[[上三川町|上三川]]・[[宇都宮市|宇都宮]]・[[那須塩原市|那須塩原]]・[[郡山市|郡山]]・[[福島市|福島]]・[[仙台市|仙台]]
** 南方面 - [[古河市|古河]]・[[久喜市|久喜]]・[[春日部市|春日部]]・[[越谷市|越谷]]・[[東京]]
* [[国道50号]]:[[岩舟小山バイパス]]、[[小山 - 結城拡幅]]
** 東方面 - [[結城市|結城]]・[[筑西市|筑西]]・[[桜川市|桜川]]・[[笠間市|笠間]]・[[水戸市|水戸]]
** 西方面 - [[栃木市|栃木]]・[[佐野市|佐野]]・[[足利市|足利]]・[[太田市|太田]]・[[桐生市|桐生]]・[[みどり市|みどり]]・[[伊勢崎市|伊勢崎]]・[[前橋市|前橋]]
* [[新4号国道]]:[[新4号国道#古河小山バイパス|古河小山バイパス]]、[[新4号国道#小山石橋バイパス|小山石橋バイパス]](国道4号バイパス)
==== 主要地方道 ====
* [[栃木県道18号小山壬生線]]
* [[栃木県道31号栃木小山線]]
* [[栃木県道33号小山環状線]]
* [[栃木県道36号岩舟小山線]]
* [[栃木県道50号藤岡乙女線]]
* [[栃木県道54号明野間々田線]]
==== 一般県道 ====
{{Multicol}}
* [[栃木県道103号間々田停車場線]]
* [[栃木県道146号結城石橋線]]
* [[栃木県道147号小金井結城線]]
* [[栃木県道153号南小林栃木線]]
* [[栃木県道160号和泉間々田線]]
* [[栃木県道173号萩島白鳥線]]
* [[栃木県道174号南小林松原線]]
{{Multicol-break}}
* [[茨城県道・栃木県道190号境間々田線|栃木県道190号境間々田線]]
* [[茨城県道・栃木県道191号大戦防小山線|栃木県道191号大戦防小山線]]
* [[栃木県道214号福良羽川線]]
* [[栃木県道243号小山城内線]]
* [[栃木県道263号小山停車場線]]
* [[栃木県道・茨城県道264号小山結城線|栃木県道264号小山結城線]]
* [[栃木県道265号粟宮喜沢線]]
{{Multicol-break}}
*[[茨城県道・栃木県道292号矢畑横倉新田線]]
* [[栃木県道・茨城県道294号東野田古河線|栃木県道294号東野田古河線]]
* [[栃木県道296号小山都賀線]]
* [[栃木県道311号小山大平線]]
* [[栃木県道339号小山下野線]]
* [[栃木県道313号渡良瀬遊水地壬生自転車道線]]
{{Multicol-end}}
=== 道の駅 ===
* [[道の駅思川|思川]](小山市下国府塚、国道50号岩舟小山バイパス沿い)
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
* [[おやま百景]]
=== 名所・旧跡 ===
* [[関ヶ原の戦い#東軍諸大名の反転|小山評定]]跡([[史跡|小山市指定史跡]]) ただし評定が行われた場所は現在、特定されていない。
* [[小山城 (下野国)|祇園城]]址(国指定史跡) 一般には小山城としても知られているが、この名の城は全国各地にあるとのこと。なお、この祇園城落城がちょうど[[七夕]]の日であった為、小山宿を中心とする地域では古くから七夕を祝わないという風習が残っている。
* [[鷲城]]址(国指定史跡) [[小山氏の乱|小山義政の乱]]の舞台となった城。現在も本丸に鷲神社が残る。
* [[中久喜城]]址(国指定史跡)
=== 神社 ===
*[[須賀神社 (小山市)|須賀神社]] 小山地域の総鎮守。旧郷社。
*[[高椅神社]] 延喜式内社。旧県社。料理の総鎮守として全国の料理人から崇拝を集めている。
*[[安房神社 (小山市)|安房神社]] 延喜式内社。旧郷社。
*[[胸形神社 (小山市)|胸形神社]] 延喜式内社。旧郷社。
*[[間々田八幡宮]] 祭礼行事のじゃがまいたは国重要無形文化財。
*[[白髭神社 (小山市)|白髭神社]]
*[[田間血方神社]]
=== 寺院 ===
*[[天翁院]] 小山氏の菩提寺。
*[[妙建寺 (小山市)|妙建寺]]
*[[興法寺]]
=== その他史跡 ===
* [[乙女不動原瓦窯跡]](国指定史跡)
*[[寺野東遺跡]](国指定史跡)
*[[琵琶塚古墳]](国指定史跡)
*[[摩利支天塚古墳]](国指定史跡)
=== 観光スポット・施設 ===
* [[小山ゆうえんち]] - 閉園。近年まで観覧車は残されていたがハーヴェストウォーク建設の際に解体、メリーゴーランドはそのまま利用され当時の場所に設置されている。
* [[おやまゆうえんハーヴェストウォーク]] - 小山ゆうえんちの跡地にオープンしたショッピングモール
* [[小山温泉 思川]]
* [[小山市まちの駅]]
* [[小山市立博物館]]
* [[KDDI]]国際通信史料館
* [[渡良瀬遊水地]]
* 道の駅思川(国道50号:小山市下国府塚)
=== 催し物 ===
* 胸形神社花桶かつぎ(1月)
* 小山の朝市(毎月第1日曜日)
* 小山の初市(1月成人の日)
* 白鳥八幡宮古式祭礼(2月)
* おやまのさくらまつり(3月下旬〜4月中旬頃。[[オモイガワ]]の開花時期が[[ソメイヨシノ]]よりも遅いため)
* 田間血方神社神楽(4月第2土・日曜日)
* 鯉のぼり群遊(4月下旬〜5月上旬頃)
* 間々田のジャガマイタ(5月5日。国重要無形民俗文化財)
* 思川の流しびな(7月第1日曜日)
* 須賀神社祇園祭(7月第3日曜日)
* おやまサマーフェスティバル(7月最終土日)<ref group="注釈">第56回の花火大会は[[参議院議員通常選挙]]の投・開票日と同日となり、花火大会を開催した場合、大きな支障を生じることから、7月30日(月)に日程を順延した。おやまサマーフェスティバル2010は、オープニングカーニバルを8月14日から8月18日に、第59回の花火大会を8月15日から8月29日に変更した。</ref>
** 二日目の夜には、小山市役所西側に位置する観晃橋下流の[[思川 (栃木県)|思川]]河畔で2万10発の『小山の花火』が開催される。人出は約45万人。定員6人のテーブル椅子席、定員5人のマス席、定員1人の階段指定席が販売される。階段指定席は、堤防の階段状の場所を利用した指定席で、1人から購入できる。
* おやま西口まつり(10月)
* 小山バルーンフェスタ(11月の土日)
=== キャラクター ===
* セグピー - 市の鳥、セグロセキレイを模したキャラクター。
* ピンキー - 市の花、オモイガワザクラを模したキャラクター。現在は2代目。
* [[開運★おやまくま]] - 顔が「小山」になっているキャラクター。おやまブランド公認のゆるキャラとして広報などに登場している。ゆるキャラグランプリ2012では総合84位、2013では総合44位。
* 政光くん・寒川尼ちゃん - 小山氏の祖、[[小山政光]]と妻[[寒河尼]]を模したキャラクター。ゆるキャラグランプリ2014では総合27位、2015では総合8位。
== 著名な出身者 ==
<!-- 以下の項目は、人名の五十音順で並べてください。 -->
=== 学術 ===
* [[左巻健男]](教育学者):法政大学教授
=== 俳優 ===
* [[石黒英雄]]:[[小山市立小山第三中学校]]出身
* [[近藤きらら]]
*[[村上新悟]]:[[小山工業高等専門学校]]
=== 声優 ===
* 大滝凌馬:[[栃木県立小山北桜高等学校]]出身
=== モデル ===
* [[本田恭子 (タレント)|本田恭子]](タレント):小山市立桑中学校出身
* [[武田静加]]
=== アイドル ===
* [[小池里奈]]
* [[北村悠]](元[[FLAME]]メンバー|ジュノンボーイコンテスト)
=== 歌手・音楽家 ===
* [[CLIEVY]]([[C&K]])
*[[中野雄太]]([[作曲家]]、[[HΛL|音楽グループHΛL]]の元メンバー):小山市立小山第三中学校 出身
=== アナウンサー ===
* [[白沢みき]]
* [[飯島誠 (アナウンサー)|飯島誠]]([[とちぎテレビ]])
=== 作家 ===
* [[有川周一]]
* [[梨屋アリエ]]
* [[福田雄一]](劇作家、放送作家、ドラマ・映画脚本家、演出家、映画監督)
=== 選手 ===
* [[横塚蛍]] ([[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]]・[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]/[[大塚商会越谷アルファーズ|越谷アルファーズ]]):小山市立小山城南小学校、[[小山市立小山城南中学校]]、[[白鷗大学]]出身
* [[飯嶋則之]] (競輪選手)
* [[飯原誉士]]([[プロ野球選手]]・[[栃木ゴールデンブレーブス]]):小山市立桑中学校、[[栃木県立小山高等学校]]出身
* [[出井敏博]]([[プロ野球選手]]・[[埼玉西武ライオンズ]]):小山市立乙女中学校出身
* [[海老沼匡]](柔道家)
* [[神山雄一郎]]([[競輪選手]])
* [[髙谷裕亮]]([[プロ野球選手]]・[[福岡ソフトバンクホークス]]):[[栃木県立小山北桜高等学校]]出身
* [[成瀬善久]]([[プロ野球選手]]・栃木ゴールデンブレーブス):小山市立桑中学校出身
* [[山口竜一]]([[騎手]]・[[ホッカイドウ競馬]])
* [[山崎真 (競馬)|山﨑真]]([[騎手]]・[[浦和競馬場|浦和競馬]])
* [[萩野公介]](競泳選手)
* [[三丸拡]]([[プロサッカー選手]]・[[柏レイソル]]):小山市立小山第三中学校出身
* [[貴源治賢]]([[大相撲]][[力士]]、[[十両]])
* [[貴ノ富士三造]](大相撲力士、十両)
* [[日向野知恵]](ブラジリアン柔術家、元[[プロボクサー]])
* [[長谷部浩平]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]])
=== その他 ===
* [[田波御白]]([[歌人]])
* [[片浦弘道]]([[カーボンナノチューブ]]研究)
* [[小林剛 (画家)|小林剛]]([[画家]])
* [[左巻健男]](教育学者)
* [[高橋房次]](医師)
* へらへら三銃士 ありしゃん([[YouTuber]]):小山市立間々田中学校出身
* 田中和雄([[イラストレーター]]):小山市立小山中学校出身
== ゆかりの人物 ==
* [[江川卓 (野球)|江川卓]](元[[プロ野球選手]]・投手、プロ野球解説者)小山市立小山中学校出身
* [[広澤克実]](元・[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]、[[読売ジャイアンツ]]、[[阪神タイガース]])[[茨城県]]出身、[[栃木県立小山高等学校]]出身。
* [[福地翼]](漫画家、[[栃木県]][[日光市]]出身、小山市育ち)
* [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]](俳優、小山市生まれ、[[茨城県]][[古河市]]育ち)
* [[富張広司]](版画家、[[茨城県]][[境町]]出身、小山市在住)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
* {{Official website}}
* {{Facebook|oyamacity|小山市}}
* {{Instagram|tochigioyama|開運のまち おやま}}
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[[Category:栃木県の市町村]]
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写研
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株式会社写研(しゃけん)は、東京都豊島区南大塚に本社を置く、写真植字機・専用組版システムの製造・開発、書体の制作およびその文字盤・専用フォント製品を販売する企業である。
星製薬を退職して写真植字機の実用化を目指していた石井茂吉と森澤信夫が2台目の試作機を完成させた1926年11月3日、石井の自宅を所在地に設立した写真植字機研究所を由来とする。1929年には最初の実用機の販売を開始。戦後1948年に一時的に復帰していた森澤が写研を再度離れ、新たに「写真植字機製作株式会社」(現・モリサワ)を設立したのちも、高度成長期の印刷需要急伸に伴う写真植字の急速な普及の波に乗り、先進的な写真植字機と高品位の書体が評価されて写真植字のトップメーカーに成長した。
1963年の石井茂吉没後、半世紀以上にわたって社長として君臨した三女の石井裕子(1926年9月28日 - 2018年9月24日)のワンマン経営のもと、写植全盛期の1980年代半ばには関東で8割、関西で6割の書体占有率を誇り、当時の価格で手動写植機が1台1000万円、電算写植機が1台数千万円から1億円余(SAPTRON-APS5H、1981年)と同業他社に比べても割高で、さらに組版から出力までの専用機器一式を販売するごとに億単位の売上を確実に得られる自社機器の販売で年商は300億円を超え、従業員は1200人を超える大手企業となった。
しかし1990年代、写植にない操作性の良さと低コストで広く普及したMacintoshによるDTPには背を向け、印字1文字ごとにユーザーから使用料を徴収でき、高額な自社製機器販売による売上が見込める自社固有の電算写植システムに固執したため業績は急激に悪化。過去の利益を蓄えた数百億円に上る多額の内部留保金を温存したまま、2003年以降、大きく事業規模を縮小した。
活字時代のモトヤ出身で1963年から30年余にわたり文字制作責任者として写研の数々の書体の制作や監修を手掛け、のち活字メーカーを母体とするイワタエンジニアリング(現・イワタ)で現場指導にあたり同社を国内有数のデジタルフォントベンダーの1社に育てた書体設計士橋本和夫(イワタ顧問)のほか、写研を代表する装飾書体「スーボ」を生み、のちに字游工房社長として「ヒラギノ明朝体」(1993年)などを送り出した鈴木勉(1998年没)や、今田欣一(欣喜堂)、小林章(独モノタイプ)など、現代のデジタルフォント環境に貢献する著名な書体デザイナーを輩出したことでも知られる。
長く活字組版の効率性を越えることができず、主に端物用として扱われた手動写植機の欠点をコンピュータで補うことで、本文組を活字から奪うことを目指した写真植字機「電算写植」は、高額な設備投資がユーザーに可能であった高度経済成長の追い風のもと、写研の「SAPTON」システムが牽引する形で、大手の新聞社や出版社、印刷会社を顧客の中心として1970年代から普及が本格化。「写植」は登場から半世紀を経てようやく組版の主役となったが、地方の印刷会社では経営規模に比べ負担があまりにも過大なため、1971年の長野県を皮切りに、複数社が共同で資金を出し合って電算写植システムを共有する「電算写植協同組合」が設立されるほど、多額の費用を写植機メーカーに支払う必要があった。
1980年代、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語PostScriptフォントの制作を目指していた。アドビは1986年、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否。最終的にアドビは業界2位のモリサワと提携し、1989年、モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「LaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された。これは1990年代以降の急速な日本語DTP普及の端緒となった。
一方、そのころの写研は電電公社民営化(1985年)に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受け、1987年以降、各出力装置を電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制を導入。この課金徴収システムの整備と、高額な電算写植機の製造販売で、1991年には年間売上が過去最高の350億円に達した。
しかしバブル崩壊の中、関連機器を含めた一式の導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植に比べ、圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「Macintosh」とともに急速に普及し、写研の業績は瞬く間に悪化した。
写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、1998年には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた。
この間、1989年には鈴木勉や小林章など、文字開発部の主力デザイナーが一斉に退社し、その後も1990年代末にかけてデザイナーの退社が相次いだ。
創業者石井茂吉の三女で1963年からワンマン経営を続けていた社長の石井裕子自身は、没するまで書体制作には一度も携わったことはなかったが、文字開発のデジタル化に伴いワークステーション上での原字修整作業を可能にしたいとする文字開発部の要望を拒否し、デジタル化した原字データを再度アナログ出力し手作業で修整する従来の工程厳守を命じた。創業70周年の1995年に向けて開発中だった本蘭ゴシックファミリーは、石井の要求でデザインコンセプトの大変更を余儀なくされたことも重なり、70周年には間に合わなかった。石井はまた、この時期に提案された写研書体の自社システム以外での使用開放案も却下した。
写研は2000年、電算写植システム専用の新書体として本蘭ゴシックファミリーを当初の予定から5年遅れで発表したが、結果としてこれが写研最後の新書体となった。売上は対前年比で毎年約10〜30%の落ち込みが続いたため、2003年に早期退職募集を行った結果、組版システム開発にあたるソフト開発部門は56人から3人、製品販売を手掛ける営業部門は46人から1人にそれぞれ激減し、事業体制は零細・小企業並みの規模に転落した。
2006年の売上は機械販売5500万円、機械付属品販売1億4800万円、売上全体の7割を占めるフォントレンタル収入も9億1700万円にとどまり、年商規模は1990年代末のおよそ10分の1となったが、写研の本来の事業とは無関係なアルバイト程度の内職仕事を社外から集め職場で従業員に従事させながらも、企業として目立った事業展開は行わないまま、最盛期に蓄えた400億円を超す内部留保だけは取り崩さず堅持するという異様な経営を続けた。2007年7月時点の従業員数は109人で、うち工場所属は40人(埼玉工場30人、川越工場10人)、地方営業所所属は9人と、最盛期の10分の1以下となり、まもなく100人を割り込んだ。高齢化も進み、同年5月現在で従業員全体の7割以上が50歳以上であった。
以後、パーソナルコンピュータによる各種出力が一般化し、機器老朽化や写植用印画紙の供給終了(2013年10月)などによる既存写植機との置き換えが進んだことで、一般商業印刷、放送業界におけるテレビ番組のテロップ、各種屋外掲示物などで広く使われてきた写研書体のほとんどは姿を消した。
2018年、半世紀以上にわたり代表取締役社長の座を占めた石井裕子が在任のまま92歳で死去した。後任社長には資産管理を行っている顧問税理士で取締役の南村員哉が就任し、閉鎖状態となっていた旧工場などの遊休地処分をただちに開始した。同年には旧川越工場(埼玉県川越市)の施設を解体して鶴ヶ島市内の所有地と合わせて住友商事に売却し、同社運営の物流施設「SOSiLA川越」(2019年2月竣工)が進出。2020年には旧埼玉工場(埼玉県和光市)も写研が発注者となって解体工事を開始した。跡地は食品スーパーのヤオコーへ賃貸され、2021年10月にヤオコーが管理・運営する商業施設「the marketplace 和光」となった。2020年8月には南村に加え、前年7月に取締役に加わったばかりの笠原義隆が代表権を取得し社長に就任した。
写研は2011年7月、東京ビッグサイトで開かれた「第15回国際電子出版EXPO2011」に出展。従来の方針を大きく転換し、OpenType化した「写研フォント」を年内をめどにリリースすると石井裕子社長名で発表した。写研はこの時点でOpenType化作業は終了しているとして、会場ではどの書体からリリースするべきかのアンケートを行うとともに、印刷業界におけるプロユースを念頭に、Adobe InDesign CS5上での組版やiPadでの電子書籍閲覧などで写研フォントを用いるデモンストレーションを行い、大きく注目された。価格は未定で、電算写植機用デジタルアウトラインフォント(Cフォント、タショニムフォント)で存在する全書体を予定していた。
しかしOpenType化の元データとなったCフォントやタショニムフォントは、1980年代初頭の古い技術と設計水準で製作されたもので、各社の現行デジタルフォントに比べ、原字に対するアウトラインの精度が低かったため、写研は1文字ずつデータを修整する作業に着手せざるを得なくなり、2011年末を過ぎても販売時期未定の状態が続いた。
さらに写植時代の既存文字だけではAdobe-Japan1-3(OpenType Std)相当にしかならない問題があり、写研が印刷業界の自社ユーザーに聞き取りを行ったところ、最低でもAdobe-Japan1-4(OpenType Pro、2000年3月発表)以上を必要とする現代の商業印刷では、プロユースに用いるには難しいとの指摘がなされた。印刷業界が求めるAJ1-4以上にするには、写植時代にはなかった不足分の文字を各書体ごとに新しくデザインする作業が避けられない一方、写研から書体開発のデザイナーたちが去って既に10年あまりの年月が経過しており、結局2016年ごろを最後に「写研フォント」を提供しようとする動きはいったん途絶えた。
2021年1月18日、モリサワは写研社長・笠原義隆およびモリサワ社長・森澤彰彦の双方のコメントとともに、両社共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意したと発表した。手動写植機試作1号機開発中の1924年に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる2024年から順次提供するとしている。
書体開発はモリサワと同社子会社の字游工房が共同で行い、写研出身の書体設計士、鳥海修(字游工房)が全体監修を行う。クラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」で2024年に提供する予定の書体は、『石井明朝』ファミリー(「ニュースタイル」および「オールドスタイル」、ウェイト各4種)と『石井ゴシック』ファミリー(ウェイト5種)の計13書体としている。
写研は1990年代初頭に一時自社ドメイン"SHA-KEN.CO.JP"を取得したものの、更新手続きを行わず1993年に日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)によって削除された。その後21世紀に入っても長く公式サイトが存在しない状態が続いていたが、石井裕子没後の2019年7月19日に"SHA-KEN.CO.JP"を再取得。同ドメインによる自社公式サイトを2021年3月8日に初めて開設し、同年5月26日には過去に発表した自社書体や歴史を紹介する「写研アーカイブ」を公開した。
1998年(平成10年)、写研は所得隠しと粉飾決算の疑いで国税庁の査察を受け、社内の地下金庫で同庁の査察史上前例のない現金約85億円と割引金融債約25億円が一度に見つかったことが1999年(平成11年)1月に明らかになった。
写研は高額な電算写植機の販売が急伸していた1975年(昭和50年)ごろから1988年(昭和63年)にかけて、自社の取引のほとんどを現金や小切手で行っていたことを利用し、営業部門の売上から取り除いた現金を毎年10億円前後、経理担当幹部が地下倉庫の金庫に運び込み、裏金として蓄財していた。さらに急速な業績悪化が始まった1992年(平成4年)からは、赤字決算を避けようと、裏金を年間5、6億円程度経理に戻し、高いもので一式の価格が1億5000万円の印刷機器などを販売したことを装い、架空の利益を計上して決算を粉飾していた。
発覚時点で脱税に関しては時効が成立していたため、国税庁は発見された現金等を会社資産として繰り入れるよう指導するとともに、割引金融債の時効内の利息分に対してのみ追徴処分をとった。
写研は「美しい組版のために文字(書体)と組版機器・ソフトウェアを切り離すことはできない」とうたい、両者を抱き合わせた形態でしか販売しなかった。
中級機種。
多機能上位機種。
ビジネスフォーム用。
新聞組版用。
高解像度のCRT上に文字を出力して感材に露光する方式で印字高速化。
アウトラインフォント(1985年、Cフォントと命名)を搭載しレーザーで感材に露光する方式で文字画像を一括出力するイメージタイプセッター(製版機)。
SAPNET-NをベースにほぼWYSIWYGを実現したレイアウトターミナルで、出力機として校正用プリンターSAGOMESシリーズやイメージタイプセッターSAPLSシリーズが別に必要。印画紙出力に近いイメージを画面表示することができた。ページ物向きとされたSAIVERT-SとSAIVERT-P、端物を主に扱う単ページ用のSAIVERT-Hがあった。
放送用電子テロップ送出装置。
写研は、自社製品対応書体のほとんどを社内で設計・開発した。活字に比べ写植文字盤は1書体あたりの専有面積が少なく、字数が多い日本語でも多くの書体を扱うことが可能となったため、同社では積極的に新書体を開発した。1969年には賞金100万円(第1回当時)の石井賞創作タイプフェイスコンテストを設けて開発を奨励。ゴナやスーボ、ナール、ボカッシイなど、ユニークかつ完成度の高いデザイン書体が多く発表された。
写研の主な和文書体の発表年は次の通りである。
※書体名は2001年時点の呼称。当初、本蘭明朝Lは「本蘭細明朝」ファミリー展開前は、ゴナUはゴナ、創挙蘭(現在の創挙蘭E)などはウェイト表示のないものとしてリリースされた。
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"text": "株式会社写研(しゃけん)は、東京都豊島区南大塚に本社を置く、写真植字機・専用組版システムの製造・開発、書体の制作およびその文字盤・専用フォント製品を販売する企業である。",
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"text": "星製薬を退職して写真植字機の実用化を目指していた石井茂吉と森澤信夫が2台目の試作機を完成させた1926年11月3日、石井の自宅を所在地に設立した写真植字機研究所を由来とする。1929年には最初の実用機の販売を開始。戦後1948年に一時的に復帰していた森澤が写研を再度離れ、新たに「写真植字機製作株式会社」(現・モリサワ)を設立したのちも、高度成長期の印刷需要急伸に伴う写真植字の急速な普及の波に乗り、先進的な写真植字機と高品位の書体が評価されて写真植字のトップメーカーに成長した。",
"title": "概要"
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"text": "1963年の石井茂吉没後、半世紀以上にわたって社長として君臨した三女の石井裕子(1926年9月28日 - 2018年9月24日)のワンマン経営のもと、写植全盛期の1980年代半ばには関東で8割、関西で6割の書体占有率を誇り、当時の価格で手動写植機が1台1000万円、電算写植機が1台数千万円から1億円余(SAPTRON-APS5H、1981年)と同業他社に比べても割高で、さらに組版から出力までの専用機器一式を販売するごとに億単位の売上を確実に得られる自社機器の販売で年商は300億円を超え、従業員は1200人を超える大手企業となった。",
"title": "概要"
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"text": "しかし1990年代、写植にない操作性の良さと低コストで広く普及したMacintoshによるDTPには背を向け、印字1文字ごとにユーザーから使用料を徴収でき、高額な自社製機器販売による売上が見込める自社固有の電算写植システムに固執したため業績は急激に悪化。過去の利益を蓄えた数百億円に上る多額の内部留保金を温存したまま、2003年以降、大きく事業規模を縮小した。",
"title": "概要"
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"text": "活字時代のモトヤ出身で1963年から30年余にわたり文字制作責任者として写研の数々の書体の制作や監修を手掛け、のち活字メーカーを母体とするイワタエンジニアリング(現・イワタ)で現場指導にあたり同社を国内有数のデジタルフォントベンダーの1社に育てた書体設計士橋本和夫(イワタ顧問)のほか、写研を代表する装飾書体「スーボ」を生み、のちに字游工房社長として「ヒラギノ明朝体」(1993年)などを送り出した鈴木勉(1998年没)や、今田欣一(欣喜堂)、小林章(独モノタイプ)など、現代のデジタルフォント環境に貢献する著名な書体デザイナーを輩出したことでも知られる。",
"title": "概要"
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"text": "長く活字組版の効率性を越えることができず、主に端物用として扱われた手動写植機の欠点をコンピュータで補うことで、本文組を活字から奪うことを目指した写真植字機「電算写植」は、高額な設備投資がユーザーに可能であった高度経済成長の追い風のもと、写研の「SAPTON」システムが牽引する形で、大手の新聞社や出版社、印刷会社を顧客の中心として1970年代から普及が本格化。「写植」は登場から半世紀を経てようやく組版の主役となったが、地方の印刷会社では経営規模に比べ負担があまりにも過大なため、1971年の長野県を皮切りに、複数社が共同で資金を出し合って電算写植システムを共有する「電算写植協同組合」が設立されるほど、多額の費用を写植機メーカーに支払う必要があった。",
"title": "歴史"
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"text": "1980年代、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語PostScriptフォントの制作を目指していた。アドビは1986年、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否。最終的にアドビは業界2位のモリサワと提携し、1989年、モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「LaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された。これは1990年代以降の急速な日本語DTP普及の端緒となった。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、そのころの写研は電電公社民営化(1985年)に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受け、1987年以降、各出力装置を電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制を導入。この課金徴収システムの整備と、高額な電算写植機の製造販売で、1991年には年間売上が過去最高の350億円に達した。",
"title": "歴史"
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"text": "しかしバブル崩壊の中、関連機器を含めた一式の導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植に比べ、圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「Macintosh」とともに急速に普及し、写研の業績は瞬く間に悪化した。",
"title": "歴史"
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"text": "写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、1998年には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた。",
"title": "歴史"
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"text": "この間、1989年には鈴木勉や小林章など、文字開発部の主力デザイナーが一斉に退社し、その後も1990年代末にかけてデザイナーの退社が相次いだ。",
"title": "歴史"
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"text": "創業者石井茂吉の三女で1963年からワンマン経営を続けていた社長の石井裕子自身は、没するまで書体制作には一度も携わったことはなかったが、文字開発のデジタル化に伴いワークステーション上での原字修整作業を可能にしたいとする文字開発部の要望を拒否し、デジタル化した原字データを再度アナログ出力し手作業で修整する従来の工程厳守を命じた。創業70周年の1995年に向けて開発中だった本蘭ゴシックファミリーは、石井の要求でデザインコンセプトの大変更を余儀なくされたことも重なり、70周年には間に合わなかった。石井はまた、この時期に提案された写研書体の自社システム以外での使用開放案も却下した。",
"title": "歴史"
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"text": "写研は2000年、電算写植システム専用の新書体として本蘭ゴシックファミリーを当初の予定から5年遅れで発表したが、結果としてこれが写研最後の新書体となった。売上は対前年比で毎年約10〜30%の落ち込みが続いたため、2003年に早期退職募集を行った結果、組版システム開発にあたるソフト開発部門は56人から3人、製品販売を手掛ける営業部門は46人から1人にそれぞれ激減し、事業体制は零細・小企業並みの規模に転落した。",
"title": "歴史"
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"text": "2006年の売上は機械販売5500万円、機械付属品販売1億4800万円、売上全体の7割を占めるフォントレンタル収入も9億1700万円にとどまり、年商規模は1990年代末のおよそ10分の1となったが、写研の本来の事業とは無関係なアルバイト程度の内職仕事を社外から集め職場で従業員に従事させながらも、企業として目立った事業展開は行わないまま、最盛期に蓄えた400億円を超す内部留保だけは取り崩さず堅持するという異様な経営を続けた。2007年7月時点の従業員数は109人で、うち工場所属は40人(埼玉工場30人、川越工場10人)、地方営業所所属は9人と、最盛期の10分の1以下となり、まもなく100人を割り込んだ。高齢化も進み、同年5月現在で従業員全体の7割以上が50歳以上であった。",
"title": "歴史"
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"text": "以後、パーソナルコンピュータによる各種出力が一般化し、機器老朽化や写植用印画紙の供給終了(2013年10月)などによる既存写植機との置き換えが進んだことで、一般商業印刷、放送業界におけるテレビ番組のテロップ、各種屋外掲示物などで広く使われてきた写研書体のほとんどは姿を消した。",
"title": "歴史"
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"text": "2018年、半世紀以上にわたり代表取締役社長の座を占めた石井裕子が在任のまま92歳で死去した。後任社長には資産管理を行っている顧問税理士で取締役の南村員哉が就任し、閉鎖状態となっていた旧工場などの遊休地処分をただちに開始した。同年には旧川越工場(埼玉県川越市)の施設を解体して鶴ヶ島市内の所有地と合わせて住友商事に売却し、同社運営の物流施設「SOSiLA川越」(2019年2月竣工)が進出。2020年には旧埼玉工場(埼玉県和光市)も写研が発注者となって解体工事を開始した。跡地は食品スーパーのヤオコーへ賃貸され、2021年10月にヤオコーが管理・運営する商業施設「the marketplace 和光」となった。2020年8月には南村に加え、前年7月に取締役に加わったばかりの笠原義隆が代表権を取得し社長に就任した。",
"title": "歴史"
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"text": "写研は2011年7月、東京ビッグサイトで開かれた「第15回国際電子出版EXPO2011」に出展。従来の方針を大きく転換し、OpenType化した「写研フォント」を年内をめどにリリースすると石井裕子社長名で発表した。写研はこの時点でOpenType化作業は終了しているとして、会場ではどの書体からリリースするべきかのアンケートを行うとともに、印刷業界におけるプロユースを念頭に、Adobe InDesign CS5上での組版やiPadでの電子書籍閲覧などで写研フォントを用いるデモンストレーションを行い、大きく注目された。価格は未定で、電算写植機用デジタルアウトラインフォント(Cフォント、タショニムフォント)で存在する全書体を予定していた。",
"title": "写研書体の「OpenTypeフォント化」"
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"text": "しかしOpenType化の元データとなったCフォントやタショニムフォントは、1980年代初頭の古い技術と設計水準で製作されたもので、各社の現行デジタルフォントに比べ、原字に対するアウトラインの精度が低かったため、写研は1文字ずつデータを修整する作業に着手せざるを得なくなり、2011年末を過ぎても販売時期未定の状態が続いた。",
"title": "写研書体の「OpenTypeフォント化」"
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"text": "さらに写植時代の既存文字だけではAdobe-Japan1-3(OpenType Std)相当にしかならない問題があり、写研が印刷業界の自社ユーザーに聞き取りを行ったところ、最低でもAdobe-Japan1-4(OpenType Pro、2000年3月発表)以上を必要とする現代の商業印刷では、プロユースに用いるには難しいとの指摘がなされた。印刷業界が求めるAJ1-4以上にするには、写植時代にはなかった不足分の文字を各書体ごとに新しくデザインする作業が避けられない一方、写研から書体開発のデザイナーたちが去って既に10年あまりの年月が経過しており、結局2016年ごろを最後に「写研フォント」を提供しようとする動きはいったん途絶えた。",
"title": "写研書体の「OpenTypeフォント化」"
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"text": "2021年1月18日、モリサワは写研社長・笠原義隆およびモリサワ社長・森澤彰彦の双方のコメントとともに、両社共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意したと発表した。手動写植機試作1号機開発中の1924年に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる2024年から順次提供するとしている。",
"title": "写研書体の「OpenTypeフォント化」"
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{
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"text": "書体開発はモリサワと同社子会社の字游工房が共同で行い、写研出身の書体設計士、鳥海修(字游工房)が全体監修を行う。クラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」で2024年に提供する予定の書体は、『石井明朝』ファミリー(「ニュースタイル」および「オールドスタイル」、ウェイト各4種)と『石井ゴシック』ファミリー(ウェイト5種)の計13書体としている。",
"title": "写研書体の「OpenTypeフォント化」"
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"text": "写研は1990年代初頭に一時自社ドメイン\"SHA-KEN.CO.JP\"を取得したものの、更新手続きを行わず1993年に日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)によって削除された。その後21世紀に入っても長く公式サイトが存在しない状態が続いていたが、石井裕子没後の2019年7月19日に\"SHA-KEN.CO.JP\"を再取得。同ドメインによる自社公式サイトを2021年3月8日に初めて開設し、同年5月26日には過去に発表した自社書体や歴史を紹介する「写研アーカイブ」を公開した。",
"title": "自社公式サイトの開設"
},
{
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"text": "1998年(平成10年)、写研は所得隠しと粉飾決算の疑いで国税庁の査察を受け、社内の地下金庫で同庁の査察史上前例のない現金約85億円と割引金融債約25億円が一度に見つかったことが1999年(平成11年)1月に明らかになった。",
"title": "不祥事"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "写研は高額な電算写植機の販売が急伸していた1975年(昭和50年)ごろから1988年(昭和63年)にかけて、自社の取引のほとんどを現金や小切手で行っていたことを利用し、営業部門の売上から取り除いた現金を毎年10億円前後、経理担当幹部が地下倉庫の金庫に運び込み、裏金として蓄財していた。さらに急速な業績悪化が始まった1992年(平成4年)からは、赤字決算を避けようと、裏金を年間5、6億円程度経理に戻し、高いもので一式の価格が1億5000万円の印刷機器などを販売したことを装い、架空の利益を計上して決算を粉飾していた。",
"title": "不祥事"
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{
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"text": "発覚時点で脱税に関しては時効が成立していたため、国税庁は発見された現金等を会社資産として繰り入れるよう指導するとともに、割引金融債の時効内の利息分に対してのみ追徴処分をとった。",
"title": "不祥事"
},
{
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"text": "写研は「美しい組版のために文字(書体)と組版機器・ソフトウェアを切り離すことはできない」とうたい、両者を抱き合わせた形態でしか販売しなかった。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "中級機種。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "多機能上位機種。",
"title": "代表的な製品"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "ビジネスフォーム用。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"tag": "p",
"text": "新聞組版用。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "高解像度のCRT上に文字を出力して感材に露光する方式で印字高速化。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "アウトラインフォント(1985年、Cフォントと命名)を搭載しレーザーで感材に露光する方式で文字画像を一括出力するイメージタイプセッター(製版機)。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "SAPNET-NをベースにほぼWYSIWYGを実現したレイアウトターミナルで、出力機として校正用プリンターSAGOMESシリーズやイメージタイプセッターSAPLSシリーズが別に必要。印画紙出力に近いイメージを画面表示することができた。ページ物向きとされたSAIVERT-SとSAIVERT-P、端物を主に扱う単ページ用のSAIVERT-Hがあった。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "放送用電子テロップ送出装置。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "写研は、自社製品対応書体のほとんどを社内で設計・開発した。活字に比べ写植文字盤は1書体あたりの専有面積が少なく、字数が多い日本語でも多くの書体を扱うことが可能となったため、同社では積極的に新書体を開発した。1969年には賞金100万円(第1回当時)の石井賞創作タイプフェイスコンテストを設けて開発を奨励。ゴナやスーボ、ナール、ボカッシイなど、ユニークかつ完成度の高いデザイン書体が多く発表された。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "写研の主な和文書体の発表年は次の通りである。",
"title": "代表的な製品"
},
{
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"text": "※書体名は2001年時点の呼称。当初、本蘭明朝Lは「本蘭細明朝」ファミリー展開前は、ゴナUはゴナ、創挙蘭(現在の創挙蘭E)などはウェイト表示のないものとしてリリースされた。",
"title": "代表的な製品"
}
] |
株式会社写研(しゃけん)は、東京都豊島区南大塚に本社を置く、写真植字機・専用組版システムの製造・開発、書体の制作およびその文字盤・専用フォント製品を販売する企業である。
|
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社写研
| 英文社名 = Sha-Ken Co., Ltd.
| ロゴ = [[File:Logo of Japanese type foundry Shaken (写研のロゴ).png|120px|]]
| 画像 =
| 画像説明 =
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 機関設計 =
| 市場情報 =
| 略称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 170-0005
| 本社所在地 = [[東京都]][[豊島区]][[南大塚 (豊島区)|南大塚]]2丁目26-13
| 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 43|本社緯度秒 = 42.2|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139|本社経度分 = 43|本社経度秒 = 48.2|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1926年]](創業)<br />[[1950年]](法人化)
| 業種 = 5250
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 写真植字機の製造、販売及び研究<br />デジタルフォントの開発及び販売<br />不動産の売買、賃貸借及び管理<br />有価証券の保有、売買<ref name="kanpo">株式会社写研登記簿、2020年09月10日現在、法務省</ref>
| 代表者 = 代表取締役会長 南村員哉<br />代表取締役社長 笠原義隆<ref name="kanpo" /><ref name="newpri">{{Wayback |url=http://www.newprinet.co.jp/?p=17746|title=写研 新社長に南村員哉氏が就任(印刷業界ニュースNEWPRINET 2018年12月3日付記事) |date=20181204}}</ref><ref name="corporate">[https://sha-ken.co.jp/about/ 写研について]、2021年3月8日、株式会社写研</ref>
| 資本金 = 9720万円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 =
| 営業利益 =
| 経常利益 =
| 純利益 =
| 純資産 =
| 総資産 =
| 従業員数 =
| 支店舗数 =
| 決算期 =
| 会計監査人 =
| 所有者 =
| 主要株主 =
| 主要部門 =
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[石井茂吉]](創業者)
| 外部リンク = https://sha-ken.co.jp/
| 特記事項 = [[1926年]]創業。[[1972年]]に現社名へ商号変更。
}}
'''株式会社写研'''(しゃけん)は、[[東京都]][[豊島区]][[南大塚 (豊島区)|南大塚]]に[[本社]]を置く、[[写真植字機]]・専用[[組版]]システムの製造・[[開発]]、[[書体]]の[[制作]]およびその文字盤・専用[[フォント]]製品を販売する企業である。
== 概要 ==
[[星製薬]]を退職して写真植字機の実用化を目指していた[[石井茂吉]]と[[森澤信夫]]が2台目の試作機を完成させた[[1926年]][[11月3日]]、石井の自宅を所在地に設立した'''写真植字機研究所'''を由来とする。[[1929年]]には最初の実用機の販売を開始。戦後[[1948年]]に一時的に復帰していた森澤が写研を再度離れ、新たに「写真植字機製作株式会社」(現・[[モリサワ]])を設立したのち<ref>森澤は1933年に開発方針の違いから離れたが、戦災復旧のため一時的に復帰していた。その後も茂吉は、事業や開発方針での意見の相違とは切り離して森澤との個人的な交友関係を継続していたが、裕子が事業を相続して以降、裕子のワンマン経営が災いして、石井家や写研は森澤家やモリサワとの関係に齟齬が生じていた。</ref>も、高度成長期の印刷需要急伸に伴う写真植字の急速な普及の波に乗り、先進的な写真植字機と高品位の書体が評価されて写真植字のトップメーカーに成長した。
[[1963年]]の石井茂吉没後、半世紀以上にわたって社長として君臨した三女の石井{{ルビ|裕子|ひろこ}}([[1926年]]9月28日 - [[2018年]]9月24日)のワンマン経営のもと<ref name="yomi">「[隠蔽]写研=下 私物化で〝斜陽〟加速」読売新聞 1999年1月4日付朝刊 30面.</ref>、[[写真植字|写植]]全盛期の[[1980年代]]半ばには関東で8割、関西で6割の書体占有率を誇り<ref name="tori">[[鳥海修]], [https://doi.org/10.11247/jssds.17.2_16 フォントベンダーの近況(<特集>タイポグラフィ研究の現在)]」『デザイン学研究特集号』 2010年 17巻 2号 p.16-20, 日本デザイン学会, {{doi|10.11247/jssds.17.2_16}}</ref>、当時の価格で手動写植機が1台1000万円、電算写植機が1台数千万円から1億円余(SAPTRON-APS5H、[[1981年]])と同業他社に比べても割高で、さらに組版から出力までの専用機器一式を販売するごとに億単位の売上を確実に得られる自社機器の販売で年商は300億円を超え、従業員は1200人を超える大手企業となった<ref name="tori" />。
しかし[[1990年代]]、写植にない操作性の良さと低コストで広く普及した[[Macintosh]]によるDTPには背を向け、印字1文字ごとにユーザーから使用料を徴収でき、高額な自社製機器販売による売上が見込める自社固有の電算写植システムに固執したため業績は急激に悪化。過去の利益を蓄えた数百億円に上る多額の内部留保金を温存したまま<ref name="toroui">「[https://www.mhlw.go.jp/churoi/meirei_db/mei/pdf/m10406.pdf 東京都労委平成18年(不)第81号]」『中央労働委員会命令・裁判例データベース』、2008年2月5日、厚生労働省</ref>、[[2003年]]以降、大きく事業規模を縮小した<ref name="toroui" />。
活字時代の[[モトヤ]]出身で[[1963年]]から30年余にわたり文字制作責任者として写研の数々の書体の制作や監修を手掛け、のち活字メーカーを母体とする[[イワタ|イワタエンジニアリング]](現・[[イワタ]])で現場指導にあたり同社を国内有数のデジタルフォントベンダーの1社に育てた書体設計士[[橋本和夫]](イワタ顧問)のほか、写研を代表する装飾書体「[[スーボ]]」を生み、のちに[[字游工房]]社長として「[[ヒラギノ]]明朝体」([[1993年]])などを送り出した[[鈴木勉]]([[1998年]]没)や、[[今田欣一]](欣喜堂)、[[小林章]](独[[モノタイプ・イメージング|モノタイプ]])など、現代のデジタルフォント環境に貢献する著名な書体[[デザイナー]]を輩出したことでも知られる。
== 歴史 ==
[[File:Shaken Head office (写研株式会社の本社).jpg|thumb|250px|写研埼玉工場(埼玉県和光市、[[2020年]]解体)]]
===創業===
{{節スタブ}}
===1940〜1950年代===
{{節スタブ}}
===1960年代===
{{節スタブ}}
===1970年代===
{{see also|電算写植}}
長く活字組版の効率性を越えることができず、主に端物用として扱われた手動写植機の欠点をコンピュータで補うことで、本文組を活字から奪うことを目指した写真植字機「[[電算写植]]」は、高額な設備投資がユーザーに可能であった[[高度経済成長]]の追い風のもと、写研の「SAPTON」システムが牽引する形で、大手の新聞社や出版社、印刷会社を顧客の中心として[[1970年代]]から普及が本格化。「写植」は登場から半世紀を経てようやく組版の主役となったが、地方の印刷会社では経営規模に比べ負担があまりにも過大なため、[[1971年]]の[[長野県]]を皮切りに、複数社が共同で資金を出し合って電算写植システムを共有する「電算写植協同組合」が設立<ref>[http://www.niigata-printing.or.jp/sitterutumori/ 「印刷の知ってるつもり?」]新潟県印刷工業組合</ref>されるほど、多額の費用を写植機メーカーに支払う必要があった。
===1980〜1990年代===
[[1980年代]]、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・[[アドビ]])は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語[[PostScript]]フォントの制作を目指していた。アドビは[[1986年]]、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否。最終的にアドビは業界2位の[[モリサワ]]と提携し、[[1989年]]、モリサワの「[[リュウミン]]L-KL」および「[[中ゴシックBBB]]」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「[[LaserWriter II NTX-J]]」が[[Apple|アップルコンピュータジャパン]]から発売された<ref name="tori" />。これは[[1990年代]]以降の急速な日本語DTP普及の端緒となった。
一方、そのころの写研は[[日本電信電話公社|電電公社]]民営化([[1985年]])に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受け、[[1987年]]以降、各出力装置を電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制を導入。この課金徴収システムの整備と、高額な電算写植機の製造販売で、[[1991年]]には年間売上が過去最高の350億円に達した<ref name="yomi" />。
しかし[[バブル崩壊]]の中、関連機器を含めた一式の導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植に比べ、圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で<ref name="tori" />、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「[[Macintosh]]」とともに急速に普及し、写研の業績は瞬く間に悪化した。
写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、[[1998年]]には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた<ref name="yomi" />。
====書体制作部門の混乱====
この間、[[1989年]]には[[鈴木勉]]や[[小林章]]など、文字開発部の主力デザイナーが一斉に退社し<ref name="kinichi1">[http://imadakin1.seesaa.net/article/402147772.html 「[見聞録]第5回 本蘭明朝、本蘭ゴシックの10年」]今田欣一『文字の星屑1』、2014年7月20日</ref>、その後も[[1990年代]]末にかけてデザイナーの退社が相次いだ。
創業者[[石井茂吉]]の三女で[[1963年]]からワンマン経営を続けていた社長の石井裕子自身は、没するまで書体制作には一度も携わったことはなかったが、文字開発のデジタル化に伴いワークステーション上での原字修整作業を可能にしたいとする文字開発部の要望を拒否し、デジタル化した原字データを再度アナログ出力し手作業で修整する従来の工程厳守を命じた<ref name="kinichi1" />。創業70周年の[[1995年]]に向けて開発中だった[[本蘭ゴシック]]ファミリーは、石井の要求でデザインコンセプトの大変更を余儀なくされたことも重なり<ref>[http://imadakin1.seesaa.net/article/476852683.html?seesaa_related=category 「[見聞録]追記 石井中太ゴシックと石井中太ゴシックLと本蘭ゴシックと」]今田欣一『文字の星屑1』、2020年8月15日</ref>、70周年には間に合わなかった<ref name="kinichi1" />。石井はまた、この時期に提案された写研書体の自社システム以外での使用開放案も却下した<ref name="kinichi1" />。
===2000年以降===
写研は[[2000年]]、電算写植システム専用の新書体として[[本蘭ゴシック]]ファミリーを当初の予定から5年遅れで発表したが、結果としてこれが写研最後の新書体となった。売上は対前年比で毎年約10〜30%の落ち込みが続いたため<ref name="toroui" />、[[2003年]]に早期退職募集を行った結果<ref name="toroui" />、組版システム開発にあたるソフト開発部門は56人から3人、製品販売を手掛ける営業部門は46人から1人にそれぞれ激減し<ref name="toroui" />、事業体制は零細・小企業並みの規模に転落した。
[[2006年]]の売上は機械販売5500万円、機械付属品販売1億4800万円、売上全体の7割を占めるフォントレンタル収入も9億1700万円にとどまり<ref name="toroui" />、年商規模は1990年代末のおよそ10分の1となったが、写研の本来の事業とは無関係なアルバイト程度の[[内職]]仕事を社外から集め職場で従業員に従事させながらも<ref name="toroui" />、企業として目立った事業展開は行わないまま、最盛期に蓄えた400億円を超す内部留保だけは取り崩さず堅持するという<ref name="toroui" />異様な経営を続けた。[[2007年]]7月時点の従業員数は109人で、うち工場所属は40人(埼玉工場30人、川越工場10人)、地方営業所所属は9人<ref name="toroui" />と、最盛期の10分の1以下となり、まもなく100人を割り込んだ<ref name="tori" />。高齢化も進み、同年5月現在で従業員全体の7割以上が50歳以上であった<ref name="toroui" />。
以後、パーソナルコンピュータによる各種出力が一般化し、機器老朽化や写植用印画紙の供給終了([[2013年]][[10月]])などによる既存写植機との置き換えが進んだことで、一般商業印刷、放送業界における[[テレビ番組]]の[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]、各種屋外掲示物などで広く使われてきた写研書体のほとんどは姿を消した。
[[2018年]]、半世紀以上にわたり代表取締役社長の座を占めた石井裕子が在任のまま92歳で死去した<ref name="kanpo" /><ref name="newpri" />。後任社長には資産管理を行っている顧問税理士で取締役の南村員哉が就任し、閉鎖状態となっていた旧工場などの遊休地処分をただちに開始した。同年には旧川越工場(埼玉県[[川越市]])の施設を解体して[[鶴ヶ島市]]内の所有地と合わせて住友商事に売却し<ref>[https://www.lnews.jp/2019/02/l0201301.html 「住友商事/不動産投資開発事業部長が語るSOSiLA(物流施設)戦略」]『LNEWS』2019年2月1日付、株式会社ロジスティクス・パートナー</ref>、同社運営の物流施設「SOSiLA川越」(2019年2月竣工)が進出。[[2020年]]には旧埼玉工場(埼玉県[[和光市]])も写研が発注者となって解体工事を開始した。跡地は[[スーパーマーケット#食品スーパーマーケット|食品スーパー]]の[[ヤオコー]]へ賃貸され<ref name="corporate"></ref>、2021年10月にヤオコーが管理・運営する商業施設「the marketplace 和光」となった<ref>[https://diamond-rm.net/store/96627/ 新旗艦店のヤオコー和光丸山台店オープン 「おやつ」を強化した周到なねらいは?]([[ダイヤモンド社]] 2021年10月25日 2021年11月21日閲覧)</ref>。2020年[[8月]]には南村に加え、前年7月に取締役に加わったばかりの笠原義隆が代表権を取得し<ref name="kanpo" />社長に就任した。
==写研書体の「OpenTypeフォント化」==
写研は[[2011年]][[7月]]、[[東京ビッグサイト]]で開かれた「第15回国際電子出版EXPO2011」に出展。従来の方針を大きく転換し、[[OpenType]]化した「写研フォント」を年内をめどにリリースすると石井裕子社長名で発表した<ref name="expo">[http://www.pjl.co.jp/issue/2011_ebook_expo/5.html 「第15回[国際]電子出版EXPOレポート:注目のブース 写研」]『印刷ジャーナル』2011年7月25日号、印刷時報株式会社</ref>。写研はこの時点でOpenType化作業は終了しているとして<ref name="expo" />、会場ではどの書体からリリースするべきかのアンケートを行うとともに<ref name="expo" />、印刷業界におけるプロユースを念頭に、[[InDesign|Adobe InDesign CS5]]上での組版や[[iPad]]での電子書籍閲覧などで写研フォントを用いるデモンストレーションを行い<ref name="expo" />、大きく注目された。価格は未定で、電算写植機用デジタルアウトラインフォント(Cフォント、タショニムフォント)で存在する全書体を予定していた<ref name="dou">「どうなっているの『写研OpenTypeフォント発売!』」[http://www.typo1.co.jp/column/phototype.html 『文字のある仕事場/COLUMN』]、2012年5月30日、株式会社タイプアンドたいぽ</ref>。
しかしOpenType化の元データとなったCフォントやタショニムフォントは、[[1980年代]]初頭の古い技術と設計水準で製作されたもので、各社の現行デジタルフォントに比べ、原字に対するアウトラインの精度が低かったため、写研は1文字ずつデータを修整する作業に着手せざるを得なくなり、2011年末を過ぎても販売時期未定の状態が続いた<ref>[http://www.typo1.co.jp/news/news120608.htm 「読みやすいと言われる「写研フォント」を電子書籍の本文書体に」]『出版関連ニュース』、2012年6月8日、株式会社タイプアンドたいぽ</ref>。
さらに写植時代の既存文字だけでは[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-3]](OpenType Std)相当にしかならない問題があり<ref name="opentype">「写研のOpenTypeフォントは今?」[http://www.typo1.co.jp/column/phototype.html 『文字のある仕事場/COLUMN』]、2016年9月26日、株式会社タイプアンドたいぽ</ref>、写研が印刷業界の自社ユーザーに聞き取りを行ったところ、最低でもAdobe-Japan1-4(OpenType Pro、[[2000年]][[3月]]発表)以上を必要とする現代の商業印刷では、プロユースに用いるには難しい<ref name="opentype" /><ref>AJ1-4は、主に商業印刷で必要と考えられる漢字、異体字、記号類、ルビ専用文字、プロポーショナルかな文字をAJ1-3に追加したもの([https://www.morisawa.co.jp/culture/dictionary/1984 「OpenTypeフォントの種類」]『フォント用語集』、株式会社モリサワ)で、現代日本における商業印刷用フォントの事実上の最低ラインとなっている。</ref>との指摘がなされた。印刷業界が求めるAJ1-4以上にするには、写植時代にはなかった不足分の文字を各書体ごとに新しくデザインする作業が避けられない一方、写研から書体開発のデザイナーたちが去って既に10年あまりの年月が経過しており、結局[[2016年]]ごろを最後に「写研フォント」を提供しようとする動きはいったん途絶えた。
===モリサワとの共同事業へ===
[[2021年]][[1月18日]]、[[モリサワ]]は写研社長・笠原義隆およびモリサワ社長・森澤彰彦の双方のコメントとともに、両社共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意したと発表した<ref name="morisawa-shaken"> [https://www.morisawa.co.jp/about/news/5280 「モリサワ OpenTypeフォントの共同開発で株式会社写研と合意」] 『ニュース&プレスリリース』、2021年1月18日、株式会社モリサワ</ref>。手動写植機試作1号機開発中の[[1924年]]に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる[[2024年]]から順次提供するとしている<ref name="morisawa-shaken" />。
書体開発はモリサワと同社子会社の[[字游工房]]が共同で行い、写研出身の書体設計士、[[鳥海修]](字游工房)が全体監修を行う<ref name="morisawa-shaken2">[https://www.morisawa.co.jp/about/news/8693 「モリサワ 写研書体を字游工房と共同開発 2024年に『石井明朝』『石井ゴシック』の改刻フォントをリリース」]『ニュース&プレスリリース』、2022年11月24日、株式会社モリサワ</ref>。クラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」で2024年に提供する予定の書体は、『石井明朝』ファミリー(「ニュースタイル」および「オールドスタイル」、ウェイト各4種)と『石井ゴシック』ファミリー(ウェイト5種)の計13書体としている<ref name="morisawa-shaken2" />。
== 自社公式サイトの開設 ==
写研は1990年代初頭に一時自社ドメイン"SHA-KEN.CO.JP"を取得したものの、更新手続きを行わず[[1993年]]に[[日本ネットワークインフォメーションセンター]](JPNIC)によって削除された<ref>[https://www.nic.ad.jp/ja/materials/committee/1993/0917/shiryou-2-5-1.html 「DNS管理グループ(国内向け)作業報告」] 『第3回JPNIC運営委員会』、1993年9月17日、日本ネットワークインフォメーションセンター</ref>。その後[[21世紀]]に入っても長く公式サイトが存在しない状態が続いていたが、石井裕子没後の[[2019年]][[7月19日]]に"SHA-KEN.CO.JP"を再取得。同ドメインによる自社公式サイトを[[2021年]][[3月8日]]に初めて開設し、同年[[5月26日]]には過去に発表した自社書体や歴史を紹介する「写研アーカイブ」を公開した。
== 不祥事 ==
[[1998年]](平成10年)、写研は[[脱税|所得隠し]]と[[粉飾決算]]の疑いで[[国税庁]]の[[査察部|査察]]を受け、社内の地下金庫で同庁の査察史上前例のない現金約85億円と割引[[金融債]]約25億円が一度に見つかったことが[[1999年]](平成11年)1月に明らかになった<ref name="zei">『「写研」が150億円所得隠し 地下金庫に札束85億円 脱税と粉飾の20年』読売新聞1999年1月1日付朝刊 39面</ref>。
写研は高額な電算写植機の販売が急伸していた[[1975年]](昭和50年)ごろから[[1988年]](昭和63年)にかけて、自社の取引のほとんどを現金や[[小切手]]で行っていたことを利用し、営業部門の売上から取り除いた現金を毎年10億円前後、経理担当幹部が地下倉庫の金庫に運び込み、[[裏金]]として蓄財していた<ref name="zei" />。さらに急速な業績悪化が始まった[[1992年]](平成4年)からは、赤字決算を避けようと、裏金を年間5、6億円程度経理に戻し、高いもので一式の価格が1億5000万円の印刷機器などを販売したことを装い、架空の利益を計上して決算を粉飾していた<ref name="zei" />。
発覚時点で脱税に関しては[[時効]]が成立していたため、国税庁は発見された現金等を会社資産として繰り入れるよう指導するとともに、割引金融債の時効内の利息分に対してのみ[[附帯税|追徴処分]]をとった<ref name="zei" />。
== 代表的な製品 ==
=== 特徴 ===
写研は「美しい組版のために文字(書体)と組版機器・ソフトウェアを切り離すことはできない」とうたい、両者を抱き合わせた形態でしか販売しなかった。
; タショニムコード
: 写研システムでは書体を「MMAOKL」「MNAG」などの、アルファベット数文字の記号「タショニムコード」で管理した。「多書体を[[ニモニック]]化して[[符号|コード]]で分類したもの」の意であった。基本的に明朝=Mやゴシック=Gなどの略語表記と、それぞれのフォントファミリーにおけるウェイト(文字の太さ)、仮名のスタイル(NKS=ニュースタイルかなスモール、OKL=オールドスタイル[築地体ベース]かなラージ)などで構成されるため、規則性を理解すれば直感的に把握しやすかった。
; デジタルフォント
: 光学式印字では印字速度に限界があるため、電算写植では[[1977年]]のSAPTRON-APS5型から、装置内部に組み込んだ印字用小型CRTにフォントのデジタルデータを表示して印画紙に焼き付ける方式になった。当初は精密ビットマップフォントが使用されたが、[[1983年]]のSAPLS-N型で、のちのDTPにおけるデジタルフォントと同様に文字の輪郭情報を利用したアウトラインフォントが導入された。これは[[Cフォント]]という独自形式のフォントで、[[文字コード]]は独自の'''SKコード'''(SK72/78の2種。違いは同一コード間での[[グリフ]]の違い)で管理され、約2万字を包括した。体裁制御コマンドによるテーブルを介した書体指定を行う関係上、同一画面上で使用できる書体数に制約があったが、[[1993年]]にはタショニムコードで直接書体を指定することで同一画面上で100書体まで使用可能にした「タショニムシステム」が登場し、同システムに対応するアウトラインフォントを「タショニムフォント」と呼称した。[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]上で動作する写研の専用組版システムSingis(シンギス)には[[Adobe Illustrator|Illustrator]]や[[Adobe Photoshop|Photoshop]]もインストールされていたが、写研のアプリケーション以外からCフォント・タショニムフォントを使用することはできなかった。
; SAPCOL
: 写研の電算写植機では [[SAPCOL]](サプコル)と呼ばれる[[ページ記述言語]]を用いた。日本語組版に最適化されたもので、出版社ごとに異なる複雑な組版規則(ハウスルール)にも対応できた。[[1969年]]にミニコン上で編集処理をするために作られたソフトウェアを30年にわたって更新して構築したプログラムで、「究極の組版プログラム」とも呼ばれた。DTPで主流を占める[[PostScript]]はデータの後に命令を記述する形式だが、SAPCOLは「ファンクションコード」というコマンド文字で組版情報を設定しテキストデータと混在させるマークアップ方式となっている。ただしPostScriptと異なり、プログラム言語に不可欠な繰り返し処理や変数/関数定義などの機能は持っておらず、任意の値を相対的に変化することはできない。この点ではSAPCOLは柔軟性に欠け、手作業に代わってパーソナルコンピュータなどでファンクションコードを自動挿入するプログラムを組む例がよく見られた。
; システムの独自性
: 写研の電算写植システムは、そのほとんどが独自仕様であり、[[DTP]]システムとはデータの互換性がほとんどなかった。[[1990年代]]からしばらくの間は、まだ写研書体に対する需要が高かったため、他社の電算写植やDTPで組版したデータを写研の出力機で印字できる形式に変換する他社製のコンバータソフトウェアが用いられた。当時のDTPにおいて多用されていた[[QuarkXPress]]にも、[[XTension]]として組み込めるコンバータが存在した。
===手動写植機===
*試作1号機(1925年)
*試作2号機(1926年)
*実用機(1929年)
*タイトル専用機(1931年)
*石井式写真植字機(A型、1936年)
*石井式二六〇四年型(SK-1型、1943年)
*MC型(1950年)
====SK型====
*SK-2型(1954年)
*SK-3型(1955年)
*SK-3R型(1957年)
*SK-4型(1957年)
*SK-4E型(1958年)
*SK-T1型(1959年)
*SK-3RY型(1960年)
*SK-16TV型(1961年)
====SPICA型====
*SPICA-S型(1963年)
*スピカテロップ(1964年)
*SPICA-L型(1965年)
*SPICA-Q型(1966年)
*SPICA-AD型(1968年)
*SPICA-QD型(1969年)
*SPICA-A型(1973年)
*SPICA-AP型(1975年)
*SPICA-APU型(1976年)
*SPICA-AH型(1979年)
====PAVO型====
*PAVO-8型(1969年)
*PAVO-9型(1981年)
*PAVO-10型(1981年)
=====Jシリーズ=====
中級機種。
*PAVO-J型(1969年)
*PAVO-JP型(1977年)
*PAVO-JL型(1979年)
*PAVO-JV型(1979年)
=====Kシリーズ=====
多機能上位機種。
*PAVO-K型(1973年)
*PAVO-K2型(1977年)
*PAVO-K6型(1977年)
*PAVO-K3型(1978年)
*PAVO-KL型(1979年)
*PAVO-KS型(1981年)
*PAVO-KV型(1983年)
*PAVO-KVB型(1983年)
*PAVO-KY型(1987年)
=====Bシリーズ=====
ビジネスフォーム用。
*PAVO-B型(1975年)
*PAVO-B2型(1978年)
*PAVO-BL型(1981年)
=====Uシリーズ=====
新聞組版用。
*PAVO-U型(1971年)
*PAVO-KU型(1975年)
*PAVO-UP型(1979年)
===電算写植機===
====SAPTONシリーズ====
*SAPTON試作機(1960年)
*SAPTON-F(1962年) - [[防衛庁]]向け乱数表作製用数字専用機。
*SAPTON-N3110(1965年) - 初の実用機。新聞棒組用。共同通信統一文字コードCO-59を採用。1967年に[[朝日新聞]]北海道支社に続き2番目に導入した[[佐賀新聞社]]では1968年3月5日付紙面で日本初の日刊紙全面写植化と活字全廃を達成。
**SAPTEDITOR-N(1966年) - SAPTON-N用新聞用さん孔テープ編集機。記事オリジナルテープと赤字訂正指令テープを読み取り、編集組版処理済みの紙テープを出力。
*SAPTON-P(1968年) - 一般印刷用棒組全自動写植機。1号機は出版社[[ダイヤモンド社]]に納入。
**SAPTEDITOR-P(1968年) - SAPTON-P用さん孔テープ編集機。
*SAPTON-H - 新聞見出し作成用。
*SAPTON-A5260/A5440(1969年) - 一般印刷用棒組専用機。従来のさん孔テープの代わりにDEC社製ミニコンピュータPDP-8を使用した編集組版用ソフトウェアSAPCOL-D1と組み合わせて使用。
**SAPCOL-D1 - 一般印刷用組処理ソフト。
*SAPTON-N5265(1970年) - 新聞棒組用。新聞用組処理ソフトSAPCOL-D3と組み合わせて使用。
**SAPCOL-D3 - 新聞用組処理ソフト。
**SAPCOL-D5 - 一般印刷用組処理ソフト。
**SAPCOL-H6 - 一般印刷用組処理ソフト。
**SAPCOL-H3 - 新聞用組処理ソフト。
*SAPTON-N12110(1972年) - 新聞棒組専用、初のスタンドアロン型(ハードウェアを標準化し、ミニコンピュータSAILACで顧客毎のカスタマイズを行う方式)。小型化・低価格化目指す。
*SAPTON-N7765(1972年) - 新聞用スタンドアロン型。
*SAPTON-Spitsシステム(1972年) - 一般印刷用スタンドアロン型。全自動写植機で初めてページ組版に対応。
**SAPTON-Spits7790 - 感材のロールバック機構を搭載し任意の位置への印字、スポット罫引きが可能に。
**SAPCOL-HS - ページ組処理ソフト。HITAC-10を使用。日本語組版のJIS規格化の基本となった。
**SABEBE-S3001 - Spitsシステム用漢字さん孔機。「一寸ノ巾式左手見出しキー」を採用。
*SAPTON-NS11(1975年) - 新聞用。赤字訂正処理機能付。搭載ミニコンをHITAC-10Ⅱに変更。
*SAPTON時刻表組版システム(STC、1976年) - [[日本交通公社]]向け。
*SAPTON-NS26D(1977年) - 新聞用。共同通信文字コードCO-77に対応。
*SAPTON-Somanechi6812(1977年) - 一般印刷用。
*SAPNETS-N(1977年) - 新聞用編集・校正・レイアウトシステム。校正用のVDT表示用文字発生装置搭載。
*SAPTON-NS26DF(1981年) - 新聞用。SAPTON-NS26Dにデータ入出力用フロッピーディスクを使用できるようにした。
*SAPTON-Somanechi6812S(1981年) - 一般印刷用。SAPTON-Somanechi6812にデータ入出力用フロッピーディスクを使用できるようにした。
====SAPTRONシリーズ====
高解像度のCRT上に文字を出力して感材に露光する方式で印字高速化。
*SAPTRON-G1(1977年) - 文字円盤を投影するアナログフォント方式CRT写植機。新聞用。
*SAPTRON-APS5(1977年) - 米オートロジック社のAPS5型CRT写真植字機を和文仕様にしたビットマップフォント投影のデジタルフォント方式CRT写植機。
*SAPTRON-G8N/G8S(1979年) - 8書体搭載アナログフォント方式CRT写植機。
*SAPTRON-APS5H(1981年) - 文字記憶方式を改良して印字速度毎分1万3200字を実現した超高速CRT写植機。価格1億300万円。
*SAPTRON-APSμ5(1981年) - APS5型の印字速度を毎分3000字にスペックダウンして価格を下げたCRT写植機。価格は棒組仕様が6000万円、台ページ組仕様が7000万円。
*SAPTRON-Gelli(ジェリー、1983年) - 計測機器用5インチCRTを使用した写研独自方式のデジタルCRT写植機。
*SAPTRON-APSμ5S(1983年) - 編集組版用ミニコンピュータとAPSμ5を一体にしたスタンドアロン型CRT写真植字機。
**SAPGRAPH-L(1983年) - APS5/APSμ5/APSμ5S用図形入力サブシステム。
*SAPTRON-Gimmy S1040/SS1040(1985年) - SAPTRON-Gelliをベースに投影フォントをビットマップからCフォントに変更。一般印刷用。
*SAPTRON-Gimmy N1440/N1425(1985年) - Gimmy S1040の新聞用Cフォント出力機。
**SAPGRAPH-L61(1985年) - CCDスキャナ実装などSAPGRAPH-L改良の図形入力サブシステム。
**SAPGRAPH-G(1987年) - 写真画像を扱えるようにした図形入力サブシステム。
====SAPLSシリーズ====
アウトラインフォント(1985年、Cフォントと命名)を搭載しレーザーで感材に露光する方式で文字画像を一括出力するイメージタイプセッター(製版機)。
*SAPLS-N(1983年)
*SAPLS-Laura/Michi(1987年) - SAIVERT-H202用出力専用機。
====SAIVERTシリーズ====
SAPNET-Nをベースにほぼ[[WYSIWYG]]を実現したレイアウトターミナルで、出力機として校正用プリンターSAGOMESシリーズやイメージタイプセッターSAPLSシリーズが別に必要。印画紙出力に近いイメージを画面表示することができた。ページ物向きとされたSAIVERT-SとSAIVERT-P、端物を主に扱う単ページ用のSAIVERT-Hがあった。
*SAIVERT-N(1983年) - 表示用20インチCRTを搭載した新聞用校正編集レイアウトターミナル。
*SAIVERT-S(1984年) - 表示用15インチCRTを搭載した一般印刷用レイアウトターミナル。
**SAZANNA-SP313(1985年) - 文字入力とともに組上がり状態が確認できる組表示付入力校正機。SAPCOL-HSやSAIVERT-S用テキストデータを出力。
*SAIVERT-H101(1985年) - 出力用Cフォントを使用し,出力時と同じ体裁をCRT画面上に表示する端物用レイアウトターミナル。
*SAIVERT-H202(1987年) - レンタルの30書体フォントパックを搭載し初めて印字の従量課金制を導入したレイアウトワークステーション。レーザー出力専用機SAPLS-Laura/Michiと組み合わせて運用。
*SAIVERT-P(1989年) - 作図機能や画像入力編集機能などを追加し表示組版可能文字サイズを拡張。
====SAMPRASシリーズ====
*SAMPRAS-C(1997年) - WYSIWYGレイアウトアプリケーション。価格780万円。出力機が別に必要。ハードディスクドライブ全体のファイル検索といった基本操作ができないなどの制約があった。日立製ワークステーションで稼働。
====Singis====
*Singis(シンギス、2000年) - 写研写植機の事実上の最終機種。出力機が別に必要。カラー対応、多ページ対応。メイン21インチCRTディスプレイのほかに、パレット類表示用15インチ[[液晶ディスプレイ]]を標準装備する。写研機ではじめて一般的なPC/AT互換機(日立FLORA)をベースマシンとして採用し、Windows NT上で動作するソフトウェアとなった。価格500万円。PC用の画像データ取り込み用にAdobe Illustrator9.0とAdobe Photoshop5.5も搭載。
===TELOMAIYER===
放送用電子テロップ送出装置。
*TELOMAIYER-T(1983年) - 初代テロメイヤ。ディスプレイを用いてレイアウトを行い、画像メモリに蓄積したデータを黒地に白文字の感熱紙に出力。
*TELOMAIYER-TG(1985年) - テロップカード出力のほか、ビデオ出力にも対応。
*TELOMAIYER-C(1989年) - [[PC-9800シリーズ]]上で稼動し、感熱紙プリンタ・スキャナが接続可能。Cフォント搭載。フォントデータは1書体35万円。
*TELOMAIYER-C1 - 日立製ワークステーションで稼動。使用フォントに制約があるCフォントに代わりタショニムフォント搭載。
*TELOMAIYER-C1 HD - C1のSD画質をアップコンバートすることでHD出力に擬似的に対応したもの。
=== 書体 ===
写研は、自社製品対応書体のほとんどを社内で[[設計]]・[[開発]]した。[[活字]]に比べ写植文字盤は1書体あたりの専有面積が少なく、字数が多い[[日本語]]でも多くの書体を扱うことが可能となったため、同社では積極的に新書体を開発した。1969年には賞金100万円(第1回当時)の'''石井賞創作タイプフェイスコンテスト'''を設けて開発を奨励。[[ゴナ]]や[[スーボ]]、[[ナール]]、ボカッシイなど、ユニークかつ完成度の高いデザイン書体が多く発表された。
写研の主な和文書体の発表年は次の通りである<ref>「写研書体見本帳」2001年、株式会社写研</ref>。
* 1932年 - 石井太ゴシック、石井楷書
* 1933年 - 石井中明朝
* 1937年 - 石井ファンテール
* 1951年 - 石井細明朝
* 1954年 - 石井中ゴシック
* 1956年 - 石井中丸ゴシック
* 1958年 - 石井細丸ゴシック、石井太丸ゴシック、石井中教科書
* 1959年 - 石井太明朝、石井横太明朝、石井太教科書
* 1960年 - 石井特太明朝、石井細教科書
* 1961年 - 石井特太ゴシック
* 1964年 - 新聞特太明朝、新聞特太ゴシック
* 1967年 - 岩田新聞明朝([[イワタ|岩田母型製造所]]原字提供)
* 1968年 - 岩田細明朝、岩田太ゴシック(岩田母型原字提供)
* 1970年 - 石井中太ゴシック、岩田新聞ゴシック(岩田母型原字提供)
* 1972年 - 曽蘭隷書、ファニー
* 1973年 - [[ナール]]
* 1974年 - [[スーボ]]、ナールD
* 1975年 - [[本蘭明朝]]L、大蘭明朝、石井新細ゴシック、[[ゴナ]]U、ナールL、ナールM、ナールO、岩蔭行書
* 1976年 - スーボO
* 1977年 - ナールE
* 1979年 - ゴナE、ゴナO、スーシャL、スーシャB、淡古印
* 1981年 - 秀英明朝([[大日本印刷]]原字提供)、石井中太ゴシックL、ゴナOS、ゴーシャE、ファン蘭B、けんじ勘亭
* 1982年 - ゴーシャO、ゴーシャOS、ファン蘭O、ファン蘭OS、イナブラシュ
* 1983年 - ゴナL、ゴナM、ゴナD、ゴナDB、ゴナB、ファン蘭E、ボカッシィG、岩陰太行書、ナカフリーL、ナカフリーB、イノフリー
* 1984年 - スーボOS、織田特太楷書、イダシェ
* 1985年 - 本蘭明朝M、本蘭明朝D、本蘭明朝DB、本蘭明朝B、本蘭明朝E、本蘭明朝H、ゴナH、ゴナIN、ミンカール、カソゴL、紅蘭細楷書、紅蘭中楷書、茅楷書、茅行書、織田勘亭流、鈴江戸、イナひげ、イボテ、ナミン
* 1987年 - ナールDB、[[創挙蘭]]E、ナーカン
* 1989年 - ゴーシャU、曽蘭太隷書、イナクズレ、イナミンE、いまりゅうD
* 1991年 - キッラミン、けんじ隷書、ナカゴしゃれ、ナカミンダB-S、ナカミンダB-I
* 1993年 - 爽蘭明朝、創挙蘭L、創挙蘭M、創挙蘭B、今宋M、イナピエロM、イナピエロB、イナピエロU-S
* 1995年 - ナールH、ナールU、いまぎょうD
* 1996年 - 石井中少太教科書、石井中太教科書
* 1997年 - ゴカールE、ゴカールH、ゴカールU、スーシャH、横太スーシャU、ゴーシャM、はせフリーミンB、はせフリーミンE、はせフリーミンH、紅蘭太楷書、紅蘭特太楷書、田行書、けんじ特太隷書、ナカミンダM-S、ゴナラインU
* 2000年 - [[本蘭ゴシック]]L、本蘭ゴシックM、本蘭ゴシックD、本蘭ゴシックDB、本蘭ゴシックB、本蘭ゴシックE、本蘭ゴシックH、本蘭ゴシックU、イダサインM
※書体名は2001年時点の呼称。当初、本蘭明朝Lは「本蘭細明朝」ファミリー展開前は、ゴナUはゴナ、創挙蘭(現在の創挙蘭E)などはウェイト表示のないものとしてリリースされた。
== 沿革 ==
* 1924年 - [[石井茂吉]]、[[森澤信夫]]により[[写真植字機]]が開発される
* 1926年 - '''写真植字機研究所'''設立。東京都[[北区 (東京都)|北区]]堀船町に本社を置く。
* 1944年 - 東京都[[豊島区]]巣鴨(現南大塚)に移転。
* 1948年 - 森澤信夫、同社を離脱し写真植字機製作株式会社を設立(のちの[[モリサワ]])
* 1950年 - 株式会社'''写真植字機研究所'''に改組。
* 1963年 - 石井茂吉の三女・石井裕子が社長に就任。
* 1972年 - '''株式会社写研'''と改称
* 2018年 - 石井裕子が社長在任のまま死去。後任として南村員哉が就任<ref name="kanpo" /><ref name="newpri" />。
* 2020年 - 南村員哉が会長に就任、同時に笠原義隆が社長に就任<ref name="corporate" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[写真植字]]
* [[写真植字機]]
* [[電算写植]]
* [[書体]]
* [[フォント]]
* [[組版]]
* [[DTP]]
* [[印刷]]
* [[出版]]
* [[大漢和辞典]]
== 外部リンク ==
* [https://sha-ken.co.jp/ 株式会社写研]
* [https://archive.sha-ken.co.jp/ 写研アーカイブ]
* [http://www.net-dtp.com NET-DTP.COM] - 株式会社シンカ。アウトライン化したEPSデータを販売。写研の書体見本の閲覧可
* [http://wintechnetworks.co.jp/harada/pdf/SK-UniCID.pdf 「写研漢字」⇒「Unicode + CIDcode」変換文字一覧]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやけん}}
[[Category:豊島区の企業]]
[[Category:書体会社]]
[[Category:印刷]]
[[Category:写研|*]]
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長野環状道路
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長野環状道路(ながのかんじょうどうろ)は、地域高規格道路の候補路線に指定された、長野県長野市中心部の外側に計画された環状道路である。
長野市は西・北を山、東・南を川に囲まれた地形をしており、その存在が常に交通上のネックとなり慢性的な交通渋滞を発生させている。そこで、通過交通の市街地流入を防ぎ、市街地はもとよりその周囲の混雑を解消し、円滑な交通を確保する目的で長野環状道路が1991年(平成3年)に都市計画決定された。また、また、1994年(平成6年)12月16日、地域高規格道路の候補路線に指定され、現在、計画路線指定に向けて動いている。
国道19号長野南バイパス・五輪大橋有料道路・国道18号長野東バイパス・北部幹線が長野環状道路の一部として供用中である。北部幹線の接続と、路線が未定の西部区間(西環状線)の路線決定が急がれる。
長野市篠ノ井小松原から、反時計回りで順に述べる。
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長野環状道路(ながのかんじょうどうろ)は、地域高規格道路の候補路線に指定された、長野県長野市中心部の外側に計画された環状道路である。 長野市は西・北を山、東・南を川に囲まれた地形をしており、その存在が常に交通上のネックとなり慢性的な交通渋滞を発生させている。そこで、通過交通の市街地流入を防ぎ、市街地はもとよりその周囲の混雑を解消し、円滑な交通を確保する目的で長野環状道路が1991年(平成3年)に都市計画決定された。また、また、1994年(平成6年)12月16日、地域高規格道路の候補路線に指定され、現在、計画路線指定に向けて動いている。 国道19号長野南バイパス・五輪大橋有料道路・国道18号長野東バイパス・北部幹線が長野環状道路の一部として供用中である。北部幹線の接続と、路線が未定の西部区間(西環状線)の路線決定が急がれる。
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'''長野環状道路'''(ながのかんじょうどうろ)は、[[地域高規格道路]]の候補路線に指定された、[[長野県]][[長野市]]中心部の外側に計画された[[環状道路]]である。
長野市は西・北を山、東・南を川に囲まれた地形をしており、その存在が常に交通上のネックとなり慢性的な[[渋滞|交通渋滞]]を発生させている。そこで、通過交通の市街地流入を防ぎ、市街地はもとよりその周囲の混雑を解消し、円滑な交通を確保する目的で'''長野環状道路'''が[[1991年]]([[平成]]3年)に[[都市計画]]決定された。また、また、[[1994年]](平成6年)[[12月16日]]、[[地域高規格道路]]の候補路線に指定され、現在、計画路線指定に向けて動いている。
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== 構成する路線 ==
長野市篠ノ井小松原から、反時計回りで順に述べる。<!-- 路線名・延長などの出典:http://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/reconst/18/nagano_higasi.html -->
=== 長野南バイパス ===
[[File:Nagano-minami By-Pass, Otsuka-minami, Nagano, Japan.jpg|thumb|長野南バイパス(大塚南交差点から篠ノ井小松原方面を望む)]]
* 起点:長野市篠ノ井小松原(小松原トンネル西交差点)
* 終点:長野市[[青木島町#青木島町大塚|青木島町大塚]](大塚南交差点)
* 延長:6.9 km
: [[国道19号]]のバイパスとして整備され、全線供用されている。
{{main|長野南バイパス}}
=== 東外環状線 ===
[[File:Nagano Pref Road 372, Otsuka-minami, Nagano, Japan.jpg|thumb|東外環状線(大塚南交差点から五輪大橋方面を望む)]]
* 起点:長野市[[青木島町#青木島町大塚|青木島町大塚]](大塚南交差点)
* 終点:長野市[[柳原 (長野市)|柳原]](柳原北交差点)
* 延長:9.4km
: 大塚南交差点〜エムウェーブ交差点(L = 6.6 km)は[[長野県道372号三才大豆島中御所線]](うち1.4 kmは[[五輪大橋有料道路]])として、エムウェーブ交差点 - 柳原北交差点(L = 2.8 km)は[[国道18号]][[長野東バイパス]]として整備され、全線供用されている。
{{main|長野県道372号三才大豆島中御所線|五輪大橋有料道路|長野東バイパス}}
=== 国道18号 ===
* 起点:長野市[[柳原 (長野市)|柳原]](柳原北交差点)
* 終点:長野市大町
* 延長:1.9 km
: すでに[[国道18号]]([[アップルライン]])として開通している区間である。東外環状線・北部幹線が接続されれば長野環状道路の一部を成す。
{{main|長野バイパス}}
=== 北部幹線 ===
[[File:Jinkyo Naganocity Naganopref.JPG|thumb|北部幹線(押鐘北交差点から上松方面を望む)]]
* 起点:長野市大町
* 終点:長野市[[上松 (長野市)|上松]]四丁目(湯谷小学校西交差点)
* 延長:6.1km
: 長野市道として整備されている。現在古里小学校前交差点 - 湯谷小学校西交差点(L = 4.2 km)が供用されている。
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=== 西環状線 ===
* 起点:長野市[[上松 (長野市)|上松]]四丁目(湯谷小学校西交差点)
* 終点:長野市[[川中島町]]今里付近
* 延長:約10 km
: 供用区間はなく、事業化もされていない。
== 関連項目 ==
* [[地域高規格道路一覧]]
* [[松本糸魚川連絡道路]] - 長野県の指定を受けた地域高規格道路計画である。
* [[伊那木曽連絡道路]] - 長野県の指定を受けた地域高規格道路計画である。
* [[上信自動車道]] - 長野県の指定を受けた地域高規格道路計画である。
* [[松本佐久連絡道路]] - 長野県内における構想段階の地域高規格道路である。
* [[上田諏訪連絡道路]] - 長野県内における構想段階の地域高規格道路である。
== 外部リンク ==
* [http://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/reconst/18/nagano_higasi.html 事業紹介 - 一般国道18号長野東バイパス] - [[国土交通省]][[関東地方整備局]]長野国道事務所
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ブリティッシュコロンビア州
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ブリティッシュコロンビア州(ブリティッシュコロンビアしゅう、英語: British Columbia [ˌbrɪtɪʃ kəˈlʌmbiə] ( 音声ファイル)、フランス語: Colombie-Britannique)は、カナダの州のひとつ。太平洋に面したカナダ最西部に位置する。略してBCとも呼ばれる。
州名は1858年にイギリスのヴィクトリア女王によって命名されたもので、現在のカナダとアメリカ合衆国を流れるコロンビア川に由来する。アメリカ合衆国領と区別して British Columbia(英領コロンビア)とされた。
北アメリカ大陸から海峡を隔てて西にあるバンクーバー島に州都ヴィクトリアがあるが、最大の都市は大陸本土のバンクーバーである。
内陸部は豊かな自然が多く残っていることから観光産業が盛んであり、ウィスラーなどのリゾート地が知られている。また、南部の地域には氷河もあり観光名所となっている。
ブリティッシュ・コロンビアには、多数のインディアン部族が先住し、現在もキャリア族などのディネ族、チルコーティン族、ハイダ族、リルエット族 (St'at'imc) 、スクワミッシュ族 (Sḵwx̱wú7mesh) 、タギシュ族、トリンギット族など、30以上の言語を話す多くのインディアン民族が居住している。食料や木材、鉱物など天然資源が豊富であったため、ブリティッシュ・コロンビアの太平洋岸では社会が発達し、特にハイダ芸術のような芸術や政治の分野が発展した。トーテム・ポールやポトラッチはもっともよく知られた文化である。彼らの文化であるポトラッチや捕鯨は、20世紀に入ってからカナダ政府によって禁止弾圧された。現在も捕鯨文化の再開を要求している部族は多い。
18世紀の中頃からヨーロッパからの探検家が主にラッコ毛皮貿易のために訪れるようになった。1778年、ジェームズ・クック船長が欧州から北極海経由でアジアへ向かう北西航路を発見しようとこの地域へ到達し、ヌートカ・サウンド(英語版)に到着。その後イギリス人の入植へと続くが、1513年以来スペインの太平洋岸支配宣言が続いており、イギリスとスペインがヌートカ・サウンドを巡り交戦。その後1794年にヌートカ条約(英語版)が結ばれ、オレゴンから現在のブリティッシュ・コロンビア入植地の太平洋岸はイギリスに属することとなる。
その後は欧州との交易や開拓が進んだ。北西会社の3人のイギリス人、欧州人として初めて北米大陸を横断し太平洋に達したアレグザンダー・マッケンジー、この地域にいくつかの砦を建設したサイモン・フレーザー(英語版)、デイヴィッド・トンプソン(英語版)などの探検家達が太平洋に注ぎ込むコロンビア川の河口を探索した。「ハドソン湾会社」がその後この地域を管理下におき、ビクトリア砦(Fort Victoria、現在のビクトリア)もその会社の業務を保護するために1843年に建設された。この当時、アメリカの「マニフェスト・デスティニー」(アメリカの領土拡張主義)が最も実際の脅威として考えられた。1846年にオレゴン条約が調印され、ロッキー山脈以西の北米英領とアメリカ領の国境を北緯49度と定めた。
バンクーバー島は1849年、本土側は1858年にそれぞれイギリスの植民地となる。両者は1866年、ブリティッシュ・コロンビア植民地として統合される。1871年、「カナダ自治領」(Dominion of Canada)に加入しブリティッシュコロンビア州となる。1858年にフレーザー川下流岸に金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まった。ビクトリアも金を求める人であふれ、道路網の整備などが進んだ。その後の行政の失敗で発生した大きな負債を自治領政府が負担する形で、バンクーバー島植民地と本土側が統合し、自治領に加入することとなった。その際、自治領政府はモントリオールからの大陸横断鉄道を敷設することを公約とした。
カナダ太平洋鉄道(CPR)の大陸横断鉄道が完成し、バンクーバー港と直結してからは、バンクーバーは太平洋岸での主要な都市となり、カナダの豊かな天然資源や工業製品の輸出基地となって現在まで発展した。
19世紀末から20世紀初頭にかけての白人入植者の増加に伴い、彼らによってインフルエンザや天然痘がインディアンの集落に持ち込まれ、これら伝染病は「集落単位で消滅する」規模で猛威をふるい、免疫を持たないインディアン社会に大打撃を与えた。彼らの死体は一つの穴に大雑把に放り込まれて埋められ、墓標すら立てられなかった。近年になり、部族の有志によって遺骨の家族への返還作業が少しずつ進められている。
20世紀に入ってから、多くの移民が世界各国からやってきた。この時点ではまだ人種差別も激しく、様々な人種差別事件が起こった。イギリス領として開拓してきた頃の無謀で不誠実、時には暴力による、インディアンとの交渉の過程に鑑みて、インディアンとの差別問題では現在でも論争が続いている。ブリティッシュコロンビア州はその後も地勢学的な関係からもアジアとの結びつきが強く、日本を含むアジアからの移民を多く受け入れていることもあり、アジア経済に後押しされての経済発展が続いている。日本をはじめとする国からの観光客も多く、観光産業が発展している。
1910年3月4日 ロジャーズパスで雪崩が発生し、その復旧作業中の移民労働者を再度雪崩が襲い、32人の日系移民が死亡し、バンクーバーに埋葬された。
カナダ西部に位置し、太平洋とロッキー山脈に挟まれている。東はアルバータ州、北はユーコン準州、ノースウエスト準州と接し、南は国境を隔ててアメリカのワシントン州・アイダホ州・モンタナ州と接する。また、州の北西部はアメリカのアラスカ州と接する。北部の2/3とロッキー山脈にはほとんど人が住んでいない。州の北西部にはタールタン高地が広がる。
州の南西部のバンクーバーや沿岸地帯は暖流の影響で温帯に分類され降雨量が大きく、その他の地域は亜寒帯に分類される冷涼な気候である。しかし、南部山間地のオカナガン地方は半乾燥〜砂漠気候で所により夏の気温が40°Cを超え、ワインの産地である。オソイヨーズでは7月の平均最高気温がカナダ国内最高の31.5度に達し、リットンでは2021年6月30日にカナダ国内最高気温の49.6度を観測している。内陸部は夏の暑さは厳しいものの湿度は低くて乾燥しているために過ごしやすい。州の森林面積は6000万ヘクタール(総面積の3分の2に相当)。多様性に富んだ自然を持ち、生態系が非常に豊かである。
西部の太平洋海岸部は、夏は中緯度高気圧、冬は亜寒帯低気圧が北太平洋海上に発達することで、夏・冬ともアラスカ暖流上を通過した湿潤な西風が吹きつけるため、高緯度にもかかわらず年間を通じて降水量が非常に多い。
BC州は以下、大きく6つのエリアに分かれている。
議会は一院制で87議席である。
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ブリティッシュコロンビア州は、カナダの州のひとつ。太平洋に面したカナダ最西部に位置する。略してBCとも呼ばれる。 州名は1858年にイギリスのヴィクトリア女王によって命名されたもので、現在のカナダとアメリカ合衆国を流れるコロンビア川に由来する。アメリカ合衆国領と区別して British Columbia(英領コロンビア)とされた。 北アメリカ大陸から海峡を隔てて西にあるバンクーバー島に州都ヴィクトリアがあるが、最大の都市は大陸本土のバンクーバーである。 内陸部は豊かな自然が多く残っていることから観光産業が盛んであり、ウィスラーなどのリゾート地が知られている。また、南部の地域には氷河もあり観光名所となっている。
|
{{出典の明記|date=2019年9月}}
{{基礎情報 カナダの州
| 公式名称 = {{lang-en-short|British Columbia}}<br />{{lang-fr-short|Colombie-Britannique}}
| 州旗 = Flag of British Columbia.svg
| 州章 = Coat of arms of British Columbia.svg
| モットー = {{lang-la|Splendor Sine Occasu}}<br />{{lang-en|Splendour without diminishment}})
| 地図 = British Columbia in Canada.svg
| 州花 = タイヘイヨウハナミズキ
| 州木 = [[ウエスタンレッドシダー]]
| 州鳥 = ステラーカケス
| 州都 = [[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ヴィクトリア]]
| 最大都市 = [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]
| 公用語 = [[英語]]
| 面積順位 = 5
| 面積大きさ = 1 E11
| 総面積 = 944,735
| 陸地面積 = 925,186
| 水域面積 = 19,549
| 水面積率 = 2.1
| 最高標高 = 4,663
| 人口統計年 = 2016
| 人口順位 = 3
| 人口大きさ = 1 E7
| 人口値 = 464万8055<ref name="census2016">{{cite web |url=http://www12.statcan.gc.ca/census-recensement/2016/dp-pd/hlt-fst/pd-pl/Table.cfm?Lang=Eng&T=101&SR=1&S=3&O=D#tPopDwell |title=Population and dwelling counts, for Canada, provinces and territories, 2016 and 2011censuses |publisher=Statistics Canada |date=February 8, 2017 |accessdate=February 8, 2012}}</ref>
| 人口密度 = 5.02
| GDP統計年 = 2015
| GDP順位 = 4
| 州のGDP = 2499億81万<ref name="GDP2011">{{vcite web | url=http://www.statcan.gc.ca/tables-tableaux/sum-som/l01/cst01/econ15-eng.htm | title=Gross domestic product, expenditure-based, by province and territory (2015) | publisher=Statistics Canada | date=November 9, 2016 | accessdate=January 26, 2017}}</ref>
| 州1人当たりGDP = 5万3267
| 加入順 = 7
| 加入日 = [[1871年]][[7月20日]]
| 時間帯 = 【大部分のエリア】<br />[[太平洋標準時]](PST、[[UTC-8]])<br />[[太平洋夏時間]](PDT、[[UTC-7]])<br />
【AB州との州境の一部分】<br />[[山岳部標準時]](MST、[[UTC-7]])<br />[[山岳部夏時間]](MDT、[[UTC-6]])<br /><span style="font-size:0.65em"> [[夏時間]]を採用していない地区もある。</span>
| 郵便 = BC
| ISO 3166-2 = CA-BC
| 郵便番号 = V
| Website = {{URL|https://www2.gov.bc.ca/gov/content/home}}
| 副総督 = ジャネット・オースティン<br />([[:w:Janet Austin|Janet Austin]])
| 州首相 = デイヴィッド・イービー<br />([[:w:David Eby|David Eby]]:新民主党)
| 下院議席数 = 42
| 上院議席数 = 6
}}
'''ブリティッシュコロンビア州'''(ブリティッシュコロンビアしゅう、{{lang-en|British Columbia}} {{IPA-en|ˌbrɪtɪʃ kəˈlʌmbiə||En-ca-BritishColumbia.ogg}}、{{lang-fr|Colombie-Britannique}})は、[[カナダ]]の[[カナダの州|州]]のひとつ。[[太平洋]]に面したカナダ最西部に位置する。略して'''BC'''とも呼ばれる。
州名は[[1858年]]に[[イギリス]]の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]によって命名されたもので<ref>Ged Martin, "The Naming of British Columbia," ''Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies,'' Vol. 10, No. 3 (Autumn, 1978), pp. 257–263 [http://www.jstor.org/stable/4048132 in JSTOR]</ref>、現在のカナダと[[アメリカ合衆国]]を流れる[[コロンビア川]]に由来する。アメリカ合衆国領と区別して British Columbia(英領コロンビア)とされた。
[[北アメリカ大陸]]から海峡を隔てて西にある[[バンクーバー島]]に州都[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ヴィクトリア]]があるが、最大の都市は大陸本土の[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]である。
内陸部は豊かな自然が多く残っていることから観光産業が盛んであり、[[ウィスラー (ブリティッシュコロンビア州)|ウィスラー]]などのリゾート地が知られている。また、南部の地域には[[氷河]]もあり観光名所となっている。
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|title=母語話者(ブリティッシュコロンビア州) 2016年<ref>{{cite web|url=https://www12.statcan.gc.ca/census-recensement/2016/dp-pd/prof/details/page.cfm?Lang=E&Geo1=PR&Code1=59&Geo2=PR&Code2=01&Data=Count&SearchText=british%20columbia&SearchType=Begins&SearchPR=01&B1=Language&TABID=1 | title=Census Profile, 2016 Census British Columbia [Province] |year=2019|publisher=Statistics Canada|accessdate=2019年10月21日}}</ref>
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|title=人種構成(ブリティッシュコロンビア州) 2011年<ref>[http://www12.statcan.gc.ca/nhs-enm/2011/dp-pd/prof/details/Page.cfm?Lang=E&Geo1=PR&Code1=59&Data=Count&SearchText=British%20Columbia&SearchType=Begins&SearchPR=01&A1=All&B1=All&GeoLevel=PR&GeoCode=59], Community Profiles from the 2006 Census, Statistics Canada - Province/Territory</ref><ref>[http://www12.statcan.gc.ca/nhs-enm/2011/dp-pd/prof/details/Page.cfm?Lang=E&Geo1=PR&Code1=59&Data=Count&SearchText=British%20Columbia&SearchType=Begins&SearchPR=01&A1=All&B1=All&GeoLevel=PR&GeoCode=59], Aboriginal Population Profile from the 2006 Census, Statistics Canada - Province/Territory</ref>
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{{bar percent|[[白人]]|blue|63.8}}
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== 歴史 ==
{{Main|:en:History of British Columbia}}
[[File:BC Legislature Buildings and Undersea Gardens.jpg|thumb|right|ビクトリアの州議会]]
=== 連邦に加盟するまで ===
ブリティッシュ・コロンビアには、多数の[[インディアン]]部族が先住し、現在も[[キャリアー|キャリア]]族などの[[ディネ|ディネ族]]、[[チルコーティン]]族、[[ハイダ族]]、[[リルエット]]族{{enlink|St'at'imc}}、[[スクワミッシュ]]族{{enlink|Sḵwx̱wú7mesh}}、[[タギシュ]]族、[[トリンギット]]族など、30以上の言語を話す多くのインディアン民族が居住している。食料や木材、鉱物など天然資源が豊富であったため、ブリティッシュ・コロンビアの太平洋岸では社会が発達し、特に[[ハイダ族|ハイダ]]芸術のような芸術や政治の分野が発展した。[[トーテム・ポール]]や[[ポトラッチ]]はもっともよく知られた文化である。彼らの文化であるポトラッチや[[捕鯨]]は、20世紀に入ってからカナダ政府によって禁止弾圧された。現在も捕鯨文化の再開を要求している部族は多い。
[[18世紀]]の中頃から[[ヨーロッパ]]からの探検家が主に[[ラッコ]][[毛皮貿易]]のために訪れるようになった。[[1778年]]、[[ジェームズ・クック]]船長が欧州から[[北極海]]経由で[[アジア]]へ向かう[[北西航路]]を発見しようとこの地域へ到達し、{{仮リンク|ヌートカ・サウンド|en|Nootka Sound}}に到着。その後イギリス人の入植へと続くが、[[1513年]]以来スペインの太平洋岸支配宣言が続いており、イギリスとスペインがヌートカ・サウンドを巡り交戦。その後[[1794年]]に{{仮リンク|ヌートカ条約|en|Nootka Convention}}が結ばれ、[[オレゴン州|オレゴン]]から現在のブリティッシュ・コロンビア入植地の太平洋岸はイギリスに属することとなる。
その後は欧州との交易や開拓が進んだ。[[北西会社]]の3人のイギリス人、欧州人として初めて北米大陸を横断し太平洋に達した[[アレグザンダー・マッケンジー (探検家)|アレグザンダー・マッケンジー]]、この地域にいくつかの砦を建設した{{仮リンク|サイモン・フレーザー|en|Simon Fraser (explorer)}}、{{仮リンク|デイヴィッド・トンプソン (探検家)|en|David Thompson (explorer)|label=デイヴィッド・トンプソン}}などの探検家達が太平洋に注ぎ込む[[コロンビア川]]の河口を探索した。「[[ハドソン湾会社]]」がその後この地域を管理下におき、ビクトリア砦(Fort Victoria、現在の[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]])もその会社の業務を保護するために[[1843年]]に建設された。この当時、アメリカの「[[マニフェスト・デスティニー]]」(アメリカの領土拡張主義)が最も実際の脅威として考えられた。[[1846年]]に[[オレゴン条約]]が調印され、ロッキー山脈以西の北米英領とアメリカ領の国境を北緯49度と定めた。
=== 自治領への加盟 ===
バンクーバー島は[[1849年]]、本土側は[[1858年]]にそれぞれイギリスの植民地となる。両者は[[1866年]]、ブリティッシュ・コロンビア植民地として統合される。[[1871年]]、「カナダ自治領」(Dominion of Canada)に加入しブリティッシュコロンビア州となる。[[1858年]]にフレーザー川下流岸に金鉱が発見され、[[ゴールドラッシュ]]が始まった。[[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]]も金を求める人であふれ、道路網の整備などが進んだ。その後の行政の失敗で発生した大きな負債を自治領政府が負担する形で、バンクーバー島植民地と本土側が統合し、自治領に加入することとなった。その際、自治領政府は[[モントリオール]]からの大陸横断鉄道を敷設することを公約とした。
=== その後の歴史的出来事 ===
[[カナダ太平洋鉄道]](CPR)の大陸横断鉄道が完成し、バンクーバー港と直結してからは、バンクーバーは太平洋岸での主要な都市となり、カナダの豊かな天然資源や工業製品の輸出基地となって現在まで発展した。
[[19世紀]]末から[[20世紀]]初頭にかけての白人入植者の増加に伴い、彼らによって[[インフルエンザ]]や[[天然痘]]がインディアンの集落に持ち込まれ、これら伝染病は「集落単位で消滅する」規模で猛威をふるい、免疫を持たないインディアン社会に大打撃を与えた。彼らの死体は一つの穴に大雑把に放り込まれて埋められ、墓標すら立てられなかった。近年になり、部族の有志によって遺骨の家族への返還作業が少しずつ進められている。
20世紀に入ってから、多くの移民が世界各国からやってきた。この時点ではまだ[[人種差別]]も激しく、様々な人種差別事件が起こった。イギリス領として開拓してきた頃の無謀で不誠実、時には暴力による、[[インディアン]]との交渉の過程に鑑みて、インディアンとの差別問題では現在でも論争が続いている。ブリティッシュコロンビア州はその後も地勢学的な関係からもアジアとの結びつきが強く、[[日本]]を含むアジアからの移民を多く受け入れていることもあり、アジア経済に後押しされての経済発展が続いている。日本をはじめとする国からの観光客も多く、観光産業が発展している。
1910年3月4日 ロジャーズパスで雪崩が発生し、その復旧作業中の移民労働者を再度雪崩が襲い、32人の日系移民が死亡し、バンクーバーに埋葬された。
== 地理 ==
カナダ西部に位置し、太平洋と[[ロッキー山脈]]に挟まれている。東は[[アルバータ州]]、北は[[ユーコン準州]]、[[ノースウエスト準州]]と接し、南は国境を隔ててアメリカの[[ワシントン州]]・[[アイダホ州]]・[[モンタナ州]]と接する。また、州の北西部はアメリカの[[アラスカ州]]と接する。北部の2/3とロッキー山脈にはほとんど人が住んでいない。州の北西部には[[タールタン高地]]が広がる。
=== 気候 ===
州の南西部のバンクーバーや沿岸地帯は[[暖流]]の影響で[[温帯]]に分類され降雨量が大きく、その他の地域は[[亜寒帯]]に分類される冷涼な気候である。しかし、南部山間地の[[オカナガン]]地方は半乾燥〜[[砂漠気候]]で所により夏の気温が40℃を超え、[[ワイン]]の産地である。[[:en:Osoyoos|オソイヨーズ]]では7月の平均最高気温がカナダ国内最高の31.5度に達し、[[リットン (ブリティッシュコロンビア州)|リットン]]では2021年6月30日にカナダ国内最高気温の49.6度を観測している。内陸部は夏の暑さは厳しいものの湿度は低くて乾燥しているために過ごしやすい。州の森林面積は6000万ヘクタール(総面積の3分の2に相当)。多様性に富んだ自然を持ち、生態系が非常に豊かである。
西部の[[太平洋]]海岸部は、夏は[[中緯度高圧帯|中緯度高気圧]]、冬は[[亜寒帯低圧帯|亜寒帯低気圧]]が北太平洋海上に発達することで、夏・冬とも[[アラスカ海流|アラスカ暖流]]上を通過した湿潤な西風が吹きつけるため、高緯度にもかかわらず年間を通じて降水量が非常に多い。
=== エリア別 ===
BC州は以下、大きく6つのエリアに分かれている。
* バンクーバー、コースト&マウンテン
* バンクーバーアイランド、ビクトリア&ガルフ諸島
* トンプソン・オカナガン
* クートニー・ロッキーズ
* カリブー・チルコーティン・コースト
* ノーザン・ブリティッシュ・コロンビア
: ''参照:[[ブリティッシュコロンビア州の地方行政区]]''
=== 主な都市 ===
* [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]
* [[ビクトリア (ブリティッシュコロンビア州)|ビクトリア]](州都)
* [[ケロウナ]]
* [[アボッツフォード]]
* [[ナナイモ]]
* [[カムループス]]
* [[チリワック]]
* [[プリンス・ジョージ (ブリティッシュコロンビア州)|プリンス・ジョージ]]
* [[ウィスラー (ブリティッシュコロンビア州)|ウィスラー]](リゾート)
* [[リッチモンド_(ブリティッシュコロンビア州)]]
== 政治 ==
{{節スタブ}}
議会は[[一院制]]で87議席である。
[[File:British Columbia Parliament Buildings - Pano - HDR.jpg|thumb|州都ビクトリアの州議事堂]]
== スポーツ ==
* [[アイスホッケー]]:[[バンクーバー・カナックス]] ([[ナショナルホッケーリーグ|NHL]])
* [[サッカー]]:[[バンクーバー・ホワイトキャップス]] ([[メジャーリーグサッカー|MLS]])
* [[カナディアンフットボール]]:[[ブリティッシュ・コロンビア・ライオンズ|BCライオンズ]] ([[カナディアン・フットボール・リーグ|CFL]])
== 交通 ==
=== 主な空港 ===
* [[バンクーバー国際空港]](YVR)
* [[バンクーバー・ハーバー水上空港]](CXH)
* [[ビクトリア国際空港]](YYJ)
* [[ケロウナ国際空港]](YLW)
* [[アボッツフォード国際空港]] {{enlink|YXX|s=off}}
* [[ナナイモ空港]](YCD)
=== 鉄道 ===
* [[カナダ太平洋鉄道]](CPR)
* [[カナディアン・ナショナル鉄道]](CNR)
* [[VIA鉄道]](VIA Rail)
* {{仮リンク|イー・アンド・エヌ鉄道|en|E and N Railway}}
* [[BNSF鉄道]]
* [[アムトラック]]
* [[ロッキーマウンテニア鉄道]]
=== 高速道路 ===
* [[ブリティッシュコロンビア・ハイウェイ]]網:[[トランスカナダハイウェイ]]に加え、ブリティッシュコロンビア州の高速道路が整備され、ハイウェイ網を形成している。
== 関連項目 ==
* [[ブリティッシュコロンビア州の大学の一覧]]
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|British Columbia}}
* [https://www2.gov.bc.ca/gov/content/home ブリティッシュコロンビア州公式サイト] {{en icon}}
* [https://jp-keepexploring.canada.travel/places-to-go/british-columbia ブリティッシュ・コロンビア州観光局] {{ja icon}}
<!-- 参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/Template:Flagicon#.E3.82.AB.E3.83.8A.E3.83.80.E3.81.AE.E5.B7.9E.E3.81.AE.E6.97.97 -->
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[[Category:ブリティッシュコロンビア州|*]]
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18,472 |
裁判所
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裁判所(、英: court)は、裁判官によって構成され司法権を行使する国家機関、及びその庁舎を指す。日本語の「裁判所」は、1890年に公布された裁判所構成法(明治23年法律第6号)から一般的な呼称になった。法院とも言う。
「裁判所」には司法行政上の官署としての裁判所、司法行政上の官庁としての裁判所、裁判機関としての裁判所の3つの意味があり、前二者をまとめて国法上の意味の裁判所ともいう。
官署ないし官庁としての裁判所を国法上の意味の裁判所という。
実際にある個別的・具体的な争訟(訴訟)を審理する裁判体。裁判機関としての裁判所は当該裁判所の裁判官により構成される。
日本国憲法第76条第1項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」とする。裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。
日本国憲法第76条第2項前段は「特別裁判所は、これを設置することができない。」とする。日本国憲法が特別裁判所を禁じている趣旨は、法廷の平等(公平・平等の原則)、司法の民主化、法解釈の統一性を考慮したものである。
日本国憲法にいう「特別裁判所」とは、特定の地域・身分・事件等を対象として通常の裁判所(通常裁判所)の系列から独立して設置される裁判機関をいう。したがって、最高裁判所の系列下にある家庭裁判所や知的財産高等裁判所はこれにあたらない(家庭裁判所に関する判例、昭和31年5月30日最高裁大法廷判決刑集第10巻5号756頁)。
憲法上の例外として、公の弾劾による罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するために国会に設けられる弾劾裁判所がある(日本国憲法第64条)。
日本国憲法第76条第2項後段は「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」とする。
終審でなければ行政機関が準司法手続を行うこともできる(行政審判)。
アメリカ合衆国では連邦制がとられており、連邦と州の二重の司法制度を有している。
アメリカ合衆国憲法修正第10条は「本憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止されなかった権限は、それぞれの州または人民に留保される」としており、州裁判所は連邦裁判所から独立して管轄権を行使する。
連邦裁判所は、アメリカ合衆国憲法、アメリカ連邦議会の制定法、これらを解釈する連邦裁判所判決によって特に与えられたものに限り管轄権を有する。
州によって州裁判所の種類や数は異なっている。典型的には、最上級裁判所を頂点に、中間上訴裁判所、一般管轄裁判所(事実審裁判所)で構成されることが多い。
オーストラリアでは憲法(1901年制定)によって連邦政府と諸州からなる連邦制度が確立された。
連邦と州のそれぞれで立法、 行政、司法の三権に分かれており、連邦の法律と州、準州、特別地域の法律とが矛盾しているときは連邦の法律が優先する。
連邦と各州の司法機関は独立して法の解釈と適用を行っている。
オーストラリアでは州法等に関する裁判を行うため州や準州、特別地域のそれぞれに司法権があり独立した裁判所の制度がある。この法廷では各区域内で発生する大半の刑事事件が処理される。また、連邦法に関する事件でも一部は連邦議会から委譲されており司法権がある。
すべての州や準州には州や準州レベルでの最高裁判所が設置されており、一部の州には刑事事件の上告法廷が設置がされている。これらの下級裁判所として地方裁判所や郡裁判所が設置されている。また特に軽微な犯罪に関しては、治安判事が裁判を行う地方あるいは治安判事法廷(または微罪法廷)という下級法廷で扱われている。
行政控訴裁判所は、連邦政府司法長官が管轄する独立の機関で広範な行政決定に対する真価の再評価を行う。行政控訴裁判所は400を超える法律や立法文書に基づいて行政機関が行った決定について再検討を行う司法権を有する。
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"title": "オーストラリアの裁判所"
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] |
裁判所(さいばんしょ、は、裁判官によって構成され司法権を行使する国家機関、及びその庁舎を指す。日本語の「裁判所」は、1890年に公布された裁判所構成法から一般的な呼称になった。法院とも言う。
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{{Otheruseslist|[[司法]]権を行使する国家機関|国際裁判を行う国際機関|国際裁判所|日本で明治元年([[1868年]])に設置されていた地方機関|裁判所 (地方制度)}}
[[File:Johor Bahru High Court.jpg|thumb|裁判所]]
{{読み仮名|'''裁判所'''|さいばんしょ|{{lang-en-short|court}}}}は、[[裁判官]]によって構成され[[司法|司法権]]を行使する[[国家機関]]{{Sfn|新堂幸司|1991|p=81}}、及びその[[役所|庁舎]]を指す。日本語の「裁判所」は、[[1890年]]に公布された[[裁判所構成法]](明治23年法律第6号)から一般的な呼称になった。[[法院]]とも言う。
== 概説 ==
「裁判所」には司法行政上の官署としての裁判所、司法行政上の官庁としての裁判所、裁判機関としての裁判所の3つの意味があり、前二者をまとめて国法上の意味の裁判所ともいう{{Sfn|新堂幸司|1991|p=81}}。
=== 国法上の意味の裁判所 ===
官署ないし官庁としての裁判所を国法上の意味の裁判所という{{Sfn|新堂幸司|1991|p=81}}{{Sfn|中武靖夫|1987|p=14}}。
* 官署としての裁判所
*: 官署としての裁判所とは裁判官を中心として裁判所職員やその設備の全体を含む意味での裁判所をいう{{Sfn|中武靖夫|1987|p=14}}。
* 官庁としての裁判所
*: 官庁としての裁判所とは司法行政上の国家意思を決定しこれを表示する国家機関をいう{{Sfn|中武靖夫|1987|p=14}}。
=== 裁判機関としての裁判所 ===
実際にある個別的・具体的な[[争訟]]([[訴訟]])を[[審理]]する裁判体。裁判機関としての裁判所は当該裁判所の裁判官により構成される{{Sfn|新堂幸司|1991|p=82}}。
== 日本の裁判所 ==
{{Main|日本の裁判所}}
=== 司法権の帰属 ===
[[日本国憲法第76条]]第1項は「すべて[[司法権]]は、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]及び法律の定めるところにより設置する[[下級裁判所]]に属する。」とする。裁判所は、[[日本国憲法]]に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する<ref>裁判所法第3条第1項</ref>。
=== 特別裁判所の禁止 ===
日本国憲法第76条第2項前段は「[[特別裁判所]]は、これを設置することができない。」とする。日本国憲法が特別裁判所を禁じている趣旨は、法廷の平等(公平・平等の原則)、司法の民主化、法解釈の統一性を考慮したものである{{Sfn|渋谷秀樹|赤坂正|2016|p=97}}。
日本国憲法にいう「特別裁判所」とは、特定の地域・身分・事件等を対象として通常の裁判所(通常裁判所)の系列から独立して設置される裁判機関をいう{{Sfn|渋谷秀樹|赤坂正|2016|p=97}}。したがって、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の系列下にある[[家庭裁判所]]や[[知的財産高等裁判所]]はこれにあたらない{{Sfn|渋谷秀樹|赤坂正|2016|p=97}}(家庭裁判所に関する判例、昭和31年5月30日最高裁大法廷判決刑集第10巻5号756頁)。
憲法上の例外として、公の弾劾による[[罷免]]の[[訴追]]を受けた[[裁判官]]を裁判するために[[国会]]に設けられる[[裁判官弾劾裁判所|弾劾裁判所]]がある([[日本国憲法第64条]]){{Sfn|渋谷秀樹|赤坂正|2016|p=97}}。
=== 行政機関の終審での裁判禁止 ===
日本国憲法第76条第2項後段は「行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」とする。
終審でなければ行政機関が準司法手続を行うこともできる([[行政審判]])。
== アメリカ合衆国の裁判所 ==
{{main|アメリカ合衆国の司法制度}}
[[アメリカ合衆国]]では[[連邦制]]がとられており、連邦と州の二重の司法制度を有している{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=6}}。
アメリカ合衆国憲法修正第10条は「本憲法によって合衆国に委任されず、また州に対して禁止されなかった権限は、それぞれの州または人民に留保される」としており、州裁判所は連邦裁判所から独立して管轄権を行使する{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=6}}。
連邦裁判所は、[[アメリカ合衆国憲法]]、[[アメリカ合衆国議会|アメリカ連邦議会]]の制定法、これらを解釈する連邦裁判所判決によって特に与えられたものに限り管轄権を有する{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=6}}。
=== 連邦裁判所 ===
{{main|アメリカ合衆国連邦裁判所}}
* [[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]](Supreme Court)
*: 連邦最高裁判所はアメリカ合衆国の司法制度の頂点にある最上級裁判所である{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。連邦及び州の裁判所からの最終上訴裁判所であるが、通常、憲法上の重大な新しい問題が提起されている場合と控訴裁判所間の判決が矛盾を生じている場合にのみ上訴が認められる{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。このほか複数の州の間の争いのように、自らが第一審裁判管轄権を有する場合や専属管轄権を有する場合の訴訟も扱う{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。
* [[合衆国控訴裁判所|連邦巡回控訴裁判所]](Court of Appeals)
*: 連邦地方裁判所の判決の審理、連邦地方裁判所の中間命令の審理、行政機関の決定の審理を管轄している{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。米国には自動的上訴の制度がないため多くの争いの事実上の最終審となっている{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。
* {{仮リンク|合衆国地方裁判所|en|United States district court|redirect=1|label=連邦地方裁判所}}(District Court)
*: 米国における事実審裁判所であり、通常はここから訴訟が開始される{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。連邦議会の制定法により、州法に関する争いのうち当事者間に州籍の違いがあり最低訴額の要件が満たされている場合、連邦法に関する争点が存在する場合の2種類について管轄権を有する{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=9}}。
* 特別裁判所
*: 連邦議会は連邦請求裁判所など特定の種類の訴訟を扱う特別な連邦下級裁判所を創設している{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=10}}。
=== 州裁判所 ===
{{main|州裁判所 (アメリカ合衆国)}}
州によって州裁判所の種類や数は異なっている{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=10}}。典型的には、最上級裁判所を頂点に、中間上訴裁判所、一般管轄裁判所(事実審裁判所)で構成されることが多い{{Sfn|モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所|2006|p=10}}。
== オーストラリアの裁判所 ==
[[オーストラリア]]では[[オーストラリア憲法|憲法]](1901年制定)によって連邦政府と諸州からなる連邦制度が確立された<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j">{{PDFlink|[https://japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j.pdf 司法制度(オーストラリア)]}} 在日オーストラリア大使館 2019年3月23日閲覧</ref>。
連邦と州のそれぞれで立法、 行政、司法の三権に分かれており、連邦の法律と州、準州、特別地域の法律とが矛盾しているときは連邦の法律が優先する<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
連邦と各州の司法機関は独立して法の解釈と適用を行っている<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
=== 連邦裁判所 ===
; [[オーストラリア高等裁判所|オーストラリア連邦高等裁判所]] (High Court of Australia)
: オーストラリア連邦高等裁判所は、法律の合憲性など連邦にとって特に重要な事件に対する判決を下し、連邦、州、準州、特別地域からさらに上訴のあった事件を審理する<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。オーストラリア連邦高等裁判所は、首席裁判官 (Chief Justice) と6人の判事で組織され、審理は単独または合同で行う<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。連邦と州のどちらの裁判権に属するものでも上告できる最上級の裁判所である<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
; オーストラリア連邦裁判所 (Federal Court of Australia)
: オーストラリア連邦裁判所は、連邦の法律や一部略式の刑事事件から発生したほぼすべての民事事件を扱う<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。オーストラリア連邦裁判所は、連邦裁判所や連邦微罪裁判所(家族法に関係のない事件)で一人制の法廷での判決や、州や準州、特別地域などの法廷の一部の判決に対して上告があった事件を管轄する<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
; オーストラリア家庭裁判所 (Family Court of Australia)
: オーストラリア家庭裁判所は、家族法に関する事件の上級裁判所である<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。家族法を扱う専門の判事や職員が紛争解決の援助を行う。[[国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約]](国際的児童誘拐に関するハーグ条約)などに関する事件も扱っている<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
; オーストラリア連邦微罪(下級)裁判所 (Federal Magistrates Court of Australia)
: オーストラリア連邦微罪(下級)裁判所は、1999年に連邦議会によって設立された裁判所で、主に家庭裁判所や連邦裁判所の扱う事件に関する下級裁判所である<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
=== 州・準州・特別地域の裁判所 ===
オーストラリアでは州法等に関する裁判を行うため州や準州、特別地域のそれぞれに司法権があり独立した裁判所の制度がある<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。この法廷では各区域内で発生する大半の刑事事件が処理される<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。また、連邦法に関する事件でも一部は連邦議会から委譲されており司法権がある<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
すべての州や準州には州や準州レベルでの最高裁判所が設置されており、一部の州には刑事事件の上告法廷が設置がされている<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。これらの下級裁判所として地方裁判所や郡裁判所が設置されている<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。また特に軽微な犯罪に関しては、治安判事が裁判を行う地方あるいは治安判事法廷(または微罪法廷)という下級法廷で扱われている<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
=== 行政控訴裁判所 ===
行政控訴裁判所は、連邦政府司法長官が管轄する独立の機関で広範な行政決定に対する真価の再評価を行う<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。行政控訴裁判所は400を超える法律や立法文書に基づいて行政機関が行った決定について再検討を行う司法権を有する<ref name="japan.embassy.gov.au/files/tkyo/AAF2008_legal_j" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書 |author1=渋谷秀樹 |author2=赤坂正 |title=憲法2 統治 第6版 |publisher=有斐閣 |year=2016 }}
* {{cite book|和書 |author1=新堂幸司 |author2=小島武司 |title=注釈民事訴訟法 第1巻 裁判所・当事者1(第1条〜第58条)|publisher=有斐閣 |year=1991 |isbn=9784641017313 }}
* {{cite book|和書 |author1=中武靖夫 |author2=平場安治 |author3=高田卓爾 |author4=鈴木茂嗣 |title=注解刑事訴訟法 上巻 全訂新版 |publisher=青林書院 |year=1987 |isbn=9784417007265 }}
* {{cite book|和書 |author=モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所 |title=アメリカの民事訴訟 第2版|publisher=有斐閣 |year=2006 |isbn=9784641134805 }}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|裁判所}}
{{Commons|Category:Courts}}
* [[日本の裁判所]]
* [[裁判所法]]
* [[裁判]]
* [[判決]]
* [[審級]]
* [[法曹]]・[[法律家]]
* [[権力分立]](三権分立)
* [[評定所]]
* [[お白洲]]
* {{ill2|サイドバー (裁判所)|en|Sidebar (law)}} - アメリカ合衆国の裁判で、裁判官の横の事。弁護士が裁判官に「裁判官の席に近づいてもいいですか?」と許可をとってから陪審員に聞かれずに裁判官と密談することを指す。
* {{ill2|法廷画|en|Courtroom sketch}}
* [[法廷もの]]、{{ill2|リーガルドラマ|en|Legal drama}}、{{ill2|コートショー|en|Court show}}
* [[吊し上げ]]
== 外部リンク ==
* [https://www.courts.go.jp/index.html 裁判所]
* {{Egov law|322AC0000000059|裁判所法}}
{{権力分立}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:さいはんしよ}}
[[Category:裁判所|*]]
|
2003-09-27T06:13:24Z
|
2023-11-09T08:52:59Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80
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1129年
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1129年(1129 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1129年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己酉]]
* [[日本]]
** [[大治 (日本)|大治]]4年
** [[皇紀]]1789年
* [[中国]]
** [[南宋]] : [[建炎]]3年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]7年
** [[西夏]] : [[正徳 (西夏)|正徳]]3年
** [[大理国]] : [[保天]]元年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天順 (李朝)|天順]]2年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[7月24日]](大治4年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) - [[白河天皇|白河法上皇]]が崩御する。
* [[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]が[[院政]]をはじめる。
== 誕生 ==
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* [[9月5日]](大治4年[[7月20日 (旧暦)|閏7月20日]]) - [[覚性入道親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[僧]]、[[歌人]](+ [[1169年]])
* [[伊達朝宗]]、平安時代の[[武将]](+ [[1199年]])
* [[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ3世]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]]、[[バイエルン大公|バイエルン公]](+ [[1195年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1129年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月22日]](大治4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[源俊頼]]、[[平安時代]]の[[公家]]、[[歌人]](* [[1055年]])
* [[2月5日]](大治4年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[藤原顕隆]]、平安時代の[[公卿]](* [[1072年]])
* [[4月21日]](大治4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[勝覚]]、平安時代の[[真言宗]]の[[僧]](* [[1057年]])
* [[7月24日]](大治4年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) - [[白河天皇]]、第72代[[天皇]](* [[1053年]])
* [[趙旉]]、[[南宋]]の[[皇太子]](* [[1127年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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肝癌
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肝癌(かんがん、英: Liver cancer)は、肝臓に発生した悪性腫瘍の総称である。
大きくは肝臓が発生元である原発性肝癌と、他臓器で発生したがんが肝臓に転移した転移性肝癌の2つに分けられる。原発性肝癌はさらに組織型によって分類される。
原発性肝癌の大部分は肝細胞癌 (hepatocellular carcinoma、略称:HCC) であることから「肝癌」という言葉は狭義に「肝細胞癌」を指す場合がある。
以下、2000年のWHO「histological classification of tumours of the liver and intrahepatic bile ducts」の資料を元に分類し解説する。
また欧米では胆管細胞癌は胆管癌の一部であるとする認識が一般的であり、肝癌はほぼ肝細胞癌であるが、前述のとおりWHO分類などでは「肝臓および肝内胆管の腫瘍」とすることにより、実質的にひとまとめにして扱っている。
ウイルス性肝炎は治療を行うことで、発癌リスクが低下することが報告されている。
肝細胞癌の治療は、開腹・腹腔鏡手術、経皮的穿刺による焼灼術、カテーテルを用いた塞栓術、放射線療法、化学療法など多岐にわたる。 転移性肝腫瘍の治療は手術と化学療法が主となる。
肝癌は、世界的に見て、2008年において年間70万人の死亡者を出しており、140万人死亡の肺癌、74万人死亡の胃癌に続いて3番目の癌死の原因となっている。
世界的に見ると、モンゴルでの肝癌での死亡率が高くなっているが、その原因として、モンゴルではB型肝炎ウイルス (HBV) 、C型肝炎ウイルス (HCV) の感染率が高く、一般住民のHBs抗原陽性率は6.9%から15.6%、HCV抗体陽性率は10.7%から36.3%と報告されている。
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肝癌は、肝臓に発生した悪性腫瘍の総称である。
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{{Infobox_Disease
| Name = 肝癌
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'''肝癌'''(かんがん、{{lang-en-short|Liver cancer}})は、[[肝臓]]に発生した[[悪性腫瘍]]の総称である。
== 分類 ==
大きくは肝臓が発生元である'''原発性肝癌'''と、他臓器で発生したがんが肝臓に[[転移 (医学)|転移]]した'''転移性肝癌'''の2つに分けられる。原発性肝癌はさらに[[組織型]]によって分類される。
原発性肝癌の大部分は[[肝細胞癌]] (hepatocellular carcinoma、略称:'''HCC''') であることから「肝癌」という言葉は狭義に「肝細胞癌」を指す場合がある。
以下、2000年の[[世界保健機関|WHO]]「histological classification of tumours of the liver and intrahepatic bile ducts」の資料を元に分類し解説する。
* '''上皮性腫瘍'''
** '''良性''':肝内胆管腺腫など。
** '''悪性'''
*** '''[[肝細胞癌]]''':肝臓の実質である肝細胞から発生する癌。日本では原発性肝癌の約90%を占める。その原因の多くが[[C型肝炎]](約72%)によるもので、以下[[B型肝炎]](約17%)、[[非アルコール性脂肪性肝炎|NASH]]、[[アルコール性肝疾患|アルコール性肝炎]]、原因不詳と続く。
*** '''[[胆管細胞癌]]''':肝臓内の[[胆管]]から発生する癌。日本では原発性肝癌の5%程度である。
*** そのほか稀なものとして上記の混合型や[[肝芽腫]]などがある。
* '''非上皮性腫瘍'''
** '''良性''':血管腫など。
** '''悪性''':血管肉腫など。
* '''その他の腫瘍''':孤在性線維性腫瘍 (Solitary fibrous tumor、略称:'''SFT''') など。
* '''造血細胞性およびリンパ性腫瘍'''
* '''二次性腫瘍(転移性肝癌)''':他の臓器のがんが肝臓に転移したもの。
* '''腫瘍に類似した上皮の異常''':[[過形成]]、[[異形成]]など。
* '''その他の腫瘍類似病変'''
また欧米では[[胆管細胞癌]]は[[胆管癌]]の一部であるとする認識が一般的であり、肝癌はほぼ肝細胞癌であるが、前述のとおりWHO分類などでは「肝臓および肝内胆管の腫瘍」とすることにより、実質的にひとまとめにして扱っている。
== 予防 ==
[[ウイルス性肝炎]]は治療を行うことで、発癌リスクが低下することが報告されている。
*[[B型肝炎]]…[[ヌクレオシド]]・[[アナログ_(化学)|アナログ]]でウイルス量を低下させると発癌率は低下する<ref>Chen, CJ etal.: JAMA 295(1); 65-73,2006</ref>。
*[[C型肝炎]]…[[インターフェロン]]αもしくはβでウイルスを消失させるか、または一時的に測定不能なまで減少させると発癌率が低下することが知られている<ref>J Infect Chemother. 2003 Dec;9(4):333-40.</ref>。
== 治療 ==
肝細胞癌の治療は、開腹・[[腹腔鏡手術]]、経皮的穿刺による焼灼術、[[カテーテル]]を用いた塞栓術、[[放射線療法]]、[[化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法]]など多岐にわたる<ref>{{Cite journal|last=Kojima|first=Hiroyuki|last2=Tanigawa|first2=Noboru|last3=Kariya|first3=Shuji|last4=Komemushi|first4=Atsushi|last5=Shomura|first5=Yuzo|last6=Sawada|first6=Satoshi|last7=Arai|first7=Eitatsu|last8=Yokota|first8=Yoshiro|date=2006-02|title=A case of spontaneous regression of hepatocellular carcinoma with multiple lung metastases|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16715676/|journal=Radiation Medicine|volume=24|issue=2|pages=139–142|doi=10.1007/BF02493281|issn=0288-2043|pmid=16715676}}</ref><ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7036851/ International Journal of Molecular Sciences.Vol.21(3);2020 February]The Biofunctional Effects of Mesima as a Radiosensitizer for Hepatocellular Carcinoma</ref>。
転移性肝腫瘍の治療は手術と[[化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法]]が主となる。
== 疫学 ==
[[Image:Liver cancer world map - Death - WHO2004.svg|thumb|350px|2004年における10万人毎の肝がんによる死亡者数(年齢標準化済み)<ref>{{cite web |url=http://www.who.int/healthinfo/global_burden_disease/estimates_country/en/index.html |title=WHO Disease and injury country estimates |year=2009 |work=World Health Organization |accessdate=Nov. 11, 2009}}</ref><div class="references-small" style="-moz-column-count:3; column-count:3;"><small>
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</div>]]
肝癌は、世界的に見て、2008年において年間70万人の死亡者を出しており、140万人死亡の[[肺癌]]、74万人死亡の[[胃癌]]に続いて3番目の癌死の原因となっている<ref name="WHO">{{cite web | last =WHO | authorlink =World Health Organization | title =Cancer | publisher =World Health Organization |month=Oct | year=2010 | url =http://www.who.int/mediacentre/factsheets/fs297/en/ | accessdate =2011-01-05 }}</ref>。
世界的に見ると、[[モンゴル国|モンゴル]]での肝癌での死亡率が高くなっているが、その原因として、モンゴルでは[[B型肝炎ウイルス]] (HBV) 、[[C型肝炎ウイルス]] (HCV) の感染率が高く、一般住民の[[B型肝炎|HBs抗原]]陽性率は6.9%から15.6%、HCV抗体陽性率は10.7%から36.3%と報告されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://journal.kansensho.or.jp/Disp?pdf=0790100824.pdf|title=モンゴルの肝細胞癌・肝機能障害患者におけるHBV・HCV マーカーの検討|publisher=[[東海大学]]医学部 静間徹|accessdate=2021年4月15日|format=PDF}}</ref>。
{{日本のがん統計}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[悪性腫瘍]]
* [[腫瘍学]]
* [[癌の一覧]]
{{Normdaten}}
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[[Category:ウイルス性肝炎]]
[[Category:肝臓病]]
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18,478 |
6年
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6年(6 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。
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6年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。
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'''6年'''(6 ねん)は、[[西暦]]([[ユリウス暦]])による、[[平年]]。
ユリウス暦制定直後の混乱により、[[紀元前6年]]から紀元後[[7年]]まで[[閏年]]を停止し、平年であったと推定されている。{{main|[[ユリウス暦]]}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[垂仁天皇]]35年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]666年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[前漢]] : [[居摂]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[瑠璃明王]]25年
** [[新羅]] : [[南解次次雄|南解王]]3年
** [[百済]] : [[温祚王]]24年
** [[檀君紀元|檀紀]]2339年
* [[仏滅紀元]] : 549年
* [[ユダヤ暦]] : 3766年 - 3767年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=6|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
=== ヨーロッパ ===
* マルクス・アエミリウス・レピドゥス、ルキウス・アッルンティウスが[[執政官]]に就任。
* [[ユダヤ]]と[[モエシア]]、[[ローマ帝国]]の[[属州]]となる。
* [[ティベリウス]]、[[カルヌントゥム]]を[[マルコマンニ|マルコマンニ人]]の[[マロボドゥス]]王([[:en:Marbod|英]])に対する拠点とする。
* ティベリウス麾下の[[第20ウァレリア・ウィクトリクス軍団]]([[:en:Legio XX Valeria Victrix|英]])、マルコマンニと戦う。
* [[ヴィースバーデン]]に要塞が築かれ、街の起源となる。
* [[シリア属州]]総督[[プブリウス・スルピキウス・クィリニヌス]]、人口調査を行なう([[フラウィウス・ヨセフス]]の記録による)。
=== 東アジア ===
*([[前漢]]) [[王莽]]、[[孺子嬰]]を[[皇太子]]に立て、自ら「摂皇帝(皇帝代行)」となる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:6年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ネロ・カエサル]] - [[ゲルマニクス]]の息子でティベリウスの後継者候補(+ [[31年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:6年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[クレオパトラ・セレネ2世]] - [[クレオパトラ7世]]と[[マルクス・アントニウス]]の娘(* [[紀元前39年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,479 |
1年
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1年(1 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
ディオニュシウス・エクシグウスが西暦の起点(紀元)とした年である。西暦元年という場合、西暦1年のことである。紀元1年とも呼ぶ。
ユリウス暦制定直後の混乱により、紀元前6年から紀元後7年まで閏年を停止し、平年であったと推定されている。
なお、西暦1年(紀元1年)の前年を、通常は「紀元前1年」と呼ぶ。ただし、天文学やISO 8601(日付と時刻の表記に関する国際規格)では「西暦0年」としている。
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1年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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'''1年'''(1 ねん)は、[[西暦]]([[ユリウス暦]])による、[[平年]]。
== 概要 ==
[[ディオニュシウス・エクシグウス]]が西暦の起点([[紀元]])とした年である。'''西暦[[元年]]'''という場合、西暦1年のことである。紀元1年とも呼ぶ。
ユリウス暦制定直後の混乱により、[[紀元前6年]]から紀元後[[7年]]まで[[閏年]]を停止し、平年であったと推定されている。{{main|ユリウス暦#運用}}
なお、西暦1年(紀元1年)の前年を、通常は「[[紀元前1年]]」と呼ぶ。ただし、[[天文学]]や[[ISO 8601]](日付と時刻の表記に関する国際規格)では「西暦[[0年]]」としている。{{main|[[0年]]}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛酉]](かのと とり)
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[垂仁天皇]]30年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]661年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[前漢]] : [[元始 (漢)|元始]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[瑠璃明王]]20年
** [[新羅]] : [[赫居世居西干|赫居世]]58年
** [[百済]] : [[温祚王]]19年
** [[檀君紀元|檀紀]]2334年
* [[仏滅紀元]] : 542年 - 543年
* [[ユダヤ暦]] : 3761年4月18日 - 3762年4月29日
* [[ローマ建国紀元]] : 754年
* [[エチオピア暦]] : 紀元前7年 - 紀元前6年
* [[コプト暦]] ︰ 紀元前283年 - 紀元前282年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
=== 前漢 ===
* [[前漢]]で、[[元始 (漢)|元始]]元年、[[王莽]]、[[太傅]](摂政)となり、安漢公と号する<ref>『人物中国の歴史4 : 長城とシルクロードと』[[集英社]]、1981年(昭和56年)、p. 309.</ref>。
* [[孔子]]に最初の諡号「褒成宣尼公」が贈られる。
=== ローマ帝国 ===
* [[アウグストゥス]]の養子[[ガイウス・カエサル|ガイウス・ユリウス・カエサル・ウィプサニアヌス]]が[[執政官|コンスル]]となる。
=== 中央アジア・インド ===
* [[クシャーナ朝]]の王にして[[月氏]]の王子[[サパドビゼス]]死去、子の[[ヘラウス]]即位。
=== アフリカ ===
* [[クシュ]]で、女王[[アマニシャケト]]死去、[[ナタカマニ]]即位。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1年生}}
<!-- 世界的に著名な人物のみ項内に記入 -->
* [[マルクス・アントニウス・パッラス]]{{要出典|date=2021-02}}、ローマ皇帝[[クラウディウス]]に仕えた[[解放奴隷]]。(+[[63年]])
* [[セクストゥス・アフラニウス・ブッルス]]{{要出典|date=2021-03}}、ローマ帝国[[ユリウス=クラウディウス朝]]期の[[軍人]](+[[62年]])
* [[スクリボニウス・ラルガス]]、ローマ皇帝[[クラウディウス]]の宮廷医(+[[50年]])
* [[イザテス2世]]、[[アディアベネ王国]]の[[王]](+[[54年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1年没}}
<!-- 世界的に著名な人物のみ項内に記入 -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!-- === 注釈 ===
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=== 出典 === -->
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:1年|*]]
[[als:0er#Johr 1]]
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18,480 |
アーサー・サリヴァン
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アーサー・シーモア・サリヴァン(Sir Arthur Seymour Sullivan, 1842年5月13日 - 1900年11月22日)は、イギリスの作曲家。ウィリアム・S・ギルバート(劇作家・作詞家、William S. Gilbert, 1836年 - 1911年)と組んでオペラを創った事で知られている。
アーサー・サリヴァンはロンドンのランベスで生れた。父親は軍楽隊の隊長をしており、アーサーは8歳になる頃には父のバンドで使う楽器を器用に操るようになっていた。ベイズウォーター (Bayswater) の私立学校に行った後、王室礼拝堂の合唱隊への加入を認められ、チェルシーのチェイニー・ウォーク (Cheyne Walk) にあるその合唱隊の学校に通うようになった。その頃、彼は賛美歌や歌を作曲し始めている。
1856年、サリヴァンは最初のメンデルスゾーン賞を授与され、王立音楽アカデミーに学生として2年間在籍する。1858年(16歳)に、サリヴァンはライプツィヒへ旅行し、そこで勉学を継続し指揮法を学んだ。彼はこの期間に著しい音楽的な成長を遂げた。
1862年にロンドンに帰り、クリスタル・パレスで演じられたシェイクスピアの「テンペスト」の付随音楽が誕生している。サリヴァンは次第に、英国最高の作曲家として評価されるようになっていった。1866年に「交響曲ホ長調(アイリッシュ)」の演奏会が開かれた。この当時の作品には、「イン・メモリアム (In Memoriam)の序曲」と「チェロ協奏曲」(1866年)、オラトリオ「放蕩息子 (The Prodigal Son)」(1869年)、「失われた琴線 (The Lost Chord)」(1877年)等がある。
1866年に、1幕物のオペレッタ「コックスとボックス (Cox and Box)」の総譜を出版する事で収入が増加した。これは歌劇場の為の作曲家として、彼の作品の中でも最も有名で富をもたらす事になった。
1867年の秋、彼はジョージ・グローヴとウィーンへ旅行し、未発見のシューベルトの楽譜という貴重な宝物を持ち帰った。
1871年、ジョン・ハリングスヘッド (John Hollingshead) が、ゲイエティ劇場 (Gaiety Theatre) のためにオペレッタ「テスピス (Thespis)」をギルバートと共に創る事を、サリヴァンに委嘱した。この舞台は必ずしも成功とは言いがたく、その楽譜は後に紛失してしまったが、一部分は後に「ペンザンスの海賊 (The Pirates of Penzance)」で使われている。同じ年にセイバイン・ベアリング=グールドが歌詞を書いた『進め、キリスト者の兵士 Onward, Christian Soldiers』(日本語では「見よや十字架の」として知られている)が作曲されている。
ギルバートとサリヴァンの真の協力体制が始まったのは1875年、リチャード・ドイリー・カート (Richard D'Oyly Carte) が彼等に1幕物の「陪審裁判(Trial by Jury)」を委嘱した時である。これは大成功を収め、3人はその後20年以上にわたり、時には対立する事もあったが協力関係を築き、14作品を残した。その後の作品は「魔法使い (The Sorcerer)」(1877年)、1878年には彼等のそれまででの最大の成功となった『軍艦ピナフォア (H.M.S. Pinafore)』 が生まれた。この作品はアメリカで頻繁に盗用され、ギルバートとサリヴァンは著作権を守るため1879年に大西洋を渡った。ニューヨークでは『ペンザンスの海賊』が生まれた。
次のギルバートとサリヴァンのオペラ『ペイシェンス(Patience)』は、1881年ロンドンのオペラ・コミク劇場で初演、同年末にはオープンしたばかりのサヴォイ劇場へ移りこけら落としを飾った。引き続き『アイオランシ (Iolanthe)』(1882年)、『ミカド (The Mikado)』(1885年)、『古城の衛士 (The Yeomen of the Guard)』(1888年)等が同劇場で上演された。2人の創り出した作品は《サヴォイ・オペラ》と総称されるようになる。「ミカド」は、サン=サーンスのオペラ『黄色い王女』(1872年)やプッチーニの『蝶々夫人』(1904年)など、19世紀末の異国趣味の風潮が舞台に顕著に表れていた時代の産物である。
1883年、サリヴァンはヴィクトリア女王からナイトの称号を授かった。同時代の批評家は彼のオペレッタ作曲家としての経歴に終止符を打つものと感じていた。騎士称号を得た音楽家は、オラトリオやグランド・オペラなどより下世話な作品を書いて、身を落とすべきではないと考えられていたからである。サリヴァンもまた、サヴォイ・オペラが与えてくれた経済的な保証はあったが、次第にギルバートとの仕事が自分の技術以下であり重要ではなくなってきたと感じていた。加えてサリヴァンは、ギルバートの意見を取り入れるために自分の音楽のやり方を抑えなければならないと感じていた。
1886年、サリヴァンはカンタータ「黄金伝説 (The Golden Legend) 」を創って批評家達に応えた。この曲は当時の殆どの人々がサリヴァンの最高傑作だと考えていた。結局サリヴァンは1890年、「ゴンドラの船頭達 (The Gondoliers)」の公演後、ギルバートとの共同作業に終止符を打った。その後リチャード・ドイリー・カートと共に、ウォルター・スコットの小説『アイヴァンホー(Ivanhoe)』を題材にした壮大なオペラを創作して、ロイヤル・オペラ・ハウスで上演された。しかし数年後、サリヴァンは2つのオペレッタで再びギルバートと共に仕事をし、他の仲間とは3つの作品を生み出した。
サリヴァンは生涯健康には恵まれず、1900年11月22日ロンドンの自宅で、肺炎により58歳で死亡した。ロンドンのヴィクトリア堤防公園 (Victoria Embankment Gardens) に彼の顕彰碑が建てられた。
詳細はw:List of musical compositions by Arthur Sullivanを参照。
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アーサー・シーモア・サリヴァンは、イギリスの作曲家。ウィリアム・S・ギルバートと組んでオペラを創った事で知られている。
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'''アーサー・シーモア・サリヴァン'''(Sir Arthur Seymour Sullivan, [[1842年]][[5月13日]] - [[1900年]][[11月22日]])は、[[イギリス]]の[[作曲家]]。[[ウィリアム・S・ギルバート]](劇作家・作詞家、[[:en:W. S. Gilbert|William S. Gilbert]], [[1836年]] - [[1911年]])と組んでオペラを創った<ref>Jacobs, Arthur (1984). Arthur Sullivan: A Victorian Musician. Oxford and New York: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-315443-8.</ref>事で知られている。
== 生涯 ==
=== 音楽の道へ ===
アーサー・サリヴァンは[[ロンドン]]の[[ランベス]]で生れた。父親は軍楽隊の隊長をしており、アーサーは8歳になる頃には父のバンドで使う楽器を器用に操るようになっていた。[[ベイズウォーター]] (Bayswater) の私立学校に行った後、[[チャペル・ロイヤル|王室礼拝堂]]の合唱隊への加入を認められ、[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]のチェイニー・ウォーク (Cheyne Walk) にあるその合唱隊の学校に通うようになった。その頃、彼は[[賛美歌]]や歌を作曲し始めている。
[[1856年]]、サリヴァンは最初の[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]賞を授与され、[[王立音楽アカデミー]]に学生として2年間在籍する。[[1858年]](16歳)に、サリヴァンは[[ライプツィヒ]]へ旅行し、そこで勉学を継続し[[指揮 (音楽)|指揮法]]を学んだ。彼はこの期間に著しい音楽的な成長を遂げた。
[[1862年]]にロンドンに帰り、[[水晶宮|クリスタル・パレス]]で演じられた[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の「[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]」の[[付随音楽]]が誕生している。サリヴァンは次第に、英国最高の作曲家として評価されるようになっていった。[[1866年]]に「[[交響曲 (サリヴァン)|交響曲ホ長調(アイリッシュ)]]」の演奏会が開かれた。この当時の作品には、「イン・メモリアム (In Memoriam)の序曲」と「[[チェロ協奏曲 (サリヴァン)|チェロ協奏曲]]」([[1866年]])、[[オラトリオ]]「放蕩息子 (The Prodigal Son)」([[1869年]])、「失われた琴線 (The Lost Chord)」([[1877年]])等がある。
=== 20歳代 ===
[[1866年]]に、1幕物の[[オペレッタ]]「コックスとボックス (Cox and Box)」の総譜を出版する事で収入が増加した。これは歌劇場の為の作曲家として、彼の作品の中でも最も有名で富をもたらす事になった。
[[1867年]]の秋、彼は[[ジョージ・グローヴ]]と[[ウィーン]]へ旅行し、未発見の[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の楽譜という貴重な宝物を持ち帰った。
=== 30歳代 ===
[[1871年]]、ジョン・ハリングスヘッド (John Hollingshead) が、ゲイエティ劇場 (Gaiety Theatre) のためにオペレッタ「テスピス (Thespis)」をギルバートと共に創る事を、サリヴァンに委嘱した。この舞台は必ずしも成功とは言いがたく、その楽譜は後に紛失してしまったが、一部分は後に「ペンザンスの海賊 ([[:en:The Pirates of Penzance|The Pirates of Penzance]])」で使われている。同じ年に[[セイバイン・ベアリング=グールド]]が歌詞を書いた『進め、キリスト者の兵士 Onward, Christian Soldiers』(日本語では「[[見よや十字架の]]」として知られている)が作曲されている。
ギルバートとサリヴァンの真の協力体制が始まったのは[[1875年]]、リチャード・ドイリー・カート (Richard D'Oyly Carte) が彼等に1幕物の「陪審裁判(Trial by Jury)」を委嘱した時である。これは大成功を収め、3人はその後20年以上にわたり、時には対立する事もあったが協力関係を築き、14作品を残した。その後の作品は「魔法使い (The Sorcerer)」([[1877年]])、[[1878年]]には彼等のそれまででの最大の成功となった『[[軍艦ピナフォア]] ([[:en:H.M.S. Pinafore|H.M.S. Pinafore]])』 が生まれた。この作品はアメリカで頻繁に盗用され、ギルバートとサリヴァンは著作権を守るため[[1879年]]に大西洋を渡った。ニューヨークでは『[[ペンザンスの海賊]]』が生まれた。
次のギルバートとサリヴァンのオペラ『ペイシェンス(Patience)』は、[[1881年]]ロンドンのオペラ・コミク劇場で初演、同年末にはオープンしたばかりのサヴォイ劇場へ移りこけら落としを飾った。引き続き『アイオランシ (Iolanthe)』([[1882年]])、『[[ミカド (喜歌劇)|ミカド]] (The Mikado)』([[1885年]])、『古城の衛士 (The Yeomen of the Guard)』([[1888年]])等が同劇場で上演された。2人の創り出した作品は《[[サヴォイ・オペラ]]》と総称されるようになる。「ミカド」は、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]のオペラ『[[黄色い王女]]』([[1872年]])や[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]の『[[蝶々夫人]]』([[1904年]])など、19世紀末の異国趣味の風潮が舞台に顕著に表れていた時代の産物である。
=== 40歳代 ===
[[1883年]]、サリヴァンは[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]から[[ナイト]]の称号を授かった。同時代の批評家は彼のオペレッタ作曲家としての経歴に終止符を打つものと感じていた。騎士称号を得た音楽家は、[[オラトリオ]]や[[グランド・オペラ]]などより下世話な作品を書いて、身を落とすべきではないと考えられていたからである。サリヴァンもまた、サヴォイ・オペラが与えてくれた経済的な保証はあったが、次第にギルバートとの仕事が自分の技術以下であり重要ではなくなってきたと感じていた。加えてサリヴァンは、ギルバートの意見を取り入れるために自分の音楽のやり方を抑えなければならないと感じていた。
[[1886年]]、サリヴァンは[[カンタータ]]「黄金伝説 (The Golden Legend) 」を創って批評家達に応えた。この曲は当時の殆どの人々がサリヴァンの最高傑作だと考えていた。結局サリヴァンは[[1890年]]、「ゴンドラの船頭達 (The Gondoliers)」の公演後、ギルバートとの共同作業に終止符を打った。その後リチャード・ドイリー・カートと共に、[[ウォルター・スコット]]の小説『[[アイヴァンホー]]([[:en:Ivanhoe|Ivanhoe]])』を題材にした壮大なオペラを創作して、[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]で上演された。しかし数年後、サリヴァンは2つのオペレッタで再びギルバートと共に仕事をし、他の仲間とは3つの作品を生み出した。
サリヴァンは生涯健康には恵まれず、[[1900年]]11月22日ロンドンの自宅で、肺炎により58歳で死亡した。ロンドンのヴィクトリア堤防公園 (Victoria Embankment Gardens) に彼の顕彰碑が建てられた。
==主要作品==
詳細は[[:w:List of musical compositions by Arthur Sullivan]]を参照。
=== コミック・オペラ ===
* '''コックスとボックス''',または永らく不明の兄弟
* '''軍艦ピナフォア''',または水兵を恋した小娘
* '''[[ペンザンスの海賊]]'''
* '''イオランテ''',または貴族と妖精
* '''[[ミカド (オペレッタ)|ミカド]]''',またはティティプの町
* '''近衛騎兵隊''',または従者とその女中
* '''ゴンドラの漕ぎ手''',またはバラタリアの王
=== 管弦楽曲 ===
* '''[[交響曲 (サリヴァン)|交響曲 ホ長調]]'''
* '''プリンセス・オブ・ウェールズ行進曲'''
* '''序曲「舞踏会にて」'''
== 関連項目 ==
*[[アイザック・アシモフ]]
*:著名な[[SF作家]]。ギルバート&サリヴァン作品のファンとして知られ、「テスピス」「魔法使い」などいくつかの作品を題材にしたSF小説を書いている。
*[[ギルバート・オサリバン]]
*:芸名は「ギルバートとサリヴァン」をもじったもの
*[[スタートレック 叛乱]]
*:作中で{{仮リンク|軍艦ピナフォア|en|H.M.S. Pinafore}}のオペラが登場する。
== 参考文献 ==
{{Cite book|和書|title=改訂版 クラシック音楽作品名辞典|date=1998年2月10日|year=1998|publisher=[[三省堂]]|pages=224-225}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* Sir Arthur Sullivan Society:http://www.britnett.net/sirarthursullivansociety/
* Gilbert and Sullivan Archive:http://diamond.boisestate.edu/gas/index.html
* {{IMSLP|id=Sullivan%2C_Arthur_Seymour_%28Sir%29|cname=アーサー・サリヴァン}}
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18,481 |
住宅・都市整備公団
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住宅・都市整備公団(じゅうたく・としせいびこうだん)は、かつて存在した特殊法人。住宅・都市整備公団法により、都市地域の居住環境の良好な集団住宅及び宅地の大規模な供給や市街地開発事業を目的に1981年(昭和56年)10月1日設立され、日本住宅公団ならびに宅地開発公団の業務を承継した。1999年(平成11年)10月1日解散。業務は都市基盤整備公団に承継された後、2004年(平成16年)7月に都市再生機構へ移管された。略称は住都公団(じゅうとこうだん)。
住宅及び宅地ならびに関連施設の建設または造成、賃貸、その他の管理及び譲渡のほか、土地区画整理事業、新住宅市街地開発事業、市街地再開発事業、新都市基盤整備事業、住宅街区整備事業などの施行、都市公園における公園施設の設置や管理などを行った。
旧地方鉄道法による地方鉄道業を行うことも業務の範囲とされており、千葉ニュータウンへのアクセスとして千葉ニュータウン線を開業させた。また、建設大臣の認可を受けて宅地に関連する一定の業務を行う事業に投資をすることができ、北総開発鉄道(現在の北総鉄道)に資本参加していた。
公団は事業年度毎に建設大臣から、予算等の認可、財務諸表を承認された。一方で資金の借入のほか、住宅・都市整備債券、特別住宅債券ならびに宅地債券の発行を行い、日本国政府の債務保証が認可された。
当公団発足当時、大都市で急速な人口増加により住宅の量と質が共に不備劣悪な状況にあり、近代的で良質な設計の防火集合住宅を低廉なコストで大量に庶民に提供することで生活環境と文化面を向上する効果があった。そのような住宅不足の中で民間デベロッパーによる宅地造成や住宅建設も実施されたが、概して利益優先で地域の乱開発が促進され、虫食い現象が見られた。開発の秩序を守り、環境破壊を低減防止して良好な宅地と住宅を供給するため、地域全体を綿密な都市計画のマスタープランに基づいて開発することが肝要となるが、実現には膨大な資金の調達と行政側の支援が必要となり、民間資本では限界がある。こうした時代背景の中で公団の果たした役割は大きく、特に新住宅市街地開発法に基づいた大規模ニュータウン開発は公団の存在が必要な事業だった。
マイナス面として1980年代に住宅都市整備公団が造成した愛知県小牧市にある桃花台ニュータウンであり、地盤沈下が発生して問題となっている(詳細はこちらも参考)。また、1989年(平成元年)から1993年(平成5年)に多摩ニュータウンで分譲されたマンション「ベルコリーヌ南大沢」は建物の手抜き工事が発覚し、46棟中20棟が建て直しされた。また、会計検査院から工事に無駄があるのではないかと指摘され、公団の工事コストが本当に経済的だったかについては当時から疑問が持たれていた。
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住宅・都市整備公団(じゅうたく・としせいびこうだん)は、かつて存在した特殊法人。住宅・都市整備公団法により、都市地域の居住環境の良好な集団住宅及び宅地の大規模な供給や市街地開発事業を目的に1981年(昭和56年)10月1日設立され、日本住宅公団ならびに宅地開発公団の業務を承継した。1999年(平成11年)10月1日解散。業務は都市基盤整備公団に承継された後、2004年(平成16年)7月に都市再生機構へ移管された。略称は住都公団(じゅうとこうだん)。
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'''住宅・都市整備公団'''(じゅうたく・としせいびこうだん)は、かつて存在した[[特殊法人]]。住宅・都市整備公団法により、[[都市]]地域の居住環境の良好な[[集団住宅]]及び[[宅地]]の大規模な供給や[[市街地開発事業]]を目的に[[1981年]]([[昭和]]56年)10月1日設立され、[[日本住宅公団]]ならびに[[宅地開発公団]]の業務を承継した。[[1999年]]([[平成]]11年)10月1日解散。業務は都市基盤整備公団に承継された後、[[2004年]](平成16年)7月に[[都市再生機構]]へ移管された。略称は'''住都公団'''(じゅうとこうだん)。
== 概要 ==
=== 業務 ===
[[住宅]]及び[[宅地]]ならびに関連施設の[[建設]]または[[造成]]、[[賃貸]]、その他の管理及び譲渡のほか、[[土地区画整理事業]]、[[新住宅市街地開発事業]]、[[市街地再開発事業]]、[[新都市基盤整備事業]]、[[住宅街区整備事業]]などの施行、[[都市公園]]における[[公園]]施設の設置や管理などを行った。
旧[[地方鉄道法]]による地方鉄道業を行うことも業務の範囲とされており、[[千葉ニュータウン]]へのアクセスとして[[北総鉄道北総線|千葉ニュータウン線]]を開業させた。また、建設大臣の認可を受けて宅地に関連する一定の業務を行う事業に投資をすることができ、北総開発鉄道(現在の[[北総鉄道]])に資本参加していた。
=== 財務及び会計 ===
公団は事業年度毎に[[建設大臣]]から、予算等の認可、財務諸表を承認された。一方で資金の借入のほか、住宅・都市整備債券、特別住宅債券ならびに宅地債券の発行を行い、[[日本国政府]]の債務保証が認可された。
== 備考 ==
当公団発足当時、大都市で急速な人口増加により住宅の量と質が共に不備劣悪な状況にあり、近代的で良質な設計の防火集合住宅を低廉なコストで大量に庶民に提供することで生活環境と文化面を向上する効果があった。そのような住宅不足の中で民間デベロッパーによる宅地造成や住宅建設も実施されたが、{{要出典範囲|概して利益優先で地域の乱開発が促進され、虫食い現象が見られた|date=2011年9月}}。開発の秩序を守り、環境破壊を低減防止して良好な宅地と住宅を供給するため、地域全体を綿密な都市計画のマスタープランに基づいて開発することが肝要となるが、{{要出典範囲|実現には膨大な資金の調達と行政側の支援が必要となり、民間資本では限界がある|date=2011年9月|title=事実に反する。純民間資本の大規模都市開発は全国に複数存在する}}。こうした時代背景の中で公団の果たした役割は大きく、特に新住宅市街地開発法に基づいた大規模[[日本のニュータウン|ニュータウン]]開発は公団の存在が必要な事業だった。
マイナス面として[[1980年代]]に住宅都市整備公団が造成した[[愛知県]][[小牧市]]にある[[桃花台ニュータウン]]があり、[[地盤沈下]]が発生して問題となっている(詳細は[[桃花台ニュータウン#地盤沈下|こちら]]も参考)。また、[[1989年]](平成元年)から[[1993年]](平成5年)に[[多摩ニュータウン]]で分譲されたマンション「ベルコリーヌ南大沢」は建物の手抜き工事が発覚し、46棟中20棟が建て直しされた。また、会計検査院から工事に無駄があるのではないかと指摘され、公団の工事コストが本当に経済的だったかについては当時から疑問が持たれていた。
== 関連項目 ==
* [[公団住宅]]
* [[計画都市]]
* [[日本のニュータウン]]
* [[都市施設]]
* [[市街化区域]]
* [[用途地域]]
* [[都市計画]]
* [[千葉ニュータウン鉄道]]
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[[Category:公団]]
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[[Category:1999年廃止の組織]]
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18,484 |
肝細胞癌
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肝細胞癌(かんさいぼうがん、英: Hepatocellular carcinoma、略称:HCC)は、肝臓に発生する腫瘍の1つで、肝細胞に由来する悪性腫瘍である。
原発性肝癌の90%以上を占める。80%-90%が肝硬変あるいはその前段階である慢性肝炎に合併して発生する。男女比は約3:1で男性が多い。発症平均は60代前半。日本や西欧ではC型肝炎が原因として多いが、その他のアジアやアフリカではB型肝炎が多い。
肝細胞癌の多くは慢性肝炎・肝硬変から発生する。
肝細胞癌の多くは慢性肝炎や肝硬変を持つ患者に生じ、症状や兆候は肝硬変の進行を示唆するものとなるので肝細胞癌そのものでの自覚症状は全くみられない。癌進行によって肝不全症状(肝性脳症、黄疸、出血傾向、腹水、浮腫など)がみられる。他の癌同様、転移、周辺臓器の圧迫による症状もみられ、巨大な腫瘍は破裂し腹腔内出血や腹腔内播種を来すことがある。
また頻度は低いが腫瘍随伴症候群がおこることもある。下痢(血管作動性腸管ペプチド)や高脂血症、低血糖(IGF-2産生腫瘍)、多発性筋炎、RS3PE、後発性ポルフィリン症や異常フィブリノーゲン症、高カルシウム血症、赤血球増加症などがおこることもある。
腫瘍マーカーは以下がある。
肝細胞癌の進行度は、基本的にはTNM分類に基づいて表現される。
以下の治療法があり、病変および肝予備能に応じて選択される。
病変が単発で、肝硬変が進んでいない(Child-Pugh分類においてA,B)ものが、肝切除術の基本的な適応である。単発の癌に対して手術切除は極めて有用な治療であるが、ただ肝細胞癌患者の多くは肝硬変がベースにあり、単発であってもまた別のヶ所での癌の再発も多く、侵襲の大きい肝切除術ではなく、次にあげる「RFA」等の局所治療や「TACE」等の局所治療も多く行われている。
65歳以下、Child-Pugh分類C、脈管浸潤・肝外転移がない、他腫瘍径や個数などの条件を満たす場合に行われる。我が国においては、脳死ドナーが少ないため、肝移植の多くは家族等をドナーとした生体肝移植がほとんどであり、脳死肝移植適応については、厳格に登録適応が決められている。
体表から肝臓に穿刺針を挿入し腫瘍とその周囲のみを壊死させる方法。残肝に対する影響が小さいため、肝予備能が低くても施行可能で、局所麻酔での局所治療であり、侵襲が少ないことから広く一般的に行われている。穿刺針による壊死範囲は限られるため、腫瘍が大きすぎるものは適用にならない(一般的には3cm、3個まで)。また、主要な血管・胆管に接するもの、心臓・肺に近接するもの、肝表面に突出しているものは技術的に施行が困難であるが、人工腹水・人工胸水を用いる方法や、腹腔鏡、胸腔鏡を併用したアプローチにより、積極的に治療を行う施設もある。
腫瘍が門脈浸潤を生じていて「TACE」が適応外となる場合に施行される。またChild-Pugh分類Bで分子標的薬の投与が適さない場合にも考慮される。肝動脈にカテーテルを定期留置し、肝臓に直接抗癌剤(シスプラチン:CDDP・フルオロウラシル:5-FU等)を注入する方法。
他臓器等への遠隔転移がある場合、脈管侵襲がある場合、腫瘍が4つ以上の場合、TACE不適とされる場合などに、全身化学療法として分子標的治療薬が施行される。薬物療法は基本的にChild-pugh分類Aの肝機能良好な患者を主な対象としており、Child-pugh分類Bの患者への投与は慎重な対応が望まれる。さらに、Child-pugh分類Cの患者に対しての投与は推奨されていない。
肝切除もしくはPEIT・MCT・RFAが可能であった場合の予後は比較的良好で、5年生存率は50〜60%である。しかし、肝細胞癌は慢性肝炎を母地として発生するため、ひとたび治療が完了してもその後に新たな癌が発生してくる確率が高く、癌の発生を早期に発見し、繰り返し有効な治療を行うことができるかどうかが予後を左右する。
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"text": "肝細胞癌(かんさいぼうがん、英: Hepatocellular carcinoma、略称:HCC)は、肝臓に発生する腫瘍の1つで、肝細胞に由来する悪性腫瘍である。",
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"text": "原発性肝癌の90%以上を占める。80%-90%が肝硬変あるいはその前段階である慢性肝炎に合併して発生する。男女比は約3:1で男性が多い。発症平均は60代前半。日本や西欧ではC型肝炎が原因として多いが、その他のアジアやアフリカではB型肝炎が多い。",
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"text": "肝細胞癌の多くは慢性肝炎や肝硬変を持つ患者に生じ、症状や兆候は肝硬変の進行を示唆するものとなるので肝細胞癌そのものでの自覚症状は全くみられない。癌進行によって肝不全症状(肝性脳症、黄疸、出血傾向、腹水、浮腫など)がみられる。他の癌同様、転移、周辺臓器の圧迫による症状もみられ、巨大な腫瘍は破裂し腹腔内出血や腹腔内播種を来すことがある。",
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"text": "また頻度は低いが腫瘍随伴症候群がおこることもある。下痢(血管作動性腸管ペプチド)や高脂血症、低血糖(IGF-2産生腫瘍)、多発性筋炎、RS3PE、後発性ポルフィリン症や異常フィブリノーゲン症、高カルシウム血症、赤血球増加症などがおこることもある。",
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"text": "病変が単発で、肝硬変が進んでいない(Child-Pugh分類においてA,B)ものが、肝切除術の基本的な適応である。単発の癌に対して手術切除は極めて有用な治療であるが、ただ肝細胞癌患者の多くは肝硬変がベースにあり、単発であってもまた別のヶ所での癌の再発も多く、侵襲の大きい肝切除術ではなく、次にあげる「RFA」等の局所治療や「TACE」等の局所治療も多く行われている。",
"title": "治療"
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"text": "65歳以下、Child-Pugh分類C、脈管浸潤・肝外転移がない、他腫瘍径や個数などの条件を満たす場合に行われる。我が国においては、脳死ドナーが少ないため、肝移植の多くは家族等をドナーとした生体肝移植がほとんどであり、脳死肝移植適応については、厳格に登録適応が決められている。",
"title": "治療"
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"text": "体表から肝臓に穿刺針を挿入し腫瘍とその周囲のみを壊死させる方法。残肝に対する影響が小さいため、肝予備能が低くても施行可能で、局所麻酔での局所治療であり、侵襲が少ないことから広く一般的に行われている。穿刺針による壊死範囲は限られるため、腫瘍が大きすぎるものは適用にならない(一般的には3cm、3個まで)。また、主要な血管・胆管に接するもの、心臓・肺に近接するもの、肝表面に突出しているものは技術的に施行が困難であるが、人工腹水・人工胸水を用いる方法や、腹腔鏡、胸腔鏡を併用したアプローチにより、積極的に治療を行う施設もある。",
"title": "治療"
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"text": "腫瘍が門脈浸潤を生じていて「TACE」が適応外となる場合に施行される。またChild-Pugh分類Bで分子標的薬の投与が適さない場合にも考慮される。肝動脈にカテーテルを定期留置し、肝臓に直接抗癌剤(シスプラチン:CDDP・フルオロウラシル:5-FU等)を注入する方法。",
"title": "治療"
},
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"text": "他臓器等への遠隔転移がある場合、脈管侵襲がある場合、腫瘍が4つ以上の場合、TACE不適とされる場合などに、全身化学療法として分子標的治療薬が施行される。薬物療法は基本的にChild-pugh分類Aの肝機能良好な患者を主な対象としており、Child-pugh分類Bの患者への投与は慎重な対応が望まれる。さらに、Child-pugh分類Cの患者に対しての投与は推奨されていない。",
"title": "治療"
},
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"text": "肝切除もしくはPEIT・MCT・RFAが可能であった場合の予後は比較的良好で、5年生存率は50〜60%である。しかし、肝細胞癌は慢性肝炎を母地として発生するため、ひとたび治療が完了してもその後に新たな癌が発生してくる確率が高く、癌の発生を早期に発見し、繰り返し有効な治療を行うことができるかどうかが予後を左右する。",
"title": "予後"
}
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肝細胞癌は、肝臓に発生する腫瘍の1つで、肝細胞に由来する悪性腫瘍である。
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{{redirect|HCC|HCCと略称するプロテスタント団体|ハレルヤコミュニティーチャーチ}}
{{出典の明記|date=2018年10月}}
{{Infobox Disease
| Name = 肝細胞癌
| Image = hepatocellular carcinoma 1.jpg
| Caption = C型肝炎由来の肝細胞癌(検死見本)
| ICD10 = {{ICD10|C|22|0|C|22}}
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| eMedicineTopic = 787
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}}
'''肝細胞癌'''(かんさいぼうがん、{{lang-en-short|Hepatocellular carcinoma}}、略称:'''HCC''')は、[[肝臓]]に発生する[[腫瘍]]の1つで、[[肝細胞]]に由来する[[悪性腫瘍]]である。
== 疫学 ==
原発性[[肝癌]]の90%以上を占める。80%-90%が[[肝硬変]]あるいはその前段階である[[肝炎#慢性肝炎|慢性肝炎]]に合併して発生する。男女比は約3:1で男性が多い。発症平均は60代前半。日本や西欧では[[C型肝炎]]が原因として多いが、その他の[[アジア]]や[[アフリカ]]では[[B型肝炎]]が多い。
== 原因 ==
肝細胞癌の多くは[[肝炎#慢性肝炎|慢性肝炎]]・肝硬変から発生する。
* [[C型肝炎]]:70%-80%で最多
:C型肝炎が原因の場合にはほとんどが肝硬変を経て発症する。発癌率は年7%から8%であり、6年から7年で50%が発癌する。
* [[B型肝炎]]:10%-20%
:B型肝炎では肝硬変へ至る前の、慢性肝炎から発症することも多く、[[B型肝炎ウイルス]]はDNAウイルスでありHBV遺伝子が感染肝細胞の癌遺伝子を活性化しているためと考えられている。
* [[アルコール性肝疾患]]
:発生率は高くないが肝硬変を経て、発症する場合も多い。
* [[非アルコール性脂肪性肝炎]]({{lang-en|non alcohlic steato-hepatitis}}、略称:NASH)
:NASHは、飲酒習慣のない[[脂肪肝]]患者に発生する[[慢性肝炎]]で、肝硬変への進展と、肝細胞癌の発生が多く報告されている。
* [[鉄過剰症]]:極めて稀
:[[鉄]]の肝臓への沈着を生じ、肝硬変へ移行していく。
* [[マイコトキシン]](カビ毒)暴露:極めて稀
:様々な[[カビ]]が産生する毒素を経口摂取。
== 症状 ==
肝細胞癌の多くは慢性肝炎や肝硬変を持つ患者に生じ、症状や兆候は肝硬変の進行を示唆するものとなるので肝細胞癌そのものでの自覚症状は全くみられない。癌進行によって[[肝不全]]症状([[肝性脳症]]、[[黄疸]]、[[出血傾向]]、[[腹水]]、[[浮腫]]など)がみられる。他の癌同様、[[転移 (医学)|転移]]、周辺臓器の圧迫による症状もみられ、巨大な腫瘍は破裂し腹腔内出血や腹腔内播種を来すことがある。
また頻度は低いが[[腫瘍随伴症候群]]がおこることもある。下痢(血管作動性腸管ペプチド)や高脂血症、低血糖(IGF-2産生腫瘍)、[[多発性筋炎]]、[[RS3PE]]、後発性ポルフィリン症や異常[[フィブリノーゲン]]症、[[高カルシウム血症]]、赤血球増加症などがおこることもある。
== 検査 ==
=== 腫瘍マーカー ===
[[腫瘍マーカー]]は以下がある。
* [[α-フェトプロテイン]]({{lang-en|α-fetoprotein}}、略称:AFP)
:特にAFPレクチン分画(AFP-L3)は肝細胞癌に特異性が高い。また、比較的小さい肝細胞癌では上昇してこないことも多い。
* [[PIVKA-II]] (protein induced by vitamin-K absence II)
:別名DCP (des-gamma-carboxy prothrombin)と言われ,その本体は[[ビタミンK]]欠乏で産生される異常[[プロトロンビン]](=血液凝固因子のII因子)である.このため,ビタミンK欠乏や[[ワーファリン]]の内服により誘導される.このため評価には注意が必要である。
=== 画像検査 ===
* [[腹部超音波検査]](腹部Echo検査)
: [[超音波検査]]は[[X線]]暴露がなく侵襲が少ないため、比較的簡便としてスクリーニング検査として広くに施行されている。
: 典型像は、境界明瞭な類円形で、表面に低エコーの被膜を持ち、内部はモザイク状を呈する。多くは血流に富むが、径の大きいものは腫瘍中心が壊死していることもある。
: レボビスト®やソナゾイド®といった造影剤を用いたコントラストエコー法(造影エコー)も、病変評価として極めて有用に行われている。
: また超音波検査は簡便で有用であるも、断片検査となりうることから、C型肝硬変や慢性活動性B型肝炎/肝硬変等の高risk患者では、超音波検査と並行して半~1年に1回程度でのCT検査やMRI検査での併用検査も推奨されている。
* [[コンピュータ断層撮影|CT]]
: CT検査は基本的な精査検査として、一般的に広く施行されている。一般の「[[肝細胞]]」は[[門脈]]血流8割に対して肝動脈血流2割の割合で栄養されているが、「肝細胞癌」は肝動脈血流優位となる性質があり、造影CT検査にての典型像は、動脈相で高吸収となり、門脈相および後期相では造影剤は流出され、周囲肝組織より低吸収に描出される像を示す。肝細胞癌は門脈よりも動脈から栄養を受けていることを利用している。
: 基本的に撮影方法としては、造影剤注入後に経時的に撮影を行う「Dynamic CT」と呼ばれる撮影方法で評価され、末梢静脈から造影剤(3〜5ml/秒で総量は100ml位)を急速に注入し、動脈優位相(30秒後)、門脈優位相(80秒後)、平衡相(180秒後)と各時相で撮影し、それぞれの画像評価を行う。
* [[核磁気共鳴画像法|MRI]]
: [[ガドリニウム]](EOB・プリモビスト)を用いた造影MRI検査では高い診断率が得られ極めて有用な検査である。また、SPIO(超常磁性体)造影剤を用いた造影MRIにおけるT2強調画像では、正常肝臓が信号低下するのに対して高信号として描出される。但し、分化度の高い肝細胞癌では正常肝臓と同様に信号低下する場合も少なくない。EOBはガドリニウム系造影剤「マグネビスト®」を改良したもので、エトキシベンジル鎖を付加している。EOBは肝細胞へ特異的に取り込まれ、ダイナミックCTと遜色ない[[感度]]・[[特異度]]を示した。<ref>今井康陽 ほか:肝癌の診断 肝癌スクリーニングにおける画像診断: Gd-EOB-DTPA 造影MRIを中心に 臨床消化器内科 25(4):423-436,2010, {{naid|10029285764}}</ref>
:また、T2*強調画像やIn Phase・Out Phaseによる撮像も有効である。
* その他
: *CTアンギオグラフィー
: CTAP:[[上腸間膜動脈]](SMA)から[[造影剤]]をいれて門脈造影を行う方法。肝内門脈のみを造影することで動脈支配であるHCCを欠損像として描出する。転移性肝癌をはじめ肝腫瘍性病変に対して、もっとも鋭敏な検査方法である。肝内門脈枝の[[塞栓]]も区域性欠損像から容易に診断できる。門脈塞栓、APシャントなど偽病変に注意する必要がある。
: CTHA:肝動脈から造影剤をいれる動脈造影。通常CTHAは早期相と後期相の2相の撮影を行う。CTHA早期相では肝細胞癌は強く造影され、後期相では腫瘍本体から腫瘍周囲肝組織に造影剤が流れ出す像(コロナサイン)がみられる。このコロナサインは肝細胞癌以外ではみられないため、これがあるときは肝細胞癌にほぼ間違いないとされる。
: *リピオドールCT
: 血管造影時に肝動脈よりリピオドールを動注し、その1週間から2週間後に単純CTを撮影する方法である。リピオドールはリンパ造影剤のひとつで動注すると一過性に類洞内に停滞する。正常肝細胞では5日程度でwash outされるが、HCCでは集積する。TAE後の腫瘍へのリピオドール集積度合いで効果判定をすることがある。なお、リピオドールと抗癌剤を混濁して使用することが多い。
: *血管造影
: CTアンギオグラフィー(CT angiography;CTA)や経カテーテル動脈塞栓術(transcatheter arterial embolization; TAE)を行う基本技術である。大まかな流れとしては4Frの血管造影用シースを右[[大腿動脈]]にSeldinger法で挿入し、血管造影用カテーテルをSMAに挿入しCTAPや門脈造影を行う。次に腹腔動脈(celiac artery; CA)から総肝動脈(common hepatic artery; CHA)または固有肝動脈(PHA)にガイドワイヤーを使って血管造影用カテーテルを誘導し、肝動脈造影もしくはCTHAを行う。止血は穿刺部と中枢側の2点で15分間圧迫止血し、帰室後6時間で安静解除可能である。血管造影の有名な所見としては腫瘍濃染像(tumor stain)、APシャント、門脈内腫瘍塞栓(PVTT)によるthread and streak signがあげられる。
=== 病理検査 ===
* 肝[[病理学#生検組織診|生検]]
: 超音波ガイド下に体外より針を刺し、腫瘍の組織を採取する検査。穿刺経路を通じての腫瘍播種があるため、症例が限られる。
== 病期分類 ==
肝細胞癌の進行度は、基本的には[[TNM分類]]に基づいて表現される。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+肝細胞がんの病期分類(日本肝癌研究会)
! !! {{math|T1}} || {{math|T2}} || {{math|T3}} || {{math|T4}}
|-
| style="text-align:left" |
* 腫瘍の数が一つに限られる
* 腫瘍の大きさが 2cm 以下
* 門脈、静脈、胆管に広がっていない
| 3項目全てに合致 || 2項目に合致 || 1項目に合致 || すべて合致しない
|-
! colspan="5" |
|-
| style="text-align:left" | リンパ節・遠隔臓器に転移がない || {{math|I}}期 || {{math|II}}期 || {{math|III}}期 || {{math|IV{{small|A}}}}期
|-
| style="text-align:left" | リンパ節転移はあるが、遠隔臓器に転移はない
| colspan="4" | {{math|IV{{small|A}}}}期
|-
| style="text-align:left" | 遠隔臓器に転移がある
| colspan="4" | {{math|IV{{small|B}}}}期
|}
* 国立がん研究センター がん情報サービスの肝細胞がんの病期(ステージ)分類表<ref name=ganjoho>[https://ganjoho.jp/public/cancer/liver/treatment.html 肝細胞がんの病期(ステージ)分類] 国立がん研究センター がん情報サービス</ref>より引用し改変。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+肝細胞がんの病期分類(UICC第8版)
|-
! colspan="2" rowspan="2" | 深さ・転移 !! colspan="3" |転移
|-
! NO !! N1 !! M1
|-
! 記号 ※ !! 解説
| リンパ節転移がない || リンパ節 に転移あり || 遠隔への転移あり
|-
! style="white-space:nowrap" | T1a
| style="text-align:left" | 血管侵襲の有無に関係なく、<br />最大径が 2cm 以下の腫瘍が1つ
| {{math|I{{small|A}}}}期
| rowspan="5" | {{math|IV{{small|A}}}}期
| rowspan="5" | {{math|IV{{small|B}}}}期
|-
! T1b
| style="text-align:left" | 血管侵襲を伴わず、<br />最大径が 2cm を越える腫瘍が1つ
| {{math|I{{small|B}}}}期
|-
! T2
| style="text-align:left" | 血管侵襲を伴い、<br />最大径が 2cm を越える腫瘍が1つ、<br />または 最大径が 5cm 以下の腫瘍が2つ
| {{math|II}}期
|-
! T3
| style="text-align:left" | 最大径が 5cm を越える腫瘍が2つ以上
| {{math|III{{small|A}}}}期
|-
! T4
| style="text-align:left" | 門脈もしくは肝静脈の大分岐に浸潤する腫瘍、<br />または胆嚢以外の隣接臓器(横隔膜を含む)に直接浸潤する腫瘍、<br />または臓側腹膜を貫通する腫瘍
| {{math|III{{small|B}}}}期
|}
* 国立がん研究センター がん情報サービスの肝細胞がんの病期(ステージ)分類表<ref name=ganjoho />より引用し改変。
== 治療 ==
以下の治療法があり、病変および肝予備能に応じて選択される。
* [[手術]]治療
**[[肝切除術]]
**[[肝移植]]
* 局所治療
**経皮的[[エタノール]]注入療法(PEIT:percutaneous ethanol injection therapy)
**経皮的[[マイクロ波]]凝固療法(PMCT:percutaneous microwave coagulation therapy)
**[[ラジオ波焼灼術|ラジオ波焼灼療法]](RFA:radiofrequency ablation)
**集束[[超音波]] (HIFU:High-Intensity Focused Ultrasound) (まだ日本では保険適用ではなく、治験段階) <ref>http://www.gsic.jp/cancer/cc_03/hifu/index.html</ref>
* 放射線治療
** 粒子線治療(Particle therapy)([[陽子線治療]]、[[重粒子線がん治療|重粒子線治療]]などがある。日本では先進医療A/Bとして行われている)
** [[定位放射線治療|体幹部定位放射線治療]](SABR:Stereotactic ablative radiotherapy)
* 血管カテーテル治療
**経カテーテル動脈塞栓術(TACE:transcatheter arterial chemo-embolization)
* 化学療法
**肝動注リザーバー療法
**分子標的治療薬
=== 手術 ===
*肝切除術
{{seealso|肝切除術}}
病変が単発で、肝硬変が進んでいない([[Child-Pugh分類]]においてA,B)ものが、肝切除術の基本的な適応である。単発の癌に対して手術切除は極めて有用な治療であるが、ただ肝細胞癌患者の多くは肝硬変がベースにあり、単発であってもまた別のヶ所での癌の再発も多く、侵襲の大きい肝切除術ではなく、次にあげる「RFA」等の局所治療や「TACE」等の局所治療も多く行われている。
*肝移植
{{seealso|肝移植}}
65歳以下、Child-Pugh分類C、脈管浸潤・肝外転移がない、他腫瘍径や個数などの条件を満たす場合に行われる。我が国においては、脳死[[ドナー]]が少ないため、肝移植の多くは家族等をドナーとした[[生体肝移植]]がほとんどであり、脳死肝移植適応については、厳格に登録適応が決められている。
=== PEIT・PMCT・RFA ===
体表から肝臓に穿刺針を挿入し腫瘍とその周囲のみを壊死させる方法。残肝に対する影響が小さいため、肝予備能が低くても施行可能で、局所麻酔での局所治療であり、侵襲が少ないことから広く一般的に行われている。穿刺針による壊死範囲は限られるため、腫瘍が大きすぎるものは適用にならない(一般的には3cm、3個まで)。また、主要な血管・胆管に接するもの、心臓・肺に近接するもの、肝表面に突出しているものは技術的に施行が困難であるが、人工腹水・人工胸水を用いる方法や、[[腹腔鏡]]、[[胸腔鏡]]を併用したアプローチにより、積極的に治療を行う施設もある。
* PEIT(percutaneous ethanol injection therapy) (PEI)
:エタノール注入による癌細胞壊死を生じさせる方法。腫瘍経3cm以下が適応。近年ではあまり行われなくなってきた。
* PMCT(percutaneous microwave coagulation therapy)
:[[マイクロ波]]によって癌細胞壊死を生じさせる方法。PEITより確実な熱凝固壊死が得られる、以前は2㎝程度しか焼灼範囲が無かったが、刺入針の開発において5㎝程度の広範囲焼灼も可能となっている。
* RFA(radio frequency ablation)
:[[ラジオ波]]によって熱を加え、癌細胞壊死を生じさせる方法。PEITより広範囲の焼灼が可能で広く行われてきている。肝細胞癌だけでなく、転移性肝癌に対しても施行され、腹腔鏡・胸腔鏡下で施行されることも多い。
=== 放射線療法 ===
* [[粒子線治療]](Particle therapy)
*:[[陽子線治療]]、[[重粒子線がん治療|重粒子線治療]]といった粒子線治療では、広く使われているX線治療と異なり、肝臓へのダメージを最小限に抑えながら、効果的な治療が可能であり、RFAに迫る局所制御率が得られている<ref>{{Cite journal|last=Apisarnthanarax|first=Smith|last2=Bowen|first2=Stephen R.|last3=Combs|first3=Stephanie E.|date=2018-10|title=Proton Beam Therapy and Carbon Ion Radiotherapy for Hepatocellular Carcinoma|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S1053429618300535|journal=Seminars in Radiation Oncology|volume=28|issue=4|pages=309–320|language=en|doi=10.1016/j.semradonc.2018.06.008}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Igaki|first=Hiroshi|last2=Mizumoto|first2=Masashi|last3=Okumura|first3=Toshiyuki|last4=Hasegawa|first4=Kiyoshi|last5=Kokudo|first5=Norihiro|last6=Sakurai|first6=Hideyuki|date=2018-06|title=A systematic review of publications on charged particle therapy for hepatocellular carcinoma|url=http://link.springer.com/10.1007/s10147-017-1190-2|journal=International Journal of Clinical Oncology|volume=23|issue=3|pages=423–433|language=en|doi=10.1007/s10147-017-1190-2|issn=1341-9625}}</ref>。RFA同様、繰り返し治療が可能な上、従来の局所治療が苦手としていた、3cmを超える病変や、主要血管に近い病変、さらには血管内進展のある病変でも高い治療効果が得られている。日本では2019年12月現在、先進医療として行われており、250~320万円程度の自己負担が発生することが最大の課題となっている。
* [[定位放射線治療|体幹部定位放射線治療]](Stereotactic ablative radiotherapy)
*:従来から使われているX線、γ線治療の位置精度を高めて、大線量で治療することで、従来の放射線治療では困難だった肝細胞がんの治療が可能となっている<ref>{{Cite journal|last=Bang|first=Andrew|last2=Dawson|first2=Laura A.|date=2019-08|title=Radiotherapy for HCC: Ready for prime time?|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S2589555919300382|journal=JHEP Reports|volume=1|issue=2|pages=131–137|language=en|doi=10.1016/j.jhepr.2019.05.004}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Jeong|first=Youn Kyoung|last2=Oh|first2=Ju Yeon|last3=Yoo|first3=Jae Kuk|last4=Lim|first4=Sun Ha|last5=Kim|first5=Eun Ho|date=2020-01-29|title=The Biofunctional Effects of Mesima as a Radiosensitizer for Hepatocellular Carcinoma|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7036851/|journal=International Journal of Molecular Sciences|volume=21|issue=3|pages=871|doi=10.3390/ijms21030871|issn=1422-0067|pmid=32013255|pmc=7036851}}</ref>。高い局所制御率が得られる一方、5cmを超える大型の病変は治療が難しく、5%程度の確率で発生する肝障害(radiation induced liver disease)が問題となる。
=== 血管カテーテル治療 ===
* TACE(TACE:transcatheter arterial chemo-embolization)
*:基本として、肝臓には肝動脈・門脈の2つ栄養血管があり、通常の[[肝細胞]]は門脈血流8割に対して肝動脈血流2割の割合で栄養されているが、肝細胞癌は肝動脈優位に血流支配されている性質があり、腫瘍を栄養する肝動脈にカテーテルを挿入し、塞栓物質と抗癌剤を注入し栄養血管を塞栓することで腫瘍壊死を生じさせるという治療法。以前は「TAE」と呼ばれることが多かったが、現在では塞栓物質とともに[[抗癌剤]]を注入することが一般的であり「TACE」と称されている。カテーテル治療であり、侵襲が比較的少なく、腫瘍に対する直接治療でもある。ただ門脈が腫瘍浸潤によって閉塞している場合などは正常細胞も影響を受けるため基本的に適用外となる。腫瘍径や個数によっては数回繰り返して施行される場合や、TACE→RFAと言ったコンビネーション治療も広く一般的に行われている。
*:近年、up-to-seven基準(腫瘍最大径(cm)と腫瘍個数の和が7以下)がTACEの適応判断に用いられており、up-to-seven基準外であれば分子標的薬などの他の治療が選択されることが多い。
** [[塞栓]]物質:[[ゼラチン]]スポンジ等
** [[抗癌剤]]:[[エピルビシン]]・[[マイトマイシンC]]・[[シスプラチン]]
=== 肝動注リザーバー療法 ===
腫瘍が門脈浸潤を生じていて「TACE」が適応外となる場合に施行される。またChild-Pugh分類Bで分子標的薬の投与が適さない場合にも考慮される。肝動脈にカテーテルを定期留置し、肝臓に直接抗癌剤([[シスプラチン]]:CDDP・[[フルオロウラシル]]:5-FU等)を注入する方法。
*Low dose FP療法
:旧来よりの方法で、CDDP 10mg前後+5-FU 250mg前後を持続動注を繰り返す方法。
*New FP療法
:微粉末CDDPとリピオドール混注(CDDP 20-50mg)+5-FU 250mg前後を持続動注を繰り返す方法。ただ高濃度でありリピオドールを高圧注入するため、消化管動脈への流出を防ぐ目的で、注入カテーテル留置と同時に右胃動脈や副左胃動脈、胃十二指腸動脈路等のコイル塞栓を並行して施行する必要がある。奏効率70-80%で生存期間中央値18-30カ月と高い成績が報告されている。
=== 分子標的治療薬 ===
他臓器等への遠隔転移がある場合、脈管侵襲がある場合、腫瘍が4つ以上の場合、TACE不適とされる場合などに、全身化学療法として[[分子標的治療薬]]が施行される。薬物療法は基本的にChild-pugh分類Aの肝機能良好な患者を主な対象としており、Child-pugh分類Bの患者への投与は慎重な対応が望まれる。さらに、Child-pugh分類Cの患者に対しての投与は推奨されていない。
* 一次療法
** [[アテゾリズマブ]] Atezolizumab(テセントリク Tecentriq)+[[ベバシズマブ]] Bevacizumab(アバスチン Avastin):[[2020年]]9月に切除不能な肝細胞癌に対して、IM brave150試験<ref>{{Cite web |url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34051880/ |title=Patient-reported outcomes with atezolizumab plus bevacizumab versus sorafenib in patients with unresectable hepatocellular carcinoma (IMbrave150): an open-label, randomised, phase 3 trial |accessdate=2023-04-21}} Pubmed: Lancet Oncol. 2021 Jul;22(7):991-1001. {{PMID|34051880}}. [https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34051880/ doi:10.1016/S1470-2045(21)00151-0].</ref>の結果に基づいて承認された<ref>{{Cite web|和書|url=https://oncolo.jp/news/200930hy02 |title=テセントリクとアバスチン、切除不能な肝細胞がんに対する併用療法で承認取得ー中外製薬ー |accessdate=2023-04-21}} オンコロ:肝臓がんニュース(2020年9月30日)</ref>。
** [[デュルバルマブ]] Durvalmab(イミフィンジ Imfinzi)単剤療法、およびデュルバルマブ Durvalmab(イミフィンジ Imfinzi)+ {{仮リンク|トレメリムマブ|en|Tremelimumab}} Tremelimumab(イジュド Ijudo)併用療法:2022年12月に切除不能な肝細胞癌に対してHIMALAYA試験<ref>{{Cite web |url=https://evidence.nejm.org/doi/full/10.1056/EVIDoa2100070 |title=Tremelimumab plus Durvalumab in Unresectable Hepatocellular Carcinoma |accessdate=2023-04-21}} NEJM Evidence 2022;1(8), published June 6, 2022. [https://evidence.nejm.org/doi/full/10.1056/EVIDoa2100070 doi:10.1056/EVIDoa21000700]. </ref>の結果に基づいて承認された<ref>{{Cite web|和書|url=https://oncolo.jp/news/230106hy01 |title=イミフィンジ単剤療法が胆道がんと肝細胞がん、イミフィンジ+イジュド併用療法が肝細胞がんと非小細胞肺がんに対する承認をそれぞれ取得ーアストラゼネカー |accessdate=2023-04-21}} オンコロ:ニュース(2023年1月6日)</ref>。
* 二次療法
** [[ソラフェニブ]] Sorafenib(ネクサバール Nexavar):[[2009年]]5月に切除不能な肝細胞癌に対して、SHARP試験<ref>{{Cite journal|last=Llovet|first=Josep M.|last2=Ricci|first2=Sergio|last3=Mazzaferro|first3=Vincenzo|last4=Hilgard|first4=Philip|last5=Gane|first5=Edward|last6=Blanc|first6=Jean-Frédéric|last7=de Oliveira|first7=Andre Cosme|last8=Santoro|first8=Armando|last9=Raoul|first9=Jean-Luc|date=2008-07-24|title=Sorafenib in advanced hepatocellular carcinoma|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18650514/|journal=The New England Journal of Medicine|volume=359|issue=4|pages=378–390|doi=10.1056/NEJMoa0708857|issn=1533-4406|pmid=18650514}}</ref>等の結果に基づいて承認された。
** [[レンバチニブ]] Lenvatinib(レンビマ Lenvima):[[2018年]]3月切除不能な肝細胞癌に対して、REFLECT試験<ref>{{Cite journal|last=Kudo|first=Masatoshi|last2=Finn|first2=Richard S.|last3=Qin|first3=Shukui|last4=Han|first4=Kwang-Hyub|last5=Ikeda|first5=Kenji|last6=Piscaglia|first6=Fabio|last7=Baron|first7=Ari|last8=Park|first8=Joong-Won|last9=Han|first9=Guohong|date=03 24, 2018|title=Lenvatinib versus sorafenib in first-line treatment of patients with unresectable hepatocellular carcinoma: a randomised phase 3 non-inferiority trial|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/29433850/|journal=Lancet (London, England)|volume=391|issue=10126|pages=1163–1173|doi=10.1016/S0140-6736(18)30207-1|issn=1474-547X|pmid=29433850}}</ref>の結果に基づいて承認された。レンバチニブは、同試験においてソラフェニブに対する全生存期間の非劣性が証明された。
* 三次療法以降
** [[レゴラフェニブ]] Regorafenib(スチバーガ Stivarga):[[2017年]]6月に切除不能な肝細胞癌に対して、RESORCE試験<ref>{{Cite journal|last=Bruix|first=Jordi|last2=Qin|first2=Shukui|last3=Merle|first3=Philippe|last4=Granito|first4=Alessandro|last5=Huang|first5=Yi-Hsiang|last6=Bodoky|first6=György|last7=Pracht|first7=Marc|last8=Yokosuka|first8=Osamu|last9=Rosmorduc|first9=Olivier|date=01 07, 2017|title=Regorafenib for patients with hepatocellular carcinoma who progressed on sorafenib treatment (RESORCE): a randomised, double-blind, placebo-controlled, phase 3 trial|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27932229|journal=Lancet (London, England)|volume=389|issue=10064|pages=56–66|doi=10.1016/S0140-6736(16)32453-9|issn=1474-547X|pmid=27932229}}</ref>の結果に基づき承認された。ソラフェニブ不応例に投与される。
** [[ラムシルマブ]] Ramucirumab(サイラムザ Cyramza):[[2019年]]6月に血清AFP値が400 ng/mL以上の切除不能な肝細胞癌に対して、REACH-2試験<ref>{{Cite journal|last=Zhu|first=Andrew X.|last2=Kang|first2=Yoon-Koo|last3=Yen|first3=Chia-Jui|last4=Finn|first4=Richard S.|last5=Galle|first5=Peter R.|last6=Llovet|first6=Josep M.|last7=Assenat|first7=Eric|last8=Brandi|first8=Giovanni|last9=Pracht|first9=Marc|date=2019-2|title=Ramucirumab after sorafenib in patients with advanced hepatocellular carcinoma and increased α-fetoprotein concentrations (REACH-2): a randomised, double-blind, placebo-controlled, phase 3 trial|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/30665869|journal=The Lancet. Oncology|volume=20|issue=2|pages=282–296|doi=10.1016/S1470-2045(18)30937-9|issn=1474-5488|pmid=30665869}}</ref>の結果に基づいて承認された。
** カボザンチニブ(カボメティクス):CELESTIAL試験および国内第2相試験の結果に基づいて承認された。
== 予後 ==
肝切除もしくはPEIT・MCT・RFAが可能であった場合の[[予後]]は比較的良好で、[[5年生存率]]は50〜60%である。しかし、肝細胞癌は[[肝炎#慢性肝炎|慢性肝炎]]を母地として発生するため、ひとたび治療が完了してもその後に新たな癌が発生してくる確率が高く、癌の発生を早期に発見し、繰り返し有効な治療を行うことができるかどうかが予後を左右する<ref>{{Cite journal|last=Kojima|first=Hiroyuki|last2=Tanigawa|first2=Noboru|last3=Kariya|first3=Shuji|last4=Komemushi|first4=Atsushi|last5=Shomura|first5=Yuzo|last6=Sawada|first6=Satoshi|last7=Arai|first7=Eitatsu|last8=Yokota|first8=Yoshiro|date=2006-02|title=A case of spontaneous regression of hepatocellular carcinoma with multiple lung metastases|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/16715676/|journal=Radiation Medicine|volume=24|issue=2|pages=139–142|doi=10.1007/BF02493281|issn=0288-2043|pmid=16715676}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Nam|first=Soon Woo|last2=Han|first2=Joon-Yeol|last3=Kim|first3=Jin Il|last4=Park|first4=Soo Heon|last5=Cho|first5=Se Hyun|last6=Han|first6=Nam Ik|last7=Yang|first7=Jin Mo|last8=Kim|first8=Jae Kwang|last9=Choi|first9=Sang Wook|date=2005-03|title=Spontaneous regression of a large hepatocellular carcinoma with skull metastasis|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/15740500/|journal=Journal of Gastroenterology and Hepatology|volume=20|issue=3|pages=488–492|doi=10.1111/j.1440-1746.2005.03243.x|issn=0815-9319|pmid=15740500}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[消化器学]]
* [[肝臓学]]
* [[肝癌]]
== 外部リンク ==
* [http://www.jsh.or.jp/medical/guidelines/jsh_guidlines/examination_jp 肝癌診療ガイドライン 2013年版]
* [http://kaneninfo.nomaki.jp/ 肝炎情報センター] - 日本肝臓学会
{{ウイルス性肝炎}}
{{デフォルトソート:かんさいほうかん}}
[[Category:消化器新生物]]
[[Category:B型肝炎]]
[[Category:C型肝炎]]
[[Category:肝臓病]]
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IV号駆逐戦車
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IV号駆逐戦車(よんごうくちくせんしゃ、Jagdpanzer IV)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがIV号戦車をベースに開発した駆逐戦車である。制式番号はSd.Kfz.162およびSd.Kfz.162/1である。 日本では、略称として四駆とよばれることもある。
1943年8月19-20日の会議で前月のクルスクの戦いの報告を読んだアドルフ・ヒトラー総統は、突撃砲は敵戦車に包囲されない限り、当時の主力戦車であったIV号戦車よりも優れた戦闘力を持つと確信した。ヒトラーはIV号戦車の車体を用いた戦車駆逐車の開発を命じ、これは、IV号戦車駆逐車(Panzerjäger IV)として同年10月20日にフォマーク社の試作車が完成した。
完成した試作車は、IV号戦車の車体に全高の低い戦闘室を設け、この内部にパンター戦車の7.5 cm L/70砲を搭載するものであった。しかし、長砲身(70口径)の7.5 cm L/70砲はパンターへの供給が優先され、試作車(O型)はIV号戦車と同じ砲身長(48口径)の7.5 cm L/48砲を搭載していた。試作車を査閲したヒトラーは主砲を早急に長砲身7.5 cm砲に変更することを命じつつ、IV号戦車の生産をこの戦車駆逐車に切り替えることを指令し、名前もIV号駆逐戦車(Jagdpanzer IV)に変更させた。
生産は翌年1944年から開始され、同年1月にフォマーク社は最初の30両を生産した。この時期フォマーク社はまだIV号戦車を製造しており、同年5月まで並行して生産を続けつつ、生産ラインを切り替える計画となっていた。以降、生産ラインの初期トラブルの続発や連合軍の空襲による混乱に悩まされつつも月産数は徐々に増加し、1944年4月には月産100両を超え、同年7月には140両に達している。1944年8月からは長砲身70口径7.5cm対戦車砲装備型の生産が並行する形で開始され、48口径7.5cm砲搭載型は1944年11月に2両が完成して打ち切られ、以降はIV号駆逐戦車改め「IV号戦車/70(Panzer IV/70)と命名された長砲身型のみが生産された。
IV号駆逐戦車は早急に数を揃えるため、IV号戦車からの生産ラインの切り替えを容易にするべく、IV号戦車J型の車台の上にそのまま戦闘室を載せた形式のものが開発され、このタイプの車両は生産がアルケット社で行われたため、IV号戦車/70(A)(Panzer IV(A)※「A」はアルケット社の頭文字から)の制式名称が与えられた(これによりフォマーク社が製造したタイプはIV号戦車/70(V)(Panzer IV(V)※「V」はフォマーク社の頭文字から)として区別された。なお、“(A)”型には“ZL型”の通称もあり、ZL とは"ドイツ語: Zwischenlösung"の略で、「暫定解決型」の意味である。
IV号駆逐戦車は1944年3月から機甲師団や機甲擲弾兵師団の戦車猟兵大隊に配備され、以後東西両戦線で終戦まで運用された。
ドイツ軍の他、ブルガリアでは連合軍への降伏後の対ドイツ戦に際して1945年3月にソビエトから2両の鹵獲品(48口径型1両、IV/70(V)1両)が供与され、この2両は戦後もソビエト製装甲戦闘車輌が供給されて置き換えられる1950年代半ばまで装備されていた。その後はIV/70(V)が博物館に収蔵され、48口径型は他のドイツ製戦車と共にブルガリアの南方国境(トルコ国境)に固定砲台(トーチカ)として配置された。48口径型は冷戦後は半ば忘れ去られたまま放置されていたが、2000年代に入って発見されて回収され、2007年より修復の上博物館に展示されている。また、ルーマニアは戦後に社会主義体制が発足した際にソビエト赤軍が鹵獲した車両1台を与えられ、“ TAs T4”の制式名称で1950年まで装備していた。
シリアが1950年代に入手した第2次世界大戦時のドイツ軍戦車の中にIV号駆逐戦車もあり、フランスから入手した6両の初期型車体48口径型は第3次中東戦争で使用されている。
IV号駆逐戦車のシャーシは基本的にはIV号戦車のものと同等であるが、車体前面下部の装甲板はIV号戦車の直立した形状から、角度を持った2面構成に変更されている。IV号戦車でも車体前面の傾斜装甲化は検討されていたが、組み立て治具の交換のために従来の生産ラインを止めることができず、新たに下請けメーカーであるフォマーク社の工場で、専用シャーシの生産ラインを作った駆逐戦車のみで実現したものである。
主砲として48口径の7.5 cm PaK 39 L/48砲を備え、シャーシ上に砲架を据えた突撃砲型と異なり、前面装甲版に直接接合したカルダン枠砲架となったため、車内が広く使えるようになった。生産性も向上した反面、重量が車体前方に偏るノーズヘビー化により、操縦性は低下、「グデーリアン・エンテ」(グデーリアンのあひる)というあだ名がつけられている。歩兵の肉薄攻撃に対抗するS-マイン(跳飛式対人地雷)型の擲弾を発射する近接防御兵器も搭載されたが、生産が間に合わず未搭載の車両もある。
Wargaming社の「World Of Tanks」に登場
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IV号駆逐戦車は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがIV号戦車をベースに開発した駆逐戦車である。制式番号はSd.Kfz.162およびSd.Kfz.162/1である。
日本では、略称として四駆とよばれることもある。
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{{出典の明記|date=2019年11月}}
{{戦車
|名称=IV号駆逐戦車
|画像=[[ファイル:Panzermuseum Munster 2010 0449.JPG|300px]]
|説明=IV号駆逐戦車(Sd.Kfz.162)<br/>([[ムンスター戦車博物館]]の展示車両)
|全長=6.85[[メートル|m]]
|車体長=
|全幅=3.17m
|全高=1.85m
|重量=24t
|懸架方式=[[リーフ式サスペンション|リーフスプリング方式サスペンション]]付二輪ボギー式
|速度=
|整地時速度=40km/h
|不整地時速度=18km/h
|行動距離=190[[キロメートル|km]]([[整地]]時)
|主砲=[[7.5 cm PaK 39|48口径7.5cm Pak 39 L/48]](79発)
|副武装=7.92mm [[グロスフスMG42機関銃|MG42]]×1<br/>[[MP40|MP40/MP38]]または[[StG44 (突撃銃)|MP44]]×1
|装甲=
*前面上部 60または80mm
*ザウコップ防盾部 80mm
*前面下部 50mm
*側面 40mm
*後面 30mm
*上面 20mm
*底面 20mm
|エンジン名=[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]HL 120 TRM<br/>[[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[液冷エンジン|液冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]
|出力=300馬力
|乗員=4名
| 備考=【生産台数】<br/>560輌(フォマーク社製)<br/>206輌(アルケット社製)
}}
'''IV号駆逐戦車'''(よんごうくちくせんしゃ、'''Jagdpanzer IV''')は、[[第二次世界大戦]]中に[[ナチス・ドイツ]]が[[IV号戦車]]をベースに開発した[[駆逐戦車]]である。[[特殊車輌番号|制式番号]]は'''Sd.Kfz.162''および''Sd.Kfz.162/1'''である。
日本では、略称として四駆とよばれることもある。
== 概要 ==
[[1943年]]8月19-20日の会議で前月の[[クルスクの戦い]]の報告を読んだ[[アドルフ・ヒトラー]][[総統#ドイツ|総統]]は、[[突撃砲]]は敵[[戦車]]に包囲されない限り、当時の[[主力戦車]]であった[[IV号戦車]]よりも優れた[[戦闘|戦闘力]]を持つと確信した。ヒトラーはIV号戦車の車体を用いた戦車駆逐車の開発を命じ、これは、IV号戦車駆逐車(Panzerjäger IV)として同年[[10月20日]]にフォマーク社の[[プロトタイプ|試作車]]が完成した。
完成した試作車は、IV号戦車の車体に全高の低い戦闘室を設け、この内部に[[V号戦車パンター|パンター戦車]]の[[7.5 cm KwK 42|7.5 cm L/70砲]]を搭載するものであった。しかし、[[銃砲身|長砲身]](70[[口径]])の7.5 cm L/70砲はパンターへの供給が優先され、試作車(O型)はIV号戦車と同じ砲身長(48口径)の[[7.5 cm PaK 39|7.5 cm L/48砲]]を搭載していた。試作車を査閲したヒトラーは主砲を早急に長砲身7.5 cm砲に変更することを命じつつ、IV号戦車の生産をこの[[戦車駆逐車]]に切り替えることを指令し、名前も'''IV号駆逐戦車'''(Jagdpanzer IV)に変更させた。
生産は翌年1944年から開始され、同年1月にフォマーク社は最初の30両を生産した。この時期フォマーク社はまだIV号戦車を製造しており、同年5月まで並行して生産を続けつつ、生産ラインを切り替える計画となっていた。以降、生産ラインの初期トラブルの続発や連合軍の空襲による混乱に悩まされつつも月産数は徐々に増加し、1944年4月には月産100両を超え、同年7月には140両に達している。1944年8月からは長砲身70口径7.5cm対戦車砲装備型の生産が並行する形で開始され、48口径7.5cm砲搭載型は1944年11月に2両が完成して打ち切られ、以降はIV号駆逐戦車改め「'''IV号戦車/70'''(Panzer IV/70)と命名された長砲身型のみが生産された。
IV号駆逐戦車は早急に数を揃えるため、IV号戦車からの生産ラインの切り替えを容易にするべく、IV号戦車J型の車台の上にそのまま戦闘室を載せた形式のものが開発され、このタイプの車両は生産がアルケット社で行われたため、'''IV号戦車/70(A)'''(Panzer IV(A)※「A」はアルケット社の頭文字から)の制式名称が与えられた(これによりフォマーク社が製造したタイプは'''IV号戦車/70(V)'''(Panzer IV(V)※「V」はフォマーク社の頭文字から)として区別された。なお、“(A)”型には“ZL型”の通称もあり、ZL とは"{{lang-de|Zwischenlösung}}"の略で、「暫定解決型」の意味である。
IV号駆逐戦車は1944年3月から機甲師団や機甲擲弾兵師団の戦車猟兵大隊に配備され、以後東西両戦線で終戦まで運用された。
ドイツ軍の他、[[ブルガリア]]では連合軍への降伏後の対ドイツ戦に際して[[1945年]][[3月]]にソビエトから2両の鹵獲品(48口径型1両、IV/70(V)1両)が供与され、この2両は戦後もソビエト製装甲戦闘車輌が供給されて置き換えられる1950年代半ばまで装備されていた。その後はIV/70(V)が博物館に収蔵され、48口径型は他のドイツ製戦車と共にブルガリアの南方国境(トルコ国境)に固定砲台([[トーチカ]])として配置された。48口径型は冷戦後は半ば忘れ去られたまま放置されていたが、2000年代に入って発見されて回収され、[[2007年]]より修復の上博物館に展示されている。また、[[ルーマニア]]は戦後に社会主義体制が発足した際にソビエト[[赤軍]]が鹵獲した車両1台を与えられ、“''' TAs T4'''”の制式名称で1950年まで装備していた。
[[シリア]]が1950年代に入手した第2次世界大戦時のドイツ軍戦車の中にIV号駆逐戦車もあり、[[フランス]]から入手した<ref>[https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2016/09/04/panzers-in-the-golan-heights/ wwiiafterwwii - wwII equipment used after the war>Panzers in the Golan Heights] ※2020年5月16日閲覧</ref>6両の初期型車体48口径型は[[第3次中東戦争]]で使用されている。
== 構成 ==
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1976-039-09, Ungarn, Jagdpanzer und Grenadiere auf dem Marsch.jpg|thumb|IV号戦車/70(V)(1944年、ハンガリー)
]]
IV号駆逐戦車の[[シャシ (自動車)|シャーシ]]は基本的には[[IV号戦車]]のものと同等であるが、車体前面下部の[[装甲|装甲板]]はIV号戦車の直立した形状から、角度を持った2面構成に変更されている。IV号戦車でも車体前面の[[装甲#傾斜装甲|傾斜装甲]]化は検討されていたが、組み立て[[治具]]の交換のために従来の生産ラインを止めることができず、新たに下請けメーカーであるフォマーク社の[[工場]]で、専用シャーシの生産ラインを作った[[駆逐戦車]]のみで実現したものである。
[[主砲]]として48[[口径]]の[[7.5 cm PaK 39|7.5 cm PaK 39 L/48砲]]を備え、シャーシ上に砲架を据えた[[突撃砲]]型と異なり、前面装甲版に直接接合したカルダン枠砲架となったため、車内が広く使えるようになった。生産性も向上した反面、重量が車体前方に偏るノーズヘビー化により、操縦性は低下、「グデーリアン・エンテ」([[ハインツ・グデーリアン|グデーリアン]]の[[アヒル|あひる]])というあだ名がつけられている。[[歩兵]]の肉薄攻撃に対抗する[[S-マイン]]([[跳躍地雷|跳飛]]式[[地雷#対人地雷|対人地雷]])型の[[グレネード|擲弾]]を発射する[[近接防御兵器]]も搭載されたが、生産が間に合わず未搭載の車両もある。
== バリエーション ==
;IV号駆逐戦車(Oシリーズ)
[[ファイル:SdKfz162.jpg|thumb|250px|Oシリーズ後期型<br/>([[ムンスター戦車博物館]]の展示車両)]]
:量産開始前に少数製造された[[プロトタイプ|試作型]]。48[[口径]]の[[7.5 cm PaK 39]]を搭載し、車体前面と側面の[[装甲]]の接合部が曲面構成になっているのが外見上の特徴。
:量産型と違い、[[防弾]][[鋼]]ではなく工作の容易な通常鋼(軟鋼)で作られ、各種試験に用いられた。[[1943年]]10月に1号車が完成。
:{{-}}
:
;IV号駆逐戦車F型
:[[ファイル:Sdkfz 162 Jagdpanzer IV, Musée des Blindés, France, pic-2.JPG|thumb|250px|IV号駆逐戦車F型<br/>([[ソミュール戦車博物館]]の展示車両)]]
:Jagdpanzer IV Ausf.F、Sd.Kfz.162
:傾斜した前面装甲は60mm(防御力は垂直に立った110mm装甲に相当)で、Oシリーズとは異なり側面装甲との接合部が直線になった。これは、5月以降の生産車からは80mmに強化されている。当初、[[主砲]]に[[マズルブレーキ]]が装着されていたが、砲の位置が低く爆風で砂埃が舞い上がり、照準が困難になるため外され、5月以降の生産車では取り付け用のネジ山も切られていない。また、前面のMGクラッペ(車内に搭載された[[グロスフスMG42機関銃|MG42]][[機関銃]]を撃つための孔)は、当初左右1基ずつであったが、3月以降の生産車から右側1基に減らされた。
:実戦で用いられた車両の[[無限軌道|履帯]]は、同時期の[[IV号戦車]]が履いているような滑り止めの付いた新型ではなく、より軽量な旧型が使われている。
:生産数は[[1944年]]1-11月までの802両で、シャーシ番号は320001-321000だが、途中に70口径砲搭載型が含まれるため、生産数と一致しない。名称は後に、単に"Jagdpanzer IV"(IV号駆逐戦車)と変更された。
:
;IV号戦車/70(V)
:[[ファイル:Jagdpanzer_IV_CWM_1.jpg|thumb|250px|IV号戦車/70(V)]]
:Panzer IV/70(V), Sd.Kfz.162/1
:IV号駆逐戦車の発展型であり、備砲が[[7.5 cm KwK 42|7.5cm Pak 42 L / 70]]に変更され、名称も「'''Jagdpanzer'''([[駆逐戦車]])」ではなく「'''Panzer'''([[戦車]])」に変更された。(V)はフォマーク社製であることを示す頭文字である。当初から前面装甲が80mmに強化された上、長砲身砲の搭載によりノーズヘビーの傾向が更に悪化したため、転輪[[ゴム]][[タイヤ]]の早い損耗を避けるべく9月の生産車から前部2つを[[鋼|鋼鉄]]製(ゴムは内部に収納)に変更している。また、履帯も肉抜き部の多い、より軽量の新型となった。
:当初、IV号戦車ラング(=長砲身)という名前だったが、通常のIV号戦車の長砲身型と紛らわしいので口径名に変更された。1944年8月から旧来のIV号駆逐戦車との併行生産が始まり、[[工場]]の被爆で生産が縮小・停止する[[1945年]]4月までに940両が生産された。
:シャーシ番号は320651-321000、および329001以降だが、途中に48口径砲搭載型が含まれるため、生産数と一致しない。
:生産開始直後から順次[[部隊]]配備されているが、戦車駆逐[[大隊]]だけでなく通常の戦車隊(例えば、[[V号戦車パンター|パンター]]で編成される戦車大隊のうちの1個[[中隊]]など)にも多く配備されており、名称の変更のとおり駆逐戦車ではなく、長砲身の戦車扱いであった。
:
;IV号戦車/70(A)
:[[ファイル:Sd.Kfz. 162-1 Jagdpanzer IV-70(A) in the Musée des Blindés, France, pic-2.JPG|thumb|250px|IV号戦車/70(A)<br/>(ソミュール戦車博物館の展示車両)]]
:Panzer IV/70(A), Sd.Kfz.162/1
:アルケット社による生産型で、ニーベルンゲン製作所で生産されたIV号戦車J型の車台をそのまま使用、その上に70(V)型の物に似た戦闘室を載せた形状となり、車高が50cmほど高くなっている。これにより車内容積が大きくなったため、70(V)型より[[砲弾]]の搭載数が多い。しかし、重量も28tと増加したため、前半分の転輪がゴム内蔵の鋼鉄製となった。
:(A)はアルケット社製であることを示す頭文字であり、公式文書ではIV号戦車ラング (A)とも表記されるが、上記の理由で名称変更された。
:やはり駆逐戦車ではなく長砲身の支援用戦車と認識されており、1944年9月の総統護衛旅団への配備を皮切りに、駆逐大隊や戦車[[連隊]]、[[突撃砲]][[旅団]]の装備となった。
{{-}}
== 配備部隊 ==
{| class="wikitable"
|+ IV号戦車/70(V)
! 上級部隊 !! 大隊 !! 配備数
|-
| 第105装甲旅団 || 第2105装甲大隊 || 11両
|-
| 第106装甲旅団 || 第2106装甲大隊 || 10両
|-
| 第107装甲旅団 || 第2107装甲大隊 || 11両
|-
| 第108装甲旅団 || 第2108装甲大隊 || 11両
|-
| 第109装甲旅団 || 第2109装甲大隊 || 11両
|-
| 第110装甲旅団 || 第2110装甲大隊 || 11両
|-
| 第7装甲師団 || 第42戦車猟兵大隊 || 17両
|-
| 第8装甲師団 || 第43戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| 第9装甲師団 || 第50戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| 第13装甲師団 || 第13戦車猟兵大隊 || 8両
|-
| 第17装甲師団 || 第27戦車猟兵大隊 || 28両
|-
| 第20装甲師団 || 第92戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| 第21装甲師団 || 第200戦車猟兵大隊 || 6両
|-
| 第24装甲師団 || 第40戦車猟兵大隊 || 19両
|-
| 第25装甲師団 || 第9装甲連隊 || 10両
|-
| 『ユターボク』装甲師団 || 『ユターボク』装甲大隊 || 10両
|-
| 総統護衛旅団 || 総統護衛戦車猟兵大隊 || 11両
|-
| [[第116装甲師団 (ドイツ国防軍)|第116装甲師団]] || 第228戦車猟兵大隊 || 5両
|-
| [[装甲教導師団]] || 戦車猟兵教導大隊 || 21両
|-
| [[グロースドイッチュラント師団|『グロースドイッチュラント』装甲擲弾兵師団]] || 『グロースドイッチュラント』戦車猟兵大隊 || 21両
|-
| 『シュレージエン』装甲師団 || 第303戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| 第3装甲擲弾兵師団 || 第3戦車猟兵大隊 || 17両
|-
| 第10装甲擲弾兵師団 || 第7戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| 第15装甲擲弾兵師団 || 第33戦車猟兵大隊 || 5両
|-
| 第20装甲擲弾兵師団 || 第20戦車猟兵大隊 || 20両
|-
| 第25装甲擲弾兵師団 || 第25戦車猟兵大隊 || 22両
|-
| 独立大隊 || 第560重戦車駆逐大隊 || 15両
|-
| 独立大隊 || 第655重戦車駆逐大隊 || 28両
|-
| 独立大隊 || 第519重戦車駆逐大隊 || 9両
|-
| 独立大隊 || 第559重戦車駆逐大隊 || 18両
|-
| 独立大隊 || 第563重戦車駆逐大隊 || 31両
|-
| 独立大隊 || 第510戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| 『デーベリッツ』歩兵師団 || 第303戦車撃破大隊 || 10両
|-
| [[第1SS装甲師団]] || 第1SS戦車猟兵大隊 || 11両
|-
| [[第2SS装甲師団]] || 第2SS戦車猟兵大隊 || 8両
|-
| [[第9SS装甲師団]] || 第9SS戦車猟兵大隊 || 12両
|-
| [[第10SS装甲師団]] || 第10SS戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| [[第11SS義勇装甲擲弾兵師団]] || 第11SS戦車猟兵大隊 || 10両
|-
| [[第12SS装甲師団]] || 第12SS戦車猟兵大隊 || 21両
|-
|}
{| class="wikitable"
|+ IV号戦車/70(A)
! 上級部隊 !! 配備部隊 !! 配備数
|-
| 第3装甲師団 || 第8中隊/第6装甲連隊 || 17両
|-
| 第7装甲師団 || 第Ⅱ大隊/第25装甲連隊 || 10両
|-
| 第13装甲師団 || 第9中隊/第4装甲連隊 || 4両
|-
| 第17装甲師団 || 第6中隊/第39装甲連隊 || 17両
|-
| 第20装甲師団 || 第6中隊/第21装甲連隊 || 12両
|-
| rowspan="2"|第24装甲師団 || 第9中隊/第24装甲連隊 || 13両
|-
| 第Ⅲ大隊/第24装甲連隊 || 14両
|-
| 第25装甲師団 || 第5中隊/第87戦車猟兵大隊 || 17両
|-
| [[第106装甲旅団「フェルトヘルンハレ」|第106装甲旅団『フェルトヘルンハレ』]] || 第7中隊/第2装甲連隊 || 11両
|-
| 独立大隊 || 第208装甲大隊 || 14両
|-
| 総統護衛旅団 || 第5装甲中隊 || 5両
|-
| 『グロースドイッチュラント』装甲擲弾兵師団 || 第Ⅱ大隊/『グロースドイッチュラント』装甲連隊 || 38両
|-
|}
{| class="wikitable"
|+ 突撃砲旅団所属車両(車両形式不明)
! 配備部隊 !! 配備数
|-
| 第190突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第210突撃砲旅団 || 4両
|-
| 第236突撃砲兵旅団 || 3両
|-
| 第243突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第244突撃砲旅団 || 4両
|-
| 第276突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第280突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第300突撃砲旅団 || 4両
|-
| 第301突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第311突撃砲旅団 || 4両
|-
| 第341突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第394突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第667突撃砲兵旅団 || 3両
|-
| 第902突撃砲旅団 || 3両
|-
| 第905突撃砲兵旅団 || 3両
|-
| 第911突撃砲兵旅団 || 3両
|-
| 『グロースドイッチュラント』突撃砲旅団 || 31両
|-
| 突撃砲教導旅団 || 16両
|-
| 『マクデブルク』突撃砲兵学校 || 2両
|-
|}
== 現存車両 ==
;''IV号駆逐戦車(Oシリーズ)''
* [[ムンスター戦車博物館]] - 以前はフランスの[[ソミュール戦車博物館]]の所蔵品だった。
;''IV号駆逐戦車F型''
* ムンスター戦車博物館 - 前面装甲が60mmの前期生産型。以前は[[アメリカ陸軍兵器博物館]]の所蔵品だったが、1960年代にドイツに里帰りした。コブレンツにある[[コブレンツ国防技術博物館|国防技術博物館]]からの貸し出し品。
* [[ソミュール戦車博物館]] - 前期生産型。
* [[トゥーン戦車博物館]] - 前面装甲が80mmの後期生産型。
;''IV号戦車/70(V)''
* ブルガリア国立軍事歴史博物館
* [[クビンカ戦車博物館]]
* [[アメリカ陸軍兵器博物館]]で展示されていた車両 - 現在はバージニア州で保管されている。
* [[パットン戦車博物館]]で展示されていた車両 - イギリス・シュヴェリンハム防衛アカデミーからの貸し出し品。現在はジョージア州で保管されている。
* [[カナダ戦争博物館]] - 以前はカナダ空軍の基地内で保管されていた。
;''IV号戦車/70(A)''
* ''[[ソミュール戦車博物館]] - 1944-45年の間、[[自由フランス軍]]によって使用された車両。前面装甲に徹甲弾が刺さったままの状態で展示されている。
<gallery widths="180px" heights="150px">
File:Jagdpanzer IV Prototyp (39076253362).jpg|[[ムンスター戦車博物館]]の試作型 (Oシリーズ)
File:Jagdpanzer IV (39076257292).jpg|ムンスター戦車博物館のF型。[[ツィンメリットコーティング]]が施されている。
Jagdpanzer IV Saumur.JPG|ソミュール戦車博物館のF型。
File:Jagdpanzer IV 48 Thun 1.jpg|トゥーン戦車博物館のF型。
File:JagdpanzerIV L70.jpg|ブルガリア国立軍事歴史博物館の70(V)。
File:0623 - Moskau 2015 - Panzermuseum Kubinka (26374499726).jpg|クビンカ戦車博物館の70(V)。
File:Jagdpanzer IV 2.jpg|[[アメリカ陸軍兵器博物館]]で展示されていた70(V)。
File:Panzer IV L70 at the Canadian War Museum 1.jpg|カナダ戦争博物館の70(V)。
File:Sd.Kfz. 162-1 Jagdpanzer IV-70(A) in the Musée des Blindés, France, pic-1. 162-1 Jagdpanzer IV-70(A) in the Musée des Blindés, France, pic-.JPG|ソミュール戦車博物館の70(A)。
</gallery>
== 登場作品 ==
『World of tanks』
ドイツティア6駆逐戦車として登場。
短砲身75mm砲、長砲身75mm砲、(史実にはない)88mm砲が搭載可能
{{Main|IV号戦車に関連する作品の一覧}}
== 関連項目 ==
*[[カノーネンヤークトパンツァー]]
== 脚注・出典 ==
<references />
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Jagdpanzer IV}}
* [http://www.achtungpanzer.com/pz10.htm Achtung Panzer! - Jagdpanzer IV], www.achtungpanzer.com {{Languageicon|en|英語}}
{{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:くちくせんしや4}}
[[Category:IV号戦車|4こうくちく]]
[[Category:ドイツ国防軍の対戦車自走砲]]
|
2003-09-27T07:49:08Z
|
2023-10-11T15:35:51Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/IV%E5%8F%B7%E9%A7%86%E9%80%90%E6%88%A6%E8%BB%8A
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18,489 |
M4中戦車
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M4中戦車(M4ちゅうせんしゃ、Medium Tank M4)は、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国で開発・製造された中戦車(30トン級)。通称はシャーマン (Sherman)。高い機動力と火力を誇るアメリカの代表的な戦車である。
第二次世界大戦が勃発した1939年、アメリカ陸軍は戦車保有数が少なく、唯一の中戦車M2中戦車も時代遅れで、陸上戦力には不安があった。これは、アメリカがヨーロッパから大西洋を隔てていた事や、当初は中立的な立場(孤立主義)を採っていた事にも起因するが、ナチス・ドイツにより欧州の連合国が次々と陥落し、さらに東南アジアに進出した日本との関係悪化などから、1940年頃には連合各国へのレンドリース法を適用した支援やアメリカ自身の参戦に備えて、全周旋回砲塔に大型砲を搭載した戦車が必要と認識された。しかし、当時のアメリカでは大直径の砲塔リングを量産できる体制がなかったことから、M4が開発されるまでの繋ぎとして車体に75mm砲搭載のM3中戦車(25トン級)が先行生産された。
その後、M3のシャーシをベースに75mm砲を搭載した大型砲塔を持つ新戦車T6の開発と同時に、航空・自動車産業を中心に生産体制の整備が急ピッチで行われた。1941年10月にM4中戦車として制式採用されたが、鋳造生産能力の不足からT6と同じ鋳造一体構造の上部車体を持つM4A1と鋼板溶接車体のM4とが同時に量産される事になり、M4A1はアメリカ参戦直後の1942年2月から量産が開始され、M4は1942年7月から量産が開始された。
車体前部左右に正操縦席と副操縦席兼前方機関銃座が設けられている。砲塔内には車長・砲手・装填手の3名が搭乗。砲塔上面ハッチは車長用のみ設置されたが、左側に砲手・装填手用ハッチが追加され、車長用ハッチは防弾窓付きキューポラに発展した。左側面に設けられた対歩兵射撃用の開閉式ガンポートは防御力向上のために一時廃止されたが、弾薬搬入や薬莢搬出に便利だったことから短期間で復活している。車体下部には脱出ハッチが設けられている。
履帯は、全金属製の物とゴムブロックを含む物とに大別され、さらに滑り止めパターンの形状の違いなどで多くの種類がある。
初期の圧延装甲溶接車体の前面は避弾経始を考慮して(垂直線から)56度の傾斜が付けられ、操縦席・副操縦士席部分が前方へ張り出した構造になっていたが、後に生産性の向上と車内容積の増加(76mm砲塔や湿式弾薬庫搭載のため)などの目的で、(垂直線から)傾斜角47度の一枚板に変更されており、併せてA1の鋳造車体も含めて操縦士用ハッチの大型化が行われた。これらは一般的に「前期型」「後期型」と呼ばれているが、これらの改良も各生産拠点による差異や現地改修などにより千差万別であり、車体分類なども後世の研究によるもので定まっていない。
砲架は75mm砲搭載型の場合は、回転防楯とも呼ばれる搭載砲の仰俯角時に砲と一緒に動く外装防楯と、砲塔に固定される内装防楯からなっており、それぞれが湾曲し重なり合っていた。外装防楯は88.9mmの装甲厚があり、内装防楯は38.1mmの厚みがあった。
後部のエンジンからドライブシャフトで最前部の変速機に動力を伝える、M3を踏襲した前輪駆動型式を採用し、航空機用である星型エンジンの使用を前提とした設計のために、エンジンデッキとドライブシャフトの位置が高くなっている。
サスペンションは、前期型ではM3と同形式のVVSSが採用されたが、強化対策による重量増加に対応するため、後期型ではより耐久性の高いHVSSが採用された。
無線機は砲塔後部の張り出しに納められていたが、送信機・受信機の両方を備えていたのは指揮官用戦車など全体の四割にすぎず、他は受信機のみであった。全車が送信機も完備するようになったのは1944年後半になってからであった。
主砲は当初75mm戦車砲M3(M61弾で初速619m/s)と105mm榴弾砲M4(M67弾で初速381m/s)の搭載が構想されていたが生産簡略化ため75mm戦車砲M3のみに絞られ、105mm榴弾砲の搭載は後回しにされている。
次いで76mm戦車砲M1(口径3インチ=76.2mm、M62弾で初速792m/s)を搭載した車輌も生産された。開発自体は1942年から行われていたが、実戦配備は1944年になってからであった。76.2mm砲は75mm砲に比べて装甲貫徹力に優れていたが、砲弾が長く搭載数が少なくなったこと(71発)、発射時の砲煙が多いこと、榴弾の炸薬量が75mm砲より少ないなどの欠点もあることから、それぞれの砲を搭載した車輌が並行生産された。大型化した76.2mm用砲塔は、75mm用砲塔と共通の砲塔リングであるが、前期型車体では搭載スペースが不十分なため、前面装甲板の一体化などで車内容積が増えた後期改良型車体にのみ載せられていた。砲身を含むと全長が7.47メートルとなる。
当初、75mm砲型と平行して生産することを構想されていた105mm砲型は、生産簡略化及び砲架の不具合などの理由により、その生産開始は1944年となった。この搭載された105mm砲は、105mm榴弾砲M2を車載用に改造したものであり、105mm榴弾砲M4と呼ばれた。使用弾薬には、榴弾であるM1や発煙弾のM84の他、対戦車戦闘用の成形炸薬弾のM67などがある。(この成形炸薬弾は距離にかかわらず、約100mmの垂直装甲板を貫通する性能があった)このタイプの欠点として、弾薬のサイズが車内の広さに対し少々過大気味であり、装弾数も76.2mm砲搭載型よりも少なかった。
イギリス軍では75mm砲搭載型を無記号、76.2mm砲型をA、105mm砲型をB、17ポンド砲型をCと分類していた。シャーマンICは、シャーマンI(M4)ベースのファイアフライ、シャーマンIIIAはM4A2ベースの76.2mm砲型ということになる。また、イスラエル国防軍では、車体に関係なく搭載火砲の種別のみで、M1、M3、M4と分類していた(これはM50/M51スーパーシャーマンも同様である)。
76mm戦車砲M1がタングステン鋼芯入りの高速徹甲弾(HVAP)M93を用いた場合は、ドイツ軍88mm砲並みの貫徹力(距離914m、30°で135mm)だが砲身寿命が半減する。加えて発射時の反動が大きいため砲口にマズルブレーキが追加された。この砲弾は、1944年8月から前線に支給されるようになったが、月産10,000発しか製造できなかったので、M10駆逐戦車などに優先して供給され、シャーマンへの供給は十分では無く、バルジの戦いの頃においても、シャーマンには常時1~2発程度の支給に留まった。後の朝鮮戦争では十分に供給され、T-34を撃破する威力を見せた。
なお、被帽付徹甲弾であるM62弾を用いた場合は、距離500mで116mm厚の装甲を、1000mでは106mmの装甲を貫通できたが、実戦においてはドイツ軍戦車であるパンターの防盾を打ち抜く場合は180mの距離まで接近する必要性があった。M93弾の場合は730m~910mの距離でパンターの防盾を貫通できた。しかし、いずれも車体正面は貫通不可能であった。
ドイツ軍はパンターなどの自軍戦車の強みである、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、ドイツ軍の想定通りの距離での戦闘とはならず、アメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対しドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mであり、自軍戦車の強みを十分に活かすことはできなかった。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mで、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなく、結果的に多くのパンターがシャーマンに撃破されて、76.2mm砲と高速徹甲弾はシャーマンの対戦車能力を大きく向上させることとなった。
副武装に、1挺の12.7mm機銃、2挺の7.62mm機銃を搭載する。しかしイギリス軍の車輌では12.7mm機銃を装備していない物が大半である。M4A1とA2の極初期型には、M3中戦車のように車体前方に2挺の7.62mm固定機銃が付いていたが、すぐに廃止された。
ドイツ軍兵器局が1944年10月5日に作成した資料によると、IV号戦車やIV号突撃砲などに搭載された7.5cm48口径戦車砲を使用した場合、車体正面下部は1300m、砲塔正面は1000mで撃破可能としているものの、車体正面上部(傾斜部分)は貫通不可能であり、防楯(砲身付近)は100m以内に接近しなければ貫通できないと分析している。
主砲弾薬庫は前期型車体では左右袖部(スポンソン)に設けられていたため、敵弾貫通時に破れた薬莢から漏れ出た装薬に引火、火災がM4の撃破原因の60-80%という高い割合を占めていた。あまりにM4が激しく炎上するため、アメリカ軍やイギリス軍の戦車兵の中ではM4のことを「ジッポー」や「ロンソン」(いずれも有名なライターのこと)と呼んだり、また敵のドイツ兵は「トミー・クッカー」(トミーはイギリス兵の俗称、クッカーは野戦調理用の固形燃料缶のことで、イギリス兵調理器という揶揄)と呼んでいたという。M4が炎上し易かったのは、ガソリンエンジンを搭載したためという誤解もあるが、実際には前述の通り被弾しやすい位置に弾薬庫があったことが原因であった。
応急対策として、弾薬箱の位置の車体側面に補助装甲板が溶接された。後期改良型車体では全体を不凍液(グリセリン溶液)で満たして引火を防ぐ湿式弾薬庫を床下に設置(湿式弾薬庫搭載型は末尾にWaterの略である「W」が付けられている)されて、火災の発生率は約10-15%と大きく低下した。これにより、前期型車体では装填手が砲塔バスケットのフロアに立っていたのが、後期型車体では床下から砲弾を取り出すのに邪魔な足元のフロアが無くなり、砲塔旋回の際には自力で動いてついていかなくてはならなくなった。また、これとは別に、イギリス軍はシャーマン ファイアフライの改造時にスポンソン上の弾薬箱を撤去し、床上や副操縦席のあった場所に装甲弾薬箱を新設している。
また、前線では予備の履帯や転輪、土嚢を増加装甲代わりに積載したり、コンクリートを厚く塗布するなど、追加防御策が行われている。多くは調達や交換が容易で、パンツァーファウストの成型炸薬弾対策にもなる土嚢が用いられた。しかし、この効果に対しては賛否両論あり、逆に貫徹力を高める間合い(スタンドオフ)を作ってしまうという意見が出る反面、実戦で効果があったと主張する者もいた。パットン将軍は、「軍人の所業らしくない」とこれを嫌って土嚢装甲を禁止し、麾下のアメリカ第3軍では撃破された友軍やドイツ軍の戦車の車体から切り出した鋼板を貼り付けていた。
アメリカ海兵隊においては、太平洋戦線で日本軍の速射砲に側面や後面を狙い打たれて撃破されるM4が続出したこともあり、現地で鉄板やコンクリートや木材など手に入る材料は何でも増加装甲代わりに装着した。
戦後、イスラエル国防軍が独自改良を行ったM50/M51スーパーシャーマンでは、火力はフランス製のAMX-13用75mm砲やAMX-30用105mm砲の装備により一線級を保っていたのに対し、装甲防御力については重量的限界からほとんど対策されないままであった。
第二次世界大戦の連合国の主力戦車で、アメリカの高い工業力で大量生産された。生産に携わった主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌を生産した。各生産拠点に適したエンジン形式や生産方法を採る形で並行生産させたため、多くのバリエーションを持つが、構成部品を統一して互換性を持たせることにより高い信頼性や良好な運用効率が保たれていた。
M4が最初に戦闘に投入されたのは、北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦いであった。アメリカ軍の機甲師団を投入しようという計画もあったが、補給の問題もあってレンドリースという形式でイギリス軍に送られたものであった。エルアラメインに送られたM4は初期型のM4A1、M4A2であったが、50mm 60口径砲搭載のIII号戦車が主力のドイツアフリカ軍団にはM4は難敵であり、ドイツ軍戦車は一方的に撃破された。特にM4が猛威を振るったのが75mmの榴弾による88mm砲への攻撃であり、今までのイギリス軍戦車にはなかった破壊力で、次々と88mm砲を撃破したことがドイツ軍の致命的な痛手となり、イギリス軍の勝利に大きく貢献した。
しかし、その後のカセリーヌ峠の戦いでティーガーIと戦ったアメリカ軍のM4は、アメリカ軍戦車兵が戦車戦に不慣れなこともあって苦戦し、アメリカ軍はM3中戦車とM3軽戦車も含めて183輌の戦車を失っている。アメリカ軍はティーガーIの脅威を知ると共に、ソ連からV号戦車パンターの情報を仕入れていたが、どちらの戦車も接触頻度が稀であったので、少数が配備される重戦車であると誤った認識をして、既に決定していた76.2mm砲を搭載する以上の対策をとることはなかった。一方で、イギリス軍はM4の対戦車能力向上のため、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲を搭載したシャーマン ファイアフライの開発を行っている。
アメリカ軍の分析とは異なり、ノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、M4とパンターやティーガーIとの交戦頻度は高く、75mm砲搭載型はおろか76.2mm砲搭載型も非力さが明らかになった。東部戦線で経験を積んだ一部のドイツの戦車エースたちの活躍もあって、M4がドイツ軍戦車に一方的に撃破されたという印象も強く、とくにエルンスト・バルクマン親衛隊軍曹はパンターに乗って多数のM4を撃破したとされている。バルクマンの有名な逸話は、1944年7月27日にサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる、のちに『バルクマンコーナー』と称された活躍談であった。このような一部の限られた活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、それは単に大戦時のアメリカの戦車小隊が5両から編成されているからに過ぎない。また、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではなかったかとの指摘もある。
限られた活躍談での印象とは異なり、M4はパンターを相手にしても善戦している。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破して撃退している。第37戦車大隊は、アラクールの戦いで55輌のティーガーIとパンターを撃破して連合軍の勝利に貢献した。
アメリカ軍はパンターやティーガーIへの対策として、新型の高速徹甲弾の生産を強化した。この徹甲弾は、M4戦車隊に十分な量は行き届かなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、76.2mm砲搭載型M4の強力な武器となった。また、M4は信頼性・生産性など工業製品としての完成度は高く、大量の補充と整備性の良さ、高い稼働率によって、高価すぎて且つ複雑な構造のドイツ軍戦車を総合力で圧倒するようになり、ドイツ軍戦車兵が大量の消耗により次第に質が低下していったのに対して、アメリカ軍は熟練した戦車兵が増えて、M4がパンターを圧倒する戦闘も増えている。バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた他の部隊のM4シャーマン4輌を撃破して一矢報いている。翌12月25日にもノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破して、ドイツ軍の攻撃を撃退している。
バルジの戦いにおいて、最初の2週間でM4シャーマンはあらゆる原因によって320輌を喪失していたが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働状態とその抜群の信頼性を誇示していたのに対して、投入された415輌のパンターは、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌といった有様だった。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンのみが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった。
29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データの数が不十分であり両戦車の性能の差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかを証明するまでには至っていない。
アメリカ軍はドイツ軍とは異なり、戦車の撃破数で賞されることはなかったが、第37戦車大隊大隊長エイブラムスは、自分が搭乗したM4シャーマン『サンダーボルト』でも多数のドイツ軍戦車を撃破し、終戦までに50輌のドイツ軍戦闘車両を撃破している。またラファイエット・G・プール准尉も、M4を3輌乗り換えながら、兵員1,000名殺害、捕虜250名確保、戦車12輌を含む戦闘車両258輌撃破の戦果を挙げている。 また、イギリス、カナダ、オーストラリアなどイギリス連邦加盟国のほか、ソビエト連邦に4,000輌以上、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされた。カナダ軍ではシドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ少佐がM4にて18輌のドイツ軍戦車と多数の戦闘車両を撃破して、第二次世界大戦における連合軍戦車エース(英語版)の1人となったが、ウォルターズが撃破した戦車のなかには、ドイツの戦車エース・ミハエル・ヴィットマンの乗るティーガーIも含まれていたとも言われている。
「M4の75mm砲は理想の武器」「敵重戦車も76mm砲で撃破できる」とするAGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)の判断はM26パーシングの配備を遅らせ、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。
北アフリカおよびヨーロッパに加えて太平洋戦争にも投入された。戦車戦力が弱い日本軍にとってM4は非常な難敵で、サイパンの戦い、グアムの戦い、ペリリューの戦いなどでM4と日本軍の九七式中戦車や九五式軽戦車との戦車戦が戦われたが、日本軍戦車の九七式五糎七戦車砲や九八式三十七粍戦車砲はM4に命中してもまるでボールのように跳ね返されたということで、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多かった。日本軍の戦車兵はそのようなM4を「動く要塞」と称して恐れた。それでも、戦車第2師団が戦ったルソン島の戦いにおいては、重見支隊(支隊長:重見伊三雄少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)がリンガエン湾に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われた。九七式中戦車改に搭載された一式四十七粍戦車砲は、500ヤード(約457.2m)で67mmの装甲、1,000ヤード(約914.4m)で55mmの装甲を貫通したので、M4の側面や後面の装甲であれば、かなりの遠距離からでも貫通可能であり、戦車戦で撃破されるM4も少なくはなく、アメリカ軍は九七式中戦車新砲塔型を「もっとも効果的な日本軍戦車」と評して警戒した。戦車戦での不利を痛感した日本軍は、その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では、戦車の車体を地面に埋めて、即席の対戦車トーチカとして使用するようになった。
そこで日本軍のM4対策は、待ち伏せによる速射砲と地雷と歩兵による肉弾攻撃となっていった。速射砲のなかでも一式機動四十七粍速射砲や九四式三十七粍速射砲がM4の側面装甲を至近距離から貫徹でき撃破したこともあった。沖縄戦ではM4を主力とするアメリカ陸軍の戦車隊が221輌撃破されたが、そのうち111輌が速射砲や野戦重砲などの砲撃による損害であった。また、海兵隊の51輌のM4の損失を含めると合計272輌が撃破されたことになり、これは、沖縄に投入されたアメリカ軍戦車のうち57%にも上っている。また沖縄戦においては、日本軍は段ボール大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車のキャタピラに向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた。この特攻戦術は効果があり、激戦となった嘉数の戦いでは、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた。
アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や磁力吸着式の九九式破甲爆雷で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している。ほかにも、ハッチに爆薬を密着させないように多数のスパイクや金網を周囲に溶接、そのほか車体側面に木の板を装着、またはこれを型枠のように取り付け、車体との間にコンクリートを流し込み磁力吸着式の九九式破甲爆雷対策とした例も見られる。
M4は朝鮮戦争でも活躍した。主に投入されたのは52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)となったが、M24軽戦車の138輌、M26パーシングの309輌、M46パットンの200輌に対してM4A3E8は679輌も投入されており、依然として数的には主力戦車であった。朝鮮戦争ではアメリカ陸軍と海兵隊の戦車部隊は北朝鮮軍のT-34-85(一部SU-76)と合計119回の戦車戦を行ったが、そのうちの59回(50%)はM4A3E8によるものであった。アメリカ軍は合計で97輌のT-34-85を確実に撃破し、さらに18輌の不確実な撃破を記録したのに対して、失った戦車は合計34輌に過ぎず、そのうちM4A3E8は20輌であり、さらに完全に撃破されたのはその半分以下であった。アメリカ軍が確実に撃破した97輌のT-34-85のうち、M4A3E8が撃破したのは47輌とされ、依然として十分に戦力になることを証明した。
その後の中東戦争などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・スクラップを大量に収集再生し、初期の地上戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれるM50/M51スーパーシャーマンを生み出している。第一線を退いた後も装甲回収車などの支援車両に改造され、最近まで各国で使用されていた。
M4A3E8型はMSA協定により日本の陸上自衛隊にも供与されて1970年代半ばまで使用され、同年代末に61式戦車と交代する形で全車が退役した。21世紀を迎えてもなお少数が運用されていたが、2018年にパラグアイで運用されていたM4A3の最後の3輌が退役し、これをもって正規軍で使用されていたM4は全車輌が退役した。
この他にも、フランスのBatignolle-Chatillon社による改造で、シャーマンの車体にフランス製AMX-13軽戦車の砲塔を搭載した「ニコイチ」戦車がエジプト軍に配備され、第二次中東戦争でイスラエル国防軍がM4A1(76)の砲塔にAMX-13の主砲を搭載したM50スーパーシャーマンと交戦した。これはM4A1後期型車体を使った試作型「M4A1 Revalorisé FL10」が最初に作られ、後にM4A4の車体にM4A2用のディーゼルエンジンを載せて改修したものが、1955年頃にエジプトに売却された。
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"text": "M4中戦車(M4ちゅうせんしゃ、Medium Tank M4)は、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国で開発・製造された中戦車(30トン級)。通称はシャーマン (Sherman)。高い機動力と火力を誇るアメリカの代表的な戦車である。",
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"text": "第二次世界大戦が勃発した1939年、アメリカ陸軍は戦車保有数が少なく、唯一の中戦車M2中戦車も時代遅れで、陸上戦力には不安があった。これは、アメリカがヨーロッパから大西洋を隔てていた事や、当初は中立的な立場(孤立主義)を採っていた事にも起因するが、ナチス・ドイツにより欧州の連合国が次々と陥落し、さらに東南アジアに進出した日本との関係悪化などから、1940年頃には連合各国へのレンドリース法を適用した支援やアメリカ自身の参戦に備えて、全周旋回砲塔に大型砲を搭載した戦車が必要と認識された。しかし、当時のアメリカでは大直径の砲塔リングを量産できる体制がなかったことから、M4が開発されるまでの繋ぎとして車体に75mm砲搭載のM3中戦車(25トン級)が先行生産された。",
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"text": "その後、M3のシャーシをベースに75mm砲を搭載した大型砲塔を持つ新戦車T6の開発と同時に、航空・自動車産業を中心に生産体制の整備が急ピッチで行われた。1941年10月にM4中戦車として制式採用されたが、鋳造生産能力の不足からT6と同じ鋳造一体構造の上部車体を持つM4A1と鋼板溶接車体のM4とが同時に量産される事になり、M4A1はアメリカ参戦直後の1942年2月から量産が開始され、M4は1942年7月から量産が開始された。",
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"text": "車体前部左右に正操縦席と副操縦席兼前方機関銃座が設けられている。砲塔内には車長・砲手・装填手の3名が搭乗。砲塔上面ハッチは車長用のみ設置されたが、左側に砲手・装填手用ハッチが追加され、車長用ハッチは防弾窓付きキューポラに発展した。左側面に設けられた対歩兵射撃用の開閉式ガンポートは防御力向上のために一時廃止されたが、弾薬搬入や薬莢搬出に便利だったことから短期間で復活している。車体下部には脱出ハッチが設けられている。",
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"text": "履帯は、全金属製の物とゴムブロックを含む物とに大別され、さらに滑り止めパターンの形状の違いなどで多くの種類がある。",
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"text": "初期の圧延装甲溶接車体の前面は避弾経始を考慮して(垂直線から)56度の傾斜が付けられ、操縦席・副操縦士席部分が前方へ張り出した構造になっていたが、後に生産性の向上と車内容積の増加(76mm砲塔や湿式弾薬庫搭載のため)などの目的で、(垂直線から)傾斜角47度の一枚板に変更されており、併せてA1の鋳造車体も含めて操縦士用ハッチの大型化が行われた。これらは一般的に「前期型」「後期型」と呼ばれているが、これらの改良も各生産拠点による差異や現地改修などにより千差万別であり、車体分類なども後世の研究によるもので定まっていない。",
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"text": "砲架は75mm砲搭載型の場合は、回転防楯とも呼ばれる搭載砲の仰俯角時に砲と一緒に動く外装防楯と、砲塔に固定される内装防楯からなっており、それぞれが湾曲し重なり合っていた。外装防楯は88.9mmの装甲厚があり、内装防楯は38.1mmの厚みがあった。",
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"text": "後部のエンジンからドライブシャフトで最前部の変速機に動力を伝える、M3を踏襲した前輪駆動型式を採用し、航空機用である星型エンジンの使用を前提とした設計のために、エンジンデッキとドライブシャフトの位置が高くなっている。",
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"text": "サスペンションは、前期型ではM3と同形式のVVSSが採用されたが、強化対策による重量増加に対応するため、後期型ではより耐久性の高いHVSSが採用された。",
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"text": "無線機は砲塔後部の張り出しに納められていたが、送信機・受信機の両方を備えていたのは指揮官用戦車など全体の四割にすぎず、他は受信機のみであった。全車が送信機も完備するようになったのは1944年後半になってからであった。",
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"text": "主砲は当初75mm戦車砲M3(M61弾で初速619m/s)と105mm榴弾砲M4(M67弾で初速381m/s)の搭載が構想されていたが生産簡略化ため75mm戦車砲M3のみに絞られ、105mm榴弾砲の搭載は後回しにされている。",
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"text": "次いで76mm戦車砲M1(口径3インチ=76.2mm、M62弾で初速792m/s)を搭載した車輌も生産された。開発自体は1942年から行われていたが、実戦配備は1944年になってからであった。76.2mm砲は75mm砲に比べて装甲貫徹力に優れていたが、砲弾が長く搭載数が少なくなったこと(71発)、発射時の砲煙が多いこと、榴弾の炸薬量が75mm砲より少ないなどの欠点もあることから、それぞれの砲を搭載した車輌が並行生産された。大型化した76.2mm用砲塔は、75mm用砲塔と共通の砲塔リングであるが、前期型車体では搭載スペースが不十分なため、前面装甲板の一体化などで車内容積が増えた後期改良型車体にのみ載せられていた。砲身を含むと全長が7.47メートルとなる。",
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"text": "当初、75mm砲型と平行して生産することを構想されていた105mm砲型は、生産簡略化及び砲架の不具合などの理由により、その生産開始は1944年となった。この搭載された105mm砲は、105mm榴弾砲M2を車載用に改造したものであり、105mm榴弾砲M4と呼ばれた。使用弾薬には、榴弾であるM1や発煙弾のM84の他、対戦車戦闘用の成形炸薬弾のM67などがある。(この成形炸薬弾は距離にかかわらず、約100mmの垂直装甲板を貫通する性能があった)このタイプの欠点として、弾薬のサイズが車内の広さに対し少々過大気味であり、装弾数も76.2mm砲搭載型よりも少なかった。",
"title": "武装"
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"text": "イギリス軍では75mm砲搭載型を無記号、76.2mm砲型をA、105mm砲型をB、17ポンド砲型をCと分類していた。シャーマンICは、シャーマンI(M4)ベースのファイアフライ、シャーマンIIIAはM4A2ベースの76.2mm砲型ということになる。また、イスラエル国防軍では、車体に関係なく搭載火砲の種別のみで、M1、M3、M4と分類していた(これはM50/M51スーパーシャーマンも同様である)。",
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"text": "76mm戦車砲M1がタングステン鋼芯入りの高速徹甲弾(HVAP)M93を用いた場合は、ドイツ軍88mm砲並みの貫徹力(距離914m、30°で135mm)だが砲身寿命が半減する。加えて発射時の反動が大きいため砲口にマズルブレーキが追加された。この砲弾は、1944年8月から前線に支給されるようになったが、月産10,000発しか製造できなかったので、M10駆逐戦車などに優先して供給され、シャーマンへの供給は十分では無く、バルジの戦いの頃においても、シャーマンには常時1~2発程度の支給に留まった。後の朝鮮戦争では十分に供給され、T-34を撃破する威力を見せた。",
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"text": "なお、被帽付徹甲弾であるM62弾を用いた場合は、距離500mで116mm厚の装甲を、1000mでは106mmの装甲を貫通できたが、実戦においてはドイツ軍戦車であるパンターの防盾を打ち抜く場合は180mの距離まで接近する必要性があった。M93弾の場合は730m~910mの距離でパンターの防盾を貫通できた。しかし、いずれも車体正面は貫通不可能であった。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "ドイツ軍はパンターなどの自軍戦車の強みである、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、ドイツ軍の想定通りの距離での戦闘とはならず、アメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対しドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mであり、自軍戦車の強みを十分に活かすことはできなかった。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mで、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなく、結果的に多くのパンターがシャーマンに撃破されて、76.2mm砲と高速徹甲弾はシャーマンの対戦車能力を大きく向上させることとなった。",
"title": "武装"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "副武装に、1挺の12.7mm機銃、2挺の7.62mm機銃を搭載する。しかしイギリス軍の車輌では12.7mm機銃を装備していない物が大半である。M4A1とA2の極初期型には、M3中戦車のように車体前方に2挺の7.62mm固定機銃が付いていたが、すぐに廃止された。",
"title": "武装"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "ドイツ軍兵器局が1944年10月5日に作成した資料によると、IV号戦車やIV号突撃砲などに搭載された7.5cm48口径戦車砲を使用した場合、車体正面下部は1300m、砲塔正面は1000mで撃破可能としているものの、車体正面上部(傾斜部分)は貫通不可能であり、防楯(砲身付近)は100m以内に接近しなければ貫通できないと分析している。",
"title": "防御"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "主砲弾薬庫は前期型車体では左右袖部(スポンソン)に設けられていたため、敵弾貫通時に破れた薬莢から漏れ出た装薬に引火、火災がM4の撃破原因の60-80%という高い割合を占めていた。あまりにM4が激しく炎上するため、アメリカ軍やイギリス軍の戦車兵の中ではM4のことを「ジッポー」や「ロンソン」(いずれも有名なライターのこと)と呼んだり、また敵のドイツ兵は「トミー・クッカー」(トミーはイギリス兵の俗称、クッカーは野戦調理用の固形燃料缶のことで、イギリス兵調理器という揶揄)と呼んでいたという。M4が炎上し易かったのは、ガソリンエンジンを搭載したためという誤解もあるが、実際には前述の通り被弾しやすい位置に弾薬庫があったことが原因であった。",
"title": "防御"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "応急対策として、弾薬箱の位置の車体側面に補助装甲板が溶接された。後期改良型車体では全体を不凍液(グリセリン溶液)で満たして引火を防ぐ湿式弾薬庫を床下に設置(湿式弾薬庫搭載型は末尾にWaterの略である「W」が付けられている)されて、火災の発生率は約10-15%と大きく低下した。これにより、前期型車体では装填手が砲塔バスケットのフロアに立っていたのが、後期型車体では床下から砲弾を取り出すのに邪魔な足元のフロアが無くなり、砲塔旋回の際には自力で動いてついていかなくてはならなくなった。また、これとは別に、イギリス軍はシャーマン ファイアフライの改造時にスポンソン上の弾薬箱を撤去し、床上や副操縦席のあった場所に装甲弾薬箱を新設している。",
"title": "防御"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "また、前線では予備の履帯や転輪、土嚢を増加装甲代わりに積載したり、コンクリートを厚く塗布するなど、追加防御策が行われている。多くは調達や交換が容易で、パンツァーファウストの成型炸薬弾対策にもなる土嚢が用いられた。しかし、この効果に対しては賛否両論あり、逆に貫徹力を高める間合い(スタンドオフ)を作ってしまうという意見が出る反面、実戦で効果があったと主張する者もいた。パットン将軍は、「軍人の所業らしくない」とこれを嫌って土嚢装甲を禁止し、麾下のアメリカ第3軍では撃破された友軍やドイツ軍の戦車の車体から切り出した鋼板を貼り付けていた。",
"title": "防御"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アメリカ海兵隊においては、太平洋戦線で日本軍の速射砲に側面や後面を狙い打たれて撃破されるM4が続出したこともあり、現地で鉄板やコンクリートや木材など手に入る材料は何でも増加装甲代わりに装着した。",
"title": "防御"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "戦後、イスラエル国防軍が独自改良を行ったM50/M51スーパーシャーマンでは、火力はフランス製のAMX-13用75mm砲やAMX-30用105mm砲の装備により一線級を保っていたのに対し、装甲防御力については重量的限界からほとんど対策されないままであった。",
"title": "防御"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦の連合国の主力戦車で、アメリカの高い工業力で大量生産された。生産に携わった主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌を生産した。各生産拠点に適したエンジン形式や生産方法を採る形で並行生産させたため、多くのバリエーションを持つが、構成部品を統一して互換性を持たせることにより高い信頼性や良好な運用効率が保たれていた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "M4が最初に戦闘に投入されたのは、北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦いであった。アメリカ軍の機甲師団を投入しようという計画もあったが、補給の問題もあってレンドリースという形式でイギリス軍に送られたものであった。エルアラメインに送られたM4は初期型のM4A1、M4A2であったが、50mm 60口径砲搭載のIII号戦車が主力のドイツアフリカ軍団にはM4は難敵であり、ドイツ軍戦車は一方的に撃破された。特にM4が猛威を振るったのが75mmの榴弾による88mm砲への攻撃であり、今までのイギリス軍戦車にはなかった破壊力で、次々と88mm砲を撃破したことがドイツ軍の致命的な痛手となり、イギリス軍の勝利に大きく貢献した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "しかし、その後のカセリーヌ峠の戦いでティーガーIと戦ったアメリカ軍のM4は、アメリカ軍戦車兵が戦車戦に不慣れなこともあって苦戦し、アメリカ軍はM3中戦車とM3軽戦車も含めて183輌の戦車を失っている。アメリカ軍はティーガーIの脅威を知ると共に、ソ連からV号戦車パンターの情報を仕入れていたが、どちらの戦車も接触頻度が稀であったので、少数が配備される重戦車であると誤った認識をして、既に決定していた76.2mm砲を搭載する以上の対策をとることはなかった。一方で、イギリス軍はM4の対戦車能力向上のため、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲を搭載したシャーマン ファイアフライの開発を行っている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍の分析とは異なり、ノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、M4とパンターやティーガーIとの交戦頻度は高く、75mm砲搭載型はおろか76.2mm砲搭載型も非力さが明らかになった。東部戦線で経験を積んだ一部のドイツの戦車エースたちの活躍もあって、M4がドイツ軍戦車に一方的に撃破されたという印象も強く、とくにエルンスト・バルクマン親衛隊軍曹はパンターに乗って多数のM4を撃破したとされている。バルクマンの有名な逸話は、1944年7月27日にサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる、のちに『バルクマンコーナー』と称された活躍談であった。このような一部の限られた活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、それは単に大戦時のアメリカの戦車小隊が5両から編成されているからに過ぎない。また、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではなかったかとの指摘もある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "限られた活躍談での印象とは異なり、M4はパンターを相手にしても善戦している。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破して撃退している。第37戦車大隊は、アラクールの戦いで55輌のティーガーIとパンターを撃破して連合軍の勝利に貢献した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍はパンターやティーガーIへの対策として、新型の高速徹甲弾の生産を強化した。この徹甲弾は、M4戦車隊に十分な量は行き届かなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、76.2mm砲搭載型M4の強力な武器となった。また、M4は信頼性・生産性など工業製品としての完成度は高く、大量の補充と整備性の良さ、高い稼働率によって、高価すぎて且つ複雑な構造のドイツ軍戦車を総合力で圧倒するようになり、ドイツ軍戦車兵が大量の消耗により次第に質が低下していったのに対して、アメリカ軍は熟練した戦車兵が増えて、M4がパンターを圧倒する戦闘も増えている。バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた他の部隊のM4シャーマン4輌を撃破して一矢報いている。翌12月25日にもノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破して、ドイツ軍の攻撃を撃退している。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "バルジの戦いにおいて、最初の2週間でM4シャーマンはあらゆる原因によって320輌を喪失していたが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働状態とその抜群の信頼性を誇示していたのに対して、投入された415輌のパンターは、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌といった有様だった。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンのみが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データの数が不十分であり両戦車の性能の差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかを証明するまでには至っていない。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍はドイツ軍とは異なり、戦車の撃破数で賞されることはなかったが、第37戦車大隊大隊長エイブラムスは、自分が搭乗したM4シャーマン『サンダーボルト』でも多数のドイツ軍戦車を撃破し、終戦までに50輌のドイツ軍戦闘車両を撃破している。またラファイエット・G・プール准尉も、M4を3輌乗り換えながら、兵員1,000名殺害、捕虜250名確保、戦車12輌を含む戦闘車両258輌撃破の戦果を挙げている。 また、イギリス、カナダ、オーストラリアなどイギリス連邦加盟国のほか、ソビエト連邦に4,000輌以上、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされた。カナダ軍ではシドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ少佐がM4にて18輌のドイツ軍戦車と多数の戦闘車両を撃破して、第二次世界大戦における連合軍戦車エース(英語版)の1人となったが、ウォルターズが撃破した戦車のなかには、ドイツの戦車エース・ミハエル・ヴィットマンの乗るティーガーIも含まれていたとも言われている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「M4の75mm砲は理想の武器」「敵重戦車も76mm砲で撃破できる」とするAGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)の判断はM26パーシングの配備を遅らせ、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "北アフリカおよびヨーロッパに加えて太平洋戦争にも投入された。戦車戦力が弱い日本軍にとってM4は非常な難敵で、サイパンの戦い、グアムの戦い、ペリリューの戦いなどでM4と日本軍の九七式中戦車や九五式軽戦車との戦車戦が戦われたが、日本軍戦車の九七式五糎七戦車砲や九八式三十七粍戦車砲はM4に命中してもまるでボールのように跳ね返されたということで、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多かった。日本軍の戦車兵はそのようなM4を「動く要塞」と称して恐れた。それでも、戦車第2師団が戦ったルソン島の戦いにおいては、重見支隊(支隊長:重見伊三雄少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)がリンガエン湾に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われた。九七式中戦車改に搭載された一式四十七粍戦車砲は、500ヤード(約457.2m)で67mmの装甲、1,000ヤード(約914.4m)で55mmの装甲を貫通したので、M4の側面や後面の装甲であれば、かなりの遠距離からでも貫通可能であり、戦車戦で撃破されるM4も少なくはなく、アメリカ軍は九七式中戦車新砲塔型を「もっとも効果的な日本軍戦車」と評して警戒した。戦車戦での不利を痛感した日本軍は、その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では、戦車の車体を地面に埋めて、即席の対戦車トーチカとして使用するようになった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "そこで日本軍のM4対策は、待ち伏せによる速射砲と地雷と歩兵による肉弾攻撃となっていった。速射砲のなかでも一式機動四十七粍速射砲や九四式三十七粍速射砲がM4の側面装甲を至近距離から貫徹でき撃破したこともあった。沖縄戦ではM4を主力とするアメリカ陸軍の戦車隊が221輌撃破されたが、そのうち111輌が速射砲や野戦重砲などの砲撃による損害であった。また、海兵隊の51輌のM4の損失を含めると合計272輌が撃破されたことになり、これは、沖縄に投入されたアメリカ軍戦車のうち57%にも上っている。また沖縄戦においては、日本軍は段ボール大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車のキャタピラに向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた。この特攻戦術は効果があり、激戦となった嘉数の戦いでは、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や磁力吸着式の九九式破甲爆雷で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している。ほかにも、ハッチに爆薬を密着させないように多数のスパイクや金網を周囲に溶接、そのほか車体側面に木の板を装着、またはこれを型枠のように取り付け、車体との間にコンクリートを流し込み磁力吸着式の九九式破甲爆雷対策とした例も見られる。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "M4は朝鮮戦争でも活躍した。主に投入されたのは52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)となったが、M24軽戦車の138輌、M26パーシングの309輌、M46パットンの200輌に対してM4A3E8は679輌も投入されており、依然として数的には主力戦車であった。朝鮮戦争ではアメリカ陸軍と海兵隊の戦車部隊は北朝鮮軍のT-34-85(一部SU-76)と合計119回の戦車戦を行ったが、そのうちの59回(50%)はM4A3E8によるものであった。アメリカ軍は合計で97輌のT-34-85を確実に撃破し、さらに18輌の不確実な撃破を記録したのに対して、失った戦車は合計34輌に過ぎず、そのうちM4A3E8は20輌であり、さらに完全に撃破されたのはその半分以下であった。アメリカ軍が確実に撃破した97輌のT-34-85のうち、M4A3E8が撃破したのは47輌とされ、依然として十分に戦力になることを証明した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "その後の中東戦争などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・スクラップを大量に収集再生し、初期の地上戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれるM50/M51スーパーシャーマンを生み出している。第一線を退いた後も装甲回収車などの支援車両に改造され、最近まで各国で使用されていた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "M4A3E8型はMSA協定により日本の陸上自衛隊にも供与されて1970年代半ばまで使用され、同年代末に61式戦車と交代する形で全車が退役した。21世紀を迎えてもなお少数が運用されていたが、2018年にパラグアイで運用されていたM4A3の最後の3輌が退役し、これをもって正規軍で使用されていたM4は全車輌が退役した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この他にも、フランスのBatignolle-Chatillon社による改造で、シャーマンの車体にフランス製AMX-13軽戦車の砲塔を搭載した「ニコイチ」戦車がエジプト軍に配備され、第二次中東戦争でイスラエル国防軍がM4A1(76)の砲塔にAMX-13の主砲を搭載したM50スーパーシャーマンと交戦した。これはM4A1後期型車体を使った試作型「M4A1 Revalorisé FL10」が最初に作られ、後にM4A4の車体にM4A2用のディーゼルエンジンを載せて改修したものが、1955年頃にエジプトに売却された。",
"title": "派生型"
}
] |
M4中戦車は、第二次世界大戦時にアメリカ合衆国で開発・製造された中戦車(30トン級)。通称はシャーマン (Sherman)。高い機動力と火力を誇るアメリカの代表的な戦車である。
|
{{出典の明記|date=2016-11-17}}
{{戦車
|名称=M4中戦車 シャーマン
|画像=[[ファイル:Saint Mere Eglise 2006 Sherman.jpg|300px]]
|説明=M4A1E8
|全長=
|車体長={{convert|5.84|m|abbr=on}}
|全幅={{convert|2.62|m|abbr=on}}
|全高={{convert|2.67|m|abbr=on}}
|重量=30.3 t
|懸架方式=VVSS(垂直渦巻きスプリングサスペンション)M4A2E8などのT84履帯を使用する車体はHVSS(垂直ボリュートスプリングサスペンション)
|整地時速度=38.6 km/h
|不整地時速度=19.3 km/h
|行動距離=193 [[キロメートル|km]]
|主砲= [[75mm 砲 M2-M6|37.5口径75mm戦車砲M3]](90発)<br />[[M1 76mm戦車砲|52口径76.2mm戦車砲M1]](71発)<br />[[M101 105mm榴弾砲|22.5口径105mm榴弾砲M4]](66発)
|副武装=[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm重機関銃M2]]×1(600発)<br />[[ブローニングM1919重機関銃|7.62mm機関銃M1919]]×2(6,250発)
|装甲=
;[[砲塔]]
*防盾88.9 mm
*前面64–76 mm
*側面50 mm
*後面64 mm
;車体
*前面51 mm
*側面38–45 mm
*後面38.1 mm
|エンジン名=[[コンチネンタル・モータース|コンチネンタル]] R975 C4<br />[[4ストローク機関|4ストローク]][[星型エンジン|星型]] 9気筒[[空冷エンジン|空冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]
|出力=400 HP
|乗員=5 名
|備考=総生産数 約50,000輌
}}
'''M4中戦車'''(M4ちゅうせんしゃ、Medium Tank M4)は、[[第二次世界大戦]]時に[[アメリカ合衆国]]で開発・製造された[[中戦車]](30トン級)。通称は'''[[ウィリアム・シャーマン|シャーマン]] '''(Sherman){{Efn2|[[南北戦争]]時の将軍であった[[ウィリアム・シャーマン]]に由来する。この通称は、元は[[イギリス軍]]がつけたもので[[アメリカ軍]]では非公式の呼び名であったが、兵士の間では使われることも多かった。}}。高い機動力と火力を誇るアメリカの代表的な戦車である。
== 開発経緯 ==
第二次世界大戦が勃発した[[1939年]]、[[アメリカ陸軍]]は[[戦車]]保有数が少なく、唯一の中戦車[[M2中戦車]]も時代遅れで、陸上戦力には不安があった。これは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[ヨーロッパ]]から[[大西洋]]を隔てていた事や、当初は中立的な立場([[孤立主義]])を採っていた事にも起因するが、[[ナチス・ドイツ]]により欧州の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]が次々と陥落し、さらに[[東南アジア]]に進出した[[大日本帝国|日本]]との関係悪化などから、[[1940年]]頃には連合各国への[[レンドリース法]]を適用した支援やアメリカ自身の参戦に備えて、[[砲塔|全周旋回砲塔]]に大型砲を搭載した戦車が必要と認識された。しかし、当時のアメリカでは大直径の砲塔リングを量産できる体制がなかったことから、M4が開発されるまでの繋ぎとして車体に75mm砲搭載の[[M3中戦車]](25トン級)が先行生産された。
その後、M3のシャーシをベースに75mm砲を搭載した大型砲塔を持つ新戦車T6の開発と同時に、航空・自動車産業を中心に生産体制の整備が急ピッチで行われた。[[1941年]]10月にM4中戦車として制式採用されたが、[[鋳造]]生産能力の不足からT6と同じ鋳造一体構造の上部車体を持つM4A1と鋼板溶接車体のM4とが同時に量産される事になり、M4A1はアメリカ参戦直後の[[1942年]]2月から量産が開始され、M4は1942年7月から量産が開始された。
== 車体構成 ==
[[ファイル:M4A1 to M4A3 tank animation.gif|thumb|300px|left|M4A1、A2、A3 各型の外観の違い]]
車体前部左右に正操縦席と副操縦席兼前方[[機関銃]]座が設けられている。[[砲塔]]内には[[指揮官|車長]]・[[砲手]]・[[装填手]]の3名が搭乗。砲塔上面ハッチは車長用のみ設置されたが、左側に砲手・装填手用ハッチが追加され、車長用ハッチは防弾窓付き[[キューポラ]]に発展した。左側面に設けられた対[[歩兵]]射撃用の開閉式[[銃眼|ガンポート]]は防御力向上のために一時廃止されたが、[[弾薬]]搬入や[[薬莢]]搬出に便利だったことから短期間で復活している。車体下部には脱出ハッチが設けられている。
[[無限軌道|履帯]]は、全[[金属]]製の物と[[ゴム]]ブロックを含む物とに大別され、さらに滑り止めパターンの形状の違いなどで多くの種類がある。
初期の圧延装甲溶接車体の前面は[[避弾経始]]を考慮して(垂直線から)56度の傾斜が付けられ、操縦席・副操縦士席部分が前方へ張り出した構造になっていたが、後に生産性の向上と車内容積の増加(76mm砲塔や[[火薬庫|湿式弾薬庫]]搭載のため)などの目的で、(垂直線から)傾斜角47度の一枚板に変更されており、併せてA1の鋳造車体も含めて操縦士用ハッチの大型化が行われた。これらは一般的に「前期型」「後期型」と呼ばれているが、これらの改良も各生産拠点による差異や現地改修などにより千差万別であり、車体分類なども後世の研究によるもので定まっていない。
* [http://the.shadock.free.fr/sherman_minutia/vocabulary/glacis57.JPG] - (垂直線から)56度の傾斜装甲
* [http://the.shadock.free.fr/sherman_minutia/vocabulary/glacis47.JPG] - (垂直線から)47度の傾斜装甲
砲架は75㎜砲搭載型の場合は、回転防楯とも呼ばれる搭載砲の仰俯角時に砲と一緒に動く外装防楯と、砲塔に固定される内装防楯からなっており、それぞれが湾曲し重なり合っていた。外装防楯は88.9㎜の装甲厚があり、内装防楯は38.1㎜の厚みがあった<ref>『グランドパワー2019年11月号 M4シャーマン戦車シリーズ』ガリレオ出版、48頁。</ref>。
;車体図(M4A4)
{{col-begin|class=references-small}}
{{col-break}}
:1 – 吊り環
:2 – ベンチレーター
:3 – 砲塔ハッチ
:4 – [[潜望鏡|ペリスコープ]]
:5 – 砲塔ハッチ縁
:6 – 椅子
:7 – 砲手席
:8 – 椅子
:9 – 砲塔
:10 – エアクリーナー
:11 – ラジエーターカバー
:12 – エアクリーナーマニホールド
:13 – [[エンジン]]
:14 – 排気管
:15 – 誘導輪
:{{col-break}}
:16 – ウォーターポンプ
:17 – [[ラジエーター]]
:18 – 発電機
:19 – 後部プロペラシャフト
:20 – 砲塔バスケット
:21 – スリップリング
:22 – 前部プロペラシャフト
:23 – ボギー式[[サスペンション]]
:24 – 変速機
:25 – 駆動輪
:26 – [[運転者|操縦士]]席
:27 – 前部機関銃手席
:28 – 75mm砲
:29 – 操縦士用ハッチ
:30 – [[ブローニングM1919重機関銃#各型および派生型|M1919A4機関銃]]
{{col-break}}
:[[ファイル:M4A4 cutaway.svg|right|400px]]
{{col-end}}
{{-}}
[[ファイル:Sherman chen.jpg|thumb|250px|後部誘導輪とVVSS]]
後部のエンジンから[[ドライブシャフト]]で最前部の[[変速機]]に動力を伝える、M3を踏襲した[[前輪駆動]]型式を採用し、航空機用である[[星型エンジン]]の使用を前提とした設計のために、エンジンデッキとドライブシャフトの位置が高くなっている{{Efn2|同じエンジンを搭載する[[M18 (駆逐戦車)|M18ヘルキャット]]は、ユニバーサルジョイントを介してシャフトが水平であるため設置場所が下がり、車高も10cm程低くなっている。}}。
サスペンションは、前期型ではM3と同形式のVVSS{{Efn2|'''V'''ertical '''V'''olute '''S'''pring '''S'''uspension, 垂直渦巻きスプリング式サスペンション。左右に伸びたアームの中心に渦巻き型のスプリングを内蔵し、車体とサスペンションユニットが独立していることから破損時の整備と共に改良型への交換も比較的容易という利点を持つ、複数の転輪を1つのユニットとしたボギー式。}}が採用されたが、強化対策による重量増加に対応するため、後期型ではより耐久性の高いHVSS{{Efn2|'''H'''olizontal '''V'''olute '''S'''pring '''S'''uspension, 水平渦巻きスプリングサスペンション。履帯の幅を2倍弱と大幅に拡大、転輪を左右に二重に配置することで接地圧を低く抑えることに成功した。}}が採用された。
無線機は砲塔後部の張り出しに納められていたが、送信機・受信機の両方を備えていたのは指揮官用戦車など全体の四割にすぎず、他は受信機のみであった。全車が送信機も完備するようになったのは1944年後半になってからであった。
{{-}}
== 武装 ==
[[ファイル:M4 burning leipzig crop.jpg|thumb|250px|left|1945年4月18日、ドイツの[[ライプツィヒ]]市街戦で被弾炎上するM4(75)。主砲防盾は初期の幅の狭い型のまま、車体側面弾薬庫の補助装甲と、砲塔のスタビライザー搭載で肉薄になった部分の補助装甲が確認できる。また車体上には増加装甲代わりの土嚢が積まれている。]]
主砲は当初[[75mm 砲 M2-M6|75mm戦車砲M3]](M61弾で初速619m/s)と[[M101 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲M4]](M67弾で初速381m/s)の搭載が構想されていたが生産簡略化ため75mm戦車砲M3のみに絞られ、105mm[[榴弾砲]]の搭載は後回しにされている<ref>『PANZER』2018年9月号、45ページ。</ref>。
次いで[[M1 76mm戦車砲|76mm戦車砲M1]]([[口径]]3インチ=76.2mm、M62弾で初速792m/s)を搭載した車輌も生産された。開発自体は1942年から行われていたが、実戦配備は1944年になってからであった。76.2mm砲は75mm砲に比べて[[装甲]][[貫徹力]]に優れていたが、[[砲弾]]が長く搭載数が少なくなったこと(71発)、発射時の砲煙が多いこと、[[榴弾]]の[[炸薬]]量が75mm砲より少ないなどの欠点もあることから、それぞれの砲を搭載した車輌が並行生産された。大型化した76.2mm用砲塔は、75mm用砲塔と共通の砲塔リングであるが、前期型車体では搭載スペースが不十分なため、前面装甲板の一体化などで車内容積が増えた後期改良型車体にのみ載せられていた。[[銃砲身|砲身]]を含むと全長が7.47メートルとなる。
当初、75mm砲型と平行して生産することを構想されていた105mm砲型は、生産簡略化及び砲架の不具合などの理由により、その生産開始は1944年となった。この搭載された105mm砲は、105mm榴弾砲M2を車載用に改造したものであり、105mm榴弾砲M4と呼ばれた。使用弾薬には、[[榴弾]]であるM1や[[発煙弾]]のM84の他、対戦車戦闘用の[[成形炸薬弾]]のM67などがある。(この成形炸薬弾は距離にかかわらず、約100mmの垂直装甲板を貫通する性能があった)このタイプの欠点として、弾薬のサイズが車内の広さに対し少々過大気味であり、装弾数も76.2mm砲搭載型よりも少なかった。
イギリス軍では75mm砲搭載型を無記号、76.2mm砲型をA、105mm砲型をB、17ポンド砲型をCと分類していた。シャーマンICは、シャーマンI(M4)ベースの[[シャーマン ファイアフライ|ファイアフライ]]、シャーマンIIIAはM4A2ベースの76.2mm砲型ということになる。また、[[イスラエル国防軍]]では、車体に関係なく搭載火砲の種別のみで、M1、M3、M4と分類していた(これはM50/M51スーパーシャーマンも同様である)。
{{Clearleft}}
{|class="wikitable" style="border:1px solid #999; border-collapse:collapse; text-align:center; margin: 1en 1en 1en 0;"
|-
|+ M4:主要生産車体の各型比較
|-
! 名称
! 主砲 !! 車体 !! エンジン
|-
! M4(75)
| 75 mm
| rowspan="2"|溶接車体
| rowspan="5"|コンチネンタルR-975<br />星型ガソリン
|-
! M4(105)
| 105 mm 榴弾砲
|-
! M4 コンポジット
| rowspan="2"|75 mm
| 前面が鋳造、後部は溶接
|-
! M4A1(75)
| rowspan="2"|鋳造車体
|-
! M4A1(76)W
| 76 mm
|-
! M4A2(75)
| 75 mm
| rowspan="6"|溶接車体
| rowspan="2"|GM6046<br />複列12気筒ディーゼル
|-
! M4A2(76)W
| 76 mm
|-
! M4A3(75)W
| 75 mm
| rowspan="4"|フォード GAA<br />V型8気筒ガソリン
|-
! M4A3(76)W
| 76 mm
|-
! M4A3(105)W
| 105 mm榴弾砲
|-
! M4A3E2
| 75 mm{{Efn2|100両程の76 mm}}
|-
! M4A4
| rowspan="2"|75 mm
| 溶接車体(延長)
| クライスラー A57<br />直列6気筒×5 複列ガソリン
|-
! M4A6
| 前面が鋳造、後部は溶接(延長)
| キャタピラー D200A<br />星型ディーゼル
|}
[[File:The British Army in the United Kingdom 1939-45 H19582.jpg|thumb|250px|車体前方に固定機銃を搭載した 鋳造車体のM4A1試作型]]
76mm戦車砲M1が[[タングステン]]鋼芯入りの[[高速徹甲弾]](HVAP)M93を用いた場合は、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]88mm砲並みの貫徹力(距離914m、30°で135mm)だが砲身寿命が半減する。加えて発射時の反動が大きいため砲口に[[マズルブレーキ]]が追加された。この砲弾は、1944年8月から前線に支給されるようになったが、月産10,000発しか製造できなかったので、[[M10 (駆逐戦車)|M10駆逐戦車]]などに優先して供給され、シャーマンへの供給は十分では無く、[[バルジの戦い]]の頃においても、シャーマンには常時1~2発程度の支給に留まった<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|ザロガ|2010|p=24}}</ref>。後の[[朝鮮戦争]]では十分に供給され、[[T-34]]を撃破する威力を見せた。
なお、被帽付徹甲弾であるM62弾を用いた場合は、距離500mで116mm厚の装甲を、1000mでは106mmの装甲を貫通できた<ref>大日本絵画 『世界の戦車イラストレイテッド29 M4(76mm)シャーマン中戦車 1943-1965』5頁。ただし、対象の装甲板の種類及び角度は不明である。</ref>が、実戦においてはドイツ軍戦車である[[V号戦車パンター|パンター]]の防盾を打ち抜く場合は180mの距離まで接近する必要性があった。M93弾の場合は730m~910mの距離でパンターの防盾を貫通できた。しかし、いずれも車体正面は貫通不可能であった<ref>世界の戦車イラストレイテッド 29 『M4(76mm)シャーマン中戦車1943-1965』16頁、19頁。</ref>。
ドイツ軍はパンターなどの自軍戦車の強みである、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、ドイツ軍の想定通りの距離での戦闘とはならず<ref>{{Harvnb|Military Intelligence Service|1945|p=THE HEAVY MOBILE PUNCH}}</ref>、アメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対しドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mであり、自軍戦車の強みを十分に活かすことはできなかった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=67}}</ref>。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mで、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなく<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|ザロガ|2010|p=23}}</ref>、結果的に多くのパンターがシャーマンに撃破されて、76.2mm砲と高速徹甲弾はシャーマンの対戦車能力を大きく向上させることとなった<ref name="名前なし-1"/>。
副武装に、1挺の[[ブローニングM2重機関銃|12.7mm機銃]]、2挺の[[ブローニングM1919重機関銃|7.62mm機銃]]を搭載する。しかしイギリス軍の車輌では12.7mm機銃を装備していない物が大半である。M4A1とA2の極初期型には、M3中戦車のように車体前方に2挺の7.62mm固定機銃が付いていたが、すぐに廃止された。
{{-}}
== 防御 ==
[[ファイル:Welder putting new type armor on m4tank.jpg|right|thumb|250px|沖縄戦で日本軍の速射砲や爆雷に対抗するため、現地で増加装甲板を溶接される海兵隊のM4A3(75)W、砲塔にも履帯が巻き付けてある]]
{| class="wikitable" align="none" cellpadding="6" style="background:#fff; text-align:center;"
|+ M4中戦車に対する7.5cm48口径戦車砲の有効距離
! 部位 !! 距離 !! 備考
|-
! 防楯
| 100 m || rowspan="4"|戦車が飛翔している徹甲弾に対し30度の角度をとった場合を想定。
|-
! 砲塔正面
| 1,000 m
|-
! 車体正面上部
| 0 m
|-
! 車体正面下部
| 1,300 m
|-
|}
ドイツ軍兵器局が1944年10月5日に作成した資料によると、[[IV号戦車]]や[[IV号突撃砲]]などに搭載された7.5cm48口径戦車砲を使用した場合、車体正面下部は1300m、砲塔正面は1000mで撃破可能としているものの、車体正面上部(傾斜部分)は貫通不可能であり、防楯(砲身付近)は100m以内に接近しなければ貫通できないと分析している<ref>『オスプレイ 世界の戦車 III号突撃砲長砲身型/Ⅳ号突撃砲 1942-1945』株式会社大日本絵画、19頁。</ref>。
主砲[[火薬庫|弾薬庫]]は前期型車体では左右袖部(スポンソン)に設けられていたため、敵弾貫通時に破れた薬莢から漏れ出た装薬に引火、火災がM4の撃破原因の60-80%という高い割合を占めていた<ref name="名前なし-3">{{Harvnb|ザロガ|2010|p=21}}</ref>。あまりにM4が激しく炎上するため、アメリカ軍やイギリス軍の戦車兵の中ではM4のことを「[[ジッポー]]」や「[[ロンソン]]」(いずれも有名な[[ライター]]のこと)と呼んだり、また敵のドイツ兵は「[[トミー・アトキンス|トミー]]・クッカー」(トミーはイギリス兵の俗称、クッカーは野戦調理用の固形燃料缶のことで、イギリス兵調理器という揶揄)と呼んでいたという<ref>[https://www.bbc.co.uk/history/trail/wars_conflict/weapons/field_gun_to_tank_10.shtml BBC History]</ref>。M4が炎上し易かったのは、ガソリンエンジンを搭載したためという誤解もあるが、実際には前述の通り被弾しやすい位置に弾薬庫があったことが原因であった<ref name="名前なし-1"/>。
応急対策として、弾薬箱の位置の車体側面に補助装甲板が溶接された。後期改良型車体では全体を[[不凍液]]([[グリセリン]]溶液)で満たして引火を防ぐ湿式弾薬庫を床下に設置(湿式弾薬庫搭載型は末尾にWaterの略である「W」が付けられている)されて、火災の発生率は約10-15%と大きく低下した<ref name="名前なし-3"/>。これにより、前期型車体では装填手が砲塔バスケットのフロアに立っていたのが、後期型車体では床下から砲弾を取り出すのに邪魔な足元のフロアが無くなり、砲塔旋回の際には自力で動いてついていかなくてはならなくなった。また、これとは別に、イギリス軍は[[シャーマン ファイアフライ]]の改造時にスポンソン上の弾薬箱を撤去し、床上や副操縦席のあった場所に装甲弾薬箱を新設している。
また、前線では予備の[[無限軌道|履帯]]や転輪、[[土嚢]]を増加装甲代わりに積載したり、[[コンクリート]]を厚く塗布するなど、追加防御策が行われている。多くは調達や交換が容易で、[[パンツァーファウスト]]の[[成型炸薬弾]]対策にもなる土嚢が用いられた。しかし、この効果に対しては賛否両論あり、逆に貫徹力を高める間合い(スタンドオフ)を作ってしまうという意見が出る反面、実戦で効果があったと主張する者もいた{{Efn2|1発のパンツァーファウストで40個の土嚢が破れた反面、側面装甲にひびが入った程度に止まった。}}。[[ジョージ・パットン|パットン将軍]]は、「軍人の所業らしくない」とこれを嫌って土嚢装甲を禁止し、麾下のアメリカ第3軍では撃破された友軍やドイツ軍の戦車の車体から切り出した鋼板を貼り付けていた。
[[アメリカ海兵隊]]においては、太平洋戦線で日本軍の速射砲に側面や後面を狙い打たれて撃破されるM4が続出したこともあり、現地で鉄板やコンクリートや木材など手に入る材料は何でも増加装甲代わりに装着した。
戦後、イスラエル国防軍が独自改良を行った[[スーパーシャーマン|M50/M51スーパーシャーマン]]では、火力はフランス製の[[AMX-13]]用75mm砲や[[AMX-30]]用105mm砲の装備により一線級を保っていたのに対し、装甲防御力については重量的限界からほとんど対策されないままであった。
{{-}}
== 運用 ==
=== 北アフリカ戦線・ヨーロッパ戦線 ===
[[File:Sherman tanks of the Eighth Army move across the desert.jpg|thumb|250px|エル・アラメインの戦いに投入されたイギリス軍のシャーマンII(M4A1)]]
第二次世界大戦の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の主力戦車で、アメリカの高い工業力で[[大量生産]]された。生産に携わった主要企業は11社にも及び、[[1945年]]までに全車種で49,234輌を生産した。各生産拠点に適した[[エンジン]]形式や生産方法を採る形で並行生産させたため、多くのバリエーションを持つが、構成部品を統一して互換性を持たせることにより高い信頼性や良好な運用効率が保たれていた。
M4が最初に戦闘に投入されたのは、[[北アフリカ戦線]]の[[エル・アラメインの戦い]]であった。アメリカ軍の機甲師団を投入しようという計画もあったが、補給の問題もあって[[レンドリース]]という形式で[[イギリス軍]]に送られたものであった<ref>{{Harvnb|ケネス・マクセイ|1973|p=152}}</ref>。エルアラメインに送られたM4は初期型のM4A1、M4A2であったが、[[5 cm KwK 39|50mm 60口径砲]]搭載の[[III号戦車]]が主力の[[ドイツアフリカ軍団]]にはM4は難敵であり<ref>{{Harvnb|ケネス・マクセイ|1971|p=161}}</ref>、ドイツ軍戦車は一方的に撃破された。特にM4が猛威を振るったのが75mmの榴弾による[[8.8 cm FlaK 18/36/37|88mm砲]]への攻撃であり、今までのイギリス軍戦車にはなかった破壊力で、次々と88mm砲を撃破したことがドイツ軍の致命的な痛手となり、イギリス軍の勝利に大きく貢献した<ref>{{Harvnb|ケネス・マクセイ|1971|p=178}}</ref>。
しかし、その後の[[カセリーヌ峠の戦い]]で[[ティーガーI]]と戦ったアメリカ軍のM4は、アメリカ軍戦車兵が戦車戦に不慣れなこともあって苦戦し、アメリカ軍は[[M3中戦車]]と[[M3軽戦車]]も含めて183輌の戦車を失っている<ref>{{cite web|url=https://apnews.com/1bc58203eddfb8a9c3303697909d9b88| title=Kasserine Pass a Baptism of Fire for U.S. Army in World War II| location=
United states| accessdate=2020-08-18| language=English}}</ref>。アメリカ軍はティーガーIの脅威を知ると共に、ソ連から[[V号戦車パンター]]の情報を仕入れていたが、どちらの戦車も接触頻度が稀であったので、少数が配備される重戦車であると誤った認識をして、既に決定していた76.2㎜砲を搭載する以上の対策をとることはなかった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=18}}</ref>。一方で、イギリス軍はM4の対戦車能力向上のため、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な[[オードナンス QF 17ポンド砲|17ポンド(76.2mm)対戦車砲]]を搭載した[[シャーマン ファイアフライ]]の開発を行っている<ref>{{Harvnb|ケネス・マクセイ|1973|p=181}}</ref>。
アメリカ軍の分析とは異なり、[[ノルマンディー上陸作戦]]からのフランスでの戦いで、M4とパンターやティーガーIとの交戦頻度は高く、75mm砲搭載型はおろか76.2mm砲搭載型も非力さが明らかになった<ref name="名前なし-2"/>。東部戦線で経験を積んだ一部の[[ドイツの戦車エース一覧|ドイツの戦車エース]]たちの活躍もあって、M4がドイツ軍戦車に一方的に撃破されたという印象も強く、とくに[[エルンスト・バルクマン]][[親衛隊軍曹]]はパンターに乗って多数のM4を撃破したとされている。バルクマンの有名な逸話は、1944年7月27日に[[サン=ロー]]から[[クータンセ]]へ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる、のちに『バルクマンコーナー』と称された活躍談であった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=38}}</ref><ref>{{Harvnb|PANZER №690|2019|pp=88-91}}</ref>。このような一部の限られた活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが<ref>『戦車メカニズム図鑑』[[上田信 (イラストレーター)|上田信]]著、[[グランプリ出版]]、p44。</ref>、それは単に大戦時のアメリカの戦車小隊が5両から編成されているからに過ぎない。また、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作がある{{仮リンク|スティーヴン・ザロガ|en|Steven Zaloga}}の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍の[[プロパガンダ]]ではなかったかとの指摘もある<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2015|pp=312-313}}</ref>。
限られた活躍談での印象とは異なり、M4はパンターを相手にしても善戦している。[[オーヴァーロード作戦|ノルマンディの戦い]]における[[サン マンヴュー ノレ]]の攻防戦では、進撃してきた[[第12SS装甲師団]]のパンター12輛を、[[第2カナダ機甲旅団]]の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している<ref>{{Cite web|title=Norrey-en-Bessin (Calvados)Les villes de Normandie pendant les combats de 1944|url=https://www.dday-overlord.com/bataille-normandie/communes/calvados/norrey-en-bessin|website=Encyclopédie du débarquement et de la bataille de Normandie|accessdate=2021-01-28|language=en}}</ref>。{{仮リンク|アラクールの戦い|en|Battle of Arracourt}}においては、アメリカ軍{{仮リンク|第4機甲師団|en|4th Armored Division (United States)}}がドイツ軍[[第5装甲軍]]に大損害を与えて勝利したが、なかでも[[クレイトン・エイブラムス]]中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破して撃退している<ref>{{Cite web|title=Norrey-en-Bessin (Calvados)Les villes de Normandie pendant les combats de 1944|url=https://www.dday-overlord.com/bataille-normandie/communes/calvados/norrey-en-bessin|website=Encyclopédie du débarquement et de la bataille de Normandie|accessdate=2021-01-28|language=en}}</ref>。第37戦車大隊は、アラクールの戦いで55輌のティーガーIとパンターを撃破して連合軍の勝利に貢献した<ref name="名前なし-5">{{Harvnb|ザロガ|2010|p=46}}</ref>。
アメリカ軍はパンターやティーガーIへの対策として、新型の[[高速徹甲弾]]の生産を強化した。この徹甲弾は、M4戦車隊に十分な量は行き届かなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、76.2mm砲搭載型M4の強力な武器となった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=22}}</ref>。また、M4は信頼性・生産性など[[工業製品]]としての完成度は高く、大量の補充と整備性の良さ、高い稼働率によって、高価すぎて且つ複雑な構造のドイツ軍戦車を総合力で圧倒するようになり<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=20}}</ref>、ドイツ軍戦車兵が大量の消耗により次第に質が低下していったのに対して、アメリカ軍は熟練した戦車兵が増えて<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|pp=39-44}}</ref>、M4がパンターを圧倒する戦闘も増えている。[[バルジの戦い]]において、1944年12月24日に、{{仮リンク|フレヌー|fr|Freyneux}}に接近してきた[[第2装甲師団 (ドイツ国防軍)|第2装甲師団]]第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、{{仮リンク|第3機甲師団|en|3rd Armored Division (United States)|}}第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触した[[M5軽戦車]]1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却した[[ドイツの戦車エース一覧|ドイツの戦車エース]]の1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた他の部隊のM4シャーマン4輌を撃破して一矢報いている<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=61}}</ref>。翌12月25日にもノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破して、ドイツ軍の攻撃を撃退している<ref>{{Harvnb|Military Intelligence Service 3-9|1945|p=THE HEAVY MOBILE PUNCH}}</ref>。
バルジの戦いにおいて、最初の2週間でM4シャーマンはあらゆる原因によって320輌を喪失していたが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働状態とその抜群の信頼性を誇示していたのに対して、投入された415輌のパンターは、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌といった有様だった<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=72}}</ref>。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=69}}</ref>。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンのみが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった<ref>{{Harvnb|David C. Hardison|2012|p=19}}</ref>。
{|class="wikitable" style="border:1px solid #999; border-collapse:collapse; text-align:center; margin: 1en 1en 1en 0;"
|+ M4とパンターの直接交戦による撃破数
! 攻守 !! 交戦数 !!交戦したM4の数 !! 撃破されたM4の数 !! 交戦したパンターの数 !! 撃破したパンターの数
|-
! 攻撃
| 9回 ||68輌 ||10輌||47輌||13輌
|-
! 防御
| 20回 ||115輌 ||6輌||98輌||59輌
|-
! 合計
| 29回 ||183輌 ||16輌||145輌||72輌
|}
29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データの数が不十分であり両戦車の性能の差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかを証明するまでには至っていない<ref>{{Harvnb|ザロガ|2010|p=68}}</ref>。
アメリカ軍はドイツ軍とは異なり、戦車の撃破数で賞されることはなかったが、第37戦車大隊大隊長エイブラムスは、自分が搭乗したM4シャーマン『サンダーボルト』でも多数のドイツ軍戦車を撃破し、終戦までに50輌のドイツ軍戦闘車両を撃破している<ref name="名前なし-5"/>。また[[ラファイエット・G・プール]]准尉も、M4を3輌乗り換えながら、兵員1,000名殺害、捕虜250名確保、戦車12輌を含む戦闘車両258輌撃破の戦果を挙げている<ref>{{cite journal|last1=Woolner|first1=Frank|title=TEXAS TANKER|journal=YANK Magazine|date=September 22, 1944|url=http://www.3ad.com/history/wwll/pool.pages/yank.magazine.htm|accessdate=30 November 2014}}</ref>。
<!--ただ、、[[兵器]]としては当時としても平凡な性能であり、アメリカ軍自身の[[機甲戦|戦車戦]]の経験不足もあって問題点も多かった。とくに経験豊富なドイツ軍が相手では一方的に撃破されることも珍しくなく、ドイツ軍重戦車の正面装甲をゼロ距離射ですら貫通できないこともあり、イギリス軍では[[シャーマン ファイアフライ|ファイアフライ]]への改造が進められたほどである。戦闘能力の不足はアメリカ軍の上層部にも理解している者もいたが、AGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)が性能を過信しており、兵器の数を揃えつつ種類を統一して稼働率を上げ、物量で押し切ることとしたドクトリンにより、より強力な新型戦車の導入は遅らされ、M4の大量配備が優先された。その一方で戦場からの要望に伴い、順次改良(装填手用ハッチ追加、全周ビジョンブロック付き車長用[[キューポラ]]の導入、弾薬庫の移動および弾薬誘爆を防ぐ湿式弾薬庫の採用、76mm砲と新型[[徹甲弾]]の導入など)が施されている。 -->また、[[イギリス]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]など[[イギリス連邦]]加盟国のほか、[[ソビエト連邦]]に4,000輌以上、[[自由フランス軍]]や[[ポーランド亡命政府]]軍にも[[レンドリース法|レンドリース]]された。カナダ軍では[[シドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ]]少佐がM4にて18輌のドイツ軍戦車と多数の戦闘車両を撃破して、第二次世界大戦における連合軍{{仮リンク|戦車エース|en|Ace (military)}}の1人となったが、ウォルターズが撃破した戦車のなかには、[[ドイツの戦車エース一覧|ドイツの戦車エース]]・[[ミハエル・ヴィットマン]]の乗るティーガーIも含まれていたとも言われている<ref>{{cite journal|first1=The Globe and Mail Inc|title=Tank Ace began stellar career at Normandy|url=https://www.theglobeandmail.com/news/national/tank-ace-captain-radley-walters-began-stellar-career-at-normandy/article24093726/|accessdate=2021/1/22}}</ref>。
「M4の75mm砲は理想の武器」「敵重戦車も76mm砲で撃破できる」とするAGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)の判断は[[M26パーシング]]の配備を遅らせ{{Efn2|それどころか新型戦車の90mm砲搭載を止めさせ、75/76mm砲に換えるように指示さえしていた。}}、終戦まで連合国軍の[[主力戦車]]として活躍した。
=== 太平洋戦線 ===
[[File:Burning tanks in Yigo during the Battle of Guam 1944 (49481773263).jpg|thumb|280px|グアムの戦いにおいて日本軍の速射砲で撃破された、米陸軍のM4(75)コンポジット車体型。それぞれ車体側面に被弾の痕が写っている。この時期の太平洋戦線において、海兵隊の装備がM4A2なのに対し、陸軍はM4やM4A1を装備していた。]]
[[北アフリカ]]および[[ヨーロッパ]]に加えて[[太平洋戦争]]にも投入された。戦車戦力が弱い日本軍にとってM4は非常な難敵で、[[サイパンの戦い]]、[[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]、[[ペリリューの戦い]]などでM4と日本軍の[[九七式中戦車]]や[[九五式軽戦車]]との戦車戦が戦われたが、日本軍戦車の[[九七式五糎七戦車砲]]や[[九八式三十七粍戦車砲]]はM4に命中してもまるでボールのように跳ね返されたということで、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多かった<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=224}}</ref>。日本軍の戦車兵はそのようなM4を「動く要塞」と称して恐れた<ref>{{Harvnb|加登川幸太郎|1974|p=224}}</ref>。それでも、[[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]]が戦った[[ルソン島の戦い]]においては、重見支隊(支隊長:[[重見伊三雄]]少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)が[[リンガエン湾]]に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われた。九七式中戦車改に搭載された[[一式四十七粍戦車砲]]は、500ヤード(約457.2m)で67㎜の装甲、1,000ヤード(約914.4m)で55㎜の装甲を貫通したので、M4の側面や後面の装甲であれば、かなりの遠距離からでも貫通可能であり、戦車戦で撃破されるM4も少なくはなく<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2015|loc=電子版, 位置No.356}}</ref>、アメリカ軍は九七式中戦車新砲塔型を「もっとも効果的な日本軍戦車」と評して警戒した<ref>{{Harvnb|Military Intelligence Service 3-11|1945|p=THE MOST EFFECTIVE JAP TANK}}</ref>。戦車戦での不利を痛感した日本軍は、その後の[[硫黄島の戦い]]や[[沖縄戦]]では、戦車の車体を地面に埋めて、即席の対戦車トーチカとして使用するようになった<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2015|loc=電子版, 位置No.1250}}</ref>。
そこで日本軍のM4対策は、待ち伏せによる[[速射砲]]と地雷と歩兵による肉弾攻撃となっていった。速射砲のなかでも[[一式機動四十七粍速射砲]]や九四式三十七粍速射砲がM4の側面装甲を至近距離から貫徹でき撃破したこともあった。[[沖縄戦]]ではM4を主力とするアメリカ陸軍の戦車隊が221輌撃破されたが<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=420}}</ref>、そのうち111輌が速射砲や野戦重砲などの砲撃による損害であった。また、海兵隊の51輌のM4の損失を含めると合計272輌が撃破されたことになり<ref>[http://ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-C-Okinawa/index.html Alexander (1996) , p. 34.]</ref>、これは、沖縄に投入されたアメリカ軍戦車のうち57%にも上っている<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=421}}</ref>。また沖縄戦においては、日本軍は[[段ボール]]大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車の[[キャタピラ]]に向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=206}}</ref>。この特攻戦術は効果があり、激戦となった[[嘉数の戦い]]では、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=207}}</ref>。
アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や磁力吸着式の[[九九式破甲爆雷]]で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している<ref>{{Harvnb|ハラス|2010|p=324}}</ref>。ほかにも、ハッチに爆薬を密着させないように多数のスパイクや金網を周囲に溶接、そのほか車体側面に木の板を装着、またはこれを型枠のように取り付け、車体との間にコンクリートを流し込み磁力吸着式の九九式破甲爆雷対策とした例も見られる。
=== 第二次世界大戦後 ===
[[File:M1tankKoreaHanriver1951.jpg|200px|thumb|朝鮮戦争でのM4A3E8、中国義勇軍に対し心理的な影響を狙って、車体や砲塔の前面に虎や悪魔の顔などが描かれた]]
M4は[[朝鮮戦争]]でも活躍した。主に投入されたのは52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)となったが、[[M24軽戦車]]の138輌、M26パーシングの309輌、[[M46パットン]]の200輌に対してM4A3E8は679輌も投入されており、依然として数的には主力戦車であった。朝鮮戦争ではアメリカ陸軍と海兵隊の戦車部隊は[[北朝鮮軍]]の[[T-34|T-34-85]](一部[[SU-76 (自走砲)|SU-76]])と合計119回の戦車戦を行ったが、そのうちの59回(50%)はM4A3E8によるものであった。アメリカ軍は合計で97輌のT-34-85を確実に撃破し、さらに18輌の不確実な撃破を記録したのに対して、失った戦車は合計34輌に過ぎず、そのうちM4A3E8は20輌であり、さらに完全に撃破されたのはその半分以下であった。アメリカ軍が確実に撃破した97輌のT-34-85のうち、M4A3E8が撃破したのは47輌とされ、依然として十分に戦力になることを証明した<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2011|loc=電子版, 位置No.1750}}</ref>。
その後の[[中東戦争]]などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・[[スクラップ]]を大量に収集再生し、初期の地上戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれる[[スーパーシャーマン|M50/M51スーパーシャーマン]]を生み出している。第一線を退いた後も[[装甲回収車]]などの支援車両に改造され、最近まで各国で使用されていた。
M4A3E8型は[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA協定]]により日本の[[陸上自衛隊]]にも供与されて{{R|超最新167}}[[1970年代]]半ばまで使用され、同年代末に[[61式戦車]]と交代する形で全車が退役した。21世紀を迎えてもなお少数が運用されていたが、2018年に[[パラグアイ]]で運用されていたM4A3の最後の3輌が退役し、これをもって正規軍で使用されていたM4は全車輌が退役した。
=== 運用国 ===
{{Div col}}
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{{-}}
== バリエーション ==
;{{Anchors|M4}}M4
:[[File:Sherman M4 (Airborne Museum) 02.JPG|thumb|250px|エアボーンミュージアムで展示されているシャーマンI(M4)。]]
:ブレスド・スチール・カー社、[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス]]、[[アメリカン・ロコモティブ]]社、ブルマン・スタンダード社で製造。[[航空機]]用の[[コンチネンタル・モータース|コンチネンタル]]R975[[エンジン]]を、陸上部隊向けの低オクタン価ガソリン仕様に改良して採用した。
:車体前面はハッチ周囲の操縦席フードが鋳造製で、これに生産工場や時期により仕様が異なる数枚の圧延鋼板と鋳造部品をパッチワークのように溶接接合していたが、強度が劣るため前線改修用の前面増加装甲キットが開発された。また後部は溶接型のまま車体前面のみをA1と同様の一体鋳造型に変更した、1676輌のコンポジット車体型が1943年5月から翌年8月まで、[[デトロイト]]戦車工廠で製造された。これは当初前期型のスモールハッチ車体であったが、程なく後期型のビッグハッチ車体に切り替えられ、大半は後者であった。なお、M4を改良してM4A1以降の型になったのではなく、各型は異なる工場で並行生産されている。
:[[1944年]]6月の[[ノルマンディー上陸作戦]]から秋頃まではA1と共にアメリカ軍の主力であったが、同年末頃から次第にA3に更新されていった。76.2mm砲搭型は量産されていないが、支援用として後期型車体に105mm[[榴弾砲]]を搭載した物や、中古の前期型車体で114mm[[ロケット砲|ロケットランチャー]](カリオペ)を搭載した物も多い。75mm砲型は[[1942年]]7月から1年間に6,748輌、105mm砲型は1944年2月-[[1945年]]5月までに1,641輌が生産された。イギリス軍名称「シャーマンI」、コンポジット型車体は「シャーマン・ハイブリッド」。
;{{Anchors|M4E9}}M4E9
:本土で訓練用に用いられていた初期生産車輌を[[1943年]]12月から[[オーバーホール]]した際に「ダックビル」型エンドコネクターを、足回りにスペーサーをかませ[[無限軌道|履帯]]の両側に装着した仕様。接地圧が履帯幅の広いE8仕様のように低減された。
;{{Anchors|M4A1}}M4A1
:[[ファイル:M4A1 on Panzermuseum Munster.jpg|thumb|250px|鋳造車体のM4A1(76)W]]
:生産開始や実戦投入は最も早く、アメリカ軍向けに製造された初期型が急遽[[北アフリカ]]のイギリス軍に配備され、[[エル・アラメインの戦い|第二次エル・アラメイン会戦]]から実戦投入された。
:M4と同じ[[空冷エンジン|空冷]][[星形エンジン]]を搭載しているが、車体上部が溶接式ではなく一体鋳造されている。丸みを帯びた車体前面形状により[[避弾経始]]が向上した反面、車内スペースが減少している。後に[[運転者|操縦士]]ハッチを大型の物に変更、湿式弾薬庫を持つ後期型車体{{Efn2|以前は75mm砲塔のA1に後期型車体は無いと思われていたが、実際はプレスド・スティールカー社製M4A1(75)・シリアルナンバー37800-37899の間の100輌ほどが後期型車体で作られていた。これらが実戦部隊で運用されている写真もあり、また一部がシャーマンDDに改造され、訓練中に水没し戦後引きあげられた1輌が現存している。}}のM4A1(75)Wに生産が切り替わった。この車体に76mm砲を搭載するT23砲塔のM4A1(76)Wも併行して生産され、1944年7月のコブラ作戦から実戦投入された。
:米軍向けとしては水冷ガソリンエンジン装備のA3が次の主生産型となったため、A1の76mm砲搭載型はイタリア戦線に回されたり、イギリス連邦軍や自由ポーランド軍、自由フランス軍に供与されたが、1945年春には後期型砲塔を搭載したものが西ヨーロッパの米軍に再び供給されている。エンジンが共通であるため、M4と同じ部隊に混成配備されることもあった。当初、鋳造装甲の強度に疑問を持つ部隊に使用を拒否されたこともあったが、前期型の溶接車体よりA1の方が被弾に強いと認識された。
:75mm砲型は1942年2月-翌11月までに6,281輌、76.2mm砲型は1944年1月-翌5月までに3,426輌が生産された。担当は[[ライマ・ロコモティブ・ワークス]]、プレスド・スチール社、[[パッカー|パシフィック・カー&ファウンドリー]]社。イギリス軍名称「シャーマンII」。
;{{Anchors|M4A1E6}}M4A1E6
:[[ファイル:1965 Indo-Pak War DestroyedShermanTank.jpg|thumb|250px|パキスタン軍が使用し、インド軍に撃破されたM4A1E6]]
:戦後、75mm砲搭に76.2mm砲を搭載したもの。[[パキスタン]]に給与され、[[カシミール紛争]]や[[印パ戦争]]などで使われた。資料によってはこのタイプをM4A1E4としているものもある。
{{-}}
;{{Anchors|M4A1E8}}M4A1E8
:76mm砲を搭載したM4A1(76)のサスペンションをHVSSに変更した後期生産車、またはVVSSサスペンション型からの改修型。イスラエルが購入した中古車は、M1スーパーシャーマンと呼ばれた。
;{{Anchors|M4A1E9}}M4A1E9
:M4A1の初期型をM4E9同様に[[クライスラー]]・エヴェンスビル工場で改修、E9仕様にしたもの。
;{{Anchors|M4A2}}M4A2
:[[File:M4A2 Sherman tank "Berry-au-Bac" at Arromanches (Calvados, France) belonged to the 2nd Armored Division of General Leclerc - 23 June 2014.jpg|thumb|250px|自由フランス軍で使用されていたM4A2(75)]]
:[[ファイル:M4A2 Lend-Lease Tank at Grabow Germany May 1945.jpg|thumb|250px|ソ連軍・第64親衛戦車連隊のM4A2(76)W。ドイツ北部でソ連軍と合流したアメリカ軍が撮影したもの]]
:M4の生産開始時から搭載されていた空冷星型エンジンが、[[練習機]]増産の影響で供給力不足となることが予想され、代替エンジンとして民間[[貨物自動車|トラック]]用に[[ゼネラルモーターズ]]社が生産していた、GM 6046[[直列6気筒]]2ストローク液冷[[ディーゼルエンジン]]2基を連結して搭載。これは埃にやや弱いとの批判もあったが、1基が停まっても走行可能で[[トルク]]も空冷星型より強力であり、速度も高く好評だった。しかし[[アメリカ陸軍]]では使用燃料を[[ガソリン]]に統一していたことから、生産量のほとんどが[[上陸用舟艇]]と燃料を共用できる[[アメリカ海兵隊]](後にA3に更新)、およびレンドリース用としてイギリス軍と[[自由フランス軍]]で使用され、後には全て[[ソビエト連邦|ソ連]]向けに供与されるようになった。
:前期型車体の前面は、M4同様に鋳造部品と圧延鋼板(最初期型で機銃周辺とアンテナベース、左右操縦席フードの鋳造部品4、圧延鋼板4)を溶接接合したものだが、生産工場によっては操縦手席フードが一体鋳造から溶接組み立てに変わり、また分割も減らされ圧延鋼板の比率が増えている。
:[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]では、[[T-34]]より故障が少なく操縦も楽で扱いやすく十分な戦闘力もあると報告された。「エムチャ(M4=エム・チトィーリェの略)」「シェールマン(シャーマンの[[ロシア語]]読み)」と呼ばれ、目立つ車高や泥濘地での機動性、初期に送られたゴム皮膜付き履帯が夏場に熱で溶けること、重心が高いため横転しやすいこと以外は大変好評であり、エリート部隊の親衛戦車連隊に優先配備された。また、砲塔上の12.7mm機銃(搭載車輌と未搭載車輌がある)は、瓦礫の陰などで待ち伏せる[[パンツァーファウスト]]を持った敵[[歩兵]]を障害物ごと掃討したり、[[ソ連対日参戦|満州侵攻]]時に肉薄攻撃を仕掛ける日本軍歩兵に対しても有効であったとの証言もある。しかし太平洋戦線では、行軍中のM4に待ち伏せていた日本兵が飛び乗り、12.7mm機銃を後続の歩兵に乱射するケースが発生、以後取り外した車輌が多い。
:[[独ソ戦|対独戦線]]では[[1943年]]1月から部隊配備が始まり、[[ベルリン市街戦]]でもM4A2(76)Wの写真が多く見られる。なお、A2では75mm砲装備のビッグハッチ車体でも湿式弾薬庫タイプは無く、またこのタイプはアメリカ海兵隊とソ連軍でしか使われていない。また、フィッシャー社で生産されたA2の操縦席フードは、途中から鋳造型ではなく溶接組み立て型に変更されている。75mm砲型は1942年4月-1944年4月までに8,053輌が、76.2mm砲型は1944年5月-翌5月までに2,915輌生産、うち2073輌がソ連に供与。担当はブルマン・スタンダード社、グランド・ブランク戦車工廠、フェデラル・マシーン&ウェルダー社、アメリカン・ロコモーティブ社(少数)イギリス軍名称「シャーマンIII」。
{{-}}
;{{Anchors|M4A2E4}}M4A2E4
:M4中戦車では性能の向上を狙って様々な試作車が製作されたが、M4A2E4は機動性の向上を狙い、M4A2にトーションバーとより幅の広い[[無限軌道|履帯]]を装備した試作車である。トーションバーサスペンションはサスペンションとしての性能に優れ、[[ドイツ]]では[[III号戦車]]以降広く採用されており、M4中戦車でもM4A2E4のほか、M4に同様の改良を施したM4E4が試作されたが、整備性が悪化、M4中戦車では採用されなかった。
;{{Anchors|M4A2E8}}M4A2E8
:M4A2(76)をHVSSサスペンションに変更した1945年に入ってから生産開始された後期生産車。イギリスに5輌渡された以外はソ連に460輌ほどがレンドリースされたが、全て太平洋ルートでシベリアに揚陸されたため、対独戦には間にあっていない。戦後カナダ軍も装備しており、朝鮮戦争で使われた他、砲塔を撤去した[[カンガルー装甲兵員輸送車]]に改造された物もあった。
;{{Anchors|M4A3}}M4A3
:[[ファイル:M4-Sherman tank-European theatre.jpg|thumb|250px|ヨーロッパ戦線におけるM4A3(75)WとM4A3E8。ノルマンディー上陸作戦当時の米軍戦車隊では、空冷ガソリンエンジン搭載のM4(75)とM4A1(75)が主力で、M4A1(76)Wの投入はコブラ作戦以降だったが、1944年も末に近づくにつれ水冷ガソリンエンジン搭載のA3(75)WとA3(76)Wの配備数が増え、バルジの戦いの後半からA3E8が加わった。]]
:それまでの航空機用エンジンの流用から、[[フォード・モーター|フォード]]社が戦車用に開発したGAA液冷[[V型8気筒]]エンジン(450馬力)搭載、M4やM4A1の空冷星型エンジンよりも整備性や低速時のトルクで勝り、各エンジンの中で最も評判が良かったためアメリカ軍に[[主力戦車]]として優先的に供給された。
: 大戦中に他国へ送られた台数は極めて少ないが、戦後に余剰となってからは大量に供与された。前面装甲が一枚板で湿式弾薬庫を持つ後期型車体が初めて採用され、デトロイト戦車工廠やグランド・ブランク戦車工廠で製造された。M4戦車系列としては後発であるためフォード社製造の前期型車体(左右スポンソンの前方部を除く車体前面装甲は、板状の鋳造装甲三枚の組み合わせ)は比較的少なく(1,690輌)、 主に本土での訓練用に使われた。
:米軍では本土で訓練を終えた部隊は新車を与えられ前線に送られるため、実戦に参加したA3型の殆どは後期型車体だった。ヨーロッパ戦線では75mm、76mm砲型共に1944年夏以降に供給されたのは殆どこのA3型で、数の上で主力化してからの本格的な実戦は[[バルジの戦い]]、太平洋では[[硫黄島の戦い]]からであった。また後に前期型車体も681輌がオーバーホールされ、ダックビル追加などのE9型改修を受けて一部が前線に送られている。
:75mm砲型は1942年6月-1945年5月までに4,761輌、76.2mm砲型は1944年3月-翌4月までに4,542輌、105mm砲型は1944年3月-翌6月までに3,039輌が生産。当初、75mm砲型が多く部隊配備されていたが、バルジの戦いでの苦戦の後、対戦車戦闘能力の高い戦車が求められた結果、引き渡しが中止された600輌もの余剰75mm砲型が兵器集積所にあふれ、76mm砲型の配備数が急増した。一方、太平洋戦域の陸軍・海兵隊には75mm砲型のみが送られている。
:イギリス軍名称は「シャーマンIV」だが、サンプルとして送られただけで、部隊配備はされていない。
;{{Anchors|M4A3E2}}M4A3E2(ジャンボ)
:[[ファイル:M4A3E2 Sherman Jumbo 75mm gun.jpg|thumb|250px|M4A3E2。この展示車輌ではダックビルが装着されていない]]
:M4A3の装甲強化型。グランド・ブランク戦車工廠による生産数は254輌ほどと少ないが、最大装甲厚152mmの重装甲を生かして、ドイツの[[対戦車砲]]が待ち受けていそうな場所を突破するために重宝された。
:100輌以上が現地で主砲を76.2mm砲に換装しているが、装甲を強化した76.2mm用砲塔に歩兵支援・陣地攻撃に適した75mm砲を装備していたので容易であった。重量増加で上がった接地圧を下げるために、履帯の脇に「ダックビル」と呼ばれるアタッチメントを装着している。
{{-}}
;{{Anchors|M4A3E4}}M4A3E4
:[[ファイル:Srednji tank M4A3 Sherman.jpg|thumb|250px|75mm砲を76mm砲に換装したM4A3E4]]
:[[朝鮮戦争]]当時、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のT-34-85に対抗するため、[[東京都]]の[[赤羽]]デポで進駐軍の75mm砲搭型を76.2mm砲に換えたもので「赤羽スペシャル」と呼ばれていたが、戦場に投入される機会はなかったという<ref>{{Cite news | title = 東京の地名がついたアメリカ陸軍M4戦車「シャーマン赤羽スペシャル」…なぜ赤羽?
| newspaper = 乗りものニュース
| date = 2020-02-05
| url = https://trafficnews.jp/post/93454
| accessdate = 2020-09-05}}</ref>。後に同じ改造を施されたものが[[ユーゴスラビア]]に供与され、映画『[[戦略大作戦]]』でその姿を見ることができる。
{{-}}
;{{Anchors|M4A3E8}}M4A3E8(イージーエイト)
:[[ファイル:M4A3E8.JPG|thumb|250px|M4A3E8]]
:[[ファイル:M4A3E8 in JGSDF in 1959.png|thumb|250px|陸上自衛隊のM4A3E8]]
:E8とはHVSS装備時に付加される型式名だが、大戦中の兵站品目名では「M4A3(76mm 24インチ幅履帯)」と呼ばれており、「イージーエイト」の通称は戦後になってから広まったものである。
:デトロイト戦車工廠製。M4系列のアメリカ軍での最終型で、バルジの戦いの後半から登場した。1944年8月-1945年9月までに2,539輌が生産された。元になったM4A3(76)Wは、試作戦車T23から流用された砲塔に52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載している。車体も前面装甲を一枚板にして生産性と対弾性能を向上させ、湿式弾薬庫を備える後期型である。大戦末期、ドイツ国内に侵攻した第3軍所属車輌には、撃破されたシャーマンのスクラップから剥ぎ取った装甲を溶接し車体前面の防御力を強化した物が多く見られる。
:懸架装置はそれまでのVVSSからHVSSに変更され履帯幅も広くなり接地圧が低下、併せてフェンダーが増設されている。戦後になってから他国に供与されたA1-A4型の多くも同様にHVSSのE8仕様に改修されている。朝鮮戦争ではT-34-85と交戦、同じエンジンで重い[[M26パーシング|M26]]より、山がちな地形の朝鮮では機動性が高いことから再評価された。[[1954年]]からは[[陸上自衛隊]]に{{R|超最新167}}、また、他の[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国など親米国家にも供与された。[[イスラエル]]でも少数が使われているが、時期的にアメリカ軍からの供与ではなく、スクラップヤードや各国の余剰品から寄せ集めた中のM4A3(76)WをE8化したものと思われる。
:なお、“イージーエイト”の呼称について「操作が簡単(Easy)だから」とするのは誤り。[[NATOフォネティックコード]]を採用する以前のアメリカ軍式フォネティックコードの“E”の読みが“イージー”であり、それに基づく読みというのが正しい。
{{-}}
;{{Anchors|M4A4}}M4A4
:[[ファイル:Chinese Sherman.jpg|thumb|250px|ビルマ方面における、国民革命軍に供与されたシャーマンV(M4A4)]]
:デトロイト戦車工廠製造。[[クライスラー]]A-57「マルチバンクエンジン」を搭載した型。これは従来搭載されていたコンチネンタルR-975空冷星形エンジンが、練習機向けを優先するために供給不足となり、そのため[[M3中戦車|M3A4]]用に設計されたもので、バス用に生産されていた[[直列6気筒]]ガソリンエンジン5基を扇形に束ねて連結した複列30気筒液冷ガソリンエンジンである。30気筒という他に例を見ない構成のため整備性には問題があり、点火時期やベルトの調整方法など高度に教本化することで乗り切ろうとした。
:多くがイギリス軍に供与され「シャーマンV」と呼称されたが、同時代のイギリス製戦車に比べれば故障は少なく運用実績は良かったようである。イギリス軍以外にも[[カナダ軍]]、自由ポーランド軍、自由フランス軍、中国国民党軍にも供与され、アメリカ軍では本国での訓練用にのみ使われた。エンジンルームの関係でこの型とA6型のみ他の型より全長がわずかに長い。前期型車体(左右スポンソンの前方部を除く車体前面装甲は、板状の鋳造装甲三枚の組み合わせ)のみで後期型車体や76.2mm砲搭型、湿式弾薬庫は無く、デファレンシャルカバーは三分割タイプのみである。デトロイト戦車工廠で1942年6月-翌8月までに7,499輌が生産された。
:なお戦後フランスではM4A4のエンジンをコンチネンタルR-975に換装し、同じくフランス陸軍に配備されていたM4A1(76)Wと統一、M4A4Tと呼称された。これはエンジングリルのハッチもM4/M4A1同様になっており、外見からも識別できる。
;{{Anchors|M4A5}}M4A5
:[[カナダ]]が国産[[装甲戦闘車両]]として独自生産した[[ラム巡航戦車]]にアメリカ陸軍軍需部が与えた形式番号。[[M3中戦車|M3]]をベースに独自開発した物だが、パーツの多くをアメリカから供給を受けた事もあり、M4に酷似している。その後生産は[[グリズリー巡航戦車]](M4A1の[[ライセンス生産]])へと移行した。
;{{Anchors|M4A6}}M4A6
:[[File:M4A6 Medium Tank.png|thumb|250px|M4A6]]
:試作名称M4E1。生産終了するA4をコンポジット車体にして、キャタピラー社製空冷星型ディーゼルエンジンに換装したもの。1943年8月から翌年2月まで、デトロイト戦車工廠で75輌のみ生産され、全てアメリカ国内での訓練用となった。
{{-}}
== 派生型 ==
;M4 105mm 突撃戦車
[[File:M4A3E8(105) Sherman P3365 Marbrig pic1.JPG|thumb|250px|M4A3E8(105)HVSS 突撃戦車]]
:[[M101 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲M4]]を搭載した車輌。
:機甲部隊の使用する、機甲歩兵を援護する支援戦車として開発された。歩兵支援だけでなく分厚い防楯と大口径砲を生かした敵陣突破や対戦車戦闘の先鋒として活躍した<ref>スティーブン・ザロガ『世界の戦車イラストレイテッド 29 M4(76mm)シャーマン中戦車 1943-1965』株式会社大日本絵画、51頁。</ref>。当初は75mm砲搭載型と同時に生産が開始される予定だったが、先述の通り、砲架や駐退器の不具合によって開発が遅延し、さらに砲安定装置や砲塔旋回モーターの省略化といった事情から生産時期が先延ばしにされている。
:1942年に2両のM4A4を改修し105mm榴弾砲を搭載する改造が行われ、'''M4A4E1'''の形式名が付けられアバディーン性能試験場でテストが行われた。この試験で砲架や駐退器の不具合が判明し、改良した砲本体・砲架・防盾をM4初期型に搭載したものが1943年に'''M4E5'''の形式名でテストされ、制式化承認され量産される事になった。
:量産型は空冷星形ガソリンエンジンで後期仕様ラージハッチ車体の'''M4(105)'''、これをHVSSサスペンションに改修した'''M4(105)HVSS'''、V型8気筒ガソリンエンジンの'''M4A3(105)'''、これをHVSSサスペンションに改修した'''M4A3(105)HVSS'''が存在し、1944年2月から生産が開始し、1945年3月までに計4,680両が完成した。
:各型式の生産数はM4(105)が800両、M4(105)HVSSが841両、M4A3(105)が500両、M4A3(105)HVSSが2,539両である。
:イギリス軍呼称ではM4(105)がシャーマンIB、M4(105)HVSSがシャーマンIBY、M4A3(105)がシャーマンIVB、M4A3(105)HVSSがシャーマンIVBYとなる。
{{-}}
;グリズリー巡航戦車
[[ファイル:M4A1 Grizzly Sherman CFB Borden.jpg|thumb|250px|グリズリー巡航戦車<br/>履帯はカナダ軍用独自のシングルピン型]]
:Cruiser Tank Grizzly Mk.I
:M4A1(シャーマンII)を[[カナダ]]のモントリオール・ロコモーティブ・ワークスで[[ライセンス生産]]するに当たり、装備品などの規格を[[イギリス]]・カナダに合わせるための改設計を行った車輌。[[砲塔]]後部にNo.19型無線機を格納するための張り出しを設けたり、2インチ[[発煙弾発射機]]などが増設されている。
:大量生産が予定されていたが、イギリス軍向けに特別なシャーマンを生産することは非効率だと判断され、生産は188輌に止まった。多くはイギリス軍で訓練用の戦車として用いられた。
{{main|グリズリー巡航戦車}}
{{-}}
;セクストンII自走砲
[[ファイル:Sexton 25pdr S223813 pic6.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|セクストン自走砲]]
:ラム巡航戦車の車台を流用した25ポンド砲搭載のセクストンI自走砲に代わる、グリズリー巡航戦車の車台を流用した後期生産型。カナダ軍とイギリス軍で運用された。
{{main|セクストン自走砲}}
{{-}}
;スキンク対空戦車
:グリズリーIに20mm[[機関砲]]4門を搭載した[[対空戦車]]。3輌製造された時点でキャンセルされた。
{{main|スキンク対空戦車}}
;シャーマン ファイアフライ
[[ファイル:ShermanFirefly.jpg|thumb|250px|シャーマン ファイアフライVC<br/>車体の[[機関銃]]が撤去され、乗員がいなくなった場所は弾薬庫になっている]]
:Sherman Firefly
:イギリス軍がシャーマンを改造して17ポンド砲を搭載したもの。
:75mm砲の装甲貫通能力が低いため、[[装甲|重装甲]]のドイツ軍戦車に対抗して75mm砲塔を改造して17ポンド(76.2mm)[[対戦車砲]]を搭載した。前期にはM4A4(シャーマンV)、後期には前期型車体またはハイブリッド車体のM4(シャーマンI)から改造された。少数ながらA2やA3からの改造車両もある。
:[[重戦車]]を仕留めることが可能な[[火力 (軍事)|火力]]はドイツ軍にとって脅威であり優先撃破目標に指定されたため、通常の75mm砲型シャーマンの後ろに付いて[[駆逐戦車]]的に用いられた。[[ミハエル・ヴィットマン]]の[[ティーガーI]]を撃破したのもこのファイアフライである。
{{main|シャーマン ファイアフライ}}
{{-}}
;M10ウルヴァリン/M36ジャクソン
[[File:M36 tank destroyer pic2.JPG|thumb|250px|M36ジャクソン 駆逐戦車]]
:M4車体をベースにした駆逐戦車。
{{main|M10 (駆逐戦車)|M36ジャクソン}}
{{-}}
:;M35 装甲牽引車
::M10の砲塔を撤去した[[砲兵トラクター]]。重砲牽引用の高速牽引車の不足を補うためにM10から改造されて製造された。
{{-}}
;M7プリースト 105mm自走榴弾砲
[[File:Aberdeen proving grounds 031.JPG|thumb|250px|M7B1プリースト]]
:自走[[M101 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲]]車。初期型はM3ベースだが、改良型のB1/B2はM4ベースとなっている。
{{main|M7自走砲}}
:;M7カンガルー 装甲兵員輸送車
::主砲を撤去したM7プリーストを装甲兵員輸送車として使用したもの。カナダ軍で使用された。"カンガルー"の名で呼ばれるのはM7をベースとした車両だけではなく、[[ラム巡航戦車]]や[[チャーチル歩兵戦車]]からも製造されている。
{{main|カンガルー装甲兵員輸送車}}
{{-}}
;M32 戦車回収車
[[File:Sherman M32 p2.JPG|thumb|250px|M32B2 戦車回収車]]
:砲塔を撤去して砲塔形の戦闘室(旋回はできない)を設置し、ウィンチと回収用クレーンを装備した車輌。[[イスラエル]]も退役した[[スーパーシャーマン|M1/M50]]の一部に同様の改造を施している。
{{main|M32 戦車回収車}}
:;M34 装甲牽引車
::M32のクレーンを撤去した[[砲兵トラクター]]。重砲牽引用の高速牽引車の不足を補うためにM32から改造されて製造されたが、実戦ではほとんど使われなかった。
{{-}}
;シャーマンDD
[[ファイル:DD-Tank.jpg|thumb|250px|シャーマンDD<br />(防水スクリーンを下げた状態)]]
:ShermanDD('''D'''uplex '''D'''rive)
:イギリス軍が[[ノルマンディー上陸作戦]]のために開発した[[水陸両用戦車]]。
:車体周囲に展開する防水スクリーンと、後部に誘導輪で駆動する推進用プロペラ2基を備えていたが、沖合いから発進せざるを得なかったDDの大半が波を被って水没した。
{{main|DD戦車}}
{{-}}
;シャーマン・カリオペ
[[ファイル:T-34-rocket-launcher-France.jpg|thumb|250px|シャーマン・カリオペ<br/>(ロケットランチャー射撃時)]]
:砲塔上にT34多連装[[ロケット砲]]を搭載した[[火力支援]]車両。鉄パイプ製のロケットランチャーは投棄可能で、砲塔による旋回および、砲身と連動しての仰俯角が可能だった。
{{main|T34カリオペ}}
{{-}}
;シャーマン・チューリップ
:砲塔側面に航空機用[[RP-3]]ロケット弾発射機を装着した火力支援車両で、イギリス軍で使用された。
{{see also|Tulip 対地ロケット}}
;シャーマンフレイル
[[ファイル:M4a4 flail cfb borden 1.JPG|thumb|250px|シャーマンフレイル]]
:[[地雷]]処理用のチェーンローラーを装備した車輌。シャーマン・クラブとも。
{{-}}
;シャーマン・クロコダイル
:[[火炎放射戦車]]。車体前面に[[火炎放射器]]を搭載し、後ろに火炎放射用燃料を積んだ2輪トレーラーを引いている。主砲も装備されており、普通の戦車としても使える。
;シャーマンARV
:イギリス軍がシャーマン戦車を改造して製作した[[装甲回収車]]。砲塔を撤去して回収機材を搭載した'''Sherman ARV.I'''と砲塔を撤去して砲塔に似せた戦闘室を設置した'''Sherman ARV.II'''がある。
:なお、イギリス軍に供与されたM32戦車回収車は'''Sherman ARV.III'''と呼ばれた。
<gallery widths="180px" heights="150px">
ファイル:A Sherman ARV (armoured recovery vehicle) and other specialised armour moving up to cross the Rhine, 24 March 1945. BU2080.jpg|'''シャーマンARV.I'''
ファイル:Tanks and Armoured Fighting Vehicles of the British Army 1939-45 MH3668.jpg|'''シャーマンARV.II'''
</gallery>
=== イスラエルでの改造車両 ===
{{Main|スーパーシャーマン}}
;M1スーパーシャーマン
[[ファイル:M4A1-Sherman-latrun-1.jpg|thumb|250px|M1スーパーシャーマン]]
:[[フランス軍]]が使用していた中古のM4A1(76)WおよびM4A1E8を、[[イスラエル]]が60輌(250輌程度とする資料も有る)買い取ったものが、それまで使用していた75mm砲搭載型との差別化のため、搭載砲が76mm戦車砲M1であることからこう呼ばれた。
:[[第二次中東戦争]]に投入された当時は、足回りがVVSSのものとHVSSのものが混在して使われているのが確認できる。これらは後に全てHVSS化され、さらにM51に大改造された。M51に改造されずに残った一部の車両は、[[第四次中東戦争]]時にドーザーブレードを装着した支援車両として使用された。
{{-}}
;M50スーパーシャーマン
[[ファイル:Latrun 161112 Sherman I.jpg|thumb|250px|M50スーパーシャーマン]]
:イスラエル国防軍(IDF)が改修したシャーマン。世界中から第一線を退いた各種シャーマン(M50に改造された物はA4が最も多い)を掻き集め、[[砲塔]]に[[フランス]]の[[AMX-13]]と同じ高初速の75mm砲を搭載。砲身長に合わせて砲塔後部の[[カウンターウエイト]]も延長されている。また、後期には懸架装置をHVSSに換装し、[[エンジン]]をカミンズ製[[ディーゼルエンジン]]に換装している。
{{-}}
;M51スーパーシャーマン
[[ファイル:M51-Isherman-latrun-1.jpg|thumb|250px|M51スーパーシャーマン]]
:75mm砲塔型がベースのM50に対し、76mm砲搭型のM1シャーマンにフランスが[[AMX-30]]用に開発したCN105・F1型56口径105mm[[戦車砲]]の砲身短縮型(原型の56口径から44口径に変更)を搭載し、エンジンもカミンズVT8-460ディーゼルエンジンに換装している。
:重量バランスを取るため砲塔を後方に延長し、また砲口には反動を抑えるべく板金溶接製の巨大な[[マズルブレーキ]]を装着したが、それでも105mm砲の反動は強烈であるため、停車し、ギアをニュートラルに入れて車体全体で反動を吸収して射撃したという。また、少数ではあるが鋼板溶接車体のM4A3E8をベースに改造したものもある。
:第三次-第四次中東戦争で[[T-34|T-34-85]]、[[T-54]]/[[T-55|55]]、[[T-62]]などを相手に奮戦した。なお一部資料や[[プラモデル]]商品名などに見られる「アイシャーマン」という呼称は、M50との区別のために西側ジャーナリストが勝手に命名した物で、実際にはそう呼ばれていない。
{{-}}
;M60
:M50/M51の主砲を新開発のイスラエル製60mm高速砲に換装した物。[[チリ陸軍]]に売却され、現在も使用されている。
;M50 155mm自走榴弾砲
[[ファイル:M50-155mm-latrun-2.jpg|thumb|250px|M50 155mm自走榴弾砲]]
:M4A4のエンジンを前部の補助操縦席部分に移して、オープントップの後部にフランス製[[M50 155mm榴弾砲]]を搭載した[[自走砲|自走榴弾砲]]。後にHVSSとカミンズエンジンに換装されたが[[ソルタムL33 155mm自走榴弾砲]]や[[M107 175mm自走カノン砲]]に更新され、一部の車体は装甲救急車に改造された。
{{main|M50 155mm自走榴弾砲}}
{{-}}
;ソルタムL33 155mm自走榴弾砲
[[ファイル:L-33-Roem-beyt-hatotchan-2.jpg|thumb|250px|L33 155mm自走榴弾砲]]
:イスラエルのソルタム社が余剰化したM50/M51を改造した[[自走砲|自走榴弾砲]]。密閉式の戦闘室を設け、[[ソルタム・システムズ]]製33口径[[ソルタムM68 155mm榴弾砲|M68 155mm榴弾砲]](搭載弾数60発。内16発を即用弾薬架に収容)を搭載。200輛前後が改造されて[[第四次中東戦争]]で使用された。
{{main|ソルタムL33 155mm自走榴弾砲}}
{{-}}
;マクマト 160mm自走迫撃砲
[[ファイル:Makmat-160-beyt-hatotchan-2.jpg|thumb|250px|マクマト 160mm自走迫撃砲]]
:ソルタム社がM50/M51を改造した自走迫撃砲。車体を大型の戦闘室に改装、[[ソルタム・システムズ]]製の[[ソルタムM66 160mm迫撃砲|M66 160mm迫撃砲]](搭載弾数56発)を搭載したものである。
{{main|マクマト 160mm自走迫撃砲}}
{{-}}
;シャーマンMRL
:砲塔を外して[[多連装ロケット砲]]を装備した車輌。
:鹵獲したソ連製の[[多連装ロケット砲]][[BM-24]]([[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]])のロケット弾をコピーした240mmロケット弾36連装ランチャーを搭載した[[MAR-240]]と、290mmロケット弾4連装ランチャーを搭載した[[MAR-290]]とが存在する。
:MAR-290には[[ショット (戦車)|ショット]]を基にした車輌も存在するが[[MLRS]]に更新されて現役装備から外された。
{{main|MAR-240|MAR-290}}
<gallery widths="180px" heights="150px">
ファイル:MAR-240-latrun-2.jpg|MAR-240
ファイル:MAR-290-2.jpg|MAR-290
</gallery>
;キルション
[[ファイル:Kachlilit-hatzerim-2.jpg|thumb|250px|キルション]]
:砲塔を外して[[AGM-45 (ミサイル)|AGM-45 シュライク]][[対レーダーミサイル]]発射機を装備した車輌。
{{main|キルション (ミサイル)}}
{{-}}
;トレイルブレイザー
[[ファイル:TrailBlazer-latrun-4.jpg|thumb|250px|トレイルブレイザー]]
:スーパーシャーマンの車体に大型クレーンを搭載した装甲回収車。
{{-}}
=== その他 ===
この他にも、フランスのBatignolle-Chatillon社による改造で、シャーマンの車体に[[フランス]]製[[AMX-13]][[軽戦車]]の[[砲塔]]を搭載した「[[ニコイチ]]」戦車が[[エジプト]]軍に配備され、[[第二次中東戦争]]でイスラエル国防軍がM4A1(76)の砲塔にAMX-13の主砲を搭載した[[スーパーシャーマン|M50スーパーシャーマン]]と交戦した。これはM4A1後期型車体を使った試作型「M4A1 Revalorisé FL10」が最初に作られ、後にM4A4の車体にM4A2用の[[ディーゼルエンジン]]を載せて改修したものが、1955年頃にエジプトに売却された。
<gallery widths="180px" heights="150px">
ファイル:M4A4-AMX-13-latrun-2.jpg|'''エジプト陸軍向けの改造戦車'''<br />M4A4の車体にM4A2のエンジンを載せ、AMX-13の砲塔を搭載
ファイル:M4A4-Sherman-latrun-7.jpg|エジプト軍のシャーマンのエンジンデッキ。M4A4車体だが、エンジン部とデッキはM4A2の物に交換されている事がわかる。
</gallery>
== 登場作品 ==
{{Main|M4中戦車に関連する作品の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2
|refs=
<ref name="超最新167">{{Harvnb|超最新ゴジラ大図鑑|1992|pp=167-168|loc=「陸上兵器」}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author1=ケネス・マクセイ|author2=[[加登川幸太郎]] 訳|title=ロンメル戦車軍団―砂漠の狐 |year=1971|publisher=サンケイ新聞社出版局|ref={{SfnRef|ケネス・マクセイ|1971}}|series=第二次世界大戦ブックス|asin=B000J9HLCM}}
*{{Citation|和書|author1=ケネス・マクセイ|author2=[[菊地晟]] 訳|title=米英機甲部隊―全戦車,発進せよ! |year=1973|publisher=サンケイ新聞社出版局|ref={{SfnRef|ケネス・マクセイ|1973}}|series=第二次世界大戦ブックス|asin=B000J9GKSS}}
* {{Cite book |和書 |author=スティーヴン・J. ザロガ |year=2010 |title=パンターvsシャーマン バルジの戦い1944 |publisher=[[大日本絵画]] |isbn=978-4499230162 |ref={{SfnRef|ザロガ|2010}} }}
* {{Cite book |author=Military Intelligence Service |year=1945 |title=Intelligence Bulletin, January 1944|publisher=Military Intelligence Service |volume=Intelligence Bulletin, January 1944 ||ref={{SfnRef|Military Intelligence Service 2-5|1944}} }}
* {{Cite book |author=Military Intelligence Service |year=1945 |title=Intelligence Bulletin, May 1945|publisher=Military Intelligence Service |volume=Intelligence Bulletin, May 1945 ||ref={{SfnRef|Military Intelligence Service 3-9|1945}} }}
* {{Cite book |author=Military Intelligence Service |year=1945 |title=Intelligence Bulletin, July 1945|publisher=Military Intelligence Service |volume=Intelligence Bulletin, May 1945 ||ref={{SfnRef|Military Intelligence Service 3-11|1945}} }}
* {{Cite book|和書|author1=アメリカ陸軍省|author2=外間正四郎|authorlink2=外間正四郎|title=沖縄:日米最後の戦闘|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|date=1997|ref={{SfnRef|アメリカ陸軍省|1997}}}}
*{{Citation|和書|author=加登川幸太郎|title=帝国陸軍機甲部隊 |year=1974|publisher=[[白金書房]]|ref={{SfnRef|加登川幸太郎|1974}}|asin=B000J9FY44}}
*{{Citation|和書|author1=アルゴノート編集部|title=PANZER(パンツァー) 2020年01月号 |year=2019|publisher=[[アルゴノート]]|ref={{SfnRef|PANZER №690|2019}}|series=PANZER|asin=B07ZLJXKBQ}}
* {{Cite book |和書 |author=下田四郎 |year=2014 |title=サイパン戦車戦 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769821050 |ref={{SfnRef|下田四郎|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=ジェームス・H. ハラス |year=2010 |title=沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769826532 |ref={{SfnRef|ハラス|2010}} }}
* {{Cite book |洋書 |author=Steven Zaloga |year=2015 |title=M4 Sherman vs Type 97 Chi-Ha: The Pacific 1945 |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1849086387 |ref={{SfnRef|Steven Zaloga|2015}} }}
* {{Cite book |洋書 |author=Steven Zaloga |year=2011 |title=T-34-85 vs M26 Pershing: Korea 1950 |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1846039904 |ref={{SfnRef|Steven Zaloga|2011}} }}
* {{Cite book |洋書 |author=David C. Hardison |year=2012 |title=Data on World War II Tank Engagements: Involving the U.S. Third and Fourth Armored Divisions |publisher=Createspace Independent Pub |isbn=978-1470079062|ref={{SfnRef|David C. Hardison|2012}} }}
* {{cite book |洋書|last =Zaloga|first= Steven |year=2015|title=Armored Champion: The Top Tanks of World War II |location=Mechanicsburg, PA |publisher=Stackpole Books|isbn=978-0-8117-1437-2|ref={{SfnRef|Steven Zaloga|2015}} }}
* {{Cite book|和書|others=企画・構成・編集 [[安井尚志]]([[ストリームベース#クラフト団|クラフト団]])|title=増補改訂新版 超最新ゴジラ大図鑑|publisher=[[バンダイ]]|series=エンターテイメントバイブルシリーズ50|date=1992-12-25|isbn=4-89189-284-6|ref={{SfnRef|超最新ゴジラ大図鑑|1992}}}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|M4 Sherman|M4 Sherman}}
*[[戦車一覧]]
{{M4中戦車}}
{{第二次世界大戦のアメリカの装甲戦闘車両}}
{{イスラエルの装甲戦闘車両}}
{{インドの装甲戦闘車両}}
{{第二次世界大戦後のフランスの装甲戦闘車両}}
{{自衛隊の装甲戦闘車両}}
{{大韓民国の装甲戦闘車両}}
{{中華民国の装甲戦闘車両}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:M004ちゆうせんしや}}
[[Category:M4シャーマン|*]]
[[Category:中戦車]]
[[Category:アメリカ合衆国の戦車]]
[[Category:アメリカ合衆国海兵隊の装備]]
[[Category:陸上自衛隊の戦車]]
[[Category:台湾の戦車]]
[[Category:ウィリアム・シャーマン]]
|
2003-09-27T07:54:32Z
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2023-12-17T11:17:55Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/M4%E4%B8%AD%E6%88%A6%E8%BB%8A
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18,492 |
五線譜
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五線譜(ごせんふ)は、主に西洋音楽で最も広く用いられている楽譜である。5本1組の平行な直線から成る「五線」が、上から下に数段書かれている用紙「五線紙」に音符や音楽記号を書いて楽譜とする。縦が音高を表し、高い音が上に、低い音が下に書かれる。横が時間を表し、左から右に書かれる。
五線譜においては、音符相互間の音高の高低関係や、音符と音部記号との高低関係を明確にするために、5本1組の等間隔な水平線を用いる。これを五線(ごせん)という。同一水平線上に書かれた音符は、同じ音とされる。線上ばかりでなく、線と線の間にも音符を置くことができる。また、一番上の線の上に接して、ないし、一番下の線の下に接して音符をおくことができる。これにより、五線は11の異なる高さの音を表すことができる。基本的にこれらの音は全音階として置かれる。このため必要に応じて変化記号が用いられる。また、五線に書き切れない高さの音を表記する場合には、その都度臨時の水平線を追加する。この線を「加線」と呼ぶ。また五線を上下2段で組み合わせた大譜表を用いることもある。さらに大譜表に加線が追加されることもある。この他、オクターブ記号を用いることで、本来ならば加線が必要となる高さの音が、五線の中に置かれるようにする場合もある。
五線の上下は全音階における音高を表しており、高音ほど上部に置かれる。ところで、音の高さの違いとは、基本周波数の違いであり、高音ほど基本周波数も多い。したがって、五線の縦方向は、相対的に基本周波数が増大する方向と一致する。ただし、1オクターブ上の音は基本周波数が2倍なのに、2オクターブ上の音は基本周波数が4倍、3オクターブ上の音は基本周波数が8倍となることからも明らかなように、五線譜上の縦方向はリニアスケールではなくログスケール的である。しかしながら、例えば全音階の1種である長音階は移動ドにおける階名で、ドとレ、レとミ、ファとソ、ソとラ、ラとシは全音(長2度)なのに対して、ミとファ、シとドは半音(短2度)である。そうであるのにもかかわらず、五線譜上で、この全音と半音は区別されずに置かれる。このことから明らかなように、五線譜の縦は完全なログスケールでもないことが判る。
五線の左右は時間を表しており、左から右へと時間が進んでゆく。この意味で五線譜の横方向はリニアスケール的である。ただし、指定されたテンポによって、そこにある音が何秒後に演奏されるかは異なる。例えば、4分の4拍子で60 BPMの場合は、1拍目の音が演奏されてから3拍目の音が演奏されるまでの時間は2 秒であるのに対して、120 BPMならば1 秒である。さらに持続的な速度変化を指示する演奏記号が存在する場合は、当然ながら、この時間は変化する。その上、実際の演奏では、しばしば演奏者がテンポを揺らすために、演奏記号が無くとも時間が変化する場合がある。また、記譜上の問題として、音価の短い音符が多い小節では、1小節が横長になりがちである。以上のことから、五線譜の横方向が完全なリニアスケールではないことが判る。
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五線譜(ごせんふ)は、主に西洋音楽で最も広く用いられている楽譜である。5本1組の平行な直線から成る「五線」が、上から下に数段書かれている用紙「五線紙」に音符や音楽記号を書いて楽譜とする。縦が音高を表し、高い音が上に、低い音が下に書かれる。横が時間を表し、左から右に書かれる。
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{{Redirect|五線|鉄道用語|複々線#五線}}
{{出典の明記|date=2023年4月}}
'''五線譜'''(ごせんふ)は、主に[[西洋音楽]]で最も広く用いられている[[楽譜]]である。5本1組の平行な直線から成る「五線」が、上から下に数段書かれている用紙「五線紙」に[[音符]]や[[音楽記号]]を書いて楽譜とする。縦が[[音高]]を表し、高い音が上に、低い音が下に書かれる。横が[[時間]]を表し、左から右に書かれる。
== 表記できる音高 ==
[[File:Ottava Ex.svg|200px|thumbnail|right|オクターブ記号の使用例。この楽譜を演奏すると、オクターブ記号の効力によって、第1小節から第3小節まで、全く同じ高さで「ドレドレドレ」と繰り返される。]]
五線譜においては、音符相互間の[[音高]]の高低関係や、音符と[[音部記号]]との高低関係を明確にするために、5本1組の等間隔な水平線を用いる。これを'''五線'''(ごせん)という。同一水平線上に書かれた音符は、同じ音とされる。線上ばかりでなく、線と線の間にも音符を置くことができる。また、一番上の線の上に接して、ないし、一番下の線の下に接して音符をおくことができる。これにより、五線は11の異なる高さの音を表すことができる。基本的にこれらの音は[[全音階]]として置かれる。このため必要に応じて[[変化記号]]が用いられる。また、五線に書き切れない高さの音を表記する場合には、その都度臨時の水平線を追加する。この線を「[[加線]]」と呼ぶ。また五線を上下2段で組み合わせた[[大譜表]]を用いることもある。さらに大譜表に加線が追加されることもある。この他、オクターブ記号を用いることで、本来ならば加線が必要となる高さの音が、五線の中に置かれるようにする場合もある。
[[File:五線譜.png|五線譜の各部名称]]
== 五線譜の縦と横 ==
=== 縦方向 ===
[[File:Ionian mode C.png|200px|thumbnail|right|ト音記号を用いてハ長調の音階を五線譜上に並べた。このように五線譜上において半音と全音の区別は見られない。]]
[[File:Frequency vs name.svg|200px|thumbnail|right|ログスケールの周波数(Frequency)と、五線譜上の音との対比。]]
五線の上下は[[全音階]]における音高を表しており、高音ほど上部に置かれる。ところで、音の高さの違いとは、[[基本周波数]]の違いであり、高音ほど基本周波数も多い。したがって、五線の縦方向は、相対的に基本周波数が増大する方向と一致する。ただし、1オクターブ上の音は基本周波数が2倍なのに、2オクターブ上の音は基本周波数が4倍、3オクターブ上の音は基本周波数が8倍となることからも明らかなように、五線譜上の縦方向はリニアスケールではなくログスケール的である。しかしながら、例えば全音階の1種である長音階は移動ドにおける階名で、ドとレ、レとミ、ファとソ、ソとラ、ラとシは全音(長2度)なのに対して、ミとファ、シとドは半音(短2度)である。そうであるのにもかかわらず、五線譜上で、この全音と半音は区別されずに置かれる。このことから明らかなように、五線譜の縦は完全なログスケールでもないことが判る。
=== 横方向 ===
五線の左右は時間を表しており、左から右へと時間が進んでゆく。この意味で五線譜の横方向はリニアスケール的である。ただし、指定されたテンポによって、そこにある音が何秒後に演奏されるかは異なる。例えば、4分の4拍子で60 BPMの場合は、1拍目の音が演奏されてから3拍目の音が演奏されるまでの時間は2 秒であるのに対して、120 BPMならば1 秒である。さらに持続的な速度変化を指示する[[演奏記号]]が存在する場合は、当然ながら、この時間は変化する。その上、実際の演奏では、しばしば演奏者がテンポを揺らすために、演奏記号が無くとも時間が変化する場合がある。また、記譜上の問題として、[[音価 (音楽)|音価]]の短い音符が多い小節では、1小節が横長になりがちである。以上のことから、五線譜の横方向が完全なリニアスケールではないことが判る。
== 関連項目 ==
{{wikibooks|五線と音部記号}}
* [[記譜法]] - [[記譜法#五線記譜法|五線記譜法]]
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[[Category:記譜法]]
[[fi:Nuottikirjoitus#Nuottiviivasto]]
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回収戦車
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回収戦車(かいしゅうせんしゃ)は、故障した戦車の回収を目的として、戦車用シャーシを利用して製造・改修された車輌であり、「装甲回収車(ARV:Armoured Recovery Vehicle)」、「戦車回収車(TRV:Tank Recovery Vehicle)」とも呼ばれる。
装甲回収車との区別・区分には特に明確な基準があるわけではないが、基体に戦車の車体を利用しているもの、もしくは既存の戦車の砲塔を外して回収用機材を増設するなどの改造を施されたものが、特に「回収戦車」と呼ばれることが多い。また、ドイツ語のBergepanzerを直訳すると、「回収戦車」となる。
戦車の回収作業に同種の戦車を使用することは第一次世界大戦の際に「戦車」というものが実戦投入された際にすでに行われていた。当初からその重量と複雑かつ過重気味の機構を持つ「戦車」は戦闘損傷以前に機械故障や軟弱な地盤にはまり込んで行動不能になることも多く、第一次大戦後、「戦車(機甲)部隊」というものが各国で整備されるようになると、様々な理由により行動不能になった戦車を回収・修理して戦線に復帰させることは戦線の維持には重要なことであると考えられ、戦車を回収するための装備もまた重要である、として戦車を運用する部隊には回収用の牽引車両を配属させることが通例となった。
やがて戦車の進歩に伴って車体重量が増加し、従来の車両回収用に使用されてきた半装軌車・トラックなどでは回収作業が困難となり、複数の車両を使用しての重連牽引でかろうじて1両の戦車を回収できる、という状況が多く見られるようになった。そのため、より重い車両でも牽引可能な車輌として戦車を改造した「回収戦車」が製造されることとなった。第二次世界大戦では、砲塔を損傷した戦車から砲塔を取り外し、牽引用ワイヤーやジャッキを追加搭載しただけの現地急造の回収車両が多数製作されている。
この点において第二次大戦におけるドイツ国防軍の戦車修復能力は他国を圧倒しており、ドイツ軍は当初から戦車回収用に多数の半装軌車を戦車部隊に装備し、各種の回収戦車を開発している。
V号戦車パンターの派生型の一つであるPanzer-Bergegerät(Panther I)Sd.kfz.179.戦車回収用器材(パンターI)通称「ベルゲパンター」は、砲塔を撤去して開放型の戦闘室を設け、車内には強力な巻き上げ機が設置されている。フェルディナンド駆逐戦車改造のBergepanzer Tiger(P).ティーガー(P)戦車回収車の場合は戦闘室を撤去した(正確には、フェルディナンドの原型であるティーガー(P)重戦車の砲塔を撤去してエンジンを後部から中央部に移設している)。後に小型の機関銃塔を設置し、クレーンなどの整備機材を搭載している。
従来は戦闘損傷や故障によって生じた余剰車両や旧式化した戦車の再生して製作されることが多かった車種であるが、近年は回収対象となる新型戦車とセットで当初から開発されることが多く、基体となる戦車の砲塔を廃して車体に一体型の密閉型戦闘室を設置し、起重機や巻上げ機などの吊上・索引設備を備えていることが通常である。大型の車両には回収作業時の安定性を増すための駐鋤(ちゅうじょ、英語ではSpade)が装備されていることが多い。
イラク戦争では、首都バグダードにアメリカ軍が侵攻した際にM88A2ハーキュリーズ装甲回収車がサッダーム・フセインの立像を引き倒した場面が、アメリカの勝利を象徴する映像として報道で多用された。
軍において運用されているほかにも、退役した後に民間に払い下げられて重量物牽引車や装軌式クレーン車として使われた車両も数多く存在する。
※は基体となった戦車
アメリカ合衆国
ソビエト連邦/ ロシア
ドイツ
日本
フランス
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回収戦車(かいしゅうせんしゃ)は、故障した戦車の回収を目的として、戦車用シャーシを利用して製造・改修された車輌であり、「装甲回収車」、「戦車回収車」とも呼ばれる。 装甲回収車との区別・区分には特に明確な基準があるわけではないが、基体に戦車の車体を利用しているもの、もしくは既存の戦車の砲塔を外して回収用機材を増設するなどの改造を施されたものが、特に「回収戦車」と呼ばれることが多い。また、ドイツ語のBergepanzerを直訳すると、「回収戦車」となる。
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{{出典の明記|date=2017-06-15}}
[[画像:Type90TankRecovery.jpg|thumb|300px|right|[[陸上自衛隊]]の[[90式戦車回収車]]]]
'''回収戦車'''(かいしゅうせんしゃ)は、故障した[[戦車]]の回収を目的として、戦車用シャーシを利用して製造・改修された車輌であり、「'''[[装甲回収車]]'''('''ARV''':'''A'''rmoured '''R'''ecovery '''V'''ehicle)」、「'''戦車回収車'''('''TRV''':'''T'''ank '''R'''ecovery '''V'''ehicle)」とも呼ばれる。
装甲回収車との区別・区分には特に明確な基準があるわけではないが、基体に戦車の車体を利用しているもの、もしくは既存の戦車の[[砲塔]]を外して回収用機材を増設するなどの改造を施されたものが、特に「回収戦車」と呼ばれることが多い。また、[[ドイツ語]]の'''Bergepanzer'''を直訳すると、「回収戦車」となる。
== 歴史 ==
[[戦車]]の回収作業に同種の戦車を使用することは[[第一次世界大戦]]の際に「戦車」というものが実戦投入された際にすでに行われていた。当初からその重量と複雑かつ過重気味の機構を持つ「戦車」は戦闘損傷以前に機械故障や軟弱な地盤にはまり込んで行動不能になることも多く、第一次大戦後、「戦車(機甲)部隊」というものが各国で整備されるようになると、様々な理由により行動不能になった戦車を回収・修理して戦線に復帰させることは戦線の維持には重要なことであると考えられ、戦車を回収するための装備もまた重要である、として戦車を運用する部隊には回収用の牽引車両を配属させることが通例となった。
やがて戦車の進歩に伴って車体重量が増加し、従来の車両回収用に使用されてきた[[半装軌車]]・[[貨物自動車|トラック]]などでは回収作業が困難となり、複数の車両を使用しての重連牽引でかろうじて1両の戦車を回収できる、という状況が多く見られるようになった。そのため、より重い車両でも牽引可能な車輌として戦車を改造した「回収戦車」が製造されることとなった。[[第二次世界大戦]]では、[[砲塔]]を損傷した戦車から砲塔を取り外し、牽引用ワイヤーやジャッキを追加搭載しただけの現地急造の回収車両が多数製作されている。
[[File:Bergepanther_mg_7814.jpg|thumb|250px|ベルゲパンター([[フランス]]の[[ソミュール戦車博物館]]の展示車両)]]
この点において第二次大戦における[[ドイツ国防軍]]の戦車修復能力は他国を圧倒しており、ドイツ軍は当初から戦車回収用に多数の半装軌車を戦車部隊に装備し、各種の回収戦車を開発している。
[[V号戦車パンター]]の派生型の一つである[[V号戦車パンター#派生型|Panzer-Bergegerät(Panther I)Sd.kfz.179.戦車回収用器材(パンターI)通称「ベルゲパンター」]]は、砲塔を撤去して開放型の戦闘室を設け、車内には強力な巻き上げ機が設置されている。[[エレファント重駆逐戦車|フェルディナンド]][[駆逐戦車]]改造の[[エレファント重駆逐戦車#バリエーション|Bergepanzer Tiger(P).ティーガー(P)戦車回収車]]の場合は戦闘室を撤去した(正確には、フェルディナンドの原型であるティーガー(P)重戦車の砲塔を撤去して[[エンジン]]を後部から中央部に移設している)。後に小型の[[機関銃|機関銃塔]]を設置し、クレーンなどの整備機材を搭載している。
従来は戦闘損傷や故障によって生じた余剰車両や旧式化した戦車の再生して製作されることが多かった車種であるが、近年は回収対象となる新型戦車とセットで当初から開発されることが多く、基体となる戦車の砲塔を廃して車体に一体型の密閉型戦闘室を設置し、[[クレーン|起重機]]や[[ウインチ|巻上げ機]]などの吊上・索引設備を備えていることが通常である。大型の車両には回収作業時の安定性を増すための駐鋤(ちゅうじょ、英語では'''Spade''')が装備されていることが多い。
{{-}}
[[File:SaddamStatue.jpg|thumb|200px|left|[[M88装甲回収車]]によって引き倒されるフセイン像 [[2003年]][[4月9日]]]]
[[イラク戦争]]では、首都[[バグダード]]に[[アメリカ軍]]が侵攻した際に[[M88装甲回収車|M88A2ハーキュリーズ装甲回収車]]が[[サッダーム・フセイン]]の立像を引き倒した場面が、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の勝利を象徴する映像として報道で多用された。
軍において運用されているほかにも、退役した後に民間に払い下げられて重量物牽引車や装軌式クレーン車として使われた車両も数多く存在する。
{{-}}
== 現代の主な回収戦車 ==
※は基体となった戦車
{{col|
{{USA}}
*[[M32 戦車回収車|M32]]※[[M4中戦車|M4 シャーマン]]
*[[M88装甲回収車|M88]]※[[M48パットン|M48 パットン]]
{{SSR}}/{{RUS}}
*[[ISU-T(BTT-1/BTT-1T)]]※[[ISU-122 (自走砲)|ISU-122]]([[IS-2]])
*[[T-54#派生型|T-54-T(VT-54/BTS)]]※[[T-54]]
*[[VT-55|VT-55(BTS-2)]]※[[T-55]]
|
{{DEU}}
*[[レオパルト1#派生型|BPz2]]※[[レオパルト1]]
*[[レオパルト2#派生型|BPz3 ビュッフェル]]※[[レオパルト2]]
{{JPN}}
*[[70式戦車回収車]]※[[61式戦車]]
*[[78式戦車回収車]]※[[74式戦車]]
*[[90式戦車回収車]]※[[90式戦車]]
*[[11式装軌車回収車]]※[[10式戦車]]
|
{{FRA}}
*[[AMX-30#その他派生型|AMX-30D]]※[[AMX-30]]
*[[DNG/DCL戦車回収車|DNG/DCL]]※[[ルクレール]]
}}
<gallery widths="180" heights="150">
ファイル:AMX-30D-cote-droit.jpg|AMX-30D
ファイル:Char de Dépannage DNG-DCL 14 juillet 2006.jpg|DNG/DCL
ファイル:VT-55A - RAF Duxford.jpg|VT-55
ファイル:M88-ARV-4id.jpg|M88
ファイル:JGSDF Type11 Armoured Recovery Vehicle 20160110-01.JPG|11式装軌車回収車
</gallery>
== 関連項目 ==
*[[主力戦車]]
*[[装甲回収車]]
*[[装甲戦闘車両]]
*[[レッカー車]]<!--非装甲の回収車両の項目が無いので、さしあたりレッカー車項目内に軍用レッカー車小項目を設けた-->
{{装甲戦闘車両の分類}}
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[[Category:装甲回収車|*RV]]
[[Category:装甲戦闘車両]]
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18,496 |
雷鋒
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雷 鋒(らい ほう、1940年12月18日 - 1962年8月15日)、本名雷 正興(らい せいこう)は、中国人民解放軍における模範兵士とされる人物のひとりである。
湖南省望城県の出身。児童団や少年先鋒隊に入り活動する。1957年には中国共産主義青年団に入り、中国各地の農場や工場で作業するなどの奉仕活動を続けた。
1960年(1959年)、人民解放軍に入隊、直ちに輸送隊に配属された。
しかし1962年8月15日、遼寧省撫順市望花区で電柱を輸送中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。わずか22歳での殉職だった。
死後、毛沢東などの共産党指導者の言葉を引用した日記が「発見」され、雷鋒は軍人の思想的モデルとして大きく取り上げられるようになった。1963年3月5日に毛沢東によって、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始められた。このスローガンは文化大革命中、各種新聞や学校教科書で盛んに用いられ、雷鋒は模範兵士として無私の象徴として偶像に祭り上げられた。
その後も今日に至るまで政府のキャンペーンで何度も用いられており、3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路の掃除、老人ホームを慰問するなどのボランティア活動の日となっている。また、雷鋒の出身地の長沙と殉職地の撫順では「雷鋒紀念館」が開設されている。
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雷 鋒、本名雷 正興は、中国人民解放軍における模範兵士とされる人物のひとりである。 湖南省望城県の出身。児童団や少年先鋒隊に入り活動する。1957年には中国共産主義青年団に入り、中国各地の農場や工場で作業するなどの奉仕活動を続けた。 1960年(1959年)、人民解放軍に入隊、直ちに輸送隊に配属された。 しかし1962年8月15日、遼寧省撫順市望花区で電柱を輸送中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。わずか22歳での殉職だった。 死後、毛沢東などの共産党指導者の言葉を引用した日記が「発見」され、雷鋒は軍人の思想的モデルとして大きく取り上げられるようになった。1963年3月5日に毛沢東によって、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始められた。このスローガンは文化大革命中、各種新聞や学校教科書で盛んに用いられ、雷鋒は模範兵士として無私の象徴として偶像に祭り上げられた。 その後も今日に至るまで政府のキャンペーンで何度も用いられており、3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路の掃除、老人ホームを慰問するなどのボランティア活動の日となっている。また、雷鋒の出身地の長沙と殉職地の撫順では「雷鋒紀念館」が開設されている。
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{{出典の明記|date=2017年12月3日 (日) 10:12 (UTC)}}
{{基礎情報 軍人
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| 生年月日 = 1940年12月18日
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1940|12|18|1962|08|15}}
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| 画像説明 =
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| 死没地 = {{CHN}}[[遼寧省]][[撫順市]][[望花区]]
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{{中華圏の人物
| 名前=雷鋒
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| 画像の説明=
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| 出身地=
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'''雷 鋒'''(らい ほう、[[1940年]][[12月18日]] - [[1962年]][[8月15日]])、本名'''雷 正興'''(らい せいこう)は、[[中国人民解放軍]]における模範兵士とされる人物のひとりである。
[[湖南省]][[望城県]]の出身。児童団や少年先鋒隊に入り活動する。[[1957年]]には[[中国共産主義青年団]]に入り、[[中華人民共和国|中国]]各地の農場や工場で作業するなどの奉仕活動を続けた。
[[1960年]]([[1959年]])、人民解放軍に入隊、直ちに輸送隊に配属された。
しかし[[1962年]][[8月15日]]、[[遼寧省]][[撫順市]][[望花区]]で電柱を輸送中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。わずか22歳での殉職だった。
[[File:Lei Feng Museum.jpg|thumb|250px|撫順雷鋒紀念館]]
死後、[[毛沢東]]などの[[中国共産党|共産党]]指導者の言葉を引用した日記が「発見」され、雷鋒は軍人の思想的モデルとして大きく取り上げられるようになった。[[1963年]][[3月5日]]に毛沢東によって、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始められた。このスローガンは[[文化大革命]]中、各種新聞や学校教科書で盛んに用いられ、雷鋒は模範兵士として無私の象徴として偶像に祭り上げられた。
その後も今日に至るまで政府のキャンペーンで何度も用いられており、3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路の掃除、[[老人ホーム]]を慰問するなどの[[ボランティア|ボランティア活動]]の日となっている。また、雷鋒の出身地の長沙と殉職地の撫順では「雷鋒紀念館」が開設されている。
==関連項目==
*[[雷鋒故居]](生家)
*[[雷鋒街道]](出身地)
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|雷鋒}}
*[http://www.leifeng.org.cn/ 雷鋒紀念館(中国語)]
*[http://photos1.blogger.com/img/10/2768/320/lei-feng-shirt.jpg 雷鋒Tシャツ]
*[http://chineseposters.net/themes/leifeng.php Stefan Landsberger の、中国プロパガンダポスターのサイト]
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18,497 |
若柳町
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若柳町(わかやなぎちょう)は、宮城県の北部に2005年まであった町である。2005年4月1日に栗原郡の他の町村と合併し、栗原市の一部になった。
宮城県最北部で岩手県に接し、仙台平野の北に位置した。一部丘陵地帯があるが、ほぼ平坦であった。町域は南北に細長く、その中央を南東に向けて迫川が横切る。町の中心市街は迫川をはさんで南北にあり、北は若柳駅、南は町役場でおおよそ限られた。町の南端に伊豆沼があった。
初代 - 若見伍朗
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若柳町(わかやなぎちょう)は、宮城県の北部に2005年まであった町である。2005年4月1日に栗原郡の他の町村と合併し、栗原市の一部になった。
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{{Otheruses|宮城県の廃止された自治体|名古屋市昭和区の地名|若柳町 (名古屋市)}}
{{日本の町村 (廃止)
| 廃止日 = 2005年4月1日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = ([[築館町]]、'''若柳町'''、[[栗駒町]]、[[高清水町]]、[[一迫町]]、[[瀬峰町]]、[[鶯沢町]]、[[金成町]]、[[志波姫町]]、[[花山村]]) → [[栗原市]]
| 現在の自治体 = [[栗原市]]
| よみがな = わかやなぎちょう
| 自治体名 = 若柳町
| 画像 = Izunuma_01.jpg
| 画像の説明 = [[伊豆沼]]
| 区分 = 町
| 都道府県 = 宮城県
| 郡 = [[栗原郡]]
| コード = 04522-5
| 面積 = 52.56
| 境界未定 = なし
| 人口 = 14071
| 人口の時点 = 2005年3月1日
| 人口の出典 = [[推計人口]]
| 隣接自治体 = [[宮城県]]<br /> [[栗原郡]]:[[築館町]]、[[志波姫町]]、[[金成町]]<br /> [[登米郡]]:[[迫町]]、[[石越町]]<br />[[岩手県]]<br /> [[西磐井郡]]:[[花泉町]]
| 木 =
| 花 = [[サクラ]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など =
| 郵便番号 = 989-5502
| 所在地 = 栗原郡若柳町字川南戸の西4番地
| 外部リンク =
| 座標 = {{Coord|format=dms|type:city(14071)_region:JP-04|display=inline,title}}
| 位置画像 = [[ファイル:Wakayanagi-Miyagi.PNG|center]]
| 特記事項 = 世帯数:4,230世帯(2004年8月1日)
| 旗 = [[ファイル:Flag_of_Wakayanagi_Miyagi.JPG|100px|border|若柳町旗]]
| 紋章 = [[ファイル:Wakayanagi_Miyagi chapter.JPG|70px|若柳町章]]
| 旗の説明 = 若柳[[町旗]]
| 紋章の説明 = 若柳[[町章]]
}}
'''若柳町'''(わかやなぎちょう)は、[[宮城県]]の北部に2005年まであった[[町]]である。[[2005年]][[4月1日]]に[[栗原郡]]の他の町村と[[市町村合併|合併]]し、[[栗原市]]の一部になった。
== 地理 ==
宮城県最北部で岩手県に接し、[[仙台平野]]の北に位置した。一部丘陵地帯があるが、ほぼ平坦であった。町域は南北に細長く、その中央を南東に向けて迫川が横切る。町の中心市街は迫川をはさんで南北にあり、北は[[若柳駅]]、南は町役場でおおよそ限られた。町の南端に伊豆沼があった。
* 河川:[[迫川]]、夏川
* 湖沼:[[伊豆沼]]
== 沿革 ==
* [[明治]]22年([[1889年]])4月1日 - 町村制施行にともない、旧来の若柳村単独で町制施行し'''若柳町'''が発足。
* [[昭和]]29年([[1954年]])12月1日 - [[有賀村]]・[[大岡村 (宮城県)|大岡村]]・[[畑岡村 (宮城県)|畑岡村]]と合併し、新制の'''若柳町'''となる。
* [[平成]]17年([[2005年]])4月1日 - 一迫町・鶯沢町・金成町・栗駒町・志波姫町・瀬峰町・高清水町・築館町・花山村と合併し、'''[[栗原市]]'''が発足。
== 行政 ==
* 最後の町長:菅原郁夫([[2000年]]12月11日 - )
* 歴代町長
;昭和の合併以前
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任!!退任!!備考
|-
|1||佐々木嘉平||明治26年(1893年)4月21日||明治33年(1900年)6月29日||
|-
|2||加藤清三郎||明治33年(1900年)7月3日||明治35年(1902年)11月12日||
|-
|3||小野寺卯太郎||明治35年(1902年)12月6日||明治40年(1907年)2月28日||
|-
|4||加藤辰蔵||明治40年(1907年)3月16日||明治40年(1907年)12月23日||
|-
|5||小野寺卯太郎||明治41年(1908年)2月7日||明治43年(1910年)4月27日||再任
|-
|6||加藤清三郎||明治43年(1910年)8月12日||大正3年(1914年)8月11日||再任
|-
|7||二階堂清太郎||大正3年(1914年)8月28日||大正11年(1922年)11月12日||
|-
|8||千田敬一||大正12年(1923年)1月8日||昭和9年(1934年)8月14日||
|-
|9||鹿野利太郎||昭和9年(1934年)8月18日||昭和13年(1938年)8月17日||
|-
|10||菅原健治||昭和13年(1938年)10月29日||昭和17年(1942年)10月28日||
|-
|11||鹿野利太郎||昭和17年(1942年)11月27日||昭和21年(1946年)11月26日||再任
|-
|12||三浦正吉||昭和22年(1947年)4月7日||昭和23年(1948年)10月24日||
|-
|13||鹿野運吉||昭和23年(1948年)12月10日||昭和27年(1952年)12月9日||
|-
|14||小泉清志||昭和27年(1952年)12月10日||昭和29年(1954年)11月30日||
|}
;昭和の合併以後
初代 - 若見伍朗
{{wakumigi|
[[ファイル:KuriharaShiyakushoWakayanagiSogoShisho2005-9-30.jpg|thumb|240px|none|旧若柳町役場。現在は栗原市役所若柳総合支所]]
[[ファイル:Inagi2005-9.jpg|thumb|240px|none|収穫後の稲木]]
[[ファイル:SangenboriKawa2005-9.jpg|thumb|240px|none|三間堀川。左は若柳中学校<br />(写真はいずれも2005年9月)]]
[[File:Wakayanagi Kurihara.JPG|thumb|240px|none|若柳町閉町記念]]
}}
== 教育 ==
* 高校
** [[宮城県迫桜高等学校]]
* 中学校
** 若柳町立若柳中学校
* 小学校
** 若柳町立若柳小学校
** 若柳町立有賀小学校
** 若柳町立大岡小学校
** 若柳町立大目小学校
** 若柳町立畑岡小学校
== 交通 ==
=== 鉄道路線 ===
* [[東日本旅客鉄道]]
** [[東北新幹線]]:線路は通るが[[鉄道駅|駅]]はない。
** [[東北本線]]:線路は通るがこちらも駅はない。
* [[くりはら田園鉄道]]
** [[くりはら田園鉄道線]]:[[荒町駅]] - [[若柳駅]] - [[谷地畑駅]] - [[大岡小前駅]] - [[大岡駅 (宮城県)|大岡駅]]
=== 道路 ===
* 高速道路
** [[東北自動車道]]:[[若柳金成インターチェンジ|若柳金成IC]]
* 一般国道
** [[国道398号]]
* 都道府県道
** [[宮城県道4号中田栗駒線]]
** [[宮城県道176号若柳築館線]]
** [[宮城県道177号新田若柳線]]
** [[宮城県道・岩手県道183号若柳花泉線]]
** [[宮城県道・岩手県道185号有壁若柳線]]
** [[岩手県道・宮城県道186号油島栗駒線]]
** [[宮城県道268号くりこま高原停車場伊豆沼線]]
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
=== 名所 ===
* [[伊豆沼]]
* [[迫川河川公園]]
* [[神寺不動尊]]
=== 祭り ===
* [[若柳桜まつり]]
* [[若柳夏まつり]]
== 出身有名人 ==
* [[宮藤官九郎]] - 脚本家・俳優・映画監督
* [[高橋ジョージ]] - ミュージシャン([[THE 虎舞竜]])
* [[高橋千恵美]] - 陸上競技選手
* ハルカ - ミュージシャン([[ジン (バンド)|ジン]])
* [[星吉昭]] - ミュージシャン([[姫神]])
* [[佐藤弘祐]] - (元プロ野球選手(読売ジャイアンツ、 -2009年)、読売ジャイアンツ二軍サブマネージャー)
* [[小松洋平]] - プロレスラー([[新日本プロレス]]所属)
* [[柴山育朗]] - [[伊藤ハム]]社長
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の音風景100選]]:伊豆沼・内沼のマガン
* [[宮城県の廃止市町村一覧]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:わかやなきちよう}}
[[Category:栗原郡]]
[[Category:栗原市域の廃止市町村]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
[[Category:2005年廃止の日本の市町村]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9F%B3%E7%94%BA
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18,498 |
ウシ
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ウシ(牛)は、哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物である。野生のオーロックスが、人類によって家畜化されて生まれた。但し、アメリカ哺乳類学会では、ウシ、オーロックス、コブウシをそれぞれ独立した種として分類している。
「ウシ」は、狭義では特に(種レベルで)家畜種のウシ(学名:Bos taurus)を指す。一方、やや広義では、ウシ属 (genus Bos) を指し、そこにはバンテンなどの野生牛が含まれる。さらに広義では、ウシ亜科 (subfamilia Bovinae) の総称である。すなわち、アフリカスイギュウ属、アジアスイギュウ属、ウシ属、バイソン属などを指す。これらは牛と認められる共通の体形と特徴を持つ。大きな胴体、短い首と一対の角、胴体と比べて短めで前後にだけしか動けない脚、軽快さの乏しい比較的鈍重な動き、などが特徴である。ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)にキリン類やシカ類、また、同じウシ科の仲間としてヤギ、ヒツジ、レイヨウなどがあるが、これらが牛と混同されることはまずない。
以下ではこのうち、上記の狭義である「家畜ウシ」について解説する。
ウシは、伝統的には牛肉食文化が存在しなかった地域においては、例えば漢字文化圏における「牛」ないし十二支の配分である「丑(うし)」のように、単一語で総称されてきた。これに対し、古くから牛肉食や酪農を目的とする家畜としての飼育文化や放牧が長く行われてきた西洋地域(例えば、主に英語圏など商業的牛肉畜産業が盛んな地域)においては、ウシの諸条件(性別、避妊・去勢の有無、食肉用、乳牛、等)によって多種多様な呼称をもつ傾向がある。
近代以降欧米由来の食文化のグローバル化が進展し、宗教的理由から牛肉食がタブーとされている地域を除いては、牛肉食文化の世界的拡散が顕著である。特に商業畜産的要因から、現代の畜産・肥育・流通現場においては世界各地で細分化された名称が用いられる傾向がある。
なお、牡、牝はウマにも用いられる特殊な字である。
日本語における年齢を基準とした呼び分けは牛においても一般的用法と変わりなく、つまり、人間や他の動植物と同じく[年少:幼牛─若牛─成牛─老牛:年長]という呼び分けがあるが、体系的に用いられるわけではない。一方、畜養・医療・加工・流通・管理・研究等々諸分野の専門用語として、通用語と全く異なる語が用いられていることもある。また、親牛・仔牛という本来は親と子の関係を表していた名称は、一般・専門ともによく用いられる。
畜産業界ないし肥育業界、ないし牛肉産品を流通・販売する業界などにおいては、さらに多様に表現されている。
日本の東北地方では牛をべこと呼ぶ。牛の鳴き声(べー)に、「こ」をつけたことによる。地方によっては「べご」「べごっこ」とも呼ぶ。
柳田國男によれば、日本語では牡牛が「ことひ」、牝牛が「おなめ」であった。また、九州の一部ではシシすなわち食肉とされていたらしく、「タジシ(田鹿)」と呼ばれていた。
ウシは反芻動物である。反芻動物とは反芻(はんすう)する動物のことであるが、そもそも「反芻」とは、一度呑み下して消化器系に送り込んだ食物を口の中に戻して咀嚼し直し、再び呑み込むことをいう。このような食物摂取の方法を取ることで栄養の吸収効率を格段に上げる方向へ進化し、その有利性から生態系の中で大成功を収めて世界中に拡散した動物群が、反芻動物であった。多様に見えて、その実、単系統群である。そのような反芻動物の中でも、ウシが属するウシ科はとりわけ進化の度合いが深まった分類群(タクソン)の一つであり、ウシの仲間(※少し範囲を広げてウシ族と言ってもよい)は勢力的にも代表格と言える。彼らは、ヒトに飼われて殖えたのも確かではあるが、もともと自然の状態で生態上(種数と生物量の両面で)の大勢力であった。反芻動物の進化がウシ科のレベルまで深まる以前に勢力を誇っていたのはウマに代表される奇蹄類であり、ウシ科は栄養吸収効率の大きな差を活かして奇蹄類を隅に押しやり分布を広めた。そのことは地質学的知見で証明可能である。家畜としても比較されることの多いウシとウマであるが、同じ質と量の餌を与えた場合、栄養面で報いが大きいのは間違いなくウシであるということもできる。
反芻動物の具える胃を「反芻胃(はんすうい)」といい、マメジカのような原始的な種を除き、ウシを含むほとんどの反芻動物が4つの胃を具える。ただし実際には、胃液を分泌する本来の意味での胃は第4胃の「皺胃(しゅうい)・ギアラ」のみであり、それより口腔に近い「前胃(ぜんい)」と総称される消化器系、第1胃「瘤胃(りゅうい)・ミノ」・第2胃「蜂巣胃(ほうそうい)・ハチノス」・第3胃「重弁胃(じゅうべんい)・センマイ」は食道が変化したものである。ここを共生微生物の住まう植物繊維発酵槽に変えることで、反芻は極めて効果的な消化吸収システムになった。ウシの場合、この前胃に、草の繊維(セルロースなど)を分解(化学分解)する細菌類(バクテリア)および繊毛虫類(インフゾリア)を始めとする微生物を大量に常在させ、繊維を吸収可能な状態に変えさせ、収穫するようにそれを吸収するという方法で草を"食べている"。前胃の微生物を総じて胃内常在微生物叢などというが、ウシはこれら微生物の殖えすぎた分も動物性蛋白質として消化・吸収し、栄養に変えている。
ウシの味蕾は25,000個で味蕾が5000個のヒトの5倍を有する。ウシは毒物で反芻胃の微生物が死なないように味覚で食べる草をより分けている。
ウシの歯は、牡牛の場合は上顎に12本、下顎に20本で、上顎の切歯(前歯)は無い。そのため、草を食べる時には長い舌で巻き取って口に運ぶ。
鼻には、個体ごとに異なる鼻紋があり、個体の識別に利用される。
家畜であるウシは、畜牛(ちくぎゅう)といい、その身体を食用や工業用などと多岐にわたって利用される。肉を得ることを主目的として飼養される牛を肉牛(にくぎゅう)というが、肉牛ばかりが食用になるわけでもない。牛の肉を、日本語では牛肉(ぎゅうにく)という。仔牛肉以外は外来語でビーフともいう。家畜の内臓は、畜産副産物の一つという扱いになる。日本では「もつ」あるいは「ホルモン」と呼んで食用にする。世界には食用でなくとも、内臓を様々に利用する文化がある。仔牛肉/子牛肉(こうしにく)は特に区別されていて、月齢によって「ヴィール」「カーフ」と呼び分ける。牛の脂肉を食用に精製した脂肪は牛脂(ぎゅうし)もしくはヘットという。
牛の骨すなわち牛骨(ぎゅうこつ)は、加工食品の原料や料理の食材になるほか、肥料や膠にも利用できる。ただ、ヒンドゥー教では、牛の命の消費全般をタブーとしているため、牛膠もまた、その宗教圏および信仰者においては絵画を始めとする物品の一切に用いるべきでないものとされている。牛の骨油である牛骨油(ぎゅうこつゆ)は、食用と工業用に回される。工業用牛骨油の主な用途は石鹸と蝋燭である。ギターなどの楽器の部品にもなる。
牛の皮膚すなわち牛皮(ぎゅうひ、ぎゅうかわ、うしがわ)は、鞣しの工程を経て牛革に加工され、衣服(古代人の上着・ベルト・履物などから現代人の革ジャンやレーシングスーツまで)、武具(牛革張りの盾や刀剣の鞘や兜、牛革のレザーアーマーなど)、鞄など収納道具、装飾品(豪華本の表装などを含む)、調度品(革張りのソファなど)、その他の材料になる。ここでも仔牛は特に区別されており、皮革の材料としての仔牛、および、その皮革を、仔牛と同じ語でもって「カーフ」と呼ぶ。
牛乳(ぎゅうにゅう)やその加工品を得ることを主目的として飼養される牛は、乳牛(にゅうぎゅう)という。
牛糞(ぎゅうふん、うしくそ)は、肥料として広く利用されるほか、燃料や建築材料として利用する地域も少なくない(後述)。
使役動物としての牛は役牛(えきぎゅう)といい、古来から、自動車に置き換わるまで先進国においても近年まで、馬とともに人類に広く利用されてきた。農耕用と、直接の乗用も含む人および物品の運搬用の、動力としての利用が主である。農耕のための牛は耕牛(こうぎゅう)という。運搬用というのは主に牛車(ぎゅうしゃ、うしぐるま)用であるが、古来中国などではそれに限らない。
痩せた土地に家畜を放し、他所から運び込んだ自然の飼料で飼養することによって土壌改良を図る方法があり、体格が大きく餌の摂取量も排泄量も多い牛は、このような目的をもった放牧に打ってつけの家畜でもある。
牛を娯楽に利用する文化は、世界を見渡せば散見される。牛同士を闘わせるのは、アジアの一部の国・地域(日本、朝鮮、オマーンなど)における伝統的娯楽で、これを闘牛(とうぎゅう)という(闘牛#日本における闘牛も参照)。暴れ牛と剣士を闘わせるのは、西ゴート王国に始まり、イベリア半島を中心に伝統的に行われてきたブラッドスポーツの一種で、これも日本語では闘牛という(cf. 闘牛#スペイン闘牛の歴史)。暴れ牛と闘う剣士を闘牛士というが、対等の闘いではなく、絶対的有利な立場にある剣士が華麗な身のこなしと殺しを披露する見世物である。18世紀ごろのイギリスでは、牡牛と犬を闘わせる見世物として「牛いじめ(ブルベイティング、英:bullbaiting)」が流行し、牡牛(ブル)と闘うよう品種改良された犬、すなわち「ブルドッグ」が、現在のブルドッグの原形として登場した。このブラッドスポーツは残酷だとして1835年に禁止され、姿を消している。危険な暴れ牛や暴れ馬の背に乗ってみせるのは、北アメリカで発祥したロデオで、競技化しており、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、および、南アメリカの幾つかの国で盛んに興行が打たれている。
農耕を助ける貴重な労働力である牛を殺して神に供える犠牲獣とし、そこから転じて牛そのものを神聖な生き物として崇敬することは、古代より永くに亘って広範な地域で続けられてきた信仰である。現在の例として、インドの特にヒンドゥー教徒の間で牛が神聖な生き物として敬われ、食のタブーとして肉食されることの無いことは、よく知られている。インダス文明でも牛が神聖視されていた可能性があり、インド社会における係る概念の永続性は驚くべきものがある。また、興奮した牛の群れにあえて追われるスペインなどラテン文化圏の祭事「エンシエロ」、聖なる牛の群れに踏まれることでその年の幸運を得ようとするムガル帝国時代より続くヒンドゥー教の祭事「ゲーイ・ガウーリ」(ディーワーリーの期間中に行われる祭事の一つ)など、過激な伝統行事も世界にはある。
家畜としての牛は、主に肉牛と乳牛に分けられる。(ヨーロッパに多い乳肉兼用種というのもある)
肉用牛には3種の区分があり、それぞれ「肉専用種(和牛)」「乳用種(乳牛から生まれた雄)」「交雑種(F1:乳牛雌に肉専用種雄を交配した種)」と呼ばれている。
繁殖農家で生まれた子牛は、1カ月齢~3カ月齢で、人為的に母子分離及び離乳が同時に行われるのが一般的である。これは子牛にとって強いストレスとなる。そのため、子牛にトゲの付いた鼻輪を装着させ、子牛が乳を吸おうとすると母牛が嫌がるようにしむけ、離乳を先に行い、のちに母子分離をするという手法がとられることもある。
子牛は250-300kgになる10か月齢から12か月齢まで育成され、「素牛(もとうし)」(6か月齢〜12か月齢の牛)市場に出荷され(2-4か月齢で出荷されるスモール牛市場もある)、肥育農家に競り落とされる。競り落とされた素牛は肥育農家まで運ばれる。長距離になると輸送の疲れで10kg以上やせてしまうこともある。
その後、「肥育牛」として肥育される。飼育方法は、繋ぎ飼い方式・放牧方式などがあるが、日本では数頭ずつをまとめて牛舎に入れる(追い込み式牛舎)群飼方式が一般的である。運動不足による関節炎の予防や蹄の正常な状態を保つためには放牧又は運動場への放飼が必要であるが、国内では88%が放牧あるいや放飼を行っていない。そのため日本の77%の農家が削蹄を行っている。削蹄は年2回が望ましいが、年に1回もしくは1回未満の農場が78%を占める。
肥育前期(7か月程度)は牛の内臓(特に胃)と骨格の成長に気をつけ、粗飼料を給餌される。肥育中期から後期(8-20か月程度)にかけては高カロリーの濃厚飼料を給餌され、筋肉の中に脂肪をつけられる(筋肉の中の脂肪は「さし」とよばれ、さしの多いものを霜降り肉と言う)。
肉用牛は、生後2年半から3年、体重が700kg前後で出荷され、屠殺される。
肉牛を産むための雌牛(繁殖用雌牛)は、繁殖用として優れた資質・血統をもつ雌牛が選ばれる。繁殖用雌牛は、生後14か月から16か月で初めての人工授精(1950年に家畜改良増殖法が制定され、人工授精普及の基盤が確立し、今日では日本の牛の繁殖は99%が凍結精液を用いた人工授精によってなされている)が行われ、約10か月(285日前後)で分娩する。生産効率を上げるため、1年1産を目標に、分娩後約80日程度で次の人工授精が行われる。8産以上となると、生まれた子牛の市場価格が低くなり、また繁殖用雌牛の経産牛の肉としての価格も低くなる場合があるため、標準的には6-8産で廃用となり、屠殺される。また、受胎率が悪かったり、生まれた子牛の発育が悪かったりすると、早目に廃用となる。
牛は、飼料の確保や社会的順位の確立等のため、他の牛に対し、角を用いて争うことがある。そのため牛舎内での高密度の群飼い(狭い時で1頭当たり5m前後)ではケガが発生しやすく、肉質の低下に繋がることもある。また管理者が死傷することを防止するためにも、牛の除角(牛がまだ小さいころに、焼き鏝や刃物、薬剤などで角芽を除去すること)あるいは断角(角が成長してから切断すること)は有効な手段と考えられている。
日本では肉牛の59.5%、乳牛の85.5%が断角/除角されている。断角/除角は激痛を伴い牛への負担が大きく、ショック死する例も報告されているが、麻酔を使用する農家は肉牛で17.3%、乳牛で14%と低い。断角/除角の方法は、腐食性軟膏や断角器、焼きごて、のこぎり、頭蓋骨から角をえぐり取る除角スプーンなどを使う。
農水省が普及に努めている「アニマルウェルフェアの考え方に対応した飼養管理指針」では肉牛、乳牛ともに「除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な角が未発達な時期(遅くとも生後2ヵ月以内)に実施することが推奨される」。だが実際には、乳牛では45%、肉牛では85%が3ケ月齢以上で断角/除角されている。
雄牛を去勢しないで肥育した場合、キメが粗くて硬く、消費者に好まれない牛肉に仕上がる。また去勢しない雄牛を牛舎内で群飼すると、牛同士の闘争が激しくなり、ケガが発生しやすく肉質の低下にもつながる。こういった理由から、肉用に飼育されるオスは一般的に去勢される。去勢の方法は、陰嚢を切開して、精索と血管を何度か捻りながら、引いてちぎる観血去勢法、皮膚の上からバルザックやゴムリングを用いて挫滅、壊死させる無血去勢法が一般的で、特別な場合を除いて、麻酔は行われない。日本も加盟するOIEの肉用牛の動物福祉規約には3ヶ月齢より前に実施することが推奨されているが、日本の肉牛の90.9%は3ヵ月以上で去勢されている。観血去勢では術中や術後の消毒不足や敷料等が傷口に入ることで化膿や肉芽腫の形成等が見られることがある。
鼻環による痛みを利用することで、牛の移動をスムーズにさせ、調教しやすくできる。日本の肉牛農家では76.1%で鼻環の装着が行われている(乳牛における装着率は不明)。鼻環通しで麻酔は使用されない。農水省が普及に努めている「アニマルウェルフェアの考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」は鼻環の装着について「牛へのストレスを極力減らし、可能な限り苦痛を生じさせないよう、素早く適切な位置に装着すること」としている。
牛は粗い植物を食べて成長、繁殖するよう進化してきた生き物であるが、肉牛経営では生産性を高めるために炭水化物を多く含んだ濃厚飼料が多給されており、動物福祉的に問題視されている。調査では、高値で取引される等級の高い肉において、水腫や肺疾患が多かったと報告されており、原因として濃厚飼料の多給やビタミンAの給与制限などの偏った給餌が指摘された。
霜降り肉を作るためには、筋肉繊維の中へ脂肪を交雑させる、という通常ではない状態を作り出さなければならない。そのため、脂肪細胞の増殖を抑える働きのあるビタミンAの給与制限が行われる。ビタミンA欠乏が慢性的に続くと、光の情報を視神経に伝えるロドプシンという物質が機能しなくなる。重度になり、瞳孔が開いていき、弱視・失明に至ることがある。ビタミンA欠乏の徴候が表れた場合カロテンを含んだ飼料やビタミン剤の投与でこれを補う必要がある。
舌を口の外へ長く出したり左右に動かしたり、丸めたり、さらには柵や空の飼槽などを舐める動作を持続的に行うことを指す。粗飼料不足や、繋留、単飼(1頭のみで飼育する)などの行動抑制が要因とされており、そのストレスから逃れるためにこの行動が発現する。舌遊び行動中は心拍数が低下することが認められている。また生産サイクルをあげるために、産まれてすぐに母牛から離されることも舌遊びの要因とされている。「子牛は自然哺乳の場合1時間に6000回母牛の乳頭を吸うといわれている。その半分は単なるおしゃぶりにすぎないが、子牛の精神の安定に大きな意味をもつ。子牛は母牛の乳頭に吸い付きたいという強い欲求を持っているが、それが満たされないため、子牛は乳頭に似たものに向かっていく。成牛になっても満たされなかった欲求が葛藤行動として「舌遊び」にあらわれる」。
実態調査では、種付け用黒毛和牛の雄牛の100%、同ホルスタイン種の雄牛の6%、食肉用に肥育されている去勢黒毛和牛の雄牛の76%、黒毛和牛の雌牛の89%、ホルスタイン種の17%で舌遊び行動が認められたとある。
稀なケースであるが、牧場内に広葉樹がありドングリが採餌できる環境にあると、ドングリの成分であるポリフェノールを過剰摂取してしまい中毒死することがある。
世界に棲息する牛のうち、家畜として飼育されている頭数に関しては、国際連合食糧農業機関 (FAO) による毎年の調査結果が、1990年以降公表されている。統計には、一般的な牛のほか、コブウシ、ガウルなどのアジア牛、ヤクを含む。スイギュウやバイソンは含まない。
牛を聖なる動物と見なすヒンドゥー教の影響もあってインドが世界を圧倒する飼育頭数で知られ、長らく世界一の座を占めていた。しかし、2003年にブラジルがインドに換わって世界第1位となった。これは、アマゾン熱帯雨林の破壊と牧場開発が以前にも増して急速に進み、アマゾン地方の牛飼育頭数が激増してきた結果であった。 2008年には再びインドが第1位になったものの、インド・ブラジル両国の頭数はほぼ拮抗している。
牛の飼育数は新興国を中心に増え続けており2020年の推定総頭数は15億2593万9479頭である。
肉は牛肉として、また乳は牛乳として、それぞれ食用となる。食用は牛の最も重要な用途であり、肉・乳ともに人類の重要な食料供給源の一つとなってきた。牛乳も牛肉も、そのまま食用とされるだけでなく、乳製品や各種食品などに加工される原料となることも多い。
年老いて乳の出が悪くなった乳牛の経産牛は、肉質は硬くなって低下し、体も痩せ細ってしまう。21世紀初期の日本の場合、こういった個体は廃用牛の扱いを受け、安値でペットフード用など人間向けの食用以外に回されるのが一般的である。しかし、再肥育して肉質を高めることで人間向けの食用牛としての市場価値を“再生”させることに成功している業者もいるにはいる。
胆石は牛黄(ごおう)という生薬で、漢方薬の薬材。解熱、鎮痙、強心などの効能がある。救心、六神丸などの、動悸・息切れ・気付けを効能とする医薬品の主成分となっている。日本薬局方に収録されている生薬である。
牛の胆石は、人為的ではない状態では千頭に一頭の割合でしか発見されない、と言われていたため、大規模で食肉加工する設備を有する国が牛黄の主産国となっている。オーストラリア、アメリカ、ブラジル、インドなどの国がそうである。ただし、BSEの問題で北米産の牛黄は事実上、使用禁止となっていることと、中国需要の高まりで、牛黄の国際価格は上げ基調である。
現在では、牛を殺さずに胆汁を取り出して体外で結石を合成したり、外科的手法で牛の胆嚢内に結石の原因菌を注入して確実に結石を生成させる、「人工牛黄」または「培養牛黄」が安価な生薬として普及しつつある。
糞は肥料にされる。与えられた飼料により肥料成分は異なってくるが、総じて肥料成分は低い。肥料としての効果よりも、堆肥のような土壌改良の効果の方が期待できる。また、堆肥化して利用することも多い。園芸店などで普通に市販されている。
乾燥地域では牛糞がよく乾燥するため、燃料に使われる。森林資源に乏しいモンゴル高原では、牛糞は貴重な燃料になる。またエネルギー資源の多様化の流れから、牛糞から得られるメタンガスによるバイオマス発電への利用などが模索されており、スウェーデンなどでは実用化が進んでいる。
また、インドなどの発展途上国では牛糞を円形にして壁に貼り付け、一週間ほど乾燥させて牛糞ケーキを作製し、燃料として用いている(匂いもなく、火力も強い)。
アフリカなどでは住居内の室温の上昇を避けるために、牛糞を住居の壁や屋根に塗ることがある。
水彩画では胆汁をぼかし・にじみ用の界面活性剤として用いる。
タウリン(taurine)は牛の胆汁から発見されたため、ラテン語で雄牛を意味する「タウルス(taurus)」から命名された。
ウシは新石器時代に西アジアとインドで野生のオーロックスが別個に家畜化されて生まれた。学説としては、西アジアで家畜化されたものが他地域に広がったという一元説が長く有力であった。ところが、1990年代になされたミトコンドリアDNAを使った系統分析で、現生のウシがインド系のゼブ牛と北方系のタウルス牛に大きく分かれ、その分岐時期が20万年前から100万年前と推定された。これは、せいぜい1万年前とされるウシの家畜化時期よりはるかに古い。そこで、オーロックスにもとからあった二系統が、人類によって別々に家畜化された結果、今あるゼブ牛、タウルス牛となったという二元説が広く支持されている。
ウシは、亜種関係のゼブ牛・タウルス牛の間はもとより、原種のオーロックスとも問題なく子孫を残せるので、家畜化された後に各地で交雑が起こった。遺伝子分析によれば、ヨーロッパの牛にはその地のオーロックスの遺伝子が入り込んでいる。東南アジアとアフリカの牛は、ゼブ牛とタウルス牛の子孫である。さらに、東南アジア島嶼部のウシには、別種だがウシとの交雑が可能なこともあるバンテンの遺伝子が認められる。
ウシの家畜化は、ヤギやヒツジと比べて遅れた。オーロックスは獰猛で巨大な生物であったので、小型の動物で飼育に習熟してはじめて家畜化に成功したと考えられている。しかしいったん家畜化されると、ウシはその有用性によって牧畜の中心的存在となった。やがて成立したエジプト文明やメソポタミア文明、インダス文明においてウシは農耕用や牽引用の動力として重要であり、また各種の祭式にも使用された。紀元前6世紀初頭にはメソポタミアにおいてプラウ(犁)が発明され、その牽引力としてウシはさらに役畜としての重要度を増した。このプラウ使用はこれ以降の各地の文明にも伝播した。
ウシはやがて世界の各地へと広がっていった。ヨーロッパではウシは珍重され、最も重要な家畜とされていた。8世紀後半ごろには車輪付きのプラウが開発され、またくびきの形に改良が加わることで牽引力としての牛はさらに重要となった。牛肉はヨーロッパ全域で食用とされ、中世の食用肉のおよそ3分の2は牛肉で占められていた。ヨーロッパ北部では食用油脂の中心はバターであり、また牛乳も盛んに飲用された。ヨーロッパ南部では食用油脂の中心はオリーブオイルであり、牛乳の飲用もさほど盛んでなかったが、牛肉は北部と比べ盛んに食用とされた。
アフリカにおいてはツェツェバエの害などによって伝播が阻害されたものの、紀元前1500年ごろにはギニアのフータ・ジャロン山地でツェツェバエに耐性のある種が選抜され、西アフリカからヴィクトリア湖畔にかけては紀元前500年頃までにはウシの飼育が広がっていた。インドにおいてはバラモン教時代はウシは食用となっていたが、ヒンドゥー教への転換が進む中でウシが神聖視されるようになり、ウシの肉を食用とすることを禁じるようになった。しかし、乳製品や農耕用としての需要からウシは飼育され続け、世界有数の飼育国であり続けることとなった。
新大陸にはオーロックスが存在せず、1494年にクリストファー・コロンブスによって持ち込まれたのが始まりである。新大陸の気候風土にウシは適合し、各地で飼育されるようになった。とくにアルゼンチンのパンパにおいては、持ち込まれた牛の群れが野生化し、19世紀後半には1,500万頭から2,000万頭にも達した。このウシの群れに依存する人々はガウチョと呼ばれ、アルゼンチンやウルグアイの歴史上重要な役割を果たしたが、19世紀後半にパンパ全域が牧場化し野生のウシの群れが消滅すると姿を消した。北アメリカ大陸においてもウシは急速に広がり、19世紀後半には大陸横断鉄道の開通によってウシを鉄道駅にまで移送し市場であるアメリカ東部へと送り出す姿が見られるようになった。この移送を行う牧童はカウボーイと呼ばれ、ウシの大規模陸送がすたれたのちもその独自の文化はアメリカ文化の象徴となっている。
1880年代には冷凍船が開発され、遠距離間の牛肉の輸送が可能となった。これはアルゼンチンやウルグアイにおいて牧場の大規模化や効率化をもたらし、牛肉輸出は両国の基幹産業となった。また、鉄道の発達によって牛乳を農家から大都市の市場へと迅速に大量に供給することが可能になったうえ、ルイ・パスツールによって低温殺菌法(パスチャライゼーション)が開発され、さらに冷蔵技術も進歩したことで、チーズやバターなどの乳製品に加工することなくそのまま牛乳を飲む習慣が一般化した。こうした技術の発展によって、ウシの利用はますます増加し、頭数も増加していった。
日本列島では東京都港区の伊皿子貝塚から弥生時代の牛骨が出土したとされるが、後代の混入の可能性も指摘される。日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。古墳時代前期にも確実な牛骨の出土はないが、牛を形象した埴輪が存在しているため、この頃には飼育が始まっていたと考えられている。古墳後期(5世紀)には奈良県御所市の南郷遺跡から牛骨が出土しており、最古の資料とされる。
当初から日本では役畜や牛車の牽引としての使用が主であったが、牛肉も食されていたほか、牛角・牛皮や骨髄の利用も行われていたと考えられている。675年に天武天皇は、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じた。禁止令発出後もウシの肉はしばしば食されていたものの、禁止令は以後も鎌倉時代初期に至るまで繰り返して発出され、やがて肉食は農耕に害をもたらす行為とみなされ、肉食そのものが穢れであるとの考え方が広がり、牛肉食はすたれていった。8世紀から10世紀ごろにかけては酪や、蘇、醍醐といった乳製品が製造されていたが、朝廷の衰微とともに製造も途絶え、以後日本では明治時代に至るまで乳製品の製造・使用は行われなかった。
また、広島県の草戸千軒町遺跡出土の頭骨のない牛の出土事例などから頭骨を用いた祭祀用途も想定されており、馬が特定の権力者と結びつき丁重に埋葬される事例が見られるのに対し、牛の埋葬事例は見られないことが指摘されている。
古代の日本では総じて牛より馬の数が多かった。平安時代の『延喜式』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では武士団の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、伊勢湾と若狭湾を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる。
牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。戦国時代にはポルトガルの宣教師たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、キリシタン大名の高山右近らが牛肉を振舞ったとの記録もあるものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。江戸時代には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあったももんじ屋と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また彦根藩は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかった。しかし、日本においてウシの主要な用途はあくまでも役牛としての利用であり続けた。
日本においてウシが公然と食されるようになるのは明治時代である。文明開化によって欧米の文化が流入する中、欧米の重要な食文化である牛肉食もまた流れ込み、銀座において牛鍋屋が人気を博すなど、次第に牛肉食も市民権を得ていった。また、乳製品の利用・製造も復活した。
人間に身近で、印象的な角を持つ大型家畜である牛は、世界各地で信仰対象や動物に関連する様々な民俗・文化のテーマになってきた。
古代エジプト人はオシリス、ハトホル信仰を通して雄牛(ハピ、ギリシャ名ではアピス)を聖牛として崇め、第一王朝時代(紀元前2900年ごろ)には「ハピの走り」と呼ばれる行事が行われていた。創造神プタハの化身としてアピス牛信仰は古代エジプトに根を下ろし、ラムセス2世の時代にはアピス牛のための地下墳墓セラペウムが建設された。聖牛の特徴とされる全身が黒く、額に白い菱形の模様を持つウシが生まれると生涯神殿で手厚い世話を受け、死んだ時には国中が喪に服した。一方、普通のウシは食肉や労働力として利用されていたことが壁画などから分かっている。
主にインドで信仰されているヒンドゥー教では牛(特にコブウシ)を神聖視している(スイギュウはそうではない)。このためインドは牛の飼育頭数は多いものの、牛肉食を忌避する国民が多い。インドでは従来も州により、牛肉の扱いを規制していた。2017年5月26日にはインド連邦政府が、食肉処理を目的とした家畜市場における牛の売買を禁止する法令を出した。これに対して、イスラム教徒や世俗主義者から「食事の選択権に対する侵害」として反対運動や訴訟が起き、インド最高裁判所は7月11日に法令差し止めを決めた。インドでは牛肉を売ったり、食べたりしたと思われた人が殺害される事件も起きている。
日本でも牛(丑)は十二支の鳥獣に入っているほか、牛頭天王のような神や、牛鬼など妖怪のモチーフになっている。また、身近にいる巨大な哺乳類であることから、その種の中で大きい体格を持つ生き物の和名に用いられることがある(ウシエビ、ウシガエル、ウシアブなど)。
牛が紋章に描かれることは一般的である。
ウシは反芻動物であり、反芻を繰り返すことにより、飼料を微生物が分解しメタンガスが発生する。これは地球温暖化の深刻な一因と言われており、アメリカではメタンの総発生量の26パーセントが牛のげっぷによるものである。3-ニトロオキシプロパノール(3NOP)と呼ばれる成分を餌に混ぜるなどしてげっぷを少なくする研究が進んでいる。
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"text": "ウシ(牛)は、哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物である。野生のオーロックスが、人類によって家畜化されて生まれた。但し、アメリカ哺乳類学会では、ウシ、オーロックス、コブウシをそれぞれ独立した種として分類している。",
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"text": "「ウシ」は、狭義では特に(種レベルで)家畜種のウシ(学名:Bos taurus)を指す。一方、やや広義では、ウシ属 (genus Bos) を指し、そこにはバンテンなどの野生牛が含まれる。さらに広義では、ウシ亜科 (subfamilia Bovinae) の総称である。すなわち、アフリカスイギュウ属、アジアスイギュウ属、ウシ属、バイソン属などを指す。これらは牛と認められる共通の体形と特徴を持つ。大きな胴体、短い首と一対の角、胴体と比べて短めで前後にだけしか動けない脚、軽快さの乏しい比較的鈍重な動き、などが特徴である。ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)にキリン類やシカ類、また、同じウシ科の仲間としてヤギ、ヒツジ、レイヨウなどがあるが、これらが牛と混同されることはまずない。",
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"text": "以下ではこのうち、上記の狭義である「家畜ウシ」について解説する。",
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"text": "ウシは、伝統的には牛肉食文化が存在しなかった地域においては、例えば漢字文化圏における「牛」ないし十二支の配分である「丑(うし)」のように、単一語で総称されてきた。これに対し、古くから牛肉食や酪農を目的とする家畜としての飼育文化や放牧が長く行われてきた西洋地域(例えば、主に英語圏など商業的牛肉畜産業が盛んな地域)においては、ウシの諸条件(性別、避妊・去勢の有無、食肉用、乳牛、等)によって多種多様な呼称をもつ傾向がある。",
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"tag": "p",
"text": "反芻動物の具える胃を「反芻胃(はんすうい)」といい、マメジカのような原始的な種を除き、ウシを含むほとんどの反芻動物が4つの胃を具える。ただし実際には、胃液を分泌する本来の意味での胃は第4胃の「皺胃(しゅうい)・ギアラ」のみであり、それより口腔に近い「前胃(ぜんい)」と総称される消化器系、第1胃「瘤胃(りゅうい)・ミノ」・第2胃「蜂巣胃(ほうそうい)・ハチノス」・第3胃「重弁胃(じゅうべんい)・センマイ」は食道が変化したものである。ここを共生微生物の住まう植物繊維発酵槽に変えることで、反芻は極めて効果的な消化吸収システムになった。ウシの場合、この前胃に、草の繊維(セルロースなど)を分解(化学分解)する細菌類(バクテリア)および繊毛虫類(インフゾリア)を始めとする微生物を大量に常在させ、繊維を吸収可能な状態に変えさせ、収穫するようにそれを吸収するという方法で草を\"食べている\"。前胃の微生物を総じて胃内常在微生物叢などというが、ウシはこれら微生物の殖えすぎた分も動物性蛋白質として消化・吸収し、栄養に変えている。",
"title": "形質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ウシの味蕾は25,000個で味蕾が5000個のヒトの5倍を有する。ウシは毒物で反芻胃の微生物が死なないように味覚で食べる草をより分けている。",
"title": "形質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "ウシの歯は、牡牛の場合は上顎に12本、下顎に20本で、上顎の切歯(前歯)は無い。そのため、草を食べる時には長い舌で巻き取って口に運ぶ。",
"title": "形質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "鼻には、個体ごとに異なる鼻紋があり、個体の識別に利用される。",
"title": "形質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "家畜であるウシは、畜牛(ちくぎゅう)といい、その身体を食用や工業用などと多岐にわたって利用される。肉を得ることを主目的として飼養される牛を肉牛(にくぎゅう)というが、肉牛ばかりが食用になるわけでもない。牛の肉を、日本語では牛肉(ぎゅうにく)という。仔牛肉以外は外来語でビーフともいう。家畜の内臓は、畜産副産物の一つという扱いになる。日本では「もつ」あるいは「ホルモン」と呼んで食用にする。世界には食用でなくとも、内臓を様々に利用する文化がある。仔牛肉/子牛肉(こうしにく)は特に区別されていて、月齢によって「ヴィール」「カーフ」と呼び分ける。牛の脂肉を食用に精製した脂肪は牛脂(ぎゅうし)もしくはヘットという。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "牛の骨すなわち牛骨(ぎゅうこつ)は、加工食品の原料や料理の食材になるほか、肥料や膠にも利用できる。ただ、ヒンドゥー教では、牛の命の消費全般をタブーとしているため、牛膠もまた、その宗教圏および信仰者においては絵画を始めとする物品の一切に用いるべきでないものとされている。牛の骨油である牛骨油(ぎゅうこつゆ)は、食用と工業用に回される。工業用牛骨油の主な用途は石鹸と蝋燭である。ギターなどの楽器の部品にもなる。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "牛の皮膚すなわち牛皮(ぎゅうひ、ぎゅうかわ、うしがわ)は、鞣しの工程を経て牛革に加工され、衣服(古代人の上着・ベルト・履物などから現代人の革ジャンやレーシングスーツまで)、武具(牛革張りの盾や刀剣の鞘や兜、牛革のレザーアーマーなど)、鞄など収納道具、装飾品(豪華本の表装などを含む)、調度品(革張りのソファなど)、その他の材料になる。ここでも仔牛は特に区別されており、皮革の材料としての仔牛、および、その皮革を、仔牛と同じ語でもって「カーフ」と呼ぶ。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "牛乳(ぎゅうにゅう)やその加工品を得ることを主目的として飼養される牛は、乳牛(にゅうぎゅう)という。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "牛糞(ぎゅうふん、うしくそ)は、肥料として広く利用されるほか、燃料や建築材料として利用する地域も少なくない(後述)。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "使役動物としての牛は役牛(えきぎゅう)といい、古来から、自動車に置き換わるまで先進国においても近年まで、馬とともに人類に広く利用されてきた。農耕用と、直接の乗用も含む人および物品の運搬用の、動力としての利用が主である。農耕のための牛は耕牛(こうぎゅう)という。運搬用というのは主に牛車(ぎゅうしゃ、うしぐるま)用であるが、古来中国などではそれに限らない。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "痩せた土地に家畜を放し、他所から運び込んだ自然の飼料で飼養することによって土壌改良を図る方法があり、体格が大きく餌の摂取量も排泄量も多い牛は、このような目的をもった放牧に打ってつけの家畜でもある。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "牛を娯楽に利用する文化は、世界を見渡せば散見される。牛同士を闘わせるのは、アジアの一部の国・地域(日本、朝鮮、オマーンなど)における伝統的娯楽で、これを闘牛(とうぎゅう)という(闘牛#日本における闘牛も参照)。暴れ牛と剣士を闘わせるのは、西ゴート王国に始まり、イベリア半島を中心に伝統的に行われてきたブラッドスポーツの一種で、これも日本語では闘牛という(cf. 闘牛#スペイン闘牛の歴史)。暴れ牛と闘う剣士を闘牛士というが、対等の闘いではなく、絶対的有利な立場にある剣士が華麗な身のこなしと殺しを披露する見世物である。18世紀ごろのイギリスでは、牡牛と犬を闘わせる見世物として「牛いじめ(ブルベイティング、英:bullbaiting)」が流行し、牡牛(ブル)と闘うよう品種改良された犬、すなわち「ブルドッグ」が、現在のブルドッグの原形として登場した。このブラッドスポーツは残酷だとして1835年に禁止され、姿を消している。危険な暴れ牛や暴れ馬の背に乗ってみせるのは、北アメリカで発祥したロデオで、競技化しており、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、および、南アメリカの幾つかの国で盛んに興行が打たれている。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "農耕を助ける貴重な労働力である牛を殺して神に供える犠牲獣とし、そこから転じて牛そのものを神聖な生き物として崇敬することは、古代より永くに亘って広範な地域で続けられてきた信仰である。現在の例として、インドの特にヒンドゥー教徒の間で牛が神聖な生き物として敬われ、食のタブーとして肉食されることの無いことは、よく知られている。インダス文明でも牛が神聖視されていた可能性があり、インド社会における係る概念の永続性は驚くべきものがある。また、興奮した牛の群れにあえて追われるスペインなどラテン文化圏の祭事「エンシエロ」、聖なる牛の群れに踏まれることでその年の幸運を得ようとするムガル帝国時代より続くヒンドゥー教の祭事「ゲーイ・ガウーリ」(ディーワーリーの期間中に行われる祭事の一つ)など、過激な伝統行事も世界にはある。",
"title": "家畜としてのウシ"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "家畜としての牛は、主に肉牛と乳牛に分けられる。(ヨーロッパに多い乳肉兼用種というのもある)",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "肉用牛には3種の区分があり、それぞれ「肉専用種(和牛)」「乳用種(乳牛から生まれた雄)」「交雑種(F1:乳牛雌に肉専用種雄を交配した種)」と呼ばれている。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "繁殖農家で生まれた子牛は、1カ月齢~3カ月齢で、人為的に母子分離及び離乳が同時に行われるのが一般的である。これは子牛にとって強いストレスとなる。そのため、子牛にトゲの付いた鼻輪を装着させ、子牛が乳を吸おうとすると母牛が嫌がるようにしむけ、離乳を先に行い、のちに母子分離をするという手法がとられることもある。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "子牛は250-300kgになる10か月齢から12か月齢まで育成され、「素牛(もとうし)」(6か月齢〜12か月齢の牛)市場に出荷され(2-4か月齢で出荷されるスモール牛市場もある)、肥育農家に競り落とされる。競り落とされた素牛は肥育農家まで運ばれる。長距離になると輸送の疲れで10kg以上やせてしまうこともある。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その後、「肥育牛」として肥育される。飼育方法は、繋ぎ飼い方式・放牧方式などがあるが、日本では数頭ずつをまとめて牛舎に入れる(追い込み式牛舎)群飼方式が一般的である。運動不足による関節炎の予防や蹄の正常な状態を保つためには放牧又は運動場への放飼が必要であるが、国内では88%が放牧あるいや放飼を行っていない。そのため日本の77%の農家が削蹄を行っている。削蹄は年2回が望ましいが、年に1回もしくは1回未満の農場が78%を占める。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "肥育前期(7か月程度)は牛の内臓(特に胃)と骨格の成長に気をつけ、粗飼料を給餌される。肥育中期から後期(8-20か月程度)にかけては高カロリーの濃厚飼料を給餌され、筋肉の中に脂肪をつけられる(筋肉の中の脂肪は「さし」とよばれ、さしの多いものを霜降り肉と言う)。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "肉用牛は、生後2年半から3年、体重が700kg前後で出荷され、屠殺される。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "肉牛を産むための雌牛(繁殖用雌牛)は、繁殖用として優れた資質・血統をもつ雌牛が選ばれる。繁殖用雌牛は、生後14か月から16か月で初めての人工授精(1950年に家畜改良増殖法が制定され、人工授精普及の基盤が確立し、今日では日本の牛の繁殖は99%が凍結精液を用いた人工授精によってなされている)が行われ、約10か月(285日前後)で分娩する。生産効率を上げるため、1年1産を目標に、分娩後約80日程度で次の人工授精が行われる。8産以上となると、生まれた子牛の市場価格が低くなり、また繁殖用雌牛の経産牛の肉としての価格も低くなる場合があるため、標準的には6-8産で廃用となり、屠殺される。また、受胎率が悪かったり、生まれた子牛の発育が悪かったりすると、早目に廃用となる。",
"title": "肉牛の一生"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "牛は、飼料の確保や社会的順位の確立等のため、他の牛に対し、角を用いて争うことがある。そのため牛舎内での高密度の群飼い(狭い時で1頭当たり5m前後)ではケガが発生しやすく、肉質の低下に繋がることもある。また管理者が死傷することを防止するためにも、牛の除角(牛がまだ小さいころに、焼き鏝や刃物、薬剤などで角芽を除去すること)あるいは断角(角が成長してから切断すること)は有効な手段と考えられている。",
"title": "外科的処置と動物福祉"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日本では肉牛の59.5%、乳牛の85.5%が断角/除角されている。断角/除角は激痛を伴い牛への負担が大きく、ショック死する例も報告されているが、麻酔を使用する農家は肉牛で17.3%、乳牛で14%と低い。断角/除角の方法は、腐食性軟膏や断角器、焼きごて、のこぎり、頭蓋骨から角をえぐり取る除角スプーンなどを使う。",
"title": "外科的処置と動物福祉"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "農水省が普及に努めている「アニマルウェルフェアの考え方に対応した飼養管理指針」では肉牛、乳牛ともに「除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な角が未発達な時期(遅くとも生後2ヵ月以内)に実施することが推奨される」。だが実際には、乳牛では45%、肉牛では85%が3ケ月齢以上で断角/除角されている。",
"title": "外科的処置と動物福祉"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "雄牛を去勢しないで肥育した場合、キメが粗くて硬く、消費者に好まれない牛肉に仕上がる。また去勢しない雄牛を牛舎内で群飼すると、牛同士の闘争が激しくなり、ケガが発生しやすく肉質の低下にもつながる。こういった理由から、肉用に飼育されるオスは一般的に去勢される。去勢の方法は、陰嚢を切開して、精索と血管を何度か捻りながら、引いてちぎる観血去勢法、皮膚の上からバルザックやゴムリングを用いて挫滅、壊死させる無血去勢法が一般的で、特別な場合を除いて、麻酔は行われない。日本も加盟するOIEの肉用牛の動物福祉規約には3ヶ月齢より前に実施することが推奨されているが、日本の肉牛の90.9%は3ヵ月以上で去勢されている。観血去勢では術中や術後の消毒不足や敷料等が傷口に入ることで化膿や肉芽腫の形成等が見られることがある。",
"title": "外科的処置と動物福祉"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "鼻環による痛みを利用することで、牛の移動をスムーズにさせ、調教しやすくできる。日本の肉牛農家では76.1%で鼻環の装着が行われている(乳牛における装着率は不明)。鼻環通しで麻酔は使用されない。農水省が普及に努めている「アニマルウェルフェアの考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」は鼻環の装着について「牛へのストレスを極力減らし、可能な限り苦痛を生じさせないよう、素早く適切な位置に装着すること」としている。",
"title": "外科的処置と動物福祉"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "牛は粗い植物を食べて成長、繁殖するよう進化してきた生き物であるが、肉牛経営では生産性を高めるために炭水化物を多く含んだ濃厚飼料が多給されており、動物福祉的に問題視されている。調査では、高値で取引される等級の高い肉において、水腫や肺疾患が多かったと報告されており、原因として濃厚飼料の多給やビタミンAの給与制限などの偏った給餌が指摘された。",
"title": "病気"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "霜降り肉を作るためには、筋肉繊維の中へ脂肪を交雑させる、という通常ではない状態を作り出さなければならない。そのため、脂肪細胞の増殖を抑える働きのあるビタミンAの給与制限が行われる。ビタミンA欠乏が慢性的に続くと、光の情報を視神経に伝えるロドプシンという物質が機能しなくなる。重度になり、瞳孔が開いていき、弱視・失明に至ることがある。ビタミンA欠乏の徴候が表れた場合カロテンを含んだ飼料やビタミン剤の投与でこれを補う必要がある。",
"title": "病気"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "舌を口の外へ長く出したり左右に動かしたり、丸めたり、さらには柵や空の飼槽などを舐める動作を持続的に行うことを指す。粗飼料不足や、繋留、単飼(1頭のみで飼育する)などの行動抑制が要因とされており、そのストレスから逃れるためにこの行動が発現する。舌遊び行動中は心拍数が低下することが認められている。また生産サイクルをあげるために、産まれてすぐに母牛から離されることも舌遊びの要因とされている。「子牛は自然哺乳の場合1時間に6000回母牛の乳頭を吸うといわれている。その半分は単なるおしゃぶりにすぎないが、子牛の精神の安定に大きな意味をもつ。子牛は母牛の乳頭に吸い付きたいという強い欲求を持っているが、それが満たされないため、子牛は乳頭に似たものに向かっていく。成牛になっても満たされなかった欲求が葛藤行動として「舌遊び」にあらわれる」。",
"title": "病気"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "実態調査では、種付け用黒毛和牛の雄牛の100%、同ホルスタイン種の雄牛の6%、食肉用に肥育されている去勢黒毛和牛の雄牛の76%、黒毛和牛の雌牛の89%、ホルスタイン種の17%で舌遊び行動が認められたとある。",
"title": "病気"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "稀なケースであるが、牧場内に広葉樹がありドングリが採餌できる環境にあると、ドングリの成分であるポリフェノールを過剰摂取してしまい中毒死することがある。",
"title": "病気"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "病気"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "主要品種"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "世界に棲息する牛のうち、家畜として飼育されている頭数に関しては、国際連合食糧農業機関 (FAO) による毎年の調査結果が、1990年以降公表されている。統計には、一般的な牛のほか、コブウシ、ガウルなどのアジア牛、ヤクを含む。スイギュウやバイソンは含まない。",
"title": "飼育数"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "牛を聖なる動物と見なすヒンドゥー教の影響もあってインドが世界を圧倒する飼育頭数で知られ、長らく世界一の座を占めていた。しかし、2003年にブラジルがインドに換わって世界第1位となった。これは、アマゾン熱帯雨林の破壊と牧場開発が以前にも増して急速に進み、アマゾン地方の牛飼育頭数が激増してきた結果であった。 2008年には再びインドが第1位になったものの、インド・ブラジル両国の頭数はほぼ拮抗している。",
"title": "飼育数"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "牛の飼育数は新興国を中心に増え続けており2020年の推定総頭数は15億2593万9479頭である。",
"title": "飼育数"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "肉は牛肉として、また乳は牛乳として、それぞれ食用となる。食用は牛の最も重要な用途であり、肉・乳ともに人類の重要な食料供給源の一つとなってきた。牛乳も牛肉も、そのまま食用とされるだけでなく、乳製品や各種食品などに加工される原料となることも多い。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "年老いて乳の出が悪くなった乳牛の経産牛は、肉質は硬くなって低下し、体も痩せ細ってしまう。21世紀初期の日本の場合、こういった個体は廃用牛の扱いを受け、安値でペットフード用など人間向けの食用以外に回されるのが一般的である。しかし、再肥育して肉質を高めることで人間向けの食用牛としての市場価値を“再生”させることに成功している業者もいるにはいる。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "胆石は牛黄(ごおう)という生薬で、漢方薬の薬材。解熱、鎮痙、強心などの効能がある。救心、六神丸などの、動悸・息切れ・気付けを効能とする医薬品の主成分となっている。日本薬局方に収録されている生薬である。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "牛の胆石は、人為的ではない状態では千頭に一頭の割合でしか発見されない、と言われていたため、大規模で食肉加工する設備を有する国が牛黄の主産国となっている。オーストラリア、アメリカ、ブラジル、インドなどの国がそうである。ただし、BSEの問題で北米産の牛黄は事実上、使用禁止となっていることと、中国需要の高まりで、牛黄の国際価格は上げ基調である。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "現在では、牛を殺さずに胆汁を取り出して体外で結石を合成したり、外科的手法で牛の胆嚢内に結石の原因菌を注入して確実に結石を生成させる、「人工牛黄」または「培養牛黄」が安価な生薬として普及しつつある。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "糞は肥料にされる。与えられた飼料により肥料成分は異なってくるが、総じて肥料成分は低い。肥料としての効果よりも、堆肥のような土壌改良の効果の方が期待できる。また、堆肥化して利用することも多い。園芸店などで普通に市販されている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "乾燥地域では牛糞がよく乾燥するため、燃料に使われる。森林資源に乏しいモンゴル高原では、牛糞は貴重な燃料になる。またエネルギー資源の多様化の流れから、牛糞から得られるメタンガスによるバイオマス発電への利用などが模索されており、スウェーデンなどでは実用化が進んでいる。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、インドなどの発展途上国では牛糞を円形にして壁に貼り付け、一週間ほど乾燥させて牛糞ケーキを作製し、燃料として用いている(匂いもなく、火力も強い)。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "アフリカなどでは住居内の室温の上昇を避けるために、牛糞を住居の壁や屋根に塗ることがある。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "水彩画では胆汁をぼかし・にじみ用の界面活性剤として用いる。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "タウリン(taurine)は牛の胆汁から発見されたため、ラテン語で雄牛を意味する「タウルス(taurus)」から命名された。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ウシは新石器時代に西アジアとインドで野生のオーロックスが別個に家畜化されて生まれた。学説としては、西アジアで家畜化されたものが他地域に広がったという一元説が長く有力であった。ところが、1990年代になされたミトコンドリアDNAを使った系統分析で、現生のウシがインド系のゼブ牛と北方系のタウルス牛に大きく分かれ、その分岐時期が20万年前から100万年前と推定された。これは、せいぜい1万年前とされるウシの家畜化時期よりはるかに古い。そこで、オーロックスにもとからあった二系統が、人類によって別々に家畜化された結果、今あるゼブ牛、タウルス牛となったという二元説が広く支持されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ウシは、亜種関係のゼブ牛・タウルス牛の間はもとより、原種のオーロックスとも問題なく子孫を残せるので、家畜化された後に各地で交雑が起こった。遺伝子分析によれば、ヨーロッパの牛にはその地のオーロックスの遺伝子が入り込んでいる。東南アジアとアフリカの牛は、ゼブ牛とタウルス牛の子孫である。さらに、東南アジア島嶼部のウシには、別種だがウシとの交雑が可能なこともあるバンテンの遺伝子が認められる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ウシの家畜化は、ヤギやヒツジと比べて遅れた。オーロックスは獰猛で巨大な生物であったので、小型の動物で飼育に習熟してはじめて家畜化に成功したと考えられている。しかしいったん家畜化されると、ウシはその有用性によって牧畜の中心的存在となった。やがて成立したエジプト文明やメソポタミア文明、インダス文明においてウシは農耕用や牽引用の動力として重要であり、また各種の祭式にも使用された。紀元前6世紀初頭にはメソポタミアにおいてプラウ(犁)が発明され、その牽引力としてウシはさらに役畜としての重要度を増した。このプラウ使用はこれ以降の各地の文明にも伝播した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ウシはやがて世界の各地へと広がっていった。ヨーロッパではウシは珍重され、最も重要な家畜とされていた。8世紀後半ごろには車輪付きのプラウが開発され、またくびきの形に改良が加わることで牽引力としての牛はさらに重要となった。牛肉はヨーロッパ全域で食用とされ、中世の食用肉のおよそ3分の2は牛肉で占められていた。ヨーロッパ北部では食用油脂の中心はバターであり、また牛乳も盛んに飲用された。ヨーロッパ南部では食用油脂の中心はオリーブオイルであり、牛乳の飲用もさほど盛んでなかったが、牛肉は北部と比べ盛んに食用とされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "アフリカにおいてはツェツェバエの害などによって伝播が阻害されたものの、紀元前1500年ごろにはギニアのフータ・ジャロン山地でツェツェバエに耐性のある種が選抜され、西アフリカからヴィクトリア湖畔にかけては紀元前500年頃までにはウシの飼育が広がっていた。インドにおいてはバラモン教時代はウシは食用となっていたが、ヒンドゥー教への転換が進む中でウシが神聖視されるようになり、ウシの肉を食用とすることを禁じるようになった。しかし、乳製品や農耕用としての需要からウシは飼育され続け、世界有数の飼育国であり続けることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "新大陸にはオーロックスが存在せず、1494年にクリストファー・コロンブスによって持ち込まれたのが始まりである。新大陸の気候風土にウシは適合し、各地で飼育されるようになった。とくにアルゼンチンのパンパにおいては、持ち込まれた牛の群れが野生化し、19世紀後半には1,500万頭から2,000万頭にも達した。このウシの群れに依存する人々はガウチョと呼ばれ、アルゼンチンやウルグアイの歴史上重要な役割を果たしたが、19世紀後半にパンパ全域が牧場化し野生のウシの群れが消滅すると姿を消した。北アメリカ大陸においてもウシは急速に広がり、19世紀後半には大陸横断鉄道の開通によってウシを鉄道駅にまで移送し市場であるアメリカ東部へと送り出す姿が見られるようになった。この移送を行う牧童はカウボーイと呼ばれ、ウシの大規模陸送がすたれたのちもその独自の文化はアメリカ文化の象徴となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1880年代には冷凍船が開発され、遠距離間の牛肉の輸送が可能となった。これはアルゼンチンやウルグアイにおいて牧場の大規模化や効率化をもたらし、牛肉輸出は両国の基幹産業となった。また、鉄道の発達によって牛乳を農家から大都市の市場へと迅速に大量に供給することが可能になったうえ、ルイ・パスツールによって低温殺菌法(パスチャライゼーション)が開発され、さらに冷蔵技術も進歩したことで、チーズやバターなどの乳製品に加工することなくそのまま牛乳を飲む習慣が一般化した。こうした技術の発展によって、ウシの利用はますます増加し、頭数も増加していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本列島では東京都港区の伊皿子貝塚から弥生時代の牛骨が出土したとされるが、後代の混入の可能性も指摘される。日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。古墳時代前期にも確実な牛骨の出土はないが、牛を形象した埴輪が存在しているため、この頃には飼育が始まっていたと考えられている。古墳後期(5世紀)には奈良県御所市の南郷遺跡から牛骨が出土しており、最古の資料とされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "当初から日本では役畜や牛車の牽引としての使用が主であったが、牛肉も食されていたほか、牛角・牛皮や骨髄の利用も行われていたと考えられている。675年に天武天皇は、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じた。禁止令発出後もウシの肉はしばしば食されていたものの、禁止令は以後も鎌倉時代初期に至るまで繰り返して発出され、やがて肉食は農耕に害をもたらす行為とみなされ、肉食そのものが穢れであるとの考え方が広がり、牛肉食はすたれていった。8世紀から10世紀ごろにかけては酪や、蘇、醍醐といった乳製品が製造されていたが、朝廷の衰微とともに製造も途絶え、以後日本では明治時代に至るまで乳製品の製造・使用は行われなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、広島県の草戸千軒町遺跡出土の頭骨のない牛の出土事例などから頭骨を用いた祭祀用途も想定されており、馬が特定の権力者と結びつき丁重に埋葬される事例が見られるのに対し、牛の埋葬事例は見られないことが指摘されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "古代の日本では総じて牛より馬の数が多かった。平安時代の『延喜式』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では武士団の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、伊勢湾と若狭湾を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。戦国時代にはポルトガルの宣教師たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、キリシタン大名の高山右近らが牛肉を振舞ったとの記録もあるものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。江戸時代には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあったももんじ屋と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また彦根藩は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかった。しかし、日本においてウシの主要な用途はあくまでも役牛としての利用であり続けた。",
"title": "歴史"
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"text": "日本においてウシが公然と食されるようになるのは明治時代である。文明開化によって欧米の文化が流入する中、欧米の重要な食文化である牛肉食もまた流れ込み、銀座において牛鍋屋が人気を博すなど、次第に牛肉食も市民権を得ていった。また、乳製品の利用・製造も復活した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "人間に身近で、印象的な角を持つ大型家畜である牛は、世界各地で信仰対象や動物に関連する様々な民俗・文化のテーマになってきた。",
"title": "文化と宗教"
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"text": "古代エジプト人はオシリス、ハトホル信仰を通して雄牛(ハピ、ギリシャ名ではアピス)を聖牛として崇め、第一王朝時代(紀元前2900年ごろ)には「ハピの走り」と呼ばれる行事が行われていた。創造神プタハの化身としてアピス牛信仰は古代エジプトに根を下ろし、ラムセス2世の時代にはアピス牛のための地下墳墓セラペウムが建設された。聖牛の特徴とされる全身が黒く、額に白い菱形の模様を持つウシが生まれると生涯神殿で手厚い世話を受け、死んだ時には国中が喪に服した。一方、普通のウシは食肉や労働力として利用されていたことが壁画などから分かっている。",
"title": "文化と宗教"
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"text": "主にインドで信仰されているヒンドゥー教では牛(特にコブウシ)を神聖視している(スイギュウはそうではない)。このためインドは牛の飼育頭数は多いものの、牛肉食を忌避する国民が多い。インドでは従来も州により、牛肉の扱いを規制していた。2017年5月26日にはインド連邦政府が、食肉処理を目的とした家畜市場における牛の売買を禁止する法令を出した。これに対して、イスラム教徒や世俗主義者から「食事の選択権に対する侵害」として反対運動や訴訟が起き、インド最高裁判所は7月11日に法令差し止めを決めた。インドでは牛肉を売ったり、食べたりしたと思われた人が殺害される事件も起きている。",
"title": "文化と宗教"
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"text": "日本でも牛(丑)は十二支の鳥獣に入っているほか、牛頭天王のような神や、牛鬼など妖怪のモチーフになっている。また、身近にいる巨大な哺乳類であることから、その種の中で大きい体格を持つ生き物の和名に用いられることがある(ウシエビ、ウシガエル、ウシアブなど)。",
"title": "文化と宗教"
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{
"paragraph_id": 76,
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"text": "牛が紋章に描かれることは一般的である。",
"title": "文化と宗教"
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"text": "ウシは反芻動物であり、反芻を繰り返すことにより、飼料を微生物が分解しメタンガスが発生する。これは地球温暖化の深刻な一因と言われており、アメリカではメタンの総発生量の26パーセントが牛のげっぷによるものである。3-ニトロオキシプロパノール(3NOP)と呼ばれる成分を餌に混ぜるなどしてげっぷを少なくする研究が進んでいる。",
"title": "環境問題"
}
] |
ウシ(牛)は、哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物である。野生のオーロックスが、人類によって家畜化されて生まれた。但し、アメリカ哺乳類学会では、ウシ、オーロックス、コブウシをそれぞれ独立した種として分類している。 「ウシ」は、狭義では特に(種レベルで)家畜種のウシを指す。一方、やや広義では、ウシ属 を指し、そこにはバンテンなどの野生牛が含まれる。さらに広義では、ウシ亜科 の総称である。すなわち、アフリカスイギュウ属、アジアスイギュウ属、ウシ属、バイソン属などを指す。これらは牛と認められる共通の体形と特徴を持つ。大きな胴体、短い首と一対の角、胴体と比べて短めで前後にだけしか動けない脚、軽快さの乏しい比較的鈍重な動き、などが特徴である。ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)にキリン類やシカ類、また、同じウシ科の仲間としてヤギ、ヒツジ、レイヨウなどがあるが、これらが牛と混同されることはまずない。 以下ではこのうち、上記の狭義である「家畜ウシ」について解説する。
|
{{redirect|うし、牛|その他|牛 (曖昧さ回避)}}
{{生物分類表
|名称 = ウシ
|画像 = [[ファイル:Koe zijaanzicht 2.JPG|280px]]
|画像キャプション = [[ホルスタイン]]
|省略 = 哺乳綱
|目 = [[鯨偶蹄目]] [[:en:Cetartiodactyla|Cetartiodactyla]]
|亜目 = [[ウシ亜目]](反芻亜目) [[:en:Ruminantia|Ruminantia]]
|科 = [[ウシ科]] [[:en:Bovidae|Bovidae]]
|亜科 = [[ウシ亜科]] [[:en:Bovinae|Bovinae]]
|族 = [[ウシ族]] {{sname||Bovini}}
|属 = [[ウシ属]] ''{{sname||Bos}}''
|種 = [[オーロックス]] {{snamei|en|Aurochs|B. primigenius}}
|亜種 = '''ウシ''' ''B. p. taurus''
|学名 = ''Bos taurus''
|英名=[[:en:Cattle|Cattle]]
}}
{{Sound|Mudchute_cow_1.ogg|牛の鳴き声}}
'''ウシ'''('''牛''')は、[[哺乳類|哺乳綱]][[鯨偶蹄目]][[ウシ科]][[ウシ亜科]]の[[動物]]である。野生の[[オーロックス]]が、人類によって[[家畜化]]されて生まれた。但し、アメリカ哺乳類学会では、ウシ、オーロックス、コブウシをそれぞれ独立した種として分類している。
「ウシ」は、狭義では特に([[種 (分類学)|種]]レベルで)家畜種のウシ([[学名]]:{{snamei|Bos taurus}})を指す。一方、やや広義では、[[ウシ属]] ({{lang|la|''genus''}} {{snamei|en|Bos}}) を指し、そこには[[バンテン]]などの野生牛が含まれる。さらに広義では、ウシ亜科 ({{lang|la|''subfamilia''}} {{sname|en|Bovinae}}) の総称である。すなわち、[[アフリカスイギュウ属]]、[[アジアスイギュウ属]]、[[ウシ属]]、[[バイソン属]]などを指す。これらは牛と認められる共通の体形と特徴を持つ。大きな胴体、短い首と一対の[[角]]、胴体と比べて短めで前後にだけしか動けない脚、軽快さの乏しい比較的鈍重な動き、などが特徴である。ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)に[[キリン]]類や[[シカ]]類、また、同じウシ科の仲間として[[ヤギ]]、[[ヒツジ]]、[[レイヨウ]]などがあるが、これらが牛と混同されることはまずない。
以下ではこのうち、上記の狭義である「家畜ウシ」について解説する。
== 名称 ==
'''ウシ'''は、伝統的には[[牛肉]][[食文化]]が存在しなかった地域においては、例えば[[漢字文化圏]]における「'''牛'''」ないし[[十二支]]の配分である「'''丑'''(うし)」のように、単一語で総称されてきた。これに対し、古くから牛肉食や[[酪農]]を目的とする[[家畜]]としての[[飼育]]文化や[[放牧]]が長く行われてきた[[西洋]]地域(例えば、主に[[英語圏]]など[[畜産|商業的牛肉畜産業]]が盛んな地域)においては、ウシの諸条件(性別、避妊・去勢の有無、食肉用、乳牛、等)によって多種多様な呼称をもつ傾向がある。
近代以降[[欧米]]由来の食文化の[[国際化|グローバル化]]が進展し、[[宗教]]的理由から牛肉食が[[タブー]]とされている地域を除いては、牛肉食文化の世界的拡散が顕著である。特に商業畜産的要因から、現代の畜産・肥育・流通現場においては世界各地で細分化された名称が用いられる傾向がある。
=== 性別による名称 ===
; 牡の牛 {{Anchors|牡牛|雄牛}}
: 牡([[雄|オス]])の牛。[[日本語]]では、'''牡牛'''/'''雄牛'''(おうし、おすうし、古[[訓読み|訓]]:『をうじ』とも)<ref name="kb_おうし">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/牡牛・雄牛-216949 |title=牡牛・雄牛 おうし |publisher=コトバンク |author=[[小学館]]『精選版 [[日本国語大辞典]]』、[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |accessdate=2019-08-04 }}</ref>、'''牡牛'''(ぼぎゅう){{r|kb_おうし}}という。「雄牛(ゆうぎゅう)」という読みも考えられるが、用例は確認できず、しかし'''種雄牛'''(しゅゆうぎゅう、雄の[[種牛]]〈{{small|しゅぎゅう、たねうし}}〉)<ref name="kb_種雄牛">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/種雄牛 |title=種雄牛 |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル[[大辞泉]]』 |accessdate=2019-08-05 }}</ref>という語形に限ってはよく用いられている。[[古語]]としては「'''男牛'''(おうし、古訓:をうじ、をうじ)」もあるものの、現代語として見ることは無い。
: [[英語]]では、"[[wikt:en:bull#English|'''bull''']]"、"[[wikt:en:ox#English|'''ox''']]"、方言で "[[wikt:en:nowt#English|nowt]]"という。
: [[ラテン語]]では "[[wikt:en:taurus#Latin|'''taurus''']]"([[タウルス]])といい、"[[wikt:en:bos#Latin|'''bos''']]"と同じく性別の問わない「牛」の意もある。
; 牝の牛 {{Anchors|牝牛|雌牛}}
: 牝([[雌|メス]])の牛。日本語では、'''牝牛'''/'''雌牛'''(めうし、めすうし、古訓:めうじ、をなめ、をんなめ{{r|kb_ヒンギュウ}}、うなめ等)<ref name="kb_めうし">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/牝牛・雌牛-395640 |title=牝牛・雌牛 めうし |publisher=コトバンク |author=小学館『精選版 日本国語大辞典』、三省堂『大辞林』第3版 |accessdate=2019-08-04 }}</ref><ref name="kb_ヒンギュウ">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/牝牛-614563 |title=牝牛 ヒンギュウ |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル大辞泉』、ほか |accessdate=2019-08-04 }}</ref>、'''牝牛'''(ひんぎゅう){{r|kb_ヒンギュウ}}という。「雌牛(しぎゅう)」という読みも考えられるが、用例は確認できず、雄と違って'''種雌牛'''も「しゅしぎゅう」ではなく「たねめすうし」と[[訓読み]]する<ref name="kb_種雌牛">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/種雌牛 |title=種雌牛 |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル大辞泉』 |accessdate=2019-08-05 }}</ref>。古語としては「'''女牛'''<ref name="kb_種牛_日国辞">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/種牛-528061 |title=種牛 シュギュウ |publisher=コトバンク |author=小学館『精選版 日本国語大辞典』 |accessdate=2019-08-05 }}</ref>」「'''牸牛'''{{r|kb_めうし}}」の表記もあるものの、現代語として見ることは無い。
: 英語では {{lang|en|"'''[[wikt:en:cow|cow]]'''"}}、ラテン語では "[[wikt:en:vacca#Latin|'''vacca''']]"という。
なお、牡、牝はウマにも用いられる特殊な字である。
=== 年齢による名称 ===
日本語における年齢を基準とした呼び分けは牛においても一般的用法と変わりなく、つまり、人間や他の動植物と同じく[年少:幼牛─若牛─成牛─老牛:年長]という呼び分けがあるが、体系的に用いられるわけではない。一方、畜養・医療・加工・流通・管理・研究等々諸分野の専門用語として、通用語と全く異なる語が用いられていることもある。また、親牛・仔牛という本来は[[親子#生物一般における親子|親と子]]の関係を表していた名称は、一般・専門ともによく用いられる。
; 未成熟な牛 {{Anchors|未成熟牛}}
: 成熟していない牛全般は、'''未成熟牛'''という。生まれたての牛も成熟間近の牛も該当する。
; 幼い牛 {{Anchors|幼牛|仔牛|子牛}}
: '''幼牛'''(ようぎゅう)。成熟に程遠い年齢の未成熟牛、あるいは未成熟牛全般をいう。専門的には、生後およそ120日以内から360日以内までの牛を指すことが多い。先述のとおり、子供(※動物に当てる用字としては『[[wikt:仔|仔]]』であるが、[[常用漢字]]の縛りの下では『[[wikt:子|子]]』で代用する)の牛という意味から発した'''仔牛'''/'''子牛'''(こうし)は、幼牛より定義の緩い語ながらむしろ多く用いられる。[[英語]]では {{lang|en|"'''calf'''"}}が同義といえ、日本語でもこれが[[外来語]]化した「'''カーフ'''」がある。なお、これらの語は未成熟牛もしくは幼牛の生体を指し、[[屠殺]]後の食品とは別義である。
: {{Anchors|素牛|育成牛}}[[#肉牛|肉牛]]の場合、この段階から業者が品質を高めて始めることになるため、ベーシックな状態の牛という意味合いで'''素牛'''(もとうし)、育て上げる牛という意味で'''育成牛'''(いくせいぎゅう)という<ref name="1SN_肉牛">{{Cite web|和書|title=肉牛の仕事 |url=https://www.sangyo.net/contents/industry/beef_cattle.html |publisher=株式会社 Life Lab |website=第一次産業ネット(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-08-04 }}</ref>。素牛は繁殖用育成と肥育(出荷するために肉質を高めつつ肉量を増やす飼育)のいずれかに回すことになり<ref name="畜産ZOO鑑_素牛">{{Cite web|和書|title=素牛(もとうし)の選び方 |url=http://zookan.lin.gr.jp/kototen/nikuusi/n222_4.htm |publisher=地域畜産総合支援体制整備事業、および、JRA([[日本中央競馬会]])の特別振興資金による助成事業 |website=畜産ZOO鑑(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-08-04 }}</ref>、行く末が決まり次第、それぞれに'''繁殖素牛'''・'''肥育素牛'''(ひいく-)という。
: {{Anchors|仔牛肉|子牛肉}}その肉は'''[[仔牛肉]]'''/'''子牛肉'''といい、英語では {{lang|en|"'''veal'''"}}([[ヴィール]])、[[フランス語]]では {{lang|fr|"'''veau'''"}}(ヴォー)と呼ばれる。外来語形は少なくとも料理や栄養学などの分野で定着している。柔らかい食感が好まれ、さまざまな料理の食材として用いられる。特に[[フランス料理]]においては、その肉の[[ブイヨン]]([[出汁]])が[[フォン・ド・ヴォー]]として重用される。松阪牛等の高級和牛では「処女牛」という言い方がなされ、希少性が強調される場合がある。
: {{Anchors|仔牛の革}}生後6か月以内の仔牛の[[皮革]](原皮となめし革)は<ref name="kb_カーフスキン_Brit">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/カーフスキン |title=カーフスキン |publisher=コトバンク |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』 |accessdate=2019-08-04 }}</ref><ref name="kb_カーフレザー">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/カーフレザー |title=カーフレザー |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル大辞泉』 |accessdate=2019-08-04 }}</ref>、「カーフ」の名で呼ばれるほか<ref name="kb_カーフ">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/カーフ |title=カーフ |publisher=コトバンク |author=三省堂『[[大辞林]]』第3版、ほか |accessdate=2019-08-04 }}</ref>、その原皮を「'''[[カーフスキン]]''' ({{lang|en|calfskin}})」{{r|kb_カーフスキン_Brit}}、その皮革を一般に「'''カーフレザー''' ({{lang|en|calf leather}})」{{r|kb_カーフレザー}}と呼び、前者は原義を離れて「仔牛の革」の意でも用いられる<ref name="kb_カーフスキン_林">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/カーフスキン |title=カーフスキン |publisher=コトバンク |author=三省堂『大辞林』第3版 |accessdate=2019-08-04 }}</ref>。後者は牛革の中でも最高級とされ{{r|kb_カーフレザー}}、よく馴染むしなやかさが特徴で、[[鞄]]・[[手帳]]・[[財布]]・[[靴]]など多様な革製品に好んで用いられる。
; 若い牛 {{Anchors|若牛}}
: '''若牛'''(わかうし)。成熟が近い未成熟牛をいう。ただしあくまで古来の日本語において通用する語であって、各専門分野の用語としては、確認し得る限り、「仔牛(幼牛)」の段階を過ぎた牛は「成牛」である。
; 成熟した牛 {{Anchors|成牛}}
: '''成牛'''(せいぎゅう)という。
; 老いた牛 {{Anchors|老牛}}
: '''老牛'''(ろうぎゅう)という。現代都市文明社会においては、年老いて利用価値が低下した牛は、市場価値が極めて低く、ほぼ全ての老齢個体は'''廃用牛'''(はいようぎゅう)として処分される。例えば[[#乳牛|乳牛]]は、自然界では到底あり得ない頻度で生涯に亘って搾乳され続けるため、採算が取れないほど乳の出が悪くなった頃には、体が極度に不健康な状態になっている。
=== 飼育条件による名称 ===
[[畜産]]業界ないし肥育業界、ないし牛肉産品を流通・販売する業界などにおいては、さらに多様に表現されている。
; '''{{Anchors|畜牛}}畜牛'''(ちくぎゅう、英:{{lang|en|''[[:en:Cattle|cattle]]''}})
: 畜産用途に肥育されるウシ全般のこと。家畜牛。
; '''{{Anchors|去勢牛}}去勢牛'''[きょせいぎゅう]
: 人工的に[[去勢]]されたウシのこと。食肉を目的として肥育されるにあたっては、雌雄とも去勢されることが多い。荷車牽引などの用務牛用途を目的として牡牛を用いる場合にも、精神的な荒さや発情を削ぐために去勢されるケースがよく見られる。英語では特にオスの去勢牛を"[[:en:Ox|ox]]"、メスを"[[:en:wikt:steer#English|steer]]"と呼んで区別する。
; {{Anchors|乳牛}}'''[[乳牛]]'''(にゅうぎゅう、英:{{lang|en|''[[:en:Dairy cattle|dairy cattle]]''}})
: [[搾乳]]目的で飼育されるウシのこと。
; '''{{Anchors|未経産牛}}未経産牛'''(みけいさんぎゅう、英:{{lang|en|''[[:en:Heifer|heifer]]''}})
: [[妊娠]]ないし[[出産]]を経験していない牝牛のこと。乳牛用途・肉牛用途ともに高価で取引される。
; '''{{Anchors|経産牛}}経産牛'''(けいさんぎゅう、英:{{lang|en|''delivered cow''}})
: すでに出産経験のある牝牛のこと。肉牛として出荷する場合には、未経産牛に比較して安価で取引される。
=== 日本語の方言・民俗 ===
日本の[[東北地方]]では牛を[[べこ]]と呼ぶ。牛の鳴き声(べー)に、「こ」をつけたことによる。地方によっては「べご」「べごっこ」とも呼ぶ。
[[柳田國男]]によれば、日本語では牡牛が「ことひ」、牝牛が「おなめ」であった。また、[[九州]]の一部では[[シシ]]すなわち食肉とされていたらしく、「タジシ(田鹿)」と呼ばれていた<ref>柳田國男『定本 柳田國男集』第1巻 筑摩書房 258頁</ref>。
== 形質 ==
{{Anchors|生態・形態上の特徴}}
[[ファイル:Stomach and intestine of cattle.jpg|thumb|180px|ウシの胃と腸。国立科学博物館の展示。]]
[[ファイル:Bos Taurus Male 2.svg|upright=1.4|thumb|牡牛の解剖図。'''1.''' [[Rectum]] '''2.''' [[Prostate]] '''3.''' [[Glande bulbo-urétrale|Glandes de Cowper]] '''4.''' Muscle ischio-caverneux '''5.''' Muscle bulbo-caverneux '''6.''' [[Muscle crémaster|Cremaster]] '''7.''' [[Épididyme]] '''8.''' [[Testicule]] '''9.''' [[Vésicule séminale]] '''10.''' Canal déférent '''11.''' [[Vessie]] '''12.''' [[Panse]] '''13.''' Flexure sigmoïde '''14.''' [[Pénis]] '''15.''' [[Gland du pénis|Gland]] '''16.''' Bourse]]
[[ファイル:Bos Taurus Female.svg|upright=1.4|thumb|牝牛の解剖図。'''1.''' [[Rectum]] '''2.''' [[Vulve]] '''3.''' [[Clitoris]] '''4.''' [[Vagin]] '''5.''' [[Os]] '''6.''' Glande mammaire '''7.''' [[Trayon (anatomie)|Trayon]] '''8.''' [[Col de l'utérus]] '''9.''' [[Vessie]] '''10.''' Pavillon '''11.''' [[Ovaire (anatomie)|Ovaire]] '''12.''' Corne utérine '''13.''' [[Oviducte]] '''14.''' [[Glande mammaire|Pis]]]]
ウシは[[反芻#反芻動物|'''反芻動物''']]である。反芻動物とは'''[[反芻]]'''(はんすう)する[[動物]]のことであるが、そもそも「反芻」とは、一度呑み下して[[消化器系]]に送り込んだ食物を口の中に戻して[[咀嚼]]し直し、再び呑み込むことをいう。このような食物[[摂取]]の方法を取ることで栄養の[[吸収]]効率を格段に上げる方向へ[[進化]]し、その有利性から[[生態系]]の中で大成功を収めて世界中に拡散した動物群が、反芻動物であった。多様に見えて、その実、[[単系統群]]である。そのような反芻動物の中でも、ウシが属する[[ウシ科]]はとりわけ進化の度合いが深まった分類群([[タクソン]])の一つであり、ウシの仲間(※少し範囲を広げて[[ウシ族]]と言ってもよい)は勢力的にも代表格と言える。彼らは、[[ヒト]]に飼われて殖えたのも確かではあるが、もともと自然の状態で生態上([[種 (分類学)|種]]数と[[バイオマス|生物量]]の両面で)の大勢力であった。反芻動物の進化がウシ科のレベルまで深まる以前に勢力を誇っていたのは[[ウマ]]に代表される[[奇蹄類]]であり、ウシ科は栄養吸収効率の大きな差を活かして奇蹄類を隅に押しやり分布を広めた。そのことは[[地質学]]的知見で証明可能である。家畜としても比較されることの多いウシとウマであるが、同じ質と量の餌を与えた場合、栄養面で報いが大きいのは間違いなくウシであるということもできる。
反芻動物の具える[[胃]]を「'''反芻胃'''(はんすうい)」といい、[[マメジカ]]のような原始的な種を除き、ウシを含むほとんどの反芻動物が4つの胃を具える。ただし実際には、[[胃液]]を分泌する本来の意味での胃は第4胃の「'''皺胃'''(しゅうい)・ギアラ」のみであり<ref name="kb_ウシ_Nipp">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ウシ |title=ウシ |publisher=コトバンク |author=小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』 |accessdate=2019-08-04 }}</ref>、それより口腔に近い「[[前胃]](ぜんい)」と総称される消化器系、第1胃「'''瘤胃'''(りゅうい)・ミノ」・第2胃「'''蜂巣胃'''(ほうそうい)・ハチノス」・第3胃「'''重弁胃'''(じゅうべんい)・センマイ」は{{r|kb_ウシ_Nipp}}[[食道]]が変化したものである。ここを[[共生]][[微生物]]の住まう[[植物]][[繊維]][[発酵]]槽に変えることで、反芻は極めて効果的な消化吸収システムになった。ウシの場合、この前胃に、[[草本|草]]の繊維([[セルロース]]など)を分解([[化学分解]])する[[細菌]]類(バクテリア)および[[繊毛虫]]類(インフゾリア)を始めとする微生物を大量に常在させ{{r|kb_ウシ_Nipp}}、繊維を吸収可能な状態に変えさせ{{r|kb_ウシ_Nipp}}、収穫するようにそれを吸収するという方法で草を"食べている"{{r|kb_ウシ_Nipp}}。前胃の微生物を総じて胃内常在[[微生物叢]]などというが、ウシはこれら微生物の殖えすぎた分も動物性[[タンパク質|蛋白質]]として消化・吸収し、栄養に変えている{{r|kb_ウシ_Nipp}}。
ウシの[[味蕾]]は25,000個で味蕾が5000個のヒトの5倍を有する。ウシは[[毒物]]で反芻胃の微生物が死なないように[[味覚]]で食べる草をより分けている<ref>齋藤忠夫「チーズの科学」p180、Blue Backs、2016年11月15日 {{ISBN2|978-4-06-257993-3}}</ref>。
ウシの[[歯]]は、牡牛の場合は[[上顎骨|上顎]]に12本、[[下顎骨|下顎]]に20本で、上顎の[[切歯]](前歯)は無い。そのため、草を食べる時には長い舌で巻き取って口に運ぶ。
[[鼻]]には、個体ごとに異なる[[鼻紋]]があり、個体の識別に利用される。
== 家畜としてのウシ ==
=== 食用等 ===
[[家畜]]であるウシは、'''畜牛'''(ちくぎゅう)といい、その身体を食用や工業用などと多岐にわたって利用される。[[食肉|肉]]を得ることを主目的として飼養される牛を'''肉牛'''(にくぎゅう)というが、肉牛ばかりが食用になるわけでもない。牛の肉を、日本語では'''[[牛肉]]'''(ぎゅうにく)という。仔牛肉以外は[[外来語]]で'''ビーフ'''ともいう。家畜の[[内臓]]は、[[畜産副産物]]の一つという扱いになる。日本では「[[もつ]]」あるいは「ホルモン」と呼んで食用にする。世界には食用でなくとも、内臓を様々に利用する文化がある。'''[[仔牛肉]]'''/'''子牛肉'''(こうしにく)は特に区別されていて、月齢によって「'''ヴィール'''」「'''カーフ'''」と呼び分ける。牛の脂肉を食用に精製した[[脂肪]]は'''牛脂'''(ぎゅうし)もしくは'''[[ヘット]]'''という。
牛の[[骨]]すなわち'''牛骨'''(ぎゅうこつ)は、加工食品の原料や料理の食材になるほか、[[肥料]]や[[膠]]にも利用できる。ただ、[[ヒンドゥー教]]では、牛の命の消費全般を[[タブー]]としているため、牛膠もまた、その宗教圏および信仰者においては[[絵画]]を始めとする物品の一切に用いるべきでないものとされている。牛の骨油である'''牛骨油'''(ぎゅうこつゆ)は、食用と工業用に回される。工業用牛骨油の主な用途は[[石鹸]]と[[蝋燭]]である。ギターなどの楽器の部品にもなる。
牛の[[皮膚]]すなわち'''牛皮'''(ぎゅうひ、ぎゅうかわ、うしがわ)は、[[皮革#なめし|鞣し]]の工程を経て'''牛革'''に加工され、[[衣服]](古代人の[[上着]]・[[ベルト (服飾)|ベルト]]・[[履物]]などから現代人の[[革ジャン]]や[[レーシングスーツ]]まで)、[[武具]](牛革張りの[[盾]]や刀剣の[[鞘]]や[[兜]]、牛革の[[レザーアーマー]]など)、[[鞄]]など収納道具、装飾品(豪華本の[[表装]]などを含む)、調度品(革張りの[[ソファ]]など)、その他の材料になる。ここでも仔牛は特に区別されており、皮革の材料としての仔牛、および、その皮革を、仔牛と同じ語でもって「カーフ」と呼ぶ。
'''[[牛乳]]'''(ぎゅうにゅう)やその加工品を得ることを主目的として飼養される牛は、'''[[乳牛]]'''(にゅうぎゅう)という。
'''[[牛糞]]'''(ぎゅうふん、うしくそ)は、[[肥料]]として広く利用されるほか、[[燃料]]や[[建築材料]]として利用する地域も少なくない([[#牛糞|後述]])。
=== 使役 ===
[[ファイル:Sanbe_ranch.jpg|thumb|牛の牧場]]<!--※「土壌改良」に係る。-->
[[使役動物]]としての牛は'''役牛'''(えきぎゅう)といい、古来から、自動車に置き換わるまで先進国においても近年まで、馬とともに人類に広く利用されてきた。[[農耕]]用と、直接の乗用も含む人および物品の[[運搬]]用の、[[動力]]としての利用が主である。農耕のための牛は'''耕牛'''(こうぎゅう)という。運搬用というのは主に'''[[牛車]]'''(ぎゅうしゃ、うしぐるま)<ref group="注釈">古来日本の、牛に牽かせる屋形車である「'''牛車'''(ぎっしゃ)」はその一種。</ref>用であるが、古来[[中国]]などではそれに限らない。
=== 土壌改良 ===
痩せた土地に家畜を放し、他所から運び込んだ自然の飼料で飼養することによって[[土壌改良]]を図る方法があり、体格が大きく餌の摂取量も排泄量も多い牛は、このような目的をもった[[放牧]]に打ってつけの家畜でもある。
=== 娯楽 ===
[[File:Mud Cow Racing - Pacu Jawi - West Sumatra, Indonesia.jpg|thumb|インドネシアの収穫を終えた田んぼで行われる牛レース、{{ill2|パチュ・ジャウィ|id|Pacu jawi}}。画像は2019年度Wikicommons年間画像大賞作品<ref>{{Cite web |url=https://commons.wikimedia.org/wiki/Commons:Picture_of_the_Year/2019/Results/ja |title=Commons:年間画像大賞/2019/投票結果 - Wikimedia Commons |access-date=2022-11-14 |website=commons.wikimedia.org |language=en}}</ref>。同レースの写真は、2013年[[ワールド・プレス・フォト・オブ・ザ・イヤー|世界報道写真コンテスト]]「スポーツ」部門でも1位となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7609/ |title=牛レース、ベスト報道写真2013 |access-date=2022-11-14 |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |language=ja}}</ref>など迫力のあるレースが行われる。]]
牛を[[娯楽]]に利用する[[文化]]は、世界を見渡せば散見される。牛同士を闘わせるのは、[[アジア]]の一部の国・地域([[日本]]、[[朝鮮]]、[[オマーン]]など)における伝統的娯楽で、これを'''[[闘牛]]'''(とうぎゅう)という([[闘牛#日本における闘牛]]も参照)。暴れ牛と剣士を闘わせるのは、[[西ゴート王国]]に始まり、[[イベリア半島]]を中心に伝統的に行われてきた[[ブラッド・スポーツ|ブラッドスポーツ]]の一種で、これも日本語では'''闘牛'''という(''cf.'' [[闘牛#スペイン闘牛の歴史]])。暴れ牛と闘う剣士を'''[[闘牛士]]'''というが、対等の闘いではなく、絶対的有利な立場にある剣士が華麗な身のこなしと殺しを披露する[[見世物]]である。[[18世紀]]ごろの[[イギリス]]では、牡牛と[[イヌ|犬]]を闘わせる見世物として「'''[[牛いじめ]]'''('''ブルベイティング'''、英:{{lang|en|bullbaiting}})」が流行し、牡牛(ブル)と闘うよう[[品種改良]]された犬、すなわち「[[ブルドッグ]]」が、現在のブルドッグの原形として登場した。このブラッドスポーツは残酷だとして[[1835年]]に禁止され、姿を消している。危険な暴れ牛や暴れ馬の背に乗ってみせるのは、[[北アメリカ]]で発祥した'''[[ロデオ]]'''で、[[競技]]化しており、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、および、[[南アメリカ]]の幾つかの国で盛んに興行が打たれている。
=== 信仰 ===
農耕を助ける貴重な労働力である牛を殺して[[神]]に供える[[犠牲]]獣とし、そこから転じて牛そのものを神聖な生き物として崇敬することは、古代より永くに亘って広範な地域で続けられてきた[[信仰]]である。現在の例として、[[インド]]の特に[[ヒンドゥー教]]徒の間で牛が神聖な生き物として敬われ、[[食のタブー]]として[[肉食]]されることの無いことは、よく知られている。[[インダス文明]]でも牛が神聖視されていた可能性があり、インド社会における係る[[概念]]の永続性は驚くべきものがある。また、興奮した牛の群れにあえて追われる[[スペイン]]などラテン文化圏の[[祭事]]「[[エンシエロ]]」、聖なる牛の群れに踏まれることでその年の[[幸運]]を得ようとする[[ムガル帝国]]時代より続くヒンドゥー教の祭事「ゲーイ・ガウーリ」([[ディーワーリー]]の期間中に行われる祭事の一つ)など、過激な伝統[[イベント|行事]]も世界にはある<!--<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=4_JAMsbfgt8 Diwali Cattle Stampede | Bizarre Diwali Tradition] - YouTube, [https://news.nicovideo.jp/watch/nw4180919 【ドドドドド】インドで地面に寝そべって牛に踏まれまくる儀式が行われ今年も普通に怪我人続出!] - ニコニコニュース</ref>|※表示できる出典が無いので、実際の映像を収めた動画を裏書きで示しておきます。-->。
<!--
牛が釘などを食べた場合、胃を保護するため、[[磁石]]を呑み込ませておくこともあるという。|※この節に記載すべき内容ではない。-->
== 肉牛の一生 ==
[[家畜]]としての牛は、主に肉牛と乳牛に分けられる。(ヨーロッパに多い乳肉兼用種というのもある)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tochigi-vet.or.jp/other/sangyou/sangyou_09.html |title=世界の牛の種類 |publisher=栃木県獣医師会 |accessdate=2016-06-25}}</ref>
:'''乳牛'''(ホルスタインなどの乳用種)については、[[乳牛#乳牛の一生|#乳牛の一生]]を参照。
肉用牛には3種の区分があり、それぞれ「肉専用種(和牛)」「乳用種(乳牛から生まれた雄)」「交雑種(F1:乳牛雌に肉専用種雄を交配した種)」と呼ばれている<ref>[https://www.maff.go.jp/j/chikusan/kikaku/lin/pdf/nikugyu.pdf 農林水産省『肉用牛の種類』]</ref>。
繁殖農家で生まれた子牛は、1カ月齢~3カ月齢で、人為的に母子分離及び離乳が同時に行われるのが一般的である。これは子牛にとって強いストレスとなる。そのため、子牛にトゲの付いた鼻輪を装着させ、子牛が乳を吸おうとすると母牛が嫌がるようにしむけ、離乳を先に行い、のちに母子分離をするという手法がとられることもある<ref>{{Cite book|和書 |title=動物福祉学 |date=20220404 |year=2022 |publisher=昭和堂 |page=140}}</ref>。
子牛は250-300kgになる10か月齢から12か月齢まで育成され、「'''素牛'''(もとうし)」(6か月齢〜12か月齢の牛)市場に出荷され(2-4か月齢で出荷されるスモール牛市場もある)、肥育農家に競り落とされる。競り落とされた素牛は肥育農家まで運ばれる。長距離になると輸送の疲れで10kg以上やせてしまうこともある<ref>[http://mie.lin.gr.jp/index.htm 社団法人 三重県畜産協会 参照]</ref>。
その後、「'''肥育牛'''」として肥育される。飼育方法は、繋ぎ飼い方式・放牧方式などがあるが、日本では数頭ずつをまとめて牛舎に入れる(追い込み式牛舎)群飼方式が一般的である。運動不足による関節炎の予防や蹄の正常な状態を保つためには放牧又は運動場への放飼が必要であるが、国内では88%が放牧あるいや放飼を行っていない<ref name=":1" />。そのため日本の77%の農家が削蹄を行っている。削蹄は年2回が望ましいが、年に1回もしくは1回未満の農場が78%を占める<ref>{{Cite web|和書|url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/h21/beef/no2/b_m5.pdf |title=肉用牛飼養実態アンケート調査(中間とりまとめ) |access-date=20220713}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=畜産学入門|date=20120630|year=2012|publisher=文永堂出版}}</ref>。
肥育前期(7か月程度)は牛の内臓(特に胃)と骨格の成長に気をつけ、[[粗飼料]]を給餌される。肥育中期から後期(8-20か月程度)にかけては高カロリーの[[濃厚飼料]]を給餌され、筋肉の中に脂肪をつけられる(筋肉の中の脂肪は「さし」とよばれ、さしの多いものを[[霜降り肉]]と言う)。
肉用牛は、生後2年半から3年、体重が700kg前後で出荷され、[[屠殺]]される。
肉牛を産むための雌牛('''繁殖用雌牛''')は、繁殖用として優れた資質・血統をもつ雌牛が選ばれる。繁殖用雌牛は、生後14か月から16か月で初めての人工授精(1950年に[[家畜改良増殖法]]が制定され、人工授精普及の基盤が確立し、今日では日本の牛の繁殖は99%が凍結精液を用いた人工授精によってなされている)<ref>[http://www.tokyo-aff.or.jp/center/toukyouto 農林綜合研究センター 参照]{{リンク切れ|date=2018-12-15}}</ref>が行われ、約10か月(285日前後)で分娩する。生産効率を上げるため、1年1産を目標に、分娩後約80日程度で次の人工授精が行われる。8産以上となると、生まれた子牛の市場価格が低くなり、また繁殖用雌牛の経産牛の肉としての価格も低くなる場合があるため<ref>[http://yamagata.lin.gr.jp/ 社団法人 山形県畜産協会 参照]</ref>、標準的には6-8産で廃用となり、[[屠殺]]される。また、受胎率が悪かったり、生まれた子牛の発育が悪かったりすると、早目に廃用となる。
==外科的処置と動物福祉==
=== 断角/除角 ===
{{main|{{ill2|家畜の除角|en|Livestock dehorning}}}}
牛は、飼料の確保や社会的順位の確立等のため、他の牛に対し、角を用いて争うことがある。そのため牛舎内での高密度の群飼い(狭い時で1頭当たり5m{{sup|2}}前後<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/|title=平成 26 年度国産畜産物安心確保等支援事業(快適性に配慮した家畜の飼養管理推進事業)肉用牛の飼養実態アンケート調査報告書|accessdate=2020-4-20|publisher=公益社団法人畜産技術協会}}</ref>)ではケガが発生しやすく、肉質の低下に繋がることもある。また管理者が死傷することを防止するためにも、牛の除角(牛がまだ小さいころに、焼き鏝や刃物、薬剤などで角芽を除去すること)あるいは断角(角が成長してから切断すること)は有効な手段と考えられている。
日本では肉牛の59.5%、乳牛の85.5%が断角/除角されている<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/|title=平成 26 年度国産畜産物安心確保等支援事業(快適性に配慮した家畜の飼養管理推進事業)乳用牛の飼養実態アンケート調査報告書|accessdate=20220107}}</ref><ref name=":1" />。断角/除角は激痛を伴い牛への負担が大きく、ショック死する例も報告されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hopeforanimals.org/cattle/528/|title=畜産従業員の見た、除角による牛の死亡2017/04/24|accessdate=2020-4-21|publisher=認定NPO法人アニマルライツセンター}}</ref>が、麻酔を使用する農家は肉牛で17.3%、乳牛で14%と低い<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/|title=平成 26 年度国産畜産物安心確保等支援事業(快適性に配慮した家畜の飼養管理推進事業)乳用牛の飼養実態アンケート調査報告書|accessdate=20220107}}</ref><ref name=":1" />。断角/除角の方法は、腐食性軟膏や断角器、焼きごて、のこぎり、頭蓋骨から角をえぐり取る除角スプーンなどを使う<ref>{{Cite book |和書 |author=ゲイリー・L・フランシオン |title=動物の権利入門 |date=2018 |publisher=緑風出版 |page=66 }}</ref>。
[[農林水産省|農水省]]が普及に努めている「アニマルウェルフェアの考え方に対応した飼養管理指針」では肉牛、乳牛ともに「除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な角が未発達な時期(遅くとも生後2ヵ月以内)に実施することが推奨される」。だが実際には、乳牛では45%、肉牛では85%が3ケ月齢以上で断角/除角されている<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/|title=平成 26 年度国産畜産物安心確保等支援事業(快適性に配慮した家畜の飼養管理推進事業)乳用牛の飼養実態アンケート調査報告書|accessdate=20220107}}</ref><ref name=":1" />。
=== 去勢 ===
雄牛を去勢しないで肥育した場合、キメが粗くて硬く、消費者に好まれない牛肉に仕上がる。また去勢しない雄牛を牛舎内で群飼すると、牛同士の闘争が激しくなり、ケガが発生しやすく肉質の低下にもつながる。こういった理由から、肉用に飼育されるオスは一般的に去勢される<ref name=":1" />。去勢の方法は、陰嚢を切開して、精索と血管を何度か捻りながら、引いてちぎる観血去勢法、皮膚の上からバルザックやゴムリングを用いて挫滅、壊死させる無血去勢法が一般的で、特別な場合を除いて、麻酔は行われない。日本も加盟する[[国際獣疫事務局|OIE]]の肉用牛の動物福祉規約<ref>{{Cite web|url=https://www.oie.int/en/what-we-do/standards/codes-and-manuals/terrestrial-code-online-access/?id=169&L=0&htmfile=chapitre_aw_beef_catthe.htm|title=CHAPTER 7.9.
ANIMAL WELFARE AND BEEF CATTLE PRODUCTION SYSTEMS|accessdate=20220107}}</ref>には3ヶ月齢より前に実施することが推奨されているが、日本の肉牛の90.9%は3ヵ月以上で去勢されている<ref name=":1" />。観血去勢では術中や術後の消毒不足や敷料等が傷口に入ることで化膿や肉芽腫の形成等が見られることがある<ref>{{Cite journal|和書 | author = 千葉 暁子 | author2 = 森山 友恵 | author3 = 飯野 君枝 | author4 = 山岸 則夫 | year = 2020 | title = 観血去勢後の手術部位感染により陰嚢膿瘍を形成した黒毛和種去勢牛の3 例 | journal = 産業動物臨床医学雑誌 | volume = 11 | issue = 2 | pages = 82-86 | publisher = 日本家畜臨床学会 | publisher2 = 大動物臨床研究会 | doi = 10.4190/jjlac.11.82 | ref = harv }}</ref>。
=== 鼻環(鼻ぐり) ===
鼻環による痛みを利用することで、牛の移動をスムーズにさせ、調教しやすくできる。日本の肉牛農家では76.1%で鼻環の装着が行われている<ref name=":1" />(乳牛における装着率は不明)。鼻環通しで麻酔は使用されない。農水省が普及に努めている「アニマルウェルフェアの考え方に対応した肉用牛の飼養管理指針」は鼻環の装着について「牛へのストレスを極力減らし、可能な限り苦痛を生じさせないよう、素早く適切な位置に装着すること」としている。
==ケア==
[[画像:Ochsenbeschlag4.jpg|thumb|牛用の蹄鉄。奇蹄目の馬と違い偶蹄目であるため、一つの脚に左右2個の蹄鉄が必要。]]
;毛刈り
;ブラッシング
:舌や壁などに擦り付けて[[グルーミング|セルフグルーミング]]を行う。また人間が行うことで信頼関係が構築され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.izuno.ed.jp/subjects/32690 |title=【動物科学科】牛のブラッシングの様子です。 – 島根県立出雲農林高等学校 |access-date=2022-12-09 |website=www.izuno.ed.jp}}</ref>、同時に人間にもストレス軽減効果が確認される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ibaraki.ac.jp/news/2021/08/20011326.html |title=ウシのブラッシングによる学生のストレス軽減を生理データで確認―農・安江教授に聞く|茨城大学 |access-date=2022-12-09 |website=www.ibaraki.ac.jp |language=ja}}</ref>。カウブラシ(牛体ブラシ)という自分でブラッシングを行う装置もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://doi.org/10.20652/jabm.58.2_66 |title=カウブラシの利用制限による牛群への影響と欲求度の評価 |access-date=2022-12-09 |last=小針 |first=大助 |date=2022-06-25 |publisher=動物の行動と管理学会 |language=ja |doi=10.20652/jabm.58.2_66}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nytimes.com/2018/08/08/science/cows-brush-grooming.html |title=Give a Cow a Brush, and Watch It Scratch That Itch |access-date=2022-12-09 |last=Klein |first=JoAnna |date=2018-08-08 |website=The New York Times |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite journal |last=堂腰 |first=顕 |date=2007 |title=24. 自動牛体ブラシに対する乳牛の利用状況と効果(日本家畜管理学会・応用動物行動学会合同2007年度春季研究発表) |url=https://doi.org/10.20652/abm.43.1_64 |publisher=動物の行動と管理学会 |language=ja |doi=10.20652/abm.43.1_64}}</ref>。
;削蹄・蹄鉄
:家畜の牛は運動量が無いため人間(削蹄師)が削る作業が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASPD56QS9PBPPITB008.html?iref=ogimage_rek |title=牛の爪を削る削蹄師 「ただの爪切り屋にはなるな」と親方に言われて:朝日新聞デジタル |access-date=2022-12-09 |date=2021-12-05 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref>。また逆に労役を行う牛には[[蹄鉄]]が取り付けられる。
;牛舎洗浄・牛床清掃
:敷料やふん尿を除去して、消毒剤で洗浄する<ref>牛肉の生産衛生管理ハンドブック 著:農林水産省 消費・安全局</ref>。
;牛体洗浄(鎧落とし)
:千葉県鴨川市では、牛洗いという行事が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/local/196303 |title=牛に感謝し豊作祈る 伝統の「牛洗い」行事 鴨川 |access-date=2022-12-09 |website=www.chibanippo.co.jp |language=ja}}</ref>。
== 病気 ==
=== 給餌がひきおこす疾患 ===
牛は粗い植物を食べて成長、繁殖するよう進化してきた生き物であるが、肉牛経営では生産性を高めるために炭水化物を多く含んだ[[濃厚飼料]]が多給されており、[[動物福祉]]的に問題視されている。調査では、高値で取引される等級の高い肉において、水腫や肺疾患が多かったと報告されており、原因として濃厚飼料の多給やビタミンAの給与制限などの偏った給餌が指摘された<ref>{{Cite book|和書 |title=動物福祉学 |date=20220415 |year=2022 |publisher=昭和堂 |pages=130-131}}</ref>。
[[霜降り肉]]を作るためには、筋肉繊維の中へ脂肪を交雑させる、という通常ではない状態を作り出さなければならない。そのため、脂肪細胞の増殖を抑える働きのある[[ビタミンA]]の給与制限が行われる。ビタミンA欠乏が慢性的に続くと、光の情報を視神経に伝える[[ロドプシン]]という物質が機能しなくなる。重度になり、瞳孔が開いていき、弱視・失明に至ることがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nosai-yamanashi.or.jp/jigyo/hiiku_kyuyo.html |title=肥育牛のビタミンA適正給与について |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110901090228/http://www.nosai-yamanashi.or.jp/jigyo/hiiku_kyuyo.html |archivedate=2011-09-01 |accessdate=2018-12-15 |publisher=山梨県農業共済組合}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jamti.jp/pdf/tech06-17.pdf |title=アニマルウェルフェアに配慮した 輸出向け肉用牛取り扱い改善マニュアル 令和5年3月 公益財団法人日本食肉生産技術開発センター |access-date=20230718}}</ref>。ビタミンA欠乏の徴候が表れた場合カロテンを含んだ飼料やビタミン剤の投与でこれを補う必要がある。
=== 舌遊び ===
舌を口の外へ長く出したり左右に動かしたり、丸めたり、さらには柵や空の飼槽などを舐める動作を持続的に行うことを指す。粗飼料不足や、繋留、単飼(1頭のみで飼育する)などの行動抑制が要因とされており、そのストレスから逃れるためにこの行動が発現する。舌遊び行動中は心拍数が低下することが認められている。また生産サイクルをあげるために、産まれてすぐに母牛から離されることも舌遊びの要因とされている。「子牛は自然哺乳の場合1時間に6000回母牛の乳頭を吸うといわれている。その半分は単なるおしゃぶりにすぎないが、子牛の精神の安定に大きな意味をもつ。子牛は母牛の乳頭に吸い付きたいという強い欲求を持っているが、それが満たされないため、子牛は乳頭に似たものに向かっていく。成牛になっても満たされなかった欲求が葛藤行動として「舌遊び」にあらわれる」<ref> [[中洞正]] 『黒い牛乳』 幻冬舎メディアコンサルティング、2009年7月。{{要ページ番号|date=2018-12-15}}</ref>。
実態調査では、種付け用黒毛和牛の雄牛の100%、同ホルスタイン種の雄牛の6%、食肉用に肥育されている去勢黒毛和牛の雄牛の76%、黒毛和牛の雌牛の89%、ホルスタイン種の17%で舌遊び行動が認められたとある<ref>東北大学大学院農学研究科 佐藤衆介教授らによる調査。{{Full citation needed |date=2018-12-15 |title=}}</ref>。
=== 中毒 ===
稀なケースであるが、牧場内に[[広葉樹]]があり[[ドングリ]]が採餌できる環境にあると、ドングリの成分である[[ポリフェノール]]を過剰摂取してしまい[[中毒]]死することがある<ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/economy/agriculture/1-0358378.html ドングリ食べ過ぎで牛が集団死 オホーツクで3年前] 北海道新聞どうしんweb(2017年1月16日)2017年1月24日閲覧</ref>。
=== 乳牛特有の病気について ===
{{Main|乳牛#乳牛の病気}}
== 主要品種 ==
{{See also|[[:en:List of cattle breeds]]|[[:Category:牛の品種]]}}
=== ヨーロッパ由来品種 ===
[[ファイル:Texas Longhorn.jpg|thumb|米国種[[テキサスロングホーン]]]]
{{div col}}
* [[アバディーン・アンガス]]種([[無角牛]]、スコットランド原産、肉牛)
* アングラー種(ドイツ原産、乳肉兼用)
* ウェルシュブラック種(イギリス原産、乳肉兼用)
* エアシャー種(スコットランド原産、乳牛)
* [[ガンジー種]] (イギリス領[[ガンジー島]]原産、乳牛 )
* [[キアニーナ牛|キアニーナ種]](イタリア原産、役肉兼用 欧州系で最大の標準体型を持つ)
* ギャロレー種(イギリス原産、肉用)
* グロニンゲン種(オランダ原産、乳肉兼用)
* ケリー種(アイルランド原産、乳用)
* ゲルプフィー種(ドイツ原産、肉用)
* サウスデボン種(イギリス原産、乳肉兼用)
* [[ジャージー種]](イギリス領[[ジャージー島]]原産、乳牛)
* [[シャロレー種]](フランス原産、肉牛)
* [[ショートホーン]]種(スコットランド原産、肉牛)
* シンメンタール種(スイス原産、乳肉兼用)
* スウェーデンレッドアンドホワイト種(スウェーデン原産、乳用)
* デキスター種(イギリス原産、乳肉兼用)
* [[デボン (牛)|デボン種]](イギリス原産、肉用)
* デーリィショートホーン種(イギリス原産、乳肉兼用)
* ノルウェーレッド種(ノルウェー原産、乳用)
* [[ノルマン種 (牛)|ノルマン種]](フランス原産、乳肉兼用)
* ハイランド種(イギリス原産、肉用)
* パイルージュフランドル種(ベルギー原産、乳肉兼用)
* ピンツガウエル種(オーストリア原産、肉用)
* フィンランド種(フィンランド原産、乳用)
* ブラウンスイス種(スイス主産、乳肉兼用)
* [[ヘレフォード種]](イングランド原産、肉牛)
* [[ホルスタイン]]種(オランダ原産、乳牛、黒と白の模様で日本でもよく知られる)
* ホワイトベルテッドギャラウェイ種(スコットランド原産)
* マルキジアーナ種(イタリア原産、役肉兼用)
* マレーグレー種(オーストラリア原産、肉牛)
* ミューズラインイーセル種(オランダ原産、乳肉兼用)
* ムーザン種(フランス原産、肉用)
* モンベリエール種(フランス原産、乳肉兼用)
* リンカーンレッド種(イギリス原産、乳肉兼用)
* レッドデーニッシュ種(アイルランド原産、乳肉兼用)
* レッドポール種(イギリス原産、乳肉兼用)
* ロートフィー種(ドイツ原産、肉用)
* ロマニョーラ種(イタリア原産、役肉兼用)
{{div col end}}
=== アジア由来品種 ===
* [[黄牛]](中国・東南アジア産、役牛)
* 草原紅牛(中国原産、乳牛)
* [[韓牛|朝鮮牛]](韓牛)(朝鮮原産、役牛・肉牛)
* ブラーマン種
* ヒンドゥー種
* カンペンセン種
=== 日本由来品種 ===
{{Anchors|日本在来品種}}<!--※国際的視野の下で編集を。在来というのは日本視点で、外国における“日本由来の”移入品種や流入品種も含めるべきです。-->
* [[口之島牛]](鹿児島県口之島に棲息、野生化牛)
* [[見島牛]](山口県見島産、天然記念物)
** [[見島牛|見蘭牛]](見島牛の雄とホルスタインの雌の交配 (F<sub>1</sub>))
* [[和牛]](改良和種:外国種との交配)
** [[褐毛和種]](あかげわしゅ、熊本県・高知県主産、食肉用)
** [[黒毛和種]](農耕用・食肉用)
** [[無角和種]](山口県産、食肉用)
** [[日本短角種]](東北地方・北海道主産、食肉用)
<!--
== ウシの仲間 ==
* [[スイギュウ]](水牛):ウシ亜科アフリカスイギュウ属・アジアスイギュウ属。
* [[ヌー]]
* [[ヤク]]
* [[コブウシ]]
* [[バイソン]]・[[バッファロー]](野牛)
-->
== 飼育数 ==
[[File:所得国別牛の頭数.png|thumb|高所得国、上位中所得国、下位中所得国、低所得国の飼育頭数と割合]]
世界に棲息する牛のうち、家畜として飼育されている頭数に関しては、[[国際連合食糧農業機関]] (FAO) による毎年の調査結果が、[[1990年]]以降公表されている<ref name="GlobalNote_世界計">{{Cite web|和書|date=2019-01-08 |title=世界計 > 牛の飼育数 |url=https://www.globalnote.jp/p-cotime/?dno=10190&c_code=999&post_no=15229 |publisher=グローバルノート株式会社 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-08-05 }}</ref>。統計には、一般的な牛のほか、[[コブウシ]]、[[ガウル]]などのアジア牛、[[ヤク]]を含む{{r|GlobalNote_世界計}}。[[スイギュウ]]や[[バイソン]]は含まない{{r|GlobalNote_世界計}}。
牛を聖なる動物と見なす[[ヒンドゥー教]]の影響もあって[[インド]]が世界を圧倒する飼育頭数で知られ、長らく世界一の座を占めていた。しかし、[[2003年]]に[[ブラジル]]がインドに換わって世界第1位となった<ref name="FAO_LiveCattles">{{cite web|url=http://faostat3.fao.org/home/index.html#VISUALIZE|title=FAO Brouse date production-Live animals-cattles|publisher=Fao.org |date= |accessdate=2013-01-06}}{{リンク切れ|date=2018-12-15}}</ref><!--※リンク切れしているので確認できないが、有効だったと推定し得るこの出典は、出典箇所が正しく示されていなかったため、全文の信用性が低くなってしまっている。一応信用したうえで、加筆しやすい時系列に構成し直した。出典の再提示が必要。-->。これは、[[アマゾン熱帯雨林]]の破壊と[[牧場]][[開発]]が以前にも増して急速に進み、アマゾン地方の牛飼育頭数が激増してきた結果であった。
[[2008年]]には再びインドが第1位になったものの、インド・ブラジル両国の頭数はほぼ拮抗している{{r|FAO_LiveCattles}}。
牛の飼育数は新興国を中心に増え続けており2020年の推定総頭数は15億2593万9479頭である<ref name="FAOSTAT"/>。
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller"
|+ 牛の飼育数上位国の推定頭数と推移<ref name="FAOSTAT">{{Cite web | url = https://www.fao.org/faostat/en/#data| title = FAOSTAT| publisher = FAO| accessdate = 2022-11-06}}</ref>
!
! colspan="2" |2020
! colspan="2" |2010
! colspan="2" |2000
! colspan="2" |1990
! colspan="2" |1980
! colspan="2" |1970
|-
|世界
| -
|1525939479
| -
|1411583223
| -
|1319963140
| -
|1296612992
| -
|1216999022
| -
|1081612612
|-
|ブラジル
|1
|218150298
|1
|209541109
|2
|169875524
|2
|147102320
|2
|118971424
|4
|75446704
|-
|インド
|2
|194482355
|2
|194184992
|1
|191924000
|1
|202500000
|1
|186500000
|1
|177442000
|-
|アメリカ
|3
|93793300
|3
|94081200
|4
|98199000
|4
|95816000
|4
|111242000
|2
|112369008
|-
|''エチオピア''
|4
|70291776
|5
|53382192
|7
|33075330
|8
|30000000
|9
|26000000
|7
|26231504
|-
|中国
|5
|61128843
|4
|68871241
|3
|104553559
|5
|77909675
|6
|52496213
|5
|57616205
|-
|アルゼンチン
|6
|54460799
|6
|48949744
|5
|48674400
|6
|52845000
|5
|55760496
|6
|48439648
|-
|パキスタン
|7
|49624000
|8
|34285000
|15
|22004000
|15
|17677008
|16
|15038000
|14
|14584000
|-
|メキシコ
|8
|35639209
|9
|32642134
|8
|30523735
|7
|32054304
|7
|27742000
|9
|22798000
|-
|チャド
|9
|32237209
|16
|19221000
|23
|11460000
|49
|4297300
|46
|4360000
|40
|4500000
|-
|スーダン
|10
|31757266
|7
|41761000
|6
|37093000
|13
|21027800
|14
|18354416
|17
|12300000
|-
|コロンビア
|12
|28245262
|10
|27329066
|12
|24363700
|9
|24383504
|10
|23945488
|12
|20200000
|-
|バングラデシュ
|13
|24391000
|12
|23051000
|14
|22310000
|10
|23244000
|12
|21556000
|8
|25686000
|-
|オーストラリア
|14
|23503238
|11
|26733000
|10
|27588000
|11
|23162208
|8
|26202704
|10
|22162464
|-
|ロシア
|18
|18126003
|13
|20671328
|9
|28060323
|3
|118388000
|3
|115100000
|3
|95162000
|-
|日本
|60
|3907000
|56
|4376000
|51
|4588000
|45
|4760000
|48
|4248000
|50
|3622000
|}
== 利用 ==
=== 食用 ===
肉は[[牛肉]]として、また乳は[[牛乳]]として、それぞれ食用となる。食用は牛の最も重要な用途であり、肉・乳ともに人類の重要な食料供給源の一つとなってきた。牛乳も牛肉も、そのまま食用とされるだけでなく、[[乳製品]]や各種食品などに加工される原料となることも多い。
年老いて乳の出が悪くなった[[#乳牛|乳牛]]の[[#経産牛|経産牛]]は、肉質は硬くなって低下し、体も痩せ細ってしまう<ref name="食彩_20190803">{{Cite web|和書|date=2019-08-03 |title=第791回「牛肉」 |url=https://www.tv-asahi.co.jp/syokusai/contents/toppage/cur/list.html |publisher=テレビ朝日 |website=食彩の王国(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-08-03 }}</ref>。21世紀初期の日本の場合、こういった個体は廃用牛の扱いを受け、安値で[[ペットフード]]用など人間向けの食用以外に回されるのが一般的である{{r|食彩_20190803}}。しかし、再肥育して肉質を高めることで<ref group="注釈">番組内では「噛めば噛むほど味わい深い」と評している。</ref>{{r|食彩_20190803}}人間向けの食用牛としての市場価値を“再生”させることに成功している業者もいる{{r|食彩_20190803}}。
=== 皮革 ===
{{See also|皮革#牛}}
{{節スタブ}}
=== 生薬 ===
[[胆石]]は'''牛黄'''(ごおう)という[[生薬]]で、[[漢方薬]]の薬材<ref group="注釈">日本では『[[続日本紀]]』などに記述が見られ、一例として、[[文武天皇]]2年[[1月8日 (旧暦)|正月8日]]条({{small|[[ユリウス暦]]換算:}}[[698年]][[2月23日]]の条)、「[[土佐国]]から牛黄が献上された」と記されている他、[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]条({{small|ユリウス暦換算:}}[[699年]][[1月5日]]の条)にも、「[[下総国]]が牛黄を献上した」など、各地から献上品としての記録が見られる。</ref>。解熱、鎮痙、強心などの効能がある。救心、[[六神丸]]などの、[[動悸]]・[[息切れ]]・気付けを効能とする[[医薬品]]の主成分となっている。[[日本薬局方]]に収録されている生薬である。
牛の胆石は、人為的ではない状態では千頭に一頭の割合でしか発見されない、と言われていたため<ref>{{Cite web|和書|url=http://ameblo.jp/unryudo/entry-11394636056.html |title=漢方の王様 「ゴオウ(牛黄)」|website=杜の都の漢方薬局 運龍堂のブログ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305124235/http://ameblo.jp/unryudo/entry-11394636056.html |archivedate=2016-03-05 |accessdate=2018-12-15}}</ref>、大規模で食肉加工する設備を有する国が牛黄の主産国となっている。オーストラリア、アメリカ、ブラジル、インドなどの国がそうである。ただし、[[牛海綿状脳症|BSE]]の問題で北米産の牛黄は事実上、使用禁止となっていることと、中国需要の高まりで、牛黄の国際価格は上げ基調である。
現在では、牛を殺さずに胆汁を取り出して体外で結石を合成したり、外科的手法で牛の胆嚢内に結石の原因菌を注入して確実に結石を生成させる、「人工牛黄」または「培養牛黄」が安価な生薬として普及しつつある。
=== 牛糞 ===
{{Main|牛糞}}
糞は肥料にされる。与えられた飼料により肥料成分は異なってくるが、総じて肥料成分は低い。肥料としての効果よりも、[[堆肥]]のような土壌改良の効果の方が期待できる。また、堆肥化して利用することも多い。園芸店などで普通に市販されている。
乾燥地域では牛糞がよく乾燥するため、燃料に使われる。森林資源に乏しい[[モンゴル]]高原では、牛糞は貴重な燃料になる。また[[エネルギー資源]]の多様化の流れから、牛糞から得られる[[メタン]]ガスによる[[バイオマス]]発電への利用などが模索されており、[[スウェーデン]]などでは実用化が進んでいる。
また、[[インド]]などの[[発展途上国]]では牛糞を円形にして壁に貼り付け、一週間ほど乾燥させて[[牛糞ケーキ]]を作製し、[[燃料]]として用いている(匂いもなく、火力も強い)<ref>『新編 地理資料』 2014年、p.130、ISBN 978-4-80-907612-1</ref>。
アフリカなどでは住居内の室温の上昇を避けるために、牛糞を住居の壁や屋根に塗ることがある。
=== 胆汁 ===
[[水彩|水彩画]]では[[胆汁]]をぼかし・にじみ用の[[界面活性剤]]として用いる。
[[タウリン]]({{lang|en|taurine}})は牛の胆汁から発見されたため、[[ラテン語]]で雄牛を意味する「[[タウルス]]({{lang|la|taurus}})」から命名された。
== 歴史 ==
=== 世界 ===
ウシは[[新石器時代]]に[[西アジア]]と[[インド]]で野生の[[オーロックス]]が別個に家畜化されて生まれた。学説としては、西アジアで家畜化されたものが他地域に広がったという一元説が長く有力であった<ref>津田恒之 『牛と日本人:牛の文化史の試み』 東北大学出版会、2001年9月。ISBN 4925085409。17頁。</ref>{{sfn|松川|2010|p=29}}。ところが、1990年代になされた[[ミトコンドリアDNA]]を使った系統分析で、現生のウシがインド系のゼブ牛と北方系のタウルス牛に大きく分かれ、その分岐時期が20万年前から100万年前と推定された。これは、せいぜい1万年前とされるウシの家畜化時期よりはるかに古い。そこで、オーロックスにもとからあった二系統が、人類によって別々に家畜化された結果、今あるゼブ牛、タウルス牛となったという二元説が広く支持されている<ref>万年英之・内田宏・広岡博之 「ウシの起源と品種」『ウシの科学』 広岡博之編、朝倉書店〈シリーズ〈家畜の科学〉〉1、2013年11月、ISBN 978-4-254-45501-4。5-6頁。</ref>{{sfn|松川|2010|p=29}}。
ウシは、亜種関係のゼブ牛・タウルス牛の間はもとより、原種のオーロックスとも問題なく子孫を残せるので、家畜化された後に各地で交雑が起こった。遺伝子分析によれば、ヨーロッパの牛にはその地のオーロックスの遺伝子が入り込んでいる。東南アジアとアフリカの牛は、ゼブ牛とタウルス牛の子孫である{{sfn|松川|2010|p=33}}。さらに、[[東南アジア島嶼部]]のウシには、別種だがウシとの交雑が可能なこともある[[バンテン]]の遺伝子が認められる{{sfn|松川|2010|p=33}}。
ウシの家畜化は、[[ヤギ]]や[[ヒツジ]]と比べて遅れた。オーロックスは獰猛で巨大な生物であったので、小型の動物で飼育に習熟してはじめて家畜化に成功したと考えられている。しかしいったん家畜化されると、ウシはその有用性によって[[牧畜]]の中心的存在となった。やがて成立した[[エジプト文明]]や[[メソポタミア文明]]、[[インダス文明]]においてウシは農耕用や牽引用の動力として重要であり、また各種の祭式にも使用された。紀元前6世紀初頭にはメソポタミアにおいて[[プラウ]](犁)が発明され、その牽引力としてウシはさらに役畜としての重要度を増した。このプラウ使用はこれ以降の各地の文明にも伝播した。
ウシはやがて世界の各地へと広がっていった。[[ヨーロッパ]]ではウシは珍重され、最も重要な家畜とされていた。8世紀後半ごろには車輪付きのプラウが開発され、また[[くびき]]の形に改良が加わることで牽引力としての牛はさらに重要となった<ref>ジョゼフ・ギース、フランシス・ギース 『中世ヨーロッパの農村の生活』 青島淑子訳、講談社〈講談社学術文庫〉、2008年5月。ISBN 978-4-06-159874-4。30頁。</ref>。牛肉はヨーロッパ全域で食用とされ、中世の食用肉のおよそ3分の2は牛肉で占められていた{{sfn|ロリウー|2003|p=81}}。ヨーロッパ北部では食用油脂の中心はバターであり、また牛乳も盛んに飲用された{{sfn|ロリウー|2003|p=29}}。ヨーロッパ南部では食用油脂の中心は[[オリーブオイル]]であり、牛乳の飲用もさほど盛んでなかったが、牛肉は北部と比べ盛んに食用とされた{{sfn|ロリウー|2003|p=81}}。
[[アフリカ]]においては[[ツェツェバエ]]の害などによって伝播が阻害されたものの、[[紀元前1500年]]ごろには[[ギニア]]の[[フータ・ジャロン]]山地でツェツェバエに耐性のある種が選抜され<ref>『新書アフリカ史』 宮本正興・松田素二編、講談社〈講談社現代新書〉、2003年2月20日、55頁。</ref>、[[西アフリカ]]から[[ヴィクトリア湖]]畔にかけては紀元前500年頃までにはウシの飼育が広がっていた<ref>サムエル・カスール 『アフリカ大陸歴史地図』 向井元子訳、東洋書林、第1版、2002年12月3日。19頁。</ref>。インドにおいては[[バラモン教]]時代はウシは食用となっていたが、[[ヒンドゥー教]]への転換が進む中でウシが神聖視されるようになり、ウシの肉を食用とすることを禁じるようになった。しかし、乳製品や農耕用としての需要からウシは飼育され続け、世界有数の飼育国であり続けることとなった。
[[新大陸]]にはオーロックスが存在せず、[[1494年]]に[[クリストファー・コロンブス]]によって持ち込まれたのが始まりである。新大陸の気候風土にウシは適合し、各地で飼育されるようになった<ref name="Cambridge">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典 2 主要食物:栽培作物と飼養動物』 Kenneth F.Kiple, Kriemhild Conee Ornelas編、石毛直道ほか監訳、朝倉書店、2004年9月10日、第2版第1刷。ISBN 4254435320。550頁。</ref>。とくに[[アルゼンチン]]の[[パンパ]]においては、持ち込まれた牛の群れが野生化し、[[19世紀]]後半には1,500万頭から2,000万頭にも達した。このウシの群れに依存する人々は[[ガウチョ]]と呼ばれ、アルゼンチンや[[ウルグアイ]]の歴史上重要な役割を果たしたが、19世紀後半にパンパ全域が牧場化し野生のウシの群れが消滅すると姿を消した。[[北アメリカ大陸]]においてもウシは急速に広がり、19世紀後半には[[大陸横断鉄道]]の開通によってウシを鉄道駅にまで移送し市場であるアメリカ東部へと送り出す姿が見られるようになった。この移送を行う牧童は[[カウボーイ]]と呼ばれ、ウシの大規模陸送がすたれたのちもその独自の文化はアメリカ文化の象徴となっている。
[[1880年代]]には[[冷凍船]]が開発され、遠距離間の牛肉の輸送が可能となった。これは[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]において牧場の大規模化や効率化をもたらし、牛肉輸出は両国の基幹産業となった<ref name="Cambridge"/>。また、鉄道の発達によって牛乳を農家から大都市の市場へと迅速に大量に供給することが可能になったうえ、[[ルイ・パスツール]]によって低温殺菌法([[パスチャライゼーション]])が開発され、さらに冷蔵技術も進歩したことで、チーズやバターなどの乳製品に加工することなくそのまま牛乳を飲む習慣が一般化した<ref>南直人 『ヨーロッパの舌はどう変わったか 十九世紀食卓革命』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1998年2月10日、第1刷。113-114頁。</ref>。こうした技術の発展によって、ウシの利用はますます増加し、頭数も増加していった。
=== 日本列島 ===
{{See also|日本の獣肉食の歴史}}
[[日本列島]]では[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[伊皿子貝塚]]から[[弥生時代]]の牛骨が出土したとされるが、後代の混入の可能性も指摘される<ref name="Nishimoto">西本豊弘「ウシ」『事典 人と動物の考古学』(吉川弘文館、2010年)、p.162</ref>。日本のウシは、中国大陸から持ち込まれたと考えられている。[[古墳時代]]前期にも確実な牛骨の出土はないが、牛を形象した[[埴輪]]が存在しているため、この頃には飼育が始まっていたと考えられている{{r|Nishimoto}}。古墳後期(5世紀)には[[奈良県]][[御所市]]の南郷遺跡から牛骨が出土しており、最古の資料とされる{{r|Nishimoto}}。
当初から日本では役畜や[[牛車#日本の牛車|牛車]]の牽引としての使用が主であったが、牛肉も食されていたほか、[[角|牛角]]・[[牛皮]]や[[骨髄]]の利用も行われていたと考えられている。[[675年]]に[[天武天皇]]は、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じた。禁止令発出後もウシの肉はしばしば食されていたものの、禁止令は以後も[[鎌倉時代]]初期に至るまで繰り返して発出され<ref>『肉の科学』 沖谷明紘編、朝倉書店、1996年5月20日、初版第1刷。8頁。</ref>、やがて肉食は農耕に害をもたらす行為とみなされ、肉食そのものが[[穢れ]]であるとの考え方が広がり、牛肉食はすたれていった。[[8世紀]]から[[10世紀]]ごろにかけては酪や、[[蘇]]、[[醍醐]]といった乳製品が製造されていたが、朝廷の衰微とともに製造も途絶え、以後日本では[[明治時代]]に至るまで乳製品の製造・使用は行われなかった。
また、広島県の[[草戸千軒町遺跡]]出土の頭骨のない牛の出土事例などから頭骨を用いた祭祀用途も想定されており、馬が特定の権力者と結びつき丁重に埋葬される事例が見られるのに対し、牛の埋葬事例は見られないことが指摘されている。
古代の日本では総じて牛より馬の数が多かった<ref>松井章 「狩猟と家畜」『暮らしと生業』 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編、岩波書店〈列島の古代史〉第2巻、2005年10月。ISBN 4000280627。196頁。</ref>。平安時代の『[[延喜式]]』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである{{sfn|市川|2010|pp=4-5}}。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では[[武士団]]の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている{{sfn|市川|2010|p=7}}。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、[[伊勢湾]]と[[若狭湾]]を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる{{sfn|市川|2010|pp=5-6}}。
牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[ポルトガル]]の[[宣教師]]たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、[[キリシタン大名]]の[[高山右近]]らが牛肉を振舞ったとの記録もある<ref>本山荻舟 『飲食事典』 平凡社、1958年12月25日、160頁。</ref>ものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。[[江戸時代]]には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあった[[ももんじ屋]]と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また[[彦根藩]]は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかった<ref>原田信男編著 『江戸の料理と食生活:ヴィジュアル日本生活史』 小学館、2004年6月20日第1版第1刷、87頁。</ref>。しかし、日本においてウシの主要な用途はあくまでも役牛としての利用であり続けた。
日本においてウシが公然と食されるようになるのは[[明治時代]]である。[[文明開化]]によって欧米の文化が流入する中、欧米の重要な食文化である牛肉食もまた流れ込み、[[銀座]]において[[牛鍋]]屋が人気を博すなど、次第に牛肉食も市民権を得ていった。また、乳製品の利用・製造も復活した。
== 文化と宗教 ==
{{See also|en:Cattle in religion}}
人間に身近で、印象的な角を持つ大型家畜である牛は、世界各地で信仰対象や動物に関連する様々な民俗・文化のテーマになってきた。
[[古代エジプト]]人は[[オシリス]]、[[ハトホル]]信仰を通して雄牛(ハピ、ギリシャ名ではアピス)を聖牛として崇め、[[エジプト初期王朝時代|第一王朝]]時代(紀元前2900年ごろ)には「ハピの走り」と呼ばれる行事が行われていた<ref name="Fagan">ブライアン・フェイガン『人類と家畜の世界史』東郷えりか訳 河出書房新社 2016年、ISBN 9784309253398 pp.120-125.</ref>。創造神[[プタハ]]の化身としてアピス牛信仰は古代エジプトに根を下ろし、[[ラムセス2世]]の時代にはアピス牛のための地下墳墓[[セラペウム]]が建設された<ref name="Fagan"/>。聖牛の特徴とされる全身が黒く、額に白い菱形の模様を持つウシが生まれると生涯神殿で手厚い世話を受け、死んだ時には国中が喪に服した。一方、普通のウシは食肉や労働力として利用されていたことが壁画などから分かっている。
主にインドで信仰されている[[ヒンドゥー教]]では牛(特に[[コブウシ]])を神聖視している([[スイギュウ]]はそうではない)。このためインドは牛の飼育頭数は多いものの、牛肉食を忌避する国民が多い。インドでは従来も州により、牛肉の扱いを規制していた。2017年5月26日にはインド連邦政府が、食肉処理を目的とした家畜市場における牛の売買を禁止する法令を出した。これに対して、[[ムスリム|イスラム教徒]]や[[世俗主義]]者から「食事の選択権に対する侵害」として反対運動や訴訟が起き<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170530-E73SSIK34RO5HARHJ6NWQQ5LKU/|title=インド政府、「牛の幸福のため」牛肉規制 家畜市場での肉牛売買禁止、一部の州やイスラム教徒は反発|work=|publisher=[[産経新聞]]ニュース|date=2017年5月30日}}</ref>、インド最高裁判所は7月11日に法令差し止めを決めた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170711-GMXZBG6PGJPHTBSFA2RYF273SE/|title=牛売買禁止令を差し止め インド最高裁 モディ政権に打撃|work=|publisher=[[産経新聞]]ニュース|date=2017年7月11日}}</ref>。インドでは牛肉を売ったり、食べたりしたと思われた人が殺害される事件も起きている<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20170706-3OWBECV5DJNXBN3ZPO2QD6EZ4Q/|title=インドで「牛肉殺人」多発 モディ首相「誰も牛の名のもとに人を殺してはならない」|work=|publisher=[[産経新聞]]ニュース|date=2017年7月6日}}</ref>。
日本でも牛(丑)は[[十二支]]の鳥獣に入っているほか、[[牛頭天王]]のような神や、[[牛鬼]]など[[妖怪]]のモチーフになっている。また、身近にいる巨大な哺乳類であることから、その種の中で大きい体格を持つ生き物の和名に用いられることがある([[ウシエビ]]、[[ウシガエル]]、ウシアブなど)。
=== 紋章 ===
{{See also|{{lang|pl|[[:en:Ciołek coat of arms]]}}}}
牛が[[紋章]]に描かれることは一般的である。
<gallery>
ファイル:Stemma di Torino (CoA of Turin).svg|{{center|[[トリノ]](イタリア)の紋章}}
ファイル:Coat of arms of Kaunas.svg|{{center|[[カウナス]](リトアニア)の紋章}}
ファイル:POL Bielsk Podlaski COA.svg|{{center|[[:en:Bielsk Podlaski|Bielsk Podlaski]](ポーランド)の紋章}}
ファイル:POL Turek COA PioM.svg|{{center|[[:en:Turek, Poland|Turek]](ポーランド)の紋章}}
</gallery>
== 環境問題 ==
ウシは[[反芻動物]]であり、反芻を繰り返すことにより、飼料を微生物が分解し[[メタンガス]]が発生する。これは[[地球温暖化]]の深刻な一因と言われており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202111080000142.html|title=世界に15億頭…牛のげっぷは地球温暖化の促進要因、世界が行う対策とは|publisher=日刊スポーツ|date=2021-11-08|accessdate=2021-11-08}}</ref>、[[アメリカ]]ではメタンの総発生量の26パーセントが牛のげっぷによるものである<ref name="geppu">{{Cite news |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/080600217/ |title=3NOPが牛のげっぷ中のメタンを3割減らす |work= |publisher=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2015-08-10 }}</ref>。[[3-ニトロオキシプロパノール]](3NOP)と呼ばれる成分を餌に混ぜるなどしてげっぷを少なくする研究が進んでいる{{r|geppu}}。
== 慣用句 ==
* 「牛にひかれて善光寺参り」 - 人に連れられて思いがけず行くこと。昔、老婆がさらしておいた[[布]]を牛が引っ掛けて[[善光寺]]に駆け込んだので、追いかけた老婆はそこが[[霊場]]であることを知り、以後たびたび[[参詣]]したという[[伝説]]から。
* 「牛の歩み(牛歩)」 - 進みの遅いことの[[転義法|譬え]]。
** [[牛歩戦術]]
* 「牛の角を蜂が刺す」 - 牛の硬い角には[[ハチ|蜂]]の[[ハチ#毒針|毒針]]も刺さらないことから、何とも感じないこと。
* 「牛の寝た程」 - 物の多くあるさまの形容。
* 「牛は牛づれ(馬は馬づれ)」 - 同じ仲間同士は一緒になり、釣り合いが取れるということ。
* 「牛は水を飲んで乳とし、蛇は水を飲んで毒とす」 - 同じものでも使い方によっては薬にも毒にもなることの譬え。
* 「牛も千里、馬も千里」 - 遅いか早いかの違いはあっても、行き着くところは同じということ。
* 「牛を売って牛にならず」 - 見通しを立てずに買い換え、損することの譬え。
* 「牛飲馬食」 - 牛や馬のように、たくさん飲み食いすること。「鯨飲馬食」ともいう。
* 「牛耳る(牛耳を執る)」 - 団体・集団の指導者となって指揮を執ること。
* 「商いは牛の涎」 - 細く長く垂れる牛の[[唾液|涎]]({{small|よだれ}})のように、商売は気長に辛抱強くこつこつ続けることがコツだという譬え。
* 「[[wikt:角を矯めて牛を殺す|角を矯めて牛を殺す]]」- 些細な欠点を矯正しようとして却って全体を台無しにすること。
* 「[[wikt:九牛の一毛|九牛の一毛]]」 - 非常に多くの中の極めて少ないもの。
* 「暗がりから牛」 - 物の区別がはっきりしないこと。あるいはぐずぐずしていることの譬え。
* 「鶏口となるも牛後となるなかれ(牛の尾より鶏の口、鶏口牛後)」 - 大集団の下っ端になるより小集団でも指導者になれということ。人の下に甘んじるのを戒める、もしくは、小さなことで満足するを否とする言葉。
* 「牛なし、帽子ばっかり({{lang|en|all hat and no cattle}})」ファッションで[[テンガロンハット|カウボーイの帽子]]をかぶっていても、牛は持っていない。見かけだおし、格好だけの人のこと。[[テキサス州]]の慣用表現。
== 符号位置 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=ブリュノ・ロリウー |date=2003-10 |title=中世ヨーロッパ食の生活史 |translator=吉田春美 |publisher=原書房 |isbn= |ref={{SfnRef|ロリウー|2003}} }}
* {{Cite book |和書 |author=市川健夫 |author2=市川健夫先生著作集刊行会 |title=牛馬と人の文化誌 |series=日本列島の風土と文化:市川健夫著作選集 |volume=3 |publisher=第一企画 |date=2010 |isbn=978-4-90-267615-0 |ref={{SfnRef|市川|2010}} }}
*: 初出は『地理』第20巻第11号、1975年11月、「文化地理の指標としての家畜」。
* {{Cite book |和書 |title=品種改良の世界史 家畜編 |editor=正田陽一 |publisher=悠書館 |date=2010-11 |author=松川正 |isbn=978-4-90-348740-3 |ref={{SfnRef|松川|2010}} }}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Bos_taurus|Bos_taurus}}
{{wikispecies|Bos_taurus}}
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* [[役肉用牛]]
* [[役用牛]]
* [[米国産牛肉]]
* [[枝肉]]
* [[牛枝肉取引規格]]
* [[国産牛]]
* [[系統牛]]
* [[牛飯]]([[牛丼]])
* [[牛海綿状脳症]](狂牛病、BSE)
** [[肉骨粉]]
** [[化製場]]
* [[牛痘]]
* [[口蹄疫]]
* [[牧場]]
* [[牧牛]]
* [[イベルメクチン]]
* [[牛飼い]]
* [[牛市]]
* [[牛小屋]]
* [[鼻輪]]
* [[丑]](十二支)
* [[おうし座]]・[[うしかい座]]
* [[牛祭り]]
* [[赤べこ]]
* [[牛頭天王]]
* [[牛頭馬頭|牛頭鬼]](ごずき)
* [[ミーノータウロス|ミノタウロス]]
* [[件]](くだん)
* [[牛宿]]・[[牽牛]]
* [[木牛]]
* [[トレーサビリティ (流通)]]
* [[闘牛]]([[牛の角突き]])
* [[エルム・ファーム・オーリー]]
* [[奥州市牛の博物館]]
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== 外部リンク ==
* [http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/ushi/ 牛の博物館]
* {{ウェブアーカイブ |url=http://www.jinjahoncho.or.jp/column/000023.html |title=丑のはなし - 神社本庁 |deadlink=yes |archivedate=2014-02-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140226091944/http://www.jinjahoncho.or.jp/column/000023.html}}
* {{Kotobank}}
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美空ひばり
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美空 ひばり(みそら ひばり、1937年〈昭和12年〉5月29日 - 1989年〈平成元年〉6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。
9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名:加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。身長は155センチメートル(推定、番組内にて和也談)。
神奈川県横浜市磯子区の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉(1912〜63)、母・喜美枝の長女・和枝(かずえ)として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身。妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也と香山武彦である。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知った。
1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。
敗戦後間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝は8歳のときに母の提案により「美空和枝」の名にし、初舞台を踏む。
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場 で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。
1947年、杉田劇場で漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演してから、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号で加藤母子が乗車していたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。そのまま落下すれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかり止まった。和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔が開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。
川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。
前年10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。
なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される。
1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演した。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。
1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。
1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。
1952年映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から、初代中村錦之助と一緒に、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田茂(のち東映社長)は、ほぼ一回り年下のひばりの世話係をしながら、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ、ひばり作品の量産体制に入った。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた。東映のツキ初めはここであった。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた。晩年でもひばりは、錦之助の話が出ると顔が赤くなったと言われ、1961年11月27日に銀座東急ホテルで錦之助と有馬稲子の結婚式があった日に、加藤喜美枝の使いが「すぐ来てくれ」と岡田に頼み、浅草国際劇場で公演期間中だったひばりがもの凄い仕立ての着物を着て、「錦之助と有馬稲子の披露宴に行く」と言い張っていて、岡田が「明日のスポーツ紙の一面になるじゃない!ひばりちゃん、そんなことダメだよ、やめなよ」と説得したらひばりは号泣し、「あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したからって何だ。だいいち錦之助と結婚したら歌舞伎界のおかみさんだよ。いちいち部屋を回ってな、よろしくお願いします、よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんかあんたに出来るんかい」と言ったら、「ほっといてよ、そんなこと!」と強気だった。
1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場した。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める。但し三人の映画出演のギャラは、はっきり差がつき、ひばり一本750万円、チエミ300万円、いづみ150万円だった。当時のひばりは映画界で最も稼ぐ女優だった。
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄となった。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。この事件を切っ掛けにひばりは田岡にボディーガードを要請し、代わりに興行権を神戸芸能社に委ねる。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。
1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年7月、新芸プロを離れ、8月1日、ひばりプロダクションを設立して、副社長に田岡一雄が就任した。同年8月18日、東映と映画出演の専属契約を結んだ。それに合わせて京都市左京区岡崎法勝寺町に居を構える。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など、東映は1950年代後半から1960年代にかけてタイトルに"ひばり"を冠した映画を13本製作、続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田に頼まれ、高倉健を相手役として迎えた。『べらんめえ芸者』シリーズは、笠原和夫と笠原良三の脚本で始まったもので、笠原和夫は脚本家デビューしてすぐに美空ひばりの主演映画を書くという幸運に恵まれ、東映調の娯楽映画のスキルが磨かれた。東千代之介や高倉健、里見浩太朗らはひばりとも共演で人気を高めた。ひばりは東映と専属契約を結んだ1954年から1963年まで10年間、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。専属期間だった10年間だけで、東映でのひばり出演作は102本に及ぶ。ひばりは「岡田茂さんは東映時代の恩人。岡田さんなくしては、映画俳優としての自分の存在はなかった」と話し、岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」「錦之助さんともども東映の土台を作った偉大なスター」と評している。生涯で170本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演で、映画の題名に『ひばりの〇〇』と付いた作品は47本で日本一である。題名に『ひばり』が付いているだけで安定してお客が入った。戦後を代表する映画女優であった。ひばりは女優として日本映画史をみてもズバ抜けた興行力があり、俳優としても日本映画に貢献した。ひばり作品に芸術作品・秀作、ましてや映画賞に掛かった作品は一本もなく、今日、ひばりの映画女優としての側面には必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが、生涯、娯楽作品に徹し、ファンもそれを喜んだ。ブルーリボン賞は、1961年度の第12回でひばりに大衆賞を授与した。「映画主演で13年間大衆に愛され親しまれて来た功績」と信念が貫かれたことが認められての授与理由で、ひばりが喜んだことは言うまでもない。
1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
1962年5月29日、小林旭との婚約を発表。出会いは雑誌が企画した対談の場だった。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにもかかわらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を迫り、小林は断れなかったとされる。同年11月5日に挙式した。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、増吉が肺結核により52歳で亡くなっている。
別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。
その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。
離婚直後に発表した『柔』は東京オリンピックともあいまって翌1965年にかけて大ヒットした。180万枚という、当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』が145万枚を売り上げ、1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
1963年、喜美枝は岡田に「お嬢のこれからの生き方についてどう思う?」と相談した。ひばりはそれまで銀幕を中心に活躍し、東映の専属として東映時代劇を支えていたが、岡田は既に東映を時代劇から現代劇中心に転換したいという考えを持っていたから「ひばりちゃんの時代劇はリアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力。現代劇では魅力は発揮できないと思う。これからはテレビと舞台だろう」と進言した。浅草国際劇場での正月公演の客入りが悪くなっていたことから、喜美枝がひばりの再出発として新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演を田岡に相談せずに決めたため、浅草の公演を仕切っていた田岡の逆鱗に触れ、岡田に泣きつき何とか田岡の怒りを鎮めた。揉め事が起こると喜美枝は決まって岡田を頼った。さらに喜美枝は、岡田に新宿コマの舞台演出を気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時岡田と共に東映任侠路線の扉を開いた東映と専属契約を結ぶメイン監督である。当時は五社協定があり、東宝系の新宿コマでの長期公演の仕事など無理難題であった。喜美枝は娘の為なら、たとえ火の中水の中というような人で、これも岡田の尽力で何とか沢島の貸し出しが決まり、東映のメイン監督の一人だった沢島は、これを切っ掛けにひばりの座付き作者のようになって映画界から遠ざかった。
1964年5月、新宿コマ劇場で初の座長公演を行う。それまで歌だけのステージに芝居を加える舞台公演の第一号であった。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。
1970年8月日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロでブラジル公演。公演は8、9、10日の三日間であり、5万人の観客を動員、サンパウロとその周辺はもちろん、アマゾン地方、アルゼンチン、パラグアイ、ペルーやボリビアからも観客が団体で押し寄せた。オーケストラメンバーはフランク・シナトラやトニー・ベネットも賞賛した現地サンパウロの一流演奏家で構成され、そのメンバーらが美空ひばりについて「言葉は分からないが素晴らしい歌手だ」と異口同音に称えたと言われる。また、サンパウロ公演より前にハワイで公演を開いたとされる。
1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは...と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。
この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。
1973年、実弟が起こした不祥事により、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。
1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(「月の夜汽車」〈1975年〉)、来生たかお(「笑ってよムーンライト」〈1983年〉)、イルカ(「夢ひとり」〈1985年〉)、小椋佳(「愛燦燦」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年には誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。また1982年には、『裏町酒場』もロング・ヒットを記録する。
しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性脳腫瘍により68歳で死去。同年に行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、実母が危篤状態の中行われたものである。 また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年は「銭形平次」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあった大川橋蔵も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続いた。ひばりは加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増加し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。
1985年5月、ひばりは誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰痛が悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵にも感じさせない熱唱を見せていた。翌年の1986年に芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催(後に東京でのコンサートがビデオ・DVD化されている)。だが1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰はついに耐えられない激痛の状態に陥った。
しかしそんな中、同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望で鳥羽水族館のラッコを見物した。それと同地において、カラオケビデオの撮影にも臨んだ。1テイク撮影後再度撮り直しの為に、スタート地点へ戻るよう監督の指示を受けた際、ひばりは段差を上りきれず立ち止まってしまい、付き人の手を借りて歩行し映像を撮り終えた。現在DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」などのカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。
入院2週間前の4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨む。細川たかしと島倉千代子に手を取られ登場し、体調が悪い中「愛燦燦」などを歌った。
同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院した。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。またそれに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えた。その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣および大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」などと吹き込まれた、肉声入りのカセットテープを披露した。
1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、7月17日には石原裕次郎(享年52)と、ひばりとも親交が深かった昭和の大スターが相次いで死去する中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たした。
しかし、病気は決して完治してはいなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面であったという。
1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養し、2月中に帰国した。同年4月に開催予定の東京ドーム復帰公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復することはなく、肝機能数値も退院時の60%から低下して20~30%の状態を行き来する状態であった。体調が思わしくないまま公演本番の日を迎えた。
1988年4月11日、東京ドームのこけら落し となるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施した(実際にはそれ以前にミック・ジャガーやBOØWYがコンサートを同場所で既に行っていた)。この復活コンサートの様子は、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。なお「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。
この東京ドーム公演の会場客席には、森光子・雪村いづみ・島倉千代子・浅丘ルリ子・岸本加世子など、ひばりと特に懇意のある女性芸能人達も、ひばりの復帰ステージを見るために駆けつけた。それとは裏腹に、ひばりにとってはまさに命がけのものであった。楽屋入りの際には、楽屋前で私服のまま、ひばりはファン並びにマスコミへ向けて不死鳥コンサートへの意気込みをコメント映像として残したが、このコメント映像に応じるか応じられないかもひばりの判断次第でないと分からない状況であった。徳光和夫も後年、BS朝日「わが心の美空ひばり」にて「あのコメントを残してくださったことを心から感謝しています、まさかあんなに状態が悪かったとは思いもしなかったですよ」と語っている。
ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩とこの調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せており、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。
公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態ではないにも拘らず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピールした。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばりにとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。
東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で再び福岡にて一時入院したが、すぐに仕事を再開することができた。6月の入院を乗りきったひばりはその後の年内の仕事も予定通りに全てこなし、同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残されており、現在の特番でも放映されている。
1988年10月28日に、前日神津はづき(神津善行・中村メイコ夫妻の実娘)からのお友達紹介で、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングコーナーに、最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、秋元康の企画による『不死鳥パートII』という題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『川の流れのように』もレコーディングされている。なお、ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願し、結果としてひばりの希望通りの形となった。
そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー...もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね...」と全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。
同年暮れの12月12・16・17日の3日間にわたって、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子、森繁久彌と尾崎将司が出演した。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーの池田文雄に向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが...」と話している。しかしプロデューサーの池田は耳にこびりついて仕方がなかったという。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。
この頃既に、ひばりの直接的な死因となった『間質性肺炎』の症状が出始めていたとされており、立っているだけでも限界であったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。なお、ワンマンショーの放送からさかのぼること2日前の1月2日には『パパはニュースキャスター』の復活スペシャル第2弾にも田村正和演じる主人公の鏡竜太郎とTBSの廊下で遭遇するワンカットのみではあるが、ゲスト出演。これが生涯最後のテレビドラマへの出演となった。
1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子や王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。この時の映像は特番等で稀に放送されたことがある。(ビデオ・DVD化はされていない)ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。
1989年1月8日、ひばりは元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日を「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに...」と短歌に詠んだ。その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。
1月15日、『演歌の花道』と『ミュージックフェア』へそれぞれVTRで出演した。各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は「美空ひばり特集」として1月8日に予定されていたが、昭和天皇の崩御に伴い特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せて、体調は明らかに悪化していた。なお、1月中のひばりは熱海への家族旅行や、両国国技館の大相撲見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調は一時期平行線であっても、好転することはなかった。
コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」をスタートさせたが、初日の2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。
2月7日、九州厚生年金会館での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった(その映像は残されていないが、スタッフが確認用に録音したカセットテープに音源のみ残され、ひばり17回忌の2005年にCDとして商品化された)。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため、急遽ヘリコプターを使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後はすぐに横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います...お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当...死んだ親父やばあちゃんがいたらな...って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であった。あまりの体調の悪さに元々予定されていた楽曲を一部カットした(村田英雄の「無法松の一生」など)。息苦しさをMCでごまかすひばりだが、翌3月に診断される「特発性間質性肺炎」の病状は進行していた。だが1,100人の観衆を前にひばりは、全20曲無事に歌い終わった。
2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京した。その際、東京ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力が既に限界を超えていた。3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に新しく竣工した、横浜アリーナのこけら落とし公演が予定されていた。この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と一方的に譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの!余計な口出ししないで!!」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!」と反論するなど、度々口喧嘩をし続けていたという。その口論の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。
その頃、石井ふく子の紹介で、近所の診療所の医師に診察を仰いだが、手の指先や顔色も青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間の沈黙があったという。その沈黙の後、ひばりはついに再入院の決断を下した。
3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオのニッポン放送で『美空ひばり感動この一曲』と題する、10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメントした。結果的に歌以外ではこのラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院となった。
再入院から2日後の1989年3月23日「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナのこけら落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された(再入院当時「間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せていたが、ひばりは3月上旬に診察を受けた際に医師から間質性肺炎の説明を受けている。しかし和也にはずっと知らないふりをして過ごしていたという。なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。診断で間質性肺炎を発症した原因は「不明」とされ、この病気の治療にはステロイドホルモンが有効とされているが、既にひばりは肝硬変の症状も出ており副作用の懸念からステロイド剤はほとんど使えなかったという。
その後もはっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて... その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表した。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージおよび肉声披露となった。
それから2日後の5月29日にひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。同じ頃ひばりの実妹・佐藤勢津子は、看病していた時に「突然、お姉ちゃんがポロポロと泣き出してしまって...『勢津子、私はまだ生きられるの?』って。『何言ってるの、まだ52歳でしょ?これからも頑張って生きなきゃ駄目よ!』って励ましたら、姉ちゃんは『そうだね、和也を独り遺して死ねないよね。頑張るわ』と、珍しく私の前で弱音を吐いた」と述懐していた。
しかし、誕生日から15日後の6月13日に呼吸困難を起こして重体に陥り、人工呼吸器がつけられた。ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」「大丈夫だよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、後に和也が語っている。
1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。52歳没。
6月25日に通夜、翌日26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀には当時最高記録の4万2千人が訪れた。喪主は和也が務め、葬儀では萬屋錦之介・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・和田アキ子・とんねるずの石橋貴明が弔辞を読み上げ、北島三郎・雪村いづみ・森昌子・藤井フミヤ・近藤真彦などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉(じしょういん みそらにちわせいたいし)。墓所は横浜市営日野公園墓地にある。菩提寺は港南区の唱導寺。
美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。
1988年、福島県いわき市塩屋埼を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420メートル区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立された。毎年約30万人のファンや観光客がひばりを偲んで訪れる。
1989年8月21日、35枚組・517曲を収録した『美空ひばり大全集 今日の我れに明日は勝つ』がCDとカセットテープで発売され、1989年11月20日現在で6万3000セット(日本コロムビア調べ)が販売された。定価6万円(税込)と音楽ソフトとしては高額ながらオリコンでは最高9位(1989年9月4日付アルバムランキング)を記録した。
1989年には、ひばりの音楽ソフトが年間120億円(日本コロムビア調べ、以下同じ)を売り上げた。1997年時点でも年間で約15億5000万円を売り上げ、日本コロムビア所属の演歌歌手としては現役歌手を抑えて最も売り上げが多い。
1993年4月、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。その後運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。2013年4月26日、開館5周年イベントが催され、この場でひばりプロ社長・加藤和也から同年5月31日限りで閉館することが発表。同館は5月31日限りで閉館された。
しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にある東映太秦映画村の映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『のど自慢狂時代』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている。さらに、2014年5月には東京都目黒区のひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表され、同年5月28日に女優の中村メイコ、タレントのビートたけし、歌手の郷ひろみらを最初の客として迎えて、「東京目黒美空ひばり記念館」のオープニングセレモニーが行われた。
1999年、舞台『元禄港歌 -千年の恋の森-』(1980年上映)劇中歌としてレコーディングされた「流れ人」が、ひばりの死後初のシングルとして発売された。1998年12月、同舞台の再演の準備中に当時録音された音質の良いテープが日本コロムビアで発見されたものである。
2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。
2011年には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。
『美空ひばり トレジャーズ』は、日本コロムビアの創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の沙漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。
『ひばり 千夜一夜』は、1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、1949年のデビュー曲「河童ブギウギ」から1989年のラストシングル「川の流れのように」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1,001曲である(ライブ音源CDを除く)。「森英恵デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」が特典であった。単一歌手が1,000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてで、最大収録数である。
2012年、1950年に行われた第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のアメリカ合衆国サクラメント公演の録音が発見された。2013年09月18日には『美空ひばり&川田晴久 in アメリカ 1950』のタイトルでCDが発売された。この記録は、日本人による海外ツアーの先駆けの様子を記録した資料としても貴重である。
2013年には、ひばりが芸能生活35周年として1981年に出演したテレビ番組『ザ・スター』を映像補正の上、編集した作品『ザ・スター美空ひばり』が公開された。フジテレビの倉庫で発見された、同番組の未放送部分を含むマスター収録テープをデジタル技術で復活させ、ひばりの代表曲や同番組でのみ披露された未発表曲「ウォーク・アウェイ〜想い出は涙だけ〜」を歌いあげるひばりの姿がスクリーンで上映された。
2016年5月29日、未発売音源の「さくらの唄」をCD化し発売。1976年7月1日に発売されたシングルとは別バージョンとなっている。
2019年5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数)は約1億1700万枚に達する。この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない。内訳はアナログレコードがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。カセットテープが2650万枚、8トラックテープが900万本、CDが1150万枚である。日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。
2019年9月29日放送のNHKスペシャルでは、過去の膨大な映像や音源を元に、最新のAI技術を用いてひばりのライブを再現する試みが行われた。4K・3Dの等身大のホログラム映像でステージ上に“本人”を出現させ、ヤマハが開発した深層学習技術を用いた歌声合成技術『VOCALOID:AI』により新たに制作された楽曲「あれから」(作詞:秋元康・作曲:佐藤嘉風)を歌わせる様子が放送された。CGによるひばりの振り付けは天童よしみのモーションを元にしている。
2019年12月31日放送のNHK紅白歌合戦でも、上記AIによるライブが行われた。
没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(歌手としてはひばりと藤山一郎の2人のみ)し、息子の加藤和也と付き添いとして萬屋錦之介が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。
「彼女が凄いのは『縁起が悪い』を歌詞にしてしまう所ですよね。普通だったら恥ずかしくて歌えないのに、歌唱力をもって照れずに歌うから笑えない。人に聞くとひばりさんは面倒見がよかったらしいんですよね。つまり、自分の後継者や崇拝者を作れない人は、それ以上大きくなれないんじゃないかと。ロックだろうと演歌だろうと外人だろうと全部同じですよ。そういった意味であの人は偉大だったと思います」(石井竜也)
「世界一ピッチが良い人です。マトリックスよりピッチが安定している」(奥田民生)
ひばりが作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌唱し、『花のいのち』『太陽と私』『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
1966年に『夢見る乙女』を作詞し、可愛がっていた弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていた島倉千代子に提供された。
『夢ひとり』をイルカが作曲し、ひばりの歌唱で1985年5月にシングルがリリースされている。後年イルカ盤も制作され、2002年5月にマキシシングルとしてリリースされた。
「草原の人」をつんくが作曲し松浦亜弥が歌った(2002年12月CD化)。筆名は「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演ミュージカル(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。
2010年に生前交流があった岡林信康が、ひばりが岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。
1980年代、少年時代の和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。とんねるずも大ファンだったことから、和也の誕生会にとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。さらに、前述のように『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの親交を深めた関係であった。
現在(2018年時点)、ひばりプロダクションの代表取締役社長を和也が務める。 コロッケが、小学生時代の和也に接するひばりのものまねをしたことがあった。 「ダウンタウンDX」で和也が誕生日に当時ファンだった仮面ライダー全員がひばりの力で家に集合し圧巻だったと語った。
下記に主な代表作を記述する。詳細は 公式サイト の全映画出演作・ディスコグラフィリストを参照。
など多数。
没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たにカップリング(選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。
・美空ひばり Symphonic Works 〜 不死鳥再び (2022年)
ひばりは1954年・第5回、および1957年・第8回から1972年・第23回までの16年連続、通算17回出場し(その後1979年・第30回も特別出演)、うち13回トリを務めている。通算17回の出場という記録は、1972年当時の紅白歌合戦における史上最多記録である。
なお、ひばりには初出場以前の1953年1月・第3回と同年大晦日の第4回にも出場のオファーがかけられていたが、第3回は正月興行、第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドが出場を辞退している。また、出場していない1955年・第6回と1956年・第7回は、ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)の「オールスター歌合戦」に出演するため、出場を辞退している。
上述の通り1973年・第24回では事実上の落選となったが、1975年・第26回以降、ひばりが死去する1980年代後半まで、NHKは幾度となくひばりに対して出演オファーを行っていた。その結果、1979年・第30回では「特別出演」という形で一度限りながら、紅白への復帰が実現している。
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"text": "美空 ひばり(みそら ひばり、1937年〈昭和12年〉5月29日 - 1989年〈平成元年〉6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。",
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"text": "9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名:加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。身長は155センチメートル(推定、番組内にて和也談)。",
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"text": "神奈川県横浜市磯子区の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉(1912〜63)、母・喜美枝の長女・和枝(かずえ)として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身。妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也と香山武彦である。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知った。",
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"text": "1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。",
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"text": "敗戦後間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝は8歳のときに母の提案により「美空和枝」の名にし、初舞台を踏む。",
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"text": "1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場 で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。",
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"text": "1947年、杉田劇場で漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演してから、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号で加藤母子が乗車していたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。そのまま落下すれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかり止まった。和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔が開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。",
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"text": "1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。",
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"text": "川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。",
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"text": "前年10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。",
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"text": "なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される。",
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"text": "1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演した。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。",
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"text": "1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。",
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"text": "1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。",
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"text": "1952年映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。",
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"text": "1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から、初代中村錦之助と一緒に、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田茂(のち東映社長)は、ほぼ一回り年下のひばりの世話係をしながら、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ、ひばり作品の量産体制に入った。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた。東映のツキ初めはここであった。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた。晩年でもひばりは、錦之助の話が出ると顔が赤くなったと言われ、1961年11月27日に銀座東急ホテルで錦之助と有馬稲子の結婚式があった日に、加藤喜美枝の使いが「すぐ来てくれ」と岡田に頼み、浅草国際劇場で公演期間中だったひばりがもの凄い仕立ての着物を着て、「錦之助と有馬稲子の披露宴に行く」と言い張っていて、岡田が「明日のスポーツ紙の一面になるじゃない!ひばりちゃん、そんなことダメだよ、やめなよ」と説得したらひばりは号泣し、「あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したからって何だ。だいいち錦之助と結婚したら歌舞伎界のおかみさんだよ。いちいち部屋を回ってな、よろしくお願いします、よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんかあんたに出来るんかい」と言ったら、「ほっといてよ、そんなこと!」と強気だった。",
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"text": "1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場した。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める。但し三人の映画出演のギャラは、はっきり差がつき、ひばり一本750万円、チエミ300万円、いづみ150万円だった。当時のひばりは映画界で最も稼ぐ女優だった。",
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"text": "1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄となった。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。",
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"text": "1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。この事件を切っ掛けにひばりは田岡にボディーガードを要請し、代わりに興行権を神戸芸能社に委ねる。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。",
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"text": "1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年7月、新芸プロを離れ、8月1日、ひばりプロダクションを設立して、副社長に田岡一雄が就任した。同年8月18日、東映と映画出演の専属契約を結んだ。それに合わせて京都市左京区岡崎法勝寺町に居を構える。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など、東映は1950年代後半から1960年代にかけてタイトルに\"ひばり\"を冠した映画を13本製作、続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田に頼まれ、高倉健を相手役として迎えた。『べらんめえ芸者』シリーズは、笠原和夫と笠原良三の脚本で始まったもので、笠原和夫は脚本家デビューしてすぐに美空ひばりの主演映画を書くという幸運に恵まれ、東映調の娯楽映画のスキルが磨かれた。東千代之介や高倉健、里見浩太朗らはひばりとも共演で人気を高めた。ひばりは東映と専属契約を結んだ1954年から1963年まで10年間、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。専属期間だった10年間だけで、東映でのひばり出演作は102本に及ぶ。ひばりは「岡田茂さんは東映時代の恩人。岡田さんなくしては、映画俳優としての自分の存在はなかった」と話し、岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」「錦之助さんともども東映の土台を作った偉大なスター」と評している。生涯で170本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演で、映画の題名に『ひばりの〇〇』と付いた作品は47本で日本一である。題名に『ひばり』が付いているだけで安定してお客が入った。戦後を代表する映画女優であった。ひばりは女優として日本映画史をみてもズバ抜けた興行力があり、俳優としても日本映画に貢献した。ひばり作品に芸術作品・秀作、ましてや映画賞に掛かった作品は一本もなく、今日、ひばりの映画女優としての側面には必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが、生涯、娯楽作品に徹し、ファンもそれを喜んだ。ブルーリボン賞は、1961年度の第12回でひばりに大衆賞を授与した。「映画主演で13年間大衆に愛され親しまれて来た功績」と信念が貫かれたことが認められての授与理由で、ひばりが喜んだことは言うまでもない。",
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"text": "1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。",
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"text": "1962年5月29日、小林旭との婚約を発表。出会いは雑誌が企画した対談の場だった。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにもかかわらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を迫り、小林は断れなかったとされる。同年11月5日に挙式した。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯にわたり独身であった。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、増吉が肺結核により52歳で亡くなっている。",
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"text": "別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。",
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"text": "その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。",
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"text": "離婚直後に発表した『柔』は東京オリンピックともあいまって翌1965年にかけて大ヒットした。180万枚という、当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』が145万枚を売り上げ、1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。",
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"text": "1963年、喜美枝は岡田に「お嬢のこれからの生き方についてどう思う?」と相談した。ひばりはそれまで銀幕を中心に活躍し、東映の専属として東映時代劇を支えていたが、岡田は既に東映を時代劇から現代劇中心に転換したいという考えを持っていたから「ひばりちゃんの時代劇はリアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力。現代劇では魅力は発揮できないと思う。これからはテレビと舞台だろう」と進言した。浅草国際劇場での正月公演の客入りが悪くなっていたことから、喜美枝がひばりの再出発として新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演を田岡に相談せずに決めたため、浅草の公演を仕切っていた田岡の逆鱗に触れ、岡田に泣きつき何とか田岡の怒りを鎮めた。揉め事が起こると喜美枝は決まって岡田を頼った。さらに喜美枝は、岡田に新宿コマの舞台演出を気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時岡田と共に東映任侠路線の扉を開いた東映と専属契約を結ぶメイン監督である。当時は五社協定があり、東宝系の新宿コマでの長期公演の仕事など無理難題であった。喜美枝は娘の為なら、たとえ火の中水の中というような人で、これも岡田の尽力で何とか沢島の貸し出しが決まり、東映のメイン監督の一人だった沢島は、これを切っ掛けにひばりの座付き作者のようになって映画界から遠ざかった。",
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"text": "1964年5月、新宿コマ劇場で初の座長公演を行う。それまで歌だけのステージに芝居を加える舞台公演の第一号であった。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。",
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"text": "1970年8月日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロでブラジル公演。公演は8、9、10日の三日間であり、5万人の観客を動員、サンパウロとその周辺はもちろん、アマゾン地方、アルゼンチン、パラグアイ、ペルーやボリビアからも観客が団体で押し寄せた。オーケストラメンバーはフランク・シナトラやトニー・ベネットも賞賛した現地サンパウロの一流演奏家で構成され、そのメンバーらが美空ひばりについて「言葉は分からないが素晴らしい歌手だ」と異口同音に称えたと言われる。また、サンパウロ公演より前にハワイで公演を開いたとされる。",
"title": "生涯"
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"text": "1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは...と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。",
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"text": "この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1973年、実弟が起こした不祥事により、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(「月の夜汽車」〈1975年〉)、来生たかお(「笑ってよムーンライト」〈1983年〉)、イルカ(「夢ひとり」〈1985年〉)、小椋佳(「愛燦燦」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年には誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。また1982年には、『裏町酒場』もロング・ヒットを記録する。",
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"text": "しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性脳腫瘍により68歳で死去。同年に行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、実母が危篤状態の中行われたものである。 また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年は「銭形平次」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあった大川橋蔵も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続いた。ひばりは加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増加し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。",
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"text": "1985年5月、ひばりは誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰痛が悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵にも感じさせない熱唱を見せていた。翌年の1986年に芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催(後に東京でのコンサートがビデオ・DVD化されている)。だが1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰はついに耐えられない激痛の状態に陥った。",
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"text": "しかしそんな中、同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望で鳥羽水族館のラッコを見物した。それと同地において、カラオケビデオの撮影にも臨んだ。1テイク撮影後再度撮り直しの為に、スタート地点へ戻るよう監督の指示を受けた際、ひばりは段差を上りきれず立ち止まってしまい、付き人の手を借りて歩行し映像を撮り終えた。現在DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」などのカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。",
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"text": "入院2週間前の4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨む。細川たかしと島倉千代子に手を取られ登場し、体調が悪い中「愛燦燦」などを歌った。",
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"text": "同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院した。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。またそれに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えた。その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣および大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」などと吹き込まれた、肉声入りのカセットテープを披露した。",
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"text": "1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、7月17日には石原裕次郎(享年52)と、ひばりとも親交が深かった昭和の大スターが相次いで死去する中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たした。",
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"text": "しかし、病気は決して完治してはいなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面であったという。",
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"text": "1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養し、2月中に帰国した。同年4月に開催予定の東京ドーム復帰公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復することはなく、肝機能数値も退院時の60%から低下して20~30%の状態を行き来する状態であった。体調が思わしくないまま公演本番の日を迎えた。",
"title": "生涯"
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"text": "1988年4月11日、東京ドームのこけら落し となるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施した(実際にはそれ以前にミック・ジャガーやBOØWYがコンサートを同場所で既に行っていた)。この復活コンサートの様子は、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。なお「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。",
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"text": "この東京ドーム公演の会場客席には、森光子・雪村いづみ・島倉千代子・浅丘ルリ子・岸本加世子など、ひばりと特に懇意のある女性芸能人達も、ひばりの復帰ステージを見るために駆けつけた。それとは裏腹に、ひばりにとってはまさに命がけのものであった。楽屋入りの際には、楽屋前で私服のまま、ひばりはファン並びにマスコミへ向けて不死鳥コンサートへの意気込みをコメント映像として残したが、このコメント映像に応じるか応じられないかもひばりの判断次第でないと分からない状況であった。徳光和夫も後年、BS朝日「わが心の美空ひばり」にて「あのコメントを残してくださったことを心から感謝しています、まさかあんなに状態が悪かったとは思いもしなかったですよ」と語っている。",
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"text": "ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩とこの調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せており、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。",
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"text": "公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態ではないにも拘らず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピールした。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばりにとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。",
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"text": "東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で再び福岡にて一時入院したが、すぐに仕事を再開することができた。6月の入院を乗りきったひばりはその後の年内の仕事も予定通りに全てこなし、同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残されており、現在の特番でも放映されている。",
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"text": "1988年10月28日に、前日神津はづき(神津善行・中村メイコ夫妻の実娘)からのお友達紹介で、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングコーナーに、最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、秋元康の企画による『不死鳥パートII』という題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『川の流れのように』もレコーディングされている。なお、ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願し、結果としてひばりの希望通りの形となった。",
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"text": "そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー...もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね...」と全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。",
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"text": "同年暮れの12月12・16・17日の3日間にわたって、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子、森繁久彌と尾崎将司が出演した。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーの池田文雄に向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが...」と話している。しかしプロデューサーの池田は耳にこびりついて仕方がなかったという。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。",
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"text": "この頃既に、ひばりの直接的な死因となった『間質性肺炎』の症状が出始めていたとされており、立っているだけでも限界であったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。なお、ワンマンショーの放送からさかのぼること2日前の1月2日には『パパはニュースキャスター』の復活スペシャル第2弾にも田村正和演じる主人公の鏡竜太郎とTBSの廊下で遭遇するワンカットのみではあるが、ゲスト出演。これが生涯最後のテレビドラマへの出演となった。",
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"text": "1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子や王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。この時の映像は特番等で稀に放送されたことがある。(ビデオ・DVD化はされていない)ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。",
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"text": "1989年1月8日、ひばりは元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日を「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに...」と短歌に詠んだ。その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。",
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"paragraph_id": 52,
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"text": "1月15日、『演歌の花道』と『ミュージックフェア』へそれぞれVTRで出演した。各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は「美空ひばり特集」として1月8日に予定されていたが、昭和天皇の崩御に伴い特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せて、体調は明らかに悪化していた。なお、1月中のひばりは熱海への家族旅行や、両国国技館の大相撲見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調は一時期平行線であっても、好転することはなかった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」をスタートさせたが、初日の2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2月7日、九州厚生年金会館での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった(その映像は残されていないが、スタッフが確認用に録音したカセットテープに音源のみ残され、ひばり17回忌の2005年にCDとして商品化された)。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため、急遽ヘリコプターを使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後はすぐに横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います...お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当...死んだ親父やばあちゃんがいたらな...って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であった。あまりの体調の悪さに元々予定されていた楽曲を一部カットした(村田英雄の「無法松の一生」など)。息苦しさをMCでごまかすひばりだが、翌3月に診断される「特発性間質性肺炎」の病状は進行していた。だが1,100人の観衆を前にひばりは、全20曲無事に歌い終わった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京した。その際、東京ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力が既に限界を超えていた。3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に新しく竣工した、横浜アリーナのこけら落とし公演が予定されていた。この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と一方的に譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの!余計な口出ししないで!!」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!」と反論するなど、度々口喧嘩をし続けていたという。その口論の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。",
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"text": "その頃、石井ふく子の紹介で、近所の診療所の医師に診察を仰いだが、手の指先や顔色も青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間の沈黙があったという。その沈黙の後、ひばりはついに再入院の決断を下した。",
"title": "生涯"
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"text": "3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオのニッポン放送で『美空ひばり感動この一曲』と題する、10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメントした。結果的に歌以外ではこのラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院となった。",
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"paragraph_id": 58,
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"text": "再入院から2日後の1989年3月23日「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナのこけら落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された(再入院当時「間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せていたが、ひばりは3月上旬に診察を受けた際に医師から間質性肺炎の説明を受けている。しかし和也にはずっと知らないふりをして過ごしていたという。なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。診断で間質性肺炎を発症した原因は「不明」とされ、この病気の治療にはステロイドホルモンが有効とされているが、既にひばりは肝硬変の症状も出ており副作用の懸念からステロイド剤はほとんど使えなかったという。",
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"text": "その後もはっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて... その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表した。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージおよび肉声披露となった。",
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"text": "それから2日後の5月29日にひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。同じ頃ひばりの実妹・佐藤勢津子は、看病していた時に「突然、お姉ちゃんがポロポロと泣き出してしまって...『勢津子、私はまだ生きられるの?』って。『何言ってるの、まだ52歳でしょ?これからも頑張って生きなきゃ駄目よ!』って励ましたら、姉ちゃんは『そうだね、和也を独り遺して死ねないよね。頑張るわ』と、珍しく私の前で弱音を吐いた」と述懐していた。",
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"paragraph_id": 61,
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"text": "しかし、誕生日から15日後の6月13日に呼吸困難を起こして重体に陥り、人工呼吸器がつけられた。ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」「大丈夫だよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、後に和也が語っている。",
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"paragraph_id": 62,
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"text": "1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。52歳没。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "6月25日に通夜、翌日26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀には当時最高記録の4万2千人が訪れた。喪主は和也が務め、葬儀では萬屋錦之介・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・和田アキ子・とんねるずの石橋貴明が弔辞を読み上げ、北島三郎・雪村いづみ・森昌子・藤井フミヤ・近藤真彦などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉(じしょういん みそらにちわせいたいし)。墓所は横浜市営日野公園墓地にある。菩提寺は港南区の唱導寺。",
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"paragraph_id": 64,
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"text": "美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。",
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"text": "1988年、福島県いわき市塩屋埼を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420メートル区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立された。毎年約30万人のファンや観光客がひばりを偲んで訪れる。",
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{
"paragraph_id": 66,
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"text": "1989年8月21日、35枚組・517曲を収録した『美空ひばり大全集 今日の我れに明日は勝つ』がCDとカセットテープで発売され、1989年11月20日現在で6万3000セット(日本コロムビア調べ)が販売された。定価6万円(税込)と音楽ソフトとしては高額ながらオリコンでは最高9位(1989年9月4日付アルバムランキング)を記録した。",
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"tag": "p",
"text": "1989年には、ひばりの音楽ソフトが年間120億円(日本コロムビア調べ、以下同じ)を売り上げた。1997年時点でも年間で約15億5000万円を売り上げ、日本コロムビア所属の演歌歌手としては現役歌手を抑えて最も売り上げが多い。",
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"paragraph_id": 68,
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"text": "1993年4月、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。その後運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。2013年4月26日、開館5周年イベントが催され、この場でひばりプロ社長・加藤和也から同年5月31日限りで閉館することが発表。同館は5月31日限りで閉館された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にある東映太秦映画村の映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『のど自慢狂時代』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている。さらに、2014年5月には東京都目黒区のひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表され、同年5月28日に女優の中村メイコ、タレントのビートたけし、歌手の郷ひろみらを最初の客として迎えて、「東京目黒美空ひばり記念館」のオープニングセレモニーが行われた。",
"title": "生涯"
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"text": "1999年、舞台『元禄港歌 -千年の恋の森-』(1980年上映)劇中歌としてレコーディングされた「流れ人」が、ひばりの死後初のシングルとして発売された。1998年12月、同舞台の再演の準備中に当時録音された音質の良いテープが日本コロムビアで発見されたものである。",
"title": "生涯"
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"text": "2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。",
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"text": "2011年には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。",
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"text": "『美空ひばり トレジャーズ』は、日本コロムビアの創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の沙漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。",
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"text": "『ひばり 千夜一夜』は、1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、1949年のデビュー曲「河童ブギウギ」から1989年のラストシングル「川の流れのように」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1,001曲である(ライブ音源CDを除く)。「森英恵デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」が特典であった。単一歌手が1,000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてで、最大収録数である。",
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"text": "2012年、1950年に行われた第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のアメリカ合衆国サクラメント公演の録音が発見された。2013年09月18日には『美空ひばり&川田晴久 in アメリカ 1950』のタイトルでCDが発売された。この記録は、日本人による海外ツアーの先駆けの様子を記録した資料としても貴重である。",
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"text": "2013年には、ひばりが芸能生活35周年として1981年に出演したテレビ番組『ザ・スター』を映像補正の上、編集した作品『ザ・スター美空ひばり』が公開された。フジテレビの倉庫で発見された、同番組の未放送部分を含むマスター収録テープをデジタル技術で復活させ、ひばりの代表曲や同番組でのみ披露された未発表曲「ウォーク・アウェイ〜想い出は涙だけ〜」を歌いあげるひばりの姿がスクリーンで上映された。",
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"text": "2016年5月29日、未発売音源の「さくらの唄」をCD化し発売。1976年7月1日に発売されたシングルとは別バージョンとなっている。",
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"text": "2019年5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数)は約1億1700万枚に達する。この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない。内訳はアナログレコードがシングル4850万枚、アルバム2150万枚。カセットテープが2650万枚、8トラックテープが900万本、CDが1150万枚である。日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。",
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"text": "2019年9月29日放送のNHKスペシャルでは、過去の膨大な映像や音源を元に、最新のAI技術を用いてひばりのライブを再現する試みが行われた。4K・3Dの等身大のホログラム映像でステージ上に“本人”を出現させ、ヤマハが開発した深層学習技術を用いた歌声合成技術『VOCALOID:AI』により新たに制作された楽曲「あれから」(作詞:秋元康・作曲:佐藤嘉風)を歌わせる様子が放送された。CGによるひばりの振り付けは天童よしみのモーションを元にしている。",
"title": "生涯"
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"text": "2019年12月31日放送のNHK紅白歌合戦でも、上記AIによるライブが行われた。",
"title": "生涯"
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"text": "没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(歌手としてはひばりと藤山一郎の2人のみ)し、息子の加藤和也と付き添いとして萬屋錦之介が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。",
"title": "評価"
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"text": "「彼女が凄いのは『縁起が悪い』を歌詞にしてしまう所ですよね。普通だったら恥ずかしくて歌えないのに、歌唱力をもって照れずに歌うから笑えない。人に聞くとひばりさんは面倒見がよかったらしいんですよね。つまり、自分の後継者や崇拝者を作れない人は、それ以上大きくなれないんじゃないかと。ロックだろうと演歌だろうと外人だろうと全部同じですよ。そういった意味であの人は偉大だったと思います」(石井竜也)",
"title": "評価"
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"text": "「世界一ピッチが良い人です。マトリックスよりピッチが安定している」(奥田民生)",
"title": "評価"
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"text": "ひばりが作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌唱し、『花のいのち』『太陽と私』『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。",
"title": "ひばりの作詞"
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"text": "1966年に『夢見る乙女』を作詞し、可愛がっていた弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていた島倉千代子に提供された。",
"title": "ひばりの作詞"
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"text": "『夢ひとり』をイルカが作曲し、ひばりの歌唱で1985年5月にシングルがリリースされている。後年イルカ盤も制作され、2002年5月にマキシシングルとしてリリースされた。",
"title": "ひばりの作詞"
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"text": "「草原の人」をつんくが作曲し松浦亜弥が歌った(2002年12月CD化)。筆名は「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演ミュージカル(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。",
"title": "ひばりの作詞"
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"text": "2010年に生前交流があった岡林信康が、ひばりが岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。",
"title": "ひばりの作詞"
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"text": "1980年代、少年時代の和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。とんねるずも大ファンだったことから、和也の誕生会にとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。さらに、前述のように『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの親交を深めた関係であった。",
"title": "息子・和也"
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"text": "現在(2018年時点)、ひばりプロダクションの代表取締役社長を和也が務める。 コロッケが、小学生時代の和也に接するひばりのものまねをしたことがあった。 「ダウンタウンDX」で和也が誕生日に当時ファンだった仮面ライダー全員がひばりの力で家に集合し圧巻だったと語った。",
"title": "息子・和也"
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"text": "下記に主な代表作を記述する。詳細は 公式サイト の全映画出演作・ディスコグラフィリストを参照。",
"title": "主な代表的作品"
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"text": "など多数。",
"title": "主な代表的作品"
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"paragraph_id": 93,
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"text": "没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たにカップリング(選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。",
"title": "ディスコグラフィー"
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"text": "・美空ひばり Symphonic Works 〜 不死鳥再び (2022年)",
"title": "ディスコグラフィー"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "ひばりは1954年・第5回、および1957年・第8回から1972年・第23回までの16年連続、通算17回出場し(その後1979年・第30回も特別出演)、うち13回トリを務めている。通算17回の出場という記録は、1972年当時の紅白歌合戦における史上最多記録である。",
"title": "NHK紅白歌合戦出場歴"
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"text": "なお、ひばりには初出場以前の1953年1月・第3回と同年大晦日の第4回にも出場のオファーがかけられていたが、第3回は正月興行、第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドが出場を辞退している。また、出場していない1955年・第6回と1956年・第7回は、ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)の「オールスター歌合戦」に出演するため、出場を辞退している。",
"title": "NHK紅白歌合戦出場歴"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "上述の通り1973年・第24回では事実上の落選となったが、1975年・第26回以降、ひばりが死去する1980年代後半まで、NHKは幾度となくひばりに対して出演オファーを行っていた。その結果、1979年・第30回では「特別出演」という形で一度限りながら、紅白への復帰が実現している。",
"title": "NHK紅白歌合戦出場歴"
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] |
美空 ひばりは、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。 9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名:加藤 和枝。愛称は「お嬢(おじょう)」。身長は155センチメートル(推定、番組内にて和也談)。
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{{otheruses|1947年 - 1989年に活動した「美空ひばり」|1938年 - 1943年に活動した「美空ひばり」|美空ひばり (女優)}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
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| Birth_name = 加藤 和枝(かとう かずえ)
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| Origin = {{JPN}}・[[神奈川県]][[横浜市]][[磯子区]]
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'''美空 ひばり'''(みそら ひばり、[[1937年]]〈[[昭和]]12年〉[[5月29日]] - [[1989年]]〈[[平成]]元年〉[[6月24日]])は、[[日本]]の[[歌手]]・[[俳優|女優]]・[[実業家]]。[[神奈川県]][[横浜市]][[磯子区]]出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・[[東海大学付属市原望洋高等学校]])[[卒業]]。
9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に'''歌謡界の女王'''と認める存在となった<ref name="全国歴史教育研究協議会">{{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会|authorlink=|title=日本史B用語集―A併記|origdate=2009-3-30|accessdate=|edition=改訂版|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=9784634013025}}</ref>。昭和の歌謡界を代表する歌手であり<ref name="全国歴史教育研究協議会"/>、没後の1989年[[7月2日]]に[[国民栄誉賞]]を受賞した。本名:加藤 和枝(かとう かずえ)。[[愛称]]は「お嬢(おじょう)」。[[身長]]は155センチメートル(推定、番組内にて[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|和也]]談)。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
[[神奈川県]][[横浜市]][[磯子区]]の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉(1912〜63)、母・[[加藤喜美枝|喜美枝]]の長女・和枝(かずえ)として生まれた。増吉は[[栃木県]][[河内郡]][[豊岡村 (栃木県)|豊岡村]](現:[[日光市]])、喜美枝は[[東京都|東京]][[山谷 (東京都)|山谷]]の出身<ref>新藤謙『美空ひばりとニッポン人』[[晩聲社]]、1998年、16-17頁</ref>。妹は[[佐藤勢津子]]、弟は[[かとう哲也]]と[[香山武彦]]である。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知った。
1943年6月、[[第二次世界大戦]]に父・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。
=== デビュー ===
敗戦後間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝は8歳のときに母の提案により「美空和枝」の名にし、初舞台を踏む。
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『[[リンゴの唄]]』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市[[磯子区]]の杉田劇場<ref group="注釈">磯子区杉田四丁目の[[国道16号線|横須賀街道]]に面した劇場で、[[日本飛行機]]の関連工場を改装したもの。建物の裏は海だった。なお2005年3月開館の区営ホール、[[横浜市磯子区民文化センター 杉田劇場]]とは別物であるが、ひばりデビュー公演のチラシなど旧劇場の関連資料を保存・展示している([https://www.sugigeki.jp/%E6%9D%89%E7%94%B0%E5%8A%87%E5%A0%B4%E3%81%A8%E3%81%AF/%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E8%A8%88%E7%94%BB-%E5%A0%B1%E5%91%8A/%E6%9D%89%E7%94%B0%E5%8A%87%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ 杉田劇場の歴史])。</ref> で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の[[古賀政男]]のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。
[[1947年]]、杉田劇場で[[漫談]]の[[井口静波]]、[[俗曲]]の[[音丸]]の前座歌手として出演してから、この一行と地方巡業するようになる。[[高知県]]に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡[[大杉村 (高知県)|大杉村]](現[[長岡郡]][[大豊町]])の[[国道32号]]で加藤母子が乗車していたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落<ref>美空ひばり公式完全データブック 角川書店 2011.6 ISBN 4-04-874203-5 p.16</ref>。そのまま落下すれば[[穴内川]]で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかり止まった。和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔が開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
=== 師・川田晴久との出会い ===
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた[[暴力団]]・三代目[[山口組]]組長の[[田岡一雄]]に挨拶に出向き、気に入られた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=dohyouhyakei-0033_201005310002 時事ドットコム]</ref><ref group="注釈">戦後間もない当時は、警察の力が弱く、地回りへの挨拶は必要不可欠であった。</ref>。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン[[川田義雄]](のちの[[川田晴久]])に[[横浜国際劇場]]公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。
川田一座では当時のスター歌手[[笠置シヅ子]]の[[物真似]](歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。[[詩人]]で[[作詞家]]の[[サトウハチロー]]は当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている<ref group="注釈">ひばり母子はこの記事を長く保存しハチローに敵愾心を持っていたと言われるが、後にハチローと和解している。</ref>。
前年10月、喜劇役者・[[伴淳三郎]]の劇団・[[新風ショウ]]に参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた[[岡田恵吉]]に母親が芸名をつけてくれるように頼み、'''美空ひばり'''と命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった[[福島通人]]がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。
なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、[[神奈川新聞]]に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される<ref>{{Cite book|和書|title=美空ひばりという生き方|author=想田正|publisher=[[青弓社]]|year=2009|isbn=978-4787272706|page=144}}</ref>。
=== 全国的人気を獲得 ===
[[File:Hibari Misora 1.jpg|thumb|200px|『[[悲しき口笛]]』(1949年)]]
[[File:Misora Hibari.JPG|thumb|170px|美空ひばり(1953年)]]
1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・[[灰田勝彦]])で笠置の『セコハン娘』、『[[東京ブギウギ]]』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には[[東横映画]]『[[のど自慢狂時代]]』([[大映]]配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演した。8月には[[松竹]]『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『[[河童ブギウギ]]』でコロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『[[悲しき口笛]]』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。
1950年、川田晴久とともに[[第100歩兵大隊]]二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『[[東京キッド]]』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。
1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の[[鶴田浩二]]が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月[[新芸術プロダクション]]([[新芸プロ]])を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、[[斎藤寅次郎]]がそれぞれ就任した。同年、[[嵐寛寿郎]]主演の松竹『[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。
1952年<!--女性として初めて[[歌舞伎座]]の舞台に立った*****要出典としたが、出典が示されないのでコメントアウト。九代目市川団十郎の追善興行で市川九女八が舞台に立ったと思う。また昭和5年2月、椿姫が上演されて関谷敏子がヴィオレッタを演じた。-->映画『[[リンゴ園の少女]]』の同名主題歌と挿入歌「[[リンゴ追分]]」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から<ref name="クロニクル東映2">{{Cite book | 和書 | author= 岡田茂|authorlink=岡田茂 (東映) |year = 1992 |title = クロニクル東映 1947―1991 |volume = 2 |chapter = <small>〈ドキュメント東映全史〉</small> 『多角化は進んでも東映の看板はやはり映画』 文・岡田茂 |publisher = [[東映]] |page = 2 }}</ref><ref name="悔いなきわが映画人生">{{Cite book |和書 |author = 岡田茂 |year = 2001 |title = 悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年 |publisher = 財界研究所 |isbn = 4879320161 |pages = 103-106 }}</ref><ref name="あかんやつら">{{Cite book |和書 |author= 春日太一|authorlink=春日太一 |year = 2013 | title = あかんやつら 東映京都撮影所血風録 |publisher = [[文藝春秋]]|isbn = 4163768106 |pages = 109-110 }}</ref>、初代[[萬屋錦之介|中村錦之助]]と一緒に<ref name="キネ旬19680202">{{Cite journal|和書|author=[[南部僑一郎]] |title=連載映画千一夜(8)新しい年のホープ|journal=[[キネマ旬報]]|issue=1968年2月下旬号 |publisher=[[キネマ旬報社]]|pages=68-69}}</ref><ref name="東映映画三十年">{{Cite book |和書 |author = 東映株式会社映像事業部(企画・編集) |year = 1981 |title = 東映映画三十年 あの日、あの時、あの映画 | |chapter = 品田雄吉の東映映画史 第一期時代劇黄金時代 昭和29年~昭和31年 スター育成システムを確立した台頭期|publisher = 東映 |pages = 58-59 }}</ref>、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ<ref name="悔いなきわが映画人生"/><ref name="東映映画三十年"/><ref name="埼玉新聞111102">{{Cite news| author = 脇田巧彦 |title = 最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(40) ひばり引き抜きに破格の条件 |date = 2011-11-02 |newspaper = [[埼玉新聞]] | publisher = [[埼玉新聞社]] | page = 16 }}</ref>。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ<ref name="悔いなきわが映画人生"/><ref name="あかんやつら"/><ref name="埼玉新聞111102"/><ref>{{Cite book |和書 |author = 脇田巧彦 |year = 2016 |title = 特ダネ人脈 記者50年 |publisher = 埼玉新聞社 |isbn = 9784878894503 |pages = 192-194 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 高岩淡|authorlink=高岩淡 |year = 2013 |title = 銀幕おもいで話| publisher = [[双葉社]] |isbn 978-4-5757-14-01-2 |page = 47 }}{{Cite journal|和書 | title =本誌特別インタビュー 東映(株)[[高岩淡]]専務取締役 『ビデオやテレビも視野に入れ総合戦略で変革の時代に対応』 |journal = 映画時報 |issue = 1993年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 11 }}{{Cite journal|和書 |title = 東映(株)代表取締役社長・高岩淡 『映像3部門を映像本部に合体』... |journal = 映画時報 |issue = 1997年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 5 }}、[https://www.news-postseven.com/archives/20131229_231432.html?DETAIL 山口組組長に一歩も引かず感心された東映「中興の祖」岡田茂]</ref>。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した[[岡田茂 (東映)|岡田茂]](のち東映社長)は<ref name="埼玉新聞111102"/>、ほぼ[[十二支|一回り]]年下のひばりの世話係をしながら<ref name="クロニクル2">{{Cite book | 和書 |author= 岡田茂|authorlink=岡田茂 (東映) |title = クロニクル東映 1947 - 1991 |volume = 2 |chapter = <small>〈ドキュメント東映全史〉</small> 『多角化は進んでも東映の看板はやはり映画』 文・岡田茂 /ドキュメント東映全史1954(昭和29年)東映娯楽版スタート新スター錦之助・千代之介ブームに沸く| publisher = 東映 |year = 1992 |pages = 1-4,18 }}</ref>、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ<ref name="クロニクル2"/>、ひばり作品の量産体制に入った<ref name="埼玉新聞111103">{{Cite news| author = 脇田巧彦 |title = 最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(41) ひばり結婚離婚、身内に不祥事 |date = 2011-11-03 |newspaper = [[埼玉新聞]] | publisher = [[埼玉新聞社]] | page = 14 }}</ref>。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演<ref name="asagei11817">[http://www.asagei.com/excerpt/11817 ひばりと錦之助の恋の行方 | アサ芸プラス]</ref>。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた<ref name="クロニクル2"/>。東映のツキ初めはここであった<ref name="キネ旬19680202"/>。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した<ref name="asagei11817"/>。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた<ref>{{Cite book | 和書 | title = 銀幕おもいで話 | author= 高岩淡|authorlink=高岩淡 | publisher = [[双葉社]]| year = 2013 | pages = 49-52 |id = ISBN 4-5757-14-01-1 }}</ref>。晩年でもひばりは、錦之助の話が出ると顔が赤くなったと言われ{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、1961年11月27日に銀座東急ホテルで錦之助と[[有馬稲子]]の結婚式があった日に、加藤喜美枝の使いが「すぐ来てくれ」と岡田に頼み、[[国際劇場|浅草国際劇場]]で公演期間中だったひばりがもの凄い仕立ての着物を着て、「錦之助と有馬稲子の披露宴に行く」と言い張っていて、岡田が「明日の[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]の一面になるじゃない!ひばりちゃん、そんなことダメだよ、やめなよ」と説得したらひばりは号泣し{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、「あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したからって何だ。だいいち錦之助と結婚したら歌舞伎界のおかみさんだよ。いちいち部屋を回ってな、よろしくお願いします、よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんかあんたに出来るんかい」と言ったら、「ほっといてよ、そんなこと!」と強気だった{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。
=== 三人娘の時代 ===
[[File:Misora-Hibari-2.jpg|thumb|180px|美空ひばり(1954年)]]
1954年、『[[ひばりのマドロスさん]]』で[[第5回NHK紅白歌合戦]]に初出場した<ref group="注釈">ただし、ひばりには既に[[1953年]][[1月]]・[[第3回NHK紅白歌合戦|第3回]]の時点で、出演のオファーがかけられていたが、第3回は[[正月]]興行、その次の1953年[[12月]]・[[第4回NHK紅白歌合戦|第4回]]は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドから出演を見送られた経緯があり、NHKにとっては3度目の「ラブコール」が実った形となった。</ref>。[[1955年]]には[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]とともに[[東宝]]映画『[[ジャンケン娘]]』に出演したことを契機に、「[[三人娘 (1955-)|三人娘]]」として人気を博し、親交を深める。但し三人の映画出演の[[ギャランティ|ギャラ]]は、はっきり差がつき、ひばり一本750万円、チエミ300万円、いづみ150万円だった{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。当時のひばりは映画界で最も稼ぐ女優だった{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。
1956年、ジャズバンド[[小野満とスイング・ビーバーズ]]の[[小野満]]と婚約。その後、この婚約は破棄となった。初の[[那覇市|那覇]]<ref group="注釈">当時、那覇を含む沖縄は日本本土から分離され、[[琉球政府]]を通じた[[アメリカ合衆国による沖縄統治]]が行われていた。</ref>公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで[[那覇港]]は大混雑した。
1957年1月13日、[[浅草国際劇場]]にて、ショーを観に来ていた少女から[[塩酸]]を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡された。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったという。この事件を切っ掛けにひばりは田岡に[[ボディーガード]]を要請し<ref name="週刊朝日670825">{{Cite journal |和書 |title= 一つの戦後風俗史 『落ちない太陽 美空ひばりの二十年』 |journal = [[週刊朝日]] |issue = 1967年8月25日号 |publisher = [[朝日新聞社]] |pages = 111 }}</ref>、代わりに興行権を[[神戸芸能社]]に委ねる<ref name="週刊朝日670825"/>。その後、[[歌舞伎座]]公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:[[TBSテレビ]])の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして[[渡辺はま子]]、[[二葉あき子]]らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。
1958年4月1日、[[山口組三代目]]・[[田岡一雄]]が正式に[[神戸芸能社]]の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年7月、新芸プロを離れ{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、8月1日、[[ひばりプロダクション]]を設立して{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、副社長に田岡一雄が就任した。同年8月18日{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、東映と映画出演の専属契約を結んだ{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。それに合わせて[[京都市]][[左京区]]岡崎法勝寺町に居を構える{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『[[ひばりの佐渡情話]]』(1962年)など、東映は1950年代後半から1960年代にかけてタイトルに"ひばり"を冠した映画を13本製作<ref>{{Cite book | 和書 | author = 岡田茂 |year = 1992 |title = クロニクル東映 1947―1991 |volume = 1 |publisher = 東映 |page = 97 }}</ref>、続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田に頼まれ、[[高倉健]]を相手役として迎えた<ref>{{Cite book | 和書 | title = 高倉健 Ken Takakura 1956-2014 | series = 文春ムック | publisher = [[文藝春秋]] | year = 2015 | pages = 168-169 | id = ISBN 978-4-16-008621-0 }}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=立松和平|authorlink=立松和平|year=2003|title=映画主義者 深作欣二|publisher=文藝春秋|isbn=4-89036-181-2|page=41}}</ref><ref>{{Cite news | title = 高倉健「歌」と「旅」:言葉の本質を伝える低音の響き 「健さん」らしい、哀惜の情 | newspaper = [[毎日新聞]] | date = 2014-12-24 | url = http://mainichi.jp/shimen/news/m20141224ddm010200038000c.html | accessdate = 2015-10-4 | agency = MANTANWEB | publisher = [[毎日新聞社]] | archiveurl = https://megalodon.jp/2015-0818-1314-02/mainichi.jp/shimen/news/m20141224ddm010200038000c.html | archivedate = 2015-10-4 }}</ref><ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2018/08220555/?all=1 元最高幹部が明かす 「高倉健」と「山口組」の知られざる交流]</ref>。『べらんめえ芸者』シリーズは、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]と[[笠原良三]]の脚本で始まったもので<ref name="笠原和夫傑作選">{{Cite book|和書|author=笠原和夫|authorlink=笠原和夫 (脚本家)|year=2018|title=笠原和夫傑作選 第一巻 博奕打ち 総長賭博―初期~任侠映画篇|publisher=[[国書刊行会]]|chapter=解題 『風流深川唄』 文・伊藤彰彦|isbn=978433606309-0|pages=456-458}}</ref>、笠原和夫は脚本家デビューしてすぐに美空ひばりの主演映画を書くという幸運に恵まれ<ref name="笠原和夫傑作選"/><ref>{{Cite book | 和書 | title = 映画はやくざなり | author = 笠原和夫| year = 2003 | publisher = [[新潮社]] | isbn= 978-4104609017 |page=17 }}[http://president.jp/articles/-/7180?page=2 『映画はやくざなり』(1) | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online]</ref>、東映調の娯楽映画のスキルが磨かれた<ref name="笠原和夫傑作選"/>。[[東千代之介]]や高倉健、[[里見浩太朗]]らはひばりとも共演で人気を高めた{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。ひばりは東映と専属契約を結んだ1954年から1963年まで10年間<ref name="埼玉新聞111103"/><ref name="ogawa">小川順子「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120005681549 チャンバラ映画と大衆演劇の蜜月 : 美空ひばりが銀幕で果たした役割]」『日本研究』33、[[国際日本文化研究センター]]、2006年10月31日、73-92頁</ref>、多くの時代劇、[[剣戟映画|チャンバラ映画]]に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た<ref name="ogawa"/><ref name="LCBOX">"LCBOX [http://l-c.co.jp/blog/kyoto/?p=1919 「美空ひばり座」オープン!京都太秦に“引っ越し”]"([https://megalodon.jp/2015-0902-0157-03/l-c.co.jp/blog/kyoto/?p=1919 アーカイブ〈ウェブ魚拓〉])2015年10月4日閲覧。)</ref>。専属期間だった10年間だけで、東映でのひばり出演作は102本に及ぶ<ref name="埼玉新聞111103"/>。ひばりは「岡田茂さんは東映時代の恩人。岡田さんなくしては、映画俳優としての自分の存在はなかった」と話し<ref name="埼玉新聞111115">{{Cite news| author = 脇田巧彦 |title = 最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(48) 輝きの裏で悲しい出来事も |date = 2011-11-15 |newspaper = [[埼玉新聞]] | publisher = [[埼玉新聞社]] | page = 10 }}</ref>、岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」<ref name="ogawa"/>「錦之助さんともども東映の土台を作った偉大なスター」と評している<ref name="埼玉新聞111115"/>。生涯で170本を超える映画に出演し{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、そのほとんどが主演で、映画の題名に『ひばりの〇〇』と付いた作品は47本で日本一である{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。題名に『ひばり』が付いているだけで安定してお客が入った{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]を代表する映画女優であった<ref>[http://www.hibari.org/syuen-sakuhin.html 美空ひばりの主演作品] 美空ひばり 思い出のあの曲を</ref>。ひばりは女優として日本映画史をみてもズバ抜けた興行力があり、俳優としても日本映画に貢献した{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。ひばり作品に芸術作品・秀作、ましてや[[映画の賞#日本|映画賞]]に掛かった作品は一本もなく{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、今日、ひばりの映画女優としての側面には必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}、生涯、娯楽作品に徹し、ファンもそれを喜んだ{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]は、[[ブルーリボン賞 (映画)#歴代各賞|1961年度の第12回]]でひばりに大衆賞を授与した{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。「映画主演で13年間大衆に愛され親しまれて来た功績」と信念が貫かれたことが認められての授与理由で、ひばりが喜んだことは言うまでもない{{sfn|西川|2021| pp=154 - 179}}。
1960年、『[[哀愁波止場]]』で[[第2回日本レコード大賞]]歌唱賞を受賞、「'''歌謡界の女王'''」の異名をとるようになった。
=== 小林旭との短い結婚・離婚後 ===
[[File:Kinema-Junpo-1962-July-early-3.jpg|thumb|250px|1962年5月29日、ひばりと小林旭は婚約発表した。]]
1962年5月29日、[[小林旭]]との婚約を発表。出会いは雑誌が企画した対談の場だった<ref name="田岡">{{Cite book |和書 |author=山平重樹 |authorlink=山平重樹 |others=取材・写真協力 [[田岡満]] |title=実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界 |origdate=2009-11-22 |edition=第1刷 |publisher=[[双葉社]] |language=日本語 |isbn=4575301728 |pages=260-262 |chapter=第五章 落日の「栄光」 |ref=田岡 }}</ref>。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにもかかわらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ<ref name="田岡"/>。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を迫り、小林は断れなかったとされる。同年11月5日に挙式した<ref name="田岡"/><ref name="さすらい">小林旭 『さすらい』 [[新潮社]]。</ref>。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『[[徹子の部屋]]』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、[[入籍]]しておらず、[[戸籍]]上ではひばりは生涯にわたり独身であった<ref name="さすらい"/>。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばりも歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしいという願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、増吉が[[肺結核]]により52歳で亡くなっている。
別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている<ref name="さすらい"/><ref name="離婚">[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、267-271ページ。</ref>。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した<ref name="離婚"/>。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明<ref name="離婚"/>。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。
その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った<ref name="離婚"/>。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた<ref name="離婚"/>。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。
離婚直後に発表した『[[柔 (美空ひばりの曲)|柔]]』は[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]ともあいまって翌[[1965年]]にかけて大ヒットした。180万枚という、当時のひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年、[[第7回日本レコード大賞]]を受賞。1966年には『[[悲しい酒]]』が145万枚を売り上げ<ref group="注釈">元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年に[[北見沢淳]]が歌った曲であった。</ref>、1967年には『芸道一代』、[[ポピュラー音楽|ポップス]]調の楽曲で[[グループ・サウンズ]][[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]との共演や[[ミニスカート]]の衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『[[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽]]』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
=== 母・喜美枝との二人三脚時代 ===
1963年、喜美枝は岡田に「お嬢のこれからの生き方についてどう思う?」と相談した<ref name="sankei951221">{{Cite news |author = |title =【戦後史開封】(481) 美空ひばり(3) |newspaper=[[産業経済新聞]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=1995-12-21 |page= 朝刊特集}}</ref>。ひばりはそれまで銀幕を中心に活躍し、東映の専属として東映時代劇を支えていたが<ref name="sankei951221"/>、岡田は既に東映を時代劇から現代劇中心に転換したいという考えを持っていたから<ref name="sankei951221"/>「ひばりちゃんの時代劇はリアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力。現代劇では魅力は発揮できないと思う。これからはテレビと舞台だろう」と進言した<ref name="sankei951221"/>。[[浅草国際劇場]]での正月公演の客入りが悪くなっていたことから<ref name="時代を歌う">{{Cite book |和書 |author= 大下英治|authorlink=大下英治 |title = 美空ひばり 時代を歌う |publisher = [[新潮社]] |year = 1989 |isbn = 4103654023 |pages = 318-321 }}</ref>、喜美枝がひばりの再出発として[[新宿コマ劇場]]から要請のあった初の[[座長]]公演を田岡に相談せずに決めたため<ref name="時代を歌う"/>、浅草の公演を仕切っていた田岡の逆鱗に触れ<ref name="時代を歌う"/>、岡田に泣きつき何とか田岡の怒りを鎮めた<ref name="時代を歌う"/>。揉め事が起こると喜美枝は決まって岡田を頼った<ref name="埼玉新聞111103"/><ref group="注釈">岡田は1964年に[[東映京都撮影所]]所長に就任し、興行不振の続く時代劇から任侠映画に徐々に切り替えを行う([https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20110509_060 【訃報】“任きょう映画の父”が87歳で]、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]、[https://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した])。ひばり主演の時代劇は安定した人気を保っていたが、1966年頃からひばり作品まで当たらなくなるほど深刻な状況に陥った([[立松和平]]『映画主義者 深作欣二』[[文藝春秋]]、41頁)。やむを得ず、岡田がひばりに直接「ひばりちゃん、悪いがもう(ひばりちゃんの)映画は撮らんよ」と伝えた。ひばりは「これで私には映画の話は来なくなるわね」と寂しい顔をされ、岡田を困惑させた (『映画主義者 深作欣二』、41頁)。1963年12月26日、東映との専属契約を解除(資料文献:西川2021, pp154 - 179)。映画を通じての付き合いは無くなったが、岡田とひばりの交遊は生涯にわたって続き、ひばりは1989年に病状が悪化し、[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]に入院したが、これは岡田の[[広島高等学校 (旧制)|広島高等学校]]時代からの親友で([[サンケイスポーツ]]、1975年5月21日号、15頁、『沢島忠全仕事』、197、478–479頁)、同院の石井昌三(元[[学校法人順天堂|順天堂]]堂主、理事長)の手引きによるもの(脇田巧彦著『特ダネ人脈 記者50年』2016年、埼玉新聞社、203頁)。岡田も系列の[[順天堂大学医学部附属練馬病院]]で亡くなっている。</ref>。さらに喜美枝は、岡田に新宿コマの[[演出家|舞台演出]]を気心知れた[[沢島忠]]を希望した<ref name="cinematopics">[http://topics.cinematopics.com/archives/15418 東映黄金期時代劇 沢島忠の世界沢島忠インタビュー – CINEMATOPICS]</ref><ref name="沢島忠全仕事">{{Cite book |和書 |author = |year = 2001 |title = 沢島忠全仕事―ボンゆっくり落ちやいね | publisher = [[ワイズ出版]] |isbn = 978-4898300961 |pages = 288-294,302-309 }}</ref><ref>[https://note.com/toei70th/n/na8a19ad45d33 958. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」 第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督(6) 加藤泰と沢島忠」」]、[https://www.toei.co.jp/release/public/1226607_1140.html 創立70周年記念特別寄稿『東映行進曲』発信!] - 東映</ref>。しかし沢島は当時岡田と共に[[ヤクザ映画#東映任侠路線|東映任侠路線]]の扉を開いた東映と専属契約を結ぶメイン監督である<ref name="cinematopics"/><ref name="沢島忠全仕事"/><ref>[https://web.archive.org/web/20180307134030/http://www.toei.co.jp:80/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕](Internet Archive)、[https://ja-jp.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%EF%BD%98-%E6%B2%A2%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E5%90%89%E7%94%B0%E9%81%94%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E5%85%A82%E5%9B%9E/315508851797110 『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)]</ref>。当時は[[五社協定]]があり、[[東宝]]系の新宿コマでの長期公演の仕事など無理難題であった<ref name="cinematopics"/><ref name="沢島忠全仕事"/>。喜美枝は娘の為なら、たとえ火の中水の中というような人で<ref name="cinematopics"/>、これも岡田の尽力で何とか沢島の貸し出しが決まり<ref name="cinematopics"/><ref name="沢島忠全仕事"/>、東映のメイン監督の一人だった沢島は、これを切っ掛けにひばりの座付き作者のようになって映画界から遠ざかった<ref name="sankei951221"/><ref>{{Cite book |和書 |author= 松島利行|authorlink=松島利行 |year = 1992 |title = 風雲映画城 |volume = 下 |publisher = [[講談社]] |isbn = 406206226-7 |pages = 107-108 }}</ref>。
[[1964年]]5月、[[新宿コマ劇場]]で初の座長公演を行う<ref name="sankei951221"/>。それまで歌だけのステージに芝居を加える舞台公演の第一号であった<ref name="sankei951221"/>。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の[[御園座]]、大阪の[[梅田芸術劇場|梅田コマ劇場]]にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時の[[マスメディア|マスコミ]]からはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。
1970年8月[[日系ブラジル人]]の求めに応じて[[サンパウロ]]で[[ブラジル]]公演<ref>[http://www.bs-j.co.jp/showa/01.html BSジャパン「昭和は輝いていた~第1,2回美空ひばりがいた!」]</ref>。公演は8、9、10日の三日間であり、5万人の観客を動員、サンパウロとその周辺はもちろん、アマゾン地方、アルゼンチン、パラグアイ、ペルーやボリビアからも観客が団体で押し寄せた。オーケストラメンバーは[[フランク・シナトラ]]や[[トニー・ベネット]]も賞賛した現地サンパウロの一流演奏家で構成され、そのメンバーらが美空ひばりについて「言葉は分からないが素晴らしい歌手だ」と異口同音に称えたと言われる。また、サンパウロ公演より前にハワイで公演を開いたとされる<ref>『美空ひばりサンパウロ公演秘話』 コラム『誰も書かなかった日伯音楽交流史 No.8』 坂尾英矩 『ブラジル日報』2022年4月21日号4頁掲載</ref>。
1970年、[[第21回NHK紅白歌合戦]]で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・[[かとう哲也]]作曲の「[[人生将棋]]」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは[[青江三奈]](当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。
この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは[[1981年]]の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。
=== 兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死 ===
1973年、実弟が起こした不祥事により<ref group="注釈">哲也は、1957年、[[小野透]]の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの[[東映]]映画に出演、主演を務めたこともあったが[[1962年]]に引退。元々ひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組[[益田組]](組長は[[益田佳於]])の舎弟頭となっていた。翌[[1963年]]には賭博幇助容疑、[[賭博開帳図利]]等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。</ref>、加藤家と暴力団山口組および田岡との関係も問題視され、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大々的に取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずすことはなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]への出場を辞退した<ref group="注釈">事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという。</ref>。そのためこの年から数年間、[[大晦日]]は日本教育テレビ(現:[[テレビ朝日]])の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演した。以後、[[日本放送協会|NHK]]からオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『[[ビッグショー (テレビ番組)|ビッグ・ショー]]』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復した。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった<ref group="注釈">ただし、1979年の第30回には[[藤山一郎]]と特別出演、『[[ひばりのマドロスさん]]』、『[[リンゴ追分]]』、『[[人生一路]]』の3曲をメドレー形式で歌った。</ref>。
1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。[[岡林信康]](「月の夜汽車」〈1975年〉)、[[来生たかお]](「[[笑ってよムーンライト]]」〈1983年〉)、[[イルカ (歌手)|イルカ]](「[[夢ひとり]]」〈1985年〉)、[[小椋佳]](「[[愛燦燦 (美空ひばりの曲)|愛燦燦]]」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト・クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、[[1980年]]には誰もが唄える歌として発表した『[[おまえに惚れた]]』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。また[[1982年]]には、『[[裏町酒場]]』もロング・ヒットを記録する。
しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性[[脳腫瘍]]により68歳で死去。同年に行われた芸能生活35周年記念リサイタルは、実母が危篤状態の中行われたものである。<ref>{{Cite web|和書|title=美空ひばり公式ウェブサイト » 1980年代|url=http://www.misorahibari.com/?profile_list=1980|accessdate=2020-01-25|language=ja}}</ref> また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで死去した。1982年には親友の江利チエミが45歳で急死し、1984年は「[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]」で18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演する等親交のあった[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と[[香山武彦]](1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続いた。ひばりは[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]]を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた[[酒]]と[[喫煙|タバコ]]の量は日に日に増加し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。
=== 晩年・病魔との闘い ===
1985年5月、ひばりは誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の[[腰痛]]を訴えるが、徐々に腰痛が悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵にも感じさせない熱唱を見せていた。翌年の1986年に芸能生活40周年記念リサイタルを東京・名古屋・大阪の三大都市で開催(後に東京でのコンサートがビデオ・DVD化されている<ref>{{Cite web|和書|title=芸能生活40周年記念リサイタル そして、歌は、人生になった。 {{!}} ディスコグラフィ {{!}} 美空ひばり {{!}} 日本コロムビアオフィシャルサイト|url=https://columbia.jp/artist-info/hibari/discography/COBA-6440.html|website=日本コロムビア公式サイト|accessdate=2020-01-25|language=ja}}</ref>)。だが1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰はついに耐えられない激痛の状態に陥った。
しかしそんな中、同年2月には三重県鳥羽市まで出向き、ひばり自らの要望で[[鳥羽水族館]]の[[ラッコ]]を見物した。それと同地において、カラオケビデオの撮影にも臨んだ。1テイク撮影後再度撮り直しの為に、スタート地点へ戻るよう監督の指示を受けた際、ひばりは段差を上りきれず立ち止まってしまい、付き人の手を借りて歩行し映像を撮り終えた。現在DAMカラオケで「リンゴ追分」「真赤な太陽」などのカラオケでは、その頃のひばりの姿が映し出されている。
入院2週間前の4月7日には日本テレビ「コロムビア 演歌大行進」の収録に臨む。[[細川たかし]]と[[島倉千代子]]に手を取られ登場し、体調が悪い中「[[愛燦燦 (美空ひばりの曲)|愛燦燦]]」などを歌った。<ref>{{Citation|title=美空ひばり(1987)|url=https://www.youtube.com/watch?v=v487m4PQE3w|accessdate=2020-01-25|language=ja-JP}}</ref>
同年4月22日、公演先の[[福岡市]]で極度の体調不良を訴え、[[福岡県済生会福岡総合病院]]に緊急[[入院]]した。重度の[[慢性肝炎]]および両側[[特発性大腿骨頭壊死症]]と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「[[肝硬変]]」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。またそれに伴い同年5月に予定された、[[明治座]]の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えた。その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣および大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」などと吹き込まれた、肉声入りの[[カセットテープ]]を披露した。
1987年6月16日に[[鶴田浩二]](享年62)、7月17日には[[石原裕次郎]](享年52)と、ひばりとも親交が深かった昭和の大スターが相次いで死去する中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『[[みだれ髪 (美空ひばりの曲)|みだれ髪]]』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たした。
しかし、病気は決して完治してはいなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、[[里見浩太朗]]が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面であったという。
=== 伝説のステージ「不死鳥コンサート」東京ドーム・復帰公演 ===
1988年(昭和63年)初頭は[[ハワイ]]で静養し、2月中に帰国した。同年4月に開催予定の[[東京ドーム]]復帰公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復することはなく、肝機能数値も退院時の60%から低下して20~30%の状態を行き来する状態であった。体調が思わしくないまま公演本番の日を迎えた。
1988年4月11日、東京ドームの[[こけら落し]]<ref>[https://web.archive.org/web/20100127032439/http://shop.columbia.jp/shop/g/gDV415 不死鳥 in TOKYO DOME(DVD)](2010年1月27日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - コロムビアミュージックショップウェブサイト</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20110924172415/http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090006060130091/ プロジェクトX 挑戦者たち 美空ひばり 復活コンサート~伝説の東京ドーム・舞台裏の300人~](2011年9月24日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - NHKアーカイブス</ref> となるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施した(実際にはそれ以前に[[ミック・ジャガー]]や[[BOØWY]]がコンサートを同場所で既に行っていた)。この復活コンサートの様子は、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。なお「[[フェニックス|不死鳥]]」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は[[森英恵]]がデザインしたものである。
この東京ドーム公演の会場客席には、[[森光子]]・雪村いづみ・[[島倉千代子]]・[[浅丘ルリ子]]・[[岸本加世子]]など、ひばりと特に懇意のある女性芸能人達も、ひばりの復帰ステージを見るために駆けつけた。それとは裏腹に、ひばりにとってはまさに命がけのものであった。楽屋入りの際には、楽屋前で私服のまま、ひばりはファン並びにマスコミへ向けて不死鳥コンサートへの意気込みをコメント映像として残したが、このコメント映像に応じるか応じられないかもひばりの判断次第でないと分からない状況であった。[[徳光和夫]]も後年、BS朝日「わが心の美空ひばり」にて「あのコメントを残してくださったことを心から感謝しています、まさかあんなに状態が悪かったとは思いもしなかったですよ」と語っている。
ひばりはフィナーレの「[[花と炎/人生一路|人生一路]]」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩とこの調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せており、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。
公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態ではないにも拘らず、沢山のひばりファンに笑顔で手を振り続けながら全快をアピールした。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばりにとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。
東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で再び福岡にて一時入院したが、すぐに仕事を再開することができた。6月の入院を乗りきったひばりはその後の年内の仕事も予定通りに全てこなし、同年7月29日に「[[広島平和音楽祭]]」(「[[一本の鉛筆]]」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残されており、現在の特番でも放映されている。
=== 生涯最後のシングル「川の流れのように」 ===
1988年10月28日に、前日[[神津はづき]]([[神津善行]]・[[中村メイコ]]夫妻の実娘)からのお友達紹介で、「[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]」の[[テレフォンショッキング]]コーナーに、最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、[[秋元康]]の企画による『不死鳥パートII』という題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や[[見岳章]]といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『[[川の流れのように]]』もレコーディングされている。なお、ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願し、結果としてひばりの希望通りの形となった。
そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー…もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」と全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。
同年暮れの12月12・16・17日の3日間にわたって、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は[[堺正章]]が担当し、特別ゲストには森光子、[[森繁久彌]]と[[尾崎将司]]が出演した。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーの[[池田文雄]]に向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが…」と話している。しかしプロデューサーの池田は耳にこびりついて仕方がなかったという。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。
この頃既に、ひばりの直接的な[[死因]]となった『[[間質性肺炎]]』の症状が出始めていたとされており、立っているだけでも限界であったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。なお、ワンマンショーの放送からさかのぼること2日前の1月2日には『[[パパはニュースキャスター]]』の復活スペシャル第2弾にも[[田村正和]]演じる主人公の鏡竜太郎とTBSの廊下で遭遇するワンカットのみではあるが、ゲスト出演。これが生涯最後のテレビドラマへの出演となった。
1988年12月25日、26日と[[帝国ホテル]]にて、生涯最後の[[クリスマス]][[ディナーショー]]が行われ、[[石井ふく子]]や[[王貞治]]らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しい[[ツイスト]]で観衆を沸かせていた。この時の映像は特番等で稀に放送されたことがある。(ビデオ・DVD化はされていない)ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「[[唄入り観音経]]」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。
=== 昭和から平成へ・再入院 ===
[[1989年]]1月8日、ひばりは[[元号]]が「昭和」から「平成」へ移り変わった日を「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」と[[短歌]]に詠んだ。その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。
1月15日、『[[演歌の花道]]』と『[[ミュージックフェア]]』へそれぞれVTRで出演した。各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、『ミュージックフェア』が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は「美空ひばり特集」として1月8日に予定されていたが、昭和天皇の崩御に伴い特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せて、体調は明らかに悪化していた。なお、1月中のひばりは[[熱海温泉|熱海]]への家族旅行や、[[両国国技館]]の[[大相撲]]見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調は一時期平行線であっても、好転することはなかった。
コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」をスタートさせたが、初日の[[2月6日]]の[[福岡サンパレス]]公演で、持病の肝硬変の悪化からくる[[チアノーゼ]]状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。
2月7日、[[アルモニーサンク|九州厚生年金会館]]での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった(その映像は残されていないが、スタッフが確認用に録音したカセットテープに音源のみ残され、ひばり17回忌の2005年にCDとして商品化された)。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため、急遽[[ヘリコプター]]を使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後はすぐに横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる[[食道静脈瘤]]も抱え、いつ倒れて[[吐血]]してもおかしくない状態だったという。当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います…お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当…死んだ親父やばあちゃんがいたらな…って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であった。あまりの体調の悪さに元々予定されていた楽曲を一部カットした([[村田英雄]]の「[[無法松の一生]]」など)。息苦しさをMCでごまかすひばりだが、翌3月に診断される「[[間質性肺炎#原因による分類|特発性間質性肺炎]]」の病状は進行していた。だが1,100人の観衆を前にひばりは、全20曲無事に歌い終わった。
2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで帰京した。その際、[[東京ヘリポート]]から自宅までは車での移動であったが、体力が既に限界を超えていた。3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に自らの故郷である横浜に新しく竣工した、[[横浜アリーナ]]のこけら落とし公演が予定されていた。この舞台に立つことに執念を見せるひばりは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と一方的に譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也に「ママは舞台で死ねたら本望なの!余計な口出ししないで!!」と突っぱねるも、和也は「あんたが死んじゃったら、残された俺は一体どうするんだ!!」と反論するなど、度々口喧嘩をし続けていたという。その口論の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。
その頃、石井ふく子の紹介で、近所の診療所の医師に診察を仰いだが、手の指先や顔色も青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を目の当たりにしたその医師から、ひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師から強い説得を受けると、ひばりは椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間の沈黙があったという。その沈黙の後、ひばりはついに再入院の決断を下した。
3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオの[[ニッポン放送]]で『美空ひばり感動この一曲』と題する、10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメントした。結果的に歌以外ではこのラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後の[[マスメディア]]の仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]に再入院となった。
=== 死去 ===
再入院から2日後の1989年3月23日「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念のため、横浜アリーナのこけら落としコンサートを初めとするその他全国ツアーを全て中止し、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止が息子の和也から発表された(再入院当時「間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せていたが、ひばりは3月上旬に診察を受けた際に医師から間質性肺炎の説明を受けている。しかし和也にはずっと知らないふりをして過ごしていたという。なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。診断で間質性肺炎を発症した原因は「不明」とされ、この病気の治療には[[ステロイドホルモン]]が有効とされているが、既にひばりは肝硬変の症状も出ており副作用の懸念からステロイド剤はほとんど使えなかったという。
その後もはっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の5月27日に再入院時の写真などと共に「麦畑 [[ヒバリ|ひばり]]が一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表した。さらに「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。だが2年前の入院時と比較するとひばりの声は殆ど張りがなく、弱々しいものであった。結果的にこれがひばり本人が発した生涯最後のメッセージおよび肉声披露となった。
それから2日後の5月29日にひばりは病室で52歳の誕生日を迎えた。同じ頃ひばりの実妹・佐藤勢津子は、看病していた時に「突然、お姉ちゃんがポロポロと泣き出してしまって…『勢津子、私はまだ生きられるの?』って。『何言ってるの、まだ52歳でしょ?これからも頑張って生きなきゃ駄目よ!』って励ましたら、姉ちゃんは『そうだね、和也を独り遺して死ねないよね。頑張るわ』と、珍しく私の前で弱音を吐いた」と述懐していた。
しかし、誕生日から15日後の6月13日に[[呼吸困難]]を起こして重体に陥り、[[人工呼吸器]]がつけられた。ひばりの生涯最後の言葉は、順天堂医院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」「大丈夫だよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、後に和也が語っている。
1989年[[6月24日]]午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による[[呼吸不全]]の併発により死去。52歳没。
6月25日に通夜、翌日26日に葬儀がひばり邸で行われ、芸能界やスポーツ界、政界からも多数の弔問があった。ひばりの棺を乗せた霊柩車がひばり邸を出る際には、多くのファンが沿道を埋め尽くし、彼女の死を悼んだ。7月22日に[[青山葬儀所]]で行われた葬儀には当時最高記録の4万2千人が訪れた。喪主は和也が務め、葬儀では[[萬屋錦之介]]・森繁久彌・中村メイコ・王貞治・[[和田アキ子]]・[[とんねるず]]の[[石橋貴明]]が弔辞を読み上げ、[[北島三郎]]・雪村いづみ・[[森昌子]]・[[藤井フミヤ]]・[[近藤真彦]]などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、ひばりの霊前に捧げた。[[戒名]]は慈唱院美空日和清大姉(じしょういん みそらにちわせいたいし)。[[墓|墓所]]は横浜市営日野公園墓地にある。菩提寺は港南区の[[唱導寺]]。
美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。
=== 死後 ===
<!--美空ひばり遺影碑を撮影した画像を追加しました。遺影碑や銅像は著作権の項目確認の上、写真を取ることは銅像作成者の著作権侵害に該当しないことを確認の上です。詳しくは「ノート:美空ひばり」を参照して下さい。 この美空ひばり遺影碑の写真画像の配置は「遺影碑」の性格上、下段のこのエピソード項目に配置しました。上段の項目には不釣合いなので写真配置変更はご遠慮下さい-->
1988年、[[福島県]][[いわき市]]塩屋埼を舞台に作詞されたのが縁で、「[[みだれ髪]]」の歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420メートル区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「[[悲しき口笛]]」のひばりをモデルにした銅像も建立された。毎年約30万人のファンや観光客がひばりを偲んで訪れる。
1989年8月21日、35枚組・517曲を収録した『美空ひばり大全集 今日の我れに明日は勝つ』がCDとカセットテープで発売され、1989年11月20日現在で6万3000セット(日本コロムビア調べ)が販売された<ref>『[[毎日新聞]]』1989年12月9日付東京夕刊、1頁。</ref>。定価6万円(税込)と音楽ソフトとしては高額ながら[[オリコンチャート|オリコン]]では最高9位(1989年[[9月4日]]付アルバムランキング)を記録した<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/29490/full/ 松田聖子、オリコン史上最高額CDによるランクイン達成!!]、ORICON NEWS、2006年7月27日 7:00。</ref><ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2096772/full/ 【オリコン】B’z、男性歌手史上最高額でアルバムTOP10]、ORICON NEWS、2017年9月5日 4:00。</ref>。
1989年には、ひばりの音楽ソフトが年間120億円(日本コロムビア調べ、以下同じ)を売り上げた<ref name=mainichi_980622>『[[毎日新聞]]』1998年6月22日付大阪夕刊、1頁。</ref>。1997年時点でも年間で約15億5000万円を売り上げ<ref name=mainichi_980622 />、日本コロムビア所属の演歌歌手としては現役歌手を抑えて最も売り上げが多い<ref name=mainichi_980622 />。
1993年4月、[[京都市]]の[[嵐山]]に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。その後運営主体を「[[ひばりプロダクション]]」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。2013年4月26日、開館5周年イベントが催され、この場でひばりプロ社長・加藤和也から同年5月31日限りで閉館することが発表。同館は5月31日限りで閉館された。
しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にある[[東映太秦映画村]]の映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『[[のど自慢狂時代]]』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている<ref name="LCBOX"/><ref>{{cite news |title=「美空ひばり座」オープン!京都太秦に"引っ越し"|author= |newspaper= SANSPO.COM([[サンケイスポーツ]])|date= 2013-10-13|url= http://www.sanspo.com/geino/news/20131013/oth13101305050016-n1.html|accessdate=2013-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131016095822/http://www.sanspo.com/geino/news/20131013/oth13101305050016-n1.html |archivedate=2013-10-16}}</ref>。さらに、2014年5月には[[東京都]][[目黒区]]のひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表され<ref>{{cite news |title=美空ひばりさん記念館、目黒の自宅にオープン! |author= |newspaper= SANSPO.COM([[サンケイスポーツ]])|date= 2013-04-27|url= http://www.sanspo.com/geino/news/20130427/oth13042705050009-n1.html|accessdate=2013-05-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430215003/http://www.sanspo.com/geino/news/20130427/oth13042705050009-n1.html |archivedate=2013-04-30}}</ref>、同年5月28日に女優の中村メイコ、タレントの[[ビートたけし]]、歌手の[[郷ひろみ]]らを最初の客として迎えて、「東京目黒美空ひばり記念館」のオープニングセレモニーが行われた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=rr_0Z0c_Uoc 美空ひばり記念館オープン 目黒の自宅を一部公開]([[共同通信社]])</ref>。
1999年、舞台『元禄港歌 -千年の恋の森-』(1980年上映)劇中歌としてレコーディングされた「流れ人」が、ひばりの死後初のシングルとして発売された。1998年12月、同舞台の再演の準備中に当時録音された音質の良いテープが日本コロムビアで発見されたものである<ref>[https://web.archive.org/web/19991004034923/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/1999/0209gn1.htm よみがえる“不死鳥”]、[[中日スポーツ]]、1999年2月9日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。
2005年公開の映画『[[オペレッタ狸御殿]]』([[鈴木清順]]監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦り[[オダギリジョー]]や[[章子怡|チャン・ツィイー]]と共演した。
[[2011年]]には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。
『美空ひばり トレジャーズ』は、[[日本コロムビア]]の創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「[[月の沙漠]]」を含む計30曲が収録された2枚組の[[コンパクトディスク|CD]]が収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。
『ひばり 千夜一夜』は、1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、[[1949年]]のデビュー曲「[[河童ブギウギ]]」から1989年のラストシングル「[[川の流れのように]]」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1,001曲である(ライブ音源CDを除く)。「[[森英恵]]デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」が特典であった。単一歌手が1,000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてで、最大収録数である。
[[2012年]]、[[1950年]]に行われた[[第100歩兵大隊]]二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演の[[アメリカ合衆国]][[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]公演の録音が発見された。[[2013年]]09月18日には『美空ひばり&[[川田晴久]] in [[アメリカ合衆国|アメリカ]] 1950』のタイトルで[[コンパクトディスク|CD]]が発売された。この記録は、[[日本人]]による海外ツアーの先駆けの様子を記録した資料としても貴重である。
[[2013年]]には、ひばりが芸能生活35周年として[[1981年]]に出演したテレビ番組『ザ・スター』を映像補正の上、編集した作品『ザ・スター美空ひばり』が公開された。[[フジテレビ]]の倉庫で発見された、同番組の未放送部分を含むマスター収録テープをデジタル技術で復活させ、ひばりの代表曲や同番組でのみ披露された未発表曲「ウォーク・アウェイ〜想い出は涙だけ〜」を歌いあげるひばりの姿がスクリーンで上映された。
[[2016年]]5月29日、未発売音源の「さくらの唄」をCD化し発売。1976年7月1日に発売されたシングルとは別バージョンとなっている<ref>{{cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20160520dog00m200060000c.html|title=美空ひばり:「さくらの唄」の未発売音源シングル見つかる 誕生日の5月29日に発売|newspaper=MANTANWEB|date=2016-05-21|accessdate=2016-05-23}}</ref>。
[[2019年]]5月29日の日本コロムビアの発表によると、レコード・CDなどの物理メディアの総売上(2019年5月1日時点での累計出荷枚数<ref>[https://www.sankei.com/article/20190529-KO2LCG7UIZKPVNXGWCYRTDURGE/ 美空ひばりさん、1億枚を突破 レコードなど累計出荷枚数]、産経ニュース、2019年5月29日 18:15。</ref>)は'''約1億1700万枚'''に達する<ref name="mainichi_190529">[https://web.archive.org/web/20190529174845/https://mainichi.jp/articles/20190529/k00/00m/040/209000c 美空ひばりさん、CDなど1億1700万枚売り上げ 平成経て大台超え]、毎日新聞2019年5月29日 19時46分(最終更新 5月29日 19時53分)。</ref><ref name="nikkan_190529">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201905290000418.html 美空ひばり生涯売上1億枚「うれしい限り」長男社長]、日刊スポーツ、2019年5月29日17時30分。</ref>。この数字にはインターネット配信での売上は含まれていない<ref name="mainichi_190529" />。内訳は[[レコード|アナログレコード]]がシングル4850万枚、アルバム2150万枚。[[コンパクトカセット|カセットテープ]]が2650万枚、[[8トラック]]テープが900万本、[[コンパクトディスク|CD]]が1150万枚である<ref name="nikkan_190529" />。日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストや[[タレント]]に影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、'''永遠の歌姫'''として根強い人気を獲得している。
[[2019年]]9月29日放送の[[NHKスペシャル]]では、過去の膨大な映像や音源を元に、最新のAI技術を用いてひばりのライブを再現する試みが行われた。4K・3Dの等身大のホログラム映像でステージ上に“本人”を出現させ、[[ヤマハ]]が開発した深層学習技術を用いた歌声合成技術『[[VOCALOID|VOCALOID:AI]]』により新たに制作された楽曲「[[あれから]]」(作詞:[[秋元康]]・作曲:[[佐藤嘉風]])を歌わせる様子が放送された<ref>[https://web.archive.org/web/20190906102117/https://www.vocaloid.com/news/vocaloid_ai_news_release/ 美空ひばりの新曲ライブの実現を支援 あの歌声を当社最新の歌声合成技術『VOCALOID:AI™』で再現 「NHKスペシャル AIでよみがえる美空ひばり(仮)」に技術協力]</ref><ref>[https://www.nhk.or.jp/special/detail/20190929.html NHKスペシャル AIでよみがえる美空ひばり(仮)]</ref>。CGによるひばりの振り付けは[[天童よしみ]]のモーションを元にしている。
[[2019年]]12月31日放送の[[NHK紅白歌合戦]]でも、上記AIによるライブが行われた<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000176861 美空ひばり(AI歌唱)、MV公開。紅白使用の3Dひばり映像がいち早く登場]</ref>。
== 評価 ==
没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる[[国民栄誉賞]]を受賞(歌手としてはひばりと[[藤山一郎]]の2人のみ)し、息子の[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]]と付き添いとして[[萬屋錦之介]]が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。
「彼女が凄いのは『縁起が悪い』を歌詞にしてしまう所ですよね。普通だったら恥ずかしくて歌えないのに、歌唱力をもって照れずに歌うから笑えない。人に聞くとひばりさんは面倒見がよかったらしいんですよね。つまり、自分の後継者や崇拝者を作れない人は、それ以上大きくなれないんじゃないかと。ロックだろうと演歌だろうと外人だろうと全部同じですよ。そういった意味であの人は偉大だったと思います」<ref name="wi899">[[ソニー・マガジンズ]]刊 『[[WHAT's IN?]]』 1989年9月号91Pより。</ref>([[石井竜也]])
「世界一[[音高|ピッチ]]が良い人です。[[:en:Oberheim_Matrix_synthesizers|マトリックス]]よりピッチが安定している」<ref name="wi899"/>([[奥田民生]])
== エピソード ==
* ひばりは生前、[[芸能界]]で公私にわたり親しかった人物として俳優では、[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]、[[林与一]]、映画監督では、[[マキノ雅弘]]、[[渡辺邦男]]、[[沢島忠]]、歌手では、[[橋幸夫]]、[[北島三郎]]、[[西郷輝彦]]、[[森進一]]、恩人としては[[伊志井寛]]、[[三島由紀夫]]、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]らの名前を挙げている<ref>{{Cite news| author = 脇田巧彦 |title = 最後の活動屋 岡田茂 映画こそ我が人生 実録!! 東映六十年(48) 輝きの裏で悲しい出来事も |date = 2011-11-15 |newspaper = 埼玉新聞 | publisher = 埼玉新聞社 | page = 10 }}</ref>。
* ひばりは各界の大物スターたちとの交友が深かったが、特に[[王貞治]]とは『義姉弟』(王貞治本人談)というほど、肝胆相照らす仲であった。[[金田正一]]とも親しかった<ref>{{Cite book |和書 |author = 脇田巧彦 |year = 2016 |title = 特ダネ人脈 記者50年 |publisher = 埼玉新聞社 |isbn = 9784878894503 |pages = 197-199 }}</ref>。
* 無名時代の[[牧伸二]]がひばりの地方巡業公演で前座を務めていた際、牧の漫談が会場を湧かせる場面をひばりとその母([[加藤喜美枝]])が見てこれを気に入り、ひばり母子は「牧さんはすぐにスターになりますよ。見ていてご覧なさいな」と関係者に後年のブレークを予見する発言をしていたという<ref>『俺のどうにか人生 美空ひばり秘話』嘉山登一郎 近代映画社 1990年</ref>。
* 大阪・北野劇場に「美空ひばりショー」で来演したひばりのお芝居の相手役(東京公演では[[津川雅彦]]が演じた役)を当時同劇場の専属コメディアンで売り出し中の[[大村崑]]が抜擢されたが、大村が登場する度に馴染みの観客が笑うので母・喜美枝の怒りに触れて大村は下ろされる(その後その役は[[堺駿二]]が務めた)。大村はその時の悔しさを忘れなかった。それから年月が経ち、1970年9月3日から9月27日に新宿コマ劇場で香山武彦と共演<ref>[https://web.archive.org/web/20071025221229/http://www.koma-sta.co.jp/history/1970_1979/1970.html 新宿コマ劇場 公演年譜1970年](2007年10月25日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref> した際に「弟がお世話になってます」と、ひばりから食事の招待を受ける。ここぞとばかりに当時のことを母・喜美枝に話すと「崑さん、お嬢も今まで沢山いじめられてきたのよ。あなたは私だけでしょ。」と慰められる。すると、ひばりが大村のためだけに耳元で「柔」を熱唱した。それに感激した大村は全てのことを水に流したと言う。その時、ひばりから贈られたお守りは肌身離さず大切にしている。
*
* [[1984年]]の「[[第35回NHK紅白歌合戦]]」は、紅組トリおよび大トリの[[都はるみ]]の引退ステージ(後に復帰)となったが、都の歌唱後に総合司会の[[生方恵一]]が都の名前を「ミソラ」と言い間違えてしまった([[生方恵一#ミソラ事件]]を参照)。ひばりは上記の通り、1973年以降紅白には出場依頼が来ても受けなくなるなど確執があったがこの時、親友の[[浅丘ルリ子]]らと自宅のテレビで紅白を観ており、「あっ! ウブさん、今変なこと言ったよ」と浅丘と思わず顔を見合わせた後、「ウブさんったら、私のことホント好きなんだから」と苦笑いしたという。この場面をテレビで見ていたひばりの関係者は、「お嬢、大変なことが起きた!」と叫んだとされる。その後ひばりは「ウブさんがあれでNHKをクビになるんだったら、私が一生食べさせてあげなきゃ」とも話した。
* [[日本中央競馬会]]に馬主として登録したこともあり、「タケシコオー」という牝馬を走らせていた。
* デビュー当初のサトウハチローや服部良一から、飯沢匡に至るまで批判的な言論も連綿と続き、逝去の直後には日本的慣例に関して[[小林信彦]]が批判を発表した。もっとも、才能を全面的に否定するものは少なく、小林の批判も没後の一億総服喪的な過剰報道に対する反発から書かれたものであり、ここではモダニズムの要素も多分に持っていたひばりの才能が日本的にウェットな演歌のカテゴリーに押し込められていったことへの疑問が呈されている。
* 1981年7月29日に実母・[[加藤喜美枝|喜美枝]]が亡くなり、火葬場にて最後の別れが終わった後、母の入った棺がかまどの中に入る際、ひばりは大きな叫び声をあげながら本気で一緒にかまどの中に向かおうとした。参列していた[[高倉健]]と萬屋錦之介に強く制止され、ひばりはずっと号泣していたという<ref>『[[ザ・スター リバイバル]]』 第4回(BSフジ 2013年11月9日)放送分 加藤和也コメントより</ref>。
* 基本的に芸人との交流はなかったが息子の和也が大ファンであった[[とんねるず]]だけは認めており晩年は弟のように可愛がって2人のことをタカ、ノリと呼び、2人もひばりのことを「御嬢」と呼んで慕っていた。テレビでの共演は『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』にVTRで会話をしたのと、ひばり50歳の時に[[とんねるず]]がお祝いに駆けつけ両頬に[[とんねるず]]のキスを受けている。ラジオでは『[[とんねるずのオールナイトニッポン]]』にひばりが乱入し2時間ジャックした。
* [[1990年]]放送の[[午後は○○おもいッきりテレビ]]内のコーナー、「ちょっと聞いてョ!おもいッきり生電話」の生放送中、ゲストの[[アグネス・チャン]]の背後にひばりらしき顔が映っていたのを多数の視聴者が目撃した。その後、カメラが再度アグネスの所に向けられると顔はテレビカメラに向かって移動していた。その後、再度カメラが向けられた時、その顔は消えていた。放送後、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]には視聴者からの電話が殺到した。奇しくもこの日はひばりの一周忌の直後だった。
* 親友であった[[中村メイコ]]と赤坂近辺をハシゴしていた時、二軒目で寄った屋台の味を気に入り、居眠りしていた屋台の主人に「私の家、この坂を上った近くにあるんだけど、うちの前まで屋台引っ張って行ってくれない?」とお願いしたが、主人に断られてしまった為、居眠りしていた主人を放ったまま、ひばりが屋台の前を、メイコが後ろを押しながらひばり邸の前まで屋台を持って行き、そこで二人で食べた三倍の値段の代金を屋台に置き、屋台を放置したまま、また二人で夜通しハシゴしたという逸話をメイコ自身が話している。
* ある晩、緊急の用事でタクシーに乗ってメイコ宅へ行き、目的地に着いた時に、財布を忘れてきたことに気付いたひばりは、「私は美空ひばりですが、財布を忘れてきたので、お金を(友人から)借りてきます」とタクシーの運転手に事情を話したが、この時のひばりは化粧をしておらず、普段よりも地味な顔つきだったため、運転手は相手の女性が美空ひばりだとは信じようとはしなかった。しかし、困ったひばりが何とか信じてもらおうとして、持ち歌の「[[リンゴ追分]]」を歌い出すと、運転手はその歌声が間違いなく美空ひばり本人の声であることを即座に理解した。ひばりが歌い終わった後、感激した運転手は、「お金を出してもなかなか聴けないひばりさんの生の歌をただで聴かせてもらえたのですから、料金はいただかなくて結構です」と言って、料金を取らずに帰って行ったという。このエピソードは1985年に出演した「[[徹子の部屋]]」でひばり本人が話しているほか、後年メイコも回顧している。
* ちあきなおみの歌唱力をほとんど唯一「私に匹敵する」と高く評価していた。
* 戦後間もない頃のものとはいえ、楽屋で秋刀魚を焼いて食べていた写真が残されている。
* 帝国劇場で興行をしていた際、「あの音はなんなの?」と不快感を示した。その音の正体は、帝国劇場の南側を通っていた当時の[[東京メトロ有楽町線|営団有楽町線]]であった。それを聞いた営団側は、すぐに車両の振動が構造物に伝わらない軌道構造を開発し、振動を地下に逃がすようにしたという<ref>{{Cite book|和書|title=今だから話せる都営地下鉄の秘密|date=2011106|year=2011|publisher=洋泉社|page=170}}</ref>。
== ひばりの作詞 ==
ひばりが作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌唱し、『[[花のいのち (美空ひばりの曲)|花のいのち]]』『太陽と私』『[[花のいのち (美空ひばりの曲)|木場の女]]』『[[ロマンチックなキューピット]]』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
1966年に『夢見る乙女』を作詞し、可愛がっていた[[弘田三枝子]]へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていた[[島倉千代子]]に提供された。
『夢ひとり』を[[イルカ (歌手)|イルカ]]が作曲し、ひばりの歌唱で1985年5月にシングルがリリースされている。後年イルカ盤も制作され、2002年5月に[[マキシシングル]]としてリリースされた。
===生前に書き残し没後リリースされた詩===
「[[草原の人]]」を[[つんく]]が作曲し[[松浦亜弥]]が歌った(2002年12月CD化)。筆名は「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演[[ミュージカル]](2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。
[[2010年]]に生前交流があった[[岡林信康]]が、ひばりが岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。
== 息子・和也 ==
{{see|加藤和也 (ひばりプロダクション)}}
1980年代、少年時代の和也が[[ビートたけし]]の大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。[[とんねるず]]も大ファンだったことから、和也の誕生会にとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。さらに、前述のように『[[とんねるずのオールナイトニッポン]]』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの親交を深めた関係であった。
現在(2018年時点)、ひばりプロダクションの代表取締役社長を和也が務める。
コロッケが、小学生時代の和也に接するひばりのものまねをしたことがあった。
「[[ダウンタウンDX]]」で和也が誕生日に当時ファンだった仮面ライダー全員がひばりの力で家に集合し圧巻だったと語った。
== 主な代表的作品 ==
<!--単なるデータベース的な出演作品リストは不要と考えます。公式サイトに全リストが完備しているので単なる羅列したリストは除去して、主な出演作のみ記載にしています。追加執筆者の方は、このページを読む読者・利用者のことを考えて、データベースリスト記事ではなく、要約して構成された執筆をお願いします。-->
''下記に主な代表作を記述する。詳細は [http://www.misorahibari.com/ 公式サイト] の全映画出演作・ディスコグラフィリストを参照。''
=== ひばり代表曲・シングル売上 ===
==== 2000年5月現在 ====
# [[柔 (美空ひばりの曲)|柔]]([[1964年]]) - 190万枚 ※[[第7回日本レコード大賞]]受賞曲
# [[川の流れのように]]([[1989年]]) - 150万枚 ※[[第31回日本レコード大賞]]特別栄誉歌手賞受賞曲
# [[悲しい酒]]([[1966年]]) - 145万枚
# [[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽]]([[1967年]]) - 140万枚
# [[リンゴ追分]]([[1952年]]) - 130万枚
# [[みだれ髪 (美空ひばりの曲)|みだれ髪]]([[1987年]])
# [[港町十三番地]]([[1957年]])
# [[波止場だよ、お父つぁん]]([[1956年]])
# [[東京キッド]]([[1950年]])
# [[悲しき口笛]]([[1949年]]) - 50万枚<ref>[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1095頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref>
:(シングル売上は再発盤を含む。2000年5月現在、[[日本コロムビア]]調べによる)
:順位・枚数の出典は、「あのころ番付 ひばり『柔』は190万枚」『[[日経プラスワン]]』2000年6月24日付、1頁。
==== 2019年現在 ====
#川の流れのように(1989年) - 205万枚<ref name="daily_190529">[https://www.daily.co.jp/gossip/2019/05/29/0012376302.shtml 美空ひばりさん 生涯売上枚数が1億枚を突破…1位は「川の流れのように」]、デイリースポーツ、2019年5月29日。</ref>
#柔(1964年) - 195万枚<ref name="daily_190529" />
#悲しい酒(1966年) - 155万枚
#真赤な太陽(1967年) - 150万枚
#リンゴ追分(1952年) - 140万枚
#みだれ髪(1987年) - 125万枚
#港町十三番地(1957年) - 120万枚
#東京キッド(1950年) - 120万枚
#悲しき口笛(1949年) - 110万枚
#波止場だよ、お父つぁん(1956年) - 110万枚
:2019年3月集計、日本コロムビアの発表による出荷枚数(概数)。
:順位・枚数の出典は、[https://www.sankei.com/article/20190618-E2DDRFJ3QBMMTCFBSEZQT73HIA/ 美空ひばり没後30年、最も愛される曲は… 上位30曲、命日24日に発売 (1/2ページ)]、産経ニュース、2019.6.18 10:25。
=== 主な出演映画 ===
* [[のど自慢狂時代]](1949年3月28日、[[大映]])デビュー作
* びっくり5人男(ラッキー100万円)(1949年6月7日、[[新東宝]]・吉本映画)
* [[踊る龍宮城]](1949年7月26日、[[松竹]])
* [[あきれた娘たち]](1949年10月10日、新東宝)
* [[悲しき口笛]](1949年10月19日、松竹)
* [[おどろき一家]](1949年12月13日、[[太泉映画]])
* ホームラン狂時代(1949年12月13日、[[東横映画]])
* [[ヒットパレード (1950年の映画)|ヒットパレード]](1950年2月14日、東映)
* [[憧れのハワイ航路]](1950年4月1日、新東宝)
* 放浪の歌姫(1950年4月8日、松竹)
* 続・向う三軒両隣 第三話・第四話(1950年4月9日・5月7日、新東宝)
* エノケンの底抜け大放送(1950年4月23日、新東宝)
* [[青空天使]](1950年5月20日、[[太泉映画]]・東映)
* 南海の情火(1950年6月4日、南海映画<ref>[https://www.japanese-cinema-db.jp/Details?id=14950 日本映画情報システム]</ref>) - のど自慢大会の会場で「[[涙の紅バラ]]」を歌う少女 役 <ref>[https://www.sankei.com/photo/story/news/160614/sty1606140002-n1.html 幻のひばり映画を発見 神戸、スター前夜の姿] 産経フォト 2016年6月14日</ref><ref group="注釈">美空ひばりは当時12歳頃。主人公の男女がのど自慢大会を見物をしていたシーンでおよそ40秒出演していて、「涙の紅バラ」を歌っていた。映画会社が作品完成後倒産してしまい、行方不明であったが、神戸市にある神戸映画資料館が約40年前にフィルムを購入しており、[[文化庁]]の助成により内容を精査していたところ、2016年1月に出演が確認された。</ref>
* 懐しの歌合戦(1950年8月12日、松竹)
* [[東京キッド]](1950年9月9日、松竹) - マリ子 役
* 左近捕物帖 鮮血の手型(1950年12月2日、松竹) - みどり 役
* [[黄金バット|黄金バット 摩天楼の怪人]](1950年12月23日、新映画)
* [[とんぼ返り道中]](1951年1月3日、松竹) - 蝶松 役
* 父恋し(1951年3月9日、松竹) - 恵美子 役
* [[泣きぬれた人形]](1951年5月19日、松竹) - アヤ子 役
* 鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951年7月12日、松竹) - 杉作 役
* 母を慕いて(1951年7月27日、松竹) - 弥生 役
* ひばりの子守唄(1951年9月21日、大映) - ひばり/すみれ 役
* 鞍馬天狗 鞍馬の火祭(1951年10月12日、松竹) - 杉作 役
* [[あの丘越えて]](1951年11月1日、松竹) - 白濱萬里子 役
* [[陽気な渡り鳥]](1952年1月1日、松竹) - 岡本みどり 役
* 鞍馬天狗 天狗廻状(1952年3月27日、松竹) - 杉作 役
* [[月形半平太]](1952年5月29日、松竹) - 舞妓雛菊 役
* 悲しき小鳩(1952年7月15日、松竹) - 小野まり子 役
* [[牛若丸 (1952年の映画)|牛若丸]](1952年9月17日、松竹) - [[源義経|牛若丸]]/桔梗 役
* 二人の瞳(1952年10月23日、大映) - 阿部マリ枝 役
* [[リンゴ園の少女#映画|リンゴ園の少女]](1952年11月20日、松竹) - マルミ 役
* [[ひばり姫初夢道中]](1952年12月29日、松竹) - ひばり姫 役
* 姉妹(1953年4月29日、松竹) - 犬養美鳩 役
* 陽気な天使(1953年5月27日、松竹) - ゆかり 役
* ひばり捕物帖 唄祭り八百八町(1953年7月14日、松竹) - おみよ 役
* 花形歌手 七つの歌(1953年7月14日、松竹)
* 悲しき瞳(1953年8月19日、松竹) - 田辺瞳 役
* 山を守る兄弟(1953年10月27日、松竹) - 玉置大三郎 役
* [[お嬢さん社長]](1953年12月29日、松竹) - 小原マドカ 役
* [[ひよどり草紙]](1954年2月10日、松竹) - 玉木早苗 役
* [[伊豆の踊子]](1954年3月31日、松竹) - 踊子薫 役
* 唄しぐれ おしどり若衆(1954年5月3日、東映) - 雪路 役
* [[青春ロマンスシート 青草に坐す]](1954年6月8日、松竹) - 新庄翠 役
* [[びっくり五十三次]](1954年8月11日、松竹) - ちゃっかりお夏 役
* 八百屋お七 ふり袖月夜(1954年9月7日、東映) - [[八百屋お七]] 役
* 若き日は悲し(1954年9月29日、松竹) - 園田恵子/美空ひばり 役
* [[歌ごよみ お夏清十郎|歌ごよみお夏清十郎]](1954年11月1日、新東宝) - お夏 役
* [[七変化狸御殿]](1954年12月29日、松竹) - お花 役
* 大江戸千両囃子(1955年1月9日、東映) - 中村小春 役
* 水郷哀話 娘船頭さん(1955年4月10日、松竹) - お光 役
* 青春航路 海の若人(1955年4月19日、東映) - 宮崎雪枝 役
* 歌まつり 満月狸合戦(1955年5月1日、新東宝) - お春/お菊 役
* ふり袖侠艶録(1955年7月5日、東映) - お初 役
* [[たけくらべ (1955年の映画)|たけくらべ]](1955年8月28日、新東宝) - 美登利 役
* [[ジャンケン娘]](1955年11月1日、[[東宝]]) - 阿佐見ルリ 役
* ふり袖小天狗(1955年11月22日、東映) - お澄/小夜姫 役
* 笛吹若武者(1955年12月4日、東映) - 玉織姫 役
* 唄祭り江戸っ子金さん捕物帖(1955年12月27日、新芸プロ・新東宝) - 春駒太夫 役
* 力道山物語 怒濤の男(1955年12月27日、[[日活]]) - 美空ひばり 役
* 旗本退屈男 謎の決闘状(1955年12月28日、東映) - 美保 役
* 歌え!青春 はりきり娘(1955年12月28日、東宝) - 美空ひばり/野溝トミコ 役
* 銭形平次捕物控 死美人風呂(1956年2月11日、大映) - お鶴 役
* おしどり囃子(1956年5月11日、東映) - おたね 役
* [[恋すがた狐御殿]](1956年5月17日、宝塚映画) - まろや/ともね 役
* 宝島遠征(1956年7月20日、東映) - 娘人形師/桃太郎 役
* [[ロマンス娘]](1956年8月15日、東宝) - ルミ子 役
* ふり袖太平記(1956年10月9日、東映) - 小浪 役
* [[ふり袖捕物帖 若衆変化]](1956年11月7日、東映) - お七/妙姫 役
* 鬼姫競艶録(1956年12月18日、新東宝) - 綾姫 役
* 銭形平次捕物控 まだら蛇(1957年1月3日、大映) - お吉 役
* 大江戸喧嘩纏(1957年1月9日、東映) - お雪 役
* 旗本退屈男 謎の紅蓮塔(1957年1月15日、東映) - 千代乃 役
* ふり袖捕物帖 ちりめん駕篭(1957年3月20日、東映) - お七 役
* ロマンス誕生(1957年5月15日、宝塚映画) - 美空ひばり 役
* おしどり喧嘩笠(1957年5月22日、新芸術プロ) - お才 役
* 怪談番町皿屋敷(1957年7月13日、東映) - お菊 役
* [[大当り三色娘]](1957年7月13日、東宝) - 根室エリ子 役
* 青い海原(1957年7月30日、東映) - はるみ 役
* ふり袖太鼓(1957年9月1日、東映) - 百合姫 役
* [[ひばりの三役 競艶雪之丞変化]](1957年11月17日、新東宝) - 雪之丞/闇太郎/お園 役
* 娘十八御意見無用(1958年1月3日、東映) - 小林ひとみ 役
* おしどり駕籠(1958年1月15日、東映) - 小蝶 役
* [[大当り狸御殿]](1958年2月26日、宝塚映画) - 若君狸吉郎 役
* [[丹下左膳]](1958年3月18日、東映京都) - 萩乃 役
* [[ひばり捕物帖 かんざし小判]](1958年4月1日、東映) - 阿部川町のお七/妙姫 役
* 恋愛自由型(1958年4月30日、東映) - 小村登紀 役
* 花笠若衆(1958年6月3日、東映) - 江戸家吉三/千代姫 役
* 女ざむらい只今参上(1958年6月29日、東映) - 小田屋のお春(春之輔) 役
* おこんの初恋 花嫁七変化(1958年7月6日、東映) - おこん/お菊 役
* ひばりの花形探偵合戦(1958年8月6日、東映) - 杉原由起子 役
* [[希望の乙女]](1958年9月10日、東映) - 美原さゆり 役
* 隠密七生記(1958年10月1日、東映) - 墨江 役
* ひばり捕物帖 自雷也小判(1958年11月19日、東映) - 阿部川町のお七/妙姫 役
*娘の中の娘(1958年12月9日、東映) - 西方桂子 役
* 唄祭りかんざし纏(1958年12月27日、東映) - お春 役
* いろは若衆 ふり袖ざくら(1959年1月9日、東映) - 菊太郎 役
* [[忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻]](1959年1月15日、東映) - おたか 役
* [[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]](1959年2月4日、東映) - 小染 役
* 東京べらんめえ娘(1959年3月17日、東映) - 太刀川紀代子 役
* 孔雀城の花嫁(1959年4月8日、東映) - 和姫 役
* [[紅だすき喧嘩状]](1959年4月15日、東映) - 幸 役
* お染久松 そよ風日傘(1959年7月7日、東映) - お染/お光 役
* [[水戸黄門 天下の副将軍]](1959年7月12日、東映) 鞆江 役
* [[江戸っ子判官とふり袖小僧]](1959年7月26日、東映) - 振袖小僧おえん 役
* [[血斗水滸伝 怒濤の対決]](1959年8月9日、東映) - 八千草 役
* いろは若衆 花駕籠峠(1959年9月6日、東映) - お雪(雪太郎) 役
* べらんめえ探偵娘(1959年9月23日、東映) - 相川恵美子 役
* ひばり捕物帖 ふり袖小判(1959年11月15日、東映) - お七/妙姫 役
* べらんめえ芸者(1959年12月6日、東映) - 小春 役
* ひばり十八番 弁天小僧(1960年1月3日、東映) - 弁天小僧菊之助 役
* 殿さま弥次喜多(1960年1月15日、東映) - お君 役
* 続べらんめえ芸者(1960年3月1日、東映) - 小花 役
* ひばりの森の石松(1960年3月29日、東映) - [[森の石松]]/お君 役
* ひばり十八番 お嬢吉三(1960年4月26日、東映) - お嬢吉三 役
* ひばり捕物帖 折鶴駕籠(1960年7月6日、東映) - お七/妙姫 役
* 続々べらんめえ芸者(1960年8月7日、東映) - 松の家小春 役
* 風流深川唄(1960年9月13日、東映) - おせつ 役
* 庄助武勇伝 会津磐梯山(1960年10月9日、東映) - お光 役
* 天竜母恋い笠(1960年10月23日、東映) - お春/新太郎 役
* 孤剣は折れず 月影一刀流(1960年12月11日、東映) - 加寿姫 役
* べらんめえ芸者罷り通る(1961年1月9日、東映) - 小春 役
* 花かご道中(1961年1月21日、東映) - お弥重 役
* 緋ざくら小天狗(1961年4月25日、東映) - お俊 役
* [[白馬城の花嫁]](1961年5月17日、東映) - お君 役
* 魚河岸の女石松(1961年5月31日、ニュー東映) - 加納佳子 役
* ひばり民謡の旅 べらんめえ芸者佐渡へ行く(1961年8月5日、ニュー東映) - 小春 役
* 幽霊島の掟(1961年8月13日、東映) - 宋桃蘭 役
* 花のお江戸のやくざ姫(1961年9月13日、東映) - 月姫 役
* 風の野郎と二人づれ(1961年10月7日、ニュー東映) - 飯倉佐代美 役
* べらんめえ中乗りさん(1961年10月22日、ニュー東映) - 佐渡伸子 役
* 銀座の旅笠(1961年11月22日、ニュー東映) - 飯倉佐代美 役
* ひばりのおしゃれ狂女(1961年12月15日、東映) - お美津 役
* [[ひばり・チエミの弥次喜多道中]](1962年1月3日、東映) - お君 役
* べらんめえ芸者と大阪娘(1962年2月7日、東映) - 小春/真弓 役
* 千姫と秀頼(1962年3月25日、東映) - [[千姫]] 役
* 民謡の旅桜島 おてもやん(1962年5月1日、東映) - 花園ゆめみ 役
* ひばりの母恋いギター(1962年8月12日、東映) - 津山君江 役
* [[三百六十五夜]](1962年9月9日、東映) - 小牧蘭子 役
* [[ひばりの佐渡情話]](1962年10月6日、東映) - 佐藤君江 役
* ひばりの花笠道中(1962年10月27日、東映) - 賽の目新太/お君 役
* お坊主天狗(1962年11月2日、東映) - 小染 役
* 勢揃い東海道(1963年1月3日、東映) - お新 役
* 旗本退屈男 謎の竜神岬(1963年1月9日、東映) - 季芳蘭 役
* [[ひばり・チエミのおしどり千両傘]](1963年1月9日、東映) - 貴美姫 役
* べらんめえ芸者と丁稚社長(1963年1月23日、東映) - 松廼家小春 役
* 夜霧の上州路(1963年4月6日、東映) - お絹 役
* 民謡の旅 秋田おばこ(1963年6月9日、東映) - 琴川原雪子 役
* 残月大川流し(1963年9月8日、東映) - 隼のおぎん 役
* おれは侍だ 命を賭ける三人(1963年9月14日、東映) - 愁月尼 役
* [[ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば]](1964年5月16日、東宝) - 美川喜美枝 役
* 新蛇姫様 お島千太郎(1965年9月18日、東映) - お島/琴姫 役
* 小判鮫 お役者仁義(1966年1月26日、東映) - 中村雪之丞/軽業お七 役
* のれん一代 女侠(1966年4月13日、東映) - 堀江美禰 役
* [[祇園祭 (1968年の映画)|祇園祭]](1968年11月23日、松竹) - 町衆 役
* ひばり・橋の花と喧嘩(1969年7月5日、松竹) - 寺田夏子/寺田春子/笹川お辰 役
* 美空ひばり・森進一の花と涙と炎(1970年1月15日、松竹) - 藤花霞 役
* 花の不死鳥(1970年7月1日、松竹) - 瀬戸香 役
* ひばりのすべて(1971年11月20日、東宝・[[日本コロムビア]])
* 女の花道(1971年11月20日、東宝) - おきみ 役
* なつかしの映画歌謡史(1974年6月22日、松竹)
など多数。
== ディスコグラフィー ==
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center"
|-
! !! 発売日 !! タイトル
!型番!! 備考
|-
! 1
| 1949年8月10日 || '''[[河童ブギウギ]]'''
|A570|| A面は[[霧島昇]]『楽しいささやき』
|-
! 2
| 1949年9月10日 || '''[[悲しき口笛]]'''
|A622|| B面は池眞理子『ブギにうかれて』
|-
! 3
| 1950年3月20日 || '''涙の紅バラ/私のボーイフレンド'''
|A736||
|-
! 4
| 1950年5月1日 || '''青空天使/ひばりが唄えば'''
|A814||
|-
! 5
| 1950年6月15日 || '''白百合の歌'''
|A823||B面は高峰麻梨子『紫色の湖』
|-
! 6
| 1950年6月15日 || '''橋のたもとで'''
|A826|| A面は池眞理子『スヰング娘』
|-
! 7
| 1950年7月20日 || '''[[東京キッド|東京キッド/浮世航路]]'''
|A857||
|-
! 8
| 1950年9月20日 || '''裏町パラダイス/拳銃ブギ'''
|A943||
|-
! 9
| 1950年10月15日 || '''夜霧ふたたび'''
|A917|| B面は黒木曜子『哀愁のタンゴ』
|-
! 10
| 1950年11月10日 || '''ちゃっかり節/誰か忘れん'''
|A972||
|-
! 11
| 1950年12月1日 || '''越後獅子の唄/あきれたブギ'''
|A1000||
|-
! 12
| 1951年2月15日 || '''私は街の子/ひばりの花売娘'''
|A1077||
|-
! 13
| 1951年2月15日 || '''ピアノとヴァイオリン/父に捧ぐる唄'''
|A1317||
|-
! 14
| 1951年4月1日 || '''銀ブラ娘'''
|A1126|| B面は藤山一郎・二葉あき子『銀座コンガ』
|-
! 15
| 1951年4月25日 || '''泥んこブギ/愛の明星'''
|A1127||映画『[[泣きぬれた人形]]』主題歌
|-
! 16
| 1951年6月15日 || '''角兵衛獅子の唄/京の春雨'''
|A1166||
|-
! 17
| 1951年7月1日 || '''裏町のカナリヤ/街角の風船屋'''
|A1136||
|-
! 18
| 1951年7月10日 || '''母を慕いて (祇園人形)/京小唄'''
|A1172|| [[近江俊郎]]とデュエット
|-
! 19
| 1951年8月1日 || '''陽気なボンボン売り/私は街のメッセンジャー'''
|A1155||
|-
! 20
| 1951年8月20日 || '''みなし子の歌'''
|A1173|| B面は月丘夢路『戀のサンバ』
|-
! 21
| 1951年9月10日 || '''父恋し母恋し/おさげとまきげ'''
|A1251||
|-
! 22
| 1951年10月10日 || '''頬寄せて'''
|A1260|| [[鶴田浩二]]とデュエット。B面は鶴田浩二『花薫る東京』
|-
! 23
| 1951年10月25日 || '''あの丘越えて/街に灯がとぼる頃'''
|A1280||
|-
! 24
| 1951年10月25日 || '''夢の花かげ'''
|A1281|| [[鶴田浩二]]とデュエット。A面は鶴田浩二『思ひ出せないことばかり』
|-
! 25
| 1951年12月25日 || '''陽気な渡り鳥/涙のはぐれ鳥'''
|A1301||
|-
! 26
| 1952年3月10日 || '''いで湯の灯'''
|A1344|| B面は鶴田六郎・久保幸江『湯の町小唄』
|-
! 27
| 1952年3月20日 || '''旅の角兵衛獅子/みなしごの夢'''
|A1380||
|-
! 28
| 1952年4月20日 || '''牛若丸/涙の白桔梗'''
|A1390||
|-
! 29
| 1952年5月1日 || '''[[リンゴ園の少女]]/[[リンゴ追分]]'''
|A1420||
|-
! 30
| 1952年5月10日 || '''月形半平太の唄/祇園夜曲'''
|A1414||
|-
! 31
| 1952年7月1日 || '''悲しき小鳩/旅のサーカス'''
|A1450||
|-
! 32
| 1952年8月15日 || '''[[お祭りマンボ|お祭りマンボ/月の幌馬車]]'''
|A1490||
|-
! 33
| 1952年9月10日 || '''こだまは歌うよ/晩香玉 (ワンシャンユイ) の花咲く宵'''
|A1500||
|-
! 34
| 1952年10月10日 || '''二人の瞳/夢は天国'''
|A1520||
|-
! 35
| 1952年10月15日 || '''バイ・バイ・ハワイ/ふるさとの瞳'''
|A1498||
|-
! 36
| 1952年11月1日 || '''びっこの七面鳥/ひとりぼっちのクリスマス'''
|A1537||
|-
! 37
| 1952年12月15日 || '''初夢道中/乙女旅'''
|A1591||
|-
! 38
| 1953年1月15日 || '''[[馬っ子先生/津軽のふるさと|馬っこ先生/津軽のふるさと]]'''
|A1573||
|-
! 39
| 1953年2月15日 || '''チューチューマンボ/バラ色の船'''
|A1589||
|-
! 40
| 1953年3月5日 || '''歌がはづめば/乙女ごころの唄'''
|A1641||
|-
! 41
| 1953年3月5日 || '''春のサンバ/私はシンデレラ'''
|A1642||
|-
! 42
| 1953年4月5日 || '''流れのギター姉妹/私の誕生日'''
|A1643||
|-
! 43
| 1953年4月5日 || '''バラ色の乙女たち/すずらん峠'''
|A1650||
|-
! 44
| 1953年5月25日 || '''小さな水溜り/パパは話がわかる'''
|A1695||
|-
! 45
| 1953年6月1日 || '''唄祭り八百八丁/お小姓すがた'''
|A1696||
|-
! 46
| 1953年6月1日 || '''上海/[[エル・チョクロ]]'''
|JL41||
|-
! 47
| 1953年6月1日 || '''[[アゲイン]]'''
|JL42||B面はジョージ島袋『第三の男』
|-
! 48
| 1953年6月15日 || '''赤い花束一人で抱いて/誰でしょう'''
|A1684||
|-
! 49
| 1953年8月10日 || '''チャルメラそば屋/ゆうべはどうしたの'''
|JL50||
|-
! 50
| 1953年8月10日 || '''シャボン玉の乙女/悲しき瞳'''
|A1736||
|-
! 51
| 1953年9月15日 || '''山葡萄みのる頃/山を守る兄弟'''
|A1777||
|-
! 52
| 1953年11月15日 || '''タンゴに二人を/[[スターダスト (曲)|スターダスト]]'''
|JL65||
|-
! 53
| 1953年12月1日 || '''[[ジングルベル|ジングル・ベル]]/クリスマス・ワルツ'''
|JL68||
|-
! 54
| 1953年12月1日 || '''若い歌声/悲しきおもかげ'''
|A1819||
|-
! 55
| 1953年12月10日 || '''[[会津磐梯山 (民謡)|会津磐梯山]]'''
|A1820||A面は神楽坂はん子『そうらん節』
|-
!
|1953年12月10日
|[[ちゃっきり節|'''茶切節''']]
|A1823
|B面は神楽坂玉枝『草津節』
|-
! 56
| 1953年12月10日 || '''可愛いティティナ/たゞ何となく'''
|JL69||
|-
! 57
| 1954年1月15日 || '''楽しい日曜日/星影の愁い'''
|A1828||
|-
! 58
| 1954年1月20日 || '''ひよどり草紙/鳥笛吹けば'''
|A1857||
|-
! 59
| 1954年3月1日 || '''江戸ッ子マンボ/ふるさとの月'''
|A1903||
|-
! 60
| 1954年3月15日 || '''雨によせて/娘とリボン'''
|JL82||
|-
! 61
| 1954年3月20日 || '''[[伊豆の踊り子]]/いでゆの里'''
|A1920||
|-
! 62
| 1954年5月1日 || '''あまんじゃくの歌/旅路のはて'''
|A1963||
|-
! 63
| 1954年5月15日 || '''[[ひばりのマドロスさん|ひばりのマドロスさん/さよなら波止場]]'''
|A1945|| [[第5回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 64
| 1954年5月15日 || '''花のオランダ船/母恋い扇'''
|A2033||
|-
! 65
| 1954年6月1日 || '''お針娘ミミーの日曜日/ひばりの冒険'''
|A2035||
|-
! 66
| 1954年6月15日 || '''日和下駄/心ブラお嬢さん'''
|A1967||
|-
! 67
| 1954年7月10日 || '''牧場は牛ばかり/私のスヰートホーム'''
|JL99||
|-
! 68
| 1954年7月20日 || '''旅のチャリンコ娘'''
|A2059|| A面は高田浩吉『五十三次待つたなし』
|-
! 69
| 1954年8月1日 || '''明玉夕玉/珠姫物語'''
|A2102||
|-
! 70
| 1954年8月20日 || '''八百屋お七/恋の折鶴'''
|A2103||
|-
! 71
| 1954年9月15日 || '''ブラジルの花嫁さん/ふるさとの路'''
|A2130||
|-
! 72
| 1954年11月1日 || '''お夏清十郎/おしどり花笠'''
|A2156||
|-
! 73
| 1954年12月10日 || '''スッチョン節/むすめ島唄'''
|A2163||
|-
! 74
| 1954年12月10日 || '''陽気なバイヨン/ひとりぼっちのお月様'''
|A2188||
|-
! 75
| 1955年1月15日 || '''花かるたいろは道中/波の子守唄'''
|A2193||
|-
! 76
| 1955年1月20日 || '''千両舞すがた/お役者道中'''
|A2213||
|-
! 77
| 1955年3月10日 || '''娘船頭さん/あやめ踊り'''
|A2227||
|-
! 78
| 1955年3月15日 || '''湯島月夜'''
|A2235|| B面は霧島昇『さすらい役者』
|-
! 79
| 1955年4月15日 || '''あの日の船はもう来ない/さすらいの雨'''
|A2254||
|-
! 80
| 1955年4月15日 || '''[[ラ・ヴィ・アン・ローズ|薔薇色の人生]]/[[A列車で行こう (ジャズ)|A列車で行こう]]'''
|JL131||
|-
! 81
| 1955年5月10日 || '''明るい唄声/初恋の小径'''
|A2304||
|-
! 82
| 1955年5月15日 || '''ひばりの三度笠/花の投げ節'''
|A2273||
|-
! 83
| 1955年6月10日 || '''むすめ旅笠/お江戸手まり唄'''
|A2302||
|-
! 84
| 1955年7月15日 || '''エスキモーの娘/灰色のワルツ'''
|A2310||
|-
! 85
| 1955年8月1日 || '''越後獅子/娘道成寺'''
|C319||
|-
! 86
| 1955年8月10日 || '''我が家の灯'''
|A2364|| B面は伊藤久男『海の歌』
|-
! 87
| 1955年8月15日 || '''山の小駅/風が泣いてる'''
|A2333||
|-
! 88
| 1955年9月20日 || '''恋の曾根崎/お染久松'''
|A2388||
|-
! 89
| 1955年11月1日 || '''素適なランデブー/誰も知らない'''
|A2408||
|-
! 90
| 1955年11月10日 || '''あなたと旅をすれば/小夜姫旅姿'''
|A2409||
|-
! 91
| 1955年11月15日 || '''わたしゃ糸屋の器量よし/娘木遣くづし'''
|A2390||
|-
! 92
| 1955年11月20日 || '''花売馬車'''
| A2431||B面は伊藤久男『ノサップ岬に立ちて』
|-
! 93
| 1955年12月1日 || '''青葉の笛/扇の舞'''
|A2434||
|-
! 94
| 1956年1月5日 || '''ひばりのチャチャチャ/ペンキ塗りたて'''
|A2454||
|-
! 93
| 1956年1月10日 || '''怒濤の男/栄冠目指して'''
|A2433||
|-
! 94
| 1956年2月1日 || '''旅の軽業娘/お江戸八丁堀'''
|A2478||
|-
! 95
| 1956年4月15日 || '''ひばりの船唄/さすらいのチャング'''
|A2505||
|-
! 96
| 1956年4月20日 || '''おしどり囃子/花見獅子'''
|A2545||
|-
! 97
| 1956年5月1日 || '''狐と笛吹き/春方様まいる'''
|A2546||
|-
! 98
| 1956年5月1日 || '''愛のタンゴ/愛さないなら棄てて'''
| JL173||
|-
! 99
| 1956年6月15日 || '''ワンワン物語/哀愁のサンバ'''
|A2552||
|-
! 100
| 1956年8月1日 || '''桃太郎行進曲/桃の祭り'''
|A2600||
|-
! 101
| 1956年8月1日 || '''アルプスの娘たち/やくざ若衆祭り唄'''
|A2601||
|-
! 102
| 1956年9月15日 || '''泣き虫ルムバ/青春は花の色'''
|A2607||
|-
! 103
| 1956年10月1日 || '''かもめ白波/ふり袖太平記'''
|A2644||
|-
! 104
| 1956年10月15日 || '''君はマドロス海つばめ/港は別れてゆくところ'''
|A2626||
|-
! 105
| 1956年11月1日 || '''花は七いろ/若衆変化'''
|A2648||
|-
! 106
| 1956年11月15日 || '''[[波止場だよ、お父つぁん|波止場だよ、お父つぁん/初恋い小鳩]]'''
|A2636||
|-
! 107
| 1956年12月10日 || '''明日は日本晴れ/尾張の馬子唄'''
|A2666||
|-
! 108
| 1957年1月5日 || '''むすめ木遣ぶし/喧嘩纏'''
|A2668||
|-
! 1091
| 1957年1月15日 || '''おばこ吹雪/ジンタ悲しや'''
|A2673||
|-
! 110
| 1957年2月15日 || '''若衆船/十六夜ちどり'''
|A2695||
|-
!
|1957年2月15日
|'''君はマドロス海つばめ/波止場だよ、お父つぁん'''
|SA-23
|再発売。
|-
! 111
| 1957年3月10日 || '''[[港町十三番地|港町十三番地/伊豆の乗合バス]]'''
|A2750||
|-
! 112
| 1957年3月15日 || '''お祭りマンボ/ひばりの花売娘'''
|SA-30|| 再発売。
|-
! 113
| 1957年4月1日 || '''花見街道/お江戸恋しや'''
|A2729||
|-
! 114
| 1957年5月10日 || '''浜っ子マドロス/みなと踊り'''
|A2802||
|-
! 115
| 1957年5月15日 || '''けたぐり音頭/むすめ旅唄'''
|A2740||
|-
! 116
| 1957年6月15日 || '''波止場小僧/夕やけ峠'''
|A2800||
|-
! 117
| 1957年6月15日 || '''港町十三番地/伊豆の乗合バス'''
|SA-43|| 再発売。
|-
! 118
| 1957年7月1日 || '''長崎の蝶々さん/星は知っている'''
|A2824|| [[第8回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 119
| 1957年7月20日 || '''青い海原/鴎の子守唄'''
|A2846||
|-
! 120
| 1957年8月1日 || '''港町さようなら/それはナイショ'''
|HBー1001||
|-
! 121
| 1957年8月15日 || '''波止場小僧/夕やけ峠'''
|SA-49|| 再発売。
|-
! 122
| 1957年9月1日 || '''青春の恋人たち/別れのトロイカ'''
|HB-1002||
|-
! 123
| 1957年9月15日 || '''月夜笛/山の娘'''
|A2871||
|-
! 124
| 1957年10月15日 || '''長崎の蝶々さん/星は知っている'''
|SA-60|| 再発売。
|-
! 125
| 1957年11月1日 || '''雪之丞変化/江戸の闇太郎'''
|A2904||
|-
! 126
| 1957年12月10日 || '''銀座四丁目/叱らないで'''
|A2905||
|-
! 127
| 1957年12月10日 || '''浜っ子マドロス/娘船頭さん'''
|SA-72|| 再発売。
|-
! 128
| 1957年12月10日 || '''若い季節/誰かしら'''
|A2930||
|-
! 129
| 1958年2月15日 || '''ご機嫌ようマドロスさん/パパの故郷'''
|A2967||
|-
! 130
| 1958年2月15日 || '''初恋い小鳩/港は別れてゆくところ'''
| SA-81||再発売。
|-
! 131
| 1958年3月15日 || '''三味線マドロス/急行青森行き'''
| A2984||
|-
! 132
| 1958年3月20日 || '''[[都々逸]]([[酒は涙か溜息か]]入り)/槍さび'''
| A3011||
|-
! 133
| 1958年3月20日 || '''さのさ節/縁かいな'''
| A3012||
|-
! 134
| 1958年4月1日 || '''かんざし小判/初恋い柳'''
| A3007||
|-
! 135
| 1958年4月15日 || '''雪之丞変化/江戸の闇太郎'''
| SA-85|| 再発売。
|-
! 136
| 1958年4月25日 || '''恋愛は自由です/愛の星かげ'''
| A3027||
|-
! 137
| 1958年5月15日 || '''菊五郎格子/おかる道ゆき'''
| A3014||
|-
! 138
| 1958年6月1日 || '''ロカビリー剣法/花笠道中'''
| A3037、SA-97||
|-
! 139
| 1958年6月15日 || '''三味線マドロス/急行青森行き'''
| SA-95|| 再発売。
|-
! 140
| 1958年7月10日 || '''女ざむらい只今参上/男はどうして威張るのか'''
| A3055、SA-107||
|-
! 141
| 1958年8月1日 || '''白いランチで十四ノット/風に唄えば'''
| A3076|| [[第9回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 142
| 1958年8月15日 || '''気まぐれ東京っ子/悲しい事は忘れましょう'''
| A3056||
|-
! 143
| 1958年8月15日 || '''菊五郎格子/おかる道ゆき'''
| SA-108|| 再発売。
|-
! 144
| 1958年9月1日 || '''歌声は虹の彼方へ/アンデスの山高帽子'''
| A3090、SA-126||
|-
! 145
| 1958年10月10日 || '''ら・あさくさ'''
| A3100||A面は島倉千代子・神戸一郎・浅草ゆめ子『浅草おどり』
|-
! 146
| 1958年11月10日 || '''江戸っ子寿司/みなし子つばめ'''
| SA-146||
|-
! 147
| 1958年12月10日 || '''江戸っ子寿司/みなし子つばめ'''
| A3121|| 再発売。
|-
! 148
| 1958年12月10日 || '''春雨/深川'''
| SA-3051||
|-
! 149
| 1958年12月10日 || '''奴さん/かっぽれ'''
| SA-3054||
|-
! 150
| 1959年1月19日 || '''ふり袖ざくら/いろは若衆'''
| A3145||
|-
! 151
| 1959年3月15日 || '''東京タワー/太陽は今日も輝く'''
| A3161||
|-
! 152
| 1959年3月20日 || '''大川ながし/野菊むすめ'''
| SA-173||
|-
! 153
| 1959年4月15日 || '''若い海若い船/波止場へいこうよ'''
| A-3160、SA-174||
|-
! 154
| 1959年5月15日 || '''泣き虫キッド/口笛の聞こえる波止場'''
| SA-184||
|-
! 155
| 1959年6月15日 || '''お姉さんは恋人のよう/失恋もまた楽し'''
| SA-209|| [[かとう哲也|小野透]]とデュエット
|-
! 156
| 1959年7月1日 || '''そよ風日傘/ルーラ・ルーラ・ルー'''
| A3179、SA-215||
|-
! 157
| 1959年7月15日 || '''危険な恋人'''
| A3173、SA-217|| B面は[[かとう哲也|小野透]]『ロード・ショウの夜』
|-
! 158
| 1959年7月20日 || '''ふり袖小僧/星空道中'''
| A3183、SA-200||
|-
! 159
| 1959年8月15日 || '''東京も今夜は雨'''
| A3180、SA-229||B面は小野透『宝石』
|-
! 160
| 1959年8月25日 || '''云わぬが花/大川祭り囃子'''
| A3191、SA-249|| A面は[[香山武彦|花房錦一]]とデュエット
|-
! 161
| 1959年10月1日 || '''恋を待つならバス・ストップ'''
| SA-266|| [[かとう哲也|小野透]]とデュエット。B面は小野透『若い仲間は夜更けまで』
|-
! 162
| 1959年11月15日 || '''故郷のないつばめさん/ギターよ泣かせないで'''
| SA-272||
|-
! 163
| 1959年12月1日 || '''つばなの小径'''
| SA-297||B面は島倉千代子『白い小ゆびの歌』
|-
! 164
| 1959年12月10日 || '''べらんめえ芸者/柳橋しぐれ'''
| SA-299||
|-
! 165
| 1959年12月25日 || '''御存じ弁天小僧/鳶ヒョロヒョロ燕がスイ'''
| SA-310|| [[第10回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 166
| 1960年3月10日 || '''さのさブルース/ロカビリー芸者'''
| SA-349||
|-
! 167
| 1960年3月15日 || '''天竜母恋い笠/しゃんこ山唄'''
| A3220、SA-325||
|-
! 168
| 1960年3月15日 || '''アロハの港'''
| SA-336||B面は小野透『俺らの散歩道』
|-
! 169
| 1960年4月15日 || '''初恋マドロス/ヨコハマ物語'''
| SA-364||
|-
! 170
| 1960年7月1日 || '''[[哀愁波止場|哀愁波止場/ひばりの船長さん]]'''
| SA-416|| [[第11回NHK紅白歌合戦]]披露曲。[[第2回日本レコード大賞]]・歌唱賞受賞曲。
|-
! 171
| 1960年9月1日 || '''泣き笑いのマンボ/かもめとそよ風'''
| SA-458|| 泣き笑いのマンボはひばりの作詞<ref>[https://www.uta-net.com/song/165735/ 泣き笑いのマンボ 歌詞] 参照。</ref>。
|-
! 172
| 1960年10月15日 || '''素敵な今夜/落葉'''
| SA-462||
|-
! 173
| 1960年11月5日 || '''東京は恋する街/東京デイト'''
| SA-490||
|-
! 174
| 1961年2月5日 || '''すたこらマンボ'''
| SA-534||B面は小野透『馬鹿は死ななきゃなおらねえ』
|-
! 175
| 1961年2月20日 || '''追分道中/絵日傘剣法'''
| SA-518||
|-
! 176
| 1961年4月5日 || '''[[ひばりのドドンパ/車屋さん]]'''
| SA-596||
|-
! 177
| 1961年5月20日 || '''鼻唄マドロス/小さな波止場町'''
| SA-604||
|-
! 178
| 1961年6月20日 || '''祭り花笠喧嘩旅/気まぐれ風来坊'''
| SA-637||
|-
! 179
| 1961年8月20日 || '''テンガロン・ハット/ラースト・ナイト'''
| SA-674||
|-
! 180
| 1961年10月20日 || '''ひばりの木曽節/裸念仏ぁ岩の上'''
| SA-734||
|-
! 181
| 1961年12月10日 || '''ひばりの渡り鳥だよ/旅唄ざんげ'''
| SA-755|| [[第12回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 182
| 1961年12月20日 || '''お嬢さんとこいさん/恋は不思議なもの'''
| SA-789||
|-
! 183
| 1962年3月5日 || '''母さんギター/瀬戸の通い船'''
| SA-826||
|-
! 184
| 1962年4月5日 || '''ひばりのツイスト/ブルー・ツイスト'''
| SA-854||
|-
! 185
| 1962年4月20日 || '''ギター追分/リンゴ郵便'''
| SA-836||
|-
! 186
| 1962年5月20日 || '''[[愛の讃歌]]/しびれちゃうの'''
| SA-861||
|-
! 187
| 1962年6月20日 || '''サノバイバイ/花の都をあきらめてー[[船頭小唄]]入りー'''
| SA-879||
|-
! 188
| 1962年6月20日 || '''星影の浜辺/チュッチュッチュッの浜辺'''
| SA-911||
|-
! 189
| 1962年9月5日 || '''[[恋の曼珠沙華|恋の曼珠沙華/三百六十五夜]]'''
| SA-965|| [[第4回日本レコード大賞]]・編曲賞受賞曲。A面:[[二葉あき子]]、B面:[[霧島昇]]・[[松原操]]のカバー
|-
! 190
| 1962年10月5日 || '''[[ひばりの佐渡情話|ひばりの佐渡情話/慕情の桟橋]]'''
| SA-1002|| [[第13回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 191
| 1962年10月20日 || '''[[ロマンチックなキューピット|ロマンチックなキューピット/田舎の子]]'''
| SA-971|| いずれの曲もひばりの作詞、作曲(本名の加藤和枝<ref>[https://www.uta-net.com/song/73126/ ロマンチックなキューピット 歌詞] 参照。</ref><ref>[https://www.uta-net.com/song/208722/ 田舎の子 歌詞] 参照。</ref> 名義)。
|-
! 192
| 1962年11月5日 || '''初雁道中/まかしとき'''
| SA-1004|| B面:[[香山武彦|花房錦一]]とデュエット
|-
! 193
| 1962年11月20日 || '''ほんとかしらほんとかしら/わが母の姿は'''
| SA-1000、SAS-1||
|-
! 194
| 1962年12月10日 || '''白い野菊と三度笠/雨の隅田河岸'''
| SA-1018||
|-
! 195
| 1963年4月5日 || '''哀愁出船/愛は消えることなく'''
| SA-1103|| [[第14回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 196
| 1963年4月20日 || '''リンゴ追分/ブラウスとワイシャツの恋'''
| SAS-4||
|-
! 197
| 1963年6月20日 || '''あゝ恋人よ/会う'''
| SAS-25||
|-
! 198
| 1963年8月20日 || '''港は涙のすてどころ/恋よいずこに'''
| SAS-65||
|-
! 199
| 1963年9月20日 || '''波止場の道を歩こうよ/こよい巷に降る雨は'''
| SAS-98||
|-
! 200
| 1963年10月20日 || '''[[蘇州夜曲]]/[[城ヶ島|城ヶ島の雨]]'''
| SAS-112|| A面:[[渡辺はま子]]・[[霧島昇]]のカバー、B面:唱歌
|-
! 201
| 1963年11月20日 || '''ポトマックの桜/二人の木陰'''
| SAS-138||
|-
! 203
| 1963年12月1日 || '''関東春雨傘/だから涙はみせないよ'''
| CW-1|| 日本クラウンから発売
|-
! 202
| 1963年12月10日 || '''傷心/君去りし夜のタンゴ'''
| SAS-153||
|-
! 204
| 1964年1月20日 || '''旅の若者/小さな夢'''
| SAS-175||
|-
! 205
| 1964年3月20日 || '''遊侠街道/海よさよなら'''
| SAS-204||
|-
! 206
| 1964年5月20日 || '''闇太郎ざんげ/泣くな鳩笛'''
| SAS-235||
|-
! 207
| 1964年6月20日 || '''お久し振りネ マドロスさん/港は心のふるさと'''
| SAS-249||
|-
! 208
| 1964年7月5日 || '''[[髪 (美空ひばりの曲)|髪/小さなクラブ]]'''
| SAS-292||
|-
! 209
| 1964年9月5日 || '''[[笑顔と涙の遠い道|笑顔と涙の遠い道/さよならの向うに]]'''
| SAS-347||
|-
! 210
| 1964年11月20日 || '''[[支那の夜 (曲)|支那の夜]]/香港セレナーデ'''
|SAS-356
| A面:[[渡辺はま子]]のカバー
|-
! 211
| 1964年11月20日 || '''[[柔 (美空ひばりの曲)|柔/ふり向かないで]]'''
|SAS-396
| [[第15回NHK紅白歌合戦]]・[[第16回NHK紅白歌合戦]]披露曲。[[第7回日本レコード大賞]]受賞曲。
|-
! 212
| 1964年12月10日 || '''娘道中伊達姿/大利根夜舟'''
|SAS-381
|
|-
! 213
| 1965年1月20日 || '''ひばり音頭/青春ひばり小唄'''
|SAS-401
|
|-
! 214
| 1965年4月20日 || '''手紙/赤い靴のタンゴ'''
|SAS-458
| B面:[[奈良光枝]]のカバー
|-
! 215
| 1965年4月20日 || '''カタリ・カタリ/サンバ・ギータ'''
| JPS-6||
|-
! 216
| 1965年5月10日 || '''お島千太郎/蛇姫様'''
|SAS-499
|
|-
! 217
| 1965年5月20日 || '''島原を後に/東京新地図'''
|SAS-478
|
|-
! 218
| 1965年7月20日 || '''[[影を慕いて]]/男の純情'''
|SAS-518
| 両面とも[[藤山一郎]]のカバー
|-
! 219
| 1965年9月20日 || '''博多夜船/明治一代女'''
|SAS-572
| A面:[[音丸]]、B面:[[新橋喜代三]]のカバー
|-
! 220
| 1965年10月20日 || '''のれん一代/遊侠ながれ笠'''
|SAS-601
|
|-
! 221
| 1965年11月5日 || '''柔の男/書生気質'''
|SAS-609
|
|-
! 222
| 1965年12月25日 || '''お役者仁義/恋慕かんざし'''
|SAS-631
|
|-
! 223
| 1966年3月20日 || '''人生の並木路/並木の雨'''
|SAS-667
| A面:[[ディック・ミネ]]、B面:[[松原操|ミス・コロムビア]]のカバー
|-
! 224
| 1966年4月5日 || '''[[夾竹桃の咲く頃|夾竹桃の咲く頃/いい子だから]]'''
|SAS-693
|
|-
! 225
| 1966年6月10日 || '''[[悲しい酒|悲しい酒/真実一路]]'''
|SAS-731
| [[第17回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 226
| 1966年9月20日 || '''津軽のふるさと/リンゴ追分'''
| SAS-769|| 再発売。
|-
! 227
| 1966年10月10日 || '''雨にぬれても/二人だけの渚'''
|SAS-785
|
|-
! 228
| 1966年11月1日 || '''花と剣'''
|SAS-792
|B面は林与一『晴れ姿長七郎』
|-
! 229
| 1967年1月5日 || '''風雪三代/港のむせび泣き'''
|SAS-828
|
|-
! 230
| 1967年3月1日 || '''島の夕顔/喜びの日の涙'''
|SAS-868
|
|-
! 231
| 1967年6月20日 || '''[[真赤な太陽 (美空ひばりの曲)|真赤な太陽/やさしい愛の歌]]'''
| D-1||
|-
! 232
| 1967年9月25日 || '''[[芸道一代|芸道一代/ひばりの子守唄]]'''
|SAS-962
| [[第18回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 233
| 1968年1月5日 || '''[[むらさきの夜明け|むらさきの夜明け/思い出と一人ぼっち]]'''
|SAS-1012
|
|-
! 234
| 1968年3月1日 || '''男の腕/女の並木路'''
|SAS-1048
|
|-
! 235
| 1968年3月25日 || '''銀座音頭/若い銀座'''
|SAS-1075
|
|-
! 236
| 1968年5月5日 || '''少しの間サヨウナラ/好きになってしまったわ'''
|SAS-1098
|
|-
! 237
| 1968年6月15日 || '''太陽と私/星空の微笑み'''
| D-2||
|-
! 238
| 1968年8月15日 || '''唇に花シャッポに雨/愛のボサ・ノバ'''
|SAS-1149
|
|-
! 239
| 1968年10月1日 || '''熱禱 (いのり)/夜明けまで'''
|SAS-1189
| [[第19回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 240
| 1969年1月5日 || '''魂/嗚呼舟がくし'''
|SAS-1221
| B面:[[森繁久彌]]のカバー
|-
! 241
| 1969年4月1日 || '''ひとり行く/無用ノ介'''
|SAS-1271
|
|-
! 242
| 1969年7月1日 || '''[[別れてもありがとう|別れてもありがとう/星くずの港]]'''
|SAS-1304
| [[第20回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 243
| 1969年7月15日 || '''恋のパープル・レイン/風の恋人たち'''
| D-3||
|-
! 244
| 1969年11月25日 || '''女飛車角/どっこい俺がいる'''
|SAS-1363
|
|-
! 245
| 1970年1月10日 || '''[[花と炎/人生一路]]'''
|SAS-1374
| [[第30回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 246
| 1970年5月25日 || '''涙/今日の我に明日は勝つ'''
|SAS-1417
|
|-
! 247
| 1970年7月10日 || '''[[人生将棋|人生将棋/一匹道中]]'''
|SAS-1435
| [[第21回NHK紅白歌合戦]]披露曲。オリコン週間チャート最高位70位 売上枚数1.9万枚
|-
! 248
| 1970年9月25日 || '''女の詩/恋のれん'''
|SAS-1462
|
|-
! 249
| 1970年11月10日 || '''愁い酒/人生ブルース'''
|SAS-1472
|
|-
! 250
| 1971年3月10日 || '''[[それでも私は生きている|それでも私は生きている/新宿波止場]]'''
|SAS-1501
|
|-
! 251
| 1971年4月10日 || '''千姫/落葉の城'''
|SAS-1511
|
|-
! 252
| 1971年4月10日 || '''江戸ッ子佐七'''
|SAS-1524
|B面は村田英雄『人形佐七』
|-
! 253
| 1971年7月10日 || '''ふるさとはいつも/恋のわらべ唄'''
|SAS-1550
|
|-
! 254
| 1971年10月10日 || '''おんな道/女の人生'''
|SAS-1571
|
|-
! 255
| 1971年10月10日 || '''[[旅人 (美空ひばりの曲)|旅人/北国の子守唄]]'''
|SAS-1572
|
|-
! 256
| 1972年1月10日 || '''[[ひばり仁義|ひばり仁義/この道を行く]]'''
|SAS-1583
| [[第22回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 257
| 1972年5月10日 || '''浪曲渡り鳥/新しい笛'''
|SAS-1610
|
|-
! 258
| 1972年8月10日 || '''母/哀愁平野'''
|SAS-1625
|
|-
! 259
| 1972年11月10日 || '''[[ある女の詩|ある女の詩/思い出の鞄]]'''
|SAS-1648
| [[第23回NHK紅白歌合戦]]披露曲。
|-
! 260
| 1973年3月10日 || '''花と龍/風の子守唄'''
|SAS-1662
|
|-
! 261
| 1973年6月10日 || '''さすらい東京/酔いどれ子守唄'''
|SAS-1676
|
|-
! 262
| 1973年9月10日 || '''黒い微笑/旅路'''
| AA-1||
|-
! 263
| 1973年11月10日 || '''ひばりのカンカン囃子/女ひとり'''
|AA-18
|
|-
! 264
| 1974年5月1日 || '''かもめと女/むらさきの涙'''
|AA-50
|
|-
! 265
| 1974年10月1日 || '''[[一本の鉛筆|一本の鉛筆/八月五日の夜だった]]'''
|AA-83
|
|-
! 266
| 1975年2月1日 || '''こころの町/あの子・誰の妻'''
|AA-103
|
|-
! 267
| 1975年4月1日 || '''日本晴ればれ音頭'''
|AA-114
| [[島倉千代子]]・[[舟木一夫]]・[[都はるみ]]・[[大川栄策]]との共唱。B面はカラオケ。
|-
! 268
| 1975年6月1日 || '''[[ひとりぼっち (美空ひばりの曲)|ひとりぼっち/渚の足跡]]'''
|AA-122
|
|-
! 269
| 1975年9月1日 || '''[[月の夜汽車|月の夜汽車/風の流れに]]'''
|AA-139
|
|-
! 270
| 1976年2月10日 || '''[[白い勲章|白い勲章/坊やの終列車]]'''
|AA-179
|
|-
! 271
| 1976年3月1日 || '''[[ふるさと太鼓|ふるさと太鼓/ひばりづくし]]'''
|AA-180
|
|-
! 272
| 1976年4月1日 || '''[[雑草の歌|雑草の歌/夜の雨]]'''
|AA-190
|
|-
! 273
| 1976年7月1日 || '''[[さくらの唄 (美空ひばりの曲)|さくらの唄/おんな酒]]'''
| AK-15||
|-
! 274
| 1976年11月10日 || '''[[あやとり (美空ひばりの曲)|あやとり/晩秋平野]]'''
|AK-37
|
|-
! 275
| 1977年5月10日 || '''[[なつかしい場面|なつかしい場面/恋夜曲]]'''
|AK-74
|
|-
! 277
| 1977年11月1日 || '''[[海にむかう母/ひとり旅〜リンゴ追分〜入り]]'''
|AE-63
|
|-
! 278
| 1978年2月1日 || '''昭和ながれ花/乗りかえ駅の夜は更けて'''
|AK-112
|
|-
! 279
| 1978年6月1日 || '''男/おんな'''
|AK-119
|
|-
! 280
| 1978年10月1日 || '''三年目/昭和おんな唄'''
|AK-146
|
|-
! 281
| 1978年11月1日 || '''月下美人/涙のふきだまり'''
|AK-155
|
|-
! 282
| 1979年1月1日 || '''[[最後の一本|最後の一本/俺達の歌今どこに]]'''
|AK-162
|
|-
! 283
| 1979年4月1日 || '''[[風酒場|風酒場/海鳥に向う女]]'''
|AK-177
|
|-
! 284
| 1979年9月10日 || '''[[子ども会音頭|子ども会音頭/おかあさんありがとう]]'''
| GK-523||
|-
! 285
| 1979年10月1日 || '''木更津くずし/清水次郎長'''
|AK-203
|
|-
! 286
| 1980年2月1日 || '''[[おまえに惚れた|おまえに惚れた/みれん酒]]'''
|AK-220
|
|-
! 287
| 1980年8月1日 || '''[[別れの宿|別れの宿/浮き草ふたり]]'''
|AK-668
|
|-
! 288
| 1981年1月1日 || '''[[恋女房|恋女房/昭和ひとり旅]]'''
| AH-6||
|-
! 289
| 1981年3月5日 || '''[[剣ひとすじ|剣ひとすじ/花の恋姿]]'''
|AH-35
|
|-
! 290
| 1981年10月1日 || '''[[人恋酒|人恋酒/おんなの涙]]'''
|AH-126
|
|-
! 291
| 1982年5月29日 || '''[[裏町酒場|裏町酒場/時雨の宿]]'''
|AH-220
|
|-
! 292
| 1983年2月21日 || '''[[花のいのち (美空ひばりの曲)|花のいのち/木場の女]]'''
|AH-306
| いずれの曲もひばりの作詞、作曲<ref>[https://j-lyric.net/artist/a000977/l047329.html 花のいのち 歌詞] 参照。</ref><ref>[https://www.uta-net.com/song/154401/ 木場の女 歌詞] 参照。</ref>。
|-
! 293
| 1983年5月21日 || '''[[笑ってよムーンライト|笑ってよムーンライト/まなざしの彼方]]'''
|AH-332
|
|-
!
|1983年9月21日
|'''霧の東京/人生松竹梅'''
|AF-7219
|
|-
! 294
| 1983年11月1日 || '''[[残侠子守唄|残侠子守唄/人生吹きだまり]]'''
| AH-386||
|-
! 295
| 1984年9月1日 || '''[[冬のくちびる|冬のくちびる/女ながれ唄]]'''
|AH-493
|
|-
! 296
| 1985年5月29日 || '''[[夢ひとり|夢ひとり/ビロードの夜]]'''
|AH-597
| 夢ひとりはひばりの作詞<ref>[https://www.uta-net.com/song/13604/ 夢ひとり 歌詞] 参照。</ref>。
|-
! 297
| 1985年10月21日 || '''[[しのぶ (美空ひばりの曲)|しのぶ/龍馬残影]]'''
|AH-661
|
|-
! 298
| 1986年4月21日 || '''函館山から/風花便り'''
|AH-723
|
|-
! 299
| 1986年5月29日 || '''[[愛燦燦 (美空ひばりの曲)|愛燦燦/太鼓]]'''
|AH-732
|
|-
! 300
| 1986年9月1日 || '''[[恋港|恋港/美幌峠]]'''
|AH-764
|
|-
! 301
| 1987年3月21日 || '''[[好きなのさ|好きなのさ/酒は男の子守唄]]'''
|AH-813
|
|-
! 302
| 1987年12月10日 || '''[[みだれ髪 (美空ひばりの曲)|みだれ髪/塩屋崎]]'''
|AH-891
|
|-
! 303
| 1988年4月21日 || '''[[みだれ髪 (美空ひばりの曲)|みだれ髪/塩屋崎]]'''
| 10CA-8019|| 再発売。
|-
! 304
| 1989年1月11日 || '''[[川の流れのように|川の流れのように/あきれたね]]'''
|12CA-8144、AH-5006
| [[第31回日本レコード大賞]]金賞・作曲賞受賞曲。
|-
! 305
| rowspan="2" | 1989年3月21日 || '''[[みだれ髪 (美空ひばりの曲)|みだれ髪/塩屋崎]]'''
|12CA-8170
| rowspan="2" | 再発売。
|-
! 306
| '''おまえに惚れた/裏町酒場'''
|12CA-8171
|-
! 307
| rowspan="5" | 1990年6月21日 || '''われとわが身を眠らす子守唄/終りなき旅'''
|CODA-8561
|
|-
! 308
| '''裏窓/恋情'''
|CODA-8562
|
|-
! 309
| '''暗夜行路/さんさ恋時雨'''
|CODA-8563
|
|-
! 310
| '''背中/孔雀の雨'''
|CODA-8564
|
|-
! 311
| '''ハハハ/女は昨日のために男は明日のために'''
|CODA-8565
|
|-
! 312
| rowspan="10" | 1991年2月21日 || '''リンゴ追分/越後獅子の唄'''
|CODA-8704
| 再発売。
|-
! 313
| '''ひばりの佐渡情話/娘船頭さん'''
|CODA-8705
| 再発売。
|-
! 314
| '''車屋さん/お祭りマンボ'''
|CODA-8707
| 再発売。
|-
! 315
| '''日本橋から/ほんとにそうなら'''
|CODA-8708
| 再発売。A面:[[佐藤千夜子]]、B面:[[赤坂小梅]]のカバー
|-
! 316
| '''影を慕いて/男の純情'''
|CODA-8712
| 再発売。両面とも[[藤山一郎]]のカバー
|-
! 317
| '''明治一代女/恋慕かんざし'''
|CODA-8713
| 再発売。A面:[[新橋喜代三]]のカバー
|-
! 318
| '''柔/お島千太郎'''
|CODA-8716
| rowspan="20" | 再発売。
|-
! 319
| '''悲しい酒/真実一路'''
|CODA-8717
|-
! 320
| '''ある女の詩/さんさ恋時雨'''
|CODA-8741
|-
! 321
| '''みだれ髪/川の流れのように'''
|CODA-8750
|-
! 322
| rowspan="8" | 1991年7月1日 || '''東京キッド/お祭りマンボ'''
|CODA-8812
|-
! 323
| '''港町十三番地/あの日の船はもう来ない'''
|CODA-8813
|-
! 324
| '''真赤な太陽/素適なランデブー'''
|CODA-8818
|-
! 325
| '''悲しい酒/あの丘越えて'''
|CODA-8819
|-
! 326
| '''残侠子守唄/越後獅子の唄'''
|CODA-8823
|-
! 327
| '''愛燦燦/津軽のふるさと'''
|CODA-8825
|-
! 328
| '''みだれ髪/悲しき口笛'''
|CODA-8826
|-
! 329
| '''川の流れのように/裏窓'''
|CODA-8827
|-
! 330
| rowspan="8" | 1991年7月21日 || '''リンゴ追分/ひばりの佐渡情話'''
|CODA-8814
|-
! 331
| '''私は街の子/ひばりの花売娘'''
|CODA-8815
|-
! 332
| '''人生一路/花笠道中'''
|CODA-8816
|-
! 333
| '''柔/しのぶ'''
|CODA-8817
|-
! 334
| '''ある女の詩/ひとりぼっち'''
|CODA-8820
|-
! 335
| '''裏町酒場/熱禱 (いのり)'''
|CODA-8821
|-
! 336
| '''哀愁波止場/ひばりのマドロスさん'''
|CODA-8822
|-
! 337
| '''おまえに惚れた/好きなのさ'''
|CODA-8824
|-
! 338
| 1999年2月20日 || '''流れ人/元禄港歌'''
|CODA-1696
| 未発表曲
|-
! 339
| 1999年5月29日 || '''おしどり富士/流れ人'''
|TDKL-91598
| 未発表曲、A面は[[橋幸夫]]とのデュエット。<br /><「美空ひばり名曲コレクション〜懐かしのレコード復刻盤〜」<br />([[1999年]][[5月29日]]発売)購入者特典レコード
|-
! 340
| 2001年3月17日 || '''男の友情/なみだの宿'''
|CODA-1949
| A面:[[青木光一]]、B面:[[大下八郎]]のカバー
|-
! 341
| 2001年5月29日 || '''越前岬/悲しい嘘'''
|CODA-1950
| 未発表曲
|-
! 342
| 2002年1月1日 || '''別れてもありがとう/津軽のふるさと'''
| || 再発売。
|-
! 343
| rowspan="11" | 2003年5月29日 || '''武蔵流転/武蔵流転パートII'''
| || 未発表曲
|-
! 344
| '''柔/残侠子守唄'''
| || rowspan="10" | <ベスト&ベスト>。両面オリジナル・カラオケ入り。
|-
! 345
| '''川の流れのように/愛燦燦'''
|
|-
! 346
| '''おまえに惚れた/裏町酒場'''
|
|-
! 347
| '''人生一路/ひとりぼっち'''
|
|-
! 348
| '''悲しい酒 (セリフ入り)/哀愁出船'''
|
|-
! 349
| '''剣ひとすじ/真赤な太陽'''
|
|-
! 350
| '''越後獅子の唄/花笠道中'''
|
|-
! 351
| '''悲しき口笛/ひばりの花売娘'''
|
|-
! 352
| '''みだれ髪/ひばりの佐渡情話'''
|
|-
! 353
| '''リンゴ追分/港町十三番地'''
|
|-
! 354
| 2006年5月29日 || '''ひとすじの道/ひばりの観音経'''
| || 再発売。両面オリジナル・カラオケ入り。
|-
! 355
| 2006年11月22日 || '''女の花道'''
| || 再発売。カップリング曲:'''今日の我に明日は勝つ'''・'''道'''。
|-
! 356
| 2007年5月29日 || '''歌は我が命/一本の鉛筆'''
| || 再発売。両面オリジナル・カラオケ入り。
|-
! 357
| 2008年4月23日 || '''[[花蕾]]'''
| || 再発売。カップリング曲:'''人'''。両面オリジナル・カラオケ入り。<br />ボーナス・トラック:'''[[舟唄]]''' ([[八代亜紀]]のカバー)。
|-
! 358
| 2010年5月29日 || '''龍馬残影/木場の女'''
| || 再発売。両面オリジナル・カラオケ入り。
|-
! 359
| rowspan="2" | 2011年5月29日 || '''[[人生一路]]'''
| || 再発売。オリジナル・カラオケ入り。<br />カップリング曲:'''風の流れに'''・'''[[上を向いて歩こう]]''' ([[坂本九]]のカバー)。
|-
! 360
| '''[[上海]]'''
| || 再発売。カップリング曲:'''[[アゲイン]]'''・'''チャルメラそば屋'''。
|-
! 361
| 2012年5月29日 || '''会う'''
| || 再発売。オリジナル・カラオケ入り。カップリング曲:'''ロカビリー剣法'''・'''日和下駄''' (両曲とも未発表音源)。
|-
! 362
| 2013年5月29日 || '''[[愛の讃歌]]'''
| || 再発売。[[エディット・ピアフ]]のカバー。カップリング曲:'''[[ラ・ヴィ・アン・ローズ|薔薇色の人生]]'''・'''[[魅惑のワルツ]]'''・'''[[ラヴ]]'''。
|-
! 363
| 2014年5月29日 || '''年下の人/人生松竹梅'''
| || 再発売。両面オリジナル・カラオケ入り。
|-
! 364
| 2015年5月29日 || '''八月五日の夜だった'''
| || 再発売。オリジナル・カラオケ入り。カップリング曲:'''[[リンゴの唄]]'''・'''[[東京ブギウギ]]'''・'''[[青い山脈]]'''。
|-
! 365
| 2016年5月29日 || '''[[さくらの唄]]'''
| || 未発表音源収録。カップリング曲:'''われとわが身を眠らす子守唄'''・'''[[さくらの唄]]''' (オリジナル・バージョン)。
|-
! 366
| 2019年5月29日 || '''[[川の流れのように]]'''
| || 1989年盤の再発売。EPシングル・8cmCD・12cmCD・カセットテープで発売。
|-
! 367
| 2019年12月18日 || '''[[あれから]]'''
| || 故人のアーティストの歌声を人工知能(AI)によって蘇らせ、新曲としてCDをリリースするのは世界初<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1219398.html AI美空ひばり、新曲「あれから」CD&カセット&配信。「川の流れのように」以来30年ぶり]</ref>
|}
没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たに[[カップリング]](選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。
=== EP ===
*美空ひばりヒット・ソング集 第1集(1954年9月20日 AA-2)
*美空ひばりヒット・ソング集 第2集(1954年12月10日 AA-6)
*美空ひばりヒット・ソング集 第3集(1955年6月10日)
*美空ひばりヒット・ソング集 第4集(1955年12月10日 AA-50)
*美空ひばりヒット・ソング集 第5集(1956年6月10日 AA-68)
*美空ひばりヒット・ソング集 第6集(1957年9月15日 AA-79)
*美空ひばりヒット・ソング集 第6集(1958年3月15日 AA-83)
*ひばりのリンゴ追分(1963年9月20日 ASS-1)
*ひばりの哀愁出船(1963年9月20日 ASS-2)
*ひばりのポトマックの桜(1964年1月20日 ASS-53)
*ひばりとマドロスさん 第1集(1964年7月5日 AMM-79)
*ひばりとマドロスさん 第2集(1964年7月5日 AMM-80)
*ひばりのお島千太郎(1965年8月1日 ASS-134)
*ひばりの影を慕いて(1965年11月20日 ASS-141)
*ひばりの湖畔の宿(1965年11月20日 ASS-142)
*ひばりの柔 (1966年1月20日 ASS-153)
*ひばりとマドロスさん 第3集(1966年5月20日 AMM-115)
*ひばりの歌変化(1966年6月5日 AMM-114)
*ひばりの真実一路(1966年8月20日 ASS-173)
*美空ひばりの花と剣(1966年12月5日 ASS-220)
*美空ひばり歌のハイライト(1966年12月10日 ASS-235)
*美空ひばりの悲しい酒(1967年3月15日 ASS-262)
*ひばり民謡を歌う(1967年3月15日 ASS-270)
*美空ひばりの真赤な太陽(1967年11月1日 ASS-338)
*スター・ミニ・デラックス/ひばり民謡を唄う(1969年9月20日 ASS-451)
*スター・ミニ・デラックス/ひばりの端唄草紙(1969年9月20日 ASS-452)
*スター・ミニ・デラックス/美空ひばり~花と炎(1970年4月10日 ASS-475)
*スター・ミニ・デラックス/美空ひばり~忘れじの歌~(1970年7月10日 ASS-499)
=== オリジナル・アルバム ===
*ひばりのマドロスさん(1958年5月15日 AL-101)10インチ
*ひばりの歌日記(1958年9月1日 AL-110)10インチ
*ひばりの歌変化(1958年12月10日 AL-122)10インチ
*ひばりの歌絵巻(1959年3月15日 AL-136)10インチ
*ひばりとマドロス(1959年7月15日 AL-156)10インチ
*俺らの青春(1959年10月15日 AL-170)10インチ
*ひばりの花模様(1960年3月15日 AL-200)10インチ
*ひばりの初恋マドロス(1960年10月15日 AL-233)10インチ
*ひばりの哀愁波止場(1961年5月20日 AL-270)10インチ
*この歌とともに(1961年8月10日 AL-297)10インチ
*ひばりの渡り鳥だよ(1962年4月20日 AL-349)10インチ
*花の都をあきらめて~ひばり哀愁をうたう~(1962年5月20日 AL-355)10inch
*永遠に幸あれ(1962年11月5日 AL-165)10インチ
*ひばりとマドロスさん(1963年6月5日 AL-5209)10インチ
*美空ひばりの哀愁出船(1963年6月15日 ALS-195)10インチ
*美空ひばりの花のステージ(1964年6月20日 ALS-4034)
*美空ひばりのヒット・ショウ(1964年11月1日 JLS-101)10インチ
*美空ひばりのヒット・ショウ 第2集(1964年11月1日 JLS-101)10インチ
*美空ひばりの花のステージ 第2集(1965年6月10日 ALS-4083)
*美空ひばりの花のステージ 第3集(1966年12月10日 ALS-4207)
*歌は我が命〜美空ひばり芸能生活20周年記念〜(1967年5月29日 ALS-5040)
*美空ひばりの花のステージ 第4集(1967年12月1日 ALS-4284)
*歌は我が命 第2集(1968年5月29日 ALS-5059)
*歌は我が命 第3集(1969年5月29日 ALS-5100)
*歌は我が命 第4集(1970年5月29日 ALS-5120)
*美空ひばりの花のステージ 第5集~涙~(1970年7月25日 ALS-4517)
*美空ひばりの花のステージ 第6集(1971年3月10日 ALS-4566)
*歌は我が命 第5集(1971年5月)
*母が小さくなった時~歌は我が命 第6集(1972年5月)
*[[ふるさと〜歌は我が命 第7集]](1973年5月)
*涙~歌は我が命 第8集(1974年5月)
*ひとりぼっち~歌は我が命 第9集(1975年5月)
*私と影~歌は我が命 第10集(1975年5月)
*おまえに惚れた(1980年4月)
*残侠子守唄(1983年11月)
*水仙の詩〜美空ひばり ポップスを唄う〜(1984年9月)
*旅ひととせ(1986年4月)
*不死鳥(1988年4月)
*川の流れのように~不死鳥パートII(1988年12月)
=== カバー・アルバム ===
*美空ひばり端唄草紙(1958年12月10日 AL-123)10インチ
*ひばりちゃんの童謡集(1961年6月20日 AL-3040)10インチ
*ひばりとシャープ(1961年12月10日 AL-321/ALS-124)10インチ
*ひばりの民謡集(1962年6月20日 AL-366/ALS-144)10インチ
*ひばり世界を歌う(1964年6月20日 JPS-5001)
*からたちの花~美空ひばり 山田耕作を唄う~その1(1964年8月)
*赤とんぼ~美空ひばり 山田耕作を唄う~その2(1964年8月)
*この歌をひばりと共に(1965年6月5日 ALS-4087)
*ひばりジャズを歌う ~ナットキング・コールをしのんで~(1965年9月5日 JPS-5058)
*歌の流れに~万城目正作品集(1966年5月20日 ALS-4154)
*ひばり民謡を歌う(1966年6月20日 ALS-4162)
*我が心の歌~古賀政男大全集~(1968年5月10日 ADX-108/14)
*忘れじの歌~美空ひばり古賀メロディを歌う~(1969年12月10日 ALS-4461/2)2枚組
*V.A. / あの頃の歌 今日の歌/石本美由起作品集(1970年6月25日 ALS-5119)
*黄金の歌~美空ひばり 想い出を唄う~(1970年12月10日 ALS-5141)
*心の軍歌~美空ひばり 哀愁の軍歌を唄う~(1972年8月)
*船頭小唄~美空ひばり 日本情緒を唄う~(1973年11月)
*湖畔の宿~美空ひばり 思い出を歌う(1974年4月)
*星の流れに~美空ひばり 思い出を歌う(1974年4月)
*私と貴方の小さなスナック(1976年12月)
*おんな歌・おとこ歌(1980年8月)
*人恋酒~最新演歌名曲名唱集(1982年2月)
*残侠子守唄~84有線ヒット曲集~(1984年3月)
*カバーソング コレクション (2007年)
*カバーソング コレクション 〜 ひばり演歌をうたう (2008年)
*カバーソング コレクション 〜 ひばり懐メロをうたう (2009年)
*カバーソング コレクション 〜 ひばり叙情歌をうたう (2010年)
*美空ひばり 昭和を歌う 〜恋人よ・愛燦燦〜 (2014年)
=== セルフカバー・アルバム ===
*EVERGREEN HIBARI(1983年1月)
**主だったキャリアから厳選した12曲を当時最新のデジタル技術で[[1982年]]に再録音したもの。[[2021年]]5月にはそれ以降の重要曲4曲を追加収録して再発売された。
=== ライブ・アルバム ===
*ひばりの花絵巻(1958年7月15日 AL-104)10インチ
*おしどり・イン・ザ・ナイト(1966年9月20日 JPS-5092)
*美空ひばりリサイタル(1968年2月1日 ALS-4311/2)2枚組
*心に詩(うた)を~美空ひばり・森繁久彌 二人の声~(1969年3月10日 ALS-4401/2)2枚組
*ひばり・いん・あめりか(1974年1月)2枚組
*美空ひばり オン・ステージ(1975年1月)2枚組
*ひとすじの道~NETテレビ にっぽんの歌大全集より~(1975年3月)2枚組
*芸能生活30周年記念美空ひばりリサイタル(1976年4月)2枚組
*絶唱~美空ひばり~さようなら1976年(1977年3月)2枚組
*美空ひばり 新しき出発(1978年3月)2枚組
*美空ひばり 帝国劇場79年10月公演 歌声は世界をめぐる(1980年1月)2枚組
*芸能生活35周年記念リサイタル 美空ひばり武道館ライブ(1981年8月)2枚組
*愛ある限り私は歌う~82美空ひばりリサイタル(1982年8月)2枚組
*美空ひばり そして歌は人生になった~芸能生活40周年記念リサイタル ~(1986年5月)2枚組
*不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME(1988年5月)CD2枚組
*美空ひばりデビュー50周年特別企画'96 歌声はひばりと共に(1996年5月)VHS,(2002年5月)DVD
*芸能生活40周年記念リサイタル 美空ひばり~そして、歌は、人生になった(2013年5月)DVD
=== ベスト・アルバム ===
*ヒット・ソング集(1954年2月15日 AL-4)10インチ
*美空ひばり全集(1962年7月1日 AL-4069/70)
*美空ひばり全集 第2集(1963年2月15日 AL-4103/4)
*美空ひばり全集 第3集(1963年5月15日 AL-4110/1)
*歌は生きている~美空ひばりゴールデン・ヒット・アルバム~(1965年12月10日 ALS-4133/4)
*美空ひばり芸能生活20周年記念美空ひばり大全集~共に歩んだ20年~(1967年10月1日 ADX-201/7)
*ベスト・カップル・シリーズ 美空ひばり~オリジナルヒットと懐メロと~(1970年4月25日 ALS-4492)
*特選集 川の流れのように (1989年)
*美空ひばり 全曲集 川の流れのように (1992年)
*オリジナル・ベスト50 〜悲しき口笛〜川の流れのように〜 (1996年)
*美空ひばり 全曲集 越前岬 (2001年)
*美空ひばり 全曲集 武蔵流転 (2003年)
*美空ひばり 全曲集 私はおんな (2004年)
*ファンが選んだリクエスト曲集 Vol.1 (2004年)
*美空ひばり スペシャルベスト (2004年)
*美空ひばり 全曲集 (2005年)
*美空ひばり 全曲集 ひとすじの道 (2006年)
*美空ひばり 全曲集 歌は我が命 (2007年)
*美空ひばり 全曲集 一本の鉛筆 / 花蕾 (2008年)
*美空ひばり入門 (2009年)
*美空ひばり 全曲集 悲しい酒 (2009年)
*美空ひばり入門 Part2 〜ペイパー・ムーン〜 (2010年)
*美空ひばり 全曲集 龍馬残影 (2010年)
*[[美空ひばりベスト 1949〜1963]] (2011年)
*[[美空ひばりベスト 1964〜1989]] (2011年)
*美空ひばりベスト 豪華盤 (2011年)
*美空ひばり 全曲集 会う (2012年)
*美空ひばり ライブ・ベスト 〜さよならの向こうに〜 (2013年)
*美空ひばり 全曲集 愛の讃歌 (2013年)
*歌い継がれる 美空ひばり名曲集 -ひ- (2014年)
*美空ひばり 全曲集 年下の人 (2014年)
*究極ベスト / 美空ひばり (2015年)
*極ベスト50 (2015年)
*美空ひばり ダブル・ベスト☆オリジナル&カバーズ (2015年)
*美空ひばり 全曲集 八月五日の夜だった (2015年)
*美空ひばりベスト 〜オリジナル編〜 (2016年)
*美空ひばりベスト 〜洋楽編〜 (2016年)
*美空ひばり 全曲集 さくらの唄 (2016年)
*美空ひばりベスト 〜 オリジナル・ヒットをうたう (上) (2017年)
*美空ひばりベスト 〜 オリジナル・ヒットをうたう (下) (2017年)
*美空ひばりベスト 〜 ジャズをうたう (2014年)
*美空ひばりベスト 〜 名曲をうたう (2017年)
*美空ひばり 全曲集 2017 (2017年)
*美空ひばり 全曲集 人生将棋 (2018年)
*美空ひばり ベスト30 (2019年)
*美空ひばり 全曲集 2020 (2019年)
*美空ひばり オール・タイム・ベスト 〜あれから〜 (2020年)
*美空ひばり 全曲集 東京タワー (2021年)
*[[美空ひばり 全曲集 一本の鉛筆]] (2022年)
=== 企画アルバム ===
・[[美空ひばり Symphonic Works 〜 不死鳥再び]] (2022年)
== NHK紅白歌合戦出場歴 ==
ひばりは[[1954年]]・[[第5回NHK紅白歌合戦|第5回]]、および[[1957年]]・[[第8回NHK紅白歌合戦|第8回]]から[[1972年]]・[[第23回NHK紅白歌合戦|第23回]]までの16年連続、通算17回出場し(その後[[1979年]]・[[第30回NHK紅白歌合戦|第30回]]も特別出演)、うち13回トリを務めている。通算17回の出場という記録は、1972年当時の紅白歌合戦における史上最多記録である<ref group="注釈">[[1974年]]・[[第25回NHK紅白歌合戦|第25回]]に[[島倉千代子]]と[[フランク永井]]がいずれも18回目の出場を果たし、更新。</ref>。
なお、ひばりには初出場以前の[[1953年]]1月・[[第3回NHK紅白歌合戦|第3回]]と同年大晦日の[[第4回NHK紅白歌合戦|第4回]]にも出場のオファーがかけられていたが、第3回は[[正月]]興行、第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドが出場を辞退している。また、出場していない[[1955年]]・[[第6回NHK紅白歌合戦|第6回]]と[[1956年]]・[[第7回NHK紅白歌合戦|第7回]]は、ラジオ東京テレビ(現・[[TBSテレビ]])の「[[オールスター歌合戦]]」に出演するため、出場を辞退している。
上述の通り1973年・第24回では事実上の落選となったが、[[1975年]]・[[第26回NHK紅白歌合戦|第26回]]以降、ひばりが死去する[[1980年代]]後半まで、NHKは幾度となくひばりに対して出演オファーを行っていた。その結果、1979年・第30回では「特別出演」という形で一度限りながら、紅白への復帰が実現している。
;記録など
*通算トリ回数は13回で北島三郎・五木ひろしに並び史上最多(紅組歌手に限った場合はひばりが単独最多であり、ひばりに次ぐ記録は[[石川さゆり]]の9回、[[和田アキ子]]の7回)。
*連続トリ回数は10年連続で史上最多(ひばりに次ぐ記録は[[SMAP]]、[[MISIA]]の4年連続。紅組歌手に限った場合は[[MISIA]]の4年連続)。
*通算大トリ回数は11回で北島三郎と並び歴代最多タイ(紅組歌手に限った場合はひばりが単独最多であり、ひばりに次ぐ記録は[[都はるみ]]の3回)。
*[[1970年]]・[[第21回NHK紅白歌合戦|第21回]]は紅組司会も担当(その年は大トリも務めており、紅白史上初の組司会・大トリ兼任)。その後、2016年に[[相葉雅紀]]、2018年・2019年に[[櫻井翔]]も組司会・大トリ兼任をしている。
*[[1979年]]・[[第30回NHK紅白歌合戦|第30回]]は紅白30回を記念して特別ゲストとして出演(正式な出場回数には含まれない。これが生涯最後の紅白出演となった)。
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"
|+
|-| style="background: #ccf;"
! | 年度
! | 放送回
! | 回
! | 曲目
! | 出演順
! | 対戦相手
! | 備考
|-
|1954年||[[第5回NHK紅白歌合戦|第5回]]||初||[[ひばりのマドロスさん]]||13/15||[[小畑実 (歌手)|小畑実]]||
|-
|1957年||[[第8回NHK紅白歌合戦|第8回]]||2||長崎の蝶々さん||25/25||[[三橋美智也]]||'''大トリ'''
|-
|1958年||[[第9回NHK紅白歌合戦|第9回]]||3||白いランチで十四ノット||25/25||三橋美智也(2)||'''大トリ(2)'''
|-
|1959年||[[第10回NHK紅白歌合戦|第10回]]||4||ご存知弁天小僧||25/25||[[春日八郎]]||'''大トリ(3)'''
|-
|1960年||[[第11回NHK紅白歌合戦|第11回]]||5||[[哀愁波止場]]||14/27||春日八郎(2)||
|-
|1961年||[[第12回NHK紅白歌合戦|第12回]]||6||ひばりの渡り鳥だよ||14/25||[[橋幸夫]]||
|-
|1962年||[[第13回NHK紅白歌合戦|第13回]]||7||[[ひばりの佐渡情話]]||06/25||春日八郎(3)||
|-
|1963年||[[第14回NHK紅白歌合戦|第14回]]||8||哀愁出船||25/25||[[三波春夫]]||'''大トリ(4)'''
|-
|1964年||[[第15回NHK紅白歌合戦|第15回]]||9||[[柔 (美空ひばりの曲)|柔]]||25/25||三波春夫(2)||'''紅組トリ(5)'''
|-
|1965年||[[第16回NHK紅白歌合戦|第16回]]||10||柔(2回目)||25/25||橋幸夫(2)||'''大トリ(6)'''
|-
|1966年||[[第17回NHK紅白歌合戦|第17回]]||11||[[悲しい酒]]||25/25||三波春夫(3)||'''紅組トリ(7)'''
|-
|1967年||[[第18回NHK紅白歌合戦|第18回]]||12||[[芸道一代]]||23/23||三波春夫(4)||'''大トリ(8)'''
|-
|1968年||[[第19回NHK紅白歌合戦|第19回]]||13||熱祷||23/23||橋幸夫(3)||'''大トリ(9)'''
|-
|1969年||[[第20回NHK紅白歌合戦|第20回]]||14||別れてもありがとう||23/23||[[森進一]]||'''大トリ(10)'''
|-
|1970年||[[第21回NHK紅白歌合戦|第21回]]||15||人生将棋||24/24||森進一(2)||'''大トリ(11)'''<br>司会・大トリ兼任
|-
|1971年||[[第22回NHK紅白歌合戦|第22回]]||16||この道をゆく||25/25||森進一(3)||'''大トリ(12)'''
|-
|1972年||[[第23回NHK紅白歌合戦|第23回]]||17||ある女の詩||23/23||[[北島三郎]]||'''大トリ(13)'''
|-
|1979年||[[第30回NHK紅白歌合戦|第30回]]||18||美空ひばりメモリアルメドレー<ref group="注釈">ひばりのマドロスさん(2回目)・[[リンゴ追分]]・[[花と炎/人生一路|人生一路]]のメドレー。</ref>|| - ||[[藤山一郎]]||7年ぶりの復帰・生涯最後の紅白出場<br>特別出演であるが、紅組歌手に分類されている<ref>[https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=30 NHK紅白歌合戦ヒストリー],2023年10月21日</ref>。
|-
|2019年||[[第70回NHK紅白歌合戦|第70回]]||特別企画||[[あれから]]|| - ||なし||「[[人工知能|AI美空ひばり]]」として出場
|}
* 1979年(第30回)は正式な出場歌手ではないため、出演順は数えられない。
* 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
* 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
* 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
*2019年(第70回)はAIひばりとして、特別出場。歌唱曲は「あれから」<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1218616.html NHK紅白歌合戦に、AI技術で復活した美空ひばり出場。秋元康プロデュースの新曲披露],AV Watch,2019年11月14日</ref>。
=== 美空ひばりの楽曲が紅白歌合戦で他の歌手によって歌唱された例 ===
*ひばりの生前の功績の大きさから、その功績を称えるために死後も他の歌手によってひばりの持ち歌が幾度となく紅白歌合戦で歌唱されている。
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap"
! 年度
!放送回 !! 歌手名 !! 曲目 !! 備考
|-
|1989年
|[[第40回NHK紅白歌合戦|第40回]]
|[[雪村いづみ]]
|[[愛燦燦]]
|大親友だった雪村いづみが、ひばりの追悼として歌唱。
|-
|1994年
|[[第45回NHK紅白歌合戦|第45回]]
|[[キム・ヨンジャ]]
|rowspan="3"|[[川の流れのように]]
|NHKが実施した「戦後50年で思い出深い歌」「紅白で聴きたい歌アンケート」の1位であった同曲を歌唱<ref>[[合田道人]]『紅白歌合戦の舞台裏』、185頁。</ref>。
|-
|1999年
|[[第50回NHK紅白歌合戦|第50回]]
|rowspan="2"|[[天童よしみ]]
|NHKが実施した「21世紀に伝えたい歌」(アンケート)の1位であった同曲をひばりを慕っていた天童が歌唱。
|-
|2005年
|[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]
|『[[スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜]]』で紅組8位にランクインした同曲を天童が自身3回目の紅組トリで歌唱。
|-
|2007年
|[[第58回NHK紅白歌合戦|第58回]]
|[[小椋佳]]
|rowspan="2"|愛燦燦
|ひばりの生誕70周年を記念して、「愛燦燦」の楽曲プロデュースを担当した小椋佳が生前のひばりの映像との仮想デュエットを披露した。
|-
|2011年
|[[第62回NHK紅白歌合戦|第62回]]
|rowspan="2"|天童よしみ
|2011年がひばりの23回忌であり、ひばりの写真も映し出された。
|-
|2015年
|[[第66回NHK紅白歌合戦|第66回]]
|[[人生一路]]
|ひばりが「東京ドーム 不死鳥コンサート」のラストで同曲を歌ったときと同様に、『終りなき旅』の一節も併せて歌われた。<br>また、天童の衣装も「不死鳥コンサート」でのひばりの衣装を模したものであり、ひばり本人の映像や写真も映し出された。
|-
|2016年
|[[第67回NHK紅白歌合戦|第67回]]
|[[島津亜矢]]
|川の流れのように
|
|-
|2017年
|[[第68回NHK紅白歌合戦|第68回]]
|[[市川由紀乃]]
|人生一路
|
|-
|2021年
|[[第72回NHK紅白歌合戦|第72回]]
|[[氷川きよし]]
|歌は我が命
|
|-
|2022年
|[[第73回NHK紅白歌合戦|第73回]]
|[[坂本冬美]]
|[[お祭りマンボ]]〜スカパラSP〜
|[[東京スカパラダイスオーケストラ]]との共演。
|-
|}
== テレビ番組 ==
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
* [[NECサンデー劇場]]「かわだぶし物語」(1961年、[[テレビ朝日|NET]]) - 天才少女歌手 ※特別出演
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]]
** 第378回「女優シリーズ 下町の空」(1964年、[[TBSテレビ|TBS]])※ドラマ初主演
** 第720回「花が実を結ぶとき」(1970年、TBS) - 嘉子
* [[美空ひばり劇場]](1964年 - 1965年、TBS)
** 第1回 - 第4回「おこま」
** 第5回 - 第7回「神楽師」
** 第8回、第9回「仇討ごよみ」
** 第10回 - 第13回「お白粉人形」
** 第14回 ミュージカルショー「髪」
** 第15回 - 第17回「女侠一代」
** 第18回、第19回「李朝残影」
** 第20回 - 第22回「振袖剣士」
** 第23回「寿初春歌姫七姿」
** 第24回 - 第26回「弁天小僧」 - 菊
** 第27回、第28回「七福神のなぞ」 - 老中阿部伊予守の姫君
** 第29回、第30回「兄・私・弟」前編・後編 - 節子
** 第31回 - 第33回「唐人お吉」(「花の巻」「蝶の巻」「風の巻」)
** 第34回、第35回「今日もまた蝉が鳴く」前編・後編
** 第36回 - 第39回「出雲のお国」- お国
* 美空ひばり劇場「風流深川唄」 - お小夜(1966年、TBS)
* [[ひばり・与一の花と剣]](1966年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[美空ひばりショー ひばりはひばり]](1968年、NET)
* [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](1968年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]/[[東映]]) - [[和宮親子内親王|和宮]]([[徳川家茂]]正室)
** 第48話「嵐に立つ花」
** 第49話「和宮降嫁」
* [[歌のグランドショー]](1968年、NHK総合)<ref>{{放送ライブラリー|121259|000396}}</ref>
* [[あゝ忠臣蔵]](1969年、関西テレビ) - おかる
* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]] (フジテレビ)
** 第158話「獅子の舞」(1969年)
** 第179話「謎の千両富」(1969年)
** 第231話「矢場へ来た用心棒」(1970年)
** スペシャル(第888話・最終回)「ああ十手ひとすじ!!八百八十八番大手柄 さらば我らの平次よ永遠に」(1984年)
* [[ザ・ガードマン]] 第285回「ひばりの愛の逃亡姉妹」(1970年、TBS)
* [[柳生十兵衛 (1970年のテレビドラマ)|柳生十兵衛]]第27話「殴り込み中仙道」 - お甲(1970年、フジテレビ)※特別出演
* [[徳川おんな絵巻]](1970年、関西テレビ) - お初
** 第5話「お転婆娘の御殿奉公」(出羽国本庄藩六郷家前編)
** 第6話「お初の仇討ち」(出羽国本庄藩六郷家後編)
* [[銀河テレビ小説|銀河ドラマ]]「満開の時」(1971年、[[日本放送協会|NHK]]) - 美人芸者
* [[金曜スペシャル]]「初春はひばりとともに」(1972年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]])
* [[長谷川伸シリーズ]]道中女仁義(1973年、NET)- 女やくざ
* [[大江戸捜査網]](東京12チャンネル/[[三船プロダクション|三船プロ]])
** 第213話「火花散る隠密七変化」(1975年) - 葉隠れおゆき
** 第438話「女三味線わかれ唄」(1980年) - 文字豊
* [[暴れん坊将軍#吉宗評判記 暴れん坊将軍(通称:I)|吉宗評判記 暴れん坊将軍]] Iシリーズ([[テレビ朝日]]、東映) - 紀州屋お奈津
** 第12話「紀州から来た凄い女」(1978年)
** 第13話「嵐を呼んだ江戸土産」(1978年)
** 第27話「柳生一族を斬る女」(1978年)
** 第38話「黒潮の渦を斬る女」(1978年)
* 幾山河は越えたけど-昭和のこころ・古賀政男第1部、第2部(1979年、NHK)<ref>{{放送ライブラリー|121799|001486}}</ref><ref>{{Tvdrama-db|17169|幾山河は越えたけど-昭和のこころ・古賀政男}}</ref>
* [[水曜ドラマスペシャル]]「女コロンボ危機一髪!」(1985年、TBS) - 水木一枝
* NHK放送開始60周年記念 あの歌この人60年(1985年、NHK)<ref>{{放送ライブラリー|123518|003515}}</ref>
* 昭和の歌 歌は電波にのって(昭和20年〜30年)(1986年、NHK)<ref>{{放送ライブラリー|164868|002412}}</ref>
* [[ミュージックフェア]]'86 1100回記念 第2回(1986年、フジテレビ) - 「港町十三番地」・「越後獅子の唄」・「哀愁波止場」・「リンゴ追分」・「しのぶ」。[[大阪厚生年金会館]]大ホールで収録。<ref>{{放送ライブラリー|124300|004477}}</ref>
* [[木曜ドラマストリート]]「熱血女先生!まるでセンチな乙女のように」(1986年、フジテレビ)
* 美空ひばり 新たなる旅立ち!(1987年、日本テレビ) - 両側大腿骨頭壊死・慢性肝炎を克服、退院後初のテレビ出演。「愛燦燦」<ref>{{放送ライブラリー|143890|003208}}</ref>
* [[今夜は最高!]]ゲスト・ひばりスペシャルと題して二週放送(1987年、NTV)<ref>{{放送ライブラリー|122237|002010}}</ref>
* [[忠臣蔵・いのちの刻]](1988年、TBS) - 照月尼
* [[パパはニュースキャスター]]お正月スペシャル(1989年1月2日、TBS) ※特別出演、[[田村正和]]とワンカットのみでの出演であったが、これが生前最後のドラマ出演となった
* 昭和の歌 第2回「東京キッド」から「涙の連絡船」まで(1989年、NHK) - 「リンゴ追分」・「悲しき口笛」<ref>{{放送ライブラリー|122213|001986}}</ref>
* [[NHKスペシャル]](1989年、NHK)
* [[ミュージックフェア]]'89(1989年、フジテレビ) - 「[[悲しき口笛]]」・「[[リンゴ追分]]」・「[[無法松の一生]]」・「いつか」・「[[川の流れのように]]」(生前最後のテレビ出演)
** 美空ひばりさん・たくさんの歌をありがとう“悲しき口笛”から“悲しい酒”まで - 死去当日放送の特別番組<ref>{{放送ライブラリー|122337|002111}}</ref>
** ひばりの時代 第1回 廃墟のなかの悲しき口笛(日本人は戦後こう生きた)<ref>{{放送ライブラリー|123901|004043}}</ref>
** ひばりの時代 第2回 成長のなかの哀愁波止場(日本人は戦後こう生きた)<ref>{{放送ライブラリー|123902|004044}}</ref>
** ひばりの時代 第3回 繁栄のなかの悲しい酒(日本人は戦後こう生きた)<ref>{{放送ライブラリー|123903|004045}}</ref>
* 特別企画 さようなら あゝ…美空ひばりさん(1989年、テレビ東京)<ref>{{放送ライブラリー|159576|006213}}</ref>
* 美空ひばり 永遠の歌声(1989年、NHK)
** 第1回 思い出のなかのひばり<ref>{{放送ライブラリー|122224|001997}}</ref>
** 第2回 銀幕のなかのひばり<ref>{{放送ライブラリー|122225|001998}}</ref>
** 第3回 喝采のなかのひばり<ref>{{放送ライブラリー|122226|001999}}</ref>
== ドキュメンタリー ==
* 映画『ひばりのすべて』 - 監督:[[井上梅次]] 芸能生活25周年を記念して制作されたドキュメンタリー。ステージの模様を中心に、彼女の華やかな舞台裏の日常の姿を赤裸々に描く。
* 悲しみの終わるときまで(1974年、広島テレビ) - 音楽ドキュメンタリー ※第29回[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭賞]]優秀賞<ref>{{放送ライブラリー|121600|001093}}</ref>
* [[NHKスペシャル]]『最期のひばり〜日記が明かす空白の4か月〜』(2003年10月19日放映)- ディレクター:山登義明。最期の時を克明に記録した未公開日記が紹介された。
== ひばりを描いたドラマ・舞台 ==
*「[[美空ひばり物語]]」([[1989年]][[12月30日]]、[[TBSテレビ|TBS]]ドラマ) - [[上前淳一郎]]「イカロスの翼」のドラマ化。ひばりが生前にドラマ化を唯一許可した作品。[[岸本加世子]]がひばりを演じた。江利を松居直美が演じ「ジャンケン娘」のラストを再現した。脚本は[[佐伯俊道]]。
*舞台「不死鳥ふたたび・美空ひばり物語」([[1999年]]) - [[浅茅陽子]]がひばりを演じた。
*「美空ひばり誕生物語-おでことおでこがぶつかって」([[2005年]][[5月29日]]、[[TBSテレビ|TBS]]ドラマ) - [[石井ふく子]]プロデュース・[[宮川一郎]]脚本のオリジナル作品で、ひばり([[上戸彩]])と母・喜美枝([[泉ピン子]])との親子愛がテーマとなっている。
== 受賞歴 ==
*1960年 [[第2回日本レコード大賞]]・歌唱賞
*1962年 第12回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]・大衆賞
*1965年 [[第7回日本レコード大賞]]・大賞
*1969年
**10月8日 [[日本赤十字社金色有功章]]
**12月17日 [[紺綬褒章]]
*1971年 第2回[[日本歌謡大賞]]・放送音楽特別賞
*1973年 [[第15回日本レコード大賞]]・15周年記念特別賞
*1976年 [[第18回日本レコード大賞]]・特別賞
*1977年 [[森田たま]]パイオニア賞
*1989年
**[[国民栄誉賞]]
**[[第31回日本レコード大賞]]・特別栄誉歌手賞
**第20回[[日本歌謡大賞]]・特別栄誉賞
**第22回[[日本作詩大賞]]・特別賞
**第18回[[FNS歌謡祭]]・特別賞
*2000年 第2回[[青森りんご勲章]]
== その他 ==
:1967年10月に[[有田焼]]創業350周年を記念して、美空ひばり唯一のご当地音頭「チロリン節」が制作発表された。
:1970年の[[松下電器産業]]のラジオCM「タイムカプセル『[[日本万国博覧会|万国博]]松下館 美空ひばり?』」は、第10回[[ACC CM FESTIVAL]]ラジオCM部門グランプリを受賞した<ref>{{放送ライブラリー|158871|F23036}}</ref>。
:2006年9月に[[京楽]]から「CRぱちんこ華王美空ひばり」を発売。[[ブロマイド]]は[[浅草]]の斉藤甲子郎写真館が専属で制作した。
:2009年12月には同じく京楽から続編として「CRぱちんこ爽快美空ひばり不死鳥伝説」を発売。ひばりの小キャラクターが増え、さらに[[松竹]]・[[テレビ東京]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[マルベル堂]]からの映像・写真が多く使われている。
:2011年1月19日に、日本コロムビアより数々の復刻品を封入した美空ひばりトレジャーズが発売。コロムビア通販サイトなどから入手できる<ref>[https://columbia.jp/hibaritreasures/ 美空ひばりトレジャーズ]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[飯干晃一]]『山口組三代目 1 野望篇』[[徳間書店]]<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9
* [[竹中労]]『完本 美空ひばり』筑摩書房発行(文庫版) ISBN 4-480-42088-6
* [[西部邁]]・[[佐高信]]「美空ひばり」『思想放談』所収、[[朝日新聞出版]]、2009年、ISBN 9784022506399 - 西部と佐高が、好きな美空ひばりの曲について語っている。
* [[溝口敦]]『撃滅 山口組vs一和会』[[講談社]]<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
<!--確実な出典の明記が無い美空ひばりの両親の国籍に関する無責任な追加記載は止めてください。-->
* 斎藤完『映画で知る美空ひばりとその時代 銀幕の女王が伝える昭和の音楽文化』、スタイルノート、2013年、ISBN 978-4-7998-0117-8 C1074
* {{Cite book |和書 |ref={{SfnRef|西川|2021}} |author=西川昭幸 |title=映画は変わった 主役はスターからアニメの時代へ |chapter=第二部 日本映画に"スター"がいた時代 {{small|美空ひばり 最も興行力の有った大女優 娯楽作品で黄金期支える(昭和中期・二四ー三八年)}}|year=2021 |publisher=[[ごま書房新社VM]] |isbn=9784341087852}}
* [https://web.archive.org/web/20150526051018/http://022.holidayblog.jp/?p=5753 芸能ジャーナリスト 渡邉裕二のギョウカイヘッドロック]
* [https://www.asagei.com/24222 美空ひばり “没後25年”未公開取材メモで明かされる「光と孤独」(Asagei+Plus)]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hibari_Misora}}
{{ウィキポータルリンク|音楽|[[画像:Xmms.png|45px|Portal:音楽]]}}
* [[美空ひばり (女優)|美空ひばり]](初代) - [[昭和]]戦前期の女優。1937年に[[松竹歌劇団]]団員、1940年に[[大都映画]]女優となる。大都の3本の映画(『大陸は微笑む』『時代の狼火』『大閤への使者』)に主演した後、1943年に引退。戦後の歌手・女優の美空ひばりと識別するため「初代」と呼ばれることが多いが、正式な呼称ではない。なお、「初代」美空ひばりの[[松竹歌劇団]]の先輩に類似した芸名の御空ひばりがいるが別人。戦後の美空ひばりが、同じ芸名の使用について、戦前の元女優に了解を求めたりはしていないようである。
* [[最も売れたアーティスト一覧]]
* [[1949年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューした歌手
* [[ブロマイド#1949年|年代別プロマイド(ブロマイド)売上ベスト10]] - 1949年 - 1955年、1964年。特に、1949年 - 1955年は男女総合1位。
* [[テレサ・テン]]
== 外部リンク ==
* [http://www.misorahibari.com/ 美空ひばり公式ウェブサイト] ひばりプロが運営している公式サイト
* [https://misorahibari-hero-symbol.jimdofree.com/ 美空ひばり十八番] 美空ひばりの伝道師である二代目美空ひばりこと安田純己さんが作成したサイト
* [https://www.toei-eigamura.com/event/detail/24 京都太秦美空ひばり座] [[東映太秦映画村]]内にある記念館
* [https://www.misorahibari.jp/ 東京目黒美空ひばり記念館] 東京目黒青葉台にある美空ひばり邸の一部を改装して一般公開されている
* {{NHK人物録|D0009070256_00000}}
{{国民栄誉賞}}
{{デフォルトソート:みそら ひはり}}
[[Category:美空ひばり|*]]
[[Category:日本の女優]]
[[Category:日本の女性ポップ歌手]]
[[Category:日本の女性ジャズ歌手]]
[[Category:演歌歌手]]
[[Category:日本の司会者]]
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[[Category:NHK紅白歌合戦司会者]]
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[[Category:国民栄誉賞受賞者]]
[[Category:馬主]]
[[Category:紺綬褒章受章者]]
[[Category:暴れん坊将軍]]
[[Category:特発性大腿骨頭壊死症に罹患した人物]]
[[Category:20世紀日本の人物]]
[[Category:東海大学付属市原望洋高等学校出身の人物]]
[[Category:横浜市出身の人物]]
[[Category:1937年生]]
[[Category:1989年没]]
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2003-09-27T09:02:55Z
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2023-12-31T20:41:48Z
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18,500 |
芳香族化合物
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芳香族化合物(ほうこうぞくかごうぶつ、aromatic compounds)は、ベンゼンを代表とする環状不飽和有機化合物の一群。炭化水素のみで構成されたものを芳香族炭化水素 (aromatic hydrocarbon)、環構造に炭素以外の元素を含むものを複素芳香族化合物 (heteroaromatic compound) と呼ぶ。狭義には芳香族化合物は芳香族炭化水素と同義である。
19世紀ごろ知られていた芳香をもつ化合物の共通構造であったことから「芳香族」とよばれるようになった。したがって匂い(芳香)は芳香族の特性ではない。
ベンゼン環を有する化合物は芳香族化合物の代表であるが、ベンゼン環を有することだけが芳香族である条件ではない。環の大きさ、縮合状態、複素元素や電荷の存在などベンゼンとは異なる構造を有する芳香族化合物が多数存在する。以下に芳香族化合物の分類と例を示す。
芳香族性は、π電子を持つ原子が環状に並んだ構造を持つ不飽和環状化合物に現れる。その中でも、電子基底状態で芳香族性を示す化合物は環上のπ電子系に含まれる電子の数が 4n + 2 (n = 0, 1, 2, 3, ...) 個であるもののみである。このような4n + 2個のπ電子を有する共役不飽和環構造を芳香環と呼び、またこの電子数の法則をヒュッケル則という。芳香環上のπ電子は非局在化し、環上にわたって分布している。また、共役の効率を高めるため環は平面構造をとる。このとき、π電子系とは二重結合由来のπ電子だけに限定されず、6員環である必要もなく、5員環の芳香族化合物も数多く知られている。例えばシクロペンタジエニルアニオンはアニオンの電子がπ電子系に関与し、あるいはチオフェンでは硫黄の孤立電子対がπ電子系に関与して芳香族性を現わす。このためチオフェンの硫黄原子を酸化し SO とすると硫黄の孤立電子対は酸素との結合に用いられるため芳香族性を失い、ジエンとしての反応性を示すようになる。
非局在電子に由来する磁気の遮蔽効果(核磁気共鳴などを参照)はあたかも環状の電流が存在するように作用するため環電流と呼ぶことがあるが、実際に電子が周回しているわけではない。前述の非局在化という言葉の示す通り、π電子は特定の場所にすら存在しておらず、全体として雲のように拡がっている(量子力学を参照)。ただ、実際に有機化学反応を考える場合、複数の共鳴寄与構造の間でπ電子が往来している、と考えた方が理解が容易になり、また、それで十分な場合も少なくない。
芳香族性は厳密な定義が存在しない概念であるが、上記の通り、構造的な特徴(結合長の同一化)、磁気的な特徴(環電流の発生)、エネルギー的な特徴(芳香族安定化)の3要素が芳香族性分子の条件とされている。
芳香環は、他の不飽和環構造に比べ安定であると同時に反応性も異なる。
たとえば、ベンゼンに対して臭素 (Br2) は置換反応を起こし、アルケンなどの非芳香族不飽和化合物のように付加反応は起こらない。
求核置換反応についても、反応点への背面攻撃が困難であったり、sp炭素のカチオンが不安定であったりするため、SN1 や SN2 機構は難しい。
ヒュッケル則で説明される芳香族性の他、sp原子が環に参加するホモ芳香族性、環がよじれてメビウスの帯のようになり、4n 電子系が安定化するメビウス芳香族性など、非古典的な芳香族性が知られる。
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"text": "芳香族化合物(ほうこうぞくかごうぶつ、aromatic compounds)は、ベンゼンを代表とする環状不飽和有機化合物の一群。炭化水素のみで構成されたものを芳香族炭化水素 (aromatic hydrocarbon)、環構造に炭素以外の元素を含むものを複素芳香族化合物 (heteroaromatic compound) と呼ぶ。狭義には芳香族化合物は芳香族炭化水素と同義である。",
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"text": "芳香族性は、π電子を持つ原子が環状に並んだ構造を持つ不飽和環状化合物に現れる。その中でも、電子基底状態で芳香族性を示す化合物は環上のπ電子系に含まれる電子の数が 4n + 2 (n = 0, 1, 2, 3, ...) 個であるもののみである。このような4n + 2個のπ電子を有する共役不飽和環構造を芳香環と呼び、またこの電子数の法則をヒュッケル則という。芳香環上のπ電子は非局在化し、環上にわたって分布している。また、共役の効率を高めるため環は平面構造をとる。このとき、π電子系とは二重結合由来のπ電子だけに限定されず、6員環である必要もなく、5員環の芳香族化合物も数多く知られている。例えばシクロペンタジエニルアニオンはアニオンの電子がπ電子系に関与し、あるいはチオフェンでは硫黄の孤立電子対がπ電子系に関与して芳香族性を現わす。このためチオフェンの硫黄原子を酸化し SO とすると硫黄の孤立電子対は酸素との結合に用いられるため芳香族性を失い、ジエンとしての反応性を示すようになる。",
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"text": "芳香族性は厳密な定義が存在しない概念であるが、上記の通り、構造的な特徴(結合長の同一化)、磁気的な特徴(環電流の発生)、エネルギー的な特徴(芳香族安定化)の3要素が芳香族性分子の条件とされている。",
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"text": "ヒュッケル則で説明される芳香族性の他、sp原子が環に参加するホモ芳香族性、環がよじれてメビウスの帯のようになり、4n 電子系が安定化するメビウス芳香族性など、非古典的な芳香族性が知られる。",
"title": "非古典的芳香族性"
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芳香族化合物は、ベンゼンを代表とする環状不飽和有機化合物の一群。炭化水素のみで構成されたものを芳香族炭化水素、環構造に炭素以外の元素を含むものを複素芳香族化合物 と呼ぶ。狭義には芳香族化合物は芳香族炭化水素と同義である。 19世紀ごろ知られていた芳香をもつ化合物の共通構造であったことから「芳香族」とよばれるようになった。したがって匂い(芳香)は芳香族の特性ではない。
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{{Redirect|芳香族|芳香を持つ化合物|芳香化合物}}
{{出典の明記|date=2023年4月}}
'''芳香族化合物'''(ほうこうぞくかごうぶつ、aromatic compounds)は、[[ベンゼン]]を代表とする環状不飽和有機化合物の一群。炭化水素のみで構成されたものを[[芳香族炭化水素]] (aromatic hydrocarbon)、環構造に炭素以外の元素を含むものを[[複素芳香族化合物]] (heteroaromatic compound) と呼ぶ。狭義には芳香族化合物は芳香族炭化水素と同義である。
19世紀ごろ知られていた芳香をもつ化合物の共通構造であったことから「芳香族」とよばれるようになった。したがって匂い(芳香)は芳香族の特性ではない。
芳香族類は、芳香族(aromatic)、[[反芳香族性|反芳香族]](antiaromatic)、非芳香族(nonaromatic)に分類される。芳香族の反対に当たるものが反芳香族、芳香族、反芳香族のいずれにも当たらないものが非芳香族と呼ばれる。
== 分類 ==
ベンゼン環を有する化合物は芳香族化合物の代表であるが、ベンゼン環を有することだけが芳香族である条件ではない。環の大きさ、縮合状態、複素元素や電荷の存在などベンゼンとは異なる構造を有する芳香族化合物が多数存在する。以下に芳香族化合物の分類と例を示す。
* ベンゼン系芳香族化合物 (benzenoid aromatic compound)
** 縮合環芳香族化合物 (condensed ring aromatic compound)
*** ベンゾ縮合環化合物
* 複素芳香族化合物 (heteroaromatic compound)
** [[フラン_(化学)|フラン]]
** [[チオフェン]]
** [[ピロール]]
** [[ピラゾール]]
** [[イミダゾール]]
** [[ピリジン]]
** [[ピリダジン]]
** [[ピリミジン]]
** [[ピラジン]]
* 非ベンゼン系芳香族化合物 (non-benzenoid aromatic compound)
** [[アヌレン]]
** [[アズレン]]
** [[シクロペンタジエニルアニオン]]
** [[トロピリウム|シクロヘプタトリエニルカチオン]](トロピリウムイオン)
** [[トロポン]]
** [[メタロセン]]
** [[アセプレイアジレン]]
== 芳香族性 ==
[[ファイル:Benzene-orbitals3.png|thumb|ベンゼンについて、炭素のπ電子と非局在化]]
芳香族性は、[[π電子]]を持つ原子が環状に並んだ構造を持つ不飽和環状化合物に現れる。その中でも、電子基底状態で芳香族性を示す化合物は環上のπ電子系に含まれる電子の数が 4n + 2 (n = 0, 1, 2, 3, ...) 個であるもののみである。このような4n + 2個の[[π電子]]を有する共役不飽和環構造を芳香環と呼び、またこの電子数の法則を[[ヒュッケル則]]という。芳香環上のπ電子は[[共鳴理論|非局在化]]し、環上にわたって分布している。また、共役の効率を高めるため環は平面構造をとる。このとき、π電子系とは二重結合由来のπ電子だけに限定されず、6員環である必要もなく、5員環の芳香族化合物も数多く知られている。例えばシクロペンタジエニルアニオンはアニオンの電子がπ電子系に関与し、あるいは[[チオフェン]]では硫黄の孤立電子対がπ電子系に関与して芳香族性を現わす。このためチオフェンの硫黄原子を酸化し SO とすると硫黄の孤立電子対は酸素との結合に用いられるため芳香族性を失い、[[ジエン]]としての反応性を示すようになる。
[[非局在電子]]に由来する磁気の遮蔽効果([[核磁気共鳴]]などを参照)はあたかも環状の電流が存在するように作用するため[[環電流]]と呼ぶことがあるが、実際に電子が周回しているわけではない。前述の非局在化という言葉の示す通り、π電子は特定の場所にすら存在しておらず、全体として雲のように拡がっている([[量子力学]]を参照)。ただ、実際に有機化学反応を考える場合、複数の共鳴寄与構造の間でπ電子が往来している、と考えた方が理解が容易になり、また、それで十分な場合も少なくない。
芳香族性は厳密な定義が存在しない概念であるが、上記の通り、構造的な特徴(結合長の同一化)、磁気的な特徴(環電流の発生)、エネルギー的な特徴(芳香族安定化)の3要素が芳香族性分子の条件とされている<ref>{{Cite journal|last=Slayden|first=Suzanne W.|last2=Liebman|first2=Joel F.|date=2001-05|title=The Energetics of Aromatic Hydrocarbons: An Experimental Thermochemical Perspective|url=https://doi.org/10.1021/cr990324+|journal=Chemical Reviews|volume=101|issue=5|pages=1541-1566|doi=10.1021/cr990324+|issn=0009-2665|publisher=American Chemical Society}}</ref>。
== 芳香族固有の反応 ==
芳香環は、他の不飽和環構造に比べ安定であると同時に反応性も異なる。
たとえば、ベンゼンに対して[[臭素]] (Br<sub>2</sub>) は置換反応を起こし<ref group="注釈">通常は臭化鉄などの適切な触媒が必要。</ref>、[[アルケン]]などの非芳香族不飽和化合物のように付加反応は起こらない。{{main|芳香族求電子置換反応}}
[[求核置換反応]]についても、反応点への背面攻撃が困難であったり、sp<sup>2</sup>炭素のカチオンが不安定であったりするため、S<sub>N</sub>1 や S<sub>N</sub>2 機構は難しい。{{main|芳香族求核置換反応}}
== 非古典的芳香族性 ==
ヒュッケル則で説明される芳香族性の他、sp<sup>3</sup>原子が環に参加する[[ホモ芳香族|ホモ芳香族性]]、環がよじれて[[メビウスの帯]]のようになり、4n 電子系が安定化する[[メビウス芳香族性]]、励起状態の芳香族性として[[ベアード則|Baird芳香族性]]が知られている。
{| class="wikitable"
!Type
!Cyclic symmetry
!Electron rule
!State
!Occurrence
|-
!Hückel aromaticity
|Cylindrical
|4''n'' + 2
|Singlet
|Aromatic rings
|-
!Möbius aromaticity
|Möbius
|4''n''
|Singlet
|''Trans''aromatic rings
|-
!Spherical aromaticity
|Spherical
|2(''n''+1)<sup>2</sup>
|Singlet
|Fullerenes
|-
!Baird
aromaticity
|Cylindrical
|4n
|Triplet
|
|}
2008年、SonciniとFowlerは、偶数スピンの最下位電子状態にある4n+2 π電子と、奇数スピンの最下位電子状態にある4n π電子のアヌレンは芳香族であると述べ、両方の規則を高スピン状態に拡張した。[https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0009261407015849?via%3Dihub <sup><nowiki>[1]</nowiki></sup>]
Mandadoらは、Hückel則とBaird則、およびSoncini-Fowler拡張を融合して、α電子とβ電子が奇数(2m+1)個あるアヌレンは芳香族であり、α電子とβ電子が偶数(2m)個あるアヌレンは反芳香族であるという単一の規則にできることを示した。[https://pubs.aip.org/aip/jcp/article-abstract/129/16/164114/936357/Aromaticity-in-spin-polarized-systems-Can-rings-be?redirectedFrom=fulltext <sup><nowiki>[2]</nowiki></sup>]
== 主な芳香族化合物 ==
=== 一置換化合物 ===
* [[トルエン]]
* [[エチルベンゼン]]
* [[クメン]]
* [[フェノール]]
* [[ベンジルアルコール]]
* [[アニソール]]
* [[ベンズアルデヒド]]
* [[安息香酸]]
* [[アセトフェノン]]
* [[ベンゼンスルホン酸]]
* [[ニトロベンゼン]]
* [[アニリン]]
* [[チオフェノール]]
* [[ベンゾニトリル]]
* [[スチレン]]
=== 二置換化合物 ===
* [[キシレン]]
* [[クレゾール]]
* [[カテコール]]
* [[レゾルシノール]]
* [[ヒドロキノン]]
* [[フタル酸]]
* [[イソフタル酸]]
* [[テレフタル酸]]
* [[サリチル酸]]
* [[トルイジン]]
=== [[芳香族多環化合物]] ===
* [[ビフェニル]]
* [[ベンゾフェノン]]
* [[トリフェニルメタン]]
* [[フェノールフタレイン]]
=== [[縮合環化合物]] ===
* [[アセン]]類
** [[ナフタレン]]
** [[アントラセン]]
** [[テトラセン]]
** [[ペンタセン]]
* [[フェナントレン]]
* [[クリセン]]
* [[トリフェニレン]]
* [[テトラフェン]]
* [[ピレン]]
* [[ピセン]]
* [[ペンタフェン]]
* [[ペリレン]]
* [[ヘリセン]]
* [[コロネン]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Aromatics}}
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
{{ウィキプロジェクトリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキプロジェクト 化学]]}}
* [[芳香族炭化水素]]
* [[共鳴理論]]
* [[共役系|共役]]
* [[π-π相互作用]]
* [[芳香化合物]]
== 外部リンク ==
* [https://goldbook.iupac.org/terms/view/A00441 aromatic] - IUPAC Gold Book
{{化学結合}}
{{芳香環}}
{{Normdaten}}
{{chem-stub}}
{{DEFAULTSORT:ほうこうそくかこうふつ}}
[[Category:芳香族化合物|*]]
[[Category:環式化合物]]
[[Category:有機化学]]
|
2003-09-27T09:06:00Z
|
2023-10-22T01:29:44Z
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18,502 |
小田急ロマンスカー
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小田急ロマンスカー(おだきゅうロマンスカー、英: ODAKYU ROMANCECAR、中: 小田急"浪漫"特快)は、小田急電鉄が運行する特急列車および特急車両の総称。列車により小田急小田原線、小田急江ノ島線のほか、箱根登山線や東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転を行う。また「ロマンスカー」は小田急電鉄の登録商標(ロマンスカーの記事も参照)。
本項では、「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄を指すものとし、箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れる特急列車については、特に区別の必要がない場合は「箱根特急」と標記する。
「ロマンスカー」の呼称は昭和初期から存在し、京阪電気鉄道が1927年(昭和2年)に新造した転換クロスシート車の1550型(後に600型に改番)を「ロマンスカー」と称したのが日本における「ロマンスカー」の初出と見られ、この時点では「ロマンスカー」は小田急の専有名称ではなかった。
京阪では、一時は盛んにロマンスカーの呼称を用いたが、1953年登場の2代目特急専用車(京阪特急)1800系に1954年からテレビ受像器を搭載し、これを看板車両「テレビカー」としてアピールするようになり、1960年の広告では「テレビ付ロマンスカー」という表現が使われていた。その後、「京阪ロマンスカー」の呼称は消滅した。
一方、小田急では、1934年頃の江の島海水浴宣伝のパンフレットに「ロマンスカーは走る」「大東京のセンター新宿から」の文言が掲載され、電車内の写真にも「小田急のロマンスカー」と説明がつけられた。
第二次世界大戦後の1949年頃に、新宿の映画館「新宿武蔵野館」を復旧改装するにあたり、恋人同士の映画鑑賞を企図して2人掛けの座席を館内2階に設けたところ「ロマンスシート」としてマスメディアに取り上げられた。その頃に運行を開始した小田急の特急車両が2人掛けの対面座席を採用したことから「ロマンスカー」と称され、「小田急ロマンスカー」と命名された。しかしこの時期にはまだ、国鉄を含め他社も同様の車両を有し、その一部は「ロマンスカー」を名乗っていた。
1991年に東武1720系「デラックスロマンスカー (DRC)」が引退したのを機に、小田急は「ロマンスカー」を自社で商標登録した。なお小田急以外で「ロマンスカー」として製造された車両が完全に引退したのは、2012年の長野電鉄2000系の運用離脱である。
なお「ロマンスカー」は和製英語であり、英語圏では通じない。60000形MSE車のブルネル賞受賞表彰式に際し、小田急の担当者が「6両と4両の2編成がキスをするからロマンスカーなのか」と現地の人から質問されたというエピソードもある。
2010年時点で、小田急電鉄における特急列車はロマンスカーを指し、他社は「つぎ(こんど)の特急」と標記するところを、ホーム上に設置した特急券券売機で「つぎ(こんど)のロマンスカー」と標記している。それ以外の旅客上の案内では、小田急と東京メトロともに「特急ロマンスカー」という表現を用いている。
1927年4月1日に開業当初の小田急は、昭和初期の不況の影響で沿線は一向に発展せず、もともと過大な初期投資に加えて乱脈経営が祟ったこともあり、厳しい経営状態を余儀なくされていた。1929年4月1日に江ノ島線が開業してからは夏季の海水浴客輸送の時に運賃を往復で5割引にするなどして増収策を図り、全車両をフル稼働させて対応していた。
一方、あまり積極的ではなかったものの、小田原線も箱根への観光客輸送を目的の1つとしており、増収策の一環として、週末のみ新宿から小田原までをノンストップで運行する列車が立案された。小田急ではこの列車の車内では、沿線案内をレコードで流し、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流すことを発案、当時新宿に存在した娯楽施設のムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」「小田急音頭」の製作を依頼し、沿線案内の吹き込みはムーランルージュ新宿座の看板女優であった明日待子が担当した。78回転盤(SPレコード)6枚組に仕上がったレコードが完成し、実際に走行中の車内でテストしたが針が飛んでしまい、この試みは失敗であった。
ともあれ、1935年6月1日から、新宿 - 小田原間をノンストップで結ぶ「週末温泉急行」の運行を開始した。この急行には車両はクロスシートを装備した便所付の車両であった101形などが使用され、新宿 - 小田原間を90分で結んだ。運行は土曜日の下り列車のみで、帰りとなる日曜日は通常の急行列車が運行された。これが小田急ロマンスカーのルーツとなる列車であるが、陰では「おしのび電車」などと言われていたという。
しかし、1941年12月に太平洋戦争が始まり、1942年1月から週末温泉急行は運休となり、同年4月にはダイヤ上の設定もなくなった。小田急自体も、同年5月には東京横浜電鉄と合併し東京急行電鉄(大東急)となった。
終戦後の1946年には大東急で「鉄軌道復興3カ年計画」が策定されたが、この中には小田原線の箱根登山鉄道への乗り入れ計画が含まれていた。また、終戦の時点では新宿から小田原までは2時間30分もの所要時間を要していたが、五島慶太は終戦直後にこの所要時間を半分にするように指示していた。
1948年6月1日に大東急から小田急が分離独立したが、小田急は東急と比較すると営業路線長は約2倍あったにもかかわらず、運輸収入は半分に過ぎなかった。そこで、収入増の方策として箱根への直通旅客増加を図ることとなり、その一環として新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運行が計画された。複数車種で試運転などを行った結果、この特急に使用される車両として1600形の中から「復興整備車」として重点的に整備されていた車両が指定され、特急料金の制定や各種ポスターの製作など準備が行われた。
こうして、1948年10月16日から新宿と小田原を結ぶ特急列車の運行が開始された。土曜日は下り1本のみ、日曜日は下り1本・上り2本のみの運行で、所要時間は100分であった。使用車両は、朝ラッシュ時の通勤輸送に使用した1600形が入庫した後に、3つある乗降用扉のうち真ん中の扉を締め切った上で補助座席を置き、ロングシートに白いカバーをかけた上でスタンド式灰皿を並べただけであったが、戦後の復興途上だったこの時期においては精一杯のサービスであった。当初計画では同年10月9日から運行開始の予定であったが、豪雨の影響で箱根登山鉄道線が不通になってしまったために1週間延期されている。
運行開始当初は集客がうまくいかず、運輸部門では縁故を通じて乗客の勧誘に歩き回り、駅の出札窓口でも積極的に特急列車の売り込みを行った。乗客が少ない時には、本社勤務の社員が「サクラ」となって乗車したりしたこともあったというが、次第に利用者が増加し、予想を上回る好成績となった。
なおこのころには、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会において、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されている。
1949年には、小田急が分離独立してから初めて新型電車を製造することになった。当時の新車製造は割当制であり、小田急には15両が割り当てられた。割り当てのうち10両が1900形として発注されることになったが、営業部門からクロスシートを装備した特急車両を要望する意見が強かったため、このうち4両を特急車両の1910形として製造することになった。ただし、朝のラッシュ時には通勤輸送にも使用することになったので、扉付近をロングシートとした2扉セミクロスシートの車両となった。また、編成は3両固定編成とし、中間車には日本国有鉄道(国鉄)の戦災焼失車の台枠を流用した改造車両を連結することとなった。また、前年に近畿日本鉄道が特急の運行を再開した際に、2200系がレモンイエローと青の2色塗りとしていたものにあやかり、この特急車両の外部塗色は濃黄色と紺色の2色塗りとすることになった。
1910形は同年7月に入線し、同年8月から2両編成で営業運行を開始(ただしこの時点では、まだロングシートの新車1900形を2連で使用した時もあった)、同年9月から本来の3両固定編成となって運行を開始した。1910形を使用した特急では、「走る喫茶室」と称した、車内に喫茶カウンターを設け、車内で飲み物を販売するサービスが開始された。所要時間は90分であった。
また、同年10月のダイヤ改正から、特急は1往復が毎日運転されることになった。小田急が公式に「ロマンスカー」という愛称を用いたのはこの時からで、ポスターで「ニュールックロマンスカー毎日運転」と宣伝された。
このころ、小田急では箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れるための計画が進められていた。
しかし、小田急の軌間が1,067mmであるのに対して箱根登山は1,435mm、架線電圧も小田急の1,500Vに対して箱根登山は600Vであった。また、箱根登山では小田原から箱根湯本までの区間を「平坦線」と称していたが、これは箱根登山の80‰という急勾配と比較しての話で、実際には40‰もの勾配が続いており、小田急の最急勾配が25‰であったのと比べればはるかに急な勾配であった。
この対応として、軌道は三線軌条とし、架線電圧については小田原と箱根湯本の間は1,500Vに昇圧することになり、1950年8月1日から小田急から箱根湯本までの直通運転が開始された。この時に新宿と小田原の間についてもスピードアップが図られ、新宿と小田原は80分で結ばれるようになった。
この直通運転開始後に特急の利用者は急増し、同年10月からは特急は毎日3往復に増発された。
特急利用者の増加は続き、2000形が2編成だけでは不足するようになり、「特急券がとれない」という苦情も来るほどで、営業部門からは特急車両増備の要望が高まってきた。また、2000形は扉付近の座席がロングシートであり、全ての座席をクロスシートにして欲しいという要望もあった。しかし、収支面からはラッシュ輸送に使用できない特急専用車の新造を危ぶむ意見もあった。社内での検討の結果、将来を考えて特急専用車を導入するが、製造コストをできるだけ安価にするため、台枠は国鉄の戦災復旧車や事故焼失車のものを流用することになった。
こうして1951年2月に登場したのが1700形で、全ての座席が転換クロスシートとなり、さらに座席数を増やすため、乗降用の扉は3両で2箇所という思い切った設計とした。この1700形が、小田急ロマンスカーの地位を不動のものにしたとされている。この1700形の導入後の同年8月20日から、それまでは座席定員制だったものを座席指定制に変更した。また、夕方に新宿に到着した特急車両にビール樽を積み込み、江ノ島まで往復する「納涼ビール電車」の運行も開始されたこの時点では、検査時や増発時には引き続き2000形も使用されていた。しかし、設備面の格差が大きいことによる苦情があり、同年8月までに第2編成が製造された。
また1700形投入後に特急利用者の増加傾向が見られ、特急の営業的な成功は明らかとなった。このため、1952年8月に完全な新造車両として第3編成が投入された。特急の利用者数がさらに増加するのに対応し、1953年には特急の増発が行なわれたほか、それまで使用されていた2000形を使用した座席定員制の急行列車が運行された。
また、1954年夏からは江ノ島線にも特急料金が設定され、夏季海水浴客輸送の期間には江ノ島線にも1700形を使用した特急が運行されるようになった。
このころの小田急では、先に述べた「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標に向けて、高性能車の開発に向けた試験を進めていた。1954年7月には小田急ではじめてカルダン駆動方式を採用した通勤車両として2200形が登場しており、同年9月11日には「画期的な軽量高性能新特急車」の開発が決定していた。
しかし、予想を上回る特急利用者数の増加があり、新型特急車両の登場を待つ余裕はないと判断されたが、すでに通勤車両がカルダン駆動方式を採用しているのに、今さら特急車両を旧式の吊り掛け駆動方式で増備することは考えられなかった。このため、暫定的に2200形の主要機器を使用し、車体を特急用とした2300形が1955年に登場した。また、この年の10月からは、御殿場線へ直通する特別準急の運行が開始されている。
1954年から国鉄鉄道技術研究所の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」は、1957年に3000形として登場した。この3000形は "Super Express car" 、略して「SE車」と呼ばれる車両で、数多くの新機軸が盛り込まれ、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された、低重心・超軽量の流線形車両であった。「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり、鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた。同年7月6日よりSE車の営業運行が開始されたが、すぐに夏休みに入ったこともあって、連日満席となる好成績となり、営業的にも成功した。
また、同年9月には国鉄東海道本線でSE車を使用した高速走行試験が行われたが、私鉄の車両が国鉄の路線上で走行試験を行なうこと自体が異例のことであるのみならず、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録である145km/hを樹立した。また、これを契機に鉄道友の会では優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設し、SE車は第1回受賞車両となった。
SE車が運用開始された1957年時点では、新宿と小田原は75分で結ばれていたが、SE車は1958年までに4編成が製造され、特急が全てSE車による運行となったため、1959年からは67分で結ばれるようになった。さらに1961年には新宿と小田原の間の所要時間は64分にまでスピードアップした。
1959年からは、特急を補完するための準特急の運行が開始された。使用車両は2扉セミクロスシート車で、特急運用から外れた2300形と、新造した2320形が使用された。
SE車の登場以後、特急利用者数はさらに増加し、週末には輸送力不足の状態となっていた。また、1960年には箱根ロープウェイが完成し、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースが完成したことから、箱根の観光客自体が急増した。更に、1964年東京オリンピックの開催を控えていたこともあり、特急の輸送力増強策が検討された。その結果として、1963年に3100形が登場した。この3100形は "New Super Express" 、略して「NSE車」と呼ばれ、8両連接車だったSE車に対し、NSE車では11両連接車とし、さらに編成両端を展望席とすることによって定員増を図った車両である。また、SE車と比較すると豪華さが強調される車両となった。1963年にNSE車が4編成製造されたことによって、箱根特急の30分間隔運行が実現し、同時に新宿と小田原の間の所要時間は62分にまでスピードアップした。
この時期まで、箱根特急の列車愛称は列車ごとに異なり、後述するようにNSE登場直前の時点で16種類の愛称が使用されていたが、NSE車の登場後の1963年11月4日からは5種類に整理されたほか、準特急という種別は廃止となった。その後、NSE車はさらに3編成が増備され、1967年からは箱根特急の全列車がNSE車で運用されることになった。
また、1964年3月21日からは、それまで夏季のみ運行されていた江ノ島線の特急が土休日のみであるが通年運行となり、1965年3月1日からは毎日運転となった。1966年6月1日からは特急の愛称がさらに整理され、新宿から小田原までノンストップの列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園と新松田に停車する列車は「さがみ」、江ノ島線特急は「えのしま」に統一された。なお、途中駅に停車する特急はこのときの改正で新設されたもので、元来は沿線在住の箱根観光客を対象としたものであった。1968年7月1日からは、御殿場線直通列車が気動車からSE車に置き換えられ、愛称も「あさぎり」に統一された。列車種別は同年10月から「連絡急行」に変更されている。1968年12月31日からは、初詣客に対応する特急「初詣号」の運行が行なわれるようになったが、この列車は普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴であった。
しかし、通勤輸送への対応やそれに伴う新宿駅再改良工事などの影響で、1972年以降、新宿から小田原までの所要時間は最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた。線路容量不足のため、上り「さがみ」の一部が新宿まで運行できず、向ヶ丘遊園終着とする措置まで行なわれた。
その一方で、通勤輸送に特急を活用する施策も開始された。
1967年4月27日からは江ノ島線特急「えのしま」が新原町田停車となり、同年6月23日からは特急券を購入すれば定期乗車券でも特急に乗車できるようになり、さらに同年8月からは新原町田に停車する特急「あしがら」の新設と増発が行われた。特に、新宿に到着して相模大野の車庫へ回送される列車を新原町田まで客扱いしたところ、通勤帰りの利用者が多くなったため、1968年には経堂の車庫へ回送される車両を相模大野の車庫への入庫に変更するなどして増発が行われた。同年7月10日からは「さがみ」の本厚木停車が開始された。
これは優等列車による通勤・通学対応としては日本では初の事例であり、この後も徐々に通勤対応の特急が増発されてゆく。なお、1971年10月1日からは、連絡急行「あさぎり」の新原町田停車が開始されたが、「あさぎり」についてはこの時点では定期乗車券での利用はできなかった。
しばらくは特急ロマンスカーについては大きな動きはなかったが、1970年代に入るとSE車の老朽化が進み、代替を検討する時期となっていた。このため、SE車の代替を目的として、1980年に7000形が登場した。7000形は "Luxury Super Express" 、略して「LSE車」と呼ばれる車両で、編成長や定員はNSE車と大きく変わらないものの、デザインや主要機器などが一部変更されている。LSE車の導入により、特急の輸送力増強が図られた。1982年12月には、国鉄からの申し入れにより、東海道本線上での走行試験にLSE車が使用された。国鉄の路線上で私鉄の車両が走行試験を行なった事例は、SE車とこのLSE車だけである。
1984年2月1日からは、連絡急行「あさぎり」の停車駅に本厚木・谷峨が追加され、1985年からは「あさぎり」も定期乗車券での利用が可能となった。また、1986年10月4日からは、LSE車の車内に公衆電話が設置された。
この時期になると、レジャーの傾向は多様化が進んでおり、ゆとり以外に「一味違ったもの」が求められていた。また、観光バスや他の鉄道事業者の車両においては高床(ハイデッキ)構造の車両が登場しており、折りしも1987年は小田急の開業60周年となることから、これを記念するために新型特急車両として10000形が登場した。10000形は "High decker" 、 "High grade" 、 "High level" 、 "High performance" などのキーワードから連想する、上級というイメージを表して「HiSE車」と呼ばれ、客席を高くしたハイデッキ構造とし、「走る喫茶室」にオーダーエントリーシステムが採用されたほか、外装も近代的なイメージを意図したカラーリングに変更した。
一方、1988年7月、小田急が東海旅客鉄道(JR東海)に対し、連絡急行「あさぎり」に使用していたSE車の置き換えを申し入れたことがきっかけとなり、特急に格上げした上で両社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更し、運行区間も新宿と沼津の間に延長することとなり。1991年に20000形が登場した。20000形は "Resort Super Express" 、略して「RSE車」と呼ばれる車両で、JR東海371系電車と基本仕様を統一したため、それまでの特急ロマンスカーの特徴であった連接構造や前面展望席は採用されず、2階建て車両(ダブルデッカー)や特別席(スーパーシート・グリーン席)を設置するなど、それまでの小田急ロマンスカーの仕様からはかけ離れた車両となった。
このころになると、小田急ロマンスカーの利用者層にも変化が生じていた。観光客以外の日常利用が増加していたほか、1967年から開始された夕方新宿発の通勤用特急は増発が続けられ、当初の「回送列車の客扱い」という思惑を超え、わざわざ新宿まで出庫させる運用まで登場していたが、それでも輸送力の増強が求められていた。しかし、当時はまだ通勤輸送に対応した複々線化工事は進展しておらず、これ以上の増発やスピードアップは困難な状況で、単位輸送力の向上、言い換えれば列車の定員を増やすしか方法がなかった。また、1963年から導入されているNSE車が置き換えの時期となっていた。
こうした状況下、箱根特急の利用者数が年率5%程度の減少傾向が続いており、これを日常的な目的での特急利用者を増加させることで補う意図もあった。これにあわせて、1996年にそれまでとは一線を画す車両として30000形が登場した。30000形は "Excellent Express" 、略して「EXE車」と呼ばれる車両で、それまでの小田急ロマンスカーの特徴であった前面展望席も連接構造も導入されていない。
EXE車の導入後も、日常利用への対応は続けられた。1998年からは相模大野・秦野にも特急が停車することとなり、1999年7月からは「あしがら」「さがみ」を統合して「サポート」としたほか、新宿を18時以降に発車する特急は全て「ホームウェイ」という愛称になった。こうした施策によって、1987年時点では1100万人だった特急の年間利用者数は、2003年には1400万人に増加したのである。
ところが、日常的な特急の利用者数が増加する一方で、箱根特急の利用者数は大幅に減少していた。1987年の箱根特急の年間利用者数は550万人であったが、2003年の利用者数は300万人程度にまで落ち込んでいたのである。この理由を調べると、バブル崩壊後の景気低迷もあって箱根を訪れる観光客自体も減少傾向にあったほか、EXE車には「小田急ロマンスカーのイメージ」とされた展望席が存在しなかったことが挙げられた。また、2001年から運行を開始したJR東日本の「湘南新宿ライン」も2004年には運行区間が延長され、特急ロマンスカーとあまり変わらない所要時間で新宿と小田原を結ぶようになった。
このような状況下、2002年からは箱根特急へのてこ入れが開始されることになった。宣伝ポスターも、ロマンスカーを大写しにするのではなく、あくまで風景の一部としてロマンスカーを取り入れる施策に変更した。この時考案された「きょう、ロマンスカーで。」のキャッチコピーは、2023年現在に至るまで使用されている。また、ロマンスカーの看板車両として、前面展望席のあるHiSE車を再び起用することになったが、そのHiSE車は登場した1987年当時の時点では全く想定していなかったバリアフリー対応が困難であることから、更新は行なわずに小田急は苦渋の決断で新型特急車両で置き換えることになった。新型特急車両は、「もはやロマンスカーとは名乗らないくらいの覚悟で、新しい発想を取り入れる」か、「ロマンスカーの原点に立ち返り、ロマンスカーの中のロマンスカーとする」という2つの方向性があったが、後者の方向性で進められることになった。
こうして、2005年に「小田急ロマンスカー」ブランドの復権を掲げ、小田急の新たなフラッグシップモデルとして50000形が登場した。50000形は前面展望席と連接構造を採用し、乗り心地向上のために車体傾斜制御や台車操舵制御などを取り入れたほか、「箱根へ向かう乗客にときめきを与え、乗った瞬間に箱根が始まる」ことを目指した車両で、客室内の様式から "Vault Super Express" 、略して「VSE車」と呼ばれる車両である。VSE車の登場後、箱根を周遊するための乗車券である「箱根フリーパス」の販売枚数は、2006年に49万8000枚だったものが、2009年には74万枚に増加した。
なお、2004年12月には再度ロマンスカーの愛称の整理が行われ、箱根特急は全て「はこね」、箱根湯本に乗り入れない小田原線の特急は停車駅に関わらず「さがみ」という愛称に変更された。その影響により、「サポート」の愛称は登場わずか6年ほどですべて廃止されている。
2005年に、小田急と東京メトロでは、ロマンスカーを東京メトロ千代田線(湯島駅 - 代々木上原駅間、のちに北千住駅までに変更)に乗り入れる計画を発表した。これは日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で、このために60000形が登場した。60000形は「多彩な運行が可能な特急列車」という意味で "Multi Super Express" 、略して「MSE車」と呼ばれる車両で、2008年3月から営業運行を開始した。
2012年3月17日からは、「あさぎり」の運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮されることになり、「あさぎり」全列車がMSE車により運行されることになった。
2017年、日本車輌製造でEXE車のリニューアルが開始され、その後同年3月1日から営業運転を開始した。従来の塗色から、ロマンスカー伝統の赤い線が追加され、車内も大幅にリニューアルされた。例えば座席は構造を変更し、トイレも車椅子対応の洋式に改造され、車体のロゴもMSEと同様になり、走行装置もSiC素子を用いたVVVFインバータを採用し、省エネ化が図られた。現在4両編成×3編成、6両編成×3編成がリニューアルされている。
2018年3月17日、10年ぶりとなる新型車両70000形が営業運転を開始した。VSE車以来13年ぶりとなる展望席が設置されたが、「ホームウェイ」などの通勤利用も考慮して連接台車構造は採用されず、20m級車体のボギー台車構造となった。「箱根につづく時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」という意味で"Graceful Super Express"、略して「GSE車」と呼ばれている。
また、この年に長年の悲願であった代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化が完成し、GSE車のデビューと同日に行われたダイヤ改正で平日朝の上り列車を増発し、新宿駅・千代田線大手町駅に9時30分までに到着する列車を「モーニングウェイ」「メトロモーニングウェイ」に改称した。加えて、土休日の一部の「スーパーはこね」が新宿駅〜小田原駅間を最短59分で結ぶようになり、SE車開発当時の悲願であった「新宿〜小田原間60分以内」の目標が達成された。
運賃や料金については、公式サイトを参照
戦前の「週末温泉急行」がルーツとなる、箱根への観光客を輸送するための列車である。1950年から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで乗り入れるようになった。
1950年10月以降は愛称が設定されたが、列車ごとに異なる愛称が設定されており、毎日運転の列車が「あしがら」「はこね」「乙女」、休前日・休日のみ運行の列車では「明神」という愛称であった。その後増発されるごとに愛称も増加し、1963年にNSE車が登場する直前の時点では、新宿駅発車時刻順に「あしのこ」「明星」「あしがら」「さがみ」「大観」「仙石」「はつはな」「湯坂」「明神」「はこね」「乙女」「神山」「姥子」「金時」「早雲」「夕月」という16種類に上った。NSE車の登場後の1963年11月4日から、愛称は「あしがら」「あしのこ」「はこね」「きんとき」「おとめ」の5種類に整理された。1966年6月1日からは停車駅別に愛称が分けられ、新宿 - 小田原の間をノンストップで運行する列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園・新松田に停車する列車は「さがみ」、1967年8月から運行開始された新原町田に停車する列車は「あしがら」という愛称になった。
1996年3月からは愛称ごとの停車駅が変更され、「はこね」の停車駅に町田が、「あしがら」の停車駅に本厚木が追加され、新宿と小田原の間をノンストップで運行する列車の愛称は「スーパーはこね」に変更された。さらに、1999年7月からは、日中の特急は「あしがら」と「さがみ」を統合して「サポート」という愛称に変更されたほか、18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称は全て「ホームウェイ」に変更された。
2004年12月には、箱根特急は「はこね」「スーパーはこね」、小田原線内のみ運行の特急は全て「さがみ」という愛称が設定されることになった。
2018年3月17日のダイヤ改正から、9時30分までに新宿に到着するロマンスカーは「モーニングウェイ」に変更され、ロマンスカー全列車の向ヶ丘遊園・新松田停車が終了した。
江ノ島線の特急は、1951年7月に新宿に到着した箱根特急の車両を利用して、「納涼ビール電車」と称する特殊急行を運行したものが始まりである。
1952年夏には2000形を使用して料金不要のサービス特急が設定され、1954年からは1700形が投入されるのに伴い特急料金が設定された。進行方向が変わる藤沢は運転停車だった。列車ごとに異なる愛称が設定されており、「かもめ」、「ちどり」、「かたせ」、「なぎさ」、「しおじ」という愛称が存在した。1964年までは夏季のみ運行であったが、1964年から通年運行が開始されて以降、愛称は「えのしま」1種類となった。
1996年3月からは大和が停車駅に追加されたほか、1999年7月から18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称が全て「ホームウェイ」に変更され、2018年3月から朝方に新宿方面へ向けて発車する上り特急の愛称が全て「モーニングウェイ」に変更された。
平成になると、さまざまな乗客のニーズに応えるためや、海水浴への利便性向上がさらなる課題となり、えのしま号を補完する目的で「湘南マリンエクスプレス」「サマービーチ」、21世紀に入ると「湘南マリン」(前者の湘南マリンエクスプレスとは別)の各愛称で臨時増発が毎年行われている。前者は主に旧型のNSEを中心に使用されていたが、先述の置換えによる影響、さらにスーパーはこね登場によるダイヤの調整の影響、車内販売「走る喫茶室」廃止の煽りがあり1995年シーズンを以て廃止されている。
現在は箱根運用に重点を置いているが、展望席のある車型での定期運行も存在する。車内販売は2008年を以て廃止されている。
2018年3月17日のダイヤ改正で、土休日に北千住から片瀬江ノ島の区間に「メトロえのしま号」が新設された。
多摩線に特急の運行が行なわれたのは、1990年のゴールデンウィークに多摩線開通15周年を記念して「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が運行されたのが始まりである。同年夏には先述の「湘南マリンエクスプレス」が運行され、翌年以降も引き続き運行された。
多摩線における定期列車の特急は、2000年12月2日から設定された、新宿発唐木田行きの「ホームウェイ」からとなる。2016年のダイヤ改正発表時に多摩線特急の廃止が告知され、ダイヤ改正施行前日の3月25日、ホームウェイ75号を以って廃止された。
御殿場線直通の優等列車は、1950年10月1日から運行が開始された2往復が初で、1959年7月には1日4往復に増発された。当初は気動車による片乗り入れであったが、御殿場線電化に伴い、1968年7月1日からSE車による直通運転が開始された。国鉄線内では準急・急行という扱いであったため、小田急線内では「特別準急」「連絡急行」という種別となっていた。
1991年3月16日からは沼津まで延長されると同時に特急に格上げされ、同時にJR東海との相互直通運転が開始されたが、2012年3月17日改正からはこれと同時に運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮され、毎日運行の列車は3往復となり、前述のようにふたたび片乗り入れとなった。
2018年3月17日のダイヤ改正で、列車名がそれまでの「あさぎり」から「ふじさん」に変更された。
初詣客を対象に毎年大晦日深夜から元旦未明にかけて運行される列車で、1968年12月31日から運行が行なわれるようになった。明治神宮の初詣客に対応し、普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴。2000年度は「2001初詣号」という愛称となり、2001年度からは「ニューイヤーエクスプレス」という愛称に変更された。
日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で、MSE車が使用される。
停車駅は限られているが、千代田線内に待避設備がないため、地下鉄線内で普通電車の追い越しはない。
2008年3月15日より「メトロさがみ」「メトロはこね」「メトロホームウェイ」が運行開始されたほか、日によっては有楽町線新木場駅まで乗り入れる「ベイリゾート」も運行された。「ベイリゾート」については、同線各駅へのホームドア設置の関連で2011年10月以降運行を休止、そのまま運転終了となった
2010年元旦からは「メトロニューイヤー」の運行も開始された。
2018年3月17日のダイヤ改正から、朝方の北千住行き「メトロさがみ」は「メトロモーニングウェイ」に変更され、また前述の「メトロえのしま号」も地下鉄に直通運転する。
ロマンスカーの車内で「走る喫茶室」と称するシートサービスが開始されたのは、1949年の1910形運行開始の時からである。乗客サービスとして「お茶でも出せないか」という発想から検討されたもので、乗客全員に紅茶とケーキを提供するという案もあったが、特急券を購入した乗客に物品を提供するのは規則上禁止されていたため、飲料の販売を行うことに決定したものである。
編成も乗車時間も短いため、食堂車などを連結するのではなく、車内にカウンターを設けた上でシートサービスを行うようにした。しかし、森永製菓や明治製菓に打診したところ採算面から断られ、三井農林(日東紅茶)も当初は断ったものの、「紅茶の普及宣伝」という方針で受諾したものである。その後の特急車両では車内に喫茶カウンターが設けられた。
その後、NSE車が7編成となった時点で、日東紅茶だけでは対応できなくなったことから、1963年から森永の宣伝を兼ねて森永エンゼルが参入することになった。1987年に運行開始したHiSE車ではオーダーエントリーシステムも導入された。しかし、1991年3月から運行を開始した「あさぎり」では、シートサービスではなくワゴンによる販売サービスを行なうことになった。さらに、1995年までにシートサービスは終了し、以後はワゴンサービスのみとなった。
2005年に登場したVSE車では、「走る喫茶室」と同様のシートサービスの営業が復活、飲料はVSE専用のガラスカップによって提供された。しかし、2016年3月26日のダイヤ改正においてこのサービスは廃止され、VSE車も含めてワゴンサービスに変更された。
2021年3月13日のダイヤ改正をもって、全てのロマンスカーでの車内販売サービスが終了した。
戦前の「週末温泉急行」は座席定員制を導入しており、「列車指定割引乗車券」という名称の往復乗車券を発売し、この乗車券の発売によって人員制限を行っていた。
戦後に1600形を使用したノンストップ特急でも初めて特急料金は設定された。初めて特別急行券(特急券)が発売されたのは1949年の1910形の投入時で、温泉マークの入った硬券特急券が発行された。それまでは座席定員制であったが、1700形導入後の1951年8月20日から座席指定制を採用し、特急券に号車番号と座席番号が記入されるようになった。
1966年には途中駅停車の「さがみ」が運行を開始、1967年4月には「えのしま」の新原町田停車、同年10月からは新原町田停車の「あしがら」が運行を開始したが、この時から愛称ごとに地紋の色を変え、発売時に一目で分かるように区別できるようにした。また、上り列車用の特急券には斜線を入れた。
特急の座席については、新宿駅構内に設けられた割当センターで台帳管理されていたが、1970年代後半になると管理する座席数は67万座席となり、発売窓口と割当センターとの電話連絡の中で重複発行などの誤取り扱いの発生、待ち時間などの問題が発生していた。
これを解決するため、座席予約システム( "Seat Reservation" 、以下「SR」と略す)を導入することになり、1979年2月27日から使用を開始した。SR端末は特急停車駅や案内所、小田急トラベルサービスの主要営業所に設置された。また、新宿駅当日特急券発売所には、他の端末の7倍の発券速度を有する高速プリンターを設置した。予約受付は5ヶ月前から、発売は3週間前から行っていた。
1987年には禁煙席の導入に対応するため、SRシステムの更新が行われた。更新されたシステムでは、払い戻しや取り消しの際に端末機が発券コードを読み取って上で自動処理を行うことで、誤取り消しによる重複発売の防止が図られた。また、これと同時に、新宿駅には当日特急券券売機を導入したほか、予約受付を6ヶ月前から、発売を1ヶ月前からに変更した。
1991年からはプッシュホンによる空席照会と予約が可能となった。
1995年にSRシステムのリニューアルを行い、全駅にSR端末を設置したほか、特急券が磁気エンコード化され、乗車券とともに発券された場合でも自動改札機を通過できるようにした。1996年には大手旅行会社の端末とSRシステムのホストを直結し、迅速な発券を可能とした。
1999年7月からは車掌携帯用座席確認システムを導入し、乗車時の特急券確認作業を廃止した。このシステムはザウルス端末を利用して、携帯電話回線経由でホストコンピュータにアクセスすることにより、その発売状況を号車別・座席別・区間別に車掌が把握し、その情報を車内での改札業務に利用できるシステムである。これにより、発売情報とは異なる座席に着席している乗客に対してのみ車内改札を実施することが可能となった。
2001年からはホームページ上からの特急券予約が可能となった。2003年には座席予約や発売業務を管理するシステムとして、全駅の窓口・自動券売機・旅行会社のシステムに接続されるMFITTシステム( "Multimedia Future Intelligent Total Traffic service system" の略)を導入した。2004年からは、多機能券売機の導入により、全駅の券売機で特急券の購入が可能となった。2012年時点では、予約・発売とも1ヶ月前から開始となっている。
2001年7月から、インターネットに対応した携帯電話で特急券を購入し、そのまま乗車可能となるチケットレス乗車システムとして「ロマンスカー@クラブ」のサービスを開始した。
このサービスは駅窓口に申し込みすることで会員登録され、当日から利用可能となる。携帯電話からの特急券購入に使用される「特急ポイント」の積み立ては、クレジットカードと現金が利用可能である。2009年には携帯電話やパソコンの高機能化に対応し、スマートフォンやパソコンからも特急券を購入することが出来るようにシステムがリニューアルされた。
どこからでも携帯電話を利用して座席を確保することが出来ることによって利便性が向上し、2010年時点では平日夕方の「ホームウェイ」の乗客の4割が「ロマンスカー@クラブ」を利用している。
2022年7月、乗客から「予約が埋まっていた展望席に誰も乗っていない」との指摘が複数寄せられて、調査の結果、虚偽の空予約を約9300回繰り返し、業務妨害したとして、埼玉県志木市の40代男性を偽計業務妨害容疑で書類送検された。これは、発車15分前迄に決済しなかった場合は無手数料で自動的にキャンセルになる仕組を悪用したものと思われる。予約システムの脆弱さ欠点が露わになった。
上記の虚偽予約被害を鑑みて、2023年6月より展望席については事前予約不可能になり購入のみになる。
1台の台車によって2車体を連結する連接構造は、1957年に登場した3000形SE車において初めて採用された。曲線の多い小田急線の軌道条件において曲線通過を容易にできること、車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できること、オーバーハング部分がないため乗り心地を改善できる、台車配置の平均化により軌道への負担が軽減されることが理由として挙げられており、当時小田急の取締役兼考査局長であった山本利三郎の強い主張により採用されたものである。この当時、日本の高速電車における連接車の採用実績は、京阪60型電車・西鉄500形電車・名鉄2代目400形電車の3形式だけであり、一挙に8車体もの連接車を導入したのは当時としては大英断であったといわれている。
その後、連接構造は1963年に登場した3100形NSE車・1980年に登場した7000形LSE車・1987年に登場した10000形HiSE車においても採用されており、小田急の特急車両の大きな特徴となった。日本の高速電車全体での連接車の採用事例の中でも、小田急の特急車両における採用事例が突出して多い。
しかし、1991年に登場した20000形RSE車ではJR東海との協定により371系と基本仕様を統一したため通常の鉄道車両と同様のボギー車となったが、車内販売のカウンターが車端部のオーバーハング部分に設置されたため、それまで連接車にしか乗務した経験のなかった車内販売の担当者から「RSE車に乗ると乗り物酔いになる」という声も上がった。さらに、1996年に登場した30000形EXE車においても、定員増のためにはボギー車が有利であると判断され、連接構造は採用されなかった。2008年に登場した地下鉄直通用車両の60000形MSE車、2018年に登場した70000形GSE車も通常のボギー車である。
ただし、小田急側では「連接車をやめたわけではない」「連接車はわが社(小田急)だからできること」ともしており、2005年の50000形VSE車登場にあたっては乗り心地の向上のためには不可欠なものとして連接構造が採用された。また、VSE車では台車が車体間にあるという連接車の構造を利用して、空気ばねの位置を車体重心近くの高い位置にする構造となっている。しかし、上述の通り70000形GSE車では「連接車だとホームドアが合わなくなる」として連接構造をやめ、展望席設置車両としては初となるボギー車が採用された。
上述の経緯により、2018年の7000形LSE車の運用離脱以降、連接構造を採用するのは50000形VSE車2編成のみとなっているが、2023年に予定されているVSE車運用離脱をもって全ての車両がボギー車に統一される予定である。なお、2022年3月をもってVSE車は通常運用から撤退している。
運転室を2階に上げ、最前部まで客室とした前面展望構造とする構想自体は、1700形が製造された時期には既に存在しており、その後も特急車両の設計が行なわれる度に検討されたが実現には至らず、1963年に登場した3100形NSE車で初採用となった。この構造は、乗客に眺望を楽しんでもらうという意図の他に、輸送力増強策の一つでもあるとされていた。その後、展望席は「いつか乗ってみたい存在」というステータスとして定着し、7000形LSE車、10000形HiSE車にも同様の構造が引き継がれた。1991年に登場した20000形RSE車では、連接車と同様の理由によりこの構造は採用されなかったが、客席をハイデッキ構造にしたため客席からの展望は確保されていた。
しかし、1996年に登場した30000形EXE車では分割併合を行う事となり、貫通路を設置する先頭車での展望席設置は困難となった。また、分割して運行する区間が長いため、その際にも違和感のない前面形状とするという理由によって、非貫通タイプの運転台でも展望席は採用されなかった。ところが、この構造は前述したように箱根特急の利用者減少の一因となり、家族旅行で箱根特急を利用する際にEXE車を見た子供から「こんなのはロマンスカーじゃない」という苦情も寄せられたという。このため、2002年からは広告で使用される車両を前面展望席のあるHiSE車に変更したほか、2005年に登場した50000形VSE車では再び展望席が採用された。
2008年に登場した60000形MSE車は、地下鉄直通時の非常用通路として前面貫通路設置が必須であったことから、展望席設置は見送られた。その後、2018年に登場した70000形GSE車において復活を果たしている。
補助警報音は、1957年に登場した3000形SE車において、遠くからでも高速で走る電車の接近が分かるようにするために考案されたものである。これは西部劇の映画の中で、機関車が鐘を鳴らしながら走行していることをヒントにしたものであるが、音色の決定に際しては、運輸省から「警報装置としての条件を満足させるべき」と、警視庁からは「騒音公害にならないように」という要望があった。この相反するようにみえる要望を満たすため小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎にも相談、音響心理学研究所の指導を得て、最終的にはヴィブラフォンの音色で、2km付近まで達する音量となった。SE車ではエンドレステープが使用されたが、営業運行後にテープが伸びたり切れてしまうことが多かったため、3100形NSE車以降はトランジスタ発振器に変更され、20000形RSE車まで搭載された。
常時音楽を鳴らしながら走ることから、ロマンスカーは「オルゴール電車」と呼ばれるようになったほか、「小田急ピポーの電車」というCMソングも作られたなど、小田急ロマンスカーのシンボルの1つとなった。しかし、列車本数の増加などにより騒音とみなされるようになってしまい、10000形HiSE車が製造された1987年ごろにはほとんど鳴らす機会はなくなっていた。
しかし、50000形VSE車では、通常の警笛(電子笛)と回路を共用する補助警報としてこの音色を復活させ、60000形MSE車、70000形GSE車でも実装、小田急線と東京メトロ千代田線で使用されている(JR東海・御殿場線は、空気笛以外を「警笛」と認めていないJR東海の規定で通常の空気笛が使用される)。
ロマンスカーのシンボルマークは、1951年8月に登場した1700形の第2編成で、それまでは社紋が置かれていた側面の中央窓下にアルミ製のヤマユリの紋章を取り付けたものが始まりである。ヤマユリは神奈川県の県花であり、相模の山野を走るロマンスカーにはふさわしい花とみられていた。この紋章は1700形の全編成に設置されたが、1700形が一般車両に格下げとなった際に外された。
この紋章が復活したのは1980年登場の7000形LSE車からで、登場後まもなく車内の自動ドアにぶつかる乗客が目立ったことから、目線の高さに1700形の紋章に準じたシンボルマークをカッティングシートで貼付したものである。この自動ドアのステッカーは10000形HiSE車・20000形RSE車でも継承され、LSE車より前に登場した3100形NSE車の自動ドアにもこのマークが貼られるようになった。さらに1996年からは車体修理を受けたLSE車・HiSE車・RSE車の車体側面にも同様のマークが貼られるようになった。しかしこれらの車両は全て引退し、その後の車両には受け継がれなかったため、このヤマユリのマークを見ることはできない。
これとは別に、30000形EXE車・50000形VSE車・60000形MSE車、70000形GSE車では、車両愛称のロゴをデザインしている。
鉄道友の会が優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞の制度を創設したのは、3000形SE車が東海道本線上で当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録を樹立したことがきっかけである。むしろSE車を表彰するために制度が創設されたという方が実情に近く、事実SE車は理事会の決定により無投票で第1回受賞車両に選出された。
その後も、30000形EXE車を除く8形式が受賞しており、2019年時点での受賞回数8回は大手私鉄では近畿日本鉄道とともに最多であった
各車両編成の就役日などは、各車両形式の歴史の項を参照。
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"text": "小田急ロマンスカー(おだきゅうロマンスカー、英: ODAKYU ROMANCECAR、中: 小田急\"浪漫\"特快)は、小田急電鉄が運行する特急列車および特急車両の総称。列車により小田急小田原線、小田急江ノ島線のほか、箱根登山線や東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転を行う。また「ロマンスカー」は小田急電鉄の登録商標(ロマンスカーの記事も参照)。",
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"text": "本項では、「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄を指すものとし、箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れる特急列車については、特に区別の必要がない場合は「箱根特急」と標記する。",
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},
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"text": "「ロマンスカー」の呼称は昭和初期から存在し、京阪電気鉄道が1927年(昭和2年)に新造した転換クロスシート車の1550型(後に600型に改番)を「ロマンスカー」と称したのが日本における「ロマンスカー」の初出と見られ、この時点では「ロマンスカー」は小田急の専有名称ではなかった。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"text": "京阪では、一時は盛んにロマンスカーの呼称を用いたが、1953年登場の2代目特急専用車(京阪特急)1800系に1954年からテレビ受像器を搭載し、これを看板車両「テレビカー」としてアピールするようになり、1960年の広告では「テレビ付ロマンスカー」という表現が使われていた。その後、「京阪ロマンスカー」の呼称は消滅した。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"text": "一方、小田急では、1934年頃の江の島海水浴宣伝のパンフレットに「ロマンスカーは走る」「大東京のセンター新宿から」の文言が掲載され、電車内の写真にも「小田急のロマンスカー」と説明がつけられた。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"text": "第二次世界大戦後の1949年頃に、新宿の映画館「新宿武蔵野館」を復旧改装するにあたり、恋人同士の映画鑑賞を企図して2人掛けの座席を館内2階に設けたところ「ロマンスシート」としてマスメディアに取り上げられた。その頃に運行を開始した小田急の特急車両が2人掛けの対面座席を採用したことから「ロマンスカー」と称され、「小田急ロマンスカー」と命名された。しかしこの時期にはまだ、国鉄を含め他社も同様の車両を有し、その一部は「ロマンスカー」を名乗っていた。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"text": "1991年に東武1720系「デラックスロマンスカー (DRC)」が引退したのを機に、小田急は「ロマンスカー」を自社で商標登録した。なお小田急以外で「ロマンスカー」として製造された車両が完全に引退したのは、2012年の長野電鉄2000系の運用離脱である。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"text": "なお「ロマンスカー」は和製英語であり、英語圏では通じない。60000形MSE車のブルネル賞受賞表彰式に際し、小田急の担当者が「6両と4両の2編成がキスをするからロマンスカーなのか」と現地の人から質問されたというエピソードもある。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"paragraph_id": 8,
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"text": "2010年時点で、小田急電鉄における特急列車はロマンスカーを指し、他社は「つぎ(こんど)の特急」と標記するところを、ホーム上に設置した特急券券売機で「つぎ(こんど)のロマンスカー」と標記している。それ以外の旅客上の案内では、小田急と東京メトロともに「特急ロマンスカー」という表現を用いている。",
"title": "「ロマンスカー」の名称"
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"paragraph_id": 9,
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"text": "1927年4月1日に開業当初の小田急は、昭和初期の不況の影響で沿線は一向に発展せず、もともと過大な初期投資に加えて乱脈経営が祟ったこともあり、厳しい経営状態を余儀なくされていた。1929年4月1日に江ノ島線が開業してからは夏季の海水浴客輸送の時に運賃を往復で5割引にするなどして増収策を図り、全車両をフル稼働させて対応していた。",
"title": "沿革"
},
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"text": "一方、あまり積極的ではなかったものの、小田原線も箱根への観光客輸送を目的の1つとしており、増収策の一環として、週末のみ新宿から小田原までをノンストップで運行する列車が立案された。小田急ではこの列車の車内では、沿線案内をレコードで流し、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流すことを発案、当時新宿に存在した娯楽施設のムーランルージュ新宿座に「小田急行進曲」「小田急音頭」の製作を依頼し、沿線案内の吹き込みはムーランルージュ新宿座の看板女優であった明日待子が担当した。78回転盤(SPレコード)6枚組に仕上がったレコードが完成し、実際に走行中の車内でテストしたが針が飛んでしまい、この試みは失敗であった。",
"title": "沿革"
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"text": "ともあれ、1935年6月1日から、新宿 - 小田原間をノンストップで結ぶ「週末温泉急行」の運行を開始した。この急行には車両はクロスシートを装備した便所付の車両であった101形などが使用され、新宿 - 小田原間を90分で結んだ。運行は土曜日の下り列車のみで、帰りとなる日曜日は通常の急行列車が運行された。これが小田急ロマンスカーのルーツとなる列車であるが、陰では「おしのび電車」などと言われていたという。",
"title": "沿革"
},
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"text": "しかし、1941年12月に太平洋戦争が始まり、1942年1月から週末温泉急行は運休となり、同年4月にはダイヤ上の設定もなくなった。小田急自体も、同年5月には東京横浜電鉄と合併し東京急行電鉄(大東急)となった。",
"title": "沿革"
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"text": "終戦後の1946年には大東急で「鉄軌道復興3カ年計画」が策定されたが、この中には小田原線の箱根登山鉄道への乗り入れ計画が含まれていた。また、終戦の時点では新宿から小田原までは2時間30分もの所要時間を要していたが、五島慶太は終戦直後にこの所要時間を半分にするように指示していた。",
"title": "沿革"
},
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"text": "1948年6月1日に大東急から小田急が分離独立したが、小田急は東急と比較すると営業路線長は約2倍あったにもかかわらず、運輸収入は半分に過ぎなかった。そこで、収入増の方策として箱根への直通旅客増加を図ることとなり、その一環として新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運行が計画された。複数車種で試運転などを行った結果、この特急に使用される車両として1600形の中から「復興整備車」として重点的に整備されていた車両が指定され、特急料金の制定や各種ポスターの製作など準備が行われた。",
"title": "沿革"
},
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"tag": "p",
"text": "こうして、1948年10月16日から新宿と小田原を結ぶ特急列車の運行が開始された。土曜日は下り1本のみ、日曜日は下り1本・上り2本のみの運行で、所要時間は100分であった。使用車両は、朝ラッシュ時の通勤輸送に使用した1600形が入庫した後に、3つある乗降用扉のうち真ん中の扉を締め切った上で補助座席を置き、ロングシートに白いカバーをかけた上でスタンド式灰皿を並べただけであったが、戦後の復興途上だったこの時期においては精一杯のサービスであった。当初計画では同年10月9日から運行開始の予定であったが、豪雨の影響で箱根登山鉄道線が不通になってしまったために1週間延期されている。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "運行開始当初は集客がうまくいかず、運輸部門では縁故を通じて乗客の勧誘に歩き回り、駅の出札窓口でも積極的に特急列車の売り込みを行った。乗客が少ない時には、本社勤務の社員が「サクラ」となって乗車したりしたこともあったというが、次第に利用者が増加し、予想を上回る好成績となった。",
"title": "沿革"
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"text": "なおこのころには、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会において、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されている。",
"title": "沿革"
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"text": "1949年には、小田急が分離独立してから初めて新型電車を製造することになった。当時の新車製造は割当制であり、小田急には15両が割り当てられた。割り当てのうち10両が1900形として発注されることになったが、営業部門からクロスシートを装備した特急車両を要望する意見が強かったため、このうち4両を特急車両の1910形として製造することになった。ただし、朝のラッシュ時には通勤輸送にも使用することになったので、扉付近をロングシートとした2扉セミクロスシートの車両となった。また、編成は3両固定編成とし、中間車には日本国有鉄道(国鉄)の戦災焼失車の台枠を流用した改造車両を連結することとなった。また、前年に近畿日本鉄道が特急の運行を再開した際に、2200系がレモンイエローと青の2色塗りとしていたものにあやかり、この特急車両の外部塗色は濃黄色と紺色の2色塗りとすることになった。",
"title": "沿革"
},
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"text": "1910形は同年7月に入線し、同年8月から2両編成で営業運行を開始(ただしこの時点では、まだロングシートの新車1900形を2連で使用した時もあった)、同年9月から本来の3両固定編成となって運行を開始した。1910形を使用した特急では、「走る喫茶室」と称した、車内に喫茶カウンターを設け、車内で飲み物を販売するサービスが開始された。所要時間は90分であった。",
"title": "沿革"
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"text": "また、同年10月のダイヤ改正から、特急は1往復が毎日運転されることになった。小田急が公式に「ロマンスカー」という愛称を用いたのはこの時からで、ポスターで「ニュールックロマンスカー毎日運転」と宣伝された。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "このころ、小田急では箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れるための計画が進められていた。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "しかし、小田急の軌間が1,067mmであるのに対して箱根登山は1,435mm、架線電圧も小田急の1,500Vに対して箱根登山は600Vであった。また、箱根登山では小田原から箱根湯本までの区間を「平坦線」と称していたが、これは箱根登山の80‰という急勾配と比較しての話で、実際には40‰もの勾配が続いており、小田急の最急勾配が25‰であったのと比べればはるかに急な勾配であった。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "この対応として、軌道は三線軌条とし、架線電圧については小田原と箱根湯本の間は1,500Vに昇圧することになり、1950年8月1日から小田急から箱根湯本までの直通運転が開始された。この時に新宿と小田原の間についてもスピードアップが図られ、新宿と小田原は80分で結ばれるようになった。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 24,
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"text": "この直通運転開始後に特急の利用者は急増し、同年10月からは特急は毎日3往復に増発された。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "特急利用者の増加は続き、2000形が2編成だけでは不足するようになり、「特急券がとれない」という苦情も来るほどで、営業部門からは特急車両増備の要望が高まってきた。また、2000形は扉付近の座席がロングシートであり、全ての座席をクロスシートにして欲しいという要望もあった。しかし、収支面からはラッシュ輸送に使用できない特急専用車の新造を危ぶむ意見もあった。社内での検討の結果、将来を考えて特急専用車を導入するが、製造コストをできるだけ安価にするため、台枠は国鉄の戦災復旧車や事故焼失車のものを流用することになった。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "こうして1951年2月に登場したのが1700形で、全ての座席が転換クロスシートとなり、さらに座席数を増やすため、乗降用の扉は3両で2箇所という思い切った設計とした。この1700形が、小田急ロマンスカーの地位を不動のものにしたとされている。この1700形の導入後の同年8月20日から、それまでは座席定員制だったものを座席指定制に変更した。また、夕方に新宿に到着した特急車両にビール樽を積み込み、江ノ島まで往復する「納涼ビール電車」の運行も開始されたこの時点では、検査時や増発時には引き続き2000形も使用されていた。しかし、設備面の格差が大きいことによる苦情があり、同年8月までに第2編成が製造された。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また1700形投入後に特急利用者の増加傾向が見られ、特急の営業的な成功は明らかとなった。このため、1952年8月に完全な新造車両として第3編成が投入された。特急の利用者数がさらに増加するのに対応し、1953年には特急の増発が行なわれたほか、それまで使用されていた2000形を使用した座席定員制の急行列車が運行された。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、1954年夏からは江ノ島線にも特急料金が設定され、夏季海水浴客輸送の期間には江ノ島線にも1700形を使用した特急が運行されるようになった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "このころの小田急では、先に述べた「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標に向けて、高性能車の開発に向けた試験を進めていた。1954年7月には小田急ではじめてカルダン駆動方式を採用した通勤車両として2200形が登場しており、同年9月11日には「画期的な軽量高性能新特急車」の開発が決定していた。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "しかし、予想を上回る特急利用者数の増加があり、新型特急車両の登場を待つ余裕はないと判断されたが、すでに通勤車両がカルダン駆動方式を採用しているのに、今さら特急車両を旧式の吊り掛け駆動方式で増備することは考えられなかった。このため、暫定的に2200形の主要機器を使用し、車体を特急用とした2300形が1955年に登場した。また、この年の10月からは、御殿場線へ直通する特別準急の運行が開始されている。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1954年から国鉄鉄道技術研究所の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」は、1957年に3000形として登場した。この3000形は \"Super Express car\" 、略して「SE車」と呼ばれる車両で、数多くの新機軸が盛り込まれ、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された、低重心・超軽量の流線形車両であった。「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり、鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた。同年7月6日よりSE車の営業運行が開始されたが、すぐに夏休みに入ったこともあって、連日満席となる好成績となり、営業的にも成功した。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、同年9月には国鉄東海道本線でSE車を使用した高速走行試験が行われたが、私鉄の車両が国鉄の路線上で走行試験を行なうこと自体が異例のことであるのみならず、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録である145km/hを樹立した。また、これを契機に鉄道友の会では優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設し、SE車は第1回受賞車両となった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "SE車が運用開始された1957年時点では、新宿と小田原は75分で結ばれていたが、SE車は1958年までに4編成が製造され、特急が全てSE車による運行となったため、1959年からは67分で結ばれるようになった。さらに1961年には新宿と小田原の間の所要時間は64分にまでスピードアップした。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1959年からは、特急を補完するための準特急の運行が開始された。使用車両は2扉セミクロスシート車で、特急運用から外れた2300形と、新造した2320形が使用された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "SE車の登場以後、特急利用者数はさらに増加し、週末には輸送力不足の状態となっていた。また、1960年には箱根ロープウェイが完成し、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースが完成したことから、箱根の観光客自体が急増した。更に、1964年東京オリンピックの開催を控えていたこともあり、特急の輸送力増強策が検討された。その結果として、1963年に3100形が登場した。この3100形は \"New Super Express\" 、略して「NSE車」と呼ばれ、8両連接車だったSE車に対し、NSE車では11両連接車とし、さらに編成両端を展望席とすることによって定員増を図った車両である。また、SE車と比較すると豪華さが強調される車両となった。1963年にNSE車が4編成製造されたことによって、箱根特急の30分間隔運行が実現し、同時に新宿と小田原の間の所要時間は62分にまでスピードアップした。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この時期まで、箱根特急の列車愛称は列車ごとに異なり、後述するようにNSE登場直前の時点で16種類の愛称が使用されていたが、NSE車の登場後の1963年11月4日からは5種類に整理されたほか、準特急という種別は廃止となった。その後、NSE車はさらに3編成が増備され、1967年からは箱根特急の全列車がNSE車で運用されることになった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、1964年3月21日からは、それまで夏季のみ運行されていた江ノ島線の特急が土休日のみであるが通年運行となり、1965年3月1日からは毎日運転となった。1966年6月1日からは特急の愛称がさらに整理され、新宿から小田原までノンストップの列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園と新松田に停車する列車は「さがみ」、江ノ島線特急は「えのしま」に統一された。なお、途中駅に停車する特急はこのときの改正で新設されたもので、元来は沿線在住の箱根観光客を対象としたものであった。1968年7月1日からは、御殿場線直通列車が気動車からSE車に置き換えられ、愛称も「あさぎり」に統一された。列車種別は同年10月から「連絡急行」に変更されている。1968年12月31日からは、初詣客に対応する特急「初詣号」の運行が行なわれるようになったが、この列車は普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴であった。",
"title": "沿革"
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"text": "しかし、通勤輸送への対応やそれに伴う新宿駅再改良工事などの影響で、1972年以降、新宿から小田原までの所要時間は最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた。線路容量不足のため、上り「さがみ」の一部が新宿まで運行できず、向ヶ丘遊園終着とする措置まで行なわれた。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "その一方で、通勤輸送に特急を活用する施策も開始された。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1967年4月27日からは江ノ島線特急「えのしま」が新原町田停車となり、同年6月23日からは特急券を購入すれば定期乗車券でも特急に乗車できるようになり、さらに同年8月からは新原町田に停車する特急「あしがら」の新設と増発が行われた。特に、新宿に到着して相模大野の車庫へ回送される列車を新原町田まで客扱いしたところ、通勤帰りの利用者が多くなったため、1968年には経堂の車庫へ回送される車両を相模大野の車庫への入庫に変更するなどして増発が行われた。同年7月10日からは「さがみ」の本厚木停車が開始された。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "これは優等列車による通勤・通学対応としては日本では初の事例であり、この後も徐々に通勤対応の特急が増発されてゆく。なお、1971年10月1日からは、連絡急行「あさぎり」の新原町田停車が開始されたが、「あさぎり」についてはこの時点では定期乗車券での利用はできなかった。",
"title": "沿革"
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"text": "しばらくは特急ロマンスカーについては大きな動きはなかったが、1970年代に入るとSE車の老朽化が進み、代替を検討する時期となっていた。このため、SE車の代替を目的として、1980年に7000形が登場した。7000形は \"Luxury Super Express\" 、略して「LSE車」と呼ばれる車両で、編成長や定員はNSE車と大きく変わらないものの、デザインや主要機器などが一部変更されている。LSE車の導入により、特急の輸送力増強が図られた。1982年12月には、国鉄からの申し入れにより、東海道本線上での走行試験にLSE車が使用された。国鉄の路線上で私鉄の車両が走行試験を行なった事例は、SE車とこのLSE車だけである。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1984年2月1日からは、連絡急行「あさぎり」の停車駅に本厚木・谷峨が追加され、1985年からは「あさぎり」も定期乗車券での利用が可能となった。また、1986年10月4日からは、LSE車の車内に公衆電話が設置された。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "この時期になると、レジャーの傾向は多様化が進んでおり、ゆとり以外に「一味違ったもの」が求められていた。また、観光バスや他の鉄道事業者の車両においては高床(ハイデッキ)構造の車両が登場しており、折りしも1987年は小田急の開業60周年となることから、これを記念するために新型特急車両として10000形が登場した。10000形は \"High decker\" 、 \"High grade\" 、 \"High level\" 、 \"High performance\" などのキーワードから連想する、上級というイメージを表して「HiSE車」と呼ばれ、客席を高くしたハイデッキ構造とし、「走る喫茶室」にオーダーエントリーシステムが採用されたほか、外装も近代的なイメージを意図したカラーリングに変更した。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "一方、1988年7月、小田急が東海旅客鉄道(JR東海)に対し、連絡急行「あさぎり」に使用していたSE車の置き換えを申し入れたことがきっかけとなり、特急に格上げした上で両社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更し、運行区間も新宿と沼津の間に延長することとなり。1991年に20000形が登場した。20000形は \"Resort Super Express\" 、略して「RSE車」と呼ばれる車両で、JR東海371系電車と基本仕様を統一したため、それまでの特急ロマンスカーの特徴であった連接構造や前面展望席は採用されず、2階建て車両(ダブルデッカー)や特別席(スーパーシート・グリーン席)を設置するなど、それまでの小田急ロマンスカーの仕様からはかけ離れた車両となった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このころになると、小田急ロマンスカーの利用者層にも変化が生じていた。観光客以外の日常利用が増加していたほか、1967年から開始された夕方新宿発の通勤用特急は増発が続けられ、当初の「回送列車の客扱い」という思惑を超え、わざわざ新宿まで出庫させる運用まで登場していたが、それでも輸送力の増強が求められていた。しかし、当時はまだ通勤輸送に対応した複々線化工事は進展しておらず、これ以上の増発やスピードアップは困難な状況で、単位輸送力の向上、言い換えれば列車の定員を増やすしか方法がなかった。また、1963年から導入されているNSE車が置き換えの時期となっていた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうした状況下、箱根特急の利用者数が年率5%程度の減少傾向が続いており、これを日常的な目的での特急利用者を増加させることで補う意図もあった。これにあわせて、1996年にそれまでとは一線を画す車両として30000形が登場した。30000形は \"Excellent Express\" 、略して「EXE車」と呼ばれる車両で、それまでの小田急ロマンスカーの特徴であった前面展望席も連接構造も導入されていない。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "EXE車の導入後も、日常利用への対応は続けられた。1998年からは相模大野・秦野にも特急が停車することとなり、1999年7月からは「あしがら」「さがみ」を統合して「サポート」としたほか、新宿を18時以降に発車する特急は全て「ホームウェイ」という愛称になった。こうした施策によって、1987年時点では1100万人だった特急の年間利用者数は、2003年には1400万人に増加したのである。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ところが、日常的な特急の利用者数が増加する一方で、箱根特急の利用者数は大幅に減少していた。1987年の箱根特急の年間利用者数は550万人であったが、2003年の利用者数は300万人程度にまで落ち込んでいたのである。この理由を調べると、バブル崩壊後の景気低迷もあって箱根を訪れる観光客自体も減少傾向にあったほか、EXE車には「小田急ロマンスカーのイメージ」とされた展望席が存在しなかったことが挙げられた。また、2001年から運行を開始したJR東日本の「湘南新宿ライン」も2004年には運行区間が延長され、特急ロマンスカーとあまり変わらない所要時間で新宿と小田原を結ぶようになった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "このような状況下、2002年からは箱根特急へのてこ入れが開始されることになった。宣伝ポスターも、ロマンスカーを大写しにするのではなく、あくまで風景の一部としてロマンスカーを取り入れる施策に変更した。この時考案された「きょう、ロマンスカーで。」のキャッチコピーは、2023年現在に至るまで使用されている。また、ロマンスカーの看板車両として、前面展望席のあるHiSE車を再び起用することになったが、そのHiSE車は登場した1987年当時の時点では全く想定していなかったバリアフリー対応が困難であることから、更新は行なわずに小田急は苦渋の決断で新型特急車両で置き換えることになった。新型特急車両は、「もはやロマンスカーとは名乗らないくらいの覚悟で、新しい発想を取り入れる」か、「ロマンスカーの原点に立ち返り、ロマンスカーの中のロマンスカーとする」という2つの方向性があったが、後者の方向性で進められることになった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "こうして、2005年に「小田急ロマンスカー」ブランドの復権を掲げ、小田急の新たなフラッグシップモデルとして50000形が登場した。50000形は前面展望席と連接構造を採用し、乗り心地向上のために車体傾斜制御や台車操舵制御などを取り入れたほか、「箱根へ向かう乗客にときめきを与え、乗った瞬間に箱根が始まる」ことを目指した車両で、客室内の様式から \"Vault Super Express\" 、略して「VSE車」と呼ばれる車両である。VSE車の登場後、箱根を周遊するための乗車券である「箱根フリーパス」の販売枚数は、2006年に49万8000枚だったものが、2009年には74万枚に増加した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "なお、2004年12月には再度ロマンスカーの愛称の整理が行われ、箱根特急は全て「はこね」、箱根湯本に乗り入れない小田原線の特急は停車駅に関わらず「さがみ」という愛称に変更された。その影響により、「サポート」の愛称は登場わずか6年ほどですべて廃止されている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2005年に、小田急と東京メトロでは、ロマンスカーを東京メトロ千代田線(湯島駅 - 代々木上原駅間、のちに北千住駅までに変更)に乗り入れる計画を発表した。これは日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で、このために60000形が登場した。60000形は「多彩な運行が可能な特急列車」という意味で \"Multi Super Express\" 、略して「MSE車」と呼ばれる車両で、2008年3月から営業運行を開始した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2012年3月17日からは、「あさぎり」の運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮されることになり、「あさぎり」全列車がMSE車により運行されることになった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2017年、日本車輌製造でEXE車のリニューアルが開始され、その後同年3月1日から営業運転を開始した。従来の塗色から、ロマンスカー伝統の赤い線が追加され、車内も大幅にリニューアルされた。例えば座席は構造を変更し、トイレも車椅子対応の洋式に改造され、車体のロゴもMSEと同様になり、走行装置もSiC素子を用いたVVVFインバータを採用し、省エネ化が図られた。現在4両編成×3編成、6両編成×3編成がリニューアルされている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日、10年ぶりとなる新型車両70000形が営業運転を開始した。VSE車以来13年ぶりとなる展望席が設置されたが、「ホームウェイ」などの通勤利用も考慮して連接台車構造は採用されず、20m級車体のボギー台車構造となった。「箱根につづく時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」という意味で\"Graceful Super Express\"、略して「GSE車」と呼ばれている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "また、この年に長年の悲願であった代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化が完成し、GSE車のデビューと同日に行われたダイヤ改正で平日朝の上り列車を増発し、新宿駅・千代田線大手町駅に9時30分までに到着する列車を「モーニングウェイ」「メトロモーニングウェイ」に改称した。加えて、土休日の一部の「スーパーはこね」が新宿駅〜小田原駅間を最短59分で結ぶようになり、SE車開発当時の悲願であった「新宿〜小田原間60分以内」の目標が達成された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "運賃や料金については、公式サイトを参照",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "戦前の「週末温泉急行」がルーツとなる、箱根への観光客を輸送するための列車である。1950年から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで乗り入れるようになった。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1950年10月以降は愛称が設定されたが、列車ごとに異なる愛称が設定されており、毎日運転の列車が「あしがら」「はこね」「乙女」、休前日・休日のみ運行の列車では「明神」という愛称であった。その後増発されるごとに愛称も増加し、1963年にNSE車が登場する直前の時点では、新宿駅発車時刻順に「あしのこ」「明星」「あしがら」「さがみ」「大観」「仙石」「はつはな」「湯坂」「明神」「はこね」「乙女」「神山」「姥子」「金時」「早雲」「夕月」という16種類に上った。NSE車の登場後の1963年11月4日から、愛称は「あしがら」「あしのこ」「はこね」「きんとき」「おとめ」の5種類に整理された。1966年6月1日からは停車駅別に愛称が分けられ、新宿 - 小田原の間をノンストップで運行する列車は「はこね」、途中向ヶ丘遊園・新松田に停車する列車は「さがみ」、1967年8月から運行開始された新原町田に停車する列車は「あしがら」という愛称になった。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1996年3月からは愛称ごとの停車駅が変更され、「はこね」の停車駅に町田が、「あしがら」の停車駅に本厚木が追加され、新宿と小田原の間をノンストップで運行する列車の愛称は「スーパーはこね」に変更された。さらに、1999年7月からは、日中の特急は「あしがら」と「さがみ」を統合して「サポート」という愛称に変更されたほか、18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称は全て「ホームウェイ」に変更された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2004年12月には、箱根特急は「はこね」「スーパーはこね」、小田原線内のみ運行の特急は全て「さがみ」という愛称が設定されることになった。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正から、9時30分までに新宿に到着するロマンスカーは「モーニングウェイ」に変更され、ロマンスカー全列車の向ヶ丘遊園・新松田停車が終了した。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "江ノ島線の特急は、1951年7月に新宿に到着した箱根特急の車両を利用して、「納涼ビール電車」と称する特殊急行を運行したものが始まりである。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1952年夏には2000形を使用して料金不要のサービス特急が設定され、1954年からは1700形が投入されるのに伴い特急料金が設定された。進行方向が変わる藤沢は運転停車だった。列車ごとに異なる愛称が設定されており、「かもめ」、「ちどり」、「かたせ」、「なぎさ」、「しおじ」という愛称が存在した。1964年までは夏季のみ運行であったが、1964年から通年運行が開始されて以降、愛称は「えのしま」1種類となった。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1996年3月からは大和が停車駅に追加されたほか、1999年7月から18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称が全て「ホームウェイ」に変更され、2018年3月から朝方に新宿方面へ向けて発車する上り特急の愛称が全て「モーニングウェイ」に変更された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "平成になると、さまざまな乗客のニーズに応えるためや、海水浴への利便性向上がさらなる課題となり、えのしま号を補完する目的で「湘南マリンエクスプレス」「サマービーチ」、21世紀に入ると「湘南マリン」(前者の湘南マリンエクスプレスとは別)の各愛称で臨時増発が毎年行われている。前者は主に旧型のNSEを中心に使用されていたが、先述の置換えによる影響、さらにスーパーはこね登場によるダイヤの調整の影響、車内販売「走る喫茶室」廃止の煽りがあり1995年シーズンを以て廃止されている。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "現在は箱根運用に重点を置いているが、展望席のある車型での定期運行も存在する。車内販売は2008年を以て廃止されている。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で、土休日に北千住から片瀬江ノ島の区間に「メトロえのしま号」が新設された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "多摩線に特急の運行が行なわれたのは、1990年のゴールデンウィークに多摩線開通15周年を記念して「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が運行されたのが始まりである。同年夏には先述の「湘南マリンエクスプレス」が運行され、翌年以降も引き続き運行された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "多摩線における定期列車の特急は、2000年12月2日から設定された、新宿発唐木田行きの「ホームウェイ」からとなる。2016年のダイヤ改正発表時に多摩線特急の廃止が告知され、ダイヤ改正施行前日の3月25日、ホームウェイ75号を以って廃止された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "御殿場線直通の優等列車は、1950年10月1日から運行が開始された2往復が初で、1959年7月には1日4往復に増発された。当初は気動車による片乗り入れであったが、御殿場線電化に伴い、1968年7月1日からSE車による直通運転が開始された。国鉄線内では準急・急行という扱いであったため、小田急線内では「特別準急」「連絡急行」という種別となっていた。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1991年3月16日からは沼津まで延長されると同時に特急に格上げされ、同時にJR東海との相互直通運転が開始されたが、2012年3月17日改正からはこれと同時に運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮され、毎日運行の列車は3往復となり、前述のようにふたたび片乗り入れとなった。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正で、列車名がそれまでの「あさぎり」から「ふじさん」に変更された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "初詣客を対象に毎年大晦日深夜から元旦未明にかけて運行される列車で、1968年12月31日から運行が行なわれるようになった。明治神宮の初詣客に対応し、普段は各駅停車しか停車しない参宮橋にも停車するのが特徴。2000年度は「2001初詣号」という愛称となり、2001年度からは「ニューイヤーエクスプレス」という愛称に変更された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で、MSE車が使用される。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "停車駅は限られているが、千代田線内に待避設備がないため、地下鉄線内で普通電車の追い越しはない。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日より「メトロさがみ」「メトロはこね」「メトロホームウェイ」が運行開始されたほか、日によっては有楽町線新木場駅まで乗り入れる「ベイリゾート」も運行された。「ベイリゾート」については、同線各駅へのホームドア設置の関連で2011年10月以降運行を休止、そのまま運転終了となった",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2010年元旦からは「メトロニューイヤー」の運行も開始された。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ改正から、朝方の北千住行き「メトロさがみ」は「メトロモーニングウェイ」に変更され、また前述の「メトロえのしま号」も地下鉄に直通運転する。",
"title": "運行概要"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ロマンスカーの車内で「走る喫茶室」と称するシートサービスが開始されたのは、1949年の1910形運行開始の時からである。乗客サービスとして「お茶でも出せないか」という発想から検討されたもので、乗客全員に紅茶とケーキを提供するという案もあったが、特急券を購入した乗客に物品を提供するのは規則上禁止されていたため、飲料の販売を行うことに決定したものである。",
"title": "シートサービス"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "編成も乗車時間も短いため、食堂車などを連結するのではなく、車内にカウンターを設けた上でシートサービスを行うようにした。しかし、森永製菓や明治製菓に打診したところ採算面から断られ、三井農林(日東紅茶)も当初は断ったものの、「紅茶の普及宣伝」という方針で受諾したものである。その後の特急車両では車内に喫茶カウンターが設けられた。",
"title": "シートサービス"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その後、NSE車が7編成となった時点で、日東紅茶だけでは対応できなくなったことから、1963年から森永の宣伝を兼ねて森永エンゼルが参入することになった。1987年に運行開始したHiSE車ではオーダーエントリーシステムも導入された。しかし、1991年3月から運行を開始した「あさぎり」では、シートサービスではなくワゴンによる販売サービスを行なうことになった。さらに、1995年までにシートサービスは終了し、以後はワゴンサービスのみとなった。",
"title": "シートサービス"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2005年に登場したVSE車では、「走る喫茶室」と同様のシートサービスの営業が復活、飲料はVSE専用のガラスカップによって提供された。しかし、2016年3月26日のダイヤ改正においてこのサービスは廃止され、VSE車も含めてワゴンサービスに変更された。",
"title": "シートサービス"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2021年3月13日のダイヤ改正をもって、全てのロマンスカーでの車内販売サービスが終了した。",
"title": "シートサービス"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "戦前の「週末温泉急行」は座席定員制を導入しており、「列車指定割引乗車券」という名称の往復乗車券を発売し、この乗車券の発売によって人員制限を行っていた。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "戦後に1600形を使用したノンストップ特急でも初めて特急料金は設定された。初めて特別急行券(特急券)が発売されたのは1949年の1910形の投入時で、温泉マークの入った硬券特急券が発行された。それまでは座席定員制であったが、1700形導入後の1951年8月20日から座席指定制を採用し、特急券に号車番号と座席番号が記入されるようになった。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1966年には途中駅停車の「さがみ」が運行を開始、1967年4月には「えのしま」の新原町田停車、同年10月からは新原町田停車の「あしがら」が運行を開始したが、この時から愛称ごとに地紋の色を変え、発売時に一目で分かるように区別できるようにした。また、上り列車用の特急券には斜線を入れた。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "特急の座席については、新宿駅構内に設けられた割当センターで台帳管理されていたが、1970年代後半になると管理する座席数は67万座席となり、発売窓口と割当センターとの電話連絡の中で重複発行などの誤取り扱いの発生、待ち時間などの問題が発生していた。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "これを解決するため、座席予約システム( \"Seat Reservation\" 、以下「SR」と略す)を導入することになり、1979年2月27日から使用を開始した。SR端末は特急停車駅や案内所、小田急トラベルサービスの主要営業所に設置された。また、新宿駅当日特急券発売所には、他の端末の7倍の発券速度を有する高速プリンターを設置した。予約受付は5ヶ月前から、発売は3週間前から行っていた。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1987年には禁煙席の導入に対応するため、SRシステムの更新が行われた。更新されたシステムでは、払い戻しや取り消しの際に端末機が発券コードを読み取って上で自動処理を行うことで、誤取り消しによる重複発売の防止が図られた。また、これと同時に、新宿駅には当日特急券券売機を導入したほか、予約受付を6ヶ月前から、発売を1ヶ月前からに変更した。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1991年からはプッシュホンによる空席照会と予約が可能となった。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1995年にSRシステムのリニューアルを行い、全駅にSR端末を設置したほか、特急券が磁気エンコード化され、乗車券とともに発券された場合でも自動改札機を通過できるようにした。1996年には大手旅行会社の端末とSRシステムのホストを直結し、迅速な発券を可能とした。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1999年7月からは車掌携帯用座席確認システムを導入し、乗車時の特急券確認作業を廃止した。このシステムはザウルス端末を利用して、携帯電話回線経由でホストコンピュータにアクセスすることにより、その発売状況を号車別・座席別・区間別に車掌が把握し、その情報を車内での改札業務に利用できるシステムである。これにより、発売情報とは異なる座席に着席している乗客に対してのみ車内改札を実施することが可能となった。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2001年からはホームページ上からの特急券予約が可能となった。2003年には座席予約や発売業務を管理するシステムとして、全駅の窓口・自動券売機・旅行会社のシステムに接続されるMFITTシステム( \"Multimedia Future Intelligent Total Traffic service system\" の略)を導入した。2004年からは、多機能券売機の導入により、全駅の券売機で特急券の購入が可能となった。2012年時点では、予約・発売とも1ヶ月前から開始となっている。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2001年7月から、インターネットに対応した携帯電話で特急券を購入し、そのまま乗車可能となるチケットレス乗車システムとして「ロマンスカー@クラブ」のサービスを開始した。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "このサービスは駅窓口に申し込みすることで会員登録され、当日から利用可能となる。携帯電話からの特急券購入に使用される「特急ポイント」の積み立ては、クレジットカードと現金が利用可能である。2009年には携帯電話やパソコンの高機能化に対応し、スマートフォンやパソコンからも特急券を購入することが出来るようにシステムがリニューアルされた。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "どこからでも携帯電話を利用して座席を確保することが出来ることによって利便性が向上し、2010年時点では平日夕方の「ホームウェイ」の乗客の4割が「ロマンスカー@クラブ」を利用している。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2022年7月、乗客から「予約が埋まっていた展望席に誰も乗っていない」との指摘が複数寄せられて、調査の結果、虚偽の空予約を約9300回繰り返し、業務妨害したとして、埼玉県志木市の40代男性を偽計業務妨害容疑で書類送検された。これは、発車15分前迄に決済しなかった場合は無手数料で自動的にキャンセルになる仕組を悪用したものと思われる。予約システムの脆弱さ欠点が露わになった。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "上記の虚偽予約被害を鑑みて、2023年6月より展望席については事前予約不可能になり購入のみになる。",
"title": "予約システム"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "1台の台車によって2車体を連結する連接構造は、1957年に登場した3000形SE車において初めて採用された。曲線の多い小田急線の軌道条件において曲線通過を容易にできること、車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できること、オーバーハング部分がないため乗り心地を改善できる、台車配置の平均化により軌道への負担が軽減されることが理由として挙げられており、当時小田急の取締役兼考査局長であった山本利三郎の強い主張により採用されたものである。この当時、日本の高速電車における連接車の採用実績は、京阪60型電車・西鉄500形電車・名鉄2代目400形電車の3形式だけであり、一挙に8車体もの連接車を導入したのは当時としては大英断であったといわれている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "その後、連接構造は1963年に登場した3100形NSE車・1980年に登場した7000形LSE車・1987年に登場した10000形HiSE車においても採用されており、小田急の特急車両の大きな特徴となった。日本の高速電車全体での連接車の採用事例の中でも、小田急の特急車両における採用事例が突出して多い。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "しかし、1991年に登場した20000形RSE車ではJR東海との協定により371系と基本仕様を統一したため通常の鉄道車両と同様のボギー車となったが、車内販売のカウンターが車端部のオーバーハング部分に設置されたため、それまで連接車にしか乗務した経験のなかった車内販売の担当者から「RSE車に乗ると乗り物酔いになる」という声も上がった。さらに、1996年に登場した30000形EXE車においても、定員増のためにはボギー車が有利であると判断され、連接構造は採用されなかった。2008年に登場した地下鉄直通用車両の60000形MSE車、2018年に登場した70000形GSE車も通常のボギー車である。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "ただし、小田急側では「連接車をやめたわけではない」「連接車はわが社(小田急)だからできること」ともしており、2005年の50000形VSE車登場にあたっては乗り心地の向上のためには不可欠なものとして連接構造が採用された。また、VSE車では台車が車体間にあるという連接車の構造を利用して、空気ばねの位置を車体重心近くの高い位置にする構造となっている。しかし、上述の通り70000形GSE車では「連接車だとホームドアが合わなくなる」として連接構造をやめ、展望席設置車両としては初となるボギー車が採用された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "上述の経緯により、2018年の7000形LSE車の運用離脱以降、連接構造を採用するのは50000形VSE車2編成のみとなっているが、2023年に予定されているVSE車運用離脱をもって全ての車両がボギー車に統一される予定である。なお、2022年3月をもってVSE車は通常運用から撤退している。",
"title": "車両"
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"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "運転室を2階に上げ、最前部まで客室とした前面展望構造とする構想自体は、1700形が製造された時期には既に存在しており、その後も特急車両の設計が行なわれる度に検討されたが実現には至らず、1963年に登場した3100形NSE車で初採用となった。この構造は、乗客に眺望を楽しんでもらうという意図の他に、輸送力増強策の一つでもあるとされていた。その後、展望席は「いつか乗ってみたい存在」というステータスとして定着し、7000形LSE車、10000形HiSE車にも同様の構造が引き継がれた。1991年に登場した20000形RSE車では、連接車と同様の理由によりこの構造は採用されなかったが、客席をハイデッキ構造にしたため客席からの展望は確保されていた。",
"title": "車両"
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"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "しかし、1996年に登場した30000形EXE車では分割併合を行う事となり、貫通路を設置する先頭車での展望席設置は困難となった。また、分割して運行する区間が長いため、その際にも違和感のない前面形状とするという理由によって、非貫通タイプの運転台でも展望席は採用されなかった。ところが、この構造は前述したように箱根特急の利用者減少の一因となり、家族旅行で箱根特急を利用する際にEXE車を見た子供から「こんなのはロマンスカーじゃない」という苦情も寄せられたという。このため、2002年からは広告で使用される車両を前面展望席のあるHiSE車に変更したほか、2005年に登場した50000形VSE車では再び展望席が採用された。",
"title": "車両"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "2008年に登場した60000形MSE車は、地下鉄直通時の非常用通路として前面貫通路設置が必須であったことから、展望席設置は見送られた。その後、2018年に登場した70000形GSE車において復活を果たしている。",
"title": "車両"
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"text": "補助警報音は、1957年に登場した3000形SE車において、遠くからでも高速で走る電車の接近が分かるようにするために考案されたものである。これは西部劇の映画の中で、機関車が鐘を鳴らしながら走行していることをヒントにしたものであるが、音色の決定に際しては、運輸省から「警報装置としての条件を満足させるべき」と、警視庁からは「騒音公害にならないように」という要望があった。この相反するようにみえる要望を満たすため小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎にも相談、音響心理学研究所の指導を得て、最終的にはヴィブラフォンの音色で、2km付近まで達する音量となった。SE車ではエンドレステープが使用されたが、営業運行後にテープが伸びたり切れてしまうことが多かったため、3100形NSE車以降はトランジスタ発振器に変更され、20000形RSE車まで搭載された。",
"title": "車両"
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"text": "常時音楽を鳴らしながら走ることから、ロマンスカーは「オルゴール電車」と呼ばれるようになったほか、「小田急ピポーの電車」というCMソングも作られたなど、小田急ロマンスカーのシンボルの1つとなった。しかし、列車本数の増加などにより騒音とみなされるようになってしまい、10000形HiSE車が製造された1987年ごろにはほとんど鳴らす機会はなくなっていた。",
"title": "車両"
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"text": "しかし、50000形VSE車では、通常の警笛(電子笛)と回路を共用する補助警報としてこの音色を復活させ、60000形MSE車、70000形GSE車でも実装、小田急線と東京メトロ千代田線で使用されている(JR東海・御殿場線は、空気笛以外を「警笛」と認めていないJR東海の規定で通常の空気笛が使用される)。",
"title": "車両"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "ロマンスカーのシンボルマークは、1951年8月に登場した1700形の第2編成で、それまでは社紋が置かれていた側面の中央窓下にアルミ製のヤマユリの紋章を取り付けたものが始まりである。ヤマユリは神奈川県の県花であり、相模の山野を走るロマンスカーにはふさわしい花とみられていた。この紋章は1700形の全編成に設置されたが、1700形が一般車両に格下げとなった際に外された。",
"title": "車両"
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"text": "この紋章が復活したのは1980年登場の7000形LSE車からで、登場後まもなく車内の自動ドアにぶつかる乗客が目立ったことから、目線の高さに1700形の紋章に準じたシンボルマークをカッティングシートで貼付したものである。この自動ドアのステッカーは10000形HiSE車・20000形RSE車でも継承され、LSE車より前に登場した3100形NSE車の自動ドアにもこのマークが貼られるようになった。さらに1996年からは車体修理を受けたLSE車・HiSE車・RSE車の車体側面にも同様のマークが貼られるようになった。しかしこれらの車両は全て引退し、その後の車両には受け継がれなかったため、このヤマユリのマークを見ることはできない。",
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"text": "これとは別に、30000形EXE車・50000形VSE車・60000形MSE車、70000形GSE車では、車両愛称のロゴをデザインしている。",
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},
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"text": "鉄道友の会が優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞の制度を創設したのは、3000形SE車が東海道本線上で当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録を樹立したことがきっかけである。むしろSE車を表彰するために制度が創設されたという方が実情に近く、事実SE車は理事会の決定により無投票で第1回受賞車両に選出された。",
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"text": "その後も、30000形EXE車を除く8形式が受賞しており、2019年時点での受賞回数8回は大手私鉄では近畿日本鉄道とともに最多であった",
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"text": "各車両編成の就役日などは、各車両形式の歴史の項を参照。",
"title": "年表"
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小田急ロマンスカーは、小田急電鉄が運行する特急列車および特急車両の総称。列車により小田急小田原線、小田急江ノ島線のほか、箱根登山線や東京地下鉄(東京メトロ)千代田線・東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線と直通運転を行う。また「ロマンスカー」は小田急電鉄の登録商標(ロマンスカーの記事も参照)。 本項では、「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄を指すものとし、箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れる特急列車については、特に区別の必要がない場合は「箱根特急」と標記する。
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[[File:Odakyu Romancecar logo.svg|280px|thumb|ロゴマーク]]
[[ファイル:Odakyu Romancecar SE 3000 series and GSE 70000 series Ebina depot 20190526.jpg|thumb|280px|初代小田急ロマンスカー[[小田急3000形電車 (初代)|3000形]](左)と[[小田急70000形電車|70000形]](右)]]
'''小田急ロマンスカー'''(おだきゅうロマンスカー、{{lang-en-short|ODAKYU ROMANCECAR}}、{{lang-zh-short|小田急"浪漫"特快}})は、[[小田急電鉄]]が運行する[[特急列車]]および[[特急形車両|特急車両]]の総称。列車により[[小田急小田原線]]、[[小田急江ノ島線]]のほか、[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山線]]や[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ千代田線|千代田線]]・[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[御殿場線]]と[[直通運転]]を行う。また「'''ロマンスカー'''」は小田急電鉄の[[登録商標]]<ref group="注釈">第3321840号</ref>([[ロマンスカー]]の記事も参照)。
本項では、「小田急」と表記した場合、小田原急行鉄道および小田急電鉄を指すものとし、[[箱根登山鉄道]][[箱根湯本駅]]に乗り入れる特急列車については、特に区別の必要がない場合は「箱根特急」と標記する。
== 「ロマンスカー」の名称 ==
[[ファイル:Ticket vender machine Romancecar closeup.jpg|thumb|ホーム上の特急券券売機にみられる「こんどのロマンスカー」の標記]]
「ロマンスカー」の呼称は[[昭和]]初期から存在し、[[京阪電気鉄道]]が[[1927年]](昭和2年)に新造した転換クロスシート車の[[京阪1550型電車|1550型]](後に600型に改番)を「ロマンスカー」と称したのが日本における「ロマンスカー」の初出と見られ、この時点では「ロマンスカー」は小田急の専有名称ではなかった。
京阪では、一時は盛んにロマンスカーの呼称を用いたが、[[1953年]]登場の2代目特急専用車([[京阪特急]])[[京阪1800系電車 (初代)|1800系]]に[[1954年]]からテレビ受像器を搭載し、これを看板車両「テレビカー」としてアピールするようになり、[[1960年]]の広告では「テレビ付ロマンスカー」という表現が使われていた<ref>『{{PDFlink|[http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/article_7_97.pdf 関大1960年10月15日号]}}』 - [[関西大学]]校友会(3頁目を参照)</ref>。その後、「京阪ロマンスカー」の呼称は消滅した。
一方、小田急では、[[1934年]]頃の[[江の島]][[海水浴]]宣伝のパンフレットに「ロマンスカーは走る」「大東京のセンター[[新宿]]から」の文言が掲載され<ref name="1977-14"/>、電車内の写真にも「小田急のロマンスカー」と説明がつけられた<ref name="1977-14"/>。
第二次世界大戦後の[[1949年]]頃に、新宿の映画館「[[新宿武蔵野館]]」を復旧改装するにあたり<ref name="1987-y-84"/>、[[恋人]]同士の[[映画]]鑑賞を企図して2人掛けの[[座席]]を館内2階に設けた<ref name="1987-y-84"/>ところ「ロマンスシート」として[[マスメディア]]に取り上げられた<ref name="1987-y-84"/>。その頃に運行を開始した<ref name="1987-y-84"/>小田急の特急車両が2人掛けの対面座席を採用した<ref name="rp829-21"/>ことから「ロマンスカー」と称され、「小田急ロマンスカー」と命名された<ref name="rp829-21"/>。しかしこの時期にはまだ、[[日本国有鉄道|国鉄]]を含め他社も同様の車両を有し、その一部は「ロマンスカー」を名乗っていた。
[[1991年]]に[[東武鉄道|東武]][[東武1720系電車|1720系「デラックスロマンスカー (DRC)」]]が引退したのを機に、小田急は「ロマンスカー」を自社で[[商標登録]]した。なお小田急以外で「ロマンスカー」として製造された車両が完全に引退したのは、[[2012年]]の[[長野電鉄]][[長野電鉄2000系電車|2000系]]の運用離脱である。
なお「ロマンスカー」は[[和製英語]]であり、[[英語圏]]では通じない<ref name="1987-y-84"/>。[[小田急60000形電車|60000形MSE車]]の[[ブルネル賞]]受賞表彰式に際し、小田急の担当者が「6両と4両の2編成が[[接吻|キス]]をするからロマンスカーなのか」と現地の人から質問されたというエピソードもある<ref name="rp829-21"/>。
[[2010年]]時点で、小田急電鉄における特急列車はロマンスカーを指し<ref name="rp829-222"/>、他社は「つぎ(こんど)の特急」と標記する<ref name="rp829-222"/>ところを、ホーム上に設置した特急券券売機で「つぎ(こんど)のロマンスカー」と標記している<ref name="rp829-222"/>。それ以外の旅客上の案内では、小田急と東京メトロともに「'''特急ロマンスカー'''」という表現を用いている<ref>[http://www.odakyu.jp/romancecar/ 特急ロマンスカー|小田急電鉄]</ref><ref>[http://www.tokyometro.jp/romancecar/index.html 東京メトロ|特急ロマンスカーのご案内]</ref>。
== 沿革 ==
=== 前史 - 週末温泉急行 ===
[[1927年]]4月1日に開業当初の小田急は、[[昭和]]初期の不況の影響で沿線は一向に発展せず<ref name="1994-u-54"/>、もともと過大な初期投資<ref name="1981-u-99"/>に加えて乱脈経営が祟った<ref name="rp405-149"/>こともあり、厳しい経営状態を余儀なくされていた。[[1929年]]4月1日に[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]が開業してからは夏季の海水浴客輸送の時に運賃を往復で5割引にするなどして増収策を図り<ref name="1994-u-54"/>、全車両をフル稼働させて対応していた<ref name="1981-u-107"/>。
一方、あまり積極的ではなかった<ref name="rp679-94"/>ものの、[[小田急小田原線|小田原線]]も[[箱根]]への観光客輸送を目的の1つとしており<ref name="1994-u-52"/>、増収策の一環として<ref name="1994-u-54"/>、週末のみ[[新宿駅|新宿]]から[[小田原駅|小田原]]までをノンストップで運行する列車が立案された<ref name="1994-u-54"/>。小田急ではこの列車の車内では、沿線案内を[[レコード]]で流し<ref name="rp679-118"/>、合間に「小田急行進曲」と「小田急音頭」を流すことを発案<ref name="rp679-118"/>、当時新宿に存在した娯楽施設の[[ムーランルージュ新宿座]]に「小田急行進曲」「小田急音頭」の製作を依頼し<ref name="rp679-118"/>、沿線案内の吹き込みはムーランルージュ新宿座の看板女優であった[[明日待子]]が担当した<ref name="1981-u-12"/>。78回転盤(SPレコード)6枚組に仕上がったレコードが完成し<ref name="rp679-118"/>、実際に走行中の車内でテストしたが[[レコードプレーヤー|針]]が飛んでしまい<ref name="rp679-118"/>、この試みは失敗であった<ref name="rp679-118"/>。
[[ファイル:Odawara Expres 108.jpg|thumb|101形]]
ともあれ、[[1935年]]6月1日から、新宿 - 小田原間を[[直行便|ノンストップ]]で結ぶ「週末温泉急行」の運行を開始した<ref name="1994-u-54"/>。この急行には車両はクロスシートを装備した[[列車便所|便所]]付の車両であった[[小田原急行鉄道101形電車|101形]]などが使用され<ref name="1981-u-12"/>、新宿 - 小田原間を90分で結んだ<ref name="1981-u-12"/>。運行は土曜日の下り列車のみで、帰りとなる日曜日は通常の急行列車が運行された<ref name="1994-u-54"/>。これが小田急ロマンスカーのルーツとなる列車であるが、陰では「おしのび電車」などと言われていたという<ref name="1987-y-84"/>。
しかし、[[1941年]]12月に[[太平洋戦争]]が始まり<ref name="1981-u-12"/>、[[1942年]]1月から週末温泉急行は運休となり<ref name="1994-u-140"/>、同年4月にはダイヤ上の設定もなくなった<ref name="1994-u-54"/>。小田急自体も、同年5月には東京横浜電鉄と合併し[[東京急行電鉄]]([[大東急]])となった<ref name="1994-u-54"/>。
=== 終戦後 ===
==== ノンストップ特急運転開始 ====
終戦後の[[1946年]]には大東急で「鉄軌道復興3カ年計画」が策定された<ref name="2009-a-118"/>が、この中には小田原線の箱根登山鉄道への乗り入れ計画が含まれていた<ref name="2009-a-120"/>。また、終戦の時点では新宿から小田原までは2時間30分もの所要時間を要していた<ref name="1981-u-109"/>が、[[五島慶太]]は終戦直後にこの所要時間を半分にするように指示していた<ref name="2009-a-124"/>。
[[1948年]]6月1日に大東急から小田急が分離独立したが、小田急は東急と比較すると営業路線長は約2倍あったにもかかわらず、運輸収入は半分に過ぎなかった<ref name="rp491-10"/>。そこで、収入増の方策として箱根への直通旅客増加を図ることとなり<ref name="1987-y-84"/>、その一環として新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運行が計画された<ref name="rp491-10"/>。複数車種で試運転などを行った結果、この特急に使用される車両として[[小田急1600形電車|1600形]]の中から「復興整備車」として重点的に整備されていた車両が指定され{{#tag:ref|デハ1601、デハ1602、デハ1604、デハ1607、クハ1651、[[小田原急行鉄道201形電車|クハ1315]]の6両<ref name="1994-u-56"/>。ただしデハ1601は[[制御車]]代用であった<ref name="1994-u-57"/>。|group="注釈"}}、特急料金の制定や各種ポスターの製作など準備が行われた<ref name="1994-u-56"/>。
[[ファイル:Odawara Express 601.jpg|thumb|1600形(写真は戦時中に撮影されたもの)]]
こうして、1948年10月16日から新宿と小田原を結ぶ特急列車の運行が開始された<ref name="1988-u-118"/>。土曜日は下り1本のみ、日曜日は下り1本・上り2本のみの運行で、所要時間は100分であった<ref name="1981-u-13"/>。使用車両は、朝ラッシュ時の通勤輸送に使用した1600形が入庫した後に、3つある乗降用扉のうち真ん中の扉を締め切った上で補助座席を置き<ref name="1994-u-56"/>、ロングシートに白いカバーをかけた上でスタンド式灰皿を並べただけであった<ref name="rp491-10"/>が、戦後の復興途上だったこの時期においては精一杯のサービスであった<ref name="1987-y-84"/>。当初計画では同年10月9日から運行開始の予定であった<ref name="1994-u-58"/>が、豪雨の影響で[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山鉄道線]]が不通になってしまったために1週間延期されている<ref name="1994-u-58"/>。
運行開始当初は集客がうまくいかず<ref name="1988-u-116"/>、運輸部門では縁故を通じて乗客の勧誘に歩き回り<ref name="1994-u-50"/>、駅の出札窓口でも積極的に特急列車の売り込みを行った<ref name="1994-u-50"/>。乗客が少ない時には、本社勤務の社員が「[[サクラ (おとり)|サクラ]]」となって乗車したりしたこともあったという<ref name="1988-u-116"/>が、次第に利用者が増加し、予想を上回る好成績となった<ref name="arc1-58"/>。
なおこのころには、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会において<ref name="rp491-16"/>、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されている<ref name="rp491-16"/>。
==== 特急車両1910形の登場 ====
[[1949年]]には、小田急が分離独立してから初めて新型電車を製造することになった<ref name="rp491-10"/>。当時の新車製造は割当制であり、小田急には15両が割り当てられた<ref name="1994-u-59"/>。割り当てのうち10両が[[小田急1900形電車|1900形]]として発注されることになった<ref name="1994-u-59"/>が、営業部門からクロスシートを装備した特急車両を要望する意見が強かった<ref name="rp491-10"/>ため、このうち4両を特急車両の[[小田急1900形電車|1910形]]として製造することになった<ref name="1994-u-59"/>。ただし、朝のラッシュ時には通勤輸送にも使用することになった<ref name="1994-u-59"/>ので、扉付近をロングシートとした2扉セミクロスシートの車両となった<ref name="1994-u-59"/>。また、編成は3両固定編成とし、中間車には[[日本国有鉄道]](国鉄)の戦災焼失車の台枠を流用した改造車両を連結することとなった<ref name="rp491-10"/>。また、前年に[[近畿日本鉄道]]が特急の運行を再開した際に、[[参宮急行電鉄2200系電車|2200系]]がレモンイエローと青の2色塗りとしていたものにあやかり<ref name="rp491-11"/>、この特急車両の外部塗色は濃黄色と紺色の2色塗りとすることになった<ref name="1994-u-59"/>。
1910形は同年7月に入線し<ref name="1994-u-60"/>、同年8月から2両編成で営業運行を開始<ref name="1994-u-60"/>(ただしこの時点では、まだロングシートの新車1900形を2連で使用した時もあった)、同年9月から本来の3両固定編成となって運行を開始した<ref name="1994-u-60"/>。1910形を使用した特急では、「[[走る喫茶室]]」と称した、車内に喫茶カウンターを設け、車内で飲み物を販売するサービスが開始された<ref name="rf317-43"/>。所要時間は90分であった<ref name="1994-u-60"/>。
また、同年10月のダイヤ改正から、特急は1往復が毎日運転されることになった<ref name="rf422-31"/>。小田急が公式に「ロマンスカー」という愛称を用いたのはこの時からで、ポスターで「ニュールックロマンスカー毎日運転」と宣伝された<ref name="2000-u-20"/><ref group="注釈">[[#生方1994|『小田急ロマンスカー物語』 p.49]]に当時のポスターが掲載されている。</ref>。
==== 箱根登山鉄道への直通運転開始 ====
このころ、小田急では箱根登山鉄道箱根湯本駅に乗り入れるための計画が進められていた。
しかし、小田急の軌間が1,067mmであるのに対して箱根登山は1,435mm<ref name="1981-u-111"/>、架線電圧も小田急の1,500Vに対して箱根登山は600Vであった<ref name="1981-u-111"/>。また、箱根登山では小田原から箱根湯本までの区間を「[[平坦線]]」と称していた<ref name="1987-y-85"/>が、これは箱根登山の80‰という急勾配と比較しての話で<ref name="1987-y-85"/>、実際には40‰もの勾配が続いており<ref name="1987-y-85"/>、小田急の最急勾配が25‰であったのと比べればはるかに急な勾配であった<ref name="1987-y-85"/>。
この対応として、軌道は[[三線軌条]]とし<ref name="1988-u-6"/>、架線電圧については小田原と箱根湯本の間は1,500Vに昇圧することになり<ref name="1988-u-6"/>、[[1950年]]8月1日から小田急から箱根湯本までの直通運転が開始された<ref name="2011-a-61"/>。この時に新宿と小田原の間についてもスピードアップが図られ、新宿と小田原は80分で結ばれるようになった<ref name="1988-u-119"/>。
この直通運転開始後に特急の利用者は急増し<ref name="1988-u-119"/>、同年10月からは特急は毎日3往復に増発された<ref name="1994-u-60"/>。
==== 特急専用車両1700形の登場 ====
特急利用者の増加は続き、2000形{{#tag:ref|1910形は1950年に改番され、2000形に変わっていた<ref name="arc1-61"/>。|group="注釈"}}が2編成だけでは不足するようになり、「特急券がとれない」という苦情も来る<ref name="rp491-11"/>ほどで、営業部門からは特急車両増備の要望が高まってきた<ref name="rp491-11"/>。また、2000形は扉付近の座席がロングシートであり、全ての座席をクロスシートにして欲しいという要望もあった<ref name="2005-u-69"/>。しかし、収支面からはラッシュ輸送に使用できない特急専用車の新造を危ぶむ意見もあった<ref name="arc1-59"/>。社内での検討の結果、将来を考えて特急専用車を導入する<ref name="rp491-11"/>が、製造コストをできるだけ安価にするため<ref name="1987-y-54"/>、[[台枠]]は[[日本国有鉄道|国鉄]]の戦災復旧車や事故焼失車のものを流用することになった<ref name="rp491-11"/>。
[[ファイル:Odakyu 1700.JPG|thumb|1700形]]
こうして[[1951年]]2月に登場したのが[[小田急1700形電車|1700形]]で、全ての座席が転換クロスシートとなり<ref name="1987-y-86"/>、さらに座席数を増やすため、乗降用の扉は3両で2箇所という思い切った設計とした<ref name="1987-y-54"/>。この1700形が、小田急ロマンスカーの地位を不動のものにしたとされている<ref name="1981-u-16"/>。この1700形の導入後の同年8月20日から<ref name="1994-u-140"/>、それまでは座席定員制だったものを座席指定制に変更した<ref name="rp491-42"/>。また、夕方に新宿に到着した特急車両に[[ビール]]樽を積み込み、[[片瀬江ノ島駅|江ノ島]]まで往復する「納涼ビール電車」の運行も開始された<ref name="1994-u-62"/>{{#tag:ref|この「納涼ビール電車」は特殊急行という扱いで、特急料金は不要だった<ref name="arc1-47"/>。|group="注釈"|name="beer"}}この時点では、検査時や増発時には引き続き2000形も使用されていた<ref name="1994-u-62"/>。しかし、設備面の格差が大きいことによる苦情があり<ref name="rp491-12"/>、同年8月までに第2編成が製造された<ref name="1994-u-62"/>。
また1700形投入後に特急利用者の増加傾向が見られ<ref name="1994-u-62"/>、特急の営業的な成功は明らかとなった<ref name="1987-y-86"/>。このため、1952年8月に完全な新造車両として第3編成が投入された<ref name="2005-u-75"/>。特急の利用者数がさらに増加するのに対応し、[[1953年]]には特急の増発が行なわれた<ref name="1994-u-63"/>ほか、それまで使用されていた2000形を使用した座席定員制の急行列車が運行された<ref name="1994-u-63"/>。
また、[[1954年]]夏からは江ノ島線にも特急料金が設定され<ref name="1994-u-63"/>、夏季海水浴客輸送の期間には江ノ島線にも1700形を使用した特急が運行されるようになった<ref name="1994-u-63"/>。
このころの小田急では、先に述べた「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標に向けて、高性能車の開発に向けた試験を進めていた<ref name="arc1-14"/>。1954年7月には小田急ではじめて[[カルダン駆動方式]]を採用した通勤車両として[[小田急2200形電車|2200形]]が登場しており、同年9月11日には「画期的な軽量高性能新特急車」の開発が決定していた<ref name="arc1-65"/>。
しかし、予想を上回る特急利用者数の増加があり<ref name="1987-y-87"/>、新型特急車両の登場を待つ余裕はないと判断された<ref name="1981-u-16"/>が、すでに通勤車両がカルダン駆動方式を採用しているのに、今さら特急車両を旧式の[[吊り掛け駆動方式]]で増備することは考えられなかった<ref name="rp405-108"/>。このため、暫定的に2200形の主要機器を使用し<ref name="1994-u-64"/>、車体を特急用とした[[小田急2300形電車|2300形]]が[[1955年]]に登場した<ref name="arc1-64"/>。また、この年の10月からは、御殿場線へ直通する特別準急の運行が開始されている<ref name="rf422-32"/>。
=== 高度成長期 ===
==== 軽量高性能新特急車SE車の登場 ====
[[ファイル:Model 3000 SE of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|3000形SE車]]
1954年から国鉄[[鉄道技術研究所]]の協力を得て開発が進められていた「画期的な軽量高性能新特急車」は、[[1957年]]に[[小田急3000形電車 (初代)|3000形]]として登場した<ref name="1981-u-17"/>。この3000形は "Super Express car" 、略して「SE車」と呼ばれる車両で<ref name="rp546-86"/>、数多くの新機軸が盛り込まれ<ref name="1981-u-20"/>、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追求された<ref name="1981-u-115"/>、低重心・超軽量の[[流線形車両]]であった<ref name="1981-u-20"/>。「電車といえば四角い箱」であった時代<ref name="korotan290"/>において、SE車はそれまでの電車の概念を一変させるものとなり<ref name="rp546-86"/>、[[鉄道ファン]]だけではなく一般利用者からも注目を集めた<ref name="korotan290"/>。同年7月6日よりSE車の営業運行が開始された<ref name="arc1-65"/>が、すぐに[[夏休み]]に入ったこともあって<ref name="1981-u-17"/>、連日満席となる好成績となり<ref name="1981-u-17"/>、営業的にも成功した<ref name="2005-u-87"/>。
また、同年9月には国鉄[[東海道本線]]でSE車を使用した高速走行試験が行われた<ref name="1981-u-17"/>が、私鉄の車両が国鉄の路線上で走行試験を行なうこと自体が異例のことである<ref name="1981-u-116"/>のみならず、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録である145km/hを樹立した<ref name="dj145-54"/>。また、これを契機に[[鉄道友の会]]では優秀な車両を表彰する制度として[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を創設し<ref name="BL88-9899"/>、SE車は第1回受賞車両となった<ref name="1988-u-121"/>。
SE車が運用開始された1957年時点では、新宿と小田原は75分で結ばれていた<ref name="1994-u-63"/>が、SE車は[[1958年]]までに4編成が製造され、特急が全てSE車による運行となった<ref name="1994-u-63"/>ため、[[1959年]]からは67分で結ばれるようになった<ref name="rf422-34"/>。さらに[[1961年]]には新宿と小田原の間の所要時間は64分にまでスピードアップした<ref name="1981-u-20"/>。
1959年からは、特急を補完するための準特急の運行が開始された<ref name="arc1-46"/>。使用車両は2扉セミクロスシート車で、特急運用から外れた2300形と、新造した[[小田急2320形電車|2320形]]が使用された<ref name="arc1-46"/>。
==== 前面展望車NSE車の登場 ====
[[ファイル:Odakyu NSE 3100.jpg|thumb|3100形NSE車]]
[[File:箱根ゴールデンコース.jpg|thumb|箱根ゴールデンコース]]
SE車の登場以後、特急利用者数はさらに増加し、週末には輸送力不足の状態となっていた<ref name="arc1-84"/>。また、[[1960年]]には[[箱根ロープウェイ]]が完成し<ref name="1981-u-118"/>、「箱根ゴールデンコース」と呼ばれる周遊コースが完成した<ref name="1981-u-118"/>ことから、箱根の観光客自体が急増した<ref name="1981-u-118"/>。更に、[[1964年東京オリンピック]]の開催を控えていたこともあり、特急の輸送力増強策が検討された<ref name="1987-y-89"/>。その結果として、[[1963年]]に[[小田急3100形電車|3100形]]が登場した。この3100形は "New Super Express" 、略して「NSE車」と呼ばれ<ref name="rp491-14"/>、8両連接車だったSE車に対し、NSE車では11両連接車とし<ref name="arc1-89"/>、さらに編成両端を展望席とする<ref name="arc1-86"/>ことによって定員増を図った車両である<ref name="arc1-119"/>。また、SE車と比較すると豪華さが強調される車両となった<ref name="arc2-54"/>。1963年にNSE車が4編成製造されたことによって、箱根特急の30分間隔運行が実現し<ref name="2005-u-98"/>、同時に新宿と小田原の間の所要時間は62分にまでスピードアップした<ref name="2005-u-98"/><ref group="注釈" name="最速62分">これが代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線完成以前における新宿駅 - 小田原駅間所要時間の最短記録であり、以降はダイヤ過密化から所要時間が増加している。当時より早くなったのは、同区間の複々線が完成し、所要時間が59分に短縮された55年後の2018年のことである。</ref>。
この時期まで、箱根特急の列車愛称は列車ごとに異なり、[[#箱根特急・小田原線特急|後述]]するようにNSE登場直前の時点で16種類の愛称が使用されていた<ref name="1994-u-83"/>が、NSE車の登場後の1963年11月4日からは5種類に整理された<ref name="1994-u-94"/>ほか、準特急という種別は廃止となった。その後、NSE車はさらに3編成が増備され、[[1967年]]からは箱根特急の全列車がNSE車で運用されることになった<ref name="1981-u-21"/>。
[[ファイル:ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg|thumb|「あさぎり」の運用に就くSE車]]
また、[[1964年]]3月21日からは、それまで夏季のみ運行されていた江ノ島線の特急が土休日のみであるが通年運行となり<ref name="rp405-21"/>、[[1965年]]3月1日からは毎日運転となった<ref name="rp405-21"/>{{#tag:ref|定期列車扱いとなったのは1965年11月15日のダイヤ改正からである<ref name="rp405-21"/>。|group="注釈"}}。[[1966年]]6月1日からは特急の愛称がさらに整理され、新宿から小田原までノンストップの列車は「はこね」、途中[[向ヶ丘遊園駅|向ヶ丘遊園]]と[[新松田駅|新松田]]に停車する列車は「さがみ」、江ノ島線特急は「えのしま」に統一された<ref name="rp405-21"/>。なお、途中駅に停車する特急はこのときの改正で新設されたもので<ref name="rp491-14"/>、元来は沿線在住の箱根観光客を対象としたものであった<ref name="2005-u-58"/>。[[1968年]]7月1日からは、御殿場線直通列車が気動車からSE車に置き換えられ<ref name="rp405-22"/>、愛称も「あさぎり」に統一された<ref name="rp405-22"/>。列車種別は同年10月から「連絡急行」に変更されている<ref name="rp405-22"/>。1968年12月31日からは、初詣客に対応する特急「初詣号」の運行が行なわれるようになった<ref name="rf422-29"/>が、この列車は普段は各駅停車しか停車しない[[参宮橋駅|参宮橋]]にも停車するのが特徴であった<ref name="korotan83"/>。
しかし、通勤輸送への対応<ref name="arc2-8"/>やそれに伴う新宿駅再改良工事<ref name="rp679-100"/>などの影響で、[[1972年]]以降、新宿から小田原までの所要時間は最速でも69分にスピードダウンを余儀なくされた<ref name="rp405-22"/>。線路容量不足のため、上り「さがみ」の一部が新宿まで運行できず、向ヶ丘遊園終着とする措置まで行なわれた<ref name="rp405-22"/>。
==== 通勤利用者向け特急の運行開始 ====
その一方で、通勤輸送に特急を活用する施策も開始された。
1967年4月27日からは江ノ島線特急「えのしま」が新原町田停車となり<ref name="rp405-22"/>、同年6月23日からは[[特別急行券|特急券]]を購入すれば[[定期乗車券]]でも特急に乗車できるようになり<ref name="1994-u-141"/>、さらに同年8月からは[[町田駅|新原町田]]に停車する特急「あしがら」の新設と増発が行われた<ref name="rp405-22"/>。特に、新宿に到着して[[相模大野駅|相模大野]]の車庫へ回送される列車を新原町田まで客扱いしたところ<ref name="1981-u-21"/>、通勤帰りの利用者が多くなった<ref name="1988-u-93"/>ため、[[1968年]]には[[経堂駅|経堂]]の車庫へ回送される車両を相模大野の車庫への入庫に変更するなどして増発が行われた<ref name="1987-y-90"/>。同年7月10日からは「さがみ」の[[本厚木駅|本厚木]]停車が開始された<ref name="rp405-22"/>。
これは優等列車による通勤・通学対応としては日本では初の事例であり<ref name="City87-96"/>、この後も徐々に通勤対応の特急が増発されてゆく。なお、[[1971年]]10月1日からは、連絡急行「あさぎり」の新原町田停車が開始された<ref name="rp405-22"/>が、「あさぎり」についてはこの時点では定期乗車券での利用はできなかった<ref name="rp405-22"/>。
=== 1980年代 - 1990年代 ===
==== レジャーの多様化へ向けて ====
{{Double image aside|right|OER-7000-Sagami.jpg|180|Lse high speed test run.JPG|194|7000形LSE車|東海道本線を走行するLSE車}}
しばらくは特急ロマンスカーについては大きな動きはなかったが、1970年代に入るとSE車の老朽化が進み<ref name="rp405-81"/>、代替を検討する時期となっていた<ref name="rp405-81"/>。このため、SE車の代替を目的として、[[1980年]]に[[小田急7000形電車|7000形]]が登場した。7000形は "Luxury Super Express" 、略して「LSE車」と呼ばれる車両で、編成長や定員はNSE車と大きく変わらないものの、デザインや主要機器などが一部変更されている<ref name="rf422-38"/>。LSE車の導入により、特急の輸送力増強が図られた。[[1982年]]12月には、国鉄からの申し入れにより、東海道本線上での走行試験にLSE車が使用された<ref name="rf422-40"/>。国鉄の路線上で私鉄の車両が走行試験を行なった事例は、SE車とこのLSE車だけである<ref name="1985-u-123"/>。
[[1984年]]2月1日からは、連絡急行「あさぎり」の停車駅に本厚木・[[谷峨駅|谷峨]]が追加され<ref name="1994-u-141"/>、[[1985年]]からは「あさぎり」も定期乗車券での利用が可能となった<ref name="rp491-46"/>。また、[[1986年]]10月4日からは、LSE車の車内に公衆電話が設置された<ref name="rp491-46"/>。
{{Double image aside|right|OER 10011 Kaisei7cross 20120228.jpg|187|OER 20301 Kaisei7cross 20120228.jpg|187|10000形HiSE車|20000形RSE車}}
この時期になると、レジャーの傾向は多様化が進んでおり<ref name="rp491-47"/>、ゆとり以外に「一味違ったもの」が求められていた<ref name="rp491-47"/>。また、観光バスや他の鉄道事業者の車両においては高床(ハイデッキ)構造の車両が登場しており<ref name="2005-u-43"/>、折りしも[[1987年]]は小田急の開業60周年となることから<ref name="rp491-15"/>、これを記念するために新型特急車両として[[小田急10000形電車|10000形]]が登場した<ref name="rp491-47"/>。10000形は "High decker"<ref name="rp491-53"/> 、 "High grade"<ref name="rp491-53"/> 、 "High level"<ref name="rp491-53"/> 、 "High performance"<ref name="1988-u-124"/> などのキーワードから連想する、上級というイメージを表して「HiSE車」と呼ばれ、客席を高くしたハイデッキ構造とし<ref name="2005-u-43"/>、「走る喫茶室」に[[オーダーエントリーシステム]]が採用された<ref name="rj258-18"/>ほか、外装も近代的なイメージを意図したカラーリングに変更した<ref name="1988-u-33"/>。
一方、[[1988年]]7月、小田急が[[東海旅客鉄道]](JR東海)に対し、連絡急行「あさぎり」に使用していたSE車の置き換えを申し入れたことがきっかけとなり<ref name="rj297-35"/>、特急に格上げした上で両社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互[[直通運転]]に変更し<ref name="2005-u-50"/>、運行区間も新宿と[[沼津駅|沼津]]の間に延長することとなり<ref name="2005-u-50"/>。1991年に[[小田急20000形電車|20000形]]が登場した。20000形は "Resort Super Express" 、略して「RSE車」と呼ばれる車両で<ref name="rp829-277"/>、[[JR東海371系電車]]と基本仕様を統一したため<ref name="rp679-238"/>、それまでの特急ロマンスカーの特徴であった[[連接台車|連接構造]]や[[展望車|前面展望席]]は採用されず<ref name="2005-u-50"/>、[[2階建車両|2階建て車両(ダブルデッカー)]]<ref name="rp546-196"/>や[[特別席]]([[スーパーシート]]・[[グリーン車|グリーン席]])を設置するなど<ref name="2005-u-50"/>、それまでの小田急ロマンスカーの仕様からはかけ離れた車両となった<ref name="2005-u-50"/>。
==== 日常利用への対応 - EXE車の登場 ====
このころになると、小田急ロマンスカーの利用者層にも変化が生じていた。観光客以外の日常利用が増加していた<ref name="2005-u-58"/>ほか、1967年から開始された夕方新宿発の通勤用特急は増発が続けられ、当初の「回送列車の客扱い」という思惑を超え、わざわざ新宿まで出庫させる運用まで登場していた<ref name="rp546-106"/>が、それでも輸送力の増強が求められていた<ref name="2011-a-188"/>。しかし、当時はまだ通勤輸送に対応した複々線化工事は進展しておらず<ref name="2011-a-189"/>、これ以上の増発やスピードアップは困難な状況で<ref name="2011-a-189"/>、単位輸送力の向上、言い換えれば列車の定員を増やすしか方法がなかった<ref name="2011-a-189"/>。また、1963年から導入されているNSE車が置き換えの時期となっていた<ref name="2005-u-58"/>。
[[ファイル:OER Romancecar Homeway -EXE-.JPG|thumb|30000形EXE車]]
こうした状況下、箱根特急の利用者数が年率5%程度の減少傾向が続いており<ref name="rj396-95"/>、これを日常的な目的での特急利用者を増加させることで補う意図もあった<ref name="2011-a-193"/>。これにあわせて、[[1996年]]にそれまでとは一線を画す車両として<ref name="rf421-56"/>[[小田急30000形電車|30000形]]が登場した。30000形は "Excellent Express" 、略して「EXE車」と呼ばれる車両で<ref name="2005-u-59"/>、それまでの小田急ロマンスカーの特徴であった前面展望席も連接構造も導入されていない<ref name="2005-u-61"/>。
EXE車の導入後も、日常利用への対応は続けられた。[[1998年]]からは相模大野・[[秦野駅|秦野]]にも特急が停車することとなり<ref name="rp679-35"/>、1999年7月からは「あしがら」「さがみ」を統合して「サポート」とした<ref name="rp829-204"/>ほか、新宿を18時以降に発車する特急は全て「ホームウェイ」という愛称になった<ref name="rp829-204"/>。こうした施策によって、1987年時点では1100万人だった特急の年間利用者数は<ref name="rj464-33"/>、[[2003年]]には1400万人に増加したのである<ref name="rj464-33"/>。
=== 2000年代以降 ===
==== 観光特急の原点に回帰 - VSE車の登場 ====
ところが、日常的な特急の利用者数が増加する一方で、箱根特急の利用者数は大幅に減少していた。1987年の箱根特急の年間利用者数は550万人であった<ref name="rj464-33"/>が、2003年の利用者数は300万人程度にまで落ち込んでいたのである<ref name="rj464-33"/>。この理由を調べると、[[バブル崩壊]]後の景気低迷もあって箱根を訪れる観光客自体も減少傾向にあった<ref name="rj464-33"/>ほか、EXE車には「小田急ロマンスカーのイメージ」とされた展望席が存在しなかったことが挙げられた<ref name="rj464-33"/>。また、2001年から運行を開始した[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の「[[湘南新宿ライン]]」も[[2004年]]には運行区間が延長され、特急ロマンスカーとあまり変わらない所要時間で新宿と小田原を結ぶようになった<ref name="2011-a-200"/>。
このような状況下、[[2002年]]からは箱根特急へのてこ入れが開始されることになった。宣伝ポスターも、ロマンスカーを大写しにするのではなく、あくまで風景の一部としてロマンスカーを取り入れる施策に変更した<ref name="2011-a-205"/>。この時考案された'''「きょう、ロマンスカーで。」'''のキャッチコピーは、2023年現在に至るまで使用されている。また、ロマンスカーの看板車両として、前面展望席のあるHiSE車を再び起用することになった<ref name="rj464-34"/>が、そのHiSE車は登場した1987年当時の時点では全く想定していなかった[[バリアフリー]]対応が困難であることから、更新は行なわずに小田急は苦渋の決断で新型特急車両で置き換えることになった<ref name="rj464-34"/>。新型特急車両は、「もはやロマンスカーとは名乗らないくらいの覚悟で、新しい発想を取り入れる」か<ref name="2011-a-212"/>、「ロマンスカーの原点に立ち返り、ロマンスカーの中のロマンスカーとする」という2つの方向性があった<ref name="2011-a-212"/>が、後者の方向性で進められることになった<ref name="2011-a-212"/>。
[[ファイル:OER 50000 Hakone29 Kaisei7cross 20130306.jpg|thumb|50000形VSE車]]
こうして、[[2005年]]に「小田急ロマンスカー」ブランドの復権を掲げ<ref name="rj464-43"/>、小田急の新たなフラッグシップモデルとして<ref name="rp829-52"/>[[小田急50000形電車|50000形]]が登場した。50000形は前面展望席と連接構造を採用し<ref name="2005-u-25"/>、乗り心地向上のために[[振り子式車両|車体傾斜制御]]や台車操舵制御などを取り入れた<ref name="2005-u-25"/>ほか、「箱根へ向かう乗客にときめきを与え、乗った瞬間に箱根が始まる」ことを目指した車両で<ref name="2011-a-211"/>、客室内の様式から "Vault Super Express" 、略して「VSE車」と呼ばれる車両である<ref name="rp829-283"/>。VSE車の登場後、箱根を周遊するための乗車券である「[[箱根フリーパス]]」の販売枚数は、[[2006年]]に49万8000枚だった<ref name="2011-a-235"/>ものが、[[2009年]]には74万枚に増加した<ref name="2011-a-235"/>。
なお、[[2004年]]12月には再度ロマンスカーの愛称の整理が行われ、箱根特急は全て「はこね」<ref name="rp829-212"/>、箱根湯本に乗り入れない小田原線の特急は停車駅に関わらず「さがみ」という愛称に変更された<ref name="rp829-212"/>。その影響により、「サポート」の愛称は登場わずか6年ほどですべて廃止されている。
==== 日本初の地下鉄直通有料特急 - MSE車の登場 ====
[[ファイル:OER 60554 Kaisei7cross Trial Run 1.jpg|thumb|60000形MSE車]]
[[2005年]]に、小田急と[[東京地下鉄|東京メトロ]]では、ロマンスカーを[[東京メトロ千代田線]](湯島駅 - 代々木上原駅間、のちに北千住駅までに変更)に乗り入れる計画を発表した<ref name="rj466-149"/>。これは日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の[[地下鉄]]直通」で<ref name="rp829-285"/>、このために[[小田急60000形電車|60000形]]が登場した。60000形は「多彩な運行が可能な特急列車」という意味で "Multi Super Express" 、略して「MSE車」と呼ばれる車両で<ref name="rp829-285"/>、[[2008年]]3月から営業運行を開始した<ref name="rj500-94"/>。
[[2012年]]3月17日からは、「あさぎり」の運行区間は新宿駅と[[御殿場駅]]の間に短縮されることになり<ref name="rj545-26"/>、「あさぎり」全列車がMSE車により運行されることになった<ref name="rj545-2627"/>。
{{-}}
====EXE車のリニューアル開始 - EXEαの登場 ====
[[ファイル:Odakyu-Type30000-EXEa-Hakone.jpg|thumb|EXEα]]
2017年、日本車輌製造でEXE車のリニューアルが開始され、その後同年3月1日から営業運転を開始した。従来の塗色から、ロマンスカー伝統の赤い線が追加され、車内も大幅にリニューアルされた。例えば座席は構造を変更し、トイレも車椅子対応の洋式に改造され、車体のロゴもMSEと同様になり、走行装置もSiC素子を用いた[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ]]を採用し、省エネ化が図られた。現在4両編成×3編成、6両編成×3編成がリニューアルされている。
==== 複々線化完成と長年の悲願の達成 - GSE車の登場 ====
[[ファイル:Odakyu-Series70000 GSE.jpg|thumb|70000形GSE車]]
[[2018年]]3月17日、10年ぶりとなる新型車両[[小田急70000形電車|70000形]]が営業運転を開始した。VSE車以来13年ぶりとなる展望席が設置されたが、「ホームウェイ」などの通勤利用も考慮して連接台車構造は採用されず、20m級車体のボギー台車構造となった。「箱根につづく時間(とき)を優雅に走るロマンスカー」という意味で"Graceful Super Express"、略して「GSE車」と呼ばれている。
また、この年に長年の悲願であった代々木上原駅〜登戸駅間の複々線化が完成し、GSE車のデビューと同日に行われたダイヤ改正で平日朝の上り列車を増発し、新宿駅・千代田線大手町駅に9時30分までに到着する列車を「モーニングウェイ」「メトロモーニングウェイ」に改称した。加えて、土休日の一部の「スーパーはこね」が新宿駅〜小田原駅間を最短59分で結ぶようになり、SE車開発当時の悲願であった「新宿〜小田原間60分以内」の目標が達成された。
== 運行概要 ==
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|小田急ロマンスカー運行系統図|#ff7f50}}
{{BS-table|no}}
{{BS|BHF|停車駅}}
{{BS|HST|一部停車駅}}
{{BS|DST|運転停車}}
{{BS-colspan}}
詳細な停車駅は各列車名を参照。
----
{{BS3-2|||KBHFa||[[北千住駅]]||||}}
{{BS3-2|||BHF||[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]||||}}
{{BS3-2|||BHF||[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]||||}}
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{{BS3-2||ABZg+l|STRr||||||}}
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{{BS3-2||HST||||[[町田駅]]|||}}
{{BS3-2||HST||||[[相模大野駅]]|||}}
{{BS3-2||ABZgl|STR+r|||||||}}
{{BS3-2||HST|HST|||[[海老名駅]]|[[大和駅 (神奈川県)|大和駅]]|||}}
{{BS3-2||HST|BHF|||[[本厚木駅]]|[[藤沢駅]]|||}}
{{BS3-2||HST|KBHFe|||[[伊勢原駅]]|[[片瀬江ノ島駅]]|||}}
{{BS3-2||HST||||[[秦野駅]]|||}}
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{{BS3-2|BHF|BHF||||[[松田駅]]|[[小田原駅]]|||}}
{{BS3-2|HST|KBHFe||||[[駿河小山駅]]|[[箱根湯本駅]]|||}}
{{BS3-2|KBHFe|||||[[御殿場駅]]||||}}
|}
|}
運賃や料金については、[[#外部リンク|公式サイト]]を参照
=== 箱根特急・小田原線特急 ===
{{Main|はこね (列車)|モーニングウェイ・ホームウェイ}}
戦前の「週末温泉急行」がルーツとなる、箱根への観光客を輸送するための列車である。1950年から箱根登山鉄道箱根湯本駅まで乗り入れるようになった。
1950年10月以降は愛称が設定されたが<ref name="rf422-29"/>、列車ごとに異なる愛称が設定されており、毎日運転の列車が「あしがら」「はこね」「乙女」、休前日・休日のみ運行の列車では「明神」という愛称であった<ref name="rf422-29"/>。その後増発されるごとに愛称も増加し、1963年にNSE車が登場する直前の時点では、新宿駅発車時刻順に「あしのこ」「明星」「あしがら」「さがみ」「大観」「仙石」「はつはな」「湯坂」「明神」「はこね」「乙女」「神山」「姥子」「金時」「早雲」「夕月」という16種類に上った<ref name="rp405-20"/>。NSE車の登場後の1963年11月4日から、愛称は「あしがら」「あしのこ」「はこね」「きんとき」「おとめ」の5種類に整理された<ref name="rp405-21"/>。1966年6月1日からは停車駅別に愛称が分けられ、新宿 - 小田原の間をノンストップで運行する列車は「はこね」<ref name="rp405-21"/>、途中向ヶ丘遊園・新松田に停車する列車は「さがみ」<ref name="rp405-21"/>、1967年8月から運行開始された新原町田に停車する列車は「あしがら」という愛称になった<ref name="rp405-21"/><ref group="注釈">このため、「さがみ」という愛称は1963年11月4日から1966年5月31日まで、「あしがら」という愛称は1966年6月1日から1967年7月までは使用されていなかったことになる。</ref>。
1996年3月からは愛称ごとの停車駅が変更され、「はこね」の停車駅に町田が<ref name="rj356-95"/>、「あしがら」の停車駅に本厚木が追加され<ref name="rj356-95"/>、新宿と小田原の間をノンストップで運行する列車の愛称は「スーパーはこね」に変更された<ref name="rj356-95"/>。さらに、1999年7月からは、日中の特急は「あしがら」と「さがみ」を統合して「サポート」という愛称に変更された<ref name="rp829-204"/>ほか、18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称は全て「ホームウェイ」に変更された<ref name="rp829-204"/>。
2004年12月には、箱根特急は「はこね」「スーパーはこね」<ref name="rp829-212"/><ref group="注釈" name="ホームウェイ">ただし、18時以降に新宿を発車する列車は「ホームウェイ」。</ref>、小田原線内のみ運行の特急は全て「さがみ」<ref name="rp829-212"/><ref group="注釈" name="ホームウェイ"/>という愛称が設定されることになった。
2018年3月17日の[[ダイヤ改正]]から、9時30分までに新宿に到着するロマンスカーは「'''モーニングウェイ'''」に変更され、ロマンスカー全列車の向ヶ丘遊園・新松田停車が終了した。
=== 江ノ島線特急 ===
{{Main|えのしま (列車)|モーニングウェイ・ホームウェイ}}
[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]の特急は、1951年7月に新宿に到着した箱根特急の車両を利用して、「納涼ビール電車」と称する特殊急行を運行したものが始まりである<ref name="1994-u-62"/>{{#tag:ref|「いそ風」「すず風」という愛称が設定されていた<ref name="arc2-148"/>。|group="注釈"}}。
1952年夏には2000形を使用して料金不要のサービス特急が設定され、1954年からは1700形が投入されるのに伴い特急料金が設定された<ref name="arc1-46"/>。進行方向が変わる藤沢は運転停車だった<ref name="arc1-46"/>。列車ごとに異なる愛称が設定されており、「かもめ」<ref name="rp679"/>、「ちどり」<ref name="rp679"/>、「かたせ」<ref name="rp679"/>、「なぎさ」<ref name="rp679"/>、「しおじ」<ref name="arc2-148"/>という愛称が存在した。1964年までは夏季のみ運行であったが、1964年から通年運行が開始されて以降、愛称は「えのしま」1種類となった<ref name="rf422-29"/>。
1996年3月からは大和が停車駅に追加された<ref name="dj145-47"/>ほか、1999年7月から18時以降に新宿を発車する下り特急の愛称が全て「ホームウェイ」に変更され<ref name="rp829-204"/>、2018年3月から朝方に新宿方面へ向けて発車する上り特急の愛称が全て「モーニングウェイ」に変更された。
平成になると、さまざまな乗客のニーズに応えるためや、海水浴への利便性向上がさらなる課題となり、えのしま号を補完する目的で「湘南マリンエクスプレス」「サマービーチ」、21世紀に入ると「湘南マリン」(前者の湘南マリンエクスプレスとは別)の各愛称で臨時増発が毎年行われている。前者は主に旧型のNSEを中心に使用されていたが、先述の置換えによる影響、さらにスーパーはこね登場によるダイヤの調整の影響、車内販売「走る喫茶室」廃止の煽りがあり1995年シーズンを以て廃止されている<ref>鉄道ファン1996年4月号特集小田急ロマンスカー</ref>。
現在は箱根運用に重点を置いているが、展望席のある車型での定期運行も存在する。車内販売は2008年を以て廃止されている。
2018年3月17日のダイヤ改正で、土休日に[[北千住駅|北千住]]から[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]の区間に「メトロえのしま号」が新設された。
=== 多摩線特急 ===
{{Main|モーニングウェイ・ホームウェイ}}
[[小田急多摩線|多摩線]]に特急の運行が行なわれたのは、1990年の[[ゴールデンウィーク]]に多摩線開通15周年を記念して「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が運行されたのが始まりである<ref name="rf422-29"/>。同年夏には先述の「湘南マリンエクスプレス」が運行され<ref name="rf422-29"/>、翌年以降も引き続き運行された<ref name="rf422-29"/>。
多摩線における定期列車の特急は、2000年12月2日から設定された、新宿発唐木田行きの「ホームウェイ」からとなる<ref name="rp829-206"/>。2016年のダイヤ改正発表時に多摩線特急の廃止が告知され、ダイヤ改正施行前日の3月25日、[[ホームウェイ]]75号を以って廃止された。
=== 御殿場線直通 ===
{{Main|ふじさん}}
御殿場線直通の優等列車は、1950年10月1日から運行が開始された2往復が初で<ref name="rp546-159"/>、1959年7月には1日4往復に増発された<ref name="rj297-34"/>。当初は[[気動車]]による片乗り入れであったが、御殿場線電化に伴い、1968年7月1日からSE車による直通運転が開始された<ref name="rp546-162"/>。国鉄線内では[[準急列車|準急]]・[[急行列車|急行]]という扱いであったため、小田急線内では「特別準急」「連絡急行」という種別となっていた。
1991年3月16日からは沼津まで延長されると同時に特急に格上げされ、同時にJR東海との相互直通運転が開始された<ref name="rp546-155"/>が、[[2012年]]3月17日改正からはこれと同時に運行区間は新宿駅と御殿場駅の間に短縮され<ref name="rj545-26"/>、毎日運行の列車は3往復となり<ref name="rj545-26"/>、前述のようにふたたび片乗り入れとなった。
2018年3月17日のダイヤ改正で、列車名がそれまでの「あさぎり」から「'''ふじさん'''」に変更された<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000035934.pdf 平成30年3月ダイヤ改正について](PDF) [[東海旅客鉄道株式会社]]</ref>。
=== 初詣特急 ===
{{Main|ニューイヤーエクスプレス}}
初詣客を対象に毎年大晦日深夜から元旦未明にかけて運行される列車で、1968年12月31日から運行が行なわれるようになった<ref name="rf422-29"/>。[[明治神宮]]の初詣客に対応し、普段は各駅停車しか停車しない[[参宮橋駅|参宮橋]]にも停車するのが特徴<ref name="korotan83" />。2000年度は「2001初詣号」という愛称となり<ref name="rp829-218" />、2001年度からは「ニューイヤーエクスプレス」という愛称に変更された<ref name="rp829-218" />。
=== 地下鉄直通 ===
{{Main|はこね (列車)|えのしま (列車)|モーニングウェイ・ホームウェイ|ニューイヤーエクスプレス}}
日本では初めての事例となる「座席指定制特急列車の地下鉄直通」で<ref name="rp829-285"/>、MSE車が使用される。
停車駅は限られているが、千代田線内に待避設備がないため、地下鉄線内で普通電車の追い越しはない<ref group="注釈">日本の地下鉄で、実際に地下区間で速達運行を行っているのは[[都営地下鉄浅草線]]と[[都営地下鉄新宿線]]、[[東京メトロ副都心線]]、[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]のみ。[[東京メトロ東西線]]は、待避線があるのは地上区間のみであり、地下駅で唯一の通過駅は[[南砂町駅]]のみである。</ref>。
2008年3月15日より「メトロさがみ」「メトロはこね」「メトロホームウェイ」<ref name="rf563-58"/>が運行開始されたほか、日によっては[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]][[新木場駅]]まで乗り入れる「ベイリゾート」も運行された<ref name="rf563-58"/>。「ベイリゾート」については、同線各駅への[[ホームドア]]設置の関連で2011年10月以降運行を休止<ref name="tech12-126"/>、そのまま運転終了となった<ref name="oer20111216"/>
2010年元旦からは「メトロニューイヤー」の運行も開始された<ref name="m20091125">{{Cite press release|和書|author=|date=2009-11-25|url=http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-68.html|title=大みそかから元日にかけての終夜運転のお知らせ|publisher=[[東京地下鉄]]|language=日本語|accessdate=2012-05-22}}</ref>。
2018年3月17日のダイヤ改正から、朝方の北千住行き「メトロさがみ」は「'''メトロモーニングウェイ'''」に変更され、また前述の「メトロえのしま号」も地下鉄に直通運転する。
== シートサービス ==
{{Main|走る喫茶室}}
ロマンスカーの車内で「走る喫茶室」と称するシートサービスが開始されたのは、1949年の1910形運行開始の時からである<ref name="1987-y-91"/>。乗客サービスとして「お茶でも出せないか」という発想から検討されたもので<ref name="1987-y-91"/>、乗客全員に紅茶とケーキを提供するという案もあった<ref name="1987-y-91"/>が、[[特別急行券|特急券]]を購入した乗客に物品を提供するのは規則上禁止されていた<ref name="1987-y-91"/>ため、飲料の販売を行うことに決定したものである<ref name="1987-y-91"/>。
[[ファイル:VSE-Bento.JPG|thumb|VSE車のシートサービスの例。飲料は専用のガラスカップで提供される]]
編成も乗車時間も短いため<ref name="1987-y-91"/>、食堂車などを連結するのではなく、車内にカウンターを設けた上でシートサービスを行うようにした<ref name="1987-y-91"/>。しかし、[[森永製菓]]や[[明治製菓]]に打診したところ採算面から断られ<ref name="rp405-166"/>、[[三井農林]](日東紅茶)も当初は断った<ref name="1987-y-91"/>ものの、「紅茶の普及宣伝」という方針で受諾したものである<ref name="rp405-166"/>。その後の特急車両では車内に喫茶カウンターが設けられた。
その後、NSE車が7編成となった時点で、日東紅茶だけでは対応できなくなったことから<ref name="rp405-167"/>、1963年から森永の宣伝を兼ねて森永エンゼルが参入することになった<ref name="1987-y-91"/>。1987年に運行開始したHiSE車ではオーダーエントリーシステムも導入された<ref name="1988-u-40"/>。しかし、1991年3月から運行を開始した「あさぎり」では、シートサービスではなくワゴンによる販売サービスを行なうことになった<ref name="1994-u-116"/>{{#tag:ref|ただし、グリーン車ではシートサービスが行われた<ref name="1994-u-116"/>。|group="注釈"}}。さらに、1995年までにシートサービスは終了し<ref name="2011-a-230"/>、以後はワゴンサービスのみとなった<ref name="2011-a-230"/>。
2005年に登場したVSE車では、「走る喫茶室」と同様のシートサービスの営業が復活<ref name="rp829-30"/>、飲料はVSE専用のガラスカップによって提供された<ref name="rj464-30"/>。しかし、2016年3月26日のダイヤ改正においてこのサービスは廃止され、VSE車も含めてワゴンサービスに変更された。
2021年3月13日のダイヤ改正をもって、全てのロマンスカーでの車内販売サービスが終了した<ref>{{Cite press release|和書|title=2021年3月13日(土)に小田急線ダイヤ改正を実施します|publisher=小田急電鉄|date=2020-12-18|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001v1lj-att/o5oaa1000001v1lq.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-1-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218065936/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001v1lj-att/o5oaa1000001v1lq.pdf|archivedate=2020-12-18}}</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=JtkoxcMg1JA ロマンスカー車内販売 70年の歴史に幕] テレ東BIZ</ref>。
== 予約システム ==
=== 運行開始当初から1979年まで ===
{{Triple image|right|Ticket Romancecar 4.jpg|180|Ticket Romancecar up and down.jpg|180|Ticket Romancecar Hatsumoude3.jpg|100|列車愛称別に地紋の色を変えた特急券(左上:「はこね」/右上:「あしがら」/左下:「さがみ」/右下:「あさぎり」)|上り列車用特急券(下)には斜線が入る|出札補充券で発行された特急券}}
戦前の「週末温泉急行」は座席定員制を導入しており<ref name="rp405-163"/>、「列車指定割引乗車券」という名称の往復乗車券を発売し<ref name="rp405-163"/>、この乗車券の発売によって人員制限を行っていた<ref name="rp405-163"/>。
戦後に1600形を使用したノンストップ特急でも初めて特急料金は設定された<ref name="rp405-163"/>。初めて特別急行券(特急券)が発売されたのは1949年の1910形の投入時で<ref name="rp405-163"/>、温泉マークの入った硬券特急券が発行された<ref name="rp405-163"/>。それまでは座席定員制であった<ref name="rp405-163"/>が、1700形導入後の1951年8月20日から座席指定制を採用し、特急券に号車番号と座席番号が記入されるようになった<ref name="rp405-163"/>。
1966年には途中駅停車の「さがみ」が運行を開始<ref name="rp405-21"/>、1967年4月には「えのしま」の新原町田停車<ref name="rp405-22"/>、同年10月からは新原町田停車の「あしがら」が運行を開始した<ref name="rp405-22"/>が、この時から愛称ごとに地紋の色を変え、発売時に一目で分かるように区別できるようにした<ref name="rp405-164"/>。また、上り列車用の特急券には斜線を入れた<ref name="rp405-164"/>。
=== 座席予約システムの導入 ===
{{Double image aside|right|Ticket Romancecar Sagami13 by SR 19820518.jpg|180|Ticket Romancecar Asagiri7 green by SR 19910316.jpg|180|1979年から使用されたSR端末によって発券された特急券|1987年のSRシステム更新後のSR端末発行の特急券}}
特急の座席については、新宿駅構内に設けられた割当センターで台帳管理されていた<ref name="rp405-105"/>が、1970年代後半になると管理する座席数は67万座席となり<ref name="rp405-105"/>、発売窓口と割当センターとの電話連絡の中で重複発行などの誤取り扱いの発生、待ち時間などの問題が発生していた<ref name="rp405-105"/>。
これを解決するため、座席予約システム( "Seat Reservation" 、以下「SR」と略す)を導入することになり、[[1979年]]2月27日から使用を開始した<ref name="rp405-105"/>。SR端末は特急停車駅や案内所、[[小田急トラベルサービス]]の主要営業所に設置された<ref name="rp405-105"/>。また、新宿駅当日特急券発売所には、他の端末の7倍の発券速度を有する高速プリンターを設置した<ref name="rp405-106"/>。予約受付は5ヶ月前から<ref name="rp405-105"/>、発売は3週間前から行っていた<ref name="rp405-106"/>。
1987年には禁煙席の導入に対応するため、SRシステムの更新が行われた<ref name="rp546-20"/>。更新されたシステムでは、払い戻しや取り消しの際に端末機が発券コードを読み取って上で自動処理を行うことで、誤取り消しによる重複発売の防止が図られた<ref name="rp546-20"/>。また、これと同時に、新宿駅には当日特急券券売機を導入した<ref name="rp546-20"/>ほか、予約受付を6ヶ月前から<ref name="rp491-45"/>、発売を1ヶ月前からに変更した<ref name="rp491-45"/>。
1991年からは[[プッシュホン]]による空席照会と予約が可能となった<ref name="2005-u-141"/>。
{{Double image aside|right|Ticket Romancecar Support46 20020206.jpg|180|Ticket Romancecar HomeWay75 SuperSeat 20120315.jpg|180|磁気化された特急券|MFITTシステムと接続された多機能券売機から発券された特急券}}
1995年にSRシステムのリニューアルを行い、全駅にSR端末を設置した<ref name="dj145-46"/>ほか、特急券が磁気エンコード化され、乗車券とともに発券された場合でも[[自動改札機]]を通過できるようにした<ref name="dj145-46"/>。1996年には大手旅行会社の端末とSRシステムのホストを直結し、迅速な発券を可能とした<ref name="rp679-22"/>。
1999年7月からは車掌携帯用座席確認システムを導入し、乗車時の特急券確認作業を廃止した<ref name="rp679-25"/>。このシステムは[[ザウルス]]端末を利用して<ref name="rp679-25"/>、[[携帯電話]]回線経由でホストコンピュータにアクセスすることにより、その発売状況を号車別・座席別・区間別に車掌が把握し、その情報を車内での改札業務に利用できるシステムである<ref name="rp679-25"/>。これにより、発売情報とは異なる座席に着席している乗客に対してのみ車内改札を実施することが可能となった<ref name="rp679-25"/>。
2001年からはホームページ上からの特急券予約が可能となった<ref>[https://web.archive.org/web/20040502052319/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=292&info_kubun=co&mode=online ホームページからの特急券予約サービスを平成13年10月27日(土)より開始](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref><ref name="2005-u-141"/>。2003年には座席予約や発売業務を管理するシステムとして、全駅の窓口・[[自動券売機]]・旅行会社のシステムに接続されるMFITTシステム( "Multimedia Future Intelligent Total Traffic service system" の略)を導入した<ref name="rp829-25"/>。2004年からは、多機能券売機の導入により、全駅の券売機で特急券の購入が可能となった<ref name="rp829-24"/>。2012年時点では、予約・発売とも1ヶ月前から開始となっている<ref name="t2012-211"/>。
=== ロマンスカー@クラブ ===
[[ファイル:RomanceCar at club Ticket Asagiri2.jpg|thumb|「ロマンスカー@クラブ」で予約・購入した座席の情報]]
2001年7月から、[[インターネット]]に対応した携帯電話で特急券を購入し、そのまま乗車可能となるチケットレス乗車システムとして「ロマンスカー@クラブ」のサービスを開始した<ref name="odakyu200107">[https://web.archive.org/web/20041211051326/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=208&info_kubun=co&mode=online インターネット対応の携帯電話を特急券がわりに乗車できる特急チケットレス乗車サービスを7月15日(日)から開始](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)</ref><ref name="rp829-25"/>。
このサービスは駅窓口に申し込みすることで会員登録され、当日から利用可能となる<ref name="rp829-25"/>。携帯電話からの特急券購入に使用される「特急ポイント」の積み立ては、クレジットカードと現金が利用可能である<ref name="atclub"/>。<!--他社で「カード以外利用できない」という出典を明記してください-->2009年には携帯電話やパソコンの高機能化に対応し、スマートフォンやパソコンからも特急券を購入することが出来るようにシステムがリニューアルされた<ref name="rp829-25"/>。
どこからでも携帯電話を利用して座席を確保することが出来ることによって利便性が向上し<ref name="rp829-25"/>、2010年時点では平日夕方の「ホームウェイ」の乗客の4割が「ロマンスカー@クラブ」を利用している<ref name="rp829-26"/>。
2022年7月、乗客から「予約が埋まっていた展望席に誰も乗っていない」との指摘が複数寄せられて、調査の結果、虚偽の空予約を約9300回繰り返し、[[業務妨害]]したとして、[[埼玉県]][[志木市]]の40代男性を[[偽計業務妨害]]容疑で[[書類送検]]された<ref name="名前なし-20231105131213"> https://www.yomiuri.co.jp/national/20220712-OYT1T50289/ </ref><ref> https://www.yomiuri.co.jp/national/20220713-OYT1T50223/ </ref>。これは、発車15分前迄に決済しなかった場合は無手数料で自動的にキャンセルになる仕組を悪用したものと思われる<ref> https://www.j-cast.com/2022/07/18441808.html?p=all </ref>。予約システムの脆弱さ欠点が露わになった<ref> https://www.savvy-channel.tokyo/小田急-ロマンスカー不正予約事件006/ ]</ref>。
上記の虚偽予約被害を鑑みて、2023年6月より展望席については事前予約不可能になり購入のみになる<ref name="名前なし_2-20231105131213"> https://www.emot.jp/news/detail/m0lvld0000000h3n.html </ref>。
{{-}}
== 車両 ==
=== 車両の特徴 ===
{{see also|小田急電鉄の鉄道車両#車両の特徴}}
==== 連接構造 ====
{{Double image aside|right|Jacobs bogie of OER 3000.jpg|180|Jacobs-bogie-of-Odakyu-EMU-Type50000.jpg|180|3000形SE車で初採用となった連接構造|空気ばね位置を高く設定した50000形VSE車の連接構造}}
1台の台車によって2車体を連結する連接構造は、1957年に登場した3000形SE車において初めて採用された。曲線の多い[[小田急小田原線|小田急線]]の軌道条件において曲線通過を容易にできること<ref name="rp546-83"/>、車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できること<ref name="rp546-83"/>、オーバーハング部分がないため乗り心地を改善できる<ref name="rp546-83"/>、台車配置の平均化により軌道への負担が軽減されること<ref name="rp546-83"/>が理由として挙げられており、当時小田急の取締役兼考査局長であった[[山本利三郎]]の強い主張により採用されたものである<ref name="1994-u-75"/>。この当時、日本の高速電車における連接車の採用実績は、[[京阪60型電車]]・[[西鉄500形電車 (鉄道)|西鉄500形電車]]・[[美濃電気軌道セミシ64形電車|名鉄2代目400形電車]]の3形式だけであり<ref name="rp789-2021"/>、一挙に8車体もの連接車を導入したのは当時としては大英断であったといわれている<ref name="1985-k-24"/>。
その後、連接構造は1963年に登場した3100形NSE車・1980年に登場した7000形LSE車・1987年に登場した10000形HiSE車においても採用されており<ref name="2009-a-145"/>、小田急の特急車両の大きな特徴となった<ref name="1985-k-24"/>。日本の高速電車全体での連接車の採用事例の中でも、小田急の特急車両における採用事例が突出して多い<ref name="rp789-20"/>。
{{試聴
|filename = Rail Joint sound OER VSE.ogg
|title = 連接車の通過音
|description = 50000形VSE車
|filename2 = Rail Joint sound OER MSE.ogg
|title2 = ボギー車の通過音
|description2 = 60000形MSE車
}}
しかし、1991年に登場した20000形RSE車ではJR東海との協定により[[JR東海371系電車|371系]]と基本仕様を統一した<ref name="rp679-238"/>ため通常の鉄道車両と同様のボギー車となった<ref name="rp829-277"/>が、車内販売のカウンターが車端部のオーバーハング部分に設置されたため、それまで連接車にしか乗務した経験のなかった車内販売の担当者から「RSE車に乗ると乗り物酔いになる」という声も上がった<ref name="2009-a-148"/>。さらに、1996年に登場した30000形EXE車においても、定員増のためにはボギー車が有利であると判断され<ref name="dj145-42"/>、連接構造は採用されなかった<ref name="dj145-42"/>。2008年に登場した地下鉄直通用車両の60000形MSE車、2018年に登場した70000形GSE車も通常のボギー車である。
ただし、小田急側では「連接車をやめたわけではない」「連接車はわが社(小田急)だからできること」ともしており<ref name="2009-a-146"/>、2005年の50000形VSE車登場にあたっては乗り心地の向上のためには不可欠なものとして連接構造が採用された<ref name="2011-a-213"/>。また、VSE車では台車が車体間にあるという連接車の構造を利用して<ref name="rp789-14"/>、空気ばねの位置を車体重心近くの高い位置にする構造となっている<ref name="2005-u-131"/>。しかし、上述の通り70000形GSE車では「連接車だとホームドアが合わなくなる」として連接構造をやめ、展望席設置車両としては初となるボギー車が採用された。
上述の経緯により、2018年の7000形LSE車の運用離脱以降、連接構造を採用するのは50000形VSE車2編成のみとなっているが、2023年に予定されているVSE車運用離脱をもって全ての車両がボギー車に統一される予定である。なお、2022年3月をもってVSE車は通常運用から撤退している。
{{-}}
==== 展望席 ====
{{Double image aside|right|OER-3100-7003-10001-50001.jpg|200|OER 70000 inside Observation Seat 2.jpg|200|展望席を設けた特急車両<br/>NSE車(左上)/LSE車(右上)<br/>HiSE車(左下)/VSE車(右下)|GSE車の展望席}}
[[操縦席|運転室]]を2階に上げ、最前部まで客室とした前面展望構造とする構想自体は、[[小田急1700形電車|1700形]]が製造された時期には既に存在しており、その後も特急車両の設計が行なわれる度に検討されたが実現には至らず<ref name="arc1-85"/>、1963年に登場した3100形NSE車で初採用となった<ref name="arc1-85"/>。この構造は、乗客に眺望を楽しんでもらうという意図<ref name="arc1-85"/>の他に、輸送力増強策の一つでもあるとされていた<ref name="arc1-119"/>。その後、展望席は「いつか乗ってみたい存在」というステータスとして定着し<ref name="rj464-33"/>、7000形LSE車、10000形HiSE車にも同様の構造が引き継がれた<ref name="2011-a-180"/>。1991年に登場した20000形RSE車では、連接車と同様の理由によりこの構造は採用されなかった<ref name="rp829-277"/>が、客席をハイデッキ構造にしたため客席からの展望は確保されていた<ref name="1994-u-112"/>。
しかし、1996年に登場した30000形EXE車では分割併合を行う事となり、貫通路を設置する先頭車での展望席設置は困難となった<ref name="dj145-42"/>。また、分割して運行する区間が長いため、その際にも違和感のない前面形状とするという理由によって<ref name="dj145-42"/>、非貫通タイプの運転台でも展望席は採用されなかった<ref name="dj145-42"/>。ところが、この構造は前述したように箱根特急の利用者減少の一因となり<ref name="rj464-33"/>、家族旅行で箱根特急を利用する際にEXE車を見た子供から「こんなのはロマンスカーじゃない」という苦情も寄せられたという<ref name="2011-a-194"/>。このため、2002年からは広告で使用される車両を前面展望席のあるHiSE車に変更した<ref name="2011-a-205"/>ほか、2005年に登場した50000形VSE車では再び展望席が採用された<ref name="2005-u-25"/>。
2008年に登場した60000形MSE車は、地下鉄直通時の非常用通路として前面貫通路設置が必須であったことから<ref name="tech12-17"/>、展望席設置は見送られた<ref name="tech12-17"/>。その後、2018年に登場した70000形GSE車において復活を果たしている。
==== 補助警報音 ====
補助警報音は、1957年に登場した3000形SE車において、遠くからでも高速で走る電車の接近が分かるようにするために考案されたものである<ref name="2009-a-172"/>。これは西部劇の映画の中で、機関車が鐘を鳴らしながら走行していることをヒントにしたもの<ref name="2009-a-172"/>であるが、音色の決定に際しては、[[運輸省]]から「警報装置としての条件を満足させるべき」と<ref name="rp546-84"/>、[[警視庁]]からは「[[騒音]][[公害]]にならないように」という要望があった<ref name="rp546-84"/>。この相反するようにみえる要望を満たすため小田急沿線在住の[[音楽家]]である[[黛敏郎]]にも相談<ref name="2009-a-173"/>、音響心理学研究所の指導を得て<ref name="2009-a-173"/>、最終的には[[ヴィブラフォン]]の音色で<ref name="2009-a-173"/>、2km付近まで達する音量となった<ref name="arc1-117"/>。SE車ではエンドレステープが使用された<ref name="arc1-66"/>が、営業運行後にテープが伸びたり切れてしまうことが多かった<ref name="rp789-57"/>ため、3100形NSE車以降は[[トランジスタ]]発振器に変更され<ref name="rp491-21"/>、20000形RSE車まで搭載された<ref name="rp829-190"/>。
常時音楽を鳴らしながら走ることから、ロマンスカーは「[[オルゴール]]電車」と呼ばれるようになった<ref name="2005-u-87"/>ほか、「[[小田急ピポーの電車]]」というCMソングも作られた<ref name="1987-y-116"/>など、小田急ロマンスカーのシンボルの1つとなった<ref name="rj464-27"/>。しかし、列車本数の増加などにより騒音とみなされるようになってしまい<ref name="rj464-27"/>、10000形HiSE車が製造された1987年ごろにはほとんど鳴らす機会はなくなっていた<ref name="1988-u-45"/>。
しかし、50000形VSE車では、通常の警笛(電子笛)と回路を共用する[[警笛|補助警報]]としてこの音色を復活させ<ref name="rp829-190"/>、60000形MSE車、70000形GSE車でも実装、小田急線と東京メトロ千代田線で使用されている<ref name="rp829-190"/>(JR東海・御殿場線は、空気笛以外を「警笛」と認めていないJR東海の規定で通常の空気笛が使用される)。
==== シンボルマーク ====
[[ファイル:LSE Emblem.JPG|thumb|ヤマユリをあしらったシンボルマーク]]
ロマンスカーのシンボルマークは、1951年8月に登場した1700形の第2編成で、それまでは社紋が置かれていた側面の中央窓下にアルミ製の[[ヤマユリ]]の紋章を取り付けたものが始まりである<ref name="1994-u-62"/>。ヤマユリは神奈川県の県花であり、相模の山野を走るロマンスカーにはふさわしい花とみられていた<ref name="1977-16"/>。この紋章は1700形の全編成に設置された<ref name="1994-u-62"/>が、1700形が一般車両に格下げとなった際に外された<ref name="1977-16"/>。
この紋章が復活したのは1980年登場の7000形LSE車からで、登場後まもなく車内の自動ドアにぶつかる乗客が目立ったこと<ref name="1994-u-100"/>から、目線の高さに1700形の紋章に準じたシンボルマークをカッティングシートで貼付したものである<ref name="1994-u-100"/>。この自動ドアのステッカーは10000形HiSE車・20000形RSE車でも継承され、LSE車より前に登場した3100形NSE車の自動ドアにもこのマークが貼られるようになった。さらに1996年からは車体修理を受けたLSE車・HiSE車・RSE車の車体側面にも同様のマークが貼られるようになった<ref name="rp679-236"/><ref name="rp679-237"/><ref name="rp679-239"/>。しかしこれらの車両は全て引退し、その後の車両には受け継がれなかったため、このヤマユリのマークを見ることはできない。
これとは別に、30000形EXE車・50000形VSE車・60000形MSE車、70000形GSE車では、車両愛称のロゴをデザインしている<ref name="rp679-242"/><ref name="2005-u-22"/><ref name="rp829-286"/>。
==== ブルーリボン賞 ====
{{Double image aside|right|Blue Ribbon Prize 1957 of Japan Railfan Club.JPG|200|Blue Ribbon Prize 2006 of Japan Railfan Club.JPG|110|SE車のブルーリボン賞受賞プレート|VSE車のブルーリボン賞受賞プレート}}
[[鉄道友の会]]が優秀な車両を表彰する制度として[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]の制度を創設した<ref name="BL88-9899"/>のは、3000形SE車が東海道本線上で当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録を樹立したことがきっかけである<ref name="2009-a-176"/>。むしろSE車を表彰するために制度が創設されたという方が実情に近く<ref name="dj145-55"/>、事実SE車は理事会の決定により無投票で第1回受賞車両に選出された<ref name="BL88-100"/>。
その後も、30000形EXE車を除く8形式が受賞しており、2019年時点<!--現在の時点での受賞回数に言及した文献が出るまではこのままで-->での受賞回数8回は[[大手私鉄]]では近畿日本鉄道とともに最多であった<ref name="2019 blue ribbon"/>。
{{-}}
=== 歴代運用車両 ===
==== 特急専用車 ====
; [[小田急1900形電車|1910形→2000形]]
: 1949年に登場した、分離発足後初の新車<ref name="arc1-61"/>。6両が特急車両として登場した「初代小田急ロマンスカー」<ref name="rp491-10"/>であるが、1952年を最後に特急運用からは外れた<ref name="arc1-61"/>。
; [[小田急1700形電車|1700形]]
: 1951年に登場した、初の特急専用車である<ref name="arc1-59"/>。1957年に特急運用から外れた<ref name="arc1-59"/>。
; [[小田急2300形電車|2300形]]
: 後述するSE車が登場するまでの「つなぎ役」として1955年に登場<ref name="rp405-108"/>、1959年に特急運用から外れた<ref name="rp405-109"/>。
; [[小田急キハ5000形気動車|キハ5000形]]
: 1955年に登場<ref name="2005-u-106"/>、1968年の御殿場線電化により運用から外れる<ref name="rp679-130"/>。
; [[小田急3000形電車 (初代)|3000形(SE車)]]
: 1957年に登場した軽量高性能新特急車<ref name="1981-u-17"/>。1968年には編成短縮の上御殿場線直通にも使用されるようになり<ref name="rp546-162"/>、1991年に運用から外れた<ref name="rp829-183"/>。第1回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="1981-u-116"/>。
; [[小田急3100形電車|3100形(NSE車)]]
: 前面展望席を設けて1963年に登場<ref name="rp491-14"/>、1999年まで運用された<ref name="rp829-291"/>。第7回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="korotan296"/>。
; [[小田急7000形電車|7000形(LSE車)]]
: 1980年に登場<ref name="rf422-38"/>。2018年まで運用された<ref name="press180718">{{Cite press release|和書|title=約38年のご愛顧に感謝をこめて 特急ロマンスカー・LSE(7000形) 最終イベント列車を運転 〜LSEに乗って最後の勇姿を見届けて〜|url=http://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001b42l-att/o5oaa1000001b42s.pdf|publisher=小田急電鉄|format=PDF|date=2018-07-18|accessdate=2018-07-19}}</ref>。第24回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="1985-k-8"/>
; [[小田急10000形電車|10000形(HiSE車)]]
: 展望席以外を高床化して1987年に登場<ref name="rp491-15"/>。2012年に運用から外れた<ref name="rj548-50"/>。第31回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="1988-u-33"/>。
; [[小田急20000形電車|20000形(RSE車)]]
: 御殿場線直通用として1991年に登場<ref name="rp546-196"/>。2012年に運用から外れた<ref name="rj548-50"/>。第35回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="rp829-277"/>。
; [[小田急30000形電車|30000形(EXE車)]]
: 1996年に登場、初めて分割併合に対応した<ref name="rf421-55"/>。2017年より「[[小田急30000形電車#リニューアル|EXEα]]」に順次リニューアル。
; [[小田急50000形電車|50000形(VSE車)]]
: 前面展望席と連接構造を復活させて2005年に登場<ref name="2005-u-25"/>。第49回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="rp829-283"/>。2022年に定期運行から外れた。
; [[小田急60000形電車|60000形(MSE車)]]
: 日本初の地下鉄直通有料特急用として2008年に登場<ref name="rp829-285"/>。第52回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="rp829-285"/>。
; [[小田急70000形電車|70000形(GSE車)]]
: [[下北沢駅]]付近の複々線化完成に伴う増発用・LSE車の置き換え用として2018年に登場。前面展望席付き車両では初のボギー車。第62回ブルーリボン賞受賞車両<ref name="2019 blue ribbon"/>。
==== 一般車両 ====
; [[小田急1600形電車|1600形]]
: 1948年に6両が戦後初の特急として運用された<ref name="1994-u-57"/>。乗車には特急料金が必要だった<ref name="1994-u-56"/>。
; [[小田急2400形電車|2400形(HE車)]]
: 1965年前後の数年間<ref name="dj145-55"/>、特急需要のピーク時や検査入場時などに特急車両が不足するため<ref name="dj145-55"/>、一部の「えのしま」に運用された<ref name="dj145-55"/>。特急料金不要ではあるが座席定員制で<ref name="dj145-55"/>、「サービス特急」と呼ばれた<ref name="dj145-55"/>{{#tag:ref|1965年に小田急が発行した夏季時刻表では、下り・上りとも「第3えのしま」「第4えのしま」が座席定員制・特急料金不要のサービス特急として記載されている<ref name="arc2-151"/>。|group="注釈"}}
; [[小田急8000形電車|8000形]]
: 1987年1月、NSE車とLSE車が各1編成ずつ工場に入場していた時期に、踏切事故によりSE車が1編成使用不能になった<ref name="rp478-107"/>ため、本来はSE車が運用される「さがみ」の一部列車に運用された<ref name="rp478-107"/>{{#tag:ref|この時は種別幕は「臨時」と表示し、特急料金は不要だった<ref name="rp478-107"/>。|group="注釈"|name="代走8000"}}
; [[小田急1000形電車|1000形]]
: [[2016年]]12月12日、本来運用予定の車両の故障が原因で、1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-13|url=http://railf.jp/news/2016/12/13/120000.html|title=特急ロマンスカーを一般車が代走|publisher=鉄道ファン|accessdate=2016-12-13}}</ref>。
==== 他社からの乗り入れ ====
; [[JR東海371系電車]]
: 1991年から小田急に乗り入れ開始<ref name="2005-u-56"/>。2012年に乗り入れ運用から外れた<ref name="rj548-50"/>。
== 年表 ==
各車両編成の就役日などは、各車両形式の歴史の項を参照。
=== SE車導入まで(1957年以前) ===
* [[1935年]]([[昭和]]10年)
** [[6月1日]]:土曜・休日に限り新宿駅 - 小田原駅間無停車の「週末温泉列車」の運転開始。[[ムーランルージュ新宿座]]の看板女優・[[明日待子]]が吹き込んだレコードで、沿線案内を行う準備をした<ref name="1994-u-54"/>。
* [[1942年]](昭和17年)
** [[1月]]:[[太平洋戦争]]の激化に伴い「週末温泉列車」の運行休止<ref name="1994-u-140"/>。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[8月13日]]・[[8月27日|27日]]:特急の試運転を実施。13日は[[小田急1800形電車|1805+1853]]の2両編成が、27日は[[小田急1600形電車|1601+1607]]の2両編成が新宿駅 - 小田原駅間を95分20秒で走破<ref name="1994-u-140"/>。
** [[10月16日]]:「戦災復興車」と称された1607+1651, 1601+1602, 1610+1315の3編成により新宿駅 - 小田原駅間無停車の特急を土曜・休日に限り運転開始<ref name="1988-u-118"/>。同日より特別急行料金制度(新宿駅 - 小田原駅50円)を制定。当初同月9日からの運転開始だったが、同月7日に「リビー台風」が箱根地方を直撃したため延期された<ref name="1994-u-58"/>。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[8月13日]]:[[小田急1900形電車|1910形]]就役<ref name="1994-u-140"/>。
** [[10月1日]]:新宿駅 - 小田原駅間の特急が毎日運行となる<ref name="rf422-31"/>。
* [[1950年]](昭和25年)
** [[8月1日]]:[[箱根登山鉄道鉄道線|箱根登山線]][[箱根湯本駅]]まで乗り入れ開始<ref name="2011-a-61"/><ref group="注釈">ただし、乗り入れに際しての協定により同線内は料金を徴収しないが乗車が禁じられていた。</ref>。
* [[1951年]](昭和26年)
** [[2月1日]]:[[鉄道車両の座席|ロマンスシート]]<!--ロマンスシートはロマンスカーへのリダイレクトになっている関係でこのようにしてあります。-->装備の専用車である1700形が就役<ref name="1994-u-140"/>。
** [[7月]]:新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で納涼[[ビール]]列車「すず風号」「いそ風号」の運転開始<ref name="1994-u-62"/>。
** [[8月20日]]:座席指定制度を導入<ref name="1994-u-140"/>。
* [[1953年]](昭和28年)
** 7月:小田急ロマンスカーのシンボルマークとして「白百合」のマークが1700形に取り付けられる<ref name="1994-u-62"/>。
* [[1954年]](昭和29年)
** [[7月13日]]:江ノ島線に特急料金を制定<ref name="1994-u-63"/>。
* [[1955年]](昭和30年)
** [[4月1日]]:[[小田急2300形電車|2300形]]就役<ref name="arc1-64"/>。
** 10月1日:[[日本国有鉄道]][[御殿場線]][[御殿場駅]]まで乗り入れ開始。これに充当するためキハ5000形気動車が就役<ref name="rf422-32"/>。同時に連絡準急行料金(新宿駅 - 御殿場駅間70円)制定。
=== SE・NSE時代(1957年 - 1980年) ===
* [[1957年]](昭和32年)
** [[6月27日]]:3000形SE車展示会を実施<ref name="arc1-65"/>。
** [[7月6日]]:3000形SE車就役<ref name="arc1-65"/>。
** [[9月20日]] - [[9月28日|28日]]:3000形SE車が国鉄へ貸し出されて高速走行実験を実施<ref name="1981-u-17"/>。中でも27日には[[東海道本線]][[函南駅]] - [[沼津駅]]間で当時の狭軌世界最高速度である145km/hを樹立している<ref name="dj145-54"/>。
* [[1958年]](昭和33年)
** [[1月29日]]:3000形SE車が1958年第1回[[鉄道友の会]][[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を受賞<ref name="1988-u-121"/>。
* [[1963年]](昭和38年)
** [[3月3日]]:3000形SE車による臨時[[アイススケート|スケート]]特急「白銀号」を運行。
** [[3月16日]]:小田急ロマンスカー史上初の展望席設置列車として3100形NSE車就役<ref name="1994-u-141"/>。またこれに先立ち同月[[3月13日|13日]] - [[3月15日|15日]]には展示会を実施<ref name="1994-u-141"/>。
** 春:[[小田急百貨店]]の夏の商戦の一環として3100形NSE車車内にて[[水着]]ショーを実施<ref name="2005-u-98"/>。
** [[11月]]:3000形・3100形とも小田原線内の営業最高速度を110km/hに引き上げるダイヤ改正を実施。新宿駅 - 小田原駅間は最速62分となる<ref name="2005-u-98"/><ref group="注釈" name="最速62分"/>。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[1月17日]]・[[1月26日|26日]]:[[皇太子]][[上皇明仁|明仁親王]]・同妃[[上皇后美智子|美智子]]が新宿駅 - 箱根湯本駅間を往復乗車。
** [[2月17日]] - [[2月21日|21日]]・[[2月24日|24日]] - [[2月28日|28日]]・[[3月2日]] - [[3月6日|6日]]:3100形NSE車が6両編成にて運行される(通常は11両編成)<ref name="1994-u-141"/>。
** [[3月20日]]、新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で「えのしま」が休日に限り定期運行を開始(途中停車駅は藤沢)<ref name="rp405-21"/>。
** [[7月10日]]:3100形NSE車が1964年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞<ref name="1994-u-141"/>。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[3月1日]]:「えのしま」の毎日運転開始<ref name="rp405-21"/>。
* [[1966年]](昭和41年)
** [[4月1日]]:すべての特別急行列車の列車無線使用開始<ref name="1994-u-141"/>。
** 6月1日:新宿駅 - 箱根湯本駅間で「さがみ」運転開始(途中停車駅は向ヶ丘遊園・新松田・小田原)<ref name="rp405-21"/>。同時に新宿駅 - 小田原駅間無停車の特急に対して「はこね」と名付けられる<ref name="rp405-21"/>。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[6月23日]]:特急列車に定期券による乗車を認める<ref name="1994-u-141"/>。
** [[7月2日]]:3000形SE車の御殿場線乗り入れ用の5両編成化工事実施( - 1968年3月29日)<ref name="rp491-18"/>。
** 10月1日:新宿駅 - 箱根湯本駅間で「あしがら」運転開始(途中停車駅は新原町田〈現・町田〉・小田原)<ref name="rp405-22"/>。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[6月3日]]:特急料金に小児制度が制定される<ref name="rp405-164"/>。
** [[6月30日]]:御殿場線の電化に伴いキハ5000形・5100形による連絡準急行廃止<ref name="rp679-130"/>。不要となった両形式は[[関東鉄道]]へ売却<ref name="rp546-162"/>。
** [[7月1日]]:3000形SE車による御殿場線直通の運転開始<ref name="rp405-22"/>。同時に列車種別が「連絡準急行」から「連絡急行」となり、連絡急行料金制度を制定し、連絡準急行料金廃止。
* [[1969年]](昭和44年)[[1月1日]]:新宿駅 - 新原町田駅で臨時特急「初詣号」が1往復運行される(途中停車駅は参宮橋と向ヶ丘遊園)<ref name="rf422-29"/>。以後、毎年初詣客向けの特急が運行されるようになる。
* [[1972年]](昭和47年)[[8月24日]]:沿線に居住していた[[イギリス|英国]]人[[教員|教師]]より「補助警報音は[[騒音]][[公害]]源である」とする抗議を受け、相模大野駅以東での使用が禁止となる。
* [[1979年]](昭和54年)[[2月27日]]:特急券の座席予約・販売にオンラインシステムを導入<ref name="rp405-105"/>。
=== LSE・HiSE時代(1980年 - 1991年) ===
[[ファイル:Odakyu LSE 7000.jpg|thumb|箱根に向かうLSE車]]
* [[1980年]](昭和55年)
** [[12月25日]]:7000形LSE車完成記念列車が運行される。
** [[12月27日]]:7000形LSE車 (7001×11<ref group="注釈" name="7001F">新宿方先頭車両の車両番号が「7001」となる11両編成。</ref>) 就役<ref name="2005-u-141"/>。
* [[1981年]](昭和56年)
** [[3月29日]]:「鉄道友の会 主催新型ロマンスカー試乗会」が7000形LSE車を使って海老名→小田原→新宿間で運行される。
** [[6月15日]]:[[エフエム東京|FM東京]]主催・[[資生堂]]提供の団体列車「ORANGE EXPRESS」が7000形LSE車 (7001×11<ref group="注釈" name="7001F"/>) にて運行される。
** [[9月13日]]:7000形LSE車が1981年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞<ref name="1994-u-141"/>。
** 9月18日 - 12月25日:[[TBSテレビ|TBS]]で『[[想い出づくり。]]』というロマンスカー・スチュワーデスを主人公とした[[テレビドラマ]]が放映される<ref name="rp405-168"/>。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[7月25日]]:[[向ヶ丘遊園]]でのイベントの関連企画として新宿駅 - 向ヶ丘遊園駅間で[[伊藤つかさ]]が車掌となって乗車する団体列車「你好(ニーハオ)つかさ号」が3000形SE車にて運行される。
** [[12月8日]] - [[12月15日|15日]]:日本国有鉄道の「新型特急車両開発計画」の一環として7000形LSE車(7002×11<ref group="注釈" name="7002F">新宿方先頭車両の車両番号が「7002」となる11両編成。</ref>)が小田急から国鉄に貸し出され、東海道本線[[大船駅]] - [[熱海駅]]間で試験走行を実施<ref name="1985-u-123"/>。
* [[1983年]](昭和58年)
** [[3月30日]]:3000形SE車 (3001×5<ref group="注釈" name="3001F">新宿方先頭車両の車両番号が「3001」となる5両編成。</ref>) が大井川鉄道(現・[[大井川鐵道]])へ譲渡(1989年5月廃車)<ref name="1985-k-28"/>。
** 5月:区間禁煙(新宿 - 町田間)を実施開始<ref name="Odakyu19970623">[https://web.archive.org/web/19980614142007/http://www.odakyu-group.co.jp/topics/706kinen.htm 特急ロマンスカーの禁煙席を6月23日(月)から増設します](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref>。
** 7月:新宿駅 - 片瀬江ノ島駅間で団体列車「め組EXPRESS」が3000形SE車にて運行される。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[3月25日]]:臨時団体列車「小田急箱根クイズラリー号」が運転される。
** [[8月9日]]:3000形SE車車体修繕工事実施( - 1985年3月27日)<ref name="rp546-191"/>。
** 12月25日:3100形NSE車車体修繕工事実施( - 1988年10月20日)<ref name="rp491-21"/>。
* [[1986年]](昭和61年)[[10月4日]]、7000形LSE車車内に車内電話が設置される<ref name="rp491-46"/>。
[[ファイル:Odakyu HISE 10000.jpg|thumb|HiSE車]]
* [[1987年]](昭和62年)
** [[2月]]頃:7000形LSE車が事故に遭遇した影響でロマンスカーの車両数が不足し、急遽、通勤形車両([[小田急8000形電車|8000形]])が特急として運行される<ref name="rp478-107"/><ref group="注釈" name="代走8000"/>。
** 7月1日:ロマンスカー全列車の1 - 3号車に[[禁煙車]]が設置される(小田急ロマンスカー史上初の禁煙席の登場)<ref name="Odakyu19970623"/><ref name="1994-u-141"/>。
** [[12月23日]]:10000形HiSE車就役<ref name="1994-u-141"/>。
* [[1988年]](昭和63年)
** 1月1日:10000形HiSE車で運行された「初詣号」で「[[走る喫茶室]]」のサービスが行われる(「初詣号」での「走る喫茶室」のサービスはこの回限り)。
** [[9月11日]]:10000形HiSE車が1988年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞<ref name="1994-u-141"/>。同時に新宿→小田急多摩センター間にて受賞記念列車運行。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[4月]] - [[5月]]:多摩線開業15周年を記念し、臨時列車「江ノ島・鎌倉エクスプレス」が唐木田駅 - 新百合ヶ丘駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行される<ref name="rf422-29"/>。
** 7月 - [[8月]]:同区間で臨時列車「湘南マリンエクスプレス」が運行される<ref name="rf422-29"/>。
* [[1991年]](平成3年)[[3月15日]]、この日限りで3000形SE車の定期運用から離脱<ref name="1994-u-141"/>、新宿駅にて記念式典挙行。連絡急行料金廃止。
=== RSE・EXE時代(1991年 - 2005年) ===
[[ファイル:Limited Express Asagiri.jpg|thumb|RSE車と371系「あさぎり」]]
* 1991年(平成3年)
** 3月16日:20000形RSE車・JR東海371系電車就役<ref name="2005-u-51"/>。「あさぎり」が連絡急行から特急に格上げ、運転区間を沼津駅まで延長<ref name="rp546-155"/>。特別席"スーパーシート・グリーン車"が設置される。同時に特別席(スーパーシート・グリーン車)料金制定。同日、ORS([[小田急レストランシステム]])とジェイダイナー東海(現・[[ジェイアール東海パッセンジャーズ]])が車内販売のサービスを開始する。
** 7月:臨時列車「ビア・エクスプレス納涼号」が運行される。
* [[1992年]](平成4年)
** [[3月8日]]:新宿駅→唐木田駅間で「さようなら3000形走行会」実施<ref name="rp829-183"/>。
** 3月25日:上記の同区間で臨時列車「サンリオピューロランド号」が運行される。
** [[3月31日]]:3000形SE車全廃<ref name="1994-u-141"/>。全廃時には「小田急メモリアル」というイベントが展開される。
** 6月:臨時列車「あじさい号」が運行される。
** [[8月29日]]:20000形RSE車が1992年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞<ref name="1994-u-141"/>。同時に新宿→唐木田間にて受賞記念列車運行。
** [[10月3日]]:第9回全国緑化かながわフェアの開催を記念し、臨時列車「グリーンウェーブ相模原号」が7000形LSE車で運行される。
** [[10月25日]]:団体列車「カントリーインアサギリ号」が20000形RSE車にて新宿駅 - (御殿場線・東海道本線経由) - [[身延線]][[富士宮駅]]間で運行される<ref name="rp829-279"/>。
** [[11月10日]]:大野工場に3000形SE車の記念モニュメントを設置<ref name="1994-u-141"/>。
* [[1993年]](平成5年)
** [[3月9日]] :3000形SE車 (3021×5<ref group="注釈" name="3021F">新宿方先頭車両の車両番号が「3021」となる5両編成。</ref>) を大野工場にて[[静態保存]]向けの工事を実施。うち2両を竣工当時の「SE」仕様に復元<ref name="1994-u-141"/>。
** 3月16日:静態保存用工事を実施した3000形SE車(3021×5<ref group="注釈" name="3021F"/>) を海老名車両基地に回送<ref name="1994-u-141"/>。
** 3月20日:3000形SE車(3021×5<ref group="注釈" name="3021F"/>)を海老名車両基地内の保管庫へ搬送、永久保存へ<ref name="1994-u-141"/>。
** [[3月28日]]:日東紅茶([[三井農林]])が小田急ロマンスカーの「[[走る喫茶室]]」のサービスから撤退。同日鉄道友の会30周年記念行事として3100形NSE車が小田急多摩センター駅4番ホームに展示される。同時に[[多摩センター駅|京王多摩センター駅]]1番線にNSE車と同時期に製造された京王帝都電鉄(現・[[京王電鉄]])[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]が展示され、両社の名車が並んで展示された<ref group="注釈">当時小田急多摩センター駅の4番ホームと京王多摩センター駅の1番線は並行していたが、2007年に小田急多摩センター駅の4番ホームが撤去されたため現在は並行していない。</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[3月4日]]:一部の「あしがら」が本厚木駅への停車開始。
* 1995年(平成7年)
** 7000形LSE車にリニューアル工事が施される( - 1997年)<ref name="rp829-274"/>。
** [[3月26日]]:[[森永製菓|森永]]が小田急ロマンスカーの「走る喫茶室」のサービスから撤退する。これにより、小田急ロマンスカーの伝統であった「走る喫茶室」のサービスが廃止となる<ref name="2011-a-230"/>。
[[ファイル:Odakyu Electric Railway 30000.jpg|thumb|1996年から運用開始したEXE車]]
* [[1996年]](平成8年)
** [[3月23日]]:30000形EXE車就役<ref name="dj145-31"/>。「はこね」のほとんどの列車が町田駅に停車するようになったため、町田駅に停車しない「はこね」を「スーパーはこね」に改称<ref name="rj356-95"/>。30000形EXE車就役により一部の「はこね」「あしがら」と「えのしま」の併結運転が開始<ref name="rj356-95"/>。「えのしま」が大和駅への停車を開始<ref name="dj145-47"/>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[6月23日]]:禁煙車の割合を約70%に増加させる<ref name="Odakyu19970623"/>。
** [[9月1日]]:小田原線開業70周年を記念し、3100形NSE車 (3161×11<ref group="注釈" name="3161F">新宿方先頭車両の車両番号が「3161」となる11両編成。</ref>) を改造した「ゆめ70」が運転開始<ref>[https://web.archive.org/web/19980614135333/http://www.odakyu-group.co.jp/topics/97yume70.htm 小田急開業70周年記念。イベント特急「ゆめ70」が平成9年9月1日(月)から運転開始。特急ロマンスカー3100形(NSE車)1編成の内・外装をリニューアル](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・1998年時点の版)。</ref><ref name="2005-u-101"/>。
* [[1999年]](平成11年)
** [[7月11日]]:相模大野駅 - 唐木田駅間にて「3100形NSEさよなら走行会」を実施。
** [[7月16日]]:3100形NSE車が定期列車から撤退するにあたり、新宿駅と箱根湯本駅にて記念式典挙行<ref name="rp829-155"/>。
** [[7月17日]]:「さがみ」「あしがら」の名称を廃止し、「サポート」「ホームウェイ」の列車愛称が登場<ref name="rp829-204"/>。同日より特急列車の乗車口による検札を廃止<ref name="rp679-25"/>。
* [[2000年]](平成12年)
** [[4月23日]]:「ゆめ70 さよなら運転」実施<ref name="rp829-291"/>。
** [[4月26日]]:3100形NSE (3161×11<ref group="注釈" name="3161F"/>) 「ゆめ70」廃車<ref>[https://web.archive.org/web/20031006081424/http://www.d-cue.com/program/info/PG02348.pl?key=27&info_kubun=co&mode=online 小田急の開業70周年記念車両ロマンスカー「ゆめ70」が 4月26日(水)に現役引退](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref>。これにより3100形NSE車全廃<ref name="rp829-291"/>。
** [[12月2日]]:多摩線初の定期列車のロマンスカーとして、「ホームウェイ」登場<ref name="rp829-206"/>。
[[ファイル:OER NSE3181 Kaisei Sta east 2.jpg|thumb|開成駅前にて静態保存されたNSE車]]
* [[2001年]](平成13年)
** 3100形NSE車3181号車が開成駅前にて静態保存される<ref name="rp829-291"/>。
** [[4月24日]]:10000形HiSE車10041×11<ref group="注釈" name="10041F">新宿方先頭車両の車両番号が「10041」となる11両編成。</ref>が「イタリアンエクスプレス」として運行され、イタリアの国旗をイメージした「赤・白・緑」のストライプを施した記念塗装となる( - 2002年3月)<ref name="2005-u-132"/>。
** [[7月8日]]:「ロマンスカー@クラブ」の予約開始。
** [[7月15日]]:特急券のチケットレスサービスが開始される<ref name="odakyu200107"/><ref name="rp829-25"/>。
** [[9月3日]]:3100形NSE車(3221×11<ref group="注釈" name="3221F">新宿方先頭車両の車両番号が「3221」となる11両編成。</ref>)が喜多見電車基地内にて静態保存される<ref name="rp829-291"/>。
** 10月:「ロマンスカー@クラブPC」のサービス開始<ref name="rp829-26"/>。
** [[12月31日]]:従来「初詣号」として運行されていた初詣客向け臨時特急の列車名を「ニューイヤーエクスプレス」に改称<ref name="rp829-218"/>。
* [[2002年]](平成14年)
** 2月1日:30000形EXE車の1号車にて「@TRAIN」と題して小田急ロマンスカー車内で[[IPv6]]を用いた[[無線LAN]][[インターネット]]接続実験が行われる( - 3月31日)<ref>{{cite conference |url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/283520/www.soumu.go.jp/joho_tsusin/policyreports/joho_tsusin/joho_bukai/pdf/020412_1_4.pdf |title=無線LANを用いたモバイル・インターネットサービスの研究開発 平成13年度の活動について |author= ノキア・ジャパン|authorlink= |date=2002-04-12 |publisher= |booktitle= |page=7 |location= |id= }}</ref>。
** 3月23日:特急料金の値下げ(10円 - 60円)が実施される。36キロ以上の特定料金は廃止。
** 小田急ロマンスカーの新テレビCM「きょう、ロマンスカーで。」が始まる<ref name="2011-a-205"/>。
* [[2003年]](平成15年)[[4月6日]]:座席番号の表記方法を変更<ref name="rp829-242"/>。従来の連番式(例:101,102・・・)から数字とアルファベットを組み合わせたJR式(例:1A,1B・・・)になる。
* [[2004年]](平成16年)[[12月11日]]:「サポート」を廃止し、「さがみ」の列車愛称が復活<ref name="rp829-212"/>。「えのしま」の運転本数を大幅削減。
=== VSE・MSE時代(2005年 - 2017年) ===
[[ファイル:OER 50000 SuperHakone27 Yoyogihachiman.jpg|thumb|新宿超高層ビル群を背景に箱根に向かうVSE車]]
* [[2005年]](平成17年)
** [[2月19日]]:50000形VSE車が海老名電車基地内にて車両見学会を実施。
** [[3月5日]]:50000形VSE車の試乗会を新宿→小田急多摩センター間と唐木田→新宿間で実施。
** [[3月19日]]:50000形VSE車就役<ref name="rj464-26"/>。同日、車内で配布する無料観光情報誌『るるぶFREE ロマンスカー 箱根 小田原』創刊<ref>[https://web.archive.org/web/20051214003514/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=957&info_kubun=d-cue&mode=online&ft=html 新型「小田急ロマンスカー」全席にフリーマガジン「るるぶFREEロマンスカー箱根 小田原」を設置します](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
** 4月1日:特急券を購入した際に[[小田急ポイントカード]]にポイントが加算されるサービスが開始される<ref>[https://web.archive.org/web/20051213234702/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=958&info_kubun=d-cue&mode=online&ft=html 2005年4月1日(金)から小田急ポイントカードでロマンスカー特急券購入時にポイントが付きます](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
** [[5月17日]]:小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れと新型車両60000形MSE車の導入を発表<ref name="rj466-149"/>。
** 7月1日:小田急ポイントカードに貯まったポイントで特急券を購入できるサービスが開始される<ref>[https://web.archive.org/web/20060527202356/http://www.d-cue.com/cgi-bin/info/pg02348.pl?key=1092&info_kubun=d-cue&mode=online&ft=html 2005年7月1日(金)から小田急ポイントカードの貯めたポイントでロマンスカー特急券の購入ができます](小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
** [[8月12日]]:10000形HiSE車の2編成(10021×11<ref group="注釈" name="10021F">新宿方先頭車両の車両番号が「10021」となる11両編成。</ref>・10061×11<ref group="注釈" name="10061F">新宿方先頭車両の車両番号が「10061」となる11両編成。</ref>)が[[長野電鉄]]に譲渡される。
** 10月1日:従来禁止されていた小田原駅 - 箱根湯本駅間の乗車に際して列車に空席があった場合に限り座席指定を行わない「座席券」が発売され乗車可能となる<ref name="OdakyuYumoto">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120922121418/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/1252_1461337_.pdf 2005年10月1日(土)から 空席がある場合に小田急ロマンスカー小田原~箱根湯本間のご乗車が可能になります]}}(小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2012年時点の版)。</ref>。なお、「座席券」は当日ロマンスカーの発車直前にホームにて発売<ref name="OdakyuYumoto"/>。
** [[10月6日]] - [[10月11日]]:「ロマンスカー@クラブ」にて他の利用者の[[個人情報]]が閲覧できるという事態が起こる<ref name="OdakyuKojin">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20051214134822/http://www.d-cue.com/program/info/data.info/1292_2724476_.pdf 携帯電話およびパソコンによる特急券予約・購入システムにおける予約・購入および個人情報に関する事故について ]}}(小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)。</ref>。
* [[2006年]](平成18年)
** [[1月12日]]:50000形VSE車が2005年度[[グッドデザイン賞]]受賞<ref name="rp829-53"/>。
** [[1月14日]]:50000形VSE車のグッドデザイン賞受賞を記念し、受賞記念の「G」マークが車体に貼られる。
** [[2月16日]]:「はこね43号」として運行していた7000形LSE車7001×11<ref group="注釈" name="7001F"/>が、小田急相模原駅を通過していた18時16分、ホームから男性が飛び込み自殺した。その際に展望席のフロントガラスが大破し、展望席の乗客9名が怪我を負う<ref name="OdakyuTenbou">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061012174751/http://www.d-cue.com/program/info/data.info/1433_1460448_.pdf 特急ロマンスカーの前展望席の使用再開について]}}(小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
** 2月17日:前日の事故を受け、全列車の前展望席の使用を中止とする<ref name="OdakyuTenbou"/>。
** 2月24日:展望席のフロントガラスに「飛散防止フィルム」を貼るという安全対策を施したことから、前展望席の使用を再開<ref name="OdakyuTenbou"/>。
** 3月19日:50000形VSE車就役1周年を記念して、新宿・町田・小田原・箱根湯本の各駅に到着・発車時に補助警笛(ミュージックフォーン)を鳴らすサービスを開始。<!--(現在も、行っている)-->同日<!-- - 2006年XX月XX日-->、50000形VSE車の就役1周年を記念して「1st ANNIVERSARY」という記念のロゴが車体に貼付される。
** 3月31日:「ロマンスカーカフェ」が新宿駅の西口地上改札内<ref>[http://www.odakyu-restaurant.jp/shop/cafe/romancecarcafe/ ロマンスカーカフェ]小田急レストランシステム店舗案内(2018年4月1日閲覧)</ref>に開設され、営業を開始する。
** 4月8日:はこね14号として運行していた50000形VSE車が、町田駅発車後、展望席にて雨漏り発生。後日、雨漏り対策工事実施。
** [[5月15日]]:特急券を所持せずに特急に乗車した者に限り通常の特急料金に300円を加算して販売する制度<ref group="注釈">競合する[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[湘南新宿ライン]]・[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]の快速・普通列車のグリーン車も類似の乗車後購入の割増料金を採用している。</ref>ができる。なお、この制度で購入した特急券には座席の指定がなされない。
** [[9月10日]]:50000形VSE車が2006年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。定期列車である「スーパーはこね13号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行。また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR VSE 2006」という記念のロゴが車体に貼付される。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]]:全席終日禁煙化<ref name="OdakyuNoSmoking">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070320141323/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/2213_4250235_.pdf 2007年3月18日(日)から特急ロマンスカーを終日全面禁煙化します]}}(小田急電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。同日、「湘南国際マラソン号(臨時31号)」が新宿駅→片瀬江ノ島駅間にて運行。
** [[7月6日]]:小田急ロマンスカー3000形SE車就役50周年を記念し、7000形LSE車7004×11<ref group="注釈" name="7004F">新宿方先頭車両の車両番号が「7004」となる11両編成。</ref>が旧塗装となる<ref name="rp829-275"/>。同時に「旧塗装特別記念号」が新宿→小田原間において運行される<ref name="rp829-215"/>とともに在籍中のロマンスカー全編成に50周年の記念ロゴが貼付される。同日、小田急ロマンスカーCMソング「ロマンスをもう一度」のCDを発売。
** [[8月18日]]・[[8月25日|25日]]:団体列車「[[ウルトラマン]]ロマンスカー [[M78星雲]]号」、[[成城学園前駅]] - 小田原駅間にて運行<ref>{{Cite web|和書
| date = 2007-06-16
| url = http://www.asahi.com/culture/news_entertainment/TKY200706110155.html
| title = ウルトラマンと特急の旅 小田急が「M78星雲号」
| publisher = 朝日新聞
|accessdate=2007年7月15日
}}</ref>。
** [[10月19日]]:60000形MSE車の関係者向けの公開が行われる。同日、小田急ロマンスカーの東京地下鉄への乗り入れの概要を発表。
** [[10月20日]]・[[10月21日|21日]]:両日に海老名電車基地で開催された「[[小田急ファミリー鉄道展|ファミリー鉄道展]]2007」において、3000形SE車・3100形NSE車・7000形LSE車による旧塗装車の展示と60000形MSE車の一般向けの初公開が行われる<ref name="rp829-235"/>。
[[ファイル:Odakyu romance car kasumigaseki.JPG|thumb|地下鉄に乗り入れたMSE車]]
* [[2008年]](平成20年)
** [[2月9日]]:団体列車「[[ハローキティ]]号」、[[秦野駅]] - [[新百合ヶ丘駅]] - 小田急多摩センター駅間にて運行。
** [[3月15日]]:60000形MSE車就役。東京メトロ千代田線直通ロマンスカーの運転開始<ref name="rj500-94"/>。
** [[5月3日]]:60000形MSE車による不定期での東京メトロ千代田線経由有楽町線直通列車「ベイリゾート」の運転開始<ref name="rf563-58"/>。
** [[7月15日]]:60000形MSE車車内専用配布無料観光情報誌『るるぶFREE MELLODA』創刊。
** [[7月22日]] - [[8月22日]]:同期間の平日に限り、「湘南マリン号(臨時51号(片瀬江ノ島行き)・臨時52号(唐木田行き))」を唐木田駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行。
** 9月30日:60000形MSE車が第10回ブルネル賞車両部門奨励賞を受賞。
** 10月8日:60000形MSE車がグッドデザイン賞を受賞。同日より「Gマーク」が車体に掲出される。
* [[2009年]](平成21年)
** [[2月14日]]・[[2月15日|15日]]・[[2月21日|21日]]・[[2月22日|22日]]:「メトロおさんぽ号(臨時メトロ80号)」を町田駅 - 北千住駅間にて運行<ref name="rp829-219"/>。
** [[3月22日]]:団体列車「エコロマンスカー号」を新宿駅 - 小田原駅間にて運行<ref name="rp829-219"/>。[[環境大臣]](当時)・[[斉藤鉄夫]]、[[気象予報士]]・[[森田正光]]らが乗車し、車内で「親子で学ぼう!春の温暖化防止スクール」を実施。
** [[7月21日]] - [[8月21日]]:同期間の平日に限り、「湘南マリン号」を成城学園前駅 - 片瀬江ノ島駅間で運行<ref name="rp829-218"/>。また、[[8月3日]]から[[8月7日]]までは「クールビズトレイン」として車内設定温度を1 - 2度上げて運行。
** [[9月13日]]:60000形MSE車の2009年鉄道友の会ブルーリボン賞受賞式典挙行。定期列車である「はこね15号」の一部を鉄道友の会が貸切にして受賞記念列車を運行<ref name="rp829-54"/>。また、これを記念して「Blue Ribbon ROMANCECAR MSE 2009」という記念のロゴが車体に貼付される。
** [[11月15日]]:「メトロもみじ号(臨時81号(小田原行き)・臨時82号(北千住行き))」を北千住駅 - 小田原駅間にて運行<ref name="rp829-219"/>。
* [[2010年]](平成22年)
**[[1月6日]]:7000形LSE車7002×11<ref group="注釈" name="7002F"/>が廃車となる<ref name="rj522-147"/>。
** 1月:7000形LSE車(3編成)と10000形HiSE車(2編成)計5編成の車両の連結部分の金属に複数の傷が見つかり、当面の間LSE車とHiSE車の運転を休止する(長野電鉄に譲渡された元10000形HiSE車の1000形「ゆけむり」2編成も運転を休止)<ref name="rj522-147"/>。
{{Double image aside|right|小田急ロマンスカーー1.JPG|180|小田急ロマンスカーー2.JPG|180|節電によるロマンスカー運転休止の告知(左)と、発券中止となった特急券券売機(右)}}
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]が発生し、ロマンスカー全列車の運転を休止する。
** 3月14日、[[福島第一原子力発電所]]などの停止に伴う電力供給の逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日からロマンスカー全列車の運転を休止し、特急券の販売を停止する<ref>[http://www.odakyu.jp/support/info_834.html 計画停電に伴うロマンスカー特急券の予約、発売の一時休止について] - 小田急電鉄、2011年3月18日付</ref>。
** [[4月16日]]:この日から臨時ダイヤにより運転再開。一部運行再開となった「あさぎり号」以外は臨時特急(臨時○○号)として運行し、東京メトロ千代田線直通ロマンスカーは引き続き運行休止。ロマンスカー全車両には「がんばろう日本」のステッカーを貼付。また、4月16日に運転するロマンスカーの全列車(あさぎり号を除く)の特急料金相当額を義援金として[[日本赤十字社]]に寄付<ref>{{PDFlink|[http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/6113_0150062_.pdf 「特急ロマンスカー」の運転を一部再開します]}} - 小田急電鉄、2011年4月7日付</ref>。
** [[4月29日]]:通常の列車名で運転再開。
** 10月:[[東京メトロ有楽町線]]ホームドア設置工事のため<ref name="tech12-126"/>、「ベイリゾート」の運転を休止する。
* [[2012年]](平成24年)
** [[2月19日]]:7000形LSE車7001×11<ref group="注釈" name="7001F"/>の営業運転終了<ref>{{Cite web|和書|date=2012-02-20|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2012/02/post_676.html|title=小田急ロマンスカーの話題|publisher=『鉄道ホビダス』RMニュース|accessdate=2012-03-17}}</ref>。
** [[3月16日]]:10000形HiSE車、20000形RSE車の運行を終了<ref name="rj548-50"/>。JR東海371系が「あさぎり」から撤退<ref name="rj548-50"/>。スーパーシート・グリーン席・セミコンパートメント席の営業を終了。
** [[3月17日]]:「あさぎり」に60000形MSE車が就役。運行区間を新宿駅 - 御殿場間に短縮<ref name="rj545-2627"/>。「メトロはこね」を平日に運行開始。「ベイリゾート」の運転を終了<ref name="oer20111216"/>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月26日]]:新たに海老名駅、伊勢原駅に停車開始。唐木田行き列車を廃止し、多摩線への乗り入れが無くなる。平日の「メトロホームウェイ」を増発。平日藤沢行き「ホームウェイ」1本に50000形VSEを充当(VSE初の定期「ホームウェイ」、定期の江ノ島線運用)。
** [[12月12日]]、本来運用予定の車両の故障が原因で、[[小田急1000形電車|1000形]]1051編成+1251編成の10両が「えのしま74号」に充当された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-13|url=http://railf.jp/news/2016/12/13/120000.html|title=特急ロマンスカーを一般車が代走|publisher=鉄道ファン|accessdate=2016-12-13}}</ref>。
[[ファイル:Odakyu 30000 EXEa 20170526.jpg|thumb|EXEα]]
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月1日]]、30000形EXE車のリニューアル編成、「EXEα」運行開始。以降、リニューアルが順次行われる。
=== VSE・MSE・GSE時代(2018年以降) ===
{{節スタブ|date=2021年1月}}
* [[2017年]](平成29年)
** [[12月5日]]:70000形GSE車が報道陣向けに公開される<ref>[https://trafficnews.jp/post/79177 特急「ロマンスカー」に新車70000形「GSE」登場! 「眺望」に工夫、この窓の大きさ!] 乗りものニュース、2017年12月5日</ref>。
{{external media|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=kpzjF3J5whg 小田急、新型ロマンスカー発表=赤基調ボディーに大型窓の展望車両]<br />[[YouTube]]:[[時事通信社]]が2016年10月20日にアップ}}
* [[2018年]](平成30年)
** 2月19日:70000形GSE車の運行開始周知のため、新宿駅西口構内に車体を模した飲食店「GSE Cafe」を期間限定(4月1日まで)開業<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27027510W8A210C1L82000/ 小田急、新宿駅にカフェ 新型ロマンスカーPR]『日本経済新聞』朝刊2018年2月17日(東京面)</ref>。
** 3月17日:70000形GSE車の営業運転を開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=「箱根につづく時間 とき を優雅に走るロマンスカー」特急ロマンスカー・GSE(70000形)誕生 2018年3月中旬 デビュー |publisher=小田急電鉄 |date=2017-12-05 |url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8724_3273227_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-12-05}}</ref>。<br>また同日の[[ダイヤ改正]]で「メトロえのしま」を新設、「あさぎり」を「ふじさん」に、「メトロさがみ」を「メトロモーニングウェイ」に、朝方の新宿方面への「さがみ」と「えのしま」を「モーニングウェイ」にそれぞれ改称<ref>{{Cite press release |和書 |title=2018年3月、新ダイヤでの運行開始 |publisher=小田急電鉄 |date=2017-11-01 |url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8701_5820170_.pdf |format=PDF |accessdate=2017-11-02}} </ref>。代々木上原駅 - 登戸駅間の複々線化完成により、土曜・休日の一部の下り「スーパーはこね」が、新宿駅 - 小田原駅間を59分、新宿駅 - 箱根湯本駅を73分で結ぶようになる。向ヶ丘遊園駅、新松田駅への停車を廃止。
** 4月27日:海老名駅隣接地にて、歴代のロマンスカー運用車両の展示を主とする[[鉄道博物館の一覧|博物館]]「[[ロマンスカーミュージアム]]」を[[2021年]]春に開業することが発表される<ref>{{Cite press release |和書 |title=“子ども”も“大人”も楽しめる鉄道ミュージアム 「ロマンスカーミュージアム」 2021年春 海老名駅隣接地に開業 |publisher=小田急電鉄 |date=2018-04-27 |url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000194w1-att/o5oaa100000194w8.pdf |format=PDF |accessdate=2018-04-30}}</ref>。
** 7月10日:この日をもって7000形LSE車の定期運行を終了<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000019eyc-att/o5oaa10000019eyj.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201208173922/https://www.odakyu.jp/news/o5oaa10000019eyc-att/o5oaa10000019eyj.pdf|format=PDF|language=日本語|title=7月10日(火)、特急ロマンスカー・LSEが定期運行終了 記念ロゴマークの掲出や、抽選で特別乗車会にご招待するキャンペーンを実施します|publisher=小田急電鉄|date=2018-05-29|accessdate=2020-12-24|archivedate=2020-12-08}}</ref>、以降は臨時団体列車での運用のみとなる。
** [[10月13日]]:この日運行の「さよならツアー」をもって7000形LSE車が完全引退<ref name="press180718" />。
* [[2021年]]([[令和]]3年)
** [[3月12日]]:この日をもって72年間続いたロマンスカーでの車内販売が終了となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/romancecar/news/o5oaa1000001w9iv-att/20210312_romancecar_foodsericeEnd.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210425091842/https://www.odakyu.jp/romancecar/news/o5oaa1000001w9iv-att/20210312_romancecar_foodsericeEnd.pdf|title=特急ロマンスカー車内販売サービスの終了について|date=2021-03-12|archivedate=2021-04-25|accessdate=2021-04-25|publisher=小田急電鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
** [[4月19日]]:「ロマンスカーミュージアム」が開館<ref name="2021-03-08">{{Cite press release|和書|url=https://www.odakyu.jp/news/o5oaa1000001w6wx-att/o5oaa1000001w6x4.pdf||format=PDF|language=日本語|title=ロマンスカーミュージアム開業日が4月19日に決定!|publisher=小田急電鉄|date=2021-03-08|accessdate=2021-03-09}}</ref>。
* [[2022年]]([[令和]]4年)
** [[3月11日]] この日をもって50000形VSE車の定期運行を終了<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.odakyu.jp/news/o5oaa100000214sd-att/o5oaa100000214sk.pdf |title= 2022年3月12日(土) 小田急線のダイヤを変更します |date=2022-02-14| accessdate=2021-03-13|publisher=小田急電鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、以降は2023年頃まで臨時団体列車での運用のみとなる。
**7月:予約システムを悪用して空予約を繰り返していた、志木市の40代男性を[[偽計業務妨害]]容疑で[[書類送検]]した<ref name="名前なし-20231105131213"/>。
** [[11月15日]] [[ホームドア]]設置計画の進捗に伴い、この日より、EXE車・EXEα車・MSE車を対象に、4・7号車を[[ドアカット]]する<ref>{{Cite press release|和書|author=|url=https://www.odakyu.jp/news/d9gsqg0000001iv6-att/d9gsqg0000001ivd.pdf|title=2023年2月供用に向けて、本厚木駅でホームドアの設置を始めます|publisher=小田急電鉄|language=日本語|date=2022-10-14}}</ref>。但し御殿場線内と千代田線内は対象外で、従来通りの乗降になる。
* [[2023年]](令和5年)2月25日:新宿駅西口改札内「ロマンスカーカフェ」がこの日を最終営業に、再開発に伴い閉店<ref>「[https://www.sankei.com/article/20230206-OAEWRWGIVFM3VHCHISTVXTK654/ ロマンスカーカフェ閉店 小田急線新宿駅 25日、鉄道ファンの憩いの場]」『産経新聞』朝刊2023年2月21日(東京面)同日閲覧</ref>。
**6月:予約システム変更に伴い、展望席については事前予約不可能になり購入のみになる<ref name="名前なし_2-20231105131213"/><ref> [https://journal.meti.go.jp/p/8662/ 無断キャンセル負のスパイラル]</ref>
== イメージソング ==
* [[ロマンスをもう一度]] - [[2002年]]から[[2022年]]まで使用されていた小田急ロマンスカーの[[CMソング]]。[[小田急50000形電車|VSE]]・[[小田急70000形電車|GSE]]では車内チャイムとして使われている。
* [[小田急ピポーの電車]] - [[昭和]]30年代ごろの[[CMソング]]。「ピポー」とは補助警笛音のことであり、イントロに補助警笛音がアレンジされたものが使われている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="tech12-126">[[#saito12|『鉄道のテクノロジー Vol.12―車両技術から鉄道を理解しよう』 「斉藤雪乃のメトロはこね初乗車体験記」 (2011) p.126]]</ref>
<ref name="tech12-17">[[#MSE12|『鉄道のテクノロジー Vol.12―車両技術から鉄道を理解しよう』 「新世紀ロマンスカー VSE&MSE」 (2011) p.17]]</ref>
<ref name="1977-14">[[#沿線1977|『首都圏沿線ガイド1 小田急線各駅停車』 (1977) p.14]]</ref>
<ref name="1977-16">[[#沿線1977|『首都圏沿線ガイド1 小田急線各駅停車』 (1977) p.16]]</ref>
<ref name="1981-u-107">[[#生方1981|生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』 (1981) p.107]]</ref>
<ref name="1981-u-109">[[#生方1981|生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』 (1981) p.109]]</ref>
<ref name="1981-u-111">[[#生方1981|生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』 (1981) p.111]]</ref>
<ref name="1981-u-115">[[#生方1981|生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』 (1981) p.115]]</ref>
<ref name="1981-u-116">[[#生方1981|生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』 (1981) p.116]]</ref>
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* {{Cite journal|和書|author= |year=1999 |month=12 |title=1962年・夏季輸送 小田急列車運行図表 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=679 |page=巻末 |publisher=電気車研究会 |ref = 巻末679 }}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2002 |month=9 |title=小田急座談 (Part1) 車両編 |journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション |issue=1 |pages= 6-16 |publisher=電気車研究会 |ref = zadana1}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2002 |month=12 |title=小田急座談 (Part2) 輸送・運転編 |journal= 鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=2 |pages= 6-20 |publisher= 電気車研究会|ref = zadana2}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2002 |month=12 |title=小田急電鉄発行の案内パンフレット コレクション |journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション |issue=2|pages= 142-151 |publisher=電気車研究会 |ref = パンフa2}}
* {{Cite journal|和書|author= |year= 2008|month=3|title=小田急60000形「MSE」 |journal=鉄道ファン |issue=563 |pages= 55-59 |publisher=交友社 |ref = OER563}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2010 |month=1|title=あの日、あの頃 小田急の情景 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=829 |pages= 173-183 |publisher=電気車研究会 |ref = anokoro829}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2010 |month=1 |title=歴代ラインナップで見る小田急ロマンスカー |journal=鉄道ピクトリアル |issue=829 |pages= 234-235 |publisher=電気車研究会 |ref = L829}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2010 |month=4 |title=Railway Topics『小田急LSE・HiSEが運用から外れる』 |journal=鉄道ジャーナル |issue= 522|pages= 147-148 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ522}}
* {{Cite journal|和書|author= |year=2012 |month=3 |title=夜行急行「きたぐに」も定期運転を終了 2012年3月17日ダイヤ改正の概要|journal=鉄道ジャーナル |issue=545 |pages= 22-27 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref = RJ545}}
== 関連項目 ==
* [[ロマンスカー]]
* [[ロマンスカーミュージアム]]
* [[ロマンスカー (村下孝蔵の曲)]]
* [[特急形車両]]
* [[踊り子 (列車)]]
* [[東海 (列車)]]
* [[小田急ハイウェイバス]]
* [[ロマンス (2015年の映画)]]
* [[パノラマカー]] - [[名古屋鉄道]]。こちらもロマンスカーと同じく[[日本車輌製造]]が製造。
== 外部リンク ==
* [http://www.romancecar.jp/ きょう、ロマンスカーで。小田急ロマンスカー]
* [https://www.odakyu.jp/romancecar/ ロマンスカー|小田急電鉄]
* [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2011年1月号現場から{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/MpkuUYGivkrl.pdf 「小田急線と東京メトロ千代田線間の特急列車相互直通運転の状況について」]}}(pp.44 - 49掲載)
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架橋戦車
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架橋戦車(かきょうせんしゃ)は、戦車の車体に橋梁を乗せて運搬する兵器であり、必要に応じてその橋梁を設置する能力を有する軍用車両である。「戦車橋」とも呼ばれる。本車により設置される橋梁は、多くの場合、その軍の主力戦車が通行できる設計となっている。主力戦車を改造して架橋戦車としている例も少なくない。
戦場における橋梁の設置(=架橋)は工兵の任務でありトラックで運搬できる橋梁機材や舟橋が利用されていたが、陸軍の機械化・進撃速度の増加に従い、戦車も通行可能な架橋機材を前線で迅速に展開する必要が生じた。それにより、架橋戦車の開発が行われるようになった。
さまざまな架橋方式があるが、車体そのものを橋梁として利用する方式と、以下の方式の橋梁を車体上部に搭載して架橋場所まで移動する方式がある。搭載式には車体前方または後方からそのまま対岸へ橋梁を押し出して渡す方式(スライド式)、2つ折にたたまれている橋梁を、ヒンジ側を上に車体前方で垂直に立て、その後対岸へ開きながら水平に降ろして渡す方式(シザース式)、2つに切り離した橋梁を上下(上が橋後半、下が橋前半)に重ねて搭載し、車体上部で滑らせながら一本に接続して車体前方移動させ対岸へ渡す方式(カンチレバー式)がある。
具体例としては、陸上自衛隊の91式戦車橋は車体上部に折りたたまれた橋梁を搭載し、長さ20m(有効長18m)の橋をかける能力を持つ。なお、車体の全長は10.9mであり、車体長の倍近い架橋能力を持っている。
史上初の架橋戦車は第一次世界大戦中のイギリス軍の戦車であるマーク I 戦車を改造したものである。また、第二次世界大戦においてもIV号戦車やチャーチル歩兵戦車を改造した架橋戦車が開発されている。大日本帝国陸軍でも、超壕機という架橋戦車や、架橋機能に加え地雷除去やブルドーザー、火炎放射器の機能を一つにまとめた装甲作業機という車両を開発している。
アメリカ合衆国
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架橋戦車(かきょうせんしゃ)は、戦車の車体に橋梁を乗せて運搬する兵器であり、必要に応じてその橋梁を設置する能力を有する軍用車両である。「戦車橋」とも呼ばれる。本車により設置される橋梁は、多くの場合、その軍の主力戦車が通行できる設計となっている。主力戦車を改造して架橋戦車としている例も少なくない。 戦場における橋梁の設置(=架橋)は工兵の任務でありトラックで運搬できる橋梁機材や舟橋が利用されていたが、陸軍の機械化・進撃速度の増加に従い、戦車も通行可能な架橋機材を前線で迅速に展開する必要が生じた。それにより、架橋戦車の開発が行われるようになった。 さまざまな架橋方式があるが、車体そのものを橋梁として利用する方式と、以下の方式の橋梁を車体上部に搭載して架橋場所まで移動する方式がある。搭載式には車体前方または後方からそのまま対岸へ橋梁を押し出して渡す方式(スライド式)、2つ折にたたまれている橋梁を、ヒンジ側を上に車体前方で垂直に立て、その後対岸へ開きながら水平に降ろして渡す方式(シザース式)、2つに切り離した橋梁を上下(上が橋後半、下が橋前半)に重ねて搭載し、車体上部で滑らせながら一本に接続して車体前方移動させ対岸へ渡す方式(カンチレバー式)がある。 具体例としては、陸上自衛隊の91式戦車橋は車体上部に折りたたまれた橋梁を搭載し、長さ20m(有効長18m)の橋をかける能力を持つ。なお、車体の全長は10.9mであり、車体長の倍近い架橋能力を持っている。 史上初の架橋戦車は第一次世界大戦中のイギリス軍の戦車であるマーク I 戦車を改造したものである。また、第二次世界大戦においてもIV号戦車やチャーチル歩兵戦車を改造した架橋戦車が開発されている。大日本帝国陸軍でも、超壕機という架橋戦車や、架橋機能に加え地雷除去やブルドーザー、火炎放射器の機能を一つにまとめた装甲作業機という車両を開発している。
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[[File:M48A2 AVLB PATTON Bridge Layer.jpg|thumb|300px|M48A2架橋戦車]]
'''架橋戦車'''(かきょうせんしゃ)は、[[戦車]]の車体に[[橋|橋梁]]を乗せて運搬する[[兵器]]であり、必要に応じてその橋梁を設置する能力を有する軍用[[車両]]である。「戦車橋」とも呼ばれる。本車により設置される橋梁は、多くの場合、その軍の[[主力戦車]]が通行できる設計となっている。主力戦車を改造して架橋戦車としている例も少なくない。
戦場における橋梁の設置(=架橋)は[[工兵]]の任務であり[[貨物自動車|トラック]]で運搬できる橋梁機材や[[舟橋]]が利用されていたが、[[陸軍]]の[[機械化]]・進撃速度の増加に従い、戦車も通行可能な架橋機材を前線で迅速に展開する必要が生じた。それにより、架橋戦車の開発が行われるようになった。
さまざまな架橋方式があるが、車体そのものを橋梁として利用する方式と、以下の方式の橋梁を車体上部に搭載して架橋場所まで移動する方式がある。搭載式には車体前方または後方からそのまま対岸へ橋梁を押し出して渡す方式(スライド式)、2つ折にたたまれている橋梁を、ヒンジ側を上に車体前方で垂直に立て、その後対岸へ開きながら水平に降ろして渡す方式(シザース式)、2つに切り離した橋梁を上下(上が橋後半、下が橋前半)に重ねて搭載し、車体上部で滑らせながら一本に接続して車体前方移動させ対岸へ渡す方式([[カンチレバー式]])がある。
具体例としては、[[陸上自衛隊]]の[[91式戦車橋]]は車体上部に折りたたまれた橋梁を搭載し、長さ20m(有効長18m)の橋をかける能力を持つ。なお、車体の全長は10.9mであり、車体長の倍近い架橋能力を持っている。
史上初の架橋戦車は[[第一次世界大戦]]中の[[イギリス軍]]の戦車である[[マーク I 戦車]]を改造したものである。また、[[第二次世界大戦]]においても[[IV号戦車]]や[[チャーチル歩兵戦車]]を改造した架橋戦車が開発されている。[[大日本帝国陸軍]]でも、[[超壕機 TG|超壕機]]という架橋戦車や、架橋機能に加え[[地雷]]除去や[[ブルドーザー]]、[[火炎放射器]]の機能を一つにまとめた[[装甲作業機]]という車両を開発している。
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File:IMFT_6_2015_344.jpeg|スイス軍のブリュッケンパンツァー68(スライド式)
M60A1_Armored_Vehicle_Landing_Bridge.jpg|M60A1 AVLB(シザース式)
Type91_Armoured_vehicle-launched_bridge_016.JPG|91式戦車橋(カンチレバー式)
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== 現在の主な架橋戦車 ==
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* [[M60パットン#派生型|M60A1 AVLB]]
* [[M104ウルヴァリン]] 重突撃橋
* [[M1074統合突撃橋]](JAB)<ref>軍事情報研究会、「機甲旅団の軍用車一四三二両のパワー&新強襲兵器」『[[軍事研究 (雑誌)|軍事研究]]』(株)ジャパン・ミリタリーレビュー、2017年5月号、123-146頁、ISSN 0533-6716</ref>
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* [[センチュリオン (戦車)#派生型|FV4016 センチュリオン ARK]]
{{ISR}}
* [[マガフ#派生型|Magach Tagash/Magach Tagash Tsemed]]
{{SSR}}/{{RUS}}
* [[:en:MT-55|MT-55]]
* [[T-72#派生型|MTU-72]]
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* {{仮リンク|ブリュッケンレーゲパンツァー・ビーバー|de|Biber (Brückenlegepanzer)}}
* {{仮リンク|パンツァーシュネルブリュッケ レグアン|de|Panzerschnellbrücke Leguan}}
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* [[67式戦車橋]]
* [[91式戦車橋]]
{{FRA}}
* [[AMX-30]]架橋戦車
{{CHN}}
* [[69/79式戦車|84式戦車架橋車]](WZ-621)
}}
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[戦車]]
* [[舟橋]]/[[ポンツーン]]
*[[ベイリー橋]]
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18,506 |
盛岡競馬場
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盛岡競馬場(もりおかけいばじょう、Morioka Racecourse)は、岩手県盛岡市にある地方競馬の競馬場。愛称はOROパーク(オーロパーク)。日本中央競馬会(JRA)の場外発売も行っており、JRA発売時は「J-PLACE盛岡」と呼称する。
現在の競馬場は1996年に移転新設(後述)。
1996年4月にJRA東京競馬場と姉妹提携を結び、交換競走として盛岡競馬場では「東京カップけやき賞(JRA交流)」、東京競馬場では「オーロカップ(L)」が行われる。
電話・インターネット投票は「オッズパーク」「SPAT4」「楽天競馬」が全競走に対応しているほか、JRAのIPAT投票でも一部の競走が発売される。
ダートコースの内側に芝コースを併設しており、地方競馬専用の競馬場としては日本で唯一、芝コースを有する。
ダートコース・芝コースともに最後の直線が上り勾配となっているが、芝コースの高低差はダートコースよりも大きくなっている。また、ダートコースは第2コーナーの奥に伸びる長い引込線も特徴で、ダート1600mは引込線から第3コーナーまで約700mほどの距離がある。
ダートコースにはナイター競走に対応できる照明塔が2018年9月より設置され、夕方から夜間にかけてもレースが行えるようになっている。
スタンドは1階が(外向)自由席と発売スペース、大型ビジョンを備えた屋内観戦スペースの『アトリウム』、2階は(屋内)自由席、3階は指定席、4階は招待客とクラブハウス用の部屋で構成されている。この他、第4コーナー寄りに芝スタンドが設けられており、芝の上で寝転んで観戦できる。
入場料は200円で、水沢競馬場とともに地方競馬の競馬場としては最も高い。2010年の開催から再入場に関する運用が変わり駐車場に忘れ物を取りに行くといったような用務でおおむね1時間以内の場合に無料となっている。
2013年には馬場内とアトリウム内の大型ビジョン(1996年から稼働)が更新されることが決まり、2014年5月3日より運用を開始した。
芝スタンドの裏手には小さめの建物があり、現在はキッズルームとして利用されている。以前は盛岡本場開催時に開放されていた軽食コーナー、さらに前には『公園投票所』として自動発売・払戻機が設置されていたが、現在同所での発売・払戻は行っていない。同所で使用していた自動発売・払戻機は現在『UMACCO盛岡大通場外発売所』で使用している。
スタンド3階の指定席は、R・F・Gの3種類がありゴール寄りからR指定席・F/G指定席と配置されている。F指定席は4人がけのボックス席、R・Gは2人がけであるがG指定席の方が椅子や机のサイズが大きいのが特徴である。コーヒー、オレンジジュース、ウーロン茶のソフトドリンクの無料サービスがある。以前の料金はR席で2000円。F・G席が2500円であったが、曜日別の料金体系となり、大幅に値下げされた。現在は以下の通りである。
駐車場は約3000台を収容可能で、料金は無料。
岩手における競馬の発祥は、藩政時代から神社の境内などに仮設された直線コースで行われた奉納競馬が起源とされている。岩手は古来から馬産が盛んで、奥州平泉時代には源義経の愛馬「太夫黒」など歴史に名を残した名馬を多数輩出するとともに、南部曲がり家や馬頭観音信仰などに見られるように、生活面でも馬とのつながりが深い文化背景を有する。
1871年(明治4年)、菜園地区に1周1000mの楕円形馬場が新設され、生産地競馬として行われるようになる。1886年(明治19年)には根岸(横浜)競馬場・東京に次いで3番目となる洋式競馬が開催された。1902年(明治35年)に岩手県産馬組合連合会が競馬会を組織し、翌1903年(明治36年)には盛岡市上田(現在の高松二丁目・四丁目、北上川の境界付近)に競馬場を建設、同年11月3日・4日に第1回の競馬会を行った。11月30日には日本赤十字社岩手支部の総会を機に臨時競馬会が行われ、当時日本赤十字社の総裁だった閑院宮載仁親王が台覧。この際に金100円が下賜されたほか、先年に明治天皇が附近の地で飲んだという湧水「黄金清水」に因んで黄金競馬場(こがねけいばじょう)とも呼ばれ、この通称は二代目の競馬場にも引き継がれた。
二代目の盛岡競馬場は1933年(昭和8年)に盛岡市内の高松公園内に移転され、1995年(平成7年)まで競馬が行われた。1周1600mのダートコースで、直線は350mほどあり現競馬場(ダート)より長くとられていた。向正面に設けられた急坂が特徴で、高低差は8.8mあり、当時日本国内の競馬場では最大の高低差だったが、コース幅員が非常に狭かったため最大で8頭立てのレースしか行えず、9頭以上の競走を編成できなかったため、東北地区・北日本地区交流競走など多頭数の競走は水沢競馬場で開催されていた。軍馬の育成を目的に設計されており、極端な高低差はその名残である。跡地は盛岡市によって「こがねパーク高松」として公園や福祉施設などに再整備された。
1996年(平成8年)に現在地へ移転された三代目の盛岡競馬場には、かつての別名「黄金競馬場」にちなんで「OROパーク」という愛称がつけられた("oro"はスペイン語で金の意味)。
盛岡競馬場では長らくJRAによる中央競馬の場外発売が行われ、盛岡場外の名称で呼ばれていたが、2012年1月よりウインズ盛岡(盛岡競馬場内)に名称が変更された。
2021年7月3日より地方競馬共同トータリゼータシステムによる馬券発売に移行し、名称もJ-PLACE盛岡に変更され、発売締切時刻が旧来の発走2分前から発走4分前となった。また、J-PLACEにおいて発売された馬券はJ-PLACEでのみ払戻を受け付け、JRA運営の発売所での払戻は不可能であり、逆にJRA運営の発売所で発売された馬券はJ-PLACEで払戻すことができない。
JRA開催日が岩手競馬開催日と重複する場合は各場第9・第10・第11競走(または第10・第11・第12競走)、全競馬場の障害重賞、および前日発売レースを発売。岩手競馬非開催日は各場全レースを発売する。
○...発売 ×...発売なし
「芝」は芝コースで施行、それ以外はダートコースで施行。太字はダートグレード競走。「M」は岩手競馬の独自グレードによる格付け。
盛岡競馬場で開催される競走のみを記載。
サラ系の競走のみ記載。
参考資料: 地方競馬情報サイト「コース情報」盛岡競馬場
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"text": "岩手における競馬の発祥は、藩政時代から神社の境内などに仮設された直線コースで行われた奉納競馬が起源とされている。岩手は古来から馬産が盛んで、奥州平泉時代には源義経の愛馬「太夫黒」など歴史に名を残した名馬を多数輩出するとともに、南部曲がり家や馬頭観音信仰などに見られるように、生活面でも馬とのつながりが深い文化背景を有する。",
"title": "歴史"
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"text": "1871年(明治4年)、菜園地区に1周1000mの楕円形馬場が新設され、生産地競馬として行われるようになる。1886年(明治19年)には根岸(横浜)競馬場・東京に次いで3番目となる洋式競馬が開催された。1902年(明治35年)に岩手県産馬組合連合会が競馬会を組織し、翌1903年(明治36年)には盛岡市上田(現在の高松二丁目・四丁目、北上川の境界付近)に競馬場を建設、同年11月3日・4日に第1回の競馬会を行った。11月30日には日本赤十字社岩手支部の総会を機に臨時競馬会が行われ、当時日本赤十字社の総裁だった閑院宮載仁親王が台覧。この際に金100円が下賜されたほか、先年に明治天皇が附近の地で飲んだという湧水「黄金清水」に因んで黄金競馬場(こがねけいばじょう)とも呼ばれ、この通称は二代目の競馬場にも引き継がれた。",
"title": "歴史"
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"text": "二代目の盛岡競馬場は1933年(昭和8年)に盛岡市内の高松公園内に移転され、1995年(平成7年)まで競馬が行われた。1周1600mのダートコースで、直線は350mほどあり現競馬場(ダート)より長くとられていた。向正面に設けられた急坂が特徴で、高低差は8.8mあり、当時日本国内の競馬場では最大の高低差だったが、コース幅員が非常に狭かったため最大で8頭立てのレースしか行えず、9頭以上の競走を編成できなかったため、東北地区・北日本地区交流競走など多頭数の競走は水沢競馬場で開催されていた。軍馬の育成を目的に設計されており、極端な高低差はその名残である。跡地は盛岡市によって「こがねパーク高松」として公園や福祉施設などに再整備された。",
"title": "歴史"
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"text": "1996年(平成8年)に現在地へ移転された三代目の盛岡競馬場には、かつての別名「黄金競馬場」にちなんで「OROパーク」という愛称がつけられた(\"oro\"はスペイン語で金の意味)。",
"title": "歴史"
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"text": "盛岡競馬場では長らくJRAによる中央競馬の場外発売が行われ、盛岡場外の名称で呼ばれていたが、2012年1月よりウインズ盛岡(盛岡競馬場内)に名称が変更された。",
"title": "日本中央競馬会(JRA)の場外発売"
},
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"text": "2021年7月3日より地方競馬共同トータリゼータシステムによる馬券発売に移行し、名称もJ-PLACE盛岡に変更され、発売締切時刻が旧来の発走2分前から発走4分前となった。また、J-PLACEにおいて発売された馬券はJ-PLACEでのみ払戻を受け付け、JRA運営の発売所での払戻は不可能であり、逆にJRA運営の発売所で発売された馬券はJ-PLACEで払戻すことができない。",
"title": "日本中央競馬会(JRA)の場外発売"
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"text": "JRA開催日が岩手競馬開催日と重複する場合は各場第9・第10・第11競走(または第10・第11・第12競走)、全競馬場の障害重賞、および前日発売レースを発売。岩手競馬非開催日は各場全レースを発売する。",
"title": "日本中央競馬会(JRA)の場外発売"
},
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"text": "○...発売 ×...発売なし",
"title": "発売する馬券の種類"
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"text": "「芝」は芝コースで施行、それ以外はダートコースで施行。太字はダートグレード競走。「M」は岩手競馬の独自グレードによる格付け。",
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"text": "サラ系の競走のみ記載。",
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] |
盛岡競馬場。日本中央競馬会(JRA)の場外発売も行っており、JRA発売時は「J-PLACE盛岡」と呼称する。
|
{{出典の明記|date=2015年6月}}
{{競馬場
|競馬場名 = 盛岡競馬場
|通称・愛称 = OROパーク
|画像 = [[ファイル:Morioka Racecourse 01.jpg|250px|入場門正面]]<br/>入場門正面{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}}
| 緯度度 = 39 | 緯度分 = 41 | 緯度秒 = 32.7 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 141 |経度分 = 13 | 経度秒 = 9.3 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
|所在地 = 岩手県盛岡市新庄字上八木田10
|起工 =
|開場 = 1996年4月6日(移転)
|閉場 =
|取り壊し =
|所有者 = [[岩手県競馬組合]]
|管理・運用者 = 岩手県競馬組合
|収容能力 = 6,000人
|周回 = 左回り
|馬場 = ダート(外1周1600m)<br />芝(内1周1400m)
}}
'''盛岡競馬場'''(もりおかけいばじょう、Morioka Racecourse)は、[[岩手県]][[盛岡市]]にある[[地方競馬]]の[[競馬場]]。愛称は'''OROパーク'''('''オーロパーク''')。[[日本中央競馬会]](JRA)の場外発売も行っており、JRA発売時は「J-PLACE盛岡」と呼称する。
== 概要 ==
現在の競馬場は[[1996年]]に移転新設(後述)。
1996年4月にJRA[[東京競馬場]]と姉妹提携を結び、交換競走として盛岡競馬場では「東京カップけやき賞(JRA交流)」、東京競馬場では「オーロカップ([[リステッド競走|L]])」が行われる<ref>{{Cite web|和書|title=JRAのあゆみ(JRAの概要)|publisher=日本中央競馬会|url=https://jra.jp/company/about/outline/history/|accessdate=2021-07-10}}</ref><ref>{{PDFLink|[https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2020/0505.pdf 2020年度第5回東京競馬特別レース名解説]}} - 日本中央競馬会、2021年7月10日閲覧</ref>。
[[電話投票|電話・インターネット投票]]は「[[オッズパーク]]」「SPAT4」「楽天競馬」が全競走に対応しているほか、JRAのIPAT投票でも一部の競走が発売される。
== コース概要 ==
[[ファイル:Morioka Racecouse homestraight.JPG|thumb|300px|ホームストレートの様子。外回りにダート、内回りに芝コースを備える。映像ディスプレイの隣はオッズが表示される電光掲示板(現在は広告が掲示されている)。]]
[[File:Morioka Racecourse Aerial photograph.2008.jpg|thumb|270px|盛岡競馬場周辺の空中写真。<br/>2008年7月2日撮影の2枚を合成作成。{{国土航空写真}}]]
ダートコースの内側に芝コースを併設しており、地方競馬専用の競馬場としては日本で唯一、芝コースを有する。
ダートコース・芝コースともに最後の直線が上り勾配となっているが、芝コースの高低差はダートコースよりも大きくなっている。また、ダートコースは第2コーナーの奥に伸びる長い引込線も特徴で、ダート1600mは引込線から第3コーナーまで約700mほどの距離がある<ref name=morioka_baba />。
=== ダートコース ===
ダートコースには[[ナイター競走]]に対応できる照明塔が2018年9月より設置され、夕方から夜間にかけてもレースが行えるようになっている。
* 左回り 1周1600m・幅員25m
* 直線(4コーナーから決勝線まで) 300m
* 施行可能距離 1000m、1200m、1400m、1600m、1800m、2000m、2500m、2600m(2022年から)<ref name=morioka_baba>[http://www.iwatekeiba.or.jp/guide/moriokakeiba/oro_06 盛岡競馬場 コース紹介] - 岩手県競馬組合、2021年7月10日閲覧</ref>
** 2600mは[[北上川大賞典]]のみで使用
**2007年と2008年にB級特別戦で3000mの施行実績がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/?sid=result&keyword=&y_f=1986&m_f=09&y_t=2021&m_t=8&coursel=coursel_08&dist_f=3000&dist_t=3000&items=20&x=57&y=7|title=レース {{!}} 検索結果|accessdate=2021年8月2日閲覧}}</ref>。
* 出走可能頭数(フルゲート)16頭<ref group="注">ゲート破損などがあった際の外枠発走の対応ができなくなるため、通常は12頭立て(岩手所属馬限定競走)及び14頭立て(JRA・他地区交流競走)で行われる。16頭立てで行われる競走は[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC]]3競走([[JBCスプリント]]および[[JBCクラシック]]、[[JBCレディスクラシック]])と[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]、[[ダービーグランプリ]](2024年よりダートグレード競走(JpnII)に昇格予定の[[不来方賞]])に限られている。</ref>
* 高低差4.4m
* [[宮城県]][[大和町]]の砂を使用<ref name="nikkei20180804">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33666290R00C18A8000000/ 盛岡競馬場を守り続ける 情熱あふれる21人] 日本経済新聞・2018年8月4日・2019年2月22日閲覧</ref>。
=== 芝コース ===
* 左回り 1周1400m・幅員25m
* 直線(4コーナーから決勝線まで) 300m
* 施行可能距離 1000m、1600m、1700m、2400m<ref name=morioka_baba />
* 出走可能頭数(フルゲート) 14頭
* 高低差4.6m
* ケンタッキーブルーグラス、[[ホソムギ|ペレニアルライグラス]]、[[オニウシノケグサ|トールフェスク]]の三種の洋芝を混合して使用<ref name="nikkei20180804" />。
== 主な設備 ==
=== スタンド ===
スタンドは1階が(外向)自由席と発売スペース、大型ビジョンを備えた屋内観戦スペースの『アトリウム<ref group="注">2階まで吹き抜けになっており、2階の一部からもその大型ビジョンを観ることが可能。</ref>』、2階は(屋内)自由席、3階は指定席、4階は招待客とクラブハウス用の部屋で構成されている。この他、第4コーナー寄りに芝スタンドが設けられており、芝の上で寝転んで観戦できる。
入場料は200円で、[[水沢競馬場]]とともに地方競馬の競馬場としては最も高い<ref group="注">他の競馬場は100円だが、[[川崎競馬場]]はホームページ上で「無料入場券」を印刷して入場門で渡せば無料(本来は100円)になる。[[門別競馬場]]は入場無料。</ref>。2010年の開催から再入場に関する運用が変わり駐車場に忘れ物を取りに行くといったような用務でおおむね1時間以内の場合に無料となっている。
2013年には馬場内とアトリウム内の大型ビジョン(1996年から稼働)が更新されることが決まり<ref name="iwate-np20131123">{{Cite news|url=http://www.iwate-np.co.jp/economy/y2013/m11/e1311234.html|title=盛岡競馬場の大型ビジョン更新 組合議会が補正可決|newspaper =[[岩手日報]]|date=2013-11-23|accessdate=2013-11-23}}</ref>、2014年5月3日より運用を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/news/2014/140429n01.html|title=第1回盛岡競馬前半のイベント情報|publisher=岩手競馬|date=2014-04-29|accessdate=2014-08-14}}</ref>。
芝スタンドの裏手には小さめの建物があり、現在はキッズルームとして利用されている。以前は盛岡本場開催時に開放されていた軽食コーナー、さらに前には『公園投票所』として自動発売・払戻機が設置されていたが、現在同所での発売・払戻は行っていない。同所で使用していた自動発売・払戻機は現在『UMACCO盛岡大通場外発売所』で使用している。
=== 指定席 ===
スタンド3階の指定席は、R・F・Gの3種類がありゴール寄りからR指定席・F/G指定席と配置されている。F指定席は4人がけのボックス席、R・Gは2人がけであるがG指定席の方が椅子や机のサイズが大きいのが特徴である。コーヒー、オレンジジュース、ウーロン茶のソフトドリンクの無料サービスがある。以前の料金はR席で2000円。F・G席が2500円であったが、曜日別の料金体系となり、大幅に値下げされた。現在は以下の通りである。
* G指定席 土・日・祝 1700円、平日 1200円(いずれも入場料込み)
* R・F指定席 土・日・祝 1500円、平日 1200円(いずれも入場料込み)
<gallery>
Morioka_racecourse_grandstand.JPG|スタンド
盛岡競馬場のパドック全景(2014年11月3日).JPG|パドック全景(2014年11月3日撮影)
盛岡競馬場の芝コースへ競走馬が入場する動線(2014年11月3日).JPG|芝コースへ競走馬が入場する様子(2014年11月3日撮影)
</gallery>
=== 駐車場 ===
駐車場は約3000台を収容可能で、料金は無料。
== 歴史 ==
[[ファイル:Old Morioka Racecourse Aerial photograph.1976.jpg|thumb|270px|1976年(昭和51年)に撮影された二代目盛岡競馬場(高松公園)付近の空中写真。<br/>{{国土航空写真}}]]
岩手における競馬の発祥は、藩政時代から神社の境内などに仮設された直線コースで行われた奉納競馬が起源とされている。岩手は古来から馬産が盛んで、[[奥州藤原氏|奥州平泉時代]]には[[源義経]]の愛馬「太夫黒」など歴史に名を残した名馬を多数輩出するとともに、[[曲り家|南部曲がり家]]や馬頭観音信仰などに見られるように、生活面でも馬とのつながりが深い文化背景を有する<ref name=morioka_city>{{Cite web|和書|url=https://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/keiba/1012307.html|title=岩手競馬の歴史|publisher=盛岡市|accessdate=2023-09-26}}</ref>。
1871年(明治4年)、菜園地区に1周1000mの楕円形馬場が新設され、生産地競馬として行われるようになる。1886年(明治19年)には[[横浜競馬場|根岸(横浜)競馬場]]・東京に次いで3番目となる洋式競馬が開催された<ref name=morioka_city />。1902年(明治35年)に岩手県産馬組合連合会が競馬会を組織し、翌1903年(明治36年)には盛岡市上田(現在の高松二丁目・四丁目、北上川の境界付近)に競馬場を建設、同年11月3日・4日に第1回の競馬会を行った。11月30日には[[日本赤十字社]]岩手支部の総会を機に臨時競馬会が行われ、当時日本赤十字社の総裁だった[[閑院宮載仁親王]]が台覧。この際に金100円が下賜されたほか、先年に[[明治天皇]]が附近の地で飲んだという湧水「黄金清水」に因んで'''黄金競馬場'''(こがねけいばじょう)とも呼ばれ、この通称は二代目の競馬場にも引き継がれた<ref>{{PDFLink|[https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/012/014/umakko-guidemap.pdf いわて馬っこめぐり]}} - 岩手県農林水産部競馬改革推進室、2021年7月10日閲覧</ref>。
二代目の盛岡競馬場は1933年(昭和8年)に盛岡市内の[[高松公園]]内<ref>[http://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=37236&dispType=1 USA-R1428-105] - [[国土地理院]]ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」</ref>に移転され、1995年(平成7年)まで競馬が行われた<ref name=morioka_keizai>{{Cite web|和書|url=https://morioka.keizai.biz/headline/2809/|title=「旧盛岡競馬場跡地」の愛称決まる 「こがね」と呼ばれた歴史受け継ぐ|date=2019-04-11|publisher=盛岡経済新聞|accessdate=2021-07-10}}</ref>。1周1600mのダートコースで、直線は350mほどあり現競馬場(ダート)より長くとられていた。向正面に設けられた急坂が特徴で、高低差は8.8mあり、当時日本国内の競馬場では最大の高低差だったが、コース幅員が非常に狭かったため最大で8頭立てのレースしか行えず、9頭以上の競走を編成できなかったため、東北地区・北日本地区交流競走など多頭数の競走は[[水沢競馬場]]で開催されていた。軍馬の育成を目的に設計されており、極端な高低差はその名残である。跡地は盛岡市によって「こがねパーク高松」として公園や福祉施設などに再整備された<ref name=morioka_keizai /><ref>{{Cite web|和書|url=http://takamatu-kouen.com/ecoas/index.html|title=盛岡高松公園&エコアス広場・高松多目的広場ガイド|publisher=盛岡市高松公園管理事務所|accessdate=2021-07-10}}</ref>。
1996年(平成8年)に現在地へ移転された三代目の盛岡競馬場には、かつての別名「黄金競馬場」にちなんで「'''OROパーク'''」という愛称がつけられた("oro"はスペイン語で金の意味)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/guide/moriokakeiba/oro_02|title=盛岡競馬場の基礎知識|publisher=岩手競馬|accessdate=2021-06-15}}</ref>。
== 日本中央競馬会(JRA)の場外発売 ==
盛岡競馬場では長らくJRAによる[[中央競馬]]の場外発売が行われ、'''盛岡場外'''の名称で呼ばれていたが、2012年1月より'''ウインズ盛岡(盛岡競馬場内)'''に名称が変更された。
2021年7月3日より地方競馬共同トータリゼータシステムによる馬券発売に移行し、名称も'''J-PLACE盛岡'''に変更され、発売締切時刻が旧来の'''発走2分前'''から'''発走4分前'''となった<ref name=wins_iwate>{{Cite web|和書|title=ウインズ水沢・ウインズ三本木・ウインズ盛岡の運用方法の変更について|publisher=岩手県競馬組合|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/news/210220i01|accessdate=2021-04-28}}</ref>。また、J-PLACEにおいて発売された馬券はJ-PLACEでのみ払戻を受け付け、JRA運営の発売所での払戻は不可能であり、逆にJRA運営の発売所で発売された馬券はJ-PLACEで払戻すことができない。
JRA開催日が岩手競馬開催日と重複する場合は各場第9・第10・第11競走(または第10・第11・第12競走)、全競馬場の障害重賞、および前日発売レースを発売。岩手競馬非開催日は各場全レースを発売する<ref name=wins_iwate />。
== 発売する馬券の種類 ==
;盛岡競馬・J-PLACE盛岡
○…発売 ×…発売なし
{| class="wikitable"
!style="width: 1.5em;"|単勝
!style="width: 1.5em;"|複勝
!style="width: 1.5em;"|枠番連複
!style="width: 1.5em;"|枠番連単
!style="width: 1.5em;"|馬番連複
!style="width: 1.5em;"|馬番連単
!style="width: 1.5em;"|ワイド
!style="width: 1.5em;"|3連複
!style="width: 1.5em;"|3連単
|- style="text-align: center;"
|○||○||○||×||○||○||○||○||○
|}
== 主な競走 ==
=== 重賞競走(2023年度) ===
「芝」は芝コースで施行、それ以外はダートコースで施行。'''太字'''は[[ダートグレード競走]]。「M」は[[岩手県競馬組合#グレード制|岩手競馬の独自グレード]]による格付け。
盛岡競馬場で開催される競走のみを記載<ref>{{Cite web|和書|title=岩手競馬 2023シーズン重賞・特別日程 – 岩手競馬|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/race/pattern-race|accessdate=2023-05-15|language=ja}}</ref>。
==== 2歳 ====
* [[若鮎賞]](M3、芝、[[JRA2歳認定競走]])
* [[ネクストスター盛岡]](M1、2023年新設<ref>[https://www.keiba.go.jp/topics/2022/11/2808303227033.html 全日本的なダート競走の体系整備について]地方競馬全国協会、2022年11月28日配信・閲覧</ref>、[[未来優駿]]対象競走)
* [[ジュニアグランプリ (岩手競馬)|ジュニアグランプリ]](M1、芝、地方競馬全国交流競走、JRA2歳認定競走、[[京王杯2歳ステークス]]・[[デイリー杯2歳ステークス]]のトライアル競走)
* [[若駒賞 (岩手競馬)|若駒賞]](M2、JRA2歳認定競走)
* [[知床賞]](M3、JRA2歳認定競走、[[ホッカイドウ競馬|北海道]]交流)
* [[南部駒賞]](M1、地方競馬全国交流競走、翌年の[[弥生賞ディープインパクト記念]]・[[若葉ステークス]]・[[スプリングステークス]]のトライアル競走)
* [[プリンセスカップ (岩手競馬)|プリンセスカップ]](M2、牝馬限定、地方競馬全国交流競走、[[GRANDAME-JAPAN]]2歳シーズン対象レース、2020年まで水沢開催)
==== 3歳 ====
* [[ダイヤモンドカップ]](M1、3歳三冠の一冠目)
* [[やまびこ賞]](M2)
* [[オパールカップ]](M2、芝、地方競馬全国交流競走、[[セントライト記念]]・[[神戸新聞杯]]のトライアル競走)
* [[ハヤテスプリント]](M2、2018年度よりM2格上げ)
* [[ひまわり賞 (岩手競馬)|ひまわり賞]](オークス)(M1、牝馬限定、牝馬三冠の二冠目)
* [[サファイア賞]](M3、芝)
* [[ダービーグランプリ]](M1、地方競馬全国交流競走)
* [[OROオータムティアラ]](M1、牝馬限定、3歳牝馬三冠の三冠目)
* [[ウイナーカップ]](M3、2020年までは水沢開催)
==== 3歳(4歳)以上 ====
* [[シアンモア記念]](M1、地方競馬全国交流競走)
*[[あすなろ賞]](M3)
* [[岩鷲賞]](M2、[[クラスターカップ]]のトライアル競走)
* '''[[マーキュリーカップ|マーキュリーカップ(メイセイオペラ記念)]]'''(JpnIII)
* [[せきれい賞]](M2、芝、地方競馬全国交流競走)
* '''[[クラスターカップ]]'''(JpnIII)
* [[いしがきマイラーズ]](M3、芝)※2021年新設
* [[OROカップ|岩手県知事杯OROカップ]](M1、芝、地方競馬全国交流競走、[[富士ステークス]]・[[スワンステークス]]のトライアル競走)
* '''[[マイルチャンピオンシップ南部杯|Road to JBC マイルチャンピオンシップ南部杯]]'''(JpnI)
* [[OROターフスプリント]](M2、芝、地方競馬全国交流競走)
* [[絆カップ]](M2)
* [[ヴィーナススプリント]](M3、牝馬限定)※2021年新設
* [[北上川大賞典]](M2、2020年まで水沢開催)
* [[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC競走]]施行実績:2002年、2014年、2022年
=== JRA2歳認定競走 ===
* フューチャーステップ(1着 300万円)
=== 騎手招待競走 ===
* [[ジャパンジョッキーズカップ]](2015年 - 2019年)
* [[レディスヴィクトリーラウンド]](2016年 - 2017年、地方競馬の女性騎手による交流競走)
* [[ヤングジョッキーズシリーズ]](2017年 - 、トライアルラウンドを開催)
== レコードタイム ==
サラ系の競走のみ記載。
参考資料: [https://www.keiba.go.jp/guide/03/course_information.html 地方競馬情報サイト「コース情報」盛岡競馬場]
=== ダートコース ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
||1000m||0:58.1||マッドシェリー||牝5||55kg||神尾香澄||[[OROターフスプリント|2023年10月22日]]
|-
||1200m||1:08.5||[[マテラスカイ]]||牡6||55kg||[[武豊]]||[[クラスターカップ|2020年8月10日]]
|-
||1400m||1:23.4||[[タイセイブラスト]]||牡7||57kg||[[高松亮]]||2020年10月26日
|-
||1600m||1:32.7||[[アルクトス]]||牡5||57kg||[[田辺裕信]]||[[マイルチャンピオンシップ南部杯|2020年10月12日]]
|-
||1800m||1:49.3||[[サンビスタ (競走馬)|サンビスタ]]||牝5||55kg||[[岩田康誠]]||[[JBCレディスクラシック|2014年11月3日]]
|-
||2000m||2:00.8||[[コパノリッキー]]||牡4||57kg||[[田辺裕信]]||[[JBCクラシック|2014年11月3日]]
|-
||2500m||2:39.6||[[バンケーティング]]||牡4||58kg||[[菅原勲]]||2002年11月24日
|-
||3000m||3:20.6<br />(基準タイム)||[[センリオー]]||牡4||53kg||[[板垣吉則]]||2007年10月22日
|-
|}
=== 芝コース ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量!!騎手!!記録年月日
|-
||1000m||0:57.2||[[カルーナブルガリス]]||牝4||54kg||[[山本政聡]]||2023年7月11日
|-
||1600m||1:36.2||[[ロイヤルスター]]||牡4||55kg||[[小林俊彦 (競馬)|小林俊彦]]||1999年6月6日
|-
||1700m||1:43.6||[[ナターレ (競走馬)|ウン]]||牡3||56kg||[[本田正重]]||2022年7月10日
|-
||2400m||2:28.5||[[ロイヤルハーバー|アトミックフォース]]||牡6||57kg||[[山本聡哉]]||2022年7月31日
|}
== 脚注 ==
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運河
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運河(うんが)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬などが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。
運河には河川湖沼を連絡する内陸運河と海洋間あるいは海洋と内陸水路とを連絡する海路運河がある。半島を横断する運河としてキール運河、地峡(陸の狭窄部)を横断する運河としてスエズ運河やパナマ運河がある。海路運河のうち国際条約で原則として自由航行が認められている運河は国際運河と呼ばれる。また、内陸運河には河川間を結び水路網を広げるものと、河川に並行して、または河川の通航困難な場所をバイパスを作り、既存の河川水運を改善するものの2つの種類が存在する。
また、海をつなぐものや内陸を走るもののほかに、海岸線に沿って走る沿岸運河も存在する。このような運河が建設されたのは、沿岸近くは風向きが変わりやすく海流や地形が複雑なうえ河口から流れ込む水流の影響もあり、船舶の航行が困難な海域であるため、そこを通らず内水面のみで沿岸域をつなぐためである。こうした沿岸運河は、海岸砂州と陸地の間に広がっている細長い水域を利用して建設されることも多い。アメリカのメキシコ湾岸と大西洋岸には、海峡や湾などを運河でつなぎ、外洋に出ることなく沿岸部を航行することができる沿岸内水路がそれぞれ整備されている。マダガスカル東部のインド洋沿岸には、パンガラン運河と呼ばれる全長700kmに及ぶ潟湖を利用した運河が続いており、輸送や観光に利用されている。
ヨーロッパでは各地に運河が張り巡らされており、大切な交通手段として利用されるとともに、人気のあるレジャーのひとつともなっている。運河をめぐるヨーロッパ各国の概況だが、フランスでは運河を回るだけでほぼ一周することができるとされる。一方、イギリスにも多数の運河が存在するが、これらは産業革命時代に馬車に代わる大量輸送手段として盛んに建設された(運河時代)もので、陶器メーカーのウェッジウッドが馬車輸送による陶器の破損を避けるために製品輸送用の運河を造った例などが有名である。イギリスの運河は幅の狭いものが多かったため、ナロウボートと呼ばれる独特の小さな船を多用した。現代史においては、ドイツでは東西に分裂していた時代、西ドイツの航空機が東ドイツ領に囲まれた飛び地である西ベルリンに到達することが容易ではなかった状況などから、西側からの生活物資の大半がハノーファーから運河で運ばれ、貴重な物流網を成していた。
上記のような遠隔地間を結ぶ運河のほか、海岸や河川沿いに位置する都市の多くは市内に運河を建設しており、交通や物資輸送に大きな役割を果たしていた。網の目のように市内に運河を張り巡らせている都市も多く、なかでもヴェネツィアやアムステルダムなどは運河網がとくに発達していた。こうした都市運河は工業化の進展とともに鉄道や道路輸送にとってかわられることが多く、埋め立てられたり運河としての役目を終えたところが少なくないが、先述のヴェネツィアやアムステルダムなどいくつかの都市においては現在でもその運河網が現存し活用されている。日本においても江戸や大坂をはじめとして多くの都市に掘割などの運河網が張り巡らされていたが、明治以後陸上交通に重心が移行するに従い多くが埋め立てられた。
このほか、運河は干拓にも利用されることがある。オランダにおいては11世紀ごろから泥炭地の干拓が進むが、これは泥炭地に排水路を張り巡らして水抜きを行い、残った水路はそのまま運河として輸送路や排水に利用するものだった。泥炭地のほか、海の干拓においても運河は重要な役割を果たし、排水用の風車と運河の組み合わされた光景はオランダの風物詩ともなっている。また、交通用のほかに灌漑などの用水としての機能など、別の機能も併せ持つものも近代以降多く作られ、これらを疎水と称することもある。
各運河は閘門の大きさや運河の幅、深さなどによってそれぞれ通行可能な船の最大サイズが違ってくる。特に重要な運河の場合、その運河を通航できるサイズがそのまま標準の船型となることがある。特に重要な運河通航による船型は3つあり、最も小さいものはカナダのセントローレンス海路を通航できるシーウェイマックス(全長226 m、幅24 m、喫水7.92 m)である。次に小さいものはパナマ運河を通航できるパナマックス(全長366m、全幅49m、喫水15.2m、最大高57.91m)である。最大のものはスエズ運河を通航できるスエズマックスであり、喫水20m、幅50mまでとなる。また、スエズ運河にはスエズ運河橋が存在するため高さも条件に入る。一方で、閘門がないため長さは条件とはならない。こうした制限は大型船舶が航行するうえでの障害となり、とくに運河のサイズの小さいセントローレンス海路やパナマ運河において深刻である。最も小さいセントローレンス海路においては世界中の洋上用船舶のわずか10%のみしか航行できないとされる。またパナマ運河においても超大型タンカーや、最大級のコンテナ船は航行できないが、この両船種は効率上の要請から近年大型化が著しく、パナマ運河を航行できない船舶は増加する一方となっている。これを受け、パナマ運河では拡張工事が行われることとなり、これが2016年4月に完成予定であったが、ストライキやコスト超過に関するトラブルの影響で何度か延期され、2016年6月26日に開通した。この拡張後には、パナマ運河を通航できる船舶の最大値は 約 5,000 TEU から 12,000 TEU となり、新パナマックスは以下の通りになった。
運河には、標高差のない2点を結ぶ水平式運河と、標高差のある地点を結ぶ、あるいは途中で標高の高い地点を超える運河の2つの種類が存在する。標高に差のある地形に運河を建設する場合、水位の高低差を調整する仕組みが必要になる。この仕組みとして、閘門、インクライン、ボートリフトなどがある。標高差を吸収する仕組みとして最も一般的なものは閘門であり、そのためこのタイプの運河のことを閘門式運河と呼ぶこともある。
水平式運河においては当然閘門は存在せず、閘門式運河に対してより簡易に船舶を航行させることができる。しかし水位に差をもたせずに高低差を吸収するため、運河橋により低地(低地にある他の運河を含む)の上を渡ったり、運河トンネルを掘って山地をくぐることもある。
運河が閘門式になるか水平式になるかは、建設の際にかかるコストによって異なってくる。全く高低差のない地形であれば当然水平式運河が採用されるが、高低差が存在する場合、山を切り開いて運河を開削したり、運河橋や運河トンネルなどを建設するには莫大な費用が掛かるため、それよりも閘門を連続させたり、水平に進めるところまで水平に建設しておいて船舶昇降機などで一気に高低差を吸収する方が総合的なコストが安く上がる場合があるからである。一方で、閘門を操作するコストは船舶が通行するごとにかかり、また当然ながら閘門の操作は船舶の航行の障害となるため、通行量の多い運河ほど水平式にしたほうが利点が大きくなる。この典型的な例がパナマ運河である。パナマ運河はフェルディナン・ド・レセップスによる計画時には水平式運河であったが、当時の技術力では水平式運河を建設することができず、閘門式の運河となった。しかし通行量の増大によってパナマ運河の容量に限界が訪れたため、第二パナマ運河計画やニカラグア運河計画といった水平式の運河建設計画が次々と持ち上がった。しかし中米地峡の地形は水平式運河を建設するにはいまだ厳しく、結局パナマ政府は既存の閘門式運河を改良することとなった。
閘門(こうもん)とは、高低差のある水路を閘室と呼ばれる領域に仕切り、船を昇降させる装置のことである。閘室は、水路の前後に開閉可能な扉を有している。まず、その一方のみの扉を開けて船を閘室に導く。つぎにその扉を閉じ、他方の扉側の導水路の開閉によって水位を上昇または下降させる。そして、最後に他方の扉を開けることにより、高低差のある水路における船の行き来を可能にする。閘門はひとつの運河に1個だけとは限らず、むしろ高低差の激しい運河の場合、段階的に船の高度を上げていかねばならないためにいくつもの閘門が連続することが珍しくない。
閘門としてよく知られているものはパナマ運河のものである。また中国には、13世紀にクビライによって築かれた通恵河がある。アメリカ合衆国とカナダの五大湖・セントローレンス川水系には、スーセントマリー運河やウェランド運河といった閘門式運河がある。日本では埼玉県さいたま市に同様の構造の見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)があり、これは日本最古の閘門とされる。また東京都内の小名木川にある扇橋閘門、茨城県稲敷市・千葉県香取市境の横利根閘門や三重県桑名市の長良川河口堰にも閘門がある。愛知県愛西市の船頭平閘門、富山県富山市の中島閘門は重要文化財に指定されている。名古屋市の松重閘門(現在稼動せず)は、東海道新幹線や東海道本線・名鉄名古屋本線(同線山王駅近く)からも見ることができる。関西では毛馬閘門(淀川)、尼崎閘門(尼崎港)が現役で稼動している。
閘門の扉は左右に観音開きに開閉するマイターゲートと、扉が上下に動くローラーゲートがある。マイターゲートは、扉が左右に開くため上部に構造物が無く背の高い船を通せるものであり、パナマ運河などで使われている。これに対しローラーゲートは、扉の開閉の際に水圧の影響が少なく、多くの水門と同じ形状である。
水位差のない運河の場合はさほど問題にならないことが多いが、高低差のある運河の場合、その運河に水を供給するために貯水池が建設されることが多い。これは、閘門の開閉の際に高地から低地に対して水が流出するため、その不足した水量を補うためである。世界最大の閘門式運河であるパナマ運河の場合、周囲の山岳地帯にアラフエラ湖(マッデン湖)などの貯水池が作られ、運河上のガトゥン湖に水を供給している。貯水池のほかに、下の運河からポンプなどで水をくみ上げて使用する運河も存在する。
インクラインは鋼索鉄道の一種であり、水運に関しては船を台車に収納し、台車全体を斜面に沿って引き上げることで水位差を吸収する設備である。タイプとしては船を水から引き上げて台車に収納する方式と、船を水槽に入れ、水に浮かんだままの状態で台車に収納する方式である。水から引き上げる方式の方が古くから使われているが、技術の進歩により後者の方式が開発されるとそちらの利用の方が多くなった。日本では水から引き上げる方式のものが琵琶湖疏水の蹴上、伏見に設置されていたが廃止された。日本以外ではイギリス、アメリカを始めフランス、ベルギーなどに設置され、現在も使用されているものもある。
船舶昇降機、シップリフト、運河エレベータと呼ばれることもある。インクラインからさらに進んで、船を水に浮かべた箱をエレベータのように垂直に昇降させることで水位差を吸収する。
古いものでは、1875年にイギリスの運河に建設されたアンダートンボートリフトや20世紀初頭にドイツのベルリン郊外に建設されたNiederfinowボートリフトがある。
近年のものでは、ベルギーのサントル運河(中央運河)に建設された ストレピ・ティウ・リフト(en)(2002年完成)がある。ストレピ・ティウ・リフトでは、高低差73mの運河に、1350tの船を収納し、水も含めると約8000tの重量を昇降させることができる巨大なリフトを2基備えている。これはユネスコの世界遺産にも登録されている一連の4つのボートリフトに代わり、高低差を一気に克服するものである。
また、スコットランドのフォース・アンド・クライド運河(en)にあるファルカーク・ホイール(2002年完成)は、回転運動により船舶を昇降させる、全く新しい形式のボートリフトであり、その奇抜な形状から観光客を集めている。
勾配水路と可動式の水門を用いる方式として水斜面がある。
エジプトでは紀元前2000年頃には地中海と紅海とを結ぶ運河建設が計画されていたとされ、紀元前480年頃それに代わるナイル川と紅海とを結ぶ運河が開かれることとなった。中国でも紀元前1000年頃から各地で小運河が開かれていたが、7世紀に隋が中国を統一すると積極的に運河を建設していくようになり、煬帝によって華北と江南を結ぶ大運河が完成するに至った。この運河は中国の南北を結びつけるまさしく大動脈となり、唐の繁栄の一因となるとともに、五代から宋にかけては黄河と大運河の結節点である開封に首都がおかれ、またこの運河の北端である北京に元代以降の歴代中国王朝の首都がおかれるようになるなど、中国の歴史を大きく変えた。
ヨーロッパにおいては、12世紀ごろより北イタリアで運河が盛んに建設されるようになった。1378年にオランダで閘門が発明されたが、この時はいまだ片扉のものであった。14世紀中盤には北イタリアで閘室が登場し、17世紀中盤以降はドイツやフランスなどヨーロッパ大陸西部で盛んに運河が建設されるようになった。1681年にはフランス南西部を走るミディ運河が完成し、これによってフランスは国内のみで大西洋から地中海までを結ぶ大量輸送ルートの確保に成功した。
このミディ運河を視察したブリッジウォーター公フランシス・エジャートンは、帰国後自領にあるワースリー炭鉱から工業都市マンチェスターまで通じる運河の建設を計画し、1761年にはこれを完成させる。このイギリス最初の近代運河であるブリッジウォーター運河は大成功をおさめ、マンチェスターの石炭価格が半額に下落したうえに経費が大幅に節約でき、ブリッジウォーター公に莫大な利益をもたらした。これを見た各地の領主や企業家は競って運河の建設に乗り出し、1760年代から1830年代にかけてはイギリスにおいて運河時代と呼ばれる一時代が現出した。とくに1790年代前半には「運河熱」と呼ばれる運河建設・投資ブームが巻き起こり、急速に運河の建設が進んだ。この運河網の発達は安定した大量輸送を各地で確保し、産業革命を推進する大きな力の一つとなったが、各運河は各地の企業家や貴族が思い思いに建設したために規格が統一されておらず、航行できる船のサイズがまちまちであるなど障害も多かった。このため、1825年に最初の蒸気機関車による鉄道が開通するとすぐに鉄道網がイギリス全国に張り巡らされるようになり、運河は急速に重要性を低下させていった。
アメリカにおいても運河建設が各地で進められる中、1825年にハドソン川とエリー湖を結ぶエリー運河が開通した。この運河は五大湖水系とニューヨークを直接結ぶものであり、これによって五大湖周辺の開発は一気に促進され、また運河の出口に当たるニューヨークは内陸部と外洋を結ぶ港湾都市として急速に成長し、現在の世界都市となる基盤を築いた。次いで1848年にはミシガン湖とミシシッピ川の支流であるイリノイ川を結ぶイリノイ・ミシガン運河が建設され、これによってミシシッピ川と五大湖が直接結ばれたほか、ミシシッピ河口のニューオーリンズから五大湖沿岸のシカゴを通って大西洋岸のニューヨークまで、外洋を通らずに航行できる内陸水路ルートが完成し、アメリカ内陸部の開発に大きな役割を果たした。しかしこれも、積み替えの手間や冬季の氷結などの弱点があり、鉄道の延伸とともに重要性は低下していった。
ここまでの運河の発展は主に内陸運河であったが、19世紀中期に入ると技術の進歩により、大陸間の海運の障壁となっているスエズ地峡と中米地峡をバイパスする巨大運河の建設が構想されるようになっていった。1869年にはフランスのフェルディナン・ド・レセップスの手によってスエズ運河が開通し、これによってヨーロッパとアジア間の海運は劇的なまでに改善された。また、この運河を帆船で航行することは困難だったため、全盛期を迎えていた帆船はこの運河の開通以降急速に用いられなくなっていき、以後は汽船が完全に世界の海の主役となった。ついで中米地峡に運河が構想され、いくつかのルートが検討された結果パナマ地峡に運河が建設されることとなり、パナマ運河がアメリカの手によって1914年に開通した。これにより難所であったマゼラン海峡を大きく迂回せずともアメリカ大陸の東西の海運が可能になり、大西洋と太平洋間の航行が劇的に改善された。1959年には五大湖とケベックを結ぶセントローレンス海路が建設され、これによって世界工業の心臓部のひとつである五大湖沿岸まで直接外洋船が乗り入れることが可能になった。
ヨーロッパにおける内陸運河は鉄道の登場によって衰退し主要な交通手段ではなくなったものの、ヨーロッパにおいてはライン川やドナウ川などの大河川による水運がさかんであり、こうした河川交通の補助や連結の役割を果たすものとして運河は命脈を保ち続けた。アメリカにおいても、ミシシッピ川や五大湖に連絡するものを中心にいくつかの運河が生き残った。こうした運河においては、鉄道やトラック輸送に比べて優位性のある、金属や鉱石・石油といった重量のあるものや危険物・廃棄物などが主に輸送されている。とくにヨーロッパ大陸にいてはピレネー山脈・アルプス山脈以北の大河川はほとんど運河によって接続されており、大西洋から北海やバルト海、黒海に至るまでいまだ河川・運河の水路網によって通航が可能である。こうした運河網を維持するため、ヨーロッパ各国は1961年に水路の、1992年に水路を航行する船舶の分類と基準策定を行い、標準積載重量を1350tと定めた。そのサイズの船が航行できるよう、運河の改良がこれ以後各地で進められた。一方、イギリスにおいてはかつて建設された運河のほとんどはレジャー・観光用となっており、物流用にはほとんど使用されていない。これは、イギリスの運河は大陸のように各地の大河川を結ぶ役割を持たず、そのため幅が狭いものが多くて近代の産業需要にまったく応えられないものがほとんどのためである。
ヨーロッパでは、絶対王政を確立し中央集権国家が登場し始めた17世紀頃から近代的な運河の開削が活発になった。
ベルギー、オランダ、ドイツ北部にかけての地域では貨物船も航行可能な長大な運河網をもち、現在も物流の一翼を担っている。また、国際河川であるライン川とドナウ川を運河で接続することで、ヨーロッパの北側の北海から南東側の黒海の間まで貨物船の航行を可能にしている。ライン川の河口に位置するオランダのロッテルダム港は世界一の貿易量を誇り、ドイツのルール地方にあるジュイスブルク港は内陸港としては最大規模の積み替え量を誇る。ヨーロッパの貨物輸送に利用される運河では、運河用に作られた1,350tクラスの専用船を使用する。
ロシアもまた、ヴォルガ川など大河に設置した人造湖や運河を結ぶことでカスピ海からバルト海、黒海までを結ぶ水網を有している。ロシアでは冬季に運河が凍結するため、1年のうちでも輸送可能な期間が限られている。
日本は、周りを海に囲まれており、時代の要請に合わせて海運が発達したため、川船のための運河を造るよりも河口の港同士を結ぶ海運航路が開発された。安土桃山時代にかけて治水能力が向上し、江戸時代にかけて、地方政権(藩)が各地に出来て資本集中と城下町建設(都市化)が発生したため、各地で河川改修や運河開削が行われ、川船流通が発達した。明治以降は、速く大量に物資を運ぶことが出来る鉄道が発達したため、近代的な運河は六大都市の大量物流に関わる部分や国際貿易港周辺に主に造られた。明治初期には河川水運を念頭において河川が整備され、それに伴い運河も整備されたが、明治中期以降は河川水運はほぼ放棄され、運河の重要性も低下した。それでも都市の沿岸部を中心に運河は命脈を保ち続けたが、昭和時代後期になると、トラック流通が発達したため、堀や運河を埋め立てて道路にする動きが活発化した。現在の街の幹線道路がかつての堀の跡だったところも多い。しかし21世紀に入ると、都市再開発の一環として運河周辺の環境整備を行い都市美観の向上や観光開発を図る動きが強まり、2008年には国土交通省が運河の魅力再発見プロジェクトを公募して運河再生への支援を実施した。
法的には、琵琶湖疏水が唯一運河法が適用される運河となっている。
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"text": "閘門(こうもん)とは、高低差のある水路を閘室と呼ばれる領域に仕切り、船を昇降させる装置のことである。閘室は、水路の前後に開閉可能な扉を有している。まず、その一方のみの扉を開けて船を閘室に導く。つぎにその扉を閉じ、他方の扉側の導水路の開閉によって水位を上昇または下降させる。そして、最後に他方の扉を開けることにより、高低差のある水路における船の行き来を可能にする。閘門はひとつの運河に1個だけとは限らず、むしろ高低差の激しい運河の場合、段階的に船の高度を上げていかねばならないためにいくつもの閘門が連続することが珍しくない。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "閘門としてよく知られているものはパナマ運河のものである。また中国には、13世紀にクビライによって築かれた通恵河がある。アメリカ合衆国とカナダの五大湖・セントローレンス川水系には、スーセントマリー運河やウェランド運河といった閘門式運河がある。日本では埼玉県さいたま市に同様の構造の見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)があり、これは日本最古の閘門とされる。また東京都内の小名木川にある扇橋閘門、茨城県稲敷市・千葉県香取市境の横利根閘門や三重県桑名市の長良川河口堰にも閘門がある。愛知県愛西市の船頭平閘門、富山県富山市の中島閘門は重要文化財に指定されている。名古屋市の松重閘門(現在稼動せず)は、東海道新幹線や東海道本線・名鉄名古屋本線(同線山王駅近く)からも見ることができる。関西では毛馬閘門(淀川)、尼崎閘門(尼崎港)が現役で稼動している。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "閘門の扉は左右に観音開きに開閉するマイターゲートと、扉が上下に動くローラーゲートがある。マイターゲートは、扉が左右に開くため上部に構造物が無く背の高い船を通せるものであり、パナマ運河などで使われている。これに対しローラーゲートは、扉の開閉の際に水圧の影響が少なく、多くの水門と同じ形状である。",
"title": "特徴"
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"text": "水位差のない運河の場合はさほど問題にならないことが多いが、高低差のある運河の場合、その運河に水を供給するために貯水池が建設されることが多い。これは、閘門の開閉の際に高地から低地に対して水が流出するため、その不足した水量を補うためである。世界最大の閘門式運河であるパナマ運河の場合、周囲の山岳地帯にアラフエラ湖(マッデン湖)などの貯水池が作られ、運河上のガトゥン湖に水を供給している。貯水池のほかに、下の運河からポンプなどで水をくみ上げて使用する運河も存在する。",
"title": "特徴"
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"text": "インクラインは鋼索鉄道の一種であり、水運に関しては船を台車に収納し、台車全体を斜面に沿って引き上げることで水位差を吸収する設備である。タイプとしては船を水から引き上げて台車に収納する方式と、船を水槽に入れ、水に浮かんだままの状態で台車に収納する方式である。水から引き上げる方式の方が古くから使われているが、技術の進歩により後者の方式が開発されるとそちらの利用の方が多くなった。日本では水から引き上げる方式のものが琵琶湖疏水の蹴上、伏見に設置されていたが廃止された。日本以外ではイギリス、アメリカを始めフランス、ベルギーなどに設置され、現在も使用されているものもある。",
"title": "特徴"
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"text": "船舶昇降機、シップリフト、運河エレベータと呼ばれることもある。インクラインからさらに進んで、船を水に浮かべた箱をエレベータのように垂直に昇降させることで水位差を吸収する。",
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"text": "古いものでは、1875年にイギリスの運河に建設されたアンダートンボートリフトや20世紀初頭にドイツのベルリン郊外に建設されたNiederfinowボートリフトがある。",
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"text": "近年のものでは、ベルギーのサントル運河(中央運河)に建設された ストレピ・ティウ・リフト(en)(2002年完成)がある。ストレピ・ティウ・リフトでは、高低差73mの運河に、1350tの船を収納し、水も含めると約8000tの重量を昇降させることができる巨大なリフトを2基備えている。これはユネスコの世界遺産にも登録されている一連の4つのボートリフトに代わり、高低差を一気に克服するものである。",
"title": "特徴"
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"text": "また、スコットランドのフォース・アンド・クライド運河(en)にあるファルカーク・ホイール(2002年完成)は、回転運動により船舶を昇降させる、全く新しい形式のボートリフトであり、その奇抜な形状から観光客を集めている。",
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"text": "勾配水路と可動式の水門を用いる方式として水斜面がある。",
"title": "特徴"
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"text": "エジプトでは紀元前2000年頃には地中海と紅海とを結ぶ運河建設が計画されていたとされ、紀元前480年頃それに代わるナイル川と紅海とを結ぶ運河が開かれることとなった。中国でも紀元前1000年頃から各地で小運河が開かれていたが、7世紀に隋が中国を統一すると積極的に運河を建設していくようになり、煬帝によって華北と江南を結ぶ大運河が完成するに至った。この運河は中国の南北を結びつけるまさしく大動脈となり、唐の繁栄の一因となるとともに、五代から宋にかけては黄河と大運河の結節点である開封に首都がおかれ、またこの運河の北端である北京に元代以降の歴代中国王朝の首都がおかれるようになるなど、中国の歴史を大きく変えた。",
"title": "歴史"
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"text": "ヨーロッパにおいては、12世紀ごろより北イタリアで運河が盛んに建設されるようになった。1378年にオランダで閘門が発明されたが、この時はいまだ片扉のものであった。14世紀中盤には北イタリアで閘室が登場し、17世紀中盤以降はドイツやフランスなどヨーロッパ大陸西部で盛んに運河が建設されるようになった。1681年にはフランス南西部を走るミディ運河が完成し、これによってフランスは国内のみで大西洋から地中海までを結ぶ大量輸送ルートの確保に成功した。",
"title": "歴史"
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"text": "このミディ運河を視察したブリッジウォーター公フランシス・エジャートンは、帰国後自領にあるワースリー炭鉱から工業都市マンチェスターまで通じる運河の建設を計画し、1761年にはこれを完成させる。このイギリス最初の近代運河であるブリッジウォーター運河は大成功をおさめ、マンチェスターの石炭価格が半額に下落したうえに経費が大幅に節約でき、ブリッジウォーター公に莫大な利益をもたらした。これを見た各地の領主や企業家は競って運河の建設に乗り出し、1760年代から1830年代にかけてはイギリスにおいて運河時代と呼ばれる一時代が現出した。とくに1790年代前半には「運河熱」と呼ばれる運河建設・投資ブームが巻き起こり、急速に運河の建設が進んだ。この運河網の発達は安定した大量輸送を各地で確保し、産業革命を推進する大きな力の一つとなったが、各運河は各地の企業家や貴族が思い思いに建設したために規格が統一されておらず、航行できる船のサイズがまちまちであるなど障害も多かった。このため、1825年に最初の蒸気機関車による鉄道が開通するとすぐに鉄道網がイギリス全国に張り巡らされるようになり、運河は急速に重要性を低下させていった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "アメリカにおいても運河建設が各地で進められる中、1825年にハドソン川とエリー湖を結ぶエリー運河が開通した。この運河は五大湖水系とニューヨークを直接結ぶものであり、これによって五大湖周辺の開発は一気に促進され、また運河の出口に当たるニューヨークは内陸部と外洋を結ぶ港湾都市として急速に成長し、現在の世界都市となる基盤を築いた。次いで1848年にはミシガン湖とミシシッピ川の支流であるイリノイ川を結ぶイリノイ・ミシガン運河が建設され、これによってミシシッピ川と五大湖が直接結ばれたほか、ミシシッピ河口のニューオーリンズから五大湖沿岸のシカゴを通って大西洋岸のニューヨークまで、外洋を通らずに航行できる内陸水路ルートが完成し、アメリカ内陸部の開発に大きな役割を果たした。しかしこれも、積み替えの手間や冬季の氷結などの弱点があり、鉄道の延伸とともに重要性は低下していった。",
"title": "歴史"
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"text": "ここまでの運河の発展は主に内陸運河であったが、19世紀中期に入ると技術の進歩により、大陸間の海運の障壁となっているスエズ地峡と中米地峡をバイパスする巨大運河の建設が構想されるようになっていった。1869年にはフランスのフェルディナン・ド・レセップスの手によってスエズ運河が開通し、これによってヨーロッパとアジア間の海運は劇的なまでに改善された。また、この運河を帆船で航行することは困難だったため、全盛期を迎えていた帆船はこの運河の開通以降急速に用いられなくなっていき、以後は汽船が完全に世界の海の主役となった。ついで中米地峡に運河が構想され、いくつかのルートが検討された結果パナマ地峡に運河が建設されることとなり、パナマ運河がアメリカの手によって1914年に開通した。これにより難所であったマゼラン海峡を大きく迂回せずともアメリカ大陸の東西の海運が可能になり、大西洋と太平洋間の航行が劇的に改善された。1959年には五大湖とケベックを結ぶセントローレンス海路が建設され、これによって世界工業の心臓部のひとつである五大湖沿岸まで直接外洋船が乗り入れることが可能になった。",
"title": "歴史"
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"text": "ヨーロッパにおける内陸運河は鉄道の登場によって衰退し主要な交通手段ではなくなったものの、ヨーロッパにおいてはライン川やドナウ川などの大河川による水運がさかんであり、こうした河川交通の補助や連結の役割を果たすものとして運河は命脈を保ち続けた。アメリカにおいても、ミシシッピ川や五大湖に連絡するものを中心にいくつかの運河が生き残った。こうした運河においては、鉄道やトラック輸送に比べて優位性のある、金属や鉱石・石油といった重量のあるものや危険物・廃棄物などが主に輸送されている。とくにヨーロッパ大陸にいてはピレネー山脈・アルプス山脈以北の大河川はほとんど運河によって接続されており、大西洋から北海やバルト海、黒海に至るまでいまだ河川・運河の水路網によって通航が可能である。こうした運河網を維持するため、ヨーロッパ各国は1961年に水路の、1992年に水路を航行する船舶の分類と基準策定を行い、標準積載重量を1350tと定めた。そのサイズの船が航行できるよう、運河の改良がこれ以後各地で進められた。一方、イギリスにおいてはかつて建設された運河のほとんどはレジャー・観光用となっており、物流用にはほとんど使用されていない。これは、イギリスの運河は大陸のように各地の大河川を結ぶ役割を持たず、そのため幅が狭いものが多くて近代の産業需要にまったく応えられないものがほとんどのためである。",
"title": "歴史"
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"text": "ヨーロッパでは、絶対王政を確立し中央集権国家が登場し始めた17世紀頃から近代的な運河の開削が活発になった。",
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"text": "ベルギー、オランダ、ドイツ北部にかけての地域では貨物船も航行可能な長大な運河網をもち、現在も物流の一翼を担っている。また、国際河川であるライン川とドナウ川を運河で接続することで、ヨーロッパの北側の北海から南東側の黒海の間まで貨物船の航行を可能にしている。ライン川の河口に位置するオランダのロッテルダム港は世界一の貿易量を誇り、ドイツのルール地方にあるジュイスブルク港は内陸港としては最大規模の積み替え量を誇る。ヨーロッパの貨物輸送に利用される運河では、運河用に作られた1,350tクラスの専用船を使用する。",
"title": "運河の例"
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"text": "ロシアもまた、ヴォルガ川など大河に設置した人造湖や運河を結ぶことでカスピ海からバルト海、黒海までを結ぶ水網を有している。ロシアでは冬季に運河が凍結するため、1年のうちでも輸送可能な期間が限られている。",
"title": "運河の例"
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"text": "日本は、周りを海に囲まれており、時代の要請に合わせて海運が発達したため、川船のための運河を造るよりも河口の港同士を結ぶ海運航路が開発された。安土桃山時代にかけて治水能力が向上し、江戸時代にかけて、地方政権(藩)が各地に出来て資本集中と城下町建設(都市化)が発生したため、各地で河川改修や運河開削が行われ、川船流通が発達した。明治以降は、速く大量に物資を運ぶことが出来る鉄道が発達したため、近代的な運河は六大都市の大量物流に関わる部分や国際貿易港周辺に主に造られた。明治初期には河川水運を念頭において河川が整備され、それに伴い運河も整備されたが、明治中期以降は河川水運はほぼ放棄され、運河の重要性も低下した。それでも都市の沿岸部を中心に運河は命脈を保ち続けたが、昭和時代後期になると、トラック流通が発達したため、堀や運河を埋め立てて道路にする動きが活発化した。現在の街の幹線道路がかつての堀の跡だったところも多い。しかし21世紀に入ると、都市再開発の一環として運河周辺の環境整備を行い都市美観の向上や観光開発を図る動きが強まり、2008年には国土交通省が運河の魅力再発見プロジェクトを公募して運河再生への支援を実施した。",
"title": "運河の例"
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{
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"text": "法的には、琵琶湖疏水が唯一運河法が適用される運河となっている。",
"title": "運河の例"
}
] |
運河(うんが)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬(らば)などが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。
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{{Otheruseslist|船舶の航行のための水路|中国の行政区|運河区|人工的に造られた水を流すための構造物全般|水路|カナール(canal)|水路|[[火星]]の地表に見られる溝|火星の運河}}
[[Image:Canals of Amsterdam 1.JPG|thumb|right|250px|アムステルダムの運河]]
[[Image:Moorings.on.the.somerset.coal.canal.arp.jpg|250px|thumb|right|イギリスのサマセット石炭運河]]
'''運河'''(うんが、{{lang-en|Canal}})とは、[[船舶]]の移動のために人工的に造られた[[水路]]であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を{{Ruby|[[騾馬]]|らば}}などが牽引したため、経路に沿って[[曳舟道]](トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。
== 概要 ==
=== 長距離運河 ===
運河には河川湖沼を連絡する'''内陸運河'''と海洋間あるいは海洋と内陸水路とを連絡する'''海路運河'''がある<ref name="jinbunchiri_p387">靑野寿郎・保柳睦美監修『人文地理事典』 p.387 1951年 古今書院</ref>。[[半島]]を横断する運河として[[キール運河]]、[[地峡]](陸の狭窄部)を横断する運河として[[スエズ運河]]や[[パナマ運河]]がある。海路運河のうち国際条約で原則として自由航行が認められている運河は[[国際運河]]と呼ばれる<ref name="jinbunchiri_p387"/><ref>「現代国際関係の基礎と課題」内第4章「国際関係の法制度」瀬川博義 p76 建帛社 平成11年4月15日初版発行</ref>。また、内陸運河には河川間を結び水路網を広げるものと、河川に並行して、または河川の[[通航]]困難な場所をバイパスを作り、既存の河川水運を改善するものの2つの種類が存在する<ref>「舟運都市 水辺からの都市再生」p182 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行</ref>。
また、海をつなぐものや内陸を走るもののほかに、海岸線に沿って走る沿岸運河も存在する。このような運河が建設されたのは、沿岸近くは風向きが変わりやすく海流や地形が複雑なうえ河口から流れ込む水流の影響もあり、船舶の航行が困難な海域であるため、そこを通らず内水面のみで沿岸域をつなぐためである<ref>『川を知る事典-日本の川・世界の川』p250 [[鈴木理生]] 日本実業出版社、2003年</ref>。こうした沿岸運河は、海岸[[砂州]]と陸地の間に広がっている細長い水域を利用して建設されることも多い。アメリカの[[メキシコ湾]]岸と[[大西洋]]岸には、[[海峡]]や[[湾]]などを運河でつなぎ、外洋に出ることなく沿岸部を航行することができる[[沿岸内水路]]がそれぞれ整備されている。[[マダガスカル]]東部の[[インド洋]]沿岸には、[[パンガラン運河]]と呼ばれる全長700㎞に及ぶ潟湖を利用した運河が続いており、輸送や観光に利用されている<ref>「目で見る世界の国々7 マダガスカル」M.M.ロジャース著 草野淳訳 1991年4月25日初版 国土社 p10</ref><ref>「朝倉世界地理講座 アフリカⅡ」池谷和信、佐藤廉也、武内進一編、朝倉書店、2008年4月 p804</ref>。
[[ヨーロッパ]]では各地に運河が張り巡らされており、大切な[[交通]]手段として利用されるとともに、人気のあるレジャーのひとつともなっている。運河をめぐるヨーロッパ各国の概況だが、[[フランス]]では運河を回るだけでほぼ一周することができるとされる。一方、[[イギリス]]にも多数の運河が存在するが、これらは[[産業革命]]時代に馬車に代わる大量輸送手段として盛んに建設された([[運河時代]])もので、陶器メーカーの[[ウェッジウッド]]が馬車輸送による陶器の破損を避けるために製品輸送用の運河を造った例などが有名である。イギリスの運河は幅の狭いものが多かったため、[[ナロウボート]]と呼ばれる独特の小さな船を多用した。現代史においては、[[ドイツ]]では東西に分裂していた時代、[[西ドイツ]]の航空機が[[東ドイツ]]領に囲まれた飛び地である[[西ベルリン]]に到達することが容易ではなかった状況などから、西側からの生活物資の大半が[[ハノーファー]]から運河で運ばれ、貴重な物流網を成していた。
=== 都市運河その他 ===
上記のような遠隔地間を結ぶ運河のほか、海岸や河川沿いに位置する都市の多くは市内に運河を建設しており、交通や物資輸送に大きな役割を果たしていた。網の目のように市内に運河を張り巡らせている都市も多く、なかでも[[ヴェネツィア]]や[[アムステルダム]]などは運河網がとくに発達していた。こうした都市運河は工業化の進展とともに鉄道や道路輸送にとってかわられることが多く、埋め立てられたり運河としての役目を終えたところが少なくないが、先述のヴェネツィアやアムステルダムなどいくつかの都市においては現在でもその運河網が現存し活用されている。日本においても江戸や大坂をはじめとして多くの都市に掘割などの運河網が張り巡らされていたが、明治以後陸上交通に重心が移行するに従い多くが埋め立てられた。
このほか、運河は[[干拓]]にも利用されることがある。[[オランダ]]においては[[11世紀]]ごろから[[泥炭地]]の干拓が進むが、これは泥炭地に排水路を張り巡らして水抜きを行い、残った水路はそのまま運河として輸送路や排水に利用するものだった。泥炭地のほか、海の干拓においても運河は重要な役割を果たし、排水用の[[風車]]と運河の組み合わされた光景はオランダの風物詩ともなっている。また、交通用のほかに灌漑などの[[用水]]としての機能など、別の機能も併せ持つものも近代以降多く作られ、これらを[[疎水]]と称することもある。
=== 運河と船型 ===
各運河は閘門の大きさや運河の幅、深さなどによってそれぞれ通行可能な船の最大サイズが違ってくる。特に重要な運河の場合、その運河を[[通航]]できるサイズがそのまま標準の船型となることがある。特に重要な運河通航による船型は3つあり、最も小さいものは[[カナダ]]の[[セントローレンス海路]]を通航できる[[シーウェイマックス]](全長226 m、幅24 m、喫水7.92 m)である。次に小さいものはパナマ運河を通航できる[[パナマックス]](全長366m、全幅49m、喫水15.2m、最大高57.91m)である<ref>http://www.hkd.mlit.go.jp/topics/qa/kohwan/ans5.htm 「よくある質問Q&A 港湾Q5 コンテナ船にはどのようなものがあるのですか。」 国土交通省北海道開発局 2015年7月10日閲覧</ref>。最大のものはスエズ運河を通航できる[[スエズマックス]]であり、喫水20m、幅50mまでとなる。また、スエズ運河には[[スエズ運河橋]]が存在するため高さも条件に入る。一方で、閘門がないため長さは条件とはならない。こうした制限は大型船舶が航行するうえでの障害となり、とくに運河のサイズの小さいセントローレンス海路やパナマ運河において深刻である。最も小さいセントローレンス海路においては世界中の洋上用船舶のわずか10%のみしか航行できないとされる。またパナマ運河においても超大型[[タンカー]]や、最大級の[[コンテナ船]]は航行できないが、この両船種は効率上の要請から近年大型化が著しく、パナマ運河を航行できない船舶は増加する一方となっている。これを受け、パナマ運河では拡張工事が行われることとなり、これが2016年4月に完成予定であったが、ストライキやコスト超過に関するトラブルの影響で何度か延期され、2016年6月26日に開通した。この拡張後には、パナマ運河を通航できる船舶の最大値は 約 5,000 TEU から 12,000 [[TEU]] となり、新パナマックスは以下の通りになった。
* 全長:366m(+72m)
* 全幅:49m(+17m)
* 喫水:15.2m(+3m)
* 最大高:57.91m(旧パナマックスと変わらず)
== 特徴 ==
=== 水位差の調整 ===
[[Image:Panama Canal Gatun Locks opening.jpg|thumb|right|250px|パナマ運河の閘門]]
運河には、標高差のない2点を結ぶ水平式運河と、標高差のある地点を結ぶ、あるいは途中で標高の高い地点を超える運河の2つの種類が存在する。標高に差のある地形に運河を建設する場合、水位の高低差を調整する仕組みが必要になる。この仕組みとして、[[閘門]]、[[インクライン]]、[[ボートリフト]]などがある。標高差を吸収する仕組みとして最も一般的なものは閘門であり、そのためこのタイプの運河のことを閘門式運河と呼ぶこともある。
水平式運河においては当然閘門は存在せず、閘門式運河に対してより簡易に船舶を航行させることができる。しかし水位に差をもたせずに高低差を吸収するため、運河橋により低地(低地にある他の運河を含む)の上を渡ったり、運河トンネルを掘って山地をくぐることもある。
運河が閘門式になるか水平式になるかは、建設の際にかかるコストによって異なってくる。全く高低差のない地形であれば当然水平式運河が採用されるが、高低差が存在する場合、山を切り開いて運河を開削したり、運河橋や運河トンネルなどを建設するには莫大な費用が掛かるため、それよりも閘門を連続させたり、水平に進めるところまで水平に建設しておいて船舶昇降機などで一気に高低差を吸収する方が総合的なコストが安く上がる場合があるからである。一方で、閘門を操作するコストは船舶が通行するごとにかかり、また当然ながら閘門の操作は船舶の航行の障害となるため、通行量の多い運河ほど水平式にしたほうが利点が大きくなる。この典型的な例がパナマ運河である。パナマ運河は[[フェルディナン・ド・レセップス]]による計画時には水平式運河であったが、当時の技術力では水平式運河を建設することができず、閘門式の運河となった。しかし通行量の増大によってパナマ運河の容量に限界が訪れたため、第二パナマ運河計画やニカラグア運河計画といった水平式の運河建設計画が次々と持ち上がった。しかし中米地峡の地形は水平式運河を建設するにはいまだ厳しく、結局パナマ政府は既存の閘門式運河を改良することとなった。
==== 閘門 ====
{{main|閘門}}
閘門(こうもん)とは、高低差のある水路を閘室と呼ばれる領域に仕切り、船を昇降させる装置のことである。閘室は、水路の前後に開閉可能な扉を有している。まず、その一方のみの扉を開けて船を閘室に導く。つぎにその扉を閉じ、他方の扉側の導水路の開閉によって水位を上昇または下降させる。そして、最後に他方の扉を開けることにより、高低差のある水路における船の行き来を可能にする。閘門はひとつの運河に1個だけとは限らず、むしろ高低差の激しい運河の場合、段階的に船の高度を上げていかねばならないためにいくつもの閘門が連続することが珍しくない。
閘門としてよく知られているものは[[パナマ運河]]のものである。また中国には、13世紀に[[クビライ]]によって築かれた[[通恵河]]がある。[[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]の[[五大湖]]・[[セントローレンス川]]水系には、[[スーセントマリー運河]]や[[ウェランド運河]]といった閘門式運河がある。日本では[[埼玉県]][[さいたま市]]に同様の構造の[[見沼通船堀]](みぬまつうせんぼり)があり、これは日本最古の閘門とされる。また[[東京都]]内の[[小名木川]]にある[[扇橋閘門]]、[[茨城県]][[稲敷市]]・[[千葉県]][[香取市]]境の[[横利根閘門]]や三重県桑名市の長良川河口堰にも閘門がある。[[愛知県]][[愛西市]]の[[船頭平閘門]]、[[富山県]][[富山市]]の[[中島閘門]]は[[重要文化財]]に指定されている。[[名古屋市]]の[[松重閘門]](現在稼動せず)は、[[東海道新幹線]]や[[東海道本線]]・[[名鉄名古屋本線]](同線[[山王駅 (愛知県)|山王駅]]近く)からも見ることができる。関西では毛馬閘門([[淀川]])、[[尼崎閘門]]([[尼崎西宮芦屋港|尼崎港]])が現役で稼動している。
閘門の扉は左右に観音開きに開閉する'''マイターゲート'''と、扉が上下に動く'''ローラーゲート'''がある。マイターゲートは、扉が左右に開くため上部に構造物が無く背の高い船を通せるものであり、パナマ運河などで使われている。これに対しローラーゲートは、扉の開閉の際に水圧の影響が少なく、多くの水門と同じ形状である。
=== 水の供給 ===
水位差のない運河の場合はさほど問題にならないことが多いが、高低差のある運河の場合、その運河に水を供給するために貯水池が建設されることが多い。これは、閘門の開閉の際に高地から低地に対して水が流出するため、その不足した水量を補うためである。世界最大の閘門式運河であるパナマ運河の場合、周囲の山岳地帯に[[アラフエラ湖]](マッデン湖)などの貯水池が作られ、運河上の[[ガトゥン湖]]に水を供給している<ref>[[国本伊代]]・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』p133 エリア・スタディーズ、[[明石書店]] 2004年</ref>。貯水池のほかに、下の運河から[[ポンプ]]などで水をくみ上げて使用する運河も存在する。
====ギャラリー====
<gallery caption="閘門での水位調整の例">
画像:Amagasaki-koumon-IMG 0798.jpg|尼崎閘門(円弧状の水門が左右に開く)
画像:Amagasaki-koumon-IMG 0804.jpg|尼崎閘門から外海へ出る船
画像:Suijyoubus-IMG 0907.jpg|毛馬閘門に入った[[大阪水上バス|アクアライナー]](淀川本流より手前の大川の方が水位が低い)
画像:Suijyou-bus IMG 0920.jpg|毛馬閘門で水位調整を終えて大川(旧淀川)に向かう
</gallery>
=== インクライン ===
[[Image:Biwako incline.jpg|thumb|right|250px|琵琶湖疏水における蹴上インクライン跡]]
[[Image:Arzviller plan incline 01.jpg|thumb|right|250px|フランス、Arzvillerインクライン]]
[[鋼索鉄道#インクライン|インクライン]]は[[鋼索鉄道]]の一種であり、水運に関しては船を台車に収納し、台車全体を斜面に沿って引き上げることで水位差を吸収する設備である。タイプとしては船を水から引き上げて台車に収納する方式と、船を水槽に入れ、水に浮かんだままの状態で台車に収納する方式である。水から引き上げる方式の方が古くから使われているが、技術の進歩により後者の方式が開発されるとそちらの利用の方が多くなった。日本では水から引き上げる方式のものが[[琵琶湖疏水]]の[[蹴上インクライン|蹴上]]、[[伏見]]に設置されていたが廃止された。日本以外ではイギリス、アメリカを始め[[フランス]]、[[ベルギー]]などに設置され、現在も使用されているものもある。
=== ボートリフト ===
[[Image:Strépy-Bracquegnies JPG03.jpg|thumb|right|250px|ベルギー、サントル運河のStrépy-Thieuボートリフト]]
[[Image:Falkirk half way round.jpg|thumbnail|right|250px|スコットランドの[[ファルカーク・ホイール]]]]
[[船舶昇降機]]、シップリフト、運河エレベータと呼ばれることもある。インクラインからさらに進んで、船を水に浮かべた箱をエレベータのように垂直に昇降させることで水位差を吸収する。
古いものでは、[[1875年]]にイギリスの運河に建設された[[アンダートン船舶昇降機|アンダートンボートリフト]]や[[20世紀]]初頭にドイツの[[ベルリン]]郊外に建設されたNiederfinowボートリフトがある。
近年のものでは、ベルギーのサントル運河(中央運河)に建設された ストレピ・ティウ・リフト([[:en:Strépy-Thieu boat lift|en]])([[2002年]]完成)がある。ストレピ・ティウ・リフトでは、高低差73mの運河に、1350tの船を収納し、水も含めると約8000tの重量を昇降させることができる巨大なリフトを2基備えている。これは[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]にも登録されている一連の[[ラ・ルヴィエールとル・ルーにあるサントル運河の4つのリフトとその周辺 (エノー州)|4つのボートリフト]]に代わり、高低差を一気に克服するものである。
また、[[スコットランド]]の[[フォース・アンド・クライド運河]]([[:en:Forth and Clyde Canal|en]])にある[[ファルカーク・ホイール]](2002年完成)<ref>「運河と閘門 水の道を支えたテクノロジー」p25 久保田稔・竹村公太郎・三浦裕二・江上和也編著 財団法人リバーフロント整備センター企画監修 日刊建設工業新聞社 2011年3月30日第1刷発行 </ref>は、回転運動により船舶を昇降させる、全く新しい形式のボートリフトであり、その奇抜な形状から観光客を集めている<ref>「舟運都市 水辺からの都市再生」p197 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行</ref>。
=== 水斜面 ===
勾配水路と可動式の水門を用いる方式として[[水斜面]]がある。
== 歴史 ==
=== 近代以前 ===
エジプトでは紀元前2000年頃には地中海と紅海とを結ぶ運河建設が計画されていたとされ、紀元前480年頃それに代わるナイル川と紅海とを結ぶ運河が開かれることとなった<ref name="jinbunchiri_p387"/>。中国でも紀元前1000年頃から各地で小運河が開かれていたが、7世紀に[[隋]]が中国を統一すると積極的に運河を建設していくようになり、[[煬帝]]によって華北と江南を結ぶ大運河が完成するに至った<ref name="jinbunchiri_p387"/>。この運河は中国の南北を結びつけるまさしく大動脈となり、唐の繁栄の一因となるとともに、五代から宋にかけては黄河と大運河の結節点である開封に首都がおかれ、またこの運河の北端である北京に元代以降の歴代中国王朝の首都がおかれるようになるなど、中国の歴史を大きく変えた。
ヨーロッパにおいては、12世紀ごろより北イタリアで運河が盛んに建設されるようになった。[[1378年]]にオランダで閘門が発明されたが、この時はいまだ片扉のものであった。14世紀中盤には北イタリアで閘室が登場し<ref>「舟運都市 水辺からの都市再生」p181 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行</ref>、17世紀中盤以降はドイツやフランスなどヨーロッパ大陸西部で盛んに運河が建設されるようになった。[[1681年]]にはフランス南西部を走る[[ミディ運河]]が完成し、これによってフランスは国内のみで大西洋から地中海までを結ぶ大量輸送ルートの確保に成功した<ref name="名前なし-20231105131221">「現代観光のダイナミズム 第2版」p83 米浪信男 同文舘出版 平成30年2月20日第2版発行</ref>。
=== 運河時代 ===
このミディ運河を視察した[[ブリッジウォーター公]][[フランシス・エジャートン (第3代ブリッジウォーター公爵)|フランシス・エジャートン]]は、帰国後自領にある[[ワースリー]]炭鉱から工業都市[[マンチェスター]]まで通じる運河の建設を計画し、[[1761年]]にはこれを完成させる<ref>「舟運都市 水辺からの都市再生」p184 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行</ref>。このイギリス最初の近代運河である[[ブリッジウォーター運河]]は大成功をおさめ、マンチェスターの石炭価格が半額に下落した<ref>『ジョージ王朝時代のイギリス』 ジョルジュ・ミノワ著 手塚リリ子・手塚喬介訳 白水社文庫クセジュ 2004年10月10日発行 p.81</ref>うえに経費が大幅に節約でき、ブリッジウォーター公に莫大な利益をもたらした。これを見た各地の領主や企業家は競って運河の建設に乗り出し、[[1760年代]]から[[1830年代]]にかけてはイギリスにおいて[[運河時代]]と呼ばれる一時代が現出した。とくに1790年代前半には「[[キャナル・マニア|運河熱]]」と呼ばれる運河建設・投資ブームが巻き起こり、急速に運河の建設が進んだ。この運河網の発達は安定した大量輸送を各地で確保し、[[産業革命]]を推進する大きな力の一つとなった<ref>「商業史」p172 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>が、各運河は各地の[[企業家]]や[[貴族]]が思い思いに建設したために規格が統一されておらず、航行できる船のサイズがまちまちであるなど障害も多かった。このため、[[1825年]]に最初の[[蒸気機関車]]による[[鉄道]]が開通するとすぐに鉄道網がイギリス全国に張り巡らされるようになり、運河は急速に重要性を低下させていった<ref>「商業史」p173 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷</ref>。
アメリカにおいても運河建設が各地で進められる中、[[1825年]]に[[ハドソン川]]と[[エリー湖]]を結ぶ[[エリー運河]]が開通した<ref>「アメリカとカナダの風土 日本的視点」p96 正井泰夫 二宮書店 平成7年4月1日第1刷</ref>。この運河は五大湖水系とニューヨークを直接結ぶものであり、これによって[[五大湖]]周辺の開発は一気に促進され、また運河の出口に当たる[[ニューヨーク]]は内陸部と外洋を結ぶ港湾都市として急速に成長し、現在の世界都市となる基盤を築いた。次いで[[1848年]]にはミシガン湖とミシシッピ川の支流であるイリノイ川を結ぶ[[イリノイ・ミシガン運河]]が建設され、これによってミシシッピ川と五大湖が直接結ばれたほか、ミシシッピ河口の[[ニューオーリンズ]]から五大湖沿岸のシカゴを通って大西洋岸のニューヨークまで、外洋を通らずに航行できる内陸水路ルートが完成し、アメリカ内陸部の開発に大きな役割を果たした。しかしこれも、積み替えの手間や冬季の氷結などの弱点があり、鉄道の延伸とともに重要性は低下していった<ref>「経営史」(経営学入門シリーズ)p101 安部悦生 日本経済新聞社 2002年12月9日1版1刷</ref>。
=== スエズ・パナマ運河の建設 ===
ここまでの運河の発展は主に内陸運河であったが、19世紀中期に入ると技術の進歩により、大陸間の海運の障壁となっている[[スエズ地峡]]と[[中米地峡]]をバイパスする巨大運河の建設が構想されるようになっていった。[[1869年]]にはフランスの[[フェルディナン・ド・レセップス]]の手によって[[スエズ運河]]が開通し、これによってヨーロッパとアジア間の海運は劇的なまでに改善された<ref>「産業革命歴史図鑑 100の発明と技術革新」p168-169 サイモン・フォーティー著 大山晶訳 原書房 2019年9月27日初版第1刷発行</ref>。また、この運河を[[帆船]]で航行することは困難だったため、全盛期を迎えていた帆船はこの運河の開通以降急速に用いられなくなっていき、以後は[[汽船]]が完全に世界の海の主役となった。ついで中米地峡に運河が構想され、いくつかのルートが検討された結果パナマ地峡に運河が建設されることとなり、[[パナマ運河]]がアメリカの手によって[[1914年]]に開通した。これにより難所であった[[マゼラン海峡]]を大きく迂回せずともアメリカ大陸の東西の海運が可能になり、大西洋と太平洋間の航行が劇的に改善された。[[1959年]]には五大湖と[[ケベック]]を結ぶ[[セントローレンス海路]]が建設され、これによって世界工業の心臓部のひとつである五大湖沿岸まで直接外洋船が乗り入れることが可能になった。
ヨーロッパにおける内陸運河は鉄道の登場によって衰退し主要な交通手段ではなくなったものの、ヨーロッパにおいては[[ライン川]]や[[ドナウ川]]などの大河川による水運がさかんであり、こうした河川交通の補助や連結の役割を果たすものとして運河は命脈を保ち続けた。アメリカにおいても、ミシシッピ川や五大湖に連絡するものを中心にいくつかの運河が生き残った。こうした運河においては、鉄道やトラック輸送に比べて優位性のある、金属や鉱石・石油といった重量のあるものや危険物・廃棄物などが主に輸送されている。とくにヨーロッパ大陸にいては[[ピレネー山脈]]・[[アルプス山脈]]以北の大河川はほとんど運河によって接続されており、大西洋から北海やバルト海、黒海に至るまでいまだ河川・運河の水路網によって通航が可能である。こうした運河網を維持するため、ヨーロッパ各国は1961年に水路の、1992年に水路を航行する船舶の分類と基準策定を行い、標準積載重量を1350tと定めた。そのサイズの船が航行できるよう、運河の改良がこれ以後各地で進められた<ref>「舟運都市 水辺からの都市再生」p191-192 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行</ref>。一方、イギリスにおいてはかつて建設された運河のほとんどはレジャー・観光用となっており、物流用にはほとんど使用されていない。これは、イギリスの運河は大陸のように各地の大河川を結ぶ役割を持たず、そのため幅が狭いものが多くて近代の産業需要にまったく応えられないものがほとんどのためである。
== 運河の例 ==
[[File:USS Bainbridge (CGN-25) underway in the Suez Canal on 27 February 1992.jpg|thumb|right|250px|スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦[[ベインブリッジ (原子力ミサイル巡洋艦)|ベインブリッジ]]]]
=== ヨーロッパ・ロシア ===
{{右|
[[Image:Mittellandkanal.JPG|thumb|none|250px|ミッテルラント運河]]
[[Image:Canal du midi toulouse.jpg|thumb|none|250px|ミディ運河 (フランス)]]
[[Image:Canalul Dunare Marea Neagra.jpg|thumb|none|250px|ドナウ黒海運河 (ルーマニア)]]
[[Image:Corinth Canal 2.jpg|thumb|none|250px|[[コリントス運河]] (ギリシア)]]
}}
ヨーロッパでは、[[絶対王政]]を確立し中央集権国家が登場し始めた[[17世紀]]頃から近代的な運河の開削が活発になった。
[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ドイツ]]北部にかけての地域では貨物船も航行可能な長大な運河網をもち、現在も物流の一翼を担っている。また、国際河川である[[ライン川]]と[[ドナウ川]]を運河で接続することで、ヨーロッパの北側の[[北海]]から南東側の[[黒海]]の間まで貨物船の航行を可能にしている<ref name="名前なし-20231105131221"/>。ライン川の河口に位置するオランダの[[ロッテルダム港]]は世界一の貿易量を誇り、ドイツのルール地方にある[[ジュイスブルク港]]は内陸港としては最大規模の積み替え量を誇る。ヨーロッパの貨物輸送に利用される運河では、運河用に作られた1,350tクラスの専用船を使用する。
[[ロシア]]もまた、[[ヴォルガ川]]など大河に設置した人造湖や運河を結ぶことで[[カスピ海]]から[[バルト海]]、[[黒海]]までを結ぶ水網を有している。ロシアでは冬季に運河が凍結するため、1年のうちでも輸送可能な期間が限られている。
; [[ミッテルラント運河]]、[[ドルトムント・エムス運河]]など
: ライン川下流域から東に伸び、[[ベルリン]]の東部、[[オーデル川]]まで接続する貨物船の航行可能な運河。この水網はさらに別の運河を通じて、航行可能な船舶は制限されるものの東は[[ポーランド]]の[[ワルシャワ]]や[[ウクライナ]]の[[キエフ]]、西はフランス北東部を経由して[[パリ]]まで通じている。古い時代の運河は貨物の運搬には使用できないが、その景観を活かして主に観光やレジャーに利用されている。
; [[ライン・マイン・ドナウ運河]]
: 北海に注ぐ[[ライン川]]と黒海に注ぐ[[ドナウ川]]の間を結ぶ、貨物船の航行が可能な運河。1992年開通<ref name="名前なし-20231105131221"/>。
; [[ドナウ・黒海運河]]
: [[ドナウ川]]の下流にある。ドナウ川は下流で大きく迂回するため、ショートカットするように運河が開削されている。
; [[コリントス運河]]
: [[ギリシア]]の[[ペロポネソス半島]]の根元を横断する運河。
; [[サイマー運河]]
: [[フィンランド]]の[[サイマー湖]]と[[フィンランド湾]]沿いの[[ヴィボルグ]](ロシア)を結ぶ運河である。旧来は[[ロシア帝国]]領であったが、[[1940年]]の[[モスクワ講和条約]]で[[カレリア地峡]]とヴィボルグが[[ソビエト連邦]]に割譲されたため、運河は分断され通航できなくなった。[[1963年]]にフィンランドが50年間租借する条約が結ばれ、[[2008年]]に年間の租借料を引き上げることを条件に、さらに50年間継続することで合意した。
; [[キール運河]]
: [[ユトランド半島]]の根元を横断する運河。
; [[白海・バルト海運河]]
: [[白海]]と[[バルト海]]を結ぶ運河。
; [[ヴォルガ・ドン運河]]
: [[黒海]]と[[カスピ海]]を結ぶ運河。
; [[ヴォルガ・バルト水路]]
; [[ドニエプル・ブク運河]] ([[ベラルーシ]])
=== アメリカ ===
==== 北アメリカ ====
; [[セントローレンス海路]] (The St. Lawrence Seaway)
: [[大西洋]]と[[五大湖]]を結ぶ。五大湖の途中には[[ナイアガラの滝]]を回避する[[ウェランド運河]]がある。この運河系は、大型の外洋船舶の航行が可能であるため「海路」といわれる。日本語訳には「海路」の他に「水路」も存在する。
; [[ニューヨークステートバージ運河]]([[エリー運河]])
: [[1825年]]開通。[[ニューヨーク州]]を東西に横断し、[[ハドソン川]]と[[エリー湖]]を結ぶ。この運河により、[[ニューヨーク]]市に河口があるハドソン川を遡上し、[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]([[州都]])から運河に乗り換えて[[エリー湖]]北東岸の[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]へと航行することが出来るようになり、ニューヨーク(大西洋)と五大湖が結ばれた。
; [[イリノイ・ミシガン運河]]
: [[1848年]]開通。[[イリノイ川]]と[[ミシシッピ川]]を結ぶ。[[シカゴ]]に河口があるイリノイ川を遡上し、運河に乗り換えてミシシッピ川に至ることが出来るようになったため、[[ニューオーリンズ]]([[メキシコ湾]])と五大湖が結ばれた。
==== 中央アメリカ ====
; [[ニカラグア運河]](計画中)
: 太平洋と大西洋を結ぶ運河として[[パナマ運河]]が運用されているが、パナマの北部のニカラグアでも運河の建設が計画されている。
=== アフリカ ===
;[[パンガラン運河]]
: [[マダガスカル]]にある。全長700km。
=== アジア ===
==== 中国 ====
; [[大運河]]
: [[隋]]の時代に完成した[[長江]]と[[黄河]]を結ぶ総延長約 2,500km の運河。水運による物流が活発になったことで、後には運河の中継地に首都を置く王朝も現れた。
; [[通恵河]]
: [[元 (王朝)|元]]の時代に[[クビライ]]によって築かれた、全長84kmに及ぶ閘門式運河。[[13世紀]]当時、草原の真っ只中にある湖にすぎなかった積水潭(せきすいたん)はこれによって海と結ばれ、元の首都である[[大都]]は国際的な貿易港へと発展した。
; [[三峡ダム]]
: [[長江]]流域に建設(2009年竣工)された[[ダム]]。運河ではないが、ダムには船舶を航行させるための閘門設備と、閘門とは別に大型のボートリフトを備え、閘門では 10,000t、ボートリフトでは3,000tまでの船舶が航行可能である。
==== 中央アジア ====
; [[カラクーム運河]]
: [[トルクメニスタン]]にある。[[カスピ海]]南岸から東へと伸びる。世界最長の運河。
=== トルコ ===
;{{仮リンク|イスタンブール運河|en|Istanbul Canal}}(計画中)
=== 日本 ===
日本は、周りを海に囲まれており、時代の要請に合わせて[[海運]]が発達したため、川船のための運河を造るよりも河口の港同士を結ぶ海運航路が開発された。[[安土桃山時代]]にかけて[[治水]]能力が向上し、[[江戸時代]]にかけて、地方政権([[藩]])が各地に出来て[[資本]]集中と[[城下町]]建設([[都市化]])が発生したため、各地で河川改修や運河開削が行われ、川船流通が発達した。明治以降は、速く大量に物資を運ぶことが出来る[[鉄道]]が発達したため、近代的な運河は[[六大都市]]の大量物流に関わる部分や[[国際貿易港]]周辺に主に造られた。明治初期には河川水運を念頭において河川が整備され、それに伴い運河も整備されたが、明治中期以降は河川水運はほぼ放棄され、運河の重要性も低下した。それでも都市の沿岸部を中心に運河は命脈を保ち続けたが、[[昭和時代]]後期になると、[[貨物自動車|トラック]]流通が発達したため、堀や運河を埋め立てて[[道路]]にする動きが活発化した。現在の街の幹線道路がかつての堀の跡だったところも多い。しかし21世紀に入ると、都市再開発の一環として運河周辺の環境整備を行い都市美観の向上や観光開発を図る動きが強まり、2008年には国土交通省が運河の魅力再発見プロジェクトを公募して運河再生への支援を実施した<ref>「現代観光のダイナミズム 第2版」p84-85 米浪信男 同文舘出版 平成30年2月20日第2版発行</ref>。
法的には、[[琵琶湖疏水]]が唯一[[運河法]]が適用される運河となっている。
{{Main|日本の運河一覧}}
==== 内陸水運 ====
{{右|[[画像:TakasegawaToSakura.JPG|thumb|none|250px|[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]([[京都市]])]]
[[画像:Ebisubashi -OSAKA-.jpg|thumb|none|250px|[[道頓堀]]([[大阪市]])]]}}
; [[琵琶湖疏水]] ([[滋賀県]]-[[京都府]])
: 水道用、発電用として作られたが水運としても利用された。[[1894年]]に全通。第一疏水と第二疏水で多少長さが異なるが、いずれも8km前後。
; [[高瀬川 (京都府)|高瀬川]](京都府)
: [[江戸時代]]初期の[[1614年]]に開通。京都の中心部と伏見を結ぶ約9.7km。
; [[道頓堀]] ([[大阪府]])
: 大阪の中心部の繁華街にある有名な堀。[[江戸時代]]初期の[[1615年]]に開通。木津川と東横堀川を結ぶ約2.5km。
==== 外洋からの荒波を避け、物流の安定と集中を目的とした運河 ====
{{右|[[画像:SendaiAirportBirdview.jpg|thumb|none|250px|[[貞山運河]](海岸線と平行する水路が貞山運河)]]}}
; [[貞山運河]]・東名運河・[[北上運河]] ([[宮城県]])
: [[野蒜築港]]の建設に合わせて開削、または既存の水路を改修してできた運河群である。[[北上川]]河口から[[松島湾]]を経て[[阿武隈川]]河口までの[[仙台湾]]沿いにあり、[[岩手県]]の北上川水系、[[仙台平野]]の全ての水系、[[福島県]][[中通り]]の阿武隈川水系など、多くの水系から川船のまま海船の拠点港に物流を集中させる目的で造られた。3つの運河を合わせた総延長は約49km<ref>[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/kasen/teizanunga-vision.html 運河群(貞山運河,東名運河,北上運河)の再生と復興について](宮城県)2018年6月12日閲覧</ref>。日本の運河の中では最も長い。
; [[利根川]]([[関宿町|関宿]]~[[鬼怒川]]合流点)([[千葉県]]・[[茨城県]])
: もともと利根川は東京湾に注いでいたが、関宿から東進して鬼怒川下流域と合流させるという事業が行われた([[利根川東遷事業]])。これは治水が主目的であったが、結果として東北東岸からの海運貨物を房総半島を回ることなく内陸水運にまわし、利根川を遡上して江戸川を下るというルートを開拓した。日本における初期の大規模運河事業のひとつであったとも言える。[[1654年]]の開通で、開削区間は約25km。
; [[利根運河]] ([[千葉県]])
: 利根川と江戸川を結ぶ水運用の運河で[[1890年]]の開通。[[東北地方]]からの物資を[[東京]]に運ぶ際、[[房総半島]]を短絡する目的で造られた。日本初の西洋式運河。全長は約8[[キロメートル|km]]。
==== 内陸の物資を港へ運ぶための運河 ====
{{右|[[画像:松重閘門 01.jpg|thumb|none|250px|[[中川運河]]の松重閘門([[名古屋市]])]]}}
; [[富岩運河]] ([[富山県]])
:河口より約3.1Km上流に、[[重要文化財]]指定され現在も運用中の[[中島閘門]]が、最上流部の[[富岩運河環水公園]]内(旧 [[泊地|船溜まり]])には、国の[[登録有形文化財]]に登録され運用可能な[[牛島閘門]]がある。
; [[中川運河]] ([[愛知県]])
; [[半田運河]] (愛知県)
; [[尼崎運河]] ([[兵庫県]])
; [[堀川 (北九州市)|堀川運河]] ([[福岡県]])
; [[堀川運河 (宮崎県)|堀川運河]] ([[宮崎県]])
==== 港の施設の一部。海船の係留地 ====
; [[小樽運河]] ([[北海道]])
; [[秋田運河]] ([[秋田県]])
: もとは[[雄物川]]。現在は秋田港の一部。
==== 海路(海船航路)の短絡路 ====
[[ファイル:Funakoshi Canal 02.JPG|thumb|250px|[[船越運河]]]]
; [[音戸の瀬戸]] ([[広島県]])
: [[平安時代]]末期に[[平清盛]]によって開削されたとの伝承がある。比較的古い時代の大規模な事業とされるが、人工で開削されたことの明確な物証はない。
; [[万関瀬戸]] ([[長崎県]])
: [[明治時代]]に[[大日本帝国海軍|旧海軍]]によって開削された。
; [[船越運河]] (愛媛県)
; [[琵琶湖運河]]・[[鷹架沼|陸奥湾運河]]
: 計画のみ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Canals}}
{{Commonscat|Canal locks|閘門}}
{{Commonscat|Boat lifts|ボートリフト}}
* [[連水陸路]] - 運河の代わりに船舶を移動させた陸路(道路、鉄道)
*[[日本の運河一覧]]
*[[イギリスの運河]]
*[[改正ライン川船舶航行法]]
*[[治水]]
*[[街道]]
*[[曳舟道]]
*[[閘門]]
*[[艀]]
*[[運河駅]] - 東武鉄道の駅
*[[水路]]
*[[地峡]]
*{{ill2|Gongoozler|en|Gongoozler}} - 運河ファン、運河を眺める人。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{運河}}
{{河川関連}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:うんか}}
[[Category:運河|*]]
[[Category:土木史]]
[[Category:水運]]
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津波
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津波(つなみ、英語: Tsunami)は、地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の自然環境の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。なお、津波(tsunami)は通常は地殻変動要因の現象を指し、気象要因の現象、特にプラウドマン共鳴により増幅された海洋長波は気象津波として区別する。
1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600 km、波高5 m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)。
津波という現象は、例えるならば大量の海水による洪水の様な現象 であり、気象など他の要因で生じる波とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に陸深くに浸入し、沿岸住民の水死や市街・村落の破壊など、種々の災害を発生させる。
20世紀後半以降 英語: "Tsunami" は、世界で広く一般にも使用される共通語になった。そもそも日本語における「津波」の語源(後述)は、沖で被害が出なくても津(=港)で大きな被害が出ることからきている。
津波は、沖合から海岸に近づき海底が浅くなるにつれて波高が高くなり、海岸線では沖合の数倍に達する。湾口で2 mのものが湾奥で5 m超になった事例もある。また海底が浅くなるにつれて波長は短くなるが、海岸線でも数百m - 数km程度ある。
上陸した津波は、依然として大きな水圧を伴った高速の波として数分から数十分の間押し寄せ続けたら(押し波)、今度は海水を沖へ引きずり続け(引き波)、しばらくしたら再び押し寄せて(押し波)、という具合に押し引きを繰り返し、やがて減衰していく。大きな津波は、陸上にある建物、物品、そして人間を押し流し、景色を一変させ甚大な被害をもたらすことがある。また大きな津波は海岸に続く河川を遡るほか、海上でも被害をもたらすことがある。
特にリアス式海岸の湾奥では狭く細長く深い湾が津波の威力を集積させる。また海に突き出た岬の先端では周囲からの回り込みの波が重なるため、他の海岸に比べて同じ津波でも被害が大きく、より小さな津波でも被害を受けることが知られている。
また海岸では、日本の三陸海岸の港町のように津波を防ぐために防潮堤、あるいは通常の波浪を防ぐなどの目的で堤防が築かれている海岸があり、これらは津波の被害を軽減する役割を果たす。一例として、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0を観測)に伴う津波は沿岸の広い範囲に甚大な被害をもたらしたが、岩手県下閉伊郡普代村の普代水門と太田名部防潮堤(ともに高さ15.5 m)や同県九戸郡洋野町の防潮堤(高さ12 m)は決壊せず、津波の影響を大幅に減衰させて集落進入を防いだ結果、軽微な被害にとどまっており、特に普代村においては被災民家および死者は発生しなかった。
その一方で、津波被害をカバー出来ず、人々が防潮堤があることで「楽観バイアス」がかかった結果、甚大な被害を出す事態もある。防潮堤の高さや強度が不足している場合のほか、津波を起こした地震で損壊したり地盤沈下により海面が上昇したりして、堤防の機能が弱まることがある。また防潮堤などにある水門は、人が駆けつけることができない場合や、停電の影響で閉められないことがある。こうした事例から、防潮堤による津波対策を再考する動きもある。
海底地形や海水の体積の短時間での変化、海水への衝撃波によって引き起こされる非常に長周期の波である。
海における津波の発生原因として、海底で接触し合っているプレート同士の弾性反発に起因する急激なずれ、つまり浅海底での地震が最も大きな割合を占める。このほか、海岸地域で起こる地滑り、海底火山の活動、海底地すべりなどの地質学的な要因があげられる。また、過去においては後述するように海洋への隕石の落下により引き起こされた事例も確認されている。
津波の原因として最も一般的なものは、海底地震すなわち震源地が海底である大地震であり、記録に残る津波の大部分はこれによるものである。
断層が活動して地震が発生した時に、海底にまで断層のずれが達して海底面が上下に変化すると非圧縮性流体である海水が上下に移動させられてその地形変化が海面に現われ水位の変動がうねりとなって周囲に広がっていき、津波となる。地震の揺れ(地震動、地震波)で生じる海震とは異なる。大地震においては、数十kmから時に1,000 kmを超える長さ、数十kmから数百kmの幅の範囲で、数十cmから数十mという規模で、数十秒から数分の間に、海底が一気に起きる。この体積変化のエネルギーは巨大で波長が非常に長いため、ほとんど失われることなく海水面の隆起や沈降に変換されて津波を生じる。
正断層による海底の沈降によっても、逆断層による隆起によっても津波は起こる。マグニチュード8級の地震では震源域の長さが100 km以上になる事もあり、それに伴う地形変化も広い面積になるので、広範囲の海水が動いて大規模な津波を起こす。ただし、後述の津波地震等の津波を巨大化させる別の原理があるため、地震の大きさ・揺れの大きさと津波の大きさは、必ずしも比例していないため防災上注意が必要である。津波という現象の発生には海底の地形が大きく変わる事が重要で、大地震による海底の断層とそれによる隆起や沈降は最も津波を起こしやすい現象といえる。ただし、海底の断層運動があっても、横ずれが卓越し隆起や沈降がなければ大きな津波は発生しない。原理は、入浴中に浴槽の下から上へ、突き上げるように湯を手で押し上げて見るのが理解し易い。押し上げられた湯は塊りとなって水面まで持ち上がってから周囲に広がるはずであり、これが巨大になったのが津波である。なお、津波を生じるためには震源がある程度浅くなければならず、震源が概ね100 kmより深いものでは津波は発生しないとされている。
地震津波は海溝付近で発生することが多い。海溝付近では数十年 - 数千年の間隔でマグニチュード7 - 9の海溝型地震が発生し、その際に現れる海底の大断層によって津波が発生する。20世紀後半以降、日本付近の海溝型地震は同じ地域でもその発生規模と間隔によって数種類あることが明らかになってきており、数十年間隔で海溝の中の特定の領域の1つで発生する地震(巨大地震)、数百年間隔で海溝の中の隣接した複数の領域で発生する地震(連動型巨大地震)のほか、津波堆積物による推定では数千年間隔で更に広範囲の隣接した領域で発生する地震(連動型超巨大地震)などがあると考えられている。後者ほど震源域が長いので、津波に襲われる地域は広くなる。また、これらの地震により引き起こされる特に大きな津波は、巨大津波と呼称される場合がある。日本付近では、千島海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、相模トラフ、南海トラフ、琉球海溝など太平洋側の全ての地域でこのタイプの津波が発生する可能性がある。
一方、逆断層型や正断層型の内陸地殻内地震(断層型地震、直下型地震)や海溝型ではないプレート境界型の地震が海底で発生した場合でも津波が発生する。日本海東縁変動帯に当たる北海道、東北地方、北陸地方の日本海側はプレート境界型地震、その他の地域では内陸地殻内地震による津波の発生の可能性がある。このタイプの津波も日本近海では過去何度も発生していて、日本海中部地震(1983年)や北海道南西沖地震(1993年)などがある。この他、これから沈み込む海洋プレート内で起こるアウターライズ地震でも津波が発生する可能性があり、プレート境界よりも沖合で地震が発生するため、地震動に比して大きな津波となる場合がある。昭和三陸地震(1933年)はこのタイプの地震であった。
なお、断層角が垂直に近い高角逆断層型の地震では下盤側で、正断層では上盤側でそれぞれ沈降が発生するため、その側に面した沿岸では引き波が第一波となることがある。津波を生じる地震は海溝型だけではなく、同じ沿岸でも地震によっては押し波となる場合もあるので、防災上は注意を要する。
地震津波の大きさを表現する指標の1つとして「津波マグニチュード Mt」というものがある。津波の規模は地震の規模に比例するという性質を利用して、複数の地点における津波の波高と震源からの距離から、マグニチュードで規模を算出する。
また、「ゆっくり地震」あるいは「津波地震」と呼ばれる、海底の変動の速さが遅い地震があることも知られている。これは、人が感じる短周期の成分では比較的小さな揺れ(地震動)しか発生しないため一見すると小規模の地震のようだが、長周期の成分が卓越しているだけであって、実は総エネルギーが大きな地震であり、海底面の変動も大規模であるため、予期せぬ大津波によって被害がもたらされる事がある。1896年(明治29年)の明治三陸沖地震津波がその例で、原因となった地震については震度分布から長らくマグニチュード 7.6、あるいは短周期の地震動の観測に基づいて表面波マグニチュード Ms 7.2 - 7.4 とされてきたが、その後津波マグニチュード Mt 8.2 - 8.6、あるいは津波の大きさを考慮してマグニチュード8 1/4に改められ、理科年表では2006年版以降この値が採用されるなど近年見直しがなされた。津波地震では前記の例の通り、表面波マグニチュードより津波マグニチュードの方が大きくなる。
津波地震となる要因にはいくつかあり、
などが挙げられる。1,2は長周期の津波、3,4,5は短周期の津波である。上記1.の要因により津波地震は、海溝付近のプレート境界のうち海溝軸に近い浅い部分を震源域とした地震で起こりやすい。1896年の明治三陸沖地震津波は上記1.によって津波地震になったと考えられている。また、2011年の東北地方太平洋沖地震津波は連動型地震であったため、地震発生初期にまずプレート境界浅部で上記1.の要因による津波を発生させたあと、プレート境界深部にも断層破壊が及んで強い地震動が発生したあと、再びプレート境界浅部で破壊が起こって津波が増幅したと考えられている。
地震津波は大規模で遠方まで伝わるため、地震を感じなかった地域でも津波に襲われる場合がある。これを遠隔地津波と言う。津波の到達まで時間があるので避難しやすく人的被害防止は容易であるが、情報の伝達体制が整っていないと不意討ちを受ける形になり、被害が大きくなる。後者には1960年のチリ地震津波の際のハワイや日本、2004年のスマトラ沖地震の時のインド洋沿岸諸国、東北地方太平洋沖地震におけるハワイやアメリカ合衆国西海岸などの例がある。
球形の地球表面では、発生した津波のエネルギーは地球の反対側の地点(対蹠点)に再び集中する。そのため、チリ沿岸で発生した津波は太平洋を挟んで反対側の日本に被害を及ぼしやすい性質がある。また同様の原理により太平洋の中心に位置しているかつ5,000 mの深海底に囲まれたハワイは、環太平洋各地からの津波を減衰しにくいまま受けるため、津波被害を受けやすい。
海洋だけで無く山間部でも同様に山体崩壊が起因でダム湖などの湖沼でも発生する。実際にイタリアのバイオントダムでは、地すべりにより100 mの津波が発生して2,000人以上が死亡している。また、岩手・宮城内陸地震では荒砥沢ダム上流部で山体崩壊を誘発し、津波が発生している。平成23年台風12号において、深層崩壊による山体崩壊が発生し、土砂が流れ込んだ河川で津波の性質を持つ段波が発生した。
反射・屈折・回折・干渉などの「波」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では孤立波、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「ソリトン」に分類される。
津波の物理的性質は風浪や、天文潮すなわち干潮・満潮等の規則的な潮汐とは異なっている。以下、津波の諸特性について述べる。
津波は周期や波長が長いという特徴がある。これは津波の波源域が広く、波長がその影響により決まるためである。一般に水面に見られる津波でない波は、風によりできた風浪である。その風浪の周期は長いものでも10秒程度、波長は通常は150 mくらいである。これに対し津波は、短い周期でも2分程度、長いものでは1時間以上にもなり、波長も100 kmを越す例もある。周期は超長周期地震動と重なる部分があり、潮汐よりは短い。このため、津波が内陸に押し寄せる際の水位の高まりは、あたかも海面自体が上昇したような状態になって、大きな水圧や流れによる破壊力が加わる。また津波が引く際にも、一旦高くなった海面が、沖の低くなった海面に向かって引いていく形になり、やはり大きな破壊力を見せ付ける。実際にもチリ津波では、函館の実例の水位差は押し波が2 m、引き波が3 mであり、引きが強かった。このような場合は押し波で破壊された物や元々は陸にあった物などが海に持ち去られる被害が大きくなる。
津波は通常複数回押し寄せ、10回以上に及ぶこともある。第2波、第3波などの後続波が最も大きくなる傾向があり、その後次第に小さくなっていく。また、第2波、第3波は1時間以上後に押し寄せてくる場合もあり、完全に津波が収まるまでに地震発生から数日を要する場合もある。
津波の高さを表す表現がいくつかある。
外洋では津波の波高は数十cmから2 mか3 m程度であり、波長は100 kmを越えるので、海面の時間変化は極めて小さい。津波が陸地に接近して水深が浅くなると速度が落ちて波長が短くなるため波高が大きくなる。ただし、通常は、単に水深が小さくなっただけでは極端に大きな波にはならない。リアス式海岸のような複雑に入り組んだ地形の所では、局地的に非常に高い波が起きる事がある。津波の波高は水深の4乗根と水路幅の2乗根に反比例するので、仮に水深160 m、幅900 mの湾口に高さ1 mの津波が押し寄せ、湾内の水深10 m、幅100 mの所に達した場合、波高は水深の減少で2倍、水路幅の減少で3倍になるため、総合すると波高は6 mになる。そのため、V字型に開いた湾の奥では大きな波高になりやすい。
津波の記録は一般に検潮儀で測定される。しかし、巨大津波そのものの波高を正確に測定する事は困難である。これまでの大津波の波高とされる記録は、実際には波の到達高度(遡上高)で示されている。遡上高は、陸に押し寄せた津波が海抜高度何mの高さまで達したかを示す値であるため、現場の調査によって正確に決定できる利点がある。V字型の湾など地形によっては、津波は、波高自体が高くなると共に非常に高い所にまで駆け上がることがしばしばある。つまり、津波の到達高度(遡上高)は実波高(海岸での平均海水面からの高さ)より高くなる場合が多い。日本において確実とされる津波の最大波高は1896年の明治三陸沖地震津波の際の38.2 mであるが、これはV字型の湾の奥にあった海抜38.2 mの峠を津波が乗り越えたという事実に基づく到達高度の値である(海岸での津波高ではない)。
1958年7月9日(現地時間)、アラスカの南端の太平洋岸にあるリツヤ湾 (Lituya bay) で岩石の崩落による津波が起き、最大到達高度は海抜524 m に達し、津波の波高の世界記録とされている。リツヤ湾は氷河の侵食によるフィヨルドで、幅3 km、奥行き11 km程の長方形に近い形で内陸に入り込んでいる。湾奥に左右に分かれた小さな入江があり、問題の津波はそのうちの北側の入江に発生したものである。波の発生を直接目撃した者はいないが、後の現地調査と模型実験により詳細が明らかにされている。地震により入江の片側のおよそ 40度の傾斜の斜面が崩壊、9,000万トンと推定される岩石が一塊になって海面に落ちたため、実高度150 m以上の水しぶきが上がり、対岸の斜面を水膜状になって駆け上がって524 mの高度に達したものである。その後、波は高さ15 mから30 mで湾奥から湾口に進み、太平洋に出ると共に急速に消滅した。以上のように、この波は津波と言うより水跳ねに近いもので、英文の報告書でも "giant wave" または "biggest splash" と表現されている。
なお、リツヤ湾では1853年か1854年に120 m、1936年に147 mの大波(いずれも到達高度)が起こったことも明らかになっている。これは、湾周囲の山林に植生する古い樹木を複数伐採して年輪を調べたところ、該当年の年輪の海側に、大きな外傷を受けた痕跡が残っていたことから判明したものである。
2011年12月5日アメリカ航空宇宙局は、人工衛星「ジェイソン1」の観測により、東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波が太平洋の海底山脈などによって方向を変え、震源地から何千kmも離れた海上で2つの波が融合した結果、より威力を持った津波となったことを初めて確認したと発表した。
陸上での浸水高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震の被災地での調査によると、浸水高が2 mを超えると木造家屋の構造破壊が発生し始め全壊率が急増するとともに建物全体の流失率が増え始め、さらに4 mを超えると木造家屋の多くが流失するという結果が出ている。
一方、津波警報等が対象とする、海岸での波高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震や2010年のチリ地震における日本の被災地での調査によると、
以上のような傾向が報告されている。
津波は陸地近くでは、海底や運河、河口近くの川の底にあった土砂や泥、有機物を含むヘドロを巻き上げ、混ざり合って押し寄せる。こうした「黒い津波」は海水のみより比重が大きいため、破壊力が増す。さらに津波を呑んでしまった人や津波が引いた後の乾燥した陸地で舞い上がる粉塵を吸った人に肺炎(津波肺)などの感染症を引き起こす。
津波は、水深が一定の海域で発生した場合には発生源を中心に同心円状に広がって行く。しかし、地震津波の場合、多くの地震が陸地近くの海域で起こるため、波のおよそ4分の3は海岸に向かい4分の1が外洋に向かう。たとえば1960年のチリ地震津波においては、南米チリ沖で生じた津波は最初は同心円を描いて伝播した。その後、チリの海岸線に対し垂直方向に進む波以外は次第に進路がチリの海岸向きに屈折した。結局、波の4分の3がチリ海岸に戻り、4分の1は太平洋を直進してハワイや日本に達したと考えられている。これは、大陸斜面を進む波は水深の大きい沖合で速度が速く、沿岸寄りでは遅くなるためである。実際、同じ環太平洋地域でありながら北アメリカ西岸やオセアニアなどでは目立った津波被害は起こっていない。津波は物理的にはいわゆる孤立波であり、海のソリトンとも呼ばれる。
津波の伝播する速度は水深と波高により決まる。大陸棚斜面から外洋に出ると水深は4,000 m前後でほとんど一定になり、また水深に比べて波高は問題にならないくらい小さいので、外洋での津波の速度は、重力加速度(9.8 m/sec。便宜的に10 m/sec として差し支えない)に水深を乗じた値の平方根にほぼ等しい。式で表すと次のようになる。dは水深(単位はm)、速度は秒速 (m/sec) で示される。
これを時速(km/hour)に直すには3.6倍すればよい。これにより、水深1,000 mで時速360 km、水深4,000 mで時速720 kmとなる。沿岸では水深が浅くなり、そのため津波の波高が増すので、上の式をそのまま適用すると不正確な値となるため、次の式を用いるのがよい。Hは水面上の波高である(単位はm)。
ここから、水深10 m、波高6 mの場合の津波の速さはおよそ時速46 kmとなる。なお、1960年チリ地震津波はチリから日本まで平均時速750 kmで、2011年の東日本大震災では岩手県宮古市重茂半島で平均時速115 kmで、沿岸まで到達している。
海水は良質な導体であることから地磁気の影響下で運動をすると、誘導電磁場が生じている。従って、常時流動している潮流でも発生しているが、津波の際には潮流で生じるのとは別な誘導電磁場が発生するため、この電磁場の観測を行うことで結果的に津波に伴う海水の変異が観測できる。また、電離層にも影響を与え、津波発生から数分後から1時間程度継続する「電離圏プラズマの減少(津波電離圏ホール)」が生じ、GPS-TEC(GPS受信点から衛星までの視線方向に対する電離圏全電子数)観測によって観測が行える。
津波による水の圧力は非常に大きく、沿岸の広い地域に被害を与える。人的被害は水深30 cmでも発生し、被害の程度は「波高」(浸水高)と「流速」が密接に関係している が、浸水深さが 2 m、4 m、8 m と深くなると被害の様相が大きく変化する事が報告されている。東北地方太平洋沖地震では、宮城県内で2 mを境に流失率が増大し6 mでの流失率は80%程度と報告されている。
例として、2 mの普通の波と津波との違いを比較する。2 mの普通の波は、海上で普段から偏西風や低気圧(気流)、月の引力などの影響を受けるため、少なからずデコボコが生じる。このデコボコの差が2 mあるだけで、波長や波を形成する水量は比較的少なく、海岸に達した所で沿岸地域に被害をもたらす事はそう多くはない。これに対し2 mの津波は、地震などによる海底の隆起または沈下により海水面自体が普段より2 m盛り上がり、それがそのまま海岸に向かって伝わっていく。言い換えれば、2 mの急激な海面上昇が起こることに近い。
つまり、2 mの普通の波は海岸に少量の海水をかける程度であるのに対して、2 mの津波は何kl(キロリットル)もの海水が一気に海岸地域を襲い、自動車や多くの人を簡単に飲み込み沖へ引きずり込んでしまう程の威力がある。2 mの「波」の水量は2(m)×波長数(m)×0.5×約0.5×海岸の距離(m)で、海岸1 mに押し寄せる波の水量は波長3 mとして1.5 m(=1500リットル)、ドラム缶数本分である。一方、2 mの「津波」の水量は2(m)×波長数十km(m)×0.5×0.5×海岸の距離(m)で、海岸1 mに押し寄せる津波の水量は波長10 kmとして5,000 m(=5,000キロリットル)、競泳用プール2つ分となる(体積の比較参照)。2003年に発生した十勝沖地震では、実際に2 mの津波に飲まれ死亡した人が確認されている。また、陸地に近づくと水流が建造物などを壊しながら内陸部へ進み、それらの瓦礫を巻き込むことによって破壊力を増す。更に、流氷や海氷などの漂流物を伴った場合に被害は増大する。
また津波が引いた後でも、損壊した住宅や市街地、工場、燃料タンクが炎上する津波火災、冷却機能を喪失した原子力発電所からの放射性物質漏れ(例:福島第一原子力発電所事故)といった二次被害が発生する。
人的被害では、津波の水は海底の砂や岩とともに微生物、有害物質などを巻き込んでいるので、津波に巻き込まれて助かった場合でも、骨折や打撲などの外傷だけでなく肺の中に微生物や油脂、砂・泥などを取り込んでしまう「津波肺」 の健康被害が発生することがある。
河口から河川に侵入した津波が数十km上流まで遡上することがある(地理的な要因次第だが、高さ1 mの津波でも5 kmは遡上すると言われる)。河川を遡上する津波は、伝播速度が速くなり、遡上距離が長くなる傾向にある。先端部の形態は砕波段波と波状段波の2種類がある。
1960年5月24日のチリ地震津波では、沖縄県石川市の石川川を遡上した津波が家屋の浸水などの被害をもたらした。2003年9月26日の十勝沖地震では、津波が波状段波を形成しながら北海道の十勝川を遡上する様子が自衛隊により撮影された。この時の津波は、河口から少なくとも11 km上流まで遡上したことが確認されている。2011年東北地方太平洋沖地震による津波は、関東地方でも利根川の40 kmを筆頭に、江戸川3 km、多摩川13 km、荒川28 kmなど、河口から遠い内陸部まで到達した。このことから、海に面していない埼玉県でも地震後、津波の被害に対応する地域防災計画の検討を始めるなどしている。
また、遡上する津波が高い場合は河川の堤防を決壊させて洪水を引き起こすことがある。2011年東北地方太平洋沖地震の津波では、青森県、岩手県、宮城県の計22河川が津波により同時に決壊するという未曽有の被害を生じた。北上川では、河口から49 km離れた旧中田町にまで津波が到達し、農地の大規模浸水が起こっているほか、名取川では仙台市太白区・若林区の、旧北上川や新北上川(追波川)では石巻市の市街地を濁流に呑み込み、甚大な被害を出した。特に石巻市立大川小学校では新北上川の堤防が高台であると考えて避難しようとしていたところ、川を遡上してきた津波が小学校を襲い、児童・教師らが多数死亡するという悲惨な出来事も起きている。津波の河川遡上という現象自体が一般にあまり知られていなかったため、津波の際に人々が海岸から離れることはあっても、河口付近以外で河川から遠ざかろうとすることは当時まれであった。
河川を遡上する津波と似たような物理現象として、潮津波がある。代表的なのは、南米アマゾン川のポロロッカ、中国の銭塘江などで起きる海嘯である。津波が河川に侵入するのを防ぐために、防潮水門などが設けられている川も多い。
海岸やその近く平野部は経済活動に便利なうえ、景観が良いため人口が集まる傾向が古来あり、その分、津波が襲来した場合は被害を受けやすい。このため津波への対策としては、「津波被害を受ける可能性がある地域を平時から予測する」「津波の襲来を早期に感知して避難する」「防潮堤などで津波の内陸侵入を極力防ぐ」「建物や道路・鉄道を普段からなるべく内陸や高台に移しておく」といった対策を組み合わせることが必要となる。
津波そのものや主な発生原因である海底地震については海洋学を中心とする地球物理学の面から、防潮堤や水門による対策については土木工学などの面から研究されてきた。日本ではこれらにより将来想定される津波被害を予測・対応するだけでなく、陸上の津波堆積物や津波石を調査したり、津波にまつわる古文書や大津浪記念碑を再評価したりする動きが、特に東日本大震災後においては盛んになっている。
またプールや水槽で津波に似せた水の動きを起こし、水流を受けた際の人の動きや建物への影響をシミュ―レートしたり、津波を疑似体験してもらい防災・減災の啓発に役立てたりする取り組みも行われている。
2017年11月には、津波防災を学際的に研究する「国際津波防災学会」が日本で設立された
水深の深い湾、次第に狭くなる湾や入り江の奥部、周囲を海に囲まれた岬の先端などでは、津波(到達高)が高くなる。湾では減速しながら海岸に接近した先行波に後続波が重なりやすいため。(湾口で波高2 mのものが湾奥で5 m超になった例がある)
潮が引く「引き波」から始まる時も、盛り上がる「押し波」から始まる時もある。これは発生様式によって「海底地形の変化」が異なるためである。浸水後の引き波は、次第に速度を増していき、流速は浸水時よりも早い場合がある。重力による落下が水の勢いを加速させるため。
第1波が一番高いとは限らず、数十時間にわたり数波の来襲がある場合もある。これは反射・屈折・干渉した波や余震で発生した別の津波によって不規則に波が重なることがあるため。
一般的に海岸近くでの津波への警戒・対応として、強弱に関わらず揺れを感じた場合、「できれば内陸深くへ、難しそうなら近くの高台、建物の上層部へ速やかに避難すること」が推奨される。日頃からの避難の心得として「津波てんでんこ」という標語もある。津波の襲来が目視できる前でも、海岸や河口付近の低地に留まることは危険である。
日本などの津波警報体制が整備されている地域では、地震後速やかに津波に関する情報が発表されることが期待されるので、防災担当機関は「津波警報」「津波注意報」などが発表されたら速やかに避難するよう呼びかけている。また、海水浴場等では、津波フラッグが提示される。日本では市町村が海岸の近くに「避難場所や避難経路を示す掲示」を行っている場合があるので、その場所へ避難すれば安全が確保されると考えられる。避難場所ごとに適した災害の種類が異なる場合があるので、津波の避難場所と明示されている所がより安全である。なお、津波の危険性がある居住地では、日頃より避難場所と経路を確認しておくことが、避難の迅速化が期待されるため推奨されている。また、平坦な場所で津波が近くに迫っている場合は緊急避難的に、一般に頑丈と考えられる鉄筋コンクリート造の3階建て以上のビルに避難し、3階以上に昇ると「ほぼ安全」(消防庁)としている。内陸や高台への避難が間に合わない場合に備えて、津波避難施設が日本各地の沿岸部に整備されている。
防災無線が伝わらない聴覚障害者や、スマホなどを所持しておらず津波情報が受け取れない海水浴場の遊泳者などのために、沿岸部における視覚的な伝達手段として津波フラッグが制定されている。
東北大学や国際航業、NECなどが2018年5月に設立を発表した新会社「RTi-cast」(本社・宮城県仙台市)は、津波警報や津波注意報が出るような地震が発生すると、スーパーコンピュータを使い30分以内に被害予測を算出し、通知する事業を行う。内閣府が南海トラフ巨大地震に備えて採用している。
沿岸部でも、地形や人の居住の有無によって、予想される津波被害は異なる。東日本大震災前から一部ではハザードマップが作られるなどしていたが、津波の高さの想定や周知は十分でなかった。東日本大震災が起きた2011年の年末、「津波防災地域づくり法」が制定され、翌年施行された。同法に基づき、建物の床面嵩上げなどが求められる津波災害の「特別警戒区域」のオレンジゾーンとして2018年3月27日、静岡県伊豆市の土肥(とい)地区の一部が全国で初めて指定された。津波ハザードマップの作成などが必要な「警戒区域」(イエローゾーン)は徳島県や山口県など7府県の83市町が指定されている。
ただ、地元がイメージ悪化を恐れて、津波の被害想定や対策が進まない傾向も指摘されている。特別警戒区域のうち、住宅の新改築を制限できるレッドゾーンは、2018年3月時点で指定例はない。
原則として地震による海底の上下変動が起きれば津波が発生する。しかし、しばしば津波に関する根拠の薄い情報が伝承された結果、人的被害が拡大した事例が数多く確認されている。地震後に津波警報が発表された場合、一刻も早く高台へ避難することが必要とされる。
飲料水・食料・医薬品などを積載しトイレを付属させた浮揚型のアルミ製の津波シェルターも開発されている。
海上の船舶は、津波警報等で接岸許可が出ず停泊して待機したり、船は横波に弱いので船首を沖へ向けたり、沖合での被害は波浪に比べても少ないので、沖合へ避難したり、接岸していた船舶が緊急に出港する事もある。東日本大震災でも、そのような漁船が引き波で海へ流された被災者の救助に活躍した。また、東日本大震災では、複数の船舶が陸に打ち揚げられ、建物の上に乗り上げたものもあった。
大規模な津波に襲われた地域・国家では先ず、被災者の救出・救援、行方不明者の捜索、犠牲者の死体収容、津波火災の消火といった応急対応を行う。次に、家を失った被災者の仮設住宅などの確保、津波により発生した大量の廃棄物(がれき)や破壊された建物残骸の撤去・処理などに取り組み、続いて被災地域の復興へ移る。
津波は再来する可能性があるため、防潮堤の新設・嵩上げによって将来の被害を防止・軽減を図ることのほか、復興では土地利用のあり方が問題となる。津波常襲地であった三陸地方では、昭和以前の津波の到達点などを示す災害記念碑や行政による看板が多く設置されていたが、東日本大震災ではそれより海に近い地域で多くの被害が出た。東日本大震災後では、津波再来のリスクが高い地域での建築制限、高台への市街・住宅地や道路・鉄道の移転などが行われている。また南海トラフ巨大地震による津波襲来が予測されている地域などでは、被害軽減や復興がしやすい地域づくりを目指す「事前復興」という対策も導入されつつある。
日本では、気象業務法により気象庁が津波の監視と警報の発表を行うことが規定されている。気象庁は、津波の原因となる地震活動を24時間体制で監視しており、地震が発生すると最速2分以内に津波に関する予報・警報(津波予報・津波注意報・津波警報・大津波警報)を発表し、テレビ・ラジオやインターネットなどで速報される。震源が遠くても規模の大きな地震など、震度が小さい地震の場合でも津波警報等が発表される場合もある。津波警報等の発表までの時間を短縮するために、地震計をより高性能のものに置き換える作業やケーブル式海底地震計の整備等が行われている。
こうした警報の支えとして、防災科学技術研究所が日本列島の太平洋側海底に観測機器ネットワークを設置している。東日本では日本海溝海底地震津波観測網(S-net)、東南海地震の想定震源域にはDONET1、南海地震の想定震源域ではDONET2である。また統計数理研究所や東京大学地震研究所、高知工科大学は津波に伴う海面隆起などを遠方から補足できる微気圧振動(インフラサウンド)を観測しており、日本気象協会が2017年夏に開設する専用ホームページをデータを公開する予定である。
気象庁は、1952年に津波警報業務を開始し、1982年には気象資料自動編集中継装置 (ADESS) の地震処理業務開始を利用した警報業務が行われた。その後システムは改良され、2006年には緊急地震速報と連携したシステムとなり、予め計算していた予測情報と観測した地震の震源位置や規模などの情報を合わせ警報が出されている。なお、平成25年3月には東北地方太平洋沖地震の経験を踏まえ、発表方法や表現を変更したシステムが運用されている。
気象庁においては、予想される津波の高さに合わせて、津波警報等は以下の2区分3種類が発表される。なお、報道では「大津波の津波警報」は気象庁の会見で用いられることがあるが、報道ではかえって分かりづらいと考えて“大津波警報”を俗称として使用していた。
津波は最初の第1波が最大とは限らず、数十分から1時間前後の間隔をおいて第2波、第3波と複数の後続波がやってくることがある。また、湾内では固有振動数で共鳴し増幅され大きな津波となって陸上に浸水する恐れがある。このため、津波警報・注意報が解除されるまでは警戒・注意が必要である。太平洋沿岸で発生する巨大地震による津波では、数千km彼方の対岸の陸地で反射した波が到達する。たとえば、1960年チリ地震では片道約22時間かかっているので、反射波は30時間から50時間も継続する。従って、東北地方太平洋沖地震の例では発生直後から全て解除されるまで51時間余に渡って発表され続けた)場合もある。
また、津波警報・注意報は、日本の沿岸を細かく区切った津波予報区にしたがって、地域を指定して発表される。
津波警報や津波注意報が発表された場合は、到達時刻や予想される津波の高さ、各地の満潮時刻、津波が到達した場合の観測波高などの「津波情報」が発表される。
2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、発生3分後に宮城県に6 m・岩手県および福島県に3 m、28分後に岩手県に6 m、44分後に東北から千葉県の太平洋沿岸に10 m以上の大津波警報をそれぞれ発表した。しかし速報値M7.9であったのが実際にはM9.0で津波の高さは10 m以上であった上、第1波が宮古に到達したのは地震15分後、大船渡で8 mの津波が観測されたのは34分後であったため、警報の遅れと誤差が被害を拡大したとされていた。M8以上の地震の規模と津波の高さを3分以内に判定することは不可能であることから、気象庁の検討会が2012年1月31日に新しい警報案を発表した。その中では、「大津波警報」という呼称を「津波警報(大津波)」と同義のものとして正式に位置づけ、同様に「津波警報」という呼称を「津波警報(津波)」と同義のものとするとした。新運用による警報業務は2013年3月7日12時から行われた。
M8を超える地震で津波が予想される場合
※警報や情報文中で基本的に用いられる呼称にて表記
緊急警報放送や緊急地震速報などの施行で現在は津波情報が充実しているが、津波警報が出ても避難をしない住民が多いことはかねてから問題になっており、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では津波教育がうまくいっていないことが浮き彫りになった。そのため、制度としての警報のみならず、受ける側も教育・啓蒙されることが必要とされている。
日本を含む太平洋地域では、1960年のチリ地震による津波で、日本を含む各国に被害が出たことをきっかけに、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が中心となって、太平洋津波警報組織国際調整グループ (ICG/PTWS) が設立された。現在、日本やアメリカ、中国、オーストラリア、チリ、ロシア、韓国など26の国と地域が加盟しており、沿岸各国で地震や津波が発生した場合、データがハワイにあるアメリカ国立海洋大気局の太平洋津波警報センター (Pacific Tsunami Warning Center, PTWC) に集められ、各国に津波の規模、到達推定時刻などの警報を発する仕組みがある。太平洋津波警報センターが発表する津波警報には、地域ごとに以下のものがある。
PTWCは、PTWS加盟各国に対し、2014年10月1日00UTCより、津波情報の形式や内容の改定を行うことをアナウンス している。具体的にどのような情報を加盟各国に報じるのかと言った詳細は、2014年9月までに改版(まだ軽微な記述更改が行われている)されるガイドブック に掲載されている。 変化するのは、PTWCが半ば強制力を持って警報や注意報を加盟各国にしていたところから、各国が判断するために必要な情報の支援に徹するという方向転換が図られた。これまで使用されている「Tsunami warning is in effect」、「Tsunami watch is in effect」といった、警報・注意報の文言が廃止され、どの程度の高さの津波が来襲するか、その地域を具体的に明示して告知するよう改められる。この文言に替わったからといって、自国の津波に関わる警報・注意報の更改を迫るものではない。加盟各国は出来うる範囲での改定は行うことを検討し、実効性のある改定作業を進めている。
PTWCが加盟各国に発信する津波情報(テキスト形式)は、次のような構成による。
インド洋についてはICG/IOTWS第9回総会において、BoM、INCOIS、BMKGによる情報発表が円滑に運用されていることが確認され、日本の気象庁及びPTWCに対し、2013年3月31日以降、情報提供を停止することが要請されたことを受け、インド洋地域の情報は、PTWCから情報は出ていない 。
インド洋では、2004年のスマトラ島沖地震を契機として、ユネスコが中心となって政府間調整グループICG/IOTWS を設立し、警報体制を構築した。インド洋では、
の3つが担当機関となり、国内および沿岸各国に対して警報を発表している。 2011年10月12日から正式な運用が始まった。しかし、2014年には設置された25基のブイのうち22基が破壊や盗難に遭い稼働していないため、津波予測が不可能な状態になっていることが報道された。
アメリカ西海岸・アラスカ津波警報センター (WCATWC) は、海岸の地形などを考慮してアメリカと周辺地域に11の区分を設けている。アメリカ本土49州、カナダ、プエルトリコ、アメリカ領ヴァージン諸島を管轄する。それぞれに2段階(地域によっては1段階または区分なし)のTIS(Tsunami Information Statement, 津波情報発表)、3段階(地域によっては1段階)のWarning(警報)の津波情報があり、合わせて1段階〜5段階の警報レベルがある。
大西洋のうちヨーロッパ諸国と北アフリカでも、2004年のスマトラ島沖地震を契機として、ユネスコが中心となって政府間調整グループICG/NEAMTWS を設立し、警報体制の構築を始めている。 2010年にRTWC(地域津波監視センター)をおき、
代替センターおよび、データ収集を行う
で行う。
カリブ海では従来よりPTWCが警報を発表し各国に通知する体制があったが、2004年のスマトラ島沖地震を受けて、同様にユネスコが中心となって政府間調整グループICG/CARIBE EWS を設立、独自の警報体制を構築する動きが模索されている。
巨大な津波は、海底の砂利(海砂)、大きな石や貝殻などを陸地に運び上げ沿岸低地にそれらを堆積させる。これらは津波堆積物と言われる。過去の地層に残された津波堆積物から、有史以前の巨大津波の存在が多くの研究によって明らかにされている。 例えばノルウェー沖では、紀元前6100年にストレッガスライドと呼ばれる巨大海底地すべりが起き、内陸80 kmまで達する津波があったことが解明されている。例えば日本では、北海道大学の平川一臣ら、および政府の地震調査委員会によって行われた宮城県気仙沼市大谷海岸の調査によると、過去6000年間に紀元前4-3世紀頃、4-5世紀頃、869年の貞観地震、15世紀頃、2011年の東北地方太平洋沖地震の5回、三陸から房総にかけて約600年周期で海溝型地震と津波が起こったとされる。
人間が文字による記録を残すようになって以来、大きな被害を出した津波が多数記録されている。古代ギリシアの歴史家トゥキディデスは、著書『戦史』で、紀元前426年に起きた地震についての記録を残している。その中でトゥキディデスは地震が津波を引き起こしていると推測しており、これは記録に残る限りでは最古の津波と地震の関係を述べた説だとされる。
1755年11月1日、イベリア半島沖においてリスボン地震が発生し、それに伴う津波によって約1万人が死亡し、大きな被害をもたらした。
中間とりまとめにて、南海トラフの巨大地震の最大ケースが従来の約3倍の規模であるMw9.0(暫定値)と発表した。想定震源域が約2倍に広がり、日本列島の広い範囲での被害のおそれが指摘されている。
インド洋大津波の発生により、巨大津波に関連する人工衛星を含む様々な観測データが集められたことから、コンピュータモデルによる予測モデルの検証が可能となった。米国海洋大気局のMOST (Methid of splitting tsunami) モデルや東北大学のTSUNAMI-N2などの計算手法が開発されている。津波シミュレーション技術は、津波予報やハザードマップ作りに活用されている。また日本には世界最大の2.5 mの人工津波を引き起こす事ができる、港湾空港技術研究所の大規模波動地盤総合水路があり、建造物への被害予測のデータ収集などが行われている。
潮位の観測は、沿岸の潮位計に加え、海底水圧計を用いた津波計も整備が進んでいる。従来は海底ケーブルを用いて信号が送られていたが、衛星へ信号を送れる海面ブイによって信号を送るタイプの津波監視計も開発されており、より設置が容易となってきている。
2011年5月12日、地震調査委員会の島崎邦彦は日本記者クラブの講演会で日本の沿岸各地に100年以内に襲来する津波の高さ、浸水域や発生確率を予測し発表すると述べた。従来からの大学や研究機関の予測成果に東日本大震災で分かった被害の知見を加え3年後から公表を始めるとしている。これにより沿岸自治体の防災計画や住民の防災意識向上につなげる。
物理的な対策として、平坦な場所では上記のような緊急避難場所となる3階以上の頑丈な建造物を設けたり、安全な高台における開けた避難場所の整備、避難場所への誘導標識を充実させることが挙げられる。「津波避難ビル等に係るガイドライン検討会」によって、津波避難ビル等を指定するための「津波避難ビル等に係るガイドライン」が公布されている。津波を工学的に防御する手段として、沿岸の集落では長大な防潮堤が築かれる場合がある。設計範囲内の津波では被害を大幅に抑えることが可能だが、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では岩手県釜石市や宮古市田老で設計高さ以上の津波により防潮堤が破壊され津波が侵入した例があり、防潮堤が津波の到達を遅らせた一方、防潮堤への過信から避難が遅れたとの見方がある。 また津波による被害が懸念される地域では、居住や土地用途を制限して被害を最小限に抑える手法もある。
日本における東北地方太平洋沖地震以前の津波想定は、襲来する津波の想定規模を既往最大(文献資料に残る)と同等としていた。だが地域・年代によっては大津波が正確に記録されて現代まで残されていなかったとみられるほか、津波堆積物の発掘調査や結果の周知も途上であった。このため東北地方太平洋沖地震による津波は「想定外の規模だった」と振り返る人が多く、十分な対応が出来なかった。この事例を踏まえ、2013年に発表された南海トラフ巨大地震の被害想定(第二次報告) では、明確な発生が確認されていない1000年に1回の巨大クラスの地震による津波による被害想定が行われ、最大規模の被害を前提とした防災施策の立案と実施検討が行われる事となった。
都市部では河川敷や河川沿いの低地に避難場所を設定している場合が多いが、避難場所を津波が襲うこともあり得る。大都市は大河川が作った平野にあるので、避難途中の人々が通る道を河川をさかのぼった津波が襲う可能性も指摘されている。
2011年には「津波防災地域づくりに関する法律」が制定された が、イメージ悪化や都市計画への支障を懸念する自治体が多いため、「津波災害特別警戒区域」の指定は全国的にほとんど進んでいない。
また平地が少ない三陸地方では、東日本大震災後も津波浸水想定区域や耐震性に問題がある多くの施設が避難先に指定されている。
「津波」の語は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶の被害は少ないにもかかわらず、港(津)では大きな被害をもたらすことに由来する。「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『駿府記』 で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である。なお、表記は「津波(浪)」の他に「海立」、「震汐」、「海嘯」と書く場合があり、これらすべて「つなみ」と訓む。
日本において、昭和初期までの古い記録で、津波のことを「海嘯」(かいしょう)と記していることもある。ただし「海嘯」という語には、高潮などを含むことがある(1902年の小田原大海嘯など)。
「海嘯」という漢語は本来、満ち潮が波となって河川を逆流する現象 (tidal bore) を指す言葉であり、中国の銭塘江で見られるものがよく知られている(なお、tidal bore に対して日本語では潮津波(しおつなみ)という表現がある)。
現代の中国語圏では、津波のことを一般的に「海嘯」(簡体字: 海啸; 拼音: hǎixiào)と呼ぶ(現代では銭塘江の逆流は「大潮」といった語を用いている)。ほかに「海溢」(古語)、「海漲」(台湾語)という表現もある。
朝鮮語では「海溢」(해일)という表現が用いられるが、この語は津波の他に tidal bore や高潮などを含んでいる。特に津波について区別する際には「地震海溢」(지진해일)が用いられる。日本語の「つなみ」をハングルに転写した「쓰나미」が使われる場合もある。
英語文献において、tsunami という語が使われた例は、現在のところ『ナショナルジオグラフィックマガジン』1896年9月号に掲載された明治三陸地震津波を報じるエリザ・シドモア執筆の記事 "The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan" が最古とされている。
しかし、一般的に tsunami の初出作品として知られているのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1897年(明治30年)に出版した著作集『仏の畠の落ち穂』(Gleaming in Budda-Fields) の中に収録された「生神様」(A Living God) である。濱口梧陵をモデルにした「生神様」では、地震後に沿岸の村を飲み込んだ巨大な波を "tsunami" と現地語の日本語で表現した。
その後、1904年の地震学の学会報告にはじまり、地震・気象の学術論文等に限られていた。元々英語圏では "tidal wave" という語が使われてきたが、この語は本来潮汐 (tide) による波を指し、地震による波にこの語を使うのは学問的にふさわしくないとされ、現在では tsunami が用いられる。研究者の間では "seismic sea wave"(「地震性海洋波」)という語が使われることもあったが、あまり一般的ではなかった。1946年、アリューシャン地震でハワイ諸島に津波の大被害があった際、日系移民が "tsunami" という語を用いたことから、ハワイでこの語が使われるようになり、被害を受けて設置された太平洋津波警報センターの名称も1949年には Pacific Tsunami Warning Center とされたことから、アメリカ合衆国ではこの語が広く用いられるようになり、その後、1968年にアメリカの海洋学者ウィリアム・G・ヴァン・ドーン (William G. Van Dorn) が学術用語として使うことを提案し、国際語化した。
「ツナミ」は学術用語として広く国際語になっていたが、スマトラ沖地震による津波が激甚な被害をもたらしたことが世界中に報道されたことを契機に、一気に各国の言語で一般語になった。
津波は浅い海底や陸地の沿岸部、川の河口近くを激しく搔き乱すため、生態系に大きな影響を与える。東日本大震災では沿岸の生物やその幼生、卵、胞子などが漂流物に付着して流され、本来は生息しない北アメリカ大陸などに辿り着いて繁殖し、問題になっている。
日本国外では、伊藤みどりや小林尊のように並外れた能力を持つ日本人に "TSUNAMI" とニックネームを付けることがある。
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"text": "津波(つなみ、英語: Tsunami)は、地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の自然環境の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。なお、津波(tsunami)は通常は地殻変動要因の現象を指し、気象要因の現象、特にプラウドマン共鳴により増幅された海洋長波は気象津波として区別する。",
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"text": "1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600 km、波高5 m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)。",
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"text": "津波という現象は、例えるならば大量の海水による洪水の様な現象 であり、気象など他の要因で生じる波とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に陸深くに浸入し、沿岸住民の水死や市街・村落の破壊など、種々の災害を発生させる。",
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"text": "20世紀後半以降 英語: \"Tsunami\" は、世界で広く一般にも使用される共通語になった。そもそも日本語における「津波」の語源(後述)は、沖で被害が出なくても津(=港)で大きな被害が出ることからきている。",
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"text": "津波は、沖合から海岸に近づき海底が浅くなるにつれて波高が高くなり、海岸線では沖合の数倍に達する。湾口で2 mのものが湾奥で5 m超になった事例もある。また海底が浅くなるにつれて波長は短くなるが、海岸線でも数百m - 数km程度ある。",
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"text": "上陸した津波は、依然として大きな水圧を伴った高速の波として数分から数十分の間押し寄せ続けたら(押し波)、今度は海水を沖へ引きずり続け(引き波)、しばらくしたら再び押し寄せて(押し波)、という具合に押し引きを繰り返し、やがて減衰していく。大きな津波は、陸上にある建物、物品、そして人間を押し流し、景色を一変させ甚大な被害をもたらすことがある。また大きな津波は海岸に続く河川を遡るほか、海上でも被害をもたらすことがある。",
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"text": "特にリアス式海岸の湾奥では狭く細長く深い湾が津波の威力を集積させる。また海に突き出た岬の先端では周囲からの回り込みの波が重なるため、他の海岸に比べて同じ津波でも被害が大きく、より小さな津波でも被害を受けることが知られている。",
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"text": "また海岸では、日本の三陸海岸の港町のように津波を防ぐために防潮堤、あるいは通常の波浪を防ぐなどの目的で堤防が築かれている海岸があり、これらは津波の被害を軽減する役割を果たす。一例として、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0を観測)に伴う津波は沿岸の広い範囲に甚大な被害をもたらしたが、岩手県下閉伊郡普代村の普代水門と太田名部防潮堤(ともに高さ15.5 m)や同県九戸郡洋野町の防潮堤(高さ12 m)は決壊せず、津波の影響を大幅に減衰させて集落進入を防いだ結果、軽微な被害にとどまっており、特に普代村においては被災民家および死者は発生しなかった。",
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"text": "その一方で、津波被害をカバー出来ず、人々が防潮堤があることで「楽観バイアス」がかかった結果、甚大な被害を出す事態もある。防潮堤の高さや強度が不足している場合のほか、津波を起こした地震で損壊したり地盤沈下により海面が上昇したりして、堤防の機能が弱まることがある。また防潮堤などにある水門は、人が駆けつけることができない場合や、停電の影響で閉められないことがある。こうした事例から、防潮堤による津波対策を再考する動きもある。",
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"text": "海底地形や海水の体積の短時間での変化、海水への衝撃波によって引き起こされる非常に長周期の波である。",
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"text": "海における津波の発生原因として、海底で接触し合っているプレート同士の弾性反発に起因する急激なずれ、つまり浅海底での地震が最も大きな割合を占める。このほか、海岸地域で起こる地滑り、海底火山の活動、海底地すべりなどの地質学的な要因があげられる。また、過去においては後述するように海洋への隕石の落下により引き起こされた事例も確認されている。",
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"text": "津波の原因として最も一般的なものは、海底地震すなわち震源地が海底である大地震であり、記録に残る津波の大部分はこれによるものである。",
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"text": "断層が活動して地震が発生した時に、海底にまで断層のずれが達して海底面が上下に変化すると非圧縮性流体である海水が上下に移動させられてその地形変化が海面に現われ水位の変動がうねりとなって周囲に広がっていき、津波となる。地震の揺れ(地震動、地震波)で生じる海震とは異なる。大地震においては、数十kmから時に1,000 kmを超える長さ、数十kmから数百kmの幅の範囲で、数十cmから数十mという規模で、数十秒から数分の間に、海底が一気に起きる。この体積変化のエネルギーは巨大で波長が非常に長いため、ほとんど失われることなく海水面の隆起や沈降に変換されて津波を生じる。",
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"text": "正断層による海底の沈降によっても、逆断層による隆起によっても津波は起こる。マグニチュード8級の地震では震源域の長さが100 km以上になる事もあり、それに伴う地形変化も広い面積になるので、広範囲の海水が動いて大規模な津波を起こす。ただし、後述の津波地震等の津波を巨大化させる別の原理があるため、地震の大きさ・揺れの大きさと津波の大きさは、必ずしも比例していないため防災上注意が必要である。津波という現象の発生には海底の地形が大きく変わる事が重要で、大地震による海底の断層とそれによる隆起や沈降は最も津波を起こしやすい現象といえる。ただし、海底の断層運動があっても、横ずれが卓越し隆起や沈降がなければ大きな津波は発生しない。原理は、入浴中に浴槽の下から上へ、突き上げるように湯を手で押し上げて見るのが理解し易い。押し上げられた湯は塊りとなって水面まで持ち上がってから周囲に広がるはずであり、これが巨大になったのが津波である。なお、津波を生じるためには震源がある程度浅くなければならず、震源が概ね100 kmより深いものでは津波は発生しないとされている。",
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"text": "地震津波は海溝付近で発生することが多い。海溝付近では数十年 - 数千年の間隔でマグニチュード7 - 9の海溝型地震が発生し、その際に現れる海底の大断層によって津波が発生する。20世紀後半以降、日本付近の海溝型地震は同じ地域でもその発生規模と間隔によって数種類あることが明らかになってきており、数十年間隔で海溝の中の特定の領域の1つで発生する地震(巨大地震)、数百年間隔で海溝の中の隣接した複数の領域で発生する地震(連動型巨大地震)のほか、津波堆積物による推定では数千年間隔で更に広範囲の隣接した領域で発生する地震(連動型超巨大地震)などがあると考えられている。後者ほど震源域が長いので、津波に襲われる地域は広くなる。また、これらの地震により引き起こされる特に大きな津波は、巨大津波と呼称される場合がある。日本付近では、千島海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、相模トラフ、南海トラフ、琉球海溝など太平洋側の全ての地域でこのタイプの津波が発生する可能性がある。",
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"text": "一方、逆断層型や正断層型の内陸地殻内地震(断層型地震、直下型地震)や海溝型ではないプレート境界型の地震が海底で発生した場合でも津波が発生する。日本海東縁変動帯に当たる北海道、東北地方、北陸地方の日本海側はプレート境界型地震、その他の地域では内陸地殻内地震による津波の発生の可能性がある。このタイプの津波も日本近海では過去何度も発生していて、日本海中部地震(1983年)や北海道南西沖地震(1993年)などがある。この他、これから沈み込む海洋プレート内で起こるアウターライズ地震でも津波が発生する可能性があり、プレート境界よりも沖合で地震が発生するため、地震動に比して大きな津波となる場合がある。昭和三陸地震(1933年)はこのタイプの地震であった。",
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"text": "なお、断層角が垂直に近い高角逆断層型の地震では下盤側で、正断層では上盤側でそれぞれ沈降が発生するため、その側に面した沿岸では引き波が第一波となることがある。津波を生じる地震は海溝型だけではなく、同じ沿岸でも地震によっては押し波となる場合もあるので、防災上は注意を要する。",
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"text": "地震津波の大きさを表現する指標の1つとして「津波マグニチュード Mt」というものがある。津波の規模は地震の規模に比例するという性質を利用して、複数の地点における津波の波高と震源からの距離から、マグニチュードで規模を算出する。",
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"text": "また、「ゆっくり地震」あるいは「津波地震」と呼ばれる、海底の変動の速さが遅い地震があることも知られている。これは、人が感じる短周期の成分では比較的小さな揺れ(地震動)しか発生しないため一見すると小規模の地震のようだが、長周期の成分が卓越しているだけであって、実は総エネルギーが大きな地震であり、海底面の変動も大規模であるため、予期せぬ大津波によって被害がもたらされる事がある。1896年(明治29年)の明治三陸沖地震津波がその例で、原因となった地震については震度分布から長らくマグニチュード 7.6、あるいは短周期の地震動の観測に基づいて表面波マグニチュード Ms 7.2 - 7.4 とされてきたが、その後津波マグニチュード Mt 8.2 - 8.6、あるいは津波の大きさを考慮してマグニチュード8 1/4に改められ、理科年表では2006年版以降この値が採用されるなど近年見直しがなされた。津波地震では前記の例の通り、表面波マグニチュードより津波マグニチュードの方が大きくなる。",
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"text": "津波地震となる要因にはいくつかあり、",
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"text": "などが挙げられる。1,2は長周期の津波、3,4,5は短周期の津波である。上記1.の要因により津波地震は、海溝付近のプレート境界のうち海溝軸に近い浅い部分を震源域とした地震で起こりやすい。1896年の明治三陸沖地震津波は上記1.によって津波地震になったと考えられている。また、2011年の東北地方太平洋沖地震津波は連動型地震であったため、地震発生初期にまずプレート境界浅部で上記1.の要因による津波を発生させたあと、プレート境界深部にも断層破壊が及んで強い地震動が発生したあと、再びプレート境界浅部で破壊が起こって津波が増幅したと考えられている。",
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"text": "地震津波は大規模で遠方まで伝わるため、地震を感じなかった地域でも津波に襲われる場合がある。これを遠隔地津波と言う。津波の到達まで時間があるので避難しやすく人的被害防止は容易であるが、情報の伝達体制が整っていないと不意討ちを受ける形になり、被害が大きくなる。後者には1960年のチリ地震津波の際のハワイや日本、2004年のスマトラ沖地震の時のインド洋沿岸諸国、東北地方太平洋沖地震におけるハワイやアメリカ合衆国西海岸などの例がある。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "球形の地球表面では、発生した津波のエネルギーは地球の反対側の地点(対蹠点)に再び集中する。そのため、チリ沿岸で発生した津波は太平洋を挟んで反対側の日本に被害を及ぼしやすい性質がある。また同様の原理により太平洋の中心に位置しているかつ5,000 mの深海底に囲まれたハワイは、環太平洋各地からの津波を減衰しにくいまま受けるため、津波被害を受けやすい。",
"title": "津波をもたらす原因"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "海洋だけで無く山間部でも同様に山体崩壊が起因でダム湖などの湖沼でも発生する。実際にイタリアのバイオントダムでは、地すべりにより100 mの津波が発生して2,000人以上が死亡している。また、岩手・宮城内陸地震では荒砥沢ダム上流部で山体崩壊を誘発し、津波が発生している。平成23年台風12号において、深層崩壊による山体崩壊が発生し、土砂が流れ込んだ河川で津波の性質を持つ段波が発生した。",
"title": "津波をもたらす原因"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "反射・屈折・回折・干渉などの「波」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では孤立波、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「ソリトン」に分類される。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "津波の物理的性質は風浪や、天文潮すなわち干潮・満潮等の規則的な潮汐とは異なっている。以下、津波の諸特性について述べる。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "津波は周期や波長が長いという特徴がある。これは津波の波源域が広く、波長がその影響により決まるためである。一般に水面に見られる津波でない波は、風によりできた風浪である。その風浪の周期は長いものでも10秒程度、波長は通常は150 mくらいである。これに対し津波は、短い周期でも2分程度、長いものでは1時間以上にもなり、波長も100 kmを越す例もある。周期は超長周期地震動と重なる部分があり、潮汐よりは短い。このため、津波が内陸に押し寄せる際の水位の高まりは、あたかも海面自体が上昇したような状態になって、大きな水圧や流れによる破壊力が加わる。また津波が引く際にも、一旦高くなった海面が、沖の低くなった海面に向かって引いていく形になり、やはり大きな破壊力を見せ付ける。実際にもチリ津波では、函館の実例の水位差は押し波が2 m、引き波が3 mであり、引きが強かった。このような場合は押し波で破壊された物や元々は陸にあった物などが海に持ち去られる被害が大きくなる。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "津波は通常複数回押し寄せ、10回以上に及ぶこともある。第2波、第3波などの後続波が最も大きくなる傾向があり、その後次第に小さくなっていく。また、第2波、第3波は1時間以上後に押し寄せてくる場合もあり、完全に津波が収まるまでに地震発生から数日を要する場合もある。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "津波の高さを表す表現がいくつかある。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "外洋では津波の波高は数十cmから2 mか3 m程度であり、波長は100 kmを越えるので、海面の時間変化は極めて小さい。津波が陸地に接近して水深が浅くなると速度が落ちて波長が短くなるため波高が大きくなる。ただし、通常は、単に水深が小さくなっただけでは極端に大きな波にはならない。リアス式海岸のような複雑に入り組んだ地形の所では、局地的に非常に高い波が起きる事がある。津波の波高は水深の4乗根と水路幅の2乗根に反比例するので、仮に水深160 m、幅900 mの湾口に高さ1 mの津波が押し寄せ、湾内の水深10 m、幅100 mの所に達した場合、波高は水深の減少で2倍、水路幅の減少で3倍になるため、総合すると波高は6 mになる。そのため、V字型に開いた湾の奥では大きな波高になりやすい。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "津波の記録は一般に検潮儀で測定される。しかし、巨大津波そのものの波高を正確に測定する事は困難である。これまでの大津波の波高とされる記録は、実際には波の到達高度(遡上高)で示されている。遡上高は、陸に押し寄せた津波が海抜高度何mの高さまで達したかを示す値であるため、現場の調査によって正確に決定できる利点がある。V字型の湾など地形によっては、津波は、波高自体が高くなると共に非常に高い所にまで駆け上がることがしばしばある。つまり、津波の到達高度(遡上高)は実波高(海岸での平均海水面からの高さ)より高くなる場合が多い。日本において確実とされる津波の最大波高は1896年の明治三陸沖地震津波の際の38.2 mであるが、これはV字型の湾の奥にあった海抜38.2 mの峠を津波が乗り越えたという事実に基づく到達高度の値である(海岸での津波高ではない)。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1958年7月9日(現地時間)、アラスカの南端の太平洋岸にあるリツヤ湾 (Lituya bay) で岩石の崩落による津波が起き、最大到達高度は海抜524 m に達し、津波の波高の世界記録とされている。リツヤ湾は氷河の侵食によるフィヨルドで、幅3 km、奥行き11 km程の長方形に近い形で内陸に入り込んでいる。湾奥に左右に分かれた小さな入江があり、問題の津波はそのうちの北側の入江に発生したものである。波の発生を直接目撃した者はいないが、後の現地調査と模型実験により詳細が明らかにされている。地震により入江の片側のおよそ 40度の傾斜の斜面が崩壊、9,000万トンと推定される岩石が一塊になって海面に落ちたため、実高度150 m以上の水しぶきが上がり、対岸の斜面を水膜状になって駆け上がって524 mの高度に達したものである。その後、波は高さ15 mから30 mで湾奥から湾口に進み、太平洋に出ると共に急速に消滅した。以上のように、この波は津波と言うより水跳ねに近いもので、英文の報告書でも \"giant wave\" または \"biggest splash\" と表現されている。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、リツヤ湾では1853年か1854年に120 m、1936年に147 mの大波(いずれも到達高度)が起こったことも明らかになっている。これは、湾周囲の山林に植生する古い樹木を複数伐採して年輪を調べたところ、該当年の年輪の海側に、大きな外傷を受けた痕跡が残っていたことから判明したものである。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2011年12月5日アメリカ航空宇宙局は、人工衛星「ジェイソン1」の観測により、東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波が太平洋の海底山脈などによって方向を変え、震源地から何千kmも離れた海上で2つの波が融合した結果、より威力を持った津波となったことを初めて確認したと発表した。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "陸上での浸水高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震の被災地での調査によると、浸水高が2 mを超えると木造家屋の構造破壊が発生し始め全壊率が急増するとともに建物全体の流失率が増え始め、さらに4 mを超えると木造家屋の多くが流失するという結果が出ている。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "一方、津波警報等が対象とする、海岸での波高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震や2010年のチリ地震における日本の被災地での調査によると、",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "以上のような傾向が報告されている。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "津波は陸地近くでは、海底や運河、河口近くの川の底にあった土砂や泥、有機物を含むヘドロを巻き上げ、混ざり合って押し寄せる。こうした「黒い津波」は海水のみより比重が大きいため、破壊力が増す。さらに津波を呑んでしまった人や津波が引いた後の乾燥した陸地で舞い上がる粉塵を吸った人に肺炎(津波肺)などの感染症を引き起こす。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "津波は、水深が一定の海域で発生した場合には発生源を中心に同心円状に広がって行く。しかし、地震津波の場合、多くの地震が陸地近くの海域で起こるため、波のおよそ4分の3は海岸に向かい4分の1が外洋に向かう。たとえば1960年のチリ地震津波においては、南米チリ沖で生じた津波は最初は同心円を描いて伝播した。その後、チリの海岸線に対し垂直方向に進む波以外は次第に進路がチリの海岸向きに屈折した。結局、波の4分の3がチリ海岸に戻り、4分の1は太平洋を直進してハワイや日本に達したと考えられている。これは、大陸斜面を進む波は水深の大きい沖合で速度が速く、沿岸寄りでは遅くなるためである。実際、同じ環太平洋地域でありながら北アメリカ西岸やオセアニアなどでは目立った津波被害は起こっていない。津波は物理的にはいわゆる孤立波であり、海のソリトンとも呼ばれる。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "津波の伝播する速度は水深と波高により決まる。大陸棚斜面から外洋に出ると水深は4,000 m前後でほとんど一定になり、また水深に比べて波高は問題にならないくらい小さいので、外洋での津波の速度は、重力加速度(9.8 m/sec。便宜的に10 m/sec として差し支えない)に水深を乗じた値の平方根にほぼ等しい。式で表すと次のようになる。dは水深(単位はm)、速度は秒速 (m/sec) で示される。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これを時速(km/hour)に直すには3.6倍すればよい。これにより、水深1,000 mで時速360 km、水深4,000 mで時速720 kmとなる。沿岸では水深が浅くなり、そのため津波の波高が増すので、上の式をそのまま適用すると不正確な値となるため、次の式を用いるのがよい。Hは水面上の波高である(単位はm)。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ここから、水深10 m、波高6 mの場合の津波の速さはおよそ時速46 kmとなる。なお、1960年チリ地震津波はチリから日本まで平均時速750 kmで、2011年の東日本大震災では岩手県宮古市重茂半島で平均時速115 kmで、沿岸まで到達している。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "海水は良質な導体であることから地磁気の影響下で運動をすると、誘導電磁場が生じている。従って、常時流動している潮流でも発生しているが、津波の際には潮流で生じるのとは別な誘導電磁場が発生するため、この電磁場の観測を行うことで結果的に津波に伴う海水の変異が観測できる。また、電離層にも影響を与え、津波発生から数分後から1時間程度継続する「電離圏プラズマの減少(津波電離圏ホール)」が生じ、GPS-TEC(GPS受信点から衛星までの視線方向に対する電離圏全電子数)観測によって観測が行える。",
"title": "津波現象の特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "津波による水の圧力は非常に大きく、沿岸の広い地域に被害を与える。人的被害は水深30 cmでも発生し、被害の程度は「波高」(浸水高)と「流速」が密接に関係している が、浸水深さが 2 m、4 m、8 m と深くなると被害の様相が大きく変化する事が報告されている。東北地方太平洋沖地震では、宮城県内で2 mを境に流失率が増大し6 mでの流失率は80%程度と報告されている。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "例として、2 mの普通の波と津波との違いを比較する。2 mの普通の波は、海上で普段から偏西風や低気圧(気流)、月の引力などの影響を受けるため、少なからずデコボコが生じる。このデコボコの差が2 mあるだけで、波長や波を形成する水量は比較的少なく、海岸に達した所で沿岸地域に被害をもたらす事はそう多くはない。これに対し2 mの津波は、地震などによる海底の隆起または沈下により海水面自体が普段より2 m盛り上がり、それがそのまま海岸に向かって伝わっていく。言い換えれば、2 mの急激な海面上昇が起こることに近い。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "つまり、2 mの普通の波は海岸に少量の海水をかける程度であるのに対して、2 mの津波は何kl(キロリットル)もの海水が一気に海岸地域を襲い、自動車や多くの人を簡単に飲み込み沖へ引きずり込んでしまう程の威力がある。2 mの「波」の水量は2(m)×波長数(m)×0.5×約0.5×海岸の距離(m)で、海岸1 mに押し寄せる波の水量は波長3 mとして1.5 m(=1500リットル)、ドラム缶数本分である。一方、2 mの「津波」の水量は2(m)×波長数十km(m)×0.5×0.5×海岸の距離(m)で、海岸1 mに押し寄せる津波の水量は波長10 kmとして5,000 m(=5,000キロリットル)、競泳用プール2つ分となる(体積の比較参照)。2003年に発生した十勝沖地震では、実際に2 mの津波に飲まれ死亡した人が確認されている。また、陸地に近づくと水流が建造物などを壊しながら内陸部へ進み、それらの瓦礫を巻き込むことによって破壊力を増す。更に、流氷や海氷などの漂流物を伴った場合に被害は増大する。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また津波が引いた後でも、損壊した住宅や市街地、工場、燃料タンクが炎上する津波火災、冷却機能を喪失した原子力発電所からの放射性物質漏れ(例:福島第一原子力発電所事故)といった二次被害が発生する。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "人的被害では、津波の水は海底の砂や岩とともに微生物、有害物質などを巻き込んでいるので、津波に巻き込まれて助かった場合でも、骨折や打撲などの外傷だけでなく肺の中に微生物や油脂、砂・泥などを取り込んでしまう「津波肺」 の健康被害が発生することがある。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "河口から河川に侵入した津波が数十km上流まで遡上することがある(地理的な要因次第だが、高さ1 mの津波でも5 kmは遡上すると言われる)。河川を遡上する津波は、伝播速度が速くなり、遡上距離が長くなる傾向にある。先端部の形態は砕波段波と波状段波の2種類がある。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1960年5月24日のチリ地震津波では、沖縄県石川市の石川川を遡上した津波が家屋の浸水などの被害をもたらした。2003年9月26日の十勝沖地震では、津波が波状段波を形成しながら北海道の十勝川を遡上する様子が自衛隊により撮影された。この時の津波は、河口から少なくとも11 km上流まで遡上したことが確認されている。2011年東北地方太平洋沖地震による津波は、関東地方でも利根川の40 kmを筆頭に、江戸川3 km、多摩川13 km、荒川28 kmなど、河口から遠い内陸部まで到達した。このことから、海に面していない埼玉県でも地震後、津波の被害に対応する地域防災計画の検討を始めるなどしている。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "また、遡上する津波が高い場合は河川の堤防を決壊させて洪水を引き起こすことがある。2011年東北地方太平洋沖地震の津波では、青森県、岩手県、宮城県の計22河川が津波により同時に決壊するという未曽有の被害を生じた。北上川では、河口から49 km離れた旧中田町にまで津波が到達し、農地の大規模浸水が起こっているほか、名取川では仙台市太白区・若林区の、旧北上川や新北上川(追波川)では石巻市の市街地を濁流に呑み込み、甚大な被害を出した。特に石巻市立大川小学校では新北上川の堤防が高台であると考えて避難しようとしていたところ、川を遡上してきた津波が小学校を襲い、児童・教師らが多数死亡するという悲惨な出来事も起きている。津波の河川遡上という現象自体が一般にあまり知られていなかったため、津波の際に人々が海岸から離れることはあっても、河口付近以外で河川から遠ざかろうとすることは当時まれであった。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "河川を遡上する津波と似たような物理現象として、潮津波がある。代表的なのは、南米アマゾン川のポロロッカ、中国の銭塘江などで起きる海嘯である。津波が河川に侵入するのを防ぐために、防潮水門などが設けられている川も多い。",
"title": "津波被害の態様"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "海岸やその近く平野部は経済活動に便利なうえ、景観が良いため人口が集まる傾向が古来あり、その分、津波が襲来した場合は被害を受けやすい。このため津波への対策としては、「津波被害を受ける可能性がある地域を平時から予測する」「津波の襲来を早期に感知して避難する」「防潮堤などで津波の内陸侵入を極力防ぐ」「建物や道路・鉄道を普段からなるべく内陸や高台に移しておく」といった対策を組み合わせることが必要となる。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "津波そのものや主な発生原因である海底地震については海洋学を中心とする地球物理学の面から、防潮堤や水門による対策については土木工学などの面から研究されてきた。日本ではこれらにより将来想定される津波被害を予測・対応するだけでなく、陸上の津波堆積物や津波石を調査したり、津波にまつわる古文書や大津浪記念碑を再評価したりする動きが、特に東日本大震災後においては盛んになっている。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "またプールや水槽で津波に似せた水の動きを起こし、水流を受けた際の人の動きや建物への影響をシミュ―レートしたり、津波を疑似体験してもらい防災・減災の啓発に役立てたりする取り組みも行われている。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2017年11月には、津波防災を学際的に研究する「国際津波防災学会」が日本で設立された",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "水深の深い湾、次第に狭くなる湾や入り江の奥部、周囲を海に囲まれた岬の先端などでは、津波(到達高)が高くなる。湾では減速しながら海岸に接近した先行波に後続波が重なりやすいため。(湾口で波高2 mのものが湾奥で5 m超になった例がある)",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "潮が引く「引き波」から始まる時も、盛り上がる「押し波」から始まる時もある。これは発生様式によって「海底地形の変化」が異なるためである。浸水後の引き波は、次第に速度を増していき、流速は浸水時よりも早い場合がある。重力による落下が水の勢いを加速させるため。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "第1波が一番高いとは限らず、数十時間にわたり数波の来襲がある場合もある。これは反射・屈折・干渉した波や余震で発生した別の津波によって不規則に波が重なることがあるため。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "一般的に海岸近くでの津波への警戒・対応として、強弱に関わらず揺れを感じた場合、「できれば内陸深くへ、難しそうなら近くの高台、建物の上層部へ速やかに避難すること」が推奨される。日頃からの避難の心得として「津波てんでんこ」という標語もある。津波の襲来が目視できる前でも、海岸や河口付近の低地に留まることは危険である。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "日本などの津波警報体制が整備されている地域では、地震後速やかに津波に関する情報が発表されることが期待されるので、防災担当機関は「津波警報」「津波注意報」などが発表されたら速やかに避難するよう呼びかけている。また、海水浴場等では、津波フラッグが提示される。日本では市町村が海岸の近くに「避難場所や避難経路を示す掲示」を行っている場合があるので、その場所へ避難すれば安全が確保されると考えられる。避難場所ごとに適した災害の種類が異なる場合があるので、津波の避難場所と明示されている所がより安全である。なお、津波の危険性がある居住地では、日頃より避難場所と経路を確認しておくことが、避難の迅速化が期待されるため推奨されている。また、平坦な場所で津波が近くに迫っている場合は緊急避難的に、一般に頑丈と考えられる鉄筋コンクリート造の3階建て以上のビルに避難し、3階以上に昇ると「ほぼ安全」(消防庁)としている。内陸や高台への避難が間に合わない場合に備えて、津波避難施設が日本各地の沿岸部に整備されている。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "防災無線が伝わらない聴覚障害者や、スマホなどを所持しておらず津波情報が受け取れない海水浴場の遊泳者などのために、沿岸部における視覚的な伝達手段として津波フラッグが制定されている。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "東北大学や国際航業、NECなどが2018年5月に設立を発表した新会社「RTi-cast」(本社・宮城県仙台市)は、津波警報や津波注意報が出るような地震が発生すると、スーパーコンピュータを使い30分以内に被害予測を算出し、通知する事業を行う。内閣府が南海トラフ巨大地震に備えて採用している。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "沿岸部でも、地形や人の居住の有無によって、予想される津波被害は異なる。東日本大震災前から一部ではハザードマップが作られるなどしていたが、津波の高さの想定や周知は十分でなかった。東日本大震災が起きた2011年の年末、「津波防災地域づくり法」が制定され、翌年施行された。同法に基づき、建物の床面嵩上げなどが求められる津波災害の「特別警戒区域」のオレンジゾーンとして2018年3月27日、静岡県伊豆市の土肥(とい)地区の一部が全国で初めて指定された。津波ハザードマップの作成などが必要な「警戒区域」(イエローゾーン)は徳島県や山口県など7府県の83市町が指定されている。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ただ、地元がイメージ悪化を恐れて、津波の被害想定や対策が進まない傾向も指摘されている。特別警戒区域のうち、住宅の新改築を制限できるレッドゾーンは、2018年3月時点で指定例はない。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "原則として地震による海底の上下変動が起きれば津波が発生する。しかし、しばしば津波に関する根拠の薄い情報が伝承された結果、人的被害が拡大した事例が数多く確認されている。地震後に津波警報が発表された場合、一刻も早く高台へ避難することが必要とされる。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "飲料水・食料・医薬品などを積載しトイレを付属させた浮揚型のアルミ製の津波シェルターも開発されている。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "海上の船舶は、津波警報等で接岸許可が出ず停泊して待機したり、船は横波に弱いので船首を沖へ向けたり、沖合での被害は波浪に比べても少ないので、沖合へ避難したり、接岸していた船舶が緊急に出港する事もある。東日本大震災でも、そのような漁船が引き波で海へ流された被災者の救助に活躍した。また、東日本大震災では、複数の船舶が陸に打ち揚げられ、建物の上に乗り上げたものもあった。",
"title": "津波被害の軽減・回避"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "大規模な津波に襲われた地域・国家では先ず、被災者の救出・救援、行方不明者の捜索、犠牲者の死体収容、津波火災の消火といった応急対応を行う。次に、家を失った被災者の仮設住宅などの確保、津波により発生した大量の廃棄物(がれき)や破壊された建物残骸の撤去・処理などに取り組み、続いて被災地域の復興へ移る。",
"title": "津波被害からの復旧・復興"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "津波は再来する可能性があるため、防潮堤の新設・嵩上げによって将来の被害を防止・軽減を図ることのほか、復興では土地利用のあり方が問題となる。津波常襲地であった三陸地方では、昭和以前の津波の到達点などを示す災害記念碑や行政による看板が多く設置されていたが、東日本大震災ではそれより海に近い地域で多くの被害が出た。東日本大震災後では、津波再来のリスクが高い地域での建築制限、高台への市街・住宅地や道路・鉄道の移転などが行われている。また南海トラフ巨大地震による津波襲来が予測されている地域などでは、被害軽減や復興がしやすい地域づくりを目指す「事前復興」という対策も導入されつつある。",
"title": "津波被害からの復旧・復興"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本では、気象業務法により気象庁が津波の監視と警報の発表を行うことが規定されている。気象庁は、津波の原因となる地震活動を24時間体制で監視しており、地震が発生すると最速2分以内に津波に関する予報・警報(津波予報・津波注意報・津波警報・大津波警報)を発表し、テレビ・ラジオやインターネットなどで速報される。震源が遠くても規模の大きな地震など、震度が小さい地震の場合でも津波警報等が発表される場合もある。津波警報等の発表までの時間を短縮するために、地震計をより高性能のものに置き換える作業やケーブル式海底地震計の整備等が行われている。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "こうした警報の支えとして、防災科学技術研究所が日本列島の太平洋側海底に観測機器ネットワークを設置している。東日本では日本海溝海底地震津波観測網(S-net)、東南海地震の想定震源域にはDONET1、南海地震の想定震源域ではDONET2である。また統計数理研究所や東京大学地震研究所、高知工科大学は津波に伴う海面隆起などを遠方から補足できる微気圧振動(インフラサウンド)を観測しており、日本気象協会が2017年夏に開設する専用ホームページをデータを公開する予定である。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "気象庁は、1952年に津波警報業務を開始し、1982年には気象資料自動編集中継装置 (ADESS) の地震処理業務開始を利用した警報業務が行われた。その後システムは改良され、2006年には緊急地震速報と連携したシステムとなり、予め計算していた予測情報と観測した地震の震源位置や規模などの情報を合わせ警報が出されている。なお、平成25年3月には東北地方太平洋沖地震の経験を踏まえ、発表方法や表現を変更したシステムが運用されている。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "気象庁においては、予想される津波の高さに合わせて、津波警報等は以下の2区分3種類が発表される。なお、報道では「大津波の津波警報」は気象庁の会見で用いられることがあるが、報道ではかえって分かりづらいと考えて“大津波警報”を俗称として使用していた。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "津波は最初の第1波が最大とは限らず、数十分から1時間前後の間隔をおいて第2波、第3波と複数の後続波がやってくることがある。また、湾内では固有振動数で共鳴し増幅され大きな津波となって陸上に浸水する恐れがある。このため、津波警報・注意報が解除されるまでは警戒・注意が必要である。太平洋沿岸で発生する巨大地震による津波では、数千km彼方の対岸の陸地で反射した波が到達する。たとえば、1960年チリ地震では片道約22時間かかっているので、反射波は30時間から50時間も継続する。従って、東北地方太平洋沖地震の例では発生直後から全て解除されるまで51時間余に渡って発表され続けた)場合もある。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また、津波警報・注意報は、日本の沿岸を細かく区切った津波予報区にしたがって、地域を指定して発表される。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "津波警報や津波注意報が発表された場合は、到達時刻や予想される津波の高さ、各地の満潮時刻、津波が到達した場合の観測波高などの「津波情報」が発表される。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、発生3分後に宮城県に6 m・岩手県および福島県に3 m、28分後に岩手県に6 m、44分後に東北から千葉県の太平洋沿岸に10 m以上の大津波警報をそれぞれ発表した。しかし速報値M7.9であったのが実際にはM9.0で津波の高さは10 m以上であった上、第1波が宮古に到達したのは地震15分後、大船渡で8 mの津波が観測されたのは34分後であったため、警報の遅れと誤差が被害を拡大したとされていた。M8以上の地震の規模と津波の高さを3分以内に判定することは不可能であることから、気象庁の検討会が2012年1月31日に新しい警報案を発表した。その中では、「大津波警報」という呼称を「津波警報(大津波)」と同義のものとして正式に位置づけ、同様に「津波警報」という呼称を「津波警報(津波)」と同義のものとするとした。新運用による警報業務は2013年3月7日12時から行われた。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "M8を超える地震で津波が予想される場合",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "※警報や情報文中で基本的に用いられる呼称にて表記",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "緊急警報放送や緊急地震速報などの施行で現在は津波情報が充実しているが、津波警報が出ても避難をしない住民が多いことはかねてから問題になっており、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では津波教育がうまくいっていないことが浮き彫りになった。そのため、制度としての警報のみならず、受ける側も教育・啓蒙されることが必要とされている。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "日本を含む太平洋地域では、1960年のチリ地震による津波で、日本を含む各国に被害が出たことをきっかけに、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が中心となって、太平洋津波警報組織国際調整グループ (ICG/PTWS) が設立された。現在、日本やアメリカ、中国、オーストラリア、チリ、ロシア、韓国など26の国と地域が加盟しており、沿岸各国で地震や津波が発生した場合、データがハワイにあるアメリカ国立海洋大気局の太平洋津波警報センター (Pacific Tsunami Warning Center, PTWC) に集められ、各国に津波の規模、到達推定時刻などの警報を発する仕組みがある。太平洋津波警報センターが発表する津波警報には、地域ごとに以下のものがある。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "PTWCは、PTWS加盟各国に対し、2014年10月1日00UTCより、津波情報の形式や内容の改定を行うことをアナウンス している。具体的にどのような情報を加盟各国に報じるのかと言った詳細は、2014年9月までに改版(まだ軽微な記述更改が行われている)されるガイドブック に掲載されている。 変化するのは、PTWCが半ば強制力を持って警報や注意報を加盟各国にしていたところから、各国が判断するために必要な情報の支援に徹するという方向転換が図られた。これまで使用されている「Tsunami warning is in effect」、「Tsunami watch is in effect」といった、警報・注意報の文言が廃止され、どの程度の高さの津波が来襲するか、その地域を具体的に明示して告知するよう改められる。この文言に替わったからといって、自国の津波に関わる警報・注意報の更改を迫るものではない。加盟各国は出来うる範囲での改定は行うことを検討し、実効性のある改定作業を進めている。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "PTWCが加盟各国に発信する津波情報(テキスト形式)は、次のような構成による。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "インド洋についてはICG/IOTWS第9回総会において、BoM、INCOIS、BMKGによる情報発表が円滑に運用されていることが確認され、日本の気象庁及びPTWCに対し、2013年3月31日以降、情報提供を停止することが要請されたことを受け、インド洋地域の情報は、PTWCから情報は出ていない 。",
"title": "津波の監視体制"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "インド洋では、2004年のスマトラ島沖地震を契機として、ユネスコが中心となって政府間調整グループICG/IOTWS を設立し、警報体制を構築した。インド洋では、",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "の3つが担当機関となり、国内および沿岸各国に対して警報を発表している。 2011年10月12日から正式な運用が始まった。しかし、2014年には設置された25基のブイのうち22基が破壊や盗難に遭い稼働していないため、津波予測が不可能な状態になっていることが報道された。",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "アメリカ西海岸・アラスカ津波警報センター (WCATWC) は、海岸の地形などを考慮してアメリカと周辺地域に11の区分を設けている。アメリカ本土49州、カナダ、プエルトリコ、アメリカ領ヴァージン諸島を管轄する。それぞれに2段階(地域によっては1段階または区分なし)のTIS(Tsunami Information Statement, 津波情報発表)、3段階(地域によっては1段階)のWarning(警報)の津波情報があり、合わせて1段階〜5段階の警報レベルがある。",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "大西洋のうちヨーロッパ諸国と北アフリカでも、2004年のスマトラ島沖地震を契機として、ユネスコが中心となって政府間調整グループICG/NEAMTWS を設立し、警報体制の構築を始めている。 2010年にRTWC(地域津波監視センター)をおき、",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "代替センターおよび、データ収集を行う",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "で行う。",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "カリブ海では従来よりPTWCが警報を発表し各国に通知する体制があったが、2004年のスマトラ島沖地震を受けて、同様にユネスコが中心となって政府間調整グループICG/CARIBE EWS を設立、独自の警報体制を構築する動きが模索されている。",
"title": "その他の地域"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "巨大な津波は、海底の砂利(海砂)、大きな石や貝殻などを陸地に運び上げ沿岸低地にそれらを堆積させる。これらは津波堆積物と言われる。過去の地層に残された津波堆積物から、有史以前の巨大津波の存在が多くの研究によって明らかにされている。 例えばノルウェー沖では、紀元前6100年にストレッガスライドと呼ばれる巨大海底地すべりが起き、内陸80 kmまで達する津波があったことが解明されている。例えば日本では、北海道大学の平川一臣ら、および政府の地震調査委員会によって行われた宮城県気仙沼市大谷海岸の調査によると、過去6000年間に紀元前4-3世紀頃、4-5世紀頃、869年の貞観地震、15世紀頃、2011年の東北地方太平洋沖地震の5回、三陸から房総にかけて約600年周期で海溝型地震と津波が起こったとされる。",
"title": "津波被害の歴史"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "人間が文字による記録を残すようになって以来、大きな被害を出した津波が多数記録されている。古代ギリシアの歴史家トゥキディデスは、著書『戦史』で、紀元前426年に起きた地震についての記録を残している。その中でトゥキディデスは地震が津波を引き起こしていると推測しており、これは記録に残る限りでは最古の津波と地震の関係を述べた説だとされる。",
"title": "津波被害の歴史"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "1755年11月1日、イベリア半島沖においてリスボン地震が発生し、それに伴う津波によって約1万人が死亡し、大きな被害をもたらした。",
"title": "津波被害の歴史"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "中間とりまとめにて、南海トラフの巨大地震の最大ケースが従来の約3倍の規模であるMw9.0(暫定値)と発表した。想定震源域が約2倍に広がり、日本列島の広い範囲での被害のおそれが指摘されている。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "インド洋大津波の発生により、巨大津波に関連する人工衛星を含む様々な観測データが集められたことから、コンピュータモデルによる予測モデルの検証が可能となった。米国海洋大気局のMOST (Methid of splitting tsunami) モデルや東北大学のTSUNAMI-N2などの計算手法が開発されている。津波シミュレーション技術は、津波予報やハザードマップ作りに活用されている。また日本には世界最大の2.5 mの人工津波を引き起こす事ができる、港湾空港技術研究所の大規模波動地盤総合水路があり、建造物への被害予測のデータ収集などが行われている。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "潮位の観測は、沿岸の潮位計に加え、海底水圧計を用いた津波計も整備が進んでいる。従来は海底ケーブルを用いて信号が送られていたが、衛星へ信号を送れる海面ブイによって信号を送るタイプの津波監視計も開発されており、より設置が容易となってきている。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2011年5月12日、地震調査委員会の島崎邦彦は日本記者クラブの講演会で日本の沿岸各地に100年以内に襲来する津波の高さ、浸水域や発生確率を予測し発表すると述べた。従来からの大学や研究機関の予測成果に東日本大震災で分かった被害の知見を加え3年後から公表を始めるとしている。これにより沿岸自治体の防災計画や住民の防災意識向上につなげる。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "物理的な対策として、平坦な場所では上記のような緊急避難場所となる3階以上の頑丈な建造物を設けたり、安全な高台における開けた避難場所の整備、避難場所への誘導標識を充実させることが挙げられる。「津波避難ビル等に係るガイドライン検討会」によって、津波避難ビル等を指定するための「津波避難ビル等に係るガイドライン」が公布されている。津波を工学的に防御する手段として、沿岸の集落では長大な防潮堤が築かれる場合がある。設計範囲内の津波では被害を大幅に抑えることが可能だが、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では岩手県釜石市や宮古市田老で設計高さ以上の津波により防潮堤が破壊され津波が侵入した例があり、防潮堤が津波の到達を遅らせた一方、防潮堤への過信から避難が遅れたとの見方がある。 また津波による被害が懸念される地域では、居住や土地用途を制限して被害を最小限に抑える手法もある。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "日本における東北地方太平洋沖地震以前の津波想定は、襲来する津波の想定規模を既往最大(文献資料に残る)と同等としていた。だが地域・年代によっては大津波が正確に記録されて現代まで残されていなかったとみられるほか、津波堆積物の発掘調査や結果の周知も途上であった。このため東北地方太平洋沖地震による津波は「想定外の規模だった」と振り返る人が多く、十分な対応が出来なかった。この事例を踏まえ、2013年に発表された南海トラフ巨大地震の被害想定(第二次報告) では、明確な発生が確認されていない1000年に1回の巨大クラスの地震による津波による被害想定が行われ、最大規模の被害を前提とした防災施策の立案と実施検討が行われる事となった。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "都市部では河川敷や河川沿いの低地に避難場所を設定している場合が多いが、避難場所を津波が襲うこともあり得る。大都市は大河川が作った平野にあるので、避難途中の人々が通る道を河川をさかのぼった津波が襲う可能性も指摘されている。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "2011年には「津波防災地域づくりに関する法律」が制定された が、イメージ悪化や都市計画への支障を懸念する自治体が多いため、「津波災害特別警戒区域」の指定は全国的にほとんど進んでいない。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "また平地が少ない三陸地方では、東日本大震災後も津波浸水想定区域や耐震性に問題がある多くの施設が避難先に指定されている。",
"title": "津波被害の予想"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "「津波」の語は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶の被害は少ないにもかかわらず、港(津)では大きな被害をもたらすことに由来する。「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『駿府記』 で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である。なお、表記は「津波(浪)」の他に「海立」、「震汐」、「海嘯」と書く場合があり、これらすべて「つなみ」と訓む。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "日本において、昭和初期までの古い記録で、津波のことを「海嘯」(かいしょう)と記していることもある。ただし「海嘯」という語には、高潮などを含むことがある(1902年の小田原大海嘯など)。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "「海嘯」という漢語は本来、満ち潮が波となって河川を逆流する現象 (tidal bore) を指す言葉であり、中国の銭塘江で見られるものがよく知られている(なお、tidal bore に対して日本語では潮津波(しおつなみ)という表現がある)。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "現代の中国語圏では、津波のことを一般的に「海嘯」(簡体字: 海啸; 拼音: hǎixiào)と呼ぶ(現代では銭塘江の逆流は「大潮」といった語を用いている)。ほかに「海溢」(古語)、「海漲」(台湾語)という表現もある。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "朝鮮語では「海溢」(해일)という表現が用いられるが、この語は津波の他に tidal bore や高潮などを含んでいる。特に津波について区別する際には「地震海溢」(지진해일)が用いられる。日本語の「つなみ」をハングルに転写した「쓰나미」が使われる場合もある。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "英語文献において、tsunami という語が使われた例は、現在のところ『ナショナルジオグラフィックマガジン』1896年9月号に掲載された明治三陸地震津波を報じるエリザ・シドモア執筆の記事 \"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan\" が最古とされている。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "しかし、一般的に tsunami の初出作品として知られているのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1897年(明治30年)に出版した著作集『仏の畠の落ち穂』(Gleaming in Budda-Fields) の中に収録された「生神様」(A Living God) である。濱口梧陵をモデルにした「生神様」では、地震後に沿岸の村を飲み込んだ巨大な波を \"tsunami\" と現地語の日本語で表現した。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "その後、1904年の地震学の学会報告にはじまり、地震・気象の学術論文等に限られていた。元々英語圏では \"tidal wave\" という語が使われてきたが、この語は本来潮汐 (tide) による波を指し、地震による波にこの語を使うのは学問的にふさわしくないとされ、現在では tsunami が用いられる。研究者の間では \"seismic sea wave\"(「地震性海洋波」)という語が使われることもあったが、あまり一般的ではなかった。1946年、アリューシャン地震でハワイ諸島に津波の大被害があった際、日系移民が \"tsunami\" という語を用いたことから、ハワイでこの語が使われるようになり、被害を受けて設置された太平洋津波警報センターの名称も1949年には Pacific Tsunami Warning Center とされたことから、アメリカ合衆国ではこの語が広く用いられるようになり、その後、1968年にアメリカの海洋学者ウィリアム・G・ヴァン・ドーン (William G. Van Dorn) が学術用語として使うことを提案し、国際語化した。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "「ツナミ」は学術用語として広く国際語になっていたが、スマトラ沖地震による津波が激甚な被害をもたらしたことが世界中に報道されたことを契機に、一気に各国の言語で一般語になった。",
"title": "津波の表現"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "津波は浅い海底や陸地の沿岸部、川の河口近くを激しく搔き乱すため、生態系に大きな影響を与える。東日本大震災では沿岸の生物やその幼生、卵、胞子などが漂流物に付着して流され、本来は生息しない北アメリカ大陸などに辿り着いて繁殖し、問題になっている。",
"title": "人間以外の生物への影響"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "日本国外では、伊藤みどりや小林尊のように並外れた能力を持つ日本人に \"TSUNAMI\" とニックネームを付けることがある。",
"title": "文化的影響"
}
] |
津波は、地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の自然環境の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。なお、津波(tsunami)は通常は地殻変動要因の現象を指し、気象要因の現象、特にプラウドマン共鳴により増幅された海洋長波は気象津波として区別する。 1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600 km、波高5 m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)。 津波という現象は、例えるならば大量の海水による洪水の様な現象 であり、気象など他の要因で生じる波とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に陸深くに浸入し、沿岸住民の水死や市街・村落の破壊など、種々の災害を発生させる。
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{{About|地震や噴火現象によって発生する津波|その他の用法|ツナミ}}
[[File:SH-60B helicopter flies over Sendai.jpg|thumb|upright=1.4|2011年の[[東北地方太平洋沖地震]]の際に発生した津波によって水没した[[仙台港]]付近の上空からの写真。[[JX日鉱日石エネルギー仙台製油所]]より黒煙が上がっている。]]
[[ファイル:Tsunami_comic_book_style_jp.png|thumb|津波の発生原理を示す図]]
[[File:NOAA_Tsunami_Animation-2016.webm|thumb|upright=1.4|三次元の津波シミュレーション動画]]
'''津波'''(つなみ、{{Lang-en|Tsunami}})は、[[地震]]や火山活動、[[山体崩壊]]に起因する[[海底]]・[[海岸地形]]の自然環境の急変により、[[海洋]]に生じる大規模な[[波]]の伝播現象である。まれに[[隕石衝突]]が原因となったり、[[湖]]で発生したりすることもある。なお、津波(tsunami)は通常は地殻変動要因の現象を指し、気象要因の現象、特にプラウドマン共鳴により増幅された海洋長波は[[気象津波]]として区別する<ref>{{Cite web|和書|author=高野洋雄|url=https://www.metsoc.jp/tenki/pdf/2014/2014_06_0058.pdf |title=気象津波(meteo-tsunami) |publisher=日本気象学会|date= |accessdate=2022-04-30}}</ref>。
1波1波の間隔である[[波長]]が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600 [[キロメートル|km]]、波高5 [[メートル|m]]超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)<ref name="nishimura1977-123">[[#nishimura1977|西村、1977年]]、123-124頁</ref>。
津波という現象は、例えるならば大量の[[海水]]による[[洪水]]の様な現象<ref>伯野元彦「[https://doi.org/10.11532/proee2005.28.228 1本鉄筋のRC柱]」『地震工学研究発表会 報告集』2005年 28巻 p.228, {{DOI|10.11532/proee2005.28.228}}</ref> であり、[[気象]]など他の要因で生じる[[波浪|波]]とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に[[陸]]深くに浸入し、沿岸住民の[[水死]]や市街・村落の破壊など、種々の[[災害]]を発生させる。
== 概要 ==
[[20世紀]]後半以降 {{lang-en|"Tsunami"}} <ref group="注">正式な英語はtidal waveである(NHKでは、初期の緊急警報放送発報時の画面でも、『TIDAL WAVE WARNING』と表示していた)。</ref>は、[[世界]]で広く一般にも使用される共通語になった。そもそも[[日本語]]における「津波」の語源([[#津波の表現|後述]])は、沖で被害が出なくても津(=[[港]])で大きな被害が出ることからきている。
津波は、沖合から[[海岸]]に近づき[[海底]]が浅くなるにつれて波高が高くなり、海岸線では沖合の数倍に達する。湾口で2 mのものが湾奥で5 m超になった事例もある<ref name="nishimura1977-91"/>。また海底が浅くなるにつれて波長は短くなるが、海岸線でも数百m - 数km程度ある<ref name="utsu2001">[[#utsu2001|宇津、2001年]]</ref>。
上陸した津波は、依然として大きな水圧を伴った高速の波として数分から数十分の間押し寄せ続けたら(押し波)、今度は海水を沖へ引きずり続け(引き波)、しばらくしたら再び押し寄せて(押し波)、という具合に押し引きを繰り返し、やがて減衰していく。大きな津波は、陸上にある[[建造物|建物]]、物品、そして人間を押し流し、景色を一変させ甚大な被害をもたらすことがある。また大きな津波は海岸に続く[[河川]]を遡るほか、海上でも被害をもたらすことがある<ref name="utsu2001"/>。
特に[[リアス式海岸]]の湾奥では狭く細長く深い[[湾]]が津波の威力を集積させる。また海に突き出た[[岬]]の先端では周囲からの回り込みの波が重なるため、他の海岸に比べて同じ津波でも被害が大きく、より小さな津波でも被害を受けることが知られている<ref name="nishimura1977-91">[[#nishimura1977|西村、1977年]]、91頁</ref><ref name="jma1">[[#jma1|気象庁]]</ref>。
また海岸では、日本の[[三陸海岸]]の港町のように津波を防ぐために[[防潮堤]]、あるいは通常の波浪を防ぐなどの目的で[[堤防]]が築かれている海岸があり、これらは津波の被害を軽減する役割を果たす。一例として、2011年に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[マグニチュード|M]]9.0を観測)に伴う津波は沿岸の広い範囲に甚大な被害をもたらしたが、[[岩手県]][[下閉伊郡]][[普代村]]の[[普代水門]]と[[太田名部防潮堤]](ともに高さ15.5 m)や同県[[九戸郡]][[洋野町]]の防潮堤(高さ12 m)は決壊せず、津波の影響を大幅に減衰させて集落進入を防いだ結果、軽微な被害にとどまっており、特に普代村においては被災民家および死者は発生しなかった<ref>「[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm?from=navr 明治の教訓、15m堤防・水門が村守る]」『[[読売新聞]]』2011年4月3日付(同月24日閲覧)</ref><ref>「[http://www.nikkei.com/tech/trend/article/g=96958A9C93819499E1E3E2E0E18DE1E3E2E1E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E7E2E6E0E2E3E2E2E0E2E0 岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮]」『[[日本経済新聞]]』2011年4月1日付(同月24日閲覧)</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20110924195717/http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011041201000147.html 津波で5超の防潮堤損壊 岩手県が効果検証へ]」[[共同通信]](2011年4月12日付、同月24日閲覧)</ref><ref>[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110424_10 「普代守った巨大水門 被害を最小限に」]{{リンク切れ|date=2020年6月}}『[[岩手日報]]』(2011年4月24日閲覧)</ref>。
その一方で、津波被害をカバー出来ず、人々が防潮堤があることで「楽観バイアス」がかかった結果、甚大な被害を出す事態もある。防潮堤の高さや強度が不足している場合のほか、津波を起こした地震で損壊したり[[地盤沈下]]により海面が上昇したりして、堤防の機能が弱まることがある。また防潮堤などにある[[水門]]は、人が駆けつけることができない場合や、[[停電]]の影響で閉められないことがある。こうした事例から、防潮堤による津波対策を再考する動きもある<ref name="yomiuri20110320"/>。
== 津波をもたらす原因 ==
海底[[地形]]や海水の[[体積]]の短時間での変化、海水への[[衝撃波]]によって引き起こされる非常に長[[周期]]の波である<ref group="注">[[重力]]を復元力として、波立った海面がもとの面([[ジオイド]]面)に戻ろうとする作用によって海水面に沿って伝播する、[[流体力学]]でいう[[重力波 (流体力学)|重力波]]にあたる。類似の現象である潮津波は、さらに長周期の重力波である[[潮汐]]が、[[湾]]や[[河口]]などの地形による[[固有振動|固有振動数]]と[[共振]]することで発生する現象。</ref>。
海における津波の発生原因として、海底で接触し合っている[[プレート]]同士の[[弾性反発説|弾性反発]]に起因する急激なずれ、つまり浅海底での[[地震]]が最も大きな割合を占める。このほか、海岸地域で起こる[[地すべり|地滑り]]、[[海底火山]]の活動、[[海底地すべり]]などの地質学的な要因があげられる。また、過去においては後述するように海洋への[[隕石]]の落下により引き起こされた事例も確認されている。
=== 地震による津波 ===
==== 基本 ====
津波の原因として最も一般的なものは、海底地震すなわち震源地が海底である大地震であり、記録に残る津波の大部分はこれによるものである。
<gallery>
ファイル:Eq-gen1.svg|地震前のプレートの沈み込み。重い海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む。
ファイル:Eq-gen2.svg|プレートの歪みと隆起。海洋プレートは大陸プレートの先端を押し込みながら沈み込む。大陸プレートの内側上部は隆起する。
ファイル:Eq-gen3.svg|地震の発生。一瞬にして大陸プレートの先端が隆起し、津波を生じる。大陸プレートの内側上部は沈降する。
ファイル:Eq-gen4.svg|津波の伝播。両側に津波が広がっていく。
</gallery>
[[断層]]が活動して地震が発生した時に、海底にまで断層のずれが達して海底面が上下に変化すると[[非圧縮性流体]]である海水が上下に移動させられてその地形変化が海面に現われ水位の変動がうねりとなって周囲に広がっていき、津波となる<ref name="jma2">[[#jma2|気象庁]]</ref>。地震の揺れ([[地震動]]、[[地震波]])で生じる[[海震]]とは異なる。大地震においては、数十kmから時に1,000 kmを超える長さ、数十kmから数百kmの幅の範囲で、数十cmから数十mという規模で、数十秒から数分の間に、海底が一気に起きる。この体積変化のエネルギーは巨大で波長が非常に長いため、ほとんど失われることなく海水面の隆起や沈降に変換されて津波を生じる<ref name="utsu2001"/>。
[[正断層]]による海底の[[隆起と沈降|沈降]]によっても、[[逆断層]]による[[隆起]]によっても津波は起こる。[[マグニチュード]]8級の地震では[[震源域]]の長さが100 km以上になる事もあり、それに伴う地形変化も広い面積になるので、広範囲の海水が動いて大規模な津波を起こす。ただし、後述の[[#津波地震|津波地震]]等の津波を巨大化させる別の原理があるため、地震の大きさ・揺れの大きさと津波の大きさは、必ずしも比例していないため防災上注意が必要である。津波という現象の発生には海底の地形が大きく変わる事が重要で、大地震による海底の断層とそれによる隆起や沈降は最も津波を起こしやすい現象といえる。ただし、海底の断層運動があっても、横ずれが卓越し隆起や沈降がなければ大きな津波は発生しない。原理は、入浴中に浴槽の下から上へ、突き上げるように湯を手で押し上げて見るのが理解し易い。押し上げられた湯は塊りとなって水面まで持ち上がってから周囲に広がるはずであり、これが巨大になったのが津波である。なお、津波を生じるためには震源がある程度浅くなければならず、震源が概ね100 kmより深いものでは津波は発生しないとされている<ref>[http://www.jma-net.go.jp/ishigaki/tmanual/1syou.htm 1 津波の基本知識] 津波防災マニュアル 石垣地方気象台、2012年2月5日閲覧。</ref>。
地震津波は[[海溝]]付近で発生することが多い。海溝付近では数十年 - 数千年の間隔でマグニチュード7 - 9の[[地震#プレート間地震|海溝型地震]]が発生し、その際に現れる海底の大断層によって津波が発生する。20世紀後半以降、日本付近の海溝型地震は同じ地域でもその発生規模と間隔によって数種類あることが明らかになってきており、数十年間隔で海溝の中の特定の領域の1つで発生する地震([[巨大地震]])、数百年間隔で海溝の中の隣接した複数の領域で発生する地震([[連動型地震|連動型巨大地震]])のほか、[[津波堆積物]]による推定では数千年間隔で更に広範囲の隣接した領域で発生する地震(連動型[[超巨大地震]])などがあると考えられている。後者ほど震源域が長いので、津波に襲われる地域は広くなる。また、これらの地震により引き起こされる特に大きな津波は、'''[[巨大津波]]'''と呼称される場合がある。日本付近では、[[千島海溝]]、[[日本海溝]]、[[伊豆・小笠原海溝]]、[[相模トラフ]]、[[南海トラフ]]、[[琉球海溝]]など[[太平洋側]]の全ての地域でこのタイプの津波が発生する可能性がある。
一方、逆断層型や正断層型の[[地震#内陸地殻内地震|内陸地殻内地震]](断層型地震、直下型地震)や海溝型ではないプレート境界型の地震が海底で発生した場合でも津波が発生する。[[日本海東縁変動帯]]に当たる[[北海道]]、[[東北地方]]、[[北陸地方]]の[[日本海側]]はプレート境界型地震、その他の地域では内陸地殻内地震による津波の発生の可能性がある。このタイプの津波も日本近海では過去何度も発生していて、[[日本海中部地震]](1983年)や[[北海道南西沖地震]](1993年)などがある。この他、これから沈み込む[[海洋プレート]]内で起こる[[地震#海洋プレート内地震|アウターライズ地震]]でも津波が発生する可能性があり、プレート境界よりも沖合で地震が発生するため、地震動に比して大きな津波となる場合がある。[[昭和三陸地震]](1933年)はこのタイプの地震であった。
なお、断層角が垂直に近い高角逆断層型の地震では下盤側で、正断層では上盤側でそれぞれ沈降が発生するため、その側に面した沿岸では引き波が第一波となることがある。津波を生じる地震は海溝型だけではなく、同じ沿岸でも地震によっては押し波となる場合もあるので、防災上は注意を要する。
地震津波の大きさを表現する指標の1つとして「''[[マグニチュード#津波マグニチュード Mt|津波マグニチュード]] Mt''」というものがある。津波の規模は地震の規模に比例するという性質を利用して、複数の地点における津波の波高と震源からの距離から、マグニチュードで規模を算出する。
==== 津波地震 ====
また、「ゆっくり地震」あるいは「[[津波地震]]」と呼ばれる、海底の変動の速さが遅い地震があることも知られている。これは、人が感じる短周期の成分では比較的小さな揺れ(地震動)しか発生しないため一見すると小規模の地震のようだが、長周期の成分が卓越しているだけであって、実は総エネルギーが大きな地震であり、海底面の変動も大規模であるため、予期せぬ大津波によって被害がもたらされる事がある。1896年(明治29年)の[[明治三陸地震|明治三陸沖地震津波]]がその例で、原因となった地震については震度分布から長らく[[マグニチュード]] 7.6<ref>河角廣「[https://hdl.handle.net/2261/11692 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値]」『東京大學地震研究所彙報』第29冊 第3号, 1951.10.5, pp.469-482, {{hdl|2261/11692}}</ref>、あるいは短周期の地震動の観測に基づいて表面波マグニチュード Ms 7.2<ref>[https://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/tsunamiMt.html 阿部勝征] 日本付近に発生した津波の規模(1498年-2006年)</ref> - 7.4<ref name="Abe1988">阿部勝征(1988)、「[https://hdl.handle.net/2261/13019 津波マグニチュードによる日本付近の地震津波の定量化]」 『地震研究所彙報』 1988年 63巻 3号 p.289-303.{{hdl|2261/13019}}</ref> とされてきたが、その後津波マグニチュード Mt 8.2 - 8.6<ref name="Abe1988" />、あるいは津波の大きさを考慮してマグニチュード8 1/4に改められ、[[理科年表]]では2006年版以降この値が採用されるなど近年見直しがなされた。津波地震では前記の例の通り、表面波マグニチュードより津波マグニチュードの方が大きくなる。
津波地震となる要因にはいくつかあり<ref name="bousai1896">『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』(平成17年3月)「1896 明治三陸地震津波 [http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1896-meiji-sanrikuJISHINTSUNAMI/1896-meiji-sanrikuJISHINTSUNAMI_06_chap2.pdf 第2章 明治三陸地震津波]」[[中央防災会議]]</ref>、
#断層破壊が通常に比べゆっくりと進行することで、地震動や海底地形変化のエネルギーが通常よりも高い割合で津波のエネルギーに変換される。プレート境界部分に柔らかい堆積物があると、断層破壊がゆっくりとなることが知られている。
#起震断層の角度が非常に浅い場合、地震動が短周期であっても津波の周期が通常より長くなり、長周期の津波は減衰しにくいため津波が高くなる。
#主破壊による起震断層とは別に、地震によって海溝付近の[[付加体]]と呼ばれる堆積層に枝分かれした分岐断層が発生し、その隆起によって津波が高くなる。
#地震動や海底地形変化によって発生した、大規模な[[海底地すべり]]によって津波が高くなる。
#地殻変動によって海底下の堆積層に[[マグマ]]が貫入し、その隆起によって津波が高くなる。
などが挙げられる。1,2は長周期の津波、3,4,5は短周期の津波である。上記1.の要因により津波地震は、海溝付近のプレート境界のうち海溝軸に近い浅い部分を震源域とした地震で起こりやすい。1896年の[[明治三陸沖地震]]津波は上記1.によって津波地震になったと考えられている<ref name="bousai1896" />。また、2011年の[[東北地方太平洋沖地震]]津波は[[連動型地震]]であったため、地震発生初期にまずプレート境界浅部で上記1.の要因による津波を発生させたあと、プレート境界深部にも断層破壊が及んで強い地震動が発生したあと、再びプレート境界浅部で破壊が起こって津波が増幅したと考えられている<ref name="Ide">Satoshi Ide, Annemarie Baltay, Gregory C. Beroza, "[https://science.sciencemag.org/content/332/6036/1426 Shallow Dynamic Overshoot and Energetic Deep Rupture in the 2011 Mw 9.0 Tohoku-Oki Earthquake.]" Science 17 Jun 2011: Vol.332, Issue 6036, pp.1426-1429, {{DOI|10.1126/science.1207020}}</ref><ref>「[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110911/dst11091109050001-n1.htm 東日本大震災6カ月 巨大地震の謎は解明できたのか]」[[産経新聞]]/MSN産経ニュース(2011年9月11日)</ref><ref name="Ide2">[http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2011/12.html 東京大学大学院] 井出哲「東北沖地震の二面性 -浅部のすべり過ぎと深部の高周波震動-」</ref>。
{{main|津波地震}}
==== 遠隔地津波 ====
地震津波は大規模で遠方まで伝わるため、地震を感じなかった地域でも津波に襲われる場合がある。これを遠隔地津波と言う。津波の到達まで時間があるので避難しやすく人的被害防止は容易であるが、情報の伝達体制が整っていないと不意討ちを受ける形になり、被害が大きくなる。後者には1960年の[[1960年チリ地震|チリ地震]]津波の際の[[ハワイ]]や日本、2004年の[[スマトラ沖地震]]の時の[[インド洋]]沿岸諸国、東北地方太平洋沖地震におけるハワイや[[アメリカ合衆国西海岸]]などの例がある。
球形の地球表面では、発生した津波のエネルギーは地球の反対側の地点(対蹠点)に再び集中する。そのため、チリ沿岸で発生した津波は太平洋を挟んで反対側の日本に被害を及ぼしやすい性質がある。また同様の原理により太平洋の中心に位置しているかつ5,000 mの[[深海]]底に囲まれたハワイは、環太平洋各地からの津波を減衰しにくいまま受けるため、津波被害を受けやすい。
=== その他の要因 ===
海洋だけで無く山間部でも同様に[[山体崩壊]]が起因で[[ダム湖]]などの[[湖沼]]でも発生する。実際に[[イタリア]]の[[バイオントダム]]では、地すべりにより100 mの津波が発生して2,000人以上が死亡している。また、[[岩手・宮城内陸地震]]では[[荒砥沢ダム]]上流部で山体崩壊を誘発し、津波が発生している。[[平成23年台風12号]]において、[[深層崩壊]]による山体崩壊が発生し、土砂が流れ込んだ河川で津波の性質を持つ段波が発生した。
;湖底堆積物の崩落
:[[トゥールのグレゴリウス]]などの記述では西暦[[563年]]に[[レマン湖]]南西岸の[[ジュネーヴ]]がトレデュナム・イベント([[:en:Tauredunum event|Tauredunum event]])と呼ぶ津波状の[[水害]]に襲われたとあるが、その時に地震があったとの記録はない。2012年10月28日、[[ジュネーブ大学]]の地質学者<ref group="注">学者3人、カトリーナ・クレマー(Katrina Kremer)、ステファニー・ジラークロ(Stéphanie Girardclos)、ガイ・シンプソン(Guy Simpson)</ref> は東端から流入する[[ローヌ川]]によってできた厚さ5 m、湖中心・最深部まで約10 km長、幅約5 kmの湖底堆積物が崩落して津波が発生し、[[シミュレーション]]により70分後に襲われたとの研究結果を発表した。採取した堆積物は[[放射性炭素年代測定]]により381年から612年のものと判明した。地質学者は湖でも津波は起こりうるとして再発も警鐘している<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date2&k=2012110500040 湖でも大津波=6世紀のジュネーブ水害-堆積物崩壊で発生・スイス調査][[時事ドットコム]](2012/11/05-07:31)</ref><ref>[http://yuihaga.blog.fc2.com/blog-entry-151.html 堆積物は波を大規模な落石が引き起こしたことを示し、現代の湖畔民へのリスクを際立たせる。] Jessica Marshall 28 October 2012 自然史ニュース</ref><ref>{{cite news|title=Tsunamis on Lake Geneva: Lake monsters|url=http://www.economist.com/blogs/babbage/2012/10/tsunamis-lake-geneva|accessdate=2012-11-06|newspaper=[[エコノミスト|The Economist]]|date=28 October 2012}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nature.com/news/ancient-tsunami-devastated-lake-geneva-shoreline-1.11670 |title=Ancient tsunami devastated Lake Geneva shoreline|date =2012-10-28|publisher=[[Nature (journal)]]|accessdate=2012-11-06}}</ref>。
;火山活動による津波
:[[火山]]の[[山体崩壊]]や、[[火砕流]]の流入、[[カルデラ]]形成、爆発による水柱形成、[[火山性地震]]の発生、[[空振]]<ref>{{Cite web|和書|title=日本への津波 専門家「噴火に伴う空気の振動“空振”原因か」 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220116/k10013433451000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-01-16 |last=日本放送協会}}</ref>などにより津波が発生する。
:* 発生例
:** 1741年:日本の[[渡島大島]]の山体崩壊による津波。2000人以上が死亡。
:** 1792年:日本の[[雲仙岳]]・[[眉山 (島原市)|眉山]]の山体崩壊によって生じた[[有明海]]での津波。生き埋めと合わせ約15,000人が死亡。([[島原大変肥後迷惑]])
:** 1883年:[[インドネシア]]の[[クラカタウ]]火山の噴火による津波。約36,000人が死亡。
:** 1979年:インドネシアの[[ロンブレン島]]で700人から1,000人の犠牲者を出した津波。
:** 2022年:[[フンガ・トンガ]]で大規模な[[噴火]]が発生<ref>{{Cite journal|date=1984|url=https://doi.org/10.2208/proce1970.31.242|journal=PROCEEDINGS OF THE JAPANESE CONFERENCE ON COASTAL ENGINEERING|volume=31|pages=242–246|doi=10.2208/proce1970.31.242|issn=1884-8214}}</ref>([[2022年のフンガ・トンガ噴火]])。[[バース大学]]の研究によると発生直後の津波の高さは90mに達したとされている。
;斜面崩壊
:前述した火山の山体崩壊や、[[大陸棚]]の崩壊、[[氷河]]の崩壊などで、大量の土砂や岩石が海になだれ込んだ際にも津波が発生する。大部分は地震津波に比べてはるかに規模は小さいが、状況によっては地震が原因の津波と遜色がないほどの大津波が発生することもあると言われ<ref>[https://www.jamstec.go.jp/jamstec-j/sumatra/9/index.html スマトラ島沖地震・津波Q&A] [[海洋研究開発機構]]</ref>、また発生地点に接して人口密集地帯があると大被害を引き起こす<ref>研究者の間では、想定を超える規模の津波の要因としてしばしば地滑りを挙げる場合がある。例えば{{PDFlink|[http://www.zisin.jp/publications/pdf/nf-vol12.pdf 日本地震学会発行『なゐふる』第12号]}}では、1998年の[[パプアニューギニア地震 (1998年)|パプアニューギニア地震]]で発生した津波の要因として、地滑りの可能性もあるとしている。</ref><ref>「[http://www.asahi.com/articles/ASK9D3Q4MK9DPLZU003.html 謎の大津波、海底地滑り原因か 500年前、徳島で被害]」『[[朝日新聞]]』朝刊2017年9月13日</ref>。
:* 日本国内外のいくつかの例として、
:** 8000年前の[[ノルウェー]]沖の大陸棚崩壊([[ストレッガ海底地すべり]])による津波。最大波高40m程度。
:** 1958年:M{{sub|w}}7.8の地震によって誘発された斜面崩壊による[[リツヤ湾大津波]]。局地的ながら最大波高524mと推定される。
:** 1998年:M{{sub|w}}7.0の[[パプアニューギニア地震 (1998年)|パプアニューギニア地震]]によって誘発された斜面崩壊による[[ニューギニア島]]北岸での津波。最大波高15m、死者行方不明者約2,700人。
;隕石
:[[ファイル:Chicxulub impact - artist impression.jpg|サムネイル|右|海に落下する隕石の想像図]]
:巨大隕石が海に落下すれば津波が起こると考えられる(衝突津波)。[[歴史時代]]には明確に証明された衝突津波はないが、[[メキシコ湾]]・[[カリブ海]]沿岸各地には、約6550万年前の[[チクシュルーブ・クレーター|天体衝突]]時に発生した津波の[[津波堆積物]]が残っており、津波高は約300 mと推測されている。
;爆発事故
:海上で超巨大規模の爆発事故が発生した場合は、それだけで津波を引き起こすことがある。1917年に[[カナダ]]の都市ハリファックスの入り江で起きた船の爆発事故([[ハリファックス大爆発]])により津波が発生し、ハリファックスの港町を押し流して甚大な被害を出したことがある。
;類似現象
:[[伊勢湾台風]]での事例のように[[台風]]によって津波に匹敵する威力の高波が発生することもあるが、これはあくまで[[高潮]]であり、津波とは区別される。しかしながら、台風が原因の土砂崩れによる津波は、直接の要因が土砂崩れであるため津波となる。また、[[サンゴ礁]]が存在する海岸では高潮が津波の特性を持つことがあり、[[波群津波]](段波状サーフビート)と呼ばれる<ref>[http://www.city.miyakojima.lg.jp/site/view/contview.jsp?cateid=19&id=1293&page=1 台風接近時の高潮(波群津波)について]</ref>。
== 津波現象の特徴 ==
[[ファイル:KataNoiHighest.jpg|thumb|2004年12月、[[プーケット島]]を襲った津波。波頭が押し寄せた後も海水が流れ込み続け、海面が高まったままの状態が続いている。]]
[[ファイル:TsunamiHazardZone.jpg|thumb|[[アラスカ]]にある津波警戒標識。4度目の波が一番高く描かれている。]]
[[反射 (物理学)|反射]]・[[屈折]]・[[回折]]・[[干渉 (物理学)|干渉]]などの「[[波動|波]]」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では[[孤立波]]、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「[[ソリトン]]」に分類される。
津波の物理的性質は風浪や、天文潮すなわち干潮・満潮等の規則的な[[潮汐]]とは異なっている。以下、津波の諸特性について述べる。
=== 波の周期・波長 ===
津波は周期や波長が長いという特徴がある。これは津波の波源域が広く、波長がその影響により決まるためである。一般に水面に見られる津波でない波は、風によりできた風浪である。その風浪の[[周期]]は長いものでも10秒程度、波長は通常は150 mくらいである。これに対し津波は、短い周期でも2分程度、長いものでは1時間以上にもなり、波長も100 kmを越す例もある。周期は[[超長周期地震動]]と重なる部分があり、潮汐よりは短い。このため、津波が内陸に押し寄せる際の水位の高まりは、あたかも海面自体が上昇したような状態になって、大きな水圧や流れによる破壊力が加わる。また津波が引く際にも、一旦高くなった海面が、沖の低くなった海面に向かって引いていく形になり、やはり大きな破壊力を見せ付ける。実際にもチリ津波では、函館の実例の水位差は押し波が2 m、引き波が3 mであり、引きが強かった。このような場合は押し波で破壊された物や元々は陸にあった物などが海に持ち去られる被害が大きくなる。
津波は通常複数回押し寄せ、10回以上に及ぶこともある。第2波、第3波などの後続波が最も大きくなる傾向があり<ref>{{PDFlink|[http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0582pdf/ks058205.pdf 高宮ほか「2章 津波被害の概要」『道路管理者における津波被害軽減対策検討マニュアル(案)』国総研資料第582号、2010年]}}。[[国土技術政策総合研究所]]地震防災研究室。</ref>、その後次第に小さくなっていく。また、第2波、第3波は1時間以上後に押し寄せてくる場合もあり、完全に津波が収まるまでに地震発生から数日を要する場合もある。
=== 波高 ===
[[ファイル:Propagation du tsunami en profondeur variable.gif|thumb|right|
津波が浅い海岸に達すると、津波の速度は遅くなり、波高は高くなる。]]
[[image:Tsunami_wave.png|thumb|250px|津波の測り方]]
津波の高さを表す表現がいくつかある<ref name="jma2"/>。
* 津波の高さ(波高) - 海岸にある検潮所、[[験潮場]]などにおいて検潮儀で観測する、平常潮位面からの波の高さ。
* 浸水深 - 陸上の構造物に残る、地面からの浸水痕跡の高さ。
* 痕跡高 - 陸上の構造物に残る、平常潮位面からの浸水痕跡の高さ。
* 遡上高 - 陸上の斜面や崖などに残る、平常潮位面からの浸水痕跡のその付近での最大の高さ。
外洋では津波の波高は数十cmから2 mか3 m程度であり、波長は100 kmを越えるので、海面の時間変化は極めて小さい。津波が陸地に接近して水深が浅くなると速度が落ちて波長が短くなるため波高が大きくなる。ただし、通常は、単に水深が小さくなっただけでは極端に大きな波にはならない。[[リアス式海岸]]のような複雑に入り組んだ地形の所では、局地的に非常に高い波が起きる事がある。津波の波高は水深の4乗根と水路幅の2乗根に反比例するので、仮に水深160 m、幅900 mの湾口に高さ1 mの津波が押し寄せ、湾内の水深10 m、幅100 mの所に達した場合、波高は水深の減少で2倍、水路幅の減少で3倍になるため、総合すると波高は6 mになる<ref>[https://doi.org/10.3811/jjmf.26.11 川崎浩司「津波の基本特性と東北地方太平洋沖地震による津波災害」]『混相流』2012年 26巻 1号 p.11-18, {{doi|10.3811/jjmf.26.11}}</ref>。そのため、V字型に開いた湾の奥では大きな波高になりやすい。
津波の記録は一般に[[験潮場|検潮儀]]で測定される。しかし、[[巨大津波]]そのものの波高を正確に測定する事は困難である。これまでの大津波の波高とされる記録は、実際には波の到達高度(遡上高)で示されている。遡上高は、陸に押し寄せた津波が海抜高度何mの高さまで達したかを示す値であるため、現場の調査によって正確に決定できる利点がある。V字型の湾など地形によっては、津波は、波高自体が高くなると共に非常に高い所にまで駆け上がることがしばしばある。つまり、津波の到達高度(遡上高)は実波高(海岸での平均海水面からの高さ)より高くなる場合が多い。日本において確実とされる津波の最大波高は1896年の明治三陸沖地震津波の際の38.2 mであるが、これはV字型の湾の奥にあった海抜38.2 mの峠を津波が乗り越えたという事実に基づく到達高度の値である(海岸での津波高ではない)。
1958年7月9日(現地時間)、[[アラスカ州|アラスカ]]の南端の太平洋岸にある[[リツヤ湾大津波|リツヤ湾 (Lituya bay) で岩石の崩落による津波が起き]]、最大到達高度は海抜524 m<ref>{{要出典|範囲=2010年2月に放送された[[ナショナルジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナルジオグラフィックチャンネル]]『[http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/86 警告!最大級の自然災害ビッグ4]』において、津波の波高は'''534 m'''と放送されている。|date=2021年3月|title=適切な出典がつけられない限り[[WP:TVWATCH]]。提示されているリンクのアーカイブ https://web.archive.org/web/20101228090655/http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmepisode/index/prgm_cd/86 では波高は書かれていない。}}</ref> に達し、津波の波高の世界記録とされている。[[リツヤ湾]]は[[氷河]]の侵食による[[フィヨルド]]で、幅3 km、奥行き11 km程の長方形に近い形で内陸に入り込んでいる。湾奥に左右に分かれた小さな[[入り江|入江]]があり、問題の津波はそのうちの北側の入江に発生したものである。波の発生を直接目撃した者はいないが、後の現地調査と模型実験により詳細が明らかにされている。地震により入江の片側のおよそ 40度の傾斜の斜面が崩壊、9,000万トンと推定される岩石が一塊になって海面に落ちたため、実高度150 m以上の水しぶきが上がり、対岸の斜面を水膜状になって駆け上がって524 mの高度に達したものである。その後、波は高さ15 mから30 mで湾奥から湾口に進み、太平洋に出ると共に急速に消滅した。以上のように、この波は津波と言うより水跳ねに近いもので、英文の報告書でも "giant wave" または "biggest splash" と表現されている。
なお、リツヤ湾では1853年か1854年に120 m、1936年に147 mの大波(いずれも到達高度)が起こったことも明らかになっている。これは、湾周囲の山林に植生する古い樹木を複数伐採して[[年輪]]を調べたところ、該当年の年輪の海側に、大きな外傷を受けた痕跡が残っていたことから判明したものである。{{see|リツヤ湾大津波}}
2011年12月5日[[アメリカ航空宇宙局]]は、[[人工衛星]]「[[ジェイソン1]]」の観測により、東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波が太平洋の[[海底山脈]]などによって方向を変え、震源地から何千kmも離れた海上で2つの波が融合した結果、より威力を持った津波となったことを初めて確認したと発表した<ref>「[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111206/dst11120613120005-n1.htm 津波融合し威力倍増か 海底地形が影響とNASA]」『産経新聞』2011年12月6日、および『読売新聞』2011年12月6日夕刊3版2面「[http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20111206-OYT1T00652.htm 津波巨大化の場面、米仏の衛星が初観測]{{リンク切れ|date=2015年5月}}」</ref>。
==== 津波の高さ、組成と被害の関係 ====
陸上での浸水高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震の被災地での調査によると、浸水高が2 mを超えると木造家屋の構造破壊が発生し始め全壊率が急増するとともに建物全体の流失率が増え始め、さらに4 mを超えると木造家屋の多くが流失するという結果が出ている<ref name="jmarep1">気象庁「{{PDFlink|[https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/study-panel/tsunami_keihou_kentokai/kentokai3/siryou2-3.pdf 津波警報の改善に関する報告書]}} 資料3:津波の高さと被害との関係」</ref>。
一方、津波警報等が対象とする、海岸での波高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震や2010年のチリ地震における日本の被災地での調査によると、
* 船舶や漁業施設の被害は、波高数十cmでも発生する。
* 海岸堤防の外側にある港湾施設や港湾道路では、波高0.7 m程度([[日本水準原点#東京湾平均海面|T.P.]]+1.3 m程度)から冠水被害が発生している。
* 住宅被害は、T.P.+1.0 m程度以下(概ね波高1 m未満)では海岸堤防の内側の居住地域には浸水が及ばないが、波高1 - 2 m程度から床下浸水がみられ、波高3 m程度から全壊・流失が出始め、5 - 6 m程度から被害率が急増する。
* 人的被害は、波高2 m程度から出始め、4 - 5 m程度から被害率が急増する。
* ただし、波高1 m前後の津波では、干潮・満潮による潮位の変化が加味されて予想を上回る(下回る)被害となる可能性がある。
以上のような傾向が報告されている<ref name="jmarep1"/>。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; line-height:1.3em"
|+ 津波の高さと被害の程度の目安(首藤(1992<ref>首藤伸夫「[http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.9_6.pdf 津波強度と被害]」『[[東北大学]]災害制御研究センター津波工学研究報告』9号、101-138頁、1992年, {{naid|110000554406}}</ref>,1993<ref>首藤伸夫「[http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.10_1.pdf 津波発生時及び来襲時の音響-その2 昭和三陸大津波による沿岸での音響発生条件-]」『東北大学災害制御研究センター津波工学研究報告』10号、1-12頁、1993年</ref>)、および気象庁改変<ref>「よくある質問集 > [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq26.html#tsunami_3 津波について]」気象庁</ref> に追記<ref name="jmarep1"/><ref name="jmawarninfo">「[https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/joho/tsunamiinfo.html 津波警報・注意報、津波情報、津波予報について]」気象庁</ref>)
|- style="background-color:#ddddff"
!style="background-color:#ddddff; width:9em"|浸水高 m
|0.2
|0.5
|style="min-width:12%"|0.7
|1
|style="min-width:6%"|2
|style="min-width:6%"|
|4
|style="min-width:6%"|
|style="min-width:6%"|
|8
|style="min-width:6%"|16
|style="min-width:6%"|
|style="min-width:6%"|32
|-
!木造家屋
|
|colspan="2"|(漂流物の直撃によって被害が出る場合がある)
|部分的に破壊される
|colspan="9"|全面的に破壊される。
|-
!石造家屋
|colspan="3"|
|colspan="3"|持ちこたえる。
|colspan="3"|
|colspan="4"|全面的に破壊される。
|-
![[鉄筋コンクリート構造|RC造]]ビル
|colspan="3"|
|colspan="4"|持ちこたえる。
|colspan="4"|
|colspan="2"|全面的に破壊される。
|-
![[防潮林]]
|colspan="3"|
|colspan="3"|漂流物を阻止し、被害は軽微。
|colspan="3"|漂流物を阻止し、被害は部分的。
|colspan="4"|効果がなく、被害は全面的。
|-
|colspan="14" style="line-height:5px"|
|- style="background-color:#ddddff"
!style="background-color:#ddddff"|沿岸での波高 m
|0.2||0.5||0.7||1||2||3||4|| || ||8||16|| ||32
|-
![[漁船]]
|colspan="4"|
|colspan="2"|被害が出始める。
|colspan="3"|被害率50%
|colspan="4"|被害率100%
|-
![[養殖]][[いかだ]]
|colspan="3"|
|colspan="10"|被害が発生する。
|-
!rowspan="3"|音
|colspan="5" style="border-bottom:hidden"|
|colspan="9"|海鳴りや暴風雨の音のような、前面が砕けた波による連続音。
|-
|colspan="6" style="border-bottom:hidden"|
|colspan="8"|雷鳴のような、浜で巻いて砕けた波による大音響。遠くまでは聞こえない。
|-
|colspan="8"|
|colspan="6"|遠雷や発破音のような、崖に衝突する大音響。かなり遠くまで聞こえる。
|-
!浸水<ref name="jmarep1"/>
|colspan="2"|
|海岸堤防の外側(海側)で浸水が生じうる。
|colspan="10"|海岸堤防の内側(内陸側)でも浸水が生じうる。
|-
!警報・注意報<br />(日本)<ref name="jmawarninfo"/>
|colspan="3"|{{Color sample|#faf500|size=0.8em}}津波注意報<br />海の中にいる人はただちに海から上がって、海岸から離れる。
|colspan="2"|{{Color sample|#ff2800|size=0.8em}}津波警報<br />沿岸部や川沿いにいる人は、ただちに高台や避難ビルなど安全な場所へ避難。
|colspan="8"|{{Color sample|#c800ff|size=0.8em}}大津波警報<br />沿岸部や川沿いにいる人は、ただちに高台や避難ビルなど安全な場所へ避難。
|}
津波は陸地近くでは、[[海底]]や[[運河]]、河口近くの川の底にあった土砂や[[泥]]、[[有機物]]を含む[[ヘドロ]]を巻き上げ、混ざり合って押し寄せる。こうした「黒い津波」は[[海水]]のみより[[比重]]が大きいため、破壊力が増す。さらに津波を呑んでしまった人や津波が引いた後の乾燥した陸地で舞い上がる粉塵を吸った人に[[肺炎]](津波肺)などの[[感染症]]を引き起こす<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56483870W0A300C2MY1000/ 「黒い津波 衝撃力2倍/有害ヘドロ巻き上げ重く」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年3月8日(サイエンス面)2020年6月23日閲覧</ref>。
=== 伝播 ===
[[File:2007年ペルー地震の津波伝播の様子.gif|thumb|270px|津波伝播の様子([[ペルー地震 (2007年)|2007年ペルー地震]])]]
津波は、水深が一定の海域で発生した場合には発生源を中心に同心円状に広がって行く。しかし、地震津波の場合、多くの地震が陸地近くの海域で起こるため、波のおよそ4分の3は海岸に向かい4分の1が外洋に向かう。たとえば[[チリ地震 (1960年)|1960年のチリ地震]]津波においては、南米チリ沖で生じた津波は最初は同心円を描いて伝播した。その後、チリの海岸線に対し垂直方向に進む波以外は次第に進路がチリの海岸向きに屈折した。結局、波の4分の3がチリ海岸に戻り、4分の1は太平洋を直進してハワイや日本に達したと考えられている。これは、[[大陸斜面]]を進む波は水深の大きい沖合で速度が速く、沿岸寄りでは遅くなるためである。実際、同じ環太平洋地域でありながら[[北アメリカ]]西岸や[[オセアニア]]などでは目立った津波被害は起こっていない。津波は物理的にはいわゆる[[孤立波]]であり、海の[[ソリトン]]とも呼ばれる。
=== 速度 ===
[[File:津波の速度.png|thumb|270px|津波の速度]]
津波の伝播する速度は水深と波高により決まる。大陸棚斜面から外洋に出ると水深は4,000 m前後でほとんど一定になり、また水深に比べて波高は問題にならないくらい小さいので、外洋での津波の速度は、[[重力加速度]](9.8 m/sec<sup>2</sup>。便宜的に10 m/sec<sup>2</sup> として差し支えない)に水深を乗じた値の平方根にほぼ等しい。式で表すと次のようになる。dは水深(単位はm)、速度は秒速 (m/sec) で示される。
:<math>\sqrt{gd}</math>
これを時速(km/hour)に直すには3.6倍すればよい。これにより、水深1,000 mで時速360 km、水深4,000 mで時速720 kmとなる。沿岸では水深が浅くなり、そのため津波の波高が増すので、上の式をそのまま適用すると不正確な値となるため、次の式を用いるのがよい。Hは水面上の波高である(単位はm)。
:<math>\sqrt{g(d+H)}</math>
ここから、水深10 m、波高6 mの場合の津波の速さはおよそ時速46 kmとなる。なお、1960年チリ地震津波はチリから日本まで平均時速750 kmで、2011年の東日本大震災では岩手県宮古市重茂半島で平均時速115 kmで、沿岸まで到達している<ref>[[日本経済新聞]]、平成23年4月22日22面</ref>。
=== 電磁場変動 ===
海水は良質な[[導体]]であることから[[地磁気]]の影響下で運動をすると、誘導[[電磁場]]が生じている。従って、常時流動している潮流でも発生しているが、津波の際には潮流で生じるのとは別な誘導電磁場が発生するため、この電磁場の観測を行うことで結果的に津波に伴う海水の変異が観測できる<ref>市原寛『[https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/Fsemi/F2012.html#a0713 2011年東北地方太平洋沖地震に伴う津波誘導電磁場]』</ref><ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2015/session/PDF/H-DS27/HDS27-13.pdf 三次元津波電磁場シミュレーションによる海底津波電磁場データの再現] 日本地球惑星科学連合大会 2015年 HDS27-13}}</ref>。また、[[電離層]]にも影響を与え、津波発生から数分後から1時間程度継続する「電離圏[[プラズマ]]の減少(津波電離圏ホール)」が生じ、GPS-TEC(GPS受信点から衛星までの視線方向に対する電離圏全電子数)観測によって観測が行える<ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2015/session/PDF/H-DS27/HDS27-11.pdf 金谷辰耶、鴨川仁「津波電離圏ホール検知による早期津波予測の高精度化」] 日本地球惑星科学連合大会 2015年 HDS27-11}}</ref>。
== 津波被害の態様 ==
[[ファイル:Tsunami2.JPG|thumb|right|200px|津波は、同じ高さの気象性の波浪に比べて波長が非常に長いため、一波が押し寄せるだけで大量の海水が海岸を襲う。]]
津波による水の圧力は非常に大きく、沿岸の広い地域に被害を与える。人的被害は水深30 cmでも発生し、被害の程度は「波高」(浸水高)と「流速」が密接に関係している<ref>松冨英夫、首藤伸夫「[https://doi.org/10.2208/proce1989.41.246 津波の浸水深, 流速と家屋被害]」『海岸工学論文集』 Vol.41 (1994) P.246-250, {{doi|10.2208/proce1989.41.246}}</ref> が、浸水深さが 2 m、4 m、8 m と深くなると被害の様相が大きく変化する事が報告されている<ref name="JMA.faq26">[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq26.html 津波について 津波波高と被害程度(首藤(1993)を改変)] 気象庁</ref>。東北地方太平洋沖地震では、宮城県内で2 mを境に流失率が増大し6 mでの流失率は80%程度と報告されている<ref>越村俊一、郷右近英臣「[https://doi.org/10.2208/kaigan.68.I_336 2011年東北地方太平洋沖地震津波災害における建物脆弱性と津波被害関数]」『土木学会論文集B2(海岸工学)』 Vol.68 (2012) No.2 p.I_336-I_340, {{doi|10.2208/kaigan.68.I_336}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+浸水高と被害程度の目安(気象庁による資料を改変)<ref name="JMA.faq26"/>
! 津波波高
! style="text-align:left" | 1 m
! style="text-align:left" | 2 m
! style="text-align:left" | 4 m
! style="text-align:left" | 8 m
! style="text-align:left" | 16 m
! style="text-align:left" | 32 m
|-
! 木造家屋
| colspan="1" | 部分的破壊
| colspan="8" | 全面破壊
|-
! 石造家屋
| colspan="2" | 持ちこたえる ||
| colspan="7" | 全面破壊
|-
! 鉄筋コンクリートビル
| colspan="3" | 持ちこたえる
| colspan="2" |
| 全面破壊
|-
! 漁船
| colspan="1" |
| 被害発生
| 被害率 50%
| colspan="3" | 被害率 100%
|-
! 防潮林
| colspan="2" | 被害軽微 漂流物阻止<br /> 津波軽減
| 部分的被害<br />漂流物阻止
| colspan="3" | 全面的被害<br />無効果
|-
! 養殖筏
| colspan="8" | 被害発生
|}
例として、'''2 m'''の普通の波と津波との違いを比較する。2 mの普通の波は、海上で普段から偏西風や[[低気圧]](気流)、月の引力などの影響を受けるため、少なからずデコボコが生じる。このデコボコの差が2 mあるだけで、波長や波を形成する水量は比較的少なく、海岸に達した所で沿岸地域に被害をもたらす事はそう多くはない。これに対し2 mの津波は、地震などによる海底の隆起または沈下により海水面自体が普段より2 m盛り上がり、それがそのまま海岸に向かって伝わっていく。言い換えれば、2 mの急激な海面上昇が起こることに近い。
つまり、2 mの普通の波は海岸に少量の海水をかける程度であるのに対して、2 mの津波は何kl(キロリットル)もの海水が一気に海岸地域を襲い、自動車や多くの人を簡単に飲み込み沖へ引きずり込んでしまう程の威力がある。2 mの「波」の水量は2(m)×波長数(m)×<!--正偏差分の半波長-->0.5×<!--半波長分×2 mを同じ高さの波に平均化-->約0.5×海岸の距離(m)で、海岸1 mに押し寄せる波の水量は波長3 mとして1.5 m<sup>3</sup>(=1500リットル)、[[ドラム缶]]数本分である。一方、2 mの「津波」の水量は2(m)×波長数十km(m)×0.5×0.5×海岸の距離(m)で、海岸1 mに押し寄せる津波の水量は波長10 kmとして5,000 m<sup>3</sup>(=5,000キロリットル)、競泳用[[プール]]2つ分となる([[体積の比較]]参照)。2003年に発生した[[十勝沖地震#2003年|十勝沖地震]]では、実際に2 mの津波に飲まれ死亡した人が確認されている。また、陸地に近づくと水流が建造物などを壊しながら内陸部へ進み、それらの[[瓦礫]]を巻き込むことによって破壊力を増す。更に、[[流氷]]や[[海氷]]などの漂流物を伴った場合に被害は増大する<ref>木岡信治, 竹内貴弘, 渡部靖憲「[https://doi.org/10.3811/jjmf.29.124 海氷群を伴う津波の陸上遡上による被害想定の研究概要 (海氷の衝突破壊・挙動および陸上遡上の実験/数値シミュレーションの試み)] 『混相流』2015年 29巻 2号 p.124-131, {{doi|10.3811/jjmf.29.124}}</ref>。
また津波が引いた後でも、損壊した住宅や市街地、工場、燃料タンクが炎上する[[津波火災]]、冷却機能を喪失した[[原子力発電所]]からの[[放射性物質]]漏れ(例:[[福島第一原子力発電所事故]])といった二次被害が発生する。
人的被害では、津波の水は海底の砂や岩とともに[[微生物]]、有害物質などを巻き込んでいるので、津波に巻き込まれて助かった場合でも、骨折や打撲などの外傷だけでなく[[肺]]の中に[[微生物]]や油脂、[[砂]]・[[泥]]などを取り込んでしまう「'''津波肺'''」<ref>井上義博, 菊池哲, 小野寺誠 ほか「[https://doi.org/10.11414/jjreanimatology.32.23 東日本大震災での当施設への搬送症例]」『蘇生』2013年 32巻 1号 p.23-28, {{doi|10.11414/jjreanimatology.32.23}}([[岩手医科大学]] 医学部 救急医学)</ref> の健康被害が発生することがある。
河口から[[河川]]に侵入した津波が数十km上流まで遡上することがある(地理的な要因次第だが、高さ1 mの津波でも5 kmは遡上すると言われる)。河川を遡上する津波は、伝播速度が速くなり、遡上距離が長くなる傾向にある。先端部の形態は[[砕波段波]]と[[波状段波]]の2種類がある。
1960年5月24日の[[1960年チリ地震|チリ地震津波]]では、[[沖縄県]][[石川市]]の石川川を遡上した津波が家屋の浸水などの被害をもたらした。2003年9月26日の[[十勝沖地震]]では、津波が[[波状段波]]を形成しながら北海道の[[十勝川]]を遡上する様子が[[自衛隊]]により撮影された。この時の津波は、河口から少なくとも11 km上流まで遡上したことが確認されている。2011年東北地方太平洋沖地震による津波は、[[関東地方]]でも[[利根川]]の40 kmを筆頭に、[[江戸川]]3 km、[[多摩川]]13 km、[[荒川 (関東)|荒川]]28 kmなど<ref>[http://mainichi.jp/area/chiba/news/20110929ddlk12040117000c.html 大震災・安心の行方:東京湾内津波、最大1〜2メートル 首都圏も被災の危険 /千葉]{{リンク切れ|date=2015年5月}}『毎日新聞』</ref>、河口から遠い内陸部まで到達した。このことから、海に面していない埼玉県でも地震後、津波の被害に対応する地域防災計画の検討を始めるなどしている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120104-OYT1T00987.htm 「海のない埼玉県が津波対策、荒川遡上を想定」]{{リンク切れ|date=2015年5月}}『読売新聞』ニュースサイト(2012年1月5日03時00分配信)</ref>。
また、遡上する津波が高い場合は河川の堤防を決壊させて洪水を引き起こすことがある。2011年東北地方太平洋沖地震の津波では、[[青森県]]、岩手県、宮城県の計22河川が津波により同時に決壊するという未曽有の被害を生じた<ref>[https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/kasentsunamitaisaku/dai01kai/index.html 国土交通省河川津波対策検討会資料] リンク先資料にあるとおり、津波を間接的原因として高潮や河川自身の流水によるものも含めれば、55河川での洪水を引き起こしている。</ref>。[[北上川]]では、河口から49 km離れた旧[[中田町 (宮城県)|中田町]]にまで津波が到達し、農地の大規模浸水が起こっているほか<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/bumon/b00037/k00290/river-hp/kasen/shinsaikanren/data/01kasenkaigansisetunohigaijyoukyou/2tunaminokasensojyoujyoukyou.pdf 国土交通省東北地方整備局資料]{{リンク切れ|date=2015年5月}}</ref>、[[名取川]]では仙台市[[太白区]]・[[若林区]]の、旧北上川や新北上川(追波川)では[[石巻市]]の市街地を濁流に呑み込み、甚大な被害を出した。特に[[石巻市立大川小学校]]では新北上川の堤防が高台であると考えて避難しようとしていたところ、川を遡上してきた津波が小学校を襲い、児童・教師らが多数死亡するという悲惨な出来事も起きている。津波の河川遡上という現象自体が一般にあまり知られていなかったため、津波の際に人々が海岸から離れることはあっても、河口付近以外で河川から遠ざかろうとすることは当時まれであった。
河川を遡上する津波と似たような物理現象として、潮津波がある。代表的なのは、南米[[アマゾン川]]の[[ポロロッカ]]、中国の[[銭塘江]]などで起きる[[海嘯]]である。津波が河川に侵入するのを防ぐために、防潮水門などが設けられている川も多い。
[[画像:Tidal bore at the Qiantang river, Hangzhou.jpg|サムネイル|250px|銭塘江の海嘯]]
== 津波被害の軽減・回避 ==
海岸やその近く平野部は経済活動に便利なうえ、景観が良いため人口が集まる傾向が古来あり、その分、津波が襲来した場合は被害を受けやすい。このため津波への対策としては、「津波被害を受ける可能性がある地域を平時から予測する」「津波の襲来を早期に感知して避難する」「防潮堤などで津波の内陸侵入を極力防ぐ」「建物や道路・[[鉄道]]を普段からなるべく内陸や高台に移しておく」といった対策を組み合わせることが必要となる。
=== 津波と津波防災の研究 ===
津波そのものや主な発生原因である海底地震については[[海洋学]]を中心とする[[地球物理学]]の面から、防潮堤や[[水門]]による対策については[[土木工学]]などの面から研究されてきた。日本ではこれらにより将来想定される津波被害を予測・対応するだけでなく、陸上の[[津波堆積物]]や[[津波石]]を調査したり、津波にまつわる古文書や[[大津浪記念碑]]を再評価したりする動きが、特に東日本大震災後においては盛んになっている<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO98087760V00C16A3000000/ 【再生への闘い】(5)古文書が語る日本災害史、刻まれた「先人の教え」]『日本経済新聞』2016年3月10日</ref>。
またプールや水槽で津波に似せた水の動きを起こし、水流を受けた際の人の動きや建物への影響をシミュ―レートしたり、津波を疑似体験してもらい防災・[[減災]]の啓発に役立てたりする取り組みも行われている<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00467377 「中央大、津波を再現 沿岸防災向け水槽完成」]『[[日刊工業新聞]]』2018年3月28日(科学技術・大学面)2018年5月26日閲覧。</ref>。
2017年11月には、津波防災を[[学際]]的に研究する「国際津波防災学会」が日本で設立された<ref>[https://intl-tsunami.org/ 国際津波防災学会](2018年2月3日閲覧)</ref>
=== 津波の到達と高台への避難 ===
水深の深い[[湾]]、次第に狭くなる湾や入り江の奥部、周囲を海に囲まれた[[岬]]の先端などでは、津波(到達高)が高くなる<ref name="jma1"/>。湾では減速しながら海岸に接近した先行波に後続波が重なりやすいため。(湾口で波高2 mのものが湾奥で5 m超になった例がある<ref name="nishimura1977-123"/>)
潮が引く「[[引き波]]」から始まる時も、盛り上がる「[[押し波]]」から始まる時もある<ref>{{Cite web|和書|author= 災害時の避難に関する専門調査会 津波防災に関するワーキンググループ |date=2013-03-06 |url=https://www.bousai.go.jp/jishin/tsunami/hinan/1/pdf/sub.pdf |title=津波の概要 |accessdate=2013-10-29}}</ref>。これは発生様式によって「海底地形の変化」が異なるためである。浸水後の引き波は、次第に速度を増していき、流速は浸水時よりも早い場合がある。重力による落下が水の勢いを加速させるため。
第1波が一番高いとは限らず、数十時間にわたり数波の来襲がある場合もある。これは反射・屈折・[[干渉 (物理学)|干渉]]した波や[[余震]]で発生した別の津波によって不規則に波が重なることがあるため。
[[ファイル:TsunamiHazardSign.svg|thumb|right|津波警戒標識]]
[[ファイル:Tsunami Warning Flag in Japan Vector.svg|thumb|right|[[津波フラッグ]]]]
[[ファイル:Jrb 20061121 Tsunami Evacuation Platform 001.JPG|thumb|right|津波緊急退避施設([[焼津市]])]]
[[ファイル:Okumatsushima tsunami P1130116.JPG|thumb|right|津波避難路マップ([[東松島市]])]]
一般的に海岸近くでの津波への警戒・対応として、強弱に関わらず揺れを感じた場合、「できれば内陸深くへ、難しそうなら近くの高台、建物の上層部へ速やかに避難すること」が推奨される。日頃からの避難の心得として「[[津波てんでんこ]]」という標語もある。津波の襲来が目視できる前でも、海岸や河口付近の低地に留まることは危険である。
日本などの津波警報体制が整備されている地域では、地震後速やかに津波に関する情報が発表されることが期待されるので、防災担当機関は「[[津波警報]]」「[[津波注意報]]」などが発表されたら速やかに[[避難]]するよう呼びかけている。また、海水浴場等では、津波フラッグが提示される。日本では市町村が海岸の近くに「避難場所や[[避難経路]]を示す掲示」を行っている場合があるので、その場所へ避難すれば安全が確保されると考えられる。避難場所ごとに適した災害の種類が異なる場合があるので、津波の避難場所と明示されている所がより安全である。なお、津波の危険性がある居住地では、日頃より避難場所と経路を確認しておくことが、避難の迅速化が期待されるため推奨されている。また、平坦な場所で津波が近くに迫っている場合は緊急避難的に、一般に頑丈と考えられる[[鉄筋コンクリート造]]の3階建て以上のビルに避難し、3階以上に昇ると「ほぼ安全」(消防庁)としている<ref>[http://www.fdma.go.jp/neuter/topics/tsunamisaigai/index.html 津波災害への備え] 消防庁、2012年2月5日閲覧。</ref>。内陸や高台への避難が間に合わない場合に備えて、[[津波避難施設]]が日本各地の沿岸部に整備されている。
防災無線が伝わらない聴覚障害者や、スマホなどを所持しておらず津波情報が受け取れない[[海水浴場]]の遊泳者などのために、沿岸部における視覚的な伝達手段として[[津波フラッグ]]が制定されている。
[[東北大学]]や[[国際航業]]、[[日本電気|NEC]]などが2018年5月に設立を発表した新会社「RTi-cast」(本社・宮城県[[仙台市]])は、津波警報や津波注意報が出るような地震が発生すると、[[スーパーコンピュータ]]を使い30分以内に被害予測を算出し、通知する事業を行う。[[内閣府]]が[[南海トラフ巨大地震]]に備えて採用している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30300460Q8A510C1000000/ 【STARTUP X】津波予測通知で新会社 地震直後にスパコンで推定 東北大など]『[[日経産業新聞]]』2018年5月11日(1面)。</ref>。
==== 津波防災地域づくり法による区域指定 ====
沿岸部でも、地形や人の居住の有無によって、予想される津波被害は異なる。東日本大震災前から一部では[[ハザードマップ]]が作られるなどしていたが、津波の高さの想定や周知は十分でなかった。東日本大震災が起きた2011年の年末、「津波防災地域づくり法」が制定され<ref>[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/point/tsunamibousai.html 津波防災地域づくりに関する法律について] 国土交通省(2018年3月28日閲覧)</ref>、翌年施行された。同法に基づき、建物の床面嵩上げなどが求められる津波災害の「特別警戒区域」のオレンジゾーンとして2018年3月27日、静岡県[[伊豆市]]の[[土肥町|土肥]](とい)地区の一部が全国で初めて指定された。津波ハザードマップの作成などが必要な「警戒区域」(イエローゾーン)は徳島県や山口県など7府県の83市町が指定されている。
ただ、地元がイメージ悪化を恐れて、津波の被害想定や対策が進まない傾向も指摘されている。特別警戒区域のうち、住宅の新改築を制限できるレッドゾーンは、2018年3月時点で指定例はない<ref>「伊豆に津波特別警戒区域/土肥地区 全国初の指定/防災積極性をアピール」『[[読売新聞]]』朝刊2018年3月28日(社会面)</ref>。
==== 伝承・思い込みとその影響 ====
原則として[[地震]]による海底の上下変動が起きれば津波が発生する。しかし、しばしば津波に関する根拠の薄い情報が伝承された結果、人的被害が拡大した事例が数多く確認されている。地震後に[[津波警報]]が発表された場合、一刻も早く[[丘|高台]]へ避難することが必要とされる。
* 2011年の[[東日本大震災]]では、{{要出典|範囲=「頑丈な防潮堤があるから大丈夫」であるとか、明治三陸沖地震による津波の記録や1960年のチリ地震の記憶から「過去の大津波でもここまで津波が来なかった」「今までに何度も大地震は起こったが、いつも津波注意報どまりで津波は来なかった」などのような|date=2019年6月|title=[[WP:TVWATCH]]記述}}過去の経験の影響で避難しなかったり、避難が遅れたりした<ref>大野沙知子, 高木朗義、「[https://doi.org/10.2208/jscejipm.69.I_75 新聞記事を用いた東日本大震災における津波避難行動に関する考察]」 『土木学会論文集D3(土木計画学)』 2013年 69巻 5号 p.I_75-I_89, {{doi|10.2208/jscejipm.69.I_75}}</ref> ために、津波の犠牲になった住人もいた<ref name=kahoku.spe1114>[https://www.kahoku.co.jp/special/spe1114/20130502_01.html 第5部・備えの死角(4完)経験/思い込み、鈍る避難行動] 河北新報オンラインニュース</ref>。<!---NHK東北で放送の震災ニュースでの被災者の証言などから--->{{要出典|範囲=また、1960年のチリ地震による津波において、ハワイのヒロでは、「過去の地震による津波があまり高くなかった」という過去の経験や、「津波は震源地であるチリがある<!---ハワイからみて--->南東方向からやってくる。」と判断した住人が犠牲となった。<!---「ナショナルジオグラフィックチャンネル」『警告!最大級の自然災害ビッグ4・壊滅的大地震の恐怖』から--->|date=2019年6月|title=[[WP:TVWATCH]]記述}}
* 東日本大震災では[[釜石市|岩手県釜石市]]が設置していた鵜住居地区防災センターが、「防災」という名称から津波避難場所と誤解され犠牲者が出たとして、訴訟になった例がある<ref>{{Cite news|url=http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20170422_1|title=「避難場所誤解させたと言えず」震災遺族の請求棄却|work=|publisher=[[岩手日報]]ウェブニュース|date=2017年4月22日}}</ref>。
* 宮城県の[[歌津町]]、[[戸倉村]]を含む地方や、岩手県田老町では「晴れた日には、よだ(津波)はこない」「寒い時期の津波はない」「冬の晴れた日には津波は来ない」といった話が伝えられていた<ref>{{PDFlink|[https://www.fdma.go.jp/publication/database/item/database009_01_01.pdf 全国災害伝承情報 現在までに語り継がれる『災害』について]、24頁。総務省消防庁。}}</ref><ref name="市民">[http://www.sbk.or.jp/topics/resume/20041113.pdf 命あってこそ 〜あたりまえの防災学〜]、1頁。市民防災研究所。</ref>。[[昭和三陸地震]]の際にはこの伝承によって却って大勢の犠牲者を出したと言われている。なお、東北地方太平洋沖地震も寒い時期の発生であり、また津波到達時に三陸沿岸では雪が降っていた。
* 昭和三陸地震では強い揺れを伴ったが、過去の経験に因る「強い揺れがあったときは津波は来ない」という伝承から被害に遭った者もいる<ref>{{PDFlink|[https://www.bousai.go.jp/jishin/tsunami/hinan/1/pdf/2.pdf 資料2 主な津波被害]、3頁。災害時の避難に関する専門調査会 津波防災に関するワーキンググループ 第1回会合}}</ref>。これは、[[明治三陸地震]]で弱くゆっくりとした揺れの後に津波が来たという経験に基づいている。
*[[明治三陸地震]]による津波が発生した6月15日は[[旧暦]]の[[端午の節句]]、昭和三陸地震による津波が発生した3月3日は[[新暦]]の[[桃の節句]]に当たることから、「津波は節句の日に来る」という伝承も生まれた。
* 「津波は[[引き波]]から来る」という誤った知見<ref>{{Cite news|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110501t33008.htm|title=「津波の前必ず引き潮」 誤信が悲劇招く 岩手・大槌|newspaper=[[河北新報]]|date=2011-05-01|accessdate=2011-05-01}}{{リンク切れ|date=2015年5月}}</ref> に基づいた教育がかつて行われていたこともあり、[[開発途上国]]を含めて誤った知識が流布されている。かつての日本でも、「地震が起きたら海へ逃げろ」という陸上での津波避難としては適切でない教訓があった<ref name="市民"/>。この説は、秋田県の[[男鹿半島]]では、1964年に起きた[[男鹿半島沖地震]]での山崩れの経験からのものだとされている。またこの伝承は、「日本海側には津波は来ない」という思い込みも影響して、[[日本海中部地震]](1983年)による被害を拡大させたと考えられている。
* 北海道[[日高地方]][[静内町]]神森付近の[[アイヌ民族]]には、「酒盛りをしていた家を津波が避けて通ったため、津波の神は酒<!--粕-->を嫌う」という伝承があり、変事のたびに家の周りに[[酒粕]]を撒いて津波除けに用いていた<ref>{{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf 北海道における津波に関するアイヌの口碑伝説と記録] 歴史地震研究会 『歴史地震』 No.20 (2005) p.183-199。北海道立地質研究所 髙清水康博}}</ref>。
* 「津波の前には必ず[[井戸]]の水が引く」という俗説もあり、実際に昭和三陸地震の時にはわざわざ井戸を覗きに行ったがために津波から逃げ遅れた人もいるという<ref name="tendenko">山下文男『津波てんでんこ―近代日本の津波史』新日本出版社、2008年。ISBN 9784406051149</ref>。
* 三重県[[尾鷲市]]では、「地震の後、津波が来るまでに、ご飯を炊く時間がある」「地震が発生してから津波が来るまでには、ご飯を炊いて食べて、それを[[弁当]]に持って逃げられるだけの時間的余裕がある」といった伝承もあったが、[[昭和東南海地震]]による津波は約15分程度で来襲したので、とてもそのような余裕はなく慌てたとの体験談が残っている<ref name="tendenko" />。
* 「地震の時は竹藪へ逃げろ」との伝承を信じたがために津波の犠牲になった例が[[昭和南海地震]]において見られた。[[竹林]]は地震による地割れを防ぐから安全という俗説から生じたもので(漫画版『[[日本沈没]]』にも同様の描写がある)、もとより明確な根拠はなく([[竹林#竹林と災害]]も参照)まして津波からの逃避策にもならない<ref name="tendenko" />。
=== 津波シェルターへの避難 ===
飲料水・食料・医薬品などを積載しトイレを付属させた浮揚型のアルミ製の津波シェルターも開発されている<ref>{{Cite web|和書|date=2013-11-06|accessdate=2013-11-13|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201311060170.html|title=海に浮く津波シェルター開発|publisher=中国新聞}}{{リンク切れ|date=2015年5月}}</ref>。
=== 船舶 ===
{{節スタブ|date=2016年3月}}
海上の[[船舶]]は、津波警報等で接岸許可が出ず停泊して待機したり、船は横波に弱いので船首を沖へ向けたり、沖合での被害は波浪に比べても少ないので、沖合へ避難したり、接岸していた船舶が緊急に出港する事もある。東日本大震災でも、そのような[[漁船]]が引き波で海へ流された被災者の救助に活躍した。また、東日本大震災では、複数の船舶が陸に打ち揚げられ、建物の上に乗り上げたものもあった。
== 津波被害からの復旧・復興 ==
{{節スタブ|date=2017年11月}}
大規模な津波に襲われた地域・国家では先ず、被災者の救出・救援、行方不明者の捜索、犠牲者の死体収容、津波火災の消火といった応急対応を行う。次に、家を失った被災者の[[仮設住宅]]などの確保、津波により発生した大量の廃棄物(がれき)や破壊された建物残骸の撤去・処理などに取り組み、続いて被災地域の復興へ移る。
津波は再来する可能性があるため、防潮堤の新設・嵩上げによって将来の被害を防止・軽減を図ることのほか、復興では土地利用のあり方が問題となる。津波常襲地であった[[三陸地方]]では、昭和以前の津波の到達点などを示す[[災害記念碑]]や行政による看板が多く設置されていたが、東日本大震災ではそれより海に近い地域で多くの被害が出た。東日本大震災後では、津波再来のリスクが高い地域での建築制限、高台への市街・住宅地や道路・鉄道の移転などが行われている。また[[南海トラフ巨大地震]]による津波襲来が予測されている地域などでは、被害軽減や復興がしやすい地域づくりを目指す「事前復興」という対策も導入されつつある<ref>[https://www.skr.mlit.go.jp/kensei/saigainituyoi/zizentaiou_pdf/zizentaiou-honpen.pdf 「四国における津波災害からの復興まちづくりに向けた事前対応の手引き」] 国土交通省四国地方整備局 災害に強いまちづくり検討会 (平成29年=2017年3月)</ref>。
{{see|減災}}
== 津波の監視体制 ==
{{See also|津波警報システム}}
=== 日本 ===
[[ファイル:Numazu port gate.jpg|thumb|250px|津波を防ぐための水門「びゅうお」(静岡県・[[沼津港]])]]
日本では、[[気象業務法]]により気象庁が津波の監視と警報の発表を行うことが規定されている。気象庁は、津波の原因となる地震活動を24時間体制で監視しており、地震が発生すると最速2分以内に津波に関する予報・警報([[津波予報]]・[[津波注意報]]・[[津波警報]]・[[津波警報|大津波警報]])を発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jp/tsunami/|title=防災情報(津波)|publisher=気象庁ホームページ|accessdate=2017-6-10}}</ref>、テレビ・ラジオやインターネットなどで速報される。震源が遠くても規模の大きな地震など、震度が小さい地震の場合でも津波警報等が発表される場合もある。津波警報等の発表までの時間を短縮するために、[[地震計]]をより高性能のものに置き換える作業やケーブル式海底地震計の整備等が行われている。
こうした警報の支えとして、[[防災科学技術研究所]]が日本列島の太平洋側海底に観測機器ネットワークを設置している。東日本では[[日本海溝海底地震津波観測網]](S-net)、[[東南海地震]]の想定震源域には[[DONET|DONET1]]、[[南海地震]]の想定震源域では[[DONET2]]である。また[[統計数理研究所]]や[[東京大学地震研究所]]、[[高知工科大学]]は津波に伴う海面隆起などを遠方から補足できる微気圧振動(インフラサウンド)を観測しており、[[日本気象協会]]が2017年夏に開設する専用ホームページをデータを公開する予定である<ref>「微気圧振動研究を加速/統計数理研など 観測データ夏にも公開 南海トラフ 地震津波観測に活用」『日刊工業新聞』2017年4月20日</ref>。
気象庁は、1952年に津波警報業務を開始し、1982年には気象資料自動編集中継装置 (ADESS) の地震処理業務開始を利用した警報業務が行われた<ref>{{PDFlink|[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/minkan/koushu120518/shiryou4.pdf 津波警報の改善について] 気象庁 地震火山部 地震津波 監視課 2012.5.18}}</ref>。その後システムは改良され、2006年には[[緊急地震速報]]と連携したシステムとなり、予め計算していた予測情報と観測した地震の震源位置や規模などの情報を合わせ警報が出されている。なお、平成25年3月には東北地方太平洋沖地震の経験を踏まえ、発表方法や表現を変更したシステムが運用されている<ref name="JMA.tsunami.kaizen">[https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/kaizen/ 津波警報の改善について] 気象庁 2013年2月21日</ref>。
気象庁においては、予想される津波の高さに合わせて、津波警報等は以下の2区分3種類が発表される。なお、報道では「大津波の津波警報」は気象庁の会見で用いられることがあるが、報道ではかえって分かりづらいと考えて“大津波警報”を俗称として使用していた。
{|class="wikitable"
|-
|rowspan="2"|津波警報
|style="color:#ffffff; background-color:#c800ff;"|大津波
|高いところで5 m以上の津波(発表される津波の高さは5 m、10 m、10 m超の3種類。速報では「巨大」と発表される場合あり)
|-
|style="color:#ffffff; background-color:#ff2800;"|津波
|高いところで3 m程度の津波(速報では「高い」と発表される場合あり)
|-
|津波注意報
|style="background-color:#faf500;"|津波注意
|高いところで1 m程度の津波(速報では高さを発表されない場合あり)<ref>かつては、「数十cm程度」の表現だった。[http://www.youtube.com/watch?v=rOqjeufJMgQ 1993年7月12日「北海道南西沖地震」緊急速報(YouTubeより、4分20秒頃と9分25秒頃)]</ref>
|}
津波は最初の第1波が最大とは限らず、数十分から1時間前後の間隔をおいて第2波、第3波と複数の後続波がやってくることがある。また、湾内では固有振動数で共鳴し増幅され大きな津波となって陸上に浸水する恐れがある。このため、津波警報・注意報が解除されるまでは警戒・注意が必要である。太平洋沿岸で発生する[[巨大地震]]による津波では、数千km彼方の対岸の陸地で反射した波が到達する。たとえば、1960年チリ地震では片道約22時間かかっているので、反射波は30時間から50時間も継続する。従って、東北地方太平洋沖地震の例では発生直後から全て解除されるまで51時間余に渡って発表され続けた)場合もある。
また、津波警報・注意報は、日本の沿岸を細かく区切った津波予報区にしたがって、地域を指定して発表される。
* 日本の詳しい津波予報区分の図…[https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/joho/t-yohokuinfo.html 気象庁 津波予報区について]
* 津波警報・注意報サイト…[https://www.jma.go.jp/jp/tsunami/ 気象庁 津波警報・注意報]
津波警報や津波注意報が発表された場合は、到達時刻や予想される津波の高さ、各地の満潮時刻、津波が到達した場合の観測波高などの「津波情報」が発表される。
* 津波情報サイト…[https://www.jma.go.jp/jp/tsunami/joho.html 気象庁 津波情報]
* 津波警報等・情報サイト…[http://www.tenki.jp/tsu/ 日本気象協会 津波情報]
==== 東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)後 ====
2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、発生3分後に宮城県に6 m・岩手県および福島県に3 m、28分後に岩手県に6 m、44分後に東北から千葉県の太平洋沿岸に10 m以上の大津波警報をそれぞれ発表した。しかし速報値M7.9であったのが実際にはM9.0で津波の高さは10 m以上であった上、第1波が宮古に到達したのは地震15分後、大船渡で8 mの津波が観測されたのは34分後であったため、警報の遅れと誤差が被害を拡大したとされていた。M8以上の地震の規模と津波の高さを3分以内に判定することは不可能であることから、気象庁の検討会が2012年1月31日に新しい警報案を発表した<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120131/t10015660731000.html 津波警報 区分見直しなど改善策:NHK:2012年1月31日 11時46分]{{リンク切れ|date=2015年5月}}</ref>。その中では、「大津波警報」という呼称を「津波警報(大津波)」と同義のものとして正式に位置づけ、同様に「津波警報」という呼称を「津波警報(津波)」と同義のものとするとした<ref>{{PDFlink|[https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/study-panel/tsunami-kaizen/01tsunami_keihou_kaizen_honbun.pdf 東北地方太平洋沖地震による津波被害を踏まえた津波警報の改善 本文]}} 気象庁 平成24年3月1日 pp.19</ref>。新運用による警報業務は2013年3月7日12時から行われた<ref name="JMA.tsunami.kaizen"/>。
'''M8を超える地震で津波が予想される場合'''
※警報や情報文中で基本的に用いられる呼称にて表記
*第1報(約3分以内)
{|class="wikitable"
|-
|style="color:#ffffff; background-color:#c800ff;" align="center"|大津波警報
|高さは「巨大」と表現し、「直ちに高台に避難」と呼びかける。
|-
|style="color:#ffffff; background-color:#ff2800;" align="center"|津波警報
|高さは「高い」と表現し、「直ちに高台に避難」と呼びかける。
|}
*第2報(約15分後)
{|class="wikitable"
|-
|style="background-color:#ddddff;"|
|style="background-color:#ddddff;" align="center"|発表される高さ
|style="background-color:#ddddff;" align="center"|発表基準
|-
|style="color:#ffffff; background-color:#c800ff;" rowspan="3" align="center"|大津波警報
|align="center"|10 m超
|align="center"|10 m < (予想高)
|-
|align="center"|10 m
|align="center"|5 m < (予想高) ≦ 10 m
|-
|align="center"|5 m
|align="center"|3 m < (予想高) ≦ 5 m
|-
|style="color:#ffffff; background-color:#ff2800;" align="center"|津波警報
|align="center"|3 m
|align="center"|1 m < (予想高) ≦ 3 m
|-
|style="background-color:#faf500;" align="center"|津波注意報
|align="center"|1 m
|align="center"|0.2 m ≦ (予想高) ≦ 1 m
|}
==== 津波情報の充実と問題点 ====
[[緊急警報放送]]や[[緊急地震速報]]などの施行で現在は津波情報が充実しているが、津波警報が出ても避難をしない住民が多いことはかねてから問題になっており、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])では津波教育がうまくいっていないことが浮き彫りになった。そのため、制度としての警報のみならず、受ける側も教育・啓蒙されることが必要とされている。
=== 太平洋津波警報センター(太平洋など) ===
日本を含む太平洋地域では、1960年のチリ地震による津波で、日本を含む各国に被害が出たことをきっかけに、[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)が中心となって、太平洋津波警報組織国際調整グループ (ICG/PTWS) が設立された。現在、日本やアメリカ、中国、オーストラリア、チリ、ロシア、韓国など26の国と地域が加盟しており、沿岸各国で地震や津波が発生した場合、データが[[ハワイ州|ハワイ]]にあるアメリカ国立海洋大気局の[[太平洋津波警報センター]] (Pacific Tsunami Warning Center, PTWC) に集められ、各国に津波の規模、到達推定時刻などの警報を発する仕組みがある。太平洋津波警報センターが発表する津波警報には、地域ごとに以下のものがある<ref>PTWC [http://www.prh.noaa.gov/ptwc/about_messages.php About PTWC Messages]</ref>。
{|class="wikitable"
|+'''太平洋'''
|-
|style="background-color:#ff9999;"|Pacific Ocean-wide Tsunami Warning (太平洋広域津波警報)
|-
|style="background-color:#ffcccc;"|Expanding Regional Tsunami Warning (地域拡大津波警報)
|-
|style="background-color:#ffff66;"|Fixed Regional Tsunami Warning (地域固定津波警報)
|-
|style="background-color:#ccff66;"|Tsunami Information Bulletin (津波情報速報)
|}
{|class="wikitable"
|+'''太平洋(2014年10月1日00UTC以降)'''
|-
|rowspan="3"|TSUNAMI THREAT MESSAGE
|style="background-color:#ff9999;"|TSUNAMI THREAT FORECASTにて、高さ3 m以上の地域・沿岸
|-
|style="background-color:#ffcccc;"|TSUNAMI THREAT FORECASTにて、高さ1 mから3 mの地域・沿岸
|-
|style="background-color:#ffff66;"|TSUNAMI THREAT FORECASTにて、高さ0.3 mから1 mの地域・沿岸
|-
|rowspan="1"|TSUNAMI INFORMATION STATEMENT
|style="background-color:#ccff66;"|津波の発生が予想されない場合に報じる
|}
PTWCは、PTWS加盟各国に対し、2014年10月1日00UTCより、津波情報の形式や内容の改定を行うことをアナウンス<ref>{{Cite web |date= |url=http://itic.ioc-unesco.org/index.php?option=com_content&view=category&layout=blog&id=2143&Itemid=2582 |title=Start of Issuance of PTWC Enhanced Products for the Pacific Tsunami Warning and Mitigation System (PTWS) by 0000UTC on 1 October 2014 |publisher=IOC Circular Letter No.2535 |accessdate=2014-09-06}}</ref> している。<br />具体的にどのような情報を加盟各国に報じるのかと言った詳細は、2014年9月までに改版(まだ軽微な記述更改が行われている)されるガイドブック<ref>{{Cite web |date= |url=http://unesdoc.unesco.org/images/0022/002203/220368E.pdf |title=User's Guide for the Pacific Tsunami Warning Center Enhanced Products for the Pacific Tsunami Warning System |publisher=UNESCO IOCTS 105 |accessdate=2014-09-06}}</ref> に掲載されている。
変化するのは、PTWCが半ば強制力を持って警報や注意報を加盟各国にしていたところから、各国が判断するために必要な情報の支援に徹するという方向転換が図られた。これまで使用されている「Tsunami warning is in effect」、「Tsunami watch is in effect」といった、警報・注意報の文言が廃止され、どの程度の高さの津波が来襲するか、その地域を具体的に明示して告知するよう改められる。この文言に替わったからといって、自国の津波に関わる警報・注意報の更改を迫るものではない。加盟各国は出来うる範囲での改定は行うことを検討し、実効性のある改定作業を進めている。
PTWCが加盟各国に発信する津波情報(テキスト形式)は、次のような構成による。
{|class="wikitable"
|+'''PTWCの津波情報で報じられる要素・項目(テキスト形式 2014年10月1日00UTC以降)'''
|-
|rowspan="2"|TSUNAMI INFORMATION STATEMENT<br>or<br>TSUNAMI THREAT MESSAGE
|M6.5を超える地震があり、特段津波を起こす地震ではない場合
|TSUNAMI INFORMATION STATEMENT
|-
|津波を起こす地震と予想される場合
|TSUNAMI THREAT MESSAGE
|-
|rowspan="1"|NOTICE
|情報を用いる際の注意書きである。固定されており、用途や主たる目的が明記される。
|THIS STATEMENT IS ISSUED FOR INFORMATION ONLY IN SUPPORT OF THE UNESCO/IOC PACIFIC TSUNAMI WARNING AND MITIGATION SYSTEM AND IS MEANT FOR NATIONAL AUTHORITIES IN EACH COUNTRY OF THAT SYSTEM.<br>
NATIONAL AUTHORITIES WILL DETERMINE THE APPROPRIATE LEVEL OF ALERT FOR EACH COUNTRY AND MAY ISSUE ADDITIONAL OR MORE REFINED INFORMATION.
|-
|rowspan="1"|UPDATES
|津波情報を更新した情報を報じるとき用いる。
|
|-
|rowspan="1"|PRELIMINARY EARTHQUAKE PARAMETERS
|地震の発現日時、位置、深さ、地域、規模の情報
|例:
* MAGNITUDE 9.0
* ORIGIN TIME 0000 UTC OCT 1 2014
* COORDINATES 20.0 SOUTH 173.4 WEST
* DEPTH 20 KM / 12 MILES
* LOCATION TONGA
|-
|rowspan=|EVALUATION
|地震に関するPTWCの検討結果を簡単に明示する。
|
|-
|rowspan="3"|TSUNAMI THREAT FORECAST
|rowspan="3"|津波発生し、沿岸地域に到達が予想される場合、予想される津波高(最小)に該当する地域や国の名称が記述される。
|TSUNAMI WAVES REACHING MORE THAN 3 METERS ABOVE THE TIDE LEVEL ARE POSSIBLE ALONG SOME COASTS
|-
|TSUNAMI WAVES REACHING 1 TO 3 METERS ABOVE THE TIDE LEVEL ARE POSSIBLE ALONG SOME COASTS
|-
|TSUNAMI WAVES REACHING 0.3 TO 1 METERS ABOVE THE TIDE LEVEL ARE POSSIBLE FOR SOME COASTS
|-
|RECOMMENDED ACTIONS
|講じるべき措置
|加盟各国に対して、災害を小さくするための措置(何をしないとならないのか)について簡単に明記される。
|-
|ESTIMATED TIMES OF ARRIVAL
|津波観測点における予想される津波の予想到達日時 (UTC) が明記される。
|例:KATSUURA JAPAN 35.1N 140.3E 0948 10/01
|-
|POTENTIAL IMPACTS
|津波が到達した場合に考えられる影響について、箇条書きで明記される。
|
|-
|TSUNAMI OBSERVATIONS
|津波観測点において津波の観測された日時 (UTC) と高さ、周期(分)が明記される。
|例:LOTTIN PT NZ 37.6S 178.2E 0238 2.88M/ 9.5FT 15
|-
|NEXT UPDATE AND ADDITIONAL INFORMATION
|報知予告・その他注記事項について明記される。
|
|}
{| class="wikitable"
|+'''ハワイ'''
|-
|rowspan="3"|近地
|style="background-color:#ff9999;"|Statewide Urgent Local Tsunami Warning (全州緊急近地津波警報)
|-
|style="background-color:#ffcccc;"|Urgent Local Tsunami Warning (緊急近地津波警報)
|-
|style="background-color:#ccff66;"|Local Tsunami Information (近地津波情報)
|-
|rowspan="4"|遠地
|style="background-color:#ff9999;"|Tsunami Warning (津波警報)
|-
|style="background-color:#ffcccc;"|Tsunami Watch (津波監視)
|-
|style="background-color:#ffff66;"|Tsunami Advisory (津波注意報)
|-
|style="background-color:#ccff66;"|Tsunami Information (津波情報)
|}
{| class="wikitable"
|+ '''インド洋'''
|-
|style="background-color:#ff9999;"|Indian Ocean-wide Tsunami Watch Bulletin (インド洋広域津波監視速報)
|-
|style="background-color:#ffcccc;"|Regional Tsunami Watch Bulletin (地域的津波監視速報)
|-
|style="background-color:#ffff66;"|Local Tsunami Watch Bulletin (近地津波監視速報)
|-
|style="background-color:#ccff66;"|Tsunami Information Bulletin (津波情報速報)
|}
インド洋についてはICG/IOTWS第9回総会において、BoM、INCOIS、BMKGによる情報発表が円滑に運用されていることが確認され、日本の気象庁及びPTWCに対し、2013年3月31日以降、情報提供を停止することが要請されたことを受け、インド洋地域の情報は、PTWCから情報は出ていない<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.ioc-tsunami.org/components/com_oe/oe.php?task=download&id=19488&version=1.0&lang=1&format=1 |title=9th Session of the Intergovernmental Coordination Group for the Indian Ocean Tsunami Warning and Mitigation System 27 - 30 November 2012, Jakarta, Indonesia |format=PDF |publisher=IOC/UNESCO |page=20 |accessdate=2013-03-02}}</ref>
<ref>{{Cite web |date= |url=http://ptwc.weather.gov/?region=4 |title=Indian Ocean (discontinued) |format= |publisher= PTWC |page= |accessdate=2013-03-01}}</ref>
<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1303/25a/index.html |title=インド洋津波監視情報の暫定提供の終了について |format= |publisher= 気象庁 |page= |accessdate=2013-03-25}}</ref>。
{| class="wikitable"
|+ '''カリブ海'''
|-
|style="background-color:#ff9999;"|Caribbean Sea-wide Tsunami Watch Message (カリブ海広域津波監視連絡)
|-
|style="background-color:#ffcccc;"|Regional Tsunami Watch Message (地域的津波監視連絡)
|-
|style="background-color:#ffff66;"|Local Tsunami Watch Message (近地津波監視連絡)
|-
|style="background-color:#ccff66;"|Tsunami Information Statement (津波情報発表)
|}
==その他の地域==
=== インド洋 ===
インド洋では、2004年の[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]を契機として、ユネスコが中心となって政府間調整グループICG/IOTWS<ref>[http://www.ioc-tsunami.org/index.php?option=com_content&view=article&id=8&Itemid=13&lang=en]</ref> を設立し、警報体制を構築した。インド洋では、
* [[オーストラリア気象局]] (BOM) の合同オーストラリア津波警報センター (JATWC)
* インド国立海洋情報センター (INCOIS)
* [[インドネシア気象・気候・地球物理局]] (BMKG)
の3つが担当機関となり、国内および沿岸各国に対して警報を発表している。<br />
2011年10月12日から正式な運用が始まった<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/press/1110/07b/ind-tsunami.html インド洋における国際的な津波警報体制の運用開始について] 気象庁、2011年10月7日。</ref><ref>[http://www.ioc-tsunami.org/index.php?option=com_content&view=article&id=8&Itemid=13&lang=en] IGC/IOTWS。</ref>。しかし、2014年には設置された25基のブイのうち22基が破壊や盗難に遭い稼働していないため、津波予測が不可能な状態になっていることが報道された<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2872083 盗難、漁船が係留…インドネシアの津波警報システム 機器壊れ機能せず] AFPBB News 記事:2012年04月16日 閲覧:2015年5月26日</ref>。
=== 北アメリカ ===
アメリカ西海岸・アラスカ津波警報センター (WCATWC) は、海岸の地形などを考慮してアメリカと周辺地域に11の区分を設けている。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]本土49州、[[カナダ]]、[[プエルトリコ]]、[[アメリカ領ヴァージン諸島]]を管轄する。それぞれに2段階(地域によっては1段階または区分なし)のTIS(Tsunami Information Statement, 津波情報発表)、3段階(地域によっては1段階)のWarning(警報)の津波情報があり、合わせて1段階〜5段階の警報レベルがある。
=== 大西洋 ===
大西洋のうちヨーロッパ諸国と北アフリカでも、2004年のスマトラ島沖地震を契機として、ユネスコが中心となって政府間調整グループICG/NEAMTWS<ref>[http://www.ioc-unesco.org/components/com_oe/oe.php?task=download&id=3524&version=1.0&lang=1&format=1 Twenty-third Session of the Assembly] UNESCO</ref> を設立し、警報体制の構築を始めている。<br />
2010年にRTWC(地域津波監視センター)をおき、
* フランス (Laboratoire de Géophysique, Commissariat à l’Energie Atomique (CEA))
* ギリシャ (Institute of Geophysics, National Observatory of Athens (NOA))
* イタリア ([[国家市民保護局]]、{{lang|it|Dipartimento della Protezione Civile}}) および [[イタリア国立地球物理学火山学研究所]] (INGV))
* ポルトガル (Instituto de Meteorologia (IM))
* トルコ (Kandilli Observatory and Earthquake Research Institute (KOERI))
代替センターおよび、データ収集を行う
* ドイツ (Geoforschungszentrum Potsdam (GFZ))
で行う。
=== カリブ海 ===
カリブ海では従来よりPTWCが警報を発表し各国に通知する体制があったが、2004年のスマトラ島沖地震を受けて、同様にユネスコが中心となって政府間調整グループICG/CARIBE EWS<ref>[http://www.ioc-tsunami.org/index.php?option=com_content&view=article&id=9&Itemid=15&lang=en]</ref> を設立、独自の警報体制を構築する動きが模索されている。
== 津波被害の歴史 ==
{{Main|歴史的な津波の一覧}}
{{seealso|地震の年表|地震の年表 (日本)}}
巨大な津波は、海底の[[砂利]]([[海砂]])、大きな石や貝殻などを陸地に運び上げ[[沿岸]]低地にそれらを堆積させる。これらは[[津波堆積物]]と言われる。過去の地層に残された津波堆積物から、有史以前の[[巨大津波]]の存在が多くの研究によって明らかにされている<ref>
{{Cite web|和書
|url=http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/tsunami_taiseki.html
|title=津波堆積物を用いた過去の巨大津波の研究
|publisher=[[産業技術総合研究所]] 活断層・地震研究センター|accessdate=2011-08-26}}</ref>。
例えばノルウェー沖では、紀元前6100年に[[ストレッガスライド]]と呼ばれる巨大海底地すべりが起き、内陸80 kmまで達する津波があったことが解明されている<ref name=stein>{{cite journal
|first = Stein
|last = Bondevik
|coauthors = Dawson, Sue; Dawson, Alastair; Lohne, Øystein
|year = 2003
|month = 5 August
|title = Record-breaking Height for 8000-Year-Old Tsunami in the North Atlantic
|journal = EOS, Transactions of the American Geophysical Union
|volume = 84
|issue = 31
|pages = 289, 293
|url = https://doi.org/10.1029/2003EO310001
|accessdate = 2007-01-15
|doi=10.1029/2003EO310001
|bibcode=2003EOSTr..84..289B}}</ref><ref>{{cite conference
|author=Bondevik, S; Lovholt, F; Harbitz, C; Stormo, S; Skjerdal, G
|title=The Storegga Slide Tsunami - Deposits, Run-up Heights and Radiocarbon Dating of the 8000-Year-Old Tsunami in the North Atlantic
|booktitle=American Geophysical Union meeting
|year=2006
|pages=}}</ref>。例えば日本では、[[北海道大学]]の[[平川一臣]]ら、および政府の地震調査委員会によって行われた宮城県気仙沼市[[大谷海岸駅|大谷海岸]]の調査によると、過去6000年間に紀元前4-3世紀頃、4-5世紀頃、869年の[[貞観地震]]、15世紀頃、2011年の東北地方太平洋沖地震の5回、三陸から房総にかけて約600年周期で海溝型地震と津波が起こったとされる<ref>読売新聞2011年8月22日13S版2面 [http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110821-OYT1T00511.htm 巨大津波、三陸で6千年に6回か…地層に痕跡]</ref><ref>産経新聞2011年8月22日 [http://sankei.jp.msn.com/region/news/110822/myg11082213000000-n1.htm 気仙沼 6千年で6回の巨大津波 北大教授ら痕跡発見]、[[河北新報]]2011年8月22日 [http://www.kahoku.co.jp/news/2011/08/20110822t75007.htm 気仙沼、6000年に6回大津波 「貞観」石巻以北も到達か]、毎日新聞2011年8月22日東京朝刊 [http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110822ddm001040057000c.html 巨大津波:6000年で6回 周期性解明手がかり、宮城・気仙沼の地層に痕跡]</ref><ref>読売新聞2011年11月24日夕刊3版1面・2面・[http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20111124-OYT1T00681.htm 東日本巨大地震600年周期…千年に一度見直し]</ref>。
人間が文字による記録を残すようになって以来、大きな被害を出した津波が多数記録されている。古代ギリシアの歴史家[[トゥキディデス]]は、著書『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』で、紀元前426年に起きた地震についての記録を残している。その中でトゥキディデスは地震が津波を引き起こしていると推測しており、これは記録に残る限りでは最古の津波と地震の関係を述べた説だとされる<ref name="Thucydides 3.89.1-4">トゥキディデス: [http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?lookup=Thuc.+3.89.1 “A History of the Peloponnesian War”, 3.89.1–4]</ref><ref name="Smid, T. C. 103f.">{{cite book|last=Smid|first=T. C.|title='Tsunamis' in Greek Literature|edition=2nd|volume=17|date=Apr., 1970|pages=100–104|work=Greece & Rome|issue=1}}</ref>。
1755年11月1日、[[イベリア半島]]沖において[[リスボン地震 (1755年)|リスボン地震]]が発生し、それに伴う津波によって約1万人が死亡し、大きな被害をもたらした。
=== 最近のおもな被害例 ===
* 1960年5月22日 1960年チリ地震 Mw9.5。三陸地方で142人死亡。遠地津波の代表。これをきっかけに環太平洋の津波情報ネットワークが整備される。
* 1983年(昭和58年)5月26日 [[日本海中部地震]] M7.7。津波死者100人のうち秋田県[[男鹿半島]]加茂青砂海岸での遠足の小学生が13人、[[能代港]]で護岸工事の作業員が35人など<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/83_07_02.pdf |title=1983年日本海中部地震の緊急調査 |format=PDF |publisher=独立行政法人 [[産業技術総合研究所]] 地質調査総合センター |page=1 |accessdate=2012-09-01}}</ref>。この地震における最大遡上高は、秋田県峰浜海岸の13.2m<ref>出典:『1983.5.26日本海中部地震の記録』(青森県土木部河川課・1984年12月15日発行)4頁「県内津波の遡上高」)日本海中部地震災害被害状況)</ref>。
* 1993年(平成5年)7月12日 [[北海道南西沖地震]] M7.8。[[奥尻島]]青苗地区で死者109人。津波の第1波は5分後、最大の第2波は10分後に到達し、市街地で観測された最大波高は松前地区での16.8 m、最大遡上高30.6 m。
* 2004年12月26日 2004年スマトラ島沖地震 Mw9.3。津波死者22万人。
* 2011年3月11日 東北地方太平洋沖地震 Mw9.0。津波で約2万人死亡、東京電力[[福島第一原子力発電所事故]]で被害が長期化。最大波高は各地で検潮所施設が破壊されて正確な計測ができず。後の調査での最大遡上高は40.1 m<ref>[http://www.coastal.jp/ttjt/index.php?%E7%8F%BE%E5%9C%B0%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%B5%90%E6%9E%9C 東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループの調査結果]</ref>。
*2022年1月16日[[トンガ]]にある [[フンガ・トンガ]]の[[噴火]]により、津波が発生。日本でも津波のような海面の変動が観測され、津波警報が発表された鹿児島県奄美市小湊で1.2m、岩手県久慈で1.1m、その他日本の太平洋沿岸を中心に各地で海面の変動が観測された。高知県・徳島県・三重県では複数の漁船が転覆した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000241652.html |title=テレビ朝日の翌日の報道 |accessdate=2022-01-16}}</ref>。また、日本国外では、トンガで最大15m<ref>{{Cite web|和書|title=トンガ“最大15m”津波で死者3人…噴火直後に謎の「破裂音」(テレビ朝日系(ANN)) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/ab8a7b217d023ed0d54f529d1c9974b15293f5d1 |website=Yahoo!ニュース |accessdate=2022-01-19 |language=ja}}</ref>、バヌアツで1m41cm、ニューカレドニアで1m10cm、ポートサンルイス(アメリカ・カリフォルニア州)で1m31cmの津波を観測したほか、チリ沿岸部では、1m22cmから1m74cmの津波を観測した<ref>[https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00000720W2A110C2000000/「100年に1度」大噴火 衝撃波が太平洋揺らす] - 日本経済新聞電子版</ref>。なお、ニュージーランドでも船が破損したり、転覆するなどの被害が出た<ref>[https://www.sankei.com/article/20220116-F4YOM6WBQNOZNJ5H3UOMLLL6OY/ トンガ停電、通信遮断も NZでは船転覆] - 産経フォトニュース・2022年1月16日11時57分配信</ref>ほか、ペルーでは、噴火による海面変動が原因と見られる高波により、タンカーから原油が流出する事故が発生している<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20220119-OYT1T50076/amp/ トンガ噴火による高波でタンカーから原油流出、ペルーの海岸1万8000平方メートル汚染] - 読売新聞ONLINE・2022年1月19日10時11分配信</ref>。
== 津波被害の予想 ==
* [[東海地震]]・[[東南海地震]]・[[南海地震]]([[東海・東南海・南海連動型地震]]、[[南海トラフ巨大地震]]) - 21世紀前半の活動が予想されている<ref name="kaikou">[https://www.jishin.go.jp/main/choukihyoka/kaikou.htm 2.海溝型地震の長期評価の概要(算定基準日 平成23年(2011年)1月1日)]、地震調査研究推進本部。</ref>。3つの地震は、単独・連動の発生により過去に大きな地震・津波災害を起こしている。1854年の[[安政南海地震]]の時に紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)で起きた出来事をもとにしたフィクション「[[稲むらの火]]」([[小泉八雲]]作)は有名<ref>日本全国の6割を占める[[光村図書]]の国語教科書が取り上げている。</ref>。
**上記の地震との関連は不明だが、海岸から400 m内陸に位置する高知県[[土佐市]]蟹ヶ池では、2011年以前に当時の約2000年前の地層から津波による厚さ50 cmの堆積物が見つかっており、これは[[宝永地震]](1707年、Mw8.4 - 8.7)の津波堆積物の約3倍に当たる<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110425-OYT1T00737.htm 読売新聞2011年4月25日夕刊3版2面「M9級・超巨大地震!2000年前、巨大津波か」]、2011年5月1日付読売新聞 高知大学・岡村眞(地震地質学)が発見した。東京大学・古村孝志はM9クラスの超巨大地震による津波の可能性を指摘している。同池における[[宝永地震]]での堆積物は厚さ15 cm程度、近傍の[[青龍寺 (土佐市)|寺]]での津波高さは25 mとなっている。また、日本観測史上最大の東北地方太平洋沖地震の堆積物厚さは5 - 7 cm程度で、津波高さは10 m超となっている。</ref>。
**2011年12月27日、[[中央防災会議]]の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」
* 十勝沖・根室沖・色丹島沖・択捉島沖 - 21世紀前半の活動が予想されている。連動の可能性も指摘されている<ref name="kaikou"/>。
* 大西洋北東部[[カナリア諸島]]の[[ケンブレビエハ火山]]([[ラ・パルマ島]]、2426 m,Cumbre Vieja)の山体崩壊 - 最悪の場合、900 mの津波が発生し、北アメリカ海岸に10 mから25 mの津波が到達する可能性がある<ref>{{PDFlink|[http://www.es.ucsc.edu/~ward/papers/La_Palma_grl.pdf Ward, S. N. & Day, S. J; 2001. Cumbre Vieja Volcano; potential collapse and tsunami at La Palma, Canary Islands. Geophys. Res. Lett. 28-17, 3397-3400.]}}</ref>。
* 東北地方太平洋沖地震後の[[地震#海洋プレート内地震|アウターライズ地震]] - 太平洋プレート側の海溝寄りの領域の歪み解消に伴う大規模な地震津波。最大Mt9程度の地震と大津波が予想されている。
* 東北地方太平洋沖地震の余震 - 本震の津波よりは規模は小さいものの、本震が巨大であるため、最大級の余震が発生したさいには大きな津波の可能性がある。
中間とりまとめにて、南海トラフの巨大地震の最大ケースが従来の約3倍の規模であるMw9.0(暫定値)と発表した。想定震源域が約2倍に広がり、日本列島の広い範囲での被害のおそれが指摘されている<ref>[https://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/model/pdf/chukan_matome.pdf 南海トラフの巨大地震モデル検討会 中間とりまとめ]</ref><ref>[http://www.mbs.jp/news/jnn_4914002_zen.shtml 南海トラフ巨大地震、M9.0を想定]</ref>。
* [[太平洋岸北西部]]沖の地震 - 1700年の[[カスケード地震]]の再来。アメリカ合衆国の[[ワシントン州]]、[[オレゴン州]]、カナダの[[ブリティッシュコロンビア州]]の沖合にあるプレート境界が約300-500年間隔でM8後半-9の地震を起こし、太平洋の西側まで達する津波が内湾([[ピュージェット湾]])の奥まで襲う。
=== 津波予測 ===
インド洋大津波の発生により、巨大津波に関連する人工衛星を含む様々な観測データが集められたことから、コンピュータモデルによる予測モデルの検証が可能となった。米国海洋大気局のMOST (Methid of splitting tsunami) モデルや東北大学のTSUNAMI-N2などの計算手法が開発されている。津波シミュレーション技術は、津波予報やハザードマップ作りに活用されている。また日本には世界最大の2.5 mの人工津波を引き起こす事ができる、[[港湾空港技術研究所]]の大規模波動地盤総合水路があり、建造物への被害予測のデータ収集などが行われている。
潮位の観測は、沿岸の潮位計に加え、海底水圧計を用いた津波計も整備が進んでいる。従来は海底ケーブルを用いて信号が送られていたが、衛星へ信号を送れる海面ブイによって信号を送るタイプの津波監視計も開発されており、より設置が容易となってきている。
==== 津波の襲来確率予測 ====
2011年5月12日、地震調査委員会の[[島崎邦彦]]は[[日本記者クラブ]]の講演会で日本の沿岸各地に100年以内に襲来する津波の高さ、浸水域や発生確率を予測し発表すると述べた。従来からの大学や研究機関の予測成果に[[東日本大震災]]で分かった被害の知見を加え3年後から公表を始めるとしている。これにより沿岸自治体の防災計画や住民の防災意識向上につなげる<ref>「30年以内の地震発生確率に比べ発生頻度は低く100年以内とする方針。」読売新聞2011年5月13日13S版2面、および「[http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110512-OYT1T00947.htm 津波の襲来確率、初の公表へ…地震調査委員会]」読売新聞ニュース{{リンク切れ|date=2015年5月}}</ref>。
=== 組織的な災害対策 ===
[[ファイル:High Seawalls in Tarō, Iwate -2.JPG|サムネイル|右|田老町の「万里の長城」]]
物理的な対策として、平坦な場所では上記のような緊急避難場所となる3階以上の頑丈な建造物を設けたり、安全な高台における開けた避難場所の整備、避難場所への誘導標識を充実させることが挙げられる。「津波避難ビル等に係るガイドライン検討会」によって、津波避難ビル等を指定するための「津波避難ビル等に係るガイドライン」が公布されている。津波を工学的に防御する手段として、沿岸の集落では長大な[[防潮堤]]が築かれる場合がある。設計範囲内の津波では被害を大幅に抑えることが可能だが<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm?from=navr 明治の教訓、15m堤防・水門が村守る] 読売新聞 2011年4月3日 2011年4月24日閲覧</ref><ref>[http://www.nikkei.com/tech/trend/article/g=96958A9C93819499E1E3E2E0E18DE1E3E2E1E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E7E2E6E0E2E3E2E2E0E2E0 岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮] 日本経済新聞 2011年4月1日 2011年4月24日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20110924195717/http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011041201000147.html 『津波で5割超の防潮堤損壊 岩手県が効果検証へ』] 共同通信 2011年4月12日 2011年4月24日閲覧</ref>、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では岩手県釜石市や宮古市田老で設計高さ以上の津波により防潮堤が破壊され津波が侵入した例があり、防潮堤が津波の到達を遅らせた一方、防潮堤への過信から避難が遅れたとの見方がある<ref name="yomiuri20110320">{{Cite news
|author=金子靖志
|date=2011-03-20
|url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110320-OYT1T00777.htm
|title=ジャンボ機250機分の波、世界一の防波堤破壊
|newspaper=[[読売新聞]]
|accessdate=2011-04-15
}}</ref><ref name="chugoku20110408">{{Cite news
|date=2011-04-08
|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201104080338.html
|title=浸水想定の津波対策に 震災、防災の転換点に
|work=[[中国新聞]]
|publisher=[[中国新聞社]]
|accessdate=2011-04-18
}}</ref><ref>{{Cite news
|date=2011-03-27
|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110327/dst11032700080001-n1.htm
|title=日本一の防潮堤を過信 岩手・宮古市田老地区「逃げなくても大丈夫」
|work=[[産経新聞|msn産経ニュース]]
|publisher=[[産業経済新聞社]]
|accessdate=2011-04-25
}}</ref><ref name="pari20110401">{{Cite web|和書
|date=2011-04-01
|url=http://www.pari.go.jp/info/tohoku-eq/20110401.html
|title=釜石港における津波による被災過程を検証
|publisher=[[港湾空港技術研究所]]
|accessdate=2011-04-18
}}</ref>。
また津波による被害が懸念される地域では、居住や土地用途を制限して被害を最小限に抑える手法もある。
=== 津波防災の問題点 ===
日本における東北地方太平洋沖地震以前の津波想定は、襲来する津波の想定規模を既往最大(文献資料に残る)と同等としていた。だが地域・年代によっては大津波が正確に記録されて現代まで残されていなかったとみられるほか、[[津波堆積物]]の発掘調査や結果の周知も途上であった。このため東北地方太平洋沖地震による津波は「想定外の規模だった」と振り返る人が多く、十分な対応が出来なかった。この事例を踏まえ、2013年に発表された南海トラフ巨大地震の被害想定(第二次報告)<ref>[https://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/nankaitrough_info.html 南海トラフの巨大地震に関する津波高、浸水域、被害想定の公表について] 内閣府</ref> では、明確な発生が確認されていない1000年に1回の巨大クラスの地震による津波による被害想定が行われ、最大規模の被害を前提とした防災施策の立案と実施検討が行われる事となった。
都市部では河川敷や河川沿いの低地に[[収容避難場所|避難場所]]を設定している場合が多いが、避難場所を津波が襲うこともあり得る。大都市は大河川が作った平野にあるので、避難途中の人々が通る道を河川をさかのぼった津波が襲う可能性も指摘されている<ref>読売新聞 2011年8月18日「河川敷に避難」に不安も 首都防災 暮らし再考(2)</ref>。
2011年には「津波防災地域づくりに関する法律」が制定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/point/tsunamibousai.html|title=津波防災地域づくりに関する法律について|publisher=国土交通省ホームページ|accessdate=2017-6-10}}</ref> が、イメージ悪化や[[都市計画]]への支障を懸念する自治体が多いため、「津波災害特別警戒区域」の指定は全国的にほとんど進んでいない<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000305/20150312-OYT1T50172.html/|title=「津波警戒域」の指定進まず…地価下落など懸念|work=|publisher=[[読売新聞]]サイト|date=2017年3月13日}}</ref>。
また平地が少ない三陸地方では、東日本大震災後も津波浸水想定区域や耐震性に問題がある多くの施設が避難先に指定されている<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000305/20170523-OYT1T50019.html|title=津波浸水区域内や耐震不足でも…避難施設に指定|work=|publisher=『[[読売新聞]]』朝刊|date=2017年5月23日}}</ref>。
== 津波の表現 ==
[[File:Okinawa Japan Tsunami-Warning-Sign-02.jpg|thumb|日本語・英語・中国語(簡体・繁体)・韓国語で表示された日本の海抜表示標識(沖縄県)]]
[[File:Ko Poda beach, tsunami warning, Thailand 2018 1.jpg|thumb|津波の危険地域であることと避難経路を示すタイの標識]]
=== 日本における「津波」の語 ===
「津波」の語は、通常の波とは異なり、沖合を航行する船舶の被害は少ないにもかかわらず、港(津)では大きな被害をもたらすことに由来する。「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『[[駿府記]]』<ref>作者不詳、[[慶長]]16年 - [[元和 (日本)|元和]]元年</ref> で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した[[慶長三陸地震]]についての記述「[[伊達政宗|政宗]]領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰'''津浪'''云々」である<ref>[[盛本昌広]]「津波という言葉の使用開始時期」[[日本史史料研究会]]編『日本史のまめまめしい知識第1巻(ぶい&ぶい新書No.0001)』[[岩田書院]]、2016年、pp.209-215は、これよりも早い使用例を紹介したうえで、戦国時代や近世初期に使用され始めたが一般的ではなかった、としている。</ref>。なお、表記は「津波(浪)」の他に「海立」、「震汐」、「海嘯」と書く場合があり、これらすべて「つなみ」と訓む。<ref>{{Cite web|和書|title=津波の比較史料学 都司 嘉宣|これまでの企画展示|企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館 |url=https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/030708/tsushin/no2/tsuji.html |website=www.rekihaku.ac.jp |accessdate=2022-01-18}}</ref>
=== 「海嘯」等の漢語表現 ===
日本において、昭和初期までの古い記録で、津波のことを「[[海嘯]]」(かいしょう)と記していることもある。ただし「海嘯」という語には、高潮などを含むことがある(1902年の[[小田原大海嘯]]など)。
「海嘯」という漢語は本来、満ち潮が波となって河川を逆流する現象 {{en|(tidal bore)}} を指す言葉であり、中国の[[銭塘江]]で見られるものがよく知られている(なお、{{en|tidal bore}} に対して日本語では潮津波(しおつなみ)という表現がある)。
現代の中国語圏では、津波のことを一般的に「海嘯」([[簡体字]]: {{Lang|zh-hans|[[:zh:海啸|海啸]]}}; {{ピン音|hǎixiào}})と呼ぶ(現代では銭塘江の逆流は「大潮」といった語を用いている)。ほかに「海溢」(古語)、「海漲」([[台湾語]])という表現もある。
[[朝鮮語]]では「海溢」({{ko|[[:ko:해일|해일]]}})という表現が用いられるが、この語は津波の他に tidal bore や[[高潮]]などを含んでいる。特に津波について区別する際には「地震海溢」({{ko|[[:ko:지진해일|지진해일]]}})が用いられる。日本語の「つなみ」を[[ハングル]]に転写した「{{ko|쓰나미}}」が使われる場合もある。
=== 「Tsunami」の国際語化 ===
[[英語]]文献において、{{en|tsunami}} という語が使われた例は、現在のところ『[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィックマガジン]]』1896年9月号に掲載された明治三陸地震津波を報じる[[エリザ・シドモア]]執筆の記事 {{lang|en|"The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"}}<ref>[http://ngm.nationalgeographic.com/1896/09/japan-tsunami/scidmore-text "The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan"本文]</ref> が最古とされている<ref>[http://www.npr.org/2011/03/18/134600508/history-of-tsunami-the-word-and-the-wave History Of Tsunami: The Word And The Wave][[ナショナル・パブリック・ラジオ]]、2011年3月18日。</ref>。
しかし、一般的に {{en|tsunami}} の初出作品として知られているのは、ラフカディオ・ハーン([[小泉八雲]])が[[1897年]](明治30年)に出版した著作集『仏の畠の落ち穂』({{en|Gleaming in Budda-Fields}}) の中に収録された「生神様」({{en|A Living God}}) である。[[濱口梧陵]]をモデルにした「生神様」では、地震後に沿岸の村を飲み込んだ巨大な波を {{en|"tsunami"}} と現地語の日本語で表現した。
その後、1904年の[[地震学]]の学会報告にはじまり、地震・気象の学術論文等に限られていた。元々英語圏では {{en|"tidal wave"}} <ref group="注">NHKでも、かつて「緊急警報放送」開始時の画面で、津波警報 {{en|"tidal wave warning"}} を用いていた。</ref> という語が使われてきたが、この語は本来潮汐 ({{en|tide}}) による波を指し、地震による波にこの語を使うのは学問的にふさわしくないとされ、現在では {{en|'''[[:en:Tsunami|tsunami]]'''}} が用いられる。研究者の間では {{en|"seismic sea wave"}}(「地震性海洋波」)という語が使われることもあったが、あまり一般的ではなかった。1946年、[[アリューシャン地震]]でハワイ諸島に津波の大被害があった際、日系移民が {{en|"tsunami"}} という語を用いたことから、ハワイでこの語が使われるようになり、被害を受けて設置された[[太平洋津波警報センター]]の名称も1949年には {{lang|en|[[:en:Pacific Tsunami Warning Center|Pacific Tsunami Warning Center]]}} とされたことから、アメリカ合衆国ではこの語が広く用いられるようになり、その後、1968年にアメリカの[[海洋学者]]ウィリアム・G・ヴァン・ドーン {{en|(William G. Van Dorn)}} が学術用語として使うことを提案し<ref>『地震・津波と火山の事典』東京大学地震研究所監修</ref>、国際語化した。
「ツナミ」は学術用語として広く国際語になっていたが、[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ沖地震]]による津波が激甚な被害をもたらしたことが世界中に報道されたことを契機に、一気に各国の言語で一般語になった。
==人間以外の生物への影響==
津波は浅い海底や陸地の沿岸部、川の河口近くを激しく掻き乱すため、[[生態系]]に大きな影響を与える。東日本大震災では沿岸の生物やその幼生、卵、[[胞子]]などが漂流物に付着して流され、本来は生息しない[[北アメリカ大陸]]などに辿り着いて繁殖し、問題になっている<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000305/20170510-OYT1T50018.html|title=海洋生物300種、北米に漂着…大震災の津波で|work=|publisher=[[読売新聞]]オンライン|date=2017年5月10日}}</ref>。
== 文化的影響 ==
=== 津波を題材にした作品 ===
* TSUNAMI COMES - [[MAD MAX]]の楽曲(作:[[ローラン・ジェルメッティ]])。[[SUPER EUROBEAT]]Vol.148に収録。
* [[TSUNAMI]] - サザンオールスターズによる2000年の楽曲。
* [[TSUNAMI -ツナミ-]](原題『해운대(ヘウンデ・海雲台)』) - 2009年の韓国映画。
===その他===
日本国外では、[[伊藤みどり]]や[[小林尊]]のように並外れた能力を持つ日本人に "TSUNAMI" とニックネームを付けることがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
*{{Anchors|nishimura1977}}西村嘉助『応用地形学』大明堂、1977年。
*{{Cite book|和書
|author=宇津徳治|authorlink=宇津徳治
|title=地震学 <第3版>
|year=2001-06
|publisher=[[共立出版]]
|isbn=978-4320046375
|ref=utsu2001}}
*{{Cite book|和書
|author= 吉村昭|authorlink=吉村昭
|title = 三陸海岸大津波
|year = 2004
|publisher = [[文藝春秋]]
|series = 文春文庫
|isbn = 4167169401
}}
*{{Cite book|和書
|author = 吉村昭
|title = 海の壁 三陸沿岸大津波
|year = 1970
|publisher = [[中央公論社]]
|series = 中公新書
|isbn = 4121002245
}}
*{{Cite book|和書
|author = 吉村昭
|title = 三陸海岸大津波
|year = 1984
|publisher = 中央公論社
|series = 中公文庫
|isbn = 4122011493
}}
*{{Cite book|和書
|author = 日経サイエンス編集部編
|title = 地球大異変 : 巨大地震や超大型台風の脅威
|year = 2006
|publisher = [[日経サイエンス]]/[[日本経済新聞社]]
|series = 別冊日経サイエンス
|isbn = 4532511534
}}
*矢野義男『山地防災工学』山海堂、2-31頁、1980年。
*{{Cite book|和書
|author=柴山知也|authorlink=柴山知也
|title=3.11津波で何が起きたか ― 被害調査と減災戦略
|year=2011
|publisher=[[早稲田大学出版部]]
|series=早稲田大学ブックレット<「震災後」に考える>
|isbn=9784657113047
}}
*[[東北地方太平洋沖地震|東日本大震災]]9か月特集、各地で進む津波の痕跡調査(「[[ちきゅう]]」での海底掘削調査、津波堆積物、文献など)読売新聞2011年12月11日12版特別面31面
*{{Cite web|和書
|date=
|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/generation.html
|title=津波発生と伝播のしくみ
|publisher=気象庁
|accessdate=2011-03-24
|ref=jma1}}
*{{Cite web|和書
|date=
|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq26.html
|title=よくある質問集 津波について
|publisher=気象庁
|accessdate=2012-12-30
|ref=jma2}}
* 島崎邦彦: 「3.11 大津波の対策を邪魔した男たち」、青志社、ISBN 978-4865901542 (2023年)。
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|災害}}
* [[海岸工学]]
* [[津波堆積物]]
* [[防潮林]]
* [[土石流]] - 急激に押し寄せ、人家などを押し流し、人が巻き込まれる態様から「山津波」とも呼ばれる。
* [[津波避難施設]]
* [[津波てんでんこ]]
* [[大津浪記念碑]]
* [[みちびき地蔵]]
* [[津波記念館]]
* [[地殻津波]]
* [[巨大津波]]
* {{ill2|遠地津波|en|Teletsunami}} - 国外で発生して、国内に到達する津波。
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|wiktionary=つなみ|commons=category:Tsunamis}}
* [https://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/tsunamiMt.html 日本付近に発生した津波の規模(1498年―2006年)]{{リンク切れ|date=2020年5月}} 東京大学地震研究所 公開データベース
* [https://unit.aist.go.jp/ievg/report/jishin/tohoku/tsunami_taiseki.html 津波堆積物を用いた過去の巨大津波の研究](独)[[産業技術総合研究所]] 活断層・地震研究センター
* {{PDFlink|[http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_49/49-01_01.pdf 日本海東縁海域の活構造およびその地震との関係]}}{{リンク切れ|date=2020年5月}}(独)産業技術総合研究所 地質調査総合センター
* {{PDFlink|[http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0582pdf/ks058205.pdf 高宮ほか、「2章 津波被害の概要」、『道路管理者における津波被害軽減対策検討マニュアル(案)』国総研資料第582号、2010年]}}。[[国土技術政策総合研究所]]地震防災研究室。
* [https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami_bosai/tsunami_bosai_p2.html 気象庁、津波フラッグ]
* {{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/generation.html |title=津波の発生 |access-date=2022年5月3日}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:津波|*]]
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レッキングクルー
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『レッキングクルー』 (WRECKING CREW) は、任天堂より発売されたアクションパズルゲーム。1984年8月にアーケード版『VS.レッキングクルー』(VS. WRECKING CREW)が稼働された後、ファミリーコンピュータなどへ移植された。
1998年には本作の内容を大幅にリニューアルした『レッキングクルー'98』がスーパーファミコン向けに発売されている。
マリオとルイージがビルの解体屋となって、モンスターに注意しながら、決められた壁を壊していく活躍するアクション型のパズルゲームで、任天堂VS.システムを使用したアーケード版がオリジナルであり、ファミリーコンピュータ(以下ファミコン)版はその移植である。アーケード版が対戦を強く打ち出した内容(2人用は同時プレイ)なのに対し、ファミコン版は1人でのプレイを主眼とした内容(2人用は交互プレイ)となり、パズル性がかなり高められている。なお、本作のルイージは他作品のような白や緑色の服装ではなくマリオと同様に赤系統の配色になっており、アーケード版ではルイージの方がやや色が薄くピンク色に近い服装、逆にファミコン版ではルイージの方が濃い赤色の服装で肌が白くなっている。
アーケード版『VS.レッキングクルー』は日本国内で1984年8月に発売された。1985年6月18日にゲーム内容をアレンジしたファミコン用のロムカセット版『レッキングクルー』が発売。定価は5,500円。1989年2月3日にはファミコンロム版を移植したディスクシステム版も書き換え専用ソフトとして発売された。
1998年1月1日には、原作からゲーム内容を大幅にアレンジしたスーパーファミコン版『レッキングクルー'98』(WRECKING CREW'98)がニンテンドウパワーで書き換え開始。5月23日にはニンテンドウパワーと同内容のロムカセット版も発売された。移動して壁を壊すという要素は同じだが、対戦型のアクションパズルとなっている。
2004年5月21日にファミコンミニシリーズ第2弾の内の1本としてゲームボーイアドバンス版が発売。内容はほぼファミコン版の移植である。ハイスコアのセーブなどが可能で、さらに新機能としてデザインモードの作成で一斉に配置などができる便利機能が追加されている。
2008年2月5日からWiiのバーチャルコンソールでファミコン版が配信されている(500Wiiポイント)。ファミコンミニに搭載されてあったデザインモードの便利機能も搭載されており、周辺機器なしでデザインしたステージをセーブすることができるようになっている。
2011年にニンテンドー3DSを価格改定前に購入し、なおかつ1度でもニンテンドーeショップにアクセスしたユーザーに、アンバサダー・プログラムで先行版バーチャルコンソールにおけるファミリーコンピュータの無料配信10タイトルの1つとして配信された。2012年9月19日から一般配信もされておりWii版と同価格だが、デザインモードのセーブ機能は使用不可になっている。
2013年6月19日にWii U版バーチャルコンソールが配信開始。価格はWii版・3DS版と同じ(Wii版を購入済みなら、優待価格100円)、デザインモードのセーブ機能は使用可能である。
2020年5月1日にNintendo Switchのアーケードアーカイブスにてアーケード版が配信開始。
マリオ(2プレイヤーはルイージ)を操り、敵キャラクターをうまく回避・誘導しながら建物内の全ての壁やハシゴを解体するアクションゲーム。ダイナマイトを使用すれば、隣接する壁やハシゴにハンマー1回分のダメージを与え一気に壊せるが、壊す順番をよく考えないと制限時間にまにあわない。なお、アーケード版ではファミコン版と異なり、支柱やドラム缶がない、すべてのフロアに床が存在し、物理的に到達不可能な場所がない、などパズル的要素は希薄で、手詰まりは存在しない。
高次面になるとほぼ全面に壁が存在するようになり、さらに高次面になると次第に壁が硬くなり、壊すために叩かなければいけない回数が増える。敵に触れたり制限時間がなくなると1ミスとなり、マリオの残機がなくなるとゲームオーバー。規定得点を得ると残機が追加される。初期設定では50000点で1回で、初回のエクステンドと追加(エブリ)エクステンドをそれぞれ20000〜100000点orなしの8段階から設定可能。なお、敵に触れてミスした場合はその場復活だが、制限時間がなくなった場合は、その面の初期状態まで戻される。制限時間は、面クリア時にボーナス得点として加算される。
本作はプレイヤー(表)とパートナー(裏)に分かれて対戦する仕組みであり、1人プレイの場合は、コンピュータ(以下CPU)がパートナーを担当する。CPUはダイナマイトに隣接する壁や、プレイヤーのいる場所の壁を優先的に壊してきたり、扉を開けてモンスターをプレイヤー側に誘導したりと、プレイヤーの不利になるような行動を取るため、CPUの妨害を交わしながら解体していかなくてはならない。なお、CPUは敵に触れてもミスにならない。また、画面上には反対側にいる相手の動きが影として表示される。
プレイヤーとパートナーが向かい合っている状態で壁などを壊すか扉を開ける、またはパートナーのいる位置の壁に隣接するダイナマイトを壊すとパートナーは最下段まで落ちる。パートナーも同様の行動を取り、その場合はプレイヤーが最下段まで落とされる。なお、いずれもミスにはならない。
ダイナマイトで壁を連鎖させて壊すと高得点(800→1600→2400→以後3200点)。4面ごとにボーナスステージが存在し、ライバルのブラッキーより早く壁の中に隠されたコインを探し出すとボーナス点を獲得できる。一度目の破壊でコインを見つければ、さらに多くのボーナス点が獲得できる。隠れキャラクターは存在しない。
BGMがファミコン版と全く異なっており、音源化されていない貴重なサウンドとなっている。
対戦プレイを行うためには、純正VS筐体やタイトーのVSキック&ラン純正筐体、セガのバーサスシティなどの同様の対戦台用の筐体か、通常の筐体を2台用意する必要がある。純正でも、テーブルまたはミニアップライト筐体では1人用しかできない。
ファミコン版はアーケード版をさらに発展させたもので、各フェーズ(同作品ではPhaseで区分している)、15×8階の上下スクロールとなっており、全部で100フェーズ存在する。また、仕掛けとして支柱、ドラム缶などが追加され、パズルゲーム要素が強くなった。タイトル画面から自由にフェーズを選んでスタートすることが可能。
登場するのは、マリオブラザーズに登場した火の玉を除けば独自の敵キャラクターばかりである。一部のキャラクターは『大乱闘スマッシュブラザーズDX』のフィギュアで紹介されている。スパナゴンとナスビ仮面は昇降しているハシゴ壁を崩す、ダイナマイトの爆風に巻き込む、ブラッキーに叩かせる、後述のスーパーハンマーを使ってタイミングよく叩くなどで一定時間気絶させることが可能(ただし復活すると移動速度がアップする)。なお、アーケード版『VS.レッキングクルー』では、敵キャラクターはスパナやナスビのジャンクを被った地縛霊のような姿をしており、ドアをくぐることでその正体を現すような意匠となっていたが、ファミコン版では通常時にはその亡霊姿は見えないようになっている。
ファミコン版から登場。特定の条件を満たすと出現する。「文字」は出現させるだけで効果があり、その他のものは重なってハンマーを振ることで取得できる。
マリオ(2プレイヤーはルイージ)を操り、敵キャラクターを上手く回避・誘導しながら建物内の全ての壁やハシゴを解体するアクションパズルゲーム。2人プレイは1人ずつの交互プレイになっている。ダイナマイトを使用すれば壁やハシゴを一気に壊せるが、壊す順番をよく考えないと手詰まりになる。ボーナスステージはアーケード版と共通である。全100面の中から最初のステージを自由に選んでスタート可能。自作の面をエディットできるデザインモードも搭載されている。
ナスビ仮面、スパナゴン、ブラッキーなどの敵キャラクターや、豚、サンタクロース、招き猫、ゴールデンハンマーなどの隠れキャラクターが登場する。
ロムカセット版ではデザインモードで作成した面の保存にファミリーベーシックとデータレコーダが必要。
ゲーム内容はロムカートリッジ版と同様だが、特別な機器がなくてもデザインモードで作成した面の保存が可能になっている。
ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「爆弾で、壁を一気に壊すことをおぼえるとやみつきになることうけあい。100面は、ものすごくむずかしい」、「隠された名作パズル」と紹介されている。
ニュースサイト「Game Watch」の鴫原盛之は、2021年に寄せたレビュー記事の中で、Nintendo Switch Onlineで配信されているファミリーコンピュータ版について、一見すると画面構成が地味なうえ、クリアには頭を使う必要があるものの、あらゆるものを壊せるゴールデンハンマーによってさらなる楽しさを見いだせたと評価しており、36年前の作品とは思えないほど古臭さがまったくなかったとしている。
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"text": "『レッキングクルー』 (WRECKING CREW) は、任天堂より発売されたアクションパズルゲーム。1984年8月にアーケード版『VS.レッキングクルー』(VS. WRECKING CREW)が稼働された後、ファミリーコンピュータなどへ移植された。",
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"text": "1998年には本作の内容を大幅にリニューアルした『レッキングクルー'98』がスーパーファミコン向けに発売されている。",
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"text": "マリオとルイージがビルの解体屋となって、モンスターに注意しながら、決められた壁を壊していく活躍するアクション型のパズルゲームで、任天堂VS.システムを使用したアーケード版がオリジナルであり、ファミリーコンピュータ(以下ファミコン)版はその移植である。アーケード版が対戦を強く打ち出した内容(2人用は同時プレイ)なのに対し、ファミコン版は1人でのプレイを主眼とした内容(2人用は交互プレイ)となり、パズル性がかなり高められている。なお、本作のルイージは他作品のような白や緑色の服装ではなくマリオと同様に赤系統の配色になっており、アーケード版ではルイージの方がやや色が薄くピンク色に近い服装、逆にファミコン版ではルイージの方が濃い赤色の服装で肌が白くなっている。",
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"text": "アーケード版『VS.レッキングクルー』は日本国内で1984年8月に発売された。1985年6月18日にゲーム内容をアレンジしたファミコン用のロムカセット版『レッキングクルー』が発売。定価は5,500円。1989年2月3日にはファミコンロム版を移植したディスクシステム版も書き換え専用ソフトとして発売された。",
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"text": "1998年1月1日には、原作からゲーム内容を大幅にアレンジしたスーパーファミコン版『レッキングクルー'98』(WRECKING CREW'98)がニンテンドウパワーで書き換え開始。5月23日にはニンテンドウパワーと同内容のロムカセット版も発売された。移動して壁を壊すという要素は同じだが、対戦型のアクションパズルとなっている。",
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"text": "2004年5月21日にファミコンミニシリーズ第2弾の内の1本としてゲームボーイアドバンス版が発売。内容はほぼファミコン版の移植である。ハイスコアのセーブなどが可能で、さらに新機能としてデザインモードの作成で一斉に配置などができる便利機能が追加されている。",
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"text": "2008年2月5日からWiiのバーチャルコンソールでファミコン版が配信されている(500Wiiポイント)。ファミコンミニに搭載されてあったデザインモードの便利機能も搭載されており、周辺機器なしでデザインしたステージをセーブすることができるようになっている。",
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"text": "2011年にニンテンドー3DSを価格改定前に購入し、なおかつ1度でもニンテンドーeショップにアクセスしたユーザーに、アンバサダー・プログラムで先行版バーチャルコンソールにおけるファミリーコンピュータの無料配信10タイトルの1つとして配信された。2012年9月19日から一般配信もされておりWii版と同価格だが、デザインモードのセーブ機能は使用不可になっている。",
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"text": "2013年6月19日にWii U版バーチャルコンソールが配信開始。価格はWii版・3DS版と同じ(Wii版を購入済みなら、優待価格100円)、デザインモードのセーブ機能は使用可能である。",
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"text": "2020年5月1日にNintendo Switchのアーケードアーカイブスにてアーケード版が配信開始。",
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"text": "マリオ(2プレイヤーはルイージ)を操り、敵キャラクターをうまく回避・誘導しながら建物内の全ての壁やハシゴを解体するアクションゲーム。ダイナマイトを使用すれば、隣接する壁やハシゴにハンマー1回分のダメージを与え一気に壊せるが、壊す順番をよく考えないと制限時間にまにあわない。なお、アーケード版ではファミコン版と異なり、支柱やドラム缶がない、すべてのフロアに床が存在し、物理的に到達不可能な場所がない、などパズル的要素は希薄で、手詰まりは存在しない。",
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"text": "高次面になるとほぼ全面に壁が存在するようになり、さらに高次面になると次第に壁が硬くなり、壊すために叩かなければいけない回数が増える。敵に触れたり制限時間がなくなると1ミスとなり、マリオの残機がなくなるとゲームオーバー。規定得点を得ると残機が追加される。初期設定では50000点で1回で、初回のエクステンドと追加(エブリ)エクステンドをそれぞれ20000〜100000点orなしの8段階から設定可能。なお、敵に触れてミスした場合はその場復活だが、制限時間がなくなった場合は、その面の初期状態まで戻される。制限時間は、面クリア時にボーナス得点として加算される。",
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"text": "本作はプレイヤー(表)とパートナー(裏)に分かれて対戦する仕組みであり、1人プレイの場合は、コンピュータ(以下CPU)がパートナーを担当する。CPUはダイナマイトに隣接する壁や、プレイヤーのいる場所の壁を優先的に壊してきたり、扉を開けてモンスターをプレイヤー側に誘導したりと、プレイヤーの不利になるような行動を取るため、CPUの妨害を交わしながら解体していかなくてはならない。なお、CPUは敵に触れてもミスにならない。また、画面上には反対側にいる相手の動きが影として表示される。",
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"text": "プレイヤーとパートナーが向かい合っている状態で壁などを壊すか扉を開ける、またはパートナーのいる位置の壁に隣接するダイナマイトを壊すとパートナーは最下段まで落ちる。パートナーも同様の行動を取り、その場合はプレイヤーが最下段まで落とされる。なお、いずれもミスにはならない。",
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"text": "ダイナマイトで壁を連鎖させて壊すと高得点(800→1600→2400→以後3200点)。4面ごとにボーナスステージが存在し、ライバルのブラッキーより早く壁の中に隠されたコインを探し出すとボーナス点を獲得できる。一度目の破壊でコインを見つければ、さらに多くのボーナス点が獲得できる。隠れキャラクターは存在しない。",
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"text": "BGMがファミコン版と全く異なっており、音源化されていない貴重なサウンドとなっている。",
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"text": "対戦プレイを行うためには、純正VS筐体やタイトーのVSキック&ラン純正筐体、セガのバーサスシティなどの同様の対戦台用の筐体か、通常の筐体を2台用意する必要がある。純正でも、テーブルまたはミニアップライト筐体では1人用しかできない。",
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"text": "ファミコン版はアーケード版をさらに発展させたもので、各フェーズ(同作品ではPhaseで区分している)、15×8階の上下スクロールとなっており、全部で100フェーズ存在する。また、仕掛けとして支柱、ドラム缶などが追加され、パズルゲーム要素が強くなった。タイトル画面から自由にフェーズを選んでスタートすることが可能。",
"title": "ゲーム内容"
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"text": "登場するのは、マリオブラザーズに登場した火の玉を除けば独自の敵キャラクターばかりである。一部のキャラクターは『大乱闘スマッシュブラザーズDX』のフィギュアで紹介されている。スパナゴンとナスビ仮面は昇降しているハシゴ壁を崩す、ダイナマイトの爆風に巻き込む、ブラッキーに叩かせる、後述のスーパーハンマーを使ってタイミングよく叩くなどで一定時間気絶させることが可能(ただし復活すると移動速度がアップする)。なお、アーケード版『VS.レッキングクルー』では、敵キャラクターはスパナやナスビのジャンクを被った地縛霊のような姿をしており、ドアをくぐることでその正体を現すような意匠となっていたが、ファミコン版では通常時にはその亡霊姿は見えないようになっている。",
"title": "キャラクター"
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"text": "ファミコン版から登場。特定の条件を満たすと出現する。「文字」は出現させるだけで効果があり、その他のものは重なってハンマーを振ることで取得できる。",
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"text": "マリオ(2プレイヤーはルイージ)を操り、敵キャラクターを上手く回避・誘導しながら建物内の全ての壁やハシゴを解体するアクションパズルゲーム。2人プレイは1人ずつの交互プレイになっている。ダイナマイトを使用すれば壁やハシゴを一気に壊せるが、壊す順番をよく考えないと手詰まりになる。ボーナスステージはアーケード版と共通である。全100面の中から最初のステージを自由に選んでスタート可能。自作の面をエディットできるデザインモードも搭載されている。",
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"text": "ナスビ仮面、スパナゴン、ブラッキーなどの敵キャラクターや、豚、サンタクロース、招き猫、ゴールデンハンマーなどの隠れキャラクターが登場する。",
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"text": "ロムカセット版ではデザインモードで作成した面の保存にファミリーベーシックとデータレコーダが必要。",
"title": "移植版"
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"text": "ゲーム内容はロムカートリッジ版と同様だが、特別な機器がなくてもデザインモードで作成した面の保存が可能になっている。",
"title": "移植版"
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"text": "ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「爆弾で、壁を一気に壊すことをおぼえるとやみつきになることうけあい。100面は、ものすごくむずかしい」、「隠された名作パズル」と紹介されている。",
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"text": "ニュースサイト「Game Watch」の鴫原盛之は、2021年に寄せたレビュー記事の中で、Nintendo Switch Onlineで配信されているファミリーコンピュータ版について、一見すると画面構成が地味なうえ、クリアには頭を使う必要があるものの、あらゆるものを壊せるゴールデンハンマーによってさらなる楽しさを見いだせたと評価しており、36年前の作品とは思えないほど古臭さがまったくなかったとしている。",
"title": "評価"
}
] |
『レッキングクルー』 は、任天堂より発売されたアクションパズルゲーム。1984年8月にアーケード版『VS.レッキングクルー』が稼働された後、ファミリーコンピュータなどへ移植された。 1998年には本作の内容を大幅にリニューアルした『レッキングクルー'98』がスーパーファミコン向けに発売されている。
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{{Otheruses|コンピュータゲーム|その他|レッキング・クルー}}
{{出典の明記|date=2016-06-29}}
{{コンピュータゲーム
| Title = VS.レッキングクルー
| Genre = [[アクションパズル]]
| Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] (FCD)<br />[[スーパーファミコン]] (SFC)<br />[[ゲームボーイアドバンス]] (GBA)<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]<br />[[Nintendo Switch]] (NSW)}}
| Dev = 任天堂開発第一部
| Pub = [[任天堂]]
| producer = [[横井軍平]]
| director =
| designer = [[坂本賀勇]]<ref name="continue126">{{Cite journal |和書
|author = 多根清史
|authorlink = 多根清史
|title = 『メトロイド』を創った男
|date = 2003-06-18
|publisher = [[太田出版]]
|journal = [[CONTINUE (雑誌)|CONTINUE]]
|volume = Vol.10
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|pages = 126
|url =
|ref = harv}}</ref>
| programmer =
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| composer = [[田中宏和]]
| artist = 坂本賀勇<ref name="continue126"/>
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| Play = 1 - 2人(同時プレイ)
| Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]
| Date = {{vgrelease new|JP|August 1984}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-06-18|NA|1985-10-18|EU|1987-10-15}}'''FCD'''<br />{{vgrelease new|JP|1989-02-03}}'''SFC(書き換え版)'''<br />{{vgrelease new|JP|1998-01-01}}'''SFC(パッケージ版)'''<br />{{vgrelease new|JP|1998-05-23}}'''GBA'''<br />{{vgrelease new|JP|2004-05-21}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|EU|2007-08-24|NA|2007-11-19|JP|2008-02-05}}'''3DS(限定配信)'''<br />{{vgrelease new|JP|2011-08-31|NA|2011-08-31|EU|2011-09-01}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2012-09-19|NA|2013-03-07}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-06-19|NA|2013-06-20}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2016-09-28}}'''NSW'''<br />{{vgrelease new|JP|2020-05-01}}}}
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}}
『'''レッキングクルー'''』 (WRECKING CREW) は、[[任天堂]]より発売された[[アクションパズル]]ゲーム。[[1984年]][[8月]]に[[アーケードゲーム|アーケード]]版『'''VS.レッキングクルー'''』(VS. WRECKING CREW)が稼働された後、[[ファミリーコンピュータ]]などへ移植された。
1998年には本作の内容を大幅にリニューアルした『'''[[レッキングクルー'98]]'''』が[[スーパーファミコン]]向けに発売されている。
== 概要 ==
[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]と[[ルイージ (ゲームキャラクター)|ルイージ]]がビルの[[解体屋]]となって、モンスターに注意しながら、決められた壁を壊していく活躍するアクション型のパズルゲーム<ref>{{Cite book |和書 |title=With LUIGI 30th Anniversary: ザ・イヤー・オブルイージ メモリアルムック |publisher=[[Gakken|学研]] |year=2013 |page=26|isbn=978-4056102512}}</ref>で、[[任天堂VS.システム]]を使用した[[アーケードゲーム|アーケード版]]がオリジナルであり、[[ファミリーコンピュータ]](以下ファミコン)版はその[[移植 (ソフトウェア)|移植]]である。[[アーケードゲーム|アーケード]]版が対戦を強く打ち出した内容(2人用は同時プレイ)なのに対し、ファミコン版は1人でのプレイを主眼とした内容(2人用は交互プレイ)となり、パズル性がかなり高められている。なお、本作のルイージは他作品のような白や緑色の服装ではなくマリオと同様に赤系統の配色になっており、[[アーケードゲーム|アーケード]]版ではルイージの方がやや色が薄くピンク色に近い服装、逆にファミコン版ではルイージの方が濃い赤色の服装で肌が白くなっている。
アーケード版『'''VS.レッキングクルー'''』は日本国内で[[1984年]]8月に発売された。[[1985年]][[6月18日]]にゲーム内容をアレンジしたファミコン用の[[ロムカセット]]版『'''レッキングクルー'''』が発売。定価は5,500円。[[1989年]][[2月3日]]にはファミコンロム版を移植した[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]版も書き換え専用ソフトとして発売された。
[[1998年]][[1月1日]]には、原作からゲーム内容を大幅にアレンジした[[スーパーファミコン]]版『'''[[レッキングクルー'98]]'''』(WRECKING CREW'98)が[[ニンテンドウパワー]]で書き換え開始。[[5月23日]]にはニンテンドウパワーと同内容のロムカセット版も発売された。移動して壁を壊すという要素は同じだが、対戦型のアクションパズルとなっている。
[[2004年]][[5月21日]]に[[ファミコンミニ]]シリーズ第2弾の内の1本として[[ゲームボーイアドバンス]]版が発売。内容はほぼファミコン版の移植である。ハイスコアのセーブなどが可能で、さらに新機能としてデザインモードの作成で一斉に配置などができる便利機能が追加されている。
[[2008年]][[2月5日]]から[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]でファミコン版が配信されている(500Wiiポイント)。ファミコンミニに搭載されてあったデザインモードの便利機能も搭載されており、周辺機器なしでデザインした[[ステージ (コンピュータゲーム)|ステージ]]をセーブすることができるようになっている。
[[2011年]]に[[ニンテンドー3DS]]を価格改定前に購入し、なおかつ1度でも[[ニンテンドーeショップ]]にアクセスしたユーザーに、アンバサダー・プログラムで先行版[[バーチャルコンソール]]における[[ファミリーコンピュータ]]の無料配信10タイトルの1つとして配信された。[[2012年]][[9月19日]]から一般配信もされており[[Wii]]版と同価格だが、デザインモードのセーブ機能は使用不可になっている。
[[2013年]][[6月19日]]に[[Wii U]]版[[バーチャルコンソール]]が配信開始。価格はWii版・3DS版と同じ(Wii版を購入済みなら、優待価格100円)、デザインモードのセーブ機能は使用可能である。
[[2020年]][[5月1日]]に[[Nintendo Switch]]の[[アーケードアーカイブス]]にてアーケード版が配信開始<ref name="famitsuarca">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202004/30197754.html |title=アケアカ VS. レッキングクルー』Switch向けに5月1日配信決定。マリオやルイージを操作して、モンスターのすみかとなったビルを解体しよう! |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |language= [[日本語]] |date=2020-04-30 |accessdate=2020-05-01}}</ref><ref name="denfamiarca">{{Cite web|和書|author=福山幸司 |date=2020-04-30 |url=https://news.denfaminicogamer.jp/news/200430k |title=ビル解体ゲーム『VS. レッキングクルー』が5月1日にNintendo Switchで配信決定。マリオとルイージが壁という壁をハンマーで叩き潰すアクションゲーム |website=電ファミニコゲーマー |publisher=Mare |language= [[日本語]] |accessdate=2020-05-01}}</ref>。
== ゲーム内容 ==
=== VS.レッキングクルー(アーケード版) ===
マリオ([[2プレイヤー]]はルイージ)を操り、敵キャラクターをうまく回避・誘導しながら建物内の全ての壁やハシゴを解体するアクションゲーム。[[ダイナマイト]]を使用すれば、隣接する壁やハシゴにハンマー1回分のダメージを与え一気に壊せるが、壊す順番をよく考えないと制限時間にまにあわない。なお、アーケード版ではファミコン版と異なり、支柱やドラム缶がない、すべてのフロアに床が存在し、物理的に到達不可能な場所がない、などパズル的要素は希薄で、手詰まりは存在しない。
高次面になるとほぼ全面に壁が存在するようになり、さらに高次面になると次第に壁が硬くなり、壊すために叩かなければいけない回数が増える。敵に触れたり制限時間がなくなると1ミスとなり、マリオの残機がなくなるとゲームオーバー。規定得点を得ると残機が追加される。初期設定では50000点で1回で、初回のエクステンドと追加(エブリ)エクステンドをそれぞれ20000〜100000点orなしの8段階から設定可能。なお、敵に触れてミスした場合はその場復活だが、制限時間がなくなった場合は、その面の初期状態まで戻される。制限時間は、面クリア時にボーナス得点として加算される。
本作はプレイヤー(表)とパートナー{{efn|マリオ側でプレイしている場合はルイージ、ルイージ側でプレイしている場合はマリオ}}(裏)に分かれて対戦する仕組みであり、1人プレイの場合は、コンピュータ(以下CPU)がパートナーを担当する<ref name="GameMachine242">{{Cite news|title=2人が表と裏からハンマーでビルの壁を壊す 任天堂から「VS.レッキングクルー」|newspaper=ゲームマシン|date=1984-8-15|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19840815p.pdf|accessdate=2022-02-11|issue=242}}</ref>。CPUはダイナマイトに隣接する壁や、プレイヤーのいる場所の壁を優先的に壊してきたり、扉を開けてモンスターをプレイヤー側に誘導したりと、プレイヤーの不利になるような行動を取るため、CPUの妨害を交わしながら解体していかなくてはならない。なお、CPUは敵に触れてもミスにならない。また、画面上には反対側にいる相手の動きが影として表示される{{R|GameMachine242}}。
プレイヤーとパートナーが向かい合っている状態で壁などを壊す{{R|GameMachine242}}か扉を開ける、またはパートナーのいる位置の壁に隣接するダイナマイトを壊すとパートナーは最下段まで落ちる。パートナーも同様の行動を取り、その場合はプレイヤーが最下段まで落とされる。なお、いずれもミスにはならない。
ダイナマイトで壁を連鎖させて壊すと高得点(800→1600→2400→以後3200点)。4面ごとにボーナスステージが存在し、ライバルのブラッキーより早く壁の中に隠された[[コイン]]を探し出すとボーナス点を獲得できる。一度目の破壊でコインを見つければ、さらに多くのボーナス点が獲得できる。隠れキャラクターは存在しない。
[[背景音楽|BGM]]がファミコン版と全く異なっており、音源化されていない貴重なサウンドとなっている。
対戦プレイを行うためには、純正VS筐体やタイトーのVSキック&ラン純正筐体、セガのバーサスシティなどの同様の対戦台用の筐体か、通常の筐体を2台用意する必要がある。純正でも、テーブルまたはミニアップライト筐体では1人用しかできない。
=== レッキングクルー(ファミリーコンピュータ版) ===
ファミコン版はアーケード版をさらに発展させたもので、各フェーズ(同作品ではPhaseで区分している)、15×8階の上下スクロールとなっており、全部で100フェーズ存在する。また、仕掛けとして支柱、ドラム缶などが追加され、パズルゲーム要素が強くなった。タイトル画面から自由にフェーズを選んでスタートすることが可能。
=== 仕掛け ===
==== 非破壊対象 ====
;扉
:破壊不可能だが、叩くことができるうえに、後述するダイナマイトの爆風は持続する。普段は閉じているが、ハンマーで叩くかダイナマイトを破裂させると一時的に開く。ダイナマイトを使用した場合、ステージ上の全ての扉が開く。うまく誘導して開いた扉に敵を誘い込むと、扉に入った敵の攻撃判定がなくなり、重なったりすれ違ったりできる(シルエットの状態で再び扉をくぐった敵は元に戻る)。スパナゴン、ナスビ仮面が合計2体以上いるステージで全ての敵を扉に入れると、敵の動きが一定時間止まる。なお、ブラッキーは通り道に閉じた扉がある場合、必ずハンマーで扉を叩いて開けるという性質がある。エディットでは設置は8個までと制限が設けられており、また、支柱の上に置くことはできない。
;支柱
:破壊可能。上にある物体を支えている柱。叩いて破壊できるが、壊さなくてもクリアできる。ファミコン版から登場したパズル要素の高い物体で、破壊すると真上にある物体が落ちてくる。通常の壁と同じくブラッキーが壊しに来るので要注意。また真上にドラム缶がある場合は特に注意が必要。エディットでは支柱の上に支柱を設定することはできない。また、支柱の上にハシゴがあると壊したときにハシゴがちぎれてしまう。これがハシゴ壁(後述)だった場合、ちぎれた上段はダイナマイトでしか破壊できなくなる。
;ドラム缶
:破壊不可能。障害物となる物体で、これがある場所は通り抜けできない。ファミコン版から登場。乗っている支柱を壊して落とすことで敵を中に閉じ込めて動けなくすることができる。ただし自分が入ってしまうと脱出不可能となり火の玉も素通りするためリセットするしかなくなる。またドラム缶の上に降りて渡ることができるが、上階の床面よりも低くなっており、このゲームのマリオはジャンプできないので床面に昇ることはできない。場合によっては床面による『はまりこみ』に陥り、この状態になると飛んでくる火の玉にも当たらないため、リセットするしかなくなる。
;ハシゴ
:破壊不可能。昇り降りすることで上下のフロアに移動できる。ダイナマイトの爆風は止まってしまう。
;ダイナマイト
:破壊可能。ハンマーで叩くことで破裂させることができる{{R|GameMachine242}}。使用することで隣接する破壊可能物体にハンマー1回分のダメージを与えるほか、連続で隣接している場合は次々とダメージを与え続けることが可能{{R|GameMachine242}}。破壊した場合は、得点にも倍率がかかる。叩いた後破裂するまでに若干のタイムラグがあり、破裂の瞬間にマリオとダイナマイトが重なっていると、爆風で1階まで落とされてしまう。他の壊せる物体と異なり、ブラッキーが叩くことはない。また一定の条件を満たすことで隠れキャラクターが登場する。
==== 破壊対象 ====
;壁
:耐久性の違う3種類の壁が存在する。各壁でグラフィックが違い、それぞれ1回〜3回ハンマーで叩くか、ダイナマイトを使用することで破壊可能。
;ハシゴ壁
:破壊可能なクリーム色のハシゴ。ファミコン版からは上下に伸びた長いハシゴ壁も登場。しかし、最下段を叩くか、どこか一箇所にダイナマイトの爆風を当てることで一度にすべてを破壊できる。壊した後は昇降できなくなる。また、敵キャラクターの乗降中に叩くと最下段まで落とすことができる。ブラッキーに壊された場合も同じで、その場合、マリオは最下段まで落とされる。なお、支柱によって千切れてしまった場合はダイナマイトでしか破壊できなくなる。また破壊前後にかかわらず、千切れた部分から降りることが可能。かなりパズル要素の高い物体で、ダイナマイト、支柱とともによく考えて破壊する必要がある。また、このハシゴ壁は他の物体と同様にブラッキーに壊される恐れがある。
== キャラクター ==
=== 敵キャラクター ===
登場するのは、マリオブラザーズに登場した火の玉を除けば独自の敵キャラクターばかりである。一部のキャラクターは『[[大乱闘スマッシュブラザーズDX]]』のフィギュアで紹介されている。スパナゴンとナスビ仮面は昇降しているハシゴ壁を崩す、ダイナマイトの爆風に巻き込む、ブラッキーに叩かせる、後述のスーパーハンマーを使ってタイミングよく叩くなどで一定時間気絶させることが可能(ただし復活すると移動速度がアップする)。なお、アーケード版『VS.レッキングクルー』では、敵キャラクターはスパナやナスビのジャンクを被った地縛霊のような姿をしており、ドアをくぐることでその正体を現すような意匠となっていたが、ファミコン版では通常時にはその亡霊姿は見えないようになっている。
;スパナゴン
:[[レンチ|スパナ]]でできた[[恐竜]]のような姿をしている。オレンジ色をした「スパナゴン1」と、動きの速い[[紫]]色の「スパナゴン2」の2種類が存在する{{R|GameWatch20210503P1}}。ひたすらマリオを追尾してくる。普通は逃げるほかないが、梯子を下っているときに、梯子を上っている途中のマリオのヘルメットを床と勘違いしてそのまま降りずに歩いていく癖がある。また、紫色のスパナゴンはマリオに叩き落とされると怒って動くスピードが速くなる。アーケード版には終盤面から赤と紫の斑模様のスパナゴンも登場する。
;ナスビ仮面
:[[ナス]]に手足が生えたような姿をしている。マリオ、ルイージを無視して通路に沿って規則的に走り回る{{R|GameWatch20210503P1}}。最もスピードが速い。ハシゴがあると登りは3段(ただし、途中に動ける床があれば途中で曲がる)、下りは1段だけ動き、行き止まりがあれば引き返すという習性がある。
;[[スパイク (レッキングクルー)|ブラッキー(現:スパイク)]]
:ファミコン版から登場<ref>{{Cite web|和書|title=解体屋マリオの大冒険! 「レッキングクルー」 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/articles/0811/06/news013.html |website=ねとらぼ |accessdate=2022-02-18 |language=ja}}</ref>。服装はマリオと似ている。マリオの近くの壁の裏に回り込み、先に壁を破壊してマリオを1階に落とそうとする(ただし、1階に落としてもらわないとクリアできないステージも存在する)。逆に、こちらが先に壁を壊せば叩き落とすことができる。
:2人対戦を前提としたアーケード版から、1人用(2人交互プレイ)として作り直されたファミコン版での仮想的な対戦相手役(アーケード版におけるマリオ操作時のルイージ、もしくはルイージ操作時のマリオの代替)の立ち位置である。攻撃判定がないことや、壁を挟んで対峙し互いに落とし合うなどの共通点もある。
;火の玉
:一定時間ごとにマリオ、あるいはルイージのいるフロアに現れる。波形に飛びながらフロアを横切り反対側の端に達すると消える。ファミコン版では、1周すると出現のタイミングが早くなる。スーパーハンマーでも倒すことができないが、特定の位置に安全地帯がある。
=== 隠れキャラクター ===
ファミコン版から登場。特定の条件を満たすと出現する。「文字」は出現させるだけで効果があり、その他のものは重なってハンマーを振ることで取得できる。
*ダイナマイトから出現するもの。3個以上のダイナマイトがあるフェーズでは順番通り破裂させることによって必ず出現する。
;豚
:得点800点。
;サンタクロース
:得点1600点。
;招き猫
:得点3200点。
;スーパーハンマー(ゴールデンハンマー)
:得点3200点。いわゆるパワーアップアイテムで、取得するとBGMが変化し(ボーナスステージを除く)、ハンマーを振る動作が速くなってどんな壁も一撃で破壊することが可能になる。敵をハンマーで直接叩いて落とすことも可能になるが、扉に入っていないスパナゴンやナスビ仮面の場合はタイミングよくハンマーを振らないと体当たりを受けてやられてしまう。また、ある操作により空中移動や、空中移動中にドラム缶が存在する場合に限り、ドラム缶をすり抜けることも可能になる。ミスするまで使用できる。なお、取扱説明書の正式名称は'''スーパーハンマー'''だったが、ゲーム攻略本や雑誌などが「ゴールデンハンマー」と間違って紹介したなどで、間違った名称が定着し、のちに公認名称となった。
*破壊対象の壁(ハシゴ壁は除く)から出現するもの。
;文字
:M→A→R→I→O(2プレイヤーはL→U→I→G→I)と、順番通りに出現させれば残り人数が1UPする。地形上の関係で出現させることができない、攻略の関係上出現させるとクリアできないフェーズも存在する。
== 移植版 ==
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 売上本数
! 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
! レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|1985-06-18|NA|1985-10-18|EU|1987-10-15}}
| [[ファミリーコンピュータ]]
| [[任天堂]]<br />[[インテリジェントシステムズ|岩崎技研工業]]
| [[任天堂]]
| 320[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga327">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = 5月10日号特別付録 ファミコン ロムカセット オールカタログ
|date = 1991-05-10
|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 7
|number = 9
|naid =
|pages = 327
|url =
|ref = harv}}</ref>
| HVC-WR
| -
| アーケード版とはゲーム内容が一部異なる<br />2人用は交互プレイ
|-
| style="text-align:right" | 2
! レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|1989-02-03}}
| [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]
| インテリジェントシステムズ
| 任天堂
| [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクカード|ディスクカード]]片面
| FMC-WRD
| 書き換え:2万回<ref name="famimaga19">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = ディスクライター 書き換えゲーム全カタログ
|date = 1989-7-7
|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 5
|number = 12
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|pages = 19
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| ファミリーコンピュータ版の移植<br />書き換え専用
|-
| style="text-align:right" | 3
! [[レッキングクルー'98]]
| {{vgrelease new|JP|1998-01-01}}
| [[スーパーファミコン]]
| [[パックスソフトニカ]]
| 任天堂
| [[フラッシュメモリ|フラッシュロムカセット]]<br />([[ニンテンドウパワー]])
| SHVC-BWCJ
| -
| 新作の『'98』とファミコン版の移植のカップリング<br />書き換え専用ソフト
|-
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! レッキングクルー'98
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| スーパーファミコン
| パックスソフトニカ
| 任天堂
| ロムカセット
| SHVC-BWCJ
| -
| ニンテンドウパワー版の移植
|-
| style="text-align:right" | 5
! [[ファミコンミニ]]14<br />レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|2004-05-21}}
| [[ゲームボーイアドバンス]]
| インテリジェントシステムズ
| 任天堂
| ロムカセット
| AGB-P-FWCJ-JPN
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! レッキングクルー
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| [[Wii]]
| インテリジェントシステムズ
| 任天堂
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]])
| -
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
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! レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|2011-08-31|NA|2011-08-31|EU|2011-09-01}}
| [[ニンテンドー3DS]]
| インテリジェントシステムズ
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
| CTR-N-TAGJ-JPN-0
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植<br />アンバサダー・プログラム対象者限定配信
|-
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! レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|2012-09-19|NA|2013-03-07}}
| ニンテンドー3DS
| インテリジェントシステムズ
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
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| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
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! レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|2013-06-19|NA|2013-06-20}}
| [[Wii U]]
| インテリジェントシステムズ
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
| -
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
| style="text-align:right" | 10
! レッキングクルー'98
| {{vgrelease new|JP|2016-09-28}}
| Wii U
| パックスソフトニカ
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
| -
| -
| スーパーファミコン版の移植
|-
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! [[ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online|ファミリーコンピュータ<br />Nintendo Switch Online]]
| {{vgrelease new|JP|2019-07-17}}
| [[Nintendo Switch]]
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード
| -
| -
| ファミリーコンピュータ版の移植
|-
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! VS.レッキングクルー
| {{vgrelease new|JP|2020-05-01}}<ref name="famitsuarca" /><ref name="denfamiarca" />
| Nintendo Switch
| インテリジェントシステムズ
| [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]]
| ダウンロード<br />([[アーケードアーカイブス]])
| -
| -
| アーケード版の移植
|}
=== ファミリーコンピュータ版 ===
マリオ(2プレイヤーはルイージ)を操り、敵キャラクターを上手く回避・誘導しながら建物内の全ての壁やハシゴを解体するアクションパズルゲーム。2人プレイは1人ずつの交互プレイになっている。[[ダイナマイト]]を使用すれば壁やハシゴを一気に壊せるが、壊す順番をよく考えないと手詰まりになる。ボーナスステージはアーケード版と共通である。全100面の中から最初のステージを自由に選んでスタート可能。自作の面をエディットできるデザインモードも搭載されている。
ナスビ仮面、スパナゴン、ブラッキーなどの敵キャラクターや、[[ブタ|豚]]、[[サンタクロース]]、[[招き猫]]、ゴールデンハンマーなどの[[隠れキャラクター]]が登場する。
ロムカセット版ではデザインモードで作成した面の保存に[[ファミリーベーシック]]と[[データレコーダ]]が必要。
==== ディスクシステム版 ====
ゲーム内容はロムカートリッジ版と同様だが、特別な機器がなくてもデザインモードで作成した面の保存が可能になっている。
== 音楽 ==
;サウンドトラック
*『[[ファミコン・ミュージック]]』
*:1986年5月25日、[[G.M.O.レコード]]より発売されたアルバム内の一作品として収録されている。
*『ファミコン 20TH アニバーサリー オリジナル・サウンド・トラックス VOL.1』
*:2004年1月7日、[[サイトロン・デジタルコンテンツ]]より発売されたCD内の一作品として収録されている。
== スタッフ ==
;ファミリーコンピュータ版
*エグゼクティブ・プロデューサー:[[山内溥]]
*プロデューサー:[[横井軍平]]
*ディレクター:[[岡田智]]
*プログラマー:中村俊之、TOMOYO chan、YASE SOBAJIMA、AKINA chan
*デザイン:[[坂本賀勇]]、[[加納誠 (任天堂)|加納誠]]
*サウンド・コンポーズ:[[田中宏和]]
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|CVG = 8/10点 (FC)<ref name="mobygames_FC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7681/wrecking-crew/ |title=Wrecking Crew for NES (1985) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-27}}</ref>
|EuroG = 5/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7681/wrecking-crew/ |title=Wrecking Crew for Wii (2007) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-27}}</ref>
|GSpot = 7/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/>
|IGN = 7/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/>
|NLife = {{Rating|8|10}} (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/><br />{{Rating|6|10}} (Wii U)<ref name="mobygames_Wii U">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/7681/wrecking-crew/ |title=Wrecking Crew for Wii U (2013) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-27}}</ref>
|}}
;ファミリーコンピュータ版
ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の1991年5月10日号特別付録「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「爆弾で、壁を一気に壊すことをおぼえるとやみつきになることうけあい。100面は、ものすごくむずかしい」、「隠された名作パズル」と紹介されている<ref name="famimaga327"/>。
ニュースサイト「Game Watch」の鴫原盛之は、2021年に寄せたレビュー記事の中で、Nintendo Switch Onlineで配信されているファミリーコンピュータ版について、一見すると画面構成が地味なうえ、クリアには頭を使う必要があるものの、あらゆるものを壊せるゴールデンハンマーによってさらなる楽しさを見いだせたと評価しており<ref name="GameWatch20210503P1">{{Cite web|和書|title=Stay at home! 「レッキングクルー」はゴールデンハンマーで劇的に楽しくなる! ハンマーこうすれば必ずとれる! 秘技“空中浮遊”もしっかり伝授!! |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1322379.html |website=GAME Watch |date=2021-05-03 |accessdate=2022-02-18 |publisher=株式会社インプレス|page=1}}</ref>、36年前の作品とは思えないほど古臭さがまったくなかったとしている<ref>{{Cite web|和書|title=Stay at home! 「レッキングクルー」はゴールデンハンマーで劇的に楽しくなる! ハンマーこうすれば必ずとれる! 秘技“空中浮遊”もしっかり伝授!! |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/kikaku/1322379-2.html |website=GAME Watch |date=2021-05-03 |accessdate=2022-02-18 |publisher=株式会社インプレス|page=2}}</ref>。
{{Clear}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]] - このゲームをモチーフにした同名のステージが登場する。
** [[大乱闘スマッシュブラザーズ for Wii U]]
** [[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL]]
== 外部リンク ==
* [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/VS_WreckingCrew.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト VS. レッキングクルー]
* [https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk2/wreckingcrew/index.html ファミコンミニ レッキングクルー]
* {{Wiiバーチャルコンソール|wc}}
* {{3DSバーチャルコンソール|tagj}}
* {{Wii Uバーチャルコンソール|fa4j}}
* {{MobyGames|id=/7681/wrecking-crew/|name=Wrecking Crew}}
{{マリオシリーズのパズルゲーム}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れつきんくくるう}}
[[Category:マリオシリーズのパズルゲーム]]
[[Category:1984年のコンピュータゲーム]]
[[Category:1984年のアーケードゲーム]]
[[Category:1985年のコンピュータゲーム]]
[[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online収録ソフト]]
[[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]]
[[Category:アクションパズル]]
[[Category:インテリジェントシステムズのゲームソフト]]
[[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]]
[[Category:ディスクシステム用ソフト]]
[[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
|
2003-09-27T11:28:47Z
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|
18,510 |
レイフォース
|
『レイフォース』 (RAY FORCE) は、タイトーが開発した縦スクロールシューティングゲーム。日本では1994年2月よりアーケードゲームとして稼働を開始した。アーケード版はシステム基板に同社製「F3システム」を使用している。欧州では『Gunlock』のタイトルで稼働された。
本作は好評を博し、後年にタイトルの「レイ」を作品名に継承したシューティングゲームが2作品リリース、それらは後付けで本作も含めて「レイシリーズ」と通称されるようになった。これにより本作は遡って「レイシリーズ」の第1作目と定義されている。
プレイヤーは自機である「X-LAY」を操作し、暴走して人類無差別殺戮を行っているAIシステム「Con-Human」を破壊することが目的。ゲーム中では(各面開始時の面数・タイトルを除き)文字を使用せず映像演出のみでストーリー展開することが特徴。
開発はタイトー熊谷研究所が行い、プロデューサーは同社アーケードゲーム『アラビアンマジック』(1992年)を手掛けた阿部幸雄、音楽はカプコンのアーケードゲーム『戦場の狼』(1985年)や同『大魔界村』(1988年)を手掛けた河本圭代が担当している。
アーケード版のリリース以降、日本では『レイヤーセクション』、欧米では『Galactic Attack』 のタイトルで1995年にセガサターンほかいくつかの機種に移植。2007年にリリースしたPlayStation 2用ソフト『タイトーメモリーズII 上巻』で、はじめて原題の『レイフォース』のままで移植された。以降もゲーム機のみならずスマートフォンへも移植されている。
アーケード版はゲーム誌『ゲーメスト』の企画「第8回ゲーメスト大賞」(1994年度)において大賞5位を獲得し、セガサターン版はゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」にてゴールド殿堂を獲得した。
8方向レバーとショット、ロックオンレーザー用の2つのボタンで自機「X-LAY」を操作し、アイテムを取ることでショットの威力強化やロックオンレーザーの同時発射数の増加をしながらステージを進める。全7面×1周。
「ロックオンマーカー」と呼ばれる自機前方に表示されている照準を低高度の敵機に合わせることでロックオンし、その状態でボタンを押すことで自動追尾するレーザーを発射、攻撃する。最大で8発まで同時に射て、耐久力のある敵には重ねてロックオンできる。なお、2人同時プレイ時は2人合わせて8発(1人最大4発まで)である。なお、ロックオンはレーザーを撃たないでいると4秒後または標的が画面外に出ることで自動的に解除される。
一度に多くの敵機をロックオンレーザーで破壊することで、レーザー1発で破壊できる敵の得点に倍率がかかる。このため、高得点を狙うにはロックオン順序、ロックオンレーザーの発射タイミングのパターン化が必須であり、そのパターン構築が本作の醍醐味の1つとなっている。逆に、高得点を狙わず、効率的な敵の破壊に重点を置いた攻略をすることで、難易度を相対的に低下させることも可能である。
ロックオンレーザーはそれぞれ性能が異なるものの、後に制作されたレイシリーズ2作品(『レイストーム』『レイクライシス』)にも採用されている。
本作で出現するアイテムは、以下の3種類である。いずれも、特定の敵機を破壊することで出現する。
本作は、ステージ構成のみでそのストーリーを表している。「防衛艦隊を突破後、味方の艦隊を決死の囮として犠牲にしながら、宇宙からかつての母星である敵本星に降下、地下都市最深部にあるマザーコンピュータの破壊を目指す」という物語が、ゲーム開始から終了まで絶え間なく続くステージの流れで表現されている。序盤のみ部分的に交信音の演出は取り入れているが、基本的にそれ以外で文字や音声を使わずに展開する。
そのエンディングが悲劇的なもので、同社がかつて制作した『ガンフロンティア』(1991年)や『メタルブラック』(1991年)に複数のエンディングが存在していたこともあり、本作にも、最終ステージの行動によって別パターンのエンディングが存在するのではないかという噂が流れていた。これについては、開発者がゲーム誌上で公式に否定している。
関連製品であるサウンドトラック付属の資料・ブックレットには、本作の作戦に至るまでの歴史年表が記載されている。
ステージ構成と各ステージBGMのタイトルは以下の通り。
アーケード版は縦画面であったが、各移植版では画面構成を横画面向けにアレンジしているものが多い(後述するとおり、マニア向けに縦置き対応したディスプレイを用いる前提で「縦画面」表示が可能な移植版もある)。後年の移植版では、表示能力の向上から横画面でもアーケード版の縦画面の表示を再現するようになった(例外あり)。
以下のサウンドトラックが発売されている。
※ 各人の肩書きは稼働開始時点のもの。現在はタイトーを離れている者も多い。
メインショットが一種類のみでボンバーなどの緊急回避動作がないなど、時代に逆行したデザインの作品ながら、全国のゲームセンターにおいてロングランヒットを記録した。しかし、当時のゲームセンターは対戦格闘ゲームが中心に設置されており、基板自体の出回りは今一つだった。
本作のヒットを受け、『R-GEAR』というタイトルで続編が開発されていた。しかし1ステージのみ開発した時点でプラットフォームがPlayStation(1)互換のAC基板「FXシステム」に変更されたため、R-GEARとしての開発は中止、いわゆる「お蔵入り」となり、タイトルも『レイストーム』に変更してゼロベースで開発されることとなった。後年R-GEARの存在が様々なメディアで明らかになって以降は、俗に『レイフォース1.5』とも呼ばれている。世に出る前だったため詳細は後述する特別公開まで明確な情報が不明な点も多いが、本作と同じくF3システム基板を使用し、基本的なゲームシステムはそのままではあるが新自機候補として新しいロックオンレーザーを仮実装されたメカでプレイが可能となっているといったくらいまでは判明している。なお『レイストーム』に登場する自機のひとつ「R-GRAY2」は、前述した新ロックオンレーザーのアイデアが流用されている。
2023年にリリースを予定しているレイシリーズ三部作を1まとめにしたオムニバスソフト『レイズ アーケードクロノロジー』の「Amazon(日本)プライムデー限定商品」(発売の前年である2022年7月、Amazonプライムデー開催中にのみ限定して予約が実施された商品)に、本作のNintendo Switch / PlayStation 4移植版をダウンロードコンテンツとしてプレイ出来る権利が特典として付与される。前述のとおり1ステージのみではあるが「幻の続編」は約30年の時を越え、一般プレイヤーも(入手さえ出来れば)プレイすることが可能となる。
なお、移植版のゲーム音楽(VGM)はレイフォースVGM作曲者・TAMAYO(河本圭代)が新規に作曲したものが使用される。
|
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"text": "一度に多くの敵機をロックオンレーザーで破壊することで、レーザー1発で破壊できる敵の得点に倍率がかかる。このため、高得点を狙うにはロックオン順序、ロックオンレーザーの発射タイミングのパターン化が必須であり、そのパターン構築が本作の醍醐味の1つとなっている。逆に、高得点を狙わず、効率的な敵の破壊に重点を置いた攻略をすることで、難易度を相対的に低下させることも可能である。",
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"text": "ロックオンレーザーはそれぞれ性能が異なるものの、後に制作されたレイシリーズ2作品(『レイストーム』『レイクライシス』)にも採用されている。",
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"text": "関連製品であるサウンドトラック付属の資料・ブックレットには、本作の作戦に至るまでの歴史年表が記載されている。",
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"text": "※ 各人の肩書きは稼働開始時点のもの。現在はタイトーを離れている者も多い。",
"title": "スタッフ"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "メインショットが一種類のみでボンバーなどの緊急回避動作がないなど、時代に逆行したデザインの作品ながら、全国のゲームセンターにおいてロングランヒットを記録した。しかし、当時のゲームセンターは対戦格闘ゲームが中心に設置されており、基板自体の出回りは今一つだった。",
"title": "反響"
},
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "本作のヒットを受け、『R-GEAR』というタイトルで続編が開発されていた。しかし1ステージのみ開発した時点でプラットフォームがPlayStation(1)互換のAC基板「FXシステム」に変更されたため、R-GEARとしての開発は中止、いわゆる「お蔵入り」となり、タイトルも『レイストーム』に変更してゼロベースで開発されることとなった。後年R-GEARの存在が様々なメディアで明らかになって以降は、俗に『レイフォース1.5』とも呼ばれている。世に出る前だったため詳細は後述する特別公開まで明確な情報が不明な点も多いが、本作と同じくF3システム基板を使用し、基本的なゲームシステムはそのままではあるが新自機候補として新しいロックオンレーザーを仮実装されたメカでプレイが可能となっているといったくらいまでは判明している。なお『レイストーム』に登場する自機のひとつ「R-GRAY2」は、前述した新ロックオンレーザーのアイデアが流用されている。",
"title": "幻の続編『R-GEAR』"
},
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"text": "2023年にリリースを予定しているレイシリーズ三部作を1まとめにしたオムニバスソフト『レイズ アーケードクロノロジー』の「Amazon(日本)プライムデー限定商品」(発売の前年である2022年7月、Amazonプライムデー開催中にのみ限定して予約が実施された商品)に、本作のNintendo Switch / PlayStation 4移植版をダウンロードコンテンツとしてプレイ出来る権利が特典として付与される。前述のとおり1ステージのみではあるが「幻の続編」は約30年の時を越え、一般プレイヤーも(入手さえ出来れば)プレイすることが可能となる。",
"title": "幻の続編『R-GEAR』"
},
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"tag": "p",
"text": "なお、移植版のゲーム音楽(VGM)はレイフォースVGM作曲者・TAMAYO(河本圭代)が新規に作曲したものが使用される。",
"title": "幻の続編『R-GEAR』"
}
] |
『レイフォース』 は、タイトーが開発した縦スクロールシューティングゲーム。日本では1994年2月よりアーケードゲームとして稼働を開始した。アーケード版はシステム基板に同社製「F3システム」を使用している。欧州では『Gunlock』のタイトルで稼働された。 本作は好評を博し、後年にタイトルの「レイ」を作品名に継承したシューティングゲームが2作品リリース、それらは後付けで本作も含めて「レイシリーズ」と通称されるようになった。これにより本作は遡って「レイシリーズ」の第1作目と定義されている。
|
{{otheruses}}
{{コンピュータゲーム
| Title = レイフォース
| image =
| Genre = [[シューティングゲーム|縦スクロールシューティング]]
| Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 =
[[セガサターン]] (SS)<br />[[Microsoft Windows|Windows]] (Win)<br />[[iOS]]<br />[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]<br />[[Nintendo Switch]] (NSW)<br />[[PlayStation 4]] (PS4)<br />[[Xbox One]] (XB1)<br />[[パーソナルコンピュータ|PC]] ([[Steam]])}}
| Dev = タイトー熊谷研究所
| Pub = [[タイトー]]
| distributor =
| producer = 阿部幸雄
| director = 阿部幸雄<br />中村辰男
| designer = 中村辰男<br />阿部幸雄<br />山下智久
| writer =
| programmer = 中村辰男<br />征矢野伸二<br />谷口晃<br />樫野正雄<br />大山功
| composer = [[河本圭代]]
| artist = 加藤秀幸<br />山下智久<br />磯部孝幸<br />杉谷伸二郎<br />鯨井洋代<br />野口泰弘
| license =
| series = レイシリーズ
| Ver =
| Play = 1 - 2人(同時プレイ)
| Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]<br />(11.50[[メガバイト]])
| Date = '''AC'''<br />{{vgrelease new|JP|February 1994|NA|1994年|EU|1994年}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''SS'''<br />{{vgrelease new|JP|1995-09-14|NA|December 1995|EU|February 1996}}'''Win'''<br />{{vgrelease new|JP|1997年|EU|1997年}}'''SS(廉価版)'''<br />{{vgrelease new|JP|1997-04-25}}'''Win(廉価版)'''<br />{{vgrelease new|JP|1999-06-11}}'''Win(廉価版)'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-01-17}}'''iOS'''<br />{{vgrelease new|JP|2012-01-13}}'''Android, iOS'''<br />{{vgrelease new|JP|2017-05-31}}'''NSW, PS4, XB1, Steam(S版)'''<br />{{vgrelease new|JP|2022-04-28}}'''NSW, PS4(AC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2023}}}}
| Rating = {{vgrelease new|JP|{{CERO-A}}|NA|{{ESRB-E}}|EU|{{PEGI-3}}|AU|[[Office_of_Film_and_Literature_Classification|OFLC]]: G(General)}}
| ContentsIcon =
| Download content =
| Device = 8方向レバー<br />[[パドルコントローラ]]<br />4ボタン
| Spec =
| Engine =
| aspect ratio =
| resolution =
| cabinet =
| Arcade system = [[F3システム]]
| cpu = [[MC68000|68EC020]] (@ 16 MHz)
| sound = MC68000 (@ 16 MHz)<br />ES5505 (@ 15.238 MHz)
| display = [[ラスタースキャン]]<br />縦モニター<br />320×224[[ピクセル]]<br />58.97[[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />パレット8192色
| Sale =
| ArcOnly = 1
| OnlineGame =
| etc =
}}
『'''レイフォース'''』 (''RAY FORCE'') は、[[タイトー]]が開発した[[縦スクロール_(コンピュータゲーム)|縦スクロール]][[シューティングゲーム]]。日本では[[1994年]]2月より[[アーケードゲーム]]として稼働を開始した。アーケード版は[[アーケードゲーム基板#システム基板|システム基板]]に同社製「[[F3システム]]」を使用している。欧州では『''Gunlock''』のタイトルで稼働された。
本作は好評を博し、後年にタイトルの「レイ」を作品名に継承したシューティングゲームが2作品リリース、それらは後付けで本作も含めて「レイシリーズ」と通称されるようになった。これにより本作は遡って「レイシリーズ」の第1作目と定義されている。
== 概要 ==
プレイヤーは[[自機]]である「X-LAY」<ref group="注釈">パイロットの名前などの設定は公開されていないが、デモ画面に登場する人物の容姿は女性的である。なお本作はゲームシステム上「二人同時プレイ」が可能だが、この人物以外にゲーム内でX-LAYのパイロットは確認できない。</ref>を操作し、暴走して人類無差別殺戮を行っているAIシステム「Con-Human」を破壊することが目的。ゲーム中では(各面開始時の面数・タイトルを除き)文字を使用せず映像演出のみでストーリー展開することが特徴。
開発はタイトー熊谷研究所が行い、プロデューサーは同社アーケードゲーム『[[アラビアンマジック]]』([[1992年]])を手掛けた阿部幸雄、音楽は[[カプコン]]のアーケードゲーム『[[戦場の狼]]』([[1985年]])や同『[[大魔界村]]』([[1988年]])を手掛けた[[河本圭代]]が担当している。
アーケード版のリリース以降、日本では『'''レイヤーセクション'''』、欧米では『''Galactic Attack''』 のタイトルで[[1995年]]に[[セガサターン]]ほかいくつかの機種に移植。2007年にリリースした[[PlayStation 2]]用ソフト『[[タイトーメモリーズ|タイトーメモリーズII 上巻]]』で、はじめて原題の『'''レイフォース'''』のままで移植された。以降もゲーム機のみならず[[スマートフォン]]へも移植されている。
アーケード版はゲーム誌『[[ゲーメスト]]』の企画「第8回[[ゲーメスト大賞]]」(1994年度)において大賞5位を獲得し、セガサターン版はゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」にてゴールド殿堂を獲得した。
== ゲーム内容 ==
=== システム ===
8方向レバーとショット、ロックオンレーザー用の2つのボタンで自機「X-LAY」を操作し、[[アイテム]]を取ることでショットの威力強化やロックオンレーザーの同時発射数の増加をしながらステージを進める。全7面×1周。
「ロックオンマーカー」と呼ばれる自機前方に表示されている照準を低高度の敵機に合わせることでロックオンし、その状態でボタンを押すことで自動追尾する[[レーザー]]を発射、攻撃する。最大で8発まで同時に射て、耐久力のある敵には重ねてロックオンできる。なお、2人同時プレイ時は2人合わせて8発(1人最大4発まで)である。なお、ロックオンはレーザーを撃たないでいると4秒後または標的が画面外に出ることで自動的に解除される。
一度に多くの敵機をロックオンレーザーで破壊することで、'''レーザー1発で破壊できる敵'''の得点に倍率がかかる。このため、高得点を狙うにはロックオン順序、ロックオンレーザーの発射タイミングのパターン化が必須であり、そのパターン構築が本作の醍醐味の1つとなっている。逆に、高得点を狙わず、効率的な敵の破壊に重点を置いた攻略をすることで、難易度を相対的に低下させることも可能である。
ロックオンレーザーはそれぞれ性能が異なるものの、後に制作されたレイシリーズ2作品(『[[レイストーム]]』『[[レイクライシス]]』)にも採用されている。
=== アイテム ===
本作で出現するアイテムは、以下の3種類である。いずれも、特定の敵機を破壊することで出現する。
;パワーアップ
:正四面体形をした赤色のアイテムで、これを3つ取得することで自機のメインショットが1段階パワーアップする。
;スーパーパワーアップ
:上記パワーアップアイテムが黄色になったもの。1つ取得するだけで自機のメインショットが1段階パワーアップする。
;レーザー
:緑色で「L」の字が描かれたカプセル状のアイテム。これを取得するとロックオンレーザーの同時発射数が1つ増加する。
== 設定 ==
=== ストーリー ===
本作は、ステージ構成のみでそのストーリーを表している。「防衛艦隊を突破後、味方の艦隊を決死の囮として犠牲にしながら、宇宙からかつての母星である敵本星に降下、地下都市最深部にあるマザーコンピュータの破壊を目指す」という物語が、ゲーム開始から終了まで絶え間なく続くステージの流れで表現されている。序盤のみ部分的に交信音の演出は取り入れているが、基本的にそれ以外で文字や音声を使わずに展開する。
そのエンディングが悲劇的なもので、同社がかつて制作した『[[ガンフロンティア (ゲーム)|ガンフロンティア]]』([[1991年]])や『[[メタルブラック]]』(1991年)に複数のエンディングが存在していたこともあり、本作にも、最終ステージの行動によって別パターンのエンディングが存在するのではないかという噂が流れていた。これについては、開発者がゲーム誌上で公式に否定している。
関連製品であるサウンドトラック付属の資料・ブックレットには、本作の作戦に至るまでの歴史年表が記載されている。
=== ステージ構成 ===
ステージ構成と各ステージBGMのタイトルは以下の通り。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
! !! 舞台 !! ステージタイトル !! BGM !! 中ボス !! ボス !! ボスBGM
|-
! AREA 1
| 敵本星リング状小惑星帯
| RED POWER TO PIERCE THROUGH
| PENETRATION
|
| デュアルランス
| rowspan="4" | AGGRESIVENESS
|-
! AREA 2
| 敵本星衛星軌道
| THE GRAVITY OF BLUE SIDE
| G
| アーマースケイル<br>[[ポセイドン]]
| ギラソル
|-
! AREA 3
| 敵本星上空
| THE PHANTASM OF SILVER
| VISION
| [[アスラ]]
| ギガ
|-
! AREA 4
| 敵本星地表付近
| THE FISSURE OF CONSCIOUSNESS
| CRACKING!
|
| G.P.M.S.-2
|-
! AREA 5
| 敵本星地下都市
| TOWARD THE DARKNESS
| INTO DARKNESS
|
| [[オーディン]]
| rowspan="2" | ATROCITY
|-
! AREA 6
| 敵本星地下深奥部
| THE END OF DEEP LAYER
| MÖBIUS
| ファランクス
| ダイナモ
|-
! AREA 7
| 敵本星中心核
| RELEASING INFINITELY
| THE PLOT THICKENS<br>QUARTZ
| テンタクル
| コンヒューマン
| THE FATES<br>DOOMSDAY
|}
== 移植版 ==
アーケード版は縦画面であったが、各移植版では画面構成を横画面向けにアレンジしているものが多い(後述するとおり、マニア向けに縦置き対応したディスプレイを用いる前提で「縦画面」表示が可能な移植版もある)。後年の移植版では、表示能力の向上から横画面でもアーケード版の縦画面の表示を再現するようになった(例外あり)。
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 備考
! 出典
|-
| style="text-align:right" | 1
! {{vgrelease new|JP|レイヤーセクション|NA|Galactic Attack|EU|Galactic Attack}}
| {{vgrelease new|JP|1995-09-14|NA|December 1995|EU|February 1996}}
| [[セガサターン]]
| ビング
| {{vgrelease new|JP|タイトー|NA|[[アクレイム・エンタテインメント|アクレイム]]|EU|アクレイム}}
| [[CD-ROM]]
| {{vgrelease new|JP|T-1101G|NA|T-8116H|EU|T-8116H-50}}
|
|
|-
| style="text-align:right" | 2
! レイヤーセクション
| {{vgrelease new|JP|1997年|EU|1997年}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]
| {{vgrelease new|JP|ゲームバンク|EU|Big Bang Software}}
| {{vgrelease new|JP|ゲームバンク|EU|[[:en:Rainbow Arts|Rainbow Arts]]}}
| CD-ROM
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 3
! サタコレ<br />レイヤーセクション
| {{vgrelease new|JP|1997-04-25}}
| セガサターン
| ビング
| タイトー
| CD-ROM
| T-1112G
| 廉価版
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! PCゲームBestシリーズ Vol.5<br />レイヤーセクション
| {{vgrelease new|JP|1999-06-11}}
| Windows
| [[サイバーフロント]]
| サイバーフロント
| CD-ROM
| -
| 廉価版
|
|-
| style="text-align:right" | 5
! Ultra Series レイヤーセクション
| {{vgrelease new|JP|2003-01-17}}
| Windows
| [[メディアカイト]]
| メディアカイト
| CD-ROM
| -
| 廉価版
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! [[タイトーメモリーズ|タイトーメモリーズII 上巻]]
| {{vgrelease new|JP|2007-01-25}}
| [[PlayStation 2]]
| タイトー
| タイトー
| [[DVD-ROM]]
| SLPM-66649
| アーケード版の移植
|
|-
| style="text-align:right" | 7
! [[:en:Taito Legends 2|Taito Legends 2]]
| {{vgrelease new|AU|2006-03-30|EU|2006-03-31|NA|2007-05-16}}
| PlayStation 2<br />[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]<br />Windows
| タイトー<br />Empire Interactive<br />[[:en:Atomic Planet Entertainment|Atomic Planet]]
| {{vgrelease new|EU|[[:en:Empire Interactive|Empire Interactive]]|NA|[[:en:Destineer|Destineer]]}}
| DVD-ROM
| -
| アーケード版の移植
|
|-
| style="text-align:right" | 8
! レイフォース
| {{vgrelease new|JP|2012-01-13}}
| [[iPhone]]<br />([[iOS]])
| タイトー
| タイトー
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]
| -
| アーケード版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2012-01-13 |url=https://app.famitsu.com/20120113_20635/ |title=『RAYFORCE』がiOSで配信スタート あのロックオンレーザーにしびれた人集合~! |website=[[ファミ通|ファミ通App]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=石田賀津男 |date=2012-01-13 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/504150.html |title=タイトー、iPhone/iPod touch「RAYFORCE」配信開始。AC版を忠実に再現する多彩なモードを搭載 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Chihiro |date=2012-01-13 |url=https://www.4gamer.net/games/146/G014606/20120113008/ |title=iPhone/iPod Touch版「RAYFORCE」が本日配信。「ロックオンレーザー」で敵を一掃し,ハイスコアの更新を目指せ |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-07-18}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 9
! タイトークラシックス<br />レイフォース
| {{vgrelease new|JP|2017-05-31}}
| [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]<br />iOS
| タイトー
| タイトー
| ダウンロード
| -
| アーケード版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|author=今藤祐馬 |date=2017-05-31 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1062724.html |title=「TAITO CLASSICS」にAndroid版「RAYFORCE」登場! |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=楽器 |date=2017-05-31 |url=https://www.4gamer.net/games/382/G038256/20170531090/ |title=TAITO CLASSICSの第2弾「RAYFORCE(レイフォース)」のAndroid版が配信。「タイムギャル」の未公開マル秘資料も公開 |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-07-18}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 10
! レイフォース
| {{vgrelease new|JP|2022-03-02}}
| [[イーグレットツー ミニ]]
| 瑞起
| タイトー
| [[プリインストール]]
| -
| アーケード版の移植
|
|-
| style="text-align:right" | 11
! レイヤーセクション & ギャラクティックアタック<br />[[サターントリビュート|Sトリビュート]]
| {{vgrelease new|JP|2022-04-28}}
| [[Nintendo Switch]]<br />[[PlayStation 4]]<br />[[Xbox One]]<br />[[Steam]]
| [[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]
| シティコネクション
| ダウンロード
| -
| セガサターン版ベースの移植<br />海外版(Galactic Attack)も収録
| <ref>{{Cite web|和書|author=Gueed |date=2022-04-28 |url=https://www.4gamer.net/games/625/G062584/20220428162/ |title=「レイヤーセクション & ギャラクティックアタック Sトリビュート」本日リリース。6月中頃に機能追加・改修パッチの配信を予定 |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |language= [[日本語]] |accessdate=2022-04-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Gamer編集部 |date=2022-04-28 |url=https://www.gamer.ne.jp/news/202204280060/ |title=ロックオンレーザーが特徴の縦STG「レイヤーセクション & ギャラクティックアタック Sトリビュート」が配信開始! 今後のアップデート情報も |website=Gamer |publisher=ixll |language= [[日本語]] |accessdate=2022-04-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Mr.Katoh |date=2022-04-28 |url=https://www.gamespark.jp/article/2022/04/28/118164.html |title=セガサターン名作縦スクロールSTG『レイヤーセクション&ギャラクティックアタック Sトリビュート』PC/PS4/XB1/スイッチ向けに配信開始 アーケードゲーム『レイフォース』の家庭用版『レイヤーセクション』と海外版がセット。 |website=Game*Spark |publisher=[[イード (企業)|IID]] |language= [[日本語]] |accessdate=2022-04-29}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 12
! レイズ アーケード クロノロジー
| {{vgrelease new|JP|2023-03-09}}
| [[Nintendo Switch]]<br />[[PlayStation 4]]
| [[M2 (ゲーム会社)|エムツー]]
| タイトー
| ダウンロード
| -
| アーケード版の移植
| <ref>{{Cite web|和書|date=2022-06-28 |url=https://www.taito.co.jp/rayzarcadechronology |title=レイズ アーケード クロノロジー公式サイト |publisher=タイトー |language= [[日本語]] |accessdate=2022-06-29}}</ref>
|}
;セガサターン版
: タイトルは開発時の仮タイトルだった『'''レイヤーセクション'''』 (''LAYER SECTION'') に変更された。これは、国内に同名のゲームメーカーである[[レイ・フォース]]が存在しており、名称の重複を防ぐための措置だったとされる。BGMはアーケード音源ではなくCD音源のモノラル再生<!--CD-DA自体はステレオ。ゲーム中はモノラルで再生-->。家庭用のテレビサイズに合わせるために敵出現配置などが変更されている。また、アーケード版と同様の縦画面にできる「アーケードモード」も搭載している。北米及び欧州では『''Galactic Attack''』のタイトルで[[アクレイム・エンタテインメント]]より発売された。
;Windows版
: タイトルは『レイヤーセクション』。開発・販売はゲームバンクで、[[1999年]]には[[サイバーフロント]]より再発売されている。画面レイアウトが大幅に変更されており、また一部演出が省略されている。
;PlayStation 2版
: 『[[タイトーメモリーズ#タイトーメモリーズII 上巻|タイトーメモリーズII 上巻]]』に収録。『'''レイフォース'''』のタイトルでの初移植。[[エミュレーション]]で再現されており、グラフィックを含めたゲーム本編の内容は(ほぼ)完全移植だが、プレイ時の操作遅延が大きく、操作感覚がアーケード版と異なる。オプション設定で、アーケード版に準拠した縦画面での表示が可能。
;[[イーグレットツー ミニ]]版
: タイトーが何らかの形で関わったアーケードゲームを多数収録した「復刻系ゲーム機」の1タイトルとして収録。内蔵の液晶画面を回転する機構があり、アーケード版と同じの「物理的な縦画面」でのプレイが可能。外部のテレビやモニターへの画面出力をした場合、縦画面モードや、横画面の中央に縦画面を配置するなどの表示設定が可能。
; レイヤーセクション & ギャラクティックアタック Sトリビュート(Nintendo Switch、PlayStation 4、Xbox One、Steam版。内容は全て同じ)
: セガサターン版ベースの移植<ref group="注釈" name="Sトリビュート" />。[[シティコネクション (企業)|シティコネクション]]がプロデュースする、セガサターン時代の作品を復刻<ref group="注釈" name="Sトリビュート">本作は、このシリーズのために独自開発された[[ゲームエンジン]]「ゼブラエンジン」を用いてセガサターン版の仕様を「復刻」したものであり、プログラム的にはセガサターン版そのものを用いたモノでは無いが、便宜上「移植」の表現を用いている。</ref>するプロジェクト「[[サターントリビュート|Sトリビュート]]」のシリーズ作品であることから、あえて作品名を『レイヤーセクション』としている、また海外版『Galactic Attack』(ギャラクティックアタック)も収録されている。<br />「Sトリビュート」独自の機能として「巻き戻し」「スローモード」「クイックセーブ」「ステージセレクト」「拡張連射設定」「難易度の上昇設定の変更」といったゲームを遊びやすく(あるいは更に歯ごたえのある難易度で遊ぶ)機能が加わっているほか、BGMのステレオ化、オンラインランキングモード(コンシューマーモードのみに対応)などが実装されている。
; レイズ アーケード クロノロジー (Switch、PS4版。内容は両方とも同じ)
: 「レイシリーズ」3作を1まとめにしたオムニバスソフト・『'''レイズアーケードクロノロジー'''』 ( ''RAY'z Arcade Chronology'' )に収録。
: リリースする機種が上記「Sトリビュート」と一部で被っているが、こちらはアーケード版を基本とした移植となり、移植担当企業も異なる。ただしプレイ中のミュージックを『レイヤーセクション』で用いたバージョンにする事が可能。(音声がモノラルになる事は無いと思われる)
: その他、画面両端の空いた空間に「ガジェット」と呼称される、ゲームの攻略に役立つ様々な情報が表示できる機能が搭載可能(非表示のままでもプレイ可能)。
; iOS / Android版
: アーケード版音源を収録している。タッチ操作でも操作しやすいよう移動速度が調整され、一部敵キャラクターの色やエフェクトなどが変更された「Remix MODE」を搭載。iPod Touchでは処理落ち・コマ落ちしやすい。[[2017年]][[5月31日]]には大型アップデートが行われ、iPadでの全画面表示やゲームコントローラーの対応、[[土屋昇平]]によるAREA 1のBGMの新アレンジの収録が行われた。
== 音楽 ==
以下のサウンドトラックが発売されている。
;RAYFORCE
:[[1994年]]、[[サイトロンレーベル]]より発売。サウンドトラック。サイトロン2000シリーズ第1弾で開発用機材からマルチトラックでレコーディングされたため、基板オリジナル音源とは異なる。資料集として、ビジュアルアートと『MISSION DATA FILE』が付属。
;RAYFORCE RUBBING BEAT
:[[1997年]]、ズンタタレコードより発売。アレンジサウンドトラック。
;Ray'z PREMIUM BOX -BEYOND-
:[[2005年]]、ズンタタレコードより発売。レイフォース(基板オリジナル音源とCD音源)、レイストーム、レイクライシスのシリーズ3作品のBGMを収めたオリジナルサウンドトラック。特典映像を収録したDVDを同梱。
;レイフォース オリジナルサウンドトラック -PCB Version-
:[[2009年]]、iTunes Storeにて配信。基板オリジナル音源。
;Ray'z Music Chronology
:[[2017年]][[10月12日]]、ズンタタレコードより発売<ref>{{Cite web|和書|author=ででお |date=2017-07-13 |url=https://www.famitsu.com/news/201707/13136952.html |title=『Ray’z Music Chronology』発売決定記念! BETTA FLASHのふたりにインタビュー |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-07-18}}</ref>。レイフォース、レイストーム、レイクライシスのシリーズ3作品の基板オリジナル音源、サウンドトラック音源、アレンジアルバム「RAYFORCE RUBBING BEAT」「RAYSTORM NEU TANZ MIX」「RAYCRISIS rayons de l'Air」の音源および新アレンジや未音源化曲などを収めたオリジナルサウンドトラック。ブックレットが付属している。
== スタッフ ==
※ 各人の肩書きは稼働開始時点のもの。現在はタイトーを離れている者も多い。
*プロデューサー:阿部幸雄
*ディレクター:阿部幸雄、中村辰男
*ゲーム・デザイン:中村辰男、阿部幸雄、山下智久
*ソフトウェア:中村辰男、征矢野伸二、谷口晃、樫野正雄、大山功
*キャラクター・グラフィック:加藤秀幸、山下智久、磯部孝幸、杉谷伸二郎、鯨井洋代、野口泰弘
*スクリーン・グラフィック:加藤秀幸、V.A.P、PEACOCK
*音楽:[[河本圭代]] ([[ZUNTATA]])
*効果音:河本圭代 (ZUNTATA)、中西宗博 (ZUNTATA)
*サウンド・ディレクション:殿村裕誠 (ZUNTATA)
*デザイン・ワーク:うめずきょうこ
*ハードウェア:金岡勝美
*スペシャル・サンクス:永田喜久、岩崎雄二、松本俊明、仙波隆綱、堀崇真、VG TOKYO LAB.、VG OSAKA LAB.、オール熊谷スタッフ
== 反響 ==
メインショットが一種類のみで[[ボム (シューティングゲーム)|ボンバー]]などの緊急回避動作がないなど、時代に逆行したデザインの作品ながら、全国の[[ゲームセンター]]においてロングランヒットを記録した。しかし、当時のゲームセンターは対戦格闘ゲームが中心に設置されており、基板自体の出回りは今一つだった。<!--当時の[[ゲーメスト]]でも「もう少し出回っていれば」とコメントされている。-->
=== 評価 ===
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|CVG = 86% (SS)<ref name="mobygames_SS">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/sega-saturn/galactic-attack__ |title=Galactic Attack for SEGA Saturn (1995) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2021-07-18}}</ref>
|Fam = 32/40点 (SS)<ref name="famitsu"/><br />(ゴールド殿堂)
|GameFan = 87.3% (SS)<ref name="mobygames_SS"/>
|GamePro = 4/5点 (SS)<ref name="mobygames_SS"/>
|NGen = {{Rating|3|5}} (SS)<ref name=NGen15>{{cite magazine |title=Galactic Attack|magazine=[[:en:Next Generation (magazine)|Next Generation]]|issue=15 |publisher=[[:en:Imagine Media|Imagine Media]]|date=March 1996|pages=81–82}}</ref>
|rev1 = [[ドリームキャストFAN|SATURN FAN]]
|rev1Score = 24.3/30点 (SS){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=813}}
|rev2 = Maximum
|rev2Score = {{rating|3|5}} (SS)<ref name=Max3>{{cite magazine |title=Maximum Reviews: Galactic Attack|magazine=Maximum: The Video Game Magazine|issue=3 |publisher=[[:en:Emap International Limited|Emap International Limited]]|date=January 1996|page=144}}</ref>
|rev3 = [[:en:Sega Saturn Magazine|Sega Saturn Magazine]]
|rev3Score = 79% (SS)<ref name=SatMag3>{{cite magazine|last=Automatic |first=Rad |title=Review: Galactic Attack|magazine=[[:en:Sega Saturn Magazine|Sega Saturn Magazine]]|issue=3|publisher=[[:en:Emap International Limited|Emap International Limited]]|date=January 1996|pages=82–83}}</ref>
|rev4 = [[:en:Mean Machines|Mean Machines]]
|rev4Score = 75% (SS)<ref name="mobygames_SS"/>
|award1Pub = 第8回[[ゲーメスト大賞]]
|award1 = 大賞 5位{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=11|ps= - 「ゲーメスト大賞11年史」より}}<br />ベストシューティング賞 2位{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=11|ps= - 「ゲーメスト大賞11年史」より}}<br />ベスト演出賞 4位{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=11|ps= - 「ゲーメスト大賞11年史」より}}<br />ベストグラフィック賞 8位{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=11|ps= - 「ゲーメスト大賞11年史」より}}<br />ベストVGM賞 5位{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=11|ps= - 「ゲーメスト大賞11年史」より}}<br />編集部特別賞
}}
{|class="wikitable floatright" style="font-size:70%; text-align:center; width:23%"
|+ [[ドリームキャストFAN|SATURN FAN]]評価
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || お買得度 || 操作性 || 熱中度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! 得点
| 3.9 || 4.0 || 4.2 || 4.2 || 4.2 || 3.8
! 24.3
|}
;アーケード版
:ゲーム誌『[[ゲーメスト]]』の企画「第8回[[ゲーメスト大賞]]」(1994年度)において、読者投票により大賞5位、ベストシューティング賞2位、ベスト演出賞4位、ベストグラフィック賞8位、ベストVGM賞5位、編集部特別賞を獲得した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=11|ps= - 「ゲーメスト大賞11年史」より}}。[[ゲーメスト]]ムック『ザ・ベストゲーム2』([[1998年]])では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、同書にてライターのMW岩井は本作の特徴はロックオンレーザーのシステムにあると指摘し、ロックオンの対象が自機と同じ高度の敵や空中物に対しても有効である事を挙げ、また複数の敵に同時ロックオンした後にレーザー照射する事で全ての敵を一掃可能な黄色のレーザーに関して「美しい軌跡を描いて放たれる」と肯定的に評価した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=81|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。また、一度のレーザーでより多くの敵を撃墜する事で得られるボーナス点の存在により、本作のスコアアタックが「過去に類を見ないほどにシビアになっていった」と述べている{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=81|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。
;セガサターン版
:ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」において、8・9・7・8の合計32点(満40点)でゴールド殿堂を獲得<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|date= |url= https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=1025 |title= レイヤーセクション まとめ <nowiki>[セガサターン]</nowiki> |website= [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher= [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate= 2021-07-18}}</ref>、『[[ドリームキャストFAN|SATURN FAN]]』において右記の通り24.3点(満30点)で高評価となった{{Sfn|超絶 大技林|1998|p=813}}。
:『ファミコン通信』の「クロスレビュー」において、レビュアーからは移植度に関して称賛する意見が多数挙げられ、[[浜村弘一|浜村通信]]は本作が完全移植であると断言し、奥行きのあるグラフィックやレーザーで敵を一掃する爽快感などを肯定的に評価、羽田隆之はアーケード版と若干異なる箇所が存在する事を指摘しつつも、アーケード版の攻略法が使用可能な事に触れ「移植って言葉がふさわしい」と称賛し9点を与え、[[ローリング内沢]]は移植度の高さを肯定的に評価した{{Sfn|クロスレビュー|2005|p=58}}。また浜村と内沢は当時シューティングゲームで高評価の作品が無かった事に触れた上で、本作が久しぶりに登場した良作であると評価した他、羽田と内沢は縦画面モードがある点に関して高く評価した{{Sfn|クロスレビュー|2005|p=58}}。一方で渡辺美紀は、敵をロックオンして一掃するシステムが「最高に気持ちいい」と述べつつも、敵を逃すと弾幕によって敵の弾と自機の弾の判別が不可能であるとして難易度の高さを否定的に評価した{{Sfn|クロスレビュー|2005|p=58}}。
== 幻の続編『R-GEAR』==
本作のヒットを受け、『R-GEAR』というタイトルで続編が開発されていた。しかし1ステージのみ開発した時点でプラットフォームが[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation(1)]]互換のAC基板「[[FXシステム]]」に変更されたため、R-GEARとしての開発は中止、いわゆる「お蔵入り」となり、タイトルも『レイストーム』に変更してゼロベースで開発されることとなった。後年R-GEARの存在が様々なメディア<ref group="注釈" name="RAY RAY CD">一例としては、PS版レイストームと、レイシリーズでは無いがZUNTATAが音楽を手掛けたタイトーのPSソフト『[[レイ・トレーサー]]』の両方を購入し、特典応募すると貰えた非売品のPS映像ソフトROM『RAY RAY CD』に、R-GEARの映像が一部収録されていた。この映像で流れたVGMは開発時の仮曲だったらしく、移植版とは異なる。</ref>で明らかになって以降は、俗に『レイフォース1.5』とも呼ばれている<!--https://www.taito.co.jp/rayzarcadechronology/product『レイズ アーケードクロノロジー』商品紹介ページの下のほう「Amazonプライムデー限定商品特典」『R-GEAR』とは 紹介文参照-->。世に出る前だったため詳細は後述する特別公開まで明確な情報が不明な点も多いが、本作と同じく[[F3システム]]基板を使用し、基本的なゲームシステムはそのままではあるが新自機候補として新しいロックオンレーザーを仮実装されたメカでプレイが可能となっているといったくらいまでは判明している。なお『レイストーム』に登場する自機のひとつ「R-GRAY2」は、前述した新ロックオンレーザーのアイデアが流用されている。
2023年にリリースを予定しているレイシリーズ三部作を1まとめにしたオムニバスソフト『レイズ アーケードクロノロジー』の「[[Amazon.co.jp|Amazon(日本)]]プライムデー限定商品」(発売の前年である2022年7月、Amazonプライムデー開催中にのみ限定して予約が実施された商品)に、本作のNintendo Switch / PlayStation 4移植版をダウンロードコンテンツとしてプレイ出来る権利が特典として付与される。前述のとおり1ステージのみではあるが「幻の続編」は約30年の時を越え、一般プレイヤーも(入手さえ出来れば)プレイすることが可能となる。
なお、移植版のゲーム音楽(VGM)はレイフォースVGM作曲者・TAMAYO(河本圭代)が新規に作曲したものが使用される<ref group="注釈" name="RAY RAY CD" />。
{{Clear}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |title = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |journal = [[ゲーメスト]] |volume = 5 |number = 4 |date = 1998-01-17 |publisher = 新声社 |isbn = 9784881994290 |pages = 11, 81頁 |ref = {{SfnRef|ザ・ベストゲーム2|1998}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 超絶 大技林 '98年春版 |journal = [[PlayStation Magazine]] |number = 増刊4月15日号 |date = 1998-04-15 |publisher = [[徳間書店]]/インターメディア・カンパニー |asin = B00J16900U |page = 813 |ref = {{SfnRef|超絶 大技林|1998}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 6月16日増刊号特別付録 クロスレビュー優良ソフトパーフェクトカタログ 上巻 |journal = [[ファミ通]] |number = 6月16日増刊号 |date = 2005-06-16 |publisher = [[エンターブレイン]] |page = 58 |ref = {{SfnRef|クロスレビュー|2005}}}}
== 関連項目 ==
*[[レイストーム]]([[1996年]]) - アーケードゲーム、並行世界での物語で、R-GRAYシリーズの元になった「LAY」の関連が示唆されている。HD版では、X-LAYのデザインに変更されたR-GRAY0が登場。
*[[レイクライシス]]([[1998年]]) - アーケードゲーム、本作の前日談。
*[[ダライアスバースト アナザークロニクル#ダライアスバースト クロニクルセイバーズ|ダライアスバースト クロニクルセイバーズ]] ([[2016年]]) - [[PlayStation 4]]および[[PlayStation Vita]]、[[Microsoft Windows|Windows]]用ソフト。
*[[太鼓の達人]] - アーケード版太鼓の達人13にBGM「PENETRATION'''」'''が収録されている。過去にも多数のタイトーの音楽がメーカーの枠を超え収録されている。
== 外部リンク ==
* [https://city-connection.co.jp/s-tribute/taito/layersection/ レイヤーセクション & ギャラクティックアタック Sトリビュート 公式サイト](シティコネクション)
* [https://www.taito.co.jp/rayzarcadechronology/ レイズアーケードクロノロジー公式サイト](タイトー)
* {{KLOV game|9272|Rayforce}}
* {{App Store Preview App|484012905|RAYFORCE}}
* {{MobyGames|id=/36903/galactic-attack/|name=Galactic Attack}}
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18,515 |
降水確率
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降水確率(こうすいかくりつ)とは、特定の地域で、特定の時間帯内に降水がある確率をいう。天気予報の中では、確率予報の一種に位置づけられる。
降水は大きく分けて雨の場合と雪の場合があり、この区別を明確にしたい場合は日本語では降雨確率、降雪確率などとも言うが、天気予報ではほとんど用いられない。英語では、Precipitation ProbabilityまたはProbability of Precipitationというがこれは学術用語で、一般にはChance of Rainfall(雪ならSnowfall)などと呼んでいる。
1950年代以降の数値予報技術の進展を経て、各国の大学や研究機関、気象当局は、気象現象の発生する確率を予想する試みを始めた。これが確率予報の始まりで、雨や雪の降る確率が対象になり、やがて各国の気象当局が業務として公に発表するようになった。
気象庁は、1980年より天気予報の一つとして降水確率を発表している。当初は主要都市のみだった。このほかに、1988年からは降水短時間予報、1996年からは分布予報・時系列予報など、多様な種類の予報が発表されるようになってきた。
降水確率は、予報区内で一定の時間内に1mm以上の雨または雪(融けたときの降水量に換算する)が降る確率であり、0%から100%まで10%刻みの値で発表される。予報区内であれば場所については特定せず、どこでも同じ確率である。なお、1980年代前半頃までは0%と10%の間に「5%未満」という値が発表されていたことがある。
原則として、降水確率の大小は降水量の多い少ないとは全く関係がなく、降水確率と予測される降水量は比例していない。また、雨が降る時間の長さ、雨の時間的・空間的な分布とも、同じように関連性は薄い。
このため、降水量を降水確率から読み取ろうとすると不正確になる。降水量の予測は「雨量予報」、例えば降水短時間予報などとして発表される。
降水確率は、過去に同じような気象状況となった際の降水の情報をもとに、統計処理により確率を算出する。つまり、いわゆる「経験則」に基づく。具体的には、降水確率ガイダンス(PoP)というガイダンスモデルを用いて予報を行う。PoPでは、アメダス・気象台観測値や全体的な気圧配置等の過去の記録をパターン化した資料をあらかじめ作成していて、これに直近の観測値を入力することで、予報の出力を得る。出力されるのは、格子点ごとの確率値であり、これより各予報区域内での平均値を求めると、予報区域内での一定時間内の「降水確率」が算出される。
予報の性質上、例えば、1つの予報区域に多数の観測点がある場合は、全地点で1mm以上の雨が降った場合を「雨が降った」と考える。降らなかった地点がある場合は、降った地点数÷全地点数×100(%)の的中率ということになる。
算出の際、1%の位は四捨五入するため、現在は「降水確率0%」といっても実際には0から5%未満の値になっている(以前は関東地方や東海地方など一部の地域で5%未満という数値が存在したこともあったが、現在は10%単位となっている)。4%だと0%になり、5%だと10%になるため、1%違うだけで大きな差が出てしまうのも特徴である。
降水確率は、統計的な資料に近いものであり、事例ごとに考えれば当たる場合と当たらない場合が必ず出てくる。一方で、長い目で見れば当たる場合が多くなり、結果的に利益が大きくなる(後述)。つまり、降水確率は、1回の予報による成果の可否よりも、多数の予報の成果を総合的に判断して可否を考える種類の天気予報である。
例として、「○○県のX月X日12:00~18:00の降水確率が30%」と発表された場合、X月X日12:00~18:00に1mm以上の雨が降る確率値の、○○県内を格子状にブロック化した各ブロック内の平均値が、約30%(25~34%)であることを意味する。
単純には、降水確率30%の予報が出た場合、統計的には100回に30回の割合で雨が降る、と考えてもよい。
降水確率が0%でも1mm以上の雨が降った事例と降水確率100%でも雨が降らなかった事例はどちらも存在する。そのため、予報が0%でも雨が絶対に降らないことを保証しているわけではなく、100%の場合も必ず雨が降ることを保証していない。
アメリカ合衆国の国立海洋大気圏局(NWS)、カナダの気象局、オーストラリアの気象局、韓国の気象庁、ヨーロッパ各国の気象当局など、先進各国では降水確率が発表されている。また、世界気象機関(WMO)などが世界全域の気象予報をカバーするために取り決めた世界気象監視計画(WWW)などに基づいて、RSMC(地域規模気象センター)などの主要な気象機関がそれ以外の国や主要都市においても降水確率の予報を発表している。
オーストラリア、カナダなどでは、日本のように1mm基準の降水確率だけではなく、0.2mm,2mm,10mm,50mmなどいくつかの基準における降水確率を提供している。また、時間の区分もさまざまである。
降水確率が発表されるようになった背景には、コスト/ロス モデルの考え方がある。これは、予報が完全に的中しない場合に、確率の予報を出すことによって、事例ごとに考えれば損する場合と得する場合があるものの、長い目で見れば損失を最小限にできるというモデルである。
例えば、傘を持っていく労力を300円??、傘を持たずに濡れることによる損失を1,000円とする(この労力や損失は人によって変わる。損失は、例えば背広のクリーニング代だったりする。)。
この例では、降水確率が30%以上の場合、傘を持っていった方が良いことになる。降水確率40%の予報が10回出た場合を考えよう。10回のうち4回は雨が降ると考えられるから、
従って、傘を持っていけば、持っていかない場合に比べて1,000円得である。
一方、確率予報を行わない場合、すべて晴れまたは曇りと予報され、傘は持っていかないとすれば、
という選択肢しかなくなる。
ごく単純な例を挙げたが、実際には0%から100%までの降水確率について上記のような考え方を適用することにより、労力と損失の合計を最小限にすることができる。
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"text": "降水確率が発表されるようになった背景には、コスト/ロス モデルの考え方がある。これは、予報が完全に的中しない場合に、確率の予報を出すことによって、事例ごとに考えれば損する場合と得する場合があるものの、長い目で見れば損失を最小限にできるというモデルである。",
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"text": "例えば、傘を持っていく労力を300円??、傘を持たずに濡れることによる損失を1,000円とする(この労力や損失は人によって変わる。損失は、例えば背広のクリーニング代だったりする。)。",
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] |
降水確率(こうすいかくりつ)とは、特定の地域で、特定の時間帯内に降水がある確率をいう。天気予報の中では、確率予報の一種に位置づけられる。 降水は大きく分けて雨の場合と雪の場合があり、この区別を明確にしたい場合は日本語では降雨確率、降雪確率などとも言うが、天気予報ではほとんど用いられない。英語では、Precipitation ProbabilityまたはProbability of Precipitationというがこれは学術用語で、一般にはChance of Rainfall(雪ならSnowfall)などと呼んでいる。 1950年代以降の数値予報技術の進展を経て、各国の大学や研究機関、気象当局は、気象現象の発生する確率を予想する試みを始めた。これが確率予報の始まりで、雨や雪の降る確率が対象になり、やがて各国の気象当局が業務として公に発表するようになった。
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'''降水確率'''(こうすいかくりつ)とは、特定の地域で、特定の時間帯内に[[降水]]がある確率をいう。[[天気予報]]の中では、[[確率予報]]の一種に位置づけられる。
降水は大きく分けて雨の場合と雪の場合があり、この区別を明確にしたい場合は日本語では降雨確率、降雪確率などとも言うが、天気予報ではほとんど用いられない。英語では、Precipitation ProbabilityまたはProbability of Precipitationというがこれは学術用語で、一般にはChance of Rainfall(雪ならSnowfall)などと呼んでいる。
1950年代以降の数値予報技術の進展を経て、各国の大学や研究機関、気象当局は、気象現象の発生する確率を予想する試みを始めた。これが確率予報の始まりで、雨や雪の降る確率が対象になり、やがて各国の気象当局が業務として公に発表するようになった。
== 日本における降水確率予報 ==
[[気象庁]]は、[[1980年]]より[[天気予報]]の一つとして降水確率を発表している。当初は主要都市のみだった。このほかに、[[1988年]]からは'''降水短時間予報'''、[[1996年]]からは'''分布予報'''・'''時系列予報'''など、多様な種類の予報が発表されるようになってきた。
* 当日から翌日までは全国の天気予報の発表区分である142区域を対象に発表される。
* 通常は5時、11時、17時の3回発表され、翌日の24時までの6時間きざみの予報となる。なお、気象状況によっては随時発表される。
* 予報時間区分は現在、0時→6時→12時→18時→24時の4区分である。
** 以前は3時→9時→15時→21時→27時(3時)であった。
* 降水確率には雨雪判別情報が付加され、「雨」、「雨または雪」、「雪または雨」、「雪」の4段階の要素がある。
* 週間予報では府県予報区を対象に発表されるが、例外的に細分されることもある。
* 週間予報は11時と17時に発表され、2日後から7日後まで24時間単位での確率となる。雨雪判別はない。
=== 気象庁に依る降水確率の定義 ===
{| class="wikitable" width="250px" align="right"
|+ 例:「降水確率30%」と予測される場合の過去の降水量の統計
|-
! 例
! 降水量
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| 1
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| 2
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| 3
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|-
| 4
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| 6
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| 7
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|-
| 8
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|-
| 10
|style="align:left"|0.5mm{{bar|g|0|5}}
|-
|colspan="2" style="font-size:small"|以上より、今回1mm以上の雨が降る確率は30%となる。<br />これと同様、0回なら降水確率が0%、8回なら80%という風になり、降水量の大小とは関連性が薄いことが分かる。ただしこれは極端な例で、予報精度の向上により、降水量0.1~1.0mmの「グレーゾーン」を減らすことが可能であり、実際はこれよりも精度が高いと考えられる。
|}
降水確率は、予報区内で一定の時間内に1mm以上の[[雨]]または[[雪]](融けたときの降水量に換算する)が降る[[確率]]であり、0%から100%まで10%刻みの値で発表される。予報区内であれば場所については特定せず、どこでも同じ確率である。なお、1980年代前半頃までは0%と10%の間に「'''5%未満'''」という値が発表されていたことがある。
原則として、降水確率の大小は[[降水量]]の多い少ないとは全く関係がなく、降水確率と予測される降水量は[[比例]]していない。また、雨が降る時間の長さ、雨の時間的・空間的な分布とも、同じように関連性は薄い。
このため、降水量を降水確率から読み取ろうとすると不正確になる。降水量の予測は「雨量予報」、例えば降水短時間予報などとして発表される。
降水確率は、過去に同じような気象状況となった際の降水の情報をもとに、統計処理により確率を算出する。つまり、いわゆる「[[経験則]]」に基づく。具体的には、'''降水確率ガイダンス'''(PoP)というガイダンスモデルを用いて予報を行う。PoPでは、[[アメダス]]・[[気象台]]観測値や全体的な気圧配置等の過去の記録をパターン化した資料をあらかじめ作成していて、これに直近の観測値を入力することで、予報の出力を得る。出力されるのは、格子点ごとの確率値であり、これより各予報区域内での平均値を求めると、予報区域内での一定時間内の「降水確率」が算出される。
予報の性質上、例えば、1つの予報区域に多数の観測点がある場合は、全地点で1mm以上の雨が降った場合を「雨が降った」と考える。降らなかった地点がある場合は、降った地点数÷全地点数×100(%)の的中率ということになる。
算出の際、1%の位は四捨五入するため、現在は「降水確率0%」といっても実際には0から5%未満の値になっている(以前は関東地方や東海地方など一部の地域で'''5%未満'''という数値が存在したこともあったが、現在は10%単位となっている)。4%だと0%になり、5%だと10%になるため、1%違うだけで大きな差が出てしまうのも特徴である。
降水確率は、統計的な資料に近いものであり、事例ごとに考えれば当たる場合と当たらない場合が必ず出てくる。一方で、長い目で見れば当たる場合が多くなり、結果的に利益が大きくなる(後述)。つまり、降水確率は、1回の予報による成果の可否よりも、多数の予報の成果を総合的に判断して可否を考える種類の天気予報である。
例として、「○○県のX月X日12:00~18:00の降水確率が30%」と発表された場合、X月X日12:00~18:00に1mm以上の雨が降る確率値の、○○県内を格子状にブロック化した各ブロック内の平均値が、約30%(25~34%)であることを意味する。
単純には、降水確率30%の予報が出た場合、統計的には100回に30回の割合で雨が降る、と考えてもよい。
降水確率が0%でも1mm以上の雨が降った事例と降水確率100%でも雨が降らなかった事例はどちらも存在する。そのため、予報が0%でも雨が絶対に降らないことを保証しているわけではなく、100%の場合も必ず雨が降ることを保証していない。
== 日本国外の降水確率予報 ==
アメリカ合衆国の[[アメリカ国立気象局|国立海洋大気圏局]](NWS)、カナダの[[カナダ気象局|気象局]]、オーストラリアの[[オーストラリア気象局|気象局]]、韓国の[[大韓民国気象庁|気象庁]]、ヨーロッパ各国の気象当局など、先進各国では降水確率が発表されている。また、[[世界気象機関]](WMO)などが世界全域の気象予報をカバーするために取り決めた世界気象監視計画(WWW)などに基づいて、RSMC(地域規模気象センター)などの主要な気象機関がそれ以外の国や主要都市においても降水確率の予報を発表している。
オーストラリア、カナダなどでは、日本のように1mm基準の降水確率だけではなく、0.2mm,2mm,10mm,50mmなどいくつかの基準における降水確率を提供している。また、時間の区分もさまざまである。
== コスト/ロス モデル ==
降水確率が発表されるようになった背景には、'''コスト/ロス モデル'''の考え方がある。これは、予報が完全に的中しない場合に、確率の予報を出すことによって、事例ごとに考えれば損する場合と得する場合があるものの、長い目で見れば損失を最小限にできるというモデルである。
例えば、傘を持っていく労力を300円??、傘を持たずに濡れることによる損失を1,000円とする(この労力や損失は人によって変わる。損失は、例えば背広のクリーニング代だったりする。)。
この例では、降水確率が30%以上の場合、傘を持っていった方が良いことになる。降水確率40%の予報が10回出た場合を考えよう。10回のうち4回は雨が降ると考えられるから、
: 傘を持っていくと、労力は300円×10=3,000円。損失は0円。合計は3,000円。
: 傘を持っていかないと、労力は0円。損失は1,000円×4=4,000円。合計は4,000円。
従って、傘を持っていけば、持っていかない場合に比べて1,000円得である。
一方、確率予報を行わない場合、すべて晴れまたは曇りと予報され、傘は持っていかないとすれば、
: 労力は0円。損失は1,000円×4=4,000円。合計は4,000円。
という選択肢しかなくなる。
ごく単純な例を挙げたが、実際には0%から100%までの降水確率について上記のような考え方を適用することにより、労力と損失の合計を最小限にすることができる。
== 備考 ==
* 日本における降水予報の的中率は、翌日で83[[パーセント]]、7日先では66パーセントまで下がり、さらに6月の[[梅雨]]の時期では50パーセント台まで落ちる<ref>[[森朗]] 『異常気象はなぜ増えたのか-ゼロからわかる天気のしくみ-』 [[祥伝社新書]] 2017年 ISBN 978-4-396-11517-3 pp.118 - 119.</ref>。
== 脚注 ==
* [http://www.srh.noaa.gov/ffc/html/pop.shtml Explaining "Probability of Precipitation"] National Weather Service
* [http://www.wxp.co.jp/yougo.html#07 天気予報用語集 降水確率] ウェザープランニング
* [https://kotobank.jp/word/%E7%A2%BA%E7%8E%87%E4%BA%88%E5%A0%B1-43866 確率予報] 気象用語集
* [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/shiryo.html 予報用語 予報の基礎資料に関する用語] 気象庁
* [http://buran.u-gakugei.ac.jp/~mori/LEARN/Yohoushi.new/node85.html#SECTION000161000000000000000 降水確率] 学芸大学気象学研究室 森厚
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== 関連項目 ==
* [[天気予報]]
* [[期待値]]
== 外部リンク ==
; 世界各地の降水確率(公的機関によるもの)
* [https://www.jma.go.jp/jp/week/ 日本](週間天気予報)
* [https://graphical.weather.gov/sectors/conus.php?element=PoP12 アメリカ](12時間ごと、+/-12Hrsをクリックして予報時間を変える)
* [http://www.bom.gov.au/jsp/watl/rainfall/pme.jsp オーストラリア]("Chance of Rainfall"欄にチェックを入れる必要あり)
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西夏文字
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西夏文字(せいかもじ、英語: Tangut script)は、西夏王朝(1032年~1227年)初代皇帝李元昊の時代に制定された、タングート人の言語である西夏語を表記するための文字。
19世紀にフランスの東洋学者・ドゥベリア(Devéria, Gabriel)により、文字であることが判明する。長らく未解読であったが、20世紀に入り、 ロシアのニコライ・ネフスキーや日本の西田龍雄によって、1960年代に解読がなされた。
漢字と、それを作った漢族を強く意識して作成されており、中国人を意味する「漢人」に当たる文字は「小偏に虫」という差別的な構成で表記される。
漢字検索、表記ソフトウェアの『今昔文字鏡』およびUnicodeに登録されており、文章等の電子化が可能となっている。
6,000文字ほどの文字数を持ち、冠や偏・旁等の組み合わせで表記するなど、漢字に似た構造を持つ。基本的に一字一音節である。
漢字とは異なり象形文字起源ではないため、700以上ある各構成要素がどのような起源で作られたのかは未だに定かではなく、要素の表す意味が全て解明されている訳ではない。字全体での意味はわかっていても、なぜその要素を使用しているのか不明の文字も多い。
契丹文字の一部の字形と近い要素も存在するが、関連は明らかにされていない。
漢字の楷書と同じく、毛筆による筆記に適した、直線と曲げの多い筆画を用いている。毛筆で記す場合には、とめ、はらいなどの筆法も使用される。
最も画数の少ない西夏文字でも4画あり、画像に示した「人」の意味を持つものはその一つである。一方画数の最も多いものでも二十数画となっている。
単一の要素で成立している文字(前述のように象形文字ではなく、また指事文字でもない)は少なく、複数の要素の組み合わせで構成されている文字が大部分を占め、その中でも六書で言うところの「会意」、即ち複数の要素の意味を合成している文字が多く、「形声」即ち意符と音符から成っている文字は比較的少ない。以下に示すのは会意の例である。
また、(西夏人の思想で)近い概念の文字には近い字形が使用される。
漢字を翻訳したのではなく、別の思想体系で造字されているため、部首のカテゴリや総数は漢字とは異なる。また、ある意味の字が漢字とは別の部首に属す場合も多い。
また、漢字にはない意味を表す部首、例えば否定を表す偏や動詞化を表す冠などもある。否定を表す構成要素には2種類あり、それぞれ「不」の偏を加える「関係否定字」と、「無」の旁を加える「存在否定字」がある。
漢字検索、表記ソフトウェアの『今昔文字鏡』が独自に日本語の漢字領域で使うためのフォントを作成、提供している。
2016年6月に決定のUnicode 9.0 において、追加多言語面の U+17000 - U+187EC(6125文字) に西夏文字が、U+18800 - U+18AF2 に西夏文字の要素が追加された。Unicode 11.0 では西夏文字5文字が、Unicode 12.0 では西夏文字6文字が、Unicode 13.0 では西夏文字9文字がU+187ECより後ろのコードポイントに追加され、現在Unicodeに収録されている西夏文字の総数は6145文字となっている。
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西夏文字は、西夏王朝(1032年~1227年)初代皇帝李元昊の時代に制定された、タングート人の言語である西夏語を表記するための文字。 19世紀にフランスの東洋学者・ドゥベリアにより、文字であることが判明する。長らく未解読であったが、20世紀に入り、 ロシアのニコライ・ネフスキーや日本の西田龍雄によって、1960年代に解読がなされた。 漢字と、それを作った漢族を強く意識して作成されており、中国人を意味する「漢人」に当たる文字は「小偏に虫」という差別的な構成で表記される。 漢字検索、表記ソフトウェアの『今昔文字鏡』およびUnicodeに登録されており、文章等の電子化が可能となっている。
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{{Infobox WS
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[[File:Bushell's 1896 decipherment of Tangut characters.jpg|thumb|{{仮リンク|スティーヴン・ウートン・ブッシェル|en|Stephen Wootton Bushell}}によって書かれた、漢字と西夏文字37文字の対照表]]
[[File:Tangut 1.png|right|thumb|100px|「人」の意味を持つ西夏文字]]
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'''西夏文字'''(せいかもじ、{{lang-en|Tangut script}})は、[[西夏王朝]]([[1032年]]~[[1227年]])初代皇帝[[李元昊]]の時代に制定された、[[タングート|タングート人]]の[[言語]]である[[西夏語]]を表記するための[[文字]]。
[[19世紀]]に[[フランス]]の東洋学者・ドゥベリア(Devéria, Gabriel)により、文字であることが判明する。長らく未解読であったが、[[20世紀]]に入り、 [[ロシア]]の[[ニコライ・ネフスキー]]や[[日本]]の[[西田龍雄]]<ref>西田龍雄、『西夏語の研究 ― 西夏語の再構成と西夏文字の解読』、1964年、座右宝刊行会。</ref>によって、[[1960年代]]に解読がなされた。
[[漢字]]と、それを作った[[漢族]]を強く意識して作成されており、[[中国人]]を意味する「漢人」に当たる文字は「小偏に虫」という[[差別]]的な構成で表記される。
漢字検索、表記ソフトウェアの『[[今昔文字鏡]]』および[[Unicode]]に登録されており、文章等の電子化が可能となっている。
== 体系 ==
6,000文字ほどの文字数を持ち<ref>Unicode 13.0のTangut文字には6145字を収録。[https://www.unicode.org/charts/PDF/U17000.pdf][https://www.unicode.org/charts/PDF/U18D00.pdf]</ref>、冠や偏・旁等の組み合わせで表記するなど、[[漢字]]に似た構造を持つ。基本的に一字一[[音節]]である。
漢字とは異なり[[象形文字]]起源ではないため、700以上ある<ref>Unicode 13.0のTangut要素には768字を収録。[https://www.unicode.org/charts/PDF/U18800.pdf]このうちTangut文字の配列で部首とされているのは505字である。</ref>各構成要素がどのような起源で作られたのかは未だに定かではなく、要素の表す意味が全て解明されている訳ではない。字全体での意味はわかっていても、なぜその要素を使用しているのか不明の文字も多い。
[[契丹文字]]の一部の字形と近い要素も存在するが、関連は明らかにされていない。
== 特徴 ==
漢字の[[楷書]]と同じく、[[毛筆]]による筆記に適した、直線と曲げの多い筆画を用いている。毛筆で記す場合には、とめ、はらいなどの[[筆法]]も使用される。
最も[[画数]]の少ない西夏文字でも4画あり、画像に示した「[[人]]」の意味を持つものはその一つである。一方画数の最も多いものでも二十数画となっている。
単一の要素で成立している文字(前述のように[[象形]]文字ではなく、また[[指事]]文字でもない)は少なく、複数の要素の組み合わせで構成されている文字が大部分を占め、その中でも[[六書]]で言うところの「[[会意]]」、即ち複数の要素の意味を合成している文字が多く、「[[形声]]」即ち意符と音符から成っている文字は比較的少ない。以下に示すのは会意の例である。
:例)「鉄冠」に「細い」で「針」、「木冠」に「細い」で「とげ」、等。
また、(西夏人の思想で)近い概念の文字には近い字形が使用される。
:例)「頭」の旁を「先」に置き換えて「始」、「頭」の偏を「顔」の偏と置き換えると「額」、等。
漢字を翻訳したのではなく、別の思想体系で造字されているため、[[部首]]のカテゴリや総数は漢字とは異なる。また、ある意味の字が漢字とは別の部首に属す場合も多い。
:例)「鈴」は漢字では金偏だが、西夏文字では音偏。
また、漢字にはない意味を表す部首、例えば否定を表す偏や動詞化を表す冠などもある。否定を表す構成要素には2種類あり、それぞれ「不」の偏を加える「関係否定字」と、「無」の旁を加える「存在否定字」がある。
:例1) 「小」に「不」の偏を加え「大」(関係否定字)。
:例2) 「精気」に「無」の旁を加え「屍」(存在否定字)。
== 歴史 ==
[[画像:Tangut dharani pillar inscription.jpg|thumb|{{仮リンク|西夏文石幢|en|Tangut dharani pillars}}の柱に刻まれた西夏文字の文。日付は中国語で書かれており、[[明|大明]][[弘治 (明)|弘治]]15年(西暦1502年)とある。西夏が滅んでから300年がたった後も、西夏語を使う人が存在した証拠とされている。]]
*[[1036年]]([[大慶 (夏景宗)|大慶]]元年)に公布されたとされる。皇帝が[[野利仁栄]]に命じて作らせたとされ、およそ6,000文字がほぼ一斉に公布されたと思われる。
*[[1227年]]([[宝義]]二年)に西夏王朝は滅亡するが、西夏文字はその後も一部で使用され続けた。最も新しい使用例としては、[[弘治 (明)|弘治]]十五年([[1502年]])の記年のある西夏文字が記された石幢({{仮リンク|西夏文石幢|en|Tangut dharani pillars}})があり、西夏滅亡後300年近くたってもまだ西夏文字や西夏語が使われていたことが知られる。
== 電子化 ==
漢字検索、表記ソフトウェアの『[[今昔文字鏡]]』が独自に日本語の漢字領域で使うための[[フォント]]を作成、提供している。
[[2016年]]6月に決定の[[Unicode]] 9.0 において、[[追加多言語面]]の U+17000 - U+187EC(6125文字) に西夏文字が、U+18800 - U+18AF2 に西夏文字の要素が追加された<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/charts/PDF/Unicode-9.0/ |title=Unicode® 9.0 Versioned Charts Index |publisher=The Unicode Consortium |date=2016-06-21 |accessdate=2016-06-25}}</ref>。Unicode 11.0 では西夏文字5文字が、Unicode 12.0 では西夏文字6文字が、Unicode 13.0 では西夏文字9文字がU+187ECより後ろのコードポイントに追加され、現在Unicodeに収録されている西夏文字の総数は6145文字となっている。
Unicodeの西夏文字が表示可能なフォントは下記のフォントがある。
* [https://www.babelstone.co.uk/Fonts/Wenhai.html BabelStone Tangut Wenhai](西夏文字は一部のみ収録)
* [https://www.babelstone.co.uk/Fonts/Yinchuan.html Tangut Yinchuan](西夏文字は完全収録)
西夏文字の入力法も幾つか開発されており、夏漢字典の番号に基づくもの、発音に基づくもの、[[倉頡輸入法]]のように部品に分解して入力するものなどがある。
Unicodeの以下の領域に次の文字(西夏文字6145文字+西夏文字構成要素774文字)が収録されている。
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== 画像 ==
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ファイル:Folio from the Auspicious Tantra of All-Reaching Union.jpg|西夏文字で書かれた[[仏教]]の[[経典]]
ファイル:Chrysographic Tangut Golden Light Sutra.jpg|西夏文字で書かれた[[仏教]]の[[経典]]「金光明最勝王經」
</gallery>
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[シュトヘル]] - [[伊藤悠]]による漫画作品。文字の力を信じ、西夏文字を後世に残そうとする少年を巡る戦いを描く。
*[[サンダーフォース|サンダーフォースVI]] - 家庭用ゲーム機[[PlayStation 2]]用のコンピューターゲーム。作品中で西夏文字が使用されている。ただし、装飾的なものであり西夏語を記述しているわけではない。同じくゲーム内で使われている[[モンゴル文字]]についても同様である。
*[[敦煌 (小説)]] - [[井上靖]]の歴史小説。西夏文字が重要なアイテムとして描かれている。
== 外部リンク ==
*[http://www.aa.tufs.ac.jp/~mnaka/tangutindex.htm インターネット西夏学会]
*{{Cite web |url=http://xiang.free.fr/xixia.htm |title=西夏文资料 |language=中国語 |publisher=向柏霖 |accessdate=2006-07-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120204223402/http://xiang.free.fr/xixia.htm |archivedate=2012-02-04 |deadlinkdate=2014-04-06 }} 無保存が多い。
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18,517 |
核砲弾
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核砲弾(かくほうだん)は、弾頭に核兵器を搭載した砲弾のことである。冷戦期に作られた戦術核兵器の一つ。
核兵器の小型化が進んでいない時代にアメリカ合衆国で最初に作られた核砲弾は、1952年から配備が進められたW9核砲弾である。口径が280mmもある巨大なものであり、専用のアトミックキャノンと呼ばれるカノン砲により発射されるが、その巨大さ故に運用が困難であった。
W9核砲弾はW19核砲弾に更新されたりしたが、核兵器の小型化とともに1957年には203mm砲向けのW33核砲弾が実用化され、1963年には155mm砲向けのW48核砲弾の部隊配備が開始された。戦術核兵器として中性子弾頭のW79-0核砲弾も開発された。この他、アメリカ海軍もアイオワ級戦艦の16インチ砲向けにW23核砲弾を開発・配備している。冷戦後のアメリカ合衆国は戦術核兵器の前線配備を中止したため、核砲弾は配備されていない。
核砲弾の実射試験は一度のみであり、1953年5月25日にアメリカ・ネバダ核実験場で行われた、アップショット・ノットホール作戦(Upshot-Knothole)の一つ『グレイブル』(Upshot-Knothole Grable)においてW9核砲弾が実験された。
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核砲弾(かくほうだん)は、弾頭に核兵器を搭載した砲弾のことである。冷戦期に作られた戦術核兵器の一つ。
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{{出典の明記|date=2014年1月9日 (木) 01:54 (UTC)}}
[[File:W48 155-millimeter nuclear shell.jpg|thumb|300px|[[W48 (核砲弾)|W48]] 155mm 核砲弾]]
'''核砲弾'''(かくほうだん)は、[[弾頭]]に[[核兵器]]を搭載した[[砲弾]]のことである。[[冷戦]]期に作られた[[戦術核兵器]]の一つ。
== 概要 ==
[[核兵器]]の小型化が進んでいない時代に[[アメリカ合衆国]]で最初に作られた核砲弾は、[[1952年]]から配備が進められた[[W9 (核砲弾)|W9核砲弾]]である。[[口径]]が280mmもある巨大なものであり、専用の[[原子砲|アトミックキャノン]]と呼ばれる[[カノン砲]]により発射されるが、その巨大さ故に運用が困難であった。
W9核砲弾は[[W19 (核砲弾)|W19核砲弾]]に更新されたりしたが、核兵器の小型化とともに[[1957年]]には203mm砲向けの[[W33 (核砲弾)|W33核砲弾]]が実用化され、[[1963年]]には155mm砲向けの[[W48 (核砲弾)|W48核砲弾]]の部隊配備が開始された。戦術核兵器として[[弾頭|中性子弾頭]]の[[W79 (核砲弾)|W79-0核砲弾]]も開発された。この他、[[アメリカ海軍]]も[[アイオワ級戦艦]]の16インチ砲向けに[[W23 (核砲弾)|W23核砲弾]]を開発・配備している。[[冷戦]]後のアメリカ合衆国は戦術核兵器の前線配備を中止したため、核砲弾は配備されていない。
核砲弾の実射試験は一度のみであり、[[1953年]][[5月25日]]にアメリカ・[[ネバダ核実験場]]で行われた、[[アップショット・ノットホール作戦|アップショット・ノットホール作戦(Upshot-Knothole)]]の一つ『グレイブル』([[:w:Upshot-Knothole Grable|Upshot-Knothole Grable]])においてW9核砲弾が実験された。
== アメリカの核砲弾 ==
[[File:Upshot-Knothole GRABLE.jpg|thumb|250px|1953年に行われたW9核砲弾の実験([[アップショット・ノットホール作戦]])。 M65 280mmカノン砲で発射。核出力は広島に投下されたのと同じ15kt]]
[[ファイル:VWM240mmAtomicAnnie01.jpg|thumb|250px|[[M65 280mmカノン砲]]]]
* 16インチ砲弾(406mm [[アメリカ海軍]][[艦砲]])
** [[W23 (核砲弾)|W23]] -(1956年-1962年)[[ガンバレル型]]
* 280mm砲弾([[M65 280mmカノン砲]])
** [[W9 (核砲弾)|W9]](1952年-1957年)ガンバレル型
** [[W19 (核砲弾)|W19]] -(1955年-1963年)ガンバレル型, W9の改良型
* 240mm砲弾
** [[W32 (核砲弾)|W32]] -(1955年開発中止)
* 8インチ砲弾 (203 mm)
** [[W33 (核砲弾)|W33]] -(1957年-1992年)ガンバレル型
** [[W75 (核砲弾)|W75]] -(1973年開発中止)
** [[W79 (核砲弾)|W79]] -(1981年-1992年、W79-0は中性子弾頭)
* 155mm砲弾
** [[W48 (核砲弾)|W48]] -(1963年-1992年)インプロージョン方式
** [[W74 (核砲弾)|W74]] -(1973年開発中止)
** [[W82 (核砲弾)|W82]] -(W82-0 中性子弾頭は1983年開発中止、W82-1 核分裂弾頭は1990年開発中止)
== 関連項目 ==
* [[砲弾]]
* [[核兵器]]
* [[中性子爆弾]]
* [[バタリアン]] - 劇中で核砲弾が使われる。
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中小国駅
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中小国駅(なかおぐにえき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町字蟹田小国南田にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅。
JR東日本津軽線と、JR北海道海峡線の施設・資産上の分岐・分界点は当駅と大平駅との間にある新中小国信号場(海峡線・北海道新幹線所属・JR北海道管轄)であるが、新中小国信号場は旅客を扱わない信号場として設置された。このため当駅に海峡線の起点を置き、新中小国信号場までは海峡線と津軽線の重複区間という扱いとし、運賃計算等の営業上の分岐・分界点は当駅となった。当駅自体は津軽線を所属線としてJR東日本が管轄している。
海峡線の定期在来線旅客列車は開業以来、定期運行終了まで当駅を通過し乗降はできなかった。また、JR東日本とJR北海道の乗務員交替も、本州側で最初に停車する蟹田駅または青森駅で行われていた。加えて、津軽線大平駅以北と海峡線津軽今別駅(→奥津軽いまべつ駅)以北相互間を乗車する場合は、蟹田駅で改札口を出場しない限り当駅 - 蟹田間の運賃は不要であった。
当駅は津軽線の電化区間内にあるが、津軽線普通列車の電車による乗り入れは隣の蟹田駅までとなっているため、当駅を発着する列車はすべて気動車での運行である。
2022年8月3日より、災害のため当駅に停車する津軽線蟹田 - 三厩間の旅客列車は運転されておらず、当駅は海峡線に直通する日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車が通過するのみとなっている。
単式ホーム1面1線を有する地上駅。青森駅管理の無人駅である。
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中小国駅(なかおぐにえき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町字蟹田小国南田にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅。
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{{駅情報
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|駅名= 中小国駅
|画像= Naka-Oguni Station Entrance, Aomori Pref 20231030.jpg
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|画像説明= 駅出入口(2023年10月)
|地図= {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|41|3|5.88|N|140|35|48.88|E}}}}
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|所属事業者= {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本){{Refnest|group="*"|会社[[境界駅]](JR東日本の管轄駅)。}}
* [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)}}
|所在地= [[青森県]][[東津軽郡]][[外ヶ浜町]]字蟹田<ref name="zeneki31">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =31号 青森駅・弘前駅・深浦駅ほか |date =2013-03-17 |page =23 }}</ref>小国南田
|座標 = {{coord|41|3|5.88|N|140|35|48.88|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造= [[地上駅]]
|ホーム= 1面1線<ref name="zeneki31"/>
|開業年月日= [[1958年]]([[昭和]]33年)[[10月21日]]<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=557}}</ref>
|廃止年月日=
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|所属路線1= {{Color|#15a2c4|■}}[[津軽線]](JR東日本)
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|備考= [[無人駅]]<ref name="zeneki31"/>
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}}
'''中小国駅'''(なかおぐにえき)は、[[青森県]][[東津軽郡]][[外ヶ浜町]]字蟹田小国南田にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)の[[鉄道駅|駅]]<ref name="zeneki31"/>。
== 概要 ==
JR東日本[[津軽線]]と、JR北海道[[海峡線]]の施設・資産上の分岐・分界点は当駅と[[大平駅]]との間にある[[新中小国信号場]](海峡線・[[北海道新幹線]]所属・JR北海道管轄)であるが<ref name="zeneki31" />、新中小国信号場は旅客を扱わない信号場として設置された。このため当駅に海峡線の起点を置き、新中小国信号場までは海峡線と津軽線の重複区間という扱いとし、運賃計算等の営業上の分岐・分界点は当駅となった<ref>{{Cite web|和書|work=会社要覧 2015-2016 |url=http://www.jreast.co.jp/youran/pdf/2015-2016/jre_youran_gaiyou_p1.pdf |title=JR東日本事業概要 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2016年10月15日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=会社概要 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/company/com_02.html |title=北海道路線図 |publisher=北海道旅客鉄道 |accessdate=2016年10月15日}}</ref>。当駅自体は津軽線を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]{{R|停車場}}としてJR東日本が管轄している。
海峡線の定期在来線[[旅客列車]]は開業以来、定期運行終了まで当駅を通過し乗降はできなかった<ref name="zeneki31" />。また、JR東日本とJR北海道の[[乗務員]]交替も、本州側で最初に停車する[[蟹田駅]]または[[青森駅]]で行われていた<ref group="注">[[電車]]特急は青森駅または蟹田駅、[[電気機関車]]牽引の[[寝台列車|寝台]][[特急列車|特急]]・[[急行列車|急行]]は[[青森運輸区]]への機関車[[回送]]の関係で蟹田駅で交代となり、JR東日本の乗務員が蟹田駅 - 青森駅間を担当していた</ref>。加えて、津軽線大平駅以北と海峡線津軽今別駅(→[[奥津軽いまべつ駅]])以北相互間を乗車する場合は、蟹田駅で[[改札]]口を出場しない限り当駅 - 蟹田間の運賃は不要であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/kippu/1105.html |title=分岐駅を通過する列車に乗車する場合の特例 |publisher=[[東日本旅客鉄道]] |date= |accessdate=2015-02-19 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>。
当駅は津軽線の[[鉄道の電化|電化]]区間内にあるが、津軽線普通列車の[[電車]]による乗り入れは隣の蟹田駅までとなっているため、当駅を発着する列車はすべて[[気動車]]での運行である。
[[2022年]][[8月3日]]より、災害のため当駅に停車する津軽線蟹田 - [[三厩駅|三厩]]間の旅客列車は運転されておらず、当駅は海峡線に直通する[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[貨物列車]]が通過するのみとなっている。
== 歴史 ==
* [[1958年]]([[昭和]]33年)[[10月21日]]:[[日本国有鉄道]](国鉄)[[津軽線]]の[[蟹田駅]] - [[三厩駅]]間の開業に伴い、同線の駅として開業<ref name="zeneki31"/>{{R|停車場}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[海峡線]]([[津軽海峡線]])の開業に伴い、津軽線の[[青森駅]] - 当駅 - [[新中小国信号場]]間が[[鉄道の電化|電化]]([[交流電化|交流]]20,000[[ボルト (単位)|V]]・50[[ヘルツ (単位)|Hz]])。また、当駅 - 新中小国信号場間が津軽線と海峡線の重複区間とされ、当駅は旅客営業上の分岐駅にして、JR北海道とJR東日本の[[境界駅]]となる。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月21日]]:北海道新幹線開業準備のため、同日をもって海峡線の旅客列車は運転を終了する<ref name="jreast-press-20151212">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151212.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線設備切替に伴う列車の運休について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151219023702/http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151212.pdf|archivedate=2015年12月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="jreast-press-20151211">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151211.pdf|format=PDF|title=2016年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151218065052/http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151211.pdf|archivedate=2015年12月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
** [[3月26日]]:北海道新幹線開業のため海峡線の定期旅客列車は正式廃止<ref name="jreast-press-20151211" />。[[津軽海峡線]]の路線愛称もなくなる<ref group="注">『JR時刻表』・『JTB時刻表』では2016年4月号から路線図・本文とも非掲載となった。</ref>。
* [[2019年]](令和元年)[[6月1日]]:蟹田駅業務委託化に伴い、管理駅が青森駅に変更。
== 駅構造 ==
[[単式ホーム]]1面1線を有する[[地上駅]]<ref name="zeneki31"/>。[[青森駅]]管理の[[無人駅]]である。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
中小国駅 - panoramio.jpg|改修前の駅舎(2010年8月)
JR Tsugaru-Line・Kaikyo-Line Naka-Oguni Station building.jpg|改修後の駅舎(2020年8月)
Naka-Oguni Station Waiting room, Aomori Pref 20231030.jpg|待合室(2023年10月)
Naka-Oguni Station Platform, Aomori Pref 20231030.jpg|ホーム(2023年10月)
</gallery>
== 駅周辺 ==
* [[青森県道12号鰺ケ沢蟹田線]]
* 下小国会館([[公民館]])
* [[外ヶ浜町循環バス]]「中小国駅」停留所
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: {{Color|#15a2c4|■}}津軽線
:: [[蟹田駅]] - '''中小国駅''' - ([[新中小国信号場]]) - [[大平駅]]
; 北海道旅客鉄道(JR北海道)
: 海峡線'''(定期旅客列車の運行は無し)'''
:: '''中小国駅''' - (新中小国信号場) - ([[新中小国信号場#新幹線側(大平分岐部)|大平分岐部]]) - ([[奥津軽いまべつ駅]]<small>(待避設備のみ)</small>) - ([[竜飛定点]]) - ([[吉岡定点]]) - ([[湯の里知内信号場]]) - ([[木古内駅#木古内分岐部(新在共用区間終点)|木古内分岐部]]) - [[木古内駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[境界駅]]
* [[猪谷駅]]
* [[新中小国信号場]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1086|name=中小国}}
{{津軽線}}
{{海峡線}}
{{Eki-stub}}
{{DEFAULTSORT:なかおくに}}
[[Category:青森県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 な|かおくに]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:北海道旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1958年開業の鉄道駅]]
[[Category:津軽線|なかおくにえき]]
[[Category:外ヶ浜町の交通|なかおくにえき]]
[[Category:外ヶ浜町の建築物]]
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18,520 |
歩兵戦車
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歩兵戦車(ほへいせんしゃ、英: infantry tank、仏: char d'infanterie)は、主に第二次世界大戦初期までの戦車設計思想において、歩兵の随伴支援用に考えられた戦車の種類である。
特に、第一次世界大戦で戦車を大量に戦線投入し、初期の戦車開発の先進国イギリス、フランスにおいては明確に歩兵戦車の名称のもとで戦車開発が行われていた。また、第二次大戦でドイツが実現した機動戦力としての戦車の集中運用の優位性が認められるまでは、各国の多くの戦車は設計思想的には歩兵戦車として開発されていた(ドイツですら、運用当初のIV号戦車は支援用であり、歩兵戦車に近い扱いだった)。このことは戦術の変化により突撃砲が戦車以上に歩兵から信頼される存在になったことであきらかであろう。
戦間期には、「新兵器」である戦車の所属をめぐり歩兵科と騎兵科との縄張り争いもあり、特にフランスでは歩兵戦車は明確に歩兵科の支配下にあることを示す名称でもあった。一方、イギリスにおいては巡航戦車は戦車師団に、歩兵戦車は歩兵師団に明確に区別されて配備されていた。
なお、戦車による歩兵の随伴支援はやはり必要であるが、現代においては歩兵の輸送も行える歩兵戦闘車に代替されつつある。
第二次世界大戦前、イギリスでは、戦車戦力の中心となる中戦車は機動性重視か、装甲重視かで激しい論争となった。結局、1936年、その双方を別々に開発するという決定がなされ、第二次世界大戦直前から中盤にかけ、数種の歩兵戦車が設計・製造された。低速で装甲重視の歩兵戦車に対し、その対概念となる軽装甲・機動力重視の系列は巡航戦車と呼ばれた。これには、世界各地の植民地への船舶輸送を考慮した場合、攻防速すべてを充実させると車両が大型化し、重量や容積で輸送に支障が生じるため、どれかを犠牲にして重量と容積の軽減を図らなければならないという事情もあった。
イギリスは第一次世界大戦後、来る戦争においても先の大戦と同様、塹壕戦が繰り返されると考えた。その為に歩兵戦車に求められた性能として
イギリスの鉄道は標準軌の鉄道としては車両限界が狭く、輸送上の制限のために比較的小型の砲塔リング径となり、結果、搭載砲も小型となった。この結果、イギリス戦車には榴弾が用意されていない2ポンド対戦車砲か、徹甲弾の用意されていない76mm野砲のどちらかが搭載され、同じ部隊に配備され互いに協力しあうはずであったが、実際はそれぞれが単独運用された。これは、大砲(対戦車砲)・陣地、または敵戦車のどちらかに対しては有効な攻撃力を持たないことを意味し、この状態で戦うことになった北アフリカ戦線においては苦戦を強いられた。
その後、両方の弾薬を用いる75mm砲の登場で問題は解決したが、もはや機動力なき歩兵戦車・防御力なき巡航戦車の時代は終わっており、戦後の戦車開発は機動性と防御力を両立した主力戦車へとシフトしていった。ただし、戦後開発されたセンチュリオン、チーフテン、チャレンジャーといったイギリス主力戦車は、機動力より防御力と生存性重視の歩兵戦車の伝統を受け継いでいる。
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歩兵戦車は、主に第二次世界大戦初期までの戦車設計思想において、歩兵の随伴支援用に考えられた戦車の種類である。 特に、第一次世界大戦で戦車を大量に戦線投入し、初期の戦車開発の先進国イギリス、フランスにおいては明確に歩兵戦車の名称のもとで戦車開発が行われていた。また、第二次大戦でドイツが実現した機動戦力としての戦車の集中運用の優位性が認められるまでは、各国の多くの戦車は設計思想的には歩兵戦車として開発されていた(ドイツですら、運用当初のIV号戦車は支援用であり、歩兵戦車に近い扱いだった)。このことは戦術の変化により突撃砲が戦車以上に歩兵から信頼される存在になったことであきらかであろう。 戦間期には、「新兵器」である戦車の所属をめぐり歩兵科と騎兵科との縄張り争いもあり、特にフランスでは歩兵戦車は明確に歩兵科の支配下にあることを示す名称でもあった。一方、イギリスにおいては巡航戦車は戦車師団に、歩兵戦車は歩兵師団に明確に区別されて配備されていた。 なお、戦車による歩兵の随伴支援はやはり必要であるが、現代においては歩兵の輸送も行える歩兵戦闘車に代替されつつある。
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{{出典の明記|date=2022-02}}
'''歩兵戦車'''(ほへいせんしゃ、{{lang-en-short|infantry tank}}、{{lang-fr-short|char d'infanterie}})は、主に[[第二次世界大戦]]初期までの[[戦車]]設計思想において、[[歩兵]]の随伴支援用に考えられた戦車の種類である。
特に、[[第一次世界大戦]]で戦車を大量に戦線投入し、初期の戦車開発の先進国[[イギリス]]、[[フランス]]においては明確に歩兵戦車の名称のもとで戦車開発が行われていた。また、第二次大戦で[[ドイツ]]が実現した機動戦力としての戦車の集中運用の優位性が認められるまでは、各国の多くの戦車は設計思想的には歩兵戦車として開発されていた(ドイツですら、運用当初の[[IV号戦車]]は支援用であり、歩兵戦車に近い扱いだった)。このことは戦術の変化により突撃砲が戦車以上に歩兵から信頼される存在になったことであきらかであろう。
戦間期には、「新兵器」である戦車の所属をめぐり歩兵科と[[騎兵]]科との縄張り争いもあり、特にフランスでは歩兵戦車は明確に歩兵科の支配下にあることを示す名称でもあった。一方、イギリスにおいては[[巡航戦車]]は戦車[[師団]]に、歩兵戦車は歩兵師団に明確に区別されて配備されていた。
なお、戦車による歩兵の随伴支援はやはり必要であるが、現代においては歩兵の輸送も行える[[歩兵戦闘車]]に代替されつつある。
==イギリスの歩兵戦車==
[[第二次世界大戦]]前、[[イギリス]]では、[[戦車]]戦力の中心となる[[中戦車]]は機動性重視か、[[装甲]]重視かで激しい論争となった。結局、[[1936年]]、その双方を別々に開発するという決定がなされ、第二次世界大戦直前から中盤にかけ、数種の歩兵戦車が設計・製造された。低速で装甲重視の歩兵戦車に対し、その対概念となる軽装甲・機動力重視の系列は[[巡航戦車]]と呼ばれた。これには、世界各地の[[植民地#イギリス|植民地]]への船舶輸送を考慮した場合、攻防速すべてを充実させると車両が大型化し、重量や容積で輸送に支障が生じるため、どれかを犠牲にして重量と容積の軽減を図らなければならないという事情もあった。
イギリスは[[第一次世界大戦]]後、来る戦争においても先の大戦と同様、[[塹壕|塹壕戦]]が繰り返されると考えた。その為に歩兵戦車に求められた性能として
# 敵[[対戦車砲]]に耐えうる、移動陣地となるような厚い装甲。
# 歩兵と行動するため速い速度は不要とされ重量に対し馬力が低かった。
# 歩兵と共に行動できる不整地走破能力を要求され登坂力、超堤能力、超壕能力などは高かった。
[[イギリスの鉄道]]は[[標準軌]]の[[鉄道]]としては[[車両限界]]が狭く、輸送上の制限のために比較的小型の[[砲塔]]リング径となり、結果、搭載砲も小型となった。この結果、イギリス戦車には[[榴弾]]が用意されていない[[オードナンス QF 2ポンド砲|2ポンド対戦車砲]]か、[[徹甲弾]]の用意されていない76mm[[野砲]]のどちらかが搭載され、同じ部隊に配備され互いに協力しあうはずであったが、実際はそれぞれが単独運用された。これは、大砲([[対戦車砲]])・陣地、または敵戦車のどちらかに対しては有効な攻撃力を持たないことを意味し、この状態で戦うことになった[[北アフリカ戦線]]においては苦戦を強いられた。
その後、両方の[[弾薬]]を用いる75mm砲の登場で問題は解決したが、もはや機動力なき歩兵戦車・防御力なき巡航戦車の時代は終わっており、戦後の戦車開発は機動性と防御力を両立した[[主力戦車]]へとシフトしていった。ただし、戦後開発された[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]、[[チーフテン (戦車)|チーフテン]]、[[チャレンジャー1|チャレンジャー]]といったイギリス主力戦車は、機動力より防御力と生存性重視の歩兵戦車の伝統を受け継いでいる。
* [[マチルダI歩兵戦車|Mk.I マチルダI]]
* [[マチルダII歩兵戦車|Mk.II マチルダII]]
* [[バレンタイン歩兵戦車|Mk.III バレンタイン]]
* [[チャーチル歩兵戦車|Mk.IV チャーチル]]
== フランスの歩兵戦車 ==
*[[FCM36]]
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対局時計
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対局時計(たいきょくどけい)は、2人ゲームの競技者の持ち時間を表示し、ゲームの時間管理を行なうために使用される特別な時計。チェス・クロック (chess clock) またはゲーム・クロック (game clock) とも呼ばれている。
チェスの公式戦においては対局時計(チェスクロック)は必須の器具の1つである。世界大会の決勝や世界チャンピオン同士の対局であっても双方の対局者自身がボタンを押す形で使用される。
将棋(日本将棋連盟)の公式戦においては、基本的に記録係が時間を管理する。時間管理の方法にはストップウォッチ方式とチェスクロック方式の2種類があるが、この場合のチェスクロック方式とは、消費時間を分単位とし、分以下の秒を切り捨てするストップウォッチ方式に対比して、秒単位で管理する方式を意味している。このため、チェスクロック方式の対局であっても、必ずしも対局時計(チェスクロック)を用いるわけではなく、対局時計を用いる場合であっても、その操作は記録係が行う。また、2014年以降は専用アプリによるタブレット端末が用いられており、本来の意味での対局時計も用いられていない。ただし、非公式戦においてはプロが関わる対局でも用いられることがあり、フィッシャールールで行われる新銀河戦やABEMAトーナメントにおいてはチェスクロックが用いられ、対局者双方が時計のボタンを押す。
囲碁は対局によって、対局者が管理する場合と記録係が管理する場合がある。
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対局時計(たいきょくどけい)は、2人ゲームの競技者の持ち時間を表示し、ゲームの時間管理を行なうために使用される特別な時計。チェス・クロック またはゲーム・クロック とも呼ばれている。
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'''対局時計'''(たいきょくどけい)は、2人ゲームの競技者の[[持ち時間]]を表示し、ゲームの時間管理を行なうために使用される特別な時計。'''チェス・クロック''' (chess clock) または'''ゲーム・クロック''' (game clock) とも呼ばれている。
[[ファイル:Sah sahovska ura.png|right|thumb|220px|対局時計(アナログ式)]]
== 概説 ==
* [[囲碁]]、[[将棋]]、[[チェス]]、その他の[[ボードゲーム]]の対局時に用いられる。
* アナログ式とデジタル式の2種類がある。
* 1台に2つの[[時計]]があって、対局者双方の持ち時間が表示される。自分側のボタンを押すと自分の[[時計]]が止まり、それと同時に相手側の[[時計]]が動き出すようになっている。
== 詳細 ==
[[ファイル:Шахматные часы.jpg|left|thumb|200px|左が時計'''A'''、右が時計'''B'''<br />(上部の左がボタン'''A'''、右がボタン'''B''')]]
{{Notice|section=1|この項目では解説の便宜上、'''名称を次のように定義します'''。<br />デジタル式についても同様とします。}}
* 対局時計の向かって左側を「時計'''A'''」、右側を「時計'''B'''」とする。
* その上にあるボタンは、それぞれ「ボタン'''A'''」および「ボタン'''B'''」とする。
* 時計'''A'''が先手側、時計'''B'''が後手側にあるものとする。
{{Notice|section=1|あくまで解説のためです。<br />すべての対局時計が、こう規定されているわけではありません。}}
{{clear}}
=== アナログ式 ===
[[ファイル:Schaakklok 002.JPG|right|thumb|210px|対局時計(アナログ式)<br />時計'''A'''は旗が落ちそうな状態。<br />時計'''B'''は旗が落ちた状態。]]
* アナログ式は、文字盤の長針と短針によって残り時間(時間の経過)を表示する。
* ボタン'''A'''と'''B'''の両方を「半押し」にすることにより、時計を両方とも止めたままにすることができる。どちらかのボタンが完全に押されるまでは、この状態のままになる。
* アナログ式は対局の前に、開始時刻と終了時刻を決めておく必要がある。対局者双方が合意すれば、設定する時刻は何時でも構わない。例えば、それぞれの「[[持ち時間]]が90分」で終了時刻は5時とした場合、開始時刻は3時30分に設定される。
* 通常の[[時計]]とは異なり、[[時計]]盤の上部に小さな赤色の旗(フラッグ)がついている。この旗は、[[時計]]の'''長針'''が'''12'''の'''5分前'''になれば徐々にセリ上がり、'''12'''を超えると落ちる。
* 赤色の旗が落ちることで、時間切れを知らせる<ref group="注">チェスの対局では、時間が超過した際に「フラッグ!」と宣言することで、対戦相手や審判員に時間切れを伝える。これはデジタル式が一般になった現在でも慣用表現として残っている。</ref>。デジタル式とは異なり、旗が落ちても特に[[音]]は鳴らない<ref group="注">一度ベルが鳴るタイプもある</ref>。
** 右図の[[時計]]'''A'''は、旗が落ちそうになっている。あと2〜3分で旗が落ちる。
** 右図の[[時計]]'''B'''は、旗が落ちた状態。次に旗が落ちるのは約1時間後になる。(右図の時計では7時に。)
<!--* 時計'''A'''と時計'''B'''ともに、最長で12時間の持ち時間が設定できる。最短設定は1分である。-->
* アナログ式では、秒単位のカウントはできない。「1手30秒以内」「[[持ち時間#フィッシャーモード|フィッシャーモード]]」などの設定は、機種を問わず不可能である。
* アナログ式の動力は、「[[電池]]式」か「[[ぜんまいばね|ぜんまい]]式」である。電池が切れたり「[[ぜんまいばね|ぜんまい]]」を巻かないでいると、[[時計]]は両方とも動かなくなる。「[[ぜんまいばね|ぜんまい]]式」の特徴の一つに、稼動音があげられる。機種によって違いはあるが、常時「チッチッチッチッ」という音が鳴り続ける。
=== デジタル式 ===
[[ファイル:Schaakklok.jpg|right|thumb|200px|対局時計(デジタル式)]]
* デジタル式の表示装置により、残り時間(時間の経過)を表示する。
* デジタル式はアナログ式とは異なり、持ち時間を直接設定できる。例えば「持ち時間90分」の場合は「01:30」をそのまま入力すればよく、開始時刻や終了時刻などを考える必要はない。
* どちらかが時間切れになれば、表示画面はゼロ(「0」「0:00」)やマイナス(「-」)などになる。
* 時間切れになると、「ビーッ!」という音や「時間切れです。」なのどの[[音声]]などで勝負がついたことを知らせる<ref group="注">これも機種によって様々な違いがある。まったくブザーが鳴らない機種や、ブザーの切り替え(ON/OFF)が可能な機種、更にボリュームの調節までできる機種もある。</ref>。時間切れになってしまう直前に、何らかの警告音を鳴らす機種も多い。
* デジタル式の動力は、ほとんどが[[電池]]になっている。使用される電池は、[[時計]]の機種により多種多様である。電池が切れると、当然時計は動かなくなる。
* 対局時計自体も、その[[価格]]や製作時期によって[[機能]]に様々な違いがある。すべてのデジタル式の対局時計で、[[持ち時間#フィッシャーモード|フィッシャーモード]]などの特殊な設定が可能とは限らない。
* デジタル式は、どの製品も基本的に[[無音]]である。アナログ式のような、「チッチッチッチッ」という音はしない。ただし、時間経過を告げる音が設定できる機種もある。(例:5分経過するごとに「ピッ」など。)
* 時間が少なくなった場合には、人の声による秒読み機能がついているものもある。多くは棋士が秒読み音声を担当しているが、[[声優]]の声が使用されているものもある。
=== 実際の使用===
# あらかじめ対局時間を設定する。公式戦では先手と後手は同じ[[持ち時間]]になるが、非公式戦で実力に差があれば[[ハンデキャップ]]も設定できる。(例:先手は60分、後手は30分。)
# 対局開始の合図と同時に後手がボタン'''B'''を押すことで、対局時計のカウントが開始される<ref group="注">この行為は、記録係や[[審判]]が行う場合もある。</ref>。
# [[手]]を指した後に、自分側のボタンを押すことによって相手側のカウントが始まる。以後、これを交互に繰り返す。
# 対局者のどちらかが設定された制限時間を超過すると、その対局者は時間切れで負けとなり対局は終了する。
=== 配置 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-76052-0335, Schacholympiade, Tal (UdSSR) gegen Fischer (USA).jpg|right|thumb|190px|1960年 [[ボビー・フィッシャー|フィッシャー]] vs [[ミハイル・タリ|タリ]] ]]
* 対局時計は、盤(碁盤、将棋盤、チェスボードなど)の右側または左側に配置される。公平を期すため、先手からも後手からも等間隔になる場所と決められている。
* 盤の左右どちらに置くかは、重要なポイントになる。例えば持ち時間が残り少なくなった場合、ボタンが利き手に近い対局者が(わずかでも)有利となる。
* 通常は対局前に、後手が有利になるよう配置される。ただし左利きの対局者もいるので、どちらに置くべきかは一律ではない。
* チェスの公式戦の場合は、審判員(アービター)が対局時計の置き場所を決定する。
* 右図は1960年に行われた、チェスオリンピックの対局から。アメリカ代表の[[ボビー・フィッシャー]]が、旧ソ連の世界チャンピオンである[[ミハイル・タリ]]と対局している。ここでは対局時計は、黒(後手)の右側に配置されている。
=== 小史 ===
* チェスの対戦者の考慮時間を公平にするため、昔は[[砂時計]]が使用されていた。自分の手番が終わると時計を逆さまにして、砂が落ちきったら負けとされていた。
* 1866年 [[アドルフ・アンデルセン|アンデルセン]]vs[[ヴィルヘルム・シュタイニッツ|シュタイニツ]]の試合で、2つの[[ストップウォッチ]]が使用された。立会人がそれぞれの一手ずつの消費時間を記録し、それを合計するというものだった。これは立会人の手加減が入り、いつも揉めごとになっていた。
* イギリスで対局専用の時計が考案され、現在の対局時計の原型となった。二つの振子時計をシーソー型に連結し、一方の時計の振子が動いている間、もう片方は休むという簡単な構造だった。
* 1883年 ロンドンの国際競技会で、最初の対局時計が使用された。
* 1884年 イギリスの時計会社が、対局時計に関してのパテントを取得した。
* 1989年 世界で初めてデジタル式の対局時計が登場した。これは日本製の、シチズン対局時計「名人」である。
=== 各種ゲームごとの差異 ===
[[チェス]]の公式戦においては対局時計(チェスクロック)は必須の器具の1つである。世界大会の決勝や世界チャンピオン同士の対局であっても双方の対局者自身がボタンを押す形で使用される。
[[将棋]]([[日本将棋連盟]])の公式戦においては、基本的に記録係が時間を管理する。時間管理の方法にはストップウォッチ方式とチェスクロック方式の2種類があるが、この場合のチェスクロック方式とは、消費時間を分単位とし、分以下の秒を切り捨てするストップウォッチ方式に対比して、秒単位で管理する方式を意味している。このため、チェスクロック方式の対局であっても、必ずしも対局時計(チェスクロック)を用いるわけではなく、対局時計を用いる場合であっても、その操作は記録係が行う。また、2014年以降は専用アプリによるタブレット端末が用いられており、本来の意味での対局時計も用いられていない。ただし、非公式戦においてはプロが関わる対局でも用いられることがあり、フィッシャールールで行われる[[新銀河戦]]や[[ABEMAトーナメント]]においてはチェスクロックが用いられ、対局者双方が時計のボタンを押す。
[[囲碁]]は対局によって、対局者が管理する場合と記録係が管理する場合がある。
=== その他 ===
[[ファイル:Chess-clock-dgtxl.JPG|right|thumb|180px|対局時計(デジタル式)]]
* 公正を図るために、「着手に用いる手とボタンを押す手は同じでなくてはならない」とする規定もある<ref>日本将棋連盟 『将棋ガイドブック』</ref><ref>日本チェス協会 「{{PDFlink|[http://www.jca-chess.com/Chess2005.pdf 日本チェス規約]}}」</ref>。不慣れなアマチュアの場合、両手を使用すると正確な時間が計れなくなることや、勢い余って着手以前に時計を押してしまうケースもあるためである。
* 具体的には対局者が先手後手ともに右利きの場合、(1)先手が右手で駒を動かす。(2)先手が右手で対局時計のボタンを押す。(3)後手が右手で駒を動かす。(4)後手が右手で対局時計のボタンを押す。 この(1)~(4)の流れを、そのゲームの初手から最終手まで繰り返す。利き手ではない左手は、ゲーム中は一切使用しない。
* [[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]向けのアプリでは、主に[[トレーディングカードゲーム]]での利用を想定して、3人以上での利用に対応したものも存在する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 出典 ==
* (囲碁)[http://www.nihonkiin.or.jp/teach/lesson/school/kigu.html#005 日本棋院 対局時計]
* 『最新 図解チェス 必勝の手筋』 松本康司・監修 [[渡井美代子]]・著 日東書院 ISBN 4-528-00853-X
* 『はじめてのチェス』 渡井美代子・著 成美堂出版 ISBN 4-415-02549-8
* 『挑戦するチェス』 [[権田源太郎]]・著 中央公論事業出版 ISBN 4-89514-159-4
* 『ヒガシ コウヘイのチェス入門 定跡編』 [[東公平]]・著 [[河出書房新社]] ISBN 4-309-26001-2
== 関連項目 ==
* [[持ち時間]]
* [[チェスボード]]
* [[棋譜]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Chess clocks}}
* [http://www.jca-chess.com/ 日本チェス協会]
* [https://www.shogi.or.jp/ 日本将棋連盟]
* [http://www.nihonkiin.or.jp/ 日本棋院 囲碁公式ホームページ]
* [http://www.othello.gr.jp/ 日本オセロ連盟]
* [http://www.backgammon.gr.jp/ 日本バックギャモン協会]
* [https://tic.citizen.co.jp/products/meijinsen-chessclock/dit-40.html シチズン 対局時計 ザ・名人戦]
{{囲碁用語}}
{{将棋}}
{{チェス}}
{{デフォルトソート:たいきよくとけい}}
[[Category:囲碁の道具]]
[[Category:ゲーム関連の用語]]
[[Category:将棋]]
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[[Category:時計]]
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2023-03-27T10:04:38Z
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18,525 |
草津線
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草津線(くさつせん)は、三重県伊賀市の柘植駅から滋賀県草津市の草津駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
主に、杣川(そまがわ)、野洲川沿いの甲賀地域を走る。沿線の町は、旧宿場街や農村を形成し、周辺に田畑が広がっている。比較的平地を走る区間が多いが、三雲駅 - 貴生川駅間では山と川の狭間の林を縫って旧杣街道と併走する。甲賀駅 - 柘植駅間も森林地帯を貫いている。電車運転であることや、三雲駅 - 貴生川駅間の一部区間をのぞきほぼ直線が続く上に駅間距離が長いため、単線の各駅停車としては表定速度が速い。また、草津駅から名古屋駅までの距離は、米原駅経由より草津線から四日市駅を経由する方が短い。しかし、後述の通り現在は直通列車はなく、所要時間は乗り換えなどで長くなる。
かつては三雲駅や貴生川駅で貨物営業を行っており、また東海道新幹線の開業前は関西本線と結んで東海道本線のバイパス的役割も担っていたため、関西本線と東海道本線を結ぶ貨物列車も多数運転されていたが、現在貨物営業をする駅も貨物列車の運転もない。
全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」及びIC乗車カード「ICOCA」エリアに含まれている。路線記号は C 。
全区間を京都支社が管轄しているが、柘植駅付近は同本部の大阪支社亀山鉄道部が管轄している。なお、国鉄時代の1986年時点では同線は関西本線の支線扱いだったこともあり、大半が滋賀県の路線ながらも、信楽線とともに天王寺鉄道管理局が管轄していた。
沿線の鉄道構造物(駅の歩廊、立体交差部など)は明治期の早い時期に敷設されたものが、現在に至って使用されているものもあり、その構造や装飾などに草津線の前身の関西鉄道の社紋を残すなど意匠に富んだものを散見することができる。
開業の経緯により、柘植駅を発車した草津線の列車は、関西本線が左に分かれていくのに対して直進して草津駅を目指す。柘植駅には引き上げ線が設けられておらず、電留線への入れ換えの際は、草津線の本線で引き上げる。林の中を進み勾配を登り切ると、滋賀県道・三重県道4号草津伊賀線(以下、県道4号)の高架橋をくぐり、同県道とほぼ並走して貴生川方面を目指す。まもなく三重県から滋賀県に入るが、この周辺にはゴルフ場が多く点在している。県道4号が右側に並走してしばらくすると、草津線の東側には塩野義製薬の油日研究センター、さらに進むと西側に塩野義製薬のグループ会社油日アグロリサーチの武蔵山研究農場がある。青野川を渡る付近で丘陵地帯を抜けて住宅街が見え始めると油日駅で、甲賀駅・寺庄駅と続き、甲南駅付近までほぼ直線が続く。この付近の駅間は住宅が点在し、田畑が広がる田園地帯になる。甲賀駅 - 寺庄駅間で新名神高速道路と交差し、県道4号もこの区間で草津線の東側から西側に移る。寺庄駅から杣川の東側を走行し、左側から信楽高原鐵道信楽線が寄り添ってくると国道307号の高架橋をくぐって貴生川駅に到着する。
貴生川駅から近江鉄道本線が右側にカーブして分かれていき、すぐに杣川を渡り、その西側を走行する。林を抜けると杣川から合流した野洲川になり、左へカーブして三雲駅に至る。野洲川の対岸には国道1号が位置しているが、国道1号の旧道が三雲駅の北側で野洲川を渡って草津線と並走する。甲西駅から右手は工業団地が多く存在している。石部駅の先で再び野洲川と接近し、国道1号のバイパス(栗東水口道路)と名神高速道路をくぐって栗東市に入り、名神高速道路の栗東インターチェンジの高架橋をくぐると手原駅で、すぐに国道1号現道をくぐる。やがて、さらに東海道新幹線をくぐると、右手からかつて東海道新幹線の栗東信号場から分岐していた保守基地からの引き込み線跡が寄り添い、築堤上を並走する。やがて並走していた引き込み線に、京都方面から草津線に直通運転する高架橋の線路が分岐し離れていき、大きく左にカーブして草津駅に到着する。
普通列車のみの運転で、日中時間帯は平日11 - 13時台が草津駅 - 柘植駅間で1本、平日8 - 10時・14・15時台と土休日が草津駅 - 貴生川駅間で2本、貴生川駅 - 柘植駅間で1本の運行である。客車時代には多くが京都駅や鳥羽駅へ直通していたが、気動車・電車化により線内折り返しが主となった。しかし、草津線を利用する乗客の大多数の流動が大津駅・京都駅を向いていることもあり、現在も朝夕には京都駅発着の直通列車があり、平日朝には京阪神を走り抜ける網干駅行きの直通列車も1本のみ運転されている。京都発柘植行きの列車は夕方のみの運行である。草津駅 - 京都駅間も全駅に停車するが、一部の列車は外側線(列車線)を走行している。また、関西本線亀山方面に直通する列車は現在では皆無となったが、柘植駅乗り換えで亀山方面への流動も少ないとはいえ一定数存在する。
戦前から1965年まで続いた姫路駅 - 鳥羽駅間の快速列車(俗に参宮快速などと呼ばれ、戦前は食堂車も連結されていた)と、その格上げ列車の「志摩」のほか、京都駅と名古屋駅を草津線経由で結ぶ「平安」、京都駅から南紀へ向かう「くまの」などの気動車による急行列車があったが、近鉄特急網の整備などによって利用者が減少し、日本国有鉄道(国鉄)末期にいずれも廃止された。これら3種の急行の草津線内停車駅は、1978年時点で草津駅・貴生川駅・柘植駅のみであった。
このほか、かつては伊勢神宮参拝の団体列車や関西から伊勢志摩へ向かう修学旅行列車が関西本線直通で走っていたが、それらも新名神高速道路の開通後は、ことごとくバス利用に移行したため運転されなくなった。また、気動車列車の時代には信楽線への直通もあり、JR化後も臨時の直通列車があったが、1991年5月14日の列車衝突事故後、直通列車は運転されていない。
沿線はモータリゼーションが進展しており自動車依存度の高い地域ではあるが、沿線(特に草津駅 - 貴生川駅間)では人口の増加傾向が続き、利用も堅調である。また、沿線自治体も草津線の各駅を発着するコミュニティバスを多数運行するなど、地域の足として支援する体制も概ね整備されている。自治体や住民からはさらなる増発や複線化、駅間距離が長い区間における新駅設置の要望もあり、滋賀県や沿線市町で構成される滋賀県草津線複線化促進期成同盟会がその取り組みを進めている。
関西鉄道として開業した当初は草津駅を起点としたが、現在の草津線は柘植駅が起点である。草津線では上りの柘植方面の列車が発着するのりばを1番のりばにしているため、草津駅が起点であった時代には駅舎側が1番のりばであった石部駅や甲南駅では、起点変更にともない、駅舎側が1番のりばではなく2番のりばになっている。
各年度の平均通過人員、旅客運輸収入は以下の通り。
すべて電車で運転されている。
旧東海道沿いに大津と名古屋を結ぶ鉄道を計画した関西鉄道の最初の路線として1889年に開業した。
1969年には東海道本線の複々線化に合わせて、手原駅 - 草津駅間の一部区間が高架化され、東海道本線を乗り越す立体交差で合流するようになった。あわせて、草津駅を出て同駅構内の転車台直前でカーブしていた旧線は廃止され、営業距離が0.3km伸びている。1980年には全線が電化された。
草津駅がJR西日本直営駅、柘植駅から甲南駅が簡易委託駅、それ以外の各駅はJR西日本交通サービスによる業務委託駅である。
石部駅 - 手原駅間、貴生川駅 - 三雲駅間に新駅を設置する構想がある。
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"text": "普通列車のみの運転で、日中時間帯は平日11 - 13時台が草津駅 - 柘植駅間で1本、平日8 - 10時・14・15時台と土休日が草津駅 - 貴生川駅間で2本、貴生川駅 - 柘植駅間で1本の運行である。客車時代には多くが京都駅や鳥羽駅へ直通していたが、気動車・電車化により線内折り返しが主となった。しかし、草津線を利用する乗客の大多数の流動が大津駅・京都駅を向いていることもあり、現在も朝夕には京都駅発着の直通列車があり、平日朝には京阪神を走り抜ける網干駅行きの直通列車も1本のみ運転されている。京都発柘植行きの列車は夕方のみの運行である。草津駅 - 京都駅間も全駅に停車するが、一部の列車は外側線(列車線)を走行している。また、関西本線亀山方面に直通する列車は現在では皆無となったが、柘植駅乗り換えで亀山方面への流動も少ないとはいえ一定数存在する。",
"title": "運行形態"
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"text": "戦前から1965年まで続いた姫路駅 - 鳥羽駅間の快速列車(俗に参宮快速などと呼ばれ、戦前は食堂車も連結されていた)と、その格上げ列車の「志摩」のほか、京都駅と名古屋駅を草津線経由で結ぶ「平安」、京都駅から南紀へ向かう「くまの」などの気動車による急行列車があったが、近鉄特急網の整備などによって利用者が減少し、日本国有鉄道(国鉄)末期にいずれも廃止された。これら3種の急行の草津線内停車駅は、1978年時点で草津駅・貴生川駅・柘植駅のみであった。",
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"text": "このほか、かつては伊勢神宮参拝の団体列車や関西から伊勢志摩へ向かう修学旅行列車が関西本線直通で走っていたが、それらも新名神高速道路の開通後は、ことごとくバス利用に移行したため運転されなくなった。また、気動車列車の時代には信楽線への直通もあり、JR化後も臨時の直通列車があったが、1991年5月14日の列車衝突事故後、直通列車は運転されていない。",
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"text": "関西鉄道として開業した当初は草津駅を起点としたが、現在の草津線は柘植駅が起点である。草津線では上りの柘植方面の列車が発着するのりばを1番のりばにしているため、草津駅が起点であった時代には駅舎側が1番のりばであった石部駅や甲南駅では、起点変更にともない、駅舎側が1番のりばではなく2番のりばになっている。",
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"text": "旧東海道沿いに大津と名古屋を結ぶ鉄道を計画した関西鉄道の最初の路線として1889年に開業した。",
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"title": "歴史"
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"text": "草津駅がJR西日本直営駅、柘植駅から甲南駅が簡易委託駅、それ以外の各駅はJR西日本交通サービスによる業務委託駅である。",
"title": "駅一覧"
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"text": "石部駅 - 手原駅間、貴生川駅 - 三雲駅間に新駅を設置する構想がある。",
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草津線(くさつせん)は、三重県伊賀市の柘植駅から滋賀県草津市の草津駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
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{{Otheruses|JR西日本の鉄道路線|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]のバス路線である[[志賀草津高原線]]のうち、'''草津線'''と案内される[[長野原草津口駅]] - [[草津温泉駅]]の区間|志賀草津高原線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 草津線
|路線色 = #5a9934
|ロゴ = JRW kinki-C.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Kusatsu Line 01.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 草津線を走行中の[[JR西日本221系電車|221系電車]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[三重県]]、[[滋賀県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[柘植駅]]
|終点 = [[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]
|駅数 = 11駅
|電報略号 = クサセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|C}}
|開業 = [[1889年]][[12月15日]]
|全通 = [[1890年]][[2月19日]]
|廃止 =
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]]
|運営者 = 西日本旅客鉄道
|車両基地 = [[吹田総合車両所]][[京都総合運転所|京都支所]]ほか
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 36.7 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = 全線[[単線]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式(特殊)
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度 = 95 [[キロメートル毎時|km/h]] <ref name="data">{{PDFlink|1=[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_05.pdf#page=7 『データで見るJR西日本2021』p.44]}} - 西日本旅客鉄道、2022年5月8日閲覧</ref>
|路線図 =
}}
'''草津線'''(くさつせん)は、[[三重県]][[伊賀市]]の[[柘植駅]]から[[滋賀県]][[草津市]]の[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]に至る[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。
== 概要 ==
主に、[[杣川]](そまがわ)、[[野洲川]]沿いの[[甲賀市|甲賀]]地域を走る。沿線の町は、旧[[宿場]]街や農村を形成し、周辺に田畑が広がっている。比較的平地を走る区間が多いが、[[三雲駅]] - [[貴生川駅]]間では山と川の狭間の林を縫って旧[[杣街道]]と併走する。[[甲賀駅]] - 柘植駅間も森林地帯を貫いている。[[電車]]運転であることや、三雲駅 - 貴生川駅間の一部区間をのぞきほぼ直線が続く上に駅間距離が長いため、単線の各駅停車としては[[表定速度]]が速い。また、草津駅から[[名古屋駅]]までの距離は、[[米原駅]]経由より草津線から[[四日市駅]]を経由する方が短い<ref group="注">米原経由125.4km、草津線経由116.6km</ref>。しかし、後述の通り現在は直通列車はなく、所要時間は乗り換えなどで長くなる。
かつては三雲駅や貴生川駅で貨物営業を行っており、また東海道新幹線の開業前は関西本線と結んで東海道本線のバイパス的役割も担っていたため、関西本線と[[東海道本線]]を結ぶ[[貨物列車]]も多数運転されていたが、現在貨物営業をする駅も貨物列車の運転もない。
全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」及び[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」エリアに含まれている。[[駅ナンバリング|路線記号]]は''' C '''<ref name="jrw20140806">[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):36.7km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:11(起終点駅含む)
** 草津線所属駅に限定した場合、関西本線所属の柘植駅と東海道本線所属の草津駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 {{ISBN2|978-4-533-02980-6}}</ref>が除外され、9駅となる。
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式(特殊)
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* 最高速度:95km/h <ref name="data" />
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[ICOCA]]エリア:全線(全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
全区間を[[西日本旅客鉄道京都支社|京都支社]]が管轄しているが、柘植駅付近は同本部の[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]][[亀山鉄道部]]が管轄している。なお、国鉄時代の1986年時点では同線は関西本線の支線扱いだったこともあり、大半が滋賀県の路線ながらも、[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]とともに天王寺鉄道管理局が管轄していた<ref group="注">国鉄時代、滋賀県の他の在来線は東海道本線の彦根以東が名古屋鉄道管理局の、東海道本線の彦根以西と湖西線の永原以南が大阪鉄道管理局の、北陸本線と湖西線の永原以北が金沢鉄道管理局の管内で、在来線が4つ以上の鉄道管理局で管轄されていた都道府県は滋賀県が唯一であった。</ref>。
== 沿線概況 ==
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|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#5a9934
|title-color=white
|collapse=yes
|map=
{{BS3|BHFq|ABZq+r||0.0|[[柘植駅]]|{{rint|ja|wkv}} [[関西本線]]|}}
{{BS|STR+GRZq|||↑[[三重県]]/[[滋賀県]]↓|}}
{{BS|hKRZWae|||青野川|}}
{{BS|BHF|5.3|[[油日駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||櫟野川|}}
{{BS|BHF|7.4|[[甲賀駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||大原川|}}
{{BS|SKRZ-Au|||[[新名神高速道路]]|}}
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{{BS|hKRZWae|||佐治川|}}
{{BS|BHF|12.5|[[甲南駅]]||}}
{{BS3||STR|STR+l|||[[信楽高原鐵道]]:[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]|}}
{{BS3|exKRW+l|eKRWgr+l|eKRWgr||||}}
{{BS3|KBHFxa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFe|O3=HUBeq|15.3|[[貴生川駅]]||}}
{{BS3|STRr|STR||||[[近江鉄道]]:[[近江鉄道本線|本線]]|}}
{{BS|hKRZWae|||[[杣川]]|}}
{{BS|BHF|20.5|[[三雲駅]]||}}
{{BS|TUNNEL1W|||大砂川|}}
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{{BS|BHF|27.6|[[石部駅]]||}}
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{{BS|SKRZ-Au|||[[名神高速道路]]|}}
{{BS|SKRZ-Au|||[[栗東インターチェンジ|栗東第二ICランプ]]|}}
{{BS|STR||| (手原高架橋)|}}
{{BS|BHF|32.7|[[手原駅]]||}}
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{{BS3|BSTq|KRZu||||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[東海道新幹線]]|}}
{{BS3|exKDSTaq|eABZg+r||||''栗東信号場引込線''|}}
{{BS|hKRZWae|||葉山川|}}
{{BS3||ABZql|BHFq|36.7|[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]||}}
{{BS||||[[東海道本線]]({{rint|ja|wkab}} [[琵琶湖線]])|}}
}}
[[ファイル:Kokubu bridge, Minakuchi, Koka 01.jpg|thumb|left|関西鉄道の社紋が残る国分橋梁([[滋賀県]][[甲賀市]])]]
沿線の[[鉄道構造物]](駅の[[プラットホーム|歩廊]]、[[立体交差]]部など)は[[明治]]期の早い時期に敷設されたものが、現在に至って使用されているものもあり、その構造や装飾などに草津線の前身の[[関西鉄道]]の社紋を残すなど意匠に富んだものを散見することができる<ref>辻良樹『関西 鉄道考古学探見』JTBパブリッシング 2007年、33頁</ref><ref name="rf694-78">『草津線電化後38年の歩みと今』、78頁</ref>。
開業の経緯により、柘植駅を発車した草津線の列車は、関西本線が左に分かれていくのに対して直進して草津駅を目指す。柘植駅には[[引き上げ線]]が設けられておらず、電留線への入れ換えの際は、草津線の本線で引き上げる。林の中を進み勾配を登り切ると、[[滋賀県道・三重県道4号草津伊賀線]](以下、県道4号)の高架橋をくぐり、同県道とほぼ並走して貴生川方面を目指す。まもなく三重県から滋賀県に入るが、この周辺には[[ゴルフ場]]が多く点在している。県道4号が右側に並走してしばらくすると、草津線の東側には[[塩野義製薬]]の油日研究センター、さらに進むと西側に塩野義製薬のグループ会社油日アグロリサーチの武蔵山研究農場がある。青野川を渡る付近で丘陵地帯を抜けて住宅街が見え始めると[[油日駅]]で、[[甲賀駅]]・[[寺庄駅]]と続き、[[甲南駅]]付近までほぼ直線が続く。この付近の駅間は住宅が点在し、田畑が広がる田園地帯になる。甲賀駅 - 寺庄駅間で[[新名神高速道路]]と交差し、県道4号もこの区間で草津線の東側から西側に移る。寺庄駅から[[杣川]]の東側を走行し、左側から[[信楽高原鐵道信楽線]]が寄り添ってくると[[国道307号]]の高架橋をくぐって[[貴生川駅]]に到着する。
貴生川駅から[[近江鉄道本線]]が右側にカーブして分かれていき、すぐに杣川を渡り、その西側を走行する。林を抜けると杣川から合流した[[野洲川]]になり、左へカーブして[[三雲駅]]に至る。野洲川の対岸には[[国道1号]]が位置しているが、国道1号の旧道が三雲駅の北側で野洲川を渡って草津線と並走する。甲西駅から右手は工業団地が多く存在している。石部駅の先で再び野洲川と接近し、国道1号のバイパス([[栗東水口道路]])と[[名神高速道路]]をくぐって[[栗東市]]に入り、名神高速道路の[[栗東インターチェンジ]]の高架橋をくぐると[[手原駅]]で、すぐに国道1号現道をくぐる。やがて、さらに[[東海道新幹線]]をくぐると、右手からかつて東海道新幹線の[[栗東信号場]]から分岐していた保守基地からの引き込み線跡が寄り添い、築堤上を並走する。やがて並走していた引き込み線に、京都方面から草津線に直通運転する高架橋の線路が分岐し離れていき、大きく左にカーブして草津駅に到着する。
== 運行形態 ==
普通列車のみの運転で、日中時間帯は平日11 - 13時台が草津駅 - 柘植駅間で1本、平日8 - 10時・14・15時台と土休日が草津駅 - 貴生川駅間で2本、貴生川駅 - 柘植駅間で1本の運行である<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、JTBパブリッシング、pp.296-299</ref>。客車時代には多くが[[京都駅]]や[[鳥羽駅]]へ直通していたが、気動車・電車化により線内折り返しが主となった。しかし、草津線を利用する乗客の大多数の流動が[[大津駅]]・京都駅を向いていることもあり、現在も朝夕には京都駅発着の直通列車があり、平日朝には京阪神を走り抜ける網干駅行きの直通列車も1本のみ運転されている<ref name="rf694-80">『草津線電化後38年の歩みと今』、80頁</ref><ref group="注">2023年3月改正より大阪行きから変更。三重県から大阪府・兵庫県へ直通する唯一のJR列車であり、特に兵庫県への直通は[[近畿日本鉄道|近鉄]]を含めても本列車が唯一である。ただし、直通列車ではあるものの、高槻駅・新大阪駅・大阪駅とその先JR神戸線内各駅へは、[[山科駅]]で新快速に乗り換えた方が早く着く。</ref>。京都発柘植行きの列車は夕方のみの運行である<ref group="注">以前は夜に大阪方面からの柘植行きがあったが、2006年3月のダイヤ改正で直通運転を廃止している。</ref>。草津駅 - 京都駅間も全駅に停車する<ref group="注">客車列車時代は[[瀬田駅 (滋賀県)|瀬田駅]]を通過していた。</ref><ref group="注">網干駅行きは京都駅から西明石駅まで快速となり、JR京都線内は長岡京駅、高槻駅、茨木駅、新大阪駅に停車する。</ref>が、一部の列車は[[電車線・列車線|外側線(列車線)]]を走行している。また、関西本線[[亀山駅 (三重県)|亀山]]方面に直通する列車は現在では皆無となったが、柘植駅乗り換えで亀山方面への流動も少ないとはいえ一定数存在する。
戦前から1965年まで続いた[[姫路駅]] - 鳥羽駅間の[[快速列車]](俗に参宮快速などと呼ばれ、戦前は[[食堂車]]も連結されていた)と、その格上げ列車の「[[近鉄特急史#大阪・京都 - 伊勢間(草津経由)|志摩]]」のほか、京都駅と[[名古屋駅]]を草津線経由で結ぶ「[[かすが (列車)|平安]]」、京都駅から[[南紀]]へ向かう「[[南紀 (列車)|くまの]]」などの気動車による[[急行列車]]があったが、[[近鉄特急]]網の整備などによって利用者が減少し、[[日本国有鉄道]](国鉄)末期にいずれも廃止された。これら3種の急行の草津線内停車駅は、1978年時点で草津駅・貴生川駅・柘植駅のみであった。
このほか、かつては伊勢神宮参拝の[[団体専用列車|団体列車]]や関西から[[伊勢志摩]]へ向かう[[修学旅行列車]]が[[関西本線]]直通で走っていたが、それらも新名神高速道路の開通後は、ことごとくバス利用に移行したため運転されなくなった。また、気動車列車の時代には[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]への直通もあり、JR化後も臨時の直通列車があったが、1991年5月14日の[[信楽高原鐵道列車衝突事故|列車衝突事故]]後、直通列車は運転されていない。
沿線は[[モータリゼーション]]が進展しており自動車依存度の高い地域ではあるが、沿線(特に草津駅 - 貴生川駅間)では人口の増加傾向が続き、利用も堅調である。また、沿線自治体も草津線の各駅を発着する[[コミュニティバス]]を多数運行するなど、地域の足として支援する体制も概ね整備されている。自治体や住民からはさらなる増発や[[複線]]化、駅間距離が長い区間における新駅設置の要望もあり、滋賀県や沿線市町で構成される滋賀県草津線複線化促進期成同盟会がその取り組みを進めている<ref name="kiseidoumei">[https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kendoseibi/koutsu/12415.html 滋賀県草津線複線化促進期成同盟会] - 滋賀県</ref>。
=== 上りと下り ===
関西鉄道として開業した当初は草津駅を起点としたが、現在の草津線は柘植駅が起点である。草津線では上りの柘植方面の列車が発着するのりばを1番のりばにしているため、草津駅が起点であった時代には駅舎側が1番のりばであった石部駅や甲南駅では、起点変更にともない、駅舎側が1番のりばではなく2番のりばになっている<ref>辻良樹(構成・文・写真 )滋賀県発行:草津線全線開通120周年・全線電化30周年記念誌『草津線の魅力』(滋賀県草津線複線化促進期成同盟会 2010年3月発行)。</ref>。
== 利用状況 ==
各年度の[[輸送密度|平均通過人員]]、旅客運輸収入は以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="3"|平均通過人員(人/日)
!rowspan="2"|旅客運輸収入(万円)
|-
!草津駅 - 柘植駅間
!草津駅 - 貴生川駅間
!貴生川駅 - 柘植駅間
|-
|1987
|9,895<ref name="data2016">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2016_08.pdf データで見るJR西日本2016 - 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成27年度)]}} - 西日本旅客鉄道</ref>
|
|
|
|-
|2015
|12,260<ref name="data2016" />
|18,883<ref name="data2016" />
|2,996<ref name="data2016" />
|145,300<ref name="data2016" />
|-
|2017
|12,049
|18,613
|2,869
|141,800
|}
== 使用車両 ==
すべて[[電車]]で運転されている。
* [[JR西日本221系電車|221系]](吹田総合車両所京都支所所属)
** 以前は網干所属車が大阪方面直通や線内運用に使われ、2007年3月改正で定期運用が一旦なくなった後、2013年3月改正から京都支所所属のK編成による定期運用が復活した。草津線の京都車運用は原則すべて本形式のみで運用され、4両編成のほか、朝夕には4両2編成連結の8両編成や、6両編成での運用もある。
* [[JR西日本223系電車|223系1000番台・2000番台]]、[[JR西日本225系電車|225系0番台・100番台]]([[網干総合車両所]](本所)所属)
** 2006年3月改正より、夜の上りと翌朝の大阪方面直通列車に8両貫通編成が使われており、2023年3月改正時点で、夜の上り草津発柘植行き最終列車(5390M)と翌朝の柘植発網干行き(5327M)の1往復に使われている。2017年3月改正からは夕方の京都駅直通列車に4両編成も使用されるようになった。なお、京都所属の223系2500番台・6000番台は原則的に充当されない。
<gallery>
ファイル:221-Kusatsu-Line-Kusatsusta..jpg|221系
ファイル:JR223 Kusatsu Line.jpg|223系
ファイル:JR-Series225-100 U7.jpg|225系
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
* 蒸気機関車
** [[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]
*** 草津線で使用されていた車両が稲荷公園(栗東市手原)、[[余野公園]](伊賀市柘植町)にそれぞれ[[静態保存]]されている。甲西駅前にも静態保存されていたが、2008年に[[ヤマザキマザック]]に譲渡され、同社の美濃加茂製作所で保存されていた。その後、2019年に(同社が運営する)[[ヤマザキマザック工作機械博物館]]へ移設された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.steamlocomotivejapan.com/d51-409 |title=日本にある蒸気機関車 D51-409 |accessdate=2022-04-11 |publisher=日本にある蒸気機関車}}</ref>。
** [[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]
** [[国鉄C58形蒸気機関車|C58形]]
*** 信楽線で運用する関係で、草津線でも見ることができた。
** [[国鉄C51形蒸気機関車|C51形]]
*** [[姫路駅]] - 鳥羽駅間の快速列車を牽引していた。
* ディーゼル機関車
** [[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]
*** 東海道本線・関西本線直通の客車列車や貨物列車を牽引していた。
* 客車 - いずれも、東海道本線・関西本線直通の列車に用いられた。
** [[国鉄オハ35系客車|オハ35・オハフ33形]]
*** 1980年電化時の50系投入以前は亀山客貨車区のオハフ33トップナンバーが時折、運用されていた。
** [[国鉄60系客車|オハ61・オハフ61形近郊改造1500番台]]
** [[国鉄スハ43系客車|オハ41形350番台・オハ46・オハ47・スハフ42・オハフ45形]]
** [[国鉄10系客車|ナハ10・ナハフ10形]]
** [[国鉄50系客車|オハ50・オハフ50形]]
* 気動車
** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58・キハ28・キロ28形]] - 急行「くまの」「志摩」「平安」に用いられた。
** [[国鉄キハ10系気動車|キハ17形・16形]]
** [[国鉄キハ20系気動車|キハ20形・キハ52形100番台]] - 信楽線乗り入れ用
** [[国鉄キハ35系気動車|キハ30・キハ35・キハ36形]]
** [[国鉄キハ45系気動車|キハ53形0番台]] - 信楽線乗り入れ用
** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形2000番台・キハ47形0番台・1000番台]]
* 電車
** [[国鉄113系電車|113系]]([[吹田総合車両所]][[京都総合運転所|京都支所]]所属)
*** 草津線の主力電車として[[湖西線]]開業・草津線電化時に投入された700・2700番台が中心に使用されていた。原型の[[湘南色]]が主流だったが、車体更新後、晩年は京都・北近畿地区地域統一色となっていた。[[ラッピング車両]]「SHINOBI-TRAIN」(忍びトレイン)が2017年2月から運行されていたが2021年6月を以て運行を終了した<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/339737/ 「SHINOBI-TRAIN」の運行が終了] - 鉄道ホビダス鉄道投稿情報局、2021年6月28日</ref>。4両編成のほか、朝夕には4両2編成連結の8両編成も見られた。2023年4月1日夜の柘植発草津行き5391Mを最後に草津線での運用を終了した<ref name="hobidas20230403" />。
** [[国鉄117系電車|117系]](吹田総合車両所京都支所所属)
*** [[新快速]]の運用離脱後に草津線で運用開始。[[福知山線]]用に一部ロングシート改造した6両編成のS編成が主に使用されていた。 2023年4月1日朝の柘植発京都行き5335Mを最後に草津線での運用を終了した<ref name="hobidas20230403" /><!-- 出典の鉄道ホビダスの記述「朝草津線柘植駅を出発し、京都駅経由し…」からだけだと5331Mも該当するが。-->。
<gallery>
ファイル:JR West series 113 5700 subset running between Mikumo and Kibukawa.jpg|113系
ファイル:117 Kosei Line, -4 december 2017 14-41.jpg|117系
</gallery>
== 歴史 ==
旧[[東海道]]沿いに[[大津市|大津]]{{Refnest|group="注"|大津(のちに草津)を起点としたのは関西鉄道の発起人が滋賀県の人々のため<ref>浅野明彦『鉄道考現学を歩く』JTB、1998年、96頁</ref>。関西鉄道設立の発起人[[阿部市郎兵衛 (7代)|阿部市郎兵衛]]は、[[近江鉄道]]第三代社長<ref>辻良樹『関西 鉄道考古学探見』JTBパブリッシング 2007年、38頁</ref>。}}と[[名古屋市|名古屋]]を結ぶ鉄道を計画した[[関西鉄道]]の最初の路線として1889年に開業した。
1969年には[[東海道本線]]の[[複々線]]化に合わせて、[[手原駅]] - 草津駅間の一部区間が高架化され、東海道本線を乗り越す立体交差で合流するようになった。あわせて、草津駅を出て同駅構内の[[転車台]]直前でカーブしていた旧線は廃止され、営業距離が0.3km伸びている。1980年には全線が電化された。
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[12月15日]]:'''関西鉄道'''により草津駅 - 三雲駅間(9[[マイル|M]]72[[チェーン (単位)|C]]≒15.93km)が開業<ref name="sone08-20">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、20頁</ref>。石部駅・三雲駅が開業{{R|sone08-20}}。
* [[1890年]](明治23年)[[2月19日]]:三雲駅 - 柘植駅間(12M63C≒20.58km)が延伸開業し全線開通。深川駅・柘植駅が開業<ref group="注">柘植駅は、鉄道省『[{{NDLDC|960214/478}} 日本鉄道史]』上編、817頁などでは「上柘植」としているが、三重県『[{{NDLDC|807421/122}} 三重県統計書]』明治23年、229頁では「柘植」としている。[{{NDLDC|2947351/7}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年1月23日]、逓信省鉄道局『[{{NDLDC|805398/152}} 明治二十九年度鉄道局年報]』129頁によれば、1897年1月15日の柘植駅 - 上野駅(現在の伊賀上野駅)の開業時には、「柘植」となっている。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1898年]](明治31年)[[4月19日]]:本線を草津駅 - 名古屋駅間から名古屋駅 - [[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]間に変更し、柘植駅 - 草津駅間は支線となる。
* [[1900年]](明治33年)[[12月29日]]:近江鉄道本線との乗り換え駅として貴生川駅が開業。
* [[1901年]](明治34年)[[1月25日]]:全線で6C(≒0.12km)短縮。
* [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(22M49C→22.6M)。
* [[1904年]](明治37年)[[3月1日]]:大原駅(現在の甲賀駅)が開業{{R|sone08-20}}。
* [[1907年]](明治40年)[[10月1日]]:関西鉄道が国有化{{R|sone08-20}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定{{R|sone08-20}}。柘植駅 - 草津駅間を'''草津線'''とする{{R|sone08-20}}。
* [[1918年]]([[大正]]7年)[[5月1日]]:大原駅を大原市場駅に改称{{R|sone08-20}}。
* [[1922年]](大正11年)[[11月5日]]:手原駅が開業{{R|sone08-20}}。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[4月1日]]:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(22.6M→36.4km)。
* [[1956年]](昭和31年)
** [[4月10日]]:大原市場駅を甲賀駅に、深川駅を甲南駅に改称{{R|sone08-20}}。
** [[10月2日]]:一部列車を気動車列車に置き換え。
* [[1959年]](昭和34年)
** 12月15日:油日駅が開業{{R|sone08-20}}。
** [[12月25日]]:寺庄駅開業{{R|sone08-20}}。
* [[1961年]](昭和36年)3月1日:京都駅 - [[鳥羽駅]]間に草津線経由の気動車準急「[[近鉄特急史|鳥羽]]」が運転開始<ref name="sone08-21">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、21頁</ref>。草津線初の優等列車となる。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[11月23日]]:東海道線乗り越え交差完成。
** [[11月29日]]:石部駅 - 手原駅間で気動車列車に落下岩石が衝撃。運転士1名死亡、乗客17名乗員2名負傷。
** [[12月1日]]:手原駅 - 草津駅間の営業距離が変更 (+0.3km)。
* [[1972年]](昭和47年)10月2日:[[蒸気機関車|SL]]引退に伴い無煙化{{R|sone08-21}}。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[7月4日]]:自動信号化<ref name="kinkijnr_378">『近畿地方の日本国有鉄道-大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会 2004年 378頁</ref>。
** [[12月20日]]:[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入<ref name="kinkijnr_378" />。
* [[1980年]](昭和55年)[[3月3日]]:全線電化<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、66頁</ref><ref>{{Cite web|和書|title=草津線電化/拡大:写真で見る滋賀の20世紀|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/site/20seiki/area_koka/enlargement/055532513153030_large.html|website=|accessdate=2019-07-16|publisher=滋賀県}}</ref>。
* [[1981年]](昭和56年)10月1日:甲西駅が開業。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:この日のダイヤ改正で最後まで残っていた急行「[[近鉄特急史#大阪・京都 - 伊勢間(草津経由)|志摩]]」が廃止され、普通列車のみの運転となる<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-01 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 1 |page = 51 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道が承継{{R|sone08-21}}。日本貨物鉄道が貴生川駅 - 草津駅間の[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]となる。柘植駅 - 貴生川駅間の貨物営業廃止。
* [[1999年]]([[平成]]11年)[[3月31日]]:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(貴生川駅 - 草津駅間)廃止。
* [[2003年]](平成15年)
** 10月1日:コンコースの喫煙コーナーを廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
** 11月1日:草津駅 - 貴生川駅間でICカード「[[ICOCA]]」導入<ref>[https://web.archive.org/web/20040803184954/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030820a.html 「ICOCA」いよいよデビュー!~ 平成15年11月1日(土)よりサービス開始いたします ~](インターネットアーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月20日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[2月20日]]:DD51形+[[ジョイフルトレイン]]「[[あすか (鉄道車両)|あすか]]」+DD51形の編成で、草津線全線開通120周年の記念列車が運行される<ref>辻良樹(構成・文・写真)滋賀県発行 草津線全線開通120周年・全線電化30周年記念誌『草津線の魅力』(滋賀県草津線複線化促進期成同盟会 2010年3月発行)。</ref>。
** 12月1日:組織改正により、[[西日本旅客鉄道京都支社|京都支社]]が管轄していた草津駅 - 三重県境付近間を、近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:路線記号が本格導入開始<ref>[http://railf.jp/news/2015/03/16/153000.html JR西日本で路線記号の本格使用が始まる] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース、2015年3月16日。</ref>。
* [[2018年]](平成30年)3月17日:貴生川駅 - 柘植駅間でICカード「ICOCA」が利用可能となる<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/12/page_11622.html 2018年春 草津線ICOCA利用可能エリア拡大日決定 ] - 西日本旅客鉄道、2017年12月15日</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)11月18日:草津線・関西本線(亀山駅 - 加茂駅間)の指令所が、亀山指令所から大阪総合指令所に移転となる<ref>{{Cite journal|author=|year=2020年|title=草津・関西線CTC更新、SRC新設及び指令所移転プロジェクトについて|journal=鉄道と電気技術|volume=2020年10月 Vol.31 No.10|page=48}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)4月1日:113系・117系が運用終了<ref name="hobidas20230403">{{Cite web|和書|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/454375/ |title=【たくさんのメッセージに見送られて】草津線・湖西線の113系・117系が運用終了 |date=2023-04-03 |website=鉄道ホビダス |work=鉄道投稿情報局 |access-date=2023-04-05 |publisher=ネコ・パブリッシング}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全列車普通列車(全駅に停車)
* 線路(全線単線) … ◇・∧:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:5em; border-bottom:solid 3px #5a9934"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #5a9934"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #5a9934"|累計<br />営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #5a9934"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #5a9934"|{{縦書き|線路}}
!colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #5a9934"|所在地
|-
|[[柘植駅]]
| style="text-align:center;"| -
| style="text-align:right;"|0.0
|[[西日本旅客鉄道]]:{{rint|ja|wkv|size=17}} [[関西本線]]
| style="text-align:center;"|◇
| colspan="2"|[[三重県]]<br>[[伊賀市]]
|-
|[[油日駅]]
| style="text-align:right;"|5.3
| style="text-align:right;"|5.3
|
| style="text-align:center;"||
| rowspan="10" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[滋賀県]]|height=6em}}
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[甲賀市]]
|-
|[[甲賀駅]]
| style="text-align:right;"|2.1
| style="text-align:right;"|7.4
|
| style="text-align:center;"|◇
|-
|[[寺庄駅]]
| style="text-align:right;"|3.1
| style="text-align:right;"|10.5
|
| style="text-align:center;"||
|-
|[[甲南駅]]
| style="text-align:right;"|2.0
| style="text-align:right;"|12.5
|
| style="text-align:center;"|◇
|-
|[[貴生川駅]]
| style="text-align:right;"|2.8
| style="text-align:right;"|15.3
|[[信楽高原鐵道]]:[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]<br />[[近江鉄道]]:[[近江鉄道本線|本線]] (OR37)
| style="text-align:center;"|◇
|-
|[[三雲駅]]
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| style="text-align:right;"|20.5
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| style="text-align:center;"|◇
| rowspan="3"|[[湖南市]]
|-
|[[甲西駅]]
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|
| style="text-align:center;"||
|-
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|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[手原駅]]
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|
| style="text-align:center;"|◇
|[[栗東市]]
|-
|[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]
| style="text-align:right;"|4.0
| style="text-align:right;"|36.7
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|wkab|size=17}} [[東海道本線]]([[琵琶湖線]])(JR-A24)(朝夕の一部は[[京都駅]]まで、平日朝のみ網干駅まで直通運転)
| style="text-align:center;"|∧
|[[草津市]]
|}
草津駅がJR西日本[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]、柘植駅から甲南駅が[[日本の鉄道駅#簡易委託駅|簡易委託駅]]、それ以外の各駅は[[JR西日本交通サービス]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]である。
石部駅 - 手原駅間、貴生川駅 - 三雲駅間に新駅を設置する構想がある<ref name="kiseidoumei" />。
== 参考文献 ==
* 辻󠄀良樹『関西 鉄道考古学探見』JTBパブリッシング 2007年。
*辻良樹(構成・文・写真)滋賀県発行 草津線全線開通120周年・全線電化30周年記念誌『草津線の魅力』(滋賀県草津線複線化促進期成同盟会 2010年3月発行)
* {{Cite journal|和書|author=清水薫|title=草津線電化後38年の歩みと今|year=2019|month=02|journal=[[鉄道ファン]]|issue=通巻第694号|pages=78 - 85|publisher=[[交友社]]}}{{Refnest|group="注"|雑誌に記載されたタイトルは『草津線電化後28年の歩みと今』であるが、後に訂正<ref>[https://railf.jp/japan_railfan_magazine/2019/694/694-078.html 鉄道ファン2019年2月号草津線電化後38年の歩みと今] Railf.jp、2020年8月30日閲覧。</ref>されている。}}
* 甲賀市史編さん委員会編『甲賀市史』第4巻、甲賀市、2015年3月、64-71、424-428、568-571頁。
* {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=8 |title=関西本線・草津線・奈良線・おおさか東線 |date=2009-08-30 |ref=sone08 }}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[かすが (列車)]]・[[近鉄特急史]](いずれも、草津線の列車史について記述)
* [[南びわ湖駅]] - 草津線との交点付近に新設予定だった東海道新幹線の駅。草津線にも同駅との接続新駅の設置が予定されていた。
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/kusatsu.html 草津線:JR西日本 列車走行位置]
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[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:関西鉄道|路くさつ]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:三重県の交通]]
[[Category:滋賀県の交通]]
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湖西線
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湖西線(こせいせん)は、滋賀県長浜市の近江塩津駅から琵琶湖の西岸を経由して京都府京都市山科区の山科駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。
本路線の区間表記は、国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』では「近江塩津,山科」とあり、近江塩津駅を起点、山科駅を終点としているが、JR西日本が発行している『データで見るJR西日本』では、「湖西線 山科〜近江塩津」との記載であり、市販の時刻表は「北陸本線・湖西線 下り 大阪・米原-金沢」(湖西線区間は山科駅→近江塩津駅の順に駅が記載)、「北陸本線・湖西線 上り 金沢-米原・大阪」(湖西線区間は近江塩津駅→山科駅の順に駅が記載)と記載されている(詳細は後節)。
本項では時刻表などの記載に倣い区間表記順を「山科駅→近江塩津駅」の順とし、上下方向も「山科駅→近江塩津駅」を下り、「近江塩津駅→山科駅」を上りとする。
琵琶湖の西岸、湖西地区を通るため湖西線と命名された。近江塩津駅を起点、山科駅を終点とする路線であるが、山科駅からはすべての列車が東海道本線(琵琶湖線)に乗り入れて京都駅まで直通している。
JR西日本のアーバンネットワークに含まれる。全区間がJR西日本の近畿統括本部の管轄であるほか、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、IC乗車カード「ICOCA」エリア にそれぞれ含まれている。路線記号は B 。
また、北陸本線やIRいしかわ鉄道線、あいの風とやま鉄道線、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、東日本旅客鉄道(JR東日本)の信越本線・羽越本線・奥羽本線とともに日本海縦貫線を構成している。
琵琶湖東岸の琵琶湖線(東海道本線・北陸本線)経由と比べて距離が短く所要時間も短縮されることから、関西と北陸地方を結ぶ特急列車「サンダーバード」や、西日本と日本海側の各地や北海道とを結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車などが当路線を経由している。また、新快速を中心にJR京都線やJR神戸線と直通運転を行っており、特に南部を中心に沿線から京阪神方面への通勤・通学路線ともなっている。近江今津駅では西日本JRバスの若江線と接続しており、京阪神と小浜市を最速・最短で結ぶルートを形成している。
比良山地東麓から比良おろしと呼ばれる局地風が発生するため、ほぼ全線が高架で真横から風を受ける当路線は徐行運転や運休といった影響が発生する。そのためJR西日本は沿線山側に防風柵を設置するなど、強風対策を行っている。
北陸新幹線の敦賀駅以南(以西)は小浜市を経由して京都市内へ南下する「小浜・京都ルート」が与党内で正式決定されており、JR西日本は並行在来線として当線の経営分離を検討しているが、北陸新幹線は滋賀県内を経由しないため、恩恵がないまま負担をさせられる懸念から滋賀県および沿線自治体は反対している。当線が経営分離された場合、大都市近郊区間内で並行在来線が経営分離される初めてのケースとなる。
本路線は、国鉄時代に制定された日本国有鉄道線路名称では山科駅が起点で、近江塩津駅を終点としていたが、1987年(昭和62)年4月1日からの国鉄分割民営化により、本路線をJR西日本が承継した際に近江塩津駅が起点、山科駅が終点と国鉄時代とは起点駅・終点駅が逆になった。これは、民営化当時の運輸省に提出された「事業基本計画」によるもので、そこには「近江塩津から山科まで」と記載されている。
ただし、前出の『データで見るJR西日本』やJR各社が公示している「JR線路名称公告」では山科駅が起点で、近江塩津駅が終点となっており、また鉄道趣味誌や書籍は、国鉄時代の表記に倣い湖西線を「山科〜近江塩津間」、「山科駅から近江塩津駅まで」などと記載しているため、役所の提出書類と一般向けの書籍などでは、起点駅・終点駅の表記が逆になっている現象が起きている。
鉄道路線の正式な区間や営業キロなどは、冒頭の『鉄道要覧』や前述の「事業基本計画」の記載を基にすれば、起点駅は近江塩津駅、終点駅は山科駅となる。
湖西線は大阪と北陸方面を結ぶ短絡線として日本鉄道建設公団により大都市交通線(D線)として建設された。そのため、湖西線の鉄道施設はかつて日本鉄道建設公団およびその業務を承継した鉄道建設・運輸施設整備支援機構(鉄道・運輸機構)が保有しており、国鉄およびJR西日本は貸付料を支払っていたが、2014年に貸付料の支払いが終了し、鉄道施設はJR西日本に有償で譲渡された。
元々、浜大津駅 - 近江今津駅間に地元資本による江若鉄道が開業しており、路線計画時にほぼ並行する形のこの江若鉄道の扱いが問題となった。最終的に江若鉄道は廃止し、その路盤を買い上げて転用することで決着したが、競合路線の買い上げ救済が真の目的であって実際の転用率は低かった。江若鉄道は1969年10月限りで鉄道事業を廃止後、江若交通に社名変更している。
開業前には堅田駅と近江今津駅で貨物営業を行う計画がありそのための用地買収にも至ったが、沿線での貨物需要が相当量に達しないと判断され行わないよう計画変更された。開業後は貨物列車は全駅通過か運転停車のみで運転されている。貨物側線用地は保守用基地などに利用されている。計画時は東海道本線の線路容量が限界になるとの予測により、山科駅から奈良線木幡駅・新田駅、片町線長尾駅・鳥飼を経由して吹田操車場に至る42.1 kmの新線計画があり、貨物列車を新設の長尾操車場に運転する計画であった。そのため、山科駅は西側も分岐できる構造になっている。しかし新線は国鉄の財政事情悪化により計画が中止された。
関西対北陸の優等列車の湖西線経由への移行は開業翌年の1975年3月10日となったが、これは湖西線の開業当時山陽新幹線がまだ岡山駅までしか開業しておらず、翌年の博多駅への延伸開業まで移行を見合わせていたためである。最終的に急行「きたぐに」と「ゆのくに」を残し、あとはすべて湖西線経由へ移行した。
2006年には交直セクションがあった永原駅 - 近江塩津駅間の直流化工事が完成して、湖西線内は全て直流電化となり、湖西線を経由する新快速の運転区間が敦賀駅まで延長された(詳細は「直流化工事」の節を参照)。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で、直流電動機に使用している電動機用黒鉛ブラシを製作しているメーカーが被災して製造の見通しが立たず、使用できない車両が発生する恐れが生じた。このため、同年4月11日から日中の一部の京都駅 - 堅田駅・近江舞子駅間の普通の運転を取り止める予定と発表されたが、部品調達の目処が立ったのでこの措置は行われず、4月11日以降も通常のダイヤで運転されることになった。
山科駅が路線としての起点であるが、全列車が東海道本線(琵琶湖線)経由で京都駅に乗り入れており、さらに特急・新快速を中心に大阪方面へ直通している。終点の近江塩津駅からも一部の列車が敦賀駅へ乗り入れている。事故・各種トラブルでダイヤが乱れた場合や大雪・強風などで乱れが見込まれる場合は、近江今津駅で運転を打ち切り、JR神戸線・JR京都線方面 - 近江今津駅間と近江今津駅 - 敦賀駅間とで別の編成で運転することがある。
国鉄時代、途中で交流電化に変わる永原駅 - 近江塩津駅間の普通列車は1日3本ときわめて少ない本数であった。2006年10月に直流区間が敦賀駅まで延長されたことに伴い、永原駅からさらに近江塩津・敦賀方面に直通する列車の本数が増加した。
なお、琵琶湖線直通の列車は厳密には湖西線区間を一切走行しないが、山科駅 - 京都駅間では走行区間が重複する。また、琵琶湖線と分岐する山科駅から近江塩津駅へは琵琶湖線を経由する一部の新快速も乗り入れている。
関西と北陸方面を結ぶ優等列車として、特急「サンダーバード」が湖西線を経由しており、朝夕の一部列車が堅田駅・近江今津駅に停車する。この区間ではe5489によりチケットレス特急券で普通車指定席を割安に利用することができる。2003年10月1日から、近江今津駅・堅田駅 - 京都駅・新大阪駅・大阪駅間で利用可能で、通勤・通学定期券・回数券・昼間特割きっぷと併用して特急列車の普通車自由席に乗車できる「湖西通勤回数特急券」を発売していたが、2020年3月31日までに発売終了となった。
新快速は日中1時間に1本運行されている。山科駅 - 近江舞子駅間では途中、大津京駅・比叡山坂本駅・堅田駅に停車し、近江舞子駅 - 近江塩津駅間は各駅に停車する。朝の上りと夕方下りの各1本は湖西線内は快速に種別変更され、快速はおごと温泉駅にも停車する。土曜・休日夕方の京都発敦賀行き快速1本を除き、大阪方面に直通する。普通との緩急接続は、日中以外の近江今津行き・敦賀行きは大津京駅で行い、京都・大阪方面は堅田駅で行われている。なお、日中は普通電車の本数削減に伴い近江今津方面行きの大津京駅での緩急接続はなく、京都・大阪方面に至っても堅田駅始発となっておりホームが変更されている。
1974年の湖西線開業時から日中に1時間に1本の新快速が大阪方面から堅田駅まで直通するようになった。1986年11月1日には近江舞子駅まで延長される一方で湖西線内は各駅停車となるが、1996年3月16日には近江今津駅まで延長されるとともに湖西線内での通過運転が復活した。1996年3月16日から朝に上り快速が、1997年3月8日から夕方に下り快速がそれぞれ1本設定された。
敦賀駅の4番のりばの有効長が4両分であるため、近江今津駅で列車の連結・切り離しが行われている(朝時間帯の敦賀行き1本は京都駅で切り離し)。そのため近江今津駅の2番のりばには誘導信号機が設置された。その作業のため停車時間が長めに取られており、その間に特急「サンダーバード」の通過待ちを行う列車がある。2011年3月11日までは京都駅で切り離しを行う列車で湖西線は新快速、琵琶湖線では普通列車になる運用があった。
運行区間内のすべての駅に停車する。平日朝に大阪行き(高槻駅からは茨木駅・新大阪駅のみ停車の快速)が1本設定されているが、その他は京都駅発着である。
日中は1時間に京都駅を起点として堅田行きが1本、近江舞子行きが30分間隔で2本設定されており、山科駅 - 堅田駅間は1時間に計3本ある。朝晩には永原駅・近江塩津駅・敦賀駅を発着する列車があるほか、近江今津発米原行き、長浜発近江今津行きが各1本設定されている。
京都駅では3番のりばに発着する列車が多い。6 - 7番のりばに到着し、吹田総合車両所京都支所または引き上げ線へ回送される列車もある。
過去には4扉ロングシートの通勤形電車(207系・321系)で運行されるJR京都線・JR神戸線・JR宝塚線の各駅停車(京阪神緩行線)の直通運転もあり、2015年3月14日ダイヤ改正時点では朝と平日夜に西明石駅発着、土曜・休日夜に新三田駅発の列車が設定されていた。これらの列車には5号車に女性専用車の設定があった。2016年3月26日のダイヤ改正でこれらの列車は京都駅発着の普通となり、JR神戸線・JR京都線の各駅停車の直通運転はなくなっている。
普通列車の列車番号は、堅田駅・近江舞子駅発着の列車は2800番台、近江今津駅・永原駅・近江塩津駅・敦賀駅を発着する列車は1800番台として区別している。ただし、近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間を運行する列車は4800番台を与えることを基本としている。敦賀駅発着の新快速・快速は近江今津駅で列車番号が変わる。
近江今津駅を発着する北陸線方面の列車と新快速および京都駅から直通する普通との間で列車番号の奇数・偶数が逆転している。
開業当初から琵琶湖や比良山系へのレジャー客輸送に臨時列車が設定されている。初期の頃は堅田駅までの定期新快速を近江今津駅まで延長するものや、朝夕の網干駅 - 大阪駅間の快速を湖西線に延長するものであった。臨時列車では夏冬に運用がない修学旅行用車(155系)を利用したものもあり、宮原電車区(現在の網干総合車両所宮原支所)に所属する車両はこの時に耐寒耐雪工事を受けている。
また、新快速の敦賀駅直通にともない定期運用で4両編成化された列車の多客時の救済列車が2006年秋以降定番化しており、特にマキノ駅を最寄りとする海津大崎の花見客輸送では敦賀行きを分割する編成が本編成に先行して救済する臨時列車として運転されているが、2015年度以降は設定されていない。また観光シーズンには琵琶湖一周列車が団体貸切の形で運転されている。
沿線には京阪神から箱館山スキー場・びわ湖バレイ・国境スキー場など京阪神地区から日帰りで行けるスキー場があり、姫路駅 - 永原駅間、和歌山駅 - 近江今津駅間で快速「スキーびわこホリデー号」を運転し、現在快速が停車していない志賀駅・比良駅にも停車していた。
1985年頃の夏には近江舞子浜への臨時列車として、当時日根野電車区に配置されていた485系電車を使用して大阪駅 - 近江舞子駅間に運転されていた。
定期列車の増発が進み臨時列車の運転は減っており、土休日ダイヤの新快速で朝の近江今津・敦賀方面行きの4本と、午後の敦賀駅からの4本を志賀駅に臨時停車する「湖西レジャー号」と呼んで区別していたが、2015年度以降は設定されていない。1997年春は比良駅に臨時停車する新快速を「湖西レジャー号」としていた。また、2002年頃は志賀駅と比良駅の双方に臨時停車する新快速を「湖西レジャー号」としていた。
かつては、大晦日深夜から元旦にかけて、JR京都線京都駅 - 山科駅 - 堅田駅間で普通のみ約60分間隔で終夜運転が実施されていたことがあったが、2000年代半ば頃には既に取り止められ、代わりに終電後に京都発堅田行き臨時列車を1本運転していたが、のちにそれも廃止されている。
貨物列車は、北陸方面に8本(このうち、休日運休が1本、日曜日運休が2本)と、京都方面に8本(このうち、休日運休が1本、日曜日運休が1本)運転されており、すべてコンテナ車で編成されている。湖西線区間には貨物の積み降ろしを扱う駅はないが、一部列車が旅客列車の待避のため一部駅に停車する。
関西と北陸の短絡という目的から高速走行を狙う路線とされたため、ほとんどの区間がトンネルや高架線となっており、湖西線内に踏切は設置されていない。三井寺や白鬚神社などでは境内をトンネルが通過することによる土地取得などを巡って補償騒動が起きたほか、地元からの反対、江若鉄道(前述)との関係で路線決定に難航した部分もあるが、最小曲率半径は原則1,400 mとし(大津京駅付近の半径800 m、近江高島駅付近の半径1,000 mなど例外が数か所ある)、勾配も19 ‰以下と在来線としては高規格で建設されている。
大津京・おごと温泉・堅田・近江舞子・安曇川・近江今津・永原の7駅に待避設備があり、このうち堅田・近江舞子・近江今津・永原には折り返し設備が設けられている。このほか、和邇駅にも渡り線があり、本線上での折返しが可能となっている。
高架構造でスラブ軌道を多用したため、保線も大型機械を導入した。その大型機械を使う保守間合いを確保するため、深夜に通過する貨物列車を単線で使用するための設備(単線並列)を設けた。おごと温泉駅を除く待避可能駅とマキノ駅にはシーサスを、上下線との両方向で使用できる信号設備(複線利用では閉塞区間があるが、単線で使用時は1閉塞扱い)を配置した。しかし、その後貨物列車の減少などにより設備を維持する必要性が薄れたため、2004年に単線用信号設備の使用が停止されている。
高速運転に最適な路線であるため、日本国有鉄道(国鉄)時代から、湖西線を利用して381系・221系・681系や四国旅客鉄道(JR四国)の8000系電車などが速度向上試験に取り組んだ。また、JR西日本で新型車両を投入する際は投入先に関係なく湖西線で試運転を行うのが通例となっている。
現在は特急「サンダーバード」と姫路・播州赤穂方面まで直通運転する新快速が最高速度130 km/hで走行する。また、ブレーキ性能上120 km/hを最高速度とする485系電車で運転されていた「雷鳥」も、踏切のない湖西線内では最高速度130 km/h運転が特別に認められた。ただしこの特例が認可されたのはJR発足後であり、1989年3月11日のダイヤ改正により登場した「スーパー雷鳥」を皮切りに順次最高速度の引き上げが行われた。「サンダーバード」で京都駅 - 敦賀駅間無停車の場合の最速所要時間は、下りが50分、上りが53分程度である。
山科駅を出ると、東海道本線と分岐し、長等山トンネル(長さ3,075 m)に入る。このトンネルは、山科寄りの坑口は単線3本の変形トンネルであるが、大津京寄りが複線断面である。山科駅に停車する下り列車は18 ‰の勾配で東海道本線を乗り越すが、特急列車や貨物列車など山科駅を通過する下り列車は10 ‰の緩勾配用に設けられた分岐線を通り、トンネル内で合流している。長等山トンネルを出ると京阪石山坂本線を乗り越えて、すぐに2面4線の大津京駅に着く。ここでは京阪の京阪大津京駅への乗り換えができる。
大津京駅から北は活断層(琵琶湖西岸断層帯)が活動した結果できた細長い平地に沿って走る。そのため、西に比叡・比良の山脈を見上げ、東はほぼ全線に渡って琵琶湖の湖面を眺めることができる。線路の周囲は静かな田園地帯ではあるが、堅田までは周辺に住宅や量販店も多い。途中、おごと温泉駅付近は江若鉄道の旧線路と大きく離れ、山側をほぼ直線で抜けていく。そのため、おごと温泉駅の前後に5つの比較的短い第一 - 第五雄琴トンネルがある。
大津京駅を過ぎ、1面2線の唐崎駅へ。唐崎駅を出ると左手に国道161号湖西道路が並行して走り、新快速停車駅の比叡山坂本駅に着く。比叡山坂本駅を出て次に到着するおごと温泉駅は両端をトンネルに挟まれた構造となっている。おごと温泉駅からトンネルを2本抜けて市街地が近づくと堅田駅に到着する。堅田駅は特急の一部や新快速が停車する主要駅で、この駅を始発・終着とする普通も多く、国鉄時代は新快速もこの駅の発着であった。
堅田駅から先は湖岸に沿って線路が走り、天気がよい日には対岸の山々も見える。次の小野駅はびわこローズタウンへの最寄駅として、京阪電気鉄道の請願駅として京阪の出資により開業した。続く和邇駅・蓬萊駅・志賀駅・比良駅はいずれも普通しか停車しない(ただし、志賀駅は新快速が臨時停車することもある)。近江舞子駅は2面4線で、かつては新快速の終着駅であった。普通列車の大半はこの駅で折り返す。近江塩津方面に向かう新快速はこの駅から各駅に停まる。また、北小松駅を過ぎると比較的短い2つのトンネル(第一・第二北小松トンネル)があり、高島市に入り、その先に路線決定で難航した白鬚神社の北側を短い2つのトンネル(第一・第二白鬚トンネル)、そして高島トンネル(長さ1,498 m)の合計5つのトンネルを抜けると近江高島駅に到着する。その先は湖岸から離れ、平地の中を走り、2面4線のホームを持つ安曇川駅に到着する。安曇川を渡り、高島市役所への最寄駅・新旭駅に着き、再び琵琶湖に近づくと、近江今津駅に着く。近江今津駅は留置線を持つ湖西線の拠点駅である。ここで大半の普通が京都方面に折り返すほか、敦賀駅および近江塩津駅発着の新快速の増解結作業が行われている。
湖西地域は北陸から続く多雪地帯のため、スプリンクラーや雪落とし溝などの設備を持っている。近江今津駅には電留線設備があり車両の夜間滞泊が行われているが、留置時にパンタグラフが位置する場所には屋根を設け、降雪から車両を保護している。
一方で、比良おろしと呼ばれる強風により、貨物列車が停車中に横転した例があるなど、速度規制や運転見合わせとなることも多く「サンダーバード」など湖西線を通過する特急が米原駅(東海道本線・北陸本線)経由で迂回運転されることもある。2006年度では運転見合わせは計28日実施された。これを受けて、JR西日本は、比良駅 - 近江舞子駅間と、近江舞子駅 - 北小松駅間の山側(西側)に防風柵を設置し、従来秒速25メートルで運転規制を行うようにしていたのを30メートルまで引き上げ、年間の運転見合わせ時間が設置前の26%になった。防風柵は更なる設置が進められている。また防風柵工事完成に合わせて、近江舞子駅には風力発電装置が備えられ、駅で使用する電力の一部を賄っている。
近江今津駅を離れると一転して市街地から外れ、さらに水田地帯の中を走って行くが、近江中庄駅は無人駅で駅周辺は閑散としている。この駅はほぼ一直線上にあるため、ホームから双方向への見通しも非常に良い。次のマキノ駅は片仮名の駅として国鉄時代から有名で、かつては町名も片仮名になっていた。2005年に高島市に合併されて町名は消えてしまったが、駅名の方は片仮名書きが健在である。マキノ駅を過ぎると山々が近づき、峰山トンネル(長さ3,910 m)を通過、長浜市に入り、2面4線の永原駅に着く。かつては直流電化区間の終着駅として新快速の発着もあった。現在でも永原駅で折り返す普通はまだ残っており、6両または8両編成の普通列車はこの駅までしか入線しない。駅前には長浜市役所西浅井支所がある。さらに永原を過ぎた先で国道303号をオーバークロスして、城山トンネル(長さ2,318 m)を抜けていく。2006年9月までこのトンネルを抜けた北側に交直セクションがあった。その後約20 mの高さの高架橋で水田地帯を越え、右手に北陸本線が寄り添い、国道8号をオーバークロスして近江塩津駅に着く。ただし同駅は通過列車主体の湖西線下り本線側には大雪時の非常用ホームしかなく、停車列車は北陸線下りホームに転線して停車する。
山科駅 - 近江塩津駅間をまたぐ場合、米原駅経由の乗車であっても湖西線経由の営業キロで普通運賃・料金を計算する経路特定区間の特例がある。しかし定期券の場合はそれが適用されず、実際に乗車する経路の運賃が適用されるため、米原駅経由より割安な湖西線経由の定期券では米原駅経由で利用できない。
2012年3月まで定期列車として運行されていた急行「きたぐに」号は米原駅経由で運行されていたが、この区間をまたぐ場合は湖西線経由で料金を計算していた。前記の通り定期券には適用されなかったため、定期券と急行券を併用する場合は、定期券が米原経由、急行券が湖西線経由と金額の計算経路が異なっていた。
湖西線建設当時、山科駅は直流で、近江塩津駅は交流で、それぞれ電化されていたため、近江塩津駅手前の永原駅との間に交直セクションが設けられた。これにより、大阪・京都方面から湖西線を通して北陸方面に直通できる車両は、気動車やディーゼル機関車などの内燃動車や動力を持たない客車・貨車を除けば車上で交流と直流の切り替えができる485系などの交直流電車と交直流両用のEF81形電気機関車に限られた。山科駅 - 永原駅間は直流電化で建設されたため同区間の普通列車は直流電車で運転されていたが、需要が多く見込めない湖西線と北陸本線との直通列車には特急列車を除いて高価な交直流電車は投入されず、近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間の普通列車は電化区間でありながら1991年9月13日まで気動車で運転されていた。
一方、北陸本線も交流電化のためローカル列車の本数も少なく、湖北地区と大津や京阪神間の移動には米原駅での乗り換えが必要であった。滋賀県や地元自治体は国鉄時代の1986年に沿線市町・商工会で「北陸本線直流化促進期成同盟会」を設立し、北陸線の利便性向上には電化方式の変更が必要と国鉄・JRへの要望活動を進め、さらに1990年5月には、湖西の市町も加わり「琵琶湖環状線促進期成同盟会」を新たに発足させ、JRへの働きかけを進めた。その結果、翌年北陸線米原駅 - 長浜駅間の直流化工事が行われた。もともと実際の交直セクションは同線の坂田駅 - 田村駅間であったので、これを長浜駅 - 虎姫駅間に移設したものである。工事費約7億円は県や長浜市など地元自治体の負担でまかなった。工事完成による1991年9月14日のダイヤ改正以降、京阪神からの新快速が長浜駅まで直通したことで、長浜市では観光客の増加と人口増加という経済効果をもたらした。新快速の乗り入れで長浜市が京阪神の通勤圏となった一方、黒壁スクエアなど地元の観光資源活性化などが反響を呼んだ結果多くの観光客が長浜市へと足を運ぶようになり、街づくりの起爆剤としての直流化工事は注目を浴びた。
その成功を見て、同様に交流電化で列車本数が少なく米原駅以西への直通がなかった湖北地区でも「新快速の直通を」という機運が高まり、湖北地区の各自治体も動き出した。湖西と湖北地区の相互交流もこの交直セクションが障害となり直通列車が少なく不便であったため、これらを解消するためにも直流化工事は地元の重要課題であった。1995年からは基金として毎年工事費用を各自治体が積み立てることを始め、「琵琶湖環状線構想」を前進するよう駅周辺整備や観光施設の案内整備に努めた。一方、長浜市の成功事例を参考に、敦賀市も新快速の直通による観光客の増加を目論見、福井県とともに京阪神からの直通列車を増発するためには直流化が必要、と働きかけるようになった。
そこで鉄道整備の一環として、
という狙いで、湖西線と北陸線の直流化工事が行われた。工事は地元の請願という形で、滋賀県側(県と地元自治体)と福井県側(県と敦賀市)がほぼ折半の形で工事費を負担した(工事費は161億円で、うち滋賀県側が75億円・福井県側が68億円の設備費用分を負担し、JR西日本が車両新製費として18億円を負担している)。
直流化工事は、長浜駅 - 虎姫駅間と永原駅 - 近江塩津駅間にあったデッドセクションを敦賀駅 - 南今庄駅間(厳密には敦賀駅 - 北陸トンネル敦賀口間)に移設し、北陸線長浜駅 - 敦賀駅間、湖西線永原駅 - 近江塩津駅間を直流き電とするもので、2006年9月24日に完成した。
これにより、同年10月21日にダイヤ改正が行われ、日中を中心に1日25本(湖西線経由17本、琵琶湖線・北陸本線経由8本)が近江今津駅・長浜駅から延長される形で敦賀駅まで、1日18本が近江塩津駅(琵琶湖線・北陸本線経由)まで乗り入れるようになった。近江塩津駅では、日中に湖西線方面からの下り敦賀行きから当駅始発の上り米原方面行きに、また米原方面からの当駅止まりから湖西線上り列車に同一ホームで乗り換えができるようになり、湖西線と北陸本線の接続が改善された。但し、元からホーム長の長い敦賀駅を除いて近江塩津駅など直流化された駅ではホーム延伸や4両を超える長さでの嵩上げ工事は行われなかったため、6両や8両などの普通列車は現在でも永原駅止まりで運転されている。
なお、北陸本線に乗り入れする新快速の標準的な所要時間は、湖西線経由で敦賀駅から京都駅までが約95分、大阪駅までで約125分、三ノ宮駅までで約145分、姫路駅までで約185 - 190分である。また米原駅経由はさらに15分ほど所要時間が延びる。もともと湖西地区と敦賀市の流動はほとんどなく、湖北・湖東地区と敦賀市の流動はそれなりにあるため、敦賀駅発着の新快速は、昼間は湖西線経由とし、それ以外は米原駅経由になっている。そのため朝夕時間帯には接続時分や湖西線内での所要時間などにより、米原駅経由のほうが早くなる場合もある。
便宜上、山科側の全列車が乗り入れる東海道本線京都駅 - 山科駅間と、近江塩津側の列車が乗り入れる北陸本線近江塩津駅 - 敦賀駅間も合わせて記載する。
大津京駅・おごと温泉駅・堅田駅・和邇駅・近江舞子駅・安曇川駅・近江今津駅・永原駅が停車場で、そのほかの駅は停留所である。待避設備がなかったマキノ駅も停車場であったが、2019年4月時点では、和邇駅が停車場になりマキノ駅が停留所となっている。
中間駅のうち、直営駅は堅田駅・近江今津駅の2駅のみである。ほかに近江中庄駅が終日無人駅、マキノ駅・永原駅が簡易委託駅である以外はすべて、JR西日本交通サービスによる業務委託駅である。
|
[
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"tag": "p",
"text": "湖西線(こせいせん)は、滋賀県長浜市の近江塩津駅から琵琶湖の西岸を経由して京都府京都市山科区の山科駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。",
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{
"paragraph_id": 1,
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"text": "本路線の区間表記は、国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』では「近江塩津,山科」とあり、近江塩津駅を起点、山科駅を終点としているが、JR西日本が発行している『データで見るJR西日本』では、「湖西線 山科〜近江塩津」との記載であり、市販の時刻表は「北陸本線・湖西線 下り 大阪・米原-金沢」(湖西線区間は山科駅→近江塩津駅の順に駅が記載)、「北陸本線・湖西線 上り 金沢-米原・大阪」(湖西線区間は近江塩津駅→山科駅の順に駅が記載)と記載されている(詳細は後節)。",
"title": null
},
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"text": "本項では時刻表などの記載に倣い区間表記順を「山科駅→近江塩津駅」の順とし、上下方向も「山科駅→近江塩津駅」を下り、「近江塩津駅→山科駅」を上りとする。",
"title": null
},
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"text": "琵琶湖の西岸、湖西地区を通るため湖西線と命名された。近江塩津駅を起点、山科駅を終点とする路線であるが、山科駅からはすべての列車が東海道本線(琵琶湖線)に乗り入れて京都駅まで直通している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "JR西日本のアーバンネットワークに含まれる。全区間がJR西日本の近畿統括本部の管轄であるほか、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、IC乗車カード「ICOCA」エリア にそれぞれ含まれている。路線記号は B 。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "また、北陸本線やIRいしかわ鉄道線、あいの風とやま鉄道線、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、東日本旅客鉄道(JR東日本)の信越本線・羽越本線・奥羽本線とともに日本海縦貫線を構成している。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 6,
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"text": "琵琶湖東岸の琵琶湖線(東海道本線・北陸本線)経由と比べて距離が短く所要時間も短縮されることから、関西と北陸地方を結ぶ特急列車「サンダーバード」や、西日本と日本海側の各地や北海道とを結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車などが当路線を経由している。また、新快速を中心にJR京都線やJR神戸線と直通運転を行っており、特に南部を中心に沿線から京阪神方面への通勤・通学路線ともなっている。近江今津駅では西日本JRバスの若江線と接続しており、京阪神と小浜市を最速・最短で結ぶルートを形成している。",
"title": "概要"
},
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"tag": "p",
"text": "比良山地東麓から比良おろしと呼ばれる局地風が発生するため、ほぼ全線が高架で真横から風を受ける当路線は徐行運転や運休といった影響が発生する。そのためJR西日本は沿線山側に防風柵を設置するなど、強風対策を行っている。",
"title": "概要"
},
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"tag": "p",
"text": "北陸新幹線の敦賀駅以南(以西)は小浜市を経由して京都市内へ南下する「小浜・京都ルート」が与党内で正式決定されており、JR西日本は並行在来線として当線の経営分離を検討しているが、北陸新幹線は滋賀県内を経由しないため、恩恵がないまま負担をさせられる懸念から滋賀県および沿線自治体は反対している。当線が経営分離された場合、大都市近郊区間内で並行在来線が経営分離される初めてのケースとなる。",
"title": "概要"
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"text": "本路線は、国鉄時代に制定された日本国有鉄道線路名称では山科駅が起点で、近江塩津駅を終点としていたが、1987年(昭和62)年4月1日からの国鉄分割民営化により、本路線をJR西日本が承継した際に近江塩津駅が起点、山科駅が終点と国鉄時代とは起点駅・終点駅が逆になった。これは、民営化当時の運輸省に提出された「事業基本計画」によるもので、そこには「近江塩津から山科まで」と記載されている。",
"title": "概要"
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"text": "ただし、前出の『データで見るJR西日本』やJR各社が公示している「JR線路名称公告」では山科駅が起点で、近江塩津駅が終点となっており、また鉄道趣味誌や書籍は、国鉄時代の表記に倣い湖西線を「山科〜近江塩津間」、「山科駅から近江塩津駅まで」などと記載しているため、役所の提出書類と一般向けの書籍などでは、起点駅・終点駅の表記が逆になっている現象が起きている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "鉄道路線の正式な区間や営業キロなどは、冒頭の『鉄道要覧』や前述の「事業基本計画」の記載を基にすれば、起点駅は近江塩津駅、終点駅は山科駅となる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "湖西線は大阪と北陸方面を結ぶ短絡線として日本鉄道建設公団により大都市交通線(D線)として建設された。そのため、湖西線の鉄道施設はかつて日本鉄道建設公団およびその業務を承継した鉄道建設・運輸施設整備支援機構(鉄道・運輸機構)が保有しており、国鉄およびJR西日本は貸付料を支払っていたが、2014年に貸付料の支払いが終了し、鉄道施設はJR西日本に有償で譲渡された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "元々、浜大津駅 - 近江今津駅間に地元資本による江若鉄道が開業しており、路線計画時にほぼ並行する形のこの江若鉄道の扱いが問題となった。最終的に江若鉄道は廃止し、その路盤を買い上げて転用することで決着したが、競合路線の買い上げ救済が真の目的であって実際の転用率は低かった。江若鉄道は1969年10月限りで鉄道事業を廃止後、江若交通に社名変更している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "開業前には堅田駅と近江今津駅で貨物営業を行う計画がありそのための用地買収にも至ったが、沿線での貨物需要が相当量に達しないと判断され行わないよう計画変更された。開業後は貨物列車は全駅通過か運転停車のみで運転されている。貨物側線用地は保守用基地などに利用されている。計画時は東海道本線の線路容量が限界になるとの予測により、山科駅から奈良線木幡駅・新田駅、片町線長尾駅・鳥飼を経由して吹田操車場に至る42.1 kmの新線計画があり、貨物列車を新設の長尾操車場に運転する計画であった。そのため、山科駅は西側も分岐できる構造になっている。しかし新線は国鉄の財政事情悪化により計画が中止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "関西対北陸の優等列車の湖西線経由への移行は開業翌年の1975年3月10日となったが、これは湖西線の開業当時山陽新幹線がまだ岡山駅までしか開業しておらず、翌年の博多駅への延伸開業まで移行を見合わせていたためである。最終的に急行「きたぐに」と「ゆのくに」を残し、あとはすべて湖西線経由へ移行した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2006年には交直セクションがあった永原駅 - 近江塩津駅間の直流化工事が完成して、湖西線内は全て直流電化となり、湖西線を経由する新快速の運転区間が敦賀駅まで延長された(詳細は「直流化工事」の節を参照)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で、直流電動機に使用している電動機用黒鉛ブラシを製作しているメーカーが被災して製造の見通しが立たず、使用できない車両が発生する恐れが生じた。このため、同年4月11日から日中の一部の京都駅 - 堅田駅・近江舞子駅間の普通の運転を取り止める予定と発表されたが、部品調達の目処が立ったのでこの措置は行われず、4月11日以降も通常のダイヤで運転されることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "山科駅が路線としての起点であるが、全列車が東海道本線(琵琶湖線)経由で京都駅に乗り入れており、さらに特急・新快速を中心に大阪方面へ直通している。終点の近江塩津駅からも一部の列車が敦賀駅へ乗り入れている。事故・各種トラブルでダイヤが乱れた場合や大雪・強風などで乱れが見込まれる場合は、近江今津駅で運転を打ち切り、JR神戸線・JR京都線方面 - 近江今津駅間と近江今津駅 - 敦賀駅間とで別の編成で運転することがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代、途中で交流電化に変わる永原駅 - 近江塩津駅間の普通列車は1日3本ときわめて少ない本数であった。2006年10月に直流区間が敦賀駅まで延長されたことに伴い、永原駅からさらに近江塩津・敦賀方面に直通する列車の本数が増加した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "なお、琵琶湖線直通の列車は厳密には湖西線区間を一切走行しないが、山科駅 - 京都駅間では走行区間が重複する。また、琵琶湖線と分岐する山科駅から近江塩津駅へは琵琶湖線を経由する一部の新快速も乗り入れている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "関西と北陸方面を結ぶ優等列車として、特急「サンダーバード」が湖西線を経由しており、朝夕の一部列車が堅田駅・近江今津駅に停車する。この区間ではe5489によりチケットレス特急券で普通車指定席を割安に利用することができる。2003年10月1日から、近江今津駅・堅田駅 - 京都駅・新大阪駅・大阪駅間で利用可能で、通勤・通学定期券・回数券・昼間特割きっぷと併用して特急列車の普通車自由席に乗車できる「湖西通勤回数特急券」を発売していたが、2020年3月31日までに発売終了となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "新快速は日中1時間に1本運行されている。山科駅 - 近江舞子駅間では途中、大津京駅・比叡山坂本駅・堅田駅に停車し、近江舞子駅 - 近江塩津駅間は各駅に停車する。朝の上りと夕方下りの各1本は湖西線内は快速に種別変更され、快速はおごと温泉駅にも停車する。土曜・休日夕方の京都発敦賀行き快速1本を除き、大阪方面に直通する。普通との緩急接続は、日中以外の近江今津行き・敦賀行きは大津京駅で行い、京都・大阪方面は堅田駅で行われている。なお、日中は普通電車の本数削減に伴い近江今津方面行きの大津京駅での緩急接続はなく、京都・大阪方面に至っても堅田駅始発となっておりホームが変更されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "1974年の湖西線開業時から日中に1時間に1本の新快速が大阪方面から堅田駅まで直通するようになった。1986年11月1日には近江舞子駅まで延長される一方で湖西線内は各駅停車となるが、1996年3月16日には近江今津駅まで延長されるとともに湖西線内での通過運転が復活した。1996年3月16日から朝に上り快速が、1997年3月8日から夕方に下り快速がそれぞれ1本設定された。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "敦賀駅の4番のりばの有効長が4両分であるため、近江今津駅で列車の連結・切り離しが行われている(朝時間帯の敦賀行き1本は京都駅で切り離し)。そのため近江今津駅の2番のりばには誘導信号機が設置された。その作業のため停車時間が長めに取られており、その間に特急「サンダーバード」の通過待ちを行う列車がある。2011年3月11日までは京都駅で切り離しを行う列車で湖西線は新快速、琵琶湖線では普通列車になる運用があった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "運行区間内のすべての駅に停車する。平日朝に大阪行き(高槻駅からは茨木駅・新大阪駅のみ停車の快速)が1本設定されているが、その他は京都駅発着である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "日中は1時間に京都駅を起点として堅田行きが1本、近江舞子行きが30分間隔で2本設定されており、山科駅 - 堅田駅間は1時間に計3本ある。朝晩には永原駅・近江塩津駅・敦賀駅を発着する列車があるほか、近江今津発米原行き、長浜発近江今津行きが各1本設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "京都駅では3番のりばに発着する列車が多い。6 - 7番のりばに到着し、吹田総合車両所京都支所または引き上げ線へ回送される列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "過去には4扉ロングシートの通勤形電車(207系・321系)で運行されるJR京都線・JR神戸線・JR宝塚線の各駅停車(京阪神緩行線)の直通運転もあり、2015年3月14日ダイヤ改正時点では朝と平日夜に西明石駅発着、土曜・休日夜に新三田駅発の列車が設定されていた。これらの列車には5号車に女性専用車の設定があった。2016年3月26日のダイヤ改正でこれらの列車は京都駅発着の普通となり、JR神戸線・JR京都線の各駅停車の直通運転はなくなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "普通列車の列車番号は、堅田駅・近江舞子駅発着の列車は2800番台、近江今津駅・永原駅・近江塩津駅・敦賀駅を発着する列車は1800番台として区別している。ただし、近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間を運行する列車は4800番台を与えることを基本としている。敦賀駅発着の新快速・快速は近江今津駅で列車番号が変わる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "近江今津駅を発着する北陸線方面の列車と新快速および京都駅から直通する普通との間で列車番号の奇数・偶数が逆転している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "開業当初から琵琶湖や比良山系へのレジャー客輸送に臨時列車が設定されている。初期の頃は堅田駅までの定期新快速を近江今津駅まで延長するものや、朝夕の網干駅 - 大阪駅間の快速を湖西線に延長するものであった。臨時列車では夏冬に運用がない修学旅行用車(155系)を利用したものもあり、宮原電車区(現在の網干総合車両所宮原支所)に所属する車両はこの時に耐寒耐雪工事を受けている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、新快速の敦賀駅直通にともない定期運用で4両編成化された列車の多客時の救済列車が2006年秋以降定番化しており、特にマキノ駅を最寄りとする海津大崎の花見客輸送では敦賀行きを分割する編成が本編成に先行して救済する臨時列車として運転されているが、2015年度以降は設定されていない。また観光シーズンには琵琶湖一周列車が団体貸切の形で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "沿線には京阪神から箱館山スキー場・びわ湖バレイ・国境スキー場など京阪神地区から日帰りで行けるスキー場があり、姫路駅 - 永原駅間、和歌山駅 - 近江今津駅間で快速「スキーびわこホリデー号」を運転し、現在快速が停車していない志賀駅・比良駅にも停車していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1985年頃の夏には近江舞子浜への臨時列車として、当時日根野電車区に配置されていた485系電車を使用して大阪駅 - 近江舞子駅間に運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "定期列車の増発が進み臨時列車の運転は減っており、土休日ダイヤの新快速で朝の近江今津・敦賀方面行きの4本と、午後の敦賀駅からの4本を志賀駅に臨時停車する「湖西レジャー号」と呼んで区別していたが、2015年度以降は設定されていない。1997年春は比良駅に臨時停車する新快速を「湖西レジャー号」としていた。また、2002年頃は志賀駅と比良駅の双方に臨時停車する新快速を「湖西レジャー号」としていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "かつては、大晦日深夜から元旦にかけて、JR京都線京都駅 - 山科駅 - 堅田駅間で普通のみ約60分間隔で終夜運転が実施されていたことがあったが、2000年代半ば頃には既に取り止められ、代わりに終電後に京都発堅田行き臨時列車を1本運転していたが、のちにそれも廃止されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "貨物列車は、北陸方面に8本(このうち、休日運休が1本、日曜日運休が2本)と、京都方面に8本(このうち、休日運休が1本、日曜日運休が1本)運転されており、すべてコンテナ車で編成されている。湖西線区間には貨物の積み降ろしを扱う駅はないが、一部列車が旅客列車の待避のため一部駅に停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "関西と北陸の短絡という目的から高速走行を狙う路線とされたため、ほとんどの区間がトンネルや高架線となっており、湖西線内に踏切は設置されていない。三井寺や白鬚神社などでは境内をトンネルが通過することによる土地取得などを巡って補償騒動が起きたほか、地元からの反対、江若鉄道(前述)との関係で路線決定に難航した部分もあるが、最小曲率半径は原則1,400 mとし(大津京駅付近の半径800 m、近江高島駅付近の半径1,000 mなど例外が数か所ある)、勾配も19 ‰以下と在来線としては高規格で建設されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "大津京・おごと温泉・堅田・近江舞子・安曇川・近江今津・永原の7駅に待避設備があり、このうち堅田・近江舞子・近江今津・永原には折り返し設備が設けられている。このほか、和邇駅にも渡り線があり、本線上での折返しが可能となっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "高架構造でスラブ軌道を多用したため、保線も大型機械を導入した。その大型機械を使う保守間合いを確保するため、深夜に通過する貨物列車を単線で使用するための設備(単線並列)を設けた。おごと温泉駅を除く待避可能駅とマキノ駅にはシーサスを、上下線との両方向で使用できる信号設備(複線利用では閉塞区間があるが、単線で使用時は1閉塞扱い)を配置した。しかし、その後貨物列車の減少などにより設備を維持する必要性が薄れたため、2004年に単線用信号設備の使用が停止されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "高速運転に最適な路線であるため、日本国有鉄道(国鉄)時代から、湖西線を利用して381系・221系・681系や四国旅客鉄道(JR四国)の8000系電車などが速度向上試験に取り組んだ。また、JR西日本で新型車両を投入する際は投入先に関係なく湖西線で試運転を行うのが通例となっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現在は特急「サンダーバード」と姫路・播州赤穂方面まで直通運転する新快速が最高速度130 km/hで走行する。また、ブレーキ性能上120 km/hを最高速度とする485系電車で運転されていた「雷鳥」も、踏切のない湖西線内では最高速度130 km/h運転が特別に認められた。ただしこの特例が認可されたのはJR発足後であり、1989年3月11日のダイヤ改正により登場した「スーパー雷鳥」を皮切りに順次最高速度の引き上げが行われた。「サンダーバード」で京都駅 - 敦賀駅間無停車の場合の最速所要時間は、下りが50分、上りが53分程度である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "山科駅を出ると、東海道本線と分岐し、長等山トンネル(長さ3,075 m)に入る。このトンネルは、山科寄りの坑口は単線3本の変形トンネルであるが、大津京寄りが複線断面である。山科駅に停車する下り列車は18 ‰の勾配で東海道本線を乗り越すが、特急列車や貨物列車など山科駅を通過する下り列車は10 ‰の緩勾配用に設けられた分岐線を通り、トンネル内で合流している。長等山トンネルを出ると京阪石山坂本線を乗り越えて、すぐに2面4線の大津京駅に着く。ここでは京阪の京阪大津京駅への乗り換えができる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "大津京駅から北は活断層(琵琶湖西岸断層帯)が活動した結果できた細長い平地に沿って走る。そのため、西に比叡・比良の山脈を見上げ、東はほぼ全線に渡って琵琶湖の湖面を眺めることができる。線路の周囲は静かな田園地帯ではあるが、堅田までは周辺に住宅や量販店も多い。途中、おごと温泉駅付近は江若鉄道の旧線路と大きく離れ、山側をほぼ直線で抜けていく。そのため、おごと温泉駅の前後に5つの比較的短い第一 - 第五雄琴トンネルがある。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "大津京駅を過ぎ、1面2線の唐崎駅へ。唐崎駅を出ると左手に国道161号湖西道路が並行して走り、新快速停車駅の比叡山坂本駅に着く。比叡山坂本駅を出て次に到着するおごと温泉駅は両端をトンネルに挟まれた構造となっている。おごと温泉駅からトンネルを2本抜けて市街地が近づくと堅田駅に到着する。堅田駅は特急の一部や新快速が停車する主要駅で、この駅を始発・終着とする普通も多く、国鉄時代は新快速もこの駅の発着であった。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "堅田駅から先は湖岸に沿って線路が走り、天気がよい日には対岸の山々も見える。次の小野駅はびわこローズタウンへの最寄駅として、京阪電気鉄道の請願駅として京阪の出資により開業した。続く和邇駅・蓬萊駅・志賀駅・比良駅はいずれも普通しか停車しない(ただし、志賀駅は新快速が臨時停車することもある)。近江舞子駅は2面4線で、かつては新快速の終着駅であった。普通列車の大半はこの駅で折り返す。近江塩津方面に向かう新快速はこの駅から各駅に停まる。また、北小松駅を過ぎると比較的短い2つのトンネル(第一・第二北小松トンネル)があり、高島市に入り、その先に路線決定で難航した白鬚神社の北側を短い2つのトンネル(第一・第二白鬚トンネル)、そして高島トンネル(長さ1,498 m)の合計5つのトンネルを抜けると近江高島駅に到着する。その先は湖岸から離れ、平地の中を走り、2面4線のホームを持つ安曇川駅に到着する。安曇川を渡り、高島市役所への最寄駅・新旭駅に着き、再び琵琶湖に近づくと、近江今津駅に着く。近江今津駅は留置線を持つ湖西線の拠点駅である。ここで大半の普通が京都方面に折り返すほか、敦賀駅および近江塩津駅発着の新快速の増解結作業が行われている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "湖西地域は北陸から続く多雪地帯のため、スプリンクラーや雪落とし溝などの設備を持っている。近江今津駅には電留線設備があり車両の夜間滞泊が行われているが、留置時にパンタグラフが位置する場所には屋根を設け、降雪から車両を保護している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "一方で、比良おろしと呼ばれる強風により、貨物列車が停車中に横転した例があるなど、速度規制や運転見合わせとなることも多く「サンダーバード」など湖西線を通過する特急が米原駅(東海道本線・北陸本線)経由で迂回運転されることもある。2006年度では運転見合わせは計28日実施された。これを受けて、JR西日本は、比良駅 - 近江舞子駅間と、近江舞子駅 - 北小松駅間の山側(西側)に防風柵を設置し、従来秒速25メートルで運転規制を行うようにしていたのを30メートルまで引き上げ、年間の運転見合わせ時間が設置前の26%になった。防風柵は更なる設置が進められている。また防風柵工事完成に合わせて、近江舞子駅には風力発電装置が備えられ、駅で使用する電力の一部を賄っている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "近江今津駅を離れると一転して市街地から外れ、さらに水田地帯の中を走って行くが、近江中庄駅は無人駅で駅周辺は閑散としている。この駅はほぼ一直線上にあるため、ホームから双方向への見通しも非常に良い。次のマキノ駅は片仮名の駅として国鉄時代から有名で、かつては町名も片仮名になっていた。2005年に高島市に合併されて町名は消えてしまったが、駅名の方は片仮名書きが健在である。マキノ駅を過ぎると山々が近づき、峰山トンネル(長さ3,910 m)を通過、長浜市に入り、2面4線の永原駅に着く。かつては直流電化区間の終着駅として新快速の発着もあった。現在でも永原駅で折り返す普通はまだ残っており、6両または8両編成の普通列車はこの駅までしか入線しない。駅前には長浜市役所西浅井支所がある。さらに永原を過ぎた先で国道303号をオーバークロスして、城山トンネル(長さ2,318 m)を抜けていく。2006年9月までこのトンネルを抜けた北側に交直セクションがあった。その後約20 mの高さの高架橋で水田地帯を越え、右手に北陸本線が寄り添い、国道8号をオーバークロスして近江塩津駅に着く。ただし同駅は通過列車主体の湖西線下り本線側には大雪時の非常用ホームしかなく、停車列車は北陸線下りホームに転線して停車する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "山科駅 - 近江塩津駅間をまたぐ場合、米原駅経由の乗車であっても湖西線経由の営業キロで普通運賃・料金を計算する経路特定区間の特例がある。しかし定期券の場合はそれが適用されず、実際に乗車する経路の運賃が適用されるため、米原駅経由より割安な湖西線経由の定期券では米原駅経由で利用できない。",
"title": "乗車制度の特例"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "2012年3月まで定期列車として運行されていた急行「きたぐに」号は米原駅経由で運行されていたが、この区間をまたぐ場合は湖西線経由で料金を計算していた。前記の通り定期券には適用されなかったため、定期券と急行券を併用する場合は、定期券が米原経由、急行券が湖西線経由と金額の計算経路が異なっていた。",
"title": "乗車制度の特例"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "湖西線建設当時、山科駅は直流で、近江塩津駅は交流で、それぞれ電化されていたため、近江塩津駅手前の永原駅との間に交直セクションが設けられた。これにより、大阪・京都方面から湖西線を通して北陸方面に直通できる車両は、気動車やディーゼル機関車などの内燃動車や動力を持たない客車・貨車を除けば車上で交流と直流の切り替えができる485系などの交直流電車と交直流両用のEF81形電気機関車に限られた。山科駅 - 永原駅間は直流電化で建設されたため同区間の普通列車は直流電車で運転されていたが、需要が多く見込めない湖西線と北陸本線との直通列車には特急列車を除いて高価な交直流電車は投入されず、近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間の普通列車は電化区間でありながら1991年9月13日まで気動車で運転されていた。",
"title": "直流化工事"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "一方、北陸本線も交流電化のためローカル列車の本数も少なく、湖北地区と大津や京阪神間の移動には米原駅での乗り換えが必要であった。滋賀県や地元自治体は国鉄時代の1986年に沿線市町・商工会で「北陸本線直流化促進期成同盟会」を設立し、北陸線の利便性向上には電化方式の変更が必要と国鉄・JRへの要望活動を進め、さらに1990年5月には、湖西の市町も加わり「琵琶湖環状線促進期成同盟会」を新たに発足させ、JRへの働きかけを進めた。その結果、翌年北陸線米原駅 - 長浜駅間の直流化工事が行われた。もともと実際の交直セクションは同線の坂田駅 - 田村駅間であったので、これを長浜駅 - 虎姫駅間に移設したものである。工事費約7億円は県や長浜市など地元自治体の負担でまかなった。工事完成による1991年9月14日のダイヤ改正以降、京阪神からの新快速が長浜駅まで直通したことで、長浜市では観光客の増加と人口増加という経済効果をもたらした。新快速の乗り入れで長浜市が京阪神の通勤圏となった一方、黒壁スクエアなど地元の観光資源活性化などが反響を呼んだ結果多くの観光客が長浜市へと足を運ぶようになり、街づくりの起爆剤としての直流化工事は注目を浴びた。",
"title": "直流化工事"
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{
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"text": "その成功を見て、同様に交流電化で列車本数が少なく米原駅以西への直通がなかった湖北地区でも「新快速の直通を」という機運が高まり、湖北地区の各自治体も動き出した。湖西と湖北地区の相互交流もこの交直セクションが障害となり直通列車が少なく不便であったため、これらを解消するためにも直流化工事は地元の重要課題であった。1995年からは基金として毎年工事費用を各自治体が積み立てることを始め、「琵琶湖環状線構想」を前進するよう駅周辺整備や観光施設の案内整備に努めた。一方、長浜市の成功事例を参考に、敦賀市も新快速の直通による観光客の増加を目論見、福井県とともに京阪神からの直通列車を増発するためには直流化が必要、と働きかけるようになった。",
"title": "直流化工事"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "そこで鉄道整備の一環として、",
"title": "直流化工事"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "という狙いで、湖西線と北陸線の直流化工事が行われた。工事は地元の請願という形で、滋賀県側(県と地元自治体)と福井県側(県と敦賀市)がほぼ折半の形で工事費を負担した(工事費は161億円で、うち滋賀県側が75億円・福井県側が68億円の設備費用分を負担し、JR西日本が車両新製費として18億円を負担している)。",
"title": "直流化工事"
},
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"paragraph_id": 57,
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"text": "直流化工事は、長浜駅 - 虎姫駅間と永原駅 - 近江塩津駅間にあったデッドセクションを敦賀駅 - 南今庄駅間(厳密には敦賀駅 - 北陸トンネル敦賀口間)に移設し、北陸線長浜駅 - 敦賀駅間、湖西線永原駅 - 近江塩津駅間を直流き電とするもので、2006年9月24日に完成した。",
"title": "直流化工事"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "これにより、同年10月21日にダイヤ改正が行われ、日中を中心に1日25本(湖西線経由17本、琵琶湖線・北陸本線経由8本)が近江今津駅・長浜駅から延長される形で敦賀駅まで、1日18本が近江塩津駅(琵琶湖線・北陸本線経由)まで乗り入れるようになった。近江塩津駅では、日中に湖西線方面からの下り敦賀行きから当駅始発の上り米原方面行きに、また米原方面からの当駅止まりから湖西線上り列車に同一ホームで乗り換えができるようになり、湖西線と北陸本線の接続が改善された。但し、元からホーム長の長い敦賀駅を除いて近江塩津駅など直流化された駅ではホーム延伸や4両を超える長さでの嵩上げ工事は行われなかったため、6両や8両などの普通列車は現在でも永原駅止まりで運転されている。",
"title": "直流化工事"
},
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "なお、北陸本線に乗り入れする新快速の標準的な所要時間は、湖西線経由で敦賀駅から京都駅までが約95分、大阪駅までで約125分、三ノ宮駅までで約145分、姫路駅までで約185 - 190分である。また米原駅経由はさらに15分ほど所要時間が延びる。もともと湖西地区と敦賀市の流動はほとんどなく、湖北・湖東地区と敦賀市の流動はそれなりにあるため、敦賀駅発着の新快速は、昼間は湖西線経由とし、それ以外は米原駅経由になっている。そのため朝夕時間帯には接続時分や湖西線内での所要時間などにより、米原駅経由のほうが早くなる場合もある。",
"title": "直流化工事"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "便宜上、山科側の全列車が乗り入れる東海道本線京都駅 - 山科駅間と、近江塩津側の列車が乗り入れる北陸本線近江塩津駅 - 敦賀駅間も合わせて記載する。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "大津京駅・おごと温泉駅・堅田駅・和邇駅・近江舞子駅・安曇川駅・近江今津駅・永原駅が停車場で、そのほかの駅は停留所である。待避設備がなかったマキノ駅も停車場であったが、2019年4月時点では、和邇駅が停車場になりマキノ駅が停留所となっている。",
"title": "データ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "中間駅のうち、直営駅は堅田駅・近江今津駅の2駅のみである。ほかに近江中庄駅が終日無人駅、マキノ駅・永原駅が簡易委託駅である以外はすべて、JR西日本交通サービスによる業務委託駅である。",
"title": "データ"
}
] |
湖西線(こせいせん)は、滋賀県長浜市の近江塩津駅から琵琶湖の西岸を経由して京都府京都市山科区の山科駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。 本路線の区間表記は、国土交通省鉄道局監修の『鉄道要覧』では「近江塩津,山科」とあり、近江塩津駅を起点、山科駅を終点としているが、JR西日本が発行している『データで見るJR西日本』では、「湖西線 山科〜近江塩津」との記載であり、市販の時刻表は「北陸本線・湖西線 下り 大阪・米原-金沢」(湖西線区間は山科駅→近江塩津駅の順に駅が記載)、「北陸本線・湖西線 上り 金沢-米原・大阪」(湖西線区間は近江塩津駅→山科駅の順に駅が記載)と記載されている(詳細は後節)。 本項では時刻表などの記載に倣い区間表記順を「山科駅→近江塩津駅」の順とし、上下方向も「山科駅→近江塩津駅」を下り、「近江塩津駅→山科駅」を上りとする。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 湖西線
|路線色 = #00ACD1
|ロゴ = JRW kinki-B.svg
|ロゴサイズ = 40px
<!-- トップのテンプレ画像は、どのようなところを走っているのかわかるような背景が入った湖西線内の画像をお願いします。-->
|画像 = Series223-2000-W26.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = [[JR西日本223系電車|223系2000番台]]による湖西線普通列車<br />(2018年1月5日 [[唐崎駅]])
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[京都府]]、[[滋賀県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[近江塩津駅]]<ref name="鉄道要覧 湖西線">{{Cite book |和書 |author=監修者 国土交通省鉄道局 |title=鉄道要覧 |chapter=西日本旅客鉄道株式会社 |publisher=電気車研究会・鉄道図書刊行会 |volume=各年度 |page=湖西線掲載頁}}</ref>{{refnest|name="鉄道要覧上"|group="注"|『鉄道要覧』上の起点駅・終点駅<ref name="鉄道要覧 湖西線" />。}}
|終点 = [[山科駅]]<ref name="鉄道要覧 湖西線" /><ref name="鉄道要覧上" group="注" />
|駅数 = 21駅
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|B}}
|開業 = 1974年7月20日<ref name="sone 26">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 26頁]]</ref>
|廃止 =
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]]
|運営者 = {{Plainlist |
* 西日本旅客鉄道
* [[日本貨物鉄道]]
}}
|車両基地 = [[吹田総合車両所]][[京都総合運転所|京都支所]]ほか
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 74.1 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = 全線[[複線]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P<ref name="kyoten">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/safety/action/ats/ |title=ATS-Pの整備状況 |publisher=西日本旅客鉄道 |accessdate=2023-06-12}}</ref>)
|最高速度 = 130 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 =
}}
'''湖西線'''(こせいせん)は、[[滋賀県]][[長浜市]]の[[近江塩津駅]]から[[琵琶湖]]の西岸を経由して[[京都府]][[京都市]][[山科区]]の[[山科駅]]に至る[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である<ref name="鉄道要覧 湖西線" /><ref name="sone 15">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 15頁]]</ref>。
本路線の区間表記は、国土交通省鉄道局監修の『[[鉄道要覧]]』では「近江塩津,山科」とあり<ref name="鉄道要覧 湖西線" />、近江塩津駅を起点、山科駅を終点としているが、JR西日本が発行している『データで見るJR西日本』では、「湖西線 山科〜近江塩津」との記載であり<ref>{{Cite book |和書 |year=2020 |title=データで見るJR西日本2020 |url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_07.pdf#page=2 |format=PDF |publisher=西日本旅客鉄道 |page=54 }}</ref>、市販の時刻表は「北陸本線・湖西線 下り 大阪・米原-金沢」(湖西線区間は山科駅→近江塩津駅の順に駅が記載)、「北陸本線・湖西線 上り 金沢-米原・大阪」(湖西線区間は近江塩津駅→山科駅の順に駅が記載)と記載されている(詳細は[[#正式な起点駅・終点駅|後節]])。
本項では時刻表などの記載に倣い区間表記順を「山科駅→近江塩津駅」の順とし、上下方向も「山科駅→近江塩津駅」を下り、「近江塩津駅→山科駅」を上りとする。
== 概要 ==
[[琵琶湖]]の西岸、[[滋賀県#地域区分|湖西地区]]を通るため湖西線と命名された<ref group="注">対して東海道本線の大津駅 - 米原駅間([[琵琶湖線]]の一部)は湖東線とも呼ばれるが、これは昭和30年代には既に使われている。</ref>。近江塩津駅を起点、山科駅を終点とする路線<ref name="鉄道要覧 湖西線" /><ref name="鉄道要覧上" group="注" />であるが、山科駅からはすべての列車が[[東海道本線]]([[琵琶湖線]])に乗り入れて[[京都駅]]まで直通している。
JR西日本の[[アーバンネットワーク]]に含まれる。全区間がJR西日本の[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]の管轄であるほか、[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」および、[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」エリア<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html |title=ご利用可能エリア|ICOCA |website=JRおでかけネット |publisher=西日本旅客鉄道 |accessdate=2023-06-12}}</ref> にそれぞれ含まれている。[[駅ナンバリング|路線記号]]は''' B '''<ref name="jrw20140806">{{Cite press release |和書 |title=近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2014-08-06 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html |accessdate=2023-06-12}}</ref>。
また、[[北陸本線]]や[[IRいしかわ鉄道線]]、[[あいの風とやま鉄道線]]、[[えちごトキめき鉄道]][[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[信越本線]]・[[羽越本線]]・[[奥羽本線]]とともに[[日本海縦貫線]]を構成している。
琵琶湖東岸の琵琶湖線(東海道本線・北陸本線)経由と比べて距離が短く所要時間も短縮されることから、[[関西]]と[[北陸地方]]を結ぶ[[特別急行列車|特急列車]]「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」や、[[西日本]]と日本海側の各地や[[北海道]]とを結ぶ[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[貨物列車]]などが当路線を経由している。また、[[新快速]]を中心に[[JR京都線]]や[[JR神戸線]]と[[直通運転]]を行っており、特に南部を中心に沿線から[[京阪神]]方面への通勤・通学路線ともなっている。[[近江今津駅]]では[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]の[[若江線]]と接続しており、京阪神と[[小浜市]]を最速・最短で結ぶルートを形成している。
[[比良山地]]東麓から[[比良おろし]]と呼ばれる[[局地風]]が発生するため、ほぼ全線が高架で真横から風を受ける当路線は徐行運転や運休といった影響が発生する。そのためJR西日本は沿線山側に防風柵を設置するなど、強風対策を行っている<ref name="westjr20140917" /><ref>{{Cite press release |和書 |title=湖西線の強風対策を充実させます |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2014/09/page_6168.html |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2014-09-17 |access-date=2022-06-15 |language=ja}}</ref>。
[[北陸新幹線]]の[[敦賀駅]]以南(以西)は小浜市を経由して京都市内へ南下する「小浜・京都ルート」が与党内で正式決定されており<ref>{{Cite news|和書 |title=【北陸新幹線】小浜京都ルート正式決定 与党PT「早期開通へ財源確保」|newspaper=[[産経新聞]]|date=2016-12-20|url=https://www.sankei.com/article/20161220-KYOUFOMR5VP6ZFUKKFO2SLW5MM/|accessdate=2021-03-16|publisher=産経新聞社}}</ref>、JR西日本は[[在来線#並行在来線|並行在来線]]として当線の経営分離を検討しているが、北陸新幹線は滋賀県内を経由しないため、恩恵がないまま負担をさせられる懸念から滋賀県および沿線自治体は反対している<ref>{{Cite news|和書|title=新幹線小浜ルートに落胆と期待 京都・滋賀の反応|newspaper=[[京都新聞]]|date=2016-12-15|url=https://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20161215000025|accessdate=2021-03-16|publisher=京都新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161215052924/https://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20161215000025|archivedate=2016-12-15}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=【北陸新幹線】「小浜京都ルート」残る障壁 財源確保は? 費用負担は? 並行在来線は?|newspaper=産経新聞|date=2016-12-20|url=https://www.sankei.com/article/20161220-Z4XOHMHZNBMAXLVOAXBEJ6SZWQ/2/|accessdate=2021-03-16|publisher=産経新聞社}}</ref>。当線が経営分離された場合、大都市近郊区間内で並行在来線が経営分離される初めてのケースとなる。
=== 正式な起点駅・終点駅 ===
本路線は、国鉄時代に制定された[[国鉄・JR線路名称一覧|日本国有鉄道線路名称]]では山科駅が起点で、近江塩津駅を終点としていた<ref name="時刻表 湖西線" >{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道 謹呈 |title=時刻表 全国ダイヤ改正号 |chapter=線名索引 東海道線 |publisher=日本国有鉄道 |volume=秋号 1980 |page=432}}</ref>が、1987年(昭和62)年4月1日からの[[国鉄分割民営化]]により、本路線をJR西日本が承継した際に近江塩津駅が起点、山科駅が終点と国鉄時代とは起点駅・終点駅が逆になった<ref name="鉄道要覧 湖西線" /><ref name="宮脇俊三">{{Cite book|和書|author=宮脇俊三 |authorlink=宮脇俊三|title=鉄道廃線跡を歩くIV |chapter=日本国有鉄道経営再建促進特別措置法・国鉄再建法の区間表示・営業キロの推移 |publisher=JTB |date=1997 |pages=192, 198 |isbn=4-533-02857-8}}</ref>。これは、民営化当時の[[運輸省]]に提出された「事業基本計画」によるもので、そこには「近江塩津から山科まで」と記載されている<ref name="宮脇俊三" />{{refnest|group="注"|宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くIV』(1997年、JTB)p.198の「国鉄再建法の区間表示・営業キロの推移」には、湖西線などの区間表記に「〈逆〉」印が付けられ、同書p.192に[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]]の別表第一と「日本国有鉄道線路名称」とで起点と終点が逆になっている区間に〈逆〉を付記した旨が書かれている。ただし、〈逆〉印を付けたのは同書の「国鉄再建法の区間表示・営業キロの推移」の作成者(の判断)によるもので、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法やその別表には〈逆〉印は付けられていない<ref name="宮脇俊三" />。}}。
ただし、前出の『データで見るJR西日本』やJR各社が公示している「JR線路名称公告」では山科駅が起点で、近江塩津駅が終点となっており、また鉄道趣味誌や書籍は、国鉄時代の表記に倣い湖西線を「山科〜近江塩津間」、「山科駅から近江塩津駅まで」など<ref name="日本鉄道旅行地図帳9号 湖西線">{{Cite book |和書 |others=[[今尾恵介]](監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線 |chapter=駅名一覧 関西2 東海道本線(4)沿線 JR湖西線 山科〜近江塩津 |editor=日本鉄道旅行地図帳編集部 |series=新潮「旅」ムック |publisher=[[新潮社]] |volume=9号 |volume-title=関西2 |date=2009-1-19 |page=31 |isbn=978-4-10-790027-2}}</ref><ref name="鉄ピク873 今田">{{Cite journal|和書 |author=今田保 |date=2013-03-01 |title=東海道本線 歴史の趣味 名古屋-神戸間 |journal=鉄道ピクトリアル2013年3月号 【特集】東海道本線(II) |volume=63 |issue=第3号(通巻第873号)|page=12 |publisher=電気車研究会}}</ref>と記載しているため、役所の提出書類と一般向けの書籍などでは、起点駅・終点駅の表記が逆になっている現象が起きている。
鉄道路線の正式な区間や営業キロなどは、冒頭の『鉄道要覧』や前述の「事業基本計画」の記載を基にすれば、起点駅は近江塩津駅、終点駅は山科駅となる<ref name="鉄道要覧 湖西線" />。
== 歴史 ==
[[File:Yamashina-station-katamatisen.jpg|thumb|山科駅の西側は将来新線が分岐できる構造になっている]]
湖西線は大阪と北陸方面を結ぶ短絡線として[[日本鉄道建設公団]]により大都市交通線(D線)<ref group="注">[[京葉線]]・[[武蔵野線]]と同ランク。</ref>として建設された。そのため、湖西線の鉄道施設はかつて日本鉄道建設公団およびその業務を承継した[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]](鉄道・運輸機構)が保有しており、国鉄およびJR西日本は貸付料を支払っていた<ref group="注">鉄道建設・運輸施設整備支援機構は、[[鉄道事業法]]第59条の規定により、[[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]とはされず、同法同条第2項の規定によって、JR西日本が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]とみなされていた。</ref>が、2014年に貸付料の支払いが終了し、鉄道施設はJR西日本に有償で譲渡された{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2015|p=62}}。
元々、[[びわ湖浜大津駅|浜大津駅]] - 近江今津駅間に地元資本による[[江若鉄道]]が開業しており<ref group="注">地元資本で開業したが、戦後に[[京阪電気鉄道|京阪]]の傘下に入った。鉄道線廃止後江若交通に社名を変更した後も引き続き京阪グループの一員である。</ref>、路線計画時にほぼ並行する形のこの江若鉄道の扱いが問題となった。最終的に江若鉄道は廃止し、その路盤を買い上げて転用することで決着したが、競合路線の買い上げ救済が真の目的<ref group="注">国鉄が江若鉄道の一部従業員の受け入れを確約したことで、交渉は妥結へと向かった。実際に国鉄は江若鉄道の従業員50名を受け入れている。</ref>であって実際の転用率は低かった<ref group="注">もともと江若鉄道線の路盤は非電化ローカル線の低規格なものであり、高速運転による大量輸送を行う幹線系路線にするには貧弱すぎることから、江若鉄道線の路盤をそのまま転用するよりも新たに用地買収をしたりトンネルを建設して線形を良くしたりする方が得策であったという事情もあった。</ref>。江若鉄道は[[1969年]]10月限りで鉄道事業を廃止後、[[江若交通]]に社名変更している。
開業前には堅田駅と近江今津駅で貨物営業を行う計画がありそのための用地買収にも至ったが、沿線での貨物需要が相当量に達しないと判断され行わないよう計画変更された{{sfn|国鉄湖西線建設促進期成同盟会|1975|p=69}}。開業後は貨物列車は全駅通過か[[運転停車]]のみで運転されている。貨物側線用地は保守用基地などに利用されている。計画時は[[東海道本線]]の線路容量が限界になるとの予測により、山科駅から[[奈良線]][[木幡駅 (JR西日本)|木幡駅]]・[[新田駅 (京都府)|新田駅]]、[[片町線]][[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]]・鳥飼を経由して[[吹田操車場]]に至る42.1 kmの新線計画があり<ref>{{Cite book |和書 |date=1968-02 |title=大阪工事局40年史 |editor=日本国有鉄道大阪工事局 |publisher=大阪工事局 |pages=18, 1019}}</ref>、貨物列車を新設の長尾操車場に運転する計画であった。そのため、山科駅は西側も分岐できる構造になっている。しかし新線は国鉄の財政事情悪化により計画が中止された。
関西対北陸の優等列車の湖西線経由への移行は開業翌年の[[1975年]][[3月10日]]となったが、これは湖西線の開業当時[[山陽新幹線]]がまだ[[岡山駅]]までしか開業しておらず、翌年の[[博多駅]]への延伸開業まで移行を見合わせていたためである。最終的に[[急行列車|急行]]「きたぐに」と「ゆのくに」を残し、あとはすべて湖西線経由へ移行した。
2006年には交直セクションがあった永原駅 - 近江塩津駅間の直流化工事が完成して、湖西線内は全て直流電化となり、湖西線を経由する新快速の運転区間が敦賀駅まで延長された(詳細は「[[#直流化工事|直流化工事]]」の節を参照)。
2011年3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響で、[[直巻整流子電動機|直流電動機]]に使用している電動機用黒鉛ブラシを製作しているメーカーが被災して製造の見通しが立たず<ref>{{Cite web|和書|author=名取紀之|url=http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2011/03/post_126.html|title=車輌保守部品供給難にともなう影響について。 |work=編集長啓白|website=鉄道ホビダス|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|date=2011-3-29|accessdate=2019-1-7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190107233022/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2011/03/post_126.html|archivedate=2019-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/6536|title=関西で相次ぐ鉄道運行本数の削減方針、日立化成の被災で消耗品調達至難に【震災関連速報】|publisher=東洋経済オンライン|author=武政秀明|date=2011-03-24|accessdate=2019-1-7}}</ref>、使用できない車両が発生する恐れが生じた。このため、同年4月11日から日中の一部の京都駅 - 堅田駅・近江舞子駅間の普通の運転を取り止める予定と発表されたが<ref>{{Cite press release |和書 |title=東北地方太平洋沖地震に伴う車両保守部品の不足による運転計画の見直しについて<京阪神地区> |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2011-03-25 |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/20110325_keihanshin.pdf |format=PDF |accessdate=2023-06-13}}</ref>、部品調達の目処が立ったのでこの措置は行われず、4月11日以降も通常のダイヤで運転されることになった<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110410221228/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html|date=2011年4月11日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年4月6日</ref>。
=== 年表 ===
==== 湖西線の開業まで ====
* [[1922年]]([[大正]]11年)[[4月11日]]:浜大津 - 三宅(現在の小浜線[[上中駅]])間が国鉄予定線に編入{{R|sone 26}}。
* [[1962年]]([[昭和]]37年)[[5月31日]]:浜大津 - 塩津間が国鉄調査線となる{{R|sone 26}}。
* [[1964年]](昭和39年)[[6月25日]]:鉄道建設審議会にて山科 - 沓掛間を工事線に編入すると答申{{sfn|国鉄湖西線建設促進期成同盟会|1975|p=81}}。
* [[1966年]](昭和41年)[[12月28日]]:山科 - (仮称)北大津(現在の大津京駅)間、近江今津 - 近江塩津間が第一次認可{{sfn|国鉄湖西線建設促進期成同盟会|1975|p=81}}。
* [[1967年]](昭和42年)[[1月12日]]:[[皇子山総合運動公園]]で湖西線起工式を開催{{R|sone 26}}。
* [[1969年]](昭和44年)[[11月1日]]:江若鉄道線浜大津駅 - 近江今津駅間が廃止{{R|sone 26}}。
* [[1974年]](昭和49年)6月13日:[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入{{Sfn|近畿地方の日本国有鉄道|2004|pp=140, 375}}{{sfn|日本鉄道建設公団大阪支社|1975|pp=425-428}}。
==== 湖西線開業後 ====
* [[1974年]](昭和49年)
** [[7月20日]]:山科駅 - 近江塩津駅間 (74.1 km) が開業。新快速が堅田駅まで9往復、普通が23往復、臨時列車が12往復、近江今津駅 - 敦賀駅間で3往復{{Sfn|近畿地方の日本国有鉄道|2004|p=141}}。ほかに臨時列車として新快速が近江今津駅まで延長される日や、大阪駅から近江今津駅までの快速が運行される日もあった。
** [[10月1日]]:湖西線で貨物列車が運転開始{{Sfn|近畿地方の日本国有鉄道|2004|p=375}}。
* [[1975年]](昭和50年)[[3月10日]]:大阪駅 - 北陸・東北間の特急と急行「立山」が湖西線経由となる{{R|sone 26}}<ref group="注">特急は「雷鳥」の一部の列車が湖西線内の西大津駅(現:大津京駅)と近江今津駅に停車。急行「立山」は昼行全列車が西大津駅と近江今津駅のほかに安曇川駅にも停車。なお、急行「立山」は湖西線経由となったものの、特急増発に伴って北陸本線内の途中駅での待避が増えたこともあって時間短縮効果は相殺され、大阪駅 - 金沢駅・富山駅間の所要時間は米原駅経由の時代とほとんど変わらなかった。</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)[[11月26日]]:[[国鉄381系電車|381系電車]]による高速試験で日本の[[在来線]]の最高速度記録である179.5 km/hを記録<ref>{{Cite book|author=池田光雅|date=1993-08|title=鉄道総合年表 1972-93|publisher=中央書院|page=112|isbn=4-924420-82-4}}</ref>。これは現在も破られていない。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:新快速が線内各駅停車になり、近江舞子駅まで定期列車としての運転区間を延長。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道が承継{{R|sone 26}}。日本貨物鉄道が全線の第二種鉄道事業者となる{{R|sone 26}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[12月4日]]:小野駅開業{{R|日本鉄道旅行地図帳9号 湖西線}}。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月11日]]:新快速の近江今津駅への臨時延長運転がいったん廃止。京都寄りでは113系4両編成による普通列車が増え、近江今津駅 - 永原駅間で3往復増発。
* [[1991年]](平成3年)[[9月14日]]:北陸本線米原駅 - 長浜駅間直流電化に伴う車両運用変更により、永原駅 - 近江塩津駅間を跨ぐ普通列車が気動車から交直両用電車に変更{{R|sone 26}}。近江今津駅 - 近江塩津駅間を平均約10分短縮したほか、近江塩津駅構内配線変更により長浜方面との直通列車が運転開始。
* [[1994年]](平成6年)[[9月4日]]:叡山駅が比叡山坂本駅に改称{{R|日本鉄道旅行地図帳9号 湖西線}}。
* [[1996年]](平成8年)[[3月16日]]:新快速を再び京都駅 - 近江舞子駅間で快速運転に戻し、近江今津駅(1往復のみ永原駅)まで運転区間を延長。朝ラッシュ時に敦賀発近江今津行きの普通と接続する同駅始発大阪行き快速を1本新設し、こちらは新快速よりさらに停車駅を削減<ref group="注">当時の湖西線で唯一12両での運転を行うため、ホーム有効長が8両の新旭駅を通過し、新旭駅より利用者の少ない新快速停車駅の近江高島駅、北小松駅も通過としたが、緩急接続ができる安曇川駅は停車とした。なお近江今津駅 - 近江舞子駅間で安曇川駅のみ停車するのは、開業時に運行されていた快速・臨時新快速と同じ停車駅である。</ref>。そのため臨時延長運転以来長く続けられてきた比良駅と志賀駅が通常の新快速停車駅から外される。207系電車が湖西線に初めて乗り入れる(同年7月20日で廃止)。
* [[1997年]](平成9年)[[3月8日]]:夕方18時台の京都発永原行き普通1本が快速(停車駅は新快速と同じ)に変更され、大阪方面からの新快速と接続。
* [[1999年]](平成11年)[[2月26日]]:山科駅 - 小野駅の各駅が「[[Jスルーカード]]」の利用エリアになる。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月23日]]:和邇駅 - 近江舞子駅の各駅が「Jスルーカード」の利用エリアになる。雄琴駅(現在のおごと温泉駅)が快速の停車駅になる。
** [[12月2日]]:[[女性専用車両|女性専用車]]が導入される<ref name="jrw_20021007">[http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20021203004309/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html|date=2002年12月3日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月7日</ref>。
* [[2003年]](平成15年)
** 10月1日:コンコースの喫煙コーナーが廃止<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20031001173208/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html|date=2003年10月1日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
** [[11月1日]]:山科駅 - 近江舞子駅の各駅でICカード「ICOCA」導入。
* [[2004年]](平成16年)[[10月16日]]:朝の新快速1往復が永原駅まで運転区間を延長、これで永原駅発着の新快速は2往復となる。
* [[2006年]](平成18年)
** [[9月24日]]:永原駅 - 近江塩津駅間が交流電化から直流電化に変更{{R|sone 26}}。
** [[10月21日]]:新快速・快速が敦賀駅まで延長(1往復のみ近江今津発着)され湖西線全区間運転となる{{R|sone 26}}。北小松駅 - 近江塩津駅の各駅でICカード「ICOCA」が利用可能になる<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/060823e.html 北陸線・湖西線で ICOCAエリア が広がります] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061008090531/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/060823e.html|date=2006年10月8日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2006年8月23日</ref>。
** [[12月21日]]:[[滋賀電車内駅構内連続強姦事件]]が発生。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:西大津駅が大津京駅に、雄琴駅がおごと温泉駅に改称<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173462_799.html 「西大津駅」「雄琴駅」の駅名改称日決定について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071223145302/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173462_799.html|date=2007年12月23日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2007年12月20日</ref>。
* [[2009年]](平成21年)[[7月1日]]:山科駅 - 永原駅間の各駅でホーム上の喫煙コーナーが廃止されて全面禁煙化<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html 在来線特急列車などの全席禁煙化ならびに在来線ホームの禁煙化の拡大について]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090329182002/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html|date=2009年3月29日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年3月26日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[12月1日]]:組織改正により、[[西日本旅客鉄道京都支社|京都支社]]の管轄から近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101122112617/https://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html|date=2010年11月22日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[1月27日]]:永原駅構内で折返し列車が[[平成23年豪雪|積雪]]のため脱線<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/safety/action/report_railroad/pdf/houkoku_00.pdf 2011年度版 鉄道安全報告書]}} {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111101025201/http://www.westjr.co.jp/safety/action/report_railroad/pdf/houkoku_00.pdf|date=2011年11月1日}} - 西日本旅客鉄道 p.15</ref>。
** 3月12日:ダイヤ改正で新旭駅のホーム有効長が12両対応に延伸。同時に新快速が12両での運行開始。以前から12両で運行していた新旭駅・近江高島駅・北小松駅を通過の大阪方面行き快速が、敦賀行きと同様に近江舞子駅までの各駅に停車となる。
** [[3月16日]]:近江塩津駅構内でATS-Pが使用開始<ref name="jrw_20110309">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175239_799.html 湖西線(山科〜近江塩津)ATS-Pの使用開始について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110312085402/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175239_799.html|date=2011年3月12日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月9日</ref>。
** [[3月19日]]:北小松駅 - 永原駅間でATS-Pが使用開始<ref name="jrw_20110309"/>。
** [[3月23日]]:山科駅 - 北小松駅間でATS-Pが使用開始<ref name="jrw_20110309"/>。
** 4月18日:女性専用車が毎日、終日設定される<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110514210609/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html|date=2011年5月14日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** 7月:貸付期間経過に伴い、湖西線は鉄道・運輸機構からJR西日本に譲渡{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2015|p=62}}
** 7月20日:開業40周年を迎え、[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]牽引の「[[サロンカーなにわ]]」による記念列車を京都駅 - 敦賀駅間で運行<ref>{{Cite news|和書|title=湖西線開通40周年 祝福の記念列車 パチリ 滋賀|newspaper=[[産経新聞]]|date=2014-07-21|url=http://sankei.jp.msn.com/region/news/140721/shg14072102140005-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140720185725/http://sankei.jp.msn.com/region/news/140721/shg14072102140005-n1.htm|archivedate=2014-07-20}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:路線記号が本格導入開始<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-16|url=http://railf.jp/news/2015/03/16/153000.html |title=JR西日本で路線記号の本格使用が始まる|website=『鉄道ファン』 railf.jp鉄道ニュース|publisher=[[交友社]]|accessdate=2023-06-13}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)3月26日:ダイヤ改正に伴い、[[京阪神緩行線|緩行電車]]の直通が終了。
* [[2017年]](平成29年)10月23日:[[平成29年台風第21号]]の強風により比良駅 - 近江舞子駅間で架線柱9本が折損、翌24日は堅田駅 - 近江今津駅間で運休し、特急は一部運休の上、米原経由で運転。25日始発から運転再開<ref name="Asahi-np_20171023">{{Cite news |和書 | title = JR湖西線、電柱9本折れ運休 台風の影響か | newspaper = [[朝日新聞]] | publisher = 朝日新聞社 | date = 2017-10-23 | url = http://www.asahi.com/articles/ASKBR3DZ3KBRPTIL01G.html | accessdate = 2017-10-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171023032947/http://www.asahi.com/articles/ASKBR3DZ3KBRPTIL01G.html|archivedate=2017-10-23}}</ref><ref name="Asahi-np_20171024">{{Cite news |和書 | title = 電柱倒壊の湖西線なお運休 近畿の鉄道、台風の混乱続く | newspaper = 朝日新聞 | publisher = 朝日新聞社 | date = 2017-10-24 | url = http://www.asahi.com/articles/ASKBS2W3VKBSPTIL00F.html | accessdate = 2017-10-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171024040129/http://www.asahi.com/articles/ASKBS2W3VKBSPTIL00F.html |archivedate=2017-10-24}}</ref><ref name="NHK_20171025">{{Cite web|和書| title = JR湖西線 2日ぶりに運転再開 | work = NHK NEWS WEB | publisher = NHK | date = 2017-10-25 | url = http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20171025/5110091.html | accessdate = 2017-10-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171026054227/http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20171025/5110091.html |archivedate=2017-10-26}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:各駅に[[駅ナンバリング]]が導入され、使用を開始する。
* [[2019年]](平成31年)2月:山科駅 - 近江塩津駅間に[[運行管理システム (JR西日本)|列車運行管理システム]]を順次導入<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/business/material/pdf/list_signaling_system.pdf |format=PDF |title=JR西日本の信号システム一覧 |publisher=西日本旅客鉄道 |accessdate=2015-12-01}}</ref>。
* [[2023年]]([[令和]]5年)
** 3月18日:223系2500番台が運用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/451102/ |title=【JR西日本】223系2500番代が湖西線での運転開始 |date=2023-03-21 |website=鉄道ホビダス |work=鉄道投稿情報局 |access-date=2023-04-05 |publisher=ネコ・パブリッシング}}</ref>。
** 4月1日:113系・117系が運用終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/454375/ |title=【たくさんのメッセージに見送られて】草津線・湖西線の113系・117系が運用終了 |date=2023-04-03 |website=鉄道ホビダス |work=鉄道投稿情報局 |access-date=2023-04-05 |publisher=ネコ・パブリッシング}}</ref>。
== 運行形態 ==
=== 旅客列車 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%; float:right; margin:0 0 1em 1em; text-align:center;"
|+日中1時間あたりの湖西線の運転本数<br/>(2022年3月12日現在。山科駅 - 京都駅間の琵琶湖線の列車含む)
!種別\駅名!!…
!style="width:1em; line-height:1.2em;"|近江塩津!!…
!style="width:1em; line-height:1.2em;"|近江今津!!…
!style="width:1em; line-height:1.2em;"|近江舞子!!…
!style="width:1em;"|堅田!!…
!style="width:1em;"|山科!!…
!style="width:1em;"|京都!!…
|-
|特急
|style="text-align:right;"|北陸本線←||colspan="11" style="background-color:#ff8080;"|1-2本||→JR京都線
|-
|rowspan="2" |新快速
|style="text-align:right;"|北陸本線←||colspan="11" style="background-color:#cdf;"|1本||→JR京都線
|-
|colspan="9" style="text-align:right;"|琵琶湖線←||colspan="3" style="background-color:#cdf;"|3本||→JR京都線
|-
| rowspan="3" |普通
| colspan="5" | || colspan="7" style="background-color:#ccc" |2本||
|-
| colspan="7" | ||colspan="5" style="background-color:#ccc" |1本||
|-
| colspan="9" style="text-align:right;"|琵琶湖線←||colspan="3" style="background-color:#ccc" |4本||→JR京都線
|}
[[山科駅]]が路線としての起点であるが、全列車が東海道本線(琵琶湖線)経由で京都駅に乗り入れており、さらに特急・[[新快速]]を中心に大阪方面へ直通している。終点の近江塩津駅からも一部の列車が敦賀駅へ乗り入れている。事故・各種トラブルでダイヤが乱れた場合や大雪・強風などで乱れが見込まれる場合は、近江今津駅で運転を打ち切り、JR神戸線・JR京都線方面 - 近江今津駅間と近江今津駅 - [[敦賀駅]]間とで別の編成で運転することがある。
国鉄時代、途中で交流電化に変わる永原駅 - 近江塩津駅間の普通列車は1日3本ときわめて少ない本数であった。2006年10月に直流区間が敦賀駅まで延長されたことに伴い、永原駅からさらに近江塩津・敦賀方面に直通する列車の本数が増加した。
なお、琵琶湖線直通の列車は厳密には湖西線区間を一切走行しないが、山科駅 - 京都駅間では走行区間が重複する。また、琵琶湖線と分岐する山科駅から近江塩津駅へは琵琶湖線を経由する一部の新快速も乗り入れている。
==== 特急 ====
関西と北陸方面を結ぶ優等列車として、特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」が湖西線を経由しており、朝夕の一部列車が堅田駅・近江今津駅に停車する。この区間では[[e5489]]によりチケットレス特急券で普通車指定席を割安に利用することができる。[[2003年]][[10月1日]]から、近江今津駅・堅田駅 - 京都駅・[[新大阪駅]]・[[大阪駅]]間で利用可能で、通勤・通学定期券・回数券・昼間特割きっぷと併用して特急列車の普通車自由席に乗車できる「湖西通勤回数特急券」を発売していたが、2020年3月31日までに発売終了となった。
==== 新快速・快速 ====
{{See also|新快速#東海道本線・山陽本線・北陸本線・赤穂線・湖西線|京阪神快速}}
[[ファイル:KoseiLine-SpecialRapid.jpg|サムネイル|湖西線の新快速(近江中庄駅)]]
[[ファイル:JR近江舞子駅・新快速分割併合.jpg|thumb|160px|right|近江今津駅での新快速の分割・増結]]
新快速は日中1時間に1本運行されている。山科駅 - 近江舞子駅間では途中、大津京駅・比叡山坂本駅・堅田駅に停車し、近江舞子駅 - 近江塩津駅間は各駅に停車する。朝の上りと夕方下りの各1本は湖西線内は快速に種別変更され、快速はおごと温泉駅にも停車する。土曜・休日夕方の京都発敦賀行き快速1本を除き、大阪方面に直通する。普通との[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]は、日中以外の近江今津行き・敦賀行きは大津京駅で<ref group="注">毎日夕方の快速敦賀行きは堅田駅で実施。</ref>行い、京都・大阪方面は堅田駅で行われている。なお、日中は普通電車の本数削減に伴い近江今津方面行きの大津京駅での緩急接続はなく、京都・大阪方面に至っても堅田駅始発となっておりホームが変更されている。
1974年の湖西線開業時から日中に1時間に1本の新快速が大阪方面から堅田駅まで直通するようになった。1986年11月1日には近江舞子駅まで延長される一方で湖西線内は各駅停車となるが{{Sfn|寺本光照|2014|p=104}}、1996年3月16日には近江今津駅まで延長されるとともに湖西線内での通過運転が復活した{{Sfn|寺本光照|2014|p=127}}。1996年3月16日から朝に上り快速が、1997年3月8日から夕方に下り快速がそれぞれ1本設定された。
敦賀駅の4番のりばの[[有効長]]が4両分であるため、近江今津駅で列車の[[増解結|連結・切り離し]]が行われている(朝時間帯の敦賀行き1本は京都駅で切り離し)。そのため近江今津駅の2番のりばには[[日本の鉄道信号#誘導信号機|誘導信号機]]が設置された。その作業のため停車時間が長めに取られており、その間に特急「サンダーバード」の通過待ちを行う列車がある。2011年3月11日までは京都駅で切り離しを行う列車で湖西線は新快速、琵琶湖線では普通列車になる運用があった。
==== 普通 ====
[[ファイル:221系 湖西線.jpg|thumb|湖西線の普通列車]]
運行区間内のすべての駅に停車する。平日朝に大阪行き(高槻駅からは茨木駅・新大阪駅のみ停車の快速)が1本設定されているが、その他は京都駅発着である。
日中は1時間に京都駅を起点として堅田行きが1本、近江舞子行きが30分間隔で2本設定されており、山科駅 - 堅田駅間は1時間に計3本ある。朝晩には永原駅・近江塩津駅・敦賀駅を発着する列車があるほか、近江今津発米原行き、長浜発近江今津行きが各1本設定されている。
京都駅では3番のりばに発着する列車が多い。6 - 7番のりばに到着し、[[吹田総合車両所#京都支所|吹田総合車両所京都支所]]または[[引き上げ線]]へ回送される列車もある。
過去には4扉ロングシートの通勤形電車([[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]])で運行される[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]・[[福知山線|JR宝塚線]]の各駅停車([[京阪神緩行線]])の直通運転もあり、2015年3月14日ダイヤ改正時点では朝と平日夜に[[西明石駅]]発着、土曜・休日夜に[[新三田駅]]発の列車が設定されていた<ref>{{Cite journal|和書|date=2015-03|journal=JTB時刻表|publisher=JTBパブリッシング|pages=482-483}}</ref>。これらの列車には5号車に[[女性専用車両|女性専用車]]の設定があった{{R|jrw_20021007|jrw_20110304}}。2016年3月26日のダイヤ改正でこれらの列車は京都駅発着の普通となり、JR神戸線・JR京都線の各駅停車の直通運転はなくなっている<ref>{{Cite journal|和書|date=2016-04|journal=JTB時刻表|publisher=JTBパブリッシング|pages=474-491}}</ref>。
==== 列車番号 ====
普通列車の[[列車番号]]は、堅田駅・近江舞子駅発着の列車は2800番台、近江今津駅・永原駅・近江塩津駅・敦賀駅を発着する列車は1800番台として区別している。ただし、近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間を運行する列車は4800番台を与えることを基本としている。敦賀駅発着の新快速・快速は近江今津駅で列車番号が変わる。
近江今津駅を発着する北陸線方面の列車と新快速および京都駅から直通する普通との間で列車番号の奇数・偶数が逆転している<ref>{{Cite journal|和書|title=湖西線を行く通勤・近郊型電車のバラエティー|date=2012-02|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|publisher=[[交友社]]|page=65}}</ref>。
=== 臨時列車 ===
開業当初から琵琶湖や[[比良山地|比良山系]]へのレジャー客輸送に[[臨時列車]]が設定されている。初期の頃は堅田駅までの定期新快速を近江今津駅まで延長するものや、朝夕の[[網干駅]] - 大阪駅間の快速を湖西線に延長するものであった。臨時列車では夏冬に運用がない修学旅行用車([[国鉄155系・159系電車|155系]])を利用したものもあり、宮原電車区(現在の[[網干総合車両所宮原支所]])に所属する車両はこの時に耐寒耐雪工事を受けている。
また、新快速の敦賀駅直通にともない定期運用で4両編成化された列車の多客時の救済列車が2006年秋以降定番化しており、特にマキノ駅を最寄りとする[[海津大崎]]の花見客輸送では敦賀行きを分割する編成が本編成に先行して救済する臨時列車として運転されているが、2015年度以降は設定されていない。また観光シーズンには琵琶湖一周列車が団体貸切の形で運転されている。
==== スキーびわこホリデー号 ====
沿線には京阪神から[[箱館山スキー場]]・[[びわ湖バレイ]]・国境スキー場など京阪神地区から日帰りで行けるスキー場があり、姫路駅 - 永原駅間、[[和歌山駅]] - 近江今津駅間で快速「スキーびわこホリデー号」を運転し、現在快速が停車していない志賀駅・比良駅にも停車していた<ref>[http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n981016k.html 平成10年度【 冬 】の臨時列車の運転について 京阪神近郊のお出かけに便利な列車やイベントに合わせた列車を運転します。] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/19991011103032/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n981016k.html|date=1999年10月11日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1998年10月6日</ref>。
==== 湖水浴近江舞子号 ====
1985年頃の夏には[[近江舞子浜]]への臨時列車として、当時[[日根野電車区]]に配置されていた[[国鉄485系電車|485系]]電車を使用して大阪駅 - 近江舞子駅間に運転されていた。
==== 湖西レジャー号 ====
定期列車の増発が進み臨時列車の運転は減っており、土休日ダイヤの新快速で朝の近江今津・敦賀方面行きの4本と、午後の敦賀駅からの4本を志賀駅に臨時停車する「湖西レジャー号」と呼んで区別していたが、2015年度以降は設定されていない。1997年春は比良駅に臨時停車する新快速を「湖西レジャー号」としていた。また、2002年頃は志賀駅と比良駅の双方に臨時停車する新快速を「湖西レジャー号」としていた。
==== 大晦日終夜運転 ====
かつては、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて、JR京都線京都駅 - 山科駅 - 堅田駅間で普通のみ約60分間隔で[[終夜運転]]が実施されていたことがあった<ref>[http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n001016d.html −平成12年度【 冬 】の臨時列車の運転について−(別紙詳細)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20010303123917/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n001016d.html|date=2001年3月3日}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2000年10月16日</ref>が、2000年代半ば頃には既に取り止められ、代わりに終電後に京都発堅田行き臨時列車を1本運転していたが、のちにそれも廃止<!--2008年度限り?-->されている。
=== 貨物列車 ===
[[ファイル:近江高島-北小松間を行く貨物列車.JPG|thumb|近江高島-北小松間を行く[[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形]]電気機関車牽引の貨物列車]]
貨物列車は、北陸方面に8本(このうち、休日運休が1本、日曜日運休が2本)と、京都方面に8本(このうち、休日運休が1本、日曜日運休が1本)運転されており、すべて[[コンテナ車]]で編成されている<ref>『貨物時刻表』2014 鉄道貨物協会</ref>。湖西線区間には貨物の積み降ろしを扱う駅はないが、一部列車が旅客列車の待避のため一部駅に停車する。
{{-}}
== 使用車両 ==
; 特急列車
: [[電車]]
:* [[JR西日本681系電車|681系]]・[[JR西日本683系電車|683系]] - [[特別急行列車|特急]]「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」
:
; 普通列車(新快速・快速・普通)
: すべて電車で運転されており、所属や車両性能の違いもあって運用上は221系と223系6000番台・2500番台のグループ、223系1000番台・2000番台と225系0番台・100番台のグループ、521系のみのグループに大別される。
:* [[JR西日本221系電車|221系]]
:** 221系登場と同時に網干電車区(現在の[[網干総合車両所]])に配置された車両により新快速での湖西線運用が始まり、新快速が223系に置き換えられてからは普通列車の一部にも使われていたが、2006年10月改正で撤退し、しばらく221系の湖西線運用はなかった。その後2008年3月15日より新たに[[吹田総合車両所]][[京都総合運転所|京都支所]]所属車両により湖西線での運用が復活した。また2015年3月14日より117系6両編成での運用を置き換えるかたちで網干総合車両所所属の6両編成の運用が復活した。2023年3月現在では、主に京都支所所属の4両・6両編成または4両編成を2編成つないだ8両編成が、山科側から永原駅までの区間で運用されている。2020年頃までは網干総合車両所所属の8両貫通編成も同年時点で平日朝に上り普通1本に限って運用されていたが、同所の225系100番代3次車増備により置き換えられた。223系6000番台および2500番台と共通運用で、混結編成も見られる。
:* [[JR西日本223系電車|223系]]
:** 1000番台・2000番台
:*** 網干総合車両所所属の車両が湖西線内の快速・新快速で原則8両+4両の12両編成(一部は4両編成または8両編成)で全列車に使用されているほか、一部の線内普通列車でも4両編成または8両編成で全区間で運用されている(ただし8両編成で運転されるのは山科側から永原駅までで、近江塩津駅・敦賀駅に乗り入れる列車は4両編成のみ)。225系0番台および100番台と共通運用で、混結編成も見られる。なお2000番台には6両編成も存在するが湖西線では運用されていない。
:** 2500番台・6000番台
:*** いずれも吹田総合車両所京都支所所属で、6000番台は網干総合車両所(2000番台から改番)や同宮原支所から転属した4両・6両編成が2021年から、2500番台は吹田総合車両所日根野支所から転属した4両編成が2023年から山科側から永原駅までの普通列車として運用されている。座席配置は6000番台が2列+2列、2500番台が2列+1列と異なっているが、両番台とも運用されている4両編成は座席配置による区別なく共通運用されており、当該列車では同一列車番号でも日によって座席配置が異なるということが起こる。221系とも共通運用で、いずれも車両性能は221系と揃えられている。一部は4両編成を2編成繋いだ8両編成で運転されており、6000番台・2500番台・221系のうち2編成による混結編成も見られる。
:* [[JR西日本225系電車|225系]](0番台・100番台)
:** 網干総合車両所所属の223系1000番台・2000番台と同様、湖西線内の快速・新快速で原則8両+4両の12両編成(一部は4両編成または8両編成)で全列車に使用されているほか、一部の線内普通列車でも4両編成または8両編成で全区間で運用されている(ただし8両編成で運転されるのは山科側から永原駅までで、近江塩津駅・敦賀駅に乗り入れる列車は4両編成のみ)。223系1000番台および2000番台と共通運用で、混結編成も見られる。
:* [[JR西日本521系電車|521系]]
:** 北陸本線・湖西線の敦賀駅までの直流化の際に投入された形式。近江今津駅 - 近江塩津駅・敦賀駅間の列車に2両編成で使用されている。近江塩津駅・敦賀駅に乗り入れる普通列車は、223系・225系とこの車両のみで運転されている。ATS-Pを搭載する初期に製造された1次車E編成の5編成のみが湖西線で運用される。
:
; 貨物列車
: [[電気機関車]]
:* [[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形]]
<gallery>
ファイル:リニューアル工事施工車(非貫通型).jpg|683系
ファイル:Series221-K17.jpg|221系
ファイル:223-R51.jpg|223系2500番台
ファイル:225-I9.jpg|225系
ファイル:JRF EF510-1.JPG|EF510形電気機関車
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
; 特急・急行列車
: 電車
:* [[国鉄485系電車|485系]] - 特急「[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]」として2011年3月11日まで、ほかにも2001年に廃止された特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」(大阪駅 - 青森駅間)などに使用された。
:* [[国鉄583系電車|583系]] - 特急「雷鳥」や臨時急行「[[日本海 (列車)|あおもり]]」、急行「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」で使用されていた。
:* [[国鉄457系電車|471系・475系]] - 当線を経由した急行「[[サンダーバード (列車)|立山]]」で使用。
: [[客車]]
:* [[国鉄24系客車|24系]] - [[寝台列車|寝台特急]]「[[トワイライトエクスプレス]]」「[[日本海 (列車)|日本海]]」「[[きたぐに (列車)#つるぎ|つるぎ]]」
: 電気機関車
:* [[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]] - 「トワイライトエクスプレス」「日本海」「つるぎ」
:* [[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]] - 団体臨時列車「特別なトワイライトエクスプレス」
:
; 普通列車
: [[気動車]] - 交直セクションをまたぐ近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間では、湖西線開業時から1991年まで敦賀第一機関区(JR化後敦賀運転所・現在の[[敦賀地域鉄道部]])に配置された気動車が北陸線敦賀駅 - 米原駅 - 彦根駅間の列車と共通運用で使用されていた。
:* [[国鉄キハ20系気動車|キハ20]]
:* [[国鉄キハ55系気動車|キハ26]]
:* [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ48]]
: 電車
:* [[国鉄153系電車|153系]]
:** 117系に置き換えられるまで新快速として使用されていた。
:* [[国鉄419系・715系電車|419系]]
:* [[国鉄457系電車|475系]]
:** 1991年の長浜駅までの直流化に合わせ近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間の列車も電車化され、419系や475系が使用されていたが、2006年10月21日の改正以後これらの定期運用はなくなっている。
:* [[JR西日本125系電車|125系]]
:** 敦賀駅までの直流化に合わせて増備され、近江今津駅 - 敦賀駅間で使用されたが、2009年3月改正からは湖西線に乗り入れる運用はない。
:* [[国鉄201系電車|201系]]
:** JR京都線・神戸線・宝塚線に直通する普通([[京阪神緩行線]])で運用。321系電車に置き換えられるまで使用されていた。
:* [[国鉄205系電車|205系]]
:** 京阪神緩行線で運用。JR京都線から堅田駅までの乗り入れのみの運用であった。
:*[[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]]
:** 京阪神緩行線で現在も運用している車両で、[[2016年]]3月25日まで湖西線に乗り入れていた。207系は[[2004年]][[10月16日]]改正で近江今津駅で滞泊する運用ができたが、2006年3月18日改正で廃止された。運用見直しにより2015年3月14日改正時点では、西明石(土休日は新三田)発近江舞子行きの1本と、堅田発西明石行きの1本の運用となっていた。<!-- 240C/1220B→2882M/2882M と 2801M/2805M→131C/119B -->
:* [[国鉄113系電車|113系]]
:** 湖西線開業時に半自動扉、前面タイフォンへのシャッター設置などの寒地対策をした113系700番台が登場した。以来、のちに草津線電化用に登場した2700番台ともに湖西・草津線用として湖西線電車の主力となっていた。6両貫通編成が在籍していた時期もあったが、後年は4両編成に揃えられ、4両編成または2編成つないだ8両編成で山科側から永原駅までの区間で運用されていた。また、他系列車両に合わせて先頭貫通扉・貫通幌の使用は中止していた。転属投入された223系6000番台や2500番台に置き換えられ、2023年4月1日に運用終了した。
:* [[国鉄117系電車|117系]]
:** 新快速としての登場時から湖西線で運用され、新快速が221系に置き換えられてからは普通列車として運用されていた。半自動扉などの寒地対策<ref group="注">ただし113系700番台・2700番台とは異なり、前面タイフォンのシャッターは設置されていない。</ref>は当初から湖西線での運用を考慮したものである。大半は一部の座席をロングシートに改造した旧福知山線車であり、原型車および100番台を組み込んだ編成はわずかとなっていた。8両単独編成は2010年3月12日限りで定期運用が廃止され、その後は点検等で6両編成が不足した場合に臨時で運用入りしていた。2022年5月31日付で8両編成のT1編成が廃車となり、以後は6両編成のみの運用となっていたが、転属投入された223系6000番台や2500番台または221系に置き換えられ、2023年4月1日を最後に運用を終了した。
<gallery>
JRW Kiha 48 1004 at Ōmi-Imazu Station 19870806.jpg|近江今津-近江塩津間を結んでいたキハ48(1987年)
JRW series113 Kosei.jpg|113系
Series117 Kosei-line.jpg|117系
</gallery>
== 沿線概況 ==
{{湖西線路線図}}
関西と北陸の短絡という目的から[[高速化 (鉄道)#高速新線|高速走行を狙う路線]]とされたため、ほとんどの区間が[[トンネル]]や[[高架橋|高架線]]となっており、湖西線内に[[踏切]]は設置されていない。[[園城寺|三井寺]]や[[白鬚神社]]などでは境内をトンネルが通過することによる土地取得などを巡って補償騒動が起きた{{sfn|国鉄湖西線建設促進期成同盟会|1975|p=18}}ほか、地元からの反対、[[江若鉄道]](前述)との関係で路線決定に難航した部分もあるが、最小[[線形 (路線)#平面線形|曲率半径]]は原則1,400 mとし([[大津京駅]]付近の半径800 m、[[近江高島駅]]付近の半径1,000 mなど例外が数か所ある)、[[線形 (路線)#勾配|勾配]]も19 [[パーミル|‰]]以下と在来線としては高規格で建設されている。
大津京・おごと温泉・堅田・近江舞子・安曇川・近江今津・永原の7駅に待避設備があり<ref group="注">堅田・近江舞子・近江今津・永原の待避線は内側2線、大津京・おごと温泉・安曇川の待避線は外側2線。</ref>、このうち堅田・近江舞子・近江今津・永原には折り返し設備が設けられている{{sfn|日本鉄道建設公団大阪支社|1975|p=262}}。このほか、和邇駅にも渡り線があり、本線上での折返しが可能となっている<ref>{{Cite news |和書 |title=【湖国の鉄道さんぽ】「渡り線」設置で折り返し実現 そのメリットは?|newspaper=[[産経新聞|産経WEST]]|date=2019-10-17|url=https://www.sankei.com/article/20191017-HCQDBETLDJINZE37F5ORKW3CIQ/|accessdate=2023-06-14}}</ref>。
高架構造で[[スラブ軌道]]を多用したため、保線も大型機械を導入した。その大型機械を使う保守間合いを確保するため、深夜に通過する貨物列車を単線で使用するための設備([[単線並列]])を設けた{{sfn|日本鉄道建設公団大阪支社|1975|p=263}}。[[おごと温泉駅]]を除く待避可能駅と[[マキノ駅]]には[[分岐器#形状による分類|シーサス]]を、上下線との両方向で使用できる信号設備(複線利用では閉塞区間があるが、単線で使用時は1閉塞扱い)を配置した{{sfn|日本鉄道建設公団大阪支社|1975|p=263}}。しかし、その後貨物列車の減少などにより設備を維持する必要性が薄れたため、2004年に単線用信号設備の使用が停止されている。
高速運転に最適な路線であるため、[[日本国有鉄道]](国鉄)時代から、湖西線を利用して[[国鉄381系電車|381系]]・[[JR西日本221系電車|221系]]・[[JR西日本681系電車|681系]]や[[四国旅客鉄道]](JR四国)の[[JR四国8000系電車|8000系]]電車などが速度向上試験に取り組んだ{{R|sone 26}}。また、JR西日本で新型車両を投入する際は投入先に関係なく湖西線で試運転を行うのが通例となっている<ref group="注">実際に、湖西線での運用が当初からない[[JR西日本227系電車|227系]]・[[JR西日本271系電車|271系]]・[[JR西日本281系電車|281系]]・[[JR西日本283系電車|283系]]・[[JR西日本323系電車|323系]]などが新製直後や工場出場後に試運転を行っている。</ref>。
現在は特急「サンダーバード」と姫路・播州赤穂方面まで直通運転する新快速が最高速度130 km/hで走行する。また、ブレーキ性能上120 km/hを最高速度とする[[国鉄485系電車|485系]]電車で運転されていた「[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]」も、踏切のない湖西線内では最高速度130 km/h運転が特別に認められた{{R|sone 26}}。ただしこの特例が認可されたのはJR発足後であり、[[1989年]][[3月11日]]のダイヤ改正により登場した「[[サンダーバード (列車)|スーパー雷鳥]]」を皮切りに順次最高速度の引き上げが行われた{{R|sone 26}}。「サンダーバード」で京都駅 - 敦賀駅間無停車の場合の最速所要時間は、下りが50分、上りが53分程度である。
<!--JR西日本発足後、最高速度160 km/hで走行できる[[JR西日本681系電車|681系]]電車が製造されたが、[[鉄道信号機|信号機]]改良([[北越急行ほくほく線]]のように6灯式高速信号機の設置)などのコストがかさむこと、足の遅い普通列車や[[電気機関車]]が牽引する貨物列車や客車列車が存在すること、また、実際に160km/hで走行したとしても所要時間の短縮が5 - 10分程度にしかならないことなどにより、費用対効果が薄いと判断され、湖西線内では160km/hでの運転は見送られている。-->
=== 山科駅 - 堅田駅間 ===
山科駅を出ると、東海道本線と分岐し、[[長等山トンネル]](長さ3,075 m)に入る<ref name="sone 24">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 24頁]]</ref>。このトンネルは、山科寄りの坑口は単線3本の変形トンネルであるが、大津京寄りが複線断面である。山科駅に停車する下り列車は18 ‰の勾配で東海道本線を乗り越すが、特急列車や貨物列車など山科駅を通過する下り列車は10 [[パーミル|‰]]の緩勾配用に設けられた分岐線を通り、トンネル内で合流している。長等山トンネルを出ると[[京阪石山坂本線]]を乗り越えて、すぐに2面4線の[[大津京駅]]に着く。ここでは京阪の[[京阪大津京駅]]への乗り換えができる。
大津京駅から北は[[活断層]](琵琶湖西岸断層帯)が活動した結果できた細長い平地に沿って走る。そのため、西に比叡・比良の山脈を見上げ、東はほぼ全線に渡って琵琶湖の湖面を眺めることができる<ref name="sone 24"/>。線路の周囲は静かな田園地帯ではあるが、堅田までは周辺に住宅や量販店も多い。途中、おごと温泉駅付近は江若鉄道の旧線路と大きく離れ、山側をほぼ直線で抜けていく。そのため、おごと温泉駅の前後に5つの比較的短い[[第三雄琴トンネル|第一 - 第五雄琴トンネル]]がある。
大津京駅を過ぎ、1面2線の[[唐崎駅]]へ。唐崎駅を出ると左手に[[国道161号]][[琵琶湖西縦貫道路|湖西道路]]が並行して走り、[[新快速]]停車駅の[[比叡山坂本駅]]に着く。比叡山坂本駅を出て次に到着する[[おごと温泉駅]]は両端をトンネルに挟まれた構造となっている。おごと温泉駅からトンネルを2本抜けて市街地が近づくと[[堅田駅]]に到着する。堅田駅は特急の一部や新快速が停車する主要駅で、この駅を始発・終着とする普通も多く、国鉄時代は新快速もこの駅の発着であった。
=== 堅田駅 - 近江今津駅間 ===
堅田駅から先は湖岸に沿って線路が走り、天気がよい日には対岸の山々も見える。次の[[小野駅 (滋賀県)|小野駅]]は[[びわこローズタウン]]への最寄駅として、[[京阪電気鉄道]]の請願駅として京阪の出資により開業した。続く[[和邇駅]]・[[蓬萊駅]]・[[志賀駅]]・[[比良駅 (滋賀県)|比良駅]]はいずれも普通しか停車しない(ただし、志賀駅は新快速が臨時停車することもある)。近江舞子駅は2面4線で、かつては新快速の終着駅であった。普通列車の大半はこの駅で折り返す。近江塩津方面に向かう新快速はこの駅から各駅に停まる。また、[[北小松駅]]を過ぎると比較的短い2つのトンネル(第一・第二北小松トンネル)があり、[[高島市]]に入り、その先に路線決定で難航した[[白鬚神社]]の北側を短い2つのトンネル(第一・第二白鬚トンネル)、そして[[高島トンネル]](長さ1,498 m)の合計5つのトンネルを抜けると[[近江高島駅]]に到着する。その先は湖岸から離れ、平地の中を走り、2面4線のホームを持つ[[安曇川駅]]に到着する。[[安曇川]]を渡り、高島市役所への最寄駅・[[新旭駅]]に着き、再び琵琶湖に近づくと、[[近江今津駅]]に着く。近江今津駅は留置線を持つ湖西線の拠点駅である<ref name="sone 25">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 25頁]]</ref>。ここで大半の普通が京都方面に折り返すほか、敦賀駅および近江塩津駅発着の新快速の[[増解結]]作業が行われている。
湖西地域は北陸から続く多雪地帯のため、[[スプリンクラー]]や雪落とし溝などの設備を持っている。近江今津駅には[[電留線]]設備があり車両の[[夜間滞泊]]が行われているが、留置時に[[集電装置|パンタグラフ]]が位置する場所には屋根を設け、降雪から車両を保護している。
一方で、[[比良おろし]]と呼ばれる強風により、貨物列車が停車中に横転した例があるなど、速度規制や運転見合わせとなることも多く「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」など湖西線を通過する特急が[[米原駅]]([[東海道本線]]・[[北陸本線]])経由で迂回運転されることもある<ref>[http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/33504.html JR北陸線、特急計4本に遅れ 上下線、強風影響で迂回]{{リンク切れ|date=2023年6月}} - [[福井新聞]] 2010年3月10日</ref>。2006年度では運転見合わせは計28日実施された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173340_799.html |title=10月定例社長会見 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2007-10-24 |accessdate=2015-07-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071026031011/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173340_799.html |archivedate=2007-10-26 }}</ref>。これを受けて、JR西日本は、[[比良駅 (滋賀県)|比良駅]] - [[近江舞子駅]]間と<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173337_799.html |title=湖西線 比良・近江舞子間における防風柵の設置(京阪神エリア) |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2007-10-24 |accessdate=2015-07-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071026050009/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173337_799.html |archivedate=2007-10-26 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2008-11-22|url=http://www.tetsudo.com/news/236/%E6%B9%96%E8%A5%BF%E7%B7%9A%E3%81%A7%E9%98%B2%E9%A2%A8%E6%9F%B5%E3%81%AE%E4%BD%BF%E7%94%A8%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%8012%E6%9C%88%E3%81%8B%E3%82%89/ |title=湖西線で防風柵の使用開始 12月から|website=鉄道コム|publisher=朝日インタラクティブ|accessdate=2023-06-14}}</ref>、近江舞子駅 - 北小松駅間の山側(西側)に防風柵を設置し<ref>[http://www.westjr.co.jp/fan/blog/article/2012/02/page_1488.html 強風から列車の安全を守る]{{リンク切れ|date=2023年6月}} - 西日本旅客鉄道 2012年2月24日</ref>、従来秒速25メートルで運転規制を行うようにしていたのを30メートルまで引き上げ、年間の運転見合わせ時間が設置前の26%になった。防風柵は更なる設置が進められている<ref name="westjr20140917">{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/09/page_6170.html |title=9月定例社長会見 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2014-09-17}}</ref>。また防風柵工事完成に合わせて、近江舞子駅には[[風力発電]]装置が備えられ、駅で使用する電力の一部を賄っている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008041000028 運転見合わせ6割減へ JR湖西線に防風壁 工事安全を祈願]{{リンク切れ|date=2023年6月}} - [[京都新聞]] 2007年4月10日</ref>。
=== 近江今津 - 近江塩津駅間 ===
近江今津駅を離れると一転して市街地から外れ、さらに水田地帯の中を走って行くが、[[近江中庄駅]]は無人駅で駅周辺は閑散としている。この駅はほぼ一直線上にあるため、ホームから双方向への見通しも非常に良い。次のマキノ駅は片仮名の駅として国鉄時代から有名で<ref name="sone 25"/>、かつては町名も片仮名になっていた。2005年に高島市に合併されて町名は消えてしまったが、駅名の方は片仮名書きが健在である。マキノ駅を過ぎると山々が近づき、[[峰山トンネル (湖西線)|峰山トンネル]](長さ3,910 m)を通過、[[長浜市]]に入り、2面4線の永原駅に着く。かつては直流電化区間の終着駅として新快速の発着もあった。現在でも永原駅で折り返す普通はまだ残っており、6両または8両編成の普通列車はこの駅までしか入線しない。駅前には長浜市役所西浅井支所がある。さらに永原を過ぎた先で[[国道303号]]をオーバークロスして、[[城山トンネル (湖西線)|城山トンネル]](長さ2,318 m)を抜けていく。2006年9月までこのトンネルを抜けた北側に交直セクションがあった。その後約20 mの高さの高架橋で水田地帯を越え、右手に北陸本線が寄り添い、[[国道8号]]をオーバークロスして近江塩津駅に着く。ただし同駅は通過列車主体の湖西線下り本線側には大雪時の非常用ホームしかなく、停車列車は北陸線下りホームに転線して停車する。
== 乗車制度の特例 ==
山科駅 - 近江塩津駅間をまたぐ場合、米原駅経由の乗車であっても湖西線経由の営業キロで普通運賃・料金を計算する[[経路特定区間]]の特例がある。しかし定期券の場合はそれが適用されず、実際に乗車する経路の運賃が適用されるため、米原駅経由より割安な湖西線経由の定期券では米原駅経由で利用できない。
2012年3月まで定期列車として運行されていた急行「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」号は米原駅経由で運行されていたが、この区間をまたぐ場合は湖西線経由で料金を計算していた。前記の通り定期券には適用されなかったため、定期券と急行券を併用する場合<ref group="注">JR西日本では、特急・急行列車の普通車自由席は所定の料金券を購入することで、定期券での利用を認めている。</ref>は、定期券が米原経由、急行券が湖西線経由と金額の計算経路が異なっていた。
== 直流化工事 ==
{{See also|北陸本線#一部区間の直流化|近江塩津駅#直流化工事による輸送改善|敦賀駅#北陸本線 - 湖西線の直流化}}
湖西線建設当時、山科駅は直流で、近江塩津駅は交流で、それぞれ電化されていたため、近江塩津駅手前の永原駅との間に交直セクションが設けられた。これにより、大阪・京都方面から湖西線を通して北陸方面に直通できる車両は、[[気動車]]や[[ディーゼル機関車]]などの内燃動車や動力を持たない客車・貨車を除けば車上で交流と直流の切り替えができる[[国鉄485系電車|485系]]などの[[交直流電車]]と交直流両用の[[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]電気機関車に限られた。山科駅 - 永原駅間は直流電化で建設されたため同区間の普通列車は直流電車で運転されていたが、需要が多く見込めない湖西線と北陸本線との直通列車には特急列車を除いて高価な交直流電車は投入されず、近江今津駅 - 近江塩津駅 - 敦賀駅間の普通列車は電化区間でありながら[[1991年]]9月13日まで気動車で運転されていた。
一方、北陸本線も交流電化のためローカル列車の本数も少なく、[[滋賀県#湖北|湖北地区]]と大津や京阪神間の移動には米原駅での乗り換えが必要であった。滋賀県や地元自治体は国鉄時代の1986年に沿線市町・商工会で「北陸本線直流化促進期成同盟会」を設立し、北陸線の利便性向上には電化方式の変更が必要と国鉄・JRへの要望活動を進め、さらに1990年5月には、湖西の市町も加わり「琵琶湖環状線促進期成同盟会」を新たに発足させ、JRへの働きかけを進めた。その結果、翌年北陸線米原駅 - 長浜駅間の直流化工事が行われた。もともと実際の交直セクションは同線の[[坂田駅]] - [[田村駅]]間であったので、これを長浜駅 - [[虎姫駅]]間に移設したものである。工事費約7億円は県や[[長浜市]]など地元自治体の負担でまかなった。工事完成による1991年9月14日のダイヤ改正以降、京阪神からの新快速が長浜駅まで直通したことで、長浜市では観光客の増加と人口増加という経済効果をもたらした。新快速の乗り入れで長浜市が京阪神の通勤圏となった一方、[[黒壁スクエア]]など地元の観光資源活性化などが反響を呼んだ結果多くの観光客が長浜市へと足を運ぶようになり、街づくりの起爆剤としての直流化工事は注目を浴びた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/soukou/ppg/ppg9/shigaken.pdf|title=活力ある地域社会の構築に向けた観光と交通に係る方策|accessdate=2020-09-26|publisher=[[国土交通省]]|format=pdf|year=2002|month=7}}</ref>。
その成功を見て、同様に交流電化で列車本数が少なく米原駅以西への直通がなかった湖北地区でも「新快速の直通を」という機運が高まり、湖北地区の各自治体も動き出した。湖西と湖北地区の相互交流もこの交直セクションが障害となり直通列車が少なく不便であったため、これらを解消するためにも直流化工事は地元の重要課題であった。1995年からは基金として毎年工事費用を各自治体が積み立てることを始め、「琵琶湖環状線構想」を前進するよう駅周辺整備や観光施設の案内整備に努めた。一方、長浜市の成功事例を参考に、敦賀市も新快速の直通による観光客の増加を目論見、[[福井県]]とともに京阪神からの直通列車を増発するためには直流化が必要、と働きかけるようになった。
そこで鉄道整備の一環として、
# 新快速を湖北に直通させる
# 湖西湖北の列車利用による移動をより便利にする
# 敦賀へ京阪神から直通の新快速を走らせる
という狙いで、湖西線と北陸線の直流化工事が行われた。工事は地元の請願という形で、滋賀県側(県と地元自治体)と福井県側(県と[[敦賀市]])がほぼ折半の形で工事費を負担した(工事費は161億円で、うち滋賀県側が75億円・福井県側が68億円の設備費用分を負担し<ref name=":0" group="注">地元負担分には、[[JR西日本125系電車|125系電車]]6両・[[JR西日本521系電車|521系電車]]10両分の新製費用も含む。JR西日本の負担は[[JR西日本223系電車|223系電車]]14両分のみ。</ref>、JR西日本が車両新製費として18億円を負担している<ref name=":0" group="注" />)<ref>{{Cite web|和書|title=北陸本線・湖西線輸送改善(直流化)計画の概要|滋賀県ホームページ|url=https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kendoseibi/koutsu/11992.html|website=滋賀県ホームページ|accessdate=2020-09-26|language=ja}}</ref>。
直流化工事は、長浜駅 - 虎姫駅間と永原駅 - 近江塩津駅間にあった[[デッドセクション]]を敦賀駅 - [[南今庄駅]]間(厳密には敦賀駅 - [[北陸トンネル]]敦賀口間)に移設し、北陸線長浜駅 - 敦賀駅間、湖西線永原駅 - 近江塩津駅間を直流き電とするもので、2006年9月24日に完成した。
これにより、同年10月21日にダイヤ改正が行われ、日中を中心に1日25本(湖西線経由17本、琵琶湖線・北陸本線経由8本)が近江今津駅・長浜駅から延長される形で敦賀駅まで、1日18本が近江塩津駅(琵琶湖線・北陸本線経由)まで乗り入れるようになった。近江塩津駅では、日中に湖西線方面からの下り敦賀行きから当駅始発の上り米原方面行きに、また米原方面からの当駅止まりから湖西線上り列車に[[対面乗り換え|同一ホームで乗り換え]]ができるようになり、湖西線と北陸本線の接続が改善された。但し、元からホーム長の長い敦賀駅を除いて近江塩津駅など直流化された駅ではホーム延伸や4両を超える長さでの嵩上げ工事は行われなかったため、6両や8両などの普通列車は現在でも永原駅止まりで運転されている。
なお、北陸本線に乗り入れする新快速の標準的な所要時間は、湖西線経由で敦賀駅から京都駅までが約95分、大阪駅までで約125分、三ノ宮駅までで約145分、姫路駅までで約185 - 190分である。また米原駅経由はさらに15分ほど所要時間が延びる。もともと湖西地区と敦賀市の流動はほとんどなく、湖北・[[滋賀県#湖東|湖東]]地区と敦賀市の流動はそれなりにあるため、敦賀駅発着の新快速は、昼間は湖西線経由とし、それ以外は米原駅経由になっている。そのため朝夕時間帯には接続時分や湖西線内での所要時間などにより、米原駅経由のほうが早くなる場合もある。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])・日本貨物鉄道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):74.1 km<ref name="sone 15"/>
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* [[軌間]]:1,067 mm
* 駅数:21(起終点駅含む)<ref name="sone 15"/>
** 湖西線所属駅に限定した場合、東海道本線所属の山科駅と北陸本線所属の近江塩津駅が除外され<ref>{{Cite book|和書|date=1998-10|title=停車場変遷大事典|volume-title=国鉄・JR編|publisher=[[JTB]]|pages={{要ページ番号|date=2023年6月}}|isbn=978-4-533-02980-6}}。</ref>、19駅になる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/|title=鉄道事業ダイジェスト|accessdate=2020-09-26|publisher=[[西日本旅客鉄道]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120715002853/http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/|archivedate=2012-07-15}}</ref>。
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* [[自動列車保安装置|保安装置]]:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P<ref name="kyoten" />)
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* 最高速度:130 km/h
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[ICOCA]]エリア:全線(全線 [[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
=== 駅一覧 ===
便宜上、山科側の全列車が乗り入れる東海道本線京都駅 - 山科駅間と、近江塩津側の列車が乗り入れる北陸本線近江塩津駅 - 敦賀駅間も合わせて記載する。
* {{JR特定都区市内|京}}:[[特定都区市内]]制度における「京都市内」エリアの駅
* <nowiki>#</nowiki>:待避可能駅
* 停車駅
** 普通…すべての駅に停車
** 快速・新快速…●印の駅は停車、|印の駅は通過、※印の駅は「湖西レジャー号」のみ臨時停車
*** 平日のみ運転の近江舞子発の快速は、京都駅までは普通として運転
** 特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」…列車記事を参照。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>{{Cite press release|和書|title=近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!|publisher=西日本旅客鉄道|date=2016-07-20|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html|accessdate=2023-06-14}}</ref>
{| class="wikitable" rules="all"
|- style="border-bottom:solid 3px #00acd1"
!style="width:1em;"|{{縦書き|路線名|height=4em}}
!style="width:6em;"|駅ナンバー<br><ref>{{Cite web|和書|date=2016-07-20|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf|format=PDF|title=「駅ナンバー」一覧表|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2023-06-14}}</ref>
!style="width:7em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br>営業キロ
!style="width:2.8em;"|山科<br>{{Smaller|からの}}<br>営業キロ
!style="width:1em; background:#feb;"|{{縦書き|快速|height=3em}}
!style="width:1em; background:#cdf;"|{{縦書き|新快速|height=4em}}
!接続路線
!colspan="2" style=""|所在地
|-
|rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|東海道本線|height=6em}}
!JR-B31
|[[京都駅]] {{JR特定都区市内|京}}#
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|5.5
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|[[西日本旅客鉄道]]:[[File:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[東海道本線]]([[JR京都線]] :JR-A31)・[[File:JRW kinki-E.svg|17px|E]] [[山陰本線]]([[嵯峨野線]] :JR-E01)・[[File:JRW kinki-D.svg|17px|D]] [[奈良線]] (JR-D01)<br>[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]<br>[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]] (B01)<br>[[京都市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|15px|■]] [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] (K11)
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[京都府]][[京都市]]|height=7em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[下京区]]
|-style="height:3em;"
!rowspan="2"|JR-B30
|rowspan="2"|[[山科駅]] {{JR特定都区市内|京}}
|rowspan="2" style="text-align:right;"|5.5
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="background-color:#feb;"|●
|rowspan="2" style="background-color:#cdf;"|●
|rowspan="2"|西日本旅客鉄道:[[File:JRW kinki-A.svg|17px|A]] 東海道本線([[琵琶湖線]] :JR-A30)<br>京都市営地下鉄:[[ファイル:Subway KyotoTozai.svg|15px|■]] [[京都市営地下鉄東西線|東西線]] (T07)<br>[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Otsu lines.png|20px|OT]] {{Color|#aace24|■}} [[京阪京津線|京津線]]([[京阪大津線|大津線]]) ⇒[[京阪山科駅]] (OT31)
|rowspan="2"|[[山科区]]
|-
|rowspan="21" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''湖西線'''|height=6em}}
|-
!JR-B29
|[[大津京駅]]#
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|5.4
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|京阪電気鉄道:[[File:Number prefix Otsu lines.png|20px|OT]] {{color|#70c8e0|■}} [[京阪石山坂本線|石山坂本線]](大津線) ⇒[[京阪大津京駅]] (OT15)
|rowspan="21" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[滋賀県]]|height=6em}}
|rowspan="12"|[[大津市]]
|-
!JR-B28
|[[唐崎駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|8.5
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|-
!JR-B27
|[[比叡山坂本駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|11.1
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B26
|[[おごと温泉駅]]#
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|14.5
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"||
|
|-
!JR-B25
|[[堅田駅]]#
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|17.7
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B24
|[[小野駅 (滋賀県)|小野駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|19.8
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|-
!JR-B23
|[[和邇駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|22.5
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|-
!JR-B22
|[[蓬萊駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|24.9
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|-
!JR-B21
|[[志賀駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|27.3
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#cdf;"|※
|
|-
!JR-B20
|[[比良駅 (滋賀県)|比良駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|30.0
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|-
!JR-B19
|[[近江舞子駅]]#
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|32.2
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B18
|[[北小松駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|34.5
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B17
|[[近江高島駅]]
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:right;"|40.9
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|rowspan="6"|[[高島市]]
|-
!JR-B16
|[[安曇川駅]]#
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|45.0
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B15
|[[新旭駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|48.3
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B14
|[[近江今津駅]]#
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|53.2
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B13
|[[近江中庄駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|58.0
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B12
|[[マキノ駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|61.2
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|-
!JR-B11
|[[永原駅]]#
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:right;"|68.3
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|rowspan="3"|[[長浜市]]
|-style="height:1em;"
!rowspan="2"|JR-B10
|rowspan="2"|[[近江塩津駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|5.8
|rowspan="2" style="text-align:right;"|74.1
|rowspan="2" style="background-color:#feb;"|●
|rowspan="2" style="background-color:#cdf;"|●
|rowspan="2"|西日本旅客鉄道:[[File:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[北陸本線]](米原方面 :JR-A03)
|-
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大津京駅・おごと温泉駅・堅田駅・和邇駅・近江舞子駅・安曇川駅・近江今津駅・永原駅が[[停車場]]で、そのほかの駅は[[停車場#停車場の定義|停留所]]である。[[待避駅|待避設備]]がなかったマキノ駅も停車場であったが、2019年4月時点では、和邇駅が停車場になりマキノ駅が停留所となっている。
中間駅のうち、[[直営駅]]は堅田駅・近江今津駅の2駅のみである。ほかに近江中庄駅が終日[[無人駅]]、マキノ駅・永原駅が[[日本の鉄道駅#簡易委託駅|簡易委託駅]]である以外はすべて、[[JR西日本交通サービス]]による[[業務委託駅]]である。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|ref={{sfnRef|国鉄湖西線建設促進期成同盟会|1975}}|author=国鉄湖西線建設促進期成同盟会|title=国鉄湖西線建設の歩み|date=1975-03|year=1975|publisher=}}
* {{Cite book|和書|ref={{sfnRef|日本鉄道建設公団大阪支社|1975}}|author=|title=湖西線建設工事誌|date=1975-07-20|year=|publisher=日本鉄道建設公団大阪支社}}
* {{Cite book|和書|editor=JR西日本コミュニケーションズ|date=2004-12|title=近畿地方の日本国有鉄道 : 大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史|publisher=大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史編集委員会|location=大阪府|id={{全国書誌番号|20766186}}|ref={{SfnRef|近畿地方の日本国有鉄道|2004}}}}
* {{Cite book|和書|others=[[曽根悟]](監修)|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=42号 |volume-title=阪和線・和歌山線・桜井線・湖西線・関西空港線|date=2010-05-16|ref=sone42}}
* {{Cite report |和書|author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=平成26年度業務実績報告書 |date=2015-06 |url=https://www.jrtt.go.jp/corporate/asset/gzh26.pdf |ref=harv }}
* {{Cite book |和書|author=寺本光照|authorlink=寺本光照|date=2014-06|title=国鉄・JR関西圏近郊電車発達史|publisher=[[JTBパブリッシング]]|series=[[JTBキャンブックス|キャンブックス]] 鉄道 ; 142|isbn=978-4-533-09794-2|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[アーバンネットワーク]]
* [[琵琶湖若狭湾快速鉄道]](若狭リゾートライン)
* [[単線並列]]
* [[江若鉄道]]
* [[高速化 (鉄道)#高速新線]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kosei Line|湖西線}}
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/kosei.html 湖西線:JR西日本 列車走行位置]
* {{Kotobank}}
{{アーバンネットワーク}}
{{西日本旅客鉄道近畿エリア}}
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[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本貨物鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:京都府の交通]]
[[Category:滋賀県の交通]]
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2003-09-27T14:50:00Z
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キテレツ大百科
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『キテレツ大百科』(キテレツだいひゃっか)は、藤子不二雄の藤本弘(のちの藤子・F・不二雄)による日本の児童向け生活SFギャグ漫画作品。タイムマシンが登場するなど、サイエンス・フィクション作品としての一面も持つ。
※ 記事中の各話の話数・副題は、特記のない限り〈藤子・F・不二雄大全集〉版に準拠する。
発明好きの小学生・木手英一(通称:キテレツ)が、江戸時代の発明家であった先祖・キテレツ斎の残した書物『奇天烈大百科』(キテレツだいひゃっか)を基に様々な発明道具を作り、その発明道具で起こす騒動を描く。
藤子不二雄の藤本弘による単独執筆作。藤本は平凡な日常の中に異世界のキャラクターを投入してそのズレによって笑いを作り出す「生活ギャグ漫画」を多く執筆したが、本作はこの「生活ギャグ漫画」から発展した作品の一つであり、異世界要素である発明道具を主人公自らが作り上げ、ものを作り上げる喜びや楽しみが描かれている点が大きな特徴となっている。こうしたものを作り上げる喜びや楽しみ描写は、工作を愛した藤本の趣味が反映されたものと考えられている。
初出は子ども向け雑誌『こどもの光』(家の光協会)で、1974年(昭和49年)4月号から1977年(昭和52年)7月号にかけて全40回が藤子不二雄名義で連載された。
同誌における藤本の連載作としては『ドビンソン漂流記』の終了よりおよそ1年ぶりの作品であり、3作目かつ最後の連載作品となっている。
本作は藤本が多くの連載を抱えていた時期に連載されている。本作と同時に連載されていたのは最大で8タイトル。本作の連載開始から終了までの間には合計14タイトルが並行して連載されている(詳細は#並行連載を参照)。
発行元の家の光協会が農協系の出版団体であったために掲載誌の『こどもの光』は一般書店では取り扱いがなく、連載当時にはマイナーな作品であった。
本作は連載中には単行本化されなかった。1977年6月に本作の最終回が掲載された『こどもの光』7月号が発行され、その2か月後の8月に最初の単行本の第1巻が小学館の〈てんとう虫コミックス〉レーベルで発行された。同10月に第2巻、同12月に第3巻が発行され完結した。単行本への収録にあたり、多くの加筆・修正が行われた。ただし、全40話のうち、7話は単行本に収録されなかった。
本作の全40話が収録された初の単行本は、1985年に中央公論社の〈藤子不二雄ランド〉で発行された(全4巻)。この際にも多数の加筆・修正が行われた。
本作の漫画本編を藤本が執筆した年代をまとめると下記の通りになる。
その後、廉価版を含めて2017年までに5度再出版されている。単行本は当初は藤子不二雄名義で発行されていたが、1988年の独立(安孫子素雄とのコンビ解消)後に藤子・F・不二雄名義へと変更されている(詳細は#単行本を参照)。
話によってキャラクターの設定や顔が異なっている箇所があるが、いずれの単行本でも統一・修正はされていない。
連載終了より10年以上が経った1987年(昭和62年)にテレビアニメ化され、翌1988年(昭和63年)からレギュラー放送を開始し、8年続く長寿番組となった(詳細はキテレツ大百科 (アニメ)を参照)。このアニメ化に合わせて、同年より田中道明によるリメイク作品『新キテレツ大百科』が『月刊コロコロコミック』で連載されている(詳細は#新キテレツ大百科を参照。なお連載時には「新」の文字はなく、単行本のみにあった)。このアニメ化に伴い、それまでマイナー作品だった本作の知名度は大きく上昇することとなった。
1990年(平成2年)以降、3度ゲーム化された(詳細は#ゲームを参照)。
2002年(平成14年)には『キテレツ』のタイトルでテレビドラマ化された(詳細は#テレビドラマを参照)。
キテレツこと木手英一は発明が大好きな小学生だが発明品はいつも失敗ばかり。
ある日、発明家であった先祖のキテレツ斎がその発明道具を書き記したと伝えられる奇天烈大百科を父から譲り受けるも全てが白紙で何も書かれていなかった。一度は落胆するも共に伝わった眼鏡・神通鏡を通して見た場合にのみ読めることを発見し、第1作として、からくり人間(ロボット)のコロ助を作り上げる。
以降、キテレツはコロ助を助手とし、大百科の発明を次々と作り上げ、時に人助けを行い、時にトラブルを起こしていく。
だが、大百科を母親がゴミと間違えて捨ててしまい、必死の捜索も間に合わずに大百科は灰燼に帰してしまう。大百科を失ったキテレツだが、大百科に頼らない自力での発明を目指し勉強を始める。コロ助はキテレツの成長を喜ぶのだった。
本作はキテレツが『奇天烈大百科』を参考として発明道具を作り、その発明道具によって騒動が起きるというのが基本プロットとなっている。毎話新しい発明道具が必ず登場し、一度出た道具の再登場はほとんどない。例外は第25話「物置でアフリカへ」に登場した熱気球が第38話「仙鏡水」にも再登場しているのみ。
『奇天烈大百科』は目には見えない光を出すインクで書かれており、この光を感知できる眼鏡・神通鏡を通さなければ読むことができない。
以下、各話に登場する発明道具と簡単な説明を列記する。各発明道具の詳細については、発明道具名からのリンク(いずれもキテレツ大百科の発明道具内の該当記述へリンクしている)先を参照のこと。
本節では各単行本の概説を記載する。各単行本の書誌情報については#書誌情報を参照。
〈てんとう虫コミックス〉版(以下、てんコミ)と〈藤子不二雄ランド〉版は当初藤子不二雄名義で発行され、独立後の増版時に藤子・F・不二雄名義に変更されている。この他は初版より全て藤子・F・不二雄名義で発行。書名はいずれも『キテレツ大百科』。
てんコミで7話、文庫版・廉価版で8話が未収録となっている。また、これらの単行本では第22話「如意光で引っ越し」の1ページ(7ページ目)も未収録となっている。
『キテレツ大百科』の連載時期は、藤本が多くの作品を並行して連載していた時期にあたる。連載開始から終了までの間に合計で14タイトルが本作と並行して連載されており、この他にも40本の読切漫画(内32本がSF短編)が『キテレツ大百科』の連載中に発表されている。
特に1974年(昭和49年)9月号掲載分としては、『キテレツ』を含めて連載9タイトルに読切「間引き」を合わせた10タイトル・20本を発表しており、一月当たりのタイトル数としては最多、本数としても最多記録の21本(1966年1月号掲載分)に次ぐ本数となっている。
週刊の「Uボー」と隔週刊「エスパー魔美」を除き、並行連載作品は全て月刊連載であった。
原作漫画の連載終了より10年以上が経った1987年(昭和62年)11月2日にフジテレビ系列で、90分のテレビスペシャル版を放送。この特番が好評を博したため、翌1988年(昭和63年)3月27日から毎週日曜19時からの30分番組として同系列局でテレビシリーズが放映が開始された。フジテレビが藤子アニメのキー局となったのは本作が初。以降テレビシリーズは1996年(平成8年)6月9日まで全331話が放送され、ゴールデンタイムで8年以上続く長寿番組となった。
アニメではブタゴリラが登った山が「城山」だったり、勉三の大学が「高尾大学」であることから、八王子市が舞台になっていることが推測できる。
タイトルは『ドラえもん&キテレツ大百科「コロ助のはじめてのおつかい」』。藤子・F・不二雄ミュージアム施設内にあるFシアターで、開館4周年の記念日にあたる2015年9月3日から2016年9月2日まで短編映画として公開。アニメーション作品として実に19年ぶりの新編となるほか、本作のアニメ版がドラえもんをはじめ他の藤子キャラと共演するのは初の試み。2018年1月25日より、同ミュージアムの企画展「『キテレツ大百科』×『ドラえもん』〜江戸時代の発明と未来のひみつ道具〜」に合わせて、再上映開始。2019年1月25日より、同ミュージアムの企画展「キテレツ大百科」✕「ドラえもん」第III期に合わせて再上映開始。また、2018年10月10日や2021年8月18日や2023年6月14日など、概ね開館周年頃に他の過去作品と共に1週間ほど再上映が行なわれている(藤子・F・不二雄ミュージアム#短編アニメ作品も参照)。
フジテレビ版の設定でおなじみだったコロ助の帯刀がない、キテレツのサンバイザーのKマークがないなど、原作寄りの設定である。
アニメ化に合わせて連載されたリメイク作品で、執筆は田中道明が担当。『月刊コロコロコミック』1988年(昭和63年)4月号と春休み増刊号にまず原作が再掲載され、その後を継ぐ形で同年5月号から1994年(平成6年)2月号まで連載された。単行本は〈てんとう虫コミックス〉より全6巻が発行された。
原作『キテレツ大百科』をベースにその世界観を広げたものであり、原稿を作成する際に何度も藤子・Fにネームや内容を修正してもらい制作していた。キャラクターの人格形成やコロ助のコロッケ好きなど、アニメの設定に大いに影響を与えている。
アニメの放送予告は連載終了後も最終回まで掲載されていた。
以下の4タイトルが発売されている。
ファミリーコンピュータ版は、夢見鏡の世界に引き込まれたキテレツ達が脱出を目指すというもの。サイケデリックなマップパーツが単調に並ぶマップはこのゲームの一種の特徴である。ボタン連打による発明や、仲間が増えても攻撃などは一切しないばかりか増えた仲間の分だけ「当たり判定(ダメージを受ける部位)」が増加してしまい、逆にお荷物になってしまう斬新なシステムを持つ。コンティニューには序盤で発明する「キテレツ地獄」で”借金”を行う必要がある。
この他、2002年11月21日にコナミから発売されたPlayStation 2用のソフト『pop'n music 7』には、アニメ主題歌の「はじめてのチュウ」と「すいみん不足」が収録されている。
『ドラマ愛の詩』のスペシャルとして、NHKによる実写ドラマが製作されている。タイトルは『キテレツ』。初回の放送はNHK教育テレビジョンで2002年1月1日の18時30分から19時45分まで。その後、総合・教育の双方で何度か再放送されている。
コロ助はCGで作られて実写と合成され、声はアニメ版で初代にコロ助を演じた小山茉美が担当した。また、キテレツ斎役としては清川元夢が声のみで出演している。
2013年にキリンビバレッジ『キリン にっぽん米茶』TVCMに起用、佐藤浩市がCGのコロ助と共演している。コロ助の声優は浅野まゆみ。
特記のないかぎり、著者は藤子・F・不二雄、発行は小学館。
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"text": "タイトルは『ドラえもん&キテレツ大百科「コロ助のはじめてのおつかい」』。藤子・F・不二雄ミュージアム施設内にあるFシアターで、開館4周年の記念日にあたる2015年9月3日から2016年9月2日まで短編映画として公開。アニメーション作品として実に19年ぶりの新編となるほか、本作のアニメ版がドラえもんをはじめ他の藤子キャラと共演するのは初の試み。2018年1月25日より、同ミュージアムの企画展「『キテレツ大百科』×『ドラえもん』〜江戸時代の発明と未来のひみつ道具〜」に合わせて、再上映開始。2019年1月25日より、同ミュージアムの企画展「キテレツ大百科」✕「ドラえもん」第III期に合わせて再上映開始。また、2018年10月10日や2021年8月18日や2023年6月14日など、概ね開館周年頃に他の過去作品と共に1週間ほど再上映が行なわれている(藤子・F・不二雄ミュージアム#短編アニメ作品も参照)。",
"title": "シアターアニメ"
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"text": "フジテレビ版の設定でおなじみだったコロ助の帯刀がない、キテレツのサンバイザーのKマークがないなど、原作寄りの設定である。",
"title": "シアターアニメ"
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"text": "アニメ化に合わせて連載されたリメイク作品で、執筆は田中道明が担当。『月刊コロコロコミック』1988年(昭和63年)4月号と春休み増刊号にまず原作が再掲載され、その後を継ぐ形で同年5月号から1994年(平成6年)2月号まで連載された。単行本は〈てんとう虫コミックス〉より全6巻が発行された。",
"title": "新キテレツ大百科"
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"text": "原作『キテレツ大百科』をベースにその世界観を広げたものであり、原稿を作成する際に何度も藤子・Fにネームや内容を修正してもらい制作していた。キャラクターの人格形成やコロ助のコロッケ好きなど、アニメの設定に大いに影響を与えている。",
"title": "新キテレツ大百科"
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"text": "アニメの放送予告は連載終了後も最終回まで掲載されていた。",
"title": "新キテレツ大百科"
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"text": "以下の4タイトルが発売されている。",
"title": "ゲーム"
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"text": "ファミリーコンピュータ版は、夢見鏡の世界に引き込まれたキテレツ達が脱出を目指すというもの。サイケデリックなマップパーツが単調に並ぶマップはこのゲームの一種の特徴である。ボタン連打による発明や、仲間が増えても攻撃などは一切しないばかりか増えた仲間の分だけ「当たり判定(ダメージを受ける部位)」が増加してしまい、逆にお荷物になってしまう斬新なシステムを持つ。コンティニューには序盤で発明する「キテレツ地獄」で”借金”を行う必要がある。",
"title": "ゲーム"
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"text": "この他、2002年11月21日にコナミから発売されたPlayStation 2用のソフト『pop'n music 7』には、アニメ主題歌の「はじめてのチュウ」と「すいみん不足」が収録されている。",
"title": "ゲーム"
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"text": "『ドラマ愛の詩』のスペシャルとして、NHKによる実写ドラマが製作されている。タイトルは『キテレツ』。初回の放送はNHK教育テレビジョンで2002年1月1日の18時30分から19時45分まで。その後、総合・教育の双方で何度か再放送されている。",
"title": "テレビドラマ"
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"text": "コロ助はCGで作られて実写と合成され、声はアニメ版で初代にコロ助を演じた小山茉美が担当した。また、キテレツ斎役としては清川元夢が声のみで出演している。",
"title": "テレビドラマ"
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"text": "2013年にキリンビバレッジ『キリン にっぽん米茶』TVCMに起用、佐藤浩市がCGのコロ助と共演している。コロ助の声優は浅野まゆみ。",
"title": "CM"
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"text": "特記のないかぎり、著者は藤子・F・不二雄、発行は小学館。",
"title": "書誌情報"
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] |
『キテレツ大百科』(キテレツだいひゃっか)は、藤子不二雄の藤本弘(のちの藤子・F・不二雄)による日本の児童向け生活SFギャグ漫画作品。タイムマシンが登場するなど、サイエンス・フィクション作品としての一面も持つ。 ※ 記事中の各話の話数・副題は、特記のない限り〈藤子・F・不二雄大全集〉版に準拠する。
|
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|タイトル=キテレツ大百科
|ジャンル=[[幼年漫画|児童]]・[[SF漫画|SF]]・[[生活]]・[[不条理]][[ギャグ漫画]]
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{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[藤子不二雄]] ([[藤子・F・不二雄|藤本]]単独執筆作) <ref group="注" name="name">発表当時は[[藤子不二雄]]名義。1988年の独立後、単行本の名義を[[藤子・F・不二雄]]に変更。</ref>
|出版社=[[家の光協会]]
|他出版社= [[小学館]](TC、文庫、F全)<br />[[中央公論新社|中央公論社]](FF)<br />{{flagicon|TWN}} [[大然文化]]<br />{{flagicon|HKG}} 安樂文潮
|掲載誌=[[ちゃぐりん|こどもの光]]
|レーベル= [[てんとう虫コミックス]] (TC)<br />[[藤子不二雄ランド]] (FF)<br />[[小学館コロコロ文庫]](文庫)<br />[[藤子・F・不二雄大全集]](F全)
|開始号=1974年4月号
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|巻数= TC:全3巻<br />FF:全4巻<br />文庫・F全:全2巻
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{{Infobox animanga/Manga
|タイトル=新キテレツ大百科
|作者=藤子・F・不二雄
|作画=[[田中道明]]
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{{Infobox animanga/TVDrama
|タイトル=キテレツ
|原作= 藤子・F・不二雄
|監督=
|演出= 一色隆司
|制作= [[NHKエンタープライズ|NHKエンタープライズ21]]
|放送局=[[NHK教育テレビジョン]]
|放送開始=2002年1月1日18:30
|放送終了=19:45
|話数=1話
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{{Infobox animanga/Other
|タイトル = アニメ
|コンテンツ =
* [[キテレツ大百科 (アニメ)|キテレツ大百科]]
** 90分スペシャル(1987年)
** テレビシリーズ(1988年 - 1996年)
}}
{{Infobox animanga/Footer}}
『'''キテレツ大百科'''』(キテレツだいひゃっか)は、[[藤子不二雄]]の藤本弘(のちの[[藤子・F・不二雄]])<ref group="注" name="name" />による[[日本]]の児童向け[[生活]][[SF漫画|SF]][[ギャグ漫画]]作品<ref name="mori36-37">「第1の森 生活ギャグ漫画の世界」『Fの森の歩き方』36-37頁</ref>。[[タイムマシン]]が登場するなど、[[サイエンス・フィクション]]作品としての一面も持つ<ref>『藤子・F・不二雄大全集 月報』2-2(『キテレツ大百科』2巻付録)2頁</ref>。
※ 記事中の各話の話数・副題は、特記のない限り〈[[藤子・F・不二雄大全集]]〉版に準拠する。
== 概要 ==
=== 特徴 ===
[[発明]]好きの小学生・[[木手英一]](通称:'''キテレツ''')が、[[江戸時代]]の発明家であった先祖・'''キテレツ斎'''の残した書物『'''奇天烈大百科'''』(キテレツだいひゃっか)を基に様々な発明道具を作り、その発明道具で起こす騒動を描く。
[[藤子不二雄]]の[[藤本弘]]による単独執筆作。藤本は平凡な日常の中に異世界のキャラクターを投入してそのズレによって笑いを作り出す「生活ギャグ漫画」を多く執筆したが、本作はこの「生活ギャグ漫画」から発展した作品の一つであり、異世界要素である発明道具を主人公自らが作り上げ、ものを作り上げる喜びや楽しみが描かれている点が大きな特徴となっている<ref name="mori36-37" /><ref>「キテレツ大百科」『Fの森の歩き方』86-87頁</ref>。こうしたものを作り上げる喜びや楽しみ描写は、工作を愛した藤本の趣味が反映されたものと考えられている<ref name="mori36-37" />。
=== 初出・収録 ===
初出は子ども向け雑誌『[[ちゃぐりん|こどもの光]]』([[家の光協会]])で、1974年(昭和49年)4月号から1977年(昭和52年)7月号にかけて全40回が[[藤子不二雄]]名義で連載された。
同誌における藤本の連載作としては『[[ドビンソン漂流記]]』<ref group="注">1971年1月号から1972年12月号まで連載。</ref>の終了よりおよそ1年ぶりの作品であり、3作目<ref group="注">ただし、連載1作目の「[[名犬タンタン]]」は[[安孫子素雄]]との合作(連載開始当初の原作は[[久米みのる]])。</ref>かつ最後の連載作品となっている<ref group="注">読切はこの後にも2編(共に[[藤子・F・不二雄のSF短編|少年SF短編]])が掲載されている。</ref>。
本作は藤本が多くの連載を抱えていた時期に連載されている。本作と同時に連載されていたのは最大で8タイトル。本作の連載開始から終了までの間には合計14タイトルが並行して連載されている(詳細は[[#並行連載]]を参照)。
発行元の[[家の光協会]]が[[農業協同組合|農協]]系の出版団体であったために掲載誌の『[[ちゃぐりん|こどもの光]]』は一般書店では取り扱いがなく、連載当時にはマイナーな作品であった<ref group="注">藤子ファンであり、『キテレツ大百科』連載中の1975年頃に[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]となった[[田中道明]]も、アシスタントに入るまで本作を知らなかった。</ref><ref name="cwff1" />。
本作は連載中には単行本化されなかった。1977年6月に本作の最終回が掲載された『こどもの光』7月号が発行され、その2か月後の8月に最初の単行本の第1巻が[[小学館]]の〈[[てんとう虫コミックス]]〉レーベルで発行された。同10月に第2巻、同12月に第3巻が発行され完結した。単行本への収録にあたり、多くの加筆・修正が行われた。ただし、全40話のうち、7話は単行本に収録されなかった。
本作の全40話が収録された初の単行本は、1985年に[[中央公論社]]の〈[[藤子不二雄ランド]]〉で発行された(全4巻)。この際にも多数の加筆・修正が行われた。
本作の漫画本編を藤本が執筆した年代をまとめると下記の通りになる。
* 1974年〜1977年:雑誌連載。
* 1977年:てんとう虫コミックス用の加筆・修正。
* 1985年:藤子不二雄ランド用の加筆・修正。
その後、廉価版を含めて2017年までに5度再出版されている。単行本は当初は[[藤子不二雄]]名義で発行されていたが、1988年の独立([[安孫子素雄]]とのコンビ解消)後に[[藤子・F・不二雄]]名義へと変更されている(詳細は[[#単行本]]を参照)。
話によってキャラクターの設定や顔が異なっている箇所があるが、いずれの単行本でも統一・修正はされていない<ref group="注">例:キテレツの父親は第1話をはじめとしてほとんどの場合は眼鏡をかけた厚い唇の人物として描かれているが、最終話では眼鏡をかけず唇も厚くはなく、全く外見の異なる人物として描かれている。</ref>。
=== メディア展開 ===
連載終了より10年以上が経った1987年(昭和62年)に[[テレビアニメ]]化され、翌[[1988年]](昭和63年)からレギュラー放送を開始し、8年続く長寿番組となった(詳細は[[キテレツ大百科 (アニメ)]]を参照)。このアニメ化に合わせて<ref name="cwff1">[[田中道明]]「藤子まんがから僕が学んだこと」『キテレツ大百科』2巻 〈藤子・F・不二雄大全集〉352-355頁。</ref>、同年より[[田中道明]]によるリメイク作品『新キテレツ大百科』が『[[月刊コロコロコミック]]』で連載されている(詳細は[[#新キテレツ大百科]]を参照。なお連載時には「新」の文字はなく、単行本のみにあった)。このアニメ化に伴い、それまでマイナー作品だった本作の知名度は大きく上昇することとなった。
[[1990年]](平成2年)以降、3度ゲーム化された(詳細は[[#ゲーム]]を参照)。
[[2002年]](平成14年)には『キテレツ』のタイトルで[[テレビドラマ]]化された(詳細は[[#テレビドラマ]]を参照)。
== あらすじ ==
'''キテレツ'''こと木手英一は[[発明]]が大好きな小学生だが発明品はいつも失敗ばかり。
ある日、[[発明家]]であった先祖の'''キテレツ斎'''がその発明道具を書き記したと伝えられる'''奇天烈大百科'''を父から譲り受けるも全てが白紙で何も書かれていなかった。一度は落胆するも共に伝わった[[眼鏡]]・'''神通鏡'''を通して見た場合にのみ読めることを発見し、第1作として、からくり人間([[ロボット]])の'''[[コロ助]]'''を作り上げる。
以降、キテレツはコロ助を助手とし、大百科の発明を次々と作り上げ、時に人助けを行い、時にトラブルを起こしていく。
だが、大百科を母親がゴミと間違えて捨ててしまい、必死の捜索も間に合わずに大百科は灰燼に帰してしまう。大百科を失ったキテレツだが、大百科に頼らない自力での発明を目指し勉強を始める。コロ助はキテレツの成長を喜ぶのだった。
== 登場人物==
[[File:Kawasakicitybus-w-1878.jpg|thumb|250px|藤子・F・不二雄ミュージアム発着バスに使用されているキテレツたちのイラスト]]
{{Main|キテレツ大百科の登場人物}}
; キテレツ(本名:木手英一)
: 本作の主人公で、発明が大好きな小学生<ref name="アニメージュ198805">『[[アニメージュ]]』1988年5月号、131頁</ref>。『奇天烈大百科』を参考として、様々な発明道具を自作する。常に[[バイザー|サンバイザー]]と神通鏡を身につけている。発明に夢中になると群を抜いた集中力を見せ、周りが見えなくなる<ref>「F系男子という生き方」『Fの森の歩き方』182頁</ref><ref name="mori88">『Fの森の歩き方』88頁</ref>。<!-- 自作の発明品を用いた不正を好まず ※#2からイカサマ野球を自らしているのでひとまずコメントアウトしました-->、困難に対しては自分の力で挑戦しようとする信念を持つ。
: TVアニメ版では、表野町小学校の五年生。『奇天烈大百科』の内容は全てデータ化してパソコンに保存してある。優秀で知的な[[秀才]]的な側面が強調されて描かれており、このタイプの主人公は藤本作品では例が少ない<ref name="mori88" /><!-- 漫画版は間の抜けた描写も多く、知的で優等生的なふるまいはアニメに多いので、優秀で知的という形容部分はひとまずアニメの段落に入れました -->。運動神経が悪いのが欠点。『奇天烈大百科』から自作した様々な発明品でトラブルを解決する存在として、作中の様々なキャラクターから信頼を集めており、冒険先でもリーダーシップを発揮して仲間達を導く。理科や算数などが得意で、自室の[[パソコン]]に保存してあるデータから自作の発明品を参照する際、[[ブラウン管|CRT]]に(本来ならば[[高等学校]]の[[教育課程]]の[[学習指導要領]]で[[学習]]する)[[数学|高等学校数学]]の[[方程式]]が瞬間的に表示される場面がある。色々な発明品を作ったりする都合上、手先が非常に器用でピッキングによって鍵を開けるという隠れた能力を持っている。
; [[コロ助]]
: 本作の準主人公。<!-- マスコットキャラクター。※作中でマスコットとして扱われていると誤解されかねないのでひとまずコメントアウトしました -->意思や感情を持ちしゃべることもできるからくり人間<ref name="mori88" />。キテレツが『奇天烈大百科』を読んではじめに作った発明品であり<ref name="ep1">第1話「ワガハイはコロ助ナリ」</ref>、以降キテレツの助手を務める。頭に[[丁髷]]を結い、語尾に「〜ナリ」をつけて話す<ref name="アニメージュ198805"/>。<!-- ロボットである為性別は存在しないが、名前や性格は男性寄り。-->キテレツと共に全話に登場している。
; キテレツ斎
: キテレツが尊敬している先祖で、[[江戸時代]]の発明家。[[オットー・リリエンタール|リリエンタール]]の[[グライダー]]よりも前に[[飛行機]]を完成させたが、「怪しげな術を用いて世間を騒がせた」として捕まり、死ぬまで[[座敷牢]]に軟禁された。自分の発明を密かに『奇天烈大百科』として書き残し子孫に伝えた<ref name="アニメージュ198805"/><ref name="ep1" />。
; みよちゃん(本名:みよ子)<ref>新装コミック版のキテレツ大百科 巻之3「ネパール·オパール」P132中にブタゴリラが「みよ子」と言うセリフがある。</ref>
: 本作のヒロイン。キテレツとは昔からの友達<ref>第23話「人間植物リリー」</ref>でクラスメイト<ref>『Fの森の歩き方』89頁</ref>。キテレツとは互いに密かに思いを寄せ合っている<ref>『Fの森の歩き方』94頁</ref>。
;ブタゴリラ
: キテレツのクラスメイトで[[ガキ大将]]<ref name="アニメージュ198805"/>。コロ助をよくからかっている<ref name="アニメージュ198805"/>。
; トンガリ
: キテレツのクラスメイトで資産家の息子。ブタゴリラの腰巾着のような存在<ref name="アニメージュ198805"/>。
== 発明道具 ==
本作はキテレツが『奇天烈大百科』を参考として発明道具を作り、その発明道具によって騒動が起きるというのが基本[[プロット (物語)|プロット]]となっている。毎話新しい発明道具が必ず登場し、一度出た道具の再登場はほとんどない。例外は第25話「物置でアフリカへ」に登場した熱気球が第38話「仙鏡水」にも再登場しているのみ。
『奇天烈大百科』は目には見えない光を出すインクで書かれており、この光を感知できる眼鏡・'''神通鏡'''を通さなければ読むことができない。
以下、各話に登場する発明道具と簡単な説明を列記する。各発明道具の詳細については、発明道具名からのリンク(いずれも[[キテレツ大百科の発明道具]]内の該当記述へリンクしている)先を参照のこと。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller; float:left"
! style="white-space:nowrap" | 話 !! 副題 !! 発明道具 !! 説明
|-
! 1
| ワガハイはコロ助ナリ || からくり人形 || [[ロボット]]([[コロ助]])
|-
! 2
| 脱時機でのんびり || [[キテレツ大百科の発明道具#脱時機|脱時機]] || 時間を止める
|-
! 3
| しん気ろうでやっつけろ || [[キテレツ大百科の発明道具#蜃気楼鏡|蜃気楼鏡]] || [[蜃気楼]]を作る
|-
! rowspan="2" | 4
| rowspan="2" | キッコー船の冒険 || [[キテレツ大百科の発明道具#亀甲船|亀甲船]] || [[潜水艦]]
|-
| style="white-space:nowrap" | [[キテレツ大百科の発明道具#酸素製造薬|酸素製造薬]]<ref group="注" name="noname">名称は作中では登場しないため、『Fの森の歩き方』に因る。</ref> || [[水]]から[[酸素]]を作る
|-
! 5
| 聞き耳ずきん || [[キテレツ大百科の発明道具#聞き耳ずきん|聞き耳ずきん]] || 動物と話せる
|-
! 6
| 片道タイムマシン || [[キテレツ大百科の発明道具#航時機|航時機]] || [[タイムマシン]]
|-
! 7
| モグラ・マンション || [[キテレツ大百科の発明道具#かべぬけ服|かべぬけ服]] || 物体をすり抜ける
|-
! rowspan="2" | 8
| rowspan="2" | 江戸時代の月面図 || [[キテレツ大百科の発明道具#昇月紗|昇月紗]] || [[重力]]を調整する
|-
| [[キテレツ大百科の発明道具#千里鏡|千里鏡]] || 無線[[ファクシミリ|ファックス]]
|-
! 9
| 公園の恐竜 || [[キテレツ大百科の発明道具#夢遊境|夢遊境]] || 場所を入れ替える
|-
! 10
| キテレツの団体 || [[キテレツ大百科の発明道具#分身機|分身機]] || 複製を作る
|-
! 11
| 冥府刀 || [[キテレツ大百科の発明道具#冥府刀|冥府刀]] || [[4次元|四次元]]へ行く
|-
! rowspan="2" | 12
| rowspan="2" | 一寸ガードマン || [[キテレツ大百科の発明道具#一寸法師|一寸法師]] || [[警備員|ガードマン]]ロボット
|-
| [[キテレツ大百科の発明道具#一寸法師|打ち出のマイク]] || 一寸法師に命令する
|-
! 13
| style="white-space:nowrap" | チョーチンおばけ捕物帖 || [[キテレツ大百科の発明道具#召し捕り人|召し捕り人]] || 不正取締りロボット
|-
! 14
| 地震の作り方 || [[キテレツ大百科の発明道具#地震発生機|地震発生機]] || 疑似[[地震]]を発生
|-
! 15
| サイボーグキンちゃん || [[キテレツ大百科の発明道具#加楽利生物台|加楽利生物台]] || 生物を[[サイボーグ]]化
|-
! 16
| 潜地球 || [[キテレツ大百科の発明道具#潜地球|潜地球]] || 地中に潜る乗り物
|-
! rowspan="2" | 17
| rowspan="2" | 水ねん土で子どもビル || [[キテレツ大百科の発明道具#粘土水|粘土水]] || [[水]]を[[粘土]]の様にする
|-
| [[キテレツ大百科の発明道具#粘土水|戻すガス]]<ref group="注">名称は作中では登場しない</ref> || 元の水に戻す
|-
! 18
| うらみキャンデー || [[キテレツ大百科の発明道具#うらみ糖|うらみ糖]] || style="white-space:nowrap" | 恨みを[[幽霊]]に実体化
|-
! 19
| 失恋はラブミ膏 || [[キテレツ大百科の発明道具#羅部身膏|羅部身膏]] || 異性を惹く
|-
! 20
| らくらくハイキング || [[キテレツ大百科の発明道具#天狗の抜け穴|天狗の抜け穴]] || [[ワープ#時空間歪曲型|ワープ]]道具
|}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller; float:left"
! style="white-space:nowrap" | 話 !! 副題 !! colspan="2" | 発明道具 !! colspan="2" | 説明
|-
! 21
| 念力帽 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#念力帽|念力帽]] || colspan="2" | [[念力]]が使える
|-
! 22
| 如意光で引っこし || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#如意光|如意光]] || colspan="2" | 物体を拡大・縮小
|-
! 23
| 人間植物リリー || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#人間植物|人間植物]] || colspan="2" | 人間のような植物
|-
! 24
| わすれん帽 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#忘れん帽|忘れん帽]] || colspan="2" | 嫌な記憶を吸い取る
|-
! 25
| 物置でアフリカへ || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#熱気球|熱気球]] || colspan="2" | 小型で高性能な[[熱気球]]
|-
! 26
| 宇宙怪魔人 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#夢幻燈|夢幻燈]] || colspan="2" | 高性能[[ビデオカメラ]]
|-
! 27
| style="white-space:nowrap" | 動物芝居を作るナリ || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#獣類操り機|獣類操り機]] || colspan="2" | 動物を操る
|-
! 28
| 地獄へいらっしゃい || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#地獄|地獄]] || colspan="2" | [[テーマパーク]]
|-
! rowspan="2" | 29
| rowspan="2" | 海底の五億円 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#宝物探知機|宝物探知機]] || colspan="2" | [[宝|宝物]]の探知機
|-
| colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#水中呼吸膏|水中呼吸膏]]<ref group="注" name="noname" /> || colspan="2" | 水中で[[呼吸]]可能になる
|-
! 30
| ネパール・オパール || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#ビードロ丹|ビードロ丹]] || colspan="2" | [[透明人間]]になる薬
|-
! 31
| ボール紙の町 || style="white-space:nowrap" colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#こども町正門|こども町正門]]<ref group="注" name="noname" /> || colspan="2" | 通ると小さくなる
|-
! rowspan="2" | 32
| rowspan="2" | スーパー天狗 || rowspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#枢破天狗|枢破天狗]] || 怪力面 || style="white-space:nowrap" | 怪力になる|| rowspan="2" | 正義の味方<br />変身セット
|-
| style="white-space:nowrap" | 羽うちわ || 風を操る
|-
! 33
| おもい出カメラ || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#回古鏡|回古鏡]] || colspan="2" | 過去を写す[[カメラ]]
|-
! 34
| 空き地の銀世界 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#奇天烈スキー|奇天烈スキー]]<ref group="注" name="noname" /> || colspan="2" | 周りを広く感じる
|-
! 35
| ままごとハウス || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#こころみの家|こころみの家]] || style="white-space:nowrap" colspan="2" | 入ると疑似[[夫婦]]になる
|-
! 36
| 遊魂帽
| colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#遊魂帽|遊魂帽]] || colspan="2" | [[幽体離脱]]ができる
|-
! 37
| 超鈍速ジェット機 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#空中遊歩台|空中遊歩台]] || colspan="2" | 超鈍足[[ジェット機]]
|-
! rowspan="3" | 38
| rowspan="3" | 仙鏡水 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#仙鏡水|仙鏡水]] || colspan="2" | 乗れる[[雲]]を作る
|-
| colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#仙鏡水|雲シャベル]] || colspan="2" | 乗れる雲を加工する
|-
| colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#熱気球|熱気球]] || colspan="2" | 25話からの再登場
|-
! 39
| 唐倶利武者 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#唐倶利武者|唐倶利武者]] || colspan="2" | [[侍]]のロボット
|-
! 40
| さらば大百科 || colspan="2" | [[キテレツ大百科の発明道具#操縦座|操縦座]] || colspan="2" | 動物の体内に入って操る
|}
{{clear}}
== 単行本 ==
本節では各単行本の概説を記載する。各単行本の書誌情報については[[#書誌情報]]を参照。
〈[[てんとう虫コミックス]]〉版(以下、てんコミ)と〈[[藤子不二雄ランド]]〉版は当初[[藤子不二雄]]名義で発行され、独立後の増版時に[[藤子・F・不二雄]]名義に変更されている。この他は初版より全て藤子・F・不二雄名義で発行。書名はいずれも『キテレツ大百科』。
* 話数列には「収録話数/未収録話数」の形で記載。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
! nowrap="nowrap" | 発行年 !!出版社 !! レーベル !! 判型 !! style="white-space:nowrap" | 巻数 !! 話数 !! 解説
|-
| style="white-space:nowrap" | [[1977年]]|| 小学館 || [[てんとう虫コミックス]] || 新書 || 全3 || style="white-space:nowrap" | 33/7 || style="text-align:left" | 連載終了の同年に発売された最初の単行本。選集であり、7話が未収録となっている。また、第22話「如意光で引っ越し」内の1ページが未収録となっている。<br />1995年に増刷されたものでは「きちがい」などの[[差別用語]]とされるものが改変された<ref group="注">例:第1話でキテレツの父がキテレツ斎の最後を語る時の台詞が、てんコミでは「きちがいになった」のが、藤子不二雄ランドでは「気がへんになった」、大全集では「おかしくなった」にそれぞれ改変された。</ref>。
|-
| [[1985年]] || style="white-space:nowrap" | [[中央公論新社|中央公論社]] || style="white-space:nowrap" | 中公コミックス<br />[[藤子不二雄ランド]] || style="white-space:nowrap" | 小B6 || 全4 || 40/0 || style="text-align:left" | [[藤子不二雄]]の全集として発行された藤子不二雄ランド内の4冊で、唯一小学館以外から発行された単行本。全話・全ページを完全に収録。3・4巻にはそれぞれ、[[藤子・F・不二雄のSF短編|少年SF短編]]の「ぼくのオキちゃん」・「ボクラ共和国」を併録。
|-
| [[1995年]] || rowspan="4" | 小学館 || 小学館コロコロ文庫|| 文庫 || 全2 || 32/8 || style="text-align:left" | てんコミをベースとしており、てんコミ未収録のものはそのまま未収録となっている。また、てんコミに収録されていた第14話「地震の作り方」が[[阪神・淡路大震災|阪神・淡路大震災]]への配慮という形で未収録となった。2巻とも巻末に解説などが掲載されていない。
|-
| [[2003年]] || [[コンビニコミック#小学館|My First BIG]] || || 全2 || 32/8 || style="text-align:left" | 文庫版をベースとした[[コンビニエンスストア|コンビニ]]販売用廉価版[[ペーパーバック]]。収録話は文庫版と同様。
|-
| [[2009年]] || style="white-space:nowrap" | [[藤子・F・不二雄大全集]] || A5 || 全2 || 40/0 || style="text-align:left" | [[藤子・F・不二雄]]の全集として発行された[[藤子・F・不二雄大全集]]の第1期で発行。全話・全ページを完全に収録しており、発表順に第1話から第20話を1巻に、第21話から第40話を2巻に収録。原稿紛失のため、「聞き耳ずきん」の全ページと「如意光で引っ越し」のてんコミで割愛された1ページを初出の『[[ちゃぐりん|こどもの光]]』より印刷物複写の形で復刻している<ref>「初出掲載リスト」『キテレツ大百科』1巻〈藤子・F・不二雄大全集〉334頁</ref><ref>「初出掲載リスト」『キテレツ大百科』2巻〈藤子・F・不二雄大全集〉347頁</ref>。<br />各巻巻頭にはカラーイラスト、巻末には初出掲載リスト・新連載予告のカット等の特別資料・解説が収録されている。解説は1巻では『新キテレツ』の作画を担当した[[田中道明]]、2巻ではアニメの脚本を担当した[[雪室俊一]]がそれぞれ執筆している。
|-
| [[2016年]] || てんとう虫コミックス || 新書 || 全3 || style="white-space:nowrap" | 33/7 || style="text-align:left" | コミックス40周年&アニメ30周年を記念した新装版。『藤子・F・不二雄大全集』における原稿スキャン版を用いている。収録話は旧装版と同様。
|}
=== 未収録話 ===
てんコミで7話、文庫版・廉価版で8話が未収録となっている。また、これらの単行本では第22話「如意光で引っ越し」の1ページ(7ページ目)も未収録となっている。
* てんコミ未収録話
** 第5話「聞き耳ずきん」
** 第9話「公園の恐竜」
** 第11話「冥府刀」
** 第12話「一寸ガードマン」
** 第32話「スーパー天狗」
** 第38話「仙鏡水」
** 第39話「唐倶利武者」
* 文庫版・廉価版での追加未収録話
** 第14話「地震の作り方」
== 並行連載 ==
<ref>この節は、『Fの森の歩き方』の「藤子・F・不二雄まんが連載史大年表」(7-10頁)および「「藤子・F・不二雄まんが連載史大年表」を味わう! パート2」(226-227頁)を参照。</ref>『キテレツ大百科』の連載時期は、藤本が多くの作品を並行して連載していた時期にあたる。連載開始から終了までの間に合計で14タイトルが本作と並行して連載されており、この他にも40本の読切漫画(内32本が[[藤子・F・不二雄のSF短編|SF短編]])が『キテレツ大百科』の連載中に発表されている。
特に1974年(昭和49年)9月号掲載分としては、『キテレツ』を含めて連載9タイトルに読切「[[間引き (漫画)|間引き]]」を合わせた10タイトル・20本を発表しており、一月当たりのタイトル数としては最多、本数としても最多記録の21本(1966年1月号掲載分)に次ぐ本数となっている。
週刊の「[[Uボー]]」と隔週刊「[[エスパー魔美]]」を除き、並行連載作品は全て月刊連載であった。
=== 年表 ===
<small>
* 凡例
** [[小学館の学年別学習雑誌|小学館の学年誌]](『小学一年生』から『小学六年生』までの6誌に加え、便宜的に『[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]』も含める)については、3月号の続きは1学年上の4月号に掲載されるという連載の特色を重視し、年度毎に学年を繰り上げる形で記載。各雑誌における表中の左端に学年を以下の形で記載した。
*** 『幼』:[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]
*** 『一』 - 『六』:小学一年生 - 小学六年生
** 表の範囲よりも広く継続している連載については矢印を記載。
*** ←:1974年3月以前より連載開始。学年誌の場合は一つ下の学年より繰り上がっての継続。
*** →:1977年8月以降まで連載が継続。
** タイトル右の ( ) 付き数字は[[#一覧]]の通し番号に対応し、一覧内の対応するデータを表示するためのリンクとなっている。
</small>
<div style="overflow:auto">
{| style="border-style:solid; border-collapse:collapse; height:1em; font-size:smaller; width:90em; background-color:#fff"
|-style="color:#f00"
! style="border-right:1px solid #733; width:10em" colspan="2" rowspan="3" | !! colspan="12" | 1974年度 !! style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 1975年度 !! style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 1976年度 !! style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" | 1977年度
|- style="border:1px solid #733"
! colspan="9" | 1974年 !! style="border-left:1px solid #733" colspan="12" | 1975年 !! style="border-left:1px solid #733" colspan="12" | 1976年 !! style="border-left:1px solid #733" colspan="7" | 1977年
|- style="border-bottom:1px solid #733"
! style="border-left:1px solid #733; width:2em" | 4 !! style="width:2em" | 5 !! style="width:2em" | 6 !! style="width:2em" | 7 !! style="width:2em" | 8 !! style="width:2em" | 9 !! style="width:2em" | 10 !! style="width:2em" | 11 !! style="width:2em" | 12 !! style="border-left:1px solid #733; width:2em" | 1 !! style="width:2em" |2 !! style="width:2em" | 3 !! style="width:2em; border-left:1px solid #f00" | 4 !! style="width:2em" | 5 !! style="width:2em" | 6 !! style="width:2em" | 7 !! style="width:2em" | 8 !! style="width:2em" | 9 !! style="width:2em" | 10 !! style="width:2em" | 11 !! style="width:2em" | 12 !! style="border-left:1px solid #733; width:2em" | 1 !! style="width:2em" | 2 !! style="width:2em" | 3 !! style="width:2em; border-left:1px solid #f00" | 4 !! style="width:2em" | 5 !! style="width:2em" | 6 !! style="width:2em" | 7 !! style="width:2em" | 8 !! style="width:2em" | 9 !! style="width:2em" | 10 !! style="width:2em" | 11 !! style="width:2em" | 12 !! style="border-left:1px solid #733; width:2em" | 1 !! style="width:2em" | 2 !! style="width:2em" | 3 !! style="width:2em; border-left:1px solid #f00" | 4 !! style="width:2em" | 5 !! style="width:2em" | 6 !! style="width:2em" | 7
|-style="border-bottom:1px solid #777"
| style="text-align:center; border-bottom:1px solid #733; width:3em" rowspan="15"| [[小学館の学年別学習雑誌|小<br />学<br />館<br />の<br />学<br />年<br />誌]] || style="border-right:1px solid #733; text-align:right; width:7em" | 1962年度生 || style="background-color:#2bf" | ← || style="background-color:#2bf" colspan="11"| 『六』 [[ドラえもん]] [[#list1|(1)]]<span id="tl1"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | ||style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" |
|-
| style="border-right:1px solid #733; text-align:right" rowspan="2" | 1963年度生 || style="background-color:#2bf" | ← || style="background-color:#2bf" colspan="11"| 『五』 [[ドラえもん]] [[#list2|(2)]]<span id="tl2"> || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『六』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | ||style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" |
|-style="border-bottom:1px solid #777"
| || style="background-color:#aaf" colspan="11"| 『五』 [[みきおとミキオ]] [[#list3|(3)]]<span id="tl3"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | ||style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" |
|- style="background-color:#2bf"
|style="border-right:1px solid #733; background-color:#fff; text-align:right" rowspan="2" | 1964年度生 || ← || colspan="11"| 『四』 [[ドラえもん]] [[#list4|(4)]]<span id="tl4"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『五』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『六』 || style="background-color:#fff; border-left:1px solid #f00" colspan="4" |
|-style="border-bottom:1px solid #777"
| || style="background-color:#aaf" colspan="11"| 『四』 [[みきおとミキオ]] [[#list5|(5)]]<span id="tl5"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | ||style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" |
|- style="background-color:#2bf"
| style="border-right:1px solid #733; background-color:#fff; text-align:right" rowspan="2" | 1965年度生 || ← || colspan="11" | 『三』 [[ドラえもん]] [[#list6|(6)]]<span id="tl6"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『四』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『五』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="3" | 『六』 || style="text-align:right" |→
|- style="border-bottom:1px solid #777"
| style="background-color:#9cf" | ← || style="background-color:#9cf" colspan="11" | 『三』 [[バケルくん]] [[#list7|(7)]]<span id="tl7"> || style="background-color:#9cf; border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『四』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="4"|
|- style="background-color:#2bf"
| style="border-right:1px solid #733; background-color:#fff; text-align:right" rowspan="2" | 1966年度生 || ← || colspan="11"| 『二』 [[ドラえもん]] [[#list8|(8)]]<span id="tl8"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『三』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『四』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="3" | 『五』 || style="text-align:right" |→
|- style="border-bottom:1px solid #777"
| style="background-color:#9cf" | || style="background-color:#9cf" colspan="11" | 『二』 [[バケルくん]] [[#list9|(9)]]<span id="tl9"> || style="background-color:#9cf; border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『三』 || style="border-left:1px solid #f00" | || style="background-color:#aaf" colspan="8" | 『四』 バウバウ大臣 [[#list10|(10)]] ||style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="4"|
|- style="background-color:#2bf"
| style="border-right:1px solid #733; background-color:#fff; text-align:right" rowspan="2" | 1967年度生 || style="background-color:#fff" colspan="9" | || style="background-color:#fff; text-align:right; border-left:1px solid #733" colspan="2" | 『一』 || || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『二』 [[ドラえもん]] [[#list11|(11)]]<span id="tl11"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『三』 || style="border-left:1px solid #f00" colspan="3" | 『四』 || style="text-align:right" |→
|- style="border-bottom:1px solid #777"
| style="background-color:#fb5" | ← || style="background-color:#fb5" colspan="11"| 『一』 [[モッコロくん]] [[#list12|(12)]]<span id="tl12"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" | || style="background-color:#aaf" colspan="8" | 『三』 バウバウ大臣 [[#list13|(13)]] || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" | || colspan="3" |
|-
| style="border-right:1px solid #733; text-align:right" rowspan="2" | 1968年度生 || colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="5" | || style="background-color:#2bf" colspan="7" | 『一』 [[ドラえもん]] [[#list14|(14)]]<span id="tl14"> || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『二』 || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" colspan="3" | 『三』 || style="background-color:#2bf; text-align:right" |→
|- style="border-bottom:1px solid #777"
| style="background-color:#fb5" | || style="background-color:#fb5" colspan="11" | 『幼』 [[モッコロくん]] [[#list15|(15)]]<span id="tl15"> || style="border-left:1px solid #f00; background-color:#fb5" colspan="11"| 『一』 4じげんぼうPポコ [[#list16|(16)]] || ||style="border-left:1px solid #f00" colspan="2" | || style="background-color:#aaf" colspan="7" | 『二』 バウバウ大臣 [[#list17|(17)]] ||style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" |
|-style="border-bottom:1px solid #777"
| style="border-right:1px solid #733; text-align:right" | 1969年度生 || colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00; background-color:#fb5" colspan="12"| 『幼』 4じげんぼうPポコ [[#list18|(18)]]<span id="tl18"> || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 『一』 [[ドラえもん]] [[#list19|(19)]] || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" colspan="3" | 『二』 || style="background-color:#2bf; text-align:right" |→
|-
| style="border-right:1px solid #733; text-align:right" | 1970年度生 || colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" | || style="text-align:right; border-left:1px solid #f00" colspan="12" | [[ドラえもん]] [[#list20|(20)]]<span id="tl20"> || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #f00" colspan="3" | 『一』 || style="background-color:#2bf; text-align:right" |→
|- style="border:1px solid #733"
| style="text-align:right" colspan="2" | [[ちゃぐりん|こどもの光]] || style="background-color:#cf0; text-align:center; border-left:1px solid #733" colspan="40" | '''キテレツ大百科'''
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] || style="background-color:#e77; border-bottom:1px solid #777; border-left:1px solid #733" | ← || style="background-color:#e77; border-bottom:1px solid #777" colspan="7" | [[パジャママン]] [[#list21|(21)]]<span id="tl21"> || rowspan="5" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" rowspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" rowspan="3" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" rowspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" rowspan="3" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3" rowspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" rowspan="3" |
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[おともだち]] || style="background-color:#e77; border-left:1px solid #733" | ← || style="background-color:#e77" colspan="7" | [[パジャママン]] <span id="tl22">[[#list22|(22)]]
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[テレビマガジン]] || style="background-color:#e77; border-top:1px solid #777; border-bottom:1px solid #777; border-left:1px solid #733" | ← || style="background-color:#e77; border-top:1px solid #777; border-bottom:1px solid #777" colspan="6" | [[パジャママン]] [[#list23|(23)]]<span id="tl23"> ||
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[ディズニーランド (雑誌)|ディズニーランド]] || style="background-color:#e77; border-left:1px solid #733" | ← || style="background-color:#e77" colspan="7" | [[パジャママン]] [[#list24|(24)]]<span id="tl24"> || style="text-align:right; border-left:1px solid #733" colspan="3" | [[コミックトム|希望の友]] ||style="background-color:#fcc; border-left:1px solid #f00" colspan="27"| [[ポコニャン]] [[#list28|(28)]] || style="background-color:#fcc; text-align:right" | →
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[小学生ブック]] || style="background-color:#2bf; border-left:1px solid #733" | ← || style="background-color:#2bf" colspan="5" | [[ドラミ#外伝作品『ドラミちゃん』|ドラミちゃん]] [[#list25|(25)]]<span id="tl25"> || colspan="2" | || style="border-left:1px solid #733" colspan="3"| || style="border-left:1px solid #f00; text-align:right" colspan="11" | [[毎日こどもしんぶん]] || style="background-color:#aa6" colspan="16"| [[Uボー]] [[#list29|(29)]] || style="background-color:#aa6; text-align:right" | →
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[キンダーブック]] || style="background-color:#fb5; border-left:1px solid #733" | || style="background-color:#fb5" colspan="11" | つくるくん [[#list26|(26)]]<span id="tl26"> || style="border-left:1px solid #f00" colspan="9" rowspan="2" | || style="text-align:right; border-left:1px solid #733" colspan="5" | [[てれびくん]] || style="background-color:#e77" colspan="5" | [[きゃぷてんボン]] [[#list30|(30)]] || || style="background-color:#2bf" colspan="7"| [[ドラえもん]] [[#list31|(31)]] || style="background-color:#2bf; text-align:right" | →
|-
| style="text-align:right" colspan="2" | [[めばえ (雑誌)|めばえ]] || style="border-left:1px solid #733" | || style="background-color:#fb5; border-top:1px solid #777" colspan="11"| ぞうくんとりすちゃん [[#list27|(27)]]<span id="tl27"> || style="border-left:1px solid #733; text-align:right" colspan="3" | || style="border-left:1px solid #f00; text-align:right" colspan="9" | [[少年ビッグコミック|マンガくん]] || style="background-color:#daf; border-left:1px solid #733" colspan="6"| [[エスパー魔美]] [[#list32|(32)]] || style="background-color:#daf; text-align:right" | →
|- style="border-top:1px solid #733"
! rowspan="3" colspan="2" | !! style="border-left:1px solid #733;" | 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10 !! 11 !! 12 !! style="border-left:1px solid #733" | 1 !! 2 !! 3 !! style="border-left:1px solid #f00" | 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10 !! 11 !! 12 !! style="border-left:1px solid #733" | 1 !! 2 !! 3 !! style="border-left:1px solid #f00" | 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 10 !! 11 !! 12 !! style="border-left:1px solid #733" | 1 !! 2 !! 3 !! style="border-left:1px solid #f00" | 4 !! 5 !! 6 !! 7
|- style="border:1px solid #733"
! style="border-left:1px solid #733" colspan="9" | 1974年 !! style="border-left:1px solid #733" colspan="12" | 1975年 !! style="border-left:1px solid #733" colspan="12" | 1976年 !! style="border-left:1px solid #733" colspan="7" | 1977年
|-style="color:#f00"
! style="border-left:1px solid #733" colspan="12" | 1974年度 !! style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 1975年度 !! style="border-left:1px solid #f00" colspan="12" | 1976年度 !! style="border-left:1px solid #f00" colspan="4" | 1977年度
|}
</div>
=== 一覧 ===
<small>
* 凡例
** 年表と同様に、便宜的に『[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]』を含めた[[小学館の学年別学習雑誌|小学館の学年誌]]については年度毎に学年を繰り上げる形で記載。
*** 「雑誌」欄では「1962年生まれが読んだ学年誌」を「学年誌(1962年度生)」として記載。
*** 「開始」欄と「終了」欄では連載開始・終了誌を号数に併記。
**** 「開始:『幼稚園』1980年5月号・終了:『小三』1984年2月」と記載した場合、『幼稚園』1980年5月号 - 1981年3月号・『小学二年生』1982年4月号 - 1983年3月号・『小学三年生』1983年4月号 - 1984年2月号と学年を繰り上がり連載されたことを意味する。
** 〈[[藤子・F・不二雄大全集]]〉に収録済の作品についてはその通巻数を「F全集」欄に記載。巻数とタイトルの対応については[[藤子・F・不二雄大全集#書誌情報]]を参照。
** 「表」列の数字は上記年表の該当箇所へとリンクしており、色は年表に対応。
</small>
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller"
! !! タイトル !! 出版社 !! 雑誌 !! 開始 !! 終了 !! F全集 !! 表 !! 備考
|-
!1<span id="list1">
|[[ドラえもん]]||<span style="display:none">し</span>[[小学館]]||<span style="display:none">か</span>[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]](1962年度生)||<span style="display:none">1970年01月号1</span>『小一』1970年01月号||<span style="display:none">1975年03月号6</span>『小六』1975年03月号||FZ-002||style="background-color:#2bf" | [[#tl1|(1)]]||
|-
!2<span id="list2">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1963年度生)||<span style="display:none">1970年04月号1</span>『小一』1970年04月号||<span style="display:none">1976年03月号6</span>『小六』1976年03月号||FZ-003||style="background-color:#2bf" | [[#tl2|(2)]]||
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!3<span id="list3">
|<span style="display:none">ミ</span>[[みきおとミキオ]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1963年度生)||<span style="display:none">1974年05月号5</span>『小五』1974年05月号||<span style="display:none">1975年03月号5</span>『小五』1975年03月号||FZ-088||style="background-color:#aaf" | [[#tl3|(3)]]||
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!4<span id="list4">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1964年度生)||<span style="display:none">1971年04月号1</span>『小一』1971年04月号||<span style="display:none">1977年03月号6</span>『小六』1977年03月号||FZ-004||style="background-color:#2bf" | [[#tl4|(4)]]||
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!5<span id="list5">
|<span style="display:none">ミ</span>みきおとミキオ||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1964年度生)||<span style="display:none">1974年05月号4</span>『小四』1974年05月号||<span style="display:none">1975年03月号4</span>『小四』1975年03月号||FZ-088||style="background-color:#aaf" | [[#tl5|(5)]]||
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!6<span id="list6">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1965年度生)||<span style="display:none">1972年04月号1</span>『小一』1972年04月号||<span style="display:none">1978年03月号6</span>『小六』1978年03月号||FZ-005||style="background-color:#2bf" | [[#tl6|(6)]]||
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!7<span id="list7">
|[[バケルくん]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1965年度生)||<span style="display:none">1974年02月号2</span>『小二』1974年02月号||<span style="display:none">1976年03月号4</span>『小四』1976年03月号||FZ-058||style="background-color:#9cf" | [[#tl7|(7)]]||
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!8<span id="list8">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1966年度生)||<span style="display:none">1973年04月号1</span>『小一』1973年04月号||<span style="display:none">1979年03月号6</span>『小六』1979年03月号||FZ-006||style="background-color:#2bf" | [[#tl8|(8)]]||
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!9<span id="list9">
|バケルくん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1966年度生)||<span style="display:none">1974年04月号2</span>『小二』1974年04月号||<span style="display:none">1976年03月号3</span>『小三』1976年03月号||FZ-058||style="background-color:#9cf" | [[#tl9|(9)]]||
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!10<span id="list10">
|[[バウバウ大臣]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1966年度生)||<span style="display:none">1976年05月号4</span>『小四』1976年05月号||<span style="display:none">1976年12月号4</span>『小四』1976年12月号||FZ-088||style="background-color:#aaf" | [[#tl9|(10)]]||
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!11<span id="list11">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1967年度生)||<span style="display:none">1975年03月号1</span>『小一』1975年03月号||<span style="display:none">1980年03月号6</span>『小六』1980年03月号||FZ-007||style="background-color:#2bf" | [[#tl11|(11)]]||1977年4月号は2話掲載。
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!12<span id="list12">
|[[モッコロくん]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1967年度生)||<span style="display:none">1974年04月号1</span>『[[幼稚園 (雑誌)|幼稚園]]』1974年01月号||<span style="display:none">1975年03月号1</span>『小一』1975年03月号||FZ-092||style="background-color:#fb5" | [[#tl12|(12)]]||
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!13<span id="list13">
|バウバウ大臣||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1967年度生)||<span style="display:none">1976年05月号3</span>『小三』1976年05月号||<span style="display:none">1976年12月号3</span>『小三』1976年12月号||FZ-088||style="background-color:#aaf" | [[#tl12|(13)]]||
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!14<span id="list14">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1968年度生)||<span style="display:none">1975年09月号1</span>『小一』1975年09月号||<span style="display:none">1981年03月号6</span>『小六』1981年03月号||FZ-008||style="background-color:#2bf" | [[#tl14|(14)]]||
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!15<span id="list15">
|モッコロくん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1968年度生)||<span style="display:none">1974年04月号0</span>『幼稚園』1974年04月号||<span style="display:none">1975年03月号0</span>『幼稚園』1975年03月号||FZ-092||style="background-color:#fb5" | [[#tl15|(15)]]||
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!16<span id="list16">
|<span style="display:none">ヨ</span>[[4じげんぼうPポコ]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1968年度生)||<span style="display:none">1975年04月号1</span>『小一』1975年04月号||<span style="display:none">1976年02月号1</span>『小一』1976年02月号||FZ-092||style="background-color:#fb5" | [[#tl15|(16)]]||
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!17<span id="list17">
|バウバウ大臣||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1967年度生)||<span style="display:none">1976年06月号2</span>『小二』1976年06月号||<span style="display:none">1976年12月号2</span>『小二』1976年12月号||FZ-088||style="background-color:#aaf" | [[#tl15|(17)]]||
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!18<span id="list18">
|<span style="display:none">ヨ</span>4じげんぼうPポコ||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1969年度生)||<span style="display:none">1975年04月号0</span>『幼稚園』1975年04月号||<span style="display:none">1976年03月号0</span>『幼稚園』1976年03月号||FZ-092||style="background-color:#fb5" | [[#tl18|(18)]]||
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!19<span id="list19">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1969年度生)||<span style="display:none">1976年04月号1</span>『小一』1976年04月号||<span style="display:none">1982年04月号6</span>『小六』1982年04月号||FZ-009||style="background-color:#2bf" | [[#tl18|(19)]]||
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!20<span id="list20">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">か</span>学年誌(1970年度生)||<span style="display:none">1977年04月号1</span>『小一』1977年04月号||<span style="display:none">1983年04月号6</span>『小六』1983年04月号||FZ-010||style="background-color:#2bf" | [[#tl20|(20)]]||
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!21<span id="list21">
|[[パジャママン]]||<span style="display:none">こ</span>[[講談社]]||[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]||1973年12月号||1974年11月号||FZ-091||style="background-color:#e77" | [[#tl21|(21)]]||
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!22<span id="list22">
|パジャママン||<span style="display:none">こ</span>講談社||[[おともだち]]||1973年12月号||1974年11月号||FZ-091||style="background-color:#e77" | [[#tl22|(22)]]||
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!23<span id="list23">
|パジャママン||<span style="display:none">こ</span>講談社||<span style="display:none">てろ</span>[[テレビマガジン]]||1973年12月号||1974年10月号||FZ-091||style="background-color:#e77" | [[#tl23|(23)]]||
|-
!24<span id="list24">
|パジャママン||<span style="display:none">こ</span>講談社||<span style="display:none">てい</span>[[ディズニーランド (雑誌)|ディズニーランド]]||1974年01月号||1974年11月号||FZ-091||style="background-color:#e77" | [[#tl24|(24)]]||
|-
!25<span id="list25">
|[[ドラミ#外伝作品『ドラミちゃん』|ドラミちゃん]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">し</span>[[小学生ブック]]<ref group="注">3月号までの誌名は『小学館BOOK』。</ref>||1974年01月号||1974年09月号||FZ-020||style="background-color:#2bf" | [[#tl25|(25)]]||
|-
!26<span id="list26">
|<span style="display:none">ツ</span>[[つくるくん]]||<span style="display:none">ふ</span>[[フレーベル館]]||<span style="display:none">きん</span>[[キンダーブック]]||1974年04月号||1975年03月号||FZ-092||style="background-color:#fb5" | [[#tl26|(26)]]||
|-
!27<span id="list27">
|<span style="display:none">ソ</span>[[ぞうくんとりすちゃん]]||<span style="display:none">し</span>小学館||[[めばえ (雑誌)|めばえ]]||1974年05月号||1975年03月号||FZ-092||style="background-color:#fb5" | [[#tl27|(27)]]||
|-
!28<span id="list28">
|[[ポコニャン]]||<span style="display:none">う</span>[[潮出版社]]||<span style="display:none">きほ</span>[[コミックトム|希望の友]]||1975年04月号||1978年05月号||FZ-094||style="background-color:#fcc" | [[#tl24|(28)]]||
|-
!29<span id="list29">
|<span style="display:none">ユ</span>[[Uボー]]||<span style="display:none">ま</span>[[毎日新聞社]]||<span style="display:none">まい</span>[[毎日こどもしんぶん]]||1976年03月27日付||1979年08月25日付||FZ-093||style="background-color:#aa6" | [[#tl25|(29)]]||
|-
!30<span id="list30">
|<span style="display:none">キ</span>[[きゃぷてんボン]]||<span style="display:none">し</span>小学館||[[てれびくん]]||1976年06月号創刊号||1976年10月号||FZ-091||style="background-color:#e77" | [[#tl26|(30)]]||
|-
!31<span id="list31">
|ドラえもん||<span style="display:none">し</span>小学館||てれびくん||1976年12月号||1977年8月号||FZ-019||style="background-color:#2bf" | [[#tl26|(31)]]||
|-
!32<span id="list32">
|[[エスパー魔美]]||<span style="display:none">し</span>小学館||<span style="display:none">まん</span>[[少年ビッグコミック|マンガくん]]||<span style="display:none">1977年01月10日号</span>1977年創刊号(1月10日)||<span style="display:none">1978年08月25日号</span>1978年16号(8月25日)||FZ-053-055||style="background-color:#daf" | [[#tl27|(32)]]||この後、掲載誌が誌名変更。
|}
== テレビアニメ ==
{{Main|キテレツ大百科 (アニメ)}}
原作漫画の連載終了より10年以上が経った[[1987年]](昭和62年)[[11月2日]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]]で、90分のテレビスペシャル版を放送。この特番が好評を博したため、翌[[1988年]](昭和63年)[[3月27日]]から毎週日曜19時からの30分番組として同系列局でテレビシリーズが放映が開始された。フジテレビが藤子アニメのキー局となったのは本作が初。以降テレビシリーズは[[1996年]](平成8年)6月9日まで全331話が放送され、[[ゴールデンタイム]]で8年以上続く長寿番組となった。
アニメではブタゴリラが登った山が「城山」だったり、勉三の大学が「高尾大学」であることから、[[八王子市]]が舞台になっていることが推測できる。
== シアターアニメ ==
タイトルは『'''ドラえもん&キテレツ大百科「コロ助のはじめてのおつかい」'''』。[[藤子・F・不二雄ミュージアム]]施設内にあるFシアターで、開館4周年の記念日にあたる[[2015年]][[9月3日]]<ref>{{Cite web|和書|date=2015-08-25 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1508/25/news119.html |title=ドラえもんとコロ助が夢の共演! 藤子・F・不二雄ミュージアムでオリジナル短編映像「コロ助のはじめてのおつかい」公開 |publisher=アイティメディア(ねとらぼ) |accessdate=2018-05-10 }}</ref>から[[2016年]][[9月2日]]まで短編映画として公開。アニメーション作品として実に19年ぶりの新編となるほか、本作のアニメ版がドラえもんをはじめ他の藤子キャラと共演するのは初の試み。2018年1月25日より、同ミュージアムの企画展「『キテレツ大百科』×『ドラえもん』〜江戸時代の発明と未来のひみつ道具〜」に合わせて、再上映開始<ref>{{Cite web|和書|date=2017-12-21 |url=http://www.hmv.co.jp/newsdetail/article/1712211012/ |title=2018年の藤子ミュージアムはちょっと違う 新年のグッズやカフェメニューも公開に |publisher=ローソンHMVエンタテイメント(HMV&BOOKS online) |accessdate=2018-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180510115751/http://www.hmv.co.jp/en/newsdetail/article/1712211012/ |archivedate=2018-05-10}}</ref>。2019年1月25日より、同ミュージアムの企画展「キテレツ大百科」✕「ドラえもん」第Ⅲ期に合わせて再上映開始<ref>{{Twitter status2|川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム|1087274323348316162|accessdate=2023-06-18}}</ref>。また、2018年10月10日<ref>{{Cite web|和書|url=https://dora-world.com/contents/692 |title=Fシアター週替り6作品リバイバル上映!! |website=ドラえもんチャンネル |accessdate=2023-06-18 }}</ref>や2021年8月18日や2023年6月14日<ref>{{Cite web|和書|date=2023-05-09 |url=https://dora-world.com/contents/2950 |title=歴代7作品を順次上映!Fシアターリバイバル上映会開催! |website=ドラえもんチャンネル |accessdate=2023-06-17 }}</ref>など、概ね開館周年頃に他の過去作品と共に1週間ほど再上映が行なわれている(''[[藤子・F・不二雄ミュージアム#短編アニメ作品]]も参照'')。
フジテレビ版の設定でおなじみだったコロ助の帯刀がない、キテレツのサンバイザーのKマークがないなど<ref>{{Cite web|和書|date=2023-06-14 |url=https://fujiko-museum.com/blog/?p=32897/ |title=はじめてのおつかいに行くのは・・・ |website=藤子・F・不二雄ミュージアム 公式ブログ |accessdate=2023-06-17 }}</ref>、原作寄りの設定である。
; スタッフ
:* 原作 - 藤子・F・不二雄
:* 企画 - 大倉俊輔
:* 演出・作画監督 - [[大杉宜弘]]
:* アニメーション制作 - [[シンエイ動画]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://shin-ei-animation.jp/45th/timeline/timeline.pdf |title=シンエイ動画45周年のあゆみ |website=シンエイ動画 |format=PDF |accessdate=2023-06-20 }}</ref>
; キャスト
:* コロ助 - 杉山佳寿子<ref name="wasadora93">{{Cite web|和書|date=2015-09-05|url=https://www.tv-asahi.co.jp/reading/wasadora93/58366/ |title=コロ助役 杉山佳寿子さん |website=わさドラブログへようこそ(テレビ朝日) |accessdate=2023-06-17 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-09-07 |url=https://fujiko-museum.com/blog/?p=22345/ |title=オリジナル短編映像に最新作登場! |website=藤子・F・不二雄ミュージアム 公式ブログ |accessdate=2023-06-17 }}</ref>
:* [[ドラえもん (キャラクター)|ドラえもん]] - [[水田わさび]]<ref name="wasadora93" />
:* [[野比のび太]] - [[大原めぐみ]]
== 新キテレツ大百科 ==
{{節スタブ}}
アニメ化に合わせて連載されたリメイク作品で<ref name="cwff1" />、執筆は[[田中道明]]が担当。『[[月刊コロコロコミック]]』1988年(昭和63年)4月号と春休み増刊号にまず原作が再掲載され、その後を継ぐ形で同年5月号から1994年(平成6年)2月号まで連載された。単行本は〈[[てんとう虫コミックス]]〉より全6巻が発行された。
原作『キテレツ大百科』をベースにその世界観を広げたものであり、原稿を作成する際に何度も藤子・Fにネームや内容を修正してもらい制作していた。キャラクターの人格形成やコロ助のコロッケ好きなど、アニメの設定に大いに影響を与えている。
アニメの放送予告は連載終了後も最終回まで掲載されていた。
# 1989年11月発売、ISBN 4-09-141541-5
# 1990年1月発売、ISBN 4-09-141542-3
# 1991年4月発売、ISBN 4-09-141543-1
# 1992年3月発売、ISBN 4-09-141544-X
# 1993年6月発売、ISBN 4-09-141545-8
# 1994年5月発売、ISBN 4-09-141546-6
== ゲーム ==
以下の4タイトルが発売されている。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! 発売日 !!タイトル !! プラットフォーム !! ジャンル !! メーカー
|-
| [[1990年]][[2月23日]] || キテレツ大百科 || [[ファミリーコンピュータ]] || rowspan="2" | [[アクションゲーム]] || [[エポック社]]
|-
| [[1994年]][[7月15日]] || キテレツ大百科 冒険大江戸ジュラ紀 || [[ゲームボーイ]] || [[ビデオシステム]]
|-
| 1994年 || キテレツ大百科 えどにいってキテレツさいさまにあうナリ || [[キッズコンピュータ・ピコ]] || その他 || [[セガトイズ|セガ・エンタープライゼス]]
|-
| [[1995年]][[1月27日]] || キテレツ大百科 超時空すごろく || [[スーパーファミコン]] || [[ボードゲーム]] || ビデオシステム
|}
[[ファミリーコンピュータ]]版は、夢見鏡の世界に引き込まれたキテレツ達が脱出を目指すというもの。サイケデリックなマップパーツが単調に並ぶマップはこのゲームの一種の特徴である。ボタン連打による発明や、仲間が増えても攻撃などは一切しないばかりか増えた仲間の分だけ「当たり判定(ダメージを受ける部位)」が増加してしまい、逆にお荷物になってしまう斬新なシステムを持つ。コンティニューには序盤で発明する「キテレツ地獄」で”借金”を行う必要がある<ref>マイウェイ出版『ファミコンクソゲー番付』2017年1月25日、p108</ref>。
この他、[[2002年]][[11月21日]]に[[コナミ]]から発売された[[PlayStation 2]]用のソフト『[[pop'n music|pop'n music 7]]』には、アニメ主題歌の「[[はじめてのチュウ]]」と「すいみん不足」が収録されている。
== テレビドラマ ==
『[[ドラマ愛の詩]]』のスペシャルとして、[[日本放送協会|NHK]]による実写ドラマが製作されている。タイトルは『'''キテレツ'''』。初回の放送は[[NHK教育テレビジョン]]で[[2002年]]1月1日の18時30分から19時45分まで。その後、[[NHK総合テレビジョン|総合]]・教育の双方で何度か再放送されている。
[[コロ助]]はCGで作られて実写と合成され、声はアニメ版で初代にコロ助を演じた[[小山茉美]]が担当した。また、キテレツ斎役としては[[清川元夢]]が声のみで出演している。
=== スタッフ ===
* 原作:キテレツ大百科(作・藤子・F・不二雄)
* 製作・著作:[[日本放送協会|NHK]]
* 共同制作:[[NHKエンタープライズ|NHKエンタープライズ21]]
* 演出:一色隆司
* 脚本:[[戸田山雅司]]
* 製作統括:加賀田透、家喜正男
* 音楽:内山秀和
* 出演劇団&プロダクション:[[エンゼルプロ]]、[[劇団東俳]]、[[劇団ひまわり]]
=== キャスト ===
* 木手英一(キテレツ):[[山内秀一]]
* コロ助:[[小山茉美]](声)
* 御代田ミヨ子(みよちゃん):[[朝倉えりか|大柳絵梨香]]
* 尖浩二(トンガリ):[[東海孝之助]]
* 熊田かおる(ブタゴリラ):[[江成大輝]]
* 木手英太郎:[[山寺宏一]]
* 木手満子:[[山下容莉枝]]
* 刈野勉三:[[山本耕史]]
* キテレツ斎:[[清川元夢]](声)
* 宮原さおり:[[粟田麗]]
* 宮原権三郎:[[加藤武]]
* 宮原りつ:[[藤村志保]]
* 花園君子:[[井元由香]]
* 田辺先生:[[モロ師岡]]
* トラック運転手:[[藤原喜明]]
== CM ==
2013年に[[キリンビバレッジ]]『キリン にっぽん米茶』TVCMに起用、[[佐藤浩市]]がCGのコロ助と共演している<ref>[http://navicon.jp/news/18515/ キリンビバレッジ、「キリン にっぽん米茶」を発売、佐藤浩市、コロ助初共演TVCMを公開]navicom 2013年5月28日</ref>。コロ助の声優は[[浅野まゆみ]]。
== 書誌情報 ==
特記のないかぎり、著者は[[藤子・F・不二雄]]、発行は[[小学館]]。
* 『キテレツ大百科』
**[[藤子不二雄]]<ref group="注" name="name2">独立後の増版・増刷時に藤子・F・不二雄名義に変更している。</ref>〈[[てんとう虫コミックス]]〉、新書判、全3巻
**# 1977年8月25日初版第1刷発行、ISBN 4-09-140181-3
**# 1977年10月25日初版第1刷発行、ISBN 4-09-140182-1
**# 1977年12月25日初版第1刷発行、ISBN 4-09-140183-X
** 藤子不二雄<ref group="注" name="name2" /> [[中央公論新社|中央公論社]]〈中公コミックス [[藤子不二雄ランド]]〉、小B6判、全4巻 <ref group="注">( ) 内はFFランドの通巻数。</ref>
**# (59) 1985年8月16日初版発行、ISBN 4-12-410059-0
**# (63) 1985年9月20日初版発行、ISBN 4-12-410063-9
**# (67) 1985年10月18日初版発行、ISBN 4-12-410067-1
**# (71) 1985年11月15日初版発行、ISBN 4-12-410071-X
** 〈小学館コロコロ文庫〉文庫判、全2巻
**# 1995年5月20日(4月21日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=https://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784091940315|title=『キテレツ大百科〔小学館コロコロ文庫〕 1』|accessdate=2010-12-01}}</ref>)、ISBN 4-09-194031-5
**# 1995年5月20日(4月21日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=https://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784091940322|title=『キテレツ大百科〔小学館コロコロ文庫〕 2』|accessdate=2021-08-22}}</ref>)、ISBN 4-09-194032-3
** 〈[[藤子・F・不二雄大全集]]〉、A5判、全2巻 <ref group="注">( ) 内は大全集の通巻数。</ref>
**# (051) 2009年8月30日初版第1刷発行(8月25日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=https://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784091434043|title=『藤子・F・不二雄大全集 キテレツ大百科1』|accessdate=2010-12-01}}</ref>)、ISBN 978-4-09-143404-3
**# (052) 2009年10月28日初版第1刷発行(10月23日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=https://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784091434098|title=『藤子・F・不二雄大全集 キテレツ大百科2』|accessdate=2010-12-01}}</ref>)、ISBN 978-4-09-143409-8
* 藤子・F・不二雄/[[田中道明]]『新キテレツ大百科』〈てんとう虫コミックス〉、新書判、全6巻
*# 1989年11月28日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solc_dtl?isbn=4091415415|title=『新キテレツ大百科 1』|accessdate=2010-12-01}}</ref>、ISBN 4-09-141541-5
*# 1990年1月27日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solc_dtl?isbn=4091415423|title=『新キテレツ大百科 2』|accessdate=2010-12-01}}</ref>、ISBN 4-09-141542-3
*# 1991年4月26日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solc_dtl?isbn=4091415431|title=『新キテレツ大百科 3』|accessdate=2010-12-01}}</ref>、ISBN 4-09-141543-1
*# 1992年3月27日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solc_dtl?isbn=409141544X|title=『新キテレツ大百科 4』|accessdate=2010-12-01}}</ref>、ISBN 4-09-141544-X
*# 1993年6月28日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solc_dtl?isbn=4091415458|title=『新キテレツ大百科 5』|accessdate=2010-12-01}}</ref>、ISBN 4-09-141545-8
*# 1994年5月28日発売<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solc_dtl?isbn=4091415466|title=『新キテレツ大百科 6』|accessdate=2010-12-01}}</ref>、ISBN 4-09-141546-6
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
『キテレツ大百科』の漫画本編については単行本を指定せず、話数と副題で示す。
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==== 小学館コミック ====
以下の出典は『[https://shogakukan-comic.jp/ 小学館:コミック]』(小学館)内のページ。[[#書誌情報|書誌情報]]で発売日の出典としている。
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== 参考文献 ==<!-- 参考文献節を脚注節の前に移動しない(WP:ORDERに基づく) -->
[[#書誌情報]]記載したものを除いた主要参考文献のみを記載。この他の参考文献については個別脚注方式で[[#出典]]に記載している。
* 「キテレツ大百科」『Fの森の歩き方 藤子・F・不二雄まんがワールド探検公式ガイド』[[小学館]]〈[[藤子・F・不二雄大全集]]〉別巻、2010年7月28日初版第一刷発行(7月23日発日<ref group="小">{{Cite web|和書|date=<!-- 不明 -->|url=https://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784091434340|title=『藤子・F・不二雄大全集 別巻 Fの森の歩き方』|accessdate=2010-08-21}}</ref>)、ISBN 978-4-09-143434-0、86 - 95頁
* 『キテレツ大百科 アッとおどろくからくり道具大図解』小学館〈コロタン文庫〉115、1990年
=== Web ===
[[#書誌情報]]の参考とした。
* {{Cite web|和書|date=2010-09-25|url=http://homepage2.nifty.com/qden/ff/index.html|title=藤子・F・不二雄作品データベース|work=[http://homepage2.nifty.com/qden/index.html からつぶ] |accessdate=2010-12-06}}
=== 参考文献の注釈 ===
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== 外部リンク ==
* [https://www.shogakukan.co.jp/pr/tencomi/kiteretsu/ 『キテレツ大百科』新装版 全3巻] - 小学館
* {{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20041124081455/http://www.neoutopia.net/interviews/yukimuro.htm |title=雪室俊一インタビュー(NU SPECIAL INTERVIEW) |publisher=[[藤子不二雄FCネオ・ユートピア]] |accessdate=2014-03-10}}
* {{NHK放送史|D0009040375_00000|ドラマ愛の詩 キテレツ}}
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ワルシャワ
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ワルシャワ(Warszawa [varˈʂava] ( 音声ファイル);ヴァルシャヴァ)は、ポーランドの首都でかつ同国最大の都市。人口約180万人。マゾフシェ県の県都。ポーランドの政治、経済、交通の要衝でもある。
ワルシャワにはヴィスワ川の中流、マゾフシェ地方に位置し、市内をヴィスワ川が貫流する。第2次世界大戦後、戦火で荒廃した旧市街を「煉瓦のヒビに至るまで」復元して往時の町並みを回復した。1980年、ユネスコに「ワルシャワ歴史地区」として世界遺産に登録された。
製造業、鉄鋼業、電機産業、自動車産業などの工業都市であり、ワルシャワ大学を初めとするポーランド有数の高等教育機関が集中し、歌劇場やワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団を擁する首都。
毎年8月1日の午後5時、サイレンの音を合図にワルシャワ市内では人によりその場で直立不動となり1分間の黙祷を捧げるとされる。この1分間は全ワルシャワ市の部分的な機能が停止するとも云われる。これは1944年8月1日午後5時に開始されたワルシャワ蜂起での犠牲者を追悼する行事。この時刻およびその行事は、ワルシャワ(Warszawa)の頭文字をとって「時刻W」と呼ばれる。
ワルシャワについての最古の文書は13世紀、1285年のものである。当時のワルシャワはマゾフシェ公爵領に属し、漁業を中心とする寒村であった。マゾフシェ公爵家の家系の断絶に伴い、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入された。1596年、ジグムント3世の野心的な政策によってポーランド王宮廷は古都クラクフより移転し、ワルシャワは1611年に正式にポーランド(立憲君主制の多民族連邦国家ポーランド・リトアニア共和国)の首都となる。
1795年の第三次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれた。1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンが、ティルジット条約によってワルシャワ公国を建てるが、ナポレオン失脚にともなうウィーン会議で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国(ポーランド立憲王国)とすることが確認され、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につくことになった。
独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となくポーランド国家(ポーランド・リトアニア共和国)再興運動の中心地となった。1830年、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。
ポーランドを占領していたドイツ、オーストリアは第一次世界大戦で敗戦国となった。また、第一次世界大戦中に社会主義革命が起こったロシアでは、ソヴィエト政権が成立していた。パリ講和会議において、ポーランドの独立が承認され、ワルシャワは独立を回復させた。ポーランド・リトアニア共和国の継承国家として1918年にポーランドが独立を取り戻したのち、ワルシャワは再びポーランドの首都と定められた。
1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランド侵攻を開始、たちまちワルシャワはドイツ軍の電撃戦に晒され機械化部隊による攻撃や空襲を許した。9月16日にはドイツ軍特使がワルシャワ防衛軍司令官にあてに降伏勧告を出すが、司令官は拒否。市内にドイツ空軍により避難などを呼びかけるビラがまかれた後、翌9月17日未明から総攻撃が始まった。同日にはソビエト連邦によるポーランド侵攻も始まる。ソビエトのモロトフ外相はポーランド侵攻の正当性をラジオ放送を通じて訴え、「ワルシャワは、もはやポーランドの首都ではなくなった」と宣言している。
その後、ワルシャワはドイツ軍により陥落。1939年10月5日にはアドルフ・ヒトラーによるワルシャワ入城式が行われた。首都の施政権は失ったもののポーランド政府は降伏せずポーランド亡命政府としてパリ次いでロンドンに拠点を置き抵抗運動を開始。いっぽうワルシャワ市内居住のユダヤ人はドイツによってワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、1942年の移送と1943年4月19日に親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー解体で、国内の絶滅収容所に送られた(ワルシャワ・ゲットー蜂起)。
1944年8月1日、ソ連軍がワルシャワに迫り、市民に対してドイツ軍への蜂起を呼び掛ける放送が行われた。呼応したワルシャワ市民がワルシャワ蜂起を起こすが、ソ連軍は補給不足のため進撃を停止した。ドイツ軍はソ連軍の救援が無いのを見越して、反撃に転じた。結局、63日の戦闘の末、蜂起は鎮圧された。
1945年1月、ソ連軍が進撃を再開し、ヴィスワ=オーデル攻勢によりドイツ軍を排除した。その後44年にわたりポーランドはソ連の衛星国家とされ、ポーランド人民共和国が成立し、ワルシャワはその首都となった。ポーランド・リトアニア共和国を継承するポーランド亡命政府はロンドンに避難した。1989年9月7日にポーランドが法的に民主化、ポーランド共和国となり、ワルシャワはその首都となった(民主的なポーランド国会選挙は同年12月25日に復活した)。
現在ワルシャワ北部にある「旧市街」(Stare Miasto、1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)とその北隣りの「新市街」(Nowe Miasto、1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、第二次大戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたものである。この旧市街(Stare Miasto)、新市街(Nowe Miasto)、クラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmieście)、新世界通り(Nowy Świat)、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は1980年、ユネスコの世界遺産に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)もユネスコ記憶遺産に登録された。
ワルシャワの起源に関する伝説。 昔々、ヴィスワ川のほとりに小さな家があった。そこにはヴァルスとサヴァが住んでいた。ヴァルスは漁師であって、サヴァはヴァルスの妻である。あるとき、この近隣の地域を支配していたジェモメスゥ公(シェモメスゥ公とも)が狩に出かけた。獲物を追っているうちに、家来たちから離れ、森の中で迷ってしまった。夕暮れちかくになっても帰り道が見つからず、そのうちにヴィスワ川のほとりに行き着き、ヴァルスとサヴァの住む家を見つけた。夜に森を一人で歩くのは危険であるので、公はヴァルスとサヴァの家のドアをたたき、泊めてもらえるように頼んだ。ヴァルスとサヴァは見知らぬ客人を暖かく迎え、食事とベッドを用意した。このもてなしに公は大変感謝した。翌朝、公は、貧しい漁師夫婦に礼を言い、つづけて「見知らぬ人物を嫌がりもせず家に招きいれ、空腹、寒さ、野獣から救ってくれた。あなた方の親切がいつまでも忘れられることのないように、この地は今後いつまでもヴァルスの(ヴァルショヴァ Warszowa)土地である」
ただし、古代スラブ語においてサヴァは男性の名前であった事実は、議論の元になっている(現代ポーランド語では「a」で終わる名前は女性の名前である)。
1897年のロシアによる統計調査では市内の人口は638,000人で、そのうちユダヤ人が219,000人(34%)であった。第二次世界大戦前にはユダヤ人の数は35万人を越え、市民の3人に1人はユダヤ人であった。 2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる。
多くのワルシャワ市民は第二次大戦で亡くなった。キリスト教系市民はナチス・ドイツが行った数々のポーランド社会破壊作戦で、ユダヤ教系市民はホロコーストなどで殺害された。また、大戦末期のワルシャワ蜂起では約20万の市民が命を落とし、約70万人が逮捕され強制収容所に送られた。生き残った人々はソ連のポーランド支配による共産主義化を経験し多くのユダヤ人は他国へ移民した。その後何十年にもわたる共産主義体制に対する抵抗運動の中でユダヤ人活動家は東側諸国で初めての市民グループ(反共産主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)」)を結党した。ユダヤ系であった家族にはホロコーストや反ユダヤ運動、反ユダヤ主義を避けてローマ・カトリックに改宗した者もいた。現在、ワルシャワ市民の大半はキリスト教徒で、その大多数はローマ・カトリック教徒である。
ワルシャワは中央マゾフシェ低地にあり、平均海抜はおよそ100mである。市内にはいくつかの丘があるがその多くは人工的に築かれたものである。ヴィスワ川の中流に位置し、市域はその両岸に広がっている。カルパート山脈やバルト海からの距離はおよそ350km。
なお、中心市街地(シルドミェシチェ)は、18世紀から特に共産主義時代にかけて開発された、歴史地区でない市街地を中心として戦前のオフィス街とユダヤ人住宅街(アシュケナジム語、ケヒッラー)の一部がその主要部を占める。第二次世界大戦の時に、ナチスがユダヤ人地区にワルシャワ・ゲットーを作った。戦争終盤のワルシャワ蜂起の際、ナチスによって破壊され、戦後はソ連と国内の共産主義政権によって、ここの中心部は戦前とは異なる他の衛星国同様の共産主義の都市開発がされた。ワルシャワ中央駅、文化科学宮殿、近代的な高層ビルが何棟か立ち並ぶ。
ワルシャワは大陸性の湿潤気候である。バルト海沿岸地方が海洋性気候であるため、大陸性気候と海洋性気候の境目にあるワルシャワは比較的気候が安定しない。平均気温は8°C(1月の平均気温はマイナス3.0°C、7月が19.3°C)。年間降水量は680mm以下で、最も雨が降るのは7月である。冬季はしばしば気温が-20度を下回る寒さとなる。ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)と亜寒帯湿潤気候(湿潤大陸性気候)(Dfb)の境になる。
第二次世界大戦後、ポーランド人民共和国が発足すると、政府はソ連型経済の工業化政策を遂行、製鉄業や自動車産業の工場を集積した。民主化後の市場経済化のなかで、これらの国営工場の多くは倒産し、今も操業しているのは製鉄所や自動車工場などである。
国有企業の多くは一時経営が行き詰まり、民主化後に創業した新興企業が業績を伸ばしている。国内では金融都市ヴロツワフ、産業都市ポズナン、海運都市グダンスク、観光都市クラクフと並んで最も失業率の低い都市の1つである。
ワルシャワには、サッカー1部リーグのエクストラクラサに属するレギア・ワルシャワと、3部相当のIIリガ(英語版)に属するポロニャ・ワルシャワが本拠地を置いている。ワルシャワ出身の著名なアスリートとしては、ロベルト・レヴァンドフスキやヴォイチェフ・シュチェスニーなどが存在する。
「ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港」は、年間利用者数は約450万人、国内便・国際便あわせて一日に60便以上が運行。ポーランドで最大の空港。日本からは乗り継ぎ便で到着する状態が続いたが、2015年6月にはポーランドを代表する航空会社であるLOTポーランド航空が史上初のポーランド・日本間の直行路線・東京(成田)‐ワルシャワ線を開設すると発表。 2016年1月14日から東京(成田)〜ワルシャワ線にボーイング787-8型機で週3便定期運航する。 現在ワルシャワに2つ目の空港を建設することが検討されていて、おそらくワルシャワの北または西にある軍の空港を改築して設置されるものとみられる。のちとなる、2012年7月16日に、「ワルシャワ・モドリン空港」が開港した。
ワルシャワで最初の鉄道は「ワルシャワ・ウィーン鉄道」の第1期開業区間で、1845年に営業開始した。(ポーランド最初の鉄道は1830年代にすでに開通している)。現在ワルシャワはポーランドの重要な鉄道交通の要衝のひとつである。運賃が安く、またダイヤも他国に比較すると正確なため、PKP(Polskie Koleje Państwowe、ポーランド国有鉄道)は主要な交通手段となっている。ただし地方と地方を直接結ぶ長大路線が多いため、真冬にポーランドの各地方で豪雪が続くと全国的にダイヤが影響されて列車の遅延が頻繁に起こることがある。ポーランドの例年の降雪量はとくに多くはないが、たまに豪雪の年がある。
ワルシャワにある鉄道駅の中で、最も重要なのは「ワルシャワ中央駅」である。ポーランド国内のほとんどすべての都市や多くの中東欧の近隣都市と連絡している。ワルシャワには他に4つの主要駅と数十もの小さな駅がある。
3つの主要駅(ワルシャワ中央、ワルシャワ西、ワルシャワ東)をつなぐ路線は戦後に開通し、市の中心部では地下を通って運行している。1960年代には、この路線を地下鉄の路線に切り替えようという計画もあった。
ワルシャワ市内の交通機関は、トラム、地下鉄、バス、タクシーで、すべてワルシャワ市交通局によって管理されている。郊外では、民間業者に委託されている路線がある。
ワルシャワで最初のトラム路線は、1866年12月11日に開通した。当時は馬が客車を引くスタイルだった。1908年3月26日には、馬引きトラムの路線はすべて電化された。両大戦期間中にはトラムは国有化されて新たな路線も多く建設されたが、第二次世界大戦で破壊されてしまった。戦後、一部が再建されたが、大部分は廃止された。
現在ワルシャワ路面電車公社は車両729両と約132kmにおよぶ路線を所有している。25系統の路線を運行しており、うち1本が深夜営業をしている。主要な休日(例えば11月1日の諸聖人の日など)のさいに特別運行している路線もある。
1995年4月7日に1号線の、カバティ駅(Kabaty)からポリテフニカ駅(Politechnika)間が開通した。ワルシャワの市街地を南北を縦断するように走っている。2015年には2号線の第一期区間が営業を開始した。路線は東西方向に伸びている。3号線の計画がある。
ワルシャワのバス路線は総延長およそ2600kmで、1659台のバスが運行している。主要なターミナルは、ワルシャワの交通の中心地でもあるワルシャワ中央駅前。市交通局は現在176本の路線でバスを運行しており、そのうちの14本は深夜運行(0時 - 朝5時)を行っている。なお、ワルシャワ・オケンチェ空港から市中心部に行くバスもある。
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"text": "その後、ワルシャワはドイツ軍により陥落。1939年10月5日にはアドルフ・ヒトラーによるワルシャワ入城式が行われた。首都の施政権は失ったもののポーランド政府は降伏せずポーランド亡命政府としてパリ次いでロンドンに拠点を置き抵抗運動を開始。いっぽうワルシャワ市内居住のユダヤ人はドイツによってワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、1942年の移送と1943年4月19日に親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー解体で、国内の絶滅収容所に送られた(ワルシャワ・ゲットー蜂起)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1944年8月1日、ソ連軍がワルシャワに迫り、市民に対してドイツ軍への蜂起を呼び掛ける放送が行われた。呼応したワルシャワ市民がワルシャワ蜂起を起こすが、ソ連軍は補給不足のため進撃を停止した。ドイツ軍はソ連軍の救援が無いのを見越して、反撃に転じた。結局、63日の戦闘の末、蜂起は鎮圧された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "1945年1月、ソ連軍が進撃を再開し、ヴィスワ=オーデル攻勢によりドイツ軍を排除した。その後44年にわたりポーランドはソ連の衛星国家とされ、ポーランド人民共和国が成立し、ワルシャワはその首都となった。ポーランド・リトアニア共和国を継承するポーランド亡命政府はロンドンに避難した。1989年9月7日にポーランドが法的に民主化、ポーランド共和国となり、ワルシャワはその首都となった(民主的なポーランド国会選挙は同年12月25日に復活した)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 12,
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"text": "現在ワルシャワ北部にある「旧市街」(Stare Miasto、1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)とその北隣りの「新市街」(Nowe Miasto、1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、第二次大戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたものである。この旧市街(Stare Miasto)、新市街(Nowe Miasto)、クラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmieście)、新世界通り(Nowy Świat)、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は1980年、ユネスコの世界遺産に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)もユネスコ記憶遺産に登録された。",
"title": "歴史"
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"text": "ワルシャワの起源に関する伝説。 昔々、ヴィスワ川のほとりに小さな家があった。そこにはヴァルスとサヴァが住んでいた。ヴァルスは漁師であって、サヴァはヴァルスの妻である。あるとき、この近隣の地域を支配していたジェモメスゥ公(シェモメスゥ公とも)が狩に出かけた。獲物を追っているうちに、家来たちから離れ、森の中で迷ってしまった。夕暮れちかくになっても帰り道が見つからず、そのうちにヴィスワ川のほとりに行き着き、ヴァルスとサヴァの住む家を見つけた。夜に森を一人で歩くのは危険であるので、公はヴァルスとサヴァの家のドアをたたき、泊めてもらえるように頼んだ。ヴァルスとサヴァは見知らぬ客人を暖かく迎え、食事とベッドを用意した。このもてなしに公は大変感謝した。翌朝、公は、貧しい漁師夫婦に礼を言い、つづけて「見知らぬ人物を嫌がりもせず家に招きいれ、空腹、寒さ、野獣から救ってくれた。あなた方の親切がいつまでも忘れられることのないように、この地は今後いつまでもヴァルスの(ヴァルショヴァ Warszowa)土地である」",
"title": "歴史"
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"text": "ただし、古代スラブ語においてサヴァは男性の名前であった事実は、議論の元になっている(現代ポーランド語では「a」で終わる名前は女性の名前である)。",
"title": "歴史"
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"text": "1897年のロシアによる統計調査では市内の人口は638,000人で、そのうちユダヤ人が219,000人(34%)であった。第二次世界大戦前にはユダヤ人の数は35万人を越え、市民の3人に1人はユダヤ人であった。 2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる。",
"title": "歴史"
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"text": "多くのワルシャワ市民は第二次大戦で亡くなった。キリスト教系市民はナチス・ドイツが行った数々のポーランド社会破壊作戦で、ユダヤ教系市民はホロコーストなどで殺害された。また、大戦末期のワルシャワ蜂起では約20万の市民が命を落とし、約70万人が逮捕され強制収容所に送られた。生き残った人々はソ連のポーランド支配による共産主義化を経験し多くのユダヤ人は他国へ移民した。その後何十年にもわたる共産主義体制に対する抵抗運動の中でユダヤ人活動家は東側諸国で初めての市民グループ(反共産主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)」)を結党した。ユダヤ系であった家族にはホロコーストや反ユダヤ運動、反ユダヤ主義を避けてローマ・カトリックに改宗した者もいた。現在、ワルシャワ市民の大半はキリスト教徒で、その大多数はローマ・カトリック教徒である。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "ワルシャワは中央マゾフシェ低地にあり、平均海抜はおよそ100mである。市内にはいくつかの丘があるがその多くは人工的に築かれたものである。ヴィスワ川の中流に位置し、市域はその両岸に広がっている。カルパート山脈やバルト海からの距離はおよそ350km。",
"title": "地理"
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"text": "なお、中心市街地(シルドミェシチェ)は、18世紀から特に共産主義時代にかけて開発された、歴史地区でない市街地を中心として戦前のオフィス街とユダヤ人住宅街(アシュケナジム語、ケヒッラー)の一部がその主要部を占める。第二次世界大戦の時に、ナチスがユダヤ人地区にワルシャワ・ゲットーを作った。戦争終盤のワルシャワ蜂起の際、ナチスによって破壊され、戦後はソ連と国内の共産主義政権によって、ここの中心部は戦前とは異なる他の衛星国同様の共産主義の都市開発がされた。ワルシャワ中央駅、文化科学宮殿、近代的な高層ビルが何棟か立ち並ぶ。",
"title": "歴史地区"
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"text": "ワルシャワは大陸性の湿潤気候である。バルト海沿岸地方が海洋性気候であるため、大陸性気候と海洋性気候の境目にあるワルシャワは比較的気候が安定しない。平均気温は8°C(1月の平均気温はマイナス3.0°C、7月が19.3°C)。年間降水量は680mm以下で、最も雨が降るのは7月である。冬季はしばしば気温が-20度を下回る寒さとなる。ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)と亜寒帯湿潤気候(湿潤大陸性気候)(Dfb)の境になる。",
"title": "気候"
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{
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"text": "第二次世界大戦後、ポーランド人民共和国が発足すると、政府はソ連型経済の工業化政策を遂行、製鉄業や自動車産業の工場を集積した。民主化後の市場経済化のなかで、これらの国営工場の多くは倒産し、今も操業しているのは製鉄所や自動車工場などである。",
"title": "経済"
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"text": "国有企業の多くは一時経営が行き詰まり、民主化後に創業した新興企業が業績を伸ばしている。国内では金融都市ヴロツワフ、産業都市ポズナン、海運都市グダンスク、観光都市クラクフと並んで最も失業率の低い都市の1つである。",
"title": "経済"
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"text": "ワルシャワには、サッカー1部リーグのエクストラクラサに属するレギア・ワルシャワと、3部相当のIIリガ(英語版)に属するポロニャ・ワルシャワが本拠地を置いている。ワルシャワ出身の著名なアスリートとしては、ロベルト・レヴァンドフスキやヴォイチェフ・シュチェスニーなどが存在する。",
"title": "スポーツ"
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"text": "「ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港」は、年間利用者数は約450万人、国内便・国際便あわせて一日に60便以上が運行。ポーランドで最大の空港。日本からは乗り継ぎ便で到着する状態が続いたが、2015年6月にはポーランドを代表する航空会社であるLOTポーランド航空が史上初のポーランド・日本間の直行路線・東京(成田)‐ワルシャワ線を開設すると発表。 2016年1月14日から東京(成田)〜ワルシャワ線にボーイング787-8型機で週3便定期運航する。 現在ワルシャワに2つ目の空港を建設することが検討されていて、おそらくワルシャワの北または西にある軍の空港を改築して設置されるものとみられる。のちとなる、2012年7月16日に、「ワルシャワ・モドリン空港」が開港した。",
"title": "交通機関"
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{
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"text": "ワルシャワで最初の鉄道は「ワルシャワ・ウィーン鉄道」の第1期開業区間で、1845年に営業開始した。(ポーランド最初の鉄道は1830年代にすでに開通している)。現在ワルシャワはポーランドの重要な鉄道交通の要衝のひとつである。運賃が安く、またダイヤも他国に比較すると正確なため、PKP(Polskie Koleje Państwowe、ポーランド国有鉄道)は主要な交通手段となっている。ただし地方と地方を直接結ぶ長大路線が多いため、真冬にポーランドの各地方で豪雪が続くと全国的にダイヤが影響されて列車の遅延が頻繁に起こることがある。ポーランドの例年の降雪量はとくに多くはないが、たまに豪雪の年がある。",
"title": "交通機関"
},
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"text": "ワルシャワにある鉄道駅の中で、最も重要なのは「ワルシャワ中央駅」である。ポーランド国内のほとんどすべての都市や多くの中東欧の近隣都市と連絡している。ワルシャワには他に4つの主要駅と数十もの小さな駅がある。",
"title": "交通機関"
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"text": "3つの主要駅(ワルシャワ中央、ワルシャワ西、ワルシャワ東)をつなぐ路線は戦後に開通し、市の中心部では地下を通って運行している。1960年代には、この路線を地下鉄の路線に切り替えようという計画もあった。",
"title": "交通機関"
},
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"paragraph_id": 27,
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"text": "ワルシャワ市内の交通機関は、トラム、地下鉄、バス、タクシーで、すべてワルシャワ市交通局によって管理されている。郊外では、民間業者に委託されている路線がある。",
"title": "交通機関"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "ワルシャワで最初のトラム路線は、1866年12月11日に開通した。当時は馬が客車を引くスタイルだった。1908年3月26日には、馬引きトラムの路線はすべて電化された。両大戦期間中にはトラムは国有化されて新たな路線も多く建設されたが、第二次世界大戦で破壊されてしまった。戦後、一部が再建されたが、大部分は廃止された。",
"title": "交通機関"
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"text": "現在ワルシャワ路面電車公社は車両729両と約132kmにおよぶ路線を所有している。25系統の路線を運行しており、うち1本が深夜営業をしている。主要な休日(例えば11月1日の諸聖人の日など)のさいに特別運行している路線もある。",
"title": "交通機関"
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{
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"text": "1995年4月7日に1号線の、カバティ駅(Kabaty)からポリテフニカ駅(Politechnika)間が開通した。ワルシャワの市街地を南北を縦断するように走っている。2015年には2号線の第一期区間が営業を開始した。路線は東西方向に伸びている。3号線の計画がある。",
"title": "交通機関"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "ワルシャワのバス路線は総延長およそ2600kmで、1659台のバスが運行している。主要なターミナルは、ワルシャワの交通の中心地でもあるワルシャワ中央駅前。市交通局は現在176本の路線でバスを運行しており、そのうちの14本は深夜運行(0時 - 朝5時)を行っている。なお、ワルシャワ・オケンチェ空港から市中心部に行くバスもある。",
"title": "交通機関"
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] |
ワルシャワは、ポーランドの首都でかつ同国最大の都市。人口約180万人。マゾフシェ県の県都。ポーランドの政治、経済、交通の要衝でもある。
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{{Otheruses|ポーランドの首都|イギリスにかつて存在したバンド「ワルシャワ」|ジョイ・ディヴィジョン}}
{{Infobox Settlement
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'''ワルシャワ'''({{Lang|pl|Warszawa}} {{IPA-pl|varˈʂava||Pl-Warszawa.ogg}};'''ヴァルシャヴァ''')は、[[ポーランド]]の[[首都]]でかつ同国最大の都市。人口約180万人。[[マゾフシェ県]]の県都。ポーランドの[[政治]]、[[経済]]、[[交通]]の要衝でもある。
== 概要 ==
ワルシャワには[[ヴィスワ川]]の中流、マゾフシェ地方に位置し、市内をヴィスワ川が貫流する。第2次世界大戦後、戦火で荒廃した旧市街を「[[煉瓦]]のヒビに至るまで」復元して往時の町並みを回復した。[[1980年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]に「[[ワルシャワ歴史地区]]」として[[世界遺産]]に登録された。
[[製造業]]、[[鉄鋼業]]、[[電機産業]]、[[自動車産業]]などの[[工業]]都市であり、[[ワルシャワ大学]]を初めとするポーランド有数の[[高等教育|高等教育機関]]が集中し、[[歌劇場]]や[[ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団]]を擁する首都。
毎年[[8月1日]]の午後5時、[[サイレン]]の音を合図にワルシャワ市内では人によりその場で直立不動となり1分間の黙祷を捧げるとされる。この1分間は全ワルシャワ市の部分的な機能が停止するとも云われる。これは1944年8月1日午後5時に開始された[[ワルシャワ蜂起]]での犠牲者を追悼する行事。この時刻およびその行事は、ワルシャワ(Warszawa)の頭文字をとって「時刻W」と呼ばれる。
== 歴史 ==
ワルシャワについての最古の文書は[[13世紀]]、[[1285年]]のものである。当時のワルシャワは[[マゾフシェ公国|マゾフシェ公爵領]]に属し、漁業を中心とする寒村であった。[[マゾフシェ・ピャスト家|マゾフシェ公爵家]]の家系の断絶に伴い、マゾフシェ地方は[[ポーランド王国]]に編入された。[[1596年]]、[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]の野心的な政策によってポーランド王宮廷は古都[[クラクフ]]より移転し、ワルシャワは[[1611年]]に正式にポーランド([[立憲君主制]]の多民族連邦国家[[ポーランド・リトアニア共和国]])の首都となる。
[[ファイル:VarsaviaViaBrzozowa2.jpg|left|サムネイル|旧市街「白樺通り」から「新市街」([[15世紀]]以前に開発された「旧市街」に対して15世紀に新たに開かれた歴史的市街地)の「聖カシミロ教会」方面]]
1795年の[[第三次ポーランド分割]]で[[プロイセン王国|プロイセン]]領に組み込まれた。1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンが、[[ティルジット条約]]によって[[ワルシャワ公国]]を建てるが、ナポレオン失脚にともなう[[ウィーン会議]]で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国([[ポーランド立憲王国]])とすることが確認され、ロシア皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]がポーランド国王の座につくことになった。
独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となくポーランド国家([[ポーランド・リトアニア共和国]])再興運動の中心地となった。1830年、[[十一月蜂起]](ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1860年代前半にも民族運動が高揚し([[一月蜂起]])、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的な[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。
ポーランドを占領していたドイツ、オーストリアは第一次世界大戦で敗戦国となった。また、第一次世界大戦中に社会主義革命が起こったロシアでは、ソヴィエト政権が成立していた。[[パリ講和会議]]において、ポーランドの独立が承認され、ワルシャワは独立を回復させた。[[ポーランド・リトアニア共和国]]の継承国家として[[1918年]]にポーランドが独立を取り戻したのち、ワルシャワは再びポーランドの首都と定められた。
[[1939年]][[9月1日]]に[[ナチス・ドイツ]]が[[ポーランド侵攻]]を開始、たちまちワルシャワはドイツ軍の[[電撃戦]]に晒され機械化部隊による攻撃や[[空襲]]を許した。9月16日にはドイツ軍特使がワルシャワ防衛軍司令官にあてに降伏勧告を出すが、司令官は拒否。市内にドイツ空軍により避難などを呼びかけるビラがまかれた後、翌9月17日未明から総攻撃が始まった<ref>独軍、ワルシャワを総攻撃『東京日日新聞』昭和14年9月18日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p364 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。同日には[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻]]も始まる。ソビエトの[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ外相]]はポーランド侵攻の正当性をラジオ放送を通じて訴え、「ワルシャワは、もはやポーランドの首都ではなくなった」と宣言している<ref>ソ連軍が突如ポーランド領に侵入『東京日日新聞』昭和14年9月18日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p363)</ref>。
その後、ワルシャワはドイツ軍により陥落。1939年[[10月5日]]には[[アドルフ・ヒトラー]]によるワルシャワ入城式が行われた<ref>ヒトラー、ワルシャワ入城式『東京日日新聞』昭和14年10月7日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p365)</ref>。首都の施政権は失ったもののポーランド政府は降伏せず[[ポーランド亡命政府]]として[[パリ]]次いで[[ロンドン]]に拠点を置き抵抗運動を開始。いっぽうワルシャワ市内居住のユダヤ人はドイツによって[[ワルシャワ・ゲットー]]([[ポーランド系ユダヤ人|ユダヤ人]]居住区)へ集められ、[[1942年]]の移送と[[1943年]][[4月19日]]に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]少将[[ユルゲン・シュトロープ]]によるゲットー解体で、国内の[[絶滅収容所]]に送られた([[ワルシャワ・ゲットー蜂起]])。
[[1944年]][[8月1日]]、[[ソ連軍]]がワルシャワに迫り、市民に対してドイツ軍への蜂起を呼び掛ける放送が行われた。呼応したワルシャワ市民が[[ワルシャワ蜂起]]を起こすが、ソ連軍は補給不足のため進撃を停止した。ドイツ軍はソ連軍の救援が無いのを見越して、反撃に転じた。結局、63日の戦闘の末、蜂起は鎮圧された。
[[1945年]]1月、ソ連軍が進撃を再開し、[[ヴィスワ=オーデル攻勢]]によりドイツ軍を排除した。その後44年にわたりポーランドはソ連の[[衛星国家]]とされ、[[ポーランド人民共和国]]が成立し、ワルシャワはその首都となった。ポーランド・リトアニア共和国を継承する[[ポーランド亡命政府]]はロンドンに避難した。[[1989年]][[9月7日]]に[[ポーランド民主化運動|ポーランドが法的に民主化]]、[[ポーランド|ポーランド共和国]]となり、ワルシャワはその首都となった(民主的な[[セイム|ポーランド国会]]選挙は同年12月25日に復活した)。
[[ファイル:Destroyed Warsaw, capital of Poland, January 1945.jpg|thumb|第二次世界大戦末期の戦闘で瓦礫の山と化したワルシャワ中心部.|left|250x250ピクセル]]
[[ファイル:Msza św na Pl Zwycięstwa.jpg|thumb|[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が1979年に母国ポーランドのワルシャワを訪れ[[独立自主管理労働組合「連帯」]]を支援するミサを行った.|left|250x250ピクセル]]
現在ワルシャワ北部にある「旧市街」(Stare Miasto、1611年のワルシャワ[[遷都]]より前に作られた歴史的市街地)とその北隣りの「新市街」(Nowe Miasto、1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、第二次大戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたものである。この旧市街(Stare Miasto)、新市街(Nowe Miasto)、クラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmieście)、新世界通り(Nowy Świat)、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「'''[[ワルシャワ歴史地区]]'''」は[[1980年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)も[[ユネスコ記憶遺産]]に登録された<ref>{{cite web |url=http://www.unesco.org/new/en/communication-and-information/flagship-project-activities/memory-of-the-world/register/full-list-of-registered-heritage/registered-heritage-page-1/archive-of-warsaw-reconstruction-office/ |title=Archive of Warsaw Reconstruction Office |publisher=United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization |work=UNESCO Memory of the World Archives |accessdate=2015-12-26}}</ref>。
[[ファイル:Warsaw 07-13 img23 View from StAnne Church tower.jpg|サムネイル|マリエンシュタット地区(王宮そばにある、ヴィスワ川を利用した交易に従事した[[ユダヤ人]]商人が多く住んだ街)<br>[[第二次世界大戦]]で破壊されたが、戦後にワルシャワ市民が[[ボランティア]]で修復した]]
=== ワルシャワの起源に関する伝説 ===
ワルシャワの起源に関する伝説<ref group="注釈">ワルスとサワが関係するワルシャワの起源に関する伝説には、別のストーリーもある。このストーリーについては、例えば、[http://www.warsawtour.pl/index.php?id=55&all=847588418& ワルシャワ市観光オフィスのサイト(ポーランド語)]を参照。</ref>。<!-- 本節(25 July 2009 12:32 に対する編集)は、[[:pl:Wars (postać legendarna)]] 22:49, 17 June 2009 UTC の翻訳。説明語句を追加、翻訳元の誤記訂正、第二レベルの節としての体裁を整えるために一部文章を入替・削除・改変、脚注(外部リンク)の追加 -->
昔々、ヴィスワ川のほとりに小さな家があった。そこにはヴァルスとサヴァが住んでいた。ヴァルスは漁師であって、サヴァはヴァルスの妻である。あるとき、この近隣の地域を支配していたジェモメスゥ<!-- 翻訳元は Ziemiomysł/ジェミオメスゥ だが、同じ翻訳元にある Siemomysł に対応するとすれば Ziemomysł であるべきなので(先頭のSをZの音で読んでいた時期がある)、Ziemiomysł は、Ziemomysł の誤記として本翻訳では訂正した -->公(シェモメスゥ公とも)が狩に出かけた。獲物を追っているうちに、家来たちから離れ、森の中で迷ってしまった。夕暮れちかくになっても帰り道が見つからず、そのうちにヴィスワ川のほとりに行き着き、ヴァルスとサヴァの住む家を見つけた。夜に森を一人で歩くのは危険であるので、公はヴァルスとサヴァの家のドアをたたき、泊めてもらえるように頼んだ。ヴァルスとサヴァは見知らぬ客人を暖かく迎え、食事とベッドを用意した。このもてなしに公は大変感謝した。翌朝、公は、貧しい漁師夫婦に礼を言い、つづけて「見知らぬ人物を嫌がりもせず家に招きいれ、空腹、寒さ、野獣から救ってくれた。あなた方の親切がいつまでも忘れられることのないように、この地は今後いつまでも''ヴァルスの(ヴァルショヴァ Warszowa)''土地である」
ただし、古代スラブ語においてサヴァは男性の名前であった事実は、議論の元になっている(現代ポーランド語では「a」で終わる名前は女性の名前である)。
=== 人口構成 ===
[[1897年]]のロシアによる統計調査では市内の人口は638,000人で、そのうち[[ポーランド系ユダヤ人|ユダヤ人]]が219,000人(34%)であった。[[第二次世界大戦]]前にはユダヤ人の数は35万人を越え、市民の3人に1人はユダヤ人であった。<br />
2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる<ref>Berman Institute, World Jewish Population. North American Jewish Data Bank. (See Table 1: Jewish Population by Country, 1920s-1930s; PDF file, direct download 52.4 KB. https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:Rv2hLhme008J:www.jewishdatabank.org/Reports/World_Jewish_Population_2010.pdf+world+jewish+population+2010&hl=en&gl=us&pid=bl&srcid=ADGEEShFmlEo2XYeBjYVUGgz_STm8ZXvaFqIMHdpfxUC8uWpDuLqb9l7GvJbF2piXHqxgDaGkOY3jfCA_RkpUlKLSByoSQC3cLV-5LcpxgXggqUIYwzK9hdfmwVv4Sz0BdeFMxJ_-2To&sig=AHIEtbT5tVUek4PSi_N_5f0Dwe-11sBzMg</ref>。
多くのワルシャワ市民は第二次大戦で亡くなった。キリスト教系市民は[[ナチス・ドイツ]]が行った[[ポーランド人に対するナチスの犯罪|数々のポーランド社会破壊作戦]]で、ユダヤ教系市民は[[ホロコースト]]などで殺害された。また、大戦末期の[[ワルシャワ蜂起]]では約20万の市民が命を落とし、約70万人が逮捕され強制収容所に送られた。生き残った人々は[[ソ連]]のポーランド支配による[[共産主義]]化を経験し多くのユダヤ人は他国へ移民した。その後何十年にもわたる共産主義体制に対する抵抗運動の中でユダヤ人活動家は[[東側諸国]]で初めての市民グループ(反共産主義グループ「[[:en:Workers' Defence Committee (KOR)]]」)を結党した。ユダヤ系であった家族にはホロコーストや[[ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動|反ユダヤ運動]]、[[反ユダヤ主義]]を避けて[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗した者もいた。現在、ワルシャワ市民の大半は[[キリスト教徒]]で、その大多数はローマ・カトリック教徒である。
== 地理 ==
ワルシャワは中央マゾフシェ低地にあり、平均海抜はおよそ100mである。市内にはいくつかの丘があるがその多くは人工的に築かれたものである。[[ヴィスワ川]]の中流に位置し、市域はその両岸に広がっている。[[カルパート山脈]]や[[バルト海]]からの距離はおよそ350km。
== 歴史地区 ==
[[ファイル:2018-07-08 Old Town Market Square in Warsaw.jpg|サムネイル|旧市街広場]]
[[ファイル:Rynek Nowego Miasta w Warszawie 2017.jpg|サムネイル|「新市街」広場と聖カシミロ教会([[15世紀]]以前に開発された「旧市街」に対して15世紀に新たに開かれた歴史的市街地)]]
[[ファイル:Warszawa, ul. Nowomiejska, Barbakan 20170516 004.jpg|サムネイル|バルバカンから聖霊教会を望む]]
#'''王の道'''(トラクト・クルレフスキ) - 南部の[[ヴィラヌフ宮殿]]から北上し、官庁街と[[ワジェンキ公園|ワジェンキ水上宮殿公園]]を抜けて中心市街地に入り、[[新世界通り]]から[[クラクフ郊外通り]]を北上して、[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]王の像が頂上にある柱が立っている[[王宮前広場]]に至る。また、[[ワルシャワ王宮|王宮]]の南東側には昔、水上交通に従事するマリエンシュタットという旧ユダヤ人街がある。王の道はワルシャワ観光の背骨を構成する。
#'''[[ワルシャワ歴史地区|旧市街]]'''(スタレ・ミャスト) - 王宮前広場から北に向かって広がる。ワルシャワと[[クラクフ]]には、{{仮リンク|バービカン (城)|en|Barbican|label=バルバカン}}(円形の砦)を基点に旧城壁が取り囲む一帯が旧市街で、旧市街広場を中心とする。[[14世紀]]頃、建設された。
#'''新市街'''(ノヴェ・ミャスト) - 旧市街の北の城壁を取り払ってその北側一帯。[[15世紀]]に開発された古い街区。[[マリ・キュリー]]の生家(現在は博物館)と[[新市街広場]]もある。
<gallery mode="packed">
ファイル:Plac_Zamkowy,widok_z_góry,Warszawa.jpg|王宮前広場
ファイル:Kolumna_Zygmunta_III_Wazy,Warszawa.jpg|王宮と[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]王の像のコルムナ(石柱)
ファイル:Założenie urbanistyczne ul. Piwna Warszawa K.Przygodzki.jpg|ピヴナ通り
ファイル:Stone_Stairs.jpg|旧市街の小路
ファイル:Warszawa, ul. Mostowa 8 20170516 001.jpg|青い家
</gallery>
なお、'''中心市街地'''(シルドミェシチェ)は、[[18世紀]]から特に共産主義時代にかけて開発された、歴史地区でない市街地を中心として戦前のオフィス街とユダヤ人住宅街([[アシュケナジム式ヘブライ語|アシュケナジム語]]、[[ケヒッラー]])の一部がその主要部を占める。[[第二次世界大戦]]の時に、[[ナチス]]がユダヤ人地区に[[ワルシャワ・ゲットー]]を作った。戦争終盤の[[ワルシャワ蜂起]]の際、ナチスによって破壊され、戦後は[[ソ連]]と国内の[[共産主義]]政権によって、ここの中心部は戦前とは異なる他の[[衛星国]]同様の共産主義の都市開発がされた。[[ワルシャワ中央駅]]、[[文化科学宮殿]]、近代的な[[高層ビル]]が何棟か立ち並ぶ。
== 気候 ==
ワルシャワは大陸性の湿潤気候である。バルト海沿岸地方が[[海洋性気候]]であるため、[[大陸性気候]]と海洋性気候の境目にあるワルシャワは比較的気候が安定しない。平均気温は8℃(1月の平均気温はマイナス3.0℃、7月が19.3℃)。年間降水量は680mm以下で、最も雨が降るのは7月である。冬季はしばしば気温が-20度を下回る寒さとなる。[[ケッペンの気候区分]]では[[西岸海洋性気候]](Cfb)と[[亜寒帯湿潤気候]]([[湿潤大陸性気候]])(Dfb)の境になる。
{{Weather box
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|single line=Yes
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|Mar record low F=−10.3
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|Jan precipitation mm=21
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|source 1=<ref>{{en icon|date=June 2011}} {{cite web|author=|url=http://www.imgw.pl/index.php?option=com_content&view=article&id=147&Itemid=180 |title=Institute of Meteorology and Water Management |work=www.imgw.pl|publisher= |accessdate=25 August 2010}}</ref>
|date=August 2010
}}
== 経済 ==
[[ファイル:Warsaw7ob.jpg|thumb|right|新都心]]
[[第二次世界大戦後]]、[[ポーランド人民共和国]]が発足すると、政府はソ連型経済の工業化政策を遂行、製鉄業や自動車産業の工場を集積した。民主化後の市場経済化のなかで、これらの国営工場の多くは倒産し、今も操業しているのは製鉄所や自動車工場などである。
国有企業の多くは一時経営が行き詰まり、民主化後に創業した新興企業が業績を伸ばしている。国内では金融都市[[ヴロツワフ]]、産業都市[[ポズナン]]、海運都市[[グダンスク]]、観光都市[[クラクフ]]と並んで最も失業率の低い都市の1つである。
== 教育 ==
*[[ワルシャワ大学]]
*[[ワルシャワ工科大学]]
*[[ワルシャワ経済大学]]
*[[ショパン音楽アカデミー]]
*[[SWPS大学|SWPS社会科学・人文科学大学]]
<gallery>
ファイル:Warszawa, ul. Krakowskie Przedmieście 26, 28 20170517 001.jpg|ワルシャワ大学 正門
ファイル:Uni-Bibliothek, Universität Warschau.JPG|ワルシャワ大学 新図書館
ファイル:Gmach Główny Politechniki Warszawskiej 2018.jpg|ワルシャワ工科大学 本館
ファイル:Uniwersytet Muzyczny Fryderyka Chopina wejście główne 2018.jpg|ショパン音楽アカデミー
</gallery>
== スポーツ ==
{{Main|Category:ワルシャワのスポーツ}}
ワルシャワには、[[サッカー]]1部リーグの[[エクストラクラサ]]に属する[[レギア・ワルシャワ]]と、3部相当の{{仮リンク|IIリガ|en|II liga}}に属する[[ポロニャ・ワルシャワ]]が[[本拠地]]を置いている。ワルシャワ出身の著名な[[アスリート]]としては、[[ロベルト・レヴァンドフスキ]]や[[ヴォイチェフ・シュチェスニー]]などが存在する。
== 交通機関 ==
[[ファイル:Lotnisko Chopina w Warszawie 2018b.jpg|サムネイル|ワルシャワ・ショパン空港]]
[[ファイル:Dworzec Centralny w Warszawie hala widziana z antresoli 2018f.jpg|サムネイル|ワルシャワ中央駅 コンコース]]
[[ファイル:1. PKP Intercity S.A.jpg|サムネイル|ポーランド国鉄 インターシティ]]
[[ファイル:Tram in Warsaw, Pesa Jazz 134N n°3813.jpg|サムネイル|トラム]]
[[ファイル:Warsaw Metro Plac Wilsona 2.jpg|thumb|ワルシャワの地下鉄駅]]
=== 空港 ===
「[[ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港]]」は、年間利用者数は約450万人、国内便・国際便あわせて一日に60便以上が運行。ポーランドで最大の空港。日本からは乗り継ぎ便で到着する状態が続いたが、[[2015年]][[6月]]にはポーランドを代表する航空会社である[[LOTポーランド航空]]が史上初のポーランド・日本間の直行路線・東京(成田)‐ワルシャワ線を開設すると発表。
[[2016年]]1月14日から[[東京]]([[成田国際空港|成田]])〜'''ワルシャワ'''線に[[ボーイング787]]-8型機で週3便定期運航する。
現在ワルシャワに2つ目の空港を建設することが検討されていて、おそらくワルシャワの北または西にある軍の空港を改築して設置されるものとみられる。のちとなる、[[2012年]][[7月16日]]に、「[[ワルシャワ・モドリン空港]]」が'''開港'''した。
=== 鉄道 ===
ワルシャワで最初の鉄道は「[[1号線 (ポーランド)|ワルシャワ・ウィーン鉄道]]」の第1期開業区間で、1845年に営業開始した。(ポーランド最初の鉄道は1830年代にすでに開通している)。現在ワルシャワはポーランドの重要な鉄道交通の要衝のひとつである。運賃が安く、またダイヤも他国に比較すると正確なため、PKP(Polskie Koleje Państwowe、ポーランド国有鉄道)は主要な交通手段となっている。ただし地方と地方を直接結ぶ長大路線が多いため、真冬にポーランドの各地方で[[豪雪]]が続くと全国的にダイヤが影響されて列車の遅延が頻繁に起こることがある。ポーランドの例年の降雪量はとくに多くはないが、たまに豪雪の年がある。
ワルシャワにある鉄道駅の中で、最も重要なのは「[[ワルシャワ中央駅]]」である。ポーランド国内のほとんどすべての都市や多くの中東欧の近隣都市と連絡している。ワルシャワには他に4つの主要駅と数十もの小さな駅がある。
*ワルシャワの主要駅
**[[ワルシャワ中央駅]] (Warszawa Centralna)
**[[ワルシャワ西駅]] (Warszawa Zachodnia)
**[[ワルシャワ東駅]] (Warszawa Wschodnia)
**[[ワルシャワ・グダニスク駅]] (Warszawa Gdańska)
**ワルシャワ・ヴィリニュス駅 (Warszawa Wileńska)
3つの主要駅(ワルシャワ中央、ワルシャワ西、ワルシャワ東)をつなぐ路線は戦後に開通し、市の中心部では地下を通って運行している。[[1960年代]]には、この路線を地下鉄の路線に切り替えようという計画もあった。
=== 市内交通機関 ===
ワルシャワ市内の交通機関は、[[路面電車|トラム]]、[[地下鉄]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[タクシー]]で、すべてワルシャワ市交通局によって管理されている。郊外では、民間業者に委託されている路線がある。
==== トラム ====
{{Main|ワルシャワ市電}}
ワルシャワで最初のトラム路線は、1866年12月11日に開通した。当時は馬が[[客車]]を引くスタイルだった。1908年3月26日には、馬引きトラムの路線はすべて[[鉄道の電化|電化]]された。両大戦期間中にはトラムは国有化されて新たな路線も多く建設されたが、[[第二次世界大戦]]で破壊されてしまった。戦後、一部が再建されたが、大部分は廃止された。
現在ワルシャワ路面電車公社は車両729両と約132kmにおよぶ路線を所有している。25系統の路線を運行しており、うち1本が深夜営業をしている。主要な休日(例えば[[11月1日]]の[[諸聖人の日]]など)のさいに特別運行している路線もある。
==== 地下鉄 ====
{{Main|ワルシャワ地下鉄}}
[[1995年]][[4月7日]]に1号線の、カバティ駅(Kabaty)からポリテフニカ駅(Politechnika)間が開通した。ワルシャワの市街地を南北を縦断するように走っている。[[2015年]]には2号線の第一期区間が営業を開始した。路線は東西方向に伸びている。3号線の計画がある。
==== バス ====
ワルシャワのバス路線は総延長およそ2600kmで、1659台のバスが運行している。主要なターミナルは、ワルシャワの交通の中心地でもあるワルシャワ中央駅前。市交通局は現在176本の路線でバスを運行しており、そのうちの14本は深夜運行(0時 - 朝5時)を行っている。なお、ワルシャワ・オケンチェ空港から市中心部に行くバスもある。
==主なランドマーク==
[[ファイル:Pałac Kultury i Nauki - 01.jpg|サムネイル|文化科学宮殿]]
[[ファイル:Zamek Ostrogskich w Warszawie 2022.jpg|thumb|right|ショパン博物館]]
* 旧市街 Stare Miasto
* 聖十字架教会 Kościół pw. Św. Krzyża
* サスキ公園 Ogród Saski
* ニケの像 Nike Warszawska
* [[文化科学宮殿]] Pałac Kultury i Nauki
* [[ワジェンキ公園]] Park Łazienkowski
* [[ヴィラヌフ宮殿]] Pałac Wilanowski
* ゲットー英雄記念碑 Pomnik Bohaterów Getta
* ツィタデラ Cytadela
* 人魚像(ワルシャワ市の紋章)Pomnik Syreny
* [[ワルシャワ国立美術館|国立美術館]] Muzeum Narodowe
* 軍事博物館 Muzeum Wojska Polskiego
* ワルシャワ歴史博物館 Muzeum Historyczne Miasta Stołecznego Warszawy
* [[ショパン博物館]] Muzeum Chopina w Warszawie
* キュリー夫人博物館 Muzeum Marii Skłodowskiej-Curie
* [[ポーランド地質調査所地質博物館]] Państwowego Instytutu Badawczego w Warszawie
== 著名な出身者 ==
{{Main|Category:ワルシャワ出身の人物}}
[[ファイル:Kamienica Łyszkiewicza w Warszawie 2020.jpg|サムネイル|[[マリ・キュリー|キュリー夫人]]の生家]]
* [[フレデリック・ショパン]]
** 1810年にワルシャワ郊外の[[ジェラゾヴァ・ヴォラ]]に生まれ、その同年に同地に移り住んでいる。ワルシャワの聖十字架教会にはショパンの心臓が埋められている。世界最高のピアノコンクールの1つである『[[ショパン国際ピアノコンクール]]』は、5年に一度ワルシャワで開催される。
* [[マリ・キュリー]]
** 1867年にワルシャワに生まれる。生家はヴァルヴァカンを出た新市街にあり、現在は博物館(''Muzeum Marii Skłodowskiej Curie'')になっている。この博物館には夫人の研究に関する展示がなされている。
* [[ヤヌシュ・コルチャック]]
** 本名ヘンルィク・ゴールドシュミット。1878年にワルシャワのユダヤ人一家に生まれる。作家として数多くの児童文学作品を遺し、医師や教育者として孤児の教育に取り組んだ。1942年にナチスの[[ホロコースト|ユダヤ人絶滅政策]]の中、[[トレブリンカ強制収容所]]に移送され殺害された。
* [[モルデハイ・アニエレヴィッツ]] - [[ワルシャワ・ゲットー蜂起]]の指揮官
* [[ズビグネフ・ブレジンスキー]] - [[政治学者]](米カーター政権大統領補佐官)
* [[ヴワディスワフ・レイモント]] - [[作家]]([[ノーベル文学賞]]受賞)
* [[リシャルト・カプシチンスキ]] - [[ジャーナリスト]]
* [[イスラエル・エプスタイン]] - ジャーナリスト([[中華人民共和国|中国]]に帰化)
* [[カジミェシュ・クラトフスキ]] - [[数学者]]
* [[ブノワ・マンデルブロ]] - 数学者
* [[ヴァツワフ・シェルピニスキ]] - 数学者
* [[ルドヴィコ・ザメンホフ]] - [[言語学者]]
* [[クシシュトフ・キェシロフスキ]] - [[映画監督]]
* [[ヴォイチェフ・シュチェスニー]] - [[プロサッカー選手]]
* [[ロベルト・レヴァンドフスキ]] - プロサッカー選手
* [[タマラ・ド・レンピッカ]] - [[画家]]
* [[ウワディスワフ・シュピルマン]] - [[ピアニスト]](映画『[[戦場のピアニスト]]』の主人公)
* [[クシシュトフ・コメダ]] - [[ジャズ]]・ピアニスト
* [[ヴィトルト・ルトスワフスキ]] - [[作曲家]]・ピアニスト
* [[カロリーナ・フォルタン]] - [[女流棋士 (将棋)]]
== 姉妹都市・提携都市・友好都市 ==
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
*{{Flagicon|GER}} - [[デュッセルドルフ]] [[ドイツ]]([[1989年]])
*{{Flagicon|JPN}} - [[浜松市]] [[日本]]([[1990年]])
*{{Flagicon|FRA}} - [[パリ]] [[フランス]](1990年)
*{{Flagicon|CAN}} - [[トロント]] [[カナダ]](1990年)
*{{Flagicon|GER}} - [[ベルリン]] [[ドイツ]]([[1991年]])
*{{Flagicon|NED}} - [[デン・ハーグ|ハーグ]] [[オランダ]](1991年)
*{{Flagicon|TUR}} - [[イスタンブール]] [[トルコ]](1991年)
*{{Flagicon|ISR}} - [[テルアビブ]] [[イスラエル]]([[1992年]])
*{{Flagicon|CHN}} - [[ハルビン市|ハルビン]] [[中華人民共和国|中国]]([[1993年]])
*{{Flagicon|UKR}} - [[キエフ]] [[ウクライナ]]([[1994年]])
*{{Flagicon|GBR}} - [[ロンドン]] [[イギリス]](1994年)
*{{Flagicon|FRA}} - [[イル=ド=フランス地域圏]] フランス
*{{Flagicon|ESP}} - [[マドリード]] [[スペイン]]
{{Col-2}}
*{{Flagicon|ROC}} - [[台北市|台北]] [[中華民国|台湾]]([[1995年]])
*{{Flagicon|FRA}} - [[サン=テティエンヌ]] フランス(1995年)
*{{Flagicon|USA}} - [[シカゴ]] [[アメリカ合衆国]](1995年)
*{{Flagicon|KOR}} - [[ソウル特別市|ソウル]] [[大韓民国|韓国]]([[1996年]])
*{{Flagicon|BRA}} - [[リオ・デ・ジャネイロ]] ブラジル(1997年)
*[[グロズヌイ]] [[チェチェン共和国]](1997年)
*{{Flagicon|LTU}} - [[ヴィリニュス]] [[リトアニア]]([[1998年]])
*{{Flagicon|VIE}} - [[ハノイ]] [[ベトナム|ヴェトナム]]([[2000年]])
*{{Flagicon|AUT}} - [[ウィーン]] [[オーストリア]]([[2001年]])
*{{Flagicon|KAZ}} - [[アスタナ]] [[カザフスタン]]([[2002年]])
*{{Flagicon|LAT}} - [[リガ]] [[ラトビア]](2002年)
*{{Flagicon|HUN}} - [[ブダペスト]] [[ハンガリー]]([[2005年]])
*{{Flagicon|NOR}} - [[オスロ]] [[ノルウェー]]([[2006年]])
{{Col-end}}
== ギャラリー ==
<gallery mode="packed">
ファイル:Poland-01104 - Castle Garden Side (30397740244).jpg|[[ヴィスワ川]]の方から見た王宮
ファイル:Marble Room at the Royal Castle in Warsaw, Poland.jpg|王宮
ファイル:Pomnik_Syreny_na_Rynku_Starego_Miasta_w_Warszawie(6).jpg|人魚像
ファイル:Warszawa,_ul._Podwale,_zespół_murów_obronnych_Starego_Miasta_20170516_003.jpg|小さな戦士の像
ファイル:Pomnik Bohaterów Warszawy 2019.jpg|ニケ(ナイキ)の像
ファイル:Warszawa, ul. Freta 38 20170516 001.jpg|フレタ通り
ファイル:Kościół św. Jacka w Warszawie 01.jpg|聖ヤツェク教会
ファイル:Brama Mostowa w Warszawie 2017.jpg|旧橋の門
ファイル:Pałac Sapiehów w Warszawie elewacja frontowa 20202.jpg|サピェハ家の宮殿
ファイル:Kościół św. Franciszka w Warszawie 2021.jpg|フランシスコ会教会
ファイル:Warschau Adam Mickiewicz Heykel-0065.jpg|詩人アダム・ミツキェヴィチの像
ファイル:Warsaw08186x.jpg|大統領宮殿(ラジヴィウ家の宮殿)とユゼフ・ポニャトフスキの像<br>18世紀[[新古典主義建築|ポーランド・ネオクラシカル様式]]の代表的建築物
ファイル:Warszawa, ul. Krakowskie Przedmieście 30 20170516 001.jpg|ウルスキ家とチェトゥヴェルティニスキ家の宮殿
ファイル:Jesus statue in front of the Holy Cross church Warsaw.jpg|聖十字架教会前のイエスの像
ファイル:Sarkofag serce Chopin Warszawa 01.jpg|ショパンの心臓が埋められている柱
ファイル:Warszawa, ul. Nowy Świat 72-74 20170517 003.jpg|コペルニクス像とスタシッツ家の宮殿(現ポーランド科学アカデミー)
ファイル:Independence Day Warsaw 2013 MG 5549.JPG|新世界通りでパレード
ファイル:Warszawa, ul. Nowy Świat 33 20170516 001.jpg|カフェ・ブリクレ
ファイル:St Alexander church in Warsaw.JPG|聖アレクサンドル教会
ファイル:AleksanderWarszawa.jpg|破壊前の聖アレクサンドル教会
ファイル:5 Warszawa 083.jpg|ベルヴェデル宮殿
ファイル:4 Warszawa-Zamek Ujazdowski 03.jpg|ウヤズドフスキ家の宮殿
ファイル:Pałac_na_wodzie_w_Łazienkach_Królewskich_(cropped).jpg|[[ワジェンキ公園|ワジェンキ水上王宮]]
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== 注釈 ==
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== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[ワルシャワ歴史地区]]
* [[ポーランドの観光地]]
* [[ヴィラヌフ宮殿]]
* [[文化科学宮殿]]
* [[ワジェンキ公園]]
* [[ワルシャワ条約機構]]
* [[ワルシャワ蜂起]]
* [[世界遺産の一覧 (ヨーロッパ)|世界遺産の一覧]]
* [[ゲットー]]
* [[パヴィアク刑務所]]
* [[ワルシャワ近代美術館]]
== 外部リンク ==
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スエズ運河
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スエズ運河(スエズうんが、قناة السويس qanāt as-suwēs)は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。
建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。
スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)やグレートビター湖など4か所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。
運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月にナーセル大統領が運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ、運河は海軍のショートカットやチョークポイントとして、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトとイスラエル)は、特にスエズ運河に関心を持っている。
2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。この拡張工事は、スエズ運河の容量を1日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された有利子の投資証明書で賄われた。新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。
2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。
運河は、喫水20メートル (66 ft)以下または載貨重量トン数240,000トン以下かつ水面からの高さが68メートル (223 ft)以下、最大幅77.5メートル (254 ft)以下の船が航行できる。これを上限とする基準をスエズマックスという。この基準では、超大型のタンカーは航行できない。載貨重量数が超過するような場合は、荷物の一部を運河が所有する船に一時的に分載して、通過後に再度載せ直すことも行われる。
1869年に運河が開通するまで、トーマス・フレッチャー・ワグホーンの陸送郵便やロバート・スチーブンソンの鉄道路など、地中海と紅海の間は船から荷降ろしされ陸上を運搬する方法がしばしば用いられていた。
スエズ運河を通過しなければ、アフリカ大陸南端のアガラス岬を回航しなければならない。現在でもこの航路を取る必要があるスエズマックスを超過する船は、ケープサイズと呼ばれる。ロンドン - 横浜間を例に取ると、アフリカ回航では14,500海里 (26,900 km)かかるところを、スエズ運河を通れば距離は11,000海里 (20,000 km)となり、24%の短縮となる。ただし、21世紀初頭にはソマリア沖の海賊や高い保険料を避けるために、この航路を取る船が増えた。
スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無く、運河中に閘門は設置されていない。運河を通行できる航路は1レーンのみ設定されており、船がすれ違う場所は、エル=カンタラ(英語版)近郊のバッラ・バイパスやグレートビター湖など5カ所に限定される。
そこで通常は、10-15隻程度の船団3つを組んで航行することになる。ある一日を例に挙げれば、北から1船団が早朝に進入し、グレートビター湖に停泊すると南から上る船団を待ち、ここですれ違う。この南からの船団はバッラ・バイパスまで進むとここに留まり、北から来る2番目の船団とすれ違う。
運河を通過するには、8ノット (15 km/h)の速度で、11時間から16時間かかる。このような低速航行をすることで、運河の岸が波で浸食されることを防いでいる。スエズ運河は年中無休で運用されている。
1960年代から運河は全面的な改修が行われた。第1期工事は1961年に始まったがスエズ動乱で長く中断し、1975年に再開され、1980年に13億ドルをかけた拡張計画が終了した。これによって航路幅は89メートルから160メートルに、水深は14.5メートルから19.5メートルとなり、通過できる船舶の規模も拡大した。
1995年までに、ヨーロッパで消費された石油の3分の2はスエズ運河を経由して運ばれた。世界の近海航路を利用する船舶では7.5%がスエズ運河を利用し、2008年の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が納められた。1隻あたり平均料金は25万1千ドルである。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともにパナマ運河を上回る。
スエズ運河庁(SCA)理事会は、2008年1月1日付けで船舶やタンカーの運河通行に関する規則を改訂した。その最も重要な点は、62フィート船舶の通行許可と、船舶最大幅を32メートル (105 ft)から40メートル (130 ft)まで拡大したこと、運河の境界内でダイバーを活用する際、事前にSCAの許可を得なければ罰金が科せられるようになったことがある。また、放射性物質や可燃物などの危険物を積載した船舶についても、国際協定で定める最新の規定に適合していれば通行が認められた。
またSCAは、軍艦の通過時に使われるタグボートの隻数を取り決める権限を持ち、航行時の高い安全性を確保している。
経済的には、スエズ運河が完成したことで主に地中海沿岸諸国の海上貿易国に恩恵がもたらされた。地中海沿岸の国々は、イギリスやドイツなどの北欧や西欧の海の交易国よりも、はるかに速いスピードで近東や極東とつながっていた。ハプスブルク家の主要貿易港であるトリエステは、中欧と直結していたこともあり、この時期に急成長を遂げた。
19世紀の蒸気船によるボンベイへの旅を想定した場合、スエズ運河を利用することでブリンディジ、トリエステからは37日、ジェノヴァからは32日、マルセイユからは31日、ボルドー、リヴァプール、ロンドン、アムステルダム、ハンブルグからは24日の短縮になったという。当時は、輸送する商品が高価な運河の関税に耐えられるかどうかも検討する必要があった。そのため、中欧や東欧への陸路を持つ地中海の港が急速に発展していったのである。今日の船会社の情報によると、シンガポールからロッテルダムまでスエズ運河を経由するルートは、アフリカを回るルートに比べて6000キロ、9日間短縮されるという。その結果、アジアとヨーロッパを結ぶ定期船は、このルート短縮により44%のCO2(二酸化炭素)を削減することができる。スエズ運河は、東アフリカと地中海地域を結ぶ重要な役割を担っている。
20世紀には、2つの世界大戦とスエズ運河危機のために、スエズ運河を介した貿易は何度も中断された。また、多くの貿易の流れは、地中海の港からハンブルグやロッテルダムなどの北欧のターミナルへと移っていった。冷戦の終結、欧州の経済統合の進展、CO2排出量の考慮、中国のシルクロード構想などを経て、ピレウスやトリエステなどの地中海沿岸の港が再び成長と投資の焦点となっている。
スエズ運河建設に伴って、ナイル川デルタからワジ・トゥミラットを経由しスエズ南部やポートサイド北部まで通じていた淡水の運河は分断された。これらの淡水運河は1863年には完成され、乾燥地帯に淡水を運ぶ機能を担っていた。この淡水は当初は運河建設に、後には運河沿いの農業や生活用水に利用されていた。
紅海は地中海東岸よりも約1.2メートル (3.9 ft)高いが、グレートビター湖において海水は冬に北へ、夏に南へ流れる。干満は湖の南岸で生じるが、その高さはスエズ市沿岸部とは異なっている。このグレートビター湖はかつて過塩性湖であり、1869年の運河開通後数十年間はその高い塩分ゆえに紅海と地中海の間で生物の移動を防いでいた。しかし長い時間を経て水が入れ替わり、湖の塩分が低下すると、紅海の動植物が地中海東部に進出して生育域を作り出した。紅海は一般に大西洋よりも塩分が高く栄養に乏しい。そのため紅海種の生物は、地中海の中でも高塩分・貧養分の東側領域では大西洋種よりもその環境に馴染み進出したが、逆に地中海側の生物が紅海で繁殖することはほとんど無い。この移住現象は「レセップス移動(英語版)」と呼ばれる。
このような地中海東部の生態系への影響は、1968年のアスワン・ハイ・ダム運用開始なども関わった。ナイル川全体の様々な開発も伴い、ナイルデルタや地中海へ流れ込む淡水の総量は減少し、栄養分が豊富なシルト類が行き渡らなくなった。これによって海域の塩分希釈が少なくなり、自然に起こる濁度も低下し、地中海東部の環境をより紅海に近い状態にした。
運河の建設によって侵入した紅海種は移入種として、地中海の生態系の中で無視できない数まで繁殖し、環境に深刻な影響を与えている。地中海の地域種や固有種には圧迫され衰退が懸念されるものも多く存在する。既に約300種以上の紅海からの移入種は確認され、潜在的にはそれ以上の数が既に地中海に移動していると考えられる。エジプト政府は運河の拡充を志向しており、生物海洋学者らはこのことが紅海種侵入のさらなる拡大に繋がるのではと懸念している。
古代エジプトには、ナイル川から紅海まで達する東西方向の淡水運河があり、「ファラオの運河」と呼ばれている。 現在も同様のルートを、カイロ市からスエズ市への灌漑用水路が通っている。
これは、センウセルト2世もしくはラムセス2世の拠出によって細い運河が開削されたというもの、もしくはこの運河を組み込みながら ネコ2世の時代に取り組みが始まり、ダレイオス1世の頃に完工した運河を指すものである。
エジプト第12王朝ファラオのセンウセルト2世やセンウセルト3世など伝説的セソストリスらは、紀元前1897年から紀元前1839年にかけてナイル川と紅海を繋ぐ運河の建設に乗り出したと言われる。これは、当時の紅海は現代よりも北まで海進しており、現在のグレートビター湖やティムサーハ湖(英語版)も海域にあった。
アリストテレスは『気象論』にて以下のように記述している。
ストラボンは、セソストリスが運河建設に取り掛かったと記した。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは『博物誌』に、エジプト王セソストリスが船舶用運河で紅海の港とナイル川デルタを結び、その延長距離は60マイルであった事、後にペルシアの王ダレイオスが同じ発想を持ち、またプトレマイオス2世も幅100フィート、深さ30フィートの溝をグレートビター湖に至る長さ100マイルに渡って設けた事を書き残している。
19世紀後半、フランスの地理学者は、ティムサーハ湖の東側を通ってグレートビター湖の北端近くまで達する、南北を結ぶ古代の運河を発見した。この運河は前述のものと異なり、ティムサーハ湖付近まで海進していた紅海沿岸を航行した船がそのまま北進する運河だったと考えられる。20世紀には、ティムサーハ湖からバッラ湖(現在のバッラ・バイパス付近)まで延長する工事の跡が発見され、これは運河沿いに建てられた古代遺跡からエジプト中王国以降のものと推測された。これがセソストリス時代の古代運河と同じか否か判明しておらず、東方に対する塹壕の可能性も消されていない。
紀元前1470年のハトシェプスト在位時に行われたプント遠征譚を描いたレリーフには、遠征軍がプントからの帰路が航海だったことを表現している。この事から、当時紅海とナイル川を結ぶ航路が存在したという提言がある。このレリーフから、運河はラムセス2世在位の紀元前13世紀頃まで存在したと想像される
東西を結ぶ運河の遺構は、古代エジプトのブバスティス、アヴァリス(ペル・ラメセス、英: Pi-Ramesses)、ビション(英語版)を結び、これは1799年に技術者や地図製作者を率いたナポレオン・ボナパルトが発見した。これは『エジプト誌(英語版)』にまとめられた。
ギリシアのヘロドトスが著した『歴史』によると、紀元前600年頃にネコ2世はブバスティスとピション(ヘリオポリス)を東西に貫きワジ・トゥミラートを通る運河建設に着手したとあり、それをヘリオポリス湾(英語版)と紅海まで延長したと考えられる。しかし、彼の事業は完遂されなかったとも伝わる。
ヘロドトスの記述によると、数字には疑わしい点もあるがこの事業で120,000人が死亡したという。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの言では、ネコ2世の運河拡張は57マイルにおよび、これは谷を通りながらブバスティスからグレートビター湖へ至る距離に相当する。ヘロドトスが述べた距離1,000スタディオン以上(114マイル以上)とは、当時のナイル川と紅海を完全に繋げる距離である。
ネコ2世が死去すると事業は中止された。ヘロドトスはその理由を、運河の完成は他国に利すると警告する神託があったためという。実際には、ネブカドネザル2世との戦争が事業継続を不可能にした。
ネコ2世の運河は、古代エジプトを征服したペルシアのダレイオス1世によって完成された。当時、ヘリオポリス湾と紅海の間にはグレートビター湖のちょうど南に位置したシャルーフ(Shaluf、Chalouf、Shaloof)の町近郊を通る自然の水路があった。しかしこれはシルトで埋まっていたため、ダレイオス1世は浚渫させて船の通行を可能にしたと言われる。こうして造られた運河は、ヘロドトスによると2隻の三段櫂船がオールを出した状態ですれ違うことが出来る程に広く、全長を進むのに4日間を有した。ダレイオス1世はこの事業を記念し、スエズ市から数マイル北にあるカブレット(Kabret)近郊などナイル川の土手に数多い花崗岩製の石碑を据えた。この『大ダレイオスのスエズ碑銘(英語版)』は以下のように伝える。
運河はナイル川のブバスティスに繋がっていた。ピションにある記念柱の碑文によると、紀元前270年もしくはその翌年にプトレマイオス2世は、紅海のヘリオポリス湾にあるアルシノエ(英語版)に閘門つき水門を設置し、海水が運河に流れ込まず淡水が維持されるように工夫して運河を再開させたとある。
歴史家の研究によると、紅海の海岸線は徐々に後退し、数世紀後にはティムサーハ湖やグレートビター湖の位置より遥か南の、現在の位置まで下がったと考えられている。さらに、ナイル川で堆積する泥の存在も、運河が通る国々にとって維持補修することを困難なものとした。プトレマイオス2世から約100年後のクレオパトラ7世の頃には、ナイル川デルタのペルシウム支流に溜まったシルトによって、東西を結ぶ運河はどれも航行不能な状態になってしまった。
8世紀までの時期、オールドカイロと紅海を結ぶ運河が存在した。ただし、誰によって建設されたかは複数の説があり、トラヤヌス、アムル・イブン・アル=アース、ウマル・イブン・ハッターブのいずれかではないかと考えられている。この運河はナイル川沿いのオールドカイロと現在のスエズ近郊を結んでいた。地理学者のディクイルは、8世紀前半に聖地を巡礼したイギリスの僧フィデリスが、道中にナイル川から紅海へ運河を航行したと話した内容を報告した。
767年には、アッバース朝のカリフであるマンスールがアラビア半島の敵対勢力に対抗するため、運河を閉鎖したと伝わる。1000年頃、ハーキムはオールドカイロと紅海間の運河修繕に乗り出したという意見もあるが、それはごく短い期間にとどまり、再び運河は砂に埋まったという。ただし一部の構造は残り、年1度のナイル洪水の際にそこは水で満たされる。
ナポレオン・ボナパルトは運河の遺構発見に熱心で、1798年後半に考古学者や科学者および地図学者や技術者らの集団に調査をさせた。この結果は『エジプト誌』に纏められ、そこには、紅海から北へ伸び、そしてナイル川を目指して西へ転じる古代運河の発見について説明する詳細な地図が添付された。
イギリスが牛耳っていたインド貿易へ干渉するため、ナポレオンは地中海と紅海を南北に結ぶ近代的な運河の建設を真剣に検討した。しかし、事前調査を行ったところ紅海の水面が地中海よりも10メートル (33 ft)高いことが判明し、閘門を用いた運河建設には多額の費用や長い期間がかかるため、この計画は頓挫した。ただしこの調査結果は誤っており、これは戦時下で測定を行わざるをえなかったことが影響し、計算の間違いが積み重なった結果であった。
現在でも明瞭になっていないが、ブバスティスから紅海まで繋がる古代の運河ルートは、1861年頃までは所々に水を湛える場所があった。
建設に立ちはだかる海面の高低差は意識され続けたが、ヨーロッパから東へ抜ける海路を大幅に短縮する運河への希求は消えることは無かった。1830年、フランシス・ロードン・チェスニーがイギリス政府へ提出した報告書では、紅海と地中海には海面差が無く運河建設は可能であると述べられていたが、これによってイギリスが何らかの行動を起こすことは無かった。トーマス・フレッチャー・ワグホーン(英語版)は、スエズ陸峡を繋ぐ馬車輸送を整備し、ヨーロッパとインドを結ぶ郵便経路を約3か月から、35日ないし40日までに短縮した。
フランスの冒険家リナント・デ・ベレフォンズ(英語版)はエジプト公共事業省(英語版)の主任技師となり、シナイ半島を調査して運河建設の計画に当たった。1833年、主に技術者集団から構成されるフランスのサン・シモン教が、東西両洋の融和という観点から運河に興味を持った。同教設立者のひとりバルテルミー・プロスペル・アンファンタン(英語版)は、ムハンマド・アリーと接触を持って運河へ関心を向けさせようとしたが、これは徒労に終わった。1836年にはオーストリア帝国で鉄道開通に尽力したアロイス・ネグレッリ(英語版)も運河に着目した。このような流れの中、1846年にアンファンタンはスエズ運河研究会(Société d'Études du Canal de Suez)を開催し、ロバート・スチーブンソン、ネグレッリ、ポール・エイドリアン・ブルダルーらがベレフォンズの協力を受けながらスエズ運河の検討を行った。この時にブルダルーが調査した結果から、地中海と紅海には海面の高度に差がないということが広く知られるようになった。しかし、イギリスは影響力を持つインド貿易が、自由に通行できる運河開通によって脅かされるのではと懸念し、その一方でアレキサンドリアからカイロを経由しスエズに至る鉄道を敷設するほうが好ましいと考えた。この鉄道は後にスチーブンソンによって開通した。
1854年と1856年にフェルディナン・ド・レセップスは、万国に開かれたスエズ運河建設を行う会社の設立について、エジプト総督のサイード・パシャから利権を得た。この会社は運河開通から99年間の事業権も獲得した。この背景には、1830年代にフランス駐エジプト大使だった頃にレセップスが培った人間関係が功を奏した。利権にある通り、レセップスは7か国から集めた13人の専門家をメンバーとするスエズ地峡開削検討国際委員会(英語版)(Commission Internationale pour le percement de l'isthme des Suez)を開催した。その中にはロンドン土木工学技術者協会会長のマックリーン、リナント・デ・ベレフォンズの計画を説明し実現の可能性と最適な運河路についての助言を求められたアロイス・ネグレッリらが参加した。エジプトで測量と分析そしてパリで何度も議論が行われ、ネグレッリの様々なアイデアが織り込まれながら運河についてあらゆる角度から検討が加えられ、1856年12月に委員会は満場一致で運河の全体像と詳細に関する報告書を纏め上げた。1858年12月15日、スエズ運河会社(The Suez Canal Company, Compagnie Universelle du Canal Maritime de Suez)が設立され、現在のポートサイド沿岸で建設が開始された。
掘削は、エジプト人の強制労働(Corvée、コルヴェ、「賦役」の意)も使われながら約10年間掛かった。ある説によれば、30,000人が常時使役され続け、様々な国からのべ150万人がこの労働に従事したという。そして、数千人がこの労働で死亡したとも見積もられる。また、工事にはフランスで発明された蒸気駆動の土木建機ラダーエキスカベータも使用された。
運河建設に一貫して反対の立場だったイギリスは、外交的な駆け引きのひとつとして、運河建設における労働者の扱いが1830年にヨーロッパで禁止された奴隷的だとして公式に非難した。その一方で、イギリス海軍の強大な海軍力を背景に武装化ベドウィンを送り込み、労働者の反乱を煽った。建設における過酷な労働条件は改善され、総督は計画に支障を及ぼすコルヴェを停止した。このイギリスの行動にレセップスは大いに怒り、数年前にイギリスが建設したエジプト鉄道の際に政府が労働者に強いた労働とそれによって多くの死者が出たことを取り上げた非難の手紙をイギリス政府に送りつけた。
スエズ運河会社の国際的評判は芳しくなく、その株式には当初あまり買い手がつかなかった。フランスの株式市場では瞬く間に完売したが、イギリス、アメリカ合衆国、オーストリア、ロシアでは全く売れなかった。当時のイギリスでは以下のような懐疑論があった。
多くの技術的、政治的、財政的問題は克服されたが、それでも運河の総建設費は当初予想の2倍に膨らんだ。そして1869年11月17日午前8時、スエズ運河は開通した。
「東と西の結婚」と形容された開通式では、フランス皇后ウジェニーが乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切り、イギリス帝国のP&O liner社船が続く総勢48隻がポートサイドから運河を渡り、オーストリア皇帝などヨーロッパ中から1000名以上の賓客が出席した。
1867年以来、大日本帝国に駐在したイギリス帝国外交官ミットフォードは、1870年に帰国のため、シンガポールからマルセイユまで搭乗したフーグリー号が「開通式に披露行事として通った船を除けば、我々の船が、営業開始後の一番目の船」となったと回顧している。
運河開通直後、スエズ運河会社は財政難にあった。完工は1871年まで長引き、当初の2年間は運河利用数は予想を下回った。収益を改善するためレセップスは、1854年にイギリスの商船法へ導入された理論上の総トン数(en:Net tonnage)で通行料を決めるムーアサム・システム(Moorsom System)に加え、船舶の実積載能力を算出基礎とする追加口銭(tonneau de capacité)を上乗せする改訂を行った。続いて行われた商業上および外交的交渉の結果、コンスタンティノープルで国際委員会が開かれ、1873年12月18日付け議定書にて純トン数(net tonnage, NT)の基準と料金表が定められた。これは、現在でも用いられるスエズ運河トン数(Suez Canal Net Tonnage, SCNT)とスエズ運河特殊トン数(Suez Canal Special Tonnage Certificate, SCSTC)の起源となった。
運河開通は、世界貿易に劇的な効果をもたらした。6か月前に完工していた北アメリカの大陸横断鉄道と接続することで、世界一周する時間は大きく短縮された。さらにヨーロッパ諸国によるアフリカ大陸の植民地化に拍車をかけた。運河建設には一貫して反対して来たイギリス帝国だったが、蓋を開けてみると、スエズ運河を通過する船の8割がイギリス船籍だった。
なお、1873年に大日本帝国の岩倉使節団も帰路に、スエズ運河を航行しており、当時の運河の様子が記録されている。
当時のエジプトはオスマン帝国支配下にあった。1875年、サイード・パシャの後任イスマーイール・パシャは、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万ポンドで手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった。この決断をしたイギリスの首相ベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに事を進め、購入資金をロスチャイルド家から借り受けたことがイギリスの憲法制度に反するとウィリアム・グラッドストンに告訴された。
1882年にウラービー革命で起こった暴動を口実に、イギリスはエジプトに軍事介入を続け、1888年にはスエズ運河の自由航行に関する条約(Convention of Constantinople)にてスエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、第一次世界大戦を経てイギリス軍の駐留が続いた。これは1915年にオスマン帝国から攻撃を受けた際、戦略上重要な防衛線となった(「中東戦域 (第一次世界大戦)」も参照)。1936年のアングロエジプト条約(イギリス・エジプト同盟条約)ではイギリスが運河の管理権を主張し、スエズ運河に軍隊を駐留させた。
1951年10月8日、エジプト政府は、第二次世界大戦後も過剰な居座り状態を続けるイギリス軍に対し、アングロエジプト条約の破棄を宣言して軍の撤退を要求した。さらにストライキで端を発した運河労働者らエジプト住民にも反英行動が広がった。イギリスはアメリカ合衆国、フランス、トルコと共同で運河を防衛する同盟をエジプトにも呼び掛けつつ、治安維持名目で住民デモへの発砲や施設占領などの強行策にも出た。この事態は、民衆運動がゲリラ活動など民族闘争まで発展し、エジプト王国を脅かすところまで及んだため国王が中心となって妥協が図られ、イギリス軍は駐屯を維持された。しかしこの事件によってエジプトの社会・経済体制の矛盾が露呈し、6か月後のエジプト革命に繋がる一因となった。
中立外交政策を取る共和国制エジプトがソ連と交渉を持ったことを理由に英米がアスワンダム建設支援の公約を取り下げたことが発端となり、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は1956年7月26日にスエズ運河を国有化してスエズ運河庁へ管理を移管させる宣言を行った。これに対抗してイギリス、フランス、イスラエルが密約を交わして軍事行動を起こし、スエズ危機と呼ばれる第二次中東戦争が勃発した。イスラエルが陸上から侵攻し、イギリスとフランスが空軍および支援活動を行った。しかしこの作戦にアメリカは参加せず、イギリスはアラブ諸国や反植民地主義世論から厳しい批判を受けるようになった。
戦線が拡大して惨憺たる状態となったイギリスを救うため、カナダの外相レスター・B・ピアソンが、スエズ運河通行の安全確保とイスラエルのシナイ半島撤退実行を目的とした初めての国連平和維持軍創設を提唱した。1956年11月4日、国連加盟国の大部分が、国連平和維持軍がシナイ半島に駐留してエジプトとイスラエルが双方軍を撤退させるまで委任統治を行うというピアソン案を支持し、採択された。アメリカもこれを支持し、イギリスポンドを売却して価値を下げる圧力をイギリスに掛け、同国の軍撤収を認めさせた。ピアソンには、後にこの功績が讃えられノーベル平和賞が贈られた。スエズ運河はエジプト軍が故意に船を沈没させて強制的に閉鎖されていたが、1957年4月に国連の支援で撤去され、再開通した。運河とシナイ半島の中立を維持するため、第一次国際連合緊急軍(United Nations Emergency Force, UNEF)が設立された。
1967年5月、ナーセル大統領は国連平和維持軍に対してスエズ運河を含むシナイ半島からの撤収を求めた。イスラエルは反対したが、国連はこれを認めて軍を引き揚げ、エジプトはイスラエル国境まで軍を駐留させ、チラン海峡のイスラエル籍船の航行を封鎖した。なお、スエズ運河のイスラエル船利用は、1951年 - 1952年の短い期間を除き、1949年以来認められていなかった。
この事態が1967年6月にイスラエルをエジプトへの先制攻撃に駆り立て、シナイ半島とスエズ運河制圧に乗り出させた。こうして起こった第三次中東戦争の期間、封鎖された。さらに第三次中東戦争の結果、イスラエルはスエズ運河まで進撃し、運河はエジプトとイスラエルが対峙する前線となった。このため、通航不能状態が続き、運河には黄色い船団(英語版)と呼ばれることになる14隻の貨物船が8年間にわたって閉じ込められた。1973年10月の第四次中東戦争中、運河はイスラエルが占拠したシナイ半島に向かうエジプト軍と、エジプト本土に攻め込むイスラエル国防軍とが相互に渡河作戦を実施している。運河周辺には、戦車などこの戦争の残骸が記念碑として残されている。
第四次中東戦争後、イスラエルとエジプトは和平の方向に向かい、運河再開に向けて動いている。シナイ半島には第二次国際連合緊急軍が展開し、両国の兵力引き離しを行なった。1974年5月から12月には、第四次中東戦争でスエズ運河に撒かれた機雷を排除するため、アメリカの強襲揚陸艦イオー・ジマが12機のRH-53Dを積載して現地に向かい、掃海作業および不発弾撤去のNimbus Moon作戦を実行した。これによって、湖沼部を含む運河にあった機雷の99%が掃討され、1975年に運河通行は再開された。
第二次国際連合緊急軍は1979年に展開期限を迎えた。アメリカ、エジプト、イスラエルを始めとする諸国が1979年のエジプト・イスラエル平和条約に基づき、平和維持に関して国連の役割を強めようとしたが、シリアの反対を受けたソ連が国際連合安全保障理事会にて賛同せず、これは実現しなかった。そこで、1981年に多国籍軍監視団(MFO)が創設され、イスラエルの段階的撤退を後押しした。これは、アメリカ、イスラエル、エジプトの合意下で実施された。
工事費80億ドルをかけて約1年にわたり運河の拡張や浚渫を行い、190キロ区間のうち72キロ区間で新水路の新スエズ運河を建設して、2015年8月6日に開通した。エジプト政府は、これにより1日平均の通航船舶量が現在の49隻から97隻に倍増し、通行量も2.5倍になると見込んでいる。
エジプト政府は運河沿いを経済特区に指定し、工場誘致を進めている。
2021年3月23日には、強風に煽られたこと、また砂嵐による視界不良が原因で進路を誤った大型コンテナ船エヴァーギヴンが運河を塞ぐ形で座礁。大渋滞を引き起こした。経済的な影響は大きく、毎時間400億円を超える規模と報道された。
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"text": "スエズ運河(スエズうんが、قناة السويس qanāt as-suwēs)は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。",
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"text": "建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。",
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"text": "スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)やグレートビター湖など4か所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。",
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"text": "運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月にナーセル大統領が運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ、運河は海軍のショートカットやチョークポイントとして、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトとイスラエル)は、特にスエズ運河に関心を持っている。",
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"text": "2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。この拡張工事は、スエズ運河の容量を1日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された有利子の投資証明書で賄われた。新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。",
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"text": "2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。",
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"text": "運河は、喫水20メートル (66 ft)以下または載貨重量トン数240,000トン以下かつ水面からの高さが68メートル (223 ft)以下、最大幅77.5メートル (254 ft)以下の船が航行できる。これを上限とする基準をスエズマックスという。この基準では、超大型のタンカーは航行できない。載貨重量数が超過するような場合は、荷物の一部を運河が所有する船に一時的に分載して、通過後に再度載せ直すことも行われる。",
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"text": "1869年に運河が開通するまで、トーマス・フレッチャー・ワグホーンの陸送郵便やロバート・スチーブンソンの鉄道路など、地中海と紅海の間は船から荷降ろしされ陸上を運搬する方法がしばしば用いられていた。",
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"text": "スエズ運河を通過しなければ、アフリカ大陸南端のアガラス岬を回航しなければならない。現在でもこの航路を取る必要があるスエズマックスを超過する船は、ケープサイズと呼ばれる。ロンドン - 横浜間を例に取ると、アフリカ回航では14,500海里 (26,900 km)かかるところを、スエズ運河を通れば距離は11,000海里 (20,000 km)となり、24%の短縮となる。ただし、21世紀初頭にはソマリア沖の海賊や高い保険料を避けるために、この航路を取る船が増えた。",
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"text": "スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無く、運河中に閘門は設置されていない。運河を通行できる航路は1レーンのみ設定されており、船がすれ違う場所は、エル=カンタラ(英語版)近郊のバッラ・バイパスやグレートビター湖など5カ所に限定される。",
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"text": "そこで通常は、10-15隻程度の船団3つを組んで航行することになる。ある一日を例に挙げれば、北から1船団が早朝に進入し、グレートビター湖に停泊すると南から上る船団を待ち、ここですれ違う。この南からの船団はバッラ・バイパスまで進むとここに留まり、北から来る2番目の船団とすれ違う。",
"title": "運用"
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"text": "運河を通過するには、8ノット (15 km/h)の速度で、11時間から16時間かかる。このような低速航行をすることで、運河の岸が波で浸食されることを防いでいる。スエズ運河は年中無休で運用されている。",
"title": "運用"
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"text": "1960年代から運河は全面的な改修が行われた。第1期工事は1961年に始まったがスエズ動乱で長く中断し、1975年に再開され、1980年に13億ドルをかけた拡張計画が終了した。これによって航路幅は89メートルから160メートルに、水深は14.5メートルから19.5メートルとなり、通過できる船舶の規模も拡大した。",
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"text": "1995年までに、ヨーロッパで消費された石油の3分の2はスエズ運河を経由して運ばれた。世界の近海航路を利用する船舶では7.5%がスエズ運河を利用し、2008年の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が納められた。1隻あたり平均料金は25万1千ドルである。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともにパナマ運河を上回る。",
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"text": "スエズ運河庁(SCA)理事会は、2008年1月1日付けで船舶やタンカーの運河通行に関する規則を改訂した。その最も重要な点は、62フィート船舶の通行許可と、船舶最大幅を32メートル (105 ft)から40メートル (130 ft)まで拡大したこと、運河の境界内でダイバーを活用する際、事前にSCAの許可を得なければ罰金が科せられるようになったことがある。また、放射性物質や可燃物などの危険物を積載した船舶についても、国際協定で定める最新の規定に適合していれば通行が認められた。",
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"text": "またSCAは、軍艦の通過時に使われるタグボートの隻数を取り決める権限を持ち、航行時の高い安全性を確保している。",
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"text": "経済的には、スエズ運河が完成したことで主に地中海沿岸諸国の海上貿易国に恩恵がもたらされた。地中海沿岸の国々は、イギリスやドイツなどの北欧や西欧の海の交易国よりも、はるかに速いスピードで近東や極東とつながっていた。ハプスブルク家の主要貿易港であるトリエステは、中欧と直結していたこともあり、この時期に急成長を遂げた。",
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"text": "19世紀の蒸気船によるボンベイへの旅を想定した場合、スエズ運河を利用することでブリンディジ、トリエステからは37日、ジェノヴァからは32日、マルセイユからは31日、ボルドー、リヴァプール、ロンドン、アムステルダム、ハンブルグからは24日の短縮になったという。当時は、輸送する商品が高価な運河の関税に耐えられるかどうかも検討する必要があった。そのため、中欧や東欧への陸路を持つ地中海の港が急速に発展していったのである。今日の船会社の情報によると、シンガポールからロッテルダムまでスエズ運河を経由するルートは、アフリカを回るルートに比べて6000キロ、9日間短縮されるという。その結果、アジアとヨーロッパを結ぶ定期船は、このルート短縮により44%のCO2(二酸化炭素)を削減することができる。スエズ運河は、東アフリカと地中海地域を結ぶ重要な役割を担っている。",
"title": "経済的インパクト"
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"text": "20世紀には、2つの世界大戦とスエズ運河危機のために、スエズ運河を介した貿易は何度も中断された。また、多くの貿易の流れは、地中海の港からハンブルグやロッテルダムなどの北欧のターミナルへと移っていった。冷戦の終結、欧州の経済統合の進展、CO2排出量の考慮、中国のシルクロード構想などを経て、ピレウスやトリエステなどの地中海沿岸の港が再び成長と投資の焦点となっている。",
"title": "経済的インパクト"
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"text": "スエズ運河建設に伴って、ナイル川デルタからワジ・トゥミラットを経由しスエズ南部やポートサイド北部まで通じていた淡水の運河は分断された。これらの淡水運河は1863年には完成され、乾燥地帯に淡水を運ぶ機能を担っていた。この淡水は当初は運河建設に、後には運河沿いの農業や生活用水に利用されていた。",
"title": "環境への影響"
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"text": "紅海は地中海東岸よりも約1.2メートル (3.9 ft)高いが、グレートビター湖において海水は冬に北へ、夏に南へ流れる。干満は湖の南岸で生じるが、その高さはスエズ市沿岸部とは異なっている。このグレートビター湖はかつて過塩性湖であり、1869年の運河開通後数十年間はその高い塩分ゆえに紅海と地中海の間で生物の移動を防いでいた。しかし長い時間を経て水が入れ替わり、湖の塩分が低下すると、紅海の動植物が地中海東部に進出して生育域を作り出した。紅海は一般に大西洋よりも塩分が高く栄養に乏しい。そのため紅海種の生物は、地中海の中でも高塩分・貧養分の東側領域では大西洋種よりもその環境に馴染み進出したが、逆に地中海側の生物が紅海で繁殖することはほとんど無い。この移住現象は「レセップス移動(英語版)」と呼ばれる。",
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"text": "このような地中海東部の生態系への影響は、1968年のアスワン・ハイ・ダム運用開始なども関わった。ナイル川全体の様々な開発も伴い、ナイルデルタや地中海へ流れ込む淡水の総量は減少し、栄養分が豊富なシルト類が行き渡らなくなった。これによって海域の塩分希釈が少なくなり、自然に起こる濁度も低下し、地中海東部の環境をより紅海に近い状態にした。",
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"text": "運河の建設によって侵入した紅海種は移入種として、地中海の生態系の中で無視できない数まで繁殖し、環境に深刻な影響を与えている。地中海の地域種や固有種には圧迫され衰退が懸念されるものも多く存在する。既に約300種以上の紅海からの移入種は確認され、潜在的にはそれ以上の数が既に地中海に移動していると考えられる。エジプト政府は運河の拡充を志向しており、生物海洋学者らはこのことが紅海種侵入のさらなる拡大に繋がるのではと懸念している。",
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"text": "古代エジプトには、ナイル川から紅海まで達する東西方向の淡水運河があり、「ファラオの運河」と呼ばれている。 現在も同様のルートを、カイロ市からスエズ市への灌漑用水路が通っている。",
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"text": "これは、センウセルト2世もしくはラムセス2世の拠出によって細い運河が開削されたというもの、もしくはこの運河を組み込みながら ネコ2世の時代に取り組みが始まり、ダレイオス1世の頃に完工した運河を指すものである。",
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"text": "エジプト第12王朝ファラオのセンウセルト2世やセンウセルト3世など伝説的セソストリスらは、紀元前1897年から紀元前1839年にかけてナイル川と紅海を繋ぐ運河の建設に乗り出したと言われる。これは、当時の紅海は現代よりも北まで海進しており、現在のグレートビター湖やティムサーハ湖(英語版)も海域にあった。",
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"text": "アリストテレスは『気象論』にて以下のように記述している。",
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"text": "ストラボンは、セソストリスが運河建設に取り掛かったと記した。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは『博物誌』に、エジプト王セソストリスが船舶用運河で紅海の港とナイル川デルタを結び、その延長距離は60マイルであった事、後にペルシアの王ダレイオスが同じ発想を持ち、またプトレマイオス2世も幅100フィート、深さ30フィートの溝をグレートビター湖に至る長さ100マイルに渡って設けた事を書き残している。",
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"text": "19世紀後半、フランスの地理学者は、ティムサーハ湖の東側を通ってグレートビター湖の北端近くまで達する、南北を結ぶ古代の運河を発見した。この運河は前述のものと異なり、ティムサーハ湖付近まで海進していた紅海沿岸を航行した船がそのまま北進する運河だったと考えられる。20世紀には、ティムサーハ湖からバッラ湖(現在のバッラ・バイパス付近)まで延長する工事の跡が発見され、これは運河沿いに建てられた古代遺跡からエジプト中王国以降のものと推測された。これがセソストリス時代の古代運河と同じか否か判明しておらず、東方に対する塹壕の可能性も消されていない。",
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"text": "紀元前1470年のハトシェプスト在位時に行われたプント遠征譚を描いたレリーフには、遠征軍がプントからの帰路が航海だったことを表現している。この事から、当時紅海とナイル川を結ぶ航路が存在したという提言がある。このレリーフから、運河はラムセス2世在位の紀元前13世紀頃まで存在したと想像される",
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"text": "東西を結ぶ運河の遺構は、古代エジプトのブバスティス、アヴァリス(ペル・ラメセス、英: Pi-Ramesses)、ビション(英語版)を結び、これは1799年に技術者や地図製作者を率いたナポレオン・ボナパルトが発見した。これは『エジプト誌(英語版)』にまとめられた。",
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"text": "ギリシアのヘロドトスが著した『歴史』によると、紀元前600年頃にネコ2世はブバスティスとピション(ヘリオポリス)を東西に貫きワジ・トゥミラートを通る運河建設に着手したとあり、それをヘリオポリス湾(英語版)と紅海まで延長したと考えられる。しかし、彼の事業は完遂されなかったとも伝わる。",
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"text": "ヘロドトスの記述によると、数字には疑わしい点もあるがこの事業で120,000人が死亡したという。ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの言では、ネコ2世の運河拡張は57マイルにおよび、これは谷を通りながらブバスティスからグレートビター湖へ至る距離に相当する。ヘロドトスが述べた距離1,000スタディオン以上(114マイル以上)とは、当時のナイル川と紅海を完全に繋げる距離である。",
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"text": "ネコ2世が死去すると事業は中止された。ヘロドトスはその理由を、運河の完成は他国に利すると警告する神託があったためという。実際には、ネブカドネザル2世との戦争が事業継続を不可能にした。",
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"text": "ネコ2世の運河は、古代エジプトを征服したペルシアのダレイオス1世によって完成された。当時、ヘリオポリス湾と紅海の間にはグレートビター湖のちょうど南に位置したシャルーフ(Shaluf、Chalouf、Shaloof)の町近郊を通る自然の水路があった。しかしこれはシルトで埋まっていたため、ダレイオス1世は浚渫させて船の通行を可能にしたと言われる。こうして造られた運河は、ヘロドトスによると2隻の三段櫂船がオールを出した状態ですれ違うことが出来る程に広く、全長を進むのに4日間を有した。ダレイオス1世はこの事業を記念し、スエズ市から数マイル北にあるカブレット(Kabret)近郊などナイル川の土手に数多い花崗岩製の石碑を据えた。この『大ダレイオスのスエズ碑銘(英語版)』は以下のように伝える。",
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"text": "運河はナイル川のブバスティスに繋がっていた。ピションにある記念柱の碑文によると、紀元前270年もしくはその翌年にプトレマイオス2世は、紅海のヘリオポリス湾にあるアルシノエ(英語版)に閘門つき水門を設置し、海水が運河に流れ込まず淡水が維持されるように工夫して運河を再開させたとある。",
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"text": "歴史家の研究によると、紅海の海岸線は徐々に後退し、数世紀後にはティムサーハ湖やグレートビター湖の位置より遥か南の、現在の位置まで下がったと考えられている。さらに、ナイル川で堆積する泥の存在も、運河が通る国々にとって維持補修することを困難なものとした。プトレマイオス2世から約100年後のクレオパトラ7世の頃には、ナイル川デルタのペルシウム支流に溜まったシルトによって、東西を結ぶ運河はどれも航行不能な状態になってしまった。",
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"text": "8世紀までの時期、オールドカイロと紅海を結ぶ運河が存在した。ただし、誰によって建設されたかは複数の説があり、トラヤヌス、アムル・イブン・アル=アース、ウマル・イブン・ハッターブのいずれかではないかと考えられている。この運河はナイル川沿いのオールドカイロと現在のスエズ近郊を結んでいた。地理学者のディクイルは、8世紀前半に聖地を巡礼したイギリスの僧フィデリスが、道中にナイル川から紅海へ運河を航行したと話した内容を報告した。",
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"text": "767年には、アッバース朝のカリフであるマンスールがアラビア半島の敵対勢力に対抗するため、運河を閉鎖したと伝わる。1000年頃、ハーキムはオールドカイロと紅海間の運河修繕に乗り出したという意見もあるが、それはごく短い期間にとどまり、再び運河は砂に埋まったという。ただし一部の構造は残り、年1度のナイル洪水の際にそこは水で満たされる。",
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"text": "ナポレオン・ボナパルトは運河の遺構発見に熱心で、1798年後半に考古学者や科学者および地図学者や技術者らの集団に調査をさせた。この結果は『エジプト誌』に纏められ、そこには、紅海から北へ伸び、そしてナイル川を目指して西へ転じる古代運河の発見について説明する詳細な地図が添付された。",
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"text": "イギリスが牛耳っていたインド貿易へ干渉するため、ナポレオンは地中海と紅海を南北に結ぶ近代的な運河の建設を真剣に検討した。しかし、事前調査を行ったところ紅海の水面が地中海よりも10メートル (33 ft)高いことが判明し、閘門を用いた運河建設には多額の費用や長い期間がかかるため、この計画は頓挫した。ただしこの調査結果は誤っており、これは戦時下で測定を行わざるをえなかったことが影響し、計算の間違いが積み重なった結果であった。",
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"text": "現在でも明瞭になっていないが、ブバスティスから紅海まで繋がる古代の運河ルートは、1861年頃までは所々に水を湛える場所があった。",
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"text": "建設に立ちはだかる海面の高低差は意識され続けたが、ヨーロッパから東へ抜ける海路を大幅に短縮する運河への希求は消えることは無かった。1830年、フランシス・ロードン・チェスニーがイギリス政府へ提出した報告書では、紅海と地中海には海面差が無く運河建設は可能であると述べられていたが、これによってイギリスが何らかの行動を起こすことは無かった。トーマス・フレッチャー・ワグホーン(英語版)は、スエズ陸峡を繋ぐ馬車輸送を整備し、ヨーロッパとインドを結ぶ郵便経路を約3か月から、35日ないし40日までに短縮した。",
"title": "歴史"
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"text": "フランスの冒険家リナント・デ・ベレフォンズ(英語版)はエジプト公共事業省(英語版)の主任技師となり、シナイ半島を調査して運河建設の計画に当たった。1833年、主に技術者集団から構成されるフランスのサン・シモン教が、東西両洋の融和という観点から運河に興味を持った。同教設立者のひとりバルテルミー・プロスペル・アンファンタン(英語版)は、ムハンマド・アリーと接触を持って運河へ関心を向けさせようとしたが、これは徒労に終わった。1836年にはオーストリア帝国で鉄道開通に尽力したアロイス・ネグレッリ(英語版)も運河に着目した。このような流れの中、1846年にアンファンタンはスエズ運河研究会(Société d'Études du Canal de Suez)を開催し、ロバート・スチーブンソン、ネグレッリ、ポール・エイドリアン・ブルダルーらがベレフォンズの協力を受けながらスエズ運河の検討を行った。この時にブルダルーが調査した結果から、地中海と紅海には海面の高度に差がないということが広く知られるようになった。しかし、イギリスは影響力を持つインド貿易が、自由に通行できる運河開通によって脅かされるのではと懸念し、その一方でアレキサンドリアからカイロを経由しスエズに至る鉄道を敷設するほうが好ましいと考えた。この鉄道は後にスチーブンソンによって開通した。",
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"text": "1854年と1856年にフェルディナン・ド・レセップスは、万国に開かれたスエズ運河建設を行う会社の設立について、エジプト総督のサイード・パシャから利権を得た。この会社は運河開通から99年間の事業権も獲得した。この背景には、1830年代にフランス駐エジプト大使だった頃にレセップスが培った人間関係が功を奏した。利権にある通り、レセップスは7か国から集めた13人の専門家をメンバーとするスエズ地峡開削検討国際委員会(英語版)(Commission Internationale pour le percement de l'isthme des Suez)を開催した。その中にはロンドン土木工学技術者協会会長のマックリーン、リナント・デ・ベレフォンズの計画を説明し実現の可能性と最適な運河路についての助言を求められたアロイス・ネグレッリらが参加した。エジプトで測量と分析そしてパリで何度も議論が行われ、ネグレッリの様々なアイデアが織り込まれながら運河についてあらゆる角度から検討が加えられ、1856年12月に委員会は満場一致で運河の全体像と詳細に関する報告書を纏め上げた。1858年12月15日、スエズ運河会社(The Suez Canal Company, Compagnie Universelle du Canal Maritime de Suez)が設立され、現在のポートサイド沿岸で建設が開始された。",
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"text": "掘削は、エジプト人の強制労働(Corvée、コルヴェ、「賦役」の意)も使われながら約10年間掛かった。ある説によれば、30,000人が常時使役され続け、様々な国からのべ150万人がこの労働に従事したという。そして、数千人がこの労働で死亡したとも見積もられる。また、工事にはフランスで発明された蒸気駆動の土木建機ラダーエキスカベータも使用された。",
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"text": "運河建設に一貫して反対の立場だったイギリスは、外交的な駆け引きのひとつとして、運河建設における労働者の扱いが1830年にヨーロッパで禁止された奴隷的だとして公式に非難した。その一方で、イギリス海軍の強大な海軍力を背景に武装化ベドウィンを送り込み、労働者の反乱を煽った。建設における過酷な労働条件は改善され、総督は計画に支障を及ぼすコルヴェを停止した。このイギリスの行動にレセップスは大いに怒り、数年前にイギリスが建設したエジプト鉄道の際に政府が労働者に強いた労働とそれによって多くの死者が出たことを取り上げた非難の手紙をイギリス政府に送りつけた。",
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"text": "スエズ運河会社の国際的評判は芳しくなく、その株式には当初あまり買い手がつかなかった。フランスの株式市場では瞬く間に完売したが、イギリス、アメリカ合衆国、オーストリア、ロシアでは全く売れなかった。当時のイギリスでは以下のような懐疑論があった。",
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"text": "多くの技術的、政治的、財政的問題は克服されたが、それでも運河の総建設費は当初予想の2倍に膨らんだ。そして1869年11月17日午前8時、スエズ運河は開通した。",
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"text": "「東と西の結婚」と形容された開通式では、フランス皇后ウジェニーが乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切り、イギリス帝国のP&O liner社船が続く総勢48隻がポートサイドから運河を渡り、オーストリア皇帝などヨーロッパ中から1000名以上の賓客が出席した。",
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"text": "1867年以来、大日本帝国に駐在したイギリス帝国外交官ミットフォードは、1870年に帰国のため、シンガポールからマルセイユまで搭乗したフーグリー号が「開通式に披露行事として通った船を除けば、我々の船が、営業開始後の一番目の船」となったと回顧している。",
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"text": "運河開通直後、スエズ運河会社は財政難にあった。完工は1871年まで長引き、当初の2年間は運河利用数は予想を下回った。収益を改善するためレセップスは、1854年にイギリスの商船法へ導入された理論上の総トン数(en:Net tonnage)で通行料を決めるムーアサム・システム(Moorsom System)に加え、船舶の実積載能力を算出基礎とする追加口銭(tonneau de capacité)を上乗せする改訂を行った。続いて行われた商業上および外交的交渉の結果、コンスタンティノープルで国際委員会が開かれ、1873年12月18日付け議定書にて純トン数(net tonnage, NT)の基準と料金表が定められた。これは、現在でも用いられるスエズ運河トン数(Suez Canal Net Tonnage, SCNT)とスエズ運河特殊トン数(Suez Canal Special Tonnage Certificate, SCSTC)の起源となった。",
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"text": "運河開通は、世界貿易に劇的な効果をもたらした。6か月前に完工していた北アメリカの大陸横断鉄道と接続することで、世界一周する時間は大きく短縮された。さらにヨーロッパ諸国によるアフリカ大陸の植民地化に拍車をかけた。運河建設には一貫して反対して来たイギリス帝国だったが、蓋を開けてみると、スエズ運河を通過する船の8割がイギリス船籍だった。",
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"text": "なお、1873年に大日本帝国の岩倉使節団も帰路に、スエズ運河を航行しており、当時の運河の様子が記録されている。",
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"text": "当時のエジプトはオスマン帝国支配下にあった。1875年、サイード・パシャの後任イスマーイール・パシャは、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万ポンドで手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった。この決断をしたイギリスの首相ベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに事を進め、購入資金をロスチャイルド家から借り受けたことがイギリスの憲法制度に反するとウィリアム・グラッドストンに告訴された。",
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"text": "1882年にウラービー革命で起こった暴動を口実に、イギリスはエジプトに軍事介入を続け、1888年にはスエズ運河の自由航行に関する条約(Convention of Constantinople)にてスエズ運河はイギリス管轄下の中立地帯と定められ、第一次世界大戦を経てイギリス軍の駐留が続いた。これは1915年にオスマン帝国から攻撃を受けた際、戦略上重要な防衛線となった(「中東戦域 (第一次世界大戦)」も参照)。1936年のアングロエジプト条約(イギリス・エジプト同盟条約)ではイギリスが運河の管理権を主張し、スエズ運河に軍隊を駐留させた。",
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"text": "1951年10月8日、エジプト政府は、第二次世界大戦後も過剰な居座り状態を続けるイギリス軍に対し、アングロエジプト条約の破棄を宣言して軍の撤退を要求した。さらにストライキで端を発した運河労働者らエジプト住民にも反英行動が広がった。イギリスはアメリカ合衆国、フランス、トルコと共同で運河を防衛する同盟をエジプトにも呼び掛けつつ、治安維持名目で住民デモへの発砲や施設占領などの強行策にも出た。この事態は、民衆運動がゲリラ活動など民族闘争まで発展し、エジプト王国を脅かすところまで及んだため国王が中心となって妥協が図られ、イギリス軍は駐屯を維持された。しかしこの事件によってエジプトの社会・経済体制の矛盾が露呈し、6か月後のエジプト革命に繋がる一因となった。",
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"text": "中立外交政策を取る共和国制エジプトがソ連と交渉を持ったことを理由に英米がアスワンダム建設支援の公約を取り下げたことが発端となり、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は1956年7月26日にスエズ運河を国有化してスエズ運河庁へ管理を移管させる宣言を行った。これに対抗してイギリス、フランス、イスラエルが密約を交わして軍事行動を起こし、スエズ危機と呼ばれる第二次中東戦争が勃発した。イスラエルが陸上から侵攻し、イギリスとフランスが空軍および支援活動を行った。しかしこの作戦にアメリカは参加せず、イギリスはアラブ諸国や反植民地主義世論から厳しい批判を受けるようになった。",
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"text": "戦線が拡大して惨憺たる状態となったイギリスを救うため、カナダの外相レスター・B・ピアソンが、スエズ運河通行の安全確保とイスラエルのシナイ半島撤退実行を目的とした初めての国連平和維持軍創設を提唱した。1956年11月4日、国連加盟国の大部分が、国連平和維持軍がシナイ半島に駐留してエジプトとイスラエルが双方軍を撤退させるまで委任統治を行うというピアソン案を支持し、採択された。アメリカもこれを支持し、イギリスポンドを売却して価値を下げる圧力をイギリスに掛け、同国の軍撤収を認めさせた。ピアソンには、後にこの功績が讃えられノーベル平和賞が贈られた。スエズ運河はエジプト軍が故意に船を沈没させて強制的に閉鎖されていたが、1957年4月に国連の支援で撤去され、再開通した。運河とシナイ半島の中立を維持するため、第一次国際連合緊急軍(United Nations Emergency Force, UNEF)が設立された。",
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"text": "1967年5月、ナーセル大統領は国連平和維持軍に対してスエズ運河を含むシナイ半島からの撤収を求めた。イスラエルは反対したが、国連はこれを認めて軍を引き揚げ、エジプトはイスラエル国境まで軍を駐留させ、チラン海峡のイスラエル籍船の航行を封鎖した。なお、スエズ運河のイスラエル船利用は、1951年 - 1952年の短い期間を除き、1949年以来認められていなかった。",
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"text": "この事態が1967年6月にイスラエルをエジプトへの先制攻撃に駆り立て、シナイ半島とスエズ運河制圧に乗り出させた。こうして起こった第三次中東戦争の期間、封鎖された。さらに第三次中東戦争の結果、イスラエルはスエズ運河まで進撃し、運河はエジプトとイスラエルが対峙する前線となった。このため、通航不能状態が続き、運河には黄色い船団(英語版)と呼ばれることになる14隻の貨物船が8年間にわたって閉じ込められた。1973年10月の第四次中東戦争中、運河はイスラエルが占拠したシナイ半島に向かうエジプト軍と、エジプト本土に攻め込むイスラエル国防軍とが相互に渡河作戦を実施している。運河周辺には、戦車などこの戦争の残骸が記念碑として残されている。",
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"text": "第四次中東戦争後、イスラエルとエジプトは和平の方向に向かい、運河再開に向けて動いている。シナイ半島には第二次国際連合緊急軍が展開し、両国の兵力引き離しを行なった。1974年5月から12月には、第四次中東戦争でスエズ運河に撒かれた機雷を排除するため、アメリカの強襲揚陸艦イオー・ジマが12機のRH-53Dを積載して現地に向かい、掃海作業および不発弾撤去のNimbus Moon作戦を実行した。これによって、湖沼部を含む運河にあった機雷の99%が掃討され、1975年に運河通行は再開された。",
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"text": "第二次国際連合緊急軍は1979年に展開期限を迎えた。アメリカ、エジプト、イスラエルを始めとする諸国が1979年のエジプト・イスラエル平和条約に基づき、平和維持に関して国連の役割を強めようとしたが、シリアの反対を受けたソ連が国際連合安全保障理事会にて賛同せず、これは実現しなかった。そこで、1981年に多国籍軍監視団(MFO)が創設され、イスラエルの段階的撤退を後押しした。これは、アメリカ、イスラエル、エジプトの合意下で実施された。",
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"text": "工事費80億ドルをかけて約1年にわたり運河の拡張や浚渫を行い、190キロ区間のうち72キロ区間で新水路の新スエズ運河を建設して、2015年8月6日に開通した。エジプト政府は、これにより1日平均の通航船舶量が現在の49隻から97隻に倍増し、通行量も2.5倍になると見込んでいる。",
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"text": "エジプト政府は運河沿いを経済特区に指定し、工場誘致を進めている。",
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"text": "2021年3月23日には、強風に煽られたこと、また砂嵐による視界不良が原因で進路を誤った大型コンテナ船エヴァーギヴンが運河を塞ぐ形で座礁。大渋滞を引き起こした。経済的な影響は大きく、毎時間400億円を超える規模と報道された。",
"title": "歴史"
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スエズ運河は、地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3キロメートルの運河西岸にはイスマイリアがある。 建設当初のスエズ運河は全長164キロメートル (102 mi)、深さ8メートル (26 ft)だったが、その後何度かの拡張工事を受け、現在では全長193.30キロメートル (120.11 mi)、深さ24メートル (79 ft)、幅205メートル (673 ft)となった。 スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパスやグレートビター湖など4か所で可能である。運河には閘門が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる。 運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月にナーセル大統領が運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営するコンセッション会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけてのスエズ危機の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営スエズ運河庁(SCA)によって運営・維持されている。スエズ運河の自由航行に関する条約では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ、運河は海軍のショートカットやチョークポイントとして、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトとイスラエル)は、特にスエズ運河に関心を持っている。 2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。この拡張工事は、スエズ運河の容量を1日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された有利子の投資証明書で賄われた。新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。 2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。
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{{Infobox 運河
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'''スエズ運河'''(スエズうんが、{{lang|ar|قناة السويس|rtl=yes}} ''{{transl|arz|ALA|qanāt as-suwēs}}'')は、[[地中海]]と[[紅海]]をスエズ[[地峡]]で結び、[[アフリカ]]と[[アジア]]を分断する[[エジプト]]の人工[[海面]][[水路]]である。1859年から1869年にかけて[[スエズ運河会社]]によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ[[運河]]は、地中海と紅海を経由して北[[大西洋]]と北[[インド洋]]を結ぶ水路で、[[アフリカ大陸]]を回らずに[[ヨーロッパ]]と[[アジア]]を[[海運]]で連結することができる。例えばアラビア海からロンドンまでの航行距離を約8,900km短縮する。2012年には、17,225隻(1日平均47隻)の船舶が運河を通過した。運河は北端の[[ポートサイド]]と南端の[[スエズ]]市タウフィーク港を結び、中間点より北に3[[キロメートル]]の運河西岸には[[イスマイリア]]がある<ref>{{Cite web|url=http://www.atlas.com.eg/scg.html|title=Suez Canal guide|publisher=Marine Services Co|language=en|accessdate=2010-08-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010303054652/http://www.atlas.com.eg/scg.html|archivedate=2001-03-03}}</ref>。
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スエズ運河は南北どちらかの一方通行で運営され、船のすれ違いはバッラ・バイパス(Ballah By-Pass)や[[グレートビター湖]]など4か所で可能である<ref>{{Cite web|url=http://www.suezcanal.gov.eg/sc.aspx?show=17 |title=About Suez Canal |publisher= Suez Canal Authority |language=en|accessdate=2010-08-28}}</ref>。運河には[[閘門]]が無いため海水は自由に流れ、主に夏にはグレートビター湖から北へ、冬は南へ水流が生じる。潮目の変化は湖の南で起こる<ref name = rsp>{{Cite book|title=The Red Sea Pilot|publisher=Imray Laurie Norie & Wilson|year=1995|page=266}}</ref>。
運河はエジプト政府の所有物であるが、1956年7月に[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナーセル]]大統領が運河を国有化するまでは、フランスやイギリスを中心としたヨーロッパの株主が運河を運営する[[コンセッション方式|コンセッション]]会社を所有しており、このことが1956年10月から11月にかけての[[第二次中東戦争|スエズ危機]]の原因となった。スエズ運河は、エジプトの国営[[スエズ運河庁]](SCA)によって運営・維持されている。[[スエズ運河の自由航行に関する条約]]では、「戦時においても平時においても、通商または戦時のすべての船舶が旗の区別なく使用することができる」とされている。とはいえ、運河は海軍のショートカットや[[チョークポイント]]として、軍事戦略上重要な役割を果たしてきた。地中海と紅海の両方に海岸線と基地を持つ海軍(エジプトと[[イスラエル海軍|イスラエル]])は、特にスエズ運河に関心を持っている。
2014年8月、エジプト政府は、スエズ運河の通過時間を短縮するために、バラ・バイパスを35km拡張・拡幅する工事に着手した。この拡張工事は、スエズ運河の容量を1日あたり49隻から97隻へと約2倍にすることを目的としている。費用は594億エジプトポンド(90億ドル)で、エジプトの企業や個人に限定して発行された[[スクーク|有利子の投資証明書]]で賄われた。新スエズ運河と名付けられたこの拡張工事は、2015年8月6日の式典で華々しく開通した。
2016年2月24日、スエズ運河庁は新しい側水路を正式に開通させた。この側水路は、スエズ運河の東延長部の北側に位置し、イースト・ターミナルに船舶を接岸・離岸させるためのものである。イースト・コンテナ・ターミナルはスエズ運河上に位置しているため、新航路が開通するまでは、護衛艦の走行中にターミナルへの接岸・離岸を行うことはできなかった。
== 通行基準 ==
[[File:SuezCanal ElBallah.JPG|thumb|right|行き違いのためにバッラ・バイパスに停泊する船]]
{{Main|スエズマックス}}
運河は、[[喫水]]{{convert|20|m|ft|}}以下または[[載貨重量トン数]]240,000トン以下かつ水面からの高さが{{convert|68|m|ft|}}以下、最大幅{{convert|77.5|m|ft|}}以下の船が航行できる<ref name="suezcanal.gov.eg">{{Cite web|url= http://www.suezcanal.gov.eg |title=RULES of Navigation |publisher= Suez Canal Authority|accessdate=2010-08-28}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.suezcanal.gov.eg/sc.aspx?show=12|title=Canal Characteristics|publisher=Suez Canal Authority|year=2010|accessdate=2010-04-14}}</ref>。これを上限とする基準をスエズマックスという。この基準では、超大型の[[タンカー]]は航行できない。載貨重量数が超過するような場合は、荷物の一部を運河が所有する船に一時的に分載して、通過後に再度載せ直すことも行われる。
== 利便性 ==
1869年に運河が開通するまで、トーマス・フレッチャー・ワグホーンの陸送[[郵便]]や[[ロバート・スチーブンソン]]の[[鉄道]]路など、地中海と紅海の間は船から荷降ろしされ陸上を運搬する方法がしばしば用いられていた。
スエズ運河を通過しなければ、アフリカ大陸南端の[[アガラス岬]]を回航しなければならない。現在でもこの航路を取る必要があるスエズマックスを超過する船は、[[ケープサイズ]]と呼ばれる。[[ロンドン]] - [[横浜市|横浜]]間を例に取ると、アフリカ回航では{{convert|14,500|nmi|km|}}かかるところを、スエズ運河を通れば距離は{{convert|11,000|nmi|km|}}となり、24%の短縮となる<ref name="EORC">{{Cite web|和書|url=https://www.eorc.jaxa.jp/earthview/2005/tp050701.html|title=沙漠を貫く、船の近道:スエズ運河|publisher=地球観測研究センター|accessdate=2010-08-28}}</ref>。ただし、21世紀初頭には[[ソマリア沖の海賊]]や高い保険料を避けるために、この航路を取る船が増えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112301000170.html|title=海運各社、スエズ運河回避の動き 海賊頻発で迂回ルート|publisher=47ニュース、共同通信|date=2008-11-23|accessdate=2010-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140724143704/http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112301000170.html |archivedate=2014-07-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.business-i.jp/news/special-page/oxford/200904240007o.nwc |title=ソマリア沖海賊対策 攻撃より政治的安定が解決の鍵|publisher=[[フジサンケイビジネスアイ]]|date=2009-04-24|accessdate=2010-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090429084454/http://www.business-i.jp/news/special-page/oxford/200904240007o.nwc |archivedate=2009-04-29}}</ref>。
== 運用 ==
[[File:USS Bainbridge (CGN-25) underway in the Suez Canal on 27 February 1992.jpg|thumb|left|スエズ運河を航行するアメリカの原子力巡洋艦[[ベインブリッジ (原子力ミサイル巡洋艦)|ベインブリッジ]]]]
スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無く、運河中に[[閘門]]は設置されていない。運河を通行できる航路は1レーンのみ設定されており、船がすれ違う場所は、{{仮リンク|エル=カンタラ|en|El Qantara}}近郊のバッラ・バイパスやグレートビター湖など5カ所に限定される<ref name="EORC" />。
そこで通常は、10-15隻程度の<ref name="EORC" />船団3つを組んで航行することになる。ある一日を例に挙げれば、北から1船団が早朝に進入し、グレートビター湖に停泊すると南から上る船団を待ち、ここですれ違う。この南からの船団はバッラ・バイパスまで進むとここに留まり、北から来る2番目の船団とすれ違う。
運河を通過するには、{{convert|8|kn|kph|}}の速度で、11時間から16時間かかる。このような低速航行をすることで、運河の岸が波で[[浸食]]されることを防いでいる。スエズ運河は年中無休で運用されている<ref name="EORC" />。
1960年代から運河は全面的な改修が行われた。第1期工事は[[1961年]]に始まったが[[スエズ動乱]]で長く中断し、[[1975年]]に再開され、[[1980年]]に13億ドルをかけた拡張計画が終了した。これによって航路幅は89メートルから160メートルに、水深は14.5メートルから19.5メートルとなり、通過できる船舶の規模も拡大した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/column/cl01003.htm |title=column I-3 世界の貿易を支える海の大動脈 - スエズ運河第1期拡張計画|publisher=[[外務省]]|accessdate=2010-08-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.penta-ocean.co.jp/recruit/fresh/points/dna.html |title=Never Give Up スエズ運河改修工事|publisher=[[五洋建設]] |accessdate=2010-08-28}}</ref>。
[[1995年]]までに、ヨーロッパで消費された[[石油]]の3分の2はスエズ運河を経由して運ばれた。世界の近海航路を利用する船舶では7.5%がスエズ運河を利用し、[[2008年]]の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が納められた<ref name="suezcanal.gov.eg" />。1隻あたり平均料金は25万1千ドルである。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともに[[パナマ運河]]を上回る。
スエズ運河庁(SCA)理事会は、2008年1月1日付けで船舶やタンカーの運河通行に関する規則を改訂した。その最も重要な点は、62フィート船舶の通行許可と、船舶最大幅を{{convert|32|m|ft|}}から{{convert|40|m|ft|}}まで拡大したこと、運河の境界内で[[ダイバー]]を活用する際、事前にSCAの許可を得なければ罰金が科せられるようになったことがある。また、[[放射性物質]]や[[可燃物]]などの危険物を積載した船舶についても、国際協定で定める最新の規定に適合していれば通行が認められた。
またSCAは、[[軍艦]]の通過時に使われる[[タグボート]]の隻数を取り決める権限を持ち、航行時の高い安全性を確保している<ref>SC News</ref>。
== 経済的インパクト ==
経済的には、スエズ運河が完成したことで主に[[地中海盆地|地中海沿岸諸国]]の海上貿易国に恩恵がもたらされた。地中海沿岸の国々は、イギリスやドイツなどの北欧や西欧の海の交易国よりも、はるかに速いスピードで近東や極東とつながっていた<ref>Mary Pelletier "A brief history of the Suez Canal" In: Apollo 3.7.2018.</ref><ref>Hans Reis "Der Suezkanal – die wichtigste von Menschen geschaffene Wasserstrasse wurde vor 150 Jahren gebaut und war oft umkämpft" In: Neue Zürcher Zeitung 17.11.2019</ref>。ハプスブルク家の主要貿易港である[[トリエステ]]は、中欧と直結していたこともあり、この時期に急成長を遂げた<ref>{{Cite web|url=https://www.srf.ch/news/international/bauwerk-der-superlative-wie-der-suezkanal-in-150-jahren-die-welt-veraendert-hat|title=Wie der Suezkanal in 150 Jahren die Welt verändert hat (German: How the Suez Canal changed the world in 150 years)|accessdate=2021-03-28|archive-date=2021-01-11|archive-url=https://web.archive.org/web/20210111132735/https://www.srf.ch/news/international/bauwerk-der-superlative-wie-der-suezkanal-in-150-jahren-die-welt-veraendert-hat|url-status=live|language=de}}</ref><ref>Gabriella Pultrone "Trieste: New Challenges and Opportunities in the Relational Dynamics between City and Port" In: Méditerranée, 111|2008 pp. 129.</ref>。
19世紀の蒸気船による[[ムンバイ|ボンベイ]]への旅を想定した場合、スエズ運河を利用することで[[ブリンディジ]]、トリエステからは37日、[[ジェノヴァ]]からは32日、[[マルセイユ]]からは31日、[[ボルドー]]、[[リヴァプール]]、ロンドン、アムステルダム、ハンブルグからは24日の短縮になったという。当時は、輸送する商品が高価な運河の関税に耐えられるかどうかも検討する必要があった。そのため、中欧や東欧への陸路を持つ地中海の港が急速に発展していったのである。今日の船会社の情報によると、シンガポールからロッテルダムまでスエズ運河を経由するルートは、アフリカを回るルートに比べて6000キロ、9日間短縮されるという。その結果、アジアとヨーロッパを結ぶ定期船は、このルート短縮により44%のCO2([[二酸化炭素]])を削減することができる。スエズ運河は、[[東アフリカ]]と地中海地域を結ぶ重要な役割を担っている<ref name="Wilt 2019">Harry de Wilt: Is One Belt, One Road a China crisis for North Sea main ports? in World Cargo News, 17. December 2019.</ref><ref>Alexandra Endres: Schifffahrt ist fürs Klima genau so schlimm wie Kohle in Die Zeit, 9. December 2019.</ref><ref>Harry G. Broadman "Afrika´s Silk Road" (2007), pp 59.</ref>。
20世紀には、2つの世界大戦とスエズ運河危機のために、スエズ運河を介した貿易は何度も中断された。また、多くの貿易の流れは、地中海の港からハンブルグやロッテルダムなどの北欧のターミナルへと移っていった。[[冷戦]]の終結、欧州の経済統合の進展、CO2排出量の考慮、中国の[[一帯一路|シルクロード構想]]などを経て、[[ピレウス]]やトリエステなどの地中海沿岸の港が再び成長と投資の焦点となっている<ref name="Wilt 20192">Harry de Wilt: Is One Belt, One Road a China crisis for North Sea main ports? in World Cargo News, 17. December 2019.</ref><ref>Marcus Hernig: Die Renaissance der Seidenstraße (2018), p 112.</ref><ref>Tobias Piller "Italien als Teil von Chinas neuer Seidenstraße" In: Frankfurter Allgemeine Zeitung 15.3.2019.</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.dw.com/en/dw-documentary-examines-chinas-grip-on-europe/a-55847002|title=DW documentary examines China's grip on Europe - 08.12.2020|accessdate=2021-03-28|archive-date=2021-01-05|archive-url=https://web.archive.org/web/20210105023253/https://www.dw.com/en/dw-documentary-examines-chinas-grip-on-europe/a-55847002|url-status=live|language=en}}</ref>。
== 運河を横断する構造物 ==
* [[スエズ運河橋]]またはエジプト-日本友好橋は、エル=カンタラ([[アラビア語]]で「橋」の意味)に渡された、桁下70メートルの高架橋である。これは[[日本国政府]]が出資し、[[鹿島建設]]、[[JFEエンジニアリング|日本鋼管]]、[[新日本製鐵]]によるコンソーシアムが建設を請け負った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kajima.com/news/digest/nov_2001/tokushu/toku01.htm |title=鹿島がつくる海外インフラ |publisher=鹿島建設 |accessdate=2016-11-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161125043334/http://www.kajima.com/news/digest/nov_2001/tokushu/toku01.htm |archivedate=2016-11-25}}</ref>。
* [[エル・フェルダン鉄道橋]]<ref>{{Cite web|url=http://en.structurae.de/structures/data/index.cfm?ID=s0002510|title=El Ferdan Swing Bridge|publisher=Nicolas Janberg ICS|language=en|accessdate=2010-08-21}}</ref>は、2001年に完成した[[イスマイリア]]の北20キロメートルを通る世界最長の[[可動橋#旋回橋|旋回橋]]であり、その旋回部分は340メートルの長さを持つ。ここには以前から橋があったが、[[1967年]]に[[第三次中東戦争]]で破壊された。
* [[スエズ]]市から北57キロメートルのところには、[[シナイ半島]]へ[[真水]]を送る[[パイプライン輸送|パイプライン]]が運河の地下を通っている。{{Coord|30|27.3|N|32|21.0|E|}}.
* [[アハメド・ハムディ・トンネル]]は、グレートビター湖の南を通る。これは[[1983年]]に建設されたが漏水問題が生じ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/tunnel/main/m_list/16.html|title=スエズ運河トンネル|publisher=[[鹿島建設]] |accessdate=2010-08-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160411152608/http://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/tunnel/main/m_list/16.html |archivedate=2016-04-11}}</ref>、[[1992年]]から[[1995年]]にかけて既設隧道の中に防水トンネルを新たに設置し、改めて通行可能となった<ref>{{Cite web|url=http://www.kajima.co.jp/topics/perspect/vol_15_3/salt/ |title=Salt-Corroded Tunnel Undergoes Major Renovation |publisher=鹿島建設 |language=en|accessdate=2010-08-21}}</ref>。
* スエズ市近郊には、[[1999年]]に敷設された[[送電]]線が渡されている。
== 環境への影響 ==
[[File:Red Sea topographic map-en.jpg|thumb|right|upright|紅海の地図]]
スエズ運河建設に伴って、[[ナイル川デルタ]]から[[ワジ・トゥミラット]]を経由しスエズ南部やポートサイド北部まで通じていた[[淡水]]の運河は分断された。これらの淡水運河は[[1863年]]には完成され、乾燥地帯に淡水を運ぶ機能を担っていた。この淡水は当初は運河建設に、後には運河沿いの農業や生活用水に利用されていた<ref>[[#Britannica|Britannica]]</ref>。
紅海は地中海東岸よりも約{{convert|1.2|m|ft|}}高い<ref name="madl">{{Cite web|url= http://www.sbg.ac.at/ipk/avstudio/pierofun/lm/lesseps.htm|title= Essay about the phenomenon of Lessepsian Migration|author=Pierre Madl |date=1999年4月、2001年11月改訂|publisher= Colloquial Meeting of Marine Biology I|language=en|accessdate=2010-08-28}}</ref>が、グレートビター湖において海水は冬に北へ、夏に南へ流れる。干満は湖の南岸で生じるが、その高さはスエズ市沿岸部とは異なっている<ref name="rsp" />。このグレートビター湖はかつて過塩性湖であり、1869年の運河開通後数十年間はその高い塩分ゆえに紅海と地中海の間で生物の移動を防いでいた。しかし長い時間を経て水が入れ替わり、湖の塩分が低下すると、紅海の動植物が地中海東部に進出して生育域を作り出した。紅海は一般に[[大西洋]]よりも塩分が高く栄養に乏しい。そのため紅海種の生物は、地中海の中でも高塩分・貧養分の東側領域では大西洋種よりもその環境に馴染み進出したが、逆に地中海側の生物が紅海で繁殖することはほとんど無い。この移住現象は「{{仮リンク|レセップス移動|en|Lessepsian migration|}}」と呼ばれる<ref group="注">[[フェルディナン・ド・レセップス]]が命名した現象。別名、エリュトゥラー侵入(Erythrean invasion)とも。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902265784773880|title=紅海(レセップス)移動魚類の欠乏に関連したイスラエル地中海の磯海岸の魚類相|publisher=J-GLOBAL|accessdate=2010-08-28}}</ref>。
このような地中海東部の生態系への影響は、1968年の[[アスワン・ハイ・ダム]]運用開始なども関わった。[[ナイル川]]全体の様々な開発も伴い、ナイルデルタや地中海へ流れ込む淡水の総量は減少し、栄養分が豊富な[[シルト]]類が行き渡らなくなった。これによって海域の塩分希釈が少なくなり、自然に起こる[[濁度]]も低下し、地中海東部の環境をより紅海に近い状態にした。
運河の建設によって侵入した紅海種は[[移入種]]として、地中海の生態系の中で無視できない数まで繁殖し、環境に深刻な影響を与えている。地中海の地域種や[[固有種]]には圧迫され衰退が懸念されるものも多く存在する。既に約300種以上の紅海からの移入種は確認され、潜在的にはそれ以上の数が既に地中海に移動していると考えられる。エジプト政府は運河の拡充を志向しており、[[生物海洋学|生物海洋学者]]らはこのことが紅海種侵入のさらなる拡大に繋がるのではと懸念している<ref>[[#Galil|Galil and Zenetos]] </ref>。
== 古代の運河 ==
[[File:Canal des Pharaons.svg|thumb|ファラオの運河]]
[[古代エジプト]]には、[[ナイル川]]から紅海まで達する東西方向の淡水運河があり、「'''[[ファラオの運河]]'''」と呼ばれている<ref name="Britannica">『[[ブリタニカ百科事典]]』、11th edition, s.v. [http://www.1911encyclopedia.org/Suez_Canal "Suez Canal"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110721205807/http://www.1911encyclopedia.org/Suez_Canal |date=2011年7月21日 }}. Accessed 8 August 2008.</ref><ref name="Rappoport">Rappoport, S. (Doctor of Philosophy, Basel). ''History of Egypt'' (undated, early 20th century), Volume 12, Part B, Chapter V: "The Waterways of Egypt," pages 248-257. London: The Grolier Society.</ref><ref name="Hassan">{{Cite web|url= http://www.e-c-h-o.org/khd/ |title=KAFR HASSAN DAWOOD On-Line, Site location and history|author= Hassan, F. A. & Tassie, G. J |publisher= Egyptian Cultural Heritage Organization|language=en |accessdate=2010-08-28}}</ref>。
現在も同様のルートを、[[カイロ市]]からスエズ市への[[灌漑]]用水路が通っている。
これは、[[センウセルト2世]]<ref name="Sesostris">Silverman, David P. Ancient Egypt Oxford University Press (5 Jun 2003) ISBN 978-0195219524 p. 29</ref>もしくは[[ラムセス2世]]<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" /><ref name="Hassan" />の拠出によって細い運河が開削されたというもの、もしくはこの運河を組み込みながら<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" /> [[ネコ2世]]の時代に取り組みが始まり、[[ダレイオス1世]]の頃に完工した運河を指すものである<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" /><ref name="Hassan" />。
=== 紀元前2千年紀 ===
[[エジプト第12王朝]]ファラオのセンウセルト2世や[[センウセルト3世]]など伝説的[[セソストリス]]らは、紀元前1897年から紀元前1839年にかけてナイル川と紅海を繋ぐ運河の建設に乗り出したと言われる<ref name="Sesostris" /><ref group="注">{{仮リンク|ジェームズ・ヘンリー・ブレステッド|en|James Henry Breasted}}は、渓谷を通る古代の運河建設工事の初期は、センウセルト3世の事業だと考えた。J. H. Breasted、『[[:en:Ancient Records of Egypt| Ancient Records of Egypt]]』、第1章、p642-648、1906年、[[シカゴ]] </ref>。これは、当時の紅海は現代よりも北まで海進しており、現在のグレートビター湖<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />や{{仮リンク|ティムサーハ湖|en|Lake Timsah}}も海域にあった<ref name="Columbia">『The Columbia Encyclopedia』六版、, Sixth Edition</ref><ref name="Naville">{{仮リンク|エトワール=ナヴィーユ|en|Édouard Naville}}、「Map of the Wadi Tumilat (plate image)」『The Store-City of Pithom and the Route of the Exodus』Trubner and Company、1885年、ロンドン</ref>。
[[アリストテレス]]は『[[気象論 (アリストテレス)|気象論]]』にて以下のように記述している。
{{Quotation|One of their kings tried to make a canal to it (for it would have been of no little advantage to them for the whole region to have become navigable; Sesostris is said to have been the first of the ancient kings to try), but he found that the sea was higher than the land. So he first, and Darius afterwards, stopped making the canal, lest the sea should mix with the river water and spoil it.<br />訳:王のひとりは、王国の海運に計り知れない優位さをもたらす運河建設に乗り出した。セソストリスはこれに取り掛かった古代最初の人物と言われる。しかし、彼は海面が地面よりも高いという事実に行き当たった。そのため、彼、そして後の[[ダレイオス]]も、海水が川に混じり、利水性を損ねることを恐れて運河建設を諦めた<ref>{{Cite web|url=http://ebooks.adelaide.edu.au/a/aristotle/meteorology/book1.html|title= Meteorology (1.15)|author=アリストテレス|publisher=[[アデレード大学]]|language=en |accessdate=2010-08-28}}</ref>。}}
[[ストラボン]]は、セソストリスが運河建設に取り掛かったと記した。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]]は『[[博物誌]]』に、エジプト王セソストリスが船舶用運河で紅海の港と[[ナイル川デルタ]]を結び、その延長距離は60マイルであった事、後に[[アケメネス朝ペルシア|ペルシア]]の王ダレイオスが同じ発想を持ち、また[[プトレマイオス2世]]も幅100フィート、深さ30フィートの溝をグレートビター湖に至る長さ100マイルに渡って設けた事を書き残している<ref>{{Cite web|url=https://books.google.co.uk/books?id=JvyF-8NXFbIC&pg=PA70&lpg=PA70&dq=Pliny+the+elder+sesostris+canal&source=bl&ots=t1np0DY4S3&sig=i0wzXRGizdz6DK8e6CTGA1wFcoI&hl=en&ei=BieVSv3GE-PKjAfU-OnnDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result#v=onepage&q=&f=false|title= Natural History (6.33.165) ISBN 978-0-14-044413-1 p.70|author= The Elder Pliny and John Healey|edition= Reprint edition (5 Feb 2004)|publisher= Penguin Classics |language=en |accessdate=2010-08-28}}</ref>。
19世紀後半、フランスの[[地理学]]者は、ティムサーハ湖の東側を通ってグレートビター湖の北端近くまで達する、南北を結ぶ古代の運河を発見した<ref name="Carte hydrographique">''Carte hydrographique de l'Basse Egypte et d'une partie de l'Isthme de Suez'' (1855, 1882). Volume 87, page 803. Paris。[http://mapy.vkol.cz/mapy/v87803.htm].</ref>。この運河は前述のものと異なり、ティムサーハ湖付近まで海進していた紅海沿岸を航行した船がそのまま北進する運河だったと考えられる<ref name="Naville" /><ref name="Carte hydrographique" />。20世紀には、ティムサーハ湖からバッラ湖(現在のバッラ・バイパス付近)まで延長する工事の跡が発見され<ref name="WShea">Shea, William H. "A Date for the Recently Discovered Eastern Canal of Egypt," in ''Bulletin of the American Schools of Oriental Research,'' No. 226 (April 1977), pp. 31-38.</ref>、これは運河沿いに建てられた古代遺跡から[[エジプト中王国]]以降のものと推測された<ref name="WShea" />。これがセソストリス時代の古代運河と同じか否か判明しておらず、東方に対する[[塹壕]]の可能性も消されていない。
紀元前1470年の[[ハトシェプスト]]在位時に行われた[[プント国|プント]]遠征譚を描いた[[レリーフ]]には、遠征軍がプントからの帰路が航海だったことを表現している。この事から、当時紅海とナイル川を結ぶ航路が存在したという提言がある<ref>[[#Sanford| Sanford, p.72]]</ref><ref>[[#Garrison|Garrison, p.36]]</ref><ref group="注">最近の[[:en:Land of Punt#News reports on Wadi Gawasis excavations|Wadi Gawasisの発掘]]から、古代エジプトの海運は紅海沿岸の港を起点とし、運河は用いられていなかったという説もある。</ref>。このレリーフから、運河はラムセス2世在位の紀元前13世紀頃まで存在したと想像される<ref name="Britannica" /><ref>{{Cite web|url= http://www.denverseminary.edu/dj/articles1998/0100/0114.php |title= Rev. of ''Israel in Egypt: The Evidence for the Authenticity of the Exodus Tradition''|author= Richard S Hess|publisher= James K. Hoffmeier. ''The Denver Journal'' 1 (1 January 1998) |language=en |accessdate=2008-05-14}}</ref><ref>{{Cite web|url= http://www.e-c-h-o.org/khd/location.html |title= Kafr Hassan Dawood On-line |author= Fekri A Hassan |publisher= Kafr Hassan Dawood On-line |language=en |accessdate=2010-08-28}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.realidade.com.br/rih2/egipto.htm |title= Consideraciones sobre la Marinay la Guerra durante el Egipto Faraónico |author= Martínez Babon, Javier |publisher= |language= スペイン語 |accessdate= 2010-08-28 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120201143132/http://www.realidade.com.br/rih2/egipto.htm |archivedate= 2012年2月1日 |deadlinkdate= 2017年9月 }}</ref>
=== ネコ2世、ダレイオス1世、プトレマイオスの運河 ===
東西を結ぶ運河の遺構は、古代エジプトの[[ブバスティス]]、アヴァリス(ペル・ラメセス、{{Lang-en-short|[[:en:Avaris|Pi-Ramesses]]}})、{{仮リンク|ビション|en|Pithom}}を結び、これは[[1799年]]に技術者や地図製作者を率いた[[ナポレオン・ボナパルト]]が発見した<ref name="Rappoport" /><ref>[https://books.google.de/books?id=fj0GAAAAQAAJ&pg=RA2-PA351&lpg=RA2-PA351&dq=Gratien+Le+P%C3%A8re&source=bl&ots=h-ZAEgY_yZ&sig=2vmD6bS3Cj-XwCRdc_uLueFseXQ&hl=fr&ei=6blFStHdO8PdsgaKxaQs&sa=X&oi=book_result&ct=result ''Descriptions de l'Égypte'', Volume 11 (État Moderne)], containing ''Mémoire sur la communication de la mer des Indes à la Méditerranée par la mer Rouge et l'Isthme de Sueys'', par M. J.M. Le Père, ingénieur en chef, inspecteur divisionnaire au corps impérial des ponts et chaussées, membre de l'Institut d'Égypte, p. 21 - 186</ref><ref>Montet, Pierre. ''Everyday Life In The Days Of Ramesses The Great'' (1981), page 184. Philadelphia: University of Pennsylvania Press.</ref><ref>Silver, Morris. ''Ancient Economies II'' (Apr. 6, 1998), "5c. Evidence for Earlier Canals." [http://www.angelfire.com/ms/ancecon/index.html ANCIENT ECONOMIES II], retrieved Aug. 8, 2008. Economics Department, City College of New York.</ref>。これは『{{仮リンク|エジプト誌|en|Description de l'Égypte}}』にまとめられた。
[[ギリシア]]の[[ヘロドトス]]が著した『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』によると<ref>ヘロドトス『歴史』、ii.158.</ref>、紀元前600年頃に[[ネコ2世]]は[[ブバスティス]]とピション(ヘリオポリス)を東西に貫きワジ・トゥミラートを通る運河建設に着手したとあり<ref name="Rappoport" />、それを{{仮リンク|ヘリオポリス湾|en|Heroopolite Gulf}}と紅海まで延長したと考えられる<ref name="Britannica" />。しかし、彼の事業は完遂されなかったとも伝わる<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。
ヘロドトスの記述によると、数字には疑わしい点もあるがこの事業で120,000人が死亡したという<ref group="注">W. W. HowとJ. Wellsの共著『A Commentary on Herodotus』はこの点について「12万という数字は確かに誇張されている。[[ムハンマド・アリー]]が建設したナイルとアレクサンドリアを結んだマフムーディーヤ運河でも死者は1万人だった」と記述している。</ref>。[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]]の言では、ネコ2世の運河拡張は57マイルにおよび<ref name="Rappoport" />、これは谷を通りながらブバスティスからグレートビター湖へ至る距離に相当する<ref name="Rappoport" />。ヘロドトスが述べた距離1,000[[スタディオン]]以上(114マイル以上)とは、当時のナイル川と紅海を完全に繋げる距離である<ref name="Rappoport" />。
ネコ2世が死去すると事業は中止された。ヘロドトスはその理由を、運河の完成は他国に利すると警告する[[神託]]があったためという<ref name="Rappoport" /><ref group="注">ヘロドトスは、「預言はネコ2世が野蛮人のために精を出して働いていると伝えたため、この事業の継続は保留された。エジプト人にとって、他の言語を使う人間たちは皆野蛮人とみなしていた。」と伝える。</ref>。実際には、[[ネブカドネザル2世]]との戦争が事業継続を不可能にした。
ネコ2世の運河は、古代エジプトを征服したペルシアの[[ダレイオス1世]]によって完成された。当時、ヘリオポリス湾と紅海の間にはグレートビター湖のちょうど南に位置した<ref name="Rappoport" /><ref name="Naville" />シャルーフ(Shaluf<ref name="Rappoport" />、Chalouf<ref name="Darius">{{Cite web|url= http://www.livius.org/aa-ac/achaemenians/DZ.html |title= Darius' Suez Inscriptions|author=Jona Lendering |publisher=LIVIUS Articles on Ancient History |language=en |accessdate=2010-08-28}}</ref>、Shaloof<ref name="Naville" />)の町近郊を通る自然の<ref name="Rappoport" />水路があった<ref name="Britannica" />。しかしこれは[[シルト]]<ref name="Rappoport" />で埋まっていた<ref name="Britannica" />ため、ダレイオス1世は浚渫させて船の通行を可能にしたと言われる<ref name="Rappoport" />。こうして造られた運河は、ヘロドトスによると2隻の[[三段櫂船]]が[[櫂|オール]]を出した状態ですれ違うことが出来る程に広く、全長を進むのに4日間を有した。ダレイオス1世はこの事業を記念し、スエズ市から数マイル北にあるカブレット(Kabret)近郊などナイル川の土手に数多い[[花崗岩]]製の[[石碑]]を据えた。この『{{仮リンク|大ダレイオスのスエズ碑銘|en|Darius the Great's Suez Inscriptions}}』は以下のように伝える。
{{Quotation|聖なる王ダレイオス:ペルシアの王たる朕は故国を発ちエジプトを征した。朕はエジプトを流れるナイルの川よりペルシア領の端にあたる海まで運河を築くことを命じた。開かれた運河は、朕の意図のままにエジプトからペルシアへ海路を繋げた<ref name="Darius" />。}}
運河はナイル川のブバスティスに繋がっていた。ピションにある記念柱の碑文によると、紀元前270年もしくはその翌年にプトレマイオス2世は<ref>[[:en:F. W. Walbank|F. W. Walbank]], ''The Hellenistic World'' 1981:202.</ref>、紅海のヘリオポリス湾にある{{仮リンク|アルシノエ (スエズ湾)|en|Arsinoe (Gulf of Suez)|label=アルシノエ}}<ref name="Rappoport" />に[[閘門]]つき[[水門]]を設置し、海水が運河に流れ込まず淡水が維持されるように工夫して運河を再開させたとある<ref name="Rappoport" />。
=== 紅海の海退とナイル流域面積の減少 ===
歴史家の研究によると、紅海の海岸線は徐々に後退し、数世紀後にはティムサーハ湖<ref name="Columbia" /><ref name="Naville" />やグレートビター湖<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />の位置より遥か南の、現在の位置まで下がったと考えられている。さらに、ナイル川で[[堆積]]する[[泥]]の存在も、運河が通る国々にとって維持補修することを困難なものとした。プトレマイオス2世から約100年後の[[クレオパトラ7世]]の頃には、[[ナイル川デルタ]]の[[ペルシウム]]支流に溜まったシルトによって<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />、東西を結ぶ運河はどれも航行不能な状態になってしまった<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。
[[File:Suez1856.jpg|thumb|[[スエズ湾]]北端の[[地形図]]、1856年製。オールドカイロへの経路も示される。]]
=== オールドカイロから紅海への道 ===
8世紀までの時期、[[オールド・カイロ|オールドカイロ]]と紅海を結ぶ運河が存在した<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。ただし、誰によって建設されたかは複数の説があり、[[トラヤヌス]]、[[アムル・イブン・アル=アース]]、[[ウマル・イブン・ハッターブ]]のいずれかではないかと考えられている<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。この運河はナイル川沿いのオールドカイロ<ref name="Rappoport" />と現在のスエズ近郊を結んでいた<ref name="Britannica" /><ref>{{仮リンク|アウグスト・ハインリヒ・ペーターマン|en|August Heinrich Petermann}} ''Karte Der Bai Von Súes'' (1856). Nach der Engl. Aufnahme v. Comm. Mansell. [http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/Suez1856.jpg]</ref>。地理学者のディクイルは、8世紀前半に[[聖地]]を[[巡礼#キリスト教の巡礼|巡礼]]した[[イギリス]]の僧フィデリスが、道中にナイル川から紅海へ運河を航行したと話した内容を報告した<ref>[[バーバラ・タックマン]] ''Bible and Sword: How the British came to Palestine'' MacMillan, London (1987) ISBN 0-333-33414-0 </ref>。
[[767年]]には、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]である[[マンスール]]が[[アラビア半島]]の敵対勢力に対抗するため、運河を閉鎖したと伝わる<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。1000年頃、[[ハーキム]]はオールドカイロと紅海間の運河修繕に乗り出したという意見もあるが、それはごく短い期間にとどまり、再び運河は砂に埋まったという<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。ただし一部の構造は残り、年1度のナイル[[洪水]]の際にそこは水で満たされる<ref name="Britannica" /><ref name="Rappoport" />。
=== ナポレオンの古運河発見 ===
[[ナポレオン・ボナパルト]]は運河の遺構発見に熱心で、[[1798年]]後半に考古学者や科学者および地図学者や技術者らの集団に調査をさせた<ref name="Linda Hall">{{Cite web|url= http://www.lhl.lib.mo.us/events_exhib/exhibit/exhibits/napoleon/suez_canal.shtml |title= The Search for the Ancient Suez Canal |author= |publisher= Linda Hall Library|location=カンサスシティ |language=en |accessdate=2010-08-28}}</ref>。この結果は『エジプト誌』に纏められ、そこには、紅海から北へ伸び、そしてナイル川を目指して西へ転じる古代運河の発見について説明する詳細な地図が添付された<ref name="Linda Hall" /><ref>[https://books.google.de/books?id=fj0GAAAAQAAJ&pg=RA2-PA351&lpg=RA2-PA351&dq=Gratien+Le+P%C3%A8re&source=bl&ots=h-ZAEgY_yZ&sig=2vmD6bS3Cj-XwCRdc_uLueFseXQ&hl=fr&ei=6blFStHdO8PdsgaKxaQs&sa=X&oi=book_result&ct=result ''Descriptions de l'Égypte'', Volume 11 (État Moderne)], containing ''Mémoire sur la communication de la mer des Indes à la Méditerranée par la mer Rouge et l'Isthme de Sueys'',
par M. J.M. Le Père, ingénieur en chef, inspecteur divisionnaire au corps impérial des ponts et chaussées, membre de l'Institut d'Égypte, p. 21 - 186</ref>。
[[イギリス]]が牛耳っていた[[インド]]貿易へ干渉するため<ref name="chichukai">{{Cite web|和書|url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/geppo/248.html |title=表紙説明 地中海の水辺9|author=牟田口義郎|publisher=地中海学会月報 248|accessdate=2010-08-28}}</ref>、ナポレオンは[[地中海]]と紅海を南北に結ぶ近代的な運河の建設を真剣に検討した。しかし、事前調査を行ったところ紅海の水面が地中海よりも{{convert|10|m|ft|}}高いことが判明し、[[閘門]]を用いた運河建設には多額の費用や長い期間がかかるため、この計画は頓挫した。ただしこの調査結果は誤っており、これは戦時下で測定を行わざるをえなかったことが影響し、計算の間違いが積み重なった結果であった<ref name="Funanushi">{{Cite web|和書|url=http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_310.html |title=海運雑学セミナー310 スエズ運河:ナポレオンに運河建設を断念させた技師たちの測量ミス|author= |publisher=日本船主協会|accessdate=2010-08-28}}</ref><ref>Wilson, ''The Suez Canal''</ref>。
現在でも明瞭になっていないが、ブバスティスから紅海まで繋がる古代の運河ルートは、1861年頃までは所々に水を湛える場所があった<ref name="Rappoport" />。
== 歴史 ==
=== 検討 ===
建設に立ちはだかる海面の高低差は意識され続けたが、ヨーロッパから東へ抜ける海路を大幅に短縮する運河への希求は消えることは無かった。[[1830年]]、[[フランシス・ロードン・チェスニー]]がイギリス政府へ提出した報告書では、紅海と地中海には海面差が無く運河建設は可能であると述べられていたが、これによってイギリスが何らかの行動を起こすことは無かった。{{仮リンク|トーマス・フレッチャー・ワグホーン|en|Thomas Fletcher Waghorn}}は、スエズ陸峡を繋ぐ[[馬車]]輸送を整備し、ヨーロッパとインドを結ぶ郵便経路を約3か月から、35日ないし40日までに短縮した<ref>{{Cite web|url= http://www.egyptstudycircle.org.uk/PostalHistory/overland.html |title=THOMAS FLETCHER WAGHORN |publisher=THE EGYPT STUDY CIRCLE|language=en|accessdate=2010-08-21}}</ref>。
[[File:Suez Canal Ismailia2.jpg|thumb|right|[[イスマイリア]]のスエズ運河。1860年。この2年後に同地区の運河は完成する。]]
[[フランス]]の冒険家{{仮リンク|リナント・デ・ベレフォンズ|en|Louis Maurice Adolphe Linant de Bellefonds}}は{{仮リンク|エジプト公共事業省|en|Egyptian Public Works}}の主任技師となり、[[シナイ半島]]を調査して運河建設の計画に当たった。[[1833年]]、主に技術者集団から構成されるフランスの[[サン=シモン主義|サン・シモン教]]が、東西両洋の融和という観点から運河に興味を持った。同教設立者のひとり{{仮リンク|バルテルミー・プロスペル・アンファンタン|en|Barthélemy Prosper Enfantin}}は、[[ムハンマド・アリー]]と接触を持って運河へ関心を向けさせようとしたが、これは徒労に終わった。[[1836年]]には[[オーストリア帝国]]で[[鉄道]]開通に尽力した{{仮リンク|アロイス・ネグレッリ|en|Alois Negrelli}}も運河に着目した。このような流れの中、[[1846年]]にアンファンタンはスエズ運河研究会(Société d'Études du Canal de Suez)を開催し、[[ロバート・スチーブンソン]]、ネグレッリ、ポール・エイドリアン・ブルダルーらがベレフォンズの協力を受けながらスエズ運河の検討を行った。この時にブルダルーが調査した結果から、地中海と紅海には海面の高度に差がないということが広く知られるようになった。しかし、イギリスは影響力を持つ[[インド]]貿易が、自由に通行できる運河開通によって脅かされるのではと懸念し、その一方で[[アレキサンドリア]]からカイロを経由しスエズに至る鉄道を敷設するほうが好ましいと考えた。この鉄道は後にスチーブンソンによって開通した。
=== 建設 ===
{{Main|スエズ運河会社}}
[[File:Suez Canal drawing 1881.jpg|thumb|left|upright|1881年に描かれたスエズ運河の風景画]]
[[1854年]]と[[1856年]]に[[フェルディナン・ド・レセップス]]は、万国に開かれたスエズ運河建設を行う会社の設立について、エジプト[[総督]]の[[サイード・パシャ]]から利権を得た。この会社は運河開通から99年間の事業権も獲得した。この背景には、1830年代にフランス駐エジプト大使だった頃にレセップスが培った人間関係が功を奏した。利権にある通り、レセップスは7か国から集めた13人の専門家をメンバーとする{{仮リンク|スエズ地峡開削検討国際委員会|en|International Commission for the piercing of the isthmus of Suez}}(Commission Internationale pour le percement de l'isthme des Suez)を開催した。その中には[[ロンドン]]の[[イギリス土木学会|土木技師学会]]会長のマックリーン、リナント・デ・ベレフォンズの計画を説明し実現の可能性と最適な運河路についての助言を求められたアロイス・ネグレッリらが参加した。エジプトで測量と分析そして[[パリ]]で何度も議論が行われ、ネグレッリの様々なアイデアが織り込まれながら運河についてあらゆる角度から検討が加えられ、1856年12月に委員会は満場一致で運河の全体像と詳細に関する報告書を纏め上げた<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=LVoGEq7EwxMC&pg=PA377&dq=Extraits+des+proc%C3%A8s-verbaux+des+s%C3%A9ances+de+la+commission+internationale+de+Canal+de+Su%C3%A8z&lr=&hl=de&cd=29&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false ''Percement de l'isthme de Suez. Rapport et Projet de la Commission Internationale''. Documents Publiés par M. Ferdinand de Lesseps.] Troisième série. Paris aux bureaux de l'Isthme de Suez, Journal de l'Union des deux Mers, et chez Henri Plon, Éditeur, 1856. On Google Books (french)</ref>。[[1858年]][[12月15日]]、[[スエズ運河会社]](The Suez Canal Company, Compagnie Universelle du Canal Maritime de Suez)が設立され、現在の[[ポートサイド]]沿岸で建設が開始された。
掘削は、エジプト人の[[強制労働]](Corvée、コルヴェ、「[[賦役]]」の意)も使われながら約10年間掛かった。ある説によれば、30,000人が常時使役され続け、様々な国からのべ150万人がこの労働に従事したという。そして、数千人がこの労働で死亡したとも見積もられる<ref name="Oster-1">{{Cite web |url=http://www.arte.tv/fr/connaissance-decouverte/aventure-humaine/Cette_20semaine/1291022.html |title=Le canal de Suez |author=Uwe Oster |publisher=arte.tv |language=ドイツ語 |accessdate=2010-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110819201458/http://www.arte.tv/fr/connaissance-decouverte/aventure-humaine/Cette_20semaine/1291022.html |archivedate=2011-08-19 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。また、工事にはフランスで発明された[[蒸気機関|蒸気駆動]]の土木建機ラダーエキスカベータも使用された。
運河建設に一貫して反対の立場だったイギリスは、外交的な駆け引きのひとつとして、運河建設における労働者の扱いが[[1830年]]にヨーロッパで禁止された[[奴隷]]的だとして公式に非難した。その一方で、[[イギリス海軍]]の強大な海軍力を背景に武装化[[ベドウィン]]を送り込み、労働者の反乱を煽った。建設における過酷な労働条件は改善され、総督は計画に支障を及ぼすコルヴェを停止した<ref name="Oster-1" />。このイギリスの行動にレセップスは大いに怒り、数年前にイギリスが建設した[[エジプト鉄道]]の際に政府が労働者に強いた労働とそれによって多くの死者が出たことを取り上げた非難の手紙をイギリス政府に送りつけた。
スエズ運河会社の国際的評判は芳しくなく、その株式には当初あまり買い手がつかなかった。フランスの株式市場では瞬く間に完売したが、イギリス、[[アメリカ合衆国]]、[[オーストリア]]、[[ロシア]]では全く売れなかった。当時のイギリスでは以下のような懐疑論があった。
{{Quotation|ひとつ確かな事は...当地の市場はこの大事業に手ごたえを感じておらず、運河の収益がその維持費さえ賄えるか疑問を持っている。どうやっても、(運河は)大きな船舶が航行できるようなものにはなり得ないだろう<ref name="Oster-1" />。}}
=== 開通 ===
[[File:SuezCanalKantara.jpg|thumb|19世紀、スエズ運河開通直後の風景]]
[[File:Mittelholzer-suezkanal.jpg|thumb|スエズ運河の航空写真。1934年2月に[[スイス]]のパイロット兼写真家{{仮リンク|ヴァルター・ミッテルホルツァー|en|Walter Mittelholzer}}が撮影。]]
多くの技術的、政治的、財政的問題は克服されたが、それでも運河の総建設費は当初予想の2倍に膨らんだ<ref name="Funanushi" />。そして1869年11月17日午前8時<ref name="Yamada">{{Cite web|和書|url= http://www.jcca.or.jp/kaishi/243/243_doboku.pdf |format=PDF |title=土木遺産の香 第47回 二つの海を繋ぐ古代からの夢「スエズ運河」|author=日本工営(株)山田耕治|publisher=建設コンサルタンツ協会|accessdate=2010-08-28}}</ref>、スエズ運河は開通した。
「東と西の[[結婚]]」と[[形容詞|形容]]された開通式では<ref name="chichukai" />、[[フランス第二帝政|フランス皇后]][[ウジェニー・ド・モンティジョ|ウジェニー]]が乗る皇室所有のエーグル号が先頭を切り<ref name="Yamada" />、イギリス帝国の[[P&O|P&O liner]]社船が続く<ref>{{Cite web|url=http://www.russojapanesewar.com/lewis-5.html |title=The Suez Canal |author=Ken Lewis |publisher= The Rosso-JapaneseWar Research Society |language=en|date=1904-02、1905-09|accessdate=2010-08-28}}</ref>総勢48隻がポートサイドから運河を渡り<ref name="Yamada" />、[[オーストリア皇帝]]などヨーロッパ中から1000名以上の賓客が出席した<ref name="chichukai" />。
1867年以来、[[大日本帝国]]に駐在したイギリス帝国外交官[[アルジャーノン・ミットフォード|ミットフォード]]は、1870年に帰国のため、[[シンガポール]]から[[マルセイユ]]まで搭乗したフーグリー号が「開通式に披露行事として通った船を除けば、我々の船が、営業開始後の一番目の船」となったと回顧している<ref>『英国外交官の見た幕末維新』A.B.ミットフォード著、長岡祥三訳、[[講談社学術文庫]]1349、1998年、254 - 255頁。原著、1915年。長岡訳初版、[[新人物往来社]]、1985年。</ref>。
運河開通直後、スエズ運河会社は財政難にあった。完工は[[1871年]]まで長引き、当初の2年間は運河利用数は予想を下回った。収益を改善するためレセップスは、[[1854年]]にイギリスの商船法へ導入された理論上の[[総トン数]]([[:en:Net tonnage]])で通行料を決めるムーアサム・システム(Moorsom System)に加え、船舶の実積載能力を算出基礎とする追加口銭(tonneau de capacité)を上乗せする改訂を行った。続いて行われた商業上および外交的交渉の結果、[[コンスタンティノープル]]で国際委員会が開かれ、1873年12月18日付け議定書にて純トン数(net tonnage, NT)の基準と料金表が定められた<ref>{{Cite web|url= https://archive.org/stream/documentsdiplom21trgoog#page/n125/mode/1up |title= Protocol of the Commission |publisher=Documents diplomatiques |language=fr|accessdate=2010-08-28}}</ref>。これは、現在でも用いられる[[トン数#その他|スエズ運河トン数(Suez Canal Net Tonnage, SCNT]])とスエズ運河特殊トン数(Suez Canal Special Tonnage Certificate, SCSTC)の起源となった。
運河開通は、世界貿易に劇的な効果をもたらした。6か月前に完工していた[[北アメリカ]]の[[大陸横断鉄道]]と接続することで、[[世界一周]]する時間は大きく短縮された。さらにヨーロッパ諸国による[[アフリカ分割|アフリカ大陸の植民地化]]に拍車をかけた。運河建設には一貫して反対して来た[[イギリス帝国]]だったが、蓋を開けてみると、スエズ運河を通過する船の8割がイギリス船籍だった<ref name="chichukai" />。
なお、1873年に大日本帝国の[[岩倉使節団]]も帰路に、スエズ運河を航行しており、当時の運河の様子が記録されている<ref>[[久米邦武]]編『[[米欧回覧実記]]・5』田中彰・校注、岩波書店([[岩波文庫]])1996年、256 - 264頁</ref>。
===イギリスによる介入===
当時のエジプトは[[オスマン帝国]]支配下にあった。[[1875年]]、[[サイード・パシャ]]の後任[[イスマーイール・パシャ]]は、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万[[ポンド (通貨)|ポンド]]で手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった<ref name="chichukai" />。この決断をした[[イギリスの首相]][[ベンジャミン・ディズレーリ]]は、[[イギリスの議会|議会]]の承認なしに事を進め、購入資金を[[ロスチャイルド家]]から借り受けたことが[[イギリスの憲法]]制度に反すると[[ウィリアム・グラッドストン]]に告訴された<ref>Stephen J. Lee, ''Gladstone and Disraeli''. [[ラウトレッジ]], 107</ref>。
[[1882年]]に[[ウラービー革命]]で起こった暴動を口実に、イギリスはエジプトに軍事介入を続け、[[1888年]]には[[スエズ運河の自由航行に関する条約]](Convention of Constantinople)にてスエズ運河はイギリス管轄下の[[中立地帯]]と定められ、[[第一次世界大戦]]を経てイギリス軍の駐留が続いた。これは1915年にオスマン帝国から攻撃を受けた際、戦略上重要な防衛線となった<ref name="FWW87">''First World War'' - Willmott, H.P. [[DK社]], 2003, Page 87</ref>(「[[中東戦域 (第一次世界大戦)]]」も参照)。[[1936年]]のアングロエジプト条約([[イギリス・エジプト同盟条約]])ではイギリスが運河の管理権を主張し、スエズ運河に軍隊を駐留させた<ref name="Fujita">{{Cite web|和書|url= http://opac.kanto-gakuin.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/NI20000420/Body/link/10fujita.pdf|format=PDF |title=1951-52年スエズ運河地帯における英占領軍撤退要求民衆闘争について -エジプト現代史資料に拠る一考察- |author=藤田進 |publisher=[[関東学院大学]]『経済系』第238集 |accessdate=2010-08-28}}</ref>。
[[1951年]][[10月8日]]、エジプト政府は、[[第二次世界大戦]]後も過剰な居座り状態を続けるイギリス軍に対し、アングロエジプト条約の破棄を宣言して軍の撤退を要求した。さらに[[ストライキ]]で端を発した運河労働者らエジプト住民にも反英行動が広がった。イギリスは[[アメリカ合衆国]]、フランス、[[トルコ]]と共同で運河を防衛する同盟をエジプトにも呼び掛けつつ、治安維持名目で住民デモへの発砲や施設占領などの強行策にも出た。この事態は、民衆運動が[[ゲリラ]]活動など民族闘争まで発展し、[[エジプト王国]]を脅かすところまで及んだため国王が中心となって妥協が図られ、イギリス軍は駐屯を維持された。しかしこの事件によってエジプトの社会・経済体制の矛盾が露呈し、6か月後の[[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]]に繋がる一因となった<ref name="Fujita" />。
[[File:Gamal-002.jpg|thumb|[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナーセル]]大統領(中央)。彼が執った中立外交政策に振り回されたイギリスとフランスは、結果的に運河の利権を喪失した<ref name="Ikeda" />。右は[[ソ連]]首相[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]。]]
=== スエズ危機 ===
{{Main|第二次中東戦争}}
中立外交政策を取る[[エジプト#エジプト共和国|共和国制エジプト]]が[[ソ連]]と交渉を持ったことを理由に英米が[[アスワン・ハイ・ダム|アスワンダム]]建設支援の公約を取り下げたことが発端となり、エジプトの[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]大統領は1956年7月26日にスエズ運河を国有化して[[スエズ運河庁]]へ管理を移管させる宣言を行った<ref name="Ikeda">{{Cite journal|和書|author=池田亮 |title=スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策 |url=https://doi.org/10.15057/15894 |journal=一橋法学 |publisher=一橋大学大学院法学研究科 |year=2008 |month=jul |volume=7 |issue=2 |pages=489-510 |naid=110007620113 |doi=10.15057/15894 |issn=13470388 |accessdate=2020-07-07}}</ref>。これに対抗してイギリス、フランス、[[イスラエル]]が密約を交わして軍事行動を起こし、スエズ危機と呼ばれる[[第二次中東戦争]]が勃発した。イスラエルが陸上から侵攻し、イギリスとフランスが空軍および支援活動を行った。しかしこの作戦にアメリカは参加せず、イギリスは[[アラブ諸国]]や反植民地主義世論から厳しい批判を受けるようになった<ref name="Ikeda" />。
戦線が拡大して惨憺たる状態となったイギリスを救うため、[[カナダ]]の[[外相]][[レスター・B・ピアソン]]が、スエズ運河通行の安全確保とイスラエルのシナイ半島撤退実行を目的とした初めての[[国際連合|国連]]平和維持軍創設を提唱した。[[1956年]][[11月4日]]、国連加盟国の大部分が、国連平和維持軍がシナイ半島に駐留してエジプトとイスラエルが双方軍を撤退させるまで[[委任統治]]を行うというピアソン案を支持し、採択された<ref name="Ikeda" />。アメリカもこれを支持し、[[イギリスポンド]]を売却して価値を下げる圧力をイギリスに掛け、同国の軍撤収を認めさせた。ピアソンには、後にこの功績が讃えられ[[ノーベル平和賞]]が贈られた。スエズ運河はエジプト軍が故意に船を沈没させて強制的に閉鎖されていたが<ref>{{Cite web|和書|url= http://ecows.econ.niigata-u.ac.jp/~e-lib/wp/WP_No96.pdf |format=PDF |title=国際関係論から比較経済体制論へ|author=小山洋司|publisher=[[新潟大学]]経済学部 |accessdate=2010-08-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306062934/http://ecows.econ.niigata-u.ac.jp/~e-lib/wp/WP_No96.pdf |archivedate=2016-03-06}}</ref>、[[1957年]]4月に国連の支援で撤去され、再開通した。運河とシナイ半島の中立を維持するため、[[第一次国際連合緊急軍]](United Nations Emergency Force, UNEF)が設立された。
=== 第三次・第四次中東戦争 ===
{{main|第三次中東戦争|消耗戦争|第四次中東戦争|エジプト・イスラエル平和条約}}
[[1967年]]5月、ナーセル大統領は国連平和維持軍に対してスエズ運河を含むシナイ半島からの撤収を求めた。イスラエルは反対したが、国連はこれを認めて軍を引き揚げ、エジプトはイスラエル国境まで軍を駐留させ、[[チラン海峡]]のイスラエル籍船の航行を封鎖した。なお、スエズ運河のイスラエル船利用は、[[1951年]] - [[1952年]]の短い期間を除き、[[1949年]]以来認められていなかった。
この事態が1967年6月にイスラエルをエジプトへの先制攻撃に駆り立て、シナイ半島とスエズ運河制圧に乗り出させた。こうして起こった[[第三次中東戦争]]の期間、封鎖された。さらに第三次中東戦争の結果、イスラエルはスエズ運河まで進撃し、運河はエジプトとイスラエルが対峙する前線となった。このため、通航不能状態が続き、運河には{{仮リンク|黄色い船団|en|Yellow Fleet}}と呼ばれることになる14隻の貨物船が8年間にわたって閉じ込められた。[[1973年]]10月の[[第四次中東戦争]]中、運河はイスラエルが占拠したシナイ半島に向かうエジプト軍と、エジプト本土に攻め込む[[イスラエル国防軍]]とが相互に渡河作戦を実施している。運河周辺には、戦車などこの戦争の残骸が記念碑として残されている。
[[File:RH-53D sweeping Suez Canal 1974.jpg|thumb|[[アメリカ海軍]]の[[CH-53 (航空機)|RH-53D]]が運河を[[掃海]]する様子(1974年)]]
第四次中東戦争後、イスラエルとエジプトは和平の方向に向かい、運河再開に向けて動いている。シナイ半島には[[第二次国際連合緊急軍]]が展開し、両国の兵力引き離しを行なった。[[1974年]]5月から12月には、第四次中東戦争でスエズ運河に撒かれた[[機雷]]を排除するため、アメリカの[[強襲揚陸艦]][[イオー・ジマ (LPH-2)|イオー・ジマ]]が12機の[[CH-53 (航空機)|RH-53D]]を積載して現地に向かい、[[掃海]]作業および[[不発弾]]撤去の[[:en:Operation Nimbus Moon|Nimbus Moon作戦]]を実行した。これによって、湖沼部を含む運河にあった機雷の99%が掃討され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.history.navy.mil/nan/backissues/1970s/1974/sep74.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2014年11月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131208081410/http://www.history.navy.mil/nan/backissues/1970s/1974/sep74.pdf |archivedate=2013年12月8日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、1975年に運河通行は再開された<ref>[http://www.penta-ocean.co.jp/suez_story/4.html 五洋建設・スエズ運河改修プロジェクト 6月5日に再開記念式典]</ref>。
第二次国際連合緊急軍は[[1979年]]に展開期限を迎えた。アメリカ、エジプト、イスラエルを始めとする諸国が1979年の[[エジプト・イスラエル平和条約]]に基づき、平和維持に関して国連の役割を強めようとしたが、[[シリア]]の反対を受けたソ連が[[国際連合安全保障理事会]]にて賛同せず、これは実現しなかった。そこで、[[1981年]]に[[多国籍軍監視団]](MFO)が創設され、イスラエルの段階的撤退を後押しした。これは、アメリカ、イスラエル、エジプトの合意下で実施された。
===拡張工事===
{{Main|新スエズ運河}}[[File:News suez.jpg|thumb|スエズ運河の新しい水路]]
工事費80億ドルをかけて約1年にわたり運河の拡張や[[浚渫]]を行い、190キロ区間のうち72キロ区間で新水路の[[新スエズ運河]]を建設して、2015年8月6日に開通した。エジプト政府は、これにより1日平均の通航船舶量が現在の49隻から97隻に倍増し、通行量も2.5倍になると見込んでいる<ref>http://diamond.jp/articles/-/76169/ 「第2スエズ運河」開通!
エジプト経済再興の陰に“剛腕大統領”の存在</ref><ref>{{Cite news |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150807/k10010181311000.html |title=スエズ運河 拡張工事が完了 通過時間短縮へ |archiveurl=https://archive.is/20150806222044/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150807/k10010181311000.html |archivedate=2015年8月6日 |date=2015-08-07 |accessdate=2015-12-14 |deadurldate=2017年9月 }}</ref><ref>{{Cite news |url=http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150807-00000582-fnn-int |title=スエズ運河の拡張工事終了 新しい水路の開通記念式典 |archiveurl=https://archive.is/20150808121822/http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150807-00000582-fnn-int |archivedate=2015年8月8日 |accessdate=2015-12-14 |agancy=フジテレビ系(FNN) |work=Yahoo!Japanニュース |deadurldate=2017年9月 }}</ref><ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35068543.html 「エジプト、スエズ運河の拡張工事完了 収入増見込む」][[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]</ref>。
エジプト政府は運河沿いを[[経済特区]]に指定し、工場誘致を進めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/news/4219673.html |title=スエズ運河開通150年 投資拠点に、中国が関心 |website=47News |publisher=共同通信 |date=2019-11-15 |accessdate=2020-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200101062547/https://www.47news.jp/news/4219673.html |archivedate=2020-01-01}}</ref>。
=== エヴァーギヴンによる交通遮断 ===
{{Main|2021年スエズ運河封鎖事故}}
2021年3月23日には、強風に煽られたこと、また砂嵐による視界不良が原因で進路を誤った大型コンテナ船[[エヴァーギヴン]]が運河を塞ぐ形で座礁。大渋滞を引き起こした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3338489 |title=スエズ運河で巨大コンテナ船座礁 航路ふさぎ渋滞発生 |publisher=AFP |date=2021-03-24|accessdate=2021-03-25}}</ref>。経済的な影響は大きく、毎時間400億円を超える規模と報道された<ref>{{Cite web|和書|url=https://this.kiji.is/747793805117358080 |title=座礁、毎時間436億円の損害 スエズ運河の航行停止で台湾紙 |website=this.kiji.is |publisher=共同通信 |date=2021-03-25 |accessdate=2021-03-26}}</ref>。
==邦文文献==
* ジャン・デルベ『スエズ運河 スエズの開拓者レセップス』[[青柳瑞穂]]訳 [[第一書房]], 1940. のち「世界ノンフィクション全集」[[筑摩書房]]
* ションフィールド『スエズ運河』[[福岡誠一]]訳 1940. [[岩波新書]]
* アンヂェロ・サムマルコ『スエズ運河』[[坪内章]]訳 イタリヤ大使館情報官室, 1942.
* [[今尾登]]『スエズ運河の研究 外交史的・政治的・経済的地位』[[有斐閣]], 1957.
* ビノー『スエズ運河物語』[[大崎正二]]訳 [[小谷野半二]] 絵 [[実業之日本社]], 1957. 少年少女世界の本
* シーグフリード『スエズ運河とパナマ運河』[[庄司浅水]]訳 あかね書房 1961 少年少女世界ノンフィクション全集
* [[酒井傳六]]『スエズ運河』1976. [[新潮選書]] のち[[朝日文庫]]
* 『爆発の嵐スエズ運河を掘れ』横山アキラ作画 [[宙出版]] 2004.10. [[プロジェクトX~挑戦者たち~]] コミック版
== 関連項目 ==
* [[パナマ運河]] - フェルディナン・ド・レセップスが開発に挑むが、難工事や[[マラリア]]の蔓延などが障害となり挫折<ref>{{Cite web|和書|url=http://phi.med.gunma-u.ac.jp/malaria.pdf |format=PDF |title=マラリア |author=中澤港 |publisher=[[群馬大学]]医学系研究科・医学部 |page=50 |accessdate=2010-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110830003500/http://phi.med.gunma-u.ac.jp/malaria.pdf |archivedate=2011-08-30}}</ref>。
* [[アイーダ]] - 1871年初演の[[オペラ]]。スエズ運河開通を記念して製作されたと言われる<ref>{{Cite web|url=http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/mutsumi/aida2001.html |title=AIDA2001|author= |publisher=[[北日本新聞]]2001年8月11日、[[富山高等専門学校]] |accessdate=2010-08-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061002223650/http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/mutsumi/aida2001.html |archivedate=2006-10-02}}</ref>が、当該ページではこれは俗説として解説している。
* [[新スエズ運河]]
* [[リットリオ (戦艦)]] - 第二次世界大戦における[[イタリアの降伏]]に伴い接収され、グレートビター湖に抑留された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|author= |date=2007年 |title=[[ブリタニカ百科事典]] (The new Encyclopædia Britannica)|edition=15|chapter=【Suez Canal】 |pages= 28|publisher= Encyclopædia Britannica |isbn=1-59339-292-3|location=ロンドン|ref= Britannica }}
* {{Cite book|author= B.S Galil、A Zenetos |date=2002年 |title= Invasive aquatic species of Europe : distribution, impacts, and management|edition=|chapter= A sea change: exotics in the eastern Mediterranean Sea|pages= 325-336|publisher= Kluwer Academic |isbn=1-4020-0837-6|location=ボストン|ref= Galil }}
* {{Cite book|author= Ervan G Garrison |date=1999年 |title= A history of engineering and technology : artful methods|edition=2|chapter= Boca Raton |publisher= CRC Press |isbn=0-8493-9810-X|location=ロンドン|ref= Garrison }}
* {{Cite book|author= Eva Matthews Sanford |date=1938年 |title= The Mediterranean world in ancient times, Ronald series in history|edition=|chapter= |page=618|publisher= The Ronald Press Company |isbn=|location=ニューヨーク|ref= Sanford }}
== 外部リンク ==
{{Commons|Suez Canal}}
* [https://www.suezcanal.gov.eg/ スエズ運河庁ホームページ]
* [http://www.londonancestor.com/newspaper/1882/0722/port-said.htm Port Said Lighthouse - Suez]
* [https://scct.com.eg/ Suez Canal Container Terminal]
* {{Wayback |url=http://www.panoramio.com/user/760796/tags/Suez |title=Suez Canal Photos |date=20080618053341}}
* {{Archive.today |url=http://homepage2.nifty.com/go_tokyo/life_suz.htm |title=スエズ運河の姿|date=20130427115409}}
* {{Wayback |url=http://www.livius.org/aa-ac/achaemenians/DZ.html |title=Darius' Suez Inscriptions |date=20120116022745 }}
* {{Wayback |url=http://www.mfa.gov.eg/MFA_Portal/en-GB/Foreign_Policy/Treaties/CONVENTION+RESPECTING+THE+FREE+NAVIGATION+OF+THE+SUEZ+MARITIME+CANAL.htm |title=CONVENTION BETWEEN GREAT BRITAIN, GERMANY, AUSTRIA-HUNGARY, SPAIN, FRANCE, ITALY, THE NETHERLANDS, RUSSIA AND TURKEY, RESPECTING THE FREE NAVIGATION OF THE SUEZ MARITIME CANAL SIGNED AT CONSTANTINOPLE, OCTOBER 29, 1888 |date=20100915095412 }}
* {{Wayback |url=http://lexicorient.com/cgi-bin/eo-direct-frame.pl?http://i-cias.com/e.o/suez_can.htm |title=Suez Canal - LookLex Encyclopaedia |date=20200411012322 }}
* {{Wayback |url=http://www.londonancestor.com/newspaper/1882/0708/map-suez.htm |title=Suez Canal Plan - 1882 |date=20121029071858 }}
* {{Wayback |url=http://www.londonancestor.com/newspaper/1882/0722/port-said.htm |title=Lighthouse and Breakwater at the Entrance of the Suez Canal - Port Said |date=20180715104526 }}
* {{Wayback |url=http://geography.howstuffworks.com/africa/the-suez-canal.htm |title=Suez Canal article on Howstuffworks |date=20150119230307 }}
* {{Kotobank}}
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パナマ運河
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パナマ運河(パナマうんが、スペイン語: Canal de Panamá 、英語: Panama Canal)は、中米にあるパナマ共和国のパナマ地峡を開削して太平洋と大西洋(直接にはその縁海であるカリブ海)を結んでいる閘門式運河である。
パナマ運河の規模は全長82キロメートル、最小幅91メートル、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルである。マゼラン海峡やドレーク海峡を回り込まずにアメリカ大陸東海岸と西海岸を海運で行き来できる。スエズ運河を拓いたフェルディナン・ド・レセップスの手で開発に着手したものの、難工事とマラリアの蔓延により放棄。その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1914年に開通した。長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。
現在はパナマ運河庁(ACP)が管理し、通航料を徴収している。国際運河であり、船籍・軍民を問わず通航が保証されている。
2002年の実績によれば、年間通航船舶数は13,185隻。通航総貨物量は1億8782万トン(いずれもパナマ運河庁調べ)。
パナマ運河の通路は以下のようになっており、上り下りにそれぞれ3段階、待ち時間を含め約24時間をかけて通過させる。
カリブ海 ⇔ ガトゥン閘門 ⇔ ガトゥン湖 ⇔ ゲイラード・カット ⇔ ペドロ・ミゲル閘門 ⇔ ミラ・フローレス湖 ⇔ ミラ・フローレス閘門 ⇔ 太平洋
カリブ海からやってきた船は、コロンでパナマ運河へと進入する。コロンはカリブ海有数の港であり、コロン自由貿易地域やラテンアメリカ最大のコンテナ港であるマンサニージョ港などが存在し、パナマ地峡鉄道の起点・コロン駅も存在する。コロンを過ぎると、すぐにガトゥン閘門にぶつかる。ここには閘室が3つあり、ガトゥン閘門の最後の閘室を抜けると、パナマ運河の最高地点である海抜26mのガトゥン湖に到達する。ガトゥン湖はカリブ海側に流れるチャグレス川をせき止めてできた人造湖で、かつての山頂や尾根が半島や島として点在している。ガトゥン湖最大の島であるバロコロラド島を過ぎ、ガトゥン湖を抜けてしばらく行ったところにガンボアの街がある。ガンボアは北東から流れてくるチャグレス川が運河へと流れ込む地点であり、チャグレス川の上流にあるマッデンダムとアラフエラ湖(旧名マッデン湖)は、ガトゥン湖とパナマ運河への水の供給と水量安定機能を担っている。ガンボアを過ぎると、船はクレブラ・カット(ゲイラード・カット)と呼ばれる切り通しへと入る。ここは両洋の分水嶺にあたり、また地質がもろいために崖崩れが起きやすく、運河建設時は最も難工事となった区間である。現在では度重なる崖崩れに対処するために側面がコンクリートで固められ、また幅も大幅に拡張されてパナマックス船ですらすれ違いが可能となっている。クレブラ・カットの終端部付近には、パンアメリカン・ハイウェイの通るセンテニアル橋が架かっている。クレブラ・カットを過ぎると、1閘室のみのペドロ・ミゲル閘門 があり、ここでやや高度を下げてミラフローレス湖へと入る。ミラフローレス湖の先には2閘室あるミラフローレス閘門が存在し、ここで船は完全に海面へと高度を下げる。ミラフローレス閘門を過ぎてすぐのところにバルボア市があるが、ここはパナマ運河の太平洋入口であり、パナマ地峡鉄道の終着駅やバルボア港がある。バルボアはパナマ市と隣接しており、ほぼパナマ市の経済圏に組み込まれている。パナマ運河出口付近には、初の運河横断橋であるアメリカ橋が架かっている。
海抜26メートルのガトゥン湖(運河の最高点)が存在するなど運河中央部の海抜が高いため、閘門(こうもん)を採用して船の水位を上下させて通過させている(“水の階段”と呼ばれる)。人造湖であるガトゥン湖と、ガトゥン閘門(3閘室)、ペデロ・ミゲル閘門(1閘室)、ミラフローレス閘門(2閘室)の3か所の2レーンの水門が存在する。最高地点の海抜が高く、多くの閘門を利用して徐々に上がっていくため、パナマ運河は「船が山を越える」と評されることもある。
パナマ運河を通過できる船舶の最大のサイズはパナマックスと呼ばれている。既存の閘門のサイズにより、通過する船舶のサイズは、全長:294.1メートル、全幅:32.3メートル、喫水:12メートル、最大高:57.91メートル以下に制限されていた。
2016年6月26日に、大西洋側にアグア・クララ閘門、太平洋側にココリ閘門が開通し、より大型の船舶の通行が可能となった。新ルートを通行可能な船舶のサイズを新パナマックスと呼び、全長:366メートル、全幅:49メートル、喫水:15.2メートルである。最大高は57.91メートルのまま据え置かれた。
それでも載貨時の喫水(吃水)が元々大きいタンカーや鉱石運搬船は通過不能で、コンテナ船の内、最も大型の一部もこの新閘門には対応はできないものがある。旅客船については、現在までに計画具体化あるいは建造中のものを含めて全て通航可能で、クルーズ客船の運用に大きな変化を及ぼすものと考えられている(パナマ運河自体が一つの観光資源である)。この新水路は昇降に用いた湖水を再利用できる設計となっている。
2020年代になって、気候変動の影響による渇水期の水位低下対策からくる追加料金徴収や大型船舶通航制限を実施している。構造上、船舶1隻が航行する度に2億リットルの淡水が海洋へ移動していて、その水源となっている人造湖のガトゥン湖は流入水量不足で沿岸が干上がってきており、場所によっては7m水位低下しているところもあるため、喫水の深い大型船舶は座礁の危険性から制限している。また、運河流域の水資源供給元でもあり給水制限も実施され抗議運動も発生していて、水資源を巡る対立も危惧されている。
大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、パナマ地峡の発見後すぐに構想された。アメリカ大陸の植民地化を進めていたスペイン国王のカルロス1世(神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のカール5世と同一人物)が1534年、調査を指示した。しかし、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となった。また、外国による掘削は現場に本国の政治力を及ぼす必要があった。1671年、ヘンリー・モーガンが後に運河の入り口となるパナマ市を制圧している。
19世紀に入ると、産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的な計画となった。1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュが始まり、アメリカ合衆国東部から大勢の人々が西海岸をめざしたが、当時は大陸横断鉄道はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せた。これらの人々を運ぶため、1855年にはパナマ鉄道が建設され、両洋間の最短ルートとなった。ホンジュラスでも地峡鉄道を敷設する計画が立っていたが、米国の干渉により頓挫してしまった。
何度か運河計画が立てられたが、実際に着工したのはスエズ運河の建設者フェルディナン・ド・レセップスが初めてである。レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していたコロンビア共和国から運河建設権を購入。フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航した。1884年の恐慌の一因となりながらも、1888年には宝くじ付き債券を発行し資金を賄ったが、1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した。1890年には運河の免許が更新されたが、1892年には上記の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な疑獄事件が発生。パナマ運河疑獄と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった。
パナマ運河会社の倒産によって、フランス共和国は運河建設から事実上手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた。
しかし、運河のルートは「パナマルート」と「ニカラグアルート」の二つの案があり、議会がまとまるまでには長い時間がかかった。ニカラグアルートはニカラグア湖を使うことで、掘削量を大幅に減らす利点があったからである。しかし1902年2月に、遠く離れたカリブ海のマルチニーク島のプレー山の大爆発(4万人死亡)が起こったことが大きく宣伝されたことから、ニカラグア湖内と周辺にも火山が数個あるニカラグアルートの不安が増大し、同年、アメリカ合衆国議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。
パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約(スペイン語版、英語版)(英語: Hay–Herrán Treaty、スペイン語: Tratado Herrán-Hay)が、アメリカのジョン・ヘイ国務長官とコロンビアのTomás Herrán臨時代理大使との間で結ばれる。
しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった。こうしたことから、アメリカ合衆国連邦政府は、パナマ市にいた独立派の運動家と手を結び、1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言して「パナマ共和国」となり、時のアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの政権は、10日後の11月13日に国家の承認をし、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し、建設工事に着手した。
1903年からパナマ資本で工事を始めたが、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進んでおらず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった。その状況を打開するため、1904年5月にアメリカ資本による建設事業がスタートした。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。
1905年に着任した主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病の感染を防ぐためゴーガス医師と蚊の駆除に尽力し、その結果、疫病はほぼ根絶された。また、スティーブンスは福利厚生にも気を配り、労働者たちの労働環境は非常に整ったものとなった。そしてスティーブンスは現地の地勢を調査した結果、閘門式運河が新運河には最適であるとの結論を下し、議会はその判断に従って閘門式運河案を決定した。
1907年、精神的疲労によりスティーブンスは主任技師を退職し、後任にはジョージ・ワシントン・ゲーサルスが就任した。ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊によって工事の現況を労働者たちにも可視化し、そして工事を地域別にすることで、各地域の競争意識を煽った。このため、工事のテンポはこれ以降格段に早くなった。1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く1914年8月15日に開通した。
結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。
建設には、日本人の青山士(あおやま あきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった。
建設後も、特にクレブラ・カット区間で土砂崩れが続発し、一度は運河が完全にこの区間で埋まってしまったこともあった。さらに運河の幅自体も、この区間は難工事であったために狭く、そのため1927年よりこの区間の拡張並びに護岸工事が行われ、1940年頃に完成した。
運河の開通した1914年は、第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年頃まで低迷を続けた。しかし1919年に、第一次世界大戦が終結するとともに、運河の利用は激増した。1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、大日本帝国との対立が激しくなる中、アメリカ合衆国連邦政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工した。
この工事は別水路を作って、パナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから「第三閘門運河」と呼ばれたが、第二次世界大戦中の1942年に拡張工事は中止された。しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入って、パナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなった。なお、1941年4月に、第二次世界大戦に入ったヨーロッパ戦況の激化を受けてアメリカとイギリス船以外の利用が禁止された。
第二次世界大戦時、大日本帝国海軍にはパナマ運河攻撃計画が存在した。1942年2月から9月にかけて日本海軍の潜水艦によって行われたアメリカ本土砲撃と、その艦載機によるアメリカ本土空襲が行われた際に検討されたことがあるが、この際にはアメリカ本土への攻撃が優先されたため、結果的に検討されたのみであった。
これらの作戦が行われると同時に、大日本帝国海軍は更なる本格的なアメリカ本土攻撃を目的に、特殊攻撃機晴嵐を3機搭載した伊四〇〇型潜水艦からなる潜水艦の建造を進めた。しかし、1945年に入ると同盟国であるドイツ国の艦隊が壊滅状態になったため、不要となったイギリスやアメリカなどの大西洋で活動していた艦船の太平洋への回航が予想され、この回航を少しでも遅らせるために、これらの潜水艦とその艦載機でパナマ運河を攻撃することを計画した。
その後、アメリカ軍の爆撃機による日本本土空襲が本格化したため、これらに対する報復を目的に再度アメリカ本土攻撃に主目標が変更された上に、伊四〇〇号型潜水艦2隻が完成した後の1945年3月に沖縄戦が始まったことなどにより結局このパナマ運河攻撃計画は破棄され、最終的に南太平洋のウルシー環礁の連合軍艦隊の泊地へ攻撃目標を変更した。作戦遂行に向けて展開中の8月15日に同諸島沖合で終戦を迎え、その後、伊四〇〇型潜水艦はアメリカ軍により標的処分および自沈・解体され姿を消した。
この運河攻撃計画を実行するに当たり、日本軍はパナマ運河建設に関わった青山士に運河の写真、設計図の拠出を要求したが、青山は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と述べたエピソードがある。
なお第二次世界大戦中、アメリカ海軍の艦艇はパナマックスサイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。
1950年8月4日、連合国軍最高司令官総司令部は1941年から禁止していた日本船の運河航行を許可した。
パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設が置かれ、中南米におけるアメリカの軍事拠点となっていた。アメリカ政府はここを拠点として、パナマに対する有形無形の干渉を続けたが、第二次世界大戦後になるとパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなっていった。1968年の軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を握ると、国粋主義的な方針を取るトリホス政権は運河の完全返還を強く主張するようになった。これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に新パナマ運河条約が締結された。新条約では、恒久的に中立無差別な通航が保証される国際運河であることの再確認と引き換えに、まず1979年に主権をパナマに返還し、アメリカ合衆国の海外領土としての運河地帯を法的に消滅させた。その時点から20年間は運河の管理を両国共同で行うこととされ、1999年12月31日にアメリカは全ての施設を返還、アメリカ軍は完全に撤退した。
現在のパナマ運河は、パナマ共和国が管轄している。
通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて、2006年4月に運河拡張計画がパナマ運河庁より提案され、10月に国民投票により実施されることが決定された。総事業費6,000億円で、単独財務アドバイザーを日本のみずほコーポレート銀行が務めた。この計画は、既存の閘門の近くに新たに大型の閘門を増設する計画となっており、以前に別ルートとして計画されていた「第2パナマ運河計画」とは別物である。第2パナマ運河計画に関しては、鉄道貨物輸送との競合があり、その採算性から、計画の具体化がなされていなかった経緯があった。しかし、鉄道輸送では賄えない部分も残っているため、既存の運河を拡張する方法により、事業費を圧縮しながらも拡張するため、新たに提示され実施されることになったのが、2016年に完成したパナマ運河拡張である。
パナマ運河には一部幅の狭い区間があり、船舶が自力で航行できないため専用の電気機関車を用いて船を牽引する。この機関車には、日本の川崎重工製の車両が使用されている(駆動用ギアケースは三菱重工業、インバーター・モーター及びウィンドラスは東洋電機製造が製造)。別の区間ではタグボートが曳航する。
この線路は最大で50パーセント(角度にして約27度)の急勾配があり、その勾配を越えるため運河の両側にラック式の線路が敷設されており、両側の機関車からそれぞれワイヤーで引っ張って船を水路の中央になるように保ちながら牽引する。
2016年に供用開始された第3レーンの閘門には電気機関車は設置されず、閘室内でもタグボートで牽引される。
パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、トン数や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。1トンにつき1ドル39セント、平均で54,000ドル。
飲料水としても利用されているガトゥン湖の渇水を理由に、パナマ運河庁は2020年2月、湖の水位と船の大きさによる2種類のサーチャージ(追加料金)を導入した
かつて、アメリカ合衆国連邦政府がパナマ運河を管轄していた時代には、運河通航料はスエズ運河と比べても非常に低く抑えられていた。これは、アメリカがこの運河を国際公共財として考えており、収益を目指さない考えを明確にしていたためである。
これに対し、1999年に運河を受け継いだパナマ政府は、利益の極大化方針を打ち出し、2000年以降年3.5%の値上げを20年間継続する方針を打ち出した。しかしこの方針には利用各国から強い反対が表明された。
2003年9月25日に通過した豪華クルーズ客船「コーラル・プリンセス」号が226,194ドル25セントを支払って以来、近年は船舶の大型化による通航料の最高額更新が続いている。2008年2月24日には豪華クルーズ客船「Norwegian Jade」号が313,000ドル以上を支払った。また、最も低額の通航料は、1928年にパナマ運河を泳いで通過した、米国の冒険作家リチャード・ハリバートン(Richard Halliburton) が支払った36セントである。
パナマ運河返還後、運河収入はパナマ運河庁を通じてパナマ政府へと直接入るようになった。返還初年である2000年の運河収入は1億6680万ドルにのぼった。
パナマ運河の拡張計画は古くから存在し、1939年には新レーンの建設が始まっていたが、1942年には中止されていた(上述)。1960年代に入り、冷戦の激化に伴って太平洋方面への艦船の移動を目的とするパナマ運河の拡充計画が再び現れた。この計画は拡張計画ではなく、海面式の新運河を建設することで運河のネックとなっている閘門の不便さをなくし、輸送可能量を飛躍的に増大させる計画だった。
新運河建設地は各所で検討された。アメリカの大西洋-太平洋間運河調査委員会(APIOSO)は、一時、核爆発を利用した新運河建設を検討したものの見送られ、1970年に現パナマ運河に並行して海面式運河を建設する案をニクソン大統領に勧告した。1970年代に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ、アメリカと日本の3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足したものの、当時のマヌエル・ノリエガ政権はアメリカと不仲であり、この案はいったんほぼ立ち消えとなっていた。
1989年にパナマ侵攻によって、ノリエガ政権が崩壊すると委員会は再び動き出し、1993年に調査報告書を提出した。この報告書では海面式運河は工事コストが高すぎるとして、1942年に中止された第三閘門運河跡を再利用して運河を拡張することが最もコストが軽減されるとの報告がなされた。
1999年のパナマ運河返還によって運河がパナマ政府のもとに戻ると、パナマ政府はこの調査報告書に着目した。この時期には通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて2010年にも受入れ能力の限界が来ると想定されており、運河拡張は急務となっていた。これを受け、2006年に運河拡張計画案がパナマ運河庁より正式に提案され、国民投票により実施されることが決定された。
総事業費52億5千万ドルをかけて2007年9月3日に着工開始し、2014年の竣工を予定し、新たに第3レーンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)の航行量を見込む。この拡張計画は、現在のガトゥン、ペドロ・ミゲル、ミラフローレスの3閘門をショートカットする形で太平洋側と大西洋側にそれぞれ3閘室の閘門を新設するものである。ガトゥン湖からクレブラ・カットにかけては現在の運河をそのまま使用する。ただし通航量の増大が予想されるため、この区間においても浚渫や拡張を行う。水路が2線となるため、航行用の水量消費も倍増すると考えられるが、ガトゥン湖の浚渫と新水路への節水槽の設置によって、この水量使用増には対応可能とされている。
パナマ政府ホルヘ・キハーノ運河庁長官は、2016年第1四半期に拡張計画が完了すると拡張工事の完成時期を明言した。また拡張によって周辺の生物の生態系や分布が崩れるとの懸念も未だにある。
計画現場の地質が事前調査と違ったり、工期遅延、予算超過、工事労働者のストライキなどの障害を乗り越え、2016年5月31日に竣工し、同年6月26日に完成式典を行い運用を開始した。
拡張工事の完成によって既存の往復2つのレーン(設計閘門サイズ:長さ320m、幅33.5m、深さ25.9m ※深さは閘室毎に違い最浅部で12.55m)に加え、第3レーン(閘門サイズ:長さ427m、幅55m、深さ18.3m)をあわせ、3つの航路が運河通航できるようになった。
この運用開始によって船型制限値はニューパナマックスで拡大され(既存のパナマ運河も併用されるため既存航路を航行する際はパナマックスが適用される)、北米東海岸と北米西海岸、日本、東南アジアなどの海上輸送量増加が見込まれる。船舶と喫水の大型化に伴う物流費と運行日数の削減、排出CO2の低減などの効果があり、スエズ運河などと比べた際の国際競争力が高まった。特に日本では北米東海岸で採掘したシェールガスを日本に輸出する航路として運用するため、LNGの輸送増大が期待されることで最も恩恵を受けるといわれる。
建設当時、この運河を最も利用したのはアメリカ、ついでイギリスであり、その他の国の利用はわずかな量にとどまっていた。しかし1960年代以降、日本が経済的に台頭するに伴い利用量を急速に拡大させ、アメリカに次ぐ第二の利用国の地位についた。2000年には、パナマ運河利用貨物総量の6割がアメリカ、2割が日本、残り2割がその他の国の利用だった。大西洋から太平洋への輸送貨物(南向け貨物)の第1位はアメリカであり、太平洋から大西洋への輸送貨物(北向け貨物)の第1位は日本であり、この状況は30年以上続いていた。北向けと南向けの比率は4対6であり、大西洋から太平洋への輸送貨物のほうが数量が多い状態が続いていた。
その後21世紀に入ると、中国はじめ東アジア・東南アジア諸国が経済的成長とともに利用を急速に拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物においては、中華人民共和国が日本を抜いて第1位の利用国となった。また、同時期に南米西岸諸国(チリ、エクアドル、ペルー)の利用も急拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物の2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位にまで後退した。
輸送品目では、北向け貨物は工業製品が多く、南向け貨物は農産物が圧倒的だった。これは、アメリカのメキシコ湾沿岸(ガルフ)地方が北の穀倉地帯であるグレートプレーンズの輸出港となっており、東洋諸国、特に日本がこの地域からトウモロコシや大豆、コムギなど大量の農作物を輸入していた事情による。また、メキシコ湾岸油田産のLNGを輸送するタンカーも多数通過する。2020年末に運河が渋滞した時期は、日本国内で発電用LNGがひっ迫して電力価格が高騰したことがあった。
貨物のルートとしては、南向け貨物はアメリカのメキシコ湾沿岸から日本、中国、韓国といった東アジア諸国への流れが圧倒的に大きい。これに対し、北向け貨物で最も大きい流れはカナダおよびアメリカ西海岸からヨーロッパへの貨物の流れである。これに次ぐものが、日本および中国からメキシコ湾沿岸・アメリカ東海岸への流れであり、次いで大きいのが南米太平洋岸諸国からアメリカ東海岸およびヨーロッパへのルートである。
パナマ運河を航行する船舶は膨大な量にのぼり、東西両洋を結ぶため重要性も極めて高い。この膨大な需要は、運河周辺に様々な産業を立地させることになった。建国の経緯から言ってもパナマ共和国はパナマ運河計画があって初めて成立しえた国家であるが、経済的にもその他の面においてもパナマ共和国は運河に多くを負っている。運河の両端に位置するパナマ市とコロン市にはパナマの経済活動の75%が集中しており、この両市の経済活動のかなりが運河に直接関係したものや、または運河建設による産業基盤整備によって新たに生まれたものである。運河を行き交う船への物資の供給や船舶の修理用のドック、船員たちへの商品・サービスの提供、運河の修繕・維持管理などは運河に直接関係した産業であるが、他にも運河の両端に整備されたパナマ市のバルボア港やコロン市のマンサニージョ港は海運の拠点となっており、なかでもマンサニージョ港はラテンアメリカ最大のコンテナ港となっている。また、交通の要衝であることを利用して運河の大西洋側に整備されたコロン自由貿易地区は世界第2の規模を誇る自由貿易地区へと成長した。
パナマ運河を構成するガトゥン湖やアラフエラ湖は周辺の豊富な降雨を水源としており、水質は非常に良い。このため、この両湖の水はパナマ市の上水道の水源として利用されており、ガトゥン湖の水利用の3.2%はパナマ市の上水道用となっている。この水を利用しているため、パナマ市では上水道の水はそのまま飲用可能である。
パナマ運河の周辺地域は1903年から1999年までアメリカ施政下の運河地帯となっており、アメリカ政府の手によって学校や病院をはじめ、アメリカ人たちが生活していくのに十分な社会基盤が整備された。パナマ運河の返還によってこれらの施設はパナマ政府に無償で譲渡され、パナマ政府は両洋間地域庁を設立してこれらの施設や土地の開発を進めた。両洋間地域庁は移行を完了させて2005年に解散したが、この開発によって運河沿いには研究施設や観光施設が相次いで建設され、ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになった。
米国土木学会によって、20世紀の10大プロジェクトを選ぶ「Monuments of Millennium」(1000年紀記念碑)の「水路交通」部門に選定された。これは、20世紀最高の運河と認められたことを意味する。
この「Monuments of Millennium」の他の部門では、「鉄道」部門で英仏海峡トンネル、「空港の設計・開発」部門で関西国際空港、「高層ビル」部門ではエンパイア・ステート・ビルディング、「長大橋」部門ではゴールデンゲートブリッジなどが選定されている。
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"text": "パナマ運河(パナマうんが、スペイン語: Canal de Panamá 、英語: Panama Canal)は、中米にあるパナマ共和国のパナマ地峡を開削して太平洋と大西洋(直接にはその縁海であるカリブ海)を結んでいる閘門式運河である。",
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"text": "パナマ運河の規模は全長82キロメートル、最小幅91メートル、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルである。マゼラン海峡やドレーク海峡を回り込まずにアメリカ大陸東海岸と西海岸を海運で行き来できる。スエズ運河を拓いたフェルディナン・ド・レセップスの手で開発に着手したものの、難工事とマラリアの蔓延により放棄。その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1914年に開通した。長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。",
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"text": "現在はパナマ運河庁(ACP)が管理し、通航料を徴収している。国際運河であり、船籍・軍民を問わず通航が保証されている。",
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"title": "構造"
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{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、パナマ地峡の発見後すぐに構想された。アメリカ大陸の植民地化を進めていたスペイン国王のカルロス1世(神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のカール5世と同一人物)が1534年、調査を指示した。しかし、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となった。また、外国による掘削は現場に本国の政治力を及ぼす必要があった。1671年、ヘンリー・モーガンが後に運河の入り口となるパナマ市を制圧している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "19世紀に入ると、産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的な計画となった。1848年にはカリフォルニアでゴールドラッシュが始まり、アメリカ合衆国東部から大勢の人々が西海岸をめざしたが、当時は大陸横断鉄道はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せた。これらの人々を運ぶため、1855年にはパナマ鉄道が建設され、両洋間の最短ルートとなった。ホンジュラスでも地峡鉄道を敷設する計画が立っていたが、米国の干渉により頓挫してしまった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "何度か運河計画が立てられたが、実際に着工したのはスエズ運河の建設者フェルディナン・ド・レセップスが初めてである。レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していたコロンビア共和国から運河建設権を購入。フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航した。1884年の恐慌の一因となりながらも、1888年には宝くじ付き債券を発行し資金を賄ったが、1889年にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した。1890年には運河の免許が更新されたが、1892年には上記の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な疑獄事件が発生。パナマ運河疑獄と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河会社の倒産によって、フランス共和国は運河建設から事実上手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "しかし、運河のルートは「パナマルート」と「ニカラグアルート」の二つの案があり、議会がまとまるまでには長い時間がかかった。ニカラグアルートはニカラグア湖を使うことで、掘削量を大幅に減らす利点があったからである。しかし1902年2月に、遠く離れたカリブ海のマルチニーク島のプレー山の大爆発(4万人死亡)が起こったことが大きく宣伝されたことから、ニカラグア湖内と周辺にも火山が数個あるニカラグアルートの不安が増大し、同年、アメリカ合衆国議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した。1903年1月22日、ヘイ・エルラン条約(スペイン語版、英語版)(英語: Hay–Herrán Treaty、スペイン語: Tratado Herrán-Hay)が、アメリカのジョン・ヘイ国務長官とコロンビアのTomás Herrán臨時代理大使との間で結ばれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "しかし、コロンビア議会はこれを批准しなかった。こうしたことから、アメリカ合衆国連邦政府は、パナマ市にいた独立派の運動家と手を結び、1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言して「パナマ共和国」となり、時のアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの政権は、10日後の11月13日に国家の承認をし、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し、建設工事に着手した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1903年からパナマ資本で工事を始めたが、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進んでおらず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった。その状況を打開するため、1904年5月にアメリカ資本による建設事業がスタートした。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1905年に着任した主任技師ジョン・フランク・スティーブンスが人夫へのマラリアや黄熱病の感染を防ぐためゴーガス医師と蚊の駆除に尽力し、その結果、疫病はほぼ根絶された。また、スティーブンスは福利厚生にも気を配り、労働者たちの労働環境は非常に整ったものとなった。そしてスティーブンスは現地の地勢を調査した結果、閘門式運河が新運河には最適であるとの結論を下し、議会はその判断に従って閘門式運河案を決定した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1907年、精神的疲労によりスティーブンスは主任技師を退職し、後任にはジョージ・ワシントン・ゲーサルスが就任した。ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊によって工事の現況を労働者たちにも可視化し、そして工事を地域別にすることで、各地域の競争意識を煽った。このため、工事のテンポはこれ以降格段に早くなった。1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く1914年8月15日に開通した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "建設には、日本人の青山士(あおやま あきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、信濃川大河津分水路補修工事や荒川放水路建設工事に携わった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "建設後も、特にクレブラ・カット区間で土砂崩れが続発し、一度は運河が完全にこの区間で埋まってしまったこともあった。さらに運河の幅自体も、この区間は難工事であったために狭く、そのため1927年よりこの区間の拡張並びに護岸工事が行われ、1940年頃に完成した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "運河の開通した1914年は、第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年頃まで低迷を続けた。しかし1919年に、第一次世界大戦が終結するとともに、運河の利用は激増した。1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、大日本帝国との対立が激しくなる中、アメリカ合衆国連邦政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この工事は別水路を作って、パナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから「第三閘門運河」と呼ばれたが、第二次世界大戦中の1942年に拡張工事は中止された。しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入って、パナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなった。なお、1941年4月に、第二次世界大戦に入ったヨーロッパ戦況の激化を受けてアメリカとイギリス船以外の利用が禁止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦時、大日本帝国海軍にはパナマ運河攻撃計画が存在した。1942年2月から9月にかけて日本海軍の潜水艦によって行われたアメリカ本土砲撃と、その艦載機によるアメリカ本土空襲が行われた際に検討されたことがあるが、この際にはアメリカ本土への攻撃が優先されたため、結果的に検討されたのみであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "これらの作戦が行われると同時に、大日本帝国海軍は更なる本格的なアメリカ本土攻撃を目的に、特殊攻撃機晴嵐を3機搭載した伊四〇〇型潜水艦からなる潜水艦の建造を進めた。しかし、1945年に入ると同盟国であるドイツ国の艦隊が壊滅状態になったため、不要となったイギリスやアメリカなどの大西洋で活動していた艦船の太平洋への回航が予想され、この回航を少しでも遅らせるために、これらの潜水艦とその艦載機でパナマ運河を攻撃することを計画した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その後、アメリカ軍の爆撃機による日本本土空襲が本格化したため、これらに対する報復を目的に再度アメリカ本土攻撃に主目標が変更された上に、伊四〇〇号型潜水艦2隻が完成した後の1945年3月に沖縄戦が始まったことなどにより結局このパナマ運河攻撃計画は破棄され、最終的に南太平洋のウルシー環礁の連合軍艦隊の泊地へ攻撃目標を変更した。作戦遂行に向けて展開中の8月15日に同諸島沖合で終戦を迎え、その後、伊四〇〇型潜水艦はアメリカ軍により標的処分および自沈・解体され姿を消した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "この運河攻撃計画を実行するに当たり、日本軍はパナマ運河建設に関わった青山士に運河の写真、設計図の拠出を要求したが、青山は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と述べたエピソードがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお第二次世界大戦中、アメリカ海軍の艦艇はパナマックスサイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1950年8月4日、連合国軍最高司令官総司令部は1941年から禁止していた日本船の運河航行を許可した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設が置かれ、中南米におけるアメリカの軍事拠点となっていた。アメリカ政府はここを拠点として、パナマに対する有形無形の干渉を続けたが、第二次世界大戦後になるとパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなっていった。1968年の軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を握ると、国粋主義的な方針を取るトリホス政権は運河の完全返還を強く主張するようになった。これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に新パナマ運河条約が締結された。新条約では、恒久的に中立無差別な通航が保証される国際運河であることの再確認と引き換えに、まず1979年に主権をパナマに返還し、アメリカ合衆国の海外領土としての運河地帯を法的に消滅させた。その時点から20年間は運河の管理を両国共同で行うこととされ、1999年12月31日にアメリカは全ての施設を返還、アメリカ軍は完全に撤退した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "現在のパナマ運河は、パナマ共和国が管轄している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて、2006年4月に運河拡張計画がパナマ運河庁より提案され、10月に国民投票により実施されることが決定された。総事業費6,000億円で、単独財務アドバイザーを日本のみずほコーポレート銀行が務めた。この計画は、既存の閘門の近くに新たに大型の閘門を増設する計画となっており、以前に別ルートとして計画されていた「第2パナマ運河計画」とは別物である。第2パナマ運河計画に関しては、鉄道貨物輸送との競合があり、その採算性から、計画の具体化がなされていなかった経緯があった。しかし、鉄道輸送では賄えない部分も残っているため、既存の運河を拡張する方法により、事業費を圧縮しながらも拡張するため、新たに提示され実施されることになったのが、2016年に完成したパナマ運河拡張である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河には一部幅の狭い区間があり、船舶が自力で航行できないため専用の電気機関車を用いて船を牽引する。この機関車には、日本の川崎重工製の車両が使用されている(駆動用ギアケースは三菱重工業、インバーター・モーター及びウィンドラスは東洋電機製造が製造)。別の区間ではタグボートが曳航する。",
"title": "船舶の牽引"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この線路は最大で50パーセント(角度にして約27度)の急勾配があり、その勾配を越えるため運河の両側にラック式の線路が敷設されており、両側の機関車からそれぞれワイヤーで引っ張って船を水路の中央になるように保ちながら牽引する。",
"title": "船舶の牽引"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2016年に供用開始された第3レーンの閘門には電気機関車は設置されず、閘室内でもタグボートで牽引される。",
"title": "船舶の牽引"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、トン数や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。1トンにつき1ドル39セント、平均で54,000ドル。",
"title": "通航料"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "飲料水としても利用されているガトゥン湖の渇水を理由に、パナマ運河庁は2020年2月、湖の水位と船の大きさによる2種類のサーチャージ(追加料金)を導入した",
"title": "通航料"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "かつて、アメリカ合衆国連邦政府がパナマ運河を管轄していた時代には、運河通航料はスエズ運河と比べても非常に低く抑えられていた。これは、アメリカがこの運河を国際公共財として考えており、収益を目指さない考えを明確にしていたためである。",
"title": "通航料"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "これに対し、1999年に運河を受け継いだパナマ政府は、利益の極大化方針を打ち出し、2000年以降年3.5%の値上げを20年間継続する方針を打ち出した。しかしこの方針には利用各国から強い反対が表明された。",
"title": "通航料"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2003年9月25日に通過した豪華クルーズ客船「コーラル・プリンセス」号が226,194ドル25セントを支払って以来、近年は船舶の大型化による通航料の最高額更新が続いている。2008年2月24日には豪華クルーズ客船「Norwegian Jade」号が313,000ドル以上を支払った。また、最も低額の通航料は、1928年にパナマ運河を泳いで通過した、米国の冒険作家リチャード・ハリバートン(Richard Halliburton) が支払った36セントである。",
"title": "通航料"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河返還後、運河収入はパナマ運河庁を通じてパナマ政府へと直接入るようになった。返還初年である2000年の運河収入は1億6680万ドルにのぼった。",
"title": "通航料"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河の拡張計画は古くから存在し、1939年には新レーンの建設が始まっていたが、1942年には中止されていた(上述)。1960年代に入り、冷戦の激化に伴って太平洋方面への艦船の移動を目的とするパナマ運河の拡充計画が再び現れた。この計画は拡張計画ではなく、海面式の新運河を建設することで運河のネックとなっている閘門の不便さをなくし、輸送可能量を飛躍的に増大させる計画だった。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "新運河建設地は各所で検討された。アメリカの大西洋-太平洋間運河調査委員会(APIOSO)は、一時、核爆発を利用した新運河建設を検討したものの見送られ、1970年に現パナマ運河に並行して海面式運河を建設する案をニクソン大統領に勧告した。1970年代に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ、アメリカと日本の3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足したものの、当時のマヌエル・ノリエガ政権はアメリカと不仲であり、この案はいったんほぼ立ち消えとなっていた。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1989年にパナマ侵攻によって、ノリエガ政権が崩壊すると委員会は再び動き出し、1993年に調査報告書を提出した。この報告書では海面式運河は工事コストが高すぎるとして、1942年に中止された第三閘門運河跡を再利用して運河を拡張することが最もコストが軽減されるとの報告がなされた。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1999年のパナマ運河返還によって運河がパナマ政府のもとに戻ると、パナマ政府はこの調査報告書に着目した。この時期には通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて2010年にも受入れ能力の限界が来ると想定されており、運河拡張は急務となっていた。これを受け、2006年に運河拡張計画案がパナマ運河庁より正式に提案され、国民投票により実施されることが決定された。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "総事業費52億5千万ドルをかけて2007年9月3日に着工開始し、2014年の竣工を予定し、新たに第3レーンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)の航行量を見込む。この拡張計画は、現在のガトゥン、ペドロ・ミゲル、ミラフローレスの3閘門をショートカットする形で太平洋側と大西洋側にそれぞれ3閘室の閘門を新設するものである。ガトゥン湖からクレブラ・カットにかけては現在の運河をそのまま使用する。ただし通航量の増大が予想されるため、この区間においても浚渫や拡張を行う。水路が2線となるため、航行用の水量消費も倍増すると考えられるが、ガトゥン湖の浚渫と新水路への節水槽の設置によって、この水量使用増には対応可能とされている。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "パナマ政府ホルヘ・キハーノ運河庁長官は、2016年第1四半期に拡張計画が完了すると拡張工事の完成時期を明言した。また拡張によって周辺の生物の生態系や分布が崩れるとの懸念も未だにある。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "計画現場の地質が事前調査と違ったり、工期遅延、予算超過、工事労働者のストライキなどの障害を乗り越え、2016年5月31日に竣工し、同年6月26日に完成式典を行い運用を開始した。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "拡張工事の完成によって既存の往復2つのレーン(設計閘門サイズ:長さ320m、幅33.5m、深さ25.9m ※深さは閘室毎に違い最浅部で12.55m)に加え、第3レーン(閘門サイズ:長さ427m、幅55m、深さ18.3m)をあわせ、3つの航路が運河通航できるようになった。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この運用開始によって船型制限値はニューパナマックスで拡大され(既存のパナマ運河も併用されるため既存航路を航行する際はパナマックスが適用される)、北米東海岸と北米西海岸、日本、東南アジアなどの海上輸送量増加が見込まれる。船舶と喫水の大型化に伴う物流費と運行日数の削減、排出CO2の低減などの効果があり、スエズ運河などと比べた際の国際競争力が高まった。特に日本では北米東海岸で採掘したシェールガスを日本に輸出する航路として運用するため、LNGの輸送増大が期待されることで最も恩恵を受けるといわれる。",
"title": "運河拡張"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "建設当時、この運河を最も利用したのはアメリカ、ついでイギリスであり、その他の国の利用はわずかな量にとどまっていた。しかし1960年代以降、日本が経済的に台頭するに伴い利用量を急速に拡大させ、アメリカに次ぐ第二の利用国の地位についた。2000年には、パナマ運河利用貨物総量の6割がアメリカ、2割が日本、残り2割がその他の国の利用だった。大西洋から太平洋への輸送貨物(南向け貨物)の第1位はアメリカであり、太平洋から大西洋への輸送貨物(北向け貨物)の第1位は日本であり、この状況は30年以上続いていた。北向けと南向けの比率は4対6であり、大西洋から太平洋への輸送貨物のほうが数量が多い状態が続いていた。",
"title": "輸送量"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "その後21世紀に入ると、中国はじめ東アジア・東南アジア諸国が経済的成長とともに利用を急速に拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物においては、中華人民共和国が日本を抜いて第1位の利用国となった。また、同時期に南米西岸諸国(チリ、エクアドル、ペルー)の利用も急拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物の2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位にまで後退した。",
"title": "輸送量"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "輸送品目では、北向け貨物は工業製品が多く、南向け貨物は農産物が圧倒的だった。これは、アメリカのメキシコ湾沿岸(ガルフ)地方が北の穀倉地帯であるグレートプレーンズの輸出港となっており、東洋諸国、特に日本がこの地域からトウモロコシや大豆、コムギなど大量の農作物を輸入していた事情による。また、メキシコ湾岸油田産のLNGを輸送するタンカーも多数通過する。2020年末に運河が渋滞した時期は、日本国内で発電用LNGがひっ迫して電力価格が高騰したことがあった。",
"title": "輸送量"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "貨物のルートとしては、南向け貨物はアメリカのメキシコ湾沿岸から日本、中国、韓国といった東アジア諸国への流れが圧倒的に大きい。これに対し、北向け貨物で最も大きい流れはカナダおよびアメリカ西海岸からヨーロッパへの貨物の流れである。これに次ぐものが、日本および中国からメキシコ湾沿岸・アメリカ東海岸への流れであり、次いで大きいのが南米太平洋岸諸国からアメリカ東海岸およびヨーロッパへのルートである。",
"title": "輸送量"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河を航行する船舶は膨大な量にのぼり、東西両洋を結ぶため重要性も極めて高い。この膨大な需要は、運河周辺に様々な産業を立地させることになった。建国の経緯から言ってもパナマ共和国はパナマ運河計画があって初めて成立しえた国家であるが、経済的にもその他の面においてもパナマ共和国は運河に多くを負っている。運河の両端に位置するパナマ市とコロン市にはパナマの経済活動の75%が集中しており、この両市の経済活動のかなりが運河に直接関係したものや、または運河建設による産業基盤整備によって新たに生まれたものである。運河を行き交う船への物資の供給や船舶の修理用のドック、船員たちへの商品・サービスの提供、運河の修繕・維持管理などは運河に直接関係した産業であるが、他にも運河の両端に整備されたパナマ市のバルボア港やコロン市のマンサニージョ港は海運の拠点となっており、なかでもマンサニージョ港はラテンアメリカ最大のコンテナ港となっている。また、交通の要衝であることを利用して運河の大西洋側に整備されたコロン自由貿易地区は世界第2の規模を誇る自由貿易地区へと成長した。",
"title": "周辺経済への影響"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河を構成するガトゥン湖やアラフエラ湖は周辺の豊富な降雨を水源としており、水質は非常に良い。このため、この両湖の水はパナマ市の上水道の水源として利用されており、ガトゥン湖の水利用の3.2%はパナマ市の上水道用となっている。この水を利用しているため、パナマ市では上水道の水はそのまま飲用可能である。",
"title": "周辺経済への影響"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "パナマ運河の周辺地域は1903年から1999年までアメリカ施政下の運河地帯となっており、アメリカ政府の手によって学校や病院をはじめ、アメリカ人たちが生活していくのに十分な社会基盤が整備された。パナマ運河の返還によってこれらの施設はパナマ政府に無償で譲渡され、パナマ政府は両洋間地域庁を設立してこれらの施設や土地の開発を進めた。両洋間地域庁は移行を完了させて2005年に解散したが、この開発によって運河沿いには研究施設や観光施設が相次いで建設され、ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになった。",
"title": "周辺経済への影響"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "米国土木学会によって、20世紀の10大プロジェクトを選ぶ「Monuments of Millennium」(1000年紀記念碑)の「水路交通」部門に選定された。これは、20世紀最高の運河と認められたことを意味する。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この「Monuments of Millennium」の他の部門では、「鉄道」部門で英仏海峡トンネル、「空港の設計・開発」部門で関西国際空港、「高層ビル」部門ではエンパイア・ステート・ビルディング、「長大橋」部門ではゴールデンゲートブリッジなどが選定されている。",
"title": "評価"
}
] |
パナマ運河は、中米にあるパナマ共和国のパナマ地峡を開削して太平洋と大西洋(直接にはその縁海であるカリブ海)を結んでいる閘門式運河である。 パナマ運河の規模は全長82キロメートル、最小幅91メートル、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルである。マゼラン海峡やドレーク海峡を回り込まずにアメリカ大陸東海岸と西海岸を海運で行き来できる。スエズ運河を拓いたフェルディナン・ド・レセップスの手で開発に着手したものの、難工事とマラリアの蔓延により放棄。その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1914年に開通した。長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。 現在はパナマ運河庁(ACP)が管理し、通航料を徴収している。国際運河であり、船籍・軍民を問わず通航が保証されている。 2002年の実績によれば、年間通航船舶数は13,185隻。通航総貨物量は1億8782万トン(いずれもパナマ運河庁調べ)。
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[[File:Panama Canal Map EN.png|300px|right|thumb|閘門及び海峡の配列を示すパナマ運河の全体図。南の太平洋岸から[[パナマ市]]を右手に見て25kmほど北西に運河を進むと[[ガトゥン湖]]に入り、北の[[カリブ海]]側に到達する。]]
'''パナマ運河'''(パナマうんが、{{lang-es|Canal de Panamá}} 、{{lang-en|Panama Canal}})は、[[中米]]にある[[パナマ|パナマ共和国]]の[[パナマ地峡]]を開削して[[太平洋]]と[[大西洋]]<ref name="日経産業20200421">パナマ運河、渇水で値上げ/乾期長引き水位低下/慣例破り 準備期間なく「用途不明」と海運反発『[[日経産業新聞]]』2020年4月21日(3面総合)</ref>(直接にはその[[縁海]]である[[カリブ海]])を結んでいる[[閘門|閘門式運河]]である。
[[File:Panama.A2003087.1850.250m.jpg|thumb|right|300px|パナマ運河の位置を示す衛星画像。密林は緑色で可視化されている。]]
パナマ運河の規模は全長82[[キロメートル]]、最小幅91[[メートル]]、最大幅200メートル、深さは一番浅い場所で12.5メートルである。[[マゼラン海峡]]や[[ドレーク海峡]]を回り込まずに[[アメリカ大陸]]東海岸と西海岸を海運で行き来できる。[[スエズ運河]]を拓いた[[フェルディナン・ド・レセップス]]の手で開発に着手したものの、難工事と[[マラリア]]の蔓延により放棄。その後、[[パナマ運河地帯]]として[[アメリカ合衆国]]によって建設が進められ、10年の歳月をかけて[[1914年]]に開通した。長らくアメリカによる管理が続いてきたが、[[1999年]][[12月31日]]正午をもってパナマに完全返還された。
現在はパナマ運河庁(ACP)が管理し、通航料を徴収している<ref name="日経産業20200421"/>。[[国際運河]]であり、船籍・軍民を問わず通航が保証されている。
[[2002年]]の実績によれば、年間通航船舶数は13,185隻。通航総貨物量は1億8782万[[トン]](いずれもパナマ運河庁調べ)。
== 構造 ==
{{Panama Canal map}}
[[ファイル:Panama Canal Gatun Locks opening.jpg|thumb|パナマ運河のガトゥン閘門]]
パナマ運河の通路は以下のようになっており、上り下りにそれぞれ3段階、{{要検証|=待ち時間を含め約24時間をかけて通過|date=2021年11月}}させる。
カリブ海 ⇔ [[ガトゥン閘門]] ⇔ [[ガトゥン湖]] ⇔ [[ゲイラード・カット]] ⇔ [[ペドロ・ミゲル閘門]] ⇔ [[ミラ・フローレス湖]] ⇔ [[ミラ・フローレス閘門]] ⇔ [[太平洋]]
カリブ海からやってきた船は、コロンでパナマ運河へと進入する。[[コロン (パナマ)|コロン]]はカリブ海有数の港であり、コロン自由貿易地域や[[ラテンアメリカ]]最大の[[コンテナ港]]であるマンサニージョ港などが存在し、[[パナマ地峡鉄道]]の起点・コロン駅も存在する。コロンを過ぎると、すぐにガトゥン閘門にぶつかる。ここには閘室が3つあり、ガトゥン閘門の最後の閘室を抜けると、パナマ運河の最高地点である[[海抜]]26mの[[ガトゥン湖]]に到達する。ガトゥン湖はカリブ海側に流れるチャグレス川をせき止めてできた[[人造湖]]で、かつての山頂や[[尾根]]が[[半島]]や[[島]]として点在している。ガトゥン湖最大の島であるバロコロラド島を過ぎ、ガトゥン湖を抜けてしばらく行ったところにガンボアの街がある。ガンボアは北東から流れてくるチャグレス川が運河へと流れ込む地点であり、チャグレス川の上流にあるマッデンダムとアラフエラ湖(旧名マッデン湖)は、ガトゥン湖とパナマ運河への水の供給と水量安定機能を担っている。ガンボアを過ぎると、船はクレブラ・カット(ゲイラード・カット)と呼ばれる切り通しへと入る。ここは両洋の分水嶺にあたり、また地質がもろいために崖崩れが起きやすく、運河建設時は最も難工事となった区間である。現在では度重なる崖崩れに対処するために側面がコンクリートで固められ、また幅も大幅に拡張されてパナマックス船ですらすれ違いが可能となっている<ref>[[国本伊代]]・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』([[明石書店]]エリア・スタディーズ、2004年)
p.126 </ref>。クレブラ・カットの終端部付近には、[[パンアメリカン・ハイウェイ]]の通るセンテニアル橋が架かっている。クレブラ・カットを過ぎると、1閘室のみのペドロ・ミゲル閘門 があり、ここでやや高度を下げてミラフローレス湖へと入る。ミラフローレス湖の先には2閘室あるミラフローレス閘門が存在し、ここで船は完全に海面へと高度を下げる。ミラフローレス閘門を過ぎてすぐのところにバルボア市があるが、ここはパナマ運河の太平洋入口であり、パナマ地峡鉄道の終着駅やバルボア港がある。バルボアはパナマ市と隣接しており、ほぼパナマ市の経済圏に組み込まれている。パナマ運河出口付近には、初の運河横断橋である[[アメリカ橋]]が架かっている。
海抜26メートルのガトゥン湖(運河の最高点)が存在するなど運河中央部の海抜が高いため、[[閘門]](こうもん)を採用して船の水位を上下させて通過させている(“水の階段”と呼ばれる)。人造湖であるガトゥン湖と、ガトゥン閘門(3閘室)、ペデロ・ミゲル閘門(1閘室)、ミラフローレス閘門(2閘室)の3か所の2レーンの[[水門]]が存在する。最高地点の海抜が高く、多くの閘門を利用して徐々に上がっていくため、パナマ運河は「船が山を越える」と評されることもある<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.136 </ref>。
パナマ運河を通過できる[[船舶]]の最大のサイズは'''[[パナマックス]]'''と呼ばれている。既存の閘門のサイズにより、通過する船舶のサイズは、全長:294.1メートル、全幅:32.3メートル、喫水:12メートル、最大高:57.91メートル以下に制限されていた。
[[2016年]][[6月26日]]に、大西洋側にアグア・クララ閘門、太平洋側にココリ閘門が開通し、より大型の船舶の通行が可能となった。新ルートを通行可能な船舶のサイズを'''新パナマックス'''と呼び、全長:366メートル、全幅:49メートル<ref group="注">Qフレックスと呼ばれる大型LNG運搬船は幅50mなので通れないため、運河側では将来51.2mに許容限界を広げる方針である。</ref><ref>[http://newsphere.jp/world-report/20140625-7/ 「“あと1メートル…”日本のエネルギー戦略を左右する、パナマ運河拡張工事のゆくえ」]NewsShere(2014年6月25日)</ref>、喫水:15.2メートルである。最大高は57.91メートルのまま据え置かれた。
それでも載貨時の[[喫水]](吃水)が元々大きい[[タンカー]]や[[鉱石運搬船]]は通過不能で、[[コンテナ船]]の内、最も大型の一部もこの新閘門には対応はできないものがある。[[旅客船]]については、現在までに計画具体化あるいは建造中のものを含めて全て通航可能で、[[クルーズ客船]]の運用に大きな変化を及ぼすものと考えられている(パナマ運河自体が一つの観光資源である)。この新水路は昇降に用いた湖水を再利用できる設計となっている。
2020年代になって、[[気候変動]]の影響による渇水期の水位低下対策からくる追加料金徴収<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54359010U0A110C2000000/パナマ運河が追加料金徴収 記録的干ばつで水位低下]</ref>や大型船舶通航制限を実施している。構造上<sub>、</sub>船舶1隻が航行する度に2億リットルの淡水が海洋へ移動していて、その水源となっている人造湖のガトゥン湖は流入水量不足で沿岸が干上がってきており、場所によっては7m水位低下しているところもあるため、喫水の深い大型船舶は[[座礁]]の危険性から制限している。また、運河流域の[[水資源]]供給元でもあり給水制限も実施され抗議運動も発生していて、水資源を巡る対立も危惧されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3461706?cx_part=search パナマ運河、水不足で通航制限]</ref>。
== 歴史 ==
=== 前史 ===
大西洋と太平洋とを結ぶ運河は、[[パナマ地峡]]の発見後すぐに構想された。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|アメリカ大陸の植民地化]]を進めていた[[スペイン]]国王のカルロス1世([[神聖ローマ皇帝]]・[[ハプスブルク家]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と同一人物)が[[1534年]]、調査を指示した。しかし、当時の技術力では建設は不可能であり、実際に建設されるまでにはこれから400年近い歳月が必要となった。また、外国による掘削は現場に本国の政治力を及ぼす必要があった。1671年、[[ヘンリー・モーガン]]が後に運河の入り口となる[[パナマ市]]を制圧している。
[[19世紀]]に入ると、[[産業革命]]や[[蒸気船]]の開発などによって船舶交通が盛んとなり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的な計画となった。1848年には[[カリフォルニア]]で[[ゴールドラッシュ]]が始まり、[[アメリカ合衆国]]東部から大勢の人々が[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]をめざしたが、当時は[[大陸横断鉄道#アメリカ合衆国|大陸横断鉄道]]はまだなく、人々は両洋間の距離が最も狭まるパナマ地峡をめざして押し寄せた。これらの人々を運ぶため、[[1855年]]には[[パナマ鉄道]]が建設され、両洋間の最短ルートとなった。[[ホンジュラスの経済|ホンジュラス]]でも地峡鉄道を敷設する計画が立っていたが、米国の干渉により頓挫してしまった。
=== フランスの参入 ===
{{See also|ボナパルティズム|フランス第二帝政|メキシコ出兵}}
{{See also|太平洋戦争 (1879年-1884年)|グアノ}}
[[File:Panama canal médaille Roty.JPG|thumb|right|180px|着工記念メダル (1880年)<br/><small>[[オスカル・ロティ]]製作</small><ref>[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panama_canal_m%C3%A9daille_Roty_revers.JPG 裏面の画像]</ref>]]
1523年、[[エルナン・コルテス]]が[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]にパナマ運河の建設を進言する<ref name = "kawaiP63-64">[[#河合|河合(1980年)]]、63-64頁。</ref>。コルテスの死後、彼のいとこである{{日本語版にない記事リンク|アルバロ・デ・サアベドラ・セロン|en|Álvaro de Saavedra Cerón}}が、運河建設を構想し、そのルートは、[[ダリエン地峡|ダリエンルート]]、ニカラグアルート、メキシコの[[テワンテペク地峡|テワンテペクルート]]、パナマルート(現在のパナマ運河となるルート)のルートでの運河建設を構想するが、実現には至らなかった<ref name = "kawaiP63-64"/>。ドイツの自然地理学者であり外交官であった[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]は1799年から1804年、中南米に滞在しており、その時の経験を本にまとめており、本には運河の建設可能地を挙げており、パナマ地峡を利用したパナマ運河を建設可能と位置付けている<ref name = "kawaiP64-65">[[#河合|河合(1980年)]]、64-65頁。</ref>。実際に着工したのは[[スエズ運河]]の建設者[[フェルディナン・ド・レセップス]]が初めてである<ref name = "kawaiP88-94">[[#河合|河合(1980年)]]、88-94頁。</ref>。レセップスはスエズ運河完成後、パナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、パナマ運河会社を設立して資金を募り、当時この地を支配していた[[コロンビア共和国]]から運河建設権を購入<ref name = "kawaiP88-94"/>。[[フランス]]の主導で[[1880年]][[1月1日]]に建設を開始したが、[[黄熱病]]の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航した<ref name = "kawaiP94-98">[[#河合|河合(1980年)]]、94-98頁。</ref>。[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|1884年の恐慌]]の一因となりながらも、1888年には[[宝くじ]]付き[[債券]]を発行し資金を賄ったが、[[1889年]]にスエズ運河会社は倒産し、事実上計画を放棄した<ref name = "kawaiP94-98"/>。1890年には運河の免許が更新されたが、[[1892年]]には上記の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模な[[疑獄]]事件が発生<ref name = "kawaiP94-98"/>。[[パナマ運河疑獄]]と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく揺るがすものとなった<ref name = "kawaiP94-98"/>。
=== アメリカによる建設 ===
[[File:PanamaCanal1913a.jpg|center|thumb|800px|1913年、パナマ運河の閘門建設の様子]]
[[File:Roosevelt and the Canal.JPG|thumb|1906年、建設現場で蒸気ショベルを操作するルーズベルト。運河の建設には全面的に{{仮リンク|ビュサイラス・エリー|en|Bucyrus-Erie}}の建機が使用された]]
パナマ運河会社の[[倒産]]によって、フランス共和国は運河建設から事実上手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった<ref name = "kawaiP98">[[#河合|河合(1980年)]]、98頁。</ref>。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた<ref name = "kawaiP100">[[#河合|河合(1980年)]]、100頁。</ref>。
しかし、運河のルートは「パナマルート」と「[[ニカラグア運河|ニカラグアルート]]」の二つの案があり、議会がまとまるまでには長い時間がかかった<ref name = "kawaiP108">[[#河合|河合(1980年)]]、108頁。</ref>。[[ニカラグア]]ルートは[[ニカラグア湖]]を使うことで、掘削量を大幅に減らす利点があったからである。しかし[[1902年]]2月に、遠く離れた[[カリブ海]]の[[マルチニーク島]]の[[プレー山]]の大爆発(4万人死亡)が起こったことが大きく宣伝されたことから、ニカラグア湖内と周辺にも[[火山]]が数個あるニカラグアルートの不安が増大した<ref group="注">[[モモトンボ]]火山を描いた1862-80年発行の[[郵便切手]](有名な観光地であったため作られた。)も危険性を示すために利用された。</ref>。しかし、同年、[[アメリカ合衆国議会]]でパナマ地峡に運河を建設することを決定した<ref name = "kawaiP110">[[#河合|河合(1980年)]]、110頁。</ref>。
パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の[[地政学]]的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した<ref name = "kawaiP110-111">[[#河合|河合(1980年)]]、110-111頁。</ref>。[[1903年]][[1月22日]]、{{仮リンク|ヘイ・エルラン条約|es|Tratado Herrán-Hay|en|Hay–Herrán Treaty}}({{lang-en|Hay–Herrán Treaty}}、{{lang-es|Tratado Herrán-Hay}})が、アメリカの[[ジョン・ヘイ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]とコロンビアの[[:en:Tomás Herrán|Tomás Herrán]][[臨時代理大使]]との間で結ばれた<ref name = "kawaiP110-111"/>。
しかし、コロンビア議会はこれを[[批准]]しなかった<ref name = "kawaiP111">[[#河合|河合(1980年)]]、111頁。</ref>。こうしたことから、[[アメリカ合衆国連邦政府]]は、パナマ市にいた独立派の運動家と手を結び、1903年[[11月3日]]、この地域はコロンビアから独立を宣言して「[[パナマ共和国]]」となり、時の[[アメリカ合衆国大統領]][[セオドア・ルーズベルト]]の政権は、10日後の[[11月13日]]に[[国家の承認]]をし、5日後の[[11月18日]]には[[パナマ運河条約]]を結び、運河の建設権と関連地区の永久[[租借]]権などを取得し、建設工事に着手した<ref name = "kawaiP111-112">[[#河合|河合(1980年)]]、111-112頁。</ref>。
1905年にアメリカ資本による建設事業がスタートした<ref name = "kawaiP142-143">[[#河合|河合(1980年)]]、142-143頁。</ref>。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。工事開始後、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進まず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった<ref name = "kawaiP142-143"/>
1905年に着任した主任[[技師]]ジョン・フランク・スティーブンスが人夫への[[マラリア]]や[[黄熱病]]の感染を防ぐためゴーガス衛生局長と[[蚊]]の駆除に尽力し、その結果、疫病はほぼ根絶された<ref name = "kawaiP143-144">[[#河合|河合(1980年)]]、143-144頁。</ref>。また、スティーブンスは福利厚生にも気を配り、労働者たちの労働環境は非常に整ったものとなった<ref name = "kawaiP143-144"/>。1906年6月、閘門式運河が新運河には最適であるとの結論を下し、議会はその判断に従って閘門式運河案を決定した<ref name = "kawaiP143-144"/>。
[[1907年]]、現地労働者とワシントンの運河委員会との調整に悩まされたスティーブンスは主任技師を退職し、後任にはジョージ・ワシントン・ゲーサルスが就任した<ref name = "kawaiP144">[[#河合|河合(1980年)]]、144頁。</ref>。ゲーサルスは軍人であり、運河委員会には全て軍人が任命され、労働者に軍隊の規律を導入した<ref name = "kawaiP144"/>。ゲーサルスは労働者の不満を吸い上げる自由面接制度を整え、工事週報の発刊によって工事の現況を労働者たちにも可視化し、そして工事を地域別にすることで、各地域の競争意識を煽った。このため、工事のテンポはこれ以降格段に早くなった。1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く[[1914年]][[8月15日]]に開通した。
結局、この工事には3億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]以上の資金が投入された。運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。
建設には、[[日本人]]の[[青山士]](あおやま あきら)も従事。彼は帰国後、内務省の技官になり、[[大河津分水|信濃川大河津分水路]]補修工事や[[荒川放水路]]建設工事に携わった。
建設後も、特にクレブラ・カット区間で[[土砂崩れ]]が続発し、一度は運河が完全にこの区間で埋まってしまったこともあった。さらに運河の幅自体も、この区間は難工事であったために狭く、そのため1927年よりこの区間の拡張並びに[[護岸]]工事が行われ、1940年頃に完成した。
=== 両大戦 ===
運河の開通した1914年は、[[第一次世界大戦]]開戦直後であり、このため運河利用は1918年頃まで低迷を続けた。しかし1919年に、第一次世界大戦が終結するとともに、運河の利用は激増した。1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、[[大日本帝国]]との対立が激しくなる中、アメリカ合衆国連邦政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工した。
この工事は別水路を作って、パナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから「第三閘門運河」と呼ばれたが、[[第二次世界大戦]]中の1942年に拡張工事は中止された。しかしこの工事跡はその後も残り、[[21世紀]]に入って、パナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなった。なお、1941年4月に、第二次世界大戦に入ったヨーロッパ戦況の激化を受けてアメリカとイギリス船以外の利用が禁止された。
=== 日本軍による攻撃計画 ===
[[第二次世界大戦]]時、[[大日本帝国海軍]]にはパナマ運河攻撃計画が存在した。[[1942年]]2月から9月にかけて日本海軍の[[潜水艦]]によって行われた[[アメリカ本土砲撃]]と、その[[艦載機]]による[[アメリカ本土空襲]]が行われた際に検討されたことがあるが、この際にはアメリカ本土への攻撃が優先されたため、結果的に検討されたのみであった。
[[ファイル:I400 2.jpg|220px|thumb|right|伊四〇〇型]]
これらの作戦が行われると同時に、大日本帝国海軍は更なる本格的な[[アメリカ本土攻撃]]を目的に、[[特殊攻撃機]][[晴嵐]]を3機搭載した[[伊四〇〇型潜水艦]]からなる潜水艦の建造を進めた。しかし、[[1945年]]に入ると同盟国である[[ドイツ国]]の艦隊が壊滅状態になったため、不要となったイギリスやアメリカなどの大西洋で活動していた艦船の太平洋への回航が予想され、この回航を少しでも遅らせるために、これらの潜水艦とその艦載機でパナマ運河を攻撃することを計画した。
その後、アメリカ軍の爆撃機による[[日本本土空襲]]が本格化したため、これらに対する報復を目的に再度アメリカ本土攻撃に主目標が変更された上に、伊四〇〇号型潜水艦2隻が完成した後の[[1945年]]3月に[[沖縄戦]]が始まったことなどにより結局このパナマ運河攻撃計画は破棄され、最終的に[[南太平洋]]の[[ウルシー環礁]]の連合軍艦隊の泊地へ攻撃目標を変更した。作戦遂行に向けて展開中の[[8月15日]]に同諸島沖合で[[日本の降伏|終戦]]を迎え、その後、伊四〇〇型潜水艦はアメリカ軍により標的処分および自沈・解体され姿を消した。
この運河攻撃計画を実行するに当たり、日本軍はパナマ運河建設に関わった青山士に運河の写真、設計図の拠出を要求したが、青山は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と述べたエピソードがある<ref>[https://www.panama.emb-japan.go.jp/jp/panama-canal/?p-history 在パナマ日本国大使館 パナマ運河の歴史]</ref>。
なお第二次世界大戦中、[[アメリカ海軍]]の艦艇は[[パナマックス]]サイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。
[[1950年]][[8月4日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]]は[[1941年]]から禁止していた日本船の運河航行を許可した<ref>「日本船のパナマ航行許可 昭和十六年以来十年ぶり」『[[日本経済新聞]]』昭和25年8月5日3面</ref>。
=== 返還 ===
パナマ独立時の条約によって、運河地帯両岸の永久[[租借地]]にはアメリカの軍事施設が置かれ、[[中南米]]におけるアメリカの軍事拠点となっていた。アメリカ政府はここを拠点として、パナマに対する有形無形の干渉を続けたが、第二次世界大戦後になるとパナマの[[民族主義]]が高まり、運河返還を求める声が強くなっていった。1968年の軍事[[クーデター]]によって[[オマル・トリホス]]が権力を握ると、[[国粋主義]]的な方針を取るトリホス政権は運河の完全返還を強く主張するようになった。これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、[[1977年]]、[[ジミー・カーター]]大統領の時代に[[新パナマ運河条約]]が締結された<ref name = "kawaiP16">[[#河合|河合(1980年)]]、16頁。</ref>
。新条約では、恒久的に中立無差別な通航が保証される[[国際運河]]であることの再確認と引き換えに、まず1979年に主権をパナマに返還し、[[アメリカ合衆国の海外領土]]としての運河地帯を法的に消滅させた。その時点から20年間は運河の管理を両国共同で行うこととされ、[[1999年]][[12月31日]]にアメリカは全ての施設を返還、[[アメリカ軍]]は完全に撤退した。
現在のパナマ運河は、[[パナマ|パナマ共和国]]が管轄している。
通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて、2006年4月に運河拡張計画がパナマ運河庁より提案され、10月に国民投票により実施されることが決定された。総事業費6,000億円で、単独財務アドバイザーを日本の[[みずほコーポレート銀行]]が務めた。この計画は、既存の閘門の近くに新たに大型の閘門を増設する計画となっており、以前に別ルートとして計画されていた「第2パナマ運河計画」とは別物である。第2パナマ運河計画に関しては、鉄道貨物輸送との競合があり、その採算性から、計画の具体化がなされていなかった経緯があった。しかし、鉄道輸送では賄えない部分も残っているため、既存の運河を拡張する方法により、事業費を圧縮しながらも拡張するため、新たに提示され実施されることになったのが、2016年に完成したパナマ運河拡張である。
{{Panorama
|image = File:Panama canal panoramic view from the top of Ancon hill.jpg
|height = 180
|alt = Panorama of Pacific entrance of the canal.
|caption = パナマ運河の太平洋側入口のパノラマ。左側に太平洋及び[[アメリカ橋]]、右側にミラフローレス閘門が見える。}}
== 船舶の牽引 ==
[[File:Panama Canal mule.jpg|thumb|180px|mule(電気機関車)]]
パナマ運河には一部幅の狭い区間があり、船舶が自力で航行できないため専用の[[電気機関車]]を用いて船を牽引する。この機関車には、日本の[[川崎重工]]<ref group="注">2021年10月に川崎重工の鉄道車両製造部門は[[川崎車両]]として分社化された。</ref>製の車両が使用されている(駆動用[[歯車|ギア]]ケースは[[三菱重工業]]、[[インバーター]]・[[電動機|モーター]]及びウィンドラスは[[東洋電機製造]]が製造)。別の区間では[[タグボート]]が[[曳航]]する。
この線路は最大で50パーセント([[度 (角度)|角度]]にして約27度)の急勾配があり、その勾配を越えるため運河の両側に[[ラック式鉄道|ラック式の線路]]が敷設されており、両側の機関車からそれぞれワイヤーで引っ張って船を水路の中央になるように保ちながら牽引する。
2016年に供用開始された第3レーンの閘門には電気機関車は設置されず、閘室内でもタグボートで牽引される。
== 通航料 ==
[[File:Ship passing through Panama Canal 01.jpg|thumb|[[:en:Miraflores (Panama)|ミラフローレス閘門]]を通航する[[RO-RO船]]。同閘門を通航する船舶として、同船は最大規模である。]]
[[File:Gatun Lake.jpg|thumb|ガトゥン湖。元々は丘陵だった島々が浮かぶ。]]
パナマ運河の通航料は、船種や船舶の積載量、[[トン数]]や全長など船舶の大きさに基づきパナマ運河庁が定めている。1トンにつき1ドル39[[セント (通貨)|セント]]、平均で54,000ドル。
飲料水としても利用されているガトゥン湖の渇水を理由に、パナマ運河庁は2020年2月、湖の水位と船の大きさによる2種類の[[サーチャージ (運賃)|サーチャージ(追加料金)]]を導入した<ref name="日経産業20200421"/>
かつて、[[アメリカ合衆国連邦政府]]がパナマ運河を管轄していた時代には、運河通航料はスエズ運河と比べても非常に低く抑えられていた。これは、アメリカがこの運河を国際[[公共財]]として考えており、収益を目指さない考えを明確にしていたためである。
これに対し、1999年に運河を受け継いだパナマ政府は、利益の極大化方針を打ち出し、2000年以降年3.5%の値上げを20年間継続する方針を打ち出した。しかしこの方針には利用各国から強い反対が表明された<ref>小池康弘編『現代中米・カリブを読む 政治・経済・国際関係』(異文化理解講座8、[[国際交流基金]]、2008年3月31日1版1刷発行)p.118-119</ref>。
[[2003年]][[9月25日]]に通過した豪華[[クルーズ客船]]「[[コーラル・プリンセス]]」号が226,194ドル25セントを支払って以来、近年は船舶の大型化による通航料の最高額更新が続いている。[[2008年]][[2月24日]]には豪華クルーズ客船「Norwegian Jade」号が313,000ドル以上を支払った<ref>[http://mensual.prensa.com/mensual/contenido/2007/10/16/hoy/negocios/1146315.html Industria marítima Crucero rompe récord en pago de peajes] 16 oct 2007 La prensa</ref>。また、最も低額の通航料は、[[1928年]]にパナマ運河を泳いで通過した、米国の冒険作家リチャード・ハリバートン([[:en:Richard Halliburton|Richard Halliburton]]) が支払った36セントである。
パナマ運河返還後、運河収入はパナマ運河庁を通じてパナマ政府へと直接入るようになった。返還初年である2000年の運河収入は1億6680万ドルにのぼった<ref>加茂雄三ほか著『「[[現代用語の基礎知識]]」特別編集 国際情勢ベーシックシリーズ9 ラテンアメリカ』第2版([[自由国民社]]、2005年2月10日第2版第1刷)p.119</ref>。
== 運河拡張 ==
[[File:Atlantic Bridge at Panama Canal.jpg|thumb|新ガトゥン閘門(第三閘門)。奥に見えるのは建設中の{{仮リンク|大西洋橋|en|Atlantic Bridge, Panama}}。(2018年)]]
パナマ運河の拡張計画は古くから存在し、1939年には新レーンの建設が始まっていたが、1942年には中止されていた(上述)。1960年代に入り、[[冷戦]]の激化に伴って太平洋方面への艦船の移動を目的とするパナマ運河の拡充計画が再び現れた。この計画は拡張計画ではなく、海面式の新運河を建設することで運河のネックとなっている閘門の不便さをなくし、輸送可能量を飛躍的に増大させる計画だった。
新運河建設地は各所で検討された。アメリカの大西洋-太平洋間運河調査委員会(APIOSO)は、一時、[[核爆発]]を利用した新運河建設を検討したものの見送られ、[[1970年]]に現パナマ運河に並行して海面式運河を建設する案をニクソン大統領に勧告した<ref>新パナマ運河建設を 費用は28億ドル余り『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月1日夕刊 3版 2面</ref>。[[1970年代]]に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ、アメリカと日本の3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足したものの、当時の[[マヌエル・ノリエガ]]政権はアメリカと不仲であり、この案はいったんほぼ立ち消えとなっていた。
1989年に[[パナマ侵攻]]によって、ノリエガ政権が崩壊すると委員会は再び動き出し、1993年に調査報告書を提出した。この報告書では海面式運河は工事コストが高すぎるとして、1942年に中止された第三閘門運河跡を再利用して運河を拡張することが最もコストが軽減されるとの報告がなされた。
1999年のパナマ運河返還によって運河がパナマ政府のもとに戻ると、パナマ政府はこの調査報告書に着目した。この時期には通航量の増大や船舶の大型化の流れを受けて[[2010年]]にも受入れ能力の限界が来ると想定されており、運河拡張は急務となっていた。これを受け、[[2006年]]に運河拡張計画案がパナマ運河庁より正式に提案され、[[国民投票]]により実施されることが決定された。
総事業費52億5千万ドルをかけて[[2007年]][[9月3日]]に着工開始し、[[2014年]]の竣工を予定し<ref>[http://www.yokohamaport.org/portal/kaigaidaihyounews/usa1306.pdf パナマ運河拡張計画について]</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82686680S5A200C1000000/ パナマ拡張・スエズ複線化… 国際航路、大競争時代]</ref>、新たに第3レーンを設け、完成後は現在の2倍の約6億トン(船舶トン数換算)の航行量を見込む<ref>[http://www.jstra.jp/html/PDF/panamaungakakutyou.pdf パナマ運河拡張が世界の海運・造船 産業に与える影響に関する調査](PDF) 2009年3月 社団法人・日本中小型造船工業会 </ref>。この拡張計画は、現在のガトゥン、ペドロ・ミゲル、ミラフローレスの3閘門をショートカットする形で太平洋側と大西洋側にそれぞれ3閘室の閘門を新設するものである。ガトゥン湖からクレブラ・カットにかけては現在の運河をそのまま使用する。ただし通航量の増大が予想されるため、この区間においても[[浚渫]]や拡張を行う。水路が2線となるため、航行用の水量消費も倍増すると考えられるが、ガトゥン湖の[[浚渫]]と新水路への節水槽の設置によって、この水量使用増には対応可能とされている<ref>小池康弘編『現代中米・カリブを読む 政治・経済・国際関係』(異文化理解講座8、国際交流基金、2008年3月31日1版1刷発行)p.122</ref>。
パナマ政府ホルヘ・キハーノ運河庁長官は、2016年第1四半期に拡張計画が完了すると拡張工事の完成時期を明言した<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82686680S5A200C1000000/ 編集委員・松尾博文「パナマ拡張・スエズ複線化…国際航路、大競争時代」]『日本経済新聞』2015年2月3日</ref><ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150807/k10010181311000.html 「スエズ運河 拡張工事が完了 通過時間短縮へ」] {{webarchive|url=https://archive.is/20150806222044/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150807/k10010181311000.html |date=2015年8月6日 }}</ref>。また拡張によって周辺の生物の[[生態系]]や分布が崩れるとの懸念も未だにある<ref>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150225/437042/ 「パナマ運河拡張で外来生物リスク2 - 3倍に 米国東海岸・アジア間の意図せぬ生物移動が急増する」][[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル・ジオグラフィック]](2015年2月26日)2020年6月14日閲覧</ref>。
計画現場の地質が事前調査と違ったり、工期遅延、予算超過、工事労働者の[[ストライキ]]などの障害を乗り越え、2016年5月31日に竣工し、同年[[6月26日]]に完成式典を行い運用を開始した<ref>[http://hbol.jp/97018 巨額の工費でパナマ運河拡張工事がついに終了。開通式は6月26日]</ref>。
拡張工事の完成によって既存の往復2つのレーン(設計閘門サイズ:長さ320m、幅33.5m、深さ25.9m ※深さは閘室毎に違い最浅部で12.55m)に加え、第3レーン(閘門サイズ:長さ427m、幅55m、深さ18.3m)をあわせ、3つの航路が運河通航できるようになった。
この運用開始によって船型制限値は[[船体#船体規模|ニューパナマックス]]で拡大され(既存のパナマ運河も併用されるため既存航路を航行する際は[[パナマックス]]が適用される)、北米東海岸と北米西海岸、日本、[[東南アジア]]などの海上輸送量増加が見込まれる。船舶と[[喫水]]の大型化に伴う物流費と運行日数の削減、排出[[二酸化炭素|CO2]]の低減などの効果があり、[[スエズ運河]]などと比べた際の国際競争力が高まった。特に日本では北米東海岸で採掘した[[シェールガス]]を日本に輸出する航路として運用するため、[[液化天然ガス|LNG]]の輸送増大が期待されることで最も恩恵を受けるといわれる<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/224217/062100088/ 「いよいよ拡張パナマ運河が開通」]</ref>。
{{commonscat|Gatun Locks expansion|パナマ運河拡張}}
[[File:New Gatun Locks panorama.agr.jpg|thumb|center|700px|新ガトゥン閘門(2018年)]]
== 輸送量 ==
建設当時、この運河を最も利用したのはアメリカ、ついで[[イギリス]]であり、その他の国の利用はわずかな量にとどまっていた。しかし1960年代以降、日本が経済的に台頭するに伴い利用量を急速に拡大させ、アメリカに次ぐ第二の利用国の地位についた。[[2000年]]には、パナマ運河利用貨物総量の6割がアメリカ、2割が日本、残り2割がその他の国の利用だった。大西洋から太平洋への輸送貨物(南向け貨物)の第1位はアメリカであり、太平洋から大西洋への輸送貨物(北向け貨物)の第1位は日本であり、この状況は30年以上続いていた。北向けと南向けの比率は4対6であり、大西洋から太平洋への輸送貨物のほうが数量が多い状態が続いていた。
その後21世紀に入ると、中国はじめ[[東アジア]]・東南アジア諸国が経済的成長とともに利用を急速に拡大し、[[2003年]]には太平洋から大西洋への輸送貨物においては、[[中華人民共和国]]が日本を抜いて第1位の利用国となった。また、同時期に南米西岸諸国([[チリ]]、[[エクアドル]]、[[ペルー]])の利用も急拡大し、2003年には太平洋から大西洋への輸送貨物の2位がチリ、4位がエクアドルとなって、日本は6位にまで後退した。
輸送品目では、北向け貨物は工業製品が多く、南向け貨物は農産物が圧倒的だった。これは、アメリカの[[メキシコ湾]]沿岸(ガルフ)地方が北の[[穀倉地帯]]である[[グレートプレーンズ]]の輸出港となっており、東洋諸国、特に日本がこの地域から[[トウモロコシ]]や[[大豆]]、[[コムギ]]など大量の農作物を輸入していた事情による。また、[[メキシコ湾岸油田]]産の[[天然ガス|LNG]]を輸送するタンカーも多数通過する。2020年末に運河が渋滞した時期は、日本国内で発電用LNGがひっ迫して電力価格が高騰したことがあった<ref>{{Cite web|和書|date=2021-01-14|url=https://toyokeizai.net/articles/-/403804 |title=大寒波とLNG不足が直撃、電力逼迫の「異常事態」 市場価格は急騰、発電所トラブルが追い打ち |publisher=東洋経済オンライン |accessdate=2021-01-30}}</ref>。
貨物のルートとしては、南向け貨物はアメリカのメキシコ湾沿岸から日本、中国、[[韓国]]といった東アジア諸国への流れが圧倒的に大きい。これに対し、北向け貨物で最も大きい流れはカナダおよびアメリカ西海岸からヨーロッパへの貨物の流れである。これに次ぐものが、日本および中国からメキシコ湾沿岸・アメリカ東海岸への流れであり、次いで大きいのが南米太平洋岸諸国からアメリカ東海岸および[[ヨーロッパ]]へのルートである<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.204-207</ref>。
== 周辺経済への影響 ==
[[File:Panama City financial district.jpg|thumb|パナマ市の中心街。パナマ市は運河による経済活動を基盤として大都市となった]]
パナマ運河を航行する船舶は膨大な量にのぼり、東西両洋を結ぶため重要性も極めて高い。この膨大な需要は、運河周辺に様々な産業を立地させることになった。建国の経緯から言っても[[パナマ共和国]]はパナマ運河計画があって初めて成立しえた国家であるが、経済的にもその他の面においてもパナマ共和国は運河に多くを負っている。運河の両端に位置するパナマ市とコロン市にはパナマの経済活動の75%が集中しており、この両市の経済活動のかなりが運河に直接関係したものや、または運河建設による産業基盤整備によって新たに生まれたものである。運河を行き交う船への物資の供給や船舶の修理用のドック、船員たちへの商品・サービスの提供、運河の修繕・維持管理などは運河に直接関係した産業であるが、他にも運河の両端に整備されたパナマ市のバルボア港やコロン市のマンサニージョ港は海運の拠点となっており、なかでもマンサニージョ港はラテンアメリカ最大のコンテナ港となっている。また、交通の要衝であることを利用して運河の大西洋側に整備されたコロン自由貿易地区は世界第2の規模を誇る[[自由貿易地区]]へと成長した<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.27</ref>。
パナマ運河を構成するガトゥン湖やアラフエラ湖は周辺の豊富な降雨を水源としており、水質は非常に良い。このため、この両湖の水はパナマ市の[[上水道]]の水源として利用されており、ガトゥン湖の水利用の3.2%はパナマ市の上水道用となっている<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.135</ref>。この水を利用しているため、パナマ市では上水道の水はそのまま飲用可能である<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.241</ref>。
パナマ運河の周辺地域は1903年から1999年までアメリカ施政下の[[運河地帯]]となっており、アメリカ政府の手によって学校や病院をはじめ、アメリカ人たちが生活していくのに十分な社会基盤が整備された。パナマ運河の返還によってこれらの施設はパナマ政府に無償で譲渡され、パナマ政府は両洋間地域庁を設立してこれらの施設や土地の開発を進めた。両洋間地域庁は移行を完了させて2005年に解散したが、この開発によって運河沿いには研究施設や観光施設が相次いで建設され、ガトゥン湖畔には2つのリゾートホテルが建設されて運河の風景と熱帯の自然を楽しめるようになった<ref>国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』(明石書店エリア・スタディーズ、2004年)p.242-246</ref>。
== 評価 ==
[[米国土木学会]]によって、20世紀の10大プロジェクトを選ぶ「Monuments of Millennium」(1000年紀記念碑)の「水路交通」部門に選定された。これは、20世紀最高の運河と認められたことを意味する<ref>{{cite web|author=American Society of Civil Engineers|title=History & Heritage - Water Transportation - The Panama Canal: A Monument of the Millennium|url=http://www.asce.org/history/monuments_millennium/watertransportation.cfm|accessdate=2015-8-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020616175612/http://www.asce.org/history/monuments_millennium/watertransportation.cfm|archivedate=2002年6月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
この「Monuments of Millennium」の他の部門では、「鉄道」部門で[[英仏海峡トンネル]]、「空港の設計・開発」部門で[[関西国際空港]]、「高層ビル」部門では[[エンパイア・ステート・ビルディング]]、「長大橋」部門では[[ゴールデンゲートブリッジ]]などが選定されている。
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[河合恒生]]|year=1980|title=パナマ運河史|publisher=[[教育社]]| doi= 10.11501/12179478|ref=河合}}
*山口広次『パナマ運河 その水に影を映した人びと』([[中公新書]]、1980年)
*デーヴィッド・マカルー『海と海をつなぐ道─パナマ運河建設史』(全3巻、[[鈴木主税]]訳、フジ出版社、1986年)
*デイヴィッド・ハワース『パナマ地峡秘史─夢と残虐の四百年』(塩野崎宏訳、[[リブロポート]]、1994年)
*小林志郎『パナマ運河 百年の攻防と第二運河構想の検証』(近代文芸社 2000年)
*[[国本伊代]]・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』([[明石書店]]エリア・スタディーズ、2004年)
*小林志郎『パナマ運河拡張メガプロジェクト 世界貿易へのインパクトと第三閘門運河案の徹底検証』(文真堂、2007年)※著者はパナマ運河の研究家
*[[山本厚子]]『パナマ運河 百年の攻防 1904年建設から返還まで』([[藤原書店]]、2011年)
*ファーンハム&ジョセッフ・ビショップ『パナマ運河』(早坂二郎譯、栗田書店、1941年)。以下は資料古書
*[[天野芳太郎]]『パナマ及びパナマ運河』([[朝日新聞社]]、1943年)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[パナマックス]]
* [[パナマ運河地帯総督・長官の一覧]]
* [[パナマの歴史]]
* [[ニカラグア運河]]
* [[アメリカ橋]]
* [[アメリカ本土空襲]]
* [[伊四〇〇型潜水艦]]
* [[パナマ地峡鉄道]]
* [[メガプロジェクト]]
* [[パナマ運河疑獄]] - [[フェルディナン・ド・レセップス|F・レセップス]]失脚
* [[青山士]] - 日本人唯一の建設参加者
* [[チョークポイント]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Panama_Canal|Panama_Canal}}
{{wikinews|国民投票では8割が賛成―パナマ運河拡張計画}}
*[https://pancanal.com/ パナマ運河庁]{{es icon}}{{en icon}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/america/panama.html |title=パナマ運河地帯 |date=20050326132053}}
* [http://www.coolpanama.com/panama-webcams.html Live webcams Panama Canal]
* [https://www.youtube.com/watch?v=_4F867o_U1w Experience Panama - Megastructures Panama Canal by National Geographic ]
* {{Kotobank}}
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[[Category:パナマ運河|*]]
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18,534 |
恵の座
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恵の座(めぐみのざ、英語:mercy seat)は、ウェスレー派やホーリネス派のキリスト教教会において、説教壇の前に設置された、ひざまずいて祈るための木製ベンチである。
木製ベンチ以外に、聖餐式用手すり(ハンドレール)やテーブル、パイプ椅子、あるいは、指定された何もない床の一角もまた、恵の座と呼ばれて、同じ目的に使用されることがある。
18世紀から19世紀に使用された恵の座は、単純な作りの木製ベンチを、説教壇の前に会衆の方に向けて置いただけのものであった。背もたれの部分に聖書の言葉を引用したモットーが掘り込まれたり、ペンキで書かれる場合があった。
20世紀に入ると、木製ベンチではなく、専用にデザインされた木の板や、重厚な作りのものが使用されるようになった。
ウェスレー派やホーリネス派の礼拝においては、説教の後に説教者が会衆に対して、信仰の決心を迫り、決心を外的に表明する行為として、会衆が恵の座に出て来てひざまずき、祈るよう招いた。
会衆が恵の座で十数分から時に数時間も祈り、神を待ち望むことを「アフターミーティング」または「タリング(tarrying)」と呼ぶことがある。
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恵の座は、ウェスレー派やホーリネス派のキリスト教教会において、説教壇の前に設置された、ひざまずいて祈るための木製ベンチである。 木製ベンチ以外に、聖餐式用手すり(ハンドレール)やテーブル、パイプ椅子、あるいは、指定された何もない床の一角もまた、恵の座と呼ばれて、同じ目的に使用されることがある。
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{{出典の明記|date=2023年1月8日 (日) 08:36 (UTC)}}
'''恵の座'''(めぐみのざ、英語:mercy seat)は、[[ウエスレアン・アルミニアン神学|ウェスレー派]]や[[ホーリネス派]]の[[キリスト教]][[教会]]において、[[説教壇]]の前に設置された、ひざまずいて祈るための木製[[ベンチ]]である。
木製ベンチ以外に、[[聖餐式]]用手すり(ハンドレール)やテーブル、パイプ椅子、あるいは、指定された何もない床の一角もまた、恵の座と呼ばれて、同じ目的に使用されることがある。
==構造==
[[18世紀]]から[[19世紀]]に使用された恵の座は、単純な作りの木製ベンチを、説教壇の前に[[会衆]]の方に向けて置いただけのものであった。背もたれの部分に[[聖書]]の言葉を引用した[[モットー]]が掘り込まれたり、ペンキで書かれる場合があった。
[[20世紀]]に入ると、木製ベンチではなく、専用にデザインされた木の板や、重厚な作りのものが使用されるようになった。
==使用法==
ウェスレー派やホーリネス派の[[礼拝]]においては、説教の後に[[説教者]]が会衆に対して、[[信仰]]の決心を迫り、決心を外的に表明する行為として、会衆が恵の座に出て来てひざまずき、祈るよう招いた。
会衆が恵の座で十数分から時に数時間も祈り、神を待ち望むことを「アフターミーティング」または「タリング(''tarrying'')」と呼ぶことがある。
==歴史==
*1798年に[[アメリカ合衆国]][[メリーランド州]]の[[メソジスト]]教会で、説教の後に会衆に席を立って前に進み出るよう招いた。[[心]]を刺され、うめき苦しむ人々のために、歌をうたい、祈り続けた。
*1800年にメリーランド州のメソジスト教会セシル巡回区で、木製ベンチが恵の座として使用された。
*1801年に[[フィラデルフィア州]]のセント・ジョージ・メソジスト教会で、[[聖餐]]式用テーブルが、ひざまずいて祈るために用いられた。
*19世紀初頭のアメリカ各地の[[キャンプ・ミーティング]]で、木製ベンチが恵の座として使用された。
*1846年にアメリカの伝道者[[ジェームズ・カウウェイ]]がイギリスで[[信仰復興]]の集会を導き、イギリスのウェスレー派、ホーリネス派、[[救世軍]]で恵の座が使用されるようになった。
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18,535 |
娘細胞
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娘細胞(じょうさいぼう/むすめさいぼう、嬢細胞)は、細胞分裂の結果として生じる2つ以上の細胞のこと。
細胞分裂する前の細胞を対義的に母細胞(ぼさいぼう)と呼ぶ。
ただし、出芽酵母など、「出芽」と呼ばれる極端な不等分裂をする細胞の場合、出てくる芽に当たる細胞のみを娘細胞と呼び、芽を出す方を(出した後を含めて)母細胞と呼ぶ。
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娘細胞(じょうさいぼう/むすめさいぼう、嬢細胞)は、細胞分裂の結果として生じる2つ以上の細胞のこと。 細胞分裂する前の細胞を対義的に母細胞(ぼさいぼう)と呼ぶ。 ただし、出芽酵母など、「出芽」と呼ばれる極端な不等分裂をする細胞の場合、出てくる芽に当たる細胞のみを娘細胞と呼び、芽を出す方を(出した後を含めて)母細胞と呼ぶ。
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{{複数の問題
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}}
'''娘細胞'''(じょうさいぼう/むすめさいぼう、嬢細胞)は、[[細胞分裂]]の結果として生じる2つ以上の[[細胞]]のこと。
細胞分裂する前の細胞を対義的に'''母細胞'''(ぼさいぼう)と呼ぶ。<ref>{{Cite web |title=文字と画像で見る {{!}} 生物基礎 |url=https://www.nhk.or.jp/kokokoza/seibutsukiso/contents/resume/resume_0000008048.html |website=高校講座 |access-date=2023-11-19 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>
ただし、[[出芽酵母]]など、「[[出芽]]」と呼ばれる極端な不等分裂をする細胞の場合、出てくる芽に当たる細胞のみを娘細胞と呼び、芽を出す方を(出した後を含めて)母細胞と呼ぶ。<ref>{{Cite web |title=むすめさいぼう【娘細胞】 {{!}} む {{!}} 辞典 |url=https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary07300057/ |website=学研キッズネット |access-date=2023-11-19 |language=ja}}</ref>
== 概要 ==
{{節スタブ|date=2023年4月30日 (日) 09:33 (UTC)}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{コトバンク}}
[[Category:細胞生物学|しようさいほう]]
[[en:Daughter cell]]
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18,538 |
家畜一覧
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家畜一覧(かちくいちらん)では、何らかの基準を設けたうえで家畜を分類し、列記する。
なお、本項は全ての家畜について言及するものではない。広義の家畜の定義に適う種を無制限に上げ始めれば切りが無いため、代表的な家畜と、代表的でなくとも特筆性の高い家畜に限って記載する。
「家畜化#家畜の一覧」も参照のこと。
ここでは、タクソン(分類群)を基準にして家畜を分類する。
齧歯類
重歯類
食肉類
奇蹄類
偶蹄類
真無盲腸目
記載順はシブリー・アールキスト鳥類分類に準ずる。
ダチョウ目
キジ目
カモ目
オウム目
ハト目
コウノトリ目
スズメ目
ここでは、用途を基準にして家畜を分類する。
肉(食肉用部位)を始め、骨、血液など、体の内部組織の利用。
革・毛皮・毛・羽毛など、体の表面や外部の組織の利用。
乳の利用。当然ながら、哺乳類に限られる。
労働力としての利用。
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家畜一覧(かちくいちらん)では、何らかの基準を設けたうえで家畜を分類し、列記する。 なお、本項は全ての家畜について言及するものではない。広義の家畜の定義に適う種を無制限に上げ始めれば切りが無いため、代表的な家畜と、代表的でなくとも特筆性の高い家畜に限って記載する。 「家畜化#家畜の一覧」も参照のこと。
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'''家畜一覧'''(かちくいちらん)では、何らかの基準を設けたうえで[[家畜]]を分類し、列記する。
なお、本項は全ての家畜について言及するものではない。広義の家畜の定義に適う種を無制限に上げ始めれば切りが無いため、代表的な家畜と、代表的でなくとも特筆性の高い家畜に限って記載する。
「[[家畜化#家畜の一覧]]」も参照のこと。
== タクソン別 ==
ここでは、[[タクソン]](分類群)を基準にして家畜を分類する。
=== 哺乳類 ===
{{Div col|3}}
[[ネズミ目|齧歯類]]
* [[ラット]]
* [[ハツカネズミ]]
* [[モルモット]]
[[ウサギ目|重歯類]]
* [[カイウサギ]]
[[食肉類]]
* [[イヌ]]
* [[ネコ]]
* [[フェレット]]
* [[ミンク]]
[[奇蹄類]]
* [[ウマ]]
* [[ロバ]]
[[偶蹄類]]
* [[ブタ]]
* [[ウシ]]
* [[ヤギ]]
* [[ヒツジ]]
* [[スイギュウ]]
* [[コブウシ]]
* [[ヤク]]
* [[ガウル]]
* [[トナカイ]]
* [[ヒトコブラクダ]]
* [[フタコブラクダ]]
* [[アルパカ]]
* [[リャマ]]
[[真無盲腸目]]
* [[ハリネズミ]]
{{Div col end}}
=== 鳥類 ===
記載順は[[シブリー・アールキスト鳥類分類#族までの分類|シブリー・アールキスト鳥類分類]]に準ずる。
{{Div col|2}}
[[ダチョウ目]]
* [[ダチョウ]](駝鳥)
[[キジ目]]
* [[ウズラ]](鶉)
* [[ニワトリ]](鶏)
* [[インドクジャク]](印度孔雀)
* [[ホロホロチョウ]](珠鶏)
* [[シチメンチョウ]](七面鳥)
[[カモ目]]
* [[アヒル]](家鴨)
* [[アイガモ]](合鴨)
* ヨーロッパ系種[[ガチョウ]]
* 中国系種ガチョウ(シナガチョウ;支那鵞鳥)…シロガチョウ(白鵞鳥)もその一種。
* [[バリケン]]
* [[エジプトガン]](埃及雁)…[[古代エジプト]]のみで家畜化。途絶。
* [[ハクチョウ]](白鳥)
[[オウム目]]
* [[オウム]](鸚鵡)
* [[インコ]](鸚哥)
[[ハト目]]
* [[カワラバト]](河原鳩)
[[コウノトリ目]]
* [[ハヤブサ]](隼)
* [[オオタカ]](大鷹)
* [[イヌワシ]](犬鷲)
* [[カワウ]](河鵜)
* [[ウミウ]](海鵜)
[[スズメ目]]
* [[ブンチョウ]](文鳥)
* [[ジュウシマツ]](十姉妹)
* [[カナリア]](金糸雀、金絲雀)
* [[キュウカンチョウ]](九官鳥)
{{Div col end}}
=== 爬虫類 ===
* [[ワニ]]類 …皮革用、食用。
* [[インドコブラ]] …鑑賞用。
{{Div col end}}
=== 両生類 ===
* [[ウシガエル]](牛蛙)…[[食用ガエル]]。
* [[ヨーロッパトノサマガエル]](ヨーロッパ殿様蛙)…食用ガエル。
{{Div col end}}
=== 魚類 ===
{{Div col|2}}
* [[ニシキゴイ]](錦鯉)
* [[キンギョ]](金魚)
{{Div col end}}
=== 無脊椎動物 ===
{{Div col|2}}
* [[エンマコオロギ]](閻魔蟋蟀)
* [[スズムシ]](鈴虫)
* [[ショウジョウバエ]](猩猩蠅)
* [[カイコ]](蚕)
* [[セイヨウミツバチ]](西洋蜜蜂)
* [[ニホンミツバチ]](日本蜜蜂)
{{Div col end}}
== 用途別 ==
ここでは、用途を基準にして家畜を分類する。
{{Anchors|肉}}
=== 内部体組織 ===
[[肉]](食肉用部位)を始め、[[骨]]、[[血液]]など、体の内部組織の利用。
<!--哺乳類-->
* [[モルモット]]
* [[ハムスター]]
* [[カイウサギ]](飼兎)
* [[ミンク]]
* [[ツキノワグマ]](月輪熊) - [[熊胆]]を採取。
* [[イヌ]](犬)
* [[ウマ]](馬)
* [[ブタ]](豚)
* [[トナカイ]](馴鹿)
* [[ウシ]](牛) - ※ただし、[[コブウシ]](瘤牛)を除く、タウリン系牛。
* [[スイギュウ]](水牛) - ※[[インダス文明]]時代からコブウシを神聖視している[[インド]]では、ウシ(コブウシはもちろん、タウリン系牛も)は食用にされないが、スイギュウは全く別の動物とされていて、食用にされることも多い。
* [[ヤク]]
* [[ヤギ]](山羊)
* [[ヒツジ]](羊)
<!--鳥類-->
* [[ダチョウ]](駝鳥)
* [[ウズラ]](鶉、ニホンウズラ;日本鶉)
* [[ニワトリ]](鶏)
* [[インドクジャク]](印度孔雀)
* [[ホロホロチョウ]](珠鶏)
* [[シチメンチョウ]](七面鳥)
* [[アヒル]](家鴨) - [[フォアグラ]]の生産も含む。
* [[アイガモ]](合鴨)
* ヨーロッパ系種[[ガチョウ]] - フォアグラの生産も含む。
* 中国系種ガチョウ(シナガチョウ;支那鵞鳥)
* [[バリケン]]
* [[カワラバト]](河原鳩)
<!--爬虫類-->
* [[ワニ]]類
<!--両生類-->
* [[ウシガエル]](牛蛙) - [[食用ガエル]]。
* [[ヨーロッパトノサマガエル]](ヨーロッパ殿様蛙) - 食用ガエル。
<!--魚類-->
* [[コイ]](鯉)
* [[ニジマス]](虹鱒)
{{Anchors|革|毛皮|毛|羽毛}}
=== 外部体組織 ===
[[革]]・[[毛皮]]・[[毛 (動物)|毛]]・[[羽毛]]など、体の表面や外部の組織の利用。
<!--哺乳類-->
* [[ヌートリア]] - 主に[[毛皮]]を利用。
* [[カイウサギ]](飼兎) - 主に毛皮を利用。
* [[ヒグマ]](羆) - 主に毛皮を利用。
* [[イヌ]](犬) - 主に毛皮を利用。[[クマ]]のように[[冬眠]]しない寒冷地適応型の[[犬種]]の毛皮は、クマの毛皮より防寒性に優れている。例えば[[間宮林蔵]]は、[[樺太#北樺太(北サハリン)|北樺太]]を[[探検]]するのに、[[蝦夷地]]から南樺太までは有用であった熊の毛皮を犬の毛皮に着替えることで進むことができたと書き残している。
* [[ウマ]](馬) - 主に[[革]]と[[毛 (動物)|毛]]を利用。
* [[ヒトコブラクダ]](一瘤駱駝) - 主に革を利用。
* [[フタコブラクダ]](二瘤駱駝) - 主に革を利用。
* [[アルパカ]] - 主に毛皮を利用。
* [[ブタ]](豚) - 主に革と毛を利用。
* [[ウシ]](牛) - 主に革(牛革)を利用。ただし、[[コブウシ]](瘤牛)を除く、タウリン系牛。
* [[ヤク]] - 主に毛皮を利用。
* [[ヤギ]](山羊) - 主に革を利用。
* [[ヒツジ]](羊) - 主に革(羊皮・[[羊革]])と毛([[羊毛]])を利用。
<!--鳥類-->
* [[インドクジャク]](印度孔雀) - 主に[[羽毛]]を利用。
* [[アヒル]](家鴨) - 主に羽毛を利用。
* ヨーロッパ系種[[ガチョウ]] - 主に羽毛を利用。
* 中国系種ガチョウ(シナガチョウ;支那鵞鳥) - 主に羽毛を利用。
<!--爬虫類-->
* [[ワニ]]類 - 革を利用。
=== 乳 ===
[[乳]]の利用。当然ながら、[[哺乳類]]に限られる。
* [[ウシ]](牛) - ※ただし、[[コブウシ]](瘤牛)を除く、タウリン系牛。
* [[スイギュウ]](水牛)
* [[ヤク]]
* [[ヤギ]](山羊)
* [[ヒツジ]](羊)
=== 使役 ===
労働力としての利用。
<!--哺乳類-->
* [[ラット]] - “スーパーラット”による爆弾検知([[地雷]]処理要員として。優れた[[嗅覚]]で地雷を発見するが、体重が軽いため、地雷に乗っても起爆しない)。
* [[イヌ]](犬)
* [[ネコ]](猫)
* [[ウマ]](馬)
* [[ロバ]](驢馬)
* [[ヒトコブラクダ]](一瘤駱駝)
* [[フタコブラクダ]](二瘤駱駝)
* [[リャマ]]
* [[アルパカ]](羊駱駝)
* [[ブタ]](豚)
* [[トナカイ]](馴鹿)
* [[ウシ]](タウリン系牛) - 運搬用(牛車用)、耕作用。
* [[コブウシ]](瘤牛) - 運搬用(牛車用)、耕作用。
* [[スイギュウ]](水牛)
* [[ヤク]]
* [[ヤギ]](山羊)
<!--鳥類-->
* [[ニワトリ]](鶏) - [[闘鶏]]。
* [[アイガモ]](合鴨) - 農業補助([[合鴨農法]])。
* [[カワラバト]](河原鳩) - [[通信]]([[伝書鳩]])。
* [[フクロウ]](梟) - 害鳥獣駆除。
* [[ハヤブサ]](隼) - [[鷹狩]]、害鳥獣駆除。
* [[オオタカ]](大鷹) - 鷹狩、害鳥獣駆除。
* [[イヌワシ]](犬鷲) - 鷹狩、害鳥獣駆除。
* [[カワウ]](河鵜) - [[鵜飼]]。
* [[ウミウ]](海鵜) - 鵜飼。
<!--爬虫類-->
* [[インドコブラ]] - 鑑賞([[蛇使い]])。
<!--無脊椎動物-->
* [[ナミテントウ]](並天道) - 害虫駆除(育種により作出された飛翔能力を欠く系統を[[生物農薬]]として利用<ref>{{Cite press release|和書|date=2014-06-16 |title=「飛ばないナミテントウ」が利用可能に - 施設野菜でのアブラムシ防除に強力でやさしい味方誕生 - |url=http://www.naro.affrc.go.jp/publicity_report/press/laboratory/warc/052752.html |publisher=[[農業・食品産業技術総合研究機構]](農研機構)|accessdate=2020-01-04 }}</ref>)。
* [[カイコ]](蚕) - [[養蚕]]。
* [[セイヨウミツバチ]](西洋蜜蜂) - [[養蜂]]。
* [[ニホンミツバチ]](日本蜜蜂) - 養蜂。
=== 実験動物 ===
<!--哺乳類-->
* [[ハツカネズミ]](二十日鼠)
* [[ラット]]
* [[モルモット]]
* [[カイウサギ]](飼兎)
* [[イヌ]](犬)
* [[ネコ]](猫)
* [[ブタ]](豚)
<!--鳥類-->
* [[ニワトリ]](鶏) - [[ヒヨコ]]として。
<!--魚類-->
* [[カダヤシ目]]の魚 - [[メダカ]]、[[グッピー]]など。
<!--無脊椎動物-->
* [[ショウジョウバエ]](猩猩蠅)
=== 娯楽 ===
<!--哺乳類-->
* [[イヌ]](犬) - [[武芸]]でもある[[ブラッド・スポーツ|ブラッドスポーツ]]「[[犬追物]]」に利用された歴史がある。
* [[ウシ]](タウリン系牛) - ブラッドスポーツ([[闘牛#スペイン闘牛の歴史|スペイン等における闘牛]])に利用。[[闘牛#日本における闘牛|日本における闘牛]]に利用。
<!--鳥類-->
* [[ニワトリ]](鶏) - ブラッドスポーツ([[闘鶏]])に利用。
=== 愛玩 ===
<!--哺乳類-->
* [[ハツカネズミ]](二十日鼠)
* [[ラット]]
* [[ハムスター]]
* [[カイウサギ]](飼兎)
* [[イヌ]](犬)
* [[ネコ]](猫)
* [[フェレット]]
* [[ウマ]](馬)
* [[ブタ]](豚)
<!--鳥類-->
* [[ニワトリ]](鶏)
* [[インドクジャク]](印度孔雀)
* [[アヒル]](家鴨)
* [[ハクチョウ]](白鳥)
* [[オウム]](鸚鵡)
* [[インコ]](鸚哥)
* [[カワラバト]](河原鳩)
* [[ブンチョウ]](文鳥)
* [[ジュウシマツ]](十姉妹)
* [[カナリア]](金糸雀、金絲雀)
* [[キュウカンチョウ]](九官鳥)
* [[ジュズカケバト]](数珠掛鳩)
<!--魚類-->
* [[コイ]](鯉)
* [[キンギョ]](金魚)
* [[カダヤシ目]]の魚 - [[メダカ]]、[[グッピー]]など。
<!--無脊椎動物-->
* [[エンマコオロギ]](閻魔蟋蟀)
* [[スズムシ]](鈴虫)
<!--
* [[レッドビーシュリンプ]]|※特筆性があるとは思えない。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[家畜]] - [[家畜化]]
** [[家禽]]
* [[ペット]]
{{Normdaten}}
[[Category:家畜|*]]
[[Category:動物関連の一覧|かちくいちらん]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%95%9C%E4%B8%80%E8%A6%A7
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18,539 |
フグ
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フグ(河豚、鰒、鮐、魨、鯸、鯺、吹吐魚)は、フグ目、特にフグ科に属する魚の総称。
本項目では主に、フグの文化的側面について解説する。分類学的側面についてはフグ科を参照のこと。フグ科に属さないフグ(ハコフグ、ハリセンボンなど)は各項目を参照。
およそ120種の魚がフグ科に分類される。そのうち食用とする種として、トラフグ、マフグなどが有名。食用可能な部位はフグの種類や漁獲場所によって異なるため、素人によるフグの取扱いや調理は危険である。実際、日本における食中毒の原因のほとんどがキノコとフグであり、フグによる事故の多くは無免許や素人による調理とされる。
敵を威嚇するために体を膨らませる姿がよく知られる。この姿から英語では「ふくらむ魚」という意味を持つ語(puffer fish)で呼ばれる。胃の腹面の膨張嚢に空気や水を吸い込んで体の体積を2倍以上にすることができる。腹部にとげ状の短い突起がある種もいる。
歯(顎歯)がよく発達しており、これが融合した強靭な4つの歯を持つ。フグ科の学名もこの「4枚の歯」に由来する。噛む力は細い針金程度なら容易に切断できるほど強いため注意が必要。養殖のものでは、フグ同士がストレスにより喧嘩で噛みつき合って怪我をし、品質が落ちるだけでなく怪我が原因で病気になることもあるため、「歯切り」が行われることもある。主に海水魚だが、汽水や淡水に生息する種もいる。
一般的に硬骨魚はまぶたを持たないが、フグは油瞼という膜で目を覆っている。といっても瞬間的に開閉するものではなく、十数秒かけてゆっくりと閉じたり開いたりする。
多くの種において、内臓や皮膚、血液、筋肉の全部または一部に毒性のあるテトロドトキシンを持つ。クサフグなどのフグ毒の成分は主にテトロドトキシンであるが、微量のサキシトキシンも含まれる。また、ハコフグはテトロドトキシンを蓄積せず、パフトキシンを蓄積する。
フグの毒化の原因については、フグ自身がフグ毒を産生しているとみる内因説と、餌など外部から取り込まれるとみる外因説があるが、フグ毒は海洋細菌によって産生され、食物連鎖によってフグの体内に蓄積されるとみる外因説が有力となっている。もともと有毒渦鞭毛藻などの有毒プランクトンや、ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の真正細菌が生産したものが、餌となる貝類やヒトデなどの底性生物を通して生物濃縮され、体内に蓄積されたものと考えられている。
天然のフグの場合、種によって毒化する部位が異なり、同じ種でも季節により毒の量が変わる。養殖のフグにおいてもその養殖方法によっては毒性を持つことがある。湾を仕切っての養殖法において有毒のフグが出現した報告例がある。近年、東北地方や茨城県の太平洋側では元からいるショウサイフグと、日本海から流入したとみられるゴマフグの交雑種が増えている。こうした雑種は有毒部位についての経験則が通用しない可能性があるとして、調査した水産大学校が注意を呼び掛けている。
フグはテトロドトキシンに対し高い耐性を持っているため、フグ自体が中毒することはない。ただし自然に蓄積する濃度のテトロドトキシンに耐えられるという意味であって、人為的に高濃度のテトロドトキシンを与えたならばフグも中毒をおこす。
近年、フグは分泌するテトロドトキシンを能動的にコントロールしていることが明らかになっている。
養殖時にテトロドトキシンの含有がない餌を与えると、咬み合いなど異常行動を引き起こすことが明らかになっている。 また異常行動時にテトロドトキシンを含有する餌を与えると収束することから、正常な活動のためには一定のテトロドトキシンが必要であるという見方もある。フグ毒については解明されていない部分が多いのが実情である。
漢字で「河豚」と表記するが、「河」と書くのは中国で食用とされるメフグが河川など淡水域に生息する種であるためで、また、このメフグが豚のような鳴き声を発することから「豚」の文字があてられているとされる。
中国語では「河豚」「河豚魚」「河魨」という表記を使っている。『山海経』などの古典では「鮭」の字を当てている場合がある。
以下のような別称・地方名がある。
天然のフグを漁獲する方法は定置網、はえ縄、一本釣りなど多種多様である。天然物のトラフグは尻鰭が白く、しっかりとした尾鰭を持っている(尾鰭は黒色)。トラフグの代用食材となるカラスフグの場合には尻鰭も黒いため区別できる。
日本における食用フグの産地としては山口県下関市が有名であるが、下関はフグの産地というよりは集積地である。下関近海でもフグは獲れるが、それ以上の数のフグが天然物も養殖物も、日本全国や中国や韓国などの海外からも下関に集められる。下関がフグの本場と言われる理由として、明治期に全国で最初にフグ食が解禁になった地が下関であり(ふぐ料理公許第1号店は下関市の春帆楼。その後、山口県のみフグ食解禁の時期がしばらく続いた。)、それ以降の下関には多くのフグ料理店ができ、現在のフグ料理の多くが下関で考え出されたことなどが背景にある。これらに加え、フグは猛毒を蓄えているため、水揚げ後の加工が重要であるが、この加工業者や加工場が前述の歴史的背景などから下関に集積している点が大きい。
最近では水揚げ漁港の側で加工場などの整備を行い、地場の名産品とすべく独自ブランドを立ち上げるなどの努力も行われている。大阪府大阪市は消費で有名であり、愛知県日間賀島などもフグを観光として取り上げている。しかし、加工業者や加工場の質、数の問題もあり、漁獲されたフグの多くが下関に集中するという傾向にある。
高級魚であるため養殖が行われている。養殖物のトラフグは天然物に比べて尾鰭が短く、全体的に黄色を帯びた色である。
愛媛県愛南町では陸上養殖が行われている。だが養殖の生産量が急増したのは、当時の水産庁によるトラフグ養殖推進の方針や、熊本県などのように養殖フグ生産地の各自治体による養殖マニュアルが作成された1991年以降である。当時ハマチ・鯛等を養殖していた業者がトラフグ養殖に転換し、生産量が増加した。平成後期になると無毒のフグを養殖できるようになった
2005年には佐賀県と嬉野町(現嬉野市)が厚生労働省に、フグ肝を食用として提供出来るよう特区を提案したが、現時点では100%の安全性が保証ができないと判断され却下されている。
日本での県別漁獲量(2008年)は以下の通り。なお、全国の水揚げの約6割が大阪で消費されている。
2002年、初めてフグの輸入量が国内生産量を上回った。2002年の輸入先の99%は中国であり、残り1%は韓国である。近年は養殖技術の向上により、これらの国の養殖フグも大量に輸入されている。
なお、中国産食品の安全性問題はフグ関連でも発生している。アメリカにおける、中国産のアンコウの切り身でのフグ・フグ毒の混入、及び日本と米国ハワイ州における中国産カワハギの切り身でのフグ・フグ毒の混入が代表例として挙げられる。
日本近海においてもフグは数百種類生息しているが、種類によって毒を保有している部位が異なり、食用になる部位が全く無いものもいる。厚生省(現・厚生労働省)の「処理等により人の健康を損なうおそれがないと認められるフグの種類及び部位」によって食用可能なフグとされているのは21種で、可食部位も筋肉、皮、精巣のいずれかである。食用可能な種類と有毒種で見た目が似ているものがあり、キノコ類と同様、素人目には判断できない場合が多い。さらに同じ種類の場合にも毒性に個体差があるほか、生息海域や季節によって毒性に違いがみられる場合がある(日本近海産のクロサバフグは無毒であるが、南シナ海産のクロサバフグは皮膚が弱毒で卵巣と肝臓が猛毒であることが判明している)。
一般消費者に対する未処理フグの販売は禁止されている(食品衛生法第6条第2号参照)。
フグ取扱資格は、国内統一資格ではなく都道府県ごとに定められていて、資格名称や資格取得方法に違いがあり、届け出後講習会を受講するだけで資格が与えられる地域もあれば、試験により資格を取得する地域もある。東京都などは、ふぐ調理師試験の受験資格に一般の調理師免許を取得していることが条件の1つとなっている。更に、身欠きフグのみ取扱う場合でも、フグ取扱施設許可等を必要としたり、フグ加工品の販売を行う場合に届出を必要とする地域がある。
東京都を始めとする規制の厳しい自治体では、飲食店などでフグを料理用にさばくためには、フグの有毒部分の除去処理を行うことのできるフグ取扱施設の許可(届出の場合もある)とフグ取扱資格者がいる(無資格者がフグをさばくことは認められていない)ことが必要である。
盗難による悪用防止のため、施錠できる容器に保管して適切に廃棄しなければならない。東京都の条例では、除去したフグの内臓をまず (1) ステンレス製の鍵付き容器に保管し、(2) それを築地の除毒場で焼却し、(3) それを苛性ソーダで中和し、(4) それを地下に埋めることが義務づけられている。
エジプトでもフグは免許を有する者によって調理される。フグを象ったヒエログリフは「不満」を意味する。
食用にする種としてトラフグ、マフグなどが有名。特にトラフグが高級魚として知られる。フグ料理は、一般的に高級料理として旬の冬場に食べられ、食用フグの7割が京阪神地域で消費されており、特に大阪での消費量は全消費量の6割に達する。もっとも、近年は養殖により季節を問わず食べることが可能である。フグの肝臓(ハラワタ)は多くの食通をうならせる美味であり、日本には「フグは食いたし命は惜しし」という言葉があるように、中毒を覚悟してまで食べようとする者もいる。しかし、フグについての素人判断・素人料理は危険である。
フグ毒は通常の調理による加熱では分解できない。肉だけならどのフグも毒がないと思われがちだが、ドクサバフグなど一部肉にも毒がある種や、マフグやトラフグであってもドクサバフグなどと交配して筋肉に毒をもついわゆる雑種フグの存在が確認されているため免許を持たない者が自ら調理して食べることは危険である。
日本の河豚の卵巣の糠漬けのように特殊な加工法を用いることによって除毒した塩蔵品もある。しかし、どのような仕組みで分解されるのかは分かっていない。フグ卵巣糠漬では、食用可能な状態にまで減毒している理由として、古くから塩漬・糠漬中に卵巣から毒が桶に拡散するためと説明されている。実際、微生物によるフグ毒の毒力減少が認められていない。またテトロドトキシンは300°C以上に加熱しても分解されないので、限られた地域の許可を受けた業者のみが加工できる。この関係で、日本では食品衛生法でフグの卵巣など毒を持っている部位は個別の毒性検査によりその毒力がおおむね10MU/g以下であることを確認したもの以外は販売・調理・食用が禁じられている。
他、フグの肝臓を客に提供していた会員制フグ料理店『大阪とらふぐの会』が、大阪府警察から食品衛生法違反容疑で摘発された上、地元自治体から営業禁止の行政処分を受けた。その後、同店の経営者は同容疑で同府警に逮捕された。
2300年前に記された『山海経』には、「フグを食べると死ぬ」との記載がある。一方、縄文時代の日本の里浜貝塚からはフグの骨が発見されており、少なくとも縄文時代からフグが食用にされていたと考えられている。実際にも同じく縄文時代の姥山貝塚の住居跡からは、5人の住人全員が何らかの急病で同時に死んだような状態の遺骨が発見されており、この住居跡からはフグの骨も発見されたことから、ここの住人たちはフグを食べて中毒死したのではないかとする説もある。
豊臣政権下の時代に行われた朝鮮出兵の際、兵士にフグによる中毒が続出したため、豊臣秀吉はフグ食禁止令を命じた。徳川氏に政権が変わってからも、武家では「主家に捧げなければならない命を、己の食い意地で落とした輩」として、当主がフグ毒で死んだ場合には家名断絶等の厳しい対応がなされたという。ただし、この罰則はあくまでも武家に対して課せられたものであり、武家以外の庶民たちは中毒の危険を覚悟の上でフグの味を楽しんでいた。
明治政府も1882年(明治15年)に河豚を食べた者を拘置・科料に処する法令を出した。しかし、その後、下関でフグを食した伊藤博文がそのうまさに感心し(諸説あり)、当時の山口県県令(知事)原保太郎に命じて、1898年(明治21年)、山口県に限り河豚食を解禁させる。さらに兵庫県が1918年(大正7年)、大阪府が1941年(昭和16年)に河豚禁令を解いている。その後フグ食の文化は山口県を中心に全国でも復活し、今日に至っている。フグの食用・調理にあたっての条例は1948年(昭和23年)に、大阪府が制定した『ふぐ販売営業取締条例』(昭和二十三年大阪府条例第五十五号)が最初である。
かつてはフグ毒に当たると頭だけ出して地面に埋めれば治るなどの俗信があったが、完全な迷信であり、全く効果はない。かまどで煮炊きをしていた時代では、煤が鍋に落ちると当たるとも言われていた。人間以外ではネコはフグを食べても中毒しないとも言われるが、これはただの俗信に過ぎず、実際にはネコの中毒死も多い。
フグ毒の毒量は「マウスユニット (MU)」(20グラムのネズミを30分で死亡させる量が1マウスユニット)で表される。人間の場合5,000-10,000マウスユニットで致死量に至るが、フグ毒による事故では致死率が5.7%と言われており、他の食中毒よりも圧倒的に致死率が高い。
フグの毒に対しては、特異療法(解毒剤や血清)が未だに開発されておらず、神経毒であるテトロドトキシンが尿とともに排出しきって呼吸困難が収まるまで人工呼吸器を繋げることが唯一の治療法となる。強心剤、利尿剤の投与が主な対症療法。なお、トリカブト保険金殺人事件では、機序がテトロドトキシンと拮抗するアコニチン(トリカブト毒)の効果を遅らせるためにフグ毒を使用している。
素人調理による食中毒は後を絶たない。1996年から2005年の10年間に日本各地でフグによる食中毒は315件発生しており、31名が死亡している。その多くが資格を持たない一般人がフグを調理した結果起きている。
摂食直後から2時間程度で症状が現れる。麻痺は6時間ほどかけて悪化する。毒の排出は約8時間で終わるが、症状が回復に転じるのは、12時間以降である。症状としては口や唇にしびれが生じ、それが周りへ広がる。その後に進行性の運動麻痺、知覚異常、自律神経障害などが発生し、最終的には呼吸筋が麻痺し、呼吸困難から呼吸麻痺が起こり死に至る。毒を含んだフグを食べてから症状が出るまでの時間は早ければ数分で、麻痺は急速に進行する。ただし、テトロドトキシンは血液脳関門を通過しにくい物質であるため、麻痺は中枢神経系への直接作用ではなく、末梢神経での伝導抑制により外的刺激に対して反応することができない状態であると考えるため、患者は外見上が昏睡状態になっても、脳波や聴性脳幹反応は正常であり、意識を失っていないと見られる。吸収が早いために、症状が出現した時点では胃洗浄は効果がないとされる。また腎からの排泄も早いために強制利尿や血液浄化(透析)の必要性もない。重要なことは、呼吸麻痺に陥った場合に人工呼吸器管理を行うことである。時代劇における暗殺描写で、食べた者が吐血するシーンがあるが、これはよりおどろおどろしく見せるための演出であり、そのような症例はない。
福田の分類
フグのテトロドトキシンはフグが自ら作り出すものではなく、海中のエサとなる生物の食物連鎖によるものである。そのため人為的に無毒フグを生産することは可能である。
現代では養殖方法の進歩により、温泉水を利用して毒を持たないフグを育てることが可能になっている。長崎大学と小川水産は、共同研究により無毒のフグを育てる養殖方法を確立し、2004年に特許を取得し、それを販売している。
しかし、テトロドトキシンはフグの精神安定剤の役割を果たしていることが明らかになっており、毒を持たないフグはストレスで他の個体を傷つけるなど凶暴化してしまうこと、抵抗力が落ちて皮膚の病気にかかりやすくなるなど、本格的な産業養殖には様々な課題がある。
なお、無毒フグの肝が食用に許可されているのは大分県のみであり、それ以外の地域で食用にした場合、食品衛生法違反となる。フグ肝の食用が広まってしまうと、普通のフグ肝も食べても安全だという誤った認識が広まり、中毒者が増える恐れがあるためと考えられている。
魚体に寄生虫(代表的なものとしてエラムシ)が付着しやすいため、その対策が養殖業者の課題となっている。ホルマリンによる薬浴が手間のかからない方法であるといわれるが、発ガン物質でもあるホルマリンがフグの身へ残留することや、処理後の廃水を海へ廃棄することによる環境への影響、周辺の魚介類の汚染などが問題視されている。
2002年、東京水産大学は厚生労働省に対して、愛媛県と長崎県の養殖業者が寄生虫対策としてホルマリンを使用していることを指摘、これを受け両県が調査を実施した結果、2003年になって半数以上の業者が使用していたことが判明した。同問題発覚後に熊本県等の他の自治体でも調査を実施したところ、ホルマリンを使用している業者が多数見受けられた。この影響で長崎県では、しばらくホルマリンを使っていないフグまで出荷できなくなるなどの影響が出た。
また、ほぼ同時期に発生した真珠貝(アコヤガイ)の大量斃死では、アコヤ貝の死骸からホルムアルデヒド(ホルマリン)が検出された。近隣海域でフグ養殖業者以外にホルマリンを使う者が存在しない事から関連性を指摘される。その結果、フグ養殖業者と真珠養殖業者とが反目したほか、消費者団体によりホルマリン残留問題が提起されるなど社会問題にもなった。
その後、水産庁によるホルマリンの使用を禁止する通達が出され、各自治体によるホルマリンを使わない養殖マニュアルが作成され、養殖でのホルマリン使用量は減少したが、依然として一部の業者によるホルマリンの使用は続いており、イタチごっこの様相を呈している。
2009年、ほぼ全ての養殖業者でのホルマリン非使用が漁協にて確認されている。
汽水、淡水性のフグの一部の種は、観賞魚として人気がある(淡水フグ参照)。
分厚く伸縮性に富むフグの皮を利用しふぐ提灯やふぐ笛などに加工される。他に台湾のヤミ族には籐のフレームにフグの皮を張った甲冑というものが存在していた。
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"text": "フグ(河豚、鰒、鮐、魨、鯸、鯺、吹吐魚)は、フグ目、特にフグ科に属する魚の総称。",
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"text": "本項目では主に、フグの文化的側面について解説する。分類学的側面についてはフグ科を参照のこと。フグ科に属さないフグ(ハコフグ、ハリセンボンなど)は各項目を参照。",
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"text": "およそ120種の魚がフグ科に分類される。そのうち食用とする種として、トラフグ、マフグなどが有名。食用可能な部位はフグの種類や漁獲場所によって異なるため、素人によるフグの取扱いや調理は危険である。実際、日本における食中毒の原因のほとんどがキノコとフグであり、フグによる事故の多くは無免許や素人による調理とされる。",
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"text": "敵を威嚇するために体を膨らませる姿がよく知られる。この姿から英語では「ふくらむ魚」という意味を持つ語(puffer fish)で呼ばれる。胃の腹面の膨張嚢に空気や水を吸い込んで体の体積を2倍以上にすることができる。腹部にとげ状の短い突起がある種もいる。",
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"text": "歯(顎歯)がよく発達しており、これが融合した強靭な4つの歯を持つ。フグ科の学名もこの「4枚の歯」に由来する。噛む力は細い針金程度なら容易に切断できるほど強いため注意が必要。養殖のものでは、フグ同士がストレスにより喧嘩で噛みつき合って怪我をし、品質が落ちるだけでなく怪我が原因で病気になることもあるため、「歯切り」が行われることもある。主に海水魚だが、汽水や淡水に生息する種もいる。",
"title": "特徴"
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"text": "一般的に硬骨魚はまぶたを持たないが、フグは油瞼という膜で目を覆っている。といっても瞬間的に開閉するものではなく、十数秒かけてゆっくりと閉じたり開いたりする。",
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"text": "多くの種において、内臓や皮膚、血液、筋肉の全部または一部に毒性のあるテトロドトキシンを持つ。クサフグなどのフグ毒の成分は主にテトロドトキシンであるが、微量のサキシトキシンも含まれる。また、ハコフグはテトロドトキシンを蓄積せず、パフトキシンを蓄積する。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "フグの毒化の原因については、フグ自身がフグ毒を産生しているとみる内因説と、餌など外部から取り込まれるとみる外因説があるが、フグ毒は海洋細菌によって産生され、食物連鎖によってフグの体内に蓄積されるとみる外因説が有力となっている。もともと有毒渦鞭毛藻などの有毒プランクトンや、ビブリオ属やシュードモナス属などの一部の真正細菌が生産したものが、餌となる貝類やヒトデなどの底性生物を通して生物濃縮され、体内に蓄積されたものと考えられている。",
"title": "特徴"
},
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"text": "天然のフグの場合、種によって毒化する部位が異なり、同じ種でも季節により毒の量が変わる。養殖のフグにおいてもその養殖方法によっては毒性を持つことがある。湾を仕切っての養殖法において有毒のフグが出現した報告例がある。近年、東北地方や茨城県の太平洋側では元からいるショウサイフグと、日本海から流入したとみられるゴマフグの交雑種が増えている。こうした雑種は有毒部位についての経験則が通用しない可能性があるとして、調査した水産大学校が注意を呼び掛けている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "フグはテトロドトキシンに対し高い耐性を持っているため、フグ自体が中毒することはない。ただし自然に蓄積する濃度のテトロドトキシンに耐えられるという意味であって、人為的に高濃度のテトロドトキシンを与えたならばフグも中毒をおこす。",
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"text": "近年、フグは分泌するテトロドトキシンを能動的にコントロールしていることが明らかになっている。",
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"text": "養殖時にテトロドトキシンの含有がない餌を与えると、咬み合いなど異常行動を引き起こすことが明らかになっている。 また異常行動時にテトロドトキシンを含有する餌を与えると収束することから、正常な活動のためには一定のテトロドトキシンが必要であるという見方もある。フグ毒については解明されていない部分が多いのが実情である。",
"title": "特徴"
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"text": "漢字で「河豚」と表記するが、「河」と書くのは中国で食用とされるメフグが河川など淡水域に生息する種であるためで、また、このメフグが豚のような鳴き声を発することから「豚」の文字があてられているとされる。",
"title": "名称"
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{
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"text": "中国語では「河豚」「河豚魚」「河魨」という表記を使っている。『山海経』などの古典では「鮭」の字を当てている場合がある。",
"title": "名称"
},
{
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"text": "以下のような別称・地方名がある。",
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},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "天然のフグを漁獲する方法は定置網、はえ縄、一本釣りなど多種多様である。天然物のトラフグは尻鰭が白く、しっかりとした尾鰭を持っている(尾鰭は黒色)。トラフグの代用食材となるカラスフグの場合には尻鰭も黒いため区別できる。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日本における食用フグの産地としては山口県下関市が有名であるが、下関はフグの産地というよりは集積地である。下関近海でもフグは獲れるが、それ以上の数のフグが天然物も養殖物も、日本全国や中国や韓国などの海外からも下関に集められる。下関がフグの本場と言われる理由として、明治期に全国で最初にフグ食が解禁になった地が下関であり(ふぐ料理公許第1号店は下関市の春帆楼。その後、山口県のみフグ食解禁の時期がしばらく続いた。)、それ以降の下関には多くのフグ料理店ができ、現在のフグ料理の多くが下関で考え出されたことなどが背景にある。これらに加え、フグは猛毒を蓄えているため、水揚げ後の加工が重要であるが、この加工業者や加工場が前述の歴史的背景などから下関に集積している点が大きい。",
"title": "名称"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "最近では水揚げ漁港の側で加工場などの整備を行い、地場の名産品とすべく独自ブランドを立ち上げるなどの努力も行われている。大阪府大阪市は消費で有名であり、愛知県日間賀島などもフグを観光として取り上げている。しかし、加工業者や加工場の質、数の問題もあり、漁獲されたフグの多くが下関に集中するという傾向にある。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "高級魚であるため養殖が行われている。養殖物のトラフグは天然物に比べて尾鰭が短く、全体的に黄色を帯びた色である。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "愛媛県愛南町では陸上養殖が行われている。だが養殖の生産量が急増したのは、当時の水産庁によるトラフグ養殖推進の方針や、熊本県などのように養殖フグ生産地の各自治体による養殖マニュアルが作成された1991年以降である。当時ハマチ・鯛等を養殖していた業者がトラフグ養殖に転換し、生産量が増加した。平成後期になると無毒のフグを養殖できるようになった",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2005年には佐賀県と嬉野町(現嬉野市)が厚生労働省に、フグ肝を食用として提供出来るよう特区を提案したが、現時点では100%の安全性が保証ができないと判断され却下されている。",
"title": "名称"
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"tag": "p",
"text": "日本での県別漁獲量(2008年)は以下の通り。なお、全国の水揚げの約6割が大阪で消費されている。",
"title": "流通"
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"tag": "p",
"text": "2002年、初めてフグの輸入量が国内生産量を上回った。2002年の輸入先の99%は中国であり、残り1%は韓国である。近年は養殖技術の向上により、これらの国の養殖フグも大量に輸入されている。",
"title": "流通"
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"text": "なお、中国産食品の安全性問題はフグ関連でも発生している。アメリカにおける、中国産のアンコウの切り身でのフグ・フグ毒の混入、及び日本と米国ハワイ州における中国産カワハギの切り身でのフグ・フグ毒の混入が代表例として挙げられる。",
"title": "流通"
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"text": "日本近海においてもフグは数百種類生息しているが、種類によって毒を保有している部位が異なり、食用になる部位が全く無いものもいる。厚生省(現・厚生労働省)の「処理等により人の健康を損なうおそれがないと認められるフグの種類及び部位」によって食用可能なフグとされているのは21種で、可食部位も筋肉、皮、精巣のいずれかである。食用可能な種類と有毒種で見た目が似ているものがあり、キノコ類と同様、素人目には判断できない場合が多い。さらに同じ種類の場合にも毒性に個体差があるほか、生息海域や季節によって毒性に違いがみられる場合がある(日本近海産のクロサバフグは無毒であるが、南シナ海産のクロサバフグは皮膚が弱毒で卵巣と肝臓が猛毒であることが判明している)。",
"title": "流通"
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"text": "一般消費者に対する未処理フグの販売は禁止されている(食品衛生法第6条第2号参照)。",
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"text": "フグ取扱資格は、国内統一資格ではなく都道府県ごとに定められていて、資格名称や資格取得方法に違いがあり、届け出後講習会を受講するだけで資格が与えられる地域もあれば、試験により資格を取得する地域もある。東京都などは、ふぐ調理師試験の受験資格に一般の調理師免許を取得していることが条件の1つとなっている。更に、身欠きフグのみ取扱う場合でも、フグ取扱施設許可等を必要としたり、フグ加工品の販売を行う場合に届出を必要とする地域がある。",
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"text": "食用にする種としてトラフグ、マフグなどが有名。特にトラフグが高級魚として知られる。フグ料理は、一般的に高級料理として旬の冬場に食べられ、食用フグの7割が京阪神地域で消費されており、特に大阪での消費量は全消費量の6割に達する。もっとも、近年は養殖により季節を問わず食べることが可能である。フグの肝臓(ハラワタ)は多くの食通をうならせる美味であり、日本には「フグは食いたし命は惜しし」という言葉があるように、中毒を覚悟してまで食べようとする者もいる。しかし、フグについての素人判断・素人料理は危険である。",
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"text": "日本の河豚の卵巣の糠漬けのように特殊な加工法を用いることによって除毒した塩蔵品もある。しかし、どのような仕組みで分解されるのかは分かっていない。フグ卵巣糠漬では、食用可能な状態にまで減毒している理由として、古くから塩漬・糠漬中に卵巣から毒が桶に拡散するためと説明されている。実際、微生物によるフグ毒の毒力減少が認められていない。またテトロドトキシンは300°C以上に加熱しても分解されないので、限られた地域の許可を受けた業者のみが加工できる。この関係で、日本では食品衛生法でフグの卵巣など毒を持っている部位は個別の毒性検査によりその毒力がおおむね10MU/g以下であることを確認したもの以外は販売・調理・食用が禁じられている。",
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"text": "フグの毒に対しては、特異療法(解毒剤や血清)が未だに開発されておらず、神経毒であるテトロドトキシンが尿とともに排出しきって呼吸困難が収まるまで人工呼吸器を繋げることが唯一の治療法となる。強心剤、利尿剤の投与が主な対症療法。なお、トリカブト保険金殺人事件では、機序がテトロドトキシンと拮抗するアコニチン(トリカブト毒)の効果を遅らせるためにフグ毒を使用している。",
"title": "利用"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "素人調理による食中毒は後を絶たない。1996年から2005年の10年間に日本各地でフグによる食中毒は315件発生しており、31名が死亡している。その多くが資格を持たない一般人がフグを調理した結果起きている。",
"title": "利用"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "摂食直後から2時間程度で症状が現れる。麻痺は6時間ほどかけて悪化する。毒の排出は約8時間で終わるが、症状が回復に転じるのは、12時間以降である。症状としては口や唇にしびれが生じ、それが周りへ広がる。その後に進行性の運動麻痺、知覚異常、自律神経障害などが発生し、最終的には呼吸筋が麻痺し、呼吸困難から呼吸麻痺が起こり死に至る。毒を含んだフグを食べてから症状が出るまでの時間は早ければ数分で、麻痺は急速に進行する。ただし、テトロドトキシンは血液脳関門を通過しにくい物質であるため、麻痺は中枢神経系への直接作用ではなく、末梢神経での伝導抑制により外的刺激に対して反応することができない状態であると考えるため、患者は外見上が昏睡状態になっても、脳波や聴性脳幹反応は正常であり、意識を失っていないと見られる。吸収が早いために、症状が出現した時点では胃洗浄は効果がないとされる。また腎からの排泄も早いために強制利尿や血液浄化(透析)の必要性もない。重要なことは、呼吸麻痺に陥った場合に人工呼吸器管理を行うことである。時代劇における暗殺描写で、食べた者が吐血するシーンがあるが、これはよりおどろおどろしく見せるための演出であり、そのような症例はない。",
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"text": "福田の分類",
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"text": "フグのテトロドトキシンはフグが自ら作り出すものではなく、海中のエサとなる生物の食物連鎖によるものである。そのため人為的に無毒フグを生産することは可能である。",
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"text": "現代では養殖方法の進歩により、温泉水を利用して毒を持たないフグを育てることが可能になっている。長崎大学と小川水産は、共同研究により無毒のフグを育てる養殖方法を確立し、2004年に特許を取得し、それを販売している。",
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"text": "しかし、テトロドトキシンはフグの精神安定剤の役割を果たしていることが明らかになっており、毒を持たないフグはストレスで他の個体を傷つけるなど凶暴化してしまうこと、抵抗力が落ちて皮膚の病気にかかりやすくなるなど、本格的な産業養殖には様々な課題がある。",
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"text": "なお、無毒フグの肝が食用に許可されているのは大分県のみであり、それ以外の地域で食用にした場合、食品衛生法違反となる。フグ肝の食用が広まってしまうと、普通のフグ肝も食べても安全だという誤った認識が広まり、中毒者が増える恐れがあるためと考えられている。",
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"text": "魚体に寄生虫(代表的なものとしてエラムシ)が付着しやすいため、その対策が養殖業者の課題となっている。ホルマリンによる薬浴が手間のかからない方法であるといわれるが、発ガン物質でもあるホルマリンがフグの身へ残留することや、処理後の廃水を海へ廃棄することによる環境への影響、周辺の魚介類の汚染などが問題視されている。",
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"text": "2002年、東京水産大学は厚生労働省に対して、愛媛県と長崎県の養殖業者が寄生虫対策としてホルマリンを使用していることを指摘、これを受け両県が調査を実施した結果、2003年になって半数以上の業者が使用していたことが判明した。同問題発覚後に熊本県等の他の自治体でも調査を実施したところ、ホルマリンを使用している業者が多数見受けられた。この影響で長崎県では、しばらくホルマリンを使っていないフグまで出荷できなくなるなどの影響が出た。",
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"tag": "p",
"text": "また、ほぼ同時期に発生した真珠貝(アコヤガイ)の大量斃死では、アコヤ貝の死骸からホルムアルデヒド(ホルマリン)が検出された。近隣海域でフグ養殖業者以外にホルマリンを使う者が存在しない事から関連性を指摘される。その結果、フグ養殖業者と真珠養殖業者とが反目したほか、消費者団体によりホルマリン残留問題が提起されるなど社会問題にもなった。",
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"text": "その後、水産庁によるホルマリンの使用を禁止する通達が出され、各自治体によるホルマリンを使わない養殖マニュアルが作成され、養殖でのホルマリン使用量は減少したが、依然として一部の業者によるホルマリンの使用は続いており、イタチごっこの様相を呈している。",
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"text": "2009年、ほぼ全ての養殖業者でのホルマリン非使用が漁協にて確認されている。",
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"text": "汽水、淡水性のフグの一部の種は、観賞魚として人気がある(淡水フグ参照)。",
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"text": "分厚く伸縮性に富むフグの皮を利用しふぐ提灯やふぐ笛などに加工される。他に台湾のヤミ族には籐のフレームにフグの皮を張った甲冑というものが存在していた。",
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] |
フグ(河豚、鰒、鮐、魨、鯸、鯺、吹吐魚)は、フグ目、特にフグ科に属する魚の総称。 本項目では主に、フグの文化的側面について解説する。分類学的側面についてはフグ科を参照のこと。フグ科に属さないフグ(ハコフグ、ハリセンボンなど)は各項目を参照。 およそ120種の魚がフグ科に分類される。そのうち食用とする種として、トラフグ、マフグなどが有名。食用可能な部位はフグの種類や漁獲場所によって異なるため、素人によるフグの取扱いや調理は危険である。実際、日本における食中毒の原因のほとんどがキノコとフグであり、フグによる事故の多くは無免許や素人による調理とされる。
|
{{Otheruses||格闘家|アンディ・フグ}}
{{脚注の不足|date=2023年7月}}
{{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]}}
{{生物分類表
|画像 = [[Image:Fugu in Tank.jpg|250px]]
|画像キャプション = '''トラフグ''' {{snamei||Takifugu rubripes}}
|名称 = フグ
|省略 = 条鰭綱
|目 = [[フグ目]] {{sname||Tetraodontiformes}}
|科 = [[フグ科]] {{sname||Tetraodontidae}}
|英名 = '''pufferfish'''
}}
'''フグ'''('''河豚'''、'''鰒'''、'''{{補助漢字フォント|鮐}}'''、'''{{補助漢字フォント|魨}}'''、'''{{JIS2004フォント|鯸}}'''、'''{{JIS2004フォント|鯺}}'''、吹吐魚)は、[[フグ目]]、特に[[フグ科]]に属する魚の総称。
本項目では主に、フグの文化的側面について解説する。分類学的側面については'''[[フグ科]]'''を参照のこと。フグ科に属さないフグ([[ハコフグ]]、[[ハリセンボン]]など)は各項目を参照。
およそ120種の魚がフグ科に分類される<ref name="jfrca">[http://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/pamphlet/074.pdf わが国の水産業 ふぐ](社団法人日本水産資源保護協会)</ref><ref>上野輝彌・坂本一男著『日本の魚』(中公新書、2004年)p.199ではフグ科について約160種としている</ref>。そのうち食用とする種として、[[トラフグ]]、マフグなどが有名。食用可能な部位はフグの種類や漁獲場所によって異なるため、素人によるフグの取扱いや調理は危険である<ref>[https://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/poison/animal_01.html 自然毒のリスクプロファイル:魚類:フグ毒] 厚生労働省</ref>。実際、日本における[[食中毒]]の原因のほとんどが[[キノコ]]とフグであり<ref>[https://www.nihs.go.jp/kanren/shokuhin/20141031-dcbi.pdf 日本の植物性自然毒による食中毒発生状況について] [[国立医薬品食品衛生研究所]]</ref>、フグによる事故の多くは無免許や素人による調理とされる<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000094363.html 安全なフグを提供しましょう] 厚生労働省</ref>。
== 特徴 ==
=== 体形的特徴 ===
敵を威嚇するために体を膨らませる姿がよく知られる<ref name="nihonnosakana_p199">上野輝彌・坂本一男著『日本の魚』中公新書 p.199 2004年</ref>。この姿から英語では「ふくらむ魚」という意味を持つ語(puffer fish)で呼ばれる。胃の腹面の膨張嚢に空気や水を吸い込んで体の体積を2倍以上にすることができる<ref name="nihonnosakana_p200">上野輝彌・坂本一男著『日本の魚』中公新書 p.200 2004年</ref>。腹部にとげ状の短い突起がある種もいる。
[[歯]](顎歯)がよく発達しており、これが融合した強靭な4つの歯を持つ。フグ科の学名もこの「4枚の歯」に由来する<ref name="sakanazukan">{{Cite web|和書|url=https://zukan.com/fish/internal5221|title=フグ科|publisher=WEB魚図鑑|accessdate=2018-11-9}}</ref><ref name="setouchi">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/water/heisa/heisa_net/setouchiNet/seto/setonaikai/clm11.html|title=フグ|publisher=せとうちネット|accessdate=2018-11-9}}</ref><ref name="sanchoku">{{Cite web|和書|url=https://tuuhan.co.jp/%E3%81%B5%E3%81%90%E9%80%9A%E8%B2%A9/%E3%81%B5%E3%81%90/|title=知っておくと面白い「ふぐ」という魚の生態や特徴|publisher=ふるさと産直村|accessdate=2018-11-9}}</ref>。噛む力は細い針金程度なら容易に切断できるほど強いため注意が必要<ref name="sanchoku"/>。養殖のものでは、フグ同士がストレスにより喧嘩で噛みつき合って怪我をし、品質が落ちるだけでなく怪我が原因で病気になることもあるため、「歯切り」が行われることもある<ref name="setouchi"/><ref name="sanchoku"/>。主に海水魚だが、汽水や淡水に生息する種もいる。
一般的に硬骨魚は[[まぶた]]を持たないが、フグは油瞼という膜で目を覆っている。といっても瞬間的に開閉するものではなく、十数秒かけてゆっくりと閉じたり開いたりする。
{{See|テトロドトキシン}}
多くの種において、内臓や皮膚、血液、筋肉の全部または一部に[[毒]]性のある[[テトロドトキシン]]を持つ<ref name="nihonnosakana_p200"/>。クサフグなどのフグ毒の成分は主に[[テトロドトキシン]]であるが、微量の[[サキシトキシン]]も含まれる。また、ハコフグはテトロドトキシンを蓄積せず、[[パフトキシン]]を蓄積する。
フグの毒化の原因については、フグ自身がフグ毒を産生しているとみる内因説と、餌など外部から取り込まれるとみる外因説があるが<ref name="jfrca"/>、フグ毒は海洋細菌によって産生され、[[食物連鎖]]によってフグの体内に蓄積されるとみる外因説が有力となっている<ref name="nihonnosakana_p200"/><ref name="jfrca"/>。もともと[[有毒渦鞭毛藻]]などの有毒プランクトンや、[[ビブリオ属]]や[[シュードモナス属]]などの一部の[[真正細菌]]が生産したものが、餌となる貝類や[[ヒトデ]]などの底性生物を通して[[生物濃縮]]され、体内に蓄積されたものと考えられている<ref>[https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000272_all.html 縄文時代、フグは無毒だった!?]</ref>。
天然のフグの場合、種によって毒化する部位が異なり、同じ種でも季節により毒の量が変わる。養殖のフグにおいてもその養殖方法によっては毒性を持つことがある<ref name="nihonnosakana_p201">上野輝彌・坂本一男著『日本の魚』中公新書 p.201 2004年</ref>。湾を仕切っての養殖法において有毒のフグが出現した報告例がある<ref>高谷智裕、荒川修、鈴木重則 ほか、[https://doi.org/10.2331/suisan.WA2232-3 交雑フグの毒性] 日本水産学会誌 2016年 82巻 2号 p.167, {{doi|10.2331/suisan.WA2232-3}}</ref><ref name="nihonnosakana_p201"/>。近年、東北地方や[[茨城県]]の[[太平洋]]側では元からいる[[ショウサイフグ]]と、[[日本海]]から流入したとみられる[[トラフグ属|ゴマフグ]]の交雑種が増えている。こうした雑種は有毒部位についての経験則が通用しない可能性があるとして、調査した[[水産大学校]]が注意を呼び掛けている<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170526/k00/00e/040/239000c|title=フグ 注意!雑種増加中 毒の部位不明、外見の判別難しく|work=|publisher=[[毎日新聞]]朝刊|date=2017年5月26日}}</ref>。
フグはテトロドトキシンに対し高い[[耐性]]を持っているため、フグ自体が[[中毒]]することはない。ただし自然に蓄積する濃度のテトロドトキシンに耐えられるという意味であって、人為的に高濃度のテトロドトキシンを与えたならばフグも中毒をおこす。
{{いつ範囲|近年|date=2016年11月}}、フグは分泌するテトロドトキシンを能動的にコントロールしていることが明らかになっている<ref name="nihonnosakana_p200"/>。
養殖時にテトロドトキシンの含有がない餌を与えると、咬み合いなど異常行動を引き起こすことが明らかになっている。
また異常行動時にテトロドトキシンを含有する餌を与えると収束することから、正常な活動のためには一定のテトロドトキシンが必要であるという見方もある<ref>荒川修、[https://doi.org/10.2331/suisan.79.311 フグ類が保有する毒の分布,蓄積機構,および生理機能] 日本水産学会誌 2013年 79巻 3号 p.311-314, {{doi|10.2331/suisan.79.311}}</ref>。フグ毒については解明されていない部分が多いのが実情である。
* 1887年、[[高橋順太郎]]教授(東京帝国大学医学大学薬理学)と助教授の[[猪子吉人]]と共にフグ毒の研究を始め、1889年にフグ毒が生魚の体内にあること、水に溶けやすいことなどから、それが[[タンパク質]]([[酵素]])様のものでないことを証明し、毒力表を作成した<ref>高橋順太郎・猪子吉人「河豚之毒」明治22年(1889年)『帝国大学紀要医科』第1冊第5号</ref>。
* [[1907年]] [[田原良純]]が分離に成功したフグ毒をテトロドトキシンと命名。鎮痛作用があることを発見した。
* [[1950年]] テトロドトキシンの単離結晶化に成功。
* [[1964年]] テトロドトキシンの化学構造が発表される。
== 名称 ==
[[画像:Hiroshige A Shoal of Fishes Fugu Yellowtail.jpg|サムネイル|フグと[[ブリ]]を描いた[[歌川広重]]の[[浮世絵]]]]
=== 河豚 ===
漢字で「河豚」と表記するが、「河」と書くのは中国で食用とされるメフグが河川など淡水域に生息する種であるためで<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p56">おさかな雑学研究会『頭がよくなる おさかな雑学大事典』p.56 幻冬舎文庫 2002年</ref>、また、このメフグが豚のような鳴き声を発することから「豚」の文字があてられているとされる<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p56"/>。
[[中国語]]では「河豚」「河豚魚」「河魨」という表記を使っている。『[[山海経]]』などの古典では「鮭」の字を当てている場合がある<ref>石毛直道『食文化 新鮮市場』毎日新聞社、1992年、p.30</ref>。
<!-- 日本語で「河豚」はフグを意味しますが、中国語で「河豚」は[[カワイルカ]]を意味します。中国語でフグは、「魨」と書かれる。←淡水豚(カワイルカ)では?-->
=== 呼称 ===
以下のような別称・[[地方名]]がある。
; ふく
: [[下関市|下関]]や北九州などでは「'''ふく'''」と呼ばれる<ref name="nihonnosakana_p199"/><ref name="jfrca"/>。「不遇」あるいは「不具」につながる「ふぐ」ではなく、'''[[縁起]]をかついで「福」につながる'''「ふく」と呼ぶ。
; てっぽう<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p55">おさかな雑学研究会『頭がよくなる おさかな雑学大事典』p.55 幻冬舎文庫 2002年</ref>
: [[大阪市|大阪]]では「たまに(偶に)当たる」を「弾に当たる」「当たると死ぬ」に掛けた[[洒落]]から「てっぽう([[鉄砲]])」と呼ぶ<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p55"/>。「てっさ('''てっ'''ぽうの'''さ'''しみ)」「てっちり('''てっ'''ぽうの'''ちり'''鍋)」という料理名はここから来ている<ref name="atamagayokunaruosakanazatsugakudaijiten_p56"/><ref name="jfrca"/>。フグ食禁止令のために「テツ」の暗号が用いられたともいわれる<ref name="jfrca"/>。
; がんば
: 長崎県島原地方でフグを指す[[方言]]「がんば」は、「がんば置いてでん食わんば([[棺桶]]を置いてでも食わねば)」の略といわれている。
; ナゴヤフグ(名古屋フグ)
: 瀬戸内海地方における[[ナシフグ]]、[[コモンフグ]]、[[ヒガンフグ]]等の別称。「当たれば身の終わり([[美濃国|美濃]]・[[尾張国|尾張]])になる」→「尾張といえば[[名古屋市|名古屋]]」の連想から「ナゴヤフグ」となったとされる<ref>[http://www.pref.kagawa.jp/kocho/sanukino/2004/autumn/17_18.htm かがわ県産品紹介【さぬき風】] - かがわさぬき野Web版・2004年秋</ref>。
天然のフグを漁獲する方法は定置網、はえ縄、一本釣りなど多種多様である<ref name="jfrca"/>。天然物のトラフグは尻鰭が白く<ref name="sakananomekiki_p172">講談社編『魚の目利き食通事典』講談社プラスアルファ文庫 p.172 2002年</ref>、しっかりとした尾鰭を持っている<ref name="sakananomekiki_p173">講談社編『魚の目利き食通事典』講談社プラスアルファ文庫 p.173 2002年</ref>(尾鰭は黒色)。トラフグの代用食材となるカラスフグの場合には尻鰭も黒いため区別できる<ref name="sakananomekiki_p172"/>。
日本における食用フグの産地としては[[山口県]][[下関市]]が有名であるが、下関はフグの産地というよりは集積地である。下関近海でもフグは獲れるが、それ以上の数のフグが天然物も養殖物も、日本全国や中国や韓国などの海外からも下関に集められる。下関がフグの本場と言われる理由として、明治期に全国で最初にフグ食が解禁になった地が下関であり(ふぐ料理公許第1号店は下関市の'''[[春帆楼]]'''。その後、山口県のみフグ食解禁の時期がしばらく続いた。)、それ以降の下関には多くのフグ料理店ができ、現在のフグ料理の多くが下関で考え出されたことなどが背景にある。これらに加え、フグは猛毒を蓄えているため、水揚げ後の加工が重要であるが、この加工業者や加工場が前述の歴史的背景などから下関に集積している点が大きい。
最近では水揚げ漁港の側で加工場などの整備を行い、地場の名産品とすべく独自ブランドを立ち上げるなどの努力も行われている。[[大阪府]][[大阪市]]は消費で有名であり、[[愛知県]]日間賀島などもフグを観光として取り上げている。しかし、加工業者や加工場の質、数の問題もあり、漁獲されたフグの多くが下関に集中するという傾向にある。
; 輪島フグ
: フグを食べる文化があまりなかった[[石川県]][[輪島市]]が、ブランド化を図り始めたフグ。市内の料理店で3240円の統一料金でフグ料理を含むメニューを味わえるほか、[[輪島朝市]]では唐揚げを挟んだ「フグバーガー」が販売されている。輪島でのフグの地方名は「デブク」である<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23440300U7A111C1NZ1P00/ 【食ナビ】フグ漁獲量、実は輪島市が日本一/白子・すし…食べ尽くす『日本経済新聞』夕刊2017年11月14日]</ref>。
; 讃岐でんぶく
: [[香川県]]で水揚げされる[[ナシフグ]]に対し、香川県漁連が認定しているブランド。[[2010年]]3月に商標登録が認められた<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/economy/article.aspx?id=20100331000139 「讃岐でんぶく」商標登録を認可/県産ナシフグ] - 四国新聞・2010年3月31日</ref>。
; 玄海とらふぐ
: [[福岡県]][[宗像市]]の漁港で、従来は[[下関漁港]]に水揚げしていたフグの一部をブランド化を目指して売り出したもの。
高級魚であるため[[養殖]]が行われている。養殖物のトラフグは天然物に比べて尾鰭が短く、全体的に黄色を帯びた色である<ref name="sakananomekiki_p173"/>。
[[愛媛県]][[愛南町]]では[[陸上養殖]]が行われている。だが養殖の生産量が急増したのは、当時の[[水産庁]]によるトラフグ養殖推進の方針や、熊本県などのように養殖フグ生産地の各自治体による養殖マニュアルが作成された1991年以降である。当時[[ハマチ]]・[[鯛]]等を養殖していた業者がトラフグ養殖に転換し、生産量が増加した。平成後期になると無毒のフグを養殖できるようになった<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/society/411617 冬の味覚「フグ」を“無毒”で養殖|日テレNEWS24]</ref>
2005年には[[佐賀県]]と[[嬉野町 (佐賀県)|嬉野町]](現[[嬉野市]])が[[厚生労働省]]に、フグ肝を食用として提供出来るよう[[特区]]を提案したが、現時点では100%の安全性が保証ができないと判断され却下されている。
== 流通 ==
=== 都道府県別 ===
日本での県別漁獲量(2008年)<ref>[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?lid=000001069810&layout=datalist 農林水産省大臣官房統計情報部 『平成20年 漁業・養殖業生産統計年報』 財団法人 農林統計協会、2010年]</ref>は以下の通り。なお、全国の水揚げの約6割が大阪で消費されている。
{| class="wikitable" style="float: left; margin: 0 0 0.5em 0"
|+ 天然
|-
! 順位 || 都道府県 || 漁獲量 (t) || 構成比
|-
| 1 || 福岡 || 545 || 11%
|-
| 2 || 山口 || 498 || 10%
|-
| 3 || 島根 || 481 || 9%
|-
| 4 || 長崎 || 366 || 7%
|-
| 5 || 愛媛 || 341 || 7%
|-
| 6 || 石川 || 339 || 7%
|-
| 7 || 香川 || 274 || 5%
|-
| 8 || 愛知 || 259 || 5%
|-
| 9 || 富山 || 211 || 4%
|-
| 10 || 三重 || 199 || 4%
|-
|(計)|| 全国計 || 5,207 ||
|}
{| class="wikitable" style="float: left; margin: 0 0 0 0.5em"
|+ 養殖
|-
! 順位 || 都道府県 || 漁獲量 (t) || 構成比
|-
| 1 || 長崎 || 2,496 || 60%
|-
| 2 || 熊本 || 554 || 13%
|-
| 3 || 香川 || 183 || 4%
|-
| 4 || 兵庫 || 152 || 4%
|-
| 5 || 福井 || 120 || 3%
|-
| 6 || 佐賀 || 114 || 3%
|-
| 7 || 山口 || 83 || 2%
|-
| 8 || 鹿児島 || 15 || 0.4%
|-
| 9 || 三重 || 1 || 0.02%
|-
|(計)|| 全国計 || 4,138 ||
|}
{{clear}}
=== 輸入 ===
[[2002年]]、初めてフグの輸入量が国内生産量を上回った<ref>[http://www.asahi.com/03-04/news/OSK200312110042.html ASAHI.com 輸入フグふくらんだ 門司税関調べ、初めて国内産上回る]</ref>。2002年の輸入先の99%は[[中華人民共和国|中国]]であり、残り1%は[[大韓民国|韓国]]である。近年は養殖技術の向上により、これらの国の養殖フグも大量に輸入されている。
なお、[[中国産食品の安全性]]問題はフグ関連でも発生している。アメリカにおける、中国産の[[アンコウ]]の切り身でのフグ・フグ毒の混入、及び日本と[[アメリカ合衆国|米国]][[ハワイ州]]における中国産[[カワハギ]]の切り身でのフグ・フグ毒の混入が代表例として挙げられる。
=== 流通に関わる関連法規 ===
==== 日本 ====
===== 食用フグの種類と部位 =====
日本近海においてもフグは数百種類生息しているが、種類によって毒を保有している部位が異なり、食用になる部位が全く無いものもいる。厚生省(現・厚生労働省)の「処理等により人の健康を損なうおそれがないと認められるフグの種類及び部位」によって食用可能なフグとされているのは21種で<ref name="jfrca"/>、可食部位も筋肉、皮、精巣のいずれかである<ref name="jfrca"/><ref>「[http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/kanshi/s58_1202-2.html フグの衛生確保について(厚生省環境衛生局長通知)]」</ref>。食用可能な種類と有毒種で見た目が似ているものがあり、[[キノコ]]類と同様、素人目には判断できない場合が多い<ref>「[http://www.kahaku.go.jp/userguide/hotnews/theme.php?id=0001222495438068&p=2 マリントキシン-毒を持つ魚介類に注意!- 自己判断は禁物、フグの毒]」 [[国立科学博物館]]ホットニュース、2008年9月25日。</ref>。さらに同じ種類の場合にも毒性に個体差があるほか<ref name="jfrca"/>、生息海域や季節によって毒性に違いがみられる場合がある<ref name="jfrca"/>(日本近海産のクロサバフグは無毒であるが<ref name="nihonnosakana_p201"/>、南シナ海産のクロサバフグは皮膚が弱毒で卵巣と肝臓が猛毒であることが判明している<ref name="nihonnosakana_p202"/>)。
一般消費者に対する未処理フグの販売は禁止されている<ref name="jfrca"/>([[食品衛生法]]第6条第2号参照)。
===== フグの取扱い =====
フグ取扱資格は、国内統一資格ではなく都道府県ごとに定められていて、資格名称や資格取得方法に違いがあり、届け出後講習会を受講するだけで資格が与えられる地域もあれば、試験により資格を取得する地域もある。東京都などは、[[ふぐ調理師]]試験の受験資格に一般の[[調理師]]免許を取得していることが条件の1つとなっている。<!--一般調理師資格が無くてもフグ取扱資格を取得できる自治体があるので修正。-->更に、身欠きフグのみ取扱う場合でも、フグ取扱施設許可等を必要としたり、フグ加工品の販売を行う場合に届出を必要とする地域がある<ref>[http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/itiba/suisan/fugu/fugutor.html 東京都市場衛生検査所 ふぐの衛生的な取扱い]</ref>。
東京都を始めとする規制の厳しい自治体では、飲食店などでフグを料理用にさばくためには、フグの有毒部分の除去処理を行うことのできるフグ取扱施設の許可(届出の場合もある)とフグ取扱資格者がいる(無資格者がフグをさばくことは認められていない)ことが必要である<ref>[http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/kanshi/s58_1202-2.html フグの衛生確保について(厚生省環境衛生局長通知)]</ref><ref>[https://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/kanshi/s58_1202-1.html フグの衛生確保について(厚生省環境衛生局乳肉衛生課長通知)]</ref>。<!--取扱資格が必要なのは、営業行為においてなので補足。施設規定について追加。-->
===== 有毒部位の管理 =====
盗難による悪用防止のため、施錠できる容器に保管して適切に廃棄しなければならない。東京都の条例では、除去したフグの内臓をまず (1) ステンレス製の鍵付き容器に保管し、(2) それを築地の除毒場で焼却し、(3) それを[[苛性ソーダ]]で中和し、(4) それを地下に埋めることが義務づけられている<ref>[http://www.to-con.com/FRaU/012/index.php 東京コンシェルジュ #12](2012年6月3日閲覧)</ref>。
==== エジプト ====
エジプトでもフグは免許を有する者によって調理される<ref>[http://www.kirin.co.jp/entertainment/daigaku/brk/no56/ No.56 古代エジプトでは肉よりも魚、フグまで食べていたビールのルーツ研究所キリンビール大学キリン] あと、フグも、古代エジプトの時代から食べていました。ご存じのように、フグは毒をもっています。だから今のエジプトでも、フグは免許を持った人しか売ることができません。ただ、その免許をどうやって取得したかたずねると、「親戚からもらった」とかいう場合がありますけれどね。</ref>。フグを象った[[ヒエログリフ]]は「不満」を意味する<ref>[http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/2979/shiritori/siritori_hu.html エジプトしりとり「ふ」]</ref>。
== 利用 ==
[[File:Fugu sashimi.jpg|thumb|ふぐ刺し(薄造り)]]
[[File:Fugu-no-Shirako.JPG|thumb|ふぐの白子焼き]]
{{Main|1=ふぐ料理|2=ふぐ条例|3=ふぐ調理師}}
* ふぐ刺し(てっさ)
* ふぐの[[白子 (精巣)|白子]]
* から揚げ
* ふぐ[[ちり鍋|ちり]](ふぐ鍋・てっちり)
* [[河豚の卵巣の糠漬け|卵巣の糠漬け]]([[石川県]])
* [[ふぐざく]]
=== 食材 ===
食用にする種として[[トラフグ]]、マフグなどが有名。特にトラフグが高級魚として知られる。フグ料理は、一般的に[[高級食材|高級料理]]として旬の冬場に食べられ、食用フグの7割が[[京阪神|京阪神地域]]で消費されており、特に大阪での消費量は全消費量の6割に達する。もっとも、近年は養殖により季節を問わず食べることが可能である。フグの[[肝臓]](ハラワタ)は多くの食通をうならせる美味であり、日本には「フグは食いたし命は惜しし」という言葉があるように<ref>末廣恭雄『日本の魚』保育社〈カラーブックス〉、1968年、p60</ref>、中毒を覚悟してまで食べようとする者もいる。しかし、フグについての素人判断・素人料理は危険である<ref name="nihonnosakana_p202">上野輝彌・坂本一男著『日本の魚』中公新書 p.202 2004年</ref>。
フグ毒は通常の調理による加熱では分解できない<ref name="jfrca"/>。肉だけならどのフグも毒がないと思われがちだが、[[ドクサバフグ]]など一部肉にも毒がある種や、[[マフグ]]や[[トラフグ]]であってもドクサバフグなどと交配して筋肉に毒をもついわゆる雑種フグの存在が確認されているため免許を持たない者が自ら調理して食べることは危険である。
日本の[[河豚の卵巣の糠漬け]]のように特殊な加工法を用いることによって除毒した塩蔵品もある<ref name="jfrca"/>。しかし、どのような仕組みで分解されるのかは分かっていない<ref>[https://doi.org/10.2331/suisan.69.782 フグ卵巣ぬか漬けの微生物によるフグ毒分解の検討] 日本水産学会誌 2003年 69巻 5号 p.782-786,853, {{naid|110003145589}}, {{doi|10.2331/suisan.69.782}}</ref>。フグ卵巣糠漬では、食用可能な状態にまで減毒している理由として、古くから塩漬・糠漬中に卵巣から毒が桶に拡散するためと説明されている。実際、[[微生物]]によるフグ毒の毒力減少が認められていない<ref>藤井建夫、[https://doi.org/10.5803/jsfm.30.186 腐敗と発酵のはざまの研究生活で垣間見たもの] 日本食品微生物学会雑誌 2013年 30巻 4号 p.186-192, {{doi|10.5803/jsfm.30.186}}</ref>。またテトロドトキシンは300℃以上に加熱しても分解されないので、限られた地域の許可を受けた業者のみが加工できる。この関係で、日本では[[食品衛生法]]でフグの[[卵巣]]など毒を持っている部位は個別の毒性検査によりその毒力がおおむね10MU/g以下であることを確認したもの以外は販売・調理・食用が禁じられている。<!--原則を詳述-->
他、フグの肝臓を客に提供していた会員制フグ料理店『[[大阪とらふぐの会]]』が、[[大阪府警察]]から[[食品衛生法]]違反容疑で摘発された上<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20160331-OYT1T50002.html 「秘密の隠れ家」人気店、フグの肝提供で捜索] 読売新聞 2016年3月31日</ref>、地元自治体から営業禁止の[[行政行為|行政処分]]を受けた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20160401-OYT1T50135.html 「とらふぐの会」系4店処分…「違法性は認識」] 読売新聞 2016年4月1日</ref>。その後、同店の経営者は同容疑で同府警に逮捕された<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160525/k00/00m/040/127000c フグの肝 提供疑い、料理店経営者ら逮捕…大阪府警] 毎日新聞 2016年5月24日</ref>。
==== 食用に関する日本の歴史 ====
2300年前に記された『[[山海経]]』には、「フグを食べると死ぬ」との記載がある<ref name="tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p51">落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.51 梧桐書院 1991年</ref>。一方、[[縄文時代]]の日本の[[里浜貝塚]]からはフグの骨が発見されており、少なくとも[[縄文時代]]からフグが食用にされていたと考えられている<ref name="tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p51"/><ref name="jfrca"/><ref>[http://www.satohama-jomon.jp/satohama/satohama-booklet.pdf 里浜人の暮らし]</ref>。実際にも同じく縄文時代の[[姥山貝塚]]の住居跡からは、5人の住人全員が何らかの急病で同時に死んだような状態の遺骨が発見されており、この住居跡からはフグの骨も発見されたことから、ここの住人たちはフグを食べて中毒死したのではないかとする説もある。
[[豊臣政権]]下の時代に行われた[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際、兵士にフグによる中毒が続出したため、[[豊臣秀吉]]はフグ食禁止令を命じた<ref name="jfrca"/>。[[徳川氏]]に政権が変わってからも、武家では「主家に捧げなければならない命を、己の食い意地で落とした輩」として、当主がフグ毒で死んだ場合には[[家名断絶]]等の厳しい対応がなされたという。ただし、この罰則はあくまでも武家に対して課せられたものであり、武家以外の庶民たちは中毒の危険を覚悟の上でフグの味を楽しんでいた。
[[明治政府]]も1882年(明治15年)に河豚を食べた者を拘置・科料に処する法令を出した<ref name="jfrca"/>。しかし、その後、[[下関市|下関]]でフグを食した[[伊藤博文]]がそのうまさに感心し(諸説あり)、当時の山口県県令(知事)原保太郎に命じて、1898年(明治21年)、山口県に限り河豚食を解禁させる。さらに兵庫県が1918年(大正7年)、大阪府が1941年(昭和16年)に河豚禁令を解いている。<ref>北濱喜一著『ふぐ博物誌』p.29 東京書房社 1975年</ref>その後フグ食の文化は山口県を中心に全国でも復活し、今日に至っている<ref>2008年3月27日放送の[[朝日放送テレビ]]「[[ビーバップ!ハイヒール]]」より</ref>。フグの食用・調理にあたっての条例は1948年(昭和23年)に、[[大阪府]]が制定した『ふぐ販売営業取締条例』(昭和二十三年大阪府条例第五十五号)が最初である。
{{独自研究範囲|かつてはフグ毒に当たると頭だけ出して地面に埋めれば治るなどの俗信があったが、完全な迷信であり、全く効果はない|date=2020年4月}}。[[かまど]]で煮炊きをしていた時代では、[[すす|煤]]が鍋に落ちると当たるとも言われていた<ref>『[[大草家料理書]]』、『[[本朝食鑑]]』。<!-- 「すすはきに河豚を食う」([http://dic.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%81%99%E3%81%99%E3%81%AF%E3%81%8D%E3%81%AB%E6%B2%B3%E8%B1%9A 日本国語大辞典])リンク切れ --></ref>。人間以外では[[ネコ]]はフグを食べても中毒しないとも言われるが、これはただの俗信に過ぎず、実際にはネコの中毒死も多い<ref>[http://www.nyan-wan.jp/health/inedible/cat2.html ペットにあげてはいけない食べ物] ニャンバーワン</ref>。
==== フグによる食中毒 ====
フグ毒の毒量は「[[マウスユニット]] (MU)」(20グラムの[[ネズミ]]を30分で死亡させる量が1マウスユニット)で表される。人間の場合5,000-10,000マウスユニットで[[致死量]]に至るが、フグ毒による事故では致死率が5.7%<ref>[http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kenkou/anzen/anzen_info/shizendoku/hugu/index.html 危険がいっぱい ふぐの素人料理] 東京都福祉保健局</ref>と言われており、他の食中毒よりも圧倒的に致死率が高い。
フグの毒に対しては、特異療法([[解毒剤]]や[[血清]])が未だに開発されておらず、[[神経毒]]であるテトロドトキシンが尿とともに排出しきって[[呼吸困難]]が収まるまで[[人工呼吸器]]を繋げることが唯一の治療法となる。強心剤、利尿剤の投与が主な対症療法。なお、[[トリカブト保険金殺人事件]]では、機序がテトロドトキシンと拮抗する[[アコニチン]]([[トリカブト]]毒)の効果を遅らせるためにフグ毒を使用している。
素人調理による食中毒は後を絶たない<ref name="nihonnosakana_p201"/>。1996年から2005年の10年間に日本各地でフグによる食中毒は315件発生しており、31名が死亡している。その多くが資格を持たない一般人がフグを調理した結果起きている。
===== 2000年以降の日本の主な死亡事故 =====
{|class="wikitable"
|-
!年月||年齢||備考・調理法
|-
|2001年4月||60代<!--男性-->||釣ったフグを自分で刺身に
|-
|2002年5月||50代<!--男性-->2名||ふたりで釣ったフグを煮付けに
|-
|2002年11月||60代<!--男性-->||肝(有毒)
|-
|2003年11月||70代<!--女性-->||友人からもらったフグの干物
|-
|2005年5月||70代<!--男性-->||自分でフグの味噌汁を作った
|-
|2005年9月||50代<!--男性-->||肝(有毒)
|-
|2006年3月||60代<!--男性-->||自分でフグを調理
|-
|2007年1月||60代<!--男性-->||自分でフグを刺身に
|-
|2007年8月||40代<!--男性-->||肝臓(有毒)の味噌焼き
|-
|2007年12月||60代<!--男性-->||内臓(有毒)の煮付け
|-
|2007年12月||40代<!--女性--> ||自分でフグを調理
|-
|2008年5月||50代<!--男性-->||釣ったフグを調理<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000090748.html 釣りをされる皆様へ|厚生労働省]</ref>
|-
|2011年1月||60代<!--男性-->||自身が経営する寿司店で客と共に内臓を食べ死亡。ふぐ調理の免許なし。他1人も入院。
|-
|2014年10月||50代<!--男性-->||同僚の調理練習の残りを自宅へ持ち帰り肝臓を食べて死亡。<ref>柴崎達矢[https://web.archive.org/web/20141010092150/http://mainichi.jp/select/news/20141010k0000m040066000c.html 食中毒:フグ肝臓食べた男性死亡 調理練習の残り持ち帰る] 毎日新聞、2014年10月9日(2014年10月9日閲覧)</ref>
|-
|2020年11月||80代<!--男性-->||自分でフグを調理<ref> [https://www.topics.or.jp/articles/-/442609 フグ食べ男性死亡 自宅で調理、体内から猛毒] 徳島新聞、2020年11月3日(2020年11月3日閲覧)</ref>
|}
===== 症状 =====
摂食直後から2時間程度で症状が現れる。麻痺は6時間ほどかけて悪化する<ref name="hiroshima543"/>。毒の排出は約8時間で終わるが<ref name="JPS120">松居隆、大塚幸、酒井浄、[https://doi.org/10.1248/yakushi1947.120.10_825 フグ毒研究の最近の進歩] 藥學雜誌 2000年 120巻 10号 p.825-837, {{doi|10.1248/yakushi1947.120.10_825}}</ref>、症状が回復に転じるのは、12時間以降である<ref name="hiroshima543"/>。症状としては口や唇にしびれが生じ、それが周りへ広がる。その後に進行性の運動麻痺、[[知覚異常]]、[[自律神経]]障害などが発生し<ref name=":0">{{Cite journal|author=森本文雄, 嶋津岳士, 岩井敦志, 平出敦, 吉岡敏治, 杉本侃|year=1996|title=症例報告 - 遷延性運動失調を来した純粋なフグ中毒の1例|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjaam1990/7/2/7_2_87/_pdf|journal=日救急医会誌|issue=7|pages=87-90}}</ref>、最終的には[[呼吸筋]]が[[麻痺]]し、呼吸困難から呼吸麻痺が起こり死に至る。毒を含んだフグを食べてから症状が出るまでの時間は早ければ数分で、麻痺は急速に進行する。ただし、テトロドトキシンは[[血液脳関門]]を通過しにくい物質であるため、麻痺は[[中枢神経系]]への直接作用ではなく、[[末梢神経]]での伝導抑制により外的刺激に対して反応することができない状態であると考えるため、患者は外見上が昏睡状態になっても、[[脳波]]や[[聴性脳幹反応]]は正常であり、意識を失っていないと見られる<ref name=":0" />。吸収が早いために、症状が出現した時点では胃洗浄は効果がないとされる<ref name="hiroshima543"/>。また腎からの排泄も早いために強制利尿や血液浄化(透析)の必要性もない<ref name="hiroshima543"/>。重要なことは、呼吸麻痺に陥った場合に[[人工呼吸器]]管理を行うことである<ref name=":0" />。[[時代劇]]における[[暗殺]]描写で、食べた者が[[吐血]]するシーンがあるが、これはよりおどろおどろしく見せるための演出であり、そのような症例はない。
'''福田の分類'''<ref name="hiroshima543">出雲大幹「フグ中毒の小児例」広島医学71巻7号 p543 2018年7月</ref>
* {{math|I}}度 - 指先や口唇部および舌などの知覚障害
* {{math|II}}度 - 四肢の知覚障害、軽度の運動麻痺
* {{math|III}}度 - 全身の運動障害、反射の消失、発声不能、呼吸困難、血圧低下、胸内苦悶
* {{math|IV}}度 - 呼吸意識障害。
===== フグで中毒死した日本の著名人 =====
* [[福柳伊三郎|福{{JIS2004フォント|栁}}伊三郎]]
** [[大相撲]]力士、大正15年(1926年)2月11日
** [[福岡県]][[戸畑市]](現・北九州市[[戸畑区]])の巡業先で、知人が差し入れたフグを食べる。帰路の船内で「どうもへんだ、やられたかな」と言い残して昏睡状態に陥り、いったんは回復したかに見えたが間もなく死亡。元[[関脇]]の人気力士の突然の死は[[角界]]に衝撃を与えた。同席してやはり中毒症状を発した[[行司]]の[[木村庄之助 (24代)|式守義松(後の廿四代目木村庄之助)]]は一命を取り留めている。
* [[沖ツ海福雄]]
** 大相撲力士、昭和8年(1933年)9月30日
** 山口県[[萩市]]の巡業先で、部屋の若い力士が調理したちゃんこを食べて中毒死。現役の[[関脇]]で、[[大関]]取りを目前にしての死だった。<!--
* [[龍王山光]]
** 元大相撲力士、昭和23年(1948年)2月18日
** 廃業後しばらくして、自宅で自ら料理したフグを食べて夫婦共々中毒死。--><!--最高位前頭二枚目、引退ではなく廃業、しかもその後数年経ってから、ということで-->
* [[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]
** [[歌舞伎]]役者・人間国宝、昭和50年(1975年)1月16日
** [[京都市|京都]]で公演中に[[料亭]]で肝を四人前食べて中毒死。食通として知られた三津五郎が、渋る板前に「もう一皿、もう一皿」とねだったことが問題になり、危険を承知の上で毒性の高い肝を四人前も食らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っている板前の包丁さばきがいけなかったのかで、かつてなかった大論争を引き起こした。公判では板前の[[量刑|情状を酌量]]しつつもその「中毒死の予見可能性」における過失は覆いがたいとして、[[業務上過失致死罪]]及び京都府条例違反で[[執行猶予]]付きの[[禁固刑]]という有罪判決。それまではフグ中毒事件を起こした調理師に[[刑事裁判]]で有罪判決が下ることは稀だったことから、この判決は世間を驚かせ、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず引き合いに出されるほどになった。
====無毒フグ====
フグのテトロドトキシンはフグが自ら作り出すものではなく、海中のエサとなる生物の食物連鎖によるものである。そのため人為的に無毒フグを生産することは可能である。
現代では[[養殖業|養殖]]方法の進歩により、温泉水を利用して毒を持たないフグを育てることが可能になっている。[[長崎大学]]と小川水産は、共同研究により無毒のフグを育てる養殖方法を確立し、2004年に[[特許]]を取得し、それを販売している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fugunoogawa.co.jp/swellfish.html | title=毒を持たない小川のとらふぐ |publisher=ふぐ乃小川 | accessdate=2014-10-05 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.miyagi.kopas.co.jp/JSFS/JSFS-kids/daigaku6.html | title=毒のないフグをつくる フグ毒の謎に挑戦! |publisher=日本水産学会| accessdate=2014-10-05 }}</ref><ref>{{cite news |title=高級食材「フグ」の本場、下関 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2014-09-27 |url=http://www.cnn.co.jp/special/cnnasia/35048142.html|accessdate=2014-10-05 }}</ref>。
しかし、テトロドトキシンはフグの精神安定剤の役割を果たしていることが明らかになっており、毒を持たないフグはストレスで他の個体を傷つけるなど凶暴化してしまうこと、抵抗力が落ちて皮膚の病気にかかりやすくなるなど、本格的な産業養殖には様々な課題がある。
なお、無毒フグの肝が食用に許可されているのは[[大分県]]のみであり、それ以外の地域で食用にした場合、[[食品衛生法]]違反となる。フグ肝の食用が広まってしまうと、普通のフグ肝も食べても安全だという誤った認識が広まり、中毒者が増える恐れがあるためと考えられている<ref>[https://michinaka.jp/blog/1223 どうして許可されない養殖ふぐの肝 | ふぐの通販|下関|道中公式ブログ]</ref>。
<!--一部地域で商品化に向けた取り組みが行われている。しかし、様々な課題があり容易ではないという。フグの生息海域の温度と同じに保つための設備投資費用、フグはデリケートなためテトロドトキシンがなくなるとストレスがたまって凶暴になり他のフグを傷つけてしまうため、他の個体との混泳には向かないこと、テトロドトキシンが寄生虫から身を守る役割を果たしているため生存率が低くなってしまう、無毒フグが広まればフグ肝は食べても安全だという誤った認識を持つ者が増えてしまうといったことが挙げられる。-->
==== ホルマリン薬浴問題 ====
魚体に[[寄生虫]](代表的なものとして[[エラムシ]])が付着しやすいため、その対策が養殖業者の課題となっている。[[ホルマリン]]による薬浴が手間のかからない方法であるといわれるが、発ガン物質でもあるホルマリンがフグの身へ残留することや、処理後の廃水を海へ廃棄することによる環境への影響、周辺の魚介類の汚染などが問題視されている。
2002年、[[東京水産大学]]は[[厚生労働省]]に対して、[[愛媛県]]と[[長崎県]]の養殖業者が寄生虫対策としてホルマリンを使用していることを指摘、これを受け両県が調査を実施した結果、2003年になって半数以上の業者が使用していたことが判明した。同問題発覚後に[[熊本県]]等の他の自治体でも調査を実施したところ、ホルマリンを使用している業者が多数見受けられた。この影響で長崎県では、しばらくホルマリンを使っていないフグまで出荷できなくなるなどの影響が出た。
また、ほぼ同時期に発生した真珠貝([[アコヤガイ]])の大量斃死では、アコヤ貝の死骸からホルムアルデヒド(ホルマリン)が検出された。近隣海域でフグ養殖業者以外にホルマリンを使う者が存在しない事から関連性を指摘される。その結果、フグ養殖業者と真珠養殖業者とが反目したほか、消費者団体によりホルマリン残留問題が提起されるなど社会問題にもなった。
その後、水産庁によるホルマリンの使用を禁止する通達が出され、各自治体によるホルマリンを使わない養殖マニュアルが作成され、養殖でのホルマリン使用量は減少したが、依然として一部の業者によるホルマリンの使用は続いており、[[イタチごっこ]]の様相を呈している。
2009年、ほぼ全ての養殖業者でのホルマリン非使用が漁協にて確認されている。
=== 観賞魚 ===
汽水、淡水性のフグの一部の種は、[[熱帯魚|観賞魚]]として人気がある([[淡水フグ]]参照)。
=== 工芸品 ===
分厚く伸縮性に富むフグの皮を利用し'''ふぐ[[提灯]]'''や'''ふぐ笛'''などに加工される<ref name="jfrca"/>。他に台湾の[[ヤミ族]]には籐のフレームにフグの皮を張った甲冑というものが存在していた<ref>来村多加史「兵装の変遷」『戦略戦術兵器事典 1 中国古代編 ([歴史群像]グラフィック戦史シリーズ)』、学習研究社、1994年、雑誌69610-40、P.28・96。</ref>。
=== シンボル・マスコット ===
[[ファイル:Puffyanim.gif|thumb|100px|OpenBSDのマスコット・Puffy]]
* [[OpenBSD]] - [[Unix系]]の[[Berkeley Software Distribution|BSD]][[オペレーティングシステム]]で、マスコットにハリセンボンのようなフグが使われている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tetraodontidae}}
* [[食中毒]]
* [[下関とふく]]
* [[薬理学]]
* [[らくだ (落語)]] - [[古典落語]]の演目。主人公はフグを食べ、その毒にあたって死ぬ(口演の中では既に物故者である)
* [[佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件]]
* [[坂東三津五郎フグ中毒死事件]]
* [[トリカブト保険金殺人事件]] - 犯人である神谷力は、アリバイ作りのために[[トリカブト]]毒と作用の拮抗するフグ毒を合わせて用い、被害者に中毒症状が表れる時間を調節した。
* {{ill2|フグの求愛行動|en|Pufferfish mating ritual}} - 一部のフグは海底に幾何学模様を描く{{ill2|求愛表現|en|Courtship display}}を行い、その図形の中心で繁殖行動を行う。
== 外部リンク ==
* [https://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/shokuhin/hugu/ 危険がいっぱい、ふぐの素人料理]
* {{Wayback|url=http://www2h.biglobe.ne.jp/~kozi/abunai/fugu/fugu.htm |title=ふぐ毒の強さ比較 |date=19990302053545}}
* [http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/dokunuki/ 奇跡の毒抜き 〜ふぐの卵巣の糠漬けに見るいしかわの発酵文化〜] - 石川新情報書府
* 小林武志、塩見一雄、長島裕二、[https://doi.org/10.2331/suisan.58.1365 フグ毒産生細菌の細胞内フグ毒産生に及ぼす培養条件の影響] 日本水産学会誌 1992年 58巻 7号 p.1365-1372, {{doi|10.2331/suisan.58.1365}}
{{食肉}}
{{DEFAULTSORT:ふく}}
[[Category:フグ目]]
[[Category:白身魚]]
[[Category:毒をもつ魚類]]
[[Category:冬の季語]]
|
2003-09-27T21:14:03Z
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2023-12-08T14:35:55Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B0
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18,540 |
国道494号
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国道494号(こくどう494ごう)は、愛媛県松山市から高知県須崎市に至る一般国道である。
愛媛県松山市を起点に、四国山地を横断して黒森峠を越えて、高知県吾川郡仁淀川町、高岡郡佐川町を経て須崎市の国道56号交点に至る延長約115 kmの一般国道である。
四国地方の一般国道で最大番号。
他路線と重複しない実延長区間の多くは山道で、しかも整備があまり進んでいない、いわゆる「酷道」となっている。
一般国道の路線を指定する政令に基づく起終点および経過地は次のとおり
国道11号重複部を含む、愛媛県松山市 - 東温市郊外までは2車線の高規格の道が続く。東温市から久万高原町にかけてある黒森峠周辺は、急勾配・急カーブが連続する狭隘路で、交通量は少なく、道路の左端にサイクリングロード専用の路面標示がある。国道439号交点付近の高知県吾川郡仁淀川町土居の商店街あたりは、1.2車線ほどの隘路である。
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国道494号(こくどう494ごう)は、愛媛県松山市から高知県須崎市に至る一般国道である。
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{{Infobox road
|種別・系統 = [[一般国道]]
|アイコン = {{Ja Route Sign|494|width=100}}
|名前 = 国道494号
|地図画像 =
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}}
|総延長 = 115.1 [[キロメートル|km]]
|実延長 = {{0}}81.4 km
|現道 = {{0}}79.5 km
|制定年 = [[1993年]]([[平成]]5年)
|起点 = [[愛媛県]][[松山市]]<br />市役所前交差点({{Coord|33|50|21.91|N|132|45|52.85|E|region:JP-38|name=市役所前交差点}})
|主な経由都市 = 愛媛県[[東温市]]<br />高知県[[吾川郡]][[仁淀川町]]
|終点 = [[高知県]][[須崎市]]({{Coord|33|25|39.18|N|133|17|47.59|E|region:JP-39}})
|接続する主な道路 = <!-- 国道のみを最大7路線を基準に記述 -->{{Ja Route Sign|11|width=24}} [[国道11号]]<br />{{Ja Route Sign|33|width=24}} [[国道33号]]<br />{{Ja Route Sign|379|width=24}} [[国道379号]]<br />{{Ja Route Sign|440|width=24}} [[国道440号]]<br />{{Ja Route Sign|439|width=24}} [[国道439号]]<br />{{Ja Route Sign|56|width=24}} [[国道56号]]
}}
{{座標一覧}}
[[ファイル:KIMG1186.jpg|サムネイル|高知県吾川郡仁淀川町用居にて、高知から愛媛(松山)方面。]]
'''国道494号'''(こくどう494ごう)は、[[愛媛県]][[松山市]]から[[高知県]][[須崎市]]に至る[[一般国道]]である。
== 概要 ==
[[愛媛県]][[松山市]]を起点に、[[四国山地]]を横断して黒森峠を越えて、[[高知県]][[吾川郡]][[仁淀川町]]、[[高岡郡]][[佐川町]]を経て[[須崎市]]の[[国道56号]]交点に至る延長約115 [[キロメートル|km]]の[[一般国道]]である。
[[四国地方]]の一般国道で最大番号。
他路線と重複しない実延長区間の多くは山道で、しかも整備があまり進んでいない、いわゆる「[[酷道]]」となっている。
=== 路線データ ===
一般国道の路線を指定する政令<ref name=s40>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=340CO0000000058|title=一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号)|accessdate=2012-10-14|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>に基づく起終点および経過地は次のとおり
* 起点:[[松山市]]二番町4丁目7番2<ref name=s33>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=333CO0000000164|title=一般国道の指定区間を指定する政令(昭和33年6月2日政令第164号)|accessdate=2012-10-14|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>(松山市役所前交差点 = [[国道11号]]・[[国道33号]]・[[国道56号]]終点、[[国道317号]]・[[国道379号]]・[[国道440号]]起点)
* 終点:[[須崎市]]([[国道56号]]交点)
* 重要な経過地:[[愛媛県]][[温泉郡]][[川内町 (愛媛県)|川内町]]<ref group="注釈">2004年9月21日から[[東温市]]の一部。</ref>、[[高知県]][[吾川郡]][[池川町]]<ref group="注釈" name="niyodogawa" />、同郡[[吾川村]]<ref group="注釈" name="niyodogawa" />、同県[[高岡郡]][[佐川町]]
* [[延長 (日本の道路)#総延長|総延長]] : 115.1 [[キロメートル|km]]<small>(愛媛県 71.7 km、高知県 43.4 km)重用延長を含む</small><ref name="encho">{{Cite web|和書|format=XLS|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/tokei-nen/2022/xlsx/d_genkyou26.xlsm|title=表26 一般国道の路線別、都道府県別道路現況|work=道路統計年報2022|publisher=[[国土交通省]][[道路局]]|accessdate=2023-07-01}}</ref><ref group="注釈" name="encho">[[2021年]][[3月31日]]現在</ref>
* [[延長 (日本の道路)#重用延長|重用延長]] : 33.7 km<small>(愛媛県 21.5 km、高知県 12.3 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
* [[延長 (日本の道路)#未供用延長|未供用延長]] : なし<ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
* [[延長 (日本の道路)#実延長|実延長]] : 81.4 km<small>(愛媛県 50.2 km、高知県 31.1 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
** 現道 : 79.5 km<small>(愛媛県 49.7 km、高知県 29.8 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
** 旧道 : 1.9 km<small>(愛媛県 0.5 km、高知県 1.3 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
** 新道 : なし<ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" />
* [[指定区間]]:国道11号、国道33号と重複する区間(愛媛県松山市・松山市役所前交差点(起点) - 東温市・東温市則之内交差点、高知県吾川郡仁淀川町・仁淀川町川口交差点 - 高岡郡佐川町甲)<ref name=s33 />
== 歴史 ==
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[4月1日]] - [[一般国道]]494号([[松山市]] - [[須崎市]])として指定。主要県道1号久万池川線の大部分、主要県道20号川内大味川線、主要県道24号須崎佐川線が昇格したものである。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[5月27日]] - 高知県告示第534号により佐川吾桑バイパスの旧道の国道指定が解除され、一部区間は[[高知県道309号吾桑停車場線]]の単独区間となる<ref>{{Cite web|和書|date= 2022-05-27 |url= https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/110201/files/2022042800170/10439.pdf |title= 高知県公報 令和4年5月27日 第10439号 |page= 3 |publisher= 高知県 |accessdate= 2023-02-15 }}</ref>。
== 路線状況 ==
[[国道11号]]重複部を含む、[[愛媛県]][[松山市]] - [[東温市]]郊外までは2車線の高規格の道が続く{{sfn|鹿取茂雄|2018|p=76}}。東温市から[[久万高原町]]にかけてある黒森峠周辺は、急勾配・急カーブが連続する狭隘路で、交通量は少なく、道路の左端にサイクリングロード専用の路面標示がある{{sfn|鹿取茂雄|2018|pp=76–77}}。[[国道439号]]交点付近の[[高知県]][[吾川郡]][[仁淀川町]]土居の商店街あたりは、1.2車線ほどの隘路である{{sfn|鹿取茂雄|2018|p=76}}。
=== バイパス ===
* 佐川吾桑バイパス<ref name="sakawaasou">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/170109/files/2013122600384/file_20216104115059_1.pdf |title=国道494号佐川・吾桑バイパス全体計画概要図 |accessdate=2023-02-05 |format=PDF |publisher=高知県}}</ref>
** [[高知県]][[高岡郡]][[佐川町]]丙川内ケ谷から同県[[須崎市]]吾桑に至る、延長5.93 [[キロメートル|km]]のバイパス。バイパスの現道区間は、第2次緊急輸送道路に指定されているが幅員狭小、線形不良のためその改善を目的としたもの<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/20sai/2_h20_217.pdf |title=再評価結果(平成21年度事業継続箇所)一般国道494号佐川吾桑バイパス |accessdate=2012-10-13 |format=PDF |publisher=国土交通省}}</ref>。
** 規格:第3種第2級
** 幅員:12 [[メートル|m]]
** 設計速度:60 [[キロメートル毎時|km/h]]
** 事業開始年: [[1994年]]([[平成]]6年)
** 開通年
*** [[2007年]](平成19年)[[3月]] - 須崎2工区 1.02 km<ref name="susaki kohku">https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/170109/files/2013122600384/file_20216104115059_1.pdf</ref>
*** [[2011年]](平成23年)[[4月26日]] - 佐川工区 約1.5 km<ref>{{Cite press release |和書 |title=国道494号佐川〜吾桑バイパス(佐川工区)が開通しました |publisher=高知県 |date=2011-05-02 |url=http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/170701/110426r494sakawakoukukaitsuu.html |accessdate=2012-09-30}}</ref>。
*** [[2021年]]([[令和]]3年)[[3月26日]] - 須崎3工区 1.83 km<ref name="susaki kohku"/>
=== 重複区間 ===
<!--分岐が早い順から-->
* [[国道317号]](愛媛県松山市二番町2丁目・松山市役所前交差点(起点) 松山市勝山町1丁目・勝山交差点)
* [[国道33号]]・[[国道379号]]・[[国道440号]](愛媛県松山市二番町2丁目・松山市役所前交差点(起点) - 松山市小坂5丁目・小坂交差点)
* [[国道11号]](愛媛県松山市二番町2丁目・松山市役所前交差点(起点) - 東温市則之内・東温市則之内交差点)
* [[国道439号]](高知県吾川郡仁淀川町土居甲 - 吾川郡仁淀川町川口・仁淀川町川口交差点)
* 国道33号(高知県吾川郡仁淀川町川口・仁淀川町川口交差点 - 高岡郡佐川町甲)
=== 道路施設 ===
==== 橋梁 ====
* 愛媛県
** 永木橋(石手川、松山市)
** 小野川橋(小野川、松山市)
** 内川橋(内川、東温市)
** 新横河原橋(重信川、東温市)
** 新川内橋(表川、東温市)
** 井内川橋(井内川、東温市)
* 高知県
** 釜乃淵橋(土居川、吾川郡仁淀川町)
** 富士見橋(柳瀬川、高岡郡佐川町)
** 三青橋(春日川、高岡郡佐川町)
** 春日橋(春日川、高岡郡佐川町)
** 白倉橋(斗賀野川、高岡郡佐川町)
** 小濱谷橋(全長46 m<ref name="sakawaasou" />、須崎市)
** 鯛の川橋(全長120 m<ref name="sakawaasou" />、須崎市)
==== トンネル ====
* 愛媛県
** 横山トンネル:延長700 [[メートル|m]]、[[2006年]]([[平成]]18年)竣工、上浮穴郡久万高原町
** 境野隧道:延長323 m、[[1964年]]([[昭和]]39年)竣工、上浮穴郡久万高原町 - 高知県吾川郡仁淀川町
* 高知県
** 寺村隧道:延長572 m、[[1966年]](昭和41年)竣工、吾川郡仁淀川町
** 熊秋トンネル:延長861 m、[[1975年]](昭和50年)竣工、高岡郡越知町
** 野老山トンネル:延長 m、年竣工、高岡郡越知町
** 斗賀野トンネル:延長1,067 m、[[1990年]](平成2年)竣工、高岡郡佐川町
** 桃木坂トンネル:延長90 m、[[2004年]](平成16年)竣工、須崎市
** 宮が谷トンネル:延長265 m、2006年(平成18年)竣工、須崎市
** 雪割桜トンネル:延長115 m<ref name="sakawaasou" />、[[2021年]]([[令和]]3年)竣工、須崎市
** 水口トンネル:延長280 m<ref name="sakawaasou" />、2021年(令和3年)竣工、須崎市
** 王子トンネル:延長152 m<ref name="sakawaasou" />、2021年(令和3年)竣工、須崎市
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
* [[愛媛県]]
** [[松山市]] - [[東温市]] - [[上浮穴郡]][[久万高原町]]
* [[高知県]]
** [[吾川郡]][[仁淀川町]] - [[高岡郡]][[越知町]] - 高岡郡[[佐川町]] - [[須崎市]]
=== 交差する道路 ===
* [[国道11号]]、[[国道33号]]、[[国道56号]]、[[国道317号]]、[[国道379号]]、[[国道440号]](松山市二番町2丁目・松山市役所前交差点(起点))
* [[国道317号]](松山市勝山1丁目・勝山交差点)
* 国道33号、国道379号、国道440号(松山市小坂5丁目・小坂交差点)
* {{Ja Exp Route Sign|E11}} [[松山自動車道]] 12 [[川内インターチェンジ|川内IC]](東温市南方)
* 国道11号(東温市則之内、東温市則之内交差点)
* [[国道439号]](仁淀川町土居甲)
* 国道33号、国道439号(吾川郡仁淀川町川口・仁淀川町川口交差点)
* 国道33号(高岡郡佐川町甲)
* 国道56号(須崎市吾井郷乙)
=== 峠 ===
* 愛媛県
** 黒森峠(東温市 - 上浮穴郡久万高原町)
* 高知県
** 猿丸峠(高岡郡佐川町)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈|refs=
<ref group="注釈" name="niyodogawa">2005年8月1日から吾川郡[[仁淀川町]]の一部。</ref>
}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書 |author=[[鹿取茂雄]] |title=国道494号〈黒森峠〉 |date=2018-12-28 |publisher=[[実業之日本社]] |editor=磯部祥行 |journal=酷道大百科 |volume=〈ブルーガイド・グラフィック〉 |pages=76 - 77 |isbn=978-4-408-06392-8 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の一般国道一覧]]
* [[四国地方の道路一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Osmrelation|1597628}}
{{国道56号}}
{{国道494号}}
{{日本の一般国道一覧}}
{{DEFAULTSORT:こくとう494}}
[[category:一般国道|494]]
[[category:愛媛県の道路]]
[[category:高知県の道路]]
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2003-09-27T21:50:14Z
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2023-11-17T02:07:25Z
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18,542 |
JR神戸線
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JR神戸線(ジェイアールこうべせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、大阪府大阪市北区の大阪駅から兵庫県神戸市中央区の神戸駅までの区間、および山陽本線のうち、神戸駅から兵庫県姫路市の姫路駅までの区間に付けられた愛称である。
この愛称は1988年3月13日から使用されている。大阪市 - 神戸市間には阪急電鉄の神戸線や阪神高速道路神戸線もあり、愛称に「JR」と付けてこれらと区別している。この区間は、正式名称を用いて単純に「東海道・山陽(本)線」とも呼ばれている。
JR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の路線の一つであり、大阪・梅田に位置する大阪駅から神戸市最大のターミナル駅である三ノ宮駅を経由して、明石市・加古川市・姫路市などの兵庫県内の瀬戸内海沿い(播磨地域)の各都市とを結ぶ通勤・通学路線である。
1874年(明治7年)に開業した大阪駅 - 神戸駅間の東海道本線区間は、1872年(明治5年)開業の新橋駅 - 横浜駅間に次いで日本の鉄道としては2番目に古い。神戸駅 - 姫路駅の山陽本線区間は1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけて山陽鉄道によって敷設されたもので成り立ちが異なる。こうした歴史的経緯から神戸駅を境に東側が東海道本線、西側が山陽本線と路線名称上は分かれているが、当路線は途切れることなく一体的なダイヤ体系で運行されており、神戸駅は単にJR神戸線の途中駅となっている。大半の列車はJR神戸線内で完結せず大阪駅からJR京都線(新快速を中心に一部はさらに京都駅から琵琶湖線・湖西線)に直通するほか、姫路駅よりさらに西側の山陽本線上郡駅や赤穂線播州赤穂駅まで直通する列車もある。尼崎駅からJR東西線・学研都市線にも直通する列車も設定されている。
JR西日本の看板列車である新快速が高速・高頻度運転を行っており、大阪駅 - 三ノ宮駅間30.6kmを最速21分、大阪駅 - 明石駅間52.5kmを最速37分、大阪駅 - 姫路駅間87.9kmを最速60分で結び、特急列車並みの表定速度で走行する。大阪駅 - 三ノ宮駅間では大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間を結ぶ阪急神戸本線および阪神本線、三ノ宮駅 - 姫路駅間では神戸三宮駅 - 山陽姫路駅間を結ぶ阪急神戸高速線・阪神神戸高速線・山陽電鉄本線の私鉄各線が並行しており、人口の多い阪神間(梅田 - 三宮間)では「私鉄王国」と呼ばれる関西の中でも特に熾烈な乗客獲得競争が繰り広げられている。運賃は私鉄の方が安いが、所要時間ではJRのほうが短い。ただし、大阪駅 - 元町駅間は回数券や乗車券の区間分割購入により、並行する私鉄利用と差のない運賃での利用が可能となる。東海道本線区間にあたる大阪駅 - 神戸駅間の利用者数は1日平均385,099人で、同区間では阪急神戸本線の176,056人、阪神本線の137,670人と比べて圧倒的に多く、JR西日本管内では最多、JRグループ全体でも総武本線(東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅)に次いで第7位である。山陽本線区間の神戸駅 - 姫路駅・和田岬駅間の利用者数もJR西日本ではJR京都線、大阪環状線に次いで第4位である。
ラインカラーは青(■)であり、JR京都線ともどもアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本のコーポレートカラーがそのままラインカラーとして使われている。路線記号は A であるが、福知山線(JR宝塚線)の列車が乗り入れる大阪駅 - 尼崎駅間は、重複して G も付与されている。
全区間が近畿統括本部の管轄であり、旅客営業規則の定める「大阪近郊区間」、およびIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。このうち大阪駅 - 西明石駅間は電車特定区間に含まれており、区間外より割安な旅客運賃が適用される。
中国統括本部の岡山・福山エリア各駅に掲示されている時刻表の停車駅案内図では、2023年3月18日のダイヤ改正時にデザインを一新して近畿統括本部や中国統括本部の山陰エリアと広島・山口エリアの路線記号にも対応し、併せて姫新線・因美線・芸備線の路線記号での案内を岡山・福山エリアにも拡大した時に、厳密には含まれない山陽本線の姫路駅 - 上郡駅間を便宜上「A JR神戸線 JR Kobe Line」と案内している。
JR神戸線としてのもの。
特に人口の多い京阪神地区は、「私鉄王国」と称され、特に東海道本線・山陽本線(JR神戸線)は、阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電鉄などの私鉄と並走しており、その利便性の高さから鉄道利用が定着している。JRは主に大阪 - 明石間、三ノ宮 - 姫路間など私鉄に比べ長距離の輸送を担う。
大阪駅 - 兵庫駅間は方向別複々線(外側線・内側線)、新長田駅 - 西明石駅間は線路別複々線(列車線・電車線)で、兵庫駅 - 新長田駅間で電車線(内側線)と列車線下り線(外側線)が立体交差する。新長田駅 - 朝霧駅間の列車線にはホームがない。西明石駅 - 姫路駅間は複線となっている。基本的に、複々線区間では内側線および電車線は快速・普通、外側線および列車線は朝夕の快速・新快速・特急・貨物列車などが走行している。
須磨駅 - 朝霧駅間は海岸近くを走っており、大阪湾・明石海峡大橋・淡路島を車窓から望むことができる。
琵琶湖線・JR京都線と一体化した運転系統となっている。また、尼崎駅を介してJR東西線・福知山線(JR宝塚線)と直通運転を行っている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通(緩行電車)の3種別が運行され、これらによるパターンダイヤが組まれている。昼間時間帯以降は普通のうち半数はJR東西線・学研都市線に乗り入れる。基本的には15分サイクルの運転で、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。朝ラッシュ時間帯は約8分サイクルの運転である。このほか、北近畿・山陰方面への特急列車が運転されている。
大阪駅 - 尼崎駅間ではJR宝塚線の丹波路快速・快速・区間快速・普通も運転されている。これらの列車はJR京都線と直通する普通を除いて外側線を走行し塚本駅を通過する(ただし土休日夜の新三田発大阪行き普通1本のみ塚本駅も停車する・2020年3月14日改正時点)。
以下、特急以外で特記ないものは平日ダイヤで記述する。
関西から山陰方面への特急列車として、大阪から播但線経由で浜坂・鳥取方面へ特急「はまかぜ」、京都から智頭急行線経由で鳥取・倉吉方面へ「スーパーはくと」が運転されている。このほか、通勤客向けの特急として朝と夜に「らくラクはりま」、夜行列車として東京と四国・山陰を結ぶ寝台特急列車「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」が運転されている。いずれも京都駅・大阪駅 - 姫路駅間では130km/h運転を行っている。
特急は、JR神戸線区間では新快速停車駅の尼崎駅と芦屋駅は全列車が通過し、「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」は下りは姫路駅、上りは姫路駅・三ノ宮駅・大阪駅に停車する。「スーパーはくと」・「はまかぜ」・「らくラクはりま」は、大阪駅・三ノ宮駅・明石駅・姫路駅に全列車が停車し、「スーパーはくと」の一部と「はまかぜ」・「らくラクはりま」は神戸駅、「スーパーはくと」・「はまかぜ」の一部と「らくラクはりま」は西明石駅・加古川駅、「らくラクはりま」は新快速が通過する大久保駅にも停車する。
料金不要の列車では最も停車駅の少ない速達列車で、JR神戸線内の停車駅は、大阪駅・尼崎駅・芦屋駅・三ノ宮駅・神戸駅・明石駅・西明石駅・加古川駅・姫路駅である。複々線区間では外側線・列車線を走行するが、快速から格上げされた下りの最終の新快速である深夜の西明石行き1本だけは、兵庫駅から電車線を走行する。大半が姫路駅までの運転であるが、朝晩などの一部の列車は姫路駅から各駅に停車して山陽本線の網干駅(下り1本、上り2本は上郡駅)発着および相生経由で赤穂線の播州赤穂駅発着で運行されている。また平日朝にも1本だけ西明石行きの下り新快速が設定されている。
平日朝夕時間帯は本数が多くなる。日中時間帯は大阪駅 - 姫路駅間で1時間に4本運転されており、この時間帯の下り列車は大阪駅を毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車する。大阪発19時15分までの1時間は7本が設定されている。土曜・休日ダイヤでは朝も15分間隔(夜は20分間隔)で運転されている。
日中は大阪駅 - 塚本駅間でJR宝塚線の普通列車と並走し(下りはJR京都線の東淀川駅付近から並走し、新大阪駅・大阪駅を同時発車)、西宮駅・六甲道駅・朝霧駅で先行の普通列車を、兵庫駅で先行の快速を追い抜き、加古川駅で快速と相互接続している。また、朝ラッシュ時は神戸駅で快速と接続しているが、階段を降りて別ホームでの連絡となる。
車両は全列車が223系1000番台・2000番台および225系0番台・100番台で運転されている。大阪駅 - 姫路駅間では土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から、平日は夕方の大阪始発を除いて2017年3月4日のダイヤ改正から12両に統一されている。播州赤穂駅・上郡駅発着の12両編成の列車については網干駅や姫路駅で車両の連結・切り離し作業を行う。
JR発足以降、JR京都線も含めてオール転換クロスシートの221系および223系1000番台・2000番台が充当され、車両性能の限界に近い、特に姫路駅 - 加古川駅間では特急より速い表定速度100km/hを超える高速運転を行っていた。JR福知山線脱線事故に関連したアーバンネットワークの全体的なスピードダウンとなった2006年3月18日のダイヤ改正で、大阪駅 - 三ノ宮駅間の所要時間は改正前19 - 22分が改正後20 - 24分にやや延びた。それでも乗車券のみで利用できる列車としては速い部類に入る。ただし平日朝・夕のラッシュ時はやや変則的な運転体系になるために複線区間である西明石駅 - 姫路駅間での運転時分が若干伸びる。
JR神戸線内の停車駅は、大阪駅・尼崎駅・西宮駅・芦屋駅・住吉駅・六甲道駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・兵庫駅・須磨駅・垂水駅・舞子駅と明石駅 - 加古川駅・姫路駅間の各駅である(後述する一部の列車を除く)。JR神戸線内では大阪駅 - 明石駅間で一部の駅を通過する運転を行うが、明石駅 - 加古川駅・姫路駅間では各駅に停車する「普通」として運転されており、網干駅・播州赤穂駅・上郡駅まで乗り入れる。京都方面行きは早朝時間帯を除きJR京都線の高槻駅から「普通」に種別が変更される(早朝時間帯は高槻駅から先、長岡京駅に停車して京都駅から普通列車)。JR東西線・学研都市線と直通する列車はない。
大阪駅 - 西明石駅間では基本的に内側線・電車線を走行するが、朝ラッシュ時に運転されている大阪方面行きの快速は外側線・列車線を走行し、列車線にホームがない舞子駅・垂水駅・須磨駅を通過する。また、平日朝ラッシュ時の姫路方面行きの快速は大阪駅から芦屋駅もしくは兵庫駅まで外側線を走行し、それらの駅からは内側線を走行する。また、土曜・休日朝の大阪方面行きの快速は兵庫駅で外側線に移動し芦屋駅まで外側線を走行する。
朝夕時間帯は本数が多くなる。朝ラッシュ時は加古川駅(対面)・神戸駅で新快速(階段連絡)、芦屋駅で普通と相互に接続して神戸駅 → 大阪駅間で後続の新快速よりも先着する。また、御着駅と土山駅または東加古川駅または大久保駅で新快速の通過待ちをする。日中時間帯は1時間に4本(加古川駅 - 姫路駅・網干駅間は2本)運行されている。この時間帯の下り列車は大阪駅を毎時07・22・37・52分の15分間隔で発車する。大阪駅・芦屋駅・須磨駅で普通、加古川駅で新快速と相互に接続している。土曜・休日ダイヤでは朝の大阪行きを除いて内側・電車線走行の15分間隔(夜は20分間隔)で運転されている。原則として尼崎駅でJR東西線 - JR宝塚線直通の快速と同じホームで相互に接続する。なお、加古川駅・神戸駅での新快速連絡および、御着駅・東加古川駅・土山駅・大久保駅での新快速通過待ちの場合は、ドア横のボタンでドアを開閉する形をとっている。
車両は221系と223系1000番台・2000番台・6000番台(網干総合車両所所属車)および、225系0番台・100番台が充当されている。平日朝ラッシュ時は外側線を走行し、一部は130km/h運転を行い、223系1000番台・2000番台、225系0番台・100番台のみが使用される。それ以外の快速は最高速度120km/hであり、221系、223系6000番台も使用される。
姫路・加古川方面からの大阪方面への列車は始発駅から西明石駅到着まで車内では「普通(西明石から快速)」または「西明石まで各駅に停車、西明石から快速」と表記・案内され、姫路駅 - 大久保駅間の各駅の発車標および自動放送でも「西明石から快速」、この区間の駅の時刻表では三ノ宮・大阪方面は「西明石まで各駅に停車、西明石から快速」として案内されている。列車の種別幕は、加古川・姫路方面への列車は明石駅で「快速」から「普通」に変わるが、大阪方面への列車は西明石駅で「普通」から「快速」に変わる。
1991年3月15日までは、日中時間帯の半数が西明石駅発着であり、2004年10月15日までは朝ラッシュ明け、2009年3月13日までは深夜にそれぞれ西明石行きの列車が設定されていた。2013年3月16日の改正で、平日の午前中の快速1本が西明石行きに変更された。2000年3月10日までは大阪方面から赤穂線備前片上駅まで運転する列車があった(姫路方面は外側線を運転)。2013年3月16日のダイヤ改正で夕方の新快速が増発されたことにより、この時間帯の外側線で運行する快速列車が廃止された。
各駅に停車する種別である。ただし大阪駅 - 姫路駅間直通で各駅に停車する列車はなく、大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間において通勤形電車(片側4ドア)によって運転される列車(緩行電車)と、明石駅 - 姫路駅・網干駅間で近郊形電車(片側3ドア)によって運転されている列車の2種類がある。
内側線・電車線を走行し、尼崎駅 - 須磨駅・西明石駅間の列車の半数はJR東西線・学研都市線に乗り入れる。基本的に神戸方面は西明石駅までの運転である。学研都市線内で区間快速として運転する西明石駅発着の列車も設定されている。この場合は西明石行きが京橋駅で、北新地・京橋・四条畷方面行きが尼崎駅で列車番号が変更になる。
朝夕時間帯は本数が多くなる。毎日早朝5時台には神戸始発の系統が京都行き・西明石行きで運転されている。朝ラッシュ時の上りは加古川・大久保始発と神戸・甲子園口・尼崎始発の系統が設定されている。芦屋駅で新快速・快速と相互に接続しており、神戸市内の各駅から大阪駅への速達性が図られている。尼崎始発の系統はJR東西線直通系統から接続している。
日中時間帯は1時間に8本(須磨駅 - 西明石駅間は4本)が運転されている。日中はJR京都線直通系統が須磨駅で折り返すため、西明石駅発着の列車はJR東西線・学研都市線直通系統のみとなる。毎日夜間には甲子園口行きと神戸行きがそれぞれ1本ずつ設定されている。芦屋駅・須磨駅で快速と接続する電車と須磨駅・西明石駅で折り返す電車は、停車時間が長いためドア横のボタンでドアを開閉する形をとっている。
15分・20分サイクルの時間帯は尼崎駅でJR宝塚線・JR東西線直通列車同士が相互に接続している。土曜・休日ダイヤではほぼ終日約7分半間隔(夜は10分間隔)で運転されている。
下り最終列車の京都発西明石行きの西明石駅到着時刻は1時14分であり、JR西日本の京阪神エリアの路線で最も到着時刻が遅い。
車両は207系と321系が使用されており、7両編成で運転されている。
1972年3月15日のダイヤ改正で日中15分間隔の1時間4本(大阪駅 - 甲子園口駅間は8本)で運行されるようになった。1985年3月14日に大阪駅 - 甲子園口駅間の本数が6本になり、加古川駅発着の普通が設定されたが、加古川駅発着は朝ラッシュ時は2本、日中・夕方は1本で運行されていた。
1986年11月1日に日中の神戸駅折り返し系統が設定され、阪神・淡路大震災を経て1996年7月20日に須磨駅折り返しに延長、明石海峡大橋開通を機に1998年10月3日に西明石駅発着に統一された。2006年3月17日までは毎日午前中に大久保駅発着の設定があった。2006年3月18日の改正では輸送実態に合わせたダイヤ見直しで大阪方面・京都駅発着系統が須磨駅折り返しに変更され、須磨駅 - 西明石駅間の1時間の本数は8本から4本(JR東西線直通系統のみ乗り入れ)に変更された。2008年3月15日の改正で日中の大阪方面(京都駅発着)の半数の列車が西明石駅発着に変更され、西明石駅発着が6本、須磨駅折り返しが2本になった。2010年3月13日の改正で日中の半数の系統が須磨駅折り返しに戻され、この時間帯の運転系統が再編された。
加古川駅発着列車は1991年3月16日に快速が加古川駅発着になったときに朝のみに縮小され、1997年9月1日に5本に増発された。甲子園口駅発着の列車は、2007年8月27日から同駅のバリアフリー化工事のため尼崎駅発着や芦屋発に変更され、工事が終了した2009年3月14日のダイヤ改正で再び毎日早朝・深夜(深夜の列車は西明石行きから変更)に設定。2010年3月13日の改正では朝6時台と夜23時台(宮原操車場 - 甲子園口駅間は回送)に縮小された。
大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間を運転する普通のうち、207系の京都側から3両目と321系の5号車には、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
JR神戸線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。
この区間では、大阪駅 - 明石駅間で快速として運行される列車が「普通」となり各駅に停車するのが基本であるが、朝晩や深夜には西明石駅 - 姫路駅間の普通も運転されている。この列車はJR神戸線では数少ない4両編成の列車も運転されている。
2008年3月14日までは平日朝の西明石発加古川行きの普通に7両編成の設定があった。2002年3月22日までは朝晩に限り、岡山方面から岡山電車区の115系使用の普通が西明石駅まで乗り入れていたが、翌23日の改正以降は岡山方面からの乗り入れは姫路駅までとなっており、JR神戸線への乗り入れは廃止された。
沿線には生田神社や西宮神社などの大きな社寺があるため、大晦日深夜から元旦にかけて、JR神戸線では大阪駅 - 西明石駅間(運転区間はJR京都線京都駅 - 西明石駅間)において普通のみ約30分間隔で(1時間2本程度)の終夜運転が実施されている。なお、西明石駅 - 姫路駅間においても普通のみで2001年度から(当時は約60分間隔で1時間1本程度)2017年度まで(同年度は約90分間隔)終夜運転を実施していた。かつては奈良線に乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している。
このほか、1999年度の終夜運転時には快速も運転されており、快速「初日の出須磨浦号」が大阪発西明石行きで、快速「初日の出書写山号」が大阪発姫路行きで運転され、それぞれ須磨海岸および書写山からの初日の出を拝むために運転されていたが、のち全区間とも普通に変更され、2004年度までに運転を終了している。
2000年と2001年の7月 - 9月の土曜・休日に四条畷駅・放出駅 - 西明石駅間で臨時快速「神戸シーサイドレジャー号」が1往復運転されていた(2001年の復路は放出行き)。停車駅は、四条畷駅 - 尼崎駅間の各駅・芦屋駅・三ノ宮駅・神戸駅・須磨駅・垂水駅 - 西明石駅間の各駅であった。
神戸市西部の須磨海水浴場・マリンピア神戸(三井アウトレットパーク マリンピア神戸)・アジュール舞子、明石市東部の大蔵海岸へのアクセスとして、それらの施設の最寄駅に着くたび特別に車内放送(案内)が流されたが、宣伝不足のためあまり利用されず、その後、大蔵海岸とアジュール舞子で続けて砂浜が陥没する事故が起き、両海水浴場がともに閉鎖し、以後は運転されていない。
国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。
2022年現在、普通・快速・新快速はすべて電車で、特急は電車と気動車で運転されている。
国鉄分割民営化後にJR西日本で使用されていた車両を記述する。
1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)は、JR神戸線にも大きな影響を与えた。
西宮駅 - 須磨駅間で貨物列車を含め8本が脱線したほか、鷹取工場でも39両が脱線、転覆した。駅施設関係では、六甲道駅を中心に高架橋や柱に大きな被害を受け、新長田駅付近の盛土が崩壊して駅設備が壊滅した。また、鷹取工場では建物が全壊したほか、検修庫や検修設備に損傷を受けたほか、土留め擁壁が倒壊するなどの被害を受けた。
発生直後から全線で運転を見合わせたが震災当日に運転再開することができず、翌18日に、大阪駅 - 尼崎駅( - 福知山線塚口駅)間の上下外側線と西明石駅 - 姫路駅間で運転を再開した。運転再開は、折り返しができる駅を活用して工事が進められたが、折り返しができない須磨駅・住吉駅では新規にポイントを設置し、灘駅ではその先の東灘信号場の構内配線を変更して引き上げ線とすることにより折り返しができるようにした。
西明石方面からは、ホームのある上下電車線を優先して復旧を行ったが、灘駅 - 兵庫駅間は方向別線路となっていたため海側2線(下り列車線・電車線)を優先して復旧作業を行った。新長田駅付近では被害が大きかったため、下り列車線と和田岬線への小運転線を活用して複線化している。当時この小運転線は非電化であったため、急遽電化して対応した。なお、新長田駅は駅舎が全壊したため、1月30日に神戸駅 - 須磨駅間の運転を再開しても停車せず、3月10日に仮駅舎ができるまで通過していた。
ダイヤ面においては大阪方面から甲子園口駅までの復旧時は新快速(ただし大阪駅以西は各駅停車)と普通のみ運転され、京都方面からの快速は大阪駅で折り返し運転を行っていた。新快速は大阪方面からは芦屋駅開通時に運転を開始したが、姫路方面からは3月12日まで運転されることはなかった(ただし加古川駅 - 姫路駅間では新快速運転を行う列車は存在していた)。
震災の復旧作業の進捗によって、不通区間が徐々に短縮されていったが、不通区間の東西それぞれで封じ込められた車両で運用を行わなければならず、特に不通区間の東側では車両が不足していた。そのため、播但線を迂回ルートとして車両が回送されたが、播但線は非電化のため、パンタグラフなどの付属機器を網干電車区(現在の網干総合車両所)で一旦撤去し、ディーゼル機関車の牽引により福知山運転所(現在の福知山電車区)まで回送され、同所で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(現在の宮原総合運転所)などに回送された。
しかし、この再配置だけでは車両不足が解消できず、岡山電車区・広島運転所から115系19両および森ノ宮電車区・日根野電車区の103系が運用されたほか、震災時に鷹取工場に入場していた奈良電車区の221系も運用された。また、車両の増結を行うなどし、201系は通常7両編成で運用されているが、このうち4本を4M4Tの8両編成と、8M4Tの12両編成に組み替え、201系では最長となる12両編成で運転された。
六甲道駅を含む住吉駅 - 灘駅間は、高架橋が崩落し最も大きな被害を受けたため、最後まで不通区間として残ることになったが、4月1日に74日ぶりに全線が開通した。これにより震災後、阪神間の鉄道が初めて復旧することになり、この日に行われたダイヤ改正で新快速を増発している。六甲道駅復旧の模様はNHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で取り上げられたほか、これを題材として関西テレビ放送で『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』が放送された。開通区間が延長されるたびに、開通直後から路盤固めまでの暫定ダイヤと、路盤が固まってから次に開通区間がのびるまでの暫定ダイヤの2種類がつくられ、震災発生から全通まで18回のダイヤ改正が行われた。
JR神戸線としての歴史を記述する。
以下では、JR神戸線の停車場(駅・信号場)と営業キロ、停車列車、接続路線などを一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」および「山陽本線#廃駅・廃止信号場」を参照。
1997年(平成9年)3月8日から各駅には専用の接近メロディである「さざなみ」が導入されている。このメロディは本来JR神戸線の区間には入らない姫路駅 - 上郡駅間の各駅に加え、赤穂線の相生駅 - 播州赤穂駅間の各駅でも使用されている(前者については上郡まで兵庫支社管轄であるため)。ただし、大阪駅は大阪環状線と同様のメロディを使用している。
さくら夙川駅は2007年(平成19年)3月18日の開業時からコブクロの楽曲「桜」をアレンジした専用メロディが使用されていたが、著作権使用料の関係で2010年(平成22年)3月2日から「さざなみ」に変更されている(到着放送も廃止、さらに2015年〈平成27年〉3月12日には「さざなみ(音質見直し版)」に再変更)。また、須磨海浜公園駅では「かもめの水兵さん」をアレンジした専用メロディが使用されていたが、2014年(平成26年)7月16日から「さざなみ(音質見直し版)」に変更されている。2015年(平成27年)3月12日からはこの音質見直し版をJR神戸線各駅ならびに山陽本線相生駅以東・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅に拡大した。
明石駅 - 西明石駅間に新駅を設置する計画があるが、計画は停滞している。また、大久保駅 - 魚住駅間にも新駅を設置する計画がある。かつては、加古川駅 - 東加古川駅間に新駅を設置する構想があった。
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"text": "JR神戸線(ジェイアールこうべせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、大阪府大阪市北区の大阪駅から兵庫県神戸市中央区の神戸駅までの区間、および山陽本線のうち、神戸駅から兵庫県姫路市の姫路駅までの区間に付けられた愛称である。",
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"text": "この愛称は1988年3月13日から使用されている。大阪市 - 神戸市間には阪急電鉄の神戸線や阪神高速道路神戸線もあり、愛称に「JR」と付けてこれらと区別している。この区間は、正式名称を用いて単純に「東海道・山陽(本)線」とも呼ばれている。",
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"text": "JR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の路線の一つであり、大阪・梅田に位置する大阪駅から神戸市最大のターミナル駅である三ノ宮駅を経由して、明石市・加古川市・姫路市などの兵庫県内の瀬戸内海沿い(播磨地域)の各都市とを結ぶ通勤・通学路線である。",
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"text": "1874年(明治7年)に開業した大阪駅 - 神戸駅間の東海道本線区間は、1872年(明治5年)開業の新橋駅 - 横浜駅間に次いで日本の鉄道としては2番目に古い。神戸駅 - 姫路駅の山陽本線区間は1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけて山陽鉄道によって敷設されたもので成り立ちが異なる。こうした歴史的経緯から神戸駅を境に東側が東海道本線、西側が山陽本線と路線名称上は分かれているが、当路線は途切れることなく一体的なダイヤ体系で運行されており、神戸駅は単にJR神戸線の途中駅となっている。大半の列車はJR神戸線内で完結せず大阪駅からJR京都線(新快速を中心に一部はさらに京都駅から琵琶湖線・湖西線)に直通するほか、姫路駅よりさらに西側の山陽本線上郡駅や赤穂線播州赤穂駅まで直通する列車もある。尼崎駅からJR東西線・学研都市線にも直通する列車も設定されている。",
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"text": "JR西日本の看板列車である新快速が高速・高頻度運転を行っており、大阪駅 - 三ノ宮駅間30.6kmを最速21分、大阪駅 - 明石駅間52.5kmを最速37分、大阪駅 - 姫路駅間87.9kmを最速60分で結び、特急列車並みの表定速度で走行する。大阪駅 - 三ノ宮駅間では大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間を結ぶ阪急神戸本線および阪神本線、三ノ宮駅 - 姫路駅間では神戸三宮駅 - 山陽姫路駅間を結ぶ阪急神戸高速線・阪神神戸高速線・山陽電鉄本線の私鉄各線が並行しており、人口の多い阪神間(梅田 - 三宮間)では「私鉄王国」と呼ばれる関西の中でも特に熾烈な乗客獲得競争が繰り広げられている。運賃は私鉄の方が安いが、所要時間ではJRのほうが短い。ただし、大阪駅 - 元町駅間は回数券や乗車券の区間分割購入により、並行する私鉄利用と差のない運賃での利用が可能となる。東海道本線区間にあたる大阪駅 - 神戸駅間の利用者数は1日平均385,099人で、同区間では阪急神戸本線の176,056人、阪神本線の137,670人と比べて圧倒的に多く、JR西日本管内では最多、JRグループ全体でも総武本線(東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅)に次いで第7位である。山陽本線区間の神戸駅 - 姫路駅・和田岬駅間の利用者数もJR西日本ではJR京都線、大阪環状線に次いで第4位である。",
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"text": "ラインカラーは青(■)であり、JR京都線ともどもアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本のコーポレートカラーがそのままラインカラーとして使われている。路線記号は A であるが、福知山線(JR宝塚線)の列車が乗り入れる大阪駅 - 尼崎駅間は、重複して G も付与されている。",
"title": "概要"
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"text": "全区間が近畿統括本部の管轄であり、旅客営業規則の定める「大阪近郊区間」、およびIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。このうち大阪駅 - 西明石駅間は電車特定区間に含まれており、区間外より割安な旅客運賃が適用される。",
"title": "概要"
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"text": "中国統括本部の岡山・福山エリア各駅に掲示されている時刻表の停車駅案内図では、2023年3月18日のダイヤ改正時にデザインを一新して近畿統括本部や中国統括本部の山陰エリアと広島・山口エリアの路線記号にも対応し、併せて姫新線・因美線・芸備線の路線記号での案内を岡山・福山エリアにも拡大した時に、厳密には含まれない山陽本線の姫路駅 - 上郡駅間を便宜上「A JR神戸線 JR Kobe Line」と案内している。",
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"text": "JR神戸線としてのもの。",
"title": "概要"
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"text": "特に人口の多い京阪神地区は、「私鉄王国」と称され、特に東海道本線・山陽本線(JR神戸線)は、阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電鉄などの私鉄と並走しており、その利便性の高さから鉄道利用が定着している。JRは主に大阪 - 明石間、三ノ宮 - 姫路間など私鉄に比べ長距離の輸送を担う。",
"title": "沿線概況"
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{
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"tag": "p",
"text": "大阪駅 - 兵庫駅間は方向別複々線(外側線・内側線)、新長田駅 - 西明石駅間は線路別複々線(列車線・電車線)で、兵庫駅 - 新長田駅間で電車線(内側線)と列車線下り線(外側線)が立体交差する。新長田駅 - 朝霧駅間の列車線にはホームがない。西明石駅 - 姫路駅間は複線となっている。基本的に、複々線区間では内側線および電車線は快速・普通、外側線および列車線は朝夕の快速・新快速・特急・貨物列車などが走行している。",
"title": "沿線概況"
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"tag": "p",
"text": "須磨駅 - 朝霧駅間は海岸近くを走っており、大阪湾・明石海峡大橋・淡路島を車窓から望むことができる。",
"title": "沿線概況"
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"text": "琵琶湖線・JR京都線と一体化した運転系統となっている。また、尼崎駅を介してJR東西線・福知山線(JR宝塚線)と直通運転を行っている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通(緩行電車)の3種別が運行され、これらによるパターンダイヤが組まれている。昼間時間帯以降は普通のうち半数はJR東西線・学研都市線に乗り入れる。基本的には15分サイクルの運転で、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。朝ラッシュ時間帯は約8分サイクルの運転である。このほか、北近畿・山陰方面への特急列車が運転されている。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 13,
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"text": "大阪駅 - 尼崎駅間ではJR宝塚線の丹波路快速・快速・区間快速・普通も運転されている。これらの列車はJR京都線と直通する普通を除いて外側線を走行し塚本駅を通過する(ただし土休日夜の新三田発大阪行き普通1本のみ塚本駅も停車する・2020年3月14日改正時点)。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "以下、特急以外で特記ないものは平日ダイヤで記述する。",
"title": "運行形態"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "関西から山陰方面への特急列車として、大阪から播但線経由で浜坂・鳥取方面へ特急「はまかぜ」、京都から智頭急行線経由で鳥取・倉吉方面へ「スーパーはくと」が運転されている。このほか、通勤客向けの特急として朝と夜に「らくラクはりま」、夜行列車として東京と四国・山陰を結ぶ寝台特急列車「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」が運転されている。いずれも京都駅・大阪駅 - 姫路駅間では130km/h運転を行っている。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "特急は、JR神戸線区間では新快速停車駅の尼崎駅と芦屋駅は全列車が通過し、「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」は下りは姫路駅、上りは姫路駅・三ノ宮駅・大阪駅に停車する。「スーパーはくと」・「はまかぜ」・「らくラクはりま」は、大阪駅・三ノ宮駅・明石駅・姫路駅に全列車が停車し、「スーパーはくと」の一部と「はまかぜ」・「らくラクはりま」は神戸駅、「スーパーはくと」・「はまかぜ」の一部と「らくラクはりま」は西明石駅・加古川駅、「らくラクはりま」は新快速が通過する大久保駅にも停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "料金不要の列車では最も停車駅の少ない速達列車で、JR神戸線内の停車駅は、大阪駅・尼崎駅・芦屋駅・三ノ宮駅・神戸駅・明石駅・西明石駅・加古川駅・姫路駅である。複々線区間では外側線・列車線を走行するが、快速から格上げされた下りの最終の新快速である深夜の西明石行き1本だけは、兵庫駅から電車線を走行する。大半が姫路駅までの運転であるが、朝晩などの一部の列車は姫路駅から各駅に停車して山陽本線の網干駅(下り1本、上り2本は上郡駅)発着および相生経由で赤穂線の播州赤穂駅発着で運行されている。また平日朝にも1本だけ西明石行きの下り新快速が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "平日朝夕時間帯は本数が多くなる。日中時間帯は大阪駅 - 姫路駅間で1時間に4本運転されており、この時間帯の下り列車は大阪駅を毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車する。大阪発19時15分までの1時間は7本が設定されている。土曜・休日ダイヤでは朝も15分間隔(夜は20分間隔)で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "日中は大阪駅 - 塚本駅間でJR宝塚線の普通列車と並走し(下りはJR京都線の東淀川駅付近から並走し、新大阪駅・大阪駅を同時発車)、西宮駅・六甲道駅・朝霧駅で先行の普通列車を、兵庫駅で先行の快速を追い抜き、加古川駅で快速と相互接続している。また、朝ラッシュ時は神戸駅で快速と接続しているが、階段を降りて別ホームでの連絡となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "車両は全列車が223系1000番台・2000番台および225系0番台・100番台で運転されている。大阪駅 - 姫路駅間では土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から、平日は夕方の大阪始発を除いて2017年3月4日のダイヤ改正から12両に統一されている。播州赤穂駅・上郡駅発着の12両編成の列車については網干駅や姫路駅で車両の連結・切り離し作業を行う。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "JR発足以降、JR京都線も含めてオール転換クロスシートの221系および223系1000番台・2000番台が充当され、車両性能の限界に近い、特に姫路駅 - 加古川駅間では特急より速い表定速度100km/hを超える高速運転を行っていた。JR福知山線脱線事故に関連したアーバンネットワークの全体的なスピードダウンとなった2006年3月18日のダイヤ改正で、大阪駅 - 三ノ宮駅間の所要時間は改正前19 - 22分が改正後20 - 24分にやや延びた。それでも乗車券のみで利用できる列車としては速い部類に入る。ただし平日朝・夕のラッシュ時はやや変則的な運転体系になるために複線区間である西明石駅 - 姫路駅間での運転時分が若干伸びる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "JR神戸線内の停車駅は、大阪駅・尼崎駅・西宮駅・芦屋駅・住吉駅・六甲道駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・兵庫駅・須磨駅・垂水駅・舞子駅と明石駅 - 加古川駅・姫路駅間の各駅である(後述する一部の列車を除く)。JR神戸線内では大阪駅 - 明石駅間で一部の駅を通過する運転を行うが、明石駅 - 加古川駅・姫路駅間では各駅に停車する「普通」として運転されており、網干駅・播州赤穂駅・上郡駅まで乗り入れる。京都方面行きは早朝時間帯を除きJR京都線の高槻駅から「普通」に種別が変更される(早朝時間帯は高槻駅から先、長岡京駅に停車して京都駅から普通列車)。JR東西線・学研都市線と直通する列車はない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "大阪駅 - 西明石駅間では基本的に内側線・電車線を走行するが、朝ラッシュ時に運転されている大阪方面行きの快速は外側線・列車線を走行し、列車線にホームがない舞子駅・垂水駅・須磨駅を通過する。また、平日朝ラッシュ時の姫路方面行きの快速は大阪駅から芦屋駅もしくは兵庫駅まで外側線を走行し、それらの駅からは内側線を走行する。また、土曜・休日朝の大阪方面行きの快速は兵庫駅で外側線に移動し芦屋駅まで外側線を走行する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "朝夕時間帯は本数が多くなる。朝ラッシュ時は加古川駅(対面)・神戸駅で新快速(階段連絡)、芦屋駅で普通と相互に接続して神戸駅 → 大阪駅間で後続の新快速よりも先着する。また、御着駅と土山駅または東加古川駅または大久保駅で新快速の通過待ちをする。日中時間帯は1時間に4本(加古川駅 - 姫路駅・網干駅間は2本)運行されている。この時間帯の下り列車は大阪駅を毎時07・22・37・52分の15分間隔で発車する。大阪駅・芦屋駅・須磨駅で普通、加古川駅で新快速と相互に接続している。土曜・休日ダイヤでは朝の大阪行きを除いて内側・電車線走行の15分間隔(夜は20分間隔)で運転されている。原則として尼崎駅でJR東西線 - JR宝塚線直通の快速と同じホームで相互に接続する。なお、加古川駅・神戸駅での新快速連絡および、御着駅・東加古川駅・土山駅・大久保駅での新快速通過待ちの場合は、ドア横のボタンでドアを開閉する形をとっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "車両は221系と223系1000番台・2000番台・6000番台(網干総合車両所所属車)および、225系0番台・100番台が充当されている。平日朝ラッシュ時は外側線を走行し、一部は130km/h運転を行い、223系1000番台・2000番台、225系0番台・100番台のみが使用される。それ以外の快速は最高速度120km/hであり、221系、223系6000番台も使用される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "姫路・加古川方面からの大阪方面への列車は始発駅から西明石駅到着まで車内では「普通(西明石から快速)」または「西明石まで各駅に停車、西明石から快速」と表記・案内され、姫路駅 - 大久保駅間の各駅の発車標および自動放送でも「西明石から快速」、この区間の駅の時刻表では三ノ宮・大阪方面は「西明石まで各駅に停車、西明石から快速」として案内されている。列車の種別幕は、加古川・姫路方面への列車は明石駅で「快速」から「普通」に変わるが、大阪方面への列車は西明石駅で「普通」から「快速」に変わる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1991年3月15日までは、日中時間帯の半数が西明石駅発着であり、2004年10月15日までは朝ラッシュ明け、2009年3月13日までは深夜にそれぞれ西明石行きの列車が設定されていた。2013年3月16日の改正で、平日の午前中の快速1本が西明石行きに変更された。2000年3月10日までは大阪方面から赤穂線備前片上駅まで運転する列車があった(姫路方面は外側線を運転)。2013年3月16日のダイヤ改正で夕方の新快速が増発されたことにより、この時間帯の外側線で運行する快速列車が廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "各駅に停車する種別である。ただし大阪駅 - 姫路駅間直通で各駅に停車する列車はなく、大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間において通勤形電車(片側4ドア)によって運転される列車(緩行電車)と、明石駅 - 姫路駅・網干駅間で近郊形電車(片側3ドア)によって運転されている列車の2種類がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "内側線・電車線を走行し、尼崎駅 - 須磨駅・西明石駅間の列車の半数はJR東西線・学研都市線に乗り入れる。基本的に神戸方面は西明石駅までの運転である。学研都市線内で区間快速として運転する西明石駅発着の列車も設定されている。この場合は西明石行きが京橋駅で、北新地・京橋・四条畷方面行きが尼崎駅で列車番号が変更になる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "朝夕時間帯は本数が多くなる。毎日早朝5時台には神戸始発の系統が京都行き・西明石行きで運転されている。朝ラッシュ時の上りは加古川・大久保始発と神戸・甲子園口・尼崎始発の系統が設定されている。芦屋駅で新快速・快速と相互に接続しており、神戸市内の各駅から大阪駅への速達性が図られている。尼崎始発の系統はJR東西線直通系統から接続している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は1時間に8本(須磨駅 - 西明石駅間は4本)が運転されている。日中はJR京都線直通系統が須磨駅で折り返すため、西明石駅発着の列車はJR東西線・学研都市線直通系統のみとなる。毎日夜間には甲子園口行きと神戸行きがそれぞれ1本ずつ設定されている。芦屋駅・須磨駅で快速と接続する電車と須磨駅・西明石駅で折り返す電車は、停車時間が長いためドア横のボタンでドアを開閉する形をとっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "15分・20分サイクルの時間帯は尼崎駅でJR宝塚線・JR東西線直通列車同士が相互に接続している。土曜・休日ダイヤではほぼ終日約7分半間隔(夜は10分間隔)で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "下り最終列車の京都発西明石行きの西明石駅到着時刻は1時14分であり、JR西日本の京阪神エリアの路線で最も到着時刻が遅い。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "車両は207系と321系が使用されており、7両編成で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1972年3月15日のダイヤ改正で日中15分間隔の1時間4本(大阪駅 - 甲子園口駅間は8本)で運行されるようになった。1985年3月14日に大阪駅 - 甲子園口駅間の本数が6本になり、加古川駅発着の普通が設定されたが、加古川駅発着は朝ラッシュ時は2本、日中・夕方は1本で運行されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1986年11月1日に日中の神戸駅折り返し系統が設定され、阪神・淡路大震災を経て1996年7月20日に須磨駅折り返しに延長、明石海峡大橋開通を機に1998年10月3日に西明石駅発着に統一された。2006年3月17日までは毎日午前中に大久保駅発着の設定があった。2006年3月18日の改正では輸送実態に合わせたダイヤ見直しで大阪方面・京都駅発着系統が須磨駅折り返しに変更され、須磨駅 - 西明石駅間の1時間の本数は8本から4本(JR東西線直通系統のみ乗り入れ)に変更された。2008年3月15日の改正で日中の大阪方面(京都駅発着)の半数の列車が西明石駅発着に変更され、西明石駅発着が6本、須磨駅折り返しが2本になった。2010年3月13日の改正で日中の半数の系統が須磨駅折り返しに戻され、この時間帯の運転系統が再編された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "加古川駅発着列車は1991年3月16日に快速が加古川駅発着になったときに朝のみに縮小され、1997年9月1日に5本に増発された。甲子園口駅発着の列車は、2007年8月27日から同駅のバリアフリー化工事のため尼崎駅発着や芦屋発に変更され、工事が終了した2009年3月14日のダイヤ改正で再び毎日早朝・深夜(深夜の列車は西明石行きから変更)に設定。2010年3月13日の改正では朝6時台と夜23時台(宮原操車場 - 甲子園口駅間は回送)に縮小された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間を運転する普通のうち、207系の京都側から3両目と321系の5号車には、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "JR神戸線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "この区間では、大阪駅 - 明石駅間で快速として運行される列車が「普通」となり各駅に停車するのが基本であるが、朝晩や深夜には西明石駅 - 姫路駅間の普通も運転されている。この列車はJR神戸線では数少ない4両編成の列車も運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2008年3月14日までは平日朝の西明石発加古川行きの普通に7両編成の設定があった。2002年3月22日までは朝晩に限り、岡山方面から岡山電車区の115系使用の普通が西明石駅まで乗り入れていたが、翌23日の改正以降は岡山方面からの乗り入れは姫路駅までとなっており、JR神戸線への乗り入れは廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "沿線には生田神社や西宮神社などの大きな社寺があるため、大晦日深夜から元旦にかけて、JR神戸線では大阪駅 - 西明石駅間(運転区間はJR京都線京都駅 - 西明石駅間)において普通のみ約30分間隔で(1時間2本程度)の終夜運転が実施されている。なお、西明石駅 - 姫路駅間においても普通のみで2001年度から(当時は約60分間隔で1時間1本程度)2017年度まで(同年度は約90分間隔)終夜運転を実施していた。かつては奈良線に乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このほか、1999年度の終夜運転時には快速も運転されており、快速「初日の出須磨浦号」が大阪発西明石行きで、快速「初日の出書写山号」が大阪発姫路行きで運転され、それぞれ須磨海岸および書写山からの初日の出を拝むために運転されていたが、のち全区間とも普通に変更され、2004年度までに運転を終了している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2000年と2001年の7月 - 9月の土曜・休日に四条畷駅・放出駅 - 西明石駅間で臨時快速「神戸シーサイドレジャー号」が1往復運転されていた(2001年の復路は放出行き)。停車駅は、四条畷駅 - 尼崎駅間の各駅・芦屋駅・三ノ宮駅・神戸駅・須磨駅・垂水駅 - 西明石駅間の各駅であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "神戸市西部の須磨海水浴場・マリンピア神戸(三井アウトレットパーク マリンピア神戸)・アジュール舞子、明石市東部の大蔵海岸へのアクセスとして、それらの施設の最寄駅に着くたび特別に車内放送(案内)が流されたが、宣伝不足のためあまり利用されず、その後、大蔵海岸とアジュール舞子で続けて砂浜が陥没する事故が起き、両海水浴場がともに閉鎖し、以後は運転されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2022年現在、普通・快速・新快速はすべて電車で、特急は電車と気動車で運転されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "国鉄分割民営化後にJR西日本で使用されていた車両を記述する。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)は、JR神戸線にも大きな影響を与えた。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "西宮駅 - 須磨駅間で貨物列車を含め8本が脱線したほか、鷹取工場でも39両が脱線、転覆した。駅施設関係では、六甲道駅を中心に高架橋や柱に大きな被害を受け、新長田駅付近の盛土が崩壊して駅設備が壊滅した。また、鷹取工場では建物が全壊したほか、検修庫や検修設備に損傷を受けたほか、土留め擁壁が倒壊するなどの被害を受けた。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "発生直後から全線で運転を見合わせたが震災当日に運転再開することができず、翌18日に、大阪駅 - 尼崎駅( - 福知山線塚口駅)間の上下外側線と西明石駅 - 姫路駅間で運転を再開した。運転再開は、折り返しができる駅を活用して工事が進められたが、折り返しができない須磨駅・住吉駅では新規にポイントを設置し、灘駅ではその先の東灘信号場の構内配線を変更して引き上げ線とすることにより折り返しができるようにした。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "西明石方面からは、ホームのある上下電車線を優先して復旧を行ったが、灘駅 - 兵庫駅間は方向別線路となっていたため海側2線(下り列車線・電車線)を優先して復旧作業を行った。新長田駅付近では被害が大きかったため、下り列車線と和田岬線への小運転線を活用して複線化している。当時この小運転線は非電化であったため、急遽電化して対応した。なお、新長田駅は駅舎が全壊したため、1月30日に神戸駅 - 須磨駅間の運転を再開しても停車せず、3月10日に仮駅舎ができるまで通過していた。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ダイヤ面においては大阪方面から甲子園口駅までの復旧時は新快速(ただし大阪駅以西は各駅停車)と普通のみ運転され、京都方面からの快速は大阪駅で折り返し運転を行っていた。新快速は大阪方面からは芦屋駅開通時に運転を開始したが、姫路方面からは3月12日まで運転されることはなかった(ただし加古川駅 - 姫路駅間では新快速運転を行う列車は存在していた)。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "震災の復旧作業の進捗によって、不通区間が徐々に短縮されていったが、不通区間の東西それぞれで封じ込められた車両で運用を行わなければならず、特に不通区間の東側では車両が不足していた。そのため、播但線を迂回ルートとして車両が回送されたが、播但線は非電化のため、パンタグラフなどの付属機器を網干電車区(現在の網干総合車両所)で一旦撤去し、ディーゼル機関車の牽引により福知山運転所(現在の福知山電車区)まで回送され、同所で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(現在の宮原総合運転所)などに回送された。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし、この再配置だけでは車両不足が解消できず、岡山電車区・広島運転所から115系19両および森ノ宮電車区・日根野電車区の103系が運用されたほか、震災時に鷹取工場に入場していた奈良電車区の221系も運用された。また、車両の増結を行うなどし、201系は通常7両編成で運用されているが、このうち4本を4M4Tの8両編成と、8M4Tの12両編成に組み替え、201系では最長となる12両編成で運転された。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "六甲道駅を含む住吉駅 - 灘駅間は、高架橋が崩落し最も大きな被害を受けたため、最後まで不通区間として残ることになったが、4月1日に74日ぶりに全線が開通した。これにより震災後、阪神間の鉄道が初めて復旧することになり、この日に行われたダイヤ改正で新快速を増発している。六甲道駅復旧の模様はNHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で取り上げられたほか、これを題材として関西テレビ放送で『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』が放送された。開通区間が延長されるたびに、開通直後から路盤固めまでの暫定ダイヤと、路盤が固まってから次に開通区間がのびるまでの暫定ダイヤの2種類がつくられ、震災発生から全通まで18回のダイヤ改正が行われた。",
"title": "阪神・淡路大震災からの復旧"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "JR神戸線としての歴史を記述する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "以下では、JR神戸線の停車場(駅・信号場)と営業キロ、停車列車、接続路線などを一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」および「山陽本線#廃駅・廃止信号場」を参照。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1997年(平成9年)3月8日から各駅には専用の接近メロディである「さざなみ」が導入されている。このメロディは本来JR神戸線の区間には入らない姫路駅 - 上郡駅間の各駅に加え、赤穂線の相生駅 - 播州赤穂駅間の各駅でも使用されている(前者については上郡まで兵庫支社管轄であるため)。ただし、大阪駅は大阪環状線と同様のメロディを使用している。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "さくら夙川駅は2007年(平成19年)3月18日の開業時からコブクロの楽曲「桜」をアレンジした専用メロディが使用されていたが、著作権使用料の関係で2010年(平成22年)3月2日から「さざなみ」に変更されている(到着放送も廃止、さらに2015年〈平成27年〉3月12日には「さざなみ(音質見直し版)」に再変更)。また、須磨海浜公園駅では「かもめの水兵さん」をアレンジした専用メロディが使用されていたが、2014年(平成26年)7月16日から「さざなみ(音質見直し版)」に変更されている。2015年(平成27年)3月12日からはこの音質見直し版をJR神戸線各駅ならびに山陽本線相生駅以東・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅に拡大した。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "明石駅 - 西明石駅間に新駅を設置する計画があるが、計画は停滞している。また、大久保駅 - 魚住駅間にも新駅を設置する計画がある。かつては、加古川駅 - 東加古川駅間に新駅を設置する構想があった。",
"title": "新駅設置計画"
}
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JR神戸線(ジェイアールこうべせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、大阪府大阪市北区の大阪駅から兵庫県神戸市中央区の神戸駅までの区間、および山陽本線のうち、神戸駅から兵庫県姫路市の姫路駅までの区間に付けられた愛称である。 この愛称は1988年3月13日から使用されている。大阪市 - 神戸市間には阪急電鉄の神戸線や阪神高速道路神戸線もあり、愛称に「JR」と付けてこれらと区別している。この区間は、正式名称を用いて単純に「東海道・山陽(本)線」とも呼ばれている。
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{{Pathnavbox|
{{Pathnav|東海道本線}}
{{Pathnav|山陽本線}}
}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] JR神戸線
|路線色=#0072ba
|ロゴ= JRW kinki-A.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=JR-Kobe-Line-223-J9.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[大阪湾]]沿岸の区間を走行する[[JR西日本223系電車|223系電車]]<br />([[須磨駅]] - [[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]]間 2021年2月)
|国={{JPN}}
|所在地=[[大阪府]]、[[兵庫県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点=[[大阪駅]]
|終点=[[姫路駅]]
|駅数=40駅
|経由路線=[[東海道本線]]、[[山陽本線]]
|電報略号= トカホセ(大阪駅 - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]])<br />サヨホセ(神戸駅 - 姫路駅)
|路線記号={{JR西路線記号|K|A}}<br />{{JR西路線記号|K|G}}(大阪駅 - 尼崎駅間)
|開業=[[1874年]][[5月11日]](東海道本線として)<br />[[1988年]][[3月13日]](愛称使用開始)
|廃止=
|所有者=[[西日本旅客鉄道]]
|運営者=西日本旅客鉄道
|車両基地 = [[網干総合車両所|網干総合車両所本所]]・[[網干総合車両所#明石支所|明石支所]]ほか
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=87.9 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複々線]](大阪駅 - 西明石駅)<br />[[複線]](西明石駅 - 姫路駅)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式=複線自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P方式)
|最高速度=130 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図=
}}
'''JR神戸線'''(ジェイアールこうべせん)は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が管轄する[[東海道本線]]のうち、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[大阪駅]]から[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]までの区間、および[[山陽本線]]のうち、神戸駅から兵庫県[[姫路市]]の[[姫路駅]]までの区間に付けられた[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]である。
この愛称は[[1988年]][[3月13日]]から使用されている。大阪市 - 神戸市間には[[阪急電鉄]]の[[阪急神戸本線|神戸線]]や[[阪神高速3号神戸線|阪神高速道路神戸線]]もあり、愛称に「JR」と付けてこれらと区別している。この区間は、正式名称を用いて単純に「東海道・山陽(本)線」とも呼ばれている。
== 概要 ==
JR西日本の[[アーバンネットワーク]](京阪神エリア)の路線の一つであり、大阪・[[梅田]]に位置する[[大阪駅]]から[[神戸市]]最大の[[ターミナル駅]]である[[三ノ宮駅]]を経由して、[[明石市]]・[[加古川市]]・[[姫路市]]などの兵庫県内の[[瀬戸内海]]沿い([[播磨国|播磨地域]])の各都市とを結ぶ通勤・通学路線である。
[[1874年]](明治7年)に開業した大阪駅 - 神戸駅間の東海道本線区間は、[[1872年]](明治5年)開業の[[新橋駅]] - [[横浜駅]]間に次いで[[日本の鉄道]]としては2番目に古い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kobe.lg.jp/documents/44019/h-8_jrkobeeki.pdf |title=中央区のあゆみ史跡・町名編 神戸駅・大倉山周辺 JR 神戸駅 相生町3丁目 |access-date=2023/02/14 |publisher=神戸市}}</ref>。神戸駅 - 姫路駅の山陽本線区間は[[1888年]](明治21年)から[[1889年]](明治22年)にかけて[[山陽鉄道]]によって敷設されたもので成り立ちが異なる。こうした歴史的経緯から[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]を境に東側が東海道本線、西側が山陽本線と路線名称上は分かれているが、当路線は途切れることなく一体的なダイヤ体系で運行されており、神戸駅は単にJR神戸線の途中駅となっている。大半の列車はJR神戸線内で完結せず大阪駅から[[JR京都線]]([[新快速]]を中心に一部はさらに[[京都駅]]から[[琵琶湖線]]・[[湖西線]])に直通するほか、姫路駅よりさらに西側の山陽本線[[上郡駅]]や[[赤穂線]][[播州赤穂駅]]まで直通する列車もある。[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]から[[JR東西線]]・[[片町線|学研都市線]]にも直通する列車も設定されている。
JR西日本の看板列車である[[新快速]]が高速・高頻度運転を行っており、大阪駅 - 三ノ宮駅間30.6kmを最速21分、大阪駅 - [[明石駅]]間52.5kmを最速37分、大阪駅 - 姫路駅間87.9kmを最速60分で結び、[[特別急行列車|特急列車]]並みの[[表定速度]]で走行する。大阪駅 - 三ノ宮駅間では[[梅田地区の鉄道駅|大阪梅田駅]] - [[三宮駅|神戸三宮駅]]間を結ぶ[[阪急神戸本線]]および[[阪神本線]]、三ノ宮駅 - 姫路駅間では神戸三宮駅 - [[山陽姫路駅]]間を結ぶ[[阪急神戸高速線]]・[[阪神神戸高速線]]・[[山陽電気鉄道本線|山陽電鉄本線]]の[[私鉄]]各線が並行しており、人口の多い[[阪神間]](梅田 - [[三宮]]間)では「私鉄王国」と呼ばれる関西の中でも特に熾烈な乗客獲得競争が繰り広げられている。運賃は私鉄の方が安いが、所要時間ではJRのほうが短い。ただし、大阪駅 - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]間は[[回数乗車券|回数券]]や乗車券の区間分割購入により、並行する私鉄利用と差のない運賃での利用が可能となる。東海道本線区間にあたる大阪駅 - 神戸駅間の利用者数は1日平均385,099人<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=都市鉄道完全ガイド関西JR編 2021-2022年版|date=2021年6月22日 |publisher=双葉社}}</ref>で、同区間では阪急神戸本線の176,056人<ref name=":0" />、阪神本線の137,670人<ref name=":0" />と比べて圧倒的に多く、JR西日本管内では最多、JRグループ全体でも[[総武本線]](東京駅・御茶ノ水駅 - 千葉駅)に次いで第7位である。山陽本線区間の神戸駅 - 姫路駅・和田岬駅間の利用者数もJR西日本では[[JR京都線]]、[[大阪環状線]]に次いで第4位である。
ラインカラーは'''青'''({{Color|#0072ba|■}})であり、JR京都線ともどもアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本の[[コーポレートカラー]]がそのままラインカラーとして使われている。路線記号は '''A''' であるが、[[福知山線]](JR宝塚線)の列車が乗り入れる大阪駅 - 尼崎駅間は、重複して '''G''' も付与されている<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
全区間が[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]の管轄であり、[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|大阪近郊区間]]」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」のエリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。このうち大阪駅 - [[西明石駅]]間は[[電車特定区間]]に含まれており、区間外より割安な旅客運賃が適用される。
[[西日本旅客鉄道中国統括本部|中国統括本部]]の[[西日本旅客鉄道岡山支社|岡山・福山エリア]]各駅に掲示されている時刻表の停車駅案内図では、2023年3月18日のダイヤ改正時にデザインを一新して近畿統括本部や中国統括本部の[[西日本旅客鉄道山陰支社|山陰エリア]]と[[西日本旅客鉄道広島支社|広島・山口エリア]]の路線記号にも対応し、併せて[[姫新線]]・[[因美線]]・[[芸備線]]の路線記号での案内を岡山・福山エリアにも拡大した時に、厳密には含まれない山陽本線の[[姫路駅]] - [[上郡駅]]間を便宜上「{{JR西路線記号|K|A}} '''JR神戸線 JR Kobe Line'''」と案内している。
=== 路線データ ===
[[File:LineMap OsakaKobe.png|350px|thumb|JR神戸線・阪急神戸本線・阪神本線の位置関係]]
JR神戸線としてのもの。
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長87.9 km
** 西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
*** 大阪駅 - 姫路駅間 87.9 km
** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]):
*** 尼崎駅 - 姫路駅間 (80.2 km)
**** 尼崎駅以東は[[北方貨物線]]経由
* [[軌間]]:1,067 mm
* 駅数:40(起終点駅・貨物駅含む)
* 複線区間:
** 複々線:大阪駅 - 西明石駅間
** 複線:西明石駅 - 姫路駅間
* 電化区間:全線電化(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:複線自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P方式)
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* [[列車運行管理システム]]:[[運行管理システム (JR西日本)|JR京都・神戸線運行管理システム]]
* 最高速度:130 km/h
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間
** [[ICOCA]]エリア:全線(全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
* 2020年度の混雑率:快速線97%(尼崎→大阪 7:10-8:10)、緩行線90%(塚本→大阪 7:30-8:30)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref>
== 沿線概況 ==
{{JR神戸線路線図}}
{{Main|東海道本線#大阪駅 - 神戸駅間|山陽本線#神戸駅 - 姫路駅間}}
特に人口の多い京阪神地区は、「私鉄王国」と称され、特に[[東海道本線]]・[[山陽本線]](JR神戸線)は、[[阪急電鉄]]・[[阪神電気鉄道]]・[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]などの私鉄と並走しており、その利便性の高さから鉄道利用が定着している。JRは主に大阪 - 明石間、三ノ宮 - 姫路間など私鉄に比べ長距離の輸送を担う。
* [[灘駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]間は、[[阪急神戸本線]]・[[阪急神戸高速線]]と並走している。
* [[須磨駅]] - [[明石駅]]間は、山陽電鉄本線と並走している。この区間にある明石駅・[[垂水駅]]・[[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]]は、それぞれ山陽電鉄の[[山陽明石駅]]・[[山陽垂水駅]]・[[山陽塩屋駅]]と隣接している。明石駅のホームは、山陽明石駅のホームと隣同士にある。
大阪駅 - 兵庫駅間は[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]](外側線・内側線)、新長田駅 - 西明石駅間は[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]([[列車線]]・[[電車線]])で、兵庫駅 - 新長田駅間で電車線(内側線)と列車線下り線(外側線)が立体交差する。新長田駅 - 朝霧駅間の列車線にはホームがない。西明石駅 - 姫路駅間は[[複線]]となっている。基本的に、複々線区間では内側線および電車線は[[快速列車|快速]]・[[普通列車|普通]]、外側線および列車線は朝夕の快速・新快速・[[特別急行列車|特急]]・[[貨物列車]]などが走行している。
[[須磨駅]] - [[朝霧駅]]間は海岸近くを走っており、[[大阪湾]]・[[明石海峡大橋]]・[[淡路島]]を車窓から望むことができる。
[[ファイル:JRW series223 Kobe.jpg|250px|thumb|none|沿岸部を走行する223系の新快速。後方は明石海峡大橋。]]
== 運行形態 ==
[[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]と一体化した[[運転系統]]となっている。また、尼崎駅を介して[[JR東西線]]・[[福知山線]](JR宝塚線)と直通運転を行っている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に[[新快速]]・[[快速列車|快速]]・普通([[京阪神緩行線|緩行電車]]<ref name="localline">緩行電車は、旅客向けの交通新聞社刊行『JR時刻表』では「各駅停車」と表記されている。</ref>)の3種別が運行され、これらによるパターンダイヤが組まれている。昼間時間帯以降は普通のうち半数はJR東西線・[[片町線|学研都市線]]に乗り入れる。基本的には15分サイクルの運転で、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。朝ラッシュ時間帯は約8分サイクルの運転である。このほか、[[北近畿]]・[[山陰地方|山陰]]方面への特急列車が運転されている。
[[大阪駅]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]間ではJR宝塚線の[[丹波路快速]]・快速・[[区間快速]]・普通も運転されている。これらの列車はJR京都線と直通する普通を除いて外側線を走行し[[塚本駅]]を通過する(ただし土休日夜の新三田発大阪行き普通1本のみ塚本駅も停車する・2020年3月14日改正時点)。
以下、特急以外で特記ないものは平日ダイヤで記述する。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; float:center; margin:1em 1em 1em 1em;"
|+ 日中1時間あたりの運転本数<br />(2020年4月1日現在)
!種別\駅名
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|大阪
!…
!colspan="1" style="width:1em;"|尼崎
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|須磨
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|西明石
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|加古川
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|姫路
!…
|-
|rowspan="3"|特急
|京都←||colspan="16" style="background-color:#ff8080;"|0-1本||style="text-align: left;"|→山陽本線・智頭急行線経由 倉吉
|-
|colspan="2"| ||colspan="15" style="background-color:#ff8080;"|0-1本||→播但線経由 香住・浜坂
|-
|新大阪←||colspan="4" style="background-color: #ff8080;"|1本 ||colspan="13" style="text-align: left;"|→JR宝塚線経由 福知山・豊岡・城崎温泉
|-
|新快速
|rowspan="3"|京都方面←||colspan="15" style="background-color:#cdf;"|4本||colspan="2"|
|-
|rowspan="2"|快速<br><ref group="注釈">西明石駅 - 姫路駅間は普通</ref>
|colspan="16" style="background-color:#feb;"|2本||style="text-align: left;"|→網干
|-
|colspan="12" style="background-color:#feb;"|2本 ||colspan="5"|
|-
|区間快速
|colspan="2"| ||colspan="3" style="background-color: #cfc;"|4本 ||colspan="13" style="text-align: left;"|→JR宝塚線 新三田・篠山口
|-
|rowspan="3"|普通
|colspan="4"|JR東西線 四条畷←||colspan="6" style="background-color:#ccc"|4本 ||colspan="8"|
|-
|高槻<br><ref group="注釈">上り大阪発14時半以降は京都</ref>←||colspan="6" style="background-color:#ccc"|4本 ||colspan="11"|
|-
|高槻←||colspan="4" style="background-color:#ccc"|4本 ||colspan="13" style="text-align: left;"|→JR宝塚線 宝塚
|}
[[ファイル:TokaidoLineStops_JRW_osaka2_20180317.svg|500px|none|停車駅(大阪駅-上郡駅間)]]
=== 優等列車 ===
関西から山陰方面への特急列車として、大阪から[[播但線]]経由で浜坂・鳥取方面へ特急「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」、京都から[[智頭急行智頭線|智頭急行線]]経由で鳥取・倉吉方面へ「[[スーパーはくと]]」が運転されている。このほか、通勤客向けの特急として朝と夜に「[[らくラクはりま]]」、夜行列車として東京と四国・山陰を結ぶ[[寝台列車|寝台特急列車]]「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」が運転されている。いずれも京都駅・大阪駅 - [[姫路駅]]間では130km/h運転を行っている。
特急は、JR神戸線区間では新快速停車駅の尼崎駅と芦屋駅は全列車が通過し、「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」は下りは姫路駅、上りは姫路駅・[[三ノ宮駅]]・大阪駅に停車する。「スーパーはくと」・「はまかぜ」・「らくラクはりま」は、大阪駅・三ノ宮駅・[[明石駅]]・姫路駅に全列車が停車し、「スーパーはくと」の一部と「はまかぜ」・「らくラクはりま」は[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]、「スーパーはくと」・「はまかぜ」の一部と「らくラクはりま」は[[西明石駅]]・[[加古川駅]]、「らくラクはりま」は新快速が通過する[[大久保駅 (兵庫県)|大久保駅]]にも停車する。
=== 新快速 ===
{{See also|新快速#東海道本線・山陽本線・北陸本線・赤穂線・湖西線|京阪神快速}}
料金不要の列車では最も停車駅の少ない速達列車で、JR神戸線内の停車駅は、[[大阪駅]]・[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]・[[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]]・[[三ノ宮駅]]・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]・[[明石駅]]・[[西明石駅]]・[[加古川駅]]・[[姫路駅]]である。複々線区間では外側線・列車線を走行するが、快速から格上げされた下りの最終の新快速である深夜の西明石行き1本だけは、[[兵庫駅]]から電車線を走行する。大半が姫路駅までの運転であるが、朝晩などの一部の列車は姫路駅から各駅に停車して[[山陽本線]]の[[網干駅]](下り1本、上り2本は[[上郡駅]])発着および[[相生駅 (兵庫県)|相生]]経由で[[赤穂線]]の[[播州赤穂駅]]発着で運行されている。また平日朝にも1本だけ西明石行きの下り新快速が設定されている。
平日朝夕時間帯は本数が多くなる。日中時間帯は大阪駅 - 姫路駅間で1時間に4本運転されており、この時間帯の下り列車は大阪駅を毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車する。大阪発19時15分までの1時間は7本が設定されている。土曜・休日ダイヤでは朝も15分間隔(夜は20分間隔)で運転されている。
日中は大阪駅 - 塚本駅間でJR宝塚線の普通列車と並走し(下りはJR京都線の[[東淀川駅]]付近から並走し、新大阪駅・大阪駅を同時発車)、西宮駅・六甲道駅・朝霧駅で先行の普通列車を、兵庫駅で先行の快速を追い抜き、加古川駅で快速と相互接続している。また、朝ラッシュ時は神戸駅で快速と接続しているが、階段を降りて別ホームでの連絡となる。
車両は全列車が[[JR西日本223系電車|223系]][[JR西日本223系電車#1000番台|1000番台]]・[[JR西日本223系電車#2000番台|2000番台]]および[[JR西日本225系電車|225系]][[JR西日本225系電車#0番台|0番台]]・[[JR西日本225系電車#100番台|100番台]]で運転されている。大阪駅 - 姫路駅間では土曜・休日は[[2011年]][[3月12日]]のダイヤ改正から<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成23年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2010-10-17 |url=http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110124215220/http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf |archivedate=2011-01-24}}</ref>、平日は夕方の大阪始発を除いて[[2017年]][[3月4日]]のダイヤ改正から12両に統一されている<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成29年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2016-12-16 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/161216_00_keihanshin.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-16 |archiveurl=|archivedate=}}</ref>。播州赤穂駅・上郡駅発着の12両編成の列車については網干駅や姫路駅で[[増解結|車両の連結・切り離し作業]]を行う。
JR発足以降、JR京都線も含めてオール転換クロスシートの[[JR西日本221系電車|221系]]および223系1000番台・2000番台が充当され、車両性能の限界に近い、特に姫路駅 - 加古川駅間では特急より速い[[表定速度]]100km/hを超える高速運転を行っていた。[[JR福知山線脱線事故]]に関連したアーバンネットワークの全体的なスピードダウンとなった[[2006年]][[3月18日]]のダイヤ改正で、大阪駅 - 三ノ宮駅間の所要時間は改正前19 - 22分が改正後20 - 24分にやや延びた<ref>[https://web.archive.org/web/20060203031421/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/060130b.html 平成18年3月18日ダイヤ改正]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2006年1月30日</ref>。それでも乗車券のみで利用できる列車としては速い部類に入る。ただし平日朝・夕のラッシュ時はやや変則的な運転体系になるために複線区間である西明石駅 - 姫路駅間での運転時分が若干伸びる。
=== 快速 ===
{{See also|京阪神快速}}
JR神戸線内の停車駅は、[[大阪駅]]・[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]・[[西宮駅 (JR西日本)|西宮駅]]・[[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]]・[[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]]・[[六甲道駅]]・[[三ノ宮駅]]・[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]・[[兵庫駅]]・[[須磨駅]]・[[垂水駅]]・[[舞子駅]]と[[明石駅]] - [[加古川駅]]・[[姫路駅]]間の各駅である(後述する一部の列車を除く)。JR神戸線内では大阪駅 - 明石駅間で一部の駅を通過する運転を行うが、明石駅 - 加古川駅・姫路駅間では各駅に停車する「普通」として運転されており、網干駅・播州赤穂駅・上郡駅まで乗り入れる。京都方面行きは早朝時間帯を除きJR京都線の[[高槻駅]]から「普通」に種別が変更される(早朝時間帯は高槻駅から先、[[長岡京駅]]に停車して[[京都駅]]から普通列車)。[[JR東西線]]・[[片町線|学研都市線]]と直通する列車はない。
大阪駅 - 西明石駅間では基本的に内側線・電車線を走行するが、朝ラッシュ時に運転されている大阪方面行きの快速は外側線・列車線を走行し、列車線にホームがない舞子駅・垂水駅・須磨駅を通過する。また、平日朝ラッシュ時の姫路方面行きの快速は大阪駅から芦屋駅もしくは兵庫駅まで外側線を走行し、それらの駅からは内側線を走行する。また、土曜・休日朝の大阪方面行きの快速は兵庫駅で外側線に移動し芦屋駅まで外側線を走行する。
朝夕時間帯は本数が多くなる。朝ラッシュ時は加古川駅(対面)・神戸駅で新快速(階段連絡)、芦屋駅で普通と[[相互発着|相互に接続]]して神戸駅 → 大阪駅間で後続の新快速よりも先着する。また、御着駅と土山駅または東加古川駅または大久保駅で新快速の通過待ちをする。日中時間帯は1時間に4本(加古川駅 - 姫路駅・網干駅間は2本)運行されている。この時間帯の下り列車は大阪駅を毎時07・22・37・52分の15分間隔で発車する。大阪駅・芦屋駅・須磨駅で普通、加古川駅で新快速と相互に接続している。土曜・休日ダイヤでは朝の大阪行きを除いて内側・電車線走行の15分間隔(夜は20分間隔)で運転されている。原則として尼崎駅でJR東西線 - JR宝塚線直通の快速と同じホームで相互に接続する。なお、加古川駅・神戸駅での新快速連絡および、御着駅・東加古川駅・土山駅・大久保駅での新快速通過待ちの場合は、ドア横のボタンでドアを開閉する形をとっている。
車両は[[JR西日本221系電車|221系]]と[[JR西日本223系電車|223系]][[JR西日本223系電車#1000番台|1000番台]]・[[JR西日本223系電車#2000番台|2000番台]]・[[JR西日本223系電車#6000番台|6000番台]]([[網干総合車両所]]所属車)および、[[JR西日本225系電車|225系]][[JR西日本225系電車#0番台|0番台]]・[[JR西日本225系電車#100番台|100番台]]が充当されている。平日朝ラッシュ時は外側線を走行し、一部は130km/h運転を行い、223系1000番台・2000番台、225系0番台・100番台のみが使用される。それ以外の快速は最高速度120km/hであり、221系、223系6000番台も使用される。
姫路・加古川方面からの大阪方面への列車は始発駅から西明石駅到着まで車内では「普通(西明石から快速)」または「西明石まで各駅に停車、西明石から快速」と表記・案内され、姫路駅 - 大久保駅間の各駅の[[発車標]]および自動放送でも「西明石から快速」、この区間の駅の時刻表では三ノ宮・大阪方面は「西明石まで各駅に停車、西明石から快速<ref group="注釈">加古川駅では普通(西明石から快速)で案内。</ref>」として案内されている。列車の種別幕は、加古川・姫路方面への列車は明石駅で「快速」から「普通」に変わるが、大阪方面への列車は西明石駅で「普通」から「快速」に変わる。
[[1991年]]3月15日までは、日中時間帯の半数が西明石駅発着であり、[[2004年]]10月15日までは朝ラッシュ明け、[[2009年]]3月13日までは深夜にそれぞれ西明石行きの列車が設定されていた。[[2013年]][[3月16日]]の改正で、平日の午前中の快速1本が西明石行きに変更された。[[2000年]]3月10日までは大阪方面から[[赤穂線]][[備前片上駅]]まで運転する列車があった(姫路方面は外側線を運転)。2013年3月16日のダイヤ改正で夕方の新快速が増発されたことにより、この時間帯の外側線で運行する快速列車が廃止された。
=== 普通 ===
各駅に停車する種別である。ただし大阪駅 - 姫路駅間直通で各駅に停車する列車はなく、大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間において[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]](片側4ドア)によって運転される列車(緩行電車<ref name="localline" />)と、明石駅 - 姫路駅・網干駅間で[[近郊形車両|近郊形電車]](片側3ドア)によって運転されている列車の2種類がある。
==== 大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間 ====
{{See also|京阪神緩行線}}
内側線・電車線を走行し、尼崎駅 - 須磨駅・西明石駅間の列車の半数はJR東西線・学研都市線に乗り入れる。基本的に神戸方面は西明石駅までの運転である。学研都市線内で区間快速として運転する西明石駅発着の列車も設定されている。この場合は西明石行きが京橋駅で、北新地・京橋・四条畷方面行きが尼崎駅で列車番号が変更になる。
朝夕時間帯は本数が多くなる。毎日早朝5時台には神戸始発の系統が京都行き・西明石行きで運転されている。朝ラッシュ時の上りは加古川・大久保始発と神戸・[[甲子園口駅|甲子園口]]・尼崎始発の系統が設定されている。芦屋駅で新快速・快速と相互に接続しており、神戸市内の各駅から大阪駅への速達性が図られている。尼崎始発の系統はJR東西線直通系統から接続している。
日中時間帯は1時間に8本(須磨駅 - 西明石駅間は4本)が運転されている。日中はJR京都線直通系統が須磨駅で折り返すため、西明石駅発着の列車はJR東西線・学研都市線直通系統のみとなる。毎日夜間には甲子園口行きと神戸行きがそれぞれ1本ずつ設定されている。芦屋駅・須磨駅で快速と接続する電車と須磨駅・西明石駅で折り返す電車は、停車時間が長いためドア横のボタンでドアを開閉する形をとっている。
15分・20分サイクルの時間帯は尼崎駅でJR宝塚線・JR東西線直通列車同士が相互に接続している。土曜・休日ダイヤではほぼ終日約7分半間隔(夜は10分間隔)で運転されている。
下り最終列車の京都発西明石行きの西明石駅到着時刻は1時14分であり、JR西日本の[[アーバンネットワーク|京阪神エリアの路線]]で最も到着時刻が遅い。
車両は[[JR西日本207系電車|207系]]と[[JR西日本321系電車|321系]]が使用されており、7両編成で運転されている。
1972年3月15日のダイヤ改正で日中15分間隔の1時間4本(大阪駅 - 甲子園口駅間は8本)で運行されるようになった。[[1985年]][[3月14日]]に大阪駅 - 甲子園口駅間の本数が6本になり、加古川駅発着の普通が設定されたが、加古川駅発着は朝ラッシュ時は2本、日中・夕方は1本で運行されていた。
1986年11月1日に日中の神戸駅折り返し系統が設定され、阪神・淡路大震災を経て1996年7月20日に須磨駅折り返しに延長<ref>{{Cite news |title=神戸-須磨間の運転本数が倍に JR西日本に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-06-11 |page=3 }}</ref>、明石海峡大橋開通を機に1998年10月3日に西明石駅発着に統一された。2006年3月17日までは毎日午前中に大久保駅発着の設定があった。2006年3月18日の改正では輸送実態に合わせたダイヤ見直しで大阪方面・京都駅発着系統が須磨駅折り返しに変更され、須磨駅 - 西明石駅間の1時間の本数は8本から4本(JR東西線直通系統のみ乗り入れ)に変更された。2008年3月15日の改正で日中の大阪方面(京都駅発着)の半数の列車が西明石駅発着に変更され、西明石駅発着が6本、須磨駅折り返しが2本になった。[[2010年]][[3月13日]]の改正で日中の半数の系統が須磨駅折り返しに戻され、この時間帯の運転系統が再編された。
加古川駅発着列車は1991年3月16日に快速が加古川駅発着になったときに朝のみに縮小され、[[1997年]][[9月1日]]に5本に増発された。甲子園口駅発着の列車は、2007年8月27日から同駅の[[バリアフリー]]化工事のため尼崎駅発着や芦屋発に変更され<ref>[https://web.archive.org/web/20071220211158/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173195_799.html JR神戸線甲子園口駅2番のりばを発着する列車のダイヤ変更について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2007年7月24日</ref>、工事が終了した2009年3月14日のダイヤ改正で再び毎日早朝・深夜(深夜の列車は西明石行きから変更)に設定。2010年3月13日の改正では朝6時台と夜23時台([[宮原総合運転所#宮原操車場|宮原操車場]] - 甲子園口駅間は回送)に縮小された。
===== 女性専用車 =====
{|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;"
|-
|style="background:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #0072ba;"|女性専用車
|-
|{{TrainDirection|加古川|大阪}}
|-
|
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;"
|-
|style="width:2em;"|1
|style="width:2em;"|2
|style="width:2em;"|3
|style="width:2em;"|4
|style="width:2em; background:#fcf"|5
|style="width:2em;"|6
|style="width:2em;"|7
|}
|}
大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間を運転する普通のうち、207系の京都側から3両目と321系の5号車には、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
JR神戸線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw_20021007">[http://replay.waybackmachine.org/20021203004309/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月7日</ref>が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について]・[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。
==== 明石駅 - 加古川駅・姫路駅間 ====
この区間では、大阪駅 - 明石駅間で快速として運行される列車が「普通」となり各駅に停車するのが基本であるが、朝晩や深夜には西明石駅 - 姫路駅間の普通も運転されている。この列車はJR神戸線では数少ない4両編成の列車も運転されている。
2008年3月14日までは平日朝の西明石発加古川行きの普通に7両編成の設定があった。[[2002年]]3月22日までは朝晩に限り、岡山方面から[[岡山電車区]]の[[国鉄115系電車|115系]]使用の普通が西明石駅まで乗り入れていたが、翌23日の改正以降は岡山方面からの乗り入れは姫路駅までとなっており、JR神戸線への乗り入れは廃止された。
=== 臨時列車 ===
==== 大晦日終夜運転 ====
沿線には[[生田神社]]や[[西宮神社]]などの大きな社寺があるため、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて、JR神戸線では大阪駅 - 西明石駅間(運転区間はJR京都線京都駅 - 西明石駅間)において普通のみ約30分間隔で(1時間2本程度)の[[終夜運転]]が実施されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。なお、西明石駅 - 姫路駅間においても普通のみで2001年度から(当時は約60分間隔で1時間1本程度)<ref>[https://web.archive.org/web/20020210020355/http://www.westjr.co.jp/news/011016f.html 大晦日から元旦に『終夜臨時列車』を各方面に運転!](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2001年10月16日</ref>2017年度まで(同年度は約90分間隔)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/11/page_11531.html |title=大みそかの終夜運転のお知らせ 〜大みそか深夜から元旦にかけて終夜運転を行います〜 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2017-11-27 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>終夜運転を実施していた。かつては奈良線に乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している<ref name="jrw_19991015">[https://web.archive.org/web/20000519092121/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n991015d.html 平成11年度【 冬 】の臨時列車の運転について 在来線(終夜臨時列車&初日の出列車)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年10月15日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20010303123917/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n001016d.html −平成12年度【 冬 】の臨時列車の運転について−(別紙詳細)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2000年10月16日</ref>。
このほか、1999年度の終夜運転時には快速も運転されており、快速「初日の出須磨浦号」が大阪発西明石行きで、快速「初日の出書写山号」が大阪発姫路行きで運転され、それぞれ[[須磨海岸]]および[[書写山]]からの初日の出を拝むために運転されていた<ref name="jrw_19991015" />が、のち全区間とも普通に変更され、2004年度までに運転を終了している。
==== 神戸シーサイドレジャー号 ====
[[2000年]]と[[2001年]]の[[7月]] - [[9月]]の土曜・休日に[[四条畷駅]]・[[放出駅]] - [[西明石駅]]間で[[臨時列車|臨時]]快速「'''神戸シーサイドレジャー号'''」が1往復運転されていた(2001年の復路は放出行き)。停車駅は、四条畷駅 - 尼崎駅間の各駅・芦屋駅・三ノ宮駅・神戸駅・須磨駅・垂水駅 - 西明石駅間の各駅であった。
[[神戸市]]西部の[[須磨海水浴場]]・[[マリンピア神戸]]([[三井アウトレットパーク マリンピア神戸]])・アジュール舞子、[[明石市]]東部の[[大蔵海岸]]へのアクセスとして、それらの施設の最寄駅に着くたび特別に車内放送(案内)が流されたが、宣伝不足のためあまり利用されず、その後、大蔵海岸とアジュール舞子で続けて砂浜が陥没する事故が起き、両海水浴場がともに閉鎖し、以後は運転されていない。
== 使用車両 ==
{{Main2|福知山線(JR宝塚線)との直通列車|福知山線#使用車両}}
国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。
=== 現在の車両 ===
2022年現在、普通・快速・新快速はすべて[[電車]]で、特急は電車と[[気動車]]で運転されている。
==== 電車 ====
<!-- 「JR京都線」にも同様の記述があります。「JR京都線」の記述内容も確認してください。-->
* [[JR西日本285系電車|285系]]
**[[寝台列車|寝台特急]]「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」で使用されている。
* [[JR西日本289系電車|289系]]
** 特急「[[らくラクはりま]]」で使用されている。
* [[JR西日本223系電車|223系]]([[JR西日本223系電車#1000番台|1000]]・[[JR西日本223系電車#2000番台|2000]]番台)・[[JR西日本225系電車|225系]]([[JR西日本225系電車#0番台|0]]・[[JR西日本225系電車#100番台|100]]番台)
** 網干総合車両所(本所)の車両が使用されている。223系は1995年8月12日から、225系は2010年12月1日<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2010/12/jr225_3.html 【JR西】225系営業運転開始] - 『鉄道ホビダス』[[ネコ・パブリッシング]] RMニュース 2010年12月3日</ref>から運用を開始し、新快速・快速(明石駅以西は普通)と、西明石駅 - 姫路駅間の区間運転の普通に使用されている。225系0・100番台と223系1000・2000番台は共通運用であるが、Aシート対応改造した223系1000番台のV3編成とV4編成は固定運用とされている。223系2000番台と225系100番台に存在する6両編成は、性能では他と差は無いが新快速には充当されていない。
* [[JR西日本221系電車|221系]]
** 網干総合車両所(本所)の車両が使用されている。運用開始当初は新快速でも運用されたが223系が導入されるとその役割を譲り、以降は快速(明石駅以西は普通)に使用され、6両、12両編成で運用される。
* [[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]]
** 網干総合車両所(明石支所)の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として大阪駅 - 加古川駅間で運転されている。
<gallery>
ファイル:Series-221-A1-Local.jpg|221系
ファイル:Series-223-1000-V4 50th.jpg|223系1000番台
ファイル:Series223-2000-W35.jpg|223系2000番台
ファイル:Series225-0-U3-Ōkubo-STA.jpg|225系0番台
ファイル:Series-225-100-U9-Local.jpg|225系100番台
ファイル:Series207-1000-S52.jpg|207系
ファイル:Series-321-D17 (2021-11-25).jpg|321系
ファイル:「らくラクはりま」運用の289系.jpg|289系
ファイル:「サンライズ出雲·瀬戸」写真は送り込み回送.jpg|285系
</gallery>
==== 気動車 ====
* [[智頭急行HOT7000系気動車|HOT7000系]]
** [[智頭急行]]の車両を使用し、特急「[[スーパーはくと]]」で使用されている。
* [[JR西日本キハ189系気動車|キハ189系]]
** 吹田総合車両所[[京都総合運転所|京都支所]]に所属する車両で、特急「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」として全線を走行している。[[2010年]][[11月7日]]から[[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]]に代わって運転を開始した<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174899_799.html 2010年7月定例社長会見] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年7月21日</ref>。
<gallery>
ファイル:HOT7000-7020.jpg|智頭急行HOT7000系
ファイル:JRW Series Kiha 189 Hamakaze 2.jpg|キハ189系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
==== 電車 ====
[[国鉄分割民営化]]後にJR西日本で使用されていた車両を記述する。
* [[国鉄113系電車|113系]]
** 網干総合車両所(本所)所属の車両を使用し、6両・7両・8両・11両で網干駅 - 大垣駅間などの快速で運転されていたが、2004年10月16日のダイヤ改正により運用を退いた<ref>『JR気動車客車編成表 '05年版』ジェー・アール・アール、2005年。{{ISBN2|4-88283-126-0}}。</ref>。
* [[国鉄115系電車|115系]]
** [[岡山電車区]]から網干総合車両所に転属した車両の他、2002年3月までは岡山電車区の所属車両として[[岡山駅|岡山]]方面から西明石駅まで乗り入れる運用もあった。
* [[国鉄117系電車|117系]]
** 1980年から新快速として運用を開始し、1989年3月11日から新快速に221系が投入された後でも最高速度を115km/hに向上させて新快速に充当されていたが、1991年3月16日のダイヤ改正以降は早朝・深夜の新快速に限定して運用され、翌1992年3月14日の改正でJR神戸線での運用がいったん廃止された。1995年4月3日に臨時列車として運用を再開したが、8月12日から223系の投入が始まり、1999年5月10日のダイヤ改正から朝ラッシュ時において223系で130km/h運転が始まったのに伴い、前日の9日限りでJR神戸線での定期運用を終了した。
* [[国鉄103系電車|103系]]
** 明石電車区(現:網干総合車両所明石支所)の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、高速化やJR東西線の開業を見越して207系に置き換えられ、1994年3月1日にいったん運用が廃止された。1997年9月1日にJR宝塚線 - JR京都線直通運用ができたのに伴い、宮原総合車両所所属の車両を使用し、普通列車で運用されていたが、2003年8月14日に廃止された。その後、[[JR福知山線脱線事故]]の影響で2005年8月1日より[[森ノ宮電車区]](現:吹田総合車両所森ノ宮支所)から[[宮原総合運転所]](現:網干総合車両所宮原支所)に103系を借り入れて運用に復帰、9月には[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)から購入した103系の編成が運用を開始し、321系の運用が始まる前日の2005年11月30日まで、JR神戸線では大阪駅 - 甲子園口駅で使用された<ref name="jrr_06">『JR気動車客車編成表 '06年版』、ジェー・アール・アール、2006年。{{ISBN2|4-88283-127-9}}。</ref>。
**加古川線用の103系の検査時には、加古川駅 - 網干総合車両所間で運行される。2023年3月までは和田岬線用の103系が、入出区のため兵庫駅 - 大久保駅 - 網干総合車両所明石支所間で[[回送|回送列車]]として運行されていた。
* [[国鉄201系電車|201系]]
** 網干総合車両所(明石支所)の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、321系を投入して普通の最高速度120km/hに統一するため、森ノ宮電車区(現:吹田総合車両所森ノ宮支所)および[[奈良電車区]](現:吹田総合車両所奈良支所)に転属して2007年3月17日限りで運用が廃止された。
** 通常は7両編成であるが、阪神・淡路大震災からの復旧で西明石駅 - 灘駅間の運転が再開されたことに伴い、輸送力増強のために8両編成と12両編成に組み替えられ、快速として運転されたこともある。
* [[国鉄205系電車|205系]](0番台)
** 網干総合車両所(明石支所)の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、321系を投入して普通の最高速度を120km/hに統一するため、2006年2月7日限りで運用を終了し、[[日根野電車区]](現:[[吹田総合車両所]]日根野支所)に転属して[[阪和線]]運用に就いた。その後、宮原総合車両所(現:網干総合車両所宮原支所)に転属した車両を使って2011年3月14日から運用に復帰したが、阪和線転属前のように終日運用されず、また[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]より先の神戸・西明石方面には乗り入れず、京都駅・高槻駅 - 尼崎駅間のみで平日朝ラッシュ時限定で運用された。2013年3月16日のダイヤ改正で再び運用が廃止され、日根野支所に再び転属となった<ref>[http://railf.jp/news/2013/03/16/094200.html 205系が東海道本線から撤退] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース、2013年3月16日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2013/03/20/055000.html 205系C4編成が日根野支所へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース、2013年3月20日</ref>。
<gallery>
ファイル:JNR 103 tokaido yamazaki.jpg|103系
ファイル:JRW series113 JR-Kobe.jpg|113系
ファイル:JNR 117-103 shinkaisoku.jpg|117系
ファイル:Jnr 201skyblue.jpg|201系
ファイル:JRW series205-Kobe.jpg|205系0番台
</gallery>
==== 気動車 ====
* [[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]]
** 特急「はくと」「はまかぜ」として使用され、「はくと」としては1997年11月に運転を終了、「はまかぜ」としては2010年11月6日に定期運用を終了した<ref>[http://railf.jp/news/2010/11/07/123500.html キハ181系“はまかぜ”ラストラン] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2010年11月7日</ref>。
== 阪神・淡路大震災からの復旧 ==
[[ファイル:Rokkomichi_Sta_j-k1.jpg|200px|thumb|right|大震災で崩壊した六甲道駅]]
[[ファイル:Rokkomichi Sta b043.jpg|200px|thumb|right|別の角度から]]
[[1995年]][[1月17日]]に発生した[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])は、JR神戸線にも大きな影響を与えた。
[[西宮駅 (JR西日本)|西宮駅]] - 須磨駅間で貨物列車を含め8本が脱線したほか<ref>『毎日新聞』1995年1月17日夕刊社会面9頁「阪神大震災 兵庫県南部地震--交通網寸断…新幹線や高速道の橋げた落下」(毎日新聞東京本社)</ref>、[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]でも39両が脱線、転覆した。駅施設関係では、[[六甲道駅]]を中心に高架橋や柱に大きな被害を受け、[[新長田駅]]付近の[[盛土]]が崩壊して駅設備が壊滅した。また、鷹取工場では建物が全壊したほか、検修庫や検修設備に損傷を受けたほか、土留め擁壁が倒壊するなどの被害を受けた。
発生直後から全線で運転を見合わせたが震災当日に運転再開することができず、翌18日に、大阪駅 - 尼崎駅( - 福知山線[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]])間の上下外側線と西明石駅 - 姫路駅間で運転を再開した<ref>『毎日新聞』1995年1月17日朝刊一面1頁「阪神大震災 兵庫県南部地震 JR、私鉄動き出す 阪神間なお運行ストップ」(毎日新聞大阪本社)</ref>。運転再開は、折り返しができる駅を活用して工事が進められたが、折り返しができない須磨駅・住吉駅では新規にポイントを設置し、灘駅ではその先の[[摩耶駅|東灘信号場]]の構内配線を変更して引き上げ線とすることにより折り返しができるようにした。
西明石方面からは、ホームのある上下電車線を優先して復旧を行ったが、[[灘駅]] - 兵庫駅間は方向別線路となっていたため海側2線(下り列車線・電車線)を優先して復旧作業を行った。新長田駅付近では被害が大きかったため、下り列車線と[[和田岬線]]への[[兵庫駅#小運転線・専用線|小運転線]]を活用して複線化している。当時この小運転線は非電化であったため、急遽電化して対応した。なお、新長田駅は駅舎が全壊したため、1月30日に神戸駅 - 須磨駅間の運転を再開しても停車せず、3月10日に仮駅舎ができるまで通過していた。
ダイヤ面においては大阪方面から甲子園口駅までの復旧時は新快速(ただし大阪駅以西は各駅停車)と普通のみ運転され、京都方面からの快速は大阪駅で折り返し運転を行っていた。新快速は大阪方面からは芦屋駅開通時に運転を開始したが、姫路方面からは3月12日まで運転されることはなかった(ただし加古川駅 - 姫路駅間では新快速運転を行う列車は存在していた)。
震災の復旧作業の進捗によって、不通区間が徐々に短縮されていったが、不通区間の東西それぞれで封じ込められた車両で運用を行わなければならず、特に不通区間の東側では車両が不足していた。そのため、播但線を迂回ルートとして車両が回送されたが、播但線は非電化のため、[[集電装置|パンタグラフ]]などの付属機器を網干電車区(現在の網干総合車両所)で一旦撤去し、[[ディーゼル機関車]]の牽引により福知山運転所(現在の[[福知山電車区]])まで回送され、同所で取り外した機器類を取り付けて自力で宮原電車区(現在の[[宮原総合運転所]])などに回送された。
しかし、この再配置だけでは車両不足が解消できず、[[岡山電車区]]・[[広島運転所]]から115系19両および[[森ノ宮電車区]]・[[日根野電車区]]の103系が運用されたほか、震災時に鷹取工場に入場していた[[奈良電車区]]の221系も運用された。また、車両の増結を行うなどし、201系は通常7両編成で運用されているが、このうち4本を4M4Tの8両編成と、8M4Tの12両編成に組み替え、201系では最長となる12両編成で運転された。
六甲道駅を含む住吉駅 - 灘駅間は、高架橋が崩落し最も大きな被害を受けたため、最後まで不通区間として残ることになったが、4月1日に74日ぶりに全線が開通した<ref name="yomiuri950401">『読売新聞』1995年4月1日朝刊一面1頁「神戸―大阪が直結 震災から75日目 JR東海道線きょう1日、全面開通」(読売新聞大阪本社)</ref>。これにより震災後、阪神間の鉄道が初めて復旧することになり、この日に行われたダイヤ改正で新快速を増発している。六甲道駅復旧の模様は[[日本放送協会|NHK]]のテレビ番組『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』で取り上げられたほか、これを題材として[[関西テレビ放送]]で『[[BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸]]』が放送された<ref>『朝日新聞』2018年1月17日夕刊1社会面9頁「(阪神大震災24年)奇跡の74日、六甲道駅の復旧ドラマ化 前代未聞の工法、工事責任者描く」(朝日新聞大阪本社)</ref>。開通区間が延長されるたびに、開通直後から路盤固めまでの暫定ダイヤと、路盤が固まってから次に開通区間がのびるまでの暫定ダイヤの2種類がつくられ、震災発生から全通まで18回のダイヤ改正が行われた。
=== 開通の推移 ===
[[ファイル:JR Kobe-opened to traffic.png|300px|thumb|right|阪神・淡路大震災による開通の推移]]
* 1月18日:大阪駅 - 塚口駅間・西明石駅 - 姫路駅間が開通。大阪 - 尼崎間は上下外側線で普通のみ運転し、JR宝塚線塚口駅で折り返し。
* 1月19日:大阪駅 - 甲子園口駅間の上下内側線が開通。普通のみ運転。
* 1月23日:須磨駅 - 西明石駅間が開通<ref name="RJ354">{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |title = 阪神大震災から1年 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |pages = 86-88 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。上下電車線を使用して、快速・普通を運転。甲子園口駅 - 三ノ宮駅間でバスによる振替輸送<ref name="JRR1995-187">[[#JRR1995|『JR気動車客車編成表 95年版』187頁]]</ref>。
* 1月25日:甲子園口駅 - 芦屋駅間の上下内側線が開通<ref name="RJ354" />。普通は芦屋駅、新快速(大阪駅 - 甲子園口駅間は普通)は甲子園口駅折り返し。バスによる振替輸送を芦屋駅 - 三ノ宮駅間に短縮{{R|JRR1995-187}}。
* 1月30日:神戸駅 - 須磨駅間が開通<ref name="RJ354" />。兵庫駅 - 須磨駅間は、上下列車線運転する新長田駅付近 - 鷹取駅付近間を除き、上下内側線・電車線運転。新長田駅は通過。
* 2月8日:芦屋駅 - 住吉駅間の上下内側線が開通<ref name="RJ354" />。普通は住吉駅、新快速は芦屋駅折り返し。バスによる振替輸送を住吉駅 - 三ノ宮駅間に短縮{{R|JRR1995-187}}。
* 2月14日:尼崎駅 - 芦屋駅間の上下外側線が開通。普通・新快速は住吉駅折り返し、快速は芦屋駅折り返し。
* 2月20日:灘駅 - 神戸駅間の下り内外線が運転<ref name="RJ354" /><ref name="mainichi950220">『毎日新聞』1995年2月20日夕刊一面1頁「阪神大震災 JR東海道線神戸-灘間と阪神本線三宮-岩屋間が運転再開」(毎日新聞大阪本社)</ref>。灘駅 - 住吉駅間はバスによる振替輸送{{R|mainichi950220}}。他社に先駆けて[[神戸市]]中心部まで乗り入れるようになった。
* 3月10日:兵庫駅 - 鷹取駅間電車線に復帰し、新長田駅営業再開<ref name="JRR1995-190">[[#JRR1995|『JR気動車客車編成表 95年版』190頁]]</ref>。
* 3月26日:灘駅 - 神戸駅間の上り内側線が開通し、上り列車は上り内側線に復帰。
* 3月27日:灘駅 - 神戸駅間の下り列車が下り内側線に復帰。
* 4月1日:最後まで不通であった住吉駅 - 灘駅間が復旧し、全線開通する{{R|yomiuri950401}}。
== 歴史 ==
{{Main2|新快速・快速の沿革|京阪神快速#歴史|普通(緩行電車)の沿革|京阪神緩行線#沿革}}
JR神戸線としての歴史を記述する。
* [[1874年]]([[明治]]7年)
** [[5月11日]]:大阪駅 - 神戸駅間(20[[マイル|M]]27[[チェーン (単位)|C]]56[[リンク (単位)|L]]≒32.74[[キロメートル|km]])が旅客線として開業(三ノ宮駅 - 神戸駅間複線)。大阪駅・西ノ宮駅(現在の西宮駅)・三ノ宮駅・神戸駅が開業。
** [[6月1日]]:神崎駅(現在の尼崎駅)・住吉駅が開業。
** [[12月1日]]:大阪駅 - 神戸駅間で貨物営業が開始。
* [[1888年]](明治21年)
** [[11月1日]]:'''山陽鉄道'''により兵庫駅 - 明石駅間 (10M68C11L≒17.46km)が開業。兵庫駅・須磨駅・垂水駅・明石駅が開業。
** [[12月23日]]:明石駅 - 姫路駅間 (22M14C94L≒35.71km)が延伸開業。大久保駅・土山駅・加古川駅・阿弥陀駅(現在の曽根駅)・姫路駅が開業。
* [[1889年]](明治22年)
**8月:垂水駅が舞子駅に改称。
** [[9月1日]]:神戸駅 - 兵庫駅間 (1M11C25L≒1.84km)が複線で延伸開業。神戸駅で官営鉄道と接続。
* [[1894年]](明治27年)[[4月16日]]:西ノ宮駅 - 三ノ宮駅間が複線化。
* [[1896年]](明治29年)
** [[3月11日]]:大阪駅 - 西ノ宮駅間が複線化。
** [[7月1日]]:塩屋仮停車場(現在の塩屋駅)・舞子公園仮停車場(現在の舞子駅)が開業。
* [[1899年]](明治32年)
** [[1月1日]]:兵庫駅 - 姫路駅間が複線化。
** [[4月1日]]:舞子駅が垂水駅に、舞子公園仮停車場が舞子仮停車場に改称。
* [[1900年]](明治33年)
** 4月1日:鷹取駅が開業。
** [[4月18日]]:御着駅が開業。
** [[5月14日]]:宝殿駅が開業。
* 1906年(明治39年)12月1日:山陽鉄道が国有化。同時に和田岬線改マイル、0.2M(≒0.32km)延長。塩屋仮停車場・舞子仮停車場が駅に変更。
* [[1908年]](明治41年)
** [[2月10日]]:西ノ宮駅 - 住吉駅間に戎仮乗降場(初代)が開業。神崎駅 - 西ノ宮駅間に武庫川仮信号所(初代)、西ノ宮駅 - 住吉駅間に芦屋仮信号所(初代)が開設。[[西宮神社]]祭典に伴う列車増発に対応するため。
** [[2月12日]]:戎仮乗降場(初代)・武庫川仮信号所(初代)・芦屋仮信号所(初代)が廃止。
** [[2月22日]]:[[岡本梅林公園]]への旅客輸送のため、西ノ宮駅 - 住吉駅間に岡本仮乗降場(初代)が開業。
** 3月16日:岡本仮乗降場(初代)が廃止。
** [[11月16日]]:神崎駅 - 西ノ宮駅間に武庫川仮信号所(2代目)、西ノ宮駅 - 住吉駅間に芦屋仮信号所(2代目)が開設。[[神戸港]]で[[観艦式]]開催による列車増発に対応するため開設。
** 11月19日:武庫川仮信号所(2代目)・芦屋仮信号所(2代目)が廃止。
* [[1909年]](明治42年)
** 2月8日:岡本仮乗降場(2代目)が開業。
** 12月21日:西宮駅 - 住吉駅間に戎仮乗降場(2代目)が開業(初代と同目的)。神崎駅 - 西ノ宮駅間に武庫川仮信号所(3代目)、西ノ宮駅 - 住吉駅間に芦屋仮信号所(3代目)が開設(両者とも廃止日不詳)。
* [[1910年]](明治43年)
** [[3月29日]]:神崎駅 - 西ノ宮駅間に水野信号所、西ノ宮駅 - 住吉駅間に打出信号所が開設。
** 10月1日:灘聯絡所が駅に変更され、貨物駅として灘駅(初代)が開業。
* [[1913年]]([[大正]]2年)8月1日:打出信号所が駅に変更され、芦屋駅が開業。
* [[1915年]](大正4年)2月24日:戎仮乗降場(2代目)・岡本仮乗降場(2代目)が廃止。
* [[1917年]](大正6年)
** 5月15日:明石駅 - 大久保駅間に小久保信号所が開設。
** 12月1日:[[灘駅]](2代目)が開業。貨物駅の灘駅(初代)が東灘駅に改称。
* [[1918年]](大正7年)5月15日:大阪駅 - 神崎駅間に歌島仮信号所が開設。
* [[1922年]](大正11年)
** 4月1日:信号所が信号場に改称。
** 4月15日:大久保駅 - 土山駅間に魚住信号所、土山駅 - 加古川駅間に平岡信号場が開設。
* [[1926年]](大正15年)11月15日:歌島信号場 - 東灘駅間が複々線化。歌島信号場が廃止。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更。
* [[1931年]](昭和6年)10月10日:兵庫駅 - 鷹取駅間が3線化。神戸駅 - 鷹取駅間が高架化。
* [[1934年]](昭和9年)
** 5月25日:大阪駅 - 神崎駅間に歌島信号場が開設。
** [[7月20日]]:大阪駅 - 須磨駅間が電化され、電車運転開始。塚本駅・立花駅・甲子園口駅・六甲道駅・元町駅が開業。歌島信号場が廃止。
** [[9月20日]]:須磨駅 - 明石駅間が電化。
* [[1936年]](昭和11年)[[9月9日]]:魚住信号場・平岡信号場が廃止。
* [[1937年]](昭和12年)
** [[5月23日]]:東灘駅 - 兵庫駅間が複々線化。
** 10月10日:大阪駅 - 塚本駅間複々線化。
* [[1938年]](昭和13年)[[9月22日]]:兵庫駅 - 鷹取駅間が5線化。
* [[1944年]](昭和19年)4月1日:明石操車場が駅に変更され、西明石駅が開業。明石駅 - 西明石駅間が電化。
* [[1949年]](昭和24年)1月1日:神崎駅が尼崎駅に改称。
* [[1954年]](昭和29年)4月1日:新長田駅が開業。
* [[1958年]](昭和33年)4月10日:西明石駅 - 姫路駅間が電化。
* [[1961年]](昭和36年)10月1日:魚住駅・東加古川駅が開業。
* [[1965年]](昭和40年)[[3月28日]]:鷹取駅 - 西明石駅間が複々線化。垂水駅付近が高架化。
* [[1968年]](昭和43年)6月20日:朝霧駅が開業。
* [[1969年]](昭和44年)10月1日:塚本駅付近が高架化。
* [[1972年]](昭和47年)10月1日:東灘駅が操車場に変更され、東灘操車場が開設。
* [[1981年]](昭和56年)4月1日:東灘操車場が信号場に変更され、東灘信号場が開設。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:大阪駅 - 姫路駅間で'''JR神戸線'''の愛称が使用開始。
* [[1994年]]([[平成]]6年)[[3月21日]]:JR貨物の姫路貨物駅が開業。
* [[1995年]](平成7年)
** [[1月17日]]:阪神・淡路大震災により、全線が不通になる。
** [[1月18日]]:一部区間で運転再開(以後[[#開通の推移|段階的に開通]]し、不通区間を解消)。
** [[4月1日]]:最後まで不通であった住吉駅 - 灘駅間が復旧し全通<ref name="RJ354" />。
* [[1996年]](平成8年)
** 3月8日:日中の快速が全列車221系化<ref>[https://web.archive.org/web/19980205212114/www.westjr.co.jp/new/1press/press_9.html JR東西線の開業とアーバンネットワークのダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1995年9月27日</ref>。
** 10月1日:甲南山手駅が開業。
** 10月:一部の駅で[[#接近メロディ|接近メロディ]]を試験導入<ref name="交通970311">{{Cite news |title=列車接近をメロディーで JR神戸線塚本-姫路間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-11 |page=3 }}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** 3月8日:ダイヤ改正により、日中の223系による新快速が30分間隔になり、すべての快速が221系での運転になる<ref>[https://web.archive.org/web/19980206005423/www.westjr.co.jp/new/1press/kaisei9.htm 平成9年3月アーバンネットワークのダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1996年12月16日</ref>。すべての新快速・快速が尼崎駅に停車するようになる。また、各駅に[[#接近メロディ|接近メロディ]]「さざなみ」が導入{{R|交通970311}}(大阪駅と、当時は未開業であったさくら夙川駅、摩耶駅、須磨海浜公園駅、ひめじ別所駅、東姫路駅は除く)。
** [[9月4日]]:大阪駅に接近メロディ導入。
* [[2002年]](平成14年)
**[[7月29日]]:大阪駅 - 西明石駅間で「[[運行管理システム (JR西日本)|JR京都・神戸線運行管理システム]]」が導入<ref>『JR気動車客車編成表 '03年版』ジェー・アール・アール、2003年。{{ISBN2|4-88283-124-4}}。</ref>。
** [[11月6日]]:塚本駅 - 尼崎駅間で、別の[[鉄道人身障害事故|人身事故]]で救助を行っていた救急隊員が死傷する人身事故([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#東海道線救急隊員死傷事故|東海道線救急隊員死傷事故]])が発生。
** [[12月2日]]:女性専用車が導入される<ref name="jrw_20021007" />。
* [[2003年]](平成15年)
**[[5月12日]]:加古川駅下り線が高架化。
** [[5月26日]]:加古川駅上り線高架化され、山陽本線部分の高架化が完成<ref>『JR気動車客車編成表 '04年版』ジェー・アール・アール、2004年。{{ISBN2|4-88283-125-2}}。</ref>。
** [[10月1日]]:全駅のコンコースの喫煙コーナーが廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
** [[11月1日]]:全区間で「ICOCA」の利用サービスが開始<ref>[https://web.archive.org/web/20040803184954/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030820a.html 「ICOCA」いよいよデビュー! 〜 平成15年11月1日(土)よりサービス開始いたします 〜](インターネット・アーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月30日</ref>。
** [[12月1日]]:JR貨物の鷹取駅が神戸貨物ターミナル駅に改称。
* [[2005年]](平成17年)3月1日:ひめじ別所駅が開業<ref>[https://web.archive.org/web/20050228071943/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/050221a.html 平成17年3月ダイヤ改正出発式および記念式典の開催](インターネット・アーカイブ)- 2005年2月21日</ref>。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月26日]]:姫路駅付近の山陽本線部分の高架化が完成<ref name="jrr_06" />。
** 10月1日:西明石駅 - 播州赤穂駅・上郡駅間で「JR京都・神戸線運行管理システム」が導入<ref>[https://web.archive.org/web/20070312202955/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/k060920.html 2006年9月定例社長会見](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道 2006年9月20日</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:さくら夙川駅が開業<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070224142511/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/061222a_01.pdf 平成19年春ダイヤ改正(別紙詳細)]}}(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2006年12月22日</ref>。西ノ宮駅が西宮駅に改称<ref>[https://web.archive.org/web/20071120054841/http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200611220043.html 新駅名称「さくら夙川」に 西ノ宮駅は「西宮」に改称](インターネット・アーカイブ)- [[朝日新聞]] 2006年11月22日</ref>。各駅で[[駅自動放送]]を更新。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:須磨海浜公園駅が開業。
* [[2009年]](平成21年)7月1日:駅ホームが終日禁煙になる<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html 在来線特急列車などの全席禁煙化ならびに在来線ホームの禁煙化の拡大について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年3月26日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)4月18日:女性専用車が毎日、終日設定される<ref name="jrw_20110304" />。
* [[2016年]](平成28年)3月26日:摩耶駅、東姫路駅が開業<ref name="westjr20151002-7726">{{Cite press release |和書 |title=JR神戸線(東海道線)六甲道・灘間新駅 駅名の決定について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2015-10-02 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/10/page_7726.html |accessdate=2015-10-05}}</ref><ref name="westjr20151002-7724">{{Cite press release |和書 |title=JR神戸線(山陽線)御着・姫路間新駅 駅名の決定について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2015-10-02|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/10/page_7724.html |accessdate=2015-10-02}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=平成28年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2015-12-18 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/12/page_8083.html |accessdate=2016-02-22 }}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:各駅に[[駅ナンバリング|駅ナンバー]]が導入され、使用を開始する。
* [[2019年]](平成31年)[[3月18日]]:平日限定で姫路駅 - 大阪駅間に特急「[[らくラクはりま]]」が運行開始<ref name="jrwest20181214">{{Cite press release |和書 |title=2019年3月16日にダイヤ改正を実施します |publisher=西日本旅客鉄道 近畿統括本部 |date=2018-12-14 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/181212_00_keihanshin_1.pdf |format=PDF |page=10 |accessdate=2018-12-16}}</ref><ref>[https://railf.jp/news/2019/03/19/150000.html “らくラクはりま”の運転開始] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 鉄道ニュース、2019年3月19日</ref>。
* 2025年度(令和7年度):東加古川駅付近連続立体交差事業認可取得予定<ref name="東加古川駅付近連立">{{PDFlink|[https://web.pref.hyogo.lg.jp/governor/documents/g_kaiken200217_sesaku12.pdf 社会基盤整備の推進]}} - 兵庫県 p.11、2020年6月10日閲覧。</ref>。
== 駅一覧 ==
以下では、JR神戸線の停車場(駅・信号場)と営業キロ、停車列車、接続路線などを一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「[[東海道本線#廃駅]]」および「[[山陽本線#廃駅・廃止信号場]]」を参照。
* (貨)=貨物専用駅
* [[特定都区市内]]制度適用範囲の駅:{{JR特定都区市内|阪}}=大阪市内、{{JR特定都区市内|神}}=神戸市内
* <nowiki>#</nowiki>:待避可能駅
* 停車駅
** 普通:すべての旅客駅に停車(表中省略)
** 快速・新快速:●印の駅は全列車停車、▲印の駅は朝の上りの一部を除いて停車、|印の駅は全列車通過
*** 快速は、明石駅から姫路方面は普通として運転(上り大阪方面の種別表示変更は西明石駅から)
** 特急([[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]・[[スーパーはくと]]・[[らくラクはりま]]・[[サンライズ瀬戸]]・[[サンライズ出雲]]):各列車記事参照
* 接続路線:駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月17日より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>、北陸本線・琵琶湖線・JR京都線からの通し番号となっている。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:85%;"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}}
!rowspan="2" style="width:5em; border-bottom:solid 3px #0072ba; font-size:90%;"|駅ナンバー<br /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅間<br />営業<br />キロ
!colspan="4"|累計営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; background:#feb; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|快速|height=3em}}
!rowspan="2" style="width:1em; background:#cdf; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|新快速|height=4em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地
|-style="border-bottom:solid 3px #0072ba; line-height:1.5em;"
!神戸<br />から
!大阪<br />から
![[米原駅|米原]]<br />から
![[東京駅|東京]]<br />から
|-
|rowspan="17" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東海道本線]]|height=12em}}
!JR-A47
|[[大阪駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|33.1
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|110.5
|style="text-align:right;"|556.4
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[東海道本線]]([[JR京都線]])・[[ファイル:JRW kinki-G.svg|17px|G]] [[福知山線]](JR宝塚線: JR-G47)<ref group="*">福知山線の正式な起点は[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]だが、運転系統としての「JR宝塚線」は全列車が東海道本線(JR神戸線)経由で大阪駅まで乗り入れる。</ref>・[[ファイル:JRW kinki-O.svg|17px|O]] [[大阪環状線]](JR-O11)・[[ファイル:JRW kinki-F.svg|17px|F]] [[おおさか東線]](JR-F01)<ref group="*">おおさか東線の正式な起点は[[新大阪駅]]だが、運転系統としての「おおさか東線」は東海道本線貨物支線(梅田貨物線)経由で大阪駅まで乗り入れる。</ref>・東海道本線貨物支線([[梅田貨物線]])・[[ファイル:JRW kinki-H.svg|17px|H]] [[JR東西線]]([[北新地駅]]<ref group="*">大阪駅と北新地駅の間は徒歩連絡の特例がある([[JR東西線#乗車制度]]を参照)</ref>: JR-H44)<br />[[阪急電鉄]]:[[File:Number_prefix_Hankyu_Kōbe_line.svg|17px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[File:Number_prefix_Hankyu_Takarazuka_line.svg|17px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[File:Number_prefix_Hankyu_Kyōto_line.svg|17px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]]<ref group="*">京都本線の正式な起点は[[十三駅]]だが、運転系統としての「京都本線」は全列車が宝塚本線経由で大阪梅田駅まで乗り入れる。</ref>([[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]: HK-01)<br />[[阪神電気鉄道]]:[[File:Number prefix Hanshin line.svg|17px|HS]] [[阪神本線|本線]]([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]: HS 01)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|17px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]: M16)・[[File:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|17px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]([[東梅田駅]]: T20)・[[File:Osaka Metro Yotsubashi_line symbol.svg|17px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]([[西梅田駅]]: Y11)
|rowspan="19" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|方向別複々線|height=12em}}
|rowspan="2" colspan="2" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪府]][[大阪市]]|height=7em}}
|[[北区 (大阪市)|北区]]
|-
!JR-A48
|[[塚本駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|29.7
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|113.9
|style="text-align:right;"|559.8
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-G.svg|17px|G]] 福知山線(JR宝塚線: JR-G48)
|[[淀川区]]
|-
!JR-A49
|[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|25.4
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:right;"|118.2
|style="text-align:right;"|564.1
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-G.svg|17px|G]] 福知山線(JR宝塚線: JR-G49)・[[ファイル:JRW kinki-H.svg|17px|H]] JR東西線(JR-H49)・東海道本線貨物支線([[北方貨物線]])
|rowspan="40" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[兵庫県]]|height=6em}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[尼崎市]]
|-
!JR-A50
|[[立花駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|22.4
|style="text-align:right;"|10.7
|style="text-align:right;"|121.2
|style="text-align:right;"|567.1
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A51
|[[甲子園口駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|20.2
|style="text-align:right;"|12.9
|style="text-align:right;"|123.4
|style="text-align:right;"|569.3
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[西宮市]]
|-
!JR-A52
|[[西宮駅 (JR西日本)|西宮駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|17.7
|style="text-align:right;"|15.4
|style="text-align:right;"|125.9
|style="text-align:right;"|571.8
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A53
|[[さくら夙川駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|16.2
|style="text-align:right;"|16.9
|style="text-align:right;"|127.4
|style="text-align:right;"|573.3
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A54
|[[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]]#
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|13.9
|style="text-align:right;"|19.2
|style="text-align:right;"|129.7
|style="text-align:right;"|575.6
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|colspan="2"|[[芦屋市]]
|-
!JR-A55
|[[甲南山手駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|12.5
|style="text-align:right;"|20.6
|style="text-align:right;"|131.1
|style="text-align:right;"|577.0
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="19" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[神戸市]]|height=6em}}
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[東灘区]]
|-
!JR-A56
|[[摂津本山駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|11.0
|style="text-align:right;"|22.1
|style="text-align:right;"|132.6
|style="text-align:right;"|578.5
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A57
|[[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|9.4
|style="text-align:right;"|23.7
|style="text-align:right;"|134.2
|style="text-align:right;"|580.1
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|[[神戸新交通]]:{{駅番号s|#9686BD|white|R}} [[神戸新交通六甲アイランド線|六甲アイランド線]](R01)
|-
!JR-A58
|[[六甲道駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|7.2
|style="text-align:right;"|25.9
|style="text-align:right;"|136.4
|style="text-align:right;"|582.3
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="3"|[[灘区]]
|-
!JR-A59
|[[摩耶駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|27.3
|style="text-align:right;"|137.8
|style="text-align:right;"|583.7
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A60
|[[灘駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|28.2
|style="text-align:right;"|138.7
|style="text-align:right;"|584.6
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A61
|[[三ノ宮駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|30.6
|style="text-align:right;"|141.1
|style="text-align:right;"|587.0
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] [[山陽新幹線]]([[新神戸駅]]<ref group="*" name="shinkobe">直接的な接続ではないが、神戸市内発着の乗車券に限って地下鉄などを経由して、山陽新幹線新神戸駅との乗り換えのための[[途中下車]]を特別に認めている。詳細は「[[新神戸駅#JR在来線との接続]]」を参照。</ref>)<br />阪急電鉄:[[File:Number_prefix_Hankyu_Kōbe_line.svg|17px|HK]] 神戸本線・[[File:Number_prefix_Hankyu_Kōbe_line.svg|17px|HK]] [[阪急神戸高速線|神戸高速線]]([[三宮駅|神戸三宮駅]]: HK-16)<br />阪神電気鉄道:[[File:Number prefix Hanshin line.svg|17px|HS]] 本線(神戸三宮駅: HS 32)<br />神戸新交通:{{駅番号s|#9686BD|white|P}} [[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]]([[三宮駅]]: P01)<br />[[神戸市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway_KobeSeishin.svg|17px|S]] [[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]](三宮駅: S03)<br />神戸市営地下鉄:[[ファイル:Subway_KobeKaigan.svg|17px|K]] [[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]]([[三宮・花時計前駅]]: K01)
|rowspan="4"|[[中央区 (神戸市)|中央区]]
|-
!JR-A62
|[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|31.4
|style="text-align:right;"|141.9
|style="text-align:right;"|587.8
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線(新神戸駅<ref group="*" name="shinkobe" />)<br />阪神電気鉄道:[[File:Number prefix Hanshin line.svg|17px|HS]] 本線・[[File:Number prefix Hanshin line.svg|17px|HS]] [[阪神神戸高速線|神戸高速線]](HS 33)<br />神戸市営地下鉄:[[ファイル:Subway_KobeKaigan.svg|17px|K]] 海岸線([[旧居留地・大丸前駅]]: K02)
|-style="height:4em;"
!rowspan="2"|JR-A63
|rowspan="2" |[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] {{JR特定都区市内|神}}#
|rowspan="2" style="text-align:right;"|1.7
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|33.1
|rowspan="2" style="text-align:right;"|143.6
|rowspan="2" style="text-align:right;"|589.5
|rowspan="2" style="background:#feb;"|●
|rowspan="2" style="background:#cdf;"|●
|rowspan="2"|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線(新神戸駅<ref group="*" name="shinkobe" />)<br />阪神電気鉄道:[[File:Number prefix Hanshin line.svg|17px|HS]] 神戸高速線([[高速神戸駅]]: HS 35)<br />阪急電鉄:[[File:Number_prefix_Hankyu_Kōbe_line.svg|17px|HK]] 神戸高速線(高速神戸駅: HS 35)<br />神戸市営地下鉄:[[ファイル:Subway_KobeKaigan.svg|17px|K]] 海岸線([[ハーバーランド駅]]: K04)
|-
|rowspan="25" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[山陽本線]]|height=8em}}
|-
!JR-A64
|[[兵庫駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|34.9
|style="text-align:right;"|145.4
|style="text-align:right;"|591.3
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|西日本旅客鉄道:{{Color|#0072bc|■}}[[山陽本線]]支線([[和田岬線]])
|[[兵庫区]]
|-
!JR-A65
|[[新長田駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|37.2
|style="text-align:right;"|147.7
|style="text-align:right;"|593.6
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線(新神戸駅<ref group="*" name="shinkobe" />)<br />神戸市営地下鉄:[[ファイル:Subway_KobeSeishin.svg|17px|S]] 西神・山手線(S09)・[[ファイル:Subway_KobeKaigan.svg|17px|K]] 海岸線(K10)
|rowspan="11" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|線路別複々線|height=12em}}
|[[長田区]]
|-
!JR-A66
|[[鷹取駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|rowspan="2" style="text-align:right;"|1.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|5.1
|rowspan="2" style="text-align:right;"|38.2
|rowspan="2" style="text-align:right;"|148.7
|rowspan="2" style="text-align:right;"|594.6
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="4"|[[須磨区]]
|-
!
|style="width:9em;"|(貨)[[神戸貨物ターミナル駅]]
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A67
|style="width:9em;"|[[須磨海浜公園駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|6.0
|style="text-align:right;"|39.1
|style="text-align:right;"|149.6
|style="text-align:right;"|595.5
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A68
|[[須磨駅]] {{JR特定都区市内|神}}#
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|7.3
|style="text-align:right;"|40.4
|style="text-align:right;"|150.9
|style="text-align:right;"|596.8
|style="background:#feb;"|▲
|style="background:#cdf;"||
|[[山陽電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix San-yo Railway line.png|17px|SY]] [[山陽電気鉄道本線|本線]]([[山陽須磨駅]]: SY 06)
|-
!JR-A69
|[[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|10.2
|style="text-align:right;"|43.3
|style="text-align:right;"|153.8
|style="text-align:right;"|599.7
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|山陽電気鉄道:[[ファイル:Number prefix San-yo Railway line.png|17px|SY]] 本線([[山陽塩屋駅]]: SY 08)
|rowspan="3"|[[垂水区]]
|-
!JR-A70
|[[垂水駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|13.1
|style="text-align:right;"|46.2
|style="text-align:right;"|156.7
|style="text-align:right;"|602.6
|style="background:#feb;"|▲
|style="background:#cdf;"||
|山陽電気鉄道:[[ファイル:Number prefix San-yo Railway line.png|17px|SY]] 本線([[山陽垂水駅]]: SY 11)
|-
!JR-A71
|[[舞子駅]] {{JR特定都区市内|神}}
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|15.1
|style="text-align:right;"|48.2
|style="text-align:right;"|158.7
|style="text-align:right;"|604.6
|style="background:#feb;"|▲
|style="background:#cdf;"||
|山陽電気鉄道:[[ファイル:Number prefix San-yo Railway line.png|17px|SY]] 本線([[舞子公園駅]]: SY 13)
|-
!JR-A72
|[[朝霧駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|17.0
|style="text-align:right;"|50.1
|style="text-align:right;"|160.6
|style="text-align:right;"|606.5
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="5" colspan="2"|[[明石市]]
|-
!JR-A73
|[[明石駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|19.4
|style="text-align:right;"|52.5
|style="text-align:right;"|163.0
|style="text-align:right;"|608.9
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|山陽電気鉄道:[[ファイル:Number prefix San-yo Railway line.png|17px|SY]] 本線 ([[山陽明石駅]]: SY 17)
|-
!JR-A74
|[[西明石駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|22.8
|style="text-align:right;"|55.9
|style="text-align:right;"|166.4
|style="text-align:right;"|612.3
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線
|-
!JR-A75
|[[大久保駅 (兵庫県)|大久保駅]]#
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|25.6
|style="text-align:right;"|58.7
|style="text-align:right;"|169.2
|style="text-align:right;"|615.1
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="12" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|複線|height=4em}}
|-
!JR-A76
|[[魚住駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|29.1
|style="text-align:right;"|62.2
|style="text-align:right;"|172.7
|style="text-align:right;"|618.6
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A77
|[[土山駅]]#
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|32.2
|style="text-align:right;"|65.3
|style="text-align:right;"|175.8
|style="text-align:right;"|621.7
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|colspan="2"|[[加古郡]]<br />[[播磨町]]
|-
!JR-A78
|[[東加古川駅]]#
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|35.5
|style="text-align:right;"|68.6
|style="text-align:right;"|179.1
|style="text-align:right;"|625.0
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[加古川市]]
|-
!JR-A79
|[[加古川駅]]#
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|39.1
|style="text-align:right;"|72.2
|style="text-align:right;"|182.7
|style="text-align:right;"|628.6
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-I.svg|17px|I]] [[加古川線]]
|-
!JR-A80
|[[宝殿駅]]#
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|42.4
|style="text-align:right;"|75.5
|style="text-align:right;"|186.0
|style="text-align:right;"|631.9
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[高砂市]]
|-
!JR-A81
|[[曽根駅 (兵庫県)|曽根駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|46.4
|style="text-align:right;"|79.5
|style="text-align:right;"|190.0
|style="text-align:right;"|635.9
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A82
|[[ひめじ別所駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|2.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|48.4
|rowspan="2" style="text-align:right;"|81.5
|rowspan="2" style="text-align:right;"|192.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|637.9
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="5" colspan="2"|[[姫路市]]
|-
!
|style="width:7.5em;"|(貨)[[姫路貨物駅]]
|style="background:#feb;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A83
|[[御着駅]]#
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|50.5
|style="text-align:right;"|83.6
|style="text-align:right;"|194.1
|style="text-align:right;"|640.0
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A84
|[[東姫路駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|52.9
|style="text-align:right;"|86.0
|style="text-align:right;"|196.5
|style="text-align:right;"|642.4
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A85
|[[姫路駅]]#
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|54.8
|style="text-align:right;"|87.9
|style="text-align:right;"|198.4
|style="text-align:right;"|644.3
|style="background:#feb;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・[[ファイル:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[山陽本線]]〈[[相生駅 (兵庫県)|相生]]方面〉・[[ファイル:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[赤穂線]]<ref group="*">赤穂線の正式な起点は相生駅だが、播州赤穂からの列車は全て姫路駅へ乗り入れる。</ref>・[[ファイル:JRW kinki-J.svg|17px|J]] [[播但線]]・[[ファイル:JRW kinki-K.svg|17px|K]] [[姫新線]]<br />山陽電気鉄道:[[ファイル:Number prefix San-yo Railway line.png|17px|SY]] 本線([[山陽姫路駅]]: SY 43)
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 直営駅(28駅)
** 大阪駅・塚本駅・尼崎駅・立花駅・甲子園口駅・西宮駅・芦屋駅・摂津本山駅・住吉駅・六甲道駅・摩耶駅・灘駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・新長田駅・須磨駅・垂水駅・舞子駅・朝霧駅・明石駅・西明石駅・土山駅・東加古川駅・加古川駅・宝殿駅・御着駅・姫路駅
* 業務委託駅(11駅)
** [[JR西日本交通サービス]]
*** さくら夙川駅・甲南山手駅・兵庫駅・鷹取駅・須磨海浜公園駅・塩屋駅・大久保駅・魚住駅・曽根駅・ひめじ別所駅・東姫路駅
=== 過去の接続路線 ===
* 東灘信号場:[[日本貨物鉄道]] 東海道本線貨物支線([[神戸臨港線]]) - 2003年12月1日廃止
** [[神戸港駅]]まで延びていた[[貨物線]]。鷹取駅構内の留置線を転用して[[神戸貨物ターミナル駅]]が開業したのに併せて廃止された。
* 三ノ宮駅:[[神戸市電]] ⇒[[三宮駅|三宮阪急前駅]]
* 神戸駅:神戸市電 ⇒[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅前駅]]
* 兵庫駅:
** [[山陽電気鉄道]][[山陽電気鉄道本線|本線]]
** 神戸市電
* 須磨駅:神戸市電
* 土山駅:[[別府鉄道]][[別府鉄道土山線|土山線]]
* 加古川駅:[[高砂線]]
* 姫路駅:[[姫路市営モノレール]]
=== 接近メロディ ===
1997年(平成9年)3月8日から各駅には専用の[[発車メロディ|接近メロディ]]である{{R|交通970311}}「さざなみ」が導入されている。このメロディは本来JR神戸線の区間には入らない姫路駅 - [[上郡駅]]間の各駅に加え、[[赤穂線]]の[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] - 播州赤穂駅間の各駅でも使用されている(前者については上郡まで[[西日本旅客鉄道兵庫支社|兵庫支社]]管轄であるため)。ただし、大阪駅は[[大阪環状線]]と同様のメロディを使用している。
[[さくら夙川駅]]は2007年(平成19年)3月18日の開業時から[[コブクロ]]の楽曲「[[桜 (コブクロの曲)|桜]]」をアレンジした専用メロディが使用されていたが、著作権使用料の関係で2010年(平成22年)3月2日から「さざなみ」に変更されている(到着放送も廃止、さらに2015年〈平成27年〉3月12日には「さざなみ(音質見直し版)」に再変更)<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002873239.shtml 著作権料高かった? さくら夙川駅メロディー廃止]{{リンク切れ|date=2011年7月}} - 神戸新聞 2010年4月14日</ref>。また、[[須磨海浜公園駅]]では「[[かもめの水兵さん]]」をアレンジした専用メロディが使用されていたが、2014年(平成26年)7月16日から「さざなみ(音質見直し版)」に変更されている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201407/0007177135.shtml 消えゆく独自メロディー JR須磨海浜公園駅「かもめの水兵さん」お別れ] - 神戸新聞 2014年7月25日</ref>。2015年(平成27年)3月12日からはこの音質見直し版をJR神戸線各駅ならびに山陽本線相生駅以東・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅に拡大した。
== 新駅設置計画 ==
明石駅 - 西明石駅間に新駅を設置する計画がある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASHD25031_V20C11A8LDA000/ JR西、相次ぎ新駅計画 明石―西明石駅間など] - 日本経済新聞、2011年8月26日</ref>が、計画は停滞している。また、大久保駅 - 魚住駅間にも新駅を設置する計画がある<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201911/0012878003.shtml 明石に新幹線車両基地 在来線新駅、大久保-魚住間に設置] - 神戸新聞、2019年11月15日</ref>。かつては、加古川駅 - 東加古川駅間に新駅を設置する構想があった<ref>{{Cite news |url=http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0301ke80200.html |title=県内で3新駅検討 JR西日本 |newspaper=神戸新聞NEWS |publisher=神戸新聞社 |date=2005-03-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050306171604/http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0301ke80200.html |archivedate=2005-03-06}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『阪神・淡路大震災 鉄道復旧記録誌』西日本旅客鉄道、1996年。
* [[川島令三]]『山陽・山陰ライン 全線・全駅・全配線 (1) 神戸・姫路エリア』講談社、2011年。{{ISBN2|978-4-06-295151-7}}。
* {{Cite book |和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3|ref=JRR1995}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[京阪神快速]]
* [[京阪神緩行線]]
* [[石屋川トンネル]]
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/kobesanyo.html JR神戸線・山陽線:JR西日本 列車走行位置]
{{東海道本線関連路線}}
{{アーバンネットワーク}}
{{西日本旅客鉄道近畿エリア}}
{{西日本旅客鉄道近畿統括本部}}
{{DEFAULTSORT:しえいああるこうへ}}
[[Category:JR神戸線|*]]
[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:阪神間]]
[[Category:鉄道路線の愛称|こうへせん]]
|
2003-09-27T23:03:00Z
|
2023-12-29T19:16:14Z
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[
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曹操
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曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、または吉利。豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身。廟号は太祖、諡号は武皇帝。
後漢桓帝期の永寿元年(155年)に生まれる。本籍は沛国譙県(現在の安徽省亳州市)。その祖先は高祖劉邦に仕えた功臣曹参であると『三国志』「魏書武帝紀」には記されている。しかし曹参はその功績により平陽侯に封ぜられて、その家は魏晋時代まで存続していた。であるので少なくとも曹操の家は曹参の嫡流ではないことは確定的で、曹操の祖先はおそらく一介の農民であったと思われる。
曹操の祖父曹騰は安帝(在位106年-125年)の時に宦官として宮廷に入り、30年の長きに渡って政界を渡り歩いてきた政治家である。順帝の皇太子時代に勉強相手として任用され、順帝即位後には中常侍に抜擢される。さらに梁冀による桓帝擁立に関わり、その功により費亭侯に封ぜられ、大長秋に昇る。
曹操の父が曹騰の養子である曹嵩である。『三国志』に注釈を施した裴松之が引く『曹瞞伝』及び郭頒の『魏晋世語』では曹嵩はもともと夏侯氏で曹操の部下の一人夏侯惇の叔父であったとするが、「武帝紀」では曹嵩の出自はよくわからないとしている。曹嵩もまた官界に入り、司隷校尉・大鴻臚などを歴任した後に、三公の一つ太尉に昇る。この時にその地位を得るために一億銭を使ったという。
曹騰には兄が3人おり、長兄・曹褒の孫に曹仁と曹純。また、名前の伝わらない次兄の孫が曹洪・ひ孫が曹休である。
曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。この時期の曹操の逸話として口うるさい叔父を仮病により陥れたという話やのちに争うことになる袁紹と花嫁泥棒を行って曹操の機知により窮地を脱した話などが残るが、いずれも信憑性は低い。
士大夫の中での評判が芳しくない中で、橋玄と何顒は曹操を高く評価した。橋玄は曹操の本貫譙県の近くにある梁国(現在の河南省商丘市)の人で、曹操を見るなり「天下はまさに乱れようとしている。天命の持ち主でなければ救うことは出来ない。それを収めるのは君である」と絶賛した。また何顒も曹操をひと目見て「天下を安んずるものはこの人である」と言ったと伝わる。
そして橋玄の勧めにより当時人物評価で著名であった許劭の元へ赴いて評価を求めたところ、許劭は「あなたは治世の能臣・乱世の奸雄だ」と述べたという(『異同雑語』)。
この評により郷里で名を知られるようになり、熹平三年、20歳のときに孝廉に推挙されて郎(皇帝の身近に使える官。郷挙里選でふつう誰もが最初に着いて、ここから実際の職務に就く。)となり、洛陽北部尉(洛陽北部の警察担当)に任ぜられる。曹操は着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して頓丘令(頓丘県の県令)に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。光和元年(178年)に霊帝の皇后宋皇后が廃位されるという事件があり、連座して免官された。二年後に再び召されて議郎(政教の得失を議論した官)となる。
光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉(皇帝の侍従武官)となり、皇甫嵩・朱儁の配下に入って潁川での討伐に向かった。ここで功績を挙げて済南の相に任命された。済南でも辣腕を発揮し、郡下の10人いる県令のうち8人を汚職にて罷免。また新末後漢初の反乱の契機となった城陽景王の祠を淫祠邪教として廃棄し、官吏の祭祀を禁止した。その後に、東郡太守へと移るように言われたが、これを拒否して郷里に隠棲した。
袁紹とはこの頃から親しい付き合いがあり、当時の政界に不満を持つ若手は袁紹を中心として一派閥を作り、これに袁紹の弟袁術が対抗した派閥を作っていた。曹操もまた袁紹派の一人であり、前述の何顒や後の反董卓連合において主導した張邈なども袁紹の「奔走の友」と呼ばれた間柄であった。
黄巾の乱は終結していたもののその後も北の黒山・白波軍、西の辺章・韓遂など漢政府に対する反乱は続発しており、曹操自身にも王芬・許攸・周旌らによる霊帝を弑逆せんとするクーデター計画の誘いが来ていたが、曹操はこれを断った。
中平5年(188年)、霊帝が新たに編成した西園軍の指揮官の一人(西園八校尉)、典軍校尉に任命された。この時に袁紹や淳于瓊などもこの八校尉に任命されている。
霊帝が崩御すると霊帝の皇后である何皇后の子である弁と協皇子(陳留王、後の献帝)との間で後継争いが起きるが、弁側が勝利して皇帝となる(廃帝弁)。何皇后の兄である大将軍何進は自らの専権を確立するために十常侍に代表される宦官勢力を撲滅する計画を立てていたが、先んじられて何進は殺される。これに対して袁紹や袁術は宮中に乱入して宦官たちを殺害、混乱の中で皇帝弁と協皇子は宮廷外に脱出した。曹操は計画を先に聞かされていたが、反対していた。宦官討伐の計画に先んじて、何進は各地の将軍に対して洛陽に集まるようにと檄文を下していたが、これに応えて西北から董卓がやってきて、弁と協皇子を確保した。董卓は弁を廃して協皇子を自らの傀儡として皇帝(献帝)に立てる。この状況に曹操や袁紹は洛陽から逃走して郷里で挙兵した。
曹操が洛陽から逃げ出す際に、呂伯奢という旧知の人の家を訪ねた時に曹操が殺人を犯したとの話が残る。まず『魏書』では「曹操が訪ねた時に呂伯奢は不在であり、呂伯奢の息子とその仲間が曹操の財物を奪おうとして争いになり、その際に曹操が数人を斬り殺した」としている。これに対して『世語』・『雑記』では「食器の音を武器の音と勘違いした曹操が無実の家人を殺した」という話になる。さらに『雑記』では「私が他人を裏切ったとしても他人が私を裏切ることは許さない」と言った話を付け加えている。その後、曹操は家財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。なおこの時に現地の有力者である衛茲の援助を受けたともいう(『世語』)。
初平元年(190年)に袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立し、曹操は行奮武将軍に推薦される(行は代理・臨時の意味)。同盟軍の中の一人鮑信は曹操を高く評価して行動をともにするようになる。連合軍の諸将は董卓軍を恐れてなかなか攻撃しようとしなかったが、曹操は鮑信・衛茲らと共に董卓軍の徐栄と戦うも敗北し、衛茲や鮑信の弟である鮑韜も戦死した。曹操は軍を立て直そうと各地で兵士を募集したが今ひとつうまく行かず、わずかな兵とともに河内の袁紹に合流した。
董卓は洛陽を焼き払い西の長安に遷都したので、諸将の関心は董卓を相手にするよりも関東で誰が覇権を握るかに移った。袁紹は幽州牧劉虞を皇帝に押し立てようとしたが、劉虞が拒否したために頓挫する。その後、劉虞は部下であった公孫瓚に取って代わられ、冀州牧であった韓馥も公孫瓚に破れたので冀州を袁紹に譲り渡し、袁紹が冀州牧となる。
一方、南では袁紹の弟袁術が孫堅と同盟を組んで進軍し、洛陽一番乗りを果たすなど活躍した。ここに至り、袁紹陣営と袁術陣営は完全に敵対関係となり、連合軍は解体した。
初平2年(191年)、黒山軍が魏郡・東郡に攻め寄せて東郡太守の王肱はこれを防ぎきれなかったので、曹操は鮑信とともに軍を率いて黒山の一部を破った。これにより袁紹の推薦で東郡太守となった。初平3年(192年)には黒山軍の本拠地を攻め、眭固や黒山に呼応した匈奴の於夫羅に勝利した。
同年、兗州刺史の劉岱が青州から来た黄巾軍に敗死する。そこで鮑信らは曹操を迎えて兗州牧とした。そして黄巾軍と戦い、鮑信が戦死するなど苦戦しつつも兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。
さらにこの時に袁紹の元にいた荀彧が曹操の元に馳せ参じ、曹操は「我が子房が来た」と大いに喜んだ。荀家は士大夫の名門であり、荀彧はその人脈から荀攸・鍾繇・郭嘉など優秀な人材を曹操に推薦した。
この頃に長安から兗州牧として任命された金尚という人物がやってきたが、兗州を渡す気のない曹操はこれを追い返した。金尚は袁術を頼っておちのび、袁術は初平4年(193年)に兗州へと攻め込んだ。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらを打ち破った。さらに侵入してきた袁術軍も打ち破り、劉表に背後を絶たれた袁術は本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。
これ以前に曹操は陶謙またはその配下に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている。その恨みを晴らすべく、初平4年とその翌年の興平元年に徐州に二回の侵攻を行う。陶謙から十数城を奪い、至るところで殺戮を行い「男女数十万人」を殺し、鶏や犬すらいなくなったという。
曹操が徐州に侵攻している隙を突いて張邈が曹操の部下陳宮と謀り、呂布を迎え入れ曹操に反逆したため、兗州は三城を除いて呂布のものとなった。曹操は兗州に戻り、呂布と交戦するが中々決着がつかず、両軍ともに食糧不足に陥り戦闘は中断される。この時期、袁紹から援兵5千の代わりに家族を袁紹の元に避難させよと申し入れがあり、弱気になった曹操はこの話を入れようとしたが程昱の反対もあり、これを断る。
興平2年(195年)春、呂布の勢力圏である定陶を攻撃。救援に駆けつけた呂布の軍勢を撃破する。さらに同年夏には鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破した。呂布と陳宮が数万の軍勢を率いて再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は陶謙死後に徐州牧になっていた劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。これにより同年秋、兗州を全て奪還した曹操は、長安の朝廷から正式に兗州牧に任命された。同年冬、屠城を加えて張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は逃走中に部下に殺された。
この頃、長安では呂布らを追った李傕・郭汜・張済らが朝廷の実権を握っていた。しかし李傕らは常に内紛を続けており、その隙を付いて董承や楊奉らに伴われて献帝は東へと脱出した。建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。献帝を手中にした曹操は袁紹に対して太尉の地位を送るものの曹操の大将軍よりも価値が劣ると感じた袁紹はこれを拒否した、そこで曹操は袁紹に大将軍の地位を譲り、自らは司空・行車騎将軍となった。
そしてこの年に曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している(#政治・軍事で後述)。
李傕は漢政府の命を受けた韓遂や馬騰によって滅ぼされ、郭汜も部下の裏切りによって殺される。張済は劉表との戦いで命を落としたが、従子の張繍が後を継ぎ、劉表と和解して宛に駐屯した。
建安二年(197年)春、宛に張繡を攻めて降伏させたが、すぐに背いて反乱を起こし、曹操軍は大敗。長男の曹昂・弟の子の曹安民と勇将典韋を失い、曹操自身も矢傷を負った。翌建安三年(198年)にも張繡を穣に包囲した。しかし袁紹が許都を狙っているとの情報が入ったので撤退。張繍・劉表軍から追撃を受けて苦戦するが、伏兵を用いて敵軍に大きな打撃を与えた。そして建安四年(199年)に張繍は劉表から離れて曹操に降伏した。
その頃、寿春に逃れていた袁術は孫策らを派遣して江淮・江東を制圧。勢力を立て直すことに成功していた。これに気を良くした袁術は帝位を僭称し、仲という国を建てた。曹操はこれに対して呂布や孫策と結んで袁術を包囲する。袁術は打開のために北へ出兵するがうまく行かず、曹操が出陣して袁術の主力軍を壊滅に追い込む。勢力を失った袁術は袁紹を頼ろうとするが劉備らに阻まれて途中で死亡した。続いて徐州の呂布も滅ぼす。ただし徐州大虐殺の影響は色濃く、曹操は徐州を臧覇ら泰山出身の諸将に任せる間接統治を取った。
同年、公孫瓚を滅ぼし、河北を完全に支配下に入れた袁紹は長子の袁譚を青州刺史、次子の袁煕を幽州刺史、甥の高幹を并州刺史においた。
来る袁紹との決戦に備えて曹操は準備を始める。南の荊州を支配する劉表は袁紹と同盟していたので、劉表の将張羨に使者を送って味方につけて、牽制させた。許都内部でも董承や呉子蘭らが謀反を企んだとして処刑した。朝廷内にいる反曹操分子を予め排除しておく意図があったと推察される。またこの謀に参加していたとされる劉備は曹操によって徐州に派遣されていたが、そのまま徐州を乗っ取ってしまっていた。建安五年(200年)正月に曹操は劉備を討ちに徐州へ出兵する。袁紹軍の田豊はこの機に乗じて許都を襲うべきだと袁紹に図ったが、袁紹は子どもの病気を理由にこれを退けた。曹操に破れた劉備は袁紹の元に走り、劉備の将関羽を捕らえて客将とした。
曹操は黄河沿いにある官渡に城塞を築き、建安四年末にここに兵を進めた。そして翌建安五年2月に袁紹が南下の軍を起こす(官渡の戦い)。その兵力は歩兵10万・騎兵1万、これに対して曹操軍は1万未満とされる。袁紹軍はまず黎陽(河南省浚県)に集結し、曹操軍が守る対岸の白馬(滑県)を顔良を将軍として攻撃させた。これに対して曹操は荀攸の「相手の後方を突くふりをして敵の兵力を分散させ、その隙に顔良軍を急襲する」という策を採用し、顔良を討った。曹操軍は引き返し、袁紹軍はこれを追って黄河を渡る。袁紹軍の先鋒は文醜であったが、伏兵を持ってこれも討ち取ることに成功、兵を帰して官渡に布陣した。袁紹軍はこれを追って官渡の北陽武に兵を進める。袁紹軍は土山や櫓を作って城内に矢を射かける。これに対して曹操軍は発石車という投石機で対抗する。次に袁紹軍は城壁の下にトンネルを掘って城内に侵入しようとするが、曹操軍は塹壕を掘ってこれを妨害する。戦いは長期戦の様相を呈するが、曹操軍は兵糧が不足し始め、脱出者も出るようになる。曹操自身も弱気になって留守を守る荀彧に退却しようかとの手紙を出すが、荀彧はこれを否定して曹操を励ました。
十月、袁紹は大量の兵糧を北方から運ばせて烏巣(現在の延津県付近)に駐屯させた。袁紹の配下で曹操の旧知である許攸は曹操軍に寝返って、烏巣に大量の食料があることを告げる。これに応えた曹操は自ら兵を率いて烏巣を急襲し、兵糧を燃やした。この報を聞いた袁紹は烏巣の救援と曹操の本拠地官渡を攻めるという2つの選択肢を2つとも採用して兵力を分割し、どちらも失敗するという最悪の結果に終わった。結果、袁紹は800ほどのわずかな供回りとともに河北に脱出。戦いは曹操の勝利に終わった。この時に袁紹軍の7万とも8万ともいわれる大量の捕虜を獲得したが、曹操軍はこれを皆殺しにした。この行為は徐州大虐殺と並んで曹操の悪名を高める大きな原因となった。
なおこの戦いの終わる前に、袁紹の出身地である汝南で、黄巾の残党である劉辟らが兵を挙げており、袁紹は劉備を派遣してこれを支援したものの曹操に攻められて劉備は劉表の元へ逃亡した。
官渡で破れた袁紹に対して冀州の各所で反乱が起き、袁紹はこれを収めるも建安七年(202年)に病死する。長子の袁譚と末子の袁尚との間で後継争いが勃発し、袁氏陣営は2つに分裂する。曹操はこれらを撃破し、建安十一年(206年)までに河北の制圧を完了。翌建安十二年(207年)には諸将に対して大規模な論功行賞を行う。袁尚と兄袁煕は烏桓に逃げ込んでいたが、これも討って袁氏兄弟は遼東太守の公孫康の元へ逃げるも公孫康は兄弟を殺して、その首を曹操へと送ってきた。
建安十三年(208年)、袁氏勢力を完全に滅ぼした曹操は江南征服に向けて鄴に玄武池という大きな池を作り、ここで兵士に水軍訓練を施した。江南には河川が多く、華北の兵にとって不慣れな水の上の戦いになることが想定されたからである。そして三公制度を廃して漢初の丞相・御史大夫制度に戻し、自ら丞相となった。
同年7月に曹操は南征を開始した。同8月に劉表が病死する。劉表死後の陣営では長子の劉琦は江夏太守となり、弟の劉琮が後を継いで、曹操に降伏した。劉表のもとで新野に駐屯していた劉備は降伏のことを聞かされていなかったので、慌てて逃げ出して長阪にて曹操の軽騎兵に追いつかれて追い散らされるも関羽の水軍および劉琦の軍と合流して夏口(武漢付近)に布陣した。
江陵に入城した曹操は荊州の人士に対して論功行賞を行って荊州を治めつつ、東の孫権に対して降伏勧告の書状を送った。孫策は建安五年(200年)に刺客の手に倒れており、弟の孫権が後を継いでいた。孫権陣営は張昭を始めとした降伏派と魯粛・周瑜らの開戦派に分かれたが、劉備から使わされていた諸葛亮の言葉もあり、孫権は開戦を決断する。
曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて対峙するが、黄蓋による偽りの降伏と火攻めにより、曹操軍は大損害を受ける。さらに南の気候に不慣れな曹操軍の間では疫病が蔓延しており、不利を悟った曹操は北へ撤退する。
赤壁の敗戦は曹操の権威を大きく落とすこととなる。建安十四年(209年)、曹操は水軍を立て直し合肥に軍を進めて、北進してきた孫権軍と対峙し、同時に軍屯田を開いて持久戦の構えを整える。
翌建安十五年(210年)に「求賢令」を出す。内容は「もし清廉な士だけを用いていたら桓公は覇者になれただろうか。唯だ才能ある人物を挙げよ」という曹操の唯才主義を表明した文書として有名である(#唯才主義で後述)。
建安十六年(211年)、漢中を占拠していた五斗米道の張魯を討つために鍾繇を派遣すると、この動きに反応した馬超・韓遂ら関中の諸将が反乱を起こす。曹操は自ら軍を率いてこれを撃破。夏侯淵を長安において鄴へ帰還する。その後も馬超・韓遂らは反乱を続けるが、夏侯淵の手によって建安十九年(214年)までに関中・涼州の制圧は完了する。漢中の張魯も建安二十年(215年)に降伏し、華北の統一が完成した。漢中の守将には夏侯淵が置かれた。
並行して東の孫権軍とも何度か戦いを繰り返すがどちらも決定的な勝利を収めるには至らなかった(濡須口の戦い)。
建安十七年(212年)、関中から帰った曹操は「賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿」の特典を得る。さらに曹操に九錫を与え、位を魏公に進める提案がなされたが、荀彧はこれに反対した。その後、荀彧は尚書令を解任され、孫権との戦いに随行し、途中で病死したとされる。しかし実際には荀彧は自死を強いられたとも言われる。
荀彧が死んだ後の建安十七年に曹操は冀州の十郡を領地として魏公の位に登り、九錫を与えられた。九錫は王莽に与えられた特典であり、簒奪の前段階であることは誰の目にも明らかであった。さらに漢中から帰った建安二十一年(216年)に魏公から魏王へと進む
曹操の魏公・魏王就任に対する反発から朝廷内で曹操に対する不満は高まっていた。建安十九年(214年)に献帝の皇后伏皇后が殺されるという事件が起きる。伏皇后は献帝が曹操を恨んでいるという手紙を父の伏完に送り、露見して殺されるということになった。これに伏完を始めとした数百人が連座した。続けて建安二十三年(218年)に太医令吉本が耿紀らと共に反乱を起こして許都を攻めるが破れてみな処刑された。翌二十四年(219年)に魏諷が仲間を集めて鄴を占拠せんとしたが失敗して処刑された。
劉備は益州の劉璋を攻めてこれを併合していたが、建安二十三年に益州から北上して漢中へと侵攻してきた。曹操も出陣して長安に兵を進めるが、陽平関にて夏侯淵は劉備軍に敗れて敗死(陽平関の戦い)。曹操は劉備を攻めるも守りが堅く、曹操が病気を発したので撤退した。荊州に駐屯していた関羽はこちらも北進の軍を起こして曹仁が守る樊城を攻めた。が、孫権は曹操の元へ使者を送り、劉備との同盟を破棄して関羽を攻撃することを約束した。孫権の将軍呂蒙は荊州を攻撃して陥落させ、これを聞いた関羽は撤退しようとするが途中で呉軍に捕らえられて切られ、その首は孫権から曹操へと送られた。
建安二十五年正月、曹操は病死した。享年66。
曹操は「天下は未だ収まっていないから古例に従うことは出来ない。埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と遺令した。
後を曹丕が継ぎ、同年に献帝から禅譲を受けて魏を建て、曹操は武帝の諡号と太祖の廟号を贈られた。
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術はドブガイを食料としていたという。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る。このような状況を打開するために建安元年(196年)に棗祗・韓浩の建議により屯田が行われた。
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた。
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である。兵戸制は呉や蜀でも行われ、南北朝時代まで続いた。
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という人頭税の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ。
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは前述したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの戯志才・郭嘉は素行が悪く、郭嘉は同僚の陳羣から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった。またかつて曹操が孝廉に挙げた魏种(中国語版)が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた陳琳が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る。
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。孔融は孔子20世の子孫と言い、建安七子の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された。孔融と仲の良かった人物に禰衡がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と楊修だけを認めた。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる。
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである。
しかし罪のない華陀や崔琰を殺したことには後世の批判が集まるところである。
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった。曹操・曹丕・曹植の三人を合わせて「三曹」と呼び、建安文学の中心的存在とされる。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を建安七子と呼ぶ。曹操の詩は全て五言・四言の楽府である。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある。代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が代表作である。
詩以外にも文章・音楽に通じ、『孫子』に注釈を付けている(『魏武注孫子』)。
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。同時代の劉備は七尺五寸・諸葛亮が八尺あったという(当時の尺は24cm余り)。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに崔琰を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く。
『三国志』著者陳寿の曹操への評価は「非常の人、超世の傑」という絶賛と言えるものである。もちろんこの評価には陳寿は魏から禅譲を受けた西晋に仕えており、魏を正統としていることに留意が必要である。
西晋が追い落とされて、南へ逃れて東晋となった後は曹操への否定的評価が出てくる。習鑿歯が著した『漢晋春秋』はいわゆる「蜀漢正統論」を唱えた最初の書で曹操を簒奪者であるとしている。しかしそれ以後も基本的には曹操英雄論、曹魏正統論が主流の時代が続く。北宋に入った後も司馬光の『資治通鑑』は曹魏を実質上正統とし、曹操を肯定的に評価している。
これらの評価は漢魏の事例を初めとしてその後の魏晋南北朝時代・隋唐五代において禅譲という行為が繰り返されたからという背景があるとも考えられる。宋の太祖趙匡胤もまた後周から禅譲を受けて宋を建てたのであり、『四庫全書総目』(巻45史部1)は太祖の事例が曹操のそれと似ていたために北宋の学者は曹操を批判することを避けたとしている。
一方で同時代の欧陽修は当初曹魏を正統としていたが、後にそれを撤回して「曹魏の悪は子供でも知っている」と述べる。蘇軾は「赤壁賦」で曹操のことを英雄として評価しているが、曹操の残虐さを批判もしている。宋が華北を金に奪われて南宋となると、金を魏に宋を蜀漢にそれぞれ比定する考え方が生まれる。そして朱熹が『資治通鑑綱目』にて蜀漢を正統としたことで、蜀漢正統論が完全に主流となった。
北宋代には説三分という講談調(説話)の三国志物語が街で行われており、蘇軾『東坡志林』には、「講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びした」との記述がある。南宋から元の頃にはこれらの物語が『三国志平話』と呼ばれる書物にまとめられた。その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、蜀漢の陣営を正統とみなし、曹操は悪役として扱われる。『演義』を元とした京劇でも曹操は悪役として扱われ、臉譜(隈取)も悪役を表す白塗りである。
このように南宋あるいは元を追い落とそうとした紅巾軍は金・元を魏・曹操に、自らを蜀の諸葛亮らに重ね合わせた。これにより曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識されることになる。
清代までこの状況は続いたが、清が倒れると曹操再評価の動きが見られるようになる。章炳麟や魯迅が曹操を評価し、京劇においても単なる悪役ではない曹操像が描かれるようになる。中華人民共和国が成立すると毛沢東は孔子を排撃する一方で、それまで非難されてきた始皇帝・王安石らと共に曹操を再評価しようとした。
歴史学者であり、政府の要人でもあった郭沫若がこれに応えて1959年初めに曹操評価の論文を複数発表した。その中で「黄巾起義軍を鎮圧したが、その行動理念を継承して黄巾を青洲兵として組織化した。」「豪族を抑えて農民を保護した」「烏桓を討って辺境を安定させた。」「建安文学をおこした」などの評価を与えた。これに対してそれから半年の間に140を超える賛否両論が出された。それらの主なものは翌1960年に『曹操論集』として出版された。
現在では日本でも中国でも小説・漫画・ゲーム等々様々な媒体で曹操は理知的な英雄として描かれている。万能の天才・時代を超越した人物と陳寿の評に回り戻ってきたと言える。しかしこの現在の曹操像もまた先の時代の評価と同じく、時代の要求に沿った偏向が為されたものである。それらを廃した真の曹操像を復元することは難しいと言わざるを得ない。
曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で発見された後趙時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『元和郡県図誌』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた。
この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを2009年12月27日に発表、中国社会科学院など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした。2018年3月には河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されており、改めて60代前後の男性の遺骨も曹操のもので間違いないと報じられている。
2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、復旦大学では、被葬者の男性のDNAと全国の曹姓の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は男系で継承されるため曹姓の男性は曹操のY染色体を継承していると考えられるためである。
復旦大学は中国全国の「曹」姓の家系258系統を調査。「曹操の子孫」の可能性がある8族についてさらに系統DNA検査を実施した。その結果6系統を「曹操の子孫」と断定した。
曹髦の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている曹祖義が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、その他の曹姓の男性と共に復旦大学でDNA鑑定を受けた。検査の結果曹祖義は子孫とされる中で最も曹操の直系に近いとされた。
また、これまで曹操の血縁上の繋がりがあるとされてきた夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところ、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められなかった。
一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる。
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"text": "曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、または吉利。豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身。廟号は太祖、諡号は武皇帝。",
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"text": "後漢桓帝期の永寿元年(155年)に生まれる。本籍は沛国譙県(現在の安徽省亳州市)。その祖先は高祖劉邦に仕えた功臣曹参であると『三国志』「魏書武帝紀」には記されている。しかし曹参はその功績により平陽侯に封ぜられて、その家は魏晋時代まで存続していた。であるので少なくとも曹操の家は曹参の嫡流ではないことは確定的で、曹操の祖先はおそらく一介の農民であったと思われる。",
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"text": "曹操の祖父曹騰は安帝(在位106年-125年)の時に宦官として宮廷に入り、30年の長きに渡って政界を渡り歩いてきた政治家である。順帝の皇太子時代に勉強相手として任用され、順帝即位後には中常侍に抜擢される。さらに梁冀による桓帝擁立に関わり、その功により費亭侯に封ぜられ、大長秋に昇る。",
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"text": "曹操の父が曹騰の養子である曹嵩である。『三国志』に注釈を施した裴松之が引く『曹瞞伝』及び郭頒の『魏晋世語』では曹嵩はもともと夏侯氏で曹操の部下の一人夏侯惇の叔父であったとするが、「武帝紀」では曹嵩の出自はよくわからないとしている。曹嵩もまた官界に入り、司隷校尉・大鴻臚などを歴任した後に、三公の一つ太尉に昇る。この時にその地位を得るために一億銭を使ったという。",
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"text": "曹騰には兄が3人おり、長兄・曹褒の孫に曹仁と曹純。また、名前の伝わらない次兄の孫が曹洪・ひ孫が曹休である。",
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"text": "曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。この時期の曹操の逸話として口うるさい叔父を仮病により陥れたという話やのちに争うことになる袁紹と花嫁泥棒を行って曹操の機知により窮地を脱した話などが残るが、いずれも信憑性は低い。",
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"text": "士大夫の中での評判が芳しくない中で、橋玄と何顒は曹操を高く評価した。橋玄は曹操の本貫譙県の近くにある梁国(現在の河南省商丘市)の人で、曹操を見るなり「天下はまさに乱れようとしている。天命の持ち主でなければ救うことは出来ない。それを収めるのは君である」と絶賛した。また何顒も曹操をひと目見て「天下を安んずるものはこの人である」と言ったと伝わる。",
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"text": "そして橋玄の勧めにより当時人物評価で著名であった許劭の元へ赴いて評価を求めたところ、許劭は「あなたは治世の能臣・乱世の奸雄だ」と述べたという(『異同雑語』)。",
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"text": "この評により郷里で名を知られるようになり、熹平三年、20歳のときに孝廉に推挙されて郎(皇帝の身近に使える官。郷挙里選でふつう誰もが最初に着いて、ここから実際の職務に就く。)となり、洛陽北部尉(洛陽北部の警察担当)に任ぜられる。曹操は着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して頓丘令(頓丘県の県令)に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。光和元年(178年)に霊帝の皇后宋皇后が廃位されるという事件があり、連座して免官された。二年後に再び召されて議郎(政教の得失を議論した官)となる。",
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"text": "光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉(皇帝の侍従武官)となり、皇甫嵩・朱儁の配下に入って潁川での討伐に向かった。ここで功績を挙げて済南の相に任命された。済南でも辣腕を発揮し、郡下の10人いる県令のうち8人を汚職にて罷免。また新末後漢初の反乱の契機となった城陽景王の祠を淫祠邪教として廃棄し、官吏の祭祀を禁止した。その後に、東郡太守へと移るように言われたが、これを拒否して郷里に隠棲した。",
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"text": "袁紹とはこの頃から親しい付き合いがあり、当時の政界に不満を持つ若手は袁紹を中心として一派閥を作り、これに袁紹の弟袁術が対抗した派閥を作っていた。曹操もまた袁紹派の一人であり、前述の何顒や後の反董卓連合において主導した張邈なども袁紹の「奔走の友」と呼ばれた間柄であった。",
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"text": "黄巾の乱は終結していたもののその後も北の黒山・白波軍、西の辺章・韓遂など漢政府に対する反乱は続発しており、曹操自身にも王芬・許攸・周旌らによる霊帝を弑逆せんとするクーデター計画の誘いが来ていたが、曹操はこれを断った。",
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"text": "中平5年(188年)、霊帝が新たに編成した西園軍の指揮官の一人(西園八校尉)、典軍校尉に任命された。この時に袁紹や淳于瓊などもこの八校尉に任命されている。",
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"text": "霊帝が崩御すると霊帝の皇后である何皇后の子である弁と協皇子(陳留王、後の献帝)との間で後継争いが起きるが、弁側が勝利して皇帝となる(廃帝弁)。何皇后の兄である大将軍何進は自らの専権を確立するために十常侍に代表される宦官勢力を撲滅する計画を立てていたが、先んじられて何進は殺される。これに対して袁紹や袁術は宮中に乱入して宦官たちを殺害、混乱の中で皇帝弁と協皇子は宮廷外に脱出した。曹操は計画を先に聞かされていたが、反対していた。宦官討伐の計画に先んじて、何進は各地の将軍に対して洛陽に集まるようにと檄文を下していたが、これに応えて西北から董卓がやってきて、弁と協皇子を確保した。董卓は弁を廃して協皇子を自らの傀儡として皇帝(献帝)に立てる。この状況に曹操や袁紹は洛陽から逃走して郷里で挙兵した。",
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"text": "曹操が洛陽から逃げ出す際に、呂伯奢という旧知の人の家を訪ねた時に曹操が殺人を犯したとの話が残る。まず『魏書』では「曹操が訪ねた時に呂伯奢は不在であり、呂伯奢の息子とその仲間が曹操の財物を奪おうとして争いになり、その際に曹操が数人を斬り殺した」としている。これに対して『世語』・『雑記』では「食器の音を武器の音と勘違いした曹操が無実の家人を殺した」という話になる。さらに『雑記』では「私が他人を裏切ったとしても他人が私を裏切ることは許さない」と言った話を付け加えている。その後、曹操は家財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。なおこの時に現地の有力者である衛茲の援助を受けたともいう(『世語』)。",
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"text": "初平元年(190年)に袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立し、曹操は行奮武将軍に推薦される(行は代理・臨時の意味)。同盟軍の中の一人鮑信は曹操を高く評価して行動をともにするようになる。連合軍の諸将は董卓軍を恐れてなかなか攻撃しようとしなかったが、曹操は鮑信・衛茲らと共に董卓軍の徐栄と戦うも敗北し、衛茲や鮑信の弟である鮑韜も戦死した。曹操は軍を立て直そうと各地で兵士を募集したが今ひとつうまく行かず、わずかな兵とともに河内の袁紹に合流した。",
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"text": "董卓は洛陽を焼き払い西の長安に遷都したので、諸将の関心は董卓を相手にするよりも関東で誰が覇権を握るかに移った。袁紹は幽州牧劉虞を皇帝に押し立てようとしたが、劉虞が拒否したために頓挫する。その後、劉虞は部下であった公孫瓚に取って代わられ、冀州牧であった韓馥も公孫瓚に破れたので冀州を袁紹に譲り渡し、袁紹が冀州牧となる。",
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"text": "一方、南では袁紹の弟袁術が孫堅と同盟を組んで進軍し、洛陽一番乗りを果たすなど活躍した。ここに至り、袁紹陣営と袁術陣営は完全に敵対関係となり、連合軍は解体した。",
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"text": "初平2年(191年)、黒山軍が魏郡・東郡に攻め寄せて東郡太守の王肱はこれを防ぎきれなかったので、曹操は鮑信とともに軍を率いて黒山の一部を破った。これにより袁紹の推薦で東郡太守となった。初平3年(192年)には黒山軍の本拠地を攻め、眭固や黒山に呼応した匈奴の於夫羅に勝利した。",
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"text": "同年、兗州刺史の劉岱が青州から来た黄巾軍に敗死する。そこで鮑信らは曹操を迎えて兗州牧とした。そして黄巾軍と戦い、鮑信が戦死するなど苦戦しつつも兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。",
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"text": "さらにこの時に袁紹の元にいた荀彧が曹操の元に馳せ参じ、曹操は「我が子房が来た」と大いに喜んだ。荀家は士大夫の名門であり、荀彧はその人脈から荀攸・鍾繇・郭嘉など優秀な人材を曹操に推薦した。",
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"text": "この頃に長安から兗州牧として任命された金尚という人物がやってきたが、兗州を渡す気のない曹操はこれを追い返した。金尚は袁術を頼っておちのび、袁術は初平4年(193年)に兗州へと攻め込んだ。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらを打ち破った。さらに侵入してきた袁術軍も打ち破り、劉表に背後を絶たれた袁術は本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。",
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"text": "これ以前に曹操は陶謙またはその配下に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている。その恨みを晴らすべく、初平4年とその翌年の興平元年に徐州に二回の侵攻を行う。陶謙から十数城を奪い、至るところで殺戮を行い「男女数十万人」を殺し、鶏や犬すらいなくなったという。",
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"text": "曹操が徐州に侵攻している隙を突いて張邈が曹操の部下陳宮と謀り、呂布を迎え入れ曹操に反逆したため、兗州は三城を除いて呂布のものとなった。曹操は兗州に戻り、呂布と交戦するが中々決着がつかず、両軍ともに食糧不足に陥り戦闘は中断される。この時期、袁紹から援兵5千の代わりに家族を袁紹の元に避難させよと申し入れがあり、弱気になった曹操はこの話を入れようとしたが程昱の反対もあり、これを断る。",
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"text": "興平2年(195年)春、呂布の勢力圏である定陶を攻撃。救援に駆けつけた呂布の軍勢を撃破する。さらに同年夏には鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破した。呂布と陳宮が数万の軍勢を率いて再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は陶謙死後に徐州牧になっていた劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。これにより同年秋、兗州を全て奪還した曹操は、長安の朝廷から正式に兗州牧に任命された。同年冬、屠城を加えて張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は逃走中に部下に殺された。",
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"text": "この頃、長安では呂布らを追った李傕・郭汜・張済らが朝廷の実権を握っていた。しかし李傕らは常に内紛を続けており、その隙を付いて董承や楊奉らに伴われて献帝は東へと脱出した。建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。献帝を手中にした曹操は袁紹に対して太尉の地位を送るものの曹操の大将軍よりも価値が劣ると感じた袁紹はこれを拒否した、そこで曹操は袁紹に大将軍の地位を譲り、自らは司空・行車騎将軍となった。",
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"text": "そしてこの年に曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している(#政治・軍事で後述)。",
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"text": "李傕は漢政府の命を受けた韓遂や馬騰によって滅ぼされ、郭汜も部下の裏切りによって殺される。張済は劉表との戦いで命を落としたが、従子の張繍が後を継ぎ、劉表と和解して宛に駐屯した。",
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"text": "建安二年(197年)春、宛に張繡を攻めて降伏させたが、すぐに背いて反乱を起こし、曹操軍は大敗。長男の曹昂・弟の子の曹安民と勇将典韋を失い、曹操自身も矢傷を負った。翌建安三年(198年)にも張繡を穣に包囲した。しかし袁紹が許都を狙っているとの情報が入ったので撤退。張繍・劉表軍から追撃を受けて苦戦するが、伏兵を用いて敵軍に大きな打撃を与えた。そして建安四年(199年)に張繍は劉表から離れて曹操に降伏した。",
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"text": "その頃、寿春に逃れていた袁術は孫策らを派遣して江淮・江東を制圧。勢力を立て直すことに成功していた。これに気を良くした袁術は帝位を僭称し、仲という国を建てた。曹操はこれに対して呂布や孫策と結んで袁術を包囲する。袁術は打開のために北へ出兵するがうまく行かず、曹操が出陣して袁術の主力軍を壊滅に追い込む。勢力を失った袁術は袁紹を頼ろうとするが劉備らに阻まれて途中で死亡した。続いて徐州の呂布も滅ぼす。ただし徐州大虐殺の影響は色濃く、曹操は徐州を臧覇ら泰山出身の諸将に任せる間接統治を取った。",
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"text": "同年、公孫瓚を滅ぼし、河北を完全に支配下に入れた袁紹は長子の袁譚を青州刺史、次子の袁煕を幽州刺史、甥の高幹を并州刺史においた。",
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"text": "来る袁紹との決戦に備えて曹操は準備を始める。南の荊州を支配する劉表は袁紹と同盟していたので、劉表の将張羨に使者を送って味方につけて、牽制させた。許都内部でも董承や呉子蘭らが謀反を企んだとして処刑した。朝廷内にいる反曹操分子を予め排除しておく意図があったと推察される。またこの謀に参加していたとされる劉備は曹操によって徐州に派遣されていたが、そのまま徐州を乗っ取ってしまっていた。建安五年(200年)正月に曹操は劉備を討ちに徐州へ出兵する。袁紹軍の田豊はこの機に乗じて許都を襲うべきだと袁紹に図ったが、袁紹は子どもの病気を理由にこれを退けた。曹操に破れた劉備は袁紹の元に走り、劉備の将関羽を捕らえて客将とした。",
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"text": "曹操は黄河沿いにある官渡に城塞を築き、建安四年末にここに兵を進めた。そして翌建安五年2月に袁紹が南下の軍を起こす(官渡の戦い)。その兵力は歩兵10万・騎兵1万、これに対して曹操軍は1万未満とされる。袁紹軍はまず黎陽(河南省浚県)に集結し、曹操軍が守る対岸の白馬(滑県)を顔良を将軍として攻撃させた。これに対して曹操は荀攸の「相手の後方を突くふりをして敵の兵力を分散させ、その隙に顔良軍を急襲する」という策を採用し、顔良を討った。曹操軍は引き返し、袁紹軍はこれを追って黄河を渡る。袁紹軍の先鋒は文醜であったが、伏兵を持ってこれも討ち取ることに成功、兵を帰して官渡に布陣した。袁紹軍はこれを追って官渡の北陽武に兵を進める。袁紹軍は土山や櫓を作って城内に矢を射かける。これに対して曹操軍は発石車という投石機で対抗する。次に袁紹軍は城壁の下にトンネルを掘って城内に侵入しようとするが、曹操軍は塹壕を掘ってこれを妨害する。戦いは長期戦の様相を呈するが、曹操軍は兵糧が不足し始め、脱出者も出るようになる。曹操自身も弱気になって留守を守る荀彧に退却しようかとの手紙を出すが、荀彧はこれを否定して曹操を励ました。",
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"text": "十月、袁紹は大量の兵糧を北方から運ばせて烏巣(現在の延津県付近)に駐屯させた。袁紹の配下で曹操の旧知である許攸は曹操軍に寝返って、烏巣に大量の食料があることを告げる。これに応えた曹操は自ら兵を率いて烏巣を急襲し、兵糧を燃やした。この報を聞いた袁紹は烏巣の救援と曹操の本拠地官渡を攻めるという2つの選択肢を2つとも採用して兵力を分割し、どちらも失敗するという最悪の結果に終わった。結果、袁紹は800ほどのわずかな供回りとともに河北に脱出。戦いは曹操の勝利に終わった。この時に袁紹軍の7万とも8万ともいわれる大量の捕虜を獲得したが、曹操軍はこれを皆殺しにした。この行為は徐州大虐殺と並んで曹操の悪名を高める大きな原因となった。",
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"text": "なおこの戦いの終わる前に、袁紹の出身地である汝南で、黄巾の残党である劉辟らが兵を挙げており、袁紹は劉備を派遣してこれを支援したものの曹操に攻められて劉備は劉表の元へ逃亡した。",
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"text": "官渡で破れた袁紹に対して冀州の各所で反乱が起き、袁紹はこれを収めるも建安七年(202年)に病死する。長子の袁譚と末子の袁尚との間で後継争いが勃発し、袁氏陣営は2つに分裂する。曹操はこれらを撃破し、建安十一年(206年)までに河北の制圧を完了。翌建安十二年(207年)には諸将に対して大規模な論功行賞を行う。袁尚と兄袁煕は烏桓に逃げ込んでいたが、これも討って袁氏兄弟は遼東太守の公孫康の元へ逃げるも公孫康は兄弟を殺して、その首を曹操へと送ってきた。",
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"text": "建安十三年(208年)、袁氏勢力を完全に滅ぼした曹操は江南征服に向けて鄴に玄武池という大きな池を作り、ここで兵士に水軍訓練を施した。江南には河川が多く、華北の兵にとって不慣れな水の上の戦いになることが想定されたからである。そして三公制度を廃して漢初の丞相・御史大夫制度に戻し、自ら丞相となった。",
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"text": "同年7月に曹操は南征を開始した。同8月に劉表が病死する。劉表死後の陣営では長子の劉琦は江夏太守となり、弟の劉琮が後を継いで、曹操に降伏した。劉表のもとで新野に駐屯していた劉備は降伏のことを聞かされていなかったので、慌てて逃げ出して長阪にて曹操の軽騎兵に追いつかれて追い散らされるも関羽の水軍および劉琦の軍と合流して夏口(武漢付近)に布陣した。",
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"text": "江陵に入城した曹操は荊州の人士に対して論功行賞を行って荊州を治めつつ、東の孫権に対して降伏勧告の書状を送った。孫策は建安五年(200年)に刺客の手に倒れており、弟の孫権が後を継いでいた。孫権陣営は張昭を始めとした降伏派と魯粛・周瑜らの開戦派に分かれたが、劉備から使わされていた諸葛亮の言葉もあり、孫権は開戦を決断する。",
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"text": "曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて対峙するが、黄蓋による偽りの降伏と火攻めにより、曹操軍は大損害を受ける。さらに南の気候に不慣れな曹操軍の間では疫病が蔓延しており、不利を悟った曹操は北へ撤退する。",
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"text": "赤壁の敗戦は曹操の権威を大きく落とすこととなる。建安十四年(209年)、曹操は水軍を立て直し合肥に軍を進めて、北進してきた孫権軍と対峙し、同時に軍屯田を開いて持久戦の構えを整える。",
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"text": "翌建安十五年(210年)に「求賢令」を出す。内容は「もし清廉な士だけを用いていたら桓公は覇者になれただろうか。唯だ才能ある人物を挙げよ」という曹操の唯才主義を表明した文書として有名である(#唯才主義で後述)。",
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"text": "建安十六年(211年)、漢中を占拠していた五斗米道の張魯を討つために鍾繇を派遣すると、この動きに反応した馬超・韓遂ら関中の諸将が反乱を起こす。曹操は自ら軍を率いてこれを撃破。夏侯淵を長安において鄴へ帰還する。その後も馬超・韓遂らは反乱を続けるが、夏侯淵の手によって建安十九年(214年)までに関中・涼州の制圧は完了する。漢中の張魯も建安二十年(215年)に降伏し、華北の統一が完成した。漢中の守将には夏侯淵が置かれた。",
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "並行して東の孫権軍とも何度か戦いを繰り返すがどちらも決定的な勝利を収めるには至らなかった(濡須口の戦い)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "建安十七年(212年)、関中から帰った曹操は「賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿」の特典を得る。さらに曹操に九錫を与え、位を魏公に進める提案がなされたが、荀彧はこれに反対した。その後、荀彧は尚書令を解任され、孫権との戦いに随行し、途中で病死したとされる。しかし実際には荀彧は自死を強いられたとも言われる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "荀彧が死んだ後の建安十七年に曹操は冀州の十郡を領地として魏公の位に登り、九錫を与えられた。九錫は王莽に与えられた特典であり、簒奪の前段階であることは誰の目にも明らかであった。さらに漢中から帰った建安二十一年(216年)に魏公から魏王へと進む",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "曹操の魏公・魏王就任に対する反発から朝廷内で曹操に対する不満は高まっていた。建安十九年(214年)に献帝の皇后伏皇后が殺されるという事件が起きる。伏皇后は献帝が曹操を恨んでいるという手紙を父の伏完に送り、露見して殺されるということになった。これに伏完を始めとした数百人が連座した。続けて建安二十三年(218年)に太医令吉本が耿紀らと共に反乱を起こして許都を攻めるが破れてみな処刑された。翌二十四年(219年)に魏諷が仲間を集めて鄴を占拠せんとしたが失敗して処刑された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "劉備は益州の劉璋を攻めてこれを併合していたが、建安二十三年に益州から北上して漢中へと侵攻してきた。曹操も出陣して長安に兵を進めるが、陽平関にて夏侯淵は劉備軍に敗れて敗死(陽平関の戦い)。曹操は劉備を攻めるも守りが堅く、曹操が病気を発したので撤退した。荊州に駐屯していた関羽はこちらも北進の軍を起こして曹仁が守る樊城を攻めた。が、孫権は曹操の元へ使者を送り、劉備との同盟を破棄して関羽を攻撃することを約束した。孫権の将軍呂蒙は荊州を攻撃して陥落させ、これを聞いた関羽は撤退しようとするが途中で呉軍に捕らえられて切られ、その首は孫権から曹操へと送られた。",
"title": "生涯"
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"text": "建安二十五年正月、曹操は病死した。享年66。",
"title": "生涯"
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"text": "曹操は「天下は未だ収まっていないから古例に従うことは出来ない。埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と遺令した。",
"title": "生涯"
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"text": "後を曹丕が継ぎ、同年に献帝から禅譲を受けて魏を建て、曹操は武帝の諡号と太祖の廟号を贈られた。",
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{
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"text": "曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。",
"title": "人物・事績"
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{
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"text": "当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術はドブガイを食料としていたという。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る。このような状況を打開するために建安元年(196年)に棗祗・韓浩の建議により屯田が行われた。",
"title": "人物・事績"
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"text": "屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた。",
"title": "人物・事績"
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"text": "兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である。兵戸制は呉や蜀でも行われ、南北朝時代まで続いた。",
"title": "人物・事績"
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"text": "建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という人頭税の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ。",
"title": "人物・事績"
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"text": "曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。",
"title": "人物・事績"
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"text": "建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは前述したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの戯志才・郭嘉は素行が悪く、郭嘉は同僚の陳羣から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった。またかつて曹操が孝廉に挙げた魏种(中国語版)が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた陳琳が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る。",
"title": "人物・事績"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。孔融は孔子20世の子孫と言い、建安七子の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された。孔融と仲の良かった人物に禰衡がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と楊修だけを認めた。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる。",
"title": "人物・事績"
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"text": "曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである。",
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"text": "しかし罪のない華陀や崔琰を殺したことには後世の批判が集まるところである。",
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"text": "曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった。曹操・曹丕・曹植の三人を合わせて「三曹」と呼び、建安文学の中心的存在とされる。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を建安七子と呼ぶ。曹操の詩は全て五言・四言の楽府である。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある。代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が代表作である。",
"title": "人物・事績"
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"text": "詩以外にも文章・音楽に通じ、『孫子』に注釈を付けている(『魏武注孫子』)。",
"title": "人物・事績"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cmであった。同時代の劉備は七尺五寸・諸葛亮が八尺あったという(当時の尺は24cm余り)。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに崔琰を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く。",
"title": "人物・事績"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "『三国志』著者陳寿の曹操への評価は「非常の人、超世の傑」という絶賛と言えるものである。もちろんこの評価には陳寿は魏から禅譲を受けた西晋に仕えており、魏を正統としていることに留意が必要である。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
},
{
"paragraph_id": 65,
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"text": "西晋が追い落とされて、南へ逃れて東晋となった後は曹操への否定的評価が出てくる。習鑿歯が著した『漢晋春秋』はいわゆる「蜀漢正統論」を唱えた最初の書で曹操を簒奪者であるとしている。しかしそれ以後も基本的には曹操英雄論、曹魏正統論が主流の時代が続く。北宋に入った後も司馬光の『資治通鑑』は曹魏を実質上正統とし、曹操を肯定的に評価している。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "これらの評価は漢魏の事例を初めとしてその後の魏晋南北朝時代・隋唐五代において禅譲という行為が繰り返されたからという背景があるとも考えられる。宋の太祖趙匡胤もまた後周から禅譲を受けて宋を建てたのであり、『四庫全書総目』(巻45史部1)は太祖の事例が曹操のそれと似ていたために北宋の学者は曹操を批判することを避けたとしている。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "一方で同時代の欧陽修は当初曹魏を正統としていたが、後にそれを撤回して「曹魏の悪は子供でも知っている」と述べる。蘇軾は「赤壁賦」で曹操のことを英雄として評価しているが、曹操の残虐さを批判もしている。宋が華北を金に奪われて南宋となると、金を魏に宋を蜀漢にそれぞれ比定する考え方が生まれる。そして朱熹が『資治通鑑綱目』にて蜀漢を正統としたことで、蜀漢正統論が完全に主流となった。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "北宋代には説三分という講談調(説話)の三国志物語が街で行われており、蘇軾『東坡志林』には、「講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びした」との記述がある。南宋から元の頃にはこれらの物語が『三国志平話』と呼ばれる書物にまとめられた。その後、羅貫中が三国物語をまとめ直したものが『三国志演義』で、蜀漢の陣営を正統とみなし、曹操は悪役として扱われる。『演義』を元とした京劇でも曹操は悪役として扱われ、臉譜(隈取)も悪役を表す白塗りである。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "このように南宋あるいは元を追い落とそうとした紅巾軍は金・元を魏・曹操に、自らを蜀の諸葛亮らに重ね合わせた。これにより曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識されることになる。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "清代までこの状況は続いたが、清が倒れると曹操再評価の動きが見られるようになる。章炳麟や魯迅が曹操を評価し、京劇においても単なる悪役ではない曹操像が描かれるようになる。中華人民共和国が成立すると毛沢東は孔子を排撃する一方で、それまで非難されてきた始皇帝・王安石らと共に曹操を再評価しようとした。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
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{
"paragraph_id": 71,
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"text": "歴史学者であり、政府の要人でもあった郭沫若がこれに応えて1959年初めに曹操評価の論文を複数発表した。その中で「黄巾起義軍を鎮圧したが、その行動理念を継承して黄巾を青洲兵として組織化した。」「豪族を抑えて農民を保護した」「烏桓を討って辺境を安定させた。」「建安文学をおこした」などの評価を与えた。これに対してそれから半年の間に140を超える賛否両論が出された。それらの主なものは翌1960年に『曹操論集』として出版された。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "現在では日本でも中国でも小説・漫画・ゲーム等々様々な媒体で曹操は理知的な英雄として描かれている。万能の天才・時代を超越した人物と陳寿の評に回り戻ってきたと言える。しかしこの現在の曹操像もまた先の時代の評価と同じく、時代の要求に沿った偏向が為されたものである。それらを廃した真の曹操像を復元することは難しいと言わざるを得ない。",
"title": "曹操の扱いの変遷"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で発見された後趙時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『元和郡県図誌』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた。",
"title": "陵墓"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを2009年12月27日に発表、中国社会科学院など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした。2018年3月には河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されており、改めて60代前後の男性の遺骨も曹操のもので間違いないと報じられている。",
"title": "陵墓"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、復旦大学では、被葬者の男性のDNAと全国の曹姓の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は男系で継承されるため曹姓の男性は曹操のY染色体を継承していると考えられるためである。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "復旦大学は中国全国の「曹」姓の家系258系統を調査。「曹操の子孫」の可能性がある8族についてさらに系統DNA検査を実施した。その結果6系統を「曹操の子孫」と断定した。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "曹髦の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている曹祖義が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、その他の曹姓の男性と共に復旦大学でDNA鑑定を受けた。検査の結果曹祖義は子孫とされる中で最も曹操の直系に近いとされた。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また、これまで曹操の血縁上の繋がりがあるとされてきた夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところ、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められなかった。",
"title": "特記事項"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる。",
"title": "特記事項"
}
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曹 操は、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、または吉利。豫州沛国譙県の出身。廟号は太祖、諡号は武皇帝。
|
{{三国志の人物
| 名前 = 曹操
| 画像 = Cao Cao scth.jpg
| サイズ =
| 説明 =
| 王朝 = [[後漢]]
| 称号・役職 = [[魏 (三国)|魏]][[後漢の諸侯王一覧|王]]・[[丞相]]・[[冀州]]牧
| 出生 = [[永寿 (漢)|永寿]]元年([[155年]])
| 出身地 = [[豫州]][[沛国]]譙県(現:[[安徽省]][[亳州市]][[譙城区]])
| 死去 = [[建安 (漢)|建安]]25年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[220年]][[3月15日]])
| 死没地 = 豫州[[河南郡]]洛陽(現:[[河南省]][[洛陽市]])
| ピン音 = Cáo Cāo(ツァオ・ツァオ)
| 字 = 孟徳
| 諡号 = 武王→武皇帝
| 廟号 = 太祖
| 別名 = 幼名:阿瞞、吉利
| 主君 = [[霊帝 (漢)|霊帝]]→[[少帝弁]]→[[献帝 (漢)|献帝]]
| 特記事項 =
}}
'''曹 操'''(そう そう、[[拼音]]:Cáo Cāo、[[永寿 (漢)|永寿]]元年([[155年]]) - [[建安 (漢)|建安]]25年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]([[220年]][[3月15日]]))は、[[後漢]]末期の[[軍人]]・[[政治家]]・[[詩人]]で、実質的な[[魏 (三国)|魏]]の創始者。[[字]]は'''孟徳'''(もうとく)、幼名は'''阿瞞'''、または'''吉利'''。[[豫州]][[沛国]]譙県(現:[[安徽省]][[亳州市]][[譙城区]])の出身。[[廟号]]は太祖、[[諡号]]は武皇帝。
== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[Image:Family Tree of Cao Family.jpg|thumb|250px|曹氏系図]]
[[後漢]][[桓帝 (漢)|桓帝]]期の[[永寿]]元年([[155年]])に生まれる。本籍は[[沛国]]譙県(現在の[[安徽省]][[亳州市]]){{Sfn|石井|2013|p=46|ps= kindle位置No}}。その祖先は高祖[[劉邦]]に仕えた功臣[[曹参]]であると『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』「魏書武帝紀」には記されている{{Sfn|石井|2013|p=195|ps= kindle位置No}}。しかし曹参はその功績により平陽侯に封ぜられて、その家は魏晋時代まで存続していた。であるので少なくとも曹操の家は曹参の嫡流ではないことは確定的で、曹操の祖先はおそらく一介の農民であったと思われる{{Sfn|堀|2001|p=4}}{{Sfn|石井|2013|p=211|ps= kindle位置No}}。
曹操の祖父[[曹騰]]は[[安帝 (漢)|安帝]](在位106年-125年)の時に[[宦官]]として宮廷に入り、30年の長きに渡って政界を渡り歩いてきた政治家である{{Sfn|石井|2013|p=323|ps= kindle位置No323}}。[[順帝 (漢)|順帝]]の皇太子時代に勉強相手として任用され{{Sfn|石井|2013|p=282|ps= kindle位置No}}、順帝即位後には[[中常侍]]に抜擢される{{Sfn|石井|2013|p=310|ps= kindle位置No310}}。さらに[[梁冀]]による桓帝擁立に関わり、その功により費亭侯に封ぜられ{{Sfn|石井|2013|p=344||ps= kindle位置No}}{{Sfn|堀|2001|p=5}}、[[大長秋]]に昇る{{Sfn|堀|2001|p=5}}。
曹操の父が曹騰の養子である[[曹嵩]]である{{Refnest|group="注"|name="宦官養子"|当時の宦官は養子を迎えて家を構えることが認められていた{{Sfn|石井|2013|p=586|ps= kindle位置No}}。}}。『三国志』に注釈を施した[[裴松之]]が引く『[[曹瞞伝]]』及び[[郭頒]]の『魏晋世語』では曹嵩はもともと[[夏侯氏]]で曹操の部下の一人[[夏侯惇]]の叔父であったとするが、「武帝紀」では曹嵩の出自はよくわからないとしている{{Sfn|石井|2013|p=451|ps= kindle位置No}}{{Sfn|堀|2001|p=7}}。曹嵩もまた官界に入り、[[司隷校尉]]・[[大鴻臚]]などを歴任した後に、[[三公]]の一つ[[太尉]]に昇る。この時にその地位を得るために一億銭を使ったという{{Sfn|石井|2013|p=527|ps= kindle位置No}}{{Refnest|group="注"|name="官僚地位の売買"|この時の皇帝[[霊帝 (漢)|霊帝]]は蓄財に非常に熱心であり、曹嵩以外にも官僚としての地位を金で売ることが常態化していた{{Sfn|石井|2013|p=527|ps= kindle位置No}}。}}。
曹騰には兄が3人おり、長兄・曹褒の孫に[[曹仁]]と[[曹純]]{{Sfn|石井|2013|p=4699|ps=kindle位置No}}。また、名前の伝わらない次兄の孫が[[曹洪]]・ひ孫が[[曹休]]である{{Sfn|石井|2013|p=4699|ps=kindle位置No}}。
=== 若き日 ===
曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった{{Sfn|堀|2001|p=16}}。この時期の曹操の逸話として口うるさい叔父を仮病により陥れたという話{{Sfn|堀|2001|p=17}}やのちに争うことになる[[袁紹]]と花嫁泥棒を行って曹操の機知により窮地を脱した話などが残るが、いずれも信憑性は低い{{Sfn|堀|2001|p=18}}。
士大夫の中での評判が芳しくない中で、[[橋玄]]と[[何顒]]は曹操を高く評価した。橋玄は曹操の本貫譙県の近くにある梁国(現在の[[河南省]][[商丘市]]{{Sfn|堀|2001|p=24}})の人で、曹操を見るなり「天下はまさに乱れようとしている。天命の持ち主でなければ救うことは出来ない。それを収めるのは君である」と絶賛した{{Sfn|堀|2001|p=25}}。また何顒も曹操をひと目見て「天下を安んずるものはこの人である」と言ったと伝わる{{Sfn|堀|2001|p=26}}。
そして橋玄の勧めにより当時人物評価で著名であった[[許劭]]の元へ赴いて評価を求めたところ、許劭は「あなたは'''治世の能臣・乱世の奸雄'''だ」と述べたという(『異同雑語』){{Refnest|group="注"|name="許劭伝"|『後漢書』「許劭伝」では「清平の姦賊・乱世の英雄である」としている。また『[[世説新語]]』においてはこの評価は橋玄自身の言葉とされている{{Sfn|堀|2001|p=30}}。}}。
この評により郷里で名を知られるようになり、[[熹平]]三年、20歳のときに[[孝廉]]に推挙されて[[郎]](皇帝の身近に使える官。[[郷挙里選]]でふつう誰もが最初に着いて、ここから実際の職務に就く。)となり、[[洛陽]]北部尉(洛陽北部の警察担当)に任ぜられる{{Sfn|石井|2013|p=892|ps=kindle位置No}}{{Sfn|堀|2001|pp=32}}。曹操は着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。その任期中に、[[霊帝 (漢)|霊帝]]に寵愛されていた宦官[[蹇碩]]の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して頓丘令(頓丘県の[[県令]])に栄転させることによって洛陽から遠ざけた{{Sfn|堀|2001|pp=33-34}}{{Sfn|石井|2013|p=1058|ps=kindle位置No}}。[[光和]]元年(178年)に[[霊帝 (漢)|霊帝]]の皇后宋皇后が廃位されるという事件があり、連座して免官された{{Sfn|堀|2001|p=34}}{{Sfn|石井|2013|p=1068|ps=kindle位置No}}。二年後に再び召されて議郎(政教の得失を議論した官)となる{{Sfn|堀|2001|p=34}}。
[[光和]]7年([[184年]])、[[黄巾の乱]]が起こると[[騎都尉]](皇帝の侍従武官)となり、[[皇甫嵩]]・[[朱儁]]の配下に入って[[潁川郡|潁川]]での討伐に向かった{{Sfn|堀|2001|p=39}}{{Sfn|石井|2013|p=1102-1118|ps=kindle位置No}}。ここで功績を挙げて[[済南郡|済南]]の[[諸侯相|相]]に任命された。済南でも辣腕を発揮し、郡下の10人いる県令のうち8人を汚職にて罷免。また[[新末後漢初]]の反乱の契機となった[[城陽景王]]の祠を淫祠邪教として廃棄し、官吏の祭祀を禁止した{{Sfn|堀|2001|p=42}}。その後に、[[東郡]]太守へと移るように言われたが、これを拒否して郷里に隠棲した{{Sfn|堀|2001|p=42}}。
袁紹とはこの頃から親しい付き合いがあり、当時の政界に不満を持つ若手は袁紹を中心として一派閥を作り、これに袁紹の弟[[袁術]]が対抗した派閥を作っていた{{Sfn|石井|2013|p=1169|ps=kindle位置No}}。曹操もまた袁紹派の一人であり、前述の何顒や後の反[[董卓]]連合において主導した[[張邈]]なども袁紹の「奔走の友」と呼ばれた間柄であった{{Sfn|石井|2013|pp=1190-1198|ps=kindle位置No}}。
黄巾の乱は終結していたもののその後も北の[[黒山軍|黒山]]・[[白波]]軍、西の[[辺章]]・[[韓遂]]など漢政府に対する反乱は続発しており{{Sfn|石井|2013|pp=1125-1141|ps=kindle位置No}}、曹操自身にも[[王芬]]・[[許攸]]・[[周旌]]らによる霊帝を弑逆せんとするクーデター計画の誘いが来ていた{{Sfn|石井|2013|pp=1141-52|ps=kindle位置No}}が、曹操はこれを断った{{Sfn|堀|2001|p=47}}{{Sfn|石井|2013|pp=1141-1169|ps=kindle位置No}}{{Refnest|group="注"|name="堀の曹操隠棲に対しての所見"|堀は曹操の隠棲について、当時の漢政府に対する曹操の深い絶望があり、大乱を起こすことなく天下を救うことは出来ないという曹操の展望があったとする{{Sfn|堀|2001|p=46}}。}}。
[[中平]]5年([[188年]])、霊帝が新たに編成した西園軍の指揮官の一人([[西園八校尉]])、典軍校尉に任命された。この時に袁紹や[[淳于瓊]]などもこの八校尉に任命されている{{Sfn|堀|2001|pp=52-53}}{{Sfn|石井|2013|pp=1282-1298|ps=kindle位置No}}。
=== 反董卓連合 ===
霊帝が崩御すると霊帝の皇后である何皇后の子である弁と協皇子(陳留王、後の[[献帝 (漢)|献帝]])との間で後継争いが起きるが、弁側が勝利して皇帝となる([[廃帝弁]])。何皇后の兄である大将軍[[何進]]は自らの専権を確立するために[[十常侍]]に代表される宦官勢力を撲滅する計画を立てていたが、先んじられて何進は殺される。これに対して袁紹や袁術は宮中に乱入して宦官たちを殺害、混乱の中で皇帝弁と協皇子は宮廷外に脱出した{{Sfn|堀|2001|p=54}}。曹操は計画を先に聞かされていたが、反対していた{{Sfn|堀|2001|p=55}}。宦官討伐の計画に先んじて、何進は各地の将軍に対して洛陽に集まるようにと檄文を下していたが、これに応えて西北から[[董卓]]がやってきて、弁と協皇子を確保した{{Sfn|堀|2001|p=56}}。董卓は弁を廃して協皇子を自らの傀儡として皇帝(献帝)に立てる。この状況に曹操や袁紹は洛陽から逃走して郷里で挙兵した{{Sfn|堀|2001|p=57-58}}。
曹操が洛陽から逃げ出す際に、[[呂伯奢]]という旧知の人の家を訪ねた時に曹操が殺人を犯したとの話が残る。まず『魏書』では「曹操が訪ねた時に呂伯奢は不在であり、呂伯奢の息子とその仲間が曹操の財物を奪おうとして争いになり、その際に曹操が数人を斬り殺した」としている。これに対して『世語』・『雑記』では「食器の音を武器の音と勘違いした曹操が無実の家人を殺した」という話になる。さらに『雑記』では「私が他人を裏切ったとしても他人が私を裏切ることは許さない」と言った話を付け加えている{{Sfn|堀|2001|p=58}}。その後、曹操は家財を投じて[[陳留郡]][[寧陵県|己吾]]において挙兵した{{Sfn|堀|2001|p=60}}。なおこの時に現地の有力者である[[衛茲]]の援助を受けたともいう(『世語』){{Sfn|堀|2001|p=59}}。
[[初平]]元年([[190年]])に袁紹を盟主として[[陽人の戦い#反董卓連合軍|反董卓連合軍]]が成立し、曹操は行奮武将軍に推薦される(行は代理・臨時の意味){{Sfn|堀|2001|p=61}}{{Sfn|石井|2013|p=1602|ps=kindle位置No}}。同盟軍の中の一人[[鮑信]]は曹操を高く評価して行動をともにするようになる。連合軍の諸将は董卓軍を恐れてなかなか攻撃しようとしなかったが、曹操は鮑信・衛茲らと共に董卓軍の[[徐栄]]と戦うも敗北し{{Sfn|堀|2001|p=62}}{{Sfn|石井|2013|p=1619|ps=kindle位置No}}、衛茲や鮑信の弟である鮑韜も戦死した{{Sfn|石井|2013|p=1619|ps=kindle位置No}}。曹操は軍を立て直そうと各地で兵士を募集したが今ひとつうまく行かず{{Sfn|石井|2013|pp=1649-1662|ps=kindle位置No}}、わずかな兵とともに河内の袁紹に合流した{{Sfn|石井|2013|p=1662|ps=kindle位置No}}。
董卓は洛陽を焼き払い西の[[長安]]に遷都したので{{Sfn|堀|2001|p=64}}{{Sfn|石井|2013|p=1631|ps=kindle位置No}}、諸将の関心は董卓を相手にするよりも関東で誰が覇権を握るかに移った{{Sfn|石井|2013|p=1631|ps=kindle位置No}}。袁紹は[[幽州]][[刺史|牧]][[劉虞]]を皇帝に押し立てようとしたが、劉虞が拒否したために頓挫する{{Sfn|堀|2001|p=65}}{{Sfn|石井|2013|p=1711|ps=kindle位置No}}。その後、劉虞は部下であった[[公孫瓚]]に取って代わられ、[[冀州]]牧であった[[韓馥]]も公孫瓚に破れたので冀州を袁紹に譲り渡し、袁紹が冀州牧となる{{Sfn|堀|2001|p=65}}{{Sfn|石井|2013|p=1766|ps=kindle位置No}}。
一方、南では袁紹の弟[[袁術]]が[[孫堅]]と同盟を組んで進軍し、洛陽一番乗りを果たすなど活躍した{{Sfn|石井|2013|p=1736|ps=kindle位置No}}。ここに至り、袁紹陣営と袁術陣営は完全に敵対関係となり、連合軍は解体した{{Sfn|石井|2013|p=1793|ps=kindle位置No}}。
=== 飛躍 ===
初平2年([[191年]])、[[黒山軍]]が魏郡・東郡に攻め寄せて東郡太守の[[王肱]]はこれを防ぎきれなかったので、曹操は鮑信とともに軍を率いて黒山の一部を破った。これにより袁紹の推薦で東郡太守となった{{Sfn|堀|2001|p=66}}{{Sfn|石井|2013|p=1909|ps=kindle位置No}}。初平3年([[192年]])には黒山軍の本拠地を攻め、[[眭固]]や黒山に呼応した[[匈奴]]の[[於夫羅]]に勝利した{{Sfn|石井|2013|p=1909|ps=kindle位置No}}。
同年、[[兗州]][[刺史]]の[[劉岱 (東萊)|劉岱]]が[[青州 (山東省)|青州]]から来た黄巾軍に敗死する{{Sfn|堀|2001|p=67}}{{Sfn|石井|2013|p=1935|ps=kindle位置No}}。そこで鮑信らは曹操を迎えて兗州牧とした{{Sfn|堀|2001|p=68}}。そして黄巾軍と戦い、鮑信が戦死{{Sfn|石井|2013|p=1971|ps=kindle位置No}}するなど苦戦しつつも兵30万人、非戦闘員100万人{{Refnest|group="注"|name="黄巾の実数"|当時は戦果を十倍に報告するという慣例があり、実数はもっと少ないと思われる{{Sfn|石井|2013|p=197|ps=kindle位置No}}。 }}を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた{{Sfn|堀|2001|p=68}}{{Sfn|石井|2013|p=1971|ps=kindle位置No}}。
さらにこの時に袁紹の元にいた[[荀彧]]が曹操の元に馳せ参じ、曹操は「我が子房が来た」と大いに喜んだ{{Sfn|堀|2001|p=66}}{{Sfn|石井|2013|p=2097|ps=kindle位置No}}。荀家は士大夫の名門であり、荀彧はその人脈から[[荀攸]]・[[鍾繇]]・[[郭嘉]]など優秀な人材を曹操に推薦した{{Sfn|石井|2013|pp=2129-2183|ps=kindle位置No}}。
この頃に長安から兗州牧として任命された[[金尚]]という人物がやってきたが、兗州を渡す気のない曹操はこれを追い返した{{Sfn|石井|2013|p=2044|ps=kindle位置No}}。金尚は袁術を頼っておちのび、袁術は初平4年([[193年]])に兗州へと攻め込んだ{{Sfn|石井|2013|p=2055|ps=kindle位置No}}。袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は[[劉備]]や[[徐州]]牧・陶謙を派遣する。曹操は袁紹と協力してこれらを打ち破った{{Sfn|堀|2001|p=71}}。さらに侵入してきた袁術軍も打ち破り、劉表に背後を絶たれた袁術は本拠地の[[南陽郡]]を捨て、[[寿春]]に落ち延びていった{{Sfn|石井|2013|p=2055|ps=kindle位置No}}。
これ以前に曹操は陶謙またはその配下に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている{{Sfn|堀|2001|p=20}}{{Sfn|石井|2013|p=|ps=kindle位置No}}{{efn2|曹嵩殺害の経緯については諸説ある([[陶謙#脚注]])}}。その恨みを晴らすべく、初平4年とその翌年の[[興平 (漢)|興平]]元年に徐州に二回の侵攻を行う。陶謙から十数城を奪い、至るところで殺戮を行い「男女数十万人」を殺し、鶏や犬すらいなくなったという{{Sfn|石井|2013|p=2378-2382|ps=kindle位置No}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}{{Refnest|group="注"|name="徐州大虐殺"|石井仁はこの徐州大虐殺ともいうべき蛮行が士大夫層からの不信感を産み、曹操が最終的に統一を果たせなかった最大の原因であろうとしている{{Sfn|石井|2013|p=2394|ps=kindle位置No}}。 }}。
曹操が徐州に侵攻している隙を突いて張邈が曹操の部下[[陳宮]]と謀り、[[呂布]]を迎え入れ曹操に反逆したため、兗州は三城を除いて呂布のものとなった{{Sfn|堀|2001|p=72}}{{Sfn|石井|2013|p=2440|ps=kindle位置No}}。曹操は兗州に戻り、呂布と交戦するが中々決着がつかず、両軍ともに食糧不足に陥り戦闘は中断される{{Sfn|石井|2013|p=2440|ps=kindle位置No}}。この時期、袁紹から援兵5千の代わりに家族を袁紹の元に避難させよと申し入れがあり、弱気になった曹操はこの話を入れようとしたが[[程昱]]の反対もあり、これを断る{{Sfn|石井|2013|p=2451|ps=kindle位置No}}。
興平2年([[195年]])春、呂布の勢力圏である定陶を攻撃。救援に駆けつけた呂布の軍勢を撃破する{{Sfn|石井|2013|p=2451|ps=kindle位置No}}。さらに同年夏には鉅野を攻めて[[薛蘭]]や[[李封]]を撃破した{{Sfn|石井|2013|p=2451|ps=kindle位置No}}。呂布と陳宮が数万の軍勢を率いて再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。呂布は陶謙死後に徐州牧になっていた劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である[[張超 (広陵太守)|張超]]に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。これにより同年秋、兗州を全て奪還した曹操は、長安の朝廷から正式に兗州牧に任命された{{Sfn|堀|2001|p=73}}{{Sfn|石井|2013|p=2489|ps=kindle位置No}}。同年冬、屠城を加えて張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。張邈は逃走中に部下に殺された{{Sfn|石井|2013|p=2473|ps=kindle位置No}}。
この頃、長安では呂布らを追った[[李傕]]・[[郭汜]]・[[張済]]らが朝廷の実権を握っていた。しかし李傕らは常に内紛を続けており{{Sfn|石井|2013|pp=2496-2634|ps=kindle位置No}}、その隙を付いて[[董承]]や[[楊奉]]らに伴われて献帝は東へと脱出した{{Sfn|堀|2001|p=76}}{{Sfn|石井|2013|pp=2652-2660|ps=kindle位置No}}。[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])1月、荀彧と程昱の勧めに従い、献帝を自らの本拠である[[許昌]]に迎え入れた。献帝は曹操を[[大将軍]]とし、武平侯に封じた{{Sfn|堀|2001|p=77}}{{Sfn|石井|2013|p=2743|ps=kindle位置No}}。献帝を手中にした曹操は袁紹に対して[[太尉]]の地位を送るものの曹操の大将軍よりも価値が劣ると感じた袁紹はこれを拒否した、そこで曹操は袁紹に大将軍の地位を譲り、自らは[[司空]]・行[[車騎将軍]]となった{{Sfn|堀|2001|p=79}}{{Sfn|石井|2013|p=2749|ps=kindle位置No}}。
そしてこの年に曹操は[[棗祗]]・[[韓浩]]らの意見を採用して、[[屯田]]制を開始している([[#政治・軍事]]で後述)。
李傕は漢政府の命を受けた韓遂や馬騰によって滅ぼされ、郭汜も部下の裏切りによって殺される。張済は劉表との戦いで命を落としたが、従子の[[張繍]]が後を継ぎ、劉表と和解して[[宛城区|宛]]に駐屯した{{Sfn|石井|2013|p=2769|ps=kindle位置No}}。
建安二年([[197年]])春、宛に張繡を攻めて降伏させた{{Sfn|石井|2013|p=2830|ps=kindle位置No}}が、すぐに背いて反乱を起こし、曹操軍は大敗。長男の[[曹昂]]・弟の子の[[曹安民]]と勇将[[典韋]]を失い、曹操自身も矢傷を負った{{Sfn|石井|2013|p=2837|ps=kindle位置No}}。翌建安三年([[198年]])にも張繡を穣に包囲した。しかし袁紹が許都を狙っているとの情報が入ったので撤退。張繍・劉表軍から追撃を受けて苦戦するが、伏兵を用いて敵軍に大きな打撃を与えた{{Sfn|石井|2013|pp=2885-2893|ps=kindle位置No}}。そして建安四年(199年)に張繍は劉表から離れて曹操に降伏した{{Sfn|石井|2013|p=4889|ps=kindle位置No}}。
その頃、寿春に逃れていた袁術は[[孫策]]らを派遣して[[江淮]]・[[江東]]を制圧。勢力を立て直すことに成功していた{{Sfn|石井|2013|pp=2893-2914|ps=kindle位置No}}。これに気を良くした袁術は帝位を僭称し、仲という国を建てた{{Sfn|石井|2013|p=2925|ps=kindle位置No}}。曹操はこれに対して呂布や孫策と結んで袁術を包囲する。袁術は打開のために北へ出兵するがうまく行かず、曹操が出陣して袁術の主力軍を壊滅に追い込む。勢力を失った袁術は袁紹を頼ろうとするが劉備らに阻まれて途中で死亡した{{Sfn|石井|2013|p=2949|ps=kindle位置No}}。続いて徐州の呂布も滅ぼす。ただし徐州大虐殺の影響は色濃く、曹操は徐州を[[臧覇]]ら[[泰山]]出身の諸将に任せる間接統治を取った{{Sfn|石井|2013|pp=2981-2987|ps=kindle位置No}}。
=== 官渡の戦い ===
{{main|官渡の戦い}}
[[画像:Guanduzhizhan ja.png|thumb|right|300px|官渡戦況図]]
同年、公孫瓚を滅ぼし、河北を完全に支配下に入れた袁紹は長子の[[袁譚]]を青州刺史、次子の[[袁煕]]を[[幽州]]刺史、甥の[[高幹]]を[[并州]]刺史においた{{Sfn|石井|2013|p=3075|ps=kindle位置No}}。
来る袁紹との決戦に備えて曹操は準備を始める。南の荊州を支配する[[劉表]]は袁紹と同盟していたので、劉表の将[[張羨 (後漢)|張羨]]に使者を送って味方につけて、牽制させた{{Sfn|石井|2013|p=3183|ps=kindle位置No}}。許都内部でも[[董承]]や[[呉子蘭]]らが謀反を企んだとして処刑した{{Sfn|堀|2001|p=93}}{{Sfn|石井|2013|p=3189|ps=kindle位置No}}。朝廷内にいる反曹操分子を予め排除しておく意図があったと推察される{{Sfn|堀|2001|p=93}}{{Sfn|石井|2013|p=3265|ps=kindle位置No}}。またこの謀に参加していたとされる劉備は曹操によって徐州に派遣されていたが、そのまま徐州を乗っ取ってしまっていた{{Sfn|堀|2001|p=93}}。建安五年(200年)正月に曹操は劉備を討ちに徐州へ出兵する。袁紹軍の[[田豊]]はこの機に乗じて許都を襲うべきだと袁紹に図ったが、袁紹は子どもの病気を理由にこれを退けた{{Sfn|堀|2001|p=94}}{{Sfn|石井|2013|p=3270|ps=kindle位置No}}。曹操に破れた劉備は袁紹の元に走り、劉備の将[[関羽]]を捕らえて客将とした{{Sfn|堀|2001|p=94}}。
曹操は黄河沿いにある[[官渡]]に城塞を築き、建安四年末にここに兵を進めた{{Sfn|石井|2013|p=3138|ps=kindle位置No}}。そして翌建安五年2月に袁紹が南下の軍を起こす([[官渡の戦い]])。その兵力は歩兵10万・騎兵1万、これに対して曹操軍は1万未満とされる{{Sfn|石井|2013|p=3377|ps=kindle位置No}}{{Refnest|group="注"|name="官渡の兵力について"|この袁紹軍11万、曹操軍1万未満という数字については『三国志』に注釈をつけた[[裴松之]]を始めとして「粉飾である」との見解が多数派である{{Sfn|石井|2013|p=3382|ps=kindle位置No}}。}}。袁紹軍はまず[[黎陽]](河南省[[浚県]])に集結し、曹操軍が守る対岸の白馬([[滑県]])を顔良を将軍として攻撃させた{{Sfn|堀|2001|p=94}}{{Sfn|石井|2013|p=3297|ps=kindle位置No}}。これに対して曹操は[[荀攸]]の「相手の後方を突くふりをして敵の兵力を分散させ、その隙に顔良軍を急襲する」という策を採用し、顔良を討った{{Sfn|堀|2001|p=95}}{{Sfn|石井|2013|p=3304|ps=kindle位置No}}。曹操軍は引き返し、袁紹軍はこれを追って黄河を渡る。袁紹軍の先鋒は文醜であったが、伏兵を持ってこれも討ち取ることに成功、兵を帰して官渡に布陣した{{Sfn|堀|2001|p=95}}{{Sfn|石井|2013|p=3304|ps=kindle位置No}}。袁紹軍はこれを追って官渡の北[[陽武]]に兵を進める{{Sfn|石井|2013|p=3312|ps=kindle位置No}}。袁紹軍は土山や櫓を作って城内に矢を射かける。これに対して曹操軍は発石車という[[投石機]]で対抗する。次に袁紹軍は城壁の下にトンネルを掘って城内に侵入しようとするが、曹操軍は塹壕を掘ってこれを妨害する{{Sfn|堀|2001|p=96}}{{Sfn|石井|2013|p=3326|ps=kindle位置No}}。戦いは長期戦の様相を呈するが、曹操軍は兵糧が不足し始め、脱出者も出るようになる{{Sfn|堀|2001|p=96}}。曹操自身も弱気になって留守を守る荀彧に退却しようかとの手紙を出すが、荀彧はこれを否定して曹操を励ました{{Sfn|堀|2001|pp=96-97}}{{Sfn|石井|2013|p=3401|ps=kindle位置No}}。
十月、袁紹は大量の兵糧を北方から運ばせて烏巣(現在の[[延津県]]付近)に駐屯させた。袁紹の配下で曹操の旧知である[[許攸]]は曹操軍に寝返って、烏巣に大量の食料があることを告げる。これに応えた曹操は自ら兵を率いて烏巣を急襲し、兵糧を燃やした{{Sfn|堀|2001|p=97}}{{Sfn|石井|2013|pp=3424-3431|ps=kindle位置No}}。この報を聞いた袁紹は烏巣の救援と曹操の本拠地官渡を攻めるという2つの選択肢を2つとも採用して兵力を分割し、どちらも失敗するという最悪の結果に終わった。結果、袁紹は800ほどのわずかな供回りとともに河北に脱出{{Sfn|堀|2001|p=98}}{{Sfn|石井|2013|p=3439|ps=kindle位置No}}。戦いは曹操の勝利に終わった。この時に袁紹軍の7万とも8万ともいわれる大量の捕虜を獲得したが、曹操軍はこれを皆殺しにした{{Sfn|堀|2001|p=98}}{{Sfn|石井|2013|p=3449|ps=kindle位置No}}。この行為は徐州大虐殺と並んで曹操の悪名を高める大きな原因となった{{Sfn|石井|2013|p=3449|ps=kindle位置No}}。
なおこの戦いの終わる前に、袁紹の出身地である汝南で、黄巾の残党である[[劉辟]]らが兵を挙げており、袁紹は劉備を派遣してこれを支援したものの曹操に攻められて劉備は劉表の元へ逃亡した{{Sfn|堀|2001|pp=100-101}}{{Sfn|石井|2013|p=3369|ps=kindle位置No}}。
官渡で破れた袁紹に対して冀州の各所で反乱が起き、袁紹はこれを収めるも建安七年(202年)に病死する{{Sfn|堀|2001|p=103}}{{Sfn|石井|2013|p=3552|ps=kindle位置No}}。長子の袁譚と末子の[[袁尚]]との間で後継争いが勃発し、袁氏陣営は2つに分裂する{{Sfn|堀|2001|p=103}}{{Sfn|石井|2013|p=3552|ps=kindle位置No}}。曹操はこれらを撃破し、建安十一年(206年)までに河北の制圧を完了。翌建安十二年(207年)には諸将に対して大規模な論功行賞を行う{{Sfn|堀|2001|p=105}}{{Sfn|石井|2013|p=3564|ps=kindle位置No}}。袁尚と兄袁煕は[[烏桓]]に逃げ込んでいたが、これも討って袁氏兄弟は遼東太守の[[公孫康]]の元へ逃げるも公孫康は兄弟を殺して、その首を曹操へと送ってきた{{Sfn|堀|2001|p=106}}{{Sfn|石井|2013|p=3564|ps=kindle位置No}}。
=== 赤壁の戦い ===
{{main|赤壁の戦い}}
[[画像:Ja-Chibizhizhan.png|thumb|300px|赤壁の戦い要図]]
建安十三年(208年)、袁氏勢力を完全に滅ぼした曹操は江南征服に向けて[[鄴]]に玄武池という大きな池を作り、ここで兵士に水軍訓練を施した。江南には河川が多く、華北の兵にとって不慣れな水の上の戦いになることが想定されたからである{{Sfn|堀|2001|pp=118-119}}。そして[[三公]]制度を廃して漢初の[[丞相]]・[[御史大夫]]制度に戻し、自ら丞相となった{{Sfn|堀|2001|p=119}}{{Sfn|石井|2013|p=3645|ps=kindle位置No}}。
同年7月に曹操は南征を開始した{{Sfn|堀|2001|p=119}}{{Sfn|石井|2013|p=3683|ps=kindle位置No}}。同8月に劉表が病死する。劉表死後の陣営では長子の[[劉琦]]は[[江夏]]太守となり、弟の[[劉琮]]が後を継いで、曹操に降伏した{{Sfn|堀|2001|p=120}}{{Sfn|石井|2013|pp=3683-3706|ps=kindle位置No}}。劉表のもとで[[新野]]に駐屯していた劉備は降伏のことを聞かされていなかったので、慌てて逃げ出して長阪にて曹操の軽騎兵に追いつかれて追い散らされるも関羽の水軍および劉琦の軍と合流して夏口([[武漢]]付近)に布陣した{{Sfn|堀|2001|p=120}}{{Sfn|石井|2013|p=3706|ps=kindle位置No}}。
[[江陵]]に入城した曹操は荊州の人士に対して論功行賞を行って荊州を治めつつ、東の[[孫権]]に対して降伏勧告の書状を送った{{Sfn|堀|2001|p=122}}。孫策は建安五年(200年)に刺客の手に倒れており、弟の孫権が後を継いでいた。孫権陣営は[[張昭]]を始めとした降伏派と[[魯粛]]・[[周瑜]]らの開戦派に分かれたが、劉備から使わされていた[[諸葛亮]]の言葉もあり、孫権は開戦を決断する{{Sfn|堀|2001|pp=122-124}}{{Sfn|石井|2013|pp=3762-3798|ps=kindle位置No}}。
曹操軍と孫権・劉備連合軍は赤壁にて対峙するが、[[黄蓋]]による偽りの降伏と火攻めにより、曹操軍は大損害を受ける。さらに南の気候に不慣れな曹操軍の間では疫病が蔓延しており、不利を悟った曹操は北へ撤退する{{Sfn|堀|2001|p=125-127}}。
=== 魏公・魏王へ ===
赤壁の敗戦は曹操の権威を大きく落とすこととなる。建安十四年(209年)、曹操は水軍を立て直し[[合肥]]に軍を進めて、北進してきた孫権軍と対峙し、同時に軍屯田を開いて持久戦の構えを整える{{Sfn|堀|2001|p=130}}{{Sfn|石井|2013|pp=3846-3855|ps=kindle位置No}}。
翌建安十五年(210年)に「求賢令」を出す。内容は「もし清廉な士だけを用いていたら[[桓公 (斉)|桓公]]は[[覇者]]になれただろうか。唯だ才能ある人物を挙げよ」という曹操の唯才主義を表明した文書として有名である([[#唯才主義]]で後述){{Sfn|堀|2001|pp=132-133}}{{Sfn|石井|2013|p=3855-3866|ps=kindle位置No}}。
建安十六年(211年)、[[漢中]]を占拠していた[[五斗米道]]の[[張魯]]を討つために[[鍾繇]]を派遣すると、この動きに反応した[[馬超]]・韓遂ら関中の諸将が反乱を起こす{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|p=3918-3932|ps=kindle位置No}}。曹操は自ら軍を率いてこれを撃破。[[夏侯淵]]を長安において鄴へ帰還する{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|p=4034|ps=kindle位置No}}。その後も馬超・韓遂らは反乱を続けるが、夏侯淵の手によって建安十九年(214年)までに関中・涼州の制圧は完了する{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|pp=4041-4067|ps=kindle位置No}}。漢中の張魯も建安二十年(215年)に降伏し、華北の統一が完成した{{Sfn|堀|2001|p=135}}{{Sfn|石井|2013|pp=4412-4425|ps=kindle位置No}}。漢中の守将には夏侯淵が置かれた{{Sfn|石井|2013|p=4470|ps=kindle位置No}}。
並行して東の孫権軍とも何度か戦いを繰り返すがどちらも決定的な勝利を収めるには至らなかった([[濡須口の戦い]]){{Sfn|石井|2013|pp=4091-4127|ps=kindle位置No}}。
建安十七年(212年)、関中から帰った曹操は「賛拝不名・入朝不趨・剣履上殿」の特典を得る{{Refnest|group="注"|name="蕭何の故事"|臣下は皇帝の前では小走りに走らなければならず、[[諱]]で臣操と名乗らなければならず、帯刀は許されなかった。これらを免除するという特典がこれで、漢建国最大の功臣である[[蕭何]]に与えられたのを始めとし、[[王莽]]・[[梁冀]]・[[董卓]]に与えられた{{Sfn|石井|2013|p=1876|ps=kindle位置No}}。}}。さらに曹操に[[九錫]]を与え、位を魏公に進める提案がなされたが、荀彧はこれに反対した{{Sfn|堀|2001|p=138}}{{Sfn|石井|2013|pp=4136-4174|ps=kindle位置No}}。その後、荀彧は[[尚書令]]を解任され、孫権との戦いに随行し、途中で病死したとされる{{Sfn|堀|2001|p=138}}{{Sfn|石井|2013|p=4162|ps=kindle位置No}}。しかし実際には荀彧は自死を強いられたとも言われる{{Sfn|堀|2001|p=138}}{{Sfn|石井|2013|p=4162|ps=kindle位置No}}。
荀彧が死んだ後の建安十七年に曹操は冀州の十郡を領地として魏公の位に登り、九錫を与えられた{{Sfn|堀|2001|pp=139-140}}{{Sfn|石井|2013|p=4210|ps=kindle位置No}}。九錫は[[王莽]]に与えられた特典であり、[[簒奪]]の前段階であることは誰の目にも明らかであった{{Sfn|堀|2001|p=141}}。さらに漢中から帰った建安二十一年(216年)に魏公から魏王へと進む{{Sfn|石井|2013|p=4347|ps=kindle位置No}}
曹操の魏公・魏王就任に対する反発から朝廷内で曹操に対する不満は高まっていた。建安十九年(214年)に献帝の皇后[[伏皇后]]が殺されるという事件が起きる。伏皇后は献帝が曹操を恨んでいるという手紙を父の[[伏完]]に送り、露見して殺されるということになった。これに伏完を始めとした数百人が連座した{{Sfn|堀|2001|p=146}}。続けて建安二十三年(218年)に太医令[[吉本]]が[[耿紀]]らと共に反乱を起こして許都を攻めるが破れてみな処刑された{{Sfn|堀|2001|p=147}}{{Sfn|石井|2013|pp=4509-4532|ps=kindle位置No}}。翌二十四年(219年)に[[魏諷]]が仲間を集めて鄴を占拠せんとしたが失敗して処刑された{{Sfn|堀|2001|p=147}}。
劉備は益州の劉璋を攻めてこれを併合していたが、建安二十三年に益州から北上して漢中へと侵攻してきた。曹操も出陣して長安に兵を進めるが、陽平関にて夏侯淵は劉備軍に敗れて敗死([[陽平関の戦い]])。曹操は劉備を攻めるも守りが堅く、曹操が病気を発したので撤退した{{Sfn|堀|2001|pp=149-150}}{{Sfn|石井|2013|pp=4538-4567|ps=kindle位置No}}。荊州に駐屯していた[[関羽]]はこちらも北進の軍を起こして[[曹仁]]が守る[[樊城]]を攻めた{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4574|ps=kindle位置No}}。が、孫権は曹操の元へ使者を送り、劉備との同盟を破棄して関羽を攻撃することを約束した{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4591|ps=kindle位置No}}。孫権の将軍[[呂蒙]]は荊州を攻撃して陥落させ、これを聞いた関羽は撤退しようとするが途中で呉軍に捕らえられて切られ{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4601|ps=kindle位置No}}、その首は孫権から曹操へと送られた{{Sfn|堀|2001|p=149}}。
=== 最期 ===
建安二十五年正月、曹操は病死した。享年66{{Sfn|堀|2001|p=149}}{{Sfn|石井|2013|p=4621|ps=kindle位置No}}。
曹操は「天下は未だ収まっていないから古例に従うことは出来ない。埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と遺令した{{Sfn|堀|2001|p=150}}。
後を[[曹丕]]が継ぎ、同年に献帝から禅譲を受けて[[魏 (三国)|魏]]を建て、曹操は武帝の諡号と太祖の廟号を贈られた{{Sfn|石井|2013|p=54-60|ps=kindle位置No}}。
== 人物・事績 ==
[[File:Levé de lune sur le Mont Nanping.jpg|thumb|『南屏山昇月』([[月岡芳年]]『月百姿』)赤壁を前にする曹操]]
=== 政治・軍事 ===
曹操が始めた屯田制・戸調制・兵戸制などは魏に受け継がれ、その後の魏晋南北朝時代の制度の礎となった。
当時は戦乱の影響により農民が逃げ出して流民となり、空いた耕地が多数残されていた。屯田制はこの空き地に流民を割り当てて耕作させるものである。当時の群雄たちの間では軍糧確保に窮しており、袁紹は桑の実を袁術は[[ドブガイ]]を食料としていたという{{Sfn|堀|2001|p=81}}{{Sfn|石井|2013|p=2775|ps=kindle位置No}}。曹操軍も程昱が食料に人肉を混ぜたとか、曹操の命令で食料支給を減らしたことで兵士から不満が出たので、担当官に罪をなすりつけて処刑したなどとの話が残る{{Sfn|石井|2013|p=2775|ps=kindle位置No}}。このような状況を打開するために建安元年(196年)に[[棗祗]]・[[韓浩]]の建議により屯田が行われた{{Sfn|堀|2001|p=81}}。
屯田民には50畝(3.3ヘクタール)の土地および農具・耕牛が貸し与えられ、それに対して収穫の5割(牛を借りた場合は6割)という一般民の5から6倍という高額の税を収める{{Sfn|堀|2001|p=82}}。屯田民は一般民が郡県に所属するのに対して典農中郎将(郡の太守と同格)・典農校尉(小郡太守と同格)・典農都尉(県令と同格)ら田官の下の特別の戸籍に入れられた{{Sfn|石井|2013|p=2809|ps=kindle位置No}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=48}}。この政策により、曹操軍は百余万斛の食料を得た{{Sfn|石井|2013|p=2807|ps=kindle位置No}}。その後の魏晋南北朝時代においてもこの形態の屯田は続けて行われた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=48}}。<Ref group="注" name="占田課田の系譜">この屯田制が後の[[占田・課田制]]に繋がるとの[[宮崎市定]]の見解があるが、繋がらないと考える見解も多数ある。詳しくは[[占田・課田制#A説]]・[[占田・課田制#占田・課田制の歴史的位置付け、占田・課田制研究の歴史学的位置付け]]を参照。</ref>
兵戸制は特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は上述の青州兵である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=11}}。兵戸制は呉や蜀でも行われ、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]まで続いた{{Sfn|石井|2013|pp=1985-1986|ps=kindle位置No}}。
建安九年(204年)に新たな税として、畝ごとに田租4升・戸ごとに絹2匹・綿2斤を定めた。それまでの税は田租と算賦という[[人頭税]]の二本立てであり、ここで個人から戸ごとの徴収に切り替わったことが歴史的に見ても大きな意味を持つ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=48-49}}。
=== 唯才主義 ===
曹操を表す大きな特徴として「唯才主義」が挙げられる。
建安十五年(210年)に出した「求賢令」の中で「唯だ才是れを舉げよ」と述べたことは[[#魏公・魏王へ|前述]]したが、それ以前からその姿勢は一貫していた。潁川郡の名士である荀彧の紹介により数々の人材が曹操のもとに集ったが、そのうちの[[戯志才]]・[[郭嘉]]は素行が悪く、郭嘉は同僚の[[陳羣]]から糾弾されていたが曹操はますます重用するようになった{{Sfn|高橋|2019|p=122}}。またかつて曹操が孝廉に挙げた{{仮リンク|魏种|zh|魏种}}が裏切って逃げ出した時に曹操は「どこへ逃げても探し出してやるぞ」と怒っていたのだが、いざ魏种が捕らえられると再び採用し、その理由を聞かれると「唯だ其れ才なり」と答えたという。他にも官渡の戦いの前に袁紹陣営にいた[[陳琳]]が曹操の祖父・父のことから曹操自身のことまで罵った檄文を出したが、戦後陳琳が降伏してくると「自分のことを言うのは良いが、父祖のことまで悪く言ってくれるな」と言って陳琳を幕下に加えたなど、曹操の唯才主義を示すエピソードが多数残る{{Sfn|堀|2001|pp=162-163}}。
しかし一方で気に入らない人間には容赦なかった。[[孔融]]は[[孔子]]20世の子孫と言い、[[建安七子]]の一人に数えられることもある当時指折りの文化人であり名士であった。しかしその才は曹操が重視する実務に向かず、度々曹操の政策に弁舌を持って反対したために死刑に処された{{Sfn|堀|2001|p=188}}。孔融と仲の良かった人物に[[禰衡]]がおり、こちらも歯に衣着せぬ言説で有名であった{{Sfn|堀|2001|p=190}}。禰衡は曹操や荀彧を高く評価せず、孔融と[[楊修]]だけを認めた{{Sfn|石井|2013|pp=3218-3226|ps=kindle位置No}}。禰衡は曹操に仕えようとしたが、劉表の元へ送られ、そこで殺されることになる{{Sfn|堀|2001|p=190}}。
曹操の求めるのはあくまで実務の才であって、孔融のような浮華の徒は必要としていなかったのである{{Sfn|堀|2001|p=183}}。
しかし罪のない[[華陀]]{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}や[[崔琰]]{{Sfn|堀|2001|p=184}}を殺したことには後世の批判が集まるところである。
=== 文化 ===
{{wikisourcelang|zh|作者:曹操}}
曹操は文化特に詩を愛すること深く、陣中にあっても読書・詩作に熱心であった{{Sfn|宇野|2005|p=53}}。曹操・[[曹丕]]・[[曹植]]の三人を合わせて「三曹」と呼び、[[建安文学]]の中心的存在とされる{{Sfn|宇野|2005|p=53}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=61}}。その文学サロンには当時の一流の文化人が集まり、その代表格を[[建安七子]]と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=61}}。曹操の詩は全て五言・四言の[[楽府]]である{{Sfn|宇野|2005|p=57}}。曹操の詩の特徴としては曹操以外の作者の建安詩に見られるような悲嘆を表現した詩と楽観的で豪放磊落な詩が両方存在していることにある{{Sfn|宇野|2005|p=57}}。代表的な作品として『[[文選 (書物)|文選]]』27巻 楽府上 楽府二首<ref>{{Cite wikisource|title=昭明文選/卷27#樂府二首|author=蕭統|wslanguage=zh}}</ref>に収録された下に記す「短歌行<ref>{{Cite wikisource|title=短歌行 (曹操)|author=曹操|wslanguage=zh}}</ref>」が代表作である<ref>{{Cite book|和書||author=井波律子|author-link=井波律子 |title=中国の五大小説 上 三国志演義・西遊記 |publisher=[[岩波書店]] |year=2008 |month=4 |url=https://books.google.com/books?id=TqlNAQAAIAAJ&q=短歌行 |page=108 |isbn=978-4-0043-1127-0}}{{ISBN2|4004311276}}。</ref>。
詩以外にも文章・音楽に通じ、『[[孫子 (書物)|孫子]]』に注釈を付けている(『魏武注孫子』){{Sfn|金|2005|p=358}}。
=== 身体的特徴 ===
曹操の身長は同時代人と比べても低かったとされる。後述の陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cm<ref>中国之声《央広新聞》(2009年12月27日)</ref>であった。同時代の劉備は七尺五寸・[[諸葛亮]]が八尺あったという(当時の尺は24cm余り){{Sfn|堀|2001|p=21}}。『世説新語』には「曹操が匈奴の使者と引見する時に、代わりに[[崔琰]]を立てて自分はその従者の振りをしていた」との話が残る。ただその後に匈奴の使者は「曹操(の振りをした崔琰)よりもその従者(の振りをした曹操)こそが英雄です」と応えたという話が続く{{Sfn|堀|2001|p=21}}。
==曹操の扱いの変遷 ==
[[File:Cao Cao Portrait ROTK.jpg|left|thumb|『三国志演義』で挿絵で描かれる、一般的な曹操の肖像画]]
[[File:Cao Cao in Beijing Opera.JPG|right|thumb|京劇の曹操]]
[[Image:Mask_of_Cao_Cao.jpg|thumb|right|215px|中国の儺劇の曹操の面([[清]]代)]]
{{also|三国志演義の成立史#曹操}}
=== 清代までの曹操像 ===
『三国志』著者[[陳寿]]の曹操への評価は「非常の人、超世の傑」という絶賛と言えるものである{{Sfn|石井|2013|pp=67-71|ps=kindle位置No}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}{{Sfn|田中|2019|p=48}}。もちろんこの評価には陳寿は魏から禅譲を受けた[[西晋]]に仕えており、魏を正統としていることに留意が必要である{{Sfn|田中|2019|p=48}}。
西晋が追い落とされて、南へ逃れて[[東晋]]となった後は曹操への否定的評価が出てくる。[[習鑿歯]]が著した『漢晋春秋』はいわゆる「蜀漢正統論」を唱えた最初の書で曹操を簒奪者であるとしている{{Sfn|田中|2019|pp=49-50}}。しかしそれ以後も基本的には曹操英雄論、曹魏正統論が主流の時代が続く{{Sfn|田中|2019|p=51}}。[[北宋]]に入った後も[[司馬光]]の『[[資治通鑑]]』は曹魏を実質上正統とし{{Refnest|group="注"|name="司馬光正統論"|ただし司馬光は曹魏を正統としたのはやむを得ずとしている{{Sfn|田中|2019|p=51}} }}、曹操を肯定的に評価している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}。
これらの評価は漢魏の事例を初めとしてその後の[[魏晋南北朝時代]]・[[隋]][[唐]][[五代十国時代|五代]]において禅譲という行為が繰り返されたからという背景があるとも考えられる。宋の太祖[[趙匡胤]]もまた[[後周]]から禅譲を受けて宋を建てたのであり、『[[四庫全書総目]]』(巻45史部1)は太祖の事例が曹操のそれと似ていたために北宋の学者は曹操を批判することを避けたとしている{{Sfn|田中|2019|p=51}}。
一方で同時代の[[欧陽修]]は当初曹魏を正統としていたが、後にそれを撤回して「曹魏の悪は子供でも知っている」と述べる{{Sfn|田中|2019|p=51}}。[[蘇軾]]は「赤壁賦」で曹操のことを英雄として評価しているが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}、曹操の残虐さを批判もしている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。宋が華北を[[金 (王朝)|金]]に奪われて[[南宋]]となると、金を魏に宋を蜀漢にそれぞれ比定する考え方が生まれる。そして[[朱熹]]が『資治通鑑綱目』にて蜀漢を正統としたことで、蜀漢正統論が完全に主流となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。
北宋代には説三分という講談調([[説話 (中国)|説話]])の三国志物語が街で行われており、[[蘇軾]]『[[東坡志林]]』には、「講談を聞いた子供たちは劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると大喜びした」との記述がある{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}{{Sfn|田中|2019|pp=53-54}}。[[南宋]]から[[元 (王朝)|元]]の頃にはこれらの物語が『[[三国志平話]]』と呼ばれる書物にまとめられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。その後、[[羅貫中]]が三国物語をまとめ直したものが『[[三国志演義]]』で、[[蜀漢]]の陣営を正統とみなし、曹操は悪役として扱われる{{Sfn|石井|2013|p=94-95|ps=kindle位置No}}。『演義』を元とした[[京劇]]でも曹操は悪役として扱われ、[[臉譜]](隈取)も悪役を表す白塗りである{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=13}}。
このように南宋あるいは元を追い落とそうとした[[紅巾の乱|紅巾軍]]は金・元を魏・曹操に、自らを蜀の[[諸葛亮]]らに重ね合わせた{{Sfn|石井|2013|pp=102-103|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|p=54}}{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=14}}。これにより曹操は正統王朝の漢を乗っ取った悪人として広く一般に認識されることになる{{Sfn|石井|2013|pp=102-103|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|pp=55-56}}。
=== 近現代の再評価 ===
[[File:Cao Cao statue 2016 Government Office of Prime Minister Cao Cao.jpg|right|thumb|許昌にある曹操像]]
[[清]]代までこの状況は続いたが{{Sfn|田中|2019|p=56}}、清が倒れると曹操再評価の動きが見られるようになる。[[章炳麟]]や[[魯迅]]が曹操を評価し、京劇においても単なる悪役ではない曹操像が描かれるようになる{{Sfn|田中|2019|p=57}}。[[中華人民共和国]]が成立すると[[毛沢東]]は[[孔子]]を排撃する一方で、それまで非難されてきた[[始皇帝]]・[[王安石]]らと共に曹操を再評価しようとした{{Sfn|石井|2013|p=108-109|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|p=58}}。
歴史学者であり、政府の要人でもあった[[郭沫若]]がこれに応えて1959年初めに曹操評価の論文を複数発表した。その中で「黄巾[[起義軍]]{{Refnest|group="注"|name="起義軍"|人民共和国のイデオロギーでは農民反乱を「起義軍」として高く評価する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=15}}。 }}を鎮圧したが、その行動理念を継承して黄巾を青洲兵として組織化した。」「豪族を抑えて農民を保護した」「烏桓を討って辺境を安定させた。」「建安文学をおこした」などの評価を与えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=15}}。これに対してそれから半年の間に140を超える賛否両論が出された。それらの主なものは翌1960年に『曹操論集』として出版された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=15}}。
現在では日本でも中国でも小説・漫画・ゲーム等々様々な媒体で曹操は理知的な英雄として描かれている{{Sfn|石井|2013|p=115-119|ps=kindle位置No}}。万能の天才・時代を超越した人物と陳寿の評に回り戻ってきたと言える{{Sfn|石井|2013|p=113-115|ps=kindle位置No}}{{Sfn|田中|2019|p=58}}。しかしこの現在の曹操像もまた先の時代の評価と同じく、時代の要求に沿った偏向が為されたものである{{Sfn|田中|2019|p=59}}。それらを廃した真の曹操像を復元することは難しいと言わざるを得ない{{Sfn|好並|1970|p=80}}。
== 陵墓 ==
{{seealso|西高穴2号墓}}
曹操の埋葬地は長年不明であったが、1998年に中国[[河南省]][[安陽市]][[安陽県]]安豊郷西高穴村で発見された[[後趙]]時代の武人の墓誌から、同村付近にあると推定され、2005年に発見された同地の大型古陵が墓誌に記された方位と『[[元和郡県志|元和郡県図誌]]』と合致することから、曹操の陵墓とみなして発掘調査を進めた<ref>[[明報]]「[http://hk.news.yahoo.com/article/091227/4/fuag.html 主張喪葬從簡 墓穴發掘不易]」2009年12月28日</ref>。
この結果、約740平方メートルの面積の陵墓から、曹操を示す「魏武王」と刻まれた石牌など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを[[2009年]][[12月27日]]に発表<ref>中国河南省文物局「[http://www.haww.gov.cn/html/20091227/153670.html 曹操高陵在河南得到考古確認]」2009年12月27日</ref><ref>[[共同通信]]「[https://web.archive.org/web/20091231004701/http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122701000388.html 「三国志」曹操の陵墓発見 中国河南省、遺骨も出土]」2009年12月27日</ref><ref>AFPBB News「[https://www.afpbb.com/articles/-/2678344?pid=5096081 「三国志」曹操の陵墓を発見、中国河南省「魏武王」の文字]」2009年12月28日</ref>、[[中国社会科学院]]など他の研究機関も曹操高陵の可能性が高いとした<ref>[[北京の報道メディアの一覧|光明日報]]「[http://www.sach.gov.cn:8080/www.sach.gov.cn/tabid/116/InfoID/22652/Default.aspx 中國社會科學院等方面專家基本認定:西高穴大墓是曹操的陵墓]」2009年12月28日</ref>。2018年3月には河南省文物考古研究院によりこの陵墓が曹操のものであるとほぼ断定されており、改めて60代前後の男性の遺骨も曹操のもので間違いないと報じられている<ref>{{Cite news|url=http://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/2377316|title=曹操遺骸大發現?考古團隊急發文:只是研究整理...|agency=[[自由時報]]|date=2018-03-26|accessdate=2018-03-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://hongkong-bs.com/topics/20180327/|title=三国志 曹操(そうそう)の遺骨と断定|agency=香港BS|date=2018-03-27|accessdate=2018-03-28}}</ref>。
== 特記事項 ==
=== 子孫 ===
2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、[[復旦大学]]では、被葬者の男性のDNAと全国の[[曹氏|曹姓]]の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は[[男系]]で継承されるため曹姓の男性は曹操の[[Y染色体]]を継承していると考えられるためである<ref>{{Cite web|和書|date=2013-11-13|url=https://usfl.com/news/30805|title=遺骨のDNA鑑定を計画 曹操の陵墓真偽解明で|publisher=U.S. FrontLine - フロントライン|accessdate=2023-01-03}}</ref>。
復旦大学は中国全国の「曹」姓の家系258系統を調査。「曹操の子孫」の可能性がある8族についてさらに[[系統DNA検査]]を実施した。その結果6系統を「曹操の子孫」と断定した<ref>{{Cite news|title=曹操の子孫が集合、互いに「探り合い」でぎこちなく=中国 - ライブドアニュース|url=https://news.livedoor.com/article/detail/8288595/|date=2013-11-26|accessdate=2018-04-02|work=ライブドアニュース}}</ref>。
[[曹髦]]の66代目の子孫、曹操から数えて70代目の直系子孫にあたると伝えられている[[曹祖義]]が遼寧省東港市に住んでいる。最近発見された曹操の墓の真偽の判定を下すため、その他の曹姓の男性と共に復旦大学でDNA鑑定を受けた。検査の結果曹祖義は子孫とされる中で最も曹操の直系に近いとされた。
また、これまで曹操の血縁上の繋がりがあるとされてきた夏侯氏の子孫のDNA鑑定を行ったところ、曹氏と夏侯氏の血縁関係は認められなかった。
一方、曹操の墓の発見を受けて曹操の子孫を名乗る人々も現れている。なかには司馬氏の迫害を逃れるために「操」姓に改姓したという「操氏」の人々もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://media.yucasee.jp/2387/ |title=曹操の墓発見で“自称子孫”が次々現る |website=ゆかしメディア |date=2010-01-07 |accessdate=2023-01-03}}</ref>。
=== 逸話 ===
* [[献帝 (漢)|献帝]]の[[初平]]年間(190年 - 193年)ごろに、[[長沙郡]](現在の[[湖南省]][[長沙市]])の人である桓という男が亡くなった。ところが棺に収めてから1か月余り経ってから、母親が棺の中で声がするのを聞きつけ、蓋を開けて出してやると、そのまま生きかえった。占いによると、「陰の極致が陽に変ると、下の者が上に立つ」ということである。その後果たして曹公(曹操)が平役人の中から頭角を現して来たのである{{sfn|干|1992|p=166}}。
* 魏武帝(曹操)が洛陽に建始殿を建てたとき濯龍園の木を伐採していたところ血が流れでた。また梨の木を移植しようとして根を傷つけたところ血が流れ出た。武帝(曹操)はこれを縁起でもないと嫌な気持ちでいたがやがて病に臥しその月に亡くなってしまった。この年を武帝(曹操)の[[黄初]]元年としたのである{{sfn|干|1992|pp=143-144}}。
* [[董遇]]が曹操の征西に付き従ったとき、[[孟津]]から[[弘農王]]の墓を通る道を取ったことがあった。曹操は参詣してよいものかどうか迷い、振り返って側の者に尋ねたが、側近には答えられる者がなかった。董遇はそこで身分を超えて進み出で、申し述べた「『春秋』の道理では、国君が即位して年を越さずに亡くなった場合は君主としての資格が不充分であるとしております。弘農王は位に就かれてから日が浅かった上、暴臣(董卓)に自由を奪われ、降等して藩国におられました。参詣すべきではありません。」曹操は参詣せずに通り過ぎた<ref>「王朗伝」が引く『魏略』</ref>。
* 『英雄記』には曹操が作った「董卓の歌」を載録している。その辞には、「徳行が欠けることがなくても、変事が起こって平常を保つことは難しい。鄭康成([[鄭玄]])は酒盛りのうちに、地面に伏して息絶え、郭景図([[郭図]])は桑畑で命を終わった」とある。この叙述の通りであれば、鄭玄は病気でもないのに死去したことになる。
* 明代の張溥が著した過去の人物の史書などに記載された詩文をまとめた『{{日本語版にない記事リンク|漢魏六朝百三家集|zh|漢魏六朝百三家集}}』のうち、曹操について記載された『魏武帝集』には曹操が[[諸葛亮]]に対して、当時口臭予防に用いられた[[チョウジ|鶏舌香]]を五斤送って気持ちを表したとの記述がある<ref>{{Cite wikisource|title=魏武帝集#○與諸葛亮書|author=魏武帝集 巻三|wslanguage=zh}} - 今奉雞舌香五斤,以表微意。</ref>。
=== ことわざ ===
{{Wiktionary|說曹操曹操就到|说曹操曹操就到}}
; 曹操の話をすると曹操が現れる(説曹操,曹操到)。
: 講談などで、曹操打倒の陰謀を図ると露見してしまうことから、日本の「[[wikt:噂をすれば影がさす|うわさをすれば影がさす]]」と同じ意味で使用される。
:
; 曹操が呂布を殺す(曹操殺呂布)。
: 後悔するの意味。
== 家族 ==
=== 父母 ===
*[[曹嵩]]
*丁氏
=== 弟 ===
#[[曹徳]]{{efn2|『後漢書』曹騰伝は「[[曹疾]]」と作る。また[[夏侯衡]]は曹操の弟である[[海陽哀侯]]の娘を娶っているが、海陽哀侯が誰を指しているかは不明。}}
#[[曹嵩#子|曹彬]](薊恭公)
#[[曹玉]](朗陵哀侯)
=== 妻子 ===
*正室(一説に側室):[[劉夫人 (曹操)|劉夫人]]
**長男:豊愍王 [[曹昂]](子脩)
**次男:相殤王 [[曹鑠]] - 早世
**長女:[[清河長公主|清河公主]]
*継室:[[丁夫人]]
*継々室:[[武宣皇后卞氏|卞王后]](武宣皇后)
**三男:文帝 [[曹丕]](子桓)- 初代皇帝
**四男:任城威王 [[曹彰]](子文)
**五男:陳思王 [[曹植]](子建)
**男子:蕭懐王 [[曹熊]] - 早世
*側室:[[杜氏 (三国時代)|杜夫人]](沛王太妃)- 元[[秦宜禄]]の妻
**男子:沛穆王 [[曹林]]
**男子:中山恭王 [[曹袞]]
**女子:金郷公主 - [[何晏]]夫人
**女子:高城公主{{efn2|『文選』陸機「弔魏武文」の[[李善 (唐)|李善]]注が引く『魏略』に見られる。}}金郷公主との同一人物説がある
*側室:環夫人(環太妃)
**男子:鄧哀王 [[曹沖]](倉舒)
**男子:彭城王 [[曹據]]
**男子:燕王 [[曹宇]](彭祖)
*側室:秦夫人
**男子:済陽懐王 [[曹玹]] - 早世
**男子:陳留恭王 [[曹峻]](子安)
*側室:尹夫人 - 元[[何進]]の子の妻
**男子:范陽閔王 [[曹矩]] - 早世
*側室:[[王昭儀 (曹操)|王昭儀]]
*側室:孫姫
**男子:臨邑殤公 [[曹上]] - 早世
**男子:楚王 [[曹彪]](朱虎)
**男子:剛殤公 [[曹勤]]- 早世
*側室:李姫
**男子:穀城殤公 [[曹乗]] - 早世
**男子:郿戴公 [[曹整]]
**男子:霊殤公 [[曹京]] - 早世
*側室:周姫
**男子:樊安公 [[曹均]]
*側室:劉姫
**男子:広宗殤公 [[曹棘]] - 早世
*側室:宋姫
**男子:東平霊王 [[曹徽]]
*側室:趙姫
**男子:楽陵王 [[曹茂]]
*側室:陳姫
**男子:趙王 [[曹幹]]
*側室:[[張済 (後漢の武将) #妻について|某氏]]{{efn2|『三国志』では、彼女の姓氏には触れない。『三国志演義』では鄒氏と呼ばれる}} - 元[[張済 (後漢の武将)|張済]]の妻
*生母不詳の子女
**女子(一説に長女):曹憲 - [[献帝 (漢)|献帝]]貴人
**次女:[[献穆曹皇后|曹節]](献穆皇后)
**女子:曹華 - 献帝貴人
**女子:安陽公主 - [[荀惲]]夫人
*養子
**[[何晏]](連れ子)
**[[秦朗]](連れ子)
**[[曹真]](従子とも)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|last1=窪添 |first1=慶文 |authorlink1=窪添慶文 |last2=關尾 |first2=史郎 |authorlink2=關尾史郎 |last3=中村 |first3=圭爾 |authorlink3=中村圭爾 |last4=愛宕 |first4=元 |authorlink4=愛宕元 |last5=金子 |first5=修一 |authorlink5=金子修一 |editor=[[池田温]] |title=中国史 三国〜唐 |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=2 |edition=初版 |isbn=4634461609 |ref={{SfnRef|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996}} }}
* {{Cite book|和書|author=金文京 |authorlink=金文京 |year=2005 |title=中国の歴史4 三国志の世界 | publisher=[[講談社]] |edition= |series= |isbn=4062740540 |ref={{SfnRef|金|2005}} }}
** {{Cite book|和書|author=金文京 |authorlink=金文京 |year=2020 |title=中国の歴史4 三国志の世界 |publisher=[[講談社]]|series=講談社学術文庫|isbn=978-4065215685|ref={{SfnRef|金|2020}} }}
* {{Cite book|和書|author=石井仁 |authorlink=石井仁 |title=曹操 魏の武帝 |year=2000 |publisher=[[新人物往来社]] |isbn=978-4404028464 |ref={{sfnref|石井|2000}} }}
** {{Cite book|和書|author= |title=魏の武帝 曹操 文庫版 |year=2010 |publisher=新人物往来社 |isbn=978-4404038944 |ref={{sfnref|石井|2010}} }}
** {{Cite book|和書|author= |title=魏の武帝 曹操 Kindle版 |year=2013 |publisher=[[新人物往来社]] |isbn= |ref={{sfnref|石井|2013}} }}
* {{Cite book|和書|author=堀敏一 |authorlink=堀敏一 |title=曹操―三国志の真の主人公 |year=2001 |publisher=[[刀水書房]] |isbn=978-4887082830 |ref={{sfnref|堀|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author=堀敏一他 |title=世界歴史 5 |year=1970 |publisher=[[岩波書店]] |location= |series=岩波講座 |volume= |edition= |isbn= |ref={{SfnRef|岩波講座|1970}} }}
** {{Citation|和書|author=好並隆司 |authorlink=好並隆司 |contribution=曹操政権論 |title=岩波世界史講座 |ref={{SfnRef|好並|1970}} }}
* {{Cite book|和書|editor=三国志学会 |year=2019 |title=曹操: 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像 | publisher=[[山川出版社]] |isbn=978-4634151536 |ref= }}
** {{Citation|和書|author=田中靖彦 |authorlink=田中靖彦 |contribution=後世、人物像はどう評価されてきたのか? |title=曹操: 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像 |ref={{SfnRef|田中|2019}} }}
** {{Citation|和書|author=高橋康浩 |authorlink=高橋康浩 |contribution=人材登用にどんな特徴があるのか? |title=曹操: 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像 |ref={{SfnRef|高橋|2019}} }}
* {{Cite book|和書|author=干宝 |authorlink=干宝 |others=[[竹田晃]] 訳 |title=捜神記 |year=1992 |month=1 |edition=初版 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4-5827-6322-5 |ref={{sfnref|干|1992}} }}
=== 関連書籍 ===
* [[竹田晃]]『曹操 三国志の奸雄』([[講談社学術文庫]]、1996年)
* [[中村愿]]『三国志曹操伝』(新人物往来社、2007年)
* [[川合康三]]『曹操 矛を横たえて詩を賦す』(中国の英傑4:[[集英社]]、1986年/[[ちくま文庫]]、2009年)
* 中島悟史『曹操註解 孫子の兵法』([[朝日新聞出版|朝日文庫]]、2004年、新版2014年)
* [[吉川幸次郎]]『三国志実録』(筑摩書房、1962年/[[ちくま学芸文庫]]、1997年)
* [[渡邉義浩]]『はじめての三国志 時代の変革者・曹操から読みとく』([[ちくまプリマー新書]]、2019年)
* [[川合康三]]編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』([[岩波文庫]]、2022年)
* [[好並隆司]]『[https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I662454-00 曹操論集--曹操論争よりみた中国「中世」史の理論] 』(東洋学報 : 東洋文庫和文紀要 / 東洋文庫 編、1960年)
* 渡邉義浩訳『魏武注 [[孫子]]』(講談社学術文庫、2023年)
== 曹操を主題とした作品 ==
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| 小説 |
*[[陳舜臣]]『曹操 <small>魏の曹一族</small>』(1998年、中央公論社)
*[[塚本青史]]『三国志曹操伝』(2008年、光栄)
| 映画 |
*『[[三国志外伝 曹操と華佗]]』(別邦題:『三国志外伝』、1984年、中国、主演:[[王洪生]])
*『[[赤壁の戦い -英傑 曹操-]]』(別邦題:『三国志 曹操伝』、1999年、台湾、主演:[[柯俊雄]])
*『[[曹操暗殺 三国志外伝]]』(2012年、中国、主演:[[チョウ・ユンファ]])
*『[[三国志 黄巾の乱]]』(2017年、中国、主演:[[王峥|ワン・チェン]])
| テレビドラマ |
*『[[曹操 (1999年のテレビドラマ)|曹操]]』(別邦題:『三国志 曹操』、1999年、中国、主演:{{仮リンク|姚櫓|zh|姚橹}})
*『[[曹操 (テレビドラマ)|曹操]]』(2012年、中国、主演:{{仮リンク|趙立新|zh|赵立新|label=趙立新(チャオ・リーシン)}})
| 漫画 |
*『[[蒼天航路]]』(1994年-2005年、原作・原案:[[李學仁]]、作画:[[王欣太]]、講談社)
| コンピュータゲーム |
*『[[三國志曹操伝]]』(1998年、[[コーエー]](現:[[コーエーテクモゲームス]])
}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Cao_Cao|Cao_Cao}}
{{wikisourcelang|zh|三國志/卷01|三國志 魏書 武帝紀}}
{{wikisourcelang|zh|作者:曹操|曹操の作品}}
* [[三国志演義の成立史]]
* 『[[孫子 (書物)|孫子]]』 - 曹操が注釈を付した(訳書は上記)
* [[箱入り娘 (パズル)|箱入り娘]] - 中国では「[[:zh:華容道 (遊戲)|華容道]]」といい、「娘」にあたる板は「曹操」である。
{{三国志立伝人物}}
{{Normdaten}}
{{Portal bar|中国|歴史|軍事|文学|人物伝}}
{{DEFAULTSORT:そう そう}}
[[Category:曹操|*]]
[[Category:魏の追尊皇帝|そう]]
[[Category:2世紀中国の詩人]]
[[Category:3世紀中国の詩人]]
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ステーキ
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ステーキ(英: steak)は、牛の上質な部位の精肉で、筋繊維の走行に対して垂直にカットされた比較的厚切りの肉片。日本においては、その肉を使った料理や調理法を意味する用語として用いられることが多く、食材としてのステーキについては「ステーキ肉」などと区別して呼ばれる。
なお、細切れや薄切りにされた肉や、ひき肉などをステーキ状に整形したものをステーキと呼ぶ場合もあり、また牛以外の素材に対しても用いられることがある。
通常は塩と胡椒程度の最低限の味付けで、グリルで直火焼き、あるいはフライパン・鉄板などを使用して焼き上げられる。
ステーキは、もっともシンプルな肉調理であるため、「肉そのものの味」が大きな影響を与える。よって、肉の種類・部位・質の選定が大切となる。
肉質は牛種や血統、牛が育った環境や飼料によって異なり、部位によって味や食感が大きく異なる。また焼き方やその技術、調理に用いる器具や熱源によっても味が変わる。筋切りや熟成といった処理も影響する。また添えられるソースや薬味も重要な要素である。
レストランがステーキ用の牛肉を用意する場合、一般に、数日間から数週間、冷蔵庫などの低温下で組織中の酵素の作用により熟成した肉を使用する(牛肉の表面にカビが生えるまで熟成させ、そのカビが繁殖した場所を切り落として使用する店もあり、これを乾燥熟成肉と呼ぶ。)。家庭でステーキを調理する場合は、一般には、肉屋やスーパーマーケットの「肉売り場」で「ステーキ用」と書いてある肉などを買い、即日か数日のうちに調理することになる。柔らかく良い肉の場合、下拵えは筋切り程度で十分だが、硬い肉を柔らかくしたり、香辛料や調味料で下味をつけたりという工夫も行われる。
牛肉は生食も可能な食材であるため、レストランではあらかじめ食べる人の希望を訊ね、その指示に従って調理する。しっかり火を通す焼き方を「ウェルダン」、表面だけ火を通す焼き方を「レア」、その間の状態を「ミディアム」と呼び、さらに細かい指定もある。
焼く直前、あるいは焼いている最中に塩、胡椒などで下味をつける。にんにくのスライスなどと同時に焼いて香りを付けることもある。仕上げにブランデー・ウイスキー・ワイン等でフランベするとより香りが良くなり風味も増す。焼いた素材の上にレモンの輪切りや香草を練り込んだバターを添えることもある。
フランス人が日常的に食べるステーキはステック・フリットと呼ばれる揚げたじゃがいもを添えたシンプルなものだが、伝統的なフランス料理はソースを非常に重視するため、高級店などでは上質の肉にソースをかけることもある。
質の悪い肉、硬い部位などをそのまま加熱調理すると、噛み切れないほど硬いステーキが出来上がる事がある。欧米では「靴底のようなステーキ」という表現があり、良くないステーキの典型のひとつである。(諸事情により)比較的硬い肉を選んでしまった場合は、そうした事態を避けるため、調理前にビールや赤ワイン、牛乳やパイナップルジュース、キウイの摺り下ろし、玉ねぎや大根、炭酸ドリンクなどの飲料などに数十分から一晩ほど漬け込んで主に果物に含まれる酵素の作用を利用して肉が柔らかくなるようにしたり、筋切器(ミートテンダー)やミートハンマーなどを用いて物理的に肉質を柔らかくしておいてから加熱調理する、ということも行われている。
良質の肉の場合に限られるが、最もシンプルな食べ方として、下味のみで何も加えずに食べるという方法がある。塩やコショウなどのシンプルな調味料だけで、あくまで肉そのものの旨みを楽しむ人も少なくない。一般的にはステーキソースやウスターソース類をかけて食べることが多い。トマトケチャップや醤油といった調味料を好む人もいる。薬味としてホースラディッシュやマスタード、にんにく、からし、わさびなどを用いることもある。
なお、日本で「和風ステーキ」と銘打ったものは、大根おろしと醤油、ポン酢などで味付けされる。
ステーキの付け合わせには、ジャガイモ・ニンジン・豆類・コーンなどの温野菜が盛りつけられることが多い。日本の一部の店舗や台湾夜市などではパスタを添えることもある。通常は肉と付け合せの野菜以外にパンが添えられる。日本人は多くの場合ステーキを「おかず」として認識するため、主食であるライスを選択する。食中酒としては赤ワインを選ぶのが常道である。
ステーキを食する際は左手にフォーク、右手にナイフを持ち、肉の左側から一口大にカットし、そのまま左手のフォークを持ち替えず肉を口に運ぶのがマナーである。しかしアメリカはカジュアルなスタイル、くだけた態度も許されることが多いので、肉全体を一口大にすっかり切り分けてしまってから、右手にフォークを持ち替えて食べる人もいる。和食料理店では箸で食べる都合上、料理人の手で切り分けられてから供されることが多い。
ステーキとしてカットされる肉は、柔らかく味の良い上質な部位に限られる。日本の食肉小売品質基準で規定されている牛肉の名称では、以下の部位が用いられる。
以下は骨付きステーキ。日本の解体法とは異なるため、輸入肉のみに存在するカットである。
これらの精肉以外にも、内臓肉に分類されるサガリ(ハンガーステーキ)、ハラミ(フランクステーキ)、ミスジなどの部位もステーキとして用いられる。
基本として生焼きの「レア」、充分に火の通った「ウェルダン」、その中間の「ミディアム」の3つがある。さらに細かく分けると、レアとミディアムの中間の「ミディアム・レア」、ミディアムとウェルダンの中間の「ミディアム・ウェル」がある。
生肉からすっかり火を通し切った状態までの、各段階を細かく網羅的に挙げると以下のとおり。
また、非常に高温に熱した鉄板やグリルで短時間で表面を焦がす「ピッツバーグレア(英:pittsburgh rare)」あるいは「ブラック・アンド・ブルー(英:black and blue)」といった焼き方もある。
成型肉を「ステーキ」「ビーフステーキ」「○○ステーキ」など「ステーキ」と表示することについて、景品表示法上の問題が指摘されている。
消費者庁では、一般消費者は「生鮮食品」の「肉類」に該当する「一枚の牛肉の切り身」を焼いた料理と認識することや、牛の成型肉は「生鮮食品」の「肉類」に該当する牛の生肉の切り身ではないことなどから、「ステーキ」と表示すること自体が景品表示法第4条第1項第1号(優良誤認)に抵触するとの見解を示している。一方、東京都福祉保健局は「牛肉(サイコロステーキ)」「牛肉加工品(サイコロステーキ)」など、「ステーキ」の表示とともにJAS法に基づく適切な名称の記載を推奨している。
魚の場合も肉と同様に、長軸方向に対して垂直な筒切り(輪切り)を「ステーキ」と呼び、背骨に平行に削ぎ取られた「フィレ」(いわゆる三枚おろし)の対義語となっている。ただし一般の日本人にはほとんど周知されておらず、冷凍状態で輸入される切り身の流通時を除き、用語として正確に使用されることは稀である。
以下は本来のステーキの意味からは外れるが、慣用的に呼ばれているものである。
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"text": "生肉からすっかり火を通し切った状態までの、各段階を細かく網羅的に挙げると以下のとおり。",
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] |
ステーキは、牛の上質な部位の精肉で、筋繊維の走行に対して垂直にカットされた比較的厚切りの肉片。日本においては、その肉を使った料理や調理法を意味する用語として用いられることが多く、食材としてのステーキについては「ステーキ肉」などと区別して呼ばれる。 なお、細切れや薄切りにされた肉や、ひき肉などをステーキ状に整形したものをステーキと呼ぶ場合もあり、また牛以外の素材に対しても用いられることがある。 通常は塩と胡椒程度の最低限の味付けで、グリルで直火焼き、あるいはフライパン・鉄板などを使用して焼き上げられる。
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{{出典の明記|date=2023-6}}
[[ファイル:Ribeye-MCB-MaggieO.jpg|thumb|right|250px|ステーキ|alt=ステーキ]]
[[ファイル:Steak 4 bg 083103.jpg|thumb|right|250px|調理中のステーキ|alt=調理中のステーキ]]
[[ファイル:Sirloin steak with garlic butter and french fries cropped.jpg|thumb|right|250px|サーロインステーキと付け合わせのポテト|alt=サーロインステーキと付け合わせのポテト]]
[[ファイル:Famous_Argentine_Steak_(41263342).jpeg|thumb|right|250px|[[アルゼンチン]]のステーキ|alt=アルゼンチンのステーキ]]
[[ファイル:Pork-steak-01.jpg|thumb|right|250px|ポークステーキ|alt=ポークステーキ]]
'''ステーキ'''({{lang-en-short|'''[[wikt:en:steak|steak]]'''}})は、[[ウシ|牛]]の上質な部位の[[食肉#流通|精肉]]で、[[筋肉#微細構造|筋繊維]]の走行に対して垂直にカットされた比較的厚切りの肉片。[[日本]]においては、その肉を使った料理や調理法を意味する用語として用いられることが多く{{r|"kb泉"|"kb林"|"kb小学国"}}{{r|kb-WYCE}}{{r|kb-Nipp}}、食材としてのステーキについては「ステーキ肉」などと区別して呼ばれる。
なお、細切れや薄切りにされた肉や、[[ひき肉]]などをステーキ状に整形したものをステーキと呼ぶ場合もあり、また牛以外の素材に対しても用いられることがある。
通常は[[塩]]と[[胡椒]]程度の最低限の味付けで、[[グリル]]で直火焼き、あるいは[[フライパン]]・鉄板などを使用して焼き上げられる。
== 概要 ==
ステーキは、もっともシンプルな[[食肉|肉]]調理であるため、「肉そのものの味」が大きな影響を与える{{r|kb-Nipp}}。よって、肉の種類・部位・質の選定が大切となる{{r|kb-Nipp}}。
肉質は牛種や血統、牛が育った環境や飼料によって異なり、[[牛肉#部位|部位]]によって味や食感が大きく異なる。また焼き方やその技術、調理に用いる器具や熱源によっても味が変わる。筋切りや熟成といった処理も影響する。また添えられる[[ソース (調味料)|ソース]]や[[薬味]]も重要な要素である。
== 調理 ==
[[レストラン]]がステーキ用の[[牛肉]]を用意する場合、一般に、数日間から数週間、冷蔵庫などの低温下で組織中の酵素の作用により熟成した肉を使用する(牛肉の表面に[[カビ]]が生えるまで熟成させ、そのカビが繁殖した場所を切り落として使用する店もあり、これを[[乾燥熟成肉]]と呼ぶ。<!--同じではない([[チーズ]]や鰹節の製法とおなじ)。-->)。家庭でステーキを調理する場合は、一般には、[[肉屋]]や[[スーパーマーケット]]の「肉売り場」で「ステーキ用」と書いてある肉などを買い、即日か数日のうちに調理することになる。柔らかく良い[[食肉|肉]]の場合、下拵えは筋切り程度で十分だが、硬い肉を柔らかくしたり、[[香辛料]]や[[調味料]]で下味をつけたりという工夫も行われる。
[[牛肉]]は生食も可能な食材であるため、[[レストラン]]ではあらかじめ食べる人の希望を訊ね、その指示に従って調理する。しっかり火を通す焼き方を「ウェルダン」、表面だけ火を通す焼き方を「レア」、その間の状態を「ミディアム」と呼び、さらに細かい指定もある。
焼く直前、あるいは焼いている最中に[[塩]]、[[コショウ|胡椒]]などで下味をつける。[[にんにく]]のスライスなどと同時に焼いて香りを付けることもある。仕上げに[[ブランデー]]・[[ウイスキー]]・[[ワイン]]等で[[フランベ]]するとより香りが良くなり風味も増す。焼いた素材の上に[[レモン]]の輪切りや[[香草]]を練り込んだ[[バター]]を添えることもある。
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ファイル:Strip-steak-MCB-MaggieO.jpg|加熱調理前の生肉|alt=加熱調理前の生肉
ファイル:Christmas short rib prep. (15470093424).jpg|加熱前に[[コショウ|胡椒]]をかけた例|alt=加熱前にコショウをかけた例
ファイル:Grilling Steaks (with border).jpg|alt=ステーキを炭火でグリル(網焼き)している。|ステーキを[[炭]]火で[[グリル]](網焼き)する。
ファイル:The Food at Davids Kitchen 182.jpg|alt=無題
ファイル:Rump steak.jpg|ラムステーキを調理中|alt=ラムステーキを調理中
ファイル:Tocino!.jpg|屋外でのステーキの調理|alt=屋外でのステーキの調理
ファイル:Cooking steaks 2.jpg|alt=塩と胡椒のみを加えてフライパンでステーキを加熱調理している。|塩と胡椒のみを加えてフライパンでステーキを加熱調理する。
ファイル:Pan-fried_Rib_Eye_Steak.JPG|フライパンで焼いたステーキ|alt=フライパンで焼いたステーキ
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フランス人が日常的に食べるステーキはステック・フリットと呼ばれる揚げたじゃがいもを添えたシンプルなものだが、伝統的な[[フランス料理]]はソースを非常に重視するため、高級店などでは上質の肉に[[ソース (調味料)|ソース]]をかけることもある。
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ファイル:Steak Au Poivre.jpg|フランスの[[コショウ|胡椒]]風味のソースをかけたステーキ|alt=フランスのコショウ風味のソースをかけたステーキ
ファイル:Steak with shitaki mushrooms.jpg|マッシュルームソースをのせたステーキ|alt=マッシュルームソースをのせたステーキ
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質の悪い肉、硬い部位などをそのまま加熱調理すると、噛み切れないほど硬いステーキが出来上がる事がある。[[欧米]]では「靴底のようなステーキ」という表現があり、良くないステーキの典型のひとつである。(諸事情により)比較的硬い肉を選んでしまった場合は、そうした事態を避けるため、調理前に[[ビール]]や[[赤ワイン]]、[[牛乳]]や[[パイナップル]][[ジュース]]、[[キウイフルーツ|キウイ]]の摺り下ろし、[[タマネギ|玉ねぎ]]や大根、炭酸ドリンクなどの[[飲料]]などに数十分から一晩ほど漬け込んで主に[[果物]]に含まれる[[酵素]]の作用を利用して[[食肉|肉]]が柔らかくなるようにしたり、筋切器(ミートテンダー)やミートハンマーなどを用いて物理的に肉質を柔らかくしておいてから加熱調理する、ということも行われている。
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ファイル:Tira de Asado con Papas (5383968797).jpg|[[フライドポテト|フレンチフライ]]を添えた大衆的なステーキ
ファイル:Peppercorn steak (14507481790).jpg|[[トウモロコシ]]を添えた例|alt=トウモロコシを添えた例
ファイル:Steak dinner at 1640 Restaurant, Quebec City, Canada.jpg|[[ブロッコリー]]を添えた例|alt=ブロッコリーを添えた例
ファイル:Steak and asparagus.jpg|[[アスパラガス]]を添えた例
ファイル:150418_Awaji_beef_at_Sumoto_Hyogo_pref_Japan02s5.jpg|[[フライドポテト|ポテト]]や[[サヤインゲン]]などを添えた例
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<!--
=== パフォーマンス ===
[[ファイル:Flamingonionvolcano1.jpg|200px|サムネイル|180px|フランベをする調理師|alt=フランベをする調理師]]
サービスする際に、客の目の前で[[フランベ]]する店もある。[[日本]]式の「[[鉄板焼き]]」([[欧米]]ではヒバチと呼ばれる)店ではカウンターに客を座らせ、目の前で[[調理]]する。この際に調理器具を打ち鳴らしてリズムを取ったり、[[調味料]]の容器で[[ジャグリング]]を行ったりする店もある。-->
=== 調味 ===
良質の[[食肉|肉]]の場合に限られるが、最もシンプルな食べ方として、下味のみで何も加えずに食べるという方法がある。[[塩]]や[[コショウ]]などのシンプルな[[調味料]]だけで、あくまで[[食肉|肉]]そのものの旨みを楽しむ人も少なくない。一般的には[[ステーキソース]]や[[ウスターソース]]類をかけて食べることが多い。[[トマトケチャップ]]や[[醤油]]といった[[調味料]]を好む人もいる。薬味として[[ホースラディッシュ]]や[[マスタード]]、[[にんにく]]、[[からし]]、[[わさび]]などを用いることもある。
なお、日本で「和風ステーキ」と銘打ったものは、[[大根おろし]]と[[醤油]]、[[ポン酢]]などで味付けされる。
=== 副菜 ===
ステーキの付け合わせには、[[ジャガイモ]]・[[ニンジン]]・[[豆類]]・[[トウモロコシ|コーン]]などの[[温野菜]]が盛りつけられることが多い。日本の一部の店舗や台湾夜市などではパスタを添えることもある。通常は[[食肉|肉]]と付け合せの[[野菜]]以外に[[パン]]が添えられる。日本人は多くの場合ステーキを「おかず」として認識するため、主食である[[飯|ライス]]を選択する。食中酒としては[[赤ワイン]]を選ぶのが常道である。
=== 食べ方 ===
ステーキを食する際は左手に[[フォーク (食器)|フォーク]]、右手に[[ナイフ]]を持ち、肉の左側から一口大にカットし、そのまま左手のフォークを持ち替えず[[食肉|肉]]を口に運ぶのがマナーである。しかし[[アメリカ合衆国|アメリカ]]はカジュアルなスタイル、くだけた態度も許されることが多いので、肉全体を一口大にすっかり切り分けてしまってから、右手にフォークを持ち替えて食べる人もいる。和食料理店では箸で食べる都合上、料理人の手で切り分けられてから供されることが多い。
== 分類 ==
=== 部位 ===
ステーキとしてカットされる肉は、柔らかく味の良い上質な部位に限られる。日本の[[食肉小売品質基準]]で規定されている牛肉の名称では、以下の部位が用いられる。
; {{Anchors|サーロイン}}[[サーロイン]]
: 日本では上部後方の[[腰]]肉を意味する。柔らかく程よい脂身を持ち味が良い。
; {{Anchors|フィレ|ヒレ}}[[ヒレ肉|'''フィレ'''('''ヒレ''')]]
: 最も柔らかく脂肪が少ない。英語では'''テンダーロイン'''と呼ばれる部位である。
; {{Anchors|リブロース}}[[ロース|リブロース]]
: 上部中央の背肉。脂肪が多く旨味がある。
; {{Anchors|肩ロース}}[[ロース|'''肩ロース'''('''かたロース''')]]
: 上部前方の肩肉。脂肪は多いが筋があり、食感はやや固い。
; {{Anchors|腿肉|腿|もも}}[[牛肉#部位|'''腿'''('''もも''')]]
: [[腿]]肉(ももにく)は「もも」と「そともも」に分類され、そとももは硬くステーキには向かない。「もも」は日本食肉格付協会の分類では「うちもも」と「しんたま」に細分される。
; {{Anchors|らんぷ}}[[牛肉#部位|らんぷ]]
: [[臀部]]の肉。赤身で柔らかく脂肪が少ない。
[[ファイル:T-bone-cooked-MCB.jpg|サムネイル|右|140px|Tボーン(ポーターハウス)ステーキ]]
以下は骨付きステーキ。日本の解体法とは異なるため、輸入肉のみに存在するカットである。
; {{Anchors|Tボーンステーキ}}Tボーンステーキ([[:en:T-bone steak]])
: ヒレとサーロイン(あるいはショートロイン)の2つの部位が付いた骨付き肉。骨の断面がT字に見えるためこの名がある。
; {{Anchors|ポーターハウスステーキ}}ポーターハウスステーキ
: Tボーンステーキの中でもヒレの部分が1/3を超えるもの。
; {{Anchors|Lボーンステーキ}}Lボーンステーキ
: Tボーンと同じ部位だが、ショートロイン側でほとんどヒレ肉が付いていないもの、あるいは単に骨付きのサーロインステーキをこのように呼ぶ。
これらの精肉以外にも、[[内臓肉]]に分類される'''[[もつ#もつの分類|サガリ]]'''(ハンガーステーキ)、'''[[ハラミ]]'''(フランクステーキ)、'''ミスジ'''などの部位もステーキとして用いられる。
=== 焼き方 ===
基本として生焼きの「レア」、充分に火の通った「ウェルダン」、その中間の「ミディアム」の3つがある。さらに細かく分けると、レアとミディアムの中間の「ミディアム・レア」、ミディアムとウェルダンの中間の「ミディアム・ウェル」がある<ref>[http://www.jmi.or.jp/recipe/cooking/yaku_main6.html 牛肉の焼き加減と内部温度 公益財団法人日本食肉消費総合センター](一部出典)</ref><ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/63575/ ブルーなステーキって何? トラベル英会話アーカイブ ] All About、2008年5月21日</ref>。
生肉からすっかり火を通し切った状態までの、各段階を細かく網羅的に挙げると以下のとおり。
; {{Anchors|ロー}}ロー({{small|[[英語|英]]:}}raw)
: 未調理。完全に生の状態。食中毒の危険性が高いため、特殊な場合を除き提供されることはない。
; {{Anchors|ブルーレア}}ブルーレア({{small|英:}}blue rare)
: 限りなく生に近く、表面の色が変わる程度に焼いた状態。
; {{Anchors|レア}}レア({{small|英:}}rare)、ブル({{small|[[フランス語|仏]]:}}bleu)
: 表面のみを焼いた「[[鰹のタタキ]]」のような状態。ただし、炙熱後に冷やすタタキの内部が刺身同様の生であるのに対して、レアステーキは余熱などで55 - 60℃程度まで加温されている。
; {{Anchors|ミディアム・レア}}ミディアム・レア({{small|英:}}medium rare1)、セニャン({{small|仏:}}saignant)
: レアとミディアムの中間。肉の内部温度を蛋白質の変質が起こる境界の65℃程度まで温める焼き方。表面はしっかりと焼かれる一方、中心部は生に近い状態が損なわれていない。中にまだ赤みが残っており、切ると多少血がにじむくらいの状態{{Sfnp|栢木|2014|p=128}}。
; {{Anchors|ミディアム}}ミディアム({{small|英:}}medium)、ア・ポワン({{small|仏:}}a point)
: 肉の中心部の蛋白質が変質しかける程度まで温める焼き方(内部温度65℃以上 - 70℃以下)。切るとほぼ全体に色が変わっているが中心部はうっすらとピンクがかっており、完全に色が変わっていない状態。肉汁はまだ保たれている。
; {{Anchors|ミディアム・ウェル}}ミディアム・ウェル({{small|英:}}medium well)
: ミディアムとウェルダンの中間。
; {{Anchors|ウェルダン}}ウェルダン({{small|英:}}well-done)、ビヤン・キュイ({{small|仏:}}bien cuit)
: よく焼いた状態。肉の中心部まで蛋白質の変性が起こっており、赤味はほとんど残っておらず、ナイフで切っても肉汁はほとんど出ない。食中毒を経験をした人は、用心してウェルダンを選ぶようになる傾向があるといわれる。
; {{Anchors|ベリー・ウェルダン}}ベリー・ウェルダン({{small|英:}}very well-done)
: 完全に中まで焼いた状態で、ナイフで肉を切っても肉汁が出ない。肉の良さを殺しすぎるためあまり推奨されないが、これ以外は口にしないという人も一定数は存在する。
{{Anchors|ピッツバーグレア|ブラック・アンド・ブルー}}また、非常に高温に熱した鉄板やグリルで短時間で表面を焦がす「'''ピッツバーグレア'''({{small|英:}}[[:en:Pittsburgh rare|pittsburgh rare]])」あるいは「'''ブラック・アンド・ブルー'''({{small|英:}}black and blue)」といった焼き方もある。
=== 成型肉の景品表示上の問題 ===
[[成型肉]]を「ステーキ」「ビーフステーキ」「○○ステーキ」など「ステーキ」と表示することについて、[[景品表示法]]上の問題が指摘されている。
[[消費者庁]]では、一般消費者は「生鮮食品」の「肉類」に該当する「一枚の牛肉の切り身」を焼いた料理と認識することや、牛の成型肉は「生鮮食品」の「肉類」に該当する牛の生肉の切り身ではないことなどから、「ステーキ」と表示すること自体が景品表示法第4条第1項第1号(優良誤認)に抵触するとの見解を示している<ref>[https://archive.ph/tkehg 牛の成形肉(※1)を焼いた料理のことを「ビーフステーキ」、「ステーキ」と表示してもよいでしょうか。] - 消費者庁表示対策課</ref>。一方、[[東京都]]福祉保健局は「牛肉(サイコロステーキ)」「牛肉加工品(サイコロステーキ)」など、「ステーキ」の表示とともに[[農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律|JAS法]]に基づく適切な名称の記載を推奨している<ref>[https://web.archive.org/web/20111206013748/http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shokuhin/hyouji/faq/meisyou.html 食品衛生の窓] - 東京都福祉保健局。Q1 「「サイコロステーキ(結着肉)」の名称はどのように表示したらよいですか。」を参照。</ref>。
== 牛肉以外のステーキ ==
; {{Anchors|ポークステーキ}}ポークステーキ
: 豚肉の場合、同様なカットに対しては "cutlet" という表現が用いられるのが一般的で、ポークステーキという用語はあまり用いられない。ただしアメリカ合衆国では、肩肉のカットについて限定的にこの名称が使用されることがある([[ポークステーキ]])。豚肉を焼く料理の名称としては、調理法に由来する[[ポークソテー]]や、肉の切り方に由来する[[ポークチャップ]]という呼称が一般的である。
: 日本では豚肉のステーキという意味で「トン(豚)テキ」と呼ばれることがある。トンテキとはビフテキの豚肉版という意味の応用的な命名であるが、ビフテキは[[フランス語]]で肉の炙り焼きを意味する「bifteck(ビフテック)」に由来する言葉であり、ビーフステーキの略称ではない<ref>[https://web.archive.org/web/20210511002456/https://www.nipponham.co.jp/recipes/meat/column/03.html 日本ハムなるほどコラム 「ビフテキ」は「ビーフステーキ」じゃない?!素敵なステーキがもたらす幸せ]</ref>。「とんテキ」は[[上野]]にあった「たいまる」(現在は閉店)の[[登録商標]]である。[[三重県]]では[[四日市とんてき]]が[[ご当地グルメ]]となっている。
; {{Anchors|ラムステーキ}}ラムステーキ
: [[ラム (子羊)|子羊肉]]のステーキ。通常は骨付きに切り分けられるため、ラムチャップと呼ばれることのほうが多い。
; {{Anchors|ヴィールステーキ}}ヴィールステーキ
: [[仔牛肉]]のステーキ。仔牛は未成熟な[[牛]]を指す言葉だが、肉質が大きく異なるため別の食材として扱われる。
; {{Anchors|チキンステーキ}}チキンステーキ
: 鶏肉は「ステーキ」にカットされることはないが、胸肉を叩き伸ばし下味を付けてグリルしたり、衣を付けて油で揚げたりしたものをこう呼ぶことがある。<!--牛肉に比べて時間が経過しても比較的風味が落ちにくいため、[[コンビニエンスストア]]のホットスナックや[[スーパーマーケット]]の惣菜としてもポピュラーな部類。-->
; {{Anchors|馬肉のステーキ}}馬肉のステーキ
; {{Anchors|鯨のステーキ}}鯨のステーキ
: [[馬肉]]や[[鯨肉]]を食用とする国は限られており、流通量も少ないため一般的ではない。日本ではいずれも提供する店がある。
; {{Anchors|ハムステーキ}}ハムステーキ
: [[ハム]]を厚切りにしたもの。
=== 魚類 ===
[[ファイル:Swordfish steaks for sale.JPG|サムネイル|[[英語圏]]の鮮魚売り場に陳列されている Swordfish steaks([[メカジキ]]のステーキ)。|alt=英語圏の鮮魚売り場に陳列されている Swordfish steaks([[メカジキ]]のステーキ)。]]
魚の場合も肉と同様に、長軸方向に対して垂直な筒切り(輪切り)を「ステーキ」と呼び、背骨に平行に削ぎ取られた「フィレ」(いわゆる[[三枚おろし]])の対義語となっている。ただし一般の日本人にはほとんど周知されておらず、冷凍状態で輸入される切り身の流通時を除き、用語として正確に使用されることは稀である。
* {{Anchors|サーモンステーキ}}サーモンステーキ
* {{Anchors|鮪ステーキ|まぐろステーキ}}鮪ステーキ / まぐろステーキ
* {{Anchors|鰹ステーキ|かつおステーキ}}鰹ステーキ / かつおステーキ
=== 野菜類・その他 ===
以下は本来のステーキの意味からは外れるが、慣用的に呼ばれているものである。
* {{Anchors|大根ステーキ|だいこんステーキ}}[[大根]]ステーキ
* {{Anchors|椎茸ステーキ|しいたけステーキ}}[[椎茸]]ステーキ
* {{Anchors|ズッキーニステーキ}}[[ズッキーニ]]ステーキ
* {{Anchors|蓮根ステーキ|れんこんステーキ}}[[蓮根]]ステーキ
* {{Anchors|山芋ステーキ|やまいもステーキ}}[[山芋]]ステーキ
* {{Anchors|サボテンステーキ}}[[サボテン]]ステーキ
* {{Anchors|豆腐ステーキ|}}[[豆腐ステーキ]]
* {{Anchors|鮑ステーキ|あわびステーキ}}[[鮑]]ステーキ
* {{Anchors|蒟蒻ステーキ|こんにゃくステーキ}}[[蒟蒻]]ステーキ
* {{Anchors|漬物ステーキ}}[[漬物ステーキ]] - [[岐阜県]][[飛騨国|飛騨]]地方の[[郷土料理]]。[[漬物]]を油で炒めて、卵でとじたもの。
* [[マッシュルーム]]のステーキ - 大型のものを使用する<ref>{{Cite web|和書|title=特大マッシュルームでヘルシーステーキ♪ by WAQマッシュルーム |url=https://cookpad.com/recipe/1466552 |website=cookpad.com |access-date=2023-02-05 |language=ja |publisher=Cookpad Inc.}}</ref>。
<!--驚くなかれ、ハーバード大学医学部でもステーキよりヘルシーだと推奨されているのである<ref>{{Cite web |title=Meal of the month: Vegetable |url=https://www.health.harvard.edu/heart-health/meal-of-the-month-vegetable-steaks |website=Harvard Health |date=2022-12-01 |access-date=2022-11-19 |language=en |first=Julie |last=Corliss}}</ref>。-->
* [[エノキタケ|エノキ]]ステーキ - えのきの根元の部分で作ったステーキ
* [[ホタテガイ|ホタテ]]ステーキ<ref>{{Cite web|和書|title=ホタテステーキ 2種 by リアスねこ |url=https://cookpad.com/recipe/3797748 |website=cookpad.com |access-date=2023-09-16 |language=ja}}</ref>
* [[タケノコ]]ステーキ<ref>{{Cite web|和書|title=たけのこステーキのレシピ・つくり方 {{!}} キッコーマン {{!}} ホームクッキング |url=https://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/recipe/00002614/ |website=www.kikkoman.co.jp |access-date=2023-09-16 |language=ja}}</ref>
== ステーキ料理のいろいろ ==
英語における用法では、日本で一般にイメージされる鉄板で焼いた厚めの一枚肉からはかけ離れたものも多い。
{{節stub}}
; {{Anchors|チーズステーキ}}[[チーズステーキ]]
: 炒めた薄切り牛肉と[[チーズ]]を柔らかい[[フランスパン]]に挟んだ[[サンドイッチ]]
; {{Anchors|チキンフライドステーキ}}[[チキンフライドステーキ]]
: モモなどの硬い部位のステーキを筋切りして叩き(これをキューブステーキという)、[[小麦粉]]の衣をつけて[[フライドチキン]]のように揚げた料理
; {{Anchors|スイスステーキ}}スイスステーキ
: キューブステーキに小麦粉をまぶして焼き色を付け、トマトや玉ねぎなどの野菜と一緒に長時間煮込んだ料理。日本では豚肉で代用されることも多い。「スイスステーキ煮」と呼ばれることもある。
; {{Anchors|}}[[チャップステーキ]]
: 一口大にカットした牛肉を[[たまねぎ]]や[[ピーマン]]などの野菜と炒め合わせた料理
; {{Anchors|タルタルステーキ}}[[タルタルステーキ]]
: [[牛肉]]や[[馬肉]]の[[挽肉]]を、薬味と[[卵黄]]を混ぜ込み生食する料理
; {{Anchors|ハンバーガーステーキ}}[[ハンバーガーステーキ]]
: 挽肉をステーキ状に成形し焼きあげる料理
; {{Anchors|ソールズベリーステーキ}}[[ソールズベリーステーキ]]
: 日本のハンバーグによく似た[[アメリカ合衆国]]の料理
; {{Anchors|サイコロステーキ}}サイコロステーキ
: 肉を一口大に切ったもの。また、[[結着剤]]で屑肉や牛脂などを固めて[[サイコロ]]状の[[成型肉]]にしたもの。もともとは枝肉からステーキを切り出す際に生じる規格外の端肉の商品化であるが、ナイフとフォークを使う必要がないため、しばしば[[膳]]形式で[[箸]]とともに供される。その発祥は、東京[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]・[[日本橋兜町|兜町]]のバンボリーナが『「ステーキを切る暇の無いほど忙しい」証券マンのために考案したのが始まり』と言われるほか、『[[福岡県]]久留米市の牛鉄で「スタミナステーキ」の名称で昭和45年に商品化された』事、また『昭和40年代にビッグシェフ・グループの前身である洋食店で、藤咲信次シェフが開発した』との説{{Sfnp|菊地|2013|p=112}}もある。成型肉の場合は内部に雑菌が入り込んでいる可能性が高いため、一枚肉のステーキとは異なりレアやミディアムの状態で食すると[[食中毒]]の恐れがある。
; {{Anchors|シャリアピンステーキ|シャリアピン・ステーキ}}[[シャリアピン・ステーキ|シャリアピンステーキ]]
: 擦り下ろしたタマネギに肉を[[マリネ|漬け込んで]]柔らかくしてから焼いたもの。オペラ歌手の[[シャリアピン]]に由来する日本独特の料理。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="kb泉">{{Cite web|和書|title=ステーキ |url=https://kotobank.jp/word/ステーキ-542333 |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-07-28 }}</ref>
<ref name="kb林">{{Cite web|和書|title=ステーキ |url=https://kotobank.jp/word/ステーキ-542333#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 |author=[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-07-28 }}</ref>
<ref name="kb小学国">{{Cite web|和書|title=ステーキ |url=https://kotobank.jp/word/ステーキ-542333#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 |author=小学館『精選版 [[日本国語大辞典]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-07-28 }}</ref>
<ref name=kb-WYCE>{{Cite web|和書|title=ステーキ |url=https://kotobank.jp/word/ステーキ-542333#E5.92.8C.E3.83.BB.E6.B4.8B.E3.83.BB.E4.B8.AD.E3.83.BB.E3.82.A8.E3.82.B9.E3.83.8B.E3.83.83.E3.82.AF.E3.80.80.E4.B8.96.E7.95.8C.E3.81.AE.E6.96.99.E7.90.86.E3.81.8C.E3.82.8F.E3.81.8B.E3.82.8B.E8.BE.9E.E5.85.B8 |author=[[講談社]]『和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-07-28 }}</ref>
<ref name=kb-Nipp>{{Cite web|和書|title=ステーキ |url=https://kotobank.jp/word/ステーキ-542333#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |author=[[河野友美]]、山口米子、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-07-28 }}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* <!--かやき-->{{Cite book |和書 |author=アントラム栢木利美 |date=2014-05-29 |title=13歳からの料理のきほん34 |format=Hardcover |publisher={{spaces}}[[海竜社]] |ref={{SfnRef|栢木|2014}} }}
: {{ncid|BB16169613}}、{{oclc|884757325}}、ISBN 4-7593-1372-9、ISBN 978-4-7593-1372-7、{{国立国会図書館書誌ID|025457265}}。
* <!--きくち-->{{Cite book |和書 |author=菊地武顕 |date=2013-11-13 |title=あのメニューが生まれた店 |publisher=[[平凡社]] |series=コロナ・ブックス 186 |ref={{SfnRef|菊地|2013}} }}
: {{ncid|BB14529536}}、{{oclc|863137710}}、ISBN 4-582-63486-9、ISBN 978-4-582-63486-0、{{国立国会図書館書誌ID|024970835}}。
{{Wiktionary|ステーキ|:en:steak}}
{{Commonscat|Steaks}}
== 関連項目 ==
* [[食肉]]
* [[牛肉]]
* [[ビーフステーキ]]
* [[ステーキソース]]
* [[ステーキハウス]]
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{{食肉}}
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[[Category:ステーキ|*]]
[[Category:肉料理]]
[[Category:アメリカ合衆国の食文化]]
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アナグラム
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アナグラム(anagram)とは、言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びである。
文字列を逆順にして一致するかどうかを調べればよい回文とは異なり、単純に考えて異なるN種類の文字列ならNの階乗通り(N!;例えば5文字なら120通り)の並べ替えが可能なので、意味のあるアナグラムを一瞬で見つけるのは困難である。逆にそれだけの可能性があるため、たいていの言葉は(強引な意味づけをすることで)アナグラムになりうる。
例えば「アナグラム」から「グアムなら」などのアナグラムを作ることができる。
英語ではとくに、意味の上でもとの言葉と関連するようなアナグラムが多く見出されている。
以下はその他の例:
日本語では清音と濁音・半濁音や、同一文字で異なる読み(例・「は」を「ha」と「wa」のどちらの発音で読んでも可)が同一視されることがあるが、アルファベットの場合 "I" と "J"・"U" と "V" が同一視されることがある。
促音や拗音は全て直音として扱うことが多い。
日本語のアナグラムとしては、仮名47文字を並べ替えて意味のある文にした、「いろは歌」の文字の並べ換えが該当する。
本名などのアナグラムをペンネームに用いる作家や芸名に用いる芸能人などがいる。
パズル作家の中にはアナグラムでペンネームを作る人がいる。
その他、パズル誌などの投稿者にもこの方法でペンネームを作る人がいる。
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アナグラム(anagram)とは、言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びである。 文字列を逆順にして一致するかどうかを調べればよい回文とは異なり、単純に考えて異なるN種類の文字列ならNの階乗通り(N!;例えば5文字なら120通り)の並べ替えが可能なので、意味のあるアナグラムを一瞬で見つけるのは困難である。逆にそれだけの可能性があるため、たいていの言葉は(強引な意味づけをすることで)アナグラムになりうる。 例えば「アナグラム」から「グアムなら」などのアナグラムを作ることができる。
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'''アナグラム'''(anagram)とは、[[言葉遊び]]の一つで、単語または[[文]]の中の[[文字]]をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びである。
文字列を逆順にして一致するかどうかを調べればよい[[回文]]とは異なり、単純に考えて異なる''N''種類の文字列なら''N''の[[階乗]]通り(''N!'';例えば5文字なら120通り)の並べ替えが可能なので、意味のあるアナグラムを一瞬で見つけるのは困難である。逆にそれだけの可能性があるため、たいていの言葉は(強引な意味づけをすることで)アナグラムになりうる。
例えば「アナグラム」から「グアムなら」などのアナグラムを作ることができる。
== 例 ==
=== アルファベットの例 ===
==== 英語の例 ====
[[英語]]ではとくに、意味の上でもとの言葉と関連するようなアナグラムが多く見出されている。
*anagrams = ARS MAGNA (アナグラム=偉大なる芸術([[ラテン語]]))
*Statue of Liberty = built to stay free ([[自由の女神像|自由の女神]]=自由でありつづけるために建てられた)
*Christmas = trims cash ([[クリスマス]]=現金をすり減らす)
*astronomer = moon starer (天文学者=月を見つめる者)
*astronomers = No more stars. (天文学者たち=星はもうたくさん)
*conversation = Voices rant on. (会話=大声で騒ぎ立てる)
*desperation = A rope ends it. (絶望=一本のロープがそれを終わらせる)
*contaminated = NO ADMITTANCE (汚染された=立入禁止)
*dormitory = dirty room (学生寮=汚い部屋)
*narcissism = man's crisis (ナルシシズム=男性の危機)
*one plus twelve = two plus eleven (1 + 12 = 2 + 11)
*canoe = ocean (カヌー = 海)
*Cinerama = American ([[シネラマ]] = アメリカ人)
以下はその他の例:
*wing birth = bright win
*Lost nature = Ultra stone
*eros = rose
*vegetarian = vinegar tea
*Tom Marvolo Riddle= I am Lord Voldemort (『[[ハリー・ポッターと秘密の部屋]]』)
*Trash We'd Love = Save The World (ロックバンド[[the HIATUS]]の1stアルバム)
*[[AS FOR ONE DAY]]([[モーニング娘。]]のシングル) = ONE FOR YASDA
==== 補足 ====
日本語では清音と濁音・半濁音や、同一文字で異なる読み(例・「は」を「ha」と「wa」のどちらの発音で読んでも可)が同一視されることがあるが、アルファベットの場合 "I" と "J"・"U" と "V" が同一視されることがある。
=== 日本語の例 ===
[[促音]]や[[拗音]]は全て[[直音]]として扱うことが多い。
* アナグラム→グアム・奈良(先述にもある)
* ウィキペディアン→北京で言い合う(ペキンディィアウ)
* 女子同士→[[宍戸錠]]
* 豚が座らん→[[菅原文太]]
* 釜と釣竿→[[松坂桃李]]
* 老後、長生き→[[稲垣吾郎]]
* [[阿藤快]]→[[加藤あい]]
* [[パラグアイ]]→バイアグラ(濁音と半濁音を同一視)
* 今田君は和尚→[[ハクション大魔王]]([[今田耕司]]の実家は[[本門法華宗]]の寺である)
==== いろは歌 ====
日本語のアナグラムとしては、仮名47文字を並べ替えて意味のある文にした、「[[いろは歌]]」の文字の並べ換えが該当する<ref>{{Cite news|url=https://www.excite.co.jp/News/column_g/20151117/Mycom_freshers__gmd_articles_24328.html|title=不思議! 驚き! なんともすごいアナグラムまとめ「いろはにほへと」「東洲斎写楽」|accessdate=2018-04-22|date=2015-11-07|publisher=エキサイトニュース|work=マイナビ学生の窓口}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/News/column_g/20151117/Mycom_freshers__gmd_articles_24328.html|title=いろは歌のアナグラム 日本のことば遊び|accessdate=2018-04-22|publisher=ジャパンナレッジ}}</ref>。
=== ペンネームや芸名に用いた例 ===
本名などのアナグラムを[[ペンネーム]]に用いる作家や芸名に用いる芸能人などがいる。
* 伊島恭=Ijima Kyo - [[雅孝司]]=Miya Kojiのアナグラム。
* アルコフリバス・ナジエ(Alcofribas Nasier) - [[16世紀]][[フランス]]の文人[[フランソワ・ラブレー]](François Rabelais)が用いたペンネーム。
* [[泡坂妻夫]] - 本名の厚川昌男のアナグラム。
* 船田学(ふなだがく)・加田伶太郎(かだれたろう) - 共に[[福永武彦]]のペンネーム。前者は「福永だ」後者は「誰(たれ)だろうか」のアナグラム。
* [[マルグリット・ユルスナール]] (Marguerite Yourcenar) - ユルスナールは、本名クレイヤンクール (Crayencour)のアナグラム。
* 遡玉洩穂(そだまもるほ) - 本名の[[細田守]](ほそだまもる)のアナグラム。
* 矢沼正太・犬屋タマセ - 本名の[[沼田誠也]](ぬまたせいや)のアナグラムと思われる。
* 石臼登代(いしうすとよ) - [[臼井儀人]](うすいよしと)が[[テレビアニメ]]『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』の[[脚本]]を書くにあたって付けたペンネームとする説があるアナグラム。
* さかともえり - [[ともさかりえ]]の歌手名(ともさかの本業は[[俳優|女優]])。「とも」「さか」「り」「え」で分解し組み直したアナグラム。
* 妻方仁(つまかたじん) - 本名の[[高松信司]](たかまつしんじ)のアナグラム。
* [[小池田マヤ]](こいけだまや) - 本名の山田佳子(やまだけいこ)のアナグラム。
* [[タモリ]] - 本名([[#日本語の例|前項]]参照)の苗字(森田)のアナグラム。
* [[湊かなえ]] - 創作ラジオドラマ大賞受賞当時は「金戸美苗」(かなとみなえ)の名義で活動していたが、のち「か」と「み」の位置を入れ替えて小説家をデビューした。
* [[カヒミ・カリィ]](Kahimi Karie) - 結婚前の本名の比企眞理(ひきまり)のアナグラム。
*マバヌア([[mabanua]]) - 本名の学(まなぶ)のアナグラム。
* [[パウル・ツェラン]] - [[ユダヤ系]]の本名パウル・アンチェル(Paul Antschel / Paul Ancel)を隠すためのアナグラム。
*オグドレッド・ウェアリー(Ogdred Weary) - 本名の[[エドワード・ゴーリー]](Edward Gorey)のアナグラム。
*[[三木なずな]] - 台湾出身の小説家。ファンである声優の[[水樹奈々]]のアナグラムから作成したペンネーム。
==== パズル作家 ====
パズル作家の中にはアナグラムでペンネームを作る人がいる。
* Sarah O. Haigy - [[芦ヶ原伸之]]が海外で使用していたペンネームのひとつ。「Yoshigahara」のアナグラムである。
* N. Claus de Siam - [[ハノイの塔]]の話を発表した人。[[エドゥアール・リュカ|リュカ]](Lucas d'Amiens)のアナグラムである。
その他、パズル誌などの投稿者にもこの方法でペンネームを作る人がいる。
==== 会社・企業 ====
*[[アリカ]] - ソフトウェア会社の一つ。社長の名前である「AKIRA(あきら)」を「ARIKA(アリカ)」と逆さに読み替えた。
*[[EDWIN]] - デニム(DENIM)のアナグラムである(Mは逆さにしてWにする)。
=== 人名をもじったもの ===
*[[シュルレアリスム]]の父といわれる[[アンドレ・ブルトン]]は、[[サルバドール・ダリ]](Salvador Dali)を "Avida Dollars"(ドルの亡者)と批判した。「Avida Dollars」は「Salvador Dali」のアナグラムである。
*Madonna(マドンナ) = MadOnna(マッド・女)並びは同じだが、ローマ字読みで変わる。
*[[ジャズ]][[ピアニスト]]の[[ソニー・クラーク]]が31歳で死去した時、[[ビル・エヴァンス]]が追悼の意を込めて「NYC's No Lark」(ニューヨークからヒバリ去る)という曲を書いているが、この曲名は「Sonny Clark」のアナグラムである。また、エヴァンズは[[リバーサイド・レコード]]に「Re: Person I Knew」(私が知っていた人について)という曲をレコーディングしているが、この曲名もリバーサイドの共同設立者/プロデューサー、[[オリン・キープニュース]](Orrin Keepnews)の名前のアナグラムである。
*[[名古屋市長]]の[[河村たかし]]が、表敬訪問のために訪れた[[2020年東京オリンピックのソフトボール競技|東京五輪ソフトボール]]金メダリストのメダルを突然[[金メダル#金メダルを噛む|噛んだ]]騒動の際、「かわむらたかし」の名前が「わたしかむから(私噛むから)」「たからかむわし(宝噛むワシ)」「かしたらかむわ(貸したら噛むわ)」などになることが話題になり<ref>{{Cite news | title = 「わたしかむから」「たからかむわし」「かしたらかむわ」河村たかし市長メダルかじりでアナグラムが話題に | newspaper = [[サンケイスポーツ]] | date = 2021-8-5 | accessdate = 2021-8-6 | url = https://www.sanspo.com/article/20210805-FEDMWKLVWNBWDNN25VT5AUQ75Q/}}</ref>、「生まれたときから噛むことが決まっていた」と揶揄された<ref>{{Cite news|title=ナイツ 市長のメダルかみつきは“アナグラム”にあり?「生まれたときから決まってたんだよ」|newspaper=Sponichi Annex|date=2021-08-05|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/08/05/kiji/20210805s00041000347000c.html|accessdate=2021-08-06}}</ref>。
=== テレビ番組など ===
*[[BSJapanext]]・[[朝日放送テレビ]]制作の『[[パネルクイズ アタック25|パネルクイズ アタック25→パネルクイズ アタック25 Next]]』ではアナグラムの問題が出題されている。また、かつて1982年に放映された同局のクイズ番組『[[三角ゲーム・ピタゴラス]]』でも出題されたことがあった。
*[[BSフジ]]で放送されている『[[クイズ!脳ベルSHOW]]』でも「シャッフル人名」というコーナー名でアナグラムの問題が出題されている。
*[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系にてかつて放送されていたクイズ番組『[[マジカル頭脳パワー!!]]』においても「シャッフルクイズ」というコーナー名でアナグラムの問題が出題されていた時期がある。
*同じく日本テレビ系スポーツニュース番組『[[スポーツうるぐす|スポーツうるぐす(後の江川×堀尾のSUPERうるぐす)]]』の「うるぐす」(URUGUS)は、メインキャスターの一人・[[江川卓 (野球)|江川卓]]の名前(SUGURU)のアナグラムである。
*元[[ラーメンズ]]の[[小林賢太郎]]は、自身が出演する番組やソロ公演などで、アナグラムを用いたコントを披露する事が多々ある。
=== フィクション ===
*[[ウィリアム・シェイクスピア]]の『[[ハムレット]]』(Hamlet)の主人公の名前は、『[[デンマーク人の事績]]』に登場する[[アムレート]](Amleth)のアナグラムだと考えられている。
*『[[吸血鬼ドラキュラ]]』以降に発表された、[[吸血鬼]]を題材とするフィクション作品の幾つかで、「Dracula(ドラキュラ)」のアナグラムである「Alucard(アルカード、またはアルクェイド)」が吸血鬼の名前として登場している。
*[[グレッグ・イーガン]]の小説『順列都市(原題:Permutation City)』はタイトルの「Permutation City」を入れ替えたアナグラムの詩で始まる。また、各章タイトルも「Permutation City」のアナグラムである。邦訳版では「じゅんれつとし」を入れ替えた『使途連述』『術と試練』『受信裂渡』などが使われている。
*[[J・K・ローリング]]の小説[[ハリー・ポッターシリーズ|『ハリー・ポッター』シリーズ]]に登場する、主人公[[ハリー・ポッター]]の宿敵である[[ヴォルデモート]]の名前は、「トム・マールヴォロ・リドル(Tom Marvolo Riddle)」という本名を嫌い、"I am Lord Voldemort" (私はヴォルデモート卿だ)と並べ替えて自称したアナグラムである。
*[[ボンバーマンシリーズ]]に登場するキャラクター『ムジョー』の名前は、モデルとなった中野忠博の当時<ref group="注">ムジョーが初登場する作品『[[サターンボンバーマン]]』開発当時という意味。</ref>の[[ハドソン]]での役職「常務(ジョーム)」のアナグラムである。
*[[さくらももこ]]原作のアニメ『[[コジコジ|さくらももこ劇場 コジコジ]]』に登場するキャラクター『虎田進』の名前は、彼の正体である「[[ノストラダムス]]」のアナグラムである。
*[[新沢基栄]]の漫画『[[ハイスクール!奇面組]]』に登場する「[[ハイスクール!奇面組の登場人物一覧#婦組(ふくみ/2組)|婦組]](ふくみ)」のメンバーの名前は、実在の芸能人名をアナグラムにしたものである(例:[[薬師丸ひろ子]](やくしまるひろこ)→子役締ひろ(こやくしまるひろ))。
*[[ウィザードリィ]]に登場するキャラクターの「トレボー」「ワードナ」の名前は、それぞれ作者である[[ロバート・ウッドヘッド]](''Robert'' <small>Woodhead</small>)と[[アンドリュー・グリーンバーグ]](''Andrew'' <small>C. Greenberg</small>)のファーストネームを逆につづったアナグラムである。
*[[スパイク・チュンソフト]]から発売されたゲーム『[[極限脱出ADV 善人シボウデス]]』には二つのアナグラムが登場する。「TWO MILK MEN GO COMEDY!」→「WELCOME TO MY KINGDOM!(ようこそ我が王国へ)」は序盤でアナグラムだと明かされる。「MEMENTO MORI, IF THE NINETH LION ATE THE SUN』(死を忘れるな、もしも9番目のライオンが太陽を食べた時)」→「THE MAN OF THE MOON RUKES THE INFINITE TIME(月の男(人間)は無限の時を支配する)」は作中の真相の一つで終盤にアナグラムが判明する。
*[[スパイク・チュンソフト]]から発売されたゲーム『[[ZERO ESCAPE 刻のジレンマ]]』の英語版タイトル『Zero Time Dilemma』は「Me? I'm Zero; I'm Delta.」と並べ換えることができる。ディレクターの[[打越鋼太郎]]が意図したものでなく、ローカライズを手がけた[[Aksys Games]]によるものか、あるいはただの偶然の可能性がある。
*『[[仮面ライダーフォーゼ]]』の登場人物名には過去の仮面ライダーシリーズの人物名などのアナグラムが多く用いられている。例:歌星賢吾(うたほしけんご)→本郷猛(ほんごうたけし=仮面ライダー1号)。
*『猫田びより』のヒロイン「アミ」は「I am」→「Ami」からきている。
=== その他 ===
*近世ヨーロッパの科学者、例えば、[[ガリレオ・ガリレイ]]や[[クリスティアーン・ホイヘンス]]などは、自分の発見をアナグラムにして記録した。その利点は、他人が同じ発見を発表した際には、自分が先に発見していたことを主張できるし、また、その発見を秘密にすることで、さらに重要な発見を他人に横取りされずにすむことにある。
*[[ノストラダムス]]の大予言(『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集]]』) - アナグラムに類似する技法によって「解読」したとする研究者が少なくない。ただし『予言集』にアナグラムの技法が用いられている部分があることは疑いない。
*[[マーティン・ガードナー]]は『[[サイエンティフィック・アメリカン]]』誌に「Mathematical Games(邦題「数学ゲーム」)」というコラムを連載していた。[[ダグラス・ホフスタッター]]はこのコラムの終了後「Metamagical Themas(邦題「[[メタマジック・ゲーム]]」)」というコラムを執筆した。この2つのタイトルはアナグラムの関係になっている。
*小惑星[[オルマ (小惑星)|(2517) オルマ]]は[[モーラ (小惑星)|(1257) モーラ]]の綴り字のアナグラムから命名された。
== 関連項目 ==
* [[回文]]
* [[パングラム]]
* [[語音転換]]
* [[隠語]]
* [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]] - 犯人が[[犯行声明]]文にアナグラムを用いた。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
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[[Category:言葉遊び]]
[[Category:ミステリ]]
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18,548 |
マックス・プランク物理学研究所
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マックス・プランク物理学研究所(Max-Planck-Institut für Physik;MPP)は、ドイツのミュンヘンにある物理学研究所で、高エネルギー物理学と天文素粒子物理学に特化している。マックス・プランク協会に属し、初代所長にちなみ「ヴェルナー・ハイゼンベルク研究所」としても知られる。1917年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所として創設された。アルベルト・アインシュタイン、フリッツ・ハーバー、ヴァルター・ネルンスト、マックス・プランクおよびピーター・デバイが部門長を務めた。第二次世界大戦により移動を余儀なくされ、始めゲッティンゲンに、次いで1958年にはミュンヘンに移りマックス・プランク物理学・天文物理学研究所と改称された。1991年にはマックス・プランク物理学研究所とマックス・プランク天文物理学研究所、マックス・プランク地球外物理学研究所に分割された。
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マックス・プランク物理学研究所は、ドイツのミュンヘンにある物理学研究所で、高エネルギー物理学と天文素粒子物理学に特化している。マックス・プランク協会に属し、初代所長にちなみ「ヴェルナー・ハイゼンベルク研究所」としても知られる。1917年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所として創設された。アルベルト・アインシュタイン、フリッツ・ハーバー、ヴァルター・ネルンスト、マックス・プランクおよびピーター・デバイが部門長を務めた。第二次世界大戦により移動を余儀なくされ、始めゲッティンゲンに、次いで1958年にはミュンヘンに移りマックス・プランク物理学・天文物理学研究所と改称された。1991年にはマックス・プランク物理学研究所とマックス・プランク天文物理学研究所、マックス・プランク地球外物理学研究所に分割された。
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'''マックス・プランク物理学研究所'''(Max-Planck-Institut für Physik;MPP)は、[[ドイツ]]の[[ミュンヘン]]にある[[物理学]][[研究所]]で、[[高エネルギー物理学]]と天文[[素粒子物理学]]に特化している。マックス・プランク協会に属し、初代所長にちなみ「[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]研究所」としても知られる。1917年、[[ベルリン]]にカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所として創設された。[[アルベルト・アインシュタイン]]、[[フリッツ・ハーバー]]、[[ヴァルター・ネルンスト]]、[[マックス・プランク]]および[[ピーター・デバイ]]が部門長を務めた。[[第二次世界大戦]]により移動を余儀なくされ、始め[[ゲッティンゲン]]に、次いで1958年にはミュンヘンに移りマックス・プランク物理学・天文物理学研究所と改称された。1991年にはマックス・プランク物理学研究所と[[マックス・プランク天文物理学研究所]]、[[マックス・プランク地球外物理学研究所]]に分割された。
==外部リンク==
* [http://www.mpp.mpg.de ホームページ]
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18,549 |
音素
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音素(おんそ、英: phoneme)とは、言語学・音韻論において、音声学的な違いはどうであれ、心理的な実在として、母語話者にとって同じと感じられ、また意味を区別する働きをする音声上の最小単位となる音韻的単位を指す。
音素は次の特徴を持つ。
場合によっては、子音や母音、半母音をまとめて分節音素(英: segmental phonemes)と総称し、分節音素を越えて見られる要素、つまり声調やイントネーションを含む音の高さ(英: pitch)、強勢またはアクセント、連接(英語版)(英: juncture)をまとめて超分節音素(英: suprasegmental phonemes)と総称することがある。
ロシアの言語学者ボードゥアン・ド・クルトネが初めてその概念を提唱した。
ある音声の相違が言語体系に何をもたらすのか、それは意味の区別であり、意味の区別に用いられる音声の相違は「音韻的対立」と呼ばれる。この「音韻的対立」こそが、言語の分析を行う上で重要な要素でもある。
例えば、cat /kǽt/とdog /dɔ:g/は互いに語の意味が異なるので、音韻的対立を成している。また、cat – dogという対立の項は、音韻的単位であるものの、この2つの音韻的単位には何ら共通点が存在しない。
だが、pen /pen/とman /mǽn/を考えてみると、cat - dogと同じように、両者は互いに語の意味が異なるので、音韻的対立を成している。しかし、cat – dogの対立と違う点は、最後の音が/n/で共通していることである。このことから、/pe/と/mǽ/という2つの音韻的単位を抽出することが出来る。つまり、penとmanは、/pe/と/mǽ/の違いにより、前者はペン、後者は男という意味が与えられる。
また、/pe/と/mǽ/は、更に小さな音韻的単位に細分化できる。penの/pe/はpen /pen/ - ben /ben/とpen /pen/ - pin /pɪn/の対立から、/p/と/e/という音韻的単位が抽出でき、/mǽ/もman /mǽn/ - pan /pǽn/とman /mǽn/ - men /men/の対立により、/m/と/ǽ/という音韻的単位が抽出できる。
さて、クルトネの影響を受けたプラハ学派音韻論の音素の定義は以下の通りである。
(1)は音素が1番小さな音韻的単位であること、(2)は音韻的単位によって英単語の意味を区別する「音韻的対立」が可能になること、(3)は音韻的対立によって2つの音声の違いが区別されることを意味する。
また、(1)にある「より小さな単純な音韻的単位」についてだが、我々が知っている音素、例えば/p/を、この音を構成している音声特徴(e.g. 両唇音、破裂音)に分解すれば、その音声特徴が1番小さな音韻的単位になってしまう。だが、音声特徴はその音がどのような特徴を有するかを示すものであり、音そのものではない。
これについて、Josef Vachekという音韻論学者が、次のような主張をしている。
例えばpan /pǽn/は、/p/-/ǽ/-/n/という3つの音韻的単位の連続によって発音でき(「連続的」な音韻的単位)、それぞれの音韻的単位、例えば/p/は、無声音、両唇音、破裂音とい3つの音声特徴が同時に出現することで発音できる(「同時的」な音韻的単位)。
また、音声特徴は同時に出現することでその音を発音することが出来、仮に無声→両唇→破裂のように、連続的に出現するものではない。従って、Vachekは音素について、音声特徴という同時的音韻的単位に分解できるが、これ以上連続的音韻的単位に分解できないものである、とした。更に、このVachekの考えを受け、Трубецкойは(1)の定義について、次のように改訂した。
音声表記と音素表記はいずれもよく用いられ、俗には混同されることが少なくないが、両者間には明確な違いがある。 以下に表の形で違いを対照しておく。
このように、音声表記がきわめて普遍的な性質をもち、他言語の音声同士を比較するようなことも頻繁に行われるのに対し、音素表記は個々の言語内でそれぞれに定義され完結しているもので、言語同士の比較に耐えるようなものではない。 たとえば日本語の音素表記で /h/ は長音「ー」の記号として用いられることが多いが、別の言語ではこれが子音 [ħ] の音標に使われているとか、日本語、中国語、フランス語、イタリア語の /r/ がそれぞれ全く違う音に聞こえる、とかいったことが起こるが、そもそも他言語の音素表記同士を比較すること自体が無意味なことであると言える。
多数の音標を扱わざるを得ない音声表記が独自の特殊な記号をあらかじめ多数用意しているのに対し、音素表記では記号の数は比較的少数で済むため、特殊な記号に頼る必要が比較的少ない。 日本語の [ɯ]、[ɾ] をそれぞれ /u/、/r/ で記述するなど、扱いやすくて直観的にもわかりやすい「普通のアルファベット」を多用するのが一般的である。
音はさまざまな条件のもとで異なって発音されるが、言語話者によって同じ音だと認識される場合、それぞれの音は音素が同じということになり、それぞれの音はある音素の異音と呼ぶ。ミニマル・ペアを使うことによってその言語がもつ音素の範囲が特定できる。
例えば、日本語の音素/h/は、/a, e, o/の前では無声声門摩擦音[h]であるが、/i/の前では無声硬口蓋摩擦音[ç]、/u/の前では無声両唇摩擦音[ɸ]となる。これらの音はそれぞれ/h/の異音である。
上記の例のような異音は必ず決まった条件のもとで現れ、ある音が現れるときはそこに別の音が現れない。このことを相補分布しているといい、このような異音を条件異音という。またある言語では無気音の[k]と有気音の[kh]で意味を弁別して両者は異なる音素として現れるが、日本語では/k/が有気音であっても無気音であっても意味を区別しない。よって[k]と[kh]は日本語の音素/k/の異音であるが、その現れる条件は決まっていないので自由異音と呼ばれる。
ただし、ミニマルペアと相補分布だけで音素は判断できず、音声の類似性も重要である。たとえば英語では 音節頭にしかない [h] と音節末にしかない [ŋ] は相補分布しミニマルペアを持たないが、音声に類似がないため同じ音素とはみなされない。
音素の認定には心理的・物理的な基準など様々な要素があり、また音素表記を何のために使うかによっても変わってくる。このため概説書のなかでも学者により大きく異なる場合がある。また学派によって音素に関する考え方が異なり、認知言語学のように音素を認めない立場がある。
一般的な説では、現代日本語の音素は次のようになる。ただし細部については論争がある。
以上のうちわかりにくいものを補説すると、/c/ は「ち」「つ」の子音(下記参照)、/j/ は一般のローマ字で y と書かれる「や行」の子音および拗音の要素、/n/, /q/, /h/ はそれぞれ撥音「ん」、促音「っ」、長音「ー」に相当する音素である。
なお、/j/ の代わりに /y/、/h/ の代わりに /r/ を使ったり、特殊モーラのスモールキャピタルの代わりに普通の大文字を使うこともある。しかし、音素の記号は互いに区別できることだけが重要であり、使用する文字の種類は本質的な違いではない。
撥音「ん」は音環境により [n, m, ŋ, ɴ, ã, ẽ, ĩ, õ, ɯ̃] とさまざまな音価を取るが、これらは相補的な異音であり、同じ音素 /n/ とみなされる。促音「っ」も同様に /q/ とされる。
長音符「ー」については論争があり、/h/ を立てず母音音素の繰り返しとする説もある。ただしミニマルペア「里親(サトオヤ)」と「砂糖屋(サトーヤ)」のような例があるので、これらを弁別する工夫が必要になる。ア行子音 /’/ を立てる説、繰り返し用の母音音素 /u/, /i/ を立てる説があり、「里親」「砂糖屋」のそれぞれのモデルでの音素表現は次のようになる。
「ティー (tea)」と「チー(吃)」のようなミニマルペアがあるので、「ティ」を /ti/ とするなら「チ」には /ti/ とは別の音素が必要であり、/ci/ で表す。同様に「トゥ」/tu/ に対し「ツ」を /cu/ とする。「ツァ、ツェ、ツォ」は /ca, ce, co/、「チャ、チュ、チェ、チョ」は /cya, cyu, cye, cyo/ となる。このモデルでは、「チ」と「ツィ」は(「シ」と「スィ」のように)異音の違いとなる。
いっぽう、形態論的に「勝つ」という動詞の活用を分析するにあたり、/kata-/ /kaci/...と分けるよりは/kat/を語幹として分析する方が合理的だとする立場からは別に音素は立てられない。ただしこの場合、「ティ」「トゥ」「ツァ」等の扱いが問題になる。
/c/ を立てる立場からは、ある条件で /t/ が /c/ に変化するという生成音韻論的な推移則を立てて、活用の問題に対処する。この場合、ワ行五段活用で /w/ が /∅/(∅は何もないことを示す)に変化する(「会う」は /awa-/ /ai-/ ... と活用する)ことの類例と考えることができる。
鼻濁音の子音 [ŋ] は /ɡ/ の異音とされることが多い。しかし、「オオカ゚ラス (大烏)」と「オオガラス (大硝子)」がミニマルペアをなすという説もあり、その場合、/g/ とは別の音素 /ŋ/ が必要になる。
音素をそのまま文字として表記するものを、音素文字と呼ぶ。音素文字には、子音あるいは特定の音節を表す基本字母に、母音を表す特殊記号を付加、または字形を変形して一般の音節を表記するアブギダ、子音のみで構成されるアブジャド、そして母音と子音をあらわす文字のあるアルファベットの3つの種類がある。現代において使用される音素文字は、純粋なアブジャドであるフェニキア文字から派生したと考えられている。フェニキア文字はギリシアへ伝わって母音をあらわすアルファベットであるギリシア文字へと変化し、ラテン文字やキリル文字などの文字を生み出した。また、フェニキア文字の変化したアラム文字はインドへと伝わり、世界初のアブギダであるブラーフミー文字を生み出した。この文字の一派はデーヴァナーガリー文字やタイ文字など多くの文字を生みだし、現代においても南アジアから東南アジアにかけての多くの文字はアブギダに属するものとなっている。純粋なアブジャドは現代においては使用されていないが、アラビア文字やヘブライ文字などは純粋ではないがアブジャドに属する。また、音素文字、特にアルファベットは母音も子音も表記する文字があることから表記法を策定しやすく、19世紀以降世界各地の無文字言語が文字を導入する際にはほとんどがアルファベット、なかでもラテン文字を導入した。
表語文字である漢字を使用する中国や、音節文字である仮名文字と漢字を併用する日本などいくつかの文化圏を除いて、現在世界において使用されている文字のかなりが音素文字に属するものである。アルファベットはヨーロッパを中心に南北アメリカ大陸やオセアニアにおいて使用され、アブギダは南アジアから東南アジアにかけて広く使用され、アブジャドは中東で主に使用されている。
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"text": "音素(おんそ、英: phoneme)とは、言語学・音韻論において、音声学的な違いはどうであれ、心理的な実在として、母語話者にとって同じと感じられ、また意味を区別する働きをする音声上の最小単位となる音韻的単位を指す。",
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"text": "場合によっては、子音や母音、半母音をまとめて分節音素(英: segmental phonemes)と総称し、分節音素を越えて見られる要素、つまり声調やイントネーションを含む音の高さ(英: pitch)、強勢またはアクセント、連接(英語版)(英: juncture)をまとめて超分節音素(英: suprasegmental phonemes)と総称することがある。",
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"text": "鼻濁音の子音 [ŋ] は /ɡ/ の異音とされることが多い。しかし、「オオカ゚ラス (大烏)」と「オオガラス (大硝子)」がミニマルペアをなすという説もあり、その場合、/g/ とは別の音素 /ŋ/ が必要になる。",
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"text": "表語文字である漢字を使用する中国や、音節文字である仮名文字と漢字を併用する日本などいくつかの文化圏を除いて、現在世界において使用されている文字のかなりが音素文字に属するものである。アルファベットはヨーロッパを中心に南北アメリカ大陸やオセアニアにおいて使用され、アブギダは南アジアから東南アジアにかけて広く使用され、アブジャドは中東で主に使用されている。",
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音素とは、言語学・音韻論において、音声学的な違いはどうであれ、心理的な実在として、母語話者にとって同じと感じられ、また意味を区別する働きをする音声上の最小単位となる音韻的単位を指す。
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'''音素'''(おんそ、{{Lang-en-short|phoneme}})とは、[[言語学]]・[[音韻論]]において、音声学的な違いはどうであれ、心理的な実在として、母語話者にとって同じと感じられ、また意味を区別する働きをする音声上の最小単位となる音韻的単位を指す。
== 概略 ==
音素は次の特徴を持つ。
*弁別的 ({{Lang-en-short|distinctive}}) な価値を持つ。すなわち、音素の違いは意味の違いをもたらす。
*ある音素の実際の[[単音|音価]]は、その周囲の音的環境から予測可能である。
場合によっては、[[子音]]や[[母音]]、[[半母音]]をまとめて'''分節音素'''({{Lang-en-short|[[wikt:segmental phoneme|segmental phonemes]]}})<ref>田中ら(1982:55, 64)。</ref>と総称し、分節音素を越えて見られる要素、つまり[[声調]]や[[イントネーション]]を含む[[音の高さ]]({{Lang-en-short|pitch}})、[[強勢]]または[[アクセント]]、{{仮リンク|連接|en|Juncture}}({{Lang-en-short|juncture}})をまとめて'''超分節音素'''({{Lang-en-short|[[wikt:suprasegmental phoneme|suprasegmental phonemes]]}})と総称することがある<ref group="注釈">なお{{Harvcoltxt|湯川|1999|p=46}}のように強弱や高低の違いを「超分節的音特徴」や「アクセント」と呼称し、「音素」という表現を用いていない場合も見られる。</ref><ref>田中ら(1982:72–74)。</ref>。
ロシアの言語学者[[ヤン・ボードゥアン・ド・クルトネ|ボードゥアン・ド・クルトネ]]が初めてその概念を提唱した。
== 定義 ==
ある音声の相違が言語体系に何をもたらすのか、それは意味の区別であり、意味の区別に用いられる音声の相違は「音韻的対立」と呼ばれる。この「音韻的対立」こそが、言語の分析を行う上で重要な要素でもある。
例えば、cat /kǽt/とdog /dɔ:g/は互いに語の意味が異なるので、音韻的対立を成している。また、cat – dogという対立の項は、音韻的単位であるものの、この2つの音韻的単位には何ら共通点が存在しない。
だが、pen /pen/とman /mǽn/を考えてみると、cat - dogと同じように、両者は互いに語の意味が異なるので、音韻的対立を成している。しかし、cat – dogの対立と違う点は、最後の音が/n/で共通していることである。このことから、/pe/と/mǽ/という2つの音韻的単位を抽出することが出来る。つまり、penとmanは、/pe/と/mǽ/の違いにより、前者はペン、後者は男という意味が与えられる。
また、/pe/と/mǽ/は、更に小さな音韻的単位に細分化できる。penの/pe/はpen /pen/ - ben /ben/とpen /pen/ - pin /pɪn/の対立から、/p/と/e/という音韻的単位が抽出でき、/mǽ/もman /mǽn/ - pan /pǽn/とman /mǽn/ - men /men/の対立により、/m/と/ǽ/という音韻的単位が抽出できる。
さて、クルトネの影響を受けた[[プラハ学派]]音韻論の音素の定義は以下の通りである<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=音韻論Ⅰ|year=1971|publisher=大修館書店|author=小泉保|author2=牧野勤|volume=1|series=英語学大系}}</ref>。
# 音素(Phoneme)は、より小さな単純な音韻的単位に分解することの出来ない音韻的単位である。
# 音韻的単位は、ある音韻的対立の各項である。
# 音韻的対立は、ある言語において知的意味を区別するのに用いられる音声的相違である。
(1)は音素が1番小さな音韻的単位であること、(2)は音韻的単位によって英単語の意味を区別する「音韻的対立」が可能になること、(3)は音韻的対立によって2つの音声の違いが区別されることを意味する。
また、(1)にある「より小さな単純な音韻的単位」についてだが、我々が知っている音素、例えば/p/を、この音を構成している音声特徴(e.g. 両唇音、破裂音)に分解すれば、その音声特徴が1番小さな音韻的単位になってしまう。だが、音声特徴はその音がどのような特徴を有するかを示すものであり、音そのものではない。
これについて、Josef Vachekという音韻論学者が、次のような主張をしている<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=音韻論Ⅰ|year=1971|publisher=大修館書店|author=小泉保|author2=牧野勤|volume=1|series=英語学大系}}</ref>。
* 音韻的単位を「同時的(simultaneous)」なものと、「連続的(successive)」なものに分類せよ。
例えばpan /pǽn/は、/p/-/ǽ/-/n/という3つの音韻的単位の連続によって発音でき(「連続的」な音韻的単位)、それぞれの音韻的単位、例えば/p/は、無声音、両唇音、破裂音とい3つの音声特徴が同時に出現することで発音できる(「同時的」な音韻的単位)。
また、音声特徴は同時に出現することでその音を発音することが出来、仮に無声→両唇→破裂のように、連続的に出現するものではない。従って、Vachekは音素について、音声特徴という同時的音韻的単位に分解できるが、これ以上連続的音韻的単位に分解できないものである、とした。更に、このVachekの考えを受け、[[ニコライ・トルベツコイ|Трубецкой]]は(1)の定義について、次のように改訂した<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=音韻論Ⅰ|year=1971|publisher=大修館書店|author=小泉保|author2=牧野勤|volume=1|series=英語学大系}}</ref>。
# 音素(Phoneme)は、より小さな連続的音韻的単位である。
==音声と音素==
[[音声]]表記と音素表記はいずれもよく用いられ、俗には混同されることが少なくないが、両者間には明確な違いがある。
以下に表の形で違いを対照しておく。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
!
!音声表記
!音素表記
|-
!記述対象
|人類が発するあらゆる[[言語音]]
|対象とする一言語の、話者が[[認識]]している言語音
|-
!意図
|言語音をありのままに記述し、記述したものから正確に音声を再現できること。<br/>→ 網羅的に、精密に、客観的に。
|対象となる言語の音声を解釈・整理し、「話者が認識している音」の連なりとして再構成してみせること。ひいては、その言語の音韻構造、さらには[[統語]]構造などに内側から光をあてること。<br/>→ 話者の直観に沿う形で、かつ合理的、体系的に。
|-
!記号の定義
|[[国際音声学会]]により[[国際音声記号]]としてあらかじめ定義されている。その数は150個以上。補助記号つきも数えれば、さらに数倍から数十倍になる。
|言語ごとに慣例的におおむね決まっているが、研究成果に応じて研究者が改訂を試みることも可能。記号の数は対象言語の音素数に等しい理屈だが、多くの場合たかだか数十個。
|-
!例<br/><span style="font-weight:normal;">日本語 「人格者」</span>
|'''{{IPA|ʥĩŋ̍kakɯ̥ɕa}}''' - 通常 {{IPA| }} でくくって記述する。<br/><small>※厳密さの度合いなどによって異なる表記もあり得る。</small>
|'''{{ipa|zi{{smallcaps|n}}kakusja}}''' - 通常 {{ipa| }} でくくって記述する。<br/><small>※解釈の流儀により異なる表記もあり得る。</small>
|}
このように、音声表記がきわめて普遍的な性質をもち、他言語の音声同士を比較するようなことも頻繁に行われるのに対し、音素表記は個々の言語内でそれぞれに定義され完結しているもので、言語同士の比較に耐えるようなものではない。
たとえば日本語の音素表記で {{ipa|{{smallcaps|h}}}} は[[長音]]「ー」の記号として用いられることが多いが、別の言語ではこれが子音 {{IPA|ħ}} の[[発音記号|音標]]に使われているとか、日本語、[[中国語]]、[[フランス語]]、[[イタリア語]]の {{ipa|r}} がそれぞれ全く違う音に聞こえる、とかいったことが起こるが、そもそも他言語の音素表記同士を比較すること自体が無意味なことであると言える。
多数の音標を扱わざるを得ない音声表記が独自の特殊な記号をあらかじめ多数用意しているのに対し、音素表記では記号の数は比較的少数で済むため、特殊な記号に頼る必要が比較的少ない。
日本語の {{IPA|ɯ}}、{{IPA|ɾ}} をそれぞれ {{ipa|u}}、{{ipa|r}} で記述するなど、扱いやすくて直観的にもわかりやすい「[[ラテン文字#基本字|普通のアルファベット]]」を多用するのが一般的である。
== 音素の認定方法 ==
{{see also|ミニマル・ペア}}
音はさまざまな条件のもとで異なって発音されるが、言語話者によって同じ音だと認識される場合、それぞれの音は音素が同じということになり、それぞれの音はある音素の[[異音]]と呼ぶ。[[ミニマル・ペア]]を使うことによってその言語がもつ音素の範囲が特定できる。
例えば、日本語の音素/h/は、/a, e, o/の前では[[無声声門摩擦音]]{{IPA|h}}であるが、/i/の前では[[無声硬口蓋摩擦音]]{{IPA|ç}}、/u/の前では[[無声両唇摩擦音]]{{IPA|ɸ}}となる。これらの音はそれぞれ/h/の異音である。
上記の例のような異音は必ず決まった条件のもとで現れ、ある音が現れるときはそこに別の音が現れない。このことを[[相補分布]]しているといい、このような異音を条件異音という。またある言語では無気音の{{IPA|k}}と[[有気音]]の{{IPA|kʰ}}で意味を弁別して両者は異なる音素として現れるが、日本語では/k/が有気音であっても無気音であっても意味を区別しない。よって{{IPA|k}}と{{IPA|kʰ}}は日本語の音素/k/の異音であるが、その現れる条件は決まっていないので自由異音と呼ばれる。
ただし、ミニマルペアと相補分布だけで音素は判断できず、音声の類似性も重要である。たとえば英語では 音節頭にしかない {{IPA|h}} と音節末にしかない {{IPA|ŋ}} は相補分布しミニマルペアを持たないが、音声に類似がないため同じ音素とはみなされない。
== 日本語の音素 ==
{{seealso|日本語の音韻}}
音素の認定には心理的・物理的な基準など様々な要素があり、また音素表記を何のために使うかによっても変わってくる。このため概説書のなかでも学者により大きく異なる場合がある。また学派によって音素に関する考え方が異なり、[[認知言語学]]のように音素を認めない立場がある。
一般的な説では、現代[[日本語]]の音素は次のようになる。ただし細部については論争がある。
{| class="wikitable"
|-
![[母音]]
|/a/, /i/, /u/, /e/, /o/
|-
![[子音]]
|/k/, /s/, /t/, /c/, /n/, /h/, /m/, /r/, /g/, /z/, /d/, /b/, /p/
|-
![[半母音]]
|/j/, /w/
|-
!特殊[[モーラ]]
|/{{smallcaps|n}}/, /{{smallcaps|q}}/, /{{smallcaps|h}}/
|}
以上のうちわかりにくいものを補説すると、/c/ は「ち」「つ」の子音(下記参照)、/j/ は一般のローマ字で y と書かれる「や行」の子音および[[拗音]]の要素、/{{smallcaps|n}}/, /{{smallcaps|q}}/, /{{smallcaps|h}}/ はそれぞれ撥音「ん」、促音「っ」、長音「ー」に相当する音素である。
なお、/j/ の代わりに /y/、/{{smallcaps|h}}/ の代わりに /{{smallcaps|r}}/ を使ったり、特殊モーラの[[スモールキャピタル]]の代わりに普通の[[大文字]]を使うこともある。しかし、音素の記号は互いに区別できることだけが重要であり、使用する文字の種類は本質的な違いではない。
=== 特殊モーラ ===
[[撥音]]「ん」は音環境により {{IPA|n, m, ŋ, ɴ, ã, ẽ, ĩ, õ, ɯ̃}} とさまざまな音価を取るが、これらは相補的な異音であり、同じ音素 /{{smallcaps|n}}/ とみなされる。[[促音]]「っ」も同様に /{{smallcaps|q}}/ とされる。
[[長音符]]「ー」については論争があり、/{{smallcaps|h}}/ を立てず母音音素の繰り返しとする説もある。ただし[[ミニマルペア]]「[[里親]](サトオヤ)」と「砂糖屋(サトーヤ)」のような例があるので、これらを弁別する工夫が必要になる。ア行子音 /’/ を立てる説、{{要出典範囲|date=2022年12月|繰り返し用の母音音素 /{{smallcaps|u}}/, /{{smallcaps|i}}/ を立てる説があり}}、「里親」「砂糖屋」のそれぞれのモデルでの音素表現は次のようになる。
{|
|-
! 里親 !! 砂糖屋
|-
| /satooja/ || /sato{{smallcaps|h}}ja/
|-
| /sato’oja/ || /satooja/
|-
| /satooja/ || /sato{{smallcaps|u}}ja/
|}
=== /c/ ===
「[[茶|ティー (tea)]]」と「チー(吃)」のようなミニマルペアがあるので、「ティ」を /ti/ とするなら「チ」には /ti/ とは別の音素が必要であり、/ci/ で表す。同様に「トゥ」/tu/ に対し「ツ」を /cu/ とする。「ツァ、ツェ、ツォ」は /ca, ce, co/、「チャ、チュ、チェ、チョ」は /cya, cyu, cye, cyo/ となる。このモデルでは、「チ」と「ツィ」は(「シ」と「スィ」のように)異音の違いとなる。
いっぽう、[[形態論]]的に「勝つ」という動詞の活用を分析するにあたり、/kata-/ /kaci/…と分けるよりは/kat/を語幹として分析する方が合理的だとする立場からは別に音素は立てられない。ただしこの場合、「ティ」「トゥ」「ツァ」等の扱いが問題になる。
/c/ を立てる立場からは、ある条件で /t/ が /c/ に変化するという[[生成音韻論]]的な推移則を立てて、活用の問題に対処する。この場合、ワ行五段活用で /w/ が /∅/(∅は何もないことを示す)に変化する(「会う」は /awa-/ /ai-/ … と活用する)ことの類例と考えることができる。
=== 鼻濁音 ===
[[鼻濁音]]の子音 {{IPA|ŋ}} は {{ipa|ɡ}} の異音とされることが多い。しかし、「オオカ゚ラス (大烏)」と「オオガラス (大硝子)」がミニマルペアをなすという説もあり、その場合、/g/ とは別の音素 /ŋ/ が必要になる。
==音素文字==
音素をそのまま文字として表記するものを、[[音素文字]]と呼ぶ。音素文字には、[[子音]]あるいは特定の音節を表す基本字母に、[[母音]]を表す特殊記号を付加、または字形を変形して一般の音節を表記する[[アブギダ]]、子音のみで構成される[[アブジャド]]、そして母音と子音をあらわす文字のある[[アルファベット]]の3つの種類がある。現代において使用される音素文字は、純粋なアブジャドである[[フェニキア文字]]から派生したと考えられている。フェニキア文字は[[ギリシア]]へ伝わって母音をあらわすアルファベットである[[ギリシア文字]]へと変化し、[[ラテン文字]]や[[キリル文字]]などの文字を生み出した。また、フェニキア文字の変化した[[アラム文字]]は[[インド]]へと伝わり、世界初のアブギダである[[ブラーフミー文字]]を生み出した。この文字の一派は[[デーヴァナーガリー文字]]や[[タイ文字]]など多くの文字を生みだし、現代においても[[南アジア]]から[[東南アジア]]にかけての多くの文字はアブギダに属するものとなっている。純粋なアブジャドは現代においては使用されていないが、[[アラビア文字]]や[[ヘブライ文字]]などは純粋ではないがアブジャドに属する。また、音素文字、特にアルファベットは母音も子音も表記する文字があることから表記法を策定しやすく、19世紀以降世界各地の無文字言語が文字を導入する際にはほとんどがアルファベット、なかでもラテン文字を導入した<ref>『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 19頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>。
[[表語文字]]である[[漢字]]を使用する[[中国]]や、[[音節文字]]である[[仮名文字]]と漢字を併用する[[日本]]などいくつかの文化圏を除いて、現在世界において使用されている文字のかなりが音素文字に属するものである。アルファベットはヨーロッパを中心に南北アメリカ大陸や[[オセアニア]]において使用され、アブギダは南アジアから東南アジアにかけて広く使用され、アブジャドは[[中東]]で主に使用されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*Bybee, Joan. (2001). ''Phonology and Language Use''. Cambridge: Cambridge University Press.
* 田中春美、樋口時弘、家村睦夫、五十嵐康男、倉又浩一、中村完、[[下宮忠雄]] 共著 (1982).『言語学演習』大修館書店。ISBN 4-469-21101-X
* {{Cite book|和書|last=湯川|first=恭敏|authorlink=湯川恭敏|year=1999|title=言語学|publisher=ひつじ書房|isbn=4-89476-113-0|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[弁別的素性]]
* [[形態素]]
* [[書記素]]
* [[音素文字]]
== 外部リンク ==
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[[Category:音韻論]]
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18,550 |
裁判所 (地方制度)
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地方制度としての裁判所(さいばんしょ)は、1868年(慶応4年)に、京都の新政府が諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた役所である。旧幕府の奉行所等が管轄していた民政、裁判等の事務を行うものであり、三権分立の立場で司法権を行使する裁判所とは性格が異なる。
この裁判所は、江戸幕府の奉行所と郡代支配所の機能を引き継ぎ、当座の統治の空白を埋める必要から設けられたものである。設置の当初は戊辰戦争の最中で、新潟、佐渡、箱館は新政府の支配の外にあった。
政府は、裁判所に総督と副総督を置いた。慶応4年(1868年)1月27日に大坂に設けたのを初めとして、個別に総督、副総督の任命を発令し、同年4月までに12の裁判所を設けた。大坂、兵庫、長崎、大津、京都、横浜、箱館、新潟、佐渡、笠松、府中、三河である。
政府は、同年閏4月21日に政体書を出して、府藩県三治制を敷くことを布告した。これに従って、各裁判所は順次、府または県に変更されていった。
江戸には同年5月に江戸府 を置いたものの、上野戦争後に江戸鎮台を設置し 、このとき旧幕府の寺社奉行所は社寺裁判所(しゃじさいばんしょ)、町奉行所は市政裁判所(しせいさいばんしょ)、勘定奉行所は民政裁判所(みんせいさいばんしょ)と改め、江戸鎮台がこれら三つの裁判所を管した 。 同年7月に鎮台府を鎮将府に改めて それ以後に社寺・市政・民政の各裁判所は廃止され 、鎮将府が管轄する駿河以東13か国の府藩県に順次その事務を移した 。
日付はすべて1868年(慶応4年)。前身は管轄地域を基準としたものであり、新政府の布告等により廃止及び設置の関係が示された機関ではないものもある。下記のほか、神奈川裁判所の下に戸部裁判所(内務担当)、横浜裁判所(外務担当)が置かれた。
京都では裁判所の設置に先んじて慶応3年12月9日、王政復古に伴い山城・大和・近江・丹波の司法を管轄する京都町奉行が廃止された。12月14日に膳所藩、篠山藩、亀山藩の3藩が市中取締を命じられ、15日に京都市中取締所が設置された。16日に新政府参与の田宮如雲が責任者となり、21日に伏見取締を兼務した。翌年2月21日に亀山藩が役を外れ、3月4日に加わった多度津藩が後に高須藩に替わった。3月3日に京都市中取締役所は京都裁判所に改名され、3月8日に市中取締役は京都裁判所に附属する通達が出されている。
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地方制度としての裁判所(さいばんしょ)は、1868年(慶応4年)に、京都の新政府が諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた役所である。旧幕府の奉行所等が管轄していた民政、裁判等の事務を行うものであり、三権分立の立場で司法権を行使する裁判所とは性格が異なる。
|
{{otheruses|明治時代初期の地方機関|司法権を行使する機関|裁判所}}
地方制度としての'''裁判所'''(さいばんしょ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=114}})は、[[1868年]]([[慶応]]4年)に、京都の新政府が諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた役所である。旧幕府の奉行所等が管轄していた民政、裁判等の事務を行うものであり<ref name="昭和43年版 犯罪白書" >{{Cite web |url= https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/9/nfm/n_9_2_3_2_1_0.html |title=第三編 第二章 刑事関係制度の変遷 一 裁判所・検察庁 |accessdate=2023-12-17 |author=法務省 |authorlink=法務省 |date=1968-11 |format=HTML |website=犯罪白書 |work=昭和43年版 犯罪白書 ―犯罪と犯罪者の処遇,その現況と100年間の推移― }}</ref>、[[権力分立|三権分立]]の立場で[[司法]]権を行使する[[裁判所]]とは性格が異なる。
== 概要 ==
この裁判所は、[[江戸幕府]]の[[奉行]]所と[[郡代]]支配所の機能を引き継ぎ、当座の[[統治権|統治]]の空白を埋める必要から設けられたものである<ref>『新撰北海道史』第3巻、15-16頁。</ref>。設置の当初は[[戊辰戦争]]の最中で、新潟、佐渡、箱館は新政府の支配の外にあった。
政府は、裁判所に総督と副総督を置いた。慶応4年([[1868年]])[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]に大坂に設けたのを初めとして、個別に総督、副総督の任命を発令し、同年4月までに12の裁判所を設けた。大坂、兵庫、長崎、大津、京都、横浜、箱館、新潟、佐渡、笠松、府中、三河である。
政府は、同年[[閏]][[4月21日 (旧暦)|4月21日]]に[[政体書]]を出して、[[府藩県三治制]]を敷くことを布告した。これに従って、各裁判所は順次、[[府]]または[[県]]に変更されていった<ref name="shinsen16"></ref>。
江戸には同年[[5月 (旧暦)|5月]]に[[江戸府]]<ref>{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=160|chapter=明治元年 第387 江戸府ヲ置ク(5月12日)|id={{NDLDC|787948/131|format=NDLJP}} }}</ref> <ref name="『太政類典』明治元年江戸府ヲ置キ木村重任等ヲ以テ判事ト為ス" >「江戸府ヲ置キ木村重任等ヲ以テ判事ト為ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070253000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三十一巻・官規・任免七(国立公文書館)</ref>を置いたものの、[[上野戦争]]後に江戸[[鎮台]]を設置し<ref name="『法令全書』明治元年【第402】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=160|chapter=明治元年 第402 江戸鎮台ヲ置キ三奉行ヲ廃シ社寺市政民政ノ三裁判所ヲ設ケ職員ヲ定ム 付:参照 士分乱妨之者市政裁判所ニ取締ノ儀伺ニ指令(5月19日)(布)(大総督府)|id={{NDLDC|787948/133|format=NDLJP}} }}</ref> <ref name="『太政類典』明治元年江戸鎮台ヲ置ク" >「江戸鎮台ヲ置ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070104000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十六巻・官制・文官職制二(国立公文書館)</ref> <ref>「有栖川熾仁親王ヲ江戸鎮台ニ拝ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070253600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三十一巻・官規・任免七(国立公文書館)</ref>、このとき旧幕府の[[寺社奉行]]所は社寺裁判所(しゃじさいばんしょ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=136}})、[[町奉行]]所は市政裁判所(しせいさいばんしょ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=127}})、[[勘定奉行]]所は民政裁判所(みんせいさいばんしょ{{Sfn|国立国会図書館|2007|p=292}})と改め、江戸鎮台がこれら三つの裁判所を管した<ref name="shinsen16">『新撰北海道史』第3巻、16頁。</ref> <ref name="昭和43年版 犯罪白書" /> <ref name="『法令全書』明治元年【第402】" /> <ref name="『太政類典』明治元年江戸鎮台ヲ置ク" /> <ref>「江戸鎮台官員ヲ置ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070104500、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十六巻・官制・文官職制二(国立公文書館)</ref>。
同年[[7月 (旧暦)|7月]]に鎮台府を鎮将府に改めて<ref name="『法令全書』明治元年【第558】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |pages=223−224|chapter=明治元年 第558 鎮将府及東京府ヲ置キ職制ヲ定ム 付:参照 東京府知事附属ヲ藩々ヨリ人撰セシム(7月17日)(布)|id={{NDLDC|787948/162|format=NDLJP}} }}</ref> <ref>「鎮将府職制ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070104800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十六巻・官制・文官職制二(国立公文書館)</ref> <ref name="『法令全書』明治元年【第559】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |pages=224−225|chapter=明治元年 第559 大総督宮鎮台ヲ免シ鎮台府ノ称ヲ廃ス(7月)(鎮将府)|id={{NDLDC|787948/163|format=NDLJP}} }}</ref> <ref>「有栖川熾仁親王ノ鎮台ヲ罷メ三条実美ヲ以テ鎮将ニ拝ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070256900、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第三十一巻・官規・任免七(国立公文書館)</ref>それ以後に社寺・市政・民政の各裁判所は廃止され<ref>「社寺裁判所ヲ廃ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070105000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十六巻・官制・文官職制二(国立公文書館)</ref> <ref>「市政裁判所ヲ廃シ東京府ヲ置ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070482400、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第六十二巻・地方・行政区一(国立公文書館)</ref> <ref name="『法令全書』明治元年【第614】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=252|chapter=明治元年 第614 江戸ヲ改テ東京ト称シ鎮将府ヲ置キ民政裁判所ヲ会計局ト改称ヲ布告ス(8月8日)(布)(鎮将府)|id={{NDLDC|787948/177|format=NDLJP}} }}</ref>、鎮将府が管轄する[[駿河国|駿河]]以東13か[[令制国|国]]{{Efn|当分は鎮将府を置いて駿河、[[甲斐国|甲斐]]、[[伊豆国|伊豆]]、[[相模国|相模]]、[[武蔵国|武蔵]]、[[安房国|安房]]、[[上総国|上総]]、[[下総国|下総]]、[[常陸国|常陸]]、[[上野国|上野]]、[[下野国|下野]]、[[陸奥国|陸奥]]、[[出羽国|出羽]]の13か国の支配になるとされた<ref name="『法令全書』明治元年【第558】" /> <ref name="『法令全書』明治元年【第566】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=226|chapter=明治元年 第566 鎮将府ヲ東京ニ置キ駿河以東十三国ヲ管ス(7月19日)|id={{NDLDC|787948/164|format=NDLJP}} }}</ref>。}}の府藩県に順次その事務を移した<ref name="『法令全書』明治元年【第572】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=284|chapter=明治元年 第572 駿河以東十三国社寺ノ事件府藩県ニテ決シ難キモノハ鎮将府ニ稟候セシム(7月20日)(布) |id={{NDLDC|787948/164|format=NDLJP}} }}</ref> <ref name="『法令全書』明治元年【第710】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=284|chapter=明治元年 第710 社寺裁判所ヲ廃シ社寺諸願伺等ハ鎮将府ニ進致セシム(8月)(鎮将府) |id={{NDLDC|787948/193|format=NDLJP}} }}</ref> <ref>「駿河以東十三国社寺所轄府藩県ニテ難决事件ハ鎮将府ヘ上請并社寺裁判所被廃ニ付社家寺院願伺等同府ヘ進達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070940400、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百二十二巻・教法・神社一(国立公文書館)</ref> <ref>「東京府開庁マテ市政裁判所ノ名目ヲ存ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070482500、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第六十二巻・地方・行政区一(国立公文書館)</ref> <ref>「会計局ト東京府トノ管理事務ヲ区定ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070105600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十六巻・官制・文官職制二(国立公文書館)</ref> <ref name="『法令全書』明治元年【第763】" >{{Cite book|和書|editor=内閣官報局|year=1912|title=法令全書 |publisher=内閣官報局|location=東京|volume=慶応3年 |page=300|chapter=明治元年 第763 社寺諸願伺届府内ハ東京府ニ府外ハ其所部府藩県ニ進致セシム(9月19日)(沙)(鎮将府) |id={{NDLDC|787948/201|format=NDLJP}} }}</ref>。
== 裁判所の一覧 ==
日付はすべて1868年(慶応4年)。前身は管轄地域を基準としたものであり、新政府の布告等により廃止及び設置の関係が示された機関ではないものもある。下記のほか、神奈川裁判所の下に[[戸部裁判所]](内務担当)、[[横浜裁判所]](外務担当)が置かれた。
京都では裁判所の設置に先んじて慶応3年12月9日、[[王政復古 (日本)|王政復古]]に伴い山城・大和・近江・丹波の司法を管轄する京都町奉行が廃止された。12月14日に[[膳所藩]]、[[篠山藩]]、[[亀山藩]]の3藩が市中取締を命じられ、15日に京都市中取締所が設置された。16日に新政府参与の[[田宮如雲]]が責任者となり、21日に[[伏見]]取締を兼務した<ref>{{Cite journal|和書|author=菊山正明|title=明治初年の司法改革―司法省創設前史―|journal=早稲田法学|volume=62|issue=2|pages=169-214|date=1986-10-31|url=https://hdl.handle.net/2065/2115}}</ref>。翌年2月21日に亀山藩が役を外れ、3月4日に加わった[[多度津藩]]が後に[[高須藩]]に替わった。3月3日に京都市中取締役所は京都裁判所に改名され、3月8日に市中取締役は京都裁判所に附属する通達が出されている<ref>{{Cite web|和書|title=古文書解題 「き」から始まる文書|url=http://202.34.14.133/kaidai/gkaidai-ki.html|publisher=京都府|accessdate=2021-07-08}}</ref>。
{| class="wikitable" style="width:100%"
|-
! style="width:15%" | 裁判所名
! style="width:15%" | 前身
! style="width:15%" | 設置日
! style="width:15%" | 廃止日
! style="width:25%" | 歴代総督
! style="width:15%" | 後身
|-
| [[大坂裁判所]] || [[大坂町奉行]] || [[1月27日 (旧暦)|1月27日]] || [[5月2日 (旧暦)|5月2日]] || [[醍醐忠順]] || [[大阪府庁|大阪府]]
|-
| [[兵庫裁判所]] || [[兵庫奉行]] ||rowspan=2| [[2月2日 (旧暦)|2月2日]] || [[5月23日 (旧暦)|5月23日]] || [[東久世通禧]]([[3月19日 (旧暦)|3月19日]]まで)<br />醍醐忠順(3月19日から) || [[兵庫県庁|兵庫県]]
|-
| [[長崎裁判所]] || [[長崎奉行]] || [[5月4日 (旧暦)|5月4日]] || [[澤宣嘉]] || [[長崎府]]
|-
| [[京都裁判所]] || [[京都町奉行]] || [[2月19日 (旧暦)|2月19日]] || [[閏]][[4月29日 (旧暦)|4月29日]]|| [[万里小路博房]] || [[京都府庁|京都府]]
|-
| [[大津裁判所]] || [[大津代官]] || [[3月7日 (旧暦)|3月7日]] || 閏4月25日|| [[長谷信篤]] || [[大津県]]
|-
| [[横浜裁判所]] || [[神奈川奉行]] || [[3月19日 (旧暦)|3月19日]] || [[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||rowspan=2| 東久世通禧 || 神奈川裁判所
|-
| [[神奈川裁判所]] || 横浜裁判所 || 4月20日 || [[6月17日 (旧暦)|6月17日]] || [[神奈川府]]
|-
| [[箱館裁判所]] || [[箱館奉行]] || [[4月12日 (旧暦)|4月12日]] || 閏[[4月24日 (旧暦)|4月24日]] || [[小松宮彰仁親王|仁和寺宮嘉彰親王]](辞退)<br />[[清水谷公考]] || [[箱館府]]
|-
| [[笠松裁判所]] || [[美濃郡代]] || [[4月15日 (旧暦)|4月15日]] || 閏4月25日|| [[大原重徳]] || [[笠松県]]
|-
| [[新潟裁判所]] || [[新潟奉行]] ||rowspan=2| [[4月19日 (旧暦)|4月19日]] || [[5月23日 (旧暦)|5月23日]]|| [[四条隆平]] || [[越後府]](第1次)
|-
| [[府中裁判所]] || [[生野代官]] || 閏[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] || [[西園寺公望]]([[4月5日 (旧暦)|4月5日]]まで) || [[久美浜県]]
|-
| [[佐渡裁判所]] || [[佐渡奉行]] || 4月24日 || [[9月2日 (旧暦)|9月2日]] || [[滋野井公寿]]([[7月6日 (旧暦)|7月6日]]まで) || [[佐渡県]](第1次)
|-
| [[三河裁判所]] || [[中泉代官]] || [[4月29日 (旧暦)|4月29日]] || [[6月9日 (旧暦)|6月9日]] || [[平松時厚]]([[6月2日 (旧暦)|6月2日]]まで) || [[三河県 (日本)|三河県]]
|}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*北海道庁・編『新撰北海道史』第3巻(通説2巻)、1937年。
* {{Cite web |url=https://dajokan.ndl.go.jp/yomigana.pdf |title=ヨミガナ辞書 |accessdate=2023-01-09 |author=国立国会図書館 |authorlink=国立国会図書館 |date=2007-01 |year=2007 |format=PDF |website=日本法令索引〔明治前期編〕 |work=ヨミガナ辞書 |publisher=国立国会図書館 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[遠国奉行]]
* [[府藩県三治制]]
* [[司法]]
** [[司法機関]]
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[[category:明治時代の政治]]
[[Category:かつて存在した日本の行政区分]]
[[Category:1868年の日本]]
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ヒューストン
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ヒューストン(英語:Houston、[ˈhjuːstən, ˈjuːstən] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国のテキサス州の都市。同州最大かつ北アメリカ有数の世界都市。全米4位となる2,304,580人(2020年国勢調査)の人口を抱える。ハリス郡を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は7,122,240人(2020年国勢調査)にのぼる。市域面積は1,500kmに及び、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。
市は1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマンとジョン・カービーのアレン兄弟によって、バッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍のサミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日にヒューストンは正式に市制が施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港 を前面に抱え、ユナイテッド航空(旧・コンチネンタル航空)のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く。
このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ・オーケストラ・バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている。
ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にスペース・シティ(宇宙の街)という公式な別名が付けられた。地元住民はこの他にバイユー・シティ(バイユーの街)、マグノリア・シティ(マグノリアの街)、H・タウンなどと呼ぶこともある。
1836年8月にニューヨークの不動産起業家のオーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27平方キロメートル)の土地を購入した。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した。ヒューストンは翌1837年6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都及びハリスバーグ郡(現ハリス郡)の郡庁所在地となった。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された。
1860年頃にはヒューストンは綿花の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、ガルベストンやボーモントの港へと通じていた。南北戦争中、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取ってバイユー網の拡張に努めた。
1900年にガルベストン・ハリケーンが上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった。翌1901年、ボーモントの近くのスピンドルトップ油田で石油が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った。さらにその翌年、1902年には、当時の大統領セオドア・ルーズベルトがヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万ドル(当時)の計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、1914年、大統領ウッドロウ・ウィルソンはヒューストン港を開港した。1930年には人口292,352人を数え、サンアントニオとダラスを抜いてテキサス州最大の都市になった。
第二次世界大戦が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成ゴムの需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された。地元の造船業も増産し、市の成長を促した。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは第一次世界大戦の最中に設置されたものであったが、航空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった。1945年、M.D.アンダーソン財団はテキサス医療センターを設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。1948年、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた。1950年代に入り、エアコンが普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった。1961年には有人宇宙船センター(1973年にジョンソン宇宙センターに改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。
1970年代に入ると、北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した。1973年の第一次オイルショックで原油価格が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、1980年代中盤に入ると原油価格が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに1986年のチャレンジャー号爆発事故が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から1990年代以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。
2021年2月、テキサス州を大寒波が襲い停電を伴う電力危機(テキサス州電力危機)が発生。ヒューストンでは一般家庭の電気供給に支障を来したほか、浄水場からの水圧が低下や凍結がいたるところで発生して上水道の供給がままならなくなった。浄水場の機能に関連したトラブルは、翌年の2022年11月27日にも発生、数日間にわたり水道水を沸騰させてから使用するよう利用者に通告がなされた。
アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市の総面積は1,558.4km(601.7mi)である。そのうち1,500.7km(579.4mi)が陸地で57.7km(22.3mi)が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの標高は約15mである。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる。
ヒューストン地域の大部分はメキシコ湾西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置するニューオーリンズほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているヒューストンは、洪水の被害に見舞われやすい。かつては水道水源を地下水に頼っていたが、地盤沈下を引き起こしたため、ヒューストン湖やコンロー湖などの地表水を用いるようになった。
バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。
ヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。
ヒューストンの夏の日中の気温は摂氏30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が華氏90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てでエアコンを効かせている。1980年には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された。ヒューストンにおける観測史上最高気温は2000年9月4日に記録した摂氏42.7度である
一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏11度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏6度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である。
ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピカル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え、死者はテキサス州だけで20名を数えた。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分(可航半円)に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。2008年9月13日に南東郊のガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。
ヒューストン市内での位置は概ね、環状線I-610の内側か外側かで分類される。I-610の内側には業務・商業集積地が形成され、第二次世界大戦前に建てられた古い住宅が主に建っている。近年では、人口密度の高い、職住近接型の住宅地の再開発が進められている。I-610の外側は郊外型の住宅地が広がっている。第2環状線となる州道環状8号線は、I-610よりもおよそ8-12km外側を走っている。この州道環状8号線のさらに外側に、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線の建設が進められており、1994年に一部が開通している。
アメリカ合衆国内でゾーニング規定のない都市の中では、ヒューストンは最大の人口規模を抱える都市である。しかし、ヒューストンは他のサンベルト諸都市と同じようなしかたで発展してきている。ヒューストンにおいては、法的契約の付帯事項が都市計画において、民主度はやや低くなるものの、ゾーニングとほぼ同じような役割を果たしている。1948年、1962年、1993年と3度にわたって住宅地と商業地をわける試みがなされたものの、3度とも否決されている。そのため、市中心部に一極集中型のビジネス街が形成され、郊外に住宅地が広がるという形ではなく、市内の複数の地区が発展している。ダウンタウンには市最大のビジネス街が形成されているが、ダウンタウンの10km西、ヒューストンきっての高級住宅街であるアップタウンにも大規模なビジネス街が形成されている。このほか、ミッドタウン、エナジー・コリダー、グリーンウェイ・プラザ、ウェストチェースなど、住宅地と商業地、ないし工業地が混在する職住近接型の地区がいくつも形成されている。
ヒューストンのダウンタウンには、総延長約11kmにわたる地下トンネル通路が整備されている。この通路はダウンタウンのビルを結ぶもので、コーヒーショップやレストラン、コンビニエンスストアもある。この地下通路システムによって、通行者は夏の暑さや降雨を気にすることなく、ビル間を移動することができる。
1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJPモルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000mに及ぶ。
ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ・タワー(当時の名称はトランスコ・タワー)は都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000mを超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000mはクラスAのオフィススペースである。
ヒューストンは市長制を採っている。ヒューストンは特定の権限を委譲されている。ヒューストンを含め、テキサス州内においては、すべての市政選挙は党派を特定せずに行われる。ヒューストンの市政選挙で選ばれるのは市長、会計監査官、および14名からなる市議会の議員である。
2016年現在の市長はシルベスター・ターナーである。ヒューストン市長は市の管理者の長であり、最高責任者であり、公式な代表である。市長は市の全般的な管理業務、および法律・条令の施行に責任を負う。1991年の住民投票の結果により、ヒューストン市長の任期は2年と定められ、連続多選が認められるのは3選までとなった。1997年、リー・P・ブラウンが市長に就任し、ヒューストン市史上初の黒人市長が誕生した。
ヒューストン市議会議員選挙においては、市は9つの選挙区に分けられている。この9つの選挙区は、もともとは1837年にヒューストンが市制を施行した際の区が基になっている。各選挙区から1名ずつがまず当選となり、残る5議席はワイルドカードとして市全体から選出される。このシステムは、1979年にアメリカ合衆国司法省が義務付けたものが基になっている。現行の市の認可条件では、市域人口が210万人を超えたときには、市議会議員選挙の選挙区は2区増やされ、11区に改組されることになっている。
2020年7月21日 連邦政府は知的財産と個人情報の保護を理由にヒューストン市内にある中国総領事館の閉鎖命令を出した。
ヒューストンの治安はヒューストン市警等いくつかの法執行機関によって守られている。ヒューストンは「犯罪都市」と呼ばれることこそないものの、その犯罪率は決して低くはない。殺人の発生率が高く、全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位である。ヒューストンにおける2005年の犯罪発生件数を2004年と比較すると、非暴力的犯罪こそ2%減少しているものの、殺人発生件数は23.5%増加し、336件を数えた。その原因の1つとしては、ハリケーン・カトリーナで大被害を受けたニューオーリンズからの避難民がヒューストンに大量に流入したことが挙げられる。カトリーナの襲来後、2005年の11月・12月においては、前年度の同時期に比べて殺人発生率が70%増加している。
ヒューストンにおける2006年の殺人発生件数は379件、発生率は人口100,000人あたり17.24件で、2005年の16.33件より増加している。この人口100,000人あたり17.24件という数値は全米平均の約2.5倍にあたる。アメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストンはギャングがらみの犯罪にも直面している。1996年現在、ヒューストンには380のギャングが存在し、少年2,500人を含む8,000人が加わっている。
ヒューストンはエネルギー産業、こと石油・天然ガス産業では世界的にその名を轟かせている。また生命医学分野や、航空・宇宙開発分野でもよく知られている。全米最大級の貿易港であるヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの存在もヒューストンの経済に大きく寄与している。世界中の多くの場所とは違い、エネルギー産業に従事する住民の多いヒューストンでは、原油やガソリンの価格の高騰は経済に好ましい影響を与えるものであると見られている。
スーパーメジャーと呼ばれる6大石油会社のうち、4社がヒューストンに主要な業務拠点を置いている。イギリスに本社を置くシェルの米国法人、シェル石油会社はダウンタウンのワン・シェル・プラザに本社を置いている。エクソンモービルは本社こそダラス・フォートワース複合都市圏のアービングに置いているものの、同社の上流部門と化学部門はヒューストンに置かれている。サンフランシスコ・ベイエリアに本社を置くシェブロンは、エンロンの本社ビルになる予定だった40階建てのビルを2003年に買収し、同社のヒューストンオフィスをそこに置いている。また、シェブロンの子会社であるシェブロンパイプラインの本社はヒューストンに置かれている。コノコフィリップスは本社をヒューストンに置いている。また、これら石油メジャーの存在だけでなく、ヒューストン都市圏には油田設備の設置やサービスを主事業とする企業も集中している。中には数千人から10,000人以上の従業員を抱える大企業もある。
こうしたヒューストンの石油産業・石油化学産業の中心地としての成功はヒューストン港の存在によるものが大きい。ヒューストン港は外国貨物取扱量全米一で、総貨物取扱量では南ルイジアナ港に次いで全米2位、全世界でも10位にランクされる大規模な貿易港である。
ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(Gross Area Product、GAP)は3255億ドル で、オーストリア、ポーランド、サウジアラビアなどの国内総生産(GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない。主に石油や天然ガスの生産による鉱業は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、1985年の21%からは大幅に減っている。オイルショック後の原油価格暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える。
ヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である。フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。
国際的にその名を知られているテキサス医療センターはヒューストンにある。テキサス医療センターは世界最大級の医療研究機関の集積地である。テキサス医療センター内の45機関すべてが非営利団体である。これらの機関は治療、予防医学、研究、教育、地域・国家・国際コミュニティの福祉と、医療とその研究に関わるあらゆる側面をカバーしている。センターには著名な病院13院をはじめ、特別機関2機関、医学校2校、看護学校4校、歯学校、公共保健学校、薬学校があり、医療・保健関連のあらゆるキャリア・パスが用意されている。テキサス医療センターはまた、ライフ・フライトと呼ばれる、救急ヘリコプター派遣のシステムが創設された地でもある。複数の機関が連携しての移植手術プログラムも開発されてきた。心臓外科の手術においては、テキサス医療センターは世界で最も術例が多い。
テキサス医療センター内にある医療・保健関連の学術・研究機関の中で著名なものには、ベイラー医科大学、テキサス大学ヒューストン保健科学センター、メソジスト病院、テキサス子供病院、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターなどがある。ベイラー医科大学は、1900年に「ダラス大学医学部」としてダラスに設立され、1903年にベイラー大学と合併した後、1943年にテキサス医療センターに移転してきた。その後、1969年にベイラー大学との提携を解消し、以降現在に至るまで独立した医科大学として運営されている。同校はUSニューズ&ワールド・レポート誌による医学部・医科大学のランキングでも上位10位以内に入る高評価を得ている。テキサス大学ヒューストン保健科学センターは保健教育の博士課程では全米1位である。テキサス大学システムに属するもうひとつの機関、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターは1990年代以降、がん治療に特化した病院としては全米で一二を争う存在である。メソジスト病院は全米の優れた病院の1つに数えられ、心臓外科手術、がん治療、てんかん治療、臓器移植など幅広い分野で世界的にその名を知られている。
ヒューストンの空の玄関となる空港はダウンタウンの37km北に位置するジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港(IATA: IAH)である。単に「インターコンチネンタル空港」とも呼ばれる。旅客数はテキサス州の空港としてはダラス・フォートワース国際空港に次ぐ規模である。かつて、ヒューストンに本社を置いていたコンチネンタル航空最大のハブ空港であった。現在はコンチネンタル航空と合併したユナイテッド航空がヒューストンからアメリカ合衆国内外182都市へ1日700便以上を飛ばしている。同空港と日本の成田国際空港間は直行便が、ユナイテッド航空により毎日1便就航している。日本の航空会社は全日本空輸(ANA)が2015年6月12日から毎日1便の直行便を運航開始した。歴史上日本の航空会社によるヒューストンへの直行便開設は初めての事である。機材はB777-300ER型機を使用しての路線開設となった。この路線開設により、ANAのコードシェア便も含め、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港からスターアライアンス加盟会社を初めとした豊富な国際路線網を利用できるようになり、日本から南米大陸各地やカリブ海諸国への乗り換え利便性が大きく向上した。2006年、アメリカ合衆国運輸省は、インターコンチネンタル空港はアメリカ合衆国内10大空港の中で最も高い成長を遂げている空港であると発表した。2007年初め、アメリカ合衆国税関・国境警備局はインターコンチネンタル空港をアメリカ合衆国外からの旅行者に対する入国港湾のモデルと位置づけた。テキサス・ルイジアナ・ミシシッピ・アラバマ4州の南部をカバーするヒューストン航空管制センターは、インターコンチネンタル空港の敷地内に置かれている。
インターコンチネンタル空港は1969年に開港したが、それ以前はダウンタウンの南西約13kmに位置するウィリアム・P・ホビー空港(IATA: HOU)がヒューストンの空の玄関口としての役割を果たしていた。1967年まではヒューストン国際空港と呼ばれていたこの空港は、現在では近距離・中距離の国内線や、企業・個人のチャーター便などを主とし、インターコンチネンタル空港を補完する役割を果たしている。同空港に発着する旅客機の8割はサウスウエスト航空の便で占められている。サウスウエスト航空はインターコンチネンタル空港を利用せず、ホビー空港のみに航空機の便を発着させている。同社はヒューストンを拠点都市の1つとして位置づけており、今後もホビー空港発着の新路線を開拓していく計画を立てている 。ホビー空港の敷地内にはヒューストンにおける航空史の史料を展示する1940エアターミナル博物館が立地している。このアール・デコ調建築の博物館は、もともとはホビー空港がヒューストン市立空港と呼ばれていた頃、1940年に建てられた空港ターミナルビルであった。
ダウンタウンの南東約25kmに位置するエリントン空港は、もとはアメリカ合衆国空軍の基地『エリントン・フィールド』であったものを民間に転用した空港であるため、IATAコードはエリントン・フィールド時代のEFDのままである。同空港は第一次世界大戦中の1917年、航空機の黎明期に空軍の前身であるアメリカ合衆国陸軍航空隊の訓練施設としてつくられた。現在でも軍用やNASAの航空機の発着・航空祭に使われているが、それらに加え、商用やゼネラル・アビエーションにも用いられている。
ヒューストンはインターコンチネンタル、ホビーの両空港を改善するプログラムを数年間にわたって、31億ドルの費用を投じて進めてきた。それが実り、ヒューストンの空港システムは2005年、連邦航空局とテキサス州政府によってエアポート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
ヒューストンのダウンタウン付近では2本の州間高速道路、I-10とI-45が交わる。I-10はサンベルト地帯を東西に貫いて走る幹線である。一方、I-45はダラスとヒューストンを結ぶ、テキサス州で最も重要な道路のひとつである。これらの高速道路上にはグレイハウンドをはじめとする都市間の中・長距離バスが走っており、ダラス、サンアントニオ、バトンルージュなどへの便がある。
これらの州間高速道路のほか、10郡にわたるヒューストン都市圏には、総延長926kmにおよぶ高速道路網が張り巡らされている。ヒューストンの高速道路システムはダウンタウンを中心とした放射線と、複数の環状線の組み合わせで構成されている。最も内側の環状線は、形式上はI-10の支線となっているI-610である。I-610はダウンタウンを中心に、テキサス医療センターなど半径8km程度の範囲内にある地域を取り囲んでいる。その外側を走る州道環状8号線はヒューストン都市圏の第2環状線という位置づけになっており、南東に隣接するパサディナ市などダウンタウンから半径20km程度のところを走っている。環状8号線の約3/4はサム・ヒューストン有料道路になっている。インターコンチネンタル空港はこの環状8号線のすぐ外側に位置している。
環状8号線のさらに外側には、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線(グランド・パークウェイ)の計画・建設が進められている。ヒューストンの南西に隣接するシュガーランド市とI-10とを結ぶ区間は1994年に完成し、既に供用されている。また、現在ミシガン州のカナダ国境からインディアナポリスへと通じているI-69は、将来的には南へ延伸し、現在のUS-59のルートを通ってヒューストンを通ってブラウンズビルのメキシコ国境に通ずる予定になっている。そのほかにも、ダウンタウンから延びる放射線が数本建設される予定がある。
ヒューストンの高速道路システムはテキサス州交通局、ハリス郡政府、ハリス郡都市圏交通局、ヒューストン市の4機関のパートナーシップによる交通センター、ヒューストン・トランスターが監視している。ヒューストン・トランスターはヒューストン都市圏における交通サービスと緊急事態への対処に責任を負っている。ヒューストン・トランスターは、全米で初めて交通サービスと緊急事態への対処のサービスを一体化したセンターであり、また全米で初めて4機関でリソースを共有するセンターでもある。
ヒューストンの路線バスやライトレールなどの公共交通機関はハリス郡都市圏交通局(Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas、METRO)によって運営されている。しかし、ヒューストンは市域も都市圏も広いため、公共交通機関によってカバーされていない地域も多い。そのためアメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストン都市圏における主な交通手段は個人所有の自動車である。
METROの主力となっている路線バスは100系統以上あり、普通路線、急行路線、パークアンドライド路線に大別される。パークアンドライド路線はその名の通りパークアンドライドを促進するための路線で、高速道路上を走り、郊外の高速道路沿いにつくられた25ヶ所の大規模な駐車場とダウンタウンとを結んでいる。この路線バス網に加え、METROは2004年1月1日にライトレールの営業運転を開始した。第1弾として開通したレッドラインはヒューストン大学ダウンタウン校とNRGパークを結ぶ13kmの路線で、途中ライス大学やミュージアム・ディストリクト、テキサス医療センターを通る。METROはライトレール網を整備する10ヶ年計画を進めており、将来的にはこのレッドラインに加え、5路線が開通する予定になっている。
アムトラックの長距離列車、サンセット・リミテッド号はダウンタウンの北側にあるヒューストン駅に停車する。サンセット・リミテッド号はアムトラックで唯一、シカゴを経由せずに大陸を横断する列車で、ロサンゼルスとオーランドを結び、西行、東行とも週3便運行している。2006年度のヒューストン駅の年間利用客数は10,855人であった。
ヒューストンには55校の高等教育機関がある。その中でもとりわけ知名度が高いのはダウンタウンの南にキャンパスを構えるライス大学である。ライス大学は1912年開校で、アメリカ合衆国の大学の歴史の中では比較的新しい部類に入る大学でありながら、USニューズ&ワールド・レポート誌の総合大学のランキングでは常にトップ25位以内に入る高評価を受けている。同校の学生数は学部生・大学院生合わせて4,500人ほどで、教授1人あたりの学生数が少なく、少数精鋭制で密度の高い教育を行っている。
一方、ヒューストン大学(英語版)は本校だけで約36,000人の学生を抱える大規模な州立総合大学で、世界130ヶ国から留学生を受け入れている。同学は40の研究センター・機関を有している。ヒューストン大学システムはダウンタウンの南西にキャンパスを構えるヒューストン大学本校のほか、クリアレイク校、ダウンタウン校、ビクトリア校の3校を有している。クリアレイク校は市の南東部、ジョンソン宇宙センターに程近いクリアレイク地区にキャンパスを構え、コミュニティ・カレッジ卒業生を対象に上級学年向けの講義を開講している。ダウンタウン校はダウンタウンの北側に校舎を持ち、ヒスパニック系の学生が全学生の1/3を占める。ビクトリア校はヒューストンの南西約200kmに位置するビクトリア市に小規模なキャンパスを構えている。これら4キャンパスに加え、ヒューストン大学システムは西郊のフォートベンド郡にシュガーランド教育センターとチンコ・レンチ教育センターを有している。これらの教育センターでは、大学の上級学年および大学院レベルの一部のコースを受講することができる。
このほか、ヒューストンにはテキサス南大学、セント・トーマス大学、ヒューストン・バプテスト大学などの4年制大学がある。ヒューストン・コミュニティ・カレッジ・システムは、ヒューストンとその周辺都市に立地するコミュニティ・カレッジ6校からなり、合計約57,000人の学生を抱える、全米でも4番目に大きい規模を持つコミュニティ・カレッジ・システムである。
テキサス州には公立のロー・スクールが4校あるが、そのうちの2校がヒューストンにある。1つはヒューストン大学ロー・センターで、もう1つはテキサス南大学のサーグッド・マーシャル法科大学院である。ヒューストン大学ロー・センターはUSニューズ&ワールド・レポートのロー・スクールのランキングで全米60位にランクされている。この2校に加え、ヒューストンには私立の南テキサス法学校もある。同校は1923年に創立された、ヒューストンでは最も長い歴史を誇る法学校で、模擬裁判プログラムがつとに良く知られている。
全米で7番目に規模の大きいヒューストン独立学区(Houston Independent School District、HISD)をはじめ、17の公立学区がヒューストン市域をカバーし、ヒューストンにおけるK-12課程を支えている。これらの学区で運営されている公立学校のほかにも、ヒューストンには多数のマグネット・スクールやチャーター・スクールもある。ヒューストンに校舎を構える私立学校は300校を超える。ヒューストンの私立学校の多くはテキサス私立学校認定協会(Texas Private School Accreditation Commission、TEPSAC)の認定を受けている。ヒューストン周辺の私立学校約50校が参加している非営利の組合、ヒューストン地域独立学校組合(Houston Area Independent Schools、HAIS)は、宗教的ないし非宗教的な様々な観点からの教育を提供している。ヒューストンとその周辺地域のカトリック系私立学校はガルベストン・ヒューストン司教区が運営している。
ヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージの強い都市であるが、文化・芸術面での充実度も高い。ヒューストンは文化・芸術活動を行う団体・施設を200以上有している。ダウンタウンの17ブロックにわたって広がるシアター・ディストリクトには9つの著名な演技芸術団体が本部を置き、6ヶ所のホールが立地している。ダウンタウンにおける劇場の席数では、ヒューストンは全米2位である。ヒューストンにはオペラ(ヒューストン・グランド・オペラ)、バレエ(ヒューストン・バレエ)、クラシック音楽(ヒューストン交響楽団)、演劇(アレイ・シアター)がすべて揃っている。これら4種の演技芸術をすべて揃えている都市は、全米でもニューヨーク、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなど、ごくわずかな大都市に限られている。これらに加え、ヒューストンではブロードウェイのミュージカルやコンサートなどのツアー公演も行われる。
ダウンタウンの南、ライス大学のキャンパスやテキサス医療センターに隣接するエリアには、ミュージアム・ディストリクトと呼ばれる博物館・美術館街が広がっている。ミュージアム・ディストリクトには年間700万人が訪れる。ミュージアム・ディストリクト内の著名な博物館・美術館には、ヒューストン美術館、ヒューストン自然科学博物館、ヒューストン現代美術館、ヒューストンホロコースト博物館などがある。ヒューストン美術館は1924年に創立され、常設展示だけで40,000点の作品を展示する、テキサス州最古・最大の美術館である。ヒューストン自然科学博物館が立地するハーマン・パーク内にはヒューストン動物園もある。ミュージアム・ディストリクトの北西に隣接するモントローズ地区には、油田検層事業の世界最大手シュルンベルジェ社の令嬢で、芸術と公民権運動に献身したドミニク・デ・メニルとその夫ジョンが設立した美術館メニル・コレクションと、超教派の教会堂ロスコ・チャペルが立地している。
ヒューストンではロック、ブルース、カントリー、ヒップホップ、テハーノ音楽などの活動も市域の至るところで見られる。しかし、ヒューストンがこういった大衆音楽の世界でミュージックシーンの中心になることはあまりない。ヒューストンが生んだアーティストは、ある一定レベルの成功を収めるとアメリカ合衆国内の他地域に移住する傾向が見られる。しかし、その中でもヒューストン・ヒップホップだけは例外で、サウス・ヒップホップやギャングスタ・ラップと互いに影響し合いながら、独自のミュージック・シーンを打ち出し、商業的にも成功を収めてきた。
ダウンタウンの南東約40kmにはNASAのジョンソン宇宙センターが立地している。ライス大学から広大な土地を寄付されて1965年に開設された同宇宙センターは、有人宇宙飛行の研究・開発、スペースシャトルや国際宇宙ステーションなど有人宇宙飛行ミッションの管制・運用、宇宙飛行士の訓練など、NASAの有人宇宙飛行プログラムの遂行において中核となる活動を行っている。そのビジターセンター、スペースセンター・ヒューストンは、アポロ計画によって持ち帰られた月の石や、スペースシャトルのシミュレータ、NASAの有人宇宙飛行プログラムの歴史に関するプレゼンテーション資料など、NASAや航空・宇宙に関連する展示物を展示している。
ヒューストン自然科学博物館やヒューストン動物園を抱えるハーマン・パークをはじめ、レイク・ヒューストン・パーク、メモリアル・パーク、トランクイリティ・パーク(アポロ11号が着陸した月の「静かの海」に由来)、セスクィセンティニアル・パーク、サム・ヒューストン・パークなど、ヒューストンには大小337の公園と200以上の緑地があり、その総面積は約7,930haにおよぶ。セスクィセンティニアル・パークはその名が示す通り1986年に市創設150周年を記念して開園した公園で、ジョージ・H・W・ブッシュの銅像が立っている。サム・ヒューストン・パークには1823年から1905年までの間に建てられた家屋が修復・復元されて残っている。これらの公園は市が管理している。
ヒューストンではあらゆるイベントが行われるが、その中でも、最も伝統があり、最も規模が大きいのはダウンタウンの南西約10kmに位置するNRGパークを会場として行われるヒューストンライブストックショー・アンド・ロデオである。家畜の品評会としても、ロデオの大会としても世界最大級のこのイベントは毎年2月下旬から3月上旬にかけて20日間以上にわたって執り行われ、会期中には200万人以上の来客が訪れる。普段はヒューストン・テキサンズやNCAAのフットボールの試合が行われるNRGスタジアムは、このイベントのときだけはダートが敷かれ、ロデオの会場となる。同イベントではロデオのほか、家畜の品評会、コンサート、パレード、カーニバル、トレイル・ライド、ピッグレース、バーベキュー、ワインの品評会なども行われる。このほかにヒューストンで行われる主なイベントとしては、ヒューストン・プライド・パレード(LGBTのプライド・パレード)、ヒューストン・グリーク・フェスティバル、ヒューストン・アート・カー・パレード、ヒューストンオートショー、ヒューストン・インターナショナル・フェスティバル、バイユー・シティ・アート・フェスティバルなどがある。
ヒューストンはプロスポーツリーグにとっても重要な拠点である。MLBはヒューストン・アストロズ、NFLはヒューストン・テキサンズ、NBAはヒューストン・ロケッツと、ヒューストンには北米4大プロスポーツリーグのうちの3リーグがチームを置いている。NHLのチームはない。また、MLSのヒューストン・ダイナモとMLRのヒューストン・セイバーキャッツもヒューストンを本拠地としている。さらに2022年からはUSFLのヒューストン・ギャンブラーズが、さらに2020年と2023年にはXFLのヒューストン・ラフネックスが本拠地を置く。
ヒューストン・アストロズは1962年にヒューストン・コルト45sとして創設され、1965年にジョンソン宇宙センターの存在から「宇宙飛行士」を意味するastronautを縮めてアストロズという名に改められた。1960年代から1970年代には低迷していたが、1980年にノーラン・ライアンを獲得するとチームは躍進、1990年代中盤以降は地区の上位に食い込む成績をほぼ毎年残している。2005年にはワールドシリーズに出場したがシカゴ・ホワイトソックスに敗れた。その後2011年から3年連続100敗以上と低迷するが、2015年に10年ぶりのプレーオフに進出した。2017年には2度目のワールドシリーズに出場し、ロサンゼルス・ドジャースを第7戦で破って、球団創設56年目にして初優勝した。
アストロズはダウンタウンの再開発地区に建てられ、2000年に開場したミニッツメイド・パークを本拠地としている。開場当時はエンロンが30年・1億ドルの契約で命名権を獲得したためエンロン・フィールドという名であった。しかし2002年に同社が経営破綻すると、暫定的に4ヶ月間だけアストロズ・フィールドという名が使われた後、コカ・コーラが28年契約・1億ドルを超える額で命名権を買い取り、同社のジュース「ミニッツメイド」から球場名をミニッツメイド・パークとした。ヒューストンは夏が非常に蒸し暑いため、球場には開閉式の屋根がついており、必要に応じて球場内を空調完備にできる。ミニッツメイド・フィールドに本拠地が移る前は、アストロズはアストロドームを本拠地としていた。1965年に完成したこの球場は世界史上初のドーム球場で、当時は「世界八番目の不思議」とさえ呼ばれた。
ミニッツメイド・パークと同じダウンタウンの再開発エリアには、ヒューストン・ロケッツが本拠地にしているトヨタセンターも立地している。ヒューストン・ロケッツは一見、野球のアストロズ同様にNASAに由来するチーム名であると思われがちであるが、もともとは1967年にカリフォルニア州サンディエゴにサンディエゴ・ロケッツとして創設されたチームであり、NASAとの関連性はない。かつてはアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、チャールズ・バークレーといった選手を擁した。1994年、1995年のNBAファイナルでは2連覇を飾り、ロケッツは黄金時代にあった。しかし1997年以降、ドレクスラーやバークレーが引退し、オラジュワンがトレードに出されると、その後は若年選手を中心として再建を進めているが、低迷が続いている。
トヨタセンターはそれまでロケッツの本拠地として使われていたコンパック・センターに代わって2003年に開場したアリーナで、ロケッツのほか、ヒューストン・コメッツ、およびヒューストン・エアロズが本拠地にしている。また、ヒューストンにおけるイベント会場・コンサート会場としても使われ、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーらの「大御所」アーティストからティーン・アイドルのハンナ・モンタナに至るまで、様々なアーティストがここでコンサートを行った。所有者はハリス郡とヒューストン市スポーツ局であるが、トヨタ自動車の米国法人が命名権を獲得したため、同社の名が冠せられている。
一方、アストロドームの建つNRGパークには、ヒューストン・テキサンズの本拠地であるNRGスタジアムが立地している。2002年に開場したこのNRGスタジアムは、NFLの本拠地となるスタジアムとしては初めて開閉式の屋根を採用した。テキサンズは2002年のリーグ拡張のときにできたチームである。新興チームの多くがそうであるようにテキサンズもまたリーグの下位に低迷しており、チームとしての歴史が浅いことも相まって、目立った成績は残していない。このテキサンズとは別に、1960年から1996年までは、ヒューストンにはオイラーズというチームがあったが、その後テネシー州の州都ナッシュビルに移転し、チーム名もテネシー・オイラーズを経てテネシー・タイタンズとなっている。オイラーズはアストロドームを本拠地としていた。
NRGスタジアムではこのテキサンズのホームの試合のほか、ヒューストン家畜ショー・アンド・ロデオの会期中はダートを敷いてロデオの大会にも使われる(前述)。2004年には、第38回スーパーボウルがNRGスタジアムで行われた。2005年には、カレッジフットボールのビッグ12カンファレンス決勝戦がNRGスタジアムで行われ、テキサス大学がコロラド大学を70-3の大差で破った。地元テキサス州で大勝したテキサス大学はローズボウルに出場し、南カリフォルニア大学を破って全米優勝した。
ヒューストンは人種・民族の多様性に富んだ都市である。ヒューストンで話されている言語の数は90を超える。特にヒスパニック系の住民の割合は高く、総人口の約37%を占め、非ヒスパニック系白人の30.8%を上回る。ヒューストン都市圏全体では、アメリカ合衆国外生まれの住民は約110万人を数え、都市圏人口の2割に達している。その半数近くはメキシコ系で、メキシコ以南を含めた中南米系全体では2/3近くにのぼる。さらに、約10万人にのぼるベトナム系をはじめ、インド系、中国系などアジア系も約1/5を占めている。ヒューストンにはダウンタウンのオールド・チャイナタウンのほか、南西部にもニュー・チャイナタウンと呼ばれる、新たに形成されたチャイナタウンがある。また、ニュー・チャイナタウンの近くには「リトル・サイゴン」と呼ばれるベトナム人街も形成されている。このように一部の移民は民族性の強い街区を形成し、ヒューストンを世界都市たらしめている。しかしその一方で、ヒューストンに住んでいると推定される不法入国者数は400,000人を数えるなど、移民がらみの問題も抱えている。
ヒューストンの都市圏は州南東部、ハリス郡を中心に9郡にまたがっており、その面積は21,464km(8,287mi)である。広域都市圏はこの都市圏に、近隣の4つの小都市圏を合わせた13郡から成っている。
右図はテキサス州におけるヒューストン・ザ・ウッドランズ広域都市圏の位置を示している。この広域都市圏に含まれる都市圏および小都市圏はそれぞれ、下記の色で示されている。
また、ヒューストンの都市圏、および広域都市圏を形成する各郡の人口は以下の通りである(2020年国勢調査)。
以下にヒューストン市における1850年から2020年までの人口推移をグラフおよび表で示す。
ヒューストンは以下19都市と姉妹都市提携を結んでいる。全米国際姉妹都市協会(Sister Cities International)加盟都市。
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"text": "ヒューストン(英語:Houston、[ˈhjuːstən, ˈjuːstən] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国のテキサス州の都市。同州最大かつ北アメリカ有数の世界都市。全米4位となる2,304,580人(2020年国勢調査)の人口を抱える。ハリス郡を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は7,122,240人(2020年国勢調査)にのぼる。市域面積は1,500kmに及び、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。",
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"text": "市は1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマンとジョン・カービーのアレン兄弟によって、バッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍のサミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日にヒューストンは正式に市制が施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港 を前面に抱え、ユナイテッド航空(旧・コンチネンタル航空)のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く。",
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"text": "このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ・オーケストラ・バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている。",
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"text": "ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にスペース・シティ(宇宙の街)という公式な別名が付けられた。地元住民はこの他にバイユー・シティ(バイユーの街)、マグノリア・シティ(マグノリアの街)、H・タウンなどと呼ぶこともある。",
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"text": "1836年8月にニューヨークの不動産起業家のオーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27平方キロメートル)の土地を購入した。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した。ヒューストンは翌1837年6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都及びハリスバーグ郡(現ハリス郡)の郡庁所在地となった。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された。",
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"text": "1860年頃にはヒューストンは綿花の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、ガルベストンやボーモントの港へと通じていた。南北戦争中、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取ってバイユー網の拡張に努めた。",
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"text": "1900年にガルベストン・ハリケーンが上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった。翌1901年、ボーモントの近くのスピンドルトップ油田で石油が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った。さらにその翌年、1902年には、当時の大統領セオドア・ルーズベルトがヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万ドル(当時)の計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、1914年、大統領ウッドロウ・ウィルソンはヒューストン港を開港した。1930年には人口292,352人を数え、サンアントニオとダラスを抜いてテキサス州最大の都市になった。",
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"text": "第二次世界大戦が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成ゴムの需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された。地元の造船業も増産し、市の成長を促した。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは第一次世界大戦の最中に設置されたものであったが、航空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった。1945年、M.D.アンダーソン財団はテキサス医療センターを設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。1948年、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた。1950年代に入り、エアコンが普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった。1961年には有人宇宙船センター(1973年にジョンソン宇宙センターに改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。",
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"text": "1970年代に入ると、北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した。1973年の第一次オイルショックで原油価格が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、1980年代中盤に入ると原油価格が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに1986年のチャレンジャー号爆発事故が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から1990年代以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。",
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"text": "2021年2月、テキサス州を大寒波が襲い停電を伴う電力危機(テキサス州電力危機)が発生。ヒューストンでは一般家庭の電気供給に支障を来したほか、浄水場からの水圧が低下や凍結がいたるところで発生して上水道の供給がままならなくなった。浄水場の機能に関連したトラブルは、翌年の2022年11月27日にも発生、数日間にわたり水道水を沸騰させてから使用するよう利用者に通告がなされた。",
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"text": "アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市の総面積は1,558.4km(601.7mi)である。そのうち1,500.7km(579.4mi)が陸地で57.7km(22.3mi)が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの標高は約15mである。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる。",
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"text": "ヒューストン地域の大部分はメキシコ湾西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置するニューオーリンズほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているヒューストンは、洪水の被害に見舞われやすい。かつては水道水源を地下水に頼っていたが、地盤沈下を引き起こしたため、ヒューストン湖やコンロー湖などの地表水を用いるようになった。",
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"text": "バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。",
"title": "地理"
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"text": "ヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。",
"title": "地理"
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"text": "ヒューストンの夏の日中の気温は摂氏30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が華氏90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てでエアコンを効かせている。1980年には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された。ヒューストンにおける観測史上最高気温は2000年9月4日に記録した摂氏42.7度である",
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"text": "一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏11度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏6度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である。",
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"text": "ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピカル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え、死者はテキサス州だけで20名を数えた。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分(可航半円)に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。2008年9月13日に南東郊のガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。",
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"text": "ヒューストン市内での位置は概ね、環状線I-610の内側か外側かで分類される。I-610の内側には業務・商業集積地が形成され、第二次世界大戦前に建てられた古い住宅が主に建っている。近年では、人口密度の高い、職住近接型の住宅地の再開発が進められている。I-610の外側は郊外型の住宅地が広がっている。第2環状線となる州道環状8号線は、I-610よりもおよそ8-12km外側を走っている。この州道環状8号線のさらに外側に、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線の建設が進められており、1994年に一部が開通している。",
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"text": "アメリカ合衆国内でゾーニング規定のない都市の中では、ヒューストンは最大の人口規模を抱える都市である。しかし、ヒューストンは他のサンベルト諸都市と同じようなしかたで発展してきている。ヒューストンにおいては、法的契約の付帯事項が都市計画において、民主度はやや低くなるものの、ゾーニングとほぼ同じような役割を果たしている。1948年、1962年、1993年と3度にわたって住宅地と商業地をわける試みがなされたものの、3度とも否決されている。そのため、市中心部に一極集中型のビジネス街が形成され、郊外に住宅地が広がるという形ではなく、市内の複数の地区が発展している。ダウンタウンには市最大のビジネス街が形成されているが、ダウンタウンの10km西、ヒューストンきっての高級住宅街であるアップタウンにも大規模なビジネス街が形成されている。このほか、ミッドタウン、エナジー・コリダー、グリーンウェイ・プラザ、ウェストチェースなど、住宅地と商業地、ないし工業地が混在する職住近接型の地区がいくつも形成されている。",
"title": "地理"
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"tag": "p",
"text": "ヒューストンのダウンタウンには、総延長約11kmにわたる地下トンネル通路が整備されている。この通路はダウンタウンのビルを結ぶもので、コーヒーショップやレストラン、コンビニエンスストアもある。この地下通路システムによって、通行者は夏の暑さや降雨を気にすることなく、ビル間を移動することができる。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJPモルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000mに及ぶ。",
"title": "地理"
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"text": "ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ・タワー(当時の名称はトランスコ・タワー)は都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000mを超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000mはクラスAのオフィススペースである。",
"title": "地理"
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"text": "ヒューストンは市長制を採っている。ヒューストンは特定の権限を委譲されている。ヒューストンを含め、テキサス州内においては、すべての市政選挙は党派を特定せずに行われる。ヒューストンの市政選挙で選ばれるのは市長、会計監査官、および14名からなる市議会の議員である。",
"title": "政治"
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"tag": "p",
"text": "2016年現在の市長はシルベスター・ターナーである。ヒューストン市長は市の管理者の長であり、最高責任者であり、公式な代表である。市長は市の全般的な管理業務、および法律・条令の施行に責任を負う。1991年の住民投票の結果により、ヒューストン市長の任期は2年と定められ、連続多選が認められるのは3選までとなった。1997年、リー・P・ブラウンが市長に就任し、ヒューストン市史上初の黒人市長が誕生した。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ヒューストン市議会議員選挙においては、市は9つの選挙区に分けられている。この9つの選挙区は、もともとは1837年にヒューストンが市制を施行した際の区が基になっている。各選挙区から1名ずつがまず当選となり、残る5議席はワイルドカードとして市全体から選出される。このシステムは、1979年にアメリカ合衆国司法省が義務付けたものが基になっている。現行の市の認可条件では、市域人口が210万人を超えたときには、市議会議員選挙の選挙区は2区増やされ、11区に改組されることになっている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2020年7月21日 連邦政府は知的財産と個人情報の保護を理由にヒューストン市内にある中国総領事館の閉鎖命令を出した。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンの治安はヒューストン市警等いくつかの法執行機関によって守られている。ヒューストンは「犯罪都市」と呼ばれることこそないものの、その犯罪率は決して低くはない。殺人の発生率が高く、全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位である。ヒューストンにおける2005年の犯罪発生件数を2004年と比較すると、非暴力的犯罪こそ2%減少しているものの、殺人発生件数は23.5%増加し、336件を数えた。その原因の1つとしては、ハリケーン・カトリーナで大被害を受けたニューオーリンズからの避難民がヒューストンに大量に流入したことが挙げられる。カトリーナの襲来後、2005年の11月・12月においては、前年度の同時期に比べて殺人発生率が70%増加している。",
"title": "治安"
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"text": "ヒューストンにおける2006年の殺人発生件数は379件、発生率は人口100,000人あたり17.24件で、2005年の16.33件より増加している。この人口100,000人あたり17.24件という数値は全米平均の約2.5倍にあたる。アメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストンはギャングがらみの犯罪にも直面している。1996年現在、ヒューストンには380のギャングが存在し、少年2,500人を含む8,000人が加わっている。",
"title": "治安"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンはエネルギー産業、こと石油・天然ガス産業では世界的にその名を轟かせている。また生命医学分野や、航空・宇宙開発分野でもよく知られている。全米最大級の貿易港であるヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの存在もヒューストンの経済に大きく寄与している。世界中の多くの場所とは違い、エネルギー産業に従事する住民の多いヒューストンでは、原油やガソリンの価格の高騰は経済に好ましい影響を与えるものであると見られている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "スーパーメジャーと呼ばれる6大石油会社のうち、4社がヒューストンに主要な業務拠点を置いている。イギリスに本社を置くシェルの米国法人、シェル石油会社はダウンタウンのワン・シェル・プラザに本社を置いている。エクソンモービルは本社こそダラス・フォートワース複合都市圏のアービングに置いているものの、同社の上流部門と化学部門はヒューストンに置かれている。サンフランシスコ・ベイエリアに本社を置くシェブロンは、エンロンの本社ビルになる予定だった40階建てのビルを2003年に買収し、同社のヒューストンオフィスをそこに置いている。また、シェブロンの子会社であるシェブロンパイプラインの本社はヒューストンに置かれている。コノコフィリップスは本社をヒューストンに置いている。また、これら石油メジャーの存在だけでなく、ヒューストン都市圏には油田設備の設置やサービスを主事業とする企業も集中している。中には数千人から10,000人以上の従業員を抱える大企業もある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "こうしたヒューストンの石油産業・石油化学産業の中心地としての成功はヒューストン港の存在によるものが大きい。ヒューストン港は外国貨物取扱量全米一で、総貨物取扱量では南ルイジアナ港に次いで全米2位、全世界でも10位にランクされる大規模な貿易港である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(Gross Area Product、GAP)は3255億ドル で、オーストリア、ポーランド、サウジアラビアなどの国内総生産(GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない。主に石油や天然ガスの生産による鉱業は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、1985年の21%からは大幅に減っている。オイルショック後の原油価格暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である。フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "国際的にその名を知られているテキサス医療センターはヒューストンにある。テキサス医療センターは世界最大級の医療研究機関の集積地である。テキサス医療センター内の45機関すべてが非営利団体である。これらの機関は治療、予防医学、研究、教育、地域・国家・国際コミュニティの福祉と、医療とその研究に関わるあらゆる側面をカバーしている。センターには著名な病院13院をはじめ、特別機関2機関、医学校2校、看護学校4校、歯学校、公共保健学校、薬学校があり、医療・保健関連のあらゆるキャリア・パスが用意されている。テキサス医療センターはまた、ライフ・フライトと呼ばれる、救急ヘリコプター派遣のシステムが創設された地でもある。複数の機関が連携しての移植手術プログラムも開発されてきた。心臓外科の手術においては、テキサス医療センターは世界で最も術例が多い。",
"title": "医療"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "テキサス医療センター内にある医療・保健関連の学術・研究機関の中で著名なものには、ベイラー医科大学、テキサス大学ヒューストン保健科学センター、メソジスト病院、テキサス子供病院、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターなどがある。ベイラー医科大学は、1900年に「ダラス大学医学部」としてダラスに設立され、1903年にベイラー大学と合併した後、1943年にテキサス医療センターに移転してきた。その後、1969年にベイラー大学との提携を解消し、以降現在に至るまで独立した医科大学として運営されている。同校はUSニューズ&ワールド・レポート誌による医学部・医科大学のランキングでも上位10位以内に入る高評価を得ている。テキサス大学ヒューストン保健科学センターは保健教育の博士課程では全米1位である。テキサス大学システムに属するもうひとつの機関、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターは1990年代以降、がん治療に特化した病院としては全米で一二を争う存在である。メソジスト病院は全米の優れた病院の1つに数えられ、心臓外科手術、がん治療、てんかん治療、臓器移植など幅広い分野で世界的にその名を知られている。",
"title": "医療"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンの空の玄関となる空港はダウンタウンの37km北に位置するジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港(IATA: IAH)である。単に「インターコンチネンタル空港」とも呼ばれる。旅客数はテキサス州の空港としてはダラス・フォートワース国際空港に次ぐ規模である。かつて、ヒューストンに本社を置いていたコンチネンタル航空最大のハブ空港であった。現在はコンチネンタル航空と合併したユナイテッド航空がヒューストンからアメリカ合衆国内外182都市へ1日700便以上を飛ばしている。同空港と日本の成田国際空港間は直行便が、ユナイテッド航空により毎日1便就航している。日本の航空会社は全日本空輸(ANA)が2015年6月12日から毎日1便の直行便を運航開始した。歴史上日本の航空会社によるヒューストンへの直行便開設は初めての事である。機材はB777-300ER型機を使用しての路線開設となった。この路線開設により、ANAのコードシェア便も含め、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港からスターアライアンス加盟会社を初めとした豊富な国際路線網を利用できるようになり、日本から南米大陸各地やカリブ海諸国への乗り換え利便性が大きく向上した。2006年、アメリカ合衆国運輸省は、インターコンチネンタル空港はアメリカ合衆国内10大空港の中で最も高い成長を遂げている空港であると発表した。2007年初め、アメリカ合衆国税関・国境警備局はインターコンチネンタル空港をアメリカ合衆国外からの旅行者に対する入国港湾のモデルと位置づけた。テキサス・ルイジアナ・ミシシッピ・アラバマ4州の南部をカバーするヒューストン航空管制センターは、インターコンチネンタル空港の敷地内に置かれている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "インターコンチネンタル空港は1969年に開港したが、それ以前はダウンタウンの南西約13kmに位置するウィリアム・P・ホビー空港(IATA: HOU)がヒューストンの空の玄関口としての役割を果たしていた。1967年まではヒューストン国際空港と呼ばれていたこの空港は、現在では近距離・中距離の国内線や、企業・個人のチャーター便などを主とし、インターコンチネンタル空港を補完する役割を果たしている。同空港に発着する旅客機の8割はサウスウエスト航空の便で占められている。サウスウエスト航空はインターコンチネンタル空港を利用せず、ホビー空港のみに航空機の便を発着させている。同社はヒューストンを拠点都市の1つとして位置づけており、今後もホビー空港発着の新路線を開拓していく計画を立てている 。ホビー空港の敷地内にはヒューストンにおける航空史の史料を展示する1940エアターミナル博物館が立地している。このアール・デコ調建築の博物館は、もともとはホビー空港がヒューストン市立空港と呼ばれていた頃、1940年に建てられた空港ターミナルビルであった。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ダウンタウンの南東約25kmに位置するエリントン空港は、もとはアメリカ合衆国空軍の基地『エリントン・フィールド』であったものを民間に転用した空港であるため、IATAコードはエリントン・フィールド時代のEFDのままである。同空港は第一次世界大戦中の1917年、航空機の黎明期に空軍の前身であるアメリカ合衆国陸軍航空隊の訓練施設としてつくられた。現在でも軍用やNASAの航空機の発着・航空祭に使われているが、それらに加え、商用やゼネラル・アビエーションにも用いられている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンはインターコンチネンタル、ホビーの両空港を改善するプログラムを数年間にわたって、31億ドルの費用を投じて進めてきた。それが実り、ヒューストンの空港システムは2005年、連邦航空局とテキサス州政府によってエアポート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンのダウンタウン付近では2本の州間高速道路、I-10とI-45が交わる。I-10はサンベルト地帯を東西に貫いて走る幹線である。一方、I-45はダラスとヒューストンを結ぶ、テキサス州で最も重要な道路のひとつである。これらの高速道路上にはグレイハウンドをはじめとする都市間の中・長距離バスが走っており、ダラス、サンアントニオ、バトンルージュなどへの便がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "これらの州間高速道路のほか、10郡にわたるヒューストン都市圏には、総延長926kmにおよぶ高速道路網が張り巡らされている。ヒューストンの高速道路システムはダウンタウンを中心とした放射線と、複数の環状線の組み合わせで構成されている。最も内側の環状線は、形式上はI-10の支線となっているI-610である。I-610はダウンタウンを中心に、テキサス医療センターなど半径8km程度の範囲内にある地域を取り囲んでいる。その外側を走る州道環状8号線はヒューストン都市圏の第2環状線という位置づけになっており、南東に隣接するパサディナ市などダウンタウンから半径20km程度のところを走っている。環状8号線の約3/4はサム・ヒューストン有料道路になっている。インターコンチネンタル空港はこの環状8号線のすぐ外側に位置している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "環状8号線のさらに外側には、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線(グランド・パークウェイ)の計画・建設が進められている。ヒューストンの南西に隣接するシュガーランド市とI-10とを結ぶ区間は1994年に完成し、既に供用されている。また、現在ミシガン州のカナダ国境からインディアナポリスへと通じているI-69は、将来的には南へ延伸し、現在のUS-59のルートを通ってヒューストンを通ってブラウンズビルのメキシコ国境に通ずる予定になっている。そのほかにも、ダウンタウンから延びる放射線が数本建設される予定がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンの高速道路システムはテキサス州交通局、ハリス郡政府、ハリス郡都市圏交通局、ヒューストン市の4機関のパートナーシップによる交通センター、ヒューストン・トランスターが監視している。ヒューストン・トランスターはヒューストン都市圏における交通サービスと緊急事態への対処に責任を負っている。ヒューストン・トランスターは、全米で初めて交通サービスと緊急事態への対処のサービスを一体化したセンターであり、また全米で初めて4機関でリソースを共有するセンターでもある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンの路線バスやライトレールなどの公共交通機関はハリス郡都市圏交通局(Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas、METRO)によって運営されている。しかし、ヒューストンは市域も都市圏も広いため、公共交通機関によってカバーされていない地域も多い。そのためアメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストン都市圏における主な交通手段は個人所有の自動車である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "METROの主力となっている路線バスは100系統以上あり、普通路線、急行路線、パークアンドライド路線に大別される。パークアンドライド路線はその名の通りパークアンドライドを促進するための路線で、高速道路上を走り、郊外の高速道路沿いにつくられた25ヶ所の大規模な駐車場とダウンタウンとを結んでいる。この路線バス網に加え、METROは2004年1月1日にライトレールの営業運転を開始した。第1弾として開通したレッドラインはヒューストン大学ダウンタウン校とNRGパークを結ぶ13kmの路線で、途中ライス大学やミュージアム・ディストリクト、テキサス医療センターを通る。METROはライトレール網を整備する10ヶ年計画を進めており、将来的にはこのレッドラインに加え、5路線が開通する予定になっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アムトラックの長距離列車、サンセット・リミテッド号はダウンタウンの北側にあるヒューストン駅に停車する。サンセット・リミテッド号はアムトラックで唯一、シカゴを経由せずに大陸を横断する列車で、ロサンゼルスとオーランドを結び、西行、東行とも週3便運行している。2006年度のヒューストン駅の年間利用客数は10,855人であった。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンには55校の高等教育機関がある。その中でもとりわけ知名度が高いのはダウンタウンの南にキャンパスを構えるライス大学である。ライス大学は1912年開校で、アメリカ合衆国の大学の歴史の中では比較的新しい部類に入る大学でありながら、USニューズ&ワールド・レポート誌の総合大学のランキングでは常にトップ25位以内に入る高評価を受けている。同校の学生数は学部生・大学院生合わせて4,500人ほどで、教授1人あたりの学生数が少なく、少数精鋭制で密度の高い教育を行っている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "一方、ヒューストン大学(英語版)は本校だけで約36,000人の学生を抱える大規模な州立総合大学で、世界130ヶ国から留学生を受け入れている。同学は40の研究センター・機関を有している。ヒューストン大学システムはダウンタウンの南西にキャンパスを構えるヒューストン大学本校のほか、クリアレイク校、ダウンタウン校、ビクトリア校の3校を有している。クリアレイク校は市の南東部、ジョンソン宇宙センターに程近いクリアレイク地区にキャンパスを構え、コミュニティ・カレッジ卒業生を対象に上級学年向けの講義を開講している。ダウンタウン校はダウンタウンの北側に校舎を持ち、ヒスパニック系の学生が全学生の1/3を占める。ビクトリア校はヒューストンの南西約200kmに位置するビクトリア市に小規模なキャンパスを構えている。これら4キャンパスに加え、ヒューストン大学システムは西郊のフォートベンド郡にシュガーランド教育センターとチンコ・レンチ教育センターを有している。これらの教育センターでは、大学の上級学年および大学院レベルの一部のコースを受講することができる。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "このほか、ヒューストンにはテキサス南大学、セント・トーマス大学、ヒューストン・バプテスト大学などの4年制大学がある。ヒューストン・コミュニティ・カレッジ・システムは、ヒューストンとその周辺都市に立地するコミュニティ・カレッジ6校からなり、合計約57,000人の学生を抱える、全米でも4番目に大きい規模を持つコミュニティ・カレッジ・システムである。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "テキサス州には公立のロー・スクールが4校あるが、そのうちの2校がヒューストンにある。1つはヒューストン大学ロー・センターで、もう1つはテキサス南大学のサーグッド・マーシャル法科大学院である。ヒューストン大学ロー・センターはUSニューズ&ワールド・レポートのロー・スクールのランキングで全米60位にランクされている。この2校に加え、ヒューストンには私立の南テキサス法学校もある。同校は1923年に創立された、ヒューストンでは最も長い歴史を誇る法学校で、模擬裁判プログラムがつとに良く知られている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "全米で7番目に規模の大きいヒューストン独立学区(Houston Independent School District、HISD)をはじめ、17の公立学区がヒューストン市域をカバーし、ヒューストンにおけるK-12課程を支えている。これらの学区で運営されている公立学校のほかにも、ヒューストンには多数のマグネット・スクールやチャーター・スクールもある。ヒューストンに校舎を構える私立学校は300校を超える。ヒューストンの私立学校の多くはテキサス私立学校認定協会(Texas Private School Accreditation Commission、TEPSAC)の認定を受けている。ヒューストン周辺の私立学校約50校が参加している非営利の組合、ヒューストン地域独立学校組合(Houston Area Independent Schools、HAIS)は、宗教的ないし非宗教的な様々な観点からの教育を提供している。ヒューストンとその周辺地域のカトリック系私立学校はガルベストン・ヒューストン司教区が運営している。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージの強い都市であるが、文化・芸術面での充実度も高い。ヒューストンは文化・芸術活動を行う団体・施設を200以上有している。ダウンタウンの17ブロックにわたって広がるシアター・ディストリクトには9つの著名な演技芸術団体が本部を置き、6ヶ所のホールが立地している。ダウンタウンにおける劇場の席数では、ヒューストンは全米2位である。ヒューストンにはオペラ(ヒューストン・グランド・オペラ)、バレエ(ヒューストン・バレエ)、クラシック音楽(ヒューストン交響楽団)、演劇(アレイ・シアター)がすべて揃っている。これら4種の演技芸術をすべて揃えている都市は、全米でもニューヨーク、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなど、ごくわずかな大都市に限られている。これらに加え、ヒューストンではブロードウェイのミュージカルやコンサートなどのツアー公演も行われる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ダウンタウンの南、ライス大学のキャンパスやテキサス医療センターに隣接するエリアには、ミュージアム・ディストリクトと呼ばれる博物館・美術館街が広がっている。ミュージアム・ディストリクトには年間700万人が訪れる。ミュージアム・ディストリクト内の著名な博物館・美術館には、ヒューストン美術館、ヒューストン自然科学博物館、ヒューストン現代美術館、ヒューストンホロコースト博物館などがある。ヒューストン美術館は1924年に創立され、常設展示だけで40,000点の作品を展示する、テキサス州最古・最大の美術館である。ヒューストン自然科学博物館が立地するハーマン・パーク内にはヒューストン動物園もある。ミュージアム・ディストリクトの北西に隣接するモントローズ地区には、油田検層事業の世界最大手シュルンベルジェ社の令嬢で、芸術と公民権運動に献身したドミニク・デ・メニルとその夫ジョンが設立した美術館メニル・コレクションと、超教派の教会堂ロスコ・チャペルが立地している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンではロック、ブルース、カントリー、ヒップホップ、テハーノ音楽などの活動も市域の至るところで見られる。しかし、ヒューストンがこういった大衆音楽の世界でミュージックシーンの中心になることはあまりない。ヒューストンが生んだアーティストは、ある一定レベルの成功を収めるとアメリカ合衆国内の他地域に移住する傾向が見られる。しかし、その中でもヒューストン・ヒップホップだけは例外で、サウス・ヒップホップやギャングスタ・ラップと互いに影響し合いながら、独自のミュージック・シーンを打ち出し、商業的にも成功を収めてきた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ダウンタウンの南東約40kmにはNASAのジョンソン宇宙センターが立地している。ライス大学から広大な土地を寄付されて1965年に開設された同宇宙センターは、有人宇宙飛行の研究・開発、スペースシャトルや国際宇宙ステーションなど有人宇宙飛行ミッションの管制・運用、宇宙飛行士の訓練など、NASAの有人宇宙飛行プログラムの遂行において中核となる活動を行っている。そのビジターセンター、スペースセンター・ヒューストンは、アポロ計画によって持ち帰られた月の石や、スペースシャトルのシミュレータ、NASAの有人宇宙飛行プログラムの歴史に関するプレゼンテーション資料など、NASAや航空・宇宙に関連する展示物を展示している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ヒューストン自然科学博物館やヒューストン動物園を抱えるハーマン・パークをはじめ、レイク・ヒューストン・パーク、メモリアル・パーク、トランクイリティ・パーク(アポロ11号が着陸した月の「静かの海」に由来)、セスクィセンティニアル・パーク、サム・ヒューストン・パークなど、ヒューストンには大小337の公園と200以上の緑地があり、その総面積は約7,930haにおよぶ。セスクィセンティニアル・パークはその名が示す通り1986年に市創設150周年を記念して開園した公園で、ジョージ・H・W・ブッシュの銅像が立っている。サム・ヒューストン・パークには1823年から1905年までの間に建てられた家屋が修復・復元されて残っている。これらの公園は市が管理している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンではあらゆるイベントが行われるが、その中でも、最も伝統があり、最も規模が大きいのはダウンタウンの南西約10kmに位置するNRGパークを会場として行われるヒューストンライブストックショー・アンド・ロデオである。家畜の品評会としても、ロデオの大会としても世界最大級のこのイベントは毎年2月下旬から3月上旬にかけて20日間以上にわたって執り行われ、会期中には200万人以上の来客が訪れる。普段はヒューストン・テキサンズやNCAAのフットボールの試合が行われるNRGスタジアムは、このイベントのときだけはダートが敷かれ、ロデオの会場となる。同イベントではロデオのほか、家畜の品評会、コンサート、パレード、カーニバル、トレイル・ライド、ピッグレース、バーベキュー、ワインの品評会なども行われる。このほかにヒューストンで行われる主なイベントとしては、ヒューストン・プライド・パレード(LGBTのプライド・パレード)、ヒューストン・グリーク・フェスティバル、ヒューストン・アート・カー・パレード、ヒューストンオートショー、ヒューストン・インターナショナル・フェスティバル、バイユー・シティ・アート・フェスティバルなどがある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンはプロスポーツリーグにとっても重要な拠点である。MLBはヒューストン・アストロズ、NFLはヒューストン・テキサンズ、NBAはヒューストン・ロケッツと、ヒューストンには北米4大プロスポーツリーグのうちの3リーグがチームを置いている。NHLのチームはない。また、MLSのヒューストン・ダイナモとMLRのヒューストン・セイバーキャッツもヒューストンを本拠地としている。さらに2022年からはUSFLのヒューストン・ギャンブラーズが、さらに2020年と2023年にはXFLのヒューストン・ラフネックスが本拠地を置く。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ヒューストン・アストロズは1962年にヒューストン・コルト45sとして創設され、1965年にジョンソン宇宙センターの存在から「宇宙飛行士」を意味するastronautを縮めてアストロズという名に改められた。1960年代から1970年代には低迷していたが、1980年にノーラン・ライアンを獲得するとチームは躍進、1990年代中盤以降は地区の上位に食い込む成績をほぼ毎年残している。2005年にはワールドシリーズに出場したがシカゴ・ホワイトソックスに敗れた。その後2011年から3年連続100敗以上と低迷するが、2015年に10年ぶりのプレーオフに進出した。2017年には2度目のワールドシリーズに出場し、ロサンゼルス・ドジャースを第7戦で破って、球団創設56年目にして初優勝した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "アストロズはダウンタウンの再開発地区に建てられ、2000年に開場したミニッツメイド・パークを本拠地としている。開場当時はエンロンが30年・1億ドルの契約で命名権を獲得したためエンロン・フィールドという名であった。しかし2002年に同社が経営破綻すると、暫定的に4ヶ月間だけアストロズ・フィールドという名が使われた後、コカ・コーラが28年契約・1億ドルを超える額で命名権を買い取り、同社のジュース「ミニッツメイド」から球場名をミニッツメイド・パークとした。ヒューストンは夏が非常に蒸し暑いため、球場には開閉式の屋根がついており、必要に応じて球場内を空調完備にできる。ミニッツメイド・フィールドに本拠地が移る前は、アストロズはアストロドームを本拠地としていた。1965年に完成したこの球場は世界史上初のドーム球場で、当時は「世界八番目の不思議」とさえ呼ばれた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ミニッツメイド・パークと同じダウンタウンの再開発エリアには、ヒューストン・ロケッツが本拠地にしているトヨタセンターも立地している。ヒューストン・ロケッツは一見、野球のアストロズ同様にNASAに由来するチーム名であると思われがちであるが、もともとは1967年にカリフォルニア州サンディエゴにサンディエゴ・ロケッツとして創設されたチームであり、NASAとの関連性はない。かつてはアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、チャールズ・バークレーといった選手を擁した。1994年、1995年のNBAファイナルでは2連覇を飾り、ロケッツは黄金時代にあった。しかし1997年以降、ドレクスラーやバークレーが引退し、オラジュワンがトレードに出されると、その後は若年選手を中心として再建を進めているが、低迷が続いている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "トヨタセンターはそれまでロケッツの本拠地として使われていたコンパック・センターに代わって2003年に開場したアリーナで、ロケッツのほか、ヒューストン・コメッツ、およびヒューストン・エアロズが本拠地にしている。また、ヒューストンにおけるイベント会場・コンサート会場としても使われ、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーらの「大御所」アーティストからティーン・アイドルのハンナ・モンタナに至るまで、様々なアーティストがここでコンサートを行った。所有者はハリス郡とヒューストン市スポーツ局であるが、トヨタ自動車の米国法人が命名権を獲得したため、同社の名が冠せられている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "一方、アストロドームの建つNRGパークには、ヒューストン・テキサンズの本拠地であるNRGスタジアムが立地している。2002年に開場したこのNRGスタジアムは、NFLの本拠地となるスタジアムとしては初めて開閉式の屋根を採用した。テキサンズは2002年のリーグ拡張のときにできたチームである。新興チームの多くがそうであるようにテキサンズもまたリーグの下位に低迷しており、チームとしての歴史が浅いことも相まって、目立った成績は残していない。このテキサンズとは別に、1960年から1996年までは、ヒューストンにはオイラーズというチームがあったが、その後テネシー州の州都ナッシュビルに移転し、チーム名もテネシー・オイラーズを経てテネシー・タイタンズとなっている。オイラーズはアストロドームを本拠地としていた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "NRGスタジアムではこのテキサンズのホームの試合のほか、ヒューストン家畜ショー・アンド・ロデオの会期中はダートを敷いてロデオの大会にも使われる(前述)。2004年には、第38回スーパーボウルがNRGスタジアムで行われた。2005年には、カレッジフットボールのビッグ12カンファレンス決勝戦がNRGスタジアムで行われ、テキサス大学がコロラド大学を70-3の大差で破った。地元テキサス州で大勝したテキサス大学はローズボウルに出場し、南カリフォルニア大学を破って全米優勝した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンは人種・民族の多様性に富んだ都市である。ヒューストンで話されている言語の数は90を超える。特にヒスパニック系の住民の割合は高く、総人口の約37%を占め、非ヒスパニック系白人の30.8%を上回る。ヒューストン都市圏全体では、アメリカ合衆国外生まれの住民は約110万人を数え、都市圏人口の2割に達している。その半数近くはメキシコ系で、メキシコ以南を含めた中南米系全体では2/3近くにのぼる。さらに、約10万人にのぼるベトナム系をはじめ、インド系、中国系などアジア系も約1/5を占めている。ヒューストンにはダウンタウンのオールド・チャイナタウンのほか、南西部にもニュー・チャイナタウンと呼ばれる、新たに形成されたチャイナタウンがある。また、ニュー・チャイナタウンの近くには「リトル・サイゴン」と呼ばれるベトナム人街も形成されている。このように一部の移民は民族性の強い街区を形成し、ヒューストンを世界都市たらしめている。しかしその一方で、ヒューストンに住んでいると推定される不法入国者数は400,000人を数えるなど、移民がらみの問題も抱えている。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ヒューストンの都市圏は州南東部、ハリス郡を中心に9郡にまたがっており、その面積は21,464km(8,287mi)である。広域都市圏はこの都市圏に、近隣の4つの小都市圏を合わせた13郡から成っている。",
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"text": "右図はテキサス州におけるヒューストン・ザ・ウッドランズ広域都市圏の位置を示している。この広域都市圏に含まれる都市圏および小都市圏はそれぞれ、下記の色で示されている。",
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"text": "また、ヒューストンの都市圏、および広域都市圏を形成する各郡の人口は以下の通りである(2020年国勢調査)。",
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"text": "以下にヒューストン市における1850年から2020年までの人口推移をグラフおよび表で示す。",
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"text": "ヒューストンは以下19都市と姉妹都市提携を結んでいる。全米国際姉妹都市協会(Sister Cities International)加盟都市。",
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] |
ヒューストンは、アメリカ合衆国のテキサス州の都市。同州最大かつ北アメリカ有数の世界都市。全米4位となる2,304,580人(2020年国勢調査)の人口を抱える。ハリス郡を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は7,122,240人(2020年国勢調査)にのぼる。市域面積は1,500km2に及び、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。 市は1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマンとジョン・カービーのアレン兄弟によって、バッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍のサミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日にヒューストンは正式に市制が施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港 を前面に抱え、ユナイテッド航空(旧・コンチネンタル航空)のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く。 このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ・オーケストラ・バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている。 ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にスペース・シティ(宇宙の街)という公式な別名が付けられた。地元住民はこの他にバイユー・シティ(バイユーの街)、マグノリア・シティ(マグノリアの街)、H・タウンなどと呼ぶこともある。
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{{Otheruses|アメリカ合衆国テキサス州の都市|その他}}
{{世界の市
|正式名称 = ヒューストン市
|公用語名称 = {{en|City of Houston}}
|愛称 = 宇宙の街
|標語 =
|画像 = Houston montage.jpg
|画像サイズ指定 =
|画像の見出し =
|市旗 = Flag of Houston, Texas.svg
|市章 = Seal of Houston, Texas.svg
|位置図 = Harris_County_Houston.svg
|位置図サイズ指定 = 200px
|位置図B =
|位置図2B = {{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280||frame-height=240|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|frame-latitude=29.653472|frame-longitude=-95.270773}}
|位置図の見出し= 右上: [[テキサス州]]におけるハリス郡の位置<br />左: ハリス郡におけるヒューストンの市域
|下位区分名 = {{USA}}
|下位区分種類1 = 州
|下位区分名1 = {{Flag|Texas}}
|下位区分種類2 = 郡
|下位区分名2= [[ハリス郡 (テキサス州)|ハリス郡]]<br />[[フォートベンド郡 (テキサス州)|フォートベンド郡]]<br />[[モンゴメリー郡 (テキサス州)|モンゴメリー郡]]
|最高行政執行者称号 = [[ヒューストン市長|市長]]
|最高行政執行者名 = シルベスター・ターナー
|成立区分 = 市制施行
|成立日 = 1837年6月5日
|規模= 市
|総面積(平方キロ)= 1,558.4
|総面積(平方マイル)= 601.7
|陸上面積(平方キロ)= 1,500.7
|陸上面積(平方マイル)= 579.4
|水面面積(平方キロ)= 57.7
|水面面積(平方マイル)= 22.3
|水面面積比率=
|市街地面積(平方キロ)=
|市街地面積(平方マイル)=
|都市圏面積(平方キロ)=
|都市圏面積(平方マイル)=
|人口の時点= 2020年
|人口に関する備考= [[アメリカ合衆国の主な都市人口の順位|全米都市人口第4位]]
|総人口= 2,304,580
|人口密度(平方キロ当たり)= 1,535.7
|人口密度(平方マイル当たり)= 4,039.7
|都市圏人口= 7,122,240
|都市圏人口密度(平方キロ)=
|都市圏人口密度(平方マイル)=
|市街地人口=
|等時帯= [[中部標準時]]
|協定世界時との時差= -6
|夏時間の等時帯= [[中部夏時間]]
|夏時間の協定世界時との時差= -5
|緯度度= 29 |緯度分= 45 |緯度秒= 46 |N(北緯)及びS(南緯)= N
|経度度= 95 |経度分= 22 |経度秒= 59 |E(東経)及びW(西経)= W
|標高(メートル)= 13
|標高(フィート)= 43
|公式ウェブサイト= {{URL|https://www.houstontx.gov/}}
|備考=
}}
'''ヒューストン'''(英語:{{en|Houston}}、{{IPA-en|ˈhjuːstən, ˈjuːstən||En-us-Houston.ogg}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[テキサス州]]の都市。同州最大かつ北アメリカ有数の[[世界都市]]。全米4位となる2,304,580人([[2020年]][[国勢調査]])の人口を抱える<ref name="Census2020_QuickFacts_City">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/houstoncitytexas/POP010220 QuickFacts: Houston city, Texas]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。[[ハリス郡 (テキサス州)|ハリス郡]]を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は7,122,240人(2020年国勢調査)にのぼる<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。市域面積は1,500[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]に及び、[[市郡]]一体の自治体を除くと[[オクラホマシティ]]に次ぐ全米第2の広さである。
== 概要 ==
市は[[1836年]]8月30日にオーガストゥス・チャップマンとジョン・カービーのアレン兄弟によって、[[バッファロー・バイユー]]の河岸に創設された。市名は当時の[[テキサス共和国]]大統領で、[[サンジャシントの戦い]]で指揮を執った将軍の[[サミュエル・ヒューストン]]から名を取って付けられた。翌[[1837年]]6月5日にヒューストンは正式に市制が施行された。[[19世紀]]後半には海港や鉄道交通の中心として、また[[綿花]]の集散地として栄えた。やがて[[1901年]]に[[油田]]が見つかると、市は[[石油精製]]・[[石油化学]]産業の中心地として成長を遂げた。[[20世紀]]中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地[[テキサス医療センター]]や[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)の[[ジョンソン宇宙センター]]が設置され、先端医療の研究や[[航空宇宙産業]]の発展が進んだ。古くからこうした様々な産業を持ち、[[フォーチュン500]]に入る企業の本社数が[[ニューヨーク]]に次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず成長著しい[[サンベルト]]の中心都市の1つであり、[[アメリカ合衆国南部]]のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港である[[ヒューストン港]]<ref name="port_ranking">[http://www.aapa-ports.org/files/Statistics/2004%5FUS%5FPORT%5FCARGO%5FTONNAGE%5FRANKINGS.xls U.S. Port Ranking by Cargo Volume 2004] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100107091819/http://www.aapa-ports.org/files/Statistics/2004_US_PORT_CARGO_TONNAGE_RANKINGS.xls |date=2010年1月7日 }}. Port Industry Information, American Association of Port Authorities. 2004年.</ref> を前面に抱え、[[ユナイテッド航空]](旧・[[コンチネンタル航空]])の[[ハブ空港]]である[[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]]を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が[[領事館]]を置く<ref name="Partner">[http://www.houston.org/blackfenders/18AW001.pdf International Representation in Houston]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/30.2KB)</ref><ref>[http://www.foreignpolicy.com/articles/2010/08/11/the_global_cities_index_2010 THE GLOBAL CITIES INDEX 2010]</ref>。
このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門[[私立大学]]、[[ライス大学]]のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、[[オペラ]]・[[オーケストラ]]・[[バレエ]]など多彩な演技芸術の公演が行われている<ref name="Museums_and_CulturalArts"/>。
ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには[[1967年]]にスペース・シティ(宇宙の街)という公式な別名が付けられた<ref>[http://www.nasa.gov/centers/johnson/about/history/jsc40/jsc40_pg4.html National Aeronautics and Space Administration]. ''JSC Celebrates 40 Years of Human Space Flight''.</ref>。地元住民はこの他にバイユー・シティ([[バイユー (地形)|バイユー]]の街)、マグノリア・シティ([[マグノリア]]{{要曖昧さ回避|date=2022年12月}}の街)、H・タウンなどと呼ぶこともある。
== 歴史 ==
[[File:samuel houston.jpg|left|thumb|150px|サミュエル・ヒューストン]]
[[1836年]]8月に[[ニューヨーク]]の不動産起業家のオーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642[[エーカー]](約27平方キロメートル)の土地を購入した<ref name="Coutinho">Coutinho, Juliana. [http://www.stp.uh.edu/vol66/13/news/news-index.html Brief history of Houston] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060918053418/http://www.stp.uh.edu/vol66/13/news/news-index.html |date=2006年9月18日 }}. The Daily Cougar. 2000年9月13日.</ref>。[[サンジャシントの戦い]]で名を馳せた将軍で、その年の9月に[[テキサス共和国]]の大統領に選出された[[サミュエル・ヒューストン]]の名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した<ref name="Coutinho" />。ヒューストンは翌[[1837年]]6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した<ref name="Handbook_of_TX-HOU">[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/hdh03 Houston, Texas]. Handbook of Texas Online.</ref>。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定[[首都]]及びハリスバーグ郡(現[[ハリス郡 (テキサス州)|ハリス郡]])の郡庁所在地となった<ref name="SHQa4">Looscan, Adele B. [http://texashistory.unt.edu/ark:/67531/metapth101064/m1/201/ Harris County, 1822–1845]. ''Southwestern Historical Quarterly''. Vol.19. pp.37–64. 1916年.</ref>。[[1840年]]、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された<ref>Perry, John. [http://www.houstontx.gov/hr/savvypages/sum06/sum06_heritage.htm Born on the Bayou: city's murky start] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070124195937/http://www.houstontx.gov/hr/savvypages/sum06/sum06_heritage.htm |date=2007年1月24日 }}. City Savvy Online Edition. 2006年.</ref>。
[[1860年]]頃にはヒューストンは[[綿花]]の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した<ref name="SHQa4" />。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、[[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン]]や[[ボーモント (テキサス州)|ボーモント]]の港へと通じていた。[[南北戦争]]中、[[ジョン・マグルーダー|ジョン・B・マグルダー]]将軍は[[第二次ガルベストンの戦い|ガルベストンの戦い]]においてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた<ref name="Sabine">Cotham, Edward T. ''Sabine Pass: The Confederacy's Thermopylae''. University of Texas Press. Austin, Texas, United States. 2004年. ISBN 0-292-70594-8.</ref>。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取って[[バイユー (地形)|バイユー]]網の拡張に努めた。
[[1900年]]に[[1900年のガルベストン・ハリケーン|ガルベストン・ハリケーン]]が上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった<ref>[http://www.tsl.state.tx.us/governors/rising/sayers-galv.html J.H.W. Stele to Sayers, September 11-12, 1900]. Texas State Library & Archives Commission.</ref>。翌[[1901年]]、ボーモントの近くの[[スピンドルトップ]][[油田]]で[[石油]]が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った<ref>Olien, Diana Davids and Olien, Roger M. ''Oil in Texas: The Gusher Age, 1895–1945''. University of Texas Press. Austin, Texas, United States. 2002年. ISBN 0-292-76056-6.</ref>。さらにその翌年、[[1902年]]には、当時の大統領[[セオドア・ルーズベルト]]が[[ヒューストン港]]の[[運河]]、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](当時)の計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、[[1914年]]、大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]はヒューストン港を開港した。[[1930年]]には人口292,352人を数え、[[サンアントニオ]]と[[ダラス]]を抜いてテキサス州最大の都市になった<ref>[https://www2.census.gov/library/working-papers/1998/demo/pop-twps0027/tab16.txt Table 16. Population of the 100 Largest Urban Places: 1930]. Population Division, U.S. Census Bureau. 1998年6月15日.</ref>。
{{Wide image|Houston Panorama c1910 LOC 6a14878u.jpg|1135px|ヒューストンのダウンタウン、[[1910年]]}}
[[第二次世界大戦]]が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成[[ゴム]]の需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された<ref>[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/rhh11 Houston Ship Channel]. TSHA Handbook of Texas.</ref>。地元の造船業も増産し、市の成長を促した<ref>[http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/ets03 Shipbuilding]. TSHA Handbook of Texas.</ref>。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは[[第一次世界大戦]]の最中に設置されたものであったが、航空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった<ref>Carlson, Erik. [http://www.jsc.nasa.gov/history/ellington/Ellington.pdf Ellington Field: A Short History, 1917–1963]. National Aeronautics and Space Administration. 1999年2月. (PDFファイル)</ref>。[[1945年]]、M.D.アンダーソン財団は[[テキサス医療センター]]を設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。[[1948年]]、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた<ref name="Handbook_of_TX-HOU" /><ref>Streetman, Ashley. [http://www.houstonculture.org/resources/houstontime.html Houston Timeline]. Houston Institute for Culture.</ref>。[[1950年代]]に入り、[[エア・コンディショナー|エアコン]]が普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった<ref>[http://www.oldhouseweb.com/stories/Detailed/725.shtml How Air Conditioning Changed America]. ''The Old House Web''.</ref><ref>[http://www.hgs.org/en/articles/printview.asp?26 A Short History] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070216122901/http://www.hgs.org/en/articles/printview.asp?26 |date=2007年2月16日 }}. ''Houston Geological Auxiliary''.</ref>。[[1961年]]には有人宇宙船センター([[1973年]]に[[ジョンソン宇宙センター]]に改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。
[[1970年代]]に入ると、北部の[[ラストベルト]]から南部の[[サンベルト]]への人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した<ref>[http://www.texasalmanac.com/culture/groups/polish.html Polish-Texans]. Texas Almanac 2004-2005.</ref>。[[1973年]]の[[オイルショック#第1次|第一次オイルショック]]で[[原油価格]]が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、[[1980年代]]中盤に入ると[[原油価格]]が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに[[1986年]]の[[チャレンジャー号爆発事故]]が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から[[1990年代]]以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。
[[2021年]]2月、テキサス州を大[[寒波]]が襲い停電を伴う電力危機([[テキサス州電力危機]])が発生。ヒューストンでは一般家庭の電気供給に支障を来したほか、[[浄水場]]からの水圧が低下や凍結がいたるところで発生して[[上水道]]の供給がままならなくなった。浄水場の機能に関連したトラブルは、翌年の[[2022年]][[11月27日]]にも発生、数日間にわたり水道水を沸騰させてから使用するよう利用者に通告がなされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gizmodo.jp/2022/12/houston-tells-citizen-to-boil-water-before-use.html |title=浄水場が止まっちゃったけど、まるで動じないヒューストン市民。その理由が闇だった |publisher=gizmodo |date=2022-12-07 |accessdate=2022-12-08}}</ref>。
== 地理 ==
=== 地形 ===
[[File:Buffalo Bayou.jpg|right|thumb|250px|バッファロー・バイユー]]
[[アメリカ合衆国統計局]]によると、ヒューストン市の総面積は1,558.4km<sup>2</sup>(601.7mi<sup>2</sup>)である。そのうち1,500.7km<sup>2</sup>(579.4mi<sup>2</sup>)が陸地で57.7km<sup>2</sup>(22.3mi<sup>2</sup>)が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの[[標高]]は約15mである<ref>[http://www.topozone.com/map.asp?lat=29.75737&lon=-95.36387&size=m&u=4&datum=nad27&layer=DRG Downtown Houston, Texas]. Topozone.com.</ref>。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる<ref>[http://www.topozone.com/map.asp?lat=29.96645&lon=-95.56326&size=l&datum=nad83&layer=DRG USGS Satsuma (TX) Topo Map]. Topozone.com. 2006年. '''注''': ヒューストン市境は点線で''HOUSTON CORP BDY''(Houston Corporation Boundaryの意)と記されている。</ref><ref>[http://www.houstontx.gov/planning/suprnbhds/landuse/sn1lu.html Super Neighborhood# 1-Willowbrook] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061215195825/http://www.houstontx.gov/planning/suprnbhds/landuse/sn1lu.html |date=2006年12月15日 }}. City of Houston.</ref>。
ヒューストン地域の大部分は[[メキシコ湾]]西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置する[[ニューオーリンズ]]ほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地の[[スプロール現象|スプロール化]]が進行しているヒューストンは、[[洪水]]の被害に見舞われやすい<ref>[http://www.crwr.utexas.edu/gis/gishyd98/class/trmproj/ahrens/prepro.htm Flood Forecasting for the Buffalo Bayou Using CRWR-PrePro and HEC-HMS] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070204065252/http://www.crwr.utexas.edu/gis/gishyd98/class/trmproj/ahrens/prepro.htm |date=2007年2月4日 }}. Center for Research in Water Resources. The University of Texas at Austin. Austin, Texas, United States.</ref>。かつては水道水源を[[地下水]]に頼っていたが、[[地盤沈下]]を引き起こしたため、[[ヒューストン湖]]やコンロー湖などの地表水を用いるようになった<ref name="Handbook_of_TX-HOU"/><ref name="USGS_Subsidence_Fault_Creep">[http://pubs.usgs.gov/circ/circ1182/pdf/07Houston.pdf HOUSTON-GALVESTON, TEXAS Managing Coastal Subsidence]. United States Geological Survey. (PDFファイル/5.89MB)</ref>。
バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内には[[バイユー (地形)|バイユー]]と呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大の[[バッファロー・バイユー]]は、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、[[ヒューストン港]]のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、[[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン]]でメキシコ湾に注ぐ。
=== 気候 ===
{{climate chart
| ヒューストン
| 6.2 | 17.2 | 86.4
| 8.1 | 19.1 | 81.3
| 11.3 | 22.8 | 86.4
| 15.2 | 26.4 | 83.8
| 19.8 | 30.2 | 129.5
| 22.9 | 33.0 | 149.9
| 23.9 | 34.3 | 96.5
| 23.8 | 34.7 | 96.5
| 21.0 | 32.1 | 104.1
| 16.1 | 27.8 | 144.8
| 11.2 | 22.5 | 109.2
| 7.0 | 17.9 | 94.0
| float = right
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| source = [http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=034227&refer= Weatherbase.com]
}}
[[File:HoustonTX TrinityChurchInSnow.jpg|left|thumb|250px|2004年のクリスマスイブ、雪中のトリニティ・チャーチ。この日にメキシコ湾岸を襲った雪嵐により、ヒューストンでは市史上初のホワイト・クリスマスとなった。]]
ヒューストンは[[ケッペンの気候区分]]では[[温暖湿潤気候]](Cfa)に属するが、実際には[[亜熱帯]]と呼ばれる、[[熱帯]]と[[温帯]]の中間にあたる気候である。春の雷雨は[[竜巻]]を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、[[メキシコ]]の砂漠地帯からの熱気と[[メキシコ湾]]からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。
ヒューストンの夏の日中の気温は[[セルシウス度|摂氏]]30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が[[華氏]]90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ<ref>[http://www.weather.com/activities/other/other/weather/climo-monthly-graph.html?locid=USTX0617 Monthly Averages for Houston, Texas]. The Weather Channel.</ref><ref>[http://lwf.ncdc.noaa.gov/oa/climate/online/ccd/max90temp.html National Climatic Data Center] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061210082240/http://lwf.ncdc.noaa.gov/oa/climate/online/ccd/max90temp.html |date=2006年12月10日 }}. National Oceanic and Atmospheric Administration, United States Department of Commerce.</ref>。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる<ref>[http://www.met.utah.edu/jhorel/html/wx/climate/rh.html Average Relative Humidity] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061209105754/http://www.met.utah.edu/jhorel/html/wx/climate/rh.html |date=2006年12月9日 }}. Department of Meteorology, University of Utah.</ref>。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない<ref>[http://www.met.utah.edu/jhorel/html/wx/climate/windavg.html WIND - AVERAGE SPEED (mph)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070209115107/http://www.met.utah.edu/jhorel/html/wx/climate/windavg.html |date=2007年2月9日 }}. Department of Meteorology, University of Utah. 1993年.</ref>。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てで[[エア・コンディショナー|エアコン]]を効かせている。[[1980年]]には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された<ref>[http://www.nbm.org/blueprints/90s/summer92/contents/contents.htm A MOMENT IN BUILDING] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070206075059/http://www.nbm.org/blueprints/90s/summer92/contents/contents.htm |date=2007年2月6日 }}. ''BLUEPRINTS''. Volume X. Number 3. 1992年夏. National Building Museum.</ref>。ヒューストンにおける観測史上最高気温は[[2000年]]9月4日に記録した摂氏42.7度である<ref>[http://www.wunderground.com/history/airport/KIAH/2000/9/4/DailyHistory.html?req_city=NA&req_state=NA&req_statename=NA History for Houston Intercontinental, Texas on Monday, September 4, 2000]. Weather Underground. 2000年9月4日.</ref>
[[File:Allison Flood Houston.jpg|left|thumb|250px|トロピカル・ストーム・アリソンによる豪雨でバッファロー・バイユーが氾濫し、大洪水に見舞われたヒューストンのダウンタウン]]
一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏11度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏6度ほどである。降雪はめったに見られない。[[2004年]]のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、[[1940年]]1月23日に記録された氷点下15度である<ref>[http://www.srh.noaa.gov/hgx/climate/iah/normals/iah_summary.htm Houston Extremes Data and Annual Summaries]. National Weather Service, National Oceanic and Atmospheric Administration. 2007年1月5日.</ref>。
ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な[[雷雨]]が起こりやすく、[[ハリケーン]]や熱帯低気圧の通り道になることもよくある。[[2001年]]6月には、[[トロピカル・ストーム・アリソン]]がテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え<ref>[http://www.rms.com/Publications/TS_Allison.pdf Tropical Storm Allison Event Report]. pp.6. Risk Management Solutions. 2001年. (PDFファイル/488KB)</ref>、死者はテキサス州だけで20名を数えた<ref>Ward, Christina. [http://www.redcross.org/news/ds/floods/010618houston.html Allison's Death Toll Hits 43]. RedCross.org. 2001年6月18日.</ref>。[[2005年]]9月、[[ハリケーン・リタ]]が接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した<ref>Flakus, Greg. [http://www.voanews.com/english/archive/2005-09/2005-09-25-voa33.cfm Recovery Beginning in Areas Affected by Hurricane Rita] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070110220637/http://voanews.com/english/archive/2005-09/2005-09-25-voa33.cfm |date=2007年1月10日 }}. Voice of America News. 2005年9月25日.</ref><ref>Brady, Kevin. [http://www.house.gov/brady/2007_appropriations.shtml 8th Congessional District of Texas 2007 Appropriations Project Requests] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070107112644/http://www.house.gov/brady/2007_appropriations.shtml |date=2007年1月7日 }}.</ref>。リタ襲来の1ヶ月前に[[ニューオーリンズ]]に甚大な被害をもたらした[[ハリケーン・カトリーナ]]の教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分(可航半円)に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後の[[ハリケーン・アイク]]の際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。2008年9月13日に南東郊の[[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン]]に上陸したハリケーン・アイクは[[高潮]]によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し<ref>[http://www.chron.com/disp/story.mpl/hurricane/ike/6045309.html Goat Island victim raises Ike Texas death toll to 37]. ''Houston Chronicle''. 2008年10月7日.</ref>、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした<ref>[http://www.centerpointenergy.com/staticfiles/ike/ike.html Performance of infrastructure during Ike demonstrates reliability]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}. CenterPoint Energy. 2008年.</ref>。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したため[[ハリケーン・リタ]]の際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。
{| class="wikitable" style="width: 80%; text-align:center; margin: 0 auto 0 auto;"
|+ '''ヒューストンの気候'''<ref>[http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=034227&refer= Historical Weather for Houston, Texas, United States of America]. Weatherbase.com.</ref>
|-
!
! [[1月]] !! [[2月]] !! [[3月]] !! [[4月]] !! [[5月]] !! [[6月]] !! [[7月]] !! [[8月]] !! [[9月]] !! [[10月]] !! [[11月]] !! [[12月]] !! 年
|-
! 平均気温([[セルシウス度|℃]])
| 11.7 || 13.6 || 17.1 || 20.8 || 24.9 || 28.0 || 29.1 || 29.2 || 26.6 || 21.9 || 16.8 || 12.4 || 21.1
|-
! 降水量([[ミリメートル|mm]])
| 86.4 || 81.3 || 86.4 || 83.8 || 129.5 || 149.9 || 96.5 || 96.5 || 104.1 || 144.8 || 109.2 || 94.0 || 1,262.4
|}
=== 都市概観 ===
[[File:Interstate 610 map (Texas).svg|left|thumb|250px|ヒューストンの二重環状線。内側の赤い線がI-610で、この内側に中心市街地が形成されている。]]
ヒューストン市内での位置は概ね、[[放射線・環状線|環状線]]I-610の内側か外側かで分類される。I-610の内側には業務・商業集積地が形成され、第二次世界大戦前に建てられた古い住宅が主に建っている。近年では、人口密度の高い、職住近接型の住宅地の再開発が進められている。I-610の外側は郊外型の住宅地が広がっている。第2環状線となる州道環状8号線は、I-610よりもおよそ8-12km外側を走っている。この州道環状8号線のさらに外側に、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線の建設が進められており、[[1994年]]に一部が開通している。
[[File:Houston from Freeway.jpg|thumb|right|250px|I-45から眺めたダウンタウンの高層ビル。]]
アメリカ合衆国内で[[ゾーニング]]規定のない都市の中では、ヒューストンは最大の人口規模を抱える都市である。しかし、ヒューストンは他の[[サンベルト]]諸都市と同じようなしかたで発展してきている<ref>Lewyn, Michael. [http://www.planetizen.com/node/109 Zoning Without Zoning]. ''Planetizen''. 2003年11月24日.</ref>。ヒューストンにおいては、法的契約の付帯事項が都市計画において、民主度はやや低くなるものの、ゾーニングとほぼ同じような役割を果たしている<ref>Coy, Peter. [http://www.businessweek.com/the_thread/hotproperty/archives/2007/10/how_houston_get.html How Houston gets along without zoning]. ''BusinessWeek''. 2007年10月1日.</ref>。[[1948年]]、[[1962年]]、[[1993年]]と3度にわたって住宅地と商業地をわける試みがなされたものの、3度とも否決されている。そのため、市中心部に一極集中型のビジネス街が形成され、郊外に住宅地が広がるという形ではなく、市内の複数の地区が発展している。[[ダウンタウン・ヒューストン|ダウンタウン]]には市最大のビジネス街が形成されているが、ダウンタウンの10km西、ヒューストンきっての高級住宅街である[[アップタウン・ヒューストン|アップタウン]]にも大規模なビジネス街が形成されている。このほか、ミッドタウン、エナジー・コリダー、グリーンウェイ・プラザ、ウェストチェースなど、住宅地と商業地、ないし工業地が混在する職住近接型の地区がいくつも形成されている。
ヒューストンのダウンタウンには、総延長約11kmにわたる地下トンネル通路が整備されている。この通路はダウンタウンのビルを結ぶもので、コーヒーショップやレストラン、[[コンビニエンスストア]]もある。この地下通路システムによって、通行者は夏の暑さや降雨を気にすることなく、ビル間を移動することができる。
=== 建築物 ===
{{Double image aside|right|Chase Tower, a block away.jpg|108|WiliamsTowerFromStreet.jpg|125|JPモルガン・チェース・タワー(左)はテキサス州で最も高い超高層ビルである。アップタウンに建つウィリアムズ・タワー(右)は独立峰のような趣を呈している。}}
[[1960年代]]、[[ダウンタウン・ヒューストン]]の建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。[[1970年代]]に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。[[1982年]]には、高さ305.4m、75階建ての[[JPモルガン・チェース・タワー]]が完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌[[1983年]]には高さ302.4m、71階建ての[[ウェルズ・ファーゴ・プラザ|ウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザ]]が完成した。[[2006年]]現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000m<sup>2</sup>に及ぶ<ref>[http://www.houstondowntown.com/Home/GeneralInfo/About/FastFacts1/ Fast Facts, Downtown Houston] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20091205170813/http://www.houstondowntown.com/Home/GeneralInfo/About/FastFacts1/ |date=2009年12月5日 }}. Houstondowntown.com. 2006年.</ref>。
ポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心とした[[アップタウン・ヒューストン|アップタウン]]は、[[1970年代]]から[[1980年代]]初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功した[[エッジ・シティ]]の一例となった。[[フィリップ・ジョンソン]]とジョン・バーギーの設計による[[ウィリアムズ・タワー]]は高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。[[1983年]]に完成した当時は、ウィリアムズ・タワー(当時の名称はトランスコ・タワー)は都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンには[[イオ・ミン・ペイ]]や[[シーザー・ペリ]]など、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。[[1990年代]]から[[2000年代]]初頭にかけては、アップタウンには[[超高層マンション|高層マンション]]がいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある<ref>[http://www.uptown-houston.com/economic/market/residential.html Residential Real Estate]. Uptown-houston.com.</ref><ref>Sarnoff, Nancy. [http://www.bizjournals.com/houston/stories/2001/12/17/newscolumn3.html Genesis Laying Down Plans for Newest Uptown Condo Highrise]. ''Houston Business Journal''. 2001年12月14日.</ref><ref>Apte, Angela. [http://www.bizjournals.com/houston/stories/2001/10/29/focus1.html Rising Land Costs Boost Houston's Mid-Rise Market]. ''Houston Business Journal''. 2001年10月26日.</ref>。[[2002年]]現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000m<sup>2</sup>を超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000m<sup>2</sup>はクラスAのオフィススペースである<ref>[http://www.uptown-houston.com/economic/market/office.html Commercial Real Estate]. Uptown-houston.com.</ref>。
{{wide image|Panoramic Houston skyline.jpg|800px|<center>ダウンタウン}}
== 政治 ==
[[File:HoustonCityHall DANIEL2986.jpg|left|thumb|250px|ヒューストン市庁舎]]
ヒューストンは[[市長制]]を採っている<ref name="home_rule">[http://www.houstontx.gov/controller/cafr/cafr2.html Summary of Significant Accounting Policies]. Office of the Controller, City of Houston.</ref>。ヒューストンは特定の権限を委譲されている<ref name="home_rule" />。ヒューストンを含め、テキサス州内においては、すべての市政選挙は党派を特定せずに行われる<ref>[http://texaspolitics.laits.utexas.edu/html/part/0602.html 6.2 Run for Party Nomination to Public Office]. Texas Politics, Liberal Arts Technology Instruction Services, University of Texas. 2005年.</ref>。ヒューストンの市政選挙で選ばれるのは市長、会計監査官、および14名からなる市議会の議員である<ref name="Houston_City_Council">[http://www.houstontx.gov/council/index.html City Council]. City of Houston. 2007年.</ref>。
[[2016年]]現在の市長はシルベスター・ターナーである<ref name="Houston_Mayors_Office">[http://www.houstontx.gov/mayor/index.html Mayor's Office]. 2007年.</ref>。ヒューストン市長は市の管理者の長であり、最高責任者であり、公式な代表である。市長は市の全般的な管理業務、および法律・条令の施行に責任を負う<ref name="Houston_Mayors_Office" />。[[1991年]]の[[住民投票]]の結果により、ヒューストン市長の任期は2年と定められ、連続多選が認められるのは3選までとなった。[[1997年]]、リー・P・ブラウンが市長に就任し、ヒューストン市史上初の黒人市長が誕生した<ref>[http://www.thehistorymakers.com/biography/biography.asp?bioindex=937&category=politicalMakers Lee P. Brown - Biography]. TheHistoryMakers.com.</ref>。
ヒューストン市議会議員選挙においては、市は9つの選挙区に分けられている。この9つの選挙区は、もともとは[[1837年]]にヒューストンが市制を施行した際の区が基になっている。各選挙区から1名ずつがまず当選となり、残る5議席はワイルドカードとして市全体から選出される<ref name="Houston_City_Council" />。このシステムは、[[1979年]]に[[アメリカ合衆国司法省]]が義務付けたものが基になっている<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,948775,00.html Strong Currents of Change]. ''Time Magazine.'' 1979年11月19日.</ref>。現行の市の認可条件では、市域人口が210万人を超えたときには、市議会議員選挙の選挙区は2区増やされ、11区に改組されることになっている。
2020年7月21日 連邦政府は知的財産と個人情報の保護を理由にヒューストン市内にある中国総領事館の閉鎖命令を出した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-23 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3295215?cx_part=top_category&cx_position=2 |title=米、中国総領事館に閉鎖命令 「知的財産保護のため」と説明 |publisher=AFP |accessdate=2020-07-22}}</ref>。
== 治安 ==
[[File:Houston Police Department cruiser in 2006.jpg|right|thumb|250px|ヒューストン市警のパトロールカー]]
ヒューストンの治安はヒューストン市警等いくつかの法執行機関によって守られている。ヒューストンは「犯罪都市」と呼ばれることこそないものの、その犯罪率は決して低くはない。[[殺人]]の発生率が高く、全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位である<ref>[http://www.morganquitno.com/cit05r.pdf Murder Rate in 2005] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061128173304/http://www.morganquitno.com/cit05r.pdf |date=2006年11月28日 }}. Morgan Quitno Press. 2005年. (PDFファイル/30.4KB)</ref>。ヒューストンにおける[[2005年]]の犯罪発生件数を[[2004年]]と比較すると、非暴力的犯罪こそ2%減少しているものの、殺人発生件数は23.5%増加し、336件を数えた<ref name="Houston_to_be_studied">Villafranca, Armando. [http://www.chron.com/CDA/archives/archive.mpl?id=2006_4235150 Houston violent crime to be studied]. ''Houston Chronicle''. pp.3. 2006年11月23日.</ref>。その原因の1つとしては、[[ハリケーン・カトリーナ]]で大被害を受けた[[ニューオーリンズ]]からの避難民がヒューストンに大量に流入したことが挙げられる<ref name="JLeahy">Leahy, Jennifer. [http://www.chron.com/disp/story.mpl/hurricane/4277375.html Homicide rate on track to be worst in a decade - Evacuees play large role in the rise, police say]. ''Houston Chronicle''. 2006年10月21日.</ref>。カトリーナの襲来後、2005年の11月・12月においては、前年度の同時期に比べて殺人発生率が70%増加している。
ヒューストンにおける[[2006年]]の殺人発生件数は379件<ref name="Houston_to_be_studied" />、発生率は人口100,000人あたり17.24件で、2005年の16.33件より増加している<ref>O'Hare, Peggy. [http://www.chron.com/disp/story.mpl/headline/metro/4437025.html City sees 13.5% rise in slayings for 2006]. ''Houston Chronicle''. 2007年1月1日.</ref>。この人口100,000人あたり17.24件という数値は全米平均の約2.5倍にあたる。アメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストンは[[ギャング]]がらみの犯罪にも直面している。[[1996年]]現在、ヒューストンには380のギャングが存在し、少年2,500人を含む8,000人が加わっている。
== 経済 ==
[[File:OneShellPlaza.jpg|left|thumb|150px|シェルの米国法人、シェル石油会社の本社ビル、ワン・シェル・プラザ]]
ヒューストンは[[エネルギー産業]]、こと[[石油]]・[[天然ガス]]産業では世界的にその名を轟かせている。また生命医学分野や、航空・宇宙開発分野でもよく知られている。全米最大級の貿易港である[[ヒューストン港]]の[[運河]]、ヒューストン・シップ・チャネルの存在もヒューストンの経済に大きく寄与している。世界中の多くの場所とは違い、エネルギー産業に従事する住民の多いヒューストンでは、[[原油]]や[[ガソリン]]の価格の高騰は経済に好ましい影響を与えるものであると見られている<ref>Bustillo, Miguel. [http://www.latimes.com/news/nationworld/columnone/la-na-houston28dec28,1,6780480.story?page=1&coll=la-headlines-columnone Houston is Feeling Energized]. ''Los Angeles Times''. 2006年12月28日.</ref>。
[[スーパーメジャー]]と呼ばれる6大石油会社のうち、4社がヒューストンに主要な業務拠点を置いている。[[イギリス]]に本社を置く[[シェル (企業)|シェル]]の米国法人、シェル石油会社はダウンタウンのワン・シェル・プラザに本社を置いている。[[エクソンモービル]]は本社こそ[[ダラス・フォートワース複合都市圏]]の[[アービング (テキサス州)|アービング]]に置いているものの、同社の上流部門と化学部門はヒューストンに置かれている。[[サンフランシスコ・ベイエリア]]に本社を置く[[シェブロン]]は、[[エンロン]]の本社ビルになる予定だった40階建てのビルを[[2003年]]に買収し、同社のヒューストンオフィスをそこに置いている<ref>Duell, Jennifer D. [http://www.allbusiness.com/operations/facilities-commercial-real-estate/4408803-1.html Chevron Picks Former Enron Building for Consolidation Site]. AllBusiness.com. 2004年2月26日.</ref>。また、シェブロンの子会社であるシェブロンパイプラインの本社はヒューストンに置かれている<ref>[http://www.chevron-pipeline.com Chevron Pipe Line Company]. Chevron Corporation. 2005年.</ref>。[[コノコフィリップス]]は本社をヒューストンに置いている。また、これら石油メジャーの存在だけでなく、ヒューストン都市圏には[[油田]]設備の設置やサービスを主事業とする企業も集中している。中には数千人から10,000人以上の従業員を抱える大企業もある<ref>[http://www.houston.org/blackfenders/16BW015.pdf Energy: Largest Houston Area Oilfield Equipment and Service Companies]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/24.8KB)</ref>。
{{Double image aside|right|Houston Ship Channel Barbours Cut.jpg|200|Houston Ship Channel Galena.jpg|200|'''[[ヒューストン港]]'''<br />左: 大規模なコンテナターミナル<br />右: 石油産業の街の港らしく、運河沿いには貯油タンクが並ぶ}}
こうしたヒューストンの[[石油産業]]・石油化学産業の中心地としての成功はヒューストン港の存在によるものが大きい<ref>[http://www.portofhouston.com/pdf/pubaffairs/POHA-firsts.pdf Port of Houston Firsts] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070614043355/http://www.portofhouston.com/pdf/pubaffairs/POHA-firsts.pdf |date=2007年6月14日 }}. The Port of Houston Authority. 2007年5月15日. (PDFファイル/|10.6KB)</ref>。ヒューストン港は外国貨物取扱量全米一で、総貨物取扱量では[[南ルイジアナ港]]に次いで全米2位、全世界でも10位にランクされる大規模な貿易港である<ref name="port_ranking" /><ref>[http://www.portofhouston.com/geninfo/overview1.html General Information] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080509141210/http://www.portofhouston.com/geninfo/overview1.html |date=2008年5月9日 }}. The Port of Houston Authority. 2007年5月15日.</ref>。
ヒューストン都市圏における[[2006年]]の地域総生産(Gross Area Product、GAP)は3255億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]<ref name="Houston_Area_Profile">[http://www.houston.org/blackfenders/02CW001.pdf Houston Area Profile]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/63.1KB)</ref> で、[[オーストリア]]、[[ポーランド]]、[[サウジアラビア]]などの[[国内総生産]](GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない<ref name="Houston_Area_Profile" />。主に石油や天然ガスの生産による[[鉱業]]は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、[[1985年]]の21%からは大幅に減っている。[[オイルショック]]後の[[原油価格]]暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える<ref>[http://www.houston.org/blackfenders/15AW001.pdf Gross Area Product by Industry]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/29.6KB)</ref>。
ヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である<ref>[http://www.houston.org/blackfenders/10AW001.pdf Employment by Industry]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/30.2KB)</ref>。[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている<ref>Badenhausen, Kurt. [https://archive.is/20120529123645/http://www.forbes.com/2006/05/03/06bestplaces_best-places-for-business_land.html 2006 Best Places for Business and Careers], ''Forbes''. 2006年5月4日.</ref>。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している<ref name="Partner" />。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。
== 医療 ==
[[File:FlightHoustontoDallas086.jpg|left|thumb|250px|テキサス医療センター。あまりにも規模が大きいため、医療センターというよりひとつの研究都市の様相を呈している。]]
国際的にその名を知られている[[テキサス医療センター]]はヒューストンにある。テキサス医療センターは世界最大級の医療研究機関の集積地である<ref>[http://www.tmc.edu/tmc-introduction.html Introduction to the Texas Medical Center]. Texas Medical Center.</ref>。テキサス医療センター内の45機関すべてが[[非営利団体]]である。これらの機関は治療、予防医学、研究、教育、地域・国家・国際コミュニティの福祉と、医療とその研究に関わるあらゆる側面をカバーしている。センターには著名な[[病院]]13院をはじめ、特別機関2機関、医学校2校、看護学校4校、歯学校、公共保健学校、薬学校があり、医療・保健関連のあらゆるキャリア・パスが用意されている。テキサス医療センターはまた、ライフ・フライトと呼ばれる、救急[[ヘリコプター]]派遣のシステムが創設された地でもある。複数の機関が連携しての[[移植 (医療)|移植]]手術プログラムも開発されてきた。心臓外科の手術においては、テキサス医療センターは世界で最も術例が多い<ref>[http://www.visithoustontexas.com/media/statistics/Houston_Stats_Texas_Medical_Center Texas Medical Center] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070208100707/http://www.visithoustontexas.com/media/statistics/Houston_Stats_Texas_Medical_Center |date=2007年2月8日 }}. Greater Houston Convention and Visitors Bureau. 2008年.</ref>。
テキサス医療センター内にある医療・保健関連の学術・研究機関の中で著名なものには、[[ベイラー医科大学]]、テキサス大学ヒューストン保健科学センター、メソジスト病院、テキサス子供病院、[[テキサス大学MDアンダーソンがんセンター]]などがある。[[ベイラー医科大学]]は、[[1900年]]に「ダラス大学医学部」として[[ダラス]]に設立され{{efn|ただしその当時には「ダラス大学」という名の大学は存在していなかった。現存する[[ダラス大学]]は1956年創立の[[カトリック教会|カトリック]]系[[私立大学]]で、しかもキャンパスはダラス市内ではなく[[アービング (テキサス州)|アービング]]にある。}}、[[1903年]]に[[ベイラー大学]]と合併した後、[[1943年]]にテキサス医療センターに移転してきた。その後、[[1969年]]に[[ベイラー大学]]との提携を解消し、以降現在に至るまで独立した[[医科大学]]として運営されている<ref>[http://www.bcm.edu/about/history.cfm]</ref>。同校は[[USニューズ&ワールド・レポート]]誌による[[医学部]]・[[医科大学]]のランキングでも上位10位以内に入る高評価を得ている。[[テキサス大学ヒューストン保健科学センター]]は保健教育の博士課程では全米1位である。[[テキサス大学システム]]に属するもうひとつの機関、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターは[[1990年代]]以降、[[悪性腫瘍|がん]]治療に特化した病院としては全米で一二を争う存在である<ref>[http://www.mdanderson.org/About_MDA/Who_We_Are/display.cfm?id=29E3FCE1-2828-11D5-811100508B603A14&method=displayFull Institutional Profile]. The University of Texas M. D. Anderson Cancer Center. 2007年11月.</ref>。メソジスト病院は全米の優れた病院の1つに数えられ<ref>[http://health.usnews.com/usnews/health/best-hospitals/directory/glance_6741960.htm Methodist Hospital, Houston]. ''U.S. News & World Report''. 2007年.</ref>、心臓外科手術、がん治療、てんかん治療、臓器移植など幅広い分野で世界的にその名を知られている<ref>[http://www.tmhs.org/tmhs/newsItem.do?channelId=-1073829253&contentId=186981&contentType=NEWS_CONTENT_TYPE The Methodist Hospital ranked in 14 specialties]. The Methodist Hospital System. 2007年7月14日</ref>。
== 交通 ==
=== 航空 ===
[[File:TerminaLink.jpg|right|thumb|250px|ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]]
ヒューストンの空の玄関となる空港は[[ダウンタウン・ヒューストン|ダウンタウン]]の37km北に位置する[[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]]([[IATA空港コード|IATA]]: '''IAH''')である<ref name="IAHabout">[http://www.fly2houston.com/iahAbout About the Airport] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070109150642/http://www.fly2houston.com/iahAbout |date=2007年1月9日 }}. Houston Airport System.</ref>。単に「インターコンチネンタル空港」とも呼ばれる。旅客数はテキサス州の空港としては[[ダラス・フォートワース国際空港]]に次ぐ規模である。かつて、ヒューストンに本社を置いていた[[コンチネンタル航空]]最大の[[ハブ空港]]であった。現在はコンチネンタル航空と合併した[[ユナイテッド航空]]がヒューストンからアメリカ合衆国内外182都市へ1日700便以上を飛ばしている<ref name="IAHabout"/>。同空港と[[日本]]の[[成田国際空港]]間は直行便が、ユナイテッド航空により毎日1便就航している。日本の航空会社は[[全日本空輸]](ANA)が2015年6月12日から毎日1便の直行便を運航開始した。歴史上日本の航空会社によるヒューストンへの直行便開設は初めての事である。機材は[[B777]]-300ER型機を使用しての路線開設となった。この路線開設により、ANAのコードシェア便も含め、[[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]]からスターアライアンス加盟会社を初めとした豊富な国際路線網を利用できるようになり、日本から[[南米大陸]]各地や[[カリブ海]]諸国への乗り換え利便性が大きく向上した。[[2006年]]、アメリカ合衆国運輸省は、インターコンチネンタル空港はアメリカ合衆国内10大空港の中で最も高い成長を遂げている空港であると発表した<ref>[http://www.bts.gov/press_releases/2006/bts020_06/html/bts020_06.html 2005 Total Airline System Passenger Traffic Up 4.6% From 2004] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060922202239/http://www.bts.gov/press_releases/2006/bts020_06/html/bts020_06.html |date=2006年9月22日 }}. Bureau of Transportation Statistics. 2006年4月27日.</ref>。[[2007年]]初め、[[アメリカ合衆国税関・国境警備局]]はインターコンチネンタル空港をアメリカ合衆国外からの旅行者に対する入国港湾のモデルと位置づけた。テキサス・[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]・[[ミシシッピ州|ミシシッピ]]・[[アラバマ州|アラバマ]]4州の南部をカバーするヒューストン航空管制センターは、インターコンチネンタル空港の敷地内に置かれている。
インターコンチネンタル空港は[[1969年]]に開港したが、それ以前はダウンタウンの南西約13kmに位置する[[ウィリアム・P・ホビー空港]](IATA: '''HOU''')がヒューストンの空の玄関口としての役割を果たしていた。[[1967年]]まではヒューストン国際空港と呼ばれていたこの空港は、現在では近距離・中距離の国内線や、企業・個人のチャーター便などを主とし、インターコンチネンタル空港を補完する役割を果たしている。同空港に発着する旅客機の8割は[[サウスウエスト航空]]の便で占められている。サウスウエスト航空はインターコンチネンタル空港を利用せず、ホビー空港のみに航空機の便を発着させている。同社はヒューストンを拠点都市の1つとして位置づけており、今後もホビー空港発着の新路線を開拓していく計画を立てている<ref>[http://www.fly2houston.com/0/7893/0/1904D2102D2107/ Program Overview William P. Hobby Airport] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070309235841/http://www.fly2houston.com/0/7893/0/1904D2102D2107/ |date=2007年3月9日 }}. Houston Airport System.</ref> 。ホビー空港の敷地内にはヒューストンにおける航空史の史料を展示する1940エアターミナル博物館が立地している。この[[アール・デコ]]調建築の博物館は、もともとはホビー空港がヒューストン市立空港と呼ばれていた頃、[[1940年]]に建てられた空港ターミナルビルであった<ref>[http://www.1940airterminal.org/ The 1940 Air Terminal Museum at William P. Hobby Airport]. The Houston Aeronautical Heritage Society.</ref>。
ダウンタウンの南東約25kmに位置する[[:en:Ellington Airport (Texas)|エリントン空港]]は、もとは[[アメリカ空軍|アメリカ合衆国空軍]]の基地『エリントン・フィールド』であったものを民間に転用した空港であるため、[[IATAコード]]はエリントン・フィールド時代の'''EFD'''のままである。同空港は[[第一次世界大戦]]中の[[1917年]]、航空機の黎明期に空軍の前身である[[アメリカ合衆国陸軍航空隊]]の訓練施設としてつくられた。現在でも軍用や[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の航空機の発着・航空祭に使われているが、それらに加え、商用や[[ゼネラル・アビエーション]]にも用いられている。
ヒューストンはインターコンチネンタル、ホビーの両空港を改善するプログラムを数年間にわたって、31億ドルの費用を投じて進めてきた。それが実り、ヒューストンの空港システムは[[2005年]]、[[連邦航空局]]とテキサス州政府によってエアポート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた<ref>[http://www.fly2houston.com/0/8343/0/1906D1940/ FAA selects the HAS as 2005 Airport of the Year] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070928091537/http://www.fly2houston.com/0/8343/0/1906D1940/ |date=2007年9月28日 }}. Houston Airport System. 2006年3月24日.</ref>。
=== 高速道路 ===
[[File:45intoI-10 2.jpg|left|thumb|250px|ダウンタウン付近で合流するI-10とI-45]]
ヒューストンのダウンタウン付近では2本の[[州間高速道路]]、[[州間高速道路10号線|I-10]]と[[州間高速道路45号線|I-45]]が交わる。I-10は[[サンベルト]]地帯を東西に貫いて走る幹線である。一方、I-45は[[ダラス]]とヒューストンを結ぶ、テキサス州で最も重要な道路のひとつである。これらの高速道路上には[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]をはじめとする都市間の中・長距離バスが走っており、[[ダラス]]、[[サンアントニオ]]、[[バトンルージュ]]などへの便がある。
これらの州間高速道路のほか、10郡にわたる[[ヒューストン都市圏]]には、総延長926kmにおよぶ[[高速道路]]網が張り巡らされている<ref>[http://www.houston.org/blackfenders/11BW001.pdf Highway System] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070614043358/http://www.houston.org/blackfenders/11BW001.pdf |date=2007年6月14日 }}. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/154KB)</ref>。ヒューストンの高速道路システムはダウンタウンを中心とした放射線と、複数の環状線の組み合わせで構成されている。最も内側の環状線は、形式上はI-10の支線となっているI-610である。I-610はダウンタウンを中心に、[[テキサス医療センター]]など半径8km程度の範囲内にある地域を取り囲んでいる。その外側を走る州道環状8号線はヒューストン都市圏の第2環状線という位置づけになっており、南東に隣接する[[パサデナ (テキサス州)|パサディナ]]市などダウンタウンから半径20km程度のところを走っている。環状8号線の約3/4はサム・ヒューストン有料道路になっている。インターコンチネンタル空港はこの環状8号線のすぐ外側に位置している。
環状8号線のさらに外側には、ヒューストン都市圏第3の環状線となる州道99号線(グランド・パークウェイ)の計画・建設が進められている。ヒューストンの南西に隣接する[[シュガーランド (テキサス州)|シュガーランド]]市とI-10とを結ぶ区間は[[1994年]]に完成し、既に供用されている。また、現在[[ミシガン州]]の[[カナダ]]国境から[[インディアナポリス]]へと通じている[[州間高速道路69号線|I-69]]は、将来的には南へ延伸し、現在のUS-59のルートを通ってヒューストンを通って[[ブラウンズビル (テキサス州)|ブラウンズビル]]の[[メキシコ]]国境に通ずる予定になっている。そのほかにも、ダウンタウンから延びる放射線が数本建設される予定がある。
ヒューストンの高速道路システムはテキサス州交通局、ハリス郡政府、ハリス郡都市圏交通局、ヒューストン市の4機関のパートナーシップによる交通センター、ヒューストン・トランスターが監視している。ヒューストン・トランスターはヒューストン都市圏における交通サービスと緊急事態への対処に責任を負っている。ヒューストン・トランスターは、全米で初めて交通サービスと緊急事態への対処のサービスを一体化したセンターであり、また全米で初めて4機関でリソースを共有するセンターでもある<ref>[http://www.houstontranstar.org/about_transtar/ About Houston TranStar]. Houston TranStar. 2008年.</ref>。
[[File:METRORail 7.jpg|right|thumb|250px|ヒューストンのライトレール]]
=== その他の公共交通機関 ===
ヒューストンの[[路線バス]]や[[ライトレール]]などの公共交通機関はハリス郡都市圏交通局([[:en:Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas|Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas]]、METRO)によって運営されている。しかし、ヒューストンは市域も都市圏も広いため、公共交通機関によってカバーされていない地域も多い。そのためアメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストン都市圏における主な交通手段は個人所有の[[自動車]]である。
METROの主力となっている路線バスは100系統以上あり、普通路線、急行路線、パークアンドライド路線に大別される。パークアンドライド路線はその名の通り[[パークアンドライド]]を促進するための路線で、高速道路上を走り、郊外の高速道路沿いにつくられた25ヶ所の大規模な[[駐車場]]とダウンタウンとを結んでいる<ref>[http://www.ridemetro.org/TransportationServices/Metro_Bus/index.asp Metro Bus]. Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas.</ref><ref>[http://www.ridemetro.org/Schedules_and_Maps/system_maps/METRO%20System%20Map.pdf System Map]. Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas. (PDFファイル/6.37MB/[http://www.ridemetro.org/Schedules_and_Maps/system_maps/METRO%20System%20Map_sm.pdf 縮小版]: 360KB)</ref>。この路線バス網に加え、METROは[[2004年]]1月1日に[[ライトレール]]の営業運転を開始した。第1弾として開通したレッドラインは[[ヒューストン大学]]ダウンタウン校とNRGパークを結ぶ13kmの路線で、途中[[ライス大学]]やミュージアム・ディストリクト、[[テキサス医療センター]]を通る。METROはライトレール網を整備する10ヶ年計画を進めており、将来的にはこのレッドラインに加え、5路線が開通する予定になっている<ref>[http://www.metrosolutions.org/go/site/1068/ METRO Solutions] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070416220804/http://www.metrosolutions.org/go/site/1068/ |date=2007年4月16日 }}. Metropolitan Transit Authority of Harris County, Texas. 2006年.</ref>。
[[アムトラック]]の長距離列車、[[サンセット・リミテッド]]号はダウンタウンの北側にある[[ヒューストン駅]]に停車する。サンセット・リミテッド号はアムトラックで唯一、[[シカゴ]]を経由せずに大陸を横断する列車で、[[ロサンゼルス]]と[[オーランド]]を結び、西行、東行とも週3便運行している<ref>[http://www.amtrak.com/servlet/ContentServer?pagename=Amtrak/am2Copy/News_Release_Page&c=am2Copy&cid=1093554023199&ssid=181 Amtrak Service To Resume November 4 Between New Orleans And San Antonio]. Amtrak. 2005年10月21日.<br/>[[2005年]]の[[ハリケーン・カトリーナ]]および[[ハリケーン・リタ]]の影響により、サンセット・リミテッド号は無期限で[[ニューオーリンズ]]以西のみの区間運行となっている。</ref>。2006年度のヒューストン駅の年間利用客数は10,855人であった<ref>[http://www.amtrak.com/pdf/factsheets/TEXAS06.pdf Amtrak Fact Sheet, Fiscal Year 2006]. Amtrak. 2006年. (PDFファイル/39.6KB)</ref>。
== 教育 ==
[[File:Lovett Hall.jpg|left|thumb|250px|ライス大学]]
ヒューストンには55校の高等教育機関がある。その中でもとりわけ知名度が高いのはダウンタウンの南にキャンパスを構える[[ライス大学]]である。ライス大学は[[1912年]]開校で、アメリカ合衆国の大学の歴史の中では比較的新しい部類に入る大学でありながら、[[USニューズ&ワールド・レポート]]誌の[[総合大学]]のランキングでは常にトップ25位以内に入る高評価を受けている。同校の学生数は学部生・大学院生合わせて4,500人ほどで、教授1人あたりの学生数が少なく、少数精鋭制で密度の高い教育を行っている。
一方、{{仮リンク|ヒューストン大学|en|University of Houston}}は本校だけで約36,000人の学生を抱える大規模な州立総合大学で、世界130ヶ国から留学生を受け入れている<ref>[http://www.uh.edu/ir/fileadmin/reports/factsataglance/Fall_2005_Facts.pdf Fall 2005 Facts] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070614043355/http://www.uh.edu/ir/fileadmin/reports/factsataglance/Fall_2005_Facts.pdf |date=2007年6月14日 }}. University of Houston. 2005年. (PDFファイル/32.6KB)</ref>。同学は40の研究センター・機関を有している。ヒューストン大学システムはダウンタウンの南西にキャンパスを構えるヒューストン大学本校のほか、クリアレイク校、ダウンタウン校、ビクトリア校の3校を有している。クリアレイク校は市の南東部、[[ジョンソン宇宙センター]]に程近いクリアレイク地区にキャンパスを構え、[[コミュニティ・カレッジ]]卒業生を対象に上級学年向けの講義を開講している。ダウンタウン校はダウンタウンの北側に校舎を持ち、ヒスパニック系の学生が全学生の1/3を占める。ビクトリア校はヒューストンの南西約200kmに位置する[[ビクトリア (テキサス州)|ビクトリア]]市に小規模なキャンパスを構えている。これら4キャンパスに加え、ヒューストン大学システムは西郊の[[フォートベンド郡 (テキサス州)|フォートベンド郡]]にシュガーランド教育センターとチンコ・レンチ教育センターを有している。これらの教育センターでは、大学の上級学年および大学院レベルの一部のコースを受講することができる。
[[File:Ezekiel W. Cullen building 3.jpg|right|thumb|250px|ヒューストン大学]]
このほか、ヒューストンにはテキサス南大学、セント・トーマス大学、ヒューストン・バプテスト大学などの4年制大学がある。ヒューストン・コミュニティ・カレッジ・システムは、ヒューストンとその周辺都市に立地する[[コミュニティ・カレッジ]]6校からなり、合計約57,000人の学生を抱える、全米でも4番目に大きい規模を持つコミュニティ・カレッジ・システムである<ref>[http://distance.hccs.cc.tx.us/de-counseling/ Houston Community College Distance Education Program] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070405012516/http://distance.hccs.cc.tx.us/de-counseling/ |date=2007年4月5日 }}. Houston Community College.</ref>。
テキサス州には公立の[[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロー・スクール]]が4校あるが、そのうちの2校がヒューストンにある。1つはヒューストン大学ロー・センターで、もう1つはテキサス南大学のサーグッド・マーシャル法科大学院である。ヒューストン大学ロー・センターはUSニューズ&ワールド・レポートのロー・スクールのランキングで全米60位にランクされている<ref>[http://grad-schools.usnews.rankingsandreviews.com/usnews/edu/grad/rankings/law/brief/lawrank_brief.php America's Best Graduate Schools 2008 - Top Law Schools]. U.S. News & World Report''.</ref>。この2校に加え、ヒューストンには私立の南テキサス法学校もある。同校は[[1923年]]に創立された、ヒューストンでは最も長い歴史を誇る法学校で、[[模擬裁判]]プログラムがつとに良く知られている<ref>[http://grad-schools.usnews.rankingsandreviews.com/usnews/edu/grad/directory/dir-law/brief/glanc_03149_brief.php America's Best Graduate Schools 2007 - South Texas College of Law]. ''U.S. News & World Report''.</ref><ref>[http://www.stcl.edu/welcome/history_South_TX.htm A Chronological History of South Texas College of Law]. South Texas College of Law. 2005年.</ref>。
全米で7番目に規模の大きい[[ヒューストン独立学区]]([[:en:Houston Independent School District|Houston Independent School District]]、HISD)をはじめ、17の公立学区がヒューストン市域をカバーし、ヒューストンにおける[[K-12]]課程を支えている<ref>[http://www.eschoolnews.com/news/showStory.cfm?ArticleID=6127 Houston ISD automates lunch] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060309232254/http://www.eschoolnews.com/news/showStory.cfm?ArticleID=6127 |date=2006年3月9日 }}. ''eSchool News online''. 2006年2月21日.</ref>。これらの学区で運営されている公立学校のほかにも、ヒューストンには多数の[[マグネット・スクール]]や[[チャーター・スクール]]もある。ヒューストンに校舎を構える私立学校は300校を超える<ref>[http://www.houston-texas-online.com/privateschools.html Private Schools]. ''Houston-Texas-Online''. 2004年.</ref><ref>[http://www.houstonareaweb.com/private_schools/ Houston Private Schools]. HoustonAreaWeb.com.</ref><ref>[https://www.cheapticketsasap.com/houston-rodeo-tickets HLSR]. ''Houston Livestock Show and Rodeo''.</ref>。ヒューストンの私立学校の多くはテキサス私立学校認定協会(Texas Private School Accreditation Commission、TEPSAC)の認定を受けている。ヒューストン周辺の私立学校約50校が参加している非営利の組合、ヒューストン地域独立学校組合([[:en:Houston Area Independent Schools|Houston Area Independent Schools]]、HAIS)は、宗教的ないし非宗教的な様々な観点からの教育を提供している<ref>[http://houstonprivateschools.org/index.cfm?CFID=15996033&CFTOKEN=41756059&MenuItemID=96&MenuGroup=Home%20New About HAIS] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070328010101/http://houstonprivateschools.org/index.cfm?CFID=15996033&CFTOKEN=41756059&MenuItemID=96&MenuGroup=Home+New |date=2007年3月28日 }}. Houston Area Independent Schools. 2007年.</ref>。ヒューストンとその周辺地域の[[カトリック教会|カトリック]]系私立学校はガルベストン・ヒューストン司教区が運営している。
== 文化 ==
=== 芸術 ===
[[File:AlleyHouston.jpg|left|thumb|250px|シアター・ディストリクトの一角に建つアレイ・シアター]]
ヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージの強い都市であるが、文化・芸術面での充実度も高い。ヒューストンは文化・芸術活動を行う団体・施設を200以上有している<ref name="Museums_and_CulturalArts">[http://www.houston.org/blackfenders/20AW005.pdf Museums and Cultural Arts]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/33.2KB)</ref>。ダウンタウンの17ブロックにわたって広がるシアター・ディストリクトには9つの著名な演技芸術団体が本部を置き、6ヶ所のホールが立地している。ダウンタウンにおける劇場の席数では、ヒューストンは全米2位である<ref>Ramsey, Cody. [http://www.texasmonthly.com/mag/issues/2002-09-01/tidbits.php In a state of big, Houston is at the top]. ''Texas Monthly''. 2002年9月.</ref><ref>[http://www.houstontx.gov/abouthouston/artsandmuseums.html Houston Arts and Museums]. City of Houston eGovernment Center.</ref><ref>[http://www.houstontheaterdistrict.org/en/cms/?68 About Houston Theater District] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080229000000/http://www.houstontheaterdistrict.org/en/cms/?68 |date=2008年2月29日 }}. ''Houston Theater District''.</ref>。ヒューストンには[[オペラ]](ヒューストン・グランド・オペラ)、[[バレエ]](ヒューストン・バレエ)、[[クラシック音楽]]([[ヒューストン交響楽団]])、[[演劇]](アレイ・シアター)がすべて揃っている。これら4種の演技芸術をすべて揃えている都市は、全米でも[[ニューヨーク]]、[[シカゴ]]、[[シアトル]]、[[サンフランシスコ]]など、ごくわずかな大都市に限られている<ref name="Museums_and_CulturalArts" /><ref>[http://www.houstontheaterdistrict.org/en/cms/?12 Performing Arts Venues]. ''Houston Theater District''.</ref>。これらに加え、ヒューストンでは[[ブロードウェイ]]の[[ミュージカル]]やコンサートなどのツアー公演も行われる<ref>[http://www.quilts.com/home/news/index.php 2006 fall edition of International Quilt Festival attracts 53,546 to Houston] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20061230024248/http://www.quilts.com/home/news/index.php |date=2006年12月30日 }}. Quilts., Inc. 2006年11月30日.</ref>。
[[File:Housmfa.jpg|right|thumb|250px|ヒューストン美術館]]
ダウンタウンの南、[[ライス大学]]のキャンパスや[[テキサス医療センター]]に隣接するエリアには、ミュージアム・ディストリクトと呼ばれる博物館・美術館街が広がっている。ミュージアム・ディストリクトには年間700万人が訪れる<ref>Claire van Ryzin, Jeanne. [http://www.visithoustontexas.com/visitors/listing.details.php?id=23096 Houston Museum District] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070211044458/http://www.visithoustontexas.com/visitors/listing.details.php?id=23096 |date=2007年2月11日 }}. Greater Houston Convention and Visitors Bureau.</ref><ref>[http://www.austin360.com/arts/content/arts/stories/2006/04/1austin.html Central Austin has the makings of a museum district]. Austin360.com. 2006年4月1日.</ref>。ミュージアム・ディストリクト内の著名な博物館・美術館には、[[ヒューストン美術館]]、ヒューストン自然科学博物館、[[ヒューストン現代美術館]]、ヒューストンホロコースト博物館などがある。ヒューストン美術館は[[1924年]]に創立され、常設展示だけで40,000点の作品を展示する、テキサス州最古・最大の美術館である。ヒューストン自然科学博物館が立地するハーマン・パーク内にはヒューストン動物園もある<ref>[http://www.texasmonthly.com/promotions/cadillac/breakthroughs2/museums/ Houston Museum District Day]. Texas Monthly. 2006年.</ref><ref>[http://www.camh.org/visitor_mus_dist.html Museum District]. Contemporary Arts Museum Houston.</ref><ref>
[http://www.visithoustontexas.com/visitors/parks_and_outdoors/listing.details.php?id=23096 Houston Museum District] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070211044810/http://www.visithoustontexas.com/visitors/parks_and_outdoors/listing.details.php?id=23096 |date=2007年2月11日 }}. Greater Houston Convention and Visitors Bureau.</ref>。ミュージアム・ディストリクトの北西に隣接するモントローズ地区には、油田検層事業の世界最大手[[シュルンベルジェ]]社の令嬢で、芸術と[[公民権運動]]に献身したドミニク・デ・メニルとその夫ジョンが設立した美術館[[メニル・コレクション]]と、[[超教派]]の[[教会堂]]ロスコ・チャペルが立地している。
ヒューストンでは[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ブルース]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー]]、[[ヒップホップ]]、[[テハーノ]]音楽などの活動も市域の至るところで見られる。しかし、ヒューストンがこういった大衆音楽の世界でミュージックシーンの中心になることはあまりない。ヒューストンが生んだアーティストは、ある一定レベルの成功を収めるとアメリカ合衆国内の他地域に移住する傾向が見られる<ref>Lomax, John Nova. ''Nobody Gets Out of Here Alive - The Houston Rock Scene and the Cultural Cringe''. Houston Press. 2007年2月1日.</ref>。しかし、その中でもヒューストン・ヒップホップだけは例外で、サウス・ヒップホップやギャングスタ・ラップと互いに影響し合いながら、独自のミュージック・シーンを打ち出し、商業的にも成功を収めてきた<ref>Frere-Jones, Sasha. [http://www.newyorker.com/archive/2005/11/14/051114crmu_music A Place In the Sun - Houston Hip-Hop Takes Over]. ''The New Yorker''. 2005年11月14日.</ref>。
=== 名所・イベント・レクリエーション ===
[[File:Johnson Space Center.jpg|left|thumb|250px|ジョンソン宇宙センターの[[ビジターセンター]]、スペースセンター・ヒューストン]]
ダウンタウンの南東約40kmには[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[ジョンソン宇宙センター]]が立地している。[[ライス大学]]から広大な土地を寄付されて[[1965年]]に開設された同宇宙センターは、[[有人宇宙飛行]]の研究・開発、[[スペースシャトル]]や[[国際宇宙ステーション]]など有人宇宙飛行ミッションの管制・運用、[[宇宙飛行士]]の訓練など、NASAの有人宇宙飛行プログラムの遂行において中核となる活動を行っている。そのビジターセンター、スペースセンター・ヒューストンは、[[アポロ計画]]によって持ち帰られた[[月の石]]や、[[スペースシャトル]]のシミュレータ、NASAの有人宇宙飛行プログラムの歴史に関するプレゼンテーション資料など、NASAや航空・宇宙に関連する展示物を展示している。
ヒューストン自然科学博物館やヒューストン動物園を抱えるハーマン・パークをはじめ、レイク・ヒューストン・パーク、メモリアル・パーク、トランクイリティ・パーク([[アポロ11号]]が着陸した[[月]]の「[[静かの海]]」に由来)、セスクィセンティニアル・パーク、サム・ヒューストン・パークなど、ヒューストンには大小337の公園と200以上の緑地があり、その総面積は約7,930[[ヘクタール|ha]]におよぶ。セスクィセンティニアル・パークはその名が示す通り[[1986年]]に市創設150周年を記念して開園した公園で、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]の銅像が立っている。サム・ヒューストン・パークには1823年から1905年までの間に建てられた家屋が修復・復元されて残っている<ref>[http://www.heritagesociety.org/ths.html The Heritage Society: Walk into Houston's Past] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070610115218/http://www.heritagesociety.org/ths.html |date=2007年6月10日 }}. The Heritage Society.</ref>。これらの公園は市が管理している。
[[File:Reliant Stadium Houston Rodeo.jpg|center|thumb|560px|ロデオの大会のためにダートが敷かれたNRGスタジアム]]
ヒューストンではあらゆるイベントが行われるが、その中でも、最も伝統があり、最も規模が大きいのはダウンタウンの南西約10kmに位置するNRGパークを会場として行われるヒューストンライブストックショー・アンド・ロデオである。家畜の品評会としても、[[ロデオ]]の大会としても世界最大級のこのイベントは毎年2月下旬から3月上旬にかけて20日間以上にわたって執り行われ、会期中には200万人以上の来客が訪れる。普段は[[ヒューストン・テキサンズ]]や[[全米大学体育協会|NCAA]]の[[アメリカンフットボール|フットボール]]の試合が行われる[[NRGスタジアム]]は、このイベントのときだけはダートが敷かれ、[[ロデオ]]の会場となる。同イベントではロデオのほか、家畜の品評会、コンサート、パレード、カーニバル、トレイル・ライド、ピッグレース、バーベキュー、ワインの品評会なども行われる。このほかにヒューストンで行われる主なイベントとしては、ヒューストン・プライド・パレード([[LGBT]]の[[プライド・パレード]])<ref>[http://www.pridehouston.org/home/ Home]. Pride Houston.</ref>、ヒューストン・グリーク・フェスティバル<ref>[http://www.greekfestival.org/ The Original Greek Festival, Houston, Texas]. 2006年.</ref>、ヒューストン・アート・カー・パレード、ヒューストンオートショー、ヒューストン・インターナショナル・フェスティバル<ref>[http://www.ifest.org/ The Houston International Festival] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100725221757/http://www.ifest.org/ |date=2010年7月25日 }}. 2007年.</ref>、バイユー・シティ・アート・フェスティバルなどがある。
=== スポーツ ===
[[File:Minute Maid Park.jpg|right|thumb|250px|ミニッツメイド・パーク]]
ヒューストンはプロスポーツリーグにとっても重要な拠点である。[[メジャーリーグベースボール|MLB]]は[[ヒューストン・アストロズ]]、[[NFL]]は[[ヒューストン・テキサンズ]]、[[NBA]]は[[ヒューストン・ロケッツ]]と、ヒューストンには[[北米4大プロスポーツリーグ]]のうちの3リーグがチームを置いている。[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]のチームはない。また、[[メジャーリーグサッカー|MLS]]の[[ヒューストン・ダイナモ]]と[[メジャーリーグラグビー|MLR]]の[[ヒューストン・セイバーキャッツ]]もヒューストンを本拠地としている。さらに2022年からは[[USFL]]のヒューストン・ギャンブラーズが、さらに2020年と2023年には[[XFL]]のヒューストン・ラフネックスが本拠地を置く。
ヒューストン・アストロズは[[1962年]]にヒューストン・コルト45sとして創設され、[[1965年]]に[[ジョンソン宇宙センター]]の存在から「宇宙飛行士」を意味する''astronaut''を縮めてアストロズという名に改められた。[[1960年代]]から[[1970年代]]には低迷していたが、[[1980年]]に[[ノーラン・ライアン]]を獲得するとチームは躍進、[[1990年代]]中盤以降は地区の上位に食い込む成績をほぼ毎年残している。[[2005年]]には[[ワールドシリーズ]]に出場したが[[シカゴ・ホワイトソックス]]に敗れた{{efn|name="Note_Astros_League"|アストロズは2005年のワールドシリーズ初出場当時は[[ナショナル・リーグ]]に所属していたが、[[2013年]]に[[アメリカン・リーグ]]に移動している。}}。その後[[2011年]]から3年連続100敗以上と低迷するが、[[2015年]]に10年ぶりのプレーオフに進出した。[[2017年]]には2度目のワールドシリーズに出場し、[[ロサンゼルス・ドジャース]]を第7戦で破って、球団創設56年目にして初優勝した{{efn|name="Note_Astros_League"}}<ref>Hoffman, Benjamin and David Waldstein. [https://www.nytimes.com/2017/11/01/sports/world-series-dodgers-astros.html How the Astros Won World Series Game 7, Inning by Inning]. ''New York Times''. 2017年11月1日. 2017年11月2日閲覧.</ref>。
アストロズはダウンタウンの再開発地区に建てられ、[[2000年]]に開場した[[ミニッツメイド・パーク]]を本拠地としている。開場当時は[[エンロン]]が30年・1億ドルの契約で[[命名権]]を獲得したためエンロン・フィールドという名であった。しかし[[2002年]]に同社が経営破綻すると、暫定的に4ヶ月間だけアストロズ・フィールドという名が使われた後、[[コカ・コーラ]]が28年契約・1億ドルを超える額で命名権を買い取り、同社のジュース「[[ミニッツメイド]]」から球場名をミニッツメイド・パークとした。ヒューストンは夏が非常に蒸し暑いため、球場には開閉式の屋根がついており、必要に応じて球場内を空調完備にできる。ミニッツメイド・フィールドに本拠地が移る前は、アストロズは[[アストロドーム]]を本拠地としていた。[[1965年]]に完成したこの球場は世界史上初のドーム球場で、当時は「世界八番目の不思議」とさえ呼ばれた<ref>Barks, Joseph V. [http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3726/is_200111/ai_n9011574 Powering the (New and Improved) "Eighth Wonder of the World"]. ''Electrical Apparatus''. 2001年11月.</ref>。
[[File:Toyota Center inside.jpg|left|thumb|250px|トヨタセンター]]
ミニッツメイド・パークと同じダウンタウンの再開発エリアには、ヒューストン・ロケッツが本拠地にしている[[トヨタセンター]]も立地している。ヒューストン・ロケッツは一見、野球のアストロズ同様にNASAに由来するチーム名であると思われがちであるが、もともとは[[1967年]]に[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]にサンディエゴ・ロケッツとして創設されたチームであり、NASAとの関連性はない。かつては[[アキーム・オラジュワン]]、[[クライド・ドレクスラー]]、[[チャールズ・バークレー]]といった選手を擁した。[[1994年]]、[[1995年]]のNBAファイナルでは2連覇を飾り、ロケッツは黄金時代にあった。しかし[[1997年]]以降、ドレクスラーやバークレーが引退し、オラジュワンがトレードに出されると、その後は若年選手を中心として再建を進めているが、低迷が続いている。
トヨタセンターはそれまでロケッツの本拠地として使われていた[[コンパック・センター]]に代わって[[2003年]]に開場したアリーナで、ロケッツのほか、ヒューストン・コメッツ、およびヒューストン・エアロズが本拠地にしている。また、ヒューストンにおけるイベント会場・コンサート会場としても使われ、[[エルトン・ジョン]]、[[ポール・マッカートニー]]、[[スティーヴィー・ワンダー]]らの「大御所」アーティストからティーン・アイドルの[[マイリー・サイラス|ハンナ・モンタナ]]に至るまで、様々なアーティストがここでコンサートを行った。所有者は[[ハリス郡 (テキサス州)|ハリス郡]]とヒューストン市スポーツ局であるが、[[トヨタ自動車]]の米国法人が命名権を獲得したため、同社の名が冠せられている。
[[File:Texans v Jaguars (264).jpg|right|thumb|250px|NRGスタジアム]]
一方、アストロドームの建つNRGパークには、[[ヒューストン・テキサンズ]]の本拠地である[[NRGスタジアム]]が立地している。[[2002年]]に開場したこのNRGスタジアムは、NFLの本拠地となるスタジアムとしては初めて開閉式の屋根を採用した。テキサンズは[[2002年]]のリーグ拡張のときにできたチームである。新興チームの多くがそうであるようにテキサンズもまたリーグの下位に低迷しており、チームとしての歴史が浅いことも相まって、目立った成績は残していない。このテキサンズとは別に、[[1960年]]から[[1996年]]までは、ヒューストンにはオイラーズというチームがあったが、その後[[テネシー州]]の州都[[ナッシュビル]]に移転し、チーム名もテネシー・オイラーズを経て[[テネシー・タイタンズ]]となっている。オイラーズはアストロドームを本拠地としていた。
NRGスタジアムではこのテキサンズのホームの試合のほか、ヒューストン家畜ショー・アンド・ロデオの会期中はダートを敷いて[[ロデオ]]の大会にも使われる(前述)。[[2004年]]には、[[第38回スーパーボウル]]がNRGスタジアムで行われた。[[2005年]]には、[[カレッジフットボール]]の[[ビッグ12カンファレンス]]決勝戦がNRGスタジアムで行われ、[[テキサス大学]]が[[コロラド大学]]を70-3の大差で破った。地元テキサス州で大勝したテキサス大学は[[ローズボウル]]に出場し、[[南カリフォルニア大学]]を破って全米優勝した。
== 人口動態 ==
{{Wikisource|テキサス州ヒューストン市の人口統計データ}}
[[File:Houston International Festival.jpg|left|thumb|240px|ヒューストン・インターナショナル・フェスティバル。ヒューストン地域住民の人種・民族の多様性が現れている。]]
ヒューストンは人種・民族の多様性に富んだ都市である。ヒューストンで話されている言語の数は90を超える<ref>[http://www.houstontx.gov/abouthouston/houstonfacts.html Houston Facts and Figures]. City of Houston.</ref>。特に[[ヒスパニック]]系の住民の割合は高く、総人口の約37%を占め、非ヒスパニック系白人の30.8%を上回る。ヒューストン都市圏全体では、アメリカ合衆国外生まれの住民は約110万人を数え、都市圏人口の2割に達している。その半数近くはメキシコ系で、メキシコ以南を含めた中南米系全体では2/3近くにのぼる。さらに、約10万人にのぼる[[ベトナム]]系をはじめ、[[インド]]系、[[中華人民共和国|中国]]系などアジア系も約1/5を占めている<ref>[http://www.houston.org/blackfenders/09GW025.pdf Foreign-Born Population]. ''Greater Houston Partnership''. (PDFファイル/39.7KB)</ref>。ヒューストンにはダウンタウンのオールド・チャイナタウンのほか、南西部にもニュー・チャイナタウンと呼ばれる、新たに形成された[[中華街|チャイナタウン]]がある<ref>Chen, Edward C.M. and Von Der Mehden, Fred R. [http://www.chinatownconnection.com/houston_chinatown_history.htm History of Houston's Chinatown]. Chinatownconnection.com. 2005年.</ref><ref>[http://www.chinatownconnection.com/houston-chinatown-map.htm Houston Chinatown Area Map]. Chinatownconnection.com. 2005年.</ref>。また、ニュー・チャイナタウンの近くには「リトル・サイゴン」と呼ばれるベトナム人街も形成されている<ref>[http://www.bizjournals.com/houston/stories/2004/05/10/tidbits1.html City Adopts "Little Saigon"]. ''Houston Business Journal''. 2004年5月7日.</ref>。このように一部の移民は民族性の強い街区を形成し、ヒューストンを[[世界都市]]たらしめている。しかしその一方で、ヒューストンに住んでいると推定される不法入国者数は400,000人を数えるなど、移民がらみの問題も抱えている<ref>Hegstrom, Edward. [http://www.chron.com/disp/story.mpl/metropolitan/3500074.html Shadows Cloaking Immigrants Prevent Accurate Count]. ''Houston Chronicle''. 2006年2月21日.</ref>。
=== 都市圏 ===
[[File:Houston-Baytown-Huntsville CSA.png|right|200px]]
ヒューストンの[[アメリカ合衆国大都市統計地域|都市圏]]は州南東部、[[ハリス郡 (テキサス州)|ハリス郡]]を中心に9郡にまたがっており、その面積は21,464km<sup>2</sup>(8,287mi<sup>2</sup>)である。[[合同統計地域|広域都市圏]]はこの都市圏に、近隣の4つの[[アメリカ合衆国小都市統計地域|小都市圏]]を合わせた13郡から成っている<ref>[https://www.whitehouse.gov/wp-content/uploads/2018/09/Bulletin-18-04.pdf OMB BULLETIN NO. 18-04: Revised Delineations of Metropolitan Statistical Areas, Micropolitan Statistical Areas, and Combined Statistical Areas, and Guidance on Uses of the Delineations of These Areas]. Office of Management and Budget. 2018年9月14日.</ref>。
右図はテキサス州におけるヒューストン・ザ・ウッドランズ広域都市圏の位置を示している。この広域都市圏に含まれる都市圏および小都市圏はそれぞれ、下記の色で示されている。
:{{legend|#FF0000|ヒューストン・ザ・ウッドランズ・シュガーランド都市圏}}
:{{legend|#FFFF00|ハンツビル小都市圏}}
:{{legend|#0000FF|エルカンポ小都市圏}}
:{{legend|#00FF00|ベイシティ小都市圏}}
:{{legend|#00FFFF|ブレナム小都市圏}}
また、ヒューストンの都市圏、および広域都市圏を形成する各郡の人口は以下の通りである(2020年国勢調査)<ref name="Census2020_QuickFacts" />。
{{-}}
;ヒューストン・ザ・ウッドランズ・シュガーランド都市圏
{| class="wikitable" style="width: 80%; text-align:center; margin: 0 auto 0 auto;"
! 郡 !! 州 !! 人口
|-
| '''[[ハリス郡 (テキサス州)|ハリス郡]]''' || [[テキサス州]] || align="right" | 4,731,145人
|-
| [[フォートベンド郡 (テキサス州)|フォートベンド郡]] || テキサス州 || align="right" | 822,779人
|-
| [[モンゴメリー郡 (テキサス州)|モンゴメリー郡]] || テキサス州 || align="right" | 620,443人
|-
| [[ブラゾリア郡 (テキサス州)|ブラゾリア郡]] || テキサス州 || align="right" | 372,031人
|-
| [[ガルベストン郡 (テキサス州)|ガルベストン郡]] || テキサス州 || align="right" | 350,682人
|-
| [[リバティー郡 (テキサス州)|リバティー郡]] || テキサス州 || align="right" | 91,628人
|-
| [[ウォーラー郡 (テキサス州)|ウォーラー郡]] || テキサス州 || align="right" | 56,794人
|-
| [[チェンバーズ郡 (テキサス州)|チェンバーズ郡]] || テキサス州 || align="right" | 46,571人
|-
| [[オースティン郡 (テキサス州)|オースティン郡]] || テキサス州 || align="right" | 30,167人
|- style="background-color:#e0e0e0"
| colspan="2" | '''合計''' || align="right" | 7,122,240人
|}
;ヒューストン・ザ・ウッドランズ広域都市圏
{| class="wikitable" style="width: 80%; text-align:center; margin: 0 auto 0 auto;"
! 都市圏/小都市圏 !! 郡 !! 州 !! 人口
|-
| colspan="3" | '''ヒューストン・ザ・ウッドランズ・シュガーランド都市圏''' || align="right" | 7,122,240人
|-
| ハンツビル小都市圏 || [[ウォーカー郡 (テキサス州)|ウォーカー郡]] || テキサス州 || align="right" | 76,400人
|-
| エルカンポ小都市圏 || [[ワートン郡 (テキサス州)|ワートン郡]] || テキサス州 || align="right" | 41,570人
|-
| ベイシティ小都市圏 || [[マタゴルダ郡 (テキサス州)|マタゴルダ郡]] || テキサス州 || align="right" | 36,255人
|-
| ブレナム小都市圏 || [[ワシントン郡 (テキサス州)|ワシントン郡]] || テキサス州 || align="right" | 35,805人
|- style="background-color:#e0e0e0"
| colspan="3" | '''合計''' || align="right" | 7,312,270人
|}
=== 市域人口推移 ===
以下にヒューストン市における[[1850年]]から[[2020年]]までの人口推移をグラフおよび表で示す<ref>Gibson, Campbell. [https://www.census.gov/library/working-papers/1998/demo/POP-twps0027.html Population of the 100 Largest Cities and Other Urban Places in the United States: 1790 to 1990]. US Census Bureau. 1998年6月.</ref>。
{{-}}
{| class="wikitable" style="float:right; margin-left:3px; text-size:80%; text-align:right"
! 統計年 !! 人口 !! 順位
|-
| [[1850年]] || 2,396人 || -
|-
| [[1860年]] || 4,845人 || -
|-
| [[1870年]] || 9,332人 || -
|-
| [[1880年]] || 16,513人 || -
|-
| [[1890年]] || 27,557人 || -
|-
| [[1900年]] || 44,633人 || 85位
|-
| [[1910年]] || 78,800人 || 68位
|-
| [[1920年]] || 138,276人 || 45位
|-
| [[1930年]] || 292,352人 || 26位
|-
| [[1940年]] || 384,514人 || 21位
|-
| [[1950年]] || 596,163人 || 14位
|-
| [[1960年]] || 938,219人 || 7位
|-
| [[1970年]] || 1,232,802人 || 6位
|-
| [[1980年]] || 1,595,138人 || 5位
|-
| [[1990年]] || 1,630,553人 || 4位
|-
| [[2000年]] || 1,953,631人 || 4位
|-
| [[2010年]] || 2,099,451人 || 4位
|-
| [[2020年]] || 2,304,580人 || 4位
|}
<timeline>
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</timeline>
== 姉妹都市 ==
ヒューストンは以下19都市と[[姉妹都市]]提携を結んでいる<ref>[http://www.sister-cities.org/icrc/directory/usa/TX Sister Cities International: Online Directory: Texas, USA] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080210144332/http://www.sister-cities.org/icrc/directory/usa/TX |date=2008年2月10日 }}. Sister Cities International. 2007年.</ref>。[[全米国際姉妹都市協会]](Sister Cities International)加盟都市。
*{{Flagicon|UK}} [[アバディーン]]([[イギリス]]・[[スコットランド]]、1979年提携)
*{{Flagicon|UAE}} [[アブダビ]]([[アラブ首長国連邦]]、2001年)
*{{Flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]([[トルコ]]、1986年)
*{{Flagicon|ESP}} [[ウエルバ]]([[スペイン]]、1969年)
*{{Flagicon|CHN}} [[武漢市]]([[中華人民共和国]]、2016年)
*{{Flagicon|EGY}} [[カイロ]]([[エジプト]]、1998年)
*{{Flagicon|PAK}} [[カラチ]]([[パキスタン]]、2008年<ref>[http://www.daily.pk/pakistan/international-level/42-international-level/3462-karachi-and-houston-declared-sister-cities.html Karachi and Houston declared sister cities] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080612091431/http://www.daily.pk/pakistan/international-level/42-international-level/3462-karachi-and-houston-declared-sister-cities.html |date=2008年6月12日 }}. Pakistan Daily. 2008年5月9日.</ref>)
*{{Flagicon|ECU}} [[グアヤキル]]([[エクアドル]]、1987年)
*{{Flagicon|CHN}} [[深圳市]]([[中華人民共和国]]、1986年)
*{{Flagicon|NOR}} [[スタヴァンゲル|スタバンゲル]]([[ノルウェー]]、1980年)
*{{Flagicon|ROC}} [[台北市]]([[中華民国]]、1963年)
*{{Flagicon|MEX}} [[タンピコ]]([[メキシコ]]、2003年)
*{{Flagicon|JPN}} [[千葉市]]([[日本]]・[[千葉県]]、1973年)<ref>「[http://ccia-chiba.or.jp/004simaitoshi/03houston.html ヒューストン市]」. 「千葉市の姉妹・友好都市」. 千葉市国際交流協会.</ref><ref>「[http://www.houston.us.emb-japan.go.jp/jp/archive/page20080716.htm 姉妹都市交流:千葉市市長公室長らがヒューストンを訪問]」. 在ヒューストン日本国総領事館.</ref>
*{{Flagicon|RUS}} [[チュメニ]]([[ロシア]]、1995年)
*{{Flagicon|FRA}} [[ニース]]([[フランス]]、1973年)
*{{Flagicon|AUS}} [[パース (西オーストラリア州)|パース]]([[オーストラリア]]・[[西オーストラリア州]]、1983年)
*{{Flagicon|AZE}} [[バクー]]([[アゼルバイジャン]]、1976年)
*{{Flagicon|GER}} [[ライプツィヒ]]([[ドイツ]]、1993年)
*{{Flagicon|ANG}} [[ルアンダ]]([[アンゴラ]]、2003年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*Allen, O. Fisher. ''City of Houston from Wilderness to Wonder''. Self Published. 1936年.
*Johnston, Marguerite. ''Houston, The Unknown City, 1836–1946''. Texas A&M University Press. College Station, Texas, United States. 1991年. ISBN 0-89096-476-9
*Miller, Ray. ''Ray Miller's Houston'' Gulf Publishing Company. 1984年. ISBN 0-88415-081-X
*Slotboom, Oscar F. "Erik", [http://www.houstonfreeways.com/ ''Houston Freeways'']. Oscar F. Slotboom. 2003年. ISBN 0-9741605-3-9.
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法律行為
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法律行為(ほうりつこうい、独: Rechtsgeschäft, 仏: Acte juridique)とは、広義においては、「法的権限の行使として、法律効果を生ぜしむる目的でなされる、(統治者、官吏、単なる個人を含む)個人の意思表示である」と定義される。
民法学上の概念としては、人が私法上の権利の発生・変更・消滅(法律効果)を望む意思(効果意思)に基づいてする行為であり、その意思表示の求めるとおりの法律効果を生じさせるものをいう。
法律行為は一個または複数個の意思表示を法律事実たる要素とし、それによって一定の法律効果を生じる行為である。「法律行為」の概念は19世紀のドイツの概念法学の手法の所産とされ、英米法はもちろんフランス法にもみられない概念とされる。
近代市民社会の個人主義・自由主義の下では、私法上の法律関係は各人の自由な意思に基づく法律行為によって規律させることが原則である(法律行為自由の原則)。
物権行為と準物権行為をあわせて処分行為という。
法律行為類似の概念として準法律行為がある。意思表示(効果意思・表示行為)を要素としない、人の適法な行為をいう。適法行為という点では法律行為と同じであるが、意思表示を必要としない点で法律行為と異なる。準法律行為とは、通常の意思表示とは異なるが法律行為に準ずるものとして一定の法律効果を生じる行為をいう。法律的行為とも呼ばれる。 法律行為とは異なるので、その通則である行為能力、錯誤、代理などに関する規定は原則として適用されない。準法律行為については法律行為に関する諸規定が類推適用されうる。
準法律行為には表現行為と非表現行為とがあり狭義には前者のみを指す。
非表現行為(混合事実行為)とは、先占(239条)、拾得(240条)、事務管理(697条)など、人の意識とは直接には関係を持たない行為を指す。
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法律行為とは、広義においては、「法的権限の行使として、法律効果を生ぜしむる目的でなされる、(統治者、官吏、単なる個人を含む)個人の意思表示である」と定義される。 民法学上の概念としては、人が私法上の権利の発生・変更・消滅(法律効果)を望む意思(効果意思)に基づいてする行為であり、その意思表示の求めるとおりの法律効果を生じさせるものをいう。
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'''法律行為'''(ほうりつこうい、{{lang-de-short|Rechtsgeschäft}}, {{lang-fr-short|Acte juridique}})とは、広義においては、「法的権限の行使として、法律効果を生ぜしむる目的でなされる、(統治者、官吏、単なる個人を含む)個人の[[意思表示]]である」<ref>[[兼子仁]]「行政法の公定力」[[東京大学出版会]] P268 </ref>と定義される。
民法学上の概念としては、人が[[私法]]上の権利の発生・変更・消滅([[法律効果]])を望む意思([[効果意思]])に基づいてする行為であり、その意思表示の求めるとおりの法律効果を生じさせるものをいう。
== 概説 ==
=== 法律行為の意義 ===
法律行為は一個または複数個の意思表示を法律事実たる要素とし、それによって一定の法律効果を生じる行為である<ref name="uchida342">[[内田貴]]著 『民法Ⅰ 第4版 総則・物権総論』 東京大学出版会、2008年4月、342頁</ref>。「法律行為」の概念は[[19世紀]]のドイツの[[概念法学]]の手法の所産とされ、[[英米法]]はもちろんフランス法にもみられない概念とされる<ref>内田貴著 『民法Ⅰ 第4版 総則・物権総論』 東京大学出版会、2008年4月、343頁</ref>。
=== 法律行為自由の原則 ===
近代市民社会の個人主義・自由主義の下では、私法上の法律関係は各人の自由な意思に基づく法律行為によって規律させることが原則である('''法律行為自由の原則''')。
{{節スタブ}}
== 法律行為の分類 ==
=== 単独行為・契約・合同行為 ===
[[ファイル:法律行為.png|thumb|right|250px|法律行為の三態様<ref name=uchida>内田貴『民法I 総則・物権総論(第3版)』東京大学出版会、2005年、336 - 337頁。</ref>]]
* 単独行為
*: 1つの[[意思表示]]により成立する法律行為<ref name="kawai127"/>。[[遺言]]、[[取消し]]、[[解除]]などである<ref name="uchida342"/><ref name="kawai127">川井健著 『民法概論1 民法総則 第4版』 有斐閣、2008年3月、127頁</ref>。<br>行政法では[[行政行為|処分]]が挙げられる。<br>[[民事訴訟法]]では訴えの取下げ、控訴の取下げ、上告の取下げなどがある。<br>[[刑事訴訟法]]では公訴の取下げなどがある。
* [[契約]]
*: 2人以上の意思表示の合致により成立する法律行為<ref name="kawai127"/>。日本の民法典では[[贈与]]、[[売買]]、[[交換 (法学)|交換]]、[[消費貸借]]、[[使用貸借]]、[[賃貸借]]、[[雇用]](雇傭)、[[請負]]、[[委任]]、[[寄託 (日本法)|寄託]]、[[組合]]、[[終身定期金]]、[[和解]]を[[典型契約]]として定める。ただし、このうち民法上の組合については双務契約説と合同行為説が対立する<ref>川井健著 『民法概論4 債権各論 補訂版』 有斐閣、2010年12月、332頁</ref>。行政法における行政契約も含まれる。<br>民事訴訟法における双方行為としては、管轄の合意、期日変更の合意、不控訴の合意などがある。
* [[合同行為]]
*: 同一の方向に向けられた複数の意思表示を要素とする法律行為<ref name="kawai127"/>。[[社団法人]]の設立行為などであり、今日の通説は合同行為を契約とは別に類型化する<ref name="kawai127"/>。
=== 債権行為・物権行為・準物権行為 ===
* 債権行為
*: [[債権]]上の効果を発生または消滅させる法律行為<ref name="kawai127"/>。売買、賃貸借、消費貸借などである<ref name="kawai127"/>。
* 物権行為
*: [[物権]]を発生または消滅させる法律行為<ref name="kawai127"/>。[[所有権]]移転や[[抵当権]]設定などである<ref name="kawai127"/>。
* 準物権行為
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物権行為と準物権行為をあわせて処分行為という<ref name="kawai127"/>。
=== 財産行為・身分行為 ===
* 財産行為
*: 財産上の法律効果を生ずる法律行為<ref name="kawai128">川井健著 『民法概論1 民法総則 第4版』 有斐閣、2008年3月、128頁</ref>。
* 身分行為
*: 身分上の法律効果を生ずる法律行為<ref name="kawai128"/>。
=== 有因行為・無因行為 ===
* 有因行為
*: 原因が欠け原因行為が[[無効]]であれば法律行為も無効となる法律行為<ref name="kawai127"/>。
* 無因行為
*: 原因が欠け原因行為が無効であっても法律行為は独立して有効とされる法律行為<ref name="kawai127"/>。
=== 要式行為・不要式行為 ===
* 不要式行為
*: 特段の方式を踏むことなく成立する法律行為。法律行為は原則として不要式行為である<ref name="kawai128"/>。
* 要式行為
*: 一定の方式を踏むことが必要とされる法律行為<ref name="kawai128"/>。遺言は要式行為である<ref name="kawai128"/>。また、書面や電磁的記録によることを要する[[保証]]契約([[b:民法第446条|民法446条]])や貸金等根保証契約([[b:民法第465条の2|民法465条の2]]第3項)も要式行為である<ref name="kawai128"/>。
=== 生前行為・死後行為 ===
* 生前行為
*: 生前に法律効果を生ずる法律行為<ref name="kawai128"/>。
* 死後行為(死因行為)
*: 死後に法律効果を生ずる法律行為。遺言([[b:民法第985条|民法985条]])や死因贈与([[b:民法第554条|民法554条]])がこれに当たる<ref name="kawai128"/>。
=== 独立行為・補助行為 ===
* 独立行為
*: それだけで成立しうる法律行為。
* 補助行為
*: それだけでは成立しない法律行為。
== 準法律行為 ==
法律行為類似の概念として'''準法律行為'''がある。意思表示(効果意思・表示行為)を要素としない、人の適法な行為をいう。適法行為という点では法律行為と同じであるが、意思表示を必要としない点で法律行為と異なる。準法律行為とは、通常の意思表示とは異なるが法律行為に準ずるものとして一定の法律効果を生じる行為をいう<ref name="uchida344">内田貴著 『民法Ⅰ 第4版 総則・物権総論』 東京大学出版会、2008年4月、344頁</ref>。法律的行為とも呼ばれる<ref name="kawai131">川井健著 『民法概論1 民法総則 第4版』 有斐閣、2008年3月、131頁</ref>。
法律行為とは異なるので、その通則である行為能力、錯誤、代理などに関する規定は原則として適用されない。準法律行為については法律行為に関する諸規定が[[類推適用]]されうる<ref name="uchida344"/>。
準法律行為には表現行為と非表現行為とがあり狭義には前者のみを指す<ref name="kawai131"/>。
=== 表現行為(狭義の準法律行為) ===
* 意思の通知
*: [[催告]]や[[弁済]]の受領拒絶など、一定の意思を含んではいるが効果意思を伴わないものを意思の通知という<ref name="wagatsuma118">我妻栄・有泉亨・川井健著 『民法1 総則・物権法 第2版』 勁草書房、2005年4月、118頁</ref><ref name="uchida344"/>。<br>民事訴訟法では裁判所に一定の行為を求める申立て(管轄違いの申立てや[[訴えの併合]]など)が挙げられる。
* 観念の通知
*: [[代理権]]授与の表示([[b:民法第109条|109条]])など、単に一定の事実を相手方に通知するものを観念の通知という<ref name="wagatsuma118"/><ref name="uchida344"/>。
* 感情の表示
*: 単に一定の感情を発表することを感情の表示という<ref name="wagatsuma118"/>。日本の現行民法に例はないが、民法旧814条2項の離婚における[[宥恕]](ゆうじょ)がこれにあたるとされる<ref name="kawai131"/><ref name="wagatsuma118"/>。
=== 非表現行為(混合事実行為) ===
非表現行為(混合事実行為)とは、先占([[b:民法第239条|239条]])、拾得([[b:民法第240条|240条]])、[[事務管理]]([[b:民法第697条|697条]])など、人の意識とは直接には関係を持たない行為を指す<ref name="kawai131"/>。
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
*[[事実行為]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:日本の法律行為法]]
[[Category:行為]]
[[Category:民法総則]]
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四日市駅
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四日市駅(よっかいちえき)は、三重県四日市市本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)関西本線の駅である。駅番号はCJ11。
関西本線の運行形態の詳細は「関西線 (名古屋地区)」を参照。
本項では伊勢電気鉄道(後の近鉄名古屋線)がかつて設置していた四日市駅についても記述する。
四日市市の代表駅扱いされることもあるが、約1.2kmほど離れている近鉄四日市駅の乗車人員数は当駅の約10倍あり、大きな差がついている。三重県の北部や近鉄沿線地域では単に「四日市駅」と言った場合は近鉄四日市駅(あすなろう四日市駅を含む)を指し、当駅は俗に「JR四日市駅」とわざわざ「JR」を冠して呼ばれる。
商業地に位置する近鉄四日市駅に対し、当駅は工場群が立地する臨海部に位置している。これは当初から貨物輸送を想定しており、線路を港に隣接して敷設する必要があったためである。ただし、港湾施設は広範囲に及んでおり、石油コンビナートはかなり離れた所にある。
駅東方の四日市港まで日本貨物鉄道管轄の四日市港線2.5kmが伸びている。途中の千歳運河には国の重要文化財であり、現役唯一の可動鉄道橋の末広橋梁がある。また、南方の塩浜駅までは、関西本線貨物支線が伸びている。
駅構内の一部に「伊勢鉄道伊勢線」の表記があるが、当駅はあくまでJR関西本線への乗り入れ(直通運転)区間であり正確な案内ではない。
事務管コードは▲530812を使用している。
1890年、関西鉄道によって開設された。四日市は江戸時代には東海道が通り交通の要衝だったが、明治政府の鉄道計画から外れてしまったため、民間の関西鉄道が四日市で設立され、名古屋駅と草津駅を結ぶ鉄道が建設された。1907年、関西鉄道は国有化された。
1920年、四日市港に貨物線が建設された。
開業以来、車両工場を併設していたが、1924年に名古屋駅付近へ移転し、現在はJR東海名古屋工場・JR貨物名古屋車両所となっている。
1924年、伊勢電気鉄道(のち近鉄名古屋線)が国鉄駅に隣接して四日市駅を設置した。後に三重軌道より四日市市 - 諏訪間の線路敷を譲受して桑名へ路線を延伸した。 1956年に急曲線の解消と短絡を目的とした経路変更を行った。諏訪駅の西300mに新たな近鉄四日市駅を建設し(1973年に高架化)、国鉄併設駅は廃止となった。
島式ホーム1面3線を持つ地上駅である。駅舎側から2番線、1番線の順になっている。また2番線の南方約50 m先を切り欠き、3番線としている。3番線は気動車を使用した伊勢鉄道直通の普通列車(当駅始発・終着)のみが使用し、架線は張られていない。ホームと駅舎は跨線橋で連絡している。名古屋方面からの当駅終着列車はホームに到着後、そのまま折り返して始発列車となる。多くは2番線を使用するが、一部は1番線で折り返す。また2番線が塞がっているときは、亀山・津方面からの直通列車も1番線に発着することがある。
駅構内・駅舎は広大であるが今では使われず閉鎖されている区画が多い。また、跨線橋にエレベーターやエスカレーターの設備がないなどバリアフリー対策が遅れていたが、2015年(平成27年)3月7日にエレベーターの供用が開始された。また、同時に1・2番線ホームに列車到着案内表示機が導入された。トイレは駅舎南側に設置されている。
直営駅で、桑名駅が当駅を管理しており、駅長は存在しない。早朝深夜時間帯に加えて、昼間でも短時間ではあるがJR全線きっぷうりばや出札口が閉まっている時間帯がある。当該時間帯におけるワンマンの場合の運賃精算方法は長島駅以西の無人駅に準ずる。
なお、2012年3月31日までは、平日・土曜の昼間は駅内にあるJR東海ツアーズでも磁気定期券を含むJR乗車券類が購入可能であった。自動券売機は深夜帯に使用停止となる。無人の時間帯がある事から、自動改札機は扉なしの簡易型である。
TOICAなどの交通系ICカードは河原田駅より先の伊勢鉄道線(津方面)は利用できない。尚、快速みえ号、特急南紀号は境界駅の河原田駅を通過する関係でICカードで乗車できる区間は事実上、名古屋駅 - 当駅間のみに限られる。
伊勢鉄道では、伊勢鉄道線直通普通列車を利用するときに名古屋方面からICカードで乗車した場合、当駅で一旦出場した上で、連絡乗車券購入を推奨している。なお名古屋駅又は八田駅から当駅までICカード、当駅から伊勢鉄道線の駅までは紙の乗車券と区切って乗車した場合、当駅は境界駅ではないにもかかわらず、JR側の特定運賃の影響でむしろ安くなる。伊勢鉄道線直通列車でも、JR線内の当駅 - 河原田駅間のみを乗車する場合はICカードを使用できる。
伊勢鉄道線から乗り入れる普通列車は当駅でも車内収受であり、名古屋方面へ乗り換える際は運転士から連絡乗車券を発売される。また当駅下車の場合は「精算券」を渡される。逆に、名古屋・亀山方面のワンマン列車から伊勢鉄道線直通列車に乗り換える場合は、名古屋方面からの列車を降りる際に車内精算し、「精算済証明書」を受領してから乗り換える(乗車券を持っている場合を除く)。
四日市駅は、コンテナ貨物と車扱貨物の取扱駅である。
駅構内北端からコスモ石油専用線が分岐し、本線東側に沿って北上する。専用線の終端、三滝川付近に同社四日市製油所のタンク車用石油荷役線が4本あり、石油製品の積み込みが行われている。荷役を終えたタンク車はJR貨物のディーゼル機関車により発送される。空車の受取は日本通運が保有する小型ディーゼル機関車が行う。
駅構内南端からは旧四日市港駅へ向かう側線が分岐する。前述の末広橋梁の先にある着発線は北側で再度分岐し、太平洋セメント専用線が接続する。専用線の終端には太平洋セメント藤原工場四日市出荷センターのセメント荷役設備があり、入換作業は太平洋セメントが保有するディーゼル機関車が行う。
構内には複数の留置線が敷設されている他、愛知機関区四日市支区の貨車検修線2本・検修庫1棟がある。この検修基地では、四日市周辺で運用されるコンテナ車や石油輸送用タンク車、炭酸カルシウム輸送用ホッパ車などの点検を行っている。石油輸送用タンク車の常備駅にも指定されており、当駅と塩浜駅で分担して配置されている。
コンテナ貨物は、JR規格の12フィート・20フィート・30フィートコンテナ、ISO規格の20フィート・40フィート海上コンテナを取り扱っている。主な輸送品目は化学薬品・食品・清涼飲料水などである。また産業廃棄物・特別管理産業廃棄物の取扱許可を得ており、これらが入ったコンテナも発着している。
車扱貨物は、コスモ石油専用線のガソリン・重油などの石油類、太平洋セメント専用線のセメントを取り扱っている。石油類は、当駅からタンク車で南松本駅(日本オイルターミナル松本営業所)へ発送される。セメントは、太平洋セメント藤原工場で生産され、三岐鉄道東藤原駅から当駅まで輸送される。太平洋セメント専用線では骨材も取り扱っていたが、2012年2月29日を最後に輸送を終了した。
当駅でのコンテナ取り扱いは、元々旧、国鉄所有の5t積み小型コンテナ限定駅として始まった。ゆえに、すべてのコンテナホームの荷役線が短いために、1線につき 6 - 7両程度のコンテナ車しか収容できず、ある程度編成の長くなる当駅を基点とした発着便では、いわゆる一列車を細切れにする分割荷役が避けられないという現状である。このために当然のことながらコンテナ列車の入れ替え作業が多くなる分、一編成を一括で荷役できるように効率よく整備されたほかの駅と比べて、コンテナの持込や引取りのできる開始や、締め切り時間がやや制限される面は避けられない。また後述する、コンテナホームが二つに分かれた区画を繋ぐ唯一の構内通路は、基本的に積載トラックは構内規制で通行禁止になっているため、各々一度敷地外へ出て、住宅が密集し、さらには近くの踏み切りや車両通行量の関係で、日常的に混雑している狭い一般道路を迂回しなければならない。
前記の様に、使い勝手の悪い比較的小規模な貨物駅構造ながらも、地理的には「四日市ぜんそく」という公害被害を生むほど化学系のコンビナートとしての重要性から、各種のコンテナを駆使して、昼夜を問わずコンビナートから生みだされている多種多彩な製品を今日においても、その重要性は変わる事無く輸送し続けている。この環境下で、化成品を扱う私有コンテナの一種である5t積みホッパコンテナの UH1形においては、1971年5月に初登録された第一号が、日本通運四日市支店所有・三菱モンサント化成借受として登録された。さらにその後にもこのホッパコンテナは、同グループによる追加登録は無論、そのほかの複数の企業からも時には40個を超える(旭ダウ社登録での事例)など、大量に登録され続けた。
また特記事項として、5t積み私有タンクコンテナの一種であるUT1形においては、タンクコンテナのそれまでの常識であった液体輸送ではなく、圧縮空気圧によるホッパコンテナ同様の粒状または、粉末状の化成品輸送を国鉄公認のタンクコンテナでは始めてのケースとして、やはり日本通運四日市支店所有・三菱モンサント化成借受として、UT1-142 - 149までが登録された。なお、このタンクコンテナの裏技輸送事例は、続くUT1形の中で複数のユーザにより登録されたり、その後の鉄道私有タンクコンテナにおいて今日では一般化している、20フィート級タンクコンテ輸送への応用技としても大きく発展している。変り種として私有冷蔵コンテナのUR1形では、日東電工所有としてわずか2個ではあるが、温度に繊細な製品輸送に登録される等、四日市駅で取り扱う特殊コンテナとして各種の私有コンテナが活発に登録され続けた。
しかし、それまでの主力であった、UH1形ホッパコンテナでの当駅への出入りに関連する新規登録が、その後に国鉄の経営混乱による度重なった運賃値上げやダイヤの遅延の多発に加えて、経済動向の劇的な停滞などが重なり、1981年を最後についに途絶えてしまった。この影響により、それまで大量に扱われてきた輸送容量効率の悪いホッパ・タンクの各5tコンテナは、国鉄末期近くでは一部の比較的新しい登録の個体を除く大多数の個体が登録後、10年以上も酷使され続けたために、特に構造の弱かった1970年代に大量登録された、5tホッパコンテナの老朽化問題は深刻になっていた。その後、国鉄の輸送方式の大幅改善により輸送量の効率化が進み、1986年になると当駅管内の顧客側の古い荷受設備の改良(5tコンテナ用の荷役設備を、10t級コンテナ対応に改良)が進んでいったこともあり、主力荷主の三菱モンサント化成(登録当時の社名)系の菱成産業と、日通四日市支店の共同扱いで、四日市駅 - 土浦駅間の輸送量効率化を国鉄へ要望した。その結果、翌1987年1月には、それまでの私有コンテナ全形式においての最大総重量であった12.3t規制を緩和して、13.5tまでに引き上げて積載容量の増加した新形となる、UH5-5000番台式として初登場した20フィート級ホッパコンテナ、UH5-5001 - 5012 番までが初登録された。またこの20フィート級の大型コンテナを取り扱う貨物駅へと格上げされたことから、これまでと同様に使い勝手の悪い構内ではあるものの、古い5tホッパーコンテナを新形式のコンテナへ切り替えるために、今後増え続ける重量物コンテナ取り扱いに対応して、コンテナホームを含む敷地全体の、地盤強化等の工事がなされた。なお、この12個の登録以後の類似する形式認定はJR貨物に引き継がれ、ほぼ同時に行われた形式付与の変更によりコンテナ容量を形式の基礎とした複数の新形式となって、近年の主流となっている20フィート級の各種特殊コンテナでの輸送に随時切り替えられ、登録され続けている。
大量に扱い続けている旧式の国鉄10フィート形5t級のドライコンテナが、平成に入ってからは次々と淘汰され、やがてJRの新型12フィート形にすべて入れ替わっていった。この影響により、当然ながら個々のコンテナの容積拡大は僅かでも、扱う大量の5t級ドライコンテナすべてとなると、その増加面積も無視できなくなっている。また、同時に5t級の各種私有コンテナにおいても、ごく一部のタンクコンテナで使い続けられている10フィート形の事例を除き、ほぼすべての私有コンテナでも同じ様に一回り拡大されている。
さらに国鉄末期の各地のコンテナ駅では、タンクを除くほとんどのコンテナが私有も含めて、敷地の効率使用のために空コンの三段積みが常態化し、当駅でも5tまたは10tの区別無く日常的に行われていた。しかしその後の安全意識の変化や、近年の自然災害の勃発等を踏まえて、現在ではすべてにおいて二段積みに制限されたことや、さらに30フィート級の取り扱いもあり、年を追うごとに敷地不足は深刻になっている。しかし住宅街に囲まれた典型的な旧式環境のために、収納量を拡大させるための根本的な敷地面積の拡張等はほとんどされることもなく、現状では留置していた廃コンを廃棄したり、コンテナ置き場のレイアウトを変えたり、あるいは後述する一部のコンテナホームを潰したりなどでしのぎ続けて、今日に至っている。
ホームは地理的制約により、東西に2つの地区に分かれている。合計で4面のコンテナホームと、それに付随してコンテナ荷役線が5線ある。2020年7月25日閲覧の衛星画像によると、コンテナホームは在来線の駅舎に近い貨物駅敷地の最西側から、単式1面1線(ただし、以前は凹形の島式ホーム3面3線であったが、現在は凹形内側の2線を撤去して舗装している)で形成する「西側地区」と、西側地区の先端となる南側端を下がって貨車の検修庫を挟み、20フィートコンテナを抱えたフォークリフトが1台のみが通過できる数十メートル程度の細いリフト専用通路(構内標識で規制されている)を抜けて、国道23号線に面した海側となる「東側地区」に広がるV形面側1線と、凹内に3線(そのうち最東側面は、舗装面に入線のできる2線仕様)を組み合わせたコンテナホームの順に配置されている。
「西側地区」のホームは、荷役線に沿って古くから設置されているホーム全長の1/3ほどを占める屋根つきの荷捌き施設のほか、凹形内側の2線を撤去して地続きとなった敷地を利用して、海上コンテナや30フィート級コンテナの取り扱いと、関連する積載用トレーラー等の待機場として使用されている。またこのホームの北端(実質的には荷役線の終点側)に、フォークリフトの駐車場のほか、貨物駅の管理及び営業窓口のJR貨物四日市営業所と、中型トラック等の駐車場を挟んで日本トランスシティの営業所が線路に沿って、北方向(名古屋方面)へと一列に連なっている。さらに、道路を隔てた反対側には、日通四日市支店や、昭和の風情を残した日通所有の中規模倉庫が福数棟立ち並んでいる。
「東側地区」では、主に20フィート級のホッパ・タンク・無蓋(産廃輸送用コンテナ)をメインとして、大量に扱っている。かつては、大量に扱われていた新旧の5tホッパコンテナや、圧縮空気圧方式によるホッパコンテナ同様の化成品を運んでいたタンクコンテナ類は、そのほとんどをこの地区で取り扱っていた。この地区への出入り口は、国道23号線の上り側(名古屋方面)に敷地が南北に平行して面しており、場内一方通行式の入り口専用側と出口専用側の2箇所に分けてある。また出入り口側車線の反対側となる国道23号線の下り側(津市内向け)からも、国道を右折横断して直接出入りできるように国道の中央分離帯が2箇所とも出入り口位置に合わせて途切れているので、この地区への出入り環境は非常に良い。しかし、前記の「西側地区」へ移動する時は、出口側から国道へ左折して数百メートル先の次の信号交差点(四日市市中納屋町交差点)を左折し、直進後に当たる四日市駅北側の踏み切り手前左側にある、貨物駅への直接進入路となる一般道を通って、駅事務所のある「西側地区」へたどり着ける。なお、国道23号線から入ってきたこの一本道は、片側一車線ながらも四日市駅で分断された北部(四日市の中心部方面)へ通じる重要なルートであるために、踏切や街中といった環境や路幅の問題で、特に大型車泣かせの迂回路となっている。
以下は2014年(平成26年)3月改正時点の設定である。
「三重県統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。
2019年度の発送貨物は638,769トン、到着貨物は982,983トンであった。
駅舎・出口のある西側には街路樹のある中央通りがあり、駅裏の東側は四日市コンビナートの一帯となっている。
駅前広場内にあるバス乗り場から下記の系統が発着している。バス停留所名は「JR四日市」(三重交通)、「JR四日市駅前」(三岐鉄道)である。
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"text": "四日市駅(よっかいちえき)は、三重県四日市市本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)関西本線の駅である。駅番号はCJ11。",
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"text": "関西本線の運行形態の詳細は「関西線 (名古屋地区)」を参照。",
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"text": "本項では伊勢電気鉄道(後の近鉄名古屋線)がかつて設置していた四日市駅についても記述する。",
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"text": "四日市市の代表駅扱いされることもあるが、約1.2kmほど離れている近鉄四日市駅の乗車人員数は当駅の約10倍あり、大きな差がついている。三重県の北部や近鉄沿線地域では単に「四日市駅」と言った場合は近鉄四日市駅(あすなろう四日市駅を含む)を指し、当駅は俗に「JR四日市駅」とわざわざ「JR」を冠して呼ばれる。",
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"text": "商業地に位置する近鉄四日市駅に対し、当駅は工場群が立地する臨海部に位置している。これは当初から貨物輸送を想定しており、線路を港に隣接して敷設する必要があったためである。ただし、港湾施設は広範囲に及んでおり、石油コンビナートはかなり離れた所にある。",
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"text": "駅東方の四日市港まで日本貨物鉄道管轄の四日市港線2.5kmが伸びている。途中の千歳運河には国の重要文化財であり、現役唯一の可動鉄道橋の末広橋梁がある。また、南方の塩浜駅までは、関西本線貨物支線が伸びている。",
"title": "概要"
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"text": "駅構内の一部に「伊勢鉄道伊勢線」の表記があるが、当駅はあくまでJR関西本線への乗り入れ(直通運転)区間であり正確な案内ではない。",
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"text": "事務管コードは▲530812を使用している。",
"title": "概要"
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"text": "1890年、関西鉄道によって開設された。四日市は江戸時代には東海道が通り交通の要衝だったが、明治政府の鉄道計画から外れてしまったため、民間の関西鉄道が四日市で設立され、名古屋駅と草津駅を結ぶ鉄道が建設された。1907年、関西鉄道は国有化された。",
"title": "歴史"
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"text": "1920年、四日市港に貨物線が建設された。",
"title": "歴史"
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"text": "開業以来、車両工場を併設していたが、1924年に名古屋駅付近へ移転し、現在はJR東海名古屋工場・JR貨物名古屋車両所となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "1924年、伊勢電気鉄道(のち近鉄名古屋線)が国鉄駅に隣接して四日市駅を設置した。後に三重軌道より四日市市 - 諏訪間の線路敷を譲受して桑名へ路線を延伸した。 1956年に急曲線の解消と短絡を目的とした経路変更を行った。諏訪駅の西300mに新たな近鉄四日市駅を建設し(1973年に高架化)、国鉄併設駅は廃止となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "島式ホーム1面3線を持つ地上駅である。駅舎側から2番線、1番線の順になっている。また2番線の南方約50 m先を切り欠き、3番線としている。3番線は気動車を使用した伊勢鉄道直通の普通列車(当駅始発・終着)のみが使用し、架線は張られていない。ホームと駅舎は跨線橋で連絡している。名古屋方面からの当駅終着列車はホームに到着後、そのまま折り返して始発列車となる。多くは2番線を使用するが、一部は1番線で折り返す。また2番線が塞がっているときは、亀山・津方面からの直通列車も1番線に発着することがある。",
"title": "駅構造"
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"text": "駅構内・駅舎は広大であるが今では使われず閉鎖されている区画が多い。また、跨線橋にエレベーターやエスカレーターの設備がないなどバリアフリー対策が遅れていたが、2015年(平成27年)3月7日にエレベーターの供用が開始された。また、同時に1・2番線ホームに列車到着案内表示機が導入された。トイレは駅舎南側に設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "直営駅で、桑名駅が当駅を管理しており、駅長は存在しない。早朝深夜時間帯に加えて、昼間でも短時間ではあるがJR全線きっぷうりばや出札口が閉まっている時間帯がある。当該時間帯におけるワンマンの場合の運賃精算方法は長島駅以西の無人駅に準ずる。",
"title": "駅構造"
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"text": "なお、2012年3月31日までは、平日・土曜の昼間は駅内にあるJR東海ツアーズでも磁気定期券を含むJR乗車券類が購入可能であった。自動券売機は深夜帯に使用停止となる。無人の時間帯がある事から、自動改札機は扉なしの簡易型である。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "TOICAなどの交通系ICカードは河原田駅より先の伊勢鉄道線(津方面)は利用できない。尚、快速みえ号、特急南紀号は境界駅の河原田駅を通過する関係でICカードで乗車できる区間は事実上、名古屋駅 - 当駅間のみに限られる。",
"title": "駅構造"
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"text": "伊勢鉄道では、伊勢鉄道線直通普通列車を利用するときに名古屋方面からICカードで乗車した場合、当駅で一旦出場した上で、連絡乗車券購入を推奨している。なお名古屋駅又は八田駅から当駅までICカード、当駅から伊勢鉄道線の駅までは紙の乗車券と区切って乗車した場合、当駅は境界駅ではないにもかかわらず、JR側の特定運賃の影響でむしろ安くなる。伊勢鉄道線直通列車でも、JR線内の当駅 - 河原田駅間のみを乗車する場合はICカードを使用できる。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "伊勢鉄道線から乗り入れる普通列車は当駅でも車内収受であり、名古屋方面へ乗り換える際は運転士から連絡乗車券を発売される。また当駅下車の場合は「精算券」を渡される。逆に、名古屋・亀山方面のワンマン列車から伊勢鉄道線直通列車に乗り換える場合は、名古屋方面からの列車を降りる際に車内精算し、「精算済証明書」を受領してから乗り換える(乗車券を持っている場合を除く)。",
"title": "駅構造"
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"text": "四日市駅は、コンテナ貨物と車扱貨物の取扱駅である。",
"title": "貨物駅"
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"text": "駅構内北端からコスモ石油専用線が分岐し、本線東側に沿って北上する。専用線の終端、三滝川付近に同社四日市製油所のタンク車用石油荷役線が4本あり、石油製品の積み込みが行われている。荷役を終えたタンク車はJR貨物のディーゼル機関車により発送される。空車の受取は日本通運が保有する小型ディーゼル機関車が行う。",
"title": "貨物駅"
},
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"text": "駅構内南端からは旧四日市港駅へ向かう側線が分岐する。前述の末広橋梁の先にある着発線は北側で再度分岐し、太平洋セメント専用線が接続する。専用線の終端には太平洋セメント藤原工場四日市出荷センターのセメント荷役設備があり、入換作業は太平洋セメントが保有するディーゼル機関車が行う。",
"title": "貨物駅"
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"text": "構内には複数の留置線が敷設されている他、愛知機関区四日市支区の貨車検修線2本・検修庫1棟がある。この検修基地では、四日市周辺で運用されるコンテナ車や石油輸送用タンク車、炭酸カルシウム輸送用ホッパ車などの点検を行っている。石油輸送用タンク車の常備駅にも指定されており、当駅と塩浜駅で分担して配置されている。",
"title": "貨物駅"
},
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"text": "コンテナ貨物は、JR規格の12フィート・20フィート・30フィートコンテナ、ISO規格の20フィート・40フィート海上コンテナを取り扱っている。主な輸送品目は化学薬品・食品・清涼飲料水などである。また産業廃棄物・特別管理産業廃棄物の取扱許可を得ており、これらが入ったコンテナも発着している。",
"title": "貨物駅"
},
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"text": "車扱貨物は、コスモ石油専用線のガソリン・重油などの石油類、太平洋セメント専用線のセメントを取り扱っている。石油類は、当駅からタンク車で南松本駅(日本オイルターミナル松本営業所)へ発送される。セメントは、太平洋セメント藤原工場で生産され、三岐鉄道東藤原駅から当駅まで輸送される。太平洋セメント専用線では骨材も取り扱っていたが、2012年2月29日を最後に輸送を終了した。",
"title": "貨物駅"
},
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"paragraph_id": 25,
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"text": "当駅でのコンテナ取り扱いは、元々旧、国鉄所有の5t積み小型コンテナ限定駅として始まった。ゆえに、すべてのコンテナホームの荷役線が短いために、1線につき 6 - 7両程度のコンテナ車しか収容できず、ある程度編成の長くなる当駅を基点とした発着便では、いわゆる一列車を細切れにする分割荷役が避けられないという現状である。このために当然のことながらコンテナ列車の入れ替え作業が多くなる分、一編成を一括で荷役できるように効率よく整備されたほかの駅と比べて、コンテナの持込や引取りのできる開始や、締め切り時間がやや制限される面は避けられない。また後述する、コンテナホームが二つに分かれた区画を繋ぐ唯一の構内通路は、基本的に積載トラックは構内規制で通行禁止になっているため、各々一度敷地外へ出て、住宅が密集し、さらには近くの踏み切りや車両通行量の関係で、日常的に混雑している狭い一般道路を迂回しなければならない。",
"title": "貨物駅"
},
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"text": "前記の様に、使い勝手の悪い比較的小規模な貨物駅構造ながらも、地理的には「四日市ぜんそく」という公害被害を生むほど化学系のコンビナートとしての重要性から、各種のコンテナを駆使して、昼夜を問わずコンビナートから生みだされている多種多彩な製品を今日においても、その重要性は変わる事無く輸送し続けている。この環境下で、化成品を扱う私有コンテナの一種である5t積みホッパコンテナの UH1形においては、1971年5月に初登録された第一号が、日本通運四日市支店所有・三菱モンサント化成借受として登録された。さらにその後にもこのホッパコンテナは、同グループによる追加登録は無論、そのほかの複数の企業からも時には40個を超える(旭ダウ社登録での事例)など、大量に登録され続けた。",
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"text": "また特記事項として、5t積み私有タンクコンテナの一種であるUT1形においては、タンクコンテナのそれまでの常識であった液体輸送ではなく、圧縮空気圧によるホッパコンテナ同様の粒状または、粉末状の化成品輸送を国鉄公認のタンクコンテナでは始めてのケースとして、やはり日本通運四日市支店所有・三菱モンサント化成借受として、UT1-142 - 149までが登録された。なお、このタンクコンテナの裏技輸送事例は、続くUT1形の中で複数のユーザにより登録されたり、その後の鉄道私有タンクコンテナにおいて今日では一般化している、20フィート級タンクコンテ輸送への応用技としても大きく発展している。変り種として私有冷蔵コンテナのUR1形では、日東電工所有としてわずか2個ではあるが、温度に繊細な製品輸送に登録される等、四日市駅で取り扱う特殊コンテナとして各種の私有コンテナが活発に登録され続けた。",
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"text": "駅前広場内にあるバス乗り場から下記の系統が発着している。バス停留所名は「JR四日市」(三重交通)、「JR四日市駅前」(三岐鉄道)である。",
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四日市駅(よっかいちえき)は、三重県四日市市本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)関西本線の駅である。駅番号はCJ11。 関西本線の運行形態の詳細は「関西線 (名古屋地区)」を参照。 本項では伊勢電気鉄道(後の近鉄名古屋線)がかつて設置していた四日市駅についても記述する。
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{{出典の明記|date=2017年6月}}
{{Otheruseslist|JR東海の'''四日市駅'''|近畿日本鉄道および四日市あすなろう鉄道の駅|近鉄四日市駅|同名を名乗っていた大分県にある駅|豊前善光寺駅}}
{{駅情報
|社色 = #f77321
|文字色 =
|駅名 = 四日市駅
|画像 = JR Central Yokkaichi Station building, Mie Pref.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2023年7月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|34|57|47.1|N|136|37|46.7|E}}}}
|よみがな = よっかいち
|ローマ字 = Yokkaichi
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東海旅客鉄道]](JR東海)
* [[日本貨物鉄道]](JR貨物)}}
|電報略号 = ヨカ
|乗入路線数 = 3
|所属路線1 = {{JR海駅番号|CJ}} [[関西本線]]([[関西線 (名古屋地区)|名古屋地区]])<br />([[伊勢鉄道伊勢線]]直通含む)
|前の駅1 = CJ10 [[富田浜駅|富田浜]]
|駅間A1 = 4.2
|駅間B1 = 3.2
|次の駅1 = [[南四日市駅|南四日市]] CJ12
|キロ程1 = 37.2
|駅番号 = {{JR海駅番号|CJ|11}}
|起点駅1 = [[名古屋駅|名古屋]]
|所属路線2 = 関西本線(貨物支線)
|隣の駅2 =
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 3.3
|次の駅2 = [[塩浜駅|塩浜]]
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 四日市
|所在地 = [[三重県]][[四日市市]]本町3-85
|座標 = {{coord|34|57|47.1|N|136|37|46.7|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面3線
|開業年月日 = [[1890年]]([[明治]]23年)[[12月25日]]{{sfn|石野|1998|p=337}}
|乗車人員 = 2,286
|乗降人員 =
|統計年度 = 2019年
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅駅|直営駅]]
* [[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]] 有}}
}}
{{駅情報
|社色 = #ccc
|文字色 = #000
|駅名 = 四日市駅
|画像 =
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|画像説明 =
|よみがな = よっかいち
|ローマ字 = Yokkaichi
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|駅間A =
|駅間B = 2.5
|次の駅 = [[四日市港駅|四日市港]]
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|駅構造 =
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|開業年月日 = [[1920年]](大正9年)[[12月21日]]{{sfn|石野|1998|p=346}}
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'''四日市駅'''(よっかいちえき)は、[[三重県]][[四日市市]]本町にある、[[東海旅客鉄道]](JR東海)・[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[関西本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング#JR東海|駅番号]]は'''CJ11'''。
関西本線の運行形態の詳細は「[[関西線 (名古屋地区)]]」を参照。
本項では[[伊勢電気鉄道]](後の[[近鉄名古屋線]])がかつて設置していた四日市駅についても記述する。
== 概要 ==
[[四日市市]]の代表駅扱いされることもあるが、約1.2kmほど離れている[[近鉄四日市駅]]の乗車人員数は当駅の約10倍あり、大きな差がついている。[[三重県]]の北部や近鉄沿線地域では単に「四日市駅」と言った場合は[[近鉄四日市駅]](あすなろう四日市駅を含む)を指し<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/426127?rct=mie ウクライナ侵攻、横断幕掲げ抗議 四日市駅前で市民団体] - 「四日市駅前」と見出しにあるが本文を読むと当駅ではなく近鉄四日市駅を指すことがわかる中日新聞記事の例。</ref>、当駅は俗に「JR四日市駅」とわざわざ「[[JR]]」を冠して呼ばれる。
商業地に位置する近鉄四日市駅に対し、当駅は工場群が立地する臨海部に位置している。これは当初から貨物輸送を想定しており、線路を港に隣接して敷設する必要があったためである。ただし、港湾施設は広範囲に及んでおり、[[石油コンビナート]]はかなり離れた所にある。
駅東方の[[四日市港]]まで[[日本貨物鉄道]]管轄の四日市港線2.5kmが伸びている。途中の千歳運河には国の重要文化財であり、現役唯一の可動鉄道橋の[[末広橋梁]]がある。また、南方の[[塩浜駅]]までは、関西本線貨物支線が伸びている。
駅構内の一部に「[[伊勢鉄道伊勢線]]」の表記があるが、当駅はあくまでJR関西本線への乗り入れ([[直通運転]])区間であり正確な案内ではない。
[[事務管理コード|事務管コード]]は▲530812を使用している<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。
== 歴史 ==
[[ファイル:Yokkaichi hist map.png|thumb|近鉄路線変更前後の四日市駅付近]]
1890年、[[関西鉄道]]によって開設された。四日市は江戸時代には[[東海道]]が通り交通の要衝だったが、明治政府の鉄道計画から外れてしまったため、民間の関西鉄道が四日市で設立され、[[名古屋駅]]と[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]を結ぶ鉄道が建設された。1907年、関西鉄道は国有化された。
1920年、[[四日市港]]に貨物線が建設された。
開業以来、車両工場を併設していたが、1924年に名古屋駅付近へ移転し、現在は[[東海旅客鉄道名古屋工場|JR東海名古屋工場・JR貨物名古屋車両所]]となっている。
1924年、[[伊勢電気鉄道]](のち[[近鉄名古屋線]])が国鉄駅に隣接して四日市駅を設置した。後に三重軌道より四日市市 - 諏訪間の線路敷を譲受して桑名へ路線を延伸した。<br />
1956年に急曲線の解消と短絡を目的とした経路変更を行った。諏訪駅の西300mに新たな[[近鉄四日市駅]]を建設し(1973年に高架化)、国鉄併設駅は廃止となった。
=== 年表 ===
* [[1890年]]([[明治]]23年)[[12月25日]]:[[関西鉄道]]が[[柘植駅]]から延伸した際の終着駅([[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]])として開業{{sfn|石野|1998|p=337}}。
* [[1894年]](明治27年)[[7月5日]]:当駅から桑名仮停車場まで路線延伸。途中駅となる。
* [[1907年]](明治40年)[[10月1日]]:[[鉄道国有法|国有化]]{{sfn|石野|1998|p=337}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:線路名称制定。関西本線の所属となる<ref>{{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=8 |title=関西本線・草津線・奈良線・おおさか東線 |date=2009-08-30 |page=13 }}</ref>。
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[12月25日]]:三重軌道 四日市市駅 - 諏訪前駅間が開業([[四日市あすなろう鉄道内部線]]の前身)。
* [[1916年]](大正5年)[[3月3日]]<!--官報によると開業は3月5日-->:四日市鉄道 四日市駅 - 諏訪駅間が開業<ref group="官報" name="NDL2953195/6">{{国立国会図書館のデジタル化資料|2953195/6|官報 1916年03月16日}}</ref>([[近鉄湯の山線]]の前身)。[[1919年]](大正8年)までに四日市市駅に改称。
* [[1920年]](大正9年)[[12月21日]]:四日市港駅までの関西本線貨物支線が開業{{sfn|石野|1998|p=346}}。
* [[1924年]](大正13年)
** [[3月1日]]:伊勢鉄道(のちの[[伊勢電気鉄道]])の新四日市駅開業(近鉄名古屋線の前身)。
** [[10月1日]]:伊勢鉄道 新四日市駅を四日市駅に改称。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[11月29日]]:四日市鉄道 四日市市駅 - 諏訪駅間廃止。
* [[1928年]](昭和3年)[[1月29日]]:三重鉄道 四日市市駅 - 諏訪前駅間廃止。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:[[塩浜駅]]までの関西本線貨物支線が開業{{sfn|石野|1998|p=346}}。
* [[1952年]](昭和27年)[[12月1日]]:四日市駅から[[三岐鉄道]][[三岐鉄道三岐線|三岐線]]へ直通する旅客列車が運行開始。
* [[1956年]](昭和31年)[[9月23日]]:[[近鉄名古屋線]]が経路変更。[[海山道駅]] - 四日市駅 - 諏訪駅(現在の近鉄四日市駅)間廃止。
* [[1960年]](昭和35年)[[2月28日]]:跨線橋が完成。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:三岐線直通旅客列車が廃止。
* [[1967年]](昭和42年)[[9月30日]]:コンテナ列車「ゆたか号」運航開始。四日市駅と[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]を結んだ。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:[[寝台列車|寝台特急]]「[[紀伊_(列車)|紀伊]]」が廃止。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:四日市駅 - 四日市港駅間が廃止{{sfn|石野|1998|p=346}}<ref>{{Cite news |title=国鉄線4区間の貨物営業廃止を軽微認定 運輸審議会 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1985-02-02 |page=1 }}</ref>(路線自体は現在もJR貨物の側線として存続)。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]:[[チッキ|荷物]]の取扱を廃止{{sfn|石野|1998|p=337}}。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる{{sfn|石野|1998|p=337}}{{sfn|石野|1998|p=346}}。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[3月10日]]:快速「[[みえ_(列車)|みえ]]」運転開始<ref name="JR-C20th88">{{Cite|和書|title=東海旅客鉄道20年史|date=2007|publisher=東海旅客鉄道|pages=88}}</ref>。「ホームライナーみえ」「[[伊勢路_(列車)|伊勢路]]」廃止。
* [[1998年]](平成10年)[[2月14日]]:[[自動改札機]]を導入<ref>{{Cite web|和書|title=NEWS SUMMARY 1998年2月|url=http://jrc-nagoya.sakura.ne.jp/newssummary/1998-02.html|publisher=[[鉄道友の会]] 名古屋支部|accessdate=2017-05-31}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)
** 3月18日:急行列車「[[かすが_(列車)|かすが]]」が廃止される<ref group="広報" name="jrw_20051222">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20060215012716/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/051222b_01.pdf 平成18年春のダイヤ改正(別紙詳細)]}}([[インターネットアーカイブ]]) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年12月22日</ref>。
** [[11月25日]]:[[名古屋駅]]方面において[[ICカード]]「[[TOICA]]」の利用が可能となる。
* [[2012年]](平成24年)[[3月31日]]:構内のJR東海ツアーズ四日市店閉店。
* [[2015年]](平成27年)[[3月7日]]:エレベーター及び多機能トイレ、出入口スロープ等[[バリアフリー]]設備が完成し供用開始<ref group="広報" name="pr20150306">{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000025833.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201223070041/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000025833.pdf|format=PDF|language=日本語|title=関西本線 四日市駅エレベーター等使用開始について|publisher=東海旅客鉄道|date=2015-03-06|accessdate=2020-12-23|archivedate=2020-12-23}}</ref><ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu87658.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923112012/http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu87658.html|language=日本語|title=JR四日市駅におけるエレベーター等の供用開始について|publisher=四日市市|date=2015-03-06|accessdate=2020-12-23|archivedate=2015-09-23}}</ref><ref name="chunichi201537">{{Cite news|title=エレベーターを整備 JR四日市駅 多機能トイレも|newspaper=[[中日新聞]]|date=2015-03-07|author=吉岡雅幸|publisher=中日新聞社|page=朝刊 北勢版 22}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月2日]]:[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]方面においてICカード「TOICA」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000039002.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201219170453/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000039002.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「TOICA」のサービス拡充について 〜2019年3月2日(土)からご利用エリアを拡大します!〜|publisher=東海旅客鉄道|date=2018-12-12|accessdate=2020-12-23|archivedate=2020-12-19}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面3線を持つ[[地上駅]]である。駅舎側から2番線、1番線の順になっている。また2番線の南方約50 m先を切り欠き、3番線としている。3番線は[[気動車]]を使用した伊勢鉄道直通の普通列車(当駅始発・終着)のみが使用し、架線は張られていない。ホームと駅舎は[[跨線橋]]で連絡している<ref name="jr-central/yokkaichi/map" />。名古屋方面からの当駅終着列車はホームに到着後、そのまま折り返して始発列車となる。多くは2番線を使用するが、一部は1番線で折り返す。また2番線が塞がっているときは、[[亀山駅 (三重県)|亀山]]・[[津駅|津]]方面からの直通列車も1番線に発着することがある<ref name="Yokkaichi_B_wh_u"/>。
駅構内・駅舎は広大であるが今では使われず閉鎖されている区画が多い。また、跨線橋にエレベーターやエスカレーターの設備がないなど[[バリアフリー]]対策が遅れていたが<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000018698.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181122172147/http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000018698.pdf|format=PDF|language=日本語|title=駅のバリアフリー化進捗について|publisher=東海旅客鉄道|date=2013-06-12|accessdate=2020-12-23|archivedate=2018-11-22}}</ref>、[[2015年]](平成27年)[[3月7日]]にエレベーターの供用が開始された<ref group="広報" name="pr20150306"/><ref name="chunichi201537"/>。また、同時に1・2番線ホーム<!--3番線は写真を見る限りない。-->に列車到着案内表示機が導入された。[[便所|トイレ]]は駅舎南側に設置されている。
[[日本の鉄道駅#直営駅駅|直営駅]]で、[[桑名駅]]が当駅を管理しており、駅長は存在しない。早朝深夜時間帯に加えて、昼間でも短時間ではあるが[[みどりの窓口|JR全線きっぷうりば]]や出札口が閉まっている時間帯がある。{{要出典範囲|当該時間帯における[[ワンマン運転|ワンマン]]の場合の運賃精算方法は長島駅以西の無人駅に準ずる。|title=全扉開閉のようにも思いますが、出典お願いします。|date=2023-01-11}}
なお、2012年3月31日までは、平日・土曜の昼間は駅内にある[[ジェイアール東海ツアーズ|JR東海ツアーズ]]でも磁気定期券を含むJR乗車券類が購入可能であった。[[自動券売機]]は深夜帯に使用停止となる。無人の時間帯がある事から、自動改札機は扉なしの簡易型である。
TOICAなどの交通系ICカードは河原田駅より先の伊勢鉄道線(津方面)は利用できない。尚、快速みえ号、特急南紀号は[[境界駅]]の河原田駅を通過する関係でICカードで乗車できる区間は事実上、名古屋駅 - 当駅間のみに限られる。
伊勢鉄道では、伊勢鉄道線直通普通列車を利用するときに名古屋方面からICカードで乗車した場合、当駅で一旦出場した上で、連絡乗車券購入を推奨している<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220721132929/http://www.isetetu.co.jp/IC/|url=http://www.isetetu.co.jp/IC/|archivedate=2022-07-21|accessdate=2023-01-08|date=|title=伊勢鉄道ではICカード乗車券はご利用になれません|publisher=伊勢鉄道}}</ref>。なお名古屋駅又は[[八田駅]]から当駅までICカード、当駅から伊勢鉄道線の駅までは紙の乗車券と区切って乗車した場合、当駅は境界駅ではないにもかかわらず、JR側の特定運賃の影響でむしろ安くなる{{refnest|group="注釈"|名古屋駅 - [[蟹江駅]]間の各駅と当駅間の大人片道運賃は、2023年1月現在、480円に特定されている<ref name="JRjikoku202301-950">{{Cite journal|和書 |date=2023-01 |journal=JR時刻表 |issue=717 |volume=|number=|page=950 |publisher=交通新聞社 }}</ref>。そのため、名古屋駅又は八田駅 - 河原田駅間の運賃は、通しで購入した場合770円<ref name="JRjikoku202301-212-931">{{Cite journal|和書 |date=2023-01 |journal=JR時刻表 |issue=717 |volume=|number=|pages=212頁及び931頁 |publisher=交通新聞社 }}</ref>、当駅で分割した場合680円となる<ref name="JRjikoku202301-212-931"/>。}}。伊勢鉄道線直通列車でも、JR線内の当駅 - 河原田駅間のみを乗車する場合はICカードを使用できる。
伊勢鉄道線から乗り入れる普通列車は当駅でも車内収受であり、名古屋方面へ乗り換える際は運転士から連絡乗車券を発売される。また当駅下車の場合は「精算券」を渡される。逆に、名古屋・亀山方面のワンマン列車から伊勢鉄道線直通列車に乗り換える場合は、名古屋方面からの列車を降りる際に車内精算し、「精算済証明書」を受領してから乗り換える(乗車券を持っている場合を除く)。
=== のりば ===
<!--関西本線の方面表記は、JR東海の「駅構内図」の記載に準拠(伊勢鉄道の方面表記はJR東海の「駅構内図」には未記載)-->
{| class="wikitable"
!番線<!--事業者側による呼称--->!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="3"|{{JR海駅番号|CJ}} 関西本線
|style="text-align:center;"|下り
|[[亀山駅 (三重県)|亀山]]・[[松阪駅|松阪]]方面<ref name="jr-central/yokkaichi/map">{{Cite web|和書|url=https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/yokkaichi/map.html|title=四日市駅|JR東海|publisher=東海旅客鉄道|accessdate=2022-07-12}}</ref>
|伊勢鉄道線直通の特急・快速列車を含む<ref name="Yokkaichi_B_wh_d">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230111143005/https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/202203/kansai_Yokkaichi_B_wh_d.pdf|url=https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/202203/kansai_Yokkaichi_B_wh_d.pdf|format=pdf|title=四日市駅 関西線時刻表 亀山・松阪方面(2022年3月12日改正)|publisher=東海旅客鉄道|accessdate=2023-01-11|archivedate=2023-01-11|date=2022-03-12}}</ref>
|-
!2
|style="text-align:center;"|上り
|[[桑名駅|桑名]]・[[名古屋駅|名古屋]]方面<ref name="jr-central/yokkaichi/map" />
|一部の上り列車は1番線<ref name="Yokkaichi_B_wh_u">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230111141900/https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/202203/kansai_Yokkaichi_B_wh_u.pdf|url=https://railway.jr-central.co.jp/time-schedule/srch/_pdf/data/202203/kansai_Yokkaichi_B_wh_u.pdf|format=pdf|title=四日市駅 関西線時刻表 名古屋方面(2022年3月12日改正)|publisher=東海旅客鉄道|accessdate=2023-01-11|archivedate=2023-01-11|date=2022-03-12}}</ref>
|-
!3
|style="text-align:center;"|下り
|[[津駅|津]]方面
|伊勢鉄道線直通の普通列車
|}
* 3番線には「伊勢鉄道のりば」と記載された案内標識があるが、二つ先の河原田駅までJR関西本線であるため、伊勢鉄道線直通普通列車の意味である。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
JR Central Yokkaichi Station Gate, Mie Pref.jpg|改札口と切符売り場(2023年7月)
JR Central Yokkaichi Station Platform 1・2, Mie Pref.jpg|1・2番線ホーム(2023年7月)
Yokkaichi Station Platform Rapid Mie_20220630.jpg|2・3番線ホーム。奥側が3番線ホーム(2022年6月)
</gallery>
== 貨物駅 ==
[[ファイル:JRF Yokkaichi.JPG|thumb|JR貨物四日市営業所(2007年3月)]]
四日市駅は、[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ貨物]]と[[車扱貨物]]の取扱駅である。
=== 車扱施設 ===
[[ファイル:Yokkaichi-oil-sw.jpg|thumb|コスモ石油専用線の貨物列車(2009年)]]
[[ファイル:OD45_Yokkaichi-port.jpg|thumb|四日市港の太平洋セメント入換機(2008年)]]
駅構内北端から[[コスモ石油]]専用線が分岐し、本線東側に沿って北上する。専用線の終端、[[三滝川]]付近に同社四日市製油所のタンク車用石油荷役線が4本あり、[[石油]]製品の積み込みが行われている。荷役を終えたタンク車はJR貨物の[[ディーゼル機関車]]により発送される。空車の受取は[[日本通運]]が保有する小型ディーゼル機関車が行う。
駅構内南端からは旧四日市港駅へ向かう側線が分岐する。前述の[[末広橋梁]]の先にある着発線は北側で再度分岐し、[[太平洋セメント]]専用線が接続する。専用線の終端には太平洋セメント藤原工場四日市出荷センターの[[セメント]]荷役設備があり、入換作業は太平洋セメントが保有するディーゼル機関車が行う。
構内には複数の留置線が敷設されている他、[[愛知機関区]]四日市支区<ref name="rp798">『[[鉄道ピクトリアル]]』2008年1月号(No.798)pp.28-30</ref>の貨車検修線2本・検修庫1棟がある。この検修基地では、四日市周辺で運用される[[コンテナ車]]や石油輸送用[[タンク車]]、[[炭酸カルシウム]]輸送用[[ホッパ車]]などの点検を行っている。石油輸送用タンク車の常備駅にも指定されており、当駅と塩浜駅で分担して配置されている。
=== 取扱う貨物の種類 ===
コンテナ貨物は、JR規格の12[[フィート]]・20フィート・30フィートコンテナ、[[国際標準化機構|ISO規格]]の20フィート・40フィート[[海上コンテナ]]を取り扱っている。主な輸送品目は化学薬品・食品・清涼飲料水などである。また[[産業廃棄物|産業廃棄物・特別管理産業廃棄物]]の取扱許可を得ており、これらが入ったコンテナも発着している。
車扱貨物は、コスモ石油専用線のガソリン・重油などの石油類、太平洋セメント専用線のセメントを取り扱っている。石油類は、当駅からタンク車で[[南松本駅]]([[日本オイルターミナル]]松本営業所)へ発送される。セメントは、太平洋セメント藤原工場で生産され、[[三岐鉄道]][[東藤原駅]]から当駅まで輸送される。太平洋セメント専用線では骨材も取り扱っていたが、[[2012年]][[2月29日]]を最後に輸送を終了した。
=== コンテナ貨物の今昔 ===
当駅でのコンテナ取り扱いは、元々旧、[[日本国有鉄道|国鉄]]所有の5t積み小型コンテナ限定駅として始まった。ゆえに、すべてのコンテナホームの荷役線が短いために、1線につき 6 - 7両程度の[[コンテナ車]]しか収容できず、ある程度編成の長くなる当駅を基点とした発着便では、いわゆる一列車を細切れにする分割荷役が避けられないという現状である。このために当然のことながらコンテナ列車の入れ替え作業が多くなる分、一編成を一括で荷役できるように効率よく整備されたほかの駅と比べて、コンテナの持込や引取りのできる開始や、締め切り時間がやや制限される面は避けられない。また後述する、コンテナホームが二つに分かれた区画を繋ぐ唯一の構内通路は、基本的に積載トラックは構内規制で通行禁止になっているため、各々一度敷地外へ出て、住宅が密集し、さらには近くの踏み切りや車両通行量の関係で、日常的に混雑している狭い一般道路を迂回しなければならない。
==== 化成品と共に ====
[[ファイル:UH1-694 【化成物流】.jpg|thumb|[[化成物流]](当時の社名)所有の私有5t積み、UH1-694 ホッパコンテナの荷役風景。<br />左側の背後には、10t積みホッパコンテナが3段積みされている。<br />(1995年5月)<br />四日市駅東側地区にて。]]
[[ファイル:UH5-5001 【化成物流】.jpg|thumb|化成物流(当時の社名)所有の10t積み、UH5-5001 ホッパコンテナの風景。<br />総重量増加のホッパコンテナで、初めて新形式登録されている。<br />(1995年5月)四日市駅にて。]]
前記の様に、使い勝手の悪い比較的小規模な貨物駅構造ながらも、地理的には「[[四日市ぜんそく]]」という公害被害を生むほど化学系の[[コンビナート]]としての重要性から、各種のコンテナを駆使して、昼夜を問わずコンビナートから生みだされている多種多彩な製品を今日においても、その重要性は変わる事無く輸送し続けている。この環境下で、[[化成品]]を扱う[[私有コンテナ]]の一種である5t積み[[海上コンテナ#バルク・コンテナ|ホッパコンテナ]]の [[UH1形]]においては、[[1971年]]5月に初登録された第一号が、[[日本通運]]四日市支店所有・[[三菱モンサント化成]]借受として登録された。さらにその後にもこのホッパコンテナは、同グループによる追加登録は無論、そのほかの複数の企業からも時には40個を超える([[旭ダウ]]社登録での事例)など、大量に登録され続けた。
また特記事項として、5t積み私有[[海上コンテナ#タンク・コンテナ|タンクコンテナ]]の一種である[[国鉄UT1形コンテナ|UT1形]]においては、タンクコンテナのそれまでの常識であった液体輸送ではなく、圧縮空気圧によるホッパコンテナ同様の粒状または、粉末状の化成品輸送を国鉄公認のタンクコンテナでは始めてのケースとして、やはり日本通運四日市支店所有・三菱モンサント化成借受として、UT1-142 - 149までが登録された。なお、このタンクコンテナの裏技輸送事例は、続くUT1形の中で複数のユーザにより登録されたり、その後の鉄道私有タンクコンテナにおいて今日では一般化している、20[[フィート]]級タンクコンテ輸送への応用技としても大きく発展している。変り種として私有[[日本のコンテナ輸送#冷蔵コンテナ|冷蔵コンテナ]]の[[UR1形]]では、[[日東電工]]所有としてわずか2個ではあるが、温度に繊細な製品輸送に登録される等、四日市駅で取り扱う特殊コンテナとして各種の私有コンテナが活発に登録され続けた。
しかし、それまでの主力であった、UH1形ホッパコンテナでの当駅への出入りに関連する新規登録が、その後に[[日本国有鉄道|国鉄]]の経営混乱による度重なった運賃値上げやダイヤの遅延の多発に加えて、経済動向の劇的な停滞などが重なり、[[1981年]]を最後についに途絶えてしまった。この影響により、それまで大量に扱われてきた輸送容量効率の悪いホッパ・タンクの各5tコンテナは、国鉄末期近くでは一部の比較的新しい登録の個体を除く大多数の個体が登録後、10年以上も酷使され続けたために、特に構造の弱かった[[1970年]]代に大量登録された、5tホッパコンテナの老朽化問題は深刻になっていた。その後、国鉄の輸送方式の大幅改善により輸送量の効率化が進み、[[1986年]]になると当駅管内の顧客側の古い荷受設備の改良(5tコンテナ用の荷役設備を、10t級コンテナ対応に改良)が進んでいったこともあり、主力荷主の三菱モンサント化成(登録当時の社名)系の[[菱成産業]]と、日通四日市支店の共同扱いで、四日市駅 - [[土浦駅]]間の輸送量効率化を国鉄へ要望した。その結果、翌[[1987年]][[1月]]には、それまでの私有コンテナ全形式においての最大総重量であった12.3t規制を緩和して、13.5tまでに引き上げて積載容量の増加した新形となる、UH5-5000番台式として初登場した20フィート級ホッパコンテナ、UH5-5001 - 5012 番までが初登録された。またこの20フィート級の大型コンテナを取り扱う貨物駅へと格上げされたことから、これまでと同様に使い勝手の悪い構内ではあるものの、古い5tホッパーコンテナを新形式のコンテナへ切り替えるために、今後増え続ける重量物コンテナ取り扱いに対応して、コンテナホームを含む敷地全体の、地盤強化等の工事がなされた。なお、この12個の登録以後の類似する形式認定はJR貨物に引き継がれ、ほぼ同時に行われた形式付与の変更によりコンテナ容量を形式の基礎とした複数の新形式となって、近年の主流となっている20フィート級の各種特殊コンテナでの輸送に随時切り替えられ、登録され続けている。
==== コンテナの変化による用地問題 ====
[[ファイル:UT3C-18.jpg|thumb|[[三菱化学物流]]所有の新形式で登録された5t積み、UT3C-18 危険物用、タンクコンテナの二段積風景。<br />危険物輸送の安全対策で設けられた、サイコロ状の防護枠を備えているので、空コン時限定で二段積みができる。<br />(2019年5月)四日市駅にて。]][[ファイル:UH17A-5023 【化成物流】.jpg|220px|thumb|化成物流(当時の社名)所有の新形式で登録された10t積み、UH17A-5023 ホッパコンテナの風景。<br />左側の背後には、各種の5t積みコンテナが3段積みされている。<br />(1995年5月)四日市駅にて。]]
[[ファイル:UH19A-7 【三菱油化】.jpg|thumb|[[三菱油化]](当時の社名)所有の新形式で登録された10t積み、UH19A-7 ホッパコンテナの風景。<br />左側の背後には、10t積みホッパコンテナが3段積みされている。<br />(1995年5月)四日市駅にて。]]
大量に扱い続けている旧式の国鉄10フィート形5t級の[[日本のコンテナ輸送#ドライ・コンテナ|ドライコンテナ]]が、[[平成]]に入ってからは次々と淘汰され、やがてJRの新型12フィート形にすべて入れ替わっていった。この影響により、当然ながら個々のコンテナの容積拡大は僅かでも、扱う大量の5t級ドライコンテナすべてとなると、その増加面積も無視できなくなっている。また、同時に5t級の各種私有コンテナにおいても、ごく一部のタンクコンテナで使い続けられている10フィート形の事例を除き、ほぼすべての私有コンテナでも同じ様に一回り拡大されている。
さらに国鉄末期の各地のコンテナ駅では、タンクを除くほとんどのコンテナが私有も含めて、敷地の効率使用のために空コンの三段積みが常態化し、当駅でも5tまたは10tの区別無く日常的に行われていた。しかしその後の安全意識の変化や、近年の自然災害の勃発等を踏まえて、現在ではすべてにおいて二段積みに制限されたことや、さらに30フィート級の取り扱いもあり、年を追うごとに敷地不足は深刻になっている。しかし住宅街に囲まれた典型的な旧式環境のために、収納量を拡大させるための根本的な敷地面積の拡張等はほとんどされることもなく、現状では留置していた廃コンを廃棄したり、コンテナ置き場のレイアウトを変えたり、あるいは後述する一部のコンテナホームを潰したりなどでしのぎ続けて、今日に至っている。
==== 東西に分かれるコンテナホーム ====
ホームは地理的制約により、東西に2つの地区に分かれている。合計で4面のコンテナホームと、それに付随してコンテナ荷役線が5線ある。[[2020年]][[7月25日]]閲覧の衛星画像によると、コンテナホームは在来線の駅舎に近い貨物駅敷地の最西側から、[[単式ホーム|単式]]1面1線(ただし、以前は凹形の島式ホーム3面3線であったが、現在は凹形内側の2線を撤去して舗装している)で形成する「西側地区」と、西側地区の先端となる南側端を下がって貨車の検修庫を挟み、20フィートコンテナを抱えた[[フォークリフト]]が1台のみが通過できる数十メートル程度の細いリフト専用通路(構内標識で規制されている)を抜けて、[[国道23号|国道23号線]]に面した海側となる「東側地区」に広がるV形面側1線と、凹内に3線(そのうち最東側面は、舗装面に入線のできる2線仕様)を組み合わせたコンテナホームの順に配置されている。
「西側地区」のホームは、荷役線に沿って古くから設置されているホーム全長の1/3ほどを占める屋根つきの荷捌き施設のほか、凹形内側の2線を撤去して地続きとなった敷地を利用して、[[海上コンテナ]]や30フィート級コンテナの取り扱いと、関連する積載用トレーラー等の待機場として使用されている。またこのホームの北端(実質的には荷役線の終点側)に、フォークリフトの駐車場のほか、貨物駅の管理及び営業窓口のJR貨物四日市営業所と、中型トラック等の駐車場を挟んで[[日本トランスシティ]]の営業所が線路に沿って、北方向(名古屋方面)へと一列に連なっている。さらに、道路を隔てた反対側には、日通四日市支店や、[[昭和]]の風情を残した日通所有の中規模倉庫が福数棟立ち並んでいる。
「東側地区」では、主に20フィート級のホッパ・タンク・無蓋([[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|産廃輸送用コンテナ]])をメインとして、大量に扱っている。かつては、大量に扱われていた新旧の5tホッパコンテナや、圧縮空気圧方式によるホッパコンテナ同様の化成品を運んでいたタンクコンテナ類は、そのほとんどをこの地区で取り扱っていた。この地区への出入り口は、国道23号線の上り側([[名古屋市|名古屋]]方面)に敷地が南北に平行して面しており、場内一方通行式の入り口専用側と出口専用側の2箇所に分けてある。また出入り口側車線の反対側となる国道23号線の下り側([[津市|津]]市内向け)からも、国道を右折横断して直接出入りできるように国道の中央分離帯が2箇所とも出入り口位置に合わせて途切れているので、この地区への出入り環境は非常に良い。しかし、前記の「西側地区」へ移動する時は、出口側から国道へ左折して数百メートル先の次の信号交差点(四日市市中納屋町交差点)を左折し、直進後に当たる四日市駅北側の踏み切り手前左側にある、貨物駅への直接進入路となる一般道を通って、駅事務所のある「西側地区」へたどり着ける。なお、国道23号線から入ってきたこの一本道は、片側一車線ながらも四日市駅で分断された北部(四日市の中心部方面)へ通じる重要なルートであるために、踏切や街中といった環境や路幅の問題で、特に大型車泣かせの迂回路となっている。
=== 貨物列車 ===
以下は[[2014年]](平成26年)3月改正時点の設定である。
* コンテナ車を連結する[[高速貨物列車]]は、[[名古屋貨物ターミナル駅]]との間に1日3往復、[[JR貨物タキ1000形貨車|タキ1000形]]タンク[[貨車]]のみで編成された高速貨物列車が[[南松本駅]]との間に1日1往復 (土曜・休日運休) が運行されている。
* タンク車などを連結する[[専用貨物列車]]は下りの当駅終着が1日2本(1本は臨時扱い、すべて石油輸送列車)、上りの当駅始発が1日3本(内1本は定期列車で土曜・休日運休の南松本行き石油輸送列車、2本は臨時設定の輸送列車で稲沢駅行き)[[稲沢駅]]方面との間に運行されている。その他[[富田駅 (三重県)|富田駅]]との間に1日5往復 (内2本は運転期日指定、すべてセメント輸送列車) 、臨時設定の上り貨車列車が1本運行されている。
* [[塩浜駅]]との間にも下り1本と上り2本 (内1往復は日曜運休、上りの当駅終着は石油輸送列車) の専用貨物列車が運行されている。[[南四日市駅]]との間にも臨時の高速貨物列車が1往復のみ運行されていたが、[[2018年]](平成30年)[[5月31日]]をもって運行終了した。
=== その他 ===
* 営業は[[名古屋臨海鉄道]]が受託している。
** [[末広橋梁]]の開閉操作も同社で受託している。末広橋梁を使用する際は自転車で係員が橋梁のたもとにある操作室へ行き、橋を操作したあとに入換列車に乗って操車の誘導をする。
== 利用状況 ==
=== JR東海 ===
「三重県統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである<ref group="統計" name="三重県統計書">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000946030.pdf|title=令和3年刊 三重県統計書 - 10 運輸・通信|accessdate=2021-04-18|format=PDF|publisher=三重県}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size: 85%;"
|-
! 年度 !! 一日平均<br/>乗車人員
|-
| 1998年 || 2,420
|-
| 1999年 || 2,421
|-
| 2000年 || 2,407
|-
| 2001年 || 2,319
|-
| 2002年 || 2,252
|-
| 2003年 || 2,247
|-
| 2004年 || 2,209
|-
| 2005年 || 2,258
|-
| 2006年 || 2,197
|-
| 2007年 || 2,232
|-
| 2008年 || 2,238
|-
| 2009年 || 2,210
|-
| 2010年 || 2,266
|-
| 2011年 || 2,359
|-
| 2012年 || 2,387
|-
| 2013年 || 2,388
|-
| 2014年 || 2,350
|-
| 2015年 || 2,336
|-
| 2016年 || 2,324
|-
| 2017年 || 2,351
|-
| 2018年 || 2,334
|-
| 2019年 || 2,286
|}
=== JR貨物 ===
[[2019年]]度の発送貨物は638,769トン、到着貨物は982,983トンであった<ref group="統計" name="三重県統計書"/>。
== 駅周辺 ==
駅舎・出口のある西側には街路樹のある[[中央通り (四日市市)|中央通り]]があり、駅裏の東側は四日市コンビナートの一帯となっている。
{{columns-list|2|
* JR四日市バス停留所
* [[四日市市役所]]
* 四日市[[公共職業安定所]](ハローワーク四日市)
* [[四日市郵便局 (三重県)|四日市郵便局]]
* [[四日市市立中央小学校]]
* [[シー・ティー・ワイ]]本社
* [[国道23号]]([[名四国道]])
* [[国道164号]]
* [[住友電装]]本社
* [[諏訪神社 (四日市市)|諏訪神社]]
* [[稲葉三右衛門]]銅像
* [[ヤマト運輸]]四日市営業所
* [[東邦ガス]]四日市事業所
* [[近鉄四日市駅]] - 西へ1.2 km
** [[file:KT number-E.svg|18px|E]] [[近鉄名古屋線|名古屋線]] 名古屋・大阪方面
** [[file:KT number-K.svg|18px|K]] [[近鉄湯の山線|湯の山線]] 湯の山温泉方面
** あすなろう四日市駅
**: [[四日市あすなろう鉄道内部線]] 内部・西日野方面
** 近鉄四日市バス停留所
**: 京都・東京・市内周辺方面([[三重交通]]、[[三岐鉄道]])
** [[近鉄百貨店四日市店]]
* 近鉄四日市駅市民公園前バス停留所 - 西へ1.4 km
::: TDL・大阪・高松方面([[WILLER EXPRESS]]、[[ジャムジャムエクスプレス]]、[[琴平バス]])
|}}
== バス路線 ==
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
駅前広場内にあるバス乗り場から下記の系統が発着している。バス停留所名は「JR四日市」(三重交通)、「JR四日市駅前」(三岐鉄道)である。
; 1番乗り場(近鉄四日市方面)
* [[三重交通]]
** [[三重交通四日市営業所#四日市福王山線|71]]:福王山
** [[三重交通四日市営業所#水沢(室山)線|61]]:宮妻口
** 62:[[椿大神社]]
** 63:小山田病院
** [[三重交通四日市営業所#市立病院・四日市港線、東日野・四日市港線|94]]:[[市立四日市病院|市立病院]] ※土日祝は運休
** 95:ガーデンタウン東日野 ※土日祝は運休
** スクールバス:[[四日市メリノール学院中学校・高等学校|メリノール前]] ※休校日は運休
; 2番乗り場
* 三重交通
** [[三重交通四日市営業所#四日市市内線、市内循環線|01]]:市立病院 ※土日祝は運休
** 95:[[四日市港]] ※土日祝は運休
* [[三岐鉄道]] (近鉄四日市駅前方面)
** [[山城駅]]前
** [[暁学園前駅]]前 ※平日朝運転
** [[四日市大学]]前 ※平日朝運転
== その他 ==
* [[バブル時代|バブル期]]からの計画として四日市市の再開発の一環で、近鉄四日市駅方面とを結ぶ中央通りを[[四日市港]]まで延伸するとともに、駅を高架化し貨物施設は霞地区へ移転させる案があったが、移転場所が具体化しない<ref>{{Cite web|和書|title=「JR関西線とJR四日市駅の高架化」を実現するためには何が必要なのか? - 男性育休と中小企業診断士 |url=https://childcare-smec.com/2022/09/14/elevate-kansai-line-and-yokkaichi-station/,%20https://childcare-smec.com/2022/09/14/elevate-kansai-line-and-yokkaichi-station/ |website=childcare-smec.com |date=2022-09-14 |access-date=2023-10-20 |language=ja |last=childcare-smec}}</ref>。
* 名古屋駅から四日市駅まで[[運賃#特定区間運賃|特定区間運賃]]を採用しており、2009年3月14日改正で名古屋 - 亀山に快速が毎時1本設定され、日中の名古屋 - 四日市では快速「みえ」と合わせて毎時2本の快速列車が運行している。なお、同区間を並行する近鉄では特急列車と特別料金不要の急行列車が毎時3本ずつ運転されている。
* かつて四日市駅と富田浜駅との間に午起(うまおこし)駅が2度にわたって存在した。初代は「午起仮乗降場」で[[1931年]][[7月7日]]に開業<ref group="官報" name="OfficialGazette_19310707">{{国立国会図書館のデジタル化資料|2957823/3|官報. 1931年07月07日}}</ref>し、午起海水浴場利用客の便宜を図っていたが、戦後利用客の減少により[[1948年]][[8月30日]]にいったん廃止となる。二代目は[[1954年]][[6月1日]]に正式な駅として開業したが、[[三岐鉄道三岐線]]からの乗り入れの普通列車(気動車)のみ停車し、それ以外の列車は通過していた。午起海水浴場が工場建設のため埋め立てられることになり、午起駅も[[1964年]][[10月1日]]に廃止された。
* 駅舎の南半分は、2階がレストラン「こだま」、1階がホールだった。現在は2階は閉鎖され、1階は[[レンタサイクル]](こにゅうどうレンタサイクル)貸出場所となっている。
== 隣の駅 ==
; 東海旅客鉄道(JR東海)
: {{JR海駅番号|CJ}} 関西本線
:* 特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」停車駅
:: {{Color|orangered|■}}快速「[[みえ (列車)|みえ]]」
::: [[桑名駅]] (CJ07) - '''四日市駅 (CJ11)''' - [[鈴鹿駅]]([[伊勢鉄道伊勢線]]、4)
:: {{Color|#0066ff|■}}快速(当駅から南四日市方の各駅に停車)
::: 桑名駅 (CJ07) - '''四日市駅 (CJ11)''' - [[南四日市駅]] (CJ12)
:: {{Color|limegreen|■}}区間快速・{{Color|gray|■}}普通
::: [[富田浜駅]] (CJ10) - '''四日市駅 (CJ11)''' - 南四日市駅 (CJ12)
; 日本貨物鉄道(JR貨物)
: 関西本線貨物支線
::: '''四日市駅''' - [[塩浜駅]]
=== かつて存在した路線 ===
; 日本国有鉄道
: 関西本線貨物支線
::: '''四日市駅''' - [[四日市港駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 官報 ====
{{Reflist|group="官報"}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
==== 統計資料 ====
{{Reflist|group="統計"}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|author=石野哲(編)|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|ref = {{sfnref|石野|1998}} }}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Yokkaichi Station}}
* [[関西線 (名古屋地区)]]
* [[三重県道521号四日市停車場線]]
== 外部リンク ==
* [https://railway.jr-central.co.jp/station-guide/tokai/yokkaichi/ 四日市駅] - 東海旅客鉄道
{{関西本線 (JR東海)}}
{{伊勢鉄道伊勢線}}
{{近鉄名古屋線}}
{{中部の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:よつかいち}}
[[Category:日本の鉄道駅 よ|つかいち]]
[[Category:四日市市の鉄道駅]]
[[Category:関西鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東海旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本貨物鉄道の鉄道駅]]
[[Category:近畿日本鉄道の廃駅]]
[[Category:関西急行鉄道の鉄道駅]]
[[Category:参宮急行電鉄の鉄道駅]]
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[[Category:三重鉄道の鉄道駅]]
[[Category:四日市鉄道|よつかいちえき]]
[[Category:1890年開業の鉄道駅]]
[[Category:関西本線|よつかいちえき]]
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2003-09-28T02:25:47Z
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2023-12-27T18:01:35Z
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京急川崎駅
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京急川崎駅(けいきゅうかわさきえき)は、神奈川県川崎市川崎区砂子1丁目にある、京浜急行電鉄(京急)の駅である。駅番号はKK20。
当駅は二層構造になっており、1階は改札口および大師線のホームが、2階に本線のホームがある。
2008年12月20日から、川崎市出身の坂本九の代表曲「上を向いて歩こう」をアレンジしたものを接近メロディとして使用している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。なお、メロディは本線ホームのみ導入されており、大師線ホームでは流れない。
京急の羽田空港ターミナル乗り入れ以前は都営浅草線直通急行の終着駅だったほか日中の新逗子方面行き急行(現在のエアポート急行とは異なる)の一部が折り返していた。2010年5月15日までのダイヤでは羽田空港発着の快特と品川・泉岳寺発着および都営浅草線直通快特の分割併合駅だった。
品川方の上下線の間に1本引き上げ線があり、当駅始発の普通や、羽田空港発の浦賀行と新逗子行4両編成増結時の待避に使用された。羽田空港を発着する4両編成の特急の列車番号末尾はすべて「D」だった。なお、この引き上げ線は、かつて都営線からの直通急行の折り返し線として使用していた。現在は品川 - 京急蒲田駅間の区間運転列車がこの引き上げ線を使用して折り返している。これは京急蒲田駅の構造上、京急蒲田で品川方面に折り返すことができないためである。また、同じく品川方の多摩川鉄橋上に折り返し用の渡り線が設置されており、新逗子方面行き急行はこちらを使って本線上で折り返していた。
下り線の増結時は京急蒲田を羽田空港始発4両編成が先に発車し、当駅手前で上下線の間にある引き上げ線に入線後一旦停車し、後続の快特(8両編成)を先に通してから、後ろ4両の増結を行なっていた。増結後は当駅 - 金沢文庫間を12両編成で運転し、羽田空港 - 当駅間で特急だった種別が快特となっていた。
逆に上り線では、金沢文庫から増結された12両の快特の後ろ4両を当駅で分割し、8両編成の快特発車直後、4両編成の特急羽田空港行に種別変更し発車していた。発車前に停止位置を少し移動していた。また、増結待ちのD特急が引き上げ線に停車中は横浜方からの当駅止まりの電車が引き上げ線を使用できないため、品川方の上り線本線の多摩川鉄橋上で一旦停車し、渡り線を経由し折り返していた。引き上げ線使用時は5番線に入線するが、上り本線で折り返す場合は4番線に入線する。5番線の普通と緩急接続する快特と特急は4番線を使用する。
なお朝方に運行される12両編成の下り特急列車は神奈川新町駅のホーム有効長が8両編成のため後4両が当駅止まりとして運行されるが、当駅では分割せずに後4両を回送扱いにした状態で12両編成のまま次の神奈川新町駅まで運行され同駅にて分割作業を行なう。
2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は103,024人であり、京急線72駅の中では上大岡駅に続いて第4位である。
近年の1日平均乗降・乗車人員は下表の通りである。
当駅と川崎駅の間と市役所方面にかけては商業地区が形成されている。西口周辺は小規模な歓楽街があり、東側には京急の所有する駐車場や変電所が大きな面積を占めている。
東日本旅客鉄道(JR東日本)の川崎駅までは200mほどの距離がある。川崎駅北口までは中央口からは地上または地下通路(川崎アゼリア)を利用して徒歩で3-4分程度で乗り換えが可能である。京急線ホームからJR線ホームへはJR川崎駅北改札利用の場合で5-6分程度である。
川崎駅との連絡乗車券は発売されていない。例えば、羽田空港で南武線の矢向までの連絡乗車券を購入した場合は乗換駅が品川・横浜・八丁畷のいずれかとなり、当駅の改札機で当該連絡乗車券を投入した場合は前途無効として回収される。一方、当駅と川崎駅を乗換駅とする連絡定期券は2008年3月15日より発売を開始した。
2000年代に入ってから駅周辺の再開発が進んでいる。旧小美屋跡地にはTOHOシネマズ、TSUTAYAなどが入居する専門店ビルである川崎DICE、旧チネチッタ川崎は複合商業施設ラ チッタデッラとなり、商業地区の活性化が進んでいる。
また、京急の高架線が、川崎駅東口バスターミナル南東部を通過していることから、東口駅前広場の整備に合わせ、2009年頃より、高架下空間のバスターミナルとしての再整備、および2012年には車道の歩行者空間化が行われた。それに伴い、京急ストアも高架下へ移転した。
その後、大師線のホーム上空に人工地盤を設けて駅ビルが建て替えられ、ショッピングセンター「Wing」・ホテル京急EXイン・保育所等からなる京急川崎駅前ビルが2016年4月27日に開業した。
今後は、西口駅前の再開発が計画されており、京浜急行電鉄などによる高さ約120mのオフィスビルが2025年着工、2028年に竣工する予定となっている。
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"text": "京急川崎駅(けいきゅうかわさきえき)は、神奈川県川崎市川崎区砂子1丁目にある、京浜急行電鉄(京急)の駅である。駅番号はKK20。",
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"text": "当駅は二層構造になっており、1階は改札口および大師線のホームが、2階に本線のホームがある。",
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"text": "2008年12月20日から、川崎市出身の坂本九の代表曲「上を向いて歩こう」をアレンジしたものを接近メロディとして使用している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。なお、メロディは本線ホームのみ導入されており、大師線ホームでは流れない。",
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"text": "京急の羽田空港ターミナル乗り入れ以前は都営浅草線直通急行の終着駅だったほか日中の新逗子方面行き急行(現在のエアポート急行とは異なる)の一部が折り返していた。2010年5月15日までのダイヤでは羽田空港発着の快特と品川・泉岳寺発着および都営浅草線直通快特の分割併合駅だった。",
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"text": "品川方の上下線の間に1本引き上げ線があり、当駅始発の普通や、羽田空港発の浦賀行と新逗子行4両編成増結時の待避に使用された。羽田空港を発着する4両編成の特急の列車番号末尾はすべて「D」だった。なお、この引き上げ線は、かつて都営線からの直通急行の折り返し線として使用していた。現在は品川 - 京急蒲田駅間の区間運転列車がこの引き上げ線を使用して折り返している。これは京急蒲田駅の構造上、京急蒲田で品川方面に折り返すことができないためである。また、同じく品川方の多摩川鉄橋上に折り返し用の渡り線が設置されており、新逗子方面行き急行はこちらを使って本線上で折り返していた。",
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"text": "下り線の増結時は京急蒲田を羽田空港始発4両編成が先に発車し、当駅手前で上下線の間にある引き上げ線に入線後一旦停車し、後続の快特(8両編成)を先に通してから、後ろ4両の増結を行なっていた。増結後は当駅 - 金沢文庫間を12両編成で運転し、羽田空港 - 当駅間で特急だった種別が快特となっていた。",
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"text": "逆に上り線では、金沢文庫から増結された12両の快特の後ろ4両を当駅で分割し、8両編成の快特発車直後、4両編成の特急羽田空港行に種別変更し発車していた。発車前に停止位置を少し移動していた。また、増結待ちのD特急が引き上げ線に停車中は横浜方からの当駅止まりの電車が引き上げ線を使用できないため、品川方の上り線本線の多摩川鉄橋上で一旦停車し、渡り線を経由し折り返していた。引き上げ線使用時は5番線に入線するが、上り本線で折り返す場合は4番線に入線する。5番線の普通と緩急接続する快特と特急は4番線を使用する。",
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"text": "なお朝方に運行される12両編成の下り特急列車は神奈川新町駅のホーム有効長が8両編成のため後4両が当駅止まりとして運行されるが、当駅では分割せずに後4両を回送扱いにした状態で12両編成のまま次の神奈川新町駅まで運行され同駅にて分割作業を行なう。",
"title": "駅構造"
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"text": "2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は103,024人であり、京急線72駅の中では上大岡駅に続いて第4位である。",
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"text": "近年の1日平均乗降・乗車人員は下表の通りである。",
"title": "利用状況"
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"text": "当駅と川崎駅の間と市役所方面にかけては商業地区が形成されている。西口周辺は小規模な歓楽街があり、東側には京急の所有する駐車場や変電所が大きな面積を占めている。",
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"text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)の川崎駅までは200mほどの距離がある。川崎駅北口までは中央口からは地上または地下通路(川崎アゼリア)を利用して徒歩で3-4分程度で乗り換えが可能である。京急線ホームからJR線ホームへはJR川崎駅北改札利用の場合で5-6分程度である。",
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"text": "川崎駅との連絡乗車券は発売されていない。例えば、羽田空港で南武線の矢向までの連絡乗車券を購入した場合は乗換駅が品川・横浜・八丁畷のいずれかとなり、当駅の改札機で当該連絡乗車券を投入した場合は前途無効として回収される。一方、当駅と川崎駅を乗換駅とする連絡定期券は2008年3月15日より発売を開始した。",
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"text": "2000年代に入ってから駅周辺の再開発が進んでいる。旧小美屋跡地にはTOHOシネマズ、TSUTAYAなどが入居する専門店ビルである川崎DICE、旧チネチッタ川崎は複合商業施設ラ チッタデッラとなり、商業地区の活性化が進んでいる。",
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"text": "また、京急の高架線が、川崎駅東口バスターミナル南東部を通過していることから、東口駅前広場の整備に合わせ、2009年頃より、高架下空間のバスターミナルとしての再整備、および2012年には車道の歩行者空間化が行われた。それに伴い、京急ストアも高架下へ移転した。",
"title": "駅周辺"
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"text": "その後、大師線のホーム上空に人工地盤を設けて駅ビルが建て替えられ、ショッピングセンター「Wing」・ホテル京急EXイン・保育所等からなる京急川崎駅前ビルが2016年4月27日に開業した。",
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"text": "今後は、西口駅前の再開発が計画されており、京浜急行電鉄などによる高さ約120mのオフィスビルが2025年着工、2028年に竣工する予定となっている。",
"title": "駅周辺"
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京急川崎駅(けいきゅうかわさきえき)は、神奈川県川崎市川崎区砂子1丁目にある、京浜急行電鉄(京急)の駅である。駅番号はKK20。
|
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{{駅情報
|社色 = #00bfff
|文字色 = white
|駅名 = 京急川崎駅
|画像 = Keikyu-Kawasaki-Sta-Chuo.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 京急川崎駅中央口(2018年4月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|coord={{coord|35|31|58|N|139|42|3|E}}|title=京急川崎駅|coord2={{coord|35|31|53|N|139|41|49|E}}|title2=川崎駅|marker-color=00bfff|marker-color2=008000}}左下は乗換駅の川崎駅
|よみがな = けいきゅう かわさき
|ローマ字 = Keikyū Kawasaki
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KK|20|#00bfff|4||#00386d}}
|所属事業者 = [[京浜急行電鉄]](京急)
|所在地 = [[川崎市]][[川崎区]][[砂子 (川崎市)|砂子]]1丁目3番地1
|座標 = {{coord|35|31|58.0|N|139|42|3.0|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|開業年月日 = [[1902年]]([[明治]]35年)[[9月1日]]
|駅構造 = [[高架駅]]([[京急本線|本線]])<br />[[地上駅]]([[京急大師線|大師線]])
|ホーム = 2面4線(本線)<br />2面2線(大師線)<br />計4面6線
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="京急" name="handbook2022" />103,024
|統計年度 = 2021年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#00bfff|■}}[[京急本線|本線]]
|前の駅1 = KK19 [[六郷土手駅|六郷土手]]
|駅間A1 = 1.2
|駅間B1 = 1.3
|次の駅1 = [[八丁畷駅|八丁畷]] KK27
|キロ程1 = 11.8
|起点駅1 = [[品川駅|品川]]
|所属路線2 = {{color|#00bfff|■}}[[京急大師線|大師線]]
|前の駅2 =
|駅間A2 =
|駅間B2 = 1.2
|次の駅2 = [[港町駅|港町]] KK21
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 京急川崎
|備考 =
|乗換 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[川崎駅]]}}
'''京急川崎駅'''(けいきゅうかわさきえき)は、[[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]][[砂子 (川崎市)|砂子]]1丁目にある、[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KK20'''。
== 乗り入れ路線 ==
* 京浜急行電鉄 - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''KK20'''」
** [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|本線]] - 一部の列車は当駅を始発・終着としている。
** [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急大師線|大師線]] - 当駅を起点としている。
== 歴史 ==
* [[1902年]]([[明治]]35年)[[9月1日]] - '''川崎駅'''(2代目)として開業<ref>初代の川崎駅は、本駅の開業に伴って『[[六郷橋駅]]』に改称し、1949年7月1日に廃駅。</ref>。
* [[1925年]]([[大正]]14年)[[11月1日]] - [[鉄道省]][[川崎駅]]と混同を避けるため'''京浜川崎駅'''に改称。
* [[1966年]]([[昭和]]41年)[[12月10日]] - 本線が高架化、大師線の新ホーム供用開始。
* [[1987年]](昭和62年)[[6月1日]] - '''京急川崎駅'''に改称<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-08 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 10 |page = 128 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。
* [[1999年]]([[平成]]11年)[[7月31日]] - [[京浜急行電鉄のダイヤ改正|白紙ダイヤ改正]]が実施される。これにより、[[京成電鉄]]線および[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]からの直通急行がすべて羽田空港駅(現:[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])発着になり、通常時のダイヤから当駅発着が消滅。これに伴い本線は、[[京急蒲田駅|京急蒲田]]以南[[横浜駅|横浜]]方面新逗子駅(現:[[逗子・葉山駅]])までの急行運転が廃止され、代替として普通が増発される。
* [[2002年]](平成14年)[[10月12日]] - 日中の横浜方面 - 羽田空港間直通運転開始に伴い、[[品川駅|品川]]方面[[快特]]と羽田空港方面特急の分割・併合が行われるようになる。また、品川方の引き上げ線は下り本線から直接進入できるよう改良される。
* [[2008年]](平成20年)[[12月20日]] - 本線のホームに[[接近メロディ]]を導入。「[[上を向いて歩こう]]」が採用される(詳細後述)。
* [[2010年]](平成22年)[[5月16日]] - [[ダイヤ改正]]により新設された[[エアポート急行]]の停車駅となる。それと同時に、特急の分割・併合が廃止。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[4月25日]] - 4・5番線で[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2020/202025.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201209095921/https://www.keikyu.co.jp/report/2020/202025.html|title=お知らせ 2020年4月25日(土)始発より京急川崎駅4・5番線のホームドアの運用を開始いたします|date=2020-04-17|archivedate=2020-12-09|accessdate=2020-12-09|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語}}</ref>。
** [[6月25日]] - 6・7番線でホームドアの使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2020/202042545.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201209100136/https://www.keikyu.co.jp/report/2020/202042545.html|title=お知らせ 2020年6月25日(木)始発より京急川崎駅6・7番線のホームドアの運用を開始いたします|date=2020-06-17|archivedate=2020-12-09|accessdate=2020-12-09|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語}}</ref>。
== 駅構造 ==
当駅は二層構造になっており、1階は[[改札|改札口]]および大師線のホームが、2階に本線のホームがある。
* 大師線:2面2線の[[頭端式ホーム]]となっており、1 - 3番線を使用する。2・3番線は同一の線路を共有している。2番線は降車専用ホームであるが、混雑時以外は3番線からの乗降となる。通常は2・3番線から発着するが、折り返し回送となる列車については1番線に到着する場合もある。2011年までは、正月に[[平間寺|川崎大師]]への[[初詣]]客で混雑する際、1番線を使用したり、3番線を降車ホーム、2番線を乗車ホームとする場合もあった。その際2番線の「降車専用ホーム」の案内板は、「乗車専用ホーム」と表示が変えられていた。この他貸切列車の発着や車両展示イベントで1番線を使用する場合もある。大師線ホームでは[[駅自動放送]]による案内が行われている。
* 本線:高架上にある[[島式ホーム]]2面4線であり、付番は大師線からの続きで4 - 7番線である。普通電車と一部の急行は優等列車の[[待避駅#接続追越|緩急接続]]や「[[ウィング号 (京急)|イブニング・ウィング号]]」(下りの平日夜間のみ)の[[待避駅#通過追越|通過待避]]を行うため、5・6番線を「イブニング・ウィング号」・快特・特急・待避しない急行、4・7番線を主に普通と待避する急行が使用する。待避しない普通は5・6番線の本線に入線する。また、一部の快特と特急は4番線に入線する[[#分割・併合|(後述)]]。自動放送はなく、駅員による案内が行われている。
* 下り線で12両編成で運行される特急は、次に停車する[[神奈川新町駅]]のホーム[[有効長]]が8両編成分しかないことから、当駅で後ろ4両を[[回送]]にした上で、神奈川新町で切り離す。一部列車は後ろ4両を当駅で切り離して停止位置を変更の上、当駅より先は普通電車として運行する。
* [[京急蒲田駅]]が高架化されるまでは、毎年[[1月3日]]に[[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝)復路における空港線[[国道15号|第一京浜]][[踏切]]の遮断時間を短縮するためにダイヤ変更を実施していたため、横浜方面からの羽田空港発着列車は上下とも品川発着に、品川方面からの羽田空港発着列車は当駅発着にそれぞれ変更していた。[[2012年]][[10月21日]]の京急蒲田駅高架化完成に伴い、2013年からは通常ダイヤとなっている。
* 大師線と本線は側線を介してつながっているが、定期営業運転はない。[[年末年始]]の[[終夜運転]]などの際や、車両点検などの際の[[新町検車区]]への回送、本線にある留置線からの出庫の際に使用されている。
* ホーム上にある[[発車標]]は、長らく本線が[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]](パタパタ式)、大師線が[[発光ダイオード|LED]]式だった。京急線内での反転フラップ式発車標は当駅が最後の稼働駅となっていたが<ref name="press20220112">{{Cite press release|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20220112HP_21132IT.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220112224114/https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20220112HP_21132IT.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 京急川崎駅で「パタパタ」と音を奏でていた 京急最後の「パタパタ」発車案内装置が引退!! 「引退記念乗車券の発売(事前抽選制)」や「パタパタさよならナイトツアー」などを実施します。|publisher=京浜急行電鉄|date=2022-01-12|accessdate=2022-01-12|archivedate=2022-01-12}}</ref>、2022年2月12日未明の終電後に撤去され、[[液晶ディスプレイ|LCD]]式に置き換えられた<ref name="press20220112" /><ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220212-OYT1T50137/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220212060528/https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220212-OYT1T50137/|title=関東最後の「パタパタ」ついに撤去、最新式の液晶モニターに|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2022-02-12|accessdate=2022-02-12|archivedate=2022-02-12}}</ref>。
* ホームの番号は7番線まであり、京急では最も番線が多い駅である(次に多いのは[[京急蒲田駅]]の6番線)。
<gallery>
Keikyu-Kawasaki-Sta-W.JPG|西口(2019年4月)
Keikyu-Kawasaki-Sta-Gate.JPG|中央口改札(2019年4月)
Keikyu Kawasaki Station platforms north end 20160116.JPG|本線ホーム(2016年1月)
Keikyu Kawasaki3.jpg|大師線ホーム(2005年8月)
Keikyu Daishi Line 0km post.jpg|大師線0km距離標(2019年4月)
Keikyu-Kawasaki-STA Platform4-5.jpg|ホームドア設置後の本線ホーム(2023年7月)
Sign_Board_of_Keikyu_Kawasaki Station_Main_Line_202102.jpg|本線下りホーム 駅名標(2021年2月)
Sign_Board_of_Keikyu_Kawasaki Station_Daishi_Line_202102.jpg|大師線ホーム 駅名標(2021年2月)
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=== のりば ===
{{駅配線図開始
|title = 京急川崎駅配線図(本線ホーム)
|left = [[六郷土手駅]]
}}
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{{鉄道配線図|sensg|sens2|bifhd|voie|voie|voie|voie|voie|voie|voie|bifbd|bifhg|voie|voie|voie|voie|voie|voie|bifbg|bifhd|voie|sensg|}}
{{鉄道配線図|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|Dvoie|0|quai|quai|quai|0|Mvoie|}}
{{鉄道配線図|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|0|courbehg|voie|voie|voie|courbehd|}}
{{駅配線図終了|right=[[八丁畷駅]]}}
<!--ホーム上の実表記に合わせました-->
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
|-style="border-top:solid 3px #999"
|colspan="5" style="background-color:#eee"|'''地上ホーム'''
|-
!1
|rowspan=3|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 大師線
|style="text-align:center"|-
|(定期列車は折り返し回送列車のみ)
|-
!2
|style="text-align:center"|-
|降車専用ホーム(混雑時以外不使用)
|-
!3
|style="text-align:center"|下り
|[[川崎大師駅|川崎大師]]・[[小島新田駅|小島新田]]方面
|-
|-style="border-top:solid 3px #999"
|colspan="5" style="background-color:#eee"|'''高架ホーム'''
|-
!4・5
|rowspan=2|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 本線
|style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[三浦海岸駅|三浦海岸]]方面
|-
!6・7
|style="text-align:center"|上り
|[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面 / [[品川駅|品川]]方面
|}
=== 接近メロディ ===
2008年[[12月20日]]から、川崎市出身の[[坂本九]]の代表曲「[[上を向いて歩こう]]」をアレンジしたものを[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]として使用している<ref>[https://web.archive.org/web/20081201154848/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/081114.shtml 16駅の駅メロディ採用曲が決定いたしました!](報道発表資料) - 京浜急行電鉄(2008年11月14日)(2008年12月1日時点での[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ、出ちゃいました。|url=https://blog.goo.ne.jp/tetsunomusician/e/dcf0b1804b8a18f6c1d4b6dee76440af|website=☆♪☆ 鉄のみゅーじしゃん ☆♪☆|accessdate=2020-03-14|language=ja|publisher=塩塚博}}</ref>。なお、メロディは本線ホームのみ導入されており、大師線ホームでは流れない。
=== 分割・併合 ===
[[画像:Keikyu Kawasaki Station 20021027.jpg|サムネイル|右|引き上げ線の羽田空港始発とそれを追い抜かす快特]]
京急の[[東京国際空港|羽田空港]]ターミナル乗り入れ以前は都営浅草線直通急行の終着駅だったほか日中の新逗子方面行き急行(現在の急行とは異なる)の一部が折り返していた。[[2010年]][[5月15日]]までのダイヤでは羽田空港発着の快特と品川・泉岳寺発着および都営浅草線直通快特の[[増解結|分割併合]]駅だった。
品川方の上下線の間に1本[[引き上げ線]]があり、当駅始発の普通や、[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]発の浦賀行と[[逗子・葉山駅|新逗子]]行4両編成増結時の待避に使用された。羽田空港を発着する4両編成の特急の[[列車番号]]末尾はすべて「D」だった。なお、この引き上げ線は、かつて都営線からの直通急行の折り返し線として使用していた。現在は品川 - 京急蒲田駅間の区間運転列車がこの引き上げ線を使用して折り返している。これは[[京急蒲田駅]]の構造上、京急蒲田で品川方面に折り返すことができないためである。また、同じく品川方の多摩川鉄橋上に折り返し用の[[分岐器#形状による分類|渡り線]]が設置されており、新逗子方面行き急行はこちらを使って本線上で折り返していた。
下り線の増結時は[[京急蒲田駅|京急蒲田]]を羽田空港始発4両編成が先に発車し、当駅手前で上下線の間にある引き上げ線に入線後一旦停車し、後続の快特(8両編成)を先に通してから、後ろ4両の増結を行なっていた。増結後は当駅 - [[金沢文庫駅|金沢文庫]]間を12両編成で運転し、羽田空港 - 当駅間で'''特急'''だった種別が'''快特'''となっていた。
逆に上り線では、金沢文庫から増結された12両の快特の後ろ4両を当駅で分割し、8両編成の快特発車直後、4両編成の特急羽田空港行に種別変更し発車していた。発車前に停止位置を少し移動していた。また、増結待ちのD特急が引き上げ線に停車中は横浜方からの当駅止まりの電車が引き上げ線を使用できないため、品川方の上り線本線の多摩川鉄橋上で一旦停車し、[[分岐器#形状による分類|渡り線]]を経由し折り返していた。引き上げ線使用時は5番線に入線するが、上り本線で折り返す場合は4番線に入線する。5番線の普通と緩急接続する快特と特急は4番線を使用する。
なお朝方に運行される12両編成の下り特急列車は[[神奈川新町駅]]のホーム有効長が8両編成のため後4両が当駅止まりとして運行されるが、当駅では分割せずに後4両を回送扱いにした状態で12両編成のまま次の神奈川新町駅まで運行され同駅にて分割作業を行なう。
== 利用状況 ==
[[2021年]](令和3年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''103,024人'''<ref group="京急" name="handbook2022" />であり、京急線72駅の中では[[上大岡駅]]に続いて第4位である。
近年の1日平均'''乗降・乗車'''人員は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/shisei/category/51-4-15-0-0-0-0-0-0-0.html 川崎市統計書]</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/yoran.html 神奈川県県勢要覧] - 神奈川県</ref>
!出典
|-
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|1998年(平成10年)
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|2021年(令和{{0}}3年)
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== 駅周辺 ==
{{See also|川崎駅#駅周辺}}
当駅と[[川崎駅]]の間と市役所方面にかけては商業地区が形成されている。西口周辺は小規模な歓楽街があり、東側には京急の所有する駐車場や変電所が大きな面積を占めている。
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の川崎駅までは200mほどの距離がある。川崎駅北口までは中央口からは地上または地下通路([[川崎アゼリア]])を利用して徒歩で3-4分程度で乗り換えが可能である。京急線ホームからJR線ホームへはJR川崎駅北改札利用の場合で5-6分程度である。
川崎駅との[[連絡運輸|連絡乗車券]]は発売されていない。例えば、羽田空港で[[南武線]]の[[矢向駅|矢向]]までの連絡乗車券を購入した場合は乗換駅が品川・横浜・八丁畷のいずれかとなり、当駅の改札機で当該連絡乗車券を投入した場合は前途無効として回収される。一方、当駅と川崎駅を乗換駅とする連絡[[定期乗車券|定期券]]は[[2008年]][[3月15日]]より発売を開始した。
[[2000年代]]に入ってから駅周辺の[[都市再開発|再開発]]が進んでいる。旧[[小美屋]]跡地には[[TOHOシネマズ]]、[[TSUTAYA]]などが入居する[[専門店]]ビルである[[川崎DICE]]、旧[[チネチッタ_(川崎市)|チネチッタ川崎]]は[[複合商業施設]][[ラ チッタデッラ]]となり、商業地区の活性化が進んでいる。
また、京急の高架線が、川崎駅東口バスターミナル南東部を通過していることから、東口駅前広場の整備に合わせ、2009年頃より、高架下空間のバスターミナルとしての再整備、および2012年には車道の歩行者空間化が行われた。それに伴い、[[京急ストア]]も高架下へ移転した。
その後、大師線のホーム上空に人工地盤を設けて駅ビルが建て替えられ、ショッピングセンター[[京急ショッピングセンター|「Wing」]]・ホテル[[京急イーエックスイン|京急EXイン]]・[[京急サービス|保育所]]等からなる京急川崎駅前ビルが[[2016年]][[4月27日]]に開業した<ref>{{Cite news |title=京浜急行電鉄 川崎に新たな玄関口 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016-03-11 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=新たな川崎エリアの玄関口が誕生/2016年4月27日(水)に京急川崎駅前ビルが開業します/12階建て複合ビル 商業施設・宿泊施設・認可保育所等を展開 |publisher=京浜急行電鉄 |date=2016-03-01 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20160301HP_15217MT.html |accessdate=2016-03-25 |archiveurl=https://megalodon.jp/2016-0325-2115-25/www.keikyu.co.jp/company/news/2015/20160301HP_15217MT.html |archivedate=2016-03-25 }}</ref>。
今後は、西口駅前の再開発が計画されており、京浜急行電鉄などによる高さ約120mのオフィスビルが[[2025年]]着工、[[2028年]]に竣工する予定となっている。
=== 中央口 ===
*[[川崎アゼリア|アゼリア(川崎地下街)]]
*[[川崎DICE]]
**[[TSUTAYA]] 川崎駅前店
**[[ユニクロ]] 川崎ダイス店
**[[TOHOシネマズ]] 川崎
*[[横浜岡田屋|岡田屋モアーズ]]川崎店
** [[ブックオフコーポレーション|BOOKOFF SUPER BAZAAR]]モアーズ川崎店
*[[京急ストア]] 京急川崎店(高架下)
*[[銀柳街|川崎銀柳街]]
*[[川崎駅東口バスターミナル]]
=== 西口 ===
*[[ヨドバシアウトレット]]京急川崎店(旧. ヨドバシカメラマルチメディア京急川崎)
*[[城南予備校]] 川崎校
*[[東横イン]] 京浜急行川崎駅前
*[[東芝|東芝マイクロエレクトロニクス]] 半導体システム技術センター分室
*[[KANTOモータースクール]] 川崎校
=== バス路線 ===
{{See|川崎駅#バス路線}}
== 隣の駅 ==
; 京浜急行電鉄
: [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 本線
:: {{Color|#049c5e|□}}「[[ウィング号 (京急)|モーニング・ウィング号]]」・{{Color|#049c5e|□}}「[[ウィング号 (京急)|イブニング・ウィング号]]」
::: '''通過'''(イブニング・ウィング14号・16号は運転停車)
:: {{Color|#049c5e|■}}快特<!--金沢文庫駅以南特急となる列車は上りのみ。下りはない-->
::: [[京急蒲田駅]] (KK11) - '''京急川崎駅 (KK20)''' - [[横浜駅]] (KK37)
:: {{Color|#e8334a|■}}特急
::: 京急蒲田駅 (KK11) - '''京急川崎駅 (KK20)''' - [[神奈川新町駅]] (KK34)
:: {{Color|#006cb8|■}}急行
::: 京急蒲田駅 (KK11) - '''京急川崎駅 (KK20)''' - [[京急鶴見駅]] (KK29)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[六郷土手駅]] (KK19) - '''京急川崎駅 (KK20)''' - [[八丁畷駅]] (KK27)
: [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] 大師線
::: '''京急川崎駅 (KK20)''' - [[港町駅]] (KK21)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 京浜急行電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京急"|22em}}
;神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="*"|23em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Keikyū Kawasaki Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[神奈川税務署員殉職事件]]
* [[百恵白書]] - [[山口百恵]]が[[横須賀中央駅]]から快速特急(現:快特)に乗り[[品川駅]]まで彼の元へ会いに行く内容を歌った「I CAME FROM 横須賀」にて他駅と共に当駅が歌詞で登場する。
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/京浜急行電鉄駅|駅番号=KK20}}
{{京急本線}}
{{京急大師線}}
{{DEFAULTSORT:けいきゆうかわさき}}
[[Category:川崎駅]]
[[Category:川崎区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いきゆうかわさき]]
[[Category:京浜急行電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1902年開業の鉄道駅]]
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2003-09-28T02:57:18Z
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京急蒲田駅
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京急蒲田駅(けいきゅうかまたえき)は、東京都大田区蒲田四丁目にある、京浜急行電鉄(京急)の駅である。駅番号はKK11。
島式ホーム2面6線を有する高架駅。本線と空港線の分岐点である。1階に改札階、2階に上りホーム(4-6番線)、3階に下りホーム(1-3番線)を配置する三層構造となっている。2階と3階は同じ形状のホーム(後述)が上下に重なっている。この重厚な構造から「蒲田要塞」の異名をもつ。駅施設の北部は呑川を越えた蒲田三丁目に跨っているが、北側に改札口は設置されていない。
空港線は1・4番線から分岐しており、1番線には品川方面からの羽田空港行きと羽田空港からの横浜方面行き、4番線には横浜方面からの羽田空港行きと羽田空港からの品川方面行きが停車する。それぞれ本線と分岐してから隣の糀谷駅近くに設けられているシーサスクロッシングまでの間が単線並列の形となっている(この部分まで当駅構内)。シーサスクロッシングがこの位置にあるのは1番線と4番線が異なるフロアに位置していてこれらの直近に設けることが不可能なためである。なお品川方面が運転見合わせになった場合の異常時の折り返し時には、横浜方面から来た京急蒲田止の電車が4番線到着後、糀谷方面に向かって動き出し、このシーサスクロッシングを渡り一旦停止した後、進行方向を変えて1番線に進入し、再度進行方向を変え、横浜方面に折り返す。
3番線・6番線は横浜寄りが切り欠き式ホームになっており、この切り欠かれた部分に2番線・5番線がある。2番線・5番線のホーム外側には3番線・6番線に至る通過線が設けられており、緩急接続(待避)が可能となっている。なお、2番線への入線時は一旦3番線を通過し、5番線からの発車後には6番線を通過する必要がある。5番線は2010年の時点で既に完成していたが、供用開始はしていなかった。
上述のような構造となっているため、ホームそのものは18両分の長さが確保されている。
当駅の自動放送は、1・4番線で大原さやかによる接近予告放送のみが使用されている。
ラッツ&スターのメンバーである鈴木雅之と桑野信義が大田区出身であることにちなみ、2008年12月11日から、同グループの代表曲でもある「夢で逢えたら」をアレンジしたものを接近メロディとして使用している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。なお、接近メロディ導入と同時に、通過列車接近時の警告音の音程が変更されている。
2010年5月15日までは、島式ホーム2面3線を擁する地上駅であった。
2010年5月16日から2012年10月20日までは、島式ホーム2面4線を擁する高架駅(一部地上駅)であった。上り線が高架駅となっており、下り線が従来からの地上駅だった。
地上駅時代は各ホームを連絡する跨線橋があったが、連続立体交差事業(後述)が実施されていた関係で、東西双方の改札口とホームとは地下道により連絡していた。現在の駅舎になってからは各ホームとコンコースを連絡するエレベーターが設置された。東口はかつて分岐点近くに駅舎が設置されていたが、連続立体交差事業の進捗に伴い一時跨線橋上に移転後、現在の地下通路内に移転した。乗り換え通路は雑色・糀谷寄りにある。かつてはエスカレーターを併設していた。
全面高架化までは、次の場所にバリアフリー施設を設置していた。
空港線の羽田空港側では国道15号(第一京浜)が京急蒲田(空)第1踏切 (23.3m) で平面交差していた。また、分岐部のカーブは1986年までは半径60mであったが、同年に800形を入線させる際に半径80mに緩和した。
当駅は、上り本線浦賀・三崎口方面からの空港線乗り入れと空港線からの上り本線乗り入れが下り本線と平面交差となっていた。中でも1番線は長らく空港線専用ホームとして使われてきたが、1993年4月1日に空港線が羽田駅(現・天空橋駅)まで延伸された際に本線品川方面からの直通列車が運転されるようになったので、両方向発着ホームとなった。
しかし、1998年11月18日の羽田空港駅開業後に空港線の輸送が強化されて以降、本線列車のダイヤ設定上のネックとなっているにもかかわらず、本線や空港線が絡む過密ダイヤを3線でさばいていた。また、当駅に隣接する東京都道311号環状八号線(環八通り)および第一京浜はともに都内有数の交通量の多い道路であり、それぞれの交差点と踏切が隣接していることもあって慢性的な交通渋滞が発生しており、両踏切とも国土交通省からボトルネック踏切(いわゆる「開かずの踏切」)と認定されていた。
さらに、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の復路が開催される毎年1月3日は、出場選手の通過のために踏切の遮断時間を短縮するダイヤ変更も行われていた。変更内容は、羽田空港発着列車の一部を京急川崎駅発着に変更することと、横浜方面からの羽田空港発着列車の一部を品川駅発着に変更することであった。
これらの諸問題を解決するために、2000年から当駅を中心とした本線4.7km(平和島 - 六郷土手間)と空港線1.3km(京急蒲田 - 大鳥居間)の合計6kmを連続立体交差化(高架化)する工事を施工し、当駅ではそれに併せて本線・空港線での平面交差の解消や当駅での緩急接続などを目的に、駅舎の建て替えと線路の移設工事が行われることになった。
工事に当たっては国土交通省の鉄道駅総合改善事業補助を受けるため、大田区が出資した第三セクターの蒲田開発事業株式会社が駅関係施設を保有して事業主体となり京急が受託する形となった。施工については京急建設と鹿島建設が主体となって工事が進められ、2010年5月に一部高架化し、2012年10月に全面高架化となった。
高架化工事完成により、本線ホームの雑色寄りに切欠き式の待避ホームが設置され、2面6線の形態となり普通列車が待避可能な駅構造となった。また、高架化工事完成に備えた東口バスのりば用地も確保されているほか、第一京浜を横断する蒲田第一踏切が廃止されたことにより箱根駅伝復路開催時の運行ダイヤ変更も2013年から解消された。また、空港線の急曲線の半径も半径80mから同100mに緩和された。
京急蒲田駅付近連続立体交差事業は、2017年3月にすべて完了した。この高架化工事事業はグッドデザイン賞を受賞している。
2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は47,126人である。京急線全72駅の中では金沢八景駅に次いで第9位。
(注)1998年までは本線・空港線別の乗車人員データが発表されていた。1999年以降のデータは両線の合算値である。また、乗り換え人員は含まれていない。
1998年(平成10年)11月18日に運行開始から、当駅に停車していたエアポート快特は、2010年(平成22年)5月16日に実施されたダイヤ改正で、当駅を通過することになった(「名古屋飛ばし」になぞらえ「蒲田飛ばし」ともいわれる)。通過に対し、高架化費用の一部を負担した大田区側からは、反対の意見が出ていた。
鉄道ジャーナリストの杉山淳一は、高架化は道路交通の改善が主目的であることから、大田区は高架化で国道15号の踏切渋滞が解消され、緊急車両の通行改善など、区民の安全性が高まることを評価すべきなのに、エアポート快特の通過に関する京急への批判が前に出たことを「ピント外れ」「享受するメリットを履き違えた」と論評した。
一方大田区は、「自発的に区税から200億円を拠出し、工事に必要な立ち退きに際し沿線住民に理解を得るまで協力した結果が、今まで停車していた京急蒲田駅がスルーされ、しかも事前に一言の相談も無かった」として強く憤り、ダイヤ改正前日の2010年5月15日に区長・区議会・町会連合会・商店街連合会に加え、国会議員も参加して開かれた「京急蒲田駅通過反対区民大会」では、大田区産業プラザの定員600人を超える区民が会場に押し寄せた。この中で大田区長松原忠義は「京急蒲田駅を通過させるために高架化事業に協力してきたわけではない」「拠出の拒否も考えざるを得ない」と述べた。
これに対し、当時の東京都知事石原慎太郎は、大田区の対応に苦言を呈したが、大田区議会議員の永井敬臣(自民党)は石原が衆院議員時代に旧東京2区であったことから「石原さんも大田区民でしょう?だったら(あなたは)羽田空港へは自転車で行ってください」と反論した。
その後、2012年(平成24年)10月21日のダイヤ改正で、それまで1時間あたりエアポート快特3本・急行3本であったものが、1時間あたりエアポート快特1.5本・快特4.5本に変更され、エアポート快特の当駅通過は継続されるものの、当駅停車列車が増加することとなった。
大田区の中心としての機能および商業施設は蒲田駅付近に集中しているが、一部は当駅近くに立地している。西側には蒲田駅東口に続くアーケード街と小規模の商店街が存在しており、東側には小規模の商店街が存在している。当駅周辺は中規模のビルが林立しており、連続立体交差事業が始まってからの約10年間で中・高層のマンションが数棟建設された。西口周辺は駅前広場が設置されている。また、2012年12月9日には当駅南東にある南蒲田交差点の立体化が完成し、道路環境が変化した。なお、西口周辺では駅前広場の新設および整備に伴い、商店街あすとの縮小が行われた。
西口駅前の広範囲に渡って「京急蒲田西口駅前地区第一種市街地再開発事業」が進められ、2015年12月11日に高層住宅とライフ京急蒲田駅前店などが入居する20階建の「あすとウィズ」が開業するとともに、駅前広場も整備された。同時に駅の高架下に京急ストアや飲食店をはじめとする各種専門店、コンビニエンスストア(セブン-イレブン)、大田区観光情報センターなどを擁する商業施設「ウィングキッチン京急蒲田」がオープンした。駅の改札階とあすとウィズとはペデストリアンデッキで直結している。
当駅は1987年に「京浜蒲田駅」から現在の駅名に改称しているが、駅周辺の「京浜蒲田商店街」や「京浜蒲田公園」、また周辺を区域とする「京浜蒲田町会」のように、旧来の駅名を残すものがいくつか存在する。
西口広場と東口駅前広場に停留所があり、京浜急行バスにより運行されている。この西口広場の停留所と東口駅前広場は2016年4月1日に使用を開始した。各路線の詳細は羽田営業所および大森営業所(蒲36系統のみ)を参照。
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"text": "3番線・6番線は横浜寄りが切り欠き式ホームになっており、この切り欠かれた部分に2番線・5番線がある。2番線・5番線のホーム外側には3番線・6番線に至る通過線が設けられており、緩急接続(待避)が可能となっている。なお、2番線への入線時は一旦3番線を通過し、5番線からの発車後には6番線を通過する必要がある。5番線は2010年の時点で既に完成していたが、供用開始はしていなかった。",
"title": "駅構造"
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"text": "上述のような構造となっているため、ホームそのものは18両分の長さが確保されている。",
"title": "駅構造"
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"tag": "p",
"text": "当駅の自動放送は、1・4番線で大原さやかによる接近予告放送のみが使用されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "ラッツ&スターのメンバーである鈴木雅之と桑野信義が大田区出身であることにちなみ、2008年12月11日から、同グループの代表曲でもある「夢で逢えたら」をアレンジしたものを接近メロディとして使用している。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた。なお、接近メロディ導入と同時に、通過列車接近時の警告音の音程が変更されている。",
"title": "駅構造"
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"text": "2010年5月15日までは、島式ホーム2面3線を擁する地上駅であった。",
"title": "駅構造"
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"text": "2010年5月16日から2012年10月20日までは、島式ホーム2面4線を擁する高架駅(一部地上駅)であった。上り線が高架駅となっており、下り線が従来からの地上駅だった。",
"title": "駅構造"
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"text": "地上駅時代は各ホームを連絡する跨線橋があったが、連続立体交差事業(後述)が実施されていた関係で、東西双方の改札口とホームとは地下道により連絡していた。現在の駅舎になってからは各ホームとコンコースを連絡するエレベーターが設置された。東口はかつて分岐点近くに駅舎が設置されていたが、連続立体交差事業の進捗に伴い一時跨線橋上に移転後、現在の地下通路内に移転した。乗り換え通路は雑色・糀谷寄りにある。かつてはエスカレーターを併設していた。",
"title": "駅構造"
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"text": "全面高架化までは、次の場所にバリアフリー施設を設置していた。",
"title": "駅構造"
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"text": "空港線の羽田空港側では国道15号(第一京浜)が京急蒲田(空)第1踏切 (23.3m) で平面交差していた。また、分岐部のカーブは1986年までは半径60mであったが、同年に800形を入線させる際に半径80mに緩和した。",
"title": "駅構造"
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"text": "当駅は、上り本線浦賀・三崎口方面からの空港線乗り入れと空港線からの上り本線乗り入れが下り本線と平面交差となっていた。中でも1番線は長らく空港線専用ホームとして使われてきたが、1993年4月1日に空港線が羽田駅(現・天空橋駅)まで延伸された際に本線品川方面からの直通列車が運転されるようになったので、両方向発着ホームとなった。",
"title": "駅構造"
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"text": "しかし、1998年11月18日の羽田空港駅開業後に空港線の輸送が強化されて以降、本線列車のダイヤ設定上のネックとなっているにもかかわらず、本線や空港線が絡む過密ダイヤを3線でさばいていた。また、当駅に隣接する東京都道311号環状八号線(環八通り)および第一京浜はともに都内有数の交通量の多い道路であり、それぞれの交差点と踏切が隣接していることもあって慢性的な交通渋滞が発生しており、両踏切とも国土交通省からボトルネック踏切(いわゆる「開かずの踏切」)と認定されていた。",
"title": "駅構造"
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"text": "さらに、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の復路が開催される毎年1月3日は、出場選手の通過のために踏切の遮断時間を短縮するダイヤ変更も行われていた。変更内容は、羽田空港発着列車の一部を京急川崎駅発着に変更することと、横浜方面からの羽田空港発着列車の一部を品川駅発着に変更することであった。",
"title": "駅構造"
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"text": "これらの諸問題を解決するために、2000年から当駅を中心とした本線4.7km(平和島 - 六郷土手間)と空港線1.3km(京急蒲田 - 大鳥居間)の合計6kmを連続立体交差化(高架化)する工事を施工し、当駅ではそれに併せて本線・空港線での平面交差の解消や当駅での緩急接続などを目的に、駅舎の建て替えと線路の移設工事が行われることになった。",
"title": "駅構造"
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"text": "工事に当たっては国土交通省の鉄道駅総合改善事業補助を受けるため、大田区が出資した第三セクターの蒲田開発事業株式会社が駅関係施設を保有して事業主体となり京急が受託する形となった。施工については京急建設と鹿島建設が主体となって工事が進められ、2010年5月に一部高架化し、2012年10月に全面高架化となった。",
"title": "駅構造"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "高架化工事完成により、本線ホームの雑色寄りに切欠き式の待避ホームが設置され、2面6線の形態となり普通列車が待避可能な駅構造となった。また、高架化工事完成に備えた東口バスのりば用地も確保されているほか、第一京浜を横断する蒲田第一踏切が廃止されたことにより箱根駅伝復路開催時の運行ダイヤ変更も2013年から解消された。また、空港線の急曲線の半径も半径80mから同100mに緩和された。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "京急蒲田駅付近連続立体交差事業は、2017年3月にすべて完了した。この高架化工事事業はグッドデザイン賞を受賞している。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "2021年(令和3年)度の1日平均乗降人員は47,126人である。京急線全72駅の中では金沢八景駅に次いで第9位。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "(注)1998年までは本線・空港線別の乗車人員データが発表されていた。1999年以降のデータは両線の合算値である。また、乗り換え人員は含まれていない。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "1998年(平成10年)11月18日に運行開始から、当駅に停車していたエアポート快特は、2010年(平成22年)5月16日に実施されたダイヤ改正で、当駅を通過することになった(「名古屋飛ばし」になぞらえ「蒲田飛ばし」ともいわれる)。通過に対し、高架化費用の一部を負担した大田区側からは、反対の意見が出ていた。",
"title": "エアポート快特通過反対運動"
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"text": "鉄道ジャーナリストの杉山淳一は、高架化は道路交通の改善が主目的であることから、大田区は高架化で国道15号の踏切渋滞が解消され、緊急車両の通行改善など、区民の安全性が高まることを評価すべきなのに、エアポート快特の通過に関する京急への批判が前に出たことを「ピント外れ」「享受するメリットを履き違えた」と論評した。",
"title": "エアポート快特通過反対運動"
},
{
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"text": "一方大田区は、「自発的に区税から200億円を拠出し、工事に必要な立ち退きに際し沿線住民に理解を得るまで協力した結果が、今まで停車していた京急蒲田駅がスルーされ、しかも事前に一言の相談も無かった」として強く憤り、ダイヤ改正前日の2010年5月15日に区長・区議会・町会連合会・商店街連合会に加え、国会議員も参加して開かれた「京急蒲田駅通過反対区民大会」では、大田区産業プラザの定員600人を超える区民が会場に押し寄せた。この中で大田区長松原忠義は「京急蒲田駅を通過させるために高架化事業に協力してきたわけではない」「拠出の拒否も考えざるを得ない」と述べた。",
"title": "エアポート快特通過反対運動"
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"text": "これに対し、当時の東京都知事石原慎太郎は、大田区の対応に苦言を呈したが、大田区議会議員の永井敬臣(自民党)は石原が衆院議員時代に旧東京2区であったことから「石原さんも大田区民でしょう?だったら(あなたは)羽田空港へは自転車で行ってください」と反論した。",
"title": "エアポート快特通過反対運動"
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"text": "その後、2012年(平成24年)10月21日のダイヤ改正で、それまで1時間あたりエアポート快特3本・急行3本であったものが、1時間あたりエアポート快特1.5本・快特4.5本に変更され、エアポート快特の当駅通過は継続されるものの、当駅停車列車が増加することとなった。",
"title": "エアポート快特通過反対運動"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "大田区の中心としての機能および商業施設は蒲田駅付近に集中しているが、一部は当駅近くに立地している。西側には蒲田駅東口に続くアーケード街と小規模の商店街が存在しており、東側には小規模の商店街が存在している。当駅周辺は中規模のビルが林立しており、連続立体交差事業が始まってからの約10年間で中・高層のマンションが数棟建設された。西口周辺は駅前広場が設置されている。また、2012年12月9日には当駅南東にある南蒲田交差点の立体化が完成し、道路環境が変化した。なお、西口周辺では駅前広場の新設および整備に伴い、商店街あすとの縮小が行われた。",
"title": "駅周辺"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "西口駅前の広範囲に渡って「京急蒲田西口駅前地区第一種市街地再開発事業」が進められ、2015年12月11日に高層住宅とライフ京急蒲田駅前店などが入居する20階建の「あすとウィズ」が開業するとともに、駅前広場も整備された。同時に駅の高架下に京急ストアや飲食店をはじめとする各種専門店、コンビニエンスストア(セブン-イレブン)、大田区観光情報センターなどを擁する商業施設「ウィングキッチン京急蒲田」がオープンした。駅の改札階とあすとウィズとはペデストリアンデッキで直結している。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "当駅は1987年に「京浜蒲田駅」から現在の駅名に改称しているが、駅周辺の「京浜蒲田商店街」や「京浜蒲田公園」、また周辺を区域とする「京浜蒲田町会」のように、旧来の駅名を残すものがいくつか存在する。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "西口広場と東口駅前広場に停留所があり、京浜急行バスにより運行されている。この西口広場の停留所と東口駅前広場は2016年4月1日に使用を開始した。各路線の詳細は羽田営業所および大森営業所(蒲36系統のみ)を参照。",
"title": "駅周辺"
}
] |
京急蒲田駅(けいきゅうかまたえき)は、東京都大田区蒲田四丁目にある、京浜急行電鉄(京急)の駅である。駅番号はKK11。
|
{{駅情報
|社色 = #00bfff
|文字色 = white
|駅名 = 京急蒲田駅
|画像 = Keikyu-Kamata-Sta-W.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 西口外観(2016年8月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}}
|よみがな = けいきゅう かまた
|ローマ字 = Keikyū Kamata
|副駅名 =
|所属事業者 = [[京浜急行電鉄]](京急)
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KK|11|#00bfff|4||#00386d}}
|所在地 = [[東京都]][[大田区]][[蒲田]]四丁目50-10
|座標 = {{coord|35|33|38.5|N|139|43|25.4|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]
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|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京急" name="handbook2022" />47,126
|統計年度 = 2021年<!--リンク不要-->
|乗入路線数 = 2
|前の駅1 = KK10 [[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷]]
|駅間A1 = 0.8
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|所属路線1 = {{color|#00bfff|■}}[[京急本線|本線]]
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|所属路線2 = {{color|#00bfff|■}}[[京急空港線|空港線]]
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|起点駅2 = 京急蒲田
|乗換 =
|備考全幅 = * 駅名改称:<br />[[1925年]]([[大正]]14年)11月 - 蒲田→京浜蒲田<br />[[1987年]]([[昭和]]62年)[[6月1日]] - 京浜蒲田→京急蒲田<ref name="RJ250">{{Cite journal|和書 |date=1987-08 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |volume=21 |issue=10 |page=128 |publisher=鉄道ジャーナル社 }}</ref>
}}
'''京急蒲田駅'''(けいきゅうかまたえき)は、[[東京都]][[大田区]][[蒲田]]四丁目にある、[[京浜急行電鉄]](京急)の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KK11'''。
== 乗り入れ路線 ==
* 京浜急行電鉄 - 駅番号「'''KK11'''」
** [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急本線|本線]]
** [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京急空港線|空港線]] - 当駅を起点としている。
== 歴史 ==
* [[1901年]]([[明治]]34年)[[2月1日]] - '''蒲田駅'''として開業。(開業時、現在の[[蒲田駅]]は未開業)
* [[1925年]]([[大正]]14年)11月 - '''京浜蒲田駅'''に改称。
* [[1969年]]([[昭和]]44年)[[11月16日]]:[[佐藤栄作]]首相の訪米阻止を訴える学生デモが暴徒化。駅舎に[[火炎瓶]]が投げ込まれる(同日、国鉄駅でも同様の騒動)<ref>跳ね返された過激派 通行人・乗客を巻き添え 地元「自警団」とも乱闘『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月17日朝刊 12版 15面</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[6月1日]] - '''京急蒲田駅'''に改称<ref name="RJ250"/>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[4月1日]] - [[京急空港線|空港線]]羽田駅(現:[[天空橋駅]])開業に伴い、1番線ホームを両方向乗り入れに変更。
* [[1995年]](平成7年)[[7月24日]] - 本線用ホーム有効長を12両編成分に延長<ref name="交通950711">{{Cite news |title=京急、24日ダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-07-11 |page=1 }}</ref>。同時に平日朝の通勤快特停車および夕方の下り快特臨時停車を開始{{R|交通950711}}。
* [[1998年]](平成10年)[[11月18日]] - 空港線羽田空港駅(現:[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])延伸開業に伴い、[[エアポート快特]]・エアポート特急の運行開始<ref name="交通981012">{{Cite news |title=モノレールより安く 京急の品川-羽田空港間 来月18日に延伸部開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-12 |page=1 }}</ref>。同時に快特停車駅となる{{R|交通981012}}。
* [[1999年]](平成11年)[[7月31日]] - 横浜方面からの羽田空港直通列車を運転開始。開始当初は梅屋敷寄りの渡り線を経由して[[スイッチバック]]を行っていた。同時にエアポート特急が廃止され、エアポート快特に統合される。当駅 - 新逗子駅(現:[[逗子・葉山駅]])の急行も廃止される。
* [[2001年]](平成13年)1月 - 高架化、駅舎建て替え工事に着手。その数か月後には東口を仮橋上駅舎へ移設。
* [[2002年]](平成14年)[[10月12日]] - 空港線線路と本線下り線路を結ぶ連絡線が開通し、横浜方面からの羽田空港直通列車の運転を本格的に開始する<ref name="Keikyu200207">[https://web.archive.org/web/20040501220857/http://www.keikyu.co.jp/press/mk_pre2002/0717.html 10月12日から、横浜方面~羽田空港間 直通運転開始](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref>
* [[2005年]](平成17年)[[10月2日]] - 空港線用の1番線ホームを仮線に移設<ref>[https://web.archive.org/web/20061219010935if_/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/2005/05_0713.shtml 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い 京急蒲田駅、1番線(空港線)ホームのご利用方法が変更になります。2005年10月2日(日)始発から](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)。</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[11月26日]] - 本線用の2番線ホームを仮線に移設<ref>[https://web.archive.org/web/20070128003620/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/061025.shtml 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い京急蒲田駅、仮線路(下り)の使用を開始します。](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[12月2日]] - 本線用の3番線ホームを仮線に移設<ref name="Keikyu20071115">[https://web.archive.org/web/20080224055718/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/071115.shtml 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い京急蒲田駅、仮上り線と仮地下駅舎の使用を開始します。](京浜急行電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)。</ref>。同時に高架化工事の支障となる跨線橋と仮橋上駅舎の東口改札を地下へ移設<ref name="Keikyu20071115"/>。
* [[2008年]](平成20年)
**[[2月24日]] - 西口改札を北側に移設。
** [[5月18日]] - 当駅付近の上り線を仮高架化、これに伴い環状8号線の踏切の遮断時間が4割ほど短くなる<ref name="Keikyu20080331">[https://web.archive.org/web/20080416230351/http://www.keikyu.co.jp:80/corporate/press/press_files/080331_2.shtml 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い環状8号線踏切の上り本線を仮高架化します。](京浜急行電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2008年時点の版)。</ref>。
** [[12月11日]] - [[接近メロディ]]を導入。「[[夢で逢えたら (ラッツ&スターの曲)|夢で逢えたら]]」が採用される。詳細は[[#接近メロディ|後述]]。
* [[2010年]](平成22年)
**[[5月16日]] - 上り線を高架化、上り線高架ホームを使用開始<ref>[https://web.archive.org/web/20110704220134/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2009/detail/001303.html 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い、上り線を高架化します](京浜急行電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130518140245/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001564.html 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の上り線高架化に伴い 国道15号の渋滞長が約6割減少しました](京浜急行電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)。</ref>。同時にダイヤ改正が実施され、エアポート快特の停車駅から除外され、エアポート急行の停車駅となる<ref name="Keikyu2010">[https://web.archive.org/web/20110704193131/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001319.html 5月16日(日)ダイヤ改正を実施します](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref>。当駅 - 新逗子駅では約11年ぶりの急行運行となる。
** [[9月26日]] - 当駅付近の下り線を仮高架化、これに伴い環状8号線の踏切が廃止される<ref>[https://web.archive.org/web/20130518145840/http://www.keikyu.co.jp/company/news/2010/detail/001565.html 京急蒲田駅付近連続立体交差事業の進捗に伴い、2010年9月26日(日)始発から 環状8号線の踏切がなくなります。](京浜急行電鉄ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)。</ref>
* [[2011年]](平成23年)年末年始のみ羽田線を高架線経由で運行し、[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]との交差支障を解消。
* [[2012年]](平成24年)[[10月21日]] - 下り線を高架化、下り線高架ホームを使用開始、全事業区間の高架化が完成する<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130406043832/http://www.keikyu.co.jp/company/20120717HP%E3%80%80%E9%AB%98%E6%9E%B6%E5%88%87%E6%9B%BF%E6%97%A5%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%EF%BC%88%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E7%89%88%EF%BC%89.pdf 京急蒲田駅付近の上下線が全線高架化します!]}} - 京浜急行電鉄、2012年7月17日、2012年7月17日閲覧(インターネットアーカイブ)。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=JDuFBAZqKkA 京浜急行本線及び同空港線(京急蒲田駅付近)連続立体交差事業の全線高架化までの記録] 東京都 Tokyo Metropolitan Government</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[12月11日]] - 駅西口に駅前広場と[[ペデストリアンデッキ]]を整備。同時に駅高架下に商業施設'''ウィングキッチン京急蒲田'''がオープン<ref name="交通新聞20151211">{{Cite news |title=快適性、利便性向上した「京急蒲田駅」 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016-01-14 }}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[7月30日]] - [[北斗の拳]]と[[京浜急行電鉄]]とのコラボ、京急の120周年を記念した『北斗京急周年キャンペーン』により、同年9月17日までの期間限定で駅名看板が'''京急かぁまたたたたーっ駅'''に装飾され、記念乗車券である「北斗の券」が9月1日に発売される<ref>{{Cite web|和書|date=2018-07-19 |url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180719HP_18086EW.html |title=駅名看板を「京急かぁまたたたたーっ駅」などに特別装飾します! |website=京急電鉄オフィシャルサイト |accessdate=2018-08-20 }}</ref>。
* [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
** [[4月21日]] - 1・4番線の[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20190412_19002HPTI.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212043024/https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20190412_19002HPTI.html|title=お知らせ 2019年4月21日(日)始発より京急蒲田駅のホームドアの運用を開始いたします|date=2019-04-12|archivedate=2020-12-12|accessdate=2020-12-12|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語}}</ref>。
** [[8月9日]] - 3・6番線のホームドアの使用を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20190806_19076HPTI.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212042601/https://www.keikyu.co.jp/report/2019/20190806_19076HPTI.html|title=お知らせ 2019年8月9日(金)始発より京急蒲田駅3、6番線のホームドアの運用を開始いたします|date=2019-08-05|archivedate=2020-12-12|accessdate=2020-12-12|publisher=京浜急行電鉄|language=日本語}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[11月25日]] ダイヤ改正により、エアポート急行が急行に改称され、品川 - 当駅 - 逗子・葉山間の急行が1999年以来24年ぶりに設定される。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面6線を有する[[高架駅]]。本線と空港線の分岐点である。1階に改札階、2階に上りホーム(4-6番線)、3階に下りホーム(1-3番線)を配置する三層構造となっている。2階と3階は同じ形状のホーム(後述)が上下に重なっている。この重厚な構造から「'''蒲田要塞'''」の異名をもつ<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1211/05/news104.html |title=京急蒲田駅リニューアルで「蒲田ダッシュ」なる現象が発生!?|work=ねとらぼ |publisher=ITmedia |date=2012-11-05 |accessdate=2018-05-24}}</ref>。駅施設の北部は[[呑川]]を越えた蒲田三丁目に跨っているが、北側に改札口は設置されていない。
空港線は1・4番線から分岐しており、1番線には品川方面からの羽田空港行きと羽田空港からの横浜方面行き、4番線には横浜方面からの羽田空港行きと羽田空港からの品川方面行きが停車する。それぞれ本線と分岐してから隣の[[糀谷駅]]近くに設けられている[[分岐器|シーサスクロッシング]]までの間が[[単線並列]]の形となっている(この部分まで当駅構内)。シーサスクロッシングがこの位置にあるのは1番線と4番線が異なるフロアに位置していてこれらの直近に設けることが不可能なためである。なお品川方面が運転見合わせになった場合の異常時の折り返し時には、横浜方面から来た京急蒲田止の電車が4番線到着後、糀谷方面に向かって動き出し、このシーサスクロッシングを渡り一旦停止した後、進行方向を変えて1番線に進入し、再度進行方向を変え、横浜方面に折り返す。
3番線・6番線は横浜寄りが切り欠き式ホームになっており、この切り欠かれた部分に2番線・5番線がある。2番線・5番線のホーム外側には3番線・6番線に至る通過線が設けられており、緩急接続(待避)が可能となっている。なお、2番線への入線時は一旦3番線を通過し、5番線からの発車後には6番線を通過する必要がある。5番線は2010年の時点で既に完成していたが、供用開始はしていなかった。
上述のような構造となっているため、ホームそのものは18両分の長さが確保されている<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD0801K_Y2A900C1TJC000/ |title=京急蒲田駅が変身、内部を公開 羽田アクセス改善 |work=[[日本経済新聞]]電子版 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2012-9-9 |accessdate=2012-10-25}}</ref>。
当駅の自動放送は、1・4番線で[[大原さやか]]による接近予告放送のみが使用されている。
=== のりば ===
<!--2018年時点の実際の表記に合わせた。成田空港は削除済み-->
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
|-style="border-top:solid 3px #999"
|colspan="5" style="background-color:#eee"|'''3階ホーム'''
|-
!rowspan="2"| 1
|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 空港線
|rowspan=4 style="text-align:center"|下り
|[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面
|品川方面発
|-
|rowspan=3|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 本線
|[[横浜駅|横浜]]方面
|空港線からの列車
|-
! 2
|rowspan=2|横浜・[[三浦海岸駅|三浦海岸]]方面
|待避線
|-
! 3
|
|-
|-style="border-top:solid 3px #999"
|colspan="5" style="background-color:#eee"|'''2階ホーム'''
|-
!rowspan="2"| 4
|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 空港線
|style="text-align:center"|下り
|[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] 羽田空港方面
|横浜方面発
|-
|rowspan=3|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 本線
|rowspan=3 style="text-align:center"|上り
|rowspan=2|[[品川駅|品川]]方面
|空港線からの列車
|-
! 5
|待避線
|-
! 6
|品川・[[新橋駅|新橋]]方面
|
|}
* 2020年5月8日まで日中に運転されていた品川 - 当駅間の普通列車は、2番線へ終着後に[[京急川崎駅]]隣接の折り返し線まで回送されていた。折り返し後は再び当駅まで回送され、5番線へ入線後に客扱いを行ってから品川方面へ発車していた。
* 本線横浜方面と空港線を直通する列車は、当駅で方向転換(スイッチバック)を行う。
<gallery widths="180">
ファイル:Keikyu-Kamata-Sta-E.JPG|東口。右に分岐する線路は空港線(2016年8月)
ファイル:Keikyu-Kamata-Sta-Gate.JPG|改札口(2016年8月)
ファイル:Keikyu-Kamata-Sta-2F-Platform after adding platform doors.jpg|2階ホーム (4 - 6番線・2021年3月)
ファイル:Keikyu-Kamata-Sta-3F-Platform after adding platform doors.jpg|3階ホーム (1 - 3番線・2021年3月)
ファイル:Keikyu-railway-KK11-Keikyu-Kamata-station-sign-20150630.jpg|駅名標 (2021年1月)
</gallery>
=== 接近メロディ ===
[[ラッツ&スター]]のメンバーである[[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]と[[桑野信義]]が大田区出身であることにちなみ、2008年12月11日から、同グループの代表曲でもある「[[夢で逢えたら (ラッツ&スターの曲)|夢で逢えたら]]」をアレンジしたものを接近メロディとして使用している<ref>[https://web.archive.org/web/20081201154848/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/081114.shtml 16駅の駅メロディ採用曲が決定いたしました!](報道発表資料) - 京浜急行電鉄(2008年11月14日)(2008年12月1日時点での[[ウェブアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ、出ちゃいました。|url=https://blog.goo.ne.jp/tetsunomusician/e/dcf0b1804b8a18f6c1d4b6dee76440af|website=☆♪☆ 鉄のみゅーじしゃん ☆♪☆|accessdate=2020-03-14|language=ja|publisher=塩塚博}}</ref>。なお、接近メロディ導入と同時に、通過列車接近時の警告音の音程が変更されている。
=== 構内配線・信号設備等 ===
{|class="wikitable"
!運転番線!!営業番線!!ホーム!!本線浦賀方面着発!!本線品川・泉岳寺方面着発!!空港線羽田空港方面着発!!備考
|-
|style="text-align:center"|1||style="text-align:center"|1||style="text-align:right"|8両分||rowspan="3"|出発可||rowspan="3"|到着可||到着・出発可||[[ホームドア]]設置<ref name="Keikyu201902">[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20190225HP_18246TS.html 京急蒲田駅にホームドアを設置します] - 京浜急行電鉄 2019年2月25日</ref>
|-
|style="text-align:center"|2||style="text-align:center"|2||style="text-align:right"|6両分||rowspan="2"|不可||
|-
|style="text-align:center"|3||style="text-align:center"|3||style="text-align:right"|12両分||ホームドア設置<ref name="Keikyu201906">[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190607HP_19053TS.html 京急蒲田駅3・6番線にホームドアを設置] - 京浜急行電鉄 2019年6月7日</ref>
|-
|style="text-align:center"|4||style="text-align:center"|4||style="text-align:right"|8両分||rowspan="3"|到着可||rowspan="3"|出発可||到着・出発可||ホームドア設置<ref name="Keikyu201902"></ref>
|-
|style="text-align:center"|5||style="text-align:center"|5||style="text-align:right"|6両分||rowspan="2"|不可||
|-
|style="text-align:center"|6||style="text-align:center"|6||style="text-align:right"|12両分||ホームドア設置<ref name="Keikyu201906"></ref>
|}
{{-}}
=== 過去の駅構造 ===
==== 2010年5月15日までの構造 ====
[[画像:Keikyu Kamata Station Platform 1 20021027.jpg|thumb|240px|高架化前の1番線から発車する列車(2002年10月)]]
2010年5月15日までは、島式ホーム2面3線を擁する地上駅であった。
;のりば
<!--実際の表記に合わせた-->
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!rowspan="3"| 1
|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 空港線
|style="text-align:center"| -
|[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面
|-
|rowspan=4|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 本線
|style="text-align:center"|上り
|品川・新橋・浅草方面
|-
|rowspan=2 style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]方面
|-
! 2
|[[京急川崎駅|京急川崎]]・横浜・[[三崎口駅|三崎口]]方面
|-
! 3
|style="text-align:center"|上り
|品川・新橋・浅草方面
|}
* 元々1番線は空港線と本線品川方面のみに接続されていた。横浜方面からの羽田空港行快特・特急は、1999年7月31日から2002年10月11日までは、3番線(当時)に停車した後、[[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷]]寄りにある[[分岐器]]で向きを変えて転線し、1番線ホームに入線して羽田空港まで運転していたため、列車の往来が少ない早朝のみ設定されていた。
* その後、2002年4月に、以前は下り本線品川寄りから空港線へ向かっていた1番線ホームの浦賀寄りに[[分岐器]]が設けられ、空港線のほか、下り本線浦賀方にも連絡するようにされた<ref>「京浜急行電鉄 最近の動き」94 - 95頁。</ref>。また、横浜方面からの空港線乗り入れ用に上り本線浦賀方から1番線ホームへの[[分岐器#形状による分類|渡り線]]が新設され、同年10月12日から使用が開始され、ラッシュ時や日中などにおいても横浜方面からの空港線直通運転が可能になった<ref name="Keikyu200207"/>。
==== 2012年10月20日までの構造 ====
2010年5月16日から2012年10月20日までは、島式ホーム2面4線を擁する高架駅(一部地上駅)であった。上り線が高架駅となっており、下り線が従来からの地上駅だった。
地上駅時代は各ホームを連絡する[[跨線橋]]があったが、[[連続立体交差事業]](後述)が実施されていた関係で、東西双方の改札口とホームとは地下道により連絡していた<ref name="kamatamap">[http://www.keikyu-ensen.com/images/station_map_12.jpg 京急蒲田駅 駅構内図] - 京浜急行電鉄</ref>。現在の駅舎になってからは各ホームとコンコースを連絡する[[エレベーター]]が設置された。東口はかつて分岐点近くに駅舎が設置されていたが、連続立体交差事業の進捗に伴い一時跨線橋上に移転後、現在の地下通路内に移転した。乗り換え通路は雑色・糀谷寄りにある。かつては[[エスカレーター]]を併設していた。
全面高架化までは、次の場所に[[バリアフリー]]施設を設置していた<ref name="kamatamap"/>。
* エスカレーター:中2階 - 上りホーム
* エレベーター:(改札内)東口コンコース - 下りホーム、東口コンコース - 西口改札内コンコース(旧3番線) - 上りホーム / (改札外)東口専用出入口 - 東口コンコース
* 多機能[[便所|トイレ]]:下りホーム雑色・糀谷寄り(一般客用を併設)
空港線の羽田空港側では[[国道15号]](第一京浜)が京急蒲田(空)第1踏切 (23.3[[メートル|m]]) で[[平面交差]]していた。また、分岐部のカーブは1986年までは半径60mであったが、同年に[[京急800形電車|800形]]を入線させる際に半径80mに緩和した。
; のりば
<!--実際の表記に合わせた-->
{|class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先!!備考
|-
!rowspan="2"| 1
|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 空港線
|style="text-align:center"| -
|[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面
|本線品川方面から
|-
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 本線
|rowspan=2 style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]方面
|空港線から
|-
! 2
|[[京急川崎駅|京急川崎]]・横浜・[[三崎口駅|三崎口]]方面
|
|-
!rowspan="2"| 4
|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 空港線
|style="text-align:center"| -
|[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] 羽田空港方面
|本線横浜方面から
|-
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 本線
|rowspan=2 style="text-align:center"|上り
|[[品川駅|品川]]方面
|空港線から
|-
! 6
|品川・[[成田空港駅|成田空港]]方面
|
|}
* 3番線・5番線はこの当時は欠番である。また、5番線(上り待避線)は暫定高架供用開始時より線路上を覆った状態で6番線ホームとして使用していたが、2012年7月29日始発より停車位置を品川寄りに約5両分移動し、後部停止位置より先を封鎖した状態で5番線ホームの造作を開始している。
* 上りホームの高架化に伴い、横浜方面からの羽田空港行は[[大鳥居駅]]の手前まで羽田空港からの品川方面行と同じ線路を走行する。
* 各ホームにはかつて接近する種別を表示する列車接近案内を設置していたが、1998年11月18日の空港線羽田空港駅開業時より、同駅や品川駅とともに大型の[[発車標|列車案内板]]を新設した。
* 東口改札前には、列車の発車時刻を表示する大型[[液晶ディスプレイ]]がある。
* 上りホームの高架化に伴い、階段と通路に番線別のカラーラインが施された。1番線が青色、2番線が緑色、4番線が水色、6番線が赤色である。
* 2010年秋より、ホームに羽田空港行がどこののりばから発車するかを案内表示する列車案内板が新設された。
* 上りホームは、高架化に伴い[[駅名標]]と方面サインが新型のものに更新された。ほかのホームとコンコースは従来のサインのままとなっている。
=== 高架化 ===
当駅は、上り本線浦賀・三崎口方面からの空港線乗り入れと空港線からの上り本線乗り入れが下り本線と平面交差となっていた。中でも1番線は長らく空港線専用ホームとして使われてきたが、1993年4月1日に空港線が羽田駅(現・[[天空橋駅]])まで延伸された際に本線品川方面からの直通列車が運転されるようになったので、両方向発着ホームとなった。
しかし、1998年11月18日の羽田空港駅開業後に空港線の輸送が強化されて以降、本線列車の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]設定上のネックとなっているにもかかわらず、本線や空港線が絡む過密ダイヤを3線でさばいていた。また、当駅に隣接する[[東京都道311号環状八号線]](環八通り)および第一京浜はともに都内有数の交通量の多い道路であり、それぞれの[[交差点]]と踏切が隣接していることもあって慢性的な交通[[渋滞]]が発生しており、両踏切とも[[国土交通省]]からボトルネック踏切(いわゆる「[[開かずの踏切]]」)と認定されていた。
さらに、[[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝)の復路が開催される毎年1月3日は、出場選手の通過のために踏切の遮断時間を短縮するダイヤ変更も行われていた。変更内容は、羽田空港発着列車の一部を京急川崎駅発着に変更することと、横浜方面からの羽田空港発着列車の一部を品川駅発着に変更することであった<ref>その上、[[2008年]]の[[第84回東京箱根間往復大学駅伝競走|第84回大会]]においては、10区を走っていた[[東海大学]]の4年生ランナーがこの踏切に足を取られて捻挫し、結果としてレースを途中棄権するという事態まで発生していた。</ref>。
これらの諸問題を解決するために、2000年から当駅を中心とした本線4.7[[キロメートル|km]](平和島 - 六郷土手間)と空港線1.3km(京急蒲田 - 大鳥居間)の合計6kmを連続立体交差化(高架化)する工事を施工し<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/cpproject/traffic/8_9_24/toshishisetsu8.html 京浜急行電鉄本線・空港線(京急蒲田駅付近)連続立体交差事業] 東京都都市整備局</ref>、当駅ではそれに併せて本線・空港線での平面交差の解消や当駅での[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]などを目的に、駅舎の建て替えと線路の移設工事が行われることになった。
工事に当たっては[[国土交通省]]の鉄道駅総合改善事業補助を受けるため、大田区が出資した[[第三セクター]]の蒲田開発事業株式会社<ref>[[2014年]][[5月30日]]より『株式会社大田まちづくり公社』に商号変更。</ref>が駅関係施設を保有して事業主体となり京急が受託する形となった。施工については[[京急建設]]と[[鹿島建設]]が主体となって工事が進められ、2010年5月に一部高架化し、2012年10月に全面高架化となった。
* 1番線の横浜方面接続(前述)と同時に1番線ホームが線路1線分東側に移設された。その後2番線ホームも1線分東側に移設され、一時的に距離があった1・2番線が再び同じホームになった。その後、3番線もホームが1線分東側に移設され、同時に元々地上にあった駅舎は[[橋上駅|橋上駅舎]]となっていたが、地下通路化された。2011年10月時点では将来の3階ホームの建設が行われているほか、高架の躯体も形成されている。2階となる上りホームは2010年5月16日に完成したが、雑色寄りの待避線予定地の一部が仮設ホームとなっていた。
* 高架化に先立ち、2008年5月18日に上り線の環八通り踏切前後が仮設高架橋へ移設され、より早い渋滞の軽減へとつながった<ref name="Keikyu20080331"/>。この仮設高架橋は上り高架化完了後に再整備され、2010年9月26日から下り仮本線へ転用され、環八通りの踏切は廃された。これにより当駅 - 雑色間の一部が右側通行となった。2012年10月21日に下り高架化完成により、仮設高架橋を撤去し、左側通行に戻っている。
高架化工事完成により、本線ホームの[[雑色駅|雑色]]寄りに[[切欠きホーム|切欠き式]]の待避ホームが設置され、2面6線の形態となり普通列車が待避可能な駅構造となった。また、高架化工事完成に備えた東口バスのりば用地も確保されているほか、第一京浜を横断する蒲田第一踏切が廃止されたことにより[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]復路開催時の運行ダイヤ変更も2013年から解消された<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20121018k0000e040170000c.html 蒲田第1踏切:21日撤去…箱根駅伝「鬼門」ランナー感慨] - 毎日新聞2012年10月18日</ref>。また、空港線の急曲線の半径も半径80mから同100mに緩和された<ref>1986年に半径60mより同80mに変更して以来の2度目の曲線半径緩和である。</ref>。
京急蒲田駅付近連続立体交差事業は、[[2017年]][[3月]]にすべて完了した<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 (No.935) p192 - p197、[[電気車研究会]]</ref>。この高架化工事事業は[[グッドデザイン賞]]を受賞している<ref>[http://www.g-mark.org/award/describe/39418?token=2pkashj3ep Good Design Award「連続立体交差事業 [京急本線・空港線(京急蒲田駅付近)連続立体交差事業」]</ref>。
<gallery widths="180">
Keikyuu kamata station 1.jpg|駅前の高架化工事、羽田空港方面(2010年5月)
Keikyu Kamata Station.jpg|東口仮設駅舎(2005年11月)
</gallery>
==== 駅舎概要 ====
* 高さ約24mの三層構造
* 一層部:駅事務所、改札
** 駅施設以外の部分(高架下)には[[駐車場]]や[[駐輪場]]が整備される。
* 二層部:ホーム(1面2線、上り本線と空港線)
* 三層部:ホーム(1面2線、下り本線と空港線)
** ホーム長は389m、一部切欠きホームとなり、12両編成電車と6両編成電車が同時に直列停車および待避が可能になる。ホーム幅員は最大12m。
; 駅西側
* [[路線バス]]などが乗り入れ可能な「京急蒲田駅西口駅前広場」 (2,900[[平方メートル|m²]]) および蒲田八幡神社側から大田区画街路第2号線(幅員11m)、補助36号線側から補助線街路第328号線(幅員15m)が整備されている。
; 駅東側
* 国道15号を渡った先(空港線と[[大田区産業プラザ]]の間)に路線バスなどが乗り入れ可能な京急蒲田駅東口駅前広場 (2,400m²) が[[2016年]]に整備された。なお、京急蒲田駅と京急蒲田駅東口駅前広場の間は大田歩行者専用道路第1号線(高架、長さ110m、幅員5.2m)で結ばれている。
== 利用状況 ==
[[2021年]](令和3年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''47,126人'''<ref group="京急" name="handbook2022" />である。京急線全72駅の中では[[金沢八景駅]]に次いで第9位。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!rowspan=2|年度
!rowspan=2|1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!colspan=2|1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref>
!rowspan=2|出典
|-
!本線
!空港線
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|
|19,570
|3,041
|<ref group="*">東京都統計年鑑(平成2年)227ページ</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|20,123
|3,189
|<ref group="*">東京都統計年鑑(平成3年)233ページ</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|19,888
|3,142
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|19,523
|3,326
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|18,915
|3,441
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|18,137
|3,336
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|17,855
|3,222
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|17,334
|3,173
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|17,389
|3,195
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|colspan=2|21,320
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|colspan=2|21,611
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|
|colspan=2|21,852
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|
|colspan=2|21,638
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|43,972
|colspan=2|21,792
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|44,682
|colspan=2|21,904
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|45,428
|colspan=2|22,307
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|46,934
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|-
|2007年(平成19年)
|48,937
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|-
|2008年(平成20年)
|49,193
|colspan=2|24,515
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|-
|2009年(平成21年)
|47,921
|colspan=2|23,915
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|-
|2010年(平成22年)
|47,313
|colspan=2|23,616
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|-
|2011年(平成23年)
|46,564
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|47,473
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|2013年(平成25年)
|49,477
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|-
|2014年(平成26年)
|50,948
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|2015年(平成27年)
|53,397
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|-
|2016年(平成28年)
|58,396
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|-
|2017年(平成29年)
|61,746
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|-
|2018年(平成30年)
|64,280
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|-
|2019年(令和元年)
|65,123
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|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="京急" name="handbook2021">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2021-2022_P019-042.pdf|archiveurl=|title=京急グループ会社要覧 2021 - 2022|archivedate=|page=31|accessdate=2021-09-25|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>44,191
|colspan=2|
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="京急" name="handbook2022">{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/company/pdf/handbook2022-2023_all.pdf|archiveurl=|title=京急グループ会社要覧 2022 - 2023|archivedate=|page=28|accessdate=2023-06-25|publisher=京浜急行電鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>47,126
|colspan=2|
|
|}
(注)1998年までは本線・空港線別の乗車人員データが発表されていた。1999年以降のデータは両線の合算値である。また、乗り換え人員は含まれていない。
== エアポート快特通過反対運動 ==
1998年(平成10年)11月18日に運行開始から、当駅に停車していた[[エアポート快特]]は、2010年(平成22年)5月16日に実施されたダイヤ改正で、当駅を通過することになった(「[[名古屋飛ばし]]」になぞらえ「蒲田飛ばし」ともいわれる)。通過に対し、高架化費用の一部を負担した大田区側からは、反対の意見が出ていた<ref>[https://web.archive.org/web/20101106122413/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100507/tky1005072027011-n1.htm 『京急蒲田駅が通過駅に格下げ 大田区庁舎内ゴタゴタ』] - [[産経新聞]]電子版(2010年5月7日)(2010年11月6日時点でのアーカイブ)</ref>。
鉄道ジャーナリストの[[杉山淳一]]は、高架化は道路交通の改善が主目的であることから、大田区は高架化で[[国道15号]]の[[踏切]]渋滞が解消され、[[緊急車両]]の通行改善など、区民の安全性が高まることを評価すべきなのに、エアポート快特の通過に関する京急への批判が前に出たことを「ピント外れ」「享受するメリットを履き違えた」と論評した<ref name="杉山淳一">{{cite news |author=杉山淳一 |url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1208/31/news014.html |title=杉山淳一の時事日想:なぜ大田区は京急電鉄への怒りをおさめたのか |newspaper=Business Media 誠 |date=2012-08-31 |accessdate=2017-02-23}}</ref>。
一方大田区は、「自発的に区税から200億円を拠出し、工事に必要な立ち退きに際し沿線住民に理解を得るまで協力した結果が、今まで停車していた京急蒲田駅がスルーされ、しかも事前に一言の相談も無かった」として強く憤り、ダイヤ改正前日の2010年5月15日に区長・区議会・町会連合会・商店街連合会に加え、国会議員も参加して開かれた「京急蒲田駅通過反対区民大会」では、大田区産業プラザの定員600人を超える区民が会場に押し寄せた。この中で大田区長[[松原忠義]]は「京急蒲田駅を通過させるために高架化事業に協力してきたわけではない」「拠出の拒否も考えざるを得ない」と述べた。
これに対し、当時の[[東京都知事]][[石原慎太郎]]は、大田区の対応に苦言を呈したが、大田区議会議員の永井敬臣([[自由民主党 (日本)|自民党]])は石原が衆院議員時代に[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]であったことから「石原さんも大田区民でしょう?<ref>実際に居住しているのは[[神奈川県]][[逗子市]]である。</ref>だったら(あなたは)[[東京国際空港|羽田空港]]へは[[自転車]]で行ってください」と反論した<ref>[https://web.archive.org/web/20101110022811/http://news24.jp/articles/2010/05/15/07159222.html ダイヤ改正で京急蒲田駅通過 地元が反発] 日テレNEWS24</ref><ref>[https://www.city.ota.tokyo.jp/gikai/archive/kugikai_dayori/dayori_22.files/189.pdf おおた区議会だより] 平成22年6月4日 No.189</ref><ref>[http://www.komei.or.jp/km/ota-okamoto-yumi/2010/05/15/%E4%BA%AC%E6%80%A5%E8%92%B2%E7%94%B0%E9%A7%85%E9%80%9A%E9%81%8E%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E5%8C%BA%E6%B0%91%E5%A4%A7%E4%BC%9A/ 大田区議会議員 岡元由美のホームページ]</ref><ref>[http://www.city.ota.tokyo.jp/kamata/ts_kamatahigashi/jouhoushi/kamatahigasi_37.html 蒲田東地域情報紙「かまた東」第37号]</ref>。
{{external media
|width = 500px
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|video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=Uem4FDREf4c 品川-羽田空港ノンストップ 京急・蒲田通過で大田区民大会] TOKYO MX NEWS
|video2 = [https://www.youtube.com/watch?v=viu8asL4eng 品川-羽田空港ノンストップ 蒲田通過に大田区が反発 ] TOKYO MX NEWS
|video3 = [https://www.youtube.com/watch?v=qWrHt0enkpA 京急蒲田駅の「通過」に地元・大田区が抗議集会] テレ朝news
}}
{{Clear}}
その後、2012年(平成24年)10月21日のダイヤ改正で、それまで1時間あたりエアポート快特3本・急行3本であったものが、1時間あたりエアポート快特1.5本・快特4.5本に変更され、エアポート快特の当駅通過は継続されるものの、当駅停車列車が増加することとなった<ref name="杉山淳一"/>。
== 駅周辺 ==
{{See also|蒲田駅#駅周辺|蒲田|南蒲田|東蒲田|蒲田本町}}
大田区の中心としての機能および商業施設は[[蒲田駅]]付近に集中しているが、一部は当駅近くに立地している。西側には蒲田駅東口に続く[[アーケード (建築物)|アーケード]]街と小規模の[[商店街]]が存在しており、東側には小規模の商店街が存在している。当駅周辺は中規模のビルが林立しており、連続立体交差事業が始まってからの約10年間で中・高層の[[マンション]]が数棟建設された。西口周辺は駅前広場が設置されている。また、2012年12月9日には当駅南東にある[[南蒲田]]交差点の立体化が完成し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ktr.mlit.go.jp/kisha/kawakoku_00000081.html |title=蒲田立体(南蒲田交差点)最近の交通状況についてお知らせします。 |date=2014-06-13 |accessdate=2017-10-15 |publisher=国土交通省関東地方整備局 川崎国道事務所}}</ref>、道路環境が変化した。なお、西口周辺では駅前広場の新設および整備に伴い、[[京浜蒲田商店街あすと|商店街あすと]]の縮小が行われた。
西口駅前の広範囲に渡って「京急蒲田西口駅前地区第一種市街地再開発事業」が進められ、[[2015年]][[12月11日]]に高層住宅と[[ライフコーポレーション|ライフ]]京急蒲田駅前店などが入居する20階建の「'''あすとウィズ'''」が開業するとともに、駅前広場も整備された。同時に駅の高架下に[[京急ストア]]や飲食店をはじめとする各種専門店、コンビニエンスストア([[セブン-イレブン]])、[[大田区]]観光情報センターなどを擁する商業施設「'''ウィングキッチン京急蒲田'''」がオープンした<ref name="交通新聞20151211"/>。駅の改札階とあすとウィズとはペデストリアンデッキで直結している<ref name="交通新聞20151211"/>。
当駅は1987年に「京浜蒲田駅」から現在の駅名に改称しているが、駅周辺の「京浜蒲田商店街」や「京浜蒲田公園」、また周辺を区域とする「京浜蒲田町会」のように、旧来の駅名を残すものがいくつか存在する。
=== 西口 ===
{{maplink2|frame=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=14|frame-width=240|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|coord={{coord|35|33|44.9|N|139|42|57.8|E}}|title=JR 蒲田駅|coord2={{coord|35|33|42.5|N|139|42|52.8|E}}|title2=東急 蒲田駅|coord3={{coord|35|33|38.5|N|139|43|25.4|E}}|title3=京急蒲田駅|marker-color=008000|marker-color2=ee0011|marker-color3=00bfff|frame-latitude=35.561549|frame-longitude=139.720115|text=当駅(右)と蒲田駅(左)との位置関係}}
==== 官公庁・公共施設 ====
* [[蒲田警察署|警視庁蒲田警察署]]
* 大田年金事務所
==== 教育機関 ====
* [[東京誠心調理師専門学校]]
* [[東京都医師会|蒲田医師会館]]/蒲田医師会立 看護高等専修学校
==== 史跡・自然 ====
* [[蒲田八幡神社]]
==== ホテル ====
* [[東急ステイ]] 蒲田
==== 店舗 ====
* [[京浜蒲田商店街あすと]]
* あすとウィズ
* ハーモニカ横丁<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/travel/spot/98173.html ハーモニカ横丁(京急蒲田)] [[テレビ東京]]『[[出没!アド街ック天国]]』2014年1月18日放送</ref>
==== 交通 ====
* [[蒲田駅]]([[東日本旅客鉄道]]〈JR東日本〉・[[東急電鉄]]) - 当駅から西へ800m程度離れており、[[連絡運輸]]は行っていない。なお、この両駅を連絡する路線として[[蒲蒲線|蒲蒲線(新空港線)]]の整備計画がある<ref>[http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/kamakamasen/index.html 新空港線「蒲蒲線」整備促進事業] - 大田区</ref>。
:''整備計画の詳細は[[蒲蒲線]]を参照''
=== 東口 ===
==== 官公庁・公共施設 ====
* [[大田区産業プラザ]] (PiO) - 蒲蒲線整備計画では周辺の地下に南蒲田駅(仮称)を建設する案があり、すでに駅建設のための空間が確保されているという<ref>『〈図解〉新説全国未完成鉄道路線 謎の施設から読み解く鉄道計画の真実』 - [[川島令三]] 著、講談社(2007年10月刊行) ISBN 9784062143189</ref>。
* [[大田区総合体育館]]
==== 医療 ====
* [[地域医療機能推進機構東京蒲田医療センター]](旧社会保険蒲田総合病院)
==== 郵便局・金融機関 ====
* [[東日本銀行]]蒲田支店
* [[芝信用金庫]]蒲田支店
==== 店舗 ====
* キネマ通り商店街
=== バス路線 ===
西口広場と東口駅前広場に停留所があり、[[京浜急行バス]]により運行されている。この西口広場の停留所と東口駅前広場は2016年4月1日に使用を開始した。各路線の詳細は[[羽田京急バス東京営業所|羽田営業所]]および[[京浜急行バス大森営業所|大森営業所]](蒲36系統のみ)を参照。
==== 京急蒲田駅(西口広場)停留所 ====
* [蒲31・32・33・35・36] JR蒲田駅東口行
==== 京急蒲田駅(東口広場)停留所 ====
* [蒲30] [[大鳥居駅]]経由 [[東京国際空港|羽田空港第2ターミナル]]行(早朝のみ)
* [蒲31] 大鳥居駅経由 羽田空港第1ターミナル行
* [蒲32] 大鳥居駅・[[天空橋駅]]経由 羽田車庫行
* [蒲33] 大鳥居駅経由 環八直進 [[天空橋駅]]行
* [蒲35] 大鳥居駅経由 [[東糀谷]]六丁目行
* [蒲36] 大鳥居駅経由 [[大森南|森ケ崎]]行
==== 京急蒲田駅入口停留所 ====
* [蒲30] 大鳥居駅経由 羽田空港第3ターミナル行(早朝のみ)
* [蒲31] 大鳥居駅経由 羽田空港第3ターミナル行
* [蒲32] 大鳥居駅・天空橋駅経由 羽田車庫行
* [蒲33] 大鳥居駅経由 環八直進 [[天空橋駅]]行
* [蒲35] 大鳥居駅経由 東糀谷六丁目行
* [蒲36] 大鳥居駅経由 森ケ崎行
* [蒲67] [[大森警察署|大森警察]]経由 [[大森東]]五丁目行
* [蒲31・32・33・35・36・67] JR蒲田駅東口行
== 隣の駅 ==
; 京浜急行電鉄
: [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 本線
:: {{Color|#049c5e|□}}「[[ウィング号 (京急)|モーニング・ウィング号]]」・{{Color|#049c5e|□}}「[[ウィング号 (京急)|イブニング・ウィング号]]」・{{Color|#ef7a00|■}}エアポート快特
::: '''通過'''(イブニング・ウィング14号・16号は運転停車)
:: {{Color|#049c5e|■}}快特
::: [[品川駅]] (KK01) - '''京急蒲田駅 (KK11)''' - [[京急川崎駅]] (KK20) /(空港線)
:: {{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#006cb8|■}}急行(以下の2通り)
::* [[平和島駅]] (KK08) - '''京急蒲田駅 (KK11)''' - 京急川崎駅 (KK20) /(空港線)
::* (空港線) - '''京急蒲田駅 (KK11)''' - 京急川崎駅 (KK20)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[梅屋敷駅 (東京都)|梅屋敷駅]] (KK10) - '''京急蒲田駅 (KK11)''' - [[雑色駅]] (KK18)
: [[File:Number prefix Keikyū.svg|15px]] 空港線
:: {{Color|#ef7a00|■}}エアポート快特
:::; 通過
:: {{Color|#049c5e|■}}快特
::: (本線品川/同京急川崎方面) - '''京急蒲田駅 (KK11) ''' - [[羽田空港第3ターミナル駅]] (KK16)
:: {{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#006cb8|■}}急行(空港線内は各駅に停車)
::: (本線平和島/同京急川崎方面) - '''京急蒲田駅 (KK11)''' - [[糀谷駅]] (KK12)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: (本線雑色方面) → '''京急蒲田駅 (KK11)''' - [[糀谷駅]] (KK12)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 京浜急行電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京急"|22em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 参考文献 ==
* 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』2002年9月号 No.721
* 京急同趣会「京浜急行電鉄 最近の動き」94 - 95頁(2002年3 - 6月頃の改良工事の写真などを掲載)
== 関連項目 ==
{{commonscat|Keikyū Kamata Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[出村駅]] - 当駅 - 雑色駅間にあった駅(廃駅)
* [[蒲蒲線]]
* [[東京箱根間往復大学駅伝競走]]
*[[蒲田区]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/京浜急行電鉄駅|駅番号=KK11}}
* {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20091229012052/http://www.keikyu.co.jp/corporate/bz_library/pdf/nj80/3_6.pdf 京急蒲田駅 駅舎高架化事業概要]}}(2009年12月29日時点でのアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20170311145023/http://www.city.ota.tokyo.jp:80/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/rittaikousa/index.html 京浜急行線の連続立体交差事業と関連する街路事業] - 大田区役所(2017年3月11日時点でのアーカイブ)
* [https://web.archive.org/web/20210517133228/https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jigyo/road/kensetsu/gaiyo/kuukousenn-2.html 京浜急行電鉄本線及び同空港線(京急蒲田駅付近)連続立体交差事業](東京都建設局・インターネットアーカイブ・2021年時点の版)
* {{Cite journal|和書|author=服部尚道, 黒岩俊之, 早川正, 吉住陽行 |title=鉄道営業線近接・直上におけるHPCa工法を適用したラーメン高架橋の構築 |journal=コンクリート工学 |ISSN=03871061 |publisher=日本コンクリート工学会 |year=2012 |month=mar |volume=50 |issue=3 |pages=275-281 |naid=10030145307 |doi=10.3151/coj.50.275 |url=https://doi.org/10.3151/coj.50.275 |ref=harv}}
* 土木学会『土木建設技術発表会2012』「{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20210710013143/http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00984/2012/2012-0118.pdf 鉄道営業線直上における鋼高架橋架設実績 - 京急蒲田駅付近連続立体交差事業第4工区工事報告 - ]}}」(インターネットアーカイブ・2021年時点の版)
* [https://web.archive.org/web/20190425190605/https://www.kajima.co.jp/news/digest/jun_2007/site/index-j.htm 交通渋滞の解消と円滑な輸送確保を目指して 京急蒲田駅付近連続立体交差事業第4工区工事(鹿島ダイジェスト)](インターネットアーカイブ・2019年時点の版)
{{京急本線}}
{{京急空港線}}
{{DEFAULTSORT:けいきゆうかまた}}
[[Category:大田区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 け|いきゆうかまた]]
[[Category:京浜急行電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1901年開業の鉄道駅]]
[[Category:蒲田]]
[[Category:箱根駅伝|地けいきゆうかまた]]
[[Category:グッドデザイン賞]]
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交響曲第40番 (モーツァルト)
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交響曲第40番 ト短調 K. 550 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した交響曲である。
モーツァルトの作品の中でも有名なものの1つであり、モーツァルトの交響曲のうち短調のものはこの作品を含めてわずか2曲しかなく、その両方がト短調であるため、こちらを「大ト短調」、もう一方の交響曲第25番を「小ト短調」と呼ぶことがある。第40番はトランペットとティンパニが用いられていないほか、第25番とは全体の構成、調性の選択、移行の仕方など、かなり多くの点で類似が認められる。
1788年7月25日にウィーンで完成された。同年に作曲された第39番(6月26日)、第41番『ジュピター』(8月10日)とともに「3大交響曲」と呼ばれる。3曲とも作曲の目的や初演の正確な日時は不明であるが、モーツァルトは本作を除き(後述)、これらの曲の演奏を聴かずに世を去ったと推測されている。
本作の初演に関する記録は残されていないが、モーツァルトの生前には演奏されていたと推測されている。それは、初稿のほかに、2本のクラリネットを含んだ木管のパートを追加した改訂版が残されているためであり、モーツァルトが実際に演奏する目的なしに曲を改訂するとは考えにくいためである。
また、第2楽章の一部に差し替え用の楽譜が残されている。この楽譜は1789年2月以前に書かれたことが分かっており、1788年の演奏会のために作られたと考えられる。
1789年のベルリン旅行と1790年のフランクフルト旅行では、モーツァルトが自分の交響曲の楽譜を携えていったことは確かである。
「1791年4月16日と17日、ウィーンの音楽家協会の演奏会でモーツァルト氏の新しい大交響曲がアントニオ・サリエリの指揮で演奏された」という史料が残っている。この大交響曲とは本作のことを指すものであろうと推測されている。
フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2(変ロ管とト管、変ホ管)、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、バス(チェロ、コントラバス)
初稿と改訂稿があり、後者にはクラリネット2本が追加されている。どちらで演奏するかは指揮者の裁量によるが、現在のところ、クラリネット入りの改訂稿で演奏されることのほうが多い。
ティンパニとトランペットを欠く。
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交響曲第40番 ト短調 K. 550 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲した交響曲である。
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| topic = 全曲を試聴する
| audio1 = [https://www.youtube.com/watch?v=oLWlZKpEwYI Mozart: Symphony n°40 / OCNE / N. Krauze] - ニコラス・クラウゼ指揮新ヨーロッパ室内管弦楽団による演奏。新ヨーロッパ室内管弦楽団公式YouTube。
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{{試聴|header='''交響曲第40番 ト短調 K. 550'''|filename=Mozart Symphony 40 G minor - 1 Molto allegro.oga|title=第1楽章 Molto Allegro
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|description4=井上京(指揮)、管弦楽団紬による演奏}}
'''交響曲第40番 ト短調 [[ケッヘル番号|K. 550]]''' は、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]が作曲した[[交響曲]]である<ref>[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]などの場合と同様に、この時代の通例としてナンバリングは作曲者自身によるものではなく、実際に40番目の交響曲という訳ではない(詳細は「[[モーツァルトの交響曲]]」の項目参照)。</ref>。
== 概要 ==
モーツァルトの作品の中でも有名なものの1つであり、モーツァルトの交響曲のうち[[短調]]のものはこの作品を含めてわずか2曲しかなく<ref>他に[[1765年]]の作とされ、[[1983年]]に[[デンマーク]]の[[オーデンセ]]で再発見された[[交響曲K.16a|交響曲イ短調 K.16a]]『オーデンセ』があるが、こちらは偽作説が有力となっている。また、モーツァルトは宗教劇『救われたベトゥーリア』の序曲を交響曲に編曲しているが、こちらは[[ニ短調]]である。</ref>、その両方が[[ト短調]]であるため、こちらを「大ト短調」、もう一方の[[交響曲第25番 (モーツァルト)|交響曲第25番]]を「小ト短調」と呼ぶことがある。第40番はトランペットとティンパニが用いられていないほか、第25番とは全体の構成、調性の選択、移行の仕方など、かなり多くの点で類似が認められる。
[[1788年]][[7月25日]]に[[ウィーン]]で完成された。同年に作曲された[[交響曲第39番 (モーツァルト)|第39番]]([[6月26日]])、[[交響曲第41番 (モーツァルト)|第41番『ジュピター』]]([[8月10日]])とともに「3大交響曲」と呼ばれる。3曲とも作曲の目的や初演の正確な日時は不明であるが、モーツァルトは本作を除き(後述)、これらの曲の演奏を聴かずに世を去ったと推測されている。
== 初演 ==
本作の初演に関する記録は残されていないが、モーツァルトの生前には演奏されていたと推測されている。それは、初稿のほかに、2本のクラリネットを含んだ木管のパートを追加した改訂版が残されているためであり、モーツァルトが実際に演奏する目的なしに曲を改訂するとは考えにくいためである。
また、第2楽章の一部に差し替え用の楽譜が残されている<ref>ベーレンライター社の新全集版では付録となっている。1997年にクリフ・アイゼンがこの断片をモーツァルト自身による(クラリネット追加と別の)改訂案とする研究を発表。ブライトコプフ&ヘルテル社が注目し、2014年にヘンリク・ヴィーゼ校訂で新版を出した。「クラリネット無しの版」を自筆断片や筆写パート譜に基づき修正した第3のヴァージョンとなる</ref>。この楽譜は[[1789年]]2月以前に書かれたことが分かっており、1788年の演奏会のために作られたと考えられる。
1789年の[[ベルリン]]旅行と[[1790年]]の[[フランクフルト]]旅行では、モーツァルトが自分の交響曲の楽譜を携えていったことは確かである。
「1791年[[4月16日]]と[[4月17日|17日]]、ウィーンの音楽家協会の演奏会でモーツァルト氏の新しい大交響曲が[[アントニオ・サリエリ]]の指揮で演奏された」という史料が残っている。この大交響曲とは本作のことを指すものであろうと推測されている。
== 楽器編成 ==
[[フルート]]1、[[オーボエ]]2、[[ファゴット]]2、[[ホルン]]2(変ロ管とト管、変ホ管)、[[ヴァイオリン]]2部、[[ヴィオラ]]、バス([[チェロ]]、[[コントラバス]])
初稿と改訂稿があり、後者には[[クラリネット]]2本が追加されている。どちらで演奏するかは[[指揮者]]の裁量によるが、現在のところ、クラリネット入りの改訂稿で演奏されることのほうが多い。
[[ティンパニ]]と[[トランペット]]を欠く。
== 曲の構成 ==
* '''第1楽章''' モルト・アレグロ
*:[[ト短調]]、2分の2拍子、[[ソナタ形式]]。
*: ヴィオラの8分音符の和音の刻みに乗って次の第1[[主題 (音楽)|主題]]で始まる。
*:<score %vorbis%>
\relative c'' {
\key g \minor
\tempo "Molto allegro"
\time 2/2
\set Staff.midiInstrument = #"violin"
\set Score.tempoHideNote = ##t \tempo 2 = 105
\partial 4 es8(\p d) |
d4 es8( d) d4 es8( d) |
d4( bes') r bes8( a) |
g4 g8( f) es4 es8( d) |
c4 c
}
</score>
* '''第2楽章''' アンダンテ
*:[[変ホ長調]]、8分の6拍子、ソナタ形式。
*: [[File:Mozart-s40-part II-FirstTheme.JPG|850px]]
*: 8分音符の同音6連という朴訥な第1主題がヴィオラから第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンへと重なりながら出る。
* '''第3楽章''' [[メヌエット]] (アレグレット) - トリオ
*: ト短調 - [[ト長調]]、4分の3拍子、[[複合三部形式]]。
*: [[File:Mozart-s40-part III-FirstTheme.JPG|850px]]
*: 主旋律が一般的な8小節単位の組み合わせではなく、各所で3小節単位となったり2小節単位になったりするため、変拍子的な印象を与える。ト長調のトリオはホルンの響きが象徴的な音楽。
* '''第4楽章''' フィナーレ:アレグロ・アッサイ
*: ト短調、2分の2拍子、ソナタ形式。
*: [[File:MozartSymph40Mvt4Opening.png|500px]]
*: 駆け上がる分散和音の前半と強奏の後半とでできた激しい第1主題で始まる。激しい経過部を経たのち定石通り平行調の変ロ長調で静かで優しい第2主題が出る。
*:<score>
\relative c'' {
\key g \minor
\time 2/2
\partial 4 bes\f( |
d4) f-. a-. bes-. |
des2( c4) e,-. |
as4-. r b,-. r |
r2 r4 r8 \times 2/3 { b16( c d } |
es!4-.) r fis,-. r |
bes!4-. r r2 |
cis,4-. r r2 |
f!4-. r gis,-. r |
}
</score>
*: 展開部では第1主題の前半の動機が主に展開される。
== その他 ==
*自筆譜は、[[ヨハネス・ブラームス]]が生前所有していた。これは、[[ピアノ五重奏曲 (ブラームス)|ピアノ五重奏曲]]を献呈された返礼として[[ヘッセン=ルンペンハイム家|ヘッセン方伯家]]の公子妃[[マリア・アンナ・フォン・プロイセン|マリア・アンナ]]から贈られたもの。現在では[[ウィーン楽友協会]]が所有している(ブラームスの遺贈)。
*[[インド]]・[[コルカタ]]の{{仮リンク|ハウラー駅|en|Howrah station}}構内では、列車の発着のつど、第1楽章冒頭の主題が流されている。
*[[地方運輸局|陸運支局]]の自動車検査ラインの光軸検査ブースで、光軸テスターが稼働する際に注意喚起のため第1楽章冒頭の主題がリピートで流れるものがある。
*[[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]は、この曲の第3楽章をピアノ独奏用に編曲している。
*[[ハンス・ファン・ニーウコープ]]と[[ジャック・ファン・オールトメルセン]]は、この曲を4手[[オルガン]]に編曲して演奏している(CDは[[BISレコード|BIS]]レーベル BIS-CD-418)。
*第1楽章に歌詞を付けた[[フレンチ・ポップス]]として、[[シルヴィ・ヴァルタン]]の「哀しみのシンフォニー」(原題は ''Caro Mozart'' , ''日本語に訳せば「親愛なるモーツァルト」'' [[1972年]][[3月25日]]リリース)が知られている ([[歌詞]]は[[イタリア語]])。
*[[Microsoft Windows 95]]のサンプルMIDIファイルのひとつが、この交響曲の第1楽章であった。
*[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]がその代表作の一つ『モオツアルト』において、道頓堀でふと頭の中に響き渡った曲として楽譜を作中に引用しているのはこの曲の第4楽章である。
*[[伊東温泉競輪場]]の発売締め切り告知BGM - 第1楽章冒頭の主題が流されている。
*[[嵐 (グループ)|嵐]]が[[2017年]][[10月18日]]に発売した16枚目のアルバム『[[「untitled」]]』の収録曲『「未完」』の間奏で、第1楽章が[[ハ短調]]に移調の上[[サンプリング]]されている。
*[[東武日光線]][[南栗橋駅]]では、当駅から[[新栃木駅]]方面へ向かう下り普通列車がワンマン運転を開始したことに伴い、[[2020年]][[6月6日]]のダイヤ改正より3・4番線ホームにワンマン運転向けの信号開通メロディを導入し、楽曲として本曲第1楽章冒頭の主題が使用されている。
* [[InterFM897|interfm]]及び[[全国FM放送協議会|JFN]]系列24局<ref>ネット局によって放送時間や放送曜日が異なる。詳細は該当項目の項を参照の事。</ref>で放送中の『[[Otona no Radio Alexandria]]』では、2022年10月以降、本曲をラテン音楽風にアレンジしたものが、11時台後半及び12時台のオープニング曲として使用されている<ref>演奏者については不明。</ref><ref>同年9月以前は、interfmの『[[Lazy Sunday]]』と同じく、ブッカー・T & MG'sの「"Crusin'"」(1994年発表)が使用されていた。</ref>
== 参考文献 ==
*『作曲家別名曲解説ライブラリー14 モーツァルトI』[[音楽之友社]]、1993年
*[[海老澤敏]]ほか『モーツァルト事典』[[東京書籍]]、1991年
*H.C.ロビンズ・ランドン『モーツァルト最後の年』海老澤敏訳、[[中央公論社]]、2001年
== 脚注 ==
{{Commonscat|KV 550}}
<references />
== 外部リンク ==
* {{IMSLP2|work=Symphony_No.40%2C_K.550_%28Mozart%2C_Wolfgang_Amadeus%29 |cname=交響曲第40番 ト短調 K.550}}
{{モーツァルトの交響曲}}
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[[Category:モーツァルトの交響曲|*40]]
[[Category:ト短調]]
[[Category:1788年の楽曲]]
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18,564 |
矢向駅
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矢向駅(やこうえき)は、神奈川県横浜市鶴見区矢向六丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線の駅である。
駅番号はJN 03。南武線で唯一横浜市内にある駅となっている。
地名から採ったもの。「矢向」には諸説あるが、地名研究では古来川口(川の合流する所)のことを「やこう」という。
線路西側の駅舎側に単式ホーム1面1線の下り(立川方面)ホーム、線路を挟んで島式ホーム1面2線の上り(川崎方面)ホームがある。上りホームとは跨線橋で結ばれている。
尻手駅管理の業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝と夜間の一部時間帯は遠隔対応のため改札係員は不在となる。不在の時間はインターホンにより鹿島田駅の係員が対応を行う。
自動券売機・多機能券売機・指定席券売機・自動改札機が設置されている。トイレは改札を入って左側にある。2011年にはホームと跨線橋を結ぶ東芝のエレベーターが設置された。
(出典:JR東日本:駅構内図)
留置線があり、 夜間滞泊などの留置運用が設定されている。このため、早朝や夕方に当駅始発の川崎行き列車が設定されており、3番線から発車する。また、朝ラッシュ時にて、川崎発の回送列車が留置される際は、1番線からではなく、3番線に進入する形となっている。以前はここに矢向車掌区が置かれていたが、中原電車区(現在の鎌倉車両センター中原支所)の運転士部門と統合。武蔵中原駅近くに新設された川崎運輸区に移転した。広い留置線は1960年まであった矢向電車区の名残である。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は16,348人である。南武線の快速通過駅では最も利用客が多い。
近年の推移は下記の通り。
横浜市と川崎市の境にある駅であり、駅前には小ぶりのロータリーがある。駅南側に接して道路が踏切で交差しており、この道路に沿って商店街がある。
最寄り停留所は、矢向駅前となる。以下の路線が乗り入れ、川崎鶴見臨港バス、横浜市営バスにより運行されている。
川崎市幸区と横浜市鶴見区との境界線上に置かれていて、ホームは川崎市と横浜市にまたがるが、改札口や駅舎が横浜市にある。このため横浜駅からの経路上にある川崎駅・隣の尻手駅とともに、JRの特定都区市内における「横浜市内」駅の扱いとなっている。なお、当駅が南武線の横浜市内エリアの北限となる。
成瀬巳喜男の映画「めし」(1951年)で、ヒロイン岡本三千代(原節子)が実家に帰るシーンの下車駅として使われた。
矢向駅周辺において横浜市および川崎市は、連続立体交差を検討している。
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矢向駅(やこうえき)は、神奈川県横浜市鶴見区矢向六丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線の駅である。 駅番号はJN 03。南武線で唯一横浜市内にある駅となっている。
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{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=駅}}
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'''矢向駅'''(やこうえき)は、[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]][[矢向]]六丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[南武線]]の[[鉄道駅|駅]]である。
[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JN 03'''。南武線で唯一横浜市内にある駅となっている。
== 歴史 ==
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[3月9日]]:南武鉄道線[[川崎駅]] - [[登戸駅]]間の開通時に開業<ref name="sone38"/>。[[川崎河岸駅]]へ向かう貨物支線も同時に開業<ref name="sone38"/>。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:南武鉄道線が国有化、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]南武線の駅となる<ref name="sone38"/>。
* [[1972年]](昭和47年)[[5月25日]]:貨物取扱が廃止。同時に[[川崎河岸駅]]への貨物支線も廃止<ref name="sone38"/>。川崎市[[中央卸売市場]]南部市場まで[[専用鉄道|専用線]]が続いていた。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、JR東日本の駅となる<ref name="sone38"/>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[9月8日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」供用開始。
* [[2007年]](平成19年)
** [[6月22日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。
** [[6月23日]]:指定席券売機を導入。
=== 駅名の由来 ===
地名から採ったもの。「矢向」には諸説あるが、地名研究では古来川口(川の合流する所)のことを「やこう」という。
== 駅構造 ==
線路西側の駅舎側に[[単式ホーム]]1面1線の下り([[立川駅|立川]]方面)ホーム、線路を挟んで[[島式ホーム]]1面2線の上り([[川崎駅|川崎]]方面)ホームがある。上りホームとは[[跨線橋]]で結ばれている。
[[尻手駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]([[JR東日本ステーションサービス]]委託)。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝と夜間の一部時間帯は遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=1575_231023">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1575|title=駅の情報(矢向駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-10-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231023132910/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1575|archivedate=2023-10-23}}</ref>。不在の時間はインターホンにより[[鹿島田駅]]の係員が対応を行う。
[[自動券売機]]・多機能券売機<ref name="StationCd=1575_231023" /><ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/card/teiki/pdf/station.pdf 多機能券売機設置マップ]}}</ref>・[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=1575_231023" />・[[自動改札機]]が設置されている。トイレは改札を入って左側にある。[[2011年]]にはホームと跨線橋を結ぶ[[東芝エレベータ|東芝]]のエレベーターが設置された。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
|style="text-align:center"|下り
|[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]・[[登戸駅|登戸]]・[[立川駅|立川]]方面
|-
!2・3
|style="text-align:center"|上り
|[[尻手駅|尻手]]・[[川崎駅|川崎]]方面
|}
(出典:[http://www.jreast.co.jp/estation/stations/1575.html JR東日本:駅構内図])
留置線があり、 [[夜間滞泊]]などの留置運用が設定されている。このため、早朝や夕方に当駅始発の川崎行き列車が設定されており、3番線から発車する。また、朝ラッシュ時にて、川崎発の回送列車が留置される際は、1番線からではなく、3番線に進入する形となっている。以前はここに矢向車掌区が置かれていたが、中原電車区(現在の[[鎌倉車両センター中原支所]])の運転士部門と統合。武蔵中原駅近くに新設された[[川崎運輸区]]に移転した。広い留置線は1960年まであった矢向電車区の名残である。
<gallery>
ファイル:JR Nambu-Line Yako Station Gates.jpg|改札口(2019年9月)
ファイル:JR Nambu-Line Yako Station Platform.jpg|ホーム(2019年9月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''16,348人'''である。南武線の快速通過駅では最も利用客が多い。
近年の推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/tokei-chosa/portal/tokeisho/09.html 横浜市統計書] - 横浜市</ref><ref group="統計">[http://www.city.kawasaki.jp/shisei/category/51-4-15-0-0-0-0-0-0-0.html 川崎市統計書] - 川崎市</ref>
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|15,040
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|14,994
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|15,054
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|14,681
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|14,187
|<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 19ページ</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|13,944
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|13,538
|
|-
|1998年(平成10年)
|13,372
|<ref group="*">平成12年 - 221ページ</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|13,529
|<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>13,496
|<ref group="*" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>13,798
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}} - 221ページ</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>13,336
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}} - 221ページ</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>13,293
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}} - 221ページ</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>13,257
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>14,555
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}} - 223ページ</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>15,176
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}} - 225ページ</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>15,652
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}} - 229ページ</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>15,788
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}} - 239ページ</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>15,762
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}} - 237ページ</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>16,214
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年度]}} - 237ページ</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>16,318
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年度]}} - 233ページ</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>17,022
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年度]}} - 235ページ</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_02.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>17,726
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}} - 237ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_02.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>17,837
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}} - 237ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>17,979
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}} - 245ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>18,134
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}} - 237ページ</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>18,623
|
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_02.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>18,986
|
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>19,449
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>15,149
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>15,135
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>16,348
|
|}
== 駅周辺 ==
横浜市と川崎市の境にある駅であり、駅前には小ぶりの[[ロータリー交差点|ロータリー]]がある。駅南側に接して道路が踏切で交差しており、この道路に沿って商店街がある。
* [[キヤノン]]矢向事業所
* [[大陽日酸]]川崎事業所
* 矢向地区センター
* 横浜矢向郵便局
* [[鶴見警察署 (神奈川県)|鶴見警察署]]矢向駅前交番
* 矢向商店街
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
最寄り停留所は、'''矢向駅前'''となる。以下の路線が乗り入れ、[[川崎鶴見臨港バス]]、[[横浜市営バス]]により運行されている。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!rowspan="2"|1<ref>{{Cite web|和書|title=矢向駅前 のりば地図 {{!}} 横浜市交通局|url=http://navi.hamabus.city.yokohama.lg.jp/koutuu/pc/diagram/BusAboardMap?stCode=00091187&date=2019-08-10|website=navi.hamabus.city.yokohama.lg.jp|accessdate=2019-08-10}}</ref>
|style="text-align:center;"|横浜市営バス
|[[横浜市営バス鶴見営業所#18系統|'''18''']]:[[鶴見駅]]東口 / 生麦
|-
|rowspan="2" style="text-align:center;"|川崎鶴見臨港バス
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川56(矢向末吉橋循環線)・川57系統(末吉橋矢向循環線)|'''川57''']]・[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川61系統(矢向線)|'''川61''']]・[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川69系統(小倉循環線)|'''川69''']]:[[川崎駅]]西口
|-
!-
|{{Unbulleted list|'''川56''':[[川崎駅]]西口(矢向末吉橋循環)|'''川61''':元住吉 / 江川町|'''川69''':川崎駅西口(小倉循環)}}
|}
== その他 ==
[[File:JR Yakō Custody Line.jpg|thumb|駅に隣接する留置線]]
[[川崎市]][[幸区]]と横浜市[[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]との境界線上に置かれていて、ホームは川崎市と横浜市にまたがるが、改札口や駅舎が横浜市にある。このため横浜駅からの経路上にある[[川崎駅]]・隣の尻手駅とともに、JRの[[特定都区市内]]における「[[特定都区市内#設定区域一覧|横浜市内]]」駅の扱いとなっている。なお、当駅が南武線の横浜市内エリアの北限となる。
[[成瀬巳喜男]]の映画「[[めし]]」([[1951年]])で、ヒロイン岡本三千代([[原節子]])が実家に帰るシーンの下車駅として使われた。
矢向駅周辺において横浜市および川崎市は、[[連続立体交差事業|連続立体交差]]を検討している<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/doro/fumikiri/20190314212102111.files/0001_20180913.pdf |title=「踏切安全対策実施計画」を策定しました |publisher=横浜市道路局企画課 |format=PDF |date=2016-3-17 |accessdate=2019-8-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/530/page/0000063689.html |title=JR南武線(尻手駅~武蔵小杉駅間)連続立体交差化に向けて|publisher=川崎市|date=2016-6-20|accessdate=2017-7-10}}</ref>。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速
:::; 通過
:: {{Color|#FFD400|■}}各駅停車
::: [[尻手駅]] (JN 02) - '''矢向駅 (JN 03)''' - [[鹿島田駅]] (JN 04)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
<!--==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"}}
==== 出典 ====-->
{{Reflist}}
=== 利用状況 ===
;JR東日本の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
;JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|23em}}
;神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="*"|20em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Yakō Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1575|name=矢向}}
* [http://www.rinkobus.co.jp 川崎鶴見臨港バス]
{{南武線}}
{{DEFAULTSORT:やこう}}
[[Category:横浜市鶴見区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 や|こう]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]]
[[Category:南武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:南武線]]
|
2003-09-28T03:35:42Z
|
2023-11-29T02:17:41Z
| false | false | false |
[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%90%91%E9%A7%85
|
18,565 |
十二部経
|
十二部経 (じゅうにぶきょう、サンスクリット語: dvādaśāṅgadharmapravacana)とは、仏(ぶつ)所説・如来(によらい)所説の教法を内容・形式によって分類したもの。伝承により多少の異同がある。十二分教(じゅうにぶんきょう)、十二分聖教(じゅうにぶんしょうぎょう)とも。
仏典によって、九部経を伝えるものと十二部経を伝えるものがある。十二部経では、大乗経典の元となった毘仏略が、10ないしは11に位置づけられる。
『本事経』(巻5)、『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』(巻1)やパーリ聖典は九分教を伝え、『長阿含』(じょうあごん)(巻3)、『中阿含』(巻1)、『雑(ぞう)阿含』(巻41)、『四分律』(巻1、『五分律』(巻1)、『大智度論』(巻25)その他の大乗の諸経論には十二部経の名を伝えるものが多い。パーリ聖典の優陀那(udāna)や漢訳の『本事経』(如是語)のように一つの聖典にまとまっているものもあるが、文学的ジャンルを示すと言える。
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十二部経とは、仏(ぶつ)所説・如来(によらい)所説の教法を内容・形式によって分類したもの。伝承により多少の異同がある。十二分教(じゅうにぶんきょう)、十二分聖教(じゅうにぶんしょうぎょう)とも。
|
'''十二部経''' (じゅうにぶきょう、{{lang-sa|dvādaśāṅgadharmapravacana}})とは、仏(ぶつ)所説・如来(によらい)所説の教法を内容・形式によって分類したもの。伝承により多少の異同がある。'''十二分教'''(じゅうにぶんきょう)、'''十二分聖教'''(じゅうにぶんしょうぎょう)とも。
== 内容 ==
# 修多羅(しゅたら、{{IAST|sūtra}}、契経(かいきょう)) :教説を直接散文で述べたもの
# 祇夜(ぎや、{{IAST|geya}}、重頌(じゅうじゅ)): 散文の教説の内容を韻文で重説したもの
# 和伽羅(わがらな、{{IAST|vyākaraṇa}}、[[授記]]): 仏弟子の未来について証言を述べたもの
# [[伽陀]](かだ、{{IAST|gāthā}}、諷頌(ふじゅ)/[[偈]]): 最初から独立して韻文で述べたもの
# 優陀那(うだな、{{IAST|udāna}}、[[自説経]]): 質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの
# 伊帝曰多伽(いていわったか、{{IAST|ityuktaka}}、{{IAST|itivr̥ttaka}}、本事(ほんじ)、如是語とも): 仏弟子の過去世の行為を述べたもの
# [[ジャータカ|闍多]](じゃーたか、{{IAST|jātaka}}、本生(ほんじょう)): 仏の過去世の修行を述べたもの
# 毘仏略(びぶつりゃく、{{IAST|vaipulya}}、{{lang-pi|vedalla}}、[[方等経|方広]](ほうこう)): 広く深い意味を述べたもの
# 阿浮陀達磨(あぶだだつま、{{IAST|adbhutadharma}}、未曾有法(みぞうほう)): 仏の神秘的なことや功徳を嘆じたもの
# 尼陀那(にだな、{{IAST|nidāna}}、因縁): 経や律の由来を述べたもの
# [[アヴァダーナ|阿婆陀那]](あばだな、{{IAST|avadāna}}、譬喩(ひゆ)): 教説を譬喩で述べたもの
# [[優婆提舎]](うばだいしゃ、{{IAST|upadeśa}}、論議): 教説を解説したもの
[[仏典]]によって、九部経を伝えるものと十二部経を伝えるものがある。十二部経では、大乗経典の元となった毘仏略が、10ないしは11に位置づけられる<ref>十二部経, 方等 『広説佛教語大辞典 中巻』 中村元著 東京書籍。</ref>。
『[[本事経]]』(巻5)、『[[摩訶僧祇律]](まかそうぎりつ)』(巻1)やパーリ聖典は九分教を伝え、『[[長阿含]]』(じょうあごん)(巻3)、『[[中阿含]]』(巻1)、『雑(ぞう)阿含』(巻41)、『[[四分律]]』(巻1、『[[五分律]]』(巻1)、『[[大智度論]]』(巻25)その他の大乗の諸経論には十二部経の名を伝えるものが多い。パーリ聖典の優陀那({{IAST|udāna}})や漢訳の『本事経』(如是語)のように一つの聖典にまとまっているものもあるが、文学的ジャンルを示すと言える。
==脚注==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[仏典]]
{{Buddhism-stub}}
{{仏教典籍}}
{{buddhism2}}
{{DEFAULTSORT:しゆうにふきよう}}
[[category:大蔵経]]
[[Category:仏教の名数12|ふきよう]]
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2021-10-31T02:40:41Z
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%83%A8%E7%B5%8C
|
18,568 |
東武越生線
|
越生線(おごせせん)は、埼玉県坂戸市の坂戸駅と入間郡越生町の越生駅を結ぶ、東武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングの路線記号はTJ。
越生線の前身は越生鉄道で、1927年(昭和2年)9月22日に埼玉県入間郡坂戸町から入間郡越生町に至る全長7マイル(11.2km)に3フィート6インチ(1067mm)軌間の地方鉄道免許を受け、1928年(昭和3年)9月28日に創立総会を開き、本社を東京府東京市本所区の東武鉄道本社内に置き、初代取締役社長は東武鉄道専務取締役の吉野伝冶が就任し、資本金35万円で設立させた。設立に当たっては、越生鉄道沿線の町村が越生鉄道の株式の引き受けに協力した。
1932年(昭和7年)2月17日に坂戸町 - 高麗川東岸まで5kmが開通し貨物営業が開始された。開業当初は東武鉄道から機関車と貨車を借り入れ、月平均2,500tの砂利を輸送した。その後、国鉄八高線が越生まで延長されると、越生鉄道においても急遽延伸工事を行い、1934年(昭和9年)12月16日に森戸 - 越生間(5.9km)が開通し、旅客運輸営業を開始した。開業に当たっては気動車(ガソリンカー)2両を購入し、坂戸町 - 越生間1日9往復の旅客運輸営業に就いた。当初月間平均5千人であった輸送人員も大幅に増え、1935年(昭和10年)12月さらに気動車(ガソリンカー)1両を購入し、1936年(昭和11年)2月より増強した車両の運転を開始して1日14回に増加し、所要時間も坂戸町 - 越生間は30分かかっていたところを24分に短縮した。輸送人員は開業5年後の1940年(昭和15年)には月間1万5千人に達した。
交通統制に関する政府方針に沿って東武鉄道に合併することとなり、1943年(昭和18年)4月25日に定時株主総会を開き越生鉄道の買収を取締役会に一任、越生・東武鉄道両社長間で鉄道運輸事業及び所属財産27万1,751円でもって譲渡され、同年6月10日に監督官庁認可、7月1日にすべての買収手続き完了、即日東武鉄道越生線として鉄道運輸営業を継承した。
定期・臨時列車合わせて坂戸駅 - 越生駅間を運行する普通列車のみが運行される。おおむね平日の朝・夕時間帯と土休日の朝時間帯は12分間隔、平日の日中と土休日の午前中以降は15分間隔での運転である。上下列車の交換は主に一本松駅と武州長瀬駅で行われるが、ラッシュ時は川角駅と東毛呂駅でも行われる。坂戸駅で東上本線の列車と接続しており、日中は全列車が急行(うち半数はFライナー)と接続しているが、そのほかの時間帯は急行以外の種別と接続する列車がある。
全線でワンマン運転を実施している。
1970年代までは東上線観光急行列車「くろやま」「かまきた」が、また朝夕は川越市駅まで乗り入れていた普通列車があったが、2023年現在定期列車の直通はない。臨時列車では、1996年 - 2003年と2017年に観梅列車「越生観梅号」が池袋駅発で運行された実績がある。
毎年2 - 3月の梅の季節に運転されていた臨時列車である。
1996年の運行当初は池袋駅 - 越生駅間無停車(坂戸運転停車)とし、池袋駅乗車時については越生梅林へのクーポンと無料の乗車整理券を要した。設定当初より下り越生行のみで、上りは運行されなかった。前面の表示は「臨時・越生」、側面は「臨時」で運行された。また、ヘッドマーク取り付け用のサボ受けが取り付けられた。2000年より朝霞台・川越の両駅に停車。ただし、両駅での乗車の際にも無料の乗車整理券を要した。2002年より乗車整理券が不要となった。
2003年を最後に臨時列車としては運転されなくなったが、代替として梅の季節に区間運転列車が「越生観梅」ヘッドマークを装着して運転していた。
2017年3月5日に8000系81107Fで14年ぶりに運転された。
ワンマン運転専用の4両編成が使用される。運用は東上本線のワンマン運転区間(森林公園駅 - 寄居駅間)と共用。
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"title": "歴史"
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"text": "1932年(昭和7年)2月17日に坂戸町 - 高麗川東岸まで5kmが開通し貨物営業が開始された。開業当初は東武鉄道から機関車と貨車を借り入れ、月平均2,500tの砂利を輸送した。その後、国鉄八高線が越生まで延長されると、越生鉄道においても急遽延伸工事を行い、1934年(昭和9年)12月16日に森戸 - 越生間(5.9km)が開通し、旅客運輸営業を開始した。開業に当たっては気動車(ガソリンカー)2両を購入し、坂戸町 - 越生間1日9往復の旅客運輸営業に就いた。当初月間平均5千人であった輸送人員も大幅に増え、1935年(昭和10年)12月さらに気動車(ガソリンカー)1両を購入し、1936年(昭和11年)2月より増強した車両の運転を開始して1日14回に増加し、所要時間も坂戸町 - 越生間は30分かかっていたところを24分に短縮した。輸送人員は開業5年後の1940年(昭和15年)には月間1万5千人に達した。",
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"text": "交通統制に関する政府方針に沿って東武鉄道に合併することとなり、1943年(昭和18年)4月25日に定時株主総会を開き越生鉄道の買収を取締役会に一任、越生・東武鉄道両社長間で鉄道運輸事業及び所属財産27万1,751円でもって譲渡され、同年6月10日に監督官庁認可、7月1日にすべての買収手続き完了、即日東武鉄道越生線として鉄道運輸営業を継承した。",
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"text": "定期・臨時列車合わせて坂戸駅 - 越生駅間を運行する普通列車のみが運行される。おおむね平日の朝・夕時間帯と土休日の朝時間帯は12分間隔、平日の日中と土休日の午前中以降は15分間隔での運転である。上下列車の交換は主に一本松駅と武州長瀬駅で行われるが、ラッシュ時は川角駅と東毛呂駅でも行われる。坂戸駅で東上本線の列車と接続しており、日中は全列車が急行(うち半数はFライナー)と接続しているが、そのほかの時間帯は急行以外の種別と接続する列車がある。",
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"title": "運行形態"
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"text": "1970年代までは東上線観光急行列車「くろやま」「かまきた」が、また朝夕は川越市駅まで乗り入れていた普通列車があったが、2023年現在定期列車の直通はない。臨時列車では、1996年 - 2003年と2017年に観梅列車「越生観梅号」が池袋駅発で運行された実績がある。",
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"text": "毎年2 - 3月の梅の季節に運転されていた臨時列車である。",
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"text": "1996年の運行当初は池袋駅 - 越生駅間無停車(坂戸運転停車)とし、池袋駅乗車時については越生梅林へのクーポンと無料の乗車整理券を要した。設定当初より下り越生行のみで、上りは運行されなかった。前面の表示は「臨時・越生」、側面は「臨時」で運行された。また、ヘッドマーク取り付け用のサボ受けが取り付けられた。2000年より朝霞台・川越の両駅に停車。ただし、両駅での乗車の際にも無料の乗車整理券を要した。2002年より乗車整理券が不要となった。",
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"text": "2003年を最後に臨時列車としては運転されなくなったが、代替として梅の季節に区間運転列車が「越生観梅」ヘッドマークを装着して運転していた。",
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"text": "ワンマン運転専用の4両編成が使用される。運用は東上本線のワンマン運転区間(森林公園駅 - 寄居駅間)と共用。",
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越生線(おごせせん)は、埼玉県坂戸市の坂戸駅と入間郡越生町の越生駅を結ぶ、東武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングの路線記号はTJ。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tōbu Tetsudō Logo.svg|50px|link=東武鉄道]] 越生線
|路線色=#004098
|ロゴ=File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像= Tobu-Series8000_8184.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=越生線を走行する8000系<br>(2022年1月 [[越生駅]] - [[武州唐沢駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地= [[埼玉県]]
|起点=[[坂戸駅]]
|終点=[[越生駅]]
|駅数=8駅
|輸送実績=
|1日利用者数=
|路線記号=TJ
|開業={{start date and age|1932|2|17}}
|全通={{start date and age|1934|12|16}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東武鉄道]]
|運営者=東武鉄道
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離=10.9 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]](武州長瀬駅 - 東毛呂駅間)<br />[[単線]](上記以外)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
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|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式
|保安装置=[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武形ATS]]
|最高速度=90 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図=
|路線図名=
|路線図表示=<!--collapsed-->
}}
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#004098}}
{{BS-table}}
{{BS3||ABZq+l|BHFq|0.0|TJ-26 [[坂戸駅]]|←[[東武東上本線|東上本線]]→|}}
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{{BS3|BHFq|O1=HUBe|STRq||||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[八高線]]→|}}
|}
|}
'''越生線'''(おごせせん)は、[[埼玉県]][[坂戸市]]の[[坂戸駅]]と[[入間郡]][[越生町]]の[[越生駅]]を結ぶ、[[東武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]の路線記号は'''TJ'''。
== 路線データ ==
* 路線距離:10.9km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:8駅(起終点駅含む)
* 複線区間:[[武州長瀬駅]] - [[東毛呂駅]] (1.0km)
* 全線電化(直流1500V)
* 最高速度:90km/h<ref name="terada" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武形ATS]]
{{-}}
== 歴史 ==
{{基礎情報 会社
|社名 = 越生鉄道
|ロゴ = [[File:Ogose Railway Logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京都]][[本所区]]小梅1丁目2-1<ref name="NDLDC1184231"/>
|設立 = [[1928年]](昭和3年)9月28日<ref name="NDLDC1186026"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|事業内容 = 旅客鉄道事業<ref name="NDLDC1184231"/>
|代表者 = 専務 [[畑中四郎]]<ref name="NDLDC1184231"/>
|資本金 = 315,000円(払込額)<ref name="NDLDC1184231"/>
|特記事項 = 上記データは[[1943年]][[4月1日]]現在<ref name="NDLDC1184231">[{{NDLDC|1184231/23}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
越生線の前身は'''越生鉄道'''で、1927年(昭和2年)9月22日に埼玉県入間郡坂戸町から入間郡越生町に至る全長7マイル(11.2km)に3フィート6インチ(1067mm)軌間の[[地方鉄道法|地方鉄道]]免許を受け、1928年(昭和3年)9月28日に創立総会を開き、本社を[[東京府]][[東京市]][[本所区]]の東武鉄道本社内に置き、初代取締役社長は東武鉄道専務取締役<ref name="ogosesen1">[{{NDLDC|1023122/144}} 『日本全国諸会社役員録. 第38回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>の吉野伝冶が就任し、資本金35万円で設立させた。設立に当たっては、越生鉄道沿線の町村が越生鉄道の株式の引き受けに協力した<ref>総株数7000株、株主総数1346人うち大株主(300株以上)根津嘉一郎、吉野伝治、松田嘉重[{{NDLDC|1234547/84}} 『地方鉄道軌道営業年鑑』昭和4年](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
1932年(昭和7年)2月17日に坂戸町 - 高麗川東岸まで5kmが開通し貨物営業が開始された。開業当初は東武鉄道から[[機関車]]と[[貨車]]を借り入れ、月平均2,500tの[[砂利]]を輸送した。その後、国鉄[[八高線]]が越生まで延長されると、越生鉄道においても急遽延伸工事を行い、1934年(昭和9年)12月16日に森戸 - 越生間(5.9km)が開通し、旅客運輸営業を開始した。開業に当たっては[[気動車]](ガソリンカー)2両<ref>{{harvnb|新井良輔|1972}}</ref>を購入し、坂戸町 - 越生間1日9往復の旅客運輸営業に就いた。当初月間平均5千人であった輸送人員も大幅に増え、1935年(昭和10年)12月さらに気動車(ガソリンカー)1両を購入し、1936年(昭和11年)2月より増強した車両の運転を開始して1日14回に増加し、所要時間も坂戸町 - 越生間は30分かかっていたところを24分に短縮した。輸送人員は開業5年後の1940年(昭和15年)には月間1万5千人に達した。
交通統制に関する政府方針に沿って東武鉄道に合併することとなり、1943年(昭和18年)4月25日に定時[[株主総会]]を開き越生鉄道の買収を取締役会に一任、越生・東武鉄道両社長間で鉄道運輸事業及び所属財産27万1,751円でもって譲渡され、同年6月10日に監督官庁認可、7月1日にすべての買収手続き完了、即日東武鉄道越生線として鉄道運輸営業を継承した。
=== 年表 ===
* [[1927年]](昭和2年)9月22日 越生鉄道に対し鉄道免許状下付(入間郡坂戸町-同郡越生町間 動力蒸気)<ref>[{{NDLDC|2956685/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年9月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1928年]](昭和3年)9月28日 越生鉄道株式会社設立<ref name="NDLDC1186026">[{{NDLDC|1186026/27}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="ogosesen1"/>。
* [[1932年]](昭和7年)[[2月17日]] 越生鉄道が坂戸町駅(現[[坂戸駅]]) - 高麗川駅(後の森戸駅、現西大家駅 - 川角駅間)間を開業。開業当初の駅は坂戸町駅・高麗川駅。貨物営業のみ<ref>[{{NDLDC|2958018/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年3月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1934年]](昭和9年)[[12月16日]] 越生鉄道 森戸駅 - [[越生駅]]間開業。高麗川駅を森戸駅に改称。[[一本松駅 (埼玉県)|一本松駅]]・大家駅<ref>大家駅が位置していたのは坂戸駅から3.9km(一本松駅から1.1km、西大家駅から0.5km)の地点(昭和~平成 東武東上線沿線アルバム(アルファベータブックス、2022年6月5日第1刷)62頁「東武東上線・越生線の時刻表」(越生鉄道・昭和14年4月改正)より)。</ref>・[[川角駅]]・[[東毛呂駅]]・[[武州唐沢駅]]開業。旅客営業開始<ref>[{{NDLDC|2958871/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1934年12月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 森戸駅は川砂利積出用の貨物専用駅。大家駅の所在地は現在の森戸[[郵便局]]付近。
* [[1936年]](昭和11年)[[2月28日]] [[西大家駅]]開業。
* [[1938年]](昭和13年)[[10月1日]] [[武州長瀬駅]]開業<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2363902/92}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第203号、日本電気協会、1938年11月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]] 越生鉄道を東武鉄道が買収し、東武越生線となる<ref>6月10日譲渡許可[{{NDLDC|2961435/10}} 「地方鉄道譲渡」『官報』1943年6月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[12月1日]] 軍部により[[不要不急線]]とみなされ全線営業休止。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[11月30日]] 全線運行再開。
** 12月1日 大家駅廃止(同駅の廃止日には[[12月10日]]説もあり)。
* [[1950年]](昭和25年)[[7月24日]] 全線電化。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[2月1日]] 森戸駅廃止。
** [[9月1日]] 川角駅 - 武州長瀬駅間に川角信号所開設。
** [[10月1日]] [[列車集中制御装置|CTC装置]]導入(東武鉄道では初)。
* [[1976年]](昭和51年)9月1日 坂戸町駅を坂戸駅に改称。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[2月21日]] 西大家駅 - 越生駅間の貨物営業廃止。
** [[8月1日]] 坂戸駅 - 西大家駅間の貨物営業廃止。
* [[1987年]](昭和62年)[[8月25日]] 武州長瀬駅 - 東毛呂駅間複線化、同時に川角信号所廃止。
* [[2001年]]([[平成]]13年)[[4月1日]] 全線で[[列車運行管理システム|運行管理システム]]を導入。
* [[2008年]](平成20年)[[6月14日]] 全線で[[ワンマン運転]]を開始<ref name="TOBU-TOJO-2008-6">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20110727200823/http://www.tobu.co.jp/file/1583/080327.pdf 「新・東上線」新登場!6月14日(土)東上線ダイヤ改正]}}(東武鉄道ニューリリース・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref>。
* [[2012年]](平成24年)[[3月17日]] 全駅で[[駅ナンバリング]]を導入。
* [[2019年]](平成31年)[[3月16日]] 越生駅の東口供用開始に伴いJR八高線との改札を分離。これに伴い以前までは遺失物対応と夜間停泊の車内点検の取り扱いのみを行っていた東武鉄道が営業扱いを始め、これまで同駅で取り扱いの無かった東武鉄道の各種乗車券が自動券売機にて購入可能となる。
== 運行形態 ==
定期・臨時列車合わせて坂戸駅 - 越生駅間を運行する普通列車のみが運行される。おおむね平日の朝・夕時間帯と土休日の朝時間帯は12分間隔、平日の日中と土休日の午前中以降は15分間隔での運転である。上下列車の[[列車交換|交換]]は主に一本松駅と武州長瀬駅で行われるが、ラッシュ時は川角駅と東毛呂駅でも行われる。坂戸駅で東上本線の列車と接続しており、日中は全列車が急行(うち半数は[[Fライナー]])と接続しているが、そのほかの時間帯は急行以外の種別と接続する列車がある。
全線でワンマン運転を実施している。
=== 東上本線直通 ===
[[1970年代]]までは東上線観光急行列車[[東武東上本線#特急|「くろやま」「かまきた」]]が、また朝夕は[[川越市駅]]まで乗り入れていた普通列車があったが、2023年現在定期列車の直通はない。[[臨時列車]]では、[[1996年]] - [[2003年]]と[[2017年]]に観梅列車「越生観梅号」が池袋駅発で運行された実績がある。
==== 越生観梅号 ====
毎年2 - 3月の[[ウメ|梅]]の季節に運転されていた[[臨時列車]]である。
[[1996年]]の運行当初は[[池袋駅]] - 越生駅間無停車(坂戸運転停車)とし、池袋駅乗車時については[[越生梅林]]への[[特別企画乗車券|クーポン]]と無料の[[乗車整理券]]を要した。設定当初より下り越生行のみで、上りは運行されなかった。前面の表示は「臨時・越生」、側面は「臨時」で運行された。また、ヘッドマーク取り付け用のサボ受けが取り付けられた。[[2000年]]より朝霞台・川越の両駅に停車。ただし、両駅での乗車の際にも無料の乗車整理券を要した。[[2002年]]より乗車整理券が不要となった。
* 車両:[[東武10000系電車|10030系]](1996年のみ方向幕の都合により[[東武8000系電車|8000系]]を使用)
* 停車駅:池袋駅・[[朝霞台駅]]・[[川越駅]]・[[越生駅]]
[[2003年]]を最後に臨時列車としては運転されなくなったが、代替として梅の季節に区間運転列車が「越生観梅」ヘッドマークを装着して運転していた。
[[2017年]][[3月5日]]に[[東武8000系電車|8000系]]81107Fで14年ぶりに運転された<ref>{{Cite web|和書|date=2017-01-25 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/ba0c6fbf828239127db0978b2e8f824d/170125-1.pdf |title=3月5日(日)、東上線池袋駅から越生線越生駅に直通する臨時列車「越生観梅号」を運転! |format=PDF |publisher=[[東武鉄道]] |accessdate=2017-02-07 }}</ref><ref>[http://railf.jp/news/2017/03/06/163000.html 東上線・越生線で“越生観梅号”運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2017年3月6日</ref>。
* 停車駅:池袋駅・[[坂戸駅]] - (越生線内各駅) - 越生駅
== 使用車両 ==
=== 現在の車両 ===
ワンマン運転専用の4両編成が使用される。運用は[[東武東上本線|東上本線]]のワンマン運転区間([[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]] - [[寄居駅]]間)と共用。
* [[東武8000系電車|8000系]]([[森林公園検修区]]所属)
<gallery>
ファイル:Tobu-OgoseLine-Series-8000-81120F.jpg|8000系(2019年6月 [[川角駅]] - [[西大家駅]]間)
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[越生鉄道キハ1形気動車]] - [[1950年]](昭和25年)の電化まで使用された。
* [[東武7300系電車|7300系]] - [[1985年]](昭和60年)頃まで使用された。
* [[東武7800系電車|7800系]] - 1985年(昭和60年)まで使用された。越生線を最後にすべて運用を終了し、[[東武5000系電車|5000系]]へ更新された。
* [[東武5000系電車|5000系]] - [[1990年]](平成2年)まで使用された。
* [[東武10000系電車#10030型|10030型]] - [[2008年]](平成20年)6月14日のワンマン化に伴い撤退。
<gallery>
ファイル:Tobu 7800 Ogose Line between Ogose and Bushu-Karasawa 19770419.jpg|7800系(1977年 [[武州唐沢駅]] - [[越生駅]]間)
ファイル:Tobu 11444 Ippommatsu 20000827.jpg|10030型(2000年 [[一本松駅 (埼玉県)|一本松駅]])
</gallery>
== 駅一覧 ==
* 全駅[[埼玉県]]内に所在。
* 線路: <!--∥:複線区間、-->◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:これより下は単線、∧:これより下は複線・終点(交換可能)
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!colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #004098;"|所在地
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!TJ-26
|[[坂戸駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|14px|TJ]] [[東武東上本線|東上本線]]
|∨
|colspan="2"|[[坂戸市]]
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!TJ-41
|[[一本松駅 (埼玉県)|一本松駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|2.8
|
|◇
|colspan="2"|[[鶴ヶ島市]]
|-
!TJ-42
|[[西大家駅]]
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||
|colspan="2"|坂戸市
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!TJ-43
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|◇
|rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[入間郡]]}}
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[毛呂山町]]
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!TJ-44
|[[武州長瀬駅]]
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|
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|[[東毛呂駅]]
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|
|∨
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!TJ-46
|[[武州唐沢駅]]
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|
||
|rowspan="2"|[[越生町]]
|-
!TJ-47
|[[越生駅]]
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|[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]]
|∧
|}
=== 留置線のある駅 ===
* [[坂戸駅]]
* [[越生駅]]
=== 廃駅・廃止信号所 ===
* 大家駅(現・一本松 - 西大家間、1934年12月16日 - 1945年12月1日または同年12月10日)
* [[西大家信号所]](現・一本松 - 西大家間、1984年8月1日廃止)
* [[森戸駅]](現・西大家 - 川角間、1932年2月17日 - 1959年2月1日)
* [[川角信号所]](現・川角 - 武州長瀬間、1987年8月25日廃止)
==参考文献==
*{{Cite Journal|和書|title=越生鉄道ものがたり|author=[[新井良輔]]|pages=124-125|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|year=1972|issue=263|publisher=[[電気車研究会]]|ref=harv}}
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tōbu Ogose Line}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/line/ogose_line.html 東武越生線]
{{東武鉄道の路線}}
{{Rail-stub}}
{{デフォルトソート:とうふおこせせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|おこせせん]]
[[Category:東武鉄道の鉄道路線|おこせ]]
[[Category:越生鉄道|路]]
[[Category:埼玉県の交通]]
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林原めぐみのTokyo Boogie Night
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『林原めぐみのTokyo Boogie Night』(はやしばらめぐみのとうきょうブギー・ナイト)は、TBSラジオで1992年(平成4年)4月11日から放送しているアニラジ番組。
リスナーからのお便りとそれに対する林原のトーク、およびキングレコード(2016年1月31日まではスターチャイルドレーベル名義)の楽曲紹介を基本に進行する30分番組である。TBSラジオサイトの番組紹介欄では「声優界のトップを走り続ける林原めぐみ。ラジオの彼女は、どんな時もリスナーの味方。一度聴いたらハマリます。来週も絶対See You Again!」、TBSラジオフリーマガジン「954press」ではそれ以前の紹介文と同じ「カリスマ声優の飾らないトークと、ミュージックで送るバラエティ」と、それぞれ紹介されていた。
番組開始当初は林原めぐみのフリートーク15分に加えて、関西で放送されていたラジオドラマ番組『熱血電波倶楽部』を関東でも放送するという目的で、両15分ずつを合体させた30分番組としてスタートした(数回に1回、「30分丸々DJスペシャル」として林原のトークで進行)。2000年2月にドラマパートが完全終了してからは現在の番組の形となっている。
声優がパーソナリティを務めるアニラジとしては、東海ラジオ放送『mamiのRADIかるコミュニケーション』や文化放送『ノン子とのび太のアニメスクランブル』、自身の『林原めぐみのHeartful Station』などの番組の放送当時はそれに次ぐ歴史のある番組であり、現在では放送年数が30年を越える長寿番組である。林原は2015年3月まで、ブログやTwitterでの情報発信を一切しておらず、ファンクラブも存在しないため、ファンにとっては林原の普段の出来事や新曲発表などの情報が得られる数少ない場となっている。
お便りが紹介されたリスナーには「リスナーのしるし」として靴ひもが送られる。ゲストが番組に来た場合には、ゲストと林原の寄せ書きサイン色紙、キングレコード関連グッズが出されることが多い。TBSテレビのバレーボール応援グッズがプレゼントになったこともある。林原がプレゼント告知を忘れた場合でも、ゲストからのプレゼントは用意されている。
通算放送回数が100回を達成するごとに記念として公開録音イベントが行われる(公開録音概要を参照)。なお、この公開録音は林原が活動方針上、キングレコード主催の「KING SUPER LIVE 2015」(2015年6月開催)等の例外を除き、コンサート活動を行わない代わりとして、ファンへの感謝の気持ちもこめて、抽選による招待ではあるものの参加費無料で開催される公開録音の模様およびそのライブパートは、林原のアルバムの初回特典として映像化されているものがある。アルバム『VINTAGE A』(TBN400回記念)、『feel well』(TBN500回記念)、『Plain』(TBN600回記念)、『CHOICE』(TBN900回記念)の各初回版特典DVDもしくはVHS(『Plain』のみCD)でそれぞれの模様を確認できるが、単品の映像作品としては販売されていない。しかし、2016年2月にスターチャイルドが第三クリエイティブ本部に統合されたことでこの活動方針が通らなくなったといい、2017年6月11日に「1300回突破記念公開録音」の会場である中野サンプラザにて公録後に初の単独ライブが開催された。
番組は、スタジオ収録を含めてキングレコードが制作しているため、TBSラジオは制作に関わらず、各放送局は番組の送出のみ担当している。郵便物の宛先もキングレコードである。なお、キングレコード「林原めぐみTBN」係で番組に届くようになっている。番組宛てで、林原にプレゼントを贈ることも可能である。
2015年5月9日に開催された「1200回突破記念公開録音」では、当選観覧者の約8割が聴くだけリスナーであることが判明。会場で林原が自らハガキの投稿を呼びかけ、それによってそれまで聴くだけリスナーだった聴取者もハガキを投稿するようになった。しかし、新規投稿者のハガキも採用されてはいるものの、その数は非常に少数であり、依然として常連投稿者のハガキが優先的に採用される傾向にあるため、この採用傾向には懐疑的な意見もある。1300回公録の際にも当選観覧者の約半数が葉書・メールを出したことのない「聴くだけリスナー」であることが判明している。一方で、1200回公録までの時点では「聴くだけリスナー」だったが僅か2年間の間にハガキが採用されやすくなる常連投稿者に転じた者も居る。
「Tokyo Boogie Night」の原曲は、OVA『機動戦士SDガンダムMARK-III 宇宙の神秘・大作戦』のエンディングに使用されたもので、林原めぐみと本多知恵子によるデュエット曲である(当ラジオ番組に使用されているのは林原によるソロカバー)。
提供クレジットは番組開始当初より堀内賢雄によるものである。
お決まりの挨拶として、番組冒頭では「皆さんこんばんは、林原めぐみです。一週間のご無沙汰いかがお過ごしだったでしょうか」、番組終了時に「来週も絶対See you again. お休み、バイバイ」がある。
明らかになっているものでは、同時間帯聴取率1位継続という長年の功績により2001年3月にゴールデンマイク賞、4月2週目の調査において単独首位となったことで同年5月にナイスプレー賞を受賞したことを番組内で公表している。また、2007年のインタビューでは「聴取率は変わっていない」と発言しており、同年12月の調査では主要民放局シェアにおいて調査対象となる男女12 - 69歳全体でニッポン放送と同率首位であった。
第1回放送から現在までの間にTBSラジオでの番組休止等の影響により、暦上の放送回数・実際の放送回数・番組内で告知する公式放送回数には若干のズレがある。
本番組には、共演作などを通じて林原と交流がある声優・歌手が多くゲストに呼ばれる。その関係上、ゲストは林原と同年代の人物が多いが、旧スターチャイルドの関係者である場合は若年層のゲストが呼ばれることも多い。『林原めぐみのHeartful Station』が放送されていた時代は同番組にゲスト出演した人物が同じ週の本番組にゲスト出演することが大半であった。
ゲストは番組の冒頭に行なわれる看板コーナーでもある「早口言葉の挑戦状」に挑戦するが、ゲストの成功・失敗は色紙のプレゼント可否に影響しない。ゲストは基本的に前半パートのみの出演であり、30分フルで出演することは稀である。なお、30分フル出演はどのような経緯で決まるのか不明。ゲストが後半パートから出演することもあるが、これは極めて稀な例であり、数えるほどしか事例が無い。ゲストについては基本的に事前告知するが、林原が告知を忘れる場合もあり告知なしで出演する事もある。また、ゲスト出演の予定が無くても急遽出演が決まる場合もある。稀に乱入が発生する場合もあるほか、急遽変更になる場合もある。なお、番組初のゲストは大月俊倫だった(第5回放送)。
現在ではゲストの2週連続出演は稀であるが、初期は2週連続で出演するということがよくあり、番組初の2週連続ゲストは水谷優子だった(第9回放送・第10回放送)。2016年3月20日放送分にゲスト出演したのは「ハートフルステーション」でアシスタントいう形で共演していた保志総一朗であったため、「前半パートはゲスト、後半パートはアシスタント」という珍しい形式での30分フル出演となった。2015年には小学生時代から林原のファンであり「こども電話相談室」で「声優になりたい」と林原に相談をした洲崎綾がゲストで登場した。洲崎は自身のラジオ番組で、林原のリスナーであり、高校時代には深夜バスで初めて上京して公開録音に参加したりと、ヘビーリスナーであることを常に話しており、その番組を聴いていた番組リスナーから林原へのメールがきっかけとなり出演が決定したという珍しい出来事もあった。その後も林原は公開録音などの関係者席に洲崎を招待しているなど親交があるとされる。
2018年4月8日放送分では、たかはしごうが後半パートから出演した。たかはしは本来、出演予定はなく、収録中に林原によって番組に呼び込まれ急遽出演することになった。後半パートから出演するのは2016年1月3日放送分にゲスト出演した上坂すみれ以来、2年3か月ぶりである。
本番組はコーナーごとにリスナーから送られるハガキ・メールを紹介するフリートークが主体であること、林原が自身や関係者の曲を積極的に放送していること、などから、リスナーが放送してほしい曲をリクエストする事例は少なく、番組にもリクエストを受け付ける専門のコーナーなどは無いため、林原も番組内で積極的にリクエストを募集することはほとんど無い。しかし、稀にリスナーから放送してほしい曲をリクエストされることがある。前述の理由から、以前はリスナーが曲のリクエストをすることは全くといっていいほど無かったが、2016年11月に紹介されたお便りで、あるリスナーが曲のリクエストをしたのを機に近年は頻度こそ少ないものの、曲のリクエストをするリスナーが増えてきている。リスナーが直接「●●を放送してほしい」と要望する場合が多いが、リクエストの意思が無くてもリスナーと曲の出会いのエピソードなど、具体的な曲名や経緯が文中に書いてある場合はお便りに記載された内容を察した林原の計らいでリクエストとして扱う場合がある。2020年4月18日・19日放送分は、新型コロナウイルス感染拡大による影響でテレワーク収録の体制が採られていることから、番組では普段の放送よりも多めに曲をかけることとし、そのために林原自身が曲のリクエストの募集を告知した。
2004年に林原が出産休暇に入った際の特別措置として、最初の4週間(6月13日 - 7月3日)はまとめ録りでリクエスト曲を中心とした放送を行い、その後の4週間(7月11日 - 8月1日)は日髙のり子が代理パーソナリティを務めた。
2021年7月時点。放送局2局がFM補完放送とradiko.jpによるWEB配信を行っている。
放送開始順に記載。本番組は番組販売され、JRN・NRNなどのネットワークに関係なく放送され、FM局での放送実績もあった。
兄弟番組である、『Heartful Station』と同様に、番組放送回が100回を刻むごとに、リスナーに対して感謝の意味も込めた記念として公開録音を催していた。
番組タイトルに「Tokyo(東京)」 と地名が入っている関係上、1300回記念までは必ず東京都23区内に所在する多目的ホール及びライブハウスにて催しており、都外で開催された事例はなかった。しかし、1400回記念では『Heartful Station』の番組放送終了以降、公録史上初めてラジオ関西の放送エリアである兵庫県神戸市にて、都外開催となった。
イベント構成は、前半に番組収録のトークパートとイベントオンリーパート、そして後半は1300回迄は林原本人が活動方針として音楽ライブ活動を催さないことを定めていることもあり、唯一のライブパートに分かれている。1400回以降は、ライブパートが構成されず、1500回以後は後述のリストの備考に記してある通りインターネット配信のみのため同様の措置が取られている。
『林原めぐみのHeartful Station』は、本番組と同様にキングレコードが制作しており、同一会社による制作で同一のパーソナリティが担当するラジオ番組が2015年までの23年間、2つ放送される形となっていた。これは、1991年にHeartful Stationが、神奈川県域局であるアール・エフ・ラジオ日本でスタートしたものの、数カ月後に当時の同局の方針で打ち切りとなった。その後、兵庫県域局のラジオ関西に移して放送を再開し、翌1992年に関東広域圏における番組としてTBSラジオで本番組を開始した経緯があったためである。
両番組には、同時期に林原関連の情報の告知がされることや、同じゲストの登場、通算放送回数が100回を越えるごとに公開録音イベントを行うという共通点があった。しかし、林原のトークとラジオドラマで構成する番組として始まり、ラジオドラマの無くなった2000年以降はリスナーのお便りを読んで林原がトークを展開する時間が番組を占める本番組に対して、Heartful Stationではテーマが定められた多数のコーナーがあるほか、アシスタント(保志総一朗)やコーナーパーソナリティ(セガ社員の竹崎忠)が出演するため、番組の雰囲気はある程度差別化されていた。
全国的に見ると両番組が互いに放送エリアを補完するような関係になっていた。また、中京・京阪神・福岡県のように放送エリア内の複数局で両番組を放送している一方で、北海道・岩手県のように同一局が両番組を放送している場合もあった。なお、関東では1997年4月11日から1998年9月にかけて、前述の『金曜UP'S』(TBSラジオ、北海道放送、RKB毎日放送、琉球放送)でHeartful Stationを放送していたことがあった。『UP'S』枠の終了後もTBSラジオ以外の3局は放送時間帯を変更してHeartful Stationの番組ネットを続けていた。
その『Heartful Station』も2015年3月28日(幹事局であるラジオ関西の場合)をもって放送終了。ラジオ関西では『Heartful Station』終了に伴う補完の目的で、翌週から本番組のネットを開始した。
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"text": "イベント構成は、前半に番組収録のトークパートとイベントオンリーパート、そして後半は1300回迄は林原本人が活動方針として音楽ライブ活動を催さないことを定めていることもあり、唯一のライブパートに分かれている。1400回以降は、ライブパートが構成されず、1500回以後は後述のリストの備考に記してある通りインターネット配信のみのため同様の措置が取られている。",
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"text": "『林原めぐみのHeartful Station』は、本番組と同様にキングレコードが制作しており、同一会社による制作で同一のパーソナリティが担当するラジオ番組が2015年までの23年間、2つ放送される形となっていた。これは、1991年にHeartful Stationが、神奈川県域局であるアール・エフ・ラジオ日本でスタートしたものの、数カ月後に当時の同局の方針で打ち切りとなった。その後、兵庫県域局のラジオ関西に移して放送を再開し、翌1992年に関東広域圏における番組としてTBSラジオで本番組を開始した経緯があったためである。",
"title": "『林原めぐみのHeartful Station』との関係"
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"text": "両番組には、同時期に林原関連の情報の告知がされることや、同じゲストの登場、通算放送回数が100回を越えるごとに公開録音イベントを行うという共通点があった。しかし、林原のトークとラジオドラマで構成する番組として始まり、ラジオドラマの無くなった2000年以降はリスナーのお便りを読んで林原がトークを展開する時間が番組を占める本番組に対して、Heartful Stationではテーマが定められた多数のコーナーがあるほか、アシスタント(保志総一朗)やコーナーパーソナリティ(セガ社員の竹崎忠)が出演するため、番組の雰囲気はある程度差別化されていた。",
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"text": "全国的に見ると両番組が互いに放送エリアを補完するような関係になっていた。また、中京・京阪神・福岡県のように放送エリア内の複数局で両番組を放送している一方で、北海道・岩手県のように同一局が両番組を放送している場合もあった。なお、関東では1997年4月11日から1998年9月にかけて、前述の『金曜UP'S』(TBSラジオ、北海道放送、RKB毎日放送、琉球放送)でHeartful Stationを放送していたことがあった。『UP'S』枠の終了後もTBSラジオ以外の3局は放送時間帯を変更してHeartful Stationの番組ネットを続けていた。",
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"text": "その『Heartful Station』も2015年3月28日(幹事局であるラジオ関西の場合)をもって放送終了。ラジオ関西では『Heartful Station』終了に伴う補完の目的で、翌週から本番組のネットを開始した。",
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『林原めぐみのTokyo Boogie Night』(はやしばらめぐみのとうきょうブギー・ナイト)は、TBSラジオで1992年(平成4年)4月11日から放送しているアニラジ番組。
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{{Infobox animanga/Header
|タイトル = 林原めぐみのTokyo Boogie Night
|ジャンル = [[アニラジ]]
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{{Infobox animanga/Radio
| タイトル = 林原めぐみのTokyo Boogie Night
| 愛称 = ブギー、TBN
| 放送開始 = [[1992年]][[4月11日]]<!-- (入力必須) -->
| 放送終了 =
| 放送局 = [[TBSラジオ]]<!-- (入力必須) -->
| 放送時間 = 日曜 24:00 - 24:30
| 放送回数 = 1600回<ref group="注">2022年12月25日放送分時点</ref>
| 放送形式 = 録音<ref group="注">特別番組のみ生放送の場合有</ref>
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| ネット局 = [[ラジオ関西]]
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|ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル= [[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:ラジオ|ラジオ]]・[[Portal:メディア|メディア]]
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『'''林原めぐみのTokyo Boogie Night'''』(はやしばらめぐみのとうきょうブギー・ナイト)は、[[TBSラジオ]]で[[1992年]]([[平成4年]])[[4月11日]]から放送している[[アニラジ]][[ラジオ番組|番組]]。
== 概要 ==
リスナーからのお便りとそれに対する林原のトーク、およびキングレコード(2016年1月31日までは[[スターチャイルド]]レーベル名義)の楽曲紹介を基本に進行する30分番組である。TBSラジオサイトの番組紹介欄では「声優界のトップを走り続ける林原めぐみ。ラジオの彼女は、どんな時もリスナーの味方。一度聴いたらハマリます。来週も絶対See You Again!」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tbs.co.jp/radio/category/culture.html|title=番組一覧:カルチャー番組|publisher=TBSラジオ|accessdate=2012-03-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161006071300/http://www.tbsradio.jp/tbn|archivedate=2016/10/06}}</ref>、TBSラジオフリーマガジン「954press」ではそれ以前の紹介文と同じ「カリスマ声優の飾らないトークと、ミュージックで送るバラエティ」と、それぞれ紹介されていた。
番組開始当初は林原めぐみのフリートーク15分に加えて、関西で放送されていたラジオドラマ番組『[[熱血電波倶楽部]]』を関東でも放送するという目的で、両15分ずつを合体させた30分番組としてスタートした(数回に1回、「30分丸々DJスペシャル」として林原のトークで進行)。[[2000年]][[2月]]にドラマパートが完全終了してからは現在の番組の形となっている。
声優がパーソナリティを務める[[アニラジ]]としては、東海ラジオ放送『[[mamiのRADIかるコミュニケーション]]』や文化放送『[[ノン子とのび太のアニメスクランブル]]』、自身の『[[林原めぐみのHeartful Station]]』などの番組の放送当時はそれに次ぐ歴史のある番組であり、現在では放送年数が30年を越える長寿番組である。林原は[[2015年]][[3月]]まで、ブログやTwitterでの情報発信を一切しておらず、ファンクラブも存在しないため、ファンにとっては林原の普段の出来事や新曲発表などの情報が得られる数少ない場となっている。
お便りが紹介されたリスナーには「リスナーのしるし」として靴ひもが送られる。ゲストが番組に来た場合には、ゲストと林原の寄せ書きサイン色紙、キングレコード関連グッズが出されることが多い。[[TBSテレビ]]のバレーボール応援グッズがプレゼントになったこともある。林原がプレゼント告知を忘れた場合でも、ゲストからのプレゼントは用意されている。
通算放送回数が100回を達成するごとに記念として公開録音イベントが行われる([[#公開録音概要|公開録音概要]]を参照)<ref group="注" name="1000回記念">1000回記念のみ記念回数達成前に開催し、1000回目の放送で流すという手法が採られた。同様に、ハートフルステーションの1000回記念も1000回達成前の開催であった。</ref>。なお、この公開録音は林原が活動方針上、キングレコード主催の「[[KING SUPER LIVE 2015]]」(2015年6月開催)等の例外を除き、コンサート活動を行わない代わりとして、ファンへの感謝の気持ちもこめて、抽選による招待ではあるものの参加費無料で開催される公開録音の模様およびそのライブパートは、林原のアルバムの初回特典として映像化されているものがある。アルバム『VINTAGE A』(TBN400回記念)、『feel well』(TBN500回記念)、『Plain』(TBN600回記念)、『CHOICE』(TBN900回記念)の各初回版特典DVDもしくはVHS(『Plain』のみCD)でそれぞれの模様を確認できるが、単品の映像作品としては販売されていない。しかし、2016年2月に[[スターチャイルド]]が第三クリエイティブ本部に統合されたことでこの活動方針が通らなくなったといい<ref>林原本人が番組内で発言。</ref>、2017年6月11日に「1300回突破記念公開録音」の会場である中野サンプラザにて公録後に初の単独ライブが開催された。
番組は、スタジオ収録を含めてキングレコードが制作しているため、TBSラジオは制作に関わらず、各放送局は番組の送出のみ担当している。郵便物の宛先もキングレコードである。なお、キングレコード「林原めぐみTBN」係で番組に届くようになっている。番組宛てで、林原にプレゼントを贈ることも可能である。
[[2015年]][[5月9日]]に開催された「1200回突破記念公開録音」では、当選観覧者の約8割が'''聴くだけリスナー'''であることが判明。会場で林原が自らハガキの投稿を呼びかけ、それによってそれまで聴くだけリスナーだった聴取者もハガキを投稿するようになった。しかし、新規投稿者のハガキも採用されてはいるものの、その数は非常に少数であり、依然として[[ハガキ職人|常連投稿者]]のハガキが優先的に採用される傾向にある<ref group="注">同一人物の投稿ハガキが1回の放送で2枚以上採用されることも珍しくない。</ref>ため、この採用傾向には懐疑的な意見もある。1300回公録の際にも当選観覧者の約半数が葉書・メールを出したことのない「聴くだけリスナー」であることが判明している。一方で、1200回公録までの時点では「聴くだけリスナー」だったが僅か2年間の間にハガキが採用されやすくなる常連投稿者に転じた者も居る。
=== テーマソング ===
; オープニングテーマ
* 「[[WHATEVER (アルバム)|Tokyo Boogie Night <New Recording>]]」のイントロ部分
; エンディングテーマ
* 「Tokyo Boogie Night <New Recording>」(番組放送開始 - )
* 「[[feel well|Tokyo Boogie Night [2002version]]]」(2002年頃 - )
* 「Lucky & Happy」(2004年5月15・16日放送分のみ<ref group="注">岡崎律子の死去に対する追悼のため。</ref>)
; 挿入歌([[CMフィラー]])
*「[[SHAMROCK (アルバム)|がんばって!]]」のサビの部分(1994年 - 2016年)
*: 番組内のコマーシャルは2本づつ3回(オープニング後・番組中盤・エンディング前)放映されるが、2016年9月まで放送していたネット局の中には2本目のコマーシャルの代わりにこの曲を使用したジングルが流れていたところもある。
「Tokyo Boogie Night」の原曲は、OVA『[[機動戦士SDガンダム|機動戦士SDガンダムMARK-III 宇宙の神秘・大作戦]]』のエンディングに使用されたもので、林原めぐみと[[本多知恵子]]によるデュエット曲である(当ラジオ番組に使用されているのは林原によるソロカバー)。
提供クレジットは番組開始当初より[[堀内賢雄]]によるものである<ref group="注">一度だけ林原本人がエンディングの提供クレジットを担当したことがある。(第409回放送)</ref>。
=== 挨拶 ===
お決まりの挨拶として、番組冒頭では「皆さんこんばんは、林原めぐみです。一週間のご無沙汰いかがお過ごしだったでしょうか<ref group="注">現在では恒例の冒頭挨拶であるが、前週の放送が無い第1回放送をはじめとする初期の頃は、この文句による挨拶ではなかった。</ref>」、番組終了時に「来週も絶対See you again. お休み、バイバイ<ref group="注">この文句は第1回放送より遣われている。</ref>」がある。
=== 主な歴史 ===
; [[1991年]]([[平成]]3年)
* [[11月17日]]より、本番組の初期のコーナーでもあった『[[熱血電波倶楽部]]』の放送が[[ラジオ関西]]と[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]で始まる([[1995年]][[3月26日]]放送分まで)。
; [[1992年]](平成4年)
* [[4月11日]]より、番組放送開始。[[TBSラジオ]]([[関東ローカル]])での放送で、番組テーマ曲「Tokyo Boogie Night」の歌詞同様に「午前2時」である土曜26:00からの放送であった。
* [[8月1日]]、[[バルセロナオリンピック]]の中継放送のため、番組唯一の完全放送休止。
; [[1994年]](平成6年)
* [[1月1日]](第90回)より、「リスナーのしるし」としてノベルティの靴紐を採用者にプレゼント開始。
* [[10月15日]](第131回)より、TBSラジオでの放送時間が土曜日25:30に変更された。
; [[1996年]](平成8年)
* [[4月13日]](第209回)より、TBSラジオでの放送時間が土曜日25:00に変更された。
* [[10月25日]]、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]系『[[UP'S|金曜UP'S]]』にて『林原めぐみのTokyo Boogie Night スペシャル』が2時間生放送された([[#スペシャル番組|スペシャル番組]]を参照)
; [[1997年]](平成9年)
* [[4月13日]](第261回)より、TBSラジオでの放送時間が日曜日23:00に変更された。
; [[1998年]](平成10年)
* 4月1日に行われた放送300回突破記念公開録音イベントのアンコール時に、突如ウエディングドレス姿で舞台に登場。イベント2日前の自身の誕生日に入籍したことを発表し、ファンを驚かせた。
* [[4月12日]](第313回)より、TBSラジオでの放送時間が日曜日24:00に変更された。
; [[2000年]](平成12年)
* [[2月6日]](第408回)に放送された『[[それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ|それいけ!宇宙戦艦ヤマモト★ヨーコ]]』を最後に熱血電波倶楽部のラジオドラマが終了。放送開始当初より、後半15分部分にラジオ番組『[[熱血電波倶楽部]]』のラジオドラマパート、また熱血電波倶楽部がドラマパートではなくDJパートを放送する際には引き続き林原のDJパート(30分まるまる林原DJスペシャル)を放送していたが、これ以降は毎回林原のDJパートになっている。
; [[2001年]](平成13年)
* [[3月]]、TBSラジオゴールデンマイク賞を受賞<ref group="注" name="mic">ゴールデンマイク賞は、継続してTBSラジオの番組に出演し、聴取率やステーション・イメージの向上に寄与した出演者に贈られる賞である。</ref><ref name="shiryou">{{Cite book|和書|author=東京放送|title=TBS50年史 資料編|publisher=|year=2002|chapter=VII.各種表彰 2.TBS主催の外部表彰 (2)ゴールデンマイク賞|pages=295-296}}</ref>。
* [[5月]]、TBSラジオナイスプレー賞を受賞。
* [[10月1日]]、TBSラジオでは、冒頭に放送免許承継アナウンスが挿入され1分繰り下げ<ref group="注" name="JOKR">TBSラジオ同日の[[TBSラジオ#沿革|沿革]]を参照のこと。</ref>。
; [[2003年]](平成15年)
* [[10月26日]](第599回 → 第600回)にて、過去に重複放送が在った旨を告知し、この回の放送を以って放送回数を599回から600回に修正する旨を番組内で発表(詳細は[[林原めぐみのTokyo Boogie Night#放送回数について|後述]]を参照)。
; [[2007年]](平成19年)
* [[5月21日]]、番組への投稿手段として、電子メールを一部解禁。
; [[2011年]](平成23年)
* [[6月26日]]の放送で、放送回数1000回を達成。
; [[2012年]](平成24年)
* [[10月21日]]のTBSラジオの放送において、冒頭で『[[今晩は 吉永小百合です]]』が誤って放送される[[放送事故]]が発生<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20121025-1037236.html 「吉永小百合です」TBSラジオも事故(日刊スポーツ)]</ref>。
; [[2013年]](平成25年)
* [[5月26日]]の放送で、放送回数1100回を達成。
; [[2014年]](平成26年)
* [[10月26日]]のTBSラジオの放送において、編成上の都合で通常より1時間繰り下げ。ナイター延長などの遅れを除き日曜枠に固定化されて以降初となった。
; [[2015年]](平成27年)
* [[4月4日]](第1197回)より、『[[林原めぐみのHeartful Station]]』の放送終了に伴う補完の目的で[[ラジオ関西]]がネットを開始。
* [[4月26日]]の放送で、放送回数1200回を達成。
* 12月よりTBSラジオの放送において[[FM補完中継局|FM補完放送]]開始。番組冒頭のコーナーである「早口言葉への挑戦状」においてもFM補完放送に関するものだった。
; [[2016年]](平成28年)
* [[2月7日]]の放送より、キングレコードの組織変更により提供クレジットが「[[スターチャイルド]]レーベルでお馴染みの〜」から単に[[キングレコード]]になる。郵便物の宛て先も「[[KING AMUSEMENT CREATIVE|キング・アミューズメント・クリエイティブ本部]]」宛に変更された。これによって、オープニングとエンディングにおける堀内賢雄による提供読みナレーションから「'''スターチャイルド'''」の用語がアナウンスされなくなった。なお、2016年3月6日放送分において、ハガキの宛先の記述が「'''KAC本部 めぐみのTBN'''」でもハガキが届くことが証明されている。
* [[7月2日]]、林原めぐみ公式ブログにて、TBSラジオでの2016年の「第24回参議院議員通常選挙」の開票特番における番組休止措置として、7月10日放送分(ゲストは[[水樹奈々]])を1週間遅れの7月17日の24:00からに、本来の7月17日放送分を4日後の7月21日の20:00からに、それぞれ日時変更することで対応することを発表<ref>[https://web.archive.org/web/20150404142518/https://ameblo.jp/megumi-hayashibara-hs/ ★【7/2UP!】RADIO「林原めぐみのTokyo Boogie Night」放送日時変更のお知らせ★] 公式ブログ 2016年7月2日閲覧</ref><ref group="注">当該時間帯では当日のプロ野球開催予定がないため、本来であれば「[[プロ野球ネットワーク]]」を放送することになるが、当日は本番組を含め選挙特番で休止となった定時番組(「[[今晩は 吉永小百合です]]」「[[ROCK ENTERTAINMENT 高見沢俊彦のロックばん]]」を除く)が代替放送されるため、「プロ野球ネットワーク」の方がネット局(北海道放送・[[CBCラジオ]]・[[朝日放送ラジオ]]・RKB毎日放送の4局)への裏送りとなる。</ref>。通常、選挙特番ではTBSラジオは放送休止・[[代替放送]]なしとなるため([[#放送回数について]]を参照)、この時の様に代替放送をすることは極めて稀な事例となった。
* [[9月11日]]放送分(第1272回)にて、10月より[[TBSラジオ]]と[[ラジオ関西]]の2局のみとなることが発表された。その補完としてWEB配信がスタートする旨が合わせて発表された。放送の翌週火曜に林原のアーティストサイト『[http://king-cr.jp/artist/hayashi/index.html MEGUMI HOUSE]』と『[[アニたまどっとコム|ラジオ関西 アニたまどっとコム]]』のインターネットラジオ『別冊ラジ関』にてWEB配信され、パソコンの他、スマートフォンなどでも聴取可能となった。
* [[10月1日|10月1]]・[[10月2日|2日]]放送分より、上記の通り2局のみでの放送となる。
* [[10月4日]]、[[インターネットラジオ|WEB配信]]スタート。
* [[12月31日]]・[[1月1日]]放送分(第1288回)は、2局の放送日が年末年始を跨ぐため、初の2局別内容の放送となった<ref group="注">ただし、通算放送回数のカウント数は共有される。</ref><ref group="注">2017年1月3日更新のWeb配信について、アニたまどっとコムはラジオ関西版、MEGUMI HOUSEはTBSラジオ版が配信された。</ref>。ただし、過去にも放送局によって放送日が年末年始を跨いだ事例は数回存在する。
; [[2017年]](平成29年)
* [[3月26日]]の放送で、放送回数1300回を達成。
* [[10月22日]]放送分が「第48回衆議院議員総選挙」の開票特番により、TBSラジオは放送休止。[[ラジオ関西]]のWEB配信『別冊ラジ関』が終了し、『[[ニコニコ動画]] アニたまどっとコムチャンネル』に移行された。
* [[12月31日]]のTBSラジオ放送分が大晦日特番による編成上の都合により通常より30分繰り下げ。編成都合による時間変更は2014年10月26日放送分以来、約3年2ヶ月ぶり。
; [[2018年]](平成30年)
* TBSラジオの[[6月24日]]放送分が[[サッカー]]『[[ワールドカップ2018]]』の中継により、同週の[[6月29日]]20:30に振替。
; [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年)
* [[2月24日]]放送で、放送回数1400回達成。
; [[2020年]](令和2年)
* [[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]感染拡大に伴い、[[4月12日]]放送分から[[5月31日]]放送分まではスタジオ収録ではなく、林原の自宅にて[[テレワーク]]の形で収録された音源が放送された。このような形式での収録・放送は番組史上初であり、テレワーク収録1週目の放送では番組冒頭のコーナーである「早口言葉の挑戦状」において成功・失敗の判定音が鳴らなかった(結果は成功)。2週目([[4月19日]]放送分)以降は「早口言葉の挑戦状」の判定音が通常通り鳴っていた。
* [[6月7日]]放送分よりスタジオ収録を再開。
; [[2021年]](令和3年)
* [[1月24日]]放送で、放送回数1500回達成。
; [[2022年]](令和4年)
* [[12月25日]]放送で、放送回数1600回達成。
; [[2023年]](令和5年)
* 12月31日深夜のTBSラジオでの放送が年末特別編成の都合で通常より1時間遅い25:00~25:30(2024年01月01日01:00~01:30)枠で放送(予定)。計画遅延放送は上述の2017年12月31日以来、6年ぶり。
=== 聴取率について ===
明らかになっているものでは、同時間帯聴取率1位継続という長年の功績により[[2001年]][[3月]]にゴールデンマイク賞<ref group="注" name="mic"/><ref name="shiryou"/>、4月2週目の調査において単独首位となったことで同年5月にナイスプレー賞を受賞したことを番組内で公表している。また、2007年のインタビューでは「聴取率は変わっていない」と発言しており、同年12月の調査では主要民放局シェアにおいて調査対象となる男女12 - 69歳全体で[[ニッポン放送]]と同率首位であった<ref>{{Cite web|和書|title=ニッポン放送速報 2007年12月10日(月) - 16日(日)ビデオリサーチ首都圏聴取率調査|page=4|url=http://www.jolf.co.jp/eigyou/rating/0712/0712_rating_02.pdf|format=PDF|publisher=ニッポン放送|accessdate=2013-03-17}}</ref>。
=== 放送回数について ===
第1回放送から現在までの間にTBSラジオでの番組休止等の影響により、暦上の放送回数・実際の放送回数・番組内で告知する公式放送回数には若干のズレがある。
* TBSラジオのみだった1992年8月1日放送分は[[バルセロナオリンピック]]中継のため完全に休止となっている。ネット局が増えた以降のこの週以外はいずれかの局で必ず放送されているため、暦上の放送回数と実際の放送回数には1回分のズレが発生している。
* 放送500回達成の頃まではいずれかの局で放送があった場合には放送回数にカウントする方法を採用していたが、600回を迎える頃には番組内での放送回数の告知がTBSラジオを基準とする方法に変更されていた。600回以前までに「TBSラジオで休止・振替放送無し/ネット局では放送」という週が3度あるため、両者に3回分のズレが発生している。その後、TBSラジオでは何度も放送休止となっているがカウントはされていることから、ズレを残したまま以前のカウント方法に戻っている。
* 第599回放送([[2003年]]10月26日放送分)の時、かつて1回分だけ放送回数が重複している旨を告知している。それは[[1997年]][[10月19日]]放送分(第288回)のことで、前番組の[[日本プロ野球|プロ野球]][[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]『[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]VS[[埼玉西武ライオンズ|西武]]』戦中継延長によりTBSラジオは放送中止となった。しかし、他局では通常通り放送していたため、TBSラジオ以外では同じ内容を2度放送するという現象が生じた。林原はこのことについて重複放送分も1回としてカウントすることとし、この第599回目の放送を第600回目に修正する旨を番組内で発表した。なお、この第288回放送は[[1997年]][[11月2日]]27:00<ref group="注">23:00からは通常通りの放送、26:00からの『赤坂ライブ』(第一日曜深夜での放送)を放送してからの放送となった。</ref>から放送され、当時番組内で放送されていたラジオドラマの進行も第289回放送のものと順番が入れ替わる逆転放送となった。
* また、放送日が選挙の投票日と重なった場合、各局では特番を編成するため時間変更や休止がある。1997年春改編から日曜日に移動をしたTBSラジオでは休止になることが多いため、上記のカウント回数でいくと、実際の放送回数と番組で発表されている放送回数とは数回程度ずれが生じていることになる。
<!--これらのことから、番組内等で現在告知されている放送回数をx回とすると、実際の新規放送回数はx+2回、全く休止が無かった場合の暦上の放送回数はx+3回となっている。-->
* なお、1996年10月25日(25:00 - 27:00)に放送されたスペシャル番組は放送回数にカウントされていない(詳細は[[林原めぐみのTokyo Boogie Night#スペシャル番組|後述]]を参照)。
=== ゲストについて ===
本番組には、共演作などを通じて林原と交流がある声優・歌手が多くゲストに呼ばれる<ref group="注">声優・歌手以外では、[[漫画家]]・[[脚本家]]・[[監督]]・[[作家]]などがゲスト出演することが多い。珍しい例では[[さかなクン]]や[[椿鬼奴]]など、通常は交流の無い人物がゲストに呼ばれたこともある。</ref>。その関係上、ゲストは林原と同年代の人物が多いが、旧スターチャイルドの関係者である場合は若年層のゲストが呼ばれることも多い。『[[林原めぐみのHeartful Station]]』が放送されていた時代は同番組にゲスト出演した人物が同じ週の本番組にゲスト出演することが大半であった。
ゲストは番組の冒頭に行なわれる看板コーナーでもある「早口言葉の挑戦状」に挑戦するが、ゲストの成功・失敗は色紙のプレゼント可否に影響しない。ゲストは基本的に前半パートのみの出演であり、30分フルで出演することは稀である。なお、30分フル出演はどのような経緯で決まるのか不明<ref group="注">ゲストが30分フル出演する場合は前・後半を通してゲストとのトークになるため、ハガキ・メールがあまり読まれない傾向にある。</ref>。ゲストが後半パートから出演することもあるが、これは極めて稀な例であり、数えるほどしか事例が無い。ゲストについては基本的に事前告知するが、林原が告知を忘れる場合もあり告知なしで出演する事もある。また、ゲスト出演の予定が無くても急遽出演が決まる場合もある。稀に乱入が発生する場合もあるほか、急遽変更になる場合もある。なお、番組初のゲストは[[大月俊倫]]だった(第5回放送)。
現在ではゲストの2週連続出演は稀であるが、初期は2週連続で出演するということがよくあり、番組初の2週連続ゲストは水谷優子だった(第9回放送・第10回放送)。2016年3月20日放送分にゲスト出演したのは「ハートフルステーション」でアシスタントいう形で共演していた[[保志総一朗]]であったため、「前半パートはゲスト、後半パートはアシスタント」という珍しい形式での30分フル出演となった。2015年には小学生時代から林原のファンであり「[[こども電話相談室]]」で「声優になりたい」と林原に相談をした[[洲崎綾]]がゲストで登場した。洲崎は自身のラジオ番組で、林原のリスナーであり、高校時代には深夜バスで初めて上京して公開録音に参加したりと、ヘビーリスナーであることを常に話しており、その番組を聴いていた番組リスナーから林原へのメールがきっかけとなり出演が決定したという珍しい出来事もあった。その後も林原は公開録音などの関係者席に洲崎を招待しているなど親交があるとされる。
2018年4月8日放送分では、[[たかはしごう]]が後半パートから出演した。たかはしは本来、出演予定はなく、収録中に林原によって番組に呼び込まれ急遽出演することになった。後半パートから出演するのは2016年1月3日放送分にゲスト出演した[[上坂すみれ]]以来、2年3か月ぶりである。
=== その他 ===
* 他のキングレコード提供番組で多く導入されている[[電子メール]]投稿は、林原本人が「ハガキの温もりを大切にしたい」<ref group="注">『ラジオ番組表 2007秋号』(三才ブックス刊)の本番組の特集記事のインタビューで「電子メールだとリスナーの気持ちを読み取ることができない」という発言をしており、ハガキを読んで番組を進行するという形にこだわりを見せている。</ref>「コンピューターの文字よりも、手書きのほうがリスナーの喜怒哀楽の表情がわかりやすいので好み」<ref>[[2009年]][[12月20日]]放送分の本人の発言より。{{出典無効|date=2018-10}}</ref>という意向で番組の開始時から長らく受け付けていなかった<ref group="注">しかしながら、[[2013年]][[11月23日]]放送分の中で、自身は[[スマートフォン]]ユーザーで、機種変更の際[[iPhone]]に変えたと話している。</ref>。[[2007年]][[5月21日]]放送分から「早口言葉の挑戦状」と「電波私物化コーナー」に限り、番組放送開始15年目で初めて受け付けるようになったが、その他のコーナーは引き続き郵送手段でのみ投稿を受け付けており、現在も実質的にはハガキ投稿中心の番組となっていたが、[[2011年]][[2月6日]]放送分(第980回)からは「ゲストへのおたより」、「プレゼント応募」、「質問箱」も「MEGUMI HOUSE」の投稿フォームで受け付けることを番組内で発表した。
* TBSラジオ・HBCラジオ・ラジオ福島・北陸放送・ラジオ関西・中国放送・KBCラジオの7局では一つのCM枠に20秒のCMが2本流されるが、IBC岩手放送・東北放送・新潟放送・信越放送・静岡放送・東海ラジオ・KBS京都・山陽放送・南海放送・熊本放送の10局では、20秒のCM1本のみで他局で流されている残りの枠内において、林原の歌「がんばって!」がフィラーとして流されていた。
*岩手県においては、当初はFM岩手にて放送されていたため、radikoやFM補完放送開始前にも関わらず、FMステレオでの聴取が可能だった。
== コーナー・企画 ==
=== 現在 ===
; 早口言葉の挑戦状
: リスナーが送ってきた[[早口言葉]]に林原(およびゲスト)が挑戦するコーナー<ref group="注">このようなコーナーは数あるアニラジの中でも異色のコーナーであり、同様のコーナーを設置していた番組は[[ベイエフエム|BayFM]]で2015年4月7日から同年10月6日まで放送されていた『[[コルネーリア魔法学園]]』の「滑舌の呪文」くらいである。</ref>。当コーナーは番組の冒頭に行われ<ref group="注">[[2007年]][[2月11日]]放送分はゲストの出演が後回しになったため、後半部に行われた。なお、後半部での施行はこの回以外に例がない。</ref>、同じ早口言葉を3回繰り返すルールとなっている。ただし、長い早口言葉の場合は林原本人の判断で2回に短縮される場合がある。逆に、投稿者から回数指示<ref group="注">主に短い場合。通常は短い早口言葉の場合でも回数指示が無い場合は3回繰り返すことになっている。</ref>が入って5回や10回といった回数を繰り返す場合も稀にある。初登場は1992年[[9月12日]]放送分(第22回)で、[[11月14日]]放送分(第31回)よりレギュラー化。現在は1回の放送で採用するのは1通のみだが、初期の頃は複数通を採用していた回も在る。オリジナル・引用は問わないが、引用の場合は引用元などを記入する必要がある。失敗すると「リスナーのしるし」と呼ばれる靴ひもに加えて林原のサイン色紙、成功の場合は靴ひもだけがリスナーに贈られる<ref group="注">ゲスト出演者の成功・失敗は関係ない。</ref>。他のコーナーは採用された場合は「リスナーのしるし」のみがプレゼントされるが、当コーナーは林原に早口言葉を失敗させることが条件となるものの、色紙を入手できる唯一のコーナーであるため、人気が高い。成功時は効果音で[[チューブラーベル]]と鐘、失敗時には爆発音が鳴っていたが、[[2011年]][[4月10日]]放送分(第989回)からは成否の効果音が成功時は「ピポピポピポン」、失敗時は「ブー」と鳴るように変更された<ref group="注">これは震災の影響で3回連続中止を経て再開された回からであるため、震災に対する配慮によって変更されたものと思われる(爆発音が地響きや火災を想起させ、被災を経験したリスナーが地震による[[トラウマ]]で[[フラッシュバック]]を起こす可能性があるため)。</ref>。公開録音の際は、投稿された早口言葉の中から3つを採用し、各内容を1回ずつ、もしくは3回続けて喋る。この時も採用した早口言葉の中に長い早口言葉が含まれている場合は1回ずつ計2回に短縮される。2011年3月20日放送分(第986回)は[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])発生直後に収録された回であり、主に地震関連のトークとなったため休止。また、翌週の3月27日放送分(第987回)と翌々週の4月3日放送分(第988回)でも行われず、コーナー初の3週連続休止。当コーナーはレギュラー化して以降、休止した事例は何度かあるが、番組の冒頭で行われる看板コーナーでもあるため、休止すること自体が非常に珍しい<ref group="注">[[岡崎律子]]をはじめとする、林原と所縁の深い人物の死去が番組内で告知された回でも通常通りに行われている。</ref>。なお、ゲストが後半から登場する場合は2007年2月11日放送分を除き、挑戦していない。
; 普通のお便り<ref group="注">「普通のお便り」という名称は便宜的に用いられる俗称であり、実際には正式名称は無い。ただし、リスナーが投稿先を解かり易くするため、公式サイトにおいても「普通のお便り」という名称を使用している。そのため、コーナー名を記載せずに投稿した内容が採用された場合は、このコーナーで紹介される。なお、投稿した内容によっては「こんなんありますぅ」や「電波私物化クラブ」などに割り当てられる場合もある。公式サイトからのメール投稿の場合は「普通のお便り」という入力項目が用意されている。</ref>
: ノンジャンルの[[ふつおた|普通のお便り]]を紹介する番組のメインコーナー。
; こんなんありますぅ
: 食べ物、地名、誤植記事などの珍しいものを林原に報告するコーナー。ネタを紹介せずに自身の告知をする場合もある。ゲストが出演している時や特別企画などで放送時間が取れない時は省略される。これまでに紹介されたものの中でも特筆される紹介例として、とある懸賞雑誌の当選者名一覧に「'''林原めぐみ'''」という人物の氏名が載っていた記事が紹介されたことがある<ref group="注">懸賞の当選者は林原本人ではなく、別人。</ref>。1995年10月14日放送分(第183回)よりレギュラー化。なお、このコーナーは紹介するものを林原に実見させる必要があるため、封書への同封や荷物扱いといった形で番組に郵送するしか方法がない。そのため、他のコーナーとは異なり、WEBサイトからは投稿することができない(2020年現在、写真・動画・音源等を添付して送信する機能が敷設されていないため)。
; 電波私物化クラブ<ref group="注">WEBサイトからのメール投稿ではコーナー名が「電波私物化'''コーナー'''」となっている。</ref>
: リスナーからの伝言板。両親、親戚、友人、恋人、配偶者、投稿者の子供、飼っている動物、愛用している品物、投稿者本人などへのメッセージが中心である<ref group="注">稀にメッセージを伝える対象相手が林原の場合もある。</ref>。このコーナーは番組のエンディングで紹介されるため、時間が詰まっている場合は省略されるが、通常は1通程度紹介され、多い場合は2〜3通紹介されることもある。
: 過去にはこのコーナーで「[[オフ会|リスナーの集い]]」が呼びかけられ、リスナー同士が交流を深める自主イベントが開催されたことがあったが、インターネットが普及し始めたころから、そのような呼びかけはされなくなった。
: 初登場は1992年5月2日放送分(第4回)であり、正式名称が付けられているコーナーとしては番組最古の現役コーナーである('''普通のお便り'''はハガキを紹介するフリートークであり、正式名称ではない)。
; 夏休み恒例キーワードクイズ(8月限定)
: 放送1週につき1文字が発表され、全てを繋いで応募すると抽選でプレゼントが当たる。「夏休みにも自宅や帰省先でラジオを聴いてほしい」という思いもあり、大抵は4週に渡って発表される。原則として前週のキーワードは言わないが、一部のネット局が編成の都合で未放送だった地域があった場合は特例で前週のキーワードを合わせて発表したこともあった<ref group="注">この企画は『林原めぐみのHeartful Station』でも行なわれていた。関東地区の放送局で行われる[[聴取率|レーティング]]とは関係はない。2011年は東日本大震災の被災者に対する配慮のため、行われなかった。</ref>。<!--※注意 夏休みキーワードクイズのキーワードはこの項目に記述しないでください。-->現在はWEB配信・radikoによって1週間以内なら何度でも聴き直せる環境が整っているため、前週のキーワードを発表しないことがある。
=== 過去 ===
; 熱血電波倶楽部
: ラジオドラマを放送するコーナー。『[[熱血電波倶楽部]]』の記事を参照。
; 春猫不思議うそよ
: 珍しい物事を紹介するコーナー。しかしながら、そのほとんどが嘘ネタ(リスナーが作った作り話)で、ハガキの最後は「うっそだけど」で締められる。中には、さも本当のように巧妙に書かれた嘘ネタや、その逆でまるで嘘のような本当の話が送られることもあった。なお、本当の話の最後は「ほんとぴょ〜ん」で締められる。また本当の話は後の「こんなんありますぅ」のコーナーの原型になり、同コーナーに発展する形で終了。
; どこ行っちゃったんでしょうね
; 君のAnswer
; おしえてHappyness
=== 曲のリクエスト ===
本番組はコーナーごとにリスナーから送られるハガキ・メールを紹介するフリートークが主体であること、林原が自身や関係者の曲を積極的に放送していること、などから、リスナーが放送してほしい曲をリクエストする事例は少なく、番組にもリクエストを受け付ける専門のコーナーなどは無いため、林原も番組内で積極的にリクエストを募集することはほとんど無い。しかし、稀にリスナーから放送してほしい曲をリクエストされることがある。前述の理由から、以前はリスナーが曲のリクエストをすることは全くといっていいほど無かったが、2016年11月に紹介されたお便りで、あるリスナーが曲のリクエストをしたのを機に近年は頻度こそ少ないものの、曲のリクエストをするリスナーが増えてきている。リスナーが直接「●●を放送してほしい」と要望する場合が多いが、リクエストの意思が無くてもリスナーと曲の出会いのエピソードなど、具体的な曲名や経緯が文中に書いてある場合はお便りに記載された内容を察した林原の計らいでリクエストとして扱う場合がある。2020年4月18日・19日放送分は、新型コロナウイルス感染拡大による影響でテレワーク収録の体制が採られていることから、番組では普段の放送よりも多めに曲をかけることとし、そのために林原自身が曲のリクエストの募集を告知した。
== 林原の産休による休暇時の対応 ==
2004年に林原が出産休暇に入った際の特別措置として、最初の4週間(6月13日 - 7月3日)はまとめ録りでリクエスト曲を中心とした放送を行い、その後の4週間(7月11日 - 8月1日)は[[日髙のり子]]が代理パーソナリティを務めた<ref group="注">産休期間中の特別措置であるため、この間の日高の出演はパーソナリティ扱いであり、ゲスト扱いにはなっていない。そのため、本番組における日高の通算ゲスト出演の回数にはカウントされていない。</ref>。
== 放送局 ==
=== 現在 ===
2021年7月時点。放送局2局が[[FM補完中継局|FM補完放送]]と[[radiko|radiko.jp]]によるWEB配信を行っている。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送地域!!放送局!!放送開始日!!現在の放送時間!!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||[[TBSラジオ]]||1992年4月11日|||日曜 24:00 - 24:30||
|-
|[[兵庫県]]||[[ラジオ関西]]||2015年4月4日||土曜 23:00 - 23:30||[[radiko]]では関西地区2府4県が対象
|-
|rowspan="2"|[[インターネットラジオ|番組公式WEB配信]]||[http://king-cr.jp/artist/hayashi/index.html MEGUMI HOUSE]||2016年10月4日||局放送後、最初の火曜 12:00に更新されてから1週間||
|-
||[[ニコニコ動画]]<br />アニたまどっとコムチャンネル||2017年10月31日||局放送後、最初の火曜 夕方に更新されてから1週間||
|}
=== 過去 ===
放送開始順に記載。本番組は[[番組販売]]され、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]などのネットワークに関係なく放送され<ref group="注">ただし、東日本大震災発生後最初の放送では、募金先として、TBSラジオが行っている[[JNN・JRN共同災害募金]]「絆プロジェクト」の紹介をしていた。</ref>、[[ラジオ#ラジオ放送の種類|FM局]]での放送実績もあった。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送地域!!放送局!!放送開始日!!放送終了日!!過去の放送時間!!備考
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]||[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]||1993年2月6日||rowspan="2"|2016年9月25日||日曜 23:30 - 24:00||
|-
|[[京都府]]・[[滋賀県]]||[[京都放送|KBS京都]]||1994年10月2日||日曜 22:30 - 23:00||
|-
|[[岩手県]]||[[エフエム岩手]]||1994年11月13日||2001年3月28日||水曜 21:00 - 21:30||唯一のFM局
|-
|[[愛媛県]]||[[南海放送]]||rowspan="2"|1995年1月1日||rowspan="2"|2016年9月24日||土曜 22:30 - 23:00||
|-
|[[熊本県]]||[[熊本放送]]||土曜 23:00 - 23:30||
|-
|[[北海道]]||[[HBCラジオ|北海道放送]]||1995年1月8日||2016年9月25日||日曜 24:00 - 24:30||
|-
|[[福岡県]]||[[KBCラジオ|九州朝日放送]]||1995年4月16日||2016年9月24日||土曜 24:00 - 24:30||
|-
|[[新潟県]]||[[新潟放送]]||1996年2月4日||rowspan="9"|2016年9月25日||日曜 23:00 - 23:30||
|-
|[[宮城県]]||[[東北放送]]||1996年4月7日||日曜 23:30 - 24:00||
|-
|[[広島県]]||[[中国放送]]||1996年10月6日||日曜 22:25 - 22:55||
|-
|[[石川県]]||[[北陸放送]]||1997年4月6日||日曜 22:30 - 23:00||
|-
|[[長野県]]||[[信越放送]]||1997年4月13日||日曜 23:00 - 23:30||
|-
|[[岩手県]]||[[IBC岩手放送]]||2001年10月7日||rowspan="3"|日曜 23:30 - 24:00||<ref group="注">岩手県ではエフエム岩手の後継放送局</ref>
|-
|[[岡山県]]||[[RSKラジオ|山陽放送]]||2002年9月28日||
|-
|[[静岡県]]||[[静岡放送]]||2002年10月6日||
|-
|[[福島県]]||[[ラジオ福島]]||2014年10月5日||日曜 22:00 - 22:30||
|-
|WEB配信||[http://www.weeeef.com/weeeefww1/Transition?command=top&group=G0000049 別冊ラジ関]||2016年10月4日||2017年10月31日||局放送後、最初の火曜 夕方に更新されてから1週間||<ref group="注">ラジオ関西のインターネットラジオ「別冊ラジ関」にて配信。ネットラジオ聴取用の[[iOS]]と[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]アプリあり。</ref>
|}
== 公開録音 ==
=== 概要 ===
兄弟番組である、『Heartful Station』と同様に、番組放送回が100回を刻むごとに、リスナーに対して感謝の意味も込めた記念として公開録音を催していた。
番組タイトルに「Tokyo(東京)」 と地名が入っている関係上、1300回記念までは必ず東京都23区内に所在する多目的ホール及びライブハウスにて催しており、都外で開催された事例はなかった。しかし、1400回記念では『Heartful Station』の番組放送終了以降、公録史上初めてラジオ関西の放送エリアである[[兵庫県]][[神戸市]]にて、都外開催となった。
イベント構成は、前半に番組収録のトークパートとイベントオンリーパート、そして後半は1300回迄は林原本人が活動方針として音楽ライブ活動を催さないことを定めていることもあり、唯一のライブパートに分かれている<ref group="注">但し、1400回はオープンスペース開催に伴ってミニライブは催されず、イベント終わりに『Boogie Night』『、『Heartful Station』のEDテーマであった『Tokyo Boogie Night』と『[[虹色のSneaker]]』のみ歌唱で閉めた</ref>。1400回以降は、ライブパートが構成されず、1500回以後は後述のリストの備考に記してある通りインターネット配信のみのため同様の措置が取られている。
=== イベントリスト ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
! 記念回 !! 開催場所 !! 開催年月日 !! 備考
|-
| 100 || rowspan="3"| [[豊島公会堂]] || [[1994年]][[3月30日]] || <ref group="注">記念すべき第1回目の公開録音が行われたのは林原の誕生日でもあり、誕生日関係のネタもあった。</ref>
|-
| 200 || [[1996年]][[4月7日]] ||
|-
| 300 || [[1998年]][[4月1日]] ||
|-
| 400 || [[杉並公会堂]] || [[2000年]][[4月2日]] ||
|-
| 500 || [[ゆうぽうと|ゆうぽうと簡易保険ホール]] || [[2002年]][[1月27日]] ||
|-
| 600 || [[新木場スタジオコースト]] || [[2004年]][[3月27日]] ||<ref group="注">この時は展示会が開かれ、参加できなかった人も展示会のみ入場可能だった(ただし、600回記念に因んで600円の入場料が必要だった)。</ref>
|-
| 700 || [[九段会館]] || [[2006年]][[4月30日]] ||
|-
| 800 || [[メルパルク東京|メルパルクホール東京]] || [[2007年]][[11月3日]]<ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのTokyo Boogie Night 800回突破記念公開録音レポート
|url=http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/news/eventreport02.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref> ||
|-
| 900 || [[東京厚生年金会館]] || [[2009年]][[10月4日]] ||<ref group="注">本番組の公開録音で初となる2回上演(視聴者は「午前の部」か「午後の部」のいずれかに参加、両方への参加は不可)となった。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのTokyo Boogie Night 900回突破記念公開録音〔昼の部〕レポート!
|url=http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/news/tbn900_01.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのTokyo Boogie Night 900回突破記念公開録音〔夜の部〕レポート!
|url=http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/news/tbn900_02.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref>
|-
| 1000 || rowspan="4" | '''[[中野サンプラザ]]''' || [[2011年]][[6月11日]] ||<ref group="注">当選ハガキに「201'''1'''年6月11日」ではなく、「201'''0'''年6月11日」と誤記載するミスがあり、番組内で告知された。</ref><ref>{{Cite web|和書|author=林原めぐみ|title=めぐさんより:1000回公開録音無事終了しました
|url=http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/news/2011/tbn1000_message.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|date=2011-07-11|accessdate=2012-04-06}}</ref><ref group="注" name="1000回記念"/>
|-
| 1100 || [[2013年]][[6月2日]] ||<ref group="注">同じ会場で2回以上続けて開催するのは100回記念から300回記念までの開催地だった豊島公会堂以来。</ref>
|-
| 1200 || [[2015年]][[5月9日]] ||
|-
| 1300 || [[2017年]][[6月11日]] ||<ref group="注">同日には公録後に同じ会場で自身のライブが控えていたこともあり、これまでの公録よりも上演時間が聊か短かった。</ref>
|-
| 1400 || '''[[神戸ハーバーランド|神戸ハーバーランド スペースシアター]]''' || [[2019年]][[5月12日]] || <ref group="注">本番組の公開録音史上初の東京都以外での開催。</ref><ref group="注">フリースペースでの開催となるため、本番組の公開録音史上初めて希望者が全員観覧可能となった。</ref>
|-
| 1500 || rowspan="2"| '''中野サンプラザ'''<br />(館内15階 小宴会場「フォレスト」ルーム<ref>{{Cite web|和書|title=おわた|url=https://web.archive.org/web/20210201030807/https://lineblog.me/megumi_hayashibara/archives/2482595.html|website=林原めぐみ 公式ブログ|accessdate=2021-02-01|language=ja}}</ref>)||[[2021年]][[1月31日]] || rowspan="2"|<ref group="注">[[新型コロナウイルス感染症]]防止対策に伴う特別措置として、史上初の[[YouTube#ライブストリーミング|Youtube Live]]にて、[[ストリーミング#ライブストリーミング|ライブストリーミング]]による無観客開催。1500回はアーカイブを残さないライブスケジュール設定であったが、1600回についてはライブ配信終了から27時間30分のみアーカイブ視聴アドレスを残した</ref>
|-
| 1600 || [[2022年]][[12月17日]]
|}
* [[2011年]][[6月11日]]に放送1000回記念公開録音が実施されたが、会場では先の[[東日本大震災]]の義援のために献血や募金が実施されており、募金へのお礼という形で、[[あらいずみるい]]による書き下ろし[[リナ=インバース|リナ=インバース]]色紙・[[貞本義行]]による書き下ろし[[綾波レイ]]色紙・アルバム『[[VINTAGE White]]』仕様オリジナルデザイン色紙それぞれに林原めぐみの直筆サインを加えた色紙(1回1,000円以上の募金につき1枚)がおよそ1200枚ずつ計3600枚手渡された。通常の募金と合わせ、この日1日で408万8586円が集まったという。献血コーナーの方では一般的な献血に参加した時と同様に菓子や飲料などが配られたほか、公開録音用の粗品として林原のブロマイドが献血参加者に配られた。なお、[[東日本大震災]]がきっかけとなり、1000回記念以降では必ず[[献血]]コーナーが設けられるようになった<ref group="注">1500回記念はインターネットオンライン中継での開催だったため、献血コーナーは設けられなかった。</ref>が、色紙募金は1000回記念の時のみである。
* 通常は林原がファンに色紙を贈る側であるが、放送1000回突破記念のお祝いとして、逆にファンからの'''寄せ書きサイン色紙'''という形で林原に色紙を贈った者もいた。
* 2016年には[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]が発生したが、公録が行われない年に発生した地震であったためか、1300回記念の際に色紙募金が実施されることは無かった<ref group="注">[[震度7]]という巨大地震で犠牲者が出て[[熊本城]]の一部が破損するなど、その後も長く尾を引いた大地震ではあるが、東日本大震災に比べると地震の範囲と影響が局所的だったことを鑑みた結果として色紙募金を行わない決定をした可能性もある。</ref>。
== スペシャル番組 ==
* 1996年10月25日(25:00 - 27:00)に、『[[UP'S|金曜UP'S]]』(TBSラジオ、北海道放送、山陽放送、RKB毎日放送、琉球放送)にて『林原めぐみのTokyo Boogie Night スペシャル』が2時間生放送された。ゲストとして[[矢尾一樹]]、[[平松晶子]]、[[井上和彦 (声優)|井上和彦]]らが登場。このスペシャルは『UP'S』(TBSが制作)の番組として企画放送されたものであるため、放送回数にはカウントされておらず、生放送および地上波でのスペシャルプログラムもこの時限りである。なお、この時のTBSとの縁故により『UP'S』では後に『[[林原めぐみのHeartful Station]]』を1997年4月から1998年9月までの1年半ほどの間、前半は『Heartful Station』と、後半は[[奥井雅美]]『まっくんのE.B.(エーベー)Club』が放送された。放送曜日はスペシャル番組放送時と同じく金曜日であった。
* 2012年3月31日 - 4月1日開催の[[アニメ コンテンツ エキスポ]]にて、スターチャイルドはブースでの様子や特別プログラムなど配信する「スタ生」を動画サイト・[[ニコニコ動画]]で33時間配信された。そのプログラムのひとつとして、『林原めぐみのHeartful Station』との特別横断ラジオ番組である『幕張DESSE Heartful Night』が事前収録風景の映像と併せて3月31日(20:00 - 21:00)に配信された<ref>{{Cite web|和書|title=スターチャイルドブース情報|publisher=すたちゃまにあ|url=https://web.archive.org/web/20120319043503/http://www.starchild.co.jp/event/ace2012.html|date=2012年|accessdate=2012-04-06}}</ref>。本番組からは「早口言葉の挑戦状」「こんなんありますぅ」「電波私物化クラブ」のコーナーが行われた。
== 『林原めぐみのHeartful Station』との関係 ==
『[[林原めぐみのHeartful Station]]』は、本番組と同様に[[キングレコード]]が制作しており、同一会社による制作で同一のパーソナリティが担当するラジオ番組が[[2015年]]までの23年間、2つ放送される形となっていた。これは、[[1991年]]にHeartful Stationが、神奈川県域局である[[アール・エフ・ラジオ日本]]でスタートしたものの、数カ月後に[[アール・エフ・ラジオ日本#「社会の木鐸」宣言|当時の同局の方針]]で[[打ち切り]]となった。その後、[[兵庫県|兵庫]]県域局の[[ラジオ関西]]に移して放送を再開し、翌[[1992年]]に関東広域圏における番組としてTBSラジオで本番組を開始した経緯があったためである。
両番組には、同時期に林原関連の情報の告知がされることや、同じゲストの登場、通算放送回数が100回を越えるごとに公開録音イベントを行うという共通点があった。しかし、林原のトークとラジオドラマで構成する番組として始まり、ラジオドラマの無くなった2000年以降はリスナーのお便りを読んで林原がトークを展開する時間が番組を占める本番組に対して、Heartful Stationではテーマが定められた多数のコーナーがあるほか、アシスタント([[保志総一朗]])やコーナーパーソナリティ([[セガ]]社員の[[竹崎忠]])が出演するため、番組の雰囲気はある程度差別化されていた。
全国的に見ると両番組が互いに放送エリアを補完するような関係になっていた。また、中京・京阪神・福岡県のように放送エリア内の複数局で両番組を放送している一方で、北海道・岩手県のように同一局が両番組を放送している場合もあった。なお、関東では1997年4月11日から1998年9月にかけて、前述の『金曜UP'S』(TBSラジオ、北海道放送、RKB毎日放送、琉球放送)でHeartful Stationを放送していたことがあった。『UP'S』枠の終了後もTBSラジオ以外の3局は放送時間帯を変更してHeartful Stationの番組ネットを続けていた。
その『Heartful Station』も[[2015年]][[3月28日]](幹事局であるラジオ関西の場合)をもって放送終了。ラジオ関西では『Heartful Station』終了に伴う補完の目的で、翌週から本番組のネットを開始した。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references group="注"/></div>
=== 出典 ===
<div class="references-small"><references/></div>
== 関連項目 ==
* [[林原めぐみのHeartful Station]]
* [[熱血電波倶楽部]]
* [[アニラジ]]
* [[angelaのsparking!talking!show!]] - 本番組と同様、キングレコードのアーティスト紹介サイトとアニたまどっとコムでインターネット配信が行われている。
== 外部リンク ==
* [http://king-cr.jp/artist/hayashi/index.html MEGUMI HOUSE] - オフィシャルサイト
* {{Wayback |url=http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/radio/index.html |title=MEGUMI HOUSE - オフィシャルサイト |date=20100330153259 }}
* [https://www.tbsradio.jp/ TBSラジオ]
* [https://ch.nicovideo.jp/anitama-ch ニコニコ動画 アニたまどっとコムチャンネル]
* [https://web.archive.org/web/20041207182026/http://station.catorea.ne.jp/listeners/dataroom.htm リスナーズ ステーション]
{{前後番組
|放送局=[[TBSラジオ]]
|放送枠=土曜26時台前半枠
|番組名=林原めぐみのTokyo Boogie Night<br />(1992.4 - 1994.9)
|前番組=ロックンロール・ガンボ<br />(26:00 - 27:00)
|次番組=[[土曜裏ワイド 宮川賢のラジオはナメるな!]]<br />(26:00 - 28:00)
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|2前番組=[[コサキンDEワァオ!|コサキン快傑アドレナリン]]<br />(24:00 - 26:00)<br />※番組名変更、土曜18:00に移動
|2次番組=[[ラジオはアメリカン]]<br />※日曜24:30から移動
|3放送局=TBSラジオ
|3放送枠=土曜25時台前半枠
|3番組名=林原めぐみのTokyo Boogie Night<br />(1996.4 - 1997.3)
|3前番組=松本梨香のゲーマーズナイト
|3次番組=[[アニメExpress〜ギャラクシー・ネットワーク〜]]<br />※土曜24:30から移動
|4放送局=TBSラジオ
|4放送枠=日曜23時台前半枠
|4番組名=林原めぐみのTokyo Boogie Night<br />(1997.4 - 1998.3)
|4前番組=武田真治 HIT FACTORY
|4次番組=[[巨泉のジャズABC]]<br />※日曜21:00から移動
|5放送局=TBSラジオ
|5放送枠=日曜24時台前半枠
|5番組名=林原めぐみのTokyo Boogie Night<br />(1998.4 - )
|5前番組=[[五木寛之の夜]]<br />※日曜23:30に移動
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|6放送局=[[ラジオ関西]]
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18,570 |
箱館裁判所
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箱館裁判所(はこだてさいばんしょ)は、慶応4年(9月8日から改元して明治元年)(1868年) の短時日に、蝦夷地を統治するために箱館(現在の函館市)に設けられた裁判所である。箱館奉行所を引き継ぎ、箱館府に引き継がれた。
京都の新政府は、慶応4年(1868年)4月12日に、皇族の仁和寺宮嘉彰親王を箱館裁判所総督に任命した。嘉彰親王が固辞したため、閏4月5日に、副総督の清水谷公考を改めて総督に任命した。この頃まだ戊辰戦争が継続中であり、蝦夷地の情勢も不透明であったが、清水谷らは敦賀から日本海の海路をとって箱館に向けて出発した。
箱館裁判所は、江戸幕府の箱館奉行所の機能を引き継ぐものであった。この時点での蝦夷地は、日露雑居の北蝦夷地(樺太)が幕府直轄領(公儀御料)で、後の北海道にあたる東蝦夷地と西蝦夷地には、幕府直轄領(公儀御料)と諸藩領(松前藩、盛岡藩、仙台藩、会津藩、弘前藩、庄内藩)がおよそ半々に入り組んでいた。箱館裁判所は、諸藩領を廃止するものではなかったが、実質的に諸藩の上位に立つ権威を行使した。
新政府は開拓のための最初の仕事として箱館裁判所に山川調査を命じた。また、蝦夷地の税収は開拓のために用いるので、他の用途に使ってはならないという指示を出した。
閏4月21日に新政府は政体書を発して、各地の裁判所を府または県に改編することにした。これに基づき、箱館裁判所も24日に箱館府に改称され、清水谷が府知事に任命された。この日清水谷の一行はちょうど蝦夷地(江差)に到着したばかりであった。清水谷は26日に箱館に入り、箱館奉行の杉浦勝誠から平穏に政務を引き継ぎ、5月1日に、箱館裁判所を五稜郭に開設した。中央での廃止後に現地で新設されたことになる。この後、7月17日、現地の裁判所が箱館府に改称した旨を管内に告示した。しかしその後も箱館府と箱館裁判所の名前がしばらく混用された。
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箱館裁判所(はこだてさいばんしょ)は、慶応4年(9月8日から改元して明治元年)(1868年) の短時日に、蝦夷地を統治するために箱館(現在の函館市)に設けられた裁判所である。箱館奉行所を引き継ぎ、箱館府に引き継がれた。
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'''箱館裁判所'''(はこだてさいばんしょ)は、[[慶応]]4年(9月8日から改元して[[明治]]元年)([[1868年]]) の短時日に、[[蝦夷地]]を統治するために箱館(現在の[[函館市]])に設けられた[[裁判所 (地方制度)|裁判所]]である。[[遠国奉行#箱館奉行・松前奉行・蝦夷奉行|箱館奉行]]所を引き継ぎ、[[箱館府]]に引き継がれた。
== 歴史 ==
[[京都]]の新政府は、慶応4年(1868年)[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]に、皇族の[[仁和寺宮嘉彰親王]]を箱館裁判所総督に任命した。嘉彰親王が固辞したため、閏4月5日に、副総督の[[清水谷公考]]を改めて総督に任命した。この頃まだ[[戊辰戦争]]が継続中であり、蝦夷地の情勢も不透明であったが、清水谷らは[[敦賀港|敦賀]]から[[日本海]]の海路をとって[[函館港|箱館]]に向けて出発した<ref>『新撰北海道史』第3巻30頁。</ref>。
箱館裁判所は、[[江戸幕府]]の箱館奉行所の機能を引き継ぐものであった。この時点での蝦夷地は、日露雑居の[[北蝦夷地]](樺太)が幕府直轄領([[天領|公儀御料]])で、後の[[北海道]]にあたる東蝦夷地と西蝦夷地には、幕府直轄領(公儀御料)と諸藩領([[松前藩]]、[[盛岡藩]]、[[仙台藩]]、[[会津藩]]、[[弘前藩]]、[[庄内藩]])がおよそ半々に入り組んでいた。箱館裁判所は、諸藩領を廃止するものではなかったが、実質的に諸藩の上位に立つ権威を行使した。
新政府は開拓のための最初の仕事として箱館裁判所に山川調査を命じた。また、蝦夷地の税収は開拓のために用いるので、他の用途に使ってはならないという指示を出した。
閏4月21日に新政府は[[政体書]]を発して、各地の裁判所を府または県に改編することにした。これに基づき、箱館裁判所も24日に箱館府に改称され、清水谷が府知事に任命された。この日清水谷の一行はちょうど蝦夷地(江差)に到着したばかりであった。清水谷は26日に箱館に入り、箱館奉行の[[杉浦梅潭|杉浦勝誠]]から平穏に政務を引き継ぎ、5月1日に、箱館裁判所を五稜郭に開設した。中央での廃止後に現地で新設されたことになる。この後、7月17日、現地の裁判所が箱館府に改称した旨を管内に告示した。しかしその後も箱館府と箱館裁判所の名前がしばらく混用された。
==箱館裁判所の人事==
*総督 仁和寺宮嘉彰親王 慶応4年([[1868年]])4月12日 - 閏4月5日
**副総督 清水谷公考
**副総督 [[土井利恒]]
*総督 清水谷公考 慶応4年(1868年)閏4月5日 - 24日
**副総督 土井利恒(赴任の途中、敦賀で辞職)
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
*北海道庁・編『新撰北海道史』第3巻(通説2巻)、1937年。
== 外部リンク ==
{{wikisource|箱館裁判所ヲ置ク|箱館裁判所ヲ置ク}}
{{wikisource|箱館裁判所ヲ改テ箱館府ト爲ス|箱館裁判所ヲ改テ箱館府ト為ス}}
{{wikisource|箱館府ヲ廢ス|箱館府ヲ廃ス}}
* [http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki.cgi?magoid=0A009590000000000&page=1 箱館裁判所時代史料]
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[[Category:幕末]]
[[Category:明治時代]]
[[Category:北海道の政治史]]
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18,571 |
国道1号線 (アメリカ合衆国)
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国道1号線(こくどう1ごうせん、U.S. Route 1)とは、アメリカ合衆国の国道の1つである。東海岸部の大都市を南北に結ぶ主要な路線であり、全長2,390マイル(キロメートルにすると3,846 km)は南北に伸びたアメリカの国道の中でもっとも長大である。
アメリカ合衆国本土最南端に位置するキー・ウェストを起点にし、マイアミ、ジャクソンビル(以下フロリダ州)、ローリー(ノースカロライナ州の州都)、リッチモンド(バージニア州の州都)、ワシントンD.C.(アメリカ合衆国の首都)、ボルティモア(メリーランド州)、フィラデルフィア(ペンシルベニア州)、ニューヨーク(ニューヨーク州)、ニューヘイブン(コネチカット州)、プロビデンス(ロードアイランド州の州都)、ボストン(マサチューセッツ州の州都)、ポートランドを経てカナダとの国境沿いのフォート・ケートで終点をむかえる。
マイアミからメイン州ハウルトンまでは州間高速道路95号線(I-95)が本国道に併走している。
国道1号線は、以下の州および特別区を通過する。
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国道1号線とは、アメリカ合衆国の国道の1つである。東海岸部の大都市を南北に結ぶ主要な路線であり、全長2,390マイルは南北に伸びたアメリカの国道の中でもっとも長大である。
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'''国道1号線'''(こくどう1ごうせん、U.S. Route 1)とは、[[アメリカ合衆国]]の国道の1つである。東海岸部の大都市を南北に結ぶ主要な路線であり、全長2,390マイル(キロメートルにすると3,846 km)は南北に伸びたアメリカの国道の中でもっとも長大である。
== 概要 ==
[[アメリカ合衆国本土]]最南端に位置する[[キーウェスト|キー・ウェスト]]を起点にし、[[マイアミ]]、[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]](以下フロリダ州)、[[ローリー (ノースカロライナ州)|ローリー]]([[ノースカロライナ州]]の州都)、[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]([[バージニア州]]の州都)、[[ワシントンD.C.]]([[アメリカ合衆国]]の首都)、[[ボルティモア]]([[メリーランド州]])、[[フィラデルフィア]]([[ペンシルベニア州]])、[[ニューヨーク]]([[ニューヨーク州]])、[[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]([[コネチカット州]])、[[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス]]([[ロードアイランド州]]の州都)、[[ボストン]]([[マサチューセッツ州]]の州都)、[[ポートランド (メイン州)|ポートランド]]を経てカナダとの国境沿いのフォート・ケートで終点をむかえる。
[[マイアミ]]からメイン州[[ハウルトン (メイン州)|ハウルトン]]までは[[州間高速道路95号線]](I-95)が本国道に併走している。
== 歴史 ==
* 1926年 マイアミとフォート・ケートの間の路線として開業。
* 1938年 [[オーバーシーズ・ハイウェイ]]の開通にともない南の終点をマイアミからキー・ウェストへ変更する。
== 通過する州 ==
国道1号線は、以下の州および特別区を通過する。
* [[フロリダ州]]
* [[ジョージア州]]
* [[サウスカロライナ州]]
* [[ノースカロライナ州]]
* [[バージニア州]]
* [[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]]
* [[メリーランド州]]
* [[ペンシルベニア州]]
* [[ニュージャージー州]]
* [[ニューヨーク州]]
* [[コネチカット州]]
* [[ロードアイランド州]]
* [[マサチューセッツ州]]
* [[ニューハンプシャー州]]
* [[メイン州]]
== 外部リンク ==
* [http://usends.com/00-09/001/001.html 国道1号の起終点(英文)]
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18,572 |
魔女っ子大作戦
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『魔女っ子大作戦』(まじょっこだいさくせん、英題:Little witching mischiefs)は、1999年2月4日にバンダイより発売されたPlayStation用シミュレーションRPGである。
東映動画の魔女っ子アニメ7作品のキャラクターが、「リーリオ」と名乗る妖精の助けを求める声を聞き、その調査に乗り出すという内容。声優は可能な限りアニメと同じメンバーを起用した。
また「魔女っ子大作戦」のタイトルで、本ゲームに登場する魔女っ子キャラクターを使ったさまざまなキャラクター商品が発売された。#主なキャラクター商品を参照のこと。
本作は、もともとは1998年に米国のトイズ・フォー・ボブ社が開発し、北米と欧州でクリスタル・ダイナミックス社とアイドス・インタラクティブから発売された「ザ・アンホーリー・ウォー(The Unholy War)」というタイトルのゲームである。しかし、バンダイがこのゲームを日本で発売するに当たって、キャラクターや物語、世界観などを東映動画の魔女っ子アニメのものに差し替えて販売することとなる。これは当時トイズ・フォー・ボブ社の設立者及びCEOだったPaul Reicheがバンダイの「SDガンダム」シリーズが好きで、バンダイのおもちゃ玩具のライセンス権をなんとか得ようと、バンダイとの接触を試み、クリスタル・ダイナミックスの上層部に頼んだ。結局その後、代わりに本作を日本のアニメコンテンツを使った「魔女っ子大作戦」として日本向けに販売することとなるのだが、バンダイから直接、Reicheに日本語でデザインや文書のファックスが送られるも、日本語から翻訳する必要があったり、やり取りのプロセスが非常に面倒だった為、バンダイからのファックスを受け取るのを止めたと言う。 ファックスを通してバンダイとの接触が取り止めとなった為、Reicheはバンダイがこのゲームをどうやって日本で販売したのか分からなかったという。
「ザ・アンホーリー・ウォー」はテクノロジーと魔法が混在する架空の世界の惑星Xsarraを舞台に惑星Xsarraの原住民のArcanesと、惑星Xsarraを征服しようとする、高度なサイバネティックスを持ったTeknos軍との2つの勢力の間の戦争を描いた内容のSFシミュレーションRPGだった。そのため「魔女っ子大作戦」とは内容が異なっている。敵との戦闘は3Dフィールドで1対1のリアルタイム3Dのアクションシューティングのゲームシステムとなっているが、そこの戦闘システムの部分は「魔女っ子大作戦」でも同じ。その他に「魔女っ子大作戦」の敵キャラクターの怪物に「ザ・アンホーリー・ウォー」の敵キャラクターなどを登場させたりしている。
本作の発売に先駆けて、1999年1月21日に東映動画制作魔女っ子アニメ作品のOPとEDのフルバージョンを収録した『魔女っ子大作戦 Special Song Collection』が発売されている。
ゲーム未登場の『魔法のマコちゃん』、『さるとびエッちゃん』、『ミラクル少女リミットちゃん』の主題歌も併せて収録しており、ほぼすべての曲がアニメ放送で使用されたオリジナル音源の物で収録されている。発売元の関係上『魔法使いサリーのうた』『魔法のマンボ』のみ、放送で使用されたキングレコード版ではなく日本コロムビア版で収録されている。
CDには特別トラックとして、ゲームオープニングのBGMを曲に仕立てた堀江美都子が歌唱する『魔女っ子大作戦 ~プレステ ヴァージョンアップソング~』と、歴代魔女っ子担当声優が一同に揃い歌唱する『魔女っ子メドレー』の2曲が収録されている。
上記の通り歴代魔女っ子担当声優が参加している『魔女っ子メドレー』では原則、オリジナル版キャストを起用しているが、第1作で夢野サリー役を務めていた平井道子が既に鬼籍となっているため、第2作でサリー役を演じていた山本百合子が代役を務めている。また神崎メグ役である吉田理保子は、当時の約1年前に声優業の第一線から既に引退していたため、ルンルン・フラワー役である岡本茉利が後任を務めた。
サリー役とメグ役に関する件は、ゲーム版も同様である。
2019年、発売25周年記念の一環として、CG化された「リーリオ」や「アスセナ」といったキャラクターが登場している。担当声優については、リーリオ役の永野愛は既に声優としての活動後に専門学科の講師をしているため、本作では沢城みゆきが演じている。アスセナ役の大川千帆は現時点で声優としての活動は引退したため、本作では井上喜久子が演じている。
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『魔女っ子大作戦』は、1999年2月4日にバンダイより発売されたPlayStation用シミュレーションRPGである。
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『'''魔女っ子大作戦'''』(まじょっこだいさくせん、英題:''Little witching mischiefs'')は、[[1999年]][[2月4日]]に[[バンダイ]]より発売された[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用[[シミュレーションRPG]]である。
== 概要 ==
[[東映アニメーション|東映動画]]の[[東映魔女っ子シリーズ|魔女っ子アニメ]]7作品のキャラクターが、「リーリオ」と名乗る妖精の助けを求める声を聞き、その調査に乗り出すという内容。[[声優]]は可能な限りアニメと同じメンバーを起用した。
また「魔女っ子大作戦」のタイトルで、本ゲームに登場する魔女っ子キャラクターを使ったさまざまなキャラクター商品が発売された。[[#主なキャラクター商品]]を参照のこと。
== 「ザ・アンホーリー・ウォー」 ==
本作は、もともとは[[1998年]]に[[アメリカ合衆国|米国]]の[[:en:Toys For Bob|トイズ・フォー・ボブ]]社が開発し、[[北アメリカ|北米]]と[[ヨーロッパ|欧州]]で[[クリスタル・ダイナミックス]]社と[[アイドス・インタラクティブ]]から発売された「[[ザ・アンホーリー・ウォー]]([[:en:The Unholy War|The Unholy War]])」というタイトルのゲームである。しかし、バンダイがこのゲームを日本で発売するに当たって、キャラクターや物語、世界観などを東映動画の魔女っ子アニメのものに差し替えて販売することとなる<ref>[http://www.aeropause.com/2009/01/the-three-of-you-who-remember-these-games-will-find-this-intensely-interesting/ The three of you who remember these games will find this intensely interesting]</ref><ref>[http://forums.selectbutton.net/viewtopic.php?t=18451 selectbutton :: View topic - Useless Gaming Trivia: Star Control vs Little Witches]</ref>。これは当時トイズ・フォー・ボブ社の設立者及びCEOだった[[:en:Paul Reiche III|Paul Reiche]]がバンダイの「[[SDガンダム]]」シリーズが好きで、バンダイのおもちゃ玩具の[[ライセンス]]権をなんとか得ようと、バンダイとの接触を試み、クリスタル・ダイナミックスの上層部に頼んだ。結局その後、代わりに本作を日本のアニメコンテンツを使った「魔女っ子大作戦」として日本向けに販売することとなるのだが、バンダイから直接、Reicheに日本語でデザインや文書のファックスが送られるも、日本語から翻訳する必要があったり、やり取りのプロセスが非常に面倒だった為、バンダイからのファックスを受け取るのを止めたと言う。 ファックスを通してバンダイとの接触が取り止めとなった為、Reicheはバンダイがこのゲームをどうやって日本で販売したのか分からなかったという<ref>
[http://www.destructoid.com/merging-toys-and-videogames-together-with-skylanders-236668.phtml Merging toys and videogames with Skylanders - Destructoid]</ref>。
「ザ・アンホーリー・ウォー」はテクノロジーと魔法が混在する架空の世界の惑星Xsarraを舞台に惑星Xsarraの原住民のArcanesと、惑星Xsarraを征服しようとする、高度な[[サイバネティックス]]を持ったTeknos軍との2つの勢力の間の戦争を描いた内容の[[サイエンス・フィクション|SF]]シミュレーションRPGだった。そのため「魔女っ子大作戦」とは内容が異なっている。敵との戦闘は3Dフィールドで1対1のリアルタイム3Dのアクションシューティングのゲームシステムとなっているが、そこの戦闘システムの部分は「魔女っ子大作戦」でも同じ。その他に「魔女っ子大作戦」の敵キャラクターの怪物に「ザ・アンホーリー・ウォー」の敵キャラクターなどを登場させたりしている。
== 登場キャラクター ==
* [[魔法使いサリー]]
** 夢野サリー(声優:[[山本百合子]])
** 花村よし子
** 春日野すみれ
** ポロン(声優:[[白石冬美]])
** カブ(声優:[[千々松幸子]])
** 花村トン吉
** 花村チン平
** 花村カン太
** サリーちゃんのパパ
** サリーちゃんのママ
* [[ひみつのアッコちゃん]]
** 加賀美あつ子(アッコちゃん)(声優:[[太田淑子]])
** ガンモ
** モコ(声優:[[白川澄子]])
** チカ子
** 大将
* [[花の子ルンルン]]
** ルンルン・フラワー(ルンルン)(声優: [[岡本茉利]]※本作EDムービーでは「岡田茉莉」と表記されている。)
** セルジュ
** トゲニシア(声優:[[喜多道枝]])
** ヤボーキ
* [[魔法少女ララベル]](当初ララベルとビスカスが人間となっていることから、TVアニメ最終回後の時系列と思われる。)
** 立花ララベル(声優:[[堀江美都子]])
** テコ(竹村テル子)
** トコ(松宮トシ子)
** ビスカス
* [[魔女っ子メグちゃん]]
** 神崎メグ(声優: 岡本茉利※代役)
** チョーサン
** マミ
** 郷ノン(声優:山本百合子※代役)
* [[キューティーハニー]]
** 如月ハニー/キューティーハニー(声優:[[増山江威子]])
* [[魔法使いチャッピー]]
** チャッピー・ハンスト・ヘルルグリム・アンド・イソップ・エトセトラ(チャッピー)(声優:増山江威子)
** ジュン
== 主題歌CD ==
本作の発売に先駆けて、1999年1月21日に[[東映魔女っ子シリーズ|東映動画制作魔女っ子アニメ作品]]のOPとEDのフルバージョンを収録した『魔女っ子大作戦 Special Song Collection』が発売されている。
ゲーム未登場の『[[魔法のマコちゃん]]』、『[[さるとびエッちゃん]]』、『[[ミラクル少女リミットちゃん]]』の主題歌も併せて収録しており、ほぼすべての曲がアニメ放送で使用されたオリジナル音源の物で収録されている。発売元の関係上『魔法使いサリーのうた』『魔法のマンボ』のみ、放送で使用された[[キングレコード]]版ではなく[[日本コロムビア]]版で収録されている。
CDには特別トラックとして、ゲームオープニングのBGMを曲に仕立てた堀江美都子が歌唱する『魔女っ子大作戦 ~プレステ ヴァージョンアップソング~』と、歴代魔女っ子担当声優が一同に揃い歌唱する『魔女っ子メドレー』の2曲が収録されている。
上記の通り歴代魔女っ子担当声優が参加している『魔女っ子メドレー』では原則、オリジナル版キャストを起用しているが、第1作で夢野サリー役を務めていた[[平井道子]]が既に[[鬼籍]]となっているため、第2作でサリー役を演じていた山本百合子が代役を務めている。また神崎メグ役である[[吉田理保子]]は、当時の約1年前に声優業の第一線から既に引退していたため、ルンルン・フラワー役である岡本茉利が後任を務めた。
サリー役とメグ役に関する件は、ゲーム版も同様である。
=== 曲詳細 ===
; 「魔女っ子大作戦 ~プレステ ヴァージョンアップソング~」
: 作詞 - [[近藤由華]] / 作曲 - [[有澤孝紀]] / 編曲 - 有澤孝紀、向井寛、鈴木浩之 / 歌 - [[堀江美都子]]
; 「魔女っ子メドレー」
: 編曲 - 有澤孝紀、[[猪股義周]] / 歌 - 太田淑子、[[杉山佳寿子]]、[[野村道子]]、増山江威子、[[栗葉子]]、岡本茉利、堀江美都子、山本百合子
== その他 ==
=== 主なキャラクター商品 ===
* [[フィギュア]](バンプレスト、バンダイ)
* [[塗り絵]](セイカノート)
: 「魔法使いサリー」「ひみつのアッコちゃん」「キューティーハニー」「魔女っ子メグちゃん」「花の子ルンルン」の5作品のキャラクターの塗り絵。人気があったらしく、少なくとも[[2001年]]頃まで何度も版を重ねた。
* [[トレーディングカード]](バンダイ)
* [[主題歌]][[コンパクトディスク|CD]](日本コロムビア)
* [[カードダス]]
* [[携帯ストラップ]]
=== CG版 ===
2019年、発売25周年記念の一環として、CG化された「リーリオ」や「アスセナ」、「ザーレム」といったキャラクターが登場している。担当声優については、リーリオ役の[[永野愛]]は既に声優としての活動後に専門学科の講師をしているため、本作では[[沢城みゆき]]が演じている。アスセナ役の[[大川千帆]]は現時点で声優としての活動は引退したため、本作では[[井上喜久子]]が演じている。さらにザーレム役は喜多道枝に代わり、ルンルン・フラワー役の[[岡本茉利]]が演じている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[PlayStationのゲームタイトル一覧 (1999年前半)]]
{{video-game-stub}}
{{キューティーハニー}}
{{DEFAULTSORT:ましよつこたいさくせん}}
[[Category:PlayStation用ソフト]]
[[category:シミュレーションRPG]]
[[category:1999年のコンピュータゲーム]]
[[Category:バンダイのクロスオーバー作品]]
[[category:アニメのキャラクターゲーム]]
[[category:魔法少女アニメ]]
[[Category:魔法少女を題材としたゲーム]]
[[Category:キューティーハニーシリーズ]]
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漢数字
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漢数字(かんすうじ)は、数を表記するのに使われる漢字である(ただし「〇」は漢数字としてのみ使用される俗字である)。十進法の数詞および位取り記数法で用いる。前者は漢字文化圏内で相違がある。
中日新聞・東京新聞など、記事中(スポーツ面など一部を除く)でアラビア数字でなく漢数字を用い続けているメディアもある。
漢数字には 0 から 9 を表す数字、10 の冪を表す位の字、それらを合わせた複合字がある。複合字は現在では一般的に使われていない。
漢数字には「一」「二」「三」と続く小字と、「壱」「弐」「参」と続く大字がある。通常は小字を用いるが改竄を防ぐため重要な数字の表記では大字を用いることがある。
以下に漢数字を示す。これらの字は零を除き、甲骨文字の時から使われており、意味に変化がない。ただし四と万は字形が変わっている。
混同や改竄を防ぐための特別な漢数字については大字を参照されたし。
他の漢数字と異なり「〇」は新しい字であり、唐より前には現れない。唐の武則天(在位:690年 - 705年)が制定した則天文字に初めて「〇」が現れるが、これは「星」の代替字であり 0 の意味はなかった。星の球形を表した典型的な象形字で、楷書とは言いがたい文字であった(則天文字には、このように楷書的でない形の字がいくつかある)。
後漢に完成した『九章算術』には「(引き算の時)同符号は引き、異符号は加える。正を無入から引いて負とし、負を無入から引いて正とする」とある。この「無入」とは 0 のことであるが、専用の字はなく、表記には空白を用いていた。
718年、太史監(天文台長)の瞿曇悉達が『九執暦』を漢訳し、0 を点で記すインドの数字を導入した。しかし算木を用いていた中国の天文学者や数学者は受け入れなかった。『旧唐書』(945年)は 3040 および 0 を「三千四十」、「空」と記し、また『新唐書』(1060年)は 3201 および 0 を「三千二百一」、「空」と記している。この「空」は仏教の空と同じく、サンスクリット語の शून्य(シューニャ)の訳語である。現在も、朝鮮語とベトナム語は「空」を 0 の意味に用いる(공/gong と không)。また江戸時代の和算家も 0 を「空(くう)」と呼んでいた。
南宋の時代、蔡元定(1135年 - 1198年)は『律呂新書』の中で、118098 および 104976 を「十一萬八千□□九十八」、「十□萬四千九百七十六」と書いている。この「□」は、以前から欠字を示すのに使われてきた記号、虚欠号である(中国語版: 虚缺号)。秦九韶の『数学九章』(1247年)では、算木数字で空位および 0 に「〇」を用いている。この「〇」は「□」が変化したものであり、アラビア数字の「0」ならびに則天文字の「〇」を借用したのではない。もっとも、インドの数字のゼロに触発された可能性もある。
現在、位取り記数法では主に「〇」を使うが、後述の通り、熟語には必ず「零」を用い、「〇」は使われない。現代において「〇」と表記する場面は、郵便物の宛名書きや名刺等において郵便番号・番地・電話番号といった数字情報を漢数字表記する場合や、縦書き文章で西暦年を漢数字表記する場合に、限定的に用いられる程度である(これらの場合に限り、「零」と表記することは一般的でない。)。そもそも「〇」の部首は不明である。このことから、「〇」は独立した文字ではなく記号とみなされており、一般に漢和辞典では漢字ではなく記号の扱いとなっているため、「〇」の文字コードも、漢字領域ではなく記号領域で定義されている。
なお、「〇(ゼロ,U+3007)」と「○(丸印,U+25CB)」は異なる文字コードが付与されており別字であるため、混用しないよう注意が必要である。
「零」は『説文解字』にも出ている古い字で、音符の「令」と意符の「雨(あめかんむり)」を合わせた形声字である。元々は小雨(零雨)を意味し、後にわずかな量(零細、零余)の意味にもなったが、0 の意味はなかった。『孫子算経』(4世紀頃)では「零」が余りの意味で使われている。李冶は、『測圓海鏡』(1248年)の中で 1024 を「一千〇二十四」、2220302 を「二百二十二万零三百零二」と書き、「〇」と「零」を同一視している。それぞれ「一千とんで二十四」、「二百二十二万あまり三百あまり二」の意味である。
現在、熟語には必ず「零」を用いて、「零下」、「零封」などと書き、「〇」は使われない。
「一」、「二」、「三」、および「四」の古字の「亖」は、それぞれ 1 本、2 本、3 本、4 本の指または棒を示した指事字である。これらを「十」、「廿」、「卅」、「卌」の甲骨文字と比べると、横か縦かの違いだけである。これから、算木の横式と縦式を記したものだとも言われる。もしそうなら、算木の歴史は殷にまでさかのぼることになる。
古い異体字に「弌」、「弍」、「弎」がある。なお、「弍」を音符、「貝」を意符とする形声字が「貳」であり、それが変化して「貮」になり、さらに簡略化して「弐」になった。
元々甲骨文字では「亖(U+4E96)」が使われた。しかし「三」と紛らわしい字であるため、後になって、仮借で「四」を使うようになった。
この「四」の本義は口から息が出る様子を表す象形字であり、金文で初めて使われた。なおこの「四」は後に意符の「口」を加えて「呬(U+546C)」という形声字で書かれることになった。
「五」は交差する木で作られた蓋を表す象形字である。5 として使うのは仮借である。祝祷を収めた器に蓋をして守ることを表す象形字が「吾」であり、「敔」、「圄」にその音と意味が残っている。
「六」は小さい幕舎(テント)を表す象形字だと考えられるが、その意味で使われたことはない。6 として使うのは仮借である。大字では「六」と同音の「陸」を用いるが、「六」を重ねた字が「坴」であり、これに阝(こざとへん)を加えて形声字の「陸」が造られた。
「七」は小刀で骨を切る様子を表す象形字である。7 として使うのは仮借である。「七」に意符の「刀」を加えた「切」が、元の意味に充てられている。
「八」は二つに分けることを表す指事字である。8 が 8 → 4 → 2 → 1 と二分できることを示すとされる。二分するという意味の「八」を含む字が、「分」や「半」である。
「九」は体を曲げた竜を示す象形字とも(原義を示す字は「虯」か)、伸ばした手の状態を示す象形字とも、小さな木の芽を示す象形字とも言われる。9 として使うのは仮借である。
これらは、甲骨文字では「一」、「二」、「三」、「亖(=四の古字)」を縦にしたものである。ただし縦線の下端で互いにつながっている。甲骨文字では五十~九十を表す場合、五~九の下に縦線を加えて表された。金文では、線の中央に点が加えられるようになった。この点が横に伸び、現在の字形になった。
「廿(20)」の異体字に「卄(U+5344)」がある。また、「卅(30)」の異体字に「丗(U+4E17)」があるが、「世」の異体字とも言われる。殷代では平均寿命が30歳ほどであったため、30年で1世代と考えられたためである。
現在では「廿」、「卅」、「卌(40,U+534C)」は一般的でなく、一般的にはそれぞれ「二十」、「三十」、「四十」と漢字2文字で書かれる。
「百」は「一」と「白」を合わせた形声字である。「白」は単に音を示す。甲骨文字では二百を「二」と「白」、三百を「三」と「白」というように組み合わせる。
「千」は「一」と「人」を合わせた形声字である。「人」は単に音を示すとも、人数の多さを表すとも言われる。甲骨文字では、二千を「二」と「人」、三千を「三」と「人」というように組み合わせる。
日本の新字体および中国の簡体字では、10000 は「万」となっている。古くは「萬」と書いたが、10000の意味に「万」字を使うことも古くから行われている。
「万」は、「萬」の略字として生じたとする説もあれば、もともと別の字だったとする説もある。「万」が別字であるとしてもその字源には諸説あり、浮き草の象形とも、卍の変形ともいうが定説はなく、これも仮借して 10000 の意味に使われている。ウィクショナリーも参照。
因みに仏教の吉祥の印である卍は、当初は徳と訳されたが、北魏の菩提流支は『十地経論』の中で、萬徳の意味を表す字として卍を萬(万)と訳した。693年、武則天は卍を萬と読むことを定め、以降、卍は萬(万)と通用するようになった。
日本でも中国でも大字で 10000 を表現する場合は今も「萬」と書く。
「萬」はサソリを表す象形字であり、仮借して 10000 の意味に使うようになった。なお、「萬」の下に「虫」のついた「蠆(U+8806)」という字もあるが、この字は「タイ」と読む別字である。
漢数字は主に数詞を表すために使われる。漢数字による数詞を漢数詞と呼ぶ。この場合、漢数字の通りに発音するので、数字より文字と見なすべきである。漢字文化圏の言語の数詞は基本的に古代の中国語に基づくが、多少の違いがあるため、表記にも当然違いがある。
上位から読むこと、大数は 4 桁ごとに区切ることは、共通である。
日本語では、まず数を下位または小数点から 4 桁ごとに区切り、各 4 桁の組に「万」、「億」などの単位を付けて、上位から読む。4 桁の組の中では、「千」、「百」、「十」を単位として区切り、上位から読む。百位または十位が 1 のとき、「一」を言わず単に「百」、「十」と読む。千位は「一」を読んでも読まなくても良い。また、桁の数と単位が結びついて連濁や音便を起こす。
例:
読みは主に呉音だが、〇、四、七、九は異なる読み方をする。〇は元々漢音しか使わないが、残りは比較的最近の変化である。大槻文彦の『口語法別記』(1917年)には、以下の記述がある。
当時はまだ「よん」、「なな」、「きゅう」は一般的ではなく、呉音の「し」、「しち」、「く」が使われていたことが分かる。ただしこれは東京の場合で、大阪では江戸時代にすでに「よん」、「なな」、「きゅう」になっていたという。「ふた」は定着せず、株式市況や競馬、自衛隊などで使われるだけである。
ただし、四の後に助数詞が付くときに「よ」と読むのは古くから行われた。これは「死」との同音を避けたためである。ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』(1604年)第三巻、「数名詞に就いて」の「構成」には、以下の記述がある。
詳しくは四の字を参照すること。
小数や住所、電話番号などで数字を粒読みする時、二と五は「にー」、「ごー」と 2 拍で読む。また住所や電話番号などを粒読みする時は、〇を「まる」と読むことが多い。これは英語の oh と同じである。
現代中国語では 100 以上の数に対しすべての 1 を略せずに読む。例えば 11111 は「一万一千一百一十一」と読む。また、503 は「五百三」ではなく「五百〇三」と読む。この「〇」の挿入は南宋以来の習慣である。「五百三」と言うと、「五百三十」の省略すなわち 530 の意味になる。「〇」は「とんで」の意味なので、0 が続いても一回だけ読む。例えば 5003 は「五千〇三」であり、「五千〇〇三」ではない。
「二」の代わりに「両」(繁体字: 兩、簡体字: 两、普通話:liǎng, 上海語:lian, 広東語:leung, 閩南語:nn̄g)を用いるのも中国語の特徴である。「十」および「両」の前では「二」を使うが、それ以外では一般に「両」を用いる。単独使用の時や数字の最後位として数助詞なども付いていない時は「両」を使う方言はあるが、普通話では「二」しかほとんど使わない。「百」の前ではどちらでも良い。従って「2000」は「二千」ではなく「両千」(繁: 兩千、簡: 两千)である。
なお、春秋戦国時代までの中国語では、各桁の間に「と」を意味する「又」や「有」を挿入した。『論語』の「吾十有五而志于学」では 15 は「十有五」と書かれている。
数字を粒読みする時は、通常は一を幺に言い替える。軍隊や航空、鉄道では、さらに特殊な音がある。以下に通常と軍隊の粒読み音を示す。
朝鮮語では 1 をなるべく省略する。従って、10000 は単に「만(萬)」であるが、110000 は「십일만(十一萬)」と読む。(ただし、日本語と同様に、重要な計算が必要な時には読む場合もある。)
ベトナム語ではほとんどの場合、固有語の数詞が用いられる。漢数字は「兆 (triệu)」(日本語の百万にあたる)以上の大数や 1 の位の「四 (tư)」(10 の位が 2~9 の場合)ぐらいでしか使われない。また、1 の位の 1, 5, 10 に関しては以下のような声調や語彙の変化がある。
命数法においては漢数字の万進を採っておらず、西洋式の千進法を使っている。例えば、10000 はmười nghìn(𨒒𠦳、逐語訳:十千)、100000 はmột trăm nghìn(𠬠𤾓𠦳、逐語訳:一百千)と読む。
現在は万万を億、万億を兆と呼ぶ。古くは万までしか位が無かったので、十万、百万、千万までだった。後に億、兆などが作られたが、その意味する位は一定しなかった。
現在日本・台湾・韓国で一般的な方式では、兆の後に続けて更に、全て1万倍ごとに(万進)京、垓、秭(日本では塵劫記による𥝱が標準的となった)、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数となっているが、歴史的には万進以外にも、下数、万万進、上数などの方式があった。一方現代中国では、一般的に命数として使われるのは億(10)までであり、兆は下数によってメートル法の接頭辞のメガ(10)の意味で用いており、京以上は一般には使われなくなっている。
漢数字は数詞以外の意味を持つこともある。例えば「一」は数詞を表す 1 の他に「ひとつにする」(統一)、「同じ」(同一)、「全て」(一斉)等の意味を持つ。「百」も「数が多い」という意味で用いる。
漢数字は数詞を兼ねた漢字であり、学研の『現代標準漢和辞典』の執筆者は、本当は数漢字と呼ぶのがふさわしいと記している。
漢数字は小数の位があり、先進的であった。十進小数は算木で容易に表せる。しかし大数の位と比べると、成立したのは遅かった。
秦は中国統一後、度量衡の単位も以下のように統一した。
その後、度の分、量の合、衡の銖のそれぞれ下位に以下の単位が加わった。これらは小数に近い考えだが、度量衡それぞれで異なる小単位があった。
劉徽は、『九章算術』の注釈において、75 平方寸を開平し、8.660254 寸と求め、これを「八寸六分六釐二秒五忽、五分忽之二」と書いている。絲は秒になっている。
唐後期に、衡の兩の下位に以下の単位が加わった。
これにより、整数部に度量衡の単位を付け、小数部は分、釐、毫、絲、忽を使うようになり、汎用的な小数になった。15.92 寸は「一尺五寸九分二釐」、15.92 錢は「一兩五錢九分二釐」であり、0.92 を表す「九分二釐」は共通である。
後に日本ではいくつかの単位は使う字が変わった。釐は厘に、毫は毛に、絲は糸になった。
江戸時代、歩合の基本単位は 1/10 を表す割であった。現代人が 1/100 を表すパーセントを使うのに近い。この時、3.26 寸を「三寸二分六厘」というように、3.26 割を「三割二分六厘」といった。
慣用句の五分五分および九分九厘は、それぞれ 0.5 対 0.5 および 0.99 という意味である。
1902年に設置された国語調査委員会により学術的に基礎調査された報告書に以下がある。
中国では古くから小数が発達したため、分数の数詞は少なく、単独の字としては「半」しかない。古くは以下の語が使われた。
一般には、分母と分子の間に「分之」を入れる。3⁄4 は「四分之三」である。現代日本語では「分の」と書く。現代と異なり、「分」の直後に単位を置いて、3⁄4 寸を「四分寸之三」と呼んだ。
漢数字を十進表記の位取り記数法で用いることもできる。この場合、アラビア数字の 0 から 9 を単に〇から九に変えれば良い。読み方はそれぞれの言語による。小数点は中黒(・)を用いる。例えば 32.8 は数詞なら「三十二点八」だが、位取り記数法なら「三二・八」である。
漢数字の位取り記数法は新しい。漢字文化圏では、長らく算木が使われ、位取り記数法で漢数字を用いる必要がなかった。元までの漢文に「二八」とあったら、十六 の意味 (2×8) であって 二十八 ではない。
中国では、アラビア数字による筆算の翻案として漢数字の位取り記数法が現れた。梅文鼎の「筆算」(1693年)では、120303 を「一二〇三〇三」と書いて筆算している。
一方、日本の建部賢弘は『円理綴術』(1684年)の中で、算木を用いた代数学において 513 を「五一三」と書いている。この表記がアラビア数字と算木のどちらに由来するのかは不明である。
桁の底が十を超える場合、アラビア数字を用いた方法では、十を A 、十一を B 、十二を C ...というようにラテン文字のアルファベット大文字で表記する。一方、数字以外の分野では、 A を甲、B を乙、C を丙...というように、十干がアルファベット大文字の機能を果たしている。従って、桁の底が十を超える場合は十干を用い、A を「十」、B(= 十一)を「甲」、C (= 十二) を「乙」、D (= 十三) を「丙」...というように表記する。
例えば、「2A4」は「二十四」(十二進法で41210、十六進法で67610、二十進法で100410に相当)、「50D」は「五〇丙」(十六進法で129310、二十進法で201310に相当)、「9A.B」は「九十・甲」(十二進法で {118+(11/12)}10、十六進法で {154+(11/16)}10、二十進法で {190+(11/20)}10に相当)という表記になる。特に十進法と区別する場合、「 (二十四)乙 」というように、括弧書きで N 進法を明記することになる。
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"text": "中日新聞・東京新聞など、記事中(スポーツ面など一部を除く)でアラビア数字でなく漢数字を用い続けているメディアもある。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "漢数字には 0 から 9 を表す数字、10 の冪を表す位の字、それらを合わせた複合字がある。複合字は現在では一般的に使われていない。",
"title": "字"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "漢数字には「一」「二」「三」と続く小字と、「壱」「弐」「参」と続く大字がある。通常は小字を用いるが改竄を防ぐため重要な数字の表記では大字を用いることがある。",
"title": "字"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "以下に漢数字を示す。これらの字は零を除き、甲骨文字の時から使われており、意味に変化がない。ただし四と万は字形が変わっている。",
"title": "字"
},
{
"paragraph_id": 5,
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"text": "混同や改竄を防ぐための特別な漢数字については大字を参照されたし。",
"title": "字"
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{
"paragraph_id": 6,
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"text": "他の漢数字と異なり「〇」は新しい字であり、唐より前には現れない。唐の武則天(在位:690年 - 705年)が制定した則天文字に初めて「〇」が現れるが、これは「星」の代替字であり 0 の意味はなかった。星の球形を表した典型的な象形字で、楷書とは言いがたい文字であった(則天文字には、このように楷書的でない形の字がいくつかある)。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "後漢に完成した『九章算術』には「(引き算の時)同符号は引き、異符号は加える。正を無入から引いて負とし、負を無入から引いて正とする」とある。この「無入」とは 0 のことであるが、専用の字はなく、表記には空白を用いていた。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 8,
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"text": "718年、太史監(天文台長)の瞿曇悉達が『九執暦』を漢訳し、0 を点で記すインドの数字を導入した。しかし算木を用いていた中国の天文学者や数学者は受け入れなかった。『旧唐書』(945年)は 3040 および 0 を「三千四十」、「空」と記し、また『新唐書』(1060年)は 3201 および 0 を「三千二百一」、「空」と記している。この「空」は仏教の空と同じく、サンスクリット語の शून्य(シューニャ)の訳語である。現在も、朝鮮語とベトナム語は「空」を 0 の意味に用いる(공/gong と không)。また江戸時代の和算家も 0 を「空(くう)」と呼んでいた。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "南宋の時代、蔡元定(1135年 - 1198年)は『律呂新書』の中で、118098 および 104976 を「十一萬八千□□九十八」、「十□萬四千九百七十六」と書いている。この「□」は、以前から欠字を示すのに使われてきた記号、虚欠号である(中国語版: 虚缺号)。秦九韶の『数学九章』(1247年)では、算木数字で空位および 0 に「〇」を用いている。この「〇」は「□」が変化したものであり、アラビア数字の「0」ならびに則天文字の「〇」を借用したのではない。もっとも、インドの数字のゼロに触発された可能性もある。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "現在、位取り記数法では主に「〇」を使うが、後述の通り、熟語には必ず「零」を用い、「〇」は使われない。現代において「〇」と表記する場面は、郵便物の宛名書きや名刺等において郵便番号・番地・電話番号といった数字情報を漢数字表記する場合や、縦書き文章で西暦年を漢数字表記する場合に、限定的に用いられる程度である(これらの場合に限り、「零」と表記することは一般的でない。)。そもそも「〇」の部首は不明である。このことから、「〇」は独立した文字ではなく記号とみなされており、一般に漢和辞典では漢字ではなく記号の扱いとなっているため、「〇」の文字コードも、漢字領域ではなく記号領域で定義されている。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "なお、「〇(ゼロ,U+3007)」と「○(丸印,U+25CB)」は異なる文字コードが付与されており別字であるため、混用しないよう注意が必要である。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "「零」は『説文解字』にも出ている古い字で、音符の「令」と意符の「雨(あめかんむり)」を合わせた形声字である。元々は小雨(零雨)を意味し、後にわずかな量(零細、零余)の意味にもなったが、0 の意味はなかった。『孫子算経』(4世紀頃)では「零」が余りの意味で使われている。李冶は、『測圓海鏡』(1248年)の中で 1024 を「一千〇二十四」、2220302 を「二百二十二万零三百零二」と書き、「〇」と「零」を同一視している。それぞれ「一千とんで二十四」、「二百二十二万あまり三百あまり二」の意味である。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "現在、熟語には必ず「零」を用いて、「零下」、「零封」などと書き、「〇」は使われない。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "「一」、「二」、「三」、および「四」の古字の「亖」は、それぞれ 1 本、2 本、3 本、4 本の指または棒を示した指事字である。これらを「十」、「廿」、「卅」、「卌」の甲骨文字と比べると、横か縦かの違いだけである。これから、算木の横式と縦式を記したものだとも言われる。もしそうなら、算木の歴史は殷にまでさかのぼることになる。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "古い異体字に「弌」、「弍」、「弎」がある。なお、「弍」を音符、「貝」を意符とする形声字が「貳」であり、それが変化して「貮」になり、さらに簡略化して「弐」になった。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "元々甲骨文字では「亖(U+4E96)」が使われた。しかし「三」と紛らわしい字であるため、後になって、仮借で「四」を使うようになった。",
"title": "字源"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "この「四」の本義は口から息が出る様子を表す象形字であり、金文で初めて使われた。なおこの「四」は後に意符の「口」を加えて「呬(U+546C)」という形声字で書かれることになった。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "「五」は交差する木で作られた蓋を表す象形字である。5 として使うのは仮借である。祝祷を収めた器に蓋をして守ることを表す象形字が「吾」であり、「敔」、「圄」にその音と意味が残っている。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "「六」は小さい幕舎(テント)を表す象形字だと考えられるが、その意味で使われたことはない。6 として使うのは仮借である。大字では「六」と同音の「陸」を用いるが、「六」を重ねた字が「坴」であり、これに阝(こざとへん)を加えて形声字の「陸」が造られた。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "「七」は小刀で骨を切る様子を表す象形字である。7 として使うのは仮借である。「七」に意符の「刀」を加えた「切」が、元の意味に充てられている。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "「八」は二つに分けることを表す指事字である。8 が 8 → 4 → 2 → 1 と二分できることを示すとされる。二分するという意味の「八」を含む字が、「分」や「半」である。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "「九」は体を曲げた竜を示す象形字とも(原義を示す字は「虯」か)、伸ばした手の状態を示す象形字とも、小さな木の芽を示す象形字とも言われる。9 として使うのは仮借である。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "これらは、甲骨文字では「一」、「二」、「三」、「亖(=四の古字)」を縦にしたものである。ただし縦線の下端で互いにつながっている。甲骨文字では五十~九十を表す場合、五~九の下に縦線を加えて表された。金文では、線の中央に点が加えられるようになった。この点が横に伸び、現在の字形になった。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "「廿(20)」の異体字に「卄(U+5344)」がある。また、「卅(30)」の異体字に「丗(U+4E17)」があるが、「世」の異体字とも言われる。殷代では平均寿命が30歳ほどであったため、30年で1世代と考えられたためである。",
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},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "現在では「廿」、「卅」、「卌(40,U+534C)」は一般的でなく、一般的にはそれぞれ「二十」、「三十」、「四十」と漢字2文字で書かれる。",
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "「百」は「一」と「白」を合わせた形声字である。「白」は単に音を示す。甲骨文字では二百を「二」と「白」、三百を「三」と「白」というように組み合わせる。",
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},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "「千」は「一」と「人」を合わせた形声字である。「人」は単に音を示すとも、人数の多さを表すとも言われる。甲骨文字では、二千を「二」と「人」、三千を「三」と「人」というように組み合わせる。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "日本の新字体および中国の簡体字では、10000 は「万」となっている。古くは「萬」と書いたが、10000の意味に「万」字を使うことも古くから行われている。",
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},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "「万」は、「萬」の略字として生じたとする説もあれば、もともと別の字だったとする説もある。「万」が別字であるとしてもその字源には諸説あり、浮き草の象形とも、卍の変形ともいうが定説はなく、これも仮借して 10000 の意味に使われている。ウィクショナリーも参照。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "因みに仏教の吉祥の印である卍は、当初は徳と訳されたが、北魏の菩提流支は『十地経論』の中で、萬徳の意味を表す字として卍を萬(万)と訳した。693年、武則天は卍を萬と読むことを定め、以降、卍は萬(万)と通用するようになった。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本でも中国でも大字で 10000 を表現する場合は今も「萬」と書く。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "「萬」はサソリを表す象形字であり、仮借して 10000 の意味に使うようになった。なお、「萬」の下に「虫」のついた「蠆(U+8806)」という字もあるが、この字は「タイ」と読む別字である。",
"title": "字源"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "漢数字は主に数詞を表すために使われる。漢数字による数詞を漢数詞と呼ぶ。この場合、漢数字の通りに発音するので、数字より文字と見なすべきである。漢字文化圏の言語の数詞は基本的に古代の中国語に基づくが、多少の違いがあるため、表記にも当然違いがある。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "上位から読むこと、大数は 4 桁ごとに区切ることは、共通である。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本語では、まず数を下位または小数点から 4 桁ごとに区切り、各 4 桁の組に「万」、「億」などの単位を付けて、上位から読む。4 桁の組の中では、「千」、「百」、「十」を単位として区切り、上位から読む。百位または十位が 1 のとき、「一」を言わず単に「百」、「十」と読む。千位は「一」を読んでも読まなくても良い。また、桁の数と単位が結びついて連濁や音便を起こす。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "例:",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "読みは主に呉音だが、〇、四、七、九は異なる読み方をする。〇は元々漢音しか使わないが、残りは比較的最近の変化である。大槻文彦の『口語法別記』(1917年)には、以下の記述がある。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "当時はまだ「よん」、「なな」、「きゅう」は一般的ではなく、呉音の「し」、「しち」、「く」が使われていたことが分かる。ただしこれは東京の場合で、大阪では江戸時代にすでに「よん」、「なな」、「きゅう」になっていたという。「ふた」は定着せず、株式市況や競馬、自衛隊などで使われるだけである。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ただし、四の後に助数詞が付くときに「よ」と読むのは古くから行われた。これは「死」との同音を避けたためである。ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』(1604年)第三巻、「数名詞に就いて」の「構成」には、以下の記述がある。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "詳しくは四の字を参照すること。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "小数や住所、電話番号などで数字を粒読みする時、二と五は「にー」、「ごー」と 2 拍で読む。また住所や電話番号などを粒読みする時は、〇を「まる」と読むことが多い。これは英語の oh と同じである。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現代中国語では 100 以上の数に対しすべての 1 を略せずに読む。例えば 11111 は「一万一千一百一十一」と読む。また、503 は「五百三」ではなく「五百〇三」と読む。この「〇」の挿入は南宋以来の習慣である。「五百三」と言うと、「五百三十」の省略すなわち 530 の意味になる。「〇」は「とんで」の意味なので、0 が続いても一回だけ読む。例えば 5003 は「五千〇三」であり、「五千〇〇三」ではない。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "「二」の代わりに「両」(繁体字: 兩、簡体字: 两、普通話:liǎng, 上海語:lian, 広東語:leung, 閩南語:nn̄g)を用いるのも中国語の特徴である。「十」および「両」の前では「二」を使うが、それ以外では一般に「両」を用いる。単独使用の時や数字の最後位として数助詞なども付いていない時は「両」を使う方言はあるが、普通話では「二」しかほとんど使わない。「百」の前ではどちらでも良い。従って「2000」は「二千」ではなく「両千」(繁: 兩千、簡: 两千)である。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、春秋戦国時代までの中国語では、各桁の間に「と」を意味する「又」や「有」を挿入した。『論語』の「吾十有五而志于学」では 15 は「十有五」と書かれている。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "数字を粒読みする時は、通常は一を幺に言い替える。軍隊や航空、鉄道では、さらに特殊な音がある。以下に通常と軍隊の粒読み音を示す。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "朝鮮語では 1 をなるべく省略する。従って、10000 は単に「만(萬)」であるが、110000 は「십일만(十一萬)」と読む。(ただし、日本語と同様に、重要な計算が必要な時には読む場合もある。)",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ベトナム語ではほとんどの場合、固有語の数詞が用いられる。漢数字は「兆 (triệu)」(日本語の百万にあたる)以上の大数や 1 の位の「四 (tư)」(10 の位が 2~9 の場合)ぐらいでしか使われない。また、1 の位の 1, 5, 10 に関しては以下のような声調や語彙の変化がある。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "命数法においては漢数字の万進を採っておらず、西洋式の千進法を使っている。例えば、10000 はmười nghìn(𨒒𠦳、逐語訳:十千)、100000 はmột trăm nghìn(𠬠𤾓𠦳、逐語訳:一百千)と読む。",
"title": "数詞"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "現在は万万を億、万億を兆と呼ぶ。古くは万までしか位が無かったので、十万、百万、千万までだった。後に億、兆などが作られたが、その意味する位は一定しなかった。",
"title": "大数"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現在日本・台湾・韓国で一般的な方式では、兆の後に続けて更に、全て1万倍ごとに(万進)京、垓、秭(日本では塵劫記による𥝱が標準的となった)、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数となっているが、歴史的には万進以外にも、下数、万万進、上数などの方式があった。一方現代中国では、一般的に命数として使われるのは億(10)までであり、兆は下数によってメートル法の接頭辞のメガ(10)の意味で用いており、京以上は一般には使われなくなっている。",
"title": "大数"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "漢数字は数詞以外の意味を持つこともある。例えば「一」は数詞を表す 1 の他に「ひとつにする」(統一)、「同じ」(同一)、「全て」(一斉)等の意味を持つ。「百」も「数が多い」という意味で用いる。",
"title": "数詞以外の意"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "漢数字は数詞を兼ねた漢字であり、学研の『現代標準漢和辞典』の執筆者は、本当は数漢字と呼ぶのがふさわしいと記している。",
"title": "数詞以外の意"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "漢数字は小数の位があり、先進的であった。十進小数は算木で容易に表せる。しかし大数の位と比べると、成立したのは遅かった。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "秦は中国統一後、度量衡の単位も以下のように統一した。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "その後、度の分、量の合、衡の銖のそれぞれ下位に以下の単位が加わった。これらは小数に近い考えだが、度量衡それぞれで異なる小単位があった。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "劉徽は、『九章算術』の注釈において、75 平方寸を開平し、8.660254 寸と求め、これを「八寸六分六釐二秒五忽、五分忽之二」と書いている。絲は秒になっている。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "唐後期に、衡の兩の下位に以下の単位が加わった。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "これにより、整数部に度量衡の単位を付け、小数部は分、釐、毫、絲、忽を使うようになり、汎用的な小数になった。15.92 寸は「一尺五寸九分二釐」、15.92 錢は「一兩五錢九分二釐」であり、0.92 を表す「九分二釐」は共通である。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "後に日本ではいくつかの単位は使う字が変わった。釐は厘に、毫は毛に、絲は糸になった。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "江戸時代、歩合の基本単位は 1/10 を表す割であった。現代人が 1/100 を表すパーセントを使うのに近い。この時、3.26 寸を「三寸二分六厘」というように、3.26 割を「三割二分六厘」といった。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "慣用句の五分五分および九分九厘は、それぞれ 0.5 対 0.5 および 0.99 という意味である。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1902年に設置された国語調査委員会により学術的に基礎調査された報告書に以下がある。",
"title": "小数"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "中国では古くから小数が発達したため、分数の数詞は少なく、単独の字としては「半」しかない。古くは以下の語が使われた。",
"title": "分数"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "一般には、分母と分子の間に「分之」を入れる。3⁄4 は「四分之三」である。現代日本語では「分の」と書く。現代と異なり、「分」の直後に単位を置いて、3⁄4 寸を「四分寸之三」と呼んだ。",
"title": "分数"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "漢数字を十進表記の位取り記数法で用いることもできる。この場合、アラビア数字の 0 から 9 を単に〇から九に変えれば良い。読み方はそれぞれの言語による。小数点は中黒(・)を用いる。例えば 32.8 は数詞なら「三十二点八」だが、位取り記数法なら「三二・八」である。",
"title": "位取り記数法"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "漢数字の位取り記数法は新しい。漢字文化圏では、長らく算木が使われ、位取り記数法で漢数字を用いる必要がなかった。元までの漢文に「二八」とあったら、十六 の意味 (2×8) であって 二十八 ではない。",
"title": "位取り記数法"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "中国では、アラビア数字による筆算の翻案として漢数字の位取り記数法が現れた。梅文鼎の「筆算」(1693年)では、120303 を「一二〇三〇三」と書いて筆算している。",
"title": "位取り記数法"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "一方、日本の建部賢弘は『円理綴術』(1684年)の中で、算木を用いた代数学において 513 を「五一三」と書いている。この表記がアラビア数字と算木のどちらに由来するのかは不明である。",
"title": "位取り記数法"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "桁の底が十を超える場合、アラビア数字を用いた方法では、十を A 、十一を B 、十二を C ...というようにラテン文字のアルファベット大文字で表記する。一方、数字以外の分野では、 A を甲、B を乙、C を丙...というように、十干がアルファベット大文字の機能を果たしている。従って、桁の底が十を超える場合は十干を用い、A を「十」、B(= 十一)を「甲」、C (= 十二) を「乙」、D (= 十三) を「丙」...というように表記する。",
"title": "位取り記数法"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "例えば、「2A4」は「二十四」(十二進法で41210、十六進法で67610、二十進法で100410に相当)、「50D」は「五〇丙」(十六進法で129310、二十進法で201310に相当)、「9A.B」は「九十・甲」(十二進法で {118+(11/12)}10、十六進法で {154+(11/16)}10、二十進法で {190+(11/20)}10に相当)という表記になる。特に十進法と区別する場合、「 (二十四)乙 」というように、括弧書きで N 進法を明記することになる。",
"title": "位取り記数法"
}
] |
漢数字(かんすうじ)は、数を表記するのに使われる漢字である(ただし「〇」は漢数字としてのみ使用される俗字である)。十進法の数詞および位取り記数法で用いる。前者は漢字文化圏内で相違がある。 中日新聞・東京新聞など、記事中(スポーツ面など一部を除く)でアラビア数字でなく漢数字を用い続けているメディアもある。
|
[[ファイル:D10 kanji dice.JPG|サムネイル|漢数字で目が書かれたサイコロ]]
{{特殊文字|説明=[[ラテン文字]]拡張、[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]、[[簡体字]]、[[サンスクリット語]]、[[ハングル]]}}
'''漢数字'''(かんすうじ)は、[[数]]を表記するのに使われる[[漢字]]である(ただし「〇」は漢数字としてのみ使用される俗字である)。[[十進法]]の[[数詞]]および[[位取り記数法]]で用いる。前者は[[漢字文化圏]]内で相違がある。
[[中日新聞]]・[[東京新聞]]など、記事中(スポーツ面など一部を除く)で[[アラビア数字]]でなく漢数字を用い続けているメディアもある<ref>[https://web.archive.org/web/20090617061748/http://web.soshisha.com/archives/word/2007_0524.php 第8回 新聞の算用数字] - 新・お言葉ですが… [[高島俊男]]</ref><ref>[http://toruiwa.exblog.jp/21744741/ 洋数字と漢数字~“原則”が分かったぜ~] 15/04/28 : [[岩佐徹]]のOFF-MIKE</ref>。
== 字 ==
漢数字には 0 から 9 を表す[[数字]]、10 の[[冪]]を表す位の字、それらを合わせた複合字がある。複合字は現在では一般的に使われていない。
=== 小字と大字 ===
漢数字には「一」「二」「三」と続く小字と、「壱」「弐」「参」と続く大字がある<ref name="kanseki">{{Cite journal|和書|author=小島浩之 |title=漢籍整理備忘録 -中国の古典籍・古文書の理解のために- |url=https://doi.org/10.20722/jcul.1493 |journal=大学図書館研究 |ISSN=0386-0507 |publisher=国公私立大学図書館協力委員会 |year=2017 |volume=106 |pages=1-11 |naid=130006088792 |doi=10.20722/jcul.1493 |accessdate=2022-02-23}} p.7 より</ref>。通常は小字を用いるが[[改竄]]を防ぐため重要な数字の表記では大字を用いることがある<ref name="kanseki" />。
{{Main|大字 (数字)}}
=== 一覧 ===
以下に漢数字を示す。これらの字は零を除き、[[甲骨文字]]の時から使われており、意味に変化がない。ただし四と万は字形が変わっている。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
! rowspan="5" | 種類 !! rowspan="5" | 算用<br>数字 !! rowspan="5" | 漢数字
! colspan="4" | [[日本語]] !! colspan="7" | [[中国語]]
! colspan="2" | [[朝鮮語]] !! colspan="2" | [[ベトナム語|越南語]]
|-
! rowspan="4" | 標準<ref name="NHK">{{Citation
| title=『NHK ことばのハンドブック』
| editor=NHK 放送文化研究所
| publisher=日本放送出版協会
| year=2005
| isbn=978-4140112182
}}</ref>
! colspan="2" rowspan="2" |[[音読み]]<ref name=音読み>{{Cite |和書
| author = 藤堂明保, 松本昭, 竹田晃, 加納喜光
| title = 漢字源 : 上級漢和辞典
| date = 2018
| edition = 改訂第6
| publisher = 学研プラス
| isbn = 9784053046192
| ref = harv }}</ref>
! rowspan="3" |[[訓読み]]
! rowspan="4" |[[中古音]]<br><ref group=注>無印は[[平声]]または[[入声]]、-X は[[上声]]、-H は[[去声]]を指す。</ref><ref>{{Citation
| title=An Etymological Dictionary of Common Chinese Characters
| first=William H.
| last=Baxter
| authorlink=ウィリアム・バクスター
| year=2000
| url=http://www-personal.umich.edu/~wbaxter/etymdict.html
| accessdate=2008-05-01
}}</ref>
! rowspan="3" |[[普通話]]
! rowspan="4" |[[上海語]]<ref group=注>(文)(白)はそれぞれ文読と白読を指す。</ref>
! rowspan="3" |[[広東語]]
! colspan="2" |[[閩南語]]
! rowspan="3" |[[客家語]]
! rowspan="3" |[[朝鮮漢字音]]<ref name=漢国>{{Cite | author = 弘字出版社編集部
| title = 漢国最新大字源
| date = 1989
| edition = 改訂版
| publisher = 民衆書林
| isbn = 4891741066
| ref = harv }}</ref><ref name=漢韓>{{Cite | author = 張三植
| title = 漢韓大辭典 : 韓・中・日・英
| date = 1996
| publisher = 敎育出版公社
| isbn = 8973490036
| ref = harv }}</ref>
! rowspan="3" |[[固有語]]
! rowspan="3" |[[漢越語]]
! rowspan="3" |固有語
|-
! rowspan="2" |文読
! rowspan="2" |白読
|-
![[呉音]]
![[漢音]]
|-
! colspan="2" |[[ヘボン式ローマ字|ヘボン式]]([[片仮名]][[現代仮名遣い|現代]]/[[字音仮名遣]])
!nowrap|ヘボン式<br>([[平仮名]]現代/[[歴史的仮名遣]])
![[拼音|漢語拼音]]<ref name=音読み/><br>([[注音符号]])
![[イェール粤語拼音|耶魯粤拼]]
! colspan="3" |[[白話字]]
! colspan="2" |韓国・[[文化観光部2000年式|2000年式]]([[ハングル]])
/北朝鮮・[[マッキューン=ライシャワー式|M-R式]](チョソングル)
! colspan="2" |[[チュ・クオック・グー|字国語]]([[チュノム|字喃]]<ref>http://www.nomfoundation.org/nom-tools/Nom-Lookup-Tool</ref><ref>http://vietnamtudien.org</ref>)
|-
! rowspan="10" | 一の位
! 0
| 〇 || れい || ryō<br>(リョウ<br>/リャウ) || rei(レイ) || || leng || líng(ㄌㄧㄥˊ) || lin<sup>1</sup> || ling<sup>4</sup>
|lêng
|khòng
|làng|| yeong({{Lang|ko|영}})<br />/ryŏng({{Lang|ko|령}}) || || {{Lang|vi|linh}} ||{{Lang|vi|không }}(空)
|-
! 1
| 一 || いち || ichi(イチ) || itsu(イツ) || hito(ひと) || ʔjit || yī(ㄧ) || ih<sup>4</sup> || yat<sup>1</sup>
|i̍t
|chi̍t
|yit
|| il({{Lang|ko|일}}) || hana({{Lang|ko|하나}}) || {{Lang|vi|nhất}} || {{Lang|vi|một}}(𠬠)
|-
! 2
| 二 || に || ni(ニ) || ji(ジ) || futa(ふた) || nyijH || èr(ㄦˋ) ||nowrap| r<sup>3</sup>(文)<br>
/nyi<sup>3</sup>(白)
|| yi<sup>6</sup>
|jī/lī
|nn̄g
|ngi
|| i({{Lang|ko|이}}) || dul/tul({{Lang|ko|둘}})
| {{Lang|vi|nhị}}/{{Lang|vi|nhì}} || {{Lang|vi|hai}}(𠄩)
|-
! 3
| 三 || さん || san(サン/サム) || san(サン/サム) || mi(み) || sam || sān(ㄙㄢ) || sae<sup>1</sup> || saam<sup>1</sup>
|sam
|saⁿ
|sâm
|| sam({{Lang|ko|삼}}) || set({{Lang|ko|셋}}) || {{Lang|vi|tam}} || {{Lang|vi|ba}}(𠀧)
|-
! 4
| 四 || よん(し) || shi(シ) || shi(シ) || yo(よ) || sijH || sì(ㄙˋ) || sy<sup>3</sup> || sei<sup>3</sup>/si<sup>3</sup>
|sù
|sì
|si
|| sa({{Lang|ko|사}}) || net({{Lang|ko|넷}}) || {{Lang|vi|tứ}}/{{Lang|vi|tư}} || {{Lang|vi|bốn}}(𦊚)
|-
! 5
| 五 || ご || go(ゴ) || go(ゴ) || istu, i(いつ, い) || nguX || wǔ(ㄨˇ) || u<sup>2</sup>(文)
/ng<sup>2</sup>(白)
|| ng<sup>5</sup>
|ngó͘
|gō͘
|ńg
|| o({{Lang|ko|오}}) || daseot
/tasŏt({{Lang|ko|다섯}})
| {{Lang|vi|ngũ}} || {{Lang|vi|năm}}(𠄼)
|-
! 6
| 六 || ろく || roku(ロク) || riku(リク) || mu(む) || ljuwk || liù(ㄌㄧㄡˋ) || loh<sup>4</sup> || luk<sup>6</sup>
|lio̍k
|la̍k
|liuk
|| yuk({{Lang|ko|육}})
/ryuk({{Lang|ko|륙}})
| yeoseot
/yŏsŏt({{Lang|ko|여섯}})
| {{Lang|vi|lục}} || {{Lang|vi|sáu}}(𦒹)
|-
! 7
| 七 || なな(しち) || shichi(シチ) || shitsu(シツ) || nana(なな) || tshit || qī(ㄑㄧ) || tshih<sup>4</sup> || chat<sup>1</sup>
|chhit
|chhit
|chhit|| chil({{Lang|ko|칠}}) || ilgop({{Lang|ko|일곱}}) || {{Lang|vi|thất}} || {{Lang|vi|bảy}}(𦉱)
|-
! 8
| 八 || はち || hachi(ハチ) || hatsu(ハツ) || ya(や) || pɛt || bā(ㄅㄚ) || pah<sup>4</sup> || baat<sup>3</sup>
|pat
|poeh
|pat
|| pal/phal({{Lang|ko|팔}})
| yeodeol
/yŏdŏl({{Lang|ko|여덟}})
| {{Lang|vi|bát}} || {{Lang|vi|tám}}(𠔭)
|-
! 9
| 九 || きゅう(く) || ku(ク) || kyū(キュウ/キウ) || kokono(ここの) || kjuwX || jiǔ(ㄐㄧㄡˇ) || cieu<sup>2</sup> || gau<sup>2</sup>
|kiú
|káu
|kiú
|| gu/ku({{Lang|ko|구}})
| ahop({{Lang|ko|아홉}}) || {{Lang|vi|cửu}} || {{Lang|vi|chín}}(𠃩)
|-
! rowspan="4" | 10のN乗
! 10
| 十 || じゅう || jū(ジュウ/ジフ) ||nowrap| shū(シュウ/シフ) || tō, so(とお/とを, そ) || dzyip || shí(ㄕˊ) || zeh<sup>4</sup> || sap<sup>6</sup>
|si̍p
|cha̍p
|sṳ̍p
|| sip({{Lang|ko|십}}) || yeol/yŏl({{Lang|ko|열}}) || {{Lang|vi|thập}} || {{Lang|vi|mười}}(𨒒)
|-
! 100
| 百 || ひゃく || hyaku(ヒャク) || haku(ハク) || momo, o(もも, お/ほ) || pæk || bǎi(ㄅㄞˇ) || pah<sup>4</sup> || baak<sup>3</sup>
|pek
|pah
|pak
|| baek/paek({{Lang|ko|백}})
|on({{Lang|ko|온}})
| {{Lang|vi|bách}} || {{Lang|vi|trăm}}(𤾓)
|-
! 1000
| 千 || せん || sen(セン) || sen(セン) || chi(ち) || tshen || qiān(ㄑㄧㄢ) || tshie<sup>1</sup> || chin<sup>1</sup>
|chhian
|chheng
|chhiên
|| cheon
/chŏn({{Lang|ko|천}})
|nowrap|jeumeun
/chŭmŭn({{Lang|ko|즈믄}})
| {{Lang|vi|thiên}} ||nowrap| {{Lang|vi|nghìn}}(𠦳、北)<br />/{{Lang|vi|ngàn}}(𠦳、南)
|-
! 10000
| 万 || まん || mon(モン)<ref group=注>本表音読みの出典である『漢字源改訂第6版』において、標準の読み「man(マン)」は[[慣用音]]とされている。</ref> || ban(バン) || yorozu(よろず/よろづ) || mjonH || wàn(ㄨㄢˋ) || vae<sup>3</sup> || maan<sup>6</sup>
|bān
|
|van|| man({{Lang|ko|만}}) ||gol/kol({{Lang|ko|골}})
| {{Lang|vi|vạn}} ||
|-
! rowspan="4" | 複合
! 20
| 廿 || にじゅう ||nowrap| nyū(ニュウ/ニフ) || jū(ジュウ/ジフ) || hata(はた) || nyip ||nowrap| niàn(ㄋㄧㄢˋ) || nyae<sup>3</sup> || yaa<sup>6</sup>/ye<sup>6</sup>/<br />yap<sup>6</sup>/nim<sup>6</sup>
|jia̍p
|
| || ip({{Lang|ko|입}}),
isip({{Lang|ko|이십}})
| seumul
/sŭmul({{Lang|ko|스물}})
| {{Lang|vi|nhập}} ||
|-
! 30
| 卅 ||nowrap| さんじゅう || sō(ソウ/ソフ) || sō(ソウ/サフ) || miso(みそ) || sop || sà(ㄙㄚˋ) || sah<sup>4</sup>
|| sa<sup>1</sup>/sa<sup>4</sup>
|siap
|
| || sap({{Lang|ko|삽}}),<br />samsip({{Lang|ko|삼십}}) || seoreun
/sŏrŭn({{Lang|ko|서른}})
| {{Lang|vi|tạp}} ||
|-
! 40
| {{補助漢字フォント|卌}}|| しじゅう || shū(シュウ/シフ) || shū(シュウ/シフ) || yoso(よそ) || || xì(ㄒㄧˋ) || || se<sup>3</sup>
|siap
|
| || sip({{Lang|ko|십}}),<br />sasip({{Lang|ko|사십}}) || maheun
/mahŭn({{Lang|ko|마흔}})
| {{Lang|vi|tấp}} ||
|-
! 200
| {{補助漢字フォント|皕}} || にひゃく || hiki(ヒキ) || hyoku(ヒョク) || futao(ふたお/ふたほ) || || bì(ㄅㄧˋ) || || bik<sup>1</sup>
|
|
| ||nowrap| pyeok/phyŏk({{Lang|ko|펵}})
,ibaek({{Lang|ko|이백}})
| || {{Lang|vi|bức}} ||
|}
混同や改竄を防ぐための特別な漢数字については[[大字 (数字)|大字]]を参照されたし。
== 字源 ==
=== 〇 ===
<!-- この節は、アラビア数字、算木からリンクされている -->
他の漢数字と異なり「〇」は新しい字であり、[[唐]]より前には現れない。唐の[[武則天]](在位:[[690年]] - [[705年]])が制定した[[則天文字]]に初めて「〇」が現れるが、これは「星」の代替字であり 0 の意味はなかった。星の球形を表した典型的な[[象形]]字で、[[楷書]]とは言いがたい文字であった([[則天文字]]には、このように楷書的でない形の字がいくつかある)。
[[後漢]]に完成した『[[九章算術]]』には「(引き算の時)同符号は引き、異符号は加える。正を無入から引いて負とし、負を無入から引いて正とする」とある<ref name="Wang">{{Citation
| title=『「算木」を超えた男』
| last=王青翔
| isbn=4-88595-226-3
| publisher=東洋書店
| place=東京
| year=1999
}}</ref><ref>『[[:wikisource:zh:九章算術|九章算術]]』: 正負術曰: 同名相除,異名相益,正無入負之,負無入正之。其異名相除,同名相益,正無入正之,負無入負之。</ref>。この「無入」とは [[0]] のことであるが、専用の字はなく、表記には空白を用いていた。
[[718年]]、太史監(天文台長)の[[瞿曇悉達]]が『[[九執暦]]』を漢訳し、0 を点で記す[[インド]]の数字を導入した。しかし[[算木]]を用いていた中国の天文学者や数学者は受け入れなかった<ref name="Qian">{{Citation
| title=『中国数学史』
| last=銭宝{{JIS2004フォント|琮}}
| year=1964
| publisher=科学出版社
| place=北京
}}</ref>。『[[旧唐書]]』([[945年]])は 3040 および 0 を「三千四十」、「空」と記し<ref>[http://gx.book.zy5000.com/%E5%8F%B2%E9%83%A8/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%8F%B2/%E6%97%A7%E5%94%90%E4%B9%A6/38.html 『旧唐書』 志第十四 暦三]</ref>、また『[[新唐書]]』([[1060年]])は 3201 および 0 を「三千二百一」、「空」と記している<ref>[http://gx.book.zy5000.com/%E5%8F%B2%E9%83%A8/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%8F%B2/%E6%96%B0%E5%94%90%E4%B9%A6/33.html 『新唐書』 志第二十上 暦六上]</ref>。この「空」は[[仏教]]の[[空 (仏教)|空]]と同じく、[[サンスクリット語]]の {{Lang|sa|शून्य}}(シューニャ)の訳語である。現在も、[[朝鮮語]]と[[ベトナム語]]は「空」を 0 の意味に用いる({{Lang|ko|공}}/gong と không)。また[[江戸時代]]の[[和算]]家も 0 を「空(くう)」と呼んでいた。
[[南宋]]の時代、[[蔡元定]]([[1135年]] - [[1198年]])は『[[律呂新書]]』の中で、118098 および 104976 を「十一萬八千□□九十八」、「十□萬四千九百七十六」と書いている<ref>[http://hyena.human.niigata-u.ac.jp/files/textdb/llxs/llxs1-4.html 『律呂新書』一 律呂本原 十二律之實第四]: 丑林鐘十一萬八千□□九十八 / 卯南呂十□萬四千九百七十六</ref>。この「□」は、以前から欠字を示すのに使われてきた記号、虚欠号である(中国語版: [[:zh:虚缺号|虚缺号]])。[[秦九韶]]の『[[数学九章]]』([[1247年]])では、[[算木]]数字で空位および 0 に「〇」を用いている。この「〇」は「□」が変化したものであり、[[アラビア数字]]の「0」ならびに則天文字の「〇」を借用したのではない<ref name="Qian"/>。もっとも、インドの数字のゼロに触発された可能性もある<ref name="Wang"/>。
現在、[[位取り記数法]]では主に「〇」を使うが、後述の通り、熟語には必ず「零」を用い、「〇」は使われない。現代において「〇」と表記する場面は、[[郵便物]]の[[宛名書き]]や[[名刺]]等において[[郵便番号]]・[[地番|番地]]・[[電話番号]]といった数字情報を漢数字表記する場合や、[[縦書きと横書き|縦書き]]文章で[[西暦]]年を漢数字表記する場合に、限定的に用いられる程度である(これらの場合に限り、「零」と表記することは一般的でない。)。そもそも「〇」の部首は不明である。このことから、「〇」は独立した文字ではなく記号とみなされており、一般に漢和辞典では漢字ではなく記号の扱いとなっているため、「〇」の文字コードも、漢字領域ではなく記号領域で定義されている。
なお、「〇([[0|ゼロ]],[[U+]]3007)」と「○([[丸印]],[[U+]]25CB)」は異なる文字コードが付与されており別字であるため、混用しないよう注意が必要である。
=== 零 ===
「零」は『[[説文解字]]』にも出ている古い字で、音符の「令」と[[偏旁|意符]]の「[[雨部|雨(あめかんむり)]]」を合わせた形声字である。元々は小雨(零雨)を意味し、後にわずかな量(零細、零余)の意味にもなったが、0 の意味はなかった。『[[孫子算経]]』([[4世紀]]頃)では「零」が余りの意味で使われている<ref>『{{Lang|zh|[[:wikisource:zh:孫子算經|孫子算経]]』: 置里數以三百步乘之,內零步,六之,得五萬二千八百二十四尺}}</ref>。[[李冶]]は、『[[測圓海鏡]]』([[1248年]])の中で 1024 を「一千〇二十四」、2220302 を「二百二十二万零三百零二」と書き、「〇」と「零」を同一視している<ref name="Wang"/>。それぞれ「一千とんで二十四」、「二百二十二万あまり三百あまり二」の意味である。
現在、熟語には必ず「零」を用いて、「零下」、「零封」などと書き、「〇」は使われない。
=== 一、二、三、(亖) ===
「一」、「二」、「三」、および「四」の古字の「{{補助漢字フォント|亖}}」は、それぞれ [[1]] 本、[[2]] 本、[[3]] 本、[[4]] 本の指または棒を示した[[指事]]字である。これらを「十」、「廿」、「卅」、「{{補助漢字フォント|卌}}」の[[甲骨文字]]と比べると、横か縦かの違いだけである。これから、[[算木]]の横式と縦式を記したものだとも言われる<ref name="Shirakawa">{{Citation
| title=『[[字統]] 新装普及版』
| last=白川静
| author-link=白川静
| year=1999
| publisher=平凡社
| isbn=978-4582128116
}}</ref>。もしそうなら、算木の歴史は[[殷]]にまでさかのぼることになる。
古い異体字に「弌」、「弍」、「{{JIS2004フォント|弎}}」がある。なお、「弍」を音符、「[[貝部|貝]]」を意符とする[[形声]]字が「貳」であり、それが変化して「貮」になり、さらに簡略化して「[[大字 (数字)|弐]]」になった。
=== 四 ===
元々甲骨文字では「{{補助漢字フォント|亖}}([[U+]]4E96)」が使われた。しかし「三」と紛らわしい字であるため、後になって、[[仮借]]で「四」を使うようになった。
この「四」の本義は口から息が出る様子を表す[[象形]]字であり、[[金文]]で初めて使われた。なおこの「四」は後に意符の「[[口部|口]]」を加えて「{{JIS2004フォント|呬}}([[U+]]546C)」という[[形声]]字で書かれることになった。
<!--「四」は[[金文]]で初めて使われた字で、は口から息が出る様子を表す[[象形]]字である。その前の甲骨文字では「{{補助漢字フォント|亖}}」が使われたが、「{{補助漢字フォント|亖}}」は「三」と紛らわしいため、[[仮借]]で「四」を使うようになった。後に「四」は意符の「[[口部|口]]」を加えて「{{JIS2004フォント|呬}}」と書かれる形声字となる。-->
=== 五 ===
「五」は交差する木で作られた[[蓋]]を表す[[象形]]字である<ref name="Shirakawa"/>。[[5]] として使うのは[[仮借]]である。祝祷を収めた器に蓋をして守ることを表す象形字が「吾」であり、「{{JIS2004フォント|敔}}」、「圄」にその音と意味が残っている。
=== 六 ===
「六」は小さい幕舎([[テント]])を表す[[象形]]字だと考えられるが、その意味で使われたことはない<ref name="Shirakawa"/>。[[6]] として使うのは[[仮借]]である。[[大字 (数字)|大字]]では「六」と同音の「陸」を用いるが、「六」を重ねた字が「{{JIS2004フォント|坴}}」であり、これに[[阜部|{{JIS2004フォント|阝}}(こざとへん)]]を加えて形声字の「陸」が造られた。
=== 七 ===
「七」は小刀で骨を切る様子を表す[[象形]]字である。[[7]] として使うのは[[仮借]]である。「七」に意符の「[[刀部|刀]]」を加えた「切」が、元の意味に充てられている。
=== 八 ===
「八」は二つに分けることを表す[[指事]]字である。[[8]] が 8 → 4 → 2 → 1 と二分できることを示すとされる。二分するという意味の「八」を含む字が、「分」や「半」である。
=== 九 ===
「九」は体を曲げた[[竜]]を示す[[象形]]字とも(原義を示す字は「{{JIS2004フォント|虯}}」か)<ref name="Shirakawa"/>、伸ばした手の状態を示す象形字とも、小さな木の芽を示す象形字とも言われる。[[9]] として使うのは仮借である。
=== 十、廿、卅 ===
これらは、甲骨文字では「一」、「二」、「三」、「{{補助漢字フォント|亖}}(=四の古字)」を縦にしたものである。ただし縦線の下端で互いにつながっている。甲骨文字では五十~九十を表す場合、五~九の下に縦線を加えて表された。金文では、線の中央に点が加えられるようになった。この点が横に伸び、現在の字形になった。
「廿(20)」の異体字に「{{Lang|zh|卄}}([[U+]]5344)」がある。また、「卅(30)」の異体字に「丗([[U+]]4E17)」があるが、「世」の異体字とも言われる。殷代では平均寿命が30歳ほどであったため、30年で1世代と考えられたためである。
現在では「廿」、「卅」、「{{補助漢字フォント|卌}}(40,[[U+]]534C)」は一般的でなく、一般的にはそれぞれ「'''二十'''」、「'''三十'''」、「'''四十'''」と漢字2文字で書かれる。
=== 百 ===
「百」は「一」と「白」を合わせた形声字である。「白」は単に音を示す。甲骨文字では二百を「二」と「白」、三百を「三」と「白」というように組み合わせる。
=== 千 ===
「千」は「一」と「人」を合わせた形声字である。「人」は単に音を示すとも<ref name="Shirakawa"/>、人数の多さを表すとも言われる。甲骨文字では、二千を「二」と「人」、三千を「三」と「人」というように組み合わせる。
=== 万 ===
[[日本]]の[[新字体]]および[[中華人民共和国|中国]]の[[簡体字]]では、[[10000]] は「万」となっている。古くは「萬」と書いたが、10000の意味に「万」字を使うことも古くから行われている。
「万」は、「萬」の略字として生じたとする説もあれば、もともと別の字だったとする説もある。「万」が別字であるとしてもその字源には諸説あり、浮き草の象形とも、[[卍]]の変形ともいうが定説はなく、これも仮借して 10000 の意味に使われている。[[wikt:万|ウィクショナリー]]も参照。
因みに[[仏教]]の吉祥の印である[[卍]]は、当初は徳と訳されたが、[[北魏]]の[[菩提流支]]は『[[十地経|十地経論]]』の中で、萬徳の意味を表す字として卍を萬(万)と訳した。[[693年]]、[[武則天]]は卍を萬と読むことを定め、以降、卍は萬(万)と通用するようになった。
=== 萬 ===
日本でも中国でも[[大字 (数字)|大字]]で 10000 を表現する場合は今も「萬」と書く。
「萬」は[[サソリ]]を表す[[象形]]字であり、仮借して 10000 の意味に使うようになった。なお、「萬」の下に「虫」のついた「{{JIS2004フォント|蠆}}([[U+]]8806)」という字もあるが、この字は「タイ」と読む別字である。
=== 億 ===
{{Main|億}}
== 数詞 ==
漢数字は主に[[数詞]]を表すために使われる。漢数字による数詞を'''漢数詞'''と呼ぶ。この場合、漢数字の通りに発音するので、[[数字]]より[[文字]]と見なすべきである。[[漢字文化圏]]の[[言語]]の数詞は基本的に[[漢文|古代の中国語]]に基づくが、多少の違いがあるため、表記にも当然違いがある。
上位から読むこと、大数は 4 桁ごとに区切ることは、共通である。
=== 日本語 ===
[[日本語]]では、まず数を下位または小数点から 4 桁ごとに区切り、各 4 桁の組に「万」、「億」などの単位を付けて、上位から読む。4 桁の組の中では、「千」、「百」、「十」を単位として区切り、上位から読む。百位または十位が 1 のとき、「一」を言わず単に「百」、「十」と読む。千位は「一」を読んでも読まなくても良い。また、桁の数と単位が結びついて[[連濁]]や[[音便]]を起こす。
例:
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 数 !! 漢数字 !! 読み
|-
! 59
| 五十九 || ごじゅうきゅう
|-
! 370
| 三百七十 || さんびゃくななじゅう
|-
! 1234
| (一)千二百三十四 || (いっ)せんにひゃくさんじゅうよん
|}
読みは主に[[呉音]]だが、〇、四、七、九は異なる読み方をする。〇は元々[[漢音]]しか使わないが、残りは比較的最近の変化である。[[大槻文彦]]の『口語法別記』([[1917年]])には、以下の記述がある<ref>{{Citation
| contribution=口語法別記
| title=口語法・同別記
| editor=國語調査委員會
| publisher=勉誠社
| year=1980
}}</ref>。
{{Quotation|數を呼ぶに、次のように云ふことがある、聞きちがわせぬ爲である。
:二百四十番(ふたひゃくよんじうばん)
:四百七十九圓(よんひゃくなゝじうきうえん)}}
当時はまだ「よん」、「なな」、「きゅう」は一般的ではなく、呉音の「し」、「しち」、「く」が使われていたことが分かる。ただしこれは[[東京]]の場合で、[[大阪]]では[[江戸時代]]にすでに「よん」、「なな」、「きゅう」になっていたという<ref name="suzuki">{{Citation
| contribution=四の字嫌い - 「四」の音「シ」が「死」に通じることを忌む現象について -
| last=鈴木博
| title=国語学叢考
| pages=1-35
| publisher=清文堂出版
| place=大阪
| year=1998
| isbn=4-7924-1340-0
}}</ref>。「ふた」は定着せず、[[株式市況]]や[[日本の競馬|競馬]]、[[自衛隊]]などで使われるだけである。
ただし、四の後に[[助数詞]]が付くときに「よ」と読むのは古くから行われた。これは「[[死]]」との[[同音異字|同音]]を避けたためである。[[ジョアン・ロドリゲス]]の『[[日本大文典]]』([[1604年]])第三巻、「数名詞に就いて」の「構成」には、以下の記述がある<ref>{{Citation
| title=Arte daLingoa de Iapam(日本大文典)
| last=Rodriguez
| first=Ioão
| place=東京
| publisher=三省堂
| year=1955
}}</ref>。
{{Quotation|四つを意味する Xi(四)は或語とは一緒に使はれない。それは死とか死ぬるとかを意味する Xi(死)の語と同音異義であって,異教徒は甚だしく嫌ひ,かかる語に接続した四つの意の Xi(四)はひびきがよくないからである。従って,その代りに‘よみ’の yo(よ)を使ふ。}}
詳しくは[[四の字]]を参照すること。
[[小数]]や[[住所]]、[[電話番号]]などで数字を粒読みする時、二と五は「にー」、「ごー」と 2 [[モーラ|拍]]で読む<ref name="NHK"/>。また住所や電話番号などを粒読みする時は、〇を「[[丸|まる]]」と読むことが多い。これは[[英語]]の oh と同じである。
=== 中国語 ===
現代[[中国語]]では 100 以上の数に対しすべての 1 を略せずに読む。例えば 11111 は「{{Lang|zh|一万一千一百一十一}}」と読む。また、503 は「五百三」ではなく「{{Lang|zh|五百〇三}}」と読む。この「〇」の挿入は南宋以来の習慣である。「{{Lang|zh|五百三}}」と言うと、「五百三十」の省略すなわち 530 の意味になる。「〇」は「とんで」の意味なので、0 が続いても一回だけ読む。例えば 5003 は「{{Lang|zh|五千〇三}}」であり、「五千〇〇三」ではない。
「二」の代わりに「両」({{繁体字|兩}}、{{簡体字|两}}、[[普通話]]:liǎng, [[上海語]]:lian, [[広東語]]:leung<sup>5</sup>, [[閩南語]]:{{Unicode|nn̄g}})を用いるのも中国語の特徴である。「十」および「両」の前では「二」を使うが、それ以外では一般に「両」を用いる。単独使用の時や数字の最後位として数助詞なども付いていない時は「両」を使う方言はあるが、[[普通話]]では「二」しかほとんど使わない。「百」の前ではどちらでも良い。従って「2000」は「二千」ではなく「両千」({{Lang-zh-hant-short|兩千}}、{{Lang-zh-hans-short|两千}})である。
なお、[[春秋戦国時代]]までの中国語では、各桁の間に「と」を意味する「{{Lang|zh|又}}」や「{{Lang|zh|有}}」を挿入した。『[[論語]]』の「{{Lang|zh|吾十有五而志于学}}」では 15 は「{{Lang|zh|十有五}}」と書かれている。
数字を粒読みする時は、通常は{{Lang|zh|一}}を{{Lang|zh|幺}}に言い替える。[[中国人民解放軍|軍隊]]や[[航空]]、[[鉄道]]では、さらに特殊な音がある。以下に通常と軍隊の粒読み音を示す。
{| class="wikitable" style="text-align:center; lang:zh; xml:lang="
!
! colspan="3" |通用
! colspan="3" |軍隊
|- lang="ja" xml:lang="ja"
! 数 !! [[漢字]]
![[注音符号]]
![[拼音]]!! [[漢字]]
![[注音符号]]
![[拼音]]
|-
! 0
| 〇
|ㄌㄧㄥˊ
|líng|| 洞
|ㄉㄨㄥˋ
|dòng
|-
! 1
| 一
|ㄧˉ
|yī|| 幺
|ㄧㄠˉ
|yāo
|-
! 2
| 二
|ㄦˋ
|èr|| {{Lang|zh-hant|兩}}・{{Lang|zh-hans|两}}
|ㄌㄧㄤˇ
|liǎng
|-
! 3
| 三
|ㄙㄢˉ
|sān|| 三
|ㄙㄢˉ
|sān
|-
! 4
| 四
|ㄙˋ
|sì|| 刀
|ㄉㄠˉ
|dāo
|-
! 5
| 五
|ㄨˇ
|wǔ|| 五
|ㄨˇ
|wǔ
|-
! 6
| 六
|ㄌㄧㄡˋ
|liù|| 六
|ㄌㄧㄡˋ
|liù
|-
! 7
| 七
|ㄑㄧˉ
|qī|| 拐
|ㄍㄨㄞˇ
|guǎi
|-
! 8
| 八
|ㄅㄚˉ
|bā|| 八
|ㄅㄚˉ
|bā
|-
! 9
| 九
|ㄐㄧㄡˇ
|jiǔ|| 勾
|ㄍㄡˉ
|gōu
|}
=== 朝鮮語 ===
[[朝鮮語]]では 1 をなるべく省略する。従って、10000 は単に「만({{Lang|ko|萬}})」であるが、110000 は「십일만({{Lang|ko|十一萬}})」と読む。(ただし、日本語と同様に、重要な計算が必要な時には読む場合もある。)
=== ベトナム語 ===
[[ベトナム語]]ではほとんどの場合、固有語の数詞が用いられる。漢数字は「兆 ({{Lang|vi|triệu}})」(日本語の'''百万'''にあたる)以上の大数や 1 の位の「四 ({{Lang|vi|tư}})」(10 の位が 2~9 の場合)ぐらいでしか使われない。また、1 の位の 1, 5, 10 に関しては以下のような声調や語彙の変化がある<ref>http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/vi/gmod/contents/explanation/019.html</ref>。
* 1 ({{Lang|vi|một}}/𠬠) → 21 ({{Lang|vi|hai mươi mốt}}/𠄩𨒒𠬠):10 の位が 2~9 の場合
* 5 ({{Lang|vi|năm}}/𠄼) → 15 ({{Lang|vi|mười lăm}}/𨒒𠄻 もしくは {{Lang|vi|mười nhăm}}/𨒒𠄶):10 の位が 1~9 の場合
* 10 ({{Lang|vi|mười}}/𨒒) → 20 ({{Lang|vi|hai mươi}}/𠄩𨒒):10 の位が 2~9 の場合
[[命数法]]においては漢数字の万進を採っておらず、西洋式の千進法を使っている。例えば、10000 は{{Lang|vi|mười nghìn}}(𨒒𠦳、逐語訳:十千)、100000 は{{Lang|vi|một trăm nghìn}}(𠬠𤾓𠦳、逐語訳:一百千)と読む。
== 大数 ==
{{Main|命数法#漢数字}}
現在は万万を[[億]]、万億を[[兆]]と呼ぶ。古くは万までしか位が無かったので、十万、百万、千万までだった<ref>『[http://www0.nttu.edu.tw/me/s503/history/paper/a2.htm 算数書]』: 一乘十,十也;十乘萬,十萬也;千乘萬,千萬。一乘十萬,十萬也;十乘十萬,百萬。半乘千,五百。一乘百萬,百萬;十乘百萬,千萬。半乘萬,五千;十乘千,萬也;百乘萬,百萬;半乘百,五十。</ref>。後に億、兆などが作られたが、その意味する位は一定しなかった。
現在日本・台湾・韓国で一般的な方式では、兆の後に続けて更に、全て1万倍ごとに(万進)[[京 (数)|京]]、[[垓]]、[[秭]](日本では[[塵劫記]]による[[𥝱]]が標準的となった)、[[穣]]、[[溝 (数)|溝]]、[[澗]]、[[正 (数)|正]]、[[載]]、[[極 (数)|極]]、[[恒河沙]]、[[阿僧祇]]、[[那由他]]、[[不可思議 (数)|不可思議]]、[[無量大数]]となっているが、歴史的には万進以外にも、下数、万万進、上数などの方式があった。一方現代中国では、一般的に命数として使われるのは億(10<sup>8</sup>)までであり、兆は下数によって[[メートル法]]の接頭辞の[[メガ]](10<sup>6</sup>)の意味で用いており、京以上は一般には使われなくなっている。
== 数詞以外の意 ==
漢数字は数詞以外の意味を持つこともある。例えば「一」は数詞を表す 1 の他に「ひとつにする」(統一)、「同じ」(同一)、「全て」(一斉)等の意味を持つ。「百」も「数が多い」という意味で用いる。
漢数字は数詞を兼ねた漢字であり、[[Gakken|学研]]の『現代標準漢和辞典』の執筆者は、本当は'''数漢字'''と呼ぶのがふさわしいと記している。{{要出典|date=2010年3月}}
== 小数 ==
漢数字は[[小数]]の位があり、先進的であった。十進小数は[[算木]]で容易に表せる。しかし大数の位と比べると、成立したのは遅かった。
[[秦]]は[[中国]]統一後、[[度量衡]]の[[単位]]も以下のように統一した<ref>[[:wikisource:zh:漢書/卷021|『漢書』 律暦志 第一]]: 一為一分,十分為寸,十寸為尺,十尺為丈,十丈為引,而五度審矣。 / 合龠為合,十合為升,十升為斗,十斗為斛,而五量嘉矣。 / 二十四銖為兩。十六兩為斤。三十斤為鈞。四鈞為石。</ref>。
* 度([[長さ]]):1 引 = 10 丈 = 100 [[尺]] = 1000 [[寸]] = 10000 分
* 量([[体積]]):1 斛 = 10 斗 = 100 升 = 1000 合 = 2000 龠
* 衡([[質量]]):1 石 = 4 鈞 = 120 斤、1 斤 = 16 兩、1 兩 = 24 銖
その後、度の分、量の合、衡の銖のそれぞれ下位に以下の単位が加わった<ref name="Qian"/>。これらは小数に近い考えだが、度量衡それぞれで異なる小単位があった。
* 度:1 分 = 10 釐 = 100 毫 = 1000 絲 = 10000 忽
* 量:1 合 = 10 抄 = 100 撮 = 1000 圭 = 6000 粟
* 衡:1 銖 = 10 {{Lang|zh|絫}} = 100 黍
[[劉徽]]は、『[[九章算術]]』の注釈において、75 平方寸を[[開平法|開平]]し、8.660254 寸と求め、これを「八寸六分六釐二秒五忽、五分忽之二」と書いている<ref name="Qian"/>。絲は秒になっている。
[[唐]]後期に、衡の兩の下位に以下の単位が加わった<ref name="Qian"/>。
* 衡:1 兩 = 10 錢 = 100 分 = 1000 釐 = 10000 毫 = 100000 絲 = 1000000 忽
これにより、[[整数]]部に度量衡の単位を付け、小数部は分、釐、毫、絲、忽を使うようになり、汎用的な小数になった。15.92 寸は「一尺五寸九分二釐」、15.92 錢は「一兩五錢九分二釐」であり、0.92 を表す「九分二釐」は共通である。
=== 日本語 ===
後に[[日本]]ではいくつかの単位は使う字が変わった。釐は[[厘]]に、毫は[[毛 (数)|毛]]に、絲は[[糸 (数)|糸]]になった。
[[江戸時代]]、[[歩合]]の基本単位は 1/10 を表す[[割]]であった。現代人が 1/100 を表す[[パーセント]]を使うのに近い。この時、3.26 寸を「三寸二分六厘」というように、3.26 割を「三割二分六厘」といった。<!--重複 この使い方が現代にまで残り、あたかも割が 1/10、分が 1/100 を表すように見えることとなった。 -->
[[慣用句]]の五分五分および九分九厘は、それぞれ 0.5 対 0.5 および 0.99 という意味である。
[[1902年]]に設置された[[国語調査委員会]]により学術的に基礎調査された報告書に以下がある<ref>{{Citation
| contribution=口語法
| title=口語法・同別記
| editor=國語調査委員會
| publisher=勉誠社
| year=1980
}}</ref><ref>國語調査委員會『口語法』、[[1916年]]、[[1926年]]、[[1936年]]、第四章 数詞。</ref>。
* [[分数]]:二分の一 (1/2)、三分の二 (2/3)、三つわりひとつ (1/3)
* [[割合]]:四分、五分(二分の一)、七分五厘、半分又は半ともいう(例:七つの半分、二時半、半町等)
* [[歩合]]:一割二分、二割三分五厘、この場合の「分」を「朱」ということがある。但し、これは利子の場合にいう。
* [[倍数]]:二倍、三倍、百倍など
== 分数 ==
中国では古くから小数が発達したため、[[分数]]の数詞は少なく、単独の字としては「半」しかない。古くは以下の語が使われた<ref>{{Lang|zh|『[https://web.archive.org/web/20120121121203/http://www0.nttu.edu.tw/me/s503/history/paper/a2.htm 算数書]』: 少半乘少半,九分一也;半步乘半步,四分一;半步乘少半步,六分一也;少半乘大半,九分二也}}</ref><ref>{{Lang|zh|『[[:wikisource:zh:九章算術|九章算術]]』: 又有積一百九十三萬七千五百四十一尺、二十七分尺之一十七。問為立方幾何? 答曰:一百二十四尺、太半尺。}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 数 !! 数詞
|-
! {{分数|1|2}}
| 半、中半
|-
! {{分数|1|3}}
| 少半、小半
|-
! {{分数|2|3}}
| 太半、大半
|-
! {{分数|1|4}}
| 弱半
|-
! {{分数|3|4}}
| 強半
|}
一般には、分母と分子の間に「分之」を入れる。{{分数|3|4}} は「四分之三」である。現代日本語では「分の」と書く。現代と異なり、「分」の直後に単位を置いて、{{分数|3|4}} 寸を「四分寸之三」と呼んだ。
== 位取り記数法 ==
===十進表記===
漢数字を[[十進法|十進表記]]の[[位取り記数法]]で用いることもできる。この場合、[[アラビア数字]]の 0 から 9 を単に〇から九に変えれば良い。読み方はそれぞれの言語による。[[小数点]]は[[中黒]](・)を用いる。例えば 32.8 は数詞なら「三十二点八」だが、位取り記数法なら「三二・八」である。
漢数字の位取り記数法は新しい。漢字文化圏では、長らく[[算木]]が使われ、位取り記数法で漢数字を用いる必要がなかった。[[元 (王朝)|元]]までの漢文に「二八」とあったら、[[16|十六]] の意味 (2×8) であって [[28|二十八]] ではない。
中国では、アラビア数字による筆算の翻案として漢数字の位取り記数法が現れた。[[梅文鼎]]の「筆算」([[1693年]])では、120303 を「一二〇三〇三」と書いて筆算している<ref name="Qian"/>。
一方、日本の[[建部賢弘]]は『[[円理綴術]]』([[1684年]])の中で、算木を用いた[[代数学]]において 513 を「五一三」と書いている<ref name="Wang"/>。この表記がアラビア数字と算木のどちらに由来するのかは不明である。
===底が十を超える場合===
桁の底が[[10|十]]を超える場合、[[アラビア数字]]を用いた方法では、十を [[A]] 、[[11|十一]]を [[B]] 、[[12|十二]]を [[C]] …というように[[ラテン文字]]の[[アルファベット]][[大文字]]で表記する。一方、数字以外の分野では、 A を[[甲]]、B を[[乙]]、C を[[丙]]…というように、[[十干]]がアルファベット大文字の機能を果たしている。従って、桁の底が十を超える場合は十干を用い、A を「十」、B(= 十一)を「甲」、C (= 十二) を「乙」、D (= 十三) を「丙」…というように表記する。
例えば、「2A4」は「二十四」([[十二進法]]で412{{sub|10}}、[[十六進法]]で676{{sub|10}}、[[二十進法]]で1004{{sub|10}}に相当)、「50D」は「五〇丙」(十六進法で1293{{sub|10}}、二十進法で2013{{sub|10}}に相当)、「9A.B」は「九十・甲」(十二進法で {118+(11/12)}{{sub|10}}、十六進法で {154+(11/16)}{{sub|10}}、二十進法で {190+(11/20)}{{sub|10}}に相当)という表記になる。特に十進法と区別する場合、「 (二十四)乙 」というように、括弧書きで N 進法を明記することになる。
{{節スタブ}}
== 参考文献 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[数字]]
* [[アラビア数字]]
* [[大字 (数字)|大字]] - 漢数字の代わりに用いられる、「壱、弐、参」などの漢字
* [[命数法]]
* [[記数法]]
* [[和算]]
* [[蘇州号碼]]
== 外部リンク ==
* [http://convert.sljfaq.org/kanjinumbers_ja.cgi 漢数字をアラビア数字に変換するサイト]
* [http://kansuuji.jugem.jp/ 漢数字書き方]
* [http://www.natubunko.net/kotoba02.html 大字(だいじ)|難しい漢字の漢数字]
* [https://www.kansuji.com/ 漢数字一覧ナビ]
* [https://nue2004.info/knowledge/knowledge89.htm 漢数字の大字]
* [https://www.zoto.jp/mobile/kansuzi/kz.html 漢数字の書き方|冠婚葬祭贈答マナー]
* [http://www.moroo.com/uzokusou/misc/suumei/suumei2.html 大数の名前について]
{{DEFAULTSORT:かんすうし}}
[[Category:数字]]
[[Category:漢字]]
[[Category:数の表現]]
[[Category:数詞]]
|
2003-09-28T05:01:54Z
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18,580 |
東武大師線
|
大師線(だいしせん)は、東京都足立区の西新井駅と大師前駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングの路線記号はTS。
東京23区内にある旅客営業路線では京成金町線・西武豊島線と並んで数少ない全線単線路線である。また、東武鉄道の路線の中では鬼怒川線と同様に、同一の都道府県かつ単一の市町村内で全線が完結する路線である。
この路線は、西板線(伊勢崎線西新井駅 - 東上本線上板橋駅間 11.6 km)計画のうち用地確保が完了した区間にて、西新井大師(総持寺)参詣者の輸送を目的として1931年に開業した。1968年の環七通り拡幅の際に線路用地の一部を提供したため、営業キロが100 m短縮され1 kmとなり、1991年には西新井駅近辺を除き高架化されたため、東武鉄道では唯一、踏切が全線において一つも存在しない路線となった。
途中駅は無い。大師前駅には自動改札機・自動券売機・自動精算機は設置されておらず(入口にその旨が掲示されている)、同駅の乗車券発売や改札などの機能は、西新井駅構内の乗り換え通路上に大師前駅からの乗車券が購入出来る券売機や連絡専用の自動改札機を設置して対応している。よって、大師前駅からは、定期券乗車客や企画切符乗車客以外は有効な乗車券を持たずに乗ることになる。
他に同様の形態をとる駅としては、名鉄築港線の東名古屋港駅や山陽本線(和田岬線)の和田岬駅・阪神武庫川線の洲先駅・東鳴尾駅が挙げられる。
2003年からはワンマン化され、通常は2両編成の8000系(ワンマン対応車)1本が西新井駅と大師前駅の間を往復している。ほぼ終日に渡り10分間隔、例外となる早朝深夜時間帯も最大15分間隔で運行されている。
原則として西新井駅では1番線を使用するが、出入庫時に使用する本線への線路と接続の関係で、昼過ぎの1往復は車両交換のため2番線を使用する(1番線は本線の線路とは接続されていない)。車両は亀戸線と共通運用のため、亀戸線で朝ラッシュのみ運用される車両が運用終了後に亀戸駅2番線に留置され、昼過ぎに西新井駅まで回送されて大師線の運用に入るダイヤとなっている。
正月などの多客時には、通常は車両交換の際にのみ使用される西新井駅2番線を使用して、2本運転が実施される。
ワンマン化以前は10000型の入線もあったが、西新井駅の車止めに滑走のため衝突する事故が起きたため、大師線の運用には入らなくなった。それ以前にも、5050系など、2両編成の様々な車両が運用されていた。
第二次世界大戦前には西新井駅 - 東上本線上板橋駅間を結ぶ西板線の計画が立てられていた。1920年の東武鉄道・東上鉄道合併により、東武本線系統との接続を図る目的であった。
ほぼ現在の環七通りに沿って途中に大師前・鹿浜・神谷・板橋上宿(いずれも仮称)の各駅が計画され、1922年11月に南足立郡西新井村(西新井駅) - 北豊島郡上板橋村(上板橋駅)間の免許申請が行われ、1924年5月に免許が下付された。
だが、申請から免許下付までの間に発生した関東大震災による既存路線の被災復旧を優先したこと、当時建設中だった荒川放水路の堤防などの護岸整備が完了しておらず架橋の設計ができないこと、荒川放水路と隅田川を跨ぐ橋梁の建設費用の問題、予定地の町関係者からの経路変更要求への対応画策などの問題が起こり、その対応に忙殺されているうちに、大正末期から昭和初期にかけて路線予定地が急速に市街地化されたため「建設費が高額となり、採算の見込みがない」との理由で、西新井 - 大師前間開業の翌年、1932年に鹿浜 - 上板橋間の起業を廃止した。大師前 - 鹿浜間については「工事竣工期限延期願」を関係省庁に提出していたが、1937年6月に不認可とされ、免許が失効した。
この計画中止について『東武鉄道六十五年史』では「遂にその線の実現を見るに至らなかったことは、交通網の現状から考えてまことに残念なことであった」と記されている。
西板線は東上線系ではなく本線系とする計画であり、両路線群間の車両転属回送経路としても活用する計画であったが、未成となったことで、東武悲願の「本線系と東上線系路線との接続」はならなかった。この西板線が未成に終わったことから、両系統路線群を接続する自社路線がないため、東上線と本線・野田線との間で車両を輸送する場合は秩父鉄道秩父本線が使われている。
西板線の線形は、東上線の下り方(寄居方面)と伊勢崎線の上り方(浅草方面)とを直通運行する際に折り返しがないように計画された。上板橋駅の上り方に、東上線からの分岐予定地および貨物操車場予定地として買収した土地は、起業廃止後常盤台住宅地として分譲されることになり、そのアクセス駅として武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)が設置された。
|
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"text": "正月などの多客時には、通常は車両交換の際にのみ使用される西新井駅2番線を使用して、2本運転が実施される。",
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"text": "ワンマン化以前は10000型の入線もあったが、西新井駅の車止めに滑走のため衝突する事故が起きたため、大師線の運用には入らなくなった。それ以前にも、5050系など、2両編成の様々な車両が運用されていた。",
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"text": "この計画中止について『東武鉄道六十五年史』では「遂にその線の実現を見るに至らなかったことは、交通網の現状から考えてまことに残念なことであった」と記されている。",
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"title": "西板線計画"
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大師線(だいしせん)は、東京都足立区の西新井駅と大師前駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。駅ナンバリングの路線記号はTS。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Tōbu Tetsudō Logo.svg|50px|link=東武鉄道]] 大師線
|路線色=#0067c0
|ロゴ=File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg
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|画像説明=大師線を走行する列車(2011年5月)
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|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照
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{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#0067c0}}
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[[File:Nishiarai-Sta-To-Daishi.JPG|thumb|240px|[[西新井駅]]大師線改札口([[大師前駅]]改札口に代わる)]]
'''大師線'''(だいしせん)は、[[東京都]][[足立区]]の[[西新井駅]]と[[大師前駅]]を結ぶ[[東武鉄道]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]の路線記号は'''TS'''。
== 概要 ==
[[東京都区部|東京23区]]内にある旅客営業路線では[[京成金町線]]・[[西武豊島線]]と並んで数少ない全線[[単線]]路線である。また、東武鉄道の路線の中では[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]<ref>鬼怒川線の沿線自治体の[[今市市]]と[[藤原町 (栃木県)|藤原町]]は、2006年3月20日をもって[[日光市]]になった。</ref>と同様に、同一の都道府県かつ単一の市町村内で全線が完結する路線である。
この路線は、'''[[#西板線計画|西板線]]'''([[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]西新井駅 - [[東武東上本線|東上本線]][[上板橋駅]]間 11.6 km)計画のうち用地確保が完了した区間にて、西新井大師([[總持寺 (足立区)|総持寺]])参詣者の輸送を目的として1931年に開業した。1968年の[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]拡幅の際に線路用地の一部を提供したため、営業キロが100 m短縮され1 kmとなり、[[1991年]]には西新井駅近辺を除き[[高架橋|高架]]化されたため<ref name="交通910716">{{Cite news |title=東武大師線を高架化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-07-16 |page=1 }}</ref>、東武鉄道では唯一、[[踏切]]が全線において一つも存在しない路線となった。
途中駅は無い。大師前駅には[[自動改札機]]・[[自動券売機]]・[[自動精算機]]は設置されておらず(入口にその旨が掲示されている)、同駅の[[乗車券]]発売や[[改札]]などの機能は、西新井駅構内の乗り換え通路上に大師前駅からの乗車券が購入出来る券売機や連絡専用の自動改札機を設置して対応している。よって、大師前駅からは、定期券乗車客や企画切符乗車客以外は有効な乗車券を持たずに乗ることになる。
他に同様の形態をとる駅としては、[[名鉄築港線]]の[[東名古屋港駅]]や[[山陽本線]]([[和田岬線]])の[[和田岬駅]]・[[阪神武庫川線]]の[[洲先駅]]・[[東鳴尾駅]]が挙げられる。
=== 路線データ ===
* 路線距離:1.0 km
* [[軌間]]:1,067 mm
* 駅数:2駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線(直流1,500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#東武鉄道TSP式|東武形ATS]]
* 最高速度:60 km/h<ref name="terada" />
== 歴史 ==
* [[1924年]]([[大正]]13年)[[5月5日]]:鉄道免許状下付([[南足立郡]][[西新井町|西新井村]]-[[北豊島郡]][[上板橋村]]間 動力蒸気)<ref name=":0">[{{NDLDC|2955657/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1924年5月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月20日]]:'''西板線'''として西新井駅 - 大師前駅間1.1 kmが開業(旅客運輸)<ref>[{{NDLDC|2957978/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年1月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1932年]](昭和7年)7月22日:起業廃止許可(南足立郡[[江北村]](鹿浜)- 北豊島郡上板橋村間)<ref>[{{NDLDC|2958142/7}} 「鉄道起業廃止許可」『官報』1932年7月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)[[5月20日]]:全線営業休止。
* [[1947年]](昭和22年)[[5月21日]]:全線営業再開。'''大師線'''と改称。
* [[1968年]](昭和43年)[[12月1日]]:環七通り拡幅のため大師前駅移転。0.1 km短縮。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[7月26日]]:高架化{{R|交通910716}}。これに伴い尾竹橋通りや七曲街道の[[東武バスセントラル西新井営業所|東武バスセントラル足立営業事務所西新井営業所]]付近を含む同線全踏切が除去。
* [[2003年]](平成15年)[[3月19日]]:ワンマン運転開始<ref name="JRC608">{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳2003年3月 |journal = RAIL FAN |date = 2003-06-01 |issue = 6 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 18 }}</ref>。
* [[2023年]]([[令和]]5年)度以降:添乗員付き自動運転の実施に向けた検証を開始(予定)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20210420111326F_bnEUpEiLijEbRwlea5uQ.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210420081256/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20210420111326F_bnEUpEiLijEbRwlea5uQ.pdf|format=PDF|language=日本語|title=大手私鉄初の「運転士が乗務しない自動運転」を目指します 鉄道の自動運転(GoA3)実施に向けた検証を東武大師線において開始します|publisher=東武鉄道|date=2021-04-20|accessdate=2021-04-20|archivedate=2021-04-20}}</ref>。
== 運行形態 ==
[[2003年]]からは[[ワンマン運転|ワンマン]]化され<ref name="JRC608"/>、通常は2両編成の[[東武8000系電車|8000系]](ワンマン対応車)1本が西新井駅と大師前駅の間を往復している。ほぼ終日に渡り10分間隔、例外となる早朝深夜時間帯も最大15分間隔で運行されている。
原則として西新井駅では1番線を使用するが、出入庫時に使用する本線への線路と接続の関係で、昼過ぎの1往復は車両交換のため2番線を使用する(1番線は本線の線路とは接続されていない)。車両は[[東武亀戸線|亀戸線]]と共通運用のため、亀戸線で朝ラッシュのみ運用される車両が運用終了後に[[亀戸駅]]2番線に留置され、昼過ぎに西新井駅まで回送されて大師線の運用に入るダイヤとなっている。
[[正月]]などの多客時には、通常は車両交換の際にのみ使用される西新井駅2番線を使用して、2本運転が実施される。
<gallery>
ファイル:Tobu-daishiline-newyear.jpg|正月の大師線。西新井駅では2番線も使用している。
</gallery>
== 使用車両 ==
* [[東武8000系電車|8000系]]([[南栗橋車両管区]]春日部支所所属・ワンマン対応車・2両編成)。現在は[[東武亀戸線|亀戸線]]と共通運用されている。[[東武東上本線|東上線]][[池袋駅]] - [[小川町駅 (埼玉県)|小川町駅]]間での定期運用が終了してからは、東京都内の東武線で8000系が運用されている路線は当路線と亀戸線のみとなった。
ワンマン化以前は[[東武10000系電車|10000型]]の入線もあったが、[[西新井駅]]の車止めに滑走のため衝突する事故が起きたため、大師線の運用には入らなくなった。それ以前にも、[[東武5000系電車|5050系]]など、2両編成の様々な車両が運用されていた。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]][[足立区]]内に所在。
* 線路 … ∨:2線、|:単線([[列車交換]]不可)
{| class="wikitable" rules="all"
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|-
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|-
!TS-13
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|style="text-align:right;"|0.0
|東武鉄道:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]]
|∨
|-
!TS-51
|[[大師前駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|
||
|}
== 西板線計画 ==
第二次世界大戦前には西新井駅 - [[東武東上本線|東上本線]][[上板橋駅]]間を結ぶ'''西板線'''の計画が立てられていた。[[1920年]]の東武鉄道・東上鉄道合併により、東武本線系統との接続を図る目的であった。
ほぼ現在の[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]に沿って途中に大師前・鹿浜・神谷・板橋上宿(いずれも仮称)の各駅が計画され、[[1922年]]11月に南足立郡西新井村(西新井駅) - 北豊島郡上板橋村(上板橋駅)間の免許申請が行われ、[[1924年]]5月に免許が下付された<ref name=":0" /><ref>『東武鉄道百年史』東武鉄道、1998年</ref>。
だが、申請から免許下付までの間に発生した[[関東大震災]]による既存路線の被災復旧を優先したこと、当時建設中だった[[荒川 (関東)|荒川放水路]]の堤防などの護岸整備が完了しておらず架橋の設計ができないこと、荒川放水路と[[隅田川]]を跨ぐ橋梁の建設費用の問題、予定地の町関係者からの経路変更要求への対応画策などの問題が起こり、その対応に忙殺されているうちに、[[大正]]末期から[[昭和]]初期にかけて路線予定地が急速に市街地化されたため「建設費が高額となり、採算の見込みがない」との理由で、西新井 - 大師前間開業の翌年、1932年に鹿浜 - 上板橋間の起業を廃止した<ref>『わが街・いまむかし 板橋区政50周年記念誌』板橋区、1982年</ref>。大師前 - 鹿浜間については「工事竣工期限延期願」を関係省庁に提出していたが、1937年6月に不認可とされ、免許が失効した<ref>『東武鉄道六十五年史』東武鉄道、1964年</ref>。
この計画中止について『東武鉄道六十五年史』では「遂にその線の実現を見るに至らなかったことは、交通網の現状から考えてまことに残念なことであった」と記されている<ref>『東武鉄道六十五年史』東武鉄道、1964年、59ページ</ref>。
西板線は[[東武東上線|東上線系]]ではなく[[東武本線|本線系]]とする計画であり、両路線群間の車両転属回送経路としても活用する計画であったが、未成となったことで、東武悲願の「本線系と東上線系路線との接続」はならなかった。この西板線が未成に終わったことから、両系統路線群を接続する自社路線がないため、東上線と本線・野田線との間で車両を輸送する場合は[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]]が使われている。
西板線の線形は、東上線の下り方(寄居方面)と伊勢崎線の上り方(浅草方面)とを直通運行する際に折り返しがないように計画された。上板橋駅の上り方に、東上線からの分岐予定地および貨物操車場予定地として買収した土地は、起業廃止後[[常盤台 (板橋区)|常盤台]]住宅地として分譲されることになり、そのアクセス駅として武蔵常盤駅(現・[[ときわ台駅 (東京都)|ときわ台駅]])が設置された<ref>『常盤台住宅物語』板橋区教育委員会、1999年</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* 森口誠之『鉄道未成線を歩く・私鉄編』JTB、[[2001年]]、ISBN 4-533-03922-7
* 東武鉄道年史編纂事務局編『東武鉄道六十五年史』[[1964年]]、{{全国書誌番号|64010839}}
* 東武鉄道社史編纂室編『東武鉄道百年史』[[1998年]]、{{全国書誌番号|20043141}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[池袋・竹ノ塚新線]] - 東武伊勢崎線と東武東上線を結ぶ鉄道路線構想
* [[メトロセブン]]
* [[京急大師線]] - 関東で「大師線」を名乗る路線は2つあるが、正式な路線名は東武・京急共に「大師線」であり、社名を冠するなどの区別はされていない。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tōbu Daishi Line}}
* [https://www.tobu.co.jp/railway/guide/line/daishi_line.html 東武大師線]
{{東武鉄道の路線}}
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[[Category:関東地方の鉄道路線|たいしせん]]
[[Category:東武鉄道の鉄道路線|たいし]]
[[Category:東京都の交通]]
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18,582 |
首領蜂
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『首領蜂』(どんぱち)は、1995年稼働開始のアーケードゲーム。開発元はケイブ、総発売元はアトラス。
最強の軍隊を作り出すための大規模な軍事演習。その内容は、敵異星軍団を装った仮想敵を設け、その正体を味方に隠したまま実戦形式で戦わせるという荒唐無稽なものであった。プレイヤーは首領の命により、この仮想敵側の戦闘機を操り、味方軍を完膚なきまでに叩きのめすことが任務となる。しかし実質、襲撃される側の軍隊だけでなく、仮想敵を装う精鋭のプレイヤーも鍛えられていく形にもなっていた。いつ終わるとも分からない演習が終わった時、それは最強の部隊「首領蜂」の誕生を意味していた。
家庭用移植版のストーリー説明では、プレイヤーとなるパイロットと首領の任務中のブリーフィング内での会話と独白が追加されている。
弾幕系シューティングとしてヒットした『怒首領蜂』の前作であり、一連のシリーズの第一作目にあたる。
『首領蜂』自体は弾幕系シューティングというわけではなく、『怒首領蜂』で開花した「膨大な敵弾の隙間を微少な当たり判定の自機ですり抜けていく」というプレイスタイルはまだほとんど求められず、従前のシューティングと同様の攻略パターン構築の重要性が高い。
なお、シリーズの伝統となっている蜂の形をしたボスはこの作品で既に登場しており、2周目で登場する真ボスである「首領蜂」を撃破することでエンディングとなる。
()
1996年にセガサターン移植版がアーケード版と同じアトラスから、PlayStation移植版がSPSからそれぞれ発売されている。
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『首領蜂』(どんぱち)は、1995年稼働開始のアーケードゲーム。開発元はケイブ、総発売元はアトラス。
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{{コンピュータゲーム
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『'''首領蜂'''』(どんぱち)は、[[1995年]]稼働開始の[[アーケードゲーム]]。開発元は[[ケイブ]]、総発売元は[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]。
== ストーリー ==
最強の軍隊を作り出すための大規模な軍事演習。その内容は、敵異星軍団を装った仮想敵を設け、その正体を味方に隠したまま実戦形式で戦わせるという荒唐無稽なものであった。プレイヤーは首領の命により、この仮想敵側の戦闘機を操り、味方軍を完膚なきまでに叩きのめすことが任務となる。しかし実質、襲撃される側の軍隊だけでなく、仮想敵を装う精鋭のプレイヤーも鍛えられていく形にもなっていた。いつ終わるとも分からない演習が終わった時、それは最強の部隊「首領蜂」の誕生を意味していた。
家庭用移植版のストーリー説明では、プレイヤーとなるパイロットと首領の任務中のブリーフィング内での会話と独白が追加されている。
== 概要 ==
[[弾幕系シューティング]]としてヒットした『[[怒首領蜂]]』の前作であり、一連のシリーズの第一作目にあたる。
『首領蜂』自体は弾幕系シューティングというわけではなく、『怒首領蜂』で開花した「'''膨大な敵弾の隙間を微少な[[当たり判定]]の自機ですり抜けていく'''」というプレイスタイルはまだほとんど求められず、従前のシューティングと同様の攻略パターン構築の重要性が高い。
なお、シリーズの伝統となっている[[蜂]]の形をしたボスはこの作品で既に登場しており、2周目で登場する真ボスである「首領蜂」を撃破することでエンディングとなる。
== システム ==
(<ref>セガサターン版およびプレイステーション版解説書にて</ref>)
; 自機
: プレーヤーはゲームスタート時およびコンティニュー時に以下の3種類の機体から1つを選択する。
:* Type A - 移動速度が速く、前方に狭範囲のショットを放つ赤い戦闘機(2P側は黄色)。
:* Type B - メインショットを前方に、オプションによるサブショットを移動方向に放つ緑の攻撃ヘリコプター(2P側は紫)。
:* Type C - 移動速度は遅いが、サブショットと合わせて広範囲の3wayショットを放つ前進翼が特徴的な青い戦闘機(2P側は黒)。
; ショット
: 各機体は自機より放たれるメインショットと、ゲーム開始時より展開する2つのオプションによるサブショットを持つ。オプションの配置は各機体により以下のように異なる。
:* Type A - オプションは自機前方で回転し、その火力をメインショットと結合させる。
:* Type B - オプションは自機の左右に固定となり、その配備位置を軸として広範囲に弾をばら撒く。
:* Type C - オプションは後方に位置し、外側を向いて斜め向きの火力をもたらす。
; レーザー
: ショットボタンを押し続けることにより、オプションが前方に集まり直線的なレーザーを放つ。この時自機の移動速度は遅くなる。
: レーザー発射中は、自機の周囲がレーザーの飛沫に包まれる。これは俗に「オーラ」と呼ばれ、このオーラにもレーザーと同等の攻撃力がある。敵に接近しレーザーとオーラを同時に当てると、2倍のダメージを与える(日本語圏ではオーラ撃ち〈オーラでのみ炙ることを指す場合もある〉、英語圏ではZERO FIREと言う)。
; ボム
: 各機は個数制限のあるボムを持ち、ボムボタンを押すことで使用することができる。使用することにより、画面上のすべての敵にダメージを与えるまたは破壊する大爆発を発生させ、発生中はすべての敵弾が消滅する。レーザー中にボムボタンを押した場合には、爆発の代わりに高出力のレーザーボムを発射し、特定の敵により多くのダメージを与えることができる。
: 首領蜂のボムは一般的な縦スクロールシューティングと異なり、ステージクリア時にも個数が増える仕様となっている。また、ゲーム開始時に所持可能なボムは3個だが、'''ボムを3個使用する度に所持可能数が1つ増える'''(最大7個)ため、最終的にはかなりの数のボムを使用できる内容となっていた。ただし、ステージクリア時のボーナスが所持可能なボム数に関わっているため、スコアを稼ぐ場合はやはりボムを使わないようにする必要があった。
; ゲットポイントシステム(GPS)
: 俗に'''コンボ'''と呼ばれる、このシリーズのスコア稼ぎの要となるシステム。一定時間(本作では30フレーム=0.5秒)以内に敵を連続で破壊することでコンボが成立し、最後に倒した敵の獲得スコアにそのコンボ内に倒した敵のスコアが上乗せされるため、1コンボがスコアに多大な影響を与える。ボムを使用するとコンボが途切れてしまう。
; 蜂ボーナス
: 各ステージに13個隠れている蜂アイテムを取ると発生。ミスせずに続けて取ることでスコアが増加し、1個目の100点から13個目の10万点まで上昇。
== 移植 ==
[[1996年]]に[[セガサターン]]移植版がアーケード版と同じアトラスから、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]移植版が[[エス・ピー・エス|SPS]]からそれぞれ発売されている。
また、PlayStation版は[[2010年]]に[[ゲームアーカイブス]]で配信開始。[[PlayStation Portable]]・[[PlayStation 3]]両対応。
== 関連項目 ==
*[[東亜プラン]] - ケイブの前身であるメーカー。エンディングで、マスコットであるピピル星人を落とす描写がある。ただし目隠しがされている。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
[http://www.jp.playstation.com/software/title/jp0571npjj00369_000000000000000001.html ゲームアーカイブス版紹介]
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[[Category:アトラスのゲームソフト]]
[[Category:1995年のアーケードゲーム]]
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歌川広重
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歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。
江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。
広重は、江戸の八代洲河岸定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。同年12月に父も死去。
幼いころからの絵心が勝り、文化8年(1811年)15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1774年-1829年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用してデビュー。
文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保元年(1830年)一遊斎から一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。
天保3年 (1832年)、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ大岡雲峰に就いて南画を修めている。
この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか歴史画・張交絵・戯画・玩具絵や春画、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画(肉筆浮世絵)・摺物・団扇絵・双六・絵封筒ほか絵本・合巻や狂歌本などの挿絵も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
天保7年(1836年)8月14日に柳橋万八楼にて開催されて曲亭馬琴の古稀祝賀書画会に出席している。
天保8年(1837年)、中山道を経由して京、大坂から四国の丸亀へ旅行をして、帰路は奈良、伊勢を経て東海道を通って江戸へ帰った。
天保9年(1838年)閏4月18日に柳橋河内屋にて開催された二代目柳川重信の書画会に出席している。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん
(「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)
文久年間(1861年から1863年)の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の京橋)に広重の住居があり、西隣には狩野永悳の旧居が印刷されている。
その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである。
辞世の句は、
であるというが、「後代の広重の作ではないか」とする見解もある。
明治15年(1882年)4月(広重の死後24年目)、門人達が、墨江須崎村の秋葉神社に碑を建立したが、第二次世界大戦の東京大空襲により破壊され、現在は残っていない。
流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年)9月6日61歳で没。墓所は東京の足立区にある禅宗東岳寺である。
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。
この鮮やかな青は日本古来の藍(インディゴ)の色と間違えられることがあるが、当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍つまり紺青である。木版画の性質から油彩よりも鮮やかな色を示すため、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。
ヒロシゲブルーは19世紀後半のフランスに発した印象派の画家や、アール・ヌーヴォーの芸術家らに影響を与えたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因の一つともされている。
天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
この連作の前年の天保3年(1832年)秋、幕臣でもあった広重は伝を頼りに幕府の一行(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)し、実際の風景を目の当たりにする機会を得た、とする伝承が伝わる。一方、実際には旅行をしていないのではないかとする説もある。 また、同作は司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したとする説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。(外部リンクに、これに対する否定説を述べた『司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について』あり。)
江戸時代中期には生産力の向上から都市部では学問や遊芸、祭礼・年中行事など町人文化が活性化し、幕府直轄領時代の甲斐国甲府(山梨県甲府市)でも江戸後期には華麗な幕絵を飾った盛大な甲府道祖神祭礼が行われており、甲府商人の経済力を背景に江戸から広重ら著名な絵師が招かれて幕絵製作を行っている。広重は天保12年(1841年)に甲府緑町一丁目(現若松町)の町人から幕絵製作を依頼され、同年4月には江戸を立ち甲州街道を経て甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。この時の記録が『甲州日記』(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際に道中や滞在中の写生や日記を書き付けられており、現在の八王子市から見た高尾山、甲府市内から見た富士山や市内の甲斐善光寺、身延町の富士川など甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれており広重の作品研究に利用されているほか、甲府での芝居見物や接待された料理屋の記録など、近世甲府城下町の実態を知る記録資料としても重視されている。
日記によれば広重は同年4月5日に甲府へ到着し、滞在中は甲府町民から歓迎され句会や芝居見物などを行っている。日記は一時中断して11月からはじまっており、この間には幕絵は完成し、手付金は5両であったという。幕絵は東海道の名所を描いた39枚の作品で、甲府柳町に飾られたという。日記の中断期間中は幕絵制作に専念していた可能性や、制作のためにいったん江戸で戻っていた可能性などが考えられている。広重の製作した幕絵は現存しているものが少ないが、山梨県立博物館には2枚の幕絵が所蔵されており、甲府市の旧家には下絵が現存している。
また、幕絵以外にも甲府町人から依頼された屏風絵や襖絵などを手がけており、甲府商家の大木コレクション(山梨県立博物館所蔵)には作品の一部が残されている。
日記は甲府滞在記録のほか甲斐名所のスケッチも記されており、一部は『不二三十六景』において活かされている。『甲斐志料集成』などに収録され知られていたが、原本は関東大震災で焼失している。発見された写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が1894年に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされ、1925年にイギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。2005年にロンドンのオークションでアメリカ人が落札、栃木県那珂川町馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。約80年ぶりに発見されたのである(2006年9月5日付朝日新聞)。
版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。 有名なのが、俗に「天童広重」とも呼ばれる200点以上の肉筆画で、天童藩から依頼されたものである。当時、藩財政が逼迫したので藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていた。1851年、その返済の代わりとして広重の絵を贈った。 なお、広重の遠近法は印象派以後の画家、特にゴッホ(1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては北斎や、歌川の始祖豊春(1735年-1814年)の浮絵にみられる。
広重の門人には二代目広重、三代目広重のほか、歌川広景、歌川重清、歌川重昌、暁斎重晴、歌川重房、歌川重春、重美、重華、歌川重久、重芳、歌川重歳、歌川重光、歌川重丸、紫紅、歌川芳延、東岳という絵師が合計で18名がいた。重晴は清水氏で暁風とも号し、重春と同一人かともいわれる。重房は本名を吉野勝之助と云い、安政の頃に活躍した。
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歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年 - 安政5年9月6日は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。
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{{Infobox 芸術家
| bgcolour = #6495ED
| name = 歌川 広重
| image = Memorial Portrait of Hiroshige, by Kunisada.jpg
| imagesize = 200px
| caption = 広重の[[死絵]]([[歌川国貞|3代豊国]]筆、安政5年(1858年))
| birthdate = [[1797年]]
| location = {{JPN}} [[江戸]]八代洲河岸
| deathdate = {{death date|1858|10|12}}
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| nationality = {{JPN}}
| field = [[浮世絵]]
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| works = 『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]』『[[名所江戸百景]]』
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| influenced by = [[歌川豊広]]、[[葛飾北斎]]
| influenced = [[小林清親]]、[[印象派]]等の西洋芸術
| awards =
}}
'''歌川 広重'''(うたがわ ひろしげ、[[寛政]]9年([[1797年]]) - [[安政]]5年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[1858年]][[10月12日]])は、[[江戸時代]]の[[浮世絵師]]。本名は安藤重右衛門。幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。
[[江戸]]の[[定火消し]]の安藤家に生まれ[[家督]]を継ぎ、その後に浮世絵師となった<ref name=hikae>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=49}}</ref>。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]や[[クロード・モネ|モネ]]などの西洋の[[画家]]にも影響を与えた。
== 人物・略歴 ==
[[Image:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|thumb|250px| 東海道五十三次之内 日本橋]]
[[Image:Hiroshige Atake sous une averse soudaine.jpg|right|thumb|160px|[[名所江戸百景]] [[大はしあたけの夕立]]]]
広重は、[[江戸]]の[[八重洲|{{ruby|八代洲河岸|やよすがし}}]][[定火消]]屋敷{{efn|八代洲河岸は和田倉門から馬場先門周辺にかけての江戸城内濠(馬場先濠)沿いを指し、定火消屋敷は現在[[明治生命館]]が建つ場所(東京都千代田区丸の内二丁目)にあった。この地名の変遷については[[八重洲]]参照。}}の[[同心]]、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が[[火消]][[同心]]職を継ぐ。同年12月に父も死去。
幼いころからの絵心が勝り、[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])15歳のころ、初代'''[[歌川豊国]]'''の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、'''[[歌川豊広]]'''([[1774年]]-[[1829年]])に入門。翌年([[1812年]])に師と自分から一文字ずつとって'''歌川広重'''の名を与えられ、[[文政]]元年([[1818年]])に一遊斎の号を使用してデビュー。
[[文政]]4年([[1821年]])に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。
[[文政]]6年([[1823年]])には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となったが、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
始めは[[役者絵]]から出発し、やがて[[美人画]]に手をそめたが、文政11年([[1828年]])師の豊廣没後は[[風景画]]を主に制作した。[[天保]]元年([[1830年]])一遊斎から'''一幽斎廣重'''と改め、[[花鳥画|花鳥図]]を描くようになる。
天保3年 ([[1832年]])、仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専心することとなった。'''一立齋'''(いちりゅうさい)と号を改めた。また立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、このころ[[大岡雲峰]]に就いて[[南画]]を修めている<ref>歌川広重伝」『浮世絵師歌川列伝』「</ref>。
この年、公用で[[東海道]]を上り、絵を描いたとされるが、現在では疑問視されている。翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、短冊版の花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、そのほか[[歴史画]]・[[張交絵]]・[[戯画]]・[[玩具絵]]や[[春画]]、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに、肉筆画([[肉筆浮世絵]])・[[摺物]]・[[団扇絵]]・[[双六]]・絵封筒ほか絵本・[[合巻]]や[[狂歌]]本などの[[挿絵]]も残している。そうした諸々も合わせると総数で2万点にも及ぶと言われている。
天保7年(1836年)8月14日に柳橋万八楼にて開催されて[[曲亭馬琴]]の古稀祝賀書画会に出席している。
天保8年(1837年)、[[中山道]]を経由して[[京]]、[[大坂]]から[[四国]]の[[丸亀]]へ旅行をして、帰路は[[奈良]]、[[伊勢]]を経て[[東海道]]を通って江戸へ帰った。
天保9年(1838年)閏4月18日に柳橋河内屋にて開催された[[柳川重信 (2代目)|二代目柳川重信]]の書画会に出席している。
安政5年没。享年62。死因は[[コレラ]]だったと伝えられる。墓所は[[足立区]]伊興町の[[東岳寺 (足立区)|東岳寺]]。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人[[歌川国貞|歌川豊国(三代目)]]の筆になる「[[死絵]]」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
<blockquote>''東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん''</blockquote>
(「死んだら[[西方浄土]]の名所を見てまわりたい」の意)
{{-}}
=== 江戸での住居 ===
[[文久]]年間([[1861年]]から[[1863年]])の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の[[京橋 (東京都中央区)|京橋]])に広重の住居があり<ref>[[#白石|白石(1993)]]</ref>、西隣には[[狩野永悳]]の旧居が印刷されている。
その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである<ref>[[#関根|関根(1899)]]</ref>。
=== 辞世の句 ===
[[辞世の句]]は、
:; 東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む
であるというが、「[[#広重の襲名者たち|後代の広重]]の作ではないか」とする見解もある。
[[明治]]15年([[1882年]])4月(広重の死後24年目)、門人達が、墨江須崎村の[[秋葉神社 (墨田区)|秋葉神社]]{{efn|現住所は東京都[[墨田区]]向島4-9-13}}に碑を建立したが、[[第二次世界大戦]]の[[東京大空襲]]により破壊され、現在は残っていない。
=== 墓所 ===
[[File:Grave_of_Ando_Hiroshige_01.JPG|thumb|東京都足立区の東岳寺境内の初代広重墓及び記念碑]]
流行の疫病([[コレラ]])により安政5年([[1858年]])[[9月6日]]61歳で没{{efn|『[[浮世絵類考|増補浮世絵類考]]』では、62歳で死亡とある。}}。墓所は東京の足立区にある[[禅宗]][[東岳寺 (足立区)|東岳寺]]である{{efn|当初、浅草北松山町にあったが、[[関東大震災]]により、[[足立区]]伊興本町1-6 に移転、[[東武鉄道|東武]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]][[竹ノ塚駅]]より徒歩圏内。}}。
{{-}}
== 特色 ==
=== ヒロシゲブルー ===
[[Image:Hiroshige A ferry on the river.jpg|230px|left|thumb|京都名所之内 淀川]]
[[Image:Hiroshige Hokusai Monet.JPG|270px|right|thumb|左:広重 右下:[[葛飾北斎|北斎]] 右上:[[クロード・モネ|モネ]]の構図の類似例]]
歌川広重の作品は、[[ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、大胆な構図などとともに、[[青色]]、特に[[藍色]]の美しさで評価が高い。
この鮮やかな青は日本古来の藍([[インディゴ]])の色と間違えられることがあるが、当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍つまり[[紺青]]である。木版画の性質から油彩よりも鮮やかな色を示すため、欧米では「ジャパンブルー」、あるいは[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]・ブルー([[ラピスラズリ]])になぞらえて「'''ヒロシゲブルー'''」とも呼ばれる。
ヒロシゲブルーは[[19世紀]]後半の[[フランス]]に発した[[印象派]]の画家や、[[アール・ヌーヴォー]]の芸術家らに影響を与えたとされ、当時[[ジャポニスム]]の流行を生んだ要因の一つともされている<ref>田辺昌子監『カラー版徹底図解 浮世絵』新星出版社、2011年、ISBN 978-4-405-10701-4、p.40</ref><ref>[https://www.adachi-hanga.com/hokusai/page/enjoy_89 北斎・広重の浮世絵に見るジャパンブルー 〜渋沢栄一の生きた時代〜 アダチ版画研究所]</ref>。
{{-}}
=== 東海道往復旅行 ===
[[Image:Hiroshige nuit de neige à Kambara.JPG|250px|left|thumb|東海道五十三次之内 [[蒲原町|蒲原]]]]
[[Image:Hiroshige, Landscape 3.jpg|250px|right|thumb|東海道五十三次之内 庄野]]
天保4年([[1833年]])、傑作といわれる『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]絵』が生まれた。この作品は[[遠近法]]が用いられ、風や[[雨]]を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
この連作の前年の天保3年(1832年)秋、幕臣でもあった広重は伝を頼りに幕府の一行(御馬進献の使)に加わって上洛([[京都]]まで[[東海道]]往復の旅)し、実際の風景を目の当たりにする機会を得た、とする伝承が伝わる。一方、実際には旅行をしていないのではないかとする説もある<ref>[[永田生慈]] 「広重の動静と作品 問題点を中心として」『<small>生誕200周年記念 特別展</small> 歌川広重展』図録所収、1996年</ref>。
また、同作は[[司馬江漢]]の洋画を換骨奪胎して制作したとする説もある(元伊豆高原美術館長・[[對中如雲]]が提唱した)。(外部リンクに、これに対する否定説を述べた『司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について』あり。)
{{-}}
=== 甲州日記 ===
{{main|甲州日記}}
[[ファイル:Hiroshige Mt fuji 4.jpg|170px|right|thumb|富士三十六景之内 甲斐御坂越]]
[[江戸時代]]中期には生産力の向上から都市部では学問や遊芸、[[祭礼]]・[[年中行事]]など[[町人文化]]が活性化し、[[幕府直轄領]]時代の[[甲斐国]][[甲府城下町|甲府]]([[山梨県]][[甲府市]])でも江戸後期には華麗な幕絵を飾った盛大な[[甲府道祖神祭礼]]が行われており、甲府商人の経済力を背景に江戸から広重ら著名な絵師が招かれて幕絵製作を行っている。広重は天保12年([[1841年]])に甲府緑町一丁目(現若松町)の町人から[[幕絵]]製作を依頼され、同年4月には江戸を立ち[[甲州街道]]を経て甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。この時の記録が『甲州日記』(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際に道中や滞在中の写生や日記を書き付けられており、現在の[[八王子市]]から見た[[高尾山]]、甲府市内から見た[[富士山]]や市内の[[甲斐善光寺]]、[[身延町]]の[[富士川]]など甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれており広重の作品研究に利用されているほか、甲府での芝居見物や接待された[[料理屋]]の記録など、近世甲府城下町の実態を知る記録資料としても重視されている。
日記によれば広重は同年4月5日に甲府へ到着し、滞在中は甲府町民から歓迎され句会や[[芝居]]見物などを行っている。日記は一時中断して11月からはじまっており、この間には幕絵は完成し、手付金は5両であったという。幕絵は東海道の名所を描いた39枚の作品で、甲府柳町に飾られたという。日記の中断期間中は幕絵制作に専念していた可能性や、制作のためにいったん江戸で戻っていた可能性などが考えられている。広重の製作した幕絵は現存しているものが少ないが、山梨県立博物館には2枚の幕絵が所蔵されており、甲府市の旧家には下絵が現存している。
また、幕絵以外にも甲府町人から依頼された[[屏風絵]]や[[襖絵]]などを手がけており、甲府商家の[[大木コレクション]]([[山梨県立博物館]]所蔵)には作品の一部が残されている。
日記は甲府滞在記録のほか甲斐名所のスケッチも記されており、一部は『[[不二三十六景]]』において活かされている。『甲斐志料集成』などに収録され知られていたが、原本は[[関東大震災]]で焼失している。発見された写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。3代広重が[[1894年]]に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされ、[[1925年]]に[[イギリス人]]研究家[[エドワード・ストレンジ]]が著書で紹介して以来、行方不明であった。[[2005年]]に[[ロンドン]]のオークションで[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]が落札、[[栃木県]][[那珂川町]][[那珂川町馬頭広重美術館|馬頭広重美術館]]の学芸員が本物と鑑定した。約80年ぶりに発見されたのである([[2006年]][[9月5日]]付[[朝日新聞]])。
{{-}}
=== 肉筆画 ===
[[Image:Hiroshige Van Gogh 1.JPG|thumb|left|左:広重 右:ゴッホの模写]]
[[File:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|thumb|right|左:広重 右:ゴッホの模写]]
版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。
有名なのが、俗に「[[天童広重]]」とも呼ばれる200点以上の肉筆画で、[[天童藩]]から依頼されたものである。当時、藩財政が逼迫したので藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていた。1851年、その返済の代わりとして広重の絵を贈った。
なお、広重の遠近法は印象派以後の画家、特に[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]([[1853年]]-[[1890年]])に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては[[葛飾北斎|北斎]]や、歌川の始祖[[歌川豊春|豊春]]([[1735年]]-[[1814年]])の[[浮絵]]にみられる。
{{-}}
== 広重の襲名者たち ==
{{Double image aside|right
|100 views edo 048b.jpg|150|100 views edo 114.jpg|150|
『[[名所江戸百景]]』中の二代目広重作品。左が「赤坂桐畑雨中夕けい」、右は「びくにはし雪中」。
}}
; [[歌川広重 (2代目)|二代目]]([[1826年]](文政9年) - [[1869年]](明治2年)<ref name="白井" />)
: 二代目広重も初代広重と同じく父は定火消同心だった<ref name="白井">{{Cite web|和書|author=白井和雄|url=https://www.isad.or.jp/pdf/information_provision/information_provision/no110/57p.pdf |title=江戸時代の消防事情5|publisher=一般財団法人 消防防災科学センター|accessdate=2020-08-06}}</ref>。[[藤懸静也]]<ref>[[#藤懸|藤懸(1924)]]</ref>によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を[[歌川重宣|重宣]]という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち[[慶応]]元年([[1865年]])妻22歳の時、離縁となっている。その後、しばしば[[横浜市|横浜]]に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。また、「喜齋立祥」の画号を用いて制作したがその中で、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。なお、『[[名所江戸百景]]』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。
; [[歌川広重 (3代目)|三代目]]([[1842年]](天保13年) - [[1894年]](明治27年)<ref name="白井" />)
: 初代広重の門下<ref name="白井" />。俗称は後藤寅吉である。離縁後のお辰を妻とした。号は一笑齋。
; [[歌川広重 (4代目)|四代目]](菊池貴一郎、[[1849年]](嘉永2年) - [[1925年]](大正14年)<ref name="白井" />)
: 二代目広重の門下<ref name="白井" />。三代目夫人の八重子と[[清水晴風]]らが相談して、四代目広重を襲名させた。菊地家は安藤家と親しかったためである。最初は版画を制作し、武者絵などを多く書いたが、後に[[書家]]となった。貴一郎は浮世絵に関する著作を出版している<ref>[[#菊地|菊地(1965)]]</ref>。
; [[歌川広重 (5代目)|五代目]](菊池寅三、[[1890年]](明治23年) - [[1968年]](昭和43年)<ref name="白井" />)
: 四代目(菊池貴一郎)の息子が継いでいる。
== 門人 ==
広重の門人には二代目広重、三代目広重のほか、[[歌川広景]]、[[歌川重清]]、[[歌川重昌]]、[[暁斎重晴]]、[[歌川重房]]、[[歌川重春]]、重美、重華、[[歌川重久]]、重芳、[[歌川重歳]]、[[遠浪斎重光|歌川重光]]、[[歌川重丸]]、[[紫紅]]、[[歌川芳延]]、[[東岳 (浮世絵師) |東岳]]という絵師が合計で18名がいた。重晴は清水氏で暁風とも号し、重春と同一人かともいわれる。重房は本名を吉野勝之助と云い、[[安政]]の頃に活躍した。
== 主な作品 ==
[[ファイル:Hiroshige16 kanbara.jpg|thumb|right|200px|東海道五十三次 蒲原]]
=== 錦絵 ===
* 『傾城貞かがみ』(1818)、役者絵
* 『初代中村大吉の清盛の乳人八条局 初代中村芝翫の安芸守平清盛』(1818)、間判の役者絵
* 『見立座敷狂言』(1818 - 1830)、大判3枚続の役者絵
* 『浅草奥山貝細工』(1820)、大判の花鳥画
* 『外と内姿八景』(1821)、美人画
* 『東都名所拾景』(1825 - 1831ころ)、横中判で10枚揃物
* 『浅草観世音千二百年開帳』(1827)、大判3枚続
* 『風流おさなあそび』(1830 - 1834ころ)、横大判の[[玩具絵]]で、男子と女子の2バージョンがある
* 『{{仮リンク|魚づくし|wikidata|Q96279202}}』(1830 - 1843ころ)、花鳥画
* 『{{仮リンク|忠臣蔵 (歌川広重)|wikidata|Q109448866}}』(1830 - 1844ころ)、横大判で16枚揃物の役者絵。仮名手本忠臣蔵では余り上演されない十一段目「鎌倉の光明寺へ引き上げ」まで描いている。
* 『東都名所』[[川口屋正蔵]]版(1832)、横大判で10枚揃物、俗に「{{仮リンク|一幽斎がき東都名所|wikidata|Q96276456}}」
* 『東都名所』[[佐野屋喜兵衛|喜鶴堂]]版(1832)
* 『{{仮リンク|月二拾八景|wikidata|Q99486416}}』(1832)、大短冊判で、28景と云いながら実際は2枚しかない。「葉ごしの月」「弓張月」
* 『月に雁』(1832-35ころ)、大短冊判。満月の下に描かれた背景は「白雲」「赤蔦」の二種類がある<ref>文化遺産オンライン・作品一覧より広重「月に雁」</ref>。
* 『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]』[[竹内孫八|保永堂]]版(1833 - 1834)、横大判で55枚揃物、53の宿場と江戸と京都を描く
* 『[[近江八景#由来|近江八景]]』山本屋版・保永堂版(1834)
* 『{{仮リンク|京都名所|wikidata|Q75211901}}』(1834)、横大判で10枚揃物
* 『{{仮リンク|浪花名所図絵|wikidata|Q109451024}}』(1834)、横大判で10枚揃物
* 『{{仮リンク|四季江都名所|wikidata|Q99488690}}』(1834)、中短冊判で4枚揃物
* 『{{仮リンク|義経一代記|wikidata|Q99506419}}』(1834 - 1835)、歴史画
* 『諸国六玉河』蔦重版(1835 - 1936)、横大判で6枚揃物
* 『[[木曽海道六十九次]]』(1835 - 1842)、「宮ノ越」など、横大判で70枚揃物、渓斎英泉の後を継ぐ
* 『[[江戸高名会亭尽]]』(1835 - 1842ころ)、横大判で30枚揃物
* 『[[金沢八景]]』(1836)、横大判で8枚揃物
* 『{{仮リンク|本朝名所|wikidata|Q99486149}}』(1837)、横大判で15枚揃物
* 『{{仮リンク|曽我物語図絵|wikidata|Q99495215}}』(1837 - 1848ころ)、竪大判で30枚揃物の物語絵、上部を雲形で仕切り絵詞を入れている
* 『{{仮リンク|江戸近郊八景|wikidata|Q60568962}}』(1838)、横大判で8枚揃物
* 『東都名所』藤彦版(1838)
* 『{{仮リンク|江都勝景|wikidata|Q99506604}}』(1838)
* 『{{仮リンク|東都司馬八景|wikidata|Q99486048}}』(1839)、横大判で8枚揃物
* 『即興かげぼしづくし』(1839 - 1842)、竪中判の2丁掛で玩具絵
* 『和漢朗詠集』(1839 - 1842ころ)
* 『諸芸稽古図絵』(1839 - 1844ころ)、横大判の4丁掛で4枚揃物の玩具絵、子供の稽古事16種を戯画風に描いた
* 『東海道五拾三次』佐野喜版(1840)、俗に「狂歌東海道」
* 『{{仮リンク|新撰江戸名所|wikidata|Q99487435}}』(1840)
* 『{{仮リンク|東都名所坂づくし|wikidata|Q99485801}}』(1840 - 1842ころ)
* 『東都名所之内隅田川八景』(1840 - 1842ころ)
* 『{{仮リンク|日本湊尽|wikidata|Q99487206}}』(1840 - 1842ころ)
* 『参宮道』(1840 - 1844ころ)、八つ切判で24枚揃物、四日市から二見浦までを描く
* 『東海道五十三次』[[江崎屋吉兵衛|江崎]]版(1842)、俗に、「行書東海道」
* 『甲陽猿橋之図』『雪中富士川之図』(1842)、竪大判の竪2枚続、版元は「甲陽」が[[蔦屋吉蔵]]、「雪中」が佐野屋喜兵衛、縦長の構図にそそり立つ渓谷の絶壁と猿橋の姿を見上げる構図で描き、遠景の集落と満月が描かれている
* 『[[東海道五十三對|東海道五十三対]]』(1843)、三代豊国・国芳との合作
* 『諸国嶋づくし』(1843 - 1846ころ)、[[団扇絵]]
* 『教訓人間一生貧福両道中の図』(1843 - 1847ころ)、横3枚続の玩具絵
* 『娘諸芸出世双六』(1844 - 1848ころ)、間判4枚貼りの双六で、ふりだしは学芸の基礎である手習いで上りは御殿の奥方になる
* 『{{仮リンク|小倉擬百人一首|wikidata|Q69734179}}』(1846)、100枚揃物で三代豊国・国芳との合作
* 『春興手習出精雙六』(1846)、大判2枚貼りの双六で、寺子屋の学習内容と生活風習がテーマ
* 『東海道』(1847)、俗に「隷書東海道」
* 『東海道五十三図絵』(1847)、俗に「美人東海道」の美人画
* 『狂戯芸づくし』(1847 - 1848ころ)、竪大判の戯画
* 『相州江ノ島弁財天開帳参詣群衆之図』(1847 - 1852ころ)、竪大判の横3枚続
* 『{{仮リンク|江戸名所五性|wikidata|Q108326756}}』(1847 - 1852ころ)、竪大判で5枚揃物の美人画
* 『本朝年歴図絵』(1848 - 1854ころ)、物語絵で、日本書紀に材をとり、古代天皇の時代ごとに、説明文を上部に記し下部に絵を描く
* 『{{仮リンク|東海道張交図会|wikidata|Q109453624}}』(1848 - 1854ころ)、張交絵
* 『東都雪見八景』(1850ころ)、横大判で8枚揃物
* 『伊勢名所二見ヶ浦の図』(1850ころ)、竪大判の横3枚続
* 『五十三次張交』(1852)、張交絵
* 『{{仮リンク|箱根七湯図会|wikidata|Q99489130}}』(1852)
* 『源氏物語五十四帖』(1852)、物語絵
* 『五十三次』(1852)、俗に「人物東海道」
* 『[[不二三十六景]]』(1852)、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれている
* 『国尽張交図絵』(1852)、張交絵
* 『浄る理町繁花の図』(1852)、竪大判で7枚揃物の戯画、人形浄瑠璃の登場人物を商売人に置き換えている
* 『[[六十余州名所図会]]』(1853 - 1856)、竪大判で70枚揃物
* 『双筆七湯廻』(1854)、団扇絵で7枚揃物、三代豊国との合作
* 『童戯武者尽』(1854)、戯画
* 『東都名所年中行事』(1854)、竪大判で12枚揃物、1年の12か月を扱った
* 『双筆五十三次』(1854 - 1855)、三代豊国との合作
* 『当盛六花撰』(1854 - 1858)、竪大判で10枚揃物の役者絵、背景に花が描かれている、三代豊国との合作
* 『五十三次名所図絵』(1855)、俗に「竪の東海道」
* 『[[名所江戸百景]]』(1856 - 1859)、竪大判で120枚揃物
* 『諸国六玉川』丸久版(1857)、竪大判で6枚揃物
* 『武陽金澤八勝夜景』『阿波鳴門之風景』『木曽路之山川』(1857)、竪大判の横3枚続
* 『大山道中張交図会』(1857 - 1858)、張交絵
* 『山海見立相撲』(1858)、横大判で20枚揃物
* 『[[冨二三十六景]]』(1859)、竪大判で37枚揃物、版下絵は1858年4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏、結果的に最後の作品となった、版元は蔦屋吉蔵、富士を描いた連作で『名所江戸百景』と同様に風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図の印像
=== 肉筆浮世絵 ===
* 『琉球人来貢図巻』(1807)、紙本墨画1巻、[[浮世絵太田記念美術館]]所蔵、広重10歳の時の作品
* 『傾城図』(1818 - 1822ころ)、紙本着色、[[日本浮世絵博物館]]所蔵
* 『[http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034784 行列図]』(1832)、絹本着色、[[東京国立博物館]]所蔵
* 『桜と小禽図』(1835)、杉戸板地着色、泉谷寺所蔵
* 『煙管をもつ立美人図』、絹本着色、[[出光美術館]]所蔵
* 『鬼念仏と美人図』、紙本墨画淡彩、出光美術館所蔵
* 『鴻ノ台図屏風』(1841)、絹本着色六曲一隻、[[山梨県立博物館]][[大木コレクション]]
* 『玉川の富士・利根川筑波図』(1848 - 1853)、絹本着色双幅、[[ニューオータニ美術館]]所蔵
* 『日光山裏見ノ滝 日光山霧降ノ滝 日光山華厳ノ瀧』(1849 - 1851ころ)、絹本着色3幅対、浮世絵太田記念美術館所蔵
* 『上野中ノ嶽霧晴 上野妙儀山雨中 上野榛名山雪中』(1849 - 1851ころ)、絹本着色3幅対、浮世絵太田記念美術館所蔵
* 『御殿山花見図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
* 『利根川図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
* 『本牧風景図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
* 『高尾図』、紙本淡彩、ニューオータニ美術館所蔵
* 『武相名所手鑑・馬入川舟渡』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
* 『武相名所手鑑・南郷之松原左り不二』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
* 『高輪の雪図・両国の月図・御殿山の花図』、絹本着色3幅対、[[鎌倉国宝館]]所蔵
* 『不二川の図』、絹本着色短冊、城西大学水田美術館所蔵
* 『不二望岳図』、絹本着色、[[熊本県立美術館]]所蔵
* 『屋根船の芸妓図』、紙本淡彩、熊本県立美術館所蔵
===草双紙・絵本===
* 『狂歌紫の巻』(1818)、絵入り狂歌本
* 『音曲情糸道』(1820)、合巻挿絵
* 『くま坂物がたり』(1821)、合巻挿絵
* 『出謗題無智哉論』(1822)、合巻挿絵
* 『白井権八』(1824)、合巻挿絵
* 『義経千本桜』(1825)、合巻挿絵
* 『御膳浅草法』(1826)、合巻挿絵
* 『寶船桂帆柱』(1827)、合巻挿絵
* 『丹波与作関の小万春駒駅談』(1827)、読本挿絵
* 『狂歌山水奇鑑』(1831)、絵入り狂歌本
* 『狂歌隅田川余波』(1833)、絵入り狂歌本
* 『旗飄菟水葛葉』(1834)、合巻挿絵
* 『俳諧三十六句撰』(1837)、絵入り俳諧本
* 『絵本忠臣蔵』(1845)、絵本
* 『菅原伝授手習鑑』(1846)、絵本
* 『絵本膝栗毛』(1846 - 1849)、合巻挿絵で、国芳・英泉との合作
* 『立斎草筆画譜』(1848 - 1851)、絵本
* 『絵本江戸土産』(1850 - 1857)、全10編の絵本で、1編から7編まで担当し、あとは二代広重が描いた
* 『略画光琳風立斎百図』(1851)、琳派調の草花・人物・風俗等を軽妙なタッチで描いた絵手本
* 『岐蘇名所図会』(1851-1852)、絵入り狂歌本
* 『狂歌四季人物』(1855)、絵入り狂歌本
* 『狂歌江都名所図会』(1856)、全16編の絵入り狂歌本で、1編から14編まで担当し、あとは二代広重が描いた
* 『狂歌文茂智登理』(1858)、絵入り狂歌本
* 『富士見百図』(1859)、富士の姿をリアルに描いた絵本で、作者の死により初編のみで未完に終わった
== 所蔵美術館 ==
各所で所蔵されるが、光線による劣化があるため常時展示はしていないことが多い。日本国内では、
* [[東京国立博物館]](東京都[[台東区]])
* [[那珂川町馬頭広重美術館]](栃木県[[那珂川町]])
* [[神奈川県立歴史博物館]]([[神奈川県]][[横浜市]])
* [[中山道広重美術館]]([[岐阜県]][[恵那市]])
* [[東海道広重美術館]]([[静岡県]][[静岡市]]、[[由比宿]][[本陣]])
* [[広重美術館 (山形県)|広重美術館]]([[山形県]][[天童市]])
* [[海の見える杜美術館]]([[広島県]][[廿日市市]])
* 安藤広重浮世絵美術館(東京都[[板橋区]])
に所蔵されている。
国外では
* [[メトロポリタン美術館]]([[アメリカ合衆国]]、[[ニューヨーク]])
* [[ボストン美術館]](アメリカ合衆国、[[ボストン]])
* [[ブルックリン美術館]](アメリカ合衆国、ニューヨーク)
* [[ギメ東洋美術館]]([[フランス共和国]]、[[パリ]])
* [[ビクトリア国立美術館]]([[オーストラリア]]、[[メルボルン]])
に作品がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=関根黙庵(金四郎)|authorlink=関根黙庵|date=1899-05|title=本朝浮世画人傳|publisher=修学堂|series=2冊中の下巻|isbn=|ref=関根}}
* {{Cite book|和書|author=藤懸静也|authorlink=藤懸静也|date=1924-05|title=浮世繪|publisher=[[雄山閣]]|series=|isbn=|ref=藤懸}}
** {{Cite book|和書|author=|date=1973-05|title=増訂浮世絵|publisher=雄山閣|series=|isbn=|ref=藤懸2}}
* {{Cite book|和書|author=菊池貴一郎|authorlink=歌川広重 (4代目)|year=1965|title=絵本江戸風俗往来|publisher=[[平凡社]] [[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]|isbn=|ref=菊地}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木重三|authorlink=鈴木重三|year=1975|title=広重|publisher=平凡社|series=太陽浮世絵シリーズ|isbn=|ref=鈴木}}
*[[日本浮世絵協会]]編 『原色浮世絵大百科事典』第2巻 [[大修館書店]]、1982年
* {{Cite book|和書|author=吉田漱|authorlink=吉田漱|date=1987-03|title=浮世絵の見方事典|publisher=[[北辰堂]]|series=|isbn=978-4-8928-7152-8|ref=吉田}}
* {{Cite book|和書|author=稲垣進一|authorlink=稲垣進一|date=1990-09|title=図説浮世絵入門|publisher=[[河出書房新社]]|series=ふくろうの本|isbn=978-4-3097-2476-8|ref=稲垣}}
* {{Cite book|和書|author=白石つとむ|authorlink=白石つとむ|date=1993-03|title=江戸切絵図と東京名所絵|publisher=[[小学館]]|series=|isbn=978-4-0968-0432-2|ref=白石}}
** {{Cite book|和書|author=|date=2002-11|title=普及版 江戸切絵図と東京名所絵|publisher=小学館|series=|isbn=978-4-0968-0435-3|ref=白石2}}
* {{Cite book|和書|author=飯島虚心|authorlink=飯島虚心|others=[[玉林晴朗]] 校訂|date=1993-06|title=浮世絵師歌川列伝|publisher=[[中央公論社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=978-4-1220-2007-8|ref=飯島}}
* {{Cite book|和書|author=|date=1996-03|title=<small>生誕200周年記念 特別展</small> 歌川広重展図録|publisher=[[浮世絵 太田記念美術館]]|series=|isbn=|ref=}}
* 『Bien(美庵) Vol.32 特集「逆襲の広重」』、2005年5-6月号、[[藝術出版社]]、[[中右瑛]]、[[高橋克彦]]、[[守屋正彦]]、[[井澤英理子]]。
* [[小林忠]]監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-5829-4493-8
* {{Cite book|和書|author=内藤正人|authorlink=内藤正人|date=2007-06|title=もっと知りたい歌川広重 生涯と作品|publisher=[[東京美術]]|series=アート・ビギナーズ・コレクション|isbn=978-48087-0817-7|ref=内藤}}
* 『広重 初代〜五代広重のガイドブック』、奥田敦子編、太田記念美術館、2007年
* 坂野康隆 『広重の予言「東海道五十三次」に隠された“謎の暗号”』 [[講談社]] 2011年
* [[赤坂治績]] 『広重の富士 完全版』 集英社新書ヴィジュアル版 2011年。ISBN 978-4-08-720574-9
* [[大久保純一]] 『広重 ジャパノロジー・コレクション』 [[角川ソフィア文庫]] 2017年。ISBN 978-4-04-400176-6
== 関連項目 ==
* [[歌川派]]
* [[内田実]]
* [[石摺絵]]
* [[新大橋]]
* [[新 必殺からくり人]] - 広重(演:[[緒形拳]])が全話を通じての仕事の依頼人。本編への登場は第1話と最終話のみだが、オープニングナレーションは広重のモノローグになっている。
== 外部リンク ==
{{Commons category|Utagawa Hiroshige}}
* Art Cyclopedia: [http://www.artcyclopedia.com/artists/hiroshige_ando.html Ando Hiroshige](所蔵館、WebMuseumへのリンクページ - 英語)
<!--リンク切れ* [http://www.users.globalnet.co.uk/~johnxyz/ The Woodblock Prints of Ando Hiroshige](WebMuseumのひとつ - 英語)-->
* [http://tokaido-hiroshige.jp/ 静岡市東海道広重美術館](公式ページ)
* [http://www.hiroshige.bato.tochigi.jp/batou/hp/index.html 那珂川町馬頭広重美術館](公式ページ栃木県那珂川町)
* [https://hiroshige-ena.jp/ 中山道広重美術館](岐阜県恵那市)
* [http://www.hiroshige-tendo.jp/ 広重美術館](山形県天童市)
<!--リンク切れ* [http://www.seibidou.com/category/toukaidou/kaisetu.html 東海道五十三次 図柄説明]-->
* [http://www.museum.pref.yamanashi.jp/2nd_fujisan.htm 山梨県立博物館 博物館資料の中の「富士山」] 「不二三十六景」「冨士三十六景」の紹介。
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/web_ukiyoe/kokan.html |title=司馬江漢作で、広重の「東海道五十三次」の元絵と称する絵について |date=20190330043946}}
* [https://artsandculture.google.com/entity/m07hpgg?categoryId=artist 歌川広重 - Google Arts & Culture]
* [http://www.kagakueizo.org/create/nichieikagaku/345/ 広重]1955年 カラー 19分、科学映像館
* [https://www.ndl.go.jp/landmarks/artists/utagawa-hiroshige-1/ 歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所]|[[国立国会図書館]]
{{Normdaten}}
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[[Category:歌川広重|*]]
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18,585 |
田口玄一
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田口 玄一(たぐち げんいち、1924年1月1日 - 2012年6月2日)は、日本の工学者。品質工学(タグチメソッド)の創始者。
タグチメソッドは1980年代のアメリカ合衆国の技術停滞打破に大きく貢献した。これにより「アメリカを蘇らせた男」と呼ばれ、日本人として3人目のアメリカの自動車殿堂入りを果たした。また、日本でも多くの支持者によって品質工学会が設置されており、2年間で200事例に適用し、100億円以上の効果があった企業もあると言われている。
青山学院大学教授、日本規格協会参与、品質工学フォーラム会長、株式会社オーケン社長を歴任。品質工学会名誉会長、理学博士(九州大学)。
田口は開発・設計工程に品質管理手法を取り入れるタグチメソッドを提唱し、トヨタ自動車、日産自動車、デンソー、フォード・モーターなどを指導した。1980年代前半までにアメリカで高い評価を受けた。
田口は直交表から線点図という概念を作り、一つの直交表から作られる線点図の作成と数え上げを証明した。統計学のように「ばらつき」を「偶然誤差」として理論立てることに真っ向から反対し、「ばらつき」を「必然誤差」としてロバストネスを設計する、そのための方法を打ち立ててきた。田口は、世界の統計学者たちと絶えず論争をしてきたにも関わらず、統計学出身の学者の集まり (ASQ) からも評価された。本当の意味でばらつきを実学に活かした人である。
統計学者との有名な論争を以下に引用する。統計学の大前提は、誤差分布を定義し、その分布に対する対応を考える方法である。
統計学では平均と分散という2つのパラメータで分布を定義する。田口の方法は、平均ではなく理想の値を定義し、理想との差をばらつきとする。理想との差をばらつきの測度に用いるので、分布を定義する必要はない。
田口の方法によれば、分布を定義せずともばらつきに対して最小化する設計解は見出せる。両者の違いは、ガウスの最小二乗法における4つの仮定のうち、正規性の仮定は最も弱い条件であることと似ている。
田口の没後1周年を前にして、2013年5月13日に「田口玄一博士一周忌追悼シンポジウム」が開催された。応用統計学会の「統計科学からみたタグチメソッドの現在・過去・未来」(仮)の特集号の発行に向けた取り組みとして位置付けられ、長男の田口伸らが講演した。
青山学院大学では、講義として統計解析、実験計画法、品質管理、経営数学を担当し、経営工学科で研究室を持っていた。学生との間に垣根を作らないことを重視し、研究室やゼミ生を年1回はそれぞれ自宅に招待し、食事会を催していた。
また、講義では学生自らが実践できるように留意しており、統計解析の講義では官能評価や身近なものの実験・評価を題材に、自由なテーマに基づく調査レポートを課していた。官能評価では『喫煙者と非喫煙者におけるビール銘柄識別能力の比較』『年齢性別の違いによる味覚の敏感さの測定』『和音の識別能力の調査』等が報告され、測定実験では『時報による時計の機能の評価法』『温度によるゴルフボールの飛距離の違いの実験』等が報告された。学生の調査事例の代表的なものは『実験計画法第三版』に掲載されている。
2006年に、水路部で高度方位の計算に従事する女性と爆撃機操縦者の恋人を描いたプラネタリウム番組「戦場に輝くベガ~約束の星を見上げて」が公開された。水路部天文部に勤務経験のある田口も取材に協力しており、制作クレジット・協力一覧に名前を残している。
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田口 玄一は、日本の工学者。品質工学(タグチメソッド)の創始者。 タグチメソッドは1980年代のアメリカ合衆国の技術停滞打破に大きく貢献した。これにより「アメリカを蘇らせた男」と呼ばれ、日本人として3人目のアメリカの自動車殿堂入りを果たした。また、日本でも多くの支持者によって品質工学会が設置されており、2年間で200事例に適用し、100億円以上の効果があった企業もあると言われている。 青山学院大学教授、日本規格協会参与、品質工学フォーラム会長、株式会社オーケン社長を歴任。品質工学会名誉会長、理学博士(九州大学)。
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|known_for=[[品質工学]]([[タグチメソッド]])<br>損失関数<ref group="注">米国ではTaguchi's Loss Functionと呼ばれることもある。</ref>、MTS法<ref group="注">マハラノビス・タグチ・システム、田口本人はマハラノビス・タグチ・シュミット法と呼ばれることを希望。</ref>
|influences=[[増山元三郎]]、[[茅野健]]、<br>[[プラサンタ・チャンドラ・マハラノビス|P.C.マハラノビス]]
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}}
'''田口 玄一'''(たぐち げんいち、[[1924年]][[1月1日]] - [[2012年]][[6月2日]]<ref name=monoist>[[三島一孝]] [https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1305/13/news110.html 「タグチメソッド」生みの親、田口玄一博士の1周忌追悼シンポジウム開催] MONOist製造マネジメントニュース 、2014年2月9日閲覧。</ref>)は、日本の[[工学者]]。[[品質工学]]([[タグチメソッド]])の創始者<ref>[http://diamond.jp/articles/-/4941 田口玄一 設計開発エンジニア 【第45回】 2008年8月6日 ]、ダイアモンドオンライン 世界のビジネスプロフェッショナル 思想家編 2014年2月7日閲覧。</ref>。
タグチメソッドは1980年代の[[アメリカ合衆国]]の技術停滞打破に大きく貢献した。これにより「アメリカを蘇らせた男」と呼ばれ{{Sfn|田口玄一|1999|loc=タイトル、他}}、日本人として3人目のアメリカの[[自動車殿堂]]入りを果たした<ref name=gendai/><ref name=halloffame>[http://www.automotivehalloffame.org/inductee/genichi-taguchi/132/ Genichi Taguchi Automotive Hall of Fame]</ref>。また、日本でも多くの支持者によって品質工学会が設置されており、2年間で200事例に適用し、100億円以上の効果があった企業もあると言われている{{Sfn|田口玄一|1999|p=4}}。
[[青山学院大学]][[教授]]、[[日本規格協会]][[参与]]、品質工学フォーラム[[会長]]、株式会社オーケン[[社長]]を歴任。品質工学会[[名誉会長]]、[[理学博士]]([[九州大学]])。
==業績・評価==
田口は開発・設計工程に品質管理手法を取り入れる[[タグチメソッド]]を提唱し、[[トヨタ自動車]]<ref name=gendai/>、[[日産自動車]]<ref name=gendai/>、[[デンソー]]<ref name=gendai/>、[[フォード・モーター]]<ref name=asq/>などを指導した。1980年代前半までにアメリカで高い評価を受けた<ref name=asq/>。
田口は直交表から線点図という概念を作り、一つの直交表から作られる線点図の作成と数え上げを証明した。[[統計学]]のように「[[統計的ばらつき|ばらつき]]」を「偶然誤差」として理論立てることに真っ向から反対し、「ばらつき」を「必然誤差」として[[ロバストネス]]を設計する、そのための方法を打ち立ててきた。{{要出典範囲|date=2016年3月|田口は、世界の統計学者たちと絶えず論争をしてきたにも関わらず、[[統計学]]出身の学者の集まり (ASQ) からも評価された}}。{{要出典範囲|date=2016年3月|本当の意味でばらつきを実学に活かした人である}}。
統計学者との有名な論争を以下に引用する。統計学の大前提は、誤差分布を定義し、その分布に対する対応を考える方法である。
:田口が出した有名な質問に、「誤差に分布が仮定できるならば、時計の誤差の分布はどうなるのか?」{{Sfn|田口玄一|1999|p=213-214}}という問いがある。統計学者たちは、返答できなかった。時々刻々と値が変化する中で、分布を定義できないのである。
統計学では平均と分散という2つのパラメータで分布を定義する。田口の方法は、平均ではなく理想の値を定義し、理想との差をばらつきとする。理想との差をばらつきの測度に用いるので、分布を定義する必要はない。
田口の方法によれば、分布を定義せずともばらつきに対して最小化する設計解は見出せる。両者の違いは、[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]の[[最小二乗法]]における4つの仮定のうち、正規性の仮定は最も弱い条件であることと似ている。
田口の没後1周年を前にして、2013年5月13日に「田口玄一博士一周忌追悼シンポジウム」が開催された<ref>「[http://www.ism.ac.jp/noe/service-center/2013/02/24/d0004/index.html 田口玄一博士一周忌シンポジウム-統計科学から見たタグチメソッドの現在・過去・未来-]」 統計数理研究所 サービス科学研究センター、2014年2月9日閲覧</ref>。[[応用統計学会]]の「統計科学からみたタグチメソッドの現在・過去・未来」(仮)の特集号の発行に向けた取り組みとして位置付けられ、長男の田口伸らが講演した<ref>[[黒木学]] シンポジウム報告 田口玄一博士一周忌追悼シンポジウム「統計科学からみたタグチメソッドの現在・過去・未来」 [http://www.ism.ac.jp/gaiyo-news/News/No121.pdf 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 統計数理研究所ニュース No.121], p.6.</ref>。
==教育==
青山学院大学では、講義として統計解析、実験計画法、[[品質管理]]、経営数学を担当し、経営工学科で研究室を持っていた。学生との間に垣根を作らないことを重視し、研究室やゼミ生を年1回はそれぞれ自宅に招待し、食事会を催していた{{Sfn|田口玄一|1999|p=136}}。
また、講義では学生自らが実践できるように留意しており、統計解析の講義では官能評価や身近なものの実験・評価を題材に、自由なテーマに基づく調査レポートを課していた。官能評価<ref group="注">人間の感覚を測定器としての評価</ref>では『喫煙者と非喫煙者におけるビール銘柄識別能力の比較』『年齢性別の違いによる味覚の敏感さの測定』『和音の識別能力の調査』等が報告され、測定実験では『時報による時計の機能の評価法』『温度によるゴルフボールの飛距離の違いの実験』等が報告された{{Sfn|田口玄一|1999|p=137-143}}。学生の調査事例の代表的なものは『実験計画法第三版』に掲載されている。
==略歴==
*[[1924年]][[1月1日]] - [[新潟県]]生まれ{{refnest|group="注"|実際には前年12月末生まれだが、両親は数え年を意識して1月1日生まれで届け出た{{Sfn|田口玄一|1999|p=28}}。}}。
*[[1942年]] - [[桐生高等工業学校]]紡織別科卒業<ref name=gendai/>
*1942年 - [[海軍水路部]]天文部
*[[1946年]] - [[厚生省]]衛生統計課
*[[1948年]] - [[文部省]][[統計数理研究所]]
*[[1950年]] - [[電電公社]]電気通信研究所(西堀特別研究室に配属)
*[[1954年]] - [[インド統計大学|インド統計学研究所]][[客員教授]]
*[[1962年]]1月 - [[プリンストン大学]][[大学院]]交換教授(8月帰国)
*1962年3月 - [[博士(理学)|理学博士]]([[九州大学]])
*1962年10月 - 電電公社退職
:1965年からの講義準備をしつつ、日本規格協会、中部品質管理協会で活動。
*[[1965年]]4月 - [[青山学院大学]]理工学部教授(統計学、経営工学科担当){{Sfn|田口玄一|1999|loc=著者紹介}}
*[[1980年]] - サバティカル休暇で渡米、スタンフォード研究所、ゼロックス社、ベル研究所を訪問{{Sfn|田口玄一|1999|p=18-24}}
*[[1981年]] - ベル研究所、ゼロックス社を再訪{{Sfn|田口玄一|1999|p=24}}
*[[1982年]] - [[日本規格協会]]参与
*[[1983年]] - American Supplier Institute(ASI)エグゼクティブ・ディレクター
*[[1990年]] - 株式会社オーケン副社長
*[[1993年]] - 品質工学フォーラム(現 品質工学会)会長
*[[1994年]] - 株式会社オーケン社長
*[[2012年]][[6月2日]] - 心不全で死去<ref> 品質工学会 庶務部会 [http://qes.gr.jp/information/condolences.html 田口玄一博士 ご逝去のお知らせ] Update : 2012.06.05</ref>。
==受賞・栄典==
*[[1954年]] - 日経品質管理文献賞<ref group="注">受賞対象:{{Cite journal|和書|author=田口玄一|title=実験計画法ノート|journal=品質管理|volume=2|number=6|year=1951}}~第5巻、第5号1954年</ref>
*[[1957年]] - 日経品質管理文献賞<ref group="注">受賞対象:{{Cite journal|和書|author=田口玄一、小西省三|title=直交配列表によるわりつけ方(1)|journal=品質管理|volume=7|number=7|year=1956}}、{{Cite journal|和書|author=田口玄一、小西省三|title=直交配列表によるわりつけ方(2)|journal=品質管理|volume=7|number=9|year=1956}}</ref>
*[[1960年]] - [[デミング賞]]本賞
*[[1986年]] - 国際技術協会ロックウェルメダル
*1986年 - 世界の科学技術の殿堂入り
*[[1989年]] - [[藍綬褒章]]
*[[1990年]] - 英国貿易産業省 Honoured as a Quality Gurus
*[[1995年]] - 日本品質管理学会 名誉会員<ref>[http://www.jsqc.org/ja/kiroku_houkoku/meiyo/meiyo.html JSQC 名誉会員一覧]、2014年2月8日閲覧。</ref>
*[[1996年]] - 米国品質管理学会ASQC(後、米国品質学会ASQに改称)より[[ウォルター・A・シューハート|シューハート・メダル]]
*[[1997年]] - 米国[[自動車殿堂]]入り<ref name=gendai/>
*{{要出典範囲|date=2016年3月|[[1998年]]}} - 米国品質学会 ([[ASQ]]) 名誉会員<ref name=asq>[http://asq.org/about-asq/who-we-are/bio_taguchi.html ASQ: About: Genichi Taguchi]</ref>
*1998年 - [[米国機械学会]] ([[ASME]]) 名誉会員<ref>[https://www.asme.org/about-asme/get-involved/honors-awards/achievement-awards/honorary-member Honorary Member - The American Society of Mechanical Engineers]</ref>
*[[1999年]] - 品質工学会 名誉会長
*[[2000年]] - 20世紀の品質チャンピオン賞([[スイス]]国選定)
==著作==
===学位論文===
*{{Cite book|和書|title=Studies on mathematical statistics for quality control|author=田口玄一|publisher=九州大学|year=1962|month=3|series=博士論文|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007814567-00}}<!--授与年月日:昭和37年3月31日-->
===論説集===
*{{Cite book|和書|title=田口玄一論説集 第1巻 - 管理と調節と検査、工程の設計、計測|editor=矢野宏、中島建夫、吉澤正孝 編|publisher=[[日本規格協会]]|year=2011|month=2|isbn=9784542511361}}
*{{Cite book|和書|title=田口玄一論説集 第3巻 - タグチメソッド、その誤解と真実 品質工学解題 技術開発のマネジメント|editor=矢野宏、浜田和孝 編|publisher=日本規格協会|year=2012|month=11|isbn=978-4542511385}}
*{{Cite book|和書|title=田口玄一論説集 第4巻 - MTシステム、音響・通信と画像、人間の識別力とスポーツ|editor=矢野宏、鴨下隆志、矢野耕也 編|publisher=日本規格協会|year=2012|month=3|isbn=978-4542511392}}
===主著===
*{{Cite book|和書|title=推計学による寿命実験と推定法|publisher=[[科学新興社]]|year=1952}}
*{{Cite book|和書|title=公差のきめ方: 組立品を中心として|publisher=日本規格協会|year=1956}}
*{{Cite book|和書|title=直交表と線点図|publisher=丸善|year=1962}}
*{{Cite book|和書|title=実験計画数値表|publisher=丸善|year=1962}}
*{{Cite book|和書|title=実験計画法 上|publisher=丸善|year=1962}}{{Cite book|和書|title=【復刻版】実験計画法 上 第3版|year=2010|month=8|isbn=978-4621082805}}
*{{Cite book|和書|title=実験計画法 下|publisher=丸善|year=1962}}{{Cite book|和書|title=【復刻版】実験計画法 下 第3版|year=2010|month=8|isbn=978-4621082812}}
*{{Cite book|和書|title=統計解析|publisher=丸善|year=1966}}
*{{Cite book|和書|title=計測技術のための実験計画法|publisher=コロナ社|year=1980|month=4|isbn=978-4339031058}}
*{{Cite book|和書|title=管理者,スタッフのためのオフライン品質管理|publisher=中部品質管理協会|year=1981|month=10}}
*{{Cite book|和書|title=品質工学概論 : 設計者のための品質管理|publisher=中部品質管理協会|year=1985|month=7}}
*{{Cite book|和書|title=品質工学の数理|publisher=日本規格協会|isbn=4542511189|year=1999|month=6}}
*{{Cite book|和書|title=タグチメソッドわが発想法: なぜ私がアメリカを蘇らせた男なのか|publisher=経済界|year=1999|month=11|isbn=4766781937}}
*{{Cite book|和書|title=ロバスト設計のための機能性評価―効率的開発の方法|publisher=日本規格協会|year=2000|month=6|isbn=978-4542511224}}
*{{Cite book|和書|title=研究開発の戦略 - 華麗なるタグチメソッドの真髄|publisher=日本規格協会|year=2005|month=6|isbn=978-4542511262}}
===共著===
*{{Cite book|和書|title=ビジネスデータの分析 - 手法と実例|author=田口玄一、横山巽子 著|publisher=丸善|isbn=|year=1975|month=}}
*{{Cite book|和書|title=統計解析|author=田口玄一、横山巽子 著|series=経営工学シリーズ 5|publisher=日本規格協会|isbn=978-4542801059|year=1980|month=2}}
*{{Cite book|和書|title=ベーシック オフライン品質工学|author=田口玄一、横山巽子 著|publisher=日本規格協会|isbn=978-4542511286|year=2007|month=5}}
*{{Cite book|和書|title=ベーシック品質工学へのとびら|author=田口玄一、横山巽子 著|publisher=日本規格協会 |isbn=978-4542511293|year=2007|month=09}}
*{{Cite book|和書|title=ベーシック オンライン品質工学|author=田口玄一、横山巽子 著|publisher=日本規格協会|isbn=978-4542511323|year=2009|month=9}}
===洋書===
*{{Cite book|title=Taguchi on Robust Technology Development: Bringing Quality Engineering Upstream|author=Genichi Taguchi|publisher=ASME Press|year=1992|month=8|isbn=978-0791800287}}
*{{Cite book|title=Robust Engineering: Learn How to Boost Quality while Reducing Costs & Time to Market|author=Genichi Taguchi, Subir Chowdhury, Shin Taguchi|publisher=McGraw-Hill Professional|year=1999|month=10|isbn=978-0071347822}}
*{{Cite book|title=The Mahalanobis-Taguchi System|author=Genichi Taguchi, Subir Chowdhury, Yuin Wu|publisher=McGraw Hill Professional|year=2000|month=8|isbn=978-0071362634}}
*{{Cite book|title=The Mahalanobis-Taguchi Strategy : A Pattern Technology System|author=Genichi Taguchi, Rajesh Jugulum|publisher=John Wiley & Sons|year=2002|isbn=978-0471023333}}
*{{Cite book|title=Computer-Based Robust Engineering: Essential For DFSS|author=Genichi Taguchi, Rajesh Jugulum, Shin Taguchi|publisher=Amer Society for Quality|year=2004|isbn=978-0873896221}}
*{{Cite book|title=Taguchi's Quality Engineering Handbook|author=Genichi Taguchi, Subir Chowdhury, Yuin Wu|publisher=John Wiley|year=2005|isbn=978-0471413349}}
===編集・監修===
*{{Cite book|和書|title=直交配列表とわりつけの型|editor=田口玄一 編|year=1958|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000998526-00}}
*{{Cite book|和書|title=校正方式マニュアル - 技術者が正しく計測するための手引|editor=田口玄一 編|series=JIS使い方シリーズ|publisher=日本規格協会|isbn=978-4542303621|year=1992|month=1}}
*{{Cite book|和書|title=確率・統計|series=経営工学シリーズ 4|author=田口玄一 編著|publisher=日本規格協会|year=1981|month=3}}
*{{Cite book|和書|title=品質工学事例集 日本編一般|series=品質工学講座 5|editor=田口玄一 編|publisher=日本規格協会会|year=1988|month=1|isbn=978-4542511057}}
*{{Cite book|和書|title=最適化設計のための評価技術 - 品質工学における規格化と世界への発信|author=田口玄一 編著|publisher=日本規格協会|year=2000|month=9|isbn=978-4542511231}}
*{{Cite book|和書|title=逆説の技術戦略―タグチメソッドによるブレークスルー|author=田口玄一、矢野宏、ほか編著|publisher=日本規格協会|year=2002|month=11|isbn=978-4542511248}}
*{{Cite book|和書|title=MTシステムにおける技術開発|series=品質工学応用講座|editor=田口玄一、兼高達貮 編|publisher=日本規格協会|year=2002|month=6|isbn=978-4542511149}}
*{{Cite book|和書|title=コンピュータによる情報設計の技術開発―シミュレーションとMTシステム|series=品質工学応用講座|editor=田口玄一、矢野宏 編|publisher=日本規格協会|year=2004|month=6|isbn=978-4542511156}}
*{{Cite book|和書|title=品質工学便覧|editor=田口玄一 監修、品質工学会 編|publisher=日刊工業新聞社|isbn=9784526059506|year=2007|month=10}}
===取材協力===
2006年に、水路部で高度方位の計算に従事する女性と爆撃機操縦者の恋人を描いたプラネタリウム番組「戦場に輝くベガ~約束の星を見上げて」が公開された<ref>[http://www.veganet.jp/vegastory.html ベガで“つながる”ひと・まち・時代 - 戦場に輝くベガ上映実行委員会ウェブサイト]、2014年2月8日閲覧。{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。水路部天文部に勤務経験のある田口も取材に協力しており、制作クレジット・協力一覧に名前を残している<ref>[http://www.veganet.jp/credit.html クレジット]、2014年2月8日閲覧。</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*{{Cite book|和書|title=タグチメソッドわが発想法: なぜ私がアメリカを蘇らせた男なのか|author=田口玄一|publisher=経済界|year=1999|month=11|isbn=4766781937|ref=harv}}
*{{Cite journal|和書|title=父, 田口玄一|author=田口伸|journal=応用統計学|year=2013|volume=42|number=3|pages=pp.189-195|url=http://www.applstat.gr.jp/jjas/13-3.html}}
==関連項目==
*[[実験計画法]]、[[品質工学]]、直交表、[[SN比]]、損失関数、[[マハラノビス距離]]
*[[増山元三郎]]、[[茅野健]]、[[北川敏男]]、[[プラサンタ・チャンドラ・マハラノビス]]、[[田口伸]]
*[[ウォルター・A・シューハート]]、[[W・エドワーズ・デミング]]
{{Scientist-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たくち けんいち}}
[[Category:日本のシステム工学者]]
[[Category:日本の経営工学者]]
[[Category:NTTの人物]]
[[カテゴリ:日本の文部科学技官]]
[[Category:青山学院大学の教員]]
[[Category:群馬大学出身の人物]]
[[Category:藍綬褒章受章者]]
[[Category:米国自動車殿堂殿堂者]]
[[Category:新潟県出身の人物]]
[[Category:1924年生]]
[[Category:2012年没]]
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ディスプレイ (コンピュータ)
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コンピュータの分野でディスプレイ(英: display)とは、文字、図形、画像、映像(動画)などを表示する装置。モニタ (英: monitor) ともいう。
コンピュータの出力装置のひとつである。
画像を表示する方法には以下のようなものがある。
このうち、ビデオプロジェクタは、デジタルミラーデバイス (DMD) や液晶パネルの映像をレンズで拡大表示するものが多い。
デスクトップパソコン向けの単体のディスプレイ装置は、かつては、ほとんどがブラウン管式であった。しかし、1990年代後半から液晶ディスプレイが普及し、2007年頃までにパソコン専用のCRTの生産はほとんど行われなくなった。
ビデオ信号はビデオ表示回路(ビデオカードなど)で生成発生され、少なくとも一つ以上の表示規格を満たす。規格には画面サイズ(表示領域の大きさ、表示画素数では無いことに注意)、発色数、水平および垂直方向の走査周波数、信号インターフェースの電気的特性などがあり、これらのいくつかは互いに関係しあう。
コンピュータディスプレイは、他に「ビデオ表示端末」(VDT) とも呼ばれる。
パソコン専用の単体のディスプレイ装置(ブラウン管・液晶とも)については、パーソナルコンピュータ (PC) 本体とともに、「資源の有効な利用の促進に関する法律」の適用を受けることになり、メーカーによる回収・リサイクルが制度化された。詳しくはパーソナルコンピュータ#電子ごみ問題とリサイクルを参照のこと。
ディスプレイに表示される総画素数。「ヨコ × タテ」のように掛け算の書式で表現することが一般的である。 おもに1920×1080 (Full-HD) 。1世代前や小型のものでは1024x768など。高精細な2048×1536 (QXGA) 、3840×2160(フルUHD)、3940×2160 (4K) などが使われることもある。
ディスプレイ解像度とPC側の設定を食い違う状態にし拡大または縮小処理させると文字がぼやけて見づらくなるので、PC側の設定をディスプレイの解像度に合致させて用いるのが望ましい。
リフレッシュレートとは、表示画像を「リフレッシュ」つまり書き換える頻度。表示の書き換え頻度。1秒間に何回描き換えるか、ということ。単位はヘルツ(Hz)。 リフレッシュレートがあまりに低いと「ちらつき」が感じられるようになり見づらくなる。解像度を上げるほどリフレッシュレートの上限は低くなる関係にある。
画面の横と縦の長さ(あるいは画素数)の比。一般的には「横:縦」のように「:」をつかう書式で表記する。たとえば解像度が640×480ピクセルの場合アスペクト比は「4:3」と表記するなど、互いに素な整数の比で表示することが一般的。まれに縦を「1」に固定して「1.33:1」などと表示することもある(つまり「4:3」と「1.33 : 1」は同じアスペクト比である)。
ブラウン管ディスプレイのアスペクト比は4:3が主流だった。液晶ディスプレイのほうは、1990年代はおもに4:3や5:4(1280×1024ドット)だったが、2000年代半ばから16:10のワイド画面が特に家庭向けで多くを占めるようになり、さらに2008 - 2009年ころにデジタルハイビジョン放送・薄型テレビと同じアスペクト比である16:9が主流になった。
LCD等、ディスプレイ技術によっては、原理的に色のレジストレーションずれ(RGB各色の輝点の中心が完全にはそろわないこと)がある。このため、色によって、輝点の中心が異なる事になる。2001年頃から、ソフトウェア設計者が鮮明なテキストイメージを表示するためにこのレジストレーションずれをうまく利用しはじめた。その例としてマイクロソフトのClearTypeやアドビのCoolTypeがある。macOSでもQuartzにより同等の機能が実装されている。
人間の目が、輝点の位置の認知については鋭敏だが、色については鈍感であることを利用し、文字表示についてのみ実際の画面解像度以上の解像度を擬似的に利用することが可能である。以前から、同様の技法として、ジャギーの周囲に、周辺色との混色を配置するアンチエイリアシングが存在したが、この手法を、1ピクセル以下の領域で行うのがクリアタイプである。ただし日本語文字フォントではこの機能は働かない場合がある。
ディスプレイの解像度が低すぎてイタリック表示ができない場合でも、文字を移動させればイタリック表示になりうる。見かけ上ピクセルの何分の一かの移動は、その分の時間軸を遅延させることにより実現できる。
VESA規格で定められたディスプレイ取り付け基部。モニターアームとの接続に使用する。
液晶ディスプレイの一部には画面を90度回転し縦長の状態で使用できる製品がある。縦長な印刷物の制作などに適している。ただし回転させるとサブピクセルの配列の見え方が異なるため、細かい文字等の表示に違和感が生じたり、上記のようなサブピクセルレンダリング技術は適切に動作しない。
ピボット機能をもつ液晶ディスプレイはスタンドに回転機構が備わっているが、そうでないディスプレイでも別売のモニターアームなどを使って回転させることができる。
OS側を画面回転に対応させるために、かつては専用のユーティリティソフトウェアを使用する必要があったが、近年ではビデオカードのドライバやOS自体にその機能が含まれており特別なソフトウェアをインストールすることなく対応できる場合が多い。
CRTモニタでは、奥行きが大きいため縦長画面にして安定的に設置できる場合がある。アーケードゲームを移植した縦スクロールシューティングゲーム等では縦長表示に対応しているものがあった。
ディスプレイの歴史について説明するにあたりディスプレイの前史、ディスプレイが無かった時代のコンピュータの出力装置にも軽く触れておくと、古いほうから並べると豆電球を並べたもの、紙テープせん孔装置(Tape punch)、紙カードせん孔装置(Card punch)、テレタイプ端末などが使われていた。
コンピュータにディスプレイが使用され始めたのは1960年代のことであり、IBM、UNIVAC、RCA等の米国メーカーが先行し、その後に日本のコンピューターメーカーがそれに追従した。
当初はベクタースキャン方式のディスプレイとラスタースキャン方式のディスプレイが別系統のディスプレイとして別々に存在していて、ベクタースキャン方式のディスプレイは主に幾何学図形を表示するのに使いラスタースキャン方式のディスプレイは主に文字を表示するのに使う、などという役割分担が設定されていた時代がある。
文字表示のためのディスプレイの初期段階はVDTであったわけだが、VDTが登場した当時は、それまで一般的であったテレタイプ端末と比較・類比され「ガラスのテレタイプ端末」などと呼ばれた。この段階のVDTはブラウン管(CRT)方式でしかも基本的な文字類(アルファベット・数字・記号)しか表示できずグラフィクス表示機能を持たなかった。 文字表示に関しては欧米ではアルファベットと数字といくつかの記号の表示のみで充分だと考えられていたが、日本ではカタカナの表示機能も必要だと考えられそれが追加され、さらにはひらがなや漢字の表示の機能を追加していった。それと平行して図形、画像を表示するディスプレイが開発され、最終的には文字、図形、画像のいずれも表示できるディスプレイに発展した。
コンピュータディスプレイが開発されはじめた1950年代や1960年代は、CRT(Cathode Ray Tube : 陰極線管、またはブラウン管ともいわれる)の時代であった。
CRT自体は(今から120年以上前の)1897年にドイツ人科学者Karl Ferdinand Braunによって発明され、古くからオシロスコープ等の測定器やレーダー等で使用されていたが、テレビ放送やテレビ受像機というものが考案され、その受像機の実際の生産が1930年代にドイツ・フランス・イギリス・アメリカで始まり急激に大量生産されるようになっていた。
図形を表示するためのベクタースキャン方式のコンピュータディスプレイにはオシロスコープの描画の原理を応用し、ラスター方式のコンピュータディスプレイには基本的にはテレビ受像機の技術を応用してゆくことになった。
コンピュータ関連の歴史を振り返る場合、IBMの製品の歴史は特に重要なのでここで触れておく。
ベクター・スキャン・ディスプレイは基本的にはオシロスコープと同様の原理で描画する。偏向板と呼ばれる金属板が2組あり、それにかける電圧によって左右方向への曲がる量および上下方向への曲がる量をコントロールできる。コンピュータディスプレイの場合は、コンピュータからベクトル(線分)を表現したデータ群を受けとり、それを図形やグラフ(ベクターイメージ)として表示する。ベクタースキャンディスプレイは「ベクター・グラフィック・ディスプレイ」とも呼ばれた。
1963年には、マサチューセッツ工科大学のアイバン・サザランドがベクターグラフィックディスプレイを使うSketchpadというCADの先駆的プログラムを開発した。
初期のものはCRT画面に仮想格子点を設け、その格子の交点から別の交点へ電子ビームを走査してベクトルを表示する方式であった。その後、半導体メモリが低価格で供給されるようになり方式が変わっていき、各格子点に対応してメモリ(カラーや濃淡を表す場合は複数ビット)を割り当て、ベクトルデータを演算して表示する格子点のメモリに記憶させる方式となっていった。
1969年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6233は米国Westinghouse社(en:Westinghouse)から輸入した22インチ円形で表示面がフラットなCRTを使用し、画面上に4,096×4,096の格子点を設けコンピュータからのデータをもとに格子点から別の格子点への線分を表示して図形を表現し、線分データは仮想格子上の位置と縦方向と横方向の長さデータで構成され、リフレッシュ・メモリとして最大16K語のコアメモリを使用し、約8,000本の線分を表示することが出来た。ロケットの設計や軌道計算、列車ダイヤの編成、自動車の設計や科学計算の結果表示等に利用された。同時に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6232はテレビ型の17インチCRTを使用、仮想格子点は1,024×1,024でリフレッシュメモリは4K語のコアメモリを使用、約2,000本の線分を表示した。
グラフィックディスプレイは先端科学技術分野から次第に商業・生産等のビジネス分野へと応用範囲が広がりローコストで簡易な製品が求められた。1973年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF9530は線分表示用のメモリとしてスキャンコンバータ管(当初はThomsonCSF社製を、次にRCA社製を輸入し、最終的には富士通社内で生産した)を使用した。線分データをスキャンコンバータ管に記録し、ラスタースキャンで読み出してCRTに表示した。
1970年代にテクトロニクス (Tektronix) 社が開発したグラフィックディスプレイT 4010、Tektronix 4010は高画質、ローコストで、光蓄積機能を持つ蛍光体を使用したCRT画面(en:Storage_tube)を用いており、リフレッシュ機能を省略した画期的な装置で世界中のユーザから評価され採用された。このテクトロニクス社製品に価格・性能で対抗すべく富士通は1980年にグラフィックディスプレイF9430を開発した。モノクロ型は14インチCRTで格子点は1,000×800、カラーは7色のカラーで格子点は500×400、各格子対応のリフレッシュ・メモリにICメモリを採用した。
1970年代後半からコンピュータを使用して設計作業の効率化を図るソフト (CAD : Computer Aided Design) が開発され広く使用され始めた。富士通は設計支援ソフトICADを開発し、当初はグラフィックディスプレイF9430を使用したが機能が低く、複雑な図形表示が困難等の問題があり、1986年に高性能・高機能のグラフィックディスプレイF6240を開発した。表示面に反射軽減処理をした20インチカラーCRTを使用、格子点は1,024×800、7色のカラー表示、図形表示に加えて文字ディスプレイF9526(前述)と日本語ディスプレイF6650(後述)の機能を持っていた。
1970年代や1980年代にはロッキード社開発のCADAMやダッソー社開発のCATIAなどの機能が高いCADシステムが各国の先進的な企業や研究所等で導入されていたが、これらのCADシステムはIBMコンピュータの上で動くように開発されていたのでグラフィックディスプレイもIBM仕様であることが要求された。この仕様を満足するディスプレイにはVector General社製グラフィックディスプレイVG8250もあった。
富士通はVB8250輸入して使用していたが、後にVector General社へ技術者を長期派遣し、技術移管を受けて1988年にグラフィックディスプレイF6245を開発した。20インチカラーCRTを使用し、多色の線画や1600万色のソリッド(en:SOLID)を表示した。
テレビ受像機画面表示はラスタースキャン方式であり、(1950年代や1960年代では)CRTの垂直方向(縦)で1秒間に40 - 60回の鋸歯状波、水平方向(横)で1秒間に3 - 10万回の鋸歯状波で偏向して画面全体を一様にスキャンしていた。(つまり、縦方向にはわずか40-60ほどの解像度、縦方向に40から60ドットしか描けないような低解像度であった)
こんな低い解像度でもテレビ受像機、つまり風景や人物の印象をぼんやりと表示するのに使う目的では使え、視聴者の頭脳の視覚中枢の側が映像の足りない部分を勝手に補完してくれて脳内でイメージが完成し一応使えたのだが、コンピュータ用ディスプレイに使うとなると小さな文字を表示しなければならず、当時のテレビ受像機の解像度では全然足りず小さな文字は表示できなかった。小さな文字を表示し文字を読むのに適したものとなるようにテレビ受像機を改造する必要があり、滲みの少ないクッキリした文字を表示するためにさまざまな技術的な工夫を加える必要があった。
もともとブラウン管は単色でしか発光せず、テレビ受像機の「白黒テレビ」というのは(白黒写真に寄せて、違和感が無いように)白色に発光するものだったが、実はブラウン管の表示色はブラウン管の内側に塗布する蛍光材の種類で決まる。コンピュータディスプレイとして使う場合は白色でなくてもよかったので、発光色にはグリーン、アンバー(オレンジ)、白があった。当時、目が疲労しないようにとの配慮でグリーンやアンバー(オレンジ色)がしばしば採用された。。(とはいえ、このタイプのブラウン管は画面全体であくまで単一色表示であり、文字ごとに色を変えることはできなかった)
1968年 - 1971年に富士通が開発したディスプレイF6221A・B・Dでは、通常のテレビ受像機とは垂直方向は1画面に20行を表示するために20段の階段波と文字を表示する1行分の細かい正弦波を重畳させた波形を、水平方向は1秒に1,000回の鋸歯状波で偏向する変則ラスタースキャンを行った。1970年に富士通が開発した小型コンピュータ用ディスプレイF6222Aは、垂直水平の線で構成された『田』形状の図形に、斜め線で構成された『X』状の線を重ね合わせた形の基本図形を表示するためにラスタースキャンの垂直、水平方向に文字用の偏向を加えた極めて特殊なスキャン(走査)を行った。1974年に富士通が開発したディスプレイF9520・F6221K以降はテレビと同様なラスタースキャンを採用した。
NTSC方式時代のカラーテレビ(テレビ受像機)のCRTはコンピュータディスプレイに必要な1000字(50字×20行)の表示が出来るほどの解像度ではなかった。日本ではNHKのハイビジョンの試作機を、富士通関係者が見学して実用化の見通しを得た。NHKの試作機に使用されているCRTメーカーの三菱電機に富士通側が依頼しディスプレイ用の高解像カラーCRTの供給を富士通が受けた。その後松下電器が製造するコストダウンしたものを富士通は供給してもらった。カラーテレビの解像度は主にCRT表示面に近接してセットされているシャドウマスクのドット・ピッチに比例する。当時のテレビに採用されていたNTSC方式では2ドット/mmで、1974年に富士通が開発したディスプレイF6221Kの表示部はハイビジョン用CRTと同じく3ドット/mm、さらに高解像が必要な漢字表示のCRTは、富士通が東芝に開発を依頼し東芝から供給を受けた。1979年に富士通が開発した漢字を表示する日本語ディスプレイF6650は4ドット/mmであった。ハイビジョンの放送開始が1989年、その15年前の1974年に先行するかたちでコンピュータディスプレイのカラー化が実用化し、これが高解像CRT大量生産の基礎となりテレビ受像機の高品質化にも寄与した。
1960年代前後のコンピューターシステムではコマンド(命令)はパンチ・カードや紙テープを作成し、読込装置(リーダ)でコンピュータに読み込んでいて、コンソールパネル(操作卓。あるいはen:Front_panel)に設置されたランプで表示された機械語を解読し、スイッチ類を操作してコマンドを入力しコンピュータを制御していた。これらの操作は煩雑で高レベルのスキルが必要、かつ時間も手間もかかるという欠点があり、この問題を解決するために応答が速く操作性が良いテレタイプ端末が設置されコマンドの入力やコンピュータ内のレジスタ情報を印字するようになった段階があったわけだが、このテレタイプ端末をディスプレイに置き換えたことで更に応答速度や操作性が向上した。
1960年代では、そもそもコンピュータが出力する文字データに応じた文字の形をディスプレイに表示する技術を根底から構築することから始めなければならなかった。
富士通が1968年に開発したF6221A(富士通の最初のディスプレイ)では、フライング・スポット管方式の文字発生方法(en:Flying-spot_scanner)を使用した。フライング・スポット管は高解像のCRTでフィルム・スキャナ等に使用される。フライング・スポット管の表示面にアルファベットと仮名文字を記録したフィルムを密着してセットし、リフレッシュメモリから1文字ずつ読み出し、フライング・スポット管でフィルム中のその文字の部分を選択してスキャンする。フィルムを通り抜けた光を光電子増倍管で受け、電気信号に変換し、増幅して表示部にビデオ信号を送る。
富士通の最初のディスプレイF6221Aは1968年に京都大学に納入された大型コンピュータFACOM230-60のコンソールに使用された。総製造台数は2台、1台は京大に納入し、他の1台は富士通社内に設置しソフトウエアの開発やバックアップ用とした。F6221Aは入出力制御装置を介してコンピュータに接続され、表示部、文字発生部、キーボード(以下KB)と表示画面に対応した文字コード・データを蓄積するメモリ(以下リフレッシュメモリという)を含む制御回路で構成されていた。表示部はオレンジ色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名を表示する。CRT(ブラウン管)は電子ビーム(陰極線)を走査して文字の形を発光させるが、一瞬の間に消えてしまうのでリフレッシュメモリに蓄積した文字コード・データを1秒に25回以上読み出して文字発生部で文字の形に変換した信号をCRTに送り発光させて静止画像を得た。文字発生はフライングスポット管方式(後述)を使用した。KBはタイプライタ配列の文字鍵盤とファンクションキーで構成され、文字データとコマンドの入力に使用された。制御回路ではKBまたはコンピュータからの文字データをリフレッシュメモリに格納し、コマンドによりコンピュータ間の送受信制御やリフレッシュメモリ内の文字コードの追加・挿入・削除・訂正等の処理を行った。制御回路はトランジスタとダイオードの論理回路で構成した。
1969年に富士通が開発したディスプレイF6221BはコンピュータF230シリーズのコンソールとして使用された。総製造台数は約50台。表示部はグリーン色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を表示する。文字発生は3インチ・モノスコープ管を、リフレッシュメモリにはコアメモリを使用した。
1971年に富士通が開発したディスプレイF6221Dは2インチ・モノスコープ管を使用して小型化を計った。モノスコープは高解像のフライング・スポット管の技術を利用している。モノスコープ(en:Monoscope)もCRTであるが、アノードは蛍光体ではなく金属板があり、文字の形に穴の開いた金属板がアノードの金属板の前に平行に近接して設置されている。フライング・スポット管と同様に文字版を走査し、アノードから直接、電気信号を得て、表示部に送った。
1974年に富士通が開発したカラーディスプレイF6221KはコンピュータF230-8シリーズの標準コンソールとして使用された。表示部は高解像カラーCRT(後述)で、1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を7色のカラーで表示した。当時まだモノクロディスプレイの時代であり、これが世界初のカラーディスプレイとなった。文字発生は半導体ROMを使用し、7×9ドットのマトリックスの必要な部分を表示して文字の形とした。リフレッシュメモリにはMOSメモリを使用した。
初期(1960年代前後)のコンピューターシステムでは、データやコマンドをパンチ・カードや紙テープを作成してリーダで読み込んで入力し、コンピュータで処理した結果の出力はラインプリンタ(en:Line_printer)で印字しており訓練されたオペレータが大量の伝票を入力していたが、入力データの確認や修正が簡単で容易であることや出力のスピードや消費する用紙の削減が要望された結果ディスプレイが使用されるようになった。
1973年に富士通が開発したディスプレイ・サブシステムF9520は電話回線および専用線経由でコンピュータに接続し、遠隔地からの入出力を可能にした。回線との通信を制御するコントローラ1台に対して最大32台のディスプレイやプリンタを接続した。表示部にはモノクロとカラーの2種があり、モノクロームは表示面をマット処理(磨りガラス状)したグリーン色17インチCRTを使用、天井灯等の反射光軽減を計り、1920文字(80字×24行)のアルファベットと仮名文字を、カラーは12インチで7色のカラーで表示する。文字発生は半導体ROMを使用し7×9ドット文字を採用した。リフレッシュメモリにはMOS技術を用いたメモリ(en:MOS_Technology)を使用し、マイクロプログラム方式を採用、簡易プロセッサとシンプルな機械語で記述した「簡易モニター」(機械語モニタ)および他のプログラムを用いる制御回路を独自に設計した。キーボードにはタイプライタ配列のキーの右側にテンキーや10数個のファンクションキーを配列してデータ入力の容易化を図った。テンキーの配列には電卓型と電話型があったが約30人に試行してもらって電卓型とした。総生産台数は8000台に達した。
en:Category:IBM display devicesも参照のこと。
世界標準のディスプレイとしてはIBMのものがあった。1970年代はIBMのコンピュータ360シリーズ、さらに後継の370シリーズが好評で全世界を席巻しており、IBMのディスプレイIBM 3270が使われていた。
多くの業務用アプリケーションプログラムはIBMコンピュータの仕様で設計されていたので、このプログラムを利用するために日本のコンピューターメーカー各社も協同してIBM仕様をカバーするコンピュータ・システム(IBM互換機)を開発した。コンピュータ本体だけではなく周辺機器の仕様を合わせることが必要でIBMのディスプレイIBM 3270の公開された仕様をもとに富士通は1976年にディスプレイ・サブシステムF9525を開発した。表示部モノクロは17インチ、カラーは16インチを使用、制御回路には市販のモトローラ社製8ビットMPU(マイクロプロセッサ)を使用した。
富士通はディスプレイ・サブシステムF9525の後継機として、1979年に省電力、省スペース、ローコスト化と機能強化を計ったF9526を開発した。表示部にはモノクロとカラーCRTに加えてネオンオレンジ色15インチPDP(プラズマディスプレイ)を追加し、HDLC回線への接続や、自己診断、トレース、折り返しテスト等のRAS機能(可用性)を充実した。市場のニーズは大きく、年間10,000台を超える生産をした(PDPの総生産数は100台弱)。
電電公社(現 : NTT)からの開発依頼で富士通は試作機(特仕J2482号)を納入、続いて1972年に漢字ディスプレイF6570を開発した。いずれもグリーン色で標準型は17インチCRTに512文字(32字×16行)、ワイド型は横長20インチCRTに1,024文字(64字×16行)の漢字を表示した。ワイド型CRTはソニーガラスに依頼して電子銃を2個取り付けられる特殊構造のファンネルを購入し富士通にて製品化した。文字円盤とビジコン(撮像管)を使用した文字発生装置からスキャンコンバータ管(前述)を使用した表示用メモリに書き込むものだった。透明なプラスチック板に5,376文字(円周方向に364字、半径方向に14行)の漢字が印刷された文字円盤をモータで高速回転し、目的の漢字がビジコン正面に来たときに同期してフラッシュ発光し、ビジコンに記録して読み出した。
1978年に富士通が開発した漢字ディスプレイF6580の標準型は672字(32字×21行)、ワイド型は1,344字(64字×21行)、漢字を32×32のドットで表示する。制御装置はコンピュータとの送受信や小型ディスクに収容した約7,000種の漢字のドットパターンを16台の漢字ディスプレイに供給する。また、1,024×1,024(ワイド型は2,048×1,024)ドットのリフレッシュ・メモリに線画を描く機能があり、新聞レイアウト等に使用された。
1970年代後半に登場し1980年代に普及していったパーソナルコンピュータ(PC)では、家庭用のものでは周辺機器も含めた総計価格を一般家庭の人々も購入しやすい価格にするために、一般家庭もすでに所有しているであろう(当時のアナログ信号式の)家庭用テレビを接続できRF信号線で接続し低画質でかなり滲みのある表示をするものもあったが、ビジネス用、プロ用、高級機などから滲みの少ないコンピュータ専用ディスプレイを使うことが次第に一般化していった。
ディスプレイのインタフェースにはアナログ式とデジタル式があるが、その歴史を振り返る。
現在「モノクロ(モノクローム)・ディスプレイ」と言うと単色のON/OFFだけが表示できるもので「グレイスケール・ディスプレイ」のほうは単色の階調を表現できるものを指すが、CRT方式がコンピュータディスプレイに使われていた時代に「モノクロディスプレイ」と呼ばれていたものは実際には現在で言うグレイスケールディスプレイであり濃淡の階調を表現できた。ただし単色であり色信号を付加する必要が無いため、画像信号の伝送には、通常のNTSC等のビデオ信号と、単一のRCA端子、または、BNCコネクタが使用されていた。
アナログ式のカラー表示の場合、RGB各色が連続的に表現されるため、原理的にはすべての色が表示可能であるが、コンピュータの表示回路が生成可能な色数に制約される。24ビットの場合はRGBそれぞれが8ビット、すなわち256階調の組み合わせで1677万色。32ビットの場合は8ビットが余りとなるが、これは表示には関与しない。PC/ATにおいてはVGA端子(15ピンミニD-sub、DE-15)が一般に用いられ、日本国内の規格としては15ピンのD-sub (DA-15)が用いられた。または、家庭用テレビ受像機と互換性のある21ピンコネクタが使用された。表示領域が広く、同期周波数が高い場合(いわゆる高解像度)は、同期信号と色信号を別々のBNCコネクタで接続する場合もある。ディスプレイ装置では24/32ビットカラー表示に対応する。
1981年に登場したIBM PCは、デジタル式のCGAカードというインターフェースを採用し、16色表示であった。 デジタル式の場合、三原色のRGB(赤・緑・青)それぞれをON/OFFできるだけであり、表示可能な色は8色(黒・青・赤・マゼンタ・緑・シアン・黄・白)である。デジタル式でもRGBI (RGB-Intensity) 方式では、8色の各々の輝度を全輝度と半輝度とに制御することができ、8色の明暗で合計16色が表示できた。当時デジタルモニタはTTLモニタと呼ばれることがあった。これはRGB各色を表すのにTTLレベルの電気的インターフェースを用いたことによる。9ピンのD-Subコネクタ (DE-9)、または8ピンか6ピンのDINコネクタと8ピン角型デジタル端子で接続される。
1999年に登場したデジタルインターフェースであるDVI規格では、32ビットフルカラー表示に対応した信号伝送が可能で、画質が大幅に向上した。(デジタルコンテンツ保護の規格HDCPを備えるものもある。)デジタル方式の良さは人々に広く知られるようになり普及が進み、2007年頃からデジタル家電やパソコン・ビデオカードでHDMI端子(デジタル方式)も普及し一般化したことに伴い、コンピュータ用液晶ディスプレイでもこれを備えるものが増えてきた。HDMI規格自体にライセンス料が発生するが、DVIと互換性があり設計コストが低いことから、2009年以降では低価格帯のディスプレイにも搭載され、標準的な端子となっている。
2007年にはUSB接続の液晶ディスプレイが登場した。液晶ディスプレイ側にグラフィックスコントローラを搭載し、別途ディスプレイケーブルを接続する必要がない。またUSBポートから電源を供給できる製品もある。 2009年時点ころにはサブディスプレイとして利用できる小型サイズの製品が一部で広まった。2010年代には、USB Type-Cで接続できるものが増えた。
新しい世代のインターフェイス規格DisplayPortは、ビジネスやプロフェッショナル用に使用されている。
スクリーンショットとは、PCの機能であり、コンピュータからディスプレイに送られている信号を画像データとして記録することや機能を云う。PCが動画の信号を記録する機能はキャプチャという。これらはディスプレイの機能ではない。あくまでPC側の機能である。
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"text": "コンピュータの分野でディスプレイ(英: display)とは、文字、図形、画像、映像(動画)などを表示する装置。モニタ (英: monitor) ともいう。",
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"text": "コンピュータの出力装置のひとつである。",
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"text": "画像を表示する方法には以下のようなものがある。",
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"text": "このうち、ビデオプロジェクタは、デジタルミラーデバイス (DMD) や液晶パネルの映像をレンズで拡大表示するものが多い。",
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"text": "デスクトップパソコン向けの単体のディスプレイ装置は、かつては、ほとんどがブラウン管式であった。しかし、1990年代後半から液晶ディスプレイが普及し、2007年頃までにパソコン専用のCRTの生産はほとんど行われなくなった。",
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"text": "ビデオ信号はビデオ表示回路(ビデオカードなど)で生成発生され、少なくとも一つ以上の表示規格を満たす。規格には画面サイズ(表示領域の大きさ、表示画素数では無いことに注意)、発色数、水平および垂直方向の走査周波数、信号インターフェースの電気的特性などがあり、これらのいくつかは互いに関係しあう。",
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"text": "コンピュータディスプレイは、他に「ビデオ表示端末」(VDT) とも呼ばれる。",
"title": "概要"
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"text": "パソコン専用の単体のディスプレイ装置(ブラウン管・液晶とも)については、パーソナルコンピュータ (PC) 本体とともに、「資源の有効な利用の促進に関する法律」の適用を受けることになり、メーカーによる回収・リサイクルが制度化された。詳しくはパーソナルコンピュータ#電子ごみ問題とリサイクルを参照のこと。",
"title": "概要"
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"text": "ディスプレイに表示される総画素数。「ヨコ × タテ」のように掛け算の書式で表現することが一般的である。 おもに1920×1080 (Full-HD) 。1世代前や小型のものでは1024x768など。高精細な2048×1536 (QXGA) 、3840×2160(フルUHD)、3940×2160 (4K) などが使われることもある。",
"title": "解像度など"
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{
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"text": "ディスプレイ解像度とPC側の設定を食い違う状態にし拡大または縮小処理させると文字がぼやけて見づらくなるので、PC側の設定をディスプレイの解像度に合致させて用いるのが望ましい。",
"title": "解像度など"
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"text": "リフレッシュレートとは、表示画像を「リフレッシュ」つまり書き換える頻度。表示の書き換え頻度。1秒間に何回描き換えるか、ということ。単位はヘルツ(Hz)。 リフレッシュレートがあまりに低いと「ちらつき」が感じられるようになり見づらくなる。解像度を上げるほどリフレッシュレートの上限は低くなる関係にある。",
"title": "解像度など"
},
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"text": "画面の横と縦の長さ(あるいは画素数)の比。一般的には「横:縦」のように「:」をつかう書式で表記する。たとえば解像度が640×480ピクセルの場合アスペクト比は「4:3」と表記するなど、互いに素な整数の比で表示することが一般的。まれに縦を「1」に固定して「1.33:1」などと表示することもある(つまり「4:3」と「1.33 : 1」は同じアスペクト比である)。",
"title": "解像度など"
},
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"text": "ブラウン管ディスプレイのアスペクト比は4:3が主流だった。液晶ディスプレイのほうは、1990年代はおもに4:3や5:4(1280×1024ドット)だったが、2000年代半ばから16:10のワイド画面が特に家庭向けで多くを占めるようになり、さらに2008 - 2009年ころにデジタルハイビジョン放送・薄型テレビと同じアスペクト比である16:9が主流になった。",
"title": "解像度など"
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"text": "",
"title": "解像度など"
},
{
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"text": "LCD等、ディスプレイ技術によっては、原理的に色のレジストレーションずれ(RGB各色の輝点の中心が完全にはそろわないこと)がある。このため、色によって、輝点の中心が異なる事になる。2001年頃から、ソフトウェア設計者が鮮明なテキストイメージを表示するためにこのレジストレーションずれをうまく利用しはじめた。その例としてマイクロソフトのClearTypeやアドビのCoolTypeがある。macOSでもQuartzにより同等の機能が実装されている。",
"title": "サブピクセルアンチエイリアス技術"
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"text": "人間の目が、輝点の位置の認知については鋭敏だが、色については鈍感であることを利用し、文字表示についてのみ実際の画面解像度以上の解像度を擬似的に利用することが可能である。以前から、同様の技法として、ジャギーの周囲に、周辺色との混色を配置するアンチエイリアシングが存在したが、この手法を、1ピクセル以下の領域で行うのがクリアタイプである。ただし日本語文字フォントではこの機能は働かない場合がある。",
"title": "サブピクセルアンチエイリアス技術"
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"text": "ディスプレイの解像度が低すぎてイタリック表示ができない場合でも、文字を移動させればイタリック表示になりうる。見かけ上ピクセルの何分の一かの移動は、その分の時間軸を遅延させることにより実現できる。",
"title": "サブピクセルアンチエイリアス技術"
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"text": "VESA規格で定められたディスプレイ取り付け基部。モニターアームとの接続に使用する。",
"title": "VESAマウント"
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"tag": "p",
"text": "液晶ディスプレイの一部には画面を90度回転し縦長の状態で使用できる製品がある。縦長な印刷物の制作などに適している。ただし回転させるとサブピクセルの配列の見え方が異なるため、細かい文字等の表示に違和感が生じたり、上記のようなサブピクセルレンダリング技術は適切に動作しない。",
"title": "画面回転(ピボット)機能"
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"text": "ピボット機能をもつ液晶ディスプレイはスタンドに回転機構が備わっているが、そうでないディスプレイでも別売のモニターアームなどを使って回転させることができる。",
"title": "画面回転(ピボット)機能"
},
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"text": "OS側を画面回転に対応させるために、かつては専用のユーティリティソフトウェアを使用する必要があったが、近年ではビデオカードのドライバやOS自体にその機能が含まれており特別なソフトウェアをインストールすることなく対応できる場合が多い。",
"title": "画面回転(ピボット)機能"
},
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"text": "CRTモニタでは、奥行きが大きいため縦長画面にして安定的に設置できる場合がある。アーケードゲームを移植した縦スクロールシューティングゲーム等では縦長表示に対応しているものがあった。",
"title": "画面回転(ピボット)機能"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "ディスプレイの歴史について説明するにあたりディスプレイの前史、ディスプレイが無かった時代のコンピュータの出力装置にも軽く触れておくと、古いほうから並べると豆電球を並べたもの、紙テープせん孔装置(Tape punch)、紙カードせん孔装置(Card punch)、テレタイプ端末などが使われていた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
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"tag": "p",
"text": "コンピュータにディスプレイが使用され始めたのは1960年代のことであり、IBM、UNIVAC、RCA等の米国メーカーが先行し、その後に日本のコンピューターメーカーがそれに追従した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
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"text": "当初はベクタースキャン方式のディスプレイとラスタースキャン方式のディスプレイが別系統のディスプレイとして別々に存在していて、ベクタースキャン方式のディスプレイは主に幾何学図形を表示するのに使いラスタースキャン方式のディスプレイは主に文字を表示するのに使う、などという役割分担が設定されていた時代がある。",
"title": "ディスプレイの歴史"
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"text": "文字表示のためのディスプレイの初期段階はVDTであったわけだが、VDTが登場した当時は、それまで一般的であったテレタイプ端末と比較・類比され「ガラスのテレタイプ端末」などと呼ばれた。この段階のVDTはブラウン管(CRT)方式でしかも基本的な文字類(アルファベット・数字・記号)しか表示できずグラフィクス表示機能を持たなかった。 文字表示に関しては欧米ではアルファベットと数字といくつかの記号の表示のみで充分だと考えられていたが、日本ではカタカナの表示機能も必要だと考えられそれが追加され、さらにはひらがなや漢字の表示の機能を追加していった。それと平行して図形、画像を表示するディスプレイが開発され、最終的には文字、図形、画像のいずれも表示できるディスプレイに発展した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "コンピュータディスプレイが開発されはじめた1950年代や1960年代は、CRT(Cathode Ray Tube : 陰極線管、またはブラウン管ともいわれる)の時代であった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "CRT自体は(今から120年以上前の)1897年にドイツ人科学者Karl Ferdinand Braunによって発明され、古くからオシロスコープ等の測定器やレーダー等で使用されていたが、テレビ放送やテレビ受像機というものが考案され、その受像機の実際の生産が1930年代にドイツ・フランス・イギリス・アメリカで始まり急激に大量生産されるようになっていた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "図形を表示するためのベクタースキャン方式のコンピュータディスプレイにはオシロスコープの描画の原理を応用し、ラスター方式のコンピュータディスプレイには基本的にはテレビ受像機の技術を応用してゆくことになった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
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"tag": "p",
"text": "コンピュータ関連の歴史を振り返る場合、IBMの製品の歴史は特に重要なのでここで触れておく。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "ベクター・スキャン・ディスプレイは基本的にはオシロスコープと同様の原理で描画する。偏向板と呼ばれる金属板が2組あり、それにかける電圧によって左右方向への曲がる量および上下方向への曲がる量をコントロールできる。コンピュータディスプレイの場合は、コンピュータからベクトル(線分)を表現したデータ群を受けとり、それを図形やグラフ(ベクターイメージ)として表示する。ベクタースキャンディスプレイは「ベクター・グラフィック・ディスプレイ」とも呼ばれた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1963年には、マサチューセッツ工科大学のアイバン・サザランドがベクターグラフィックディスプレイを使うSketchpadというCADの先駆的プログラムを開発した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "初期のものはCRT画面に仮想格子点を設け、その格子の交点から別の交点へ電子ビームを走査してベクトルを表示する方式であった。その後、半導体メモリが低価格で供給されるようになり方式が変わっていき、各格子点に対応してメモリ(カラーや濃淡を表す場合は複数ビット)を割り当て、ベクトルデータを演算して表示する格子点のメモリに記憶させる方式となっていった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1969年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6233は米国Westinghouse社(en:Westinghouse)から輸入した22インチ円形で表示面がフラットなCRTを使用し、画面上に4,096×4,096の格子点を設けコンピュータからのデータをもとに格子点から別の格子点への線分を表示して図形を表現し、線分データは仮想格子上の位置と縦方向と横方向の長さデータで構成され、リフレッシュ・メモリとして最大16K語のコアメモリを使用し、約8,000本の線分を表示することが出来た。ロケットの設計や軌道計算、列車ダイヤの編成、自動車の設計や科学計算の結果表示等に利用された。同時に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6232はテレビ型の17インチCRTを使用、仮想格子点は1,024×1,024でリフレッシュメモリは4K語のコアメモリを使用、約2,000本の線分を表示した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "グラフィックディスプレイは先端科学技術分野から次第に商業・生産等のビジネス分野へと応用範囲が広がりローコストで簡易な製品が求められた。1973年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF9530は線分表示用のメモリとしてスキャンコンバータ管(当初はThomsonCSF社製を、次にRCA社製を輸入し、最終的には富士通社内で生産した)を使用した。線分データをスキャンコンバータ管に記録し、ラスタースキャンで読み出してCRTに表示した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1970年代にテクトロニクス (Tektronix) 社が開発したグラフィックディスプレイT 4010、Tektronix 4010は高画質、ローコストで、光蓄積機能を持つ蛍光体を使用したCRT画面(en:Storage_tube)を用いており、リフレッシュ機能を省略した画期的な装置で世界中のユーザから評価され採用された。このテクトロニクス社製品に価格・性能で対抗すべく富士通は1980年にグラフィックディスプレイF9430を開発した。モノクロ型は14インチCRTで格子点は1,000×800、カラーは7色のカラーで格子点は500×400、各格子対応のリフレッシュ・メモリにICメモリを採用した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半からコンピュータを使用して設計作業の効率化を図るソフト (CAD : Computer Aided Design) が開発され広く使用され始めた。富士通は設計支援ソフトICADを開発し、当初はグラフィックディスプレイF9430を使用したが機能が低く、複雑な図形表示が困難等の問題があり、1986年に高性能・高機能のグラフィックディスプレイF6240を開発した。表示面に反射軽減処理をした20インチカラーCRTを使用、格子点は1,024×800、7色のカラー表示、図形表示に加えて文字ディスプレイF9526(前述)と日本語ディスプレイF6650(後述)の機能を持っていた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1970年代や1980年代にはロッキード社開発のCADAMやダッソー社開発のCATIAなどの機能が高いCADシステムが各国の先進的な企業や研究所等で導入されていたが、これらのCADシステムはIBMコンピュータの上で動くように開発されていたのでグラフィックディスプレイもIBM仕様であることが要求された。この仕様を満足するディスプレイにはVector General社製グラフィックディスプレイVG8250もあった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "富士通はVB8250輸入して使用していたが、後にVector General社へ技術者を長期派遣し、技術移管を受けて1988年にグラフィックディスプレイF6245を開発した。20インチカラーCRTを使用し、多色の線画や1600万色のソリッド(en:SOLID)を表示した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "テレビ受像機画面表示はラスタースキャン方式であり、(1950年代や1960年代では)CRTの垂直方向(縦)で1秒間に40 - 60回の鋸歯状波、水平方向(横)で1秒間に3 - 10万回の鋸歯状波で偏向して画面全体を一様にスキャンしていた。(つまり、縦方向にはわずか40-60ほどの解像度、縦方向に40から60ドットしか描けないような低解像度であった)",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "こんな低い解像度でもテレビ受像機、つまり風景や人物の印象をぼんやりと表示するのに使う目的では使え、視聴者の頭脳の視覚中枢の側が映像の足りない部分を勝手に補完してくれて脳内でイメージが完成し一応使えたのだが、コンピュータ用ディスプレイに使うとなると小さな文字を表示しなければならず、当時のテレビ受像機の解像度では全然足りず小さな文字は表示できなかった。小さな文字を表示し文字を読むのに適したものとなるようにテレビ受像機を改造する必要があり、滲みの少ないクッキリした文字を表示するためにさまざまな技術的な工夫を加える必要があった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "もともとブラウン管は単色でしか発光せず、テレビ受像機の「白黒テレビ」というのは(白黒写真に寄せて、違和感が無いように)白色に発光するものだったが、実はブラウン管の表示色はブラウン管の内側に塗布する蛍光材の種類で決まる。コンピュータディスプレイとして使う場合は白色でなくてもよかったので、発光色にはグリーン、アンバー(オレンジ)、白があった。当時、目が疲労しないようにとの配慮でグリーンやアンバー(オレンジ色)がしばしば採用された。。(とはいえ、このタイプのブラウン管は画面全体であくまで単一色表示であり、文字ごとに色を変えることはできなかった)",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1968年 - 1971年に富士通が開発したディスプレイF6221A・B・Dでは、通常のテレビ受像機とは垂直方向は1画面に20行を表示するために20段の階段波と文字を表示する1行分の細かい正弦波を重畳させた波形を、水平方向は1秒に1,000回の鋸歯状波で偏向する変則ラスタースキャンを行った。1970年に富士通が開発した小型コンピュータ用ディスプレイF6222Aは、垂直水平の線で構成された『田』形状の図形に、斜め線で構成された『X』状の線を重ね合わせた形の基本図形を表示するためにラスタースキャンの垂直、水平方向に文字用の偏向を加えた極めて特殊なスキャン(走査)を行った。1974年に富士通が開発したディスプレイF9520・F6221K以降はテレビと同様なラスタースキャンを採用した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "NTSC方式時代のカラーテレビ(テレビ受像機)のCRTはコンピュータディスプレイに必要な1000字(50字×20行)の表示が出来るほどの解像度ではなかった。日本ではNHKのハイビジョンの試作機を、富士通関係者が見学して実用化の見通しを得た。NHKの試作機に使用されているCRTメーカーの三菱電機に富士通側が依頼しディスプレイ用の高解像カラーCRTの供給を富士通が受けた。その後松下電器が製造するコストダウンしたものを富士通は供給してもらった。カラーテレビの解像度は主にCRT表示面に近接してセットされているシャドウマスクのドット・ピッチに比例する。当時のテレビに採用されていたNTSC方式では2ドット/mmで、1974年に富士通が開発したディスプレイF6221Kの表示部はハイビジョン用CRTと同じく3ドット/mm、さらに高解像が必要な漢字表示のCRTは、富士通が東芝に開発を依頼し東芝から供給を受けた。1979年に富士通が開発した漢字を表示する日本語ディスプレイF6650は4ドット/mmであった。ハイビジョンの放送開始が1989年、その15年前の1974年に先行するかたちでコンピュータディスプレイのカラー化が実用化し、これが高解像CRT大量生産の基礎となりテレビ受像機の高品質化にも寄与した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1960年代前後のコンピューターシステムではコマンド(命令)はパンチ・カードや紙テープを作成し、読込装置(リーダ)でコンピュータに読み込んでいて、コンソールパネル(操作卓。あるいはen:Front_panel)に設置されたランプで表示された機械語を解読し、スイッチ類を操作してコマンドを入力しコンピュータを制御していた。これらの操作は煩雑で高レベルのスキルが必要、かつ時間も手間もかかるという欠点があり、この問題を解決するために応答が速く操作性が良いテレタイプ端末が設置されコマンドの入力やコンピュータ内のレジスタ情報を印字するようになった段階があったわけだが、このテレタイプ端末をディスプレイに置き換えたことで更に応答速度や操作性が向上した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1960年代では、そもそもコンピュータが出力する文字データに応じた文字の形をディスプレイに表示する技術を根底から構築することから始めなければならなかった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "富士通が1968年に開発したF6221A(富士通の最初のディスプレイ)では、フライング・スポット管方式の文字発生方法(en:Flying-spot_scanner)を使用した。フライング・スポット管は高解像のCRTでフィルム・スキャナ等に使用される。フライング・スポット管の表示面にアルファベットと仮名文字を記録したフィルムを密着してセットし、リフレッシュメモリから1文字ずつ読み出し、フライング・スポット管でフィルム中のその文字の部分を選択してスキャンする。フィルムを通り抜けた光を光電子増倍管で受け、電気信号に変換し、増幅して表示部にビデオ信号を送る。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "富士通の最初のディスプレイF6221Aは1968年に京都大学に納入された大型コンピュータFACOM230-60のコンソールに使用された。総製造台数は2台、1台は京大に納入し、他の1台は富士通社内に設置しソフトウエアの開発やバックアップ用とした。F6221Aは入出力制御装置を介してコンピュータに接続され、表示部、文字発生部、キーボード(以下KB)と表示画面に対応した文字コード・データを蓄積するメモリ(以下リフレッシュメモリという)を含む制御回路で構成されていた。表示部はオレンジ色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名を表示する。CRT(ブラウン管)は電子ビーム(陰極線)を走査して文字の形を発光させるが、一瞬の間に消えてしまうのでリフレッシュメモリに蓄積した文字コード・データを1秒に25回以上読み出して文字発生部で文字の形に変換した信号をCRTに送り発光させて静止画像を得た。文字発生はフライングスポット管方式(後述)を使用した。KBはタイプライタ配列の文字鍵盤とファンクションキーで構成され、文字データとコマンドの入力に使用された。制御回路ではKBまたはコンピュータからの文字データをリフレッシュメモリに格納し、コマンドによりコンピュータ間の送受信制御やリフレッシュメモリ内の文字コードの追加・挿入・削除・訂正等の処理を行った。制御回路はトランジスタとダイオードの論理回路で構成した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1969年に富士通が開発したディスプレイF6221BはコンピュータF230シリーズのコンソールとして使用された。総製造台数は約50台。表示部はグリーン色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を表示する。文字発生は3インチ・モノスコープ管を、リフレッシュメモリにはコアメモリを使用した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1971年に富士通が開発したディスプレイF6221Dは2インチ・モノスコープ管を使用して小型化を計った。モノスコープは高解像のフライング・スポット管の技術を利用している。モノスコープ(en:Monoscope)もCRTであるが、アノードは蛍光体ではなく金属板があり、文字の形に穴の開いた金属板がアノードの金属板の前に平行に近接して設置されている。フライング・スポット管と同様に文字版を走査し、アノードから直接、電気信号を得て、表示部に送った。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1974年に富士通が開発したカラーディスプレイF6221KはコンピュータF230-8シリーズの標準コンソールとして使用された。表示部は高解像カラーCRT(後述)で、1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を7色のカラーで表示した。当時まだモノクロディスプレイの時代であり、これが世界初のカラーディスプレイとなった。文字発生は半導体ROMを使用し、7×9ドットのマトリックスの必要な部分を表示して文字の形とした。リフレッシュメモリにはMOSメモリを使用した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "初期(1960年代前後)のコンピューターシステムでは、データやコマンドをパンチ・カードや紙テープを作成してリーダで読み込んで入力し、コンピュータで処理した結果の出力はラインプリンタ(en:Line_printer)で印字しており訓練されたオペレータが大量の伝票を入力していたが、入力データの確認や修正が簡単で容易であることや出力のスピードや消費する用紙の削減が要望された結果ディスプレイが使用されるようになった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1973年に富士通が開発したディスプレイ・サブシステムF9520は電話回線および専用線経由でコンピュータに接続し、遠隔地からの入出力を可能にした。回線との通信を制御するコントローラ1台に対して最大32台のディスプレイやプリンタを接続した。表示部にはモノクロとカラーの2種があり、モノクロームは表示面をマット処理(磨りガラス状)したグリーン色17インチCRTを使用、天井灯等の反射光軽減を計り、1920文字(80字×24行)のアルファベットと仮名文字を、カラーは12インチで7色のカラーで表示する。文字発生は半導体ROMを使用し7×9ドット文字を採用した。リフレッシュメモリにはMOS技術を用いたメモリ(en:MOS_Technology)を使用し、マイクロプログラム方式を採用、簡易プロセッサとシンプルな機械語で記述した「簡易モニター」(機械語モニタ)および他のプログラムを用いる制御回路を独自に設計した。キーボードにはタイプライタ配列のキーの右側にテンキーや10数個のファンクションキーを配列してデータ入力の容易化を図った。テンキーの配列には電卓型と電話型があったが約30人に試行してもらって電卓型とした。総生産台数は8000台に達した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "en:Category:IBM display devicesも参照のこと。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "世界標準のディスプレイとしてはIBMのものがあった。1970年代はIBMのコンピュータ360シリーズ、さらに後継の370シリーズが好評で全世界を席巻しており、IBMのディスプレイIBM 3270が使われていた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "多くの業務用アプリケーションプログラムはIBMコンピュータの仕様で設計されていたので、このプログラムを利用するために日本のコンピューターメーカー各社も協同してIBM仕様をカバーするコンピュータ・システム(IBM互換機)を開発した。コンピュータ本体だけではなく周辺機器の仕様を合わせることが必要でIBMのディスプレイIBM 3270の公開された仕様をもとに富士通は1976年にディスプレイ・サブシステムF9525を開発した。表示部モノクロは17インチ、カラーは16インチを使用、制御回路には市販のモトローラ社製8ビットMPU(マイクロプロセッサ)を使用した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "富士通はディスプレイ・サブシステムF9525の後継機として、1979年に省電力、省スペース、ローコスト化と機能強化を計ったF9526を開発した。表示部にはモノクロとカラーCRTに加えてネオンオレンジ色15インチPDP(プラズマディスプレイ)を追加し、HDLC回線への接続や、自己診断、トレース、折り返しテスト等のRAS機能(可用性)を充実した。市場のニーズは大きく、年間10,000台を超える生産をした(PDPの総生産数は100台弱)。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "電電公社(現 : NTT)からの開発依頼で富士通は試作機(特仕J2482号)を納入、続いて1972年に漢字ディスプレイF6570を開発した。いずれもグリーン色で標準型は17インチCRTに512文字(32字×16行)、ワイド型は横長20インチCRTに1,024文字(64字×16行)の漢字を表示した。ワイド型CRTはソニーガラスに依頼して電子銃を2個取り付けられる特殊構造のファンネルを購入し富士通にて製品化した。文字円盤とビジコン(撮像管)を使用した文字発生装置からスキャンコンバータ管(前述)を使用した表示用メモリに書き込むものだった。透明なプラスチック板に5,376文字(円周方向に364字、半径方向に14行)の漢字が印刷された文字円盤をモータで高速回転し、目的の漢字がビジコン正面に来たときに同期してフラッシュ発光し、ビジコンに記録して読み出した。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1978年に富士通が開発した漢字ディスプレイF6580の標準型は672字(32字×21行)、ワイド型は1,344字(64字×21行)、漢字を32×32のドットで表示する。制御装置はコンピュータとの送受信や小型ディスクに収容した約7,000種の漢字のドットパターンを16台の漢字ディスプレイに供給する。また、1,024×1,024(ワイド型は2,048×1,024)ドットのリフレッシュ・メモリに線画を描く機能があり、新聞レイアウト等に使用された。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1970年代後半に登場し1980年代に普及していったパーソナルコンピュータ(PC)では、家庭用のものでは周辺機器も含めた総計価格を一般家庭の人々も購入しやすい価格にするために、一般家庭もすでに所有しているであろう(当時のアナログ信号式の)家庭用テレビを接続できRF信号線で接続し低画質でかなり滲みのある表示をするものもあったが、ビジネス用、プロ用、高級機などから滲みの少ないコンピュータ専用ディスプレイを使うことが次第に一般化していった。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ディスプレイのインタフェースにはアナログ式とデジタル式があるが、その歴史を振り返る。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "現在「モノクロ(モノクローム)・ディスプレイ」と言うと単色のON/OFFだけが表示できるもので「グレイスケール・ディスプレイ」のほうは単色の階調を表現できるものを指すが、CRT方式がコンピュータディスプレイに使われていた時代に「モノクロディスプレイ」と呼ばれていたものは実際には現在で言うグレイスケールディスプレイであり濃淡の階調を表現できた。ただし単色であり色信号を付加する必要が無いため、画像信号の伝送には、通常のNTSC等のビデオ信号と、単一のRCA端子、または、BNCコネクタが使用されていた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アナログ式のカラー表示の場合、RGB各色が連続的に表現されるため、原理的にはすべての色が表示可能であるが、コンピュータの表示回路が生成可能な色数に制約される。24ビットの場合はRGBそれぞれが8ビット、すなわち256階調の組み合わせで1677万色。32ビットの場合は8ビットが余りとなるが、これは表示には関与しない。PC/ATにおいてはVGA端子(15ピンミニD-sub、DE-15)が一般に用いられ、日本国内の規格としては15ピンのD-sub (DA-15)が用いられた。または、家庭用テレビ受像機と互換性のある21ピンコネクタが使用された。表示領域が広く、同期周波数が高い場合(いわゆる高解像度)は、同期信号と色信号を別々のBNCコネクタで接続する場合もある。ディスプレイ装置では24/32ビットカラー表示に対応する。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1981年に登場したIBM PCは、デジタル式のCGAカードというインターフェースを採用し、16色表示であった。 デジタル式の場合、三原色のRGB(赤・緑・青)それぞれをON/OFFできるだけであり、表示可能な色は8色(黒・青・赤・マゼンタ・緑・シアン・黄・白)である。デジタル式でもRGBI (RGB-Intensity) 方式では、8色の各々の輝度を全輝度と半輝度とに制御することができ、8色の明暗で合計16色が表示できた。当時デジタルモニタはTTLモニタと呼ばれることがあった。これはRGB各色を表すのにTTLレベルの電気的インターフェースを用いたことによる。9ピンのD-Subコネクタ (DE-9)、または8ピンか6ピンのDINコネクタと8ピン角型デジタル端子で接続される。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1999年に登場したデジタルインターフェースであるDVI規格では、32ビットフルカラー表示に対応した信号伝送が可能で、画質が大幅に向上した。(デジタルコンテンツ保護の規格HDCPを備えるものもある。)デジタル方式の良さは人々に広く知られるようになり普及が進み、2007年頃からデジタル家電やパソコン・ビデオカードでHDMI端子(デジタル方式)も普及し一般化したことに伴い、コンピュータ用液晶ディスプレイでもこれを備えるものが増えてきた。HDMI規格自体にライセンス料が発生するが、DVIと互換性があり設計コストが低いことから、2009年以降では低価格帯のディスプレイにも搭載され、標準的な端子となっている。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2007年にはUSB接続の液晶ディスプレイが登場した。液晶ディスプレイ側にグラフィックスコントローラを搭載し、別途ディスプレイケーブルを接続する必要がない。またUSBポートから電源を供給できる製品もある。 2009年時点ころにはサブディスプレイとして利用できる小型サイズの製品が一部で広まった。2010年代には、USB Type-Cで接続できるものが増えた。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "新しい世代のインターフェイス規格DisplayPortは、ビジネスやプロフェッショナル用に使用されている。",
"title": "ディスプレイの歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "スクリーンショットとは、PCの機能であり、コンピュータからディスプレイに送られている信号を画像データとして記録することや機能を云う。PCが動画の信号を記録する機能はキャプチャという。これらはディスプレイの機能ではない。あくまでPC側の機能である。",
"title": "他"
}
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コンピュータの分野でディスプレイとは、文字、図形、画像、映像(動画)などを表示する装置。モニタ ともいう。
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[[File:Laptop computer monitor (Unsplash).jpg|thumb|300px|[[パーソナルコンピュータ|ノートPC]]のディスプレイ(左)と外付けディスプレイ(右)(2017年)]]
[[File:+1Dolgodush.jpg|thumb|300px|同サイズを2台並べる使用法]]
[[File:Developer working on an iMac (Unsplash).jpg|thumb|300px|[[iMac]]のディスプレイ上でソフトウェア開発中。(2016年)]]
<!--[[ファイル:EIZO FlexScan L461 16.0inch.jpg|thumb|right|[[TFT液晶]]ディスプレイ(2001年)]]-->
[[File:External display connected by usb.jpg|thumb|300px|ノートパソコンの液晶ディスプレイ(右)とUSB接続の小型増設ディスプレイ(左)(2008年)]]
[[File:Computer monitor.jpg|thumb|220px|2008年の[[TFT液晶]]ディスプレイ。このころの一般的なアスペクト比(横と縦の比)は4:3。]]
[[File:Arbeitsplatz-koethen-rr.JPG|thumb|220px|1990年代後半〜2000年代前半に販売された[[ブラウン管]](CRT)式ディスプレイ(左)(2008年に撮影)]]
コンピュータの分野で'''ディスプレイ'''({{lang-en-short|display}})とは、[[文字]]、[[図形]]、[[画像]]、映像([[動画]])などを表示する装置<ref name="sophia_it_dictionary">[https://www.sophia-it.com/content/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4 IT用語辞典【ディスプレイ】]</ref>。'''モニタ''' ({{Lang-en-short|monitor}}) ともいう<ref>ASCII.jpデジタル用語辞典【ディスプレイ】</ref><ref name="e_words">[https://e-words.jp/w/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4.html e-words【ディスプレイ】]</ref><ref name="sophia_it_dictionary" />。
== 概要 ==
コンピュータの[[出力機器|出力装置]]のひとつである<ref name="e_words" /><ref name="sophia_it_dictionary" />。
画像を表示する方法には以下のようなものがある。
* [[液晶ディスプレイ]] (LCD)
* [[有機エレクトロルミネッセンス#有機ELディスプレイ|有機ELディスプレイ]] (OLED)
* [[プラズマディスプレイ]] (PDP)
*{{仮リンク|マイクロLEDディスプレイ|en|microLED|label=}}(mLED、[[Crystal LED Display]]など。)
* [[プロジェクタ|ビデオプロジェクタ]]
* [[ブラウン管]] (CRT)
このうち、ビデオプロジェクタは、[[デジタルミラーデバイス]] (DMD) や液晶パネルの映像をレンズで拡大表示するものが多い。
[[デスクトップパソコン]]向けの単体のディスプレイ装置は、かつては、ほとんどがブラウン管式であった。しかし、[[1990年代]]後半から液晶ディスプレイが普及し、2007年頃までにパソコン専用のCRTの生産はほとんど行われなくなった。
ビデオ信号はビデオ表示回路([[ビデオカード]]など)で生成発生され、少なくとも一つ以上の表示規格を満たす。規格には画面サイズ(表示領域の大きさ、表示画素数では無いことに注意)、発色数、水平および垂直方向の[[走査]][[周波数]]、信号[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]の電気的特性などがあり、これらのいくつかは互いに関係しあう。
<!--{{要出典範囲|技術畑の人たちには「ディスプレイ」という言葉のほうが「モニタ」よりも好まれることがある。これは「機械語レベルのデバッグ」や「スレッド同期機能」をあらわす「モニタ」と混同しやすいためである。|date=2021-06-22}}-->
コンピュータディスプレイは、他に「[[ビデオ表示端末]]」(VDT) とも呼ばれる。
パソコン専用の単体のディスプレイ装置(ブラウン管・液晶とも)については、[[パーソナルコンピュータ]] (PC) 本体とともに、「[[資源の有効な利用の促進に関する法律]]」の適用を受けることになり、メーカーによる回収・リサイクルが制度化された。詳しくは[[パーソナルコンピュータ#電子ごみ問題とリサイクル]]を参照のこと。
== 解像度など ==
=== 解像度 ===
{{Main|画面解像度}}
ディスプレイに表示される総画素数。「ヨコ × タテ」のように掛け算の書式で表現することが一般的である。
おもに1920×1080 (Full-HD) 。1世代前や小型のものでは1024x768など。高精細な2048×1536 (QXGA) 、3840×2160(フルUHD)、3940×2160 ([[4K解像度|4K]]) などが使われることもある。
ディスプレイ解像度とPC側の設定を食い違う状態にし拡大または縮小処理させると文字がぼやけて見づらくなるので、PC側の設定をディスプレイの解像度に合致させて用いるのが望ましい。
=== リフレッシュレート ===
{{Main|リフレッシュレート}}
リフレッシュレートとは、表示画像を「リフレッシュ」つまり書き換える頻度。表示の書き換え頻度。1秒間に何回描き換えるか、ということ。単位は[[ヘルツ]]([[Hz]])。
リフレッシュレートがあまりに低いと「ちらつき」が感じられるようになり見づらくなる。解像度を上げるほどリフレッシュレートの上限は低くなる関係にある。<!--液晶ディスプレイのリフレッシュレートはWindows等では便宜上60Hzと表示されることが多いが、原理上は気にする必要はない。-->
=== アスペクト比 ===
{{Main|画面アスペクト比}}
画面の横と縦の長さ(あるいは画素数)の[[比]]<ref name="ewords">[https://e-words.jp/w/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E6%AF%94.html]</ref>。一般的には「横:縦」のように「:」をつかう書式で表記する<ref name="ewords" />。たとえば解像度が640×480ピクセルの場合アスペクト比は「4:3」と表記するなど、[[互いに素 (整数論)|互いに素]]な[[整数]]の比で表示することが一般的。まれに縦を「1」に固定して「1.33:1」などと表示することもある<ref name="ewords" />(つまり「4:3」と「1.33 : 1」は同じアスペクト比である)。
ブラウン管ディスプレイのアスペクト比は[[フルスクリーン|4:3]]が主流だった。液晶ディスプレイのほうは、1990年代はおもに4:3や5:4(1280×1024ドット)だったが、2000年代半ばから16:10のワイド画面が特に家庭向けで多くを占めるようになり、さらに2008 - 2009年ころにデジタルハイビジョン放送・[[薄型テレビ]]と同じアスペクト比である[[16:9のアスペクト比|16:9]]が主流になった。
=== 応答速度 ===
{{Main|応答時間}}
=== 液晶パネルの種類 ===
{{Main|液晶ディスプレイ#液晶パネルの種類(アクティブ・マトリクス駆動)}}
=== グレアとノングレア ===
{{Main|液晶ディスプレイ#多様な技術}}
== サブピクセルアンチエイリアス技術 ==
LCD等、ディスプレイ技術によっては、原理的に色のレジストレーションずれ(RGB各色の輝点の中心が完全にはそろわないこと)がある。このため、色によって、輝点の中心が異なる事になる。[[2001年]]頃から、ソフトウェア設計者が鮮明なテキストイメージを表示するためにこのレジストレーションずれをうまく利用しはじめた。その例として[[マイクロソフト]]の[[ClearType]]や[[アドビ]]のCoolTypeがある。[[macOS]]でも[[Quartz]]により同等の機能が実装されている。
人間の目が、輝点の位置の認知については鋭敏だが、色については鈍感であることを利用し、文字表示についてのみ実際の[[画面解像度]]以上の[[解像度]]を擬似的に利用することが可能である。以前から、同様の技法として、[[ジャギー]]の周囲に、周辺色との混色を配置する[[アンチエイリアス|アンチエイリアシング]]が存在したが、この手法を、1ピクセル以下の領域で行うのがクリアタイプである。ただし[[日本語]]文字[[フォント]]ではこの機能は働かない場合がある。
ディスプレイの解像度が低すぎてイタリック表示ができない場合でも、文字を移動させればイタリック表示になりうる。見かけ上ピクセルの何分の一かの移動は、その分の時間軸を遅延させることにより実現できる。
== VESAマウント ==
[[VESA]]規格で定められたディスプレイ取り付け基部。モニターアームとの接続に使用する。
== 画面回転(ピボット)機能 ==
液晶ディスプレイの一部には画面を90度回転し縦長の状態で使用できる製品がある。縦長な印刷物の制作などに適している。ただし回転させるとサブピクセルの配列の見え方が異なるため、細かい文字等の表示に違和感が生じたり、上記のようなサブピクセルレンダリング技術は適切に動作しない。
ピボット機能をもつ液晶ディスプレイはスタンドに回転機構が備わっているが、そうでないディスプレイでも別売のモニターアームなどを使って回転させることができる。
OS側を画面回転に対応させるために、かつては専用のユーティリティソフトウェアを使用する必要があったが、近年ではビデオカードのドライバやOS自体にその機能が含まれており特別なソフトウェアをインストールすることなく対応できる場合が多い。
CRTモニタでは、奥行きが大きいため縦長画面にして安定的に設置できる場合がある<ref group="※">そのような使用方法は推奨されないため自己責任となる。</ref>。[[アーケードゲーム]]を[[移植 (ソフトウェア)|移植]]した縦スクロール[[シューティングゲーム]]等では縦長表示に対応しているものがあった。
== ディスプレイの歴史 ==
ディスプレイの歴史について説明するにあたりディスプレイの前史、ディスプレイが無かった時代のコンピュータの出力装置にも軽く触れておくと、古いほうから並べると豆電球を並べたもの、紙テープせん孔装置([[:en:Punched tape|Tape punch]])、紙カードせん孔装置<ref>[https://museum.ipsj.or.jp/computer/device/paper/history.html コンピュータ博物館「日本のコンピュータ、入出力装置」]</ref>([[:en:Punched card input/output|Card punch]])、[[テレタイプ端末]]などが使われていた。
コンピュータにディスプレイが使用され始めたのは1960年代のことであり、[[IBM]]、[[UNIVAC]]、[[RCA]]等の米国メーカーが先行し、その後に日本のコンピューターメーカーがそれに追従した。
当初は[[ベクタースキャン]]方式のディスプレイと[[ラスタースキャン]]方式のディスプレイが別系統のディスプレイとして別々に存在していて、ベクタースキャン方式のディスプレイは主に幾何学図形を表示するのに使いラスタースキャン方式のディスプレイは主に文字を表示するのに使う、などという役割分担が設定されていた時代がある。
文字表示のためのディスプレイの初期段階は[[VDT]]であったわけだが、VDTが登場した当時は、それまで一般的であったテレタイプ端末と比較・類比され「ガラスのテレタイプ端末」などと呼ばれた。この段階のVDTはブラウン管(CRT)方式でしかも基本的な文字類(アルファベット・数字・記号)しか表示できずグラフィクス表示機能を持たなかった。
文字表示に関しては欧米では[[アルファベット]]と[[数字]]といくつかの[[記号]]の表示のみで充分だと考えられていたが、日本では[[カタカナ]]の表示機能も必要だと考えられそれが追加され、さらには[[ひらがな]]や[[漢字]]の表示の機能を追加していった。それと平行して図形、画像を表示するディスプレイが開発され、最終的には文字、図形、画像のいずれも表示できるディスプレイに発展した。
;CRT(ブラウン管)技術
コンピュータディスプレイが開発されはじめた[[1950年代]]や[[1960年代]]は、CRT(Cathode Ray Tube : [[陰極線管]]、またはブラウン管ともいわれる)の時代であった。
CRT自体は(今から120年以上前の)[[1897年]]にドイツ人科学者Karl Ferdinand Braunによって発明され、古くから[[オシロスコープ]]等の測定器や[[レーダー]]等で使用されていたが、テレビ放送やテレビ受像機というものが考案され、その受像機の実際の生産が[[1930年代]]にドイツ・フランス・イギリス・アメリカで始まり急激に大量生産されるようになっていた。
図形を表示するためのベクタースキャン方式のコンピュータディスプレイにはオシロスコープの描画の原理を応用し、ラスター方式のコンピュータディスプレイには基本的にはテレビ受像機の技術を応用してゆくことになった。
=== IBMのディスプレイの歴史 ===
コンピュータ関連の歴史を振り返る場合、[[IBM]]の製品の歴史は特に重要なのでここで触れておく。
::[[:en:Category:IBM display devices]]も参照のこと。
* [[:en:IBM 780]] ([[1954年]] - 1959年)。([[:en:IBM 740]]用のディスプレイ)
* [[:en:IBM 2250]](1964年 -)
* [[IBM 2260]](1964年 -)
* [[IBM 3101]](1979年- )
* [[:en:IBM 3196]]
* [[IBM 3270]](1971年 - )
* [[IBM 5250]](1977年 - )
=== ベクタースキャンディスプレイ ===
[[File:Maze war.jpg|thumb|1970年発売の[[:en:Imlac PDS-1]]で3次元[[迷路]]を描画したもの]]
[[File:Tektronics 4014 US map.jpg|thumb|[[テクトロニクス]]社のTektronics 4014でアメリカの州のマップを描いたところ]]
ベクター・スキャン・ディスプレイは基本的には[[オシロスコープ]]と同様の原理で描画する。偏向板と呼ばれる金属板が2組あり、それにかける電圧によって左右方向への曲がる量および上下方向への曲がる量をコントロールできる。コンピュータディスプレイの場合は、コンピュータから[[ベクトル]](線分)を表現したデータ群を受けとり、それを図形やグラフ([[ベクターイメージ]])として表示する。ベクタースキャンディスプレイは「ベクター・グラフィック・ディスプレイ」とも呼ばれた。
1963年には、マサチューセッツ工科大学の[[アイバン・サザランド]]がベクターグラフィックディスプレイを使う[[Sketchpad]]というCADの先駆的プログラムを開発した。
初期のものはCRT画面に仮想格子点を設け、その格子の[[交点]]から別の交点へ[[電子ビーム]]を走査してベクトルを表示する方式であった。その後、半導体メモリが低価格で供給されるようになり方式が変わっていき、各格子点に対応してメモリ(カラーや濃淡を表す場合は複数ビット)を割り当て、ベクトルデータを演算して表示する格子点のメモリに記憶させる方式となっていった。
{{Gallery
|width = 180px
|File:Minskytron-PDP-1-20070512.jpg|1959年に製造開始されたDECの[[PDP-1]]の[[ブラウン管]]式で[[ベクタースキャン]]方式のグラフィックディスプレイ
|File:Bell telephone magazine (1922) (14569771118).jpg|AT&Tの"Bell telephone magazine"の1967年1-2月号<ref>[https://archive.org/details/belltelephone6667mag00amerrich/page/n221/mode/1up?view=theater]</ref>に掲載された写真。
}}
1969年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6233は米国Westinghouse社([[:en:Westinghouse]])から輸入した22インチ円形で表示面がフラットなCRTを使用し、画面上に4,096×4,096の格子点を設けコンピュータからのデータをもとに格子点から別の格子点への線分を表示して図形を表現し、線分データは仮想格子上の位置と縦方向と横方向の長さデータで構成され、リフレッシュ・メモリとして最大16K語の[[磁気コアメモリ|コアメモリ]]を使用し、約8,000本の線分を表示することが出来た。ロケットの設計や軌道計算、列車ダイヤの編成、自動車の設計や科学計算の結果表示等に利用された。同時に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6232はテレビ型の17インチCRTを使用、仮想格子点は1,024×1,024でリフレッシュメモリは4K語のコアメモリを使用、約2,000本の線分を表示した<ref>雑誌「Fujitsu」1971 Vol.22 No.6 P241『FACOM6232AおよびFACOM6233Aグラフィックディスプレイ装置』</ref>。
グラフィックディスプレイは先端科学技術分野から次第に商業・生産等のビジネス分野へと応用範囲が広がりローコストで簡易な製品が求められた。1973年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF9530は線分表示用のメモリとしてスキャンコンバータ管<ref>http://lampes-et-tubes.info/p/sc.htm</ref>(当初はThomsonCSF社製を、次にRCA社製を輸入し、最終的には富士通社内で生産した)を使用した。線分データをスキャンコンバータ管に記録し、ラスタースキャンで読み出してCRTに表示した。
1970年代に[[テクトロニクス]] (Tektronix) 社が開発したグラフィックディスプレイT 4010、'''[[Tektronix 4010]]'''は高画質、ローコストで、光蓄積機能を持つ蛍光体を使用したCRT画面([[:en:Storage_tube]])を用いており、リフレッシュ機能を省略した画期的な装置で世界中のユーザから評価され採用された。このテクトロニクス社製品に価格・性能で対抗すべく富士通は1980年にグラフィックディスプレイF9430を開発した。モノクロ型は14インチCRTで格子点は1,000×800、カラーは7色のカラーで格子点は500×400、各格子対応のリフレッシュ・メモリにICメモリを採用した。
1970年代後半からコンピュータを使用して設計作業の効率化を図るソフト ([[CAD]] : Computer Aided Design) が開発され広く使用され始めた。富士通は設計支援ソフトICADを開発し、当初はグラフィックディスプレイF9430を使用したが機能が低く、複雑な図形表示が困難等の問題があり、1986年に高性能・高機能のグラフィックディスプレイF6240を開発した。表示面に反射軽減処理をした20インチカラーCRTを使用、格子点は1,024×800、7色のカラー表示、図形表示に加えて文字ディスプレイF9526(前述)と日本語ディスプレイF6650(後述)の機能を持っていた。
1970年代や1980年代にはロッキード社開発の[[CADAM]]やダッソー社開発の[[CATIA]]などの機能が高いCADシステムが各国の先進的な企業や研究所等で導入されていたが、これらのCADシステムはIBMコンピュータの上で動くように開発されていたのでグラフィックディスプレイもIBM仕様であることが要求された。この仕様を満足するディスプレイには'''[[Vector General]]社製グラフィックディスプレイVG8250'''もあった。
富士通はVB8250輸入して使用していたが、後にVector General社へ技術者を長期派遣し、技術移管を受けて1988年にグラフィックディスプレイF6245を開発した。20インチカラーCRTを使用し、多色の線画や1600万色のソリッド([[:en:SOLID]])を表示した。
=== 文字ディスプレイ ===
<!--
次の文章は、一般論をのべずいきなり会社名を押し出していて、まるで会社のパンフレットに掲載されている下品な宣伝文のようで、百科事典にそぐわない。
[[富士通]]のディスプレイはコンピューター制御用(コンソール用)からスタートし、データ入力やコンピューターに蓄えられたデータの[[情報検索]]用(インクワイアリィ)へと用途が拡大し、需要が急増した。
-->
==== ブラウン管に加えた工夫 ====
テレビ受像機画面表示は[[ラスタースキャン]]方式であり、(1950年代や1960年代では)CRTの垂直方向(縦)で1秒間に40 - 60回の鋸歯状波、水平方向(横)で1秒間に3 - 10万回の鋸歯状波で偏向して画面全体を一様にスキャンしていた。(つまり、縦方向にはわずか40-60ほどの解像度、縦方向に40から60ドットしか描けないような低解像度であった)
こんな低い解像度でもテレビ受像機、つまり風景や人物の印象をぼんやりと表示するのに使う目的では使え、視聴者の頭脳の視覚中枢の側が映像の足りない部分を勝手に補完してくれて脳内でイメージが完成し一応使えたのだが、コンピュータ用ディスプレイに使うとなると小さな文字を表示しなければならず、当時のテレビ受像機の解像度では全然足りず小さな文字は表示できなかった。小さな文字を表示し文字を読むのに適したものとなるようにテレビ受像機を改造する必要があり、滲みの少ないクッキリした文字を表示するためにさまざまな技術的な工夫を加える必要があった。
;単色表示ブラウン管と発色の選択
もともとブラウン管は単色でしか発光せず、テレビ受像機の「[[白黒テレビ]]」というのは(白黒写真に寄せて、違和感が無いように)白色に発光するものだったが、実はブラウン管の表示色はブラウン管の内側に塗布する蛍光材の種類で決まる。コンピュータディスプレイとして使う場合は白色でなくてもよかったので、発光色にはグリーン、アンバー(オレンジ)、白があった。当時、目が疲労しないようにとの配慮でグリーンやアンバー(オレンジ色)がしばしば採用された。<ref>http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%9B%8D%E5%85%89%E4%BD%93/</ref>。(とはいえ、このタイプのブラウン管は画面全体であくまで単一色表示であり、文字ごとに色を変えることはできなかった)
{{Gallery
|width = 220px
|File:Monitor Display Writer.jpg|[[:en:IBM Displaywriter System]]のグリーンディスプレイ(1980年代のもの)。
|File:IBM-portable-PC-09.jpg|アンバー色のディスプレイ。[[IBMポータブルPC]](1984年発売)のもの。
}}
;解像度を上げる試み、変則ラスタースキャンの試み
1968年 - 1971年に富士通が開発したディスプレイF6221A・B・Dでは、通常のテレビ受像機とは垂直方向は1画面に20行を表示するために20段の階段波と文字を表示する1行分の細かい正弦波を重畳させた波形を、水平方向は1秒に1,000回の鋸歯状波で偏向する変則ラスタースキャンを行った<ref>雑誌「Fujitsu」1969 Vol.20 No.6 P258『文字ディスプレイ装置』</ref>。1970年に富士通が開発した小型コンピュータ用ディスプレイF6222Aは、垂直水平の線で構成された『田』形状の図形に、斜め線で構成された『X』状の線を重ね合わせた形の基本図形を表示するためにラスタースキャンの垂直、水平方向に文字用の偏向を加えた極めて特殊なスキャン(走査)を行った<ref name="名前なし-1"/>。1974年に富士通が開発したディスプレイF9520・F6221K以降はテレビと同様なラスタースキャンを採用した。
;カラーテレビで解像度を上げる試み
[[NTSC]]方式時代のカラーテレビ(テレビ受像機)のCRTはコンピュータディスプレイに必要な1000字(50字×20行)の表示が出来るほどの解像度ではなかった。日本では{{いつ|date=2022年2月}}[[日本放送協会|NHK]]の[[ハイビジョン]]の試作機を、富士通関係者が見学して実用化の見通しを得た。NHKの試作機に使用されているCRTメーカーの三菱電機に富士通側が依頼しディスプレイ用の高解像カラーCRTの供給を富士通が受けた。その後[[松下電器]]が製造するコストダウンしたものを富士通は供給してもらった。カラーテレビの解像度は主にCRT表示面に近接してセットされている[[シャドーマスク|シャドウマスク]]のドット・ピッチに比例する。当時のテレビに採用されていた[[NTSC]]方式では2ドット/mmで、1974年に富士通が開発したディスプレイF6221Kの表示部はハイビジョン用CRTと同じく3ドット/mm、さらに高解像が必要な漢字表示のCRTは、富士通が[[東芝]]に開発を依頼し東芝から供給を受けた。1979年に富士通が開発した漢字を表示する日本語ディスプレイF6650は4ドット/mmであった。ハイビジョンの放送開始が1989年、その15年前の1974年に先行するかたちでコンピュータディスプレイのカラー化が実用化し、これが高解像CRT大量生産の基礎となりテレビ受像機の高品質化にも寄与した。
<!--(なお、それに対して初期のLCD (Liquid crystal display) /PDP (Plasma Display Panel) ディスプレイはカラー表示ができなかったため、単色のみで階調表示もできないものが珍しくなかった。)-->
==== コンソール用ディスプレイ ====
[[File:Colossal_Cave_Adventure_on_VT100_terminal.jpg|thumb|300px|[[VT100]](1978年〜)のディスプレイ。ブラウン管。ラスタースキャン方式。]]
1960年代前後のコンピューターシステムでは[[コマンド (コンピュータ)|コマンド(命令)]]は[[パンチカード|パンチ・カード]]や[[紙テープ]]を作成し、読込装置(リーダ)でコンピュータに読み込んでいて、コンソールパネル(操作卓。あるいは[[:en:Front_panel]])に設置されたランプで表示された[[機械語]]を解読し、スイッチ類を操作してコマンドを入力しコンピュータを制御していた。これらの操作は煩雑で高レベルのスキルが必要、かつ時間も手間もかかるという欠点があり、この問題を解決するために応答が速く操作性が良いテレタイプ端末が設置されコマンドの入力やコンピュータ内のレジスタ情報を印字するようになった段階があったわけだが、このテレタイプ端末をディスプレイに置き換えたことで更に応答速度や操作性が向上した。
;文字表示の試み
1960年代では、そもそもコンピュータが出力する文字データに応じた文字の形をディスプレイに表示する技術を根底から構築することから始めなければならなかった。
富士通が1968年に開発したF6221A(富士通の最初のディスプレイ)では、フライング・スポット管方式の文字発生方法([[:en:Flying-spot_scanner]])を使用した。フライング・スポット管は高解像のCRTでフィルム・スキャナ等に使用される。フライング・スポット管の表示面にアルファベットと仮名文字を記録したフィルムを密着してセットし、リフレッシュメモリから1文字ずつ読み出し、フライング・スポット管でフィルム中のその文字の部分を選択してスキャンする。フィルムを通り抜けた光を[[光電子増倍管]]で受け、電気信号に変換し、増幅して表示部にビデオ信号を送る<ref>雑誌「Fujitsu」1969 Vol.20 No.6 P255『文字ディスプレイ装置』</ref>。
富士通の最初のディスプレイF6221Aは1968年に[[京都大学]]に納入された大型コンピュータ[[FACOM#FACOM 230 シリーズ|FACOM230-60]]の[[コンソール]]に使用された。総製造台数は2台、1台は京大に納入し、他の1台は富士通社内に設置しソフトウエアの開発やバックアップ用とした。F6221Aは入出力制御装置を介してコンピュータに接続され、表示部、文字発生部、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](以下KB)と表示画面に対応した[[文字コード]]・データを蓄積するメモリ(以下リフレッシュメモリという)を含む制御回路で構成されていた。表示部はオレンジ色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名を表示する。CRT([[ブラウン管]])は電子ビーム([[陰極線]])を走査して文字の形を発光させるが、一瞬の間に消えてしまうのでリフレッシュメモリに蓄積した文字コード・データを1秒に25回以上読み出して文字発生部で文字の形に変換した信号をCRTに送り発光させて静止画像を得た。文字発生はフライングスポット管方式(後述)を使用した。KBはタイプライタ配列の文字鍵盤とファンクションキーで構成され、文字データとコマンドの入力に使用された。制御回路ではKBまたはコンピュータからの文字データをリフレッシュメモリに格納し、コマンドによりコンピュータ間の送受信制御やリフレッシュメモリ内の文字コードの追加・挿入・削除・訂正等の処理を行った。制御回路はトランジスタとダイオードの論理回路で構成した<ref>雑誌「Fujitsu」1968 Vol.19 No.4 P177『FACOM6221ディスプレイ装置』</ref><ref>雑誌「Fujitsu」1968 Vol. 9 No.5 P295・『FACOM6221ディスプレイ装置』</ref>。
1969年に富士通が開発したディスプレイF6221BはコンピュータF230シリーズのコンソールとして使用された。総製造台数は約50台。表示部はグリーン色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を表示する。文字発生は3インチ・モノスコープ管<ref>http://uv201.com/Tube_Pages/monoscope.htm</ref>を、リフレッシュメモリには[[コアメモリ]]を使用した<ref>雑誌「Fujitsu」1969 Vol.20 No.6 P253『文字ディスプレイ装置』</ref>。
1971年に富士通が開発したディスプレイF6221Dは2インチ・モノスコープ管を使用して小型化を計った。モノスコープは高解像のフライング・スポット管の技術を利用している。モノスコープ([[:en:Monoscope]])もCRTであるが、アノードは蛍光体ではなく金属板があり、文字の形に穴の開いた金属板がアノードの金属板の前に平行に近接して設置されている。フライング・スポット管と同様に文字版を走査し、アノードから直接、電気信号を得て、表示部に送った<ref>雑誌「Fujitsu」1971 Vol.22 No.6 P225『文字ディスプレイ装置』</ref><ref>雑誌「Fujitsu」1976 Vol.27 No.3 P137『漢字モノスコープ管C-3M06』</ref>。
<!--
過剰。当節は富士通製品に関する文章量が多すぎる。
史上初という特徴を備えた製品なら特記に値するが、日本のいちメーカーによる凡庸な製品をいちいち当節にダラダラと羅列すべきではない。富士通製品について書くなら、NEC製品についても書くべき。
1970年に富士通が開発したディスプレイF6222Aは小型コンピュータF230-15に使用され、低価格であることが要求された。表示部はグリーン色9インチCRTで80文字(16字×5行)のアルファベットと仮名文字を表示する。文字発生は『田』のパターンに斜め線のパターン『X』を重ね合わせた形を基本図形とし、そのうちの必要な部分だけを表示して文字の形とした。リフレッシュメモリにはMOSメモリを使用した<ref name="名前なし-1">雑誌「Fujitsu」1969 Vol.20 No.6 P265『文字ディスプレイ装置』</ref>。
1971年に富士通が開発したディスプレイF6221DはコンピュータF230-5シリーズの標準コンソールとして使用された。総製造台数は約400台。表示部にはマルチコーティング<ref>http://www.weblio.jp/content/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0</ref>したガラスパネルを表示面に貼り付けたグリーン色の15インチCRTを使用し、天井灯等の反射光軽減を計った。この技術は高級カメラのレンズで採用されていたもので、[[旭光学]]に富士通が依頼し、大面積で均一にするために苦労して開発した。文字発生は2インチ・モノスコープ管(後述)を使用した。リフレッシュメモリにはMOSメモリを使用し、制御回路にはフリップフロップやゲートをモジュール化したICを使用して大幅な小型化を計った<ref>雑誌「Fujitsu」1971 Vol.22 No.6 P211『文字ディスプレイ装置』</ref>。-->
1974年に富士通が開発したカラーディスプレイF6221KはコンピュータF230-8シリーズの標準コンソールとして使用された。表示部は高解像カラーCRT(後述)で、1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を7色のカラーで表示した。当時まだモノクロディスプレイの時代であり、これが世界初のカラーディスプレイとなった。文字発生は半導体[[Read only memory|ROM]]を使用し、7×9ドットのマトリックスの必要な部分を表示して文字の形とした。リフレッシュメモリにはMOSメモリを使用した。
==== データ入力・検索用ディスプレイ ====
初期(1960年代前後)のコンピューターシステムでは、データやコマンドをパンチ・カードや紙テープを作成してリーダで読み込んで入力し、コンピュータで処理した結果の出力はラインプリンタ([[:en:Line_printer]])で印字しており訓練されたオペレータが大量の伝票を入力していたが、入力データの確認や修正が簡単で容易であることや出力のスピードや消費する用紙の削減が要望された結果ディスプレイが使用されるようになった。
1973年に富士通が開発したディスプレイ・サブシステムF9520は[[電話回線]]および[[専用線]]経由でコンピュータに接続し、遠隔地からの入出力を可能にした。回線との通信を制御するコントローラ1台に対して最大32台のディスプレイやプリンタを接続した。表示部にはモノクロとカラーの2種があり、[[モノクローム]]は表示面をマット処理(磨りガラス状)したグリーン色17インチCRTを使用、天井灯等の反射光軽減を計り、1920文字(80字×24行)のアルファベットと仮名文字を、カラーは12インチで7色のカラーで表示する。文字発生は半導体[[Read Only Memory|ROM]]を使用し7×9ドット文字を採用した。リフレッシュメモリにはMOS技術を用いたメモリ([[:en:MOS_Technology]])を使用し、[[マイクロプログラム方式]]を採用、簡易[[プロセッサ]]とシンプルな機械語で記述した「簡易モニター」([[機械語モニタ]])および他のプログラムを用いる制御回路を独自に設計した。キーボードにはタイプライタ配列のキーの右側にテンキーや10数個のファンクションキーを配列してデータ入力の容易化を図った。テンキーの配列には電卓型と電話型があったが約30人に試行してもらって電卓型とした。総生産台数は8000台に達した<ref>雑誌「Fujitsu」1973 Vol.24 No.3 P103『FACOM9520シリーズディスプレイシステム』</ref>。
;IBMのディスプレイの席巻、その互換ディスプレイの開発
[[:en:Category:IBM display devices]]も参照のこと。
世界標準のディスプレイとしてはIBMのものがあった。1970年代は[[IBM]]のコンピュータ[[System/360|360シリーズ]]、さらに後継の[[System/370|370シリーズ]]が好評で全世界を席巻しており、IBMのディスプレイ'''[[IBM 3270]]'''が使われていた。
多くの業務用[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーションプログラム]]はIBMコンピュータの仕様で設計されていたので、このプログラムを利用するために日本のコンピューターメーカー各社も協同してIBM仕様をカバーするコンピュータ・システム([[IBM互換機]])を開発した。コンピュータ本体だけではなく周辺機器の仕様を合わせることが必要でIBMのディスプレイ[[IBM 3270]]の公開された仕様をもとに富士通は1976年にディスプレイ・サブシステムF9525を開発した。表示部モノクロは17インチ、カラーは16インチを使用、制御回路には市販の[[モトローラ]]社製[[8ビット]][[MPU]]([[マイクロプロセッサ]])を使用した<ref>雑誌「Fujitsu」1976 Vol.27 No.4 P205『FACOM9525ディスプレイサブシステム』</ref>。
富士通はディスプレイ・サブシステムF9525の後継機として、1979年に省電力、省スペース、ローコスト化と機能強化を計ったF9526を開発した。表示部にはモノクロとカラーCRTに加えてネオンオレンジ色15インチPDP([[プラズマディスプレイ]])を追加し、[[High-Level Data Link Control|HDLC]]回線への接続や、自己診断、トレース、折り返しテスト等のRAS機能([[可用性]])を充実した。市場のニーズは大きく、年間10,000台を超える生産をした(PDPの総生産数は100台弱)<ref>雑誌「Fujitsu」1980 Vol.31 No.3 P87『FACOM9526ディスプレイサブシステム』</ref>。
=== 漢字ディスプレイ ===
[[日本電信電話公社|電電公社(現 : NTT)]]からの開発依頼で富士通は試作機(特仕J2482号)を納入、続いて1972年に漢字ディスプレイF6570を開発した。いずれもグリーン色で標準型は17インチCRTに512文字(32字×16行)、ワイド型は横長20インチCRTに1,024文字(64字×16行)の漢字を表示した。ワイド型CRTはソニーガラスに依頼して電子銃を2個取り付けられる特殊構造のファンネル<ref>http://www.agc.com/products/summary/1172966_832.html</ref>を購入し富士通にて製品化した。文字円盤とビジコン([[撮像管]])を使用した文字発生装置からスキャンコンバータ管(前述)を使用した表示用メモリに書き込むものだった。透明なプラスチック板に5,376文字(円周方向に364字、半径方向に14行)の漢字が印刷された文字円盤をモータで高速回転し、目的の漢字がビジコン正面に来たときに同期してフラッシュ発光し、ビジコンに記録して読み出した<ref>雑誌「Fujitsu」1975 Vol.26 No.1 P119<『FACOM6570漢字ディスプレイ』</ref>。
1978年に富士通が開発した漢字ディスプレイF6580の標準型は672字(32字×21行)、ワイド型は1,344字(64字×21行)、漢字を32×32のドットで表示する。制御装置はコンピュータとの送受信や小型ディスクに収容した約7,000種の漢字のドットパターンを16台の漢字ディスプレイに供給する。また、1,024×1,024(ワイド型は2,048×1,024)ドットのリフレッシュ・メモリに線画を描く機能があり、新聞レイアウト等に使用された<ref>雑誌「Fujitsu」1978 Vol.29 No.2 P99『FACOM6580漢字ディスプレイサブシステム』</ref>。
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まるでこの世に富士通しか存在していないかのように誤認した、独善的で傲慢な記述。百科事典的でない。
富士通が実現しなくても、他社は他社で実現している。
=== マルチメディアディスプレイへの展開 ===
1970年代までの日本の業務用のコンピュータの[[システムソフトウェア]]は、アルファベットと仮名のみをサポートし、特殊業務別に[[アプリケーションソフトウェア]]でグラフィックスや漢字がサポートされていた。ディスプレイも一般事務処理用の文字ディスプレイ、科学・技術・製造・設計等のグラフィックディスプレイ、出版・新聞や住所氏名を扱う業務等の漢字ディスプレイと別々に開発されてきた。一般の業務の中にグラフィックスや漢字等のマルチメディアを取り込んで統一的、段階的にサポートしたのがJEF(Japanese processing Extended Feature : 日本語処理拡張機構)システムである。各種ディスプレイの仕様を統一しシステムソフトウェアでサポートした。第1ステップはアルファベット・仮名のシステムに漢字を加えてデータ処理を、第2ステップは日本語による文章処理、第3ステップでマルチメディア(図形・画像(イメージ)・音声)の情報処理をサポートした。
第1ステップは1979年に日本語ディスプレイF6650を開発した。モノクロ・カラーともに14インチCRT、JISで規定された漢字約6,400字種を1文字24×24ドットで表示し1920字(80字×24行)を表示した<ref>雑誌「Fujitsu」1980Vol.31 No.5 P74『FACOM-Mシリーズ日本語情報システム ハードウエア』</ref>。
第3ステップは1983年に日本語ディスプレイのエンハンス版F6653A、F6658A、F6673Aを開発した。F6653Aはグラフや簡単な図形を表示する[[コンピュータグラフィックス|グラフィックス機能]]を、F6658Aはワードプロセシング機能<ref>[[:en:Word_processing]]</ref>を、F6673Aは画像(イメージ)を表示する機能を持っている。
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=== パーソナルコンピュータのディスプレイの歴史 ===
1970年代後半に登場し1980年代に普及していった[[パーソナルコンピュータ]](PC)では、家庭用のものでは周辺機器も含めた総計価格を一般家庭の人々も購入しやすい価格にするために、一般家庭もすでに所有しているであろう(当時のアナログ信号式の)家庭用テレビを接続でき[[RF]]信号線で接続し低画質でかなり滲みのある表示をするものもあったが、ビジネス用、プロ用、高級機などから滲みの少ないコンピュータ専用ディスプレイを使うことが次第に一般化していった。
<Gallery>
File:LCM+L Working Apple I.jpg|1976年発売のパーソナルコンピュータ[[Apple I]]とモノクロモニター。
File:Trinity77.jpg|1977年発売の[[PET 2001]]、[[Apple II]]とモノクロモニタの組み合わせ、[[TRS-80]]とディスプレイ
File:Commodore Basic screenshot.jpg|PET 2001のグリーンディスプレイタイプの拡大写真。
File:Apple2 basic and with fdd.jpg|[[Apple II]]とAppleのカラーモニターの組み合わせ。
File:Prince of Persia 1 - Apple II.png|Apple IIで[[プリンス・オブ・ペルシャ]]をカラーでプレイする画面
File:Sharp MZ80K.png|1978年発売、シャープの[[MZ-80]]のディスプレイ。
File:Amstrad_CPC_screen_closeup.jpg|1980年代の安価な家庭用パーソナルコンピュータ[[Amstrad CPC]]のカラーモニターの拡大写真。文字が滲んでいる。
File:Apple Macintosh 512K Desktop.jpg|1984年発売の[[Macintosh 512K]]のディスプレイ。本体とディスプレイは一体化している。
File:Amiga500_system.jpg|1987年発売の[[:en:Amiga 500]]のディスプレイ
File:Lotus 1-2-3 on PC-98 DOS spreadsheet.jpg|NECの[[PC-9800]]シリーズのディスプレイの画面
File:IMac G3 Bondi Blue, three-quarters view.png|1998年発売の[[iMac|iMac G3]]。本体とディスプレイは一体化している。
File:MSI laptop with English Wikipedia screenshot 20100614 (2).jpg|ノートPCのディスプレイ(2008年)
File:Monitor of mac.jpg|Macのモニタ(2014年)
</gallery>
=== ディスプレイのインタフェースの歴史 ===
ディスプレイのインタフェースには[[アナログ]]式と[[デジタル]]式があるが、その歴史を振り返る。
現在「モノクロ([[モノクローム]])・ディスプレイ」と言うと単色のON/OFFだけが表示できるもので「グレイスケール・ディスプレイ」のほうは単色の階調を表現できるものを指すが、CRT方式がコンピュータディスプレイに使われていた時代に「モノクロディスプレイ」と呼ばれていたものは実際には現在で言うグレイスケールディスプレイであり濃淡の階調を表現できた。ただし単色であり色信号を付加する必要が無いため、画像信号の伝送には、通常の[[NTSC]]等の[[ビデオ信号]]と、単一の[[RCA端子]]、または、[[コネクタ#同軸コネクタ|BNCコネクタ]]が使用されていた。
アナログ式のカラー表示の場合、RGB各色が連続的に表現されるため、原理的にはすべての色が表示可能であるが、コンピュータの表示回路が生成可能な色数に制約される。24ビットの場合はRGBそれぞれが8ビット、すなわち256階調の組み合わせで1677万色。32ビットの場合は8ビットが余りとなるが、これは表示には関与しない。[[PC/AT]]においては[[VGA端子]](15ピンミニD-sub、DE-15)が一般に用いられ、日本国内の規格としては15ピンのD-sub (DA-15)が用いられた。または、家庭用[[テレビ受像機]]と互換性のある21ピンコネクタが使用された。表示領域が広く、同期周波数が高い場合(いわゆる高解像度)は、同期信号と色信号を別々のBNCコネクタで接続する場合もある。ディスプレイ装置では24/32ビットカラー表示に対応する。
[[1981年]]に登場した[[IBM PC]]は、デジタル式の[[Color Graphics Adapter|CGA]]カードというインターフェースを採用し、16色表示であった。
デジタル式の場合、[[原色|三原色]]の[[RGB]](赤・緑・青)それぞれをON/OFFできるだけであり、表示可能な色は8色(黒・青・赤・マゼンタ・緑・シアン・黄・白)である。デジタル式でもRGBI (RGB-Intensity) 方式では、8色の各々の輝度を全輝度と半輝度とに制御することができ、8色の明暗で合計16色が表示できた。当時デジタルモニタは[[Transistor-transistor logic|TTL]]モニタと呼ばれることがあった。これはRGB各色を表すのにTTLレベルの電気的インターフェースを用いたことによる。9ピンの[[D-subminiature|D-Sub]]コネクタ (DE-9)、または8ピンか6ピンの[[DINコネクタ]]と[[8ピン角型デジタル端子]]で接続される。
1999年に登場したデジタルインターフェースである[[Digital Visual Interface|DVI]]規格では、32ビットフルカラー表示に対応した信号伝送が可能で、画質が大幅に向上した。(デジタルコンテンツ保護の規格[[コピーガード|HDCP]]を備えるものもある。)デジタル方式の良さは人々に広く知られるようになり普及が進み、2007年頃からデジタル家電やパソコン・ビデオカードで[[HDMI]]端子(デジタル方式)も普及し一般化したことに伴い、コンピュータ用液晶ディスプレイでもこれを備えるものが増えてきた。HDMI規格自体にライセンス料が発生するが、DVIと互換性があり設計コストが低いことから、2009年以降では低価格帯のディスプレイにも搭載され、標準的な端子となっている。
2007年には[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続の液晶ディスプレイが登場した。液晶ディスプレイ側に[[Graphics Processing Unit|グラフィックスコントローラ]]を搭載し、別途ディスプレイケーブルを接続する必要がない。またUSBポートから電源を供給できる製品もある<ref group="※">ただし内蔵グラフィックスコントローラは簡易的なもので、3D性能などに難がある場合が多い。またUSB接続はデバイスドライバが必要で、使用できるOSが限られる。</ref>。 2009年時点ころにはサブディスプレイとして利用できる小型サイズの製品が一部で広まった。2010年代には、USB Type-Cで接続できるものが増えた。
新しい世代のインターフェイス規格[[DisplayPort]]は、ビジネスやプロフェッショナル用に使用されている<ref>[https://jp.ext.hp.com/campaign/business/others/library/1808_port/ 教えて、エバンジェリスト! HP 知恵袋 | VGA、HDMI、DisplayPort ってどれがよいの? | 日本HP]</ref>。
== ギャラリー ==
{{Gallery|width = 250px
|File:A1 Houston Office Oil Traders on Monday.jpg|アメリカ合衆国の石油取引のオフィスの液晶ディスプレイの群れ(2004年、US Energy Markets)
|File:Oto godfrey-multi screen studio.jpg|マルチスクリーン
|
}}
== 他 ==
スクリーンショットとは、PCの機能であり、コンピュータからディスプレイに送られている信号を画像データとして記録することや機能を云う。PCが動画の信号を記録する機能はキャプチャという。これらはディスプレイの機能ではない。あくまでPC側の機能である。
{{Main|スクリーンショット}}
{{Main|キャプチャ (録画ソフト)}}
== 注釈 ==
{{Reflist|group="※"}}
== 出典 ==
{{Reflist|refs=
<ref name="名前なし-1">雑誌「Fujitsu」1969 Vol.20 No.6 P265『文字ディスプレイ装置』</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[ディスプレイデバイス]]
* [[ビデオ表示端末]]
* [[マルチモニター]]
* [[テレビ]]
* [[ドットマトリクス]]
* [[光学]]
* [[レンズ]]
* [[国際フラットパネル ディスプレイ展]]
* [[焼き付き]]
* [[応答時間]]
* [[リンギング]]
* [[The Society for Information Display]](SID: 世界最大のディスプレイ学会)
* [[漏洩電磁波]]
* [[液晶ディスプレイ]]
* [[有機エレクトロルミネッセンス]]
* [[プラズマディスプレイ]]
* [[RGB]]
{{Basic computer components}}
{{DEFAULTSORT:ていすふれい}}
[[Category:ディスプレイデバイス]]
[[Category:ディスプレイ技術|*ていすふれい]]
[[Category:コンピュータのユーザインタフェース]]
[[Category:パソコンの周辺機器]]
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ビデオ表示端末
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ビデオ表示端末(英: Video Display Terminal、VDT)は、コンピューターの表示装置の総称であり、(コンピュータの)「ディスプレー」と同義だが、主に労働衛生管理の分野で用いられる用語であり、これらの表示装置を用いて長時間作業することで引き起こされる諸症状を「VDT症候群」という。
もともとコンピュータの入出力装置はテレタイプ端末のような機械式端末だったが、1960年代や1970年代あたりからテレタイプ端末の代わりにVideo方式(ブラウン管方式)の表示装置がさかんに用いられるようになり、それを指すために用いられた用語であり、やがてそうした装置を使って長時間働く人々に独特の症状が見られることが知られるようになり、オフィス内のVDTの台数が増えこうした労働をする人々の数が増えてゆき、症状が深刻化する人も増え、やがて労災認定の裁判なども関係するようになり、労働衛生管理の用語になっていった。
VDTの比較的初期のものとしては、1964年に登場したIBM 2260がしばしば挙げられる。 1970年代のVDTの例としては次のようなものがある。
英語ではVDTで長時間の労働をする人を「VDT worker」という。
(ちなみに近年では労働衛生管理とは無関係の文脈ではコンピュータの表示装置は通常はVDTとは言わずディスプレイという。つまり、用語の棲み分けがされるようになっている。)
VDT症候群は、VDTを使う長時間労働で身体に現れる諸症状を指しており、医療関連用語でもある。
VDT症候群とは、コンピュータ類のディスプレイを使った長時間の作業により、目や身体や精神に影響のでる諸症状。
目の症状としては、目が疲れる、目が痛い、目が乾く、目がかすむ、物がぼやけて見える、視力低下などがある(ちなみにこうした諸症状は眼精疲労ともいう)。VDT症候群の中でも特に眼に出る症状は「IT眼症(アイティーがんしょう)」ともよばれている。
身体症状としては、肩がこる、首・肩・腕などが痛む、「だるい」などがあり、慢性的になると、背中の痛み、手指のしびれなども発症することがある。
精神症状としては、イライラ、不安感、抑うつ状態などがある。
労働衛生管理で端末作業について言及する場合、VDTの略称が多く用いられ、労働衛生管理関連の分野では、VDTを使った作業をVDT作業という。
VDTという用語は、世界的に労働衛生管理や労働災害に関係する行政用語として使われている用語である。
日本国内では1985年12月20日付の労働省の通達「VDT作業のための労働衛生上の指針について」(基発第705号)によってコンピュータの画面を見つめる作業が特段の労働衛生管理の対象となって一般化し、その後、2002年4月5日付「VDT 作業における労 働衛生管理のためのガイドラインについて」(基発第 0405001号)で指導内容がガイドライン化された際にも用語として継承された。VDTは、長らく用いられてきた用語であったが、2019年7月、厚生労働省労働基準局長名の通知(令和元年7月12日付け基発0712 第3号)により、新たに「情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドライン」が定められ、用語としての「VDT」は、労働衛生管理行政の中では後景に退くこととなった。
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ビデオ表示端末は、コンピューターの表示装置の総称であり、(コンピュータの)「ディスプレー」と同義だが、主に労働衛生管理の分野で用いられる用語であり、これらの表示装置を用いて長時間作業することで引き起こされる諸症状を「VDT症候群」という。 もともとコンピュータの入出力装置はテレタイプ端末のような機械式端末だったが、1960年代や1970年代あたりからテレタイプ端末の代わりにVideo方式(ブラウン管方式)の表示装置がさかんに用いられるようになり、それを指すために用いられた用語であり、やがてそうした装置を使って長時間働く人々に独特の症状が見られることが知られるようになり、オフィス内のVDTの台数が増えこうした労働をする人々の数が増えてゆき、症状が深刻化する人も増え、やがて労災認定の裁判なども関係するようになり、労働衛生管理の用語になっていった。 VDTの比較的初期のものとしては、1964年に登場したIBM 2260がしばしば挙げられる。
1970年代のVDTの例としては次のようなものがある。 ADM-3A
VT52 (DEC製、1975年-)
VT100 英語ではVDTで長時間の労働をする人を「VDT worker」という。 (ちなみに近年では労働衛生管理とは無関係の文脈ではコンピュータの表示装置は通常はVDTとは言わずディスプレイという。つまり、用語の棲み分けがされるようになっている。) VDT症候群は、VDTを使う長時間労働で身体に現れる諸症状を指しており、医療関連用語でもある。 VDT症候群とは、コンピュータ類のディスプレイを使った長時間の作業により、目や身体や精神に影響のでる諸症状。 目の症状としては、目が疲れる、目が痛い、目が乾く、目がかすむ、物がぼやけて見える、視力低下などがある(ちなみにこうした諸症状は眼精疲労ともいう)。VDT症候群の中でも特に眼に出る症状は「IT眼症(アイティーがんしょう)」ともよばれている。 身体症状としては、肩がこる、首・肩・腕などが痛む、「だるい」などがあり、慢性的になると、背中の痛み、手指のしびれなども発症することがある。 精神症状としては、イライラ、不安感、抑うつ状態などがある。
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'''ビデオ表示端末'''({{lang-en-short|[[w:Video display terminal|Video Display Terminal]]}}、'''VDT''')は、コンピューターの表示装置の総称であり、(コンピュータの)「[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレー]]」と同義だが、主に労働衛生管理の分野で用いられる用語であり、これらの表示装置を用いて長時間作業することで引き起こされる諸症状を「VDT症候群」という<ref>『IT用語がわかる辞典』 【VDT】</ref>。
もともとコンピュータの入出力装置は[[テレタイプ端末]]のような機械式端末だったが、1960年代や1970年代あたりからテレタイプ端末の代わりにVideo方式(ブラウン管方式)の表示装置がさかんに用いられるようになり、それを指すために用いられた用語であり、やがてそうした装置を使って長時間働く人々に独特の症状が見られることが知られるようになり、オフィス内のVDTの台数が増えこうした労働をする人々の数が増えてゆき、症状が深刻化する人も増え、やがて[[労働災害|労災]]認定の裁判なども関係するようになり、労働衛生管理の用語になっていった。
[[File:IBM 2260.jpg|thumb|オフィスで[[IBM 2260]]を見つめて仕事をする労働者]]
<!--[[File:Colossal Cave Adventure on VT100 terminal.jpg|thumb|270px|[[ブラウン管]]式のVDT。[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション]] (DEC) の[[VT100]]。]]-->
VDTの比較的初期のものとしては、1964年に登場した[[IBM 2260]]がしばしば挙げられる。
1970年代のVDTの例としては次のようなものがある。
* [[ADM-3A]](Lear Siegler, Inc.製、1976年 - )
* [[VT50]]([[:en:VT50]]。[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]製、1974年-)
* [[VT52]] (DEC製、1975年-)
* [[VT100]] (DEC製、1978年 - )
英語ではVDTで長時間の労働をする人を「VDT worker」という。
(ちなみに近年では労働衛生管理とは無関係の文脈ではコンピュータの表示装置は通常はVDTとは言わず[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]という。つまり、用語の棲み分けがされるようになっている。)
;VDT症候群
VDT症候群は、VDTを使う長時間労働で身体に現れる諸症状を指しており、医療関連用語でもある。
VDT症候群とは、コンピュータ類のディスプレイを使った長時間の作業により、目や身体や精神に影響のでる諸症状<ref name="Santen_VDT_syndrome">[https://www.santen.co.jp/ja/healthcare/eye/library/vdt_syndrome/ 参天製薬株式会社、VDT症候群]</ref>。
目の症状としては、目が疲れる、目が[[疼痛|痛い]]、目が乾く、目がかすむ、物がぼやけて見える、視力低下などがある<ref name="Santen_VDT_syndrome" />(ちなみにこうした諸症状は[[眼精疲労]]ともいう)。VDT症候群の中でも特に眼に出る症状は「IT眼症(アイティーがんしょう)」ともよばれている<ref name="Santen_VDT_syndrome" />。
身体症状としては、[[肩こり|肩がこる]]、首・肩・腕などが痛む、「だるい」などがあり、慢性的になると、背中の[[疼痛|痛み]]、手指の[[痺れ|しびれ]]なども発症することがある<ref name="Santen_VDT_syndrome" />。
精神症状としては、イライラ、[[不安]]感、[[抑うつ]]状態などがある<ref name="Santen_VDT_syndrome" />。
== 労働衛生管理行政用語のVDT ==
[[File:Office Worker with Two Monitors.JPG|thumb|270px|ディスプレイを長時間見つめて仕事をする[[デスクワーカー]]。労働衛生管理関連の用語で言う「VDT」を長時間使用する[[労働者]]「VDT worker」に当たる。{{Efn|近年のオフィスワーカーのほとんどはデスク上にノートPCやPCディスプレイを置いて1日の大半それを見つめて仕事をしているので、オフィスワーカーの大半が「VDT worker」に当たるような状況になっている。}}]]
<!--[[File:Apple Pro Display XDR and Mac Pro (2019 model) - 1.jpg|thumb|270px|販売展示されている [[Apple Pro Display XDR]]。]]-->
労働衛生管理で端末作業について言及する場合、VDTの略称が多く用いられ、労働衛生管理関連の分野では、VDTを使った作業を'''[[VDT作業]]'''という。
VDTという用語は、世界的に労働衛生管理や労働災害に関係する行政用語として使われている用語である。
日本国内では[[1985年]]12月20日付の[[労働省]]の[[通達]]「VDT作業のための労働衛生上の指針について」(基発第705号)によってコンピュータの画面を見つめる作業が特段の労働衛生管理の対象となって一般化し、その後、[[2002年]][[4月5日]]付「VDT 作業における労 働衛生管理のためのガイドラインについて」(基発第 0405001号)で指導内容がガイドライン化された際にも用語として継承された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11200000-Roudoukijunkyoku/0000184703.pdf|format=PDF|title=VDT作業における労働衛生管理のためのガイドラインについて(基発第 0405001 号)|publisher=厚生労働省|date=2002-04-05|accessdate=2020-10-15}}</ref>。VDTは、長らく用いられてきた用語であったが、[[2019年]]7月、厚生労働省労働基準局長名の通知(令和元年7月12日付け基発0712 第3号)により、新たに「情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドライン」が定められ、用語としての「VDT」は、労働衛生管理行政の中では後景に退くこととなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/content/000539604.pdf|format=PDF|title=情報機器作業における労働衛生管理のためのガイドラインについて(基発 0712 第3号)|publisher=厚生労働省|date=2019-07-12|accessdate=2020-10-15}}</ref>。
== 脚注 ==
<references group="注釈"/>
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[VDT作業]]
* [[VDT症候群]]
== 外部リンク ==
*[http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/04/h0405-4.html 「VDT作業における労働衛生管理のためのガイドライン」] - 厚生労働省の指針
{{DEFAULTSORT:ひておひようしたんまつ}}
[[Category:ハードウェア]]
[[Category:ディスプレイ技術]]
{{Computer-stub}}
[[en:Video display terminal]]
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小田扉
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小田 扉(おだ とびら、1974年 - )は、日本の漫画家。男性。
神奈川県横浜市上中里住宅出身。関東学院大学経済学部卒業。
在学中に同人活動を始め、卒業後に島津郷子のアシスタントを約3年間務める。1999年に『モーニング新マグナム増刊』に掲載された『話田家』でデビュー。
画材はつけペンではなくミリペン(ピグマ)を使用している。
漫画家とは別にバンド活動も行っている。楽曲は、様々な漫画家の楽曲が収録された『漫画家バンド大戦CD』に収録されている。
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小田 扉は、日本の漫画家。男性。
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{{存命人物の出典明記|date=2014年7月}}
{{Infobox 漫画家
| 名前 = 小田 扉
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| 脚注 =
| 本名 =
| 生年 = {{生年月日と年齢|1974||}}
| 生地 = [[日本]]・[[神奈川県]][[横浜市]]
| 没年 =
| 没地 =
| 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 職業 = [[漫画家]]
| 活動期間 = [[1999年]] -
| ジャンル = [[青年漫画]]
| 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 -->
| 受賞 =
| サイン =
| 公式サイト =
}}
'''小田 扉'''(おだ とびら、[[1974年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性。
== 人物 ==
[[神奈川県]][[横浜市]]上中里住宅出身。[[関東学院大学]]経済学部卒業。
在学中に[[同人]]活動を始め、卒業後に[[島津郷子]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を約3年間務める。[[1999年]]に『[[イブニング|モーニング新マグナム増刊]]』に掲載された『話田家』でデビュー。
画材は[[つけペン]]ではなく[[ミリペン]](ピグマ)を使用している。
漫画家とは別に[[バンド (音楽)|バンド]]活動も行っている。楽曲は、様々な漫画家の楽曲が収録された『漫画家バンド大戦CD』に収録されている。
== 作品リスト ==
=== 漫画 ===
* マル被警察24時
* [[そっと好かれる]]
* そっとロワイヤル
* スペース・アポロジー([[小学館]] [[ビッグコミックスピリッツ]]増刊『[[月刊IKKI|IKKI]]』No.11-13、『[[月刊IKKI]]』2003年4月号、5月号)
* こさめちゃん
* [[男ロワイヤル]]
* [[江豆町ブリトビラロマンSF]]
* [[団地ともお]]
* [[亀は意外と速く泳ぐ]](漫画部分担当)
* フィッシュパークなかおち
* 前夜祭([[講談社]]、2009年)
* スポーツ大佐 第18話「刺客が山狩りに来た!!」([[日本放送協会|NHK]]アニメ『[[アニ*クリ15|アニ*クリ15]]』)
* しょんぼり温泉
* ちょっと不思議な小宇宙
* タッグ(講談社『[[猫本2]]』、2008年4月)
* 星野源『そして生活はつづく』巻末マンガ作画([[マガジンハウス]]、2009年)
* 犬は語らず(講談社『[[漫画BOX AMASIA]]』、2010年)
* ふたりのマドレーヌ
* [[新日本プロレス|新日]]ファンタジー<ref>{{cite news |title=あのレスラーが牧場で飼われる?小田扉が実在選手を描くプロレスギャグ1巻 |publisher=コミックナタリー |date=2017年9月29日 |url=https://natalie.mu/comic/news/250762 |accessdate=2017年9月29日}}</ref>(小学館『[[コロコロアニキ]]』、2014年 - 2020年)
* 横須賀こずえ
* ちょっと不思議なこの宇宙([[双葉社]]『[[webアクション]]』2021年8月20日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/441577|title=「団地ともお」小田扉の新連載「ちょっと不思議なこの宇宙」がwebアクションで始動|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-08-20|accessdate=2021-08-20}}</ref> - )
* しめっぽい話ですが(小学館『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』2021年11月12日増刊号<ref>{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/magazines/66837/|title=ビッグコミックオリジナル増刊号 11月12日増刊号|website=ビッグコミックBROS.NET|publisher=小学館|accessdate=2021-10-12}}</ref> - 2023年3月12日増刊号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-02-10|title =しめっぽい話ですが 最終話 葬儀の相談をしよう、今野!|journal =ビッグコミックオリジナル増刊|volume=2023年3月12日増刊号|publisher = 小学館|page=262}}</ref>)
* フランチャイズ! つくだ☆マジカル([[読売中高生新聞]]2022年1月7日発行 - )
* たたかいのきろく(双葉社『webアクション』2023年7月21日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/533764|title=小田扉が“たたかい”描く新連載がwebアクションで、「本日の卜部さん」も掲載開始|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-21|accessdate=2023-07-21}}</ref> - )
* じんちく以外(小学館『[[ビッグコミック増刊]]』2023年12月17日増刊号<ref>{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/magazines/81182/|title=ビッグコミック増刊号 12月17日増刊|website=ビッグコミックBROS.NET|publisher=小学館|accessdate=2023-11-17}}</ref> - )
=== イラスト ===
*[[田中小実昌]]『香具師の旅』カバー、[[河出文庫]]、2004年
*田中小実昌『ポロポロ』カバー、河出文庫、2004年
*田中小実昌『自動巻き時計の一日』河出文庫、2004年
*真形隆之『団地っ子の同窓会』カバー、[[東邦出版]]、2005年 - 後書きも
*雑誌『hon-nin vol.00 』、太田出版、2006年 - [[本谷有希子]]「改めて!ほんたにちゃん」挿絵
*雑誌『メガヘルツ3』、マガジンファイブ、2007年 - [[BAZRA#メンバー|井上鉄平]]と対談
*野火迅『リーマン侍 江戸の世渡り』、[[扶桑社]]、2011年
* [[トレーディングカードゲーム]]『[[デュエル・マスターズ]]』カードイラスト、株式会社[[タカラトミー]]、2013年
=== 映像化作品 ===
*ワタ毛男(2012年4月21日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[世にも奇妙な物語 2012年 春の特別編|世にも奇妙な物語'12 春の特別編]]』で放送。主演:[[濱田岳]]) - 『前夜祭』収録。
*AIRドクター(2013年5月11日、フジテレビ『[[世にも奇妙な物語 2013年 春の特別編|世にも奇妙な物語'13 春の特別編]]』で放送。主演:[[小栗旬]]) - 『前夜祭』収録「もどき」を改題。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.est.hi-ho.ne.jp/tobira/ 小田置き場]
* {{Twitter|odatobira}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:おた とひら}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:関東学院大学出身の人物]]
[[Category:横浜市出身の人物]]
[[Category:1974年生]]
[[Category:存命人物]]
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広中平祐
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広中 平祐(ひろなか へいすけ、正字体:廣中 平祐、1931年(昭和6年)4月9日 - )は、日本の数学者。ハーバード大学名誉教授。京都大学数理解析研究所元所長。山口大学元学長。日本人で2人目のフィールズ賞受賞者である。専門は代数幾何学で、フィールズ賞受賞対象の研究は「標数0の体上の代数多様体の特異点の解消および解析多様体の特異点の解消」。日本学士院会員。
山口県玖珂郡由宇町(現在の岩国市)生まれ。両親は再婚同士で、15人兄弟の7番目として生まれた。父は大手の呉服商や織物工場を営み、戦前はかなり裕福な家庭で育った。
1944年に旧制柳井中学校に入学。しかし中学2年からは光海軍工廠での兵器製造に学徒動員され、学業は停止。召集された長兄と次兄は戦死し、父の会社も戦後は没落。父は衣料品の行商人として平祐たちを育てた。
京都大学理学部に進学。1957年からはハーバード大学に3年間留学し、特異点解消の研究に打ち込む。在籍中の1959年には半年間、パリの高等科学研究所の客員研究員に。1962年、ブランダイス大学の講師の職を得て各種の多様体上の特異点の解消に関する研究に打ち込む。1962年、自宅で構想中に得たひらめきを基に定理を構築し、 1964年に代数幾何学の論文を発表。この研究が認められ、1970年に日本人として二人目となるフィールズ賞を受賞した。
1964年、コロンビア大学の教授に招聘される。1968年からはハーバード大学教授。1975年、昭和生まれでは初の文化勲章を受章。同年から京都大学教授も兼任(1988年退任)。
妻は元参議院議員で環境庁長官を務めた、広中和歌子。娘の広中えり子も数学者でフロリダ州立大学教授。
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広中 平祐は、日本の数学者。ハーバード大学名誉教授。京都大学数理解析研究所元所長。山口大学元学長。日本人で2人目のフィールズ賞受賞者である。専門は代数幾何学で、フィールズ賞受賞対象の研究は「標数0の体上の代数多様体の特異点の解消および解析多様体の特異点の解消」。日本学士院会員。
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'''広中 平祐'''(ひろなか へいすけ、正字体:廣中 平祐、[[1931年]]([[昭和]]6年)[[4月9日]] - )は、[[日本の数学者の一覧#1931年 - 1940年生まれの日本の数学者|日本の数学者]]。[[ハーバード大学]]名誉教授。[[京都大学数理解析研究所]]元所長。[[山口大学]]元学長。[[日本人]]で2人目の[[フィールズ賞]]受賞者である。専門は[[代数幾何学]]で、フィールズ賞受賞対象の研究は「[[標数]]0の[[可換体|体]]上の代数[[多様体]]の[[特異点]]の解消および解析多様体の特異点の解消」。[[日本学士院]]会員。
== 概要 ==
[[ファイル:Hironaka heisuke 1976.jpg|サムネイル|若かりし頃の広中]]
[[山口県]][[玖珂郡]][[由宇町]](現在の[[岩国市]])生まれ。両親は再婚同士で、15人兄弟の7番目として生まれた。父は大手の呉服商や織物工場を営み、戦前はかなり裕福な家庭で育った。
[[1944年]]に[[山口県立柳井高等学校|旧制柳井中学校]]に入学。しかし中学2年からは[[光海軍工廠]]での兵器製造に[[学徒動員]]され、学業は停止。召集された長兄と次兄は戦死し、父の会社も戦後は没落。父は衣料品の[[行商人]]として平祐たちを育てた<ref name="ikiru">広中平祐『生きること学ぶこと』[[集英社]]、1984年 ISBN 978-4087507317</ref>。
[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学理学部]]に進学。[[1957年]]からは[[ハーバード大学]]に3年間留学し、特異点解消の研究に打ち込む。在籍中の[[1959年]]には半年間、[[パリ]]の高等科学研究所の客員研究員に。[[1962年]]、[[ブランダイス大学]]の講師の職を得て各種の多様体上の特異点の解消に関する研究に打ち込む。[[1962年]]、自宅で構想中に得たひらめきを基に定理を構築し、
[[1964年]]に[[代数幾何学]]の論文を発表。この研究が認められ、[[1970年]]に日本人として二人目となる[[フィールズ賞]]を受賞した<ref>広中氏にフィールズ賞 代数幾何学の難問解く『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月3日朝刊 12版 3面</ref>。
1964年、[[コロンビア大学]]の教授に招聘される。[[1968年]]からはハーバード大学教授。[[1975年]]、昭和生まれでは初の[[文化勲章]]を受章。同年から京都大学教授も兼任(1988年退任)。
妻は元[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]]で[[環境大臣|環境庁長官]]を務めた、[[広中和歌子]]。娘の[[広中えり子]]も数学者で[[フロリダ州立大学]]教授[http://www.math.fsu.edu/~hironaka]。
== 人物 ==
*幼少時、分からないことがあると何でも質問するため、母親から「なぜなぜ坊や」と呼ばれていた。母親は疑問に答えられないと、「偉い人に聞けば分かるだろう」と町の医者や神主のところに平祐を連れて行き、答えを尋ねてくれたという<ref name="名前なし-1">中国新聞連載「生きて」、2008年12月</ref>。
*若い頃はピアノの演奏家、作曲家を志していた。ピアノは高校時代にほとんど独学したが、始めた時期が遅いことからプロの演奏家になることはあきらめた。
*中学1年の時、2歳上の姉が悩んでいた数学の因数分解の問題をのぞき見、教科書の公式を見てすらりと解いてしまう。後年「数学が面白いと初めて感じた瞬間だった」と振り返っている<ref name="名前なし-1"/>。
*京都大学の学生時代は[[秋月康夫]]の研究室に入り、厳しい指導を受ける。日本人3人目のフィールズ賞受賞者・[[森重文]]も秋月研究室出身。
*特異点解消問題について、1963年に[[日本数学会]]で講演した。その内容は、一般的に考えるのでは問題があまりに難しいから、様々な制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案であった。その時、[[岡潔]]が立ち上がり、問題を解くためには、広中が提案したように制限をつけていくのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定して、それを解くべきであると言った。その後、広中は制限を外して理想化する形で解き、[[フィールズ賞]]の受賞業績となる<ref>広中平祐 『学問の発見』、佼成出版、1992年、129頁。ISBN 4-333-01563-4。</ref>。
*[[ハーバード大学]]では[[オスカー・ザリスキ]]に師事。同門下に[[デヴィッド・マンフォード]](1974年フィールズ賞受賞)がおり、広中は後年「ランチを食べながらお互いに教え合い、刺激しあった」と語っている<ref name="名前なし-1"/>。
* ハーバード大学に滞在中、[[グロタンディーク]]がハーバード大学にやってきた。広中はグロタンディークを非常に面白い人と思い、親しく交流するようになった。そしてグロタンディークがパリに帰るときに「パリに来ないか」と要請を受けた。広中はこれに応じ、パリに行くことになった<ref>
{{Citation|和書 | author = 広中平祐 | contribution = 数学者の素顔から終活まで | title = 京都大学理学研究科・理学部数学教室 同窓会誌 創刊号 | year = 2017 | format = PDF | url = https://www.math.kyoto-u.ac.jp/alumni/bulletin1/%E5%90%8C%E7%AA%93%E4%BC%9A%E8%AA%8C%E5%89%B5%E5%88%8A%E5%8F%B7.pdf | page = 21 }}</ref>。
*グロタンディークの要請を受け[[IHES]]の研究員としてパリに滞在していた[[1959年]]、語学学校で指揮者の[[小澤征爾]]と出会い、親交を結ぶ。1960年、小澤がバークシャー音楽祭(現・[[タングルウッド音楽祭]])に出演するため来米すると、広中が車を運転して空港から送迎したという(小澤はこの時、最高賞の[[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]賞を受賞し、アメリカで名声を得るきっかけとなる)<ref name="名前なし-1"/>。
*数学教育に積極的に取り組んでいることでも知られる。数理科学に強い情熱と優れた資質を持つ若者に学年や地域の壁を越えた交流の機会を提供するために、[[1980年]]に第1回[[数理の翼]]夏季セミナーを主催。[[1984年]]には財団法人[[数理科学振興会]]を設立し、代表に就任。1992年からは小学生対象の「[[算数オリンピック]]」会長。ほかに[[東京書籍]]の[[算数]]・数学[[教科書]]の監修も担当している。
*[[2008年]]より招聘を受け[[韓国]][[ソウル大学校|ソウル大]]碩座教授となる。[[許埈珥]](2022年フィールズ賞受賞)は、物理学専攻であったがその講義に感銘を受け師事し、[[京都市]]の自宅へ訪れるほどの親交を結び、大学院より数学科に転向した。米国留学も広中の推薦である<ref name="名前なし-6">[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/07/06/2022070680048.html [[朝鮮日報]]日本語版「広中平祐教授との出会いで数学に目覚めたホ・ジュニ教授」、2022年7月6日]</ref>。
*座右の銘は「素心深考」。
== 略歴 ==
*1950年、[[山口県立柳井高等学校]]卒業
*1954年、[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都大学理学部]]数学科卒業
*1956年、京都大学大学院理学研究科で修士号取得
*1960年
**[[ハーバード大学]]で博士号取得
**[[ブランダイス大学]]講師
*1961年、ブランダイス大学助教授
*1962年、[[ストックホルム]]の[[国際数学者会議]]で招待講演<ref name=":ICM">[https://www.mathunion.org/icm-plenary-and-invited-speakers?combine=hironaka ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)]</ref>
*1963年
**ブランダイス大学准教授
**京都大学理学研究科より博士号を取得。題は「The resolution of singularities of an algebraic variety」
*1964年、[[コロンビア大学]]教授
*1967年、[[朝日賞|朝日文化賞]]受賞
*1968年、ハーバード大学教授(1992年まで)
*[[1970年]]
**[[9月2日]]、[[ニース]]の[[国際数学者会議]]<ref name=":ICM" />で[[フィールズ賞]]受賞
**[[日本学士院賞]]受賞
*1975年
**[[京都大学数理解析研究所]]教授(1988年まで)
**[[文化勲章]]受章、[[文化功労者]]顕彰
*1976年、日本学士院会員
*1983年、京都市名誉市民
*1984年、[[財団法人]][[数理の翼|数理科学振興会]]設立代表
*1990年、ハーバード大学名誉教授 (William Elwood Byerly Professorship in Mathematics)
*1996年、[[山口大学]]学長に就任(2002年まで)
*2004年
**[[フランス]][[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ受章
**[[リンデンホール小学校]]特別講師
**[[創造学園大学]](現在は廃校)学園長に就任(2013年まで)
*2008年、[[ソウル大学校]]教授
*2012年、岩国市名誉市民
== 著書 ==
*『広中平祐の家庭教育論 可能性をひきだす教育』[[講談社]] 1978
*『広中平祐の教育探検』[[日本放送出版協会]] 1979
*『創造力をはぐくむ 21世紀への教育論』横浜パースデザインアカデミー 1980
*『広中平祐の数学教室 誰でも数学が好きになれる』[[サンケイ出版]] 1980
*『創造的に生きる』[[聖教新聞社]] 1981
*『広中平祐の家庭教育論 可能性をひきだす教育』講談社 オレンジバックス 1981
*『私の生き方論 広中平祐対談集』[[潮出版社]] 1981 のち文庫
*『「可変思考」で創造しよう 企画・教育・技術への発想テキスト』[[光文社]] カッパ・ホームス 1982 のち文庫
*『学問の発見』[[佼成出版社]] 1982 『生きること学ぶこと』[[集英社文庫]] 1984
*『広中平祐素心対談』佼成出版社 1983
*『科学の知恵心の智慧』佼成出版社 1985
*『超一流企業リーダーの頭の中 広中平祐・エグゼクティブ対談』光文社 1985
*『雲の如く』(ドキュメント・わが母)[[旺文社]] 1986
*『湧源国家論 豊かさの後に何を創造するのか』[[PHP研究所]] 1988
*『代数幾何学』講義 [[森重文]]記録 [[丸山正樹]], [[森脇淳 (数学者)|森脇淳]], [[川口周]]編 [[京都大学学術出版会]] 2004
=== 共著 ===
*『数学とエロチシズム』[[池田満寿夫]]共著 講談社 1977 のち文庫
*『日本を語る』[[江崎玲於奈]]共著 [[毎日新聞社]] 1977
*『やわらかな心をもつ ぼくたちふたりの運・鈍・根』[[小沢征爾]]対談 創世記 1977 のち[[新潮文庫]]
*『子供の教育と親のかかわり』広中和歌子共著 聖教新聞社 1979
*『青年の翼 若い日本人のための12章』編著 パナジアン 1980
*『若い日本人のための12章』編著 パナジアン 1980
*『解析空間入門』[[卜部東介]]共著 [[朝倉書店]] 数理科学ライブラリー 1981
*『広中平祐・和歌子の教育相談 知欲と個性を伸ばすために』広中和歌子共著 [[学習研究社]] 1982
*『知の発見-叡知』[[藤沢令夫]]共著 てらこや出版 寺小屋叢書 1983
*『親ならいまこそ考えよう 子供の学力、個性を伸ばす"環境"づくりをめざして… 対談』[[難波金平]]共著 JCA出版局 本物の教育シリーズ 1986
*『素心・素願に生きる 対話』[[水上勉]]共著 [[小学館]] 1989 のちライブラリー
*『現代数理科学事典』編 [[大阪書籍]] 1991 [[丸善]] 2009
*『人生は六十歳から 天命に生きる 生きる指針・勇気・希望を与える』[[和田一夫]]共著 ダイヤモンドセールス編集企画 1994
=== 翻訳 ===
*[[ブノワ・マンデルブロ|ベンワー B.マンデルブロ]]『フラクタル幾何学』監訳 [[日経サイエンス]] 1985/[[ちくま学芸文庫]] 上下 2011
::監訳として名前を出してはいるが翻訳作業自体は[[数理の翼|湧源クラブ]]によって行われた。
== 出演 ==
=== CM ===
*[[パナソニック|松下電器]] テレビ(1970年代)
*[[富士フイルム]]([[1983年]])
*[[日興証券]]([[1989年]])
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[数理の翼]]
*[[駿台予備学校]](1996年まで名誉学長を務めていた)
*[[広中 (小惑星)]]
*[[京都大学の人物一覧]]
*[[ハーバード大学に関係する日本人の一覧]]
*[[広中杯]]
*[[算数オリンピック]]
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魚喃キリコ
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魚喃 キリコ(なななん キリコ、 (1972-12-16) 1972年12月16日(50歳) - )は、日本の漫画家。西蒲原郡吉田町(現・新潟県燕市)出身。新潟清心女子高等学校、日本デザイン専門学校出身。
幼稚園の頃より漫画が好きで絵を描き始める。中学生、高校生になり出版社に投稿を始めるも全て落選。その頃、岡崎京子の漫画を読み影響を受ける。
1993年、日本デザイン専門学校在学中に描いた『hole』(「ガロ」掲載)でデビュー。白黒のコントラストを強調した、イラスト的でクールな絵柄を特徴とする。自らの体験などをベースに、主に若い男女の恋愛模様を描いている。5歳の頃から漫画家になりたかったという。
2002年に『blue』が市川実日子、小西真奈美主演で映画化された。大友良英率いる「blueバンド」に参加し、サウンドトラックの演奏を行っている。2004年にはblueバンドのライブも行われた。
2006年に『strawberry shortcakes』が『ストロベリーショートケイクス』として映画化された。岩瀬 塔子(いわせ とうこ)の芸名で出演もしている。
また、2017年に『南瓜とマヨネーズ』が臼田あさ美主演で映画化。
好きな詩人は立原道造。影響を受けた漫画は岡崎京子の『pink』。
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魚喃 キリコは、日本の漫画家。西蒲原郡吉田町(現・新潟県燕市)出身。新潟清心女子高等学校、日本デザイン専門学校出身。
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'''魚喃 キリコ'''(なななん キリコ、{{生年月日と年齢|1972|12|16}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[西蒲原郡]][[吉田町 (新潟県)|吉田町]](現・[[新潟県]][[燕市]])出身。[[新潟清心女子高等学校]]、[[日本デザイン専門学校]]出身。
== 来歴 ==
幼稚園の頃より漫画が好きで絵を描き始める。中学生、高校生になり出版社に投稿を始めるも全て落選。その頃、[[岡崎京子]]の漫画を読み影響を受ける。
[[1993年]]、日本デザイン専門学校在学中に描いた『hole』(「[[ガロ (雑誌)|ガロ]]」掲載)でデビュー。白黒のコントラストを強調した、イラスト的でクールな絵柄を特徴とする。自らの体験などをベースに、主に若い男女の恋愛模様を描いている。5歳の頃から漫画家になりたかったという。
[[2002年]]に『[[Blue (魚喃キリコの漫画)|blue]]』が[[市川実日子]]、[[小西真奈美]]主演で[[映画]]化された。[[大友良英]]率いる「blueバンド」に参加し、サウンドトラックの演奏を行っている。2004年にはblueバンドのライブも行われた。
[[2006年]]に『[[strawberry shortcakes]]』が『[[ストロベリーショートケイクス]]』として映画化された。'''岩瀬 塔子'''(いわせ とうこ)の芸名で出演もしている。
また、[[2017年]]に『[[南瓜とマヨネーズ]]』が[[臼田あさ美]]主演で映画化。
好きな詩人は[[立原道造]]。影響を受けた漫画は[[岡崎京子]]の『[[Pink (岡崎京子の漫画)|pink]]』<ref>『鳩よ! 2000年9月号 NO.197』p9 マガジンハウス</ref>。
== 作品リスト ==
* Water.([[1996年]]4月、[[青林堂]]) - 初期短編集。[[1998年]]に[[マガジンハウス]]から再刊行。
* [[Blue (魚喃キリコの漫画)|blue]]([[1997年]]4月、マガジンハウス) - 初の長編作品。[[安藤尋]]監督により映画化。
* 痛々しいラヴ([[1997年]]8月、マガジンハウス)
* ハルチン([[1998年]]3月、マガジンハウス) - 雑誌『[[Hanako]]』で連載されたもの。カラー。
* [[南瓜とマヨネーズ]]([[1999年]]10月、[[宝島社]])
* [[strawberry shortcakes]]([[2002年]]12月、[[祥伝社]]) - 雑誌『[[FEEL YOUNG]]』で連載されたもの。[[矢崎仁司]]監督により映画化。
* 短編集([[2003年]]2月、[[飛鳥新社]])
* 15(共著、[[2004年]]1月、[[青幻舎]])
* キャンディーの色は赤。([[2007年]]7月、祥伝社)
* 東京の男の子([[安彦麻理絵]]、[[大久保ニュー]]共著、2008年3月、[[太田出版]]) - 鼎談。
* ハルチン1・2([[2008年]]7月、祥伝社) - 雑誌『[[Hanako]]』で連載されたもの。カラー。(1は[[1998年]]のマガジンハウス版と同様)
* ちいさなスージー([[2009年]]4月、祥伝社) - ナナナンキリコ名義のぬりえ絵本。
* 僕はひとりで夜がひろがる 立原道造詩集([[2010年]]4月、パルコエンタテインメント事業部) - [[立原道造]]詩集の挿絵。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[土曜の夜はケータイ短歌]]
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よしもとよしとも
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よしもと よしとも(男性、1964年3月14日 - )は、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はAB型。既婚。
神奈川大学中退。漫画家の石渡治は実兄。過去に『日刊吉本良明』という作品を発表しているが、「吉本良明」は本名ではない。妻は広末涼子のNTTドコモのポケベルCMなどの演出を手がけている映像作家の中村佳代。娘はmerimeriyeahのドラマーの石渡朔子。
1985年、神奈川大学在学中に執筆した私生活暴露ネタ4コマ『日刊吉本良明(りょうめい)』で第1回あすかまんがスクールに入選しデビュー。続いて発表された長編『レッツゴー武芸帖』『東京防衛軍』では、望月峯太郎等のニュー・ウェーブ派の影響を受けた絵柄での、狂騒的なギャグ漫画を展開。また、『東京防衛軍』では、東京ロッカーズなど80年代初頭のインディーズへの愛情を表現している。
その後は、完成度の高い短編を多数発表、発狂寸前の若者の感情を物静かな描写で描き、オシャレな青少年の共感を呼んだ。代表作は、『青い車』『よいこの街角(補習授業)』など。絵柄は少女漫画と青年漫画の中間に位置している。
『青い車』は2005年に奥原浩志監督によって映画化されている。なお『青い車』のタイトルはスピッツの同名シングル曲から。
寡作であることで知られており、短編発表の間に数年経つことが何度もある。ただし未単行本化作品も多い。
岡崎京子の『セカンド・バージン』のアシスタントを務めた事があり、その単行本には“H・イシワタ”と名がクレジットされている。
音楽好きであり、曲を聴きながらネームを描くことがある。
2002年を最後に新作が途絶えていたが、2009年8月、文芸誌『パンドラ』Vol.4(講談社)にて、「魔法の国のルル」以来約8年ぶりとなる新作「見張り塔からずっと」を発表した。翌2010年1月には衿沢世衣子『ちづかマップ』の帯にコメントを寄せている。
2010年8月、文芸誌『小説宝石』9月号(光文社)に「噛みながら」前編(長嶋有の小説の漫画化)を、10月号には後編を発表。大胆なアレンジと完成度の高さで健在ぶりを示した。
2014年5月、オダギリジョー主演の映画『ひもかわラプソディ』公式サイトにメッセージを寄稿。本作の脚本に関わったことを明かした。
2016年7月、矢寺圭太『おにでか!』(小学館クリエイティブ)1巻の帯にコメントを寄稿。
2017年10月、Twitterにて、今後も自作の電子書籍化を一切行う意思はない と表明。同月公開の映画『緑色音楽』の脚本協力を務める。
2018年6月、noteにて小説「イケメン漁師」の連載を開始。同月、曽我部恵一とウェブマガジン「フィナム」にて対談を行った。
2020年9月、新型コロナウイルスの流行に際し行われた講談社のリレー漫画企画「MANGA Day to Day」Twitter上で、「噛みながら」以来10年ぶりとなる新作「OHANAMI 2020」を発表。
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よしもと よしともは、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はAB型。既婚。 神奈川大学中退。漫画家の石渡治は実兄。過去に『日刊吉本良明』という作品を発表しているが、「吉本良明」は本名ではない。妻は広末涼子のNTTドコモのポケベルCMなどの演出を手がけている映像作家の中村佳代。娘はmerimeriyeahのドラマーの石渡朔子。
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'''よしもと よしとも'''(男性、[[1964年]][[3月14日]] - )は、日本の[[漫画家]]。[[神奈川県]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はAB型。既婚。
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== 略歴 ==
[[1985年]]、神奈川大学在学中に執筆した私生活暴露ネタ[[4コマ漫画|4コマ]]『日刊吉本良明(りょうめい)』で第1回[[月刊Asuka|あすか]]まんがスクールに入選しデビュー。続いて発表された長編『レッツゴー武芸帖』『東京防衛軍』では、[[望月峯太郎]]等のニュー・ウェーブ派の影響を受けた絵柄での、狂騒的なギャグ漫画を展開。また、『東京防衛軍』では、[[東京ロッカーズ]]など80年代初頭の[[インディーズ]]への愛情を表現している。
その後は、完成度の高い短編を多数発表、発狂寸前の若者の感情を物静かな描写で描き、[[オシャレ]]な青少年の共感を呼んだ。代表作は、『青い車』『よいこの街角(補習授業)』など。絵柄は[[少女漫画]]と[[青年漫画]]の中間に位置している。
『[[青い車 (映画)|青い車]]』は[[2005年]]に[[奥原浩志]]監督によって映画化されている。なお『青い車』のタイトルは[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]の同名シングル曲から。
寡作であることで知られており、短編発表の間に数年経つことが何度もある。ただし未単行本化作品も多い。
[[岡崎京子]]の『[[セカンド・バージン]]』の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めた事があり、その単行本には“H・イシワタ”と名がクレジットされている。
音楽好きであり、曲を聴きながらネームを描くことがある。
[[2002年]]を最後に新作が途絶えていたが、[[2009年]]8月、文芸誌『[[パンドラ]]』Vol.4([[講談社]])にて、「魔法の国のルル」以来約8年ぶりとなる新作「[[見張り塔からずっと]]」を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=よしもとよしとも、パンドラで約8年ぶりの新作執筆|url=https://natalie.mu/comic/news/19933|website=コミックナタリー|accessdate=2020-12-29|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。翌[[2010年]]1月には[[衿沢世衣子]]『ちづかマップ』の帯にコメントを寄せている<ref>{{Cite web|和書|title=衿沢世衣子「尋ネ人探偵」改め「ちづかマップ」発売|url=https://natalie.mu/comic/news/26242|website=コミックナタリー|accessdate=2020-12-29|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。
[[2010年]]8月、文芸誌『[[小説宝石]]』9月号([[光文社]])に「噛みながら」前編([[長嶋有]]の小説の漫画化<ref>{{Cite web|和書|title=よしもとよしとも新作で、長嶋有のレア小説をコミカライズ|url=https://natalie.mu/comic/news/36492|website=コミックナタリー|accessdate=2020-12-29|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>)を、10月号には後編を発表。大胆なアレンジと完成度の高さで健在ぶりを示した。
[[2014年]]5月、[[オダギリジョー]]主演の映画『ひもかわラプソディ』公式サイトにメッセージを寄稿。本作の脚本に関わったことを明かした<ref>{{Cite web|和書|title=ひもかわラプソディ公式サイト|url=http://www.himokawa.com/index.html/message_yoshimotoyoshimoto.html|website=Himokawa Rhapsody|accessdate=2020-12-29|language=ja-JP}}</ref>。
[[2016年]]7月、矢寺圭太『[[おにでか!]]』([[小学館クリエイティブ]])1巻の帯にコメントを寄稿。
[[2017年]]10月、[[Twitter]]にて、今後も自作の電子書籍化を一切行う意思はない<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/yoshitomosan/status/920561568743538689|url=https://twitter.com/yoshitomosan/status/920561568743538689|website=Twitter|accessdate=2020-09-30|language=ja}}</ref> と表明。同月公開の映画『緑色音楽』の脚本協力を務める<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/yoshitomosan/status/914765499673731073|title=映画「緑色音楽」に脚本協力として参加してます。主に後半部分。|accessdate=ツイート日時:2017-10-2 PM5:14 2020-12-29|publisher=よしもとよしとも(@yoshitomosan).Twitter}}</ref>。
[[2018年]]6月、[[Note (配信サイト)|note]]にて小説「イケメン漁師」の連載を開始。同月、[[曽我部恵一]]とウェブマガジン「フィナム」にて対談を行った<ref>{{Cite web|和書|title=音楽と漫画、未来は何処に。曽我部恵一×よしもとよしとも {{!}} feature|url=https://www.houyhnhnm.jp/feature/182928/|website=HOUYHNHNM(フイナム)|date=2018-06-27|accessdate=2020-12-29|language=ja|first=Rhino|last=Inc}}</ref>。
[[2020年]]9月、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の流行に際し行われた講談社のリレー漫画企画「MANGA Day to Day」Twitter上で、「噛みながら」以来10年ぶりとなる新作「OHANAMI 2020」を発表<ref>{{Cite web|和書|title=よしもとよしとも10年ぶりの新作マンガ、リレー連載「MANGA Day to Day」で発表|url=https://natalie.mu/comic/news/397314|website=コミックナタリー|accessdate=2020-12-29|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。
== 作品リスト ==
=== 単行本 ===
* 『レッツゴー武芸帖』双葉社(1988/07){{ISBN2| 978-4575931242}}
*『日刊吉本良明』KADOKAWA (1990/07) ISBN 978-4048522342
* 『東京防衛軍』双葉社 (1990/09) ISBN 978-4575932195 (1992年5月、[[NHK-FM放送]]「[[青春アドベンチャー]]」にてラジオドラマ化されている)
* 『よしもとよしとも珠玉短編集』双葉社(1990/12)ISBN 978-4575932331
* 『[[青い車 (映画)|青い車]]』 イースト・プレス (1996/05) ISBN 978-4872570779
* 『Gratest Hits +3』双葉社 (1998/01) ISBN 978-4575935462
*『レッツゴー武芸帖』双葉社 (1999/04) ISBN 978-4575936179(復刊にあたり、巻末に[[いしかわじゅん]]の解説を掲載)
* 『コレクターズ・アイテム』ベストセラーズ (1999/06) ISBN 978-4584195574
=== その他の漫画作品(未単行本化作品も含む) ===
* バナナブレッド'95(1994年、『[[COMIC CUE]]』vol.1)
* The God Dogs(1995年、[[週刊ヤングマガジン]])4週集中連載
*音楽というものを僕はしらない(1996年、『[[STUDIO VOICE]]』Vol.250)
*夏の魔物(1997年、『[[スピッツ (アルバム)|スピッツ]]』[[レコード|LP]])スピッツのデビューアルバムLP盤に発表されたフルカラー作品。
* あさがお(1997年、『COMIC CUE』vol.4)作画:[[黒田硫黄]]、ネーム部分を担当。1999年、黒田硫黄『大王』に収録。
*バードメン(1997年、『[[月刊カドカワ]]』vol.15)[[THEE MICHELLE GUN ELEPHANT]]の[[バードメン|同名の楽曲]]を題材とした2ページのトリビュート作品。
* 4分33秒(1999年、『COMIC CUE』Vol.9)
* 世界終末3分前(2001年、『コミックH』Vol.3)
* ファミリー・アフェア(2002年、『コミックH』)作画:衿沢世衣子、ネーム部分を担当。2005年、衿沢世衣子『おかえりピアニカ』に収録。
* 魔法の国のルル (2002年 - 、『COMIC CUE』vol.200)前編のみ発表、未完。
*[[見張り塔からずっと]](2009年、『パンドラ』Vol.4)[[小説]]+[[漫画]]の[[ハイブリッド]]作品。(財)[[文字・活字文化推進機構]]のキャンペーン、「[[コトバダイブしよう。]]」のCM中で少年が読んでいる作品に、加筆修正を加えて紙面化したもの。
* 噛みながら(2010年、『小説宝石』9 - 10月号)原作:[[長嶋有]]。2012年、加筆修正を加えコミカライズ集『[[長嶋有漫画化計画]]』に収録。
* OHANAMI 2020(2020年、[https://twitter.com/mangadaytoday/status/1307530127933235203 『MANGA Day to Day』Twitter])2021年、『MANGA Day to Day』上巻(講談社)に収録。
*165cm(2021年、[http://www.tetrarecords.com/monthly-howareyou-august/ 『High School, how are you?』特設サイト])音楽ユニット「Hi,how are you?」のアルバム「High School, how are you?」収録の「りんご飴」を題材とした1ページのトリビュート作<ref>{{Cite web|和書|title=よしもとよしともが、Hi,how are you?の曲を題材に1Pマンガを描き下ろし|url=https://natalie.mu/comic/news/443232|website=コミックナタリー|accessdate=2021-08-31|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。
*レコードは死なず(マンガ家編)(2021年、『[[漫画アクション]]』No.1)レコードを軸に兄との思い出を描いた2ページのエッセイ漫画。
=== 小説 ===
* 寂しき4番街(2003年、『[[文藝]]』秋季号)
* 西荻タワー(2004年、文藝別冊『KAWADE夢ムック やまだないと』)
*見張り塔からずっと(オリジナル・バージョン)(2009年、(財)[http://www.mojikatsuji.or.jp/news/2010/01/01/731/ 文字・活字文化推進機構ホームページ])
*イケメン漁師(2018年 - 、[https://note.com/yoshitomo2018/n/n45ffe2e72bc8 note])3話まで発表、未完。
=== イラスト ===
* [[佐藤大]]『メイキング・オブ・[[カウボーイビバップ]]レックレス・プレイヤーズ』(1999年、[[メディアファクトリー]])挿絵
*[[東川篤哉]]『ここに死体を捨てないでください!』(2009年、光文社)装画
* [[阿部真大]]『ハタチの原点─仕事、恋愛、家族のこれから』(2009年、[[筑摩書房|筑摩zero双書]])装画
*エリック・スピッツネイゲル(訳・[[浅倉卓弥]])『レコードは死なず』(2021年、[[Pヴァイン]])装画
*チャック・クロスターマン(訳・島田陽子)『生きるために死ね──死とロックをめぐるアメリカ紀行』(2022年、Pヴァイン)装画
=== CDジャケット ===
* ラディカル(2007年、[[オーノキヨフミ]]/ミニアルバム)
*[[ビレバン]]のソカバン(2009年、[[曽我部恵一BAND]]/LIVEアルバム)
*愛の武器よ!(2021年、れいちも/シングル([[LINE MUSIC]]))
=== デザイン ===
*[[サニーデイ・サービス]] 「 [[ミュージック・ビデオ|MV]] [[Tシャツ]]」Tシャツ
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* {{Twitter|yoshitomosan|よしもとよしとも}}
*[https://twitter.com/yoshitomo_info よしもとよしとも 公式info](@yoshitomo_info)- Twitter
*[https://note.com/yoshitomo2018 よしもとよしとも] (@yoshitomo2018)- [[Note (配信サイト)|note]]
*[https://web.archive.org/web/20070820220705/http://meta-metaphysica.net/manga/writer/yoshitomo.html よしもとよしともデータ集]
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冬野さほ
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冬野 さほ(とうの さほ、1970年 - )は、日本の漫画家。長野県出身。
1988年、『別冊マーガレット』でデビュー。夫は、漫画家松本大洋。夫の作品のアシスタントもつとめている。
少女漫画家として出発したが、後に一般的な漫画とはかなり異なったコマ割りや前衛的な描写を開拓。現在は、主にイラストレーターとして活動している。
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==略歴==
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少女漫画家として出発したが、後に一般的な漫画とはかなり異なったコマ割りや前衛的な描写を開拓。現在は、主にイラストレーターとして活動している。
==作品==
*うそつきサマー
**[[マーガレットコミックス]]。入手困難。[[紡木たく]]の影響を受けた、スタンダードな少女漫画作品。
*<nowiki>''hello, hello''</nowiki>
**マーガレットコミックス。入手困難。[[アウトサイダー・アート]]的な実験的要素が入ってくる。
*ポケットの中の君
**マーガレットコミックス。独自のスタイリッシュな絵柄が完成する。映画的描写や絵本的な要素が色濃くなる。
**収録作:ポケットの中の君/Apples, oranges, bananas and you/have a flavor of sun/Pop comes up/she loves you/Sunday juice/夢の方がいいよ。
*ツインクル
**[[マガジンハウス]]刊。漫画としてのストーリーの一貫性が崩れ、独自の世界へ向かう。
**収録作:Cloudy Wednesday([[高野文子]]の同名の漫画〈『[[COMIC CUE]]』で発表され、後に『[[黄色い本]]』に収録された〉は本作をリメイクしたもの。)/What happend last night?/ルービックとキューブ
*まよなか
**[[ブルース・インターアクションズ]]刊。大判函付きの絵本。
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井上三太
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井上 三太(本名:井上三太(いのうえ さんた)、1968年2月23日 - )は、日本の漫画家、ファッションブランド"SANTASTIC!WEAR"のデザイナー、経営者、SANTASTIC! C.E.O。フランスのパリ出身。アメリカ・ロサンゼルス在住。
画家・井上公三の長男として生まれ、9歳までパリで育ち、時々帰る日本の漫画の影響を受け漫画家を志す。1989年、『まぁだぁ』でヤングサンデー新人賞を受賞しデビュー。松本大洋は従兄弟で、永福一成と共に3人で共同生活をしていた時期がある。『まんが道』の愛読者。1993年にJICC出版局より出版された『TOKYO TRIBE』から始まるTTシリーズは自身のライフワークになっており、現在も世界観のつながった作品を描いている。
2017年末にアメリカのロサンゼルスへ移住し、現地で活動している。その自身のLA生活を描いたコラム漫画「LA LIFE」はアメリカ西海岸を中心に配布されているフリーペーパー「Weekly LALALA」にて2021年まで連載をしていた。
最新作はヤングチャンピオン(秋田書店)にて「惨家(ザンゲ)」を連載、単行本3巻(2023年4月発売)までが発売中。
代表作『TOKYO TRIBE2』はファッション誌『Boon』にて1997年から2005年まで9年間連載され、2006年にMADHOUSEによってアニメ化、WOWOWにて放送された。DVDも発売されている。『TOKYO TRIBE2』は海外での人気も高く、香港・台湾・アメリカ・フランス・スペイン・イタリアでも出版されている。また『TOKYO TRIBE2』は実写映画も2014年夏に全国公開された。
その後、アザーストーリーを集めた『TOKYO TRIBE2 SpinOff』も2007年に単行本化。同年ファッション誌『Ollie』にてゆったりした東京の街を描いた『TOKYO BURGER』を連載、2008年に単行本化。『TOKYO TRIBE3』はファッション誌『Ollie』にて連載され、2009年単行本化。連載は2012年に終了、単行本も5巻で完結。別冊ヤングチャンピオンにて『TOKYO TRIBE』シリーズ「TOKYO TRIBE WARU」を連載。単行本は全4巻で完結。
また、TTシリーズと同じ世界観で描かれたグラフィティライター裸武と桃子のラブストーリー『TOKYO GRAFFITI』は『週刊ヤングジャンプ』『ヤングジャンプ 漫革』に掲載され、2003年に単行本1巻、2007年に2巻が出版された。『TOKYO TRIBE2』のSARUのメンバーが夜のトーキョーをドライブする『TOKYO DRIVE』も『週刊ヤングマガジン』に掲載され、2005年に単行本化された。
1994年から『コミックスコラ』にて連載されたサイコホラー『隣人13号』は『コミックスコラ』の休刊により連載が中断されたものの、その後も自身でネット上で続きを掲載、1999年に幻冬舎から単行本化され、2005年には小栗旬・中村獅童のW主演により映画化され劇場公開、DVD化される。現在幻冬舎から漫画文庫版も発売されている。更に、米国の製作会社「ディスタント・ホライゾン」によるハリウッドリメイクも決定。ジェームズ・ウォン監督で、製作準備中。
『月刊コミックバーズ』にて2009年より連載されていた、『ダン・ダ・バーバリアン』は2012年に連載終了、単行本も2巻で完結。『TOKYO TRIBE』シリーズとは異なる原始時代のストーリーを描いた。
井上三太の作品の中でも異彩を放つのが、別冊ヤングチャンピオン(秋田書店)にて連載され、単行本1,2巻が発売中の「もて介」。この作品はこれまでの若者のストリートの世界を抜け出し、40歳の既婚の映画ライターを主人公にした、大人の恋愛漫画になっている。 浮気したい、黒ギャルとHしたいといったような男子の欲望を包み隠さず描き、どうやって女の子に声を掛けるのか、ラブホに誘い込むのかといったような具体的なテーマを井上なりに描いている。
トークアプリ "LINE"のスタンプも自身描き下ろしの「TOKYO TRIBE」と「クマっ太くん」、「ブッバ」が発売中。
YouTubeで映像「SANTASTIC!TV」をアップしている。
2010年5月には、渋谷PARCOのPARCO FACTORYにて、個展「井上三太展」を開催。
2017年12月には香港のDOT DOT DOT GALLERYでも個展「SANTA INOUE EXHIBITION」を開催。
本業の漫画家以外にも活動は多岐に渡り、G-PEN名義でスチャダラパー指導のもと、楽曲"ONIDEKA SIZE"を製作。ビートはMITSU THE BEAT、YouTubeで公開されているPVにはスチャダラパーやYOPPY, 根本 敬、SKATETHING、河村康輔、B.Dなど豪華メンツがカメオ出演している。2013年6月にはスチャダラパーの野音で行われたワンマンライブに登場し、ステージデビューを飾った。モアリズムの"GLORIOUS LOVE"を使用した"この瞬間"のPVもYouTubeで公開中。"この瞬間"のPVにはモデルの星あやが起用されている。
自身のブラックミュージックに対する深い造詣からDJとしてクラブイベントにも参加、イベント「SARU NIGHT」も主催。自身の好きなニュージャックスウィングの楽曲をコンパイルしたCD『Drivin' Wiz My Homies!』(ユニバーサルミュージック)を現在までに2枚リリースしている。
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単行本サイン会のツアーTシャツを製作した事から始まった井上三太プロデュースのウェアブランド「SANTASTIC!」は2002年に渋谷にフラッグシップストアをオープンし、2017年の渡米を機に閉店。
コラボレーションも精力的にこなし、これまでにNEW ERAや、adidas、Carhartt、Evisu Denim、Medicom Toys、モンチッチ、Rockstar Gamesなどとのコラボレーションアイテムを発表している。また、アーティストのKAWS、Michael Lauが『TOKYO TRIBE2』のキャラクターを使用したフィギュアを製作している。
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井上 三太は、日本の漫画家、ファッションブランド"SANTASTIC!WEAR"のデザイナー、経営者、SANTASTIC! C.E.O。フランスのパリ出身。アメリカ・ロサンゼルス在住。
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{{複数の問題
|大言壮語=2017-04
|特筆性=2017-04|分野=人物
|一次資料=2017-04
|脚注の不足=2017-04
|wikify=2017-04<!-- 作品の話は、作品節で「既刊〇巻、映画化あり」のようにシンプルに書くべきでしょう。-->
}}
[[File:井上三太_Santa_Inoue.jpg|thumb|]]
'''井上 三太'''(本名:井上三太(いのうえ さんた)、[[1968年]][[2月23日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[ファッションブランド]]"SANTASTIC!WEAR"の[[デザイナー]]、[[経営者]]、SANTASTIC! C.E.O。[[フランス]]の[[パリ]]出身。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ロサンゼルス]]在住。
== 経歴・人物 ==
画家・[[井上公三]]の長男として生まれ、9歳までパリで育ち、時々帰る日本の[[漫画]]の影響を受け漫画家を志す。1989年、『まぁだぁ』で[[ヤングサンデー]]新人賞を受賞しデビュー。[[松本大洋]]は[[従兄弟]]で、[[永福一成]]と共に3人で共同生活をしていた時期がある。『[[まんが道]]』の愛読者。1993年に[[宝島社|JICC出版局]]より出版された『[[TOKYO TRIBE]]』から始まるTTシリーズは自身のライフワークになっており、現在も世界観のつながった作品を描いている。
2017年末にアメリカのロサンゼルスへ移住し、現地で活動している。その自身のLA生活を描いたコラム漫画「LA LIFE」はアメリカ西海岸を中心に配布されているフリーペーパー「Weekly LALALA」にて2021年まで連載をしていた。
最新作はヤングチャンピオン(秋田書店)にて「惨家(ザンゲ)」を連載、単行本3巻(2023年4月発売)までが発売中。
代表作『[[TOKYO TRIBE2]]』はファッション誌『[[Boon (雑誌)|Boon]]』にて1997年から2005年まで9年間連載され、2006年に[[MADHOUSE]]によってアニメ化、[[WOWOW]]にて放送された。DVDも発売されている。『[[TOKYO TRIBE2]]』は海外での人気も高く、香港・台湾・アメリカ・フランス・スペイン・イタリアでも出版されている。また『[[TOKYO TRIBE2]]』は実写映画も2014年夏に全国公開された。
その後、アザーストーリーを集めた『[[TOKYO TRIBE2 SpinOff]]』も2007年に単行本化。同年ファッション誌『Ollie』にてゆったりした東京の街を描いた『[[TOKYO BURGER]]』を連載、2008年に単行本化。『[[TOKYO TRIBE3]]』はファッション誌『Ollie』にて連載され、2009年単行本化。連載は2012年に終了、単行本も5巻で完結。別冊ヤングチャンピオンにて『[[TOKYO TRIBE]]』シリーズ「[[TOKYO TRIBE WARU]]」を連載。単行本は全4巻で完結。
また、TTシリーズと同じ世界観で描かれたグラフィティライター裸武と桃子のラブストーリー『[[TOKYO GRAFFITI]]』は『[[週刊ヤングジャンプ]]』『[[漫革|ヤングジャンプ 漫革]]』に掲載され、2003年に単行本1巻、2007年に2巻が出版された。『[[TOKYO TRIBE2]]』のSARUのメンバーが夜のトーキョーをドライブする『TOKYO DRIVE』も『[[週刊ヤングマガジン]]』に掲載され、2005年に単行本化された。
1994年から『[[コミックスコラ]]』にて連載されたサイコホラー『[[隣人13号]]』は『コミックスコラ』の休刊により連載が中断されたものの、その後も自身でネット上で続きを掲載、1999年に幻冬舎から単行本化され、2005年には[[小栗旬]]・[[中村獅童 (2代目)|中村獅童]]のW主演により映画化され劇場公開、DVD化される。現在幻冬舎から漫画文庫版も発売されている。更に、米国の製作会社「ディスタント・ホライゾン」によるハリウッドリメイクも決定。[[ジェームズ・ウォン]]監督で、製作準備中。
『月刊コミックバーズ』にて2009年より連載されていた、『ダン・ダ・バーバリアン』は2012年に連載終了、単行本も2巻で完結。『TOKYO TRIBE』シリーズとは異なる原始時代のストーリーを描いた。
井上三太の作品の中でも異彩を放つのが、別冊ヤングチャンピオン(秋田書店)にて連載され、単行本1,2巻が発売中の「もて介」。この作品はこれまでの若者のストリートの世界を抜け出し、40歳の既婚の映画ライターを主人公にした、大人の恋愛漫画になっている。
浮気したい、黒ギャルとHしたいといったような男子の欲望を包み隠さず描き、どうやって女の子に声を掛けるのか、ラブホに誘い込むのかといったような具体的なテーマを井上なりに描いている。
トークアプリ "LINE"のスタンプも自身描き下ろしの「TOKYO TRIBE」と「クマっ太くん」、「ブッバ」が発売中。
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2010年5月には、渋谷PARCOのPARCO FACTORYにて、個展「井上三太展」を開催。
2017年12月には香港のDOT DOT DOT GALLERYでも個展「SANTA INOUE EXHIBITION」を開催。
本業の漫画家以外にも活動は多岐に渡り、G-PEN名義でスチャダラパー指導のもと、楽曲"ONIDEKA SIZE"を製作。ビートはMITSU THE BEAT、YouTubeで公開されているPVにはスチャダラパーやYOPPY, 根本 敬、SKATETHING、河村康輔、B.Dなど豪華メンツがカメオ出演している。2013年6月にはスチャダラパーの野音で行われたワンマンライブに登場し、ステージデビューを飾った。モアリズムの"GLORIOUS LOVE"を使用した"この瞬間"のPVもYouTubeで公開中。"この瞬間"のPVにはモデルの星あやが起用されている。
自身の[[ブラックミュージック]]に対する深い造詣からDJとしてクラブイベントにも参加、イベント「SARU NIGHT」も主催。自身の好きな[[ニュージャックスウィング]]の楽曲をコンパイルしたCD『[[Drivin' Wiz My Homies!]]』([[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]])を現在までに2枚リリースしている。
CDジャケットのアートワークも多く手がけ、これまでに[[De La Soul]]や[[スチャダラパー]]、[[Folder (音楽グループ)|Folder]]のジャケットなどを手がけている。その他アートワークとして、ラッパー[[T.I.]]の日本のプロモーション用イラスト、[[EXILE]]のエキシビジョン用イラストなどを手がけた。また、[[タワーレコード]]のキャンペーンNo music, No lifeに[[DEV LARGE]]と共に出演した事もある。ムック本として[[Samurai magazine VS 井上三太]]、[[SANTASTIC! MAGAZINE "SARU"]]が出版されている。
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コラボレーションも精力的にこなし、これまでにNEW ERAや、[[adidas]]、Carhartt、Evisu Denim、Medicom Toys、[[モンチッチ]]、[[Rockstar Games]]などとのコラボレーションアイテムを発表している。また、アーティストのKAWS、Michael Lauが『[[TOKYO TRIBE2]]』のキャラクターを使用したフィギュアを製作している。
== 作品リスト ==
=== 単行本 ===
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|-
! 作品名
! 発行年
! 出版元
|-
|[[ぶんぷくちゃがま大魔王]]
|1992
|[[BNN]] [[週刊ヤングサンデー]]連載
|-
|魂列車
|1994
|[[洋泉社]] 週刊ヤングサンデー連載
|-
|[[TOKYO TRIBE]]
|1993
|[[宝島社|JICC出版局]] 書き下ろし
|-
|モンモン
|1995
|[[白夜書房]]
|-
|[[BORN 2 DIE]]
|1998
|[[太田出版]] [[QuickJapan]]連載
|-
|[[TOKYO TRIBE2]]
|1998
|[[祥伝社]] Boon連載
|-
|[[隣人13号]]
|1999
|[[幻冬舎]]
|-
|[[TOKYO GRAFFITI]]
|2003
|[[集英社]]
|-
|TOKYO DRIVE
|2005
|[[講談社]]
|-
|[[TOKYO BURGER]]
|2008
|[[三栄書房]]
|-
|[[TOKYO TRIBE2 Spin Off!]]
|2008
|祥伝社
|-
|[[隣人13号]] 漫画文庫本
|2008
|[[幻冬舎コミックス]]
|-
|[[TOKYO TRIBE3]]
|2009
|幻冬舎コミックス
|-
|ダン・ダ・バーバリアン
|2011
|幻冬舎コミックス
|-
|もて介
|2013
|秋田書店
|-
|[[TOKYO TRIBE WARU]]
|2016
|秋田書店
|-
|三太のLAライフ
|2020
|GOT
|-
|惨家
|2022
|秋田書店
|}
=== 短編集 ===
{| class="wikitable"
!作品名
!発行年
!出版元
|-
|井上 三太 短編集
|1996
|[[イーストプレス]]
|-
|[[井上三太2]]短編集
|2002
|祥伝社
|}
=== 画集 ===
{| class="wikitable"
!作品名
!発行年
!出版元
|-
|井上三太 画集「SANTA」
|2010
|SANTASTIC!ENTERTAINMENT
|-
|井上三太30周年画集「SARU」
|2020
|玄光社
|}
=== 書籍 ===
{| class="wikitable"
!作品名
!発行年
!出版元
|-
|グイグイ力
|2018
|ぱる出版
|}
=== 雑誌 ===
{| class="wikitable"
!作品名
!発行年
!出版元
|-
|Samurai magazine vs 井上三太
|2005
|インフォレスト
|-
|SANTASTIC! MAGAZINE "SARU"
|2006
|祥伝社
|}
== メディア展開 ==
=== 実写映画 ===
{| class="wikitable"
!作品タイトル
!公開日
!監督
!出演
|-
|[[隣人13号]]
|2005年1月28日
|井上靖雄
|[[中村獅童 (2代目)|中村獅童]]、[[小栗旬]]、[[新井浩文]]
|-
|[[TOKYO TRIBE2|TOKYO TRIBE]]
|2014年8月30日
|[[園子温]]
|[[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]、[[YOUNG DAIS]]、[[清野菜名]]
|}
=== アニメ ===
{| class="wikitable"
!作品タイトル
!年
!監督
!声優
!製作
|-
|[[TOKYO TRIBE2|TOKYO TRIBE]]
|2006年
|[[佐藤竜雄]]
|[[鈴木亮平 (俳優)|三宅健太]]、[[YOUNG DAIS|浪川大輔]]、[[小林ゆう]]
|[[マッドハウス]]
|}
=== 舞台 ===
{| class="wikitable"
!作品タイトル
!年
!演出
!出演
|-
|[[TOKYO TRIBE2|TOKYO TRIBE]]
|2017
|[[梅棒|伊藤今人]](梅棒)
|[[梅棒]]、[[Beat Buddy Boi]]、[[宮澤佐江]]
|-
|[[BORN 2 DIE]]
|2021
|[[小林顕作]]
|[[ふぉ〜ゆ〜]]、[[前野朋哉]]、[[野澤祐樹]]
|}
== CDアートワーク ==
{| class="wikitable sortable"
|-
! 作品名
! アーティスト
|-
|7 Soul
|[[Folder (音楽グループ)|Folder]]
|-
|大人になっても
|[[スチャダラパー]]
|-
|東芝クラシックス
|[[スチャダラパー]]
|-
|Art Official Intelligence: Mosaic Thump
|[[De La Soul]]
|-
|Drivin' wiz My Homies!
|V.A.
|-
|Drivin' wiz My Homies! 2
|V.A.
|-
|You Gotta Hold On Me
|DJ KOMORI
|-
|[[TOKYO TRIBE2]]
|[[MURO]]
|-
|LIFESTYLE RECORDS COMPILATION VOL.4
|V.A.
|-
|Every Little Step / Running Man
|SUGAR SHACK
|-
|SANTASTIC! SELEKTAH
|Statik Selektah
|-
|ON THE BORDER
|[[面影ラッキーホール]]
|-
|6ピース VALUE PACK
|[[スチャダラパー]]
|-
|DANGER - Japanese Ver. -
|[[BTS (音楽グループ)|防弾少年団]]
|-
|Super Animated Breaks & SFX~30 Years and still counting~
|[[MURO]]
|-
|and the Anonymous Nobody...[日本盤 イラスト]
|[[De La Soul]]
|-
|BORN AGAIN EP
|Keith Ape
|-
|DA BEST OF 90s BLAZIN HOT R&B and NEW JACK SWING
|V.A.
|}
== DVDアートワーク ==
{| class="wikitable sortable"
|-
! 作品名
|-
|Just For Kicks(日本盤)スペシャルボックス
|-
|アニメ「TOKYO TRIBE2」 全6巻
|-
|}
== 雑誌、本等のアートワーク掲載 ==
{| class="wikitable sortable"
|-
! 作品名
! 出版社・作者
! 内容
|-
|家族狂
|[[中村うさぎ]]
|カバーイラスト
|-
|雑誌「Super Feel」
|祥伝社
|カバーイラスト
|-
|雑誌「Warp」
|トランスワールド
|カバーイラスト
|-
|雑誌「Boon」
|祥伝社
|カバーイラスト
|-
|雑誌「Quest」(香港)
|
|カバーイラスト
|-
|雑誌「月刊コミックバーズ」
|幻冬舎コミックス
|カバーイラスト
|-
|雑誌「BLACKRAINBOW MAGAZINE」(フランス)
|
|イラスト掲載
|-
| 「監獄ラッパー」
|[[B.I.G.JOE|B.I.G. JOE]]
|カバーイラスト
|}
== 広告・キャンペーンなど ==
{| class="wikitable sortable"
|-
! 作品名
! 内容
|-
|東京ファンタスティック映画祭
|メインヴィジュアル アートワーク
|-
|雑誌「Quick Japan」
|特集記事掲載 "徹底特集 井上三太の世界"
|-
|Roland SP-404
|広告アートワーク
|-
|[[タワーレコード|TOWER RECORDS]] "No Music, No Life"
|ヴィジュアルに本人登場
|-
|EXILE GALLERY
|ラフォーレミュージアムにてイラスト展示
|-
|T.I アルバム「Paper Trail」発売記念キャンペーン
|アートワーク
|-
|MonoMax誌 CITIZENタイアップ広告
|アートワーク
|-
|Manhattan Records 30周年記念キャンペーン
|アートワーク
|-
|雑誌「Samurai Magazine」 ROCKSTAR GAMES 「MAX PAYNE3」特集
|アートワーク
|-
|クラブ HARLEM 15周年記念本
|アートワーク
|-
|映画「MAD MAX 怒りのデスロード」イラスト寄稿
|アートワーク
|-
|映画「[[ストレイト・アウタ・コンプトン (映画)|STRAIGHT OUTTA COMPTON]]」イラスト寄稿
|アートワーク
|-
|ベッド・イン iPhoneケース イラスト製作
|アートワーク
|-
|G-STAR RAW "RAW GALLERY with 井上三太"
|アートワーク & ギャラリー展開催
|-
|映画「DEAD POOL」イラスト寄稿
|アートワーク
|-
|映画「DETROIT」イラスト寄稿
|アートワーク
|-
|ステージ「DANCE DANCE ASIA TOKYO 2018」メインビジュアルイラスト製作
|アートワーク
|-
|ダイハツ コペン キャンペーンイラスト製作
|アートワーク
|-
|BILLY'S x VANS コラボレーションアイテム イラスト製作
|アートワーク
|-
|映画「迷子になった拳」ポスタービジュアル制作
|アートワーク
|-
|映画「[[プリズナーズ・オブ・ゴーストランド]]」イラスト寄稿
|アートワーク
|}
== コラボレーション ==
{| class="wikitable"
!ブランド・アーティスト
!
!内容
|-
|[[メディコム・トイ|MEDICOM TOY]]
|2002〜
|漫画キャラの12インチフィギュア、KUBRICK、BEARBRICKを製作
|-
|[[カウズ|KAWS]](OriginalFake)
|2010
|漫画キャラをモチーフにしたフィギュア及びイラストをKAWSが製作
|-
|Carhartt
|2010
|漫画キャラの12インチフィギュア、ウェアを製作
|-
|Michael Lau
|
|漫画キャラをモチーフにしたフィギュアをMichael Lauが製作
|-
|ROCKSTAR GAMES 「GTA San Andreas」
|2012
|イラストを使ったコラボレーションTシャツ製作
|-
|[[TENGA]]
|2012
|イラストを使ったコラボレーションアイテム製作
|-
|[[adidas]]
|2013
|イラストを使ったコラボレーションアイテム製作
|-
|[[モンチッチ]]
|
|漫画キャラをモチーフにしたモンチッチ製作
|-
|HelloKitty
|2013
|漫画キャラをモチーフにしたキティとそれを使用したアイテム製作
|-
|STARTER BLACK LABEL
|2017
|イラストを使ったコラボレーションアイテム製作
|-
|SANRIO
|2018
|ハシームぬいぐるみ制作
|-
|[[Marvel's Spider-Man|MARVEL]]
|2021
|オリジナルのマーベルキャラクターを書き下ろしたウェアを製作
|-
|Balansa(韓国)
|2022
|ハシームフィギュア、コラボレーションアイテム制作
|}
== 音楽活動 ==
{| class="wikitable sortable"
|-
!
!
|-
|G-PEN a.k.a. Sanchama
|"ONIDEKA SIZE" official PV(full ver.)
|-
|G-PEN a.k.a. Sanchama
|"ONIDEKA SIZE" Live with スチャダラパー at 日比谷野音(2013年6月16日)
|-
|G-PEN a.k.a. Sanchama
|"この瞬間"
|}
== 脚注 ==
*
== 出典 ==
*「Quick Japan vol.23」太田出版、1999年
== 関連情報 ==
*[[松本大洋]](従兄弟)
== 外部リンク ==
{{commons|Santa Inoue}}
*[http://www.santa.co.jp オフィシャルサイト]
*[http://arc.akitashoten.co.jp/comics/motesuke/1/ もて介 第一話]<!-- 記事ができたらそっちに移動して下さい-->
*[https://www.facebook.com/santa.inoue/ Facebook]
*[https://twitter.com/sanchama Twitter]
*[http://instagram.heroku.com/users/santainoue/ Instagram]
*[http://3tastic.tumblr.com// Tumblr]
*[http://www.youtube.com/user/SANTASTICTV/ SANTASTIC!TV(YouTube)]
*[https://www.youtube.com/channel/UCVGX-7JZ28XQz5mWQezz11A/ SanchamaTV(YouTube/井上三太の個人チャンネル)]
*[http://www.facebook.com/santastic.tokyo/ Santastic! Facebook]
*[https://twitter.com/SANTASTIC_TOKYO Santastic! Twitter]
*[http://instagram.heroku.com/users/santastic_tokyo/ Santastic! Instagram]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いのうえ さんた}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本のファッションデザイナー]]
[[Category:1968年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:パリ出身の人物]]
[[Category:在アメリカ合衆国日本人]]
[[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
|
2003-09-28T09:17:34Z
|
2023-12-11T23:07:21Z
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[
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"Template:Commons",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%B8%89%E5%A4%AA
|
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