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18,276 |
西部戦線
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西部戦線(せいぶせんせん, Western Front)とは、複数の戦線が存在する大規模な戦争において、西に位置する戦線の名称として用いられる。一般的には第一次世界大戦または第二次世界大戦において、フランス、ドイツおよびベネルクス三国に形成された前線をさす事が多い。(アメリカ独立戦争に関しては西部戦線 (アメリカ独立戦争)を、南北戦争に関しては西部戦線 (南北戦争)を参照のこと)
第一次世界大戦においては、シュリーフェン・プランに基づいてフランス北西部に攻勢をかけたドイツ軍と、それを防ぎきったイギリス・フランス両軍によって4年間に亘る塹壕戦が展開された。数度に渡る戦闘によって数百万にも及ぶ死傷者が発生したが、機関銃の登場などによって防御側が圧倒的な有利にあった為戦線はほとんど変化しなかった。イギリス海峡に接するごく一部のみがベルギー領であった他は全てフランスの領土を横切っており、終戦時にもドイツの国土には戦火が及ばなかった。
平和時ならば社会の指導者層を形成するであろう、教育レベルの高い中流階級に属する青年の多くが戦場で死亡したため、戦後の社会に極めて大きな影響を及ぼす事になった。英仏両国の歴史に対しては、第二次世界大戦以上に大きな影響を与えたとされる。
1939年に第二次世界大戦が開幕した当初は、先の大戦と同様の持久戦で争われると思われた。しかし翌年5月戦車の集団運用を中心にした電撃戦によってドイツ国防軍は英仏軍の前線を突破し、イギリス軍はブリテン島に撤退しフランスは降伏した。
日本の真珠湾攻撃が機となってアメリカ合衆国が参戦した後に、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相は東部戦線における負担を軽減するために西部戦線の再構築を米英首脳に求めた。これに基づいて1944年にノルマンディー上陸作戦が決行され、圧倒的な物量に支えられた米英両軍はフランス北部から戦線を左に旋回させドイツ国境を突破した。多くの連合国軍部隊がライン川を渡った後、1945年5月にドイツは降伏した。
ロシアにおいては両次大戦における対ドイツ戦が「西部戦線」(Западный Фронт)と呼称される場合がある。一般的にはこの戦線は東部戦線として知られている。第二次世界大戦においてはウクライナが最も激しい戦場となった。ソ連政府は出身兵士の士気を高めるために、この戦線の名称を「ウクライナ戦線」または「白ロシア戦線」などと変更した。この地域での戦闘については独ソ戦を参照のこと。
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"text": "日本の真珠湾攻撃が機となってアメリカ合衆国が参戦した後に、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相は東部戦線における負担を軽減するために西部戦線の再構築を米英首脳に求めた。これに基づいて1944年にノルマンディー上陸作戦が決行され、圧倒的な物量に支えられた米英両軍はフランス北部から戦線を左に旋回させドイツ国境を突破した。多くの連合国軍部隊がライン川を渡った後、1945年5月にドイツは降伏した。",
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"text": "ロシアにおいては両次大戦における対ドイツ戦が「西部戦線」(Западный Фронт)と呼称される場合がある。一般的にはこの戦線は東部戦線として知られている。第二次世界大戦においてはウクライナが最も激しい戦場となった。ソ連政府は出身兵士の士気を高めるために、この戦線の名称を「ウクライナ戦線」または「白ロシア戦線」などと変更した。この地域での戦闘については独ソ戦を参照のこと。",
"title": "他の地域から見た「西部戦線」"
}
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西部戦線とは、複数の戦線が存在する大規模な戦争において、西に位置する戦線の名称として用いられる。一般的には第一次世界大戦または第二次世界大戦において、フランス、ドイツおよびベネルクス三国に形成された前線をさす事が多い。
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'''西部戦線'''(せいぶせんせん, Western Front)とは、複数の[[戦線]]が存在する大規模な戦争において、西に位置する戦線の名称として用いられる。一般的には[[第一次世界大戦]]または[[第二次世界大戦]]において、[[フランス]]、[[ドイツ]]および[[ベネルクス]]三国に形成された前線をさす事が多い。([[アメリカ独立戦争]]に関しては[[西部戦線 (アメリカ独立戦争)]]を、[[南北戦争]]に関しては[[西部戦線 (南北戦争)]]を参照のこと)
==第一次世界大戦==
[[画像:Western front 1918 allied.jpg|thumb|250px|第一次世界大戦終戦時の西部戦線]]
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第一次世界大戦においては、[[シュリーフェン・プラン]]に基づいて[[フランス]]北西部に攻勢をかけた[[ドイツ軍]]と、それを防ぎきった[[イギリス]]・フランス両軍によって4年間に亘る[[塹壕]]戦が展開された。数度に渡る戦闘によって数百万にも及ぶ死傷者が発生したが、[[機関銃]]の登場などによって防御側が圧倒的な有利にあった為戦線はほとんど変化しなかった。[[イギリス海峡]]に接するごく一部のみが[[ベルギー]]領であった他は全てフランスの領土を横切っており、終戦時にもドイツの国土には戦火が及ばなかった。
平和時ならば社会の指導者層を形成するであろう、教育レベルの高い[[中流階級]]に属する青年の多くが戦場で死亡したため、[[戦後]]の社会に極めて大きな影響を及ぼす事になった。英仏両国の歴史に対しては、第二次世界大戦以上に大きな影響を与えたとされる。
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==第二次世界大戦==
[[Image:1939-1940-battle of france-plan-evolution.jpg|thumb|250px|第二次世界大戦におけるドイツ軍のフランス侵攻作戦]]
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1939年に第二次世界大戦が開幕した当初は、先の大戦と同様の持久戦で争われると思われた。しかし翌年5月[[戦車]]の集団運用を中心にした[[電撃戦]]によって[[ドイツ国防軍]]は英仏軍の前線を突破し、[[イギリス軍]]は[[ブリテン島]]に撤退し[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスは降伏した]]。
[[日本]]の[[真珠湾攻撃]]が機となって[[アメリカ合衆国]]が参戦した後に、[[ソビエト連邦]]の[[ヨシフ・スターリン]]首相は[[独ソ戦|東部戦線]]における負担を軽減するために西部戦線の再構築を米英首脳に求めた。これに基づいて1944年に[[ノルマンディー上陸作戦]]が決行され、圧倒的な物量に支えられた米英両軍はフランス北部から戦線を左に旋回させドイツ国境を突破した。多くの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍部隊が[[ライン川]]を渡った後、1945年5月にドイツは降伏した。
{{-}}
==他の地域から見た「西部戦線」==
[[ロシア]]においては両次大戦における対ドイツ戦が「西部戦線」(Западный Фронт)と呼称される場合がある。一般的にはこの戦線は[[東部戦線]]として知られている。第二次世界大戦においては[[ウクライナ]]が最も激しい戦場となった。ソ連政府は出身兵士の士気を高めるために、この戦線の名称を「ウクライナ戦線」または「[[ベラルーシ|白ロシア]]戦線」などと変更した。この地域での戦闘については[[独ソ戦]]を参照のこと。
==関連項目==
*[[東部戦線]]
**[[東部戦線 (第一次世界大戦)]]
**[[独ソ戦]]
*『[[西部戦線異状なし]]』:[[エーリヒ・マリア・レマルク]]の小説。第一次世界大戦時の作者の体験を基に作成されている。
[[Category:第一次世界大戦|せいふせんせん]]
[[Category:第二次世界大戦|せいふせんせん]]
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18,277 |
山県市
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山県市(やまがたし)は、岐阜県にある市。旧美濃国(岐阜県南部)の中央よりやや西寄りで、岐阜市の北側にあり、岐阜地区に位置づけられる。
山県市南部、市役所のある高富地区は緩やかな盆地状の地形で濃尾平野の周辺部にあたる。北中部は越美山地の南東端で山がちな地形となっており、標高20メートルの平地から1,200メートル級の山岳部までの変化に富んでいる。
山県市の名は市制施行前の山県郡から採られたものである。 この山県(山縣)の地名は古くは山方と表記され、山方とは読んで字の通り山の方(やまのかた、山の方面)を意味し、昔から当地が山の方にある集落であったためにこの名がついたと考えられている。
「ヤマガタ」の名は奈良時代以前に既に存在していたことが、現存する日本最古の戸籍の一つである大宝2年(702年)の「御野国山方郡三井田里戸籍」(正倉院文書)より分かっている。
律令制において御野国(みののくに)は現在の岐阜県美濃地方を中心とする地域、山方郡(やまかたのこおり)とは現在の山県市の一帯を指していた。
この一族は清和源氏多田頼綱の三男、源国直がこの地を地盤として山県氏を号したことに始まる。 美濃山県氏は甲斐山県氏、安芸山県氏それぞれの源氏系の山県氏の祖となった。 後にこれらの庶流から出た甲斐武田家の譜代家老の山県昌景(甲斐源氏)、山縣有朋(安芸源氏)等が名乗った山県の名称の苗字(山縣姓)は、当地の地名が由来となっている。尚、山県氏の発祥と同時期に土岐郡においては同じ摂津源氏から源国直の叔父である源国房が土岐氏を興した。 山県氏や土岐氏の主な家紋である桔梗紋は、山県市の市花の桔梗であり、両氏族の山県郡との繋がりを物語っている。 また同地名の山県郡 (広島県)は、同地に流罪にされた源国直がそのまま山県姓を名乗ったことを発祥とする地名である。
戦後しばらくするまでは松茸の産地として有名であった。しかし、山間部における燃料が薪や木炭からガスへと移行すると、山へ入る人が少なくなり、落枝や落ち葉が多く残り、土壌の富栄養化と高湿度化が進んだ。結果、松茸の生育には適さなくなり、現在では数軒の松茸問屋を残すのみである。また市北部の美山地域は旧美山町時代から杉の植林が盛んに行われており、杉の人工林率が県下でもトップクラスであった。それに関連した製材工場が多数あり「美山杉」ブランドとして確立していたが、安価な外国材に押され衰退した。しかし、美山の杉板は今なお人気がある。
山県市北部を流れる武儀川流域(武芸谷)は板取川流域(牧谷)と並び古来から本美濃和紙の特産地であった。美山地域の西武芸、富波、北武芸、乾地区は武芸谷の北部で本美濃和紙の産地の一角をなしており、さかんに和紙の生産がされていた。しかし昭和時代になると洋紙が一般に使用、普及し急速に衰退した。この衰退により発生した余剰労働力が後述する水栓バルブ生産の労働力に転換されていく。また、山県市南方に位置する岐阜市や愛知県一宮市などでは繊維業が盛んであった。その関連産業として、木材の調達が容易な山県市では木管(織機に入れる糸巻きの芯)の製作を担う工場が多くあった。これが旋盤加工を得意とする職人を多く輩出し、太平洋戦争後の水栓バルブ産業にもつながる。旧美山町は水栓バルブ全国生産額の50%以上のシェアを占めていたほどである。現在でも美山地域には水栓バルブ関連企業が多数集積しており、市全体が大きな水栓バルブ工場となっている。今なお水栓バルブ市場における全国シェアも非常に高く「水栓バルブ発祥の地」として発信している。
市内に鉄道路線はない。最寄り駅は名鉄岐阜駅またはJR岐阜駅。昔は、岐阜市北端の山県市(当時は高富町)に隣接する名鉄高富線高富駅が頻繁に利用されていた。乗客数は多かったが、輸送力不足で路線バスに転換され、廃線となった。美山地区からは樽見鉄道の樽見駅(本巣市根尾)にも近いが、そこへ向かうバス路線はない(岐阜バスの塩後停留所から本巣市との境まで約2km。市境から本巣市市営バスのトッサス停留所まで数百メートル)。
美山地区を流れる清流。鮎釣りや川遊びで知られ、地元の小中高生が橋から飛び込みをすることがある。美山観光やなや、マルキ美山店前の橋から飛び込みが有名。
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"text": "律令制において御野国(みののくに)は現在の岐阜県美濃地方を中心とする地域、山方郡(やまかたのこおり)とは現在の山県市の一帯を指していた。",
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"text": "この一族は清和源氏多田頼綱の三男、源国直がこの地を地盤として山県氏を号したことに始まる。 美濃山県氏は甲斐山県氏、安芸山県氏それぞれの源氏系の山県氏の祖となった。 後にこれらの庶流から出た甲斐武田家の譜代家老の山県昌景(甲斐源氏)、山縣有朋(安芸源氏)等が名乗った山県の名称の苗字(山縣姓)は、当地の地名が由来となっている。尚、山県氏の発祥と同時期に土岐郡においては同じ摂津源氏から源国直の叔父である源国房が土岐氏を興した。 山県氏や土岐氏の主な家紋である桔梗紋は、山県市の市花の桔梗であり、両氏族の山県郡との繋がりを物語っている。 また同地名の山県郡 (広島県)は、同地に流罪にされた源国直がそのまま山県姓を名乗ったことを発祥とする地名である。",
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"text": "戦後しばらくするまでは松茸の産地として有名であった。しかし、山間部における燃料が薪や木炭からガスへと移行すると、山へ入る人が少なくなり、落枝や落ち葉が多く残り、土壌の富栄養化と高湿度化が進んだ。結果、松茸の生育には適さなくなり、現在では数軒の松茸問屋を残すのみである。また市北部の美山地域は旧美山町時代から杉の植林が盛んに行われており、杉の人工林率が県下でもトップクラスであった。それに関連した製材工場が多数あり「美山杉」ブランドとして確立していたが、安価な外国材に押され衰退した。しかし、美山の杉板は今なお人気がある。",
"title": "経済"
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"text": "山県市北部を流れる武儀川流域(武芸谷)は板取川流域(牧谷)と並び古来から本美濃和紙の特産地であった。美山地域の西武芸、富波、北武芸、乾地区は武芸谷の北部で本美濃和紙の産地の一角をなしており、さかんに和紙の生産がされていた。しかし昭和時代になると洋紙が一般に使用、普及し急速に衰退した。この衰退により発生した余剰労働力が後述する水栓バルブ生産の労働力に転換されていく。また、山県市南方に位置する岐阜市や愛知県一宮市などでは繊維業が盛んであった。その関連産業として、木材の調達が容易な山県市では木管(織機に入れる糸巻きの芯)の製作を担う工場が多くあった。これが旋盤加工を得意とする職人を多く輩出し、太平洋戦争後の水栓バルブ産業にもつながる。旧美山町は水栓バルブ全国生産額の50%以上のシェアを占めていたほどである。現在でも美山地域には水栓バルブ関連企業が多数集積しており、市全体が大きな水栓バルブ工場となっている。今なお水栓バルブ市場における全国シェアも非常に高く「水栓バルブ発祥の地」として発信している。",
"title": "経済"
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"text": "市内に鉄道路線はない。最寄り駅は名鉄岐阜駅またはJR岐阜駅。昔は、岐阜市北端の山県市(当時は高富町)に隣接する名鉄高富線高富駅が頻繁に利用されていた。乗客数は多かったが、輸送力不足で路線バスに転換され、廃線となった。美山地区からは樽見鉄道の樽見駅(本巣市根尾)にも近いが、そこへ向かうバス路線はない(岐阜バスの塩後停留所から本巣市との境まで約2km。市境から本巣市市営バスのトッサス停留所まで数百メートル)。",
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"text": "美山地区を流れる清流。鮎釣りや川遊びで知られ、地元の小中高生が橋から飛び込みをすることがある。美山観光やなや、マルキ美山店前の橋から飛び込みが有名。",
"title": "観光"
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] |
山県市(やまがたし)は、岐阜県にある市。旧美濃国(岐阜県南部)の中央よりやや西寄りで、岐阜市の北側にあり、岐阜地区に位置づけられる。
|
{{混同|山形市|x1=[[山形県]]にある}}
{{日本の市
| 画像 = Ijira lake01,Gifu.jpeg
| 画像の説明 = [[伊自良湖]]<br />{{Infobox mapframe|zoom=10}}
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Yamagata, Gifu.svg|100px|山県市旗]]
| 市旗の説明 = 山県[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Yamagata, Gifu.svg|100px|山県市章]]
| 市章の説明 = 山県[[市町村章|市章]]
| 自治体名 = 山県市
| 都道府県 = 岐阜県
| コード = 21215-6
| 隣接自治体 = [[岐阜市]]、[[関市]]、[[本巣市]]
| 木 = [[クリ|栗]]
| 花 = [[キキョウ|ききょう]]
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 = 501-2192
| 所在地 = 山県市高木1000番地1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-21|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Yamagata City Hall in Gifu.jpg|220px|山県市役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|21|215|image=基礎自治体位置図 21215.svg|村の色分け=no}}
}}
'''山県市'''(やまがたし)は、[[岐阜県]]にある[[市]]。旧[[美濃国]](岐阜県南部)の中央よりやや西寄りで、[[岐阜市]]の北側にあり、[[岐阜地区]]に位置づけられる。
==地理==
[[File:Enpara hukuryusui1.jpg|thumb|200px|円原の伏流水]]
山県市南部、市役所のある高富地区は緩やかな盆地状の地形で[[濃尾平野]]の周辺部にあたる。北中部は[[両白山地|越美山地]]の南東端で山がちな地形となっており、標高20メートルの平地から1,200メートル級の山岳部までの変化に富んでいる。
===地形===
====山地====
;主な山
*[[舟伏山 (本巣市・山県市)|舟伏山]]
*釜ヶ谷山
*相戸岳
*如来ヶ岳
*岸見山
*竜興寺山
*古城山
*天狗城
*源太峰
*大黒山
====河川====
;主な川
*[[武儀川]]
*神崎川
*円原川
*柿野川
*[[鳥羽川]](旧名 戸羽川)
*[[新川 (岐阜県)|新川]]
*[[伊自良川]]
*生原川
*葛原川
*石田川
====湖沼====
;主な湖
*[[伊自良湖]]
===人口===
{{人口統計|code=21215|name=山県市|image=Population distribution of Yamagata, Gifu, Japan.svg}}
===隣接自治体===
;{{Flagicon|岐阜県}}[[岐阜県]]
*[[本巣市]]
*[[岐阜市]]([[都道府県庁所在地|県都]])
*[[関市]]
===市名の由来===
山県市の名は市制施行前の[[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]から採られたものである。
この山県(山縣)の地名は古くは'''山方'''と表記され、山方とは読んで字の通り山の方(やまのかた、山の方面)を意味し、昔から当地が山の方にある集落であったためにこの名がついたと考えられている。
===地名===
*高富 (旧・[[高富町]])
*佐賀 (旧・高富町)
*高木 (旧・高富町)
*東深瀬 (旧・高富町)
*西深瀬 (旧・高富町)
*梅原 (旧・高富町)
*伊佐美 (旧・高富町)
*椎倉 (旧・高富町)
*赤尾 (旧・高富町)
*大桑 (旧・高富町)
*青波 (旧・[[美山町 (岐阜県)|美山町]])
*富永 (旧・美山町)
*谷合 (旧・美山町)
*葛原 (旧・美山町)
*片原 (旧・美山町)
*神崎 (旧・美山町)
*円原 (旧・美山町)
*笹賀 (旧・美山町)
*田栗 (旧・美山町)
*椿 (旧・美山町)
*徳永 (旧・美山町)
*佐野 (旧・美山町)
*岩佐 (旧・美山町)
*中洞 (旧・美山町)
*船越 (旧・美山町)
*出戸 (旧・美山町)
*日永 (旧・美山町)
*相戸 (旧・美山町)
*柿野 (旧・美山町)
*上願 (旧・[[伊自良村]])
*松尾 (旧・伊自良村)
*掛 (旧・伊自良村)
*大門 (旧・伊自良村)
*平井 (旧・伊自良村)
*長滝 (旧・伊自良村)
*藤倉 (旧・伊自良村)
*大森 (旧・伊自良村)
*小倉 (旧・伊自良村)
*洞田 (旧・伊自良村)
==歴史==
{{出典の明記|date=2015年9月11日|section=1}}
===先史===
「ヤマガタ」の名は[[奈良時代]]以前に既に存在していたことが、現存する日本最古の[[戸籍]]の一つである[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])の「御野国山方郡三井田里戸籍」([[正倉院文書]])より分かっている。
===古代===
[[律令制]]において[[御野国]](みののくに)は現在の岐阜県[[美濃地方]]を中心とする地域、[[山方郡]](やまかたのこおり)とは現在の山県市の一帯を指していた。
===中世===
*[[平安時代]]中期から[[室町時代]]中期まで、[[美濃源氏]]の一派として山県郡から発祥した美濃[[山県氏]]が存続した。
この一族は[[清和源氏]][[多田頼綱]]の三男、[[源国直]]がこの地を地盤として[[山県氏]]を号したことに始まる。
美濃山県氏は甲斐山県氏、安芸山県氏それぞれの源氏系の山県氏の祖となった。
後にこれらの庶流から出た[[甲斐武田家]]の[[譜第|譜代]][[家老]]の[[山県昌景]](甲斐源氏)、[[山縣有朋]](安芸源氏)等が名乗った山県の名称の苗字(山縣姓)は、当地の地名が由来となっている。尚、山県氏の発祥と同時期に[[土岐郡]]においては同じ[[摂津源氏]]から源国直の叔父である[[源国房]]が[[土岐氏]]を興した。
山県氏や土岐氏の主な[[家紋]]である[[桔梗紋]]は、山県市の市花の[[桔梗]]であり、両氏族の山県郡との繋がりを物語っている。
また同地名の[[山県郡|山県郡 (広島県)]]は、同地に[[流罪]]にされた[[源国直]]がそのまま山県姓を名乗ったことを発祥とする地名である。
===沿革===
;平成
*[[2003年]]([[平成]]15年)[[4月1日]] - [[岐阜県]][[山県郡 (岐阜県)|山県郡]]の[[高富町]]、[[伊自良村]]、[[美山町 (岐阜県)|美山町]]が[[市町村合併|合併]]し、人口3万1千人の[[市]]として発足した。この合併で山県郡の名は消えたが、郡域はそのまま山県市として継承された。[[市役所]]は、旧高富[[町役場]]に置かれた。美山、伊自良の町[[村役場]]は、市役所の支所として引き続き運営されている(その後、伊自良支所は伊自良コミュニティセンター内に移転。美山支所は建設中の北部地域拠点(仮)に移転予定。)
==政治==
===行政===
====市長====
;歴代市長
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任日!!退任日
|-
| 初-2代 || [[平野元 (政治家)|平野元]] || [[2003年]][[4月27日]] || [[2011年]][[4月26日]]
|-
| 3-4代 || [[林宏優]] || [[2011年]][[4月27日]] || 現職
|}
====役所====
*[[山県市役所|市役所本庁舎]]
**美山支所
**伊自良支所
===議会===
====市議会====
* 定数:13名
* 任期:2020年5月1日 - 2024年4月30日
* 議長:山崎通 (無所属)
* 副議長:加藤義信 (公明党)
{| class="wikitable"
!会派名!!議席数!!議員名
|-
| [[立憲民主党]] || align="right" | 1 || 操知子
|-
| [[公明党]] || align="right" | 1 ||加藤義信
|-
| [[日本共産党]] || align="right" | 1 || 福井一德
|-
| 無所属 || align="right" | 10 || 田中辰典、奥田真也、寺町祥江、加藤裕章、古川雅一、郷明夫、山崎通、吉田茂広、武藤孝成、松久茂
|-
| 計 || align="right" | 13 ||
|}
;出来事・事件等
*2003年の初代[[市長]]の[[選挙]]には立候補者が一人のみで、4月20日に平野元(前高富町長)の[[無投票当選]]が決まった。次の市長選も平野元(現職)の無投票当選が決まった。[[市議会]]の[[議員定数]]は22人だが、2004年4月まで旧町村の議員(定数42)が引き続き議員を務めた。
*2004年の山県市議会議員選挙において、山県市議ら数名が、条例で公費負担が認められていない[[はがき]]代や定められた枚数を超えるポスター代を市に請求していたことが2007年に発覚した。市議とその関係者ら計12名が[[詐欺]]容疑で[[書類送検]]されたが、不起訴処分となっている。ポスター代を水増しした市議のうち5名は辞職した(1名の市議と1名の県議は辞職しなかった)。この事件をきっかけに、他自治体でも同様の事件が発覚することになった。
==施設==
[[File:Yamagata Police Stn Gifu01.JPG|thumb|200px|山県警察署]]
[[File:Yamagata City Minami Fire Station Gifu2008.jpg|thumb|200px|山県消防署]]
[[File:Gihoku Kosei Hospital01.jpg|thumb|200px|岐北厚生病院]]
[[File:Takatomi Post office.jpg|thumb|200px|高富郵便局]]
[[File:Yamagata City Takatomi Central Community Center ac.jpg|thumb|200px|山県市高富中央公民館]]
[[File:Yamagata City General Gymnasium 1.JPG|thumb|right|200px|山県市総合体育館]]
===警察===
;警察署
*[[山県警察署 (岐阜県)|岐阜県山県警察署]]
;交番
*署所在地交番(山県市高富)
;警察官駐在所
*美山警察官駐在所(山県市谷合)
*伊自良警察官駐在所(山県市大門)
*西武芸警察官駐在所(山県市岩佐)
*乾警察官駐在所(山県市出戸)
===消防===
;消防署
*岐阜市消防本部山県消防署(山県市高木)
;分署
*美山分署(山県市笹賀)
===医療===
;主な病院
*[[岐北厚生病院]]
===郵便局===
;主な郵便局
*[[高富郵便局]]
===図書館===
*[[山県市図書館]]
===集会施設===
*[[山県市高富中央公民館]]
**山県市高富中央公民館図書室
===文化施設===
*[[岐阜県県政資料館]] ※2009年3月閉鎖
*[[山県市文化の里花咲きホール]]
*[[山県市文化の里古田紹欽記念館]]
*[[山県市美術館]]
*[[山県市歴史民俗資料館]]
*[[山県市みやまジョイフル倶楽部]]
===運動施設===
*[[山県市総合運動場]]
**[[山県市総合運動場#山県市総合体育館|山県市総合体育館]]
{{-}}
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
==経済==
[[File:Miyama taniai.JPG|thumb|200px|[[美山町 (岐阜県)|美山中心部]]]]
===第一次産業===
戦後しばらくするまでは[[松茸]]の産地として有名であった。しかし、山間部における燃料が[[薪]]や[[木炭]]からガスへと移行すると、山へ入る人が少なくなり、落枝や落ち葉が多く残り、土壌の富栄養化と高湿度化が進んだ。結果、松茸の生育には適さなくなり、現在では数軒の松茸[[問屋]]を残すのみである。また市北部の美山地域は旧美山町時代から杉の植林が盛んに行われており、杉の人工林率が県下でもトップクラスであった。それに関連した製材工場が多数あり「美山杉」ブランドとして確立していたが、安価な外国材に押され衰退した。しかし、美山の杉板は今なお人気がある。
====農業====
*[[松茸]]
====林業====
*[[薪]]
*[[木炭]]
===第二次産業===
山県市北部を流れる武儀川流域(武芸谷)は板取川流域(牧谷)と並び古来から本美濃和紙の特産地であった。美山地域の西武芸、富波、北武芸、乾地区は武芸谷の北部で本美濃和紙の産地の一角をなしており、さかんに和紙の生産がされていた。しかし昭和時代になると洋紙が一般に使用、普及し急速に衰退した。この衰退により発生した余剰労働力が後述する水栓バルブ生産の労働力に転換されていく。また、山県市南方に位置する岐阜市や[[愛知県]][[一宮市]]などでは繊維業が盛んであった。その関連産業として、木材の調達が容易な山県市では木管(織機に入れる糸巻きの芯)の製作を担う工場が多くあった。これが旋盤加工を得意とする職人を多く輩出し、[[太平洋戦争]]後の水栓[[バルブ]]産業にもつながる。旧美山町は水栓バルブ全国生産額の50%以上のシェアを占めていたほどである。現在でも美山地域には水栓バルブ関連企業が多数集積しており、市全体が大きな水栓バルブ工場となっている。今なお水栓バルブ市場における全国シェアも非常に高く「水栓バルブ発祥の地」として発信している。
====工業====
*[[繊維工業]]
*[[水栓]][[バルブ]]
===第三次産業===
====商業====
;主な商業施設
*[[コメリ]]高富店
*[[タチヤ]]高富店
*[[バロー (チェーンストア)|バロー]]高富店
*[[平和堂]]高富店
===拠点を置く企業===
*[[田中金属製作所]]
*[[ミズタニバルブ工業]]
*[[美山バルバリー]]
==情報通信==
[[File:Cable Communication Yamagata01.jpg|thumb|200px|[[山県市有線テレビ局]]]]
===マスメディア===
====放送局====
;テレビ
* [[山県市有線テレビ局]]
==教育==
[[File:Yamagata High School Gifu01.jpg|thumb|200px|[[岐阜県立山県高等学校]]]]
=== 高等学校 ===
;県立
* [[岐阜県立山県高等学校]]
=== 中学校 ===
;市立
* [[山県市立伊自良中学校]]
* [[山県市立高富中学校]]
* [[山県市立美山中学校]]
=== 小学校 ===
;市立
* [[山県市立伊自良北小学校]]
* [[山県市立伊自良南小学校]]
* [[山県市立美山小学校]]
* [[山県市立いわ桜小学校]]
* [[山県市立梅原小学校]]
* [[山県市立大桑小学校]]
* [[山県市立桜尾小学校]]
* [[山県市立高富小学校]]
* [[山県市立富岡小学校]]
===幼稚園===
;私立
*はなぞの北幼稚園
===保育園===
;市立
* 高富保育園
* 富岡保育園
* 梅原保育園
* 大桜保育園
* 伊自良保育園
* みやま保育園
* 富波保育園
* いわ桜保育園
==交通==
[[ファイル:Ha-basu.JPG|thumb|200px|ハーバス]]
[[ファイル:Takatomi-bypass.JPG|thumb|200px|[[高富バイパス]]]]
===鉄道===
====鉄道路線====
市内に鉄道路線はない。最寄り駅は[[名鉄岐阜駅]]または[[東海旅客鉄道|JR]][[岐阜駅]]。以前は岐阜市北端の山県市(当時は[[高富町]])に隣接する[[名鉄高富線]][[高富駅]]が頻繁に利用されていた。乗客数は多かったが、輸送力不足で[[路線バス]]に転換され、[[廃線]]となった。美山地区からは[[樽見鉄道]]の[[樽見駅]]([[本巣市]]根尾)にも近いが、そこへ向かうバス路線はない(岐阜バスの塩後停留所から本巣市との境まで約2km。市境から本巣市市営バスのトッサス停留所まで数百メートル)。
===バス===
====バス路線====
*[[山県市自主運行バス]]
**[[岐阜駅]]・[[名鉄岐阜駅]]方面から[[岐阜乗合自動車|岐阜バス]]の路線が通じており、同市南部の高富までは日中でも10分間隔以下の頻度でバスが運行されている。
:また、岐阜駅・名鉄岐阜駅方面から高富以北へ向かうバスは山県市内では[[山県市自主運行バス]]として運行されるため、岐北厚生病院以南の岐阜バスの路線バスとしての運行区間とは料金体系が異なる。
*[[山県市自主運行バス#ハーバス|ハーバス]]
**市内各所を結ぶバス(全便休日運休、一部便は平日のみ運行)。詳細は[[山県市自主運行バス]]の項を参照。
:なお、旧伊自良村の公共交通機関はハーバスのみのため、'''日曜・祝日に[[公共交通機関]]で旧伊自良村を訪れることはできない'''ので注意。
;バスターミナル
*[[2021年]]([[令和]]3年)[[6月1日]]に[[山県バスターミナル]]が開設され、山県市内、岐阜市方面、関市洞戸、板取方面への路線が設定されている。
*それに合わせて、山県ICから東海環状自動車道、東海北陸自動車道経由で、土日祝日に限り、名古屋市への高速バスの運行も開始した。
===道路===
====高速道路====
*{{Ja Exp Route Sign|C3}}[[東海環状自動車道]]
**:([[岐阜市]])- [[山県インターチェンジ|山県IC]](12) -(岐阜市)
====国道====
*[[File:Japanese National Route Sign 0256.svg|25px]][[国道256号]](通称:[[高富バイパス]]、高富街道)
*[[File:Japanese National Route Sign 0418.svg|25px]][[国道418号]]
====県道====
;[[主要地方道]]
*[[岐阜県道79号関本巣線]]
*[[岐阜県道91号岐阜美山線]]
;[[都道府県道|一般県道]]
*[[岐阜県道174号伊自良高富線]]
*[[岐阜県道182号美山洞戸線]]
*[[岐阜県道185号伊自良本巣線]]
*[[岐阜県道196号柿野谷合線]]
*[[岐阜県道200号神崎高富線]]
==観光==
[[File:Ōga castle stone wall, Yamagata, 2020.jpg|thumb|200px|[[大桑城]]]]
[[File:Kannamiji2007-1.jpg|thumb|200px|[[甘南美寺]]]]
[[File:Juugosya jinja ooga.jpg|thumb|200px|[[十五社神社]]]]
[[ファイル:Fukase-Hakusan Shrine, Haiden 2.jpg|サムネイル|200px|[[白山神社 (山県市東深瀬)|深瀬白山神社]]]]
=== 名所・旧跡 ===
;主な城郭
*[[大桑城]]跡
*谷合城跡
;主な寺院
*[[甘南美寺]]
*[[弘誓寺]]
*[[広厳寺 (山県市)|広厳寺]]
*[[三光寺 (山県市)|三光寺]]
*[[善導寺 (山県市)|善道寺]]
*[[東光寺 (山県市)|東光寺]]
*[[南泉寺]]
*[[蓮華寺 (山県市)|蓮華寺]]
;主な神社
*[[白山神社 (山県市相戸)|相戸白山神社]]
*[[白山神社 (山県市東深瀬)|深瀬白山神社]](拝殿は国の[[重要文化財]])
*[[十五社神社]]
;その他
* [[伊自良湖]]
* [[明智光秀]]公の墓
* 四国山香りの森公園
* 古城山
* [[桂水]]
*[[瀬見峡温泉]]
===観光スポット===
;河川景観
* 円原川の伏流水
* 瀬見峡
* 弥十郎の滝
* ごろごろの滝
* 金鶏の滝
* 武儀川
美山地区を流れる清流。[[鮎]][[釣り]]や川遊びで知られ、地元の小中高生が橋から飛び込みをすることがある。美山観光[[やな]]や、マルキ美山店前の橋から飛び込みが有名。
;地形景観
* 九合の洞窟
;動物
* 生原川の[[ホタル]]
* 庚申洞谷のホタル
* 出戸川のホタル
* 鳥羽川源流付近のホタル
* [[ハリヨ]]公園
;植物
* [[東光寺 (山県市)|東光寺]]の庭園
* 釜ヶ谷山(植物)
* [[甘南美寺]]の[[アジサイ]]
* [[三光寺 (山県市)|三光寺]]のアジサイ
* [[伊自良湖]]の[[サクラ|桜]]
* [[甘南美寺]]の桜
* 四国山香りの森公園
* [[カタクリ]]の花群生地
* [[白山神社 (山県市相戸)|白山神社]]の大杉
* [[伊自良湖]]畔
* 仲越谷
* 乳児の森公園の[[おなみ桜]]
==文化・名物==
[[File:Monument of Rihei Guri's Birthplace.jpg|thumb|200px|[[利平栗]]発祥の碑]]
===祭事・催事===
* 山県市ふるさと栗まつり
**毎年10月第一日曜日に開催される。山県市最大の祭り。四国山香りの森公園で開催されている。[[利平栗]]発祥の地として利平栗をPRするために盛大に開催されている。100近い[[バザー]]が開かれており、栗[[おこわ]]や焼き栗、[[栗きんとん]]など栗の美味しさを生かした様々な食べ物が販売されている。また、1日に3回程度、栗のつかみ取りがタダで行われている。ステージでは、ラジオの公開録音や、市に関するクイズ大会、ビンゴ大会や、伝統芸能披露、高富中学校生徒による[[ソーラン節]]、レクリエーション、キャラクターショー、和太鼓演奏、大物歌手([[美川憲一]]や[[氷川きよし]]、[[八代亜紀]]など)が登場し歌ったり、有名な芸能人([[えなりかずき]]など)によるトークもあったりする。また、この祭りの前日夜には前夜祭も盛大に行われ、和太鼓演奏や、伝統芸能披露、少年少女によるダンス、花火も打ち上げられる。
* みやま川祭り
**毎年8月最終土曜に西武芸橋近辺で開催される。みやま保育園の園児・美山地区の全小中学校・山県高校の生徒の作品と一般のサークル・個人の作品、合わせて約1, 000個の[[灯籠|燈籠]]が武儀川の川面や西武芸橋とその周辺に飾られ、幽玄な雰囲気をかもし出す。また、周辺には夜店も並び、踊り、太鼓演奏等のイベントも行われる。前日夜には前夜祭も行われ、静かな雰囲気の中で燈籠を楽しむことができる。
* いじら湖桜まつり
* 柿野まつり
**毎年4月第二日曜に柿野地内の垣野、清瀬両神社(ヤマトタケルノミコト兄弟)が御旅所で再会することを祝い、神事が執り行われる。柿野神楽、山車も催され素朴な且つ、神妙な祭りが催される。
* いじら湖もみじ・野菜祭り
===名産・特産===
* [[美山バルバリー]]([[鴨]])
* 美山観光やな(鮎)
* [[利平栗]]
* [[ハヤシライス]]
* [[マツタケ|松茸]]
* [[キジ|雉]]料理
* 美濃よめなすび([[ナス]])
* [[奥美濃古地鶏]]味噌漬
* きのこ太鼓
* いじら手づくり[[味噌]]
* [[カキノキ|柿]]
* 桑の木豆
* 鴨の[[燻製|くんせい]]
* 手延べうどん
* 美山[[こんにゃく]]
* [[アマゴ]]、[[マス]]の[[甘露煮]]
* [[和菓子]]「みやまの香り」
==出身関連著名人==
===出身著名人===
*[[明智光秀]](出生地は現在の[[可児市]]など諸説ある)
*[[土岐頼徳]]([[医師]]、[[軍医]])
*[[早矢仕有的]]([[実業家]]、[[丸善]]創業者)
*[[臼井甕男]](「[[レイキ|臼井靈氣療法]]」創始者)
*[[大野伴睦]]([[政治家]]、元[[衆議院議長]]、[[自由民主党副総裁]])
*[[古田紹欽]]([[仏教学者]])
*[[大野明]]([[政治家]] 労働大臣、運輸大臣 大野伴睦四男)
*[[大野つや子]](元[[参議院議員]]、大野明夫人)
*[[井川翔]](プロ野球選手)
*[[恩田聖敬]](実業家、FC岐阜前社長)
*[[平野稔]](俳優)
*[[新川織部]](元サッカー選手)
*[[横谷晟]](卓球選手)
*[[横山智也]](サッカー選手)
===観光キャラクター===
*[[山県さくら]] - 観光客誘致のために、「山県さくら」という架空の美少女キャラクターを設定している<ref>[https://www.city.yamagata.gifu.jp/event/shizen/meizan/yamagatasakura/ 山県さくら]山県市ホームページ(2018年12月26日閲覧)。</ref>。市内の運送業者などの協力を得て、山県さくらを荷台に描いた[[痛車]][[貨物自動車|トラック]]41台を走らせて市を宣伝する取り組みも行っている<ref>『[[東京新聞]]』夕刊2018年12月21日「ライトアップ」(社会面コラム)。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Official website}}
* [https://yamagata-base.com/ 山県ベース]
* {{Googlemap|山県市}}
{{Geographic Location
|Centre = 山県市
|North =
|Northeast =
|East = [[関市]]
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|South = [[岐阜市]]
|Southwest =
|West = [[本巣市]]
|Northwest =
}}
{{岐阜県の自治体}}
{{デフォルトソート:やまかたし}}
[[Category:岐阜県の市町村]]
[[Category:山県市|*]]
[[Category:2003年設置の日本の市町村]]
|
2003-09-25T16:47:34Z
|
2023-11-01T13:50:26Z
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[
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|
18,281 |
能勢電鉄
|
能勢電鉄株式会社(のせでんてつ、英: Nose Electric Railway Co., Ltd.)は、兵庫県川西市の川西能勢口駅と、妙見山および阪急日生ニュータウンを始めとするニュータウン群とを結ぶ鉄道を運営する会社である。本社は兵庫県川西市平野一丁目35番2号。愛称は「のせでん」。
社名は会社が能勢妙見山への参拝客輸送を目的として設立されたことに由来する。鉄道路線2路線を運営し、それらを含めた総営業キロは14.8 km。阪急電鉄の子会社で、阪急阪神ホールディングスの連結子会社でもあり、阪急阪神東宝グループ所属企業の一つとなっている。2023年までは鋼索線(ケーブルカー)、索道(リフト)も営業し、2000年代前半まで不動産事業を行っていたほか、戦前の一時期には乗合自動車事業も行っていた。
現在の社章は1995年に制定されたもので、デザインは「愛・伸・爽・楽」をモチーフに妙見線、日生線を表し、さらには沿線の人々と沿線地域を表している。変更前のものは能勢妙見山とつながりの深い能勢氏の家紋である矢筈十字の周囲を菱形に組んだ稲妻で囲ったものであった。
能勢電鉄の直接の前身である能勢電気軌道(能勢電軌)は、能勢妙見の参詣客輸送と、沿線で産出される三白(酒、米、寒天)・三黒(黒牛、栗、炭)などの特産物の輸送を目的として1908年5月に設立され、1910年12月には着工届けを提出した。しかし経営は混迷を窮め、着工と同じ月には発起人の中里喜代吉が詐欺横領事件により検挙される始末だった。建設工事どころか、会社の存続さえ危うくなった能勢電軌を立て直したのは、1912年に専務取締役となった太田雪松だった。太田は負債を整理し、一部着工されて放置されていた敷設工事を一からやり直し、1913年に妙見線の能勢口駅(現・川西能勢口駅)- 一の鳥居駅間の開業にこぎ着けた。しかし、太田による独断専行な経営もまた会社を疲弊させ、電力料金の未払いにより電力会社から送電を止められるという珍事まで発生した。1914年、能勢電軌はついに破産宣告を受け、協諧契約(現在の強制和議に相当)により管財人のもとで運営されることになった。
再起を図る能勢電軌は、能勢口駅 - 池田駅前駅(後の川西国鉄前駅)間の延長などの経営再建策を実行する一方で、吉川(現妙見口駅)までの路線延長に先駆けて一の鳥居 - 吉川間で乗合自動車事業を開始、奈良県にも路線を展開したが、経営不振により3年ほどで同事業から撤退した。このため、吉川までの路線延長は急務となり、会社の増資を図り1923年に一の鳥居駅 - 妙見口駅間を開通させた。また、この過程で阪神急行電鉄(後の京阪神急行電鉄、阪急電鉄)の資本参加を仰ぎ、現在まで続く阪急との関係が成立した。また、直営のバス事業からは撤退したものの、交通網の拡充や競合の回避などを目的として、相次いでバス会社を傘下に収めていった。これらの会社は戦中から戦後にかけ他社に統合され消滅している。
戦前に一定の増加傾向を見せた妙見線の輸送人員は、戦後に入ると再び低迷した。様々な旅客誘致策が考案され、その一環として戦前に妙見鋼索鉄道によって設置された妙見ケーブル(現・妙見の森ケーブル)を自社線として1960年に再開業させるが(ただし上部線は妙見リフト(現・妙見の森リフト)に変更)、増収には結びつかなかった。またこの頃から沿線の宅地開発が進められるようになるが、多田グリーンハイツを開発した西武グループにより能勢電軌の株の買い占めが行われ、これに対抗して当時の京阪神急行電鉄の出資による増資を行った結果、西武グループの買収防止に成功するとともに、名実ともに阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の一員になった。
1964年には、専務取締役となった村上実のもとで土地経営部門が新設され、ときわ台などの住宅地を開発して大きな利益を上げた。路線も沿線人口の増加に対応して改良を進めていき、一連の路線規格の向上により、鉄道線は軌道法から地方鉄道法に適用法規が変更された。これにより1978年には社名を能勢電鉄株式会社に改めた。
1980年代には安定した経営状態を示すが、1990年代以降は川西能勢口駅の連続立体化工事による資本費の増加に加えて、バブル崩壊以後の不況による不動産部門の不振や鉄道部門の乗客数の減少により収支が悪化する。2003年には不動産事業から撤退するとともに、同事業による多額の負債を軽減させるため経営の合理化が行われ、その一環として阪急との運営の一体化が進められた。こうした経営努力により、2012年3月期決算では長年続いていた債務超過状態をようやく脱した。
駅務機器は交通系ICカードに対応している。現状では川西能勢口駅・平野駅・山下駅を除いて無人駅であるため、これらの駅の機器は平野駅と山下駅にある駅務機器遠距離操作センターから制御・管理しているが、これは能勢電鉄が1991年にいち早く導入したシステムである。
運行形態などについては以下の各項目を参照。
妙見線・日生線を「鉄道線」と総称することもある。
以下は能勢電の関連会社が取得した免許線
以前の駅名標は、長らく親会社の阪急電鉄の駅名標を黄色の背景色で黒文字に変えたものが使われていた。2000年代からはデザインは変わらないものの、白の背景色に緑文字で下部の赤線が緑と黄色の帯に変わったタイプも登場したが、すべての駅で更新せず、黄色タイプも併用していた。2014年に大幅に刷新され、白の背景色で緑文字となり各駅沿線にちなむイラストが描かれ、下部が緑一色のものに交換された。なお、2000年代以降、関西私鉄では駅名標を更新する際、従来はひらがな表示が大きいタイプだったものを漢字表示が大きいタイプに刷新した例が多いが、能勢電鉄の場合は書体などは一新したものの、ひらがな表示を大きく表記する意匠は踏襲されている。これは親会社の阪急電鉄同様に「子供に分かりやすくするため」である。
2022年現在在籍する全車両が阪急電鉄から譲渡された車両である。(能勢電気軌道→)能勢電鉄は1953年・1954年に登場した車体更新車である50形・60形を最後に自社で車両を製造しておらず、完全な新製車となれば1926年に製造された31形まで遡らなければならない。1995年の昇圧に際しては、60形以来の自社発注車となる阪急直通対応の新型車両(仮称2000系)を計画していたが、これも中止している。
高架化前の川西能勢口駅には出発してすぐに時速15キロ制限の急カーブ(半径47m)があったため、阪急からの移籍車両のほとんどに連結器などの改造が施されており、連結器間の距離が長い車両はその名残となっている。ただし川西能勢口駅の高架化に伴って曲線が半径100mに緩和され、同時にワンマン運転対応に改造された車両は連結器の位置を阪急時代に戻したりもしている。
1997年11月17日から特急「日生エクスプレス」として阪急の車両が日生中央まで乗り入れている。6000系を除き、能勢電鉄の車両は通常阪急線内には乗り入れないが、全般検査・重要部検査は阪急の正雀工場で行われるため、その際には阪急京都線の正雀駅まで回送される。
列車には阪急と同様に携帯電話電源OFF車両が設定されていた(4両編成の場合川西能勢口側の1両、2両編成には設定なし)。また、同じく「全席優先座席」を実施し、特定の優先座席を設けていなかったが、阪急での変更に合わせて2007年10月29日に「全席優先座席」を廃止し「優先座席」を設定している。なお、2014年7月15日に携帯電話電源OFF車両は廃止され、「優先座席付近では混雑時は電源OFF」となった。
また、阪急6000系のうち6002Fが能勢電鉄に移籍し、2014年8月から特急「日生エクスプレス」で運行されているほか、阪急5100系5136Fを購入した上でグループの阪神車両メンテナンス(阪神電気鉄道尼崎工場内)にて2014年7月より能勢電鉄転用に向けた改造が行われ、2015年3月16日より能勢電鉄妙見線・日生線にて運用が開始されている。2018年3月19日には能勢電鉄保有車両で初のVVVF制御車両となる7200系も営業運転を開始した。
能勢電鉄の車両は阪急線に準じてマルーンで塗られているが、以前は独自の塗装が施されていたことがある。開業時の1形は青色で塗られており、2013年には1500系に施されたリバイバル塗装によって再現されている。
戦後の1953年に登場した50形・60形はブルーとクリーム色のツートンカラーで登場し(下の画像1参照)、鋼体化改造された31形もこれに倣ったが、それ以外の車両に波及することはなく、その後しばらくは阪急からの譲渡された車両もマルーンのまま使用された。この塗装は2016年6月から5100系5124Fでリバイバル塗装されていたが、2023年9月8日にマルーン塗装化のため正雀に回送された。
1983年に入線した1500系は、窓周りをクリーム色に塗り分けて登場し(下の画像2参照)、その後に導入された1000系もこれを踏襲した。1990年に投入された1700系は希望と躍動をイメージしたオレンジに沿線の森林をイメージしたグリーンの帯を巻き、先頭部に能勢電鉄の「N」をイメージした稲妻型のデザインを入れた姿となり、その後すべての車両がこの塗装(下の画像3参照)に統一された。
1993年には社員から新塗装を募集し、クリーム色を基調にした様々な塗装が試行されたが、それらのいずれにも統一されることはなく、最終的には1994年に導入された宝塚造形芸術大学(現在の宝塚大学)の逆井宏教授によるデザイン(下の画像4参照)に統一されることになった。塗装のコンセプトは「能勢電鉄の基本理念「あなたのそばに・のせでん」に沿った親しまれやすいカラーリング」「沿線各地の背景との調和」「街の風景あるいは野山の風景の添景としての車両色の責任、公共物としての責任を持てる色彩」「オリジナルなカラーリングイメージ」とし、車体の地色には「クリーミー・オーカー」、側扉は年を経た木製ドアをイメージした黄味がかった茶色「バーント・オーカー」に乗客を迎え入れる駅員・乗務員の白い手袋をイメージした白い帯を配しており、「フルーツ牛乳」の通称が付けられた。
その後、2003年に合理化により車体の塗装を阪急正雀工場で行うことになったため、能勢電のオリジナルカラーは姿を消した。
1500系登場時の塗装は、2008年から2009年まで創立100周年記念で1500系1550Fに、2016年6月から2023年7月まで5100系5142Fに施された。
阪急電鉄
すべて開業時に新造した。ケーブルカーについては、1990年代初頭に現在の色に塗り替えた後、1号車については「ほほえみ」、2号車については「ときめき」と愛称が付けられた。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。
2017年3月31日までは乗車カードとして、スルッとKANSAI対応の磁気プリペイドカード「パストラルカード」を各駅券売機で販売していた。2017年4月1日以降は関西のほどんどの鉄軌道事業者が西日本旅客鉄道(JR西日本)主導のICカード「ICOCA」を導入する中、阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄のみで利用可能な磁気プリペイドカード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売していたが、2019年2月28日で発売を終了し、同年9月30日をもって「レールウェイカード」のほか、スルッとKANSAI時代から続いていた全ての磁気プリペイドカードの自動改札機での利用も終了した。なお、発行元は阪急電鉄であった。
ICカードは、全駅にてPiTaPaやICOCAなどの交通系ICカード全国相互利用対応カード(PiTaPa・ICOCAのほか、Kitaca・Suica・PASMO・manaca・TOICA・nimoca・はやかけん・SUGOCA)が利用できる。さらに2019年3月1日より能勢電鉄においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始した。但し現状発売されているのは阪急電鉄管理の川西能勢口駅のみで、能勢電鉄単独の駅では発売されていない。
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"text": "能勢電鉄株式会社(のせでんてつ、英: Nose Electric Railway Co., Ltd.)は、兵庫県川西市の川西能勢口駅と、妙見山および阪急日生ニュータウンを始めとするニュータウン群とを結ぶ鉄道を運営する会社である。本社は兵庫県川西市平野一丁目35番2号。愛称は「のせでん」。",
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"text": "社名は会社が能勢妙見山への参拝客輸送を目的として設立されたことに由来する。鉄道路線2路線を運営し、それらを含めた総営業キロは14.8 km。阪急電鉄の子会社で、阪急阪神ホールディングスの連結子会社でもあり、阪急阪神東宝グループ所属企業の一つとなっている。2023年までは鋼索線(ケーブルカー)、索道(リフト)も営業し、2000年代前半まで不動産事業を行っていたほか、戦前の一時期には乗合自動車事業も行っていた。",
"title": "概要"
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"text": "現在の社章は1995年に制定されたもので、デザインは「愛・伸・爽・楽」をモチーフに妙見線、日生線を表し、さらには沿線の人々と沿線地域を表している。変更前のものは能勢妙見山とつながりの深い能勢氏の家紋である矢筈十字の周囲を菱形に組んだ稲妻で囲ったものであった。",
"title": "概要"
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"text": "能勢電鉄の直接の前身である能勢電気軌道(能勢電軌)は、能勢妙見の参詣客輸送と、沿線で産出される三白(酒、米、寒天)・三黒(黒牛、栗、炭)などの特産物の輸送を目的として1908年5月に設立され、1910年12月には着工届けを提出した。しかし経営は混迷を窮め、着工と同じ月には発起人の中里喜代吉が詐欺横領事件により検挙される始末だった。建設工事どころか、会社の存続さえ危うくなった能勢電軌を立て直したのは、1912年に専務取締役となった太田雪松だった。太田は負債を整理し、一部着工されて放置されていた敷設工事を一からやり直し、1913年に妙見線の能勢口駅(現・川西能勢口駅)- 一の鳥居駅間の開業にこぎ着けた。しかし、太田による独断専行な経営もまた会社を疲弊させ、電力料金の未払いにより電力会社から送電を止められるという珍事まで発生した。1914年、能勢電軌はついに破産宣告を受け、協諧契約(現在の強制和議に相当)により管財人のもとで運営されることになった。",
"title": "歴史"
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"text": "再起を図る能勢電軌は、能勢口駅 - 池田駅前駅(後の川西国鉄前駅)間の延長などの経営再建策を実行する一方で、吉川(現妙見口駅)までの路線延長に先駆けて一の鳥居 - 吉川間で乗合自動車事業を開始、奈良県にも路線を展開したが、経営不振により3年ほどで同事業から撤退した。このため、吉川までの路線延長は急務となり、会社の増資を図り1923年に一の鳥居駅 - 妙見口駅間を開通させた。また、この過程で阪神急行電鉄(後の京阪神急行電鉄、阪急電鉄)の資本参加を仰ぎ、現在まで続く阪急との関係が成立した。また、直営のバス事業からは撤退したものの、交通網の拡充や競合の回避などを目的として、相次いでバス会社を傘下に収めていった。これらの会社は戦中から戦後にかけ他社に統合され消滅している。",
"title": "歴史"
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"text": "戦前に一定の増加傾向を見せた妙見線の輸送人員は、戦後に入ると再び低迷した。様々な旅客誘致策が考案され、その一環として戦前に妙見鋼索鉄道によって設置された妙見ケーブル(現・妙見の森ケーブル)を自社線として1960年に再開業させるが(ただし上部線は妙見リフト(現・妙見の森リフト)に変更)、増収には結びつかなかった。またこの頃から沿線の宅地開発が進められるようになるが、多田グリーンハイツを開発した西武グループにより能勢電軌の株の買い占めが行われ、これに対抗して当時の京阪神急行電鉄の出資による増資を行った結果、西武グループの買収防止に成功するとともに、名実ともに阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の一員になった。",
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"text": "1964年には、専務取締役となった村上実のもとで土地経営部門が新設され、ときわ台などの住宅地を開発して大きな利益を上げた。路線も沿線人口の増加に対応して改良を進めていき、一連の路線規格の向上により、鉄道線は軌道法から地方鉄道法に適用法規が変更された。これにより1978年には社名を能勢電鉄株式会社に改めた。",
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"text": "1980年代には安定した経営状態を示すが、1990年代以降は川西能勢口駅の連続立体化工事による資本費の増加に加えて、バブル崩壊以後の不況による不動産部門の不振や鉄道部門の乗客数の減少により収支が悪化する。2003年には不動産事業から撤退するとともに、同事業による多額の負債を軽減させるため経営の合理化が行われ、その一環として阪急との運営の一体化が進められた。こうした経営努力により、2012年3月期決算では長年続いていた債務超過状態をようやく脱した。",
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"text": "駅務機器は交通系ICカードに対応している。現状では川西能勢口駅・平野駅・山下駅を除いて無人駅であるため、これらの駅の機器は平野駅と山下駅にある駅務機器遠距離操作センターから制御・管理しているが、これは能勢電鉄が1991年にいち早く導入したシステムである。",
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"text": "運行形態などについては以下の各項目を参照。",
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"text": "妙見線・日生線を「鉄道線」と総称することもある。",
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"text": "以下は能勢電の関連会社が取得した免許線",
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"text": "以前の駅名標は、長らく親会社の阪急電鉄の駅名標を黄色の背景色で黒文字に変えたものが使われていた。2000年代からはデザインは変わらないものの、白の背景色に緑文字で下部の赤線が緑と黄色の帯に変わったタイプも登場したが、すべての駅で更新せず、黄色タイプも併用していた。2014年に大幅に刷新され、白の背景色で緑文字となり各駅沿線にちなむイラストが描かれ、下部が緑一色のものに交換された。なお、2000年代以降、関西私鉄では駅名標を更新する際、従来はひらがな表示が大きいタイプだったものを漢字表示が大きいタイプに刷新した例が多いが、能勢電鉄の場合は書体などは一新したものの、ひらがな表示を大きく表記する意匠は踏襲されている。これは親会社の阪急電鉄同様に「子供に分かりやすくするため」である。",
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"text": "2022年現在在籍する全車両が阪急電鉄から譲渡された車両である。(能勢電気軌道→)能勢電鉄は1953年・1954年に登場した車体更新車である50形・60形を最後に自社で車両を製造しておらず、完全な新製車となれば1926年に製造された31形まで遡らなければならない。1995年の昇圧に際しては、60形以来の自社発注車となる阪急直通対応の新型車両(仮称2000系)を計画していたが、これも中止している。",
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"text": "高架化前の川西能勢口駅には出発してすぐに時速15キロ制限の急カーブ(半径47m)があったため、阪急からの移籍車両のほとんどに連結器などの改造が施されており、連結器間の距離が長い車両はその名残となっている。ただし川西能勢口駅の高架化に伴って曲線が半径100mに緩和され、同時にワンマン運転対応に改造された車両は連結器の位置を阪急時代に戻したりもしている。",
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"text": "1997年11月17日から特急「日生エクスプレス」として阪急の車両が日生中央まで乗り入れている。6000系を除き、能勢電鉄の車両は通常阪急線内には乗り入れないが、全般検査・重要部検査は阪急の正雀工場で行われるため、その際には阪急京都線の正雀駅まで回送される。",
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"text": "列車には阪急と同様に携帯電話電源OFF車両が設定されていた(4両編成の場合川西能勢口側の1両、2両編成には設定なし)。また、同じく「全席優先座席」を実施し、特定の優先座席を設けていなかったが、阪急での変更に合わせて2007年10月29日に「全席優先座席」を廃止し「優先座席」を設定している。なお、2014年7月15日に携帯電話電源OFF車両は廃止され、「優先座席付近では混雑時は電源OFF」となった。",
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"text": "また、阪急6000系のうち6002Fが能勢電鉄に移籍し、2014年8月から特急「日生エクスプレス」で運行されているほか、阪急5100系5136Fを購入した上でグループの阪神車両メンテナンス(阪神電気鉄道尼崎工場内)にて2014年7月より能勢電鉄転用に向けた改造が行われ、2015年3月16日より能勢電鉄妙見線・日生線にて運用が開始されている。2018年3月19日には能勢電鉄保有車両で初のVVVF制御車両となる7200系も営業運転を開始した。",
"title": "車両"
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"text": "能勢電鉄の車両は阪急線に準じてマルーンで塗られているが、以前は独自の塗装が施されていたことがある。開業時の1形は青色で塗られており、2013年には1500系に施されたリバイバル塗装によって再現されている。",
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"text": "戦後の1953年に登場した50形・60形はブルーとクリーム色のツートンカラーで登場し(下の画像1参照)、鋼体化改造された31形もこれに倣ったが、それ以外の車両に波及することはなく、その後しばらくは阪急からの譲渡された車両もマルーンのまま使用された。この塗装は2016年6月から5100系5124Fでリバイバル塗装されていたが、2023年9月8日にマルーン塗装化のため正雀に回送された。",
"title": "車両"
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"text": "1983年に入線した1500系は、窓周りをクリーム色に塗り分けて登場し(下の画像2参照)、その後に導入された1000系もこれを踏襲した。1990年に投入された1700系は希望と躍動をイメージしたオレンジに沿線の森林をイメージしたグリーンの帯を巻き、先頭部に能勢電鉄の「N」をイメージした稲妻型のデザインを入れた姿となり、その後すべての車両がこの塗装(下の画像3参照)に統一された。",
"title": "車両"
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"text": "1993年には社員から新塗装を募集し、クリーム色を基調にした様々な塗装が試行されたが、それらのいずれにも統一されることはなく、最終的には1994年に導入された宝塚造形芸術大学(現在の宝塚大学)の逆井宏教授によるデザイン(下の画像4参照)に統一されることになった。塗装のコンセプトは「能勢電鉄の基本理念「あなたのそばに・のせでん」に沿った親しまれやすいカラーリング」「沿線各地の背景との調和」「街の風景あるいは野山の風景の添景としての車両色の責任、公共物としての責任を持てる色彩」「オリジナルなカラーリングイメージ」とし、車体の地色には「クリーミー・オーカー」、側扉は年を経た木製ドアをイメージした黄味がかった茶色「バーント・オーカー」に乗客を迎え入れる駅員・乗務員の白い手袋をイメージした白い帯を配しており、「フルーツ牛乳」の通称が付けられた。",
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"text": "その後、2003年に合理化により車体の塗装を阪急正雀工場で行うことになったため、能勢電のオリジナルカラーは姿を消した。",
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"text": "1500系登場時の塗装は、2008年から2009年まで創立100周年記念で1500系1550Fに、2016年6月から2023年7月まで5100系5142Fに施された。",
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"text": "阪急電鉄",
"title": "車両"
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"text": "すべて開業時に新造した。ケーブルカーについては、1990年代初頭に現在の色に塗り替えた後、1号車については「ほほえみ」、2号車については「ときめき」と愛称が付けられた。",
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"text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。",
"title": "運賃"
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"text": "2017年3月31日までは乗車カードとして、スルッとKANSAI対応の磁気プリペイドカード「パストラルカード」を各駅券売機で販売していた。2017年4月1日以降は関西のほどんどの鉄軌道事業者が西日本旅客鉄道(JR西日本)主導のICカード「ICOCA」を導入する中、阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄のみで利用可能な磁気プリペイドカード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売していたが、2019年2月28日で発売を終了し、同年9月30日をもって「レールウェイカード」のほか、スルッとKANSAI時代から続いていた全ての磁気プリペイドカードの自動改札機での利用も終了した。なお、発行元は阪急電鉄であった。",
"title": "運賃"
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"text": "ICカードは、全駅にてPiTaPaやICOCAなどの交通系ICカード全国相互利用対応カード(PiTaPa・ICOCAのほか、Kitaca・Suica・PASMO・manaca・TOICA・nimoca・はやかけん・SUGOCA)が利用できる。さらに2019年3月1日より能勢電鉄においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始した。但し現状発売されているのは阪急電鉄管理の川西能勢口駅のみで、能勢電鉄単独の駅では発売されていない。",
"title": "運賃"
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能勢電鉄株式会社は、兵庫県川西市の川西能勢口駅と、妙見山および阪急日生ニュータウンを始めとするニュータウン群とを結ぶ鉄道を運営する会社である。本社は兵庫県川西市平野一丁目35番2号。愛称は「のせでん」。
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{{Pathnav|阪急阪神東宝グループ|阪急阪神ホールディングス|阪急電鉄|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 能勢電鉄株式会社
| 英文社名 = Nose Electric Railway Co., Ltd.
| ロゴ = [[File:Noseden-logo.svg|100px]]
| 画像 = [[File:Nose Electric Railway Co.,Ltd..jpg|300px]]
| 画像説明 = 能勢電鉄本社
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = のせでん、能勢電
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 666-0121
| 本社所在地 = [[兵庫県]][[川西市]]平野一丁目35番2号
| 設立 = [[1908年]]([[明治]]41年)[[5月23日]]<br />(能勢電気軌道株式会社)
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業<br />[[ケーブルカー|鋼索鉄道]]事業<br />[[索道]]事業<br />賃貸事業<br />レジャー事業<br />ベーカリー事業
| 代表者 = 中野雅文([[代表取締役]][[社長]])<ref>[https://noseden.hankyu.co.jp/company/organization.html 役員・組織構成] - 能勢電鉄、2021年10月6日閲覧</ref>
| 資本金 = 1億円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan">[https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/link/166kessan.pdf 第166期貸借対照表及び損益計算書] - 能勢電鉄</ref>
| 発行済株式総数 = 2億560万株<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 売上高 = 39億3555万7000円<br />(2019年3月期)<ref name="kessan" />
| 営業利益 = 6億4220万2000円<br />(2019年3月期)<ref name="kessan" />
| 純利益 = 3億9012万1000円<br />(2019年3月期)<ref name="kessan" />
| 純資産 = 45億3184万2000円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 総資産 = 300億9339万4000円<br />(2019年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 従業員数 = 125人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[阪急電鉄]] 98.51%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[城南雅一]](元社長)
| 外部リンク = https://noseden.hankyu.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''能勢電鉄株式会社'''(のせでんてつ、{{Lang-en-short|Nose Electric Railway Co., Ltd.}})は、[[兵庫県]][[川西市]]の[[川西能勢口駅]]と、[[妙見山 (大阪府・兵庫県)|妙見山]]および[[阪急日生ニュータウン]]を始めとするニュータウン群とを結ぶ[[鉄道]]を運営する会社である。本社は兵庫県川西市平野一丁目35番2号。愛称は「'''のせでん'''」。
== 概要 ==
社名は会社が[[能勢妙見山 (日蓮宗)|能勢妙見山]]への参拝客輸送を目的として設立されたことに由来する。鉄道路線2路線を運営し、それらを含めた総営業キロは14.8 km。[[阪急電鉄]]の子会社で、[[阪急阪神ホールディングス]]の[[連結子会社]]でもあり、[[阪急阪神東宝グループ]]所属企業の一つとなっている。2023年までは鋼索線([[ケーブルカー]])、[[索道]](リフト)も営業し、2000年代前半まで[[不動産]]事業を行っていたほか、戦前の一時期には乗合自動車事業も行っていた。
現在の社章は1995年に制定されたもので、デザインは「愛・伸・爽・楽」をモチーフに妙見線、日生線を表し、さらには沿線の人々と沿線地域を表している。変更前のものは能勢妙見山とつながりの深い[[能勢氏]]の家紋である矢筈十字の周囲を菱形に組んだ稲妻で囲ったものであった。
== 歴史 ==
[[File:Noseden old logomark.svg|thumb|left|150px|旧社章]]
能勢電鉄の直接の前身である能勢電気軌道(能勢電軌)は、能勢妙見の参詣客輸送と、沿線で産出される三白(酒、米、寒天)・三黒(黒牛、栗、炭)などの特産物の輸送を目的として[[1908年]]5月に設立され、[[1910年]]12月には着工届けを提出した。しかし経営は混迷を窮め、着工と同じ月には発起人の中里喜代吉が詐欺横領事件により検挙される始末だった。建設工事どころか、会社の存続さえ危うくなった能勢電軌を立て直したのは、[[1912年]]に専務取締役となった太田雪松だった。太田は負債を整理し、一部着工されて放置されていた敷設工事を一からやり直し、[[1913年]]に[[能勢電鉄妙見線|妙見線]]の能勢口駅(現・[[川西能勢口駅]])- [[一の鳥居駅]]間の開業にこぎ着けた。しかし、太田による独断専行な経営もまた会社を疲弊させ、電力料金の未払いにより電力会社から送電を止められるという珍事まで発生した。[[1914年]]、能勢電軌はついに破産宣告を受け、協諧契約(現在の[[和議法|強制和議]]に相当)により管財人のもとで運営されることになった。
再起を図る能勢電軌は、能勢口駅 - 池田駅前駅(後の[[川西国鉄前駅]])間の延長などの経営再建策を実行する一方で、吉川(現[[妙見口駅]])までの路線延長に先駆けて一の鳥居 - 吉川間で乗合自動車事業を開始、[[奈良県]]にも路線を展開したが、経営不振により3年ほどで同事業から撤退した。このため、吉川までの路線延長は急務となり、会社の増資を図り[[1923年]]に一の鳥居駅 - 妙見口駅間を開通させた。また、この過程で[[阪神急行電鉄]](後の京阪神急行電鉄、[[阪急電鉄]])の資本参加を仰ぎ、現在まで続く阪急との関係が成立した。また、直営のバス事業からは撤退したものの、交通網の拡充や競合の回避などを目的として、相次いでバス会社を傘下に収めていった。これらの会社は戦中から戦後にかけ他社に統合され消滅している。
戦前に一定の増加傾向を見せた妙見線の輸送人員は、戦後に入ると再び低迷した。様々な旅客誘致策が考案され、その一環として戦前に[[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見鋼索鉄道]]によって設置された妙見ケーブル(後の[[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見の森ケーブル]])を自社線として[[1960年]]に再開業させるが(ただし上部線は妙見リフト〈後の[[妙見の森リフト]]〉に変更)、増収には結びつかなかった。またこの頃から沿線の宅地開発が進められるようになるが、[[多田グリーンハイツ]]を開発した[[西武グループ]]により能勢電軌の株の買い占めが行われ、これに対抗して当時の京阪神急行電鉄の出資による増資を行った結果、西武グループの買収防止に成功するとともに、名実ともに[[阪急東宝グループ]](現・[[阪急阪神東宝グループ]])の一員になった。
[[1964年]]には、専務取締役となった[[村上実]]のもとで土地経営部門が新設され、ときわ台などの住宅地を開発して大きな利益を上げた。路線も沿線人口の増加に対応して改良を進めていき、一連の路線規格の向上により、鉄道線は[[軌道法]]から[[地方鉄道法]]に適用法規が変更された。これにより[[1978年]]には社名を能勢電鉄株式会社に改めた。
[[1980年代]]には安定した経営状態を示すが、[[1990年代]]以降は川西能勢口駅の連続立体化工事による資本費の増加に加えて、[[バブル崩壊]]以後の不況による不動産部門の不振や鉄道部門の乗客数の減少により収支が悪化する。[[2003年]]には不動産事業から撤退するとともに、同事業による多額の負債を軽減させるため経営の合理化が行われ、その一環として阪急との運営の一体化が進められた。こうした経営努力により、[[2012年]]3月期決算では長年続いていた債務超過状態をようやく脱した。
=== 年表 ===
<!-- 路線の詳細な歴史は路線の記事に記述 -->
* [[1905年]]([[明治]]38年)3月 - 中里喜代吉を発起人として'''能勢電気鉄道株式会社'''設立申請<ref name="sone14">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=14号 神戸電鉄・能勢電鉄・北条鉄道・北近畿タンゴ鉄道|date=2011-06-19|pages=16-17}}</ref>。
* [[1908年]](明治41年)
** 1月 - 社名を'''能勢電気軌道株式会社'''に変更。
** [[5月23日]] - 能勢電気軌道株式会社として設立<ref name="sone14"/>。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月13日]] - 能勢口(現在の川西能勢口) - 一の鳥居間が開業<ref name="sone14"/>。
* [[1914年]](大正3年)[[8月5日]] - [[神戸地方裁判所|神戸地裁]]により破産宣告が下される<ref name="sone14"/>。
* [[1918年]](大正7年)
** 1月 - 株主総会において、当時の社長栗本勇之介氏から、池田駅前から川西村・伊丹町を経て阪神電鉄尼崎停車場に連絡する延長線を敷設するために、資本金100万円を増資、社名を「摂津電気鉄道株式会社」に変更すべく決定<ref>{{Cite book|和書 |title=現代之電機 |date=1918年5月 |publisher=工業教育会 |volume=4 |issue=(5)}}</ref>。ただし、同名の会社があったことなどから、社名は変更されなかった。
** [[4月7日]] - 一の鳥居 - 吉川間で乗合自動車事業を開始
* [[1921年]](大正10年)[[9月30日]] - 奈良県内における乗合自動車事業を譲渡。これにより、すべての乗合自動車事業から撤退。
* [[1922年]](大正11年)[[10月4日]] - 増資に伴い、[[阪神急行電鉄]](現・阪急電鉄)が資本参加<!--歴史でめぐるによれば10月23日--><ref name="sone14"/>。
* [[1923年]](大正12年)6月27日 - [[鉄道省]]が能勢電気軌道に対して、兵庫県川辺郡川西村栄根 - 伊丹町間に電気動力の軌道延長線敷設特許状を下附<ref>{{Cite book|和書 |title=工業評論 |date=1923年07月 |publisher=工業評論社 |pages= |issue=(7) |volume=9}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=帝國鉄道協會會報 |year=1924年02月 |publisher=帝國鉄道協會 |volume=25 |issue=(1)}}</ref><ref>[{{NDLDC|2955399/12}} 「軌道特許状下付」『官報』1923年7月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1923年]](大正12年)[[11月3日]] - 池田駅前(後の川西国鉄前駅) - 妙見(現在の妙見口)間が全通<ref name="sone14"/>。
* [[1926年]](大正15年)[[1月17日]] - 妙見鋼索鉄道と共同で能勢妙見自動車株式会社を買収。
* [[1930年]]([[昭和]]5年)[[4月10日]] - 池田能勢妙見自動車株式会社を買収。
* [[1936年]](昭和11年)5月4日 - 兵庫県川辺郡川西町 - 伊丹町間の軌道敷設特許失効<ref>[{{NDLDC|2959278/10}} 「軌道特許失効」『官報』1936年5月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)
** [[4月22日]] - 妙見ケーブルが開業(旧下部線を復活。黒川 - 山上間623m)<ref name="sone14"/>。
** [[8月27日]] - 妙見リフトが開業(旧上部線のうち山頂側の573mを運行)<ref name="sone14"/>。
* [[1961年]](昭和36年)[[8月10日]] - 資本金を9,600万円に増資<ref name="sone14"/>。京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の子会社となる(出資比率57%)。
* [[1964年]](昭和39年)[[7月1日]] - 土地経営部門を新設。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[5月1日]] - 鶯の森住宅地分譲開始。
** [[10月21日]] - ときわ台住宅地分譲開始。
* [[1976年]](昭和51年)[[5月30日]] - 東ときわ台住宅地分譲開始。
* [[1977年]](昭和52年)[[12月27日]] - 鉄道線の準拠対象を軌道法から地方鉄道法に変更<ref name="sone14"/>。
* [[1978年]](昭和53年)
** [[10月1日]] - '''能勢電鉄株式会社'''に社名変更<ref name="sone14"/>。
** [[12月12日]] - 日生線が開業<ref name="sone14"/>。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** [[4月1日]] - 全駅に新型自動券売機の設置が完了したのを機にプリペイドカード「パストラルカード」を発行、同カードによる乗車券の発売開始。
** [[9月15日]] - 全駅に自動改札機の設置が完了した<ref name="sone14"/> のを機に[[回数乗車券|回数券]]の様式を紙券から磁気券に変更、販売箇所が売店から券売機に変更された。
* [[1991年]](平成3年)4月1日 - 駅務機器遠隔操作システム稼動開始<ref name="sone14"/>。同年10月までにほとんどの駅を無人化<ref name="sone14"/>。
* [[1992年]](平成4年)[[10月31日]] - つつじヶ丘住宅地分譲開始<ref name=A>能勢電鉄株式会社編 『能勢電鉄100年史』、2008年、168頁。</ref>。
* [[1994年]](平成6年)4月1日 - ストアードフェアシステム「パストラルスルー」開始、阪急の「ラガールスルー」と共通運用となる<ref name="sone14"/>。この複数社間相互決済可能型ストアードフェアシステムがほぼそのまま「スルッとKANSAI」に発展した<ref name="sone14"/>。
* [[1995年]](平成7年)[[1月1日]] - 現社章を制定。
* [[1996年]](平成8年)[[3月20日]] - 阪急電鉄ほか3社局と共通乗車カードシステム「[[スルッとKANSAI]]」開始。
* [[1997年]](平成9年)
** [[2月24日]] - 本社を川西能勢口駅(地上駅)駅舎から現在地に移転。
** [[11月17日]] - [[阪急宝塚本線|阪急宝塚線]][[大阪梅田駅 (阪急)|梅田]]直通特急「[[日生エクスプレス]]」の運転を開始<ref name="sone14"/>。土曜ダイヤ新設。
* [[2001年]](平成11年)
** [[3月24日]] - フェアライドシステムを導入。
** 5月 - 社員有志により妙見の水広場(現在の「妙見の森ふれあい広場」)でミニトロッコ「[[シグナス森林鉄道]]」の運行が始まる<ref name="kobe-np202202">{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202202/0015050685.shtml|title=20年の歴史にひっそりと幕 トロッコ列車「シグナス森林鉄道」が営業終了 愛くるしい車体が人気|date=2022-02-10|newspaper=神戸新聞|publisher=神戸新聞社|accessdate=2022-02-11}}</ref>。
* [[2003年]](平成15年)4月1日 - 都市開発部(不動産事業)を廃止<ref>『能勢電鉄100年史』、172頁。</ref>。阪急電鉄との運営一体化がスタート。
* [[2004年]](平成16年)8月1日 - [[PiTaPa]]導入<ref name="sone14"/>。
* [[2006年]](平成18年)1月21日 - PiTaPaと[[ICOCA]]の相互利用開始により、ICOCAも利用可能となる<ref name="jreast20051109">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2005_2/20051109.pdf 「ICOCA」「PiTaPa」の相互利用を実施します]}} - 西日本旅客鉄道、スルッとKANSAI協議会、東日本旅客鉄道、2005年11月10日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)6月1日 - 遠隔操作システム及び遠隔制御を山下駅に一元化。
* [[2013年]](平成25年)
** 3月16日 - 妙見ケーブル・妙見リフトを、それぞれ妙見の森ケーブル・妙見の森リフトに改称<ref name="noseden20130228">{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_detail/noseden/information/newsrelease20130228.pdf 妙見山の各施設が生まれ変わります!]}} - 能勢電鉄、2013年2月28日</ref>。
** 12月21日 - 妙見線・日生線全駅に[[駅ナンバリング]]導入。
* [[2014年]](平成26年)12月 - 妙見線・日生線全駅の[[駅名標]]が刷新。各駅沿線にちなむイラストが描かれている。
* [[2016年]](平成28年)[[6月10日]] - [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]への対応を開始し、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能となる<ref name="noseden20160510">{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20160510newsrelease1.pdf 交通系ICカードの全国相互利用サービスを開始します]}} - 能勢電鉄、2016年5月10日</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[3月18日]] - 鉄道線の急行(妙見急行・日生急行)を廃止<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20170120newsrelease1.pdf 鉄道線のダイヤ改正について]}} - 能勢電鉄、2017年1月20日</ref>。
* [[2019年]](平成31年)[[3月1日]] - 能勢電鉄においてプリペイド式ICカード「ICOCA」、および「ICOCA定期券」を発売開始<ref name="noseden20190124">{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease20190124a1.pdf 阪急、阪神、能勢、北急におけるICOCAおよびICOCA定期券の発売開始日について]}} - 能勢電鉄、2019年1月24日</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[11月27日]] - ミニトロッコ「シグナス森林鉄道」がこの年度の冬期休業に入る。同施設はその後設備の老朽化などにより2022年2月に廃止となったため、この日が事実上のラストランとなった<ref name="kobe-np202202" />。
* [[2022年]](令和4年)[[12月17日]] - 運行形態を大幅に見直し。川西能勢口駅 - 日生中央駅間の直通運転を基本とし、妙見口駅側は、早朝・深夜の一部を除いて川西能勢口駅への直通運転が廃止され、山下駅 - 妙見口駅間の折り返し運転が基本となった。土曜ダイヤを土曜・休日ダイヤに統合<ref>{{Cite web|和書|title=能勢電鉄 ダイヤ改正(2022年12月17日) |url=https://www.tetsudo.com/event/39644/ |website=鉄道コム |date=2022-10-12 |access-date=2022-12-03}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 4月1日 - 「能勢電車ポイント還元サービス」を開始<ref name="noseden20220808">{{Cite press release|和書|title=ICOCAによる「能勢電車ポイント還元サービス」の開始と回数券の発売終了について|publisher=能勢電鉄|date=2022-08-08|url=https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/news/newsrelease2022808.pdf|format=PDF|access-date=2023-05-01}}</ref>。
** 4月30日 - 回数券の発売をこの日で終了(身体障がい者・知的障がい者用用特別割引回数券は山下駅で発売継続)<ref name="noseden20220808" />。
** 12月3日 - 妙見の森関連事業(妙見ケーブル・妙見リフトや[[バーベキュー]]施設など)の営業をこの日で終了<ref>{{Cite press release|title=妙見山で展開する「妙見の森関連事業」の営業終了の繰上げ および 鋼索線(ケーブル)の廃止繰上届の提出について|publisher=能勢電鉄|date=2023-09-22|url=https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202309221.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-09-23}}</ref>。
== 路線 ==
[[File:Nose Electric Railway Linemap.svg|right|thumb|200px|路線図]]
[[駅務機器]]は交通系ICカードに対応している。現状では[[川西能勢口駅]]・[[平野駅 (兵庫県)|平野駅]]・[[山下駅 (兵庫県)|山下駅]]を除いて[[無人駅]]であるため、これらの駅の機器は平野駅と山下駅にある駅務機器遠距離操作センターから制御・管理しているが、これは能勢電鉄が[[1991年]]にいち早く導入したシステムである。
運行形態などについては以下の各項目を参照。
* [[File:Number prefix Nose Railway line.png|20px|NS]] [[能勢電鉄妙見線|妙見線]]
* [[File:Number prefix Nose Railway line.png|20px|NS]] [[能勢電鉄日生線|日生線]]
妙見線・日生線を「鉄道線」と総称することもある。
=== 廃止路線 ===
* [[能勢電鉄妙見線|妙見線]]:[[川西国鉄前駅]] - [[川西能勢口駅]] (1981年12月20日廃止)
* 鋼索線([[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見の森ケーブル]]) (2023年12月4日廃止)
* 索道線([[妙見の森リフト]]) (2023年12月4日廃止)
=== 未成路線 ===
* 伊丹線:川西国鉄前駅 - [[伊丹駅 (阪急)|阪急伊丹駅]] (5.9km) (1936年5月4日特許失効)<ref name="moriguchi-p178">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.178</ref>
以下は能勢電の関連会社が取得した免許線
* [[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見鋼索鉄道]]:[[妙見口駅]] - 黒川駅 (2.1km) (1937年2月5日免許失効。能勢電気軌道線と自社の鋼索線を結ぶ鉄道線)<ref name="moriguchi-p178" />
* 妙見鉄道:豊能郡[[東郷村 (大阪府)|東郷村]] - 亀岡駅 (19.3km) (1919年4月7日免許失効)<ref name="moriguchi-p180">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.180</ref>
== 駅名標 ==
以前の[[駅名標]]は、長らく親会社の阪急電鉄の駅名標を黄色の背景色で黒文字に変えたものが使われていた。2000年代からはデザインは変わらないものの、白の背景色に緑文字で下部の赤線が緑と黄色の帯に変わったタイプも登場したが、すべての駅で更新せず、黄色タイプも併用していた。2014年に大幅に刷新され、白の背景色で緑文字となり各駅沿線にちなむイラストが描かれ、下部が緑一色のものに交換された。なお、2000年代以降、関西私鉄では駅名標を更新する際、従来はひらがな表示が大きいタイプだったものを漢字表示が大きいタイプに刷新した例が多いが、能勢電鉄の場合は書体などは一新したものの、ひらがな表示を大きく表記する意匠は踏襲されている。これは親会社の阪急電鉄同様に「子供に分かりやすくするため」である。
<gallery widths="200">
File:NS-HiranoStation-1.JPG|旧デザインの駅名標([[平野駅 (兵庫県)|平野駅]])
File:NS-TakiyamaStation-1.JPG|帯入りデザインの駅名標([[滝山駅]])
File:Myokenguchi Station platform sign.jpg|現行デザインの駅名標([[妙見口駅]])
</gallery>
== 車両 ==
=== 鉄道線 ===
2022年現在在籍する全車両が[[阪急電鉄]]から譲渡された車両である。(能勢電気軌道→)能勢電鉄は[[1953年]]・[[1954年]]に登場した[[吊り掛け駆動方式#車体更新車|車体更新車]]である[[能勢電気軌道50形電車|50形]]・[[能勢電気軌道50形電車|60形]]を最後に自社で車両を製造しておらず、完全な新製車となれば[[1926年]]に製造された[[能勢電気軌道31形電車|31形]]まで遡らなければならない。1995年の昇圧に際しては、60形以来の自社発注車となる阪急直通対応の新型車両(仮称2000系)を計画していたが、これも中止している<ref>川島令三『全国鉄道事情大研究 神戸篇』草思社、1992年など</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Js7Gk9LdyUw/ 【能勢電鉄公式】7.16 のせでんYouTube Live] - YouTube「【公式】のせでんチャンネル」、2022年07月16日</ref>。
高架化前の川西能勢口駅には出発してすぐに時速15キロ制限の急カーブ(半径47m)があったため、阪急からの移籍車両のほとんどに[[連結器]]などの改造が施されており、連結器間の距離が長い車両はその名残となっている。ただし川西能勢口駅の高架化に伴って曲線が半径100mに緩和され、同時にワンマン運転対応に改造された車両は連結器の位置を阪急時代に戻したりもしている<ref>鉄道ジャーナル 1998年5月号(鉄道ジャーナル社)</ref>。
[[1997年]][[11月17日]]から特急「日生エクスプレス」として阪急の車両が日生中央まで乗り入れている。6000系を除き、能勢電鉄の車両は通常阪急線内には乗り入れないが、全般検査・重要部検査は阪急の[[阪急電鉄正雀工場|正雀工場]]で行われるため、その際には[[阪急京都本線|阪急京都線]]の[[正雀駅]]まで回送される。
列車には阪急と同様に[[優先席#携帯電話電源オフ車両|携帯電話電源OFF車両]]が設定されていた(4両編成の場合川西能勢口側の1両、2両編成には設定なし)。また、同じく「全席[[優先席|優先座席]]」を実施し、特定の優先座席を設けていなかったが、阪急での変更に合わせて[[2007年]][[10月29日]]に「全席優先座席」を廃止し「優先座席」を設定している。なお、2014年7月15日に携帯電話電源OFF車両は廃止され、「優先座席付近では混雑時は電源OFF」となった<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease201406251.pdf 列車内における携帯電話の取り扱いを変更します]}} - 能勢電鉄、2014年6月25日</ref><ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease201406253.pdf 優先座席付近での携帯電話使用マナーを「混雑時には電源をお切りください」に変更します]}} - 関西鉄道協会共同プレスリリース、2014年6月25日</ref>。
また、阪急[[阪急6000系電車|6000系]]のうち6002Fが能勢電鉄に移籍し、2014年8月から特急「日生エクスプレス」で運行されている<ref name=railf20140812>[https://railf.jp/news/2014/08/12/163000.html 阪急6000系6002編成が能勢電鉄に移籍] 鉄道ファン、2014年8月12日</ref>ほか、阪急[[阪急5100系電車|5100系]]5136Fを購入した上でグループの[[武庫川車両工業|阪神車両メンテナンス]]([[阪神電気鉄道尼崎工場]]内)にて2014年7月より能勢電鉄転用に向けた改造が行われ<ref>[https://railf.jp/news/2015/01/12/133000.html もと阪急5100系5136編成が能勢電鉄転用改造を終え出場] 鉄道ファン、2015年1月12日</ref>、2015年3月16日より能勢電鉄妙見線・日生線にて運用が開始されている<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20150218newsrelease1.pdf 能勢電鉄5100系車両 営業運転の開始日及び導入記念イベントについて]}} - 能勢電鉄、2015年2月18日</ref>。2018年3月19日には能勢電鉄保有車両で初の[[可変電圧可変周波数制御|VVVF制御車両]]となる[[能勢電鉄7200系電車|7200系]]も営業運転を開始した<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20180220newsrelease1.pdf 能勢電鉄7200系車両の導入について]}} - 能勢電鉄、2018年2月20日</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/article/20180319-603360/ 能勢電鉄7200系デビュー! 阪急電鉄から譲渡、車体に金色のライン] - マイナビニュース、2018年3月19日</ref>。
==== 車体塗装 ====
能勢電鉄の車両は阪急線に準じて[[阪急マルーン|マルーン]]で塗られているが、以前は独自の塗装が施されていたことがある。開業時の1形は青色で塗られており<ref>岡本弥・高間恒雄 『能勢電むかしばなし』 ネコ・パブリッシング、2008、13頁。ISBN 978-4-7770-5233-2</ref>、[[2013年]]には1500系に施されたリバイバル塗装によって再現されている<ref>[http://railf.jp/news/2013/03/17/120600.html 能勢電鉄1500系に復刻塗装車] - railf.jp、2013年3月17日</ref>。
戦後の1953年に登場した50形・60形はブルーとクリーム色のツートンカラーで登場し(下の画像1参照)、鋼体化改造された31形もこれに倣ったが、それ以外の車両に波及することはなく、その後しばらくは阪急からの譲渡された車両もマルーンのまま使用された。この塗装は2016年6月から5100系5124Fでリバイバル塗装されていたが<ref>[https://railf.jp/news/2016/06/24/150000.html 能勢電鉄5100系5124編成が営業運転を開始] - railf.jp、2016年6月24日</ref>、2023年9月8日にマルーン塗装化のため正雀に回送された。
1983年に入線した1500系は、窓周りをクリーム色に塗り分けて登場し(下の画像2参照)、その後に導入された1000系もこれを踏襲した。[[1990年]]に投入された1700系は希望と躍動をイメージしたオレンジに沿線の森林をイメージしたグリーンの帯を巻き、先頭部に能勢電鉄の「N」をイメージした稲妻型のデザインを入れた姿となり<ref>RAILWAY TOPICS 能勢電に1700系が登場 - 鉄道ジャーナル1990年8月号</ref>、その後すべての車両がこの塗装(下の画像3参照)に統一された。
[[1993年]]には社員から新塗装を募集し、クリーム色を基調にした様々な塗装が試行されたが、それらのいずれにも統一されることはなく、最終的には1994年に導入された宝塚造形芸術大学(現在の[[宝塚大学]])の[[逆井宏]]教授によるデザイン(下の画像4参照)に統一されることになった。塗装のコンセプトは「能勢電鉄の基本理念「あなたのそばに・のせでん」に沿った親しまれやすいカラーリング」「沿線各地の背景との調和」「街の風景あるいは野山の風景の添景としての車両色の責任、公共物としての責任を持てる色彩」「オリジナルなカラーリングイメージ」とし、車体の地色には「クリーミー・[[黄土色|オーカー]]」、側扉は年を経た木製ドアをイメージした黄味がかった茶色「バーント・オーカー」に乗客を迎え入れる駅員・乗務員の白い手袋をイメージした白い帯を配しており<ref>RAILWAY TOPICS 能勢電鉄の新しい車両カラーリングが決定 - 鉄道ジャーナル1994年9月号(鉄道ジャーナル社)</ref>、「[[フルーツ牛乳]]」の通称が付けられた<ref>[https://www.tomytec.co.jp/diocolle/lineup/tetsudou/4set_04.html 鉄道コレクション 能勢電鉄1000系4両セットA(引退時カラー)/能勢電鉄1000系4両セットB(登場時カラー)] - トミーテック</ref>。
その後、[[2003年]]に合理化により車体の塗装を阪急正雀工場で行うことになったため、能勢電のオリジナルカラーは姿を消した。
1500系登場時の塗装は、2008年から2009年まで創立100周年記念で1500系1550Fに<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/226333/ 【能勢電鉄】100周年記年号運転開始] - 鉄道ホビダス鉄道投稿情報局、2008年5月12日</ref>、2016年6月<ref>[https://railf.jp/news/2016/06/17/160000.html 能勢電鉄5100系5142編成が営業運転を開始] - railf.jp、2016年6月17日</ref>から2023年7月まで5100系5142Fに施された<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/473938/ 【マルーンへと塗色変更】能勢電鉄5142編成が運用復帰] - 鉄道ホビダス鉄道投稿情報局、2023年8月20日</ref>。
<gallery widths="200"><!-- 塗装の説明に使っていますので、画像の場所を移す場合は、上の本文の「下の画像1」等の記述も修正してください。-->
ファイル:能勢電車川西国鉄前駅.jpg|(画像1)<br>50形。晩年は川西能勢口 - 川西国鉄前間専用として使用。(1981年12月19日 川西国鉄前駅)
ファイル:Noseden1550F.jpg|(画像2)<br>導入当初のツートンカラーに彩られた1500系。写真は創立100周年記念のリバイバル塗装によるもの。(2008年7月20日 山下駅)
ファイル:能勢電鉄-03.jpg|(画像3)<br>オレンジにグリーンの帯カラー (1991年5月 平野駅付近)
ファイル:Nose 1001 Nissei-Chuo 20010429.jpg|(画像4)<br>2003年までのカラーで塗られた1000系。(2001年4月29日 日生中央駅)
</gallery>
==== 現有車両 ====
* [[能勢電鉄1700系電車|1700系]](元阪急[[阪急2000系電車|2000系]])
* [[阪急5100系電車#能勢電鉄5100系|5100系]](元阪急[[阪急5100系電車|5100系]])
* [[阪急6000系電車#能勢電鉄譲渡車|6000系]](元阪急[[阪急6000系電車|6000系]]) - 阪急所属車両と共通運用であるため、特急「日生エクスプレス」以外では自社線には入らずに阪急宝塚本線・箕面線で運用されている<ref name=railf20140812/>。
* [[能勢電鉄7200系電車|7200系]](元阪急[[阪急7000系電車|7000系]]電動車 + 6000系または7000系付随車) - VVVF制御車両<ref>[http://railf.jp/news/2018/02/01/173000.html 能勢電鉄7200系が阪急京都線で試運転] - railf.jp、2018年2月1日</ref>
<gallery widths="200" perrow="3">
ファイル:Nose-Series1700 1754F-60th.jpg|1700系(2020年11月 妙見口駅 - ときわ台駅)
ファイル:Nose-Series5100 5137.jpg|5100系(2020年11月 妙見口駅 - ときわ台駅)
ファイル:能勢電鉄6000系6002F 急行 大阪梅田行.jpg|6000系(2021年3月24日 服部天神駅)
ファイル:能勢電鉄7200系7201F 普通 妙見口行(さくらHM付).jpg|7200系(2021年3月24日 一の鳥居駅)
</gallery>
==== 過去の車両 ====
* [[能勢電気軌道1形電車|1形]]
* [[能勢電気軌道11形電車|11形]] (11-15) - 元[[東京市電気局1形電車 (初代)|東京市電気局1形]] (207-211) で、1920年東京市より購入、1921年より使用開始した。1903年東京車輌製造所製の木造2軸単車で定員43人<ref>岡本弥・高間恒雄『能勢電むかしばなし』ネコパブリッシング、2008年、14-15頁</ref>。1933年に廃車された。
* [[能勢電気軌道21形電車|21形]] (21-30) - 元[[伊予鉄道]][[松山電気軌道|松山市内線]]1形 (1-10) で、1435mmから1067mmへの改軌に伴い不要になった物を1923年に購入。木造2軸単車で、1937年に廃車された。
* [[能勢電気軌道31形電車|31形]] (31-36) - 1926年に、能勢電軌における初のボギー車として[[日本車輌製造|日本車輛]]で製造(台車・住友KS-50-L、主電動機・37.3kW×2)された。シングルルーフで前面非貫通3枚窓・2扉の落ち着いたスタイルの木造車で、ブレーキ装置も[[空気ブレーキ]]が採用され、[[集電装置|トロリーポール]]は屋根の前後両端に取りつけられた。車体構造もこれまでの単車とは異なり、デッキはなくプラットホームから直接乗車するものであった。1956年には31と32が瑞穂工業で鋼体化改造<ref>瑞穂工業は小企業だったため、作業員を絹延橋の工場に派遣する形で改造工事を行った。また32の鋼体化は前年の踏切事故からの復旧も兼ねていた。</ref>されている。10形の登場により、1966年までに廃車された。このうち35は廃車後に無蓋電動貨車106に改造されており、1991年に廃車されている。
* [[能勢電気軌道37形電車|37形]] (37-38) - 元[[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]][[三井電気軌道|三井線]]20形 (21-22) で、レイルロードルーフで前面非貫通3枚窓・3扉の木造ボギー車。1934年に購入されたが搭載されたモーターの[[界磁]]コイルの接続ミスが原因で故障が多く、1954年にこのミスを修正してようやくまともに運用できるようになった。しかし運用期間は短く、1958年に廃車された。
* [[阪急37形電車|70形]]
* [[阪急40形電車|40形]]
* [[能勢電気軌道50形電車|50形]]
* [[能勢電気軌道50形電車|60形]]
* [[新京阪鉄道P-4形電車|10形]]
* [[新京阪鉄道P-4形電車|20形]]
* [[阪急320形電車|320形]]
* [[阪急380形電車|380形]]
* [[阪急500形電車 (初代)|500形]]
* [[阪急610系電車|610系]]
* [[阪急1010系電車#能勢電鉄1000系|1000系]](元阪急1010系・1100系)
* [[能勢電鉄1500系電車|1500系]](元阪急[[阪急2000系電車|2100系]])
* [[阪急3000系電車#能勢電鉄3100系|3100系]](元阪急[[阪急3000系電車|3100系]]) - 2021年4月引退<ref>[https://mobile.twitter.com/Noseden_PR/status/1386520408418000896 当該ツイート] のせでん【公式】Twitter 2022年4月26日</ref>。
<gallery widths="200" perrow="3">
2003-4-5-noseden-2.JPG|宝塚ファミリーランドに保存されていた能勢電気軌道2のカットボディ。<br>現在は正雀車庫に保存。
NoseElectric1500Series.jpg|1500系(2006年9月26日)
能勢電鉄3100系電車.JPG|3100系(2007年7月31日 絹延橋駅)
</gallery>
* 電動貨車
** 101-103 - 開業時に[[梅鉢鉄工所]]で製造された2軸の無蓋電動[[貨車]]。初期は車体中央にポールの土台となる支柱が立てられていたが、後に前後の運転台後部に支柱を立ててその間に梁を渡しポールの土台とする形に改造された。1966年までに廃車された。
** 105 - 21形と共に[[伊予鉄道]][[松山電気軌道|松山市内線]]から購入した2軸の電動貨車で、元々は[[大阪市電]]の[[2階建車両#眺望を楽しむ目的|二階建て電車]]だった。伊予鉄道時代は無蓋車だったが、能勢電軌入線後に有蓋化されている。1957年に廃車された後は車体は絹延橋車庫で倉庫として用いられ、台車は大阪市電創業当時の現存唯一の台車として宝塚ファミリーランド内の「のりもの館」で保存展示を経て、現在は[[大阪市高速電気軌道]]の[[緑木検車場]]に併設された大阪市電保存館で保存されている。
** 106 - 31形35を改造したボギー車の無蓋電動貨車。1966年に[[集電装置]]をポールからZパンタに変更しており、1991年に廃車された。
==== 車両数の変遷 ====
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:90%;"
|-
!年
!320形
!380形
!500形
!610形
!1500系
!1000系
!1700系
!3100系
!5100系
!6000系
!7200系
!計(冷房車計)
|-
|1982||12||1||23||28||||||||||||
|
|64
|-
|1983||12||1||23||32||||||||||||
|
|68
|-
|1984||10||1||15||35||8||||||||||
|
|69(8)
|-
|1985||4||1||11||35||16||||||||||
|
|67(16)
|-
|1986||4||||2||35||24||||||||||
|
|65(24)
|-
|1987||||||||35||24||4||||||||
|
|63(28)
|-
|1988||||||||35||24||4||||||||
|
|63(28)
|-
|1989||||||||35||24||8||||||||
|
|67(32)
|-
|1990||||||||35||24||8||4||||||
|
|71(36)
|-
|1991||||||||15||24||8||16||||||
|
|63(48)
|-
|1992||||||||5||24||8||28||||||
|
|65(60)
|-
|1993-<br>1997||||||||||24||8||36||||||
|
|68(68)
|-
|1998-<br>2001||||||||||24||6||36||4||||
|
|70(70)
|-
|2002-<br>2004||||||||||24||||36||4||||
|
|64(64)
|-
|2005-<br>2014||||||||||24||||32||4||||
|
|60(60)
|-
|2015||||||||||16||||32||4||8
||8
|
|68(68)
|-
|2016||||||||||8||||32||4||16
||8
|
|68(68)
|-
|2017
|
|
|
|
|
|
|24
|4
|24
|8
|
|60(60)
|-
|2018
|
|
|
|
|
|
|24
|4
|24
|8
|4
|64(64)
|-
|2019
|
|
|
|
|
|
|20
|4
|24
|8
|4
|60(60)
|-
|2020
|
|
|
|
|
|
|16
|4
|24
|8
|8
|60(60)
|}
*50形・60形除く
*1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在
*『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール
==== 乗り入れ車両 ====
[[阪急電鉄]]
* [[阪急8000系電車|8000系]]
* [[阪急6000系電車|6000系]] (現在は、6002Fを含め日生エクスプレスでの運用がほぼないことが能勢電鉄公式YouTubeにて明かされている。)
* [[阪急1000系電車 (2代)|1000系]]
: 全形式とも特急「[[日生エクスプレス]]」に使用される。
=== 鋼索線・索道線 ===
すべて開業時に新造した。ケーブルカーについては、[[1990年代]]初頭に現在の色に塗り替えた後、1号車については「ほほえみ」、2号車については「ときめき」と愛称が付けられた。
== 運賃 ==
=== 鉄道線 ===
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease20190905a1.pdf 消費税率・地方消費税率の引き上げに伴う鉄道旅客運賃改定の認可について]}} - 能勢電鉄、2019年9月5日。</ref><ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease20190905b1.pdf 消費税率・地方消費税率の引き上げに伴うケーブル旅客運賃改定の認可について]}} - 能勢電鉄、2019年9月5日。</ref>。
{| class="wikitable" style="margin-left:3em; text-align:center;"
|-
!キロ程!!運賃(円)
|-
|初乗り2km||160
|-
|2.1 - 4.0||190
|-
|4.1 - 6.0||230
|-
|6.1 - 8.0||270
|-
|8.1 - 10.0||290
|-
|10.1 - 12.0||320
|-
|12.1 - 12.2||330
|}
2017年3月31日までは[[乗車カード]]として、[[スルッとKANSAI]]対応の磁気プリペイドカード「パストラルカード」を各駅券売機で販売していた<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20160701newsrelease1.pdf 4社(阪急・阪神・北急・能勢)におけるスルッとKANSAI対応カードの取扱いについて]}} - 能勢電鉄、2016年7月1日</ref>。2017年4月1日以降は関西のほどんどの鉄軌道事業者が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)主導のICカード「[[ICOCA]]」を導入する中、阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄のみで利用可能な磁気プリペイドカード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売していたが<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/20161227newsrelease1.pdf 4社共通磁気カードを2017年4月1日より発売します]}} - 能勢電鉄、2016年12月27日</ref>、2019年2月28日で発売を終了し、同年9月30日をもって「レールウェイカード」のほか、スルッとKANSAI時代から続いていた全ての磁気プリペイドカードの自動改札機での利用も終了した<ref>{{PDFlink|[http://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease20190124b1.pdf 「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売終了、改札機での利用終了と払い戻しについて]}} - 能勢電鉄、2019年1月24日</ref>。なお、発行元は阪急電鉄であった。
ICカードは、全駅にて[[PiTaPa]]やICOCAなどの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用]]対応カード(PiTaPa・ICOCAのほか、[[Kitaca]]・[[Suica]]・[[PASMO]]・[[manaca]]・[[TOICA]]・[[nimoca]]・[[はやかけん]]・[[SUGOCA]])が利用できる。さらに2019年3月1日より能勢電鉄においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始した<ref name="noseden20190124" />。但し現状発売されているのは阪急電鉄管理の川西能勢口駅のみで、能勢電鉄単独の駅では発売されていない。
=== 鋼索線・索道線 ===
* 鋼索線(妙見の森ケーブル)・索道線(妙見の森リフト) - 2021年3月20日改定<ref>{{PDFlink|[https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202103041.pdf 鋼索鉄道事業の旅客運賃上限変更認可ならびに運賃改定の実施について]}} - 能勢電鉄、2021年3月4日</ref>。2023年12月4日廃止。
** 大人 片道400円、往復800円
** 小児 片道200円、往復400円
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 川西市史編集専門委員会編 『かわにし 川西市史第三巻』、1980年、274 - 284頁。
* 能勢電鉄株式会社編 『能勢電鉄80年史』、1991年。
* 佐藤信之 「能勢電鉄の現状と輸送力増強の軌跡」『鉄道ジャーナル』2006年1月号、2006年、146 - 149頁。
* 藤井信夫 「能勢電のカラーリング」『関西の鉄道』No. 51 2006年盛夏号〔阪急電鉄特集〕、2006年、86 - 88頁。
== 関連項目 ==
* [[村上実]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nose Electric Railway}}
* [https://noseden.hankyu.co.jp/ 能勢電鉄ホームページ]
* {{Twitter|Noseden_PR|のせでん【公式】}}
* {{YouTube|channel=UCHYj3w_wqXowvcJLMcTv2hA|能勢電鉄株式会社のせでん}}
{{阪急阪神東宝グループ}}
{{日本のケーブルカー}}
{{スルッとKANSAI}}
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[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:日本の索道|廃]]
[[Category:索道事業者|廃]]
[[Category:阪急阪神東宝グループ]]
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[[Category:能勢電鉄|*]]
[[Category:川西市の企業]]
[[Category:1908年設立の企業]]
[[Category:20世紀の日本の設立]]
|
2003-09-25T17:20:00Z
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%8B%A2%E9%9B%BB%E9%89%84
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18,283 |
家電
|
家電
読み方により意味が異なる。
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家電 読み方により意味が異なる。 「かでん」:家庭用電化製品。特に「家電製品」「家電メーカー」など他の語と複合させる場合に「家電」と略す。→記事としては家電機器、家庭用電気機械器具、家電メーカー(電機メーカー)などを参照のこと。
「いえでん」:自宅に設置されている固定電話の俗称。また携帯電話から自宅に電話をかけること。 →固定電話や住宅を参照。
|
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'''家電'''
読み方により意味が異なる。
*「かでん」:家庭用電化製品<ref>精選版日本国語辞典「家電(かでん)」</ref>。特に「家電製品」「家電メーカー」など他の語と複合させる場合に「家電」と略す。→記事としては'''[[家電機器]]'''、'''[[家庭用電気機械器具]]'''、'''[[電機メーカー|家電メーカー(電機メーカー)]]'''などを参照のこと。
*「いえでん」:自宅に設置されている[[固定電話]]の俗称<ref name="Daijisen">大辞泉「家電(いえでん)」</ref>{{Efn2|{{要出典範囲|1990年代以降の若者語の俗語では|date=2022年12月}}「宅電」ともいう<ref>{{Cite web|和書|url=https://techtarget.itmedia.co.jp/tt/news/2002/06/news10.html|title=“宅電”は過去の遺物ではないと言い切れる納得の理由|work=特選プレミアムコンテンツガイド|website=TechTargetジャパン 情報系システム|date=2020-02-06|accessdate=2023-09-04}}</ref>。}}。また携帯電話から自宅に電話をかけること<ref name="Daijisen" />。 →'''[[固定電話]]'''や'''[[住宅]]'''を参照。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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2003-09-25T17:30:30Z
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18,284 |
叡山電鉄
|
叡山電鉄株式会社(えいざんでんてつ、英: Eizan Electric Railway Co., Ltd.)は、京都府京都市左京区の出町柳駅から八瀬・鞍馬への路線を運営する京阪グループの鉄道会社。通称「叡山電車」、略称は「叡電」(えいでん)。本社は京都市左京区山端壱町田町8番地の80(修学院駅に隣接)、本店は京都市左京区山端壱町田町14番地の1。全国登山鉄道‰会に加盟している。
京福電気鉄道(京福電鉄、京福)が京都市内で運営していた叡山線を分社化して1985年に設立された。設立当初は、京福の完全子会社であったが、1991年11月に京阪電気鉄道(京阪、現・京阪ホールディングス)が筆頭株主となったのち、2002年3月からは同社の完全子会社となっている(詳細は後述)。
叡山本線と鞍馬線の2路線を運営し、比叡山・鞍馬方面への観光客輸送、周辺住民輸送を担っている。これらの路線は、かつて京都電燈および鞍馬電気鉄道により運営され、電力事業の戦時統制による再編後は京福が運営していた。1960年代からのモータリゼーションにより1964年から乗客数が減少に転じていたが、1978年9月の京都市電全廃により他の鉄道路線からの連絡が絶たれたことで沿線から京都市内中心部を直結する路線バスに乗客が流れ、叡山本線・鞍馬線の利用客は一気に減少した。特に叡山本線は年間5億円以上の赤字を出し、京福全体、ひいては京福を配下にもつ京阪グループの経営を圧迫する事態となった。
叡山本線・鞍馬線の赤字を京福本体が負担し金利負担を低減すること、人件費の削減を目指して1985年7月に京福全額出資、全社員が京福から出向する形で叡山電鉄株式会社が設立された。
分離以前から電鉄側でも集客に努めており、各種イベントの開催や、京福に残った八瀬遊園の次々の改装のほか、特にこの時期においてさえも出町柳 - 宝ケ池間で日中毎時8本運転とし「待たずに乗れる」を印象付けていたことは特筆に値する。それでも乗客数は会社設立時の1985年でそれまでのピークであった1964年の4割にまで落ち込み、なお減少傾向であった。
1989年10月5日に京阪鴨東線が開業して叡山本線と出町柳で連絡することで叡山電鉄の旅客数は倍増、収入も2.5倍となったが、この状態でも収支はようやく黒字になる程度で、19億4千万円に達していた累積損失の解消のめどは立たず、京福傘下での経営再建は不可能と判断された。京阪からの特別融資を低利で受けることなどを目的に1991年10月に株式の60%を京阪に売却、併せて人件費削減のため従業員全員が叡山電鉄に移籍した。その後2002年3月に京阪電鉄が残りの全株式を取得し、叡山電鉄は京阪の100%子会社となった。
いったん増加した利用客も1997年に京都市営地下鉄烏丸線が国際会館駅まで延長され、その後同駅を中心にバス路線網も再整備されたため、左京区岩倉地域の住民が市中心部へ向かう場合などの利用がそちらに移転することになった結果、利用者が減少しつつある。
これに対して1997年に展望車両900系電車「きらら」を登場させ、各種イベントを開催するなど積極的な利用者確保を行なうと共に、2004年には原則として全列車のワンマン化を行うなどの経費削減策も講じている。2005年は、NHK大河ドラマ『義経』のために鞍馬方面の観光がブームになり、近年にない賑わいを見せた。
京都市建設局により、並行して走る鞍馬街道(京都府道38号京都広河原美山線)のバイパス建設や拡幅整備が計画されており、完成すると鞍馬方面への大型観光バス等の通行が容易となることから、その将来は必ずしも安泰ではない。
略称の「叡電」は現在の叡山本線が京都電燈の「叡山電気鉄道部」であったことに由来し、京福が継承したあとも叡山本線・鞍馬線の総称として一般に使われていた。分社によって、略称が文字通り会社名の省略形となった。
分社当時、京福が京阪の子会社であったものの、車両技術面では阪神電気鉄道から831形を譲り受けてデナ500形として導入したことがあったことや、阪神の関連会社であった武庫川車両工業(現在は解散)での車両製造の経緯などから阪神色が強いなど、京福の色合いが強かった。1989年の京阪鴨東線開業あたりから、サービス面で徐々に京阪色も出てきていたが、2002年に京福が越前本線列車衝突事故による経営悪化のため、所有株をすべて京阪に売却し同社の完全子会社となってからは、多岐にわたる点において京阪色が強まっている。2008年には「KEIHAN」ロゴの下に「叡山電車」(車両では「Eizan Railway」)の文字が入った京阪電鉄風の社名ロゴを導入した。
PiTaPa・ICOCA・Suica・PASMOなどのICカード式乗車券へは2016年3月16日より対応を開始している。なお、ICカード導入を前に2016年1月31日をもって磁気式のスルッとKANSAIカードへの対応を終了、出町柳駅を除き自動改札機は撤去され、車内料金箱は磁気式カードリーダーの代わりにICカードリーダー搭載型に交換された(フリーパス類は引き続き呈示で対応、出町柳駅設置の自動改札機は現在もKANSAI THRU PASSに対応している)。カードに印字される符号はEZであった。
全線が京都府京都市左京区内にある。各路線の詳細については以下の項目を参照。
多客時は臨時ダイヤで運転されることがあり、特に毎年10月22日に行われる鞍馬の火祭においては事実上唯一の交通機関となり、ほぼすべての車両をフル稼働させるぐらいの運転となるが、それでもピーク時には鞍馬線二軒茶屋駅以北が単線で線路容量に制約がある関係もあって長蛇の列(乗車までに数時間の待ち時間)となる。
また、2004年1月からは全路線で一部列車を除いて終日ワンマン運転を行っている。
2007年秋からラインカラーにちなんだ駅名標を一部の駅に設置している。駅名標にはその色の元になったシンボルマークもあしらわれている。また、ローマ字に加えて韓国語と中国語の表記もある。新型駅名板の設置開始当初は出町柳・三宅八幡・岩倉・京都精華大前・市原・二ノ瀬・鞍馬の各駅には旧型駅名板しか設置されていなかったが、現在は新型駅名板が各駅に少なくとも1箇所は設置されている。2008年10月19日には駅ナンバリングも導入され、新型駅名標および一部の旧型駅名標にも駅番号の表示が行われている。また同時にユニバーサルデザインのピクトグラムも導入され、京阪線の案内表示に準拠したものが使われている。
2011年春から車内自動放送に英語案内が追加された(以前は出町柳駅のみ)。
京福では三つの路線群で異なる独特の形式称号が存在したが、その叡山線を継承した叡電では伝統的に「デナ」「デオ」「デト」が使われている。営業用車のカタカナの2文字目は「ナ」が中型(なかがた)、「オ」が大型の略称である。1995年のデナ21形廃車により「デナ」は形式消滅している。事業用車の2文字目は国鉄の貨車に準じていて、京福時代には「デワ」も存在した。なお、2009年のデオ600形全廃により、叡電からは旧京福時代以前からの旅客営業車両は消滅した。旧車両の代替として、デオ710形が登場してからは、デオ710形、デオ720形、デオ730形をまとめて700系とする表記がよく見られるようになった。そのことは、叡山電車公式サイトの車両紹介ページでも700系(けい)デオ710形(がた)、800系デオ800形、900系デオ900形と案内されているとおりである。叡電の車両は現在でも「デオ」といえども、車体長16mクラスの現在の日本においては小型に属する車体である。また開業当時からデナ21形の製造当初とデナ500形を除き、すべて当線区での新造(実質、車体新製含む)車両となっており、現存営業用車両は後述のような統一性がある。ただし車両塗装に関しては、デオ700系列の旧塗装消滅後は、ほぼ各車両(編成)ごとに異なるという、他の鉄道会社にない特徴がある。
勾配区間での安全性やメンテナンス面から、すべて電動車かつすべての軸が駆動軸であり、抵抗制御と発電ブレーキの組み合わせによる制御、カルダン駆動となっている。車体においては無人駅での乗車券収集の便から車端に客用ドアが存在し(2両固定編成の800系、900系では連結面側は少し内側に寄っている)、乗務員室ドアが引戸となっているのも特徴である。
過去の経緯より現存すべての車両が、かつて存在した阪神系の武庫川車両工業製造となっているが、部品などでは京阪から譲渡され、再利用しているものも多い。前述のとおり叡電は京阪の完全子会社であることから、2008年から各車両に京阪グループの新しいCIロゴが車両側面の上部(運転席側)に貼り付けられている。
2015年に叡山本線の開業から90周年を迎え、同年9月27日の開業90周年記念式典に合わせて開業当時の車両デナ1形を模して700系731号車を改装した「ノスタルジック731」が運行されている。
2018年3月21日には700系732号車を改装した観光用車両「ひえい」が叡山本線で運行を開始した。
営業用
事業用
営業用
事業用
叡山本線、鞍馬線を通じて、普通運賃は区間制、定期運賃は対キロ制となっている。普通運賃の場合、修学院駅・岩倉駅・二軒茶屋駅・二ノ瀬駅に区界があり、この駅を越えて乗車すると区数が1つ増え運賃が変わる。また、鞍馬駅方面から宝ケ池駅で乗り換えて八瀬比叡山口駅方面に乗り換えた場合や、その反対の場合も区数が1つ増える。このため、たとえば出町柳駅から修学院駅まで乗車した場合は2.9キロメートル乗車しても1区で済むが、八幡前駅から三宅八幡駅まで乗車した場合は、1.5キロメートルの乗車で2区となる。
以下において特記なければ小児は大人の半額で端数は切り上げ。
普通運賃(2023年4月1日改定)。
京阪との初乗り区間相互間(元田中 - 修学院と京阪・神宮丸太町 - 祇園四条)に大人20円の割引が設定されていたが、2023年3月31日をもって廃止された。事前に自動券売機での連絡乗車券購入が必要で、叡山電鉄側からの場合、自動券売機稼動時間以外は出町柳駅改札で発売されていた。
回数券については普通回数乗車券(普通運賃の10倍で11回)のほかに学生割引回数乗車券(大人用のみ・同15回)、敬老割引回数乗車券(同20回)が設定されていたが、2022年3月31日をもって発売を終了した。
出町柳駅では駅員が常駐し、自動改札機・自動券売機も常に稼動しており、駅構内に入場する際には入場券大人220円が必要である。鞍馬駅では始発・終電近くで無人となるほかは駅員が駐在している。他の駅では常に駅員(出札・集改札要員)が駐在している駅はない。なお、貴船口駅や八瀬比叡山口駅では観光客が多い時期の日中に駅員が駐在するほか、紅葉の時期には岩倉駅に駅員が駐在するなど、臨時に駅員が配置される場合もある。その他、平日朝のラッシュ時には茶山駅・一乗寺駅・修学院駅・岩倉駅・木野駅・京都精華大前駅・二軒茶屋駅では時間を限って駅員が出張してくる日がある。学生の休日には平日であっても駅員が出張しない駅もある。
乗車時は有人駅では自動券売機で切符を購入する。無人駅では原則として駅での改札はなく、乗車前に駅に設置されたオレンジ色の発行器から乗車駅証明書を取る。無人駅でも時間を限って自動券売機がある駅もあり、そのような駅で予め切符を購入した場合は、そのまま乗車すればよい。自動改札機は出町柳駅にのみ設置されている。
下車時に有人駅では改札口で現金を払うか、自動改札機に切符を通す。無人駅では運転席横の運賃箱に乗車駅証明書と現金または切符を投入する。乗車駅証明書には乗車駅を示すパターンが印刷されており、下車駅では自動的に運賃額を運賃箱に表示させることができる。定期券は運転士に提示する。
無人駅での乗車口は後ドア、降車口は前ドアとなっている。3ドア車両の中ドアと2両編成の場合の後の車両のドアは有人扱いの駅を除き締切である。運賃箱やICカード読取機、乗車駅証明書発行器は進行方向左側のドア横のみに設置されている。
全線が1200円で1日乗り放題になる「1日乗車券 えぇきっぷ」を出町柳駅の窓口、出町柳駅・八瀬比叡山口駅・貴船口駅・鞍馬駅の自動券売機、修学院駅の定期券売場で発売している。提示するだけで沿線社寺や観光施設で拝観料・入場料の割り引きを受けたり、粗品の進呈を受けたり、沿線の飲食店・土産物店で特典を受けることができる。前述の通り、スルッとKANSAIカードへの対応を終了し、車内の運賃箱がカードリーダーのない(代わりにICカード読取機が設置)ものに交換されたため、磁気カードから紙の乗車券に変更された。磁気カード時代は通用日は自動改札機または車内のカードリーダーを通すことによって、裏面に印刷され決定していた。無人駅での乗車時には最初の乗車時以外カードリーダーに通す必要はないが、無人駅での下車時には必ずカードリーダーに通す必要があった。
親会社の京阪側では叡電と連携した企画乗車券を発売しており、叡電側では京阪と連携した企画乗車券を発売していなかったが、2014年3月1日から2015年3月1日まで叡電側でも京阪と連携した企画乗車券「ひらパーGo!Go!チケット(叡山電車版)」を発売している。
2010年9月末ごろから、自社アカウントによるTwitterの発信を開始した。また、同年の第6回えいでんまつりでは、イベントトレインの運転台からの映像をUstreamを活用し生中継したほか、イベントの模様をTwitterで逐次発信した。さらに、自社アカウントによるYouTubeのチャンネルも運営している。
叡電沿線各所が舞台モデルとなったアニメ『けいおん!』の原作誌「まんがタイムきらら」と900系電車の愛称「きらら」との一致から、芳文社と提携した「きらら×きららプロジェクト」を2011年より開始し、それ以後、定期的に「まんがタイムきらら」およびその姉妹誌、出版元の芳文社作品とのコラボレーションが行われている。
2011年9月1日から2012年2月19日まで運行された、『けいおん!』にちなんだ「えいでん!×けいおん!トレイン」では、Google Latitudeを活用して当該車両の運行位置情報をウェブサイトに常時アップデートし、さらに出町柳駅で楽器型記念乗車券を限定発売し、3時間弱で6000冊が即日完売したことが話題となった。
その後、これまでに『三者三葉』『スロウスタート』『ゆゆ式』『星屑テレパス』(まんがタイムきらら)、『ひだまりスケッチ』『NEW GAME!』『ブレンド・S』『まちカドまぞく』『おちこぼれフルーツタルト』『Aチャンネル』『恋する小惑星』『キルミーベイベー』(まんがタイムきららキャラット)、『きんいろモザイク』『ご注文はうさぎですか?』『ステラのまほう』『初恋*れ〜るとりっぷ』(まんがタイムきららMAX)、『ハナヤマタ』『球詠』『スローループ』(まんがタイムきららフォワード)、『幸腹グラフィティ』(まんがタイムきららミラク)、『城下町のダンデライオン』『ゆるキャン△』『IDOL×IDOL STORY!』(COMIC FUZ)、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』『わかば*ガール』『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』、およびこれらの作品の主要キャラクターが登場するゲーム『きららファンタジア』、2019年10月に開催のイベント「まんがタイムきらら展 in 大阪」とのコラボレーションが行われている。2021年には、プロジェクト10周年を記念した企画が実施されている。またコラボレーションを実施していない作品についても、駅構内にポスターを掲示している場合がある。
このほか、京都を舞台とした2013年のアニメ作品『有頂天家族』にデナ21形をモデルとした「偽叡山電車」が登場することから、2014年には京都国際マンガ・アニメフェア(京まふ)と連携して鞍馬駅に展示のデナ21形に「偽叡山電車」の装飾を施すなどのイベントを行っており、2017年にも5月4日からアニメ第二期の『有頂天家族2』でのコラボ企画で切符販売・新ラッピング列車・偽叡山電車・叡電有頂天家族コラボフェスタが実施された。
また、2015年のアニメ作品『神様はじめました◎』では物語後半で鞍馬を中心に京都が舞台となっていることから、コラボ企画としてラッピング車両の運行や記念乗車券の販売が行われた。2016年には、原作者の助野嘉昭が京都精華大学出身である縁から、京まふの連携イベントとして『双星の陰陽師』とのコラボレーションが実施された。2018年には京阪グループ他社との共同で、京都を舞台としたアニメ『京都寺町三条のホームズ』とのコラボレーションが実施された。2019年と2022年には京都を舞台とした『であいもん』、2020年には『ゆるゆり』、2022年には同人サークルの上海アリス幻樂団のゲーム作品『東方project』および『うらみちお兄さん』、2023年には京まふの連携イベントとして『甘神さんちの縁結び』とのコラボレーションが実施されている。
同業他社の中では、西武鉄道も同じように町おこしの一環として様々な漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーションを実施している。また、親会社の京阪電気鉄道も同じような企画を行うことがある。
|
[
{
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"text": "叡山電鉄株式会社(えいざんでんてつ、英: Eizan Electric Railway Co., Ltd.)は、京都府京都市左京区の出町柳駅から八瀬・鞍馬への路線を運営する京阪グループの鉄道会社。通称「叡山電車」、略称は「叡電」(えいでん)。本社は京都市左京区山端壱町田町8番地の80(修学院駅に隣接)、本店は京都市左京区山端壱町田町14番地の1。全国登山鉄道‰会に加盟している。",
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"text": "京福電気鉄道(京福電鉄、京福)が京都市内で運営していた叡山線を分社化して1985年に設立された。設立当初は、京福の完全子会社であったが、1991年11月に京阪電気鉄道(京阪、現・京阪ホールディングス)が筆頭株主となったのち、2002年3月からは同社の完全子会社となっている(詳細は後述)。",
"title": null
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"text": "叡山本線と鞍馬線の2路線を運営し、比叡山・鞍馬方面への観光客輸送、周辺住民輸送を担っている。これらの路線は、かつて京都電燈および鞍馬電気鉄道により運営され、電力事業の戦時統制による再編後は京福が運営していた。1960年代からのモータリゼーションにより1964年から乗客数が減少に転じていたが、1978年9月の京都市電全廃により他の鉄道路線からの連絡が絶たれたことで沿線から京都市内中心部を直結する路線バスに乗客が流れ、叡山本線・鞍馬線の利用客は一気に減少した。特に叡山本線は年間5億円以上の赤字を出し、京福全体、ひいては京福を配下にもつ京阪グループの経営を圧迫する事態となった。",
"title": "概要"
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"text": "叡山本線・鞍馬線の赤字を京福本体が負担し金利負担を低減すること、人件費の削減を目指して1985年7月に京福全額出資、全社員が京福から出向する形で叡山電鉄株式会社が設立された。",
"title": "概要"
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"text": "分離以前から電鉄側でも集客に努めており、各種イベントの開催や、京福に残った八瀬遊園の次々の改装のほか、特にこの時期においてさえも出町柳 - 宝ケ池間で日中毎時8本運転とし「待たずに乗れる」を印象付けていたことは特筆に値する。それでも乗客数は会社設立時の1985年でそれまでのピークであった1964年の4割にまで落ち込み、なお減少傾向であった。",
"title": "概要"
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"text": "1989年10月5日に京阪鴨東線が開業して叡山本線と出町柳で連絡することで叡山電鉄の旅客数は倍増、収入も2.5倍となったが、この状態でも収支はようやく黒字になる程度で、19億4千万円に達していた累積損失の解消のめどは立たず、京福傘下での経営再建は不可能と判断された。京阪からの特別融資を低利で受けることなどを目的に1991年10月に株式の60%を京阪に売却、併せて人件費削減のため従業員全員が叡山電鉄に移籍した。その後2002年3月に京阪電鉄が残りの全株式を取得し、叡山電鉄は京阪の100%子会社となった。",
"title": "概要"
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"text": "いったん増加した利用客も1997年に京都市営地下鉄烏丸線が国際会館駅まで延長され、その後同駅を中心にバス路線網も再整備されたため、左京区岩倉地域の住民が市中心部へ向かう場合などの利用がそちらに移転することになった結果、利用者が減少しつつある。",
"title": "概要"
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"text": "これに対して1997年に展望車両900系電車「きらら」を登場させ、各種イベントを開催するなど積極的な利用者確保を行なうと共に、2004年には原則として全列車のワンマン化を行うなどの経費削減策も講じている。2005年は、NHK大河ドラマ『義経』のために鞍馬方面の観光がブームになり、近年にない賑わいを見せた。",
"title": "概要"
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"text": "京都市建設局により、並行して走る鞍馬街道(京都府道38号京都広河原美山線)のバイパス建設や拡幅整備が計画されており、完成すると鞍馬方面への大型観光バス等の通行が容易となることから、その将来は必ずしも安泰ではない。",
"title": "概要"
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"text": "略称の「叡電」は現在の叡山本線が京都電燈の「叡山電気鉄道部」であったことに由来し、京福が継承したあとも叡山本線・鞍馬線の総称として一般に使われていた。分社によって、略称が文字通り会社名の省略形となった。",
"title": "概要"
},
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"text": "分社当時、京福が京阪の子会社であったものの、車両技術面では阪神電気鉄道から831形を譲り受けてデナ500形として導入したことがあったことや、阪神の関連会社であった武庫川車両工業(現在は解散)での車両製造の経緯などから阪神色が強いなど、京福の色合いが強かった。1989年の京阪鴨東線開業あたりから、サービス面で徐々に京阪色も出てきていたが、2002年に京福が越前本線列車衝突事故による経営悪化のため、所有株をすべて京阪に売却し同社の完全子会社となってからは、多岐にわたる点において京阪色が強まっている。2008年には「KEIHAN」ロゴの下に「叡山電車」(車両では「Eizan Railway」)の文字が入った京阪電鉄風の社名ロゴを導入した。",
"title": "概要"
},
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"text": "PiTaPa・ICOCA・Suica・PASMOなどのICカード式乗車券へは2016年3月16日より対応を開始している。なお、ICカード導入を前に2016年1月31日をもって磁気式のスルッとKANSAIカードへの対応を終了、出町柳駅を除き自動改札機は撤去され、車内料金箱は磁気式カードリーダーの代わりにICカードリーダー搭載型に交換された(フリーパス類は引き続き呈示で対応、出町柳駅設置の自動改札機は現在もKANSAI THRU PASSに対応している)。カードに印字される符号はEZであった。",
"title": "概要"
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"text": "全線が京都府京都市左京区内にある。各路線の詳細については以下の項目を参照。",
"title": "路線"
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"text": "多客時は臨時ダイヤで運転されることがあり、特に毎年10月22日に行われる鞍馬の火祭においては事実上唯一の交通機関となり、ほぼすべての車両をフル稼働させるぐらいの運転となるが、それでもピーク時には鞍馬線二軒茶屋駅以北が単線で線路容量に制約がある関係もあって長蛇の列(乗車までに数時間の待ち時間)となる。",
"title": "路線"
},
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"text": "また、2004年1月からは全路線で一部列車を除いて終日ワンマン運転を行っている。",
"title": "路線"
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"text": "2007年秋からラインカラーにちなんだ駅名標を一部の駅に設置している。駅名標にはその色の元になったシンボルマークもあしらわれている。また、ローマ字に加えて韓国語と中国語の表記もある。新型駅名板の設置開始当初は出町柳・三宅八幡・岩倉・京都精華大前・市原・二ノ瀬・鞍馬の各駅には旧型駅名板しか設置されていなかったが、現在は新型駅名板が各駅に少なくとも1箇所は設置されている。2008年10月19日には駅ナンバリングも導入され、新型駅名標および一部の旧型駅名標にも駅番号の表示が行われている。また同時にユニバーサルデザインのピクトグラムも導入され、京阪線の案内表示に準拠したものが使われている。",
"title": "路線"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "2011年春から車内自動放送に英語案内が追加された(以前は出町柳駅のみ)。",
"title": "路線"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "京福では三つの路線群で異なる独特の形式称号が存在したが、その叡山線を継承した叡電では伝統的に「デナ」「デオ」「デト」が使われている。営業用車のカタカナの2文字目は「ナ」が中型(なかがた)、「オ」が大型の略称である。1995年のデナ21形廃車により「デナ」は形式消滅している。事業用車の2文字目は国鉄の貨車に準じていて、京福時代には「デワ」も存在した。なお、2009年のデオ600形全廃により、叡電からは旧京福時代以前からの旅客営業車両は消滅した。旧車両の代替として、デオ710形が登場してからは、デオ710形、デオ720形、デオ730形をまとめて700系とする表記がよく見られるようになった。そのことは、叡山電車公式サイトの車両紹介ページでも700系(けい)デオ710形(がた)、800系デオ800形、900系デオ900形と案内されているとおりである。叡電の車両は現在でも「デオ」といえども、車体長16mクラスの現在の日本においては小型に属する車体である。また開業当時からデナ21形の製造当初とデナ500形を除き、すべて当線区での新造(実質、車体新製含む)車両となっており、現存営業用車両は後述のような統一性がある。ただし車両塗装に関しては、デオ700系列の旧塗装消滅後は、ほぼ各車両(編成)ごとに異なるという、他の鉄道会社にない特徴がある。",
"title": "車両"
},
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"text": "勾配区間での安全性やメンテナンス面から、すべて電動車かつすべての軸が駆動軸であり、抵抗制御と発電ブレーキの組み合わせによる制御、カルダン駆動となっている。車体においては無人駅での乗車券収集の便から車端に客用ドアが存在し(2両固定編成の800系、900系では連結面側は少し内側に寄っている)、乗務員室ドアが引戸となっているのも特徴である。",
"title": "車両"
},
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"text": "過去の経緯より現存すべての車両が、かつて存在した阪神系の武庫川車両工業製造となっているが、部品などでは京阪から譲渡され、再利用しているものも多い。前述のとおり叡電は京阪の完全子会社であることから、2008年から各車両に京阪グループの新しいCIロゴが車両側面の上部(運転席側)に貼り付けられている。",
"title": "車両"
},
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"text": "2015年に叡山本線の開業から90周年を迎え、同年9月27日の開業90周年記念式典に合わせて開業当時の車両デナ1形を模して700系731号車を改装した「ノスタルジック731」が運行されている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2018年3月21日には700系732号車を改装した観光用車両「ひえい」が叡山本線で運行を開始した。",
"title": "車両"
},
{
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"tag": "p",
"text": "営業用",
"title": "車両"
},
{
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"text": "事業用",
"title": "車両"
},
{
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"tag": "p",
"text": "営業用",
"title": "車両"
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{
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"tag": "p",
"text": "事業用",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "叡山本線、鞍馬線を通じて、普通運賃は区間制、定期運賃は対キロ制となっている。普通運賃の場合、修学院駅・岩倉駅・二軒茶屋駅・二ノ瀬駅に区界があり、この駅を越えて乗車すると区数が1つ増え運賃が変わる。また、鞍馬駅方面から宝ケ池駅で乗り換えて八瀬比叡山口駅方面に乗り換えた場合や、その反対の場合も区数が1つ増える。このため、たとえば出町柳駅から修学院駅まで乗車した場合は2.9キロメートル乗車しても1区で済むが、八幡前駅から三宅八幡駅まで乗車した場合は、1.5キロメートルの乗車で2区となる。",
"title": "運賃"
},
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"paragraph_id": 27,
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"text": "以下において特記なければ小児は大人の半額で端数は切り上げ。",
"title": "運賃"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "普通運賃(2023年4月1日改定)。",
"title": "運賃"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "京阪との初乗り区間相互間(元田中 - 修学院と京阪・神宮丸太町 - 祇園四条)に大人20円の割引が設定されていたが、2023年3月31日をもって廃止された。事前に自動券売機での連絡乗車券購入が必要で、叡山電鉄側からの場合、自動券売機稼動時間以外は出町柳駅改札で発売されていた。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "回数券については普通回数乗車券(普通運賃の10倍で11回)のほかに学生割引回数乗車券(大人用のみ・同15回)、敬老割引回数乗車券(同20回)が設定されていたが、2022年3月31日をもって発売を終了した。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "出町柳駅では駅員が常駐し、自動改札機・自動券売機も常に稼動しており、駅構内に入場する際には入場券大人220円が必要である。鞍馬駅では始発・終電近くで無人となるほかは駅員が駐在している。他の駅では常に駅員(出札・集改札要員)が駐在している駅はない。なお、貴船口駅や八瀬比叡山口駅では観光客が多い時期の日中に駅員が駐在するほか、紅葉の時期には岩倉駅に駅員が駐在するなど、臨時に駅員が配置される場合もある。その他、平日朝のラッシュ時には茶山駅・一乗寺駅・修学院駅・岩倉駅・木野駅・京都精華大前駅・二軒茶屋駅では時間を限って駅員が出張してくる日がある。学生の休日には平日であっても駅員が出張しない駅もある。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "乗車時は有人駅では自動券売機で切符を購入する。無人駅では原則として駅での改札はなく、乗車前に駅に設置されたオレンジ色の発行器から乗車駅証明書を取る。無人駅でも時間を限って自動券売機がある駅もあり、そのような駅で予め切符を購入した場合は、そのまま乗車すればよい。自動改札機は出町柳駅にのみ設置されている。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "下車時に有人駅では改札口で現金を払うか、自動改札機に切符を通す。無人駅では運転席横の運賃箱に乗車駅証明書と現金または切符を投入する。乗車駅証明書には乗車駅を示すパターンが印刷されており、下車駅では自動的に運賃額を運賃箱に表示させることができる。定期券は運転士に提示する。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "無人駅での乗車口は後ドア、降車口は前ドアとなっている。3ドア車両の中ドアと2両編成の場合の後の車両のドアは有人扱いの駅を除き締切である。運賃箱やICカード読取機、乗車駅証明書発行器は進行方向左側のドア横のみに設置されている。",
"title": "運賃"
},
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "全線が1200円で1日乗り放題になる「1日乗車券 えぇきっぷ」を出町柳駅の窓口、出町柳駅・八瀬比叡山口駅・貴船口駅・鞍馬駅の自動券売機、修学院駅の定期券売場で発売している。提示するだけで沿線社寺や観光施設で拝観料・入場料の割り引きを受けたり、粗品の進呈を受けたり、沿線の飲食店・土産物店で特典を受けることができる。前述の通り、スルッとKANSAIカードへの対応を終了し、車内の運賃箱がカードリーダーのない(代わりにICカード読取機が設置)ものに交換されたため、磁気カードから紙の乗車券に変更された。磁気カード時代は通用日は自動改札機または車内のカードリーダーを通すことによって、裏面に印刷され決定していた。無人駅での乗車時には最初の乗車時以外カードリーダーに通す必要はないが、無人駅での下車時には必ずカードリーダーに通す必要があった。",
"title": "運賃"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "親会社の京阪側では叡電と連携した企画乗車券を発売しており、叡電側では京阪と連携した企画乗車券を発売していなかったが、2014年3月1日から2015年3月1日まで叡電側でも京阪と連携した企画乗車券「ひらパーGo!Go!チケット(叡山電車版)」を発売している。",
"title": "運賃"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2010年9月末ごろから、自社アカウントによるTwitterの発信を開始した。また、同年の第6回えいでんまつりでは、イベントトレインの運転台からの映像をUstreamを活用し生中継したほか、イベントの模様をTwitterで逐次発信した。さらに、自社アカウントによるYouTubeのチャンネルも運営している。",
"title": "インターネットによる情報発信"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "叡電沿線各所が舞台モデルとなったアニメ『けいおん!』の原作誌「まんがタイムきらら」と900系電車の愛称「きらら」との一致から、芳文社と提携した「きらら×きららプロジェクト」を2011年より開始し、それ以後、定期的に「まんがタイムきらら」およびその姉妹誌、出版元の芳文社作品とのコラボレーションが行われている。",
"title": "コラボレーション"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "2011年9月1日から2012年2月19日まで運行された、『けいおん!』にちなんだ「えいでん!×けいおん!トレイン」では、Google Latitudeを活用して当該車両の運行位置情報をウェブサイトに常時アップデートし、さらに出町柳駅で楽器型記念乗車券を限定発売し、3時間弱で6000冊が即日完売したことが話題となった。",
"title": "コラボレーション"
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"text": "その後、これまでに『三者三葉』『スロウスタート』『ゆゆ式』『星屑テレパス』(まんがタイムきらら)、『ひだまりスケッチ』『NEW GAME!』『ブレンド・S』『まちカドまぞく』『おちこぼれフルーツタルト』『Aチャンネル』『恋する小惑星』『キルミーベイベー』(まんがタイムきららキャラット)、『きんいろモザイク』『ご注文はうさぎですか?』『ステラのまほう』『初恋*れ〜るとりっぷ』(まんがタイムきららMAX)、『ハナヤマタ』『球詠』『スローループ』(まんがタイムきららフォワード)、『幸腹グラフィティ』(まんがタイムきららミラク)、『城下町のダンデライオン』『ゆるキャン△』『IDOL×IDOL STORY!』(COMIC FUZ)、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』『わかば*ガール』『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』、およびこれらの作品の主要キャラクターが登場するゲーム『きららファンタジア』、2019年10月に開催のイベント「まんがタイムきらら展 in 大阪」とのコラボレーションが行われている。2021年には、プロジェクト10周年を記念した企画が実施されている。またコラボレーションを実施していない作品についても、駅構内にポスターを掲示している場合がある。",
"title": "コラボレーション"
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"text": "このほか、京都を舞台とした2013年のアニメ作品『有頂天家族』にデナ21形をモデルとした「偽叡山電車」が登場することから、2014年には京都国際マンガ・アニメフェア(京まふ)と連携して鞍馬駅に展示のデナ21形に「偽叡山電車」の装飾を施すなどのイベントを行っており、2017年にも5月4日からアニメ第二期の『有頂天家族2』でのコラボ企画で切符販売・新ラッピング列車・偽叡山電車・叡電有頂天家族コラボフェスタが実施された。",
"title": "コラボレーション"
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"text": "また、2015年のアニメ作品『神様はじめました◎』では物語後半で鞍馬を中心に京都が舞台となっていることから、コラボ企画としてラッピング車両の運行や記念乗車券の販売が行われた。2016年には、原作者の助野嘉昭が京都精華大学出身である縁から、京まふの連携イベントとして『双星の陰陽師』とのコラボレーションが実施された。2018年には京阪グループ他社との共同で、京都を舞台としたアニメ『京都寺町三条のホームズ』とのコラボレーションが実施された。2019年と2022年には京都を舞台とした『であいもん』、2020年には『ゆるゆり』、2022年には同人サークルの上海アリス幻樂団のゲーム作品『東方project』および『うらみちお兄さん』、2023年には京まふの連携イベントとして『甘神さんちの縁結び』とのコラボレーションが実施されている。",
"title": "コラボレーション"
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"text": "同業他社の中では、西武鉄道も同じように町おこしの一環として様々な漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーションを実施している。また、親会社の京阪電気鉄道も同じような企画を行うことがある。",
"title": "コラボレーション"
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叡山電鉄株式会社は、京都府京都市左京区の出町柳駅から八瀬・鞍馬への路線を運営する京阪グループの鉄道会社。通称「叡山電車」、略称は「叡電」(えいでん)。本社は京都市左京区山端壱町田町8番地の80(修学院駅に隣接)、本店は京都市左京区山端壱町田町14番地の1。全国登山鉄道‰会に加盟している。 京福電気鉄道(京福電鉄、京福)が京都市内で運営していた叡山線を分社化して1985年に設立された。設立当初は、京福の完全子会社であったが、1991年11月に京阪電気鉄道(京阪、現・京阪ホールディングス)が筆頭株主となったのち、2002年3月からは同社の完全子会社となっている(詳細は後述)。
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{{Redirect|えいでん|かつて存在した日本の家電量販店チェーン|エイデン}}
{{Pathnav|京阪ホールディングス|frame=1}}
{{参照方法|date=2011年9月}}<!--特に「概要」「運賃」セクションについて。-->
{{基礎情報 会社
|社名 = 叡山電鉄株式会社
|英文社名 = Eizan Electric Railway Co., Ltd.
|ロゴ = [[File:Eizan Electric Railway Logo.svg|250px]]
|画像 = [[File:Eiden 900 Series 01.jpg|300px]]
|画像説明 = 900系電車「きらら」
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 =
|略称 = 叡山電車、叡電
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 606-8007
|本社所在地 = [[京都府]][[京都市]][[左京区]]山端壱町田町8番地の80
|本店郵便番号 = 606-8007
|本店所在地 = 京都府京都市左京区山端壱町田町14番地の1
|設立 = [[1985年]]([[昭和]]60年)[[7月6日]]
|業種 = 陸運業
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 旅客鉄道事業 他
|代表者 = 取締役社長 豊田 秀明
|資本金 = 2億5000万円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
|発行済株式総数 = 5,000株
|売上高 = 14億7595万8000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|営業利益 = 8886万2000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|純利益 = 2億4711万6000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />)
|純資産 = 17億2694万1000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />)
|総資産 = 46億1191万1000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />)
|従業員数 = 98人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />)
|支店舗数 =
|決算期 = 3月31日
|所有者 =
|主要株主 = [[京阪ホールディングス]] 100%<br />(2018年3月31日現在<ref>京阪ホールディングス第96期有価証券報告書</ref>)
|主要部門 =
|主要子会社 =
|関係する人物 =
|外部リンク = https://eizandensha.co.jp/
|特記事項 =
}}
'''叡山電鉄株式会社'''(えいざんでんてつ、{{Lang-en-short|Eizan Electric Railway Co., Ltd.}})は、[[京都府]][[京都市]][[左京区]]の[[出町柳駅]]から八瀬・鞍馬への路線を運営する[[京阪グループ]]の[[鉄道事業者|鉄道会社]]。[[通称]]「'''叡山電車'''」、[[略語|略称]]は「'''叡電'''」(えいでん)<ref group="注" name="ryakushou" />。本社は京都市左京区山端壱町田町8番地の80(修学院駅に隣接)、本店は京都市左京区山端壱町田町14番地の1。[[全国登山鉄道‰会]]に加盟している。
[[京福電気鉄道]](京福電鉄、京福)が京都市内で運営していた叡山線を分社化して[[1985年]]に設立された。設立当初は、京福の[[子会社|完全子会社]]であったが、[[1991年]]11月に[[京阪電気鉄道]](京阪、現・[[京阪ホールディングス]])が[[株主|筆頭株主]]となったのち、[[2002年]]3月からは同社の完全子会社となっている(詳細は後述)。
== 概要 ==
[[叡山電鉄叡山本線|叡山本線]]と[[叡山電鉄鞍馬線|鞍馬線]]の2路線を運営し、[[比叡山]]・[[鞍馬]]方面への観光客輸送、周辺住民輸送を担っている。これらの路線は、かつて[[京都電燈]]および[[鞍馬電気鉄道]]により運営され、電力事業の戦時統制による再編後は京福が運営していた。1960年代からの[[モータリゼーション]]により[[1964年]]から乗客数が減少に転じていたが、[[1978年]]9月の[[京都市電]]全廃により他の鉄道路線からの連絡が絶たれたことで沿線から京都市内中心部を直結する[[路線バス]]に乗客が流れ、叡山本線・鞍馬線の利用客は一気に減少した。特に叡山本線は年間5億円以上の赤字を出し、京福全体、ひいては京福を配下にもつ京阪グループの経営を圧迫する事態となった<ref name="KSp253"/>。
叡山本線・鞍馬線の赤字を京福本体が負担し金利負担を低減すること、人件費の削減を目指して[[1985年]]7月に京福全額出資、全社員が京福から出向する形で叡山電鉄株式会社が設立された<ref name="KSp253"/><ref name="KSp254"/>。
分離以前から電鉄側でも集客に努めており、各種イベントの開催や、京福に残った[[森のゆうえんち|八瀬遊園]]<ref group="注">子会社の「比叡産業」に経営委託。</ref>の次々の改装のほか、特にこの時期においてさえも出町柳 - 宝ケ池間で日中毎時8本運転とし「待たずに乗れる」を印象付けていたことは特筆に値する。それでも乗客数は会社設立時の1985年でそれまでのピークであった1964年の4割にまで落ち込み、なお減少傾向であった。
[[1989年]][[10月5日]]に[[京阪鴨東線]]<ref group="注">元々の計画では京都電燈が事業免許を取得し、叡山線を出町柳から三条京阪へ延長するような形で建設予定だったが、諸事情により着工が先延ばしされ、1970年代に入って再び計画が具体化した際には京都市の都市計画による京阪本線の地下化と合わせて建設することになり、京阪と京福の共同出資で「鴨川電気鉄道」を設立し[[日本鉄道建設公団]](当時)による「P線方式」で着工に至った。その際、京阪本線の延長線として建設されたほか、鴨川電気鉄道も開業前に京阪に合併された。</ref>が開業して叡山本線と出町柳で連絡することで叡山電鉄の旅客数は倍増、収入も2.5倍となったが、この状態でも収支はようやく黒字になる程度で、19億4千万円に達していた累積損失の解消のめどは立たず、京福傘下での経営再建は不可能と判断された<ref name="KSp254"/>。京阪からの特別融資を低利で受けることなどを目的に[[1991年]]10月に株式の60%を京阪に売却、併せて人件費削減のため従業員全員が叡山電鉄に移籍した<ref name="KSp254"/><ref name="KSp255"/>。その後[[2002年]]3月に京阪電鉄が残りの全株式を取得し、叡山電鉄は京阪の100%子会社となった<ref group="注">2000年から2001年にかけて福井支社管内で相次いで列車衝突事故を起こし、運行停止命令を受けたことを機に京福は福井県内の鉄道事業から撤退(後に[[えちぜん鉄道]]が受け皿となって、[[京福電気鉄道永平寺線|永平寺線]]以外は運行を再開した)したことから経営不安が表面化し、京福による運営は不可能となり、京阪が叡山電鉄の経営を肩代わりした形となる。</ref>。
いったん増加した利用客も[[1997年]]に[[京都市営地下鉄烏丸線]]が[[国際会館駅]]まで延長され、その後同駅を中心にバス路線網も再整備されたため、左京区岩倉地域の住民が市中心部へ向かう場合などの利用がそちらに移転することになった結果、利用者が減少しつつある。
これに対して1997年に展望車両[[叡山電鉄900系電車|900系電車「きらら」]]を登場させ、各種[[イベント]]を開催するなど積極的な利用者確保を行なうと共に、[[2004年]]には原則として全列車の[[ワンマン運転|ワンマン]]化を行うなどの経費削減策も講じている。[[2005年]]は、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』のために鞍馬方面の[[観光]]が[[流行|ブーム]]になり、近年にない賑わいを見せた。
京都市建設局により、並行して走る[[鞍馬街道]]([[京都府道38号京都広河原美山線]])のバイパス建設や拡幅整備が計画されており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000012793.html|title=主要府道京都広河原美山線二ノ瀬バイパスの整備|publisher=京都市|accessdate=2014-09-18}}</ref>、完成すると鞍馬方面への大型観光バス等の通行が容易となることから、その将来は必ずしも安泰ではない。
略称の「叡電」は現在の叡山本線が京都電燈の「'''叡山電気鉄道部'''」であったことに由来し、京福が継承したあとも叡山本線・鞍馬線の総称として一般に使われていた。分社によって、略称が文字通り会社名の省略形となった<ref group="注" name="ryakushou">家電量販店の[[エディオン]]の前身の一つで、[[愛知県]][[名古屋市]]に本社を置いていた「株式会社[[エイデン]]」は旧社名の「栄電社」が由来であり叡山電鉄とは全く無関係である。<!--全国的にはTVCMなどで旧栄電社が「エイデン」として知られ、同社との関係を記述する必要があるが、本文に記するほどではない --></ref>。
分社当時、京福が京阪の子会社<ref group="注">京福の発行済株式の約40%を京阪が保有している。</ref>であったものの、車両技術面では[[阪神電気鉄道]]から[[阪神801形電車|831形]]を譲り受けて[[京福電気鉄道デナ500形電車|デナ500形]]として導入したことがあったことや、阪神の関連会社であった[[武庫川車両工業]](現在は解散)での車両製造の経緯などから阪神色が強いなど、京福の色合いが強かった。1989年の京阪鴨東線開業あたりから、サービス面で徐々に京阪色も出てきていた<ref group="注">自動券売機の運賃表が京阪様式になる、制帽がいわゆる「京阪[[ケピ帽|ドゴール帽]]」になるなど。</ref>が、2002年に京福が[[京福電気鉄道越前本線列車衝突事故|越前本線列車衝突事故]]による経営悪化のため、所有株をすべて京阪に売却し同社の完全子会社となってからは、多岐にわたる点<ref group="注">駅、車内の広告や告知、案内放送のほか、車両への部品再利用等<!-- 車両のみだけでない -->。</ref>において京阪色が強まっている。2008年には「'''KEIHAN'''」ロゴの下に「'''叡山電車'''」(車両では「'''Eizan Railway'''」)の文字が入った京阪電鉄風の社名ロゴを導入した。
[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]・[[Suica]]・[[PASMO]]などの[[ICカード]]式乗車券へは2016年3月16日より対応を開始している<ref name="eizandensha20160225">[https://eizandensha.co.jp/news/6606/ 叡山電車では、2016年3月16日(水)にICカードシステムを導入いたします] - 叡山電鉄、2016年2月25日</ref><ref name="response20160225">[http://response.jp/article/2016/02/25/270452.html 叡山電鉄、ICカード導入は3月16日…PiTaPa割引やICOCA連絡定期も] - レスポンス、2016年2月25日</ref>。なお、ICカード導入を前に2016年1月31日をもって磁気式の[[スルッとKANSAI]]カードへの対応を終了、出町柳駅を除き[[自動改札機]]は撤去され、車内料金箱は磁気式カードリーダーの代わりにICカードリーダー搭載型に交換された(フリーパス類は引き続き呈示で対応、出町柳駅設置の自動改札機は現在もKANSAI THRU PASSに対応している<ref group="注">チケットに付属されている「ご利用エリアマップ」には各言語で「出町柳駅以外の駅では呈示でご利用できます。(日本語訳)」と記載。</ref>)<ref name="eizandensha20151210">{{PDFlink|[https://eizandensha.co.jp/wp/wp-content/uploads/news_20151210.pdf ICカードシステム導入に伴う無人駅におけるご乗車方法の変更について]}} - 叡山電鉄、2015年12月10日</ref>。カードに印字される符号は'''EZ'''であった。
== 歴史 ==
* [[1985年]]([[昭和]]60年)[[7月6日]] - 京福の全額出資、[[資本金]]1億円で会社設立<ref name="KSp253"/>。
* [[1986年]](昭和61年)[[4月1日]] - 京福から叡山本線・鞍馬線を譲り受け営業を開始<ref name="KSp254"/>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月29日]] - 資本金を2億5000万円に増資。なお、増資分(出資比率60%)は京福によりすべて引き受けののち、京阪にすべて有償譲渡された。<!--形式上増資が先-->
* [[1997年]](平成9年)[[10月4日]] - 展望車両「きらら」の運転を開始。
* [[2002年]](平成14年)[[3月29日]] - 京福が保有する株式の全てを京阪に有償譲渡し、京阪の完全子会社となる。
* [[2004年]](平成16年)[[3月1日]] - 全線で[[スルッとKANSAI]]カードの利用に対応。
* [[2008年]](平成20年)[[10月19日]] - [[駅ナンバリング]]が全駅に導入。
* [[2016年]](平成28年)
** 1月31日 - この日限りで全線でのスルッとKANSAIカードの利用対応を終了<ref name="eizandensha20151210" />。
** 3月16日 - 全線で[[PiTaPa]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用対応交通系ICカード]]の利用に対応開始<ref name="eizandensha20160225" /><ref name="response20160225" />。
* [[2018年]](平成30年)[[3月21日]] - 観光用車両「ひえい」運転開始<ref name="mynavi20180321" />。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[3月31日]] - この日限りで[[回数乗車券]]の発売を終了<ref name=":0" />。
== 路線 ==
[[File:EizanRailway RouteMap.png|thumb|300px|路線図]]
全線が京都府京都市左京区内にある。各路線の詳細については以下の項目を参照。
* {{Color|green|■}}[[叡山電鉄叡山本線|叡山本線]] 出町柳 - 八瀬比叡山口 5.6 km
** [[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は[[比叡山]]の森から緑
** [[八瀬比叡山口駅]]からは[[京福電気鉄道|京福]]の[[京福電気鉄道鋼索線|ケーブルカー]]・[[叡山ロープウェイ|ロープウェイ]]で比叡山の山頂まで行ける。
* {{Color|red|■}}[[叡山電鉄鞍馬線|鞍馬線]] 宝ケ池 - 鞍馬 8.8 km
** ラインカラーは[[貴船]]・[[鞍馬山|鞍馬]]の[[紅葉]]から赤
** [[鞍馬駅]]近くの[[鞍馬寺]]には非常に小規模ながら[[鞍馬山鋼索鉄道|鞍馬ケーブルカー]](運営主体は鞍馬寺)が走っている。
多客時は臨時ダイヤで運転されることがあり、特に毎年[[10月22日]]に行われる[[鞍馬の火祭]]においては事実上唯一の交通機関となり、ほぼすべての車両をフル稼働させるぐらいの運転となるが、それでもピーク時には鞍馬線[[二軒茶屋駅]]以北が単線で線路容量に制約がある関係もあって長蛇の列(乗車までに数時間の待ち時間)となる。
また、[[2004年]]1月からは全路線で一部列車を除いて終日[[ワンマン運転]]を行っている。
2007年秋からラインカラーにちなんだ[[駅名標]]を一部の駅に設置している。駅名標にはその色の元になったシンボルマークもあしらわれている。また、[[ローマ字]]に加えて[[朝鮮語|韓国語]]と[[中国語]]の表記もある。新型駅名板の設置開始当初は出町柳・三宅八幡・岩倉・京都精華大前・市原・二ノ瀬・鞍馬の各駅には旧型駅名板しか設置されていなかったが、現在は新型駅名板が各駅に少なくとも1箇所は設置されている。2008年10月19日には[[駅ナンバリング]]も導入され、新型駅名標および一部の旧型駅名標にも駅番号の表示が行われている。また同時に[[ユニバーサルデザイン]]の[[ピクトグラム]]も導入され、[[京阪本線|京阪線]]の案内表示に準拠したものが使われている。
2011年春から車内自動放送に英語案内が追加された(以前は出町柳駅のみ)。
{{double image aside|center|叡電八瀬比叡山口駅名標.JPG|250|叡電貴船口駅駅名標.JPG|250|ラインカラー・駅番号導入後の叡山本線の駅名標|ラインカラー・駅番号導入後の鞍馬線の駅名標}}
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!年度
!旅客輸送人員(千人)
!一日1Km平均通過人員(人)
!鉄道業営業収入(千円)
!鉄道業営業費(千円)
|-
|1979||5,262||||||
|-
|1982||4,316||3,584||||
|-
|1983||||||||
|-
|1984||3,737||3,171||||
|-
|1985||3,705||3,215||||
|-
|1986||3,630||3,279||524,658||946,090
|-
|1987||3,543||3,178||516,890||997,812
|-
|1988||3,455||3,170||494,171||1,002,312
|-
|1989||4,956||4,608||734,315||1,073,031
|-
|1990||7,004||6,409||989,969||1,171,568
|-
|1991||7,563||6,911||1,074,716||1,127,400
|-
|1992||7,733||6,914||1,168,419||1,158,689
|-
|1993||7,949||7,164||1,219,468||1,207,436
|-
|1994||8,352||7,516||1,298,267||1,307,598
|-
|1995||8,009||7,061||1,399,292||1,400,921
|-
|1996||8,014||7,240||1,411,421||1,356,568
|-
|1997||7,118||6,439||1,300,635||1,295,087
|-
|1998||6,592||5,989||1,254,477||1,357,276
|-
|1999||6,380||5,729||1,199,972||1,183,760
|-
|2000||6,418||5,884||1,189,538||1,141,913
|-
|2001||6,282||5,781||1,168,337||1,113,863
|-
|2002||6,069||5,602||1,121,297||1,083,391
|-
|2003||6,000||5,493||1,123,098||1,097,681
|-
|2004||6,210||5,532||1,134,113||1,087,553
|-
|}
*民鉄主要統計『年鑑世界の鉄道』1983年『年鑑日本の鉄道』1985年、1987年-2007年
== 車両 ==
京福では三つの路線群で異なる独特の形式称号が存在したが、その叡山線を継承した叡電では伝統的に「デナ」「デオ」「デト」が使われている。営業用車のカタカナの2文字目は「ナ」が中型(なかがた)、「オ」が大型の略称である。[[1995年]]のデナ21形廃車により「デナ」は形式消滅している。事業用車の2文字目は[[日本国有鉄道|国鉄]]の貨車に準じていて、京福時代には「デワ」も存在した。なお、[[2009年]]のデオ600形全廃により、叡電からは旧京福時代以前からの旅客営業車両は消滅した。旧車両の代替として、デオ710形が登場してからは、デオ710形、デオ720形、デオ730形をまとめて700系とする表記がよく見られるようになった。そのことは、叡山電車公式サイトの車両紹介ページでも700系(けい)デオ710形(がた)、800系デオ800形、900系デオ900形と案内されているとおりである。叡電の車両は現在でも「デオ」といえども、車体長16mクラスの現在の日本においては小型に属する車体である。また開業当時からデナ21形の製造当初とデナ500形を除き、すべて当線区での新造(実質、車体新製含む)車両となっており、現存営業用車両は後述のような統一性がある。ただし車両塗装に関しては、デオ700系列の旧塗装消滅後は、ほぼ各車両(編成)ごとに異なるという、他の鉄道会社にない特徴がある。
勾配区間での安全性やメンテナンス面から、すべて[[動力車|電動車]]かつすべての軸が駆動軸であり、[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]と[[発電ブレーキ]]の組み合わせによる制御、[[カルダン駆動]]となっている。車体においては無人駅での乗車券収集の便から車端に客用ドアが存在し(2両固定編成の800系、900系では連結面側は少し内側に寄っている)、乗務員室ドアが引戸となっているのも特徴である。
過去の経緯より現存すべての車両が、かつて存在した阪神系の武庫川車両工業製造となっているが、部品などでは京阪から譲渡され、再利用しているものも多い<ref group="注">京福時代の京津線[[集電装置|パンタグラフ]]化で捻出された[[集電装置|ポール]]先端のスライダーシューのほか、現有車両でも京津線260形の制御機、500形の床下機器、京阪線の2200系冷房化以前の菱形パンタグラフ、1800系や1900系の台車、などが再利用されている。</ref>。前述のとおり叡電は京阪の完全子会社であることから、2008年から各車両に京阪グループの新しい[[ロゴタイプ|CIロゴ]]が車両側面の上部(運転席側)に貼り付けられている。
2015年に叡山本線の開業から90周年を迎え、同年9月27日の開業90周年記念式典に合わせて開業当時の車両[[京都電燈デナ1形電車|デナ1形]]を模して700系731号車を改装した「ノスタルジック731」が運行されている<ref>[http://response.jp/article/2015/09/24/260640.html 叡山電鉄、開業時の電車模した「ノスタルジック731」運行…9月27日から] - レスポンス、</ref>。
2018年3月21日には700系732号車を改装した観光用車両「[[叡山電鉄700系電車#観光用車両への改造|ひえい]]」が叡山本線で運行を開始した<ref name="mynavi20180321">[https://news.mynavi.jp/article/20180321-hiei/ 叡山電鉄「ひえい」700系リニューアル"楕円"観光用車両デビュー!] - マイナビニュース、2018年3月21日</ref>。
=== 現存車両 ===
<!--新製、譲渡時の社名としてあります-->
営業用
*[[叡山電鉄700系電車|700系]](732が「ひえい」)
*[[叡山電鉄800系電車|800系]]
*[[叡山電鉄900系電車|900系]](きらら)
事業用
*[[京福電気鉄道モト1000形電車|デト1000形]](電動貨車)
<gallery>
ファイル:Eiden 711 20061022.JPG|700系
ファイル:Hiei at Shugakuin 20180321 02.jpg|700系732号(ひえい)
ファイル:Eiden815.jpg|800系
ファイル:Eiden 900 Series 01.jpg|900系(きらら)
</gallery>
=== 過去の車両 ===
<!--新製、譲渡時の社名としてあります-->
営業用
*[[京都電燈デナ1形電車|デナ1形]]
*[[京都電燈デナ11形電車|デナ11形]]
*[[京都電燈デナ21形電車|デナ21形]]
*[[京福電気鉄道デオ200形電車|デオ200形]]
*[[京福電気鉄道デオ300形電車|デオ300形]]
*[[京福電気鉄道デナ500形電車|デナ500形]]
*[[京福電気鉄道デオ600形電車|デオ600形]]
事業用
*[[京都電燈デワ101形電車|デワ101形]](電動貨車)
=== 車両数の変遷 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:90%;"
|-
!年
!デナ21形
!デオ200形
!デオ300形
!デナ500形
!デオ600形
!700系
!800系
!900系
!計(冷房車)
|-
|1982||8||4||2||2||6||||||||22
|-
|1983||8||4||2||2||6||||||||22
|-
|1984-<br>1987||8||4||2||||6||||||||20
|-
|1988||6||2||2||||6||4||||||20(4)
|-
|1989||6||||||||6||8||||||20(8)
|-
|1990||6||||||||6||8||||||20(8)
|-
|1991||6||||||||6||8||2||||22(10)
|-
|1992||6||||||||6||8||2||||22(10)
|-
|1993||6||||||||6||8||4||||24(12)
|-
|1994||2||||||||6||8||8||||24(16)
|-
|1995||2||||||||6||8||8||||24(16)
|-
|1996||||||||||6||8||10||||24(18)
|-
|1997||||||||||6||8||10||||24(18)
|-
|1998||||||||||4||8||10||2||24(20)
|-
|1999-<br>2009||||||||||2||8||10||4||24(22)
|-
|2010||||||||||||8||10||4||22(22)
|-
|2011||||||||||||8||10||4||22(22)
|-
|}
*事業用車除く
*1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在
*『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール
== 運賃 ==
叡山本線、鞍馬線を通じて、普通運賃は[[運賃制度#区間制|区間制]]、定期運賃は[[運賃制度#距離制|対キロ制]]となっている。普通運賃の場合、[[修学院駅]]・[[岩倉駅 (京都府)|岩倉駅]]・[[二軒茶屋駅]]・[[二ノ瀬駅]]に区界があり、この駅を越えて乗車すると区数が1つ増え運賃が変わる。また、[[鞍馬駅]]方面から[[宝ケ池駅]]で乗り換えて[[八瀬比叡山口駅]]方面に乗り換えた場合や、その反対の場合も区数が1つ増える。このため、たとえば[[出町柳駅]]から修学院駅まで乗車した場合は2.9キロメートル乗車しても1区で済むが、[[八幡前駅 (京都府)|八幡前駅]]から[[三宅八幡駅]]まで乗車した場合は、1.5キロメートルの乗車で2区となる。
以下において特記なければ小児は大人の半額で端数は切り上げ。
'''普通運賃'''(2023年4月1日改定)<ref>{{PDFlink|[https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2023/03/news_2023.03.13.pdf 鉄道事業の旅客運賃改定申請が認可されました]}} - 叡山電鉄、2023年3月13日</ref><ref>{{PDFlink|[https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/2023/03/01-fare_2023.04.01-b.pdf 旅客運賃表]}} - 叡山電鉄、2023年3月</ref>。
*1区 - 220円
*2区 - 280円
*3区 - 350円
*4区 - 410円
*5区 - 470円
京阪との初乗り区間相互間(元田中 - 修学院と京阪・神宮丸太町 - 祇園四条)に大人20円の割引が設定されていたが、2023年3月31日をもって廃止された<ref>{{Cite press release |和書 |title=京阪線と叡山電車の乗継割引の廃止について |publisher=京阪電気鉄道/叡山電鉄 |date=2023-02-10 |url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2023/02/news_2023.02.10-2.pdf |format=PDF |access-date=2023-03-31}}</ref>。事前に自動券売機での連絡乗車券購入が必要で、叡山電鉄側からの場合、自動券売機稼動時間以外は出町柳駅改札で発売されていた。
[[回数乗車券|回数券]]については普通回数乗車券(普通運賃の10倍で11回)のほかに学生割引回数乗車券(大人用のみ・同15回)、敬老割引回数乗車券(同20回)が設定されていたが、2022年3月31日をもって発売を終了した<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=回数券の発売を終了します|publisher=叡山電鉄|date=2022-2-8|url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2022/02/news_2022.02.08-1.pdf|format=PDF|accessdate=2022-5-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220208065807/https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2022/02/news_2022.02.08-1.pdf|archivedate=202-2-28}}</ref>。
出町柳駅では駅員が常駐し、[[自動改札機]]・[[自動券売機]]も常に稼動しており、駅構内に入場する際には入場券大人220円が必要である。鞍馬駅では始発・終電近くで無人となるほかは駅員が駐在している。他の駅では常に駅員(出札・集改札要員)が駐在している駅はない。なお、[[貴船口駅]]や八瀬比叡山口駅では観光客が多い時期の日中に駅員が駐在するほか、紅葉の時期には岩倉駅に駅員が駐在するなど、臨時に駅員が配置される場合もある。その他、平日朝のラッシュ時には茶山駅・一乗寺駅・修学院駅・岩倉駅・木野駅・京都精華大前駅・二軒茶屋駅では時間を限って駅員が出張してくる日がある。学生の休日には平日であっても駅員が出張しない駅もある。
乗車時は有人駅では自動券売機で切符を購入する。無人駅では原則として駅での改札はなく、乗車前に駅に設置されたオレンジ色の発行器から乗車駅証明書を取る。無人駅でも時間を限って自動券売機がある駅もあり、そのような駅で予め切符を購入した場合は、そのまま乗車すればよい。自動改札機は出町柳駅にのみ設置されている。
下車時に有人駅では改札口で現金を払うか、自動改札機に切符を通す。無人駅では運転席横の[[運賃箱]]に乗車駅証明書と現金または切符を投入する。乗車駅証明書には乗車駅を示すパターンが印刷されており、下車駅では自動的に運賃額を運賃箱に表示させることができる。定期券は運転士に提示する。
無人駅での乗車口は後ドア、降車口は前ドアとなっている。3ドア車両の中ドアと2両編成の場合の後の車両のドアは有人扱いの駅を除き締切である。運賃箱やICカード読取機、乗車駅証明書発行器は進行方向左側のドア横のみに設置されている。
全線が1200円で1日乗り放題になる「1日乗車券 えぇきっぷ」を出町柳駅の窓口、出町柳駅・八瀬比叡山口駅・貴船口駅・鞍馬駅の自動券売機、修学院駅の定期券売場で発売している。提示するだけで沿線社寺や観光施設で拝観料・入場料の割り引きを受けたり、粗品の進呈を受けたり、沿線の飲食店・土産物店で特典を受けることができる。前述の通り、スルッとKANSAIカードへの対応を終了し、車内の運賃箱がカードリーダーのない(代わりにICカード読取機が設置)ものに交換されたため、磁気カードから紙の乗車券に変更された。磁気カード時代は通用日は自動改札機または車内のカードリーダーを通すことによって、裏面に印刷され決定していた。無人駅での乗車時には最初の乗車時以外カードリーダーに通す必要はないが、無人駅での下車時には必ずカードリーダーに通す必要があった。
親会社の京阪側では叡電と連携した企画乗車券<ref>[http://www.keihan.co.jp/traffic/valueticket/ おトクなチケットのご案内] - 京阪電気鉄道</ref>を発売しており、叡電側では京阪と連携した企画乗車券を発売していなかったが、2014年3月1日から2015年3月1日まで叡電側でも京阪と連携した企画乗車券「ひらパーGo!Go!チケット(叡山電車版)」を発売している<ref>[https://eizandensha.co.jp/guide/ticket/good-value-eiden/ お得な乗車券] - 叡山電鉄(2014年9月4日閲覧)</ref>。
== インターネットによる情報発信 ==
2010年9月末ごろから、自社アカウントによる[[Twitter]]の発信を開始した。また、同年の第6回[[えいでんまつり]]では、イベントトレインの運転台からの映像を[[Ustream]]を活用し生中継したほか、イベントの模様をTwitterで逐次発信した。さらに、自社アカウントによる[[YouTube]]のチャンネルも運営している。
== コラボレーション ==
=== 鉄道事業者間 ===
;[[三陸鉄道]]
:岩手県の三陸鉄道とは、2009年の「第5回えいでんまつり」で協力を受けたことから縁が始まり、2013年より[[鞍馬駅]]で開催しているイベント「悠久の風〜[[南部鉄器|南部]][[風鈴]]によせて〜」でのフォトコンテストなどを通じて連携を深めている<ref name="eizandensha20190320" />。
:2018年9月の[[平成30年台風第21号|台風21号]]で被害を受けた際に三陸鉄道の社長から激励を受けたことなどから、2019年3月31日-2020年9月30日の期間で、2019年3月23日の[[三陸鉄道リアス線]]の開通および、同年に受けた[[令和元年東日本台風|台風19号(東日本台風)]]被害からの復旧に合わせて、白地に赤・青ラインの「三陸鉄道カラー」ラッピング列車をデオ712号で運行しており、ヘッドマークも三陸鉄道と同様のものを掲出した<ref name="eizandensha20190320">{{Cite press release|和書|title=~ 3月23日(土)三陸鉄道リアス線誕生! ~三陸鉄道の新たな出発を祝して「三陸鉄道カラー」の列車を運行します|publisher=叡山電鉄|date=2019年3月20日|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2019/03/news_2019.03.20-1.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2019年4月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190331105049/https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2019/03/news_2019.03.20-1.pdf|archivedate=2019年3月31日}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=3月31日(日)より運行する「三陸鉄道カラー」車両運行初日のダイヤが決まりました・車両には「三陸鉄道リアス線開通ヘッドマーク」を掲出|publisher=叡山電鉄|date=2019年3月28日|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2019/03/news_2019.03.28.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2019年4月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190331105048/https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2019/03/news_2019.03.28.pdf|archivedate=2019年3月31日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]]|date=2019年4月1日|url=https://railf.jp/news/2019/04/01/161000.html|title=叡電デオ712が三陸鉄道カラーで運転開始|publisher=[[交友社]]|accessdate=2019年4月10日}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=叡山電鉄の電車に「三陸鉄道カラ―」が登場します!! |publisher=三陸鉄道 |date=2019年3月20日 |url=https://www.sanrikutetsudou.com/?p=11544 |language=ja |accessdate=2019年4月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190331194609/https://www.sanrikutetsudou.com/?p=11544 |archivedate=2019年3月31日}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=〜 3月20日(金・祝)三陸鉄道リアス線全線運行再開! 〜 「三陸鉄道カラー」車両の運行期間を9月30日(水)まで延長します|publisher=叡山電鉄|date=2020-03-10|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2020/03/news_2020.03.10.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2019年4月10日}}</ref>。
=== 漫画・アニメとのコラボレーション ===
<!-- 「まんがタイムきらら」系統における、「出典を明記する」に従った作品毎の出典の脚注は作品数と共に過多になるため、鉄道事業者における記事における特筆性のために各作品に明記して下さい。 -->
叡電沿線各所が舞台モデルとなった[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[けいおん!]]』の原作誌「[[まんがタイムきらら]]」と[[叡山電鉄900系電車|900系電車の愛称「きらら」]]との一致から、[[芳文社]]と提携した「きらら×きららプロジェクト」を2011年より開始し、それ以後、定期的に「まんがタイムきらら」およびその姉妹誌、出版元の芳文社作品とのコラボレーションが行われている<ref name="toyokeizai/167714">{{Cite web|和書|author=森口 誠之|work=東洋経済オンライン|date=2017年04月16日|url=http://toyokeizai.net/articles/-/167714|title=アニメ「聖地」で魅力PR、京阪と叡電の挑戦 きっかけは「けいおん!」巡礼者だった|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2017-04-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170416062801/http://toyokeizai.net/articles/-/167714|archivedate=2017年4月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
2011年9月1日から2012年2月19日まで運行された、『けいおん!』にちなんだ「えいでん!×けいおん!トレイン」では、[[ラティテュード|Google Latitude]]を活用して当該車両の運行位置情報をウェブサイトに常時アップデートし、さらに出町柳駅で楽器型[[記念乗車券]]を限定発売し、3時間弱で6000冊が即日完売したことが話題となった<ref>{{Cite news |author= |date=2011年6月12日 |url=http://gigazine.net/news/20110612_kon_eiden/ |title=叡山電鉄「けいおん!!×えいでん!! 楽器型特別乗車券 2011年初夏」限定6000枚争奪戦フォトレポート |publisher=OSA |newspaper=[[GIGAZINE]] |accessdate=2015-01-22 |archiveurl=https://archive.is/20141005105211/http://gigazine.net/news/20110612_kon_eiden/ |archivedate=2014年10月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name="toyokeizai/167714"/>。
<!--本来は出典の脚注を明記すべきですが、脚注過剰による特筆性のために冒頭注意の通りに各作品にお願いします。-->
その後、これまでに『[[三者三葉]]』『[[スロウスタート]]』『[[ゆゆ式]]』『[[星屑テレパス]]』(まんがタイムきらら)、『[[ひだまりスケッチ]]』『[[NEW GAME!]]』『[[ブレンド・S]]』『[[まちカドまぞく]]』『[[おちこぼれフルーツタルト]]』『[[Aチャンネル]]<ref group="注">連載終了後に実施。</ref>』『[[恋する小惑星]]』『[[キルミーベイベー]]』([[まんがタイムきららキャラット]])、『[[きんいろモザイク]]』『[[ご注文はうさぎですか?]]』『[[ステラのまほう]]』『[[初恋*れ〜るとりっぷ]]』([[まんがタイムきららMAX]])、『[[ハナヤマタ]]』『[[球詠]]』『[[スローループ]]』([[まんがタイムきららフォワード]])、『[[幸腹グラフィティ]]』([[まんがタイムきららミラク]])、『[[城下町のダンデライオン]]<ref group="注">実施当時は「きららミラク」で連載。</ref>』『[[ゆるキャン△]]<ref group="注">実施当時は「きららフォワード」で連載。</ref>』『IDOL×IDOL STORY!』([[COMIC FUZ]])、『[[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ]]』『[[わかば*ガール]]<ref group="注">連載は「きらら」系統以外であるが、「まんがタイムKRコミックス」レーベルで単行本化され、アニメ化は「きららMAX」誌上で発表された。</ref>』『[[マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝]]<ref group="注">コミカライズ版を「きららフォワード」(メインストーリー)「COMIC FUZ」(アナザーストーリー)で連載。</ref>』、およびこれらの作品の主要キャラクターが登場するゲーム『[[きららファンタジア]]』、2019年10月に開催のイベント「まんがタイムきらら展 in 大阪」<ref>{{Cite press release|和書|title=「まんがタイムきらら展 in 大阪」とのコラボレーション企画を実施します|publisher=叡山電鉄|date=2019-08-21|url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2019/08/news_2019.08.21.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2019-09-27}}</ref>とのコラボレーションが行われている。2021年には、プロジェクト10周年を記念した企画<ref group="注">『けいおん!』シリーズ(本編および『Shuffle』)のヘッドマーク掲出など。</ref>が実施されている<ref>{{Cite press release|和書|title=きらら×きららプロジェクト10周年コラボ企画を実施します|publisher=叡山電鉄|date=2021-05-21|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2021/05/news_2021.05.21-1.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-08-04}}</ref>。またコラボレーションを実施していない作品についても、駅構内にポスターを掲示している場合がある。
このほか、京都を舞台とした2013年のアニメ作品『[[有頂天家族]]』にデナ21形をモデルとした「偽叡山電車」が登場することから、2014年には[[京都国際マンガ・アニメフェア]](京まふ)と連携して鞍馬駅に展示のデナ21形に「偽叡山電車」の装飾を施すなどのイベントを行っており、2017年にも5月4日からアニメ第二期の『有頂天家族2』でのコラボ企画で切符販売・新ラッピング列車・偽叡山電車・叡電有頂天家族コラボフェスタが実施された<ref>{{Cite press release |和書 |title=5月4日より「有頂天家族2×叡山電車」コラボ企画が始まります |publisher=叡山電鉄 |date=2017-04-14 |url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2017/04/news_20170414.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2017-04-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170417112120/http://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2017/04/news_20170414.pdf |archivedate=2017年4月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2017年4月17日 |url=http://railf.jp/news/2017/04/17/172000.html |title=「有頂天家族2×叡山電車」コラボ企画きっぷを発売 |publisher=[[交友社]] |accessdate=2017年4月18日}}</ref>。
また、2015年のアニメ作品『[[神様はじめました|神様はじめました◎]]』では物語後半で鞍馬を中心に京都が舞台となっていることから、コラボ企画としてラッピング車両の運行や記念乗車券の販売が行われた<ref>{{Cite press release |和書 |title=TVアニメ『神様はじめました◎』コラボ企画 ラッピング車両の運行及び1日乗車券の発売について |publisher=叡山電鉄 |date=2015-02-05 |url=https://eizandensha.co.jp/contents/4860/ |language=日本語 |accessdate=2016-08-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150318223353/https://eizandensha.co.jp/contents/4860/ |archivedate=2015年3月18日}}</ref>。2016年には、原作者の[[助野嘉昭]]が[[京都精華大学]]出身である縁から、京まふの連携イベントとして『[[双星の陰陽師]]』とのコラボレーションが実施された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2017/03/news_20160912.pdf|title=アニメ「双星の陰陽師」×叡山電車 コラボ企画について|format=PDF|publisher=叡山電鉄|date=2016-09-12|accessdate=2016-9-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170418043913/https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2017/03/news_20160912.pdf|archivedate=2017年4月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=railf.jp(鉄道ニュース) |date=2016-09-18 |url=http://railf.jp/news/2016/09/18/201500.html |title=叡山電鉄デオ721に「双星の陰陽師」ラッピング |publisher=交友社 |accessdate=2016-10-11}}</ref>。2018年には京阪グループ他社との共同で、京都を舞台としたアニメ『[[京都寺町三条のホームズ]]』とのコラボレーションが実施された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2018/07/news_20180712.pdf|title=放送中のアニメ 「京都寺町三条のホームズ」 とのコラボレーション企画を7月21日(土)から本格展開します|format=PDF|publisher=京阪ホールディングス、京阪電気鉄道、叡山電鉄、京阪レストラン|date=2018-07-12|accessdate=2018-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180902225141/http://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2018-06-15_sanjo.pdf |archivedate=2018-09-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2018年06月18日 |url=http://railf.jp/news/2018/06/18/060000.html |title=京阪・叡電,アニメ「京都寺町三条のホームズ」とのコラボ乗車券を発売 |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018年10月7日}}</ref>。2019年と2022年<!--アニメ化年-->には京都を舞台とした『[[であいもん]]』<ref>{{Cite press release|和書|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2019/03/news_2019.03.01-.pdf|title=京都を舞台にした家族の絆を描いた漫画「であいもん」とのコラボレーション企画を4月7日(日)より実施します|format=PDF|publisher=叡山電鉄|date=2019-03-01|accessdate=2019-03-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]]|date=2019年4月8日|url=https://railf.jp/news/2019/04/08/180000.html|title=叡山電鉄に新たなコラボ電車が登場|publisher=[[交友社]]|accessdate=2019年4月10日}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2022/04/news_2022.04.04.pdf|title=京都を舞台に、和菓子がつなぐ人と人との絆を描いたTVアニメ「であいもん」とのコラボレーション企画を実施します|format=PDF|publisher=叡山電鉄|date=2022-04-04|accessdate=2022-06-10}}</ref>、2020年には『[[ゆるゆり]]』<ref>{{Cite press release|和書|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2020/06/news_2020.06.16.pdf|title=漫画「ゆるゆり」とのコラボレーション企画を実施します|format=PDF|publisher=叡山電鉄|date=2020-06-16|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2020/06/news_2020.06.16.pdf|archivedate=2020-07-03}}</ref>、2022年には同人サークルの[[上海アリス幻樂団]]のゲーム作品『[[東方project]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2022/02/news_2022.02.04.pdf|format=PDF|publisher=叡山電鉄|title=えいでん×東方projectコラボレーション企画「文々。新聞叡電版」を実施します|date=2022-02-04|accessdate=2022-02-04}}</ref>および『[[うらみちお兄さん]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://eizandensha.co.jp/news/wp-content/uploads/sites/2/2022/07/news_2022.07.08.pdf|format=PDF|publisher=叡山電鉄|title=「うらみちお兄さん」とのコラボレーション企画を実施します|date=2022-07-08|accessdate=2022-12-05}}</ref>、2023年には京まふの連携イベントとして『[[甘神さんちの縁結び]]』<ref group="注">原作者の[[内藤マーシー]]は沿線に所在する[[京都芸術大学]]出身。</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2023/09/news_2023.09.08-1.pdf|title=漫画「甘神さんちの縁結び」とのコラボ企画を実施します|format=PDF|publisher=叡山電鉄|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230908013837/https://eizandensha.co.jp/wp-content/uploads/sites/2/2023/09/news_2023.09.08-1.pdf|archivedate=2023-09-08}}</ref>とのコラボレーションが実施されている。
同業他社の中では、[[西武鉄道]]も同じように町おこしの一環として様々な[[西武鉄道#漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション|漫画・アニメ・ゲームとのコラボレーション]]を実施している。また、親会社の京阪電気鉄道も[[京阪電気鉄道#タイアップ・コラボレーション作品|同じような企画]]を行うことがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="KSp253">[[#KS|田中ほか1999 p253]]</ref>
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<ref name="KSp255">[[#KS|田中ほか1999 p255]]</ref>
}}
== 参考文献 ==
{{ページ番号|date=2019年4月|section=1}}
*『叡山電鉄(会雑誌 no25)』 1992年 京都大学鉄道研究会
* {{Cite book ja-jp
|author = 田中真人、宇田正、西藤二郎
|year = 1998
|title = 京都 滋賀 鉄道の歴史
|publisher = 京都新聞社
|ref = KS
}}
*『叡山電車形式集』 1998年 レイルロード
*『企業情報・改革』有価証券報告書 京福電気鉄道株式会社<!--注:叡山電鉄自体は報告を発表する義務のある会社ではない-->
== 関連項目 ==
* [[叡電さぶれ]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Eizan Electric Railway}}
*[https://eizandensha.co.jp/ 叡山電車] - 叡山電鉄(公式サイト)
*{{Twitter|eizandensha}}
*[http://www.youtube.com/user/eizandensha?feature=mhee eizandensha さんのチャンネル] - [[YouTube]]
{{京阪グループ}}
{{スルッとKANSAI}}
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[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:叡山電鉄|*]]
[[Category:左京区の企業]]
[[Category:左京区の交通]]
[[Category:京阪グループ]]
[[Category:田中 (京都市)]]<!--本社所在地-->
[[Category:1985年設立の企業]]
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雁
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雁(がん、かり、異字:鴈)は、カモ目カモ科ガン亜科の水鳥のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称。
宮城県の県鳥、埼玉県川越市の市鳥に指定されている。枕詞は「遠つ人」。
東西で狩猟の対象であったが、日本では急速な減少から保護鳥の対象となり、現在では禁猟。
マガン、カリガネ、ヒシクイなどが生息し、北海道宮島沼や宮城県伊豆沼などに冬鳥として飛来する。家紋の雁金紋(かりがねもん)として図案化され、小串氏、柴田氏、真田氏などの使用がある。
ハイイロガンまたはサカツラガンを原種とする家禽は、ガチョウ(鵞鳥)と呼ばれる。なおノガン(野雁)は、ノガン科の鳥であり同じく「ガン」と呼称するがまったく別の種である。
美味であることから、近代以前の日本では広く食用とされた。ただし、個体数の減少から、1970年以降は狩猟が禁じられている。
兼好法師の随筆『徒然草』(14世紀前半)第118段にも雁肉は登場し、後醍醐天皇の時代には皇后のような社会の最上位層の人間にまで食べられていたことがわかる。同書によれば、中世日本ではキジが最も品位の高い鳥とされ、天皇・皇后の御湯殿上(女官の詰め所および簡易的な調理場)の棚の上に、調理前の死体の姿で置くことを許された鳥はキジだけだった。ところが、あるとき、後醍醐天皇の中宮(正妃)である西園寺禧子の宮殿の御湯殿上の棚の上に、キジより品位の劣る雁の死体がそのままの姿で置かれていた。それを見てびっくりした元太政大臣の西園寺実兼(禧子の父親)は、末娘である禧子に散々お小言を食らわせたという。
四条流庖丁道の料理書である『四条流庖丁書』(15世紀)にも調理法が解説されている。
首領を先頭として列を作って飛ぶ習性があり、この列を雁行と呼ぶ。後三年の役では源義家はガンの列が林の上で乱れたために敵が待ち伏せしてることを見破ったと伝えられている。後三年役合戦絵巻にも雁行の乱れの絵は残されている。
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雁は、カモ目カモ科ガン亜科の水鳥のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称。 宮城県の県鳥、埼玉県川越市の市鳥に指定されている。枕詞は「遠つ人」。 東西で狩猟の対象であったが、日本では急速な減少から保護鳥の対象となり、現在では禁猟。 マガン、カリガネ、ヒシクイなどが生息し、北海道宮島沼や宮城県伊豆沼などに冬鳥として飛来する。家紋の雁金紋(かりがねもん)として図案化され、小串氏、柴田氏、真田氏などの使用がある。 ハイイロガンまたはサカツラガンを原種とする家禽は、ガチョウ(鵞鳥)と呼ばれる。なおノガン(野雁)は、ノガン科の鳥であり同じく「ガン」と呼称するがまったく別の種である。
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[[Image:Canada goose flight cropped and NR.jpg|300px|right|thumb|[[カナダガン]]]]
[[File:Ito Jakuchu Imperial03.jpg|220px|right|thumb|[[伊藤若冲]]『芦雁図』 18世紀。]]
[[File:Japanese Crest futatu Karigane.svg|120px|right|thumb|雁を図案化した日本の家紋(二つ雁金)]]
'''雁'''(がん、かり、異字:鴈)は、[[カモ目]][[カモ科]][[ガン亜科]]の[[水鳥]]のうち、[[カモ]]より大きく[[ハクチョウ]]より小さい一群の総称。
[[宮城県]]の県鳥、埼玉県川越市の市鳥に指定されている。[[枕詞]]は「遠つ人」。
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== 利用 ==
美味であることから、近代以前の日本では広く食用とされた。ただし、個体数の減少から、1970年以降は狩猟が禁じられている。
[[卜部兼好|兼好法師]]の[[随筆]]『[[徒然草]]』(14世紀前半)第118段にも雁肉は登場し、[[後醍醐天皇]]の時代には[[皇后]]のような社会の最上位層の人間にまで食べられていたことがわかる。同書によれば、中世日本では[[キジ]]が最も品位の高い鳥とされ、天皇・皇后の[[御湯殿上]](女官の詰め所および簡易的な調理場)の棚の上に、調理前の死体の姿で置くことを許された鳥はキジだけだった。ところが、あるとき、後醍醐天皇の[[中宮]](正妃)である[[西園寺禧子]]の宮殿の御湯殿上の棚の上に、キジより品位の劣る雁の死体がそのままの姿で置かれていた。それを見てびっくりした元[[太政大臣]]の[[西園寺実兼]](禧子の父親)は、末娘である禧子に散々お小言を食らわせたという。
[[四条流庖丁道]]の料理書である『四条流庖丁書』(15世紀)にも調理法が解説されている。
== 雁行 ==
首領を先頭として列を作って飛ぶ習性があり、この列を'''雁行'''と呼ぶ。[[後三年の役]]では[[源義家]]はガンの列が林の上で乱れたために敵が待ち伏せしてることを見破ったと伝えられている。[[後三年の役|後三年役合戦絵巻]]にも雁行の乱れの絵は残されている。
== 雁が登場する作品 ==
*『[[屋根の上のサワン]]』
**[[井伏鱒二]]著
**だれかに鉄砲で撃たれたサワン(雁)を見た「私」は治療をし家で飼う事になったが、逃げてしまいそうになり、羽を切ったり太らせたりして飛ばせないようにしたが、サワンは自由に飛んでいた3羽の雁を見てうらやましくなり結局逃亡してしまったという話。
*『ウィンディゴールの雁』
**[[アーネスト・トンプソン・シートン]]著
**『[[シートン動物記#動物物語55編|野生動物の生き方]]』中の一編。
*『[[大造じいさんとガン]]』
**[[椋鳩十]]著
**一部の<!--小学校の-->教科書に掲載され<!--初めて雁を知る人が多いと思われ--><!-- ??? -->る作品。(小学5年)
*『[[ニルスのふしぎな旅]]』
**[[セルマ・ラーゲルレーヴ]]著
**ひょんな事から妖精に小さくされた悪童のニルスが、野生の雁の群に付き従い越冬地の[[ラップランド]]へ向かう家禽のガチョウ(モルテン)に乗って旅をする児童文学。またそれを元にした日本のアニメーション作品。
*『[[グース (映画)|グース]]』
**主人公が母の死をきっかけにカナダに来て、[[カナダガン]]を育てる。
*『シベリヤ・エレジー』[[伊藤久男]]の楽曲。
*『お島千太郎旅唄』[[伊藤久男]]・[[二葉あき子]]の楽曲。
*『旅役者の唄』[[霧島昇]]の楽曲。
== 関連項目 ==
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* [[雁風呂]]
* [[雁道]]
* [[雁首]]
* [[雁行形態論]]
* [[がんもどき]]
* [[はつかり|はつかり (曖昧さ回避)]]
* [[ガン|ガン (曖昧さ回避)]]
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関西本線
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関西本線(かんさいほんせん)は、愛知県名古屋市中村区の名古屋駅から亀山駅、奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区のJR難波駅に至るJRの鉄道路線(幹線)である。名古屋駅 - 亀山駅間が東海旅客鉄道(JR東海)、亀山駅 - JR難波駅間が西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄となっている。このほか日本貨物鉄道(JR貨物)の四日市駅 - 塩浜駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間の貨物支線を持つ。
本項目では主に関西本線全般の概要や沿革などについて記す。地域ごとの詳細については以下の記事も参照。
名古屋と大阪を三重県の北勢地方、伊賀地方、京都府南部、奈良県北部を経由して結んでいる。民間の鉄道会社である関西鉄道の路線として開業し、名古屋と奈良・大阪を最短距離で結ぶ鉄道路線として鉄道作業局の時代から国有鉄道と乗客を奪い合った歴史を持ち、路線名もこの社名に由来する。関西鉄道の国有化後は1970年代まで全線を直通する列車が運転されていたが、並行する東海道本線や東海道新幹線の整備、近畿日本鉄道(近鉄)の名阪特急の台頭、名阪国道や名神高速道路の開通によるモータリゼーションの普及などにより、名阪間の輸送からは撤退した。現在では亀山駅、加茂駅を境界として運転系統が3区間に分割されており、境界となる駅を跨いで運転される旅客営業列車は、2006年の急行「かすが」の廃止以降は一切運転されておらず、名阪間の都市間輸送路線としての性格は完全に消滅している。
JR東海エリアの名古屋駅 - 亀山駅間は名古屋都市圏の通勤・通学路線としての役割を持つ。名古屋駅 - 河原田駅間では、伊勢鉄道に乗り入れて三重県中南部や和歌山県南紀地方へ向かう特急「南紀」や快速「みえ」などの直通列車が運行されており、河原田駅 - 亀山駅間は名古屋方面との普通・快速列車のみが運行されている。近鉄名古屋線と競合関係にあるが、この区間は単線区間が未だに多く存在し、設備や運行本数・利便性などで近鉄の方が有利な状況にある。
JR西日本エリアのうち亀山駅 - 加茂駅間は単線の非電化区間であり、1両ないし2両の気動車による地域輸送(ローカル輸送)に徹している。沿線は山間部が多くを占め、大都市圏に含まれる他の2区間と比べると沿線人口は圧倒的に少ない。また、2022年4月11日にJR西日本が公表したローカル線の線区別収支によると、同区間は2019年度の輸送密度が1日2000人以下となっており、JR西日本は路線の活性化策などを関係自治体と協議したい考えで、廃線も視野に議論が進む可能性があると報じられているが、三重県側の地元自治体の一つである亀山市は存続希望を示している。
JR西日本エリアの電化区間(加茂駅 - JR難波駅間)には1988年3月から「大和路線」(やまとじせん)という愛称が付与され、アーバンネットワークを構成する路線の一つに位置づけられている。大阪都市圏の通勤・通学路線としての役割を持ち、大阪環状線に直通して大阪駅(梅田)方面に至る「大和路快速」も設定されているほか、奈良へ向かう観光路線としての性格もある。なお、大阪 - 奈良間の都市間輸送については近畿日本鉄道(近鉄)奈良線と競合関係にあるが、JRの奈良駅が近鉄奈良駅と比較して奈良市の中心部からやや離れていることや、関西本線が生駒山地を南側に迂回するルートを通っていることもあって、近鉄奈良線が有利な状況になっている。王寺駅 - JR難波駅間では、和歌山線や桜井線方面に直通する快速列車も運行されている。
柘植駅 - JR難波駅間は旅客営業規則の定める「大阪近郊区間」に含まれており、そのうち奈良駅 - JR難波駅間が電車特定区間、天王寺駅 - JR難波駅間が大阪環状線内に含まれ、区間外よりも割安な近距離運賃が設定されている。また、JR東海管内の名古屋駅 - 亀山駅間がIC乗車カード「TOICA」のエリアに、JR西日本管内の亀山駅 - JR難波駅間が同「ICOCA」のエリアに含まれている。
名古屋駅 - 亀山駅間はJR東海東海鉄道事業本部の管轄(該当全区間直轄)、亀山駅(構内を除く) - JR難波駅間はJR西日本近畿統括本部の管轄である。
路線記号は名古屋駅 - 亀山駅間が CJ、亀山駅 - 加茂駅間が V 、加茂駅 - JR難波駅間が Q(木津駅 - 奈良駅間は奈良線の列車が乗り入れているため、重複して D も付与)。
名古屋駅を南向きに出発した列車は、名古屋車両区への回送線および名古屋臨海高速鉄道あおなみ線とともに右に曲がり、東海道本線などから離れる。左側にはかつて笹島駅(貨物)であった跡地が広がる。右側を走っていたあおなみ線が頭上を越えて左側に移ると、進行方向右側には名古屋車両区が広がる。最初に関西鉄道が開業した「愛知駅」はここに位置した。名古屋高速5号万場線をアンダークロスした後、高架となり、あおなみ線が左へ離れていくと、間もなく八田駅に着く。その後、庄内川橋梁の手前で近鉄名古屋線をアンダークロスし、国道302号を乗り越えると2001年に新設された春田駅に着く。その後、蟹江駅、永和駅を経て弥富駅に到着する。弥富駅では名鉄尾西線と接続する。同駅から桑名駅までは近鉄線と並行する。木曽川を渡ると三重県に入り、長島駅を経て長良川と揖斐川を渡る。この区間は1959年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けた。また、この付近で近鉄名古屋線の旧線跡が垣間見える。桑名駅に着く手前で関西本線が近鉄線を潜る。
桑名駅は近鉄名古屋線のほか、養老鉄道養老線や三岐鉄道北勢線と接続する。三岐鉄道北勢線を潜り、朝明信号場で複線になった後、近鉄名古屋線と併走しながらカーブして朝日町に入り、東芝の工場の手前で近鉄線と離れ朝日駅に。伊勢湾岸自動車道を潜る手前で四日市市に入り、三岐鉄道三岐線と近鉄線を潜り富田駅に着く。三岐鉄道と貨物列車の連絡が行われており、駅東側に貨物ヤードが広がる。 この駅は三岐鉄道の基地でもあり、東口を出た先には本社ビルがある。ここから先は四日市の工場地帯となり、大小の工場や事業所などが広がる。国道1号・国道23号と寄り添い、富田浜駅を経て四日市駅に着く。四日市駅は市名を冠した駅であるが、市の中心駅は実質的に近鉄四日市駅である。塩浜駅への貨物線が分岐する貨物列車の一大拠点であり、貨車が多く置かれている。
四日市駅の次の南四日市駅を過ぎ、工業地帯を抜けると河原田駅に着く。同駅では伊勢鉄道と接続し、途中で単線が上下線から別れその間を走って駅に着く。伊勢鉄道のホームは築堤上にあり、跨線橋で結ばれている。名古屋駅発の特急「南紀」や快速「みえ」などの列車はこの駅から伊勢鉄道へ乗り入れ、津駅を経て鳥羽駅、新宮駅、紀伊勝浦駅に向かう。
河原田駅から単線区間になる。車窓は田園風景となり民家も少なく、鈴鹿山脈の南端に沿って小高い山の裾を廻る。鈴鹿市に入り、線路の南に沿って流れる鈴鹿川の水面が現れる。河曲駅を過ぎ、次の加佐登駅では駅の北側斜面に民家が密集し南にコンクリート工場がある。亀山市に入り、近くに団地のある井田川駅を過ぎると堤防に遮られて鈴鹿川が見えなくなる。水田が散在する中、左手から紀勢本線が合流して亀山駅に着く。駅前は雑居ビルが建つものの市街地の中心ははっきりしない。丘陵地にあり、南に鈴鹿川、北に台地が控え、またかつての亀山城の櫓がわずかに残る。亀山駅はJR東海の管轄駅であり、JR西日本区間との境界駅である。3面5線の構造で、紀勢本線と接続するが、多くの急行が行き交った頃の面影はない。
この区間は非電化である。現在では単行(1両編成)や2両編成の気動車(キハ120形)で普通列車が走るのみだが、かつては急行列車や貨物列車など長大編成の列車が走っていたため、各駅ともホームや交換設備の有効長が非常に長い。かつては多くの駅に中線(上り線と下り線の間にある待避線)があり、中線があった駅は上り線と下り線の間に中線が撤去された空間が空いている。
この区間は山間部が多い。大和街道に沿っており、木津川と支流の柘植川が見える。
亀山駅からは国道1号と併走して、東海道の宿場関宿の最寄り駅相対式2面2線の関駅に着き、ここから国道1号と重複していた国道25号と並走して相対式2面2線の加太駅に着く。2018年4月の関駅無人化までは加太駅はこの区間では唯一の無人駅であった。この先、鈴鹿山脈と布引山地の境界に当たる加太駅 - 柘植駅間には、加太越えと呼ばれる25 ‰(パーミル)の急勾配があり、蒸気機関車が走っていた頃は多くの鉄道ファンが訪れた。スイッチバック式の中在家信号場(2006年に使用停止、2019年に廃止)があった。信号場の先にある加太トンネルでは、蒸気機関車の煤煙が運転台に充満することを防ぐために、トンネル入り口に遮蔽幕を設置し、列車通過後にこの幕を下ろして列車後方の気圧を下げ、煤煙を列車後方に集める工夫もなされていた。日本全国の急勾配や長大なトンネルで、乗務員の酸欠や窒息事故が多発したため、対策が施された。伊賀市に入り、単式と島式の2面3線の柘植駅では草津線が分岐する。かなり構内が広いが、駅は寂しい。もともと関西鉄道は東海道のルートに沿って草津から亀山へ向かって線路を敷設したため、亀山方面から見ると草津線が直線で、関西本線が左へ分岐するような線形となっている。かつて、柘植駅には加太越えの蒸気機関車のために転車台や給水塔もあったが、現在はすべて撤去されている
柘植駅を出ると周囲は開け、伊賀盆地を走り、新堂駅となる。かつては単式と島式の2面3線であったが、現在は島式1面2線である。しばらく西に向いて走り、単式2面2線の佐那具駅となる。次の伊賀上野駅はこの区間の途中駅のなかでは唯一の直営駅であり、ワンマン取り扱い駅ではない。この駅からは加茂駅への区間列車がある。単式とそこにある切欠と島式の2面4線の構造で、うち3線をJRが使用し、下りホーム反対側の切欠1線には伊賀市(旧上野市)の市街地を経て伊賀神戸駅に向かう伊賀鉄道伊賀線が発着する。忍者で有名な伊賀市の中心は伊賀鉄道の上野市駅付近一帯である。そこに上野城があるが、この駅の少し先から見える。
伊賀上野駅を出ると、並走する大和街道は国道163号に変わり、柘植川も木津川に変わる。しばらく平地を走り、単式2面2線の島ケ原駅からは山間地へと入る。車窓から、この区間最大の見所である、木津川の渓谷美を見ることができるが、大雨が降るとしばしば不通となり、保安上のネックにもなっている。京都府南山城村に入り、単式2面2線の月ケ瀬口駅となる。月ヶ瀬梅林への最寄り駅で梅の花見の時期は多くの客で賑わう。南山城村役場に近い単式2面2線の大河原駅を過ぎ、笠置町に入り、桜と渓谷美で有名な島式1面2線の笠置駅となる。木津川市に入ると、加茂駅に到着する。加茂駅は島式2面3線の橋上駅で、天王寺・大阪方面への大和路快速または奈良方面への普通列車と接続している。亀山方面からの気動車は基本的に中線から発着する。中線は両側をホームに挟まれており、奈良・天王寺・大阪方面の電車と同一ホームで対面乗り換え可能である。
加茂駅以西は電化区間となり、不動山トンネルを抜け木津駅に至る。この辺りには、関西鉄道が路線の買収によってネットワークを構築する過程で放棄された路線が廃線跡として残っている(歴史節を参照)。このほか、不動山トンネル付近ではトンネルの老朽化によって線路が付け替えられた旧線跡がある。加茂駅 - 木津駅間は単線だが、2004年の近畿地方交通審議会答申8号では、この区間を複線化するように答申している。木津駅は奈良線と片町線(学研都市線)が分岐し、奈良・京都・京橋方面への交通の要衝であるが、都市圏から比較的近い割に利用客はさほど多くはない。木津川市(旧木津町)の代表駅ではあるが、JRの木津駅ではなく近鉄京都線の高の原駅や木津川台駅を利用する木津川市民(旧木津町域住民)も多い。木津駅を出ると京奈和自動車道の木津インターチェンジや国道24号などを右に見ながら進み、奈良県に入ると平城山駅となる。すぐ先に佐保信号場があり吹田総合車両所奈良支所への入出区線が分岐する。奈良市北部の新興地域を行くこのあたりは、新しい住宅地と古墳群が同居している。次の奈良駅では桜井線(万葉まほろば線)が分岐する。また奈良線の列車もすべて奈良駅まで運転される。奈良駅付近は高架化の際に、寺社風建築で有名な旧奈良駅舎の撤去が検討されたが、現地付近に保存されることとなった。奈良駅は主要観光地や官公庁・ビジネス街などへのアクセス、バス路線との乗り換えなどにおいて、近鉄奈良駅や新大宮駅に対して劣勢に立ち、JRの京都・大阪方面への競争力も運賃・所要時間・本数面で近鉄より低いため利用者は少ない。駅周辺は高架化工事の前後から再開発工事が進められて、西口にも駅前広場やバスターミナルが設置されている。
奈良駅 - 王寺駅間では、斑鳩の法隆寺付近を通る。奈良を出て、しばらく奈良盆地の中を進むと大和郡山市に入り、2面2線の郡山駅となる。大和郡山市役所や郡山城跡など市の中心部は近鉄の近鉄郡山駅が近い。住宅地と田畑と金魚の飼育のための池を見ながら、近鉄橿原線を潜って進むと大和小泉駅。次の法隆寺駅は斑鳩町の中心駅で、2面2線の橋上駅となっている。法隆寺はこの駅からかなり離れたところに位置する。法隆寺を出ると奈良盆地南部の田畑の中を真っ直ぐに走る。大和川を渡って近鉄田原本線を潜ると、左手から和歌山線が合流し、国道25号を潜り王寺駅となる。この駅は和歌山線のほか近鉄生駒線、近鉄田原本線が集結する奈良県西部の交通の要衝となっており、利用者も多い。
王寺駅 - 柏原駅間は大和川に沿って走る。この区間は地すべりの多発地帯であり、1932年にはこの区間の亀ノ瀬トンネルが変形して使用不能となり、経路変更によって、2箇所の橋梁で大和川の南岸に迂回する不自然な線形になった。柏原からは大阪平野を走る。周囲はすっかり都市化し、住宅やマンションの立ち並ぶ車窓となる。王寺駅を出て、大和川を渡ると三郷町の中心駅で、竜田大社の最寄り駅三郷駅。この先、国道25号も併走して大阪府柏原市に入り、2面2線の河内堅上駅となる。春になると多くのカメラマンが同駅構内の桜の撮影に訪れる。河内堅上駅を出て右左にカーブして大和川を渡り、高井田駅。高井田駅を出ると右手には山が迫り、近鉄大阪線を潜ると、左手には国道25号と大和川が並行する。しばらくこの隘路を進むと、近鉄線が右手に離れ柏原駅となる。2面4線の構造で近鉄道明寺線も発着している。王寺駅からカーブを縫うように走ってきた線路は柏原駅を過ぎると直線区間が多くなり、100km/h前後の制限を強いられて走ってきた221系電車で運転の大和路快速や昼間の快速はここから一気に最高速度の120km/hへと加速する。八尾市に入り、国道170号(大阪外環状線)の高架橋を潜るとすぐに志紀駅、その後線路はほぼ真っ直ぐ進み、2面2線の八尾駅となる。八尾市の中心駅ではあるが、八尾市中心部からはやや外れている。約1kmほど北に近鉄の近鉄八尾駅があり、周辺は大型商業施設や銀行のある商店街となって栄えているうえ、バス路線との乗り換えにおいても近鉄の方が便利なので、JRの八尾駅の利用者は近鉄八尾駅よりは多くない。八尾駅を出ると、竜華操車場跡の北側に沿い、緩やかにカーブしている。やがておおさか東線と接続する久宝寺駅となる。この駅は2面4線の橋上駅で普通と快速の接続が行われている。かつては上下線が竜華操車場を挟んでおり、上下線ホームはかなり離れていたが、竜華操車場廃止後の1997年に下り線が上り線側に移設された。その後に行われた区画整理事業で操車場や旧下り線の跡形はあまりわからなくなっている。近畿自動車道と大阪中央環状線を潜ったあたりで大阪市平野区に入り、大阪市に入って加美駅の手前で、おおさか東線が右手に分かれる。左手には2009年に廃止された阪和貨物線跡が見える。加美を出て、右手から城東貨物線の単線が並走する。ここからJR貨物の百済貨物ターミナル駅の間は貨物列車が走る。城東貨物線は関西本線上り線(名古屋方面)に接続するため、貨物列車は上下列車とも関西本線の上り線を走行する状態が長く続いていた。しかし2010年の線路付け替え工事によって、貨物線は分離された。平野川を渡ると平野駅。平野駅はホーム2面4線の待避可能駅だが、下り線(JR難波方面)の通過線にはホームがない。平野駅を過ぎ、国道479号(内環状線)を乗り越え、百済貨物ターミナル駅を見ながら高架を駆け上がる。今里筋を乗り越えると東部市場前駅。近鉄南大阪線の高架を望みながら進み、高架の阪和線を潜り、大阪環状線が右から合流すると天王寺駅に到着する。天王寺駅は大阪環状線・阪和線と接続するほか、大阪市営地下鉄御堂筋線と谷町線そして、あびこ筋を挟んで南側には近鉄南大阪線と阪堺電気軌道上町線もあり、日本国内有数の一大ターミナルとなっている。
天王寺駅から今宮駅までの間は大阪環状線と並行している。天王寺駅を出ると、阪神高速14号松原線を潜り、阪堺電気軌道阪堺線と堺筋を乗り越えて新今宮駅に至る。同駅では関西本線と大阪環状線とを同じホームで乗り換えられるような構造となっているほか、南海本線や阪堺電気軌道とも連絡しており、JR難波寄りの階段を上がって改札を出ればすぐに南海の改札がある。また新今宮駅の前後には渡り線があり、関西本線や阪和線の大阪方面直通列車は同駅付近で大阪環状線に転線する。次の今宮駅も関西本線・大阪環状線ともに高架駅となっており、関西本線下りホームと大阪環状線外回りホームと同一平面上で乗り換えができる。今宮駅を出ると右にカーブしながら高架から地下へ下り、関西本線唯一の地下トンネルである「なにわトンネル」となり、終着駅のJR難波駅に至る。JR難波駅はかつて「湊町駅」と称していたが、関西国際空港の開港にあわせ1994年に改称され、1996年には地下化された。駅は島式2面4線ホームの地下駅で、なにわ筋線計画に対応し通過駅としての設計構造となっているほか、1番線と4番線の奥には引上線が設置されている。なお、地下化に伴い全面的に改築されたこともあって、かつて長距離列車が発着したころの面影はない。この駅では大阪市営地下鉄千日前線や御堂筋線・四つ橋線、近鉄、阪神、南海と連絡しているが、やや離れている。駅の直上は大阪シティエアターミナル (OCAT) があり、大阪国際空港や関西国際空港へのリムジンバスや各地への高速バスのターミナルとして機能している。ただ、南海難波駅からは相当の距離があり、乗り換えには15分以上を要するので、南海との乗り換えはむしろ新今宮駅の方が便利である。なにわトンネルの地上部(地下化以前の線路跡)は難波塩草敷津公園と称する都市公園となっているほか、駅周辺はミナミの繁華街からは少し外れているものの、超高層マンションやビルが林立するなど再開発が急速に進展している。
現在、全区間を通して走る列車はなく、JR東海が管轄する名古屋駅 - 亀山駅間、JR西日本の非電化区間である亀山駅 - 加茂駅間、同社の電化区間である加茂駅 - JR難波駅間の3区間に分かれている。
この区間では各駅に停車する普通列車、線内のみ運転の快速、ラッシュ時のみの区間快速に加え、河原田駅から伊勢鉄道伊勢線・紀勢本線・参宮線に直通する快速「みえ」が運転されている。四日市駅 - 河原田駅ではこのほかに伊勢鉄道の車両による伊勢鉄道伊勢線直通の普通列車がある。「みえ」以外の列車は昼間を中心にワンマン運転(列車番号の末尾がGの列車)が行われている。かつて、快速はラッシュ時のみに運転されていたが、2009年3月のダイヤ改正で名古屋駅 - 亀山駅間に桑名と四日市駅以南の各駅に停車する快速が昼間時間帯に新設され、従来の蟹江駅・弥富駅と桑名駅以南の各駅に停車する快速は区間快速に改称された。また、区間快速は2022年3月12日のダイヤ改正で八田駅と春田駅にも停車するようになり、通過駅は永和駅と長島駅のみとなった。
なお、ワンマン運転の場合において無人駅(弥富駅以東にある集中旅客サービスシステム導入済みの無人駅を除く)あるいは日中有人駅(=早朝夜間および日中の窓口閉鎖時間帯)では原則車内精算を行う。ただし2021年2月1日以降名古屋駅 - 弥富駅については全ての駅に自動改札機が設置されているため車内精算を行わず駅で収受する。
亀山駅 - 加茂駅間は閑散区間で、ワンマン運転の普通列車のみが運転されている。使用車両は1993年8月1日からキハ120系気動車が使用されており、この線区で使用されているものは紫で塗装されている。かつては奈良方面など他区間と直通する列車もあったが、2001年3月以降はすべてこの区間内の運転となっている。なお、ワンマン運転の場合における無人駅あるいは日中有人駅(=早朝夜間および日中の窓口閉鎖時間帯)では原則車内精算を行う。
この区間は関西本線の中ではほかの区間と比べて運転本数は少なく、全線通しの列車はほぼ1時間に1本の運行である。ただ伊賀上野駅 - 加茂駅間は朝と夕方から夜間にかけて区間列車の設定がある(2001年3月2日までは昼間時も伊賀上野駅 - 加茂駅間の区間列車の設定があった)。ただし、全駅で交換が可能とはいえこの区間は全線単線であるため、運転間隔は昼間の一部時間帯を除き等間隔ではない。このほか、柘植駅で夜間滞泊を行い翌朝加茂駅へ折り返す加茂駅 - 柘植駅間の区間列車と、深夜に亀山発伊賀上野行きの区間列車(翌朝に伊賀上野発加茂行きとして運行)がそれぞれ設定されている。
2001年3月から、線路保守点検による作業時間の確保のため、毎年7月から9月を除いて月1回土曜日の昼間時間帯の列車が運休していた(バスなどによる代行輸送も行われなかった)が、2011年3月12日のダイヤ改正以降は運休は取りやめとなっている。
全列車が加茂駅で大和路線の大和路快速などの快速列車または普通列車と接続するダイヤになっている。一方で亀山駅での名古屋方面行きの列車との接続はある程度図られているが、接続時間にばらつきがある。日中は名古屋方面へ乗り継ぐ場合は20分程度の接続時間を要する(加茂方面へは10分以内で接続している)。2009年3月14日のダイヤ改正時には40分 - 50分程度の接続時間が発生していたが、2012年3月17日のダイヤ改正で改善された。
加茂駅 - JR難波駅間は、各駅に停車する普通と、加茂駅 - JR難波駅間に快速、加茂駅 - 大阪環状線間に大和路快速・区間快速が運転されている。ほかに和歌山線・桜井線 - JR難波方面の直通列車もある。木津駅 - 奈良駅間には奈良線・片町線(学研都市線)の列車も乗り入れている。また、奈良駅 - 久宝寺駅間にはおおさか東線に乗り入れる直通快速が、朝夕に奈良駅 - 大阪駅間で運転されている。また、早朝にはJR難波・王寺方面から奈良駅経由で京都行きの直通列車が運転されており(その逆の京都発奈良・王寺経由のJR難波行きはない)、夕方以降も時刻表には記載がないものの先述の区間を双方向に直通する列車が数本運転されている。
名古屋駅 - 河原田駅間を名古屋駅 - 紀伊勝浦駅間(伊勢鉄道経由)運転の特急「南紀」が通る。かつては河原田駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間にも東京駅 - 湊町駅・和歌山市駅間の夜行急行「大和」を始め、名古屋駅 - 湊町駅・南紀方面や京都駅 - 伊勢方面などを結ぶ多数の優等列車が運行されていた。1965年3月1日から1967年10月1日のダイヤ改正までの短期間だが、関西本線名古屋駅 - 八尾駅間を経由する特急「あすか」が設定されていたこともある。しかし2006年3月18日のダイヤ改正で急行「かすが」が廃止されたのを最後に(廃止時の運転区間は名古屋駅 - 奈良駅間)、事実上大阪環状線と重複している天王寺駅 - 今宮駅間を除き、河原田駅 - JR難波駅間で定期運転の特急・急行列車は設定されていない。
急行「かすが」廃止以降の臨時列車は、2010年4月 - 6月の土・日曜日に運転された臨時特急「まほろば」があり、新大阪駅発で天王寺駅から関西本線に乗り入れて奈良駅まで運転されていた(途中は王寺駅と法隆寺駅に停車)。また、おおさか東線の全通後の2019年11月2日より同名の列車が指定日に運転されており、大阪駅(2022年までは新大阪駅)からおおさか東線を経由し久宝寺駅 - 奈良駅間で関西本線に乗り入れている(途中無停車)。
2024年3月16日のダイヤ改正より、平日に新大阪駅 - 奈良駅間(天王寺経由)で通勤特急「らくラクやまと」が運行される予定。
貨物列車は、名古屋駅 - 南四日市駅間および貨物支線の四日市駅 - 塩浜駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間で運行されている。そのうち平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間で運行されているものは「城東貨物線」を参照。
コンテナ車のみで編成された高速貨物列車は名古屋貨物ターミナル駅 - 四日市駅間で1日3往復運行されているほか、石油輸送タンク車を牽引する専用貨物列車が運転される。また四日市駅・塩浜駅 - 稲沢駅( - 南松本駅)間にはタキ1000形貨車のみで編成された高速貨物列車が運行されている。三岐鉄道三岐線 - 富田駅 - 四日市駅間では日本全国で唯一のセメント輸送が行われている。このほか、かつては化学薬品輸送タンク車を牽引する専用貨物列車や四日市駅 - 塩浜駅・南四日市駅間と稲沢駅から伊勢鉄道伊勢線経由で紀勢本線鵜殿駅までのコンテナ列車の運行もあり、鵜殿駅までのコンテナ列車については末期は1日1往復が設定されていた。
牽引機はDF200形ディーゼル機関車である。直通先に四日市駅 - 塩浜駅間の貨物支線といった電化されていない路線があるため、電気機関車は使用されない。
関西本線内で使用されている車両の定期運用区間は以下の通り。
過去に使用されていた車両の運用区間は以下の通り(駅名および車両形式は運行当時のもの。湊町駅は現在のJR難波駅)。
各年度の区間別の平均通過人員、旅客運輸収入は以下の通り。JR難波駅は1994年9月3日まで湊町駅。
名古屋駅 - 木津駅間は関西鉄道により開業した。名古屋駅 - 柘植駅間を1895年に開通させた後、柘植駅 - 大仏駅(後に廃止)間を1898年に開通させて名古屋駅 - 奈良駅間を結んだ。同年中には加茂駅 - 新木津駅(後に廃止)間を開通させて、前年に買収した浪速鉄道の路線を経由して、大阪の網島駅(1898年 - 1913年の間、現在の京橋駅近くにあったターミナル駅) - 四条畷駅 - 名古屋駅間に直通列車を走らせた。
奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間は大阪鉄道により1892年に、木津駅 - 奈良駅間は奈良鉄道により1896年に開通している。関西鉄道は大仏駅 - 奈良駅間を開通させた後、1900年に大阪鉄道を買収して名阪間の本線を大仏経由に変更した。その後、奈良鉄道を買収し、1907年には勾配区間を抱えていた加茂駅 - 大仏駅 - 奈良駅間を廃止して本線を木津駅経由に変更、現在のルートが完成した(このときに加茂駅 - 新木津駅間の路線も廃止)。
その後、関西鉄道は名阪間で官設鉄道(東海道本線)と激しい競争を繰り広げ、関西鉄道は官営鉄道より20分所要時間の差をつけ、さらには記念品を配ったり運賃を5割引にしたりと派手な誘客作戦を実施した。この誘客合戦は日露戦争に突入した1904年に一旦終息し、鉄道国有法により1907年に関西鉄道が国有化されたことで終わりを告げた(詳細は「関西鉄道」を参照)。
国有化後はローカル線化していたが、大正時代に入って大阪電気軌道、参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道)などの私鉄が並行して路線網を伸ばしてくると、輸送量が逼迫していた東海道本線に代わり、これらの私鉄路線に対抗する路線として注目され、近鉄に先んじて名古屋駅 - 湊町駅間に快速列車が設定された。1935年(昭和10年)12月1日のダイヤ改正では名古屋駅 - 湊町駅間に朝夕2往復の準急列車が設定され、所要時間は約3時間に短縮された。
第二次世界大戦後は準急列車として復活し(後の「かすが」)、全国に先駆けて気動車化されてスピードアップが図られるが、東海道本線が全線電化され、近鉄もスピードアップや軌間統一を実施し、さらには東海道新幹線の開業や名神高速道路・名阪国道の開通によって、関西本線は名阪間輸送の第一線から退くことを余儀なくされる(「かすが」も参照)。
長らく全線で近代化が遅れていたが、1973年に奈良駅 - 湊町駅間、1982年に名古屋駅 - 亀山駅間が電化され、近郊路線としての性格を強めていく。JR発足後、加茂駅 - JR難波駅間はアーバンネットワークの一環として輸送の改善が図られ、またJR東海も快速「みえ」を設定するなどして輸送の改善を図っている。
(貨)は貨物専用駅、それ以外の駅で◆・◇を付した駅は貨物取扱駅を表す(◇は定期貨物列車の発着なし)。
ここではJR東海の管轄である名古屋駅 - 亀山駅間の駅名と主な駅のキロ程のみ記す。接続路線・停車駅などの詳細については「関西線 (名古屋地区)」を参照のこと。
( )内は起点からの営業キロ
名古屋駅◇ (0.0km) - (笹島信号場) - 八田駅 - 春田駅 - 蟹江駅 - 永和駅 - (白鳥信号場) - 弥富駅 - 長島駅 - 桑名駅 (23.8km) - (朝明信号場) - 朝日駅 - 富田駅 - 富田浜駅 - 四日市駅◆ (37.2km) - 南四日市駅◇ - 河原田駅 (44.1km) - 河曲駅 - 加佐登駅 - 井田川駅 - 亀山駅 (59.9km)
この区間の中間駅(両端駅は含まない)のうち、伊賀上野駅はJR西日本直営駅、関駅・加太駅は無人駅、それ以外の中間駅は簡易委託駅である。
ここでは駅名と主な駅のキロ程のみ記す。接続路線・停車駅などの詳細については「大和路線#駅一覧」を参照のこと。
( )内は名古屋駅からの営業キロ
加茂駅 (120.9km) - 木津駅 (126.9km) - 平城山駅 - (佐保信号場) - 奈良駅 (133.9km) - 郡山駅 - 大和小泉駅 - 法隆寺駅 - 王寺駅 (149.3km) - 三郷駅 - 河内堅上駅 - 高井田駅 - 柏原駅 - 志紀駅 - 八尾駅 - 久宝寺駅 (164.3km) - 加美駅 - 平野駅 (167.5km) - 東部市場前駅 - 天王寺駅 (171.4km) - 新今宮駅 - 今宮駅 - JR難波駅 (174.9km)
( )内は起点からの営業キロ。
( )内は名古屋駅起点の営業キロ。
( )内は名古屋駅起点の営業キロ。
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"text": "関西本線(かんさいほんせん)は、愛知県名古屋市中村区の名古屋駅から亀山駅、奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区のJR難波駅に至るJRの鉄道路線(幹線)である。名古屋駅 - 亀山駅間が東海旅客鉄道(JR東海)、亀山駅 - JR難波駅間が西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄となっている。このほか日本貨物鉄道(JR貨物)の四日市駅 - 塩浜駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間の貨物支線を持つ。",
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"text": "本項目では主に関西本線全般の概要や沿革などについて記す。地域ごとの詳細については以下の記事も参照。",
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"text": "名古屋と大阪を三重県の北勢地方、伊賀地方、京都府南部、奈良県北部を経由して結んでいる。民間の鉄道会社である関西鉄道の路線として開業し、名古屋と奈良・大阪を最短距離で結ぶ鉄道路線として鉄道作業局の時代から国有鉄道と乗客を奪い合った歴史を持ち、路線名もこの社名に由来する。関西鉄道の国有化後は1970年代まで全線を直通する列車が運転されていたが、並行する東海道本線や東海道新幹線の整備、近畿日本鉄道(近鉄)の名阪特急の台頭、名阪国道や名神高速道路の開通によるモータリゼーションの普及などにより、名阪間の輸送からは撤退した。現在では亀山駅、加茂駅を境界として運転系統が3区間に分割されており、境界となる駅を跨いで運転される旅客営業列車は、2006年の急行「かすが」の廃止以降は一切運転されておらず、名阪間の都市間輸送路線としての性格は完全に消滅している。",
"title": "概要"
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"text": "JR東海エリアの名古屋駅 - 亀山駅間は名古屋都市圏の通勤・通学路線としての役割を持つ。名古屋駅 - 河原田駅間では、伊勢鉄道に乗り入れて三重県中南部や和歌山県南紀地方へ向かう特急「南紀」や快速「みえ」などの直通列車が運行されており、河原田駅 - 亀山駅間は名古屋方面との普通・快速列車のみが運行されている。近鉄名古屋線と競合関係にあるが、この区間は単線区間が未だに多く存在し、設備や運行本数・利便性などで近鉄の方が有利な状況にある。",
"title": "概要"
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"text": "JR西日本エリアのうち亀山駅 - 加茂駅間は単線の非電化区間であり、1両ないし2両の気動車による地域輸送(ローカル輸送)に徹している。沿線は山間部が多くを占め、大都市圏に含まれる他の2区間と比べると沿線人口は圧倒的に少ない。また、2022年4月11日にJR西日本が公表したローカル線の線区別収支によると、同区間は2019年度の輸送密度が1日2000人以下となっており、JR西日本は路線の活性化策などを関係自治体と協議したい考えで、廃線も視野に議論が進む可能性があると報じられているが、三重県側の地元自治体の一つである亀山市は存続希望を示している。",
"title": "概要"
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"text": "JR西日本エリアの電化区間(加茂駅 - JR難波駅間)には1988年3月から「大和路線」(やまとじせん)という愛称が付与され、アーバンネットワークを構成する路線の一つに位置づけられている。大阪都市圏の通勤・通学路線としての役割を持ち、大阪環状線に直通して大阪駅(梅田)方面に至る「大和路快速」も設定されているほか、奈良へ向かう観光路線としての性格もある。なお、大阪 - 奈良間の都市間輸送については近畿日本鉄道(近鉄)奈良線と競合関係にあるが、JRの奈良駅が近鉄奈良駅と比較して奈良市の中心部からやや離れていることや、関西本線が生駒山地を南側に迂回するルートを通っていることもあって、近鉄奈良線が有利な状況になっている。王寺駅 - JR難波駅間では、和歌山線や桜井線方面に直通する快速列車も運行されている。",
"title": "概要"
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"text": "柘植駅 - JR難波駅間は旅客営業規則の定める「大阪近郊区間」に含まれており、そのうち奈良駅 - JR難波駅間が電車特定区間、天王寺駅 - JR難波駅間が大阪環状線内に含まれ、区間外よりも割安な近距離運賃が設定されている。また、JR東海管内の名古屋駅 - 亀山駅間がIC乗車カード「TOICA」のエリアに、JR西日本管内の亀山駅 - JR難波駅間が同「ICOCA」のエリアに含まれている。",
"title": "概要"
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"text": "名古屋駅 - 亀山駅間はJR東海東海鉄道事業本部の管轄(該当全区間直轄)、亀山駅(構内を除く) - JR難波駅間はJR西日本近畿統括本部の管轄である。",
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"text": "路線記号は名古屋駅 - 亀山駅間が CJ、亀山駅 - 加茂駅間が V 、加茂駅 - JR難波駅間が Q(木津駅 - 奈良駅間は奈良線の列車が乗り入れているため、重複して D も付与)。",
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"text": "名古屋駅を南向きに出発した列車は、名古屋車両区への回送線および名古屋臨海高速鉄道あおなみ線とともに右に曲がり、東海道本線などから離れる。左側にはかつて笹島駅(貨物)であった跡地が広がる。右側を走っていたあおなみ線が頭上を越えて左側に移ると、進行方向右側には名古屋車両区が広がる。最初に関西鉄道が開業した「愛知駅」はここに位置した。名古屋高速5号万場線をアンダークロスした後、高架となり、あおなみ線が左へ離れていくと、間もなく八田駅に着く。その後、庄内川橋梁の手前で近鉄名古屋線をアンダークロスし、国道302号を乗り越えると2001年に新設された春田駅に着く。その後、蟹江駅、永和駅を経て弥富駅に到着する。弥富駅では名鉄尾西線と接続する。同駅から桑名駅までは近鉄線と並行する。木曽川を渡ると三重県に入り、長島駅を経て長良川と揖斐川を渡る。この区間は1959年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けた。また、この付近で近鉄名古屋線の旧線跡が垣間見える。桑名駅に着く手前で関西本線が近鉄線を潜る。",
"title": "沿線概況"
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"text": "桑名駅は近鉄名古屋線のほか、養老鉄道養老線や三岐鉄道北勢線と接続する。三岐鉄道北勢線を潜り、朝明信号場で複線になった後、近鉄名古屋線と併走しながらカーブして朝日町に入り、東芝の工場の手前で近鉄線と離れ朝日駅に。伊勢湾岸自動車道を潜る手前で四日市市に入り、三岐鉄道三岐線と近鉄線を潜り富田駅に着く。三岐鉄道と貨物列車の連絡が行われており、駅東側に貨物ヤードが広がる。 この駅は三岐鉄道の基地でもあり、東口を出た先には本社ビルがある。ここから先は四日市の工場地帯となり、大小の工場や事業所などが広がる。国道1号・国道23号と寄り添い、富田浜駅を経て四日市駅に着く。四日市駅は市名を冠した駅であるが、市の中心駅は実質的に近鉄四日市駅である。塩浜駅への貨物線が分岐する貨物列車の一大拠点であり、貨車が多く置かれている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "四日市駅の次の南四日市駅を過ぎ、工業地帯を抜けると河原田駅に着く。同駅では伊勢鉄道と接続し、途中で単線が上下線から別れその間を走って駅に着く。伊勢鉄道のホームは築堤上にあり、跨線橋で結ばれている。名古屋駅発の特急「南紀」や快速「みえ」などの列車はこの駅から伊勢鉄道へ乗り入れ、津駅を経て鳥羽駅、新宮駅、紀伊勝浦駅に向かう。",
"title": "沿線概況"
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"text": "河原田駅から単線区間になる。車窓は田園風景となり民家も少なく、鈴鹿山脈の南端に沿って小高い山の裾を廻る。鈴鹿市に入り、線路の南に沿って流れる鈴鹿川の水面が現れる。河曲駅を過ぎ、次の加佐登駅では駅の北側斜面に民家が密集し南にコンクリート工場がある。亀山市に入り、近くに団地のある井田川駅を過ぎると堤防に遮られて鈴鹿川が見えなくなる。水田が散在する中、左手から紀勢本線が合流して亀山駅に着く。駅前は雑居ビルが建つものの市街地の中心ははっきりしない。丘陵地にあり、南に鈴鹿川、北に台地が控え、またかつての亀山城の櫓がわずかに残る。亀山駅はJR東海の管轄駅であり、JR西日本区間との境界駅である。3面5線の構造で、紀勢本線と接続するが、多くの急行が行き交った頃の面影はない。",
"title": "沿線概況"
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"text": "この区間は非電化である。現在では単行(1両編成)や2両編成の気動車(キハ120形)で普通列車が走るのみだが、かつては急行列車や貨物列車など長大編成の列車が走っていたため、各駅ともホームや交換設備の有効長が非常に長い。かつては多くの駅に中線(上り線と下り線の間にある待避線)があり、中線があった駅は上り線と下り線の間に中線が撤去された空間が空いている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "この区間は山間部が多い。大和街道に沿っており、木津川と支流の柘植川が見える。",
"title": "沿線概況"
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"text": "亀山駅からは国道1号と併走して、東海道の宿場関宿の最寄り駅相対式2面2線の関駅に着き、ここから国道1号と重複していた国道25号と並走して相対式2面2線の加太駅に着く。2018年4月の関駅無人化までは加太駅はこの区間では唯一の無人駅であった。この先、鈴鹿山脈と布引山地の境界に当たる加太駅 - 柘植駅間には、加太越えと呼ばれる25 ‰(パーミル)の急勾配があり、蒸気機関車が走っていた頃は多くの鉄道ファンが訪れた。スイッチバック式の中在家信号場(2006年に使用停止、2019年に廃止)があった。信号場の先にある加太トンネルでは、蒸気機関車の煤煙が運転台に充満することを防ぐために、トンネル入り口に遮蔽幕を設置し、列車通過後にこの幕を下ろして列車後方の気圧を下げ、煤煙を列車後方に集める工夫もなされていた。日本全国の急勾配や長大なトンネルで、乗務員の酸欠や窒息事故が多発したため、対策が施された。伊賀市に入り、単式と島式の2面3線の柘植駅では草津線が分岐する。かなり構内が広いが、駅は寂しい。もともと関西鉄道は東海道のルートに沿って草津から亀山へ向かって線路を敷設したため、亀山方面から見ると草津線が直線で、関西本線が左へ分岐するような線形となっている。かつて、柘植駅には加太越えの蒸気機関車のために転車台や給水塔もあったが、現在はすべて撤去されている",
"title": "沿線概況"
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"text": "柘植駅を出ると周囲は開け、伊賀盆地を走り、新堂駅となる。かつては単式と島式の2面3線であったが、現在は島式1面2線である。しばらく西に向いて走り、単式2面2線の佐那具駅となる。次の伊賀上野駅はこの区間の途中駅のなかでは唯一の直営駅であり、ワンマン取り扱い駅ではない。この駅からは加茂駅への区間列車がある。単式とそこにある切欠と島式の2面4線の構造で、うち3線をJRが使用し、下りホーム反対側の切欠1線には伊賀市(旧上野市)の市街地を経て伊賀神戸駅に向かう伊賀鉄道伊賀線が発着する。忍者で有名な伊賀市の中心は伊賀鉄道の上野市駅付近一帯である。そこに上野城があるが、この駅の少し先から見える。",
"title": "沿線概況"
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"text": "伊賀上野駅を出ると、並走する大和街道は国道163号に変わり、柘植川も木津川に変わる。しばらく平地を走り、単式2面2線の島ケ原駅からは山間地へと入る。車窓から、この区間最大の見所である、木津川の渓谷美を見ることができるが、大雨が降るとしばしば不通となり、保安上のネックにもなっている。京都府南山城村に入り、単式2面2線の月ケ瀬口駅となる。月ヶ瀬梅林への最寄り駅で梅の花見の時期は多くの客で賑わう。南山城村役場に近い単式2面2線の大河原駅を過ぎ、笠置町に入り、桜と渓谷美で有名な島式1面2線の笠置駅となる。木津川市に入ると、加茂駅に到着する。加茂駅は島式2面3線の橋上駅で、天王寺・大阪方面への大和路快速または奈良方面への普通列車と接続している。亀山方面からの気動車は基本的に中線から発着する。中線は両側をホームに挟まれており、奈良・天王寺・大阪方面の電車と同一ホームで対面乗り換え可能である。",
"title": "沿線概況"
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"text": "加茂駅以西は電化区間となり、不動山トンネルを抜け木津駅に至る。この辺りには、関西鉄道が路線の買収によってネットワークを構築する過程で放棄された路線が廃線跡として残っている(歴史節を参照)。このほか、不動山トンネル付近ではトンネルの老朽化によって線路が付け替えられた旧線跡がある。加茂駅 - 木津駅間は単線だが、2004年の近畿地方交通審議会答申8号では、この区間を複線化するように答申している。木津駅は奈良線と片町線(学研都市線)が分岐し、奈良・京都・京橋方面への交通の要衝であるが、都市圏から比較的近い割に利用客はさほど多くはない。木津川市(旧木津町)の代表駅ではあるが、JRの木津駅ではなく近鉄京都線の高の原駅や木津川台駅を利用する木津川市民(旧木津町域住民)も多い。木津駅を出ると京奈和自動車道の木津インターチェンジや国道24号などを右に見ながら進み、奈良県に入ると平城山駅となる。すぐ先に佐保信号場があり吹田総合車両所奈良支所への入出区線が分岐する。奈良市北部の新興地域を行くこのあたりは、新しい住宅地と古墳群が同居している。次の奈良駅では桜井線(万葉まほろば線)が分岐する。また奈良線の列車もすべて奈良駅まで運転される。奈良駅付近は高架化の際に、寺社風建築で有名な旧奈良駅舎の撤去が検討されたが、現地付近に保存されることとなった。奈良駅は主要観光地や官公庁・ビジネス街などへのアクセス、バス路線との乗り換えなどにおいて、近鉄奈良駅や新大宮駅に対して劣勢に立ち、JRの京都・大阪方面への競争力も運賃・所要時間・本数面で近鉄より低いため利用者は少ない。駅周辺は高架化工事の前後から再開発工事が進められて、西口にも駅前広場やバスターミナルが設置されている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "奈良駅 - 王寺駅間では、斑鳩の法隆寺付近を通る。奈良を出て、しばらく奈良盆地の中を進むと大和郡山市に入り、2面2線の郡山駅となる。大和郡山市役所や郡山城跡など市の中心部は近鉄の近鉄郡山駅が近い。住宅地と田畑と金魚の飼育のための池を見ながら、近鉄橿原線を潜って進むと大和小泉駅。次の法隆寺駅は斑鳩町の中心駅で、2面2線の橋上駅となっている。法隆寺はこの駅からかなり離れたところに位置する。法隆寺を出ると奈良盆地南部の田畑の中を真っ直ぐに走る。大和川を渡って近鉄田原本線を潜ると、左手から和歌山線が合流し、国道25号を潜り王寺駅となる。この駅は和歌山線のほか近鉄生駒線、近鉄田原本線が集結する奈良県西部の交通の要衝となっており、利用者も多い。",
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "王寺駅 - 柏原駅間は大和川に沿って走る。この区間は地すべりの多発地帯であり、1932年にはこの区間の亀ノ瀬トンネルが変形して使用不能となり、経路変更によって、2箇所の橋梁で大和川の南岸に迂回する不自然な線形になった。柏原からは大阪平野を走る。周囲はすっかり都市化し、住宅やマンションの立ち並ぶ車窓となる。王寺駅を出て、大和川を渡ると三郷町の中心駅で、竜田大社の最寄り駅三郷駅。この先、国道25号も併走して大阪府柏原市に入り、2面2線の河内堅上駅となる。春になると多くのカメラマンが同駅構内の桜の撮影に訪れる。河内堅上駅を出て右左にカーブして大和川を渡り、高井田駅。高井田駅を出ると右手には山が迫り、近鉄大阪線を潜ると、左手には国道25号と大和川が並行する。しばらくこの隘路を進むと、近鉄線が右手に離れ柏原駅となる。2面4線の構造で近鉄道明寺線も発着している。王寺駅からカーブを縫うように走ってきた線路は柏原駅を過ぎると直線区間が多くなり、100km/h前後の制限を強いられて走ってきた221系電車で運転の大和路快速や昼間の快速はここから一気に最高速度の120km/hへと加速する。八尾市に入り、国道170号(大阪外環状線)の高架橋を潜るとすぐに志紀駅、その後線路はほぼ真っ直ぐ進み、2面2線の八尾駅となる。八尾市の中心駅ではあるが、八尾市中心部からはやや外れている。約1kmほど北に近鉄の近鉄八尾駅があり、周辺は大型商業施設や銀行のある商店街となって栄えているうえ、バス路線との乗り換えにおいても近鉄の方が便利なので、JRの八尾駅の利用者は近鉄八尾駅よりは多くない。八尾駅を出ると、竜華操車場跡の北側に沿い、緩やかにカーブしている。やがておおさか東線と接続する久宝寺駅となる。この駅は2面4線の橋上駅で普通と快速の接続が行われている。かつては上下線が竜華操車場を挟んでおり、上下線ホームはかなり離れていたが、竜華操車場廃止後の1997年に下り線が上り線側に移設された。その後に行われた区画整理事業で操車場や旧下り線の跡形はあまりわからなくなっている。近畿自動車道と大阪中央環状線を潜ったあたりで大阪市平野区に入り、大阪市に入って加美駅の手前で、おおさか東線が右手に分かれる。左手には2009年に廃止された阪和貨物線跡が見える。加美を出て、右手から城東貨物線の単線が並走する。ここからJR貨物の百済貨物ターミナル駅の間は貨物列車が走る。城東貨物線は関西本線上り線(名古屋方面)に接続するため、貨物列車は上下列車とも関西本線の上り線を走行する状態が長く続いていた。しかし2010年の線路付け替え工事によって、貨物線は分離された。平野川を渡ると平野駅。平野駅はホーム2面4線の待避可能駅だが、下り線(JR難波方面)の通過線にはホームがない。平野駅を過ぎ、国道479号(内環状線)を乗り越え、百済貨物ターミナル駅を見ながら高架を駆け上がる。今里筋を乗り越えると東部市場前駅。近鉄南大阪線の高架を望みながら進み、高架の阪和線を潜り、大阪環状線が右から合流すると天王寺駅に到着する。天王寺駅は大阪環状線・阪和線と接続するほか、大阪市営地下鉄御堂筋線と谷町線そして、あびこ筋を挟んで南側には近鉄南大阪線と阪堺電気軌道上町線もあり、日本国内有数の一大ターミナルとなっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "天王寺駅から今宮駅までの間は大阪環状線と並行している。天王寺駅を出ると、阪神高速14号松原線を潜り、阪堺電気軌道阪堺線と堺筋を乗り越えて新今宮駅に至る。同駅では関西本線と大阪環状線とを同じホームで乗り換えられるような構造となっているほか、南海本線や阪堺電気軌道とも連絡しており、JR難波寄りの階段を上がって改札を出ればすぐに南海の改札がある。また新今宮駅の前後には渡り線があり、関西本線や阪和線の大阪方面直通列車は同駅付近で大阪環状線に転線する。次の今宮駅も関西本線・大阪環状線ともに高架駅となっており、関西本線下りホームと大阪環状線外回りホームと同一平面上で乗り換えができる。今宮駅を出ると右にカーブしながら高架から地下へ下り、関西本線唯一の地下トンネルである「なにわトンネル」となり、終着駅のJR難波駅に至る。JR難波駅はかつて「湊町駅」と称していたが、関西国際空港の開港にあわせ1994年に改称され、1996年には地下化された。駅は島式2面4線ホームの地下駅で、なにわ筋線計画に対応し通過駅としての設計構造となっているほか、1番線と4番線の奥には引上線が設置されている。なお、地下化に伴い全面的に改築されたこともあって、かつて長距離列車が発着したころの面影はない。この駅では大阪市営地下鉄千日前線や御堂筋線・四つ橋線、近鉄、阪神、南海と連絡しているが、やや離れている。駅の直上は大阪シティエアターミナル (OCAT) があり、大阪国際空港や関西国際空港へのリムジンバスや各地への高速バスのターミナルとして機能している。ただ、南海難波駅からは相当の距離があり、乗り換えには15分以上を要するので、南海との乗り換えはむしろ新今宮駅の方が便利である。なにわトンネルの地上部(地下化以前の線路跡)は難波塩草敷津公園と称する都市公園となっているほか、駅周辺はミナミの繁華街からは少し外れているものの、超高層マンションやビルが林立するなど再開発が急速に進展している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "現在、全区間を通して走る列車はなく、JR東海が管轄する名古屋駅 - 亀山駅間、JR西日本の非電化区間である亀山駅 - 加茂駅間、同社の電化区間である加茂駅 - JR難波駅間の3区間に分かれている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この区間では各駅に停車する普通列車、線内のみ運転の快速、ラッシュ時のみの区間快速に加え、河原田駅から伊勢鉄道伊勢線・紀勢本線・参宮線に直通する快速「みえ」が運転されている。四日市駅 - 河原田駅ではこのほかに伊勢鉄道の車両による伊勢鉄道伊勢線直通の普通列車がある。「みえ」以外の列車は昼間を中心にワンマン運転(列車番号の末尾がGの列車)が行われている。かつて、快速はラッシュ時のみに運転されていたが、2009年3月のダイヤ改正で名古屋駅 - 亀山駅間に桑名と四日市駅以南の各駅に停車する快速が昼間時間帯に新設され、従来の蟹江駅・弥富駅と桑名駅以南の各駅に停車する快速は区間快速に改称された。また、区間快速は2022年3月12日のダイヤ改正で八田駅と春田駅にも停車するようになり、通過駅は永和駅と長島駅のみとなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "なお、ワンマン運転の場合において無人駅(弥富駅以東にある集中旅客サービスシステム導入済みの無人駅を除く)あるいは日中有人駅(=早朝夜間および日中の窓口閉鎖時間帯)では原則車内精算を行う。ただし2021年2月1日以降名古屋駅 - 弥富駅については全ての駅に自動改札機が設置されているため車内精算を行わず駅で収受する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "亀山駅 - 加茂駅間は閑散区間で、ワンマン運転の普通列車のみが運転されている。使用車両は1993年8月1日からキハ120系気動車が使用されており、この線区で使用されているものは紫で塗装されている。かつては奈良方面など他区間と直通する列車もあったが、2001年3月以降はすべてこの区間内の運転となっている。なお、ワンマン運転の場合における無人駅あるいは日中有人駅(=早朝夜間および日中の窓口閉鎖時間帯)では原則車内精算を行う。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この区間は関西本線の中ではほかの区間と比べて運転本数は少なく、全線通しの列車はほぼ1時間に1本の運行である。ただ伊賀上野駅 - 加茂駅間は朝と夕方から夜間にかけて区間列車の設定がある(2001年3月2日までは昼間時も伊賀上野駅 - 加茂駅間の区間列車の設定があった)。ただし、全駅で交換が可能とはいえこの区間は全線単線であるため、運転間隔は昼間の一部時間帯を除き等間隔ではない。このほか、柘植駅で夜間滞泊を行い翌朝加茂駅へ折り返す加茂駅 - 柘植駅間の区間列車と、深夜に亀山発伊賀上野行きの区間列車(翌朝に伊賀上野発加茂行きとして運行)がそれぞれ設定されている。",
"title": "運行形態"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2001年3月から、線路保守点検による作業時間の確保のため、毎年7月から9月を除いて月1回土曜日の昼間時間帯の列車が運休していた(バスなどによる代行輸送も行われなかった)が、2011年3月12日のダイヤ改正以降は運休は取りやめとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "全列車が加茂駅で大和路線の大和路快速などの快速列車または普通列車と接続するダイヤになっている。一方で亀山駅での名古屋方面行きの列車との接続はある程度図られているが、接続時間にばらつきがある。日中は名古屋方面へ乗り継ぐ場合は20分程度の接続時間を要する(加茂方面へは10分以内で接続している)。2009年3月14日のダイヤ改正時には40分 - 50分程度の接続時間が発生していたが、2012年3月17日のダイヤ改正で改善された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "加茂駅 - JR難波駅間は、各駅に停車する普通と、加茂駅 - JR難波駅間に快速、加茂駅 - 大阪環状線間に大和路快速・区間快速が運転されている。ほかに和歌山線・桜井線 - JR難波方面の直通列車もある。木津駅 - 奈良駅間には奈良線・片町線(学研都市線)の列車も乗り入れている。また、奈良駅 - 久宝寺駅間にはおおさか東線に乗り入れる直通快速が、朝夕に奈良駅 - 大阪駅間で運転されている。また、早朝にはJR難波・王寺方面から奈良駅経由で京都行きの直通列車が運転されており(その逆の京都発奈良・王寺経由のJR難波行きはない)、夕方以降も時刻表には記載がないものの先述の区間を双方向に直通する列車が数本運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "名古屋駅 - 河原田駅間を名古屋駅 - 紀伊勝浦駅間(伊勢鉄道経由)運転の特急「南紀」が通る。かつては河原田駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間にも東京駅 - 湊町駅・和歌山市駅間の夜行急行「大和」を始め、名古屋駅 - 湊町駅・南紀方面や京都駅 - 伊勢方面などを結ぶ多数の優等列車が運行されていた。1965年3月1日から1967年10月1日のダイヤ改正までの短期間だが、関西本線名古屋駅 - 八尾駅間を経由する特急「あすか」が設定されていたこともある。しかし2006年3月18日のダイヤ改正で急行「かすが」が廃止されたのを最後に(廃止時の運転区間は名古屋駅 - 奈良駅間)、事実上大阪環状線と重複している天王寺駅 - 今宮駅間を除き、河原田駅 - JR難波駅間で定期運転の特急・急行列車は設定されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "急行「かすが」廃止以降の臨時列車は、2010年4月 - 6月の土・日曜日に運転された臨時特急「まほろば」があり、新大阪駅発で天王寺駅から関西本線に乗り入れて奈良駅まで運転されていた(途中は王寺駅と法隆寺駅に停車)。また、おおさか東線の全通後の2019年11月2日より同名の列車が指定日に運転されており、大阪駅(2022年までは新大阪駅)からおおさか東線を経由し久宝寺駅 - 奈良駅間で関西本線に乗り入れている(途中無停車)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2024年3月16日のダイヤ改正より、平日に新大阪駅 - 奈良駅間(天王寺経由)で通勤特急「らくラクやまと」が運行される予定。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "貨物列車は、名古屋駅 - 南四日市駅間および貨物支線の四日市駅 - 塩浜駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間で運行されている。そのうち平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間で運行されているものは「城東貨物線」を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "コンテナ車のみで編成された高速貨物列車は名古屋貨物ターミナル駅 - 四日市駅間で1日3往復運行されているほか、石油輸送タンク車を牽引する専用貨物列車が運転される。また四日市駅・塩浜駅 - 稲沢駅( - 南松本駅)間にはタキ1000形貨車のみで編成された高速貨物列車が運行されている。三岐鉄道三岐線 - 富田駅 - 四日市駅間では日本全国で唯一のセメント輸送が行われている。このほか、かつては化学薬品輸送タンク車を牽引する専用貨物列車や四日市駅 - 塩浜駅・南四日市駅間と稲沢駅から伊勢鉄道伊勢線経由で紀勢本線鵜殿駅までのコンテナ列車の運行もあり、鵜殿駅までのコンテナ列車については末期は1日1往復が設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "牽引機はDF200形ディーゼル機関車である。直通先に四日市駅 - 塩浜駅間の貨物支線といった電化されていない路線があるため、電気機関車は使用されない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "関西本線内で使用されている車両の定期運用区間は以下の通り。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "過去に使用されていた車両の運用区間は以下の通り(駅名および車両形式は運行当時のもの。湊町駅は現在のJR難波駅)。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "各年度の区間別の平均通過人員、旅客運輸収入は以下の通り。JR難波駅は1994年9月3日まで湊町駅。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "名古屋駅 - 木津駅間は関西鉄道により開業した。名古屋駅 - 柘植駅間を1895年に開通させた後、柘植駅 - 大仏駅(後に廃止)間を1898年に開通させて名古屋駅 - 奈良駅間を結んだ。同年中には加茂駅 - 新木津駅(後に廃止)間を開通させて、前年に買収した浪速鉄道の路線を経由して、大阪の網島駅(1898年 - 1913年の間、現在の京橋駅近くにあったターミナル駅) - 四条畷駅 - 名古屋駅間に直通列車を走らせた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間は大阪鉄道により1892年に、木津駅 - 奈良駅間は奈良鉄道により1896年に開通している。関西鉄道は大仏駅 - 奈良駅間を開通させた後、1900年に大阪鉄道を買収して名阪間の本線を大仏経由に変更した。その後、奈良鉄道を買収し、1907年には勾配区間を抱えていた加茂駅 - 大仏駅 - 奈良駅間を廃止して本線を木津駅経由に変更、現在のルートが完成した(このときに加茂駅 - 新木津駅間の路線も廃止)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その後、関西鉄道は名阪間で官設鉄道(東海道本線)と激しい競争を繰り広げ、関西鉄道は官営鉄道より20分所要時間の差をつけ、さらには記念品を配ったり運賃を5割引にしたりと派手な誘客作戦を実施した。この誘客合戦は日露戦争に突入した1904年に一旦終息し、鉄道国有法により1907年に関西鉄道が国有化されたことで終わりを告げた(詳細は「関西鉄道」を参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "国有化後はローカル線化していたが、大正時代に入って大阪電気軌道、参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道)などの私鉄が並行して路線網を伸ばしてくると、輸送量が逼迫していた東海道本線に代わり、これらの私鉄路線に対抗する路線として注目され、近鉄に先んじて名古屋駅 - 湊町駅間に快速列車が設定された。1935年(昭和10年)12月1日のダイヤ改正では名古屋駅 - 湊町駅間に朝夕2往復の準急列車が設定され、所要時間は約3時間に短縮された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後は準急列車として復活し(後の「かすが」)、全国に先駆けて気動車化されてスピードアップが図られるが、東海道本線が全線電化され、近鉄もスピードアップや軌間統一を実施し、さらには東海道新幹線の開業や名神高速道路・名阪国道の開通によって、関西本線は名阪間輸送の第一線から退くことを余儀なくされる(「かすが」も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "長らく全線で近代化が遅れていたが、1973年に奈良駅 - 湊町駅間、1982年に名古屋駅 - 亀山駅間が電化され、近郊路線としての性格を強めていく。JR発足後、加茂駅 - JR難波駅間はアーバンネットワークの一環として輸送の改善が図られ、またJR東海も快速「みえ」を設定するなどして輸送の改善を図っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "(貨)は貨物専用駅、それ以外の駅で◆・◇を付した駅は貨物取扱駅を表す(◇は定期貨物列車の発着なし)。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ここではJR東海の管轄である名古屋駅 - 亀山駅間の駅名と主な駅のキロ程のみ記す。接続路線・停車駅などの詳細については「関西線 (名古屋地区)」を参照のこと。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "( )内は起点からの営業キロ",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "名古屋駅◇ (0.0km) - (笹島信号場) - 八田駅 - 春田駅 - 蟹江駅 - 永和駅 - (白鳥信号場) - 弥富駅 - 長島駅 - 桑名駅 (23.8km) - (朝明信号場) - 朝日駅 - 富田駅 - 富田浜駅 - 四日市駅◆ (37.2km) - 南四日市駅◇ - 河原田駅 (44.1km) - 河曲駅 - 加佐登駅 - 井田川駅 - 亀山駅 (59.9km)",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この区間の中間駅(両端駅は含まない)のうち、伊賀上野駅はJR西日本直営駅、関駅・加太駅は無人駅、それ以外の中間駅は簡易委託駅である。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ここでは駅名と主な駅のキロ程のみ記す。接続路線・停車駅などの詳細については「大和路線#駅一覧」を参照のこと。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "( )内は名古屋駅からの営業キロ",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "加茂駅 (120.9km) - 木津駅 (126.9km) - 平城山駅 - (佐保信号場) - 奈良駅 (133.9km) - 郡山駅 - 大和小泉駅 - 法隆寺駅 - 王寺駅 (149.3km) - 三郷駅 - 河内堅上駅 - 高井田駅 - 柏原駅 - 志紀駅 - 八尾駅 - 久宝寺駅 (164.3km) - 加美駅 - 平野駅 (167.5km) - 東部市場前駅 - 天王寺駅 (171.4km) - 新今宮駅 - 今宮駅 - JR難波駅 (174.9km)",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "( )内は起点からの営業キロ。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "( )内は名古屋駅起点の営業キロ。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "( )内は名古屋駅起点の営業キロ。",
"title": "駅一覧"
}
] |
関西本線(かんさいほんせん)は、愛知県名古屋市中村区の名古屋駅から亀山駅、奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区のJR難波駅に至るJRの鉄道路線(幹線)である。名古屋駅 - 亀山駅間が東海旅客鉄道(JR東海)、亀山駅 - JR難波駅間が西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄となっている。このほか日本貨物鉄道(JR貨物)の四日市駅 - 塩浜駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間の貨物支線を持つ。 本項目では主に関西本線全般の概要や沿革などについて記す。地域ごとの詳細については以下の記事も参照。 関西線 (名古屋地区)
大和路線
|
{{出典の明記|date=2023年1月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo JRgroup.svg|35px|link=JR]] 関西本線
|画像 = JR West Kiha 120 DMU 002.JPG
|画像サイズ =
|画像説明 = 非電化区間を行く[[JR西日本キハ120形気動車|キハ120形]]気動車
|通称 = [[大和路線]]([[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] - JR難波駅間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[愛知県]]、[[三重県]]、[[京都府]]、[[奈良県]]、[[大阪府]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[名古屋駅]]
|終点 = [[JR難波駅]]
|駅数 = 52駅(貨物駅含む)
|電報略号 = カサホセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|路線記号 = {{JR海駅番号|CJ}}(名古屋駅 - [[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]間)<br />{{JR西路線記号|K|V}}(亀山駅 - 加茂駅間)<br />{{JR西路線記号|K|Q}}(加茂駅 - JR難波駅間)<br />{{JR西路線記号|K|D}}([[木津駅 (京都府)|木津駅]] - [[奈良駅]]間)
|開業 = [[1889年]][[5月14日]]
|最終延伸 = [[1964年]][[11月24日]]
|廃止 =
|所有者 = [[東海旅客鉄道]]<br />(名古屋駅 - 亀山駅間)<br />[[西日本旅客鉄道]]<br />(亀山駅 - JR難波駅間)<br />[[日本貨物鉄道]]<br />([[四日市駅]] - [[塩浜駅]]間、[[平野駅 (JR西日本)|平野駅]] - [[百済貨物ターミナル駅]]間)
|運営者 = 上記各第1種鉄道事業者および<br />日本貨物鉄道<br />(名古屋駅 - 亀山駅間 第2種鉄道事業者)
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 174.9 [[キロメートル|km]](名古屋駅 - JR難波駅間)<br />3.3 km(四日市駅 - 塩浜駅間)<br />1.4 km(平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間)
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = [[複々線]]、[[複線]]、[[単線]]<br />複線以上の区間は[[#路線データ|路線データ]]の節を参照
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]](名古屋駅 - 亀山駅間、加茂駅 - JR難波駅間)
|最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]]
|諸元備考 = 備考
|諸元備考内容 = 廃止された[[八尾駅]] - [[杉本町駅]]間の路線諸元については[[阪和貨物線]]を、加茂駅 - 奈良駅間の旧線については[[大仏駅#大仏線|大仏線]]をそれぞれ参照
|路線図 = LineMap Kansai jp.png
}}
{{BS-map
|title=経路図
|title-bg=white
|title-color=black
|map=
{{BS2|ELCa|KBHFa|0.0|[[名古屋駅]]||}}
{{BS2|BL|LSTR|||[[関西線 (名古屋地区)]]を参照|}}
{{BS2|ELCe|BHF+GRZq|59.9|[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]|↑[[東海旅客鉄道|JR東海]]/[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]↓}}
{{BS2||LSTR||[[#亀山駅 - 加茂駅間|亀山駅 - 加茂駅間]]を参照|}}
{{BS2|ELCa|BHF|120.9|[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]|}}
{{BS2|BL|LSTR|||[[大和路線]]を参照|}}
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{{BS2|BL|LSTR|||}}
{{BS2|ELCe|KBHFe|174.9|[[JR難波駅]]|}}
}}
'''関西本線'''(かんさいほんせん)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]の[[名古屋駅]]から[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]、[[奈良駅]]を経て[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]の[[JR難波駅]]に至る[[JR]]の[[鉄道路線]]([[幹線]])である<ref name="kotobank">{{Kotobank}}</ref><ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、pp.38,47</ref>。名古屋駅 - 亀山駅間が[[東海旅客鉄道]](JR東海)、亀山駅 - JR難波駅間が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の管轄となっている<ref name="youran" /><ref name="spec_jrc">「[https://company.jr-central.co.jp/ir/financial-statements/detail/_pdf/000042110.pdf#page=34 主要な施設の状況]」『第35期有価証券報告書』東海旅客鉄道</ref><ref name="data2022p55">『[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022.pdf データでみるJR西日本2022]』西日本旅客鉄道、p.54</ref>。このほか[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[四日市駅]] - [[塩浜駅]]間、[[平野駅 (JR西日本)|平野駅]] - [[百済貨物ターミナル駅]]間の貨物支線を持つ<ref name="youran_jrf">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.59</ref>。<!-- このほかの説明は、概要章に記述してください。なお支線の分岐地点は『鉄道要覧』記載のものによります。 -->
本項目では主に関西本線全般の概要や沿革などについて記す。地域ごとの詳細については以下の記事も参照。
* [[関西線 (名古屋地区)]](名古屋駅 - 亀山駅間)
* [[大和路線]](加茂駅 - JR難波駅間)
== 概要 ==
[[名古屋市|名古屋]]と[[大阪市|大阪]]を[[三重県]]の[[北勢]]地方、[[伊賀]]地方、[[京都府]]南部、[[奈良県]]北部を経由して結んでいる。[[私鉄|民間の鉄道会社]]である[[関西鉄道]]の路線として開業し、名古屋と奈良・大阪を最短距離で結ぶ鉄道路線<ref name="aramashi">{{Cite web|和書|title=生活交通:関西本線のあらまし|work=関西本線でGO!|url=https://www.pref.mie.lg.jp/KOTSU/HP/kansaihonsen/74408045363.htm|publisher=三重県|accessdate=2021-10-16|language=ja}}</ref>として[[鉄道省|鉄道作業局]]の時代から国有鉄道と乗客を奪い合った歴史を持ち、路線名もこの社名に由来する。関西鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]後は[[1970年代]]まで全線を直通する列車が運転されていたが、並行する[[東海道本線]]や[[東海道新幹線]]の整備、[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[近鉄特急|名阪特急]]の台頭、[[名阪国道]]や[[名神高速道路]]の開通による[[モータリゼーション]]の普及などにより、名阪間の輸送からは撤退した<ref name="trafficnews20220518" />。現在では[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]、[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]を境界として運転系統が3区間に分割されており、境界となる駅を跨いで運転される旅客営業列車は、2006年の急行「[[かすが (列車)|かすが]]」の廃止以降は一切運転されておらず、名阪間の都市間輸送路線としての性格は完全に消滅している<ref name="aramashi" /><ref name="trafficnews20220518">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/118679/ |title=JR関西本線「亀山~加茂」なぜ凋落したのか 名古屋~奈良の最短ルート かつては特急も|website=乗りものニュース|date=2022-05-18|access-date=2023-01-15}}</ref>。
JR東海エリアの[[関西線 (名古屋地区)|名古屋駅 - 亀山駅間]]は[[中京圏|名古屋都市圏]]の通勤・通学路線としての役割を持つ。名古屋駅 - [[河原田駅]]間では、[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢鉄道]]に乗り入れて三重県中南部や[[和歌山県]][[南紀]]地方へ向かう[[特別急行列車|特急]]「[[南紀 (列車)|南紀]]」や[[快速列車|快速]]「[[みえ (列車)|みえ]]」などの直通列車が運行されており、河原田駅 - 亀山駅間は名古屋方面との普通・快速列車のみが運行されている<ref name="jtbtt_kansai_nagoya">JTBパブリッシング『JTB時刻表』2022年3月号、pp.271-276</ref>。[[近鉄名古屋線]]と競合関係にあるが、この区間は[[単線]]区間が未だに多く存在し、設備や運行本数・利便性などで近鉄の方が有利な状況にある。
JR西日本エリアのうち亀山駅 - 加茂駅間は単線の[[非電化]]区間であり、1両ないし2両の[[気動車]]による地域輸送(ローカル輸送)に徹している<ref name="trafficnews20220518" />。沿線は山間部が多くを占め、大都市圏に含まれる他の2区間と比べると沿線人口は圧倒的に少ない<ref name="trafficnews20220518" />。また、2022年4月11日にJR西日本が公表したローカル線の線区別収支によると、同区間は2019年度の[[輸送密度]]が1日2000人以下となっており、JR西日本は路線の活性化策などを関係自治体と協議したい考えで、廃線も視野に議論が進む可能性があると報じられている<ref>{{Cite press release|和書|title=ローカル線に関する課題認識と情報開示について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2022-04-11|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220411_02_local.pdf|format=PDF|accessdate=2022-04-12}}</ref><ref>{{Cite news|title=JR西日本、ローカル線収支を初公表 利用少ない17路線、廃線議論も|newspaper=毎日新聞|date=2002-04-11|url=https://mainichi.jp/articles/20220411/k00/00m/020/047000c|accessdate=2022-04-11}}</ref>が、三重県側の地元自治体の一つである亀山市は存続希望を示している<ref>{{Cite news |title=関西本線存続求める意向 亀山市長がJR西日本に |newspaper=伊勢新聞 |date=2022-06-18 |author= |url=https://www.isenp.co.jp/2022/06/18/76843/ |accessdate=2022-06-20}}</ref>。
JR西日本エリアの電化区間(加茂駅 - JR難波駅間)には1988年3月から「'''[[大和路線]]'''」(やまとじせん)という愛称が付与され、[[アーバンネットワーク]]を構成する路線の一つに位置づけられている<ref>{{Cite book|和書 |title=国鉄・JR 関西圏 近郊電車発達史 |publisher=JTBパブリッシング |year=2014 |page=115 |author=寺本光照 |series=キャンブックス}}</ref>{{Refnest|group="注"|大和路線に限らず関西地区においては利用者の間でもアーバンネットワーク各路線を愛称で呼ばれることが定着しており、[[在阪テレビジョン放送局|在阪各テレビ局]]<ref group="注">[[サンテレビジョン]]・[[びわ湖放送]]・[[京都放送]]・[[テレビ和歌山]]・[[奈良テレビ放送]]を含む</ref>を中心に関西地方のマスコミも路線愛称で報道している。}}。[[大阪都市圏]]の通勤・通学路線としての役割を持ち、[[大阪環状線]]に直通して[[大阪駅]]([[梅田]])方面に至る「[[大和路快速]]」も設定されているほか、奈良へ向かう観光路線としての性格もある。なお、大阪 - 奈良間の都市間輸送については[[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄奈良線|奈良線]]と競合関係にあるが、JRの[[奈良駅]]が[[近鉄奈良駅]]と比較して[[奈良市]]の中心部からやや離れていることや、関西本線が[[生駒山地]]を南側に迂回するルートを通っていることもあって、近鉄奈良線が有利な状況になっている。王寺駅 - JR難波駅間では、[[和歌山線]]や[[桜井線]]方面に直通する快速列車も運行されている<ref name="jrbtt_yamatoji">JTBパブリッシング『JTB時刻表』2023年3月号、pp.278-281,302-305</ref>。
柘植駅 - JR難波駅間は[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|大阪近郊区間]]」に含まれており、そのうち奈良駅 - JR難波駅間が[[電車特定区間]]、[[天王寺駅]] - JR難波駅間が大阪環状線内に含まれ、区間外よりも割安な近距離運賃が設定されている<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、JTBパブリッシング、営業案内25,46頁</ref>。また、JR東海管内の名古屋駅 - 亀山駅間が[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[TOICA]]」のエリアに<ref name="toicaarea">{{Cite web|和書|url=http://toica.jr-central.co.jp/area/|title=鉄道ご利用エリア|TOICA|publisher=東海旅客鉄道|accessdate=2019-03-05}}</ref>、JR西日本管内の亀山駅 - JR難波駅間が同「[[ICOCA]]」のエリアに含まれている<ref name="icocaarea">{{Cite web|和書|url=http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html|title=ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-05}}</ref><ref name="ICOCA20210119" />。
名古屋駅 - 亀山駅間はJR東海[[東海旅客鉄道東海鉄道事業本部|東海鉄道事業本部]]の管轄(該当全区間直轄)、亀山駅(構内を除く) - JR難波駅間はJR西日本[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]の管轄である。
[[駅ナンバリング|路線記号]]は名古屋駅 - 亀山駅間が '''CJ'''<ref name="jrc-stationnumber">{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000035928.pdf 在来線駅に駅ナンバリングを導入します]}} - 東海旅客鉄道、2017年12月13日</ref>、亀山駅 - 加茂駅間が ''' V '''、加茂駅 - JR難波駅間が '''Q'''(木津駅 - 奈良駅間は[[奈良線]]の列車が乗り入れているため、重複して '''D''' も付与)<ref name="jrw20140806">[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長179.6 km(支線含む。名古屋駅 - JR難波駅間は174.9 km<ref name="aramashi" />)<ref name="youran_jrc">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.38</ref><ref name="youran_jrw">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.47</ref><ref name="youran_jrf" />
** 東海旅客鉄道(JR東海、[[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
*** 名古屋駅 - 亀山駅間 59.9 km<ref name="youran_jrc" /><ref name="spec_jrc" />
** 西日本旅客鉄道(JR西日本、第一種鉄道事業者):
*** 亀山駅 - JR難波駅間 115.0 km<ref name="youran_jrw" /><ref name="data2022p55" />
** 日本貨物鉄道(JR貨物):
*** 第一種鉄道事業区間:
**** 四日市駅 - 塩浜駅間 3.3 km<ref name="youran_jrf" />
**** 平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間 1.4 km<ref name="youran_jrf" />
*** [[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]区間: <!-- (このキロ数は全長に含まず) -->
**** 名古屋駅 - 亀山駅間 (59.9 km)<ref name="youran_jrf" />
* [[軌間]]:[[3フィート6インチ軌間|1,067 mm]]<ref name="youran" /><ref name="youran_jrf" />
* 駅数:52
** [[旅客駅]]:50(起終点駅含む、支線の駅を除く)
*** JR東海:18(名古屋駅を含む)<ref name="spec_jrc" />
*** JR西日本:32(亀山駅を除く)<ref name="data2022p55" />
**** 関西本線所属の旅客駅に限定した場合、東海道本線所属の名古屋駅と大阪環状線所属の新今宮駅<ref name="teisya">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref>が除外され、48駅(JR東海は17駅、JR西日本は31駅)となる。
** [[貨物駅]]:2(旅客併設駅を除く)
* 複線区間:
** [[複々線]]
*** 天王寺駅 - 新今宮駅間<ref group="注" name="double-track">民営化時に当時の運輸省に提出された事業基本計画、国土交通省監修の『[[鉄道要覧]]』および、JR西日本が発行している『データで見るJR西日本』には、大阪環状線に天王寺駅 - 新今宮駅間が含まれていない。これによるなら、天王寺駅 - 新今宮駅間は関西本線の複々線であるが、運行形態とするなら複線区間は、木津駅 - JR難波駅間である。</ref>(1.0 km)
** [[複線]]
*** 名古屋駅 - 笹島信号場間<ref name="hitome">「ひと目でわかる!JR線 電化区間と複線区間」『JTB時刻表』2022年3月号、JTBパブリッシング、特集6-7頁</ref>
*** 弥富駅 - 桑名駅間<ref name="hitome" />
*** 朝明信号場 - 富田駅間<ref name="hitome" />
*** 富田浜駅 - 四日市駅間<ref name="hitome" />
*** 南四日市駅 - 河原田駅間<ref name="hitome" />
*** 木津駅 - 天王寺駅間<ref name="hitome" />
*** 新今宮駅 - JR難波駅間<ref group="注" name="double-track"/>
* 電化区間:名古屋駅 - 亀山駅間、加茂駅 - JR難波駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間電化([[直流電化|直流]]1,500 V)<ref name="hitome" />
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式<ref>鉄道統計年報平成29年度版</ref>
* 保安装置:
** 名古屋駅 - 亀山駅間:[[自動列車停止装置#ATS-PT形 (JR東海ATS-P)|ATS-PT]]
** 亀山駅 - 加茂駅間:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]]
** 加茂駅 - 王寺駅間:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]およびATS-SW(拠点P)<ref name="kyoten">[https://www.westjr.co.jp/safety/action/ats/ ATS-Pの整備状況] - JR西日本</ref>
** 王寺駅 - JR難波駅間:ATS-P(全線P<ref name="zensen">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/fukuchiyama/RA07-3-1-1.pdf 鉄道事故調査報告書]}} - 航空・鉄道事故調査委員会</ref>)
* [[運転指令所]]:
** 名古屋駅 - 亀山駅:[[東海総合指令所]]
** 亀山駅 - JR難波駅:[[大阪総合指令所]]
* [[鉄道の最高速度|最高速度]]:
** 名古屋駅 - 河原田駅間・奈良駅 - 天王寺駅間:120 km/h
** 河原田駅 - 奈良駅間・天王寺駅 - JR難波駅間:95 km/h
* [[列車運行管理システム]]:加茂駅 - JR難波駅間… [[運行管理システム (JR西日本)|大阪環状・大和路線運行管理システム]]{{要出典|date=2023年1月}}
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]:柘植駅 - JR難波駅(大阪近郊区間)<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、JTBパブリッシング、営業案内46頁</ref>
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[TOICA]]エリア:名古屋駅 - 亀山駅間<ref name="toicaarea" />
** [[ICOCA]]エリア:亀山駅 - JR難波駅間(柘植駅 - JR難波駅は[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間。亀山駅 - 加茂駅間は車載型IC改札機で対応)<ref name="icocaarea" />
== 沿線概況 ==
{{出典の明記|date=2023年1月|section=1}}
=== 名古屋駅 - 亀山駅間 === <!--節名変更の際は[[関西線 (名古屋地区)]]項のリンクも変更してください-->
[[File:亀山駅.JPG|thumb|200px|電化されている[[関西線 (名古屋地区)|名古屋地区]]と[[#亀山駅 - 加茂駅間|非電化区間]]との境目である[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]]]
[[名古屋駅]]を南向きに出発した列車は、[[名古屋車両区]]への回送線および[[名古屋臨海高速鉄道]][[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]]とともに右に曲がり、東海道本線などから離れる。左側にはかつて[[笹島駅]](貨物)であった跡地が広がる。右側を走っていたあおなみ線が頭上を越えて左側に移ると、進行方向右側には名古屋車両区が広がる。最初に関西鉄道が開業した「[[愛知駅]]」はここに位置した。[[名古屋高速5号万場線]]をアンダークロスした後、高架となり、あおなみ線が左へ離れていくと、間もなく[[八田駅]]に着く。その後、[[庄内川]]橋梁の手前で[[近鉄名古屋線]]をアンダークロスし、[[国道302号]]を乗り越えると2001年に新設された[[春田駅]]に着く。その後、[[蟹江駅]]、[[永和駅]]を経て[[弥富駅]]に到着する。弥富駅では[[名鉄尾西線]]と接続する。同駅から桑名駅までは近鉄線と並行する。[[木曽川]]を渡ると[[三重県]]に入り、[[長島駅]]を経て[[長良川]]と[[揖斐川]]を渡る。この区間は[[1959年]]の[[伊勢湾台風]]で甚大な被害を受けた。また、この付近で近鉄名古屋線の旧線跡が垣間見える。[[桑名駅]]に着く手前で関西本線が近鉄線を潜る。
桑名駅は近鉄名古屋線のほか、[[養老鉄道養老線]]や[[三岐鉄道北勢線]]と接続する。三岐鉄道北勢線を潜り、[[朝明信号場]]で複線になった後、近鉄名古屋線と併走しながらカーブして[[朝日町 (三重県)|朝日町]]に入り、[[東芝]]の工場の手前で近鉄線と離れ[[朝日駅]]に。[[伊勢湾岸自動車道]]を潜る手前で[[四日市市]]に入り、[[三岐鉄道三岐線]]と近鉄線を潜り[[富田駅 (三重県)|富田駅]]に着く。三岐鉄道と貨物列車の連絡が行われており、駅東側に貨物ヤードが広がる。
この駅は三岐鉄道の基地でもあり、東口を出た先には本社ビルがある。ここから先は四日市の工場地帯となり、大小の工場や事業所などが広がる。[[国道1号]]・[[国道23号]]と寄り添い、[[富田浜駅]]を経て[[四日市駅]]に着く。四日市駅は市名を冠した駅であるが、市の中心駅は実質的に[[近鉄四日市駅]]である。[[塩浜駅]]への貨物線が分岐する貨物列車の一大拠点であり、貨車が多く置かれている。
四日市駅の次の[[南四日市駅]]を過ぎ、工業地帯を抜けると[[河原田駅]]に着く。同駅では[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢鉄道]]と接続し、途中で単線が上下線から別れその間を走って駅に着く。伊勢鉄道のホームは築堤上にあり、跨線橋で結ばれている。名古屋駅発の特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」や快速「[[みえ (列車)|みえ]]」などの列車はこの駅から伊勢鉄道へ乗り入れ、[[津駅]]を経て[[鳥羽駅]]、[[新宮駅]]、[[紀伊勝浦駅]]に向かう。
河原田駅から単線区間になる。車窓は田園風景となり民家も少なく、[[鈴鹿山脈]]の南端に沿って小高い山の裾を廻る。[[鈴鹿市]]に入り、線路の南に沿って流れる[[鈴鹿川]]の水面が現れる。[[河曲駅]]を過ぎ、次の[[加佐登駅]]では駅の北側斜面に民家が密集し南にコンクリート工場がある。[[亀山市]]に入り、近くに団地のある[[井田川駅]]を過ぎると堤防に遮られて鈴鹿川が見えなくなる。水田が散在する中、左手から[[紀勢本線]]が合流して亀山駅に着く。駅前は雑居ビルが建つものの市街地の中心ははっきりしない。丘陵地にあり、南に鈴鹿川、北に台地が控え、またかつての亀山城の櫓がわずかに残る。亀山駅はJR東海の管轄駅であり、JR西日本区間との[[境界駅]]である。3面5線の構造で、紀勢本線と接続するが、多くの急行が行き交った頃の面影はない。
=== 亀山駅 - 加茂駅間 ===
{{関西本線(亀山駅 - 加茂駅)路線図}}
[[ファイル:JR West Kiha 120 DMU 006.JPG|thumb|150px|left|非電化区間(亀山駅 - 加茂駅間)を走る気動車[[JR西日本キハ120形気動車|キハ120]]]]
[[ファイル:木津川.jpg|thumb|150px|left|木津川を横に伸びる関西線の線路]]
この区間は[[非電化]]である。現在では単行(1両編成)や2両編成の[[気動車]]([[JR西日本キハ120形気動車|キハ120形]])で普通列車が走るのみだが、かつては[[急行列車]]や[[貨物列車]]など長大編成の列車が走っていたため、各駅ともホームや[[列車交換|交換設備]]の[[有効長]]が非常に長い。かつては多くの駅に[[停車場#線名|中線]](上り線と下り線の間にある待避線)があり、中線があった駅は上り線と下り線の間に中線が撤去された空間が空いている。
この区間は山間部が多い。[[大和街道]]に沿っており、[[木津川 (京都府)|木津川]]と支流の[[柘植川]]が見える。
亀山駅からは[[国道1号]]と併走して、[[東海道]]の宿場[[関宿]]の最寄り駅相対式2面2線の[[関駅 (三重県)|関駅]]に着き、ここから国道1号と重複していた[[国道25号]]と並走して相対式2面2線の[[加太駅 (三重県)|加太駅]]に着く。2018年4月の関駅無人化までは加太駅はこの区間では唯一の無人駅であった。この先、[[鈴鹿山脈]]と[[布引山地]]の境界に当たる加太駅 - 柘植駅間には、加太越えと呼ばれる25 [[パーミル|‰(パーミル)]]の[[線形 (路線)#|急勾配]]があり、[[蒸気機関車]]が走っていた頃は多くの鉄道ファンが訪れた。[[スイッチバック]]式の[[中在家信号場]]([[2006年]]に使用停止、2019年に廃止)があった。信号場の先にある加太トンネルでは、蒸気機関車の[[煤煙]]が[[操縦席|運転台]]に充満することを防ぐために、トンネル入り口に遮蔽幕を設置し、列車通過後にこの幕を下ろして列車後方の気圧を下げ、煤煙を列車後方に集める工夫もなされていた。日本全国の急勾配や長大なトンネルで、乗務員の[[酸素欠乏症|酸欠]]や[[窒息]]事故が多発したため、対策が施された。[[伊賀市]]に入り、単式と島式の2面3線の[[柘植駅]]では[[草津線]]が分岐する。かなり構内が広いが、駅は寂しい。もともと関西鉄道は東海道のルートに沿って草津から亀山へ向かって線路を敷設したため、亀山方面から見ると草津線が直線で、関西本線が左へ分岐するような線形となっている。かつて、柘植駅には加太越えの蒸気機関車のために[[転車台]]や[[給水塔]]もあったが、現在はすべて撤去されている
柘植駅を出ると周囲は開け、[[上野盆地|伊賀盆地]]を走り、[[新堂駅]]となる。かつては単式と島式の2面3線であったが、現在は島式1面2線である。しばらく西に向いて走り、単式2面2線の[[佐那具駅]]となる。次の[[伊賀上野駅]]はこの区間の途中駅のなかでは唯一の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、ワンマン取り扱い駅ではない。この駅からは加茂駅への区間列車がある。単式とそこにある切欠と島式の2面4線の構造で、うち3線をJRが使用し、下りホーム反対側の切欠1線には伊賀市(旧[[上野市]])の市街地を経て[[伊賀神戸駅]]に向かう[[伊賀鉄道伊賀線]]が発着する。[[忍者]]で有名な伊賀市の中心は伊賀鉄道の[[上野市駅]]付近一帯である。そこに[[上野城]]があるが、この駅の少し先から見える。
伊賀上野駅を出ると、並走する大和街道は[[国道163号]]に変わり、柘植川も木津川に変わる。しばらく平地を走り、単式2面2線の[[島ケ原駅]]からは山間地へと入る。車窓から、この区間最大の見所である、木津川の渓谷美を見ることができるが、[[集中豪雨|大雨]]が降るとしばしば不通となり、保安上のネックにもなっている。[[京都府]][[南山城村]]に入り、単式2面2線の[[月ケ瀬口駅]]となる。[[月ヶ瀬梅林]]への最寄り駅で[[ウメ|梅]]の花見の時期は多くの客で賑わう。南山城村役場に近い単式2面2線の[[大河原駅 (京都府)|大河原駅]]を過ぎ、[[笠置町]]に入り、桜と渓谷美で有名な島式1面2線の[[笠置駅]]となる。[[木津川市]]に入ると、[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]に到着する。加茂駅は島式2面3線の[[橋上駅]]で、天王寺・大阪方面への[[大和路快速]]または奈良方面への普通列車と接続している。亀山方面からの気動車は基本的に中線から発着する。中線は両側をホームに挟まれており、奈良・天王寺・大阪方面の電車と同一ホームで[[対面乗り換え]]可能である。
{{-}}
=== 加茂駅 - JR難波駅間(大和路線) ===<!--節名変更の際は[[大和路線]]の項のリンクも変更してください-->
[[ファイル:JR West Old Nara Station building 002.JPG|thumb|保存された旧奈良駅舎]]
加茂駅以西は電化区間となり、不動山トンネルを抜け[[木津駅 (京都府)|木津駅]]に至る。この辺りには、関西鉄道が路線の買収によってネットワークを構築する過程で放棄された路線が廃線跡として残っている([[#歴史|歴史]]節を参照)。このほか、不動山トンネル付近ではトンネルの老朽化によって線路が付け替えられた旧線跡がある。加茂駅 - 木津駅間は単線だが、2004年の近畿地方交通審議会答申8号では、この区間を複線化するように答申している。木津駅は[[奈良線]]と[[片町線]](学研都市線)が分岐し、奈良・京都・京橋方面への交通の要衝であるが、都市圏から比較的近い割に利用客はさほど多くはない。[[木津川市]](旧[[木津町]])の代表駅ではあるが、JRの木津駅ではなく近鉄京都線の[[高の原駅]]や[[木津川台駅]]を利用する木津川市民(旧木津町域住民)も多い。木津駅を出ると[[京奈和自動車道]]の[[木津インターチェンジ (京都府)|木津インターチェンジ]]や[[国道24号]]などを右に見ながら進み、[[奈良県]]に入ると[[平城山駅]]となる。すぐ先に[[佐保信号場]]があり[[吹田総合車両所]]奈良支所への入出区線が分岐する。奈良市北部の新興地域を行くこのあたりは、新しい住宅地と古墳群が同居している。次の[[奈良駅]]では[[桜井線]](万葉まほろば線)が分岐する。また奈良線の列車もすべて奈良駅まで運転される。奈良駅付近は高架化の際に、寺社風建築で有名な旧奈良駅舎の撤去が検討されたが、現地付近に保存されることとなった。奈良駅は主要観光地や官公庁・ビジネス街などへのアクセス、バス路線との乗り換えなどにおいて、[[近鉄奈良駅]]や[[新大宮駅]]に対して劣勢に立ち、JRの京都・大阪方面への競争力も運賃・所要時間・本数面で近鉄より低いため利用者は少ない。駅周辺は高架化工事の前後から再開発工事が進められて、西口にも駅前広場やバスターミナルが設置されている。
奈良駅 - 王寺駅間では、斑鳩の[[法隆寺]]付近を通る。奈良を出て、しばらく奈良盆地の中を進むと[[大和郡山市]]に入り、2面2線の[[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]]となる。大和郡山市役所や郡山城跡など市の中心部は近鉄の[[近鉄郡山駅]]が近い。住宅地と田畑と金魚の飼育のための池を見ながら、[[近鉄橿原線]]を潜って進むと[[大和小泉駅]]。次の[[法隆寺駅]]は[[斑鳩町]]の中心駅で、2面2線の橋上駅となっている。法隆寺はこの駅からかなり離れたところに位置する。法隆寺を出ると奈良盆地南部の田畑の中を真っ直ぐに走る。[[大和川]]を渡って[[近鉄田原本線]]を潜ると、左手から[[和歌山線]]が合流し、国道25号を潜り[[王寺駅]]となる。この駅は和歌山線のほか[[近鉄生駒線]]、近鉄田原本線が集結する奈良県西部の交通の要衝となっており、利用者も多い。
[[ファイル:Dai-yon Yamatogawa kyoryo07.JPG|thumb|[[第四大和川橋梁]](大阪府[[柏原市]])を渡る[[大和路快速]]]]
[[ファイル:JRW Kawachi-Katakami.jpg|thumb|桜が満開の河内堅上駅]]
王寺駅 - 柏原駅間は大和川に沿って走る。この区間は[[地すべり]]の多発地帯であり、[[1932年]]にはこの区間の[[亀ノ瀬トンネル]]が変形して使用不能となり、経路変更によって、2箇所の橋梁で大和川の南岸に迂回する不自然な線形になった。柏原からは[[大阪平野]]を走る。周囲はすっかり都市化し、住宅やマンションの立ち並ぶ車窓となる。王寺駅を出て、大和川を渡ると三郷町の中心駅で、[[竜田大社]]の最寄り駅[[三郷駅 (奈良県)|三郷駅]]。この先、国道25号も併走して[[大阪府]]柏原市に入り、2面2線の[[河内堅上駅]]となる。春になると多くのカメラマンが同駅構内の[[サクラ|桜]]の撮影に訪れる。河内堅上駅を出て右左にカーブして大和川を渡り、[[高井田駅 (大阪府柏原市)|高井田駅]]。高井田駅を出ると右手には山が迫り、[[近鉄大阪線]]を潜ると、左手には国道25号と大和川が並行する。しばらくこの隘路を進むと、近鉄線が右手に離れ[[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]となる。2面4線の構造で[[近鉄道明寺線]]も発着している。王寺駅からカーブを縫うように走ってきた線路は柏原駅を過ぎると直線区間が多くなり、100km/h前後の制限を強いられて走ってきた[[JR西日本221系電車|221系]]電車で運転の大和路快速や昼間の快速はここから一気に最高速度の120km/hへと加速する。[[八尾市]]に入り、[[国道170号]](大阪外環状線)の高架橋を潜るとすぐに[[志紀駅]]、その後線路はほぼ真っ直ぐ進み、2面2線の[[八尾駅]]となる。八尾市の中心駅ではあるが、八尾市中心部からはやや外れている。約1kmほど北に近鉄の[[近鉄八尾駅]]があり、周辺は大型商業施設や銀行のある商店街となって栄えているうえ、バス路線との乗り換えにおいても近鉄の方が便利なので、JRの八尾駅の利用者は近鉄八尾駅よりは多くない。八尾駅を出ると、[[竜華操車場]]跡の北側に沿い、緩やかにカーブしている。やがて[[おおさか東線]]と接続する[[久宝寺駅]]となる。この駅は2面4線の橋上駅で普通と快速の接続が行われている。かつては上下線が竜華操車場を挟んでおり、上下線ホームはかなり離れていたが、竜華操車場廃止後の1997年に下り線が上り線側に移設された。その後に行われた区画整理事業で操車場や旧下り線の跡形はあまりわからなくなっている。[[近畿自動車道]]と[[大阪府道2号大阪中央環状線|大阪中央環状線]]を潜ったあたりで[[大阪市]][[平野区]]に入り、大阪市に入って[[加美駅]]の手前で、おおさか東線が右手に分かれる。左手には2009年に廃止された[[阪和貨物線]]跡が見える。加美を出て、右手から[[おおさか東線#城東貨物線|城東貨物線]]の単線が並走する。ここからJR貨物の[[百済貨物ターミナル駅]]の間は貨物列車が走る。城東貨物線は関西本線上り線(名古屋方面)に接続するため、貨物列車は上下列車とも関西本線の上り線を走行する状態が長く続いていた。しかし2010年の線路付け替え工事によって、貨物線は分離された。[[平野川]]を渡ると[[平野駅 (JR西日本)|平野駅]]。平野駅はホーム2面4線の待避可能駅だが、下り線(JR難波方面)の通過線にはホームがない。平野駅を過ぎ、[[国道479号]](内環状線)を乗り越え、百済貨物ターミナル駅を見ながら高架を駆け上がる。[[今里筋]]を乗り越えると[[東部市場前駅]]。[[近鉄南大阪線]]の高架を望みながら進み、高架の[[阪和線]]を潜り、[[大阪環状線]]が右から合流すると[[天王寺駅]]に到着する。天王寺駅は大阪環状線・阪和線と接続するほか、[[大阪市営地下鉄]][[大阪市営地下鉄御堂筋線|御堂筋線]]と[[大阪市営地下鉄谷町線|谷町線]]そして、[[あびこ筋]]を挟んで南側には近鉄南大阪線と[[阪堺電気軌道上町線]]もあり、日本国内有数の一大ターミナルとなっている。
天王寺駅から今宮駅までの間は大阪環状線と並行している。天王寺駅を出ると、[[阪神高速14号松原線]]を潜り、[[阪堺電気軌道阪堺線]]と[[堺筋]]を乗り越えて[[新今宮駅]]に至る。同駅では関西本線と大阪環状線とを同じホームで乗り換えられるような構造となっているほか、[[南海本線]]や阪堺電気軌道とも連絡しており、JR難波寄りの階段を上がって改札を出ればすぐに南海の改札がある。また新今宮駅の前後には渡り線があり、関西本線や阪和線の大阪方面直通列車は同駅付近で大阪環状線に転線する。次の[[今宮駅]]も関西本線・大阪環状線ともに高架駅となっており、関西本線下りホームと大阪環状線外回りホームと同一平面上で乗り換えができる。今宮駅を出ると右にカーブしながら高架から地下へ下り、<!--浪速区敷津西2丁目より--><!--統合元記事にて、トンネル要目の出典がないためコメントアウト。-->関西本線唯一の地下トンネルである「なにわトンネル」となり、終着駅の[[JR難波駅]]に至る。JR難波駅はかつて「湊町駅」と称していたが、[[関西国際空港]]の開港にあわせ1994年に改称され、1996年には地下化された。駅は島式2面4線ホームの地下駅で、[[なにわ筋線]]計画に対応し通過駅としての設計構造<ref>今尾恵介 監修『日本鉄道旅行地図帳』10号 大阪、新潮社、2009年 {{ISBN2|978-4-10-790028-9}}</ref>となっているほか、1番線と4番線の奥には引上線が設置されている<ref>川島令三 著『関西圏通勤電車徹底批評』(上巻)草思社、2004年<!--、p.xxx--> {{ISBN2|978-4-7942-1359-4}}</ref>。なお、地下化に伴い全面的に改築されたこともあって、かつて長距離列車が発着したころの面影はない。この駅では大阪市営地下鉄[[大阪市営地下鉄千日前線|千日前線]]や御堂筋線・[[大阪市営地下鉄四つ橋線|四つ橋線]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]]、[[阪神電気鉄道|阪神]]、[[南海電気鉄道|南海]]と連絡しているが、やや離れている。駅の直上は[[大阪シティエアターミナル]] (OCAT) があり、[[大阪国際空港]]や関西国際空港への[[リムジンバス]]や各地への[[高速バス]]のターミナルとして機能している。ただ、南海難波駅からは相当の距離があり、乗り換えには15分以上を要するので、南海との乗り換えはむしろ新今宮駅の方が便利である。なにわトンネルの地上部(地下化以前の線路跡)は難波塩草敷津公園<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/keiyakukanzai/cmsfiles/contents/0000146/146337/1-10naniwa.xls 公有財産一覧表【浪速区】] (XLS) - 大阪市(2012年6月26日閲覧)</ref>と称する都市公園となっているほか、駅周辺は[[ミナミ]]の繁華街からは少し外れているものの、超高層マンションやビルが林立するなど再開発が急速に進展している。
== 運行形態 ==
=== 地域輸送 ===
現在、全区間を通して走る列車はなく、JR東海が管轄する名古屋駅 - 亀山駅間、JR西日本の非電化区間である亀山駅 - 加茂駅間、同社の電化区間である加茂駅 - JR難波駅間の3区間に分かれている<ref name="aramashi" />。
==== 名古屋駅 - 亀山駅間(JR東海) ====
{{Main|関西線 (名古屋地区)}}
この区間では各駅に停車する普通列車、線内のみ運転の快速、ラッシュ時のみの区間快速に加え、河原田駅から[[伊勢鉄道伊勢線]]・紀勢本線・[[参宮線]]に直通する[[快速列車|快速]]「[[みえ (列車)|みえ]]」が運転されている<ref name="jtbtt_kansai_nagoya" />。四日市駅 - 河原田駅ではこのほかに[[伊勢鉄道]]の車両による伊勢鉄道伊勢線直通の普通列車がある<ref name="jtbtt_kansai_nagoya" />。「みえ」以外の列車は昼間を中心に[[ワンマン運転]]([[列車番号]]の末尾がGの列車)が行われている<ref name="交通2001-02-08">{{Cite news |title=3線区でワンマン運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2001-02-08 |page=1 }}</ref>。かつて、快速はラッシュ時のみに運転されていたが、2009年3月のダイヤ改正で名古屋駅 - 亀山駅間に桑名と四日市駅以南の各駅に停車する快速が昼間時間帯に新設され、従来の蟹江駅・弥富駅と桑名駅以南の各駅に停車する快速は区間快速に改称された。また、区間快速は2022年3月12日のダイヤ改正で八田駅と春田駅にも停車するようになり、通過駅は永和駅と長島駅のみとなった<ref>{{Cite press release|和書|title=2022年3月ダイヤ改正について|publisher=東海旅客鉄道|date=2021-12-17|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000041637.pdf|format=PDF|language=日本語|access-date=2022-8-2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217085105/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000041637.pdf|page=11|accessdate=2021-12-19|archivedate=2021-12-17}}</ref>。
{{要出典範囲|1=なお、ワンマン運転の場合において無人駅(弥富駅以東にある[[駅集中管理システム|集中旅客サービスシステム]]導入済みの無人駅を除く)あるいは日中有人駅(=早朝夜間および日中の窓口閉鎖時間帯)では原則車内精算を行う。ただし2021年2月1日以降名古屋駅 - 弥富駅については全ての駅に自動改札機が設置されているため車内精算を行わず駅で収受する。|date=2023年1月}}
==== 亀山駅 - 加茂駅間(JR西日本) ====
亀山駅 - 加茂駅間は閑散区間で、ワンマン運転の普通列車のみが運転されている。使用車両は1993年8月1日から[[JR西日本キハ120形気動車|キハ120系]]気動車が使用されており<ref name="jrr_94">{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=189 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>、この線区で使用されているものは紫で塗装されている。かつては奈良方面など他区間と直通する列車もあったが、2001年3月以降はすべてこの区間内の運転となっている。なお、ワンマン運転の場合における無人駅あるいは日中有人駅(=早朝夜間および日中の窓口閉鎖時間帯)では原則車内精算を行う。
この区間は関西本線の中ではほかの区間と比べて運転本数は少なく、全線通しの列車はほぼ1時間に1本の運行である。ただ伊賀上野駅 - 加茂駅間は朝と夕方から夜間にかけて区間列車の設定がある(2001年3月2日までは昼間時も伊賀上野駅 - 加茂駅間の区間列車の設定があった)<ref name="jtbtt_kame_kamo">JTBパブリッシング『JTB時刻表』2022年3月号、pp.278-279</ref>。ただし、全駅で[[列車交換|交換]]が可能とはいえこの区間は全線[[単線]]であるため、{{要出典範囲|運転間隔は昼間の一部時間帯を除き等間隔ではない。このほか、柘植駅で[[夜間滞泊]]を行い翌朝加茂駅へ折り返す加茂駅 - 柘植駅間の区間列車と、深夜に亀山発伊賀上野行きの区間列車(翌朝に伊賀上野発加茂行きとして運行)がそれぞれ設定されている。|date=2023年1月}}
2001年3月から、線路保守点検による作業時間の確保のため、毎年7月から9月を除いて月1回土曜日<ref group="注">当初は第4土曜日であったが、2005年4月からは第2土曜日に変更されている。</ref>の昼間時間帯の列車が運休していた(バスなどによる[[バス代行|代行輸送]]も行われなかった)が、2011年3月12日のダイヤ改正以降は運休は取りやめとなっている。
全列車が加茂駅で[[大和路線]]の[[大和路快速]]などの快速列車または普通列車と接続するダイヤになっている。一方で亀山駅での名古屋方面行きの列車との接続はある程度図られているが、接続時間にばらつきがある。日中は名古屋方面へ乗り継ぐ場合は20分程度の接続時間を要する(加茂方面へは10分以内で接続している)。2009年3月14日のダイヤ改正時には40分 - 50分程度の接続時間が発生していたが、2012年3月17日のダイヤ改正で改善された<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_kinki.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2011年12月16日</ref>。
==== 加茂駅 - JR難波駅間(JR西日本) ====
{{Main|大和路線}}
加茂駅 - JR難波駅間は、各駅に停車する普通と、加茂駅 - JR難波駅間に快速、加茂駅 - [[大阪環状線]]間に大和路快速・区間快速が運転されている。ほかに[[和歌山線]]・[[桜井線]] - JR難波方面の直通列車もある<ref name="jrbtt_yamatoji" />。木津駅 - 奈良駅間には[[奈良線]]・[[片町線]](学研都市線)の列車も乗り入れている。また、奈良駅 - 久宝寺駅間には[[おおさか東線]]に乗り入れる直通快速が、朝夕に奈良駅 - 大阪駅間で運転されている<ref name="jrbtt_yamatoji" />。また、早朝にはJR難波・王寺方面から奈良駅経由で京都行きの直通列車が運転されており(その逆の京都発奈良・王寺経由のJR難波行きはない)<ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』2022年3月号、pp.293,707</ref>、{{要出典範囲|夕方以降も時刻表には記載がないものの先述の区間を双方向に直通する列車が数本運転されている。|date=2023年1月}}
=== 優等列車 ===
名古屋駅 - 河原田駅間を名古屋駅 - 紀伊勝浦駅間(伊勢鉄道経由)運転の特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」が通る<ref name="jtbtt_kansai_nagoya" />。かつては河原田駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間にも東京駅 - 湊町駅・和歌山市駅間の夜行急行「[[東海道本線優等列車沿革|大和]]」を始め、名古屋駅 - 湊町駅・南紀方面や京都駅 - 伊勢方面などを結ぶ多数の優等列車が運行されていた。1965年3月1日から1967年10月1日のダイヤ改正までの短期間だが、関西本線名古屋駅 - 八尾駅間を経由する特急「[[かすが_(列車)#あすか|あすか]]」が設定されていたこともある<ref name="aramashi" />。しかし2006年3月18日のダイヤ改正で急行「[[かすが (列車)|かすが]]」が廃止<ref name="westjr20051222" />されたのを最後に(廃止時の運転区間は名古屋駅 - 奈良駅間)、事実上大阪環状線と重複している天王寺駅 - 今宮駅間を除き、河原田駅 - JR難波駅間で定期運転の特急・急行列車は設定されていない。
急行「かすが」廃止以降の臨時列車は、2010年4月 - 6月の土・日曜日に運転された臨時特急「[[まほろば (列車)|まほろば]]」があり、新大阪駅発で天王寺駅から関西本線に乗り入れて奈良駅まで運転されていた(関西本線内は途中、王寺駅・法隆寺駅に停車)。また、おおさか東線の全通後の2019年11月2日より同名の列車が指定日に運転されており、大阪駅(2022年までは新大阪駅)からおおさか東線を経由し久宝寺駅 - 奈良駅間で関西本線に乗り入れている(設定当初はノンストップであったが、2023年10月-12月の運転では途中、新大阪駅・法隆寺駅に停車<ref>{{Cite press release|和書|title=臨時特急「まほろば」 運転のお知らせ(10~12月)|publisher=西日本旅客鉄道|date=2023-08-24|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230824_00_press_mahorobaunten.pdf|format=PDF|accessdate=2023-12-18}}</ref>)。
2024年3月16日のダイヤ改正より、平日に新大阪駅 - 奈良駅間(天王寺経由)で通勤特急「[[まほろば (列車)|らくラクやまと]]」が運行される予定<ref name="jrw_20231215">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/231215_00_press_daiyakaisei_kinto.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218051527/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/231215_00_press_daiyakaisei_kinto.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2024年春のダイヤ改正について|publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-15|archivedate=2023-12-15}}</ref>。
=== 貨物列車 ===
[[貨物列車]]は、名古屋駅<ref group="注">厳密には、名古屋駅 - [[笹島信号場]]間は[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線]]の線路を走行する。</ref> - 南四日市駅間および貨物支線の四日市駅 - 塩浜駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間で運行されている。そのうち平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間で運行されているものは「[[おおさか東線#城東貨物線|城東貨物線]]」を参照。
[[コンテナ車]]のみで編成された[[高速貨物列車]]は[[名古屋貨物ターミナル駅]] - 四日市駅間で1日3往復運行されているほか、石油輸送[[タンク車]]を牽引する[[専用貨物列車]]が運転される。また四日市駅・塩浜駅 - [[稲沢駅]]( - [[南松本駅]])間には[[JR貨物タキ1000形貨車|タキ1000形]][[貨車]]のみで編成された高速貨物列車が運行されている。[[三岐鉄道]][[三岐鉄道三岐線|三岐線]] - 富田駅 - 四日市駅間では日本全国で唯一の[[セメント]]輸送が行われている。このほか、かつては化学薬品輸送タンク車を牽引する専用貨物列車や四日市駅 - 塩浜駅・南四日市駅間と稲沢駅から伊勢鉄道伊勢線経由で紀勢本線[[鵜殿駅]]までのコンテナ列車の運行もあり、鵜殿駅までのコンテナ列車については末期は1日1往復が設定されていた。
牽引機は[[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形]][[ディーゼル機関車]]である。直通先に四日市駅 - 塩浜駅間の貨物支線といった電化されていない路線があるため、電気機関車は使用されない。
== 使用車両 ==
{{出典の明記|date=2023年1月|section=1}}
{{Main2|名古屋駅 - 亀山駅間の詳細|関西線 (名古屋地区)#車両|加茂駅 - JR難波駅間の詳細|大和路線#使用車両|阪和線に直通する列車|阪和線#使用車両}}
関西本線内で使用されている車両の定期運用区間は以下の通り。
=== 現在の車両 ===
* JR東海
** 電車
*** [[JR東海313系電車|313系]]:名古屋駅 - 亀山駅間
*** [[JR東海315系電車|315系]]:名古屋駅 - 亀山駅間
*** [[JR東海211系電車|211系]]:名古屋駅 - 亀山駅間<ref>[https://biz.chunichi.co.jp/news/article/10/68928/ 関西線混雑でロングシート投入 JR東海、競合の近鉄値上げで利用者流入か] - 中日BIZナビ、2023年9月28日</ref>
** 気動車
*** [[JR東海キハ75形気動車|キハ75形]]:名古屋駅 - 河原田駅間で快速「みえ」(過去には名古屋駅 - 奈良駅間の急行「かすが」にも充当されていた)
*** [[JR東海HC85系気動車|HC85系]]:名古屋駅 - 河原田駅間で特急「南紀」
* 伊勢鉄道
** 気動車
*** [[伊勢鉄道イセIII型気動車|イセIII型]]:四日市駅 - 河原田駅間
* JR西日本
** 気動車
*** [[JR西日本キハ120形気動車|キハ120形]]:亀山駅 - 加茂駅間(過去には最大1日2往復が奈良駅まで乗り入れていた)
** 電車
*** [[国鉄201系電車|201系]]:加茂駅 - JR難波駅間
*** [[国鉄205系電車|205系]]:木津駅 - 奈良駅間
*** [[JR西日本207系電車|207系]]:木津駅 - 奈良駅間
*** [[JR西日本321系電車|321系]]:木津駅 - 奈良駅間
*** [[JR西日本221系電車|221系]]:加茂駅 - JR難波駅間
* JR貨物
** 電気機関車
***[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]:平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間
***[[国鉄EF66形電気機関車|EF66形]]:平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間
***[[JR貨物EF210形電気機関車|EF210形]]:平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間
***[[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形]]:平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間
** ディーゼル機関車
*** [[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形]]:名古屋駅 - 四日市駅間
*** [[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形]]:名古屋駅 - 四日市駅・塩浜駅間
** 貨車
*** [[JR貨物コキ100系貨車|コキ100系]]コンテナ貨車:名古屋駅 - 四日市駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間{{要出典|date=2023年1月}}
*** [[JR貨物コキ200形貨車|コキ200形]]コンテナ貨車:名古屋駅 - 四日市駅間
<!-- 私有貨車を列挙している路線記事は他になく、東海道本線で同じことをすれば200を超えると思われるため、事前にプロジェクト等で合意形成をお願いします。-->
<gallery>
JR DC kiha75-1b.jpg|JR東海キハ75形
WestJapanRailwayCompanyType120Kameyama.jpg|JR西日本キハ120
JR-WEST 201 Series at Shirokitakoendori.jpg|JR西日本201系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
[[ファイル:JNR EC Tc111-421.jpg|thumb|JR西日本113系関西本線色]]
[[ファイル:JR Central 165 Kansai Main Line 19870831.jpg|thumb|JR東海165系]]
[[ファイル:Kiha85 Kansai-Line.jpg|thumb|JR東海キハ85形]]
過去に使用されていた車両の運用区間は以下の通り(駅名および車両形式は運行当時のもの。湊町駅は現在のJR難波駅)。
<!-- 関西本線内での運用区間であるため、関西本線のどこ"で"使用されたかということで「○○-○○間"で"」という表現としている。天王寺 - 新今宮(今宮)間のみしか当線を経由しない阪和線直通列車は阪和線に記述を。(使用車両節の冒頭で誘導しています) -->
; 気動車
:* [[国鉄キハ10系気動車|キハ17形]]:名古屋駅 - 湊町駅間
:* [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]:名古屋駅 - 湊町駅間
:* [[国鉄キハ10系気動車|キロハ18形]]:名古屋駅 - 湊町駅間で準急
:* [[国鉄キハ10系気動車|キハ50形]]:名古屋駅 - 湊町駅間で準急
:* [[国鉄キハ10形気動車|キハ51形]]:名古屋駅 - 湊町駅間で準急「かすが」
:* [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]]:名古屋駅 - 湊町駅間で準急「かすが」など
:* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]:名古屋駅 - 湊町駅間で急行など。JR移行後は名古屋駅 - 奈良駅間の急行「かすが」、亀山駅 - 奈良駅間の普通
:* [[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]:名古屋駅 - 奈良駅間で急行「かすが」
:* [[国鉄キハ80系気動車|キハ81系]]:名古屋駅 - 河原田駅間で特急「[[くろしお (列車)|くろしお]]」
:* [[国鉄キハ80系気動車|キハ82系]]:名古屋駅 - 久宝寺駅 - 杉本町駅間で特急「[[かすが (列車)|あすか]]」および、名古屋駅 - 河原田駅間で特急「くろしお」、のちに特急「[[南紀 (列車)|南紀]]」
:* [[JR東海キハ85系気動車|キハ85系]]:名古屋駅 - 河原田駅間で特急「南紀」
:* 伊勢鉄道[[伊勢鉄道イセI型気動車|イセI型]]:四日市駅 - 河原田駅間
:* 伊勢鉄道[[伊勢鉄道イセI型気動車|イセII型]]:四日市駅 - 河原田駅間
:
; 電車
:* [[国鉄101系電車|101系]]:奈良駅 - 湊町駅間
:* [[国鉄103系電車|103系]]:名古屋駅 - 亀山駅間、加茂駅 - JR難波駅間
:* [[国鉄113系電車|113系]]:名古屋駅 - 亀山駅間、加茂駅 - 湊町駅間
:* [[国鉄165系電車|165系]]:名古屋駅 - 亀山駅間
:* [[国鉄213系電車|213系]]:名古屋駅 - 亀山駅間
:* [[国鉄211系電車|211系]]:名古屋駅 - 亀山駅間
:* [[JR西日本223系電車|223系]]:天王寺駅 - JR難波駅間で[[関空快速・紀州路快速|関空快速]]、奈良駅 - 久宝寺駅間で[[おおさか東線#運行形態|直通快速]]
:* [[国鉄381系電車|381系]]:加茂駅 - JR難波駅間の「[[大和路線#やまとじライナー|やまとじライナー]]」
:
; ディーゼル機関車
:* [[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]:名古屋駅 - 四日市駅・塩浜駅間
:
; 客車
:* [[国鉄スハ32系客車|スハ32系]] - マロネフ29、オロ35など:名古屋駅 - 湊町駅間で急行「[[紀伊 (列車)#大和|大和]]」、名古屋駅 - 亀山駅間で急行「[[紀伊 (列車)#伊勢|伊勢]]」
:* [[国鉄オハ35系客車|オハ35系]] - スロハ32、スハニ32など:名古屋駅 - 湊町駅間で準急・急行「大和」
:* [[国鉄スハ43系客車|スハ43系]] - スハ43、スロ53、スロ54、オハ46など:名古屋駅 - 湊町駅間で準急・急行「大和」、名古屋駅 - 亀山駅間で急行「紀伊」「伊勢」
:* [[国鉄10系客車|10系]]:名古屋駅 - 湊町駅間で急行「大和」「[[紀伊 (列車)|紀伊]]」と名古屋駅 - 亀山駅間の急行「伊勢」「[[紀伊 (列車)#那智|那智]]」
:* [[国鉄14系客車|14系]]:名古屋駅 - 亀山駅間で寝台特急「紀伊」
:
; 貨車
:*[[国鉄コキ50000形貨車|コキ50000形]]コンテナ貨車:名古屋駅 - 南四日市駅間、平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間
<!-- 私有貨車を列挙している路線記事は他になく、東海道本線で同じことをすれば200を超えると思われるため、事前にプロジェクト等で合意形成をお願いします。-->
== 利用状況 ==
各年度の区間別の[[輸送密度|平均通過人員]]、旅客運輸収入は以下の通り。JR難波駅は1994年9月3日まで湊町駅。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|平均通過人員(人/日)
!colspan="2"|旅客運輸収入(万円)
|-
!名古屋駅 - 亀山駅間
!亀山駅 - JR難波駅間
!亀山駅 - 加茂駅間
!加茂駅 - JR難波駅間
!名古屋駅 - 亀山駅間
!亀山駅 - JR難波駅間
|-
|1987
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|29,541<ref name="data2016">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2016_08.pdf 『データで見るJR西日本2016』区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成27年度)]}} - 西日本旅客鉄道</ref>
|
|
|
|
|-
|2012
|14,037<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001129023.pdf (24)JR旅客会社運輸成績表(延日キロ、人キロ、平均数) (その 1)] - 国土交通省、2016年10月5日閲覧</ref>
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|-
|2015
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|33,044<ref name="data2016" />
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== 歴史 ==
[[File:Kansei Railway Linemap 1907.svg|thumb|right|300px|関西鉄道が有した路線網(1907年)]]
{{Main2|関西本線の優等列車の沿革のうち、名阪間の優等列車|かすが (列車)#関西本線経由優等列車沿革|伊勢方面の優等列車|南紀 (列車)|近鉄との競合関係|近鉄特急史#近鉄線と並行する国鉄・JR線の優等列車}}
名古屋駅 - 木津駅間は[[関西鉄道]]により開業した。名古屋駅 - 柘植駅間を1895年に開通させた後、柘植駅 - [[大仏駅]](後に廃止)間を1898年に開通させて名古屋駅 - 奈良駅間を結んだ。同年中には加茂駅 - 新木津駅(後に廃止)間を開通させて、前年に買収した[[浪速鉄道]]の路線を経由して、大阪の[[網島駅]](1898年 - 1913年の間、現在の[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]近くにあった[[ターミナル駅]]) - [[四条畷駅]] - 名古屋駅間に直通列車を走らせた<ref>浅野明彦『鉄道考古学を歩く』(JTB〈キャンブックス〉、1998年)pp.97,98,133</ref>。
奈良駅 - 湊町駅(現在のJR難波駅)間は[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]により1892年に、木津駅 - 奈良駅間は[[奈良鉄道]]により1896年に開通している。関西鉄道は大仏駅 - 奈良駅間を開通させた後、1900年に大阪鉄道を買収して名阪間の本線を大仏経由に変更した。その後、奈良鉄道を買収し、1907年には勾配区間を抱えていた加茂駅 - 大仏駅 - 奈良駅間を廃止して本線を木津駅経由に変更、現在のルートが完成した(このときに加茂駅 - 新木津駅間の路線も廃止)<ref>浅野明彦『鉄道考古学を歩く』(JTB〈キャンブックス〉、1998年)pp.132-135</ref>。
その後、関西鉄道は名阪間で官設鉄道(東海道本線)と激しい競争を繰り広げ、関西鉄道は官営鉄道より20分所要時間の差をつけ、さらには記念品を配ったり運賃を5割引にしたりと派手な誘客作戦を実施した<ref name="koukogaku">浅野明彦『鉄道考古学を歩く』(JTB〈キャンブックス〉、1998年)p.100</ref>。この誘客合戦は[[日露戦争]]に突入した[[1904年]]に一旦終息し、[[鉄道国有法]]により1907年に関西鉄道が国有化されたことで終わりを告げた(詳細は「[[関西鉄道]]」を参照)<ref name="koukogaku" />。
国有化後はローカル線化していたが、大正時代に入って[[大阪電気軌道|大阪電気軌道、参宮急行電鉄]](現在の[[近畿日本鉄道]])などの私鉄が並行して路線網を伸ばしてくると、輸送量が逼迫していた東海道本線に代わり、これらの私鉄路線に対抗する路線として注目され、近鉄に先んじて名古屋駅 - 湊町駅間に快速列車が設定された<ref>[[三宅俊彦]]・[[寺本光照]]『国鉄・JR 名列車ハンドブック』新人物往来社、2006年、p.137。{{ISBN2|978-4-404-03332-1}}。</ref>。1935年(昭和10年)12月1日のダイヤ改正では名古屋駅 - 湊町駅間に朝夕2往復の準急列車が設定され、所要時間は約3時間に短縮された<ref>三宅俊彦『日本鉄道史年表(国鉄・JR)』グランプリ出版、2005年、p.70</ref><ref>東北線・中央線など主要八線を高速化『大阪毎日新聞』昭和10年11月14日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p425 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
第二次世界大戦後は準急列車として復活し(後の「かすが」)、全国に先駆けて気動車化されてスピードアップが図られるが<ref>寺本光照『新・名列車列伝』(JTB〈マイロネブックス〉、2003年)pp.123-124</ref>、東海道本線が全線電化され、近鉄もスピードアップや軌間統一を実施し、さらには東海道新幹線の開業や[[名神高速道路]]・名阪国道の開通によって、関西本線は名阪間輸送の第一線から退くことを余儀なくされる(「[[かすが (列車)|かすが]]」も参照)<ref name="trafficnews20220518" />。
{{要出典範囲|長らく全線で近代化が遅れていたが、1973年に奈良駅 - 湊町駅間、1982年に名古屋駅 - 亀山駅間が電化され、近郊路線としての性格を強めていく。JR発足後、加茂駅 - JR難波駅間は[[アーバンネットワーク]]の一環として輸送の改善が図られ、またJR東海も快速「みえ」を設定するなどして輸送の改善を図っている。|date=2023年1月}}
=== 年表 ===
==== 大阪鉄道(奈良駅 - 湊町駅間、現在の奈良駅 - JR難波駅間) ====
* [[1888年]]([[明治]]21年)[[3月1日]]:大阪鉄道に免許交付<ref name="sone08-12">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、12頁</ref>。
* [[1889年]](明治22年)[[5月14日]]:'''[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]''' 湊町駅 - 柏原駅間(10[[マイル|M]]10[[チェーン (単位)|C]]≒16.29km)が開業{{R|sone08-12}}。湊町駅(現在のJR難波駅)・天王寺駅・平野駅・八尾駅・柏原駅が開業{{R|sone08-12}}。
* [[1890年]](明治23年)
** [[9月11日]]:柏原駅 - 亀瀬仮停車場間(3M58C≒5.99km)が延伸開業{{R|sone08-12}}。亀瀬仮停車場が開業{{R|sone08-12}}。
** [[12月27日]]:奈良駅 - 王寺間(9M44C≒15.37km)が開業{{R|sone08-12}}。奈良駅・郡山駅・法隆寺駅・王寺駅が開業{{R|sone08-12}}。
* [[1891年]](明治24年)[[2月8日]]:王寺駅 - 稲葉山仮停車場間(1M30C≒2.21km)が延伸開業{{R|sone08-12}}。稲葉山仮停車場が開業{{R|sone08-12}}。稲葉山仮停車場 - 亀瀬仮停車場間は人力車連絡{{R|sone08-12}}。
* [[1892年]](明治25年)[[2月2日]]:亀瀬仮停車場 - 稲葉山仮停車場間(64C≒1.29km)が延伸開業し、湊町駅 - 奈良駅間が全通{{R|sone08-12}}。稲葉山仮停車場・亀瀬仮停車場が廃止{{R|sone08-12}}。
* [[1894年]](明治27年)[[1月29日]]:全線で3C(≒0.06km)短縮。
* [[1899年]](明治32年)
** [[2月28日]]:全線で7C(≒0.14km)短縮。{{要出典|date=2023年1月}}
** 3月1日:今宮駅が開業{{R|sone08-13}}<!--1890年11月1日開業は誤り-->。
* [[1900年]](明治33年)
** [[4月23日]]:関西鉄道への路線の譲渡の契約が成立{{R|sone08-13}}。
** [[6月6日]]:大阪鉄道が関西鉄道に路線を譲渡{{R|sone08-13}}。
==== 奈良鉄道(木津駅 - 奈良駅間) ====
* [[1896年]](明治29年)[[4月18日]]:'''[[奈良鉄道]]''' 木津駅 - 奈良駅間(4M32C≒7.08km)が延伸開業し、[[京都駅]] - 奈良駅間が全通{{R|sone08-12}}。
* [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(4M32C→4.4M)。
* [[1905年]](明治38年)[[2月7日]]:奈良鉄道が関西鉄道に路線を譲渡{{R|sone08-13}}。
==== 関西鉄道 ====
[[ファイル:Tsuge Station in Meiji era.jpg|thumb|200px|関西鉄道時代の柘植駅・1898年(明治31年)発行「関西参宮鉄道案内記」掲載写真と同一]]
[[ファイル:Kameyama Station old.jpg|thumb|200px|大正初期の亀山駅駅舎]]
[[File:Kajigaya-Zuidō.jpg|thumb|木津川市に残る遺構・梶ヶ谷隧道]]
* [[1888年]]([[明治]]21年)3月1日:関西鉄道に免許交付{{R|sone08-12}}。
* 1890年(明治23年)
** [[2月19日]]:'''関西鉄道''' [[三雲駅]] - 柘植駅間の開業により、柘植駅が開業{{R|sone08-12}}。
** [[12月25日]]:柘植駅 - 四日市駅間(26M50C≒42.85km)が延伸開業{{R|sone08-12}}。関駅・亀山駅・河原田駅・四日市駅が開業{{R|sone08-12}}。四日市駅では、[[日本郵船]]の[[航路]]に接続した。
* 1892年(明治25年)[[2月6日]]:高宮駅(現在の加佐登駅)が開業{{R|sone08-12}}。
* [[1893年]](明治26年)[[6月15日]]:桑名駅 - 名古屋駅間の免許取得{{R|sone08-12}}。
* 1894年(明治27年)[[7月5日]]:四日市駅 - 桑名仮停車場間(7M30C≒11.87km)が延伸開業{{R|sone08-12}}。富田駅・桑名仮停車場が開業{{R|sone08-12}}。
* [[1895年]](明治28年)
** [[1月28日]]:柘植駅 - 奈良駅間の免許取得{{R|sone08-12}}。
** [[5月24日]]:名古屋駅 - 前ヶ須駅間(10M21C≒16.52km)、桑名仮駅 - 桑名駅間(64C≒1.29km)が開業{{R|sone08-12}}。蟹江駅・前ヶ須駅(現在の弥富駅)・桑名駅が開業{{R|sone08-12}}。桑名仮停車場が廃止{{R|sone08-12}}。
** [[11月7日]]:弥富駅 - 桑名駅間(4M53C≒7.50km)が延伸開業し、名古屋駅 - 草津駅間が全通{{R|sone08-12}}。前ヶ須駅が弥富駅に改称{{R|sone08-12}}。
* [[1896年]](明治29年)
** [[7月3日]]:名古屋駅 - 蟹江駅間に[[愛知駅]]が開業{{R|sone08-12}}。
** [[9月21日]]:加太駅が開業{{R|sone08-12}}。
* [[1897年]](明治30年)
** [[1月15日]]:支線として柘植駅 - 上野駅間(9M8C≒14.65km)が開業{{R|sone08-12}}。佐那具駅・上野駅(現在の伊賀上野駅)が開業{{R|sone08-12}}。
** [[11月11日]]:支線 上野駅 - 加茂駅間(16M26C≒26.27km)が延伸開業{{R|sone08-12}}。島ケ原駅・大河原駅・笠置駅・加茂駅が開業{{R|sone08-12}}。
* [[1898年]](明治31年)
** [[4月19日]]:支線 加茂駅 - 大仏駅間(5M35C≒8.75km)が開業し、名古屋駅 - 加茂駅間が本線に、柘植駅 - 草津駅間が支線に変更<ref name="sone08-13">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、13頁</ref>。大仏駅が開業{{R|sone08-13}}。
** [[11月18日]]:加茂駅 - 新木津駅間が延伸開業し、[[網島駅|網島]]方面への路線(のちの[[片町線]])に接続{{R|sone08-13}}。名古屋駅 - 網島駅間が全通し、直通列車が運転開始{{R|sone08-13}}。
* 1899年(明治32年)
** [[5月21日]]:支線 大仏駅 - 奈良駅間(57C≒1.15km)が延伸開業し、名古屋駅 - 奈良駅間が全通{{R|sone08-13}}。
** 10月23日:加茂駅 - 奈良駅間が11C(≒0.22km)延長。
** 11月11日:長島駅が開業{{R|sone08-13}}。
* 1900年(明治33年)
** 6月6日:大阪鉄道が関西鉄道に路線を譲渡{{R|sone08-13}}。名古屋駅 - 大仏駅 - 湊町駅間が本線に、加茂駅 - 網島駅間が支線に変更。{{要出典|date=2023年1月}}
** [[9月1日]]:列車運行上の本線が名古屋駅 - 大仏駅 - 湊町駅間に変更{{R|sone08-13}}。
* [[1901年]](明治34年)
** [[1月25日]]:全線で4C(≒0.08km)短縮。{{要出典|date=2023年1月}}
** 10月12日:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(名古屋駅 - 湊町駅間 106M67C→106.8M)。{{要出典|date=2023年1月}}
* [[1903年]](明治36年)
** 1月29日:天王寺駅 - 湊町駅間が複線化{{R|sone08-13}}。
** [[2月1日]]:高宮駅が加佐登駅に改称{{R|sone08-13}}。
** 3月1日:第五回[[内国勧業博覧会]]開催にあわせ、支線 天王寺駅 - 博覧会駅間が開業{{R|sone08-13}}。博覧会駅が開業{{R|sone08-13}}。天王寺駅 - 今宮駅間にも博覧会付属乗降場が開設。
** [[11月1日]]:支線 天王寺駅 - 博覧会駅間が廃止{{R|sone08-13}}。博覧会駅・博覧会付属乗降場が廃止。
* [[1905年]](明治38年)2月7日:奈良鉄道が関西鉄道に路線を譲渡{{R|sone08-13}}。
* [[1907年]](明治40年)
** [[7月1日]]:富田浜仮停車場が開業(夏期のみ営業)<ref name="chizucho-p38">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』8号 関西1、新潮社、2008年、p.38</ref>。
** [[8月21日]]:加茂駅 - 木津駅間(マイル設定なし)が開業{{R|sone08-13}}。加茂駅 - 大仏駅 - 奈良駅間、加茂駅 - 新木津駅間が使用停止<ref name="chizucho-p39">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』8号 関西1、新潮社、2008年、p.39</ref>。大仏駅が使用停止。
==== 国有化以後 ====
[[ファイル:JGR Kasado Station in.jpg|thumb|200px|[[1927年]](昭和2年)の[[加佐登駅]]]]
[[ファイル:Kyuhoji Station old.jpg|thumb|200px|1946年(昭和21年)頃の[[久宝寺駅]]]]
[[ファイル:Okawara Station water damage.jpg|thumb|200px|[[南山城水害]]で駅舎が流出し構内が埋もれた大河原駅([[1953年]][[8月15日]])]]
[[ファイル:Kansai-Honsen train submersion.jpg|thumb|200px|関駅 - 加太駅間で列車が水没(1956年9月27日)]]
* [[1907年]](明治40年)
** [[10月1日]]:関西鉄道が国有化{{R|sone08-13}}。
** 11月1日:加茂駅 - 木津駅間マイル設定(3.7M≒5.95km)。加茂駅 - 大仏駅 - 奈良駅間(6.1M≒9.82km)、加茂駅 - 新木津駅間が正式に廃止。
* [[1908年]](明治41年)
** 3月30日:柏原駅 - 天王寺駅間が複線化{{R|sone08-13}}。
** [[10月7日]]:郡山駅 - 法隆寺駅間に安堵信号所が開設。
** [[11月5日]]:安堵信号所が廃止。
* [[1909年]](明治42年)
** [[4月1日]]:志紀駅・加美駅・[[東部市場前駅|百済駅]](初代)が開{{R|sone08-13}}業。柏原駅 - 湊町駅間にて、鉄道院で初めて[[気動車|蒸気動車]]運行を開始したことに伴う新設駅で、当初は蒸気動車による区間列車のみの客扱い駅であった。
** [[6月1日]]:愛知駅が廃止され名古屋駅に統合{{R|sone08-13}}。
** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により、名古屋駅 - 奈良駅 - 湊町駅間が'''関西本線'''となる{{R|sone08-13}}。
* [[1910年]](明治43年)[[12月1日]]:久宝寺駅が開業{{R|sone08-13}}。
* [[1911年]](明治44年)11月5日:王寺駅 - 柏原駅間に青谷信号所が開設。
* [[1914年]]([[大正]]3年)[[3月20日]]:木津駅 - 奈良駅間が複線化。
* [[1915年]](大正4年)
** [[2月13日]]:木津駅 - 奈良駅間に佐紀仮信号所が開設。
** [[6月7日]]:佐紀仮信号所が廃止。
* [[1916年]](大正5年)9月11日:上野駅が伊賀上野駅に改称。
* [[1918年]](大正7年)[[7月15日]]:名古屋駅 - 蟹江駅間に八田信号所が開設。
* [[1920年]](大正9年)
** [[8月25日]]:大和小泉駅が開業<ref name="sone08-14">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、14頁</ref>。
** [[12月21日]]:貨物支線 四日市駅 - 四日市港駅間(1.1M≒1.77km)が開業{{R|sone08-14}}。貨物駅として四日市港駅が開業{{R|sone08-14}}。
* [[1921年]](大正10年)7月15日:新堂駅が開業{{R|sone08-14}}。
* [[1922年]](大正11年)4月1日:すべての信号所が信号場に変更。
* [[1923年]](大正12年)[[12月15日]]:青谷信号場 - 柏原駅間が複線化。
* [[1924年]](大正13年)
** [[3月30日]]:王寺駅 - 青谷信号場間が複線化<ref>『天王寺鉄道管理局三十年写真史』天王寺鉄道管理局、1981年。p.166。</ref>。
** [[8月10日]]:木津駅 - 奈良駅間に都跡仮信号場(初代)が開設(廃止日不詳)。
* [[1925年]](大正14年)
** [[6月16日]]:郡山駅 - 大和小泉駅間が複線化。
** [[8月26日]]:奈良駅 - 郡山駅間が複線化。
* [[1926年]](大正15年)
** [[1月10日]]:都跡仮信号場(2代目)が開設(廃止日不詳)。
** [[4月30日]]:大和小泉駅 - 法隆寺駅間が複線化。
** [[7月22日]]:法隆寺駅 - 王寺駅間が複線化。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** 4月19日:青谷信号場が駅に変更され河内堅上駅が開業{{R|sone08-14}}。
** [[5月1日]]:桑名駅 - 朝日駅間に朝明信号場が開設。
** 6月1日:蟹江駅 - 弥富駅間に善太信号場が開設。
* [[1928年]](昭和3年)
** 2月1日:八田信号場が駅に変更され八田駅が開業{{R|sone08-14}}。
** 3月1日:富田浜仮停車場が駅に変更され富田浜駅が開業{{R|sone08-14}}。
** 4月1日:加太駅 - 柘植駅間に中在家信号場が開設{{R|sone08-14}}。
** 7月1日:四日市駅 - 河原田駅間に日永信号場が、河原田駅 - 加佐登駅間に木田信号場が開設。
** 12月1日:貨物支線 今宮駅 - [[浪速駅]] - [[大阪港駅 (国鉄)|大阪港駅]]間(5.2M≒8.37km)が開業(のちに大阪環状線に編入され、同線の貨物支線となる)<ref name="haisenato" />。
* [[1929年]](昭和4年)
** 2月1日:善太信号場を駅が変更され永和駅が開業{{R|sone08-14}}。
** [[5月20日]]:井田川駅が開業{{R|sone08-14}}。
* [[1930年]](昭和5年)4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(名古屋駅 - 湊町駅間 108.8M→175.1km、四日市駅 - 四日市港駅間 1.1M→1.7km、今宮駅 - 大阪港駅間 5.2M→8.2km)。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[7月7日]]:富田浜駅 - 四日市駅間に午起仮停車場が開業<ref name="OfficialGazette_19310707">{{国立国会図書館のデジタル化資料|2957823/3|官報. 1931年07月07日}}</ref>。
** [[7月8日]]:加美駅 - 平野駅間に正覚寺信号場(初代)が開設<ref>『天王寺鉄道管理局三十年写真史』天王寺鉄道管理局、1981年、p.169。</ref>。
* [[1932年]](昭和7年)
** [[1月27日]]:王寺駅 - 河内堅上駅間に亀ノ瀬信号場が開設。
** 2月1日:王寺駅 - 河内堅上駅間の[[亀ノ瀬トンネル]]が地滑りで変形したため使用不可能となり、同区間が不通となる{{R|sone08-14}}。
** [[2月20日]]:亀ノ瀬トンネルの東口に亀ノ瀬東口仮停車場(亀ノ瀬信号場から変更)、西口に亀ノ瀬西口仮停車場が開設。王寺駅 - 亀ノ瀬東口仮停車場間・亀ノ瀬西口停車場間が運行再開、両仮停車場間は徒歩連絡となる。
** 6月1日:柏原駅南方900m、[[大阪電気軌道]]桜井線(現在の[[近鉄大阪線]])[[安堂駅]]に隣接する箇所に柏原[[仮乗降場]]が設置され、同線と和歌山線下田駅(現在の[[香芝駅]])と大軌下田駅を用いて不通区間の代替輸送が開始。
** 8月1日:四日市駅 - 四日市港駅間で改キロ (+0.8km)。
** [[12月31日]]:不通だった王寺駅 - 河内堅上駅間を大和川対岸の新線に切り替えて単線で復旧{{R|sone08-14}}。途中に藤井信号場が開設。
* [[1933年]](昭和8年)
** 1月1日:亀ノ瀬東口仮停車場・亀ノ瀬西口仮停車場・柏原仮乗降場が廃止。
** 10月14日:木津駅 - 奈良駅間に佐保仮信号場が開設<ref name="tennoji-30_170">『天王寺鉄道管理局三十年写真史』天王寺鉄道管理局、1981年、p.170。</ref>。
** [[11月28日]]:王寺駅 - 藤井信号場間が複線化<ref name="tennoji-30_170" />。
* [[1935年]](昭和10年)
** [[8月11日]]:東海道本線が災害で不通となったため、[[つばめ (列車)|特急つばめ]]が関西本線を使用した迂回運転を行う<ref>特急「つばめ」、関西線回りで天王寺着『大阪毎日新聞』昭和10年8月12日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p210)</ref>。
** [[12月30日]]:藤井信号場 - 河内堅上駅間が複線化。藤井信号場が廃止。
* [[1936年]](昭和11年)1月15日:佐保仮信号場が廃止<ref name="tennoji-30_170" />。
* [[1938年]](昭和13年)10月1日:八尾駅 - 久宝寺駅間に[[竜華操車場]]が開設。
* [[1939年]](昭和14年)[[10月15日]]:正覚寺信号場(初代)が廃止。
* [[1941年]](昭和16年)[[7月25日]]:加美駅 - 平野駅間に正覚寺信号場(2代目)が開設。
* [[1944年]](昭和19年)
** 6月1日:貨物支線 四日市駅 - 塩浜駅間 (3.3km) が開業{{R|sone08-14}}。貨物駅として塩浜駅が開業。
** 11月1日:奈良駅 - 王寺駅間が資材供出のため単線化<ref>『天王寺鉄道管理局三十年写真史』天王寺鉄道管理局、1981年、p.176。</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)[[11月25日]]:長島駅 - 桑名駅間に揖斐川仮信号場が開設。
* [[1946年]](昭和21年)5月1日:揖斐川仮信号場が廃止。
* [[1947年]](昭和22年)
** 3月15日:木津駅 - 奈良駅間に佐保信号場(初代)が開設<ref name="chizucho-p38" />。
** 10月:志紀駅が休止。
* [[1948年]](昭和23年)[[8月30日]]:午起仮停車場が廃止<ref>[{{NDLDC|2963024/4}} 「運輸省告示第240号」『官報』1948年8月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1949年]](昭和24年)3月1日:木田信号場が駅に変更され鈴鹿駅(現在の河曲駅)が開業{{R|sone08-14}}。
* [[1950年]](昭和25年)10月1日:東京駅 - 湊町駅・[[鳥羽駅]]間で夜行急行列車が運転開始{{R|sone08-14}}。翌月「[[紀伊 (列車)#大和|大和]]」と命名される。
* [[1951年]](昭和26年)[[12月28日]]:月ケ瀬口駅が開業{{R|sone08-14}}。
* [[1952年]](昭和27年)9月1日:貨物支線([[阪和貨物線]])八尾駅 - 竜華操車場 - 杉本町駅間 (11.3km) が開業{{R|sone08-14}}。
* [[1953年]](昭和28年)11月11日:急行「大和」の鳥羽編成が「[[紀伊 (列車)#伊勢|伊勢]]」として分離。
* [[1954年]](昭和29年)6月1日:富田浜駅 - 四日市駅間に、[[三岐鉄道]]の四日市駅直通列車のみ停車する午起駅が開業。
* [[1955年]](昭和30年)3月22日:名古屋駅 - 湊町駅間の準急に気動車(のちのキハ50形・キロハ18形である[[国鉄キハ10系気動車|キハ44600形・キロハ47000形]])が投入される{{R|sone08-14}}<ref name="交通1955">{{Cite news |和書 |title=国鉄 初の気動車準急 22日から 湊町-名古屋間に運転 |newspaper=[[交通新聞]] |date=1955-03-12 |publisher=交通協力会 |page=1 }}</ref>。国鉄初の気動車による優等列車となる{{R|交通1955}}。
* [[1956年]](昭和31年)
** [[3月15日]]:貨物支線 浪速駅 - 大阪東港駅間 (3.0km) が開業<ref name="haisenato" />。
** [[7月15日]]:準急をすべて気動車化<ref>{{Cite news |和書|title=15日から運転開始 関西本線準急全部を気動車化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1956-07-08 |page=1 }}</ref>。
** 9月27日:関駅 - 加太駅間で下り列車が崩壊した土砂に乗り上げ、客車が川に転落し、死者8名(旅客5名、職員3名)、負傷者3名<ref>{{Cite journal |和書|author=真鍋記|title=各局だより/天王寺局|journal=車輛工学|volume=25|issue=12|date=1956-12-1 |number=昭和31年12月号 |publisher=車輛工学社|doi=10.11501/3270662|pages=67-68|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3270662/1/35}}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=<!-- 記載なし -->|title=[[時事年鑑]] 昭和33年版|date=1957-12-1 |publisher=[[時事通信社]]出版局|doi=10.11501/3018601|page=257|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3018601/1/140}}</ref>。「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#関西本線列車脱線水没事故|関西本線列車脱線水没事故]]」を参照。
** 11月17日:加茂駅 - 木津駅間が、鹿背山トンネル経由から不動山トンネル経由に変更<ref>{{Cite news |和書|title=関西本線 新鹿瀬山隧道完成 大阪工事事務所 17日切替工事終了 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1956-11-18 |page=2 }}</ref>。
** 11月20日:佐保信号場(初代)が廃止<ref name="chizucho-p38" />。
* [[1958年]](昭和33年)11月1日:名古屋駅 - 湊町駅間の準急が「[[かすが (列車)|かすが]]」と命名される{{R|sone08-14}}。
* [[1959年]](昭和34年)
** 7月15日:東京駅 - [[新宮駅]]間で急行「[[紀伊 (列車)|那智]]」が運転開始{{R|sone08-14}}。関西本線内では「伊勢」と併結運転を行う<ref name="aramashi" />。
** [[9月26日]]:[[伊勢湾台風]]により愛知県・三重県内を中心に甚大な被害を受ける{{R|sone08-14}}。
** [[10月10日]]:桑名駅 - 四日市駅間が復旧。不通区間は八田駅 - 桑名駅間になる。
** [[10月30日]]:八田駅 - 蟹江駅間が復旧。
** 11月1日:蟹江駅 - 永和駅間が復旧。
** 11月25日:永和駅 - 桑名駅間の開通をもって、復旧完了<ref>高杉造酒太郎編 『伊勢湾台風災害調査報告』日本建築学会、1961年。</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)
** 2月1日:法隆寺駅 - 王寺駅間が再複線化<ref name="kinkijnr_365">『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.365。</ref>。
** [[3月6日]]:郡山駅 - 法隆寺駅間が再複線化<ref name="kinkijnr_365" />。
** [[3月21日]]:奈良駅 - 郡山駅間が再複線化<ref name="kinkijnr_365" />。
** [[4月25日]]:貨物支線 今宮駅 - 浪速駅 - 大阪港駅間 (8.2km)、浪速駅 - 大阪東港駅間 (3.0km) が大阪環状線に編入<ref name="haisenato">「国鉄廃線区間の変遷史・5」『鉄道廃線跡を歩くIV』(JTB〈キャンブックス〉、1997年)p.219</ref>。
** [[10月11日]]:志紀駅が八尾寄りに0.2km移転し営業再開。{{要出典|date=2023年1月}}
** [[12月10日]]:奈良駅 - 湊町駅間が他線からの直通列車の一部を除き気動車に統一<ref name="kinkijnr_366">『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年。p.366。</ref>。正覚寺信号場(2代目)が廃止。
* [[1963年]](昭和38年)
** 4月1日:加美駅が平野方面に0.3km移転<ref name="chizucho-p38" />。
** 9月10日:1945年ごろから休止中であった百済駅(初代)が廃止<ref name="sone08-15">[[#sone08|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 8号]]、15頁</ref>。
** 10月1日:貨物支線 平野駅 - 百済駅(2代目、現在の百済貨物ターミナル駅)間 (1.4km) が開業{{R|sone08-15}}。貨物駅として百済駅(2代目)が開業{{R|sone08-15}}。日永信号場が駅に変更され南四日市駅が開業{{R|sone08-15}}。
* [[1964年]](昭和39年)
** 10月1日:午起駅が廃止<ref name="chizucho-p38" />。
** [[11月24日]]:貨物支線 百済駅 - 百済市場駅間 (2.1km) が開業{{R|sone08-15}}。貨物駅として百済市場駅が開業{{R|sone08-15}}。
* [[1965年]](昭和40年)3月1日:阪和貨物線 八尾駅 - 杉本町駅間が旅客営業開始。名古屋駅 - [[和歌山駅|東和歌山駅]]間に阪和貨物線経由で気動車特急「[[かすが (列車)|あすか]]」が運転開始{{R|sone08-15}}。<!--詳細は後継列車記事に-->
* [[1966年]](昭和41年)[[3月5日]]:準急「かすが」が急行になる{{R|sone08-15}}。
* [[1967年]](昭和42年)
** 3月1日:平野駅 - 天王寺駅間の下り線が高架化<ref>{{Cite news |和書|title=関西本線 平野-天王寺間高架化工事 きょうから下り線使用 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-03-01 |page=1 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author=<!-- 記載なし --> |title=グラビア 関西本線平野・天王寺間高架化 |date=1967-06-01 |journal=JREA |volume=10 |issue=6 |page=5105 |publisher=[[日本鉄道技術協会]] }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author=<!-- 不明 --> |title=建設・施設 |date=1967-08-25 |journal=交通技術 |volume=22 |issue=9 |page=340 |publisher=交通協力会 }}</ref><!-- <ref>『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.369。</ref> 当時の出典と日付が違うためコメントアウト-->。
** 9月28日:平野駅 - 天王寺駅間の上り線が高架化<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.370。</ref><ref>{{Cite news |和書|title=天王寺-平野間 上り線も高架化に |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-09-30 |page=1 }}</ref>。
** 10月1日:特急「あすか」が廃止{{R|sone08-15}}。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[3月22日]]:天王寺駅 - 新今宮駅間が複々線化され、大阪環状線と分離運転開始。{{要出典|date=2023年1月}}
** 10月1日:急行「大和」「伊勢」「那智」が統合され、急行「[[紀伊 (列車)|紀伊]]」が運転開始{{R|sone08-15}}。急行「かすが」の奈良駅 - 湊町駅間は上り1本を残して快速になる。{{要出典|date=2023年1月}}
* [[1970年]](昭和45年)10月1日:長島駅・富田浜駅・鈴鹿駅が無人駅化。{{要出典|date=2023年1月}}
* [[1971年]](昭和46年)4月25日:名古屋駅 - 亀山駅間で蒸気機関車の使用を廃止。{{要出典|date=2023年1月}}
* [[1972年]](昭和47年)
** 3月15日:新今宮駅に停車開始{{R|sone08-15}}。急行「紀伊」の王寺駅・鳥羽駅発着の列車が廃止{{R|sone08-15}}。
** [[9月27日]]:朝明信号場 - 富田駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●関西本線朝明(信)・富田間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1972-09-26 |page=4 }}</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)
** [[7月10日]]:鈴鹿駅が河曲駅に改称{{R|sone08-15}}。
** 10月1日:奈良駅 - 湊町駅間が電化され<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●関西本線奈良・湊町間の電気運転について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-09-19 |page=1 }}</ref>、亀山駅 - 奈良駅間で蒸気機関車が全廃<ref name="kinkijnr_374">『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.374。</ref>。
** 10月1日:急行「かすが」の運転区間が名古屋駅 - 奈良駅間に短縮{{R|sone08-15}}。
** 10月7日:休日のみ快速(大和路快速の前身)が大阪環状線への直通運転開始<ref name="kinkijnr_374" />。
* [[1974年]](昭和49年)7月20日:平日の快速も大阪環状線への直通運転開始<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.375。</ref>。
* [[1977年]](昭和52年)[[1月31日]]:長島駅 - 桑名駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●関西本線長島・桑名間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1977-01-29 |page=2 }}</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)[[8月1日]]:名古屋駅 - 八田駅間が電化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●関西本線名古屋・八田間の電気運転について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1979-07-31 |page=1 }}</ref>(電化営業開始は[[1982年]][[5月17日]])。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[3月3日]]:三郷駅が開業{{R|sone08-15}}。
** [[3月24日]]:弥富駅 - 長島駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●関西本線弥富・長島間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1980-03-22 |page=3 }}</ref>。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[5月17日]]:八田駅 - 亀山駅間が電化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●関西本線八田・亀山間の電気運転について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1982-05-14 |page=2 }}</ref>。
** 8月1日:[[昭和57年台風第10号|台風10号]]と集中豪雨の影響により、王寺駅・王寺機関区が浸水する被害を受ける<ref name="kinkijnr_380">『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.380。</ref>。
** 9月29日:柘植駅 - 笠置駅間が自動信号化<ref name="kinkijnr_380" />。
** 10月18日:亀山駅 - 柘植駅間が自動信号化<ref name="kinkijnr_380" />。
* [[1983年]](昭和58年)
** [[3月8日]]:亀山駅 - 木津駅間で[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入<ref name="kinkijnr_380" />。
** [[8月8日]]:朝日駅が開業{{R|sone08-15}}。朝明信号場が北へ2.1km移転。
* [[1984年]](昭和59年)
** 2月1日:貨物支線 百済駅 - 百済市場駅間 (2.1km) が廃止{{R|sone08-15}}。
** 9月1日:木津駅 - 奈良駅間に佐保信号場(2代目)が開設<ref name="kinkijnr_381">『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.381。</ref>。
** 10月1日:木津駅 - 奈良駅間が電化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●奈良線、和歌山線五条・和歌山間ほか2線区の電気運転について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1984-09-22 |page=2 }}</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)
** 3月14日:貨物支線 四日市駅 - 四日市港駅間 (2.5km) が廃止<ref name="交通850202">{{Cite news |title=国鉄線4区間の貨物営業廃止を軽微認定 運輸審議会 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1985-02-02 |page=1 }}</ref>。新今宮駅 - 湊町駅間の貨物営業廃止。
** [[8月29日]]:高井田駅が開業{{R|sone08-15}}。
** 12月1日:平城山駅が開業{{R|sone08-15}}。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[7月21日]]:[[集中豪雨]]により、大河原駅 - 加茂駅間で大規模な土砂崩れが発生<ref name="交通8607">{{Cite news |title=復旧には一、二ヵ月 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1986-07-23 |page=2 }}</ref>。同駅間が不通となる{{R|交通8607}}。
** 9月1日:大河原駅 - 加茂駅間で運転を再開する<ref>{{Cite news |title=災害の“関西線”あす復旧 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1986-08-31 |page=3 }}</ref>。
** 11月1日:竜華操車場が信号場に変更され竜華信号場が開設。
==== 国鉄分割民営化以後(JR化後) ====
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、次のようになる。
** 名古屋駅 - 亀山駅間 {{R|sone08-15}}(59.9km) を東海旅客鉄道が承継。
** 亀山駅 - 湊町駅間{{R|sone08-15}} (115.2km)、八尾駅 - 竜華信号場 - 杉本町駅間 (11.3km) を西日本旅客鉄道が承継。{{要出典|date=2023年1月}}
** 日本貨物鉄道が四日市駅 - 塩浜駅間 (3.3km)、平野駅 - 百済駅間 (1.4km) の第一種鉄道事業者、名古屋駅 - 亀山駅 {{R|sone08-15}}(59.9km)、木津駅 - 新今宮駅間 {{R|sone08-15}}(45.5km)、竜華信号場 - 杉本町駅間 (10.5km) の第二種鉄道事業者となる。
** 亀山駅 - 木津駅間の貨物営業廃止。{{要出典|date=2023年1月}}
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月13日]]:加茂駅 - 木津駅間電化{{R|sone08-15}}。加茂駅 - 湊町駅間に'''大和路線'''の愛称使用開始{{R|sone08-15}}。日中に湊町駅発着の快速(郡山駅・大和小泉駅は通過)が増発<ref name="交通871222">{{Cite news |title=JR旅客6社と貨物 新列車ダイヤが確定 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1987-12-22 |page=1 }}</ref>。加茂駅・木津駅 - 湊町駅・大阪駅間でやまとじライナーの運転開始{{R|交通871222}}。
** [[4月24日]] - [[10月23日]]:「[[なら・シルクロード博覧会]]」の開催に伴い、大阪環状線・[[西九条駅]]構内の配線を変更して大阪環状線と梅田貨物線を結ぶルートが開通し、臨時快速「シルクロード号」が加茂駅・奈良駅 - 新大阪駅間(湊町駅発着快速の一部を行先変更)で、また奈良駅から阪和貨物線経由で[[紀勢本線]]御坊駅までの臨時快速列車がそれぞれ運転{{要出典|date=2023年1月}}。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[3月11日]]:大阪環状線に直通する区間快速(環状線内各駅停車)が運転開始。大阪環状線との直通運転を夕方以降にも拡大{{要出典|date=2023年1月}}。郡山駅・大和小泉駅停車の快速および和歌山線・桜井線直通の快速が区間快速に変更{{要出典|date=2023年1月}}。
** [[4月10日]]:大阪環状線と大和路線を直通する快速(環状線内も快速)の種別名を「[[大和路快速]]」と命名{{R|sone08-15}}。[[JR西日本221系電車|221系電車]]が大和路線区間で運用を開始<ref name="JRR1990 173">[[#JRR1990|『JR気動車客車情報 90年版』 173頁]]</ref>。
** [[7月20日]]:[[国鉄113系電車|113系電車]]による大和路快速の定期運用を終了{{要出典|date=2023年1月}}。
** 11月11日:東部市場前駅が開業{{R|JRR1990 173}}。
** 12月28日:湊町駅が移転し、改キロを実施 (-0.2km){{R|JRR1990 173}}。
* [[1990年]](平成2年)
** [[3月10日]]:快速「みえ」が運転開始<ref>[[#JRR1990|『JR気動車客車情報 90年版』 172頁]]</ref>。大阪環状線直通の区間快速を朝方にも拡大。
** 6月1日:亀山駅 - 加茂駅間でワンマン運転開始<ref>ジェー・アール・アール編『JR気動車客車編成表 2010』[[交通新聞社]]、2010年。{{ISBN2|978-4-330-14710-9}}。</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=194 |publisher=ジェー・アール・アール |isbn=4-88283-112-0}}</ref>。
* [[1992年]](平成4年)[[3月14日]]:特急「南紀」の使用車両がキハ82系気動車からキハ85系気動車(ワイドビュー)に置き換え<ref>{{Cite news |title=JR新ダイヤスタート ニューフェース発車 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1992-03-16 |page=1 }}</ref>。これによりキハ82系気動車による定期特急列車は全国から消滅。
* [[1993年]](平成5年)
** [[2月10日]]:王寺駅 - 湊町駅間で ATS-P(トランスポンダ方式)使用開始<ref>{{Cite news |title=ATS-P形使用開始 JR大和路線王寺-湊町間 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-12 |page=1 }}</ref>。
** [[7月24日]]:富田浜駅 - 四日市駅間が複線化。
** 8月1日:八田駅 - 蟹江駅間に春田信号場、永和駅 - 弥富駅間に白鳥信号場が開設。快速「みえ」をキハ58・65系気動車からキハ75系気動車に置き換え。亀山駅 - 奈良駅間でキハ120形気動車が運用開始<ref name="jrr_94" />。
* [[1994年]](平成6年)[[9月4日]]:湊町駅がJR難波駅に改称。[[関西国際空港]]開港に伴い、JR難波駅 - [[関西空港駅]]間で[[関空快速]]が運転開始。天王寺駅で大阪環状線[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]発着の関空快速と併結・分割していた。
* [[1996年]](平成8年)
** 3月22日:連続立体交差事業により、今宮駅が高架化、JR難波駅が地下化<ref>『JR気動車客車編成表 '96年版』ジェー・アール・アール、1996年。{{ISBN2|4-88283-117-1}}。</ref>。
** [[10月5日]]:加茂駅 - JR難波駅間で、平日ダイヤで運転されていた土曜日が、休日ダイヤで運転されるようになる<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** 3月8日:久宝寺駅が区間快速の停車駅になる。和歌山線直通列車が増発(日中のJR難波駅発着の快速はすべて和歌山線高田駅 - JR難波駅間の区間快速となる。和歌山線・桜井線経由の奈良駅 - JR難波駅間の快速は大幅減少)。郡山駅・大和小泉駅通過の快速は消滅。
** [[7月28日]]:竜華信号場が廃止され、八尾駅に統合。
** 9月1日:久宝寺駅の下り待避線が使用開始<ref>[https://web.archive.org/web/19980205233132/www.westjr.co.jp/new/1press/n970703a.html 大和路線久宝寺駅橋上駅舎の使用開始について]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年7月3日</ref>。
* [[1998年]](平成10年)
** 3月14日:久宝寺駅の上り待避線が使用開始<ref>[https://web.archive.org/web/19980205214927/www.westjr.co.jp/new/1press/n971219g.html 平成10年春ダイヤ改正について 3.アーバンネットワーク (3)大和路線・和歌山線](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年12月19日</ref>。
** [[9月28日]]:八田駅 - 春田信号場間に伏屋信号場が開設{{要出典|date=2023年1月}}。
* [[1999年]](平成11年)
** [[5月10日]]:関空快速のJR難波駅発着編成の天王寺駅での大阪環状線京橋駅発着関空快速との併結・分割を中止し、JR難波駅 - 関西空港駅間をJR難波駅発着編成単独での運転になる{{要出典|date=2023年1月}}。
* [[2001年]](平成13年)
** [[1月14日]]:名古屋駅 - 亀山駅間で CTC が導入{{要出典|date=2023年1月}}。
** 3月3日:春田信号場を駅に変更し春田駅が開業<ref>{{Cite news |title=関西線に春田駅誕生 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2001-03-06 |page=1 }}</ref>。名古屋駅 - 亀山駅間でワンマン運転開始<ref name="交通2001-02-08"/>。久宝寺駅が大和路快速の停車駅になる<ref>[https://web.archive.org/web/20010417125918/www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n001208c2.html -平成13年3月 ダイヤ改正について- 3.大和路線 大和路快速が久宝寺に停車!](インターネット・アーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2000年12月8日</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[4月7日]]:八田駅が高架化され、名古屋方面に0.5km移転。
* [[2003年]](平成15年)4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(木津駅 - 平野駅間 40.6km、竜華信号場 - 杉本町駅間 10.5km)が廃止<ref>『JR気動車客車編成表』'05年版 ジェー・アール・アール 2005年 {{ISBN2|4-88283-126-0}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** 7月1日:貨物支線(阪和貨物線) 八尾駅 - 杉本町駅間が休止{{要出典|date=2023年1月}}。
** [[10月18日]]:奈良駅 - JR難波駅間で女性専用車が導入<ref>[https://web.archive.org/web/20040824020124/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/040721a.html 阪和線、大和路線に「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ) 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月21日</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[1月30日]]:伏屋信号場が廃止。
* [[2006年]](平成18年)
** [[3月18日]]:急行「かすが」が廃止<ref name="westjr20051222">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20060215012716/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/051222b_01.pdf 平成18年春のダイヤ改正(別紙詳細)]}}(インターネット・アーカイブ) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年12月22日</ref>。中在家信号場での列車交換廃止。
** 4月1日:JR貨物の第二種鉄道事業(平野駅 - 新今宮駅間 4.9km)が廃止<ref>令和四年度 鉄道要覧(電気車研究会・鉄道図書刊行会)p.59</ref>。
** [[12月16日]]:加茂駅 - 王寺駅間で ATS-P(拠点P方式)使用開始<ref>[http://replay.web.archive.org/20071105210257/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/061206e.html 大和路線ATS−Pの使用開始(京阪神エリア)](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2006年12月6日</ref>。
* [[2008年]](平成20年)
** 3月15日:[[おおさか東線]]の開業により奈良駅 - 尼崎駅間をおおさか東線・[[JR東西線]]経由で運転する直通快速が運転開始{{要出典|date=2023年1月}}。JR難波駅発着の区間快速が快速に変更(停車駅は同じ)。JR難波駅発着の関空快速が廃止{{要出典|date=2023年1月}}。
** [[6月29日]]:奈良駅関西本線ホームが高架化(桜井線ホームを含む全面高架化完成は2010年3月13日<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/20091218_kaisei_osaka.pdf 平成22年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道大阪支社プレスリリース 2009年12月18日</ref>)。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月14日:名古屋駅 - 亀山駅間で日中の快速が増発{{要出典|date=2023年1月}}。
** [[3月31日]]:貨物支線(阪和貨物線) 八尾駅 - 杉本町駅間 11.3kmが廃止<ref>[http://replay.web.archive.org/20090330213554/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174079_799.html 関西線(八尾〜杉本町間)における鉄道事業廃止繰上届出書の提出について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年2月2日</ref>。
** 7月1日:木津駅 - JR難波駅間の各駅でホーム上の喫煙コーナーを廃止して全面禁煙化<ref>[http://replay.web.archive.org/20090419053851/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html 在来線特急列車などの全席禁煙化ならびに在来線ホームの禁煙化の拡大について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年3月26日</ref>。
** 10月4日:加茂駅 - JR難波駅間で大阪環状・大和路線運行管理システムが導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174388_799.html 大阪環状・大和路線運行管理システムの使用開始について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[2月14日]]:三郷駅 - 河内堅上駅間および、河内堅上駅 - 高井田駅間の2か所で、[[ジョイフルトレイン]]の「[[あすか (鉄道車両)|あすか]]」を撮影しようとした鉄道ファン数名が線路内に侵入したため一時運転を見合わせ、上下線計19本が運休、計26本が最大約40分遅れ、約1万3千人に影響した<ref>[https://web.archive.org/web/20100215142038/http://www.asahi.com/national/update/0214/OSK201002140097.html 「撮り鉄」線路に侵入 快速電車、30分間立ち往生](インターネット・アーカイブ)- [[朝日新聞]] 2010年2月14日</ref>。
*** この事件でJR西日本は[[大阪府警察]]に被害届を提出して捜査が進められ<ref>[https://web.archive.org/web/20100330062605/http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201002230025.html 撮り鉄」捜査 ルール守れ! 進入「10人」特定へ](インターネット・アーカイブ)- 朝日新聞 2010年2月23日</ref>、[[マスメディア|マスコミ]]などでも鉄道ファンのマナーについて大きく報道されたり、出版社のウェブサイトでも掲載された<ref>[http://railf.jp/news/2010/02/17/120000.html 「鉄道ファン」編集部から読者のみなさまへのお願いとお知らせ] - 交友社『鉄道ファン』・railf.jp 2010年2月17日</ref>。
** 12月1日:組織改正により、加茂駅 - JR難波駅間が[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]]の管轄から近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月12日]]:平野駅 - 百済駅間が電化。ダイヤ改正により、加茂駅 - JR難波駅間の日中の運行形態が変更されるとともに、やまとじライナーが廃止<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2010年12月17日</ref>。
** 4月18日:奈良駅 - JR難波駅間で女性専用車が毎日、終日設定される<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:百済駅を百済貨物ターミナル駅に改称。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:JR西日本区間で路線記号が本格導入開始<ref>[http://railf.jp/news/2015/03/16/153000.html JR西日本で路線記号の本格使用が始まる] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース、2014年3月15日。</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[10月22日]]:[[平成29年台風第21号|台風21号]]の影響により、加太駅 - 柘植駅間で線路脇の亀裂と盛土のり面崩壊が発生。亀山駅 - 加茂駅間が不通となる<ref name="t21">[http://www.westjr.co.jp/press/article/2017/10/page_11389.html 関西線 今後の運転計画について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2017年10月26日</ref><ref name="response20171031">[https://response.jp/article/2017/10/31/301896.html 関西本線も一部再開…JR西日本、11月1日から] - レスポンス、2017年10月31日</ref>。同区間で[[バス代行]]輸送開始。
** 11月1日:柘植駅 - 加茂駅間で運転再開、[[バス代行]]輸送区間を亀山駅 - 柘植駅間に短縮<ref name="response20171031" /><ref name="iga-younet20171101">[http://www.iga-younet.co.jp/news1/2017/11/jr.html#more 柘植‐加茂間で運転再開 JR関西線] - 伊賀タウン情報YOU、2017年11月1日</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[1月9日]]:亀山駅 - 柘植駅間が運転再開<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/12/page_11673.html 関西線 亀山~柘植駅間の運転再開見込みについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2017年12月26日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL1933Y3L19ONFB004.html JR関西線、80日ぶり全線復旧 台風被害で運休続く] - 朝日新聞、2018年1月9日</ref>。
** 3月:JR東海区間で駅ナンバリングを導入<ref name="jrc-stationnumber"/>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)11月18日:指令所が亀山指令所から大阪総合指令所に移転、中在家信号場も廃止となる<ref>{{Cite journal|author=|year=|title=草津・関西線CTC更新、SRC新設及び指令所移転プロジェクトについて|journal=鉄道と電気技術|volume=2020年10月 Vol.31 No.10|page=48}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** 7月8日:[[令和2年7月豪雨]]の影響による倒木で亀山駅 - 加茂駅間が一時不通となり<ref>{{Cite news |title=関西線の亀山―加茂で一時、運転見合わせ 大河原―笠置で列車が倒木と接触 |newspaper=京都新聞 |date=2020-07-08 |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/302339 |publisher=京都新聞社 |accessdate=2020-07-09}}</ref>、[[柏原市]]役所新庁舎建設現場の足場が強風で線路上に崩れた影響で王寺駅 - JR難波駅間が終日不通となる<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-08 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200708/k10012504651000.html |title=大阪 柏原市役所工事の足場崩れ JR大和路線 終日運転見合わせ |website=NHK NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。
<!-- 年表への追加の際はできるだけ1 - 3行程度に収まるよう要約してください -->
* [[2021年]](令和3年)3月13日:加茂駅 - 亀山駅間の全駅でICカード「ICOCA」が利用可能となる<ref name="ICOCA20210119">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210119_00_ICareakakudai.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119051654/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210119_00_ICareakakudai.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 関西本線 加茂駅〜亀山駅間 ICOCAエリア拡大日決定! 〜2021年3月13日サービス開始〜|publisher=西日本旅客鉄道|date=2021-01-19|accessdate=2021-01-19|archivedate=2021-01-19}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[7月1日]]:特急「南紀」の使用車両がキハ85系気動車からHC85系ハイブリッド車両に置き換え<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/126734|title=ハイブリッド特急「南紀」出発! キハ85系から全て新型HC85系に “会社またぎ”も本格化 |website=乗りものニュース|date=2023-07-01|access-date=2023-07-02|publisher=メディア・ヴァーグ}}</ref>。
** [[10月23日]]:加茂駅 - 天王寺駅間の一部列車において、有料座席サービス「快速 うれしート」の提供を開始<ref name="ureseat">[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230824_00_press_uresheet.pdf 有料座席サービス「快速 うれしート」導入のお知らせ] - JR西日本ニュースリリース 2023年8月24日</ref>。
* [[2024年]](令和6年)[[3月16日]](予定):通勤特急「らくラクやまと」を新設(運行開始は3月18日予定)<ref name="jrw_20231215"/>。「快速 うれしート」の設定列車を拡大し、平日は設定列車を追加、土休日の大和路快速・直通快速にも設定<ref name="jrw_20231215"/>。
== 今後の予定・構想 ==
* 「大和路線」区間内の奈良駅 - 郡山駅間について、奈良県が事業主体となって鉄道高架化に着手している{{要出典|date=2023年1月}}。同事業において、奈良駅 - 郡山駅間([[京奈和自動車道]]奈良IC(仮称)付近)に新駅を建設予定であることも明らかになっている{{要出典|date=2023年1月}}。詳細は「[[大和路線#鉄道高架化と新駅設置計画]]」を参照。
<!-- 本事業は、限度額立体交差事業で実施するものであって連続立体交差事業で実施するものではない。「http://www.pref.nara.jp/secure/149559/0h2711_10_01.pdf」の4ページ目を参照。 -->
* 非電化区間である亀山駅 - 加茂駅間の電化・複線化の要望があり、三重県が中心となって「[https://www.pref.mie.lg.jp/KOTSU/HP/kansaihonsen/index.htm 関西本線複線電化促進同盟]」を結成していた(2018年、「関西本線整備・利用促進連盟」<ref>{{Cite web
| last =
| first =
| author = | authorlink =
| url = https://www.pref.mie.lg.jp/KOTSU/HP/kansaihonsen/74408045363.htm
| title = 関西本線のあらまし
| date =
| website = 三重県
| publisher =
| format = | doi =
| accessdate = 2023-12-07
}}</ref>と改称)。また2004年の近畿地方交通審議会答申8号では、加茂以東を電化するよう答申している{{要出典|date=2023年1月}}。
* 三重県は[[2023年]][[11月29日]]、沿線自治体・JR西日本との会議で、奈良駅 - 名古屋駅間の直通列車の実証実験を行うことを決めた<ref>{{Cite news
| author =
| title = JR関西線、名古屋―奈良の直通を実証運行 来秋めど、利用促進へ取り組み
| newspaper = 中日新聞
| pages = | language = | publisher =
| location = | agency =
| date = 2023-11-29
| url = https://www.chunichi.co.jp/article/814519
| accessdate = 2023-12-07
}}</ref>。三重県の[[一見勝之]]知事は、JR東海(亀山駅 - 名古屋駅間)とも事務的協議を始めており、2024年秋に2日間程度の実証実験を行うことを明らかにした<ref>{{Cite web
| last =
| first =
| author = | authorlink =
| url = https://www.pref.mie.lg.jp/MOVIE/l1025900032.htm
| title = 三重県知事 一見 勝之 定例記者会見:知事定例記者会見(令和5年12月5日)
| date = 2023-12-05
| website = 三重県
| publisher =
| format = | doi =
| accessdate = 2023-12-07
}}</ref><ref>{{Cite news
| author =
| title = 名古屋-奈良直通「実証運行は2日ほど」 24年秋のJR関西線計画で三重県知事
| newspaper = 中日新聞
| pages = | language = | publisher =
| location = | agency =
| date = 2023-12-06
| url = https://www.chunichi.co.jp/article/817884
| accessdate = 2023-12-07
}}</ref>。
== 駅一覧 ==
(貨)は貨物専用駅、それ以外の駅で◆・◇を付した駅は貨物取扱駅を表す(◇は定期貨物列車の発着なし)。
=== JR東海 ===
ここではJR東海の管轄である名古屋駅 - 亀山駅間の駅名と主な駅のキロ程のみ記す。接続路線・停車駅などの詳細については「[[関西線 (名古屋地区)]]」を参照のこと。
( )内は起点からの営業キロ<!--主に拠点駅や他路線・支線との分岐駅に記載-->
[[名古屋駅]]◇ (0.0km) - ([[笹島信号場]]) - [[八田駅]] - [[春田駅]] - [[蟹江駅]] - [[永和駅]] - ([[白鳥信号場]]) - [[弥富駅]] - [[長島駅]] - [[桑名駅]] (23.8km) - ([[朝明信号場]]) - [[朝日駅]] - [[富田駅 (三重県)|富田駅]] - [[富田浜駅]] - [[四日市駅]]◆ (37.2km) - [[南四日市駅]]◇ - [[河原田駅]] (44.1km) - [[河曲駅]] - [[加佐登駅]] - [[井田川駅]] - [[亀山駅 (三重県)|亀山駅]] (59.9km)
=== JR西日本 ===
==== 亀山駅 - 加茂駅間 ====
* この区間では普通列車のみの運転(全駅に停車)
* 全区間単線、全駅で[[列車交換]]可能
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:solid 3px #5726B7"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #5726B7"|駅間<br />営業キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #5726B7"|接続路線
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #5726B7" colspan="3"|所在地
|- style="border-bottom:solid 3px #5726B7"
!{{Nowrap|亀山<br />から}}
!style="font-size:85%;"|{{Nowrap|[[名古屋駅|名古屋]]<br />から}}
|-
|[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|59.9
|[[東海旅客鉄道]]:{{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線(名古屋方面)]](CJ17)・{{Color|#f77321|■}}[[紀勢本線]]
| rowspan="8" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;" |{{縦書き|[[三重県]]|height=6em}}
| colspan="2" rowspan="3" |[[亀山市]]
|-
|[[関駅 (三重県)|関駅]]
|style="text-align:right;"|5.7
|style="text-align:right;"|5.7
|style="text-align:right;"|65.6
|
|-
|[[加太駅 (三重県)|加太駅]]
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|11.1
|style="text-align:right;"|71.0
|
|-
|[[柘植駅]]
|style="text-align:right;"|8.9
|style="text-align:right;"|20.0
|style="text-align:right;"|79.9
|[[西日本旅客鉄道]]:{{rint|ja|wkc|size=17}} [[草津線]]
|rowspan="5" colspan="2"|[[伊賀市]]
|-
|[[新堂駅]]
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|26.2
|style="text-align:right;"|86.1
|
|-
|[[佐那具駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|30.6
|style="text-align:right;"|90.5
|
|-
|[[伊賀上野駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|34.6
|style="text-align:right;"|94.5
|[[伊賀鉄道]]:[[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線(忍者線)]]
|-
|[[島ケ原駅]]
|style="text-align:right;"|7.3
|style="text-align:right;"|41.9
|style="text-align:right;"|101.8
|
|-
|[[月ケ瀬口駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|44.9
|style="text-align:right;"|104.8
|
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[京都府]]|height=4em}}
|rowspan="3" style="width;1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[相楽郡]]|height=4em}}
|rowspan="2"|[[南山城村]]
|-
|[[大河原駅 (京都府)|大河原駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|48.9
|style="text-align:right;"|108.8
|
|-
|[[笠置駅]]
|style="text-align:right;"|5.4
|style="text-align:right;"|54.3
|style="text-align:right;"|114.2
|
| style="white-space:nowrap;"|[[笠置町]]
|-
|[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]]
|style="text-align:right;"|6.7
|style="text-align:right;"|61.0
|style="text-align:right;"|120.9
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|wkq|size=17}} 関西本線([[大和路線]] [[奈良駅|奈良]]方面)(JR-Q39)
|colspan="2"|[[木津川市]]
|}
この区間の中間駅(両端駅は含まない)のうち、伊賀上野駅はJR西日本[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]、関駅・加太駅は[[無人駅]]、それ以外の中間駅は[[日本の鉄道駅#簡易委託駅|簡易委託駅]]である。
==== 加茂駅 - JR難波駅間 ====
ここでは駅名と主な駅のキロ程のみ記す。接続路線・停車駅などの詳細については「[[大和路線#駅一覧]]」を参照のこと。
( )内は名古屋駅からの営業キロ<!--主に拠点駅や他路線・支線との分岐駅に記載-->
[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] (120.9km) - [[木津駅 (京都府)|木津駅]] (126.9km) - [[平城山駅]] - ([[佐保信号場]]) - [[奈良駅]] (133.9km) - [[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]] - [[大和小泉駅]] - [[法隆寺駅]] - [[王寺駅]] (149.3km) - [[三郷駅 (奈良県)|三郷駅]] - [[河内堅上駅]] - [[高井田駅 (大阪府柏原市)|高井田駅]] - [[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]] - [[志紀駅]] - [[八尾駅]] - [[久宝寺駅]] (164.3km) - [[加美駅]] - [[平野駅 (JR西日本)|平野駅]] (167.5km) - [[東部市場前駅]] - [[天王寺駅]] (171.4km) - [[新今宮駅]] - [[今宮駅]] - [[JR難波駅]] (174.9km)
=== JR貨物 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:14em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!接続路線
!colspan="2"|所在地
|-
|colspan="5" style="background:#eee;"|'''四日市駅 - 塩浜駅間'''
|-
|[[四日市駅]]
|style="text-align:right;"|0.0
|東海旅客鉄道:関西本線(本線)
|rowspan="2" colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[三重県]]<br />[[四日市市]]
|-
|(貨)[[塩浜駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|
|-
|colspan="5" style="background:#eee;"|'''平野駅 - 百済貨物ターミナル駅間'''
|-
|[[平野駅 (JR西日本)|平野駅]]
|style="text-align:right;"|0.0
|西日本旅客鉄道:関西本線(本線)・[[片町線]]貨物支線
|rowspan="2"|[[大阪府]]<br />[[大阪市]]
|[[平野区]]
|-
|(貨)[[百済貨物ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|
|[[東住吉区]]
|}
=== 廃止区間 ===
( )内は起点からの営業キロ。
; 貨物支線(1985年廃止)
: 四日市駅 (0.0km) - 四日市港駅 (2.5km){{R|交通850202}}
: ※[[四日市駅]]の構外[[停車場#側線|側線]]として現存。
; 旧線(1907年廃止)
: 加茂駅 (0.00km) - [[大仏駅]] (8.69km) - 奈良駅 (9.82km)
; 貨物支線(1984年廃止)
: 百済駅 (0.0km) - [[百済市場駅]] (2.1km)
; 貨物支線([[阪和貨物線]]・2009年廃止)
: 八尾駅 (0.0km) - [[杉本町駅]] (11.3km)
=== 廃駅 ===
( )内は名古屋駅起点の営業キロ。
* [[愛知駅]]:名古屋駅 - 八田駅間<ref>廃止当時の大阪方の隣の駅は[[蟹江駅]]</ref>(約0.6km)
* 桑名仮停車場:桑名駅 - 朝明信号場間、所在地は[[桑名市]]江場(約25.1km)
* 午起駅:富田浜駅 - 四日市駅間 (35.8km)…[[三岐鉄道三岐線|三岐鉄道]]直通列車のみの停車だった
* 稲葉山仮停車場:三郷駅 - 河内堅上駅間(約151.5km)
* 亀瀬仮停車場:三郷駅 - 河内堅上駅間(約152.8km)
* 亀ノ瀬東口仮停車場:三郷駅 - 河内堅上駅間 (151.7km)
* 亀ノ瀬西口仮停車場:三郷駅 - 河内堅上駅間 (153.0km)
* 柏原仮乗降場:高井田駅 - 柏原駅間 (157.9km)
* 百済駅(初代):東部市場前駅 - 天王寺駅間 (169.3km)
=== 廃止信号場 ===
( )内は名古屋駅起点の営業キロ。
* 伏屋信号場:八田駅 - 春田駅間 (6.2km)
* 揖斐川仮信号場:長島駅 - 桑名駅間 (21.9km)
* [[中在家信号場]]:加太駅 - 柘植駅間 (75.6km)
* 都跡仮信号場:平城山駅 - 佐保信号場間(約130.7km)
* 佐紀仮信号所:佐保信号場 - 奈良駅間(約131.5km)
* 安堵信号所:大和小泉駅 - 法隆寺駅間(約143.5km)
* 藤井信号場:三郷駅 - 河内堅上駅間 (151.8km)
* [[竜華操車場]]:八尾駅 - 久宝寺駅間 (163.9km)
* 正覚寺信号場(初代):加美駅 - 平野駅間 (166.9km)
* 正覚寺信号場(2代目):加美駅 - 平野駅間 (167.4km)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『JR時刻表』各号、[[交通新聞社]]。
* {{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=172 |publisher=ジェー・アール・アール |isbn=4-88283-111-2|ref=JRR1990}}
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悪性腫瘍
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悪性腫瘍(あくせいしゅよう、Malignant Tumor, Cancer)は、生体の自律制御を外れて自己増殖する細胞集団である。周囲の組織に浸潤して転移する腫瘍を指す。がん(ガンまたは癌)や「悪性新生物」とも称し、死亡につながることも多い。国立がん研究センターによると、2007年以降に登録された院内がんデータでは、2018年の時点で10年生存率は59.4%であり、部位や病期(「ステージ」)により差が大きい。
この疾患には、「インスリン抵抗性」(Insulin Resistance)と呼ばれる病因因子が強く関与している。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つ、血糖値が制御不能状態にある糖尿病患者は癌を患いやすくなる。インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の炎症は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす。
ヒトの身体の細胞は、正常な状態では、細胞数をほぼ一定に保つために分裂・増殖を制御する機構が働いている。腫瘍は、生体細胞の遺伝子に発生した異常に起因して、正常な制御を外れて自律的に増殖を開始したものを指す。腫瘍と正常組織の区画が不明瞭で、異物が組織や細胞内に蓄積する浸潤現象 (Infiltration) が発現し、転移現象が認められる状態を「悪性腫瘍」と称する。
治療を施さない場合は全身に転移し、死に至る。
腫瘍は良性腫瘍と悪性腫瘍とに分類され、後者を「癌」と称する。癌は、上皮組織系由来の癌腫 (Carcinoma) と非上皮組織系細胞由来の肉腫 (Sarcoma) に分類される。癌腫の診断名は「臓器名(組織名)+癌」で表記される。ひらがなの「がん」は悪性腫瘍全体を示し、漢字の「癌」は上皮細胞から発生する癌腫と使い分けられることがあるが、区別はされないことも多い。
戦後に定めた当用漢字は「癌」を含まず「がん」が広く一般に用いられ、学問では「癌」を用いたが、「がんは悪性腫瘍の総称、癌は癌腫を意味する」との主張が1990年以前から一部で見られるようになった。日本口腔外科学会は「がんは悪性腫瘍の総称、癌は癌腫を意味する」と定義しているが、内科医の藤田浄秀は、当用漢字による漢字制限と必然的に生じた仮名書きの強制の歴史的観点から「不適切だ」と主張している。
国際疾病分類の日本語訳では「Cancer」の訳語として、「がん」(「癌」)を当てており、悪性腫瘍一般を意味する。
「がん」を意味する「Cancer」は、かに座を意味する「Cancer」と同じ単語であり、乳癌の腫瘍が蟹の脚のような広がりを見せた ところから、「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが「蟹」の意味として「καρκίνος」(Carcinos)と名づけ、これをアウルス・コルネリウス・ケルススが「Cancer」とラテン語に翻訳した。
広義の「Cancer」は「悪性新生物」(Malignant Neoplasm) の総称であり、ひらがなで「がん」と表記する。ひらがなの「がん」は、「癌腫」や非上皮由来の「肉腫」(sarcoma)、白血病のような血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で悪性腫瘍を表す言葉として使われており、「国立がん研究センター」、各都道府県における「〇〇県がんセンター」と表記している。
広義の「Cancer」は、狭義の「Cancer」にあたる「Carcinoma」(癌腫)、「Sarcoma」(肉腫)、その他(白血病、悪性リンパ腫、骨髄腫、悪性中皮腫)に分けられる。
漢字の「癌」は、「岩」の異体字である「嵒」と、病垂との会意形声文字であり、本来は「乳がん」の意味である。触診すると岩のようにこりこりしているからで、江戸時代のころには「岩」と書かれた文書も残っている。
社会の機構や組織について「○○は△△のがんだ」「△△のガン細胞」と比喩表現の1つとして使われることがある。
「腫瘍」は国際疾病分類の「Tumor」の日本語訳であり、「生体内において、その個体自身に由来する細胞でありながら、その個体全体としての調和を破り、時に他から何らの制御を受けることなく、又自らの規律に従い、過剰の発育をとげる組織をいう」と定義されている。
新生物 (Neoplasm) も腫瘍と同義に用いられており、良性と悪性があり、悪性新生物は癌、癌腫及び肉腫を意味する。
悪性腫瘍の用語は病理学において以下のように分類される。
悪性腫瘍は、
これらに伴い、癌性疼痛を惹き起こすことも多い。
通常の細胞では、酸素が十分に供給されている時は、ATP合成のエネルギー効率が高いが合成速度の遅いミトコンドリアでの酸化的リン酸化でエネルギー生産を行う。酸素が十分に供給されない時は、エネルギー効率が悪いが速度の速い解糖系によって、エネルギーを得ている。がん細胞は酸素が十分に供給されている環境下でもエネルギー効率の悪い解糖系で活動する。これはワールブルク効果(「ウォーバーグ効果」とも)と呼ばれている。この現象は以前から知られていたが、代謝物を一斉に測定・解析を行なうメタボロミクスによって、非がん組織と比較してがん組織で解糖系の代謝中間体のプロファイルが明らかになり、解糖系の活性化が明確に示された。なお、通常の細胞の代謝に関しては解糖系によるATP合成速度は電子伝達系によるATP合成速度の約100倍の速度を有している。
癌組織の多くがブドウ糖代謝に活発(言い換えると、「癌細胞はブドウ糖をエサにして増殖する」)な性質を利用したポジトロン断層法(PET)が、がん診断に利用されている。
世界保健機関 (WHO) によれば、2005年の世界の5800万人の死亡のうち、悪性腫瘍による死亡は13%(760万人)を占める。死亡原因となった悪性腫瘍のうち、最多のものは肺がんが130万人で、胃がんは100万人、肝がん、大腸がん、乳がんが続く。悪性腫瘍による死亡は増加し続け、2030年には1140万人が悪性腫瘍で死亡すると予測されている。
日本の原因疾患別死亡者数の割合と順位では1951年から1980年まで30年間1位の脳血管疾患に代わり、1981年から2015年まで35年連続で1位で、2015年度は死亡者数129万0428人のうち、がんによる死者数は37万0131人であり、死亡者総数に対する割合は28.7%である。
「がん」は単一の細胞を起源とし、発生母地となった細胞の種類(組織学的分類)と細胞の身体的部位(解剖学的分類)とで分類できる。
組織型および各腫瘍組織型の記事を参照。
病期分類は、腫瘍学、癌に詳述がある。
成人の「がん」は通常は上皮組織に形成され、遺伝的あるいは内因的特性を持つ人々が外的要因に曝された影響による長期間にわたる生物学的な過程を経て生じる、と大方の場合は考えられている。肉腫は上皮由来ではないが、悪性腫瘍として癌と同様に検査・診断・加療される。
次に例を示す:
「がん」は幼い子供や新生児にも発生する。異常な遺伝形質プロセスのために細胞の複製幼若化に対して抑制が利かないので、制御されない増殖が早期より亢進し、進行も速い。肉腫が多いことも特徴として挙げられる。
幼児期のがんの発生ピーク年齢は生後一年以内にある。神経芽細胞腫は最も普通に見られる新生児の悪性腫瘍であり、白血病 (Leukemia) と中枢神経がんがその次に続く。女子新生児と男子新生児とは概して同じ発生率である。しかし、白人の新生児は黒人のそれに比べてほとんどの種類のがんにおいて大幅に発生率が高い。
新生児の神経芽細胞腫は生存率が非常に良く、ウィルムス腫瘍、網膜芽細胞腫も非常に良いが、他のものはそれほど良くない。
幼児期がんを次に示す:
身体を構成する細胞は、1個の受精卵から発生を開始し、当初は形態的機能的な違いが見られなかった細胞は各種幹細胞を経て組織固有の形態および機能を持った細胞へと変化してゆく。この形態的機能的な細胞の変化を分化という。細胞の発生学的特徴の一つとして、未分化細胞ほど細胞周期が短く盛んに分裂増殖を繰り返す傾向がある。通常、分化の方向は一方向であり、正常組織では分化の方向に逆行する細胞の「幼若化」(脱分化)は、損傷した組織の再生を除き、発生しない。
がん細胞は特徴の一つに幼若化/脱分化するという性質あり、分化度の高いがん細胞や、非がん組織から、「低分化」あるいは「未分化」ながん細胞が生じる。細胞検体を検査したとき、細胞分化度が高いものほど臓器の構造・機能的性質を残し、比較的悪性度が低いと言える。インスリノーマのような例外もある。通常は分化度の低いものほど転移後の増殖も早く、治療予後も不良である。
化学療法は、特定の細胞周期に依存して作用するものが多いため、細胞周期が亢進している分化度が低いがんほど化学療法に対して感受性が高いという傾向がある。腫瘍細胞への作用原理・特性は「化学療法 (悪性腫瘍)」に詳述がある。
細胞生物学における接触阻害とは、細胞がお互いに接触するまで増殖した場合に起こる細胞の増殖が停止する細胞の性質のことである。癌細胞では通常、この接触阻害の性質を失っており、隣の細胞に接触した場合でも増殖を停止できない状況に至っている。癌細胞は、接触時に増殖を停止したり成長方向を変更したりすることはないため、お互いの細胞の上に積み上がって成長を続けることとなる。癌細胞は、この接触阻害の性質を失っており、かつ、無限に増殖できる能力を獲得している。癌細胞の特徴として、接触阻害の消失、増殖因子要求性の低下、転移能の前提である足場非依存性増殖能の獲得、不死化、転移能の獲得、脱分化の発現が掲げられ、発癌はこのような過度の増殖亢進の結果である。
「トゥーモア・イニシエーション」(Tumor Initiation, 正常な細胞が、腫瘍を形成できるよう変化する過程のこと)と「プロモーション」(Promotion, 発癌促進)によって細胞増殖が起こり、過形成になると「アポトーシス」(Apoptosis, 細胞が死ぬ現象)の機構が働き、細胞の増殖が抑えられる。しかし、細胞死が進行して細胞数が減ると、体内で細胞死は抑制され、細胞増殖が促進される。放射線で誘発されるリンパ腫の実験では細胞死を起こしやすい動物系統がリンパ腫を発生させやすい。細胞死が起こり、細胞が減少すると細胞死を抑制して細胞増殖を促進させるようになり、これが癌化への引き金となる。ウイルス感染(エプスタインバーウイルス (EBV)、パピローマウイルス (HPV)、ヒトT細胞白血病ウイルス、B型及びC型肝炎ウイルス)、化学物質による発がんも放射線誘発発がんと同様に細胞死の亢進に引き続く細胞死の抑制(遺伝子bcl-2の活性化)が癌化に際して重要な要因となっている。がん抑制遺伝子p53はDNA損傷の修復を助けるが、損傷を修復できない場合には細胞死を誘発させて細胞ごと消去する。p53に異常があると細胞死が起こりにくくなり発がんにつながることになる。
悪性腫瘍(がん)は、細胞のDNAの特定部位に幾重もの異常が積み重なって発生する、と説明されることが多い。異常が生じるメカニズムは多様であり、全てが知られているわけではない。遺伝子の異常は、通常の細胞分裂に伴ってもしばしば生じていることも知られ、偶発的に癌遺伝子の変異が起こることもありうるし、発癌の確率、すなわち遺伝子の変異の確率を高めるウイルス、化学物質、放射線(環境放射線、人工放射線、X線検査やCTスキャンによる医療被曝)が挙げられている。
健康状態の生体内ではDNA修復機構や細胞免疫、悪性腫瘍を修復したり抑え込んだり排除したりする機構も働いている。
すでに悪性腫瘍が生体内にある状態になっている場合、そこにはDNA修復機構の不調や細胞免疫の不調が複雑に絡んでいる場合もあり、「水疱瘡は水痘・帯状疱疹ウイルス (Varicella-zoster virus) の感染で起こる」など一対一の因果関係の説明は、癌では示しにくいことが多い。
糖尿病および高血糖、高インスリン血症(Hyperinsulinemia)およびインスリン抵抗性(Insulin Resistance)は、癌の大いなる危険因子である。インスリン(Insulin)は膵臓のβ細胞から分泌されるペプチド・ホルモンであるが、このホルモンには腫瘍の増殖を誘導する作用がある。
論文『Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence』(『インスリン抵抗性と癌:疫学的証拠』)の著者らは、「インスリン抵抗性が癌の発生の重要な要因であることに疑いの余地は無い」と断言している。
喫煙と癌の相関は、数十年にわたる調査での一貫した結果でも明らかになっている。数百の疫学調査により、たばことがんとの関係が確認されている。アメリカ合衆国における肺がんによる死亡の比率とたばこ消費量の増加パターンは鏡写しのようであり、喫煙が増加すると肺がん死比率も劇的に増加した。渡邊昌は「日本政府が日本たばこ産業 (JT) 株式の半数以上を保有しているため、喫煙規制や禁煙に関する動きが進みにくかった」と指摘しており、がんの死亡率の1位は肺がんとなっている。
厚生労働省は「『食生活の欧米化』 が癌による死を増やした」と考えている。
一方で、北極圏に住むエスキモーたちと暮らした経験がある探検家、ヴィルヒャムル・ステファンソン(Vilhjálmur Stefánsson)の事例もある。ステファンソンはエスキモーたちとの共同生活で、「脂肪が多い肉と魚」を毎日食べ、赤身肉よりも脂肪を優先的に食べるようにし、脂肪の摂取量が少ないと体調不良に陥った。
ヴィルヒャムル・ステファンソンは、食事療法、とりわけ、炭水化物が少ない食事療法に大いに関心を抱いていた。ステファンソンはイヌイットたちの食事について、「全体の90%が肉と魚で構成されている」と記録している。彼らの食事は「Zero Carb」「No Carb」(「炭水化物をほとんど含まない食事」)と見なされるかもしれない(彼らが食べていた魚にはわずかな量のグリコーゲン (Glycogen) が含まれてはいたが、炭水化物の摂取量は全体的にごく僅かであった)。ステファンソンの仲間の探検家たちも、この食事法で完全に健康体であった。イヌイット(ステファンソンの時代には「エスキモー」と呼ばれていた)たちとの暮らしから数年後、ステファンソンは、アメリカ自然史博物館からの要請で、同僚のカーステン・アンダーソン (Karsten Anderson) とともに再び北極を訪れた。2人のもとには「文明化された」食料が1年分補給される予定であったが、2人はこれをやんわりと断った。当初の計画は1年間であったものが、最終的には4年間に延長された。北極圏にいた2人がその4年間で食べていたものは、捕えて殺して得られた動物の肉と魚だけであった。4年に亘る肉食生活を送る過程で、2人の身体には異常も悪影響も見られなかった。ウィリアム・バンティング (William Banting) と同じく、炭水化物のみを制限し、身体が本当に必要としている食べ物を食べ続けた場合、身体は完全に機能し、壮健さと細身を維持できることが明らかとなった。「カロリー」については一切無視された。
肉だけを食べる食事法が続行可能かどうかについての見解をステファンソンが報告した際には多くの懐疑論が出たが、のちに行われた研究と分析で、それは可能であることが裏付けられた。複数の研究結果により、エスキモーたちの食事法は「ケトン食療法」であることが示された。彼らは主に魚や肉を煮込んで食べており、時には魚を生で食べることもあった。この食事療法は、ミネソタ州ロチェスター市にあるメイヨー・クリニック (Mayo Clinic) の医師、ラッセル・ワイルダー (Russell Wilder) が1920年代前半に開発したもので、元々は癲癇 (Epilepsy) を治療するために開発し、患者に処方していた。砂糖、甘い果物全般、デンプンが豊富なもの全般を避け、各種ナッツ、生クリーム、バターの摂取を増やす。栄養素の構成比率は「脂肪(4):タンパク質と炭水化物(1)」である。脂肪分が90%、タンパク質が6%で、炭水化物の摂取は可能な限り避ける食事法である。
1928年、ステファンソンとアンダーソンの2人はニューヨークにあるベルヴュー病院(英語版)に入院し、完全肉食生活が体に及ぼす影響についての実験台となることに同意した。実験の期間は1年間であり、コーネル大学のウジェーヌ・フロイド・デュボア(Eugene Floyd DuBois)が実験を指揮した。ステファンソンとアンダーソンの2人は、注意深く観察された実験室という設定で、最初の数週間、肉だけを食べ続けても問題無いことを証明する研究の着手に同意し、「食事における決まり事」を確かなものにするために観察者が付いた。スコット・カトリップ(Scott Cutlip)による著書『The Unseen Power: Public Relations』によれば、ペンドルトン・ダッドリー(Pendleton Dudley)がアメリカ食肉協会(American Meat Institute)に対して、この研究に資金を提供してもらえないか、と説得したという。この間にアンダーソンには糖尿病の症状が発現した。糖尿病における病理とは異なり、この研究の過程でアンダーソンの身体に見られた糖尿病の病状の期間は4日間であった。耐性を調べるためにブドウ糖100gを投与させたことと、肺炎の発症はいずれも同時期であった。この時のアンダーソンは、水分と炭水化物が多い食事を取っており、これを排除すると、糖尿病の症状は消滅した。ステファンソンは、研究者から「脂肪が少ない赤身肉だけを食べる」よう依頼された。ステファンソンには脂肪がほとんど無い肉を食べ続けると2-3週間後に健康を損なった経験があり、「脂肪がほとんど無い肉」は「消化不良」を惹き起こす可能性がある、と指摘した。この肉を食べ続けて3日目、ステファンソンは吐き気と下痢に見舞われ、そのあとに便秘が10日間続いた。早い段階で体調不良に陥ったのは、自身が以前に食べていたカリブー(トナカイ)の肉と比べて脂肪が少ない肉を食べ続けたのが原因である、とステファンソンは考えた。脂肪が多い肉を食べるようにすると、2日以内に身体は完全に回復した。最初の2日間、ステファンソンが取っていた食事は、脂肪の摂取量が三分の一に減っていた点を除けば、エスキモーが取っていた食事に近いものであった。タンパク質の摂取カロリーは全体の45%を占めており、3日目には腸に異常が見え始めた。次の2日間でステファンソンはタンパク質の摂取量を減らし、脂肪の摂取量を増やした。摂取カロリーの約20%をタンパク質で、残りの80%を脂肪で占めるようにした。この2日間での高脂肪食でステファンソンの腸の状態は投薬無しで正常に戻った。その後、ステファンソンはタンパク質の1日の摂取カロリーが25%を超えないようにした。2人の身体は健康を保ち、腸も正常なままであった。彼らの便は小さく、匂いも無かった。ステファンソンには歯肉炎があり、歯石の沈着が増加するも、実験が終わるまでには消えていた。実験中のステファンソンの摂取カロリーは2000~3100kcalで、そのうちの20%はタンパク質であり、残りの80%は動物性脂肪から得ていた。栄養素の1日の摂取量については、タンパク質は100-140g、脂肪は200-300gで、炭水化物については7-12gであった。1929年に発表された論文では、この時の臨床研究について詳述されている。ステファンソンによれば、エスキモーたちは赤身肉(タンパク質)の摂取を制限し、余分な赤身肉は犬に与えて食べさせ、脂肪を確保して食べたという。これらの事例と証拠から、「脂肪が多い肉を食べると癌になる」という主張には説得力が無い。
タンパク質の摂取量が多過ぎ、脂肪の摂取量が足りない食事を摂り続けていると、「タンパク質中毒」(Protein Poisoning)と呼ばれる急性の栄養失調状態に陥ることがある。これは「ウサギ飢餓」「カリブー飢餓」「脂肪飢餓」とも呼ばれる。「ウサギ飢餓」(Rabbit Starvation)という用語は、ウサギの肉は脂肪が少なく、そのほとんどがタンパク質で構成されており、それだけを食べ続けると中毒症状を惹き起こす食べ物である点に由来する。報告されている症状として、最初は吐き気や疲労感に襲われ、下痢を起こし、最終的には死に至る。
この肉食実験を監督したウジェーヌ・フロイド・デュボアは「定期的な尿検査で、彼らの尿からはケトン体が常に一定量検出されたため、炭水化物は摂取していなかった」と書いた。
栄養学者たちは、
と非難した。
「エスキモーたちは野菜や果物について『人間の食べ物ではない』と考えていた」とステファンソンは書いている。1960年代以降、「動物性脂肪を豊富に含む動物性食品は、健康に悪影響を及ぼす可能性がある」と言われるようになると、栄養学者たちは「動物の肉には、生命維持に欠かせない全ての必須アミノ酸、全ての必須脂肪酸、13種類ある必須ビタミンのうちの12種類がたくさん含まれている」という栄養学上の事実の指摘を控えるようになった。ビタミンDとビタミンB12の両方を含む食べ物は「動物性食品だけ」である。
リチャード・ヘンリー・デイナ・ジュニア(Richard Henry Dana Jr.)は、1840年の時点で「我々は1日に3回、新鮮な牛肉のステーキだけを食べていた。病気とは無縁の健康状態を維持できた」と書き残している。エスキモーとステファンソンによるケトン食療法(炭水化物を徹底的に避け、脂肪を大量に摂取する)は癌の治療や予防に有効である可能性を示している。エスキモーたちは狩猟採集生活者として暮らしており、肉と魚だけを食べ続けていたが、白人との交易で小麦粉と砂糖を食べ始めたのち、肥満や糖尿病を患うようになった。
肉だけを食べ続けたステファンソンとアンダーソンは、「壊血病を患い、瀕死の状態に陥る」と思われていたが、脂肪が多い肉を食べ続けたことにより、「バランスの取れた食事」を取っていたときよりも健康体になった。1946年、ステファンソンは、エスキモーたちとの食生活について綴った著書『Not by Bread Alone』(『パンのみにあらず』)を出版し、1956年にはこの本の拡張版とも言える内容の著書『The Fat of the Land』(『大地の脂肪』)を出版した。
1998年に福岡県久山町で行われた「久山町研究」 では、「糖尿病は悪性腫瘍死の発生のリスクを有意に増大させ、高血糖の程度を示すヘモグロビンA1cの高値の者ほど胃がんの発生率が高かった」という研究結果が得られた。清原裕は「糖尿病は悪性腫瘍による死のリスクを有意に増大させた」「糖尿病及び高血糖は悪性腫瘍の重要な危険因子である」と書いた。国立がん研究センターは「糖尿病と診断されたことのある人は、そうでない人に比べて、がんを患いやすくなる確率20-30%ほど上がり、男性では肝がん、腎臓がん、膵がん、結腸がん、胃がん、女性では胃がん、肝がん、卵巣がんでこの傾向が強い」と発表した。C-ペプチドは、インスリンを生成する際、インスリンの前駆体であるプロインスリンから切り放された部分を指すが、男性では、C-ペプチド値が高いと大腸癌リスクが高くなる。C-ペプチドは男性の結腸癌と関連がある。1988年以降、久山町では、九州大学をはじめとする複数の大学の研究者たちが、炭水化物が多く、脂肪は少なく、摂取カロリーも低めの食事を住民に食べさせ続けたところ、糖尿病だけでなく、アルツハイマー型認知症を患う住民が増えた。前述のとおり、糖尿病は癌を患うリスクをさらに上昇させる。
血糖コントロール悪化から入院した糖尿病患者の6.85%に新規に悪性腫瘍が指摘され、高い罹患率を認めたことから、急激な血糖コントロールの悪化を認めた際には、悪性腫瘍の鑑別が必要となる。糖尿病患者はがんを患いやすくなるが、これには膵臓のβ細胞から分泌されるホルモン、インスリンが関わっている(後述)。
WHOと国際がん研究機関(IARC)による「生活習慣とがんの関連」についての報告がある。
化学物質への暴露が発がんを惹き起こすことがあり、国際がん研究機関(IARC)はヒトに対する発癌性が認められる化学物質(Group1)として、石綿、ベンゼン、六価クロム、ヒ素、カドミウム、ベンジジン、1,2-ジクロロプロパン、放射線としてγ線、X線を掲げている(詳細は「IARC発がん性リスク一覧」を参照のこと)。
一部の悪性腫瘍(がん)については、ウイルスや細菌による感染が、その発生の重要な原因であることが判明している。現在、因果関係が疑われているものまで含めると以下の通り。
これらの病原微生物によってがんが発生する機構は様々である。ヒトパピローマウイルスやEBウイルス、ヒトTリンパ球好性ウイルスの場合、ウイルスの持つウイルスがん遺伝子の働きによって細胞の増殖が亢進したり、p53遺伝子やRB遺伝子の機能が抑制されることで細胞ががん化に向かったりする。肝炎ウイルスやヘリコバクター・ピロリでは、これらの微生物感染によって肝炎や胃炎の炎症が頻発した結果、がんの発生リスクが増大すると考えられている。またレトロウイルスの遺伝子が正常な宿主細胞の遺伝子に組み込まれる過程で、宿主の持つがん抑制遺伝子が欠損することがあることも知られている。ただしこれらの病原微生物による感染も多段階発癌の1ステップであり、それ単独のみでは癌が発生するには至らないと考えられている。
2005年11月、スウェーデンのマルメ大学(Malmö Universitet)が発表した研究では、ヒトパピローマウイルス(HPV)に感染した人間との、予防手段を用いないオーラルセックスは口腔癌のリスクを高める、と示唆した。この研究によると、癌患者の36%がHPVに感染していたのに対し、健康な対照群では1%しか感染していなかった。
『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌で発表された最近の別の研究は、オーラルセックスと咽喉癌には相関関係があることを示唆している。HPVは頸部癌の大半に関係しているので、この相関関係はHPVの感染によるものと考えられている。この研究は、生涯に1-5人のパートナーとオーラルセックスを行った者は全く行わなかった者に比べおよそ2倍、6人以上のパートナーと行った者は3.5倍の咽喉癌のリスクがあると結論付けている。
大部分のがんは偶発的であり、特定遺伝子の遺伝的な欠損や変異によるものではない。しかし遺伝的要素を持ちあわせる、がん症候群が存在する。
遺伝的素因と環境因子の双方により発癌リスクが高くなるものとして、アルコール脱水素酵素の低活性とアルコール多飲がある。これらが揃うと頭頸部癌(咽頭癌・食道癌)の罹患率が上昇する。日本を含むアジアではアルコール脱水素酵素(ADH1B)の活性が低い人が多い。
藤田哲也は「末期癌の患者の体内では、数千個から数兆個に及ぶ癌細胞が『制御の効かない過剰な生長』を続け、正常な組織や細胞を圧殺する」「『過剰な生長』という現象こそが、癌が宿主を苦しめ、死に至らしめる最大の要因である」「『過剰な生長』は癌の最も重要な性質の一つであり、悪性腫瘍に本質的なものだ」と書いた。
大阪大学医学系研究科甲状腺腫瘍の研究班は「甲状腺がんにおいて、転移能・浸潤能など立派にがんとしての性質を持っていながら、なぜかある程度で成長が止まってしまい、一生患者に悪さをしないものが多数存在することが証明されるようになった」「これらのがんを若年型甲状腺がんと呼ぶ。このようながんをあまり早い時期に見つけてしまうと、患者に本来不要であった手術を施してしまうことになる。これを『過剰診断』と呼ぶ」「小さな甲状腺がんは10代の後半からちらほら出現し、20代で急速にその頻度が増加し、30代中ごろには中高年とほぼ同じ頻度になる。すなわち、超音波でしかわからないような甲状腺がんは子供のうちからできるが、その多くは途中で成長が止まり、臨床的ながんにまで進展しない」「小さな甲状腺がんは10年単位でしか成長せず、しかも若年者ではある程度成長するが、高齢になると完全に成長を止める。また、経過観察された千人以上の患者のうち、甲状腺がんが原因で死んだ人は一人もいなかった。すなわち、これらのがんが悪性化することはない」と発表した。
札幌医科大学の加茂憲一は、肝臓癌について「肝炎ウイルスが影響する」と発表している。
子宮頸癌は発癌リスクを軽減できるHPVワクチンが日本でも認可された。胃癌はヘリコバクター・ピロリを除菌することにより、発癌リスクを軽減できることが報告されている。B型肝炎はエンテカビルによりHBVウイルスを減少させることで、C型肝炎はインターフェロン療法によりHCVを駆除することにより、発癌リスクを軽減できることがわかっている。
2007年11月1日、世界がん研究基金とアメリカがん研究協会によって7,000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防」が報告されている。これは1997年に公表され、日本では「がん予防15か条」と呼ばれていた4500以上の研究を元にした報告の大きな更新である。
喫煙は肺、口腔、膀胱がんの主因であり、タバコの煙は最も明確に多くの部位のがんの原因であると強調。また、タバコとアルコールは相乗作用で発癌物質となる。
2000年、厚生労働省の健康日本21 によってがん対策の目標が提唱されている。
国立がん研究センターがん予防・検診研究センター(現・社会と健康研究センター)は日本人にとって優先度の高く、予防効果が確かな要因に絞って内容を取りまとめ、2006年に「日本人のためのがん予防法」を提言した。以下は2017年8月1日改訂版における6つの推奨項目である。
1978年、日本の国立がんセンター(現・国立研究開発法人 国立がん研究センター)は学問的に常識とされていた知見を踏まえ、カレンダーの12か月に合わせて「がんを防ぐための12ヵ条」を提唱した。当時としては科学的に妥当な提言であったが、その後の研究で「かび」や「日光」、「焦げ」の暴露を避けるべきとされていた要因について、発がんリスクの上昇が認められるまでに必要な曝露量や避けた場合に予防可能ながんの割合という観点から見直しがなされ、上述の「日本人のためのがん予防法」の内容を含め、2011年にがん研究振興財団が「がんを防ぐための新12か条」として改訂版を公表した。たばこについての記述を禁煙と受動喫煙の2項目設けたこと、早期発見を掲げたことや正確な情報を入手することに言及している点でも改訂前と異なる。
2010年10月22日、オックスフォード大学のピーター・M・ロスウェル(Peter M. Rothwell)らは、「毎日少なくとも75mgのアスピリン(鎮痛剤の一種)を数年間服用し続けると、結腸直腸癌の発生率と死亡率が減少することが分かった」と発表した。彼らの研究は医学雑誌『Lancet』に掲載された。ただし、肺がんと咽喉がんの予防効果に関しては、非喫煙者の腺がんにしか認められず、アスピリンを毎日服用した場合、胃の出血を惹き起こす恐れがある。アルコールと併用した場合、胃の症状はさらに悪化する。また、高用量(毎日500mg以上)のアスピリンを服用した場合、副作用により、長期的には癌の発症を防げない可能性がある、と付記している。
また、アスピリンの服用は癌の危険度を上昇させる可能性がある。禁忌が無い場合に推奨される薬物療法の一つとして、血糖値を降下させるメトフォルミン(Metformin)がある。これは二型糖尿病患者の第一選択治療手段である。メトフォルミンは、肝臓におけるブドウ糖の産生を抑制し、末梢におけるブドウ糖の取り込みを促進することによって作用し、それにより、血中のインスリン濃度を上昇させることなく血糖値を低下させる。また、高血糖とインスリン抵抗性が続く場合、メトフォルミンの癌の危険度に対する臨床効果は限定的なものとなり、アスピリンの服用行為は癌の危険度を上昇させる可能性がある。糖尿病患者とそうでない人々で、インスリン感受性に対するアスピリン療法の影響について調べた試験においては、高用量のアスピリンは、肝臓におけるブドウ糖の産生と末梢血漿ブドウ糖濃度を低下させたが、その際には、血中のインスリン濃度が47%増加するという代償を支払った。すなわち、メトフォルミンがインスリンの効果を減殺する作用は、アスピリンによる血中のインスリン濃度の上昇がない場合にのみ存在し、アスピリンの服用行為は、癌の転帰(疾患や怪我の治療における症状の経過とその結果)において、隠された害をもたらす。これは1980年代に行われた臨床研究で既に実証された。高血糖とインスリン抵抗性は、いずれも悪性腫瘍の罹患率と死亡率の上昇に関係する。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つからである。アスピリンにはインスリンの分泌を刺激する作用がある。局所性の癌と進行性の癌、双方による死亡率についても、アスピリンを服用している人の方が高く、アスピリンは癌の進行に悪影響をもたらす可能性を示している。「アスピリンの服用が癌の危険度を下げる」ことを示す証拠は無い。
「がん」の診断には2つの状況がある。一つは臨床診断(特に病理検査)と、もう一つは集団検診(がん検診; 術後検診を含む)である。がんを根治する上で重要な点は自覚症状がない段階での「早期発見」と「全摘出手術の可能性検証」が挙げられる。言い換えると、集団検診と臨床診断とが効果的に機能して初めて、がん治療が成功に導かれる。また全摘出手術が困難な状況において、がんの種類によって異なる有効な治療法を選択する目的でも、臨床診断は重要である。
検診の方法としては、X線撮影、超音波検査、コンピュータ断層撮影(CT)、核磁気共鳴画像法(MRI)、ポジトロン断層法(PET)、骨シンチグラフィ、消化器への内視鏡検査がある。
一方、全摘出手術が成功した場合においても、再発がん、二次性がんの発生の懸念があるため、その局面においても術後定期検診は重要になる。
「がん」の組織は顕微鏡下での観察、すなわち検鏡によって、形態から鑑別される。判定像では多くの分裂中の細胞が観察され、細胞核のサイズや形状はばらばらであり、(分化した)細胞の特徴が消失している。これらは細胞診でも生検組織診でも確認できる特徴である。組織診では正常な組織構造が失われている点や、周囲の組織(が一緒に採取されていれば、そこ)と腫瘍との境界が不明瞭であることが観察される。
生検組織診は、過形成、異形成、上皮内癌と浸潤癌との鑑別に有用である。
「がん」の進行度を表すものとして「TNM分類」や「ステージ分類」がある。
「T(tumor、腫瘍)」、「N(nodes、所属リンパ節)」、「M(metastasis、遠隔転移)」の3つの観点から進行度を分類したもの。T1~4、N0~3、M0~1の組み合わせで表現する。
TNM分類を元に、がんの進行度と広がりの程度を合わせて表すことができるように、と新たに作成された。臨床に沿った分類であり、「臨床進行期分類」と呼ばれる。
ステージ0(上皮内癌)〜ステージIVの五段階で分類される。個体としての死を迎えた段階で体内には1kg前後のがん細胞が生成されている。
TMN分類と同様に、臓器別に細かく分類されているため、上記の分類から更に詳細に分類される場合がある。胃がんの場合は、TNM分類との対比で以下のように定義されている。
※胃の近くにあって転移しやすいリンパ節のことで、日本臨床外科学会の『胃治療ガイドライン』では13個のリンパ節を「領域リンパ節」 としている。
日本において昭和の頃は、「がん」といえば死の宣告と同義であった。日本は1984年に「対がん10ヵ年総合戦略」、1994年に「がん克服新10か年戦略」を策定し、多額の研究資金を投入してきた。また、日本だけでなく欧米諸国でも死因の上位であるがんの研究には多額の人材及び資金を投じてきた。2010年代までに、がんの治療成績は急激に上がった。実際、多くのがんでは初期(1期)であれば9割以上の5年生存率(事実上の完治)となっているが、基本的に治りにくい病気であることは変わらないほか、膵癌のように治療が困難ながんも存在する。また、医学の世界では、がんの治癒は「完治」とは呼ばず、とりあえず病変が見えなくなった状態として「寛解(かんかい)」と呼ぶ。
治療手段は以下のものがある。
ガン細胞は血管新生を誘引して大量の血管を生成するが、この結果できた血管は細い上に層構造の表皮部分が完全には形成されない脆い血管である。そのため、この血管新生を阻害する治療法や、逆にガンに伸びた血管の表皮を正常な状態にして、抗がん剤をガン細胞に届きやすくする治療が研究されている。
2014年1月、鳥取大学医学部は、「自身がクローニングしたRNA遺伝子の機能解析に従事している際、この遺伝子に関連して発現変動する単一のマイクロRNAを悪性度の高い未分化癌に導入すると、容易に悪性度を喪失させることができ、正常幹細胞へ形質転換できるという画期的な治療法を発見した」と発表した。大学では「動物実験段階までである」としているが、「研究グループ代表によると、あらゆる癌に対応が可能で、現在実用化に向けて研究中であるという。
「精密医療」という用語があり、これは「Precision Medicine」の訳語である。患者の個人レベルで最適な治療方法を分析・選択し、それを施す。最先端の技術を用い、細胞を遺伝子レベルで分析し、適切な薬のみを投与する。アメリカ合衆国では既に一般的な方法として選択されている。
がんは発見から闘病中において、病気や死への不安感、癌性疼痛による苦痛、生活や経済状態への打撃により、患者本人や家族らの「生活の質」(QOL, Quality Of Life)に大きな影響を与える。
がん治療後の最大の関心事は再発・転移の有無であり、がんが残っている場合にはその推移にある。このため、治療後も主治医による定期的な検診を受けて状況を正しく把握しつつ生活を再建していくことが肝要である。
がん治療は手術による切除を伴うことが多く、治療後の生活は、例えば治療によってがんそのものは完治した場合であっても、大きく影響を受けることが多い。がんができた場所によって治療により影響を受ける機能は千差万別であり、対処法もそれぞれに異なる。一般に、切除によって失われる体の機能をできる限り小さくし、失われた機能を補う手段を用いて、治療後のQOLを従来よりも向上させる努力が進められている。
直腸がんで肛門に近いところにがんができた場合や肛門にがんができた場合、人工肛門(消化器ストーマ)が作られる。また、膀胱がんで膀胱と尿道をとる必要がある場合、人工膀胱を用い、尿の排泄口である尿路出口(尿路ストーマ)が作られる。手術後、ストーマによる排泄をスムーズに行えるようにするケア(ストーマケア)の方法が十分に習得できてから退院する。ストーマがあっても入浴はでき、体力が回復すれば仕事や学業に復帰することも可能である。
気管孔は鼻または口から肺へ空気を導入して呼吸困難になる場合、気管を外部へつなげる穴を開けて(気道切開)呼吸を確保する。首の付け根の前の位置に丸い穴をあける。気管孔は治療の過程で呼吸を確保するために一時的に設ける場合もあり、この場合は通常の呼吸が可能になると共に閉じられる。他方、咽頭、喉頭、またはその近くにがんがあり、治療により咽頭を全部切除しなければならない場合、そのままでは食事も呼吸もできなくなるので、口に通じる食道を気管と完全に分けて形成し、気管の出口を気管孔につなげる。この場合を永久気管孔という。
永久気管孔を設けた場合、首に穴があいたままになる。術後の日常生活が受ける主な影響を以下に挙げる。
乳がんの治療では、抗癌剤、放射線治療の併用により乳房を温存できる場合が増えている。治療法とそれによる様々な影響、治療後のリスクについて、十分に医師と患者の双方が納得して治療を行うことが重要である。切除手術を行った場合、人工乳房が各種開発されているので用いることができる。「乳房再建」も参照。
頭頸部がんでは治療によって、顔面の一部の機能が損なわれたり一部が失われたりする場合がある。手術に放射線治療、化学療法を併用することにより、失われる機能を最小限にする努力が進められており、切除範囲は縮小する傾向である。また、再建術も多く行われている。術後に予想される変化とリスクを医師と患者が話し合い、双方が納得して治療を進めることが重要である。喪失した顔面の各部に応じてエピテーゼを制作できる。医療用の接着剤またはインプラントにより装着する。近年は極めて自然な仕上がりのエピテーゼを用いることが可能になってきている。詳細は「顔面エピテーゼ」の項目参照。
骨肉腫が四肢に発生した場合、かつては切断することが必須とされたが、最近では切断せずに腫瘍を切除することも可能になった。切断した場合に用いる義肢の機能も大幅に改善されている。
がんの治療によって失われた臓器の機能を補う手段が得られない場合もある。このような場合には、生活の仕方で対応するか、医療的に補充する。
胃がんによって胃を全摘出した場合、胃に代わるものは用意できないため、食道から直接小腸へと食べ物が入るようになる。少しずつ時間をかけ、何回にも分けて食べることにより、対応できる。
甲状腺がんの場合、少しでも甲状腺が残せた場合甲状腺ホルモンは分泌されるが、甲状腺を全摘出した場合には分泌されなくなる。この場合、術後は甲状腺ホルモンを生涯にわたって処方してもらう。
統合失調症の患者はがんによる死亡率が低いと言われている。統合失調症治療に使われる向精神薬が抗腫瘍効果を持つためであるとされている。
がんを理解しようとする人たちは古代からおり、悪戦苦闘が繰り広げられてきた。
「Cancer」は古代ギリシア語「Καρκινοσ」(「カルキノス」, 「カニ」の意味)に由来する。あちこちに爪を伸ばし食い込んでゆく様子をこの言葉で表現した。「がんについての研究である腫瘍学を意味する「Oncology」の語源も、古代ギリシア語「Ογκος」(「オンコス」と読む。「塊」の意味)である。
紀元前1500年頃に書かれたエーベルス・パピルスにも癌に関する記述がある。
古代ローマのガレノス(2〜3世紀頃)は、がんは四体液の一つの黒胆汁が過剰になると生じる、と考えた(1500年頃までは医学の領域で「権威」とされていた)。ガレノスの後継者のなかには、情欲にふけることや、禁欲や、憂鬱が原因だとする者もいた。また同後継者には、ある種のがんが特定の家系に集中することに着目して、がんというのは遺伝的な病苦だ、と説明する者もいた。
18世紀後半を過ぎる頃になると、がんの一因として環境中の毒(タバコ、煙突掃除夫の皮膚につく煙突の煤、鉱坑の粉じん、アニリン染料が含有する化学物質 等)もあるのでは、とする説が、多くの人によって提唱された。
19世紀の中頃に、フィラデルフィアの外科医サミュエル・グロス(英語版)は「(がんについて)確実にわかっていることは、我々はがんについて何も知らない、ということだけである」と書いた。そして、そのような「何も知らない」という状況は、19世紀末の時点でも、ほとんど変わっていなかった。
それから1世紀が経過し、理解が進む度に研究者の間で新たな疑問が登場し、科学的な知識が徐々に増えてきた。がんの研究は研究者たちにとって多くの困難と挫折に満ちたものであった。
20世紀初頭には、「感染症は特定の微生物によって引き起こされる」という説を支持する例が実験によって多数確認されたため、他の病気も容易に解明されるだろうと考えたり、がんも解明されるだろうと予想する人は多かった。
1955年、オットー・ワールブルクは、体細胞が低酸素状態に長時間晒されると呼吸障害を引き起こし、通常酸素濃度環境下に戻しても大半の細胞が変性や壊死を起こし、ごく一部の細胞が酸素呼吸に代わるエネルギー生成経路を昂進させて生存する細胞が癌細胞となる説を発表した。酸素呼吸よりも発酵によるエネルギー産生に依存するものは下等動物や胎生期の未熟な細胞が一般的であり、体細胞が酸素呼吸によらず発酵に依存することで細胞が退化し癌細胞が発生するとしている。
「がんは感染症ではない」とも考えられていた。白血病のように、患者から家族や医療関係者に伝染することがないためである。だが、動物(の個体)からとった腫瘍を他の動物(の個体)に移植すると癌が誘発されることがわかった19世紀末以降は、がんにも感染性の病原体があるのかも知れないと考える人も出てきて、彼らは20世紀初頭までに、原生動物やバクテリア、スピロヘータ、かびを調べた。それらの研究はうまくゆかず、がんの原因に感染症があると考える諸説は信用を失いそうになった。だが、ペイトン・ラウスが腫瘍から細胞とバクテリアを取り除いた抽出液をつくることを思いつき、それを調べれば細胞の他に作用している因子が見つかるかも知れないと考え、ニワトリの肉腫をろ過した抽出液を健康なニワトリに注射し、その鶏にも肉腫が発生するのを実験によって確認。その腫瘍は、微小な寄生生物、おそらくウイルスに刺激されて生じたものかも知れない、とした。当時はウイルスの正体は分かっておらず、「...でないもの」という否定表現でしか記述できなかった。科学者はがんが感染するという実験的事実から、未知の病原体が存在するであろうことにも気付いた。その後、ウサギでも同様の実験結果が得られたが、腫瘍を伝染させることに成功したのは主にニワトリ(やウサギ)の場合に限られていたので、やがて、がんの一因にウイルスがあるとする説は評判が悪くなってしまい、これを支持する科学者は評判を落としてしまいかねないような状況になった。異端の説だと見なされ、疑似科学者扱いされかねない空気が科学界に蔓延した。
ジャクソン研究所(英語版)は、1929年に設立された組織で、今日では基礎医学研究用の規格化マウスを供給する組織として米国最大のものであり、その研究所でのがん発生研究のプログラムというのは「問題は遺伝子であって、ウイルスではない」という前提の下に行われていた。だが、同研究所のジョン・ビットナー(英語版)が、マウスのある種のがんは、母乳中の発がん因子が授乳を通じて子に移される仕組みであるという、ウイルスが関与しているという証拠を偶然に発見した。だが、当時の科学界は上述のようにウイルス説を異端視していたのでビットナーは躊躇して、それを「ウイルス」とは呼ばず、あえて「ミルク因子」と呼んだ。
ルドウィク・グロス(英語版)も、ウイルスが癌の原因になることがあることを、マウスの白血病がウイルスによってうつることを示す実験を行うことで確かめ、それを発表・報告したのだが、がん研究者の大半はその報告をまともに受け取らず、データ捏造をしているのでは、と考える者すらいた(ワシントンにある研究公正局に出頭を求められかねないような扱いを受けた。
アメリカ国立癌研究所が設立された時期、公衆衛生局局長の諮問委員会は「がんの原因としてウイルスは無視できる」と結論づけた。
「《ミルク因子》というのは、ウイルスだ」と解釈することを科学的なこととして認め、ウイルス説を科学的に真面目に検討すべきだ、という認識ができてきたのはようやく1940年代末のことだった。状況を変えた人物はジェイコブ・ファース(Jacob Furth、1896-1979) であった。ファースは既に高名な科学者であったが、その彼がグロスの実験を、それに用いるマウスの種類まで正確になぞることで、実験に再現性があること、そして事実であることを証明した。それによって基礎医学者たちがようやく、悪性腫瘍にウイルスが関与することがあるということを理解するようになった。かくして、長らく異端者のように扱われてきたペイトン・ラウスは、1966年に85歳でノーベル生理学・医学賞を受賞した。
1863年、ドイツ人の医師で病理学者、ルドルフ・ヴィルヒョウ(Rudolf Virchow) は、「浸潤した免疫細胞は、炎症組織における癌病変が発生する場所を反映している」とする仮説を発表した。ヴィルヒョウの研究は、癌の起源が慢性炎症の領域にある可能性があることを示唆した。
1986年、ハロルド・ドヴォルジャーク(Harold Dvorak)は、発癌と炎症には、「増殖、細胞の生存と移動の増加、および成長因子、炎症性サイトカイン、血管新生促進因子(Proangiogenic Factors)が制御する血管新生の強化促進」といった共通の発生経路があることを示した。ドヴォルジャークは、炎症に関与する細胞が癌組織にも浸潤している事実を観察したうえで、癌について「wound that does not heal」(「治癒が不可能な傷」)と定義した。
1990年代初期、アメリカ国立衛生研究所(The National Institutes of Health)は、『Women's Health Initiative』(『女性の健康構想』)と題した、約10億ドルに及ぶ研究を行った。このとき、「低脂肪の食事で心臓病や癌を本当に予防できるか」という研究も同時に行われた。5万人近くの女性を登録し、そのうち19541人を無作為に選んだ。研究は1993年に開始し、8年間続けられた。研究者たちは、参加した女性たちに対し、果物・野菜・全粒穀物・食物繊維が豊富なもの・脂肪が少ないもの・・・これらを優先的に食べるよう指示した。この食事を続けるにあたり、女性たちは定期的にカウンセリングを受けた。脂肪の摂取量については、摂取カロリーのうちの38%から20%に減らすことを目標とし、参加した女性たちについて、体重の増減、コレステロールの数値、脳卒中、心臓発作、乳癌、直腸癌、その他の心血管疾患を発症するかどうかについても調べた。毎日の食事の摂取カロリーは360kcal分減らし、少ない量を食べ続けた。参加した女性たちは「少なく食べるように」「脂肪が少ないものを食べるように」「運動するように」という指示も与えられ、「食べる量を減らして運動量を増やす」を忠実にこなし続けた。
この生活を8年間続けた結果、女性たちは(実験開始前と比べて)1人あたり平均で約1kg体重が減ったが、その腰回りは膨らんだ。この事実が意味するところは、「彼女らの身体から減ったのは脂肪ではなく、筋肉である」ということである。また、研究者たちは「脂肪分の少ない食事は、心疾患、癌、その他の病気を予防できなかった」とも報告している。脂肪の摂取量が少ない食事には、乳癌、心臓病、脳卒中の発症リスクを下げる効果も、閉経後の女性の結腸直腸癌のリスクを下げる効果も一切無かった。彼女らが受けたカウンセリングおよび食事の意味として、意識的か無意識的かを問わず、「少食を心掛けた」ことである。「消費カロリーが摂取カロリーを上回れば体重は減る」のが本当であるのなら、この試験に参加した女性たちが太った理由が説明できなくなる。脂肪は1kgにつき、約7,000kcalのエネルギーに相当する。彼女らが、毎日の食事の摂取カロリーを360kcal減らしていたのなら、実験を開始して3週間で約1kgの脂肪が減っていたはずであり、1年続ければ約16kgの脂肪が減る計算になる。試験開始の時点で、参加した女性たちの半数は肥満体であり、大多数は少なくとも過体重であった。研究者たちは、「低脂肪食は乳癌を患うリスクを下げるだろう」と考え、栄養士たちは「脂肪の摂取量について、目標の数値である20%まで下げれば、低脂肪食の効果が明白になった可能性がある」と述べた。8年間かけて行われたこの研究結果は『アメリカ医師会誌』に掲載された。脂肪が少ない食事は、心臓病や糖尿病を患っている女性被験者の健康状態を改善するどころか、悪化させた。『女性の健康構想』の研究結果は、「癌や心血管疾患を防ぐという目的において、低脂肪食には何の効果も無い」、「動物性脂肪を食事から排除しても、健康の改善には何の役にも立たない」ことも示した。『女性の健康構想』の研究者は「野菜や果物が多く、脂肪が少ない食事が、癌の危険度を下げることを示す証拠は見付からなかった」と書いた。
肥満の女性は乳癌を患いやすくなる。『女性の健康構想』研究終了後の追跡期間中、実験に参加した被験者のうち、7415人が死亡し、そのうちの1820人が癌で死亡し、151人が乳癌で死亡した。閉経後の女性において、インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する。インスリン抵抗性が強いほど、乳癌になりやすくなり、その後の死亡率も上昇する。
1980年代、スタンフォード大学の教授で内分泌学者、ジェラルド・リーヴン(Gerald Reaven)は、「高血糖(Hyperglycemia)、インスリン(Insulin)の過剰分泌、ならびにインスリン抵抗性(Insulin Resistance)と高インスリン血症(Hyperinsulinemia)こそがメタボリック症候群(Metabolic Syndrome)の根本的な原因である」と考え、「高血糖とインスリンの過剰分泌をもたらすのは炭水化物および砂糖・果糖である」とした。1987年、アメリカ国立衛生研究所は総意委員会を招集し、糖尿病の予防や治療について、集まった委員たちに議論させた。出席者の1人であったリーヴンは、「Anyone who consumes more carbohydrates has to dispose of the load by secreting more insulin.」(「誰であれ、炭水化物の摂取量が多いほど、その人の体内ではインスリンがさらに分泌され、身体はその処理に追われることになる」)と述べた。1988年、アメリカ糖尿病協会(The American Diabetes Association)が主催した「バンティング講義」(Banting Lecture, インスリンの共同発見者の1人、フレデリック・バンティング〈Frederick Banting, 1891~1941〉に敬意を払っている)に出席したリーヴンは、メタボリック症候群は肥満・糖尿病・高血圧とも密接に関係している趣旨を述べた。
メタボリック症候群を患っているということは、身体がインスリン抵抗性を惹き起こしていることと同義である。インスリン抵抗性は、肥満ならびにメタボリック症候群の特徴である。インスリン抵抗性は、肥満、高血糖、糖尿病、メタボリック症候群、癌とも密接に関係している。
炭水化物を摂取すると、体内でブドウ糖に合成され、高血糖状態になる。インスリンはブドウ糖の細胞への取り込みを促進し、脂肪細胞からの脂肪酸の放出を抑制・妨害し、それによって身体が脂肪ではなくブドウ糖を最優先でエネルギー源にするよう促進する。インスリンは肝臓でのケトン体の産生を抑制し、脂肪の沈着を促進し、主要な代謝燃料の循環濃度までも低下させる。
炭水化物を食べて高血糖になり、そのたびにインスリンを注射する、というのを繰り返していると、さまざまな合併症や癌を患う危険性が上昇し、インスリンの強制的な注射やインスリンの強制分泌を促進する薬物の服用は、身体に深刻な不利益をもたらす。インスリン療法を受けている患者は、インスリン療法を受けていない患者に比べて、心血管疾患(Cardiovascular Disease)で死亡する危険性が上昇する。さらに、インスリンを注射して血糖値を下げようとすると、心血管疾患の発症率は低下せず、死亡率は上昇する。体重については、インスリンを注射していただけで10kg以上も増加した。インスリンは脂肪の蓄積を強力に促進し、空腹感を高め、体重増加を惹き起こす。たとえカロリーを制限したところで、インスリンを注射された動物には過剰な量の体脂肪が蓄積する。インスリンの過剰分泌を促進する食事は、インスリンを注射した時と同様の作用をもたらす。
血糖値が正常範囲内(90~99)であっても、血糖値が90未満の人間と比較すると、膵臓癌の累積発生率は有意に増加し、空腹時の血糖値が110を超えると、あらゆる癌で死亡する確率が有意に上昇する。「GLUT5」と呼ばれる果糖輸送体は乳癌の発生に関わっている。果糖は前立腺癌の腫瘍の増殖を強力に促進する。
炭水化物が多い食事は高血糖を有意に惹き起こす。砂糖を含む飲み物も高血糖の明確な原因となる。
インスリンとは、膵臓のランゲルハンス島にあるβ細胞(Beta Cell)から分泌されるペプチドホルモンである。細胞によるブドウ糖の取り込みを促進し、炭水化物、脂質、タンパク質の代謝を調節し、分裂を促進する効果を通じて細胞分裂と成長を促進し、正常な血糖値を維持する。
インスリン抵抗性は、インスリンが肝臓、脂肪組織、骨格筋といった末梢標的組織において、インスリンの機能が損なわれたり、弱まったり、機能を発揮できない状態を指す。インスリン抵抗性は、2型糖尿病の発症にも関与する極めて重要な病因因子である。
たとえ運動していても、炭水化物を食べている限り高血糖は防げない。運動中は血糖値の上昇が抑えられているが、運動を終えた途端に血糖値は急上昇する。炭水化物が多いものを食べている限り、高血糖状態は続く。高血糖もインスリン抵抗性も運動では防げない。
「インスリン感受性が低い」ということは、「インスリン抵抗性が高い」(インスリンの効き目が悪い)状態を意味する。
インスリン抵抗性に伴い、血糖値が慢性的に高い状態が続くと、インスリン抵抗性は、高血糖症、高インスリン血症、および全身の細胞に酸化ストレス(Oxidative Stress)をもたらす。高血糖は、体内でAGEs(Advanced Glycation End Products, 「最終糖化産物」と呼ばれる)の産生を促進する。これは身体の老化を強力に促進する物体で、タンパク質に糖が結合することでタンパク質が変性する。果糖はAGEsをブドウ糖以上に強力に生成し、ブドウ糖を摂取したときの10倍もできやすくなる。インスリン抵抗性において、高血糖は、最終糖化産物の形成を促進する。インスリンは全身の脂肪細胞に強く作用し、摂取した炭水化物を中性脂肪に合成して脂肪細胞内に閉じ込め、脂肪細胞は肥大していく。インスリンは脂肪細胞にエネルギーを貯蔵するにあたり、重要なホルモン信号を持つ。脂肪細胞は肝臓や骨格筋においてインスリン抵抗性に直面したとしても、インスリン感受性(インスリンの効き目の強さ)を維持する傾向が強く、インスリン抵抗性が強まれば強まるほど、脂肪組織の形成を促進し、体重の増加が加速する。脂肪細胞は、肥大するにつれて「サイトカイン・ストーム」(Cytokine Storm, 「免疫機能暴走」)を惹き起こし、これは全身に有害な影響をもたらす。サイトカイン・ストームは「高サイトカイン血症」(Hypercytokinemia)とも呼ばれ、もともと身体に備わっている免疫系統(Immune System)が「サイトカイン」と呼ばれる炎症信号伝達分子を制御不能状態で過剰に放出する現象であり、ヒトや動物にみられる生理的な反応である。サイトカインそのものは感染に対して身体が示す免疫反応の一部であるが、この分子が突然大量に放出されると、多臓器不全(Multisystem Organ Failure)を惹き起こしたり、死につながる。炎症反応を誘発する性質を持つサイトカイン(Proinflammatory Cytokine)である「IL-6」(「インターロイキン-6」, Interleukin-6, 炎症性サイトカインの一種)は、さまざまな代謝、内分泌、および腫瘍性疾患に関与する。IL-6の信号伝達はインスリン抵抗性を誘発し、タンパク質、脂質、脂肪酸の代謝を変化させ、貧血と食欲不振を刺激する。また、内臓脂肪は炎症誘発性のサイトカインを生成する。このサイトカインは血流に直接輸送され、サイトカイン・ストームを惹き起こす直接の原因となる。炎症誘発性のサイトカインは、腫瘍の発生に影響を与える。サイトカインは癌を促進する役割も果たす。
高血糖になると、膵臓は、血糖値を正常な状態に戻そうとしてさらに多くのインスリンを分泌するが、これは高インスリン血症の原因となる。筋肉細胞や脂肪細胞におけるインスリン感受性は低下し、血糖値は低下せず、インスリン抵抗性に対処するために膵臓のβ細胞は過剰な量のインスリンを分泌しようとする。血糖値が高い状態でビタミンCを摂取した場合、身体への吸収は抑制される。これは、摂取したはずのビタミンが細胞に吸収されるのをインスリンが妨害するからである。これにより、炭水化物と一緒に摂取したビタミンCは、全て尿と一緒に排泄されてしまう。
メタボリック症候群は、肥満、糖尿病、アルツハイマー病、さらには各種の癌とも密接に関わっている。また、砂糖および果糖は脳においてもインスリン抵抗性を惹き起こし、脳の神経組織を破壊し、アルツハイマー病を惹き起こす直接の原因となる。
砂糖および果糖はインスリン感受性を低下させ、内臓脂肪の蓄積を促進し、空腹時の血糖値とインスリンの濃度を上昇させ、肝臓に脂肪を蓄積させ、ミトコンドリアの機能を妨害し、炎症の誘発を刺激し、脂質異常症、インスリン抵抗性を惹き起こし、糖尿病発症を促進する。150gの米を食べた場合、砂糖10杯分を摂取した時と同等の高血糖を惹き起こす。
砂糖は膵臓癌をはじめとする各種の癌を患う可能性を高める。これの摂取を断つことが、癌の予防や治療への取り組みとなりうることを示唆している。砂糖の摂取を減らすことにより、脂肪肝、肥満、各種疾患を防げる可能性が出てくる。砂糖および果糖の摂取は肝臓への脂肪の蓄積を促すが、炭水化物および砂糖が少ない食事を摂ると、蓄積した脂肪が急速に減少することが確認された。外部からの資金提供を受けることなく書かれた研究論文の著者は、「身体の健康を守るために砂糖の摂取を制限すべきである」と結論付けている。
ヒトはストレス(精神的な重圧や緊張状態)に晒されると、副腎皮質からコルチゾール(Cortisol)と呼ばれるホルモンが分泌され、血中に流れ出る。これは「ストレス・ホルモン」(Stress Hormone)と呼ばれ、慢性的なストレス反応に対して身体が示す正常な反応であるが、コルチゾールの濃度が高い状態が続くと、内臓脂肪の蓄積やインスリンの分泌を刺激し、インスリン抵抗性につながる可能性がある。インスリン抵抗性が認められる患者の体内では、コルチゾールとインスリンの濃度が高い。
臨床研究では、高血圧患者の約50%が高インスリン血症や耐糖能異常(Impaired Glucose Tolerance)を示し、2型糖尿病患者の最大80%が高血圧症を示している。インスリンは内皮において一酸化窒素の産生を刺激し、血管弛緩(Vasorelaxation)を誘発する作用も持つ。また、インスリンは腎臓に対して「ナトリウムを再吸収せよ」との信号を送る。腎臓は体内のナトリウムの量を保持し、インスリンはナトリウムの体外への排泄を抑制・妨害する。ナトリウムの蓄積は余分な水分貯留につながり、高血圧を惹き起こす。正常な血糖値を維持するためにインスリンが分泌され、それに伴う高インスリン血症は、インスリンによるナトリウム保持作用を悪化させ、高血圧をもたらす。
食事を終えて時間が経過したり、糖分が少ない食事を摂ったり、長時間絶食すると、血糖値と血中のインスリンの濃度が低下する。血中のインスリン濃度が低下すると、腎臓は貯蔵していたナトリウムを、体内に溜まった余分な水分と一緒に体外に排出する。炭水化物の摂取を制限すると血圧は低下し、降圧剤の服用回数を減らせる。高血圧をもたらすのは、インスリン抵抗性を直接惹き起こす砂糖であり、砂糖の摂取を減らすと、空腹時のインスリン濃度は低下し、血圧も低下する。ナトリウムとカリウムの摂取量が多いほど血圧は低くなり、この両方の摂取量が少ないほうが血圧は高くなる。
慢性的な高インスリン血症は、癌を促進する可能性を高める。また、インスリンは腫瘍の成長、増殖、転移を直接誘導する力を持つ。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の炎症は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす。インスリン抵抗性は、癌、心臓病、脳卒中、2型糖尿病、メタボリック症候群、脂肪肝、肥満、アルツハイマー型認知症に強く関与する。
慢性的な高血糖と酸化ストレスの増加も、癌を患う危険の増加につながる。さまざまな証拠が示すところでは、インスリン抵抗性と癌は密接に関係している。多くの臨床的および疫学的証拠は、高インスリン血症、インスリン抵抗性、および脂質異常症に関連する体重の過剰な増加は、結腸癌や乳癌を含む腫瘍の重大な危険因子である可能性を示している。
多くの疫学的研究は、インスリン抵抗性が強い患者の体内においては、乳癌、結腸直腸癌、肝臓癌、および膵臓癌を患う危険性が高いことを一貫して示している。インスリンは強力な分裂促進因子(Mitogen)であり、膵臓癌、結腸直腸癌、前立腺癌、子宮内膜癌、肝臓癌、卵巣癌、その他のありとあらゆる癌の発生にはインスリンが直接関与している証拠を提供する。高インスリン血症は、癌による死亡率を2倍に増やす。体重やBMIの数値が正常であったとしても、インスリンの濃度が上がるだけで、癌の発生率のみならず、その死亡率までもが上昇する。1991年から1996年にかけて、12000人以上の糖尿病患者について調査した研究では、インスリンの投与量が多ければ多いほど、死亡率が高かった。インスリンの投与量が多かった群では、そうでなかった群と比較して、死亡率が279%上昇した。
また、糖尿病の有無に関係なく、空腹時のインスリン濃度が上昇するか、インスリンの分泌量が増えるだけで、脳の認知機能は低下する。
インスリンは身体の老化を強力に促進し、脳の認知機能を破壊し、寿命を縮める。糖尿病患者がインスリン療法(インスリンを注射して血糖値を下げる)を受けるだけで、動脈疾患のみらず、アテローム性動脈硬化症(Atherosclerosis)の危険も上昇する。カナダの医師、ジェイスン・ファン(Jason Fung)は「糖尿病患者はインスリンを注射しているだけで死亡率が倍になる。高血糖においては、癌細胞は大量のブドウ糖をエサにして増殖していく」と書いた。アテローム性動脈硬化症は、心臓発作、脳卒中、末梢血管疾患の前兆である。インスリンの濃度が高いだけでアテローム性動脈硬化症が発生し、インスリンの濃度が低下すると症状は回復する。これは1949年の時点で実証されていた。インスリン受容体はヒトの班の内部に存在する。インスリンは斑の増殖を刺激・誘導し、アテローム性動脈硬化症の進行を促進する。
医学博士のウィリアム・ファルーン(William Faloon)は、「多過ぎる量のインスリンは、すべての老化関連疾患に関与する。長寿の達成においてインスリンの制御は不可欠だ」「インスリンは、インスリンの分泌機能が損なわれている1型糖尿病患者にとっては命綱であるが、分泌が過剰な場合、有毒なホルモンとなる」「余分なインスリンを減らすことで脂肪の減少を促進し、寿命を延ばす」と書いた。論文『Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence』(『インスリン抵抗性と癌:疫学的証拠』)の著者らは、「インスリン抵抗性が癌の発生の重要な要因であることに疑いの余地は無い」と断言している。
血中のインスリン濃度が高いと、脳を損傷したり、失明したり、低血糖症(Hypoglycemia)を惹き起こして死亡することがあるため、インスリンを服用する行為自体が非常に危険である。
タンパク質の摂取は、インスリンとグルカゴン(Glucagon)の両方の分泌を刺激する。タンパク質の摂取量を増やした場合、インスリンの分泌量も増えるため、タンパク質の過剰摂取に注意する必要がある。
血中のインスリン濃度が低下すると、腫瘍の増殖は抑制される。慢性的な高インスリン血症とインスリン抵抗性を弱めることは、癌の予防に向けての取り組みにつながる。インスリンの濃度が低下する生活習慣や治療手段は、癌の予防や治療につながる。
5大陸、18か国に住む135,335人を対象に行われた大規模な疫学コホート研究の結果が『The Lancet』にて発表された(2017年)。これは炭水化物の摂取量および脂肪の摂取量と、心血管疾患に罹るリスクおよびその死亡率との関係についての調査であった。これによると、炭水化物の摂取を増やせば増やすほど死亡率は上昇し、脂肪の摂取を増やせば増やすほど死亡率は低下するという結果が示された。とくに、飽和脂肪酸の摂取量が多ければ多いほど、脳卒中に罹るリスクは低下した。また、飽和脂肪酸・不飽和脂肪酸を問わず、脂肪の摂取は死亡率を低下させ、心筋梗塞および心血管疾患の発症とは何の関係も無かった。
飽和脂肪酸の摂取は、冠状動脈性心臓病、脳卒中、心血管疾患の発症とは何の関係も無く、飽和脂肪酸がこれらの病気と明確に関係していることを示す証拠は無い。
また、多価不飽和脂肪酸の摂取量を増やし、飽和脂肪酸の摂取量を減らしても、心血管疾患の発症リスクは減らせない。飽和脂肪酸を多価不飽和脂肪酸の一種であるリノール酸に置き換えて摂取した場合、血清コレステロールは低下するうえに、全死因の死亡率、心血管疾患や冠状動脈性心疾患による死亡率が上昇する(飽和脂肪の摂取を減らすと死亡率が上昇した)。これは、ミネソタ大学の生理学者、アンセル・キース(Ancel Keys)が1968年に実施した「ミネソタ冠状動脈実験」(The Minnesota Coronary Experiment)にて明らかになった。また、炭水化物の摂取量を増やしたり、飽和脂肪酸の代わりに多価不飽和脂肪酸の摂取量を増やすと、冠動脈アテローム性動脈硬化は進行しやすくなる。
肥満、インスリン抵抗性、メタボリック症候群、2型糖尿病を患っている患者が、炭水化物の摂取を制限し、脂肪に置き換えて食べると、最大限の効果が得られる可能性がある。さらに、84時間に亘って絶食状態にあった被験者と、84時間に亘って脂肪「だけ」を摂取し続けた被験者の血中の状態は「全く同じ」であった。双方とも、血糖値とインスリンの濃度は低下し、遊離脂肪酸とケトン体の濃度、脂肪分解の速度がいずれも上昇した。
体重を減らしたい人、心血管疾患の危険因子を減らしたい人にとって、炭水化物が少なく、脂肪が多い食事はその選択肢となりうる。
炭水化物は、脂肪やタンパク質に比べてインスリンの分泌にはるかに大きな影響を及ぼす。インスリンは食事における満腹感を減少させ、摂食行動にも影響を及ぼす。炭水化物の摂取を減らすと、インスリン抵抗性は緩和される。炭水化物を制限する食事は、インスリンの濃度が高い患者に有益である証拠が示された。食後の血糖値の上昇とインスリンの分泌を最も強力に促進するのは炭水化物である。タンパク質もインスリンの分泌を刺激するが、インスリンと拮抗する異化ホルモン、グルカゴン(Glucagon)の分泌も誘発する。一方、食べ物に含まれる脂肪分は、インスリンの分泌にほとんど影響を与えない。この生理学的な事実は、低糖質・高脂肪食が人体に有益であることを示す理論的根拠となる。
炭水化物が少なく、脂肪が多い食事は、空腹感と満腹感に大いに影響を与える。炭水化物が多く、脂肪が少ない食事(カロリー制限食)と比較すると、高脂肪食は体脂肪を減少させ、身体のエネルギー消費量の増加を促進する。
また、炭水化物を制限する食事は、低脂肪食よりも大幅に体重を減らし、心血管疾患の危険因子も減少させる。
炭水化物の少ない食事は、血糖値とその制御の大幅な改善につながり、薬物の服用回数を減らせるだけでなく、服用の必要も無くなる可能性があり、この食事法は2型糖尿病の改善と回復にも効果的である証拠が示された。
食事を終えたのち、脂肪細胞へのブドウ糖の取り込みは、「Glucose Transporter Type 4, GLUT4」(「ブドウ糖輸送体」)を介してインスリンが行う。インスリンはブドウ糖の取り込みを促進し、脂肪分解を抑制し、脂肪生成を促進し、それに伴って遊離脂肪酸(Free Fatty Acid)が血流に流入していく。インスリンの濃度が低いとき、脂肪酸の酸化によって細胞内にエネルギーが供給されるが、心臓や肝臓のような臓器が脂肪をエネルギー源として利用するため、遊離脂肪酸が血流に放出されて循環し、遊離脂肪酸はケトン体(Ketone Bodies)に変換される。このケトン体は、空腹状態のときに、脳にエネルギーを供給する。
ケトン生成食はミトコンドリアの機能と血糖値を改善し、酸化ストレスを減少させ、糖尿病性心筋症(Diabetic Cardiomyopathy)から身体を保護する作用がある。また、ケトン食は記憶力の改善と死亡率の低下をもたらし、末梢軸索(Peripheral Axons)と感覚機能障害(Sensory Dysfunction)を回復させ、糖尿病の合併症も防げる可能性が出てくる。
ケトン食療法(炭水化物を徹底的に避け、脂肪を大量に摂取する)は癌の治療や予防に有効である可能性を示している。癌細胞はケトン体をエネルギー源にはできないため、ケトン食療法を「癌の治療手段として採用すべきだ」と考える研究者もいる。
ケトン食を含めて、炭水化物を制限する食事法は安全であり、長期に亘って健康を維持し、さまざまな病理学的状態を防止または逆転させる力がある。ケトン食を止めると(炭水化物の摂取を増やし、脂肪の摂取を減らすと)、片頭痛や癲癇発作が再発する。
臨床研究(Clinical Trials)であるが、乳癌の患者にケトン食を12週間処方し続けたところ、ケトン食群(炭水化物6%、中鎖中性脂肪20%、脂肪55%)ではインスリンの濃度が低下し、腫瘍が「27mm」だったのが「6mm」に縮小した。一方、対照群(摂取エネルギーの55%を炭水化物から摂る、タンパク質15%、脂肪30%)では、「40mm」から「34mm」への縮小のみに留まった。炭水化物が少なく、動物性食品の多い食事を続けると、インスリン抵抗性は緩和され、インスリン感受性は改善される。便秘と、それに関連する症状は、植物性食品および食物繊維の摂取を止めることによって緩和される。1928年の完全肉食実験で、肉だけを食べ続けたステファンソンとアンダーソンは、「壊血病を患い、瀕死の状態に陥る」と思われていたが、脂肪が多い肉を食べ続けたことにより、「バランスの取れた食事」を取っていたときよりも健康体になった。
「炭水化物が少なく、脂肪が多い食事」(低糖質・高脂肪食)と、「炭水化物が多く、脂肪が少ない食事」(高糖質・低脂肪食)とでは、血中のインスリン濃度が高いのは後者である。「野菜や果物(炭水化物)を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い。また、糖尿病であろうとあるまいと、ブドウ糖にもインスリンにも癌を促進する作用がある。インスリンは発癌を直接促進する力を持つ。高血糖およびインスリンの分泌を最も強力に促進するのは炭水化物であるが、食べ物に含まれる脂肪は、インスリンの分泌にほとんど影響を与えない。血中のインスリン濃度が低下すると、腫瘍の増殖は抑制される。インスリンは癌の成長と転移を促進する。炭水化物を食べれば、インスリンによって腫瘍は成長・増殖し、炭水化物を食べずに脂肪を食べることによって減少する。
「炭水化物は肥満およびそれに伴う疾患の主要な推進力であり、精製された炭水化物や糖分の過剰摂取を減らすべきである」と結論付け、炭水化物を「Carbotoxicity」(「炭水化物には毒性がある」)という造語で表現する研究者もいる。
オーストリアの医師、ヴォルフガング・ルッツ(Wolfgang Lutz, 1913-2010)は、1967年に『Leben ohne Brot』(『パンの無い暮らし』)を出版し、「炭水化物の摂取を減らすことこそが、脂肪を燃焼させる唯一の方法である」「この食事法により、肥満、糖尿病、心臓病、癌を予防できる」「狩猟採集生活者として暮らしてきた人類は動物の肉を長きに亘って食べてきた」「食べ物に含まれる脂肪は、ほとんどの慢性疾患とは何の関係も無い」と断言している(ルッツは炭水化物の1日の摂取上限を「72gまで」と定めた)。ルッツによれば、40年間で10000人を超える患者を診察し、クローン病、潰瘍性大腸炎、胃疾患、痛風、メタボリック症候群、癲癇、多発性硬化症・・・この食事法を処方することでこれらの慢性疾患を治療したという。
クイーン・エリザベス大学の栄養学教授、ジョン・ユドキン(John Yudkin)は、著書『Pure, White and Deadly』(1972)の中で、「肥満や心臓病を惹き起こす犯人は砂糖であり、食べ物に含まれる脂肪分は、これらの病気とは何の関係も無い」と断じている。1960年代、ユドキンはミネソタ大学のアンセル・キースと、「砂糖・脂肪論争」を繰り広げた。この論争では、「心臓病を惹き起こす原因は(食べ物に含まれる)脂肪分にある」というキースの主張が通り、ユドキンの「砂糖が原因である」との主張は通らなかった。1970年代後半、アメリカ合衆国政府は「脂肪の摂取を減らし、炭水化物の摂取を増やせ」と国民に呼びかけたが、肥満・糖尿病・心臓病を患う国民の数は増加の一途を辿るようになった。
ウィリアム・ファルーンは「多過ぎる量のインスリンは毒」であり、「癌の原因となる」と書いた。カナダの医師、ジェイスン・ファンも「糖尿病患者は、さまざまな癌になりやすくなる」「高血糖状態でインスリンをたくさん投与すると血糖値は下がるが、高インスリン血症やインスリン抵抗性は改善されず、悪化する」「必要以上の量のインスリンは有毒である」と書いた。
サイエンス・ジャーナリストのゲアリー・タウブス(Gary Taubes)は、炭水化物は身体を太らせるだけでなく、肥満、心臓病、糖尿病、高血糖、インスリン抵抗性、メタボリック症候群の原因であり、最終的には癌をも惹き起こす根本的な原因でもある趣旨を明言しており、「砂糖は肥満、糖尿病、心臓病、メタボリック症候群を惹き起こす原因であり、これにはインスリン抵抗性が関わっている」「砂糖はインスリン抵抗性の直接の原因となる」「インスリン抵抗性は癌の原因となる」と断じている。
植物は基本的に悪性腫瘍を患うことはない。
これは細胞壁と血管より大幅に細く細胞輸送が行われない導管、師管の構造に因る。植物は悪性新生物が生じても浸潤も転移も起こらず、極めて局所的なものとなり、病気にはならない。
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"text": "悪性腫瘍(あくせいしゅよう、Malignant Tumor, Cancer)は、生体の自律制御を外れて自己増殖する細胞集団である。周囲の組織に浸潤して転移する腫瘍を指す。がん(ガンまたは癌)や「悪性新生物」とも称し、死亡につながることも多い。国立がん研究センターによると、2007年以降に登録された院内がんデータでは、2018年の時点で10年生存率は59.4%であり、部位や病期(「ステージ」)により差が大きい。",
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"text": "この疾患には、「インスリン抵抗性」(Insulin Resistance)と呼ばれる病因因子が強く関与している。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つ、血糖値が制御不能状態にある糖尿病患者は癌を患いやすくなる。インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の炎症は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす。",
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"text": "ヒトの身体の細胞は、正常な状態では、細胞数をほぼ一定に保つために分裂・増殖を制御する機構が働いている。腫瘍は、生体細胞の遺伝子に発生した異常に起因して、正常な制御を外れて自律的に増殖を開始したものを指す。腫瘍と正常組織の区画が不明瞭で、異物が組織や細胞内に蓄積する浸潤現象 (Infiltration) が発現し、転移現象が認められる状態を「悪性腫瘍」と称する。",
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"text": "腫瘍は良性腫瘍と悪性腫瘍とに分類され、後者を「癌」と称する。癌は、上皮組織系由来の癌腫 (Carcinoma) と非上皮組織系細胞由来の肉腫 (Sarcoma) に分類される。癌腫の診断名は「臓器名(組織名)+癌」で表記される。ひらがなの「がん」は悪性腫瘍全体を示し、漢字の「癌」は上皮細胞から発生する癌腫と使い分けられることがあるが、区別はされないことも多い。",
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"text": "戦後に定めた当用漢字は「癌」を含まず「がん」が広く一般に用いられ、学問では「癌」を用いたが、「がんは悪性腫瘍の総称、癌は癌腫を意味する」との主張が1990年以前から一部で見られるようになった。日本口腔外科学会は「がんは悪性腫瘍の総称、癌は癌腫を意味する」と定義しているが、内科医の藤田浄秀は、当用漢字による漢字制限と必然的に生じた仮名書きの強制の歴史的観点から「不適切だ」と主張している。",
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"text": "国際疾病分類の日本語訳では「Cancer」の訳語として、「がん」(「癌」)を当てており、悪性腫瘍一般を意味する。",
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"text": "「がん」を意味する「Cancer」は、かに座を意味する「Cancer」と同じ単語であり、乳癌の腫瘍が蟹の脚のような広がりを見せた ところから、「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが「蟹」の意味として「καρκίνος」(Carcinos)と名づけ、これをアウルス・コルネリウス・ケルススが「Cancer」とラテン語に翻訳した。",
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"text": "広義の「Cancer」は「悪性新生物」(Malignant Neoplasm) の総称であり、ひらがなで「がん」と表記する。ひらがなの「がん」は、「癌腫」や非上皮由来の「肉腫」(sarcoma)、白血病のような血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で悪性腫瘍を表す言葉として使われており、「国立がん研究センター」、各都道府県における「〇〇県がんセンター」と表記している。",
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"text": "通常の細胞では、酸素が十分に供給されている時は、ATP合成のエネルギー効率が高いが合成速度の遅いミトコンドリアでの酸化的リン酸化でエネルギー生産を行う。酸素が十分に供給されない時は、エネルギー効率が悪いが速度の速い解糖系によって、エネルギーを得ている。がん細胞は酸素が十分に供給されている環境下でもエネルギー効率の悪い解糖系で活動する。これはワールブルク効果(「ウォーバーグ効果」とも)と呼ばれている。この現象は以前から知られていたが、代謝物を一斉に測定・解析を行なうメタボロミクスによって、非がん組織と比較してがん組織で解糖系の代謝中間体のプロファイルが明らかになり、解糖系の活性化が明確に示された。なお、通常の細胞の代謝に関しては解糖系によるATP合成速度は電子伝達系によるATP合成速度の約100倍の速度を有している。",
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"text": "癌組織の多くがブドウ糖代謝に活発(言い換えると、「癌細胞はブドウ糖をエサにして増殖する」)な性質を利用したポジトロン断層法(PET)が、がん診断に利用されている。",
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"text": "世界保健機関 (WHO) によれば、2005年の世界の5800万人の死亡のうち、悪性腫瘍による死亡は13%(760万人)を占める。死亡原因となった悪性腫瘍のうち、最多のものは肺がんが130万人で、胃がんは100万人、肝がん、大腸がん、乳がんが続く。悪性腫瘍による死亡は増加し続け、2030年には1140万人が悪性腫瘍で死亡すると予測されている。",
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"text": "日本の原因疾患別死亡者数の割合と順位では1951年から1980年まで30年間1位の脳血管疾患に代わり、1981年から2015年まで35年連続で1位で、2015年度は死亡者数129万0428人のうち、がんによる死者数は37万0131人であり、死亡者総数に対する割合は28.7%である。",
"title": "疫学"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "「がん」は単一の細胞を起源とし、発生母地となった細胞の種類(組織学的分類)と細胞の身体的部位(解剖学的分類)とで分類できる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "組織型および各腫瘍組織型の記事を参照。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "病期分類は、腫瘍学、癌に詳述がある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "成人の「がん」は通常は上皮組織に形成され、遺伝的あるいは内因的特性を持つ人々が外的要因に曝された影響による長期間にわたる生物学的な過程を経て生じる、と大方の場合は考えられている。肉腫は上皮由来ではないが、悪性腫瘍として癌と同様に検査・診断・加療される。",
"title": "分類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "次に例を示す:",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "「がん」は幼い子供や新生児にも発生する。異常な遺伝形質プロセスのために細胞の複製幼若化に対して抑制が利かないので、制御されない増殖が早期より亢進し、進行も速い。肉腫が多いことも特徴として挙げられる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "幼児期のがんの発生ピーク年齢は生後一年以内にある。神経芽細胞腫は最も普通に見られる新生児の悪性腫瘍であり、白血病 (Leukemia) と中枢神経がんがその次に続く。女子新生児と男子新生児とは概して同じ発生率である。しかし、白人の新生児は黒人のそれに比べてほとんどの種類のがんにおいて大幅に発生率が高い。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "新生児の神経芽細胞腫は生存率が非常に良く、ウィルムス腫瘍、網膜芽細胞腫も非常に良いが、他のものはそれほど良くない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "幼児期がんを次に示す:",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "身体を構成する細胞は、1個の受精卵から発生を開始し、当初は形態的機能的な違いが見られなかった細胞は各種幹細胞を経て組織固有の形態および機能を持った細胞へと変化してゆく。この形態的機能的な細胞の変化を分化という。細胞の発生学的特徴の一つとして、未分化細胞ほど細胞周期が短く盛んに分裂増殖を繰り返す傾向がある。通常、分化の方向は一方向であり、正常組織では分化の方向に逆行する細胞の「幼若化」(脱分化)は、損傷した組織の再生を除き、発生しない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "がん細胞は特徴の一つに幼若化/脱分化するという性質あり、分化度の高いがん細胞や、非がん組織から、「低分化」あるいは「未分化」ながん細胞が生じる。細胞検体を検査したとき、細胞分化度が高いものほど臓器の構造・機能的性質を残し、比較的悪性度が低いと言える。インスリノーマのような例外もある。通常は分化度の低いものほど転移後の増殖も早く、治療予後も不良である。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "化学療法は、特定の細胞周期に依存して作用するものが多いため、細胞周期が亢進している分化度が低いがんほど化学療法に対して感受性が高いという傾向がある。腫瘍細胞への作用原理・特性は「化学療法 (悪性腫瘍)」に詳述がある。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "細胞生物学における接触阻害とは、細胞がお互いに接触するまで増殖した場合に起こる細胞の増殖が停止する細胞の性質のことである。癌細胞では通常、この接触阻害の性質を失っており、隣の細胞に接触した場合でも増殖を停止できない状況に至っている。癌細胞は、接触時に増殖を停止したり成長方向を変更したりすることはないため、お互いの細胞の上に積み上がって成長を続けることとなる。癌細胞は、この接触阻害の性質を失っており、かつ、無限に増殖できる能力を獲得している。癌細胞の特徴として、接触阻害の消失、増殖因子要求性の低下、転移能の前提である足場非依存性増殖能の獲得、不死化、転移能の獲得、脱分化の発現が掲げられ、発癌はこのような過度の増殖亢進の結果である。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「トゥーモア・イニシエーション」(Tumor Initiation, 正常な細胞が、腫瘍を形成できるよう変化する過程のこと)と「プロモーション」(Promotion, 発癌促進)によって細胞増殖が起こり、過形成になると「アポトーシス」(Apoptosis, 細胞が死ぬ現象)の機構が働き、細胞の増殖が抑えられる。しかし、細胞死が進行して細胞数が減ると、体内で細胞死は抑制され、細胞増殖が促進される。放射線で誘発されるリンパ腫の実験では細胞死を起こしやすい動物系統がリンパ腫を発生させやすい。細胞死が起こり、細胞が減少すると細胞死を抑制して細胞増殖を促進させるようになり、これが癌化への引き金となる。ウイルス感染(エプスタインバーウイルス (EBV)、パピローマウイルス (HPV)、ヒトT細胞白血病ウイルス、B型及びC型肝炎ウイルス)、化学物質による発がんも放射線誘発発がんと同様に細胞死の亢進に引き続く細胞死の抑制(遺伝子bcl-2の活性化)が癌化に際して重要な要因となっている。がん抑制遺伝子p53はDNA損傷の修復を助けるが、損傷を修復できない場合には細胞死を誘発させて細胞ごと消去する。p53に異常があると細胞死が起こりにくくなり発がんにつながることになる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "悪性腫瘍(がん)は、細胞のDNAの特定部位に幾重もの異常が積み重なって発生する、と説明されることが多い。異常が生じるメカニズムは多様であり、全てが知られているわけではない。遺伝子の異常は、通常の細胞分裂に伴ってもしばしば生じていることも知られ、偶発的に癌遺伝子の変異が起こることもありうるし、発癌の確率、すなわち遺伝子の変異の確率を高めるウイルス、化学物質、放射線(環境放射線、人工放射線、X線検査やCTスキャンによる医療被曝)が挙げられている。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "健康状態の生体内ではDNA修復機構や細胞免疫、悪性腫瘍を修復したり抑え込んだり排除したりする機構も働いている。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "すでに悪性腫瘍が生体内にある状態になっている場合、そこにはDNA修復機構の不調や細胞免疫の不調が複雑に絡んでいる場合もあり、「水疱瘡は水痘・帯状疱疹ウイルス (Varicella-zoster virus) の感染で起こる」など一対一の因果関係の説明は、癌では示しにくいことが多い。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "糖尿病および高血糖、高インスリン血症(Hyperinsulinemia)およびインスリン抵抗性(Insulin Resistance)は、癌の大いなる危険因子である。インスリン(Insulin)は膵臓のβ細胞から分泌されるペプチド・ホルモンであるが、このホルモンには腫瘍の増殖を誘導する作用がある。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "論文『Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence』(『インスリン抵抗性と癌:疫学的証拠』)の著者らは、「インスリン抵抗性が癌の発生の重要な要因であることに疑いの余地は無い」と断言している。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "喫煙と癌の相関は、数十年にわたる調査での一貫した結果でも明らかになっている。数百の疫学調査により、たばことがんとの関係が確認されている。アメリカ合衆国における肺がんによる死亡の比率とたばこ消費量の増加パターンは鏡写しのようであり、喫煙が増加すると肺がん死比率も劇的に増加した。渡邊昌は「日本政府が日本たばこ産業 (JT) 株式の半数以上を保有しているため、喫煙規制や禁煙に関する動きが進みにくかった」と指摘しており、がんの死亡率の1位は肺がんとなっている。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "厚生労働省は「『食生活の欧米化』 が癌による死を増やした」と考えている。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一方で、北極圏に住むエスキモーたちと暮らした経験がある探検家、ヴィルヒャムル・ステファンソン(Vilhjálmur Stefánsson)の事例もある。ステファンソンはエスキモーたちとの共同生活で、「脂肪が多い肉と魚」を毎日食べ、赤身肉よりも脂肪を優先的に食べるようにし、脂肪の摂取量が少ないと体調不良に陥った。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ヴィルヒャムル・ステファンソンは、食事療法、とりわけ、炭水化物が少ない食事療法に大いに関心を抱いていた。ステファンソンはイヌイットたちの食事について、「全体の90%が肉と魚で構成されている」と記録している。彼らの食事は「Zero Carb」「No Carb」(「炭水化物をほとんど含まない食事」)と見なされるかもしれない(彼らが食べていた魚にはわずかな量のグリコーゲン (Glycogen) が含まれてはいたが、炭水化物の摂取量は全体的にごく僅かであった)。ステファンソンの仲間の探検家たちも、この食事法で完全に健康体であった。イヌイット(ステファンソンの時代には「エスキモー」と呼ばれていた)たちとの暮らしから数年後、ステファンソンは、アメリカ自然史博物館からの要請で、同僚のカーステン・アンダーソン (Karsten Anderson) とともに再び北極を訪れた。2人のもとには「文明化された」食料が1年分補給される予定であったが、2人はこれをやんわりと断った。当初の計画は1年間であったものが、最終的には4年間に延長された。北極圏にいた2人がその4年間で食べていたものは、捕えて殺して得られた動物の肉と魚だけであった。4年に亘る肉食生活を送る過程で、2人の身体には異常も悪影響も見られなかった。ウィリアム・バンティング (William Banting) と同じく、炭水化物のみを制限し、身体が本当に必要としている食べ物を食べ続けた場合、身体は完全に機能し、壮健さと細身を維持できることが明らかとなった。「カロリー」については一切無視された。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "肉だけを食べる食事法が続行可能かどうかについての見解をステファンソンが報告した際には多くの懐疑論が出たが、のちに行われた研究と分析で、それは可能であることが裏付けられた。複数の研究結果により、エスキモーたちの食事法は「ケトン食療法」であることが示された。彼らは主に魚や肉を煮込んで食べており、時には魚を生で食べることもあった。この食事療法は、ミネソタ州ロチェスター市にあるメイヨー・クリニック (Mayo Clinic) の医師、ラッセル・ワイルダー (Russell Wilder) が1920年代前半に開発したもので、元々は癲癇 (Epilepsy) を治療するために開発し、患者に処方していた。砂糖、甘い果物全般、デンプンが豊富なもの全般を避け、各種ナッツ、生クリーム、バターの摂取を増やす。栄養素の構成比率は「脂肪(4):タンパク質と炭水化物(1)」である。脂肪分が90%、タンパク質が6%で、炭水化物の摂取は可能な限り避ける食事法である。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1928年、ステファンソンとアンダーソンの2人はニューヨークにあるベルヴュー病院(英語版)に入院し、完全肉食生活が体に及ぼす影響についての実験台となることに同意した。実験の期間は1年間であり、コーネル大学のウジェーヌ・フロイド・デュボア(Eugene Floyd DuBois)が実験を指揮した。ステファンソンとアンダーソンの2人は、注意深く観察された実験室という設定で、最初の数週間、肉だけを食べ続けても問題無いことを証明する研究の着手に同意し、「食事における決まり事」を確かなものにするために観察者が付いた。スコット・カトリップ(Scott Cutlip)による著書『The Unseen Power: Public Relations』によれば、ペンドルトン・ダッドリー(Pendleton Dudley)がアメリカ食肉協会(American Meat Institute)に対して、この研究に資金を提供してもらえないか、と説得したという。この間にアンダーソンには糖尿病の症状が発現した。糖尿病における病理とは異なり、この研究の過程でアンダーソンの身体に見られた糖尿病の病状の期間は4日間であった。耐性を調べるためにブドウ糖100gを投与させたことと、肺炎の発症はいずれも同時期であった。この時のアンダーソンは、水分と炭水化物が多い食事を取っており、これを排除すると、糖尿病の症状は消滅した。ステファンソンは、研究者から「脂肪が少ない赤身肉だけを食べる」よう依頼された。ステファンソンには脂肪がほとんど無い肉を食べ続けると2-3週間後に健康を損なった経験があり、「脂肪がほとんど無い肉」は「消化不良」を惹き起こす可能性がある、と指摘した。この肉を食べ続けて3日目、ステファンソンは吐き気と下痢に見舞われ、そのあとに便秘が10日間続いた。早い段階で体調不良に陥ったのは、自身が以前に食べていたカリブー(トナカイ)の肉と比べて脂肪が少ない肉を食べ続けたのが原因である、とステファンソンは考えた。脂肪が多い肉を食べるようにすると、2日以内に身体は完全に回復した。最初の2日間、ステファンソンが取っていた食事は、脂肪の摂取量が三分の一に減っていた点を除けば、エスキモーが取っていた食事に近いものであった。タンパク質の摂取カロリーは全体の45%を占めており、3日目には腸に異常が見え始めた。次の2日間でステファンソンはタンパク質の摂取量を減らし、脂肪の摂取量を増やした。摂取カロリーの約20%をタンパク質で、残りの80%を脂肪で占めるようにした。この2日間での高脂肪食でステファンソンの腸の状態は投薬無しで正常に戻った。その後、ステファンソンはタンパク質の1日の摂取カロリーが25%を超えないようにした。2人の身体は健康を保ち、腸も正常なままであった。彼らの便は小さく、匂いも無かった。ステファンソンには歯肉炎があり、歯石の沈着が増加するも、実験が終わるまでには消えていた。実験中のステファンソンの摂取カロリーは2000~3100kcalで、そのうちの20%はタンパク質であり、残りの80%は動物性脂肪から得ていた。栄養素の1日の摂取量については、タンパク質は100-140g、脂肪は200-300gで、炭水化物については7-12gであった。1929年に発表された論文では、この時の臨床研究について詳述されている。ステファンソンによれば、エスキモーたちは赤身肉(タンパク質)の摂取を制限し、余分な赤身肉は犬に与えて食べさせ、脂肪を確保して食べたという。これらの事例と証拠から、「脂肪が多い肉を食べると癌になる」という主張には説得力が無い。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の摂取量が多過ぎ、脂肪の摂取量が足りない食事を摂り続けていると、「タンパク質中毒」(Protein Poisoning)と呼ばれる急性の栄養失調状態に陥ることがある。これは「ウサギ飢餓」「カリブー飢餓」「脂肪飢餓」とも呼ばれる。「ウサギ飢餓」(Rabbit Starvation)という用語は、ウサギの肉は脂肪が少なく、そのほとんどがタンパク質で構成されており、それだけを食べ続けると中毒症状を惹き起こす食べ物である点に由来する。報告されている症状として、最初は吐き気や疲労感に襲われ、下痢を起こし、最終的には死に至る。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この肉食実験を監督したウジェーヌ・フロイド・デュボアは「定期的な尿検査で、彼らの尿からはケトン体が常に一定量検出されたため、炭水化物は摂取していなかった」と書いた。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "栄養学者たちは、",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "と非難した。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "「エスキモーたちは野菜や果物について『人間の食べ物ではない』と考えていた」とステファンソンは書いている。1960年代以降、「動物性脂肪を豊富に含む動物性食品は、健康に悪影響を及ぼす可能性がある」と言われるようになると、栄養学者たちは「動物の肉には、生命維持に欠かせない全ての必須アミノ酸、全ての必須脂肪酸、13種類ある必須ビタミンのうちの12種類がたくさん含まれている」という栄養学上の事実の指摘を控えるようになった。ビタミンDとビタミンB12の両方を含む食べ物は「動物性食品だけ」である。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "リチャード・ヘンリー・デイナ・ジュニア(Richard Henry Dana Jr.)は、1840年の時点で「我々は1日に3回、新鮮な牛肉のステーキだけを食べていた。病気とは無縁の健康状態を維持できた」と書き残している。エスキモーとステファンソンによるケトン食療法(炭水化物を徹底的に避け、脂肪を大量に摂取する)は癌の治療や予防に有効である可能性を示している。エスキモーたちは狩猟採集生活者として暮らしており、肉と魚だけを食べ続けていたが、白人との交易で小麦粉と砂糖を食べ始めたのち、肥満や糖尿病を患うようになった。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "肉だけを食べ続けたステファンソンとアンダーソンは、「壊血病を患い、瀕死の状態に陥る」と思われていたが、脂肪が多い肉を食べ続けたことにより、「バランスの取れた食事」を取っていたときよりも健康体になった。1946年、ステファンソンは、エスキモーたちとの食生活について綴った著書『Not by Bread Alone』(『パンのみにあらず』)を出版し、1956年にはこの本の拡張版とも言える内容の著書『The Fat of the Land』(『大地の脂肪』)を出版した。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1998年に福岡県久山町で行われた「久山町研究」 では、「糖尿病は悪性腫瘍死の発生のリスクを有意に増大させ、高血糖の程度を示すヘモグロビンA1cの高値の者ほど胃がんの発生率が高かった」という研究結果が得られた。清原裕は「糖尿病は悪性腫瘍による死のリスクを有意に増大させた」「糖尿病及び高血糖は悪性腫瘍の重要な危険因子である」と書いた。国立がん研究センターは「糖尿病と診断されたことのある人は、そうでない人に比べて、がんを患いやすくなる確率20-30%ほど上がり、男性では肝がん、腎臓がん、膵がん、結腸がん、胃がん、女性では胃がん、肝がん、卵巣がんでこの傾向が強い」と発表した。C-ペプチドは、インスリンを生成する際、インスリンの前駆体であるプロインスリンから切り放された部分を指すが、男性では、C-ペプチド値が高いと大腸癌リスクが高くなる。C-ペプチドは男性の結腸癌と関連がある。1988年以降、久山町では、九州大学をはじめとする複数の大学の研究者たちが、炭水化物が多く、脂肪は少なく、摂取カロリーも低めの食事を住民に食べさせ続けたところ、糖尿病だけでなく、アルツハイマー型認知症を患う住民が増えた。前述のとおり、糖尿病は癌を患うリスクをさらに上昇させる。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "血糖コントロール悪化から入院した糖尿病患者の6.85%に新規に悪性腫瘍が指摘され、高い罹患率を認めたことから、急激な血糖コントロールの悪化を認めた際には、悪性腫瘍の鑑別が必要となる。糖尿病患者はがんを患いやすくなるが、これには膵臓のβ細胞から分泌されるホルモン、インスリンが関わっている(後述)。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "WHOと国際がん研究機関(IARC)による「生活習慣とがんの関連」についての報告がある。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "化学物質への暴露が発がんを惹き起こすことがあり、国際がん研究機関(IARC)はヒトに対する発癌性が認められる化学物質(Group1)として、石綿、ベンゼン、六価クロム、ヒ素、カドミウム、ベンジジン、1,2-ジクロロプロパン、放射線としてγ線、X線を掲げている(詳細は「IARC発がん性リスク一覧」を参照のこと)。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "一部の悪性腫瘍(がん)については、ウイルスや細菌による感染が、その発生の重要な原因であることが判明している。現在、因果関係が疑われているものまで含めると以下の通り。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "これらの病原微生物によってがんが発生する機構は様々である。ヒトパピローマウイルスやEBウイルス、ヒトTリンパ球好性ウイルスの場合、ウイルスの持つウイルスがん遺伝子の働きによって細胞の増殖が亢進したり、p53遺伝子やRB遺伝子の機能が抑制されることで細胞ががん化に向かったりする。肝炎ウイルスやヘリコバクター・ピロリでは、これらの微生物感染によって肝炎や胃炎の炎症が頻発した結果、がんの発生リスクが増大すると考えられている。またレトロウイルスの遺伝子が正常な宿主細胞の遺伝子に組み込まれる過程で、宿主の持つがん抑制遺伝子が欠損することがあることも知られている。ただしこれらの病原微生物による感染も多段階発癌の1ステップであり、それ単独のみでは癌が発生するには至らないと考えられている。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2005年11月、スウェーデンのマルメ大学(Malmö Universitet)が発表した研究では、ヒトパピローマウイルス(HPV)に感染した人間との、予防手段を用いないオーラルセックスは口腔癌のリスクを高める、と示唆した。この研究によると、癌患者の36%がHPVに感染していたのに対し、健康な対照群では1%しか感染していなかった。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌で発表された最近の別の研究は、オーラルセックスと咽喉癌には相関関係があることを示唆している。HPVは頸部癌の大半に関係しているので、この相関関係はHPVの感染によるものと考えられている。この研究は、生涯に1-5人のパートナーとオーラルセックスを行った者は全く行わなかった者に比べおよそ2倍、6人以上のパートナーと行った者は3.5倍の咽喉癌のリスクがあると結論付けている。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "大部分のがんは偶発的であり、特定遺伝子の遺伝的な欠損や変異によるものではない。しかし遺伝的要素を持ちあわせる、がん症候群が存在する。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "遺伝的素因と環境因子の双方により発癌リスクが高くなるものとして、アルコール脱水素酵素の低活性とアルコール多飲がある。これらが揃うと頭頸部癌(咽頭癌・食道癌)の罹患率が上昇する。日本を含むアジアではアルコール脱水素酵素(ADH1B)の活性が低い人が多い。",
"title": "発生要因"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "藤田哲也は「末期癌の患者の体内では、数千個から数兆個に及ぶ癌細胞が『制御の効かない過剰な生長』を続け、正常な組織や細胞を圧殺する」「『過剰な生長』という現象こそが、癌が宿主を苦しめ、死に至らしめる最大の要因である」「『過剰な生長』は癌の最も重要な性質の一つであり、悪性腫瘍に本質的なものだ」と書いた。",
"title": "癌の成長"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "大阪大学医学系研究科甲状腺腫瘍の研究班は「甲状腺がんにおいて、転移能・浸潤能など立派にがんとしての性質を持っていながら、なぜかある程度で成長が止まってしまい、一生患者に悪さをしないものが多数存在することが証明されるようになった」「これらのがんを若年型甲状腺がんと呼ぶ。このようながんをあまり早い時期に見つけてしまうと、患者に本来不要であった手術を施してしまうことになる。これを『過剰診断』と呼ぶ」「小さな甲状腺がんは10代の後半からちらほら出現し、20代で急速にその頻度が増加し、30代中ごろには中高年とほぼ同じ頻度になる。すなわち、超音波でしかわからないような甲状腺がんは子供のうちからできるが、その多くは途中で成長が止まり、臨床的ながんにまで進展しない」「小さな甲状腺がんは10年単位でしか成長せず、しかも若年者ではある程度成長するが、高齢になると完全に成長を止める。また、経過観察された千人以上の患者のうち、甲状腺がんが原因で死んだ人は一人もいなかった。すなわち、これらのがんが悪性化することはない」と発表した。",
"title": "癌の成長"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "札幌医科大学の加茂憲一は、肝臓癌について「肝炎ウイルスが影響する」と発表している。",
"title": "癌の成長"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "子宮頸癌は発癌リスクを軽減できるHPVワクチンが日本でも認可された。胃癌はヘリコバクター・ピロリを除菌することにより、発癌リスクを軽減できることが報告されている。B型肝炎はエンテカビルによりHBVウイルスを減少させることで、C型肝炎はインターフェロン療法によりHCVを駆除することにより、発癌リスクを軽減できることがわかっている。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2007年11月1日、世界がん研究基金とアメリカがん研究協会によって7,000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防」が報告されている。これは1997年に公表され、日本では「がん予防15か条」と呼ばれていた4500以上の研究を元にした報告の大きな更新である。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "喫煙は肺、口腔、膀胱がんの主因であり、タバコの煙は最も明確に多くの部位のがんの原因であると強調。また、タバコとアルコールは相乗作用で発癌物質となる。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2000年、厚生労働省の健康日本21 によってがん対策の目標が提唱されている。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "国立がん研究センターがん予防・検診研究センター(現・社会と健康研究センター)は日本人にとって優先度の高く、予防効果が確かな要因に絞って内容を取りまとめ、2006年に「日本人のためのがん予防法」を提言した。以下は2017年8月1日改訂版における6つの推奨項目である。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1978年、日本の国立がんセンター(現・国立研究開発法人 国立がん研究センター)は学問的に常識とされていた知見を踏まえ、カレンダーの12か月に合わせて「がんを防ぐための12ヵ条」を提唱した。当時としては科学的に妥当な提言であったが、その後の研究で「かび」や「日光」、「焦げ」の暴露を避けるべきとされていた要因について、発がんリスクの上昇が認められるまでに必要な曝露量や避けた場合に予防可能ながんの割合という観点から見直しがなされ、上述の「日本人のためのがん予防法」の内容を含め、2011年にがん研究振興財団が「がんを防ぐための新12か条」として改訂版を公表した。たばこについての記述を禁煙と受動喫煙の2項目設けたこと、早期発見を掲げたことや正確な情報を入手することに言及している点でも改訂前と異なる。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2010年10月22日、オックスフォード大学のピーター・M・ロスウェル(Peter M. Rothwell)らは、「毎日少なくとも75mgのアスピリン(鎮痛剤の一種)を数年間服用し続けると、結腸直腸癌の発生率と死亡率が減少することが分かった」と発表した。彼らの研究は医学雑誌『Lancet』に掲載された。ただし、肺がんと咽喉がんの予防効果に関しては、非喫煙者の腺がんにしか認められず、アスピリンを毎日服用した場合、胃の出血を惹き起こす恐れがある。アルコールと併用した場合、胃の症状はさらに悪化する。また、高用量(毎日500mg以上)のアスピリンを服用した場合、副作用により、長期的には癌の発症を防げない可能性がある、と付記している。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "また、アスピリンの服用は癌の危険度を上昇させる可能性がある。禁忌が無い場合に推奨される薬物療法の一つとして、血糖値を降下させるメトフォルミン(Metformin)がある。これは二型糖尿病患者の第一選択治療手段である。メトフォルミンは、肝臓におけるブドウ糖の産生を抑制し、末梢におけるブドウ糖の取り込みを促進することによって作用し、それにより、血中のインスリン濃度を上昇させることなく血糖値を低下させる。また、高血糖とインスリン抵抗性が続く場合、メトフォルミンの癌の危険度に対する臨床効果は限定的なものとなり、アスピリンの服用行為は癌の危険度を上昇させる可能性がある。糖尿病患者とそうでない人々で、インスリン感受性に対するアスピリン療法の影響について調べた試験においては、高用量のアスピリンは、肝臓におけるブドウ糖の産生と末梢血漿ブドウ糖濃度を低下させたが、その際には、血中のインスリン濃度が47%増加するという代償を支払った。すなわち、メトフォルミンがインスリンの効果を減殺する作用は、アスピリンによる血中のインスリン濃度の上昇がない場合にのみ存在し、アスピリンの服用行為は、癌の転帰(疾患や怪我の治療における症状の経過とその結果)において、隠された害をもたらす。これは1980年代に行われた臨床研究で既に実証された。高血糖とインスリン抵抗性は、いずれも悪性腫瘍の罹患率と死亡率の上昇に関係する。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つからである。アスピリンにはインスリンの分泌を刺激する作用がある。局所性の癌と進行性の癌、双方による死亡率についても、アスピリンを服用している人の方が高く、アスピリンは癌の進行に悪影響をもたらす可能性を示している。「アスピリンの服用が癌の危険度を下げる」ことを示す証拠は無い。",
"title": "予防"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "「がん」の診断には2つの状況がある。一つは臨床診断(特に病理検査)と、もう一つは集団検診(がん検診; 術後検診を含む)である。がんを根治する上で重要な点は自覚症状がない段階での「早期発見」と「全摘出手術の可能性検証」が挙げられる。言い換えると、集団検診と臨床診断とが効果的に機能して初めて、がん治療が成功に導かれる。また全摘出手術が困難な状況において、がんの種類によって異なる有効な治療法を選択する目的でも、臨床診断は重要である。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "検診の方法としては、X線撮影、超音波検査、コンピュータ断層撮影(CT)、核磁気共鳴画像法(MRI)、ポジトロン断層法(PET)、骨シンチグラフィ、消化器への内視鏡検査がある。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "一方、全摘出手術が成功した場合においても、再発がん、二次性がんの発生の懸念があるため、その局面においても術後定期検診は重要になる。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "「がん」の組織は顕微鏡下での観察、すなわち検鏡によって、形態から鑑別される。判定像では多くの分裂中の細胞が観察され、細胞核のサイズや形状はばらばらであり、(分化した)細胞の特徴が消失している。これらは細胞診でも生検組織診でも確認できる特徴である。組織診では正常な組織構造が失われている点や、周囲の組織(が一緒に採取されていれば、そこ)と腫瘍との境界が不明瞭であることが観察される。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "生検組織診は、過形成、異形成、上皮内癌と浸潤癌との鑑別に有用である。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "「がん」の進行度を表すものとして「TNM分類」や「ステージ分類」がある。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "「T(tumor、腫瘍)」、「N(nodes、所属リンパ節)」、「M(metastasis、遠隔転移)」の3つの観点から進行度を分類したもの。T1~4、N0~3、M0~1の組み合わせで表現する。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "TNM分類を元に、がんの進行度と広がりの程度を合わせて表すことができるように、と新たに作成された。臨床に沿った分類であり、「臨床進行期分類」と呼ばれる。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ステージ0(上皮内癌)〜ステージIVの五段階で分類される。個体としての死を迎えた段階で体内には1kg前後のがん細胞が生成されている。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "TMN分類と同様に、臓器別に細かく分類されているため、上記の分類から更に詳細に分類される場合がある。胃がんの場合は、TNM分類との対比で以下のように定義されている。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "※胃の近くにあって転移しやすいリンパ節のことで、日本臨床外科学会の『胃治療ガイドライン』では13個のリンパ節を「領域リンパ節」 としている。",
"title": "診断"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "日本において昭和の頃は、「がん」といえば死の宣告と同義であった。日本は1984年に「対がん10ヵ年総合戦略」、1994年に「がん克服新10か年戦略」を策定し、多額の研究資金を投入してきた。また、日本だけでなく欧米諸国でも死因の上位であるがんの研究には多額の人材及び資金を投じてきた。2010年代までに、がんの治療成績は急激に上がった。実際、多くのがんでは初期(1期)であれば9割以上の5年生存率(事実上の完治)となっているが、基本的に治りにくい病気であることは変わらないほか、膵癌のように治療が困難ながんも存在する。また、医学の世界では、がんの治癒は「完治」とは呼ばず、とりあえず病変が見えなくなった状態として「寛解(かんかい)」と呼ぶ。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "治療手段は以下のものがある。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ガン細胞は血管新生を誘引して大量の血管を生成するが、この結果できた血管は細い上に層構造の表皮部分が完全には形成されない脆い血管である。そのため、この血管新生を阻害する治療法や、逆にガンに伸びた血管の表皮を正常な状態にして、抗がん剤をガン細胞に届きやすくする治療が研究されている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2014年1月、鳥取大学医学部は、「自身がクローニングしたRNA遺伝子の機能解析に従事している際、この遺伝子に関連して発現変動する単一のマイクロRNAを悪性度の高い未分化癌に導入すると、容易に悪性度を喪失させることができ、正常幹細胞へ形質転換できるという画期的な治療法を発見した」と発表した。大学では「動物実験段階までである」としているが、「研究グループ代表によると、あらゆる癌に対応が可能で、現在実用化に向けて研究中であるという。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "「精密医療」という用語があり、これは「Precision Medicine」の訳語である。患者の個人レベルで最適な治療方法を分析・選択し、それを施す。最先端の技術を用い、細胞を遺伝子レベルで分析し、適切な薬のみを投与する。アメリカ合衆国では既に一般的な方法として選択されている。",
"title": "治療"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "がんは発見から闘病中において、病気や死への不安感、癌性疼痛による苦痛、生活や経済状態への打撃により、患者本人や家族らの「生活の質」(QOL, Quality Of Life)に大きな影響を与える。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "がん治療後の最大の関心事は再発・転移の有無であり、がんが残っている場合にはその推移にある。このため、治療後も主治医による定期的な検診を受けて状況を正しく把握しつつ生活を再建していくことが肝要である。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "がん治療は手術による切除を伴うことが多く、治療後の生活は、例えば治療によってがんそのものは完治した場合であっても、大きく影響を受けることが多い。がんができた場所によって治療により影響を受ける機能は千差万別であり、対処法もそれぞれに異なる。一般に、切除によって失われる体の機能をできる限り小さくし、失われた機能を補う手段を用いて、治療後のQOLを従来よりも向上させる努力が進められている。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "直腸がんで肛門に近いところにがんができた場合や肛門にがんができた場合、人工肛門(消化器ストーマ)が作られる。また、膀胱がんで膀胱と尿道をとる必要がある場合、人工膀胱を用い、尿の排泄口である尿路出口(尿路ストーマ)が作られる。手術後、ストーマによる排泄をスムーズに行えるようにするケア(ストーマケア)の方法が十分に習得できてから退院する。ストーマがあっても入浴はでき、体力が回復すれば仕事や学業に復帰することも可能である。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "気管孔は鼻または口から肺へ空気を導入して呼吸困難になる場合、気管を外部へつなげる穴を開けて(気道切開)呼吸を確保する。首の付け根の前の位置に丸い穴をあける。気管孔は治療の過程で呼吸を確保するために一時的に設ける場合もあり、この場合は通常の呼吸が可能になると共に閉じられる。他方、咽頭、喉頭、またはその近くにがんがあり、治療により咽頭を全部切除しなければならない場合、そのままでは食事も呼吸もできなくなるので、口に通じる食道を気管と完全に分けて形成し、気管の出口を気管孔につなげる。この場合を永久気管孔という。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "永久気管孔を設けた場合、首に穴があいたままになる。術後の日常生活が受ける主な影響を以下に挙げる。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "乳がんの治療では、抗癌剤、放射線治療の併用により乳房を温存できる場合が増えている。治療法とそれによる様々な影響、治療後のリスクについて、十分に医師と患者の双方が納得して治療を行うことが重要である。切除手術を行った場合、人工乳房が各種開発されているので用いることができる。「乳房再建」も参照。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "頭頸部がんでは治療によって、顔面の一部の機能が損なわれたり一部が失われたりする場合がある。手術に放射線治療、化学療法を併用することにより、失われる機能を最小限にする努力が進められており、切除範囲は縮小する傾向である。また、再建術も多く行われている。術後に予想される変化とリスクを医師と患者が話し合い、双方が納得して治療を進めることが重要である。喪失した顔面の各部に応じてエピテーゼを制作できる。医療用の接着剤またはインプラントにより装着する。近年は極めて自然な仕上がりのエピテーゼを用いることが可能になってきている。詳細は「顔面エピテーゼ」の項目参照。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "骨肉腫が四肢に発生した場合、かつては切断することが必須とされたが、最近では切断せずに腫瘍を切除することも可能になった。切断した場合に用いる義肢の機能も大幅に改善されている。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "がんの治療によって失われた臓器の機能を補う手段が得られない場合もある。このような場合には、生活の仕方で対応するか、医療的に補充する。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "胃がんによって胃を全摘出した場合、胃に代わるものは用意できないため、食道から直接小腸へと食べ物が入るようになる。少しずつ時間をかけ、何回にも分けて食べることにより、対応できる。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "甲状腺がんの場合、少しでも甲状腺が残せた場合甲状腺ホルモンは分泌されるが、甲状腺を全摘出した場合には分泌されなくなる。この場合、術後は甲状腺ホルモンを生涯にわたって処方してもらう。",
"title": "がん闘病中・治療後の生活の質の向上"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "統合失調症の患者はがんによる死亡率が低いと言われている。統合失調症治療に使われる向精神薬が抗腫瘍効果を持つためであるとされている。",
"title": "がんと統合失調症"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "がんを理解しようとする人たちは古代からおり、悪戦苦闘が繰り広げられてきた。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "「Cancer」は古代ギリシア語「Καρκινοσ」(「カルキノス」, 「カニ」の意味)に由来する。あちこちに爪を伸ばし食い込んでゆく様子をこの言葉で表現した。「がんについての研究である腫瘍学を意味する「Oncology」の語源も、古代ギリシア語「Ογκος」(「オンコス」と読む。「塊」の意味)である。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "紀元前1500年頃に書かれたエーベルス・パピルスにも癌に関する記述がある。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "古代ローマのガレノス(2〜3世紀頃)は、がんは四体液の一つの黒胆汁が過剰になると生じる、と考えた(1500年頃までは医学の領域で「権威」とされていた)。ガレノスの後継者のなかには、情欲にふけることや、禁欲や、憂鬱が原因だとする者もいた。また同後継者には、ある種のがんが特定の家系に集中することに着目して、がんというのは遺伝的な病苦だ、と説明する者もいた。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "18世紀後半を過ぎる頃になると、がんの一因として環境中の毒(タバコ、煙突掃除夫の皮膚につく煙突の煤、鉱坑の粉じん、アニリン染料が含有する化学物質 等)もあるのでは、とする説が、多くの人によって提唱された。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "19世紀の中頃に、フィラデルフィアの外科医サミュエル・グロス(英語版)は「(がんについて)確実にわかっていることは、我々はがんについて何も知らない、ということだけである」と書いた。そして、そのような「何も知らない」という状況は、19世紀末の時点でも、ほとんど変わっていなかった。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "それから1世紀が経過し、理解が進む度に研究者の間で新たな疑問が登場し、科学的な知識が徐々に増えてきた。がんの研究は研究者たちにとって多くの困難と挫折に満ちたものであった。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "20世紀初頭には、「感染症は特定の微生物によって引き起こされる」という説を支持する例が実験によって多数確認されたため、他の病気も容易に解明されるだろうと考えたり、がんも解明されるだろうと予想する人は多かった。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1955年、オットー・ワールブルクは、体細胞が低酸素状態に長時間晒されると呼吸障害を引き起こし、通常酸素濃度環境下に戻しても大半の細胞が変性や壊死を起こし、ごく一部の細胞が酸素呼吸に代わるエネルギー生成経路を昂進させて生存する細胞が癌細胞となる説を発表した。酸素呼吸よりも発酵によるエネルギー産生に依存するものは下等動物や胎生期の未熟な細胞が一般的であり、体細胞が酸素呼吸によらず発酵に依存することで細胞が退化し癌細胞が発生するとしている。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "「がんは感染症ではない」とも考えられていた。白血病のように、患者から家族や医療関係者に伝染することがないためである。だが、動物(の個体)からとった腫瘍を他の動物(の個体)に移植すると癌が誘発されることがわかった19世紀末以降は、がんにも感染性の病原体があるのかも知れないと考える人も出てきて、彼らは20世紀初頭までに、原生動物やバクテリア、スピロヘータ、かびを調べた。それらの研究はうまくゆかず、がんの原因に感染症があると考える諸説は信用を失いそうになった。だが、ペイトン・ラウスが腫瘍から細胞とバクテリアを取り除いた抽出液をつくることを思いつき、それを調べれば細胞の他に作用している因子が見つかるかも知れないと考え、ニワトリの肉腫をろ過した抽出液を健康なニワトリに注射し、その鶏にも肉腫が発生するのを実験によって確認。その腫瘍は、微小な寄生生物、おそらくウイルスに刺激されて生じたものかも知れない、とした。当時はウイルスの正体は分かっておらず、「...でないもの」という否定表現でしか記述できなかった。科学者はがんが感染するという実験的事実から、未知の病原体が存在するであろうことにも気付いた。その後、ウサギでも同様の実験結果が得られたが、腫瘍を伝染させることに成功したのは主にニワトリ(やウサギ)の場合に限られていたので、やがて、がんの一因にウイルスがあるとする説は評判が悪くなってしまい、これを支持する科学者は評判を落としてしまいかねないような状況になった。異端の説だと見なされ、疑似科学者扱いされかねない空気が科学界に蔓延した。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "ジャクソン研究所(英語版)は、1929年に設立された組織で、今日では基礎医学研究用の規格化マウスを供給する組織として米国最大のものであり、その研究所でのがん発生研究のプログラムというのは「問題は遺伝子であって、ウイルスではない」という前提の下に行われていた。だが、同研究所のジョン・ビットナー(英語版)が、マウスのある種のがんは、母乳中の発がん因子が授乳を通じて子に移される仕組みであるという、ウイルスが関与しているという証拠を偶然に発見した。だが、当時の科学界は上述のようにウイルス説を異端視していたのでビットナーは躊躇して、それを「ウイルス」とは呼ばず、あえて「ミルク因子」と呼んだ。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "ルドウィク・グロス(英語版)も、ウイルスが癌の原因になることがあることを、マウスの白血病がウイルスによってうつることを示す実験を行うことで確かめ、それを発表・報告したのだが、がん研究者の大半はその報告をまともに受け取らず、データ捏造をしているのでは、と考える者すらいた(ワシントンにある研究公正局に出頭を求められかねないような扱いを受けた。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "アメリカ国立癌研究所が設立された時期、公衆衛生局局長の諮問委員会は「がんの原因としてウイルスは無視できる」と結論づけた。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "「《ミルク因子》というのは、ウイルスだ」と解釈することを科学的なこととして認め、ウイルス説を科学的に真面目に検討すべきだ、という認識ができてきたのはようやく1940年代末のことだった。状況を変えた人物はジェイコブ・ファース(Jacob Furth、1896-1979) であった。ファースは既に高名な科学者であったが、その彼がグロスの実験を、それに用いるマウスの種類まで正確になぞることで、実験に再現性があること、そして事実であることを証明した。それによって基礎医学者たちがようやく、悪性腫瘍にウイルスが関与することがあるということを理解するようになった。かくして、長らく異端者のように扱われてきたペイトン・ラウスは、1966年に85歳でノーベル生理学・医学賞を受賞した。",
"title": "がんの原因の理解史"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "1863年、ドイツ人の医師で病理学者、ルドルフ・ヴィルヒョウ(Rudolf Virchow) は、「浸潤した免疫細胞は、炎症組織における癌病変が発生する場所を反映している」とする仮説を発表した。ヴィルヒョウの研究は、癌の起源が慢性炎症の領域にある可能性があることを示唆した。",
"title": "炎症と癌"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "1986年、ハロルド・ドヴォルジャーク(Harold Dvorak)は、発癌と炎症には、「増殖、細胞の生存と移動の増加、および成長因子、炎症性サイトカイン、血管新生促進因子(Proangiogenic Factors)が制御する血管新生の強化促進」といった共通の発生経路があることを示した。ドヴォルジャークは、炎症に関与する細胞が癌組織にも浸潤している事実を観察したうえで、癌について「wound that does not heal」(「治癒が不可能な傷」)と定義した。",
"title": "炎症と癌"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "1990年代初期、アメリカ国立衛生研究所(The National Institutes of Health)は、『Women's Health Initiative』(『女性の健康構想』)と題した、約10億ドルに及ぶ研究を行った。このとき、「低脂肪の食事で心臓病や癌を本当に予防できるか」という研究も同時に行われた。5万人近くの女性を登録し、そのうち19541人を無作為に選んだ。研究は1993年に開始し、8年間続けられた。研究者たちは、参加した女性たちに対し、果物・野菜・全粒穀物・食物繊維が豊富なもの・脂肪が少ないもの・・・これらを優先的に食べるよう指示した。この食事を続けるにあたり、女性たちは定期的にカウンセリングを受けた。脂肪の摂取量については、摂取カロリーのうちの38%から20%に減らすことを目標とし、参加した女性たちについて、体重の増減、コレステロールの数値、脳卒中、心臓発作、乳癌、直腸癌、その他の心血管疾患を発症するかどうかについても調べた。毎日の食事の摂取カロリーは360kcal分減らし、少ない量を食べ続けた。参加した女性たちは「少なく食べるように」「脂肪が少ないものを食べるように」「運動するように」という指示も与えられ、「食べる量を減らして運動量を増やす」を忠実にこなし続けた。",
"title": "The Women's Health Initiative"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "この生活を8年間続けた結果、女性たちは(実験開始前と比べて)1人あたり平均で約1kg体重が減ったが、その腰回りは膨らんだ。この事実が意味するところは、「彼女らの身体から減ったのは脂肪ではなく、筋肉である」ということである。また、研究者たちは「脂肪分の少ない食事は、心疾患、癌、その他の病気を予防できなかった」とも報告している。脂肪の摂取量が少ない食事には、乳癌、心臓病、脳卒中の発症リスクを下げる効果も、閉経後の女性の結腸直腸癌のリスクを下げる効果も一切無かった。彼女らが受けたカウンセリングおよび食事の意味として、意識的か無意識的かを問わず、「少食を心掛けた」ことである。「消費カロリーが摂取カロリーを上回れば体重は減る」のが本当であるのなら、この試験に参加した女性たちが太った理由が説明できなくなる。脂肪は1kgにつき、約7,000kcalのエネルギーに相当する。彼女らが、毎日の食事の摂取カロリーを360kcal減らしていたのなら、実験を開始して3週間で約1kgの脂肪が減っていたはずであり、1年続ければ約16kgの脂肪が減る計算になる。試験開始の時点で、参加した女性たちの半数は肥満体であり、大多数は少なくとも過体重であった。研究者たちは、「低脂肪食は乳癌を患うリスクを下げるだろう」と考え、栄養士たちは「脂肪の摂取量について、目標の数値である20%まで下げれば、低脂肪食の効果が明白になった可能性がある」と述べた。8年間かけて行われたこの研究結果は『アメリカ医師会誌』に掲載された。脂肪が少ない食事は、心臓病や糖尿病を患っている女性被験者の健康状態を改善するどころか、悪化させた。『女性の健康構想』の研究結果は、「癌や心血管疾患を防ぐという目的において、低脂肪食には何の効果も無い」、「動物性脂肪を食事から排除しても、健康の改善には何の役にも立たない」ことも示した。『女性の健康構想』の研究者は「野菜や果物が多く、脂肪が少ない食事が、癌の危険度を下げることを示す証拠は見付からなかった」と書いた。",
"title": "The Women's Health Initiative"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "肥満の女性は乳癌を患いやすくなる。『女性の健康構想』研究終了後の追跡期間中、実験に参加した被験者のうち、7415人が死亡し、そのうちの1820人が癌で死亡し、151人が乳癌で死亡した。閉経後の女性において、インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する。インスリン抵抗性が強いほど、乳癌になりやすくなり、その後の死亡率も上昇する。",
"title": "The Women's Health Initiative"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "1980年代、スタンフォード大学の教授で内分泌学者、ジェラルド・リーヴン(Gerald Reaven)は、「高血糖(Hyperglycemia)、インスリン(Insulin)の過剰分泌、ならびにインスリン抵抗性(Insulin Resistance)と高インスリン血症(Hyperinsulinemia)こそがメタボリック症候群(Metabolic Syndrome)の根本的な原因である」と考え、「高血糖とインスリンの過剰分泌をもたらすのは炭水化物および砂糖・果糖である」とした。1987年、アメリカ国立衛生研究所は総意委員会を招集し、糖尿病の予防や治療について、集まった委員たちに議論させた。出席者の1人であったリーヴンは、「Anyone who consumes more carbohydrates has to dispose of the load by secreting more insulin.」(「誰であれ、炭水化物の摂取量が多いほど、その人の体内ではインスリンがさらに分泌され、身体はその処理に追われることになる」)と述べた。1988年、アメリカ糖尿病協会(The American Diabetes Association)が主催した「バンティング講義」(Banting Lecture, インスリンの共同発見者の1人、フレデリック・バンティング〈Frederick Banting, 1891~1941〉に敬意を払っている)に出席したリーヴンは、メタボリック症候群は肥満・糖尿病・高血圧とも密接に関係している趣旨を述べた。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "メタボリック症候群を患っているということは、身体がインスリン抵抗性を惹き起こしていることと同義である。インスリン抵抗性は、肥満ならびにメタボリック症候群の特徴である。インスリン抵抗性は、肥満、高血糖、糖尿病、メタボリック症候群、癌とも密接に関係している。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "炭水化物を摂取すると、体内でブドウ糖に合成され、高血糖状態になる。インスリンはブドウ糖の細胞への取り込みを促進し、脂肪細胞からの脂肪酸の放出を抑制・妨害し、それによって身体が脂肪ではなくブドウ糖を最優先でエネルギー源にするよう促進する。インスリンは肝臓でのケトン体の産生を抑制し、脂肪の沈着を促進し、主要な代謝燃料の循環濃度までも低下させる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "炭水化物を食べて高血糖になり、そのたびにインスリンを注射する、というのを繰り返していると、さまざまな合併症や癌を患う危険性が上昇し、インスリンの強制的な注射やインスリンの強制分泌を促進する薬物の服用は、身体に深刻な不利益をもたらす。インスリン療法を受けている患者は、インスリン療法を受けていない患者に比べて、心血管疾患(Cardiovascular Disease)で死亡する危険性が上昇する。さらに、インスリンを注射して血糖値を下げようとすると、心血管疾患の発症率は低下せず、死亡率は上昇する。体重については、インスリンを注射していただけで10kg以上も増加した。インスリンは脂肪の蓄積を強力に促進し、空腹感を高め、体重増加を惹き起こす。たとえカロリーを制限したところで、インスリンを注射された動物には過剰な量の体脂肪が蓄積する。インスリンの過剰分泌を促進する食事は、インスリンを注射した時と同様の作用をもたらす。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "血糖値が正常範囲内(90~99)であっても、血糖値が90未満の人間と比較すると、膵臓癌の累積発生率は有意に増加し、空腹時の血糖値が110を超えると、あらゆる癌で死亡する確率が有意に上昇する。「GLUT5」と呼ばれる果糖輸送体は乳癌の発生に関わっている。果糖は前立腺癌の腫瘍の増殖を強力に促進する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "炭水化物が多い食事は高血糖を有意に惹き起こす。砂糖を含む飲み物も高血糖の明確な原因となる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "インスリンとは、膵臓のランゲルハンス島にあるβ細胞(Beta Cell)から分泌されるペプチドホルモンである。細胞によるブドウ糖の取り込みを促進し、炭水化物、脂質、タンパク質の代謝を調節し、分裂を促進する効果を通じて細胞分裂と成長を促進し、正常な血糖値を維持する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "インスリン抵抗性は、インスリンが肝臓、脂肪組織、骨格筋といった末梢標的組織において、インスリンの機能が損なわれたり、弱まったり、機能を発揮できない状態を指す。インスリン抵抗性は、2型糖尿病の発症にも関与する極めて重要な病因因子である。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "たとえ運動していても、炭水化物を食べている限り高血糖は防げない。運動中は血糖値の上昇が抑えられているが、運動を終えた途端に血糖値は急上昇する。炭水化物が多いものを食べている限り、高血糖状態は続く。高血糖もインスリン抵抗性も運動では防げない。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "「インスリン感受性が低い」ということは、「インスリン抵抗性が高い」(インスリンの効き目が悪い)状態を意味する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "インスリン抵抗性に伴い、血糖値が慢性的に高い状態が続くと、インスリン抵抗性は、高血糖症、高インスリン血症、および全身の細胞に酸化ストレス(Oxidative Stress)をもたらす。高血糖は、体内でAGEs(Advanced Glycation End Products, 「最終糖化産物」と呼ばれる)の産生を促進する。これは身体の老化を強力に促進する物体で、タンパク質に糖が結合することでタンパク質が変性する。果糖はAGEsをブドウ糖以上に強力に生成し、ブドウ糖を摂取したときの10倍もできやすくなる。インスリン抵抗性において、高血糖は、最終糖化産物の形成を促進する。インスリンは全身の脂肪細胞に強く作用し、摂取した炭水化物を中性脂肪に合成して脂肪細胞内に閉じ込め、脂肪細胞は肥大していく。インスリンは脂肪細胞にエネルギーを貯蔵するにあたり、重要なホルモン信号を持つ。脂肪細胞は肝臓や骨格筋においてインスリン抵抗性に直面したとしても、インスリン感受性(インスリンの効き目の強さ)を維持する傾向が強く、インスリン抵抗性が強まれば強まるほど、脂肪組織の形成を促進し、体重の増加が加速する。脂肪細胞は、肥大するにつれて「サイトカイン・ストーム」(Cytokine Storm, 「免疫機能暴走」)を惹き起こし、これは全身に有害な影響をもたらす。サイトカイン・ストームは「高サイトカイン血症」(Hypercytokinemia)とも呼ばれ、もともと身体に備わっている免疫系統(Immune System)が「サイトカイン」と呼ばれる炎症信号伝達分子を制御不能状態で過剰に放出する現象であり、ヒトや動物にみられる生理的な反応である。サイトカインそのものは感染に対して身体が示す免疫反応の一部であるが、この分子が突然大量に放出されると、多臓器不全(Multisystem Organ Failure)を惹き起こしたり、死につながる。炎症反応を誘発する性質を持つサイトカイン(Proinflammatory Cytokine)である「IL-6」(「インターロイキン-6」, Interleukin-6, 炎症性サイトカインの一種)は、さまざまな代謝、内分泌、および腫瘍性疾患に関与する。IL-6の信号伝達はインスリン抵抗性を誘発し、タンパク質、脂質、脂肪酸の代謝を変化させ、貧血と食欲不振を刺激する。また、内臓脂肪は炎症誘発性のサイトカインを生成する。このサイトカインは血流に直接輸送され、サイトカイン・ストームを惹き起こす直接の原因となる。炎症誘発性のサイトカインは、腫瘍の発生に影響を与える。サイトカインは癌を促進する役割も果たす。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "高血糖になると、膵臓は、血糖値を正常な状態に戻そうとしてさらに多くのインスリンを分泌するが、これは高インスリン血症の原因となる。筋肉細胞や脂肪細胞におけるインスリン感受性は低下し、血糖値は低下せず、インスリン抵抗性に対処するために膵臓のβ細胞は過剰な量のインスリンを分泌しようとする。血糖値が高い状態でビタミンCを摂取した場合、身体への吸収は抑制される。これは、摂取したはずのビタミンが細胞に吸収されるのをインスリンが妨害するからである。これにより、炭水化物と一緒に摂取したビタミンCは、全て尿と一緒に排泄されてしまう。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "メタボリック症候群は、肥満、糖尿病、アルツハイマー病、さらには各種の癌とも密接に関わっている。また、砂糖および果糖は脳においてもインスリン抵抗性を惹き起こし、脳の神経組織を破壊し、アルツハイマー病を惹き起こす直接の原因となる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "砂糖および果糖はインスリン感受性を低下させ、内臓脂肪の蓄積を促進し、空腹時の血糖値とインスリンの濃度を上昇させ、肝臓に脂肪を蓄積させ、ミトコンドリアの機能を妨害し、炎症の誘発を刺激し、脂質異常症、インスリン抵抗性を惹き起こし、糖尿病発症を促進する。150gの米を食べた場合、砂糖10杯分を摂取した時と同等の高血糖を惹き起こす。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "砂糖は膵臓癌をはじめとする各種の癌を患う可能性を高める。これの摂取を断つことが、癌の予防や治療への取り組みとなりうることを示唆している。砂糖の摂取を減らすことにより、脂肪肝、肥満、各種疾患を防げる可能性が出てくる。砂糖および果糖の摂取は肝臓への脂肪の蓄積を促すが、炭水化物および砂糖が少ない食事を摂ると、蓄積した脂肪が急速に減少することが確認された。外部からの資金提供を受けることなく書かれた研究論文の著者は、「身体の健康を守るために砂糖の摂取を制限すべきである」と結論付けている。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ヒトはストレス(精神的な重圧や緊張状態)に晒されると、副腎皮質からコルチゾール(Cortisol)と呼ばれるホルモンが分泌され、血中に流れ出る。これは「ストレス・ホルモン」(Stress Hormone)と呼ばれ、慢性的なストレス反応に対して身体が示す正常な反応であるが、コルチゾールの濃度が高い状態が続くと、内臓脂肪の蓄積やインスリンの分泌を刺激し、インスリン抵抗性につながる可能性がある。インスリン抵抗性が認められる患者の体内では、コルチゾールとインスリンの濃度が高い。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "臨床研究では、高血圧患者の約50%が高インスリン血症や耐糖能異常(Impaired Glucose Tolerance)を示し、2型糖尿病患者の最大80%が高血圧症を示している。インスリンは内皮において一酸化窒素の産生を刺激し、血管弛緩(Vasorelaxation)を誘発する作用も持つ。また、インスリンは腎臓に対して「ナトリウムを再吸収せよ」との信号を送る。腎臓は体内のナトリウムの量を保持し、インスリンはナトリウムの体外への排泄を抑制・妨害する。ナトリウムの蓄積は余分な水分貯留につながり、高血圧を惹き起こす。正常な血糖値を維持するためにインスリンが分泌され、それに伴う高インスリン血症は、インスリンによるナトリウム保持作用を悪化させ、高血圧をもたらす。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "食事を終えて時間が経過したり、糖分が少ない食事を摂ったり、長時間絶食すると、血糖値と血中のインスリンの濃度が低下する。血中のインスリン濃度が低下すると、腎臓は貯蔵していたナトリウムを、体内に溜まった余分な水分と一緒に体外に排出する。炭水化物の摂取を制限すると血圧は低下し、降圧剤の服用回数を減らせる。高血圧をもたらすのは、インスリン抵抗性を直接惹き起こす砂糖であり、砂糖の摂取を減らすと、空腹時のインスリン濃度は低下し、血圧も低下する。ナトリウムとカリウムの摂取量が多いほど血圧は低くなり、この両方の摂取量が少ないほうが血圧は高くなる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "慢性的な高インスリン血症は、癌を促進する可能性を高める。また、インスリンは腫瘍の成長、増殖、転移を直接誘導する力を持つ。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の炎症は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす。インスリン抵抗性は、癌、心臓病、脳卒中、2型糖尿病、メタボリック症候群、脂肪肝、肥満、アルツハイマー型認知症に強く関与する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "慢性的な高血糖と酸化ストレスの増加も、癌を患う危険の増加につながる。さまざまな証拠が示すところでは、インスリン抵抗性と癌は密接に関係している。多くの臨床的および疫学的証拠は、高インスリン血症、インスリン抵抗性、および脂質異常症に関連する体重の過剰な増加は、結腸癌や乳癌を含む腫瘍の重大な危険因子である可能性を示している。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "多くの疫学的研究は、インスリン抵抗性が強い患者の体内においては、乳癌、結腸直腸癌、肝臓癌、および膵臓癌を患う危険性が高いことを一貫して示している。インスリンは強力な分裂促進因子(Mitogen)であり、膵臓癌、結腸直腸癌、前立腺癌、子宮内膜癌、肝臓癌、卵巣癌、その他のありとあらゆる癌の発生にはインスリンが直接関与している証拠を提供する。高インスリン血症は、癌による死亡率を2倍に増やす。体重やBMIの数値が正常であったとしても、インスリンの濃度が上がるだけで、癌の発生率のみならず、その死亡率までもが上昇する。1991年から1996年にかけて、12000人以上の糖尿病患者について調査した研究では、インスリンの投与量が多ければ多いほど、死亡率が高かった。インスリンの投与量が多かった群では、そうでなかった群と比較して、死亡率が279%上昇した。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "また、糖尿病の有無に関係なく、空腹時のインスリン濃度が上昇するか、インスリンの分泌量が増えるだけで、脳の認知機能は低下する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "インスリンは身体の老化を強力に促進し、脳の認知機能を破壊し、寿命を縮める。糖尿病患者がインスリン療法(インスリンを注射して血糖値を下げる)を受けるだけで、動脈疾患のみらず、アテローム性動脈硬化症(Atherosclerosis)の危険も上昇する。カナダの医師、ジェイスン・ファン(Jason Fung)は「糖尿病患者はインスリンを注射しているだけで死亡率が倍になる。高血糖においては、癌細胞は大量のブドウ糖をエサにして増殖していく」と書いた。アテローム性動脈硬化症は、心臓発作、脳卒中、末梢血管疾患の前兆である。インスリンの濃度が高いだけでアテローム性動脈硬化症が発生し、インスリンの濃度が低下すると症状は回復する。これは1949年の時点で実証されていた。インスリン受容体はヒトの班の内部に存在する。インスリンは斑の増殖を刺激・誘導し、アテローム性動脈硬化症の進行を促進する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "医学博士のウィリアム・ファルーン(William Faloon)は、「多過ぎる量のインスリンは、すべての老化関連疾患に関与する。長寿の達成においてインスリンの制御は不可欠だ」「インスリンは、インスリンの分泌機能が損なわれている1型糖尿病患者にとっては命綱であるが、分泌が過剰な場合、有毒なホルモンとなる」「余分なインスリンを減らすことで脂肪の減少を促進し、寿命を延ばす」と書いた。論文『Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence』(『インスリン抵抗性と癌:疫学的証拠』)の著者らは、「インスリン抵抗性が癌の発生の重要な要因であることに疑いの余地は無い」と断言している。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "血中のインスリン濃度が高いと、脳を損傷したり、失明したり、低血糖症(Hypoglycemia)を惹き起こして死亡することがあるため、インスリンを服用する行為自体が非常に危険である。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の摂取は、インスリンとグルカゴン(Glucagon)の両方の分泌を刺激する。タンパク質の摂取量を増やした場合、インスリンの分泌量も増えるため、タンパク質の過剰摂取に注意する必要がある。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "血中のインスリン濃度が低下すると、腫瘍の増殖は抑制される。慢性的な高インスリン血症とインスリン抵抗性を弱めることは、癌の予防に向けての取り組みにつながる。インスリンの濃度が低下する生活習慣や治療手段は、癌の予防や治療につながる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "5大陸、18か国に住む135,335人を対象に行われた大規模な疫学コホート研究の結果が『The Lancet』にて発表された(2017年)。これは炭水化物の摂取量および脂肪の摂取量と、心血管疾患に罹るリスクおよびその死亡率との関係についての調査であった。これによると、炭水化物の摂取を増やせば増やすほど死亡率は上昇し、脂肪の摂取を増やせば増やすほど死亡率は低下するという結果が示された。とくに、飽和脂肪酸の摂取量が多ければ多いほど、脳卒中に罹るリスクは低下した。また、飽和脂肪酸・不飽和脂肪酸を問わず、脂肪の摂取は死亡率を低下させ、心筋梗塞および心血管疾患の発症とは何の関係も無かった。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "飽和脂肪酸の摂取は、冠状動脈性心臓病、脳卒中、心血管疾患の発症とは何の関係も無く、飽和脂肪酸がこれらの病気と明確に関係していることを示す証拠は無い。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "また、多価不飽和脂肪酸の摂取量を増やし、飽和脂肪酸の摂取量を減らしても、心血管疾患の発症リスクは減らせない。飽和脂肪酸を多価不飽和脂肪酸の一種であるリノール酸に置き換えて摂取した場合、血清コレステロールは低下するうえに、全死因の死亡率、心血管疾患や冠状動脈性心疾患による死亡率が上昇する(飽和脂肪の摂取を減らすと死亡率が上昇した)。これは、ミネソタ大学の生理学者、アンセル・キース(Ancel Keys)が1968年に実施した「ミネソタ冠状動脈実験」(The Minnesota Coronary Experiment)にて明らかになった。また、炭水化物の摂取量を増やしたり、飽和脂肪酸の代わりに多価不飽和脂肪酸の摂取量を増やすと、冠動脈アテローム性動脈硬化は進行しやすくなる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "肥満、インスリン抵抗性、メタボリック症候群、2型糖尿病を患っている患者が、炭水化物の摂取を制限し、脂肪に置き換えて食べると、最大限の効果が得られる可能性がある。さらに、84時間に亘って絶食状態にあった被験者と、84時間に亘って脂肪「だけ」を摂取し続けた被験者の血中の状態は「全く同じ」であった。双方とも、血糖値とインスリンの濃度は低下し、遊離脂肪酸とケトン体の濃度、脂肪分解の速度がいずれも上昇した。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "体重を減らしたい人、心血管疾患の危険因子を減らしたい人にとって、炭水化物が少なく、脂肪が多い食事はその選択肢となりうる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "炭水化物は、脂肪やタンパク質に比べてインスリンの分泌にはるかに大きな影響を及ぼす。インスリンは食事における満腹感を減少させ、摂食行動にも影響を及ぼす。炭水化物の摂取を減らすと、インスリン抵抗性は緩和される。炭水化物を制限する食事は、インスリンの濃度が高い患者に有益である証拠が示された。食後の血糖値の上昇とインスリンの分泌を最も強力に促進するのは炭水化物である。タンパク質もインスリンの分泌を刺激するが、インスリンと拮抗する異化ホルモン、グルカゴン(Glucagon)の分泌も誘発する。一方、食べ物に含まれる脂肪分は、インスリンの分泌にほとんど影響を与えない。この生理学的な事実は、低糖質・高脂肪食が人体に有益であることを示す理論的根拠となる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "炭水化物が少なく、脂肪が多い食事は、空腹感と満腹感に大いに影響を与える。炭水化物が多く、脂肪が少ない食事(カロリー制限食)と比較すると、高脂肪食は体脂肪を減少させ、身体のエネルギー消費量の増加を促進する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "また、炭水化物を制限する食事は、低脂肪食よりも大幅に体重を減らし、心血管疾患の危険因子も減少させる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "炭水化物の少ない食事は、血糖値とその制御の大幅な改善につながり、薬物の服用回数を減らせるだけでなく、服用の必要も無くなる可能性があり、この食事法は2型糖尿病の改善と回復にも効果的である証拠が示された。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "食事を終えたのち、脂肪細胞へのブドウ糖の取り込みは、「Glucose Transporter Type 4, GLUT4」(「ブドウ糖輸送体」)を介してインスリンが行う。インスリンはブドウ糖の取り込みを促進し、脂肪分解を抑制し、脂肪生成を促進し、それに伴って遊離脂肪酸(Free Fatty Acid)が血流に流入していく。インスリンの濃度が低いとき、脂肪酸の酸化によって細胞内にエネルギーが供給されるが、心臓や肝臓のような臓器が脂肪をエネルギー源として利用するため、遊離脂肪酸が血流に放出されて循環し、遊離脂肪酸はケトン体(Ketone Bodies)に変換される。このケトン体は、空腹状態のときに、脳にエネルギーを供給する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "ケトン生成食はミトコンドリアの機能と血糖値を改善し、酸化ストレスを減少させ、糖尿病性心筋症(Diabetic Cardiomyopathy)から身体を保護する作用がある。また、ケトン食は記憶力の改善と死亡率の低下をもたらし、末梢軸索(Peripheral Axons)と感覚機能障害(Sensory Dysfunction)を回復させ、糖尿病の合併症も防げる可能性が出てくる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "ケトン食療法(炭水化物を徹底的に避け、脂肪を大量に摂取する)は癌の治療や予防に有効である可能性を示している。癌細胞はケトン体をエネルギー源にはできないため、ケトン食療法を「癌の治療手段として採用すべきだ」と考える研究者もいる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "ケトン食を含めて、炭水化物を制限する食事法は安全であり、長期に亘って健康を維持し、さまざまな病理学的状態を防止または逆転させる力がある。ケトン食を止めると(炭水化物の摂取を増やし、脂肪の摂取を減らすと)、片頭痛や癲癇発作が再発する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "臨床研究(Clinical Trials)であるが、乳癌の患者にケトン食を12週間処方し続けたところ、ケトン食群(炭水化物6%、中鎖中性脂肪20%、脂肪55%)ではインスリンの濃度が低下し、腫瘍が「27mm」だったのが「6mm」に縮小した。一方、対照群(摂取エネルギーの55%を炭水化物から摂る、タンパク質15%、脂肪30%)では、「40mm」から「34mm」への縮小のみに留まった。炭水化物が少なく、動物性食品の多い食事を続けると、インスリン抵抗性は緩和され、インスリン感受性は改善される。便秘と、それに関連する症状は、植物性食品および食物繊維の摂取を止めることによって緩和される。1928年の完全肉食実験で、肉だけを食べ続けたステファンソンとアンダーソンは、「壊血病を患い、瀕死の状態に陥る」と思われていたが、脂肪が多い肉を食べ続けたことにより、「バランスの取れた食事」を取っていたときよりも健康体になった。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "「炭水化物が少なく、脂肪が多い食事」(低糖質・高脂肪食)と、「炭水化物が多く、脂肪が少ない食事」(高糖質・低脂肪食)とでは、血中のインスリン濃度が高いのは後者である。「野菜や果物(炭水化物)を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い。また、糖尿病であろうとあるまいと、ブドウ糖にもインスリンにも癌を促進する作用がある。インスリンは発癌を直接促進する力を持つ。高血糖およびインスリンの分泌を最も強力に促進するのは炭水化物であるが、食べ物に含まれる脂肪は、インスリンの分泌にほとんど影響を与えない。血中のインスリン濃度が低下すると、腫瘍の増殖は抑制される。インスリンは癌の成長と転移を促進する。炭水化物を食べれば、インスリンによって腫瘍は成長・増殖し、炭水化物を食べずに脂肪を食べることによって減少する。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "「炭水化物は肥満およびそれに伴う疾患の主要な推進力であり、精製された炭水化物や糖分の過剰摂取を減らすべきである」と結論付け、炭水化物を「Carbotoxicity」(「炭水化物には毒性がある」)という造語で表現する研究者もいる。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "オーストリアの医師、ヴォルフガング・ルッツ(Wolfgang Lutz, 1913-2010)は、1967年に『Leben ohne Brot』(『パンの無い暮らし』)を出版し、「炭水化物の摂取を減らすことこそが、脂肪を燃焼させる唯一の方法である」「この食事法により、肥満、糖尿病、心臓病、癌を予防できる」「狩猟採集生活者として暮らしてきた人類は動物の肉を長きに亘って食べてきた」「食べ物に含まれる脂肪は、ほとんどの慢性疾患とは何の関係も無い」と断言している(ルッツは炭水化物の1日の摂取上限を「72gまで」と定めた)。ルッツによれば、40年間で10000人を超える患者を診察し、クローン病、潰瘍性大腸炎、胃疾患、痛風、メタボリック症候群、癲癇、多発性硬化症・・・この食事法を処方することでこれらの慢性疾患を治療したという。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "クイーン・エリザベス大学の栄養学教授、ジョン・ユドキン(John Yudkin)は、著書『Pure, White and Deadly』(1972)の中で、「肥満や心臓病を惹き起こす犯人は砂糖であり、食べ物に含まれる脂肪分は、これらの病気とは何の関係も無い」と断じている。1960年代、ユドキンはミネソタ大学のアンセル・キースと、「砂糖・脂肪論争」を繰り広げた。この論争では、「心臓病を惹き起こす原因は(食べ物に含まれる)脂肪分にある」というキースの主張が通り、ユドキンの「砂糖が原因である」との主張は通らなかった。1970年代後半、アメリカ合衆国政府は「脂肪の摂取を減らし、炭水化物の摂取を増やせ」と国民に呼びかけたが、肥満・糖尿病・心臓病を患う国民の数は増加の一途を辿るようになった。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "ウィリアム・ファルーンは「多過ぎる量のインスリンは毒」であり、「癌の原因となる」と書いた。カナダの医師、ジェイスン・ファンも「糖尿病患者は、さまざまな癌になりやすくなる」「高血糖状態でインスリンをたくさん投与すると血糖値は下がるが、高インスリン血症やインスリン抵抗性は改善されず、悪化する」「必要以上の量のインスリンは有毒である」と書いた。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
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"tag": "p",
"text": "サイエンス・ジャーナリストのゲアリー・タウブス(Gary Taubes)は、炭水化物は身体を太らせるだけでなく、肥満、心臓病、糖尿病、高血糖、インスリン抵抗性、メタボリック症候群の原因であり、最終的には癌をも惹き起こす根本的な原因でもある趣旨を明言しており、「砂糖は肥満、糖尿病、心臓病、メタボリック症候群を惹き起こす原因であり、これにはインスリン抵抗性が関わっている」「砂糖はインスリン抵抗性の直接の原因となる」「インスリン抵抗性は癌の原因となる」と断じている。",
"title": "炭水化物、インスリン抵抗性、癌"
},
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"text": "植物は基本的に悪性腫瘍を患うことはない。",
"title": "植物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これは細胞壁と血管より大幅に細く細胞輸送が行われない導管、師管の構造に因る。植物は悪性新生物が生じても浸潤も転移も起こらず、極めて局所的なものとなり、病気にはならない。",
"title": "植物"
}
] |
悪性腫瘍は、生体の自律制御を外れて自己増殖する細胞集団である。周囲の組織に浸潤して転移する腫瘍を指す。がん(ガンまたは癌)や「悪性新生物」とも称し、死亡につながることも多い。国立がん研究センターによると、2007年以降に登録された院内がんデータでは、2018年の時点で10年生存率は59.4%であり、部位や病期(「ステージ」)により差が大きい。 この疾患には、「インスリン抵抗性」(Insulin Resistance)と呼ばれる病因因子が強く関与している。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つ、血糖値が制御不能状態にある糖尿病患者は癌を患いやすくなる。インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の炎症は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす。
|
{{Redirectlist|がん|上皮性の悪性腫瘍|癌腫|その他の用法|がん (曖昧さ回避)}}
{{Infobox disease
| Name = 悪性腫瘍
| Image = Tumor_Mesothelioma2_legend.jpg
| Caption = 悪性[[中皮腫]]の冠状断面CT画像
| Field =
| synonyms =
| Pronounce =あくせいしゅよう
| DiseasesDB = 28843
| ICD10 ={{ICD10|C|00}}—{{ICD10|C|97}}
| ICD9 = {{ICD9|140}}—{{ICD9|239}}
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}}
'''悪性腫瘍'''(あくせいしゅよう、''Malignant Tumor, Cancer'')は、生体の自律制御を外れて自己増殖する[[細胞]]集団である。周囲の[[組織 (生物学)|組織]]に[[浸潤]]して[[転移 (医学)|転移]]する[[腫瘍]]を指す。'''がん'''('''ガン'''または'''癌''')や「'''悪性新生物'''」とも称し、[[死亡]]につながることも多い。[[国立がん研究センター]]によると、[[2007年]]以降に登録された院内がんデータでは、[[2018年]]の時点で10年生存率は59.4%であり、部位や病期(「ステージ」)により差が大きい<ref name=":1">「がん患者10年生存59.4% 国立がんセンター集計 08年診断の24万人」『[[読売新聞]]』朝刊2021年4月28日(社会面)</ref>。
この疾患には、「[[インスリン抵抗性]]」(''Insulin Resistance'')と呼ばれる病因因子が強く関与している。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つ<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" /><ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" /><ref name = "The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer" /><ref name = "Insulin induction instigates cell proliferation and metastasis in human colorectal cancer cells" />、[[血糖値]]が制御不能状態にある糖尿病患者は癌を患いやすくなる<ref name = "Metabolic Syndrome and Cancer" /><ref name = "Mortality and other important diabetes-related outcomes with insulin vs other antihyperglycemic therapies in type 2 diabetes" />。インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する<ref name = "Insulin Resistance and Cancer-Specific and All-Cause Mortality in Postmenopausal Women: The Women's Health Initiative" />。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する<ref name = "Association between hyperinsulinemia and increased risk of cancer death in nonobese and obese people" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5435954/ Association between hyperinsulinemia and increased risk of cancer death in nonobese and obese people: A population‐based observational study] Wiley International Journal of Cancer, 2017 Jul 1; 141(1): 102–111. Published online 2017 Apr 22. {{PMID|28390156}} {{PMC|5435954}} {{doi|10.1002/ijc.30729}}</ref>。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の[[炎症]]は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす<ref name = "A Novel Inflammation and Insulin Resistance Related Indicator to Predict the Survival of Patients With Cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9252441/ A Novel Inflammation and Insulin Resistance Related Indicator to Predict the Survival of Patients With Cancer] Front Endocrinol (Lausanne). 2022; 13: 905266. Published online 2022 Jun 20. {{PMID|35795140}} {{PMC|9252441}} {{doi|10.3389/fendo.2022.905266}}</ref>。
== 概要 ==
[[ヒト]]の身体の細胞は、正常な状態では、細胞数をほぼ一定に保つために分裂・増殖を制御する機構が働いている。腫瘍は、生体細胞の[[遺伝子]]に発生した異常に起因して、正常な制御を外れて自律的に増殖を開始したものを指す。腫瘍と正常組織の区画が不明瞭で、異物が組織や細胞内に蓄積する浸潤現象 (''Infiltration'') が発現し、転移現象が認められる状態を「悪性腫瘍」<ref name="大西pp.139-141">大西『スタンダード病理学』第3版、pp.139-141</ref><ref name="クーパーpp.593-595">Geoffrey M.Cooper『クーパー細胞生物学』pp.593-595</ref>と称する。
治療を施さない場合は全身に転移し、死に至る<ref name="大西pp.139-141"/><ref name="クーパーpp.593-595"/>。
== 表記・呼称 ==
腫瘍は[[良性腫瘍]]と悪性腫瘍とに分類され、後者を「癌」と称する。癌は、[[上皮組織]]系由来の癌腫 (''Carcinoma'') と非上皮組織系細胞由来の[[肉腫]] (''Sarcoma'') に分類される。癌腫の診断名は「臓器名(組織名)+癌」で表記される<ref name = "Fujita" >{{Cite journal|和書|date=2021 |url=http://id.nii.ac.jp/1246/00002120/ |title=がんと癌とで意味が異なるか ―医学用語の混乱を憂える― |journal=横浜医学 |volume=72 |issue=1 |pages=47-57 |publisher=横浜市立大学医学会 |author=藤田浄秀 |doi=10.15015/00002120 |access-date =2023-04-19}}</ref>。[[ひらがな]]の「'''がん'''」は悪性腫瘍全体を示し、漢字の「癌」は[[上皮細胞]]から発生する癌腫と使い分けられることがあるが、区別はされないことも多い<ref name = "ganjoho.jp" >{{Cite web|和書| url = https://ganjoho.jp/public/knowledge/basic/index.html |title = がんの基礎知識 がんという病気について |publisher = 国立研究開発法人国立がん研究センター |access-date = 31 December 2022 }}</ref>。
[[戦後]]に定めた[[当用漢字]]は「癌」を含まず「がん」が広く一般に用いられ、学問では「癌」を用いたが、「がんは悪性腫瘍の総称、癌は癌腫を意味する」との主張が1990年以前から一部で見られるようになった。[[日本口腔外科学会]]は「がんは悪性腫瘍の総称、癌は癌腫を意味する」と定義しているが、内科医の藤田浄秀は、当用漢字による漢字制限と必然的に生じた仮名書きの強制の歴史的観点から「不適切だ」と主張している<ref name = "Fujita" />。
== 国際疾病分類 ==
国際疾病分類の日本語訳では「''Cancer''」の訳語として、「がん」(「癌」)を当てており、悪性腫瘍一般を意味する<ref name = "WHO" >{{Citation |title = International classification of diseases for oncology (ICD-O), 3rd ed., 1st revision |publisher = 厚生労働統計協会 |url = https://hdl.handle.net/10665/96612 |format = [[PDF]] |chapter = 日本語版「国際疾病分類 腫瘍学 第3.1版」|chapter-url = http://apps.who.int/iris/bitstream/handle/10665/96612/9789241548496-jpn.pdf |access-date = 2022-05-30 }}</ref>。
「がん」を意味する「''Cancer''」は、[[かに座]]を意味する「''Cancer''」と同じ単語であり、[[乳癌]]の腫瘍が[[蟹]]の脚のような広がりを見せた<ref>ジョン・ブリッグズ『フラクタルな世界』(松下 貢 監訳、深川洋一訳、[[丸善]]株式会社、1995年)102頁。引用元は『''National Cancer Institute''』</ref> ところから、「[[医学]]の父」と呼ばれる[[ヒポクラテス]]が「蟹」の意味として「''{{lang|grc|καρκίνος}}''」(''Carcinos'')と名づけ、これを[[アウルス・コルネリウス・ケルスス]]が「''Cancer''」と[[ラテン語]]に翻訳した。
広義の「''Cancer''」は「悪性新生物」(''Malignant Neoplasm'') の総称であり、ひらがなで「がん」と表記する<ref name="info">{{Cite web|和書|url = https://ctr-info.ncc.go.jp/hcr_info/wp-content/uploads/2021/06/%E2%98%851-1%E3%81%8C%E3%82%93%E6%A6%82%E8%AB%962021.pdf |title = がん概論 |work = 国立がん研究センターがん対策情報センター |format = [[PDF]] |access-date = 2022-5-3 }}</ref>。ひらがなの「がん」は、「癌腫」や非上皮由来の「[[肉腫]]」(''sarcoma'')、[[白血病]]のような血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で悪性腫瘍を表す言葉として使われており、「[[国立がん研究センター]]」、各都道府県における「〇〇県がんセンター」と表記している<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.jalsg.jp/leukemia/about_leukemia.html |title = 白血病とは |work = JALSG 特定非営利活動法人 成人白血病治療共同研究機構 |access-date = 20 July 2017 }}</ref>。
広義の「''Cancer''」は、狭義の「''Cancer''」にあたる「''Carcinoma''」(癌腫)、「''Sarcoma''」(肉腫)、その他(白血病、悪性リンパ腫、骨髄腫、悪性中皮腫)に分けられる<ref name="info" />。
漢字の「癌」は、「[[Wikt:岩|岩]]」の異体字である「[[Wikt:嵒|嵒]]」と、[[疒部|病垂]]との[[会意]][[形声]]文字であり、本来は「乳がん」の意味である。触診すると岩のようにこりこりしているからで、[[江戸時代]]のころには「岩」と書かれた文書も残っている。
社会の機構や組織について「○○は△△のがんだ」「△△のガン細胞」と比喩表現の1つとして使われることがある<ref name="kojien">『[[広辞苑]]』第五版</ref>。
=== 腫瘍 ===
「腫瘍」は国際疾病分類の「''Tumor''」の日本語訳であり、「生体内において、その個体自身に由来する細胞でありながら、その個体全体としての調和を破り、時に他から何らの制御を受けることなく、又自らの規律に従い、過剰の発育をとげる組織をいう」と定義されている<ref name = "WHO" />。
新生物 (''Neoplasm'') も腫瘍と同義に用いられており、[[良性腫瘍|良性]]と悪性があり、悪性新生物は癌、癌腫及び肉腫を意味する<ref name = "WHO" />。
=== 医学的分類 ===
{| class="wikitable floatright" style="text-align:center; font-size:90%"
|+ 癌腫と肉腫の比較
! !! 癌腫 !! 肉腫
|-
! 由来
| 上皮性 || 非上皮性
|-
! 発育速度
| 速い || より速い
|-
! 年齢
| 高齢者 || 若年者
|-
! 転移行性
| [[リンパ]]行性 ||[[血液|血]]行性
|-
! 構造
| 胞巣構造 || 混合
|}
悪性腫瘍の用語は病理学において以下のように分類される。
* [[癌腫]] (''Carcinoma''):[[上皮組織]]由来の悪性腫瘍、皮膚の上という意味において、皮膚表面からつながる内臓の内側つまり胃の中、腸の中に発生するものが上皮由来となる。カルシノーマ。
* [[肉腫]] (''Sarcoma''):非上皮組織由来の悪性腫瘍、皮膚の上でない部位、平滑筋の中や後腹膜に発生するものを非上皮由来となる。サルコーマ。
* その他:[[白血病]] 以上を合わせた悪性腫瘍全体を指し示すのがひらがなの「がん」(''Cancer'') となる。
{{-}}
== 主な作用 ==
悪性腫瘍は、
* 無制限に栄養を使って増殖するため、生体は急速に消耗する。
{{main|悪液質}}
* [[臓器]]の正常組織を置き換え、もしくは圧迫して機能不全に陥れる。
* 異常な[[内分泌]]により正常な生体機能を妨げる。
{{main|[[播種性血管内凝固症候群]] (DIC) |[[傍腫瘍症候群]]|[[高カルシウム血症]]}}
* 全身に[[転移 (医学)|転移]]することにより、多数の臓器を機能不全に陥れる。
これらに伴い、[[癌性疼痛]]を惹き起こすことも多い。
== がんの代謝 ==
通常の細胞では、[[酸素]]が十分に供給されている時は、[[アデノシン三リン酸|ATP]]合成のエネルギー効率が高いが合成速度の遅い[[ミトコンドリア]]での[[酸化的リン酸化]]でエネルギー生産を行う。酸素が十分に供給されない時は、エネルギー効率が悪いが速度の速い[[解糖系]]によって、エネルギーを得ている。がん細胞は酸素が十分に供給されている環境下でもエネルギー効率の悪い解糖系で活動する。これは[[ワールブルク効果 (腫瘍学)|ワールブルク効果]](「ウォーバーグ効果」とも)と呼ばれている。この現象は以前から知られていたが、[[代謝物質|代謝物]]を一斉に測定・解析を行なう[[メタボロミクス]]によって、非がん組織と比較してがん組織で解糖系の代謝中間体のプロファイルが明らかになり、解糖系の活性化が明確に示された<ref>{{cite journal | author=Hirayama A, Kami K, Sugimoto M, Toki N, Onozuka H, Kinoshita T, Saito N, Ochiai A, Tomita M, Esumi H and Soga T| title= Quantitative metabolome profiling of colon and stomach cancer microenvironment by capillary electrophoresis time-of-flight mass spectrometry. | journal=Cancer Research | volume=69 | issue=11 | year=2009 | pages=4918–4925 | id=PMID 19458066}}</ref>。なお、通常の細胞の代謝に関しては解糖系によるATP合成速度は[[電子伝達系]]によるATP合成速度の約100倍の速度を有している<ref>[http://www.nankodo.co.jp/sample/9784524253395/HTML5/pc.html#/page/12 南都伸介監修『閉塞性動脈硬化症(PAD)診療の実践』]([[南江堂]]、2009年)p.4</ref>。
癌組織の多くが[[ブドウ糖]]代謝に活発(言い換えると、「癌細胞はブドウ糖をエサにして増殖する」)な性質を利用した[[ポジトロン断層法]](PET)が、がん診断に利用されている。
== 疫学 ==
[[Image:Malignant neoplasms world map - Death - WHO2004.svg|thumb|300px|right|2004年における10万人毎の悪性腫瘍による死亡者数(年齢標準化済み)<ref>{{Cite web |url = http://www.who.int/healthinfo/global_burden_disease/estimates_country/en/index.html |title = WHO Disease and injury country estimates |year = 2009 |work = World Health Organization |access-date = 2009-11-11 }}</ref><div style="-moz-column-count:3; column-count:3;"><small> {{legend|#b3b3b3|データなし}} {{legend|#ffff65|55人以下}} {{legend|#fff200|55人から80人}} {{legend|#ffdc00|80人から105人}} {{legend|#ffc600|105人から130人}} {{legend|#ffb000|130人から155人}} {{legend|#ff9a00|155人から180人}} {{legend|#ff8400|180人から205人}} {{legend|#ff6e00|205人から230人}} {{legend|#ff5800|230人から255人}} {{legend|#ff4200|255人から280人}} {{legend|#ff2c00|280人から305人}} {{legend|#cb0000|305人以上}}</small> </div>]]
[[世界保健機関]] (WHO) によれば、2005年の世界の5800万人の死亡のうち、悪性腫瘍による死亡は13%(760万人)を占める。死亡原因となった悪性腫瘍のうち、最多のものは[[肺がん]]が130万人で、[[胃がん]]は100万人、[[肝癌|肝がん]]、[[大腸癌|大腸がん]]、[[乳がん]]が続く。悪性腫瘍による死亡は増加し続け、2030年には1140万人が悪性腫瘍で死亡すると予測されている。
日本の原因疾患別死亡者数の割合と順位では1951年から1980年まで30年間1位の[[脳血管障害|脳血管疾患]]に代わり、1981年から2015年まで35年連続で1位で<ref>{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii10/dl/s03.pdf 厚生労働省>統計情報・白書>各種統計調査>厚生労働統計一覧>人口動態調査>人口動態統計(確定数)の概況>平成22年(2010)人口動態統計(確定数)の概況>人口動態統計年報 主要統計表(最新データ、年次推移)>14ページ 第7表 死因順位(第5位まで)別にみた死亡数・死亡率(人口10万対)の年次推移]}}</ref><ref name="mhlw-2011-jdt-06">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai11/toukei06.html 厚生労働省>人口動態統計>平成23年度>第6表 死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別]</ref><ref name="mhlw-2011-jdt-07">[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai11/toukei07.html 厚生労働省>人口動態統計>平成23年度>第7表 死因順位(1〜5位)別死亡数・死亡率(人口10万対),性・年齢(5歳階級)別]</ref><ref name="mhlw-2013-jdt-06">{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai13/dl/h6.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成25年度>第6表 死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別]}}</ref><ref name="mhlw-2013-jdt-07">{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai13/dl/h7.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成25年度>第7表 死因順位(1〜5位)別死亡数・死亡率(人口10万対),性・年齢(5歳階級)別]}}</ref><ref name="mhlw-2015-jdt-06">{{PDFLink|[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai15/dl/h6.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成27年度>第6表 死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別]}}</ref><ref name="mhlw-2015-jdt-07">{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai15/dl/h7.pdf 厚生労働省>人口動態統計>平成27年度>第7表 死因順位(1〜5位)別死亡数・死亡率(人口10万対),性・年齢(5歳階級)別]}}</ref>、2015年度は死亡者数129万0428人のうち、がんによる死者数は37万0131人であり<ref name="mhlw-2015-jdt-06" /><ref name="mhlw-2015-jdt-07" />、死亡者総数に対する割合は28.7%である。
{{日本のがん統計}}
{{-}}
<gallery widths="260px" heights="300px">
Image:がん、男性.png|悪性新生物の主な部位別にみた年次別死亡率(男性・人口10万対)、日本<ref name="gan">[https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=dataset&toukei=00450011&tstat=000001028897&cycle=7&month=0&tclass1=000001053058&tclass2=000001053061&tclass3=000001053065&stat_infid=000032235955&metadata=1&data=1]、人口動態調査 人口動態統計 2021、2023年5月7日閲覧</ref>
Image:がん、女性.png|悪性新生物の主な部位別にみた年次別死亡率(女性・人口10万対)、日本<ref name=gan/>
</gallery>
== 分類 ==
{{main|癌の一覧|ICD-10 第2章:新生物}}
「がん」は単一の細胞を起源とし、発生母地となった細胞の種類([[組織学]]的分類)と細胞の身体的部位([[解剖学]]的分類)とで分類できる。
=== 組織学的分類 ===
{{Indent|[[組織型]]および各腫瘍組織型の記事を参照。}}
病期分類は、[[腫瘍学#腫瘍の分類|腫瘍学]]、癌に詳述がある。
=== 成人のがん ===
[[File:Cancer progression from NIH japanese.png|300px|thumb|right|細胞のがん化する過程]]
[[File:Body_defence_mechanism_ja.png|thumb|right|380px|発がん抑制のための生体防御機構]]
成人の「がん」は通常は上皮組織に形成され、遺伝的あるいは内因的特性を持つ人々が外的要因に曝された影響による長期間にわたる生物学的な過程を経て生じる、と大方の場合は考えられている。肉腫は上皮由来ではないが、悪性腫瘍として癌と同様に検査・診断・加療される。
次に例を示す<ref group="注釈">「がん」「癌」については、明確に[[癌腫]]の場合は「〜癌」、疾患名の場合は「〜がん」と表記している。</ref>:
{{div col}}
* 血液(および骨髄) - 造血細胞悪性腫瘍
** [[白血病]]
** [[リンパ腫]]
*** [[ホジキンリンパ腫|ホジキン病]]
*** [[非ホジキンリンパ腫]]
** [[多発性骨髄腫]]
* [[脳腫瘍]]
* [[乳癌|乳がん]]
* [[子宮体がん]] - [[子宮]]
* [[子宮頚がん]]
* [[卵巣がん]]
* [[食道癌]]
* [[胃癌]]
* [[虫垂癌]]
* [[大腸癌]] - [[大腸]]、[[直腸]]、[[肛門]]およびその付随組織
* [[肝癌]]
** [[肝細胞癌]] - [[肝臓]]
* [[胆嚢癌]]
* [[胆管癌]]
* [[膵癌|膵臓がん]](膵がん)
* [[副腎癌]]
* [[消化管間質腫瘍]](GIST)
* [[中皮腫]] - [[胸膜]]、[[腹膜]]、[[心膜]]
* [[頭頚部癌]]
** [[喉頭癌]]
** [[口腔癌]]
*** [[口腔底癌]]
*** [[歯肉癌]]
*** [[舌癌]]
*** [[頬粘膜癌]]
** [[唾液腺癌]]
** [[副鼻腔癌]]
*** [[上顎洞癌]]
*** [[前頭洞癌]]
*** [[篩骨洞癌]]
*** [[蝶型骨洞癌]]
** [[甲状腺癌]]
* [[腎臓がん]]
* [[肺癌]]
* [[骨肉腫]] - [[骨]]
* [[ユーイング肉腫]]
* {{仮リンク|軟骨肉腫|en|Chondrosarcoma}}
* [[前立腺癌]]
* [[精巣腫瘍]]([[睾丸]]がん)
* [[腎細胞癌]] - [[腎臓]]
* [[膀胱癌]]
* [[横紋筋肉腫]] - [[筋肉]]([[骨格筋]])
* [[皮膚癌]](「[[ほくろ]]」と形成異常母斑を含む)
* [[肛門癌]]
{{div col end}}
=== 幼児期のがん ===
{{Main|小児がん}}
「がん」は幼い子供や[[新生児]]にも発生する。異常な遺伝形質プロセスのために細胞の複製幼若化に対して抑制が利かないので、制御されない増殖が早期より亢進し、進行も速い。[[肉腫]]が多いことも特徴として挙げられる。
幼児期のがんの発生ピーク年齢は生後一年以内にある。[[神経芽細胞腫]]は最も普通に見られる新生児の悪性腫瘍であり、白血病 (''Leukemia'') と[[中枢神経系|中枢神経]]がんがその次に続く。女子新生児と男子新生児とは概して同じ発生率である。しかし、[[白人]]の新生児は[[黒人]]のそれに比べてほとんどの種類のがんにおいて大幅に発生率が高い。
新生児の[[神経芽細胞腫]]は生存率が非常に良く、[[腎芽腫|ウィルムス腫瘍]]、[[網膜芽細胞腫]]も非常に良いが、他のものはそれほど良くない。
幼児期がんを次に示す<ref group="注釈">概ね発生頻度順、「がん」「癌」は明確に癌腫の場合は「〜癌」、疾患名の場合は「〜がん」とした。</ref>:
* [[神経芽細胞腫]]
* [[白血病]]
* 中枢神経がん
* [[腎芽腫|ウィルムス腫瘍]]
* [[生殖細胞]]がん
* [[軟部組織|軟組織]]肉腫
* [[肝癌|肝がん]] - [[肝芽腫]]
* リンパ腫
* 上皮性がん
* [[小児脳幹部グリオーマ]]
=== 分化度 ===
{{出典の明記|date=2023年6月|section=1}}
身体を構成する細胞は、1個の[[受精卵]]から発生を開始し、当初は形態的機能的な違いが見られなかった細胞は各種[[幹細胞]]を経て組織固有の形態および機能を持った細胞へと変化してゆく。この形態的機能的な細胞の変化を[[細胞分化|分化]]という。細胞の[[発生学]]的特徴の一つとして、未分化細胞ほど細胞周期が短く盛んに分裂増殖を繰り返す傾向がある。通常、分化の方向は一方向であり、正常組織では分化の方向に逆行する細胞の「幼若化」(脱分化)は、損傷した組織の[[再生 (生物学)|再生]]を除き、発生しない。
がん細胞は特徴の一つに幼若化/脱分化するという性質あり、分化度の高いがん細胞や、非がん組織から、「低分化」あるいは「未分化」ながん細胞が生じる。細胞検体を検査したとき、細胞分化度が高いものほど臓器の構造・機能的性質を残し、比較的悪性度が低いと言える。[[インスリノーマ]]のような例外もある。通常は分化度の低いものほど転移後の増殖も早く、治療[[予後]]も不良である。
[[化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法]]は、特定の細胞周期に依存して作用するものが多いため、細胞周期が亢進している分化度が低いがんほど化学療法に対して感受性が高いという傾向がある。[[腫瘍細胞]]への作用原理・特性は「[[化学療法 (悪性腫瘍)]]」に詳述がある。
=== 接触阻害の機能喪失と無限増殖能 ===
[[細胞生物学]]における[[接触阻害]]とは、細胞がお互いに接触するまで増殖した場合に起こる細胞の増殖が停止する細胞の性質のことである<ref name="shigenaka">重中義信『細胞-その秘密を探る』(1994年12月1日、[[共立出版]]、ISBN 4320054229)p170-179</ref>。癌細胞では通常、この接触阻害の性質を失っており、隣の細胞に接触した場合でも増殖を停止できない状況に至っている。癌細胞は、接触時に増殖を停止したり成長方向を変更したりすることはないため、お互いの細胞の上に積み上がって成長を続けることとなる<ref>{{cite journal|last1=Seluanov|first1=Andrei|last2=Hine|first2=Christopher|last3=Azpurua|first3=Jorge|last4=Feigenson|first4=Marina|last5=Bozzella|first5=Michael|last6=Mao|first6=Zhiyong|last7=Catania|first7=Kenneth C.|last8=Gorbunova|first8=Vera|title=Hypersensitivity to contact inhibition provides a clue to cancer resistance of naked mole-rat|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|date=2009-10-26|volume=106|issue=46|pages=19352–19357|doi=10.1073/pnas.0905252106|url=http://www.pnas.org/content/106/46/19352|access-date = 2016-04-07 }}</ref>。癌細胞は、この接触阻害の性質を失っており、かつ、無限に増殖できる能力を獲得している<ref name=shigenaka/>。癌細胞の特徴として、接触阻害の消失、増殖因子要求性の低下、転移能の前提である足場非依存性増殖能の獲得、不死化、転移能の獲得、脱分化の発現が掲げられ、発癌はこのような過度の増殖亢進の結果である<ref>岡山博人「[https://doi.org/10.3143/geriatrics.35.713 細胞周期の調節機序]」『日本老年医学会雑誌』Vol.35 (1998) No.10 pp.713-716</ref>。
=== がんと細胞死 ===
「トゥーモア・イニシエーション」(''Tumor Initiation'', 正常な細胞が、腫瘍を形成できるよう変化する過程のこと)と「プロモーション」(''Promotion'', 発癌促進)によって細胞増殖が起こり、[[過形成]]になると「[[アポトーシス]]」(''Apoptosis'', 細胞が死ぬ現象)の機構が働き、細胞の増殖が抑えられる。しかし、細胞死が進行して細胞数が減ると、体内で細胞死は抑制され、細胞増殖が促進される。[[放射線]]で誘発されるリンパ腫の実験では細胞死を起こしやすい動物系統が[[リンパ腫]]を発生させやすい。細胞死が起こり、細胞が減少すると細胞死を抑制して細胞増殖を促進させるようになり、これが癌化への引き金となる。[[ウイルス]]感染(エプスタインバーウイルス (EBV)、パピローマウイルス (HPV)、[[ヒトT細胞白血病ウイルス]]、B型及びC型[[肝炎ウイルス]])、化学物質による発がんも放射線誘発発がんと同様に細胞死の亢進に引き続く細胞死の抑制(遺伝子[[bcl-2]]の活性化)が癌化に際して重要な要因となっている。がん抑制遺伝子p53は[[デオキシリボ核酸|DNA]]損傷の修復を助けるが、損傷を修復できない場合には細胞死を誘発させて細胞ごと消去する。p53に異常があると細胞死が起こりにくくなり発がんにつながることになる<ref>田沼靖一『アポトーシスとは何か』(1998年6月25日、[[講談社現代新書]]、ISBN 4061493086)p117-124</ref>。
== 発生要因 ==
悪性腫瘍(がん)は、細胞のDNAの特定部位に幾重もの異常が積み重なって発生する、と説明されることが多い。異常が生じるメカニズムは多様であり、全てが知られているわけではない。遺伝子の異常は、通常の細胞分裂に伴ってもしばしば生じていることも知られ、偶発的に癌遺伝子の変異が起こることもありうるし、発癌の確率、すなわち遺伝子の変異の確率を高めるウイルス、[[化学物質]]、放射線([[環境放射線]]、[[人工放射線]]、[[X線撮影|X線検査]]や[[CTスキャン]]による[[医療被曝]]<ref>ロバート・メンデルソン著、弓場隆訳『医者が患者を騙す時』([[PHP文庫]]、2008年)</ref>)が挙げられている。
健康状態の生体内ではDNA修復機構や細胞免疫、悪性腫瘍を修復したり抑え込んだり排除したりする機構も働いている。
すでに悪性腫瘍が生体内にある状態になっている場合、そこにはDNA修復機構の不調や細胞免疫の不調が複雑に絡んでいる場合もあり、「[[水痘|水疱瘡]]は[[水痘・帯状疱疹ウイルス]] (Varicella-zoster virus) の感染で起こる」など一対一の因果関係の説明は、癌では示しにくいことが多い。
[[糖尿病]]および[[高血糖]]<ref name = "Diabetes mellitus and cancer risk: Review of the epidemiological evidence" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7657146/ Diabetes mellitus and cancer risk: Review of the epidemiological evidence] {{doi|10.1111/cas.12043}} {{PMC|7657146}} {{PMID|23066889}}</ref>、[[高インスリン血症]](''Hyperinsulinemia'')および[[インスリン抵抗性]](''Insulin Resistance'')<ref name = "Metabolic Syndrome and Cancer" /><ref name = "Obesity, Diabetes, and Increased Cancer Progression" >[https://www.e-dmj.org/journal/view.php?number=2601 Obesity, Diabetes, and Increased Cancer Progression] Diabetes & Metabolism Journal, {{doi|10.4093/dmj.2021.0077}}</ref>は、癌の大いなる危険因子である。[[インスリン]](''Insulin'')は[[膵臓]]の[[β細胞]]から分泌される[[ペプチドホルモン|ペプチド・ホルモン]]であるが、このホルモンには腫瘍の増殖を誘導する作用がある<ref name = "Adipocyte and lipid metabolism in cancer drug resistance" >[https://www.jci.org/articles/view/127201 Adipocyte and lipid metabolism in cancer drug resistance] The Journal of Clinical Investigation, {{doi|10.1172/JCI127201}}</ref><ref name = "Insulin enhances metabolic capacities of cancer cells by dual regulation of glycolytic enzyme pyruvate kinase M2" >[https://molecular-cancer.biomedcentral.com/articles/10.1186/1476-4598-12-72 Insulin enhances metabolic capacities of cancer cells by dual regulation of glycolytic enzyme pyruvate kinase M2] Molecular Cancer, {{doi|10.1186/1476-4598-12-72}}</ref><ref name = "Insulin and cancer: a tangled web" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9022985/ Insulin and cancer: a tangled web] Biochem J. 2022 Mar 18; 479(5): 583–607. Published online 2022 Mar 4. {{doi|10.1042/BCJ20210134}} {{PMC|9022985}} {{PMID|35244142}}</ref>。
論文『''Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence''』(『インスリン抵抗性と癌:疫学的証拠』)の著者らは、「インスリン抵抗性が癌の発生の重要な要因であることに疑いの余地は無い」と断言している<ref name = "Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence" >{{Cite Journal |url = https://erc.bioscientifica.com/view/journals/erc/19/5/F1.xml |title = Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence |author1 = Manami Inoue |author2 = Shoichiro Tsugane |date = October 2012 |journal = The Society for Endocrinology |publisher = Endocrine-Related Cancer |volume = 19 |issue = 5 |pages = F1–F8 |doi = 10.1530/ERC-12-0142 |issn = 1479-6821 }}</ref>。
=== 喫煙 ===
[[ファイル:Cancer smoking lung cancer correlation from NIH.png|thumb|肺がんの発生率と喫煙の相関関係]]
[[喫煙]]と癌の相関は、数十年にわたる調査での一貫した結果でも明らかになっている。数百の[[疫学]]調査により、[[たばこ]]とがんとの関係が確認されている。[[アメリカ合衆国]]における肺がんによる死亡の比率とたばこ消費量の増加パターンは鏡写しのようであり、喫煙が増加すると肺がん死比率も劇的に増加した。[[渡邊昌]]は「日本政府が[[日本たばこ産業]] (JT) 株式の半数以上を保有しているため、喫煙規制や禁煙に関する動きが進みにくかった」と指摘しており<ref name="wata_book">{{cite book|和書|author=渡邊昌|title=食事でがんは防げる|publisher= [[光文社]]|date=2004-04-23|isbn= 978-4334974411|pages=198-199頁}}</ref>、がんの死亡率の1位は肺がんとなっている。
=== 食事 ===
[[厚生労働省]]は「『[[食生活]]の欧米化』<ref>{{Cite web|和書|url = http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/0280.html |title = 図録▽食生活の変化(1910年代以降の品目別純食料・たんぱく質供給量)|publisher = 社会実情データ図録 |author = 本川裕 |date = 2006-11-01 |access-date = 2009-12-01 }}</ref> が癌による死を増やした」と考えている<ref name="mhlw-2011-jdt-06" /><ref name="mhlw-2011-jdt-07" /><ref name="mhlw-2013-jdt-06" /><ref name="mhlw-2013-jdt-07" /><ref name="mhlw-2015-jdt-06" /><ref name="mhlw-2015-jdt-07" /><ref name="mhlw-2008-jdt-02" >[https://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/0910/h1013-1d.html#HYO2 厚生労働省>人口動態統計>平成8年度>死亡 第2表 主な死因別にみた年齢階級別死亡数・死亡率(人口10万対)]</ref><ref name="mhlw-2008-jdt-03" >[https://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/0910/h1013-1d.html#HYO3 厚生労働省>人口動態統計>平成8年度>死亡 第3表 悪性新生物の主な部位別にみた性別死亡率(人口10万対)の年次推移]</ref>。
一方で、[[北極圏]]に住む[[エスキモー]]たちと暮らした経験がある探検家、[[ヴィルヒャムル・ステファンソン]](''Vilhjálmur Stefánsson'')の事例もある。ステファンソンはエスキモーたちとの共同生活で、「[[脂肪]]が多い肉と魚」を毎日食べ、赤身肉よりも'''脂肪を優先的に食べる'''ようにし、脂肪の摂取量が少ないと体調不良に陥った<ref>{{Cite web |url = http://www.comby.org/documents/documents_in_english/stefansson-diet-adventures.htm|title = Adventures in Diet by Arctic Explorer Vilhjalmur Stefansson initially published by Harper's Monthly Magazine |date = November 1935 |work = Harper's Monthly Magazine |access-date = 24 January 2021 }}</ref><ref name = "Diet Part 2" >{{Cite web |author = |date = December 1935|url = https://biblelife.org/stefansson2.htm |title = Eskimos Prove An All-Meat Diet Provides Excellent Health News You Can Use Adventures in Diet Part 2 By Vilhjalmur Stefansson Harper's Monthly Magazine, December 1935. |work = Harper's Monthly Magazine |access-date = 24 January 2021 }}</ref>。
=== 炭水化物を含む食事 ===
[[File:Photo of Vilhjalmur Stefansson.jpg|thumb|ヴィルヒャムル・ステファンソン]]
ヴィルヒャムル・ステファンソンは、食事療法、とりわけ、[[低炭水化物ダイエット|炭水化物が少ない食事療法]]に大いに関心を抱いていた。ステファンソンはイヌイットたちの食事について、「全体の90%が肉と魚で構成されている」と記録している。彼らの食事は「''Zero Carb''」「''No Carb''」(「炭水化物をほとんど含まない食事」)と見なされるかもしれない(彼らが食べていた魚にはわずかな量の[[グリコーゲン]] (''Glycogen'') が含まれてはいたが、炭水化物の摂取量は全体的にごく僅かであった)。ステファンソンの仲間の探検家たちも、この食事法で完全に健康体であった。イヌイット(ステファンソンの時代には「エスキモー」と呼ばれていた)たちとの暮らしから数年後、ステファンソンは、アメリカ自然史博物館からの要請で、同僚のカーステン・アンダーソン (''Karsten Anderson'') とともに再び北極を訪れた。2人のもとには「文明化された」食料が1年分補給される予定であったが、2人はこれをやんわりと断った。当初の計画は1年間であったものが、最終的には4年間に延長された。北極圏にいた2人がその4年間で食べていたものは、捕えて殺して得られた動物の肉と魚だけであった。4年に亘る肉食生活を送る過程で、2人の身体には異常も悪影響も見られなかった。[[ウィリアム・バンティング]] (''William Banting'') と同じく、炭水化物のみを制限し、身体が本当に必要としている食べ物を食べ続けた場合、身体は完全に機能し、壮健さと細身を維持できることが明らかとなった。「カロリー」については一切無視された<ref name = "Groves" >{{Cite web |url = http://www.second-opinions.co.uk/banting.html |title = WILLIAM BANTING: The Father of the Low-Carbohydrate Diet |last = Groves, PhD |first = Barry |year = 2002 |publisher = Second Opinions |access-date = 26 December 2007 }}</ref>。
肉だけを食べる食事法が続行可能かどうかについての見解をステファンソンが報告した際には多くの懐疑論が出たが、のちに行われた研究と分析で、それは可能であることが裏付けられた<ref>Fediuk, Karen. 2000 [https://web.archive.org/web/20140628203425/http://members.shaw.ca/karen.fediuk/VitaminCintheInuitdiet.pdf Vitamin C in the Inuit diet: past and present]. MA Thesis, School of Dietetics and Human Nutrition, [[McGill University]] 5–7; 95. Retrieved on: December 8, 2007.</ref>。複数の研究結果により、エスキモーたちの食事法は「[[ケトジェニック・ダイエット|ケトン食療法]]」であることが示された。彼らは主に魚や肉を煮込んで食べており、時には魚を生で食べることもあった<ref>{{Cite journal |author = Peter Heinbecker |year = 1928 |title = Studies on the Metabolism of Eskimos |url = http://www.jbc.org/content/80/2/461 |format = PDF |journal = J. Biol. Chem. |volume = 80 |pages = 461–475 |access-date = 7 April 2014 |issue = 2 }}</ref><ref>{{Cite journal |author1 = A.C. Corcoran |author2 = M. Rabinowitch |year = 1937 |title = A Study of the Blood Lipoids and Blood Protein in Canadian Eastern Arctic Eskimos |journal = Biochem. J. |volume = 31 |issue = 3 |pages = 343–348 |pmc = 1266943 |pmid = 16746345 |doi = 10.1042/bj0310343 }}</ref><ref>{{Cite journal |author1 = Kang-Jey Ho |author2 = Belma Mikkelson |author3 = Lena A. Lewis |author4 = Sheldon A. Feldman |author5 = C. Bruce Taylor |name-list-style = amp |year = 1972 |title = Alaskan Arctic Eskimo: responses to a customary high fat diet |journal = Am J Clin Nutr |volume = 25 |issue = 8 |pages = 737–745 |doi = 10.1093/ajcn/25.8.737 |pmid = 5046723 }}</ref>。この食事療法は、[[ミネソタ州]][[ロチェスター (ミネソタ州)|ロチェスター市]]にある[[メイヨー・クリニック]] (''Mayo Clinic'') の医師、[[ラッセル・ワイルダー]] (''Russell Wilder'') が1920年代前半に開発したもので、元々は[[癲癇]] (''Epilepsy'') を治療するために開発し、患者に処方していた<ref>{{Cite web |url = https://newsnetwork.mayoclinic.org/discussion/a-line-in-the-sand-mayo-clinics-role-in-early-insulin-research/ |title = A Line in the Sand – Mayo Clinic’s Role in Early Insulin Research |author = Dana Sparks |date = 16 January 2015 |work = Mayo Clinic News Network |access-date = 28 October 2019 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.apnews.com/b340be102a204cdbb02941772bf9fd56 |title = Feeding our brains to reduce memory loss |author = Beth Schultz |date = 11 April 2019 |work = [[The Associated Press]] |access-date = 28 October 2019 }}</ref>。[[砂糖]]、甘い[[果物]]全般、[[デンプン]]が豊富なもの全般を避け、各種[[種実類|ナッツ]]、[[生クリーム]]、[[バター]]の摂取を増やす<ref name = "Freeman2007" >Freeman JM, Kossoff EH, Hartman AL. The ketogenic diet: one decade later. Pediatrics. 2007 Mar;119(3):535-43. {{doi|10.1542/peds.2006-2447}}. {{PMID|17332207}}</ref>。栄養素の構成比率は「脂肪(4):[[タンパク質]]と炭水化物(1)」である。脂肪分が90%、タンパク質が6%で、炭水化物の摂取は可能な限り避ける食事法である<ref name = " CLASSIC KETO" >{{Cite web |url = https://charliefoundation.org/classic-keto/ |title = CLASSIC KETO |work = Charlie Foundation |access-date = 28 October 2019 }}</ref>。
[[1928年]]、ステファンソンとアンダーソンの2人はニューヨークにある{{ill|ベルヴュー病院|en|Bellevue Hospital}}に入院し、完全肉食生活が体に及ぼす影響についての実験台となることに同意した。実験の期間は1年間であり、[[コーネル大学]]のウジェーヌ・フロイド・デュボア(''Eugene Floyd DuBois'')が実験を指揮した。ステファンソンとアンダーソンの2人は、注意深く観察された実験室という設定で、最初の数週間、肉だけを食べ続けても問題無いことを証明する研究の着手に同意し、「食事における決まり事」を確かなものにするために観察者が付いた。スコット・カトリップ(''Scott Cutlip'')による著書『''The Unseen Power: Public Relations''』によれば、ペンドルトン・ダッドリー(''Pendleton Dudley'')がアメリカ食肉協会(''American Meat Institute'')に対して、この研究に資金を提供してもらえないか、と説得したという<ref>{{Cite book |title = The Unseen Power: Public Relations |last = Cutlip |first = Scott |publisher = Routledge |year = 1994 |isbn = 0805814655 |location = London |pages = 101 }}</ref>。この間にアンダーソンには糖尿病の症状が発現した。糖尿病における病理とは異なり、この研究の過程でアンダーソンの身体に見られた糖尿病の病状の期間は4日間であった。耐性を調べるためにブドウ糖100gを投与させたことと、肺炎の発症はいずれも同時期であった。この時のアンダーソンは、水分と炭水化物が多い食事を取っており、これを排除すると、糖尿病の症状は消滅した<ref name = "McClellanDuBois1930" >{{Cite journal |url = http://www.jbc.org/content/83/3/747.full.pdf |title = THE EFFECT OF AN EXCLUSIVE MEAT DIET LASTING ONE YEAR ON THE CARBOHYDRATE TOLERANCE OF TWO NORMAL MEN. |last = Tolstoi |first = Edward |format = [[PDF]] |date = June 20, 1929 |pages = 747–752 |access-date = 16 December 2015 |journal = J. Biol. Chem. |issue = 83}}</ref>。ステファンソンは、研究者から「[[脂肪]]が少ない赤身肉だけを食べる」よう依頼された。ステファンソンには脂肪がほとんど無い肉を食べ続けると2-3週間後に健康を損なった経験があり、「脂肪がほとんど無い肉」は「消化不良」を惹き起こす可能性がある、と指摘した。この肉を食べ続けて3日目、ステファンソンは吐き気と下痢に見舞われ、そのあとに便秘が10日間続いた<ref name = "Meat Diets" />。早い段階で体調不良に陥ったのは、自身が以前に食べていたカリブー([[トナカイ]])の肉と比べて脂肪が少ない肉を食べ続けたのが原因である、とステファンソンは考えた<ref>{{Cite web |url = http://www.biblelife.org/stefansson2.htm |title = Adventures in Diet Part 2 (Harper's Monthly Magazine) |last = Stefansson |first = Vilhjalmur |date = December 1935 |access-date = 7 January 2021 }}</ref>。脂肪が多い肉を食べるようにすると、2日以内に身体は完全に回復した。最初の2日間、ステファンソンが取っていた食事は、脂肪の摂取量が三分の一に減っていた点を除けば、エスキモーが取っていた食事に近いものであった。[[タンパク質]]の摂取カロリーは全体の45%を占めており、3日目には腸に異常が見え始めた。次の2日間でステファンソンはタンパク質の摂取量を減らし、脂肪の摂取量を増やした。摂取カロリーの約20%をタンパク質で、残りの80%を脂肪で占めるようにした。この2日間での高脂肪食でステファンソンの腸の状態は投薬無しで正常に戻った。その後、ステファンソンはタンパク質の1日の摂取カロリーが25%を超えないようにした<ref name = "Meat Diets" >{{Cite journal |url = http://www.jbc.org/content/87/3/651.full.pdf+html |format = [[PDF]] |date = February 13, 1930 |author = McClellan WS, Du Bois EF |title = Clinical Calorimetry: XLV. Prolonged Meat Diets With A Study Of Kidney Function And Ketosis |journal = J. Biol. Chem. |volume = 87 |pages = 651–668 |access-date = 16 December 2015 |issue = 3 |quote = “During the first 2 days [Stefansson’s] diet approximated that of the Eskimos, as reported by Krogh and Krogh, except that he took only one-third as much fat. The protein accounted for 45 per cent of his food calories. The intestinal disturbance began on the 3rd day of this diet. During the next 2 days he took much less protein and more fat so that he received about 20 percent of his calories from protein and 80 percent from fat. In these two days his intestinal condition became normal without medication. Thereafter the protein calories did not exceed 25 per cent of the total for more than 1 day at a time.”}}</ref>。2人の身体は健康を保ち、腸も正常なままであった。彼らの便は小さく、匂いも無かった。ステファンソンには[[歯周病|歯肉炎]]があり、[[歯石]]の沈着が増加するも、実験が終わるまでには消えていた。実験中のステファンソンの摂取カロリーは2000~3100kcalで、そのうちの20%はタンパク質であり、残りの80%は[[動物性脂肪]]から得ていた<ref name = "Groves" />。栄養素の1日の摂取量については、タンパク質は100-140g、脂肪は200-300gで、炭水化物については7-12gであった<ref name = "Meat Diets" />。[[1929年]]に発表された論文では、この時の臨床研究について詳述されている<ref>[https://jamanetwork.com/journals/jama/article-abstract/267994 THE EFFECTS ON HUMAN BEINGS OF A TWELVE MONTHS' EXCLUSIVE MEAT DIET BASED ON INTENSIVE CLINICAL AND LABORATORY STUDIES ON TWO ARCTIC EXPLORERS LIVING UNDER AVERAGE CONDITIONS IN A NEW YORK CLIMATE]JAMA. 1929;93(1):20-22. {{doi|10.1001/jama.1929.02710010026005}}</ref>。ステファンソンによれば、エスキモーたちは赤身肉(タンパク質)の摂取を制限し、余分な赤身肉は犬に与えて食べさせ、脂肪を確保して食べたという<ref>Stefansson V. The friendly arctic. The MacMillan Co, NY. 1921</ref>。これらの事例と証拠から、「脂肪が多い肉を食べると癌になる」という主張には説得力が無い。
タンパク質の摂取量が多過ぎ、脂肪の摂取量が足りない食事を摂り続けていると、「[[タンパク質中毒]]」(''Protein Poisoning'')と呼ばれる急性の[[栄養失調]]状態に陥ることがある<ref>{{Cite journal |last1 = Cordain |first1 = L. |last2 = Miller |first2 = J. B. |last3 = Eaton |first3 = S. B. |last4 = Mann |first4 = N. |last5 = Holt |first5 = S. H. |last6 = Speth |first6 = J. D. |date = March 2000 |title = Plant-animal subsistence ratios and macronutrient energy estimations in worldwide hunter-gatherer diets |journal = The American Journal of Clinical Nutrition |volume = 71 |issue = 3 |pages = 682–692 |doi = 10.1093/ajcn/71.3.682 |issn = 0002-9165 |pmid = 10702160 |doi-access=free}}</ref><ref>{{Cite journal |last = Hosfield |first = Rob |date = 2016-10-02|title = Walking in a Winter Wonderland? Strategies for Early and Middle Pleistocene Survival in Midlatitude Europe |url = https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/688579 |journal = Current Anthropology |volume = 57 |issue = 5 |pages = 653–682 |doi = 10.1086/688579 |s2cid = 162879417 |issn = 0011-3204 }}</ref>。これは「ウサギ飢餓」「[[カリブー]]飢餓」「脂肪飢餓」とも呼ばれる。「ウサギ飢餓」(''Rabbit Starvation'')という用語は、ウサギの肉は脂肪が少なく、そのほとんどがタンパク質で構成されており、それだけを食べ続けると[[中毒症状]]を惹き起こす食べ物である点に由来する<ref name = ":0" >{{Cite journal |last1 = Fiorenza |first1 = Luca |last2 = Benazzi |first2 = Stefano |last3 = Henry |first3 = Amanda G. |last4 = Salazar‐García |first4 = Domingo C. |last5 = Blasco |first5 = Ruth |last6 = Picin |first6 = Andrea |last7 = Wroe |first7 = Stephen |last8 = Kullmer |first8 = Ottmar |date = 2015 |title = To meat or not to meat? New perspectives on Neanderthal ecology |url = https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/ajpa.22659 |journal = American Journal of Physical Anthropology |language = en |volume = 156 |issue = S59 |pages = 43–71 |doi = 10.1002/ajpa.22659 |pmid = 25407444 |issn = 1096-8644 |hdl = 10550/42057|hdl-access = free }}</ref>。報告されている症状として、最初は吐き気や疲労感に襲われ、[[下痢]]を起こし、最終的には[[死]]に至る<ref name = ":0" />。
この肉食実験を監督したウジェーヌ・フロイド・デュボアは「定期的な尿検査で、彼らの尿からはケトン体が常に一定量検出されたため、炭水化物は摂取していなかった」と書いた<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />。
栄養学者たちは、
* 「肉の摂取は高血圧と痛風の原因であり、肉だけの食事など不健康である」
* 「単一の食べ物だけを食べるという単調さは、身体的な嫌悪感をもたらす」
* 「新鮮な果物や野菜が含まれない食事は、壊血病やその他の欠乏症を惹き起こす危険がある」
* 「タンパク質が多い食事は慢性腎臓障害の原因になる」
と非難した<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />。
「エスキモーたちは野菜や果物について『人間の食べ物ではない』と考えていた」とステファンソンは書いている<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />。[[1960年代]]以降、「動物性脂肪を豊富に含む動物性食品は、健康に悪影響を及ぼす可能性がある」と言われるようになると、栄養学者たちは「動物の肉には、生命維持に欠かせない全ての[[必須アミノ酸]]、全ての[[必須脂肪酸]]、13種類ある必須[[ビタミン]]のうちの12種類がたくさん含まれている」という栄養学上の事実の指摘を控えるようになった<ref name = "Why we get fat" >{{Cite book |first = Gary |last = Taubes |title = Why We Get Fat: And What to Do About It |publisher = Alfred A. Knopf |location = New York City |year = 2010 |isbn = 9780307272706 }}</ref>。[[ビタミンD]]と[[ビタミンB12]]の両方を含む食べ物は「'''動物性食品だけ」'''である<ref name = "Why we get fat" /><ref>{{Cite web |url = https://mdrnyu.org/spring-2016-potentially-missing-vitamins-in-the-vegan-and-vegetarian-diet/ |title = Potentially Missing Vitamins in the Vegan and Vegetarian Diet |author = Adithya Kumar |date = |website = Mdrnyu |archive-url = https://web.archive.org/web/20201001151747/https://mdrnyu.org/spring-2016-potentially-missing-vitamins-in-the-vegan-and-vegetarian-diet/ |archive-date = 1 October 2020 |access-date = 19 November 2020 }}</ref>。
[[リチャード・ヘンリー・デイナ|リチャード・ヘンリー・デイナ・ジュニア]](''Richard Henry Dana Jr.'')は、[[1840年]]の時点で「我々は1日に3回、新鮮な牛肉のステーキだけを食べていた。病気とは無縁の健康状態を維持できた」と書き残している<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" >{{Cite web |url = https://blog.supplysideliberal.com/post/2017/9/16/by-meat-alone |author = Miles Kimball |title = Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too? |date = 2017-10-10 |work = CONFESSIONS OF A SUPPLY-SIDE LIBERAL |access-date = 2023-10-02 }}</ref>。エスキモーとステファンソンによるケトン食療法(炭水化物を徹底的に避け、脂肪を大量に摂取する)は癌の治療や予防に有効である可能性を示している<ref name = "The ketogenic diet for the treatment of malignant glioma" >[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24503133/ The ketogenic diet for the treatment of malignant glioma] Eric C Woolf, Adrienne C Scheck. J Lipid Res. 2015 Jan;56(1):5-10. {{doi|10.1194/jlr.R046797}}. Epub 2014 Feb 6. {{PMID|24503133}}; {{PMCID|4274070}}.</ref><ref name = "Effects of a ketogenic diet on the quality of life in 16 patients with advanced cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3157418/ Effects of a ketogenic diet on the quality of life in 16 patients with advanced cancer: A pilot trial] Melanie Schmidt, Nadja Pfetzer, Micheal Schwab, Ingrid Strauss, and Ulrike Kämmerer. Nutr Metab (Lond). 2011; 8: 54. {{doi|10.1186/1743-7075-8-54}}</ref><ref name = "Where do we stand?" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7056920/ Ketogenic diet in the treatment of cancer – Where do we stand?] Daniela D. Weber, Sepideh Aminzadeh-Gohari, Julia Tulipan, Luca Catalano, René G. Feichtinger, and Barbara Kofler. Published online 2019 Jul 27. {{doi|10.1016/j.molmet.2019.06.026}} {{PMC|7056920}} {{PMID|31399389}}</ref><ref name = "Emerging Evidence" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6375425/ Ketogenic Diets and Cancer: Emerging Evidence] Jocelyn Tan-Shalaby, MD. Fed Pract. 2017 Feb; 34(Suppl 1): 37S–42S. {{PMC|6375425}} {{PMID|30766299}}</ref>。エスキモーたちは狩猟採集生活者として暮らしており、[[肉]]と[[魚]]だけを食べ続けていたが、[[白人]]との交易で[[小麦粉]]と[[砂糖]]を食べ始めたのち、肥満や糖尿病を患うようになった<ref name = "Why we get fat" />。
肉だけを食べ続けたステファンソンとアンダーソンは、「[[壊血病]]を患い、瀕死の状態に陥る」と思われていたが、脂肪が多い肉を食べ続けたことにより、「バランスの取れた食事」を取っていたときよりも健康体になった<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />。[[1946年]]、ステファンソンは、エスキモーたちとの食生活について綴った著書『''Not by Bread Alone''』(『パンのみにあらず』)を出版し、[[1956年]]にはこの本の拡張版とも言える内容の著書『''The Fat of the Land''』(『大地の脂肪』)を出版した<ref>{{Cite web |url= https://price-pottenger.org/journal_article/vilhjalmur-stefansson-and-the-fat-of-the-land/ |title = Vilhjálmur Stefánsson and the Fat of the Land |last = |first = |author = Nora Gedgaudas, CNS, NTP, BCHN|date = 3 August 2018 |work = Price Pottenger |archive-url = https://web.archive.org/web/20201104004105/https://price-pottenger.org/journal_article/vilhjalmur-stefansson-and-the-fat-of-the-land/ |archive-date = 4 November 2020 |access-date = 11 November 2022 }}</ref>。
=== 高血糖、糖尿病、癌 ===
;久山町研究
1998年に[[福岡県]][[久山町]]で行われた「久山町研究」<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.hisayama.med.kyushu-u.ac.jp/ |title = 久山町研究 |archive-url = https://web.archive.org/web/20170205001921/http://www.hisayama.med.kyushu-u.ac.jp/ |archive-date = 5 February 2017 |access-date = 25 June 2023 }}</ref> では、「[[糖尿病]]は悪性腫瘍死の発生のリスクを有意に増大させ、[[高血糖]]の程度を示す[[ヘモグロビンA1c]]の高値の者ほど[[胃がん]]の発生率が高かった」という研究結果が得られた。清原裕は「糖尿病は悪性腫瘍による死のリスクを有意に増大させた」「糖尿病及び高血糖は悪性腫瘍の重要な危険因子である」と書いた<ref>{{Cite Journal |url = https://www.jstage.jst.go.jp/article/ningendock/24/Suppl/24_1169/_pdf/-char/ja |title = 変貌する生活習慣病の現状と課題:久山町研究 |author = 清原裕 |date = 2010 |journal = 日本人間ドック学会誌「人間ドック」 |publisher = 公益社団法人 日本人間ドック学会 |volume = 24 (2009) |issue = Suppl |pages = 1169-1177 |doi = 10.11320/ningendock.24.1169 |issn = 2186-5027 }}</ref>。国立がん研究センターは「糖尿病と診断されたことのある人は、そうでない人に比べて、がんを患いやすくなる確率20-30%ほど上がり、男性では[[肝癌|肝がん]]、[[腎臓がん]]、[[膵がん]]、[[結腸がん]]、胃がん、女性では胃がん、肝がん、[[卵巣がん]]でこの傾向が強い」と発表した<ref>{{Cite web|和書|url = http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/288.html |title = 糖尿病とその後のがん罹患との関連について |work = 国立研究開発法人 国立がん研究センター |access-date = 2023-11-10 }}</ref>。[[C-ペプチド]]は、インスリンを生成する際、インスリンの前駆体であるプロインスリンから切り放された部分を指すが、男性では、C-ペプチド値が高いと[[大腸癌]]リスクが高くなる。C-ペプチドは男性の結腸癌と関連がある<ref>{{Cite web|和書|url = http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/296.html |title = インスリン関連マーカーと大腸がん罹患との関係について |work = 国立研究開発法人 国立がん研究センター |access-date = 2023-11-10 }}</ref>。1988年以降、久山町では、[[九州大学]]をはじめとする複数の大学の研究者たちが、[[炭水化物]]が多く、脂肪は少なく、摂取カロリーも低めの食事を住民に食べさせ続けたところ、糖尿病だけでなく、[[アルツハイマー病|アルツハイマー型認知症]]を患う住民が増えた。前述のとおり、糖尿病は癌を患うリスクをさらに上昇させる。
血糖コントロール悪化から入院した糖尿病患者の6.85%に新規に悪性腫瘍が指摘され、高い罹患率を認めたことから、急激な血糖コントロールの悪化を認めた際には、悪性腫瘍の鑑別が必要となる<ref name="omurat">{{cite journal | authors = Omura T, Tamura Y, Kodera R, Oba K, Toyoshima K, Chiba Y, Matsuda Y, Uegaki S, Kuroiwa K, Araki A | title = Pancreatic cancer manifesting as Sister Mary Joseph nodule during follow up of a patient with type 2 diabetes mellitus: A case report | journal = Geriatr Gerontol Int | volume = 19 | issue = 4 | pages = 364 | date = April 2019 | pmid = 30932308 | pmc = | doi = 10.1111/ggi.13602}}</ref>。糖尿病患者はがんを患いやすくなるが、これには[[膵臓]]の[[β細胞]]から分泌される[[ホルモン]]、[[インスリン]]が関わっている(後述)。
WHOと[[国際がん研究機関]](IARC)による「生活習慣とがんの関連」についての報告がある<ref name = "ganjohosci" >{{Cite web|和書|url = http://ganjoho.ncc.go.jp/public/pre_scr/prevention/evidence_based.html |title = 日本人のためのがん予防法:現状において推奨できる科学的根拠に基づくがん予防法 |work = 国立がんセンターがん対策情報センター |date = 2009-02-25 |access-date = 2009-12-01 }}</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 生活習慣とがんの関連<ref name="ganjohosci" /><ref>WHO technical report series 916. ''Diet, nutrition and the prevention of chronic diseases'', 2003 & IARC monograph on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans, Volume83, ''Tobacco Smoke and Involuntary Smoking'', 2004</ref><br />(WHO/IARC)
! 関連の強さ !! リスクを下げるもの(部位) !! リスクを上げるもの(部位)
|-
! 確実
| style="vertical-align:top" |身体活動(結腸)|| [[喫煙|たばこ]](口腔、咽頭、喉頭、食道、胃、肺、膵臓、肝臓、腎臓、尿路、膀胱、子宮頸部、骨髄性白血病)<br /> [[受動喫煙|他人のたばこの煙]](肺)<br />過体重と[[肥満]](食道<腺がん>、結腸、直腸、乳房<閉経後>、子宮体部、腎臓)<br /> [[飲酒]](口腔、咽頭、喉頭、食道、肝臓、乳房)、<br />[[アフラトキシン]](肝臓)、<br />[[鹹魚|中国式塩蔵魚]]([[:zh:鹹魚]])(鼻咽頭)
|-
! 可能性大
| style="vertical-align:top" |[[野菜]]・[[果物]](口腔、食道、胃、結腸、直腸)<br />身体活動(乳房)||style="vertical-align:top" | 貯蔵肉(結腸、直腸)<br />[[塩漬け|塩蔵品]]および[[食塩]](胃)<br /> 熱い飲食物(口腔、咽頭、食道)
|-
! 可能性あり<br/>データ不十分
| [[食物繊維]]、[[大豆]]、[[魚]]、[[ω-3脂肪酸]]、<br />[[カロテノイド]]、[[リボフラビン|ビタミンB<sub>2</sub>]]、[[ビタミンB6|ビタミンB<sub>6</sub>]]、<br />[[葉酸]]、[[シアノコバラミン|ビタミンB<sub>12</sub>]]、[[ビタミンC]]、[[ビタミンD]]、<br />[[ビタミンE]]、[[カルシウム]]、[[亜鉛]]、[[セレン]]、<br />非栄養性植物機能成分<br />(例:[[ネギ属|アリウム]]化合物、[[フラボノイド]]、[[イソフラボン]]、[[リグナン]]) || style="vertical-align:top" |動物性脂肪(※動物性脂肪が癌の原因であることを示す証拠は無い<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />) [[複素環]]式アミン 多環[[芳香族炭化水素]] [[ニトロソ]]化合物
|}
=== 発がん性を有する化学物質や放射線への暴露 ===
化学物質への暴露が発がんを惹き起こすことがあり、国際がん研究機関(IARC)はヒトに対する発癌性が認められる化学物質(Group1)として、[[石綿]]、[[ベンゼン]]、[[六価クロム]]、[[ヒ素]]、[[カドミウム]]、[[ベンジジン]]、[[1,2-ジクロロプロパン]]、[[放射線]]として[[γ線]]、[[X線]]を掲げている<ref>[http://monographs.iarc.fr/ENG/Classification/index.php IARC Monographs Programme on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans]、IARC</ref>(詳細は「[[IARC発がん性リスク一覧]]」を参照のこと)。
=== 病因微生物(ウイルスや細菌) ===
一部の悪性腫瘍(がん)については、[[ウイルス]]や[[細菌]]による感染が、その発生の重要な原因であることが判明している。現在、因果関係が疑われているものまで含めると以下の通り。
* [[子宮頸癌|子宮頸部扁平上皮癌]] - [[ヒトパピローマウイルス|ヒトパピローマウイルス16型、18型]](HPV-16, 18)
* バーキットリンパ腫、[[咽頭癌]]、[[胃癌]] - [[エプスタイン・バール・ウイルス|EBウイルス]](EBV)
* 成人T細胞白血病 - [[ヒトTリンパ好性ウイルス|ヒトTリンパ球好性ウイルス]]
* [[肝細胞癌]] - [[B型肝炎ウイルス]](HBV)、[[C型肝炎ウイルス]](HCV)
* [[カポジ肉腫]] - [[ヘルペスウイルス|ヒトヘルペスウイルス8型]](HHV-8)
* [[胃癌]]および胃MALTリンパ腫 - [[ヘリコバクター・ピロリ]]
これらの病原微生物によってがんが発生する機構は様々である。[[ヒトパピローマウイルス]]やEBウイルス、ヒトTリンパ球好性ウイルスの場合、ウイルスの持つウイルスがん遺伝子の働きによって細胞の増殖が亢進したり、[[p53遺伝子]]や[[RB遺伝子]]の機能が抑制されることで細胞ががん化に向かったりする。肝炎ウイルスやヘリコバクター・ピロリでは、これらの[[微生物]]感染によって肝炎や胃炎の[[炎症]]が頻発した結果、がんの発生リスクが増大すると考えられている。また[[レトロウイルス]]の遺伝子が正常な宿主細胞の遺伝子に組み込まれる過程で、宿主の持つ[[がん抑制遺伝子]]が欠損することがあることも知られている。ただしこれらの病原微生物による感染も多段階発癌の1ステップであり、それ単独のみでは癌が発生するには至らないと考えられている。
[[2005年]]11月、[[スウェーデン]]の[[マルメ大学]](''Malmö Universitet'')が発表した研究では、[[ヒトパピローマウイルス]](HPV)に感染した人間との、予防手段を用いない[[オーラルセックス]]は[[口腔癌]]のリスクを高める、と示唆した。この研究によると、癌患者の36%がHPVに感染していたのに対し、健康な対照群では1%しか感染していなかった<ref>[http://www.medindia.net/news/view_news_main.asp?x=5822 Oral Sex Linked To Mouth Cancer Risk<!-- Bot generated title -->]</ref>。
『[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン]]』誌で発表された最近の別の研究は、オーラルセックスと[[頭頸部癌|咽喉癌]]には相関関係があることを示唆している。HPVは頸部癌の大半に関係しているので、この相関関係はHPVの感染によるものと考えられている。この研究は、生涯に1-5人のパートナーとオーラルセックスを行った者は全く行わなかった者に比べおよそ2倍、6人以上のパートナーと行った者は3.5倍の咽喉癌のリスクがあると結論付けている<ref>[http://www.newscientist.com/article.ns?id=dn11819&feedId=online-news_rss20 Oral sex can cause throat cancer - 09 May 2007 - New Scientist<!-- Bot generated title -->]</ref>。
=== 遺伝的原因 ===
大部分のがんは偶発的であり、特定遺伝子の遺伝的な欠損や変異によるものではない。しかし遺伝的要素を持ちあわせる、がん症候群が存在する。
* 女性の[[BRCA1]]/[[BRCA2]]遺伝子がもたらす、乳癌あるいは卵巣癌
* 多発性内分泌腺腫 ([[:en:multiple endocrine neoplasia|multiple endocrine neoplasia]]) - 遺伝子「MEN types 1, 2a, 2b」による種々の内分泌腺の腫瘍
* [[p53遺伝子]]の変異により発症するLi-Fraumeni症候群 ([[:en:Li-Fraumeni syndrome|Li-Fraumeni syndrome]]) (骨肉腫、乳がん、軟組織肉腫、脳腫瘍)
* (脳腫瘍や大腸ポリポーシスを起す)Turcot症候群 ([[:en:Turcot syndrome|Turcot syndrome]])
* 若年期に大腸癌を発症する、「[[APC (タンパク質)|APC]]」遺伝子の変異が遺伝した[[家族性大腸腺腫症]] ([[:en:Familial adenomatous polyposis|Familial adenomatous polyposis]])
* 若年期に大腸癌を発症する、「hMLH1, hMSH2, hMSH6」DNA修復遺伝子の変異が遺伝した[[遺伝性非ポリポーシス大腸癌]] ([[:en:Hereditary nonpolyposis colorectal cancer|Hereditary nonpolyposis colorectal cancer]])
* 幼少期に[[網膜]]内にがんが発生する、Rb遺伝子の変異が遺伝した網膜芽細胞腫 ([[:en:Retinoblastoma|Retinoblastoma]])
* 若年期に高頻度に[[多発性嚢胞腎]]を発症し、のちに腎がんが発生する、[[VHL (タンパク質)|VHL]]遺伝子の変異が遺伝した[[フォン・ヒッペル・リンドウ病]]
* 原因となる遺伝子は不詳であるが、家族内集積のみられる[[非アルコール性脂肪性肝炎]] (NASH) や[[原発性胆汁性胆管炎]] (PBC) による[[肝細胞癌]] ([[:en:Hepatocellular carcinoma|Hepatocellular carcinoma]])
遺伝的素因と環境因子の双方により発癌リスクが高くなるものとして、[[アルコール脱水素酵素]]の低活性と[[アルコール]]多飲がある。これらが揃うと[[頭頸部癌]]([[咽頭癌]]・[[食道癌]])の罹患率が上昇する。日本を含む[[アジア]]ではアルコール脱水素酵素(ADH1B)の活性が低い人が多い。
== 癌の成長 ==
藤田哲也は「末期癌の患者の体内では、数千個から数兆個に及ぶ癌細胞が『制御の効かない過剰な生長』を続け、正常な組織や細胞を圧殺する」「『過剰な生長』という現象こそが、癌が宿主を苦しめ、死に至らしめる最大の要因である」「『過剰な生長』は癌の最も重要な性質の一つであり、悪性腫瘍に本質的なものだ」と書いた<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.louis-pasteur.or.jp/consultation/document/ganshizenshi.pdf |title = 現代病理学体系 腫瘍Ⅲ 癌の自然史 |author = 藤田哲也 |date = 1984-12-25 |publisher = 中山書店 |format = [[PDF]] |access-date = 2023-11-5 }}</ref>。
大阪大学医学系研究科甲状腺腫瘍の研究班は「甲状腺がんにおいて、転移能・浸潤能など立派にがんとしての性質を持っていながら、なぜかある程度で成長が止まってしまい、一生患者に悪さをしないものが多数存在することが証明されるようになった」「これらのがんを若年型甲状腺がんと呼ぶ。このようながんをあまり早い時期に見つけてしまうと、患者に本来不要であった手術を施してしまうことになる。これを『過剰診断』と呼ぶ」「小さな甲状腺がんは10代の後半からちらほら出現し、20代で急速にその頻度が増加し、30代中ごろには中高年とほぼ同じ頻度になる。すなわち、超音波でしかわからないような甲状腺がんは子供のうちからできるが、その多くは途中で成長が止まり、臨床的ながんにまで進展しない」「小さな甲状腺がんは10年単位でしか成長せず、しかも若年者ではある程度成長するが、高齢になると完全に成長を止める。また、経過観察された千人以上の患者のうち、甲状腺がんが原因で死んだ人は一人もいなかった。すなわち、これらのがんが悪性化することはない」と発表した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/labo/www/CRT/OD.html |title = 10分でわかる甲状腺がんの自然史と過剰診断 |access-date = 2023-11-5 }}</ref>。
札幌医科大学の加茂憲一は、肝臓癌について「肝炎ウイルスが影響する」と発表している<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jcancer.jp/wp-content/uploads/2015/12/shoroku/22.pdf |author = 加茂憲一 |title = がん対策推進基本計画の効果検証と目標設定に関する研究 |format = [[PDF]] |access-date = 2023-11-5 }}</ref>。
== 予防 ==
[[子宮頸癌]]は発癌リスクを軽減できる[[がんワクチン#ヒトパピローマウイルス|HPVワクチン]]が日本でも認可された。[[胃癌]]は[[ヘリコバクター・ピロリ]]を除菌することにより、発癌リスクを軽減できることが報告されている。[[B型肝炎]]は[[エンテカビル]]によりHBVウイルスを減少させることで、[[C型肝炎]]は[[インターフェロン]]療法によりHCVを駆除することにより、発癌リスクを軽減できることがわかっている。
=== がん予防10か条(世界がん研究基金) ===
2007年11月1日、[[世界がん研究基金]]と[[アメリカがん研究協会]]によって7,000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防」<ref>{{cite book|author=World Cancer Research Fund and American Institute for Cancer Research|url=http://wcrf.org/int/research-we-fund/continuous-update-project-cup/second-expert-report |title=Food, Nutrition, Physical Activity, and the Prevention of Cancer: A Global Perspective|year= 2007|publisher=Amer. Inst. for Cancer Research|isbn= 978-0972252225}} 日本語要旨:{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20201101013357/https://www.wcrf.org/sites/default/files/SER-SUMMARY-(Japanese).pdf 食べもの、栄養、運動とがん予防]}}、[[世界がん研究基金]]と[[米国がん研究機構]]</ref>が報告されている。これは1997年に公表され、日本では「がん予防15か条」と呼ばれていた4500以上の研究を元にした報告の大きな更新である。
# '''肥満''':[[ボディマス指数|BMI]]は21-23の範囲に。推薦:標準体重の維持。
# '''運動''' :(※[[インスリン抵抗性]]は運動では防げない<ref name = " Blood Glucose Levels of Subelite Athletes During 6 Days of Free Living" /><ref name = "Effect of exercise timing on elevated postprandial glucose levels" />)。
# '''体重を増やす飲食物''' 推薦:高エネルギーの食べものや[[砂糖]]入り飲料やフルーツジュース、[[ファーストフード]]の摂取を制限する。飲料として水や[[茶]]や無糖[[コーヒー]]が推奨される。
# '''植物性食品''':毎日、少なくとも600[[グラム]]の野菜や果物(※甘い果物は癌の危険を増加させる<ref name = " Dietary Fructose Promotes Prostate Cancer Growth" />、「野菜と果物を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" />)と、非でんぷん性多糖類を摂取し、毎日少なくとも25gの食物繊維を摂取する。推奨:毎日400グラム以上の野菜や果物と、精製度の低い穀物と豆を食べる。精白された穀物は制限する。
# '''動物性食品''' [[赤肉]]([[牛肉|牛]]・[[豚肉|豚]]・[[羊肉|羊]])を制限し、加工肉([[ハム]]、[[ベーコン]]、[[サラミ]]、[[燻製]]肉、[[乾燥熟成肉|熟成肉]]、[[塩漬け|塩蔵]]肉)は避ける。赤肉より、[[鶏肉]]や[[魚]]が推奨される。赤身肉は週300グラム以下に。推奨:赤肉は週500グラム以下に。乳製品は議論があるため推奨されていない。
# '''アルコール'''(お酒) 男性は1日2杯、女性は1日1杯まで。
# '''保存、調理''':塩分摂取量を1日に5グラム以下に。推奨:塩辛い食べものを避ける。塩分摂取量を1日に6グラム以下に。[[カビ]]のある穀物や豆を避ける。
# '''サプリメント''':サプリメントには頼らず、食事のみで栄養を満たす。
# '''母乳哺育''' 6か月間、[[母乳]]のみで育てる。
# '''がん治療後''':生存者は、栄養、体重、運動について、訓練を受けた専門家の指導を受ける。
喫煙は肺、口腔、膀胱がんの主因であり、タバコの煙は最も明確に多くの部位のがんの原因であると強調。また、タバコとアルコールは相乗作用で発癌物質となる。
=== がん対策の目標(健康日本21-日本厚生労働省) ===
2000年、[[厚生労働省]]の[[健康日本21]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.kenkounippon21.gr.jp/kenkounippon21/about/kakuron/ |title = 健康日本21 - 1. 栄養・食生活 |work = 健康・体力づくり事業財団 |year = 2000|access-date = 2009-12-01 }}</ref> によってがん対策の目標が提唱されている。
# 喫煙が及ぼす健康影響についての知識の普及、分煙、節煙
# 食塩摂取量を1日10g未満に減らす(※塩分を制限しても高血圧は治らない<ref name = "The wrong white crystals: not salt but sugar as aetiological in hypertension and cardiometabolic disease" /><ref name = "Low Sodium Intakes are Not Associated with Lower Blood Pressure Levels among Framingham Offspring Study Adults" />)
# 野菜の平均摂取量を1日350g以上に増やす(※「野菜と果物を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" />)
# 果物類を摂取している人の割合を増やす(※甘い果物は癌の危険を増加させる<ref name = " Dietary Fructose Promotes Prostate Cancer Growth" />)
# 食事中の脂肪の比率を25%以下にする(※動物性脂肪を食事から排除しても、健康の改善には何の役にも立たない<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />)
# 1日に約60g以上飲酒する人を減らす。「節度ある適度な飲酒量」は「約20g」
# がん検診。胃がん、乳がん、大腸がんの検診受診者の5割以上の増加
=== 日本人のためのがん予防法(国立がん研究センター) ===
国立がん研究センターがん予防・検診研究センター(現・社会と健康研究センター)は日本人にとって優先度の高く、予防効果が確かな要因に絞って内容を取りまとめ、2006年に「日本人のためのがん予防法」を提言した<ref name="津金2021" />。以下は2017年8月1日改訂版における6つの推奨項目である<ref>{{Cite web|和書|url = https://epi.ncc.go.jp/can_prev/93/7957.html |title = がん予防法の提示 2017年8月1日改訂版 |website = がん対策研究所 予防関連プロジェクト |publisher = 国立がん研究センター がん対策研究所 |access-date = 2022-03-16 }}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:90%; margin:1em"
|+日本人のためのがん予防法
|-
|喫煙||たばこは吸わない。他人のたばこの煙を避ける。
|-
|飲酒||飲むなら、節度のある飲酒をする。
|-
|食事||偏らずバランスよくとる。<br />
* [[塩蔵品|塩蔵食品]]、[[食塩]]の摂取は最小限にする(※塩分を制限しても高血圧は治らない<ref name = "The wrong white crystals: not salt but sugar as aetiological in hypertension and cardiometabolic disease" /><ref name = "Low Sodium Intakes are Not Associated with Lower Blood Pressure Levels among Framingham Offspring Study Adults" />)。<br />
* 野菜や果物不足にならない(※「野菜と果物を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" />)。<br />
* 飲食物を熱い状態でとらない。<br />
|-
|[[有酸素運動|身体活動]]||日常生活を活動的に。
|-
|[[ボディマス指数|体形]]||適正な範囲内に。
|-
|[[感染]]||[[肝炎ウイルス]]感染検査と適切な措置を。機会があれば[[ヘリコバクター・ピロリ|ピロリ菌]]検査を。
|}
=== がんを防ぐための新12か条(がん研究振興財団) ===
[[1978年]]、日本の国立がんセンター(現・[[国立がん研究センター|国立研究開発法人 国立がん研究センター]])は学問的に常識とされていた知見を踏まえ、カレンダーの12か月に合わせて「がんを防ぐための12ヵ条」を提唱した<ref name = "対がん" /><ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20101207085439/http://ganjoho.ncc.go.jp/public/pre_scr/prevention/prevention_12.html |title = がんを防ぐための12ヵ条 |date = 2007-09-05 |work = 国立がんセンターがん対策情報センター |access-date = 2009-12-01 }}</ref>。当時としては科学的に妥当な提言であったが、その後の研究で「かび」や「日光」、「焦げ」の暴露を避けるべきとされていた要因について、発がんリスクの上昇が認められるまでに必要な曝露量や避けた場合に予防可能ながんの割合という観点から見直しがなされ、上述の「日本人のためのがん予防法」の内容を含め、2011年にがん研究振興財団が「がんを防ぐための新12か条」として改訂版を公表した<ref name="津金2021">{{Cite journal |author = 津金昌一郎 |year = 2021 |title = がんを防ぐための〈12か条〉から〈新12か条〉へ |url = https://www.fpcr.or.jp/pdf/p20/kani048.pdf |journal = 加仁 |volume = 48 |pages = 6-7 |publisher = がん研究振興財団 |format = [[PDF]] }}</ref>。[[たばこ]]についての記述を禁煙と[[受動喫煙]]の2項目設けたこと、早期発見を掲げたことや正確な情報を入手することに言及している点でも改訂前と異なる<ref name = "対がん" >{{Cite web|和書|url=https://www.jcancer.jp/about_cancer_and_checkup/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%92%E9%98%B2%E3%81%9012%E3%81%8B%E6%9D%A1 |title = がんを防ぐための新12か条 |publisher=日本対がん協会 |access-date=2022-03-17 }}</ref>。
# たばこは吸わない
# 他人のたばこの煙を避ける
# お酒はほどほどに
# バランスのとれた食生活を
# 塩辛い食品は控えめに
# 野菜や果物は不足にならないように(※「野菜と果物を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" />)
# 適度に運動
# 適切な体重維持
# ウイルスや細菌の感染予防と治療
# 定期的ながん検診を
# 身体の異常に気がついたら、すぐに受診を
# 正しいがん情報でがんを知ることから
=== がん検診 ===
{{see|がん検診}}
=== アスピリン ===
[[2010年]][[10月22日]]、[[オックスフォード大学]]のピーター・M・ロスウェル(''Peter M. Rothwell'')らは、「毎日少なくとも75mgの[[アスピリン]]([[鎮痛剤]]の一種)を数年間服用し続けると、結腸直腸癌の発生率と死亡率が減少することが分かった」と発表した。彼らの研究は医学雑誌『''[[Lancet]]''』に掲載された<ref name = "Long-term effect of aspirin on colorectal cancer incidence and mortality" >{{Cite Journal |url = https://www.nejm.org/doi/10.1056/NEJMoa1803955 |title = Long-term effect of aspirin on colorectal cancer incidence and mortality: 20-year follow-up of five randomised trials |author1 = Peter M Rothwell |author2 = Michelle Wilson |author3 = Carl-Eric Elwin |author4 = Bo Norrving |author5 = Ale Algra |author6 = Charles P Warlow |author7 = Tom W Meade |date = 2010-10-22 |journal = [[The Lancet]] |volume = 376 |issue = 9754 |pages = 1741-1750 |doi = 10.1016/S0140-6736(10)61543-7 |pmid = 20970847 }}</ref>。ただし、肺がんと咽喉がんの予防効果に関しては、非喫煙者の腺がんにしか認められず、アスピリンを毎日服用した場合、胃の出血を惹き起こす恐れがある。アルコールと併用した場合、胃の症状はさらに悪化する<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.afpbb.com/articles/-/2778236?pid=6558713 |title = がん死亡リスク、アスピリン常用で大幅減、英大研究 |date = 7 December 2010 |work = [[AFPBB News]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20131014181847/https://www.afpbb.com/articles/-/2778236?pid=6558713 |archive-date = 14 October 2013 |access-date = 25 June 2023 }}</ref>。また、高用量(毎日500mg以上)のアスピリンを服用した場合、副作用により、長期的には癌の発症を防げない可能性がある、と付記している<ref name = "Long-term effect of aspirin on colorectal cancer incidence and mortality" />。
また、アスピリンの服用は癌の危険度を上昇させる可能性がある。禁忌が無い場合に推奨される薬物療法の一つとして、血糖値を降下させる[[メトホルミン|メトフォルミン]](''Metformin'')がある。これは二型糖尿病患者の第一選択治療手段である。メトフォルミンは、肝臓におけるブドウ糖の産生を抑制し、末梢におけるブドウ糖の取り込みを促進することによって作用し、それにより、血中のインスリン濃度を上昇させることなく血糖値を低下させる<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" >{{Cite Journal |url = https://academic.oup.com/jncics/article/7/2/pkad017/7066922 |title = Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes |author1 = Suzanne G Orchard, PhD |author2 = Jessica E Lockery, PhD |author3 = Jonathan C Broder |author4 = Mstat &OpRes |author5 = Michael E Ernst, PharmD |author6 = Sara Espinoza, MD, |author7 = Peter Gibbs, MD |author8 = Rory Wolfe, PhD |author9 = Galina Polekhina, PhD |author10 = Sophia Zoungas, PhD |author11 = Holli A Loomans-Kropp, PhD, |author12 = Robyn L Woods, PhD |author13 = ASPREE Investigator Group |date = 2023-03-01 |journal = JNCI Cancer Spectrum |publisher = Oxford University Press |volume = 7 |issue = 2 |doi = 10.1093/jncics/pkad017 |pmc = 10042437 |pmid = 36857596 |issn = 2515-5091 }}</ref>。また、[[高血糖]]と[[インスリン抵抗性]]が続く場合、メトフォルミンの癌の危険度に対する臨床効果は限定的なものとなり、アスピリンの服用行為は癌の危険度を上昇させる可能性がある。糖尿病患者とそうでない人々で、インスリン感受性に対するアスピリン療法の影響について調べた試験においては、高用量のアスピリンは、肝臓におけるブドウ糖の産生と末梢血漿ブドウ糖濃度を低下させたが、その際には、血中のインスリン濃度が47%増加するという代償を支払った。すなわち、メトフォルミンがインスリンの効果を減殺する作用は、アスピリンによる血中のインスリン濃度の上昇がない場合にのみ存在し、アスピリンの服用行為は、癌の転帰(疾患や怪我の治療における症状の経過とその結果)において、隠された害をもたらす。これは[[1980年代]]に行われた[[臨床研究]]で既に実証された<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" />。高血糖とインスリン抵抗性は、いずれも悪性腫瘍の罹患率と死亡率の上昇に関係する<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" />。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つからである<ref name = "Adipocyte and lipid metabolism in cancer drug resistance" /><ref name = "Insulin enhances metabolic capacities of cancer cells by dual regulation of glycolytic enzyme pyruvate kinase M2" /><ref name = "Insulin and cancer: a tangled web" />。アスピリンにはインスリンの分泌を刺激する作用がある<ref name = "Aspirin Stimulates Insulin and Glucagon Secretion" >{{Cite Journal |url = https://diabetesjournals.org/diabetes/article/27/12/1196/4384/Aspirin-Stimulates-Insulin-and-Glucagon-Secretion |title = Aspirin Stimulates Insulin and Glucagon Secretion and Increases Glucose Tolerance in Normal and Diabetic Subjects |author1 = Piero Micossi, MD |author2 = Antonio E Pontiroli, MD |author3 = Steven H Baron, MD |author4 = Raul C Tamayo, MD |author5 = Frieda Lengel |author6 = Maurizio Bevilacqua, MD |author7 = Umberto Raggi, MD |author8 = Guido Norbiato, MD |author9 = Piero P Foà, MD,PhD |date = 1978-12-01 |journal = The American Diabetes Association |volume = 27 |issue = 12 |doi = 10.2337/diab.27.12.1196 |pmid = 720774 |issn = 1939-327X }}</ref>。局所性の癌と進行性の癌、双方による死亡率についても、アスピリンを服用している人の方が高く、アスピリンは癌の進行に悪影響をもたらす可能性を示している<ref name = "Effect of Aspirin on Cancer Incidence and Mortality in Older Adults" >{{Cite Journal |url = https://academic.oup.com/jnci/article/113/3/258/5889955 |title = Effect of Aspirin on Cancer Incidence and Mortality in Older Adults |date = 2020-08-11 |journal = The Journal of the National Cancer Institute |publisher = Oxford University Press |volume = 113 |issue = 3 |pages = 258–265 |doi = 10.1093/jnci/djaa114 |pmc = 7936068 |pmid = 32778876 |issn = 1460-2105 }}</ref>。「アスピリンの服用が癌の危険度を下げる」ことを示す証拠は無い。
== 診断 ==
{{Main|腫瘍学}}
「がん」の診断には2つの状況がある。一つは臨床診断(特に[[病理検査]])と、もう一つは集団検診([[がん検診]]; 術後検診を含む)である。がんを根治する上で重要な点は[[自覚症状]]がない段階での「早期発見」と「全摘出手術の可能性検証」が挙げられる。言い換えると、集団検診と臨床診断とが効果的に機能して初めて、がん治療が成功に導かれる。また全摘出手術が困難な状況において、がんの種類によって異なる有効な治療法を選択する目的でも、臨床診断は重要である。
検診の方法としては、[[X線撮影]]、[[超音波検査]]、[[コンピュータ断層撮影]](CT)、[[核磁気共鳴画像法]](MRI)、[[ポジトロン断層法]](PET)、骨[[シンチグラフィ]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.ncc.go.jp/jp/rcc/treatment/diagnostic_imaging/index.html |title = 画像診断について |work = 国立がんセンター希少がんセンター |archive-url = https://web.archive.org/web/20171116102700/https://www.ncc.go.jp/jp/rcc/treatment/diagnostic_imaging/index.html |archive-date = 16 November 2017 |access-date = 25 June 2023 }}</ref>、消化器への[[内視鏡]]検査<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/gan/naishikyo.html |title = 内視鏡検査 |work = 東京都予防医学協会 |archive-url = https://web.archive.org/web/20151011072739/https://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/gan/naishikyo.html |archive-date = 11 October 2015 |access-date = 25 June 2023 }}</ref>がある。
一方、全摘出手術が成功した場合においても、再発がん、二次性がんの発生の懸念があるため、その局面においても術後定期検診は重要になる。
=== 細胞診断・生検組織診断 ===
「がん」の組織は[[顕微鏡]]下での観察、すなわち検鏡によって、形態から鑑別される。判定像では多くの分裂中の細胞が観察され、[[細胞核]]のサイズや形状はばらばらであり、(分化した)細胞の特徴が消失している。これらは[[細胞診]]でも[[病理学#生検組織診|生検組織診]]でも確認できる特徴である。組織診では正常な組織構造が失われている点や、周囲の組織(が一緒に採取されていれば、そこ)と腫瘍との境界が不明瞭であることが観察される。
生検組織診は、[[過形成]]、[[異形成]]、上皮内癌と浸潤癌との鑑別に有用である。
=== 進行度 ===
「がん」の進行度を表すものとして「TNM分類」や「ステージ分類」がある。
==== [[TNM分類]] ====
「T(''tumor''、腫瘍)」、「N(''nodes''、所属リンパ節)」、「M(''metastasis''、遠隔転移)」の3つの観点から進行度を分類したもの。T1~4、N0~3、M0~1の組み合わせで表現する。
==== ステージ分類 ====
TNM分類を元に、がんの進行度と広がりの程度を合わせて表すことができるように、と新たに作成された。臨床に沿った分類であり、「臨床進行期分類」と呼ばれる。
ステージ0(上皮内癌)〜ステージIVの五段階で分類される。個体としての[[死]]を迎えた段階で体内には1kg前後のがん細胞が生成されている<ref>{{Cite web|和書|url = https://w-bm.or.jp/p53kensa/ |title = 遺伝子p53抗体検査 {{!}} 人間ドック・健康診断|医療法人養寿会 ウェル・ビーイング・メディカ保健クリニック |archive-url = https://web.archive.org/web/20200808182814/https://w-bm.or.jp/p53kensa/ |archive-date = 8 August 2020 |access-date = 25 June 2023 }}</ref>。
* ステージ0 がん腫瘍が上皮内にとどまっている。[[リンパ節]]への転移はない。
* ステージI がん腫瘍が広がっているが、筋肉層でとどまっている。リンパ節への転移はない。
* ステージII がん腫瘍が筋肉層を超えて[[浸潤]]しているがリンパ節への転移はない。または、腫瘍は広がっていないが弱若リンパ節への転移が見られる。
* ステージIII がん腫瘍の浸潤が大きくなり、リンパ節に転移している。
* ステージIV がん腫瘍がはじめにできた原発巣を超えて、他の臓器に転移(遠隔転移)している。ステージIV(ステージ4)は末期がんとは異なり様々な治療法が存在し、医療の進歩によりその選択肢も増えている<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.gh-ouendan.com/ganbousai |title = がん防災マニュアル |date = 2021-04-06 |work = 一般社団法人がんと働く応援団 |access-date = 2021-09-11 }}</ref>。
TMN分類と同様に、臓器別に細かく分類されているため、上記の分類から更に詳細に分類される場合がある。胃がんの場合は、TNM分類との対比で以下のように定義されている<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.ringe.jp/civic/igan/igan_03.html |title = 一般のみなさま (3) 進行度分類と病期 |date = 2015-6-18 |work = [[日本臨床外科学会]] |accessdate = 2018-8-14 }}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em font-size:90%"
|+ 胃がんの進行度分類(TNM分類)と病期
! !! NO<br/><small>リンパ節転移がない</small> !! N1<br/><small>胃の領域リンパ節(※)のうち、<br/>1~2個に転移している</small> !! N2<br/><small>胃の領域リンパ節のうち、<br/>3~6個に転移している</small> !! N3<br/><small>胃の領域リンパ節のうち、<br/>7個以上に転移している</small> !! M1<br/><small>胃の領域リンパ節以外の<br/>リンパ節に転移している</small>
|-
!T1a (M)<br/><small>[[胃粘膜|胃の粘膜]]に限局している</small>
| {{math|I{{small|A}}}} || rowspan="2" | {{math|I{{small|B}}}} || rowspan="2" | {{math|II{{small|A}}}} || rowspan="2" | {{math|II{{small|B}}}} || rowspan="6" | {{math|I{{small|V}}}}
|-
!T1b (SM)<br/><small>胃の粘膜下層に達している</small>
| {{math|I{{small|A}}}}
|-
!T2 (MP)<br/><small>胃の筋層に達している</small>
| {{math|I{{small|B}}}} || {{math|II{{small|A}}}} || {{math|II{{small|B}}}} || {{math|III{{small|A}}}}
|-
!T3 (SS)<br/><small>胃の筋層を越え、<br/>[[漿膜]]下層に達している</small>
| {{math|II{{small|A}}}} || {{math|II{{small|B}}}} || {{math|III{{small|A}}}} || {{math|III{{small|B}}}}
|-
!T4a (SE)<br/><small>がんが漿膜を越え、<br/>胃の表面に出ている</small>
| {{math|II{{small|B}}}} || {{math|III{{small|A}}}} || {{math|III{{small|B}}}} || {{math|III{{small|C}}}}
|-
!T4b (SI)<br/><small>がんが胃の表面に出たうえに、<br/>他臓器にもがんが続いている</small>
| {{math|II{{small|B}}}} || {{math|III{{small|B}}}} || {{math|III{{small|C}}}} || {{math|III{{small|C}}}}
|-
|}
※胃の近くにあって転移しやすいリンパ節のことで、[[日本臨床外科学会]]の『胃治療ガイドライン』では13個のリンパ節を「領域リンパ節」 としている。
== 治療 ==
日本において[[昭和]]の頃は、「がん」といえば死の宣告と同義であった。日本は[[1984年]]に「対がん10ヵ年総合戦略」、1994年に「がん克服新10か年戦略」を策定し、多額の研究資金を投入してきた。また、日本だけでなく欧米諸国でも死因の上位であるがんの研究には多額の人材及び資金を投じてきた。2010年代までに、がんの治療成績は急激に上がった。実際、多くのがんでは初期(1期)であれば9割以上の[[5年生存率]](事実上の完治)となっているが、基本的に治りにくい病気であることは変わらないほか、膵癌のように治療が困難ながんも存在する。また、医学の世界では、がんの治癒は「完治」とは呼ばず、とりあえず病変が見えなくなった状態として「寛解(かんかい)」と呼ぶ。
治療手段は以下のものがある。
{{div col}}
* [[手術|外科手術]]
* [[化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法]]([[抗がん剤]])
* [[放射線療法]]
* [[血管内治療]]
* [[光免疫療法]] - [[2011年]]にアメリカ国立がん研究所と[[アメリカ国立衛生研究所]]の主任研究員である[[小林久隆]]らの研究団が開発した手法で、特殊な薬剤との併用で近赤外線を照射することでがん細胞を破壊する[[治験]]に成功している<ref name="cancerit">[https://www.cancerit.jp/38789.html 海外がん医療情報リファレンス - がんに対する標的光免疫療法の進展] 一般社団法人 日本癌医療翻訳アソシエイツ(JAMT)2016年5月24日掲載/2020年11月1日閲覧</ref>。現在は臨床試験段階だが小林らはNIR-PIT が、臨床的にがん治療のアプローチを根本的に変える可能性があると考えている<ref name = "biomedcircus" >{{Cite web|和書|url = http://biomedcircus.com/special_04_02.html |title = 米国国立がん研究所/米国国立衛生研究所 小林久隆 主任研究員 |date = 24 April 2015 |work = Bio Med Circus |archive-url = https://web.archive.org/web/20160304022831/http://biomedcircus.com/special_04_02.html |archive-date = 4 March 2016 |access-date = 25 June 2023 }}</ref>
* [[免疫療法]]
* [[ウイルス療法]]
* [[がんワクチン]]
* [[温熱療法]](ハイパーサーミア)…[[2020年]][[10月28日]]、千葉県がんセンター新病院にて、これを導入したという<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.pref.chiba.lg.jp/gan/shinryoka/haipasamia.html |title = ハイパーサーミア(温熱療法)外来 |work = 千葉県がんセンター |access-date = 25 June 2023 }}</ref>
* 補完[[代替医療]]
* [[支持療法]]
* [[緩和ケア]]
* [[ペインクリニック|痛みのコントロール]]
* [[カンナビノイド]]療法
* がんの心理療法(精神面・心理面のサポート)
{{div col end}}
ガン細胞は[[血管新生]]を誘引して大量の血管を生成するが、この結果できた血管は細い上に層構造の表皮部分が完全には形成されない脆い血管である。そのため、この血管新生を阻害する治療法や、逆にガンに伸びた血管の表皮を正常な状態にして、抗がん剤をガン細胞に届きやすくする治療が研究されている。
2014年1月、[[鳥取大学]]医学部は、「自身がクローニングした[[リボ核酸|RNA]]遺伝子の機能解析に従事している際、この遺伝子に関連して発現変動する単一の[[miRNA|マイクロRNA]]を悪性度の高い未分化癌に導入すると、容易に悪性度を喪失させることができ、正常幹細胞へ形質転換できるという画期的な治療法を発見した」と発表した。大学では「[[動物実験]]段階までである」としているが、「研究グループ代表によると、あらゆる癌に対応が可能で、現在実用化に向けて研究中であるという<ref name="鳥取大研究G">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20141006135506/http://www.med.tottori-u.ac.jp/34/84/12869.html |title = 癌細胞は、正常細胞や良性細胞へ変換できる |date = 2014-02-12 |work = 鳥取大学医学部 |access-date = 2014-10-03 }}</ref>。
=== 精密医療 ===
「精密医療」という用語があり、これは「''Precision Medicine''」の訳語である。患者の個人レベルで最適な治療方法を分析・選択し、それを施す。最先端の技術を用い、細胞を遺伝子レベルで分析し、適切な薬のみを投与する。アメリカ合衆国では既に一般的な方法として選択されている<ref name="precision">[https://web.archive.org/web/20170809225505/http://%E8%A9%B1%E9%A1%8C%E3%83%BB.com/precision-medicine.html プレシジョン・メディシン(精密医療)とは?]えむえむNEWS</ref>。
== がん闘病中・治療後の生活の質の向上 ==
{{出典の明記|date=2023年11月|section=1}}
がんは発見から闘病中において、病気や死への不安感、[[癌性疼痛]]による苦痛、生活や経済状態への打撃により、患者本人や家族らの「[[生活の質]]」(QOL, Quality Of Life)に大きな影響を与える。
がん治療後の最大の関心事は再発・[[転移 (医学)|転移]]の有無であり、がんが残っている場合にはその推移にある。このため、治療後も主治医による定期的な検診を受けて状況を正しく把握しつつ生活を再建していくことが肝要である。
{{Main|[[転移 (医学)|転移]]}}
がん治療は手術による切除を伴うことが多く、治療後の生活は、例えば治療によってがんそのものは完治した場合であっても、大きく影響を受けることが多い。がんができた場所によって治療により影響を受ける機能は千差万別であり、対処法もそれぞれに異なる。一般に、切除によって失われる体の機能をできる限り小さくし、失われた機能を補う手段を用いて、治療後のQOLを従来よりも向上させる努力が進められている。
=== ストーマ ===
[[大腸癌|直腸がん]]で肛門に近いところにがんができた場合や肛門にがんができた場合、[[人工肛門]](消化器[[ストーマ]])が作られる。また、[[膀胱がん]]で膀胱と尿道をとる必要がある場合、[[人工膀胱]]を用い、尿の排泄口である尿路出口(尿路ストーマ)が作られる。手術後、[[ストーマ]]による排泄をスムーズに行えるようにするケア(ストーマケア<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20071230070013/http://ganjoho.ncc.go.jp/public/dia_tre/attention/rehabilitation/stoma_care.html |title = ストーマケア |date = 2004-12-15 |work = 国立がんセンターがん対策情報センター |access-date = 2009-12-01 }}</ref>)の方法が十分に習得できてから退院する。ストーマがあっても入浴はでき、体力が回復すれば仕事や学業に復帰することも可能である。
=== 気管孔 ===
気管孔は鼻または口から肺へ空気を導入して呼吸困難になる場合、気管を外部へつなげる穴を開けて(気道切開)呼吸を確保する。[[首]]の付け根の前の位置に丸い穴をあける。気管孔は治療の過程で呼吸を確保するために一時的に設ける場合もあり、この場合は通常の呼吸が可能になると共に閉じられる。他方、咽頭、喉頭、またはその近くにがんがあり、治療により咽頭を全部切除しなければならない場合、そのままでは食事も呼吸もできなくなるので、口に通じる食道を気管と完全に分けて形成し、気管の出口を気管孔につなげる。この場合を永久気管孔という<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20091208113456/http://ganjoho.ncc.go.jp/public/dia_tre/attention/rehabilitation/tracheostomy.html |title = 永久気管孔(永久気管瘻)|date = 2004-12-02 |work = 国立がんセンターがん対策情報センター |access-date = 2009-12-01 }}</ref>。
永久気管孔を設けた場合、首に穴があいたままになる。術後の日常生活が受ける主な影響を以下に挙げる。
* 入浴時に気管孔に水が入らないように注意する。水泳および潜水はできない
* [[声帯]]を切除することで声が出なくなる。[[筆談]]や[[ジェスチャー]]での会話、電気発声法(人工喉頭)、[[食道発声|食道発声法]]を習得する
* 食事においてはにおいを嗅ぐ能力が失われる
=== 再建術 ===
==== 人工乳房 ====
乳がんの治療では、抗癌剤、放射線治療の併用により乳房を温存できる場合が増えている。治療法とそれによる様々な影響、治療後のリスクについて、十分に医師と患者の双方が納得して治療を行うことが重要である。切除手術を行った場合、人工乳房が各種開発されているので用いることができる。「[[乳房再建]]」も参照。
==== 顔面エピテーゼ ====
頭頸部がんでは治療によって、顔面の一部の機能が損なわれたり一部が失われたりする場合がある。手術に放射線治療、化学療法を併用することにより、失われる機能を最小限にする努力が進められており、切除範囲は縮小する傾向である。また、再建術も多く行われている。術後に予想される変化とリスクを医師と患者が話し合い、双方が納得して治療を進めることが重要である。喪失した顔面の各部に応じてエピテーゼを制作できる。医療用の接着剤またはインプラントにより装着する。近年は極めて自然な仕上がりのエピテーゼを用いることが可能になってきている。詳細は「[[顔面エピテーゼ]]」の項目参照。
; 耳のエピテーゼ
: 耳下腺がんの治療では、がんの進行の度合いによって治療により[[聴力]]をはじめどの機能までを残せるか、十分な検討が必用である。耳の切除が必要となった場合、[[外耳]]の一部が残せれば耳エピテーゼを用いても強度を保て、[[眼鏡]]の使用にも耐える。
; 鼻のエピテーゼ
: [[鼻]]は[[呼吸]]によって湿気にさらされる部分であり、外見のみでなく機能的部分も要求され、開発が進められている。
; 目およびその周囲のエピテーゼ
: 上顎がんが深く進行して目を含めて切除する必要がある時、残った[[眼窩]]の上に用いるエピテーゼを制作して装着できる。
; 顎[[義歯]]
==== 義肢(義手・義足) ====
[[骨肉腫]]が四肢に発生した場合、かつては切断することが必須とされたが、最近では切断せずに腫瘍を切除することも可能になった。切断した場合に用いる[[義肢]]の機能も大幅に改善されている。
=== 補遺 ===
がんの治療によって失われた臓器の機能を補う手段が得られない場合もある。このような場合には、生活の仕方で対応するか、医療的に補充する。
胃がんによって胃を全摘出した場合、胃に代わるものは用意できないため、食道から直接小腸へと食べ物が入るようになる。少しずつ時間をかけ、何回にも分けて食べることにより、対応できる。
甲状腺がんの場合、少しでも甲状腺が残せた場合甲状腺[[ホルモン]]は分泌されるが、甲状腺を全摘出した場合には分泌されなくなる。この場合、術後は甲状腺ホルモンを生涯にわたって処方してもらう。
== がんと統合失調症 ==
[[統合失調症]]の患者はがんによる死亡率が低いと言われている。統合失調症治療に使われる[[向精神薬]]が抗腫瘍効果を持つためであるとされている<ref>I.I.ゴッテスマン『分裂病の起源』[[日本評論社]]、1992年、ISBN 9784535580367</ref>。
== がんの原因の理解史 ==
がんを理解しようとする人たちは古代からおり、悪戦苦闘が繰り広げられてきた<ref name="k_kagakushi">『消された科学史』([[みすず書房]]、ISBN 978-4622050131)pp.79-122</ref>。
「''Cancer''」は[[古代ギリシア語]]「''Καρκινοσ''」(「カルキノス」, 「[[カニ]]」の意味)に由来する<ref name="k_kagakushi" />。あちこちに爪を伸ばし食い込んでゆく様子をこの言葉で表現した<ref name="k_kagakushi" />。「がんについての研究である[[腫瘍学]]を意味する「''Oncology''」の語源も、古代ギリシア語「''Ογκος''」(「オンコス」と読む。「塊」の意味)である。
紀元前1500年頃に書かれた[[エーベルス・パピルス]]にも癌に関する記述がある。
[[古代ローマ]]の[[ガレノス]](2〜3世紀頃)は、がんは[[四体液説|四体液]]の一つの黒胆汁が過剰になると生じる、と考えた<ref name="k_kagakushi" />(1500年頃までは医学の領域で「権威」とされていた<ref name="k_kagakushi" />)。ガレノスの後継者のなかには、情欲にふけることや、禁欲や、憂鬱が原因だとする者もいた<ref name="k_kagakushi" />。また同後継者には、ある種のがんが特定の家系に集中することに着目して、がんというのは遺伝的な病苦だ、と説明する者もいた<ref name="k_kagakushi" />。
18世紀後半を過ぎる頃になると、がんの一因として環境中の[[毒]](タバコ、[[煙突]][[掃除]]夫の皮膚につく煙突の[[煤]]、[[鉱業|鉱坑]]の[[粉じん]]、[[アニリン]][[染料]]が含有する[[化学物質]] 等)もあるのでは、とする説が、多くの人によって提唱された<ref name="k_kagakushi" />。
19世紀の中頃に、[[フィラデルフィア]]の外科医{{仮リンク|サミュエル・グロス|en|Samuel D. Gross}}は「(がんについて)確実にわかっていることは、我々はがんについて何も知らない、ということだけである」と書いた<ref name="k_kagakushi" />。そして、そのような「何も知らない」という状況は、19世紀末の時点でも、ほとんど変わっていなかった<ref name="k_kagakushi" />。
それから1世紀が経過し、理解が進む度に研究者の間で新たな疑問が登場し、科学的な知識が徐々に増えてきた<ref name="k_kagakushi" />。がんの研究は研究者たちにとって多くの困難と挫折に満ちたものであった<ref name="k_kagakushi" />。
20世紀初頭には、「[[感染症]]は特定の[[微生物]]によって引き起こされる」という説を支持する例が実験によって多数確認されたため、他の病気も容易に解明されるだろうと考えたり、がんも解明されるだろうと予想する人は多かった<ref name="k_kagakushi" />。
1955年、[[オットー・ワールブルク]]は、体細胞が低[[酸素]]状態に長時間晒されると呼吸障害を引き起こし、通常酸素濃度環境下に戻しても大半の細胞が変性や[[壊死]]を起こし、ごく一部の細胞が[[酸素呼吸]]に代わるエネルギー生成経路を昂進させて生存する細胞が癌細胞となる説を発表した。酸素呼吸よりも[[発酵]]によるエネルギー産生に依存するものは下等動物や胎生期の未熟な細胞が一般的であり、体細胞が酸素呼吸によらず発酵に依存することで細胞が退化し癌細胞が発生するとしている<ref>小野興作,大島福造,渡辺漸 ほか「[https://doi.org/10.4044/joma1947.70.12supplement_143 Warburgの「癌細胞の起原」に就いて]」『岡山医学会雑誌』1958年 70巻 12supplement号 p.143-154, {{DOI|10.4044/joma1947.70.12supplement_143}}</ref>。
=== ウイルス説 ===
「がんは感染症ではない」とも考えられていた<ref name="k_kagakushi" />。白血病のように、患者から家族や医療関係者に伝染することがないためである<ref name="k_kagakushi" />。だが、動物(の個体)からとった腫瘍を他の動物(の個体)に移植すると癌が誘発されることがわかった19世紀末以降は、がんにも感染性の病原体があるのかも知れないと考える人も出てきて、彼らは20世紀初頭までに、[[原生動物]]や[[真正細菌|バクテリア]]、[[スピロヘータ門|スピロヘータ]]、[[かび]]を調べた。それらの研究はうまくゆかず、がんの原因に感染症があると考える諸説は信用を失いそうになった。だが、[[ペイトン・ラウス]]が腫瘍から細胞とバクテリアを取り除いた抽出液をつくることを思いつき、それを調べれば細胞の他に作用している因子が見つかるかも知れないと考え、[[ニワトリ]]の肉腫を[[ろ過]]した抽出液を健康なニワトリに注射し、その鶏にも肉腫が発生するのを実験によって確認。その腫瘍は、微小な寄生生物、おそらく[[ウイルス]]に刺激されて生じたものかも知れない、とした<ref name="k_kagakushi" />。当時はウイルスの正体は分かっておらず、「…でないもの」という否定表現でしか記述できなかった<ref name="k_kagakushi" />。科学者はがんが感染するという実験的事実から、未知の病原体が存在するであろうことにも気付いた<ref name="k_kagakushi" />。その後、[[ウサギ]]でも同様の実験結果が得られたが、腫瘍を伝染させることに成功したのは主にニワトリ(やウサギ)の場合に限られていたので、やがて、がんの一因にウイルスがあるとする説は評判が悪くなってしまい、これを支持する科学者は評判を落としてしまいかねないような状況になった<ref name="k_kagakushi" />。[[異端]]の説だと見なされ、[[疑似科学者]]扱いされかねない空気が科学界に蔓延した。
{{仮リンク|ジャクソン研究所|en|Jackson Laboratory}}は、1929年に設立された組織で、今日では[[ハツカネズミ#実験用マウス|基礎医学研究用の規格化マウス]]を供給する組織として米国最大のものであり、その研究所でのがん発生研究のプログラムというのは「問題は遺伝子であって、ウイルスではない」という前提の下に行われていた<ref name="k_kagakushi" />。だが、同研究所の{{仮リンク|ジョン・ビットナー|en|John Joseph Bittner}}が、マウスのある種のがんは、母乳中の発がん因子が授乳を通じて子に移される仕組みであるという、ウイルスが関与しているという証拠を偶然に発見した<ref name="k_kagakushi" />。だが、当時の科学界は上述のようにウイルス説を異端視していたのでビットナーは躊躇して、それを「ウイルス」とは呼ばず、あえて「ミルク因子」と呼んだ<ref name="k_kagakushi" />。
{{仮リンク|ルドウィク・グロス|en|Ludwik Gross}}も、ウイルスが癌の原因になることがあることを、マウスの白血病がウイルスによってうつることを示す実験を行うことで確かめ、それを発表・報告したのだが、がん研究者の大半はその報告をまともに受け取らず、データ捏造をしているのでは、と考える者すらいた([[米国研究公正局|ワシントンにある研究公正局]]に出頭を求められかねないような扱いを受けた<ref name="k_kagakushi" />。
[[アメリカ国立癌研究所]]が設立された時期、[[公衆衛生局]]局長の諮問委員会は「がんの原因としてウイルスは無視できる」と結論づけた<ref name="k_kagakushi" />。
「《ミルク因子》というのは、ウイルスだ」と解釈することを科学的なこととして認め、ウイルス説を科学的に真面目に検討すべきだ、という認識ができてきたのはようやく1940年代末のことだった<ref name="k_kagakushi" />。状況を変えた人物は[[ジェイコブ・ファース]]([[:en:Jacob Furth (scientist)|Jacob Furth]]、1896-1979)<ref>{{PDFlink|[http://www.nasonline.org/publications/biographical-memoirs/memoir-pdfs/furth-jacob.pdf Jacob Furth, National Academy of Science]}}</ref> であった<ref name="k_kagakushi" />。ファースは既に高名な科学者であったが、その彼がグロスの実験を、それに用いるマウスの種類まで正確になぞることで、実験に[[再現性]]があること、そして事実であることを証明した。それによって基礎医学者たちがようやく、悪性腫瘍にウイルスが関与することがあるということを理解するようになった<ref name="k_kagakushi" />。かくして、長らく異端者のように扱われてきた[[ペイトン・ラウス]]は、1966年に85歳で[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した<ref name="k_kagakushi" />。
== 炎症と癌 ==
[[1863年]]、ドイツ人の医師で病理学者、[[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ|ルドルフ・ヴィルヒョウ]](''Rudolf Virchow'') は、「浸潤した免疫細胞は、炎症組織における癌病変が発生する場所を反映している」とする仮説を発表した<ref name = "From inflammation to cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5323483/ From inflammation to cancer] A. Korniluk, O. Koper, H. Kemona, and V. Dymicka-Piekarska. Ir J Med Sci. 2017; 186(1): 57–62. Published online 2016 May 7. {{doi|10.1007/s11845-016-1464-0}} {{PMC|5323483}} {{PMID|27156054}}</ref>。ヴィルヒョウの研究は、癌の起源が慢性炎症の領域にある可能性があることを示唆した<ref name = "Cytokine Storms in Cancer and COVID-19" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7531591/ Cytokine Storms in Cancer and COVID-19] Casmir Turnquist, Bríd M. Ryan, Izumi Horikawa, Brent T. Harris, and Curtis C. Harris. Cancer Cell. 2020 Nov 9; 38(5): 598–601. Published online 2020 Oct 2. {{doi|10.1016/j.ccell.2020.09.019}} {{PMC|7531591}} {{PMID|33038939}}</ref>。
[[1986年]]、ハロルド・ドヴォルジャーク(''Harold Dvorak'')は、発癌と炎症には、「増殖、細胞の生存と移動の増加、および成長因子、炎症性サイトカイン、血管新生促進因子(''Proangiogenic Factors'')が制御する[[血管新生]]の強化促進」といった共通の発生経路があることを示した。ドヴォルジャークは、炎症に関与する細胞が癌組織にも浸潤している事実を観察したうえで、癌について「''wound that does not heal''」(「治癒が不可能な傷」)と定義した<ref name = "From inflammation to cancer" />。
== ''The Women's Health Initiative'' ==
1990年代初期、[[アメリカ国立衛生研究所]](''The National Institutes of Health'')は、『''Women's Health Initiative''』(『女性の健康構想』)と題した、約10億ドルに及ぶ研究を行った<ref>{{Cite web |url = https://www.whi.org/about/SitePages/About%20WHI.aspx |title = About WHI |publisher = whi.org |access-date = 28 October 2019 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://clinicaltrials.gov/ct2/show/NCT00000611 |date = 15 April 2016 |title = Women's Health Initiative (WHI) |publisher = clinicaltrials.gov |access-date = 28 October 2019 }}</ref>。このとき、「低脂肪の食事で心臓病や癌を本当に予防できるか」という研究も同時に行われた。5万人近くの女性を登録し、そのうち19541人を無作為に選んだ。研究は[[1993年]]に開始し、8年間続けられた。研究者たちは、参加した女性たちに対し、果物・野菜・[[全粒穀物]]・食物繊維が豊富なもの・脂肪が少ないもの・・・これらを優先的に食べるよう指示した。この食事を続けるにあたり、女性たちは定期的にカウンセリングを受けた<ref name = "Low-Fat Diet Not a Cure-All" >{{Cite web |url = https://www.hsph.harvard.edu/nutritionsource/2006/02/09/low-fat-diet-not-a-cure-all-womens-health-initiative/ |title = Low-Fat Diet Not a Cure-All |date = 9 February 2006 |work = The Harvard T.H. Chan School of Public Health |access-date = 13 September 2020 }}</ref>。脂肪の摂取量については、摂取カロリーのうちの38%から20%に減らすことを目標とし、参加した女性たちについて、体重の増減、コレステロールの数値、脳卒中、心臓発作、乳癌、直腸癌、その他の心血管疾患を発症するかどうかについても調べた<ref name = "Low-Fat Diet Not a Cure-All" />。毎日の食事の摂取カロリーは360kcal分減らし、少ない量を食べ続けた。参加した女性たちは「少なく食べるように」「脂肪が少ないものを食べるように」「運動するように」という指示も与えられ、「食べる量を減らして運動量を増やす」を忠実にこなし続けた<ref name = "Why we get fat" />。
この生活を8年間続けた結果、女性たちは(実験開始前と比べて)1人あたり平均で約1kg体重が減ったが、その腰回りは膨らんだ<ref name = "Why we get fat" />。この事実が意味するところは、「彼女らの身体から減ったのは脂肪ではなく、'''[[筋肉]]である'''」ということである。また、研究者たちは「'''脂肪分の少ない食事は、心疾患、癌、その他の病気を予防できなかった'''」とも報告している<ref name = "Why we get fat" />。脂肪の摂取量が少ない食事には、乳癌、心臓病、脳卒中の発症リスクを下げる効果も、[[閉経]]後の女性の[[大腸癌|結腸直腸癌]]のリスクを下げる効果も一切無かった<ref name = "no-effect-risk" >{{Cite web |url = https://www.nih.gov/news-events/news-releases/news-womens-health-initiative-reducing-total-fat-intake-may-have-small-effect-risk-breast-cancer-no-effect-risk-colorectal-cancer-heart-disease-or-stroke |title = News from the Women’s Health Initiative: Reducing Total Fat Intake May Have Small Effect on Risk of Breast Cancer, No Effect on Risk of Colorectal Cancer, Heart Disease, or Stroke |date = 7 February 2006 |work = The National Institutes of Health |access-date = 13 September 2020 }}</ref>。彼女らが受けたカウンセリングおよび食事の意味として、意識的か無意識的かを問わず、「'''少食を心掛けた'''」ことである<ref name = "Why we get fat" />。「消費カロリーが摂取カロリーを上回れば体重は減る」のが本当であるのなら、この試験に参加した女性たちが太った理由が説明できなくなる<ref name = "Why we get fat" />。脂肪は1kgにつき、約7,000kcalのエネルギーに相当する。彼女らが、毎日の食事の摂取カロリーを360kcal減らしていたのなら、実験を開始して3週間で約1kgの脂肪が減っていたはずであり、1年続ければ約16㎏の脂肪が減る計算になる。試験開始の時点で、参加した女性たちの半数は肥満体であり、大多数は少なくとも過体重であった<ref name = "Why we get fat" />。研究者たちは、「低脂肪食は乳癌を患うリスクを下げるだろう」と考え、栄養士たちは「脂肪の摂取量について、目標の数値である20%まで下げれば、低脂肪食の効果が明白になった可能性がある」と述べた<ref name = "Low-Fat Diet Not a Cure-All" />。8年間かけて行われたこの研究結果は『アメリカ医師会誌』に掲載された<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" >[https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/202340 Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer: the Women's Health Initiative Randomized Controlled Dietary Modification Trial] Beresford SA, Johnson KC, Ritenbaugh C, Lasser NL, Snetselaar LG, Black HR, et al. (February 2006). JAMA. 295 (6): 643–654. {{doi|10.1001/jama.295.6.643}}</ref>。脂肪が少ない食事は、心臓病や糖尿病を患っている女性被験者の健康状態を改善するどころか、悪化させた<ref name = "ANCEL KEYS CHOLESTEROL CON. PART 14. 1994-2017" >{{Cite web |url = https://thenoakesfoundation.org/ancel-keys-cholesterol-con-part-14-1994-2017/ |title = ANCEL KEYS CHOLESTEROL CON. PART 14. 1994-2017 |author = Tim Noakes |work = The Noakes Foundation |access-date = 2023-10-20 }}</ref>。『女性の健康構想』の研究結果は、「癌や心血管疾患を防ぐという目的において、低脂肪食には何の効果も無い」<ref name = "Low-Fat Diet Not a Cure-All" />、「動物性脂肪を食事から排除しても、健康の改善には何の役にも立たない」ことも示した<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />。『女性の健康構想』の研究者は「野菜や果物が多く、脂肪が少ない食事が、癌の危険度を下げることを示す証拠は見付からなかった」と書いた<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" />。
肥満の女性は[[乳癌]]を患いやすくなる<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26182172/ Overweight, Obesity, and Postmenopausal Invasive Breast Cancer Risk: A Secondary Analysis of the Women's Health Initiative Randomized Clinical Trials] {{PMC|5070941}} {{PMID|26182172}} {{DOI|10.1001/jamaoncol.2015.1546}}</ref>。『女性の健康構想』研究終了後の追跡期間中、実験に参加した被験者のうち、7415人が死亡し、そのうちの1820人が癌で死亡し、151人が乳癌で死亡した。閉経後の女性において、インスリン抵抗性が身体で強まっている場合、さまざまな癌を患いやすくなり、癌による死亡率も上昇する<ref name = "Insulin Resistance and Cancer-Specific and All-Cause Mortality in Postmenopausal Women: The Women's Health Initiative" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7019097/ Insulin Resistance and Cancer-Specific and All-Cause Mortality in Postmenopausal Women: The Women's Health Initiative] {{PMC|7019097}} {{PMID|31184362}} {{DOI|10.1093/jnci/djz069}}</ref>。インスリン抵抗性が強いほど、乳癌になりやすくなり、その後の死亡率も上昇する<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32530506/ Insulin resistance and breast cancer incidence and mortality in postmenopausal women in the Women's Health Initiative] {{PMID|32530506}} {{DOI|10.1002/cncr.33002}}</ref>。
== 炭水化物、インスリン抵抗性、癌 ==
=== メタボリック症候群 ===
1980年代、[[スタンフォード大学]]の教授で内分泌学者、[[ジェラルド・リーヴン]](''Gerald Reaven'')は、「[[高血糖]](''Hyperglycemia'')、[[インスリン]](''Insulin'')の過剰分泌、ならびに[[インスリン抵抗性]](''Insulin Resistance'')と[[高インスリン血症]](''Hyperinsulinemia'')こそが[[メタボリック症候群]](''Metabolic Syndrome'')の根本的な原因である」と考え、「高血糖とインスリンの過剰分泌をもたらすのは[[炭水化物]]および[[砂糖]]・[[果糖]]である」とした。[[1987年]]、[[アメリカ国立衛生研究所]]は総意委員会を招集し、糖尿病の予防や治療について、集まった委員たちに議論させた。出席者の1人であったリーヴンは、「''Anyone who consumes more carbohydrates has to dispose of the load by secreting more insulin.''」(「誰であれ、炭水化物の摂取量が多いほど、その人の体内ではインスリンがさらに分泌され、身体はその処理に追われることになる」)と述べた<ref name = "The National Federation of the Blind 1987" >{{Cite web |url = https://nfb.org/images/nfb/publications/bm/bm87/brlm8704.htm |title = The Braille Monitor |date = April 1987 |work = The National Federation of the Blind |archive-url = https://web.archive.org/web/20060925123813/https://nfb.org/images/nfb/publications/bm/bm87/brlm8704.htm |archive-date = 25 September 2006 |access-date =8 October 2022 }}</ref>。[[1988年]]、[[アメリカ糖尿病協会]](''The American Diabetes Association'')が主催した「バンティング講義」(''Banting Lecture'', インスリンの共同発見者の1人、[[フレデリック・バンティング]]〈''Frederick Banting'', 1891~1941〉に敬意を払っている)に出席したリーヴンは、メタボリック症候群は[[肥満]]・[[糖尿病]]・[[高血圧]]とも密接に関係している趣旨を述べた<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/3056758/ Banting lecture 1988. Role of insulin resistance in human disease] Gerald Reaven. 1988 Dec;37(12):1595-607. {{doi|10.2337/diab.37.12.1595}}. {{PMID|3056758}}</ref><ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6435844/ Myths about Insulin Resistance: Tribute to Gerald Reaven] Sun H. Kimcorresponding author and Fahim Abbasi. Endocrinol Metab (Seoul). 2019 Mar; 34(1): 47–52. Published online 2019 Mar 21. {{doi|10.3803/EnM.2019.34.1.47}}, {{PMC|6435844}}, {{PMID|30912338}}</ref><ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4129661/ Metabolic Syndrome and Insulin Resistance: Underlying Causes and Modification by Exercise Training] Christian K. Roberts, Andrea L. Hevener, and R. James Barnard. {{doi|10.1002/cphy.c110062}} {{PMC|4129661}} NIHMSID:NIHMS604042 {{PMID|23720280}}</ref>。
メタボリック症候群を患っているということは、身体がインスリン抵抗性を惹き起こしていることと同義である。インスリン抵抗性は、肥満ならびにメタボリック症候群の特徴である<ref name = "Cytokines and Chemokines in Cancer Cachexia and Its Long-Term Impact on COVID-19" />。インスリン抵抗性は、肥満、高血糖、糖尿病、メタボリック症候群、癌とも密接に関係している<ref name = "Metabolic Syndrome and Cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3191378/ Metabolic Syndrome and Cancer] Pooja Pothiwala, M.D., Sushil K. Jain, Ph.D. and Subhashini Yaturu, M.D. Metab Syndr Relat Disord. 2009 Aug; 7(4): 279–287. {{doi|10.1089/met.2008.0065}} {{PMC|3191378}} {{PMID|19284314}}</ref>。
=== 高血糖 ===
炭水化物を摂取すると、体内で[[ブドウ糖]]に合成され、高血糖状態になる。インスリンはブドウ糖の細胞への取り込みを促進し、脂肪細胞からの脂肪酸の放出を抑制・妨害し、それによって身体が脂肪ではなくブドウ糖を最優先でエネルギー源にするよう促進する。インスリンは肝臓でのケトン体の産生を抑制し、脂肪の沈着を促進し、主要な代謝燃料の循環濃度までも低下させる<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" />。
炭水化物を食べて高血糖になり、そのたびにインスリンを注射する、というのを繰り返していると、さまざまな合併症や癌を患う危険性が上昇し、インスリンの強制的な注射やインスリンの強制分泌を促進する薬物の服用は、身体に深刻な不利益をもたらす<ref name = "Mortality and other important diabetes-related outcomes with insulin vs other antihyperglycemic therapies in type 2 diabetes" >[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23372169/ Mortality and other important diabetes-related outcomes with insulin vs other antihyperglycemic therapies in type 2 diabetes] Craig J Currie, Chris D Poole, Marc Evans, John R Peters, Christopher Ll Morgan. {{PMID|23372169}} {{DOI|10.1210/jc.2012-3042}}</ref>。インスリン療法を受けている患者は、インスリン療法を受けていない患者に比べて、[[心血管疾患]](''Cardiovascular Disease'')で死亡する危険性が上昇する<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33662172/ Risk of early mortality and cardiovascular disease according to the presence of recently-diagnosed diabetes and requirement for insulin treatment: a nationwide study] You-Bin Lee, Kyungdo Han, Bongsung Kim, Min Sun Choi, Jiyun Park, Minyoung Kim, Sang-Man Jin, Kyu Yeon Hur, Gyuri Kim, Jae Hyeon Kim. {{PMID|33662172}} {{DOI|10.1111/jdi.13539}}</ref>。さらに、インスリンを注射して血糖値を下げようとすると、心血管疾患の発症率は低下せず、死亡率は上昇する。体重については、インスリンを注射していた'''だけ'''で10㎏以上も増加した<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/18539917/ Effects of intensive glucose lowering in type 2 diabetes]{{PMID|18539917}} {{DOI|10.1056/NEJMoa0802743}}</ref>。インスリンは脂肪の蓄積を強力に促進し、空腹感を高め、体重増加を惹き起こす。たとえカロリーを制限したところで、インスリンを注射された動物には過剰な量の体脂肪が蓄積する<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" />。インスリンの過剰分泌を促進する食事は、インスリンを注射した時と同様の作用をもたらす<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" />。
血糖値が正常範囲内(90~99)であっても、血糖値が90未満の人間と比較すると、膵臓癌の累積発生率は有意に増加し<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/31498870/ The Incremental Risk of Pancreatic Cancer According to Fasting Glucose Levels: Nationwide Population-Based Cohort Study]{{PMID|31498870}} {{DOI|10.1210 / jc.2019-00033}}</ref>、空腹時の血糖値が110を超えると、あらゆる癌で死亡する確率が有意に上昇する<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/15644546/ Fasting serum glucose level and cancer risk in Korean men and women]{{PMID|15644546}} {{DOI|10.1001/jama.293.2.194}}</ref>。「''GLUT5''」と呼ばれる果糖輸送体は乳癌の発生に関わっている<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/8700847/ Expression of the fructose transporter GLUT5 in human breast cancer]{{PMID|8700847}} {{DOI|10.1073/pnas.93.5.1847}}</ref>。果糖は[[前立腺癌]]の腫瘍の増殖を強力に促進する<ref name = " Dietary Fructose Promotes Prostate Cancer Growth" >[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33762358/ Dietary Fructose Promotes Prostate Cancer Growth] Cancer Res. 2021 Jun 1;81(11):2824-2832. doi: 10.1158/0008-5472.CAN-19-0456. Epub 2021 Mar 24. {{PMID|33762358}} {{DOI|10.1158/0008-5472.CAN-19-0456}}</ref>。
炭水化物が多い食事は高血糖を有意に惹き起こす<ref name = "Effect of high carbohydrate intake on hyperglycemia" >[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/1468287/ Effect of high carbohydrate intake on hyperglycemia, islet function, and plasma lipoproteins in NIDDM] A Garg, S M Grundy, M Koffler. {{PMID|1468287}} {{DOI|10.2337/diacare.15.11.1572}}</ref>。[[砂糖]]を含む飲み物も高血糖の明確な原因となる<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21677052/ Low to moderate sugar-sweetened beverage consumption impairs glucose and lipid metabolism and promotes inflammation in healthy young men: a randomized controlled trial] Isabelle Aeberli, Philipp A Gerber, Michel Hochuli, Sibylle Kohler, Sarah R Haile, Ioanna Gouni-Berthold, Heiner K Berthold, Giatgen A Spinas, Kaspar Berneis. {{PMID|21677052}} {{DOI|10.3945/ajcn.111.013540}}</ref>。
=== インスリン抵抗性 ===
インスリンとは、[[膵臓]]の[[ランゲルハンス島]]にある[[β細胞]](''Beta Cell'')から分泌される[[ペプチドホルモン]]である。細胞による[[ブドウ糖]]の取り込みを促進し、炭水化物、脂質、タンパク質の代謝を調節し、分裂を促進する効果を通じて細胞分裂と成長を促進し、正常な血糖値を維持する<ref name = "Insulin and Insulin Resistance" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1204764/ Insulin and Insulin Resistance] Gisela Wilcox. Clin Biochem Rev. 2005 May; 26(2): 19–39. {{PMC|1204764}} {{PMID|16278749}}</ref>。
[[インスリン抵抗性]]は、インスリンが肝臓、脂肪組織、骨格筋といった末梢標的組織において、インスリンの機能が損なわれたり、弱まったり、機能を発揮できない状態を指す。インスリン抵抗性は、2型糖尿病の発症にも関与する極めて重要な病因因子である<ref name = "Immunometabolic bases of type 2 diabetes in the severity of COVID-19" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8311488/ Immunometabolic bases of type 2 diabetes in the severity of COVID-19] Rebeca Viurcos-Sanabria and Galileo Escobedo. World J Diabetes. 2021 Jul 15; 12(7): 1026–1041. Published online 2021 Jul 15. {{doi|10.4239/wjd.v12.i7.1026}} {{PMC|8311488}} {{PMID|34326952}}</ref>。
たとえ運動していても、炭水化物を食べている限り高血糖は防げない。運動中は血糖値の上昇が抑えられているが、運動を終えた途端に血糖値は急上昇する<ref name = "Effect of exercise timing on elevated postprandial glucose levels" >{{Cite Journal |url = https://journals.physiology.org/doi/full/10.1152/japplphysiol.00608.2016 |title = Effect of exercise timing on elevated postprandial glucose levels ||author1 = Yoichi Hatamoto |author2 = Ryoma Goya |author3 = Yosuke Yamada |author4 = Eichi Yoshimura |author5 = Sena Nishimura |author6 = Yasuki Higaki |author7 = Hiroaki Tanaka |date = August 2017 |journal = Journal of Applied Physiology |publisher = The American Physiological Society |volume = 123 |issue = 2 |pages = 278-284 |doi = 10.1152/japplphysiol.00608.2016 |pmid = 28408695 }}</ref>。炭水化物が多いものを食べている限り、高血糖状態は続く<ref name = " Blood Glucose Levels of Subelite Athletes During 6 Days of Free Living" >{{Cite Journal |url = https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/1932296816648344 |title = Blood Glucose Levels of Subelite Athletes During 6 Days of Free Living |author1 = Felicity Thomas |author2 = Chris G Pretty |author3 = Thomas Desaive |author4 = J Geoffrey Chase |date = 2016-07-09 |journal = Journal of Diabetes Science and Technology |publisher = Diabetes Technology Society |volume = 10 |issue = 6 |doi = 10.1177/1932296816648344 |pmc = 5094325 |pmid = 27301981 |issn = 1932-2968 }}</ref>。高血糖もインスリン抵抗性も運動では防げない。
「インスリン感受性が低い」ということは、「[[インスリン抵抗性]]が高い」(インスリンの効き目が悪い)状態を意味する<ref>{{Cite web |url = https://www.ruled.me/insulin-sensitivity/ |title = How You Can Optimize It for Better Health |author = Dr. Frank Aieta, ND |website = ruled.me |archive-url = https://web.archive.org/web/20190412015134/https://www.ruled.me/insulin-sensitivity/ |archive-date = 12 April 2019 |access-date =15 November 2022 }}</ref>。
インスリン抵抗性に伴い、血糖値が慢性的に高い状態が続くと、インスリン抵抗性は、高血糖症、[[高インスリン血症]]、および全身の細胞に酸化ストレス(''Oxidative Stress'')をもたらす<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6138814/ The etiology of oxidative stress in insulin resistance] Samantha Hurrle and Walter H. Hsu. Biomed J. 2017 Oct; 40(5): 257–262. Published online 2017 Nov 8. {{doi|10.1016/j.bj.2017.06.007}} {{PMCID|6138814}} {{PMID|29179880}}</ref>。高血糖は、体内で[[AGEs]](''Advanced Glycation End Products'', 「'''最終糖化産物'''」と呼ばれる)の産生を促進する。これは身体の老化を強力に促進する物体で、タンパク質に糖が結合することでタンパク質が変性する。果糖はAGEsをブドウ糖以上に強力に生成し、ブドウ糖を摂取したときの10倍もできやすくなる<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5227984/ Formation of Fructose-Mediated Advanced Glycation End Products and Their Roles in Metabolic and Inflammatory Diseases] Alejandro Gugliucci, Published online 2017 Jan 11, {{doi|10.3945/an.116.013912}}.</ref>。インスリン抵抗性において、高血糖は、最終糖化産物の形成を促進する<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" />。インスリンは全身の脂肪細胞に強く作用し、摂取した炭水化物を中性脂肪に合成して脂肪細胞内に閉じ込め、脂肪細胞は肥大していく。インスリンは脂肪細胞にエネルギーを貯蔵するにあたり、重要なホルモン信号を持つ。脂肪細胞は肝臓や骨格筋においてインスリン抵抗性に直面したとしても、インスリン感受性(インスリンの効き目の強さ)を維持する傾向が強く、インスリン抵抗性が強まれば強まるほど、脂肪組織の形成を促進し、体重の増加が加速する<ref>[https://www.ahajournals.org/doi/10.1161/01.ATV.0000186208.06964.91 Fast Food, Central Nervous System Insulin Resistance, and Obesity] Elvira Isganaitis, Robert H.Lustig RH (December 2005). Arteriosclerosis, Thrombosis, and Vascular Biology. 25 (12): 2451–62.{{doi|10.1161/01.ATV.0000186208.06964.91}} {{PMID|16166564}}</ref>。脂肪細胞は、肥大するにつれて「サイトカイン・ストーム」(''Cytokine Storm'', 「免疫機能暴走」)を惹き起こし、これは全身に有害な影響をもたらす。サイトカイン・ストームは「高サイトカイン血症」(''Hypercytokinemia'')とも呼ばれ、もともと身体に備わっている免疫系統(''Immune System'')が「サイトカイン」と呼ばれる炎症信号伝達分子を制御不能状態で過剰に放出する現象であり、ヒトや動物にみられる生理的な反応である。サイトカインそのものは[[感染]]に対して身体が示す免疫反応の一部であるが、この分子が突然大量に放出されると、[[多臓器不全]](''Multisystem Organ Failure'')を惹き起こしたり、[[死]]につながる<ref>{{cite journal |doi=10.1007/s11739-020-02355-7|title=Systematic review of the prevalence of current smoking among hospitalized COVID-19 patients in China: Could nicotine be a therapeutic option?|year=2020|last1=Farsalinos|first1=Konstantinos|last2=Barbouni|first2=Anastasia|last3=Niaura|first3=Raymond|journal=Internal and Emergency Medicine|volume=15|issue=5|pages=845–852|pmid=32385628|pmc=7210099|doi-access=free}}</ref>。炎症反応を誘発する性質を持つサイトカイン(''Proinflammatory Cytokine'')である「IL-6」(「[[インターロイキン-6]]」, ''Interleukin-6'', 炎症性サイトカインの一種)は、さまざまな代謝、内分泌、および腫瘍性疾患に関与する。IL-6の信号伝達はインスリン抵抗性を誘発し、タンパク質、脂質、脂肪酸の代謝を変化させ、[[貧血]]と食欲不振を刺激する<ref name = "COVID-19 and cytokine storm syndrome: can what we know about interleukin-6 in ovarian cancer be applied?" >[https://ovarianresearch.biomedcentral.com/articles/10.1186/s13048-021-00772-6 COVID-19 and cytokine storm syndrome: can what we know about interleukin-6 in ovarian cancer be applied?] Antonio Macciò, Sara Oppi & Clelia Madeddu. Journal of Ovarian Research, Published: 08 February 2021</ref>。また、[[内臓脂肪]]は炎症誘発性のサイトカインを生成する<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4038351/ What causes the insulin resistance underlying obesity?] Olga T. Hardy,a,b Michael P. Czech,a and Silvia Corveraa. Curr Opin Endocrinol Diabetes Obes. Author manuscript; available in PMC 2014 May 29. Published in final edited form as: Curr Opin Endocrinol Diabetes Obes. 2012 Apr; 19(2): 81–87.{{doi|10.1097/MED.0b013e3283514e13}} {{PMC|4038351}} {{PMID|22327367}}</ref>。このサイトカインは血流に直接輸送され、サイトカイン・ストームを惹き起こす直接の原因となる<ref name = "Cytokines and Chemokines in Cancer Cachexia and Its Long-Term Impact on COVID-19" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8834385/ Cytokines and Chemokines in Cancer Cachexia and Its Long-Term Impact on COVID-19] Santosh Kumar Singh and Rajesh Singh, Sham S. Kakar, Academic Editor. Cells. 2022 Feb; 11(3): 579. Published online 2022 Feb 8. {{doi|10.3390/cells11030579}} {{PMC|8834385}} {{PMID|35159388}}</ref>。炎症誘発性のサイトカインは、腫瘍の発生に影響を与える。サイトカインは癌を促進する役割も果たす<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7827947/ Inflammatory Cytokines in Cancer: Comprehensive Understanding and Clinical Progress in Gene Therapy] Tianxia Lan, Li Chen and Xiawei Wei. Cells. 2021 Jan; 10(1): 100. Published online 2021 Jan 8. {{doi|10.3390/cells10010100}} {{PMC|7827947}} {{PMID|33429846}}</ref>。
高血糖になると、膵臓は、血糖値を正常な状態に戻そうとしてさらに多くのインスリンを分泌するが、これは[[高インスリン血症]]の原因となる。筋肉細胞や脂肪細胞におけるインスリン感受性は低下し、血糖値は低下せず、インスリン抵抗性に対処するために膵臓のβ細胞は過剰な量のインスリンを分泌しようとする<ref>[https://www.omicsonline.org/open-access/correlations-of-oxidized-low-density-lipoprotein-with-insulin-leptin-and-risk-of-cardiovascular-disease-in-a-group-of-diabetic-obese-tunisian-women-2165-7904-1000279.php?aid=61925 Correlations of Oxidized Low Density Lipoprotein with Insulin, Leptin and Risk of Cardiovascular Disease in a group of Diabetic Obese Tunisian Women] Fethi Ben Slama, Wala Gaaloul Helali, Faika Ben Mami, Mohamed Chiheb Ben Rayana, Omrane Belhadj and Hajer Aounallah Skhiri. Published: October 30, 2015 {{doi|10.4172/2165-7904.1000279}}</ref>。血糖値が高い状態でビタミンCを摂取した場合、身体への吸収は抑制される。これは、摂取したはずのビタミンが細胞に吸収されるのをインスリンが妨害するからである。これにより、炭水化物と一緒に摂取したビタミンCは、全て尿と一緒に排泄されてしまう<ref name = "Why we get fat" />。
メタボリック症候群は、肥満、糖尿病、[[アルツハイマー病]]、さらには各種の癌とも密接に関わっている<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3191378/ Metabolic Syndrome and Cancer] Pooja Pothiwala, M.D. Sushil K. Jain, Ph.D. and Subhashini Yaturu, M.D. {{doi|10.1089/met.2008.0065}} {{PMC|3191378}} {{PMID|19284314}}</ref><ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3164150/ The Link between the Metabolic Syndrome and Cancer] Sandra Braun, Keren Bitton-Worms, and Derek LeRoith. Published online 2011 Aug 16. {{doi|10.7150/ijbs.7.1003}} {{PMC|3164150}} {{PMID|21912508}}</ref>。また、砂糖および果糖は脳においてもインスリン抵抗性を惹き起こし、脳の神経組織を破壊し、アルツハイマー病を惹き起こす直接の原因となる<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23657152/ High-sugar diets, type 2 diabetes and Alzheimer's disease] Paula I Moreira. {{PMID|23657152}} {{DOI|10.1097/MCO.0b013e328361c7d1}}</ref><ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7516162/ Cerebral Fructose Metabolism as a Potential Mechanism Driving Alzheimer’s Disease] Richard J. Johnson, Fernando Gomez-Pinilla, Maria Nagel, Takahiko Nakagawa,4 Bernardo Rodriguez-Iturbe, Laura G. Sanchez-Lozada, Dean R. Tolan, and Miguel A. Lanaspa. Published online 2020 Sep 11. {{doi|10.3389/fnagi.2020.560865}} {{PMID|33024433}}</ref>。
砂糖および果糖はインスリン感受性を低下させ、内臓脂肪の蓄積を促進し、空腹時の血糖値とインスリンの濃度を上昇させ<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2673878/ Consuming fructose-sweetened, not glucose-sweetened, beverages increases visceral adiposity and lipids and decreases insulin sensitivity in overweight/obese humans] J Clin Invest. 2009 May 1; 119(5): 1322-1334. Kimber L. Stanhope, Jean Marc Schwarz, Nancy L. Keim, Steven C. Griffen, Andrew A. Bremer, James L. Graham, Bonnie Hatcher, Chad L. Cox, Artem Dyachenko, Wei Zhang, John P. McGahan, Anthony Seibert, Ronald M. Krauss, Sally Chiu, Ernst J. Schaefer, Masumi Ai, Seiko Otokozawa, Katsuyuki Nakajima, Takamitsu Nakano, Carine Beysen, Marc K. Hellerstein, Lars Berglund, and Peter J. Havel, Published online 2009 Apr 20, {{doi|10.1172/JCI37385}}.</ref>、肝臓に脂肪を蓄積させ、[[ミトコンドリア]]の機能を妨害し、[[炎症]]の誘発を刺激し<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5331527/ Effects of Natural Products on Fructose-Induced Nonalcoholic Fatty Liver Disease (NAFLD)] Qian Chen, Tingting Wang, Jian Li, Sijian Wang, Feng Qiu, Haiyang Yu, Yi Zhang, and Tao Wang. Nutrients. 2017 Feb; 9(2): 96.Published online 2017 Jan 31, {{doi|10.3390/nu9020096}}.</ref>、[[脂質異常症]]、[[インスリン抵抗性]]を惹き起こし、[[糖尿病]]発症を促進する<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6037111/ Fructose metabolism, cardiometabolic risk, and the epidemic of coronary artery disease] Peter Mirtschink, Cholsoon Jang, Zoltan Aran, Wilhelm Krek, Eur Heart J. 2018 Jul 7; 39(26): 2497-2505. Published online 2017 Sep 7, {{doi|10.1093/eurheartj/ehx518}}</ref>。150gの米を食べた場合、砂糖10杯分を摂取した時と同等の高血糖を惹き起こす<ref name = "Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes" />。
砂糖は膵臓癌<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17093171/ Consumption of sugar and sugar-sweetened foods and the risk of pancreatic cancer in a prospective study] Susanna C Larsson, Leif Bergkvist, Alicja Wolk. {{PMID|17093171}} {{DOI|10.1093/ajcn/84.5.1171}}</ref>をはじめとする各種の癌を患う可能性を高める。これの摂取を断つことが、癌の予防や治療への取り組みとなりうることを示唆している<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7350662/ Fructose contributes to the Warburg effect for cancer growth] Takahiko Nakagawa,corresponding author, Miguel A. Lanaspa, Inigo San Millan, Mehdi Fini, Christopher J. Rivard,6 Laura. Sanchez-Lozada, Ana Andres-Hernando, Dean R. Tolan, and Richard J. Johnson. Cancer Metab. 2020; 8: 16. Published online 2020 Jul 10, {{doi|10.1186/s40170-020-00222-9}}.</ref>。砂糖の摂取を減らすことにより、脂肪肝、肥満、各種疾患を防げる可能性が出てくる<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5622741/ Fructose Consumption, Lipogenesis, and Non-Alcoholic Fatty Liver Disease] Kasper W. ter Horst and Mireille J. Serlie. Nutrients. 2017 Sep; 9(9): 981. Published online 2017 Sep 6, {{doi|10.3390/nu9090981}}</ref>。砂糖および果糖の摂取は肝臓への脂肪の蓄積を促すが、[[炭水化物]]および砂糖が少ない食事を摂ると、蓄積した脂肪が急速に減少することが確認された。外部からの資金提供を受けることなく書かれた研究論文の著者は、「身体の健康を守るために砂糖の摂取を制限すべきである」と結論付けている<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6770027/ Dietary Fructose and the Metabolic Syndrome] Marja-Riitta Taskinen, Chris J Packard, and Jan Borén3, Nutrients. 2019 Sep; 11(9): 1987. Published online 2019 Aug 22, {{doi|10.3390/nu11091987}}.</ref>。
ヒトは[[ストレス (生体)|ストレス]](精神的な重圧や緊張状態)に晒されると、[[副腎皮質]]から[[コルチゾール]](''Cortisol'')と呼ばれる[[ホルモン]]が分泌され、血中に流れ出る。これは「ストレス・ホルモン」(''Stress Hormone'')と呼ばれ、慢性的なストレス反応に対して身体が示す正常な反応であるが、コルチゾールの濃度が高い状態が続くと、内臓脂肪の蓄積やインスリンの分泌を刺激し、インスリン抵抗性につながる可能性がある<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4919480/ Investigation of the Relationship Between Chronic Stress and Insulin Resistance in a Chinese Population] Yu-Xiang Yan, Huan-Bo Xiao, Si-Si Wang, Jing Zhao, Yan He, Wei Wang, and Jing Dong. J Epidemiol. 2016; 26(7): 355–360. Published online 2016 Jul 5. Prepublished online 2016 Jan 30. {{doi|10.2188/jea.JE20150183}} {{PMC|4919480}} {{PMID|26830350}}</ref>。インスリン抵抗性が認められる患者の体内では、コルチゾールとインスリンの濃度が高い<ref>[https://www.scitechnol.com/peer-review/the-influence-of-cortisol-and-age-differences-on-the-development-of-insulin-resistance-and-dyslipidemia-in-euthyroid-patients-jIWq.php?article_id=8169 The Influence of Cortisol and Age Differences on the Development of Insulin Resistance and Dyslipidemia in Euthyroid Patients] Abdelgayoum A Abdel-Gayoum. Endocrinology & Diabetes Research. Published: July 27, 2018. {{doi|10.4172/2470-7570.1000130}}</ref>。
臨床研究では、高血圧患者の約50%が高インスリン血症や[[耐糖能異常]](''Impaired Glucose Tolerance'')を示し、2型糖尿病患者の最大80%が高血圧症を示している。インスリンは[[内皮]]において[[一酸化窒素]]の産生を刺激し、血管弛緩(''Vasorelaxation'')を誘発する作用も持つ。また、インスリンは[[腎臓]]に対して「[[ナトリウム]]を再吸収せよ」との信号を送る。腎臓は体内のナトリウムの量を保持し、インスリンはナトリウムの体外への排泄を抑制・妨害する。ナトリウムの蓄積は余分な水分貯留につながり、高血圧を惹き起こす<ref>[https://dmsjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/1758-5996-6-12 Link between insulin resistance and hypertension: What is the evidence from evolutionary biology?] Ming-Sheng Zhou, Aimei Wang & Hong Yu. Published: 31 January 2014. Diabetology & Metabolic Syndrome Journal {{doi|10.1186/1758-5996-6-12}}</ref>。正常な血糖値を維持するためにインスリンが分泌され、それに伴う高インスリン血症は、インスリンによるナトリウム保持作用を悪化させ、高血圧をもたらす<ref>[https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fphys.2021.793924/full Salt-Sensitivity of Blood Pressure and Insulin Resistance] Lale A. Ertuglu, Fernando Elijovich, Cheryl L. Laffer and Annet Kirabo. Frontier. 13 December 2021 {{doi|10.3389/fphys.2021.793924}}</ref>。
食事を終えて時間が経過したり、糖分が少ない食事を摂ったり、長時間絶食すると、血糖値と血中のインスリンの濃度が低下する。血中のインスリン濃度が低下すると、腎臓は貯蔵していたナトリウムを、体内に溜まった余分な水分と一緒に体外に排出する。炭水化物の摂取を制限すると血圧は低下し、降圧剤の服用回数を減らせる<ref name = "Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes" />。高血圧をもたらすのは、インスリン抵抗性を直接惹き起こす砂糖であり、砂糖の摂取を減らすと、空腹時のインスリン濃度は低下し、血圧も低下する<ref name = "The wrong white crystals: not salt but sugar as aetiological in hypertension and cardiometabolic disease" >[https://openheart.bmj.com/content/1/1/e000167 The wrong white crystals: not salt but sugar as aetiological in hypertension and cardiometabolic disease] James J DiNicolantonio and Sean C Lucan. British Cardiovascular Society. {{doi|10.1136/openhrt-2014-000167}}</ref>。ナトリウムと[[カリウム]]の摂取量が多いほど血圧は低くなり、この両方の摂取量が少ないほうが血圧は高くなる<ref name = "Low Sodium Intakes are Not Associated with Lower Blood Pressure Levels among Framingham Offspring Study Adults" >[https://faseb.onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1096/fasebj.31.1_supplement.446.6 Low Sodium Intakes are Not Associated with Lower Blood Pressure Levels among Framingham Offspring Study Adults] Lynn L. Moore, Martha R. Singer, M. Loring Bradlee. First published: 03 October 2018. {{doi|10.1096/fasebj.31.1_supplement.446.6}}</ref>。
慢性的な高インスリン血症は、癌を促進する可能性を高める。また、インスリンは'''腫瘍の成長、増殖、転移を直接誘導する'''力を持つ<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" /><ref name = "The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2949481/ The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer] Emily Jane Gallagher and Derek LeRoith. Trends Endocrinol Metab. 2010 Oct; 21(10): 610–618. Published online 2010 Jul 19. {{doi|10.1016/j.tem.2010.06.007}} {{PMC|2949481}} {{PMID|20663687}}</ref><ref name = "Insulin induction instigates cell proliferation and metastasis in human colorectal cancer cells" >[https://www.spandidos-publications.com/10.3892/ijo.2017.3844 Insulin induction instigates cell proliferation and metastasis in human colorectal cancer cells] Chi-Cheng Lu, Pei-Yi Chu, Shih-Min Hsia, Chi-Hao Wu, Yu-Tang Tung, and Gow-Chin Yen. Published online on: January 5, 2017. {{doi|10.3892/ijo.2017.3844}}</ref>。インスリンは発癌を促進し、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌による死亡率が上昇する<ref name = "Association between hyperinsulinemia and increased risk of cancer death in nonobese and obese people" />。癌とは炎症性の疾患であり、全身性の[[炎症]]は癌患者に見られる特徴である。炎症は癌の発生と進行に関与しており、炎症とインスリン抵抗性は、癌において重要な役割を果たす<ref name = "A Novel Inflammation and Insulin Resistance Related Indicator to Predict the Survival of Patients With Cancer" />。インスリン抵抗性は、癌、心臓病、脳卒中、2型糖尿病、メタボリック症候群、脂肪肝、肥満、アルツハイマー型認知症に強く関与する<ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" />。
慢性的な高血糖と酸化ストレスの増加も、癌を患う危険の増加につながる。さまざまな証拠が示すところでは、インスリン抵抗性と癌は密接に関係している。多くの臨床的および疫学的証拠は、高インスリン血症、インスリン抵抗性、および脂質異常症に関連する体重の過剰な増加は、結腸癌や乳癌を含む腫瘍の重大な危険因子である可能性を示している<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" />。
多くの疫学的研究は、インスリン抵抗性が強い患者の体内においては、乳癌、結腸直腸癌、肝臓癌、および膵臓癌を患う危険性が高いことを一貫して示している<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3372318/ Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms] Biagio Arcidiacono, Stefania Iiritano, Aurora Nocera, Katiuscia Possidente, Maria T. Nevolo, Valeria Ventura, Daniela Foti, Eusebio Chiefari, and Antonio Brunetti. Exp Diabetes Res. 2012; 2012: 789174. Published online 2012 Jun 4. {{doi|10.1155/2012/789174}} {{PMC|3372318}} {{PMID|22701472}}</ref>。インスリンは強力な[[分裂促進因子]](''Mitogen'')であり、膵臓癌、結腸直腸癌、前立腺癌、子宮内膜癌、肝臓癌、卵巣癌、その他のありとあらゆる癌の発生にはインスリンが直接関与している証拠を提供する<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8164941/ Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer] Anni M.Y. Zhang, Elizabeth A. Wellberg, Janel L. Kopp, and James D. Johnson. Diabetes Metab J. 2021 May; 45(3): 285–311. Published online 2021 Mar 29. {{doi|10.4093/dmj.2020.0250}} {{PMC|8164941}} {{PMID|33775061}}</ref>。高インスリン血症は、癌による死亡率を2倍に増やす。体重やBMIの数値が正常であったとしても、インスリンの濃度が上がるだけで、癌の発生率のみならず、その死亡率までもが上昇する<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" />。[[1991年]]から[[1996年]]にかけて、12000人以上の糖尿病患者について調査した研究では、インスリンの投与量が多ければ多いほど、死亡率が高かった。インスリンの投与量が多かった群では、そうでなかった群と比較して、死亡率が279%上昇した<ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" />。
また、糖尿病の有無に関係なく、空腹時のインスリン濃度が上昇するか、インスリンの分泌量が増えるだけで、脳の認知機能は低下する<ref name = "Fasting Plasma Insulin, C-Peptide and Cognitive Change in Older Men without Diabetes" >{{Cite Journal |url = https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2883838/ |title = Fasting Plasma Insulin, C-Peptide and Cognitive Change in Older Men without Diabetes: Results from the Physicians’ Health Study II |author1 = Olivia I. Okereke |author2 = Tobias Kurth |author3 = Michael N. Pollak |author4 = Francine Grodsteina |date = May 2010 |journal = Neuroepidemiology |issue = 4 |volume = 34 |doi = 10.1159/000289351 |issn = 1423-0208 |pmc = 2883838 |pmid = 20197703 |NIHMS = 161060 }}</ref>。
インスリンは身体の老化を強力に促進し、脳の認知機能を破壊し、寿命を縮める<ref name = "Insulin: too much of a good thing is bad" >[https://bmcmedicine.biomedcentral.com/articles/10.1186/s12916-020-01688-6 Insulin: too much of a good thing is bad] Hubert Kolb, Kerstin Kempf, Martin Röhling & Stephan Martin. BMC Medicine. Published: 21 August 2020. {{doi|10.1186/s12916-020-01688-6}}</ref><ref name = "Hyperinsulinemia and Its Pivotal Role in Aging, Obesity, Type 2 Diabetes, Cardiovascular Disease and Cancer" >[https://www.mdpi.com/1422-0067/22/15/7797/htm Hyperinsulinemia and Its Pivotal Role in Aging, Obesity, Type 2 Diabetes, Cardiovascular Disease and Cancer] Multidisciplinary Digital Publishing Institute. Published: 21 July 2021. {{doi|10.3390/ijms22157797}}</ref>。糖尿病患者がインスリン療法(インスリンを注射して血糖値を下げる)を受けるだけで、動脈疾患のみらず、[[アテローム性動脈硬化症]](''Atherosclerosis'')の危険も上昇する<ref name = "Insulin: too much of a good thing is bad" />。カナダの医師、ジェイスン・ファン(''Jason Fung'')は「糖尿病患者はインスリンを注射している'''だけ'''で死亡率が倍になる。高血糖においては、癌細胞は大量の[[ブドウ糖]]をエサにして増殖していく」と書いた<ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" >{{Cite web |url = https://blog.thefastingmethod.com/insulin-toxicity-t2d-37/ |title = Insulin toxicity – T2D 37 |author = Jason Fung, MD |archive-url = https://web.archive.org/web/20211023210637/https://blog.thefastingmethod.com/insulin-toxicity-t2d-37/ |archive-date = 23 October 2021 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。[[アテローム性動脈硬化症]]は、心臓発作、脳卒中、末梢血管疾患の前兆である。インスリンの濃度が高いだけでアテローム性動脈硬化症が発生し、インスリンの濃度が低下すると症状は回復する。これは[[1949年]]の時点で実証されていた<ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" />。インスリン受容体はヒトの班の内部に存在する。インスリンは斑の増殖を刺激・誘導し、アテローム性動脈硬化症の進行を促進する<ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" />。
医学博士のウィリアム・ファルーン(''William Faloon'')は、「多過ぎる量のインスリンは、すべての老化関連疾患に関与する。長寿の達成においてインスリンの制御は不可欠だ」「インスリンは、インスリンの分泌機能が損なわれている1型糖尿病患者にとっては命綱であるが、分泌が過剰な場合、有毒なホルモンとなる」「余分なインスリンを減らすことで脂肪の減少を促進し、寿命を延ばす」と書いた<ref name = "Blood Levels of Insulin and Hemoglobin A1c in Foundation Members" >{{Cite web |url = https://www.lifeextension.com/magazine/2013/7/blood-levels-of-insulin-and-hemoglobin-a1c-in-foundation-members |title = Blood Levels of Insulin and Hemoglobin A1c in Foundation Members |last = |first = |author = William Faloon |date = July 2013 |work = Life Extension |archive-url = https://web.archive.org/web/20200803091630/https://www.lifeextension.com/magazine/2013/7/blood-levels-of-insulin-and-hemoglobin-a1c-in-foundation-members |archive-date = 3 August 2020 |access-date = 13 October 2022 }}</ref>。論文『''Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence''』(『インスリン抵抗性と癌:疫学的証拠』)の著者らは、「インスリン抵抗性が癌の発生の重要な要因であることに疑いの余地は無い」と断言している<ref name = "Insulin resistance and cancer: epidemiological evidence" />。
血中のインスリン濃度が高いと、脳を損傷したり、失明したり、[[低血糖症]](''Hypoglycemia'')を惹き起こして死亡することがあるため、インスリンを服用する行為自体が非常に危険である<ref name = "ghent-wakefield" >{{Cite web |url = https://www.menshealth.com/trending-news/a19543375/ghent-wakefield-death-insulin-bodybuilder-wwe/ |title = 35-Year-Old Bodybuilder's Sudden Death Raises Questions About Insulin Use |author = JACK CROSBIE |date = 21 November 2017 |work = Mens Health |archive-url = https://web.archive.org/web/20180823042035/https://www.menshealth.com/trending-news/a19543375/ghent-wakefield-death-insulin-bodybuilder-wwe/ |archive-date = 23 August 2018 |access-date = 17 February 2021 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/brit-bodybuilder-unable-see-talk-22896233 |title = Brit bodybuilder unable to see, talk and walk after supplements put him in coma |author = Joshua Smith |date = 23 October 2020 |work = Daily Star |archive-url = https://web.archive.org/web/20201029073531/https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/brit-bodybuilder-unable-see-talk-22896233 |archive-date = 29 October 2020 |access-date = 19 October 2022 }}</ref><ref name = "Insulin as a drug of abuse in body building" >[https://bjsm.bmj.com/content/37/4/356 Insulin as a drug of abuse in body building] P J Evans, R M Lynch. {{PMID|12893725}} {{DOI|10.1136/bjsm.37.4.356}}</ref>。
タンパク質の摂取は、インスリンと[[グルカゴン]](''Glucagon'')の両方の分泌を刺激する。タンパク質の摂取量を増やした場合、インスリンの分泌量も増えるため、タンパク質の過剰摂取に注意する必要がある<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" />。
血中のインスリン濃度が低下すると、腫瘍の増殖は抑制される<ref name = "The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer" />。慢性的な高インスリン血症とインスリン抵抗性を弱めることは、癌の予防に向けての取り組みにつながる<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" /><ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" />。インスリンの濃度が低下する生活習慣や治療手段は、癌の予防や治療につながる<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" />。
5大陸、18か国に住む135,335人を対象に行われた大規模な疫学コホート研究の結果が『''The Lancet''』にて発表された(2017年)。これは炭水化物の摂取量および脂肪の摂取量と、心血管疾患に罹るリスクおよびその死亡率との関係についての調査であった。これによると、炭水化物の摂取を増やせば増やすほど死亡率は上昇し、脂肪の摂取を増やせば増やすほど死亡率は低下するという結果が示された。とくに、飽和脂肪酸の摂取量が多ければ多いほど、脳卒中に罹るリスクは低下した。また、飽和脂肪酸・不飽和脂肪酸を問わず、脂肪の摂取は死亡率を低下させ、心筋梗塞および心血管疾患の発症とは何の関係も無かった<ref>[https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(17)32252-3/fulltext Associations of fats and carbohydrate intake with cardiovascular disease and mortality in 18 countries from five continents (PURE): a prospective cohort study] Dr Mahshid Dehghan, Andrew Mente, Xiaohe Zhang, Sumathi Swaminathan, Wei Li, Viswanathan Mohan. Published:August 29, 2017. {{DOI|10.1016/S0140-6736(17)32252-3}}</ref><ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28864332/ Associations of fats and carbohydrate intake with cardiovascular disease and mortality in 18 countries from five continents (PURE): a prospective cohort study] {{PMID|28864332}} {{DOI|10.1016/S0140-6736(17)32252-3}}</ref>。
飽和脂肪酸の摂取は、冠状動脈性心臓病、脳卒中、心血管疾患の発症とは何の関係も無く、飽和脂肪酸がこれらの病気と明確に関係していることを示す証拠は無い<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/20071648/ Meta-analysis of prospective cohort studies evaluating the association of saturated fat with cardiovascular disease] Patty W Siri-Tarino 1, Qi Sun, Frank B Hu, Ronald M Krauss. {{PMID|20071648}} {{PMCID|2824152}} {{DOI|10.3945/ajcn.2009.27725}}</ref>。
また、多価不飽和脂肪酸の摂取量を増やし、飽和脂肪酸の摂取量を減らしても、心血管疾患の発症リスクは減らせない<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24723079/ Association of dietary, circulating, and supplement fatty acids with coronary risk: a systematic review and meta-analysis] Rajiv Chowdhury, Samantha Warnakula, Setor Kunutsor, Francesca Crowe, Heather A Ward, Laura Johnson, Oscar H Franco, Adam S Butterworth, Nita G Forouhi, Simon G Thompson, Kay-Tee Khaw, Dariush Mozaffarian, John Danesh, Emanuele Di Angelantonio. {{PMID|24723079}} {{DOI|10.7326/M13-1788}}</ref>。飽和脂肪酸を多価不飽和脂肪酸の一種である[[リノール酸]]に置き換えて摂取した場合、血清コレステロールは低下するうえに、全死因の死亡率、心血管疾患や冠状動脈性心疾患による死亡率が上昇する(飽和脂肪の摂取を減らすと死亡率が上昇した)。これは、[[ミネソタ大学]]の生理学者、[[アンセル・キース]](''Ancel Keys'')が[[1968年]]に実施した「ミネソタ冠状動脈実験」(''The Minnesota Coronary Experiment'')にて明らかになった<ref name = "Hiding unhealthy heart outcomes in a low-fat diet trial" />。また、炭水化物の摂取量を増やしたり、飽和脂肪酸の代わりに多価不飽和脂肪酸の摂取量を増やすと、冠動脈アテローム性動脈硬化は進行しやすくなる<ref name = "Hiding unhealthy heart outcomes in a low-fat diet trial" >{{Cite Journal |url = https://openheart.bmj.com/content/8/2/e001680 |title = Hiding unhealthy heart outcomes in a low-fat diet trial: the Women’s Health Initiative Randomized Controlled Dietary Modification Trial finds that postmenopausal women with established coronary heart disease were at increased risk of an adverse outcome if they consumed a low-fat ‘heart-healthy’ diet |author = Timothy David Noakes |date = 2021-07-01 |journal = The British Medical Journal |issue = 2 |volume = 8 |doi = 10.1136/openhrt-2021-001680 |ISSN = 2053-3624 }}</ref>。
肥満、インスリン抵抗性、メタボリック症候群、2型糖尿病を患っている患者が、炭水化物の摂取を制限し、脂肪に置き換えて食べると、最大限の効果が得られる可能性がある<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/25287761/ Dietary carbohydrate restriction as the first approach in diabetes management: critical review and evidence base] Richard D Feinman, Wendy K Pogozelski, Arne Astrup, Richard K Bernstein, Eugene J Fine, Eric C Westman, Anthony Accurso, Lynda Frassetto, Barbara A Gower, Samy I McFarlane, Jörgen Vesti Nielsen, Thure Krarup, Laura Saslow, Karl S Roth, Mary C Vernon, Jeff S Volek, Gilbert B Wilshire, Annika Dahlqvist, Ralf Sundberg, Ann Childers, Katharine Morrison, Anssi H Manninen, Hussain M Dashti, Richard J Wood, Jay Wortman, Nicolai Worm. {{PMID|25287761}}, {{doi|10.1016/j.nut.2014.06.011}}.</ref>。さらに、84時間に亘って絶食状態にあった被験者と、84時間に亘って脂肪「だけ」を摂取し続けた被験者の血中の状態は「全く同じ」であった。双方とも、血糖値とインスリンの濃度は低下し、[[遊離脂肪酸]]と[[ケトン体]]の濃度、脂肪分解の速度がいずれも上昇した<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/1590373/ Carbohydrate restriction regulates the adaptive response to fasting] S Klein, R R Wolfe. {{PMID|1590373}} {{DOI|10.1152/ajpendo.1992.262.5.E631}}</ref>。
体重を減らしたい人、心血管疾患の危険因子を減らしたい人にとって、炭水化物が少なく、脂肪が多い食事はその選択肢となりうる<ref name = "Effects of Low-Carbohydrate and Low-Fat Diets" />。
炭水化物は、脂肪やタンパク質に比べてインスリンの分泌にはるかに大きな影響を及ぼす。インスリンは食事における満腹感を減少させ、摂食行動にも影響を及ぼす。炭水化物の摂取を減らすと、インスリン抵抗性は緩和される。炭水化物を制限する食事は、インスリンの濃度が高い患者に有益である証拠が示された<ref name = "Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7177487/ Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes: A Review from Clinicians Using the Approach in Practice] Tara Kelly, David Unwin, and Francis Finucane. Int J Environ Res Public Health. 2020 Apr; 17(7): 2557. Published online 2020 Apr 8, {{doi|10.3390/ijerph17072557}}.</ref>。食後の血糖値の上昇とインスリンの分泌を最も強力に促進するのは炭水化物である<ref name = "The effect of a low-carbohydrate, ketogenic diet versus a low-glycemic index diet on glycemic control in type 2 diabetes mellitus" />。タンパク質もインスリンの分泌を刺激するが、インスリンと拮抗する異化ホルモン、[[グルカゴン]](''Glucagon'')の分泌も誘発する。一方、食べ物に含まれる脂肪分は、インスリンの分泌にほとんど影響を与えない。この生理学的な事実は、低糖質・高脂肪食が人体に有益であることを示す理論的根拠となる<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6082688/ The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity: Beyond ‘Calories In, Calories Out’] David S Ludwig, MD, PhD and Cara B Ebbeling, PhD. JAMA Intern Med. Author manuscript; available in PMC 2019 Aug 1. Published in final edited form as: JAMA Intern Med. 2018 Aug 1; 178(8): 1098-1103, {{doi|10.1001/jamainternmed.2018.2933}} {{PMID|29971406}}.</ref>。
炭水化物が少なく、脂肪が多い食事は、空腹感と満腹感に大いに影響を与える。炭水化物が多く、脂肪が少ない食事(カロリー制限食)と比較すると、高脂肪食は体脂肪を減少させ、身体のエネルギー消費量の増加を促進する<ref name = "Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes" />。
また、炭水化物を制限する食事は、低脂肪食よりも大幅に体重を減らし、心血管疾患の危険因子も減少させる<ref name = "Effects of Low-Carbohydrate and Low-Fat Diets" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4428290/ Effects of Low-Carbohydrate and Low-Fat Diets A Randomized Trial] Lydia A. Bazzano, MD, PhD, MPH,Tian Hu, MD, MS, Kristi Reynolds, PhD, Lu Yao, MD, MS, Calynn Bunol, MS, RD, LDN, Yanxi Liu, MS, Chung-Shiuan Chen, MS, Michael J. Klag, MD, MPH, Paul K. Whelton, MD, MSc, MB, and Jiang He, MD, PhD. Ann Intern Med. Author manuscript; available in PMC 2015 Sep 2. Published in final edited form as: Ann Intern Med. 2014 Sep 2; 161(5): 309–318. {{doi|10.7326/M14-0180}}</ref>。
炭水化物の少ない食事は、血糖値とその制御の大幅な改善につながり、薬物の服用回数を減らせるだけでなく、服用の必要も無くなる可能性があり、この食事法は2型糖尿病の改善と回復にも効果的である証拠が示された<ref name = "The effect of a low-carbohydrate, ketogenic diet versus a low-glycemic index diet on glycemic control in type 2 diabetes mellitus" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2633336/ The effect of a low-carbohydrate, ketogenic diet versus a low-glycemic index diet on glycemic control in type 2 diabetes mellitus] Eric C Westman, William S Yancy, Jr, John C Mavropoulos, Megan Marquart, Jennifer R McDuffie. Published online 2008 Dec 19. {{doi|10.1186/1743-7075-5-36}}</ref>。
食事を終えたのち、脂肪細胞へのブドウ糖の取り込みは、「''Glucose Transporter Type 4, GLUT4''」(「ブドウ糖輸送体」)を介してインスリンが行う。インスリンはブドウ糖の取り込みを促進し、脂肪分解を抑制し、脂肪生成を促進し、それに伴って[[遊離脂肪酸]](''Free Fatty Acid'')が血流に流入していく。インスリンの濃度が低いとき、脂肪酸の酸化によって細胞内にエネルギーが供給されるが、心臓や肝臓のような臓器が脂肪をエネルギー源として利用するため、遊離脂肪酸が血流に放出されて循環し、遊離脂肪酸は[[ケトン体]](''Ketone Bodies'')に変換される。このケトン体は、空腹状態のときに、脳にエネルギーを供給する<ref name = "Insulin and Insulin Resistance" />。
ケトン生成食は[[ミトコンドリア]]の機能と血糖値を改善し、酸化ストレスを減少させ、糖尿病性心筋症(''Diabetic Cardiomyopathy'')から身体を保護する作用がある<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7069456/ Ketogenic Diet Ameliorates Cardiac Dysfunction via Balancing Mitochondrial Dynamics and Inhibiting Apoptosis in Type 2 Diabetic Mice] Yongzheng Guo, Cheng Zhang, Fei-Fei Shang, Minghao Luo, Yuehua You, Qiming Zhai, Yong Xia, Luo Suxin. Published online 2020 Mar 9. {{doi|10.14336/AD.2019.0510}}</ref>。また、ケトン食は記憶力の改善と死亡率の低下をもたらし<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5605815/ Ketogenic diet reduces mid-life mortality and improves memory in aging mice] John C Newman, Anthony J Covarrubias, Minghao Zhao, Xinxing Yu, Philipp Gut, Che-Ping Ng, Yu Huang, Saptarsi Haldar, Eric Verdin. Cell Metab. Author manuscript; available in PMC 2018 Sep 5. Published in final edited form as: Cell Metab. 2017 Sep 5; 26(3): 547–557.e8. {{doi|10.1016/j.cmet.2017.08.004}}</ref>、末梢軸索(''Peripheral Axons'')と感覚機能障害(''Sensory Dysfunction'')を回復させ、糖尿病の合併症も防げる可能性が出てくる<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5994385/ A Ketogenic Diet Reduces Metabolic Syndrome-Induced Allodynia and Promotes Peripheral Nerve Growth in Mice] Published online 2018 May 17. {{doi|10.1016/j.expneurol.2018.05.011}}</ref>。
ケトン食療法(炭水化物を徹底的に避け、脂肪を大量に摂取する)は癌の治療や予防に有効である可能性を示している<ref name = "The ketogenic diet for the treatment of malignant glioma" /><ref name = "Effects of a ketogenic diet on the quality of life in 16 patients with advanced cancer" /><ref name = "Where do we stand?" /><ref name = "Emerging Evidence" />。癌細胞は[[ケトン体]]をエネルギー源にはできないため、ケトン食療法を「癌の治療手段として採用すべきだ」と考える研究者もいる<ref>Barañano KW, Hartman AL. [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2898565/ The ketogenic diet: uses in epilepsy and other neurologic illnesses.] Curr Treat Options Neurol. 2008;10(6):410–9. {{doi|10.1007/s11940-008-0043-8}}. {{PMID|18990309}}</ref><ref>Allen BG, Bhatia SK, Anderson CM, et al. [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4215472/ Ketogenic diets as an adjuvant cancer therapy: History and potential mechanism.] Redox Biol. 2014 Aug 7;2C:963–70. {{doi|10.1016/j.redox.2014.08.002}}. {{PMID|25460731}}</ref>。
ケトン食を含めて、炭水化物を制限する食事法は安全であり、長期に亘って健康を維持し、さまざまな病理学的状態を防止または逆転させる力がある<ref name = "Carbotoxicity—Noxious Effects of Carbohydrate" />。ケトン食を止めると(炭水化物の摂取を増やし、脂肪の摂取を減らすと)、片頭痛や癲癇発作が再発する<ref name = "Carbotoxicity—Noxious Effects of Carbohydrate" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6265656/ Carbotoxicity—Noxious Effects of Carbohydrate] Guido Kroemer, Carlos López-Otín, Frank Madeo, Rafael de Cabo. Cell. 2018 Oct 18; 175(3): 605–614. {{doi|10.1016/j.cell.2018.07.044}}</ref>。
[[臨床研究]](''Clinical Trials'')であるが、乳癌の患者にケトン食を12週間処方し続けたところ、ケトン食群(炭水化物6%、中鎖中性脂肪20%、脂肪55%)ではインスリンの濃度が低下し、腫瘍が「27mm」だったのが「6mm」に縮小した。一方、対照群(摂取エネルギーの55%を炭水化物から摂る、タンパク質15%、脂肪30%)では、「40mm」から「34mm」への縮小のみに留まった<ref name = "Effects of Ketogenic Metabolic Therapy on Patients with Breast Cancer" >[https://www.researchgate.net/publication/342677348_Effects_of_Ketogenic_Metabolic_Therapy_on_Patients_with_Breast_Cancer_A_Randomized_Controlled_Clinical_Trial Effects of Ketogenic Metabolic Therapy on Patients with Breast Cancer: A Randomized Controlled Clinical Trial] July 2020 Clinical nutrition (Edinburgh, Scotland) 40(3) {{DOI|10.1016/j.clnu.2020.06.028}}</ref>。炭水化物が少なく、動物性食品の多い食事を続けると、インスリン抵抗性は緩和され、インスリン感受性は改善される<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17674517/ Efficacy of low-carbohydrate diet in the treatment of obesity in adolescents] T N Sorvacheva, V A Peterkova, L N Titova, A V Vitebskaia, E A Pyr'eva. {{PMID|17674517}}</ref><ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17341711/ Comparison of the Atkins, Zone, Ornish, and LEARN diets for change in weight and related risk factors among overweight premenopausal women: the A TO Z Weight Loss Study: a randomized trial] Christopher D Gardner, Alexandre Kiazand, Sofiya Alhassan, Soowon Kim, Randall S Stafford, Raymond R Balise, Helena C Kraemer, Abby C King. {{PMID|17341711}}, {{doi|10.1001/jama.297.9.969}}</ref>。[[便秘]]と、それに関連する症状は、植物性食品および[[食物繊維]]の摂取を止めることによって緩和される<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3435786/ Stopping or reducing dietary fiber intake reduces constipation and its associated symptoms] Kok-Sun Ho, Charmaine You Mei Tan, Muhd Ashik Mohd Daud, and Francis Seow-Choen. World J Gastroenterol. 2012 Sep 7; 18(33): 4593–4596, Published online 2012 Sep 7. {{PMID|22969234}} {{PMC|3435786}} {{doi|10.3748/wjg.v18.i33.4593}}</ref>。1928年の完全肉食実験で、肉だけを食べ続けたステファンソンとアンダーソンは、「[[壊血病]]を患い、瀕死の状態に陥る」と思われていたが、脂肪が多い肉を食べ続けたことにより、「バランスの取れた食事」を取っていたときよりも健康体になった<ref name = "Meat Is Amazingly Nutritious—But Is It Amazingly Nutritious for Cancer Cells, Too?" />。
「炭水化物が少なく、脂肪が多い食事」(低糖質・高脂肪食)と、「炭水化物が多く、脂肪が少ない食事」(高糖質・低脂肪食)とでは、血中のインスリン濃度が高いのは後者である<ref name = "Despite similar weight loss, low-carbohydrate diet delivers insulin reductions, smaller fat cells than low-fat diet" >{{Cite web |url = https://www.healio.com/news/endocrinology/20191205/despite-similar-weight-loss-lowcarbohydrate-diet-delivers-insulin-reductions-smaller-fat-cells-than |title = Despite similar weight loss, low-carbohydrate diet delivers insulin reductions, smaller fat cells than low-fat diet |author = Tracey McLaughlin |date = 2019-12-05 |work = Healio |archive-url = https://web.archive.org/web/20200808070758/https://www.healio.com/news/endocrinology/20191205/despite-similar-weight-loss-lowcarbohydrate-diet-delivers-insulin-reductions-smaller-fat-cells-than |archive-date = 2020-08-08 |access-date = 2023-10-02 }}</ref>。「野菜や果物(炭水化物)を食べれば癌を防げる」ことを示す証拠は無い<ref name = "Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer" />。また、糖尿病であろうとあるまいと、ブドウ糖にもインスリンにも癌を促進する作用がある<ref name = "The impact of type 2 diabetes and antidiabetic drugs on cancer cell growth" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2930937/ The impact of type 2 diabetes and antidiabetic drugs on cancer cell growth] Yin-Hsun Feng Guermarie Velazquez-Torres Christopher Gully Jian Chen Mong-Hong Lee and Sai-Ching Jim Yeung. J Cell Mol Med. 2011 Apr; 15(4): 825–836. Published online 2010 May 3. {{PMID|20455996}} {{PMC|2930937}} {{doi|10.1111/j.1582-4934.2010.01083.x}}</ref><ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" />。インスリンは発癌を直接促進する力を持つ<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" /><ref name = "The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer" /><ref name = "Insulin induction instigates cell proliferation and metastasis in human colorectal cancer cells" /><ref name = "The impact of type 2 diabetes and antidiabetic drugs on cancer cell growth" /><ref name = "Serum Insulin, Glucose, Indices of Insulin Resistance, and Risk of Prostate Cancer" >[https://academic.oup.com/jnci/article/101/18/1272/2515675?login=false Serum Insulin, Glucose, Indices of Insulin Resistance, and Risk of Prostate Cancer] Demetrius Albanes, Stephanie J. Weinstein, Margaret E. Wright, Satu Männistö, Paul J. Limburg, Kirk Snyder, Jarmo Virtamo. JNCI: Journal of the National Cancer Institute, Volume 101, Issue 18, 16 September 2009, Pages 1272–1279. Published: 16 September 2009. {{doi|10.1093/jnci/djp260}}</ref><ref name = "Higher Glucose and Insulin Levels Are Associated with Risk of Liver Cancer and Chronic Liver Disease Mortality among Men without a History of Diabetes" >[https://aacrjournals.org/cancerpreventionresearch/article/9/11/866/50484/Higher-Glucose-and-Insulin-Levels-Are-Associated Higher Glucose and Insulin Levels Are Associated with Risk of Liver Cancer and Chronic Liver Disease Mortality among Men without a History of Diabetes] Erikka Loftfield; Neal D. Freedman; Gabriel Y. Lai; Stephanie J. Weinstein; Katherine A. McGlynn; Philip R. Taylor; Satu Männistö; Demetrius Albanes; Rachael Z. Stolzenberg-Solomon. Cancer Prev Res (Phila) (2016) 9 (11): 866–874. {{doi|10.1158/1940-6207.CAPR-16-0141}}</ref>。高血糖およびインスリンの分泌を最も強力に促進するのは炭水化物である<ref name = "The effect of a low-carbohydrate, ketogenic diet versus a low-glycemic index diet on glycemic control in type 2 diabetes mellitus" />が、食べ物に含まれる脂肪は、インスリンの分泌にほとんど影響を与えない<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" />。血中のインスリン濃度が低下すると、腫瘍の増殖は抑制される<ref name = "The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer" /><ref name = "Effects of Ketogenic Metabolic Therapy on Patients with Breast Cancer" />。インスリンは癌の成長と転移を促進する。炭水化物を食べれば、インスリンによって腫瘍は成長・増殖し、炭水化物を食べずに脂肪を食べることによって減少する<ref name = "The role of the insulin/IGF system in cancer" >[https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fendo.2015.00077/full The role of the insulin/IGF system in cancer: lessons learned from clinical trials and the energy balance-cancer link] Laura W. Bowers1 imageEmily L. Rossi1 imageCiara H. O’Flanagan, Linda A. deGraffenried, Stephen D. Hursting. Front. Endocrinol, 15 May 2015 Sec. Cancer Endocrinology. Volume 6 - 2015. ''Frontiers''. {{doi|10.3389/fendo.2015.00077}}</ref><ref name = "Effects of Ketogenic Metabolic Therapy on Patients with Breast Cancer" />。
「炭水化物は肥満およびそれに伴う疾患の主要な推進力であり、精製された炭水化物や糖分の過剰摂取を減らすべきである」と結論付け、炭水化物を「''Carbotoxicity''」(「炭水化物には毒性がある」)という造語で表現する研究者もいる<ref name = "Carbotoxicity—Noxious Effects of Carbohydrate" />。
[[オーストリア]]の医師、ヴォルフガング・ルッツ(''Wolfgang Lutz'', 1913-2010)は、[[1967年]]に『''Leben ohne Brot''』(『パンの無い暮らし』)を出版し、「炭水化物の摂取を減らすことこそが、脂肪を燃焼させる唯一の方法である」「この食事法により、肥満、糖尿病、心臓病、癌を予防できる」「狩猟採集生活者として暮らしてきた人類は動物の肉を長きに亘って食べてきた」「食べ物に含まれる脂肪は、ほとんどの慢性疾患とは何の関係も無い」と断言している(ルッツは炭水化物の1日の摂取上限を「72gまで」と定めた)。ルッツによれば、40年間で10000人を超える患者を診察し、クローン病、潰瘍性大腸炎、胃疾患、痛風、メタボリック症候群、癲癇、多発性硬化症・・・この食事法を処方することでこれらの慢性疾患を治療したという<ref>{{Cite book |last = Lutz |first = Wolfgang |year = 1967 |title = Leben ohne Brot |location = |publisher = Selecta-Verl|language = |page = |id = |isbn = |quote= }}</ref>。
クイーン・エリザベス大学の栄養学教授、[[ジョン・ユドキン]](''John Yudkin'')は、著書『''Pure, White and Deadly''』(1972)の中で、「肥満や心臓病を惹き起こす犯人は砂糖であり、食べ物に含まれる脂肪分は、これらの病気とは何の関係も無い」と断じている。1960年代、ユドキンはミネソタ大学のアンセル・キースと、「砂糖・脂肪論争」を繰り広げた。この論争では、「[[心臓病]]を惹き起こす原因は(食べ物に含まれる)脂肪分にある」というキースの主張が通り、ユドキンの「砂糖が原因である」との主張は通らなかった。1970年代後半、アメリカ合衆国政府は「脂肪の摂取を減らし、炭水化物の摂取を増やせ」と国民に呼びかけたが、肥満・糖尿病・心臓病を患う国民の数は増加の一途を辿るようになった<ref>{{Cite web |url = https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK542158/ |title = Chapter 7 From John Yudkin to Jamie Oliver: A Short but Sweet History on the War against Sugar |author = Rachel Meach |work = The National Center for Biotechnology Information |archive-url = |archive-date = |access-date = 13 October 2022 }}</ref>。
ウィリアム・ファルーンは「多過ぎる量のインスリンは毒」であり、「癌の原因となる」と書いた<ref name = "Blood Levels of Insulin and Hemoglobin A1c in Foundation Members" />。カナダの医師、ジェイスン・ファンも「糖尿病患者は、さまざまな癌になりやすくなる」「高血糖状態でインスリンをたくさん投与すると[[血糖値]]は下がるが、高インスリン血症やインスリン抵抗性は改善されず、悪化する」「必要以上の量のインスリンは有毒である」と書いた<ref name = "Insulin toxicity – T2D 37" />。
[[サイエンス・ジャーナリスト]]の[[ゲアリー・タウブス]](''Gary Taubes'')は、炭水化物は身体を太らせるだけでなく、肥満、心臓病、糖尿病、高血糖、インスリン抵抗性、メタボリック症候群の原因であり、最終的には癌をも惹き起こす根本的な原因でもある趣旨を明言しており<ref name = "Why we get fat" /><ref>{{Cite book |last = Taubes |first = Gary |year = 2016 |title = The Case Against Sugar |publisher = Alfred A. Knopf |location = New York City |page = |isbn = 978-0307701640 }}</ref>、「砂糖は肥満、糖尿病、心臓病、メタボリック症候群を惹き起こす原因であり、これにはインスリン抵抗性が関わっている」「砂糖はインスリン抵抗性の直接の原因となる」「インスリン抵抗性は癌の原因となる」と断じている<ref>{{Cite web |url = http://www.nytimes.com/2011/04/17/magazine/mag-17Sugar-t.html?pagewanted=all&_r=0 |title = Is Sugar Toxic? |last = Taubes |first = Gary |date = 3 April 2011 |work = [[The New York Times]] |archive-url = https://archive.ph/ISjps |archive-date = 9 August 2014 |access-date = 26 January 2021 }}</ref>。
== 植物 ==
植物は基本的に悪性腫瘍を患うことはない。
これは[[細胞壁]]と血管より大幅に細く細胞輸送が行われない導管、師管の構造に因る<ref>{{Cite web|和書|url = http://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=2514 |title = 植物 Q&A 植物のガンについて {{!}} みんなのひろば|work = 日本植物生理学会 |access-date = 2021-09-09 }}</ref>。植物は悪性新生物が生じても浸潤も転移も起こらず、極めて局所的なものとなり、病気にはならない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* World Cancer Research Fund and American Institute for Cancer Research [http://www.dietandcancerreport.org/?p=ER ''Food, Nutrition, Physical Activity, and the Prevention of Cancer: A Global Perspective''], The second expert report, 2007
* {{Cite journal|author=Kushi Lawrence Haruo ''et al.''|title=American Cancer Society Guidelines on Nutrition and Physical Activity for cancer prevention: reducing the risk of cancer with healthy food choices and physical activity|journal=CA Cancer J. Clin.|volume= 56|year=2006|pages=254-281|id=PMID 17005596|doi=10.3322/canjclin.56.5.254 |url=https://web.archive.org/web/20101205173751/http://caonline.amcancersoc.org/cgi/content/full/56/5/254}}
* 『{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20160331115451/https://hfnet.nih.go.jp/usr/kiso/pamphlet/cam_guide_0714.pdf がんの補完代替医療ガイドブック-第2版]}} 』編集:厚生労働省がん研究助成金研究「がんの代替療法の科学的検証と臨床応用に関する研究」班、2008年7月。
*大西 俊造、梶原 博毅、神山 隆一 監修『スタンダード病理学』第3版、文光堂、2009年、ISBN 978-4-8306-0468-3
* Geoffrey M.Cooper, Robert E.Hausman 著『クーパー細胞生物学』須藤和夫,他 訳、[[東京化学同人]]、ISBN 978-4-8079-0686-4
* {{Cite book |first = Gary |last = Taubes |title = Why We Get Fat: And What to Do About It |publisher = Alfred A. Knopf |location = New York City |year = 2010 |isbn = 9780307272706 }}
== 関連項目 ==
* [[インスリン]]
* [[インスリン抵抗性]]
* [[高血糖症]]
* [[腫瘍]]
* [[腫瘍学]]
* [[癌腫]]/[[肉腫]]
* [[がん遺伝子]]/[[p53遺伝子]]
* [[良性腫瘍]]/[[境界悪性腫瘍]]
* [[ターミナルケア]]/[[緩和医療]]
* [[がん予防研究]]
* [[がん保険]]
* [[がん診療連携拠点病院]]/[[国立がん研究センター]] - [[がん情報サービス]]
* 関連学会
** [[日本癌学会]]/[[日本癌治療学会]]/[[日本臨床腫瘍学会]]
* がん治療おける[[臨床試験]]を実施するグループ
** [[日本臨床腫瘍研究グループ]] (JCOG) /[[日本がん臨床試験推進機構]] (JACCRO) /[[婦人科悪性腫瘍化学療法研究機構]] (JGOG)
* [[World Community Grid]] がん治療のための[[分散コンピューティング]]
* [[日本対がん協会]] - 患者支援団体
== 資料 ==
{{EB1911 poster|Cancer}}
{{Commons category|Cancers}}
{{Wiktionary|癌}}
* [https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/202340 Low-fat dietary pattern and risk of colorectal cancer: the Women's Health Initiative Randomized Controlled Dietary Modification Trial] Beresford SA, Johnson KC, Ritenbaugh C, Lasser NL, Snetselaar LG, Black HR, et al. (February 2006). JAMA. 295 (6): 643–654. {{doi|10.1001/jama.295.6.643}}
* [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2930937/ The impact of type 2 diabetes and antidiabetic drugs on cancer cell growth] Yin-Hsun Feng Guermarie Velazquez-Torres Christopher Gully Jian Chen Mong-Hong Lee and Sai-Ching Jim Yeung. J Cell Mol Med. 2011 Apr; 15(4): 825–836. Published online 2010 May 3. {{PMID|20455996}} {{PMC|2930937}} {{doi|10.1111/j.1582-4934.2010.01083.x}}
* [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3372318/ Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms] Biagio Arcidiacono, Stefania Iiritano, Aurora Nocera, Katiuscia Possidente, Maria T. Nevolo, Valeria Ventura, Daniela Foti, Eusebio Chiefari, and Antonio Brunetti. Exp Diabetes Res. 2012; 2012: 789174. Published online 2012 Jun 4. {{doi|10.1155/2012/789174}} {{PMC|3372318}} {{PMID|22701472}}
* [https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fendo.2015.00077/full The role of the insulin/IGF system in cancer: lessons learned from clinical trials and the energy balance-cancer link] Laura W. Bowers1 imageEmily L. Rossi1 imageCiara H. O’Flanagan, Linda A. deGraffenried, Stephen D. Hursting. Front. Endocrinol, 15 May 2015 Sec. Cancer Endocrinology. Volume 6 - 2015. ''Frontiers''. {{doi|10.3389/fendo.2015.00077}}
== 外部リンク ==
*[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/gan/index.html がん対策情報] [[厚生労働省]]
*[https://ganjoho.jp/public/pre_scr/cause_prevention/evidence_based.html がん情報サービス] 国立研究開発法人[[国立がん研究センター]]
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近畿地方の乗合バス事業者(きんきちほうののりあいバスじぎょうしゃ)は、近畿地方で乗合バス事業を営む(または、過去に営んでいた)事業者の一覧。
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近畿地方の乗合バス事業者(きんきちほうののりあいバスじぎょうしゃ)は、近畿地方で乗合バス事業を営む(または、過去に営んでいた)事業者の一覧。 営業エリアとしている都道府県に掲載する。なお、その府県に数箇所しか停留所が存在しない場合には割愛する。
高速バス・リムジンバス事業者においては、本社と停留所のある府県に記載する。
本社のみが存在し、かつ停留所が無い場合は、本社所在のある府県にその事業者は記載される。
当一覧の掲載対象とする事業者は、以下の通りとする。
道路運送法第4条許可による「一般乗合旅客自動車運送事業」を行う事業者
2006年10月の道路運送法改正以前に21条許可による貸切代替バス(いわゆる21条バス)運行を行っていて、改正後も運行を続けている、いわゆる「みなし4条」事業者
以下の事業者は、掲載対象外とする。
自家用自動車(白ナンバー車)による有償運送(いわゆる80条バス)での運行事業者
80条バス運行事業者については、80条バス運行事業者一覧に記載すること。
乗合タクシー(乗車定員10名以下)のみを運行する事業者
乗合タクシー運行事業者については、日本の乗合タクシー運行事業者一覧に記載すること。
▲印は会社事情(倒産・廃業・経営譲渡・吸収合併・民間移譲など)によりバス事業を終了した事業者
★印はPiTaPa、ICOCA対応事業者(一部路線のみの対応を含む)
|
'''近畿地方の乗合バス事業者'''(きんきちほうののりあいバスじぎょうしゃ)は、[[近畿地方]]で[[乗合バス]]事業を営む(または、過去に営んでいた)事業者の一覧。
# 営業エリアとしている都道府県に掲載する。なお、その府県に数箇所しか停留所が存在しない場合には割愛する。
# 高速バス・リムジンバス事業者においては、本社と停留所のある府県に記載する。
# 本社のみが存在し、かつ停留所が無い場合は、本社所在のある府県にその事業者は記載される。
#当一覧の掲載対象とする事業者は、以下の通りとする。
##[[道路運送法]]第4条許可による「一般乗合旅客自動車運送事業」を行う事業者
##2006年10月の道路運送法改正以前に21条許可による貸切代替バス(いわゆる[[21条バス]])運行を行っていて、改正後も運行を続けている、いわゆる「みなし4条」事業者
#*以下の事業者は、掲載対象外とする。
##自家用自動車(白ナンバー車)による有償運送(いわゆる[[80条バス]])での運行事業者
##*80条バス運行事業者については、[[80条バス運行事業者一覧]]に記載すること。
##[[乗合タクシー]](乗車定員10名以下)のみを運行する事業者
##*乗合タクシー運行事業者については、[[日本の乗合タクシー運行事業者一覧]]に記載すること。
#▲印は会社事情(倒産・廃業・経営譲渡・吸収合併・民間移譲など)によりバス事業を終了した事業者
# <!--[[スルッとKANSAI]]カード対応事業者には☆をつける。また、-->★印は[[PiTaPa]]、[[ICOCA]]対応事業者(一部路線のみの対応を含む)
== 滋賀県 ==
* [[京阪ホールディングス|京阪グループ]]
** [[江若交通]]★
** [[京阪バス]]<!--☆-->★
* [[近江鉄道]]★
** [[湖国バス]]★
* [[帝産湖南交通]]
** ▲[[帝産観光バス滋賀]] (2017年帝産湖南交通に吸収合併)
* ▲[[滋賀交通]] (2009年に滋賀バスに移管)
** [[滋賀バス]]
* [[シガ・エージェントシステム]]:[[甲賀市コミュニティバス]]
* [[西日本ジェイアールバス]]★
* [[彦根観光バス]]
* [[余呉バス]]
== 京都府 ==
* [[京都市交通局]]<!--☆-->★
* [[京阪ホールディングス|京阪グループ]]
** [[京都バス]]<!--☆-->★
** [[京阪バス]]<!--☆-->★
*** ▲[[京阪宇治交通]](2006年京阪バスに吸収合併)
*** ▲[[京阪宇治交通|京阪宇治交通田辺]](2006年京阪バスに吸収合併)
** [[京都京阪バス]]<!--☆-->★
*** ▲[[京阪宇治交サービス]](2006年京阪宇治バスに事業譲渡)
*** ▲[[京阪シティバス]]<!--☆-->(2014年京阪宇治バスより社名変更した京都京阪バスに吸収合併)
** [[京阪京都交通]]<!--☆-->★
* [[京都交通 (舞鶴)|京都交通]]
** ▲[[京都交通 (亀岡)|(旧)京都交通]](2005年倒産、事業は京阪京都交通及び現在の京都交通に譲渡)
* [[近鉄グループホールディングス|近鉄グループ]]
** [[近鉄バス]]<!--☆-->★
** [[奈良交通]]★
* [[阪急阪神東宝グループ]]
** [[阪急バス]]★
*** [[阪急観光バス]](高速バス・リムジンバスのみ)★
**** ▲(旧)阪急観光バス(高速バスのみ、2022年7月1日付で[[大阪空港交通]]より社名変更した(現)阪急観光バスに吸収合併)
** [[丹後海陸交通]]
* ▲[[加悦フェローライン]](2009年カヤ興産に事業譲渡(路線バス事業撤退)、路線は丹後海陸交通が運行)
* [[京都らくなんエクスプレス|ケイルック]]
* [[ヤサカバス]]
* [[プリンセスライン]]
* [[西日本ジェイアールバス]]★
* [[中京交通]]:南丹市コミュニティバス
* [[関西丸和ロジスティクス]]:綾部市コミュニティバス
* ウイング:木津川市コミュニティバス
* [[明星観光バス]]:スカイバスが一般乗合旅客自動車運送業として登録されている。
* [[関西空港交通]]★(リムジンバスのみ)
* [[山一サービス]](高速バスのみ)
* [[日本高速バス]]:京都営業所(高速バスのみ)
* [[東京バス#京都観光バス|京都観光バス]](高速バスのみ)
== 大阪府 ==
* [[大阪シティバス]]<!--☆-->★
** ▲[[大阪市交通局]]<!--☆-->★(2018年大阪シティバスに移管)
* [[大阪バス]]★
* [[北港観光バス]]
* [[高槻市交通部]]<!--☆-->★
* [[京阪バス]]<!--☆-->★
** ▲[[京阪宇治交通]](2006年京阪バスに吸収合併)
** ▲[[京阪宇治交通|京阪宇治交通田辺]](2006年京阪バスに吸収合併)
* [[阪急阪神東宝グループ]]
** [[阪急バス]]★
*** [[阪急観光バス]](高速バス・リムジンバスのみ)★
**** ▲(旧)阪急観光バス(高速バスのみ、2022年7月1日付で[[大阪空港交通]]より社名変更した(現)阪急観光バスに吸収合併)
** [[阪神バス]]★
* [[近鉄グループホールディングス|近鉄グループ]]
** [[近鉄バス]]<!--☆-->★
** [[奈良交通]]★
** [[明光バス]]:大阪営業所(高速バスのみ)
* [[金剛自動車]]:金剛バス
* [[南海グループ]]
** [[南海バス]]<!--☆-->★
*** [[南海ウイングバス]]<!--☆-->★
**** ▲[[南海ウイングバス金岡]]<!--☆-->★(2022年4月に南海ウイングバス南部に吸収合併)
** [[和歌山バス]](高速バスのみ)
*** [[和歌山バス那賀]]<!--☆-->★
** [[関西空港交通]]★
* [[岸和田観光バス]]
* [[水間鉄道]]★
* [[伊丹市交通局]]:伊丹市営バス<!--☆-->★
* [[アルピコ交通]]:大阪支社(高速バスのみ)
* [[両備ホールディングス]]:大阪営業所(高速バスのみ)
* [[西日本ジェイアールバス]](高速バスのみ)
* [[神姫バス|神姫観光バス]]:大阪支店(高速バスのみ)
* [[日本交通 (大阪府)]](高速バス・リムジンバスのみ)<!-- 日交シティバス //兵庫県バス協会(運行に必須ではない)から2014年時点で消滅するなど、現在存在するのか不明 -->
* [[WILLER EXPRESS]]:大阪営業所(高速バスのみ)
** ▲[[WILLER EXPRESS|WILLER EXPRESS西日本]](2018年8月WILLER EXPRESSグループ各社と合併)
** [[WILLER EXPRESS|大阪さやま交通]](高速バスのみ)
** [[WILLER EXPRESS|日本高速バス]](高速バスのみ)
* ▲[[中央交通バス]](高速バスのみ、2019年4月路線バス事業から撤退)
* [[平成エンタープライズ]]:大阪営業所(高速バスのみ)
** 平成コミュニティバス:大阪営業所(高速バスのみ)
* [[ユタカ交通]](高速バスのみ)
* [[桜交通|AT LINER]](高速バスのみ)
* ▲[[あじさい観光]](高速バスのみ、2021年1月破産)
* [[ワールドツアーシステム]]:アウル交通(高速バスのみ)<!-- コムアート交通(特定輸送のみ) //特定輸送は一般乗合旅客自動車運送事業に含まれない -->
* [[帝産観光バス]](高速バスのみ)
== 兵庫県 ==
* ▲[[尼崎市交通局]]<!--☆-->(2016年3月20日付で阪神バス・尼崎交通事業振興両社に全面移管)
** [[尼崎交通事業振興]]<!--☆-->★
* [[伊丹市交通局]]<!--☆-->★
* [[阪急阪神東宝グループ]]
** [[阪神バス]]<!--☆-->★<!--(スルッとKANSAIカードが使用できるのは尼崎市内線のみ)-->
** [[六甲山観光]]
** [[阪急バス]]★
*** ▲[[阪急田園バス]]★(2019年7月に阪急バスに吸収)
*** [[阪急観光バス]](高速バス・リムジンバスのみ)<!--☆-->★
**** ▲(旧)阪急観光バス(高速バスのみ、2022年7月1日付で[[大阪空港交通]]より社名変更した(現)阪急観光バスに吸収合併)
** [[神鉄バス]]<!--☆-->★
*[[神戸市交通局]]<!--☆-->★
** ▲[[神戸交通振興]]<!--☆-->★(2022年4月1日付で、神姫バスに移管)
* [[神戸フェリーバス]]
* [[みなと観光バス (神戸市)]]
* [[日本交通 (神戸市)]]<!-- 日交シティバス //兵庫県バス協会(運行に必須ではない)から2014年時点で消滅するなど、現在存在するのか不明 -->
* [[本四海峡バス]]★
* [[山陽バス]]<!--☆-->★
* ▲[[明石市交通部]](2012年3月17日付で、山陽バス・神姫バス両社へ移管)
* [[神姫バス]]★
** [[神姫ゾーンバス]]★
** [[ウイング神姫]]★
*** [[ウエスト神姫]]★(2022年10月1日付で、[[神姫グリーンバス]]より社名変更したウイング神姫に吸収)
* ▲[[姫路市企業局交通事業部]](2010年3月27日付で神姫バスに移管)
* [[全但バス]]
* [[淡路交通]]
** ▲[[淡路タクシー]](2017年9月30日付で乗合バス事業終了)
* ▲[[淡路フェリーボート]] (1997年航路廃止に伴い運行終了)
* [[みなと観光バス (南あわじ市)]]
* [[桜交通|AT LINER]]:神戸営業所(高速バスのみ)
* [[関西空港交通]](リムジンバスのみ)★
* [[サンシャインエクスプレス]](高速バスのみ)
* [[ジャムジャムエクスプレス]]:関西営業所(高速バスのみ)
* [[西日本ジェイアールバス]]:神戸営業所(高速バスのみ)★
* ▲[[はくろタクシー]](2019年1月25日をもって乗合バス事業終了)
== 奈良県 ==
* [[奈良交通]]★
** [[エヌシーバス]]★
* [[吉野大峯ケーブル自動車]]
* [[生駒交通]]:[[たけまる号|生駒市コミュニティバス]]
* [[南海グループ]]
** [[南海りんかんバス]]<!--☆-->★
** [[関西空港交通]](リムジンバスのみ)★
* [[阪急観光バス]](リムジンバスのみ)★
* [[西日本ジェイアールバス]](高速バスのみ)
== 和歌山県 ==
* [[南海グループ]]
** [[和歌山バス]]<!--☆-->★
*** [[和歌山バス那賀]]<!--☆-->★
** [[南海りんかんバス]]<!--☆-->★
** [[熊野御坊南海バス]]
*** ▲[[御坊南海バス]](2020年に熊野交通に吸収合併)
** [[関西空港交通]](リムジンバスのみ)★
* [[有田交通]]:[[海南市コミュニティバス]]
** [[港タクシー (和歌山県)|港タクシー]]:[[日高川町コミュニティバス]]
* 有交紀北:[[紀の川市地域巡回バス]]<!--有田交通との関係が確認できないため独立-->
* [[大十バス]]
* ▲[[野上電気鉄道]](1994年解散・大十バスに路線譲渡)
* [[有田鉄道]]
* [[中紀バス]]
* [[龍神自動車]]
* [[近鉄グループホールディングス|近鉄グループ]]
** [[明光バス]]
** [[奈良交通]]★
** [[三重交通]]★
*** ▲[[三交南紀交通]](2014年に三重交通に吸収合併)
* [[クリスタル観光バス]](高速バスのみ)
* [[西日本ジェイアールバス]](高速バスのみ)
== 三重県 ==
* [[三重交通]]★
** [[三交伊勢志摩交通]]★
** [[八風バス]]★
** [[三重急行自動車]]★
**▲[[三重交通南紀営業所|三交南紀交通]](2014年2月三重交通に吸収合併)
* [[三岐鉄道]]
* [[中日臨海バス]]:[[K-バス|桑名市コミュニティバス]]
* [[青木バス]](高速バスのみ)
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Buses in Kinki region}}
* [[近畿地方の貸切バス事業者]]
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[[Category:日本のバス事業者]]
[[Category:近畿地方の乗合バス事業者|*]]
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一年生
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一年生(いちねんせい)
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一年生(いちねんせい) 第一学年の児童・生徒・学生。学年および在籍者 (学習者) を参照。
転じて、社会に入って1年未満の者。または、技芸を始めてから日が浅い者。
小学館の学年別学習雑誌『小学一年生』
一年生植物のこと。対義語:多年生。
胞子を形成する植物において、その生活環が一巡すること。
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'''一年生'''(いちねんせい)
* 第一学年の[[児童]]・生徒・学生。[[学年]]および[[在籍者 (学習者)]] を参照。
** 転じて、社会に入って1年未満の者。または、技芸を始めてから日が浅い者。
* [[小学館の学年別学習雑誌]]『小学一年生』
* [[一年生植物]]のこと。対義語:[[多年生植物|多年生]]。
* [[胞子]]を形成する植物において、その[[生活環]]が一巡すること。
== 関連項目 ==
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* [[三年生]]
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ガン
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ガン
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ガン 雁(がん、かり)・鴈 - 鳥類の名。
カモ科の亜科 - ガン亜科
癌、がん、ガン - 悪性腫瘍の俗称。病理学では悪性腫瘍のうち上皮性の腫瘍を「癌腫」または「癌」と呼ぶ。
カードゲーム等で、カード等の裏面の傷・汚れ・微妙な差異。イカサマに利用される。麻雀でのガンは麻雀の不正行為#ガン牌を参照。
強く睨みつけること。「ガンを飛ばす」
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'''ガン'''
* [[雁]](がん、かり)・鴈 - [[鳥類]]の名。
** カモ科の亜科 - [[ガン亜科]]
* 癌、がん、ガン - [[悪性腫瘍]]の俗称。[[病理学]]では悪性腫瘍のうち上皮性の腫瘍を「[[癌腫]]」または「癌」と呼ぶ。
* [[カードゲーム]]等で、カード等の裏面の傷・汚れ・微妙な差異。[[イカサマ]]に利用される。麻雀でのガンは[[麻雀の不正行為#ガン牌]]を参照。
* 強く睨みつけること。「ガンを飛ばす」
== 外来語 ==
* [[銃砲]]({{interlang|en|gun}})。あるいは(引き金を有し、手に持つ)銃に似た器具([[エアガン]]・[[スプレーガン]]など)。
* ザ・ガン({{interlang|en|The Gun (band)|The Gun}}) - [[1970年代]]初期の[[イギリス]]のハードロックバンド。
* {{仮リンク|ガン (バンド)|en|Gun (band)}} - イギリス・[[スコットランド]]の[[グラスゴー]]出身のハードロックバンド。
* 「~[[川]]」を意味する朝鮮語({{lang|kr|江 강 gang}})。[[:Category:朝鮮半島の河川]]も参照。
* ガン({{interlang|en|Afghan (Australia)|Ghan}}) - [[オーストラリア史]]上でのモスレムのラクダ乗りたちの民族集団。
* [[ザ・ガン]]({{lang|en|The Ghan}}) - [[オーストラリア大陸]]を縦断する長距離旅客列車。
== 地名 ==
* ガン({{interlang|fr|Gand}}) - [[ベルギー]]の都市[[ヘント]]のフランス語名。
* [[ガン島]] - [[モルディブ共和国]]の島。
== 姓 ==
英語圏の姓 (Gunn)
* [[アダム・ガン]] - アメリカ合衆国の陸上競技選手。
* [[ジェームズ・エドワード・ガン]] - アメリカ合衆国の天文学者。
* [[ジェイムズ・E・ガン (小説家)]] - アメリカ合衆国のSF作家。
* [[ジェームズ・ガン (映画製作者)]] - アメリカ合衆国の脚本家、映画監督、映画プロデューサー、小説家、俳優、音楽家。
* [[ショーン・ガン]] - アメリカ合衆国の俳優。
* [[チャールズ・ガン (陸上選手)]] - イギリスの陸上競技選手。
* [[ティム・ガン]] - アメリカ合衆国のファッションコンサルタント、テレビパーソナリティ。
* ミュリエル・ガン - イギリスの女子陸上競技選手[[ミュリエル・コーネル]]の結婚前の氏名。
* [[リチャード・ガン]] - イギリスのボクシング選手。
== 関連項目 ==
* [[がん (曖昧さ回避)]]
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チャイコフスキー (曖昧さ回避)
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チャイコフスキー
ポーランド・ウクライナ起源の姓。チャイカに由来する。
ロシアの地名。
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チャイコフスキー
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'''チャイコフスキー'''
== 姓 ==
[[ポーランド]]・[[ウクライナ]]起源の姓。[[チャイカ]]に由来する。
* [[ピョートル・チャイコフスキー]] - 19世紀ロシアの作曲家。バレエ音楽「[[白鳥の湖]]」「[[くるみ割り人形]]」「[[眠れる森の美女]]」などで知られる。
* {{仮リンク|ニコライ・チャイコフスキー|en|Nikolai Tchaikovsky}} - ロシアの化学者で、革命組織の[[チャイコフスキー団]]の創設者。
* [[ボリス・チャイコフスキー]] - ソヴィエト連邦時代のロシアの作曲家。上のピョートル・チャイコフスキーとの縁戚関係は無い。
* [[モデスト・チャイコフスキー]] - [[ロシア]]の[[劇作家]]、[[オペラ]]の[[リブレット (音楽)|台本作家]]、[[翻訳家]]。上のピョートル・チャイコフスキーの弟。
* {{仮リンク|アレクサンドル・チャイコフスキー|ru|Чайковский, Александр Владимирович}} - ロシアの作曲家。ボリスの甥。
* {{仮リンク|ミハウ・チャイコフスキ|en|Michał Czajkowski}} - [[ジトミェシュ]]出身の「ウクライナ派」の[[シュラフタ]]・作家
* {{仮リンク|アントニ・チャイコフスキ|pl|Antoni Czajkowski}} - ポーランドの作家。
* [[アンジェイ・チャイコフスキ]](アンドレイ・チャイコフスキー) - ポーランドのピアニスト。
== 地名 ==
[[ロシア]]の地名。
* [[チャイコフスキー (ペルミ地方)]] - [[ペルミ地方]]の都市。
* {{仮リンク|チャイコフスキー (クラスノヤルスク地方)|ru|Чайковский (Красноярский край)}} - [[クラスノヤルスク地方]]の集落。
== その他 ==
* [[チャイコフスキー (映画)]] - 1970年のソビエト連邦の映画。ピョートル・チャイコフスキーの伝記映画。
* {{仮リンク|チャイコフスキ (小惑星)|en|2266 Tchaikovsky}} - 小惑星帯の小惑星。
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[[Category:スラヴ語の姓]]
[[Category:ポーランド語の姓]]
[[Category:ロシアの地名]]
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デシベル
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デシベル (英語: decibel 記号: dB)は、ある物理量を基準となる量との比の常用対数によって表した計量単位である。 音の強さ、音圧レベル、電力比や電気機器の利得等の物理量をレベル表現を用いて表すときに使用される単位である。
国際単位系(SI)においては、非SI単位であるが、ベル、ネーパと並んでSI併用単位となっている。日本の計量法においては、SI単位のない量についての非SI単位と位置づけられていて、電磁波の減衰量、音圧レベル、振動加速度レベルの3つの物象の状態の量に対応する法定計量単位である。
なおSIにおいてレベル表現として表される量には次元が与えられておらず、無次元量である。電気工学や振動・音響工学などの分野で頻用される。
計量法における定義は次のようになっている。
都合上、まず「ベル」について解説する。
「ベル」の語源は、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話における電力の伝送減衰を表わすのに最初に用いたことに由来する。
物理量のレベル表現とは、基準となる物理量に対するその物理量の比を対数で表した量である。底が 10 の常用対数で表す単位がベル(bel、記号: B)、底がネイピア数の自然対数で表す単位がネーパ (neper 記号: Np)である。
基準量を A0 としたとき、物理量 A のレベル表現が LA であるとき
の関係がある。
ベルは十進法における桁の差を表したものと言える。例えば、A が A0 の1000倍、すなわちちょうど3桁大きい場合
L A / B = log 10 1000 A 0 A 0 = log 10 1000 = 3 {\displaystyle L_{A}/{\text{B}}=\log _{10}{\frac {1000\,A_{0}}{A_{0}}}=\log _{10}1000=3}
となり LA = 3 B である。
例えばゲインが1段で100倍のアンプを2段重ねると、全体のゲインは 100 × 100 で10000倍になる。これをベルであらわすと、1段は2ベル (= log10 100)である。それが 2 + 2 = 4 で、全体で4ベルすなわち10000倍となる。このように、対数で表現することで、倍率と倍率の組み合わせで乗算になる計算を、加算で済ませることができる、という利便性がある。
さらに1000倍×1000倍といった値を扱う分野では1/100万 (=10)から100万 (=10)のように幅広い桁数の値を扱うことになるが、ベルの値であれば−6から+6と扱い易い値でとりあつかうことができる。
比を常用対数で表すベルは便利で明快だが、実用上よく使われる 1/10 倍から 10 倍の範囲が −1 B から +1 B となる。つまり多くの場合 −0.x B とか +0.x B となり、少々使い勝手が悪い。そこで値が 10 倍になるよう単位の方を 1/10 倍にしたデシベルが通常使われる。デシベルはベルに 10 を意味する SI接頭語デシ(記号: d)を付けたものである。
基準量 A0 に対する A のレベル表現 LA をデシベルによって表すと
L A / dB = 10 log 10 A A 0 ≈ log 1.259 A A 0 {\displaystyle L_{A}/{\text{dB}}=10\log _{10}{\frac {A}{A_{0}}}\approx \log _{1.259}{\frac {A}{A_{0}}}}
となる。 その定義から、 0 dB で 1 倍、 10 dB で 10 倍、 20 dB で 100 倍である。 1 dB は約 1.259 倍である。また「10 dB で 1 桁違う」ことから「1 dB で 0.1 桁違う」とも言える。
デシベルによる表現は、音の強さ(音圧レベル)や、電力の比較、減衰などをエネルギー比で表すのに使用される。
レベル表現は二つの量の相対的な関係を表現するものだが、絶対的な値を表現するために各分野で基準値である 0 dB に相当する量が定義されている。
電磁波の減衰量、音圧レベル、振動加速度レベルについては、計量法において「取引又は証明」に用いるべき単位としてデシベルを定めている。後 2 者は、それぞれ、音圧 (Pa) および振動の加速度 (m/s) の基準値に基づいて定義された絶対デシベルである。電磁波の減衰量は比をデシベルで表現したもの(相対デシベル)である。
デシベルは増幅器や減衰器の利得(ゲイン)を表す場合にも用いられる。工学の分野でデシベルを用いて表現する場合、対数をとる対象はパワーに相当する次元の物理量の比とするのが一般的である。
すなわち、デシベルで表す電力利得 LP は、入力電力を Pin 、出力電力を Pout とすると、
L P = 10 log 10 ( P out P in ) dB {\displaystyle L_{P}=10\log _{10}\left({\frac {P_{\text{out}}}{P_{\text{in}}}}\right){\text{dB}}}
である。
一方、電圧や音圧などの交流信号の振幅からデシベルで表す利得LVを求める場合、パワーは振幅の2乗に比例すると仮定し、
L V = 10 log 10 ( V out 2 V in 2 ) = 10 log 10 ( V out V in ) 2 = 20 log 10 ( V out V in ) dB {\displaystyle L_{V}=10\log _{10}\left({\frac {{V_{\text{out}}}^{2}}{{V_{\text{in}}}^{2}}}\right)=10\log _{10}\left({\frac {V_{\text{out}}}{V_{\text{in}}}}\right)^{2}=20\log _{10}\left({\frac {V_{\text{out}}}{V_{\text{in}}}}\right){\text{dB}}}
として計算する。ここに、Vinは入力電圧、Voutは出力電圧である。 ここで注意する必要があるのは、定義が 20 log 10 ( ) {\displaystyle 20\log _{10}\left(\right)} なのではなく、 10 log 10 ( ) 2 {\displaystyle 10\log _{10}\left(\right)^{2}} の式変形の結果として乗じる係数が20となっている点である。 これは電気回路で入出力のインピーダンスが等しい場合に相当し、この条件下では明らかに以下の関係が成立する。
L P = L V {\displaystyle L_{P}=L_{V}}
相対量としてのデシベルは任意にとった基準量との比をデシベルによるレベル表現で表すものである。相対量であることを明示するために dBr という表記をする場合もある。
デシベル値・場の量(電圧など)の比・工率の量(電力など)の比を表にして示す。
場の量で 6 dB は約 2 倍、 12 dB は約 4 倍、 14 dB は約 5 倍、 17 dB は約 7 倍、 18 dB は約 8 倍、 19 dB は約 9 倍、 20 dB は正確に 10 倍である。工率の量では 3 dB は約 2 倍、 6 dB は約 4 倍、 7 dB は約 5 倍、 9 dB は約 8 倍、 10 dB は正確に 10 倍である。
場の量である電圧や電流では 10 倍であることを +20 dB とか 20 dB 大きいといい、 1/10 であることを −20 dB とか 20 dB 小さいという。工率の量である電力では 100 倍であることを +20 dB とか 20 dB 大きいといい、 1/100 であることを −20 dB とか 20 dB 小さいという。一見厄介に思えるが、電圧が 10 倍だと電流も 10 倍で電力は 100 倍ということをすべて +20 dB で表現できる。逆に 10 倍ではそれは電圧のことなのか電力のことなのかいちいち確かめなくてはならず、慣れるとむしろデシベルで表現する方がわかりやすい。
ただし、どんな場合でも電圧の 1/2 が −6 dB になるわけではない。たとえば工率を計測する機器で出力電圧の 1/2 が工率の 1/2 を表す場合、それは −6 dB ではなく −3 dB である。当然のことながら表現する対象を考慮する必要がある。
基準となる物理量をあらかじめ決めておくと、物理量を直ちにデシベルでレベル表現できるようになる。これは音響など特定の分野で非常に便利であり多用される。その例を列挙する。
ただし国際度量衡総会 (CGPM) の立場では、デシベルはあくまで相対量を表すものであり、基準量を示す必要があるとしている。その表現方法として、アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) から発行されている「Guide for the Use of the International System of Units (SI)」の 7.4 節に次のように記されている。
ある量の値を表現する場合、量やその測定条件に関する情報を提供するために単位に文字や記号を添えるのは正しくない。そのような場合には量記号に文字や記号を添えるべきである。例:Vmax = 1000 Vこうではなく:V = 1000 Vmax
従って下記に示す x dBSPL などの表記も正しくなく、 Lp (re 20 μPa) = x dB もしくは Lp/(20 μPa) = x dB と表記するべき、というのが CGPM の立場である。いちいち Lp (re 20 μPa) = x dB などとやっていられない場合(たとえば図中に記入する場合)、 x dB (20 μPa) のような表記を CGPM は認めている。 (要するに CGPM は dBSPL とか dBSIL といった特定用途向けの単位を乱造するのではなく、 20 μPa なり 1 pW/m なりの基準量を明示して、 dB はあくまでも相対量として使うべきという主張をしている。)
Unicodeには、デシベルを表す上記の文字が収録されている。これはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。
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"tag": "p",
"text": "例えばゲインが1段で100倍のアンプを2段重ねると、全体のゲインは 100 × 100 で10000倍になる。これをベルであらわすと、1段は2ベル (= log10 100)である。それが 2 + 2 = 4 で、全体で4ベルすなわち10000倍となる。このように、対数で表現することで、倍率と倍率の組み合わせで乗算になる計算を、加算で済ませることができる、という利便性がある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "さらに1000倍×1000倍といった値を扱う分野では1/100万 (=10)から100万 (=10)のように幅広い桁数の値を扱うことになるが、ベルの値であれば−6から+6と扱い易い値でとりあつかうことができる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "比を常用対数で表すベルは便利で明快だが、実用上よく使われる 1/10 倍から 10 倍の範囲が −1 B から +1 B となる。つまり多くの場合 −0.x B とか +0.x B となり、少々使い勝手が悪い。そこで値が 10 倍になるよう単位の方を 1/10 倍にしたデシベルが通常使われる。デシベルはベルに 10 を意味する SI接頭語デシ(記号: d)を付けたものである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "基準量 A0 に対する A のレベル表現 LA をデシベルによって表すと",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "L A / dB = 10 log 10 A A 0 ≈ log 1.259 A A 0 {\\displaystyle L_{A}/{\\text{dB}}=10\\log _{10}{\\frac {A}{A_{0}}}\\approx \\log _{1.259}{\\frac {A}{A_{0}}}}",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "となる。 その定義から、 0 dB で 1 倍、 10 dB で 10 倍、 20 dB で 100 倍である。 1 dB は約 1.259 倍である。また「10 dB で 1 桁違う」ことから「1 dB で 0.1 桁違う」とも言える。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "デシベルによる表現は、音の強さ(音圧レベル)や、電力の比較、減衰などをエネルギー比で表すのに使用される。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "レベル表現は二つの量の相対的な関係を表現するものだが、絶対的な値を表現するために各分野で基準値である 0 dB に相当する量が定義されている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "電磁波の減衰量、音圧レベル、振動加速度レベルについては、計量法において「取引又は証明」に用いるべき単位としてデシベルを定めている。後 2 者は、それぞれ、音圧 (Pa) および振動の加速度 (m/s) の基準値に基づいて定義された絶対デシベルである。電磁波の減衰量は比をデシベルで表現したもの(相対デシベル)である。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "デシベルは増幅器や減衰器の利得(ゲイン)を表す場合にも用いられる。工学の分野でデシベルを用いて表現する場合、対数をとる対象はパワーに相当する次元の物理量の比とするのが一般的である。",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "すなわち、デシベルで表す電力利得 LP は、入力電力を Pin 、出力電力を Pout とすると、",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "L P = 10 log 10 ( P out P in ) dB {\\displaystyle L_{P}=10\\log _{10}\\left({\\frac {P_{\\text{out}}}{P_{\\text{in}}}}\\right){\\text{dB}}}",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一方、電圧や音圧などの交流信号の振幅からデシベルで表す利得LVを求める場合、パワーは振幅の2乗に比例すると仮定し、",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "L V = 10 log 10 ( V out 2 V in 2 ) = 10 log 10 ( V out V in ) 2 = 20 log 10 ( V out V in ) dB {\\displaystyle L_{V}=10\\log _{10}\\left({\\frac {{V_{\\text{out}}}^{2}}{{V_{\\text{in}}}^{2}}}\\right)=10\\log _{10}\\left({\\frac {V_{\\text{out}}}{V_{\\text{in}}}}\\right)^{2}=20\\log _{10}\\left({\\frac {V_{\\text{out}}}{V_{\\text{in}}}}\\right){\\text{dB}}}",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "として計算する。ここに、Vinは入力電圧、Voutは出力電圧である。 ここで注意する必要があるのは、定義が 20 log 10 ( ) {\\displaystyle 20\\log _{10}\\left(\\right)} なのではなく、 10 log 10 ( ) 2 {\\displaystyle 10\\log _{10}\\left(\\right)^{2}} の式変形の結果として乗じる係数が20となっている点である。 これは電気回路で入出力のインピーダンスが等しい場合に相当し、この条件下では明らかに以下の関係が成立する。",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "L P = L V {\\displaystyle L_{P}=L_{V}}",
"title": "電力利得と電圧利得"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "相対量としてのデシベルは任意にとった基準量との比をデシベルによるレベル表現で表すものである。相対量であることを明示するために dBr という表記をする場合もある。",
"title": "相対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "デシベル値・場の量(電圧など)の比・工率の量(電力など)の比を表にして示す。",
"title": "相対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "場の量で 6 dB は約 2 倍、 12 dB は約 4 倍、 14 dB は約 5 倍、 17 dB は約 7 倍、 18 dB は約 8 倍、 19 dB は約 9 倍、 20 dB は正確に 10 倍である。工率の量では 3 dB は約 2 倍、 6 dB は約 4 倍、 7 dB は約 5 倍、 9 dB は約 8 倍、 10 dB は正確に 10 倍である。",
"title": "相対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "場の量である電圧や電流では 10 倍であることを +20 dB とか 20 dB 大きいといい、 1/10 であることを −20 dB とか 20 dB 小さいという。工率の量である電力では 100 倍であることを +20 dB とか 20 dB 大きいといい、 1/100 であることを −20 dB とか 20 dB 小さいという。一見厄介に思えるが、電圧が 10 倍だと電流も 10 倍で電力は 100 倍ということをすべて +20 dB で表現できる。逆に 10 倍ではそれは電圧のことなのか電力のことなのかいちいち確かめなくてはならず、慣れるとむしろデシベルで表現する方がわかりやすい。",
"title": "相対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ただし、どんな場合でも電圧の 1/2 が −6 dB になるわけではない。たとえば工率を計測する機器で出力電圧の 1/2 が工率の 1/2 を表す場合、それは −6 dB ではなく −3 dB である。当然のことながら表現する対象を考慮する必要がある。",
"title": "相対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "基準となる物理量をあらかじめ決めておくと、物理量を直ちにデシベルでレベル表現できるようになる。これは音響など特定の分野で非常に便利であり多用される。その例を列挙する。",
"title": "絶対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ただし国際度量衡総会 (CGPM) の立場では、デシベルはあくまで相対量を表すものであり、基準量を示す必要があるとしている。その表現方法として、アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) から発行されている「Guide for the Use of the International System of Units (SI)」の 7.4 節に次のように記されている。",
"title": "絶対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ある量の値を表現する場合、量やその測定条件に関する情報を提供するために単位に文字や記号を添えるのは正しくない。そのような場合には量記号に文字や記号を添えるべきである。例:Vmax = 1000 Vこうではなく:V = 1000 Vmax",
"title": "絶対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "従って下記に示す x dBSPL などの表記も正しくなく、 Lp (re 20 μPa) = x dB もしくは Lp/(20 μPa) = x dB と表記するべき、というのが CGPM の立場である。いちいち Lp (re 20 μPa) = x dB などとやっていられない場合(たとえば図中に記入する場合)、 x dB (20 μPa) のような表記を CGPM は認めている。 (要するに CGPM は dBSPL とか dBSIL といった特定用途向けの単位を乱造するのではなく、 20 μPa なり 1 pW/m なりの基準量を明示して、 dB はあくまでも相対量として使うべきという主張をしている。)",
"title": "絶対量としてのデシベル"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "Unicodeには、デシベルを表す上記の文字が収録されている。これはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。",
"title": "符号位置"
}
] |
デシベルは、ある物理量を基準となる量との比の常用対数によって表した計量単位である。
音の強さ、音圧レベル、電力比や電気機器の利得等の物理量をレベル表現を用いて表すときに使用される単位である。 国際単位系(SI)においては、非SI単位であるが、ベル、ネーパと並んでSI併用単位となっている。日本の計量法においては、SI単位のない量についての非SI単位と位置づけられていて、電磁波の減衰量、音圧レベル、振動加速度レベルの3つの物象の状態の量に対応する法定計量単位である。 なおSIにおいてレベル表現として表される量には次元が与えられておらず、無次元量である。電気工学や振動・音響工学などの分野で頻用される。
|
{{Otheruseslist|単位|KDEのコミュニケーションフレームワーク|Decibel|[[横浜ゴム|ヨコハマタイヤ]]の商品「ASPEC dB」|横浜ゴム#過去のブランド|2022年公開の映画|デシベル (映画)}}
{{単位
|名称= ベル
|画像= [[File:Integrating Sound Level Meter dB(A) Brüel Kjær 2225.jpg|250px]]<br>デシベル単位で目盛りが降られた騒音計
|英字= bel
|記号= B
|種類= [[SI併用単位]]
|物理量= [[レベル表現]]
|定義= ある量 ''X'' と基準値 ''X''<sub>0</sub> の比の常用対数を取ったときの値
|語源= [[アレクサンダー・グラハム・ベル]]
}}
'''デシベル''' ({{Lang-en|decibel}} 記号: dB)は、ある物理量を基準となる量との比の常用対数によって表した[[計量単位]]である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=32 国際単位系(SI)第 9 版(2019)] p.115、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年3月</ref>。
[[音]]の強さ、[[音圧]]レベル、[[電力]]比や電気機器の[[利得 (電気工学)|利得]]等の[[物理量]]を[[レベル表現]]を用いて表すときに使用される単位である。
[[国際単位系]](SI)においては、[[非SI単位]]であるが、[[ベル]]、[[ネーパ]]と並んで[[SI併用単位]]となっている。日本の[[計量法]]においては、[[計量法に基づく計量単位一覧#SI単位のない量についての非SI単位(7量9単位)|SI単位のない量についての非SI単位]]と位置づけられていて、電磁波の減衰量、音圧レベル、振動加速度レベルの3つの[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]に対応する[[法定計量単位]]である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051#1358 計量法 別表第二]</ref>。
なお[[国際単位系|SI]]においてレベル表現として表される量には次元が与えられておらず、[[無次元量]]である。[[電気工学]]や[[振動工学|振動]]・[[音響学|音響工学]]などの分野で頻用される。
== 定義 ==
計量法における定義は次のようになっている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#79 計量単位令 別表第二]</ref>。
* '''電磁波の減衰量'''についてのデシベル:減衰前の電磁波の電力の減衰後の電磁波の電力に対する比の常用対数の十倍
* '''音圧レベル'''についてのデシベル:音圧実効値(パスカルで表した大気中における圧力の瞬時値と静圧との差の二乗の一周期平均の平方根をいう。以下同じ。)の十万分の二に対する比の常用対数の二十倍又は音圧実効値に経済産業省令で定める聴感補正を行って得られた値の十万分の二に対する比の常用対数の二十倍
* '''振動加速度レベル'''についてのデシベル:振動加速度実効値(メートル毎秒毎秒で表した加速度の瞬時値の二乗の一周期平均の平方根をいう。以下同じ。)の十万分の一に対する比の常用対数の二十倍又は振動加速度実効値に経済産業省令で定める感覚補正を行って得られた値の十万分の一に対する比の常用対数の二十倍
== 概説 ==
都合上、まず「ベル」について解説する。
「ベル」の語源は、[[アレクサンダー・グラハム・ベル]]が電話における電力の伝送[[減衰]]を表わすのに最初に用いたことに由来する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.onosokki.co.jp/HP-WK/c_support/newreport/noise/souon_2.htm |title=騒音の計測単位-なぜdBという対数尺度を使用するか |publisher=[[小野測器]] |accessdate=2014-04-15}}</ref>。
=== ベル ===
物理量のレベル表現とは、基準となる物理量に対するその物理量の比を[[対数]]で表した量である。底が 10 の[[常用対数]]で表す単位がベル({{en|bel}}、記号: B)、底が[[ネイピア数]]の[[自然対数]]で表す単位が[[ネーパ]] ({{en|neper}} 記号: Np)である。
基準量を {{math|''A''{{sub|0}}}} としたとき、物理量 {{mvar|A}} のレベル表現が {{mvar|L{{sub|A}}}} であるとき
:<math>\begin{align}
\frac{A}{A_0} &= 10^{L_A/\text{B}}, \\
L_A/\text{B} &= \log_{10} \frac{A}{A_0}
\end{align}</math>
の関係がある。
ベルは[[十進法]]における桁の差を表したものと言える。例えば、{{mvar|A}} が {{math|''A''{{sub|0}}}} の1000倍、すなわちちょうど3桁大きい場合
{{Indent|
<math>L_A/\text{B} =\log_{10} \frac{1000\, A_0}{A_0}
=\log_{10} 1000 =3</math>
}}
となり {{math|1=''L{{sub|A}}''}} = 3 B である。
例えば[[利得 (電気工学)|ゲイン]]が1段で100倍のアンプを2段重ねると、全体のゲインは 100 × 100 で{{gaps|10|000}}倍になる。これをベルであらわすと、1段は2ベル (= log<sub>10</sub> 100)である。それが 2 + 2 = 4 で、全体で4ベルすなわち{{gaps|10|000}}倍となる。このように、対数で表現することで、倍率と倍率の組み合わせで乗算になる計算を、加算で済ませることができる、という利便性がある。
さらに1000倍×1000倍といった値を扱う分野では1/100万 (=10<sup>−6</sup>)から100万 (=10<sup>6</sup>)のように幅広い桁数の値を扱うことになるが、ベルの値であれば−6から+6と扱い易い値でとりあつかうことができる。
=== デシベル ===
比を常用対数で表すベルは便利で明快だが、実用上よく使われる 1/10 倍から 10 倍の範囲が −1 B から +1 B となる。つまり多くの場合 −0.''x'' B とか +0.''x'' B となり、少々使い勝手が悪い。そこで値が 10 倍になるよう単位の方を 1/10 倍にしたデシベルが通常使われる。デシベルはベルに {{10^|-1}} を意味する [[SI接頭語]][[デシ]](記号: d)を付けたものである。
基準量 {{math|''A''{{sub|0}}}} に対する {{mvar|A}} のレベル表現 {{mvar|L{{sub|A}}}} をデシベルによって表すと
{{Indent|
<math>L_A/\text{dB} = 10 \log_{10} \frac{A}{A_0} \approx \log_{1.259} \frac{A}{A_0}</math>
}}
となる。
その定義から、 0 dB で 1 倍、 10 dB で 10 倍、 20 dB で 100 倍である。 1 dB は約 1.259 倍である。また「10 dB で 1 桁違う」ことから「1 dB で 0.1 桁違う」とも言える。
デシベルによる表現は、音の強さ([[音圧レベル]])や、[[電力]]の比較、減衰などをエネルギー比で表すのに使用される。
レベル表現は二つの量の相対的な関係を表現するものだが、絶対的な値を表現するために各分野で基準値である 0 dB に相当する量が定義されている。{{Main|#絶対量としてのデシベル}}
電磁波の減衰量、音圧レベル、[[振動加速度レベル]]については、[[計量法]]において「取引又は証明」に用いるべき単位としてデシベルを定めている。後 2 者は、それぞれ、音圧 ([[パスカル (単位)|Pa]]) および振動の加速度 (m/s{{sup|2}}) の基準値に基づいて定義された絶対デシベルである。電磁波の減衰量は比をデシベルで表現したもの(相対デシベル)である。<!-- だと、思う-->
== 電力利得と電圧利得 ==
デシベルは増幅器や減衰器の[[利得 (電気工学)|利得(ゲイン)]]を表す場合にも用いられる。工学の分野でデシベルを用いて表現する場合、対数をとる対象はパワーに相当する次元の物理量の比とするのが一般的である。
すなわち、デシベルで表す電力利得 {{mvar|L{{sub|P}}}} は、入力電力を {{math|''P''{{sub|in}}}} 、出力電力を {{math|''P''{{sub|out}}}} とすると、
{{Indent|
<math>L_P = 10 \log_{10} \left( \frac{P_\text{out}}{P_\text{in}} \right) \text{dB}</math>
}}
である。
一方、電圧や音圧などの交流信号の振幅からデシベルで表す利得{{mvar|L{{sub|V}}}}を求める場合、パワーは振幅の2乗に比例すると仮定し、
{{Indent|
<math>L_V = 10 \log_{10} \left( \frac{{V_\text{out}}^2}{{V_\text{in}}^2} \right) = 10 \log_{10} \left( \frac{V_\text{out}}{V_\text{in}} \right)^2 = 20 \log_{10} \left( \frac{V_\text{out}}{V_\text{in}} \right) \text{dB}</math>
}}
として計算する。ここに、{{math|''V''{{sub|in}}}}は入力電圧、{{math|''V''{{sub|out}}}}は出力電圧である。
ここで注意する必要があるのは、定義が <math>20 \log_{10} \left( \right)</math> なのではなく、<math>10 \log_{10} \left( \right)^2</math> の式変形の結果として乗じる係数が20となっている点である。
これは電気回路で入出力の[[インピーダンス]]が等しい場合に相当し、この条件下では明らかに以下の関係が成立する。
{{Indent|
<math>L_P = L_V</math>
}}
== 相対量としてのデシベル ==
相対量としてのデシベルは任意にとった基準量との比をデシベルによるレベル表現で表すものである。相対量であることを明示するために dBr という表記をする場合もある。
デシベル値・場の量<ref>工率平方根の量ともいう。</ref>(電圧など)の比・工率の量(電力など)の比を表にして示す。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
! デシベル値 !! 場の量の比 !! 工率の量の比
|-
| 0 dB || 1.000 倍 || 1.000 倍
|-
| 1 dB || 1.122 倍 || 1.259 倍
|-
| 2 dB || 1.259 倍 || 1.585 倍
|-
| 3 dB || 1.413 倍 || 1.995 倍
|-
| 4 dB || 1.585 倍 || 2.512 倍
|-
| 5 dB || 1.778 倍 || 3.162 倍
|-
| 6 dB || 1.995 倍 || 3.981 倍
|-
| 7 dB || 2.239 倍 || 5.012 倍
|-
| 8 dB || 2.512 倍 || 6.310 倍
|-
| 9 dB || 2.818 倍 || 7.943 倍
|-
| 10 dB || 3.162 倍 || 10.00 倍
|-
| 11 dB || 3.548 倍 || 12.59 倍
|-
| 12 dB || 3.981 倍 || 15.85 倍
|-
| 13 dB || 4.467 倍 || 19.95 倍
|-
| 14 dB || 5.012 倍 || 25.12 倍
|-
| 15 dB || 5.623 倍 || 31.62 倍
|-
| 16 dB || 6.310 倍 || 39.81 倍
|-
| 17 dB || 7.079 倍 || 50.12 倍
|-
| 18 dB || 7.943 倍 || 63.10 倍
|-
| 19 dB || 8.913 倍 || 79.43 倍
|-
| 20 dB || 10.00 倍 || 100.0 倍
|-
| 30 dB || 31.62 倍 || 1,000 倍
|-
| 40 dB || 100.0 倍 || 10,000 倍
|-
| 50 dB || 316.2 倍 || 100,000 倍
|-
| 60 dB || 1,000 倍 || 1,000,000 倍
|}
場の量で 6 dB は約 2 倍、 12 dB は約 4 倍、 14 dB は約 5 倍、 17 dB は約 7 倍、 18 dB は約 8 倍、 19 dB は約 9 倍、 20 dB は正確に 10 倍である。工率の量では 3 dB は約 2 倍、 6 dB は約 4 倍、 7 dB は約 5 倍、 9 dB は約 8 倍、 10 dB は正確に 10 倍である。
場の量である電圧や電流では 10 倍であることを +20 dB とか 20 dB 大きいといい、 1/10 であることを −20 dB とか 20 dB 小さいという。工率の量である電力では 100 倍であることを +20 dB とか 20 dB 大きいといい、 1/100 であることを −20 dB とか 20 dB 小さいという。一見厄介に思えるが、電圧が 10 倍だと電流も 10 倍で電力は 100 倍ということをすべて +20 dB で表現できる。逆に 10 倍ではそれは電圧のことなのか電力のことなのかいちいち確かめなくてはならず、慣れるとむしろデシベルで表現する方がわかりやすい<!-- WP:NOTESSAY <ref>「''x'' dB は何倍ですか?」という質問をよく見かけるが非常にこころもとない。</ref> -->。
<!--デシベルを誤用しているサイトが見受けられた為追記-->
ただし、どんな場合でも電圧の 1/2 が −6 dB になるわけではない。たとえば工率を計測する機器で出力電圧の 1/2 が工率の 1/2 を表す場合、それは −6 dB ではなく −3 dB である。当然のことながら表現する対象を考慮する必要がある。
== 絶対量としてのデシベル ==
基準となる物理量をあらかじめ決めておくと、物理量を直ちにデシベルでレベル表現できるようになる。これは音響など特定の分野で非常に便利であり多用される。その例を列挙する。
ただし[[国際度量衡総会|国際度量衡総会 (CGPM)]] の立場では、デシベルはあくまで相対量を表すものであり、基準量を示す必要があるとしている。その表現方法として、[[アメリカ国立標準技術研究所|アメリカ国立標準技術研究所 (NIST)]] から発行されている「Guide for the Use of the International System of Units (SI)」[https://physics.nist.gov/cuu/pdf/sp811.pdf]の 7.4 節に次のように記されている。
{{Bquote|1=ある量の値を表現する場合、量やその測定条件に関する情報を提供するために単位に文字や記号を添えるのは正しくない。そのような場合には量記号に文字や記号を添えるべきである。<br />''例'':''V''<sub>max</sub> = 1000 V<br />''こうではなく'':''V'' = 1000 V<sub>max</sub>}}
従って下記に示す ''x'' dB<sub>SPL</sub> などの表記も正しくなく、 ''L<sub>p</sub>'' (re 20 µPa) = ''x'' dB もしくは ''L''<sub>''p''/(20 µPa)</sub> = ''x'' dB と表記するべき、というのが CGPM の立場である。いちいち ''L<sub>p</sub>'' (re 20 µPa) = ''x'' dB などとやっていられない場合(たとえば図中に記入する場合)、 ''x'' dB (20 µPa) のような表記を CGPM は認めている。
(要するに CGPM は dB<sub>SPL</sub> とか dB<sub>SIL</sub> といった特定用途向けの単位を乱造するのではなく、 20 µPa なり 1 pW/m<sup>2</sup> なりの基準量を明示して、 dB はあくまでも相対量として使うべきという主張をしている。)
; [[音圧レベル|dB<sub>SPL</sub>(Sound Pressure Level, 音圧レベル)]]
: [[音]]の[[圧力]]である[[音圧]]に対して用いられる。媒体が空気の場合、基準量は 20 µ[[パスカル (単位)|Pa]] (0 dB<sub>SPL</sub> = 20 µPa = 20{{E|-6}} Pa)。 20 µPa はかつて人間の 1 kHz における[[最小可聴値]]とされていた。現在の[[等ラウドネス曲線]] (ISO 226:2003) によれば 1 kHz における最小可聴値は 30 µPa 程度だが、音圧レベルの基準が変わっては困るのでそのままになっている。
; dB<sub>SIL</sub>(Sound Intensity Level, 音の強さレベル)
: 単位断面積を単位時間あたりに通過する音の[[エネルギー]]である[[音の強さ]]に対して用いられる。基準量は 1 pW/m<sup>2</sup> (0 dB<sub>SIL</sub> = 1 pW/m<sup>2</sup> = {{10^|-12}} W/m<sup>2</sup>)。
; dB<sub>FS</sub> (Full Scale)
: デジタル音声のレベルに対して用いられる(アナログ音声には用いない)。基準量は規格上の最大レベル。したがって基本的には 0 dB<sub>FS</sub> がレベルの上限となる。ただし扱う波形が正弦波に限らない場合、実効値は 0 dB<sub>FS</sub> 正弦波の実効値を超える場合がある。
; [[デシベルワット|dBW, dB(W)]]
: 1 W を基準量とする電力のレベル表現 (0 dBW = 1 W)。
; [[dBm|dBm, dB(mW)]]
: 1 mW を基準量とする電力のレベル表現 (0 dBm = 1 mW = {{10^|-3}} W)。音響の分野で誤って電圧に対して用いられていることがある(dBv の項を参照)。
; dBp, dB(pW)
: 1 pW ([[ピコ]]ワット)を基準量とする電力のレベル表現 (0 dBp = 1 pW = {{10^|-12}} W)。無線通信など小さい電力を扱う分野で用いられる。
; dBf, dB(fW)
: 1 fW ([[フェムト]]ワット)を基準量とする電力のレベル表現 (0 dBf = 1 fW = {{10^|-15}} W)。無線通信など小さい電力を扱う分野で用いられる。
; dBV, dB(V)
: 1 V<sub>r.m.s.</sub> を基準量とする電圧のレベル表現 (0 dBV = 1 V)。
; dBv
: {{val|775|u=mV{{sub|r.m.s.}}}}<ref>厳密には {{math|{{sqrt|600 × 10{{sup|3}}}} mV{{sub|r.m.s.}} {{=}} {{val|774.596669241483377|u=...mV{{sub|r.m.s.}}}}}}。</ref> を基準量とする電圧のレベル表現 (0 dBv = 775 mV<sub>r.m.s.</sub> = 0.775 V<sub>r.m.s.</sub>)。主に業務用音響機器の音声信号に対して用いられ、 600 Ω純抵抗の消費電力が ''x'' dBm のときの電圧が ''x'' dBv という関係にある。古典的な業務用音響機器は 600 Ωで[[インピーダンス整合]]されており、信号レベルの単位には dBm が用いられていた。実際には電力でなく電圧を見ている場合が多かったが<ref>アンプ類の負帰還では電圧を見ていたし、歪率などの特性も電圧で測定されていた。</ref>、インピーダンスが決まっていれば電力と電圧は一対一で対応するので問題なかったのである(50 Ω, 75 Ωなどで整合される高周波回路でも同じ)。後に 600 Ωで整合されない機器が多くなり、対象を明確に電圧に変える必要に迫られ、 600 Ωにおいて dBm と互換性があるように考えられたのがこの dBv という単位である。しかし dBV と非常に紛らわしいため、現在では dBu と表記する方が普通。なお、信号レベルの単位に dBm が用いられていた時代が長かったため、現在でも誤って dBm が電圧に対して 0 dBm = 775 mV<sub>r.m.s.</sub> として用いられていることがある。
:; dBu
:: 意味は dBv と全く同じ。 dBv が dBV と非常に紛らわしいため、現在では dBu の方が普通。
:; dBs
:: 意味は dBv と全く同じ。[[日本放送協会]]で使われるが、それ以外ではほとんど見かけない。
; dBµV, dB(µV)
: 1 µV<sub>r.m.s.</sub> を基準量とする電圧のレベル表現 (0 dBµV = 1 µV<sub>r.m.s.</sub> = {{10^|-6}} V<sub>r.m.s.</sub>)。主に無線通信の分野で用いられる。
:; EMF (ElectroMotive Force)
:: 無線通信の分野で[[標準信号発生器|高周波信号発生器]] (SG) の出力電圧を表す場合、 SG 出力を終端した状態の電圧(終端電圧)で表す場合と SG 出力を開放した状態の電圧(起電力、 Electromotive Force)で表す場合とがある。 EMF と表示されていれば起電力である。整合終端では 6 dB の差があり、例えば 50 Ω系の場合、整合終端の 107 dBµV と EMF の 113 dBµV はどちらもほぼ 0 dBm に相当する。日本では業務用無線機や [[PDC]] 方式携帯電話機で EMF が用いられることが多く、米国や[[アマチュア無線]]では終端電圧が用いられることが多い。規格や仕様によっては EMF が省略され明記されていない場合があり注意が必要である。 dBm, dBf など電力による表示なら間違えるおそれがない。
; dBi
: アイソトロピック[[アンテナ]](全ての方向に均等に電波を放射する仮想的なアンテナ)を基準とするアンテナの利得。[[ダイポールアンテナ]]を基準にする場合は dBd または単に dB と表す。 dBi 表記は dBd より 2.15 大きい。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13256|33C8|-|デシベル}}
|}
[[Unicode]]には、デシベルを表す上記の文字が収録されている。これは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[アレクサンダー・グラハム・ベル]]
* [[ネーパ]]
* [[減衰器]]
* [[常用対数]]
; 音響・聴覚関連
* [[ホン]]
* [[音圧]] - [[音圧レベル]]
* [[聴覚障害者]]
* [[等ラウドネス曲線]]
{{SI units navbox}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てしへる}}
[[Category:SI併用単位]]
[[Category:無次元数]]
[[Category:対数スケールの単位]]
[[Category:音の単位]]
[[Category:騒音]]
[[Category:エポニム]]
[[Category:アレクサンダー・グラハム・ベル]]
|
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18,297 |
設備
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設備(せつび)とは、建築物や車両・船舶などに備え付けられた機器の事、ないしその機器を設置(置いて取り付ける)するものをさす。
設備は、人が内部に入って利用する建物(施設など)や乗物などに取り付けられている機器類であるが、主にそれら施設や乗物の機能そのものというよりも、主要な機能とは別に取り付けられているもの全般を指す。簡単には取り外せないよう接着ないしねじ止めなどで固定されているが、故障などの際には部分的(部品)に交換したり修理したりできるようになっている場合がほとんどである。
簡単に移動できない家具などもこの設備の一部に含まれる場合もあるが、大抵は移動できないようになっており、必要に応じて他の機能に接続されている場合もある。
これらはその建物や乗物の利便性・快適さを向上させるものであるが、主となる機能とは別であることから、特に無くても必要最低限の機能は残る訳だが、それでは建物や乗物としての利便性が極めて限定的なものとなるため、大抵はある程度の設備が整った状態が、それら建物や乗物の標準的な状態となる。また主機能とは別となるため、オプションないし付加価値のような形で、利用者の好みに合わせ選択され設置される場合もある。
目的にも応じて設備には様々な系統があり、以下に挙げるような細分化された分野がある。その分野に属する設備は共通化されたユニット(機能単位)として製品化されて用意されている場合も多く、このユニットの組換えで目的に添った機能の追加が可能である。
以下に設備の例を挙げる。
詳しくは衛生#建築衛生,Category:衛生設備参照。
詳しくは給水設備参照。「給排水設備」「給排水衛生設備」というようにまとめて表現されることがある。
詳しくは排水設備参照。
詳しくは厨房設備参照。
詳しくは熱源設備参照。
詳しくは電気設備参照。「電設」と略すこともあり、電設に使う資材を「電材」と呼称する。
詳しくは空気調和設備参照。
詳しくは消防用設備、防災参照。
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設備(せつび)とは、建築物や車両・船舶などに備え付けられた機器の事、ないしその機器を設置(置いて取り付ける)するものをさす。
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{{出典の明記|date=2009年6月}}
'''設備'''(せつび)とは、[[建築物]]や[[車両]]・[[船舶]]などに備え付けられた機器の事、ないしその機器を設置(置いて取り付ける)するものをさす。
==概要==
設備は、人が内部に入って利用する建物([[施設]]など)や[[乗物]]などに取り付けられている機器類であるが、主にそれら施設や乗物の[[機能]]そのものというよりも、主要な機能とは別に取り付けられているもの全般を指す。簡単には取り外せないよう[[接着]]ないし[[ねじ]]止めなどで固定されているが、[[故障]]などの際には部分的([[部品]])に交換したり修理したりできるようになっている場合がほとんどである。
簡単に移動できない[[家具]]などもこの設備の一部に含まれる場合もあるが、大抵は移動できないようになっており、必要に応じて他の機能に接続されている場合もある。
これらはその建物や乗物の利便性・快適さを向上させるものであるが、主となる機能とは別であることから、特に無くても必要最低限の機能は残る訳だが、それでは建物や乗物としての利便性が極めて限定的なものとなるため、大抵はある程度の設備が整った状態が、それら建物や乗物の標準的な状態となる。また主機能とは別となるため、[[オプション]]ないし[[付加価値]]のような形で、利用者の好みに合わせ選択され設置される場合もある。
目的にも応じて設備には様々な系統があり、以下に挙げるような細分化された分野がある。その分野に属する設備は共通化されたユニット([[機械要素|機能単位]])として製品化されて用意されている場合も多く、このユニットの組換えで目的に添った機能の追加が可能である。
: 例えば輸送用の[[海上コンテナ|コンテナ]]という[[箱]]の[[インテリア|内装]]を多少整え[[照明]]・[[空気調和|空調]]設備や[[カラオケ]]セットとソファーなど家具を設置して[[電力]]を接続すれば、それは[[カラオケボックス]]に姿を変えるし、それとは別に[[ユニットバス|トイレ付きユニットバス]]と[[給湯器]]・簡単な調理用の設備・照明・[[エア・コンディショナー|エアコン]]をいれて内装を整え、生活に必要なベッドや机・椅子などを設置し[[水道|上下水道]]を接続して[[ガス燃料|ガス]]・電力を供給すれば(多少狭いし[[換気扇]]や[[窓]]も欲しいかもしれないが)一応の生活空間([[仮設住宅]]など)にもなる。
==いろいろな設備==
以下に設備の例を挙げる。
=== 衛生設備 ===
詳しくは[[衛生#建築衛生]],[[:Category:衛生設備]]参照。
* [[洗面器|洗面台]]
* [[シャワー]]
* [[風呂]]桶
* [[便器]]
==== 給水設備 ====
詳しくは[[給水設備]]参照。「給排水設備」「給排水衛生設備」というようにまとめて表現されることがある。
* 受水槽
* 給水[[ポンプ]]
==== 排水設備 ====
詳しくは[[排水設備]]参照。
* [[排水トラップ]]
* [[排水管]]
* [[通気設備]]
* 排水ポンプ
=== 厨房設備 ===
詳しくは[[厨房設備]]参照。
* [[流し台]]
* [[コンロ]]
* レンジフード
* [[電子レンジ]]
* [[冷蔵庫]]/[[冷凍庫]](船舶の場合は冷蔵室/冷凍室)
* 回転がま
* [[炊飯器|大型炊飯器]]
* フライヤー
* グリストラップ
=== 熱源設備・エネルギー設備 ===
詳しくは[[熱源設備]]参照。
* [[冷凍機]] (ヒートポンプ)
* ガスヒートポンプ
* [[ボイラー]]
* [[発電]]設備
* [[コジェネレーション]]
* [[冷却塔]]
=== 電気設備 ===
詳しくは[[電気工作物|電気設備]]参照。「[[電設]]」と略すこともあり、電設に使う資材を「電材」と呼称する<ref>[http://www.shinmei-denzai.co.jp/about/what/ 電材ってなんだろう、新明電材株式会社HP、閲覧年月日、2016年12月9日]</ref>。
* [[電気工作物]]
* [[発電設備]]
* [[電線路]]
* [[受電設備]]
* [[変電設備]]
* [[電灯|電灯設備]]
* [[動力|動力設備]]
* その他
** [[発電|非常用発電機]]
** [[航空障害灯]]
** 深夜電力機器([[電気温水器|深夜電気温水器]]、[[エコアイス]]、[[エコキュート]])
=== 通信設備 ===
* [[Local Area Network|LAN]]
* 内線[[交換機]]
* 館内放送設備
* [[電波障害防止設備]]
* [[アンテナ]]
=== 空気調和設備 ===
詳しくは[[空気調和設備]]参照。
* [[送風機]]
* [[エア・コンディショナー]]
=== 搬送設備 ===
* [[エレベーター]]
* [[エスカレーター]]
* [[ゴンドラ]]
* [[ダムウェーター]]
* [[ベルトコンベア]]
=== 消防用設備・防災設備 ===
詳しくは[[消防|消防用設備]]、[[防災]]参照。
* [[消火栓]]
* [[火災報知器]]
* [[非常警報設備]]
* [[誘導灯]]
* [[避雷設備]]
* [[避雷針]]
* [[非常扉]]
* [[非常シャッター]]
* [[スプリンクラー設備]]
=== 警備・防犯・監視設備 ===
* [[機械警備]]装置
* [[監視カメラ]]
* [[中央監視装置]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[増改築]]
* [[建築]]
* [[設備投資]]
* [[超高層ビル用語の一覧]]
* [[水道メーカー一覧]]
* [[設備士]]
* [[BE-Bridge]]
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[[Category:設備|*せつひ]]
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18,299 |
東松山インターチェンジ
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東松山インターチェンジ(ひがしまつやまインターチェンジ)は、埼玉県東松山市大字石橋にある、関越自動車道のインターチェンジ。
練馬ICからここまでが大都市近郊区間である。そのため同区間は料金が割高になる。
関越道下り線の本線上には当ICから約4kmに渡って、キープレフト促進や逆走対策を目的として、第一通行帯(最も左側の車線)にのみ緑色の実線が引かれており、この実線をNEXCO東日本では「車線キープグリーンライン」と呼んでいるほか、周辺の電光掲示板などでは「東松山グリーンライン」と呼ばれている。
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東松山インターチェンジ(ひがしまつやまインターチェンジ)は、埼玉県東松山市大字石橋にある、関越自動車道のインターチェンジ。 練馬ICからここまでが大都市近郊区間である。そのため同区間は料金が割高になる。 関越道下り線の本線上には当ICから約4kmに渡って、キープレフト促進や逆走対策を目的として、第一通行帯(最も左側の車線)にのみ緑色の実線が引かれており、この実線をNEXCO東日本では「車線キープグリーンライン」と呼んでいるほか、周辺の電光掲示板などでは「東松山グリーンライン」と呼ばれている。
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{{高速道路施設
|施設名 = 東松山インターチェンジ
|画像ファイル = Higashimatsuyama Inter Change.JPG
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 東松山インターチェンジ(入口料金所)
|道路名1 = {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]]
|番号1 = 6
|料金所番号1 = 04-606
|標識1 = (上り線)[[ファイル:Japanese National Route Sign 0254.svg|20px]] 東松山<br />(下り線)[[ファイル:Japanese National Route Sign 0254.svg|20px]] 東松山 [[熊谷市|熊谷]]
|起点1 = [[練馬インターチェンジ|練馬IC]]
|距離1 = 39.4
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|供用開始日 = [[1975年]][[8月8日]]
|通行台数 = x台/日
|郵便番号 = 355-0072
|住所 = [[埼玉県]][[東松山市]]大字石橋988
|座標 = {{Coord|36|1|38.55|N|139|22|53.31|E|scale:10000_region:JP}}
|備考 =
}}
'''東松山インターチェンジ'''(ひがしまつやまインターチェンジ)は、[[埼玉県]][[東松山市]]大字石橋にある、[[関越自動車道]]の[[インターチェンジ]]。
[[練馬IC]]からここまでが[[大都市近郊区間_(高速道路)|大都市近郊区間]]である。そのため同区間は料金が割高になる。
関越道下り線の本線上には当ICから約4[[キロメートル|km]]に渡って、[[キープレフト]]促進や逆走対策を目的として、第一通行帯(最も左側の車線)にのみ[[緑色]]の[[実線]]が引かれており、この[[実線]]を[[東日本高速道路株式会社|NEXCO東日本]]では「車線キープグリーンライン」と呼んでいるほか、周辺の[[電光掲示板]]などでは「東松山グリーンライン」と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-09-30 |url=https://trafficnews.jp/post/111242 |title=高速道路の車線に「緑色の実線」初登場 踏んでいいの? その意味とは |publisher=乗りものニュース編集部 |accessdate=2022-10-30}}</ref>。
== 道路 ==
* {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]](6番)
== 接続する道路 ==
* [[国道254号]]
* [[埼玉県道47号深谷東松山線]]([[熊谷東松山道路]])
** 熊谷東松山道路を経由して、[[熊谷市]]や[[群馬県]][[太田市]]周辺などへのアクセスが良い。
== 料金所 ==
* ブース数:10
=== 入口 ===
* ブース数:3
** ETC専用:1
** ETC・一般:1
** 一般:1
=== 出口 ===
* ブース数:7
** ETC専用:2
** ETC・一般:1
** 一般:4
== 周辺 ==
* [[埼玉県こども動物自然公園]]
** [[ビアトリクス・ポター資料館]]
** [[国際児童記念館]](こどもの城)
* [[原爆の図丸木美術館]]
* [[箭弓稲荷神社]]
* [[青鳥城|青鳥城跡]]
* [[正法寺 (東松山市)|岩殿観音]]
* [[東松山駅]]
* [[東松山工業団地]]
* 化石と自然の体験館
* [[吉見百穴]](比企郡吉見町)
* [[松山城 (武蔵国)|松山城跡]](比企郡吉見町)
* [[国営武蔵丘陵森林公園]](比企郡滑川町)
* [[菅谷館|菅谷館(城)]](比企郡嵐山町)
== 歴史 ==
* [[1975年]]([[昭和]]50年)[[8月8日]] : 川越IC - 東松山ICの開通に伴い供用開始。
* [[1980年]](昭和55年)[[7月17日]] : 東松山IC - 前橋ICの開通に伴い、フルインターチェンジとなる。
== 隣 ==
; {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]]
: (5)[[鶴ヶ島インターチェンジ|鶴ヶ島IC]] - (5-1)[[坂戸西スマートインターチェンジ|坂戸西SIC]] - [[高坂サービスエリア|高坂SA]] - (6)'''東松山IC''' - (6-1)[[嵐山小川インターチェンジ|嵐山小川IC]]
== 関連項目 ==
* [[日本のインターチェンジ一覧 は行]]
* [[東日本高速道路]]
== 脚注 ==
=== 出典 ===
<references />
== 外部リンク ==
* [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路]
{{関越自動車道}}
{{DEFAULTSORT:ひかしまつやまいんたちえんし}}
[[Category:日本のインターチェンジ ひ|かしまつやま]]
[[Category:埼玉県のインターチェンジ]]
[[Category:東松山市の交通]]
[[Category:1975年開業の道路施設]]
{{Road-stub}}
|
2003-09-26T00:47:41Z
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2023-11-24T19:18:33Z
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"Template:高速道路施設",
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"Template:関越自動車道"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B8
|
18,300 |
砲弾
|
砲弾(ほうだん、shell, cannonball)は、大砲に使用される弾丸のこと。複数の種類が存在し、目標・目的によって使い分けられる。陸上自衛隊の定義では「口径20mm以上の弾丸」のことで、それ未満のものを小火器弾薬とする。
日本語の「砲弾」の場合は、大砲用の弾丸を広く含めるが、英語のシェル"shell"は、本来は炸薬が詰まった種類のもののみを指し、炸薬が詰まっていない弾丸についてはショット"shot"と呼び分けていた。現在では炸薬の入っていない徹甲弾のようなものも、"shell"と呼んでいる。なお、1868年のサンクトペテルブルク宣言は、小口径の弾丸には炸薬を詰めることを制限しており、「量目400g以下」かつ「爆発性または燃焼性の物質を充てたる発射物」の使用を締約国間のみの戦争では禁止している。
標的に命中した際に弾頭が起爆して破壊をもたらす化学エネルギー弾と、発射時に得た砲弾自身の運動エネルギー(質量、速度)により破壊する運動エネルギー弾とに大別される。後者は同じ砲弾でも発射速度および飛距離により威力が大きく左右される。
初期の砲弾は、運動エネルギー弾が中心であった。その理由は、当時使われた黒色火薬は炸薬に用いるには安定性が低く、信頼性のある信管も実用化されていなかったからである。比較的薄肉・中-長砲身の砲で使える砲弾は、無垢の実体弾(円弾、砲丸)・ぶどう弾・散弾・焼玉などに限られていた。炸裂する砲弾が初めて文献に現れるのは、中国の明朝(1368年-1644年)初期の『火龍經』という軍事マニュアルである。焦玉(14世紀-15世紀初め)と劉基(1311年-1375年)が書いたもので、焦玉が後に追加した序文は1412年のものである。その本にあるように、火薬を詰めた中空の砲弾は鋳鉄製だった。
主に前裝式の大砲で使われた砲弾を記すが、初期はフランキ砲などの後装式の砲でも使用された。索具(帆装装備)破壊用の砲弾は艦砲が主に使った弾で、その不定型な形から概して射程は短い。
キャノンボール(cannonball)は狭義には球形弾のことを指すが、広義には砲弾全般を指す単語である。
ソリッドショット(Solid shot)または、ラウンドショット(Round shot)やホールショット(Whole shot)とも呼ばれる。榴弾が登場前はもっとも一般的な砲弾。丸い石弾、または球形をした無垢の金属塊である。15世紀までは石を削った石弾が多いが、後に威力を高めるために金属(主に鋳鉄)製の砲丸となった。
実体弾のため目標に直接射撃をする他は、陸戦の場合、砲弾を地面へとバウンドさせ、ボウリングの球のように転がしながら敵兵を薙ぎ倒すのが主な使用法である。
当時の弾の規格は不揃いな物が多く、いざ発砲しようとすると口径に合わなかったり(保管中の錆でかさが増して装填不可能になる)、遊隙が大きかったりすることもしばしばだった。
球形弾を炉で真っ赤に焼き上げた焼夷弾。ホットショット(Hot shot)とも言う。野戦や艦載砲での扱いは難しかったので、設備の整った要塞砲用だった。
対艦戦用の砲弾。見た目からグレープショット(Grape shot)と呼ばれる。敵艦の索具破壊と人員殺傷用。
ラングリッジ(Langrage)は帆布袋に鉄片や釘、鎖の切れ端等を適当に詰めたもの。ぶどう弾の代用品で、急造の砲弾だった。
キャニスターショット(Canister shot)は人員殺傷用の散弾。別名、ケースショット(Case shot)。金属製の筒にマスケット銃弾を数百発詰めたもの。陸戦にも良く使われた。
邦訳、鎖弾(Chain shot)。二つの球形弾を鎖で繋いだもの。これも索具破壊用である。チェーンで繋がず、砲身に二個の球形弾を詰めて放つのを、ダブルショット(Double shot)と呼称するが、こちらは威力倍加用であって索具破壊を目的とはしていない。
バーショット(Bar shot)は半球形の砲弾が鉄亜鈴状に棒で繋がれているもの。発射後に繋いだロッドが伸びるタイプもあり、邦訳で伸張弾とも呼称される。索具破壊用。
ファゴットショット(Faggot shot)とは文字通り鉄棒を束ねた砲弾。発射後に敵甲板上で飛散し、広範囲の被害を与える。索具破壊と人員殺傷用。
鉄製の籠に、硫黄やタールなどの可燃物を詰めた焼夷弾。カーカス弾(英語版)(英語:Carcass)とは死骸、残骸の意味。
ヨーロッパで炸裂する砲弾(榴弾)が一般化するのは16世紀中ごろのことである。石や鋳鉄でできた中空の砲弾に火薬を詰めたもので、時限信管の役目を果たすゆっくり燃える部分と爆轟する部分があり、臼砲を使って発射した。発射時の瞬間的な発砲炎が信管を着火し、一定時間後に内部の火薬が爆轟する仕組みだった。実際には信管に火がつかないことがあり、炸裂までの時間もうまく調整できないことが多かった。
その後、榴弾にはゆっくり燃える火薬を詰めた鋳鉄または銅製のプラグが装備された。砲弾の発射時に信管に点火させるよりも、手で信管に点火してから発射する方が信頼性が高かった。このため砲手が信管に点火してから射線から避ける時間を短くするために前装式の砲身が十分短くなければならなかった。砲身が短いために砲口初速が小さくなり、弾道を高くする必要があった。このような砲として、臼砲や榴弾砲が使用された。
1871年までは、鋳鉄製の球形の砲弾が通常弾として使われていたが、1823年、フランスの将校であるアンリ=ジョセフ・ペクサン(en:Henri-Joseph Paixhans)は、低い弾道のカノン砲(ペクサン砲)で発射できる炸裂する榴弾を発明した。1840年代以降、各国の海軍がこの砲を採用し、そのために被弾時に燃えやすい木造軍艦の時代が終わり、造船における鉄製船体への移行が起きた。そのころには、不発弾を防ぐために、着発信管がきちんと目標に向くよう砲弾に装弾筒(サボ)と呼ばれる木製の円盤を銅のリベットで取り付けて装填するようになった。また、装弾筒は、砲弾が真っ直ぐ発射されるのを補助する役目もあるとされていた。ただし、臼砲の砲弾には装弾筒は使われなかった。
19世紀後半、ライフル砲が実用化されると、球形ではなくて椎の実型の砲弾(長弾)が使われるようになった。ライフリング自体は15世紀に考案されていた技術であるが、大砲への実用はこの頃であった。ライフリングとうまく噛み合わさるような砲弾の構造が研究され、鉛や銅などの柔らかな金属でできた覆帯を巻いてライフリングが食い込むようにする方式(鉛套弾)や、前裝砲用として筍翼(スタッド)を表面にとりつけて溝にはめ込む、ライット・システム方式が実用化された。
19世紀末まで砲弾には鋳鉄が使われていた。鋼はまず、その硬さから徹甲弾に使われ、その後、施条された高初速な砲で使われるようになった。鋳鉄では高初速砲の発射時の衝撃に耐えられず、ライフリングで旋転中に割れてしまうからである。
この間に特殊な砲弾も開発された。照明弾(星弾)は17世紀には実用化されており、イギリス軍は1866年にパラシュート付きの照明弾を10インチ砲、8インチ砲、5.5インチ砲用に導入した。この10インチ砲用の照明弾は、実に1920年まで公式には制式装備とされていた。
第一次世界大戦時、破片を撒き散らす榴散弾や榴弾が歩兵に甚大な被害を与えた。戦死者の70%はそれらの砲弾によるものである。このため、弾片避けの鋼鉄製ヘルメットが標準装備になっていった。1917年には、毒ガスを詰めた砲弾が使われ始めた。
当時は信管の信頼性がまだ低く、砲弾が炸裂しなかったせいで戦況に影響を与えたこともある。不発弾が大きな影響を与えた戦例としては、1916年のソンムの戦いを挙げることができる。また後世に不発弾が発見されると、誤って炸裂させることが無いように、適切に処理しなければならない。
2022年ロシアのウクライナ侵攻は、次第に前線で多くの砲弾を打ち込み合う展開となった。ロシアの現地指揮官は砲弾や弾薬の不足を訴え国防相を罵るとともに、ウクライナに軍事支援を行う西側諸国も補充が間に合わない消耗戦の様相を呈した。このことから砲弾や弾薬の平時における生産やストック量などの見直しが各国で行われることとなった。ウクライナへの軍事支援を行わない日本でも、弾薬庫の増強などが行われることとなった。
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"text": "砲弾(ほうだん、shell, cannonball)は、大砲に使用される弾丸のこと。複数の種類が存在し、目標・目的によって使い分けられる。陸上自衛隊の定義では「口径20mm以上の弾丸」のことで、それ未満のものを小火器弾薬とする。",
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"text": "標的に命中した際に弾頭が起爆して破壊をもたらす化学エネルギー弾と、発射時に得た砲弾自身の運動エネルギー(質量、速度)により破壊する運動エネルギー弾とに大別される。後者は同じ砲弾でも発射速度および飛距離により威力が大きく左右される。",
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"text": "初期の砲弾は、運動エネルギー弾が中心であった。その理由は、当時使われた黒色火薬は炸薬に用いるには安定性が低く、信頼性のある信管も実用化されていなかったからである。比較的薄肉・中-長砲身の砲で使える砲弾は、無垢の実体弾(円弾、砲丸)・ぶどう弾・散弾・焼玉などに限られていた。炸裂する砲弾が初めて文献に現れるのは、中国の明朝(1368年-1644年)初期の『火龍經』という軍事マニュアルである。焦玉(14世紀-15世紀初め)と劉基(1311年-1375年)が書いたもので、焦玉が後に追加した序文は1412年のものである。その本にあるように、火薬を詰めた中空の砲弾は鋳鉄製だった。",
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"text": "1871年までは、鋳鉄製の球形の砲弾が通常弾として使われていたが、1823年、フランスの将校であるアンリ=ジョセフ・ペクサン(en:Henri-Joseph Paixhans)は、低い弾道のカノン砲(ペクサン砲)で発射できる炸裂する榴弾を発明した。1840年代以降、各国の海軍がこの砲を採用し、そのために被弾時に燃えやすい木造軍艦の時代が終わり、造船における鉄製船体への移行が起きた。そのころには、不発弾を防ぐために、着発信管がきちんと目標に向くよう砲弾に装弾筒(サボ)と呼ばれる木製の円盤を銅のリベットで取り付けて装填するようになった。また、装弾筒は、砲弾が真っ直ぐ発射されるのを補助する役目もあるとされていた。ただし、臼砲の砲弾には装弾筒は使われなかった。",
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"text": "19世紀後半、ライフル砲が実用化されると、球形ではなくて椎の実型の砲弾(長弾)が使われるようになった。ライフリング自体は15世紀に考案されていた技術であるが、大砲への実用はこの頃であった。ライフリングとうまく噛み合わさるような砲弾の構造が研究され、鉛や銅などの柔らかな金属でできた覆帯を巻いてライフリングが食い込むようにする方式(鉛套弾)や、前裝砲用として筍翼(スタッド)を表面にとりつけて溝にはめ込む、ライット・システム方式が実用化された。",
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"text": "2022年ロシアのウクライナ侵攻は、次第に前線で多くの砲弾を打ち込み合う展開となった。ロシアの現地指揮官は砲弾や弾薬の不足を訴え国防相を罵るとともに、ウクライナに軍事支援を行う西側諸国も補充が間に合わない消耗戦の様相を呈した。このことから砲弾や弾薬の平時における生産やストック量などの見直しが各国で行われることとなった。ウクライナへの軍事支援を行わない日本でも、弾薬庫の増強などが行われることとなった。",
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砲弾は、大砲に使用される弾丸のこと。複数の種類が存在し、目標・目的によって使い分けられる。陸上自衛隊の定義では「口径20mm以上の弾丸」のことで、それ未満のものを小火器弾薬とする。 日本語の「砲弾」の場合は、大砲用の弾丸を広く含めるが、英語のシェル"shell"は、本来は炸薬が詰まった種類のもののみを指し、炸薬が詰まっていない弾丸についてはショット"shot"と呼び分けていた。現在では炸薬の入っていない徹甲弾のようなものも、"shell"と呼んでいる。なお、1868年のサンクトペテルブルク宣言は、小口径の弾丸には炸薬を詰めることを制限しており、「量目400g以下」かつ「爆発性または燃焼性の物質を充てたる発射物」の使用を締約国間のみの戦争では禁止している。
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[[ファイル:國軍歷史文物館 各式炮彈 20140121.jpg|thumb|300px|台北国軍歷史文物館に展示されている銃砲弾]]
[[画像:76mmShell.jpg|thumb|300px|right|海上自衛隊の76ミリ砲弾(教練用のダミー)と使用済み薬莢]]
[[File:BL15inchAPMkXXIIBNTShell1943Diagram.jpg|thumb|300px|[[イギリス海軍]]マーク22砲用の15インチ[[徹甲弾]]断面図。先端の仮帽(ballistic cap)や被帽(penetrative cap)、内部の炸薬や弾底信管など、単純な一体構造ではないことが分かる。]]
[[File:Shells from IJN WW2 battleships.jpg|thumb|300px|[[呉海事博物館]]に展示されている砲弾。左から、35.6 ㎝九一式徹甲弾、41 cm九一式徹甲弾、46 cm九一式徹甲弾(風帽、被帽頭、被帽の一部が除去され、弾体の頭部が見えている)、46 cm三式通常弾(対空弾)、46 cm九一式徹甲弾(完全)。]]
'''砲弾'''(ほうだん、shell, cannonball)は、[[大砲]]に使用される[[弾丸]]のこと。複数の種類が存在し、目標・目的によって使い分けられる。[[陸上自衛隊]]の定義では「[[口径]]20mm以上の弾丸」のことで、それ未満のものを[[小火器]][[弾薬]]とする。
[[日本語]]の「砲弾」の場合は、大砲用の弾丸を広く含めるが、[[英語]]の'''シェル'''"shell"は、本来は[[炸薬]]が詰まった種類のもののみを指し、炸薬が詰まっていない弾丸については'''ショット'''"shot"と呼び分けていた。現在では炸薬の入っていない[[徹甲弾]]のようなものも、"shell"と呼んでいる。なお、[[1868年]]の[[サンクトペテルブルク宣言]]<!--「サンクト・ペテルブルク」が条約名としては用例多数のようだが、地名項目名に合わせる。-->は、小口径の弾丸には炸薬を詰めることを制限しており、「量目400g以下」かつ「爆発性または燃焼性の物質を充てたる発射物」の使用を締約国間のみの[[戦争]]では禁止している。
== 分類 ==
標的に命中した際に[[弾頭]]が起爆して破壊をもたらす'''化学エネルギー弾'''と、発射時に得た砲弾自身の運動エネルギー(質量、速度)により破壊する'''運動エネルギー弾'''とに大別される。後者は同じ砲弾でも発射速度および飛距離により威力が大きく左右される。
=== 化学エネルギー弾 ===
* [[榴弾]](HE)
** [[粘着榴弾]](HESH)
** [[成形炸薬弾|対戦車榴弾/成形炸薬弾]](HEAT)
** [[成形炸薬弾#多目的対戦車榴弾|多目的対戦車榴弾]](HEAT-MP)
=== 運動エネルギー弾 ===
* [[徹甲弾]](AP)
** 徹甲榴弾(APHE)
** 被帽徹甲榴弾(APCHE)
** 仮帽付徹甲弾(APBC)
** 仮帽付被帽徹甲榴弾(APCBCHE)
** 剛性核徹甲弾(APCR)
** 徹甲焼夷弾(API)
** [[高速徹甲弾]](HVAP)
** [[APDS|装弾筒付徹甲弾]](APDS)
** [[APFSDS|装弾筒付翼安定徹甲弾]](APFSDS)
=== その他 ===
* [[焼夷弾]](Incendiary)
* [[曳光弾]](Tracer)
* [[核砲弾]]
* [[照明弾]](Illumination)
* [[発煙弾]](Smoke)
* 信号弾 - [[彩光弾]]などがある。
* [[榴散弾]](Shrapnel)
* [[キャニスター弾]](Canister)
* [[HEIAP|複合弾]](HEIAP)
* [[フレシェット弾]](flechette)
* {{ill2|ベースブリード弾|en|Base bleed}} - 底部からガスを発生させ、砲弾の運動エネルギー損失を減らす仕組みが加えられた砲弾。通常よりコストが高いが射程を20–35%延長させ、通常弾と組み合わせて使用される。自衛隊では、93式長射程りゅう弾として採用される。
== 歴史 ==
[[ファイル:Boshin War mortar.jpg|thumb|250px|[[戊辰戦争]]で使われた[[臼砲]]と砲弾]]
初期の砲弾は、運動エネルギー弾が中心であった。その理由は、当時使われた[[黒色火薬]]は[[炸薬]]に用いるには安定性が低く、信頼性のある[[信管]]も実用化されていなかったからである。比較的薄肉・中-[[銃砲身|長砲身]]の砲で使える砲弾は、無垢の実体弾(円弾、砲丸)・[[ぶどう弾]]・散弾・[[焼玉式焼夷弾|焼玉]]などに限られていた。炸裂する砲弾が初めて文献に現れるのは、[[中華人民共和国|中国]]の[[明]]朝([[1368年]]-[[1644年]])初期の『[[火龍經]]』という軍事マニュアルである。[[焦玉]]([[14世紀]]-[[15世紀]]初め)と[[劉基]]([[1311年]]-[[1375年]])が書いたもので、焦玉が後に追加した序文は[[1412年]]のものである<ref name="needham volume 5 part 7 24 25 264">Needham, Joseph. (1986). Science and Civilization in China: Volume 5, Chemistry and Chemical Technology, Part 7, Military Technology; the Gunpowder Epic. Taipei: Caves Books Ltd. Page 24–25, 264.</ref>。その本にあるように、[[火薬]]を詰めた中空の砲弾は[[鋳鉄]]製だった<ref name="needham volume 5 part 7 24 25 264"/>。
=== 砲弾(実体弾) ===
主に[[前裝式]]の[[大砲]]で使われた砲弾を記すが、初期は[[フランキ砲]]などの[[後装式]]の砲でも使用された。索具(帆装装備)破壊用の砲弾は[[艦砲]]が主に使った弾で、その不定型な形から概して射程は短い。
'''キャノンボール'''(cannonball)は狭義には球形弾のことを指すが、広義には砲弾全般を指す単語である。
==== 球形弾 ====
'''ソリッドショット'''(Solid shot)または、'''ラウンドショット'''(Round shot)や'''ホールショット'''(Whole shot)とも呼ばれる。[[榴弾]]が登場前はもっとも一般的な砲弾。丸い石弾、または球形をした無垢の金属塊である。15世紀までは石を削った石弾が多いが、後に威力を高めるために金属(主に鋳鉄)製の砲丸となった{{Efn2|ただし、石弾にも石壁などの硬目標に用いると、弾着時に割れた破片が飛び散る弾片効果を発揮する利点もあった。[[Gakken|学研]]、歴史群像グラフィック戦史シリーズ3『戦略戦術兵器事典』【ヨーロッパ近代編】17頁。}}。
実体弾のため目標に直接射撃をする他は、陸戦の場合、砲弾を地面へとバウンドさせ、[[ボウリング]]の球のように転がしながら敵兵を薙ぎ倒すのが主な使用法である。
当時の弾の規格は不揃いな物が多く、いざ発砲しようとすると口径に合わなかったり(保管中の錆でかさが増して装填不可能になる)、遊隙が大きかったりすることもしばしばだった{{Efn2|極端な変形さえしなければ、砲弾は回収して何度も反復使用を行うのが普通だった。だが再使用すると火薬や詰め物の滓がこびりついて直径が増し、錆弾同様、再装填で問題になる弾もあった。田中航『戦艦の世紀』[[毎日新聞社]]、69頁。}}。
==== 焼弾 ====
{{main|焼玉式焼夷弾}}
球形弾を炉で真っ赤に焼き上げた[[焼夷弾]]。'''ホットショット'''(Hot shot)とも言う。野戦や艦載砲での扱いは難しかったので、設備の整った[[要塞砲]]用だった。
==== ぶどう弾 ====
{{main|ぶどう弾}}
対艦戦用の砲弾。見た目から'''グレープショット'''(Grape shot)と呼ばれる。敵艦の索具破壊と人員殺傷用。
==== ラングリッジ ====
'''ラングリッジ'''(Langrage)は帆布袋に鉄片や釘、鎖の切れ端等を適当に詰めたもの。ぶどう弾の代用品で、急造の砲弾だった{{Efn2|主に[[フランス海軍]]が愛用したとされる。『戦艦の世紀』70頁。}}。
==== キャニスター弾 ====
{{main|キャニスター弾}}
'''キャニスターショット'''(Canister shot)は人員殺傷用の[[散弾]]。別名、'''ケースショット'''(Case shot)。金属製の筒に[[マスケット銃]]弾を数百発詰めたもの。陸戦にも良く使われた。
==== チェーンショット ====
邦訳、'''鎖弾'''(Chain shot)。二つの球形弾を鎖で繋いだもの{{Efn2|中には一発の球形弾が中空になっており、発射前は一発だが、[[くす玉]]のように半分割れたそれぞれを鎖で繋いで、伸びる凝った鎖弾もある。水野大樹『図解 火砲』[[新紀元社]]143頁。}}。これも索具破壊用である。チェーンで繋がず、砲身に二個の球形弾を詰めて放つのを、'''ダブルショット'''(Double shot)と呼称するが、こちらは威力倍加用であって索具破壊を目的とはしていない{{Efn2|射程は短くなるが、接近対艦戦の舷門斉射用なので問題にはならなかった。バリエーションとして、砲身に三つの球形弾を詰める'''トリプルショット'''(Triple shot)と言うものもある。}}。
==== バーショット ====
'''バーショット'''(Bar shot)は半球形の砲弾が[[鉄亜鈴]]状に棒で繋がれているもの{{Efn2|稀にバーの間に可燃物を詰め、カーカスのような焼夷弾として使うこともあった。『戦艦の世紀』71頁。}}。発射後に繋いだロッドが伸びるタイプもあり、邦訳で'''伸張弾'''とも呼称される。索具破壊用。
==== ファゴットショット ====
'''ファゴットショット'''(Faggot shot){{Efn2|ファゴット(Faggot)は「薪(たきぎ)の束」を意味する。[[楽器]]の[[ファゴット]](Fagotto)とはスペルが異なる。}}とは文字通り鉄棒を束ねた砲弾。発射後に敵甲板上で飛散し、広範囲の被害を与える。索具破壊と人員殺傷用。
==== カーカス ====
鉄製の籠に、[[硫黄]]や[[タール]]などの可燃物を詰めた焼夷弾。'''{{ill2|カーカス弾|en|Carcass (projectile)}}'''(英語:Carcass)とは[[死骸]]、残骸の意味{{Efn2|弾体の外観が人間の胸部死体に似ているために、この名が付いている。『戦艦の世紀』71頁。}}。
=== 榴弾以降 ===
[[ヨーロッパ]]で炸裂する砲弾([[榴弾]])が一般化するのは[[16世紀]]中ごろのことである<ref>Cowley, Robert (1996). ''The Reader's Companion to Military History''. Boston: Houghton–Mifflin Company. Page 49.</ref>。石や鋳鉄でできた中空の砲弾に火薬を詰めたもので、時限[[信管]]の役目を果たすゆっくり燃える部分と[[爆轟]]する部分があり、[[臼砲]]を使って発射した。発射時の瞬間的な発砲炎が信管を着火し、一定時間後に内部の火薬が爆轟する仕組みだった。実際には信管に火がつかないことがあり、炸裂までの時間もうまく調整できないことが多かった。
その後、榴弾にはゆっくり燃える火薬を詰めた鋳鉄または[[銅]]製のプラグが装備された。砲弾の発射時に信管に点火させるよりも、手で信管に点火してから発射する方が信頼性が高かった。このため[[砲手]]が信管に点火してから射線から避ける時間を短くするために[[前装式]]の砲身が十分短くなければならなかった。砲身が短いために[[砲口初速]]が小さくなり、[[弾道]]を高くする必要があった。このような砲として、臼砲や[[榴弾砲]]が使用された。
[[ファイル:Paixhans Shell and Sabot.jpg|thumb|250px|left|[[ペクサン砲]]で使われた装弾筒つきの砲弾(1824年)]]
[[ファイル:Shell Japan.jpg|thumb|250px|[[戊辰戦争]]で使われた[[四斤山砲]]弾。ライフリングに合うようスタッドが付いている]]
[[1871年]]までは、鋳鉄製の球形の砲弾が通常弾として使われていたが、[[1823年]]、[[フランス]]の将校である[[アンリ=ジョセフ・ペクサン]]([[:en:Henri-Joseph Paixhans]])は、低い弾道の[[カノン砲]]([[ペクサン砲]])で発射できる炸裂する榴弾を発明した。[[1840年代]]以降、各国の[[海軍]]がこの砲を採用し、そのために被弾時に燃えやすい[[軍艦|木造軍艦]]の時代が終わり、[[造船]]における[[鉄]]製[[船体]]への移行が起きた。そのころには、不発弾を防ぐために、着発信管がきちんと目標に向くよう砲弾に[[装弾筒]](サボ)と呼ばれる木製の円盤を銅の[[リベット]]で取り付けて装填するようになった。また、装弾筒は、砲弾が真っ直ぐ発射されるのを補助する役目もあるとされていた。ただし、臼砲の砲弾には装弾筒は使われなかった。
[[19世紀]]後半、[[ライフル砲]]が実用化されると、球形ではなくて椎の実型の砲弾(長弾)が使われるようになった。[[ライフリング]]自体は15世紀に考案されていた技術であるが、大砲への実用はこの頃であった。ライフリングとうまく噛み合わさるような砲弾の構造が研究され、[[鉛]]や銅などの柔らかな金属でできた覆帯を巻いてライフリングが食い込むようにする方式([[鉛套弾]])や、前裝砲用として筍翼(スタッド)を表面にとりつけて溝にはめ込む、[[ライット・システム]]方式が実用化された。
19世紀末まで砲弾には鋳鉄が使われていた。[[鋼]]はまず、その硬さから[[徹甲弾]]に使われ、その後、施条された高初速な砲で使われるようになった。鋳鉄では高初速砲の発射時の衝撃に耐えられず、ライフリングで旋転中に割れてしまうからである。
[[ファイル:75mm melanite shell section for instruction.jpg|thumb|250px|left|[[ピクリン酸|メリニット炸薬]]を使った[[M1897 75mm野砲]]用の砲弾]]
この間に特殊な砲弾も開発された。[[照明弾]](星弾)は[[17世紀]]には実用化されており、[[イギリス軍]]は[[1866年]]に[[パラシュート]]付きの照明弾を10インチ砲、8インチ砲、5.5インチ砲用に導入した。この10インチ砲用の照明弾は、実に[[1920年]]まで公式には制式装備とされていた。
[[第一次世界大戦]]時、破片を撒き散らす[[榴散弾]]や[[榴弾]]が[[歩兵]]に甚大な被害を与えた。戦死者の70%はそれらの砲弾によるものである。このため、弾片避けの鋼鉄製[[ヘルメット]]が標準装備になっていった{{Efn2|[[イギリス軍]]の皿形ヘルメットなどが典型例。ヘルメットは直接銃撃を受けた際の威力にまでは耐えられないので(距離150mから[[5.56x45mm NATO弾]]でWW2の米・英・独各国軍ヘルメット撃った結果、簡単に貫通してしまっている。国際出版『別冊Gun 素晴らしいGunの世界』「ヘルメットを撃つ」102頁)、その主な目的はあくまで砲弾からの破片避けであった。}}。[[1917年]]には、[[化学兵器|毒ガス]]を詰めた砲弾が使われ始めた。
当時は信管の信頼性がまだ低く、砲弾が炸裂しなかったせいで戦況に影響を与えたこともある。不発弾が大きな影響を与えた戦例としては、[[1916年]]の[[ソンムの戦い]]を挙げることができる。また後世に不発弾が発見されると、誤って炸裂させることが無いように、適切に処理しなければならない。
=== ウクライナ侵攻の教訓 ===
[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]は、次第に前線で多くの砲弾を打ち込み合う展開となった。[[ロシア]]の現地指揮官は砲弾や弾薬の不足を訴え国防相を罵るとともに<ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-prigozhin-bakhmut-idJPKBN2WW0HK |title=ワグネル、10日にバフムト撤退表明 「弾薬なければ滅びる運命」 |publisher=ロイター |date=2023-05-05 |accessdate=2023-09-23}}</ref>、[[ウクライナ]]に軍事支援を行う西側諸国も補充が間に合わない消耗戦の様相を呈した<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-66140907 |title=クラスター弾とは何か、なぜアメリカはウクライナへ供与するのか |publisher=BBC |date=2023-07-08 |accessdate=2023-09-23}}</ref>。このことから砲弾や弾薬の平時における生産やストック量などの見直しが各国で行われることとなった。ウクライナへの軍事支援を行わない日本でも、弾薬庫の増強などが行われることとなった<ref>{{Cite web |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20221202-OYT1T50278/ |title=自衛隊弾薬庫、130棟整備へ…「反撃能力」要の長射程ミサイル想定 |publisher=読売新聞 |date=2022-12-03 |accessdate=2023-09-23}}</ref>。
また、ウクライナ侵攻ではドローンの使用により大砲の発見や攻撃が容易になった。このため、より射程が長い砲弾が求められ、[[ラムジェット]]の採用や砲弾の小型化などが模索されており、将来的にミサイルとの境界が曖昧になっていくことが示唆されている<ref>{{Cite web |url=https://diamond.jp/articles/-/334867 |title=旧式砲弾がミサイル級に、技術革新で近代化 |publisher=DIAMOND ONLINE|date=2023-12-04 |accessdate=2023-12-03}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[実包]]
* [[弾薬]]
* [[人間大砲]] - 砲弾に[[人間]]を使用する[[曲芸]]
* [[無煙火薬]]
* [[レディスミス]] - 南アフリカの都市で[[ボーア戦争]]中に包囲戦が行われた。包囲戦中のクリスマスに、火薬の代わりにクリスマスプディングと国旗、そしてクリスマスの挨拶が詰められた砲弾が包囲の内側に撃ち込まれた。
{{大砲}}
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[[Category:砲弾|*]]
[[Category:大砲|ほうたん]]
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インターチェンジ
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インターチェンジ(英: interchange)は、複数の道路を相互に接続する施設であり、幹線道路(主に高速道路)同士および一般道路が交差または近接する箇所に設けられ、幹線道路の交通の流れを妨げないように多くは立体的構造を持つ。
幹線道路(本線)への流入出口として機能する一方通行道路「ランプ」が設けられ、そこで車は十分加速して本線の交通の流れにスムーズに合流が可能となっている。
なお日本では、高速道路同士を接続する施設に対しては、「ジャンクション」の名で呼ばれることが多い。
高速道路(および一部の一般道路)は、沿道制限が行われ、インターチェンジと呼ばれる特定の地点からのみ出入りが許されるシステムになっている。インターチェンジの配置は高速道路の機能と効用を効率的に発揮させる要となる。
日本、ドイツ(アウトバーン)、フランス、イギリス、韓国ではほぼ同じようにインターチェンジごとに付番されるが、フランスではジャンクションには番号が振られない。また、日本とイギリスでは一般道からのインターチェンジ入口にも番号が振られた案内標識が存在するが、ドイツ、フランス、韓国の入口案内の標識には番号が入っていない。イタリア(アウトストラーダ)にはインターチェンジ番号自体がなく、地名のみで案内している。
インターチェンジ形状には、すべての車線で平面交差を許容しない「完全立体交差型」と、1か所以上の平面交差を容認する「不完全立体交差型」に区分できる。前者の代表格がトランペット型やY型で、高速道路相互または高速道路と一般道路との接続に多く用いられる。後者の代表格がダイヤモンド型や平面Y型で、高速道路と交通量の多くない一般道路、あるいは一般道路同士の接続に多く用いられる。前者は後者に比べて安全性が高いが、用地面積や構造物を多く必要とするため、コストは高くつく。日本では、設置スペースが比較的小さく済むトランペット型やY型が多い。
基本的には一般道路の幹線道路に準じる。ガソリンスタンド、駐車場を備えた飲食店(ファミリーレストラン、ドライブインなど)など乗用車の利用者向け店舗が多い。また娯楽施設としてボウリング場、パチンコ店なども見られる。自動車販売店や、インターチェンジの物流機能を期待して工場・倉庫・トラックターミナルなども多く周辺自治体も流通や工業などの企業団地を造成することが多い。
このほかに特徴的なものとして、ラブホテルまたはモーテルがしばしば見られ、多数立地することも多い。特に周辺部が文教地区や住宅地である場合、風紀や教育環境を乱すとしてトラブルも起きる。自動車の増加による騒音・大気汚染などの他にこのことがインターチェンジ建設への反対要因となることもある。
観光地周辺のインターチェンジではみやげ物の店舗も多い。
その他、近年ではショッピングセンター・スーパーマーケットなど、ロードサイド店舗の集積による大規模開発もしばしば見られる。特に無料道路においては、サービスエリアやパーキングエリアの代替として道の駅・コンビニ・飲食店などをインターチェンジ周辺に設ける個所もある。
また、高速道路を利用して搬送を行うことから高次救急医療機関が立地することや、インターチェンジが遠い場合は救急車緊急退出路が整備されることもあり、道路事業の整備効果として三次救急医療機関への時間短縮が挙げられることも多い。
日本でのインターチェンジは、道路法(昭和二十七年六月十日法律第百八十号)第四十八条の三に定義された「自動車専用道路の部分を道路、軌道、一般自動車道又は交通の用に供する通路その他の施設と交差させようとする場合の当該交差の方式」に規定された立体交差となる施設であり、インターチェンジの所属する道路の道路管理者(国土交通省、道路管理会社、都道府県など)が管理し名称等を決定している。
道路構造令では、第1種と第2種の道路はほかの道路との接続はランプで接続しなければならない。ただし、本線車道の相互での平面接続は可能である(交差は不可)が、実際としては交通障害にならないような連続する構造がもっぱらである(高速道路での左右ルートへの分流・合流する箇所など)。
道路立体交差のうち、「ランプが複数ある構造の施設」が「インターチェンジ構造の施設」であり、そのインターチェンジ構造の施設の一部に○○インターチェンジと名称がつけられている。ジャンクションとは、インターチェンジ構造の施設であり構造上では何らインターチェンジと変わりはない。
名称は、立地する都市名や自治体名などの地名をつけるのが一般的である。しかし、同じ都市にインターチェンジが複数ある場合などは「京都南」「京都東」のように地名のあとに方角などをつけて区別する。これは日本の鉄道駅の名称のつけ方(「西青山駅」「東青山駅」)とは逆になっている。
また、2つの自治体にまたがるなどして設置されたインターチェンジは、名称確定時に両自治体間で衝突が発生することがある。そのような場合、2つの自治体名を連ねて名称とすることが多い(太田桐生IC、佐野藤岡IC、三条燕IC、士別剣淵ICなど)。
さらに、インターチェンジ名の重複が起こらないよう後から作られたインターチェンジ名称を設定している。北陸道の朝日ICと伊勢湾岸道のみえ朝日ICのケースなどがある。ただし、「高速道路ファン手帳」の著者・佐滝による調査によれば、奈良県大和郡山市の西名阪道郡山ICと福島県郡山市の東北道郡山ICは重複している。
計画段階においては、主に立地する自治体名や接続する道路名などが仮称として用いられ、開通間近になると確定される(JCTなども同じ)。その他、自治体名の変更 や施設自体の変更により変更される場合がある。また、開通後の名称変更は原則的に行われないが、中には例外もある。
英語名称では、地名以外が含まれているインターチェンジ名は空港近隣のインターチェンジ(関西空港IC)などを除き従来はすべて日本語読みのままで表記していたが、最近では地名以外の部分は英語表記にされる場合もある(八千穂高原IC→Yachiho Heights)。
民間施設に直結した多気ヴィソンSICは、直結する民間施設VISON(ヴィソン)に由来する名称であるが、インターチェンジの名称は地名であることが条件のため、民間施設周辺の字名が「ヴィソン」に変更された。
日本の高速道路においては、インターチェンジ(入口・出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。現在、日本の高速道路で「1」から連続で続く最大値は「75」 の八戸是川ICである(変則的な番号配置である圏央道・東京外環を含めると「110」の木更津JCT、インターチェンジ単独では「105」の木更津東ICがある)。
基本的に起点(東名高速道路、中央自動車道、東北自動車道などの縦貫道ではもっとも東京に近いIC、支線では縦貫道から分岐するジャンクションが起点とされ(支線の場合はジャンクションの隣のICから)、1番が振られることが多い)から終点に向かって番号が振られていくが、開通当初より設置する計画があるが供用が遅れる場合にその施設を一時的に欠番とする(たとえば東名高速道路の場合、起点の東京ICの次は東名川崎ICであるが、その間に東京外かく環状道路とのJCTの設置が予定されているため、番号は1番から3番に飛ぶ)、幹線の道路から分岐するためあえて終点から番号を振る(北陸自動車道・長崎自動車道など)、全線開通すると環状道路となるため通しの番号が振りにくく、ジャンクションを過ぎることでインターチェンジ番号を繰り上げる(首都圏中央連絡自動車道および東京外環自動車道)などの例外も存在する。
道央自動車道では、以前は都心の札幌を中心として南北に延びる形になっているためにほかの路線とはつけ方が大きく異なり、札幌JCT(開通当初は札樽自動車道と接続されていなかったことから設置がなく後に設置されたために番号は1番ではなく1-1だった)の隣のICから南北方向にそれぞれ振られていたが、2018年(平成30年)12月に、大沼公園ICの「6」から士別剣淵ICの「48」までスマートインターチェンジを含め連続した番号に変更することが発表された。
欠番がない既存のインターチェンジの途中区間にインターチェンジが追加された場合、その都度番号を振り直すのは大変であるため、ハイフンを用いて枝番としている(ただし、旭川紋別自動車道 愛山上川IC(2-1)、関越自動車道 赤城IC(12-1)・塩沢石打IC(16-1)、磐越自動車道 郡山東IC(3-1)などのように追加ICではないにもかかわらず例外で枝番が振られた例がある)。さらに追加された場合は枝番が大きくなるが、小さい数字の側に追加された場合、番号が振り直される(例:常磐自動車道流山ICは当初「1-1」だったが、IC番号「1」の三郷インターチェンジとの間に三郷料金所スマートICが設置されたことにより「1-2」に振り直された)。また、枝番においても追加設置計画がある場合、あえて欠番にしておくこともある(例:IC番号「5-1」の中国自動車道神戸JCTが開通する前より神戸三田ICの番号は「5-2」だった)。設置当初は枝番ではなかったが、起点側に新たにインターチェンジが追加されて枝番に改められたインターチェンジも存在する(一宮西インターチェンジは一宮稲沢北インターチェンジの開業とともに「1」から「1-1」に改められた)。さらに、東北中央自動車道 村山名取IC、村山本飯田ICは、2つのインターチェンジを合わせてフルインターチェンジという形となっており、それぞれ「20-1」「20-2」と振られているため、「20」は欠番となっている。
将来的に本線が延伸された際に備えて、接続する支線に枝番を振る例もある(長崎多良見ICから分岐する長崎バイパスなど。のちに長崎自動車道本線が開通した)。既存のインターチェンジがダイヤモンド型であり、その間にジャンクションなどのほかの施設が追加された場合に、枝番を振る例もある(札幌JCTのほか、清洲JCT、東海JCTなど)。名古屋第二環状自動車道は元々は東名阪自動車道の一部であり、名古屋西JCTからそのまま東名阪道亀山方面に向かって番号が振られているが、のち飛島JCT方面の支線が開通した際に途中のICの番号を枝番とせず、東名阪自動車道方面と同様に番号を振っている。
ほかの道路と接続がない場合、接続されるまでインターチェンジ番号が振られないこともある。また、後から既開通区間の番号が新規開通区間に合わせて振り直されることもある(宇佐別府道路など)。
なお、1972年ごろまでは明確な番号割り当てルールがなく、各路線ごとに番号割り当てルールが決められていた。
1つのインターチェンジに1つの番号を割り当てられるが、中国豊中ICと中国池田IC(2)や瀬田東ICと瀬田西IC(30-1、後に30-2)のように相互利用出来ないハーフインターチェンジ同士を1つのインターチェンジとみなして共通の番号を振る例や、逆に京都南IC(下り線出口・33)・(上り線第1出口33-1)・(上り線第2出口33-2)のように1つのインターチェンジで複数の番号を振る場合もある。
また、ここでいうインターチェンジ番号は料金所番号とは異なる。
1998年9月の道路法改正により、高速自動車国道または自動車専用道路の連結路附属地(インターチェンジの敷地)に、食事施設、購買施設その他これらに類する施設(これらは「利便増進施設」と総称される)の事業者を公募して、占用料を徴収したうえで占用を許可できるようになった。同年12月、沼田ICと袋井ICにおけるコンビニエンスストアの開業を皮切りに、各地で事業化された。
有料道路のインターチェンジには料金所や検札所が設けられることが多い。料金所の種類としては、有人によるもの(係員が発券、料金の徴収などを行うもの)、ETC設備によるもの、なんらかの機器により自動で発券・料金徴収を行うものがある。また、高速バスのためのバス停やサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)と併設されることもある。
積載物重量制限を超過した大型車両などを高速道路へ乗入れさせないため、インターチェンジの料金所の手前には軸重量計が設置されており、重量制限オーバーの過積載車両を1台ずつチェックしている。検問に引っかかった過積載車両は、いったん料金所のゲートを通したあとで隅に寄せ、そこで設置された重量計で再チェックを受けて超過車両は一般道へ再び帰す仕組みである。ただし、制限を超える積載物を運搬したい場合は、道路管理者の特別な許可を得ていれば、通行時間や運航速度の制限を受けることになるが高速道路に乗り入れて通行することができる。
出入り口を増やす社会実験として、2005年よりSAやPAなどにETC専用の出入り口「スマートインターチェンジ」が設けられており、2009年1月現在、31か所が実験期間終了後に恒久化されている。
一般的にインターチェンジは恒久運用を前提として設置されるが、短期間(数か月~数年)の供用を目的とした「仮出入口」として設置される場合がある。
主に未開通区間や長期通行止め区間が存在する際、末端インターと市街地もしくは最速ルートとなる一般道が離れている場合などに利便性改善のために設けられる。また、国際科学技術博覧会(科学万博)の開催にともない一時的に開設された例(常磐自動車道谷田部仮出口)もある。一定の期限(開通や通行止め解除)が来ると閉鎖される場合が多いが、閉鎖せずに正規インターチェンジに昇格する場合や、閉鎖後に正規インターチェンジとして再整備される場合もある(たとえば、東北中央自動車道 毒沢仮出入口は、開通後、正規インターチェンジに昇格され、川原子ICとなった)。
日本の有料道路の料金は、走行距離が長くなるほど単価が割安になる「長距離逓減制」を適用しており、一般道に迂回するとこれが途絶えて迂回しなかった場合よりも割高になるケースがあるため、通行止めの場合には通行止めの起点(もしくはその1つ手前)となるインターチェンジで降り、通行止めの終点となるインターチェンジで乗り直した場合に料金の調整が受けられる(場合によっては、復旧・修繕工事により大渋滞が予想される場合も適用される場合がある)。
また2015年以降、ETC車を対象に指定のインターチェンジで流出して道の駅またはガソリンスタンドに立ち寄り、同じインターチェンジから順方向に向かうことで流出せず走行した場合と同じ料金に調整する社会実験も開始されている。
アメリカでは約5kmの間隔でインターチェンジが配置されている。
アメリカの高速道路(ハイウェイ)の場合は、インターチェンジ(出口)およびジャンクションに基本的に州ごとにマイル数(マイルポスト)に対応する数字でナンバリングを行っている。同一インターチェンジに複数出口があるときは数字の後にアルファベットがつけられる(例:1A,1B...)。アメリカは日本より圧倒的に面積が大きく、道路の路線延長も長いため、このような附番であると途中に追加されても基本的に振り直しの必要がない、目的地までの距離がある程度わかるなどのメリットが生じる。
なお、IC入口の案内標識には路線番号がつけられているがIC番号はつけられていない。
1935年のアウトバーン建設の際に一般道路との接続施設は平均10kmの間隔で設置することとされた。戦後、インターチェンジの数は増加しているが、アウトバーンの性格によっても間隔は異なり、約7kmの間隔で配置されているという報告や、大都市圏には3~4kmや2kmの例もあるという情報がある。
ドイツではインターチェンジ(出口)及びジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。
フランスではインターチェンジ(出口)に起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。
イギリスではインターチェンジ(入口・出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。
中国の高速道路のインターチェンジには番号が割り振られており、通常起点を1番とした通し番号となっている。
韓国ではインターチェンジ(出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。
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"text": "英語名称では、地名以外が含まれているインターチェンジ名は空港近隣のインターチェンジ(関西空港IC)などを除き従来はすべて日本語読みのままで表記していたが、最近では地名以外の部分は英語表記にされる場合もある(八千穂高原IC→Yachiho Heights)。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "民間施設に直結した多気ヴィソンSICは、直結する民間施設VISON(ヴィソン)に由来する名称であるが、インターチェンジの名称は地名であることが条件のため、民間施設周辺の字名が「ヴィソン」に変更された。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本の高速道路においては、インターチェンジ(入口・出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。現在、日本の高速道路で「1」から連続で続く最大値は「75」 の八戸是川ICである(変則的な番号配置である圏央道・東京外環を含めると「110」の木更津JCT、インターチェンジ単独では「105」の木更津東ICがある)。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "基本的に起点(東名高速道路、中央自動車道、東北自動車道などの縦貫道ではもっとも東京に近いIC、支線では縦貫道から分岐するジャンクションが起点とされ(支線の場合はジャンクションの隣のICから)、1番が振られることが多い)から終点に向かって番号が振られていくが、開通当初より設置する計画があるが供用が遅れる場合にその施設を一時的に欠番とする(たとえば東名高速道路の場合、起点の東京ICの次は東名川崎ICであるが、その間に東京外かく環状道路とのJCTの設置が予定されているため、番号は1番から3番に飛ぶ)、幹線の道路から分岐するためあえて終点から番号を振る(北陸自動車道・長崎自動車道など)、全線開通すると環状道路となるため通しの番号が振りにくく、ジャンクションを過ぎることでインターチェンジ番号を繰り上げる(首都圏中央連絡自動車道および東京外環自動車道)などの例外も存在する。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "道央自動車道では、以前は都心の札幌を中心として南北に延びる形になっているためにほかの路線とはつけ方が大きく異なり、札幌JCT(開通当初は札樽自動車道と接続されていなかったことから設置がなく後に設置されたために番号は1番ではなく1-1だった)の隣のICから南北方向にそれぞれ振られていたが、2018年(平成30年)12月に、大沼公園ICの「6」から士別剣淵ICの「48」までスマートインターチェンジを含め連続した番号に変更することが発表された。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "欠番がない既存のインターチェンジの途中区間にインターチェンジが追加された場合、その都度番号を振り直すのは大変であるため、ハイフンを用いて枝番としている(ただし、旭川紋別自動車道 愛山上川IC(2-1)、関越自動車道 赤城IC(12-1)・塩沢石打IC(16-1)、磐越自動車道 郡山東IC(3-1)などのように追加ICではないにもかかわらず例外で枝番が振られた例がある)。さらに追加された場合は枝番が大きくなるが、小さい数字の側に追加された場合、番号が振り直される(例:常磐自動車道流山ICは当初「1-1」だったが、IC番号「1」の三郷インターチェンジとの間に三郷料金所スマートICが設置されたことにより「1-2」に振り直された)。また、枝番においても追加設置計画がある場合、あえて欠番にしておくこともある(例:IC番号「5-1」の中国自動車道神戸JCTが開通する前より神戸三田ICの番号は「5-2」だった)。設置当初は枝番ではなかったが、起点側に新たにインターチェンジが追加されて枝番に改められたインターチェンジも存在する(一宮西インターチェンジは一宮稲沢北インターチェンジの開業とともに「1」から「1-1」に改められた)。さらに、東北中央自動車道 村山名取IC、村山本飯田ICは、2つのインターチェンジを合わせてフルインターチェンジという形となっており、それぞれ「20-1」「20-2」と振られているため、「20」は欠番となっている。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "将来的に本線が延伸された際に備えて、接続する支線に枝番を振る例もある(長崎多良見ICから分岐する長崎バイパスなど。のちに長崎自動車道本線が開通した)。既存のインターチェンジがダイヤモンド型であり、その間にジャンクションなどのほかの施設が追加された場合に、枝番を振る例もある(札幌JCTのほか、清洲JCT、東海JCTなど)。名古屋第二環状自動車道は元々は東名阪自動車道の一部であり、名古屋西JCTからそのまま東名阪道亀山方面に向かって番号が振られているが、のち飛島JCT方面の支線が開通した際に途中のICの番号を枝番とせず、東名阪自動車道方面と同様に番号を振っている。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ほかの道路と接続がない場合、接続されるまでインターチェンジ番号が振られないこともある。また、後から既開通区間の番号が新規開通区間に合わせて振り直されることもある(宇佐別府道路など)。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、1972年ごろまでは明確な番号割り当てルールがなく、各路線ごとに番号割り当てルールが決められていた。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1つのインターチェンジに1つの番号を割り当てられるが、中国豊中ICと中国池田IC(2)や瀬田東ICと瀬田西IC(30-1、後に30-2)のように相互利用出来ないハーフインターチェンジ同士を1つのインターチェンジとみなして共通の番号を振る例や、逆に京都南IC(下り線出口・33)・(上り線第1出口33-1)・(上り線第2出口33-2)のように1つのインターチェンジで複数の番号を振る場合もある。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、ここでいうインターチェンジ番号は料金所番号とは異なる。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1998年9月の道路法改正により、高速自動車国道または自動車専用道路の連結路附属地(インターチェンジの敷地)に、食事施設、購買施設その他これらに類する施設(これらは「利便増進施設」と総称される)の事業者を公募して、占用料を徴収したうえで占用を許可できるようになった。同年12月、沼田ICと袋井ICにおけるコンビニエンスストアの開業を皮切りに、各地で事業化された。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "有料道路のインターチェンジには料金所や検札所が設けられることが多い。料金所の種類としては、有人によるもの(係員が発券、料金の徴収などを行うもの)、ETC設備によるもの、なんらかの機器により自動で発券・料金徴収を行うものがある。また、高速バスのためのバス停やサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)と併設されることもある。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "積載物重量制限を超過した大型車両などを高速道路へ乗入れさせないため、インターチェンジの料金所の手前には軸重量計が設置されており、重量制限オーバーの過積載車両を1台ずつチェックしている。検問に引っかかった過積載車両は、いったん料金所のゲートを通したあとで隅に寄せ、そこで設置された重量計で再チェックを受けて超過車両は一般道へ再び帰す仕組みである。ただし、制限を超える積載物を運搬したい場合は、道路管理者の特別な許可を得ていれば、通行時間や運航速度の制限を受けることになるが高速道路に乗り入れて通行することができる。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "出入り口を増やす社会実験として、2005年よりSAやPAなどにETC専用の出入り口「スマートインターチェンジ」が設けられており、2009年1月現在、31か所が実験期間終了後に恒久化されている。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "一般的にインターチェンジは恒久運用を前提として設置されるが、短期間(数か月~数年)の供用を目的とした「仮出入口」として設置される場合がある。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "主に未開通区間や長期通行止め区間が存在する際、末端インターと市街地もしくは最速ルートとなる一般道が離れている場合などに利便性改善のために設けられる。また、国際科学技術博覧会(科学万博)の開催にともない一時的に開設された例(常磐自動車道谷田部仮出口)もある。一定の期限(開通や通行止め解除)が来ると閉鎖される場合が多いが、閉鎖せずに正規インターチェンジに昇格する場合や、閉鎖後に正規インターチェンジとして再整備される場合もある(たとえば、東北中央自動車道 毒沢仮出入口は、開通後、正規インターチェンジに昇格され、川原子ICとなった)。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本の有料道路の料金は、走行距離が長くなるほど単価が割安になる「長距離逓減制」を適用しており、一般道に迂回するとこれが途絶えて迂回しなかった場合よりも割高になるケースがあるため、通行止めの場合には通行止めの起点(もしくはその1つ手前)となるインターチェンジで降り、通行止めの終点となるインターチェンジで乗り直した場合に料金の調整が受けられる(場合によっては、復旧・修繕工事により大渋滞が予想される場合も適用される場合がある)。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また2015年以降、ETC車を対象に指定のインターチェンジで流出して道の駅またはガソリンスタンドに立ち寄り、同じインターチェンジから順方向に向かうことで流出せず走行した場合と同じ料金に調整する社会実験も開始されている。",
"title": "日本のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは約5kmの間隔でインターチェンジが配置されている。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "アメリカの高速道路(ハイウェイ)の場合は、インターチェンジ(出口)およびジャンクションに基本的に州ごとにマイル数(マイルポスト)に対応する数字でナンバリングを行っている。同一インターチェンジに複数出口があるときは数字の後にアルファベットがつけられる(例:1A,1B...)。アメリカは日本より圧倒的に面積が大きく、道路の路線延長も長いため、このような附番であると途中に追加されても基本的に振り直しの必要がない、目的地までの距離がある程度わかるなどのメリットが生じる。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なお、IC入口の案内標識には路線番号がつけられているがIC番号はつけられていない。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1935年のアウトバーン建設の際に一般道路との接続施設は平均10kmの間隔で設置することとされた。戦後、インターチェンジの数は増加しているが、アウトバーンの性格によっても間隔は異なり、約7kmの間隔で配置されているという報告や、大都市圏には3~4kmや2kmの例もあるという情報がある。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ドイツではインターチェンジ(出口)及びジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "フランスではインターチェンジ(出口)に起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "イギリスではインターチェンジ(入口・出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。",
"title": "欧米のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "中国の高速道路のインターチェンジには番号が割り振られており、通常起点を1番とした通し番号となっている。",
"title": "アジア諸国のインターチェンジ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "韓国ではインターチェンジ(出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている。",
"title": "アジア諸国のインターチェンジ"
}
] |
インターチェンジは、複数の道路を相互に接続する施設であり、幹線道路(主に高速道路)同士および一般道路が交差または近接する箇所に設けられ、幹線道路の交通の流れを妨げないように多くは立体的構造を持つ。 幹線道路(本線)への流入出口として機能する一方通行道路「ランプ」が設けられ、そこで車は十分加速して本線の交通の流れにスムーズに合流が可能となっている。 なお日本では、高速道路同士を接続する施設に対しては、「ジャンクション」の名で呼ばれることが多い。
|
[[File:High Five.jpg|thumb|240px|[[米国]]・[[ダラス]]の[[w:High Five Interchange|ハイ・ファイブ]]<ref group="※">[[w:High Five Interchange|ハイ・ファイブ]]は、複雑な5層構造型であり、[[w:Frontage road|側道]]及び[[HOVレーン]]付近用のインターチェンジである。この混合設計は、[[高速道路]]の4層構造及び側道管制目的の3層ダイヤモンド型インターチェンジの各部分によって成り立っている。</ref>。インターチェンジの構造の一例。]]
'''インターチェンジ'''({{lang-en-short|interchange}})は、複数の[[道路]]を相互に接続する施設であり、幹線道路(主に[[高速道路]])同士および[[一般道路]]が交差または近接する箇所に設けられ、幹線道路の交通の流れを妨げないように多くは立体的構造を持つ。
幹線道路(本線)への流入出口として機能する一方通行道路「[[ランプ (高速道路)|ランプ]]」が設けられ、そこで車は十分加速して本線の交通の流れにスムーズに合流が可能となっている{{sfn|浅井建爾|2001|pp=66-67}}。
なお日本では、[[高速道路]]同士を接続する施設に対しては、「[[ジャンクション_(道路)|ジャンクション]]」の名で呼ばれることが多い。
== 機能 ==
[[高速道路]](および一部の[[一般道路]])は、[[沿道制限]]が行われ、インターチェンジと呼ばれる特定の地点からのみ出入りが許されるシステムになっている<ref name="takebe">武部健一、[https://doi.org/10.14989/doctor.r887 「インターチェンジの計画と設計に関する研究」] 京都大学 博士論文 乙第887号 1967年</ref>。インターチェンジの配置は高速道路の機能と効用を効率的に発揮させる要となる<ref name="takebe" />。
=== 付番 ===
日本、ドイツ(アウトバーン)、フランス、イギリス、韓国ではほぼ同じようにインターチェンジごとに付番されるが、フランスではジャンクションには番号が振られない。また、日本とイギリスでは一般道からのインターチェンジ入口にも番号が振られた案内標識が存在するが、ドイツ、フランス、韓国の入口案内の標識には番号が入っていない。イタリア(アウトストラーダ)にはインターチェンジ番号自体がなく、地名のみで案内している。
=== 形状と分類 ===
インターチェンジの形状を選定するにあたっては交差道路の種類、[[料金所]]の有無、ランプの[[交通量]]、安全性を考慮して検討が行われる{{Sfn|日本道路協会|2021|p=555}}。特に[[平面交差]]や[[織り込み]]の有無は重要な問題となる{{Sfn|日本道路協会|2021|p=555}}。
交通動線の処理方法により完全立体交差型(平面交差を全く設けない)、不完全立体交差型(平面交差を1ヶ所以上設ける)、織り込み型(平面交差は含まないが織り込み部がある)の3種に大別される{{Sfn|日本道路協会|2021|pp=553-554}}。完全立体交差型の代表格がトランペット型やY型で、高速道路相互または[[高速道路]]と[[一般道路]]との接続に多く用いられる。不完全立体交差型の代表格がダイヤモンド型や平面Y型で、高速道路と交通量の多くない[[一般道路]]、あるいは[[一般道路]]同士の接続に多く用いられる。前者は後者に比べて安全性が高いが、用地面積や構造物を多く必要とするため、コストは高くつく<ref name="kozorei">{{PDFlink|[http://www.road.or.jp/event/pdf/10_kouzou5.pdf 第5章 立体交差]}} - 「道路構造令の解説と運用」平成15年度 地区講習会資料(日本道路協会)</ref>。日本では、設置スペースが比較的小さく済むトランペット型やY型が多い{{sfn|浅井建爾|2001|pp=66-67}}。
{| class="wikitable"
|-
!style="background-color: #ccc;"|名称
!代表例
! width="100" |イメージ
! width="150" |事例
|-
|style="background-color: #ccc;"|トランペット型<ref name="p522">社団法人日本道路協会,「道路構造令の解説と運用」, 平成16年2月, p522</ref>
|・[[名神高速道路]] - [[北陸自動車道]] [[米原ジャンクション|米原JCT]]
|[[ファイル:Knooppunt trompet.png|100px|トランペット型]]
|[[ファイル:Ottawa River Parkway interchange.jpg|150px|]][[カナダ]]・[[オタワ]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|Y型(直結Y型)<ref name="p523"/>
|・[[首都高速道路]] [[小菅ジャンクション|小菅JCT]]、 [[堀切ジャンクション|堀切JCT]]、 [[江北ジャンクション|江北JCT]]、 [[板橋ジャンクション|板橋JCT]]
|[[ファイル:Knooppunt driehoek.png|100px|Y型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|Y型(準直結Y型)<ref name="p523"/>
|・[[東北自動車道]] [[仙台宮城インターチェンジ|仙台宮城IC]]<br/>・[[名阪国道]] [[針インターチェンジ|針IC]]
|[[ファイル:Interchange-Y.png|100px|Y型]]
|[[ファイル:California SR 85 and SR 87 Interchange.jpg|150px|]][[カリフォルニア州]]・[[サンノゼ]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|Tボーン型
|・[[東北自動車道]] [[郡山インターチェンジ (福島県)|郡山IC]]<br />・[[磐越自動車道]] [[小野インターチェンジ|小野IC]]<br />・[[長野自動車道]] [[岡谷インターチェンジ|岡谷IC]]<br />・[[北陸自動車道]] [[美川インターチェンジ|美川IC]]<br />・[[中央自動車道]] [[土岐インターチェンジ|土岐IC]]<br />・[[沖縄自動車道]] [[北中城インターチェンジ|北中城IC]]
|[[ファイル:As-gruszka.svg|100px|Tボーン型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[w:Diamond interchange|ダイヤモンド型]]<ref name="p519">社団法人日本道路協会,「道路構造令の解説と運用」, 平成16年2月, p519</ref>
|・[[東名高速道路]] [[裾野インターチェンジ|裾野IC]]<br />・[[名神高速道路]] [[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]]<br />・[[阪和自動車道]] [[岸和田和泉インターチェンジ|岸和田和泉IC]]<br />・[[西名阪自動車道]] [[法隆寺インターチェンジ|法隆寺IC]]<br />・[[首都圏中央連絡自動車道]] [[幸手インターチェンジ|幸手IC]]<br />・[[山陽自動車道]] [[龍野インターチェンジ|龍野IC]]<br/>・[[中部横断自動車道]] [[佐久北インターチェンジ|佐久北IC]]
|[[ファイル:Knooppunt haarlemmermeer.png|100px|ダイヤモンド型]]
|[[ファイル:Overview of West Lancaster.jpg|150px|]][[オハイオ州]]・[[ファイエット郡 (オハイオ州)|ファイエット郡]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|完全ダイヤモンド型
|・-
|[[ファイル:Knooppunt gotisch.png|100px|完全ダイヤモンド型]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|ダンベル型
|・[[山陰自動車道]] [[大田朝山インターチェンジ]]
|[[ファイル:AS Hantel.svg|100px|ダンベル型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|折畳みダイヤモンド型<br />(部分的クローバー型とも)
|・[[日本海東北自動車道]] [[松ヶ崎亀田インターチェンジ|松ヶ崎亀田IC]]<br />・[[椎田道路]] [[築城インターチェンジ|築城IC(改築前)]]<ref>{{PDFlink|[https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/kyushu/h24/1101a/pdfs/01.pdf 椎田道路 大規模改築事業の概要 別紙]}}, p2, 2015年6月19日閲覧</ref><br />・[[東九州自動車道]] [[曽於弥五郎インターチェンジ|曽於弥五郎IC]]<br />・[[保土ヶ谷バイパス]] [[本村インターチェンジ|本村IC]]、[[新桜ヶ丘インターチェンジ|新桜ヶ丘IC]]<br/>・[[猿投グリーンロード]] [[中山インターチェンジ (愛知県)|中山IC]]
|[[ファイル:Halfklaverbladaansluiting.png|100px|折畳みダイヤモンド型<br />(折畳み部分的クローバー型とも)]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|3層ダイヤモンド型
|・[[国道16号]][[東大宮バイパス]] - [[埼玉県道5号さいたま菖蒲線]] 原市(中)交差点
|[[ファイル:Volleyball Interchange Diagram.gif|100px|3層ダイヤモンド型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[w:Diverging diamond interchange|分岐ダイヤモンド型]]
|・-
|[[ファイル:Divergerende diamantaansluiting.png|100px|分岐ダイヤモンド型]]
|[[File:Utah State Route 201 exit.jpg|150px]]<br/>[[ユタ州]]・[[ソルトレイク郡 (ユタ州)|ソルトレイク郡]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|平面Y型<ref name="p514">社団法人日本道路協会,「道路構造令の解説と運用」, 平成16年2月, p514</ref>
|・[[山形自動車道]] [[庄内あさひインターチェンジ|庄内あさひIC]]<br />・[[道東自動車道]] [[千歳東インターチェンジ|千歳東IC]]<br/>・[[東海北陸自動車道]] [[郡上八幡インターチェンジ|郡上八幡IC]]<br/>・[[日本海東北自動車道]] [[大内ジャンクション|大内JCT]]
|[[ファイル:Interchange-Y3.png|100px|T型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[クローバー型]]<ref name="p515">社団法人日本道路協会,「道路構造令の解説と運用」, 平成16年2月, p515</ref><br />(クローバーリーフ型とも{{sfn|浅井建爾|2001|pp=66-67}})
|・[[九州自動車道]] [[鳥栖ジャンクション|鳥栖JCT]]<ref group="※">供用後に[[サガンクロス橋]]を追加した亜種となっている。</ref><br />・[[国道16号]]袖ヶ浦IC<ref group="※">[[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン連絡道]]の[[袖ヶ浦インターチェンジ]]ではない。なお、ランプ上に[[京葉臨海鉄道臨海本線]]の踏切が存在する。</ref><br />・[[国道357号]]浦安IC<br />
|[[ファイル:Knooppunt klaverblad.svg|100px|クローバー型]]
|[[ファイル:Klaverblad unknown location .jpg|150px]]<br/>[[トルコ]]・[[イスタンブール]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[w:Partial cloverleaf interchange|不完全クローバー型]]<ref name="p519"/><br />(不完全クローバーリーフ型とも{{sfn|浅井建爾|2001|pp=66-67}})
|・[[東名阪自動車道]] - [[名阪国道]] [[亀山インターチェンジ|亀山IC]]<br />・[[名神高速道路]] [[大垣インターチェンジ|大垣IC]]<br />・[[宮崎自動車道]] - [[東九州自動車道]] [[清武ジャンクション|清武JCT]]<br />・[[国道254号]] - [[国道463号]] - [[埼玉県道109号新座和光線]] [[英インターチェンジ|英IC]]<br/>・[[名阪国道]] [[神野口インターチェンジ|神野口IC]]
|[[ファイル:Parclo B2.svg|100px|B2]]<br />[[ファイル:Parclo A4.svg|100px|A4]]
|[[ファイル:Derry and 407.jpg|150px|]][[カナダ]]・[[オンタリオ州]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|半クローバー型
|・[[東名高速道路]] [[厚木インターチェンジ|厚木IC]]<br />・[[名神高速道路]] [[栗東IC]]<br />・[[中国自動車道]] [[宝塚インターチェンジ|宝塚IC]]<br />(いずれも一般道との接続部分)<ref group="※">厚木ICは[[小田原厚木道路]]と接続しているが、東名高速道路との双方向利用のみであり一般道とは接続しない。</ref>
|[[ファイル:Knooppunt half klaverblad.png|100px|半クローバー型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|対向ループ型<ref name="p519"/>
|・[[東京外環自動車道]] - [[東北自動車道]] - 首都高速道路 [[川口ジャンクション|川口JCT]]
|[[ファイル:CloverStackIntersection.svg|100px|Two-level cloverstack型]]<br/>[[ファイル:Schönefeld interchange scheme.svg|100px|Three-level cloverstack型]]
|[[ファイル:Ridderkerk interchange.jpg|150px]]<br/>[[オランダ]]・[[:nl:Knooppunt Ridderkerk|Knooppunt Ridderkerk]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|タービン型<ref name="p523">社団法人日本道路協会,「道路構造令の解説と運用」, 平成16年2月, p523</ref>
|・[[東京外環自動車道]] - [[常磐自動車道]] - 首都高速道路 [[三郷ジャンクション|三郷JCT]]<br />・[[第二京阪道路]] - [[京滋バイパス]] [[久御山ジャンクション|久御山JCT]]<br />・[[大阪府道2号大阪中央環状線|大阪中央環状線]] - [[新御堂筋]] [[千里インターチェンジ|千里IC]]<br />・[[東九州自動車道]] - [[九州中央自動車道]] - [[延岡インターアクセス道路]] [[延岡ジャンクション|延岡JCT]]/[[延岡インターチェンジ|IC]]<ref group="※">トランペット型構造を持ち合わせた、変則タイプのタービン型ジャンクション。</ref>・[[東名高速道路]] - [[豊田ジャンクション|豊田JCT]]
|[[ファイル:Knooppunt turbine.png|100px|Two-level Turbine]]<br/>[[ファイル:Knooppunt sterturbine.png|100px|Three-level Turbine]]
|[[ファイル:Circle Interchange Chicago.jpg|150px|Two-level Turbine]][[イリノイ州]]・[[シカゴ]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|二層ラウンドアバウト型<br />(ロータリー型<ref name="p524">社団法人日本道路協会,「道路構造令の解説と運用」, 平成16年2月, p524</ref>)
|・[[首都高速道路]] [[箱崎ロータリー]]
|[[ファイル:Salida autovia a rotonda.svg|100px|ロータリー型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[w:Roundabout interchange|三層ラウンドアバウト型]]
|・[[w:Kinsale Road Roundabout|Kinsale Road Roundabout]]([[アイルランド]]・[[コーク (アイルランド)|コーク]])<br />・[[w:Denham Roundabout|Denham Roundabout]]([[英国]]・[[w:Denham, Buckinghamshire|Denham]])<br />・[[w:Staples Corner|Staples Corner]]([[英国]]・[[ロンドン]])<br />・{{coord|52.384416|n|4.707492|e}}
|[[ファイル:Knooppunt rotonde3.png|100px|Roundabout interchange]]
|[[ファイル:Opatovice nad Labem kruhový objezd from air K2 -1.jpg|150px|]][[チェコ]]・[[パルドゥビツェ州]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|3方向ラウンドアバウト型
|・韓国の第二自由路([[:ko:제2자유로|제2자유로]])韓流ワルドIC
|[[ファイル:Echangeur 3 routes rond point.svg|100px|3方向ラウンドアバウト型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[w:Stack interchange|スタック型]]
|・[[阪神高速道路]] [[北港JCT]]
・[[w:Four Level Interchange|Four Level Interchange]]([[カリフォルニア州]]・[[ロサンゼルス]])<br />・[[w:High Five Interchange|High Five Interchange]]([[テキサス州]]・[[ダラス]])
|[[ファイル:Stackinterchange.png|100px|4層構造型]]
|[[ファイル:Shanghai, China (Unsplash).jpg|150px]]<br/>[[中華人民共和国|中国]]・[[上海市]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|風車型
|・-
|[[ファイル:Knooppunt windmolen.png|100px|風車型]]
|
|-
|style="background-color: #ccc;"|分岐風車型
|・-
|[[ファイル:Divergerend windmolenknooppunt.png|100px|分岐風車型]]
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|[[ファイル:Knooppunt barok.png|100px|分割バレーボール型]]
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|style="background-color: #ccc;"|Uターン型
|・[[新名神高速道路]] - 亀山連絡路 [[亀山西ジャンクション|亀山西JCT]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4675.html|title=E1A 新名神 亀山西JCTの名古屋・伊勢ランプウェイが完成し、2019年12月21日(土)7時からご利用いただけます 合流・分岐が連続しますので注意してご走行ください|date=2019-11-20|accessdate=2019-11-20|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>
|[[ファイル:Intersection with Uturns.png|100px|Uターン型]]
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|[[ファイル:Knooppunt half barok.png|100px|3/4バレー型]]
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|style="background-color: #ccc;"|両方向型
|・[[名古屋高速道路2号東山線]] [[吹上東出入口]]/[[吹上西出入口]](2つの出入口のランプが交差)
・[[道央自動車道]] [[札幌南インターチェンジ|札幌南IC]]
|[[ファイル:The Basketweave.svg|100px|両方向インターチェンジ型]]
|[[ファイル:401 Basketweave Crop.jpg|150px|]][[カナダ]]・[[オンタリオ州]]・[[w:Ontario Highway 401|バスケットウィーブ]]
|-
|style="background-color: #ccc;"|[[w:Single-point urban interchange|一点都市型]]
|・[[東京外環自動車道]] - 首都高速道路 [[美女木ジャンクション|美女木JCT]]<br />・[[九州自動車道]] - [[指宿スカイライン]] - [[南九州西回り自動車道]] - [[鹿児島東西幹線道路]] [[鹿児島インターチェンジ|鹿児島IC]]
|[[ファイル:Spui-schematic.svg|100px|一点都市型]]
|[[ファイル:Florida SR 4080 at Valencia College Lane.jpg|150px|一点都市型]][[フロリダ州]]・[[オーランド]]
|}
=== インターチェンジ周辺に立地する施設 ===
{{独自研究|section=1|date=2021年9月}}
基本的には[[一般道路]]の幹線道路に準じる。[[ガソリンスタンド]]、駐車場を備えた飲食店([[ファミリーレストラン]]、[[ドライブイン]]など)など乗用車の利用者向け店舗が多い。また娯楽施設としてボウリング場、パチンコ店なども見られる。自動車販売店や、インターチェンジの物流機能を期待して工場・倉庫・[[トラックターミナル]]なども多く周辺自治体も流通や[[工業団地|工業]]などの企業団地を造成することが多い<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/koka4/3/3-116.html 効果事例:
高速インターチェンジ周辺に立地する工業団地]-国土交通省</ref>。
このほかに特徴的なものとして、[[ラブホテル]]または[[モーテル]]がしばしば見られ、多数立地することも多い。特に周辺部が文教地区や住宅地である場合、風紀や教育環境を乱すとしてトラブルも起きる。自動車の増加による騒音・大気汚染などの他にこのことがインターチェンジ建設への反対要因となることもある。
観光地周辺のインターチェンジでは[[土産|みやげ物]]の店舗も多い。
その他、近年ではショッピングセンター・スーパーマーケットなど、[[ロードサイド]]店舗の集積による大規模開発もしばしば見られる。特に無料道路においては、サービスエリアやパーキングエリアの代替として[[道の駅]]・コンビニ・飲食店などをインターチェンジ周辺に設ける個所もある。
また、高速道路を利用して搬送を行うことから高次救急医療機関が立地することや、インターチェンジが遠い場合は[[救急車緊急退出路]]が整備されることもあり、道路事業の整備効果として三次救急医療機関への時間短縮が挙げられることも多い<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001248062.pdf#page=9 道路の様々な効果に関する評価について(公共サービスの向上-高次医療機関へのアクセスの向上など)] 国土交通省 </ref>。
== 日本のインターチェンジ ==
日本でのインターチェンジは、[[道路法]](昭和二十七年六月十日法律第百八十号)第四十八条の三に定義された「[[自動車専用道路]]の部分を[[道路]]、[[軌道]]、[[自動車道|一般自動車道]]又は交通の用に供する通路その他の施設と交差させようとする場合の当該交差の方式」に規定された[[立体交差#複数の道路|立体交差]]となる施設であり、インターチェンジの所属する道路の道路管理者([[国土交通省]]、道路管理会社、都道府県など)が管理し名称等を決定している。
* 「インターチェンジの構造」は、複数の道路との間を[[ランプ (道路)|ランプ]]を介して接続し、交差は[[立体交差]]となっている構造である。
** [[道路構造令]]における第1種の[[高速自動車国道]]、および[[自動車専用道路]]の場合は、第3種や第4種とランプで接続しているインターチェンジの構造のとき、インターチェンジとしている。
** 道路構造令における第2種の[[都市高速道路]]などは、インターチェンジの構造であってもランプが1本や2本など少ないこともあり、特にインターチェンジの名称はつけていないことがほとんどである(例:[[福岡高速環状線]][[天神北出入口|天神北出入口(天神北ランプ)]]など)。
** 道路構造令における第1種の高速自動車国道、および自動車専用道路や第2種の都市高速道路などのそれぞれをランプで接続している構造は、インターチェンジの構造であるが特に[[ジャンクション (道路)#日本のジャンクション|ジャンクション]]としている。
** [[道路]]の[[本線車道]]は、インターチェンジに含まれない。また、複数の道路の本線車道の相互が直接接続する場合は、インターチェンジではない。
** [[一般道路]]などでは、インターチェンジの構造であっても、名称にインターチェンジを用いないこともある。
道路構造令では、第1種と第2種の道路はほかの道路との接続はランプで接続しなければならない。ただし、[[本線車道]]の相互での平面接続は可能である(交差は不可)が、実際としては交通障害にならないような連続する構造がもっぱらである([[高速道路]]での左右ルートへの分流・合流する箇所など)。
[[道路]][[立体交差]]のうち、「ランプが複数ある構造の施設」が「インターチェンジ構造の施設」であり、そのインターチェンジ構造の施設の一部に○○インターチェンジと名称がつけられている。[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]とは、インターチェンジ構造の施設であり構造上では何らインターチェンジと変わりはない。
=== 位置選定 ===
インターチェンジの位置は周辺の交通、土地利用などの社会的条件、地形や地質などの自然条件を踏まえて決定される{{Sfn|日本道路協会|2021|p=548}}。選定の過程は概略の位置を決めて、これを細部にかけて検討・修正して最適な位置に近づけていく{{Sfn|日本道路協会|2021|p=548}}。こうして検討を経て、工業地帯や大都市周辺では5~10 km、平地で小都市が点在するような場所では15~25 km、山地部では20~25 km間隔でインターチェンジが設けられる{{Sfn|日本道路協会|2021|p=549}}。しかし、建設費を抑えたインターチェンジを設ける場合はより細かい間隔でインターチェンジを設ける方が適切なことがある{{Sfn|日本道路協会|2021|p=549}}。
=== 名称 ===
名称は、立地する都市名や自治体名などの地名をつけるのが一般的である{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=86-88}}{{sfn|武部健一|2015|pp=196–197}}。しかし、同じ都市にインターチェンジが複数ある場合などは「[[京都南インターチェンジ|京都南]]」「[[京都東インターチェンジ|京都東]]」のように地名のあとに方角などをつけて区別する{{sfn|武部健一|2015|pp=196–197}}。これは[[日本の鉄道駅]]の名称のつけ方(「[[西青山駅]]」「[[東青山駅]]」)とは逆になっている{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=86-88}}。
また、2つの自治体にまたがるなどして設置されたインターチェンジは、名称確定時に両自治体間で衝突が発生することがある{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=88,89}}。そのような場合、2つの自治体名を連ねて名称とすることが多い{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=86-88}}([[太田桐生インターチェンジ|太田桐生IC]]、[[佐野藤岡インターチェンジ|佐野藤岡IC]]、[[三条燕インターチェンジ|三条燕IC]]、[[士別剣淵インターチェンジ|士別剣淵IC]]など)<ref group="※">ただし、[[磐越自動車道]] [[船引三春インターチェンジ|船引三春IC]]などは、2つの自治体名を連ねた名称([[三春町]]、[[船引町]])だったが、船引町が[[田村市]]として合併し消滅した為、2つの自治体にまたがるインターチェンジだが、このような例などで、2つの自治体名を連ねた名称でない場合もある。</ref>。
さらに、インターチェンジ名の重複が起こらないよう後から作られたインターチェンジ名称を設定している。[[北陸自動車道|北陸道]]の[[朝日インターチェンジ|朝日IC]]と[[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道]]の[[みえ朝日インターチェンジ|みえ朝日IC]]のケースなどがある{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=90,91}}。ただし、「高速道路ファン手帳」の著者・佐滝による調査によれば、[[奈良県]][[大和郡山市]]の[[西名阪自動車道|西名阪道]][[郡山インターチェンジ (奈良県)|郡山IC]]と[[福島県]][[郡山市]]の[[東北自動車道|東北道]][[郡山インターチェンジ (福島県)|郡山IC]]は重複している{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=90,91}}{{Refnest|group=※|name=|[[JR]]の駅はどちらも「[[郡山駅 (曖昧さ回避)|郡山駅]]」。市名を冠する高校はどちらも「[[郡山高等学校 (曖昧さ回避)|県立郡山高校]]」である{{Sfn|佐滝剛弘|2016|pp=90,91}}}}。
計画段階においては、主に立地する[[地方公共団体|自治体]]名や接続する道路名などが仮称として用いられ、開通間近になると確定される(JCTなども同じ)。その他、自治体名の変更<ref group="※">[[北関東自動車道]]岩瀬IC→[[桜川筑西インターチェンジ|桜川筑西IC]]など。</ref> や施設自体の変更{{Refnest|group=※|[[首都圏中央連絡自動車道]]:桶川JCT→[[桶川北本インターチェンジ|桶川北本IC]]など<ref>{{Cite web|和書|date=2009-07-13|url=http://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/road/3kanjo/update/pdf/h21/0286.pdf|title=平成21年度開通予定の圏央道のインターチェンジ名称が決定しました。- 「桶川北本インターチェンジ」に決定 -|publisher=国土交通省関東地方整備局|accessdate=2017-06-17}}</ref>}}により変更される場合がある。また、開通後の名称変更は原則的に行われないが、中には例外もある{{Refnest|group=※|name=|[[東名高速道路]] [[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC]]の新規開設に伴い、既設の横浜ICが[[横浜町田インターチェンジ|横浜町田IC]]へ変更{{sfn|佐滝剛弘|2016|p=91}}など。}}。
英語名称では、地名以外が含まれているインターチェンジ名は空港近隣のインターチェンジ([[関西国際空港インターチェンジ|関西空港IC]])などを除き従来はすべて日本語読みのままで表記していたが、最近では地名以外の部分は英語表記にされる場合もある([[八千穂高原インターチェンジ|八千穂高原IC]]→Yachiho Heights)。
民間施設に直結した[[多気ヴィソンスマートインターチェンジ|多気ヴィソンSIC]]は、直結する民間施設VISON(ヴィソン)に由来する名称である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/150455|title=多気のスマートIC来春開通 VISON開業に合わせ|publisher=中日新聞|date=2020-11-07|author=清水悠莉子|accessdate=2021-05-12}}</ref><ref name="press20201106">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4926.html|title=E23 伊勢道「多気ヴィソンスマートインターチェンジ」2021年度春に開通予定|date=2020-11-06|accessdate=2021-05-12|author=多気町・合同会社三重故郷創生プロジェクト・中日本高速道路株式会社|publisher=中日本高速道路}}</ref><ref name="taki-press20201106">{{Cite web|和書|url=https://www.town.taki.mie.jp/material/files/group/4/smartIC.pdf|title=E23 伊勢道「多気ヴィソンスマートインターチェンジ」 2021年度春に開通予定|date=2020-11-06|accessdate=2021-05-06|author=多気町・合同会社三重故郷創生プロジェクト・中日本高速道路株式会社|publisher=多気町|format=PDF}}</ref>が、インターチェンジの名称は地名であることが条件のため、民間施設周辺の[[大字|字名]]が「ヴィソン」に変更された<ref>{{cite journal|和書|editor=多気町役場企画調整課|url=https://www.town.taki.mie.jp/material/files/group/4/202102.pdf|title=◎字の区域の設定について|journal=広報たき2021年2月号|issue=182|publisher=多気町役場企画調整課|page=12|format=PDF}}</ref>。
=== インターチェンジ番号 ===
日本の高速道路においては、インターチェンジ(入口・出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている<ref name="numbering">[https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf99/3.pdf 高速道路ナンバリングの実現に向けた提言 参考資料] 国土交通省、2019年10月14日閲覧。</ref>。現在、日本の高速道路で「1」から連続で続く最大値は「75」 の八戸是川ICである(変則的な番号配置である圏央道・東京外環を含めると「110」の木更津JCT、インターチェンジ単独では「105」の木更津東ICがある)。
基本的に[[起点]]([[東名高速道路]]、[[中央自動車道]]、[[東北自動車道]]などの縦貫道ではもっとも東京に近いIC、支線では縦貫道から分岐するジャンクションが起点とされ(支線の場合はジャンクションの隣のICから)、1番が振られることが多い)から終点に向かって番号が振られていく{{sfn|佐滝剛弘|2016|pp=95-98}}が、開通当初より設置する計画があるが供用が遅れる場合にその施設を一時的に欠番とする(たとえば東名高速道路の場合、起点の東京ICの次は[[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]]であるが、その間に[[東京外かく環状道路]]とのJCTの設置が予定されているため、番号は1番から3番に飛ぶ){{sfn|佐滝剛弘|2016|pp=95-98}}、[[幹線]]の[[道路]]から分岐するためあえて終点から番号を振る([[北陸自動車道]]・[[長崎自動車道]]など)、全線開通すると環状道路となるため通しの番号が振りにくく、[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]を過ぎることでインターチェンジ番号を繰り上げる([[首都圏中央連絡自動車道]]および[[東京外環自動車道]])などの例外も存在する。
[[道央自動車道]]では、以前は都心の札幌を中心として南北に延びる形になっているためにほかの路線とはつけ方が大きく異なり、札幌JCT(開通当初は札樽自動車道と接続されていなかったことから設置がなく後に設置されたために番号は1番ではなく1-1だった)の隣のICから南北方向にそれぞれ振られていたが、2018年(平成30年)12月に、[[大沼公園インターチェンジ|大沼公園IC]]の「6」から[[士別剣淵インターチェンジ|士別剣淵IC]]の「48」までスマートインターチェンジを含め連続した番号に変更することが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.driveplaza.com/sapa/hw/pdf/201812_hokkaido_map.pdf|title=2018年度『Highway Walker』北海道版 12月号(No.39) 北海道全図|accessdate=2018-12-02|publisher=NEXCO東日本}}</ref>。
欠番がない既存のインターチェンジの途中区間にインターチェンジが追加された場合、その都度番号を振り直すのは大変であるため、ハイフンを用いて枝番としている{{sfn|佐滝剛弘|2016|pp=95-98}}(ただし、[[旭川紋別自動車道]] [[愛山上川インターチェンジ|愛山上川IC]](2-1)、[[関越自動車道]] [[赤城インターチェンジ|赤城IC]](12-1)・[[塩沢石打インターチェンジ|塩沢石打IC]](16-1)、[[磐越自動車道]] [[郡山東インターチェンジ|郡山東IC]](3-1)などのように追加ICではないにもかかわらず例外で枝番が振られた例がある)<ref group="※">逆に[[上野原インターチェンジ|上野原IC]] (9) や[[小牧東インターチェンジ|小牧東IC]] (32) 、[[苫小牧中央インターチェンジ|苫小牧中央IC]] (21) など追加インターのなかでハイフンを用いない例もある</ref>。さらに追加された場合は枝番が大きくなるが、小さい数字の側に追加された場合、番号が振り直される(例:[[常磐自動車道]][[流山インターチェンジ|流山IC]]は当初「1-1」だったが、IC番号「1」の[[三郷インターチェンジ]]との間に[[三郷料金所|三郷料金所スマートIC]]が設置されたことにより「1-2」に振り直された)。また、枝番においても追加設置計画がある場合、あえて欠番にしておくこともある(例:IC番号「5-1」の[[中国自動車道]][[神戸ジャンクション|神戸JCT]]が開通する前より神戸三田ICの番号は「5-2」だった)。設置当初は枝番ではなかったが、起点側に新たにインターチェンジが追加されて枝番に改められたインターチェンジも存在する(一宮西インターチェンジは一宮稲沢北インターチェンジの開業とともに「1」から「1-1」に改められた)。さらに、[[東北中央自動車道]] [[村山名取インターチェンジ|村山名取IC]]、[[村山本飯田インターチェンジ|村山本飯田IC]]は、2つのインターチェンジを合わせてフルインターチェンジという形となっており、それぞれ「20-1」「20-2」と振られているため、「20」は欠番となっている。
将来的に本線が延伸された際に備えて、接続する支線に枝番を振る例もある(長崎多良見ICから分岐する[[長崎バイパス]]など。のちに[[長崎自動車道]]本線が開通した)。既存のインターチェンジがダイヤモンド型であり、その間にジャンクションなどのほかの施設が追加された場合に、枝番を振る例もある(札幌JCTのほか、[[清洲ジャンクション|清洲JCT]]、[[東海ジャンクション (愛知県)|東海JCT]]など)。名古屋第二環状自動車道は元々は東名阪自動車道の一部であり、名古屋西JCTからそのまま東名阪道亀山方面に向かって番号が振られているが、のち飛島JCT方面の支線が開通した際に途中のICの番号を枝番とせず、東名阪自動車道方面と同様に番号を振っている。
ほかの[[道路]]と接続がない場合、接続されるまでインターチェンジ番号が振られないこともある。また、後から既開通区間の番号が新規開通区間に合わせて振り直されることもある([[宇佐別府道路]]など)。
なお、[[1972年]]ごろまでは明確な番号割り当てルールがなく、各路線ごとに番号割り当てルールが決められていた。
1つのインターチェンジに1つの番号を割り当てられるが、[[中国豊中インターチェンジ|中国豊中IC]]と[[中国池田インターチェンジ|中国池田IC]](2)や[[瀬田東インターチェンジ|瀬田東IC]]と[[瀬田西インターチェンジ|瀬田西IC]](30-1、後に30-2)のように相互利用出来ないハーフインターチェンジ同士を1つのインターチェンジとみなして共通の番号を振る例や、逆に[[京都南インターチェンジ|京都南IC]](下り線出口・33)・(上り線第1出口33-1)・(上り線第2出口33-2)のように1つのインターチェンジで複数の番号を振る場合もある。
また、ここでいうインターチェンジ番号は料金所番号とは異なる。
=== 利便増進施設の占用 ===
1998年9月の[[道路法]]改正により、[[高速自動車国道]]または[[自動車専用道路]]の連結路附属地(インターチェンジの敷地)に、食事施設、購買施設その他これらに類する施設(これらは「利便増進施設」と総称される)の事業者を公募して、占用料を徴収したうえで占用を許可できるようになった。同年12月、[[沼田インターチェンジ (群馬県)|沼田IC]]と[[袋井インターチェンジ|袋井IC]]における[[コンビニエンスストア]]の開業を皮切りに、各地で事業化された。
=== 有料道路におけるインターチェンジの付帯設備 ===
[[ファイル:Yokohama Machida IC entrance.jpg|thumb|[[横浜町田インターチェンジ]]の料金所]]
[[有料道路]]のインターチェンジには[[料金所]]や[[検札|検札所]]が設けられることが多い。料金所の種類としては、有人によるもの(係員が発券、料金の徴収などを行うもの)、[[ETC]]設備によるもの、なんらかの機器により自動で発券・料金徴収を行うものがある。また、[[高速バス]]のためのバス停や[[サービスエリア]](SA)や[[パーキングエリア]](PA)と併設されることもある。
積載物重量制限を超過した大型車両などを高速道路へ乗入れさせないため、インターチェンジの料金所の手前には軸重量計が設置されており、重量制限オーバーの過積載車両を1台ずつチェックしている{{sfn|浅井建爾|2001|p=73}}。検問に引っかかった過積載車両は、いったん料金所のゲートを通したあとで隅に寄せ、そこで設置された重量計で再チェックを受けて超過車両は一般道へ再び帰す仕組みである{{sfn|浅井建爾|2001|p=73}}。ただし、制限を超える積載物を運搬したい場合は、道路管理者の特別な許可を得ていれば、通行時間や運航速度の制限を受けることになるが高速道路に乗り入れて通行することができる{{sfn|浅井建爾|2001|p=73}}。
出入り口を増やす[[社会実験]]として、[[2005年]]よりSAやPAなどにETC専用の出入り口「[[スマートインターチェンジ]]」が設けられており、2009年1月現在、31か所が実験期間終了後に恒久化されている。<!--高速道路の料金所の多くは、入口よりも出口の方がブース数が多くなっている。それは、入口は通行券を取るだけなので短時間で済むが、出口は料金の支払いがあるため時間が長くなるからである。 料金所の説明はインターチェンジでは無用である。-->
=== 暫定的なインターチェンジ ===
一般的にインターチェンジは恒久運用を前提として設置されるが、短期間(数か月~数年)の供用を目的とした「仮出入口」として設置される場合がある。
主に未開通区間や長期通行止め区間が存在する際、末端インターと市街地もしくは最速ルートとなる一般道が離れている場合などに利便性改善のために設けられる。また、[[国際科学技術博覧会]](科学万博)の開催にともない一時的に開設された例([[常磐自動車道]][[つくば科学万博の交通|谷田部仮出口]])もある。一定の期限(開通や通行止め解除)が来ると閉鎖される場合が多いが、閉鎖せずに正規インターチェンジに昇格する場合や、閉鎖後に正規インターチェンジとして再整備される場合もある(たとえば、[[東北中央自動車道]] 毒沢仮出入口は、開通後、正規インターチェンジに昇格され、[[川原子インターチェンジ|川原子IC]]となった)。
=== 乗り継ぎ制度 ===
日本の有料道路の料金は、走行距離が長くなるほど単価が割安になる「長距離逓減制」を適用しており、一般道に迂回するとこれが途絶えて迂回しなかった場合よりも割高になるケースがあるため、通行止めの場合には通行止めの起点(もしくはその1つ手前)となるインターチェンジで降り、通行止めの終点となるインターチェンジで乗り直した場合に料金の調整が受けられる(場合によっては、復旧・修繕工事により大渋滞が予想される場合も適用される場合がある)。
また2015年以降、ETC車を対象に指定のインターチェンジで流出して道の駅またはガソリンスタンドに立ち寄り、同じインターチェンジから順方向に向かうことで流出せず走行した場合と同じ料金に調整する社会実験も開始されている。
== 欧米のインターチェンジ ==
=== アメリカ ===
アメリカでは約5kmの間隔でインターチェンジが配置されている<ref name="smart">[https://www.hido.or.jp/itsapq/jsp/auth/trab/no81/smart1.pdf スマートICに関する社会実験の概要と今後の取り組みについて] 国土交通省道路局有料道路課、2018年8月23日閲覧。</ref>。
アメリカの高速道路(ハイウェイ)の場合は、インターチェンジ(出口)およびジャンクションに基本的に州ごとにマイル数(マイルポスト)に対応する数字でナンバリングを行っている<ref name="numbering" />。同一インターチェンジに複数出口があるときは数字の後にアルファベットがつけられる(例:1A,1B…)<ref name="numbering" />。アメリカは日本より圧倒的に面積が大きく、道路の路線延長も長いため、このような附番であると途中に追加されても基本的に振り直しの必要がない、目的地までの距離がある程度わかるなどのメリットが生じる。
なお、IC入口の案内標識には路線番号がつけられているがIC番号はつけられていない。
=== ドイツ ===
1935年のアウトバーン建設の際に一般道路との接続施設は平均10kmの間隔で設置することとされた<ref name="takebe" />。戦後、インターチェンジの数は増加しているが<ref name="takebe" />、アウトバーンの性格によっても間隔は異なり、約7kmの間隔で配置されているという報告<ref name="smart" />や、大都市圏には3~4kmや2kmの例もあるという情報<ref>「アウトバーンのインターチェンジ密度は日本の2~5倍」、ルール地方よもやま通信</ref>がある。
ドイツではインターチェンジ(出口)及びジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている<ref name="numbering" />。
=== フランス ===
フランスではインターチェンジ(出口)に起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている<ref name="numbering" />。
{{節スタブ}}
=== イギリス ===
イギリスではインターチェンジ(入口・出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている<ref name="numbering" />。
{{節スタブ}}
== アジア諸国のインターチェンジ ==
{{節スタブ}}
=== 中華人民共和国のインターチェンジ ===
{{seealso|中華人民共和国の高速道路}}
中国の高速道路のインターチェンジには番号が割り振られており、通常起点を1番とした通し番号となっている。
=== 大韓民国のインターチェンジ ===
{{seealso|高速国道}}
韓国ではインターチェンジ(出口)およびジャンクションに起点から終点に向けて連番でナンバリングを行っている<ref name="numbering" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="※"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書 |author=浅井建爾 |edition=初版 |date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐滝剛弘|authorlink=佐滝剛弘|year=2016|date=2016-08-10|title=高速道路ファン手帳|publisher=[[中公新書|中公新書ラクレ]]|isbn=978-4-12-150559-0|ref=harv}}
* {{Cite book|和書 |title=道路構造令の解説と運用 |date=2021-03-31 |year=2021 |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-88950-138-4 |ref=harv |author=日本道路協会}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Interchanges|インターチェンジ}}
{{Commonscat|Road junctions|ジャンクション}}
* [[日本のインターチェンジ一覧]]
* [[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]
* [[ランプ (道路)|ランプ]]
* [[開発インターチェンジ]]
* [[地域活性化インターチェンジ]]
* [[地域振興インターチェンジ]]
* [[ハーフインターチェンジ]]
* [[スマートインターチェンジ]]
* [[本線料金所]]
* [[ラウンドアバウト]]
* [[サービスエリア]]
* [[立体交差]]
== 外部リンク ==
* [https://www.ktr.mlit.go.jp/gaikan/oyakudachi/yougo/keyword_01.html 国土交通省関東地方整備局/用語集]
* [https://www.e-nexco.co.jp/word_data/wording/ NEXCO東日本/技術と設備の用語集]
* [https://www.road.or.jp/index.html 日本道路協会]
{{日本の高速道路}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:いんたあちえんし}}
[[Category:インターチェンジ|*いんたあちえんし]]
[[Category:高速道路|いんたあちえんし]]
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2003-09-26T01:25:00Z
|
2023-12-15T01:38:37Z
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[
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偶然
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偶然(ぐうぜん、英語: contingency)とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。
副詞的用法では「たまたま」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は必然。また、偶然ないし偶然性は可能性の下位語に該当する。
偶然という言葉は、事前に意図しない結果が生じた場合において、「思いもよらなかった(思いがけず、図らず)」という意味や、「~するつもりは無かったのに」という意味でも用いられる。また、偶然は、必然性の欠如によって定義されることから、必然性の解釈次第で、多様な意味をもつ。
偶然は限定的な条件での用法と、絶対的な条件での用法がある。考えていた、あるいは知りえたなどの当面問題になっている諸条件の範囲内で、そうした諸条件によって起きることが予め決まってはいなかった、起こらないこともありえたという意味の場合は前者であり、そもそも事柄の本質として起こらないこともありえた、というのが絶対的な用法である。後者の意味の偶然がありうるかどうかが、あらゆる事象が必然的に生起しているはず だとする決定論との関わりで問題となる。この点、偶然であるように見えても、少なくとも全知者に対しては偶然ではない場合も考えうる。
偶然は、言葉として用いられるだけでなく、哲学や科学の分野において研究され、「偶然はそもそも存在せず全てが必然である」という立場を唱える学説(決定論)もある。
決定論によって仮定される全てを見通すような存在であるラプラスの悪魔のような存在は、標準的な量子力学の解釈では否定される。量子力学は原理的に確率的な予測しかできないが、決定論的な解釈も提示された。例えば、自然界には隠れた変数があり、それを知ることができないため確率的な結果が現れるとする解釈がある。しかし隠れた変数を検証するために定式化されたベルの不等式の検証実験により、局所的な隠れた変数理論は否定された。したがって現在の物理学では、隠れた変数による決定論の立場を採る学者はほとんどいない。他にも多世界解釈は決定論として知られ、初期状態が与えられれば分岐する各世界の状態は一意に決定される。ただし各世界の観測者はどの世界にいるのか知らないため、確率的な結果が現れる。
偶然は、ヤコブ・ベルヌーイ(『The Art of Conjecturing』)、ド・モアブル(『The Doctrine of Chances』)、トーマス・ベイズ(『An Essay Toward Solving a Problem in Doctrine of Chances』)ら数学者により研究され確率論が生み出された。
経済学では、ナイトが、不確実性を計測可能なリスクと区別した。計算可能な確率をもたない不確実性にあっては、後者と異なり、事前の予測はできないことになる。
偶然性は、実存主義などでは、人間存在の不条理さを示すものとして理解されている。この不条理さ・無意味さは、同時に、必然的な本質の欠如を意味するものである。そのため、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉にあるとおり、偶然性は、自由の概念と結びつけられることになる。これに対して、ヘーゲルなどの理性主義では、理念の現われとして理解される現実の必然性・有意味性が強調されている。そのため、偶然性は、あくまで一時的で無意味な現象の側に帰せられている。
また、シンクロニシティの概念で、カール・グスタフ・ユングが、単なる偶然の一致とは区別される、有意味な偶然の存在を主張した。これは、同時的な相関関係を、彼のいうところの集合的無意識に由来する元型の現われとして解釈すべきケースの存在することを主張したものである。ただし、その非因果性をめぐっては、その非科学性が問題とされることも多い。
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偶然とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。 副詞的用法では「たまたま」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は必然。また、偶然ないし偶然性は可能性の下位語に該当する。
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{{otheruses||1987年の映画|偶然 (1987年の映画)}}
'''偶然'''('''ぐうぜん'''、{{lang-en|contingency}})とは、[[必然性]]の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。
副詞的用法では「[[wikt:たまたま|たまたま]]」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は[[wikt:必然|必然]]。また、偶然ないし[[偶然性]]は[[可能性]]の[[下位語]]に該当する。
== 概要 ==
偶然という言葉は、事前に意図しない結果が生じた場合において、「思いもよらなかった(思いがけず、図らず)」という意味や、「~するつもりは無かったのに」という意味でも用いられる。また、偶然は、必然性の欠如によって定義されることから、必然性の解釈次第で、多様な意味をもつ。
偶然は限定的な条件での用法と、絶対的な条件での用法がある。考えていた、あるいは知りえたなどの当面問題になっている諸条件の範囲内で、そうした諸条件によって起きることが予め決まってはいなかった、起こらないこともありえたという意味の場合は前者であり、そもそも事柄の本質として起こらないこともありえた、というのが絶対的な用法である。後者の意味の偶然がありうるかどうかが、あらゆる事象が必然的に生起している''はず'' だとする決定論との関わりで問題となる。この点、偶然であるように見えても、少なくとも全知者に対しては偶然ではない場合も考えうる。
== 偶然性と決定論 ==
偶然は、言葉として用いられるだけでなく、[[哲学]]や[[科学]]の分野において研究され、「偶然はそもそも存在せず全てが必然である」という立場を唱える学説([[決定論]])もある。
[[決定論]]によって仮定される全てを見通すような存在である[[ラプラスの悪魔]]のような存在は、標準的な[[量子力学]]の解釈では否定される。量子力学は原理的に確率的な予測しかできないが、決定論的な解釈も提示された。例えば、自然界には[[隠れた変数]]があり、それを知ることができないため確率的な結果が現れるとする解釈がある。しかし隠れた変数を検証するために定式化された[[ベルの不等式]]の検証実験により、局所的な隠れた変数理論は否定された。したがって現在の物理学では、隠れた変数による決定論の立場を採る学者はほとんどいない。他にも[[多世界解釈]]は決定論として知られ、初期状態が与えられれば分岐する各世界の状態は一意に決定される。ただし各世界の観測者はどの世界にいるのか知らないため、確率的な結果が現れる。
== 偶然性と確率 ==
偶然は、[[ヤコブ・ベルヌーイ]](『The Art of Conjecturing』)、[[アブラーム・ド・モアブル|ド・モアブル]](『The Doctrine of Chances』)、[[トーマス・ベイズ]](『An Essay Toward Solving a Problem in Doctrine of Chances』)ら[[数学者]]により研究され[[確率論]]が生み出された。
[[経済学]]では、[[フランク・ナイト|ナイト]]が、[[不確実性]]を計測可能な[[リスク]]と区別した。計算可能な確率をもたない不確実性にあっては、後者と異なり、事前の予測はできないことになる。
== 偶然性と意味 ==
偶然性は、[[実存主義]]などでは、人間存在の[[不条理]]さを示すものとして理解されている。この不条理さ・無意味さは、同時に、必然的な[[本質]]の欠如を意味するものである。そのため、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉にあるとおり、偶然性は、[[自由]]の概念と結びつけられることになる。これに対して、[[ヘーゲル]]などの理性主義では、理念の現われとして理解される[[現実]]の必然性・有意味性が強調されている。そのため、偶然性は、あくまで一時的で無意味な[[現象]]の側に帰せられている。
また、[[シンクロニシティ]]の概念で、[[カール・グスタフ・ユング]]が、単なる偶然の一致とは区別される、有意味な偶然の存在を主張した。これは、同時的な相関関係を、彼のいうところの[[集合的無意識]]に由来する[[元型]]の現われとして解釈すべきケースの存在することを主張したものである。ただし、その非因果性をめぐっては、その非科学性が問題とされることも多い。
== 偶然についての学説 ==
*[[九鬼周造]]は偶然のもつ3つの性質を挙げている<ref>{{Cite |和書 |author = [[木田元]] |title = 偶然性と運命 |date = 2001 |publisher = 岩波新書 |isbn = 4004307244 |ref = harv }}pp.72-75</ref>。
{{Quote|#何かあることもないこともできるようなものが偶然である
#何かと何かとが遇うことが偶然である
#何か稀にしか無いことが偶然である|九鬼周造|『九鬼周造随筆集』70頁以下}}
*[[中立進化説]]([[木村資生]]の学説)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|偶然}}
* [[確率論]]
* [[進化論]]
* [[偶然性の音楽]]
* [[不確実性]]
* [[ランダム]]
* [[民間語源]]
== 外部リンク ==
*{{kotobank|偶然-54879|[[デジタル大辞泉]]|偶然}}
{{Normdaten}}
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[[Category:様相論理]]
[[Category:論理学の概念]]
[[Category:命題]]
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18,309 |
公式
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数学において公式(こうしき)とは、数式で表される定理のことである。
比喩や俗称としての「公式」は「その他」の項にまとめている。
物理法則を表した基礎方程式が広く知られる。
公式は定理であるから、一度その式が成り立つことを(場合によっては変数に制限を加えて)証明すれば、次に同じ問題に遭遇したときには式に現れる変数に、その状況に応じた値を代入するだけで答えが求まるため、計算や考察の手間を省くことができる。
しかし、公式を適用できる場面でなければ公式は使用できず、公式が適用可能かどうかはその公式の証明の内容が握っている。
初等教育においては、公式を知っていれば直ちに解答を得るような問題に、基礎演習として触れる機会が少なくない。
そのため、「数学とは公式の暗記である」と捉えてしまうものが少なからず存在する。しかし、このような捉え方をしてしまうと、丸暗記のみに専念することで、柔軟な発想ができなくなる、公式を知らないから解けないと投げ出してしまう、などのデメリットがあるとされる。
有用な公式を多数集めた公式集と呼ばれる本が市販されている。そのような本に載っている公式の数は膨大であり、かつそれぞれの形も複雑である。
数学の公式は、その物事を理解していなくても、変数に数値を入れて計算すれば必要な数値が得られる解決策であるため、比喩的に「問題を簡単に解決することができる魔法のようなもの」というような意味で用いられることがある。同様な意味で「方程式」という言葉が用いられることも多い(ただし、方程式は単に未知数を含む等式という意味であり、すべてが解決しているわけではない。)。
小林幹雄他編 『共立全書138 数学公式集』 共立出版、1970年
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数学において公式(こうしき)とは、数式で表される定理のことである。 比喩や俗称としての「公式」は「その他」の項にまとめている。
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{{See Wiktionary|数学における式}}
[[数学]]において'''公式'''(こうしき)とは、[[数式]]で表される[[定理]]のことである。
比喩や俗称としての「公式」は「その他」の項にまとめている。
== 例 ==
=== 数学 ===
* 展開・[[因数分解]]公式:
*: <math>(a+b)^2=a^2+2ab+b^2</math>
*: <math>(a+b)(a-b)=a^2-b^2</math>
*: <math>a^n-1=(a-1)(a^{n-1}+a^{n-2}+\cdots +a+1)</math>
*: <math>(a+b)^n =\sum_{k=0}^n {n \choose k} a^{n-k} b^k (=\sum_{k=0}^n {}_n \text{C}_k a^{n-k} b^k )</math>
* [[二次方程式]] <math>ax^2+bx+c=0</math> の[[二次方程式の解の公式|解の公式]]:
*: <math>x=\frac{-b\pm\sqrt{b^2-4ac}}{2a}.</math>
* [[ピタゴラスの定理]]:
*: <math>c^2=a^2+b^2</math>
*: <math>a,b,c</math> は直角三角形の三辺の長さ。ただし <math>c</math> を斜辺とする。
*: この定理から三角関数における次の等式も導かれる。
*: <math>\cos^2 \theta+\sin^2\theta=1</math>
* [[ヘロンの公式]]
*: <math>S = \sqrt{s(s-a)(s-b)(s-c)}</math>
*: <math>a,b,c</math> は三角形の三辺の長さ。この三角形の面積を <math>S</math> とする。
*: ここで、<math>s</math> は[[半周長]]で、次式で定義される。
*: <math>s = \frac{a+b+c}{2}</math>
* [[複素解析]]における[[オイラーの公式]]: <math>e^{i\theta}=\cos\theta+i\sin\theta</math>
* [[スターリングの公式]]
*: <math>n! \sim \sqrt{2 \pi n} \left({n \over e}\right)^n.</math>
*: ただし、<math>n</math> は自然数で、<math>n!</math> は <math>n</math> の[[階乗]]を表す。
* [[三角関数]]の[[加法定理]](加法公式)
*: <math>\sin(\alpha+\beta)=\sin\alpha\cos\beta+\cos\alpha\sin\beta</math>
*: <math>\sin(\alpha-\beta)=\sin\alpha\cos\beta-\cos\alpha\sin\beta</math>
*: <math>\cos(\alpha+\beta)=\cos\alpha\cos\beta-\sin\alpha\sin\beta</math>
*: <math>\cos(\alpha-\beta)=\cos\alpha\cos\beta+\sin\alpha\sin\beta</math>
*: <math>\tan(\alpha+\beta)=\frac{\tan\alpha+\tan\beta}{1-\tan\alpha\tan\beta}</math>
*: <math>\tan(\alpha-\beta)=\frac{\tan\alpha-\tan\beta}{1+\tan\alpha\tan\beta}</math>
* [[余弦定理]]
*: △ABC で ''a'' = BC, ''b'' = CA, ''c'' = AB, ''α'' = ∠CAB, ''β'' = ∠ABC, ''γ'' = ∠BCA とするとき、
*: ''a''{{sup|2}} = ''b''{{sup|2}} + ''c''{{sup|2}} − 2''bc'' cos ''α''
*: ''b''{{sup|2}} = ''c''{{sup|2}} + ''a''{{sup|2}} − 2''ca'' cos ''β''
*: ''c''{{sup|2}} = ''a''{{sup|2}} + ''b''{{sup|2}} − 2''ab'' cos ''γ''
* [[ベクトル解析]]における[[ストークスの定理]]
*: <math>\iint_S \mathrm{rot} \, \boldsymbol{A}\cdot\boldsymbol{n}dS=\oint_{\partial S}\boldsymbol{A}\cdot d\boldsymbol{s}</math>
=== 物理学 ===
[[物理法則]]を表した[[基礎方程式]]が広く知られる。
* [[ニュートンの運動方程式]]
*: <math>m\frac{d^2 \boldsymbol{r}}{dt^2}=\boldsymbol{F}</math>
* [[マクスウェルの方程式]]
*: [[ガウスの法則]] <math>\mathrm{div} \, \boldsymbol{D} =\rho</math>
*: ガウスの法則 <math>\mathrm{div} \, \boldsymbol{B} =0</math>
*: [[ファラデーの電磁誘導の法則|ファラデーの法則]] <math>\mathrm{rot} \, \boldsymbol{E}=-\frac{\partial\boldsymbol{B}}{\partial t}</math>
*: [[アンペールの法則]] <math>\mathrm{rot} \, \boldsymbol{H}=j+\frac{\partial\boldsymbol{D}}{\partial t}</math>
*:
*:
*:
== 道具としての公式 ==
公式は定理であるから、一度その式が成り立つことを(場合によっては[[変数 (数学)|変数]]に制限を加えて)証明すれば、次に同じ問題に遭遇したときには式に現れる変数に、その状況に応じた値を代入するだけで答えが求まるため、計算や考察の手間を省くことができる。
しかし、公式を適用できる場面でなければ公式は使用できず、公式が適用可能かどうかはその公式の証明の内容が握っている。
=== 暗記学習 ===
{{独自研究|section= 1|date= 2021年2月6日 (土) 01:47 (UTC)}}
[[数学 (教科)|初等教育]]においては、公式を知っていれば直ちに解答を得るような問題に、基礎演習として触れる機会が少なくない。
そのため、「数学とは公式の暗記である」と捉えてしまうものが少なからず存在する。しかし、このような捉え方をしてしまうと、丸暗記のみに専念することで、柔軟な発想ができなくなる、公式を知らないから解けないと投げ出してしまう、などのデメリットがあるとされる。
=== 公式集 ===
有用な公式を多数集めた公式集と呼ばれる本が市販されている。そのような本に載っている公式の数は膨大であり、かつそれぞれの形も複雑である。
=== その他 ===
数学の公式は、その物事を理解していなくても、変数に数値を入れて計算すれば必要な数値が得られる解決策であるため、比喩的に「問題を簡単に解決することができる魔法のようなもの」というような意味で用いられることがある。同様な意味で「[[方程式]]」という言葉が用いられることも多い(ただし、方程式は単に未知数を含む等式という意味であり、すべてが解決しているわけではない。)。
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
== 数学公式集の例 ==
{{節スタブ|date= 2021年2月6日 (土) 01:47 (UTC)}}
[[小林幹雄]]他編 『共立全書138 数学公式集』 [[共立出版]]、1970年
<!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
* 森口繁一, 宇田川銈久, 一松信:「岩波 数学公式」(新装版)、岩波書店、1987年
** I 「微分積分・平面曲線」、ISBN9784000055079
** II 「級数・フーリエ解析」、ISBN9784000055086
** III 「特殊函数」、ISBN9784000055093
* Abramowitz, Milton; Stegun, Irene A., eds. (1972), Handbook of Mathematical Functions with Formulas, Graphs, and Mathematical Tables, New York: Dover Publications, ISBN 978-0-486-61272-0.
* [https://dlmf.nist.gov/ NIST Digital Library of Mathematical Functions]
* Bateman Manuscript Project: Higher Transcendental Functions, 3 vols., McGraw Hill 1953/1955, Krieger 1981.
* Bateman Manuscript Project: Tables of Integral Transforms, 2 vols., McGraw Hill 1954.
* Encyclopedia of Special Functions: The Askey-Bateman Project, Cambridge University Press
** Vol.I, "Univariate Orthogonal Polynomials", (Ed. Mourad E.H.Ismail), ISBN 9780511979156 (2020).
** Vol.II, "Multivariable Special Functions", (Eds. Tom H. Koornwinder, Jasper V. Stokman),ISBN 9780511777165 (2020).
** Vol.III, "Hypergeometric and Basic Hypergeometric Functions", (Ed. Mourad E.H.Ismail) , to be printed.
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Formula}} -->
* [[数学]]
* [[定理]]
* [[定石]]
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[[Category:数式]]
[[Category:定理]]
[[Category:数学に関する記事]]
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18,312 |
シャンハイ
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シャンハイ(Shanghai)
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シャンハイ(Shanghai)
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'''シャンハイ'''(Shanghai)
; 地名
:* [[上海市]] - [[中華人民共和国]]の都市。
:* [[シャンハイ (ウェストバージニア州)]] - アメリカ・[[ウェストバージニア州]]の[[非法人地域]]。
; 文学
:* [[上海 (横光利一)]] - [[横光利一]]の小説(1928年から1931年にかけて発表)。
:* [[上海 (林京子)]] - [[林京子]]の小説(1983年に発表)。
:* [[上海 (佐伯泰英)]] - [[佐伯泰英]]の小説(2008年)。『交代寄合伊那衆異聞』シリーズの一つ。
; 映画
:* {{仮リンク|上海 (1935年の映画)|en|Shanghai (1935 film)}} - 1935年公開のアメリカ合衆国の映画。
:* [[上海 -支那事変後方記録-]] - 1938年公開の日本の[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]。
:* [[シャンハイ (映画)]] - 2011年公開のアメリカ合衆国・中華人民共和国の合作映画。
; その他
:* [[シャンハイ (競走馬)]] - [[サラブレッド]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。
:* [[上海 (スタークラフトのゲーム)]] - [[スタークラフト (ゲーム会社)]]が1985年に発売した[[PC-88]]用[[コンピュータゲーム|コンピュータ]][[ロールプレイングゲーム]]。後に『九龍島』『闘氣王』と続くジェイミー・スター・シリーズの第1弾。
:* [[上海 (ゲーム)]] - [[アクティビジョン]]が1986年に発売した[[Macintosh]]用コンピュータ[[パズルゲーム]]。
:* 舞台女優・[[古河結子]]のニックネーム。
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[[Category:同名の作品]]
[[Category:人物の愛称]]
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18,314 |
上新粉
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上新粉(上糝粉、じょうしんこ)は、うるち米を加工した粉である。
元々の表記は「上糝粉」だが、後に現在の名前に変更された。
精白したうるち米を洗って乾燥させた後、少量の水を加えて製粉してふるいわけしたもので、主に製菓材料として使用する。非加熱の材料であり、製品にするには加熱の過程が必要となる。
目の粗いものは新粉(糝粉、しんこ)か並新粉(並糝粉、なみしんこ)といい、目の細かいものを上新粉(上糝粉、じょうしんこ)、更に細かいものを上用粉(じょうようこ)という。
用途は以下の通り。
なお、同じ製法でも餅米を加工した場合は餅粉(もちこ、もちご)となる。
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上新粉(上糝粉、じょうしんこ)は、うるち米を加工した粉である。 元々の表記は「上糝粉」だが、後に現在の名前に変更された。
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元々の表記は「上糝粉」だが、後に現在の名前に変更された。
==概要==
[[精白]]したうるち米を洗って乾燥させた後、少量の水を加えて製粉してふるいわけしたもので、主に製菓材料として使用する。非加熱の材料であり、製品にするには加熱の過程が必要となる。
目の粗いものは新粉(糝粉、しんこ)か並新粉(並糝粉、なみしんこ)といい、目の細かいものを上新粉(上糝粉、じょうしんこ)、更に細かいものを上用粉(じょうようこ)という{{sfn|「江戸楽」編集部 |2021| p=16}}。
用途は以下の通り。
* 新粉 [[団子]]・[[すあま]]等{{sfn|山口謠司|2015| p=62}}
* 上新粉 団子・[[柏餅]]・[[ういろう (菓子)|ういろう]]等{{sfn|「江戸楽」編集部 |2021| p=16}}
* 上用粉 薯蕷[[饅頭]]等に配合。薯蕷粉(じょうよこ)とも言う{{sfn|『現代用語の基礎知識』編集部 |2015| p=58}}。
なお、同じ製法でも餅米を加工した場合は[[餅粉]](もちこ、もちご)となる{{sfn|「江戸楽」編集部 |2021| p=16}}。
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
* [[穀粉]]
* [[米粉]]
* [[白玉粉]]
* [[道明寺粉]]
== 参考文献 ==
* {{Cite book |author1=[[小林弘]] |author2=中山篤 |year=2015 |title=新・読む食辞苑 [日本料理ことば尽くし] |page=643 |publisher=[[スターティアホールディングス]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=oOvfDQAAQBAJ&pg=PT643#v=onepage&q&f=false |asin=B00TY0FD4K | ref = harv }}
* {{Cite book |author1=[[山口謠司]] |year=2015 |title=にほんご歳時記 |page=62 |publisher=[[PHP研究所]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=sJJYCgAAQBAJ&pg=PT62#v=onepage&q&f=false |isbn=9784569825946 | ref = harv }}
* {{Cite book |author1=『[[現代用語の基礎知識]]』編集部 |year=2015 |title=日本のたしなみ帖和菓子 |page=58 |publisher=[[自由国民社]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=GZn-CwAAQBAJ&pg=PA58#v=onepage&q&f=false |isbn=9784426119072 | ref = harv }}
* {{Cite book |author1=「江戸楽」編集部 |year=2021 |title=和菓子のひみつ 楽しみ方・味わい方がわかる本 ニッポンの菓子文化超入門 |page=16 |publisher=[[メイツ出版]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=xBlYEAAAQBAJ&pg=PA16#v=onepage&q&f=false |isbn=9784780425680 | ref = harv }}
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かしましハウス
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『かしましハウス』は、秋月りすによる日本の4コマ漫画。竹書房の4コマ誌「まんがライフオリジナル」に2004年まで連載され、単行本は全8巻が刊行された(文庫版は全4巻)。2005年以降でも時折新作が書かれる。
『かしましハウスでイングリッシュ!!』と題した英語・日本語両表記のバージョンが連載終了後も連載されているほか、単行本として第1巻が刊行されている。また、英語教材として販売されている。
立場の違う4人姉妹とお父さん、メス犬のゴローを含めた家族の日常生活に起こるエピソードを紹介するという形式の4コマ漫画。作者曰く日本版『若草物語』を意識したとのこと。『姉妹の方程式』や『うちの大家族』など、この作品に影響されて描かれた4コマ漫画も多い。
作中では季節感はあるもののキャラクター自体は成長せず、みづえ、よもぎは常に学生のままである。キャラクター全員の年齢や生年月日も基本的に曖昧で、作中から何となく推測できるが明確な年齢は明らかにされない。そのため四姉妹の誕生日に関するエピソードは存在しないが、お父さんには還暦間近や誕生日の話がある。
よもぎだけは小学校6年生であることが作中で明かにされているが、何歳かは不明。みづえは「新入生にかわいがられる上級生」というエピソードもあり、大学2年生以上であることは確実だが詳細は不明。また、ひとみは微妙な年齢ということで、30歳前後くらいと推測できるようなネタがたまに出てくる。この場合ひとみとみづえ間の年齢差が、みづえとよもぎの年齢差よりも大きい計算となり、過去の回想シーンと作中の整合性の合わない面もあるため、やはり年齢については不明である。
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『かしましハウス』は、秋月りすによる日本の4コマ漫画。竹書房の4コマ誌「まんがライフオリジナル」に2004年まで連載され、単行本は全8巻が刊行された(文庫版は全4巻)。2005年以降でも時折新作が書かれる。 『かしましハウスでイングリッシュ!!』と題した英語・日本語両表記のバージョンが連載終了後も連載されているほか、単行本として第1巻が刊行されている。また、英語教材として販売されている。
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{{出典の明記|date=2022-03-19}}
『'''かしましハウス'''』は、[[秋月りす]]による[[日本]]の[[4コマ漫画]]。[[竹書房]]の[[4コマ漫画#4コマ誌の一覧|4コマ誌]]「[[まんがライフオリジナル]]」に2004年まで連載され、単行本は全8巻が刊行された(文庫版は全4巻)。2005年以降でも時折新作が書かれる。
『かしましハウスでイングリッシュ!!』と題した英語・日本語両表記のバージョンが連載終了後も連載されているほか、単行本として第1巻が刊行されている。また、英語教材として販売されている<ref>岩政伸治・岩政裕美子訳、『かしましハウスでイングリッシュ!!』(竹書房、2005年、{{ISBN2|9784812421796}})</ref>。
== 内容 ==
立場の違う4人姉妹とお父さん、メス犬のゴローを含めた家族の日常生活に起こるエピソードを紹介するという形式の[[4コマ漫画]]。作者曰く日本版『[[若草物語]]』を意識したとのこと。『[[姉妹の方程式]]』や『[[うちの大家族]]』など、この作品に影響されて描かれた4コマ漫画も多い。
== 登場人物 ==
=== 野田家 ===
;ひとみ
:野田家の長女。ジュニア小説家。眼鏡で、髪質は柔らかい癖毛、栗色なのも生まれつきらしい。セミロングでヘアバンドをしている。ロマンチストだが妙に現実的で、妙齢のお年頃だが縁が無い。毎年春になるとダイエットを始めるが、必ず家族全員を巻き込み、しかも自分だけなかなか痩せない。料理の腕前はセミプロ級で家庭を切り盛りしているが、小説家としての本業が知られていないこともあり、近所の人には『亡き母代わりの家事手伝い』として扱われている。作中の展開は主に彼女が中心となっている。
:年の離れた末妹・よもぎの若いお母さんと間違えられることが多い。よもぎの同級生に向かって、「お母さん」ではなく「お姉さん」だと訂正すると茶化されてしまった。姉妹の中では次妹・みづえと似ており、ストレートヘアーのウィッグをつけて彼女の替え玉として彼女の通う大学へ行ったことがある。
;ふたば
:野田家の次女。OL。スポーツジムに通う体育会系。黒髪短髪で髪質は硬い直毛。野田家随一の力自慢で、サバイバル力がありキャンプでは大活躍。身体能力のみならず危機回避能力にも長け、幼少期はよく姉妹を不審者から守っていたが、実父やよもぎの友達の父親を不審者と勘違いして投げ飛ばしてしまったこともある。また、その外見から寒稽古の参加者や運動部の監督・インストラクターに間違われてしまうエピソードがしばしば登場する他漁師やスタントマン、ラグビー選手等にスカウトされたこともある。
:弱点がなさそうに見えるが、怪談・幽霊をはじめとするオカルト物にはめっぽう弱く、極度に気を遣うと神経性の下痢になりやすいデリケートさ故スポーツ選手への道を断念しOLになった。
:何度か男性から好意をもたれるエピソードがあるが、すべて自覚しないうちに、その好意を粉砕している。
;みづえ
:野田家の三女。[[女子大生]]。栗色のストレートの長髪で髪質は柔らかい直毛。寝てばかりで、目を開けたまま眠ることまで出来る。鋭い観察眼と芸術的才能に恵まれ、催眠術も得意。懸賞でよく当てる強運者だが、基本的に「'''自分が'''欲しいもの」を当てるため他の家族を落胆させることも。一方で運動は苦手で腕力が乏しく次妹・よもぎにも劣る。だが、小学生の頃の運動会での徒競走で幸運が重なり1位を取った事がある。姉妹と顔が似ていないように扱われることが多いが、意識的に目を見開くと長姉・ひとみと似ている。その為、彼女と同じファッションになると瓜二つの容姿になる。バイトの経験は豊富だが、作中後半では骨董屋の店番と着ぐるみの2つの仕事が多くなっている。
:まれに読者にシグナルを送っていると受け止められる描写がある。ひとみの本を「面白くないのですぐ眠れる」という理由で常に枕元に置いていたが、エッセイ『かしましハウス』は売れると感じているらしい。
;よもぎ
:野田家の四女。小学生6年。髪質は硬い癖毛。そのため常に黒髪を三つ編みにしている。物心ついたときから母親を知らず、個性的な姉たちに囲まれて育ったため、小学生ながら非常にしっかりしている。正義感が強く、家族や友人を傷つけた相手には容赦なく制裁を加える場面も。一方ひとみがかわいらしい服を着せようとすることには少々閉口気味。またひとみのダイエットにつき合わされるため、「春はお腹が空く」らしい。ひとみによって「[[若草物語|エミリー]]」と名付けられかけた。
:勝負強いが競争は苦手で、運動会の徒競走では常に3位であり、常に5位だったひとみ、常に1位だったふたば、競争嫌いのみづえ、それぞれの影響があるような描写が作中に存在している。
;お父さん
:4人姉妹の父。名は不明。会社員で部長職に就いている。妻を亡くして10年の男やもめ。個性豊かな娘たちを暖かく見守る家長だが、少し親バカ気味なところも。よもぎと歳が離れているので祖父に間違われたことがあり、それ以来若作りも試している。お父さんの癖毛は長女ひとみ、四女よもぎに受け継がれたようである。ハワイで永住している友人がいる。娘たちへのクリスマスプレゼントを取り違えてしまったり、おっちょこちょいな面もある。
:4人姉妹は夫妻の意志である。どうしても男子を欲したからではあるらしいが叶わなかった。理由は不明。メス犬にゴロー(=5番目の子供)と命名したことからそれが窺える。
;お母さん
:4人姉妹の母。故人だが、初期はまれに回想シーンなどに登場する。4人姉妹であることに危惧し、野田家のお風呂を大きく改築したあたり、しっかり者だったと思われる。作中では、どのように亡くなったか明らかにされておらず、また不在を感じさせないように描写されている。ふたばとよもぎはお母さんの顔に似たようである。
;ゴロー
:野田家の飼犬。メスだが上記の父の要望でオスの名前を付けられた。劇中作品『ゴローと歩けば』は野田家に来た頃をゴロー自身が回想しているという形式になっている。
=== その他 ===
;編集者スズキ
:ひとみの担当の編集者。女性。初登場時には新人だったが、次第にプロらしくなっていく。思ったことがつい表に出てしまうおっちょこちょい。
;課長
:ふたばが勤める会社の上司。ふたばが体育会系である事を理解しており、的確に対応している(ふたばが居眠りしていた時は遠くから棒で叩いて起こす、仕事のストレスで自衛隊への入隊を志願してきた時は有休を許可する等)。
;先生
:よもぎの担任の女性。大学生の妹がおり、よもぎと妙な連帯感がある。デート現場をひとみに見られたり、旅行で相当太ったりといじられキャラ。
;イケメン大学生
:みづえの同級生。美形だが、みづえに相手にされなかったことから、みづえを気にかけて勝手に勘違いをしている。
;骨董店店主
:みづえのバイト先の骨董品店の女店主。雇ったバイト運が極端に悪く、みづえを優秀な人材と勘違いする。高額な皿で皿回しをしたい誘惑に駆られるなど、お茶目な一面もある。
== 年齢設定 ==
作中では季節感はあるもののキャラクター自体は成長せず、みづえ、よもぎは常に学生のままである。キャラクター全員の年齢や生年月日も基本的に曖昧で、作中から何となく推測できるが明確な年齢は明らかにされない。そのため四姉妹の誕生日に関するエピソードは存在しないが、お父さんには還暦間近や誕生日の話がある。
よもぎだけは小学校6年生であることが作中で明かにされているが、何歳かは不明。みづえは「新入生にかわいがられる上級生」というエピソードもあり、大学2年生以上であることは確実だが詳細は不明。また、ひとみは微妙な年齢ということで、30歳前後くらいと推測できるようなネタがたまに出てくる。この場合ひとみとみづえ間の年齢差が、みづえとよもぎの年齢差よりも大きい計算となり、過去の回想シーンと作中の整合性の合わない面もあるため、やはり年齢については不明である。
== 脚注 ==
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<!--
== 外部リンク ==
* [http://www.asahi-net.or.jp/~si8m-oot/risu/ 秋月りす紹介] - ファンサイト。 -->
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つボイノリオ
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つボイ ノリオ(本名:坪井 令夫(読み同じ)、1949年〈昭和24年〉4月18日 - )は、日本のラジオパーソナリティ、シンガーソングライター、有限会社坪井令夫商店代表取締役。
一宮市立今伊勢南保育園、一宮市立今伊勢小学校、一宮市立今伊勢中学校、愛知県立一宮高等学校、愛知大学法経学部経営学科卒。大学卒業後の就職先として、父親が社員であった名古屋鉄道の入社試験を受け、一次は通ったものの、二次で不採用となった。卒業後、就職先もなくぶらぶらすることになる。
その後、かつて大学在学中にCBCラジオの深夜番組『CBCヤングリクエスト』へ出演したことをきっかけにして芸能界入りする。この出演時に歌った自作の曲「本願寺ぶるーす」で、1970年4月25日にテイチクレコード(現:テイチクエンタテインメント)よりレコードデビュー(スリー・ステップ・トゥ・ヘブン名義)を果たしている。
1972年5月に始まった『ミッドナイト東海』(東海ラジオ)のメインDJになってからは本格的に名古屋でDJとして活躍開始するが、「鈴蘭高原のウッドストック・フェスティバルに放送局がストしているみたいだねー」と放言した「ウッドストック舌禍事件」の引責で降板。同番組にて猥言を繰り返し愛知県教育委員会からのクレームで降板を余儀なくされた森本レオに続き、つボイもわずか5ヶ月で降板となった。
また、同時に元スリー・ステップ・トゥ・ヘブン、元チェリッシュの奥山敬造、桑原宏司と「欲求不満フォークソング・ボーイズ」を結成して音楽活動も本格的にはじめる。日本ビクター(現:JVCケンウッド)の音楽レコード事業部のビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からメジャーデビューするものの、2年後に脱退、それにより、バンドも解散する。
その後は、名古屋を中心にラジオパーソナリティとして活動。1973年よりCBCラジオの番組に出演するようになり、『土曜天国』や『ばつぐんジョッキー』などのCBCラジオの看板番組を数多く担当。天野鎮雄や兵藤ゆき、CBCアナウンサーの多田しげおや小堀勝啓(現・フリーアナウンサー)らと並ぶ名古屋のラジオスターとしての地位を確立する。
また、放送禁止指定を受けた曲を多数発表。
1970年代後半には東京にも進出し、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『おはよう!こどもショー』(日本テレビ)、『プリンプリン物語』(NHK総合)、『つボイノリオのつっぱり30分』(ラジオ関東)などに出演するが、後に体調を崩し、東京での仕事を切り上げて名古屋へ戻る。1981年4月放送開始のKBS京都の深夜番組『ハイヤングKYOTO』の出演を契機に京都にも活動の場を広げる。
『ハイヤン』終了後の1987年からは、朝のワイド番組『つボイノリオのおはようアドベンチャー』を担当。同番組担当時には、放送前日にパソコン持参でKBS京都が用意した京都ホテルの一室に泊まり込んでいた時期もある。
1985年、坪井令夫商店を設立。パーソナルコンピュータが8ビットが主流の時代、フォント(ていねい君、まるみちゃん、乱筆君)などを発売する。また、任天堂のファミリーコンピュータ用ソフトの製作下請けをしていたこともある。また、レコード会社を東芝EMI(現:ユニバーサル ミュージック ジャパン)に移籍(1996年まで)。
インターネットラジオにも進出し、『つボイ@ラジオ』(アスキー)、『つボイ楽耳王』(ハラショー)を担当。後者は2005年5月に一旦終了したが、同年8月に生放送番組として復活。2010年9月3日をもって再度配信を終了した。
1993年10月~現在、CBCラジオで朝9:00~11:55に放送している『つボイノリオの聞けば聞くほど』のパーソナリティを務め、名古屋の朝のラジオの顔として活動中。
また2006年よりiTunes Storeを中心に新曲を発表(CBCも絡んでいる)、ミュージシャンとしての活動も再開している。
2009年4月18日には生まれ故郷の一宮市尾西市民会館で還暦記念クラシックコンサートを行なったが、同年5月27日に体の不調を訴え、自ら病院へ向かって検査を受けた結果、軽い心筋梗塞であることが判明。約1か月間『つボイノリオの聞けば聞くほど』の出演を休養することが5月28日の番組冒頭でCBCアナウンサーの小高直子から発表された。休養中、番組パーソナリティは同じくCBCアナウンサーの塩見啓一が務めた。同年6月22日に復帰。
2016年には「平成28年度愛知県芸術文化選奨・文化賞」を受賞。この賞は、愛知県が芸術文化の各分野において、その向上発展に貢献し、業績が顕著な個人・団体に贈られている。
2018年に日本記念日協会が6月9日を「つボイノリオ記念日」として認定。
2022年6月22日にはラジオ番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」出演後に体調を崩し発熱。PCR検査の結果コロナウイルス陽性判定を受け、翌日6月23日の「聞けば聞くほど」を休演した。
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"text": "つボイ ノリオ(本名:坪井 令夫(読み同じ)、1949年〈昭和24年〉4月18日 - )は、日本のラジオパーソナリティ、シンガーソングライター、有限会社坪井令夫商店代表取締役。",
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"text": "一宮市立今伊勢南保育園、一宮市立今伊勢小学校、一宮市立今伊勢中学校、愛知県立一宮高等学校、愛知大学法経学部経営学科卒。大学卒業後の就職先として、父親が社員であった名古屋鉄道の入社試験を受け、一次は通ったものの、二次で不採用となった。卒業後、就職先もなくぶらぶらすることになる。",
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"text": "その後、かつて大学在学中にCBCラジオの深夜番組『CBCヤングリクエスト』へ出演したことをきっかけにして芸能界入りする。この出演時に歌った自作の曲「本願寺ぶるーす」で、1970年4月25日にテイチクレコード(現:テイチクエンタテインメント)よりレコードデビュー(スリー・ステップ・トゥ・ヘブン名義)を果たしている。",
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"text": "1972年5月に始まった『ミッドナイト東海』(東海ラジオ)のメインDJになってからは本格的に名古屋でDJとして活躍開始するが、「鈴蘭高原のウッドストック・フェスティバルに放送局がストしているみたいだねー」と放言した「ウッドストック舌禍事件」の引責で降板。同番組にて猥言を繰り返し愛知県教育委員会からのクレームで降板を余儀なくされた森本レオに続き、つボイもわずか5ヶ月で降板となった。",
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"text": "また、同時に元スリー・ステップ・トゥ・ヘブン、元チェリッシュの奥山敬造、桑原宏司と「欲求不満フォークソング・ボーイズ」を結成して音楽活動も本格的にはじめる。日本ビクター(現:JVCケンウッド)の音楽レコード事業部のビクターレコード(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)からメジャーデビューするものの、2年後に脱退、それにより、バンドも解散する。",
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"text": "その後は、名古屋を中心にラジオパーソナリティとして活動。1973年よりCBCラジオの番組に出演するようになり、『土曜天国』や『ばつぐんジョッキー』などのCBCラジオの看板番組を数多く担当。天野鎮雄や兵藤ゆき、CBCアナウンサーの多田しげおや小堀勝啓(現・フリーアナウンサー)らと並ぶ名古屋のラジオスターとしての地位を確立する。",
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"text": "『ハイヤン』終了後の1987年からは、朝のワイド番組『つボイノリオのおはようアドベンチャー』を担当。同番組担当時には、放送前日にパソコン持参でKBS京都が用意した京都ホテルの一室に泊まり込んでいた時期もある。",
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つボイ ノリオは、日本のラジオパーソナリティ、シンガーソングライター、有限会社坪井令夫商店代表取締役。
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{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
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|出生名 = 坪井令夫(つぼい のりお)
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{{ActorActress
|芸名 = つボイ ノリオ
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|本名 = 坪井 令夫(読み同じ)
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'''つボイ ノリオ'''(本名:坪井 令夫(読み同じ)、[[1949年]]〈[[昭和]]24年〉[[4月18日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=108|id={{NDLJP|12276264/55}}}}</ref> - )は、[[日本]]の[[ラジオパーソナリティ]]、[[シンガーソングライター]]、有限会社坪井令夫商店[[代表取締役]]。
== 略歴 ==
一宮市立今伊勢南保育園、[[一宮市立今伊勢小学校]]、[[一宮市立今伊勢中学校]]、[[愛知県立一宮高等学校]]、[[愛知大学]]法経学部[[経営学|経営学科]]卒。大学卒業後の就職先として、父親が社員であった[[名古屋鉄道]]の入社試験を受け、一次は通ったものの、二次で不採用となった{{sfn|22人のカリスマ|1998|p=314}}。卒業後、就職先もなくぶらぶらすることになる。
その後、かつて大学在学中に[[CBCラジオ]]の深夜番組『CBCヤングリクエスト』へ出演したことをきっかけにして芸能界入りする。この出演時に歌った自作の曲「本願寺ぶるーす」で、[[1970年]][[4月25日]]にテイチクレコード(現:[[テイチクエンタテインメント]])よりレコードデビュー(スリー・ステップ・トゥ・ヘブン名義)を果たしている。
1972年5月に始まった『[[ミッドナイト東海]]』([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]])のメイン[[ディスクジョッキー|DJ]]になってからは本格的に名古屋でDJとして活躍開始するが、「鈴蘭高原の[[ウッドストック・フェスティバル]]に放送局がストしているみたいだねー」と放言した<ref>{{Cite web|和書|url=http://meigetu.net/?p=5483 |title=深夜放送の怪人たち(1)放送禁止歌のつボイノリオ |publisher =明月堂書店ブログ |date=2017-04-08 |accessdate=2023-03-29}}</ref>「[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストック]]舌禍事件」の引責で降板。同番組にて猥言を繰り返し[[愛知県教育委員会]]からのクレームで降板を余儀なくされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://taishu.jp/articles/-/50741?page=1 |title=森本レオ、ラジオ降板の原因になった問題発言の中身を明かす |publisher =日刊大衆 |date=2016-08-27 |accessdate=2023-03-29}}</ref>[[森本レオ]]に続き、つボイもわずか5ヶ月で降板となった。
また、同時に元スリー・ステップ・トゥ・ヘブン、元[[チェリッシュ (歌手グループ)|チェリッシュ]]の奥山敬造、[[桑原宏司]]と「欲求不満フォークソング・ボーイズ」を結成して音楽活動も本格的にはじめる。[[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])の[[社内カンパニー|音楽レコード事業部]]のビクターレコード(現:[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]])からメジャーデビューするものの、2年後に脱退、それにより、バンドも解散する。
その後は、名古屋を中心にラジオパーソナリティとして活動。1973年よりCBCラジオの番組に出演するようになり、『[[土曜天国]]』や『[[ばつぐんジョッキー]]』などのCBCラジオの看板番組を数多く担当。[[天野鎮雄]]や[[兵藤ゆき]]、CBCアナウンサーの[[多田しげお]]や[[小堀勝啓]](現・フリーアナウンサー)らと並ぶ名古屋のラジオスターとしての地位を確立する。
また、[[要注意歌謡曲指定制度|放送禁止指定]]を受けた曲を多数発表。
1970年代後半には東京にも進出し、『[[オールナイトニッポン]]』([[ニッポン放送]])、『[[おはよう!こどもショー]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、『[[プリンプリン物語]]』([[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合]])、『つボイノリオのつっぱり30分』([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]])などに出演するが、後に体調を崩し、東京での仕事を切り上げて名古屋へ戻る。1981年4月放送開始の[[京都放送|KBS京都]]の深夜番組『[[ハイヤングKYOTO (第一期)|ハイヤングKYOTO]]』の出演を契機に京都にも活動の場を広げる。
『ハイヤン』終了後の1987年からは、朝のワイド番組『[[つボイノリオのおはようアドベンチャー]]』を担当。同番組担当時には、放送前日にパソコン持参でKBS京都が用意した[[京都ホテル]]の一室に泊まり込んでいた時期もある。
1985年、坪井令夫商店を設立。[[パーソナルコンピュータ]]が8ビットが主流の時代、[[フォント]](ていねい君、まるみちゃん、乱筆君)などを発売する。また、[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]用ソフトの製作下請けをしていたこともある。また、レコード会社を[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]](現:[[ユニバーサル ミュージック ジャパン]])に移籍(1996年まで)。
インターネットラジオにも進出し、『つボイ@ラジオ』([[アスキー (企業)|アスキー]])、『つボイ楽耳王』([[ハラショー]])を担当。後者は2005年5月に一旦終了したが、同年8月に生放送番組として復活。2010年9月3日をもって再度配信を終了した。
1993年10月~現在、CBCラジオで朝9:00~11:55に放送している『[[つボイノリオの聞けば聞くほど]]』のパーソナリティを務め、名古屋の朝のラジオの顔として活動中。
また2006年より[[iTunes Store]]を中心に新曲を発表(CBCも絡んでいる)、ミュージシャンとしての活動も再開している。
2009年4月18日には生まれ故郷の一宮市尾西市民会館で[[還暦]]記念クラシックコンサートを行なったが、同年5月27日に体の不調を訴え、自ら病院へ向かって検査を受けた結果、軽い[[心筋梗塞]]であることが判明。約1か月間『つボイノリオの聞けば聞くほど』の出演を休養することが5月28日の番組冒頭でCBCアナウンサーの[[小高直子]]から発表された。休養中、番組パーソナリティは同じくCBCアナウンサーの[[塩見啓一]]が務めた。同年6月22日に復帰。
2016年には「平成28年度愛知県芸術文化選奨・文化賞」を受賞。この賞は、愛知県が芸術文化の各分野において、その向上発展に貢献し、業績が顕著な個人・団体に贈られている。
2018年に[[日本記念日協会]]が6月9日を「つボイノリオ記念日」として認定<ref group="WEB">{{Cite web|和書|url=http://www.kinenbi.gr.jp/yurai.php?MD=3&NM=2063|title=
つボイノリオ記念日|publisher=一般社団法人日本記念日協会|accessdate=2018-08-16|language=ja|}}</ref>。
2022年6月22日にはラジオ番組「つボイノリオの聞けば聞くほど」出演後に体調を崩し発熱。PCR検査の結果[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|コロナウイルス陽性]]判定を受け、翌日6月23日の「聞けば聞くほど」を休演した。
== 人物 ==
* 家族は現在、妹(年齢不明)、妻{{efn|スクールメイツ名古屋校(1970年開校)出身と言われているが、「つボイ正伝」は妻の事が一切書かれていないため、真偽は不明である。}}(1980年1月結婚、年齢不明)、息子2人。なお、[[岐阜県]]出身の父親(元名鉄社員)は2006年7月(没年齢不明)に、保育士だった母親は2001年12月(満73歳没)にそれぞれ他界している。
* 子供の頃住んでいたところは[[念仏]]が盛んで、祖母も[[池田勇諦]]の[[追っかけ]]だった。小さい頃から祖母に付いて色々な寺の説教を聞いて回り、これがつボイの話芸の原点になっている。
* [[講道館柔道]]初段、飲食店営業許可、[[はり師]]・[[きゅう師]]、自動車運転免許、自動二輪運転免許を所持。一時期、先述のように京都で番組を持っていた頃、バイクで京都まで通っていた時期もあったと語る。
* デビュー当時は「'''坪井のりお'''」の芸名で活動していたが[[四柱推命]]マニアのリスナーから「その名前では大成功を収めるが、真っ逆さまに転落してしまう」とのハガキが届く、そのリスナーが提案した芸名が「'''つボイノリオ'''」で「この名前では、絶対に成功しないが、長続きする」と書いてあったという。この際、「太く短く」と「細く長く」のどちらを選ぶか迷ったが、CBCの[[中島公司]]アナウンサーから「人気は逃げるけど、実力は逃げないよ」と言われ、自身も一過性の人気よりも長年DJとしてやっていく実力をつけたいと考えて「つボイノリオ」を選択したという。
:『プリンプリン物語』では本名の「坪井令夫」名義で活動した(物語後半あたりからは「つボイノリオ」名義になっている)。
* 現在は東海地方限定のような形で芸能活動を展開しているが、1970年代後半 - 1990年代初頭にかけては、パーソナリティとしての高い才能が買われ、東海地方のみならず関東(ニッポン放送など)、関西(KBS京都など)でもレギュラー番組を獲得し、それら担当番組も軒並み高い聴取率を得ていた。そのため少なくとも2020年代において50代以降の年代には全国的にもつボイの名は広く知れ渡っており、東海地区のみならず全国規模においてもラジオ界の大御所として位置づけられる人物である。ラジオの月刊誌などでは頻繁に[[永六輔]]、[[吉田照美]]、[[大沢悠里]]ら東京キー局で人気ラジオ番組を長年受け持っている大御所と並んでつボイの紹介記事が掲載されている。また、[[CBCテレビ]]製作のTBS系全国ネットアニメにもゲスト声優として出演したことがある。
* 『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でDJとしての能力が高く評価された[[大槻ケンヂ]]や[[西川貴教]]らも、つボイが担当していた『オールナイト』や『ハイヤングKYOTO』(KBS京都)を学生時代に欠かさず聞いており、彼らのラジオ番組での話術の特徴であるサブカルチャーに対する造詣の深さや下ネタを巧みに織り込んだ話し口は、少年期に聞いたつボイの話術が大きく影響してのものである。そのため、彼らは「ラジオ界における師匠のような存在」としてつボイに敬意を払っており、[[名古屋市|名古屋]]に仕事で来る時には真っ先にCBCに赴き、つボイのところまで挨拶をしに来るというのが慣例となっている。
* [[ラジオパーソナリティ]]としては、自らの芸風から[[超短波放送局|FM局]]に対する対抗意識が強く、「FMなんてお洒落さを看板にして気取っているだけ」と発言している。しかし、自らも過去には[[エフエム愛知|FM愛知]]で「つボイノリオのバックステージパス」と言う音楽番組を持っていた{{efn|『聞けば聞くほど』を放送しているCBCラジオでは2015年10月1日から[[FM補完中継局|ワイドFM]]を実施している。}}。
* ラジオ番組内で[[骨髄バンク]]を取り上げることが多く、闘病中の患者やドナーからの投稿も多い。
:「NPO法人・全国骨髄バンク推進連絡協議会」会長の大谷貴子(大阪市出身・名古屋で闘病)とも親交があり、CBCが毎年開催する「ラジオまつり」(現在は「ラジオッスまつり」に改称)に担当番組『聞けば聞くほど』が出店するブース「つボイノリオの駄菓子屋さん」で得た収益は全額、同法人に寄付している。
== エピソード ==
*愛知大学在学中は[[日本拳法]]部に在籍し、練習という名の相当な[[いじめ|しごき]]を受けていた。しごきに耐え切れず合宿中に夜逃げしたこともある。
*[[1977年]]秋から[[1979年]]春までの1年半、『オールナイトニッポン』の金曜日を担当していたが、丁度同時期にCBCラジオで『土曜天国』も担当。何れの番組も生放送であった関係上、『オールナイト - 』が終わるとすぐにニッポン放送のある東京・[[有楽町]]からCBCのある名古屋・[[新栄]]までバイクで直行し、そのまま『土曜天国』の打ち合わせ・本編放送を行うという強行スケジュールを約9ヶ月程続けていたが、あまりの過酷さから体調を崩してしまい、[[1978年]]6月で一時『土曜天国』を降板、『オールナイト - 』も同年9月を以て2部の担当からも降りることとなってしまった。このことが東京での活動を切り上げ名古屋での活動に本腰を入れようと考えた遠因となっているとされている。[[日刊スポーツ]]などの取材でつボイ自身も東京からの撤退の理由につき同旨の話をしばしば行っており、「(東京進出を決心したのは)僕の勘違いだった」と回顧している。
:また、この時体調を崩したことをきっかけに、東京からの撤退後に[[鍼灸師]]の[[専門学校]]に通い、資格を取得した。
*代表作ともいうべき「[[金太の大冒険]]」は、多くのタレント・俳優・スポーツ選手たちが愛唱歌としてカラオケなどでも歌っていると伝えられている([[稲本潤一]]、[[天海祐希]]、[[森谷威夫]]ほか)。また[[山下達郎]]もこの曲を含めつボイの音楽作品を評価している人物であり、自身のラジオ番組で「変歌特集」なる特集を組む際には必ずつボイの歌を番組の「トリ」として流すのが慣例化している。山下曰く'''「つボイさんは実際に会うと、とてつもなく腰が低くいい人だが、いざ歌となると狂気の世界に突入する」'''と語る。
*かつて『ミッドナイト東海』で舌禍事件を起こして僅か5ヶ月でDJを降板させられたり、1990年代前半のKBS京都の倒産危機の影響をもろに受け、他のパーソナリティと同じく朝ワイドのレギュラーを降ろされたりするなど、『つボイノリオの聞けば聞くほど』以前の彼のパーソナリティ歴は波乱であった。そのこともあり、自らの担当している番組や放送局、聴取者に対して人一倍強い敬意と愛情の念を持っている。
*かつてはタレントの中では数少ない『[[2ちゃんねる]]』擁護派を自認する人物としても知られていた。
*『つボイノリオの聞けば聞くほど』において1日に送られてくるFAX・ハガキ・メールの数は通算して600通は軽く越える。投稿FAXなどを番組開始のときから自身の所有する[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]にスキャンして全て保管し、番組資料として時に使用している。つボイいわく'''「これらのFAXは僕にとっては札束のように見える」'''とのこと、また番組が終ったあとも局に居残り、取り上げられなかったものも含めてその日に送られてきた全ての投稿コメントに目を通し、内容によって細かく分類する作業を行うという{{efn|『つボイノリオの聞けば聞くほど』のブログの中でもその様子が相方の小高直子撮影・編集の写真・記事の中で取り上げられている{{どこ|date=2016年1月}}。}}
*親交のある[[ばんばひろふみ]](お茶の先生が同じ)との縁でばんばが参加する茶会のサークルに参加し、その集まりがあったのだが、開催時間が現在担当中の『聞けば聞くほど』の生放送とかぶってしまい、「自分の趣味で番組に穴を明けることはリスナーたちに失礼に当たる」と丁重にばんばやその茶会のほかのメンバーからの誘いを断ったという。自分だったら間違いなくラジオを休んで茶会に出るほうを選択していたとばんばは述べている。ばんばはそのエピソードを担当していた『[[ツー快!お昼ドキッ]]』の中で紹介し「ラジオパーソナリティの鑑」として彼の人柄を賞賛している。
*2000年3月26日付の米紙[[ニューヨーク・タイムズ]]の"Governor Butts Heads With Sumo Ban on Women"<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.nytimes.com/library/world/asia/032600japan-governor.html|title=Governor Butts Heads With Sumo Ban on Women|publisher=The New York Times Company|language=en|date=2000-03-26|author=CALVIN SIMS|accessdate=2018-08-16}}</ref> なる記事に登場し、[[太田房江]][[大阪府]][[知事]]が[[大相撲]][[春場所]]で知事賞を[[土俵]]上で直接授与できない問題について、"a popular television announcer"として「天井からロープで吊るしてみては」とコミカルな解決策を語っている(文末)。
*[[CBCテレビ]]の[[中日ドラゴンズ]]戦中継でつボイと副音声で共演することになった野球解説者の[[小松辰雄]](元中日[[投手]])は、スタッフから渡されたつボイのプロフィールを見て、「名前を見ると『つ』だけが[[平仮名]]で後が[[片仮名]]だったから、スタッフが名前を間違えたのかと思った」と語っている。また同様の理由から時々「'''フ'''ボイノリオ」と誤植されてしまうことがある。その他、「つぼイノリオ」と誤植されることもある。
*[[愛知県]]には民放AMラジオ局が2社あるが、つボイの出演はほとんどCBCラジオがメインであり、東海ラジオはデビュー時の「ミッドナイト東海」ぐらいしか出ていない。これは1973年にCBCラジオから同局初のレギュラー番組である『ニクイ7番 電話してよかった!』のオファーがあったのだが、その初回放送日は東海ラジオのイベントでつボイが当時所属していた「欲求不満フォークソング・ボーイズ」が”前座”を務める予定だった。その為つボイだけ欠席出来ないかと東海ラジオに相談したところ契約書を交わしていないにも関わらず「そんなの契約違反だ!」と怒鳴られ、泣く泣くCBCラジオに断りを入れたら当時の制作部長が「つボイ君、タレントは自ら仕事を断るものではないよ。こちらで何とかしよう」と話し、初回放送日のみ担当曜日をずらしてくれた。その好意につボイは感激し「もう東海には出ない!CBCラジオについてゆく!ついでにバンドも辞める!」と決意。以後CBCラジオでのパーソナリティ人生が始まった <ref group="ラジオ">CBCラジオ『つボイノリオの聞けば聞くほど』2022年5月3日放送分</ref>。
== 音楽作品 ==
=== シングル ===
; 本願寺ぶるーす(1970年)
: 学生時代にCBCラジオの公開録音へ出演して歌った曲。シングルは「スリー・ステップス・トゥ・ヘブン」名義でのリリース。
: ちなみに、この曲はつボイが初めて[[日本民間放送連盟|民放連]]から「要注意歌謡曲」に指定された曲である。歌詞・タイトルが[[浄土真宗]](真宗)系各教団を小ばかにしたものと受け取られかねない(歌詞の中に再三出てくる経文は[[親鸞]]が著した基本教典の一つ、[[正信念仏偈]]の冒頭部分である)ことが理由かどうかは定かでない。
: [[クレイジーケンバンド]]の[[横山剣]]は、自ら作詞・作曲した「まっぴらロック」のサビはこの曲からヒントを得たと語っている。
; [[断絶の壁]](1970年)
: シングル「本願寺ぶるーす」B面曲。歴然と存在する「壁」に対しての、男の怒りと嘆きを唄った[[プロテストソング]](もちろん自称)。歌詞自体は非常に[[シリアス]]な内容なのだが、最後の最後でちょっとしたオチがある。
; 金太の大冒険(1975年)
: つボイの代表曲ともいえる[[コミックソング]]。[[ぎなた読み]]による[[金玉|ある特定の言葉]]を明確に発音することが特徴である。
: 詳細は[[金太の大冒険]]を参照。
; [[一宮の夜]](1975年)
: シングル「金太の大冒険」B面曲。出身地の一宮市を舞台にした歌謡曲。ちなみに[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー(現・ソニー・ミュージックレコーズ)]]版(A面曲扱い)も存在し、歌詞がオリジナル(エレック)版と一部異なる。
; [[極付け!お万の方]]([[1976年]])
: 「金太の大冒険」と同様にぎなた読みによる[[まんこ|ある特定の言葉]]を明確に発音することが特徴である。
: つボイが「[[EXテレビ]]」に出演した際に「『金太の大冒険』は20日で[[放送禁止]]となったが、この歌は6日で放送禁止になった」と語っている。
: なお本曲は後述する配信限定シングル「[[KINTA Ma-xim MIX]]」(キンタ・マ キシム・ミックス)の中で[[メドレー]]の内の一曲として採用されている。
; [[吉田松陰物語]](1976年)
: 「金太の大冒険」と同様にぎなた読みによる[[小陰唇|ある特定の言葉(性的な内容を含むリンク先)]]を明確に発音することが特徴である。
; [[怪傑黒頭巾 (つボイノリオの曲)|怪傑黒頭巾]](1976年)
: ここでいう「黒頭巾」とは[[コンドーム]]のことであり、歌詞には[[避妊]]に関連したキーワードが登場する。[[高垣眸]]の小説『[[快傑黒頭巾]]』とは無関係)
: 上記の「金太~」「極付け!~」「吉田~」「怪傑~」の4曲は[[ぎなた読み|言語の融合]]によって笑いを取る[[コミックソング]]。各楽曲の主人公である「金太」「お万」「松陰」「近藤」(「怪傑黒頭巾」内で登場する)は通常の人名であるし、筋書きも普通であるのに、その直後にそれぞれ「'''ま'''」「'''こ'''」「'''しん'''」「'''む'''」で始まる単語を繋げることによって文章のダブルミーニングが生み出される。その[[下ネタ]]が笑いの種であり、また[[放送コード|放送禁止]]となった原因でもある。「要注意歌謡曲」の制度が消滅した現在では「金太の大冒険」はたまにテレビやラジオから流れることがある。
: 「金太の大冒険」などの歌詞は、つボイがパーソナリティを務めた[[岐阜放送ラジオ]]([[岐阜新聞]]系)の伝説的[[深夜放送|深夜番組]]「[[ヤングスタジオ1431|ヤングスタジオ1430]]」の「小噺コーナー」の投稿が元になっている。
; [[ワッパ人生]](1976年)
: タクシー運転手を主人公にした曲。「一宮の夜」と同様にエレック版(「怪傑黒頭巾」B面曲扱い)とCBS・ソニー版(A面曲扱い)とが存在。ただしCBS・ソニー版では、エレック版での歌詞の一部をカットして収録、その分だけ曲が短縮されている。数少ない放送禁止指定を免れた曲だったこともあってか、自身がパーソナリティを務めた「土曜天国」では、この曲のレコードが頻繁にかけられた(同番組でよくかかったのは、CBS・ソニー版だったと思われる)。
; 女学生(1976年)
: CBS・ソニー版では「ワッパ人生」B面曲として収録。つボイの作詞・作曲で、[[安達明]]の「女学生」とは同名異曲。
; [[恋のいちゃいちゃ]](1978年)
: [[藤岡孝章]]作詞/作曲・[[野村豊 (作曲家)|野村豊]]編曲。タイトルの通り、カップルが戯れる様子を歌った曲。デュエット曲なのだが、女性パートもつボイが裏声を駆使して歌っており、ジャケットでもつボイが女装をして、一人二役を演じている。
; [[花のDJ稼業]](1978年)
: シングル「恋のいちゃいちゃ」B面曲。[[ディスクジョッキー]]の裏事情を綴った曲。氏が音楽作品中で自身の心境を語ることは非常に珍しい。なお2006年には57歳の視点で歌詞を書き改めた「花のしゃべり屋稼業」が発表された(CBCラジオによる期間限定[[コンピレーション・アルバム|コンピレーション]]アルバムおよび、『つボイノリオ ゴールデン☆ベスト』に収録)。
; [[祭りだワッショイ チンカッカ]]([[1984年]])
: 京都に進出した時期の作品。[[藤吉佐登|藤 吉佐登]]([[牧冬吉]]の妻)との[[デュエット]]曲で、[[中村敦夫]]作詞・[[小川寛興]]作曲。ジャケット撮影時のメイクは元[[ザ・スターリン]]の[[遠藤ミチロウ]]が手掛けた。
; [[名古屋はええよ!やっとかめ]](1985年)
: 同じ愛知県出身の[[山本正之]]に依頼した作品{{efn|後に山本が出したセルフカバー版(【名古屋はええよやっとかめ】「!」が入らない。)とは若干歌詞が異なる。}}。<!--インターネット上でフラッシュ版が多数流布している。-->
; [[飛んでスクランブール]]([[1996年]])
: 同年発売のベストアルバム『あっ超ー』で初公開された楽曲。「アナログレコード風の音飛び」を意図的に創り出すことにより、単語の順序に左右されない発展的手法を編み出している。つボイ自らパソコンのサウンドレコーダーを使いデモテープを制作した。音飛びのないバージョンも音源としては存在するが、当然この曲の意図する面白さとは無縁。[[庄野真代]]の「[[飛んでイスタンブール]]」とは、曲名が似ているだけで関連はない。<!--なお、この曲のエンディングは曲の構造上、誰も聞いたことがないはずである。-->
; [[オレオレ詐欺のドナタ]]([[2004年]])
: [[宮地佑紀生]]・[[伊藤秀志]]とトリオを結成して [[振り込め詐欺|オレオレ詐欺]]を揶揄しつつ防止啓蒙する作品。
; [[KINTA Ma-xim MIX]]([[2006年]])
: [[21世紀]]初のソロ作品で、リリースは「[[iTunes Store]]」限定。ダンスチャートでは20日間首位を独占し続けた上、総合ランキングでもトップ20以内(最高17位)という快挙を成し遂げた。この成功により、同年[[6月9日]]、[[中部日本放送]]通販サイトからCDも発売され、発売日前に完売となる。「金太の大冒険」「本願寺ぶるーす」「怪傑黒頭巾」「花のDJ稼業」「極付け!お万の方」のメドレーで、タイトルに「ミックス」とはあるが厳密な意味での[[リミックス]]ではなく、ヴォーカルが再録音されている。
; [[インカ帝国の成立]](2006年)
: 同年9月「[[iTunes Store]]」のワールドジャンルからリリースされた、「飛んでスクランブール」以来10年ぶりの完全新曲。[[インカ帝国]]の初代国王となる[[マンコ・カパック]]が幾多の試練に苦悩しつつ、心を開かれた土地[[クスコ]]で国を興すまでを描く超歴史スペクタクル。もともとは80年代初頭に[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]の元メンバーの依頼で提出→即日ボツとなった曲で(当初「インカ帝国の滅亡」というタイトル)、1996年発売の『あっ超~』では、新曲のひとつとして提出されながらレコード会社の判断で2度目の不採用となった過去を持つ。
; 雪の中の二人([[2007年]])
: [[インカ帝国の成立]]同様、後述するベスト・アルバム『あっ超~』で新曲として提出されながら不採用。同年3月「[[iTunes Store]]」の歌謡曲ジャンルからリリースされ、翌日にはCBCラジオと関係の深い[[夏川りみ]]の「[[涙そうそう]]」などを抑えて首位を獲得した<!--から首位を奪取した--><ref group="WEB" name="pyu-ta_091113">[http://d.hatena.ne.jp/pyu-ta/20091113/1258101137 つボイノリオアーカイブ(3)雪の中の二人]、Virtual Studio 440、2009年11月13日。</ref>。このiTunes版では、『[[冬のソナタ]]』の主題歌「[[モーメント/最初から今まで|最初から今まで]]」を意識したイントロが追加されている<ref group="WEB" name="pyu-ta_091113" />。
; [[世界の国からあそこから]]([[2008年]])
: 作詞・作曲・歌唱はもちろんのこと、「[[コルグ#ソフトウェア音源、アナログ・モデリング、DSDレコーダーの登場|カオシレーター]]」を操り自身で演奏を披露している。世界各国の地名をちりばめた歌詞は地理の勉強になるが、なぜか「[[映画のレイティングシステム|R指定]]」楽曲のごとく扱われている。同年11月3日、「[[着うた]]」で配信開始。同年12月1日には「[[iTunes Store]]」で配信が開始された。ただし、[[三波春夫]]の「[[世界の国からこんにちは]]」とは、曲名がやや似ているだけで関連はない。
=== フル・アルバム ===
; 『[[ジョーズ・ヘタ]]』(1976年)
: [[エレックレコード]]から発売されたファーストアルバム。前年に発売されたシングル「金太の大冒険」を筆頭に「怪傑黒頭巾」「極付け!お万の方」「吉田松陰物語」など代表的な放送禁止歌が並ぶ。同レコード会社倒産後、収録曲順とジャケットを変更し『[[つボイノリオの大冒険]]』として1980年に[[ユピテル (企業)|ユピテル音楽工業]]がリリース。2006年に[[エレックレコード]]復活に伴いオリジナル装丁で[[バップ]]からCD復刻され、2008年には[[ポニーキャニオン]]から[[ハイ・クオリティCD|HQCD]]として再リリースされた。2013年6月には[[ワーナーミュージック・ジャパン]]から3度目のCD化(帯背面とレーベル面で名前が「つぼイノリオ」と誤植されている)。ジャケットには「ジョーズ」と赤い特大文字で書かれ、その下に小さく「'''-ヘタ-'''」と書かれている。泳ぐ[[ホホジロザメ]]の下につボイの顔の写真が載るジャケットとなっており、一見、映画『[[ジョーズ]]』の[[サウンドトラック]]と見間違う構図となっている。現在、「[[iTunes Store]]」、および「[[レコチョク]]」などで配信がされている。
=== ベスト・アルバム ===
; 『[[あっ超ー]]』(1996年)
: [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]](現・[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック・EMI Records Japan]])から発売されたベストアルバム。
; 『つボイノリオ ゴールデン☆ベスト』(2011年、2014年)
: 2枚組ベストアルバム。デジタルリマスター版。2011年リリース版はワーナーミュージック・ジャパンから発売(現在廃盤)。2014年リリース版はポニーキャニオンから発売。収録曲は同一だがジャケットデザインのみ2011年リリース版、2014年リリース版でそれぞれ異なっている。
== 現在の担当番組 ==
*[[CBCラジオ]]
**[[つボイノリオの聞けば聞くほど]](月曜 - 金曜 9:00 - 11:55、1993年10月4日 - )[[小高直子]]と共に担当
*[[CBCテレビ]]
**つボイがファンである、中日ドラゴンズ戦の副音声を年数回担当する。近年は、[[SKE48]]メンバーによるドラゴンズ戦の副音声も始まり、つボイが出演する回数が減少傾向にある(つボイとSKE48メンバーが共に副音声を担当することもある)。
== 過去の担当番組 ==
=== ラジオ ===
* [[CBCラジオ]]
** [[ニクイ7番 電話してよかった!]]/1973年10月 - 1974年3月(木曜担当)
** [[土曜天国]]/1974年4月 - 1978年6月、1982年10月 - 1984年3月(※パーソナリティは、1975年4月より担当。[[井上智子]]、[[兵藤ゆき]]、[[宮崎恵美子]]と共に担当)
** [[ゴー・ゴー・ジュークボックス]]/1975年4月 - 1978年3月
** [[のりのりだぁー歌謡曲]] → のりのりだ ぽっぷん10分(後に15分になったが、再び10分に戻る)/1975年4月7日 - 1983年9月
*:番組が始まると、いつも「さあ、前座([[欽ドン!|欽ちゃんのドンといってみよう!]])が終わりましたね」などと言っていた。
** [[星空ワイド 今夜もシャララ]](通称「こんシャラ」)/1977年4月6日 - 1982年9月27日(水曜 → 1979年4月より月曜担当。[[権田増美]]、[[小西雅子]]と共に担当)
** [[コッピィ歌の広場]]/時期不詳
** [[サンデーワイド歌謡パドック]] → [[つボイノリオのサンデーホットヒット歌謡]]/1979年4月6日 - 1981年10月4日([[安藤真由美]]と共に担当)
** [[ばつぐんジョッキー]]/1984年4月2日 - 1986年9月29日(月曜担当。[[水野智代子]]と共に担当)
** [[つボイノリオのパソコン10分]]/{{いつ範囲|時期不詳、1987年4月 - ?|date=2016年1月11日 (月) 13:21 (UTC)}}
** おしゃべりキーボード(ラジオでフライデイト 夜はこれから!内のコーナー番組)
** [[もしもし!!こども電話相談室]]
** [[西日本電信電話|NTT]] もしもし!!電撃隊
** [[PUMP UP! 1053|PUMP UP!1053ラジオ塾]]/[[1991年]]10月 - 1992年3月([[木俣達彦]]、[[加藤千佳]]と共に担当)
** [[もぎたてのカボチャたち]]/1992年4月6日 - 1993年9月27日(月曜担当。[[伊藤秀志]]と共に担当)
** [[つボイノリオの人生すべからず]]/1998年10月 - 1999年3月
* [[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]
** [[ミッドナイト東海]]/1972年5月 - 9月<ref name="djmeikan"/>
* [[エフエム愛知]]
**[[リクエスト 右か!左か!]]/1973年12月 - 1975年5月
** [[つボイノリオの今夜はすごいぜ!!]]/1979年4月4日? - 1981年3月29日
** ジョイナス・ミュージック/1981年頃
** [[つボイノリオのパックステージパス]]/1984年11月2日? - 1987年11月20日?<ref name="djmeikan"/>
* [[岐阜放送ラジオ]]
** [[ヤングスタジオ1431|ヤングスタジオ1430]]/1972年12月 - 1977年3月
*[[ラジオ関西]]
** つボイノリオの突っ張り30分/1976年4月 - 9月
** 歌うサテスタ ヤぁ ヤぁ ヤぁ!(木曜担当)/1977年
* [[京都放送|KBS京都ラジオ]]
** [[ハイヤングKYOTO]]/1981年4月 - 1987年3月(水曜担当)、1996年4月 - 1997年9月(金曜担当)<ref name="djmeikan"/>
** [[つボイノリオのおはようアドベンチャー]]/1987年7月 - 1992年3月、アシスタント:曽和伸子(初代、現 曽和ローズ)、影山(2代目、バイリンガル)、[[塩見祐子]](3代目)
**[[つボからボイン]]/2012年10月 - 2018年9月
* [[大阪放送|ラジオ大阪]]
** JRAの競馬番組(1980年代後半)
** つボイノリオの弁天家族!!/2003年9月 - 2004年3月
* [[ニッポン放送]]
** [[つボイノリオのオールナイトニッポン]]/1977年9月 - 1979年3月(金曜1・2部 → 1978年10月より金曜1部担当)<ref name="djmeikan"/>
* [[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]]
** [[つボイノリオのつっぱり30分]]/1976年4月 - 6月
** [[電撃ワイド うるとら放送局]]/{{いつ範囲|時期不詳、1978年頃|date=2016年1月11日 (月) 13:21 (UTC)}}
* インターネット ラジオ enban.net(TECHWIN.WEB)
** つボイ@ラジオ(つぼいあっとまーくらじお) 1999年11月8日 - 2002年11月19日(157回)
* インターネット ラジオ [[ハラショー]]
** つボイ楽耳王(つぼいらじおう) 2002年12月16日 - 2010年9月14日(250回)
=== テレビ ===
* 日本テレビ
** [[おはよう!こどもショー]](ミニミニ ワイド ジャーナル)<ref name="djmeikan"/>
* CBCテレビ
** [[ぱろぱろエブリデイ]]
** 週刊! しゅんワッチ
** つボイノリオのドラゴンズ見れば見るほど(ドラゴンズ戦中継の副音声)[[高田寛之]]、[[小松辰雄]]。年に6回。
** [[そこが知りたい 特捜!板東リサーチ]](ナレーション)
** [[イエヤス|イエヤスMAX]](ナレーション)
* [[名古屋テレビ放送|メ~テレ]]
** [[スーパーJチャンネル]] 「手作り道具で素敵生活」「つボイノリオの真夜中の美術館」
* [[岐阜放送]]
** 金曜世聞面白倶楽部(司会)
* [[三重テレビ放送|三重テレビ]]
** のりおと15分
* [[テレビ愛知]]
** [[3時のつボッ!]](2010年6月28日 - 2012年3月30日)
== その他の出演 ==
=== 声優 ===
* [[プリンプリン物語]](NHK総合テレビジョン)花のアナウンサー役
* [[モンスターファーム (アニメ)|モンスターファーム シリーズ]]([[CBCテレビ|CBC]]制作・[[TBSテレビ|TBS]]系)ツノマル役
* [[真・女神転生デビルチルドレン|真・女神転生デビチル]](CBC制作・TBS系)バンパイア役
* [[星のカービィ (アニメ)|星のカービィ]](CBC制作・TBS系)コックナゴヤ役
=== 映画 ===
* [[F (エフ)]] -冒頭のシーンで[[羽田美智子]]に両親の交通事故を知らせる先生の役
* [[三本木農業高校、馬術部]]
=== ビデオドラマ ===
* [[燃えよ少年ドラゴンズ!]]
=== テレビ(その他) ===
{{節スタブ}}
* 決着!![[どっちマニア]]新春スペシャル(2013.1.3 テレビ朝日)
* [[黄金鯱伝説グランスピアー]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]])
* [[金とく]] アノコロTV (2020年6月5日<ref>6月5日の放送は、[[NHK地域局発]]の枠で10月5日に全国放送された。</ref>、9月12日<ref>9月12日の放送は、NHK地域局発の枠で2021年1月8日に全国放送された。</ref>、[[NHK名古屋放送局|NHK名古屋]]) - クイズ解答者<ref>{{Oricon TV|29792}}</ref>
== 関連人物 ==
* [[永六輔]] - 『つボイノリオの聞けば聞くほど』内で放送されている『[[永六輔の誰かとどこかで]]』([[TBSラジオ]])のパーソナリティ。『つボイノリオの聞けば聞くほど』の隠れたファンで、名古屋に訪れた際にはこの番組に長時間にわたりゲスト出演していた。基本的にノーギャラで出演し、局や番組のグッズや昼食(局のお偉いさん帯同の時は高級天麩羅、つボイ自腹の時はラーメン)が出演料代わりで出演してもらっていた。11時前に放送される「誰かとどこかで」が永の意向で放送せず、CBC社内で問題になったこともあった。
*: また、2002年5月と2014年4月には、つボイ本人が永の番組『[[土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界]]』(TBSラジオ)にゲスト出演したことがある。
* [[立川談志]] - 「金太の大冒険」を歌謡史に残る名作として最初に絶賛した人物{{要出典|date=2010年5月}}。「金太の大冒険」やつボイノリオのもつ世界観を熱く語ったインタビューもいくつか存在する。
* [[笑福亭鶴光]] - 1970年代のラジオ深夜放送を共に牽引。『オールナイトニッポン』を共に担当していた時代(1977~1979)から共に「下ネタ」、「ナンセンス」ネタを得意とするなど共通項が多かったせいか親交が深い。2006年春よりCBCラジオ昼のワイド番組『[[ツー快!お昼ドキッ]]』で水曜日のメインパーソナリティを担当した。
* [[小高直子]](CBCテレビアナウンサー) - 『つボイノリオの聞けば聞くほど』スタート時からのアシスタント。途中2度の産休をはさみ、現在に至るまで20年以上にわたりつボイのよき番組内の女房役として番組に欠くことのできない存在となった。
* [[兵藤ゆき]] - 『土曜天国』時代のアシスタントを1976年から2年担当。近年のつボイの著書にも彼女がコメントを寄せるなど長い親交がある。
* [[伊藤秀志]] - 『つボイノリオの聞けば聞くほど』の金曜パートナー。彼が駆け出しのディスクジョッキーだった頃から親交があり、つボイを「師匠」「先生」などと呼び慕っている。
*本地洋一(元岐阜放送アナウンサー)-『金曜世間面白倶楽部』で「ご意見番」として局社員が異例のゲスト出演、つボイとの掛け合いはラジオでも活躍をする本地アナならでは、岐阜放送の名物アナウンサーの一人である。
* [[宮地佑紀生]] - つボイに並ぶ、東海地方のラジオ界を代表するパーソナリティ。宮地がCBCのライバル局である東海ラジオでパーソナリティを務めていたことから、番組共演は少ないものの30年に及ぶ親交を持つ。ちなみにつボイと同じ1949年生まれであるが、学年では宮地のほうが1年上である。ただし、パーソナリティ歴で言えばつボイの方が先輩である。2013年、東海テレビの特撮ドラマ「[[黄金鯱伝説グランスピアー]]」で共演を果たす。
* [[小堀勝啓]](元CBCテレビアナウンサー) - テレビ番組への担当変更の際、つボイが「ラジオ界にとり大きな損失」として、その才能を高く評価しているアナウンサー。つボイは小堀担当番組にはテレビ・ラジオを含め友情出演することが多い。
* [[チェリッシュ (歌手グループ)|チェリッシュ]] - 同グループが結成される前、旧メンバーの[[奥山敬造]]とフォークグループを結成し短期間だが活動を共にしていた。以来、チェリッシュが現在のデュオ編成に変わってからも親交を続けている。一時期、『ばつぐんジョッキー』(CBCラジオ)で共に曜日別のパーソナリティを担当していた時代もある(1984年 - 1986年、月曜日がつボイ、金曜日がチェリッシュの担当日であった)。
* [[みうらじゅん]] - 旧友。サブカルチャーに対する造詣の深さで意気投合。ほかに[[竹内義和]]などもこの部類に入る。
* [[大槻ケンヂ]] - つボイを「喋りの師匠」として敬意を表する歌手の一人。少年時代よりつボイが担当してきた『オールナイトニッポン』などを欠かさず聞き続け、将来、ラジオで自分の冠番組を持つことが芸能界入りを志望した理由であるといわれる。大槻に限らず、[[西川貴教]]など、つボイのトークを聞いてパーソナリティになることを決意した全国区で活躍するタレントは数多く存在する。
* [[角田信朗]] - 学生時代からのつボイファン。名古屋で格闘技のイベント等がある際にはつボイの番組に立ち寄ることが多い。
* [[大橋照子]] - つボイノリオが尊敬しているというDJ。
* [[芦辺拓]] - つボイがKBS京都のパーソナリティを務めていた時代からの熱烈なリスナーで、今も親交が深い大阪出身の推理作家。『和時計の館の殺人』など愛知県を舞台とした作品には、愛知県警の「坪井令夫警部」が登場する。
* [[井伊英理]] - シンセサイザーの父[[ロバート・モーグ]]博士から優れた演奏力でリコメンドされた世界屈指の[[テルミン]]プレーヤー。エアテルミンが得意なつボイとは同郷であり、「一宮の夜」を演奏レパートリーとするつボイノリオ・チルドレンである。
* [[山下達郎]] - ソロ・デビュー前に結成していたバンド、[[シュガー・ベイブ]]で、つボイと同じエレック・レコードから唯一のアルバムをリリース。自身のラジオ番組の「変歌特集」時に必ずつボイの作品を「トリ」で流すほどの隠れつボイノリオフリーク。妻・竹内まりや共々つボイとは長年の親交を持つ。
* [[塩見啓一]] (CBCテレビアナウンサー) - CBCテレビのプロ野球ローカル中継にて行われる副音声番組「ドラゴンズ見れば見るほど」の進行役。つボイが「整理休暇」と題して1週間ほど休暇を取る際、月曜日~木曜日までの「聞けば聞くほど」の代理パーソナリティも務めている。
* [[山田貴敏]] (漫画家) - 学生時代、『ヤングスタジオ1430』のリスナーだった事を『つボイノリオの聞けば聞くほど』ゲスト出演時に告白。番組にもハガキ投稿していた。
* [[三波豊和]](俳優) - つボイと親交があり、名古屋で舞台がある時は遊びに来る。
* [[安藤隆春]](元[[警察庁長官]]) - 同郷、一宮高校の同級生でつボイと親交がある。
* [[神谷明]] - 若い頃から交友関係を持っており、自身の[[ブログ]]にもつボイと一緒に写った写真を掲載している。
* [[金子デメリン]](漫画家)-つボイの熱烈ファンで自身の作品の中につボイをモデルにした登場人物を登場させたり金太の大冒険を弾き語りするほどのファン。
* [[ろくでなし子]] - 彼女の作品「まんこちゃん」を気に入っている。また、ろくでなし子自身もつボイを「大好き」と尊敬している<ref group="WEB">{{Cite twitter|user=6d745|number=669807951696130049|title=(´-`).。oO(大好きなつボイノリオせんせがまんこちゃんソフビとツーショットしてくれてうれしーナ(^ω^)💕|accessdate=2018-08-16|date=2015-11-26|language=ja|author=ろくでなし子}}</ref>。
== 関連書籍 ==
* のりのりだあPart5([[有文社]] 1977年)
*: CBCラジオ「[[のりのりだあ歌謡曲]]」の放送時間直前にネットされていた「[[欽ドン!|欽ちゃんのドンといってみよう!!]]」の本が当時既にPart1 - 4まで発行されており、勝手にライバル心を燃やして突然Part5として出版。放送内容を反映した、下ネタ寄りのコンテンツが含まれる。
* つボイノリオの聞けば聞くほど本(テレビライフ編集部・編/2004年2月) [[学研ホールディングス|学習研究社]] ISBN 4054023509
* 『つボイノリオの聞けば聞くほど』15周年記念 CD BOOK([[扶桑社]]・2008年11月)ISBN 4594058329
*: 3枚組のCDと小冊子のセット。商品としては書籍扱い。
* つボイ正伝 - 「金太の大冒険」の大冒険(扶桑社・2008年12月)ISBN 4594058418
*: 半生を語る、初の自叙伝。『つボイノリオのオールナイトニッポン』最終回を採録。つボイのこれまでの芸能活動にまつわる裏話に重点が置かれている為か、妻子については一切触れられておらず、両親についても名前等の詳細は記載されていない。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
==== ラジオ ====
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==== WEB ====
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==== 新聞 ====
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==== 書籍 ====
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author= 軍司貞則 |chapter=つボイノリオ 挫折青年の大変身 |date=1998-05-10 |title=ラジオパーソナリティ 〜22人のカリスマ〜|publisher=[[扶桑社]]|isbn=4-594-02467-X |ref={{SfnRef|22人のカリスマ|1998}}}}
== 外部リンク ==
* [http://www.nextftp.com/acho/pc/tsuboinorio.htm あっ超~どっと混む]
* [https://hicbc.com/radio/kikeba/ つボイノリオの聞けば聞くほど | CBCラジオ]
{{つボイノリオ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:つほい のりお}}
[[Category:中部地方のローカルタレント]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:中部日本放送の人物]]
[[Category:日本の男性シンガーソングライター]]
[[Category:日本の男性声優]]
[[Category:コミックソング]]
[[Category:はり師]]
[[Category:きゆう師]]
[[Category:エレックレコードのアーティスト]]
[[Category:吉田松陰|つほい のりお]]
[[Category:愛知大学出身の人物]]
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キックベースボール
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キックベースボールは、子供の遊び、スポーツの一種で、野球とサッカーボール(若しくはそれに近い大きさのボール)を使用して行う物である。略称は「キックベース」(本項も以降キックベースと記す)。「フットベースボール」、「キックベー」「キーベー」、「蹴り野球」などとも呼ばれる。
キックベースボールは1917年頃に、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティにあるCincinnati Park Playgroundsの管理者であったNicholas C Seussによって考案された。1920年から1921年頃に、「キックボール」は、若い男女に野球の基礎を教えるために公立学校の体育教師によって使われていた。この頃、ボールにはサッカーボールあるいはバレーボールが使用されていた。10人から13人の選手によって行われ、競技場にはボールがキックされるまで入ってはいけない「ニュートラルゾーン」が設けられていた。ピッチャーはおらず、ボールは3フィートの円でできたホームエリアからキックされた。ボールは5フィートラインを越えて飛ばなければならない。走者は一塁だけ進むことができた。チームの全員がキックし終わった後に攻守交代とされた。
この当時は野球と同じ競技場で行われていたが、塁は野球の2塁の相当するものだけだった。そのため、複数の選手が一つの塁の同時に止まることがあったが、最後のキッカーが蹴り終わるまでに全員ホームに戻る必要があった。
また、野球のショートに相当するポジションが2つ(1塁と2塁の間、2塁と3塁の間)あった。
アメリカ人の第二次世界大戦特派員Ernie Pyleは、1942年から1943年のチュニジア戦線(英語版)の間、合衆国の兵士によってキックボールがプレーされたと伝えている。
キックボールは韓国の若者の間で人気がある。「발야구(足野球)」として知られており、小学校の体育の授業で行われる。キックボールはカナダのある地域では「Soccer-Baseball」と呼ばれている。日本では、小学生の間で人気がある。
スペインのバダホス、San Vicente de Alcántaraの町では、この競技は「Beisbol pie」あるいは「Veisbol pie」(どちらもフットベースボールを意味する)と呼ばれており、小学校で行われている。
キックベースボールはラテンアメリカでも人気がある。しかしながら、これらの文化では娯楽のスポーツでさえもしばしば男女別であるため、ほぼ例外なく女性によって行われる。例えば、盛況な女子キックベースボールリーグがベネズエラやコロンビアに存在している。
ルールは野球と似ている。投手が転がしたボールを打者(キッカー)が蹴ることを打撃(バッティング)とみなすルールもあれば、投手が存在せず、打者が予め本塁に置かれたボールを蹴ることを打撃とみなすルールもあるなど、地方によってさまざまなルールが存在する。
発祥は千葉県市川市で、子供会活動を通して普及したとされる。
1992年から1995年にかけてフジテレビ系列で放映された『夢がMORI MORI』では、芸能界等の著名人がチームを編成した「スーパーキックベースボール」のコーナーが人気を集めた。2005年には、日本テレビ系列の『ひらめ筋GOLD』でもキックベース対決のコーナーが設けられていた。
地方によりさまざまなルールがあるが、日本フットベースボール協会により「全国共通ルール」が定められている。ボールも専用のものが定められている。
「全国共通ルール」に基づいて行われる試合では、野球のように、1塁、2塁、3塁、本塁という4つの塁を設け、ボールを蹴ったキッカーは1~3塁を順番に通過して、本塁へ走る。野球における守備と同様に、守備側の選手がキッカーの蹴ったボールをノーバウンドで捕球したり、ゴロを捕球してキッカーが到達する前に1塁に触れたり、ボールを持ってキッカーにタッチしたりすることによりアウトが成立する。また、ボールを当てることでアウトを成立させることもできる(ただし、至近距離から強くぶつけることは禁止されている)。ドッジボールの能力(捕る・当てる)が守備側に要求される。フォースアウトも存在する。
キッカーは、ファウルボール・ファウル(空振りなど)2回でアウトとなるが、3回でアウトとするルールもある。3アウトで攻守交代。
全国共通ルールでは試合は7回制だが、5回制としているルールもある。
「全国共通ルール」は11人制で、野球のポジションにセンターフォワード、ライトフォワード、レフトフォワード(ファースト、セカンド、ショート、サードの選手よりキッカーに近いポジション)を加え、ピッチャーを省いている。このほか、野球と同じ9人制、7人制、5人制などがある。
地域によってまったく別物のローカルルールが多数存在するのも特徴である。 これは全国大会など、統一ルールの下での大会がないため地域の指導者たちがそれぞれの智恵を絞り、より楽しく、より安全にゲームを行おうと考えた、独自性の表れでもある。
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キックベースボールは、子供の遊び、スポーツの一種で、野球とサッカーボール(若しくはそれに近い大きさのボール)を使用して行う物である。略称は「キックベース」(本項も以降キックベースと記す)。「フットベースボール」、「キックベー」「キーベー」、「蹴り野球」などとも呼ばれる。
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[[ファイル:Kickball-kc-wiki-01.jpg|thumb|キックベースボールをプレーする大人。]]
'''キックベースボール'''は、子供の遊び、スポーツの一種で、[[野球]]と[[サッカーボール]](もしくはそれに近い大きさの[[ボール]])を使用して行うものである。略称は「'''キックベース'''」(本項も以降キックベースと記す)。「フットベースボール」、「キックベー」「キーベー」、「蹴り野球」などとも呼ばれる。
== 歴史 ==
キックベースボールは1917年頃に、[[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]][[シンシナティ]]にあるCincinnati Park Playgroundsの管理者であったNicholas C Seussによって考案された<ref name=ThePlayground1917>{{cite book
|year = 1917
|title = The Playground
|url = https://books.google.co.jp/books?id=x70vAAAAYAAJ&dq=kick+baseball&pg=PA240&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=kick%20baseball&f=false
|publisher = Playground and Recreation Association of America
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|accessdate = 2010-04-19
}}</ref>。1920年から1921年頃に、「キックボール」は、若い男女に野球の基礎を教えるために公立学校の体育教師によって使われていた。この頃、ボールには[[サッカーボール]]あるいは[[ボール (バレーボール)|バレーボール]]が使用されていた。10人から13人の選手によって行われ、競技場にはボールがキックされるまで入ってはいけない「ニュートラルゾーン」が設けられていた。ピッチャーはおらず、ボールは3フィートの円でできたホームエリアからキックされた。ボールは5フィートラインを越えて飛ばなければならない。走者は一塁だけ進むことができた。チームの全員がキックし終わった後に攻守交代とされた<ref name=MindAndBody>{{cite book
|year = 1921
|title = Mind and Body – A Monthly Journal devoted to Phycical Education Vol 27
|url = https://books.google.co.jp/books?id=a_ifAAAAMAAJ&dq=kickball&pg=PA205&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=kick%20ball&f=false
|publisher = The Mind and Body Publish Company
|pages = 205–206
|accessdate = 2010-04-19
}}</ref>。
[[ファイル:Kickball_0644.jpg|thumb|250px|[[ウィスコンシン州]]マディソンでの試合。]]
[[ファイル:GIRLS_PLAYING_KICKBALL_IN_CENTRAL_PARK_-_NARA_-_551768.jpg|thumb|250px|right|[[セントラルパーク]]でキックボールをプレーする少女達。]]
この当時は野球と同じ競技場で行われていたが、塁は野球の2塁の相当するものだけだった。そのため、複数の選手が一つの塁の同時に止まることがあったが、最後のキッカーが蹴り終わるまでに全員ホームに戻る必要があった<ref name=UniversityofStateofNY>{{cite book
|year = 1920
|title = University of the State of New York Bulletin, Issue 724
|url = https://books.google.co.jp/books?id=2sqgAAAAMAAJ&dq=kick+baseball&pg=PA131&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=kick%20baseball&f=false
|publisher = fortnightly
|pages = 131–132
|accessdate = 2010-04-19}}</ref>。
また、野球のショートに相当するポジションが2つ(1塁と2塁の間、2塁と3塁の間)あった<ref name=ChurchSchoolHomeGames>{{cite book
|year = 1922
|title = School, Church, and Home Games
|url = https://books.google.co.jp/books?id=RJdJAAAAIAAJ&pg=PA41&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=kick%20ball&f=false
|publisher = Association Press
|pages = 41
|accessdate = 2010-04-19
}}</ref>。
アメリカ人の[[第二次世界大戦]]特派員Ernie Pyleは、1942年から1943年の{{仮リンク|チュニジア戦線|en|Tunisia Campaign}}の間、合衆国の兵士によってキックボールがプレーされたと伝えている<ref name=HereIsYourWar>{{cite book
|year = 1943
|title = Here Is Your War; Story of G.I. Joe
|url = https://books.google.co.jp/books?id=ef73ROVaoooC&printsec=frontcover&dq=Ernie+Pyle+here+is+your+war&hl=en&sa=X&ei=9CBET5mtCrOx0AGDsfmuBw&redir_esc=y#v=onepage&q=kick%20baseball&f=false
|publisher = H. Holt, New York
|pages = 28
|accessdate = 2012-02-21}}</ref>。
==各国におけるキックベースボール==
キックボールは[[大韓民国|韓国]]の若者の間で人気がある。「발야구(足野球)」として知られており、小学校の体育の授業で行われる。キックボールは[[カナダ]]のある地域では「Soccer-Baseball」と呼ばれている{{Citation needed|date=February 2012}}。[[日本]]では、小学生の間で人気がある。
[[スペイン]]の[[バダホス]]、San Vicente de Alcántaraの町では、この競技は「Beisbol pie」あるいは「Veisbol pie」(どちらもフットベースボールを意味する)と呼ばれており、小学校で行われている。
キックベースボールはラテンアメリカでも人気がある。しかしながら、これらの文化では娯楽のスポーツでさえもしばしば男女別であるため、ほぼ例外なく女性によって行われる。例えば、盛況な女子キックベースボールリーグがベネズエラやコロンビアに存在している<ref>{{cite web|first=Kickball365|title=First to Third - Episode 46 - Colombia|url=http://blip.tv/k365-first2third/first-to-third-episode-46-columbia-6054675|publisher=Kickball365|accessdate=17 May 2012}}</ref>。
==日本におけるキックベースボール==
=== 概要 ===
[[ファイル:Kick-Baseball.jpg|thumb|キックベースボールの試合風景]]
ルールは野球と似ている。[[投手]]が転がしたボールを[[打者]](キッカー)が蹴ることを打撃([[打撃 (野球)|バッティング]])とみなすルール<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sportsnet.pref.toyama.jp/contents/qa/new-sports/21.html|title=キックベースボール|publisher=富山県教育委員会|accessdate=2011年10月24日}}</ref>もあれば、投手が存在せず、打者が予め[[野球場#本塁|本塁]]に置かれたボールを蹴ることを打撃とみなすルール<ref>{{Cite web|和書|url=http://www016.upp.so-net.ne.jp/JFBA/JFBA/sub-RuleBook.html|title=フット(キック)ベースボール 全国共通ルール|publisher=日本フットベースボール協会|accessdate=2011年10月23日}}</ref>もあるなど、地方によってさまざまなルールが存在する。
発祥は[[千葉県]][[市川市]]で{{要出典|date=2012年5月}}、子供会活動を通して普及したとされる。
[[1992年]]から[[1995年]]にかけて[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放映された『[[夢がMORI MORI]]』では、芸能界等の著名人がチームを編成した「スーパーキックベースボール」のコーナーが人気を集めた。[[2005年]]には、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列の『[[ひらめ筋GOLD]]』でもキックベース対決のコーナーが設けられていた。
=== ルール ===
地方によりさまざまなルールがあるが、日本フットベースボール協会により「全国共通ルール」が定められている。ボールも専用のものが定められている。
「全国共通ルール」に基づいて行われる試合では、野球のように、1塁、2塁、3塁、本塁という4つの塁を設け、ボールを蹴ったキッカーは1~3塁を順番に通過して、本塁へ走る。野球における守備と同様に、守備側の選手がキッカーの蹴ったボールをノーバウンドで捕球したり、ゴロを捕球してキッカーが到達する前に1塁に触れたり、ボールを持ってキッカーにタッチしたりすることによりアウトが成立する。また、ボールを当てることでアウトを成立させることもできる(ただし、至近距離から強くぶつけることは禁止されている)。[[ドッジボール]]の能力(捕る・当てる)が守備側に要求される。[[フォースアウト]]も存在する。
キッカーは、ファウルボール・ファウル(空振りなど)2回でアウトとなるが、3回でアウトとするルール<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.hamura.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000000/39/2011kickrule.pdf|title=少年少女球技大会 キックボールルール|publisher=羽村市青少年対策地区委員会連絡協議会など|accessdate=2011年10月23日}}</ref>もある。3アウトで攻守交代。
全国共通ルールでは試合は7回制だが、5回制としているルール<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sportsnet.pref.toyama.jp/contents/qa/new-sports/21.html|title=キックベースボール|publisher=富山県教育委員会|accessdate=2011年10月24日}}</ref>もある。
=== ポジション ===
「全国共通ルール」は11人制で、野球のポジションにセンターフォワード、ライトフォワード、レフトフォワード(ファースト、セカンド、ショート、サードの選手よりキッカーに近いポジション)を加え、ピッチャーを省いている。このほか、野球と同じ9人制、7人制、5人制などがある。
===地域での独自のルール===
地域によってまったく別物のローカルルールが多数存在するのも特徴である。
これは全国大会など、統一ルールの下での大会がないため地域の指導者たちがそれぞれの智恵を絞り、より楽しく、より安全にゲームを行おうと考えた、独自性の表れでもある。
* 転がって来たボールを足元で止め、そのまま走るというルール。またはこれを禁止するルール。野球でいうところの[[バント]]。足で"ちょろ"と蹴ることから、「チョロキック(『夢がMORI MORI』のTV番組で森口博子が得意としている)」と呼ばれる。これを阻止するため、ホームベースからインフィールド側に半径2-3メートル程度の「ファウル線」が敷かれ、打球がこの線を越えずに落下、またはゴロ性の当たりで転がった場合はファウル扱いになる。
* 3回ファウルでアウトにしているルールが多い。
* 盗塁・リードは禁止される傾向にある。
* 普通は野球と同じように4つのベース(1塁、2塁、3塁、本塁)で試合を行うが、2塁ベースなしで試合を行うところがある(いわゆる[[三角ベース]]グランド)。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
* [[遊び]]
* [[夢がMORI MORI]]
* [[メトロラビッツH.P.]]([[ハロー!プロジェクト]]のキックベースボールチーム)
* [[娘DOKYU!]]
==外部リンク==
* [http://www016.upp.so-net.ne.jp/JFBA/ 日本フットベースボール協会]
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18,326 |
孝徳天皇
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孝徳天皇(こうとくてんのう、旧字体: 孝德天皇、596年〈推古天皇4年〉- 654年11月24日〈白雉5年10月10日〉)は、日本の第36代天皇(在位:645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉- 654年11月24日〈白雉5年10月10日〉)。
諱は軽(かる)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。
敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女と結婚して皇后とした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。
『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。
14日の内に皇極天皇から譲位を受け、軽皇子が即位した。大王の譲位は前代未聞であった。前の大王である皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を贈り、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。
6月19日(645年7月17日)、皇祖母尊・皇太子と共に群臣を集めて忠誠を誓わせた。史上初めて元号を立てて大化元年とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には改元し、白雉元年とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。
孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も使者を送ってきた。北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。白雉4年(653年)に、皇太子(=中大兄皇子)が大王に対して倭京に遷ることを求めた。天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)、大海人皇子を連れて倭に赴いた。臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、気を落とした大王は、翌年病気になって崩御した。宝算59。
遠山美都男によって、軽皇子が中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説も唱えられている。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「山田上ノ山古墳」で、直径32メートルの円墳である。
『日本書紀』では天皇は白雉5年(654年)10月の死後、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。『延喜式』諸陵寮では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。
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"text": "『日本書紀』では天皇は白雉5年(654年)10月の死後、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。『延喜式』諸陵寮では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。",
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孝徳天皇は、日本の第36代天皇。 諱は軽(かる)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。
|
{{基礎情報 天皇
| 名 = 孝徳天皇
| 代数= 第36
| 画像=
| 説明=
| 在位= [[645年]][[7月12日]] - [[654年]][[11月24日]]
| 和暦在位期間= 皇極天皇4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]] - 白雉5年10月10日
| 時代= [[飛鳥時代]]
| 年号= [[大化]]<br>[[白雉]]
| 漢風諡号= 孝徳天皇
| 和風諡号= 天万豊日天皇
| 首都=
| 皇居= [[難波宮]]
| 諱 = 軽
| 幼称=
| 別名=
| 印 =
| 生年= [[596年]]
| 生地=
| 没年= [[654年]][[11月24日]]
| 没地=
| 陵墓= [[山田上ノ山古墳|大阪磯長陵(大坂磯長陵)]]
| 先代= [[斉明天皇|皇極天皇]]
| 次代= [[斉明天皇]](皇極天皇[[重祚]])
| 子 = [[有間皇子]]
| 皇后= [[間人皇女]]
| 中宮=
| 女御=
| 更衣=
| 夫人=
| 夫 =
| 父親= [[茅渟王]]([[敏達天皇]]皇孫)
| 母親= [[吉備姫王]]([[欽明天皇]]皇孫)
| 注釈=
|}}
'''孝徳天皇'''(こうとくてんのう、{{旧字体|'''孝德天皇'''}}、[[596年]]〈[[推古天皇]]4年〉- [[654年]][[11月24日]]〈[[白雉]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]〉)は、[[日本]]の第36代[[天皇]](在位:[[645年]][[7月12日]]〈皇極天皇4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]〉- 654年11月24日〈白雉5年10月10日〉)。
[[諱]]は'''軽'''(かる)。その在位中には[[難波宮]]に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの[[大化の改新]])などを含めて'''難波朝'''(なにわちょう)という別称で称されることがあった。
== 生涯 ==
[[敏達天皇]]の孫で[[押坂彦人大兄皇子]]の王子、[[茅渟王]]の長男。母は[[欽明天皇]]の孫で[[桜井皇子]]の王女、[[吉備姫王]]。[[斉明天皇|皇極天皇(斉明天皇)]]の同母弟。[[天智天皇]](中大兄皇子)・[[間人皇女]]・[[天武天皇]](大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女と結婚して[[皇后]]とした。[[阿倍内麻呂|阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)]]の娘の[[小足媛]]を妃として、[[有間皇子]]を儲けた。他に子女は確認されていない。[[蘇我倉山田石川麻呂]]の娘の[[乳娘]](ちのいらつめ)を妃とした。
『[[日本書紀]]』の評によれば、天皇は仏法を尊び、[[神道]]を軽んじた<ref group="注釈">『日本書紀』巻第25には、[[生國魂神社]]の木を[[難波宮]]建設のため伐採したことが理由と記される。</ref>。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の[[藤原鎌足]])が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)<ref group="注釈">軽皇子の宮について、摂津[[有馬温泉|有間]](青木和夫「藤原鎌足」『日本古代の政治と人物』吉川弘文館、1977年)・摂津阿倍野(田村圓澄『藤原鎌足』塙書房、1966年)・和泉軽部郷(遠山美都男「〈乙巳の変〉の再構成-大化改新の新研究序説」『古代王権と大化改新 律令制国家成立前史』雄山閣、2005年)・摂津山崎(笹川尚紀「皇極朝の阿倍氏」『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年)の諸説がある。</ref>。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に[[乙巳の変]]が起きると、翌々日に皇極天皇は[[天智天皇|中大兄皇子]]に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、[[古人大兄皇子]]を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。
14日の内に皇極天皇から[[譲位]]を受け、軽皇子が即位した。[[大王 (ヤマト王権)|大王]]の譲位は前代未聞であった。前の大王である皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を贈り、中大兄を[[皇太子]]とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を[[左大臣]]に、蘇我倉山田石川麻呂を[[右大臣]]にした。中臣鎌子([[藤原鎌足]])を[[内臣]]とした。
6月19日(645年7月17日)、皇祖母尊・皇太子と共に群臣を集めて忠誠を誓わせた。史上初めて[[元号]]を立てて[[大化]]元年とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には改元し、白雉元年とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は[[大化の改新]]と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する[[改新之詔]]4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。
孝徳天皇の在位中には、[[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]からしばしば使者が訪れた。従来の[[百済]]の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も使者を送ってきた。北の[[蝦夷]]に対しては、[[渟足柵]]・[[磐舟柵]]を[[越国]]に築き、[[柵戸]]を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
孝徳天皇は[[難波長柄豊碕宮]]([[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]])を造営し、そこを[[日本の首都|都]]と定めた。白雉4年(653年)に、皇太子(=[[天智天皇|中大兄皇子]])が大王に対して倭京に遷ることを求めた。天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と大后(皇后・[[間人皇女]])、[[天武天皇|大海人皇子]]を連れて倭に赴いた。臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、気を落とした大王は、翌年病気になって崩御した。宝算59。
[[遠山美都男]]によって、軽皇子が中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説も唱えられている<ref>{{Cite book|和書|author=遠山美都男|authorlink=遠山美都男|date=1993|title=大化改新―六四五年六月の宮廷革命|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|ISBN=}}</ref>。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは[[蘇我氏]]系豪族が多く、今後の議論が待たれる。
== 年譜 ==
{{出典の明記|date=2023年2月}}
* 皇極天皇4年([[645年]])
** 6月12日 - 中大兄皇子が[[蘇我入鹿]]を殺害。
** 6月13日 - [[蘇我蝦夷]]が自宅に火を放ち自殺する。
** 6月14日 - 皇極天皇の譲位を受け、即位した。中大兄皇子を皇太子とした。
** 6月19日 - 大槻の樹下に群臣を集めて忠誠を誓わせた([[飛鳥寺西方遺跡]])。
** (日付不明) - 史上初めて元号を立て、[[大化]]元年とした。
* 大化元年(645年)
** 7月2日 - 皇后([[間人皇女]])と2人の妃を立てた。
** 7月10日 - 高句麗・百済・新羅の使者が朝貢した。任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。
** 7月14日 - [[尾張国]]と[[美濃国]]に神に供える幣を課した。
** 8月5日 - 東国等の[[国司]]を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。良民と奴婢の子の別を定めた。
** 8月8日 - 仏教の援助を約し、僧旻ら10人の僧を選び[[十師]]とした。
** 9月1日 - 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。
** 9月3日 - [[古人大兄皇子|古人皇子]]が謀反を企んだ。
** 9月12日 - 中大兄が[[古人大兄皇子|古人皇子]]を討った(11月30日、11月とも)。
** 9月19日 - 土地の貸借を禁止した。
** 12月9日 - 都を難波長柄豊碕に遷した。
* 大化2年([[646年]])
** 1月1日 - 改新之詔を宣した。
** 1月 - 子代離宮に行った。諸国に兵庫を建てさせた。
** 2月15日 - 民の投書を受けるための櫃を設けた。
** 2月22日 - 子代離宮から帰った。高句麗・百済・任那・新羅の使が調賦を貢いだ。
** 3月2日 - 東国の国司に訓戒する詔を発した。
** 3月19日 - 東国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。
** 3月20日 - 中大兄皇子が自らの入部と[[屯倉]]を天皇に献じた。
** 3月22日 - 王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した。祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた。上京の途上での馬の飼育請負を登録させ、不正を禁じた。市司と要路の渡守に田地を与え、渡し賃の徴収をやめさせた。
** 8月14日 - [[品部]]を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。
** 9月 - [[高向玄理]]を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。蝦蟇行宮に行った。
* 大化3年([[647年]])
** 1月26日 - 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。
** 4月26日 - 皇子・群臣・百姓に対して庸調を与える旨を詔した。
** この年
**: 小郡を壊して宮を造った。
**: 有位の人の出仕の礼法を定めた。
**: [[荒田井比羅夫]]が誤って溝を掘って難波に引き、工事がやり直しになったことを諌める者があったので、即日に中止した。
** 10月11日 - [[有馬温泉|有馬温湯]]に行った。
** 12月30日 - 武庫行宮に行った。
** この年
**: 七色十三階の冠を制定した。
**: 新羅が金春秋(のちの[[武烈王]])を遣わして高向玄理らを送った。金春秋は人質としてとどまった。
**: 渟足柵を造り、柵戸を置いた。
* 大化4年([[648年]])
** 2月1日 - 三韓に学問僧を遣わした。
** 4月1日 - 古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。
** この年 - 新羅が使を遣わして調を貢じた。
: 磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と[[信濃国|信濃]]の民を選んで初めて柵戸を置いた。
* 大化5年([[649年]])
** 2月
**: 冠十九階を制定した。
**: 高向玄理と釈僧旻に命じて、八省百官を置いた。
** 3月17日 - 阿倍倉梯麻呂が死に、天皇は[[朱雀門]]に出て哀哭し、嘆いた。
** 3月24日 - [[蘇我日向]]が皇太子に蘇我倉山田石川麻呂を讒言した。天皇が軍兵を起こしたため、石川麻呂は逃げた。
** 3月25日 - 蘇我倉山田石川麻呂が自殺した。
** 3月26日 - 追討した軍が蘇我倉山田石川麻呂の首を斬った。
** 4月20日 - [[巨勢徳太|巨勢徳陀古]]を左大臣に、[[大伴長徳]]を右大臣にした。
** 5月1日 - 三輪色夫と掃部角麻呂を新羅に遣わした。
** この年 - 新羅が[[金多遂]]を遣わして人質にした。
* 大化6年([[650年]])、改元後は白雉元年
** 1月1日 - 味経宮に行って賀正礼を行い、その日のうちに帰った。
** 2月9日 - [[長門国|穴戸]]国司の[[草壁醜経]]が白雉(しろきぎす、白い[[キジ]])を献じた。
* [[白雉]]元年(650年)
** 2月15日 - 白雉を観る儀式を行い、大赦し、年始に遡って白雉(はくち、びゃくち)と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を3年間免除した。
** 4月 - 新羅が使を遣わして調を貢いだ。
** 10月 - 宮地にするために墓を壊されたり家を遷されたりした人に物を与え、荒田井比羅夫に宮の堺の標を建てさせた。
** この年
**: [[山口大口費|山口大口]]が詔を受けて千仏の像を刻んだ。
**: [[安芸国]]に百済舶2隻を造らせた。
* 白雉2年([[651年]])
** 6月 - 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
** 12月30日 - 大郡から新しい宮に遷り、そこを難波長柄豊碕宮と名づけた(大化元年12月9日に同趣旨の記事あり)。
** この年 - 新羅の貢調使の知万が唐国の服を着て[[筑紫国|筑紫]]に着いたので、その変更を咎めて追い返した。
* 白雉3年([[652年]])
** 1月1日 - 元日礼を終えてから、大郡宮に行った。
** ?月 - 班田を完了した。
** 3月 - 難波宮に帰った。
** 4月15日 - 僧[[恵隠]]を[[内裏]]に呼び、『[[無量寿経]]』を講じさせ、沙門[[恵資]]を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にした。
** 4月20日 - 講じ終えた。
** 4月 - [[古代の戸籍制度|戸籍]]を造った。<br>百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
** 9月 - 宮が完成した。
** 12月30日 - 天下の僧尼を内裏に呼び、設斎、大捨、燃明した。
* 白雉4年([[653年]])
** 5月12日 - [[遣唐使]]を送った。一船の大使は[[吉士長丹]]、副使は[[吉士駒]]であった。別の一船の大使は[[高田根麻呂]]、副使は[[掃守小麻呂]]であった。
** 5月 - 病中の旻法師の部屋に見舞いに行き、直接優しい言葉をかけた(白雉5年7月とも)。
** 6月
**: 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
**: 旻法師の死を知り、使を遣わして弔問し、贈り物をした。また、法師のために多くの仏像、菩薩像を造らせ、[[山田寺]]に安置した。
** 7月 - 難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者5人の内、筏を作って助けを求めた門部金を褒め、その位を進め禄を授けた。
** この年 - 皇太子(中大兄)が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許さなかった。皇太子は、皇祖母尊(皇極前天皇)と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。公卿大夫・百官の人らが皆随って遷った。天皇は恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った。
* 白雉5年([[654年]])
** 1月5日 - 中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した。
** 2月 - 遣唐使を送った。[[押使]]は高向玄理、大使に[[河辺麻呂]]、副使に[[薬師恵日]](5月とも)。
** 7月24日 - 西海使の吉士長丹らが、百済と新羅の送使と共に筑紫に着いた。
** 10月1日 - 天皇の病を聞き、皇太子が皇祖母尊・皇后・皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。
** 10月10日 - 崩御。
** 12月8日 - [[山田上ノ山古墳|大坂磯長陵]]に葬られた。この日、皇太子と皇祖母尊は倭河辺行宮に戻った。
** この年 - 高句麗、百済、新羅が弔使を派遣した。
* 斉明天皇元年([[655年]])
** 1月3日 - 皇祖母尊が、飛鳥板蓋宮で再び即位([[重祚]])。
== 在位中の重臣一覧 ==
{| class="wikitable"
! 年月日(西暦) !! 左大臣 !! 右大臣 !! 内臣
|-
| 皇極天皇4年6月14日<br/>(645年7月12日)
| [[阿倍内麻呂]]
| [[蘇我倉山田石川麻呂]]
| [[藤原鎌足|中臣鎌足]]
|-
| 大化5年3月17日<br/>(649年5月3日)
|
| 蘇我倉山田石川麻呂
| 中臣鎌足
|-
| 大化5年3月25日<br/>(649年5月11日)
|
|
| 中臣鎌足
|-
| 大化5年4月20日<br/>(649年6月5日)
| [[巨勢徳多]]
| [[大伴長徳]]
| 中臣鎌足
|-
| 白雉2年7月<br/>(651年)
| 巨勢徳多
|
| 中臣鎌足
|}
== 系譜 ==
=== 后妃・皇子女 ===
* [[皇后]]:[[間人皇女]]‐[[舒明天皇]]皇女
* [[妃]]:[[小足媛|阿倍小足媛]]‐[[左大臣]][[阿倍内麻呂]](阿倍倉梯麻呂)女
** 皇子:[[有間皇子]]
* 妃:[[乳娘|蘇我乳娘]]‐[[右大臣]][[蘇我倉山田石川麻呂]]女
===系図===
{{ahnentafel top|孝徳天皇の系譜|width=100%}}
{{ahnentafel-compact5
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|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
|boxstyle_2=background-color: #fb9;
|boxstyle_3=background-color: #ffc;
|boxstyle_4=background-color: #bfc;
|boxstyle_5=background-color: #9fe;
|1= 1. 第36代 孝徳天皇
|2= 2. [[茅渟王]]
|3= 3. [[吉備姫王]]
|4= 4. [[押坂彦人大兄皇子]]
|5= 5. 大俣王
|6= 6.[[桜井皇子]]
|8= 8. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]](=6)
|9= 9. [[広姫]]
|10= 10. [[漢王]]
|12= 12. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]] (=16)
|13= 13. [[蘇我堅塩媛]]
|16= 16. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=12)
|17= 17. [[石姫皇女]](=13)
|18= 18. [[息長真手王]]
|24= 24. [[継体天皇|第26代 継体天皇]]
|25= 25. [[手白香皇女]]
|26= 26. [[蘇我稲目]]
}}</center>
{{ahnentafel bottom}}
{{皇室飛鳥時代}}
== 陵・霊廟 ==
[[File:Yamada Uenoyama Kofun, haisho.jpg|thumb|220px|right|{{center|孝徳天皇 [[山田上ノ山古墳|大阪磯長陵]]<br>([[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]])}}]]
[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]大字山田にある'''大阪磯長陵'''(おおさかのしながのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は[[円墳|円丘]]。遺跡名は「[[山田上ノ山古墳]]」で、直径32メートルの円墳である。
『[[日本書紀]]』では天皇は[[白雉]]5年([[654年]])10月の崩御後、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする{{Sfn|大阪磯長陵(国史)}}。『[[延喜式]]』[[諸陵式|諸陵寮]]では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、[[河内国]]石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする{{Sfn|大阪磯長陵(国史)}}。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、[[元治]]元年([[1864年]])に修復および拝所整備等が実施された{{Sfn|大阪磯長陵(国史)}}。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。
また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
== 在位中の元号 ==
* [[大化]]
* [[白雉]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}}
** {{Wikicite|reference=[[関晃]] 「孝徳天皇」|ref={{Harvid|孝徳天皇(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=石田茂輔 「大阪磯長陵」(孝徳天皇項目内)|ref={{Harvid|大阪磯長陵(国史)}}}}。
== 外部リンク ==
* [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/036/index.html 大阪磯長陵] - 宮内庁
{{歴代天皇一覧}}
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鎌倉高校前駅
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鎌倉高校前駅(かまくらこうこうまええき)は、神奈川県鎌倉市腰越一丁目にある、江ノ島電鉄の駅。駅番号はEN08。
海を見渡せる景色の良い場所にある。1997年には「関東の駅百選」に選ばれた。
単式ホーム1面1線を有する。江ノ島駅管理の終日無人駅である。
藤沢方と鎌倉方に出入口があり、それぞれ、PASMO簡易改札機が設置されている。
塩害防止のため、自動券売機にはガラス戸が設置され、PASMO簡易改札機にもビニールのカバーが掛けられている。
毎年11月頃からバレンタインまで、ホーム全体をイルミネーションで飾るイベントが行われている。
2019年(令和元年)度の1日平均乗降人員は4,378人であり、江ノ電全15駅中6位。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下記の通り。
駅南側には七里ヶ浜が広がり、晴れた日には富士山や房総半島・伊豆大島が見える。駅周辺はテレビドラマやCMの撮影に頻繁に使われ、東京から日帰りで行き来できる事もあり、「前に海が広がる小さな駅」として数多くの映像作品に登場した。当駅の風景は数々の作品によって広く知られており、人々がイメージする「湘南」の象徴的な光景である。
駅北側は斜面となっており、直近には共同墓地や医療施設がある。坂道を登った先に神奈川県立鎌倉高等学校があり、周辺は閑静な住宅街となっている。薬局などを除けば、周辺に店舗はほとんどないが、数少ない店舗として鈴木病院の駐車場に売店「SUNNY SHOP」があり、食品などを扱っている。病院利用者以外も利用でき、月曜日 - 土曜日(祝日を除く)の10時 - 13時・14時 - 16時30分に営業している。
当駅前を走るバス路線は、2019年に全て廃止となった。
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鎌倉高校前駅(かまくらこうこうまええき)は、神奈川県鎌倉市腰越一丁目にある、江ノ島電鉄の駅。駅番号はEN08。 海を見渡せる景色の良い場所にある。1997年には「関東の駅百選」に選ばれた。
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|起点駅 = [[藤沢駅|藤沢]]
|所在地 = [[神奈川県]][[鎌倉市]]腰越一丁目1-25
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 18 | 緯度秒 = 24.1 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 30 | 経度秒 = 2 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| 座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面1線
|開業年月日 = [[1903年]]([[明治]]36年)[[6月20日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 4,378
|統計年度 = 2019年
|乗換 =
|備考 = [[無人駅]](自動券売機 有)
|備考全幅 = * [[1953年]]に日坂駅から改称}}
'''鎌倉高校前駅'''(かまくらこうこうまええき)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]腰越一丁目にある、[[江ノ島電鉄線|江ノ島電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''EN08'''。
海を見渡せる景色の良い場所にある。[[1997年]]には「[[関東の駅百選]]」に選ばれた。
== 歴史 ==
* [[1903年]]([[明治]]36年)[[6月20日]]:'''日坂駅'''(にっさかえき)として開業。
* [[1953年]]([[昭和]]28年)[[8月20日]]:'''[[神奈川県立鎌倉高等学校|鎌倉高校]]前駅'''に改称。
* [[1997年]]([[平成]]9年):[[関東の駅百選]]に選出される<ref name="stations" />。選定理由は「ホームから前面いっぱいに『湘南の海』が広がっている駅」<ref name="stations">{{Cite book|和書|author=(監修)「鉄道の日」関東実行委員会|title=駅の旅物語 関東の駅百選|publisher=[[人文社]]|date=2000-10-14|pages=102 - 103・226頁|edition=初版|isbn=4795912807}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年):「江ノ島電鉄」の一部として[[土木学会選奨土木遺産]]に選ばれ、銘板の設置場所4ヶ所のうち1ヶ所となる<ref>{{Cite web|和書|title=土木学会関東支部 悠悠・土木 / 土木遺産 / 江ノ島電鉄 |url=https://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/h26/h26_6.html |website=www.jsce.or.jp |access-date=2022-06-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=鉄道施設情報 - 土木遺産認定 銘板の設置について |url=https://www.enoden.co.jp/train/museum/facilities/ |website=江ノ島電鉄株式会社 |access-date=2022-06-09 |language=ja}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[単式ホーム]]1面1線を有する。江ノ島駅管理の[[無人駅|終日無人駅]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enoden.co.jp/train/faq/ |title=よくあるご質問|電車|江ノ島電鉄株式会社 |access-date=2022年9月8日 |publisher=江ノ島電鉄}}</ref>。
藤沢方と鎌倉方に出入口があり、それぞれ、[[PASMO]]簡易改札機が設置されている。
[[塩害]]防止のため、[[自動券売機]]には[[ガラス]]戸が設置され、PASMO簡易改札機にもビニールのカバーが掛けられている。
毎年11月頃からバレンタインまで、ホーム全体をイルミネーションで飾るイベントが行われている。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
2019 Kamakura-Kōkō-Mae Station.jpg|ホーム鎌倉方から藤沢方面を望む(2019年) - 写真中央の島が江の島
Enoden Kamakura-Kōkō-Mae Platform from Roadside.jpg|駅傍の国道134号からホームを望む(2004年10月)
Kamakurakoukoumae night.JPG|電飾照明の鎌倉高校前駅(2009年1月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2019年]](令和元年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''4,378人'''であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enoden.co.jp/corporate/company/book/pdf/2021-all.pdf|archiveurl=|title=江ノ電グループ会社要覧 2021年版|archivedate=|accessdate=2021-04-17|publisher=江ノ島電鉄|format=PDF|page=45|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、江ノ電全15駅中6位。
近年の1日平均'''乗降・乗車'''人員推移は下記の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/ 神奈川県県勢要覧]</ref>
|-
!年度
!1日平均<br>乗降人員
!1日平均<br>乗車人員
!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|1,580
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 28ページ</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|1,406
|<ref group="*">神奈川県県勢要覧(平成12年度)226ページ</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|1,406
|<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}} - 228ページ</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|
|1,319
|<ref group="*" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|
|1,251
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}} - 226ページ</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|
|1,181
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}} - 226ページ</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|
|1,120
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}} - 226ページ</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|
|1,149
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}} - 228ページ</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|
|1,117
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}} - 228ページ</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|
|1,096
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}} - 230ページ</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|
|1,025
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}} - 234ページ</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|3,143
|1,042
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}} - 244ページ</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|
|1,069
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]}} - 242ページ</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|
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|-
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|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]}} - 238ページ</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|3,468
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|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]}} - 240ページ</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|3,596
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|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}} - 242ページ</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|3,618
|1,847
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/821900.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]}} - 242ページ</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|3,825
|1,950
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]}} - 250ページ</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|3,967
|2,018
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}} - 242ページ</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|4,058
|2,080
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 神奈川県県勢要覧(平成30年度)]}} - 226ページ</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|4,395
|2,254
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 神奈川県県勢要覧(令和元年度)]}} - 226ページ</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|4,378
|
|
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Enoden - Shichirigahama.jpg|thumb|漫画の舞台となるなど観光スポットとなっている駅近くの[[鎌倉高校前1号踏切|踏切]]]]
駅南側には[[七里ヶ浜]]が広がり、晴れた日には[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]や[[房総半島]]・[[伊豆大島]]が見える。駅周辺は[[テレビドラマ]]やCMの撮影に頻繁に使われ、[[東京]]から日帰りで行き来できる事もあり、「前に[[海]]が広がる小さな駅」として数多くの映像作品に登場した。当駅の風景は数々の作品によって広く知られており、人々がイメージする「[[湘南]]」の象徴的な光景である。
駅北側は斜面となっており、直近には共同墓地や医療施設がある。坂道を登った先に[[神奈川県立鎌倉高等学校]]があり、周辺は閑静な住宅街となっている。薬局などを除けば、周辺に店舗はほとんどないが、数少ない店舗として鈴木病院の駐車場に売店「SUNNY SHOP」があり、食品などを扱っている。病院利用者以外も利用でき、月曜日 - 土曜日(祝日を除く)の10時 - 13時・14時 - 16時30分に営業している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suzuki-hp.ne.jp/sunnyshop/ |title=SUNNY SHOP(売店)について |access-date=2022年9月8日 |publisher=医療法人社団 南浜会 鈴木病院}}</ref>。<!--範囲および店舗の定義が無いので曖昧な表現にとどめた-->
* [[七里ヶ浜]]
* [[神奈川県立鎌倉高等学校]]
* [[国道134号]]
* [[鎌倉高校前1号踏切]]
* 聖テレジア病院
* 恵風園胃腸科病院
* 腰越独立教会
* 鈴木病院
=== バス路線 ===
当駅前を走るバス路線は、2019年に全て廃止となった。
== 当駅周辺を舞台とした作品 ==
[[ファイル:Kamakura koukou mae Fumikiri - 02.jpg|thumb|江ノ電・鎌倉高校前1号踏切道]]
; アニメ
* [[SLAM DUNK]] - [[鎌倉高校前1号踏切]]がオープニングに登場<ref>{{Cite news |title=鎌倉に「スラムダンクの踏切」? 台湾から観光客増 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2014-11-16 |author=大賀有紀子 |url=http://www.asahi.com/articles/ASGCF3TJXGCFULOB00F.html |accessdate=2015-06-21}}</ref>。
* [[青い花 (漫画)|青い花]]<ref name="japanfanclub">{{Cite web|和書|url=http://www.japanfanclub.jp/jp/kamakura.html |title=アニメ・マンガ聖地巡礼 "江ノ島・鎌倉" |accessdate=2015-06-21 |author=柿崎俊道 |publisher=ジャパンファンクラブ}}</ref>
* [[TARI TARI]]<ref name="japanfanclub" />
* [[ハナヤマタ]] - [[鎌倉高校前1号踏切]]がオープニングに登場。
* [[ふたりはプリキュア Splash Star]]
* [[亜人ちゃんは語りたい]]
* [[ひなこのーと]]
* [[きみの声をとどけたい]]
* [[南鎌倉高校女子自転車部]]
* [[青春ブタ野郎シリーズ|青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]]
; 小説
* [[電車で行こう!]] - 第8巻「走る!湾岸捜査大作戦」に登場。第10巻にも名前のみ登場。
;
; 漫画
* [[SLAM DUNK]] - 陵南高校前駅として登場。
* [[まなびや]]
;
; ゲーム
* [[Memories Off 2nd]]
* [[ホワイトブレス 〜with faint hope〜]]
;
; 映画
* [[釣りバカ日誌]]
* [[男はつらいよ 拝啓車寅次郎様]]
;
; テレビドラマ
* [[季節はずれの海岸物語]]
* [[烈車戦隊トッキュウジャー]] - 第11・12話に登場。
;
; 音楽
* 楽曲
** [[小川コータ&とまそん]]「サーフィン鎌高前」 - 「海街電車2」収録。
** [[渡辺大地_(歌手)|渡辺大地]]「鎌倉高校前」 - 「[[鎌倉高校前〜江ノ電から見える風景〜]]」収録。
** [[ASIAN KUNG-FU GENERATION]] 「日坂ダウンヒル」 - 「[[宿縁]]」収録。
* プロモーションビデオ
** [[プリンセス・プリンセス]]「[[Diamonds (プリンセス プリンセスの曲)|Diamonds]]」
** [[岡村靖幸]]「[[Dog Days (曲)|Dog Days]]」
** [[TUBE]]「はよつけ鎌倉」
** [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]「[[夏色]]」
** [[every♥ing!]]「笑顔でサンキュー!」
** [[乃木坂46]]「地球が丸いなら」
** [[JUJU]]「Hello, Again 〜昔からある場所〜」
== 隣の駅 ==
; 江ノ島電鉄
: [[ファイル:Number prefix Enoden.svg|15px|EN]] 江ノ島電鉄線
:: [[腰越駅]] (EN07) - '''鎌倉高校前駅 (EN08)''' - ([[峰ヶ原信号場]]) - [[七里ヶ浜駅]] (EN09)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Notelist}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 神奈川県県勢要覧 ====
{{Reflist|group="*"|2}}
== 関連項目 ==
<!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{commonscat}}
{{osm box|n|263260958}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[外川駅]] - 同様に映像作品でよく使用される海沿いの小駅
* [[阿字ヶ浦駅]] - 同様に映像作品で使用される海沿いの小駅
== 外部リンク ==
* [https://www.enoden.co.jp/train/station/kamakurakokomae/ 鎌倉高校前駅] - 江ノ島電鉄
{{江ノ島電鉄線}}
{{関東の駅百選}}
{{デフォルトソート:かまくらこうこうまえ}}
[[Category:鎌倉市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 か|まくらこうこうまえ]]
[[Category:江ノ島電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1903年開業の鉄道駅]]
[[Category:土木学会選奨土木遺産]]
|
2003-09-26T03:52:24Z
|
2023-12-21T14:17:45Z
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[
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|
18,328 |
腰越駅
|
腰越駅(こしごええき)は、神奈川県鎌倉市腰越二丁目にある、江ノ島電鉄の駅。駅番号はEN07。
隣接する江ノ島駅付近から当駅までは併用軌道になり、道路上を走る。
単式ホーム1面1線を有する地上駅。日中は駅係員が配置され、出改札業務を行っている。
ホームの藤沢方は併用軌道と踏切が重なり、踏切は、ちょうど併用軌道に乗り入れる場所にあるため、遮断機が山側1基しかない(警報機は道路側にもある)。また鎌倉方も踏切となっているため、4両編成の列車は鎌倉方の1両がホームからはみ出て停車するためドアが開かない。このため、乗務員室には「江ノ島・鎌倉高校前 確認」と表示されたドアカット・スイッチが設置されているほか、車両自体が腰越駅到着を認識しドアカットを行うようにフェイルセーフが設定されている。車両に搭載されている自動放送装置でも、4両編成組成時には腰越駅で1両ドアが開かない旨の放送が流れる。また、江ノ島駅、鎌倉高校前駅のホームにも注意書きがある。なお、スペースの関係で車掌用のデッキは設置されていない。1993年のホーム延長前は2両分しかホームがなく、4両運転時は後ろの2両編成からの乗降ができなかった。
出入口にはICカード用簡易改札機が設置されている。
2019年(令和元年)度の1日平均乗降人員は2,945人であり、江ノ電全15駅中9位。
近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下記の通り。
駅前を流れる神戸川対岸の「腰越駅」が最寄りバス停。全路線江ノ電バスによる運行。
|
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腰越駅(こしごええき)は、神奈川県鎌倉市腰越二丁目にある、江ノ島電鉄の駅。駅番号はEN07。 隣接する江ノ島駅付近から当駅までは併用軌道になり、道路上を走る。
|
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = 腰越駅
|画像 = Koshigoe-sta-building-2018.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 江ノ島方面から見た駅舎とホーム(2018年8月)
|地図={{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = こしごえ
|ローマ字 = Koshigoe
|副駅名 =
|前の駅 = EN06 [[江ノ島駅|江ノ島]]
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|駅間B = 0.8
|次の駅 = [[鎌倉高校前駅|鎌倉高校前]] EN08
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|駅番号 ={{駅番号r|EN|07|green|4}}
|所属事業者 = [[江ノ島電鉄]]
|所属路線 = {{Color|forestgreen|■}}[[江ノ島電鉄線]]
|キロ程 = 3.9
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|所在地 = [[神奈川県]][[鎌倉市]][[腰越]]二丁目14-14
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|座標 = {{coord|35|18|30|N|139|29|35.8|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面1線
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|乗車人員 =
|乗降人員 = 2,945
|統計年度 = 2019年
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|備考 = 4両編成は1両分[[ドアカット]]
}}
'''腰越駅'''(こしごええき)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]][[腰越]]二丁目にある、[[江ノ島電鉄線|江ノ島電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''EN07'''。
隣接する江ノ島駅付近から当駅までは[[併用軌道]]になり、道路上を走る。
== 歴史 ==
* [[1903年]]([[明治]]36年)[[6月20日]]:'''谷戸駅'''として開業。
* [[1948年]]([[昭和]]23年)[[7月15日]]:'''腰越駅'''に改称。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[4月22日]]:ホーム延長。
== 駅構造 ==
[[ファイル:Koshigoe-Sta-Platform-1.jpg|thumb|腰越駅ホームから江ノ島方面を望む(2006年5月)]]
[[単式ホーム]]1面1線を有する[[地上駅]]。日中は駅係員が配置され、出改札業務を行っている。
ホームの藤沢方は併用軌道と踏切が重なり、踏切は、ちょうど併用軌道に乗り入れる場所にあるため、遮断機が山側1基しかない(警報機は道路側にもある)。また鎌倉方も踏切となっているため、4両編成の列車は鎌倉方の1両がホームからはみ出て停車するため[[ドアカット|ドアが開かない]]。このため、乗務員室には「江ノ島・鎌倉高校前 確認」と表示されたドアカット・スイッチが設置されているほか、車両自体が腰越駅到着を認識しドアカットを行うようにフェイルセーフが設定されている。車両に搭載されている自動放送装置でも、4両編成組成時には腰越駅で1両ドアが開かない旨の放送が流れる。また、江ノ島駅、鎌倉高校前駅のホームにも注意書きがある。なお、スペースの関係で車掌用の[[デッキ]]は設置されていない。[[1993年]]のホーム延長前は2両分しかホームがなく、4両運転時は後ろの2両編成からの乗降ができなかった。
出入口にはICカード用簡易改札機が設置されている。
== 利用状況 ==
[[2019年]](令和元年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''2,945人'''であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.enoden.co.jp/corporate/company/book/pdf/2021-all.pdf|archiveurl=|title=江ノ電グループ会社要覧 2021年版|archivedate=|accessdate=2021-04-17|publisher=江ノ島電鉄|format=PDF|page=45|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、江ノ電全15駅中9位。
近年の1日平均'''乗降・乗車'''人員推移は下記の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/ 神奈川県県勢要覧]</ref>
|-
!年度
!1日平均<br>乗降人員
!1日平均<br>乗車人員
!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|
|1,445
|<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/992578_3227111_misc.pdf 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]}} - 28ページ</ref>
|-
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|
|1,282
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|1999年(平成11年)
|
|1,259
|<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}} - 228ページ</ref>
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|
|1,234
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|-
|2001年(平成13年)
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|2019年(令和元年)
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== 駅周辺 ==
* 鎌倉市腰越行政センター
* [[満福寺 (鎌倉市)|満福寺]]([[源義経]]が[[腰越状]]を書いたことで有名)
* [[浄泉寺 (鎌倉市)|浄泉寺]]
* [[小動神社]]
* [[腰越漁港]]
* [[小動岬]]
* [[神奈川県道304号腰越大船線]]
=== バス路線 ===
駅前を流れる神戸川対岸の「'''腰越駅'''」が最寄りバス停。全路線[[江ノ電バス]]による運行。
* [[江ノ電バス湘南営業所#大船 - 江ノ島線|N3]] - [[大船駅]]東口交通広場行 / [[江の島|江ノ島]]行
* [[江ノ電バス湘南営業所#小動循環線|F4]] - [[藤沢駅]]南口行 / 小動循環・小動行 ※小動行は夜のみ
== 隣の駅 ==
; 江ノ島電鉄
: [[ファイル:Number prefix Enoden.svg|15px|EN]] 江ノ島電鉄線
:: [[江ノ島駅]] (EN06) - '''腰越駅 (EN07)''' - [[鎌倉高校前駅]] (EN08)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
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; 神奈川県県勢要覧
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== 参考文献 == -->
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== 関連項目 ==
*[[腰越 (曖昧さ回避)]]
<!-- 関連するウィキ間リンク、ウィキリンク -->
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* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.enoden.co.jp/train/station/koshigoe/ 腰越駅] - 江ノ島電鉄
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[[Category:鎌倉市の鉄道駅]]
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[[Category:江ノ島電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1903年開業の鉄道駅]]
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渋滞
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渋滞(じゅうたい、英語:traffic jam、traffic congestion)とは、交通施設(道路、鉄道など)の能力を越える動体の流入により移動速度が遅くなった状態をいう。道路交通上の交通渋滞(こうつうじゅうたい)を特に渋滞と呼ぶこともある。
交通工学における渋滞の定義は、「ボトルネックにその区間の交通容量を上回る交通流率の交通需要が到着した時に、当該区間の上流に生じる低速の待ち車両列によって形成される交通状態」を指す。特に、交通信号機や合流部はボトルネックとなりやすい典型的な道路上の区間である。なお、「交通容量」とは特定の道路空間に単位時間当たりで通すことのできる車両数をいう。また、「交通流率」とは特定の道路空間に単位時間あたりに到着する車両数をいう。
一般的には、自動車が停止あるいは、一定速度以下のノロノロ運転で走行する自動車の列が数珠つなぎになった状態を渋滞と呼んでいる。渋滞長がいくら長くても、1回の青信号で信号待ち車列が全て捌ける場合は、一般には渋滞とは呼ばない。また、人の長蛇の列に対しても渋滞とは言わない。渋滞の内容は様々で、例えば20 km/h(キロメートル毎時)以下で走行している状態でも、停止して車列が動かない状態であっても渋滞である。車列の長さについても、正確な距離が定められているわけではないが、連なる自動車の列の長さが1キロメートルを越えた状態を渋滞と言っている。
日本の高度経済成長期に起こったモータリゼーションで一般大衆に自動車が普及する以前の自動車があまり走行していなかった時代では、「渋滞」という用語自体が一般に使われていなかった。日本における初めての大規模かつ本格的な渋滞は、1960年(昭和35年)10月6日に大阪市内で発生した10時間にわたる交通マヒによる大渋滞である。また、日本で初めて渋滞という用語が使われたのは、1961年(昭和36年)に警視庁がラジオの文化放送で、世界初となる交通情報を放送したときだといわれている。
なお、「渋滞」は自動車交通に関していうことが多いが、運河で船舶の通航量が増加するなどの理由で通航が滞っている場合も「渋滞」と表現されている。
渋滞は人流・物流の所要時間を増加させるため、到着時間を遅延させ、時間的損失からくる生活や産業活動・経済活動に負の影響をもたらしている。
また、渋滞は交通事故増加の原因となっている。例えば、生活道路に抜け道を目的とした車両が流入することでコミュニティ空間の安全性・快適性を損なう事例もみられる。
さらに、渋滞による車両の速度低下による無駄な燃料消費により、二酸化炭素や窒素酸化物などの物質が排気ガスとなって多く排出され、騒音などの環境悪化につながる原因となる。そして、渋滞によるストレスから些細なことでトラブルに発展し、犯罪を引き起こしている原因となることも珍しくなくなっている。
都市問題ではモータリゼーションと渋滞の悪化は相互に関連しており、渋滞によりバスやパラトランジット等の所要時間が長くなり公共交通の利便性が悪化すると人々はますます自動車やオートバイを利用するようになり渋滞を悪化させる悪循環を生じる。渋滞の発生は都市などの美観の問題として取り上げられることも多い。郊外部ではスプロール現象(自動車利用を前提とした無秩序で散発的な開発)が発生すると公共交通の導入が難しい都市構造となる。渋滞の深刻化が渋滞対策への費用の増加につながり財政負担の増大につながることもある。
年齢が若く、良心的ではなく、運転にあまり熱心でない人々は、ドライバーの退屈に苦しむ可能性が高いという実験結果が出ている。運転に熱心な人々は、運転することに集中しているため、ドライバーの退屈に苦しむ可能性が低いという実験結果が出ている。ドライバーが運転に集中すれば、他事に気を取られず、退屈に苦しむということがなくなるからである。
古代ローマでは馬車の交通需要が増大し、交通渋滞が日常的に発生していたといわれている。カエサルは渋滞対策として日中に都心部へ馬車の乗り入れを禁止する施策を実施したが、こうした日中で斥けられた馬車は夜間に振り向けられ、キケロが家族に送った手紙には「ローマでの真夜中の馬車の騒音は、ローマに住み利便性を享受する上では我慢しなければならない」旨が記されていた。また、11世紀頃のベネチアでは、ゴンドラの数だけでも1万を超え、運河での事故や渋滞が大きな問題となった。ゴンドラは所有者によって大きさなどの仕様が異なる状態であり、ゴンドラの様式を標準化することで水上交通の渋滞緩和を図ったとされている。
2010年、米外交専門誌フォーリン・ポリシーは、世界で最も交通渋滞が深刻な都市として、モスクワ、ラゴス、メキシコシティ、サンパウロ、北京市の5つの都市を挙げている。このうちサンパウロでは2013年11月に、それまで世界で最も長いといわれた165マイル(約265 km)超の記録を塗り替え、309km以上の渋滞を記録している。その他にも2010年8月14日には、中国の北京~ラサ間のG110国道と京蔵高速道路で100キロに及ぶ渋滞が10日以上にわたって続いた。また英BBCの2012年の調査によれば、バンコク、ジャカルタ、ナイロビ、マニラ、ムンバイの上位5都市が、渋滞が深刻な世界の都市としてランクインしている。
異説もあるが、以下の3都市は世界で最も渋滞の発生する都市と言われている。
オランダのカーナビゲーションメーカーTOMTOM(英語版)が2016年のデータをもとに交通渋滞がひどい都市のランキングを発表したが、上記の3都市がワースト3を占めている。
交通データ解析を行うアメリカINRIX(英語版)が世界38か国、1064都市を対象に渋滞状況を分析した2016年版の調査では、ワースト3はロサンゼルス、モスクワ、ニューヨークとなっており、バンコクは12位、ジャカルタは22位であった。
自動車が普及する前のアメリカの都市では馬車交通が主流であったが、馬の死体が放置されて衛生問題や交通渋滞を引き起こした。自動車は馬のように「死なず」、交通環境を改善させるものとして期待され、その後モータリゼーションの時代に突入する。
テキサスA&M大学テキサス交通研究所の調査(2004年)では、アメリカの都市部のドライバーが渋滞で動けなくなっている時間は1992年には年16時間だったが、2002年には年46時間まで悪化した。
交通渋滞対策への財政負担は1982年には年間約140億ドルだったが、2004年には年間約630億ドルにまで膨れ上がっている。
2004年のテキサスA&M大学テキサス交通研究所の調査によると、ロサンゼルスでは年間平均93時間、サンフランシスコで年間平均73時間、ワシントンDCで年間平均67時間の遅延が発生している。
日本国内における渋滞の損失時間は1人あたり年間約40時間(2012年度データより)とされている。産業活動における道路交通の役割は大きく、渋滞によって国内産業活動の効率化や産業の競争力向上にとって大きな足枷となる。そのため、警察庁や国土交通省は地方自治体と協力し、徹底して渋滞の解消を目指している。
交通渋滞の定義は、道路管理者や交通管理者ごとに異なっている。例えば、警視庁では統計上、下記を渋滞の定義としている(警視庁交通部 交通量統計表)。
また、首都高速道路では走行速度が20 km/h以下になった状態を、阪神高速道路では走行速度が30 km/h以下になった状態を渋滞として扱っており、それぞれの道路の特性によって渋滞と判定する「閾値(しきいち・いきち)」が定められている。同じ高速道路でも都市間高速道路に比べて都市内高速道路(首都高速・阪神高速など)はカーブや勾配が急で制限速度が厳しいため、交通サービスが低く、低速であっても渋滞と感じづらく、渋滞と判定する速度が低い。なお、イギリスでは80 km/hで渋滞と感じる報告もあり、渋滞と判定する速度が低い日本人は混雑した交通状態に慣れているともいえる。
2014年に国土交通省では、日本全国の高速道路において収集した各種交通データを活用し、日本全国の高速道路の渋滞ワーストランキングを発表している。以下に、年間ワースト10を挙げる。
開発途上国では交通行動の変容によるインフラの整備が追い付いていない状況である。例えば、停電に伴う信号機の消灯や、河川整備の未成熟なために生じる冠水の影響によって渋滞が発生する。また、牛車などの極端に走行速度が遅い車両や路上での故障車両によって渋滞が生じることもある。さらには、交通ルールやマナーが十分に守られていないために生じる渋滞も見られる。 一方で、非効率な信号制御やロータリー交差点の導入など、中途半端な渋滞対策により渋滞を悪化させている例が多い。
開発途上国の渋滞の要因には次のようなものがある。
渋滞は発生原因によって自然渋滞と突発渋滞の2種類に大別される。
渋滞流では、密に車両が並ぶ部分(密部)と、車頭間隔が比較的長く車両がまばらに並ぶ部分(疎部)が交互になるのが観測できる。この現象は「疎密波現象」と呼ばれる。 この疎密波現象は以下の現象を持っているとされる。
車間距離を狭くとればとるほど、疎密波現象は起きやすくなるので、適切な車間距離をとることは渋滞を防ぐうえで極めて重要である。
需要の超過する量が大きいほど渋滞する車列は速く延伸しやすくなり、需要の経過する時間が長いほど渋滞する車列は長くなりやすい。そして、道路の需要超過が終わってもすぐに渋滞が消滅しない。
道路区間内が均質な交通容量ならば渋滞することはないが、道路の構造などによって交通容量が低い一部区間(ボトルネック)があり、上流からボトルネックとなっている区間の交通容量を超える交通需要が到達すると、交通渋滞が発生する。渋滞の要因を大きく分けると、工事渋滞、事故渋滞、自然渋滞の三つだといわれている。一般道路と高速道路では、工事渋滞と事故渋滞が共通する渋滞発生原因であるが、自然渋滞についてはその性格を大きく異にする。サグ部と上り坂が自然渋滞の主な発生原因になるのは高速道路であって、一般道路での自然渋滞の主な発生原因になっているのは信号交差点と踏切だといわれている。自動車が何らかの原因で速度を落としたとき、あるいは速度を落とす地点を通過するときに渋滞は発生しやすい。日本社会における連休日でレジャーなどを楽しむとした行楽地への渡航で、首都から郊外へ一斉に自家用車で赴くため渋滞が顕著に現れている。
西成活裕は車の減速・発進が続いて、その振れ幅が大きくなっていくことに自然渋滞の原因があると分析している。また、渋滞のほとんどが追い越し車線から発生しており、ある車が追い越し車線に車線変更して割り込んだ際に後続の車がブレーキを踏んで減速。割り込みが複数台続き、これが繰り返されることで車間が縮まるのが原因と分析している。東名高速で発生した約40 kmの渋滞には、たった1台の車の車線変更が原因だったこともある。
一般道路において発生する渋滞原因のほとんどは、工事や事故を除けば、信号交差点と踏切、車線数が減少するボトルネックである。道路の1車線には1時間あたり約2,000台の交通容量がある。例えば、片側2車線の単路部(立体交差のように信号のない部分)の交通容量は1時間あたり約4,000台であるが、これを超える量の車両が流入すると渋滞が発生する。
信号交差点では赤信号の時間の間に到着した全ての車両が、次の青信号の時間でその信号交差点を通過できない状態であれば渋滞と判断される(ただし、この判断基準は下流に交差点がない「孤立交差点」である場合に限る)。
都市部では単路部は長くは続かず、信号交差点が数多くある。単路部で十分な交通容量があっても、その先の信号交差点の存在によってその道路の交通容量は低下する。例えば、信号の青信号の秒数が30秒、黄信号が0秒、赤信号の秒数が30秒という極めて単純な信号を仮定したとき、青信号時間の比率は50%となり、交通容量は青時間率が100%のとき(すなわち立体交差のとき)と比べて約半分となる。また交差点への進入車両が極度に増えた場合、隣接する交差点まで車両の列が伸びて渋滞が連鎖的に増えるグリッドロックと呼ばれる「超渋滞」現象が発生する。日本では東日本大震災で発生した渋滞でグリッドロック状態が観測され、解消までほぼ一日を要した。
信号機のパラメータ設定は、渋滞の発生有無に大きく影響する。不適切に設定すると、以前は渋滞のなかった交差点に渋滞が発生するようになる。
路上に駐車車両があるとその部分の有効車線数が減るため、交通容量は低下する。特に交差点付近の駐車車両は交通容量を著しく低下させ、特に都市部において顕著である。路線バスがバス停に一時停車するだけでも渋滞を引き起こすこともある。沿道の大規模商業施設(ロードサイド店舗)の駐車場に入ろうとする道路上の車列も、同じく渋滞の原因となる。このため側道の不足も流入台数の増加をもたらす。
道路工事による車線規制も交通容量を低下させる。道路工事を夜間に行うことが多いのは、夜間は交通量が少ないため、車線規制による渋滞の発生を軽減できるからである。
踏切では列車通過時に道路が遮断され、特に都市部の踏切は遮断されている時間が長く、「開かずの踏切」と揶揄されることがある。さらに日本の法規制では原則的に、信号機がない場合は遮断されていなくても一時停止が義務付けられているため、踏切によって道路容量が低下して渋滞の原因になりやすい。この状況を解消すべく、連続立体交差事業(鉄道の高架化あるいは地下化)を実施し、踏切を撤去する。
狭義には交通事故により、車線が塞がれて起きる渋滞である。広義には火事や天災によるものも含める。事故車両が車線を塞いでしまうことにより、後続の車両が進路を変更しようとするため、その右側車線を走行する車両とせめぎ合って交通の流れが悪くなり、放置すれば大渋滞を引き起こすことにつながることもある。
交通工学の本来の用語ではない。ドライバーが景色や看板、火事、対向車線の事故に目を奪われて脇見したりすることが走行速度の減速につながり、また停車をすることによって渋滞が引き起こされる。また、わき見運転は事故の危険も伴い、こうしたドライバーが事故を起こせば渋滞をさらに悪化させることになる。
高速道路でのボトルネックの多くは、下りから上りとなるサグ区間である。一定の交通需要がある条件下で、サグ区間で発生する渋滞は、同様の原因で発生するトンネル区間を含めると日本の高速道路全体の8割を占める。
高速道路上で、渋滞最後尾や、車間距離が詰まって速度が急に低下した場合の自動車の運転手は、追突事故の防止のためにハザードランプを点滅させて、後続車に注意を促す暗黙の了解があるが(道路交通法では特に定められてはいない)、NEXCO3社では本用法を推奨している。
インターチェンジ(IC)やジャンクション(JCT)では流出、流入が発生するが、本線の車は流入車を入れるため、前車との車間距離を空けるために少し減速したり、追越車線に移動したりする。本線の後続車は車間距離を一定に保とうとして、詰まった車間距離を広げるために速度を先行車より落とす。これが連鎖的に続くと渋滞となる。流入車そのものも遅い速度のまま本線に合流すれば渋滞の原因となりうる。また、流出でもカーブのため40 km/h規制、対向車線からの流出合流、料金所、一般道での渋滞などによって本線まで続くことがある。 織り込み(ウィービング)とは右図のようなものを言う。
料金所ではノンストップで走ってきた自動車が、通行料金を支払うために一旦停止し、その精算に時間がかかるために長い車列が出来ることは珍しくない。料金所の料金収受能力を越えると、その車列がインターチェンジ内にとどまらず、本線まで伸びてくることで、本線を走行中の車両の交通を阻害するようになり、渋滞に発展する。
日本では、2000年頃まで渋滞の最大要因となっていたが、ETCの普及によりノンストップで料金所を通過できる車両が増えたため、ほとんど解消されている。しかし料金所を抜けて一般道へつながる交差点や信号機でうまく自動車が流れず渋滞することもある。本線料金所では通行するすべての車が停車または減速を強いられるため、そこへ続く本線の交通量によっては渋滞が発生する。
工事や事故のため車線が減少・規制あるいは通行止めされることで渋滞になる。ときには全く動かなくなることもある。工事による渋滞はWebページやVICS等を通じて事前に公表されることがあるが、事故による渋滞は前述のケースや料金所での渋滞と違いいつどこで起こるかわからないため、予想することは困難で、VICSなどにも情報がすぐには入りにくい。車線規制が終了し交通容量が回復した後で、車線規制による渋滞列中に存在する車両がすべて通過して、渋滞解消となる。
日本における高速道路では山間部のような険しい地形上に路線を建設することもあり、勾配が多く存在する。ドライバーが平坦部と変わらないアクセルの踏み方で上り坂を登ろうとすると、3 %(100 m進んで3 m上る)程度のドライバーも気付かないほどのわずかな勾配でも速度が低下する。特に車両総重量の大きい大型車は速度低下が大きい。
後続の車は前方車両のわずかな減速に対し、安全のためにと前方車両以上に減速してしまうことがある。これがいくつか繰り返されると、後方の車両はかなりの低速状態になってしまい、渋滞が発生する。このような原因による交通容量の低下を防止するために、大きな勾配が存在する区間には付加車線(登坂車線)が設置されている。
また、サグには路側の壁面にエスコートライトやペースメーカーライトと呼ばれる光が流れるイルミネーションが設置されている箇所もあり、「視覚刺激による視覚誘導自己運動感覚効果」によりドライバーが車速の低下や車間距離に注意を払うようになり、渋滞を起こりにくくしている。
すり鉢状の地形にある道路では、ドライバーが凹状の底の地点(谷底)に到達して上り坂に差し掛かる、ゆるいV字形の箇所をサグ部とよんでいる。サグ部の勾配は、せいぜい2 - 3%程度である。下り勾配から上り勾配への変化が認識しづらいため、ドライバーが勾配の変化に気づかないことでアクセルを踏むことが少なくなり、自然と速度が低下していく。その結果、後続車との車間距離が一気に縮まり、後続車が車間を確保しようとして連鎖的にブレーキを踏まざるを得なくなり、さらに元の走行スピードに戻すまでには時間を要するためやがて渋滞となる。
自動車のアクセルは速度を管理・調整する機能ではなく、燃焼状況(トルク)を調節する機能であるため、路面状況の変化にドライバーが気が付かず同じようにアクセルを操作すれば、このわずかなタイミングの遅れにより速度の低下が起こることで結果的に交通容量の低下が起こる。車間距離が短くなると、サグ部に差し掛かっただけで渋滞が発生しやすくなり、サグ部の渋滞時の交通容量は非渋滞時に比べて大幅に低下することとなる。
サグ部における渋滞を防ぐため、ドライバーにサグ部であることを気付かせることが大切であり、減速を防ぐための標識を設置することも渋滞対策の1つである。また、エスコートライト(後述)やオプティカルドットによる対策も考えられている。
トンネルは「内部の暗さ」「天井や側方の壁が近いことによる圧迫感」の主に2つが理由として、ドライバーが恐怖心を以てどうしてもアクセルを緩めてしまう傾向がある。その結果、交通容量が低下し、交通量があって車間距離が詰まっている状況下においてはブレーキの連鎖により渋滞が発生する。また、雨水をはくために中央に向けて上り坂となっているトンネルもあり、これも渋滞の原因となっている。
上り坂の区間がトンネルになっている場合、壁面のラインによってあたかも水平と誤認識し、速度の低下が発生することで渋滞が発生することもある。
トンネルの断面積を大きくし、かつ照明を明るくすることによってドライバーの恐怖心を和らげて渋滞を緩和する方法がとられている。
単純に渋滞を克服し解消する方法は、道路の交通容量を拡大するか、交通量を減らすかのどちらかである。多くの場合は交通容量を増大させることで渋滞は解決できる。従来は道路の拡幅や新規整備を行うことで交通容量を増大化させる施策が積極的にとられてきたが、道路の拡幅や新規整備が行われることによって、それまで渋滞によって利用を踏みとどまっていた潜在的な需要を誘発させ、交通量がさらに増加してしまい、かえって渋滞が悪化してしまう事例が見られた(誘発された交通需要のことを「誘発需要」と呼ぶ)。
交通容量を拡大する方法は、道路整備・改良や信号制御の高度化などによる「交通容量を増大させる」方法と、路上駐車の排除やサグ部での速度回復などによる「交通容量を回復させる」方法に分けられる。車線数を増設することは交通容量を単純に増やすことが出来るため、最も早い渋滞解決手法だといえるが、整備費用に多額の資金を要するため、容易に車線を増やすことが出来ないのが実情である。ただし、車線あたりの幅員を小さくするよう路面標示を改良することで大きなコストをかけずに交通容量が増やすこともできる。
交通量を減らす方法として、交通需要マネジメント(英:Transportation Demand Management、略称:TDM)があり、車の利用者が協力し合い、交通量削減のため調整を図る施策である。例として、フレックスタイム(時差出勤)や、パークアンドライドシステムの導入による公共交通機関への乗り換え、運転経路変更の誘導案内による交通の分散化、都市部では道路の中央線を可変させるリバーシブルレーンの設置によって、効果を上げることができる。交通需要を抑制し調整することで渋滞を緩和させるのがTDMの狙いだが、道路利用者の協力なくしては実現不可能という側面を併せ持つ。こうしたTDMの代表的な施策はドライバーに十分な報酬(メリット)を与えずに一人一人の行動や習慣の変化を求めるものが多く、その一人一人が行動や習慣を変化させれば自分は損をするという社会的ジレンマに陥り広く一般には浸透していない状況である。
道路の拡幅や立体化には限界があり、TDMも決定的解決策とまでいかないことから、高度道路交通システム(英:Intelligent Transport System、略称:ITS)の研究が日本をはじめ欧米諸国で進められている。ITSは、最先端の道路通信技術の総称を意味する用語で、高度情報通信技術を駆使して道路と車を一体化した道路交通システムを確立し、交通渋滞のほかにも交通事故の抑止、環境改善をするのが狙いである。ITS技術の代表的なものとして、VICS(道路交通情報通信システム)やETCがあり、AHS(走行支援道路システム)もITSを支える先端技術として今後の動向が注目されている。
交通渋滞の対策として、AIによる渋滞の対策の予測や、渋滞状況伝達をする仕組みが整えられている。予め道路の渋滞状況をドライバーが把握できれば、事前に渋滞をしない道を選択し、安全に運転することができるからだ。
AI渋滞予知による、当日の天気や、イベントの有無なども考慮することができるので、より高い精度で予知をすることができる。
道路を拡幅して車線数を1本から2本に増やせば、単純に交通容量は2倍になるが実際にはそれよりも大きく交通容量を大きくすることができ、そして最も早い解決手法でもある。ただし、道路拡幅には多大な道路改築予算を必要とすることから、実際には容易に車線数を増やすことが出来ないでいるのが実情である。そこで、信号交差点の手前の一部区間に右折専用レーンを長めに増設して後続車の進路を妨げない方法をとることで、交通容量を増大させることもできる。また、左折車が多い交差点では左折レーンを増設することで、交通車両の流れをスムーズにて渋滞緩和に役立てられている。
秋田南バイパスのケースでは、国道7号のバイパスとして新しい道路を建設した結果、整備前の23 km/hから整備後32 km/hと速度向上できた。しかしながらその後、一部区間で慢性的な渋滞が発生し問題となっていた。そこで4線化に着手した結果、新屋跨道橋交差点では整備後旅行速度は3倍向上した。
信号制御の設定値を最適化すること渋滞はかなり緩和できる。交通量がほぼ同じ道路どうしが交差する信号交差点では、双方の道路の信号機の青信号と赤信号の秒数を同じ長さとするが、特に事情がない限り、交通量の多い道路側の信号機の青信号の秒数を長くし、交通量の少ない道路側の青信号を短く適切な秒数で設定することで渋滞を回避できる。市街地では、他の信号機と連動した系統式の信号を設置することで、かなりの渋滞は回避できる。また、交通量に応じて赤信号と青信号の秒数を自動的に調整する感応制御式の信号機の普及が渋滞対策に役立てられている。
左折と右折の矢印信号を効果的に用いることも、渋滞の緩和に有効である。その際、右折車が多い交差点では右折専用矢印信号を数秒長く設定し、左折車が多い交差点では左折専用矢印信号を設ける工夫が必要となる。片側4車線以上ある広い道路では、直進・右折・左折専用の矢印信号だけで制御しているセパレート式信号機を採用する交差点があり、渋滞の緩和に一定の成果を上げている。横断歩行者が多い交差点では、横断歩行者の列にさえぎられて車列が右左折できないこともあり得るため、横断歩行者用信号と車道用信号を分離制御することで解決させる手法がとられる。
中華人民共和国吉林省吉林市において、これまでの統計とバスに搭載された端末を通じてデータを元に信号の設定を変えた結果、車両の平均時速が上がり渋滞緩和に成功した。
後述の立体交差化や、拡幅・バイパスの建設を伴わなくても交差点を改良すれば改善される場合が少なくない。たとえば、交差点の面積を小さくすることで信号制御の効率が改善されて慢性的な渋滞が解消された事例がある。また、右折や左折の専用車線を新設・延伸することや、右折ポケット・左折ポケット(右左折するために待機する車両の側方を直進車が通り抜け出来るように広げられた右直混用車線)の設置によって大規模な工事を行うことなく渋滞解消が見込める可能性がある。
道路が他の道路や踏切と平面交差している事により、結節点としての効果を発揮する代わりに円滑な交通の妨げになっていた。そこで立体的に交差することより、交通容量は飛躍的に増大でき、効率よく通行することができる。立体交差化は信号交差点や踏切で行われる渋滞対策手法で、特に信号交差点では交通量が多い方の道路を、交差する道路の上に跨がせる高架橋とするか、道路下にくぐらせるアンダーパスとしたほうが、より大きな効果が期待される。
具体例として小田急電鉄小田原線成城学園前駅から登戸駅を連続立体交差化した結果、実施前は旅行速度8 km/hに対して実施後は旅行速度19 km/hと大幅に向上することに成功した。
信号交差点付近での路上駐車が渋滞の原因となっている事例は多くみられる。東京の環状6号線では全ボトルネック交差点の内、およそ3/4が交差点付近での路上駐車が原因であった調査例がある。渋滞の原因となる路上駐車を排除させるには、特定の区間で違法駐車の取締を集中的に行うことが効果的である。また、案内板やインターネットによる駐車場情報システムを運用することでドライバーに駐車場の位置を明示させて路上駐車を減らす試みも行われている。
東日本高速道路(NEXCO東日本)の調べによると、高速道路の道路渋滞は交通集中を原因とする渋滞が約7割を占め、さらに上り坂及びサグ部での渋滞がそのうちの約7割となっているという。具体的には、上り坂やサグ部での車の速度低下により、後続の車が車間距離を空けようとブレーキを踏み、その動作にさらに後続の車が反応することで旅行速度の著しい低下を招く、というものである。そこでNEXCO東日本では、LED発光パネルを道路脇に複数設置して進行方向に流れるように光るシステムを開発した。視覚誘導性自己運動感覚のため、その装置によりドライバーは光の流れを意識するようになり、速度向上を自然と意識するのが狙いである。LED発光パネルが初めて設置されたのは2011年2月に三陸自動車道利府ジャンクションが最初である。実際に設置を行った箇所では以前より速度向上し、後続車も追随することにより渋滞延長は2100m から800mと短くなり、渋滞継続時間は50分から30分へ短縮した。現在ではNEXCO東日本では「ペースメーカーライト」、首都高速道路では「エスコートライト」、NEXCO中日本では「速度感覚コントロールシステム」という名称で設置を行っている。
イギリスのロンドン市では2003年、特定地区への車両乗り入れ時に課税するコンジェスチョン・チャージ(渋滞税)を導入した結果、交通量が20%減少し、渋滞遅延時間も30%減少した。
メキシコシティやボゴタでは、ナンバープレートの末尾が3、6、9の自動車は月曜日の午前6時-10時、午後4時-7時には運転できないなど複雑な規制をかけている。
2009年に警察庁と日本自動車連盟が共同で、中央自動車道小仏トンネルで8台の車を車間距離を40 m空けて一斉に走行させた結果、平均時速が実施前の55 km/hから80 km/hに回復したという実験結果が出ている。これは車間距離を詰め過ぎると後ろの車が前の車に反応することによってスピードが落ちるためで、距離を40 m空けることで防ぐことができる。
1987年の年末年始から日本道路公団で渋滞予測情報提供が始まり、現在ではNEXCOと日本道路交通情報センターが提供している。これにより渋滞する日付と時間帯が分かり渋滞を避けられる。なお的中率は8割程度で、外れる原因としては天候やメディアで紹介された場所へ人々が殺到することが挙げられる。
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"text": "渋滞(じゅうたい、英語:traffic jam、traffic congestion)とは、交通施設(道路、鉄道など)の能力を越える動体の流入により移動速度が遅くなった状態をいう。道路交通上の交通渋滞(こうつうじゅうたい)を特に渋滞と呼ぶこともある。",
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},
{
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"text": "交通工学における渋滞の定義は、「ボトルネックにその区間の交通容量を上回る交通流率の交通需要が到着した時に、当該区間の上流に生じる低速の待ち車両列によって形成される交通状態」を指す。特に、交通信号機や合流部はボトルネックとなりやすい典型的な道路上の区間である。なお、「交通容量」とは特定の道路空間に単位時間当たりで通すことのできる車両数をいう。また、「交通流率」とは特定の道路空間に単位時間あたりに到着する車両数をいう。",
"title": "定義"
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"text": "一般的には、自動車が停止あるいは、一定速度以下のノロノロ運転で走行する自動車の列が数珠つなぎになった状態を渋滞と呼んでいる。渋滞長がいくら長くても、1回の青信号で信号待ち車列が全て捌ける場合は、一般には渋滞とは呼ばない。また、人の長蛇の列に対しても渋滞とは言わない。渋滞の内容は様々で、例えば20 km/h(キロメートル毎時)以下で走行している状態でも、停止して車列が動かない状態であっても渋滞である。車列の長さについても、正確な距離が定められているわけではないが、連なる自動車の列の長さが1キロメートルを越えた状態を渋滞と言っている。",
"title": "定義"
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"text": "日本の高度経済成長期に起こったモータリゼーションで一般大衆に自動車が普及する以前の自動車があまり走行していなかった時代では、「渋滞」という用語自体が一般に使われていなかった。日本における初めての大規模かつ本格的な渋滞は、1960年(昭和35年)10月6日に大阪市内で発生した10時間にわたる交通マヒによる大渋滞である。また、日本で初めて渋滞という用語が使われたのは、1961年(昭和36年)に警視庁がラジオの文化放送で、世界初となる交通情報を放送したときだといわれている。",
"title": "定義"
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"text": "なお、「渋滞」は自動車交通に関していうことが多いが、運河で船舶の通航量が増加するなどの理由で通航が滞っている場合も「渋滞」と表現されている。",
"title": "定義"
},
{
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"text": "渋滞は人流・物流の所要時間を増加させるため、到着時間を遅延させ、時間的損失からくる生活や産業活動・経済活動に負の影響をもたらしている。",
"title": "渋滞の悪影響"
},
{
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"text": "また、渋滞は交通事故増加の原因となっている。例えば、生活道路に抜け道を目的とした車両が流入することでコミュニティ空間の安全性・快適性を損なう事例もみられる。",
"title": "渋滞の悪影響"
},
{
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"tag": "p",
"text": "さらに、渋滞による車両の速度低下による無駄な燃料消費により、二酸化炭素や窒素酸化物などの物質が排気ガスとなって多く排出され、騒音などの環境悪化につながる原因となる。そして、渋滞によるストレスから些細なことでトラブルに発展し、犯罪を引き起こしている原因となることも珍しくなくなっている。",
"title": "渋滞の悪影響"
},
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"text": "都市問題ではモータリゼーションと渋滞の悪化は相互に関連しており、渋滞によりバスやパラトランジット等の所要時間が長くなり公共交通の利便性が悪化すると人々はますます自動車やオートバイを利用するようになり渋滞を悪化させる悪循環を生じる。渋滞の発生は都市などの美観の問題として取り上げられることも多い。郊外部ではスプロール現象(自動車利用を前提とした無秩序で散発的な開発)が発生すると公共交通の導入が難しい都市構造となる。渋滞の深刻化が渋滞対策への費用の増加につながり財政負担の増大につながることもある。",
"title": "渋滞の悪影響"
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"text": "年齢が若く、良心的ではなく、運転にあまり熱心でない人々は、ドライバーの退屈に苦しむ可能性が高いという実験結果が出ている。運転に熱心な人々は、運転することに集中しているため、ドライバーの退屈に苦しむ可能性が低いという実験結果が出ている。ドライバーが運転に集中すれば、他事に気を取られず、退屈に苦しむということがなくなるからである。",
"title": "渋滞の悪影響"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "古代ローマでは馬車の交通需要が増大し、交通渋滞が日常的に発生していたといわれている。カエサルは渋滞対策として日中に都心部へ馬車の乗り入れを禁止する施策を実施したが、こうした日中で斥けられた馬車は夜間に振り向けられ、キケロが家族に送った手紙には「ローマでの真夜中の馬車の騒音は、ローマに住み利便性を享受する上では我慢しなければならない」旨が記されていた。また、11世紀頃のベネチアでは、ゴンドラの数だけでも1万を超え、運河での事故や渋滞が大きな問題となった。ゴンドラは所有者によって大きさなどの仕様が異なる状態であり、ゴンドラの様式を標準化することで水上交通の渋滞緩和を図ったとされている。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
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"text": "2010年、米外交専門誌フォーリン・ポリシーは、世界で最も交通渋滞が深刻な都市として、モスクワ、ラゴス、メキシコシティ、サンパウロ、北京市の5つの都市を挙げている。このうちサンパウロでは2013年11月に、それまで世界で最も長いといわれた165マイル(約265 km)超の記録を塗り替え、309km以上の渋滞を記録している。その他にも2010年8月14日には、中国の北京~ラサ間のG110国道と京蔵高速道路で100キロに及ぶ渋滞が10日以上にわたって続いた。また英BBCの2012年の調査によれば、バンコク、ジャカルタ、ナイロビ、マニラ、ムンバイの上位5都市が、渋滞が深刻な世界の都市としてランクインしている。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
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"text": "異説もあるが、以下の3都市は世界で最も渋滞の発生する都市と言われている。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "オランダのカーナビゲーションメーカーTOMTOM(英語版)が2016年のデータをもとに交通渋滞がひどい都市のランキングを発表したが、上記の3都市がワースト3を占めている。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "交通データ解析を行うアメリカINRIX(英語版)が世界38か国、1064都市を対象に渋滞状況を分析した2016年版の調査では、ワースト3はロサンゼルス、モスクワ、ニューヨークとなっており、バンコクは12位、ジャカルタは22位であった。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "自動車が普及する前のアメリカの都市では馬車交通が主流であったが、馬の死体が放置されて衛生問題や交通渋滞を引き起こした。自動車は馬のように「死なず」、交通環境を改善させるものとして期待され、その後モータリゼーションの時代に突入する。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
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"tag": "p",
"text": "テキサスA&M大学テキサス交通研究所の調査(2004年)では、アメリカの都市部のドライバーが渋滞で動けなくなっている時間は1992年には年16時間だったが、2002年には年46時間まで悪化した。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
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"tag": "p",
"text": "交通渋滞対策への財政負担は1982年には年間約140億ドルだったが、2004年には年間約630億ドルにまで膨れ上がっている。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2004年のテキサスA&M大学テキサス交通研究所の調査によると、ロサンゼルスでは年間平均93時間、サンフランシスコで年間平均73時間、ワシントンDCで年間平均67時間の遅延が発生している。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
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"tag": "p",
"text": "日本国内における渋滞の損失時間は1人あたり年間約40時間(2012年度データより)とされている。産業活動における道路交通の役割は大きく、渋滞によって国内産業活動の効率化や産業の競争力向上にとって大きな足枷となる。そのため、警察庁や国土交通省は地方自治体と協力し、徹底して渋滞の解消を目指している。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
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"text": "交通渋滞の定義は、道路管理者や交通管理者ごとに異なっている。例えば、警視庁では統計上、下記を渋滞の定義としている(警視庁交通部 交通量統計表)。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
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"text": "また、首都高速道路では走行速度が20 km/h以下になった状態を、阪神高速道路では走行速度が30 km/h以下になった状態を渋滞として扱っており、それぞれの道路の特性によって渋滞と判定する「閾値(しきいち・いきち)」が定められている。同じ高速道路でも都市間高速道路に比べて都市内高速道路(首都高速・阪神高速など)はカーブや勾配が急で制限速度が厳しいため、交通サービスが低く、低速であっても渋滞と感じづらく、渋滞と判定する速度が低い。なお、イギリスでは80 km/hで渋滞と感じる報告もあり、渋滞と判定する速度が低い日本人は混雑した交通状態に慣れているともいえる。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
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"text": "2014年に国土交通省では、日本全国の高速道路において収集した各種交通データを活用し、日本全国の高速道路の渋滞ワーストランキングを発表している。以下に、年間ワースト10を挙げる。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "開発途上国では交通行動の変容によるインフラの整備が追い付いていない状況である。例えば、停電に伴う信号機の消灯や、河川整備の未成熟なために生じる冠水の影響によって渋滞が発生する。また、牛車などの極端に走行速度が遅い車両や路上での故障車両によって渋滞が生じることもある。さらには、交通ルールやマナーが十分に守られていないために生じる渋滞も見られる。 一方で、非効率な信号制御やロータリー交差点の導入など、中途半端な渋滞対策により渋滞を悪化させている例が多い。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
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"text": "開発途上国の渋滞の要因には次のようなものがある。",
"title": "各国・各地域における渋滞"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "渋滞は発生原因によって自然渋滞と突発渋滞の2種類に大別される。",
"title": "渋滞の種類"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "渋滞流では、密に車両が並ぶ部分(密部)と、車頭間隔が比較的長く車両がまばらに並ぶ部分(疎部)が交互になるのが観測できる。この現象は「疎密波現象」と呼ばれる。 この疎密波現象は以下の現象を持っているとされる。",
"title": "渋滞での交通流"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "車間距離を狭くとればとるほど、疎密波現象は起きやすくなるので、適切な車間距離をとることは渋滞を防ぐうえで極めて重要である。",
"title": "渋滞での交通流"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "需要の超過する量が大きいほど渋滞する車列は速く延伸しやすくなり、需要の経過する時間が長いほど渋滞する車列は長くなりやすい。そして、道路の需要超過が終わってもすぐに渋滞が消滅しない。",
"title": "渋滞での交通流"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "道路区間内が均質な交通容量ならば渋滞することはないが、道路の構造などによって交通容量が低い一部区間(ボトルネック)があり、上流からボトルネックとなっている区間の交通容量を超える交通需要が到達すると、交通渋滞が発生する。渋滞の要因を大きく分けると、工事渋滞、事故渋滞、自然渋滞の三つだといわれている。一般道路と高速道路では、工事渋滞と事故渋滞が共通する渋滞発生原因であるが、自然渋滞についてはその性格を大きく異にする。サグ部と上り坂が自然渋滞の主な発生原因になるのは高速道路であって、一般道路での自然渋滞の主な発生原因になっているのは信号交差点と踏切だといわれている。自動車が何らかの原因で速度を落としたとき、あるいは速度を落とす地点を通過するときに渋滞は発生しやすい。日本社会における連休日でレジャーなどを楽しむとした行楽地への渡航で、首都から郊外へ一斉に自家用車で赴くため渋滞が顕著に現れている。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "西成活裕は車の減速・発進が続いて、その振れ幅が大きくなっていくことに自然渋滞の原因があると分析している。また、渋滞のほとんどが追い越し車線から発生しており、ある車が追い越し車線に車線変更して割り込んだ際に後続の車がブレーキを踏んで減速。割り込みが複数台続き、これが繰り返されることで車間が縮まるのが原因と分析している。東名高速で発生した約40 kmの渋滞には、たった1台の車の車線変更が原因だったこともある。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "一般道路において発生する渋滞原因のほとんどは、工事や事故を除けば、信号交差点と踏切、車線数が減少するボトルネックである。道路の1車線には1時間あたり約2,000台の交通容量がある。例えば、片側2車線の単路部(立体交差のように信号のない部分)の交通容量は1時間あたり約4,000台であるが、これを超える量の車両が流入すると渋滞が発生する。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "信号交差点では赤信号の時間の間に到着した全ての車両が、次の青信号の時間でその信号交差点を通過できない状態であれば渋滞と判断される(ただし、この判断基準は下流に交差点がない「孤立交差点」である場合に限る)。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "都市部では単路部は長くは続かず、信号交差点が数多くある。単路部で十分な交通容量があっても、その先の信号交差点の存在によってその道路の交通容量は低下する。例えば、信号の青信号の秒数が30秒、黄信号が0秒、赤信号の秒数が30秒という極めて単純な信号を仮定したとき、青信号時間の比率は50%となり、交通容量は青時間率が100%のとき(すなわち立体交差のとき)と比べて約半分となる。また交差点への進入車両が極度に増えた場合、隣接する交差点まで車両の列が伸びて渋滞が連鎖的に増えるグリッドロックと呼ばれる「超渋滞」現象が発生する。日本では東日本大震災で発生した渋滞でグリッドロック状態が観測され、解消までほぼ一日を要した。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "信号機のパラメータ設定は、渋滞の発生有無に大きく影響する。不適切に設定すると、以前は渋滞のなかった交差点に渋滞が発生するようになる。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "路上に駐車車両があるとその部分の有効車線数が減るため、交通容量は低下する。特に交差点付近の駐車車両は交通容量を著しく低下させ、特に都市部において顕著である。路線バスがバス停に一時停車するだけでも渋滞を引き起こすこともある。沿道の大規模商業施設(ロードサイド店舗)の駐車場に入ろうとする道路上の車列も、同じく渋滞の原因となる。このため側道の不足も流入台数の増加をもたらす。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "道路工事による車線規制も交通容量を低下させる。道路工事を夜間に行うことが多いのは、夜間は交通量が少ないため、車線規制による渋滞の発生を軽減できるからである。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "踏切では列車通過時に道路が遮断され、特に都市部の踏切は遮断されている時間が長く、「開かずの踏切」と揶揄されることがある。さらに日本の法規制では原則的に、信号機がない場合は遮断されていなくても一時停止が義務付けられているため、踏切によって道路容量が低下して渋滞の原因になりやすい。この状況を解消すべく、連続立体交差事業(鉄道の高架化あるいは地下化)を実施し、踏切を撤去する。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "狭義には交通事故により、車線が塞がれて起きる渋滞である。広義には火事や天災によるものも含める。事故車両が車線を塞いでしまうことにより、後続の車両が進路を変更しようとするため、その右側車線を走行する車両とせめぎ合って交通の流れが悪くなり、放置すれば大渋滞を引き起こすことにつながることもある。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "交通工学の本来の用語ではない。ドライバーが景色や看板、火事、対向車線の事故に目を奪われて脇見したりすることが走行速度の減速につながり、また停車をすることによって渋滞が引き起こされる。また、わき見運転は事故の危険も伴い、こうしたドライバーが事故を起こせば渋滞をさらに悪化させることになる。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "高速道路でのボトルネックの多くは、下りから上りとなるサグ区間である。一定の交通需要がある条件下で、サグ区間で発生する渋滞は、同様の原因で発生するトンネル区間を含めると日本の高速道路全体の8割を占める。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "高速道路上で、渋滞最後尾や、車間距離が詰まって速度が急に低下した場合の自動車の運転手は、追突事故の防止のためにハザードランプを点滅させて、後続車に注意を促す暗黙の了解があるが(道路交通法では特に定められてはいない)、NEXCO3社では本用法を推奨している。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "インターチェンジ(IC)やジャンクション(JCT)では流出、流入が発生するが、本線の車は流入車を入れるため、前車との車間距離を空けるために少し減速したり、追越車線に移動したりする。本線の後続車は車間距離を一定に保とうとして、詰まった車間距離を広げるために速度を先行車より落とす。これが連鎖的に続くと渋滞となる。流入車そのものも遅い速度のまま本線に合流すれば渋滞の原因となりうる。また、流出でもカーブのため40 km/h規制、対向車線からの流出合流、料金所、一般道での渋滞などによって本線まで続くことがある。 織り込み(ウィービング)とは右図のようなものを言う。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "料金所ではノンストップで走ってきた自動車が、通行料金を支払うために一旦停止し、その精算に時間がかかるために長い車列が出来ることは珍しくない。料金所の料金収受能力を越えると、その車列がインターチェンジ内にとどまらず、本線まで伸びてくることで、本線を走行中の車両の交通を阻害するようになり、渋滞に発展する。",
"title": "渋滞の原因"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本では、2000年頃まで渋滞の最大要因となっていたが、ETCの普及によりノンストップで料金所を通過できる車両が増えたため、ほとんど解消されている。しかし料金所を抜けて一般道へつながる交差点や信号機でうまく自動車が流れず渋滞することもある。本線料金所では通行するすべての車が停車または減速を強いられるため、そこへ続く本線の交通量によっては渋滞が発生する。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "工事や事故のため車線が減少・規制あるいは通行止めされることで渋滞になる。ときには全く動かなくなることもある。工事による渋滞はWebページやVICS等を通じて事前に公表されることがあるが、事故による渋滞は前述のケースや料金所での渋滞と違いいつどこで起こるかわからないため、予想することは困難で、VICSなどにも情報がすぐには入りにくい。車線規制が終了し交通容量が回復した後で、車線規制による渋滞列中に存在する車両がすべて通過して、渋滞解消となる。",
"title": "渋滞の原因"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "日本における高速道路では山間部のような険しい地形上に路線を建設することもあり、勾配が多く存在する。ドライバーが平坦部と変わらないアクセルの踏み方で上り坂を登ろうとすると、3 %(100 m進んで3 m上る)程度のドライバーも気付かないほどのわずかな勾配でも速度が低下する。特に車両総重量の大きい大型車は速度低下が大きい。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "後続の車は前方車両のわずかな減速に対し、安全のためにと前方車両以上に減速してしまうことがある。これがいくつか繰り返されると、後方の車両はかなりの低速状態になってしまい、渋滞が発生する。このような原因による交通容量の低下を防止するために、大きな勾配が存在する区間には付加車線(登坂車線)が設置されている。",
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、サグには路側の壁面にエスコートライトやペースメーカーライトと呼ばれる光が流れるイルミネーションが設置されている箇所もあり、「視覚刺激による視覚誘導自己運動感覚効果」によりドライバーが車速の低下や車間距離に注意を払うようになり、渋滞を起こりにくくしている。",
"title": "渋滞の原因"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "すり鉢状の地形にある道路では、ドライバーが凹状の底の地点(谷底)に到達して上り坂に差し掛かる、ゆるいV字形の箇所をサグ部とよんでいる。サグ部の勾配は、せいぜい2 - 3%程度である。下り勾配から上り勾配への変化が認識しづらいため、ドライバーが勾配の変化に気づかないことでアクセルを踏むことが少なくなり、自然と速度が低下していく。その結果、後続車との車間距離が一気に縮まり、後続車が車間を確保しようとして連鎖的にブレーキを踏まざるを得なくなり、さらに元の走行スピードに戻すまでには時間を要するためやがて渋滞となる。",
"title": "渋滞の原因"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "自動車のアクセルは速度を管理・調整する機能ではなく、燃焼状況(トルク)を調節する機能であるため、路面状況の変化にドライバーが気が付かず同じようにアクセルを操作すれば、このわずかなタイミングの遅れにより速度の低下が起こることで結果的に交通容量の低下が起こる。車間距離が短くなると、サグ部に差し掛かっただけで渋滞が発生しやすくなり、サグ部の渋滞時の交通容量は非渋滞時に比べて大幅に低下することとなる。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "サグ部における渋滞を防ぐため、ドライバーにサグ部であることを気付かせることが大切であり、減速を防ぐための標識を設置することも渋滞対策の1つである。また、エスコートライト(後述)やオプティカルドットによる対策も考えられている。",
"title": "渋滞の原因"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "トンネルは「内部の暗さ」「天井や側方の壁が近いことによる圧迫感」の主に2つが理由として、ドライバーが恐怖心を以てどうしてもアクセルを緩めてしまう傾向がある。その結果、交通容量が低下し、交通量があって車間距離が詰まっている状況下においてはブレーキの連鎖により渋滞が発生する。また、雨水をはくために中央に向けて上り坂となっているトンネルもあり、これも渋滞の原因となっている。",
"title": "渋滞の原因"
},
{
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"tag": "p",
"text": "上り坂の区間がトンネルになっている場合、壁面のラインによってあたかも水平と誤認識し、速度の低下が発生することで渋滞が発生することもある。",
"title": "渋滞の原因"
},
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"text": "トンネルの断面積を大きくし、かつ照明を明るくすることによってドライバーの恐怖心を和らげて渋滞を緩和する方法がとられている。",
"title": "渋滞の原因"
},
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "単純に渋滞を克服し解消する方法は、道路の交通容量を拡大するか、交通量を減らすかのどちらかである。多くの場合は交通容量を増大させることで渋滞は解決できる。従来は道路の拡幅や新規整備を行うことで交通容量を増大化させる施策が積極的にとられてきたが、道路の拡幅や新規整備が行われることによって、それまで渋滞によって利用を踏みとどまっていた潜在的な需要を誘発させ、交通量がさらに増加してしまい、かえって渋滞が悪化してしまう事例が見られた(誘発された交通需要のことを「誘発需要」と呼ぶ)。",
"title": "渋滞対策"
},
{
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"tag": "p",
"text": "交通容量を拡大する方法は、道路整備・改良や信号制御の高度化などによる「交通容量を増大させる」方法と、路上駐車の排除やサグ部での速度回復などによる「交通容量を回復させる」方法に分けられる。車線数を増設することは交通容量を単純に増やすことが出来るため、最も早い渋滞解決手法だといえるが、整備費用に多額の資金を要するため、容易に車線を増やすことが出来ないのが実情である。ただし、車線あたりの幅員を小さくするよう路面標示を改良することで大きなコストをかけずに交通容量が増やすこともできる。",
"title": "渋滞対策"
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"tag": "p",
"text": "交通量を減らす方法として、交通需要マネジメント(英:Transportation Demand Management、略称:TDM)があり、車の利用者が協力し合い、交通量削減のため調整を図る施策である。例として、フレックスタイム(時差出勤)や、パークアンドライドシステムの導入による公共交通機関への乗り換え、運転経路変更の誘導案内による交通の分散化、都市部では道路の中央線を可変させるリバーシブルレーンの設置によって、効果を上げることができる。交通需要を抑制し調整することで渋滞を緩和させるのがTDMの狙いだが、道路利用者の協力なくしては実現不可能という側面を併せ持つ。こうしたTDMの代表的な施策はドライバーに十分な報酬(メリット)を与えずに一人一人の行動や習慣の変化を求めるものが多く、その一人一人が行動や習慣を変化させれば自分は損をするという社会的ジレンマに陥り広く一般には浸透していない状況である。",
"title": "渋滞対策"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "道路の拡幅や立体化には限界があり、TDMも決定的解決策とまでいかないことから、高度道路交通システム(英:Intelligent Transport System、略称:ITS)の研究が日本をはじめ欧米諸国で進められている。ITSは、最先端の道路通信技術の総称を意味する用語で、高度情報通信技術を駆使して道路と車を一体化した道路交通システムを確立し、交通渋滞のほかにも交通事故の抑止、環境改善をするのが狙いである。ITS技術の代表的なものとして、VICS(道路交通情報通信システム)やETCがあり、AHS(走行支援道路システム)もITSを支える先端技術として今後の動向が注目されている。",
"title": "渋滞対策"
},
{
"paragraph_id": 59,
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"text": "交通渋滞の対策として、AIによる渋滞の対策の予測や、渋滞状況伝達をする仕組みが整えられている。予め道路の渋滞状況をドライバーが把握できれば、事前に渋滞をしない道を選択し、安全に運転することができるからだ。",
"title": "渋滞対策"
},
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"text": "AI渋滞予知による、当日の天気や、イベントの有無なども考慮することができるので、より高い精度で予知をすることができる。",
"title": "渋滞対策"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "道路を拡幅して車線数を1本から2本に増やせば、単純に交通容量は2倍になるが実際にはそれよりも大きく交通容量を大きくすることができ、そして最も早い解決手法でもある。ただし、道路拡幅には多大な道路改築予算を必要とすることから、実際には容易に車線数を増やすことが出来ないでいるのが実情である。そこで、信号交差点の手前の一部区間に右折専用レーンを長めに増設して後続車の進路を妨げない方法をとることで、交通容量を増大させることもできる。また、左折車が多い交差点では左折レーンを増設することで、交通車両の流れをスムーズにて渋滞緩和に役立てられている。",
"title": "渋滞対策"
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{
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"text": "秋田南バイパスのケースでは、国道7号のバイパスとして新しい道路を建設した結果、整備前の23 km/hから整備後32 km/hと速度向上できた。しかしながらその後、一部区間で慢性的な渋滞が発生し問題となっていた。そこで4線化に着手した結果、新屋跨道橋交差点では整備後旅行速度は3倍向上した。",
"title": "渋滞対策"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "信号制御の設定値を最適化すること渋滞はかなり緩和できる。交通量がほぼ同じ道路どうしが交差する信号交差点では、双方の道路の信号機の青信号と赤信号の秒数を同じ長さとするが、特に事情がない限り、交通量の多い道路側の信号機の青信号の秒数を長くし、交通量の少ない道路側の青信号を短く適切な秒数で設定することで渋滞を回避できる。市街地では、他の信号機と連動した系統式の信号を設置することで、かなりの渋滞は回避できる。また、交通量に応じて赤信号と青信号の秒数を自動的に調整する感応制御式の信号機の普及が渋滞対策に役立てられている。",
"title": "渋滞対策"
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"text": "左折と右折の矢印信号を効果的に用いることも、渋滞の緩和に有効である。その際、右折車が多い交差点では右折専用矢印信号を数秒長く設定し、左折車が多い交差点では左折専用矢印信号を設ける工夫が必要となる。片側4車線以上ある広い道路では、直進・右折・左折専用の矢印信号だけで制御しているセパレート式信号機を採用する交差点があり、渋滞の緩和に一定の成果を上げている。横断歩行者が多い交差点では、横断歩行者の列にさえぎられて車列が右左折できないこともあり得るため、横断歩行者用信号と車道用信号を分離制御することで解決させる手法がとられる。",
"title": "渋滞対策"
},
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"text": "中華人民共和国吉林省吉林市において、これまでの統計とバスに搭載された端末を通じてデータを元に信号の設定を変えた結果、車両の平均時速が上がり渋滞緩和に成功した。",
"title": "渋滞対策"
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"text": "後述の立体交差化や、拡幅・バイパスの建設を伴わなくても交差点を改良すれば改善される場合が少なくない。たとえば、交差点の面積を小さくすることで信号制御の効率が改善されて慢性的な渋滞が解消された事例がある。また、右折や左折の専用車線を新設・延伸することや、右折ポケット・左折ポケット(右左折するために待機する車両の側方を直進車が通り抜け出来るように広げられた右直混用車線)の設置によって大規模な工事を行うことなく渋滞解消が見込める可能性がある。",
"title": "渋滞対策"
},
{
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"text": "道路が他の道路や踏切と平面交差している事により、結節点としての効果を発揮する代わりに円滑な交通の妨げになっていた。そこで立体的に交差することより、交通容量は飛躍的に増大でき、効率よく通行することができる。立体交差化は信号交差点や踏切で行われる渋滞対策手法で、特に信号交差点では交通量が多い方の道路を、交差する道路の上に跨がせる高架橋とするか、道路下にくぐらせるアンダーパスとしたほうが、より大きな効果が期待される。",
"title": "渋滞対策"
},
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"paragraph_id": 68,
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"text": "具体例として小田急電鉄小田原線成城学園前駅から登戸駅を連続立体交差化した結果、実施前は旅行速度8 km/hに対して実施後は旅行速度19 km/hと大幅に向上することに成功した。",
"title": "渋滞対策"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "信号交差点付近での路上駐車が渋滞の原因となっている事例は多くみられる。東京の環状6号線では全ボトルネック交差点の内、およそ3/4が交差点付近での路上駐車が原因であった調査例がある。渋滞の原因となる路上駐車を排除させるには、特定の区間で違法駐車の取締を集中的に行うことが効果的である。また、案内板やインターネットによる駐車場情報システムを運用することでドライバーに駐車場の位置を明示させて路上駐車を減らす試みも行われている。",
"title": "渋滞対策"
},
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"paragraph_id": 70,
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"text": "東日本高速道路(NEXCO東日本)の調べによると、高速道路の道路渋滞は交通集中を原因とする渋滞が約7割を占め、さらに上り坂及びサグ部での渋滞がそのうちの約7割となっているという。具体的には、上り坂やサグ部での車の速度低下により、後続の車が車間距離を空けようとブレーキを踏み、その動作にさらに後続の車が反応することで旅行速度の著しい低下を招く、というものである。そこでNEXCO東日本では、LED発光パネルを道路脇に複数設置して進行方向に流れるように光るシステムを開発した。視覚誘導性自己運動感覚のため、その装置によりドライバーは光の流れを意識するようになり、速度向上を自然と意識するのが狙いである。LED発光パネルが初めて設置されたのは2011年2月に三陸自動車道利府ジャンクションが最初である。実際に設置を行った箇所では以前より速度向上し、後続車も追随することにより渋滞延長は2100m から800mと短くなり、渋滞継続時間は50分から30分へ短縮した。現在ではNEXCO東日本では「ペースメーカーライト」、首都高速道路では「エスコートライト」、NEXCO中日本では「速度感覚コントロールシステム」という名称で設置を行っている。",
"title": "渋滞対策"
},
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"paragraph_id": 71,
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"text": "イギリスのロンドン市では2003年、特定地区への車両乗り入れ時に課税するコンジェスチョン・チャージ(渋滞税)を導入した結果、交通量が20%減少し、渋滞遅延時間も30%減少した。",
"title": "渋滞対策"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "メキシコシティやボゴタでは、ナンバープレートの末尾が3、6、9の自動車は月曜日の午前6時-10時、午後4時-7時には運転できないなど複雑な規制をかけている。",
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},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2009年に警察庁と日本自動車連盟が共同で、中央自動車道小仏トンネルで8台の車を車間距離を40 m空けて一斉に走行させた結果、平均時速が実施前の55 km/hから80 km/hに回復したという実験結果が出ている。これは車間距離を詰め過ぎると後ろの車が前の車に反応することによってスピードが落ちるためで、距離を40 m空けることで防ぐことができる。",
"title": "渋滞対策"
},
{
"paragraph_id": 74,
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"text": "1987年の年末年始から日本道路公団で渋滞予測情報提供が始まり、現在ではNEXCOと日本道路交通情報センターが提供している。これにより渋滞する日付と時間帯が分かり渋滞を避けられる。なお的中率は8割程度で、外れる原因としては天候やメディアで紹介された場所へ人々が殺到することが挙げられる。",
"title": "渋滞対策"
}
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渋滞とは、交通施設(道路、鉄道など)の能力を越える動体の流入により移動速度が遅くなった状態をいう。道路交通上の交通渋滞(こうつうじゅうたい)を特に渋滞と呼ぶこともある。
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{{otheruses||映画|渋滞 (映画)}}
[[File:Traffic in Brasilia before Brazil & Chile match at World Cup 2010-06-28 1.jpg|thumb|right|250px|基幹道路における交通渋滞の一例<br/>(2010年 [[ブラジリア]])。]]
'''渋滞'''(じゅうたい、[[英語]]:traffic jam、traffic congestion)とは、交通施設([[道路]]、[[鉄道]]など)の能力を越える動体の流入により移動速度が遅くなった状態をいう。[[道路]][[交通]]上の'''交通渋滞'''(こうつうじゅうたい)を特に渋滞と呼ぶこともある。
== 定義 ==
[[交通工学]]における渋滞の定義は、「[[ボトルネック]]にその区間の[[交通容量]]を上回る[[交通流率]]の交通需要が到着した時に、当該区間の上流に生じる低速の待ち車両列によって形成される交通状態」を指す{{sfn|岩崎征人|2015|p=8}}{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=9}}。特に、交通信号機や合流部はボトルネックとなりやすい典型的な道路上の区間である{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=151}}。なお、「交通容量」とは特定の道路空間に単位時間当たりで通すことのできる車両数をいう{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=3}}。また、「交通流率」とは特定の道路空間に単位時間あたりに到着する車両数をいう{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=5}}。
一般的には、自動車が停止あるいは、一定速度以下のノロノロ運転で走行する自動車の列が数珠つなぎになった状態を渋滞と呼んでいる{{sfn|浅井建爾|2001|p=184}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=205}}。渋滞長がいくら長くても、1回の青信号で[[信号機|信号]]待ち車列が全て捌ける場合は、一般には渋滞とは呼ばない。また、人の長蛇の列に対しても渋滞とは言わない{{sfn|浅井建爾|2001|p=180}}<ref group="注釈">この「'''人の長蛇の列'''」のことは、「渋滞」ではなく、「'''行列'''」と呼ぶ。</ref>。渋滞の内容は様々で、例えば20 km/h([[キロメートル毎時]])以下で走行している状態でも、停止して車列が動かない状態であっても渋滞である{{sfn|浅井建爾|2001|p=184}}<ref group="注釈">そもそも、「'''停止して車列が動かない状態'''」は、「'''20 km/h以下'''」に含まれる。なぜならば、「'''停止して車列が動かない状態'''」=0 km/hであり、0 km/h < 20 km/hであるからである。</ref>。車列の長さについても、正確な距離が定められているわけではないが、連なる自動車の列の長さが1[[キロメートル]]を越えた状態を渋滞と言っている{{sfn|浅井建爾|2001|p=184}}。
日本の[[高度経済成長期]]に起こった[[モータリゼーション]]で一般大衆に自動車が普及する以前の自動車があまり走行していなかった時代では、「渋滞」という用語自体が一般に使われていなかった{{sfn|浅井建爾|2001|p=180}}。日本における初めての大規模かつ本格的な渋滞は、[[1960年]]([[昭和]]35年)10月6日に[[大阪市]]内で発生した10時間にわたる交通マヒによる大渋滞である<ref group="注釈">それは[[大阪市電]]全廃(1969年)の引き金となり、さらに1960年代から1970年代にかけて全国各都市で相次いだ路面電車廃止の遠因ともなった。</ref>。また、日本で初めて渋滞という用語が使われたのは、[[1961年]](昭和36年)に警視庁がラジオの[[文化放送]]で、世界初となる交通情報を放送したときだといわれている{{sfn|浅井建爾|2001|p=180}}。
なお、「渋滞」は自動車交通に関していうことが多いが、[[運河]]で船舶の通航量が増加するなどの理由で通航が滞っている場合も「渋滞」と表現されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.pa.thr.mlit.go.jp/kakyoin/effort/butsuryu/pdf/dai11kaihonbukai_shiryou9.pdf |title=東北港湾におけるパナマ運河拡張による影響について |publisher=東北地方整備局港湾空港部 |accessdate=2021-01-12|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11656983/www.pa.thr.mlit.go.jp/kakyoin/effort/butsuryu/pdf/dai11kaihonbukai_shiryou9.pdf|archivedate=2017-04-01|deadlinkdate=2022年3月}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=高 欣佳, 牧野秀成, 古莊雅生 |title=AISデータを用いた沖待ち船舶の航行実態解析に関する研究 |journal=土木学会論文集B3(海洋開発) |publisher=土木学会 |year=2014 |volume=70 |issue=2 |pages=I_948-I_953 |naid=130004697411 |doi=10.2208/jscejoe.70.I_948 |url=https://doi.org/10.2208/jscejoe.70.I_948}}</ref>。
== 渋滞の悪影響 ==
渋滞は人流・物流の所要時間を増加させるため、到着時間を遅延させ、時間的損失からくる生活や産業活動・経済活動に負の影響をもたらしている{{sfn|国土交通省|2003|p=6}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=196}}。
また、渋滞は[[交通事故]]増加の原因となっている{{sfn|国土交通省|2003|p=11}}。例えば、[[生活道路]]に[[抜け道]]を目的とした車両が流入することでコミュニティ空間の安全性・快適性を損なう事例もみられる{{sfn|国土交通省|2003|p=11}}。
さらに、渋滞による車両の速度低下による無駄な燃料消費により、[[二酸化炭素]]や[[窒素酸化物]]などの物質が排気ガスとなって多く排出され、騒音などの環境悪化につながる原因となる{{sfn|国土交通省|2003|p=12}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=196}}。そして、渋滞によるストレスから些細なことでトラブルに発展し、犯罪を引き起こしている原因となることも珍しくなくなっている{{sfn|浅井建爾|2015|p=196}}。
都市問題ではモータリゼーションと渋滞の悪化は相互に関連しており、渋滞によりバスやパラトランジット等の所要時間が長くなり公共交通の利便性が悪化すると人々はますます自動車やオートバイを利用するようになり渋滞を悪化させる悪循環を生じる<ref name="jcca4" />。渋滞の発生は都市などの美観の問題として取り上げられることも多い<ref name="creative" />。郊外部では[[スプロール現象]](自動車利用を前提とした無秩序で散発的な開発)が発生すると公共交通の導入が難しい都市構造となる<ref name="jcca4" />。渋滞の深刻化が渋滞対策への費用の増加につながり財政負担の増大につながることもある<ref name="creative" />。
年齢が若く、良心的ではなく、運転にあまり熱心でない人々は、ドライバーの退屈に苦しむ可能性が高いという実験結果が出ている<ref name="名前なし-1">{{Cite journal|author=Hiroshi Makishita and Katsuya Matsunaga|date=2008-03-01|title=Differences of drivers’ reaction times according to age and mental workload|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0001457507001418|journal=Accident Analysis & Prevention|volume=40|issue=2|pages=567–575|language=en|doi=10.1016/j.aap.2007.08.012|issn=0001-4575}}</ref>。運転に熱心な人々は、運転することに集中しているため、ドライバーの退屈に苦しむ可能性が低いという実験結果が出ている<ref name="名前なし-1"/>。ドライバーが運転に集中すれば、他事に気を取られず、退屈に苦しむということがなくなるからである<ref name="名前なし-2">{{Cite journal|date=2014-01-01|author=Simon Heslop|title=Driver boredom: Its individual difference predictors and behavioural effects|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1369847813001332|journal=Transportation Research Part F: Traffic Psychology and Behaviour|volume=22|pages=159–169|language=en|doi=10.1016/j.trf.2013.12.004|issn=1369-8478}}</ref>。
== 各国・各地域における渋滞 ==
[[File:Trafic Pantelimon (2).jpg|thumb|[[ルーマニア]]・[[ブカレスト]]での[[路面電車]]による渋滞の一例(2009年12月15日)。ブカレストでは、約200万人の人口に対し、150万台の自動車が登録されています。]]
[[古代ローマ]]では[[馬車]]の交通需要が増大し、交通渋滞が日常的に発生していたといわれている{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=141}}。[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]は渋滞対策として日中に都心部へ馬車の乗り入れを禁止する施策を実施したが、こうした日中で斥けられた馬車は夜間に振り向けられ、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]が家族に送った手紙には「ローマでの真夜中の馬車の騒音は、ローマに住み利便性を享受する上では我慢しなければならない」旨が記されていた{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=141}}。また、[[11世紀]]頃の[[ヴェネツィア|ベネチア]]では、ゴンドラの数だけでも1万を超え、運河での事故や渋滞が大きな問題となった{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=141}}。ゴンドラは所有者によって大きさなどの仕様が異なる状態であり、ゴンドラの様式を標準化することで水上交通の渋滞緩和を図ったとされている{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=142}}。[[File:Motorcycles on Civic Boulevard 20080918.jpg|thumb|right|220px|2008年9月、[[台北]]での交通渋滞。<br/>台北では主に[[オートバイ]]によって渋滞が引き起こされている。]]
2010年、米外交専門誌[[:en:Foreign Policy|フォーリン・ポリシー]]は、世界で最も交通渋滞が深刻な都市として、[[モスクワ]]、[[ラゴス]]、[[メキシコシティ]]、[[サンパウロ]]、[[北京市]]の5つの都市を挙げている。このうちサンパウロでは2013年11月に、それまで世界で最も長いといわれた165マイル(約265 km)超の記録を塗り替え、309km以上の渋滞を記録している。その他にも2010年8月14日には、[[中華人民共和国|中国]]の北京~[[ラサ]]間の[[G110国道]]と[[京蔵高速道路]]で100キロに及ぶ渋滞が10日以上にわたって続いた<ref>{{Cite news|url=http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20100825/Recordchina_20100825023.html|title=史上最大の交通渋滞!北京-ラサ間高速道で、100キロが9日連続|agency=レコード・チャイナ|date=2010年8月25日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305012741/http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20100825/Recordchina_20100825023.html|archivedate=2016-03-05}}</ref>。また[[イギリス|英]][[BBC]]の2012年の調査によれば、[[バンコク]]、[[ジャカルタ]]、[[ナイロビ]]、[[マニラ]]、[[ムンバイ]]の上位5都市が、渋滞が深刻な世界の都市としてランクインしている<ref>[[NHK BS1]]「[[キャッチ!世界の視点]]」でもジャカルタを取り上げた。{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/catchsekai/marugoto/2014/08/0818.html|title=解消せよ!ジャカルタの渋滞問題|work=NHK報道番組 「特集まるごと」|date=2014年8月18日|accessdate=2015年10月28日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305021730/http://www.nhk.or.jp/catchsekai/marugoto/2014/08/0818.html|archivedate=2016-03-05}}</ref>。
=== 世界三大渋滞 ===
異説もあるが、以下の3都市は世界で最も渋滞の発生する都市と言われている<ref>{{Cite book|和書|title=ビジネスクラスのバックパッカー もりぞお世界一周紀行 メキシコお気楽編|author=森山たつを|publisher=[[学研プラス]]|year=2017|isbn=9784292001464|chapter=世界三大渋滞のひとつメキシコシティその交通機関を考える}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=緑の読本|volume=第33巻|publisher=公害対策技術同友会|year=1997|page=78}}</ref>。
* [[バンコク]]( {{THA}})
* [[ジャカルタ]]( {{IDN}})
* [[メキシコシティ]]( {{MEX}})
[[オランダ]]の[[カーナビゲーション]]メーカー{{仮リンク|TOMTOM|en|TomTom}}が[[2016年]]のデータをもとに交通渋滞がひどい都市のランキングを発表したが、上記の3都市がワースト3を占めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newsclip.be/article/2017/02/23/32218.html|title=渋滞最悪はメキシコシティ、バンコク2位 蘭カーナビメーカー調査|date=2017-02-23|publisher=[[ニュースクリップ]]|accessdate=2018-08-28}}</ref>。
交通データ解析を行うアメリカ{{仮リンク|INRIX|en|INRIX}}が世界38か国、1064都市を対象に渋滞状況を分析した2016年版の調査では、ワースト3は[[ロサンゼルス]]、[[モスクワ]]、[[ニューヨーク]]となっており、バンコクは12位、ジャカルタは22位であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.newsclip.be/article/2017/02/21/32188.html|title=渋滞最悪はLA、バンコク12位 米社調査|date=2017-02-21|publisher=[[ニュースクリップ]]|accessdate=2018-08-28}}</ref>。
=== 米国における渋滞 ===
自動車が普及する前のアメリカの都市では馬車交通が主流であったが、馬の死体が放置されて衛生問題や交通渋滞を引き起こした{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=142}}。自動車は馬のように「死なず」、交通環境を改善させるものとして期待され、その後モータリゼーションの時代に突入する{{Sfn|交通工学研究会|2005|pp=142-143}}。
テキサスA&M大学テキサス交通研究所の調査(2004年)では、アメリカの都市部のドライバーが渋滞で動けなくなっている時間は1992年には年16時間だったが、2002年には年46時間まで悪化した<ref name="creative">リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論』ダイヤモンド社刊(2007年)</ref>。
交通渋滞対策への財政負担は1982年には年間約140億ドルだったが、2004年には年間約630億ドルにまで膨れ上がっている<ref name="creative" />。
2004年のテキサスA&M大学テキサス交通研究所の調査によると、ロサンゼルスでは年間平均93時間、サンフランシスコで年間平均73時間、ワシントンDCで年間平均67時間の遅延が発生している<ref name="creative" />。
=== 日本における渋滞 ===
[[日本]]国内における渋滞の損失時間は1人あたり年間約40時間([[2012年]]度データより)とされている{{sfn|国土交通省道路局|2015|p=2}}。産業活動における道路交通の役割は大きく、渋滞によって国内産業活動の効率化や産業の競争力向上にとって大きな足枷となる{{sfn|国土交通省|2003|p=10}}。そのため、[[警察庁]]や[[国土交通省]]は[[地方公共団体|地方自治体]]と協力し、徹底して渋滞の解消を目指している{{sfn|国土交通省|2003|p=10}}。
==== 日本における定義 ====
交通渋滞の定義は、[[道路管理者]]や交通管理者ごとに異なっている。例えば、[[警視庁]]では統計上、下記を渋滞の定義としている(警視庁交通部 交通量統計表)<ref>[https://web.archive.org/web/20160305072158/http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/toukei/jyutai/data/ippan.pdf 平成23年中の都内の交通渋滞統計(一般道路、首都高速道路)] 警視庁ホームページ</ref>。
* [[一般道路]] : 走行速度が20 [[キロメートル毎時|km/h]]以下になった状態
* [[高速道路]] : 走行速度が40 km/h以下になった状態{{efn|かつての旧[[日本道路公団]]や旧[[本州四国連絡橋公団]]でも、走行速度40 km/h以下になった場合を渋滞と定義した{{sfn|浅井建爾|2001|p=184}}。}}
また、[[首都高速道路]]では走行速度が20 km/h以下になった状態を、[[阪神高速道路]]では走行速度が30 km/h以下になった状態を渋滞として扱っており、それぞれの道路の特性によって渋滞と判定する「閾値(しきいち・いきち)」が定められている{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=17}}。同じ高速道路でも都市間高速道路に比べて都市内高速道路(首都高速・阪神高速など)はカーブや勾配が急で制限速度が厳しいため、交通サービスが低く、低速であっても渋滞と感じづらく、渋滞と判定する速度が低い{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=18}}。なお、[[イギリス]]では80 km/hで渋滞と感じる報告もあり、渋滞と判定する速度が低い日本人は混雑した交通状態に慣れているともいえる{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=17}}。
==== 総距離の長い渋滞 ====
{{出典の明記| date = 2018-02| section = 1}}
{| class="wikitable" style="text-align: center"
!発生日時!!先頭!!末尾!!延長!!備考
|-
|[[1995年]][[12月27日]]||[[名神高速道路]] [[湖東三山パーキングエリア|秦荘PA]]<br />([[滋賀県]][[愛荘町]]、現・湖東三山PA)||[[東名高速道路]] [[赤塚パーキングエリア|赤塚PA]]<br />([[愛知県]][[豊川市]])||154 [[キロメートル|km]]||日本の渋滞最長記録<br>滋賀県~愛知県でのゲリラ豪雪による通行止めの影響
|-
|[[1990年]][[8月12日]]||中国自動車道 [[山崎インターチェンジ (兵庫県)|山崎IC]]<br />([[兵庫県]][[山崎町 (兵庫県)|山崎町]])||名神高速道路 [[瀬田西インターチェンジ|瀬田西IC]]<br />(滋賀県[[大津市]])||135 km||
|-
|1995年[[8月11日]]||名神高速道路 [[竜王インターチェンジ|竜王IC]]<br />(滋賀県[[竜王町]])||中国自動車道 [[福崎インターチェンジ|福崎IC]]<br />(兵庫県[[福崎町]])||129 km||名神・中国道の下り車線で、お盆休みの帰省の影響{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=67}}。
|-
|1995年[[5月2日]]||東北自動車道 ||東北自動車道||126 km||東北道の下り車線で、ゴールデンウィークの行楽客の影響{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=67}}。
|-
|1994年[[8月13日]]||関越自動車道 [[水上インターチェンジ|水上IC]]<br />(群馬県[[水上町]])||関越自動車道 [[川越インターチェンジ|川越IC]]<br />(埼玉県[[川越市]])||122 km||
|-
|2006年8月||東北自動車道 [[那須高原サービスエリア|那須高原SA]]<br />(栃木県[[那須町]])||東北自動車道 [[館林インターチェンジ|館林IC]]<br />(群馬県[[館林市]])||113 km||
|}
==== 高速道路における渋滞の多発地点 ====
[[2014年]]に[[国土交通省]]では、日本全国の高速道路において収集した各種交通データを活用し、日本全国の高速道路の渋滞ワーストランキングを発表している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/highway_traffic_congestion.html|title=渋滞ワーストランキング|publisher=[[国土交通省]]|accessdate=2018-08-28|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11690596/www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/highway_traffic_congestion.html|archivedate=2021-06-13|deadlinkdate=2022年3月}}</ref>。以下に、年間ワースト10を挙げる。
# [[東名高速道路]] 上り [[海老名ジャンクション|海老名JCT]] - [[横浜町田インターチェンジ|横浜町田IC]]
# 東名高速道路 上り [[秦野中井インターチェンジ|秦野中井IC]] - [[厚木インターチェンジ|厚木IC]]
# 東名高速道路 下り 横浜町田IC - 海老名JCT
# [[中国自動車道]] 上り [[西宮山口ジャンクション|西宮山口JCT]] - [[宝塚インターチェンジ|宝塚IC]]
# [[中央自動車道]] 上り [[調布インターチェンジ|調布IC]] - [[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]]
# 東名高速道路 上り [[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]] - [[東京インターチェンジ|東京IC]]
# 東名高速道路 下り [[豊川インターチェンジ|豊川IC]] - [[音羽蒲郡インターチェンジ|音羽蒲郡IC]]
# 中国自動車道 下り [[中国池田インターチェンジ|中国池田IC]] - 宝塚IC
# [[東名阪自動車道]] 上り [[亀山ジャンクション|亀山JCT]] - [[鈴鹿インターチェンジ|鈴鹿IC]]
# 東名高速道路 下り [[大井松田インターチェンジ|大井松田IC]] - [[御殿場インターチェンジ|御殿場IC]]
=== 開発途上国における渋滞 ===
[[開発途上国]]では交通行動の変容によるインフラの整備が追い付いていない状況である{{sfn|浅田薫永・川口裕久|2015|p=20}}。例えば、[[停電]]に伴う[[信号機]]の消灯や、河川整備の未成熟なために生じる[[冠水]]の影響によって渋滞が発生する{{sfn|浅田薫永・川口裕久|2015|p=21}}。また、牛車などの極端に走行速度が遅い車両や路上での故障車両によって渋滞が生じることもある{{sfn|浅田薫永・川口裕久|2015|p=21}}。さらには、交通ルールやマナーが十分に守られていないために生じる渋滞も見られる{{sfn|浅田薫永・川口裕久|2015|p=21}}。
一方で、非効率な信号制御やロータリー交差点の導入など、中途半端な渋滞対策により渋滞を悪化させている例が多い{{sfn|浅田薫永・川口裕久|2015|pp=21-22}}。
開発途上国の渋滞の要因には次のようなものがある。
* 特徴的な車種構成の問題
: 開発途上国では自動車と自動車の隙間を走行するオートバイ、小型車両を利用した個人営業によるバスとタクシーの中間的なサービス形態の存在と道路上での客待ち、人力車や牛車など走行速度の遅い車両の存在など特徴的な車種構成が渋滞の要因になっている<ref name="jcca4">{{Cite web|和書|url=https://www.jcca.or.jp/kaishi/268/268_toku4.pdf |title=海外の交通渋滞の状況とわが国の取り組み|publisher=建設コンサルタンツ協会 |accessdate=2018-08-01}}</ref>。
* 交通ルールと運転マナーの問題
: 開発途上国では特に違法な路上駐車などの交通ルールの不徹底、渋滞時の反対車線の逆走やオートバイの中央分離帯の走行などが問題になっている<ref name="jcca4" />。
* 特殊要因
: その他の開発途上国の渋滞の特殊要因として、ピーク時の政府要人等の通行による車両の通行止め、中古車が多いことによる路上でのエンスト、運転手の資金難による路上でのガス欠、電力不足による信号機の停止、雨季の道路の冠水などがある<ref name="jcca4" />。
== 渋滞の種類 ==
渋滞は発生原因によって'''自然渋滞'''と'''突発渋滞'''の2種類に大別される{{sfn|越正毅|1989|p=112}}。
; 自然渋滞:既に道路上にあるボトルネックによって発生するもので、ボトルネックに流入する交通需要が推定できるならば渋滞の区間や規模をある程度把握できる。{{sfn|越正毅|1989|p=112}}。「交通集中渋滞」とも呼ばれる{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=152}}。交通需要を交通容量で割った数値を[[混雑度]]といい、混雑度が1.0以上の交通需要がその道路の交通容量を上回った際に自然渋滞は発生する{{sfn|浅井建爾|2015|p=198}}。慢性的に渋滞が発生している道路では、交通需要が交通容量を大きく上回っている状態が常時続いていると考えられている{{sfn|浅井建爾|2015|p=199}}。自然渋滞の原因となる代表的なボトルネックは信号交差点や高速道路でのサグ部が挙げられる{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=152}}。
; 突発渋滞: [[交通事故]]や車両故障などの突発事象が原因で生じる渋滞で、渋滞に関する事前予測ができない{{sfn|越正毅|1989|p=112}}。ある区間が一時的に交通容量が低下して発生する渋滞である{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=153}}。
== 渋滞での交通流 ==
渋滞流では、密に車両が並ぶ部分(密部)と、車頭間隔が比較的長く車両がまばらに並ぶ部分(疎部)が交互になるのが観測できる{{sfn|越正毅|1989|p=112}}。この現象は「疎密波現象」と呼ばれる{{sfn|越正毅|1989|p=112}}。
この疎密波現象は以下の現象を持っているとされる{{sfn|越正毅|1989|pp=112-113}}。
* 疎密波は交通の進行方向(下流)とは反対(上流)方向に伝播する。
* 疎密波は、先頭付近では密部・疎部の差がはっきりと現れないが、上流(渋滞の後部)にさかのぼると疎密の差が明瞭となる。また、疎密波は並行する車線の間で同期する傾向がある。
* 疎部での速度は上限がある(例えば、[[都市高速道路]]では時速45 km程度になる)。
* 疎部で車両が相対的に速く走行できる時間は、ボトルネックでの交通容量が異なっても変化しない。しかし、密部で車両が遅く走行する時間は、ボトルネックでの交通容量が小さいほど長くなる傾向がある。
[[車間距離]]を狭くとればとるほど、疎密波現象は起きやすくなるので、適切な車間距離をとることは渋滞を防ぐうえで極めて重要である。
需要の超過する量が大きいほど渋滞する車列は速く延伸しやすくなり、需要の経過する時間が長いほど渋滞する車列は長くなりやすい{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=153}}。そして、道路の需要超過が終わってもすぐに渋滞が消滅しない{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=153}}。
== 渋滞の原因 ==
道路区間内が均質な交通容量ならば渋滞することはないが、道路の構造などによって交通容量が低い一部区間([[ボトルネック]])があり、上流からボトルネックとなっている区間の交通容量を超える交通需要が到達すると、交通渋滞が発生する{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=28–29}}。渋滞の要因を大きく分けると、工事渋滞、事故渋滞、自然渋滞の三つだといわれている{{sfn|浅井建爾|2015|p=196}}。一般道路と高速道路では、工事渋滞と事故渋滞が共通する渋滞発生原因であるが、自然渋滞についてはその性格を大きく異にする{{sfn|浅井建爾|2015|p=203}}。サグ部と上り坂が自然渋滞の主な発生原因になるのは高速道路であって、一般道路での自然渋滞の主な発生原因になっているのは信号交差点と踏切だといわれている{{sfn|浅井建爾|2015|p=203}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=28–29}}。自動車が何らかの原因で速度を落としたとき、あるいは速度を落とす地点を通過するときに渋滞は発生しやすい{{sfn|浅井建爾|2015|p=205}}。日本社会における連休日でレジャーなどを楽しむとした行楽地への渡航で、首都から郊外へ一斉に自家用車で赴くため渋滞が顕著に現れている。
[[西成活裕]]は車の減速・発進が続いて、その振れ幅が大きくなっていくことに自然渋滞の原因があると分析している<ref name="西成">{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/160842|date=2018-02-22|title=たった1台の割り込みが渋滞40kmに…「渋滞学」最前線|author=末吉陽子|[[週刊ダイヤモンド|DIAMOND online]]|page=1|accessdate=2018-08-28}}</ref>。また、渋滞のほとんどが追い越し車線から発生しており、ある車が追い越し車線に車線変更して割り込んだ際に後続の車がブレーキを踏んで減速。割り込みが複数台続き、これが繰り返されることで車間が縮まるのが原因と分析している{{R|西成}}。東名高速で発生した約40 kmの渋滞には、たった1台の車の車線変更が原因だったこともある{{R|西成}}。
=== 一般道路で発生する渋滞 ===
[[File:Traffic congestion,tarui,ono,hyogo 8218573.JPG|thumb|right|220px|夏祭り会場へ向かう車のために起こった片側渋滞の例]]
一般道路において発生する渋滞原因のほとんどは、工事や事故を除けば、信号交差点と踏切、車線数が減少するボトルネックである{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=30}}。道路の1車線には1時間あたり約2,000台の交通容量がある。例えば、片側2車線の単路部(立体交差のように信号のない部分)の交通容量は1時間あたり約4,000台であるが、これを超える量の車両が流入すると渋滞が発生する。
====信号交差点====
信号交差点では赤信号の時間の間に到着した全ての車両が、次の青信号の時間でその信号交差点を通過できない状態であれば渋滞と判断される(ただし、この判断基準は下流に交差点がない「孤立交差点」である場合に限る){{Sfn|交通工学研究会|2005|p=15}}。
都市部では単路部は長くは続かず、信号交差点が数多くある。単路部で十分な交通容量があっても、その先の信号交差点の存在によってその道路の交通容量は低下する。例えば、信号の青信号の秒数が30秒、黄信号が0秒、赤信号の秒数が30秒という極めて単純な信号を仮定したとき、青信号時間の比率は50%となり、交通容量は青時間率が100%のとき(すなわち[[立体交差]]のとき)と比べて約半分となる。また交差点への進入車両が極度に増えた場合、隣接する交差点まで車両の列が伸びて渋滞が連鎖的に増える[[グリッドロック (渋滞)|グリッドロック]]と呼ばれる「超渋滞」現象が発生する。日本では[[東日本大震災]]で発生した渋滞でグリッドロック状態が観測され、解消までほぼ一日を要した<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20121003k0000m040151000c.html|title=グリッドロック:「超」渋滞現象、震災で初確認|newspaper=毎日jp|publisher=毎日新聞|date=2012-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121007222042/http://mainichi.jp/select/news/20121003k0000m040151000c.html|archivedate=2012-10-07}}</ref>。[[File:Gridlock.svg|thumb|right|180px|グリッドロックの模式図]]
信号機のパラメータ設定は、渋滞の発生有無に大きく影響する<ref>{{Cite journal|和書|author=中村新之介, 植村匠, 上瀧剛, 内村圭一 |title=確率的最適化による深層学習とマルチエレメントGAを用いた道路交通信号パラメータの最適化 |journal=研究報告高度交通システムとスマートコミュニティ(ITS) |year=2016 |month=feb |issn 2188-8965 |volume=2016-ITS-64 |issue=4 |url=http://id.nii.ac.jp/1001/00157906/}}</ref>。不適切に設定すると、以前は渋滞のなかった交差点に渋滞が発生するようになる。
====有効車線数の減少====
路上に駐車車両があるとその部分の有効車線数が減るため、交通容量は低下する。特に交差点付近の[[駐車]]車両は交通容量を著しく低下させ、特に都市部において顕著である。路線バスがバス停に一時停車するだけでも渋滞を引き起こすこともある{{sfn|浅井建爾|2015|p=198}}。沿道の大規模[[商業施設]]([[ロードサイド店舗]])の[[駐車場]]に入ろうとする道路上の車列も、同じく渋滞の原因となる{{sfn|浅井建爾|2015|p=198}}。このため側道の不足も流入台数の増加をもたらす。
道路[[工事]]による車線規制も交通容量を低下させる{{sfn|浅井建爾|2015|p=196}}。道路工事を夜間に行うことが多いのは、夜間は交通量が少ないため、車線規制による渋滞の発生を軽減できるからである。
====踏切====
[[踏切]]では列車通過時に道路が遮断され、特に都市部の踏切は遮断されている時間が長く、「[[開かずの踏切]]」と揶揄されることがある{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}。さらに[[日本]]の法規制では原則的に、信号機がない場合は遮断されていなくても一時停止が義務付けられているため、踏切によって道路容量が低下して渋滞の原因になりやすい{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}。この状況を解消すべく、[[連続立体交差事業]](鉄道の高架化あるいは地下化)を実施し、踏切を撤去する<ref>{{Cite book|和書|title=平成22年版 街路交通事業事務必携 |author=国土交通省都市・地域整備局街路交通施設課 |editor=街路交通事業研究会 |publisher=日本交通計画協会 |date=2010-12-20}}</ref>。
====事故====
狭義には[[交通事故]]により、車線が塞がれて起きる渋滞である。広義には[[火事]]や[[天災]]によるものも含める。事故車両が車線を塞いでしまうことにより、後続の車両が進路を変更しようとするため、その右側車線を走行する車両とせめぎ合って交通の流れが悪くなり、放置すれば大渋滞を引き起こすことにつながることもある{{sfn|浅井建爾|2015|p=198}}。
====見物渋滞(わき見渋滞)====
交通工学の本来の用語ではない。ドライバーが景色や看板、火事、対向車線の事故に目を奪われて脇見したりすることが走行速度の減速につながり、また[[停車]]をすることによって渋滞が引き起こされる{{sfn|浅井建爾|2015|p=198}}。また、わき見運転は事故の危険も伴い、こうしたドライバーが事故を起こせば渋滞をさらに悪化させることになる。
=== 高速道路で発生する渋滞 ===
高速道路でのボトルネックの多くは、下りから上りとなるサグ区間である。一定の交通需要がある条件下で、サグ区間で発生する渋滞は、同様の原因で発生するトンネル区間を含めると日本の高速道路全体の8割を占める{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=80–81}}。
高速道路上で、渋滞最後尾や、車間距離が詰まって速度が急に低下した場合の自動車の運転手は、追突事故の防止のために[[方向指示器#ハザードランプの用法|ハザードランプ]]を点滅させて、後続車に注意を促す暗黙の了解があるが(道路交通法では特に定められてはいない)、[[ネクスコ|NEXCO3社]]では本用法を推奨している。
====分岐点での渋滞====
[[File:Weaving traffic.png|thumb|right|220px|織り込み交通の模式図]]
[[インターチェンジ|インターチェンジ(IC)]]や[[ジャンクション (道路)|ジャンクション(JCT)]]では流出、流入が発生するが、本線の車は流入車を入れるため、前車との車間距離を空けるために少し減速したり、追越車線に移動したりする。本線の後続車は車間距離を一定に保とうとして、詰まった車間距離を広げるために速度を先行車より落とす。これが連鎖的に続くと渋滞となる。流入車そのものも遅い速度のまま本線に合流すれば渋滞の原因となりうる。また、流出でもカーブのため40 km/h規制、対向車線からの流出合流、料金所、一般道での渋滞などによって本線まで続くことがある。
織り込み(ウィービング)とは右図のようなものを言う。
====料金所による渋滞====
料金所ではノンストップで走ってきた自動車が、通行料金を支払うために一旦停止し、その精算に時間がかかるために長い車列が出来ることは珍しくない<!--{{sfn|浅井建爾|2015|p=203}}-->。料金所の料金収受能力を越えると、その車列がインターチェンジ内にとどまらず、本線まで伸びてくることで、本線を走行中の車両の交通を阻害するようになり、渋滞に発展する{{sfn|浅井建爾|2015|p=203}}。
日本では、2000年頃まで渋滞の最大要因となっていたが、[[ETC]]の普及によりノンストップで料金所を通過できる車両が増えたため、ほとんど解消されている{{sfn|浅井建爾|2015|p=203}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=30–31}}。しかし料金所を抜けて一般道へつながる交差点や信号機でうまく自動車が流れず渋滞することもある。[[本線料金所]]では通行するすべての車が停車または減速を強いられるため、そこへ続く本線の交通量によっては渋滞が発生する。
====工事・事故による渋滞====
[[File:Congestion sign in Japan.jpg|thumb|right|180px|事故渋滞発生時の電光掲示板表示例]]
工事や事故のため車線が減少・規制あるいは通行止めされることで渋滞になる。ときには全く動かなくなることもある。工事による渋滞はWebページや[[VICS]]等を通じて事前に公表されることがあるが、事故による渋滞は前述のケースや料金所での渋滞と違いいつどこで起こるかわからないため、予想することは困難で、VICSなどにも情報がすぐには入りにくい。車線規制が終了し交通容量が回復した後で、車線規制による渋滞列中に存在する車両がすべて通過して、渋滞解消となる。
==== 山間部による渋滞 ====
日本における高速道路では山間部のような険しい地形上に路線を建設することもあり、勾配が多く存在する。ドライバーが平坦部と変わらないアクセルの踏み方で上り坂を登ろうとすると、3 %(100 m進んで3 m上る)程度のドライバーも気付かないほどのわずかな勾配でも速度が低下する。特に[[車両総重量]]の大きい大型車は速度低下が大きい。
後続の車は前方車両のわずかな減速に対し、安全のためにと前方車両以上に減速してしまうことがある。これがいくつか繰り返されると、後方の車両はかなりの低速状態になってしまい、渋滞が発生する。このような原因による交通容量の低下を防止するために、大きな勾配が存在する区間には付加車線([[登坂車線]])が設置されている。
また、サグには路側の壁面にエスコートライトやペースメーカーライトと呼ばれる光が流れるイルミネーションが設置されている箇所もあり、「視覚刺激による視覚誘導自己運動感覚効果」によりドライバーが車速の低下や車間距離に注意を払うようになり、渋滞を起こりにくくしている<ref>{{Cite web|和書|author=[[清水草一|永福ランプ(清水草一)]] |date=2018-09-19 |url=https://www.webcartop.jp/2018/09/276776/ |title=高速道路脇の壁にある「緑や青の流れるライト」は何のためにある? |publisher=[[CARトップ|WEB CARTOP]] |accessdate=2021-01-20}}</ref>。
====サグ部と上り坂による渋滞====
[[File:Meishin Expressway02.jpg|thumb|right|220px|サグ部の一例<br/>([[名神高速道路]] 高槻BS付近)]]
すり鉢状の地形にある道路では、ドライバーが凹状の底の地点(谷底)に到達して上り坂に差し掛かる、ゆるいV字形の箇所をサグ部とよんでいる{{sfn|浅井建爾|2015|p=203}}。サグ部の勾配は、せいぜい2 - 3[[パーセント|%]]程度である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=30}}。下り勾配から上り勾配への変化が認識しづらいため、ドライバーが勾配の変化に気づかないことでアクセルを踏むことが少なくなり、自然と速度が低下していく{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=22}}。その結果、後続車との車間距離が一気に縮まり、後続車が車間を確保しようとして連鎖的にブレーキを踏まざるを得なくなり、さらに元の走行スピードに戻すまでには時間を要するためやがて渋滞となる{{sfn|浅井建爾|2015|pp=203–204}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=30}}。
自動車のアクセルは速度を管理・調整する機能ではなく、燃焼状況([[トルク]])を調節する機能であるため、路面状況の変化にドライバーが気が付かず同じようにアクセルを操作すれば、このわずかなタイミングの遅れにより速度の低下が起こることで結果的に交通容量の低下が起こる<ref>[https://www.driveplaza.com/traffic/jyutai/jyutai_hassei/jyutai1-1.html サグ部などで起きる「渋滞」の原因とその対策について] NEXCO東日本ホームページ</ref>。車間距離が短くなると、サグ部に差し掛かっただけで渋滞が発生しやすくなり、サグ部の渋滞時の交通容量は非渋滞時に比べて大幅に低下することとなる{{sfn|浅井建爾|2015|p=204}}。
サグ部における渋滞を防ぐため、ドライバーにサグ部であることを気付かせることが大切であり、減速を防ぐための標識を設置することも渋滞対策の1つである{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=23}}。また、エスコートライト(後述)やオプティカルドットによる対策も考えられている{{Sfn|友枝明保|2015|pp=26-27}}。
====トンネルによる渋滞====
トンネルは「内部の暗さ」「天井や側方の壁が近いことによる圧迫感」の主に2つが理由として、ドライバーが恐怖心を以てどうしてもアクセルを緩めてしまう傾向がある{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=23}}。その結果、交通容量が低下し、交通量があって車間距離が詰まっている状況下においてはブレーキの連鎖により渋滞が発生する{{sfn|浅井建爾|2015|p=204}}<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140421/wlf14042107000001-n3.htm|title=中国道“名物”「宝塚トンネル常時渋滞」の本当の理由…2年後には劇的解消“秘策”が|work=MSN産経ニュース|newspaper=産経新聞|date=2014-04-21|accessdate=2014-04-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160309135500/http://www.sankei.com/west/news/140421/wst1404210003-n3.html|archivedate=2016-03-09}}</ref>。また、雨水をはくために中央に向けて上り坂となっているトンネルもあり、これも渋滞の原因となっている。
上り坂の区間がトンネルになっている場合、壁面のラインによってあたかも水平と誤認識し、速度の低下が発生することで渋滞が発生することもある{{Sfn|友枝明保|2015|p=25}}。
トンネルの断面積を大きくし、かつ[[道路照明灯|照明]]を明るくすることによってドライバーの恐怖心を和らげて渋滞を緩和する方法がとられている{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=23}}。
== 渋滞対策 ==
単純に渋滞を克服し解消する方法は、道路の交通容量を拡大するか、交通量を減らすかのどちらかである{{sfn|椎名啓雄・浪川和大|2015|p=12}}。多くの場合は交通容量を増大させることで渋滞は解決できる{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}。従来は道路の拡幅や新規整備を行うことで交通容量を増大化させる施策が積極的にとられてきたが、道路の拡幅や新規整備が行われることによって、それまで渋滞によって利用を踏みとどまっていた潜在的な需要を誘発させ、交通量がさらに増加してしまい、かえって渋滞が悪化してしまう事例が見られた(誘発された交通需要のことを「誘発需要」と呼ぶ){{Sfn|交通工学研究会|2005|p=123}}。
交通容量を拡大する方法は、道路整備・改良や[[信号機|信号]]制御の高度化などによる「交通容量を増大させる」方法と、路上駐車の排除やサグ部での速度回復などによる「交通容量を回復させる」方法に分けられる{{sfn|椎名啓雄・浪川和大|2015|p=13}}。車線数を増設することは交通容量を単純に増やすことが出来るため、最も早い渋滞解決手法だといえるが、整備費用に多額の資金を要するため、容易に車線を増やすことが出来ないのが実情である{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}。ただし、車線あたりの幅員を小さくするよう路面標示を改良することで大きなコストをかけずに交通容量が増やすこともできる{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=160}}。
交通量を減らす方法として、[[交通需要マネジメント]]([[英語|英]]:Transportation Demand Management、略称:TDM)があり、車の利用者が協力し合い、交通量削減のため調整を図る施策である。例として、[[フレックスタイム]](時差出勤)や、[[パークアンドライド|パークアンドライドシステム]]の導入による公共交通機関への乗り換え、運転経路変更の誘導案内による交通の分散化、都市部では道路の[[中央線 (道路)|中央線]]を可変させる[[リバーシブルレーン]]の設置によって、効果を上げることができる{{sfn|浅井建爾|2001|pp=188-189}}。交通需要を抑制し調整することで渋滞を緩和させるのがTDMの狙いだが、道路利用者の協力なくしては実現不可能という側面を併せ持つ{{sfn|浅井建爾|2001|pp=188-189}}。こうしたTDMの代表的な施策はドライバーに十分な報酬(メリット)を与えずに一人一人の行動や習慣の変化を求めるものが多く、その一人一人が行動や習慣を変化させれば自分は損をするという[[社会的ジレンマ]]に陥り広く一般には浸透していない状況である{{Sfn|交通工学研究会|2005|p=129}}。
道路の拡幅や立体化には限界があり、TDMも決定的解決策とまでいかないことから、[[高度道路交通システム]](英:Intelligent Transport System、略称:ITS)の研究が日本をはじめ欧米諸国で進められている{{sfn|浅井建爾|2001|pp=190-191}}。ITSは、最先端の道路通信技術の総称を意味する用語で、高度情報通信技術を駆使して道路と車を一体化した道路交通システムを確立し、交通渋滞のほかにも交通事故の抑止、環境改善をするのが狙いである{{sfn|浅井建爾|2001|pp=190-191}}。ITS技術の代表的なものとして、[[VICS]](道路交通情報通信システム)やETCがあり、AHS(走行支援道路システム)もITSを支える先端技術として今後の動向が注目されている{{sfn|浅井建爾|2001|pp=190-191}}。
交通渋滞の対策として、AIによる渋滞の対策の予測や、渋滞状況伝達をする仕組みが整えられている<ref name="名前なし-2"/>。予め道路の渋滞状況をドライバーが把握できれば、事前に渋滞をしない道を選択し、安全に運転することができるからだ。<ref name="名前なし-2"/>
AI渋滞予知による、当日の天気や、イベントの有無なども考慮することができるので、より高い精度で予知をすることができる。<ref name="名前なし-2"/>
=== 道路の拡幅・新規整備 ===
道路を拡幅して車線数を1本から2本に増やせば、単純に交通容量は2倍になるが実際にはそれよりも大きく交通容量を大きくすることができ、そして最も早い解決手法でもある。ただし、道路拡幅には多大な道路改築予算を必要とすることから、実際には容易に車線数を増やすことが出来ないでいるのが実情である{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}。そこで、信号交差点の手前の一部区間に右折専用レーンを長めに増設して後続車の進路を妨げない方法をとることで、交通容量を増大させることもできる{{sfn|浅井建爾|2015|p=202}}。また、左折車が多い交差点では左折レーンを増設することで、交通車両の流れをスムーズにて渋滞緩和に役立てられている{{sfn|浅井建爾|2015|p=202}}。
[[秋田南バイパス]]のケースでは、[[国道7号]]のバイパスとして新しい道路を建設した結果、整備前の23 km/hから整備後32 km/hと速度向上できた<ref>{{PDFlink|[https://www.zenken.com/hypusyou/zenkensyou/h14/zk_14_01_douro01.pdf 平成14年度 全建賞 秋田南ワイパス整備事業]}}</ref>。しかしながらその後、一部区間で慢性的な渋滞が発生し問題となっていた。そこで4線化に着手した結果、新屋跨道橋交差点では整備後旅行速度は3倍向上した<ref>{{PDFlink|[https://www.thr.mlit.go.jp/bumon/kisya/kisyah/images/57421_1.pdf 国道7号秋田南バイパス4車線化により通勤時間帯の渋滞解消、旅行速度向上、市街地の交通環境向上 秋田河川国道事務所]}}</ref>。
=== 信号制御 ===
[[File:Japanese signal aokibashi.jpg|thumb|矢印信号は、交差点における右左折車両の渋滞緩和に役立てられている。]]
信号制御の設定値を最適化すること渋滞はかなり緩和できる。交通量がほぼ同じ道路どうしが交差する信号交差点では、双方の道路の信号機の青信号と赤信号の秒数を同じ長さとするが、特に事情がない限り、交通量の多い道路側の信号機の青信号の秒数を長くし、交通量の少ない道路側の青信号を短く適切な秒数で設定することで渋滞を回避できる{{sfn|浅井建爾|2015|p=201}}。市街地では、他の信号機と連動した系統式の信号を設置することで、かなりの渋滞は回避できる{{sfn|浅井建爾|2015|p=201}}。また、交通量に応じて赤信号と青信号の秒数を自動的に調整する感応制御式の信号機の普及が渋滞対策に役立てられている{{sfn|浅井建爾|2015|p=201}}。
左折と右折の矢印信号を効果的に用いることも、渋滞の緩和に有効である。その際、右折車が多い交差点では右折専用矢印信号を数秒長く設定し、左折車が多い交差点では左折専用矢印信号を設ける工夫が必要となる{{sfn|浅井建爾|2015|p=202}}。片側4車線以上ある広い道路では、直進・右折・左折専用の矢印信号だけで制御しているセパレート式信号機を採用する交差点があり、渋滞の緩和に一定の成果を上げている{{sfn|浅井建爾|2015|p=202}}。横断歩行者が多い交差点では、横断歩行者の列にさえぎられて車列が右左折できないこともあり得るため、横断歩行者用信号と車道用信号を分離制御することで解決させる手法がとられる{{sfn|浅井建爾|2015|p=202}}。
[[中華人民共和国]][[吉林省]][[吉林市]]において、これまでの統計とバスに搭載された端末を通じてデータを元に信号の設定を変えた結果、車両の平均時速が上がり渋滞緩和に成功した<ref>[https://www.nttdata.com/jp/ja/news/release/2015/012303/ 中国・吉林市において、ビッグデータを活用した「渋滞予測・信号制御シミュレーション」の実証実験で渋滞緩和効果を確認 2015年1月23日 株式会社NTTデータ]</ref>。
=== 平面交差 ===
後述の立体交差化や、拡幅・バイパスの建設を伴わなくても交差点を改良すれば改善される場合が少なくない{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=156}}。たとえば、交差点の面積を小さくすることで信号制御の効率が改善されて慢性的な渋滞が解消された事例がある{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=156}}。また、右折や左折の専用車線を新設・延伸することや、右折ポケット・左折ポケット(右左折するために待機する車両の側方を直進車が通り抜け出来るように広げられた右直混用車線)の設置によって大規模な工事を行うことなく渋滞解消が見込める可能性がある{{Sfn|交通工学研究会|2018|pp=160-162}}。
=== 立体交差 ===
[[File:Tochigi kendo 20 kubota kodokyo.JPG|thumb|立体交差点の例([[栃木県道20号]]の久保田跨道橋)]]
道路が他の道路や踏切と[[平面交差]]している事により、結節点としての効果を発揮する代わりに円滑な交通の妨げになっていた<ref>日本大百科全書「平面交差」より</ref>。そこで立体的に交差することより、交通容量は飛躍的に増大でき、効率よく通行することができる{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}<ref>世界大百科事典「インターチェンジ」より</ref>。立体交差化は信号交差点や踏切で行われる渋滞対策手法で、特に信号交差点では交通量が多い方の道路を、交差する道路の上に跨がせる[[高架橋]]とするか、道路下にくぐらせる[[アンダーパス]]としたほうが、より大きな効果が期待される{{sfn|浅井建爾|2015|p=200}}。
具体例として[[小田急電鉄]][[小田原線]][[成城学園前駅]]から[[登戸駅]]を[[連続立体交差事業|連続立体交差化]]した結果、実施前は旅行速度8 km/hに対して実施後は旅行速度19 km/hと大幅に向上することに成功した<ref>[http://www.renritsukyo.jp/project/ 全国連続立体交差事業促進協議会 事業の効果]</ref>。
=== 路上駐車 ===
信号交差点付近での路上駐車が渋滞の原因となっている事例は多くみられる{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=162}}。東京の[[東京都道317号環状六号線|環状6号線]]では全ボトルネック交差点の内、およそ3/4が交差点付近での路上駐車が原因であった調査例がある{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=162}}。渋滞の原因となる路上駐車を排除させるには、特定の区間で違法駐車の取締を集中的に行うことが効果的である{{Sfn|交通工学研究会|2018|p=163}}。また、案内板やインターネットによる駐車場情報システムを運用することでドライバーに駐車場の位置を明示させて路上駐車を減らす試みも行われている{{Sfn|交通工学研究会|2005|pp=98-99}}。
=== LED発光パネル ===
[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)の調べによると、[[高速道路]]の道路渋滞は交通集中を原因とする渋滞が約7割を占め、さらに上り坂及びサグ部での渋滞がそのうちの約7割となっているという。具体的には、上り坂やサグ部での車の速度低下により、後続の車が車間距離を空けようとブレーキを踏み、その動作にさらに後続の車が反応することで旅行速度の著しい低下を招く、というものである<ref name="pacemaker">{{Cite report|title=LED発光パネル(ペースメーカー)を活用した渋滞緩和対策を活用した渋滞緩和対策|和書|author=東日本高速道路 本社管理事業本部交通部交通課ほか|date=2013-11|series=道路行政セミナー|url=http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2013data/1311/1311Pacemaker_e-nexco.pdf|publisher=一般財団法人道路新産業開発機構|format=PDF}}</ref>。そこでNEXCO東日本では、LED発光パネルを道路脇に複数設置して進行方向に流れるように光るシステムを開発した。[[視覚誘導性自己運動感覚]]のため、その装置によりドライバーは光の流れを意識するようになり、速度向上を自然と意識するのが狙いである<ref name="pacemaker"/>。LED発光パネルが初めて設置されたのは[[2011年]]2月に[[三陸沿岸道路|三陸自動車道]][[利府ジャンクション]]が最初である。実際に設置を行った箇所では以前より速度向上し、後続車も追随することにより渋滞延長は2100m から800mと短くなり、渋滞継続時間は50分から30分へ短縮した<ref name="pacemaker"/>。現在ではNEXCO東日本では「[[ペースメーカー (陸上競技)|ペースメーカー]]ライト」<ref name="pacemaker"/>、首都高速道路では「エスコートライト」<ref>[http://trafficnews.jp/post/37986/ 首都高に設置されたドライバーを引き寄せる光 その効果は? 2015年2月18日 乗りものニュース]</ref>、NEXCO中日本では「速度感覚コントロールシステム」<ref>[http://www.c-nexco.co.jp/shintomei/lp/pleasant.html NEXCO中日本 快適走行]</ref>という名称で設置を行っている。
=== 渋滞税 ===
{{See also|コンジェスチョン・チャージ}}
[[イギリス]]の[[ロンドン市]]では[[2003年]]、特定地区への車両乗り入れ時に課税するコンジェスチョン・チャージ(渋滞税)を導入した結果、交通量が20%減少し、渋滞遅延時間も30%減少した<ref>{{Wayback|url=http://www.rmec.or.jp/kousaten/24pdf/36-39.pdf|title=ロンドンの交通事情と渋滞税 北海道道路管理技術センター|date=20160304043152}}</ref>。
===ナンバープレートを利用した流入制限===
[[メキシコシティ]]や[[ボゴタ]]では、[[ナンバープレート]]の末尾が3、6、9の自動車は月曜日の午前6時-10時、午後4時-7時には運転できないなど複雑な規制をかけている<ref>{{Cite web|和書|author=Gilles DURANTON |date=2014年3月27日 |url=https://www.rieti.go.jp/jp/special/p_a_w/040.html |title=車の増加に追いつかない道路事情:世界中の都市が抱える問題 |publisher=rieti |accessdate=2020-04-14}}</ref>。
=== 渋滞吸収運転 ===
[[2009年]]に[[警察庁]]と[[日本自動車連盟]]が共同で、[[中央自動車道]][[小仏トンネル]]で8台の車を車間距離を40 m空けて一斉に走行させた結果、平均時速が実施前の55 km/hから80 km/hに回復したという実験結果が出ている<ref>[https://bookstand.webdoku.jp/news/2015/08/12/073000.html ポイントは車間距離 "渋滞学"権威が明かす「渋滞吸収運転」とは BOOKSTAND]</ref>。これは車間距離を詰め過ぎると後ろの車が前の車に反応することによってスピードが落ちるためで、距離を40 m空けることで防ぐことができる<ref>[https://www.athome-academy.jp/archive/mathematics_physics/0000001065_all.html athomeこだわりアカデミー 2011年11月号掲載]</ref>。
=== 渋滞予測カレンダー ===
[[1987年]]の[[年末年始]]から[[日本道路公団]]で渋滞予測情報提供が始まり、現在では[[ネクスコ|NEXCO]]と[[日本道路交通情報センター]]が提供している<ref name="norimono">[https://trafficnews.jp/post/42232/ なぜ渋滞予報士は1人だけなのか その意外な存在意義 2015年8月9日 乗りものニュース]</ref>。これにより渋滞する日付と時間帯が分かり渋滞を避けられる<ref name="norimono"/>。なお的中率は8割程度で、外れる原因としては天候やメディアで紹介された場所へ人々が殺到することが挙げられる<ref name="norimono"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
; 書籍
* {{Cite journal|title=Effect of Dynamic Blink Control of Light-Emitting Devices Installed along a Road Shoulder on Congestion Relief |author=Hiroyuki KAMEOKA, Hiroyuki ONEYAMA, Mitsuaki SAKURAI, Mitsuhiro TSUJI |journal=Journal of the Eastern Asia Society for Transportation Studies |volume=11 |pages=1919-1930 |year=2015 |doi=10.11175/easts.11.1919 |url=https://doi.org/10.11175/easts.11.1919}}<!--出鱈目な日本語訳からリポジトリの公開情報に変更-->
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref=harv|author=越正毅|title=交通工学通論|date=1989-09-30|year=1989|publisher=技術書院}}
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=「交通渋滞」徹底解剖|year=2005|publisher=丸善出版|ref=harv|author=交通工学研究会|editor=大口敬|month=5|isbn=4-905990-54-8}}
* {{Cite book |和書 |author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |ref={{SfnRef|峯岸邦夫|2018}} }}
* {{Cite book|和書|title=道路交通技術必携2018|date=2018-05-30|year=2018|publisher=丸善出版|ref=harv|author=交通工学研究会|isbn=978-4-905990-88-8}}
; 記事
* {{Cite journal|和書|author=岩崎征人|year=2015|title=渋滞発生と伝播のメカニズム|url=https://www.jcca.or.jp/kaishi/268/268_toku1.pdf|journal=建設コンサルタンツ協会誌|volume=268|page=|pages=8-11|format=PDF|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=椎名啓雄・浪川和大|year=2015|title=渋滞対策への取組み|url=https://www.jcca.or.jp/kaishi/268/268_toku2.pdf|journal=建設コンサルタンツ協会誌|volume=268|page=|pages=12-15|format=PDF|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=浅田薫永・川口裕久|year=2015|title=海外の交通渋滞の状況とわが国の取り組み ~開発途上国を中心に~|url=https://www.jcca.or.jp/kaishi/268/268_toku4.pdf|journal=建設コンサルタンツ協会誌|volume=268|page=|pages=20-23|format=PDF|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=友枝明保|year=2015|title=サグ部に潜む目の錯覚と『渋滞』|url=https://www.jcca.or.jp/kaishi/268/268_toku5.pdf|journal=建設コンサルタンツ協会誌|volume=268|pages=24-27|format=PDF|ref=harv}}
; その他
* {{Cite book|和書|ref=|author=国土交通省|title=都市圏の交通渋滞対策 -都市再生のための道路整備-|url=https://www.mlit.go.jp/common/000043136.pdf|format=PDF|series=平成13年度-平成14年度プログラム評価書|date=2003-03|year=2003|publisher=}}
* {{Citation|和書|ref=harv|author=国土交通省道路局|title=交通流対策について|url=http://www.meti.go.jp/committee/sankoushin/sangyougijutsu/chikyu_kankyo/yakusoku_souan_wg/pdf/005_07_00.pdf|format=PDF|series=中央環境審議会地球環境部会2020年以降の地球温暖化対策検討小委員会・産業構造審議会産業技術環境分科会地球環境小委員会 約束草案検討ワーキンググループ合同会合 (第5回)|date=2015-03-05|year=2015|publisher=国土交通省|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223892/www.meti.go.jp/committee/sankoushin/sangyougijutsu/chikyu_kankyo/yakusoku_souan_wg/pdf/005_07_00.pdf|archivedate=2015-04-02}}
* {{Cite journal|和書|author=松村翼, 鳩山紀一郎, 木村大地, 佐野可寸志,Faniya SULTANOVA, Valentina BARABANSHCHIKOVA |title=渋滞下の副次課題がドライバーの精神疲労・知覚時間・注意レベルに及ぼす影響 |journal=交通工学論文集 |publisher=交通工学研究会 |year=2021 |volume=7 |issue=4 |pages=A_1-A_7 |naid=130008020259 |doi=10.14954/jste.7.4_A_1 |url=https://doi.org/10.14954/jste.7.4_A_1}}{{要購読}}<!--"渋滞時の副時課題"の文字を含む論文は存在しない-->
* {{Cite journal|和書|author=越正毅, 赤羽弘和, 桑原雅夫 |title=渋滞のメカニズムと対策 |journal=生産研究 |issn=0037105X |publisher=東京大学生産技術研究所 |year=1989 |month=oct |volume=41 |issue=10 |pages=753-760 |naid=120002771111 |url=https://hdl.handle.net/2261/42423}}{{フリーアクセス}}
== 関連項目 ==
* [[輻輳]](通信網におけるトラフィックの高い状態)
* [[ラッシュ時]]
** [[帰省ラッシュ]]/[[Uターンラッシュ]]
* [[群集事故]]
* [[ボトルネック]]
* [[西成活裕]] - 日本の[[数理物理学]]者。'''渋滞学'''を専門とし、現象や原因の研究を行っている。
* [[アーバン・エア・モビリティ]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Traffic jam}}
* [https://www.jartic.or.jp/ 日本道路交通情報センター]
* [https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/ir-data.html 整備効果事例/道路関係データ(交通量・渋滞・環境等)](国土交通省)
* {{Kotobank|渋滞損失時間}}
* {{CRD|2000020741|渋滞に関する資料|[[香川県立図書館]]}}
{{都市計画}}
{{公害}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆうたい}}
[[Category:道路交通]]
[[Category:都市問題]]
|
2003-09-26T04:31:29Z
|
2023-12-20T02:55:53Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%BB%9E
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18,330 |
日
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日(にち、ひ、か、羅: dies、英: day, 仏: jour, 西: día)は、一昼夜のあいだ。また、それを単位として数えるための語(概念)。
日本語では、単独では「ひ」、漢語の数詞に続く場合は「にち」、和語の数詞に続く場合は「か」と読む(「よん」、また場合によっては「なな」は漢語数詞のように扱う)。
大和言葉での「ひ」と「か」の使い分けは、「一日」(ひとひ)、「二日」(ふつか)、「三日」(みか)、「四日」(よか)、「五日」(いつか)、「十日」(とをか)、「二十日」(はつか)、「三十日」(みそか)のように単数の日は「ひ」、複数の日は「か」が用いられる。
元々「1日」というのは地上から見た太陽の周期的な動き(および、それにともなう空や地上の周期的な明暗の変化)を元にした時の捉え方であって、人類に普遍的な捉え方であり、どの文明においても、用いられてきた。
ただし「1日」と言っても(現代の)天文学には様々な時刻系があり、太陽時、平均太陽時、世界時(UT)、恒星時、暦表時(ET)ではそれぞれ長さが異なっている。例えば、時間の単位としての日(単位記号:d)と、暦日(平均太陽日又は「一日の長さ(LOD:Length of Day)」とは、その時間間隔が異なる。
日界(一日の始まりの時刻)をどの時点とするかは、歴史的、文化的に様々である。一般の人びとが特定の時刻を日界と意識するようになったのは、15世紀に機械時計が発明され、ヨーロッパの都市などで広場などに大時計を設置し都市の住民がその針の動きを見られるようになってからである。
歴史的には、太陽日の長さが、日の長さであった。その後、均時差が発見されて太陽日が季節によって変化することがわかったので、太陽日を1年間にわたって平均した平均太陽日が1日の定義となった。1956年までは「日」があらかじめ(絶対のものとして)定まっていることによって、それを24分割して「時」が得られ、「時」を60分割して「分」が得られ、「分」を60分割して「秒」が得られる と理解され、時計もそう調整されていた。
しかし、20世紀なかばごろ、わずかではあるが地球の自転が徐々に遅くなっている(1日の時間が徐々に延びている)ということが知られるようになり、1956年の国際度量衡委員会 (International Committee for Weights and Measures, CIPM) で、平均太陽時とも地球の自転とも無関係な秒を定め、秒を基にして他の時間単位を定めることにした。これによって、「日によって秒を定める」から「秒によって日を定める」へと変化し、時間単位の定義と従属との関係が逆転した。
その結果、現代の計量単位系においては「秒 (s)」が時間の基本単位となっており、日は秒に換算して位置付けている(1日=24時間、1時間=60分、1分=60秒)ので、単純な掛け算によって、1日 = 24時間 = 1440分 = 86400秒とされる。
「日」は国際単位系 (SI) では、分や時などとともに、SI併用単位(SIと併用できる非SI単位)の一つである。「日」の単位記号は「d」である。
ただし、日本の計量法体系では、「日」は時間の単位とは定義されておらず、暦の単位として位置づけられている。すなわち、計量法における時間の単位は、10の整数乗倍のものを除いては、秒・分・時だけである。日・週・月・年は暦の単位であり、計量法における単位の使用規制の対象外である。したがって、暦の単位として「日(単位:d)」を取引または証明に用いることは可能である。
暦日(れきじつ、calendar day)は、常用時にしたがった、正子 から正子までの時間間隔である。暦日をしばしば単に「日」と呼ぶ。
また、1か月の中での暦日の順序を「数字 + 日」で表す(例: 6月18日)。読みは時間の単位としての場合と変わらないが、「1日」のみ(「いちにち」とは読まず)「ついたち」と読む。これは元来「月立ち」(月初め)の意味で、「1日」とは無関係な語源の熟字訓である。ただし古くは「ひとひ」とも読んだ。
暦日の長さ(ここでは、SIが定義する86400秒ではなく、実際の日の長さ、すなわち平均太陽日)は常識的には「正確に24時間 = 正確に86400秒」と認識されることが多いが、実際の暦日の長さはこれとは微妙に異なる。
20世紀前半には、歴史的な天文記録の精査や水晶時計の発明により、平均太陽日が徐々に長くなっていることが発見された。その原因は、潮汐摩擦による地球の自転速度の低下である。
このため、秒の定義を地球の自転よりも変動が少ない公転に求めることとし、1956年の国際度量衡委員会(International Committee for Weights and Measures, CIPM)で、平均太陽時とも地球の自転とも無関係な、地球の公転に基づく新たな秒の定義が定められた。すなわち1900年1月0日の12時(日本時間で1899年12月31日21時)から1太陽年の時間間隔の 1/31556925.9747 が1秒と改められ、1960年の国際度量衡総会で決議された。それまでは1秒が1/86400日と定義されていたのだが、これ以降は(単位としての)1日が86400秒と定義されることとなった(ただし、実際の「日の長さ」(LOD)は、前述のとおり、86400秒ではない)。
暦日の長さ(LOD:Length of Day)は、日々によって異なるが、2011年-2012年には年平均で、約86400.001秒から約86400.002秒程度である。すなわち、86400秒と比べて、1 ms - 2 ms程度長い。この1 ms - 2 ms程度の差の存在が閏秒を挿入する理由である。詳細は閏秒、地球の自転を参照。
上記の、変動する「暦日の長さ(LOD)」に対して、時間の単位としての「日(d)」は常に正確に「86400秒 = 24時間」である。
地球の公転により地球と太陽の位置関係が変わるため、1日の長さ(LOD)と地球の自転周期は異なる。しかし自転周期は、「太陽の代わりに恒星を基準にした1日」と解釈することもでき、そう考えた場合には恒星日と呼ぶ。
現在の地球の自転周期は約23時間56分4.01秒である。自転周期と1日との差は10分弱だが、それと1日との比は、地球の自転周期と公転周期の比に等しい。
天文学的に規定された時間の単位のうち、太陽の動きを基準とした「日」は、目で見てわかる最小のものである。月の動きを基準とした月や、季節の流れを基準とした年も、暦では日の整数倍の長さとされる。また、日を分割して時間や分、秒といった単位も作られた。
地球以外の天体や、地球でもはるかな過去(あるいははるかな未来)については、通常、その天体の平均太陽日(あるいは太陽日)をその天体の1日とする。言い換えれば、太陽の(平均)南中周期に等しい。
自転周期 t と公転周期 T からは、
で計算できる。ただし、衛星の場合は、衛星の自転周期と、母惑星の公転周期を使う。太陽の方向は、衛星の公転ではなく惑星の公転により変化するからである。
東南海の外の羲和が十日を生んだことに因んで炎帝の時より暦法官を日官と称し、その十日族の子孫を日と称す。
Unicodeには全角幅の「1日」-「31日」が以下のコードポイントに定められている。
|
[
{
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"text": "日(にち、ひ、か、羅: dies、英: day, 仏: jour, 西: día)は、一昼夜のあいだ。また、それを単位として数えるための語(概念)。",
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{
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"text": "日本語では、単独では「ひ」、漢語の数詞に続く場合は「にち」、和語の数詞に続く場合は「か」と読む(「よん」、また場合によっては「なな」は漢語数詞のように扱う)。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "大和言葉での「ひ」と「か」の使い分けは、「一日」(ひとひ)、「二日」(ふつか)、「三日」(みか)、「四日」(よか)、「五日」(いつか)、「十日」(とをか)、「二十日」(はつか)、「三十日」(みそか)のように単数の日は「ひ」、複数の日は「か」が用いられる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "元々「1日」というのは地上から見た太陽の周期的な動き(および、それにともなう空や地上の周期的な明暗の変化)を元にした時の捉え方であって、人類に普遍的な捉え方であり、どの文明においても、用いられてきた。",
"title": "概要"
},
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"text": "ただし「1日」と言っても(現代の)天文学には様々な時刻系があり、太陽時、平均太陽時、世界時(UT)、恒星時、暦表時(ET)ではそれぞれ長さが異なっている。例えば、時間の単位としての日(単位記号:d)と、暦日(平均太陽日又は「一日の長さ(LOD:Length of Day)」とは、その時間間隔が異なる。",
"title": "概要"
},
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"text": "日界(一日の始まりの時刻)をどの時点とするかは、歴史的、文化的に様々である。一般の人びとが特定の時刻を日界と意識するようになったのは、15世紀に機械時計が発明され、ヨーロッパの都市などで広場などに大時計を設置し都市の住民がその針の動きを見られるようになってからである。",
"title": "一日の始まり"
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"text": "歴史的には、太陽日の長さが、日の長さであった。その後、均時差が発見されて太陽日が季節によって変化することがわかったので、太陽日を1年間にわたって平均した平均太陽日が1日の定義となった。1956年までは「日」があらかじめ(絶対のものとして)定まっていることによって、それを24分割して「時」が得られ、「時」を60分割して「分」が得られ、「分」を60分割して「秒」が得られる と理解され、時計もそう調整されていた。",
"title": "時間の単位としての日"
},
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"text": "しかし、20世紀なかばごろ、わずかではあるが地球の自転が徐々に遅くなっている(1日の時間が徐々に延びている)ということが知られるようになり、1956年の国際度量衡委員会 (International Committee for Weights and Measures, CIPM) で、平均太陽時とも地球の自転とも無関係な秒を定め、秒を基にして他の時間単位を定めることにした。これによって、「日によって秒を定める」から「秒によって日を定める」へと変化し、時間単位の定義と従属との関係が逆転した。",
"title": "時間の単位としての日"
},
{
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"text": "その結果、現代の計量単位系においては「秒 (s)」が時間の基本単位となっており、日は秒に換算して位置付けている(1日=24時間、1時間=60分、1分=60秒)ので、単純な掛け算によって、1日 = 24時間 = 1440分 = 86400秒とされる。",
"title": "時間の単位としての日"
},
{
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"text": "「日」は国際単位系 (SI) では、分や時などとともに、SI併用単位(SIと併用できる非SI単位)の一つである。「日」の単位記号は「d」である。",
"title": "時間の単位としての日"
},
{
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"text": "ただし、日本の計量法体系では、「日」は時間の単位とは定義されておらず、暦の単位として位置づけられている。すなわち、計量法における時間の単位は、10の整数乗倍のものを除いては、秒・分・時だけである。日・週・月・年は暦の単位であり、計量法における単位の使用規制の対象外である。したがって、暦の単位として「日(単位:d)」を取引または証明に用いることは可能である。",
"title": "時間の単位としての日"
},
{
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"text": "暦日(れきじつ、calendar day)は、常用時にしたがった、正子 から正子までの時間間隔である。暦日をしばしば単に「日」と呼ぶ。",
"title": "暦日"
},
{
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"text": "また、1か月の中での暦日の順序を「数字 + 日」で表す(例: 6月18日)。読みは時間の単位としての場合と変わらないが、「1日」のみ(「いちにち」とは読まず)「ついたち」と読む。これは元来「月立ち」(月初め)の意味で、「1日」とは無関係な語源の熟字訓である。ただし古くは「ひとひ」とも読んだ。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "暦日の長さ(ここでは、SIが定義する86400秒ではなく、実際の日の長さ、すなわち平均太陽日)は常識的には「正確に24時間 = 正確に86400秒」と認識されることが多いが、実際の暦日の長さはこれとは微妙に異なる。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "20世紀前半には、歴史的な天文記録の精査や水晶時計の発明により、平均太陽日が徐々に長くなっていることが発見された。その原因は、潮汐摩擦による地球の自転速度の低下である。",
"title": "暦日"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このため、秒の定義を地球の自転よりも変動が少ない公転に求めることとし、1956年の国際度量衡委員会(International Committee for Weights and Measures, CIPM)で、平均太陽時とも地球の自転とも無関係な、地球の公転に基づく新たな秒の定義が定められた。すなわち1900年1月0日の12時(日本時間で1899年12月31日21時)から1太陽年の時間間隔の 1/31556925.9747 が1秒と改められ、1960年の国際度量衡総会で決議された。それまでは1秒が1/86400日と定義されていたのだが、これ以降は(単位としての)1日が86400秒と定義されることとなった(ただし、実際の「日の長さ」(LOD)は、前述のとおり、86400秒ではない)。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "暦日の長さ(LOD:Length of Day)は、日々によって異なるが、2011年-2012年には年平均で、約86400.001秒から約86400.002秒程度である。すなわち、86400秒と比べて、1 ms - 2 ms程度長い。この1 ms - 2 ms程度の差の存在が閏秒を挿入する理由である。詳細は閏秒、地球の自転を参照。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "上記の、変動する「暦日の長さ(LOD)」に対して、時間の単位としての「日(d)」は常に正確に「86400秒 = 24時間」である。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "地球の公転により地球と太陽の位置関係が変わるため、1日の長さ(LOD)と地球の自転周期は異なる。しかし自転周期は、「太陽の代わりに恒星を基準にした1日」と解釈することもでき、そう考えた場合には恒星日と呼ぶ。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "現在の地球の自転周期は約23時間56分4.01秒である。自転周期と1日との差は10分弱だが、それと1日との比は、地球の自転周期と公転周期の比に等しい。",
"title": "暦日"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "天文学的に規定された時間の単位のうち、太陽の動きを基準とした「日」は、目で見てわかる最小のものである。月の動きを基準とした月や、季節の流れを基準とした年も、暦では日の整数倍の長さとされる。また、日を分割して時間や分、秒といった単位も作られた。",
"title": "日と暦との関係"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "地球以外の天体や、地球でもはるかな過去(あるいははるかな未来)については、通常、その天体の平均太陽日(あるいは太陽日)をその天体の1日とする。言い換えれば、太陽の(平均)南中周期に等しい。",
"title": "一般の天体の1日"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "自転周期 t と公転周期 T からは、",
"title": "一般の天体の1日"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "で計算できる。ただし、衛星の場合は、衛星の自転周期と、母惑星の公転周期を使う。太陽の方向は、衛星の公転ではなく惑星の公転により変化するからである。",
"title": "一般の天体の1日"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "東南海の外の羲和が十日を生んだことに因んで炎帝の時より暦法官を日官と称し、その十日族の子孫を日と称す。",
"title": "日の称の由来"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "Unicodeには全角幅の「1日」-「31日」が以下のコードポイントに定められている。",
"title": "符号位置"
}
] |
日は、一昼夜のあいだ。また、それを単位として数えるための語(概念)。
|
{{Otheruses|時間の単位など}}
'''日'''(にち、ひ、か、{{lang-la-short|dies}}、{{lang-en-short|day}}, {{lang-fr-short|jour}}, {{lang-es-short|día}})は、一昼夜のあいだ。また、それを[[単位]]として数えるための語([[概念]])<ref>広辞苑第六版【日】</ref>。
==概要==
[[日本語]]では、単独では「ひ」、[[漢語]]の[[数詞]]に続く場合は「にち」、[[和語]]の数詞に続く場合は「か」と読む(「よん」、また場合によっては「なな」は漢語数詞のように扱う)。
[[大和言葉]]での「ひ」と「か」の使い分けは、「一日」(ひとひ)、「二日」(ふつか)、「三日」(みか)、「四日」(よか)、「五日」(いつか)、「十日」(とをか)、「二十日」(はつか)、「三十日」(みそか)のように単数の日は「ひ」、複数の日は「か」が用いられる。
元々「1日」というのは地上から見た[[太陽]]の周期的な動き(および、それにともなう[[空]]や地上の周期的な明暗の変化)を元にした時の捉え方であって<ref group="注">それが後に、「[[天球]]上の太陽の動きの周期」と理解されるようになり、さらに17世紀ころから徐々にヨーロッパなどで[[太陽中心説]]が流布してから「[[地球の自転]]の1周期」と考えられるようになった、という経緯がある。</ref>、[[人類]]に普遍的な捉え方であり、どの[[文明]]においても、用いられてきた。
ただし「1日」と言っても(現代の)天文学には様々な[[時刻系]]があり、[[太陽時]]、[[平均太陽時]]、[[世界時]](UT)、[[恒星時]]、[[暦表時]](ET)ではそれぞれ長さが異なっている<ref>ブリタニカ百科事典</ref>。例えば、時間の単位としての日(単位記号:d)と、[[#暦日|暦日]](平均[[太陽日]]又は「一日の長さ([[LOD]]:Length of Day)」とは、その時間間隔が異なる。
== 一日の始まり ==
[[日界]](一日の始まりの時刻)をどの時点とするかは、歴史的、文化的に様々である<ref name="名前なし-1">[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1C6FCA4C8A4CFA1A92F1C6FCA4CEBBCFA4DEA4EA.html 1日の始まり] 暦Wiki、国立天文台</ref>。一般の人びとが特定の時刻を[[日界]]と意識するようになったのは、15世紀に[[機械時計]]が発明され、ヨーロッパの都市などで広場などに大時計を設置し都市の住民がその針の動きを見られるようになってからである。
* [[正子]]:現代の世界で標準的に使われる時間体系では、日界は、[[正子]]、すなわち0時とすることが普通である。これを[[常用時]]または市民時 ([[:en:civil time]]) という。
* 夜明け:太陽が上ってくる夜明けを一日の始まりとすることは自然であり、かつて様々な文明でそのように意識されていた。
* [[正午]]:[[天文学]]では、天文観測の記録の便から、1925年まで、正午(昼の12時)を日界とする[[太陽時#天文時|天文時]] ([[:en:astronomical time]]) を用いていた。これは[[クラウディオス・プトレマイオス]]の創始によるものである<ref group="注">ただし、太陽には大きさがあり中心の位置を正確に測定するのは難しいので、実際は[[恒星]]の観測から計算された。この正午から正午までの一日は一定と考えられ、[[太陽日]]と呼ばれた。</ref>。1925年以降は、[[ユリウス通日]](正午を始まりとする)を除いては、天文学でも[[常用時]]を用いている。
* 日没時:[[太陰暦]]では、一月(ひとつき)の始まりを日没時に見える[[新月]]([[三日月]]状の細い月)が観測される時点としていたので、日界は必然的に日没時となる<ref name="名前なし-1"/>。イスラム暦やユダヤ暦で用いられ、キリスト教の[[教会暦]]も、このユダヤ暦を継承している。例えば[[クリスマス]]の一日は、常用時での12月24日の日没時に始まり、常用時での12月25日の日没時に終わる。したがって、[[クリスマス・イブ]]とは、「クリスマスの前日の夜」ではなく、正に「クリスマスの夜」である([[クリスマス・イヴ#日付]]の図も参照)。
* [[深夜]]([[未明]]):[[テレビ番組]]などの放送時刻において、[[正子]]過ぎの時刻を前日の時刻として表記する場合がある(例:「5日午前2時」の場合「4日26時」)。つまり[[番組表]]などでは、一日の始まりが常用時より3〜5時間程度遅いということになる。[[NHK]]では、実際に放送される日時を暦どおりに表記することを第一としつつ、午前4時までの場合は、前日の深夜であることを補助情報として表記する(例:「5日午前1時」の場合、「4日深夜」と付記する)ことが望ましいとしている<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/yougo/pdf/046.pdf| title=深夜番組の予告表示の統一| work=[[日本放送協会]]| date=2008-12| accessdate=2021-11-11}}</ref>。
* 午前6時:[[30時間制]]では、この時刻を日界としている。
== 時間の単位としての日 ==
{{単位
|名称 = 日
|記号 = d
|単位系 = [[非SI単位]]、[[SI併用単位]]
|物理量 = [[時間]]
|度量衡 = 日本の[[計量法]]においては、計量単位とは位置づけられておらず、週・月・年とともに[[暦]]の単位とされている。
|定義 = 24時間
|SI = 正確に {{val|86400}} s LOD(Length of Day)とは異なる。
|由来 = [[平均太陽日]]
}}
歴史的には、[[太陽日]]の長さが、日の長さであった。その後、[[均時差]]が発見されて[[太陽日]]が季節によって変化することがわかったので、太陽日を1年間にわたって平均した[[平均太陽日]]が1日の定義となった。1956年までは「日」があらかじめ(絶対のものとして)定まっていることによって、それを24分割して「時」が得られ、「時」を60分割して「分」が得られ、「分」を60分割して「秒」が得られる と理解され、時計もそう調整されていた。
しかし、20世紀なかばごろ、わずかではあるが地球の自転が徐々に遅くなっている(1日の時間が徐々に延びている)ということが知られるようになり、1956年の[[国際度量衡委員会]] (International Committee for Weights and Measures, CIPM) で、[[平均太陽時]]とも[[地球の自転]]とも無関係な秒を定め、秒を基にして他の時間単位を定めることにした。これによって、「日によって秒を定める」から「秒によって日を定める」へと変化し、時間単位の定義と従属との関係が逆転した。
その結果、現代の計量単位系においては「秒 (s)」が時間の基本単位となっており、日は秒に換算して位置付けている(1日=24[[時間 (単位)|時間]]、1時間=60[[分]]、1分=60[[秒]])ので、単純な[[乗法|掛け算]]によって、1日 = 24時間 = 1440分 = {{val|86400}}秒とされる。
「日」は[[国際単位系]] (SI) では、[[分]]や[[時]]などとともに、[[SI併用単位]](SIと併用できる[[非SI単位]])の一つである<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年4月、p. 114(表8 SI単位と併用できる非SI単位)。</ref>。「日」の[[単位記号]]は「d」である。
ただし、日本の[[計量法]]体系では、「日」は時間の単位とは定義されておらず<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051#1357 計量法 別表第一(第三条関係)] - 物象の状態の量の「時間」の欄に「日」は掲げられていない。</ref>、暦の単位として位置づけられている。すなわち、[[計量法]]における[[時間]]の単位は、[[SI接頭語|10の整数乗倍]]のものを除いては、[[秒]]・[[分]]・[[時間 (単位)|時]]だけである。'''日'''・[[週]]・[[月]]・[[年]]は'''[[暦]]'''の単位であり、[[計量法]]における'''[[単位]]'''の使用規制の対象外である。したがって、暦の単位として「日(単位:d)」を取引または証明に用いることは可能である<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.meti.go.jp/policy/economy/hyojun/techno_infra/51_qanda_tani.html |website=計量行政 |publisher=経済産業省 |title=取引又は証明/計量単位に関するよくある質問と回答 |page=2.B / Q5 A5 |date= |accessdate=2021-03-16 |quote=Q:計量法における時間の計量単位は、s(秒)、min(分)、h(時)の3種しかない。時間の計量単位としてd(日)を取引又は証明に使用できるか。また流量の計量単位に単位時間をd(日)としたm<sup>3</sup>/d(立方メートル/日)は取引又は証明に使用できるか。<br />A:計量法が規定している物象の状態の量のうち、「時間」に対する物象の状態の量の概念は、秒、分、時で表すことができる物理的な量であり、計量法が規定している時間の計量であれば、取引又は証明に使用できる計量単位はs(秒)、min(分)、h(時)のみである。日、週、月、年は暦の単位であり、計量法における単位の使用規制の対象外である。したがって、暦の単位としてd(日)を用いることは可能である。同様に、計量法における物象の状態の量としての流量も、暦の概念は含まれないので、暦としての1日当たりに流れる量を表すものとしてのm<sup>3</sup>/d(立方メートル/日)も計量法における単位の規制の対象外である。}}</ref>。
==暦日==
'''暦日'''(れきじつ、calendar day)は、[[常用時]]にしたがった、[[正子]] から正子までの時間間隔である<ref>[[ISO 8601]]:2004 2.2.6 calendar day</ref>。暦日をしばしば単に「日」と呼ぶ<ref>[[ISO 8601]]:2004 2.2.6 calendar day NOTE 1</ref>。
また、[[月 (暦)|1か月]]の中での暦日の順序を「数字 + 日」で表す(例: 6月18日)。読みは時間の単位としての場合と変わらないが、「1日」のみ(「いちにち」とは読まず)「ついたち」と読む。これは元来「月立ち」(月初め)の意味で、「1日」とは無関係な語源の[[熟字訓]]である。ただし古くは「ひとひ」とも読んだ。
=== 暦日の長さ(LOD:Length of Day) ===
暦日の長さ(ここでは、[[国際単位系|SI]]が定義する{{val|86400}}[[秒]]ではなく、実際の日の長さ、すなわち平均[[太陽日]])は常識的には「正確に24時間 = 正確に{{val|86400}}秒」と認識されることが多いが、実際の暦日の長さはこれとは微妙に異なる。
[[ファイル:Deviation_of_day_length_from_SI_day.svg|thumb|1962年から2021年までのLODの変動(緑線が一日の長さから86 400秒を差し引いたものの365日移動平均)]]
20世紀前半には、歴史的な天文記録の精査や[[水晶時計]]の発明により、平均[[太陽日]]が徐々に長くなっていることが発見された。その原因は、[[潮汐摩擦]]による[[地球の自転]]速度の低下である。
このため、秒の定義を[[地球の自転]]よりも変動が少ない[[公転]]に求めることとし、[[1956年]]の[[国際度量衡委員会]](International Committee for Weights and Measures, CIPM)で、[[平均太陽時]]とも[[地球の自転]]とも無関係な、地球の[[公転]]に基づく新たな[[秒]]の定義が定められた。すなわち1900年1月0日の12時(日本時間で1899年12月31日21時)から1[[太陽年]]の時間間隔の 1/{{val|31556925.9747}} が1秒と改められ、1960年の国際度量衡総会で決議された<ref>[https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf] 国際文書第 8 版 (2006) 国際単位系(SI)日本語版 訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター, p.23, 2.1.1.3 時間の単位(秒)
</ref>。それまでは1秒が1/{{val|86400}}日と定義されていたのだが、これ以降は(単位としての)1日が{{val|86400}}秒と定義されることとなった(ただし、実際の「日の長さ」([[LOD]])は、前述のとおり、{{val|86400}}秒ではない)。
暦日の長さ([[LOD]]:Length of Day<ref>[http://asa.usno.navy.mil/SecM/Glossary.html#_L] アメリカ海軍天文台 The Astronomical Almanac Online!, Glossary, "length of day"の説明 length of day:
strictly the number of fixed length seconds in the day determined from the rotation of the Earth, but most often used to refer to the excess length of day or the difference between the length of day and 86,400 SI seconds.</ref>)は、日々によって異なるが、2011年-2012年には年平均で、約{{val|86400.001}}秒から約{{val|86400.002}}秒程度である<ref group="注">1962年1月1日以降の毎日のLODは、[http://hpiers.obspm.fr/eoppc/eop/eopc04/eopc04.62-now] で知ることができる。この表のLOD(単位は秒)が{{val|86400}}秒と実際の暦日との差である。プラスの場合は{{val|86400}}秒より長いことを、マイナスの場合は{{val|86400}}秒より短いことを示している</ref>。すなわち、{{val|86400}}秒と比べて、1 ms - 2 ms程度長い<ref>[http://www.ucolick.org/~sla/leapsecs/amsci.pdf] Length of Day (Earth rotation rate) 縦軸が「暦日の長さと{{val|86400}}秒との差」をミリ秒単位で表している。</ref><ref>[http://hpiers.obspm.fr/eop-pc/] 左側のグラフが、「暦日の長さと{{val|86400}}秒との差」を秒単位で表している。横軸は修正ユリウス日(MJD)([[ユリウス通日#ユリウス日(JD)の変種]])である。
</ref>。この1 ms - 2 ms程度の差の存在が[[閏秒]]を挿入する理由である。詳細は[[閏秒]]、[[地球の自転]]を参照。
* [[閏秒]]の挿入または削除。閏秒が挿入された日の暦日は「24時間0分1秒 = {{val|86401}}秒」となる。
上記の、変動する「暦日の長さ([[LOD]])」に対して、時間の[[単位]]としての「日(d)」は常に正確に「{{val|86400}}[[秒]] = 24時間」である。
=== 自転周期との関係 ===
地球の[[公転]]により地球と太陽の位置関係が変わるため、1日の長さ(LOD)と地球の[[自転周期]]は異なる。しかし自転周期は、「太陽の代わりに[[恒星]]を基準にした1日」と解釈することもでき、そう考えた場合には恒星日と呼ぶ。
現在の地球の自転周期は約23時間56分4.01秒である。自転周期と1日との差は10分弱だが、それと1日との[[比]]は、地球の自転周期と公転周期の比に等しい。
== 日と暦との関係 ==
天文学的に規定された時間の単位のうち、太陽の動きを基準とした「日」は、目で見てわかる最小のものである。月の動きを基準とした[[月 (暦)|月]]や、季節の流れを基準とした[[年]]も、[[暦]]では日の整数倍の長さとされる。また、日を分割して[[時間 (単位)|時間]]や[[分]]、[[秒]]といった単位も作られた。
* (単位としての)1日(d) = 24時間 = 1440分 = 正確に {{val|86400}}秒
* [[暦]]において、1日は0時から24時までである。
* 1[[週]]間は7日である。
* 1[[月 (暦)|か月]]は28日 - 31日である。
* 1[[年]]は365日(ただし[[閏年]]は366日)であり、広く使われている[[グレゴリオ暦]]では、平均すると正確に365.2425日である。
== 一般の天体の1日 ==
地球以外の天体や、地球でもはるかな過去(あるいははるかな未来)については、通常、その天体の平均太陽日(あるいは太陽日)をその天体の1日とする。言い換えれば、太陽の(平均)[[南中]]周期に等しい。
自転周期 ''t'' と公転周期 ''T'' からは、
:<math> \frac{ T t }{ | T - t | } </math>
で計算できる。ただし、[[衛星]]の場合は、衛星の自転周期と、母[[惑星]]の公転周期を使う。太陽の方向は、衛星の公転ではなく惑星の公転により変化するからである。
== 日の称の由来 ==
東南海の外の[[羲和]]が十日を生んだことに因んで[[炎帝]]の時より暦法官を日官と称し、その十日族の子孫を日と称す。
* 『[[山海経]]』‐大荒西経「東南海之外,甘水之間,有羲和之國,有女子曰羲和,羲和者帝夋之妻,生十日」
* 『[[山海経]]』‐海外東経「湯谷上有扶桑,十日所浴」
* 『[[春秋左氏伝]]』‐桓公「天子有日官,諸侯有日御」
* 『[[荘子]]』‐「昔者十日並出,萬物皆照」
* 『[[淮南子]]』‐「武王伐紂,當戰之時,十日亂於上」
* 『[[史記]]』‐[[五帝]]本紀「堯乃命羲、和,敬順昊天,數法日月星辰,敬授民時,分命羲仲居嵎夷曰:暘谷,敬道日出,便程東作,日中星鳥,以殷中春,其民析,鳥獸字微。申命羲叔居南交,便程南為,敬致,日永星火,以正中夏,其民因,鳥獸希革。申命和仲居西土曰:昧谷,敬道日入,便程西成,夜中星虚,以正中秋,其民夷易,鳥獸毛毨。申命和叔居北方曰:幽都,便在伏物,日短星昴,以正中冬,其民燠,鳥獸氄毛。歳三百六十六日,以閏月正四時,信飭百官,衆功皆興」
==符号位置==
[[Unicode]]には全角幅の「1日」-「31日」が以下のコードポイントに定められている。
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!記号!!Unicode!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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| ||rowspan=2|[[夜]]
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|夜半(24:00)||[[真夜中|正子]]
|}
* [[協定世界時]]
* [[地球の自転]]
* [[日界]]
* [[閏秒]]
* [[時刻系]]
* [[太陽時]]
* [[恒星時]]
* [[時刻]]
* [[日齢]]
* [[ISO 8601]] - 日付と時刻の表記に関する国際標準規格
* {{prefix}}
*{{intitle}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{1年の月と日}}
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}
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[[Category:暦法]]
[[Category:時間の単位]]
[[Category:SI併用単位]]
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18,332 |
SYUFO
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SYUFO(しゅうほう、1954年〈昭和29年〉4月7日 - )は、日本の漫画家である。紙媒体を制作活動の基礎とする分野では旧来のペンネームである板橋 しゅうほう(いたはし しゅうほう)を用いる。 本名は板橋 秀法(いたはし ひでのり)。滋賀県生まれ。京都市立芸術大学日本画科卒業。
大学在学中であった1976年(昭和51年)、アニメ雑誌『月刊OUT』誌上に掲載された「ペイルココーン」にてデビュー。SFアクション漫画を得意とする。1981年(昭和56年)には少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』(集英社)で発表した「いたはししゅうほうとアルゴノウツ」名義作品『ラッキールートへランナウェイ』で第21回手塚賞準入選を受賞している。
2014年時点、SYUFO名義でウェブコミックを中心に作品を発表しているほか、板橋しゅうほう名義で京都精華大学マンガ学部マンガ学科および大学院マンガ研究科の教授も務めている。
2017年12月~、板橋しゅうほう名義に戻り、クトゥルフ神話をテーマとした電子コミック雑誌『ZONE OF CTHULUHU(ゾーンオブクトゥルフ)』(三栄)のプロデュース。同誌に新作『Be My Dunwich』(ハワード・フィリップス・ラブクラフト作『ダニッチの怪』)の連載を開始、全6話で完結。
2019年~、電子コミック雑誌『ZONE OF CTHULUHU(ゾーンオブクトゥルフ)』にて、『火星兵団』(原作:海野十三)を連載開始。
現在、『凱羅(がいら)』『アイ・シティ』をはじめとするほぼ全作品は、(株)三栄から電子コミックとして全巻配信されている。
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SYUFOは、日本の漫画家である。紙媒体を制作活動の基礎とする分野では旧来のペンネームである板橋 しゅうほうを用いる。 本名は板橋 秀法。滋賀県生まれ。京都市立芸術大学日本画科卒業。
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'''SYUFO'''(しゅうほう、[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[4月7日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]である。[[紙]][[メディア (媒体)|媒体]]を[[制作]]活動の基礎とする分野では旧来の[[ペンネーム]]である'''板橋 しゅうほう'''(いたはし しゅうほう)を用いる。 本名は'''板橋 秀法'''(いたはし ひでのり)。[[滋賀県]]生まれ{{R|K.S.U.}}。[[京都市立芸術大学]][[日本画|日本画科]]卒業{{R|K.S.U.}}。
== 来歴 ==
大学在学中であった[[1976年]](昭和51年)、[[アニメ雑誌]]『[[月刊OUT]]』誌上に掲載された「ペイルココーン」にてデビュー{{R|K.S.U.|Xファイル|奇怪}}。[[サイエンス・フィクション|SF]]アクション[[漫画]]を得意とする{{R|百化}}。[[1981年]](昭和56年)には[[少年漫画|少年向け]][[漫画雑誌]]『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])で発表した「いたはししゅうほうとアルゴノウツ」名義作品『ラッキールートへランナウェイ』で第21回[[手塚賞]]準入選を受賞している{{R|K.S.U.}}。
2014年時点、SYUFO名義で[[ウェブコミック]]を中心に作品を発表している{{R|K.S.U.}}ほか、板橋しゅうほう名義で[[京都精華大学]][[マンガ学部]][[マンガ学科]]および[[大学院]]マンガ研究科の[[教授]]も務めている{{R|K.S.U.|奇怪}}。
2017年12月~、板橋しゅうほう名義に戻り、[[クトゥルフ神話]]をテーマとした[[デジタルコミック|電子コミック]]雑誌『ZONE OF CTHULUHU(ゾーンオブクトゥルフ)』(三栄)のプロデュース。同誌に新作『Be My Dunwich』([[ハワード・フィリップス・ラブクラフト]]作『[[ダンウィッチの怪|ダニッチの怪]]』)の連載を開始、全6話で完結。
2019年~、[[デジタルコミック|電子コミック]]雑誌『ZONE OF CTHULUHU(ゾーンオブクトゥルフ)』にて、『火星兵団』([[海野十三|原作:海野十三]])<ref>{{Twitter status|syufoinfo|1550625248621764608}}</ref>を連載開始。
現在、『凱羅(がいら)』『アイ・シティ』をはじめとするほぼ全作品は、(株)三栄から電子コミックとして全巻配信されている。
== 人物・エピソード ==
* 幼少期に図書館に勤めていた祖父母が、展示されなくなった洋書の[[絵本]]や[[アメリカン・コミックス]](アメコミ)を持ち帰っていたことから、日本の漫画よりアメコミに親しむようになった{{R|百化}}。
* イラストレーターの[[開田裕治]]やキャラクターデザイナーの久保宗雄は大学時代の同級生であった{{R|全怪獣|百化}}。『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』や『[[バトルフィーバーJ]]』への参加は企画者104へ入社した久保からの繋がりによるものであった{{R|百化}}。
* 大学時代は自ら初代部長となって漫画研究会を設立し、黎明期の[[コミックマーケット]]に同人誌を出品していた{{R|百化}}。この同人誌を、みのり書房に務めていた聖咲奇が購読していたことがきっかけで、同社の雑誌『オカルト時代』のイラストを担当するようになり、デビューへとつながっていった{{R|百化}}。
* 『ベイルココーン』の連載も『月刊OUT』の創刊に際して聖から声をかけられたことによる{{R|百化}}。大学卒業を控えていたため3回程度のつもりであったが、連載が続いたことから執筆のため上京することとなった{{R|百化}}。
* 1980年ごろに体調を崩して東京から[[関西]]の実家へ戻った{{R|百化|奇怪}}。その後も漫画家としての活動は続けたが、[[東映]]での[[キャラクターデザイン]]からは離れることとなった{{R|百化}}。帰郷後の時期に『宇宙刑事ギャバン』のハンターキラーも手掛けているが、企画そのものには携わっていない{{R|奇怪}}。
== 作品リスト ==
; ペイルココーン 蒼ざめた繭
: [[1977年|1977]] - [[1978年]]11月、アニメ雑誌『[[月刊OUT]]』と増刊の『ランデヴー』『ランデヴーコミック』(みのり書房)などに掲載されたデビュー作品{{R|K.S.U.}}。
: 当初は真面目でシリアスな内容だったが読者に受けず、やけくそでギャグを織り交ぜた途端に(「平行宇宙の町内会編」直前から)、大人気になった作品である。『OUT』誌上での特集も組まれ、作者も悪のりしてペイルココーン偽[[LP]]の嘘宣伝なども展開された。『ペイルココーン』単行本では主に本作品が単品収録されている。ただし、単行本ではラスト部分が連載版とは若干異なり、続編を暗示するコマが描き直されて本作品のみで完結する結末になっている。
: 単行本は全1巻。[[東京三世社]]から[[1982年]]にハードカバー版。[[1984年]]にソフトカバー版。フロム出版社から[[1992年]]にベル・コミックス版が出版されている。
: 2017年に三栄書房から電子版コミック配信。
:; 熱中ジアーラ怪物編
:: アニメ誌『[[アニメック]]』[[1981年]]第8-10号で連載された、ジアーラ他、『ペイルココーン』のキャラクターを用いたギャグ漫画。と見せかけて『'''ペイルココーン 蒼ざめた繭 第二部'''』との正体を晒した途端、連載を打ち切られる{{efn|連載前『アニメック』1981年、7号で行われた編集部との対談でも「『ペイルココーン』ではなく、あくまで連載は『熱中ジアーラ』と言う番外編ですよ」とアニメック側から釘を刺されている。}}。なお、この第二部では[[衛星軌道]]上で瀕死のガーホンも国際防衛機構に救助されて一命を取り留めている。
:: 本作品は各社の『ペイルココーン』単行本には収録されておらず、その存在を知る者が少ない『ペイルココーン』幻の第二部である{{efn|ただし、単行本における加筆部分などに本作品のカットは流用されている。東京三世社版 p135など。}}。
; [[アイ・シティ]]
: [[近未来]][[超能力]]SF。[[OVA]]化および[[アニメーション映画|劇場アニメ]]化されている{{R|K.S.U.}}。
: 単行本は1984-85年に[[双葉社]]から全2巻。映画化記念スペシャル版として[[1990年]]に、描き下ろしが追加された全2巻が出版された。他、[[1996年]]に[[大都社]]が全2巻を出している。2017年に三栄書房から電子版コミックが全4巻で配信されている。
; Hey! ギャモン
: 単行本は1984-85年に双葉社より全3巻。1990年に判型を変えて全2巻。2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; エイリアンクラッシュ
: 単行本は1984年に[[潮出版社]]から全1巻。
; ヘクトパスカルズ
:
; 妖術本舗
: 2016年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。全2巻。
; DAVID
: 『月刊WHAT(ワット)』([[東京三世社]])に連載された。全2巻。東京三世社版コミックスは「ニューオカルトSFサスペンス大傑作」と銘打たれ、1巻帯のアオリ文には「未来版[[切り裂きジャック]]!!DAVID」、2巻は「神の子創造計画により誕生したDAVID」と記されている。
: 2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; シルベスター
: 2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; グランドメーカー[板橋しゅうほう傑作短編セレクション1]
: 2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; That's 荒神 [板橋しゅうほう傑作短編セレクション2]
: 大都社、1997年。2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; パパキングママジェット[板橋しゅうほう傑作短編セレクション3]
: 単行本は1984年に東京三世社より全1巻。2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; スリック・スター
: 単行本は1992-94年に潮出版社から全4巻。2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; ラッキールートへランナウェイ
: 単行本は1984年に[[集英社]]から全1巻。
; セブンブリッジ
: 潮出版社より、1986-90年に単行本全7巻。2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; 凱羅(がいら)
: 電子データを視覚的に認識できる異能者・善鏡とその娘・梨久を主人公に、異能者を生み出す“凱羅因子”の秘密に迫っていく[[サイバーパンク]]SF。
: 当初は『月刊スーパーアクション』(双葉社)にて連載、単行本も双葉社より1987年に2巻発売されたが、掲載誌の廃刊により中断。後に出版社を変更して『ログアウト』→『月刊ログアウト』(アスキー出版局)で連載再開し完結、単行本も[[アスキー (企業)|アスキー]]より『月間スーパーアクション』掲載分を含めた完全版が1993年に全4巻で発売された。2017年に三栄書房から電子版コミックが配信されている。
; FUNKY GUTSMAN !
:
; G-CUP
: 『[[コミック・ガンボ]]』掲載。全2巻予定であったが、出版社の倒産により、第2巻は未発売となった。2019年に三栄書房から全4巻完結で電子版コミックが配信されている。
; 化虎 -KETORA-
: [[ウェブコミック誌]]『[[e-manga]]』掲載。未単行本化。2019年に三栄書房より完全版を電子コミックで5巻まで配信されている。
:
; Be My Dunwich(ビイ・マイ・ダニッチ)
: ウェブコミック誌『[[ZONE OF CTHULUHU]]』掲載。ラブクラフト原作の『ダニッチの怪』をコミカライズ。全1巻。2019年に三栄書房より電子コミックが配信されている。
=== コミカライズ ===
; [[ザ☆ウルトラマン]]
: 雑誌『[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]]』1979年5月号- 11月号。
; [[氷 (X-ファイルのエピソード)]]
: 『コミックス X-ファイル』VOL.1([[徳間書店]]、1996年)収録{{R|Xファイル}}。
== キャラクターデザイン ==
* [[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]
* [[バトルフィーバーJ]]
* [[宇宙刑事ギャバン]] - ハンターキラーデザイン{{R|奇怪}}
== イラスト ==
* 『ファンタスティックTVコレクションNo3 [[科学忍者隊ガッチャマン]]PART2』([[朝日ソノラマ]] 1978年8月1日発行)。
:: 書き下ろし絵物語「嵐を呼ぶミイラ巨人」を収録。
* 『エキセントリック・サウンド・オブ・スパイダーマン』(『スパイダーマン』[[サウンドトラック]][[レコード#LP盤|LP]])[[ディスクジャケット|ジャケット]]
:: [[コンパクトディスク|CD]]では著作権上の問題から、表面は[[楽譜]]の写真に、裏面は番組のタイトル画面の画像に差し替えられている。
* 『組曲 バトルフィーバーJ』(『バトルフィーバーJ』サウンドトラックLP)ジャケット
:: のちに『バトルフィーバーJ MUSIC COLLECTION』のジャケットにも流用されている。
== ゲーム ==
* [[ダウンロード (ゲーム)|ダウンロード2]]
* [[ランニング・ハイ]]
* [[プレイステーションコミック|キャロル・ザ・ダークエンジェル]]
* [[サイバーオーグ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<ref name="K.S.U.">[https://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/itahashi-syufo.html 板橋 しゅうほう | 京都精華大学]</ref>
<ref name="全怪獣">{{Cite book|和書|year=1990|title=[[全怪獣怪人]]|publisher=[[勁文社]]|volume=上巻|page=433|isbn=4-7669-0962-3}}</ref>
<ref name="Xファイル">『コミックス X-ファイル』VOL.1(徳間書店、1996年)掲載「氷」及びカバー折り返し著者紹介</ref>
<ref name="百化">{{Cite book|和書|date=2011-12-15|title=東映スーパー戦隊シリーズ35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995|publisher=グライドメディア|page=91|chapter=DESIGNER'S INTERVIEW03 板橋しゅうほう|isbn=978-4813021636}}</ref>
<ref name="奇怪">{{Cite book|和書|date=2017-09-30|title=メタルヒーロー怪人デザイン大鑑 奇怪千蛮|publisher=[[ホビージャパン]]|page=100|chapter=DESIGNER INTERVIEW_02 板橋しゅうほう|isbn=978-4-7986-1540-0}}</ref>
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== 外部リンク ==
* {{Anchors|official}}{{Cite web |title=syufo_magazine |url=http://www1.odn.ne.jp/~cdc52120/index.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=SYUFO |accessdate=2012-12-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110926021336/http://www1.odn.ne.jp/~cdc52120/index.html |archivedate=2011-9-26 |deadlinkdate=2013-6-25}}
* [https://web.archive.org/web/20010513120855/http://www1.odn.ne.jp/syufo-magazine/ syufo_magazine] 2001年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月5日閲覧。
* {{Cite web|和書|title=板橋しゅうほう - 教員紹介 |url=https://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/itahashi-syufo.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[京都精華大学]] |accessdate=2012-12-22}}
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18,334 |
西炯子
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西 炯子(にし けいこ、12月26日生)は、日本の漫画家。女性。鹿児島県指宿市出身。にし けいこ名義でも活動している。代表作品に『三番町萩原屋の美人』『ちはるさんの娘』『STAY』『娚の一生』などがある。
鹿児島県立指宿高等学校、都留文科大学国文科卒業。雑誌『JUNE』の「竹宮惠子の漫画教室」へたびたび投稿し、高校在学中の1986年に採用掲載されデビュー。その後、教員をしながら作品を発表する多忙な生活を経て、漫画家として独立する。
2006年に「STAY〜ああ今年の夏も何もなかったわ〜」が古田亘監督により、2015年に「娚の一生」が廣木隆一監督により実写映画化される。
2019年春、『お父さん、チビがいなくなりました』が小林聖太郎監督によって実写映画化され、「初恋〜お父さん、チビがいなくなりました」というタイトルで公開される。
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西 炯子は、日本の漫画家。女性。鹿児島県指宿市出身。にし けいこ名義でも活動している。代表作品に『三番町萩原屋の美人』『ちはるさんの娘』『STAY』『娚の一生』などがある。
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}}
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2013年2月3日現在で、出版社サイトのプロフィールには出生年記述がみあたらないため、「存命人物の伝記」の方針から出生年の記載を削除しました。
明確な出典をご存知の方は出典追記をお願いいたします。
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'''西 炯子'''(にし けいこ、<!-- [[1966年]] -->[[12月26日]]生<ref name="syoprof">{{Cite web|和書|url = https://flowers.shogakukan.co.jp/author/280/ | title = 小学館コミック -フラワーズ- 西 炯子 PROFILE | publisher = [[小学館]] | accessdate = 2013-02-03 }}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。女性。[[鹿児島県]]<ref name="syoprof" />[[指宿市]]出身。'''にし けいこ'''名義でも活動している。代表作品に『[[三番町萩原屋の美人]]』『[[ちはるさんの娘]]』『STAY』『[[娚の一生]]』などがある。<!--「西絅子」という表記がされることがあるが、これは誤りである。-->
== 略歴 ==
[[鹿児島県立指宿高等学校]]、[[都留文科大学]]国文科卒業。雑誌『[[JUNE]]』の「[[竹宮惠子]]の漫画教室」へたびたび投稿し、高校在学中の[[1986年]]に採用掲載されデビュー<ref name="nataprof">{{Cite web|和書|url = https://natalie.mu/comic/artist/2158 | title = コミックナタリー - 西炯子のプロフィール | publisher = 株式会社ナターシャ | accessdate = 2013-02-03 }}</ref>。その後、教員をしながら作品を発表する多忙な生活を経て、漫画家として独立する。
[[2006年]]に「[[STAY (映画)|STAY〜ああ今年の夏も何もなかったわ〜]]」が[[古田亘]]監督により、[[2015年]]に「[[娚の一生#映画|娚の一生]]」が[[廣木隆一]]監督により実写映画化される。
2019年春、『[[お父さん、チビがいなくなりました]]』が[[小林聖太郎]]監督によって実写映画化され、「[[初恋〜お父さん、チビがいなくなりました]]」というタイトルで公開される<ref>{{Cite news|title=西炯子原作映画『初恋~お父さん、チビがいなくなりました』全キャスト発表|date=|url=https://www.cinra.net/news/20180926-hatsukoi|accessdate=2018-09-28|publication-date=|work=CINRA.NET}}</ref>。
== 漫画 ==
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※過去の作品は、新装版や文庫化に伴い、当時の単行本の掲載順通りではなく巻をまたいでミックスされている作品もあるが、それらは列記されずほとんど初出の記載に留めている。
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=== 連載中 ===
* たーたん(小学館『[[ビッグコミックオリジナル]]』vol.2 2015年1月5日 - )既刊6巻
* 初恋の世界(小学館『[[月刊フラワーズ]]』2016年3月号 - )既刊13巻
* [[恋と国会]](小学館『[[ビッグコミックスピリッツ]]』2018年49号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/306611|title=「娚の一生」「姉の結婚」の西炯子がスピリッツ初連載、恋愛×政治を描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-11-05|accessdate=2021-11-10}}</ref> - 〔不定期連載〕)既刊1巻 (2巻 発売日未定)
* (泣)―かっこなき―(小学館『増刊flowers』2020年冬号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/404551|title=西炯子、“泣く男”たちのさまざまな事情を覗き見るオムニバス新連載を増刊flowersで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-11-13|accessdate=2021-11-10}}</ref> - )既刊1巻
=== 小学館 ===
* 天使にならなきゃ(1988年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** 太陽の下の17歳(『JUNE』1986年11月号) ※「西桂子」名義
** 天使にならなきゃ(『JUNE』1987年3月号)
** ついに最後のREQUEST-LAST REQUEST AT LONG LAST-(『JUNE』1987年5月号)
** 「出口」(『JUNE』1987年12月号-1988年2月号)
** 待っているよ(『プチフラワー』1988年3月号)
** その後のランナー(『プチフラワー』1988年5月号)
* 僕は鳥になりたい(1990年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** エスケープ(『プチフラワー』1988年7月号)
** 家の光(『プチフラワー』1988年12月号)
** 欲望という名の自転車(『JUNE』1989年5月号)
** 僕は鳥になりたい(『プチフラワー特別号』1989年12月増刊号)
* 水が氷になるとき(1990年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** プロミス(『プチフラワー』1990年1月号)
** 犬とあなたと春風と(『プチフラワー』1990年3月号)
** 君去りてのち(『プチフラワー』1990年5月号)
** ここへおいで(『JUNE』1990年11月号)
** 水が氷になるとき(『プチフラワー』1990年11月号)
* 9月 -september-(1991年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** いつかこんな日が(『プチフラワー』1991年1月号)
** 一人で暮らす理由(『プチフラワー』1991年3月号)
** 9月-September-(『プチフラワー』1991年5月号)
* もうひとつの海(1992年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** もうひとつの海(『プチフラワー』1992年1月号・3月号)
** Teenage(『プチフラワー』1992年7月号)
** Swimmer(『プチフラワー』1992年9月号)
* LoveSong(1993年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** LOVE SONG(『プチフラワー』1993年1月号)
** 海辺の宝石(『プチフラワー』1993年3月号)
** 信号ちかちか(『プチフラワー』1993年5月号・7月号)
** 心の皮(『プチフラワー』1993年11月号)
* [[ローズメリーホテル空室有り]](1995年 - 1998年、プチフラワーコミックス、全4巻)
** ローズメリーホテル空室有り(『プチフラワー』1994年9月号 - 1997年5月号)
** 山田家の母(『プチフラワー』1994年5月号・7月号)
** 自慢の恋人(『プチフラワー』1998年5月号)
* 学生と恥(1998年、小学館キャンバス文庫特別版、上下巻) - 作者の私小説風エッセイ漫画
* 真夜中のMidnight(『プチフラワー』1998年9月号 - 1999年7月号、1999年、プチフラワーコミックス、全1巻)
* 桃色の背中(2001年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** 光る南国の魚(『プチフラワー』2000年3月号)
** おかあさんといっしょ(『プチフラワー』2000年5月号)
** おくさまは88歳(『プチフラワー』2000年7月号)
** A -エー-(『プチフラワー』2000年11月号)
** あなたなしでは生きていけない(『プチフラワー』2001年1月号)
** 桃色の背中(『プチフラワー』2001年3月号)
* 薔薇姫(2002年、プチフラワーコミックス、全1巻)
** 薔薇姫(『プチフラワー4月号増刊別P!』、2001年)
** 空がこんなに青いとは(『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]2月号特別増刊号花林』、1994年)
** くも(『プチフラワー』1997年7月号・9月号)
* STAY ああ今年の夏も何もなかったわ(『[[月刊フラワーズ]]』2002年8月号 - 2003年1月号、2003年、プチフラワービッグコミックス、全1巻)
* STAYプラス お手々つないで(『月刊フラワーズ』2003年4月号 - 9月号、2003年、プチフラワービッグコミックス、全1巻)
* STAYリバース 双子座の女(『月刊フラワーズ』2003年12月号 - 2004年5月号、2004年、プチフラワービッグコミックス、全1巻)
* STAYラブリー 少年(『月刊フラワーズ』2004年7月号 - 2005年6月号、2005年、プチフラワービッグコミックス、全2巻)
* STAYプリティ First Love(『月刊フラワーズ』2005年8月号 - 2006年1月号、2006年、プチフラワービッグコミックス、全1巻)
* STAYネクスト 夏休み カッパと(2006年、プチフラワービッグコミックス、全1巻)
** 口笛吹いて(『別冊ウィングスTen Carat』1994年11月号)
** 四月にはレンゲ畑(『[[Amie]]』1998年1月号)
** STAYシリーズ 夏休み カッパと(『月刊フラワーズ』2006年3月号)
** STAYシリーズ 愛してる(『月刊フラワーズ』2006年5月号)
* 放課後の国(『月刊フラワーズ』2006年7月号 - 12月号、2007年、フラワーコミックス、全1巻)
* 電波の男<small>(ひと)</small>よ(2007年、フラワーコミックス、全1巻)
** 波のむこうに(『月刊フラワーズ』2007年3月号)
** 波のこちらは(『月刊フラワーズ』2007年4月号)
** 電波の男<small>(ひと)</small>よ(『月刊flowers』2007年6月号)
** 電波の女<small>(ひと)</small>よ(『月刊flowers』2007年7月号)
** うそ〜ん!(『月刊フラワーズ』2007年8月号、単行本収録時に「海の満ちる音」へ改題)
** うそ〜ん?(『月刊フラワーズ』2007年9月号)
* 亀の鳴く声(『月刊フラワーズ』2007年12月号 - 2008年5月号、2008年、フラワーコミックスα、全1巻)
* [[娚の一生]](2009年 - 2012年、フラワーコミックスα、全4巻)
**娚の一生(『月刊フラワーズ』2008年9月号 - 2010年2月号)
**娚の一生 スピンオフ(『[[増刊flowers|凛花]]』2010年10号 - 2012年16号、単行本収録時に通巻に改題)
* [[ふわふわポリス]](『月刊フラワーズ』2010年4月号 - 9月号、2010年、フラワーコミックスα、全1巻)
* 西炯子のこんなん出ましたけど、見る?(2011年、フラワーコミックススペシャル、全1巻)
** ちるちる!(『別冊[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』2002年14号 - 16号)
** 墨の香り(『[[Judy]]』2006年5月号)
** 学生の生涯(『凛花』2007年1号・3号 - 2010年9号、4コマ漫画)
** スパイの手帖 - 泣く男 -(『凛花』2007年2号)
** 黒猫が…見てる(『月刊フラワーズ』2007年5月号)
** 辻ウラDIARY(『月刊フラワーズ』2007年7月号別冊ふろく『flowers 占術図鑑 Fortune Book』)
** 花はどこへ行った(『月刊フラワーズ』2008年6月号)
** 水元兄弟(『月刊フラワーズ』2005年10月号付録)(2009年、『flowers Garden 幻想の迷宮』、共著、フラワーコミックスα、全1巻)
** 私の若葉マーク時代(1ページ漫画)
** ひとりで生きるモン!
* [[姉の結婚]](『月刊フラワーズ』2010年11月号 - 2014年10月号、2011年 - 2014年、フラワーコミックスα、全8巻)
* のこのこ!([[南日本新聞]]朝刊 毎月第1、第3日曜日掲載 〔2010年4月 - 2015年3月15日〕、2015年、フラワーコミックスαスペシャル、全1巻)
* [[お父さん、チビがいなくなりました]](『[[増刊flowers|増刊フラワーズ]]』2013年冬号 - 2015年夏号、2015年、フラワーコミックスα、全1巻)
* [[カツカレーの日]](『月刊フラワーズ』2015年1月号 - 12月号、2015年 - 2016年、フラワーコミックスα、全2巻)
*シロがいて(『増刊フラワーズ』2015年冬号 - 2018年春号、2018年、フラワーコミックスα、全1巻)
*君がとなりにいるだけで 〜愛すべき動物たち〜(共著、2018年、フラワーコミックス、全1巻)
** 明日のニャータ(『ねこだのみ』(月刊ではない方)第1号(2015年5月発売))
=== 新書館 ===
* 西炯子短篇集
** え・れ・が(1994年、Wings comics、全1巻)
*** え・れ・が(『[[ウィングス (雑誌)|ウィングス]]』1990年5月号)
*** 眼鏡のない日(『ウィングス』1991年9月号)
*** 渡しの狂(『[[サウス (雑誌)|サウス]]』1993年Summer)
*** 密林の二人(『サウス』1995年Spring)
*** So Much To Say(『Asuka増刊ミステリーDX』1991年春号)
*** 体の思い出『指』(『KID'S』1991年vol.14)
*** 体の思い出『息』(『KID'S』1991年vol.15)
*** 体の思い出『耳』(『KID'S』1991年vol.16)
** わたしのことどう思ってる?(1997年、Wings comics、全1巻)
*** わたしのことどう思ってる?(『サウス』1997年2月号、同年4月号)
*** 戦場にかける恥(『サウス』1997年6月号)
*** 虹のできるわけ(『サウス』1997年8月号)
** さよならジュリエット(1998年、Wings comics、全1巻)
*** さよならジュリエット(『ウィングス』1997年4月号)
*** 君といつまでも(『ウィングス』1997年6月号)
*** あなたがいるなら(『ウィングス』1997年8月号)
*** 彼女からFAX(『ウィングス』1997年10月号、『ミステリー[[JOURすてきな主婦たち|Jour]] Special』2011年第110集に再録)
*** 軽井沢つけもの夫人(『ウィングス』1998年1月号)
* [[三番町萩原屋の美人]](1993年 - 2002年、Wings comics、全15巻)
** 三番町萩原屋の美人(『ウィングス』1991年2月号 - 2002年3月号)
** 西部戦線事情あり(『ウィングス』2002年4月号)
* [[ひらひらひゅ〜ん]](『ウィングス』2006年7月号 - 2010年10月号、2007年 - 2010年、Wings comics、全4巻)
=== 徳間書店 ===
* ひとりで生きるモン!(2002年 - 2012年、キャラコミックス、全5巻)
** ひとりで生きるモン!(『小学館[[パレット文庫]]』しおり、1997年11月 - 2004年12月)
** それでもひとりで生きるモン!(『[[Chara (雑誌)|Chara]]Selection』2003年7月号 - 2013年5月号)※2013年2月号から最終回まで、単行本未収録。
* 女王様ナナカ(『[[月刊COMICリュウ]]』2007年9月号・10月号、2007年、リュウコミックス、全1巻、原作:[[大槻ケンヂ]])
=== 白泉社 ===
* 兄さんと僕(『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』2008年8月号 - 2011年4月号、2011年、花とゆめコミックススペシャル、全1巻)
* [[なかじまなかじま]](『MELODY』2011年10月号 - 2014年8月号、2012年 - 2014年、花とゆめコミックススペシャル、全3巻)
=== 講談社 ===
* [[恋と軍艦]](『[[なかよし]]』2011年2月号 - 2015年6月号、2011年 - 2015年、[[講談社コミックスなかよし|KCなかよし]]、全8巻)
* キスする街角(『なかよし』2017年3月号 - 2018年3月号、2018年、KCなかよし、全1巻)
=== 角川書店 ===
* かわいそうなお姫様(1993年、あすかコミックスDX、全1巻)
** かわいそうなお姫様(『[[月刊Asuka]]』1992年8月号)
** おくらeighteen(『月刊Asuka』1993年1月号・2月号)
** 森の中(『月刊Asuka』1993年5月号)
=== 双葉社 ===
* [[ちはるさんの娘]]([[双葉社]]『[[まんがタウン]]』2007年3月号‐ 2019年11月号、2010年 - 2020年、アクションコミックス、全4巻)
=== 読切 ===
* Cat's愛(『MELODY』2007年8月号、白泉社)
* きみはともだち(『[[週刊ビッグコミックスピリッツ]]』2016年35号、小学館)
* お便りお待ちしています(『月刊フラワーズ』2022年7月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/479201|title=「ポーの一族」の新シリーズがflowersで開幕、西炯子2本立て&ねむようこ読み切り|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-05-27|accessdate=2022-05-27}}</ref>、小学館)
== エッセイ ==
* 西炯子エッセイ集 生きても生きても(2011年、[[ルルル文庫|フラワーコミックスルルルnovels]]、全1巻)
* 西炯子エッセイ集 一生中2じゃダメかしら?(2012年、フラワーコミックスルルルnovels、全1巻)
== 挿絵・イラスト ==
=== 集英社 ===
* パラダイス・ボーイズシリーズ([[西田俊也]])([[集英社]][[コバルト文庫]]・全3巻)
* 月は無邪気な夜の女王(島田理聡)(集英社コバルト文庫)
* 泥棒なんてこわくない!(島田理聡)(集英社コバルト文庫)
* 雪月の花嫁([[樹川さとみ]])(集英社コバルト文庫)
=== 講談社 ===
* 彼女がいた夏(林瞳)([[講談社X文庫ホワイトハート]])
* ドクターヘリ物語シリーズ([[岩貞るみこ]])([[講談社]][[青い鳥文庫]])※'''にし けいこ名義'''
* フライトナース ハナ シリーズ(岩貞るみこ)(講談社青い鳥文庫)※'''にし けいこ名義'''
* [[都会のトム&ソーヤ]]シリーズ([[はやみねかおる]])([[YA!ENTERTAINMENT]]・1巻 - 以下続刊、完全ガイド、ゲーム・ブック)※'''にし けいこ名義'''
:4巻 - 6巻、完全ガイドでは巻末漫画を描いている。
* [[坊つちやん|坊っちゃん]] 新装版([[夏目漱石]])(講談社青い鳥文庫)※'''にし けいこ名義'''
* [[トム・ソーヤーの冒険]] 新装版([[マーク・トウェーン]])(講談社青い鳥文庫)※'''にし けいこ名義'''
* [[ハックルベリー・フィンの冒険]](マーク・トウェーン)(講談社青い鳥文庫・上下巻)※'''にし けいこ名義'''
=== 角川書店 ===
* [[富士見二丁目交響楽団]]([[秋月こお]])([[角川ルビー文庫]]・1巻 - 19巻)
* ダダ&一也シリーズ(尾鮭あさみ)(角川ルビー文庫・1巻 - 6巻)
* タブー(須和雪里)(角川ルビー文庫)
* サミア(須和雪里)(角川ルビー文庫)
=== 小学館 ===
* 漆黒の髪は疾風(速水彩)(小学館[[パレット文庫]])
* 未知なる大地に渡る風(速水彩)(小学館パレット文庫)
* 背中あわせのロンリー(内侍原淳)(小学館パレット文庫)
* [[封殺鬼]]シリーズ([[霜島ケイ]])(小学館[[キャンバス文庫]]・全28巻)
* 籠の鳥は夜にささやく([[深山くのえ]])(小学館パレット文庫)
* 紅蓮のくちづけ 染模様恩愛御書(深山くのえ)(小学館パレット文庫スペシャル)
=== その他 ===
* 大航海([[新書館]])表紙イラスト(1号 - 12号)
* モダン・タイムス([[菅野彰]])(新書館ウィングス文庫・1巻)
* BOY'Sピアス(マガジン・マガジン)表紙イラスト(1997年3月号 - 2001年12月号、2002年1月号)
* 小説ピアス(マガジン・マガジン)表紙イラスト(vol.1 - 21(休刊))
* 小説JUNE(マガジン・マガジン)表紙イラスト(1998年10月号、2000年4月号)
* 西炯子画集 男の世界(マガジン・マガジン)
* シンデレラさん、お大事に。精神科医が読み解くおとぎ話の真実([[杏野丈]])([[メディアファクトリー]])
* GO!GO!チアーズ([[工藤純子]])([[ポプラ社]]Dreamスマッシュ!・全2巻)※'''にし けいこ名義'''
* [[怪盗紳士ルパン|怪盗紳士リュパン]]([[モーリス・ルブラン]])([[東京創元社]] 期間限定カバーイラスト)
* [[さよなら絶望先生 (アニメ)|【懺・】さよなら絶望先生 番外地]] 下巻エンドカード(原作:[[久米田康治]]、監督:[[新房昭之]]、【懺・】さよなら絶望先生制作委員会、2010年)
* 西炯子ドローイングス 金・銀・パール(新書館)
== メディア出演 ==
;テレビ
* [[探偵!ナイトスクープ]](1993年5月21日、[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]) - 「[[チチヤス]]ヨーグルトの大看板のふたの部分に製造年月日が記されているか。」という依頼で出演、探偵は[[桂小枝]] 。DVD「探偵!ナイトスクープVol.6」に収録。
* [[浦沢直樹の漫勉|浦沢直樹の漫勉neo]](2020年11月19日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])- 「漫勉neo 第6回」において、自身の執筆時の取材映像を基に[[浦沢直樹]]と対談。
* ネコメンタリー 猫も、杓子も。(2021年12月16日、NHK Eテレ) - 副題は「西炯子と大ちゃん」。4匹の保護猫との暮らしを紹介<ref name="natalie20211214">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/457466|title=「娚の一生」西炯子がEテレの番組に出演、愛猫“大ちゃん”との出会い語る|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-12-14|accessdate=2021-12-14}}</ref>。書下ろしエッセイの朗読は[[伊藤沙莉]]。
;ラジオ
* [[たまむすび]](2017年6月15日、[[TBSラジオ]]) - 「好きなご当地CMソングを歌おう」という企画に、'''今夜はカレー'''という[[ラジオネーム]]で電話出演し、鹿児島にある焼肉店のCMソングを歌った。
== その他 ==
*「娚の一生」が「[[このマンガがすごい!]]2010」([[宝島社]])オンナ編において第5位を獲得。「THE BEST MANGA 2010 [[このマンガを読め!]]」([[フリースタイル (出版社)|フリースタイル]])でも第6位を受賞した。
* [[週刊文春]]で[[清水ちなみ]]が連載していた「[[おじさん改造講座]]」のOL委員会の会員であることを、2016年1月の週刊文春WOMANのコラムで告白している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 外部リンク ==
* {{twitter|namarakowakatta}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:にし けいこ}}
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:鹿児島県出身の人物]]
[[Category:都留文科大学出身の人物]]
<!-- [[Category:1966年生]] -->
[[Category:存命人物]]
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2003-09-26T05:04:07Z
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2023-12-02T08:44:31Z
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御嶽山
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御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。日本の山では14番目に標高が高く、独立峰としては富士山に次いで2番目に高い。
2014年9月27日の噴火では、山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。
木曽御嶽山(きそおんたけさん)、木曽御嶽(きそおんたけ)、御嶽(おんたけ)、王嶽(おうたけ)、王御嶽(おんみたけ)とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御岳山や、単に御岳と表記されることもある。地元では親しみを込めて「お山」「おやま」とも呼ばれる。標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である。山頂には一等三角点(3,063.61 m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。
古くから山岳信仰の対象の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の『木曽節』では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、『伊那節』では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。東海地方特に尾張地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望めることから、「木曽のおんたけさん」として郷土富士のように親しまれている山である。日本百名山、新日本百名山、花の百名山、ぎふ百山のひとつに選定されている。旧開田村を代表する山として飛騨頂上、旧三岳村を代表する山として剣ヶ峰が「信州ふるさと120山」の一つに選定されている。1927年(昭和2年)に、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社などにより日本二十五勝の一つに選定されている。
国立公園に指定されている飛騨山脈や赤石山脈、国定公園に指定されている木曽山脈とは異なり、国定公園にさえも指定されていない。長野県の御岳県立公園および岐阜県の御嶽山県立自然公園には指定されているものの、国立・国定公園に指定されなかったのは、木曽ヒノキを主とする林業の盛んな地域であるという事情がある。山腹は深い森で覆われ多くの滝があり、木曽川水系の源流部の山であり、その下流部である中京圏の水がめとなっている。
以前は死火山や休火山であると思われていた山であるが、1979年(昭和54年)10月28日に突如噴火した。気象庁は2008年(平成20年)3月31日に噴火警戒レベル1(平常)と噴火予報を発表した。 2014年(平成26年)9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下り、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられた。これに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。 2015年6月、火山性地震は続くものの2014年10月中旬以降噴火が観測されていないため、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられた。これに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に変更された。 2017年8月、噴煙活動や山頂直下付近の地震活動は緩やかな低下が続いており、2014年10月中旬以降噴火の発生がないため、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引下げられた。ただし現在も、火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域である。
「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」により、御嶽山の火口域から4km以内の地域に立ち入る場合に登山届の提出が義務づけられている。
長野県では「長野県登山安全条例」により、指定登山道を通行しようとするときはあらかじめ登山計画書を届出なければならない。
また山頂付近には噴火に備えて、登山者向けの屋外スピーカー避難シェルターが設置されている。
遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。
御嶽山は日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。剣ヶ峰を主峰にして、摩利支天山(2,959.2 m)、継子岳(2,858.9 m)、継母岳(2,867 m) などの外輪山があり、南北約3.5 kmの山頂部による台形の山容である。北端の継子岳は比較的新しい山体の成層火山で、北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、郷土富士として「日和田富士」とも呼ばれている。なお、長野県側に寄生火山として三笠山(2,256 m)、小三笠山(2,029 m)がある。最高点の剣ヶ峰は長野県に位置し、王滝口登山道の外輪山との合流部が「王滝頂上」(標高点2,936 m)、小坂口との合流部が「飛騨頂上」(標高2,811 m)である。火山灰の堆積した裾野は広く、長野県側の麓の傾斜地では濃い色の火山灰が耕地を覆っていて、高地の開田高原は蕎麦の産地として知られている。岐阜県側の地形は長野県側と比較して複雑で、平坦地が少なく、尾根筋が屈曲している。2007年(平成19年)5月10日に、日本の地質百選選定委員会により「日本の地質百選」の第1期選定(全国83箇所)の一つに選定された。
御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている。
1970年代以前の認識では、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所(産総研)の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている。『信濃毎日新聞』の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われた。
1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている。2014年現在、気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置されている。2001年から名古屋大学大学院環境学研究科が、「岐阜・長野両県における火山噴火警戒避難対策事業」として噴火の前兆現象を観測する地震計による御岳火山災害観測を行っている。1979年の水蒸気爆発の6ヶ月前に三ノ池が白濁して池の中から泡が噴き出す音が発生した現象と、6時間前の火口直下での地震は、その前兆現象であったと見られている。2011年(平成23年)7月27日に「御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会」が開催され、御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画が策定された。王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがある。
1979年(昭和54年)の水蒸気爆発以前において、御嶽山は火山学者の多くと一般大衆から死火山と認識されていた。実際、当該爆発を伝える新聞見出しも「死火山大爆発」などと報道された。しかしそれ以前にも、19世紀前半の文献には実際に噴気活動の証拠を示す現象が記録されており、気象庁も、1968年(昭和43年)刊行の『火山観測指針』において御嶽山を「御岳山」として63座の活火山の一つとしているほか、噴火前の1975年(昭和50年)刊行の『日本活火山要覧』の77活火山にも包含されていた。
1979年当時は、定常的な観測体制が整備されていなかったため明確な前兆現象が観測されず、また活動自体も山麓から噴気が観察できる規模ではないまま同年10月28日に水蒸気爆発を起こし、約1,000 mの高さにまで噴煙を噴出した。同日5時頃に発生した噴火は14時に最大となり、その後衰退した。噴出物の総量は約二十数万トン。噴煙は北東方向に流れ、長野県軽井沢町や群馬県前橋市にまで降灰が観測された。
この噴火をきっかけとして、日本国内における火山の分類(死火山、休火山、活火山の定義)そのものが見直されるに至った。現在では「活火山」以外の用語は使用されない。
御嶽火山の活動史は休止期を挟み古期と新期の2つの活動期と新期以降から現在までの静穏期の3つに分けられる。なお、各々の始まりと終わりの年代に関しては研究者により5万年程度の差違がある。また、最後のマグマ噴火は三ノ池を埋めた五ノ池のスコリア噴火と考えられているが噴火年代は不明である。
古期御嶽火山は現在と同じ位置に噴火口を有する中心火山により形成された、標高3,200-3,400 mほどの玄武岩、安山岩、デイサイトにより構成される複成火山群。古期御岳火山は、溶岩層の年代値と岩石学的特徴から、約78万年前以前から64万年前の降下テフラが卓越するステージと、約64万年前から39万年前の溶岩流が卓越するステージに大きく区分される。降下テフラが卓越するステージは更に3つのサブステージに細分される。また、溶岩層の年代値と分布から4つの火山体が推定されている。広域テフラとして、湯川テフラ5と、上浦沢テフラがそれぞれ、上総層群中の白尾テフラ(約77万年前)と、笠森12テフラ(60-58万年前)に対比される。このうち、白尾テフラは松山‐ブリュンヌ逆転の直下に存在し、地磁気逆転の年代を高精度で決定するのに役立ち、チバニアン という地質時代の命名に大きく貢献した。
約10万年前まで約30万年の活動休止期間が続く。山体は浸食を受けて深い谷と和村泥流を形成。
活動域からは摩利支天火山群と西側の継母岳火山群に分類される。
2000年代以前は、約2万年前からはマグマを噴出しない活動が主体で静穏な期間と考えられていたが、近年の研究では最近1万年間で4回のマグマ噴火と10数回の水蒸気爆発が起きたと考えられているほか、東山腹で山腹割れ目噴火も生じている。
『御嶽山 地質と噴火の記録』千村出版によれば、774年と1892年に噴火活動があったとされているが、後の研究によりこの2回の噴火は発生していなかったことが明らかとなっている。有史以降最も活発な活動は1979年に始まった。
1984年(昭和59年)9月14日8時48分49秒に南山麓で発生した長野県西部地震(M6.8)により、御嶽山南斜面で大規模な山体崩壊が発生した。地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達した。平均80-100 km/h、延長距離約3 kmで、「御岳崩れ」と呼ばれることがある。濁川温泉、住宅、営林署の建物を流失させ、15人が犠牲となった。
1929年(昭和4年)に、京都大学地理学者の田中阿歌麿が湖沼の調査を行った。御嶽山には、5つの火口湖があり、一ノ池から五ノ池の名前が付けられている。常に水をたたえているのは、エメラルド色の二ノ池と三ノ池である。二ノ池は日本で最も高いところ (2,905 m) にあるお盆形状の水深3.5 mの湖沼で、集水面積は湖面の数倍あり、ミクリガ池などの飛騨山脈の火口湖と比べて水位の日変化が40 cm程と大きいのが特徴である。昼夜の気温差による雪解け量の差がその原因である。夏でも雪渓が残り、北西斜面の雪渓の雪解け水・天水・伏流水を集め、水位が極端に上昇した場合には、東端にあるニノ池小屋付近から北東に排水される。1979年の噴火活動の際に、ニノ池に大量の硫黄が流れ込み池の水は酸性度が強くなった。周辺の山小屋ではこの湖水をポンプで送水して宿泊者のためのお風呂の水に利用していた時期もある。三ノ池は御嶽山で最大の池で、湖盆の平均斜度14.4度、水深が13.3 m、8月初旬の平均水温が表面で9.7 °C低層で9.5 °Cである。三ノ池畔には荒神と白龍王初春姫大神などの神々が祀られていて、三ノ池の湖水は信者の御神水(ごしんすい)とされている。王滝村御嶽神社里宮御神水とともに「信州の名水・秘水」の一つに選定されている。四ノ池は高層湿原となっていて、小川が流れており、高山植物の群生地となっている。なお、二ノ池北西の斜面の下、賽の河原との間に小さな窪地があり、多雨期には水がたまる。これを六ノ池と呼ぶことがある。賽の河原の西端、シン谷へ落ち込むところに日本最高所の滝 (2,800 m) がある。この谷は兵衛谷となり濁河川と合流して小坂川となって、飛騨川に注いでいる。三ノ池のみにオンダケトビケラ(学名:Pseudostenophylax sp.)の幼虫が生息する。
「御嶽山は滝の山である」と言われるほど、御嶽山を源とする河川には滝が多い。地形が急峻で高低差が大きいこと、独立峰で山体が大きいこと、降水量が多いこと、豊かな森林を育んでいて水が涸れることがないことなどがその成因となっている。人が近づきにくいところにあるものが多いが、黒沢口から油木尾根の遊歩道沿いにある百間滝(西野川の支流の南俣川)、開田高原の尾ノ島滝、王滝口の滝・清滝、濁河温泉付近の仙人滝・緋の滝、日本の滝百選に選ばれた根尾の滝など、比較的簡単に目にすることができる滝もいくつかある。新滝と清滝は御嶽教の行場で、新滝には洞窟がありここに籠って断食を行い滝に打たれる行場となっている。冬に新滝(落差約30 m)と清滝は氷柱となる。黒沢口四合目の霊神場周辺には、日ノ出滝、明栄滝、大祓滝、松尾滝などがあり不動明王などの神霊が祀られた行場となっている。下呂市小坂町には落差5 m以上の滝が200以上あり、多数の小坂の滝めぐりコースが紹介されている。
御嶽山は北アルプス(飛騨山脈)の延長線上にあり、北アルプスに含めるという説もあるが、北側の乗鞍岳との間には稜線らしき峰々はほとんどないため、一般的には御嶽山は飛騨山脈には含まれないというのが定説である(ただし、旧乗鞍火山帯には含まれる)。しかし、間を横切る河川は1本もないのも事実であり、明確な結論は出ていない。著名登山家でも意見は分かれている。なお、ガイドブック等で日本アルプスを3つに分けて紹介する場合、中央アルプスの山数が少ないので御嶽山を中央アルプスと合わせて掲載されるケースが多々ある。このため、御嶽山を中央アルプスの山と思いこんでいる人も数多く存在するが、中央アルプスとの間には木曽川が流れており、明らかに中央アルプスには属さない。国土地理院の日本の主な山岳標高の一覧では、鎌ヶ峰までが「飛騨山脈南部」、御嶽山は「御嶽山とその周辺」とされている。御嶽山と鎌ヶ峰との鞍部には長峰峠(標高約1,350 m)がある。
御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期に神沢杜口の随筆『翁草』巻162で
と記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行った者だけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷の人々による登拝が盛んとなった。1560年(永禄3年)6月13日に木曽義昌が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終えた後に登拝した。江戸時代前期の行脚僧円空も登拝し、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残している。1785年(天明5年)に尾張春日井郡出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになった。その後、普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成されて御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期の『信濃奇勝録』で、
と記載されている。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制が解かれた。
王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。1985年(昭和60年)以降に山腹に4つのスキー場が建設された。
御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。王滝口に里宮と黒沢口に里宮と若宮があり、木曽御嶽神社王滝口の奥社は王滝頂上、木曽御嶽神社黒沢口の奥社は山頂の剣ヶ峰にある。1882年(明治15年)6月に、小谷分喜が『御嶽神社社略縁起』を出版した。1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。1984年(昭和59年)9月14日の御嶽山直下を震源とした長野県西部地震で一合目の里宮の拝殿と末社が半壊し、行場の清滝は滝つぼが土砂に埋まった。御嶽神社黒沢口では太々神楽が奉納されている。
遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「御嶽の四門」と呼ばれていて、鳥居などが設置された御嶽山の遥拝所がある。これらは仏教の四門として、岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた。木曽福島から黒沢口への古道の合戸峠や姥神峠などにも御嶽遥拝所があった。
覚明行者(かくめいぎょうじゃ)は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれ、幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていた。出身地の愛知県春日井市立牛山小学校の校歌で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。1818年(文政元年)10月の『連城亭随筆』で「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されている。ある時予期せぬ出来事(盗みを働いたと疑われたことがきっかけとする説がある)が起こり、各地で巡礼修行をして行者となった。木曽谷の村々で布教活動を行い信者を増やした。1782年(天明2年)御嶽山を管轄する神職武居家と尾張藩木曽代官山村氏に登山許可の請願を行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式(精進潔斎)を破ることになるため却下された。しかし登山許可がないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と、6月14日には尾張の38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日間拘束を受けたとされている。1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行ったが、その最中の6月20日にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された。山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場が現存する。その後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口の登山道の改修が完結され、覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となった。信者が増加し福島宿に経済効果が生まれるようになったこともあり1791年(寛政3年)6月には麓の庄屋が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、1792年(寛政4年)1月1日に許可が下された。6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定が作られた。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。覚明行者は麓の開田西野で村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教え、村人が苗を植えたら育ったことから開田の地名が生まれ、その由来が1806年(文化3年)に設置された稗田の碑に刻まれている。御嶽山を中興開山させた先駆者とされている。
普寛行者(ふかんぎょうじゃ)は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期に江戸へ出て剣術を学び、酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。1764年(明和元年)三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794年(寛政6年)には上州の武尊山、1795年(寛政7年)には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801年(享和元年)9月、巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた。普寛行者は
の辞世の歌を残している。王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。
御嶽山の登拝は行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅(御嶽参り)でもある。講者ごとに先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝されることが多い。普寛行者の没後有力な行者が次々と現れ、この信仰により病苦が救われると信頼され、最初に江戸など関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれた。その後、普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769-1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まった。濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していた。木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成された。各講の先達の魂は霊神として、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められている。この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく霊神碑が御嶽山信仰の特徴の一つである。江戸時代から関東や尾張から中山道が利用されていたが、1919年(大正8年)の中央本線が全線開通すると木曽福島駅から御嶽山へ歩き始めるようになった。1923年(大正12年)に木曽森林鉄道が敷設された後、木曽福島駅から黒沢と王滝までおんたけ交通の乗合バスが利用されるようになった。1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになった。現在は天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われることが多い。黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下るルートで登拝されるか、王滝口から山頂を往復するか、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂を経て黒沢口へ下るルートで登拝されることが多い。
御嶽教、木曽御嶽本教、神進大教、神理教、禊教、大成教、神道修成派、丸山教、稲荷教、天台宗寺門派や古くは講社と呼ばれていた旧教派神道系の教団などの御嶽信仰の教団がある。
御嶽教(おんたけきょう)は、奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。御嶽教の山の本部である木曽大教殿が長野県木曽町福島新満郡にある。1984年(昭和59年)4月に、日本全国に御嶽教の教会、枝教会、布教所が978(愛知県263、岐阜県98、埼玉県47、長野県40など)ほどあった。
木曽御嶽本教(きそおんたけほんきょう)は、1946年(昭和21年)に覚明行者系の講社などが結集して設立された御嶽信仰の宗教教団。総本庁と天昇殿事務所が木曽町三岳にある。御嶽神社を宗祠とし、初代の管長は黒沢御嶽神社宮司の武居誠。
1757年(宝暦7年)に松平君山が『吉蘇志畧』を刊行し、御嶽山について
と記載し、ハイマツ、コマクサ、オンタデ、オコジョなどの解説とホシガラス、ライチョウなどの鳥類の詳細なスケッチを残している。標高3,000 mを越える高山であり、『木曽節』では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」と歌われている。1979年(昭和54年)の噴火による荒廃で黒沢口登山道九合目の石室山荘周辺のハイマツが枯れたが、21世紀初頭の2002年-2003年頃から若芽が確認されている。御嶽山のコマクサの昔話がある。王滝口登山道にある田の原天然公園を中心に約830 haが、木曽御岳自然休養林に指定されている。田中澄江は著書『花の百名山』で、代表する花に一つとしてリンネソウを紹介した。標高1,500m以下の山麓では、ヒノキ、アスナロなどの木曽五木が見られる。1836年(天保7年)に西山麓の下呂市小坂町赤沼田で植栽されたヒノキの人工林が、1993年(平成5年)に林野庁により「赤沼田天保ヒノキ植物群落保護林」の指定を受けた。木曽町三岳では「御嶽黒光真石」と呼ばれる安山岩が産出され、御嶽信仰の霊神碑にも利用されていた。現在も麓の田中石材店などで石材加工が行われている。
3万年前の旧石器時代にオオツノジカが生息していて、東山麓の開田高原はその狩猟場であった。柳又遺跡からは石器や土器が出土している。山頂付近の登山道の高山帯に生息するホシガラス、ライチョウ、クジャクチョウなどが見られる。ライチョウ(雷鳥)は日本で特別天然記念物に指定され、環境省によりレッドリストの絶滅危惧IA類、岐阜県では絶滅危惧I類、長野県では絶滅危惧II類に指定され、絶滅が危惧されている。1981年の調査で50箇所あったライチョウの縄張りが、2008年の調査で28箇所に減少している。2012年12月に、西側の前衛峰である御嶽山系の御前山の標高1,500 m付近でライチョウ1羽(冬羽のメス)が確認され、冬期に尾根伝いに高山帯から移動してきたものと見られている。山域にはイタチ、イノシシ、タヌキ、ツキノワグマ、ニホンザル、ホンドギツネなどが生息し、アトリ、イカル、キジ、キバシリ、ヒガラ、ブッポウソウなどの鳥類も豊富である。南東山麓の長野県木曽郡木曽町の「三岳のブッポウソウ繁殖地」は国の天然記念物の指定を受けている。開田高原ではその産地であった木曽馬が飼育されていて、長野県の天然記念物の指定を受けている。チョウ目ヤガ科のオンタケクロヨトウ(学名:Apamea ontakensis Sugi)の高山蛾は、御嶽山の高山帯のみに生息する。本州の限られた山岳地帯に分布するチョウ目シャクガ科のウチジロナミシャク(学名:Dysstroma truncata fusconebulosa Inoue)は、岐阜県では御嶽山のみで分布が確認されている。
江戸時代末期に御嶽山の高山植物は「御神草」として珍重され、山頂部の高山帯に自生するコマクサは薬草として採集され、多くの自生のものが消滅した。山頂部のコマクサ群落の再生活動が行われている。1887年(明治20年)7月に植物学者の白井光太郎が登頂して高山植物を採集し、1889年(明治22年)には三好学らも採集し、1933年(昭和8年)に植物学者の中野治房が御嶽山の植物生態を調査した。山の上部の森林限界の高山帯には、アオノツガザクラ、イワウメ、ウラジロナナカマド、オオヒョウタンボク、ガンコウラン、キバナシャクナゲ、クロマメノキ、コケモモ、コメバツガザクラ、タカネナナカマド、チングルマ、ハイマツ、ミネズオウ、ミヤマハンノキなどの樹木とイワギキョウ、イワツメクサ、オンタデ、クモマグサ、クロユリ、コマクサ、シラタマノキ、チシマギキョウ、トウヤクリンドウ、ハクサンイチゲ、ミヤマアキノキリンソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマダイコンソウ、モミジカラマツなどの多くの高山植物が自生している。日本の固有種であるオンタデ(御蓼)の和名は、この山で最初に発見されたことによる。ウラジロナナカマドとタカネナナカマドとの雑種のオンタケナナカマド(学名:Sorbus x yokouchii M.Mizush. ex T.Shimizu)が自生している。中腹の亜高山帯では、オオシラビソ、オガラバナ、コメツガ、シラビソ、ダケカンバ、トウヒ、ナナカマド、ハリブキ、ミヤマザクラなどの樹木とオサバグサ、カニコウモリ、キソアザミ、キソチドリ、ゴゼンタチバナ、コバイケイソウ、サンカヨウ、セリバシオガマ、タケシマラン、ツバメオモト、バイカオウレン、マイヅルソウ、ムシトリスミレ、ユキザサなどの草花が自生している。下部の山地帯では、イヌブナ、カエデ類、カツラ、クリ、シラカンバ、シナノキ、ミズナラなどの落葉広葉樹とトチノキ、クロベ、サワラ、ヒノキなどの自然林の針葉樹とカラマツ、スギ、ヒノキなどの人工林、イワカガミ、クガイソウ、ササユリ、ススキ、ツルアジサイ、トリアショウマ、ホタルブクロ、マツムシソウ、ヤナギランなどの草花が分布している。「御岳オサバグサ」(面積18.39 ha)と「胡桃島ハイマツ等」が林野庁により、植物群落保護林の指定を受けている。「木曽ヒノキ」は、「秋田のスギ」と「津軽のヒバ」とともに『日本三大美林』に選定されている。南側は現在も火山活動中であり植物相は貧弱で、北側はコマクサの群生地など豊富な植物相となっている。1910年に植物学者小泉源一がこの山でトリカブト属のオンタケブシ(学名:Aconitum metajaponicum Nakai)を採集しその和名の由来となっている。オンタケチブシは絶滅が危惧されていて、環境省の絶滅危惧IA類の指定を受けている。
多くの薬用植物が分布し、江戸時代に本草学の研究が盛んに行われ、この地域を領有していた尾張藩が薬草の採取を行っていた。1716年-1735年(享保年間)に本草学者の丹羽正伯らが山域で生薬の採集や調査を行った。1804年-1818年(文化年間)に水谷豊文が山麓を中心とする『木曽採薬記』を刊行し、山頂付近にコマクサが自生していることが記載されている。1844年(天保15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物のおしば帳である『木曽産草花根皮類』が刊行され、アオノツガザクラ、オヤマリンドウ、クロユリ、スミレ、チングルマ、ミズバショウなど50種類などが図鑑型式にまとめられていた。そのうちの24種が現在の和名で記載されていた。本草学が進んでいた尾張藩に属していて、山村代官により薬草の調査、栽培、管理が行われていた 。王滝口を開いた普寛行者により、『御嶽山の霊薬百種を採り集めよく煎じて薬を製せば霊験神の如し、これを製して諸人を救え。』と村人などに伝授された。1849年(嘉永2年)に王滝口を開いた普寛行者の弟子である寿光行者が、御嶽山の霊草百種を採り集め煎じて生薬としたと伝えられていて、王滝村には「百草元之碑」には同村の胡桃沢弥七と小谷文七が普寛行者の遺法を基に百草を製造したと記載されている。御嶽信仰の広がりと共に木曽御嶽の「御神薬」の百草が各地に広まった。百草は御嶽参りのお土産とされていた。南山麓では長野県製薬(御岳百草丸)と日野製薬(御嶽山日野百草丸)が、キハダの樹皮の内側の木の層の「オウバク」を主成分とした「百草丸」(胃腸薬)を製造している。この薬箱には「山三丸マーク」と呼ばれる御嶽信仰を象徴するマーク(御嶽神社や登山道の霊神碑の刻印などでも使用されている)が印刷されている。なおこの山三丸マークを使用する商標権について製薬会社間で訴訟「平成9年(行ケ)213号 審決取消請求事件」が行われた。明治以降は兵士の常備薬として需要が高まり、山域のキハダは昭和初期には伐採し尽くされ、他の地域や海外から輸入する事態となり、現在は大半を中国のから輸入に頼っている。百草には「御嶽山の五夢草」であるコマクサ、オンタケニンジン、オウレン、トウヤク、テングノヒゲが含まれ、タカトウグサとゲンノショウコなども利用されていた伝えられている。
鎌倉時代から昭和初期まで山腹から山麓にかけての森林で木曽五木などが伐採され、その伐材は木曽川を利用して川流しが行われていた。山域の森林は江戸時代には尾張藩により管理され、明治になると御料林となり、現在山域の多くは国有林となっている。その大部分が水源かん養保安林に指定されている。御岳特定地理等保護林(旧御岳垂直森林帯植物群落保護林、面積1,540 ha)などで、自然環境の維持や動植物の保護ための国有林の保護管理が行われている。千間樽国有林と胡桃島国有林の一部が、「御岳自然休養林」に指定されている。
古来より信仰の対象として少数の修験者によって登られ、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。江戸時代の御嶽登山者の病気や凍死による死亡者の記録(御嶽山遭難者遺族差出証文など)が多数残されていて、1847年(弘化4年)7月16日には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する山岳遭難が起きた。1868年(明治元年)に黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した。1872年(明治5年)に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていた。明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まった。1894年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようになった。ウェストンと同時期にアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来訪した際に登頂し、『オカルト・ジャパン』(第1章「御嶽」)で当時の様子を記している。1907年(明治40年)の馬やかごに乗る御嶽山登山者の写真が残されている。御嶽山の登山口は木曽側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、飛騨側から1つ(小坂口)が昔から利用されていたが、その後日和田口が比較的新しく開かれた。
1979年10月の噴火により、山頂から4合目までが入山規制された。1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除された。気象庁が発表する噴火警戒レベルにより入山が規制される場合がある。木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされている。3,000 mを越える高峰であるが登山口の標高が高いため日帰りで登山されることもある。麓の開田中学校や王滝中学校、下呂市の小学校などで学校登山が行われている。黒沢口などでは御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ強力を担う人がいる。1954年(昭和29年)から8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭が行われている。大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されている。積雪期の登山において難所はないものの、独立峰のため山頂付近が強風でアイスバーンとなるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山である。百名山ブームもあって、旅行会社による登山ツアーが多数行われた。
2014年9月の噴火により、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられたことに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。2015年6月、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられたことに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に縮小された。2017年8月に噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引き下げられたが、現在も火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域である。黒沢口登山道では、7月から10月までの登山シーズンの期間に限り、登山道のみ立入規制の緩和を行い、剣ヶ峰まで行くことができる。
「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」により、御嶽山の火口域から4km以内の地域に立ち入る場合には登山届の提出が義務づけられている。
長野県では「長野県登山安全条例」により、指定登山道を通行しようとするときは、あらかじめ登山計画書を届出なければならない。
各方面から登山道が開設されている。小坂口、日和田口利用者の中には、剣ヶ峰まで登らずに、飛騨頂上・継子岳あるいは、摩利支天山までの登山を目的とする登山者も多い。一ノ池を取り囲むの西側の稜線に登山道があり、剣ヶ峰からニノ池小屋へのルートの一つとなっている。以前は、王滝川の支流の濁川に沿って濁川温泉(現存せず)を経て、剣ヶ峰と継母岳の鞍部に登る松原新道があったが、1984年の長野県西部地震により発生した伝上崩れにより崩壊し、廃道となった。
車道で上がれる登山口は御嶽山で最も高い標高地点(田の原、標高2,160 m)であり、山頂の剣ヶ峰への最短ルートである。途中での眺望が優れており、登山口から王滝頂上までのコースが常に上から下まで見渡せる。登山口の田の原から王滝頂上までの間には8合目と9合目に避難小屋がある。山開きに相当する開山祭は7月1日に行われる。積雪期には登山口の田の原への道路が閉鎖されるが、春先におんたけ2240のスキー場のゴンドラを利用して、雪山登山を行う例がある。1合目に国常立尊、大己貴命、少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。3合目には清滝と新滝があり、清滝には清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっている。5合目には子授け神霊である十二権現、6合目には眼の神様の八海山大神がある。標高約2,190 mの田の原には田ノ原山荘と木曽御嶽自然休養林田ノ原自然公園があり、登山シーズン中には自動車で上がることができる。
覚明行者によって開かれた最も古い登山道。御嶽教、木曽御嶽本教に最も関わりの深い登山道でもある。夏には「懺悔反省、六根清浄」を唱える白衣の登拝者が見られる。有人山小屋が合目ごとにある。現在は7合目付近にロープウェーの飯森駅(標高2,150 m)ができ、王滝口登山口の田の原とほぼ同じ標高まで歩かずに登ることができるようになったため、大半の登山者がロープウェイを利用するようになったが、6合目から歩く登山者は現在でも少なくない。山開きに相当する開山祭は王滝口と同じ7月1日に行われる。1合目に大己貴命を祀った御嶽神社若宮と少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。登拝道場には多数の霊神碑が並べられていて、4合目の屋敷場には御嶽山で最大規模の霊神場があり講社単位で建てられた多数の霊神碑がある。松尾滝から油木尾根を経て百間滝から8合目の女人堂に至るルートは百間滝道と呼ばれている。百間滝には百間滝小屋があり行場となっている。
木曽側の3つの登山口のうち、唯一、信仰のためでなく作られた登山道。営林署(現・森林管理署)の作業道として開かれた。距離は長いが、大自然を満喫することが出来る。水場は4合目付近に湧き水があり、それ以外は三の池まで無し。登山口の標高が低く(1,500 m)標高差が大きいため、健脚向き。
剣ヶ峰へのアプローチが長いためか、現在は信仰登山者はほとんど見かけず、一般登山客が多い。このルートの山開きは、毎年6月15日に御嶽神社飛騨口里宮で開催されている。下山時に温泉を楽しめるのが魅力のコース。なお、登山口を胡桃島とし、のぞき岩避難小屋下で濁河温泉からの道と合流するコースもあるが、このコースを特に胡桃島コースと称することもある。飛騨頂上の五の池小屋は、2010年に新館が増築され収容人数が100人に倍増した。なお、平成30年6月豪雨の影響により登山道が崩落したが、迂回ルートが整備され2018年9月より通行可能となった。
継子岳頂上を目指して登るコースで宗教登山に由来しないコースのひとつ。1998年のチャオ御岳スキー場の開発に伴い、通年運行されるゴンドラリフトの「フライングチャオ」を利用することが多くなり、旧来の登山口からの登山は減った。ゴンドラリフトを使用した場合は王滝口とほほ同じ標高(2,190 m)まで登ることができるが、継子岳から最高峰剣ヶ峰までの距離が長い。また、ルートは他のコースに比べてあまり手入れがされていない。2010年現在、フライングチャオはスキーシーズン(12月初旬 - 5月初旬)のみの運行となっており、春 - 秋の登山には利用できなくなっている。
御嶽山は宗教登山が盛んであるため、山小屋も宗教施設としての側面がある山小屋が多い。五の池小屋は近代的なアルペンスタイルの山小屋である。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がある。登山道上にキャンプ指定地はないが、胡桃島口の登山口に「胡桃島キャンプ場」がある。それらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られている。また、王滝口・黒沢口の開山祭の7月1日以降の営業開始となる小屋が多く、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多い。御嶽神社・御嶽教・木曽御嶽本教は山開きを7月10日から9月10日までとしているため、その間は特に白装束の宗教登山者の宿泊利用や立ち寄り利用が多い。なお、五の池小屋は例外的に例年6月1日から10月15日までの営業と、長期間の営業を行っている。8合目と7合目の山小屋は紅葉シーズンも営業する。
山頂地域に多くの有人山小屋があるが、黒沢口には途中にも合目ごとに有人山小屋が営業している。2014年噴火以前は、二ノ池の水を飲料水などの水源としている山小屋が多く、二ノ池から遠い「五の池小屋」や7合目以下の山小屋以外の山小屋は「二の池水組合」を設立し、共同で水道施設の設置・維持・撤去を行っていた。また、日頃の水源ポンプ施設の操作は「二ノ池本館(現:二ノ池山荘)」のスタッフが行い、豊富な湖水を使って「二ノ池本館(現:ニノ池山荘)」「二ノ池新館(現:二の池ヒュッテ )」「石室山荘」「覚明堂(現在無人)」では、宿泊者向けの風呂を毎日用意するほか、宿泊者が少ない時のみ宿泊者にスタッフ用の風呂を提供する山小屋もあったが、2014年噴火の降灰によると思われる湖水の酸性化により、現在は湖水からの取水利用は行われていない。
かつて、山小屋のトイレはほぼ垂れ流しの状態であったが、環境問題への関心の高まりを背景に、有人の山小屋については汲み取り式のトイレへと改修が進められている。汲み取られたし尿は、ヘリにより麓まで運搬し処理業者へ引き渡される。そのらの維持費用が高額となるため、トイレ利用者に一回の利用につき100円の協力金の負担をお願いしている。
以下は、2014年9月噴火の前まで営業していた山小屋である。
多くの有人山小屋や山頂神社社務所では、宗教登山に使われる金剛杖に焼印を押印するサービスを有料で行っている。1891年(明治24年)に登山道の神社などで、「登山杖に記念の印を捺します」の看板が設置されこの焼印が行われていた。富士山で特にポピュラーなサービスであるが、御嶽山でも実施する山小屋を少し減らしながらも現存しており、貴重な存在である。ただ、富士山ほど押印希望者は多くなく、希望者が現われてから焼印を加熱するところが多いため、焼印に時間がかかることが多い。また、押印の料金も富士山よりも割高になっている。
昭和中期までの木曽側からの御嶽山の登山者数は下表のように推計されている。2010年頃の黒沢口から入山者は年間3万人を越える程度であった。
木曽川水系の源流の山であり、西側から飛騨川、東と南側から王滝川などの本流へと流れ太平洋側の伊勢湾へ流れる。剣ヶ峰の山頂には一等三角点(点名が「御岳山」、標高3,063.41 m)が設置されていて、一等三角点百名山のひとつに選定されている。最高点は御嶽神社の西側のある岩の標高点。日本で14番目に高い山。南東中腹の王滝村の区域は「御岳高原」と呼ばれている。
独立峰であるため、周囲の多くの山からその山容を望むことができる。山頂部は広く、複数のピークから成る。濃尾平野からも北東にその大きな山容が望める。岐阜県側には前衛の山として、ぎふ百山の一つである御前山(1,646 m)と続ぎふ百山の一つである下呂御前山(1,412 m)がある。
源流となる以下の河川は木曽川水系で伊勢湾へ流れる。山頂の南東13.4 kmにある王滝川の牧尾ダムの御岳湖に貯水された水は愛知県などの飲料水、工業用水及び農業用水に利用されていて、その上流部には関西電力の水力発電用の三浦ダム(山頂の南西11.0 km)がある。王滝川の支流の濁川上流部の赤川では浸食と崩落が激しく「地獄谷」と呼ばれている。南面の王滝川の支流の濁川は、1979年10月28日噴煙後地獄谷上部の火口から白いガスと火山灰で黒色となった温泉水が大量に流れ出て白く濁った。
南山麓の王滝川沿いには1923年(大正12年)に竣工された木曽森林鉄道の王滝森林鉄道が敷設され、1975年(昭和50年)5月30日まで国有林の材木の運搬に利用されていた。1925年(大正14年)に御嶽自動車商会(現在のおんたけ交通)が開業、おんたけ交通は山麓や御嶽山の登山口まで路線バスを運行している。1963年(昭和38年)に西山腹の名古屋営林局小坂営林署が運営する小坂森林鉄道濁河温泉線が開通し伐採した木材の運搬に利用されていたが、林道が敷設されトラックによる輸送への切り替えに伴い1971年(昭和46年)に廃止された。1966年(昭和41年)に山麓の王滝村の長野県道256号御岳王滝黒沢線から田の原までの「有料道路林道黒石線」が全線開通し、1997年(平成9年)4月1日に村道41号線(御岳スカイライン)として無料開放され、おんたけ2240のスキー場利用者、登山者、観光客などに利用されている。長野県道473号上松御岳線が南東の山麓から通じ無料化された白崩林道を経て中腹の中の湯まで通じている。東山麓を長野県道20号開田三岳福島線が通り、木曽町三岳の木曽温泉付近から御岳ロープウェイスキー場まで東山腹に「御岳ブルーライン」が通る。その鹿の瀬温泉から上部は冬期閉鎖されている。南東山麓の県道20号開田三岳福島線沿いに道の駅三岳がある。北東山麓に国道361号が通り、北山腹に岐阜県道463号朝日高根線、北西山腹に岐阜県道435号御岳山朝日線が通る。西山麓の下呂市小坂町から濁河温泉まで岐阜県道441号濁河温泉線が通り、「御嶽パノラマライン」と呼ばれている。小三笠山(標高2,029 m)の南面には御岳林道と王滝林道が通る。
王滝村側の木曽御岳山頂と木曽町側の三岳黒沢字石室、御岳山山頂、行場小屋、金剛堂、二ノ池小屋は日本郵便から交通困難地の指定を受けており、地外から当地宛に郵便物を送付することは出来ない。
岐阜県側のJR東海高山本線飛騨小坂駅及び高山駅から御嶽山の登山口である濁河温泉への濃飛バス路線は2007年(平成19年)11月30日に廃止された。
北側と東側の山腹には以下のスキー場があり、標高の高い位置(上部は標高2,000 m以上)にあり雪質が良く、ゴールデンウィーク頃の遅い時期まで滑走が可能である。王滝村は、村営であった旧おんたけスキー場の負債により厳しい財政状況となっている。
3,000mを越える高山であるが、奥深い山中にあるため、山体全体を眺められる場所は意外と少ない。高山市中切町の「中切町付近の山より望む御嶽山」、高山市久々野町無数河の「舟山山頂道路より望む御嶽山」、高山市朝日町西洞の「鈴蘭高原より望む御嶽山」、高山市朝日町胡桃島の「胡桃島キャンプ場近く展望台より望む御嶽山」と「秋神地域より望む継子岳」が、「新高山市100景」のひとつに選定されている。
独立峰である御嶽山の大きな山容を、名古屋市をはじめとした濃尾平野(尾張や美濃)や遠方の山からなどの各方面から望むことができる。東海地方の多くの 小中高等学校の校歌で山名が歌い込まれている。木曽谷では開田高原以外に麓から御嶽山を望める箇所は少ない。5月中旬ごろ、東面の9合目付近に残雪の白い背景に黒色の種をまくお爺さんの姿の雪形(ネガ型)が見られる。深田久弥は1965年(昭和39年)に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した『日本百名山』の著書で御嶽山の山容を
と表現している。
山上部からは東に八ヶ岳、中央アルプス、南アルプス、富士山、南に小秀山などの阿寺山地、濃尾平野、西に白山などの両白山地、北にニノ池、乗鞍岳などの北アルプスが望める。
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"text": "御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。日本の山では14番目に標高が高く、独立峰としては富士山に次いで2番目に高い。",
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"text": "2014年9月27日の噴火では、山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。",
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"text": "木曽御嶽山(きそおんたけさん)、木曽御嶽(きそおんたけ)、御嶽(おんたけ)、王嶽(おうたけ)、王御嶽(おんみたけ)とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御岳山や、単に御岳と表記されることもある。地元では親しみを込めて「お山」「おやま」とも呼ばれる。標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である。山頂には一等三角点(3,063.61 m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。",
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"text": "古くから山岳信仰の対象の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の『木曽節』では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、『伊那節』では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。東海地方特に尾張地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望めることから、「木曽のおんたけさん」として郷土富士のように親しまれている山である。日本百名山、新日本百名山、花の百名山、ぎふ百山のひとつに選定されている。旧開田村を代表する山として飛騨頂上、旧三岳村を代表する山として剣ヶ峰が「信州ふるさと120山」の一つに選定されている。1927年(昭和2年)に、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社などにより日本二十五勝の一つに選定されている。",
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"text": "国立公園に指定されている飛騨山脈や赤石山脈、国定公園に指定されている木曽山脈とは異なり、国定公園にさえも指定されていない。長野県の御岳県立公園および岐阜県の御嶽山県立自然公園には指定されているものの、国立・国定公園に指定されなかったのは、木曽ヒノキを主とする林業の盛んな地域であるという事情がある。山腹は深い森で覆われ多くの滝があり、木曽川水系の源流部の山であり、その下流部である中京圏の水がめとなっている。",
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"text": "以前は死火山や休火山であると思われていた山であるが、1979年(昭和54年)10月28日に突如噴火した。気象庁は2008年(平成20年)3月31日に噴火警戒レベル1(平常)と噴火予報を発表した。 2014年(平成26年)9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下り、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられた。これに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。 2015年6月、火山性地震は続くものの2014年10月中旬以降噴火が観測されていないため、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられた。これに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に変更された。 2017年8月、噴煙活動や山頂直下付近の地震活動は緩やかな低下が続いており、2014年10月中旬以降噴火の発生がないため、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引下げられた。ただし現在も、火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域である。",
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"text": "「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」により、御嶽山の火口域から4km以内の地域に立ち入る場合に登山届の提出が義務づけられている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "長野県では「長野県登山安全条例」により、指定登山道を通行しようとするときはあらかじめ登山計画書を届出なければならない。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "また山頂付近には噴火に備えて、登山者向けの屋外スピーカー避難シェルターが設置されている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。",
"title": "山名の由来"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "御嶽山は日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。剣ヶ峰を主峰にして、摩利支天山(2,959.2 m)、継子岳(2,858.9 m)、継母岳(2,867 m) などの外輪山があり、南北約3.5 kmの山頂部による台形の山容である。北端の継子岳は比較的新しい山体の成層火山で、北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、郷土富士として「日和田富士」とも呼ばれている。なお、長野県側に寄生火山として三笠山(2,256 m)、小三笠山(2,029 m)がある。最高点の剣ヶ峰は長野県に位置し、王滝口登山道の外輪山との合流部が「王滝頂上」(標高点2,936 m)、小坂口との合流部が「飛騨頂上」(標高2,811 m)である。火山灰の堆積した裾野は広く、長野県側の麓の傾斜地では濃い色の火山灰が耕地を覆っていて、高地の開田高原は蕎麦の産地として知られている。岐阜県側の地形は長野県側と比較して複雑で、平坦地が少なく、尾根筋が屈曲している。2007年(平成19年)5月10日に、日本の地質百選選定委員会により「日本の地質百選」の第1期選定(全国83箇所)の一つに選定された。",
"title": "火山・地勢"
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"text": "御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている。",
"title": "火山・地勢"
},
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1970年代以前の認識では、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所(産総研)の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている。『信濃毎日新聞』の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われた。",
"title": "火山・地勢"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている。2014年現在、気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置されている。2001年から名古屋大学大学院環境学研究科が、「岐阜・長野両県における火山噴火警戒避難対策事業」として噴火の前兆現象を観測する地震計による御岳火山災害観測を行っている。1979年の水蒸気爆発の6ヶ月前に三ノ池が白濁して池の中から泡が噴き出す音が発生した現象と、6時間前の火口直下での地震は、その前兆現象であったと見られている。2011年(平成23年)7月27日に「御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会」が開催され、御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画が策定された。王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがある。",
"title": "火山・地勢"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1979年(昭和54年)の水蒸気爆発以前において、御嶽山は火山学者の多くと一般大衆から死火山と認識されていた。実際、当該爆発を伝える新聞見出しも「死火山大爆発」などと報道された。しかしそれ以前にも、19世紀前半の文献には実際に噴気活動の証拠を示す現象が記録されており、気象庁も、1968年(昭和43年)刊行の『火山観測指針』において御嶽山を「御岳山」として63座の活火山の一つとしているほか、噴火前の1975年(昭和50年)刊行の『日本活火山要覧』の77活火山にも包含されていた。",
"title": "火山・地勢"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1979年当時は、定常的な観測体制が整備されていなかったため明確な前兆現象が観測されず、また活動自体も山麓から噴気が観察できる規模ではないまま同年10月28日に水蒸気爆発を起こし、約1,000 mの高さにまで噴煙を噴出した。同日5時頃に発生した噴火は14時に最大となり、その後衰退した。噴出物の総量は約二十数万トン。噴煙は北東方向に流れ、長野県軽井沢町や群馬県前橋市にまで降灰が観測された。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "この噴火をきっかけとして、日本国内における火山の分類(死火山、休火山、活火山の定義)そのものが見直されるに至った。現在では「活火山」以外の用語は使用されない。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "御嶽火山の活動史は休止期を挟み古期と新期の2つの活動期と新期以降から現在までの静穏期の3つに分けられる。なお、各々の始まりと終わりの年代に関しては研究者により5万年程度の差違がある。また、最後のマグマ噴火は三ノ池を埋めた五ノ池のスコリア噴火と考えられているが噴火年代は不明である。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "古期御嶽火山は現在と同じ位置に噴火口を有する中心火山により形成された、標高3,200-3,400 mほどの玄武岩、安山岩、デイサイトにより構成される複成火山群。古期御岳火山は、溶岩層の年代値と岩石学的特徴から、約78万年前以前から64万年前の降下テフラが卓越するステージと、約64万年前から39万年前の溶岩流が卓越するステージに大きく区分される。降下テフラが卓越するステージは更に3つのサブステージに細分される。また、溶岩層の年代値と分布から4つの火山体が推定されている。広域テフラとして、湯川テフラ5と、上浦沢テフラがそれぞれ、上総層群中の白尾テフラ(約77万年前)と、笠森12テフラ(60-58万年前)に対比される。このうち、白尾テフラは松山‐ブリュンヌ逆転の直下に存在し、地磁気逆転の年代を高精度で決定するのに役立ち、チバニアン という地質時代の命名に大きく貢献した。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "約10万年前まで約30万年の活動休止期間が続く。山体は浸食を受けて深い谷と和村泥流を形成。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "活動域からは摩利支天火山群と西側の継母岳火山群に分類される。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2000年代以前は、約2万年前からはマグマを噴出しない活動が主体で静穏な期間と考えられていたが、近年の研究では最近1万年間で4回のマグマ噴火と10数回の水蒸気爆発が起きたと考えられているほか、東山腹で山腹割れ目噴火も生じている。",
"title": "火山・地勢"
},
{
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"tag": "p",
"text": "『御嶽山 地質と噴火の記録』千村出版によれば、774年と1892年に噴火活動があったとされているが、後の研究によりこの2回の噴火は発生していなかったことが明らかとなっている。有史以降最も活発な活動は1979年に始まった。",
"title": "火山・地勢"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1984年(昭和59年)9月14日8時48分49秒に南山麓で発生した長野県西部地震(M6.8)により、御嶽山南斜面で大規模な山体崩壊が発生した。地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達した。平均80-100 km/h、延長距離約3 kmで、「御岳崩れ」と呼ばれることがある。濁川温泉、住宅、営林署の建物を流失させ、15人が犠牲となった。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1929年(昭和4年)に、京都大学地理学者の田中阿歌麿が湖沼の調査を行った。御嶽山には、5つの火口湖があり、一ノ池から五ノ池の名前が付けられている。常に水をたたえているのは、エメラルド色の二ノ池と三ノ池である。二ノ池は日本で最も高いところ (2,905 m) にあるお盆形状の水深3.5 mの湖沼で、集水面積は湖面の数倍あり、ミクリガ池などの飛騨山脈の火口湖と比べて水位の日変化が40 cm程と大きいのが特徴である。昼夜の気温差による雪解け量の差がその原因である。夏でも雪渓が残り、北西斜面の雪渓の雪解け水・天水・伏流水を集め、水位が極端に上昇した場合には、東端にあるニノ池小屋付近から北東に排水される。1979年の噴火活動の際に、ニノ池に大量の硫黄が流れ込み池の水は酸性度が強くなった。周辺の山小屋ではこの湖水をポンプで送水して宿泊者のためのお風呂の水に利用していた時期もある。三ノ池は御嶽山で最大の池で、湖盆の平均斜度14.4度、水深が13.3 m、8月初旬の平均水温が表面で9.7 °C低層で9.5 °Cである。三ノ池畔には荒神と白龍王初春姫大神などの神々が祀られていて、三ノ池の湖水は信者の御神水(ごしんすい)とされている。王滝村御嶽神社里宮御神水とともに「信州の名水・秘水」の一つに選定されている。四ノ池は高層湿原となっていて、小川が流れており、高山植物の群生地となっている。なお、二ノ池北西の斜面の下、賽の河原との間に小さな窪地があり、多雨期には水がたまる。これを六ノ池と呼ぶことがある。賽の河原の西端、シン谷へ落ち込むところに日本最高所の滝 (2,800 m) がある。この谷は兵衛谷となり濁河川と合流して小坂川となって、飛騨川に注いでいる。三ノ池のみにオンダケトビケラ(学名:Pseudostenophylax sp.)の幼虫が生息する。",
"title": "火山・地勢"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "「御嶽山は滝の山である」と言われるほど、御嶽山を源とする河川には滝が多い。地形が急峻で高低差が大きいこと、独立峰で山体が大きいこと、降水量が多いこと、豊かな森林を育んでいて水が涸れることがないことなどがその成因となっている。人が近づきにくいところにあるものが多いが、黒沢口から油木尾根の遊歩道沿いにある百間滝(西野川の支流の南俣川)、開田高原の尾ノ島滝、王滝口の滝・清滝、濁河温泉付近の仙人滝・緋の滝、日本の滝百選に選ばれた根尾の滝など、比較的簡単に目にすることができる滝もいくつかある。新滝と清滝は御嶽教の行場で、新滝には洞窟がありここに籠って断食を行い滝に打たれる行場となっている。冬に新滝(落差約30 m)と清滝は氷柱となる。黒沢口四合目の霊神場周辺には、日ノ出滝、明栄滝、大祓滝、松尾滝などがあり不動明王などの神霊が祀られた行場となっている。下呂市小坂町には落差5 m以上の滝が200以上あり、多数の小坂の滝めぐりコースが紹介されている。",
"title": "火山・地勢"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "御嶽山は北アルプス(飛騨山脈)の延長線上にあり、北アルプスに含めるという説もあるが、北側の乗鞍岳との間には稜線らしき峰々はほとんどないため、一般的には御嶽山は飛騨山脈には含まれないというのが定説である(ただし、旧乗鞍火山帯には含まれる)。しかし、間を横切る河川は1本もないのも事実であり、明確な結論は出ていない。著名登山家でも意見は分かれている。なお、ガイドブック等で日本アルプスを3つに分けて紹介する場合、中央アルプスの山数が少ないので御嶽山を中央アルプスと合わせて掲載されるケースが多々ある。このため、御嶽山を中央アルプスの山と思いこんでいる人も数多く存在するが、中央アルプスとの間には木曽川が流れており、明らかに中央アルプスには属さない。国土地理院の日本の主な山岳標高の一覧では、鎌ヶ峰までが「飛騨山脈南部」、御嶽山は「御嶽山とその周辺」とされている。御嶽山と鎌ヶ峰との鞍部には長峰峠(標高約1,350 m)がある。",
"title": "火山・地勢"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。室町時代中期に神沢杜口の随筆『翁草』巻162で",
"title": "歴史・信仰"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "と記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行った者だけに年1回の登拝が許されていた。この「道者」と呼ばれる木曽谷の人々による登拝が盛んとなった。1560年(永禄3年)6月13日に木曽義昌が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終えた後に登拝した。江戸時代前期の行脚僧円空も登拝し、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残している。1785年(天明5年)に尾張春日井郡出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになった。その後、普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成されて御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。江戸時代末期の『信濃奇勝録』で、",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "と記載されている。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから女人禁制が解かれた。",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。1985年(昭和60年)以降に山腹に4つのスキー場が建設された。",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "御嶽大神と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。王滝口に里宮と黒沢口に里宮と若宮があり、木曽御嶽神社王滝口の奥社は王滝頂上、木曽御嶽神社黒沢口の奥社は山頂の剣ヶ峰にある。1882年(明治15年)6月に、小谷分喜が『御嶽神社社略縁起』を出版した。1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。1984年(昭和59年)9月14日の御嶽山直下を震源とした長野県西部地震で一合目の里宮の拝殿と末社が半壊し、行場の清滝は滝つぼが土砂に埋まった。御嶽神社黒沢口では太々神楽が奉納されている。",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「御嶽の四門」と呼ばれていて、鳥居などが設置された御嶽山の遥拝所がある。これらは仏教の四門として、岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた。木曽福島から黒沢口への古道の合戸峠や姥神峠などにも御嶽遥拝所があった。",
"title": "歴史・信仰"
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{
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"text": "覚明行者(かくめいぎょうじゃ)は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれ、幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていた。出身地の愛知県春日井市立牛山小学校の校歌で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。1818年(文政元年)10月の『連城亭随筆』で「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されている。ある時予期せぬ出来事(盗みを働いたと疑われたことがきっかけとする説がある)が起こり、各地で巡礼修行をして行者となった。木曽谷の村々で布教活動を行い信者を増やした。1782年(天明2年)御嶽山を管轄する神職武居家と尾張藩木曽代官山村氏に登山許可の請願を行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式(精進潔斎)を破ることになるため却下された。しかし登山許可がないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と、6月14日には尾張の38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日間拘束を受けたとされている。1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行ったが、その最中の6月20日にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された。山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場が現存する。その後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口の登山道の改修が完結され、覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となった。信者が増加し福島宿に経済効果が生まれるようになったこともあり1791年(寛政3年)6月には麓の庄屋が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、1792年(寛政4年)1月1日に許可が下された。6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定が作られた。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。覚明行者は麓の開田西野で村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教え、村人が苗を植えたら育ったことから開田の地名が生まれ、その由来が1806年(文化3年)に設置された稗田の碑に刻まれている。御嶽山を中興開山させた先駆者とされている。",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "普寛行者(ふかんぎょうじゃ)は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期に江戸へ出て剣術を学び、酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。1764年(明和元年)三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794年(寛政6年)には上州の武尊山、1795年(寛政7年)には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801年(享和元年)9月、巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた。普寛行者は",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "の辞世の歌を残している。王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850年(嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "御嶽山の登拝は行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅(御嶽参り)でもある。講者ごとに先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝されることが多い。普寛行者の没後有力な行者が次々と現れ、この信仰により病苦が救われると信頼され、最初に江戸など関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれた。その後、普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769-1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まった。濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していた。木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成された。各講の先達の魂は霊神として、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められている。この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく霊神碑が御嶽山信仰の特徴の一つである。江戸時代から関東や尾張から中山道が利用されていたが、1919年(大正8年)の中央本線が全線開通すると木曽福島駅から御嶽山へ歩き始めるようになった。1923年(大正12年)に木曽森林鉄道が敷設された後、木曽福島駅から黒沢と王滝までおんたけ交通の乗合バスが利用されるようになった。1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになった。現在は天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われることが多い。黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下るルートで登拝されるか、王滝口から山頂を往復するか、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂を経て黒沢口へ下るルートで登拝されることが多い。",
"title": "歴史・信仰"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "御嶽教、木曽御嶽本教、神進大教、神理教、禊教、大成教、神道修成派、丸山教、稲荷教、天台宗寺門派や古くは講社と呼ばれていた旧教派神道系の教団などの御嶽信仰の教団がある。",
"title": "歴史・信仰"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "御嶽教(おんたけきょう)は、奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。御嶽教の山の本部である木曽大教殿が長野県木曽町福島新満郡にある。1984年(昭和59年)4月に、日本全国に御嶽教の教会、枝教会、布教所が978(愛知県263、岐阜県98、埼玉県47、長野県40など)ほどあった。",
"title": "歴史・信仰"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "木曽御嶽本教(きそおんたけほんきょう)は、1946年(昭和21年)に覚明行者系の講社などが結集して設立された御嶽信仰の宗教教団。総本庁と天昇殿事務所が木曽町三岳にある。御嶽神社を宗祠とし、初代の管長は黒沢御嶽神社宮司の武居誠。",
"title": "歴史・信仰"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1757年(宝暦7年)に松平君山が『吉蘇志畧』を刊行し、御嶽山について",
"title": "御嶽山の環境"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "と記載し、ハイマツ、コマクサ、オンタデ、オコジョなどの解説とホシガラス、ライチョウなどの鳥類の詳細なスケッチを残している。標高3,000 mを越える高山であり、『木曽節』では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」と歌われている。1979年(昭和54年)の噴火による荒廃で黒沢口登山道九合目の石室山荘周辺のハイマツが枯れたが、21世紀初頭の2002年-2003年頃から若芽が確認されている。御嶽山のコマクサの昔話がある。王滝口登山道にある田の原天然公園を中心に約830 haが、木曽御岳自然休養林に指定されている。田中澄江は著書『花の百名山』で、代表する花に一つとしてリンネソウを紹介した。標高1,500m以下の山麓では、ヒノキ、アスナロなどの木曽五木が見られる。1836年(天保7年)に西山麓の下呂市小坂町赤沼田で植栽されたヒノキの人工林が、1993年(平成5年)に林野庁により「赤沼田天保ヒノキ植物群落保護林」の指定を受けた。木曽町三岳では「御嶽黒光真石」と呼ばれる安山岩が産出され、御嶽信仰の霊神碑にも利用されていた。現在も麓の田中石材店などで石材加工が行われている。",
"title": "御嶽山の環境"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "3万年前の旧石器時代にオオツノジカが生息していて、東山麓の開田高原はその狩猟場であった。柳又遺跡からは石器や土器が出土している。山頂付近の登山道の高山帯に生息するホシガラス、ライチョウ、クジャクチョウなどが見られる。ライチョウ(雷鳥)は日本で特別天然記念物に指定され、環境省によりレッドリストの絶滅危惧IA類、岐阜県では絶滅危惧I類、長野県では絶滅危惧II類に指定され、絶滅が危惧されている。1981年の調査で50箇所あったライチョウの縄張りが、2008年の調査で28箇所に減少している。2012年12月に、西側の前衛峰である御嶽山系の御前山の標高1,500 m付近でライチョウ1羽(冬羽のメス)が確認され、冬期に尾根伝いに高山帯から移動してきたものと見られている。山域にはイタチ、イノシシ、タヌキ、ツキノワグマ、ニホンザル、ホンドギツネなどが生息し、アトリ、イカル、キジ、キバシリ、ヒガラ、ブッポウソウなどの鳥類も豊富である。南東山麓の長野県木曽郡木曽町の「三岳のブッポウソウ繁殖地」は国の天然記念物の指定を受けている。開田高原ではその産地であった木曽馬が飼育されていて、長野県の天然記念物の指定を受けている。チョウ目ヤガ科のオンタケクロヨトウ(学名:Apamea ontakensis Sugi)の高山蛾は、御嶽山の高山帯のみに生息する。本州の限られた山岳地帯に分布するチョウ目シャクガ科のウチジロナミシャク(学名:Dysstroma truncata fusconebulosa Inoue)は、岐阜県では御嶽山のみで分布が確認されている。",
"title": "御嶽山の環境"
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"text": "江戸時代末期に御嶽山の高山植物は「御神草」として珍重され、山頂部の高山帯に自生するコマクサは薬草として採集され、多くの自生のものが消滅した。山頂部のコマクサ群落の再生活動が行われている。1887年(明治20年)7月に植物学者の白井光太郎が登頂して高山植物を採集し、1889年(明治22年)には三好学らも採集し、1933年(昭和8年)に植物学者の中野治房が御嶽山の植物生態を調査した。山の上部の森林限界の高山帯には、アオノツガザクラ、イワウメ、ウラジロナナカマド、オオヒョウタンボク、ガンコウラン、キバナシャクナゲ、クロマメノキ、コケモモ、コメバツガザクラ、タカネナナカマド、チングルマ、ハイマツ、ミネズオウ、ミヤマハンノキなどの樹木とイワギキョウ、イワツメクサ、オンタデ、クモマグサ、クロユリ、コマクサ、シラタマノキ、チシマギキョウ、トウヤクリンドウ、ハクサンイチゲ、ミヤマアキノキリンソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマダイコンソウ、モミジカラマツなどの多くの高山植物が自生している。日本の固有種であるオンタデ(御蓼)の和名は、この山で最初に発見されたことによる。ウラジロナナカマドとタカネナナカマドとの雑種のオンタケナナカマド(学名:Sorbus x yokouchii M.Mizush. ex T.Shimizu)が自生している。中腹の亜高山帯では、オオシラビソ、オガラバナ、コメツガ、シラビソ、ダケカンバ、トウヒ、ナナカマド、ハリブキ、ミヤマザクラなどの樹木とオサバグサ、カニコウモリ、キソアザミ、キソチドリ、ゴゼンタチバナ、コバイケイソウ、サンカヨウ、セリバシオガマ、タケシマラン、ツバメオモト、バイカオウレン、マイヅルソウ、ムシトリスミレ、ユキザサなどの草花が自生している。下部の山地帯では、イヌブナ、カエデ類、カツラ、クリ、シラカンバ、シナノキ、ミズナラなどの落葉広葉樹とトチノキ、クロベ、サワラ、ヒノキなどの自然林の針葉樹とカラマツ、スギ、ヒノキなどの人工林、イワカガミ、クガイソウ、ササユリ、ススキ、ツルアジサイ、トリアショウマ、ホタルブクロ、マツムシソウ、ヤナギランなどの草花が分布している。「御岳オサバグサ」(面積18.39 ha)と「胡桃島ハイマツ等」が林野庁により、植物群落保護林の指定を受けている。「木曽ヒノキ」は、「秋田のスギ」と「津軽のヒバ」とともに『日本三大美林』に選定されている。南側は現在も火山活動中であり植物相は貧弱で、北側はコマクサの群生地など豊富な植物相となっている。1910年に植物学者小泉源一がこの山でトリカブト属のオンタケブシ(学名:Aconitum metajaponicum Nakai)を採集しその和名の由来となっている。オンタケチブシは絶滅が危惧されていて、環境省の絶滅危惧IA類の指定を受けている。",
"title": "御嶽山の環境"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "多くの薬用植物が分布し、江戸時代に本草学の研究が盛んに行われ、この地域を領有していた尾張藩が薬草の採取を行っていた。1716年-1735年(享保年間)に本草学者の丹羽正伯らが山域で生薬の採集や調査を行った。1804年-1818年(文化年間)に水谷豊文が山麓を中心とする『木曽採薬記』を刊行し、山頂付近にコマクサが自生していることが記載されている。1844年(天保15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物のおしば帳である『木曽産草花根皮類』が刊行され、アオノツガザクラ、オヤマリンドウ、クロユリ、スミレ、チングルマ、ミズバショウなど50種類などが図鑑型式にまとめられていた。そのうちの24種が現在の和名で記載されていた。本草学が進んでいた尾張藩に属していて、山村代官により薬草の調査、栽培、管理が行われていた 。王滝口を開いた普寛行者により、『御嶽山の霊薬百種を採り集めよく煎じて薬を製せば霊験神の如し、これを製して諸人を救え。』と村人などに伝授された。1849年(嘉永2年)に王滝口を開いた普寛行者の弟子である寿光行者が、御嶽山の霊草百種を採り集め煎じて生薬としたと伝えられていて、王滝村には「百草元之碑」には同村の胡桃沢弥七と小谷文七が普寛行者の遺法を基に百草を製造したと記載されている。御嶽信仰の広がりと共に木曽御嶽の「御神薬」の百草が各地に広まった。百草は御嶽参りのお土産とされていた。南山麓では長野県製薬(御岳百草丸)と日野製薬(御嶽山日野百草丸)が、キハダの樹皮の内側の木の層の「オウバク」を主成分とした「百草丸」(胃腸薬)を製造している。この薬箱には「山三丸マーク」と呼ばれる御嶽信仰を象徴するマーク(御嶽神社や登山道の霊神碑の刻印などでも使用されている)が印刷されている。なおこの山三丸マークを使用する商標権について製薬会社間で訴訟「平成9年(行ケ)213号 審決取消請求事件」が行われた。明治以降は兵士の常備薬として需要が高まり、山域のキハダは昭和初期には伐採し尽くされ、他の地域や海外から輸入する事態となり、現在は大半を中国のから輸入に頼っている。百草には「御嶽山の五夢草」であるコマクサ、オンタケニンジン、オウレン、トウヤク、テングノヒゲが含まれ、タカトウグサとゲンノショウコなども利用されていた伝えられている。",
"title": "御嶽山の環境"
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"text": "鎌倉時代から昭和初期まで山腹から山麓にかけての森林で木曽五木などが伐採され、その伐材は木曽川を利用して川流しが行われていた。山域の森林は江戸時代には尾張藩により管理され、明治になると御料林となり、現在山域の多くは国有林となっている。その大部分が水源かん養保安林に指定されている。御岳特定地理等保護林(旧御岳垂直森林帯植物群落保護林、面積1,540 ha)などで、自然環境の維持や動植物の保護ための国有林の保護管理が行われている。千間樽国有林と胡桃島国有林の一部が、「御岳自然休養林」に指定されている。",
"title": "御嶽山の環境"
},
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"paragraph_id": 47,
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"text": "古来より信仰の対象として少数の修験者によって登られ、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。江戸時代の御嶽登山者の病気や凍死による死亡者の記録(御嶽山遭難者遺族差出証文など)が多数残されていて、1847年(弘化4年)7月16日には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する山岳遭難が起きた。1868年(明治元年)に黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した。1872年(明治5年)に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていた。明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まった。1894年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようになった。ウェストンと同時期にアメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェルが来訪した際に登頂し、『オカルト・ジャパン』(第1章「御嶽」)で当時の様子を記している。1907年(明治40年)の馬やかごに乗る御嶽山登山者の写真が残されている。御嶽山の登山口は木曽側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、飛騨側から1つ(小坂口)が昔から利用されていたが、その後日和田口が比較的新しく開かれた。",
"title": "登山"
},
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1979年10月の噴火により、山頂から4合目までが入山規制された。1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除された。気象庁が発表する噴火警戒レベルにより入山が規制される場合がある。木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされている。3,000 mを越える高峰であるが登山口の標高が高いため日帰りで登山されることもある。麓の開田中学校や王滝中学校、下呂市の小学校などで学校登山が行われている。黒沢口などでは御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ強力を担う人がいる。1954年(昭和29年)から8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭が行われている。大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されている。積雪期の登山において難所はないものの、独立峰のため山頂付近が強風でアイスバーンとなるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山である。百名山ブームもあって、旅行会社による登山ツアーが多数行われた。",
"title": "登山"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "2014年9月の噴火により、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられたことに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。2015年6月、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられたことに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に縮小された。2017年8月に噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引き下げられたが、現在も火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域である。黒沢口登山道では、7月から10月までの登山シーズンの期間に限り、登山道のみ立入規制の緩和を行い、剣ヶ峰まで行くことができる。",
"title": "登山"
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例」により、御嶽山の火口域から4km以内の地域に立ち入る場合には登山届の提出が義務づけられている。",
"title": "登山"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "長野県では「長野県登山安全条例」により、指定登山道を通行しようとするときは、あらかじめ登山計画書を届出なければならない。",
"title": "登山"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "各方面から登山道が開設されている。小坂口、日和田口利用者の中には、剣ヶ峰まで登らずに、飛騨頂上・継子岳あるいは、摩利支天山までの登山を目的とする登山者も多い。一ノ池を取り囲むの西側の稜線に登山道があり、剣ヶ峰からニノ池小屋へのルートの一つとなっている。以前は、王滝川の支流の濁川に沿って濁川温泉(現存せず)を経て、剣ヶ峰と継母岳の鞍部に登る松原新道があったが、1984年の長野県西部地震により発生した伝上崩れにより崩壊し、廃道となった。",
"title": "登山"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "車道で上がれる登山口は御嶽山で最も高い標高地点(田の原、標高2,160 m)であり、山頂の剣ヶ峰への最短ルートである。途中での眺望が優れており、登山口から王滝頂上までのコースが常に上から下まで見渡せる。登山口の田の原から王滝頂上までの間には8合目と9合目に避難小屋がある。山開きに相当する開山祭は7月1日に行われる。積雪期には登山口の田の原への道路が閉鎖されるが、春先におんたけ2240のスキー場のゴンドラを利用して、雪山登山を行う例がある。1合目に国常立尊、大己貴命、少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。3合目には清滝と新滝があり、清滝には清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっている。5合目には子授け神霊である十二権現、6合目には眼の神様の八海山大神がある。標高約2,190 mの田の原には田ノ原山荘と木曽御嶽自然休養林田ノ原自然公園があり、登山シーズン中には自動車で上がることができる。",
"title": "登山"
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{
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"tag": "p",
"text": "覚明行者によって開かれた最も古い登山道。御嶽教、木曽御嶽本教に最も関わりの深い登山道でもある。夏には「懺悔反省、六根清浄」を唱える白衣の登拝者が見られる。有人山小屋が合目ごとにある。現在は7合目付近にロープウェーの飯森駅(標高2,150 m)ができ、王滝口登山口の田の原とほぼ同じ標高まで歩かずに登ることができるようになったため、大半の登山者がロープウェイを利用するようになったが、6合目から歩く登山者は現在でも少なくない。山開きに相当する開山祭は王滝口と同じ7月1日に行われる。1合目に大己貴命を祀った御嶽神社若宮と少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている。登拝道場には多数の霊神碑が並べられていて、4合目の屋敷場には御嶽山で最大規模の霊神場があり講社単位で建てられた多数の霊神碑がある。松尾滝から油木尾根を経て百間滝から8合目の女人堂に至るルートは百間滝道と呼ばれている。百間滝には百間滝小屋があり行場となっている。",
"title": "登山"
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{
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"text": "木曽側の3つの登山口のうち、唯一、信仰のためでなく作られた登山道。営林署(現・森林管理署)の作業道として開かれた。距離は長いが、大自然を満喫することが出来る。水場は4合目付近に湧き水があり、それ以外は三の池まで無し。登山口の標高が低く(1,500 m)標高差が大きいため、健脚向き。",
"title": "登山"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "剣ヶ峰へのアプローチが長いためか、現在は信仰登山者はほとんど見かけず、一般登山客が多い。このルートの山開きは、毎年6月15日に御嶽神社飛騨口里宮で開催されている。下山時に温泉を楽しめるのが魅力のコース。なお、登山口を胡桃島とし、のぞき岩避難小屋下で濁河温泉からの道と合流するコースもあるが、このコースを特に胡桃島コースと称することもある。飛騨頂上の五の池小屋は、2010年に新館が増築され収容人数が100人に倍増した。なお、平成30年6月豪雨の影響により登山道が崩落したが、迂回ルートが整備され2018年9月より通行可能となった。",
"title": "登山"
},
{
"paragraph_id": 57,
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"text": "継子岳頂上を目指して登るコースで宗教登山に由来しないコースのひとつ。1998年のチャオ御岳スキー場の開発に伴い、通年運行されるゴンドラリフトの「フライングチャオ」を利用することが多くなり、旧来の登山口からの登山は減った。ゴンドラリフトを使用した場合は王滝口とほほ同じ標高(2,190 m)まで登ることができるが、継子岳から最高峰剣ヶ峰までの距離が長い。また、ルートは他のコースに比べてあまり手入れがされていない。2010年現在、フライングチャオはスキーシーズン(12月初旬 - 5月初旬)のみの運行となっており、春 - 秋の登山には利用できなくなっている。",
"title": "登山"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "御嶽山は宗教登山が盛んであるため、山小屋も宗教施設としての側面がある山小屋が多い。五の池小屋は近代的なアルペンスタイルの山小屋である。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がある。登山道上にキャンプ指定地はないが、胡桃島口の登山口に「胡桃島キャンプ場」がある。それらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られている。また、王滝口・黒沢口の開山祭の7月1日以降の営業開始となる小屋が多く、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多い。御嶽神社・御嶽教・木曽御嶽本教は山開きを7月10日から9月10日までとしているため、その間は特に白装束の宗教登山者の宿泊利用や立ち寄り利用が多い。なお、五の池小屋は例外的に例年6月1日から10月15日までの営業と、長期間の営業を行っている。8合目と7合目の山小屋は紅葉シーズンも営業する。",
"title": "登山"
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"text": "山頂地域に多くの有人山小屋があるが、黒沢口には途中にも合目ごとに有人山小屋が営業している。2014年噴火以前は、二ノ池の水を飲料水などの水源としている山小屋が多く、二ノ池から遠い「五の池小屋」や7合目以下の山小屋以外の山小屋は「二の池水組合」を設立し、共同で水道施設の設置・維持・撤去を行っていた。また、日頃の水源ポンプ施設の操作は「二ノ池本館(現:二ノ池山荘)」のスタッフが行い、豊富な湖水を使って「二ノ池本館(現:ニノ池山荘)」「二ノ池新館(現:二の池ヒュッテ )」「石室山荘」「覚明堂(現在無人)」では、宿泊者向けの風呂を毎日用意するほか、宿泊者が少ない時のみ宿泊者にスタッフ用の風呂を提供する山小屋もあったが、2014年噴火の降灰によると思われる湖水の酸性化により、現在は湖水からの取水利用は行われていない。",
"title": "登山"
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"tag": "p",
"text": "かつて、山小屋のトイレはほぼ垂れ流しの状態であったが、環境問題への関心の高まりを背景に、有人の山小屋については汲み取り式のトイレへと改修が進められている。汲み取られたし尿は、ヘリにより麓まで運搬し処理業者へ引き渡される。そのらの維持費用が高額となるため、トイレ利用者に一回の利用につき100円の協力金の負担をお願いしている。",
"title": "登山"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "以下は、2014年9月噴火の前まで営業していた山小屋である。",
"title": "登山"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "多くの有人山小屋や山頂神社社務所では、宗教登山に使われる金剛杖に焼印を押印するサービスを有料で行っている。1891年(明治24年)に登山道の神社などで、「登山杖に記念の印を捺します」の看板が設置されこの焼印が行われていた。富士山で特にポピュラーなサービスであるが、御嶽山でも実施する山小屋を少し減らしながらも現存しており、貴重な存在である。ただ、富士山ほど押印希望者は多くなく、希望者が現われてから焼印を加熱するところが多いため、焼印に時間がかかることが多い。また、押印の料金も富士山よりも割高になっている。",
"title": "登山"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "昭和中期までの木曽側からの御嶽山の登山者数は下表のように推計されている。2010年頃の黒沢口から入山者は年間3万人を越える程度であった。",
"title": "登山"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "木曽川水系の源流の山であり、西側から飛騨川、東と南側から王滝川などの本流へと流れ太平洋側の伊勢湾へ流れる。剣ヶ峰の山頂には一等三角点(点名が「御岳山」、標高3,063.41 m)が設置されていて、一等三角点百名山のひとつに選定されている。最高点は御嶽神社の西側のある岩の標高点。日本で14番目に高い山。南東中腹の王滝村の区域は「御岳高原」と呼ばれている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "独立峰であるため、周囲の多くの山からその山容を望むことができる。山頂部は広く、複数のピークから成る。濃尾平野からも北東にその大きな山容が望める。岐阜県側には前衛の山として、ぎふ百山の一つである御前山(1,646 m)と続ぎふ百山の一つである下呂御前山(1,412 m)がある。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "源流となる以下の河川は木曽川水系で伊勢湾へ流れる。山頂の南東13.4 kmにある王滝川の牧尾ダムの御岳湖に貯水された水は愛知県などの飲料水、工業用水及び農業用水に利用されていて、その上流部には関西電力の水力発電用の三浦ダム(山頂の南西11.0 km)がある。王滝川の支流の濁川上流部の赤川では浸食と崩落が激しく「地獄谷」と呼ばれている。南面の王滝川の支流の濁川は、1979年10月28日噴煙後地獄谷上部の火口から白いガスと火山灰で黒色となった温泉水が大量に流れ出て白く濁った。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "南山麓の王滝川沿いには1923年(大正12年)に竣工された木曽森林鉄道の王滝森林鉄道が敷設され、1975年(昭和50年)5月30日まで国有林の材木の運搬に利用されていた。1925年(大正14年)に御嶽自動車商会(現在のおんたけ交通)が開業、おんたけ交通は山麓や御嶽山の登山口まで路線バスを運行している。1963年(昭和38年)に西山腹の名古屋営林局小坂営林署が運営する小坂森林鉄道濁河温泉線が開通し伐採した木材の運搬に利用されていたが、林道が敷設されトラックによる輸送への切り替えに伴い1971年(昭和46年)に廃止された。1966年(昭和41年)に山麓の王滝村の長野県道256号御岳王滝黒沢線から田の原までの「有料道路林道黒石線」が全線開通し、1997年(平成9年)4月1日に村道41号線(御岳スカイライン)として無料開放され、おんたけ2240のスキー場利用者、登山者、観光客などに利用されている。長野県道473号上松御岳線が南東の山麓から通じ無料化された白崩林道を経て中腹の中の湯まで通じている。東山麓を長野県道20号開田三岳福島線が通り、木曽町三岳の木曽温泉付近から御岳ロープウェイスキー場まで東山腹に「御岳ブルーライン」が通る。その鹿の瀬温泉から上部は冬期閉鎖されている。南東山麓の県道20号開田三岳福島線沿いに道の駅三岳がある。北東山麓に国道361号が通り、北山腹に岐阜県道463号朝日高根線、北西山腹に岐阜県道435号御岳山朝日線が通る。西山麓の下呂市小坂町から濁河温泉まで岐阜県道441号濁河温泉線が通り、「御嶽パノラマライン」と呼ばれている。小三笠山(標高2,029 m)の南面には御岳林道と王滝林道が通る。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "王滝村側の木曽御岳山頂と木曽町側の三岳黒沢字石室、御岳山山頂、行場小屋、金剛堂、二ノ池小屋は日本郵便から交通困難地の指定を受けており、地外から当地宛に郵便物を送付することは出来ない。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "岐阜県側のJR東海高山本線飛騨小坂駅及び高山駅から御嶽山の登山口である濁河温泉への濃飛バス路線は2007年(平成19年)11月30日に廃止された。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "北側と東側の山腹には以下のスキー場があり、標高の高い位置(上部は標高2,000 m以上)にあり雪質が良く、ゴールデンウィーク頃の遅い時期まで滑走が可能である。王滝村は、村営であった旧おんたけスキー場の負債により厳しい財政状況となっている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "3,000mを越える高山であるが、奥深い山中にあるため、山体全体を眺められる場所は意外と少ない。高山市中切町の「中切町付近の山より望む御嶽山」、高山市久々野町無数河の「舟山山頂道路より望む御嶽山」、高山市朝日町西洞の「鈴蘭高原より望む御嶽山」、高山市朝日町胡桃島の「胡桃島キャンプ場近く展望台より望む御嶽山」と「秋神地域より望む継子岳」が、「新高山市100景」のひとつに選定されている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "独立峰である御嶽山の大きな山容を、名古屋市をはじめとした濃尾平野(尾張や美濃)や遠方の山からなどの各方面から望むことができる。東海地方の多くの 小中高等学校の校歌で山名が歌い込まれている。木曽谷では開田高原以外に麓から御嶽山を望める箇所は少ない。5月中旬ごろ、東面の9合目付近に残雪の白い背景に黒色の種をまくお爺さんの姿の雪形(ネガ型)が見られる。深田久弥は1965年(昭和39年)に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した『日本百名山』の著書で御嶽山の山容を",
"title": "御嶽山の風景"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "と表現している。",
"title": "御嶽山の風景"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "山上部からは東に八ヶ岳、中央アルプス、南アルプス、富士山、南に小秀山などの阿寺山地、濃尾平野、西に白山などの両白山地、北にニノ池、乗鞍岳などの北アルプスが望める。",
"title": "御嶽山の風景"
}
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御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。日本の山では14番目に標高が高く、独立峰としては富士山に次いで2番目に高い。 2014年9月27日の噴火では、山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。
|
{{otheruses}}
{{Infobox 山
|名称=御嶽山
|画像=[[ファイル:Ontake-air.jpg|300px|木曽町上空から望む御嶽山]]
|画像キャプション=[[木曽町]]上空から望む御嶽山
|標高=<small>最高峰</small> 剣ヶ峰 3,067<ref name="kokudo">{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html |title=日本の主な山岳標高(長野県の山)|publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2011-03-24}}</ref>
|座標={{ウィキ座標2段度分秒|35|53|34|N|137|28|49|E|region:JP_type:mountain|display=inline,title}}<ref name="kokudo" />
|所在地={{JPN}}<br>[[長野県]][[木曽郡]][[木曽町]]・[[王滝村]]<br>[[岐阜県]][[下呂市]]・[[高山市]]
|山系=[[独立峰]]([[御嶽山系]])
|種類=[[成層火山]]([[活火山]]ランクB)<ref name="岐阜地方気象台">{{Cite web|和書|url=https://www.jma-net.go.jp/gifu/katsukazan.html |title=岐阜県の活火山 |publisher=[[岐阜地方気象台]] |accessdate=2013-02-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110323112910/https://www.jma-net.go.jp/gifu/katsukazan.html|archivedate=2011-03-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0301/21a/yochiren.pdf |title=火山噴火予知連絡会による活火山の選定及び火山活動度による分類(ランク分け)について |publisher=[[気象庁]] |format=PDF |date=2003-01-21 |accessdate=2013-02-15}}</ref>、[[噴火警戒レベル]]2(火口周辺規制)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/2202/23a/ontakesan_20220223.html|title=御嶽山の噴火警戒レベルを2へ引上げ|date=2022-2-23|accessdate=2022-2-25|website=気象庁}}</ref><!--[[噴火警戒レベル]]1(平常)-->
|最新噴火= 2014年(継続中)
|初登頂=([[702年]]に[[役小角]]が開山)<ref name="徳久 (1992)、116頁" />
|地図={{Location map|Japan#Japan Nagano Prefecture#Japan Gifu Prefecture|relief=1|coordinates={{Coord|35.892748|137.480222}}|caption=|width=300}}御嶽山の位置{{日本の位置情報|35|53|34|137|28|49|御嶽山(飯田)|35.892748,137.480222|御嶽山|nocoord=yes}}
}}
'''御嶽山'''<ref name="tizu-kokudo">{{Cite web|和書|url=http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=137.47451083333&latitude=35.894789055556 |title=地図閲覧サービス・御嶽山(岐阜県下呂市)|publisher=国土地理院 |accessdate=2013-02-25}}</ref>(おんたけさん)は、[[長野県]][[木曽郡]][[木曽町]]・[[王滝村]]と[[岐阜県]][[下呂市]]・[[高山市]]にまたがり、[[東日本火山帯]]の西端に位置する[[標高]]3,067 [[メートル|m]]の複合[[成層火山]]である<ref name="徳久 (1992)、116頁">[[#日本山名辞典|徳久 (1992)、116頁]]</ref><ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁">[[#新日本山岳誌|日本山岳会 (2005)、972-973頁]]</ref>。大きな裾野を広げる[[独立峰]]である<ref name="深田 (1982)、227-230頁">[[#深田久弥|深田 (1982)、227-230頁]]</ref><ref name="地質ニュースv306">{{Cite journal ja-jp |date=1980 |url=http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/80_02_01.pdf |title=御岳山1979年噴火 |author=曽屋龍典、近藤善教、下坂康哉 |format=PDF |journal=地質ニュース |volume=306 |issue=1980年2月号 |pages=6-13 |publisher=[[産業技術総合研究所]](産総研) |accessdate=2013-02-13}}</ref>。[[日本]]の山では14番目に標高が高く、独立峰としては[[富士山]]に次いで2番目に高い。
2014年9月27日の[[噴火]]では、山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、[[雲仙岳#1991年6月3日の火砕流|1991年雲仙普賢岳の火砕流]]による犠牲者数を上回る事態となった<ref name="sankei201409290003">{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140929/dst14092900030001-n1.htm|title=海外メディアも人的被害の大きさ速報|publisher=産経新聞社|date=2014-09-29|accessdate=2014-09-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150122010400/http://www.sankei.com/affairs/news/140929/afr1409290001-n1.html |archivedate=2015-01-22 }}</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H1L_R01C14A0MM8000/ 御嶽山噴火、47人の死亡確認 戦後最悪の火山災害に] 日本経済新聞、2014年10月2日閲覧</ref>。
{{Main2|2014年の噴火の詳細|2014年の御嶽山噴火}}
== 概要 ==
[[File:Ontake Volcano Relief Map, SRTM-1.jpg|サムネイル|御嶽火山の地形図]]
[[ファイル:御嶽山三ノ池.JPG|サムネイル|継子岳と三ノ池([[火口湖]])]]
[[ファイル:Mount Ontake (Morgenrot zoom).JPG|サムネイル|[[おんたけ2240]]から望む御嶽山の[[朝焼け|モルゲンロート]]]]
'''木曽御嶽山'''(きそおんたけさん)、'''木曽御嶽'''(きそおんたけ)、'''御嶽'''(おんたけ)、'''王嶽'''(おうたけ)<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />、'''王御嶽'''(おんみたけ)<ref name="三宅 (2003)、146-149頁">[[#現代日本名山図会|三宅 (2003)、146-149頁]]</ref>とも称する。また嶽の[[字体]]を[[新字体]]で表記し'''御岳山'''や、単に'''御岳'''<ref name="深田 (1982)、227-230頁" />と表記されることもある。地元では親しみを込めて「'''お山'''」「'''おやま'''」とも呼ばれる<ref>{{Cite book|和書 |title=御嶽山の恵み そして語り継ぐこと |publisher=国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所 |page=3 |url=chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/special_content/pdf/pamphlet/sabo_08.pdf |format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=御嶽噴火あす7年 元の「お山」へさらに一歩 規制緩和へ安全対策進む {{!}} 地域の話題 {{!}} 株式会社市民タイムス |url=https://www.shimintimes.co.jp/news/2021/09/post-15324.php |website=www.shimintimes.co.jp |access-date=2023-10-22 |language=ja}}</ref>。[[日本の山一覧 (3000m峰)|標高3,000mを超える山]]としては、[[日本]]国内で最も西に位置する。日本には[[御嶽山 (曖昧さ回避)|同名の山(御嶽山・御岳山)]]が多数あり、その最高峰である<ref group="注釈">厳密には御嶽山の最高点である剣ヶ峰の西北に位置する外輪山に、3,053.4mの小ピークがある(1:5,000国土基本図(火山基本図)御岳山-国土地理院発行)。</ref>。山頂には[[一等三角点]](3,063.<small>61</small> m、点名「御岳山」)<ref name="kijyun">{{Cite web|和書|url=https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html |title=基準点成果等閲覧サービス |publisher=国土地理院 |accessdate=2015-02-14}}</ref>と[[御嶽神社]]奥社がある。
古くから[[山岳信仰]]の対象の[[山]]として[[信者]]の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの[[峰]]を連ねてそびえる[[活火山]]である。[[民謡]]の『[[木曽節]]』では「木曽の御嶽夏でも寒い[[袷]]やりたや[[足袋]]添えて」、『[[伊那節]]』では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに[[木曽谷|木曽]]を代表する山として親しまれている<ref name="毎日新聞社 (1997)、148頁">[[#日本三百名山|毎日新聞社 (1997)、148頁]]</ref>。[[東海地方]]特に[[尾張]]地方ではほとんどの場所からその大きな山容を望めることから、「木曽のおんたけさん」として[[郷土富士]]のように親しまれている山である<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、125頁]]</ref>。[[日本百名山]]<ref name="深田 (1982)、227-230頁" />、[[新日本百名山]]<ref>[[#新日本百名山|岩崎 (2006)、49-51頁]]</ref>、[[花の百名山]]<ref name="田中 (1997)、274-277頁">[[#花の百名山|田中 (1997)、274-277頁]]</ref>、[[ぎふ百山]]<ref>[[#ぎふ百山|岐阜県山岳連盟 (1987)]]</ref>のひとつに選定されている。旧[[開田村]]を代表する山として飛騨頂上、旧[[三岳村 (長野県)|三岳村]]を代表する山として[[剣ヶ峰]]が「信州ふるさと120山」の一つに選定されている<ref>[[#信州ふるさと120山|長野県山岳協会120山委員会 (2011)]]</ref>。[[1927年]](昭和2年)に、[[大阪毎日新聞社]]と[[東京日日新聞社]]などにより[[日本二十五勝]]の一つに選定されている。
[[国立公園]]に指定されている[[飛騨山脈]]や[[赤石山脈]]、[[国定公園]]に指定されている[[木曽山脈]]とは異なり、[[国定公園]]にさえも指定されていない。長野県の[[御岳県立公園]]<ref name="Nagano-shizenkouen">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/shizenhogo/kurashi/shizen/koen/syoukai.html |title=長野県の自然公園の紹介 |publisher=長野県 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>および岐阜県の[[御嶽山県立自然公園]]<ref name="Gifu-shizenkouen">{{Cite web|和書|url=http://www3.e-reikinet.jp/gifu-ken/houkishu/41190250027300000000/41190250027300000000/41190250027300000000.html |title=県立自然公園の指定(平成11年4月1日告示第273号) |publisher=岐阜県 |accessdate=2013-02-17}}</ref>には指定されているものの、国立・国定公園に指定されなかったのは、木曽[[ヒノキ]]を主とする[[林業]]の盛んな地域であるという事情がある。山腹は深い森で覆われ多くの[[滝]]があり、[[木曽川]][[水系]]の源流部の山であり、その下流部である[[中京圏]]の水がめとなっている。
以前は[[死火山]]や[[休火山]]であると思われていた山であるが、[[1979年]]([[昭和]]54年)[[10月28日]]に突如噴火した<ref name="地質ニュースv306" />。[[気象庁]]は[[2008年]]([[平成]]20年)3月31日に[[噴火警戒レベル]]1(平常)と[[噴火予報]]を発表した<ref name="御嶽山の火山活動解説資料">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/tokyo/13m01/312_13m01.pdf |format=PDF |title=御嶽山の火山活動解説資料(平成25 年1月) |publisher=気象庁 |date=2013-01 |accessdate=2013-02-12}}</ref>。
[[2014年]](平成26年)[[9月27日]]に噴火、南側斜面を[[火砕流]]が流れ下り、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられた<ref name="jma_20140927_lv3">{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jp/volcano/forecast_03_20140927123646.html|title=噴火警報・予報: 御嶽山 平成26年9月27日12時36分 |accessdate=2014/09/27 |author=[[気象庁]]地震火山部}}</ref>。これに伴い、[[火口]]から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された。
2015年6月、[[火山性地震]]は続くものの2014年10月中旬以降噴火が観測されていないため、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられた<ref name="jma_20150626_lv2">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20150626170002_312.html|title=噴火警報・予報: 御嶽山 平成27年6月26日17時00分|accessdate=2017/10/10 |author=[[気象庁]]地震火山部}}</ref>。これに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に変更された。
2017年8月、[[噴煙]]活動や山頂直下付近の地震活動は緩やかな低下が続いており、2014年10月中旬以降噴火の発生がないため、噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引下げられた<ref name="jma_20170821_lv1">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/volinfo/VJ20170821150000_312.html|title=噴火警報・予報: 御嶽山 平成29年8月21日17時00分|accessdate=2017/10/10 |author=気象庁地震火山部}}</ref>。ただし現在も、火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域である。
「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例<ref name="Gifu Pref Regulations for Mountaineer">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/bosai/sangaku/11115/jourei.html|title=岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例|accessdate=2017/10/10 |author=[[岐阜県庁]]}}</ref>」により、御嶽山の火口域から4km以内の地域<ref name="御嶽山火口域">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/bosai/sangaku/11115/jourei.data/270401ontake.pdf |format=PDF |title=岐阜県活火山地区御嶽山火口域|accessdate=2020/06/01 |author=[[岐阜県庁]]}}</ref>に立ち入る場合に[[登山届]]の提出が義務づけられている。
長野県では「長野県登山安全条例<ref name="Nagano Pref Regulations for Mountaineer">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoki/tozanjorei/tozanjorei.html|title=長野県登山安全条例|accessdate=2020/05/19 |author=[[長野県]]}}</ref>」により、指定登山道<ref name="Nagano Pref Designated mountain trail">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoki/smartphone/tozankeikakusho.html#yama|title=指定登山道|accessdate=2020/05/19|author=[[長野県]]|publisher=}}</ref>を通行しようとするときはあらかじめ登山計画書を届出<ref name="Nagano Pref Submit mountaineering plan">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/kankoki/smartphone/tozankeikakusho.html|title=登山計画書を届け出しましょう|accessdate=2020/05/19|author=[[長野県]]|publisher=}}</ref>なければならない。
また山頂付近には噴火に備えて、登山者向けの屋外スピーカー避難シェルターが設置されている<ref>{{Cite news |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201809/CK2018092702000148.html |title=悲劇の頂眼前に 御嶽山噴火4年 遺族初登山 |newspaper=[[東京新聞]] |date=2018年9月27日}}</ref>。
== 山名の由来 ==
遠く[[三重県]]からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた<ref name="御岳山霊なる山の素顔 12-14頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、12-14頁]]</ref>。古くは坐す神を王嶽蔵王[[権現]]とされ<ref>[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、117頁]]</ref>、[[修験者]]がこの山に対する[[尊称]]として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" /><ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、7頁]]</ref><ref name="信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁">[[#いちどは行ってみたい日本の聖地|信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁]]</ref><ref group="注釈">[[室町時代]]中期に「王嶽」(おうたき)が「おんたけ」に変わったとす説がある。</ref>。その後「御嶽」に変わったとされている<ref name="hinoseiyaku">{{Cite web|和書|url=http://hino-seiyaku.com/try/020.html |title=御嶽山整備事業 |publisher=[[日野製薬]] |accessdate=2011-10-05}}</ref>。[[修験者]]の総本山の[[金峰山 (山梨県・長野県)|金峯山]]は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ[[甲斐駒ヶ岳|甲斐の御嶽]]、[[御岳山 (東京都)|武蔵の御嶽]]などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、5頁]]</ref><ref name="小谷 (2000)、4頁">[[#花かおる御嶽山|小谷 (2000)、4頁]]</ref>。日本全国で多数の山の中で、「山は[[富士山|富士]]、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった<ref name="信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁" /><ref>[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、118頁]]</ref>。
== 火山・地勢 ==
[[ファイル:Mount Ontake from Nomugitoge ski resort 2008-04-25.jpg|サムネイル|240px|[[信州松本野麦峠スキー場]]から望む雲海に浮かぶ山頂部が広い御嶽山、右端が「日和田富士」と呼ばれる継子岳]]
御嶽山は[[日本の山一覧 (高さ順)|日本の山の標高順]]で14位の山であり、火山としては[[富士山]]に次いで2番目に標高が高い山である<ref group="注釈">3番目に標高が高い火山は[[乗鞍岳]](3,026m)、火山以外も含めた2番目に標高が高い山は[[北岳]](3,193m)である。なお、日本の活火山で3,000mを超えるのは、富士山・御嶽山・乗鞍岳の3つである。</ref>。剣ヶ峰を主峰にして、摩利支天山(2,959.2 m)、継子岳(2,858.9 m)、継母岳(2,867 m) などの[[カルデラ#外輪山|外輪山]]があり、南北約3.5 [[キロメートル|km]]の山頂部による[[台形]]の山容である。北端の継子岳は比較的新しい山体の成層火山で、北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな[[円錐]]形をしており、[[郷土富士]]として「日和田富士」とも呼ばれている<ref>[[#ふるさとの富士200名山|吉野 (1996)、52頁]]</ref>。なお、長野県側に[[寄生火山]]として三笠山(2,256 m)、小三笠山(2,029 m)がある。最高点の剣ヶ峰は長野県に位置し、王滝口登山道の外輪山との合流部が「王滝頂上」(標高点2,936 m)<ref>{{Cite web|和書|url=http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?crs=1&lon=137.4825056&lat=35.88869167&z=16#crs=1&lon=137.48251&lat=35.88869&z=16&zoom=16&layers=BTTT |title=地理院地図(王滝頂上) |publisher=国土地理院 |accessdate=2014-09-27}}</ref>、小坂口との合流部が「飛騨頂上」(標高2,811 m)である。[[火山灰]]の堆積した裾野は広く、長野県側の麓の傾斜地では濃い色の火山灰が耕地を覆っていて、高地の[[開田村|開田高原]]は[[蕎麦]]の産地として知られている<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />。岐阜県側の地形は長野県側と比較して複雑で、平坦地が少なく、尾根筋が屈曲している<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />。2007年(平成19年)[[5月10日]]に、日本の地質百選選定委員会により「[[日本の地質百選]]」の第1期選定(全国83箇所)の一つに選定された<ref>[[#日本列島ジオサイト地質百選|日本列島ジオサイト地質百選 (2007)、90-91頁]]</ref>。
{| class="wikitable"
!山容
!山名
![[標高]]<br>([[メートル|m]])<ref name="kokudo" /><ref name="kijyun" /><ref group="注釈" name="2014-03">基準点の標高は、国土地理院による2014年3月の改定値を反映。</ref>
![[三角点]]等級<br>基準点名<ref name="kijyun" />
!剣ヶ峰からの<br>方角と[[距離]]([[キロメートル|km]])
!所在地
|-
|[[ファイル:Mount Mamako from Mount Marishiten.jpg|80px|摩利支天山から望む継子岳、手前に五ノ池と五の池小屋、遠景の左側は乗鞍岳(2013年7月9日)]]
|'''継子岳'''
|2,859.<small>14</small>
|三等<br>「継子岳」
|{{Direction2|N}} 2.7
|高山市<br>木曽町
|-
|[[ファイル:Mount Marishiten and Sainokawara 2014-09-06.JPG|80px|南側から望む摩利支天山と賽ノ河原(2014年9月6日)]]
|'''摩利支天山'''
|2,959.<small>45</small>
|三等<br>「御岳」
|{{Direction2|NNW}} 1.4
|下呂市<br>木曽町
|- style="background-color:#ccc;"
|[[ファイル:Ontakesan from OtakiTop 2010-8-27.JPG|80px|王滝頂上から望む剣ヶ峰、山頂部に[[王滝御嶽神社]]頂上奥宮本宮と山小屋(2010年8月27日)]]
|'''[[剣ヶ峰]]'''<br><small>(最高点)</small>
|3,067
|(一等)<br>「御岳山」<br>(3,063.<small>61</small>m)
|{{Direction2|O}} 0
|木曽町<br>王滝村
|-
|[[ファイル:Mount Mamahaha from Mount Marishiten.jpg|80px|御嶽山の摩利支天山から望む継母岳、岐阜県下呂市にて、左奥に小秀山、右奥に白草山と箱岩山(2021年10月5日撮影)]]
|'''継母岳'''
|2,867
|
|{{Direction2|W}} 1.4
|下呂市<br>王滝村
|-
|[[ファイル:Mount Mikasa 2011-09-18.jpg|80px|三笠山、登山口の田ノ原には駐車場と田ノ原山荘、遠景は[[牧尾ダム]]の御岳湖(2011年9月18日)]]
|'''三笠山'''
|2,256.<small>1</small>
|三等<br>「三笠山」
|{{Direction2|SE}} 3.2
|王滝村
|}
[[ファイル:Ontakesan from Okunoin 1995-6-25.jpg|サムネイル|王滝頂上方面から望む御嶽山<br>1995年6月25日の噴煙の状況]]
[[ファイル:Mount Ontake from Otaki top 2011-09-18.jpg|サムネイル|王滝頂上方面から望む御嶽山<br>2011年9月18日の噴煙の状況]]
[[ファイル:Jigokudani in Mount Ontake.jpg|サムネイル|135px|御嶽山の南面の木曽川水系王滝川の支流である赤川最上流部の地獄谷の火山ガスを噴出する噴気孔<br>2011年9月18日の噴煙の状況]]
=== 火山活動 ===
御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による[[東日本火山帯|乗鞍火山帯]]の最南部)に位置し、古生層と[[中生代]]の濃飛[[流紋岩]]類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mの[[カンラン石]]、複輝石、[[安山岩]]などで構成される成層火山である<ref name="徳久 (1992)、116頁" /><ref name="地質ニュースv306" /><ref name="砂防と治水・第199巻">{{Cite journal |date=2011-03-20 |author=山岡耕春 |url=https://www.mlit.go.jp/common/001017612.pdf |title=日本の活火山(12) 御嶽山 |format=PDF |journal=『砂防と治水』 |issue=第199巻 |pages=109-110 |publisher=国土交通省 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。各方向に[[溶岩流]]を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁[[巌立]]がある<ref name="ganndate">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/tennen/ganndate.html |title=巌立 |publisher=岐阜県[[教育委員会]]社会教育文化課 |date=1957-12-19 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ[[外輪山]]の内側が[[カルデラ]]であると推測され、カルデラ形成前の姿は、[[富士山]]に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は[[土石流]]となって川を流れ下った岐阜県[[各務原市]]付近の[[各務原台地]]には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた[[火山灰]][[堆積物]]が[[地層]]となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された[[火山#地形による分類|複成火山]]であり、その山容は[[アフリカ]]の[[キリマンジャロ|キリマンジャロ山]]に似ている<ref name="日本の名山 161-165頁">[[#日本の名山|串田 (1998)、161-165頁]]</ref><ref name="深田クラブ (1987)、166頁">[[#日本200名山|深田クラブ (1987)、166頁]]</ref>。
1970年代以前の認識では、最後の[[マグマ]]噴火は約2万年前で以降は[[水蒸気爆発]]と考えられていたが、[[2006年]](平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた[[国土交通省]]多治見砂防国道事務所や[[産業技術総合研究所]](産総研)の調査によれば、約5200年前の[[火砕流]]を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている<ref name="砂防と治水・第199巻" /><ref name="kazanyochiren103">{{Cite web|和書|url=https://vivaweb2.bosai.go.jp/v-hazard/sabo/53ontake_sabo.pdf |title=御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会 |publisher=御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画検討会 |format=PDF |date=2011-07 |accessdate=2013-02-15}}</ref><ref>{{Cite news
|url=http://www.shinmai.co.jp/news/20091006/KT091005SJI090014000022.htm |title=御岳山、マグマ噴火は1万年で計4回 減災対策見直しも|publisher=『信濃毎日新聞』 |date=2009-10-06 |accessdate=2009-10-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091009040144/http://www.shinmai.co.jp:80/news/20091006/KT091005SJI090014000022.htm |archivedate=2009-10-09}}</ref>。『[[信濃毎日新聞]]』の[[2007年]](平成19年)[[4月30日]]の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市[[小坂町 (岐阜県)|小坂町]]内において、約5200 - 6000年前の火砕流が[[堆積]]してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は[[水蒸気爆発]]と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、[[ハザードマップ]]など防災に関する見直しが行われた。
1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている<ref name="kazan" /><ref name="及川輝樹" />。2014年現在、気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/CCPVE/hyoka/hyoka_houkoku.pdf |format=PDF |title=中長期的な噴火の可能性の評価について |publisher=[[火山噴火予知連絡会]]火山活動評価検討会 |pages=7 |date=2009-06 |accessdate=2013-02-12}}</ref>、山頂周辺には火山活動の観測のための[[地震計]]、空振計、[[傾斜計]]、火山ガス検知器、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]観測装置、[[監視カメラ]]などの[[観測装置|観測機器]]が設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/data/ontake_kazan05.pdf |format=PDF |title=御嶽山火山防災だよりvol.5 |publisher=国土交通省[[中部地方整備局]]多治見砂防国道事務所 |date=2011-02 |accessdate=2011-03-24}}</ref><ref name="御岳山霊なる山の素顔 58頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、58頁]]</ref>。2001年から[[名古屋大学]]大学院環境学研究科が、「岐阜・長野両県における火山噴火警戒避難対策事業」として噴火の前兆現象を観測する地震計による御岳火山災害観測を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://ngypub.seis.nagoya-u.ac.jp/INTRO/report/jishinyochiren/167_1.pdf |title=御嶽山近傍における地震活動の推移 |publisher=名古屋大学大学院環境学研究科 |format=PDF |date=2006-02-28 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。1979年の水蒸気爆発の6ヶ月前に三ノ池が白濁して池の中から泡が噴き出す音が発生した現象と、6時間前の火口直下での地震は、その[[噴火予知#噴火の前兆|前兆現象]]であったと見られている<ref name="ontake_kazan04">{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/data/ontake_kazan04.pdf |title=御嶽山火山防災だよりvol.4 |publisher=国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所 |date=2010-12 |accessdate=2013-02-15}}</ref>。[[2011年]](平成23年)7月27日に「御嶽山火山噴火緊急[[減災]]対策[[砂防]]計画検討会」が開催され、御嶽山火山噴火緊急減災対策砂防計画が策定された<ref name="kazanyochiren103" />。王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から[[硫化水素]]などの火山ガスを噴出し続けていて<ref name="Ontakesan kazan" />、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがある。
==== 活火山の定義を見直すきっかけとなった有史以来の水蒸気爆発 ====
1979年(昭和54年)の水蒸気爆発以前において、御嶽山は火山学者の多くと一般大衆から死火山と認識されていた。実際、当該爆発を伝える新聞見出しも「'''死火山大爆発'''」などと報道された<ref>[https://doi.org/10.5026/jgeography.89.4_247 諏訪彰:1965〜79年の本邦火山活動と観測・研究の発展]『地学雑誌』Vol.89 (1980) No.4 P247-255</ref>。しかしそれ以前にも、19世紀前半の文献には実際に噴気活動の証拠を示す現象が記録されており<ref name="及川輝樹" />、気象庁も、[[1968年]](昭和43年)刊行の『火山観測指針』において御嶽山を「御岳山」として63座の活火山の一つとしているほか、噴火前の[[1975年]](昭和50年)刊行の『日本活火山要覧』の77活火山にも包含されていた<ref>{{PDFlink|[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/books/kenshin/vol71p043.pdf 活火山カタログの改訂と火山活動度による活火山の分類(ランク分け)について]}} 林豊・宇平幸一 験震時報71巻 pp.43-57</ref>。
1979年当時は、定常的な観測体制が整備されていなかったため明確な前兆現象が観測されず、また活動自体も山麓から噴気が観察できる規模ではないまま同年10月28日に水蒸気爆発を起こし、約1,000 mの高さにまで噴煙を噴出した<ref name="kazan">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/312_Ontakesan/312_history.html |title=御嶽山 記録に残る火山活動 |publisher=気象庁 |date=2007-06-21 |accessdate=2011-03-24}}</ref><ref name="気象研究所研究報告12">{{Cite journal |date=1984 |url=https://www.mri-jma.go.jp/Publish/Technical/DATA/VOL_12/12_172.pdf |title=御岳山の1979年噴火による降灰分布と川水のpH分布 |format=PDF |journal=『気象研究所研究報告』 |issue=第12号 |pages=172-178 |publisher=[[気象研究所]] |accessdate=2011-03-24}}</ref>。同日5時頃に発生した噴火は14時に最大となり、その後衰退した。噴出物の総量は約二十数万トン。噴煙は北東方向に流れ、長野県[[軽井沢町]]や群馬県[[前橋市]]にまで降灰が観測された<ref name="地質ニュースv306" /><ref name="Ontakesan kazan">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/312_Ontakesan/312_index.html |title=火山・御嶽山 |publisher=気象庁 |accessdate=2013-02-12}}</ref><ref name="気象研究所研究報告12" /><ref>[[#中部・近畿・中国の火山|全国地質調査業協会連合会 (2000)、59頁]]</ref>。
この噴火をきっかけとして、日本国内における火山の分類(死火山、休火山、活火山の定義)そのものが見直されるに至った<ref name="地質ニュースv306" /><ref name="及川輝樹" />。現在では「活火山」以外の用語は使用されない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/katsukazan_toha/katsukazan_toha.html |title=活火山とは |publisher=気象庁 |accessdate=2013-02-15 }}</ref>。
==== 火山史 ====
[[ファイル:Kuragoekogen Mount Ontake.JPG|サムネイル|御嶽山の東山腹にある倉越高原]]
[[ファイル:Gandate.jpg|サムネイル|御嶽山の西山腹にある[[巌立]]の[[柱状節理]]]]
御嶽火山の活動史は休止期を挟み古期と新期の2つの活動期<ref name="geosoc.110.158">{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/common/000109851.pdf |format=PDF |title=1:25,000火山土地条件図解説書(御嶽山地区)|date=2012-03 |publisher=国土地理院 |accessdate=2016-11-17 }}</ref><ref name="Takeshita">{{Cite journal |date=2004 |url=https://doi.org/10.5575/geosoc.110.158 |doi=10.5575/geosoc.110.158 |title=中部日本,中期更新世古期御岳火山の火山活動史—テフラ層序学と記載岩石学に基づいて— |author=[[竹下欣宏]] |accessdate=2017-12-25 |journal=地質学雑誌 |volume=110 |issue=3 |pages=158-174}}</ref>と新期以降から現在までの静穏期の3つに分けられる<ref name="地質ニュースv306" />。なお、各々の始まりと終わりの年代に関しては研究者により5万年程度の差違がある。また、最後のマグマ噴火は三ノ池を埋めた五ノ池の[[スコリア]]噴火と考えられているが噴火年代は不明である<ref>{{Cite web|和書|title=火山別噴火履歴表示|url=https://gbank.gsj.jp/volcano/cgi-bin/volcanic.cgi?id=051|website=gbank.gsj.jp|accessdate=2020-05-20}}</ref>。
; 古期御嶽火山(78万年前以前から39万年前)
古期御嶽火山は現在と同じ位置に噴火口を有する中心火山により形成された、標高3,200-3,400 mほどの[[玄武岩]]、[[安山岩]]、[[デイサイト]]により構成される[[複成火山]]群<ref>[https://staff.aist.go.jp/nakano.shun/Jap/Ontake/history.html 御嶽火山の概略] 産総研 中野俊</ref>。古期御岳火山は、溶岩層の年代値と岩石学的特徴から、約78万年前以前から64万年前の降下[[テフラ]]が卓越するステージと、約64万年前から39万年前の溶岩流が卓越するステージに大きく区分される<ref>{{Cite journal |date=1998 |url=https://doi.org/10.15080/agcjchikyukagaku.52.6_464 |doi=10.15080/agcjchikyukagaku.52.6_464 |title=K-Ar chronology of the Middle Pleistocene lavas at Ontake volcano, central Japan |author=Kiota et al. |accessdate=2017-12-26 |journal=Earth Science |volume=52 |issue=6 |pages=464-474}}</ref>。降下テフラが卓越するステージは更に3つのサブステージに細分される<ref name="Takeshita"/>。また、溶岩層の年代値と分布から4つの火山体が推定されている<ref>{{Cite journal |date=1999 |url=https://doi.org/10.18940/kazan.44.1_1 |doi=10.18940/kazan.44.1_1 |title=御嶽火山, 古期御嶽火山噴出物のK-Ar年代に基づく火山活動史の再検討 |author1=[[松本哲一]] |author2=[[小林武彦]] |accessdate=2017-12-25 |journal=火山 |volume=44 |issue=1 |pages=1-12}}</ref>。広域テフラとして、湯川テフラ5と、上浦沢テフラがそれぞれ、[[上総層群]]中の白尾テフラ(約77万年前<ref name="Suganuma">{{Cite journal |date=2015 |url=https://pubs.geoscienceworld.org/gsa/geology/article-abstract/43/6/491/131868/age-of-matuyama-brunhes-boundary-constrained-by-u?redirectedFrom=fulltext |doi=10.1130/G36625.1 |title=Age of Matuyama-Brunhes boundary constrained by U-Pb zircon dating of a widespread tephra |author=Suganuma et al. |accessdate=2017-12-25 |journal=Geology |volume=43 |issue=6 |pages=491-494}}</ref>)と、笠森12テフラ(60-58万年前)に対比される<ref>{{Cite journal |date=2014 |url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201402296237202641 |doi= |title=上総層群白尾テフラと古期御岳テフラYUT5の対比とYUT5のLA‐ICP‐MS法によるFT年代およびU‐Pb年代 |author=[[加藤茂弘]]ほか |accessdate=2017-12-26 |journal=『日本第四紀学会講演要旨集』 |volume=44 |issue= |pages=38}}</ref><ref>{{Cite journal |date=2005 |url=https://doi.org/10.5575/geosoc.111.417 |doi=10.5575/geosoc.111.417 |title=古期御岳火山起源の中期更新世テフラと房総半島上総層群中のテフラとの対比 |author1=竹下欣宏 |author2=[[三宅康幸]] |author3=[[酒井潤一]] |accessdate=2017-12-25 |journal=『地質学雑誌』 |volume=111 |issue=7 |pages=417-433}}</ref>。このうち、白尾テフラは[[松山‐ブリュンヌ逆転]]の直下に存在し、[[地磁気逆転]]の年代を高精度で決定するのに役立ち<ref name="Suganuma"/>、[[チバニアン]] という[[地質時代区分表 (詳細)|地質時代]]の命名に大きく貢献した。
* 78万年前から65万年前 - 東部火山群
* 68万年前から57万年前 - 土浦沢火山
** 64万年前 - 東山腹に倉越溶岩を噴出した。周りの地層が浸食されて、堅い溶岩がレリーフ状に残り現在の倉越高原を形成。
* 54万年前から52万年前 - 上俵山火山
* 44万年前から42万年前 - 三笠山火山
** 東山腹に安山岩質溶岩の三笠山溶岩を噴出。
; 休止期(約39万年前から10万年前)
約10万年前まで約30万年の活動休止期間が続く。山体は[[浸食]]を受けて深い谷と和村泥流を形成。
; 新期御嶽火山(約10万年前から2万年前)
活動域からは摩利支天火山群と西側の継母岳火山群に分類される<ref name="ontakesan-jyoukenzu">{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/gensai/ontakesan-jyoukenzu.jpg |title=火山土地条件図(御嶽山 1:25,000) |publisher=国土地理院 |format=[[JPEG]] |accessdate=2013-02-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://staff.aist.go.jp/nakano.shun/Jap/Ontake/history2.html |title=新期御嶽火山 |publisher=産総研 中野俊 |accessdate=2013-02-15 }}</ref>。
* 継母岳火山群 - 約9万年前の爆発的な噴火により、御嶽第1軽石層や塩尻軽石層、Pm-Iテフラを噴出し、広域テフラを[[関東地方]]まで降らせた<ref>{{Cite journal |date=1967 |url=https://doi.org/10.5575/geosoc.73.291 |doi=10.5575/geosoc.73.291 |title=御嶽火山第一浮石層:御嶽火山第一浮石層の研究 その1 |author=[[小林国夫]]ほか |accessdate=2017-12-25 |journal=『地質学雑誌』 |volume=73 |issue=6 |pages=291-308}}</ref>。この活動は、[[プリニー式噴火]]で古期御嶽火山の中央部に直径5-6kmのカルデラ形成する活動であり、[[流紋岩]]からデイサイトのシン谷溶岩層、湯ノ谷溶岩層、濁滝火砕流堆積物、三浦山溶岩層などを形成。総見かけ噴出量 50 km<sup>3</sup>(30 km<sup>3</sup> DRE)。
* 摩利支天火山群 - カルデラが形成された後の約8万年前から約2万年前の活動では摩利支天火山群の濁河火山、金剛堂火山、奥の院火山、草木谷火山、継子岳火山、およびほぼ南北方向に並ぶ小火山群として四ノ池火山、一ノ池火山、三ノ池火山などの火口から安山岩質の溶岩・火砕物などを噴出<ref name="ontake_kazan11">{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/data/ontake_kazan11.pdf |format=PDF |title=御嶽山火山防災だよりvol.11 |publisher=国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所 |date=2012-03 |accessdate=2013-02-15}}</ref>。噴出量は四ノ池火口由来が最大で、一ノ池火口と二ノ池火口は山頂の小カルデラ内に形成された。また、現在の御嶽山の最高点の剣ヶ峰の火口丘と南北に並ぶ山頂群が形成された。
* 約6万年前 - 摩利支天溶岩を噴出した。摩利支天第6溶岩が濁河川の支流の大俣川に沿って流下して形成された[[柱状節理]]である「[[巌立]]」(所在地が下呂市[[小坂町 (岐阜県)|小坂町]]落合中サキ平)は、[[1957年]](昭和32年)に岐阜県の[[天然記念物]]の指定を受けている<ref name="ganndate" />。
* 約5万年前 - 大規模な山体崩壊を起こし崩壊した土砂は東山麓の西野川から王滝川、木曽川流域を埋め約200km下流の愛知県[[犬山市]]にもその泥流の堆積物が残された。
;約2万年前から現在までの静穏期
2000年代以前は、約2万年前からはマグマを噴出しない活動が主体で静穏な期間と考えられていたが、近年の研究では最近1万年間で4回のマグマ噴火と10数回の水蒸気爆発が起きたと考えられているほか、東山腹で山腹[[割れ目噴火]]も生じている<ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2009/program/session/pdf/J237/J237-005.pdf 鈴木雄介、千葉達朗、岸本 博志、ほか(2009):御嶽山の新期活動に関する新知見- マグマ噴火を中心として]}} 『[[日本地球惑星科学連合]]2009年大会予稿集』 セッションJ237</ref>。
* 約1万年前 - カラ谷火砕流で1740万 [[立方メートル|m<sup>3</sup>]]の[[軽石]]を中規模に降下した<ref name="kazanyochiren103" /><ref name="ontake_kazan07">{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/data/ontake_kazan07.pdf |title=御嶽山火山防災だよりvol.7 |publisher=国土交通省 中部地方整備局 多治見砂防国道事 |date=2011-08 |accessdate=2013-02-15 }}</ref>。
* 約9,000年前 - 三ノ池溶岩で5億 m<sup>3</sup>の大規模な噴出をした<ref name="kazanyochiren103" /><ref name="ontake_kazan11" />。
* 約6,000年前 - 五ノ池火口が形成された<ref name="ontake_kazan07" />。
* 約5,200年前 - 女人堂スコリアで140万 m<sup>3</sup>の小規模な噴出をした<ref name="kazanyochiren103" />。
* 約5,000年前 - 濁滝スコリアで35-75万 m<sup>3</sup>の小規模な噴出をした<ref name="kazanyochiren103" />。
; 有史以降
[[ファイル:Mount Ontake from Kurakake Pass.JPG|サムネイル|[[2014年の御嶽山噴火]]後の火山活動(2014年10月11日)]]
『御嶽山 地質と噴火の記録』千村出版によれば、[[774年]]と[[1892年]]に噴火活動があったとされているが、後の研究によりこの2回の噴火は発生していなかったことが明らかとなっている<ref name="及川輝樹">{{Cite journal |date=2008 |author=及川輝樹 |url=http://www.gsj.jp/data/bulletin/59_05_01.pdf |title=御岳火山の歴史噴火記録の再検討と噴気活動の歴史記録 存在しなかった774,1892年噴火|format=PDF |journal=『地質調査報告』 |issue=第59巻、第5/6号 |pages=203-210 |publisher=[[気象研究所]] |accessdate=2011-03-24}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2009/program/session/pdf/J237/J237-006.pdf 及川輝樹、奥野充:御嶽火山の最近の火山活動史]}} 『日本地球惑星科学連合2009年大会予稿集』 セッションJ237</ref>。有史以降最も活発な活動は1979年に始まった。
* 19世紀前半 小規模な噴気活動を示す記録が残る。
* 1968年 気象庁「火山観測指針」 の63活火山に掲載。
* 1975年 気象庁「日本活火山要覧」 の77活火山に掲載。
* 1979年(昭和54年)<br>地獄谷上部の標高2,700 m付近を西端とし東南東に並ぶ10個の火口群が形成され<ref name="地質ニュースv306" /><ref name="kazan" />、噴出量は18万トンから20数万トンほどの小規模な噴出量であった<ref name="kazanyochiren103" /><ref name="kobayashi1980">[https://doi.org/10.15080/agcjchikyukagaku.33.6_ii 小林武彦:1979年御岳山火山活動] 地学団体研究会『地球科學』33(6), ii-iib, 1979-11-25, {{doi|10.15080/agcjchikyukagaku.33.6_ii}} , {{naid|110007091618}}</ref>。最大降灰深度は溫田原で 3cmと報じられた<ref>{{PDFlink|[http://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_natural_disaster/pdf/16/16.pdf 1979年御岳山噴火による災害現地調査報告] }}1980/3 国立防災科学技術センター(現:防災科学技術研究所)</ref>。なお、噴出当初の火山灰は湿り気を帯び[[ハロイサイト]]、[[カオリナイト]]、[[モンモリロン石]]などを主成分とする 2 - 3mmkの粒状であった。また、モンモリロン石を含むことから山頂地表下の浅い場所に[[泥漿]]溜まりが存在し、その泥漿溜まりが深いところからの高温ガスによって熱せられ爆裂的に噴出したと考えられている<ref>小坂丈予ほか(1983)、[https://doi.org/10.18940/kazanc.28.1_59 木曾御岳火山 1979 年噴火後の活動状況と地球化学的研究] 日本火山学会 火山. 第2集 28(1), 59-74, 1983-04-01, {{doi|10.18940/kazanc.28.1_59}}, {{naid|110002990816}}</ref><ref>[https://doi.org/10.2465/gkk1952.15.Special_223 小坂丈予、平林順一:火山活動に伴う粘土鉱物] 『鉱物学雜誌』 1981年 15巻 Special号 p.223-238, {{doi|10.2465/gkk1952.15.Special_223}}</ref>。約50名の登山者がいたが負傷1名<ref name="地質ニュースv306" />。
** 4月頃から三ノ池の水の白濁化<ref name="ontake_kazan04" />。
** 10月28日
*** 噴火の6時間前頃から、山頂直下の地震増加<ref name="ontake_kazan04" />。
*** 5時頃 - 水蒸気爆発が起こり、王滝村役場の職員が頂上付近で高さ150 mの噴煙を確認した<ref name="地質ニュースv306" /><ref name="気象研究所研究報告12" />。
*** 5時15分頃 - 王滝頂上から山頂へ向かった登山者が[[硫黄]]臭に気付き、15分後に降灰を受けた<ref name="地質ニュースv306" />。
*** 6時頃 - 王滝口7合目の登山口(田の原)で登山者、頂上付近で黒煙が上昇するのを目撃し、頂上にいた登山者は[[ジェット機]]に似た音やかなりの煙に気付いた<ref name="地質ニュースv306" />。
*** 9時頃 - [[三岳村 (長野県)|三岳村]]から白煙が1箇所から上昇しているのが確認され、田の原では白煙が茶色に変わるのが確認された。
*** 9時30分 - [[飛行機]]から山頂の山小屋が黒い火山灰に覆われて、高さ1,000 mの噴煙が東北東に流れているのが確認された。
*** 11時 - 定期航空便が高さ1,800 mの噴煙と下部で灰色の火山灰が上がっているのを目撃し、三岳村では降灰のため暗くなった。
*** 12時 - [[長野地方気象台]]、臨時火山情報第1号発表。
*** 12時30分頃 - [[キノコ雲]]状の噴煙が確認された。八合目付近まで噴石が飛ぶ。噴火口付近では、直径1 m程の岩が飛ぶのが確認された。噴煙は、4000mから5000mまで。
*** 15時頃 - 三岳村では降灰が盛ん。[[開田村]]では降灰により視界が10-20 m程となり、道路照明自動点灯。
*** 16時頃 - 開田村での降灰徐々に弱まる。
*** 17時頃 - 王滝村から多量の黒い煙が確認され、王滝頂上の山小屋の裏の方では白い噴煙が確認された。王滝口村では多量の降灰が続いていた。
*** 18:45 - 長野地方気象台、臨時火山情報第2号発表。
** 10月29日 - 噴煙の量は減少して白色に変わり、火山灰の降灰も少なくなった<ref name="地質ニュースv306" /><ref name="気象研究所研究報告12" />。
** 10月31日 - 噴煙には火山灰が含まれなくなった。
[[image:Ontake_volcanic_earthquake2007.png|サムネイル|御嶽山 火山性地震回数推移グラフ 2006-2007]]
** 11月4日 - 白色噴煙 100m、活動小康状態続く。
** 12月2日 - 深夜から山頂付近で微小地震と鳴動を観測。微小地震は数日間続く。
** 12月末 - 噴煙極めて少量。
* [[1984年]] 気象庁『日本活火山総覧』の77活火山に掲載。
** 9月14日 [[長野県西部地震]]
* [[1991年]](平成3年)5月中旬 - 79-7火口でごく小規模な噴火が起きて、10トン程度の火山灰を噴出した<ref name="kazan" />。約1ヶ月前から火山性地震<ref>[https://doi.org/10.18940/vsj.1991.2.0_168 木曽御岳火山における小規模な噴火(1991年 5月)]『日本火山学会講演予稿集』1991(2), 168, 1991-10-14, {{naid|110003000057}} , {{doi|10.18940/vsj.1991.2.0_168}}</ref>。79火口群の一部の八丁ダルミ直下南と山頂直下南面の地獄谷の上部の噴気孔から噴気活動が続いている。粉体流(火砕流)が発生していたとする報告がある<ref name="kobayashi1980" />。
* 2004年 微弱な地震と噴気活動<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seis.nagoya-u.ac.jp/kimata/2004ontake.html |title=2004年御嶽火山集中観測の成果とこれまでの研究成果 |publisher=名古屋大学 環境学研究科 地震火山・防災研究センター |accessdate=2014-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141017133908/http://www.seis.nagoya-u.ac.jp/kimata/2004ontake.html |archivedate=2014-10-17 }}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)3月16日頃<ref>山岡耕春:{{PDFlink|[http://jsnds.sakura.ne.jp/ssk/ssk_33_4_339.pdf 2014年御嶽山噴火] 日本自然災害学会 自然災害科学112 Vol.33,No.4}}</ref> - 79-7火口でごく小規模な噴火が起きた<ref>{{PDFlink|[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/tokyo/07m03/312_07m03.pdf 御嶽山 火山活動解説資料(平成19年3月)]}} 気象庁</ref><ref name="kazan" />。約4ヶ月前から火山性地震と山体膨張、約2ヶ月前から低周波地震と火山性微動<ref name="ontake_kazan04" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seis.nagoya-u.ac.jp/kimata/ontake2007.htm |title=2007年御岳山の活動 |publisher=名古屋大学 環境学研究科 地震火山・防災研究センター 木股文昭 |accessdate=2014-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141017133651/http://www.seis.nagoya-u.ac.jp/kimata/ontake2007.htm |archivedate=2014-10-17 }}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)3月31日 - 気象庁は、[[噴火警戒レベル]]の導入に伴い、噴火予報(噴火警戒レベル1、平常)を発表した<ref name="御嶽山の火山活動解説資料" />。
* [[2014年]](平成26年)
** 8月末より火山性地震を観測。
** 9月27日 - 11時52分に噴火<ref name="jma20140928">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/tokyo/14m09/20140928_312.pdf|title=御嶽山の火山活動解説資料|publisher=気象庁地震火山部 火山監視・情報センター|format=PDF|date=2014-09-28|accessdate=2014-09-30}}</ref>。
{{Main2|2014年の噴火の推移|2014年の御嶽山噴火}}
=== 長野県西部地震による大規模崩壊 ===
[[ファイル:Land slide on Mount Ontake - cropped.jpg|サムネイル|田の原の駐車場から望む御岳崩れと呼ばれる山体崩壊した最上部(2010年8月撮影)]]
[[1984年]](昭和59年)9月14日8時48分49秒に南山麓で発生した[[長野県西部地震]]([[マグニチュード|M]]6.8)により、御嶽山南斜面で大規模な[[山体崩壊]]が発生した<ref name="砂防と治水・第199巻" />。地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達した<ref name="砂防と治水・第199巻" /><ref name="ontakesan-jyoukenzu" /><ref name="日本登山図集 (1986)、54-57頁">[[#日本登山図集|日本登山図集 (1986)、54-57頁]]</ref>。平均80-100 [[キロメートル毎時|km/h]]、延長距離約3 kmで、「御岳崩れ」と呼ばれることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/data/ontake_kazan09.pdf |format=PDF |title=御嶽山火山防災だよりvol.9 |publisher=国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所 |date=2011-10 |accessdate=2013-02-15}}</ref>。[[濁川温泉 (長野県)|濁川温泉]]、住宅、[[営林署]]の建物を流失させ、15人が犠牲となった<ref name="砂防と治水・第199巻" />。
=== 5つの火口湖 ===
{{Commonscat|Pond of Ontake|御嶽山の池}}
{{座標一覧}}
[[1929年]](昭和4年)に[[京都大学|、京都大学]][[地理学者]]の[[田中阿歌麿]]が[[湖沼]]の調査を行った<ref name="日本の名山 246頁">[[#日本の名山|串田 (1998)、246頁]]</ref><ref name="生駒 (1988)、272頁" />。御嶽山には、5つの[[湖沼#その他の水質による分類|火口湖]]があり、一ノ池から五ノ池の名前が付けられている。常に水をたたえているのは、[[エメラルド]]色の二ノ池と三ノ池である。二ノ池は日本で最も高いところ (2,905 m) にある[[トレイ|お盆]]形状の水深3.5 mの[[湖沼]]で<ref name="山と溪谷社 (1992)、350-351頁" />、集水面積は湖面の数倍あり、[[ミクリガ池]]などの飛騨山脈の火口湖と比べて水位の日変化が40 [[センチメートル|cm]]程と大きいのが特徴である<ref name="日本の名山 161-165頁" />。昼夜の気温差による雪解け量の差がその原因である。夏でも[[雪渓]]が残り、北西斜面の雪渓の雪解け水・天水・[[伏流水]]を集め、水位が極端に上昇した場合には、東端にあるニノ池小屋付近から北東に排水される。1979年の噴火活動の際に、ニノ池に大量の硫黄が流れ込み池の水は[[酸性]]度が強くなった。周辺の山小屋ではこの湖水をポンプで送水して宿泊者のためのお風呂の水に利用していた時期もある<ref name="tv-tokyo">{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/sat/backnumber/110903.html |title=天空の宿へ 〜にっぽん山小屋物語〜 |publisher=[[テレビ東京]]・[[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]] |date=2011-09-03 |accessdate=2011-10-05}}</ref>。三ノ池は御嶽山で最大の池で<ref name="島田 (2009)、79-81頁">[[#岐阜県の山|島田 (2009)、79-81頁]]</ref>、湖盆の平均斜度14.4度、水深が13.3 m、8月初旬の平均水温が表面で9.7 [[セルシウス度|{{℃}}]]低層で9.5 {{℃}}である<ref name="日本の名山 161-165頁" />。三ノ池畔には[[荒神]]と白龍王初春姫大神などの神々が祀られていて<ref name="菅原 (2009)、97頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、97頁]]</ref>、三ノ池の湖水は信者の御神水(ごしんすい)とされている<ref name="垣外 (1998)、88-89頁">[[#長野県の山|垣外 (1998)、88-89頁]]</ref><ref name="tisana tabi">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kotabi/archive/2010/20100828.html |title=山の歌 祈りの峰 いまも 〜御嶽山〜 |publisher=[[日本放送協会|NHK]][[小さな旅]] |date=2010-08-28 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。王滝村御嶽神社里宮御神水とともに「信州の名水・秘水」の一つに選定されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.nagano.lg.jp/mizutaiki/kurashi/shizen/mizukankyo/kankyo/mesui.html |title=信州の名水・秘水一覧 |publisher=長野県環境部 |date=2013-08-27 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。四ノ池は[[湿原|高層湿原]]となっていて、小川が流れており、[[高山植物]]の群生地となっている。なお、二ノ池北西の斜面の下、賽の河原との間に小さな窪地があり、多雨期には水がたまる。これを六ノ池と呼ぶことがある。賽の河原の西端、シン谷へ落ち込むところに日本最高所の[[滝]] (2,800 m) がある。この谷は兵衛谷となり濁河川と合流して小坂川となって、[[飛騨川]]に注いでいる<ref group="注釈">よく、四ノ池から落ちる滝が日本最高所の滝と言われているが、四ノ池の標高は2,690 mであるため誤りである</ref>。三ノ池のみにオンダケ[[トビケラ]](学名:''Pseudostenophylax'' sp.)の幼虫が生息する<ref name="日本の名山 161-165頁" />。
{| class="wikitable"
!画像
!名称
!標高<br>(m)
!水深<ref name="日本の名山 161-165頁" /><br>(m)
!備考
!座標
|-
|[[ファイル:Ichinoike Ontake 2020-09-28.jpg|80px|山頂の剣ヶ峰から望む一ノ池とその外輪山(2020年9月28日撮影)]]
|'''一ノ池'''
|2,990
|
|涸れていることが多い
|({{Coord|35|53|42.9|N|137|28|42.4|E|region:JP-20|name=一ノ池}})
|-
|[[ファイル:Ninoike (Mount Ontake 2021-10-05).jpg|80px|御嶽山の山頂(剣ヶ峰)から望む二ノ池、2014年の御嶽山の噴火に伴い、多くの範囲に火山灰が堆積(2021年10月5日撮影)]]
|'''二ノ池'''
|2,905
|style="text-align:right"|3.5
|日本の最高所の湖沼<br>北東岸にニノ池小屋
|({{Coord|35|53|51.4|N|137|28|52.0|E|region:JP-20|name=ニノ池}})
|-
|[[ファイル:Sannoike (Mount Ontake).JPG|80px|摩利支天山方面から望む三ノ池(2014年9月6日)]]
|'''三ノ池'''
|2,720
|style="text-align:right"|13.3
|湖岸線の延長が705 m<br>湖盆平均斜度14.4度
|({{Coord|35|54|27.1|N|137|29|11.3|E|region:JP-20|name=三ノ池}})
|-
|[[ファイル:Yonnoike and Mount Mamako.jpg|80px|三ノ池方面から望む四ノ池と継子岳(2013年7月9日)]]
|'''四ノ池'''
|2,690
|
|高層湿原から東に[[沢]]が流れる
|({{Coord|35|54|41.8|N|137|29|14.8|E|region:JP-20|name=四ノ池}})
|-
|[[ファイル:Mount Ontake Gonoike 2014-09-06.JPG|80px|摩利支天山から望む五ノ池と五の池小屋(2014年9月6日)]]
|'''五ノ池'''
|2,790
|
|残雪期と降水後に水がある<br>池の北側に[[五の池小屋]]
|({{Coord|35|54|32.5|N|137|29|1.3|E|region:JP-21|name=五ノ池}})
|}
=== 滝が非常に多い山 ===
「御嶽山は滝の山である」と言われるほど、御嶽山を源とする河川には滝が多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kankou-kiso.com/miru/takimeguri.html |title=御嶽山に登ろう・滝めぐりコース |publisher=木曽町観光協会 |accessdate=2011-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304211757/http://www.kankou-kiso.com/miru/takimeguri.html |archivedate=2016-03-04 }}</ref>。地形が急峻で高低差が大きいこと、独立峰で山体が大きいこと、[[降水量]]が多いこと、豊かな[[森林]]を育んでいて水が涸れることがないことなどがその成因となっている。人が近づきにくいところにあるものが多いが、黒沢口から油木尾根の遊歩道沿いにある百間滝(西野川の支流の南俣川)、開田高原の尾ノ島滝、王滝口の滝・清滝、[[濁河温泉]]付近の仙人滝・緋の滝、[[日本の滝百選]]に選ばれた[[根尾の滝]]など、比較的簡単に目にすることができる滝もいくつかある。新滝と清滝は御嶽教の行場で、新滝には[[洞窟]]がありここに籠って[[断食]]を行い滝に打たれる行場となっている<ref name="菅原 (2009)、97頁" />。冬に新滝(落差約30 m)と清滝は氷柱となる<ref>{{Cite news |title=厳冬氷の芸術 長野県王滝村の新滝 |page=1 | date=2013-02-20 |newspaper=[[中日新聞]] |location=[[愛知県]][[名古屋市]]}}</ref>。黒沢口四合目の霊神場周辺には、日ノ出滝、明栄滝、大祓滝、松尾滝などがあり[[不動明王]]などの神霊が祀られた行場となっている<ref name="菅原 (2009)、107-108頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、107-108頁]]</ref>。下呂市[[小坂町 (岐阜県)|小坂町]]には落差5 m以上の滝が200以上あり<ref name="ontake_kazan04" />、多数の小坂の滝めぐりコースが紹介されている<ref name="osaka-taki">{{Cite web|和書|url=http://www.osaka-taki.com/about/index.html |title=小坂の滝めぐり |publisher=小坂の滝めぐり |accessdate=2013-02-15}}</ref>。
=== 御嶽山は飛騨山脈に含まれるのか ===
[[ファイル:Mount Ontake from Mount Norikura.jpg|サムネイル|[[飛騨山脈]]南部の[[乗鞍岳]]から望む御嶽山]]
御嶽山は北アルプス([[飛騨山脈]])の延長線上にあり、北アルプスに含めるという説もあるが、北側の[[乗鞍岳]]との間には稜線らしき峰々はほとんどないため、一般的には御嶽山は飛騨山脈には含まれないというのが定説である(ただし、旧乗鞍火山帯には含まれる)。しかし、間を横切る河川は1本もないのも事実であり、明確な結論は出ていない。著名登山家でも意見は分かれている。なお、ガイドブック等で[[日本アルプス]]を3つに分けて紹介する場合、[[木曽山脈|中央アルプス]]の山数が少ないので御嶽山を中央アルプスと合わせて掲載されるケースが多々ある<ref>[[#中央アルプス 御嶽山・白山|津野 (2009)]]</ref>。このため、御嶽山を中央アルプスの山と思いこんでいる人も数多く存在するが、中央アルプスとの間には木曽川が流れており、明らかに中央アルプスには属さない。[[国土地理院]]の日本の主な山岳標高の一覧では、[[鎌ヶ峰]]までが「飛騨山脈南部」、御嶽山は「御嶽山とその周辺」とされている<ref name="kokudo" />。御嶽山と鎌ヶ峰との鞍部には長峰峠(標高約1,350 m)がある<ref name="tizu-kokudo" />。
== 歴史・信仰 ==
御嶽山は[[山岳信仰]]の山である。通常は[[富士山]]、[[白山]]、[[立山]]で[[日本三霊山]]と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山([[富士講]])と並び[[講|講社]]として庶民の信仰を集めた霊山である<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、前書]]</ref><ref>[[#日本アルプスの登山と探検|ウォルター (1997)、285頁]]</ref>。[[教派神道]]の一つ[[御嶽教]]の[[信仰]]の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には[[大国主|大己貴尊]]と[[えびす|えびす様]]を祀った[[御嶽神社#木曽御嶽神社を本社とする神社|御嶽神社]]奥社がある。[[鎌倉時代]]御嶽山一帯は[[修験道|修験者]]の行場であったが<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />、その後衰退していった<ref name="生駒 (1988)、95頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、95頁]]</ref>。[[室町時代]]中期に神沢杜口の[[随筆]]『[[翁草]]』巻162で{{Quotation|御山[[禅定道|禅定]]は百日精進せずしては上り得ず、其間は行場に入りて修行をなす、昼夜光明真言を誦し、[[垢離|水垢離]]をとるなり。其の料金三[[両]]二分百日間の行用とす。斯くのごとくなれば軽賦の者は登り得ず生涯大切の旨願ならねば籠らずとなり。|神沢杜口『翁草』巻162(室町時代中期)}}と記載されていて、山頂の御嶽神社奥社登拝に当たり麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ、この厳しい修行を行った者だけに年1回の登拝が許されていた<ref name="毎日新聞社 (1997)、148頁" /><ref name="御岳山霊なる山の素顔 12-14頁" />。この「道者」と呼ばれる[[木曽谷]]の人々による登拝が盛んとなった<ref name="生駒 (1988)、95頁" />。[[1560年]]([[永禄]]3年)[[6月13日]]に[[木曾義昌|木曽義昌]]が、従者と共に武運を祈願するために御嶽神社の里宮で100日の精進潔斎を終えた後に登拝した<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、128頁]]</ref>。[[江戸時代]]前期の行脚僧[[円空]]も登拝し、周辺の[[寺院]]で多くの[[彫刻|木彫]]の[[仏像]]を残している<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、132頁]]</ref>。1785年(天明5年)に[[尾張国|尾張]][[春日井郡]]出身の覚明行者が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き<ref name="三宅 (2003)、146-149頁" />、軽い精進登山を普及させるに成功し、厳しい修行をしなくても[[垢離|水行]]だけで登拝できるようになった<ref name="毎日新聞社 (1997)、148頁" /><ref name="生駒 (1988)、142頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、142頁]]</ref>。その後、普寛行者が王滝口を開いた。江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や[[関東]]など全国で[[講|講中]]([[普寛講 (稲城市)|普寛講]]他)が結成されて御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった<ref name="毎日新聞社 (1997)、148頁" /><ref name="島田 (2005)、158-161頁">[[#日本百名山地図帳|島田 (2005)、158-161頁]]</ref>。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた<ref name="山と溪谷社 (1992)、350-351頁" />。江戸時代末期の『[[信濃奇勝録]]』で、{{Quotation|[[信濃国|信州]]一の大山なり、嶽の形大抵[[浅間山|浅間]]に類して、清高これに過ぐ、毎年6月諸人潔斎して登る、福島より十[[里 (尺貫法)|里]]、全く[[富士山]]に登るが如し。|信濃奇勝録(江戸時代末期)}}と記載されている<ref name="山と溪谷社 (1992)、350-351頁">[[#日本の山1000|山と溪谷社 (1992)、350-351頁]]</ref>。1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始し、この上部への女性の立ち入りが禁止されていたが<ref name="島田 (2005)、158-161頁" />、1872年の太政官通達により他の国内の山と比較して早くから[[女人禁制]]が解かれた<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />。[[ファイル:Ontake-tozando.jpg|サムネイル|登山道沿いにある優覚講霊神場]]王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある<ref name="徳久 (1992)、116頁" />。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、84頁]]</ref>。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ<ref name="深田クラブ (1987)、166頁" />。御嶽神社には[[蔵王権現]]が祀られていて、遠く離れた[[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]]や[[和田峠 (長野県)|和田峠]]などの遥拝所に御嶽信仰の[[石碑]]や[[祠]]が設置されている<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />。江戸時代後期の絵師[[谷文晁]]が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した<ref name="三宅 (2003)、146-149頁" />。林道黒石線と白崩林道の[[有料道路]]や[[御岳ロープウェイ]]の開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の[[白装束]]の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、2頁]]</ref>。1985年(昭和60年)以降に山腹に4つの[[スキー場]]が建設された。
=== 御嶽神社 ===
{{詳細記事|御嶽神社 (木曽御嶽山)|黒沢御嶽神社|王滝御嶽神社}}
御嶽大神と呼ばれる[[国之常立神|国常立尊]]、[[大国主|大己貴命]]、[[スクナビコナ|少彦名命]]を祭神とする<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、80頁]]</ref>。王滝口に里宮と黒沢口に里宮と若宮があり、[[木曽御嶽神社王滝口]]の奥社は王滝頂上、[[木曽御嶽神社黒沢口]]の奥社は山頂の剣ヶ峰にある<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、111頁]]</ref>。[[1882年]](明治15年)6月に、小谷分喜が『御嶽神社社略縁起』を出版した<ref name="生駒 (1988)、271頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、271頁]]</ref>。1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し[[神社]]の運営を行っている<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、91頁]]</ref>。1984年(昭和59年)9月14日の御嶽山直下を震源とした長野県西部地震で一合目の里宮の拝殿と末社が半壊し、行場の清滝は滝つぼが土砂に埋まった<ref>[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、47頁]]</ref>。御嶽神社黒沢口では[[太々神楽]]が奉納されている。
[[ファイル:Mount Ontake Shinto shrines on peak (2020-09-28).jpg|サムネイル|最高点の剣ヶ峰にある御嶽教総本山の御嶽神社黒沢口奥社本宮と避難シェルター(2020年)]]
* [[木曽御嶽神社黒沢口]]
** 里宮 - 黒沢口、所在地は木曽町三岳6687、少彦名命を祭神とする。
** 若宮 - [[1385年]]([[至徳 (日本)|至徳]]年間)黒沢口に再興された<ref name="生駒 (1988)、267頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、267頁]]</ref>。大己貴命を祭神とする。
** 頂上奥社本宮 - 御嶽山頂上(剣ヶ峰)、大己貴命と少彦名命を祭神とする<ref name="菅原 (2002)、132頁">[[#木曽御嶽信仰|菅原 (2002)、132頁]]</ref>。
* [[木曽御嶽神社王滝口]]
** 里宮 - 王滝口1合目にあり、1484年([[文明 (日本)|文明]]16年)に再建され、御嶽山登拝前の精進潔斎の参籠のための行場であった。古くは、「岩戸権現」と呼ばれ<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、75頁]]</ref><ref name="島田 (2005)、158-161頁" />、明治以前は王御嶽岩戸座王権現が祀られていたが<ref name="菅原 (2002)、132頁" />、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする。[[ファイル:Mount Ontake Shinto shrines on Otaki peak.jpg|サムネイル|王滝頂上にある[[木曽御嶽神社王滝口]]頂上奥社本宮]]
** 頂上奥社本宮 - 頂上の剣ヶ峰、かつては日ノ権現が祀られていたが、現在は国常立尊、大己貴命、少彦名命を祭神とする<ref>[[#木曽御嶽信仰|菅原 (2002)、133頁]]</ref>。
* 八海山神社 - 王滝口5合目、眼病平癒
* 三笠山神社 - 王滝口7合目の三笠山頂上、道中安全、[[交通安全]]
* 田ノ原大黒天 - 王滝口5合目の田の原、商売繁盛、開運
* 御嶽神社飛騨口里宮 - 濁河温泉登山口
{{See also|御嶽神社}}
=== 御嶽の四門 ===
遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所が「'''御嶽の四門'''」と呼ばれていて<ref name="田中 (1996)、70頁">[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、70頁]]</ref>、[[鳥居]]などが設置された御嶽山の遥拝所がある<ref>松平君山『御嶽縁起』</ref><ref name="生駒 (1988)、62-66頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、62-66頁]]</ref>。これらは[[仏教]]の四門として、岩郷村神戸が発心門、長峰峠が菩薩門、三浦山中が修行門、鳥居峠が涅槃門にたとえられていた<ref>[[#木曽御嶽信仰|菅原 (2002)、130頁]]</ref>。木曽福島から黒沢口への古道の合戸峠や姥神峠などにも御嶽遥拝所があった<ref name="昭文社 (1993)、地図表面">[[#山と高原地図1993年版|昭文社 (1993)、地図表面]]</ref><ref>[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、258頁]]</ref>。
* 岩郷村神戸 - [[中山道]]を[[京都|京]]方面から最初に御嶽山を望める箇所<ref name="生駒 (1988)、62-66頁" />、現在の木曽町、山頂の東南東19.8 km。
* 長峰峠 - 鎌ヶ峰との鞍部 - 覚明行者系の空明行者によって再興された御嶽大権現の碑が設置されている<ref name="田中 (1996)、70頁" /><ref name="生駒 (1988)、62-66頁" />。山頂の北北東10.4 km。
* 三浦山中 - 戦乱で焼失したと記録されている<ref name="生駒 (1988)、62-66頁" />。阿寺山地の拝殿山、山頂の南西17.2 km。
* [[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]] - 中山道、山頂の東北東29.2 km。[[木曽義元]]が戦勝祈願のため、御嶽遥拝の鳥居を建造した。普寛行者系の一心行者の石像が設置されている。
=== 御嶽信仰を広めた行者 ===
==== 覚明行者 ====
[[ファイル:Kakumei gyoja.JPG|サムネイル|黒沢口の登山道の九合半にある覚明行者の霊場。覚明行者は1785年(天明5年)に黒沢口を開き、翌年登山道の改修中にニノ池畔で病に倒れ、覚明堂(山小屋)の傍らにあるこの場所に埋葬された。]]
'''覚明行者'''(かくめいぎょうじゃ)は、[[1718年]]([[享保]]3年)[[3月3日]]に尾張国春日井郡牛山村<!--(田楽村)-->皿屋敷の農夫丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれ、[[幼名]]は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていた<ref name="生駒 (1988)、15頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、15頁]]</ref><ref name="菅原 (2009)、27-28頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、27-28頁]]</ref>。出身地の愛知県[[春日井市立牛山小学校]]の[[校歌]]で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。[[1818年]]([[文政]]元年)10月の『連城亭随筆』で「[[医師]]の箱持ちをした後お梅と結婚し[[餅]]屋を開き商いをしていた」と記録されている<ref name="菅原 (2009)、27-28頁" /><ref group="注釈">魚の[[行商]]をしていたとする説もある。</ref>。ある時予期せぬ出来事(盗みを働いたと疑われたことがきっかけとする説がある)が起こり、各地で[[巡礼]]修行をして[[行者]]となった<ref name="菅原 (2009)、27-28頁" />。木曽谷の村々で布教活動を行い信者を増やした<ref name="田中 (1996)、125頁">[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、125頁]]</ref>。[[1782年]]([[天明]]2年)御嶽山を管轄する[[神職]]武居家と尾張藩木曽[[代官]]山村氏に登山許可の請願を行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式(精進潔斎)を破ることになるため却下された<ref name="菅原 (2009)、30-33頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、30-33頁]]</ref>。しかし登山許可がないまま1785年(天明5年)6月8日に地元住民8名と、6月14日には尾張の38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った<ref name="菅原 (2009)、30-33頁" />。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日間拘束を受けたとされている<ref name="菅原 (2009)、30-33頁" />。[[1786年]](天明6年)にも多数の同志を引き連れて登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行ったが、その最中の6月20日<ref group="注釈">7月23日とする説もある。</ref>にニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬された<ref name="菅原 (2009)、30-33頁" /><ref name="生駒 (1988)、134-143頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、134-143頁]]</ref>。山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の[[霊場]]が現存する。その後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口の登山道の改修が完結され、覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となった<ref name="菅原 (2009)、30-33頁" />。信者が増加し[[福島宿 (中山道)|福島宿]]に[[経済効果]]が生まれるようになったこともあり[[1791年]](寛政3年)6月には麓の[[庄屋]]が連名で武居家に軽精進登拝の請願を提出し、[[1792年]](寛政4年)1月1日に許可が下された<ref name="菅原 (2009)、30-33頁" /><ref name="生駒 (1988)、134-143頁" /><ref name="田中 (1996)、125頁" />。6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定が作られた<ref name="菅原 (2009)、30-33頁" />。[[1850年]]([[嘉永]]3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された<ref name="生駒 (1988)、270頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、270頁]]</ref>。覚明行者は麓の開田西野で村人に「[[アカマツ]]の苗が育てば必ず[[イネ|稲]]ができる」と教え、村人が苗を植えたら育ったことから開田の地名が生まれ、その由来が[[1806年]](文化3年)に設置された稗田の碑に刻まれている<ref name="田中 (1996)、125頁" />。御嶽山を[[中興]]開山させた先駆者とされている<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、25頁]]</ref>。
[[ファイル:Kiyotaki Otaki Nagano.jpg|サムネイル|135px|王滝口三合目の清滝、清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっている。]]
==== 普寛行者 ====
'''普寛行者'''(ふかんぎょうじゃ)は、[[1731年]](享保16年)に武蔵国[[秩父郡]][[大滝村 (埼玉県)|大滝村]]落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期に[[江戸]]へ出て[[剣術]]を学び、[[酒井氏#雅楽頭酒井家|酒井雅楽頭家]]に仕えたと伝えられている<ref name="菅原 (2009)、40-44頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、40-44頁]]</ref>。[[1764年]]([[明和]]元年)[[三峯神社]]に入門した本山派の修験者となった<ref name="菅原 (2009)、40-44頁" />。[[1792年]](寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)<ref group="注釈">「御座」は普寛行者が普及させた[[巫]]術による神降ろしの儀礼と[[祈祷]]。</ref>を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた<ref name="菅原 (2009)、40-44頁" />。その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた<ref name="菅原 (2009)、40-44頁" />。[[1794年]]([[寛政]]6年)には[[上野国|上州]]の[[武尊山]]、[[1795年]](寛政7年)には[[八海山]]の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、[[1801年]]([[享和]]元年)9月、巡錫中に[[武蔵国|武州]][[本庄宿]]で病に倒れた<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、47頁]]</ref><ref name="生駒 (1988)、267頁" />。普寛行者は{{Quotation|なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月|普寛行者の辞世の句}}の辞世の歌を残している。王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある<ref name="菅原 (2009)、108-110頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、108-110頁]]</ref>。1850年([[嘉永]]3年)に[[寛永寺|上野東叡山]]日光御門主から菩薩号が授与された<ref name="生駒 (1988)、270頁" />。[[1890年]](明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された<ref name="生駒 (1988)、272頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、272頁]]</ref>。普寛行者の直[[師弟|弟子]]として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、182-193頁]]</ref>。
=== 御嶽講 ===
御嶽山の登拝は行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅(御嶽参り<ref name="新井 (1983)、164-165頁">[[#八ヶ岳・御岳と中央アルプス|新井 (1983)、164-165頁]]</ref>)でもある<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、113頁]]</ref>。講者ごとに先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝されることが多い。普寛行者の没後有力な行者が次々と現れ、この信仰により病苦が救われると信頼され、最初に江戸など関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれた<ref name="小谷 (2000)、4頁" />。その後、普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、[[1769年|1769]]-[[1841年]])が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が[[愛知県]]を中心に西日本へと広まった<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、127-131頁]]</ref>。[[濃尾平野]]の農民は木曽川の水源となる御嶽山を[[水分神]]の山として尊崇していた<ref name="田中 (1996)、119頁">[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、119頁]]</ref>。木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成された<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、19-22頁]]</ref>。各講の先達の魂は霊神として、その[[石碑|碑]]が御嶽山の登拝道に鎮められている<ref name="信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁" />。この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく霊神碑が御嶽山信仰の特徴の一つである<ref>[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、76頁]]</ref>。江戸時代から関東や尾張から[[中山道]]が利用されていたが、[[1919年]](大正8年)の[[中央本線]]が全線開通すると[[木曽福島駅]]から御嶽山へ歩き始めるようになった<ref name="菅原 (2009)、72頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、72頁]]</ref>。[[1923年]]([[大正]]12年)に[[木曽森林鉄道]]が敷設された後、[[木曽福島駅]]から黒沢と王滝まで[[おんたけ交通]]の[[乗合バス]]が利用されるようになった<ref name="菅原 (2009)、72頁" />。[[1966年]](昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると[[観光バス|貸切バス]]で直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、[[1971年]](昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになった<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、74頁]]</ref>。現在は天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われることが多い<ref name="生駒 (1988)、115頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、115頁]]</ref>。黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下るルートで登拝されるか、王滝口から山頂を往復するか、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂を経て黒沢口へ下るルートで登拝されることが多い<ref name="生駒 (1988)、115頁" />。
=== 宗教教団 ===
[[ファイル:Mount Ontake from Tanohara.jpg|サムネイル|王滝口7合目から望む御嶽山、御嶽大神と呼ばれる[[スクナビコナ|少彦名命]]、[[国之常立神|国常立尊]]、[[大国主|大己貴命]]の祭神。]]
[[御嶽教]]、[[木曽御嶽本教]]、[[神進大教]]、[[神理教]]、[[禊教]]、[[大成教]]、[[神道修成派]]、[[丸山教]]、[[稲荷教]]、[[天台宗寺門派]]や古くは[[講社]]と呼ばれていた旧教派神道系の教団などの御嶽信仰の教団がある<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、4頁]]</ref>。
==== 御嶽教 ====
'''御嶽教'''(おんたけきょう)は、奈良県[[奈良市]]に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く[[教派神道]]で、[[神道十三派]]の一つ<ref name="ontakekyo">{{Cite web|和書|url=http://www.ontakekyo.or.jp/ |title=御嶽教 |publisher=御嶽教 |accessdate=2013-02-18}}</ref>。御嶽教の山の本部である木曽大教殿が長野県木曽町福島新満郡にある。[[1984年]](昭和59年)4月に、日本全国に御嶽教の教会、枝教会、布教所が978(愛知県263、岐阜県98、埼玉県47、長野県40など)ほどあった<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、24-25頁]]</ref>。
{{Main|御嶽教}}
==== 木曽御嶽本教 ====
'''木曽御嶽本教'''(きそおんたけほんきょう)は、[[1946年]](昭和21年)に覚明行者系の講社などが結集して設立された御嶽信仰の宗教教団。総本庁と天昇殿事務所が木曽町三岳にある<ref name="菅原 (2009)、72頁">[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、72頁]]</ref>。御嶽神社を宗祠とし、初代の管長は黒沢御嶽神社[[宮司]]の武居誠<ref name="菅原 (2009)、72頁" />。
=== 御嶽山の人間史 ===
* [[702年]]([[大宝 (日本)|大宝]]2年)6月 - [[役小角]]が開山し<ref name="徳久 (1992)、116頁" />、高根道基が山頂の剣ヶ峰に[[御嶽神社]]奥社を創建したとされている<ref name="信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁" /><ref name="島田 (2005)、158-161頁" />。
* [[774年]]([[宝亀]]5年) - 信濃[[国司]]の石川望足 (石川朝臣)が[[勅命|勅]]を受けて登頂し、大己貴命と少彦名命の二神を祀り悪疫退散を祈願した<ref name="信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁" /><ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[925年]]([[延長 (元号)|延長]]3年) - 白河少将重頼が登拝し、御嶽神社奥社の神殿を建造したとされている<ref name="島田 (2005)、158-161頁" />。
[[ファイル:Ontake shirine satomiya.JPG|サムネイル|右|黒沢御嶽神社里宮]]
* [[928年]](延長6年) - [[醍醐天皇]]の勅使により、黒沢口に御嶽神社里宮が建造された<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1161年]]([[応保]]元年)- [[後白河天皇]]の勅使が登山参拝されたと伝えられている<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1177年]]-[[1184年]]([[治承]]元年-[[寿永]]3年) - [[源義仲|木曾義仲]]が打倒平氏を祈願するために登ったと伝えられている<ref name="徳久 (1992)、116頁" />。
* [[室町時代]] - [[修験者]]の登拝が盛んになった。
<!-- * [[1484年]] ([[文明 (日本)|文明]]16年) - 御嶽神社里宮が建立された<ref name="信濃毎日新聞社 (2010)、36-37頁" />。要検証-->
* [[1492年]]-[[1500年]]([[明応]]-[[大永]]年間) - [[木曾義元|木曽義元]]が[[小笠原氏]]を打倒し、藪原峠に御嶽遥拝の[[鳥居]]を建造した<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1503年]]([[文亀]]3年) - 王滝村祚宜彦五郎が『王御嶽登山清女行法巻』の[[祭文]]を書写<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1507年]]([[永正]]4年) - 王滝村祚宜彦五郎が『王御嶽蔵王権現祭祀祝詞』を書写<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1560年]]([[永禄]]3年)6月13日 - [[木曾義昌|木曽義昌]]が従者と共に武運を祈願するために登頂した<ref name="日本の名山 246頁" /><ref name="生駒 (1988)、267頁" /><ref group="注釈">木曽山行巻の下で「義昌登嶽本意事」として記録されている。{{Quotation|永禄三年木曽長政御嶽之登り山神を享祭すべきと、黒沢に百日斎して同月十三日登御なり。|木曽山行巻の下「義昌登嶽本意事」}}</ref>。
* [[1591年]]([[天正]]19年) - 王滝村祚宜滝六郎右ヱ門が『嶽由来記』を記す<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1593年]]([[文禄]]元年) - 王滝村祚宜滝六郎右ヱ門が『御嶽山縁記』を書写<ref name="生駒 (1988)、267頁" />。
* [[1686年]]([[貞享]]3年)-7月[[円空|円空上人]]が修行登拝。
* [[1716年]]-[[1735年]]([[享保]]年間) - [[本草学]]者の[[丹羽正伯]]らが山域で生薬の採集や調査を行った<ref name="hino-seiyaku">{{Cite web|和書|url=http://hino-seiyaku.com/ |title=日野製薬株式会社 |publisher=日野製薬 |accessdate=2013-02-04}}</ref>。
* [[1719年]]([[享保]]4年)[[6月15日]] - 「山村家給人古畑助三郎以下四十一名」の道者が登拝したと記録されている<ref name="生駒 (1988)、267頁" /><ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、109頁]]</ref>。
* [[1785年]]([[天明]]5年) - 尾張の覚明行者によって黒沢口が開かれた<ref name="島田 (2005)、158-161頁" />。御嶽信仰の山として[[江戸時代]]に、一般にも開放されるようになった<ref name="徳久 (1992)、116頁" /><ref name="山と溪谷社 (1995)、5頁">[[#目で見る日本登山史・日本登山史年表|山と溪谷社 (1995)、5頁]]</ref>。
* [[1791年]]([[寛政]]3年) - 小坂口が開かれた。
* [[1792年]](寛政4年) - [[代官]]山村良喬により御嶽山の軽精進登山が許可され、武居家から「登山に付谷中へ通達の事」が通達された<ref name="生駒 (1988)、142頁" /><ref name="生駒 (1988)、269頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、269頁]]</ref><ref name="山と溪谷社 (1995)、5頁" />。
**6月 - [[武蔵国|武蔵]]の普寛行者が王滝口を開いた<ref name="徳久 (1992)、116頁" /><ref name="島田 (2005)、158-161頁" />。
* [[1849年]]([[嘉永]]2年) - 普寛行者の弟子である寿光行者が御嶽山の霊草百種を採り集め、煎じて生薬としたと伝えられている<ref name="naganoken-seiyaku">{{Cite web|和書|url=http://www.hyakuso.co.jp/ |title=長野県製薬株式会社 |publisher=長野県製薬 |accessdate=2013-02-04}}</ref>。
* [[1861年]]([[文久]]元年) - 剣ヶ峰の御嶽神社奥社の祠の石垣の改修が行われ、700枚ほどの大観通宝が出土した<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、125頁]]</ref>。
* [[1872年]]([[明治]]5年) - [[太政官]]通達により神社仏閣地の[[女人禁制]]が解かれた。
* [[1907年]]([[明治]]40年) - 御嶽山上に御嶽夏季[[郵便局]]が開設された<ref name="生駒 (1988)、272頁" />。
* [[1925年]]([[大正]]14年) - 御嶽自動車商会(現在の[[おんたけ交通]])が開業<ref name="生駒 (1988)、272頁" />。
* [[1952年]](昭和27年)[[3月3日]] - 長野県側の山域が[[御岳県立公園]]に指定される<ref name="Nagano-shizenkouen" />。
* [[1954年]](昭和29年)3月 - 王滝口、自動車道路の建設開始。
** [[8月8日]] - 山頂直下の八丁ダルミに、御嶽教の[[斎場]]である「御嶽山頂上祭場」(日本で最高所の[[火葬場]])が造られ、毎年「御嶽山大御神火祭」が斎行されるようになった<ref name="ontakekyo" />。
* [[1961年]](昭和36年)- 南山麓に[[牧尾ダム]]が完成し[[中京圏]]の水がめとして[[上水道]]、[[工業用水]]、[[かんがい用水]]を供給している。
* [[1966年]](昭和41年)- 王滝口、[[有料道路]]林道黒石線(現在の村道41号線)が田の原まで全線開通。
[[ファイル:Volcanic gas of Mount Ontake.jpg|サムネイル|135px|1979年の水蒸気爆発でできた大ダルミ直下南の噴気孔からの噴煙(1990年10月10日)]]
* [[1971年]](昭和46年)- 黒沢口、有料道路白崩林道が中の湯まで全線開通。
* [[1979年]](昭和54年)[[10月28日]] - 南西側斜面で水蒸気爆発が発生し、有史以来の噴火となった<ref name="kazan" />。
* [[1984年]](昭和59年)[[9月14日]]8時48分49秒 - 御嶽山直下を震源とした[[マグニチュード|M]]6.8の長野県西部地震が発生し<ref name="Ontakesan kazan" />、剣ヶ峰[[南南東]]の伝上川上流で山体崩壊が発生し、岩屑なだれが流れ下った王滝川沿いの山麓に多大な被害をもたらした<ref>{{Cite web|和書|url=http://nhk.jp/chronicle/?0001000000000000%400000000000000000000000060C-4A00000000000000000100 |title=クローズアップ 巨大山津波が襲った 〜長野県西部地震〜(NHK総合テレビ・1984年9月18日放送) |publisher=NHK |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。この際、[[濁川温泉 (長野県)|濁川温泉]](現存せず)が流失し、経営者一家が行方不明になった。
* [[1985年]](昭和60年)- 東南東山腹におんたけスキー場(現在の[[おんたけ2240]])が開業。
* [[1989年]]([[平成]]元年) - [[御岳ロープウェイ]]が開業し、通年運行され、冬はスキー場、その他のシーズンは、観光客や登山者に利用されている。
* [[1996年]](平成8年) - 東山腹に[[開田高原マイアスキー場]]が開業。
* [[1997年]](平成9年)[[4月1日]] - 有料道路林道黒石線無料開放化。
* [[1998年]](平成10年)- 北岳山腹に[[チャオ御岳スノーリゾート]]が開業。
* [[1999年]](平成11年)[[4月1日]] - 岐阜県側の山域が御嶽山県立自然公園に指定される<ref name="Gifu-shizenkouen" />。
* [[2004年]](平成16年)[[3月1日]] - 麓の[[小坂町 (岐阜県)|小坂町]]及び[[萩原町 (岐阜県)|萩原町]]、[[下呂町]]、[[金山町 (岐阜県)|金山町]]、[[馬瀬村 (岐阜県益田郡)|馬瀬村]]が合併して[[下呂市]]が誕生した。
* [[2005年]](平成17年)[[2月1日]] - 麓の[[朝日村 (岐阜県)|朝日村]]、[[高根村 (岐阜県)|高根村]]及び[[高山市]]、[[丹生川村 (岐阜県)|丹生川村]]、[[清見村]]、[[荘川村]]、[[宮村 (岐阜県)|宮村]]、[[久々野町]]、[[国府町 (岐阜県)|国府町]]、[[上宝村]]の1市2町7村が編入合併し新しい高山市となった。
** [[11月1日]] - 麓の[[開田村]]、[[三岳村 (長野県)|三岳村]]及び[[木曽福島町]]、[[日義村]]が合併して[[木曽町]]となる。
* [[2007年]](平成19年)[[11月13日]]-[[11月14日]] - 木曽町で日本山岳修験学会(木曽御嶽学術大会)が開催される<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、5頁]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sangakushugen.jp/conferencepast.html |title=これまでの学術大会 |publisher=日本山岳修験学会 |accessdate=2013-02-07}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[9月27日]] - 南東斜面で水蒸気爆発が発生し、多数の登山客が巻き込まれる([[2014年の御嶽山噴火]])。
== 御嶽山の環境 ==
[[1757年]]([[宝暦]]7年)に松平君山が『吉蘇志畧』を刊行し、御嶽山について
{{Quotation|その東の峰に三つの池有り、一の池は水涸る、一の池は水少し、一の池は水満る、その水は流れて西のに至る。この北を地獄谷と云う硫黄多し、その水流れて王滝に至る、濁川と云う、往々硫黄を取得す、その水甚だ臭し|松平君山『吉蘇志畧』}}
と記載し、[[ハイマツ]]、[[コマクサ]]、[[オンタデ]]、[[オコジョ]]などの解説と[[ホシガラス]]、[[ライチョウ]]などの[[鳥類]]の詳細なスケッチを残している<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、203-204頁]]</ref>。標高3,000 mを越える高山であり、『木曽節』では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや[[足袋]]添えて」と歌われている。[[1979年]](昭和54年)の噴火による荒廃で黒沢口登山道九合目の石室山荘周辺のハイマツが枯れたが、[[21世紀]]初頭の[[2002年]]-[[2003年]]頃から若芽が確認されている<ref name="御岳山霊なる山の素顔 58頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、58頁]]</ref>。御嶽山のコマクサの[[コマクサ#御嶽山のコマクサの昔話|昔話]]がある<ref name="日本の名山 192-193頁">[[#日本の名山|串田 (1998)、192-193頁]]</ref>。王滝口登山道にある田の原天然公園を中心に約830 [[ヘクタール|ha]]が、木曽御岳自然休養林に指定されている<ref name="tanohara" />。[[田中澄江]]は著書『花の百名山』で、代表する花に一つとして[[リンネソウ]]を紹介した<ref name="田中 (1997)、274-277頁" />。標高1,500m以下の山麓では、[[ヒノキ]]、[[アスナロ]]などの[[木曽五木]]が見られる<ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" />。[[1836年]]([[天保]]7年)に西山麓の下呂市小坂町赤沼田で植栽されたヒノキの人工林が、1993年(平成5年)に[[林野庁]]により「赤沼田天保ヒノキ植物群落保護林」の指定を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rinya.maff.go.jp/chubu/gijyutu/gyomu/sikengero/gero29.html |title=赤沼田(あかんた)ヒノキ人工林成長試験地 |publisher=林野庁中部森林管理局 |accessdate=2013-01-31}}</ref>。木曽町三岳では「御嶽黒光真石」と呼ばれる安山岩が産出され、御嶽信仰の霊神碑にも利用されていた。現在も麓の田中石材店などで石材加工が行われている。
=== 御嶽山の動物 ===
[[ファイル:Lagopus muta japonica (female and 4 juveniles).jpg|サムネイル|ハイマツ帯に生息する国指定特別天然物のライチョウ(夏羽のメスと4羽の雛)]]
[[ファイル:木曽駒 1.jpg|サムネイル|北東山麓の開田高原で飼育されている木曽馬(長野県指定天然記念物)]]
3万年前の[[旧石器時代]]に[[オオツノジカ]]が生息していて、東山麓の開田高原はその狩猟場であった<ref name="田中 (1996)、12頁">[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、12頁]]</ref>。柳又遺跡からは[[石器]]や[[土器]]が出土している<ref name="田中 (1996)、12頁" />。山頂付近の登山道の高山帯に生息するホシガラス、ライチョウ、[[クジャクチョウ]]などが見られる。ライチョウ(雷鳥)は日本で[[特別天然記念物]]に指定され<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/162818 |title=文化遺産データベース「らいちょう」 |publisher=[[文化庁]] |accessdate=2016-11-17 }}</ref>、[[環境省]]により[[レッドリスト]]の絶滅危惧IA類<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=20551&hou_id=15619 |title=【鳥類】環境省第4次レッドリスト(2012)<分類群順> |format=PDF |publisher=環境省 |date=2012-08-28 |accessdate=2013-01-31}}</ref>、岐阜県では絶滅危惧I類、長野県では絶滅危惧II類に指定され、絶滅が危惧されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=02080010130 |title=日本のレッドデータ検索システム「ライチョウ」 |publisher=(エンビジョン環境保全事務局)|accessdate=2016-11-17 }} - 「都道府県指定状況を一覧表で表示」をクリックすると、出典の各都道府県のレッドデータブックのカテゴリー名が一覧表示される。</ref>。1981年の調査で50箇所あったライチョウの縄張りが、2008年の調査で28箇所に減少している<ref name="御岳山霊なる山の素顔 119頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、119頁]]</ref>。2012年12月に、西側の前衛峰である[[御嶽山系]]の御前山の標高1,500 m付近でライチョウ1羽(冬羽のメス)が確認され、冬期に尾根伝いに高山帯から移動してきたものと見られている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20130123/201301230850_19177.shtml |title=低山帯にライチョウ 下呂・御前山で異例の目撃 |publisher=[[岐阜新聞]] |date=2013-01-23 |accessdate=2013-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130330025529/http://gifu-np.co.jp/news/kennai/20130123/201301230850_19177.shtml |archivedate=2013-03-30 }}</ref>。山域には[[イタチ]]、[[イノシシ]]、[[タヌキ]]、[[ツキノワグマ]]、[[ニホンザル]]、[[ホンドギツネ]]などが生息し、[[アトリ]]、[[イカル]]、[[キジ]]、[[キバシリ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kankyo/shizenhogo/c11265/kibasiri.html |title=キバシリ |publisher=岐阜県 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>、[[ヒガラ]]、[[ブッポウソウ]]などの[[鳥類]]も豊富である<ref name="徳久 (1992)、116頁" />。南東山麓の長野県木曽郡木曽町の「三岳のブッポウソウ繁殖地」は国の天然記念物の指定を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/161218 |title=文化遺産データベース「三岳のブッポウソウ繁殖地」 |publisher=文化庁 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。開田高原ではその産地であった[[木曽馬]]が飼育されていて、長野県の天然記念物の指定を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/bunsho/bunka/rekishi/documents/15ken-tennenkinenbutu.pdf |title=【長野県】県指定等文化財 15 県天然記念物 |format=PDF |publisher=長野県 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。[[チョウ目]][[ヤガ科]]のオンタケクロヨトウ(学名:''Apamea ontakensis'' Sugi)の高山蛾は、御嶽山の高山帯のみに生息する<ref group="注釈">岐阜県で絶滅危惧I類の指定を受けている。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kankyo/shizenhogo/c11265/ontakekuroyotou.html |title=オンタケクロヨトウ |publisher=岐阜県 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。[[本州]]の限られた山岳地帯に分布するチョウ目[[シャクガ科]]のウチジロナミシャク(学名:''Dysstroma truncata fusconebulosa'' Inoue)は、岐阜県では御嶽山のみで分布が確認されている<ref group="注釈">岐阜県で準絶滅危惧の指定を受けている。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/kankyo/shizenhogo/c11265/utizironamisyaku.html |title=ウチジロナミシャク |publisher=岐阜県 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。
=== 御嶽山の植物 ===
{{Commonscat|Plants on Mount Ontake|御嶽山の植物}}
[[ファイル:Protective zone of Dicentra peregrina.jpg|サムネイル|御嶽山の山上のコマクサ保護活動区域、江戸時代末期に「御神草」として採集され多くの自生のものが消滅した。]]
江戸時代末期に御嶽山の[[高山植物]]は「御神草」として珍重され、山頂部の高山帯に自生するコマクサは薬草として採集され、多くの自生のものが消滅した<ref name="小谷 (2000)、58頁">[[#花かおる御嶽山|小谷 (2000)、58頁]]</ref><ref group="注釈">東隣の[[木曽駒ヶ岳]]では同様な採集が行われたことにより、自生していたものが消滅した。</ref>。山頂部のコマクサ群落の再生活動が行われている。1887年(明治20年)7月に[[植物学|植物学者]]の[[白井光太郎]]が登頂して高山植物を採集し、1889年(明治22年)には[[三好学]]らも採集し<ref name="生駒 (1988)、271頁" />、1933年(昭和8年)に植物学者の中野治房が御嶽山の植物生態を調査した<ref name="日本の名山 246頁" /><ref name="生駒 (1988)、272頁" />。山の上部の[[森林限界]]の高山帯には、[[アオノツガザクラ]]、[[イワウメ]]、[[ウラジロナナカマド]]、[[オオヒョウタンボク]]、[[ガンコウラン]]、[[キバナシャクナゲ]]、[[クロマメノキ]]、[[コケモモ]]、[[コメバツガザクラ]]、[[タカネナナカマド]]、[[チングルマ]]、ハイマツ、[[ミネズオウ]]、[[ミヤマハンノキ]]などの樹木と[[イワギキョウ]]、[[イワツメクサ]]、[[オンタデ]]、[[クモマグサ]]<ref group="注釈">御嶽山と[[白馬岳]]に分布する希少な植物。</ref><ref>[[#日本の高山植物|豊国 (1988)、398頁]]</ref>、[[クロユリ]]、コマクサ、[[シラタマノキ]]、[[チシマギキョウ]]、[[トウヤクリンドウ]]、[[ハクサンイチゲ]]、[[ミヤマアキノキリンソウ]]、[[ミヤマキンバイ]]、[[ミヤマダイコンソウ]]、[[モミジカラマツ]]などの多くの[[高山植物]]が自生している<ref name="山と高原地図1993年版">[[#山と高原地図1993年版|昭文社 (1993)、地図裏面]]</ref><ref name="花かおる御嶽山">[[#花かおる御嶽山|小谷 (2000)]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.otaki.nagano.jp/ontake_tozan/kisoontakesan_no_plant/tozan03_plant_top.html |title=木曽御嶽山(王滝口)登山道の植物 |publisher=王滝村 |accessdate=2011-03-24}}</ref>。日本の[[固有種]]であるオンタデ(御蓼)の[[和名]]は、この山で最初に発見されたことによる<ref>[[#日本の高山植物|豊国 (1988)、502頁]]</ref><ref>[[#花かおる御嶽山|小谷 (2000)、63頁]]</ref>。ウラジロナナカマドとタカネナナカマドとの[[雑種]]のオンタケナナカマド(学名:''Sorbus'' x ''yokouchii'' {{AU|M.Mizush.}} ex {{AU|T.Shimizu}})が自生している<ref>[[#日本の高山植物|豊国 (1988)、388頁]]</ref>。中腹の[[亜高山帯]]では、[[オオシラビソ]]、[[オガラバナ]]、[[コメツガ]]、[[シラビソ]]、[[ダケカンバ]]、[[トウヒ]]、[[ナナカマド]]、[[ハリブキ]]、[[ミヤマザクラ]]などの樹木と[[オサバグサ]]、[[カニコウモリ]]、[[キソアザミ]]、[[キソチドリ]]、[[ゴゼンタチバナ]]、[[コバイケイソウ]]、[[サンカヨウ]]、[[セリバシオガマ]]、[[タケシマラン]]、[[ツバメオモト]]、[[バイカオウレン]]、[[マイヅルソウ]]、[[ムシトリスミレ]]、[[ユキザサ]]などの草花が自生している<ref name="徳久 (1992)、116頁" /><ref name="日本山岳会 (2005)、972-973頁" /><ref name="山と高原地図1993年版" /><ref name="花かおる御嶽山" />。下部の山地帯では、[[イヌブナ]]、[[カエデ|カエデ類]]、[[カツラ (植物)|カツラ]]、[[クリ]]、[[シラカンバ]]、[[シナノキ]]、[[ミズナラ]]などの落葉広葉樹と[[トチノキ]]、[[クロベ]]、[[サワラ (植物)|サワラ]]、[[ヒノキ]]などの[[自然林]]の針葉樹と[[カラマツ]]、[[スギ]]、ヒノキなどの[[人工林]]、[[イワカガミ]]、[[クガイソウ]]、[[ササユリ]]、[[ススキ]]、[[ツルアジサイ]]、[[トリアショウマ]]、[[ホタルブクロ]]、[[マツムシソウ]]、[[ヤナギラン]]などの草花が分布している<ref name="山と高原地図1993年版" /><ref name="花かおる御嶽山" />。「御岳オサバグサ」(面積18.39 ha)と「胡桃島ハイマツ等」が林野庁により、植物群落保護林の指定を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rinya.maff.go.jp/chubu/policy/business/conservation/hogorin/syokubutu.html |title=植物群落保護林 |publisher=林野庁中部森林管理局 |accessdate=2013-02-01}}</ref>。「木曽ヒノキ」は、「秋田のスギ」と「津軽の[[ヒバ]]」とともに『[[日本三大一覧|日本三大]]美林』に選定されている<ref name="徳久 (1992)、116頁" />。南側は現在も火山活動中であり[[植物相]]は貧弱で、北側はコマクサの群生地など豊富な植物相となっている<ref name="島田 (2009)、79-81頁" />。[[1910年]]に[[植物学|植物学者]][[小泉源一]]がこの山で[[トリカブト|トリカブト属]]のオンタケブシ(学名:''Aconitum metajaponicum'' {{AU|Nakai}})を採集しその和名の由来となっている<ref>{{Cite journal ja-jp |author=門田裕一 |year=1984 |title=東北地方におけるトリカブト属トリカブト亜属植物(キソポウゲ科)の形態的変異と分布 |publisher=[[国立科学博物館]] |journal=国立科学博物館専報 |volume=17 |pages=89}}</ref>。オンタケチブシは絶滅が危惧されていて、環境省の絶滅危惧IA類の指定を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=06030301395 |title=日本のレッドデータ検索システム「オンタケブシ」 |publisher=(エンビジョン環境保全事務局)|accessdate=2013-02-03 }}</ref>。
<gallery>
ファイル:Campanula lasiocarpa in Mount Ontake 2011-09-18.JPG|山頂部の高山帯に自生する[[イワギキョウ]]
ファイル:Aconogonon weyrichii var. alpinum in Mount Ontake 2010-08-27.jpg|山名が和名の由来となっている[[オンタデ]](御蓼)、高山帯の砂礫地に自生する。
ファイル:Saxifraga merkii var idsuroei.JPG|御嶽山と[[白馬岳]]に自生する希少種の[[クモマグサ]]
ファイル:Dicentra peregrina in Mount Ontake 2021-07-17.jpg|「高山植物の女王」と呼ばれている[[コマクサ]]
</gallery>
=== 御嶽山の生薬「百草丸」 ===
[[ファイル:Phellodendron amurense JPG1b.jpg|サムネイル|御嶽山の山域に自生している[[キハダ (植物)|キハダ]]。生薬となるオウバクが麓の[[製薬会社]]が製造する[[百草丸]](御岳百草丸など)の主成分として利用されている。]]
多くの[[薬草|薬用植物]]が分布し、江戸時代に[[本草学]]の研究が盛んに行われ、この地域を領有していた[[尾張藩]]が薬草の採取を行っていた<ref name="hino-seiyaku" />。1716年-1735年(享保年間)に本草学者の丹羽正伯らが山域で生薬の採集や調査を行った。[[1804年]]-[[1818年]]([[文化 (元号)|文化]]年間)に水谷豊文が山麓を中心とする『木曽採薬記』を刊行し<ref name="hino-seiyaku" />、山頂付近にコマクサが自生していることが記載されている<ref name="生駒 (1988)、205頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、205頁]]</ref>。1844年(天保15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物の[[押し花|おしば帳]]である『木曽産草花根皮類』が刊行され、アオノツガザクラ、[[オヤマリンドウ]]、クロユリ、[[スミレ]]、チングルマ、[[ミズバショウ]]など50種類などが[[図鑑]]型式にまとめられていた<ref name="生駒 (1988)、201-202頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、201-202頁]]</ref>。そのうちの24種が現在の[[和名]]で記載されていた<ref name="生駒 (1988)、201-202頁" />。[[本草学]]が進んでいた尾張藩に属していて、山村代官により薬草の調査、栽培、管理が行われていた <ref name="生駒 (1988)、201-202頁" />。王滝口を開いた普寛行者により、『御嶽山の霊薬百種を採り集めよく煎じて薬を製せば霊験神の如し、これを製して諸人を救え。』と村人などに伝授された<ref name="小谷 (2000)、5頁">[[#花かおる御嶽山|小谷 (2000)、5頁]]</ref>。1849年(嘉永2年)に王滝口を開いた普寛行者の弟子である寿光行者が、御嶽山の霊草百種を採り集め煎じて生薬としたと伝えられていて<ref name="naganoken-seiyaku" />、王滝村には「百草元之碑」には同村の胡桃沢弥七と小谷文七が普寛行者の遺法を基に百草を製造したと記載されている<ref name="洋泉社 (2010)、77-79頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、77-79頁]]</ref>。御嶽信仰の広がりと共に木曽御嶽の「御神薬」の百草が各地に広まった<ref name="hino-seiyaku" />。百草は御嶽参りの[[土産|お土産]]とされていた<ref>[[#よみがえる木曽人の物語|田中 (1996)、126頁]]</ref>。南山麓では[[長野県製薬]](御岳百草丸)と[[日野製薬]](御嶽山日野百草丸)が、[[キハダ (植物)|キハダ]]の樹皮の内側の木の層の「オウバク」を主成分とした「[[百草丸]]」([[胃腸薬]])を製造している<ref name="hino-seiyaku" /><ref name="naganoken-seiyaku" /><ref name="洋泉社 (2010)、77-79頁" />。この薬箱には「山三丸マーク」と呼ばれる御嶽信仰を象徴するマーク(御嶽神社や登山道の霊神碑の刻印などでも使用されている)が印刷されている。なおこの山三丸マークを使用する[[商標|商標権]]について製薬会社間で訴訟「平成9年(行ケ)213号 審決取消請求事件」が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://jitsuyou.hanrei.jp/hanrei/um/4071.html |title=平成9年(行ケ)213号 審決取消請求事件 |publisher=アスタミューゼ株式会社 |accessdate=2013-02-18}}</ref>。[[明治]]以降は[[兵士]]の常備薬として需要が高まり、山域のキハダは昭和初期には伐採し尽くされ、他の地域や海外から輸入する事態となり、現在は大半を[[中国]]のから輸入に頼っている<ref name="洋泉社 (2010)、77-79頁" />。百草には「御嶽山の五夢草」であるコマクサ、オンタケニンジン、[[オウレン]]、[[トウヤク]]、テングノヒゲが含まれ<ref name="hino-seiyaku" />、[[アキカラマツ|タカトウグサ]]と[[ゲンノショウコ]]なども利用されていた伝えられている<ref name="小谷 (2000)、5頁" />。
=== 御嶽山の国有林 ===
鎌倉時代から昭和初期まで山腹から山麓にかけての森林で木曽五木などが伐採され、その伐材は木曽川を利用して川流しが行われていた<ref name="新井 (1983)、164-165頁" />。山域の森林は江戸時代には尾張藩により管理され、明治になると御料林となり、現在山域の多くは[[日本の国有林|国有林]]となっている<ref name="新井 (1983)、164-165頁" />。その大部分が[[水源かん養保安林]]に指定されている<ref name="飛騨川森林計画区の計画概要">{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/policy/business/sinrinkeikaku/pdf/gaiyouhidagawa.pdf |title=
飛騨川森林計画区の計画概要 |publisher=林野庁中部森林管理局 |format=PDF |accessdate=2013-01-31}}</ref>。御岳特定地理等保護林(旧御岳垂直森林帯植物群落保護林、面積1,540 ha)などで、自然環境の維持や動植物の保護ための国有林の保護管理が行われている<ref name="飛騨川森林計画区の計画概要" />。千間樽国有林と胡桃島国有林の一部が、「御岳自然休養林」に指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/policy/business/invitation/rekumori/ontake/pdf/ontakeitizu2.pdf |title=御岳自然休養林 |publisher=林野庁中部森林管理局 |format=PDF |accessdate=2013-02-01}}</ref>。
* 下呂地区(岐阜森林管理署管内)
** 落合国有林 - [[ウラジロカンバ]]、[[ミネカエデ]]などの落葉広葉樹と[[コメツガ]]、[[サワラ (植物)|サワラ]]、[[シラベ]]、[[トウヒ]]などの針葉樹林が分布し、[[ヒノキ]]が植林されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rinya.maff.go.jp/chubu/gijyutu/sitemap/sub25.html |title=落合国有林 |publisher=林野庁中部森林管理局 |accessdate=2013-01-31}}</ref>。
* 高山地区(岐阜森林管理署管内)
** 幕岩下国有林
** 千間樽国有林
** 胡桃島国有林 - 胡桃島ハイマツ等植物群落保護林がある。
** 幕岩下国有林
[[ファイル:Mount Ontake from Tanohara 1997-06-01.jpg|サムネイル|王滝口にある田の原天然公園(木曽御岳自然休養林)から望む残雪を抱いた御嶽山]]
* 木曽谷地区(木曽森林管理署管内)
** 三浦国有林 - 古くからヒノキの山地として知られ、江戸時代初期に伐採されていて、痕地にチマキザサ(学名:''Sasa palmata'')などが分布する。[[阿寺山地]]上部の[[隆起準平原]]で濃飛[[流紋岩]]などで構成されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rinya.maff.go.jp/chubu/gijyutu/gyomu/sikenkiso/kiso01.html |title=三浦国有林各種実験林 |publisher=林野庁中部森林管理局 |accessdate=2013-01-31}}</ref>。
** 王滝御岳国有林
** 樽沢国有林
** 浦沢国有林
** 障子沢国有林
** 御嶽国有林
** 黒沢御岳国有林 - 黒沢口の油木尾根沿いの百間滝道には江戸時代に尾張藩が植林した樹齢200年以上のヒノキの美林が広がり「油木美林」と呼ばれている<ref name="菅原 (2009)、107-108頁" /><ref>[[#木曽御嶽信仰|菅原 (2002)、131頁]]</ref>。
** 新高国有林
** ヤケノ国有林
** ヌカネ国有林
** ナガウ原国有林
== 登山 ==
[[ファイル:Peak of Kengamine (Mount Ontake).jpg|サムネイル|御嶽山頂上(剣ヶ峰)、山頂からは北側に乗鞍岳や穂高岳が望める。登山シーズンの期間に限り、登山道のみ立入規制の緩和されている2021年10月撮影。]]
[[ファイル:Mount Ontake from Tanohara 2005-03-27.jpg|サムネイル|残雪期の春先に王滝口の田の原から山頂に向かう登山者、独立峰であり稜線では強風で雪煙が舞っている。]]
[[ファイル:Fujimi-ishi in Mount Ontake.jpg|サムネイル|王滝口上部の富士見石、この高さまで登ると富士山が前衛の中央アルプス越しに頭を出し始める。]]
古来より信仰の対象として少数の修験者によって登られ、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も[[白装束]]の登拝者が見られる山である。江戸時代の御嶽登山者の病気や凍死による死亡者の記録(御嶽山遭難者遺族差出証文など)が多数残されていて、[[1847年]]([[弘化]]4年)[[7月16日]]には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する[[遭難#山岳遭難|山岳遭難]]が起きた<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、196頁]]</ref>。1868年(明治元年)に黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した<ref name="Nyonindo">{{Cite web|和書|url=http://www.kiso.ne.jp/~ontake.85.kt/ |title=木曽御嶽山登山 黒沢口 山小屋 女人堂 2470m |publisher=女人堂 |accessdate=2013-02-14}}</ref>。1872年(明治5年)に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていた<ref name="Nyonindo" /><ref>[[#日本アルプスの登山と探検|ウォルター (1997)、291頁]]</ref>。明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まった<ref name="生駒 (1988)、207頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、207頁]]</ref>。1894年に[[ウォルター・ウェストン]]が登頂して以降、一般の登山者にも登られるようになった<ref name="毎日新聞社 (1997)、148頁" />。ウェストンと同時期に[[アメリカ合州国|アメリカ]]の[[天文学者]][[パーシヴァル・ローウェル]]が来訪した際に登頂し、『オカルト・ジャパン』(第1章「御嶽」)で当時の様子を記している<ref>[[#パーシヴァル・ローウェル|パーシヴァル (1895)、第1章「御嶽」]]</ref>。[[1907年]](明治40年)の[[ウマ|馬]]や[[駕籠|かご]]に乗る御嶽山登山者の写真が残されている<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、222頁]]</ref>。御嶽山の登山口は[[木曽地域|木曽]]側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、[[飛騨国|飛騨]]側から1つ(小坂口)が昔から利用されていたが、その後日和田口が比較的新しく開かれた。
1979年10月の噴火により、山頂から4合目までが入山規制された。1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除された<ref name="日本の名山 246頁" />。気象庁が発表する噴火警戒レベルにより入山が規制される場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.nagano.lg.jp/police/mobile/sangaku/index.html |title=長野県警山岳情報 |publisher=モバイル[[長野県警察]] |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされている<ref name="hinoseiyaku" /><ref>[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、11頁]]</ref>。3,000 mを越える高峰であるが登山口の標高が高いため日帰りで登山されることもある<ref name="伊部 (2006)、87-91頁">[[#長野県中信・南信日帰りの山|伊部 (2006)、74-78頁]]</ref>。麓の開田中学校や王滝中学校、下呂市の小学校などで学校登山が行われている<ref name="御岳山霊なる山の素顔 15頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、15頁]]</ref>。黒沢口などでは御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ[[歩荷|強力]]を担う人がいる<ref name="tisana tabi" /><ref name="御岳山霊なる山の素顔 24頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、24頁]]</ref>。1954年(昭和29年)から8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭が行われている<ref name="徳久 (1992)、116頁" /><ref name="ontakekyo" />。大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されている<ref name="垣外 (1998)、88-89頁" />。積雪期の登山において難所はないものの、独立峰のため山頂付近が強風で[[アイスバーン]]となるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山である<ref>[[#日本雪山登山ルート集|中村 (1996)、158-159頁]]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.gifu.lg.jp/kurashi/bosai/sangaku/11115/index.data/H28guidebook.pdf |title=岐阜県北アルプス登山ガイドブック(平成28年度版) |publisher=岐阜県防災課 |format=PDF |pages=9 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。百名山ブームもあって、[[旅行会社]]による登山ツアーが多数行われた。
2014年9月の噴火により、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられたことに伴い、火口から概ね4kmの範囲が立入禁止区域に指定された<ref name="jma_20140927_lv3" />。2015年6月、噴火警戒レベルが2(火口周辺規制)に引下げられたことに伴い、立入禁止区域は火口から概ね1kmの範囲に縮小された<ref name="jma_20170821_lv1" />。2017年8月に噴火警戒レベルが1(活火山であることに留意)に引き下げられたが、現在も火口から概ね1kmの範囲は立入禁止区域である。黒沢口登山道では、7月から10月までの登山シーズンの期間に限り、登山道のみ立入規制の緩和<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town-kiso.com/bousai/bousai/100206/100208/|title=御嶽山噴火災害に関する情報|accessdate=2020/05/19 |author=[[木曽町]]}}</ref>を行い、剣ヶ峰まで行くことができる。
「岐阜県北アルプス地区及び活火山地区における山岳遭難の防止に関する条例<ref name="Gifu Pref Regulations for Mountaineer" />」により、御嶽山の火口域から4km以内の地域<ref name="御嶽山火口域" />に立ち入る場合には登山届の提出が義務づけられている。
長野県では「長野県登山安全条例<ref name="Nagano Pref Regulations for Mountaineer" />」により、指定登山道<ref name="Nagano Pref Designated mountain trail" />を通行しようとするときは、あらかじめ登山計画書を届出<ref name="Nagano Pref Submit mountaineering plan" />なければならない。
=== 近代登山史 ===
* [[1868年]](明治元年) - 黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始した<ref name="Nyonindo" />。
* [[1873年]](明治6年) - [[ウィリアム・ゴーランド]]とエドワード・デイロンが外国人としての初登頂をした<ref name="日本の名山 246頁" /><ref name="生駒 (1988)、271頁" />。
* [[1874年]](明治7年) - [[ヨハネス・ユストゥス・ライン]]と[[イギリス人]]のワイウイー・ハウス他2名が登頂<ref name="日本の名山 246頁" /><ref name="生駒 (1988)、207頁" />。
* [[1881年]](明治14年) - [[アーネスト・サトウ]]がウィリアム・ゴーランドと登頂し、『中部及び北方日本旅行案内』を執筆した<ref name="日本の名山 246頁" />。
* [[1891年]](明治24年)8月 - ウォルター・ウェストンが登頂<ref name="ウォルター (1997)、372頁">[[#日本アルプスの登山と探検|ウォルター (1997)、372頁]]</ref><ref name="山と溪谷社 (1995)、9頁">[[#目で見る日本登山史・日本登山史年表|山と溪谷社 (1995)、9頁]]</ref>。
* [[1893年]](明治26年) - [[木暮理太郎]]が王滝口から御嶽講に加わり登頂<ref name="日本の名山 246頁" /><ref name="山と溪谷社 (1995)、9頁" />。
* [[1894年]](明治27年)8月14日 - ウォルター・ウェストンが黒沢口から再登頂し王滝口に下山、その後『日本アルプスの登山と探検』などの著書で御嶽山を含む日本の山々を世界に紹介した<ref name="生駒 (1988)、272頁" /><ref name="山と溪谷社 (1995)、9頁" /><ref>[[#日本アルプスの登山と探検|ウォルター (1997)、283-305頁]]</ref>。
* [[1933年]](昭和8年) - [[三笠宮]]が登山を行った<ref name="生駒 (1988)、272頁" />。
* [[1937年]](昭和11年)[[7月17日]] - [[英文学者]]と[[登山家]]である[[田部重治]]が、王滝口から再登頂し小坂口へ下山した<ref>[[#田部重治|田部 (1996)、385-393頁]]</ref>。
* [[1948年]](昭和23年) - 麓の[[木曽町立開田中学校]]の生徒による学校登山が始まる<ref name="tisana tabi" />。
* [[2006年]](平成18年)[[6月25日]] - 王滝村を中心とした御嶽山でOSJおんたけスカイレース([[トレイルランニング]]競技)が開催され、以降毎年同レースが開催されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.powersports.co.jp/osjtrail/index.htm |title=OSJトレイルランニングレースシリーズ |publisher=POWER SPORTS |accessdate=2011-03-24}}</ref>。
=== 登山道 ===
各方面から[[登山道]]が開設されている<ref name="tizu-kokudo" /><ref name="日本登山図集 (1986)、54-57頁" /><ref name="山と高原地図(2011)" /><ref>[[#東海・北陸の200秀山|二本山岳会東海支部 (2009)、56-57頁]]</ref>。小坂口、日和田口利用者の中には、剣ヶ峰まで登らずに、飛騨頂上・継子岳あるいは、摩利支天山までの登山を目的とする登山者も多い。一ノ池を取り囲むの西側の稜線に登山道があり、剣ヶ峰からニノ池小屋へのルートの一つとなっている。以前は、[[王滝川]]の支流の濁川に沿って濁川温泉(現存せず)を経て、剣ヶ峰と継母岳の鞍部に登る松原新道があったが、[[1984年]]の長野県西部地震により発生した伝上崩れにより崩壊し、廃道となった<ref name="日本登山図集 (1986)、54-57頁" />。
[[ファイル:Brocken spectres in Mount Ontake.jpg|サムネイル|王滝頂上から望む継母岳と[[ブロッケン現象]]]]
==== 王滝口 ====
車道で上がれる登山口は御嶽山で最も高い標高地点([[田の原]]、標高2,160 m)であり、山頂の剣ヶ峰への最短ルートである。途中での眺望が優れており、登山口から王滝頂上までのコースが常に上から下まで見渡せる。登山口の田の原から王滝頂上までの間には8合目と9合目に避難小屋がある。[[山開き]]に相当する開山祭は7月1日に行われる。積雪期には登山口の田の原への道路が閉鎖されるが、春先におんたけ2240のスキー場のゴンドラを利用して、雪山登山を行う例がある。1合目に国常立尊、大己貴命、少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている<ref name="菅原 (2009)、108-110頁" />。3合目には清滝と新滝があり、清滝には清滝不動明王が祀られ、登拝者が水行を行う行場となっている<ref name="菅原 (2009)、108-110頁" />。5合目には子授け神霊である十二権現、6合目には眼の神様の八海山大神がある<ref name="菅原 (2009)、108-110頁" />。標高約2,190 mの田の原には田ノ原山荘と木曽御嶽自然休養林田ノ原自然公園があり、登山シーズン中には自動車で上がることができる<ref name="昭文社 (1993)、地図表面" />。
* 田の原 - 7合目大江権現 - 金剛童子(8合目下) - 9合目石室 - 王滝頂上 - 剣ヶ峰<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.otaki.nagano.jp/ontake_tozan/tozan04.html |title=木曽御嶽山(王滝口)登山道の紹介 |publisher=王滝村 |accessdate=2011-03-24}}</ref>
==== 黒沢口 ====
[[ファイル:Mount Ontake from Nyonindo.jpg|サムネイル|黒沢口8合目の女人堂から望む御嶽山、金剛堂には多数の霊神碑が設置されている。]]
覚明行者によって開かれた最も古い登山道。[[御嶽教]]、[[木曽御嶽本教]]に最も関わりの深い登山道でもある。夏には「懺悔反省、[[六根清浄]]」を唱える白衣の登拝者が見られる<ref name="山と溪谷社 (1992)、350-351頁" /><ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、7頁]]</ref>。有人山小屋が合目ごとにある。現在は7合目付近に[[索道|ロープウェー]]の飯森駅(標高2,150 m)ができ、王滝口登山口の田の原とほぼ同じ標高まで歩かずに登ることができるようになったため、大半の登山者がロープウェイを利用するようになったが、6合目から歩く登山者は現在でも少なくない。山開きに相当する開山祭は王滝口と同じ7月1日に行われる。1合目に大己貴命を祀った御嶽神社若宮と少彦名命を祀った御嶽神社里宮があり登拝口となっている<ref name="菅原 (2009)、107-108頁" />。登拝道場には多数の霊神碑が並べられていて、4合目の屋敷場には御嶽山で最大規模の霊神場があり講社単位で建てられた多数の霊神碑がある<ref name="菅原 (2009)、107-108頁" />。松尾滝から油木尾根を経て百間滝から8合目の女人堂に至るルートは百間滝道と呼ばれている<ref name="昭文社 (1993)、地図表面" />。百間滝には百間滝小屋があり行場となっている<ref name="菅原 (2009)、107-108頁" />。
* 中の湯(6合目)またはロープウェイ飯森駅 - 行場山荘(7合目) - 女人堂(8合目) - 石室山荘(9合目) - 覚明堂 - 剣ヶ峰<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kankou-kiso.com/miru/index_3.html |title=御嶽山に登ろう・登山コース |publisher=木曽町観光協会 |accessdate=2011-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160420163313/http://www.kankou-kiso.com/miru/index_3.html |archivedate=2016-04-20 }}</ref>
==== 開田口 ====
木曽側の3つの登山口のうち、唯一、信仰のためでなく作られた登山道。営林署(現・森林管理署)の作業道として開かれた。距離は長いが、大自然を満喫することが出来る。水場は4合目付近に湧き水があり、それ以外は三の池まで無し。登山口の標高が低く(1,500 m)標高差が大きいため、健脚向き。
* 開田口4合目 - 7合目避難小屋跡 - 三ノ池避難小屋 - 賽の河原 - 二ノ池 - 剣ヶ峰
[[ファイル:Hida peak of Mount Ontake.jpg|サムネイル|飛騨頂上、この直下南に五の池小屋がある。]]
==== 小坂口 ====
剣ヶ峰へのアプローチが長いためか、現在は信仰登山者はほとんど見かけず、一般登山客が多い。このルートの[[開山祭|山開き]]は、毎年[[6月15日]]に御嶽神社飛騨口里宮で開催されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.gero.lg.jp/kankou/view.rbz?of=2&ik=0&pnp=14&cd=444 |title=御嶽山に夏を告げる!!御嶽山山開き |publisher=下呂市 |date=2009-06-12 |accessdate=2013-02-12 |deadlinkdate=2016-11 |archiveurl=https://archive.is/u0AOD |archivedate=2013-04-23}}</ref>。下山時に[[温泉]]を楽しめるのが魅力のコース。なお、登山口を胡桃島とし、のぞき岩避難小屋下で濁河温泉からの道と合流するコースもあるが、このコースを特に胡桃島コースと称することもある。飛騨頂上の五の池小屋は、2010年に新館が増築され収容人数が100人に倍増した<ref>{{Cite web|和書|url=http://gonoike.jp |title=御嶽山 飛騨頂上 五の池小屋 |publisher=五の池小屋 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。なお、平成30年6月豪雨の影響により登山道が崩落したが、迂回ルートが整備され2018年9月より通行可能となった。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.gero.lg.jp/departmentTop/node_1075/node_1129/node_45266 |title=御嶽山小坂口登山道の復旧について |publisher=下呂市 |date=2018-08-31 |accessdate=2018-11-28 }}</ref>
* [[濁河温泉]] - 湯の花峠 - のぞき岩避難小屋 - 飛騨頂上([[五の池小屋]]) - 賽の河原 - 二ノ池 - 剣ヶ峰
==== 日和田口 ====
継子岳頂上を目指して登るコースで宗教登山に由来しないコースのひとつ。[[1998年]]の[[チャオ御岳スノーリゾート|チャオ御岳スキー場]]の開発に伴い、通年運行される[[索道|ゴンドラリフト]]の「フライングチャオ」を利用することが多くなり、旧来の登山口からの登山は減った。ゴンドラリフトを使用した場合は王滝口とほほ同じ標高(2,190 m)まで登ることができるが、継子岳から最高峰剣ヶ峰までの距離が長い。また、ルートは他のコースに比べてあまり手入れがされていない。2010年現在、フライングチャオはスキーシーズン(12月初旬 - 5月初旬)のみの運行となっており、春 - 秋の登山には利用できなくなっている。
* 日和田口またはゴンドラリフト山頂駅 - 継子岳 - 飛騨頂上(五の池小屋) - 賽の河原 - 二ノ池 - 剣ヶ峰
=== 山小屋 ===
{{Commonscat|Mountain huts on Mount Ontake|御嶽山の山小屋}}
[[ファイル:Ninoike huts Mount Ontake.jpg|サムネイル|二ノ池畔にあった旧ニノ池小屋、涸れることない池から水がポンプアップされ周辺の山小屋に送水されていた(2013年7月撮影)。]]
[[ファイル:Ninoikesanso.jpg|サムネイル|2014年の御嶽山噴火後に建替えられた火山灰が堆積した二ノ池畔にあるニノ池山荘、(2021年7月撮影)]]
御嶽山は宗教登山が盛んであるため、[[山小屋]]も宗教施設としての側面がある山小屋が多い。五の池小屋は近代的なアルペンスタイルの山小屋である<ref name="島田 (2009)、79-81頁" />。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がある<ref name="島田 (2005)、158-161頁" /><ref>{{Cite book|和書 |date=2010-12-15 |title=山と溪谷2011年1月号付録(山の便利手帳2011) |publisher=山と溪谷社 |pages=166-178 |asin=B004DPEH6G}}</ref>。登山道上に[[キャンプ]]指定地はないが、胡桃島口の登山口に「胡桃島キャンプ場」がある<ref name="島田 (2005)、158-161頁" />。それらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られている。また、王滝口・黒沢口の開山祭の7月1日以降の営業開始となる小屋が多く、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多い。御嶽神社・御嶽教・木曽御嶽本教は山開きを7月10日から9月10日までとしているため、その間は特に白装束の宗教登山者の宿泊利用や立ち寄り利用が多い。なお、五の池小屋は例外的に例年6月1日から10月15日までの営業と、長期間の営業を行っている。8合目と7合目の山小屋は紅葉シーズンも営業する。
山頂地域に多くの有人山小屋があるが、黒沢口には途中にも合目ごとに有人山小屋が営業している。2014年噴火以前は、二ノ池の水を飲料水などの水源としている山小屋が多く、二ノ池から遠い「五の池小屋」や7合目以下の山小屋以外の山小屋は「二の池水組合」を設立し、共同で水道施設の設置・維持・撤去を行っていた。また、日頃の水源ポンプ施設の操作は「二ノ池本館(現:二ノ池山荘)」のスタッフが行い、豊富な湖水を使って「二ノ池本館(現:ニノ池山荘)」「二ノ池新館(現:二の池ヒュッテ )」「石室山荘」「覚明堂(現在無人)」では、宿泊者向けの風呂を毎日用意するほか、宿泊者が少ない時のみ宿泊者にスタッフ用の風呂を提供する山小屋もあったが、2014年噴火の降灰によると思われる湖水の酸性化により、現在は湖水からの取水利用は行われていない。
かつて、山小屋のトイレはほぼ垂れ流しの状態であったが、環境問題への関心の高まりを背景に、有人の山小屋については汲み取り式のトイレへと改修が進められている。汲み取られたし尿は、ヘリにより麓まで運搬し処理業者へ引き渡される。そのらの維持費用が高額となるため、トイレ利用者に一回の利用につき100円の協力金の負担をお願いしている。
==== 有人山小屋 ====
[[ファイル:Kengamine (Mount Ontake).JPG|サムネイル|八丁ダルミ付近の登山道から望む御嶽山の最高点の剣ヶ峰、山頂部に御嶽神社、御嶽剣ヶ峰山荘、御嶽頂上山荘(2014年9月6日撮影)]]
* 王滝口…田の原登山口2軒(田の原山荘および御嶽観光センター・ただし山小屋とされないことが多い)・王滝頂上(王滝頂上山荘)・剣ヶ峰山頂(御嶽剣ケ峰山荘・旧称「剣ヶ峰旭館」)
* 黒沢口…7合目(行場山荘・旧称「一ノ又行者小屋」または「覚明行場小屋」)・8合目(女人堂・別称「金剛堂」)・9合目(石室山荘)
* 小坂口…飛騨頂上([[五の池小屋]])
* 二ノ池周辺…池畔(二ノ池山荘)・飛騨側(二の池ヒュッテ)(なお、二ノ池山荘と二の池ヒュッテは全くの別経営である)
{| class="wikitable"
|-
!画像
!名称
!所在地
![[標高]]<br>([[メートル|m]])
!御嶽山からの<br>方角と[[距離]] ([[キロメートル|km]])<br><ref group="注釈" name="chu1">御嶽山からの山小屋までの距離は、登山経路上の距離ではなく、2地点の直線距離。</ref>
!収容<br>人数
!備考
|-
|[[ファイル:Gonoike huts in Mount Ontake.jpg|70px]]
|[[五の池小屋]]
|小坂口飛騨頂上<br>五ノ池の北畔
|style="text-align:right;"|2,780
|{{direction2|N}} 1.8
|style="text-align:right;"|100
|2010年増築
|-
|[[ファイル:Nyonindo in Mount Ontake (2014-09-06).JPG|70px]]
|女人堂
|黒沢口8合目
|style="text-align:right;"|2,470
|{{direction2|E}} 1.6
|style="text-align:right;"|120
|別名が金剛堂
|-
|[[ファイル:Ishimuro hut in Mount Ontake.jpg|70px]]
|石室山荘
|黒沢口9合目
|style="text-align:right;"|2,800
|{{direction2|ENE}} 0.7
|style="text-align:right;"|80
|
|-
|[[ファイル:Ninoike shinkan.JPG|70px]]
|二の池ヒュッテ
|二ノ池の北西傍
|style="text-align:right;"|2,900
|{{direction2|N}} 0.7
|style="text-align:right;"|250
|2014年9月噴火前は入浴施設があった
|-
|[[ファイル:Ninoikesanso (2021-07-17).jpg|70px|2014年の御嶽山噴火後に解体された二ノ池本館の場所に再建されたニノ池畔にある「ニノ池山荘」、長野県木曽郡木曽町にて(2021年7月17日撮影)]]
|二ノ池山荘<ref>[https://www.47news.jp/2745532.html 「二ノ池山荘」来季から営業 「二ノ池本館」を改名 木曽町が方針 - 47News]</ref>
|二ノ池の東畔
|style="text-align:right;"|2,900
|{{direction2|NNE}} 0.6
|style="text-align:right;"|100
|2014年9月噴火前は入浴施設があった
|-
|}
<br>
以下は、2014年9月噴火の前まで営業していた山小屋である。
{| class="wikitable"
|-
!画像
!名称
!所在地
![[標高]]<br>([[メートル|m]])
!御嶽山からの<br>方角と[[距離]] ([[キロメートル|km]])<br><ref group="注釈" name="chu1" />
!収容<br>人数
!備考
|-
|[[ファイル:Kakumeido in Mount Ontake (2014-09-06).JPG|70px]]
|覚明堂
|黒沢口9合半
|style="text-align:right;"|3,000
|{{direction2|ENE}} 0.6
|style="text-align:right;"|100
|傍らに覚明行者の霊場
|-
|[[ファイル:Mount Ontake top huts.jpg|70px]]
|御嶽頂上山荘
|山頂直下南東
|style="text-align:right;"|3,040
|{{direction2|SE}} 0.03
|style="text-align:right;"|70
|
|-
|[[ファイル:Mount Ontake Kengamine huts.jpg|70px]]
|御嶽剣ヶ峰山荘
|山頂直下南東
|style="text-align:right;"|3,040
|{{direction2|SE}} 0.03
|style="text-align:right;"|150
|
|-
|[[ファイル:Mount Otaki huts.jpg|70px]]
|王滝頂上山荘
|王滝口頂上
|style="text-align:right;"|2,930
|{{direction2|SSE}} 0.5
|style="text-align:right;"|100
|王滝御嶽神社奥社と隣接
|-
|[[ファイル:Tanohara sanso.JPG|70px]]
|田ノ原山荘
|王滝口7合目
|style="text-align:right;"|2,200
|{{direction2|SE}} 3.0
|style="text-align:right;"|136
|御嶽観光センターに隣接
|}
==== 避難小屋 ====
* 王滝口…8合目避難小屋、9合目避難小屋
* 開田口…7合目避難小屋(荒廃し倒壊)、三ノ池避難小屋、白竜避難小屋
==== 焼印 ====
多くの有人山小屋や山頂神社社務所では、宗教登山に使われる金剛杖に[[焼印]]を押印するサービスを有料で行っている。1891年(明治24年)に登山道の神社などで、「登山杖に記念の印を捺します」の看板が設置されこの焼印が行われていた<ref>[[#日本アルプスの登山と探検|ウォルター (1997)、284頁、287頁]]</ref>。[[富士山]]で特にポピュラーなサービスであるが、御嶽山でも実施する山小屋を少し減らしながらも現存しており、貴重な存在である。ただ、富士山ほど押印希望者は多くなく、希望者が現われてから焼印を加熱するところが多いため、焼印に時間がかかることが多い。また、押印の料金も富士山よりも割高になっている。
=== 登山者数の推計 ===
昭和中期までの木曽側からの御嶽山の登山者数は下表のように推計されている<ref>[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、256-257頁]]</ref>。2010年頃の黒沢口から入山者は年間3万人を越える程度であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town-kiso.com/dbps_data/_material_/localhost/4_top/H22-11-56.pdf|title=広報きそまち(2010年11月号)|publisher=木曽町|format=PDF|pages=2|date=2010-11|accessdate=2013-02-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140912112846/http://www.town-kiso.com/dbps_data/_material_/localhost/4_top/H22-11-56.pdf|archivedate=2014-09-12|author=木曽町}}</ref>。
{| class="wikitable"
!年度!!登山者数!!備考
|-
|[[1887年]](明治20年)||style="text-align:right"|8,000||故老の談話による
|-
|[[1914年]](大正3年)||style="text-align:right"|30,000||『木曽案内』による
|-
|[[1917年]](大正6年)||style="text-align:right"|50,000||丸山梓水『木曽』による
|-
|[[1929年]](昭和4年)||style="text-align:right"|37,900||rowspan="5"|木曽福島駅調査による
|-
|[[1936年]](昭和11年)||style="text-align:right"|41,999
|-
|[[1939年]](昭和14年)||style="text-align:right"|63,020
|-
|[[1951年]](昭和26年)||style="text-align:right"|26,900
|-
|[[1955年]](昭和30年)||style="text-align:right"|31,458
|}
== 地理 ==
木曽川水系の源流の山であり、西側から[[飛騨川]]、東と南側から王滝川などの本流へと流れ[[太平洋]]側の[[伊勢湾]]へ流れる。剣ヶ峰の山頂には[[一等三角点]](点名が「御岳山」、標高3,063.<small>41</small> m)が設置されていて<ref name="kijyun" />、[[一等三角点百名山]]のひとつに選定されている<ref>[[#一等三角点百名山|一等三角点研究会 (1988)]]</ref>。最高点は御嶽神社の西側のある岩の標高点<ref name="kokudo" />。[[日本の山一覧 (高さ順)|日本で14番目に高い山]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html |title=日本の主な山岳標高(標高別表示)|publisher=国土地理院 |accessdate=2013-02-02}}</ref>。南東中腹の王滝村の区域は「御岳高原」と呼ばれている。
=== 周辺の山 ===
[[ファイル:20101130木曽山脈.jpg|サムネイル|300px|手前・木曽山脈と左奥に御嶽山と右奥・飛騨山脈。間に稜線はない。]]
[[ファイル:Mt.Ontake and Mt.Norikuradake from Mt.Yatsugatake 01.jpg|サムネイル|300px|[[八ヶ岳]]から望む御嶽山(左)と[[乗鞍岳]](右)]]
独立峰であるため、周囲の多くの山からその山容を望むことができる。山頂部は広く、複数のピークから成る<ref name="山と高原地図(2011)">[[#山と高原地図(2011)|昭文社 (2011)の付属図]]</ref>。[[濃尾平野]]からも北東にその大きな山容が望める。岐阜県側には前衛の山として、ぎふ百山の一つである御前山(1,646 m)と続ぎふ百山の一つである下呂御前山(1,412 m)がある。
{| class="wikitable"
!山容
!山名
!標高<br>(m)<ref name="kokudo" /><ref name="kijyun" /><ref group="注釈" name="2014-03" />
!三角点等級<br>基準点名<ref name="kijyun" />
!御嶽山からの<br>方角と距離(km)
!備考
|-
|[[ファイル:Mount Haku from Mount Ontake.JPG|80px|御嶽山の王滝頂上方面から望む白山(2013年7月9日)]]
|[[白山]]
|2,702.<small>14</small>
|一等<br>「白山」
|{{Direction2|WNW}} 70.2
|<small>日本百名山</small>
|-
|[[ファイル:Mount Norikura and Mount Yari from Mount Ontake.JPG|80px|御嶽山から望む乗鞍岳と槍ヶ岳(2014年9月6日)]]
|[[乗鞍岳]]
|3,025.<small>73</small>
|一等<br>「乗鞍岳」
|{{Direction2|NNE}} 24.6
|<small>日本百名山</small>
|-
|[[ファイル:Mount Kama from Nomugitoge ski resort 2009-04-19.jpg|80px|野麦峠スキー場から望む鎌ヶ峰(2009年4月19日)]]
|[[鎌ヶ峰]]
|2,121.<small>25</small>
|二等<br>「鎌ケ岳」
|{{Direction2|NE}} 18.3
|
|- style="background-color:#ccc;"
|[[ファイル:Ontakesan from Hachimoriyama 2008-4-25.JPG|80px|鉢盛山から望む御嶽山、右手前は継子岳(日和田富士)(2008年4月25日)]]
|'''御嶽山'''
|3,067
|(一等)<br>「御岳山」<br>(3,063.<small>61</small>m)
|{{Direction2|O}} 0
|<small>[[日本百名山]]</small>
|-
|[[ファイル:Atera Mountains around Mount Kohide.JPG|80px|御嶽山から望む小秀山周辺の阿寺山地の山並み(2014年9月6日)]]
|[[小秀山]]
|1,981.<small>86</small>
|二等<br>「小秀山」
|{{Direction2|SSW}} 14.1
|<small>[[日本二百名山]]</small>
|-
|[[ファイル:Mount Kisokoma from Mount Ontake.JPG|80px|御嶽山の王滝口登山道から望む中央アルプスの木曽駒ヶ岳と宝剣岳(2014年5月2日)]]
|[[木曽駒ヶ岳]]
|2,956.<small>14</small>
|一等<br>「信駒ケ岳」
|{{Direction2|ESE}} 31.4
|<small>日本百名山</small>
|-
|[[ファイル:Mount Ena from Mount Ontake 2019-09-25.jpg|80px|御嶽山の山頂部から望む雲海と恵那山(2019年9月25日撮影)]]
|[[恵那山]]
|2,191
|(一等)<br>「恵那山」<br>(2,190.<small>28</small>m)
|{{Direction2|SSE}} 51.0
|<small>日本百名山</small>
|}
=== 源流の河川 ===
[[ファイル:Miure Dam lake survey.jpg|サムネイル|南山腹の[[木曽川]]水系王滝川上流部にある[[三浦ダム]]]]
源流となる以下の[[河川]]は木曽川水系で[[伊勢湾]]へ流れる<ref name="tizu-kokudo" />。山頂の南東13.4 kmにある王滝川の牧尾ダムの'''御岳湖'''に貯水された水は愛知県などの[[上水道|飲料水]]、工業用水及び農業用水に利用されていて、その上流部には[[関西電力]]の水力発電用の[[三浦ダム]](山頂の南西11.0 km)がある。王滝川の[[支流]]の濁川上流部の赤川では浸食と崩落が激しく「地獄谷」と呼ばれている<ref name="山と高原地図(2011)" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=137.4740333&latitude=35.88713611 |title=地図閲覧サービス・地獄谷(長野県木曽郡王滝村) |publisher=国土地理院 |accessdate=2011-10-05}}</ref>。南面の王滝川の支流の濁川は、1979年10月28日噴煙後地獄谷上部の火口から白いガスと火山灰で黒色となった温泉水が大量に流れ出て白く濁った<ref name="地質ニュースv306" />。
* 西野川、白川、王滝川(木曽川の支流)
* 飛騨川
* 秋神川、小坂川(飛騨川の支流)
=== 主な峠 ===
* [[野麦峠]] - 乗鞍岳との間に映画『[[あゝ野麦峠]]』などで有名となった[[峠]]がある。標高1,672 mで[[長野県道・岐阜県道39号奈川野麦高根線]]が通る。
* 長峰峠 - [[国道361号]]にある岐阜県と長野県との県境で、暮岩川(飛騨川の支流)と西野川(木曽川の支流)との[[分水界|分水嶺]]となっている。
* 九蔵峠 - 国道361号の[[開田村|開田高原]]にある峠で、九蔵峠展望台からは西南西に御嶽山を望むことができる。
* 濁河峠 - 秋神川と濁河川(小坂川の支流)との分水嶺となっている。
* 白巣峠 - 白川(王滝川の支流)と[[付知川]]との分水嶺となっていて、林道が通る。
* 鞍掛峠 - 水無川(王滝川の支流)と竹原川(飛騨川の支流)との分水嶺となっていて、林道が通る。
=== 交通・アクセス ===
南山麓の王滝川沿いには[[1923年]](大正12年)に竣工された[[木曽森林鉄道]]の王滝森林鉄道が敷設され、[[1975年]](昭和50年)5月30日まで[[日本の国有林|国有林]]の材木の運搬に利用されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.otaki.nagano.jp/sinnrinntetudou/rintetu.html |title=第3回王滝森林鉄道フェスティバル開催 |publisher=王滝村 |accessdate=2013-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160822114949/http://www.vill.otaki.nagano.jp/sinnrinntetudou/rintetu.html |archivedate=2016-08-22 }}</ref>。1925年(大正14年)に御嶽自動車商会(現在のおんたけ交通)が開業、おんたけ交通は山麓や御嶽山の登山口まで[[路線バス]]を運行している。1963年(昭和38年)に西山腹の名古屋営林局小坂営林署が運営する[[小坂森林鉄道]]濁河温泉線が開通し伐採した木材の運搬に利用されていたが、林道が敷設されトラックによる輸送への切り替えに伴い1971年(昭和46年)に廃止された。1966年(昭和41年)に山麓の王滝村の[[長野県道256号御岳王滝黒沢線]]から田の原までの「有料道路林道黒石線」が全線開通し、1997年(平成9年)4月1日に村道41号線(御岳スカイライン)として無料開放され、おんたけ2240のスキー場利用者、登山者、観光客などに利用されている<ref name="日本登山図集 (1986)、54-57頁" />。[[長野県道473号上松御岳線]]が南東の山麓から通じ無料化された白崩林道を経て中腹の中の湯まで通じている<ref name="日本登山図集 (1986)、54-57頁" />。東山麓を[[長野県道20号開田三岳福島線]]が通り、木曽町三岳の木曽温泉付近から御岳ロープウェイスキー場まで東山腹に「御岳ブルーライン」が通る。その鹿の瀬温泉から上部は冬期閉鎖されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town-kiso.com/kurashi/douro/100070/101229/|title=町道 冬期通行止め情報|publisher=木曽町|accessdate=2020-05-19}}</ref>。南東山麓の県道20号開田三岳福島線沿いに[[道の駅三岳]]がある。北東山麓に[[国道361号]]が通り、北山腹に[[岐阜県道463号朝日高根線]]、北西山腹に[[岐阜県道435号御岳山朝日線]]が通る。西山麓の下呂市小坂町から濁河温泉まで[[岐阜県道441号濁河温泉線]]が通り、「御嶽パノラマライン」と呼ばれている。小三笠山(標高2,029 m)の南面には御岳林道と王滝林道が通る。
王滝村側の木曽御岳山頂と木曽町側の三岳黒沢字石室、御岳山山頂、行場小屋、金剛堂、二ノ池小屋は[[日本郵便]]から[[交通困難地]]の指定を受けており、地外から当地宛に郵便物を送付することは出来ない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-7.pdf |title=別冊(内国郵便約款第79条及び第97条関係) 交通困難地・速達取扱地域外一覧 |access-date=2022/05/01 |publisher=[[日本郵便]] |date=2022年2月21日}}</ref>。
==== 主な交通機関 ====
* [[松本空港]]の南西50 kmに位置する。
* [[東海旅客鉄道|JR東海]][[中央本線]][[木曽福島駅]]の西北西20.0 kmに位置し<ref name="徳久 (1992)、116頁" />、JR東海[[高山本線]][[飛騨小坂駅]]の東南東21.2 kmに位置する。
* [[中部縦貫自動車道]](高山清見道路)[[高山インターチェンジ (岐阜県)|高山インターチェンジ]]の南東37.8 kmに位置し、[[中央自動車道]][[伊那インターチェンジ]]の西42.0 km、[[中津川インターチェンジ]]の北46.3 km、[[塩尻インターチェンジ]]の西南西51.4 kmに位置する。
==== 路線バス ====
岐阜県側のJR東海高山本線飛騨小坂駅及び[[高山駅]]から御嶽山の登山口である濁河温泉への[[濃飛乗合自動車|濃飛バス]]路線は2007年(平成19年)11月30日に廃止された。
* 王滝・田の原線(黒沢・王滝線) - 長野県木曽合同庁舎前 - 木曽福島駅前 - 王滝 - 田の原(御嶽山登山口)、2006年7月よりおんたけ交通から[[王滝村営バス]]に移管された。
* 御岳ロープウェイ線 - 木曽福島駅前から御岳ロープウェイまでの区間、2006年(平成18年)6月1日よりおんたけ交通から[[木曽町生活交通システム]]に移管された。
* チャオスノーリゾート線(おんたけ交通) - 木曽福島駅前 - チャオ御岳スノーリゾート - 濁河温泉
== 観光 ==
[[ファイル:Lake Shizenko.jpg|サムネイル|1984年(昭和59年)9月14日に発生した長野県西部地震で王滝川が堰き止められて誕生した自然湖]]
[[ファイル:Nigorigo onsen.jpg|サムネイル|濁河温泉(岐阜県下呂市、御嶽山の濁河口の登山口)]]
=== 主な観光スポット ===
* 御嶽山資料館 - 王滝口の二合目の木曽郡王滝村大又にある。
* 田の原天然公園 - 御嶽山の登山道の王滝口標高約2,200m付近に広がる天然公園で、湿原、背の低い[[針葉樹林]]帯に[[遊歩道]]や展望台が整備されている<ref name="tanohara">{{Cite web|和書|url=http://www.rinya.maff.go.jp/chubu/policy/business/invitation/rekumori/kisoontake/index.html |title=木曽御岳 |publisher=[[中部森林管理局]] |accessdate=2011-03-24}}</ref>。
* 御岳ロープウェイ - 御岳ロープウェイスキー場は2013年にスキー場の営業を休止していて、冬期の運行が行われていない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ontakerope.co.jp/ |title=御岳ロープウェイ |publisher=御岳ロープウェイ |accessdate=2013-02-14}}</ref>。
* 開田高原 - [[蕎麦]]の産地や[[木曽馬]]の里としても知られ、[[乗馬]]体験ができる施設がある。
* 自然湖 - 長野県西部地震によりせき止められた木曽川の支流である王滝川上流の湖で、立ち枯れの木が湖の中に並んでいて夏季シーズンの[[カヌー]]が人気となっている<ref name="御岳山霊なる山の素顔 49頁">[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、49頁]]</ref>。
* [[牧尾ダム|御岳湖]] - 王滝川の牧尾ダムによりできた[[湖]]。
* おんたけ休暇村 - 御岳高原にある名古屋市の保険休養地、周辺には木曽御岳カントリークラブの[[ゴルフ場]]がある。
* [[濁河温泉]] - 御嶽山の濁河口の登山口にある温泉
* [[東京大学]][[天文台]]木曽観測所 - 東京大学大学院理学系研究科附属天文学教育研究センターの木曽観測所が木曽郡木曽町三岳10762-30にあり、[[1977年]](昭和55年)2月に[[香西洋樹]]と[[古川麒一郎]]が発見した[[小惑星]]がその場所にちなんで『[[御嶽 (小惑星)|御嶽]]』と命名された。
* [[飛騨御嶽高原高地トレーニングエリア]] - 北西山腹にある高地トレーニング施設。2007年(平成19年)に濁河温泉付近に下呂市が「御嶽パノラマグランド」を開設した。濁河温泉とチャオ御岳リゾートを結ぶ「飛騨御嶽[[高橋尚子|尚子]]ボルダーロード」が整備されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hida-athlete.jp/training_c/nigorigo.html |title=トレーニングゾーン(濁河温泉) |publisher=飛騨御嶽高原高地トレーニングエリア |accessdate=2013-02-12}}</ref>。
* 小坂の滝めぐりコース - 西山腹の下呂市小坂町の飛騨川の支流の小坂川には落差5 m以上の滝が200以上あり<ref name="tizu-kokudo" /><ref name="ontake_kazan04" />、多数の滝めぐりコースが紹介されている<ref name="osaka-taki" />。滝によってはガイドが必要な箇所もある<ref name="osaka-taki" />。
** 三ツ滝コース(椹谷) - 三ツ滝(上段の落差5 m、中段11 m、下段6 m)、あかがねとよ(落差14 m)、からたに滝(落差15 m)
** 仙人滝コース(濁河川上流部) - 仙人滝(落差30 m)、無名の滝(落差15 m)、[[白糸の滝]](落差15 m)、緋の滝(落差20 m)[[ファイル:根尾滝.jpg|サムネイル|175px|[[根尾の滝]]<br>(落差 63m・幅 5m)]]
** 根尾の滝コース(濁河川) - 根尾の滝(落差63 m、日本の滝百選)
{{Main|根尾の滝}}
** 材木滝コース(兵衛谷) - 材木滝(落差23 m)、翡翠の滝(上段の落差10 m、下段8 m)
** あまつばの滝コース(椹谷) - あまつばの滝(落差17 m)、二段の滝(上段の落差10 m、下段3 m)、孫八滝(落差15 m)、焼小屋の滝(落差17 m)
** 観音滝コース(大洞川) - 観音滝(落差9 m)、立岩の滝(落差45 m)、塩滝(落差15 m)
** 濁滝コース(濁河川) - 二段の滝(上段の落差10 m、下段10 m)、くの滝(落差15 m)、濁滝(落差27 m)
** 岩折の滝コース(兵衛谷) - 岩折の滝(落差21 m)、屏風の滝(落差28 m)、吹上の滝(落差25 m)
** 千畳の滝コース(真谷) - 千畳の滝(落差50 m)
** しょうけ滝コース(兵衛谷) - しょうけ滝(落差23 m)、扇滝(落差6 m)
** 龍門の滝コース(兵衛谷) - 龍門の滝(落差15 m)、袴滝(落差20 m)
** 回廊の滝コース(椹谷) - 回廊の滝(落差40 m)、開門の滝(落差40 m)
** 百間滝コース(兵衛谷) - パノラマの滝(上段の落差50 m、下段10 m)、百間の滝(落差60 m)
=== スキー場 ===
[[ファイル:KaidaKogenMIA 0001.jpg|サムネイル|[[開田高原マイアスキー場]]から望む「日和田富士」と呼ばれる継子岳]]
北側と東側の山腹には以下の[[スキー場]]があり、[[標高]]の高い位置(上部は標高2,000 m以上)にあり雪質が良く、[[ゴールデンウィーク]]頃の遅い時期まで滑走が可能である。王滝村は、村営であった旧おんたけスキー場の[[負債]]により厳しい財政状況となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.vill.otaki.nagano.jp/mura_keikaku/zaiseikennzenka_plan.html |title=王滝村財政健全化計画 |publisher=王滝村 |accessdate=2013-02-12}}</ref>。
* [[おんたけ2240]](旧おんたけスキー場)
* [[御岳ロープウェイスキー場]] - 平成22年度より冬季営業休止
* [[開田高原マイアスキー場]]
* [[チャオ御岳スノーリゾート|チャオ御岳スキー場]]
=== 眺望スポット ===
3,000mを越える高山であるが、奥深い山中にあるため、山体全体を眺められる場所は意外と少ない。高山市中切町の「中切町付近の山より望む御嶽山」、高山市久々野町無数河の「舟山山頂道路より望む御嶽山」、高山市朝日町西洞の「鈴蘭高原より望む御嶽山」、高山市朝日町胡桃島の「胡桃島キャンプ場近く展望台より望む御嶽山」と「秋神地域より望む継子岳」が、「新高山市100景」のひとつに選定されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.takayama.lg.jp/toshiseibi/100keiichiran.html |title=新高山市100景 |publisher=高山市 |accessdate=2013-02-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140812140614/http://www.city.takayama.lg.jp/toshiseibi/100keiichiran.html |archivedate=2014-08-12 }}</ref>。
* 長野県側に、[[九蔵峠]]と[[地蔵峠 (木曽町)|地蔵峠]]などがある<ref name="昭文社 (1993)、地図表面" />。
* 岐阜県側に、[[御嶽パノラマライン]]、日和田高原、御嶽鈴蘭高原などがある。
== 御嶽山の風景 ==
独立峰である御嶽山の大きな山容を、[[名古屋市]]をはじめとした[[濃尾平野]]([[尾張国|尾張]]や[[美濃国|美濃]])や遠方の山<ref group="注釈">条件が良ければ、[[如意ヶ嶽]](通称大文字山)や[[比叡山]]など、[[京都市]]にある山から見えるという。[http://www.kyotocity.net/diary/2014/0108-nyoigatake-ontakesan/ 京都の如意ヶ岳(大文字山)から長野の御嶽山を遠望 2014年1月]</ref>からなどの各方面から望むことができる<ref name="田中 (1996)、119頁" />。東海地方の多くの [[小学校|小]][[中学校|中]][[高等学校]]の校歌で山名が歌い込まれている<ref group="注釈">一例として「みはるかす尾張の平野独り立つ御岳」([[愛知県立一宮北高等学校]])、「朝あけの山なみ越えて空かぎる御岳はるか」([[愛知県立小牧南高等学校]])、「御嶽の峰に雲たなびきて」([[北名古屋市立師勝中学校]])、「雪の御岳[[伊吹山|伊吹]]や[[多度山|多度]]の山なみ遠く望む時」([[稲沢市立大里東小学校]])</ref><ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、126-127頁]]</ref>。木曽谷では開田高原以外に麓から御嶽山を望める箇所は少ない<ref name="田中 (1996)、119頁" />。5月中旬ごろ、東面の9合目付近に残雪の白い背景に黒色の種をまくお爺さんの姿の[[雪形]](ネガ型)が見られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.azumino.nagano.jp/soshiki/32/10310.html |title=雪形・長野県中部 |publisher=[[安曇野市]] |date=2015-12-28 |accessdate=2016-11-17 }}</ref>。[[深田久弥]]は1965年(昭和39年)に第16回[[読売文学賞]](評論・伝記賞)を受賞した『日本百名山』の著書で御嶽山の山容を{{Quotation|この傾斜がみごとである。厖大な頂上を支えるには十分な根張りをもって、御岳全体を均整のとれた美しい山にしている。|深田久弥『日本百名山』}}と表現している<ref name="深田 (1982)、227-230頁" />。
=== 各方面からの山容 ===
<gallery widths="140px" heights="140px">
14 Ontakesan from kazakoshiyama 2002-5-6.jpg|東の[[風越山 (上松町)|風越山]]より。
Ontakesan from kohideyama 2002 10 30.jpg|南の[[小秀山]]より。
Ontakesan from Kuraiyama 2005-3-21.JPG|西の[[位山]]より。
Kiso_Ontake.jpg|北の[[国道361号]]より。
View from the Observation Room of Higashiyama Sky Tower (3), Tashiro-cho Chikusa Ward Nagoya 2021.jpg|[[東山スカイタワー]]より。画像左奥は乗鞍岳。<br/>(愛知県名古屋市[[千種区]])
Ontakesan from Futamurayama 02, Toyoake 2010.jpg|[[二村山]]より。<br/>(愛知県[[豊明市]])
Port of Morozaki, Minami-chita Town 2014.jpg|[[師崎港]]より(画像右奥)。<br/>(愛知県[[知多郡]][[南知多町]])
</gallery>
=== 御嶽山からの展望 ===
山上部からは東に[[八ヶ岳]]、[[中央アルプス]]、[[赤石山脈|南アルプス]]、[[富士山]]、南に[[小秀山]]などの[[阿寺山地]]、濃尾平野、西に[[白山]]などの[[両白山地]]、北にニノ池、乗鞍岳などの北アルプスが望める<ref>[[#木曽のおんたけさん―その歴史と信仰|菅原 (2009)、95頁]]</ref>。
<gallery widths="140px" heights="140px">
Lenticular clouds on Mount Fuji from Mount Ontake.jpg|[[木曽山脈|中央アルプス]]越しの[[富士山]]。
Yatsugatake and sunrise.JPG|[[八ヶ岳]]とご来光。
Mount Mamahaha and Mount Haku from Okunoin.jpg|継母岳と[[白山]]。
Hida Mountains and Ninoike from Mount Ontake (wide).jpg|ニノ池と[[飛騨山脈]](北アルプス)。
</gallery>
== メディア ==
=== 古文書 ===
* 『御嶽登山社礼伝祝詞巻』 - [[1576年]]([[天正]]4年)の古祭文
* 『御嶽縁起』 - 室町時代の中期[[1592年]](天正20年)に書写された御嶽の神を祀る[[祝詞]]、祭文、[[縁起]]などの[[巻物]]
* 『御嶽蔵王権現登山次第』 - [[1704年]]-[[1710年]]([[宝永]]年間)の筆写本で道者の王滝口での登拝の方法などが記載されている<ref name="生駒 (1988)、96-104頁">[[#御岳の信仰と登山の歴史|生駒 (1988)、96-104頁]]</ref>。
* 『登山古例之事』 - 道者の黒沢口での登拝の方法などが記載されている<ref name="生駒 (1988)、96-104頁" />。
* 『御嶽由来伝記』
* 『御嶽登山案内』
* 『御嶽一山記録』
* 『木曽採薬記』 - 1804年-1818年(文化年間)に水谷豊文が刊行<ref name="生駒 (1988)、205頁" />。
[[ファイル:Kisokaido35 Yabuhara.jpg|サムネイル|『[[中山道六十九次|木曾街道六拾九次]] [[藪原宿|藪原]]』([[渓斎英泉]]画)に[[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]]から望む御嶽山が描かれている。]]
* 『[[中山道六十九次]]』の[[藪原宿]]と[[奈良井宿]] - 1835-1837年(天保6-8年)頃に、[[渓斎英泉]]により鳥居峠からの御嶽山の風景が描かれた。
* 『木曽産草花根皮類』 - [[1844年]]([[天保]]15年)に周辺の木曽谷の山域で採取された植物の「おしば帳」<ref name="生駒 (1988)、201-202頁" />
* 『御嶽山総図』 - [[1848年]]([[嘉永]]元年)
* 『日本名山図会』 - 江戸後期、江戸[[南画]]の[[谷文晁]]が、旅人と鳥居峠からの御嶽山の風景を描写している<ref>{{Cite book|和書 |author=谷文晁 |date=1970-05 |title=日本名山図会 |publisher=[[国書刊行会]] |isbn=4336034133}}</ref>。
=== 新聞 ===
* 大型写真企画「御岳山」 - 信濃毎日新聞で2009年(平成21年)7月から2010年(平成22年)4月まで39回の連載<ref>[[#御岳山霊なる山の素顔|洋泉社 (2010)、6頁]]</ref>
=== 写真集 ===
* {{Cite book|和書 |author=宮原卓司 |date=2001-12 |title=信州木曽御嶽 山麓逍遙 |publisher=遊人工房 |isbn=4946562346}}
=== 関連書籍 ===
* {{Cite book|和書 |author=青木保編|authorlink=青木保 (文化人類学者) |date=1994-10 |title=御岳巡礼―現代の神と人 |publisher=[[講談社]] |isbn=4061591487}}
* {{Cite book|和書 |author=上野ミチオ |date=1994-11-15 |title=御嶽山 |publisher=近代文藝社 |isbn=4773322586}}
* {{Cite book|和書 |author=三浦清吉 |year=1999 |month=7 |title=木曽御岳山 |series=登山・ハイキング(5) |publisher=[[ゼンリン]] |isbn=4432901535}}
* {{Cite book|和書 |author=久山喜久雄 |date=2007-01 |title=御岳の風に吹かれて―開田高原への招待 |publisher=ナカニシヤ出版 |isbn=4888487111}}
* {{Cite book|和書 |author=中山郁 |date=2007-07-09 |title=修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代― |publisher=[[弘文堂]] |isbn=978-4335100826}}
* {{Cite book|和書 |author=木股文昭 |year=2010 |month=6 |title=御嶽山―静かなる活火山 |publisher=[[信濃毎日新聞社]] |pages= |isbn=9784784071395}}
* {{Cite book|和書 |author=飛騨山岳会 |year=2010 |month=11 |title=飛騨の山 研究と案内 |publisher=ナカニシヤ出版 |pages=160-161 |isbn=9784779505041}}
* {{Cite book|和書 |author=菅原壽清 |year=2012 |month=10 |title=木曽御嶽信仰とアジアの憑霊文化 |publisher=岩田書院 |isbn=978-4872947687}}
* [[#参考文献|参考文献も参照]]
=== テレビ番組 ===
* 『こころの時代 宗教・人生 山の信仰 霊山御嶽』 [[NHK教育テレビジョン]]、1985年9月8日放送<ref>{{Cite web|和書|url=http://nhk.jp/chronicle/?0001000000000000%40000000000000000000000007072D00000000000000000100 |title=NHKアーカイブス保存番組詳細 こころの時代(1985年9月8日放送) |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=2016-11-17 }}</ref>
* 『日本百名山 御嶽』 [[NHK衛星第2テレビジョン]]、1994年11月3日放送<ref>{{Cite web|和書|url=http://nhk.jp/chronicle/?0001000000000000%40000000000000000000000013-435100000000000000000200 |title=NHKアーカイブス保存番組詳細 日本百名山 御嶽(1994年11月3日放送) |publisher=NHK |accessdate=2016-11-17 }}</ref>
* 『いのち輝く山 〜四季・御嶽〜』 [[NHK総合テレビジョン]]、2005年1月1日放送<ref>[[菅原文太]]が出演。{{Cite web|和書|url=http://nhk.jp/chronicle/?0001000000000000%4000000000000000000000003A41-2E00000000000000000100 |title=NHKアーカイブス保存番組詳細 いのち輝く山 〜四季・御嶽〜(2005年1月1日放送) |publisher=NHK |accessdate=2016-11-17 }}</ref>
* 『週刊 日本の名峰 御嶽山』 [[NHKデジタル衛星ハイビジョン]]、2007年6月11日放送<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/meihou/osusume/ontakesan.html |title=お勧めの山・御嶽山 |publisher=NHK |accessdate=2011-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117031743/http://www.nhk.or.jp/meihou/osusume/ontakesan.html |archivedate=2012-01-17 }}</ref>
* 『絶景!夏の御嶽山 〜御嶽山〜 』 総合テレビ([[NHK名古屋放送局]])、[[ウイークエンド中部]]、2010年8月21日放送<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/nagoya-we-blog/2010/08/ |title=生中継・絶景!夏の御嶽山 〜御嶽山〜 |publisher=NHK |accessdate=2011-03-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117031516/http://www.nhk.or.jp/nagoya-we-blog/2010/08/ |archivedate=2012-01-17 }}</ref>
* 『小さな旅 山の歌 祈りの峰 いまも〜御嶽山〜』 NHK総合テレビジョン、[[小さな旅]]、2010年8月28日放送<ref name="tisana tabi" />
* 『天空の宿へ 〜にっぽん山小屋物語〜』 [[テレビ東京]]、[[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]]、2011年9月3日放送<ref name="tv-tokyo" />
* 『にっぽん百名山 御嶽山』 [[NHK BSプレミアム]]、[[にっぽん百名山]]、2012年9月10日放送<ref>{{Cite web|和書|url=http://nhk.jp/chronicle/?0001000000000000%40000000000000000000000068783500000000000000000200 |title=NHKアーカイブス保存番組詳細 にっぽん百名山 御嶽山(2012年9月10日放送) |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=2016-11-17 |archiveurl=https://archive.is/XO8yU |archivedate=2016-11-17}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=新井清、真継伸彦 |year=1983 |month=11 |title=八ヶ岳・御岳と中央アルプス |series=日本の名山7 |publisher=[[ぎょうせい]] |isbn= |ref=八ヶ岳・御岳と中央アルプス}}
* {{Cite book|和書 |author=生駒勘七 |year=1988 |month=4 |title=御岳の信仰と登山の歴史 |publisher=[[第一法規出版]] |isbn=4474000900 |ref=御岳の信仰と登山の歴史}}
* {{Cite book|和書 |author= |year=2010 |month=10 |title=いちどは行ってみたい日本の聖地 新版 |publisher=[[信濃毎日新聞社]] |isbn=978-4862485809 |ref=いちどは行ってみたい日本の聖地}}
* {{Cite book|和書 |author=一等三角点研究会 |year=1988 |month=11 |title=[[一等三角点百名山]] |publisher=山と溪谷社 |pages= |isbn=9784635330008 |ref=一等三角点百名山}}
* {{Cite book|和書 |author=伊部高夫 |year=2006 |month=09 |title=長野県中信・南信日帰りの山―120山/188コース |publisher=章文館 |isbn=4901742051 |ref=長野県中信・南信日帰りの山}}
* {{Cite book|和書 |author=岩崎元郎|authorlink=岩崎元郎 |year=2006 |month=3 |title=[[新日本百名山]]登山ガイド〈下〉 |publisher=山と溪谷社 |isbn=4635530477 |ref=新日本百名山}}
* {{Cite book|和書 |author=ウォルター・ウェストン|authorlink=ウォルター・ウェストン |translator=青木枝朗 |year=1997 |month=6 |title=日本アルプスの登山と探検 |publisher=[[岩波文庫]] |isbn=4003347412 |ref=日本アルプスの登山と探検}}
* {{Cite book|和書 |author= |year=1993 |title=御嶽山 |series=[[山と高原地図]]1993年版 |publisher=[[昭文社]] |isbn=4398751076 |pages= |ref=山と高原地図1993年版}}
* {{Cite book|和書 |author= |year=2011 |month=3 |title=御嶽山 小秀山・奥三界岳 |series=山と高原地図2011年版 |publisher=昭文社 |isbn=9784398757791 |ref=山と高原地図(2011)}}
* {{Cite book|和書 |author= |date=2012-05-12 |title=御岳山―霊なる山の素顔 新版 |publisher=[[洋泉社]] |isbn=9784784071470 |ref=御岳山霊なる山の素顔}}
* {{Cite book|和書 |editor=宮家準|editor-link=宮家準 |year=1985 |month=2 |title=御岳信仰 |series=民衆宗教史叢書 第6巻 |publisher=[[雄山閣]] |isbn=4639004613 |ref=御岳信仰}}
* {{Cite book|和書 |author=垣外富士男、池上立、津野祐次、中山秀幸 |year=1998 |month=09 |title=長野県の山 |series=分県登山ガイド |publisher=山と溪谷社 |isbn=4635021750 |ref=長野県の山}}
* {{Cite book|和書 |author=岐阜県山岳連盟 |year=1987 |month=7 |title=ぎふ百山 |publisher=[[岐阜新聞社]] |isbn=4905958474 |ref=ぎふ百山}}
* {{Cite book|和書 |editor=菅原壽清、中山郁、時枝務 |year=2009 |month=8 |title=木曽のおんたけさん―その歴史と信仰 |publisher=岩田書院 |isbn=978-4872945690 |ref=木曽のおんたけさん―その歴史と信仰}}
* {{Cite book|和書 |author1=串田孫一|authorlink1=串田孫一|author2=今福龍太|authorlink2=今福龍太|author3=今井通子|authorlink3=今井通子 |year=1998 |month=11 |title=日本の名山11 御岳山 |series=日本の名山 |publisher=博品社 |pages= |isbn=4938706571 |ref=日本の名山}}
* {{Cite book|和書 |author=小谷宗司、岩本義行、木曽御岳観光連盟 |year=2000 |month=06 |title=花かおる御嶽山 |series=ビジター・ガイドブック |publisher=[[ほおずき書籍]] |isbn=443400221X |ref=花かおる御嶽山}}
* {{Cite book|和書 |editor=徳久球雄 |date=1992-10 |title=コンサイス日本山名辞典 |publisher=[[三省堂]] |isbn=4-385-15403-1 |edition=修訂版 |ref=日本山名辞典}}
* {{Cite book|和書 |author=近藤紀巳 |year=2002 |month=4 |title=ぐるり御岳 とっておきの自然 |publisher=[[中日新聞社]] |pages= |isbn=4806204447}}
* {{Cite book|和書 |author=島田靖 |year=2005 |month=7 |title=日本百名山地図帳 |publisher=山と溪谷社 |isbn=4-635-92203-0 |ref=日本百名山地図帳}}
* {{Cite book|和書 |author=島田靖、堀井啓介 |year=2009 |month=12 |title=改訂版 岐阜県の山 |series=新・分県登山ガイド・改訂版 |publisher=山と溪谷社 |isbn=9784635023702 |ref=岐阜県の山}}
* {{Cite book |和書 |year=2011 |month=11 |title=信州ふるさと120山 |editor=長野県山岳協会120山委員会 |publisher=信濃毎日新聞社 |isbn=9784784071821 |ref=信州ふるさと120山}}
* {{Cite book|和書 |editor=日本山岳会|editor-link=日本山岳会 |year=2005 |month=11 |title=新日本山岳誌 |publisher=[[ナカニシヤ出版]] |isbn=4-779-50000-1|ref=新日本山岳誌}}
* {{Cite book|和書 |author=菅原寿清 |year=2002 |month=7 |title=木曽御嶽信仰―宗教人類学的研究 |publisher=岩田書院 |isbn=487294254X |ref=木曽御嶽信仰}}
* {{Cite book|和書 |author=田中欣一 |date=2006-12-26 |title=木曽路大紀行―よみがえる木曽人の物語 |series=「信州の大紀行」シリーズ (2) |publisher=[[一草舎]] |isbn=978-4902842272 |ref=よみがえる木曽人の物語}}
* {{Cite book|和書 |author=田中澄江|authorlink=田中澄江 |year=2017 |month=6 |title=[[花の百名山]] 新装版 |publisher=[[文春文庫]] |isbn=4167908751 |ref=花の百名山}}
* {{Cite book|和書 |author=田部重治|authorlink=田部重治 |year=1996 |month=2 |title=わが山旅五十年 |publisher=[[平凡社ライブラリー]] |isbn=4582761348 |ref=田部重治}}
* {{Cite book|和書 |editors=[[高橋正樹 (火山学者)|高橋正樹]]、[[小林哲夫 (地球科学者)|小林哲夫]](編) |year=2000 |month=04 |title=中部・近畿・中国の火山 |series=フィールドガイド日本の火山⑥ |publisher=[[築地書館]] |isbn=4806711993 |ref=中部・近畿・中国の火山}}
* {{Cite book|和書 |author=津野祐次、島田靖、栂典雅 |year=2009 |month=6 |title=アルペンガイド11 中央アルプス 御嶽山・白山 |series=ヤマケイ・アルペンガイド |publisher=山と溪谷社 |isbn=9784635013598 |ref=中央アルプス 御嶽山・白山}}
* {{Cite book|和書 |author=豊国秀夫|authorlink=豊国秀夫 |year=1988 |month=9 |title=日本の高山植物 |series=山溪カラー名鑑 |publisher=[[山と渓谷|山と溪谷社]] |isbn=4-635-09019-1 |ref=日本の高山植物}}
* {{Cite book|和書 |author=中村成勝 |year=1996 |title=日本雪山登山ルート集 |publisher=山と溪谷社 |isbn=4-635-18003-4 |ref=日本雪山登山ルート集}}
* {{Cite book|和書 |author=日本山岳会東海支部 |year=2009 |month=10 |title=東海・北陸の200秀山 |series=上(東海・北陸編) |publisher=中日新聞社 |isbn=978-4806205982 |ref=東海・北陸の200秀山}}
* {{Cite book|和書 |date=1997-03 |title=[[日本三百名山]] |publisher=[[毎日新聞社]] |isbn=4620605247 |ref=日本三百名山}}
* {{Cite book|和書 |year=1986 |month=10 |title=日本登山図集 |publisher=[[日地出版]] |isbn=4527002333 |ref=日本登山図集}}
* {{Cite book|和書 |author= |year=1992 |month=8 |title=日本の山1000 |publisher=山と溪谷社 |isbn=4635090256 |ref=日本の山1000}}
* {{Cite book|和書 |editor=全国地質調査業協会連合会、地質情報整備活用機構 |date=2007-10 |title=日本列島ジオサイト地質百選 |publisher=[[オーム社]] |isbn=978-4274204609 |ref=日本列島ジオサイト地質百選}}
* {{Cite book|和書 |author=パーシヴァル・ローウェル|authorlink=パーシヴァル・ローウェル |year=1895 |title=Occult Japan Or the Way of the Gods |url=http://library.uoregon.edu/ec/e-asia/read/ocjap.pdf |ref=パーシヴァル・ローウェル}}
* {{Cite book|和書 |author=深田久弥|authorlink=深田久弥 |year=2003 |month=4 |title=日本百名山 |publisher=[[新潮文庫]] 改版 |isbn=4101220026 |ref=深田久弥}}
* {{Cite book|和書 |author=深田クラブ |year=1987 |title=[[日本二百名山|日本200名山]] |publisher=[[昭文社]] |pages= |isbn=4398220011 |ref=日本200名山}}
* {{Cite book|和書 |author=三宅修 |year=2003 |month=7 |title=現代日本名山図会 |publisher=[[実業之日本社]] |isbn=4408007862 |ref=現代日本名山図会}}
* {{Cite book|和書 |author= |year=2005 |month=10 |title=目で見る日本登山史・日本登山史年表 |publisher=山と溪谷社 |isbn=4635178145 |ref=目で見る日本登山史・日本登山史年表}}
* {{Cite book|和書 |author=吉野晴朗 |year=1996-08 |title=ふるさとの富士200名山 |publisher=[[東方出版]] |isbn=488591499X |ref=ふるさとの富士200名山}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Mount Ontake|Mount Ontake}}
* [[御嶽山県立自然公園]]
* [[御岳県立公園]]
* [[日本百名山]]、[[新日本百名山]]、[[花の百名山]]、[[一等三角点百名山]]、[[ぎふ百山]]
* [[日本の山一覧 (高さ順)]]・第14位、[[日本の山一覧 (3000m峰)]]
* [[御嶽山系]]
* [[活火山]]、[[火口湖]]
* [[高山植物]]、[[コマクサ]]、[[ライチョウ]]
* [[牧尾ダム|御岳湖]]、[[木曽川]]
* [[日本二十五勝]]
* [[日本の地質百選]]
* [[濁河温泉]]
* [[長野県道256号御岳王滝黒沢線]]、[[長野県道473号上松御岳線]]、[[岐阜県道435号御岳山朝日線]]
* [[おんたけ2240]]、[[御岳ロープウェイ]]、[[開田高原マイアスキー場]]、[[チャオ御岳スノーリゾート]]
* [[長野県西部地震]]
* [[木曽御嶽神社王滝口]]
* [[山岳信仰]] - [[修験道]]
* [[御嶽山 (曖昧さ回避)|同名の山(御嶽山・御岳山)]]
* [[御嶽海久司]]
* [[千葉セクション]]
* [[チバニアン]]
== 外部リンク ==
* 気象庁
** [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/312_Ontakesan/312_index.html 御嶽山・火山]
**[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/open-data/open-data.php?id=312 御嶽山の火山観測データ]
***[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/monthly_vact_vol.php?id=312 御嶽山の臨時及び過去の詳細月別火山概況・火山活動解説資料]
***[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/open-data/data/eq_num_312.html 御嶽山の最近(2ヶ月間)の日別地震回数表]
** {{PDF|[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/53_Ontakesan.pdf 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 御嶽山]}}
* [https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/E66.html 日本の火山 御嶽山] - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
* [https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/volcano-maps-vlcm.html#ontake 火山土地条件図(御嶽山 1:25,000)] - 国土地理院
* [http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?crs=1&b=355334&l=1372849&z=16#crs=1&b=355334&l=1372849&z=16&zoom=16&lat=35.89278&lon=137.48028&layers=BTTT 地理院地図(剣ヶ峰)] - 国土地理院
* 防災関連
** {{PDF|[https://vivaweb2.bosai.go.jp/v-hazard/L_read/53ontakesan/53ontake_1m02-L.pdf 御嶽山火山防災ハンドブック(岐阜県)]}} - 防災科学技術研究所
** {{PDF|[https://vivaweb2.bosai.go.jp/v-hazard/L_read/53ontakesan/53ontake_2h03-L.pdf 御嶽山火山防災ハンドブック(長野県)]}}
** {{PDF|[https://www.pref.nagano.lg.jp/sabo/infra/sabo/dosha/documents/ontake1.pdf 御嶽山火山防災マップ]}} - 長野県
** [https://www.town-kiso.com/bousai/bousai/100204/ 土砂災害・洪水防災マップ(ハザードマップ)] - 木曽町
** [https://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/sabo/ontake/ 御嶽山を見てみよう!(ライブカメラ)] - 国土交通省中部地方整備局多治見砂防国道事務所
* [http://www.vill.otaki.nagano.jp/ontake_tozan/ontakesan_tozando/kisoontakesan_tanoharatyuusyajou.html 木曽御嶽山登山道(王滝口)の概要] - 王滝村
* {{Kotobank}}
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フォーク
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英語で「民族の」、「国民的」といった意味。この語を冠するいくつかの言葉は略して「フォーク」と呼ばれることがある。スペイン語ではフォルク(folc)、ドイツ語ではフォルク(Volk)、フォルクス(Volks)。
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"title": "folk"
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] | null |
{{Wiktionary|フォーク}}
== fork ==
[[Image:assorted forks.jpg|right|thumb|200px|[[食事]]に使うフォーク各種]]
* [[又]]に分かれているもの
** [[ピッチフォーク]] - 原義となっている、[[欧米]]で伝統的に用いられてきた農業用の[[熊手]]。
** [[フォーク (食器)]] - [[食器]]の一種。
** [[フォーク (企業)]] - 日本の作業服、ユニホーム製作会社。
** [[異端者のフォーク]] - [[拷問具]]の一種。
** [[フォークボール]] - [[野球]]で投手が投げる球種のひとつ(由来は投球するときにフォークのようにボールを持つため)。
** [[フォークリフト]] - 輸送機械の一種。
** [[フォーク並び]] - 人間が整列する際の習慣の一種。
** [[フロントフォーク (自転車)]] - [[自転車]]の前輪を支持する構造。
** [[フロントサスペンション (オートバイ)]] - [[オートバイ]]の前輪を支持する構造。
** [[リヤサスペンション (オートバイ)]] - オートバイの後輪を支持する構造のひとつであるスイングフォーク({{lang-en-short|Swing Fork}})。
* 分岐点
** [[フォーク (ファイルシステム)]] - [[コンピュータ]]の[[ファイルシステム]]でオブジェクトに結びつけられた一つまたは複数の[[メタデータ]]。
*** [[リソースフォーク]] - [[macOS]]のファイルシステム([[HFS]]、[[HFS Plus|HFS+]])におけるファイル構造の名称。
** [[fork]] - コンピュータ用語で、ある[[プロセス]]が自分自身の複製を作ることによって別のプロセスを生成すること。
*** [[フォーク (ソフトウェア開発)]] - あるソフトウェア開発プロジェクトから分岐して、別のプロジェクトができること。
*** [[ブロックチェーン]]が分岐すること。[[仮想通貨]]の取引履歴など。[[ビットコインのスケーラビリティ問題#フォーク]]を参照。
** [[両取り]] - [[チェス]]の戦略の一種。
* 固有名称
** [[FORK]] - 日本に在住する[[ラッパー]]。
{{see also|[[:en:Fork (disambiguation)]]}}
** [[フォーク (フォント)]] [https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/1282] - [[モリサワ]]株式会社のフォント。
== folk ==
英語で「民族の」、「国民的」といった意味。この語を冠するいくつかの言葉は略して「フォーク」と呼ばれることがある。スペイン語ではフォルク(folc)、ドイツ語ではフォルク(Volk)、フォルクス(Volks)。
{{see also|[[:en:Folk (disambiguation)]]}}
* [[フォークソング]] - 歌の一種。
* [[フォークダンス]] - ダンスの一種。
* [[フォークギター]] - 楽器の一種。
* [[フォークロック]] - ロック音楽のジャンル、およびムーブメントの一種。
* [[フォーク・メタル]] - ヘヴィメタルの一種で、民族音楽の要素を取り入れたもの。
* [[フォークロア]] - 民族学的な伝承、文化、ファッションなどを指す語。
* [[フォルクローレ]] - スペインの民族音楽。
* [[フォーク (企業)]] - 日本のユニフォームメーカー。
* [[フォルクスワーゲン]] (Volkswagen) - ドイツ語で"国民の車"、"民衆の車"の意味。
* フォルクスイェーガー (Volksjäger) - ドイツ語で"国民戦闘機"の意味。[[ハインケルHe162]]を参照。
* フォルクスグレナディア (Volksgrenadier) - [[国民擲弾兵]]を参照。
* フォルクスシュトゥルム (Volkssturm) - [[国民突撃隊]]を参照。
* [[フォルクス]] - [[アークミール]]が運営するステーキハウスチェーン店。
* [[ボークス]] - 京都市を拠点とする模型メーカー。"ボークス"は"Volks"の英語読み。
== その他 ==
* falk - 英語圏の姓。[[ドイツ語]]ではファルクと発音される。
** [[ピーター・フォーク]] - アメリカ合衆国の俳優。
** {{see also|[[:en:Falk (disambiguation)]]}}
* faulk
** [[フォーク郡 (サウスダコタ州)]] - アメリカ合衆国サウスダコタ州の郡。
** [[マーシャル・フォーク]] - アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手。
** {{see also|[[:en:Faulk (disambiguation)]]}}
* foulk
** [[ジョージ・クレイトン・フォーク]] - アメリカ合衆国の外交官。
* foulke
** [[キース・フォーク]] - アメリカ合衆国の野球選手。
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御嶽
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御嶽、御岳(おんたけ、みたけ、おたけ、うたき、おん)
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御嶽、御岳(おんたけ、みたけ、おたけ、うたき、おん)
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'''御嶽'''、'''御岳'''(おんたけ、みたけ、おたけ、うたき、おん)
== 山 ==
{{main2|御岳山、御嶽山など名前に「山」が付く場合|御嶽山 (曖昧さ回避)}}
* [[御嶽 (兵庫県)]](みたけ) - [[兵庫県]][[丹波篠山市]]にある山。
* [[御嶽 (長崎県)]](みたけ) - [[長崎県]][[対馬市]]にある山。
* 御岳(おんたけ) - [[鹿児島県]][[鹿屋市]]の高隈山を構成する山のひとつ。{{main|[[高隈山地]]}}
* 御岳(おんたけ) - 鹿児島県[[鹿児島市]]の桜島を構成する山のひとつ。北岳。{{main|[[桜島]]}}
* 御嶽(みたけ) - 鹿児島県[[屋久島町]]の[[屋久島]]の高峰に対する呼称。三岳ともいう。{{main|[[宮之浦岳]]|[[永田岳]]|[[栗生岳]]}}
* 御岳(おんたけ) - 鹿児島県[[十島村]]の中之島を構成する山。{{main|[[中之島 (鹿児島県)]]}}
* 御岳(おたけ) - 鹿児島県十島村の諏訪之瀬島を構成する山。{{main|[[諏訪之瀬島]]}}
* 御岳(おたけ) - 鹿児島県十島村の平島を構成する山。{{main|[[平島 (鹿児島県)]]}}
* 御岳(みたけ) - 鹿児島県十島村の悪石島を構成する山。{{main|[[悪石島]]}}
* 御岳(おたけ) - 鹿児島県十島村の臥蛇島を構成する山。{{main|[[臥蛇島]]}}
== 地名 ==
* [[御嵩町]](みたけまち) - [[岐阜県]][[可児郡]]の[[町]]。[[中山道]]の[[御嶽宿]]があった。
* [[御岳村]](曖昧さ回避)
** 御岳村 (宮城県) - かつて[[宮城県]][[本吉郡]]にあった村。町制施行し[[津谷町]]となる。現[[気仙沼市]]。
** [[御岳村 (熊本県)]] - かつて[[熊本県]][[上益城郡]]にあった村。現[[山都町]]。
* [[御岳 (青梅市)]](みたけ) - [[東京都]][[青梅市]]の市内町。御岳本町(みたけほんちょう)とは異なる。
== 駅 ==
* [[御嶽駅]](みたけえき) - [[東京都]][[青梅市]]にある駅。
* [[御嵩駅]](みたけえき) - [[岐阜県]][[可児郡]][[御嵩町]]にある駅。
==人名==
* [[御嶽海久司]] - [[力士]]。
== 宗教施設 ==
* [[御嶽 (沖縄)]](うたき、おん、わん) - [[沖縄県]]([[琉球王国]])の[[琉球神道]]における聖地・宗教施設。
== 小惑星 ==
* [[御嶽 (小惑星)]]
==関連項目==
* [[御嶽山 (曖昧さ回避)]]
*[[御嶽教]] - [[長野県]]と[[岐阜県]]の県境にある[[御嶽山]]を信仰根本道場とする[[教派神道]]の一つ。[[御嶽 (沖縄)|沖縄の御嶽]]とは無関係。
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多砲塔戦車
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多砲塔戦車(たほうとうせんしゃ)は、複数の砲塔を有する戦車である。第一次世界大戦から戦間期にかけて開発・軍への採用が行われた。
初めて戦車が各国から実戦投入された戦争は第一次世界大戦であった。ヨーロッパを縦断して大規模に行われた西部戦線のような塹壕戦において、塹壕突破兵器としてのニーズが生まれた。戦車の嚆矢はイギリスにおける陸上軍艦(Landship)構想であった。
戦車という兵器の発想の原点が、「陸上を走る軍艦」、つまり、「複数の砲塔や武装を備える船」であることは、重要な点である。
戦車という兵器は、多砲塔もしくは多武装こそが、本来の在り方だともいえる。
即ち、多砲塔戦車(多武装戦車)の特徴(コンセプト)とは、軍艦のように、「複数」の「砲塔」もしくは「武装」を備え、それにより、「多方向(複数目標)」もしくは「同方向(同一目標)」に、「同時」に、火力を発揮できる、ことなのである。
その結果生まれた世界最初の戦車:マーク I 戦車は、砲塔こそないが、両側面に2つの砲郭(ケースメイト)と複数の武装(主砲・機関銃)を有する、多武装戦車となった。これは軍艦における、舷側に並んだ副砲の配置に相当する。
見過ごされがちな点だが、戦車開発の黎明期において、砲塔を有しない形式の戦車であっても、複数の武装を備えた戦車(多武装戦車)は、そのコンセプトにおいては、多砲塔戦車と同じなのである。
しかし、1917年に登場したルノー FT-17 軽戦車が採用した、全周旋回可能な単一の砲塔と単一の主砲を車体上部に搭載する形状が、効率的な戦車のレイアウトとして確立されると、その後の多くの戦車がそれに倣うようになった。
第一次大戦が終結し戦間期に入っても、新時代の兵器として戦車の研究開発が続けられた。しかし戦術思想的には進歩はなく、相変わらず戦車は塹壕突破が主目的とされた。
イギリス軍参謀本部の構想に基づき、1925年にビッカース・アームストロング社によって製造されたA1E1 インディペンデント重戦車は、歩兵と共同せずに単独で塹壕線を打通することを目的に作られた戦車で、車体中央の主砲塔の回りに機銃塔4基を配置した合計5基の砲塔を持つ多砲塔戦車であった。
インディペンデント重戦車は各国で注目されたが、大型でコスト高となる多砲塔戦車は1929年の世界恐慌による軍備予算縮小もあって装備化が進められることはなかった(製造されたのは軟鉄製試作車が1輌のみ)。
しかし、ソビエト連邦(ソ連)ではインディペンデント重戦車を参考にしたT-28中戦車やT-35重戦車などが量産されることになり、特にT-28の生産数は500輌を超えた。なお、ソ連はイギリスに対してインディペンデント重戦車の購入を打診していたが、断られてしまった。そのため、T-35は砲塔のレイアウトこそインディペンデントと類似しているが、その他の点についてはソ連がインディペンデントの外観だけを参考に独自に組み上げた。
多砲塔戦車には、複数の方向へ死角無く機銃を配置することで、側方や後方からの攻撃を防御しようという意図があった。移動トーチカよりむしろ移動城砦である。戦車を多数投入して、お互いに防衛しあうといった思想ではなく、単独使用でも歩兵の肉薄攻撃に耐えうることを意図した発想である。特に側面攻撃から守られることは、戦車の敵陣突破を容易にすると考えられていた。だが、実際には得られる利点以上に数々の問題が生じた。
それは以下のような問題である。
特に3番目については、戦車を陸上軍艦と喩えた当初の戦車のコンセプトに、誤りがあった。松島型防護巡洋艦の例に見られる通り、軍艦の場合はその艦体に目一杯の大型の主砲を1門搭載するというレイアウトでは、極めて不安定になってしまう。また、1門のみでは公算射撃も行えないので、命中が期待できない。しかしながら戦車の場合、陸上であれば海上よりも遥かに足場は安定しており、また陸上では海上よりも敵・目標は至近であり、公算射撃は不要であり、車体に対して目一杯の大型主砲を1門搭載するというレイアウトが合理的であった。
側面・後方からの攻撃に対する防御という意図は、全周旋回砲塔上の主砲に同軸機関砲を装備し複数の戦車が協同するという方法で、より合理的に対応可能であった。
しかし、その大きさによる威圧的な外観は軍事力をアピールするには好都合で、軍事パレードなどで花形として展示されることもあった。設計コンセプトは歩兵支援に特化した重装甲の戦車として歩兵戦車などに残ったが、ソ連以外の国で多砲塔戦車が多数量産されることはなかった。
現代にも、一般に多砲塔戦車とは認識されていないが、多砲塔戦車と言えるものは存在する。それは戦車の砲塔上に存在する副武装である。これらがリモコン化され強化されたRWS(リモート・ウェポン・システム)は、一つの砲塔(銃塔)と言える。現代の多砲塔戦車の砲塔は、かつてのように水平方向に並んでいるのではなく、垂直方向に積み重なっているのである。
イギリス
カナダ
フランス
ソビエト連邦
ドイツ国
イタリア王国
大日本帝国
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多砲塔戦車(たほうとうせんしゃ)は、複数の砲塔を有する戦車である。第一次世界大戦から戦間期にかけて開発・軍への採用が行われた。
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[[File:FCM-F1.svg|right|thumb|300px|[[FCM F1|FCM-F1]]重戦車 フランス軍]]
'''多砲塔戦車'''(たほうとうせんしゃ)は、複数の[[砲塔]]を有する[[戦車]]である。[[第一次世界大戦]]から[[戦間期]]にかけて開発・軍への採用が行われた。
__TOC__
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== 誕生と発達 ==
初めて[[戦車]]が各国から実戦投入された戦争は[[第一次世界大戦]]であった。[[ヨーロッパ]]を縦断して大規模に行われた[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]のような[[塹壕|塹壕戦]]において、塹壕突破兵器としてのニーズが生まれた。戦車の嚆矢は[[イギリス]]における陸上軍艦(Landship)構想であった。
戦車という兵器の発想の原点が、「陸上を走る軍艦」、つまり、「複数の砲塔や武装を備える船」であることは、重要な点である。
戦車という兵器は、多砲塔もしくは多武装こそが、本来の在り方だともいえる。
即ち、多砲塔戦車(多武装戦車)の特徴(コンセプト)とは、軍艦のように、「複数」の「砲塔」もしくは「武装」を備え、それにより、「多方向(複数目標)」もしくは「同方向(同一目標)」に、「同時」に、火力を発揮できる、ことなのである。
その結果生まれた世界最初の戦車:[[マーク I 戦車]]は、砲塔こそないが、両側面に2つの砲郭(ケースメイト)と複数の武装(主砲・機関銃)を有する、多武装戦車となった。これは軍艦における、舷側に並んだ副砲の配置に相当する。
見過ごされがちな点だが、戦車開発の黎明期において、砲塔を有しない形式の戦車であっても、複数の武装を備えた戦車(多武装戦車)は、そのコンセプトにおいては、多砲塔戦車と同じなのである。
しかし、[[1917年]]に登場した[[ルノー FT-17 軽戦車]]が採用した、全周旋回可能な単一の[[砲塔]]と単一の[[主砲]]を車体上部に搭載する形状が、効率的な戦車のレイアウトとして確立されると、その後の多くの戦車がそれに倣うようになった。
第一次大戦が終結し[[戦間期]]に入っても、新時代の兵器として戦車の研究開発が続けられた。しかし[[戦術]]思想的には進歩はなく、相変わらず戦車は塹壕突破が主目的とされた。
[[File:IWM-KID-42-Vickers-Independent.jpg|right|thumb|300px|A1E1 インディペンデント重戦車]]
[[イギリス軍]]参謀本部の構想に基づき、[[1925年]]に[[アームストロング・ホイットワース|ビッカース・アームストロング]]社によって製造された[[A1E1 インディペンデント重戦車]]は、[[歩兵]]と共同せずに単独で塹壕線を打通することを目的に作られた戦車で、車体中央の主砲塔の回りに機銃塔4基を配置した合計5基の砲塔を持つ多砲塔戦車であった。
インディペンデント[[重戦車]]は各国で注目されたが、大型でコスト高となる多砲塔戦車は[[1929年]]の[[世界恐慌]]による軍備予算縮小もあって装備化が進められることはなかった(製造されたのは軟鉄製試作車が1輌のみ)。
しかし、[[ソビエト連邦]](ソ連)ではインディペンデント重戦車を参考にした[[T-28中戦車]]や[[T-35重戦車]]などが量産されることになり、特にT-28の生産数は500輌を超えた。なお、ソ連はイギリスに対してインディペンデント重戦車の購入を打診していたが、断られてしまった。そのため、T-35は砲塔のレイアウトこそインディペンデントと類似しているが、その他の点についてはソ連がインディペンデントの外観だけを参考に独自に組み上げた。
{{-}}
== 問題点 ==
多砲塔戦車には、複数の方向へ死角無く[[機関銃|機銃]]を配置することで、側方や後方からの攻撃を防御しようという意図があった。移動[[トーチカ]]よりむしろ移動[[城塞|城砦]]である。戦車を多数投入して、お互いに防衛しあうといった思想ではなく、単独使用でも歩兵の肉薄攻撃に耐えうることを意図した発想である。特に側面攻撃から守られることは、戦車の敵陣突破を容易にすると考えられていた。だが、実際には得られる利点以上に数々の問題が生じた。
それは以下のような問題である。
# 大型化と重量増による機動力の低下(機動戦に対応出来ない)
# 重量軽減のために全体的に[[装甲]]が薄くなる(例えば、[[T-35重戦車|T-35]]の最大装甲厚は正面の30mmで、初期の[[III号戦車]]と同等)(対戦車、対戦車砲への対抗力の不足)
# 複数の[[砲塔]]を持つため、車体規模に比して小型の[[主砲]]しか装備できず、[[火力 (軍事)|火力]]に劣る(戦術面での運用づらさ)
# 操作人員の増加により戦車内の指揮の混乱が発生しやすい。
# 高密度化された設計による整備性の低下
# 高価格
# 設計コンセプトが実戦にそぐわない([[塹壕]]突破兵器としての多砲塔戦車の設計コンセプトとは裏腹に、第二次世界大戦において塹壕戦はさほど多くなかった。戦術のずれ)
特に3番目については、戦車を陸上軍艦と喩えた当初の戦車のコンセプトに、誤りがあった。[[松島型防護巡洋艦]]の例に見られる通り、軍艦の場合はその艦体に目一杯の大型の主砲を1門搭載するというレイアウトでは、極めて不安定になってしまう。また、1門のみでは公算射撃も行えないので、命中が期待できない。しかしながら戦車の場合、陸上であれば海上よりも遥かに足場は安定しており、また陸上では海上よりも敵・目標は至近であり、公算射撃は不要であり、車体に対して目一杯の大型主砲を1門搭載するというレイアウトが合理的であった。
側面・後方からの攻撃に対する防御という意図は、全周旋回砲塔上の主砲に同軸[[機関砲]]を装備し複数の戦車が協同するという方法で、より合理的に対応可能であった。
しかし、その大きさによる威圧的な外観は軍事力をアピールするには好都合で、軍事パレードなどで花形として展示されることもあった。設計コンセプトは歩兵支援に特化した重装甲の戦車として[[歩兵戦車]]などに残ったが、ソ連以外の国で多砲塔戦車が多数量産されることはなかった。
== 現代の多砲塔戦車 ==
現代にも、一般に多砲塔戦車とは認識されていないが、多砲塔戦車と言えるものは存在する。それは戦車の砲塔上に存在する副武装である。これらがリモコン化され強化された[[RWS]](リモート・ウェポン・システム)は、一つの砲塔(銃塔)と言える。現代の多砲塔戦車の砲塔は、かつてのように水平方向に並んでいるのではなく、垂直方向に積み重なっているのである。
* [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Medium_Battletank_M48_A2C.jpg] - キューポラと一体となった銃塔をもつM48戦車も多砲塔戦車と言える。
* [https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/M60_A3_%287527994088%29.jpg] - キューポラと一体となった銃塔をもつM60戦車も多砲塔戦車と言える。
* [https://pbs.twimg.com/media/DeggQmfUQAEcgYz?format=jpg&name=large]
* [https://pbs.twimg.com/media/CsdqvVaUIAAKyq_?format=jpg&name=small]
* [https://pbs.twimg.com/media/CsdqvVZVUAAwCZ5?format=jpg&name=large]
* [https://pbs.twimg.com/media/CsdqvXVUAAARKap?format=jpg&name=medium]
== 各国の多砲塔戦車 ==
{{col|
{{UK}}
* [[A1E1 インディペンデント重戦車]]
* [[A1E1 インディペンデント重戦車#A3E1豆戦車|A3E1豆戦車]]
* [[ヴィッカース中戦車 Mk.III|A6 中戦車]]
* [[ヴィッカース中戦車 Mk.III|中戦車 Mk.III]]
* [[巡航戦車 Mk.I|巡航戦車 Mk.I(A9)]]
* [[クルセーダー巡航戦車|クルセーダー巡航戦車 Mk.I/II(A15)]]
|
{{CAN}}
* [[ラム巡航戦車|ラム巡航戦車 Mk.I/II(前期型)]]
|
{{FRA}}
* [[シャール 2C|シャール 2C重戦車]]
* [[FCM_F1|FCM-F1]]
|
{{SSR}}
* [[T-28中戦車]]
* [[T-35重戦車]]
* [[SMK (戦車)|SMK重戦車]]
* [[T-100|T-100重戦車]]
|
{{DEU1935}}
* [[グローストラクトーア]]{{Efn2|1920年代に複数の種類が試作された多砲塔戦車群。NbFzとは別物。}}
* [[NbFz (戦車)|NbFz(ノイバウファールツォイク)]]
|
{{ITA1861}}
* アンサルド P.60〜P.71 プロジェクト … フィアット-アンサルド社による1930年代前半の60〜70トンの多砲塔重戦車のプロジェクトで、海軍砲を装備する。(構想のみ)
|
{{JPN1889}}
* [[試製一号戦車]]
* [[九一式重戦車]]
* [[九五式重戦車]]
* [[オイ車]]
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考図書 ==
* 『歴史群像No.34多砲塔戦車』学習研究社、1998年
== 外部リンク ==
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[[Category:戦車の種類|たほうとう]]
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ダービーグランプリ
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ダービーグランプリは、岩手県競馬組合が施行していた地方競馬の重賞競走(M1)である。正式名称は「サンケイスポーツ杯 ダービーグランプリ」、サンケイスポーツを発行する産業経済新聞社(産経新聞社)が優勝杯を提供している。
1986年に秋の地方競馬の4歳(現3歳)最強馬を決める競走として創設された。本競走が創設された1986年当時は他地区や中央競馬との交流競走がほとんど行われておらず4歳重賞路線は各地方競馬ごとに整備されていたが、あくまで「当該地区での4歳チャンピオン」に過ぎず、真の地方4歳最強馬は明確でなかった。そこで真の地方4歳馬チャンピオンを決定するというコンセプトのもと、初の地方全国交流競走として創設された。
1996年に施行場を盛岡競馬場に移し、中央・地方全国交流競走に指定、日本中央競馬会(JRA)所属馬にも出走が可能になったほか、ユニコーンステークス(JRA東京競馬場)・スーパーダートダービー(大井競馬場)と共に4歳ダート3冠シリーズを形成、翌1997年にはダートグレード競走としてGIに格付けされ、名実共に秋の4歳ダート最強馬決定戦の位置付けとなった。
2001年には新設されたジャパンブリーディングファームズカップ(JBC)へのステップレースとしてRoad to JBCに指定、優勝馬にはJBCクラシックの優先出走権が与えられた。
しかし、2008年には主催者の岩手県競馬組合が地方3歳有力馬の確保の難しさなどを理由にダートグレード競走の格付けを返上することを申し入れ、2007年の開催を持って休止となった。
2010年、地方全国交流競走として3年ぶりに水沢競馬場で復活、産業経済新聞社から優勝杯の提供を受け、名称も「サンケイスポーツ杯 ダービーグランプリ」に変更された。また、岩手所属馬にとっては2018年まで岩手3歳三冠競走の最終戦として位置付けられた。
2016年に岩手競馬で重賞格付け制度が開始され、M1に格付けされた。
2021年から1着賞金が1500万円から2000万円に増額され、フルゲートも従来の14頭から16頭に拡大された。1着賞金額は2022年は2500万円に、2023年は3000万に増額されている。
本競走は2010年からスタリオンシリーズ競走に指定されている。
2024年に全日本的なダート競走の体系整備が行われることに関連して、不来方賞がダートグレード競走(JpnII)に格上げされ、秋に行われる3歳馬によるJpn1ジャパンダートクラシックの前哨戦として行われるようになり、ダービーグランプリは2023年をもって終了することになった。最後の開催となった第36回の競走は南関東三冠馬・ミックファイア、ホッカイドウ競馬三冠馬・ベルピット、さらにケンタッキーダービー出場歴があるマンダリンヒーローなど、超豪華メンバーが参戦し、マンダリンヒーローとの叩き合いを制したミックファイアがデビューから7連勝を達成して有終の美を飾った。
2017年より実施されるシリーズで、各地の3歳主要重賞競走に出走する有力馬が10月(2017年は11月、2018年は12月)に実施される本競走を目指して、地方競馬の3歳チャンピオンの座を争うものである。以下の対象競走のボーナス賞金支給条件を満たし、かつダービーグランプリを優勝した馬には、カテゴリーに応じて優勝馬の馬主にボーナス賞金が贈られる。
対象競走(2023年)
過去の対象競走
ボーナス支給状況
過去の条件
2010年
地方競馬に所属するサラブレッド系3歳(旧4歳)の競走馬に出走資格がある。
優先出走権トライアル競走として黒潮盃(大井)、戸塚記念(川崎)、サラブレッド大賞典(金沢)、岐阜金賞(笠松)、鞆の浦賞(福山)、黒潮菊花賞(高知)、ロータスクラウン賞(佐賀)、荒炎賞(荒尾)の各1着馬に優先出走権が与えられた。
岩手枠トライアル競走として不来方賞の上位2着までに入賞した馬に優先出走権が与えられた。
2006年まで
サラ系3歳(旧4歳)の競走馬を前提として岩手所属馬4頭、岩手所属以外の地方所属馬5頭、JRA所属馬5頭と出走枠が定められており地方所属馬に限り優先出走権保持馬・指定馬が所属枠内の頭数で出走できた。
優先出走権トライアル競走としてジャパンダートダービー、黒潮盃(いずれも大井)の各1着馬、南関東・岩手枠トライアル競走として不来方賞の1着馬、指定馬トライアル競走として王冠賞(ホッカイドウ競馬)、MRO金賞(金沢)、ロータスクラウン賞(佐賀)の各1着馬にそれぞれ優先出走権が与えられた。
また上記以外のダートグレード競走の1着入賞馬、中央競馬における重賞競走(2歳芝重賞・障害重賞除く)及びオープン特別競走(ダート・障害・2歳競走を除く)の1着入賞馬にも指定馬としての権利が与えられた。
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ダービーグランプリは、岩手県競馬組合が施行していた地方競馬の重賞競走(M1)である。正式名称は「サンケイスポーツ杯 ダービーグランプリ」、サンケイスポーツを発行する産業経済新聞社(産経新聞社)が優勝杯を提供している。
|
{{競馬の競走
|馬場 = ダート
|競走名 = ダービーグランプリ
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|画像説明 =
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[岩手県競馬組合]]
|競馬場 = [[盛岡競馬場]]
|第1回施行日 =
|創設 = 1986年12月7日
|年次 = 2023
|距離 = 2000m
|格付け = M1
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|条件 = サラブレッド系3歳、地方競馬全国交流
|負担重量 = 定量(56kg、牝馬2kg減)
|出典 = <ref name="bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2023/08/23-14-08morioka_gaitei.pdf|title=令和5年度第8回盛岡競馬競走番組表(概定)|website=岩手競馬オフィシャルページ|accessdate=2023-09-30}}</ref>
}}
'''ダービーグランプリ'''は、[[岩手県競馬組合]]が施行していた[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|M1]])である。正式名称は「'''サンケイスポーツ杯 ダービーグランプリ'''」、[[サンケイスポーツ]]を発行する[[産業経済新聞社]](産経新聞社)が優勝杯を提供している。
== 概要 ==
[[1986年]]に秋の地方競馬の4歳(現3歳)最強馬を決める競走として創設された。本競走が創設された1986年当時は他地区や中央競馬との交流競走がほとんど行われておらず4歳重賞路線は各地方競馬ごとに整備されていたが、あくまで「当該地区での4歳チャンピオン」に過ぎず、真の地方4歳最強馬は明確でなかった。そこで真の地方4歳馬チャンピオンを決定するというコンセプトのもと、初の地方全国交流競走として創設された。
[[1996年]]に施行場を盛岡競馬場に移し、中央・地方全国交流競走に指定、[[日本中央競馬会]](JRA)所属馬にも出走が可能になったほか、[[ユニコーンステークス]](JRA[[東京競馬場]])・[[スーパーチャンピオンシップ|スーパーダートダービー]]<ref group="注">スーパーダートダービーは[[1999年]]にダートグレード競走から外れ、同年に新設された「[[ジャパンダートダービー]]」に役割が引き継がれた。</ref>([[大井競馬場]])と共に'''[[3歳ダート三冠|4歳ダート3冠シリーズ]]'''を形成、翌[[1997年]]には[[ダートグレード競走]]としてGIに格付けされ<ref name="joken"/>、名実共に秋の4歳ダート最強馬決定戦の位置付けとなった。
[[2001年]]には新設された[[ジャパンブリーディングファームズカップ|ジャパンブリーディングファームズカップ(JBC)]]へのステップレースとしてRoad to JBCに指定、優勝馬には[[JBCクラシック]]の優先出走権が与えられた。
しかし、[[2008年]]には主催者の岩手県競馬組合が地方3歳有力馬の確保の難しさなどを理由にダートグレード競走の格付けを返上することを申し入れ、2007年の開催を持って休止となった。
[[2010年]]、地方全国交流競走として3年ぶりに水沢競馬場で復活<ref>[http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/race/kaisai/index.html 平成22年度重賞・特別日程] [[2010年]][[3月23日]]閲覧</ref>、[[産業経済新聞社]]から優勝杯の提供を受け、名称も「サンケイスポーツ杯 ダービーグランプリ」に変更された。また、岩手所属馬にとっては2018年まで岩手3歳三冠競走の最終戦として位置付けられた。
2016年に岩手競馬で重賞格付け制度が開始され、M1に格付けされた。
2021年から1着賞金が1500万円から2000万円に増額され、フルゲートも従来の14頭から16頭に拡大された。1着賞金額は2022年は2500万円に<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=2022年の競走体系 – 岩手競馬|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/race-data/racing_system|accessdate=2022-09-20|language=ja}}</ref>、2023年は3000万に増額されている。
本競走は2010年からスタリオンシリーズ競走に指定されている。
2024年に全日本的なダート競走の体系整備が行われることに関連して、[[不来方賞]]がダートグレード競走(JpnII)に格上げされ、秋に行われる3歳馬によるJpn1[[ジャパンダートクラシック]]の前哨戦として行われるようになり、ダービーグランプリは2023年をもって終了することになった<ref>{{Cite web|和書|title=改革控える3歳ダート戦線 “最後のJDD”前に来年からの変更点をおさらい |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=236224 |website=netkeiba.com |access-date=2023-9-30 }}</ref>。最後の開催となった第36回の競走は南関東三冠馬・[[ミックファイア]]、[[ホッカイドウ競馬]]三冠馬・[[ベルピット]]、さらに[[ケンタッキーダービー]]出場歴がある[[マンダリンヒーロー]]など、超豪華メンバーが参戦<ref>[https://dir.netkeiba.com/keibamatome/detail.html?no=3534 【ダービーグランプリ2023】ミックファイアvsベルピットの「三冠馬対決」が実現! 出馬表・レース概要・過去の優勝馬などまとめ](netkeiba.com)</ref>し、マンダリンヒーローとの叩き合いを制したミックファイアがデビューから7連勝を達成して有終の美を飾った<ref>[https://mainichi.jp/articles/20231002/spp/000/101/017000c 【盛岡9R・ダービーグランプリ】ミックファイア 無傷の7連勝で重賞4連勝](毎日新聞 スポーツニッポン提供)</ref>。
=== 条件・賞金等(2023年) ===
;出走条件
:サラブレッド系3歳、地方競馬全国交流。
;負担重量
:定量。56kg、牝馬2kg減。
;賞金等
:賞金額は1着3000万円、2着1050万円、3着600万円、4着390万円、5着210万円で、着外手当は15万円<ref name="bangumi"/>。。
;副賞
:サンケイスポーツ賞、[[社台スタリオンステーション]]賞、地方競馬全国協会理事長賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、岩手県知事賞、岩手県馬主会会長、開催執務委員長賞<ref name="bangumi"/>。
:社台スタリオンステーションが協賛し、[[シスキン]]の配合権利が優勝馬馬主への副賞となっている。
==3歳秋のチャンピオンシップ==
2017年より実施されるシリーズで、各地の3歳主要重賞競走に出走する有力馬が10月(2017年は11月、2018年は12月)に実施される本競走を目指して、地方競馬の3歳チャンピオンの座を争うものである。以下の対象競走のボーナス賞金支給条件を満たし、かつダービーグランプリを優勝した馬には、カテゴリーに応じて優勝馬の馬主にボーナス賞金が贈られる。<ref name="NAR-20170713">{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2017/07/13161824250.html|title=地方競馬の新シリーズ競走 3歳秋のチャンピオンシップ(3YO Autumn Championship)実施概要決定|work=地方競馬情報サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|date=2017-07-13|accessdate=2018-07-21}}</ref>
* ダービーグランプリ優勝馬が複数のカテゴリーの条件を満たしている場合は、2017年は最も高いボーナス賞金のみを適用するものとしていた<ref name="NAR-20170713" />。2018年は、最上位のカテゴリーの条件を満たした場合のボーナス賞金額に、追加で満たしたカテゴリー数×200万円を加増した額(ただし上限は1000万円)が贈られるものとされた<ref name="NAR-20180719">{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2018/07/192031044052.html|title=3歳秋のチャンピオンシップ2018 実施概要決定|work=地方競馬情報サイト|publisher=[[地方競馬全国協会]]|date=2018-07-19|accessdate=2018-07-21}}</ref>。
* 前述の通り、ダービーグランプリが2023年をもって廃止されるため、本シリーズも同年限りで終了となる。
'''対象競走(2023年)'''<ref>{{Cite web|和書|title=シリーズ概要|3歳秋のチャンピオンシップ2022 |url=https://www.keiba.go.jp/raceseries/3yo2022/outline.html |website=www.keiba.go.jp |accessdate=2022-10-03}}</ref>
* コースはすべて[[ダート]]。
* 格付けは年によって変更となっているものもある(詳細は各競走の記事を参照)。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!カテゴリー!!ボーナス賞金!!ボーナス賞金<br>支給条件!!競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!競馬場!!距離!!備考
|-
|style="text-align:center"|A||1000万円
|rowspan="10"|当該競走に優勝
|[[黒潮盃]]||SII||[[大井競馬場|大井]]||1800m
|
|-
| rowspan="8" style="text-align:center" |B|| rowspan="8" |800万円
|[[王冠賞]]||H2||[[門別競馬場|門別]]||1800m
|2019年に対象競走に追加。
|-
|[[不来方賞]]||M1||[[水沢競馬場|水沢]]||2000m
|
|-
|[[戸塚記念]]||SI||[[川崎競馬場|川崎]]||2100m
|
|-
|[[岐阜金賞]]||SPI||[[笠松競馬場|笠松]]||1900m
|2017年・2018年はカテゴリーC。2021年は施行せず。
|-
|[[園田オータムトロフィー]]||重賞II||[[園田競馬場|園田]]||1700m
|2018年に対象競走に追加。2018年はカテゴリーC。
|-
|[[西日本ダービー]]||重賞|| style="text-align:center" |[[佐賀競馬場|佐賀]]
|2000m
|西日本6場持ち回りで開催。
|-
|[[黒潮菊花賞]]
|重賞
|[[高知競馬場|高知]]
|1900m
|2020年までカテゴリーC。
|-
|[[ロータスクラウン賞]]||重賞||[[佐賀競馬場|佐賀]]||2000m
|2021年までカテゴリーC。
|-
| style="text-align:center" |C||500万円
|[[サラブレッド大賞典 (金沢競馬)|サラブレッド大賞典]]||重賞||[[金沢競馬場|金沢]]||2000m
|
|-
|style="text-align:center"|-||1000万円
|当該競走で地方所属馬最先着
|[[ジャパンダートダービー]]||JpnI||[[大井競馬場|大井]]||2000m
|}
'''過去の対象競走'''
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!カテゴリー!!ボーナス賞金!!ボーナス賞金<br>支給条件!!競走名!![[競馬の競走格付け|格]]!!競馬場!!距離!!備考
|-
|style="text-align:center"|B||800万円||当該競走に優勝||[[秋の鞍 (名古屋競馬)|秋の鞍]]||SPI||[[名古屋競馬場|名古屋]]||1800m||2017年から2019年まで対象。
|-
|rowspan="3" style="text-align:center"|D||rowspan="3"|200万円
|rowspan="3"|当該競走に出走
|[[JBCクラシック]]||JpnI||colspan="2" style="text-align:center"|持ち回り
|rowspan="3"|2018年のみ対象。
|-
|[[JBCスプリント]]||JpnI||colspan="2" style="text-align:center"|持ち回り
|-
|[[JBCレディスクラシック]]||JpnI||colspan="2" style="text-align:center"|持ち回り
|}
'''ボーナス支給状況'''
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!年||ダービーグランプリ優勝馬||ボーナス||対象競走の結果
|-
|2017年||[[スーパーステション]]||style="text-align:center"|なし<ref>本馬は王冠賞勝ち馬ではあるが、2017年当時は3歳秋のチャンピオンシップの対象レースではなかったためボーナス支給の対象外。</ref>||不出走
|-
|2018年||チャイヤプーン||style="text-align:center"|'''500万円'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/furlong/2018/close/181228.html|title=3歳秋のチャンピオンシップ2018総括|work=[[ハロン (雑誌)|web Furlong 2018]]|publisher=[[地方競馬全国協会]]|date=2018-12-28|accessdate=2019-01-30}}</ref>||戸塚記念(1着)、不来方賞(2着)
|-
|2019年||リンノレジェンド||style="text-align:center"|'''1000万円'''||黒潮盃(1着)、王冠賞(3着)
|-
|2020年||フレッチャビアンカ||style="text-align:center"|'''800万円'''||不来方賞(1着)
|-
|2021年
|ギガキング
| なし
|戸塚記念(5着)
|-
|2022年
|シルトプレ
| なし
|王冠賞(2着)
|-
|2023年
|ミックファイア
|style="text-align:center"|'''1000万円'''
|ジャパンダートダービー(1着)
|}
'''過去の条件'''
'''2010年'''
地方競馬に所属する[[サラブレッド]]系3歳(旧4歳)の[[競走馬]]に出走資格がある。
優先出走権トライアル競走として[[黒潮盃]](大井)、[[戸塚記念]](川崎)、[[サラブレッド大賞典 (金沢競馬)|サラブレッド大賞典]](金沢)、[[岐阜金賞]](笠松)、[[鞆の浦賞]](福山)、[[黒潮菊花賞]](高知)、[[ロータスクラウン賞]](佐賀)、[[荒炎賞]](荒尾)の各1着馬に優先出走権が与えられた。
岩手枠トライアル競走として[[不来方賞]]の上位2着までに入賞した馬に優先出走権が与えられた。
'''2006年まで'''
[[サラブレッド|サラ]]系3歳(旧4歳)の[[競走馬]]を前提として岩手所属馬4頭、岩手所属以外の地方所属馬5頭、JRA所属馬5頭と出走枠が定められており'''地方所属馬に限り'''優先出走権保持馬・指定馬が所属枠内の頭数で出走できた。
優先出走権トライアル競走として[[ジャパンダートダービー]]、黒潮盃(いずれも大井)の各1着馬、南関東・岩手枠トライアル競走として不来方賞の1着馬、指定馬トライアル競走として[[王冠賞]](ホッカイドウ競馬)、[[MRO金賞]](金沢)、ロータスクラウン賞(佐賀)の各1着馬にそれぞれ優先出走権が与えられた。
また上記以外のダートグレード競走の1着入賞馬、中央競馬における重賞競走(2歳芝重賞・障害重賞除く)及びオープン特別競走(ダート・障害・2歳競走を除く)の1着入賞馬にも指定馬としての権利が与えられた。
== 歴史 ==
* 1986年 - 地方所属のサラブレッド系4歳(現3歳)馬限定の重賞競走として創設。水沢競馬場のダート2000mで施行、1着賞金は2000万円。
* 1990年 - 1着賞金が3000万円に増額。
* 1992年 - 1着賞金が5000万円に増額。
* 1996年
** 施行場を盛岡競馬場のダート2000mに変更。
** 中央・地方全国指定交流競走に指定され、JRA所属馬が出走可能になる。
** 1着賞金が6000万円に増額。
* 1997年 - ダート競走格付け委員会にGI(統一GI)に格付けされる。
* 1998年 - 盛岡競馬場の大雪(積雪)の影響で順延、水沢競馬場で順延開催。
* 2001年 - [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走条件を「サラブレッド系4歳」から「サラブレッド系3歳」に変更。
* 2002年 - Road to JBCに指定される。
* 2004年
** [[中央競馬]]の施設で、[[投票券 (公営競技)|勝馬投票券]]を発売。
** [[安藤勝己]]が[[騎手]]として史上初の2連覇。
** 1着賞金が5000万円に減額。
* 2007年
** 1着賞金が4000万円に減額。
** [[国際セリ名簿基準委員会|国際セリ名簿基準委員会(ICSC)]]の勧告に伴う重賞の格付け表記の変更により、統一グレード表記をJpnIに変更。
** 同年8月に発生した[[馬インフルエンザ]]流行の影響により全国的に競走馬の移動の制限が大きい事からダートグレード競走の扱いを取り止め、岩手所属馬限定の重賞として施行。1着賞金が600万円に変更。
** ダート競走格付け委員会にダートグレード競走の格付けを返上。
** 本年の施行をもって休止。
* 2010年
** 地方競馬全国交流競走として3年ぶりに復活。
** 施行場を水沢競馬場のダート2000m、開催時期を11月中旬にそれぞれ変更。
** 岩手3歳三冠競走の最終戦に指定。
** [[産業経済新聞社]]から優勝杯の提供を受け、名称を「サンケイスポーツ杯 ダービーグランプリ」に変更。
** スタリオンシリーズ競走に指定。
** 1着賞金が800万円に増額。
* 2011年
** [[東日本大震災]]による水沢競馬場の閉鎖により、盛岡競馬場のダート2000mで施行。
** 「ロックハンドスターメモリアル」の副題が付けられる。
* 2012年 - 施行場を水沢競馬場に戻す。
* 2016年 - 岩手競馬グレード制の導入により、M1に格付けされる。
* 2017年 - 1着賞金が1,000万円に増額。
* 2018年 - 同年3度目の禁止薬物使用の発覚に伴い調査及び全頭検査の為に11月中旬の開催が中止となった事により、開催時期が12月に変更となる。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/news/181121i|title=11月24日(土)からの岩手競馬の再開について – 岩手競馬|accessdate=2018-11-21|website=www.iwatekeiba.or.jp|language=ja}}</ref>
* 2019年 - 施行場を盛岡競馬場のダート2000m、開催時期を10月上旬にそれぞれ変更。
* 2020年
** 1着賞金が1,500万円に増額<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/race-data/racing_system |title=2020年の競走体系|publisher=岩手競馬 公式WEBSITE|accessdate=2020-09-27}}</ref>。
** 売得金額が2億5168万9300円を記録し、同競走の地方競馬全国交流競走として1レース売上レコードを更新。ダートグレード競走として施行した最終回となる、2006年の売得金額(2億1309万1500円)を上回った。
* 2021年
** 1着賞金が2,000万円に増額。フルゲートが14頭から16頭となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2021/02/21-iwate-pattern_race.pdf|title=令和3年度岩手競馬重賞競走年間計画表|accessdate=2021年2月19日}}</ref>。
** 他地区所属馬の出走枠を8頭から10頭に拡大。
** 売得金額が3億3594万7800円を記録し、同競走の地方競馬全国交流競走として1レース売上レコードを更新。
* 2022年 ‐ 1着賞金が2,500万円に増額<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2022/02/22-iwate-pattern_race.pdf|title=令和4年度岩手競馬重賞競走年間計画表|accessdate=2022年9月20日}}</ref>。
* 2023年
** 1着賞金が3,000万円に増額<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2023/02/23_iwate_pattern_race.pdf|title=令和5年度岩手競馬重賞競走年間計画表|accessdate=2023年2月23日}}</ref>。
** 売得金額が4億6003万9400円を記録し、同競走の地方競馬全国交流競走として1レース売上レコードを更新。
** 全日本的なダート競走の体系整備に伴い、本年の施行をもって終了。
=== 歴代優勝馬 ===
:全てダートコースで施行。
:{{Color|RED|R}}はコースレコードを示す。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:right"|第1回||1986年12月7日||水沢||2000m||トミアルコ||牝3||[[大井競馬場|大井]]||style="text-align:right"|2:09.9||[[宮浦正行]]||田中康弘||富岡喜平
|-
|style="text-align:right"|第2回||1987年11月22日||水沢||2000m||スタードール||牝3||大井||style="text-align:right"|2:12.4||[[早田秀治]]||太田進||矢田勝
|-
|style="text-align:right"|第3回||1988年11月20日||水沢||2000m||アエロプラーヌ||牡3||大井||style="text-align:right"|2:09.5||[[的場文男]]||[[赤間清松]]||笹澤英一
|-
|style="text-align:right"|第4回||1989年11月26日||水沢||2000m||[[スイフトセイダイ]]||牡3||[[盛岡競馬場|盛岡]]||style="text-align:right"|2:13.0||小竹清一||城地藤男||中村正子
|-
|style="text-align:right"|第5回||1990年11月25日||水沢||2000m||サンドリーズン||牡3||[[水沢競馬場|水沢]]||style="text-align:right"|2:11.6||[[菅原勲]]||酒井清||古川賀悦
|-
|style="text-align:right"|第6回||1991年11月24日||水沢||2000m||リバーストンキング||牡3||[[ホッカイドウ競馬|北海道]]||style="text-align:right"|2:10.8||松本隆宏||鈴木亮平||石川武
|-
|style="text-align:right"|第7回||1992年11月22日||水沢||2000m||[[トミシノポルンガ]]||牡3||[[笠松競馬場|笠松]]||style="text-align:right"|2:12.7||[[安藤勝己]]||加藤健||冨士野年恭
|-
|style="text-align:right"|第8回||1993年11月21日||水沢||2000m||[[ミスタールドルフ]]||牡3||[[金沢競馬場|金沢]]||style="text-align:right"|{{Color|RED|R}}2:07.5||[[渡辺壮]]||飯沼三郎||杉本久義
|-
|style="text-align:right"|第9回||1994年11月20日||水沢||2000m||[[ブラッククロス]]||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:14.1||菅原勲||千葉博||(有)日胆上水牧場
|-
|第10回||1995年11月19日||水沢||2000m||ルイボスゴールド||牡3||笠松||style="text-align:right"|2:16.1||坂口重政||大倉護||(株)リガメェントワールド
|-
|第11回||1996年11月23日||盛岡||2000m||[[イシノサンデー]]||牡3||[[日本中央競馬会|JRA]]||style="text-align:right"|2:06.9||[[石崎隆之]]||[[山内研二]]||(株)イシジマ
|-
|第12回||1997年11月3日||盛岡||2000m||[[テイエムメガトン]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:07.5||[[菊地昇吾]]||[[鹿戸明]]||[[竹園正繼]]
|-
|第13回||1998年12月14日||水沢||2000m||[[ナリタホマレ]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:07.8||[[マイケル・ロバーツ_(競馬)|M.ロバーツ]]||[[谷潔]]||[[山路秀則]]
|-
|第14回||1999年11月3日||盛岡||2000m||[[タイキヘラクレス]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:08.6||[[藤田伸二]]||[[蛯名信広]]||(有)[[大樹ファーム]]
|-
|第15回||2000年11月3日||盛岡||2000m||[[レギュラーメンバー]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:05.0||[[松永幹夫]]||[[山本正司]]||(有)[[ノースヒルズマネジメント]]
|-
|第16回||2001年9月24日||盛岡||2000m||[[ムガムチュウ]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:07.0||藤田伸二||[[清水出美]]||[[寺田寿男]]
|-
|第17回||2002年9月23日||盛岡||2000m||[[ゴールドアリュール]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:08.1||[[武豊]]||[[池江泰郎]]||(有)[[社台レースホース]]
|-
|第18回||2003年9月23日||盛岡||2000m||[[ユートピア_(競走馬)|ユートピア]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:07.6||安藤勝己||[[橋口弘次郎]]||[[金子真人]]
|-
|第19回||2004年9月20日||盛岡||2000m||[[パーソナルラッシュ]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|{{Color|RED|R}}2:02.8||安藤勝己||山内研二||[[深見富朗]]
|-
|第20回||2005年9月19日||盛岡||2000m||[[カネヒキリ]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:03.8||武豊||[[角居勝彦]]||[[金子真人ホールディングス]](株)
|-
|第21回||2006年9月18日||盛岡||2000m||[[マンオブパーサー]]||牡3||JRA||style="text-align:right"|2:06.3||[[木幡初広]]||[[大久保龍志]]||鈴木義孝
|-
|第22回||2007年9月17日||盛岡||2000m||ハルサンヒコ||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:06.0||[[村上忍]]||鈴木七郎||加賀邦彦
|-
|第23回||2010年11月22日||水沢||2000m||[[ロックハンドスター]]||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:12.8||菅原勲||瀬戸幸一||千葉浩
|-
|第24回||2011年11月21日||盛岡||2000m||カミノヌヴォー||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:09.2||[[阿部英俊]]||千葉幸喜||宇賀神英子
|-
|第25回||2012年11月25日||水沢||2000m||ロッソコルサ||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:05.3||村上忍||千葉幸喜||大久保和夫
|-
|第26回||2013年11月24日||水沢||2000m||ジェネラルグラント||牡3||[[船橋競馬場|船橋]]||style="text-align:right"|2:05.7||[[石崎駿]]||[[出川克己]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|第27回||2014年11月24日||水沢||2000m||ドラゴンエアル||牡3||[[川崎競馬場|川崎]]||style="text-align:right"|2:07.4||[[吉原寛人]]||高月賢一||[[窪田康志]]
|-
|第28回||2015年11月23日||水沢||2000m||ストゥディウム||牡3||船橋||style="text-align:right"|2:07.5||石崎駿||矢野義幸||(株)Nicks
|-
|第29回||2016年11月20日||水沢||2000m||トロヴァオ||牡3||大井||style="text-align:right"|2:08.0||[[真島大輔]]||荒山勝徳||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|第30回||2017年11月19日||水沢||2000m||[[スーパーステション]]||牡3||北海道||style="text-align:right"|2:08.2||[[阿部龍]]||[[角川秀樹]]||(有)[[グランド牧場]]
|-
|第31回||2018年12月10日||水沢||2000m||チャイヤプーン||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:12.2||村上忍||千葉幸喜||大久保和夫
|-
|第32回||2019年10月6日||盛岡||2000m||リンノレジェンド||牡3||北海道||style="text-align:right"|2:07.0||[[岡部誠]]||[[林和弘]]||[[林正夫]]
|-
|第33回||2020年10月4日||盛岡||2000m||フレッチャビアンカ||牡3||水沢||style="text-align:right"|2:05.7||[[高松亮]]||千葉幸喜||大久保和夫
|-
|第34回||2021年10月3日||盛岡||2000m||ギガキング||牡3||船橋||style="text-align:right"|2:06.8||[[和田譲治]]||稲益貴弘||尾崎智大
|-
|第35回||2022年10月2日||盛岡||2000m||シルトプレ||牡3||北海道||style="text-align:right"|2:04.9||[[石川倭]]||米川昇||原久美子
|-
|第36回||2023年10月1日||盛岡||2000m||[[ミックファイア]]||牡3||大井||style="text-align:right"|2:03.0||[[御神本訓史]]||[[渡邉和雄]]||[[星加浩一]]
|}
== 脚注・出典 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="joken">{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/race/pickup|title=注目レースピックアップ|publisher=岩手競馬オフィシャルページ|accessdate=2020-10-1}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* [https://www2.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=223&k_babaCode=11 ダービーグランプリ 歴代優勝馬] - 地方競馬全国協会
* JBISサーチ
** {{JBIS-raceresult|1986|1207|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1987|1122|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1988|1120|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1989|1126|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1990|1125|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1991|1124|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1992|1122|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1993|1121|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1994|1120|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1995|1119|211|10}}、{{JBIS-raceresult|1996|1123|210|10}}、{{JBIS-raceresult|1997|1103|210|10}}、{{JBIS-raceresult|1998|1214|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1999|1103|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2000|1103|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2001|0924|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2002|0923|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2003|0923|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2004|0920|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2005|0919|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2006|0918|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2007|0917|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2010|1122|211|10}}、{{JBIS-raceresult|2011|1121|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2012|1125|211|10}}、{{JBIS-raceresult|2013|1124|211|10}}、{{JBIS-raceresult|2014|1124|211|10}}、{{JBIS-raceresult|2015|1123|211|10}}、{{JBIS-raceresult|2016|1120|211|11}}、{{JBIS-raceresult|2017|1119|211|11}}、{{JBIS-raceresult|2018|1210|211|11}}、{{JBIS-raceresult|2019|1006|210|12}}、{{JBIS-raceresult|2020|1004|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2021|1003|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2022|1002|210|10}}
{{DEFAULTSORT:たあひいくらんふり}}
[[Category:地方競馬の競走]]
[[Category:盛岡競馬場の競走]]
[[Category:サンケイスポーツ|馬たあひいくらんふり]]
[[Category:廃止された競馬の競走]]
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2003-09-26T08:02:35Z
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18,345 |
マイルチャンピオンシップ南部杯
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マイルチャンピオンシップ南部杯(マイルチャンピオンシップなんぶはい)は、岩手県競馬組合が盛岡競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(JpnI、ダートグレード競走)である。例年は農林水産大臣が賞を提供しているほか、JBC競走に向けた重要な前哨戦「Road to JBC」にも指定されており、正式名称は「農林水産大臣賞典 マイルチャンピオンシップ南部杯〔Road to JBC〕」と表記される。
通称は南部杯。また中央競馬のマイルチャンピオンシップと区別するためマイルCS南部杯、マイル南部杯、MCS南部杯と表記される事がある。日本で行われる常設のGI・JpnI競走としては唯一、三大都市圏以外で行われる(持ち回りのJBC競走は除く)。
競走名は江戸時代に盛岡藩を治めていた南部氏に由来し、45代当主南部利昭に了承を得て、名称と南部家の家紋が使用されている。表彰式には毎年南部家当主が出席し、南部杯を授与している。
岩手県競馬組合創立25周年を記念し、1988年に北日本マイルチャンピオンシップ南部杯として創設された競走、第1回は水沢競馬場のダート1600mで施行された。創設当初は北日本地区(道営、東北、北関東)交流競走で、地方競馬の北日本地区のマイル最強馬決定戦の位置付けとされた。
1995年に中央・地方全国指定交流競走に指定されたと同時に現在のマイルチャンピオンシップ南部杯に改名、北日本地区以外の地方所属馬及び中央競馬所属馬も出走可能になった。1996年には開催場を現在の盛岡競馬場に変更、1997年には前年から施行されたダートグレード競走のGI(統一GI)に格付けされ、日本の秋のダートのマイル最強馬決定戦として定着していった。
2002年からはJBC競走へのトライアル「Road to JBC」に指定されており、本競走の優勝馬にはジャパンブリーディングファームズカップ2競走(JBCクラシック・JBCスプリント)への優先出走権(出走できるのはどちらか一方の競走)が与えられる。Road to JBCに指定された競走では南部杯が唯一のJpnI競走である。
発走時のファンファーレは岩手競馬のJpnI用のファンファーレが使用されている。2007年に岩手競馬のファンファーレはJpnI用を含め全てが新しい物に切り替わったが、JpnI用のファンファーレは2009年から従来の物に戻されている。また、2015年から2年間は盛岡市の市民吹奏楽団「グーテン・ライエ吹奏楽団」による生演奏だった。2022年からは陸上自衛隊第9音楽隊による生演奏となっている。2011年の東京競馬場での開催(後述)の際もJRAの関東GIファンファーレではなく従前のファンファーレが使用されている。
対象競走と付与条件は以下の通り
コース種別を記載していない距離は、ダートコースを表す。また馬齢は全て現行表記のもの。
2011年はこの年に発生した東日本大震災の影響により、東京競馬場にて施行された。岩手県競馬自体は5月より盛岡競馬場での開催を再開しダートグレード競走も施行されていたが競馬関連の施設が大きな被害を受けるなどして開催日数の減少による経営環境の厳しさなどからJRAに要請を行い、本競走は盛岡競馬場と姉妹提携を結んでいる東京競馬場にてJRA主催により施行されることとなった。
JRAは当初開催予定のなかった10月10日を「岩手競馬を支援する日」と題して東京競馬場開催を追加し(震災で中止となった3月13日の阪神競馬の事実上代替開催)、岩手競馬所属で活躍した競走馬の名前(トーホウエンペラー、メイセイオペラ)を冠した競走も行われた。当競走のスタート前のファンファーレは、例年通り盛岡競馬場で使用されている曲を使用した。また日曜日以外の競走で初めてWIN5が実施され、南部杯を含めた第8競走から第12競走が対象となった。
この年の入場人員は5万9475人で同年のフェブラリーステークスを上回ったほか、売り上げは70億2941万6200円で前年の本競走の約14倍を記録した。
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"text": "発走時のファンファーレは岩手競馬のJpnI用のファンファーレが使用されている。2007年に岩手競馬のファンファーレはJpnI用を含め全てが新しい物に切り替わったが、JpnI用のファンファーレは2009年から従来の物に戻されている。また、2015年から2年間は盛岡市の市民吹奏楽団「グーテン・ライエ吹奏楽団」による生演奏だった。2022年からは陸上自衛隊第9音楽隊による生演奏となっている。2011年の東京競馬場での開催(後述)の際もJRAの関東GIファンファーレではなく従前のファンファーレが使用されている。",
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"text": "対象競走と付与条件は以下の通り",
"title": "概要"
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"text": "コース種別を記載していない距離は、ダートコースを表す。また馬齢は全て現行表記のもの。",
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"text": "2011年はこの年に発生した東日本大震災の影響により、東京競馬場にて施行された。岩手県競馬自体は5月より盛岡競馬場での開催を再開しダートグレード競走も施行されていたが競馬関連の施設が大きな被害を受けるなどして開催日数の減少による経営環境の厳しさなどからJRAに要請を行い、本競走は盛岡競馬場と姉妹提携を結んでいる東京競馬場にてJRA主催により施行されることとなった。",
"title": "東京競馬場での施行"
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"text": "JRAは当初開催予定のなかった10月10日を「岩手競馬を支援する日」と題して東京競馬場開催を追加し(震災で中止となった3月13日の阪神競馬の事実上代替開催)、岩手競馬所属で活躍した競走馬の名前(トーホウエンペラー、メイセイオペラ)を冠した競走も行われた。当競走のスタート前のファンファーレは、例年通り盛岡競馬場で使用されている曲を使用した。また日曜日以外の競走で初めてWIN5が実施され、南部杯を含めた第8競走から第12競走が対象となった。",
"title": "東京競馬場での施行"
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"text": "この年の入場人員は5万9475人で同年のフェブラリーステークスを上回ったほか、売り上げは70億2941万6200円で前年の本競走の約14倍を記録した。",
"title": "東京競馬場での施行"
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] |
マイルチャンピオンシップ南部杯(マイルチャンピオンシップなんぶはい)は、岩手県競馬組合が盛岡競馬場で施行する地方競馬の重賞競走(JpnI、ダートグレード競走)である。例年は農林水産大臣が賞を提供しているほか、JBC競走に向けた重要な前哨戦「Road to JBC」にも指定されており、正式名称は「農林水産大臣賞典 マイルチャンピオンシップ南部杯〔Road to JBC〕」と表記される。 通称は南部杯。また中央競馬のマイルチャンピオンシップと区別するためマイルCS南部杯、マイル南部杯、MCS南部杯と表記される事がある。日本で行われる常設のGI・JpnI競走としては唯一、三大都市圏以外で行われる(持ち回りのJBC競走は除く)。 競走名は江戸時代に盛岡藩を治めていた南部氏に由来し、45代当主南部利昭に了承を得て、名称と南部家の家紋が使用されている。表彰式には毎年南部家当主が出席し、南部杯を授与している。
|
{{競馬の競走
|馬場 = ダート
|競走名 = マイルチャンピオンシップ南部杯
|画像 = [[ファイル:Blue Concord 20081013R.jpg|280px]]
|画像説明 = 第21回マイルチャンピオンシップ南部杯
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[岩手県競馬組合]]
|競馬場 = [[盛岡競馬場]]
|施行時期 = 毎年10月第2月曜日([[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]])
|年次 = 2023
|格付け = JpnI
|1着賞金 = 7000万円
|賞金総額 =
|距離 = 1600[[メートル|m]]
|条件 = [[サラブレッド]]系3歳以上(指定交流)<br />[[#出走条件|出走条件]]も参照
|負担重量 = 定量([[#負担重量|負担重量]]を参照)
|第一回施行日 = 1988年10月9日
|出典 =<ref name="bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2023/08/23-14-08morioka_gaitei.pdf|title=令和5年度第8回 盛岡競馬競走番組表(概定)|website=岩手競馬オフィシャルページ|accessdate=2023-10-5}}</ref>
}}
'''マイルチャンピオンシップ南部杯'''(マイルチャンピオンシップなんぶはい)は、[[岩手県競馬組合]]が[[盛岡競馬場]]で施行する[[地方競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[G1 (競馬)|JpnI]]、[[ダートグレード競走]])である。例年は[[農林水産大臣]]が賞を提供しているほか、[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC競走]]に向けた重要な前哨戦「Road to JBC」にも指定されており、正式名称は「'''[[農林水産大臣賞典]]<ref group="注">[[日本中央競馬会]](JRA)主催かつ[[東京競馬場]]での開催となった[[2011年]]度は「'''農林水産省賞典'''」と表記。[[2018年]]については、同年に2度にわたって禁止薬物陽性馬が発生した不祥事に伴い、農林水産省に対し[[桐花賞]]とともに「農林水産大臣賞典」の本年度の取り消し申請を行った(賞金は変動なし。[https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/9/28/24283 大臣賞典の冠消える 岩手競馬、重賞の南部杯と桐花賞] - 岩手日報 2018年9月28日)ためレース名に「農林水産大臣賞典」はつかなかった。その後も2020年まで農林水産大臣賞はつかず、「マイルチャンピオンシップ南部杯」として行われた</ref> マイルチャンピオンシップ南部杯'''〔Road to JBC〕」と表記される。
通称は'''南部杯'''。また[[中央競馬]]の[[マイルチャンピオンシップ]]と区別するため'''マイルCS南部杯'''、'''マイル南部杯'''、'''MCS南部杯'''と表記される事がある。日本で行われる常設のGI・JpnI競走としては唯一、三大都市圏以外で行われる(持ち回りのJBC競走は除く)<ref name=netkeiba20231006>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=243395 南部杯ってどんなレース? その由来や今年の出走メンバーを紹介] - netkeiba.com、2023年10月6日配信・閲覧</ref>。
競走名は[[江戸時代]]に[[盛岡藩]]を治めていた[[南部氏]]に由来し、45代当主[[南部利昭]]に了承を得て、名称と南部家の家紋が使用されている<ref name=netkeiba20231006 />。表彰式には毎年南部家当主が出席し、南部杯を授与している。
== 概要 ==
岩手県競馬組合創立25周年を記念し、[[1988年]]に'''北日本マイルチャンピオンシップ南部杯'''として創設された競走<ref name="joken"/>、第1回は[[水沢競馬場]]のダート1600mで施行された。創設当初は北日本地区(道営、東北、北関東)交流競走で<ref name="joken">{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/race/pickup|title=注目レースピックアップ|publisher=岩手競馬オフィシャルページ|accessdate=2018-10-06}}</ref>、地方競馬の北日本地区のマイル最強馬決定戦の位置付けとされた。
[[1995年]]に中央・地方全国指定交流競走に指定されたと同時に現在の'''マイルチャンピオンシップ南部杯'''に改名、北日本地区以外の地方所属馬及び[[中央競馬]]所属馬も出走可能になった。[[1996年]]には開催場を現在の盛岡競馬場に変更、[[1997年]]には前年から施行された[[ダートグレード競走]]のGI(統一GI)に格付けされ<ref name="joken"/>、日本の秋のダートのマイル最強馬決定戦として定着していった。
[[2002年]]からはJBC競走へのトライアル「Road to JBC」に指定されており、本競走の優勝馬には[[ジャパンブリーディングファームズカップ]]2競走([[JBCクラシック]]・[[JBCスプリント]])への優先出走権(出走できるのはどちらか一方の競走)が与えられる。Road to JBCに指定された競走では南部杯が唯一のJpnI競走である。
発走時のファンファーレは岩手競馬のJpnI用のファンファーレが使用されている。2007年に岩手競馬のファンファーレはJpnI用を含め全てが新しい物に切り替わったが、JpnI用のファンファーレは2009年から従来の物に戻されている。また、2015年から2年間は盛岡市の市民吹奏楽団「グーテン・ライエ吹奏楽団」による生演奏だった。2022年からは[[音楽隊 (陸上自衛隊)#第9音楽隊|陸上自衛隊第9音楽隊]]による生演奏となっている<ref>{{Cite web|和書|title=いよいよ南部杯ウィーク!盛岡競馬場イベント情報 |url=https://www.iwatekeiba.or.jp/news/221005n |access-date=2022-10-06 |website=岩手競馬オフィシャルページ}}</ref>。2011年の東京競馬場での開催(後述)の際もJRAの関東GIファンファーレではなく従前のファンファーレが使用されている。
=== 条件・賞金等(2023年) ===
;<span id="出走条件">出走条件</span>
:[[サラブレッド]]系3歳以上。フルゲートは16頭で中央競馬所属馬の出走枠は7。
;<span id="負担重量">負担重量</span>
:定量、3歳55kg、4歳以上57kg、牝馬2kg減<ref name="bangumi"/>。
;賞金等
:1着7,000万円、2着2,450万円、3着1,400万円、4着910万円、5着490万円。着外手当は6着90万円、7着60万円、8着以下30万円<ref name="kaitei">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2023/09/23-14-08morioka_kaitei.pdf|title=令和5年度 第8回 盛岡競馬 改定番組|website=岩手競馬オフィシャルページ|accessdate=2023-10-5}}</ref>。
;副賞
:南部杯、農林水産大臣賞、日本中央競馬会理事長賞、日本馬主協会連合会長奨励賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、岩手県馬主会会長賞、地方競馬全国協会理事長賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、NAR生産牧場賞、岩手県知事賞、開催執務委員長賞<ref name="kaitei"/><ref name="bangumi"/>。
;優先出走権付与
:優勝馬にJBCクラシックとJBCスプリントの優先出走権が付与される。
=== 優先出走権付与競走 ===
対象競走と付与条件は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.iwatekeiba.or.jp/dir/wp-content/uploads/2023/03/2023_iwate_hensei_yoryo.pdf#page=12|title=令和5年度番組編成要領及び諸規程集|publisher=岩手県競馬組合|accessdate=2023-10-5|page=10}}</ref>
{| class="wikitable"
!競走!!格!!競馬場!!距離!!付与対象!!備考
|-
|[[青藍賞]]||M2||[[水沢競馬場]]||ダート1600m||1着馬||かつては地方全国交流であったが、2023年現在は岩手所属限定の競走
|-
|[[クラスターカップ]]||JpnIII||[[盛岡競馬場]]||ダート1200m||3着以上の地方他地区所属馬||
|}
=== 過去の賞金額 ===
; [[中央競馬]]・[[地方競馬]]全国指定交流競走に指定された1995年以降
{| class="wikitable"
!回数!!総額賞金<br />(万円)!!1着賞金<br />(万円)!!2着賞金<br />(万円)!!3着賞金<br />(万円)!!4着賞金<br />(万円)!!5着賞金<br />(万円)
|-
|第{{0}}8回(1995年)||rowspan="2"|9,250||rowspan="2"|5,000||rowspan="2"|2,000||rowspan="2"|1,000||rowspan="2"|750||rowspan="2"|500
|-
|第{{0}}9回(1996年)
|-
|第10回(1997年)||rowspan="2"|1億1,100||rowspan="11"|6,000||rowspan="2"|2,400||rowspan="2"|1,200||rowspan="2"|900||rowspan="11"|600
|-
|第11回(1998年)
|-
|第12回(1999年)||rowspan="2"|1億500||rowspan="2"|2,100||rowspan="9"|1,020||rowspan="9"|780
|-
|第13回(2000年)
|-
|第14回(2001年)||rowspan="7"|1億200||rowspan="7"|1,800
|-
|第15回(2002年)
|-
|第16回(2003年)
|-
|第17回(2004年)
|-
|第18回(2005年)
|-
|第19回(2006年)
|-
|第20回(2007年)
|-
|第21回(2008年)||8,500||rowspan="2"|5,000||1,500||850||650||500
|-
|第22回(2009年)||7,500||1,150||650||450||250
|-
|第23回(2010年)||6,750<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/TodayRaceInfo/DebaTable?k_raceDate=2010%2f10%2f11&k_raceNo=10&k_babaCode=10|title=第23回 マイルチャンピオンシップ南部杯出馬表|publisher=KEIBA.GO.JP|date=2010-10-11|accessdate=2019-12-15}}</ref>|| rowspan="10" |4,500||1,035||585||405||225
|-
|第24回(2011年)||8,530||1,800||1,100||680||450
|-
|第25回(2012年)||rowspan="7"|6,750<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/TodayRaceInfo/DebaTable?k_raceDate=2012%2f10%2f08&k_raceNo=11&k_babaCode=10|title=第25回 マイルチャンピオンシップ南部杯出馬表|publisher=KEIBA.GO.JP|date=2012-10-08|accessdate=2019-12-15}}</ref>||rowspan="7"|1,035||rowspan="7"|585||rowspan="7"|405|| rowspan="8" |225
|-
|第26回(2013年)
|-
|第27回(2014年)
|-
|第28回(2015年)
|-
|第29回(2016年)
|-
|第30回(2017年)
|-
|第31回(2018年)
|-
|第32回(2019年)||6,975||1,170||630||450
|-
|第33回(2020年)||8,000||5,000||1,400||800||500||rowspan="3"|300
|-
|第34回(2021年)||rowspan="2"|1億200||rowspan="2"|6,000||rowspan="2"|2,100||rowspan="2"|1,200||rowspan="2"|600
|-
|第35回(2022年)
|-
|第36回(2023年)||1億2,250||7,000||2,450||1,400||910||490
|}
== 歴史 ==
* [[1988年]] - 3歳以上の競走馬による北日本地区交流競走「'''北日本マイルチャンピオンシップ南部杯'''」として創設。水沢競馬場のダート1600mで施行。
* [[1995年]]
** 中央・地方全国交流競走に指定。
** 名称を「'''マイルチャンピオンシップ南部杯'''」に変更。
** 開催日が[[体育の日]](現・[[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]])に固定される(祝日改正法適用前で日曜日に該当した1999年を除く)。
* [[1996年]] - 施行場を盛岡競馬場に変更。
* [[1997年]] - ダート競走格付け委員会にGI(統一GI)に格付けされる。
* [[2002年]] - Road to JBCに指定される。
* [[2007年]] - [[国際セリ名簿基準委員会|国際セリ名簿基準委員会(ICSC)]]の勧告に伴い、統一グレード表記をJpnIに変更。
* [[2008年]] - 1着賞金が5,000万円に減額、その後2010年には再度4,500万円に減額(2019年まで)。
* [[2011年]]
** 本年のみJRAが主催し、東京競馬場のダート1600mで「農林水産省賞典 マイルチャンピオンシップ南部杯」の名称で施行、売上の一部を支援金として岩手県競馬組合に拠出。このため、岩手県馬主会会長賞の寄贈を行わなかった。
** 本年のみ、出走枠を地方競馬所属馬は5頭(うち岩手所属馬2頭まで)、フルゲート16頭までに変更。
* [[2012年]] - 施行場を盛岡競馬場に戻す。
* 2016年 - 中央競馬所属馬の出走枠が1頭増えて7頭に、あわせてフルゲートが1頭増えて16頭となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://iwatekeiba.or.jp/hp/data/r-sys/index.html |title=2016シーズン 岩手競馬の競走体系|website=岩手競馬 公式WEBSITE|accessdate=2016-10-08}}</ref>。
* 2018年 - 禁止薬物問題発生を受け農林水産大臣賞を返上したため、レース名称は「マイルチャンピオンシップ南部杯」となる。
* 2020年
** スポーツの日が[[2020年東京オリンピック]]の開会式が行われる予定だった[[7月24日]]に変更されたため、レース史上初めて平日開催となった。
** 1着賞金額が見直しにより、4,500万円から5,000万円となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/race-data/racing_system |title=2020年の競走体系|website=岩手競馬 公式WEBSITE|accessdate=2020-09-27}}</ref>。
** レース売得金が17億7595万900円(前年比約160%)となり、2011年のJRA東京開催を除き売り上げレコードを更新した。
* 2021年
** 1着賞金が6,000万円に増額。
** スポーツの日が当年に延期となった東京オリンピックの開会式が行われる[[7月23日]]に変更されたため、2年連続で平日開催となった。
** 農林水産大臣賞がつくようになり、レース名が「農林水産大臣賞典 マイルチャンピオンシップ南部杯」に戻る。
* 2023年
** 1着賞金が7,000万円に増額。
** レモンポップが歴代史上最大着差となる2秒の大差(12馬身)をつけて勝利。
=== 歴代優勝馬 ===
コース種別を記載していない距離は、ダートコースを表す。また馬齢は全て現行表記のもの。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|align="center"|第1回||1988年10月9日||水沢||1600m||グレートサーペン||牡6||[[高崎競馬場|高崎]]||1:42.4||工藤勉||渡邉和泰||三原勝太郎
|-
|align="center"|第2回||1989年10月8日||水沢||1600m||ダイコウガルダン||牡4||[[上山競馬場|上山]]||1:42.4||水戸賢二||村山博||[[熊久保勅夫]]
|-
|align="center"|第3回||1990年10月7日||水沢||1600m||[[グレートホープ]]||牡4||[[岩手県競馬組合|盛岡]]||1:40.0||[[菅原勲]]||小西重征||小野寺喜久男
|-
|align="center"|第4回||1991年10月13日||水沢||1600m||タケデンファイター||牡5||[[新潟県競馬組合|新潟]]||1:40.8||[[大枝幹也]]||佐藤忠雄||赤川喜一郎
|-
|align="center"|第5回||1992年10月11日||水沢||1600m||タケデンマンゲツ||牡6||[[宇都宮競馬場|宇都宮]]||1:42.0||平澤則雄||平石正己||熊久保勅夫
|-
|align="center"|第6回||1993年11月23日||水沢||1600m||[[トウケイニセイ]]||牡6||盛岡||1:39.8||菅原勲||小西重征||小野寺喜久男
|-
|align="center"|第7回||1994年9月25日||水沢||1600m||トウケイニセイ||牡7||盛岡||{{Color|darkred|R1:39.5}}||菅原勲||小西重征||小野寺喜久男
|-
|align="center"|第8回||1995年10月10日||水沢||1600m||[[ライブリマウント]]||牡4||[[日本中央競馬会|JRA]]||1:40.6||[[石橋守]]||[[柴田不二男]]||加藤哲郎 他2名
|-
|align="center"|第9回||1996年10月10日||盛岡||1600m||[[ホクトベガ]]||牝6||JRA||1:38.3||[[的場均]]||[[中野隆良]]||金森森商事(株)
|-
|第10回||1997年10月10日||盛岡||1600m||[[タイキシャーロック]]||牡5||JRA||{{Color|darkred|R1:36.2}}||[[横山典弘]]||[[土田稔]]||(有)[[大樹ファーム]]
|-
|第11回||1998年10月10日||盛岡||1600m||[[メイセイオペラ]]||牡4||[[岩手県競馬組合|水沢]]||{{Color|darkred|R1:35.1}}||菅原勲||[[佐々木修一]]||(有)明正商事
|-
|第12回||1999年10月11日||盛岡||1600m||[[ニホンピロジュピタ]]||牡4||JRA||1:38.4||[[武豊]]||[[目野哲也]]||[[小林百太郎]]
|-
|第13回||2000年10月9日||盛岡||1600m||[[ゴールドティアラ]]||牝4||JRA||1:38.3||[[後藤浩輝]]||[[松田国英]]||[[吉田和子 (社台グループ)|吉田和子]]
|-
|第14回||2001年10月8日||盛岡||1600m||[[アグネスデジタル]]||牡4||JRA||1:37.7||[[四位洋文]]||[[白井寿昭]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]]
|-
|第15回||2002年10月14日||盛岡||1600m||[[トーホウエンペラー]]||牡6||水沢||1:38.7||菅原勲||[[千葉四美]]||東豊物産(株)
|-
|第16回||2003年10月13日||盛岡||1600m||[[アドマイヤドン]]||牡4||JRA||1:35.4||[[安藤勝己]]||[[松田博資]]||[[近藤利一]]
|-
|第17回||2004年10月11日||盛岡||1600m||[[ユートピア (競走馬)|ユートピア]]||牡4||JRA||1:35.9||横山典弘||[[橋口弘次郎]]||[[金子真人]]
|-
|第18回||2005年10月10日||盛岡||1600m||ユートピア||牡5||JRA||1:36.7||安藤勝己||橋口弘次郎||[[金子真人ホールディングス]](株)
|-
|第19回||2006年10月9日||盛岡||1600m||[[ブルーコンコルド]]||牡6||JRA||1:36.6||[[幸英明]]||[[服部利之]]||(株)[[荻伏レーシング・クラブ]]
|-
|第20回||2007年10月8日||盛岡||1600m||ブルーコンコルド||牡7||JRA||1:36.8||幸英明||服部利之||(株)[[ブルーマネジメント]]
|-
|第21回||2008年10月13日||盛岡||1600m||ブルーコンコルド||牡8||JRA||1:37.3||幸英明||服部利之||(株)ブルーマネジメント
|-
|第22回||2009年10月12日||盛岡||1600m||[[エスポワールシチー]]||牡4||JRA||1:35.4||[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]||[[安達昭夫]]||(株)[[友駿ホースクラブ]]
|-
|第23回||2010年10月11日||盛岡||1600m||[[オーロマイスター]]||牡5||JRA||{{Color|darkred|R1:34.8}}||[[吉田豊 (競馬)|吉田豊]]||[[大久保洋吉]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|[[第24回マイルチャンピオンシップ南部杯|第24回]]||2011年10月10日||JRA東京||1600m||[[トランセンド (競走馬)|トランセンド]]||牡5||JRA||1:34.8||[[藤田伸二]]||[[安田隆行]]||[[前田幸治]]
|-
|第25回||2012年10月8日||盛岡||1600m||エスポワールシチー||牡7||JRA||1:35.9||佐藤哲三||安達昭夫||(株)友駿ホースクラブ
|-
|第26回||2013年10月14日||盛岡||1600m||エスポワールシチー||牡8||JRA||1:35.1||後藤浩輝||安達昭夫||(株)友駿ホースクラブ
|-
|第27回||2014年10月13日||盛岡||1600m||[[ベストウォーリア]]||牡4||JRA||1:35.9||[[戸崎圭太]]||[[石坂正]]||[[馬場幸夫]]
|-
|第28回||2015年10月12日||盛岡||1600m||ベストウォーリア||牡5||JRA||1:36.8||[[福永祐一]]||石坂正||馬場幸夫
|-
|第29回||2016年10月10日||盛岡||1600m||[[コパノリッキー]]||牡6||JRA||{{Color|darkred|R1:33.5}}||[[田辺裕信]]||[[村山明 (競馬)|村山明]]||[[小林祥晃]]
|-
|第30回||2017年10月9日||盛岡||1600m||コパノリッキー||牡7||JRA||1:34.9||田辺裕信||村山明||小林祥晃
|-
|第31回||2018年10月8日||盛岡||1600m||[[ルヴァンスレーヴ]]||牡3||JRA||1:35.3||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[萩原清]]||(株)[[G1レーシング]]
|-
|第32回||2019年10月14日||盛岡||1600m||[[サンライズノヴァ]]||牡5||JRA||1:34.2||[[吉原寛人]]||[[音無秀孝]]||[[松岡隆雄]]
|-
|第33回||2020年10月12日||盛岡||1600m||[[アルクトス]]||牡5||JRA||{{Color|darkred|R1:32.7}}||田辺裕信||[[栗田徹]]||[[山口功一郎]]
|-
|第34回||2021年10月11日||盛岡||1600m||アルクトス||牡6||JRA||1:35.3||田辺裕信||栗田徹||山口功一郎
|-
|第35回||2022年10月10日||盛岡||1600m||[[カフェファラオ]]||牡5||JRA||1:34.6||福永祐一||[[堀宣行]]||[[西川光一]]
|-
|第36回||2023年10月9日||盛岡||1600m||[[レモンポップ]]||牡5||JRA||1:33.8||[[坂井瑠星]]||[[田中博康]]||[[ゴドルフィン]]
|}
== 東京競馬場での施行 ==
{{main|第24回マイルチャンピオンシップ南部杯}}
[[2011年]]はこの年に発生した[[東日本大震災]]の影響により、東京競馬場にて施行された<ref>{{Cite web|和書|date=2011年6月29日|url=http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/news/1106/110629i01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111230080100/http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/news/1106/110629i01.html|archivedate=2011年12月30日|title=「マイルチャンピオンシップ南部杯(JpnI)」の日本中央競馬会主催による東京競馬場での施行について|publisher=岩手県競馬組合|accessdate=2014-02-14|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。岩手県競馬自体は5月より盛岡競馬場での開催を再開し[[ダートグレード競走]]も施行されていたが競馬関連の施設が大きな被害を受けるなどして開催日数の減少による経営環境の厳しさなどから[[日本中央競馬会|JRA]]に要請を行い、本競走は盛岡競馬場と姉妹提携を結んでいる東京競馬場にてJRA主催により施行されることとなった。
JRAは当初開催予定のなかった[[10月10日]]を「岩手競馬を支援する日」と題して東京競馬場開催を追加し(震災で中止となった[[3月13日]]の阪神競馬の事実上代替開催)、岩手競馬所属で活躍した競走馬の名前([[トーホウエンペラー]]、[[メイセイオペラ]])を冠した競走も行われた。当競走のスタート前のファンファーレは、例年通り盛岡競馬場で使用されている曲を使用した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/furlong/2011/highlight_data/10/1010-01.html|title=【レースハイライト】第24回 マイルチャンピオンシップ南部杯JpnI|work=[[ハロン (雑誌)|web Furlong]]|accessdate=2014-02-14}}</ref>。また日曜日以外の競走で初めて[[WIN5]]が実施され、南部杯を含めた第8競走から第12競走が対象となった。
この年の入場人員は5万9475人で同年の[[フェブラリーステークス]]を上回ったほか、売り上げは70億2941万6200円で前年の本競走の約14倍を記録した<ref>{{Cite web|和書|date=2011年10月11日|url=http://www.sanspo.com/keiba/news/111011/kba1110110505009-n1.htm|title=【MCS南部杯】売り上げ前年比14倍|publisher=サンケイスポーツ|accessdate=2011-10-11}}</ref>。
== 脚注・出典 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==== 各回競走結果の出典 ====
*[https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/JyusyoRaceRekidaiWinhorse?k_raceNo=245&k_babaCode=10 マイルチャンピオンシップ南部杯 歴代優勝馬(第24回を除く)] - 地方競馬全国協会
*[https://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/nanbu/result/nanbu2011.html 第24回マイルチャンピオンシップ南部杯 成績] - 日本中央競馬会
*第1回 - 第24回 馬主欄の出典
**[http://www.tesio.jp/nanbu2012/keiko/index.html 傾向と対策 - 岩手競馬] - 勝ちそーチャンネル、2014年9月20日閲覧
*JBISサーチ
**{{JBIS-raceresult|1988|1009|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1989|1008|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1990|1007|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1991|1013|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1992|1011|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1993|1123|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1994|0925|211|09}}、{{JBIS-raceresult|1995|1010|211|10}}、{{JBIS-raceresult|1996|1010|210|10}}、{{JBIS-raceresult|1997|1010|210|10}}、{{JBIS-raceresult|1998|1010|210|10}}、{{JBIS-raceresult|1999|1011|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2000|1009|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2001|1008|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2002|1014|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2003|1013|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2004|1011|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2005|1010|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2006|1009|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2007|1008|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2008|1013|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2009|1012|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2010|1011|210|10}}、{{JBIS-raceresult|2011|1010|105|11}}、{{JBIS-raceresult|2012|1008|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2013|1014|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2014|1013|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2015|1012|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2016|1010|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2017|1009|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2018|1008|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2019|1014|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2019|1014|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2020|1012|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2021|1011|210|11}}、{{JBIS-raceresult|2022|1010|210|12}}、{{JBIS-raceresult|2023|1009|210|12}}
== 関連項目 ==
* [[東京盃]]
* [[日本テレビ盃]]
* [[エルムステークス]]
* [[武蔵野ステークス]]
* [[シリウスステークス]]
* [[青藍賞]]
* [[かしわ記念]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keiba.go.jp/dirtgraderace/2023/1009_milechampionshipnambuhai/racecard.html マイルチャンピオンシップ南部杯|ダートグレード競走特設サイト] - 地方競馬全国協会
{{ダートグレード競走}}
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[[Category:地方競馬の競走]]
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[[Category:盛岡南部家|*まいるちやんひおんしつふ]]
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エドワード・サイード
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エドワード・ワディ・サイード(إدوارد سعيد Edward Wadie Said, 1935年11月1日 - 2003年9月25日)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。
キリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれる。父親はエジプトのカイロで事業を営んだが、サイードはエルサレムにあった叔母の家で幼年期の多くの時間を過ごしたほか、レバノンでも暮らした。アラビア語、英語、フランス語の入り混じる環境で育ったため、3つの言語に堪能となる。14歳になる頃にはヴィクトリア・カレッジ(英語版)に通った。この時期の生活については、自伝『遠い場所の記憶』に詳しい。
アメリカ合衆国へ移住後、学士号をプリンストン大学、修士号と博士号をハーバード大学にて取得した。英文学と比較文学の教授をコロンビア大学で40年間務めた(1963年~2003年)ほか、ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、エール大学でも教鞭を執った。『ネイション』、『ガーディアン』、『ル・モンド・ディプロマティーク』、『アルアハラム』、『アル・ハヤト』などの雑誌に寄稿しつつ、ノーム・チョムスキーらとともにアメリカの外交政策を批判し、アメリカ国内で最大のパレスチナ人とアラブ人の擁護者として発言を続けた。同い年の大江健三郎を評価していた。
晩年は白血病を患って教鞭をとることもまれだった。2003年9月25日、長い闘病生活の末に、ニューヨークで没した。67歳だった。
学者としては、サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズム』(1978年)において、西洋におけるアジアや中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的・帝国主義的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論を確立した。サイードはオリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行ない、論争を引き起こした。
ジョセフ・コンラッドの研究から著作家としてのキャリアをスタートさせ、オリエンタリズムや帝国主義論と関連させつつラドヤード・キップリング、ギュスターヴ・フローベール、エドワード・ブルワー=リットン、カミュ、V・S・ナイポール、ゲーテなどを論じた。ゲーテがハーフィズに感銘を受けて作った『西東詩集』を賞讃し、この題名は、のちにサイード自身が運営に携わる楽団名の由来ともなった(「音楽との関わり」を参照)。
サイードは、イスラエル領とその占領地域およびそれ以外の土地に住むパレスチナ人の権利を擁護した。彼は長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員であったが、1993年に調印されたオスロ合意をめぐっては、(占領地域のヨルダン川西岸とガザ地区から撤退する代わりとして)イスラエルがパレスチナと相互承認を行い占領地域に居住していたパレスチナ人の自立について交渉を開始するという合意を、両者の分裂を決定的にする上にパレスチナ難民が元の土地へ帰還する権利を軽視したものとして強硬に反対。ヤーセル・アラファートと決裂した。
その代案としてサイードは、アラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきとの「一国家解決」論を主張した。イスラエルのパレスチナ占領に関するサイードの著書には、『パレスチナ問題』(1979年)、『パレスチナとは何か』(1986年)などがあり、彼の主張は敵対する民族を超えたリベラルなものと評価された。彼の死を知ったイスラエル人の歴史家イラン・パッペは、「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、シオニズム国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。
彼はまた、熟練したピアニストとして、『ネーション』に音楽批評を長年にわたって寄稿した。音楽評論をまとめた著書を出版し、音楽学との学際的な講義も行なっており、忌日が偶然にも誕生日にあたるグレン・グールドの熱心な信奉者として知られていた。1999年には親友であるイスラエル人の音楽家ダニエル・バレンボイムと共に、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を作った。これは才能ある若いクラシックの音楽家たちをイスラエルとアラブ諸国の双方から毎年夏に集めるという試みであり、ゲーテの『西東詩集』をもとに名づけられた。サイードとバレンボイムは、この業績が「国際的な理解に貢献した」という理由で、スペイン王室より2002年度のアストゥリアス皇太子賞を授与された。
※ 以下では、ビデオはV、音声はAと省略
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エドワード・ワディ・サイードは、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった。
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{{Infobox 作家
| name = エドワード・ワディ・サイード
| image = File:Edward Said and Daniel Barenboim in Sevilla, 2002.jpg
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| caption = 2002年の写真(左側の人物)<br/>(右側の人物は友人[[ダニエル・バレンボイム]])
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'''エドワード・ワディ・サイード'''(إدوارد سعيد Edward Wadie Said, [[1935年]][[11月1日]] - [[2003年]][[9月25日]])は、[[パレスチナ系アメリカ人]]の文学研究者、文学批評家。主著の『[[オリエンタリズム (サイード)|オリエンタリズム]]』で[[オリエンタリズム]]の理論とともに[[ポストコロニアル理論]]を確立した。彼はまた[[パレスチナ問題]]に関する率直な発言者でもあった。
== 生涯 ==
[[キリスト教徒]]の[[パレスチナ人]]として[[エルサレム]]に生まれる。父親は[[エジプト]]の[[カイロ]]で事業を営んだが、サイードはエルサレムにあった叔母の家で幼年期の多くの時間を過ごしたほか、[[レバノン]]でも暮らした。[[アラビア語]]、[[英語]]、[[フランス語]]の入り混じる環境で育ったため、3つの言語に堪能となる。14歳になる頃には{{仮リンク|ヴィクトリア・カレッジ|en|Victoria College, Alexandria}}に通った。この時期の生活については、自伝『遠い場所の記憶』に詳しい。
[[アメリカ合衆国]]へ移住後、学士号を[[プリンストン大学]]、修士号と博士号を[[ハーバード大学]]にて取得した。[[イギリス文学|英文学]]と[[比較文学]]の教授を[[コロンビア大学]]で40年間務めた([[1963年]]~[[2003年]])ほか、ハーバード大学、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]、[[イェール大学|エール大学]]でも教鞭を執った。『[[ネイション (雑誌)|ネイション]]』、『[[ガーディアン]]』、『[[ル・モンド・ディプロマティーク]]』、『[[アルアハラム]]』、『[[アル・ハヤト]]』などの雑誌に寄稿しつつ、[[ノーム・チョムスキー]]らとともにアメリカの[[外交政策]]を批判し、アメリカ国内で最大のパレスチナ人と[[アラブ人]]の擁護者として発言を続けた。同い年の[[大江健三郎]]を評価していた。
晩年は[[白血病]]を患って教鞭をとることもまれだった。2003年9月25日、長い闘病生活の末に、[[ニューヨーク]]で没した。67歳だった。
== 業績・活動 ==
=== オリエンタリズム ===
学者としては、サイードはオリエンタリズムの理論で最もよく知られている。彼は著書『オリエンタリズム』([[1978年]])において、[[西洋]]における[[アジア]]や[[中東]]への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、[[ヨーロッパ]]やアメリカの[[植民地主義]]的・[[帝国主義]]的な野望の隠れた正当化として作用してきたと主張し、オリエンタリズムの理論を打ち立てるとともにポストコロニアル理論を確立した。サイードはオリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行ない、論争を引き起こした。
=== 文学研究 ===
[[ジョセフ・コンラッド]]の研究から著作家としてのキャリアをスタートさせ、オリエンタリズムや[[帝国主義論]]と関連させつつ[[ラドヤード・キップリング]]、[[ギュスターヴ・フローベール]]、[[エドワード・ブルワー=リットン]]、[[アルベール・カミュ|カミュ]]、[[V・S・ナイポール]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]などを論じた。ゲーテが[[ハーフィズ]]に感銘を受けて作った『[[西東詩集]]』を賞讃し、この題名は、のちにサイード自身が運営に携わる楽団名の由来ともなった(「音楽との関わり」を参照)。
=== パレスチナとの関わり ===
サイードは、[[イスラエル]]領とその占領地域およびそれ以外の土地に住むパレスチナ人の権利を擁護した。彼は長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員であったが、[[1993年]]に調印された[[オスロ合意]]をめぐっては、(占領地域の[[ヨルダン川]]西岸と[[ガザ地区]]から撤退する代わりとして)イスラエルが[[パレスチナ国|パレスチナ]]と相互承認を行い占領地域に居住していたパレスチナ人の自立について交渉を開始するという合意を、両者の分裂を決定的にする上にパレスチナ[[難民]]が元の土地へ帰還する権利を軽視したものとして強硬に反対。[[ヤーセル・アラファート]]と決裂した。
その代案としてサイードは、アラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきとの「[[一国家解決]]」論を主張した。イスラエルのパレスチナ占領に関するサイードの著書には、『パレスチナ問題』([[1979年]])、『パレスチナとは何か』([[1986年]])などがあり、彼の主張は敵対する民族を超えたリベラルなものと評価された。彼の死を知ったイスラエル人の歴史家[[イラン・パッペ]]は、「私のようなイスラエルのユダヤ人にとってサイードは、[[シオニズム]]国家で成長するということの闇と混乱のなかから私たちを連れ出し、理性と倫理、そして良心の岸辺へと導いてくれる灯台であった。」と追悼した。
=== 音楽との関わり ===
彼はまた、熟練したピアニストとして、『ネーション』に音楽批評を長年にわたって寄稿した。音楽評論をまとめた著書を出版し、[[音楽学]]との学際的な講義も行なっており、忌日が偶然にも[[誕生日]]にあたる[[グレン・グールド]]の熱心な信奉者として知られていた。[[1999年]]には親友である[[イスラエル人]]の音楽家[[ダニエル・バレンボイム]]と共に、[[ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団]]を作った。これは才能ある若いクラシックの音楽家たちをイスラエルと[[アラブ世界|アラブ諸国]]の双方から毎年夏に集めるという試みであり、ゲーテの『[[西東詩集]]』をもとに名づけられた。サイードとバレンボイムは、この業績が「国際的な理解に貢献した」という理由で、[[スペイン]]王室より2002年度の[[アストゥリアス皇太子賞]]を授与された。
== 著書 ==
=== 単著 ===
*''Joseph Conrad and the Fiction of Autobiography'', (Harvard University Press, 1966).
*''Beginnings: Intention and Method'', (Basic Books, 1975).
:『始まりの現象――意図と方法』 [[山形和美]]・[[小林昌夫]]訳、[[法政大学出版局]]、1992年。
*''[[:en:Orientalism (book)|Orientalism]]'', (Pantheon Books, 1978).
:『オリエンタリズム』 [[今沢紀子]]訳、[[平凡社]]、1986年/〈平凡社ライブラリー〉、1993年。
*''The Question of Palestine'', (Times Books, 1979).
:『パレスチナ問題』 [[杉田英明]]訳、[[みすず書房]], 2004年。
*''[[:en:Covering Islam|Covering Islam]]: How the Media and the Experts Determine How We See the Rest of the World'', (Pantheon Books, 1981).
:『イスラム報道――ニュースはいかにつくられるか』 [[浅井信雄]]・[[佐藤成文]]訳、みすず書房、1986年。
*''The World, the Text, and the Critic'', (Harvard University Press, 1983).
:『世界・テクスト・批評』山形和美訳、法政大学出版局、1995年。
*''After the Last Sky: Palestinian lives'', (Pantheon Books, 1986).
:『パレスチナとは何か』 [[島弘之]]訳、[[岩波書店]]、1995年/〈岩波現代文庫〉, 2005年。
*''Musical Elaborations'', (Columbia University Press, 1991).
:『音楽のエラボレーション』 [[大橋洋一 (文学研究者)|大橋洋一]]訳、みすず書房、1995年。
*''[[:en:Culture and Imperialism|Culture and Imperialism]]'', (Knopf, 1993).
:『文化と帝国主義(1・2)』 大橋洋一訳、みすず書房、1998年-2001年。
*''Representations of the Intellectual: the 1993 Reith Lectures'', (Vintage, 1994).
:『知識人とは何か』 大橋洋一訳、平凡社, 1995年/〈平凡社ライブラリー〉、1998年。
*''The Pen and the Sword: Conversations with David Barsamian'', (Common Courage Press, 1994).
:『ペンと剣』 [[中野真紀子]]訳、クレイン、1998年/[[筑摩書房]]〈ちくま学芸文庫〉、2005年。
*''The Politics of Dispossession: the Struggle for Palestinian Self-determination 1969-1994'', (Chatto & Windus, 1994).
:『収奪のポリティックス――アラブ・パレスチナ論集成 1969-1994』 [[川田潤]]・[[伊藤正範]]・[[齋藤一]]・[[鈴木亮太郎]]・[[竹森徹士]]訳、[[NTT出版]]、2008年。
*''Peace and its Discontents: Gaza-Jericho, 1993-1995'', (Vintage, 1995).
*''Covering Islam: How the Media and the Experts Determine How We See the Rest of the World'', Fully Rev. ed., (Vintage, 1997).
:『イスラム報道(増補版)』 浅井信雄・佐藤成文・[[岡真理]]訳、みすず書房、2003年。
*''Out of Place: A Memoir'', (Knopf, 1999).
:『遠い場所の記憶――自伝』 中野真紀子訳、みすず書房、2001年。
* 『パレスチナへ帰る』 [[四方田犬彦]]編訳、[[作品社]]、1999年。 - 日本オリジナル
*''The End of the Peace Process: Oslo and After'', (Pantheon Books, 2000).
*''Reflections on Exile and Other Essays'', (Harvard University Press, 2000).
:『故国喪失についての省察(1・2)』 大橋洋一・[[近藤弘幸]]・和田唯・[[三原芳秋]]訳、みすず書房、2006年-2009年。
* 『戦争とプロパガンダ』 中野真紀子・[[早尾貴紀]]訳、みすず書房、2002年。 - 日本オリジナル
* 『戦争とプロパガンダ(2)パレスチナは、いま』 中野真紀子訳、みすず書房、2002年。 - 日本オリジナル
*''Freud and the Non-European'', (Verso, 2003).
:『フロイトと非-ヨーロッパ人』 [[長原豊]]訳、平凡社, 2003年。
*『戦争とプロパガンダ(3)イスラエル、イラク、アメリカ』 中野真紀子訳、みすず書房、2003年。 - 日本オリジナル
*『戦争とプロパガンダ(4)裏切られた民主主義』 中野真紀子訳、みすず書房、2003年。 - 日本オリジナル
*''Humanism and Democratic Criticism'', (Columbia University Press, 2004).
:『人文学と批評の使命――デモクラシーのために』 [[村山敏勝]]・[[三宅敦子]]訳、岩波書店、2006年。
*''From Oslo to Iraq and the Road Map'', (Pantheon Books, 2004).
:『オスロからイラクへ 戦争とプロパガンダ2000-2003』 中野真紀子訳、みすず書房、2005年。
*''On Late Style: Music and Literature against the Grain'', (Pantheon Books, 2006).
:『晩年のスタイル』 大橋洋一訳、岩波書店、2007年。
=== 共著 ===
*''Nationalism, Colonialism, and Literature'', with Terry Eagleton and Fredric Jameson, (University of Minnesota Press, 1990).
:『民族主義・植民地主義と文学』 [[増渕正史]]・[[安藤勝夫]]・[[大友義勝]]訳、法政大学出版局、1996年。 - [[テリー・イーグルトン]]、[[フレドリック・ジェイムソン]]との共著
*''Acts of Aggression: Policing "Rogue States"'', with Noam Chomsky and Ramsey Cark, (Seven Stories Press, 1999). - ノーム・チョムスキー、[[ラムゼイ・クラーク]]との共著
*''Power, Politics, and Culture: Interviews with Edward W. Said'', with Gauri Viswanathan, (Pantheon Books, 2001).
:『権力、政治、文化――エドワード・W・サイード発言集成(上・下)』 大橋洋一ほか訳、[[太田出版]], 2007年。 - ゴーリ・ヴィスワナタン(Gauri Viswanathan)編
*''Parallels and Paradoxes: Explorations in Music and Society'', with Daniel Barenboim, (Pantheon Books, 2002).
:『音楽と社会』 中野真紀子訳、みすず書房、2004年。 - ダニエル・バレンボイムとの対談集
*''Culture and Resistance: Conversations with Edward W. Said'', with David Barsamian, (South End Press, 2003).
:『文化と抵抗』 大橋洋一・[[大貫隆史]]・[[河野真太郎]]訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2008年。 - [[:en:David Barsamian|デーヴィッド・バーサミアン]]によるインタビュー集
*''Conversations with Edward Said'', with Tariq Ali, (Seagull Books, 2006).
:『サイード自身が語るサイード』 大橋洋一訳、[[紀伊國屋書店]]、2006年。 - [[:en:Tariq Ali|タリク・アリ]]によるインタビュー集
*『力の論理を超えて―ル・モンド・ディプロマティーク1998‐2002』 NTT出版、2003年。ISBN 4757140517-[[イマニュエル・ウォーラーステイン]]らとの共著
=== 編著 ===
*''Literature and Society'', (Johns Hopkins University Press, 1980).
=== 共編著 ===
*''The Arabs Today: Alternatives for Tomorrow'', co-edited with Fuad Suleiman, (Forum Associates, 1973).
*''[[:en:Blaming the Victims|Blaming the Victims]]: Spurious Scholarship and the Palestinian Question'', co-edited with Christopher Hitchens, (Verso, 1988).
=== 論文集 ===
*''The Edward Said Reader'', edited by Moustafa Bayoumi and Andrew Rubin, (Vintage Books, 2000).
=== ビデオ・音声 ===
※ 以下では、ビデオは'''V'''、音声は'''A'''と省略
* '''V''' ''[http://www.democracynow.org/2003/4/24/edward_said_speech Edward Said Speech]'' - Democracy Now!(April 24, 2003)
* '''V''' ''[http://www.democracynow.org/2003/9/26/professor_edward_said_scholar_activist_palestinian Professor Edward Said: Scholar, Activist, Palestinian 1935–2003]'' - Democracy Now!(September 26, 2003)
* '''V''' ''[http://www.democracynow.org/2003/10/20/on_dignity_and_solidarity_scholar_activist On Dignity and Solidarity: Scholar, Activist, Palestinian, Edward Said Speaks Out in One of His Last Major Addresses]'' - Democracy Now!(October 20, 2003)
* '''M''' 「[http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=78 エドワード・サイード OUT OF PLACE]」(SIGLO、2005年、[[佐藤真]]監督)
* '''V''' 『パレスチナ 響きあう声 ~E.W.サイードの「提言」から』NHKハイビジョンスペシャル番組、90分、2003年9月6日放送(鎌倉英也ディレクター)
== 参考文献・注釈 ==
* 『現代思想 サイード特集』(Vol.31-14) [[青土社]]、2003年。ISBN 4791711130
* Shelley Walia原著『サイードと歴史の記述』 岩波書店〈ポストモダン・ブックス〉、2004年。ISBN 4000270745
* [[姜尚中]]著『オリエンタリズムの彼方へ―近代文化批判』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2004年。ISBN 4006001193
* [[本橋哲也]]著『ポストコロニアリズム』 岩波書店〈岩波新書〉、2005年。ISBN 400430928X
* Bill Ashcroft/Pal Ahluwalia原著『エドワード・サイード』 [[青土社]]「シリーズ現代思想ガイドブック」、2005年。ISBN 4791762215
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== 関連項目 ==
* [[オリエンタリズム]]
* [[ポストコロニアル理論]]
== 外部リンク ==
* アーカイヴ:[http://www.edwardsaid.org/modules/news/ The Edward Said Archive ](英語)
* [http://www.jca.apc.org/~nakanom/J/saidonline.htm RUR55 Outlet-エドワード・サイード・オンライン](日本語)
* [http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/edward_said.html 2002年9月17日付け朝日新聞掲載インタビュー記事「テロは世界を変えたか エドワード・サイード氏に聞く」]
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[[Category:エドワード・サイード|*]]
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小泉八雲
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小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。
出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にはファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。
アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったともいわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県尋常中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。 日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。母がキシラ島生まれのギリシャ人で、アラブ人の血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、伝統、風俗習慣などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していた。父母を通じて、地球上の東西と南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけている。異国情緒を求める時代背景もあったが、八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、日本と放浪を続けた。かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかった。シンシナティでは州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、のちに小泉セツと家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかった。
2016年11月、愛知学院大学の教授によって1896年(明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の二重国籍だった可能性が高いことが示唆されている。(後述)
1850年、当時はイギリスの保護領であったレフカダ島(1864年にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じイオニア諸島にあるキシラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いた。
父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュである。イギリス軍の軍医少佐としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、キシラ島(イタリア語読みではセリゴ島)の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。カシマティはアラブの血が混じっているとも伝えられる。ラフカディオは3人男子の次男で、長男は夭折し、弟ジェイムズは1854年に生まれ、のちにアメリカ合衆国で農業を営んだ。
1851年、父の西インド転属のため、この年末より母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中パリを経て1852年8月、両親とともに父の家があるダブリンに到着。移住し、幼少時代を同地で過ごす。
父が西インドに赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになり、ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになった。
フランスやイギリスのダラム大学の教育を受けた後、1869年に渡米。得意のフランス語を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。
1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚、三男一女を儲けた。
松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った、古典の再話文学でも読まれている。
長男・一雄にはアメリカで教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え、当時、小石川区茗荷谷に住むレオニー・ギルモア(夫は野口米次郎、子にイサム・ノグチ)に英語の個人教授を受けさせた。
1904年(明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。松江時代に居住した住宅は、1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。ハーンの死に際して歌誌「心の花」に書いた追悼文中では「英文学界に頭角を表せる消息文の大家として世に記憶せられぬべし」と、ハーンの書簡文を高く評価している。
ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチェンバレンの説に反対して、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに対し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)の書中で反論した。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘している。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に一部誇張があったことを認めているが、現代の日本での支持は高い。
1904年の著作『Japan-An Attempt at Interpretation』は、太平洋戦争中、アメリカ合衆国の対日本心理戦に重要な役割を果たしたとされる。当時のアメリカ軍准将であり、ダグラス・マッカーサーの軍事書記官・心理戦のチーフであったボナー・フェラーズは、当時のアメリカ合衆国が利用できる、日本人の心理を理解するための最高の本であったと述べたという。
Category:小泉八雲も参照のこと。
長谷川武次郎が刊行した日本昔噺シリーズ (Japanese Fairy Tale) のうち、5作品が八雲によるもの。
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小泉 八雲は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者。
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{{Infobox 作家
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| relations = [[小泉凡]](曾孫)
}}
'''小泉 八雲'''(こいずみ やくも、[[1850年]][[6月27日]] - [[1904年]]([[明治]]37年)[[9月26日]])は、[[ギリシャ]]生まれの[[記者|新聞記者(探訪記者)]]、[[紀行|紀行文作家]]、[[随筆家]]、[[小説家]]、[[日本学|日本研究家]]、[[イギリス文学者|英文学者]]。
== 名前について ==
出生名は'''パトリック・ラフカディオ・ハーン''' (Patrick Lafcadio Hearn)。'''ラフカディオ'''が一般的には[[人名#キリスト教圏の名前|ファーストネーム]]として知られているが、実際は[[人名#キリスト教圏の名前|ミドルネーム]]である。
[[アイルランド]]の[[守護聖人]]・[[パトリキウス|聖パトリック]]にちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったともいわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県尋常中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの{{efn|一般的には本人が「[[サギ]]」(heron) と発音が似ていたから気に入ったとされる。}}。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
== 概要 ==
[[1896年]]([[明治]]29年)に日本国籍を取得して「'''小泉八雲'''」と名乗る<ref>[https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/bunjin/koizumi.html 小泉八雲(こいずみ やくも)](文京区)</ref>。「[[八雲]]」は、一時期[[島根県]]の[[松江市]]に在住していたことから、そこの旧国名([[令制国]])である[[出雲国]]にかかる[[枕詞]]の「八雲立つ」に因むとされる<ref>{{cite book|和書
|editor = 小泉時・小泉凡
|title = 増補新版文学アルバム小泉八雲
|publisher = 恒文社
|year = 2008
|pages = 105頁
}}セツの養祖父・稲垣万右衛門が『古事記』にある日本最古の和歌からとって名付けた、とある。</ref>。
日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。母が[[キティラ島|キシラ島]]生まれの[[ギリシャ人]]で、[[アラブ人]]の血も混じっていたらしく、のちに八雲自身、家族や友人に向かって「自分には半分[[東洋人]]の血が流れているから、[[日本の文化]]、[[芸術]]、[[伝統]]、[[風俗]][[習慣]]などに接してもこれを肌で感じ取ることができる」と自慢していた。父母を通じて、地球上の東西と南北の血が自分の中に流れているという自覚が、八雲の生涯と文学を特徴づけている。[[エキゾチシズム|異国情緒]]を求める時代背景もあったが、八雲は生涯を通じて[[アイルランド]]から[[フランス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[西インド諸島]]、[[日本]]と[[放浪]]を続けた。かつ、いかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかった。[[シンシナティ]]では[[州法]]を犯してまで混血[[黒人]]と結婚しようとし、のちに[[小泉節子|小泉セツ]]と家庭を持つに際しても、何ら抵抗を感じなかった<ref name="shincho">『小泉八雲集』(新潮社 平成9年11月20日版)</ref>。
[[2016年]]11月、[[愛知学院大学]]の教授によって[[1896年]](明治29年)当時の英国領事の書簡を元にした研究論文が発表され、小泉八雲がイギリスと日本の[[二重国籍]]だった可能性が高いことが示唆されている<ref name="kokuseki" />。([[#その他|後述]])
== 経歴 ==
{{出典の明記|date=2011年12月|section=1|ソートキー=人1904年没}}
[[1850年]]、当時は[[イオニア諸島合衆国|イギリスの保護領]]であった[[レフカダ島]]([[1864年]]にギリシャに編入)にて、イギリス軍医であったアイルランド人の父チャールス・ブッシュ・ハーンと、レフカダ島と同じ[[イオニア諸島]]にある[[キティラ島|キシラ島]]出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティのもとに出生。生地レフカダ島から'''ラフカディオ'''というミドルネームが付いた<ref name="shincho"></ref>。
父は[[アイルランド]]出身で[[プロテスタント]]・アングロ=アイリッシュである。[[イギリス軍]]の軍医[[少佐]]としてレフカダ島 (Lefkada) の町リュカディアに駐在中、[[キティラ島|キシラ島]](イタリア語読みではセリゴ島)の裕福な[[ギリシャ人]]名士の娘であるローザ・カシマティと結婚した。カシマティは[[アラブ]]の血が混じっているとも伝えられる。ラフカディオは3人男子の次男で、長男は夭折し、弟ジェイムズは[[1854年]]に生まれ、のちに[[アメリカ合衆国]]で[[農業]]を営んだ<ref name="shincho"></ref>。
[[1851年]]、父の西インド転属のため、この年末より母と通訳代わりの女中に伴われ、父の実家へ向かうべく出立。途中[[パリ]]を経て[[1852年]]8月、両親とともに父の家がある[[ダブリン]]に到着。移住し、幼少時代を同地で過ごす<ref name="shincho"></ref>。
父が[[西インド]]に赴任中の[[1854年]]、精神を病んだ母がギリシアへ帰国し、間もなく離婚が成立。以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート)に厳格な[[カトリック教会|カトリック]]文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンは[[キリスト教]]嫌いになり、ケルト原教の[[ドルイド|ドルイド教]]に傾倒するようになった。
[[フランス]]や[[イギリス]]の[[ダラム大学]]の教育を受けた後、[[1859年|1869年]]に渡米。得意の[[フランス語]]を活かし、20代前半から[[ジャーナリスト]]として頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博す。
[[1890年]](明治23年)、[[アメリカ合衆国]]の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚、三男一女を儲けた。
[[松江市|松江]]・[[熊本市|熊本]]・[[神戸市|神戸]]・[[東京]]と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『[[雨月物語]]』『[[今昔物語集|今昔物語]]』などに題材を採った、古典の[[ストーリーテリング|再話文学]]でも読まれている。
長男・一雄にはアメリカで教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え、当時、[[小石川区]][[茗荷谷町|茗荷谷]]に住む[[レオニー・ギルモア]](夫は[[野口米次郎]]、子に[[イサム・ノグチ]])に英語の個人教授を受けさせた。
[[1904年]](明治37年)に狭心症で死去。満54歳没。松江時代に居住した住宅は、[[1940年]](昭和15年)に国の[[史跡]]に指定されている。
== 年譜 ==
* [[1850年]] - [[レフカダ島]]にて誕生。
* [[1852年]] - [[ダブリン]]に移住。
* [[1854年]] - 精神を病んだ母がギリシャのキシラ島へ帰国。
* [[1856年]] - 父母が離婚し、父は再婚。
* [[1863年]] - [[フランス]]の[[神学校]]に移るも帰国し、ダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(後の{{仮リンク|アショウ・カレッジ|en|Ushaw College}})入学。
* [[1865年]] - カレッジの[[回転ブランコ]]で遊んでいる最中にロープの結び目が左眼に当たって失明。以後左眼の色が右眼とは異なるようになったため、写真は右側からのみ撮らせるようになる。
* [[1866年]] - 父が西インドから帰国途中に病死。大叔母は[[破産]]した。
* [[1867年]] - 大叔母の破産を受けてダラム大学セント・カスバーツ・カレッジを退学<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hearn-museum-matsue.jp/hearn.html|title=小泉八雲の生涯|publisher=[[小泉八雲記念館]]|accessdate=2018-01-07}}</ref>、[[ロンドン]]に行く。
* [[1869年]] - [[リヴァプール]]から[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク]]へ移民船で渡り、[[シンシナティ]]に行く。
* [[1872年]] - トレード・リスト紙の副主筆。
* [[1874年]] - インクワイアラー社に入社。マティ・フォリーと[[結婚]]<ref name="kudo97p55">工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯【アメリカ編】』集英社、1997年、p.55</ref>。[[オハイオ州]]では当時違法だった[[ネグロイド|黒人]]との結婚で、正式な届け出が受理された形跡はない<ref>工藤、1997年、p.35</ref>。結婚式は最初に頼んだ牧師から拒絶され、次に依頼した黒人牧師が司式した<ref name="kudo97p55"/>。
* [[1875年]] - マティとの結婚も一因となり、インクワイアラー社を退社<ref>工藤、1997年、p.58</ref>。
* [[1876年]] - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
* [[1877年]] - [[離婚]]、シンシナティの[[公害]]による目への悪影響を避け、[[ニューオーリンズ]]へ行く。
* [[1879年]] - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
* [[1882年]] - アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオーリンズの[[クレオール]]文化、[[ブードゥー教]]など。
* [[1884年]] - 8月末から1か月余り、メキシコ湾内のグランド島に滞在する。ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で[[農商務省 (日本)|農商務省]]官僚の[[服部一三]]に展示物など日本文化を詳しく説明され、この時、[[高峰譲吉]]に会う。
* [[1887年]] - [[1889年]] - フランス領[[西インド諸島]][[マルティニーク|マルティニーク島]]に旅行。
* [[1890年]] - [[ネリー・ブライ]]と世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストの[[エリザベス・ビスランド]](アメリカ合衆国でのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された[[古事記]]に描かれた日本に惹かれたとの説<ref>[https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/145.html 出雲 縁結びの旅へ!~古事記編纂1300年 神話の里の物語~] - NHK歴史秘話ヒストリア2012年11月7日放送</ref>もある。
** ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークから[[カナダ]]の[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]に立ち寄り、[[4月4日]][[横浜港]]に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。横浜では、1887年にハーンが『ハーパース・バザー』に発表した「Rabyah's Last Ride」の熱烈な読者だった在日英国人学校ビクトリア・パブリック・スクール校長の[[チャールズ・ハワード・ヒントン]]がハーンを家に招き同校での教職も与えたが、ヒントンの妻がハーンの隻眼を嫌がり決別する<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=bAYM_e5MiD0C&pg=PA128 A Fantastic Journey: The Life and Literature of Lafcadio Hearn] Paul Murray, Psychology Press, 1993, p128, p355</ref><ref>[https://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=LAH18951027.2.86&e=-------en--20--1--txt-txIN--------1 Rabyah's Last Ride(再録)]Los Angels Herald, Volume 45, Number 16, 27 October 1895</ref>。なお、ヒントンの妻のマリーは、数学者[[ジョージ・ブール]]とやはり数学者の[[:en:Mary Everest Boole|マリー・エベレスト・ブール]]([[エベレスト]]山の由来となった[[ジョージ・エベレスト]]の姪)との間の娘である。このときのハーンの教え子に[[エドワード・B・クラーク]]がいる。
** 7月、アメリカ合衆国で知り合った[[服部一三]](この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・[[島根県立松江北高等学校]])と[[島根師範学校|島根県尋常師範学校]](現・[[島根大学]])の英語教師に任じられる。
** [[8月30日]]、松江到着。
* [[1891年]]
** 1月 - 中学教頭[[西田千太郎]]のすすめで、松江の[[士族]]小泉湊の娘・[[小泉節子]]([[1868年]][[2月4日]] - [[1932年]][[2月18日]])と結婚する。同じく旧[[松江藩]]士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。
** 11月、[[熊本市]]の[[第五高等学校 (旧制)|第五高等中学校]]([[熊本大学]]の前身校。校長は[[嘉納治五郎]])の英語教師となる。長男・一雄誕生。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
* [[1894年]] - [[神戸市]]のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
* [[1896年]] - [[東京大学|東京帝国大学]]文科大学の英文学講師に就職。日本に[[帰化]]し「'''小泉八雲'''」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する([[1902年]]の春まで在住)。
[[Image:Koizumi Yakumo in the Zōshigaya Cemetery.JPG|thumb|right|200px|雑司ヶ谷霊園の墓]]
* [[1897年]] - 次男・[[稲垣巌|巌]]誕生。
* [[1899年]] - 三男・清誕生。
* [[1902年]][[3月19日]] - 西大久保の家に転居する。
* [[1903年]] - 東京帝国大学退職(後任は[[夏目漱石]])、長女・寿々子誕生。
* [[1904年]]3月 - [[早稲田大学]]の[[講師 (教育)|講師]]を務め、[[9月26日]]に[[狭心症]]により東京の自宅にて死去、満{{没年齢|1850|6|27|1904|9|26}}。[[戒名]]は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の[[雑司ヶ谷霊園]]。
* [[1915年]] - 贈[[従四位]]<ref>田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35</ref>。
== 評価および論争 ==
{{出典の明記|date=2011年12月|section=1|ソートキー=人1904年没}}
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があった[[バジル・ホール・チェンバレン]]は、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。ハーンの死に際して歌誌「心の花」に書いた追悼文中では「英文学界に頭角を表せる消息文の大家として世に記憶せられぬべし」と、ハーンの書簡文を高く評価している<ref>[https://ohta-masakazu.blog.jp/archives/16275071.html チヤムブレン「ラフカデイオ・ハアン」」]小花清泉訳、『心の花』第十五巻一号、竹柏会、1911年1月</ref>。
ハーン研究者でもある比較文学者の[[平川祐弘]]はチェンバレンの説に反対して、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の[[太田雄三]]はこれに対し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)の書中で反論した。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の[[小谷野敦]]は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘している。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に一部誇張があったことを認めているが、現代の日本での支持は高い。
1904年の著作『Japan-An Attempt at Interpretation』は、[[太平洋戦争]]中、アメリカ合衆国の対日本[[心理戦]]に重要な役割を果たしたとされる。当時のアメリカ軍准将であり、[[ダグラス・マッカーサー]]の軍事書記官・心理戦のチーフであった[[ボナー・フェラーズ]]は、当時のアメリカ合衆国が利用できる、日本人の[[心理学|心理]]を理解するための最高の本であったと述べたという<ref>John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page280-281、[[ジョン・ダワー]]『敗北を抱きしめて』、下巻、8ページ。岩波書店、2001年</ref>。
== エピソード ==
{{複数の問題|出典の明記=2011年12月|雑多な内容の箇条書き=2016年10月9日 (日) 00:22 (UTC)|section=1|ソートキー=人1904年没}}
=== 身体、外見 ===
[[File:Lafcadio Hearn and Mitchell McDonald.jpg|thumb|顔の左側に手を添える八雲(上)。友人のミッチェル・マクドナルド(下)と共に。]]
* もともと強度の近視であったが、さらに晩年は右目の視力も衰え、高さが98センチメートルもある机を使用して紙を目に近づけランプの光を明るくして執筆を行った。
* 16歳のときに怪我で左眼を[[失明]]して[[隻眼]]となって以降、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。
{{Quotation|たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫、身に灰色のセビロをつけ、折襟のフランネルの襯衣に、細き黒きネクタイを無造作に結びつけたり。顔は銅色、鼻はやゝ高く狭く、薄き口髭ありて愛くるしく緊まれる唇辺を半ば蔽ひ、顎やゝ尖り、額やゝ広く、黒褐色の濃き頭髪には少しく白を混へたり。されど最も不思議なるは其眼なり。右も左を度を過ぎて広く開き、高く突き出で、而して其左眼には白き膜かゝりてギロギロと動く時は一種の怪気なきにしもあらず。されど曇らぬ右眼は寧ろやさしき色を帯びたり。』『やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。英文学史の講義は始まれる也。出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき。(原文ママ){{sfn|松本|1989|pp=24-25}}}}
=== 執筆関係 ===
* 非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙が数多く残されている。ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、それらは夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉で書かれている。
* 「原稿は9回書き直さなければまともにならない」とし、文章にこだわった。例えば「雪女」の結文「Never again was she seen」のsの3連続を風呂鞏{{efn|ふろ かたし。広島ラフカディオハーンの会代表。元修道高校英語教師。}}は代表例としてあげる<ref>「小泉八雲 知られぬ面影」日本経済新聞2016年4月25日</ref>。
* 著作の原稿料にはこだわっていたが貯蓄にまったく関心がなく、亡くなった当時小泉家には遺産となるものがほとんど残っていなかった。当時小泉家には妻の親類縁者が多く同居しており、著述業と英語教師としての収入はほぼ全額彼らの生活費に充てられていた。
* アメリカ合衆国で新聞記者をしていたとき「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある<ref>
{{cite book|和書
|editor = 小泉時・小泉凡
|title = 増補新版文学アルバム小泉八雲
|publisher = 恒文社
|year = 2008
|pages = 51頁
}}</ref>。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
* 英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた{{efn|西川盛雄 / アラン・ローゼン共編『ラフカディオ・ハーンの英作文教育』(弦書房)がハーンの添削ぶりを示している。}}。
* アメリカ合衆国在住中に勤勉が習い性となり、日本では学校教育の傍ら14年間に13冊の本を書いた<ref>
{{cite book|和書
|author = 平川祐弘|title = 小泉八雲とカミガミの世界
|publisher = 文藝春秋
|year = 1988
|pages = 126頁
}}</ref>。
* tsunamiという英語を皆が知る英語にしたのは[[スマトラ島沖地震 (2004年)]]からであるが、最初に英語として紹介したのはハーンの [[1897年]]の作品「[[稲むらの火|生神]]」の英語版"A Living God"からである。
== 八雲をめぐる人々 ==
[[File:Lafcadio Hearn.jpg|thumb|八雲(左)と妻・セツ(右)]]
; セツ(妻)
: 妻セツは日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせるため、普段からそれらの資料収集に努めた。彼女以外の家族・使用人・近隣住民、また旅先で出会った人々の話を題材にした作品も多い。
; [[浅野和三郎]](教え子、心霊研究家)
: 浅野は[[大本事件#第一次大本事件|第一次大本事件]]の陳弁書でハーンの印象を回想している{{sfn|松本|1989|p=22}}。また、「自分は二十余年前の当時を回顧して見ると、小泉師の講堂丈にはモ一度入つて聴講したいやうな気分がする」と回顧する{{sfn|松本|1989|p=51-53}}。『英文学史』の中ではハーンについて「其真実の籍は米国にもあらず、又日本にもあらずして、美文の世界に在り」と記した{{sfn|松本|1989|p=51-53}}。
; [[田部隆次]](教え子)
: 田部は早稲田大学の委嘱で書いた伝記「小泉八雲〜ラフカディオ・ヘルン〜」の中で、古くから日本名「八雲」については「音読みにするとハウンになる」こととの関連を指摘されることが多かったらしいことに関連し「八雲はハウンに通じるという考えは少しもなかった」と明記している。
; [[田部重治]](教え子田部隆次の弟)
: 田部隆次の弟、田部重治は兄からハーンの逸話を聞き「英文学界そぞろ歩き」(『英語青年』1967年9月号)として発表した{{sfn|松本|1989|p=51-53}}。それによれば、ハーンは学生に題名を与えて感想・随筆の懸賞を行い、受賞者には文学全集を与えた{{sfn|松本|1989|p=51-53}}。田部、浅野、[[大谷正信]]、[[戸沢正保]]達が受賞したという{{sfn|松本|1989|p=51-53}}。
; [[川田順]](教え子)
: 東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。[[川田順]]は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の[[夏目漱石]]についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。
; [[本田増次郎]]([[第五高等学校 (旧制)|熊本第五高等学校]]時代の同僚)
: 本田によると、失明した左目はひどく突き出ており、右目は強度の近視で、ページに額をこすりつけて一字ずつ追わないと読めないほどで、背中が曲がり変形していたという<ref name=honda>[https://web.archive.org/web/20151124220013/http://masujiro.kakukaku-sikajika.com/kiyou.pdf 本田増次郎自叙伝「ある日本人コスモポリタンの物語」の紹介]長谷川勝政、本田増次郎Web記念館</ref>。また、本田の回想によると、ハーンは一種の人間嫌いになっていたが、白人種の中にいるよりは日本人の中にいるほうが気に障らないと感じていた<ref name=honda/>。そして本田は更に、小泉の性格について病的なほど神経質で猜疑心が強く、「文学者は作品を介して敬服するに越したことはない。個人的なお付き合いをするとひどく失望させられるからだ。ハーンもこの一般原則の例外ではなかった」と語っている<ref name=honda/>。
; [[内ヶ崎作三郎]](衆議院副議長)
: 内ヶ崎は田部隆次著『小泉八雲』に序文「小泉八雲先生を懐ふ」を寄せ、この中で「されど先生の清く澄んだ歌ふがごとき声がかすかに微笑を湛ゆる口辺より洩るるを聞く時は、その事自身が一種の魔力であった」と述べて浅野と同じく“魔力”の表現を使った{{sfn|松本|1989|pp=21-26}}{{sfn|松本|1989|p=26}}。
; [[西田幾太郎]](哲学者)
: 西田も田部のハーン伝記序文で「ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた。かれは我々の単純なる感覚や感情の奥に過去幾千年来の生の脈搏を感じたのみならず、肉体的表現の一々の上にも祖先以来幾世の霊の活動を見た。(中略)氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である。」と述べ、ハーンの神秘主義を指摘している{{sfn|松本|1989|p=27}}。
; [[巖谷國士]](フランス文学者)
: 巖谷は自著「[[オデュッセウス]]の旅」(『作家の旅』[[平凡社]])で「移り住んだ土地を列挙しただけでも、興味ぶかい事実に思いあたる。島を好んだということだ…琉球諸島まで航海する計画まで…」「ハーンの生涯の旅程から知られるもうひとつの事実は、ロンドンやパリやニューヨークには居つかず、いわゆる辺境を選んで住んだということである」などと小泉について評している。
=== 土地 ===
[[ファイル:Hanakake.jpg|thumb|right|180px|八雲が愛した鼻かけ地蔵]]
* 熊本時代、時間があると第五高等学校の裏にある[[小峰墓地]]に通い、そこにある鼻の欠けた地蔵「鼻かけ地蔵」をこよなく愛したとされる<ref>{{Wayback|url=http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=137|title=小峯墓地の石仏(八雲関連) - 【満遊!くまもと】|date=20161002171500}}</ref>。
* 八雲生誕の地、[[ギリシャ]]の[[レフカダ島]]の詩人公園には、日本の松江と新宿から贈られた八雲の像がある。
* 八雲の縁で、[[レフカダ]](出生の地)と[[新宿区]](終焉の地)、[[ニューオーリンズ市]]と[[松江市]]がそれぞれ姉妹都市になっている<ref name="clair">[http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi 姉妹提携情報] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121027200400/http://www.clair.or.jp/cgi-bin/simai/j/00.cgi |date=2012年10月27日 }} - [[自治体国際化協会]]</ref>。
* 熊本では、家(第二旧居)から[[人力車]]で現在の[[子飼商店街]]を通り抜けて第五高等学校に通っていた。これにちなんで、第二旧居から子飼商店街の入口までは、「八雲通り」と名づけられた<ref>熊本日日新聞1998年5月25日夕刊8面</ref>。
=== その他 ===
* [[コオロギ]]の一種[[クサヒバリ]]の鳴き声の美しさを讃えた。
* 2016年11月25日、[[愛知学院大学]]の竹下修子教授が、小泉八雲の国籍離脱を当時のイギリスが認めず日本との「[[二重国籍]]だった可能性が高い」という研究論文を公表した<ref name="kokuseki">『[https://www.sankei.com/article/20161126-UOS4BJJZDNLJ7I2XYHU5ZSLABA/ 小泉八雲は「二重国籍」? 新潟・南魚沼市の美術館 未公開書簡で判明]』産経ニュース/[[産経新聞]]([[2016年]][[11月26日]] 12時50分掲載記事)</ref>。[[新潟県]][[南魚沼市]]の[[池田記念美術館]]に小泉八雲に関する1896年(明治29年)の未公開書簡が現存しており、この書簡は当時の島根県がイギリス領事に照会した小泉八雲の日本国籍取得に関する手続きについての返答がかかれている物との事で、その中に「(日本国籍の取得は)日本側の手続きだけで完了する」と記載されているという。これが意味するところは「英国側に手続きは無い」つまりは「国籍離脱には応じない」という姿勢の表れで、小泉八雲より前にイギリス人男性が日本人女性に婿入りする形で婚姻したところイギリスは書簡で「(前略)到底許し難い」と国籍離脱を認めなかったということで、イギリスはその姿勢を崩しておらず、小泉八雲も二重国籍だった可能性が高いと結論づけられたものである。
== 家族・親族 ==
[[File:Kazuo._Hearn's_Son.jpg|thumb|長男 一雄、17歳]]
* 妻 [[小泉節子|セツ]](島根県[[士族]]小泉湊の二女、第七十五代[[出雲国造]][[千家俊勝]]の次男[[千家俊信]](国学者)の[[玄孫]])
* 長男 一雄
* 同妻 喜久恵
** 同長男 [[小泉時|時]]
*** 同長男 [[小泉凡|凡]]
* 次男 [[稲垣巌|巌]](教師、母セツの養家であった稲垣家を継ぐ)
* 同妻 ミドリ([[青森県]]、医師[[種市良一]]の娘)
*: ({{Wayback|url=https://www.isshoudoutaneichi.com/record|title=ミドリ夫人の実家・種市家について|date=20180828174203}})
** 同長男 明男
** 同長女 八重子
** 同次女 京子
* 三男 [[小泉清|清]](画家。1962年2月21日にガス自殺)
* 同妻 シズ(静子とも)
** 二人の子として、らん子、閏、一枝、ゴーディ
* 長女 寿々子
== 系譜 ==
; 小泉家
: 『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は「本国[[近江国|近江]](現在の[[滋賀県]])、生国[[因幡国|因幡]](現在の[[鳥取県]])」の[[侍]]だった。はじめ、讃岐[[丸亀藩]]四万五千石の[[藩|藩主]]である[[山崎治頼]]に仕えて[[家老]]を務めていた。しかし[[明暦]]3年([[1657年]])、山崎治頼が嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての[[松江城]]の主・[[京極忠高]]の甥にして養子の高和が入封するに及んで、弥右衛門は丸亀を去って[[江戸]](現在の[[東京]])に出た。翌年の[[万治]]元年([[1658年]])、弥右衛門は、江戸で出雲松平家の祖である[[松平直政]]に召抱えられ、初めは使番(つかいばん)、後に二十名の徒([[足軽]])を統率する者頭(ものがしら)を務めた。その後、小泉家は二代目弥右衛門が五十人の士分の侍を統率する番頭(ばんがしら)を務めて以来、代々セツの父・八代目弥右衛門に至るまで、一定期間者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭(ばんがしら)に進んでおり、また、嫡子には[[家督]]相続と同時に組外(くみはずれ)という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が「一国中の[[貴族]]」と表現した[[上士]]に限って与えられた待遇だった。ただし[[家禄]]は、一雄や[[田部隆次]]が記した五百石は誤りと見做すべきで、『代々御給帳』・『列士録』・『旧藩事蹟』等古文書は一致して300石だったことを示している。小泉八雲・セツ夫妻の孫に[[小泉時]](エッセイスト、2009年7月8日死去)、小泉閏、[[稲垣明男]]、種市八重子、佐々木京子、曾孫に[[小泉凡]](学者、[[島根県立島根女子短期大学]]准教授)がいる。
{{Quotation|
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{{familytree|015||016||017|~|y|~|018|015=[[千家尊福|尊福]]<br /><small>(80代出雲国造)|016=[[千家尊紀|尊紀]]<br /><small>(81代出雲国造)|017=セツ|018='''小泉八雲'''|}}
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}}
== 記念館・資料館など ==
* [[小泉八雲旧居]](ヘルン旧居、[[島根県]][[松江市]]) - 国の[[史跡]]
* [[小泉八雲記念館]](島根県松江市)
* [[焼津小泉八雲記念館]]([[静岡県]][[焼津市]])
* [[小泉八雲熊本旧居]](熊本県熊本市)
* [[池田恒雄|池田記念美術館]](新潟県南魚沼市) - 美術館だが小泉八雲文学資料室という常設展示がある。
* [[富山大学]]附属図書館中央図書館ヘルン文庫
* 2014年、レフカダに日本とギリシャ各地からの献金によってLefcadio(スペル注意) Hearn Historical Centerがオープンした。
* イギリスの[[ダラム大学]]にもハーンの名を冠した文化センターがある。
== 作品 ==
[[:Category:小泉八雲]]も参照のこと。
[[File:HEARN(1895) Glimpses of unfamiliar Japan.jpg|thumb|[[知られぬ日本の面影]] (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年]]
=== 来日以前の著作 ===
* 飛花落葉集 (Stray Leaves from Strange Literature) 1884年
* ゴンボ・ゼーブ ("Gombo Zhèbes") 1885年
* クレオール料理 (La Cuisine Creole: A Collection of Culinary Recipes) 1885年
* 中国怪談集 (Some Chinese Ghosts) 1887年
* チータ (Chita: A Memory of Last Island) 1889年
* ユーマ (Youma, the Story of a West-Indian Slave) 1890年
* 仏領西インドの二年間 (Two Years in the French West Indies) 1890年
=== 来日後の著作 ===
* [[知られぬ日本の面影]] (Glimpses of Unfamiliar Japan) 1894年 - [[鳥取のふとんの話]]、[[日本人の微笑]]、他
* 東の国より (Out of the East) 1895年
* 心 (Kokoro) 1896年 - 小説やエッセイなど15編の短編集<ref>[https://archive.org/details/kokorohintsande00heargoog Kokoro: Hints and Echoes of Japanese Inner Life]Archive.org</ref>。きみこ、あみだ寺の比丘尼、ハル、他
* A Living God 1896年 - [[稲むらの火]]<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508|title=19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう|author=福和伸夫 |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2020-08-24|accessdate=2020-12-03}}</ref>
* 仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields) 1897年 - [[稲むらの火|生神]]<ref>{{Cite web|和書|quote=ハーンの"A Living God"を児童向けに翻訳・再構成したのが「[[稲むらの火]]」である。|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/inamura/p5.html |title=稲むらの火|publisher=気象庁|accessdate=2021-4-25}}</ref>、[[人形の墓]]、勝五郎の転生、他
* 異国風物と回想 (Exotics and Retrospectives) 1898年
* 霊の日本にて (In Ghostly Japan) 1899年
* [[影 (小泉八雲)|影]] (Shadowings) 1900年 - [[和解 (小泉八雲の小説)|和解]]、[[死骸にまたがる男]]、他
* [[日本雑録]] (A Japanese Miscellany) 1901年 - [[守られた約束]]、破られた約束、[[果心居士のはなし]]、[[梅津忠兵衛]]、漂流、他
* [[骨董 (小泉八雲)|骨董]] (Kotto) 1902年 - [[幽霊滝の伝説]]、[[茶碗の中]]、[[常識_(小泉八雲)|常識]]、他
* [[怪談 (小泉八雲)|怪談]] (kwaidan) 1904年 - [[耳なし芳一|耳なし芳一のはなし]]、[[のっぺらぼう|むじな]]、[[ろくろ首 (小説)|ろくろ首]]、[[雪女#小泉八雲の「雪女」|雪女]]、[[葬られた秘密]]、[[食人鬼_(小説)|食人鬼]]、他
* 日本 一つの解明 (Japan: An Attempt at Interpretation) 1904年
* 天の河綺譚 その他 (The Romance of the Milky Way and other studies and stories) 1905年
=== ちりめん本 ===
[[長谷川武次郎]]が刊行した日本昔噺シリーズ (Japanese Fairy Tale) のうち、5作品が八雲によるもの。
* 猫を描いた少年 (The boy who drew cats) 1898年
* 化け蜘蛛 (The goblin spider) 1899年
* 団子をなくしたお婆さん (The old woman who lost her dumpling) 1902年
* ちんちん小袴 (Chin Chin Kobakama) 1903年
* 若返りの泉 (The Fountain of Youth) 1922年
== 著作集 ==
* 『小泉八雲全集』 全17巻・別巻1巻、[[第一書房_(第1期)|第一書房]](落合貞三郎、大谷正信、[[田部隆次]]訳)、1926年 - 1928年。{{NCID|BA31554769}}、{{NDLJP|1020344}}。
* 『小泉八雲作品集』 全12巻<ref>最終巻は『全訳 小泉八雲作品集 第12巻 小泉節子「思い出の記」、小泉一雄「父「八雲」を憶う」』、本書も単行判『小泉八雲』で度々再刊。</ref>、[[平井呈一]]訳、[[恒文社]]、1964年 - 1967年。{{NCID|BN08514823}}、{{OCLC|21305178}}。大半は新装(オンデマンド版も)再刊
* 『ラフカディオ・ハーン著作集』 全15巻、恒文社([[西脇順三郎]]・[[森亮]]監修)、1980年 - 1988年。{{NCID|BN00283035}}、{{OCLC|26170683}}。
<!-- * 『対訳 小泉八雲作品抄』 恒文社、西川盛雄、アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)、1998年9月 ダブりにつき
* 『面影の日本』 恒文社、平井呈一訳(新編版、写真ジョニー・ハイマス)、1999年3月。写真集につき、各・コメントアウト-->
* 『尖塔登攀記 小泉八雲初期文集 外四篇』 恒文社、[[佐藤春夫]]訳、新版1996年6月 ISBN 4-7704-0878-1
* 『小泉八雲作品集』 全3巻、森亮ほか訳、河出書房新社、1977年。講談社学術文庫(全6冊)で改訂版
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
=== 親族による伝記 ===
* 小泉一雄『父「八雲」を憶う』警醒社、1931年。{{全国書誌番号|53013056}}
* 小泉一雄『父 小泉八雲』小山書店、1950年。{{全国書誌番号|50003335}}、{{NCID|BN11050924}}。
* 小泉節子 / 小泉一雄 『小泉八雲 思い出の記・父「八雲」を憶う』恒文社、1976年2月、新版1986年ほか。{{全国書誌番号|75028245}}、{{NCID|BN02220309}}。
* 小泉時『ヘルンと私』[[恒文社]]、1990年9月。ISBN 4770407254
* 小泉凡『民俗学者・小泉八雲―日本時代の活動から』恒文社、1995年11月。ISBN 4770408439
=== 資料 ===
* 小泉時・小泉凡編『文学アルバム 小泉八雲』恒文社、2000年4月、新版2008年。ISBN 4770411332
* [[田部隆次]]『小泉八雲』早稲田大学出版部、1914年。{{NCID|BN10927371}}、{{NDLJP|950739}}。
* 梅本順子監修・解説『西洋人たちの語ったラフカディオ・ハーン 初期英文伝記集成』復刻集成全4巻+別冊解説、エディション・シナプス、2008年12月。ISBN 978-4-86166-102-0
* 西川盛雄 / アラン・ローゼン共編『対訳 小泉八雲作品抄』平井呈一訳・小泉凡挿し絵、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
* [[丸山学]]『小泉八雲新考』北星堂書店、1936年。講談社学術文庫、1996年
* {{Cite book
| 和書
| last = 松本
| first = 健一
| author =
| authorlink = 松本健一
| year = 1989
| month = 10
| title = 神の罠 : 浅野和三郎、近代知性の悲劇
| publisher = [[新潮社]]
| isbn = 9784103684022
| ref = harv}}
* 山田和夫「ハーンの太平洋横断と「雪女」」-『英米文学・英米文化試論 太平洋横断アメリカン・スタディーズの視座から』(成田興史編、晃学出版、2007年、ISBN 978-4-903742-02-1)69-86頁所収
*『小泉八雲辞典』 平川祐弘監修、恒文社、2000年、ISBN 978-4-770410-24-5
*『講座 小泉八雲』全2巻(ハーンの人と周辺、ハーンの文学世界) 平川祐弘・牧野陽子編、新曜社、2009年
*『小泉八雲 日本の霊性を求めて』 池田雅之監修、[[平凡社]]〈別冊太陽 日本のこころ〉、2022年
=== 伝記 ===
* [[牧野陽子]]『ラフカディオ・ハーン 異文化体験の果てに』[[中公新書]]、1992年1月。ISBN 4-12-101056-6
* [[太田雄三]]『ラフカディオ・ハーン―虚像と実像』[[岩波新書]]、1994年5月。ISBN 4-00-430336-2
* [[工藤美代子]]『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯<アメリカ編>』[[集英社]]、1997年2月。ISBN 4-08-774247-4。ランダムハウス講談社文庫、2008年
* 工藤美代子『聖霊の島 ラフカディオ・ハーンの生涯<ヨーロッパ編>』集英社、1999年10月。ISBN 4-08-774431-0。ランダムハウス講談社文庫、2008年)
* 工藤美代子『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯<日本編>』集英社、2003年4月。ISBN 4-08-774643-7。ランダムハウス講談社文庫、2008年
* ジョナサン・コット『さまよう魂―ラフカディオ・ハーンの遍歴』真崎義博訳、[[文藝春秋]]、1994年3月。ISBN 4-16-348890-1
* エリザベス・スティーブンスン『評伝ラフカディオ・ハーン』遠田勝訳、恒文社、1984年8月。ISBN 4770405677
* [[平川祐弘]]『ラフカディオ・ハーン 植民地化・キリスト教化・文明開化』[[ミネルヴァ書房]]<MINERVA歴史・文化ライブラリー3>、2004年3月。ISBN 4-623-04044-5
* 平川祐弘『小泉八雲 西洋脱出の夢』新潮社、1981年/講談社学術文庫、1994年。新版は「著作集」勉誠出版
<!-- * 平川祐弘『小泉八雲とカミガミの世界』文藝春秋、1988年 類書多数あるので-->
*『小泉八雲 回想と研究』平川祐弘編、[[講談社学術文庫]]、1992年
== 関連人物 ==
* [[秋月悌次郎]] - 五高時代の同僚
* [[雨森信成]] - 晩年の友人
* [[風間杜夫]] - 舞台『日本の面影』小泉八雲役
* [[果心居士]]
* [[檀ふみ]] - NHKドラマ『日本の面影』小泉セツ役
* [[ジョージ・チャキリス]] - NHKドラマ『日本の面影』小泉八雲役
* [[那須野絢子]] - 研究者
* [[松岡正剛]] - 『おもかげの国 うつろいの国』 :[[NHK人間講座]](2004年)
* [[山田太一 (脚本家)|山田太一]] - NHKドラマ『日本の面影』の原作と脚本
* [[渡辺京二]] - 『逝きし世の面影』 : [[葦書房]](1998年)、[[平凡社ライブラリー]](2005年)
== 関連項目 ==
* [[富山大学]]:『ヘルン文庫』
* [[日本の面影]]:[[日本放送協会|NHK]]ドラマ、舞台
* [[セント・マロ]]
* [[日本の史跡一覧]]
* [[神戸文学館]]
* [[出雲国造]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Lafcadio Hearn|小泉八雲}}
{{ウィキポータルリンク|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px|Portal:文学]]}}
* {{青空文庫著作者|258|小泉 八雲}}
* [https://www.gutenberg.org/browse/authors/h#a368 Hearn, Lafcadio, 1850-1904]([[Project Gutenberg]])
* [http://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/book/lookupname?key=Hearn%2C%20Lafcadio%2C%201850-1904 Online Books by Lafcadio Hearn]
* [https://www.gr.emb-japan.go.jp/portal/jp/relations/hearn_interview_papap.html ラフカディオ・ハーン (小泉八雲)一ギリシャ人研究者としての見解クレリ・パパパヴル博士インタビュー (概要)]
* [https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/shinkou/internet_kikakuten/bungaku/bungakusha/koizumi.html 島根ゆかりの文学者 小泉八雲]
* [http://www.kufs.ac.jp/toshokan/hearn&moraes/heamor-fra2.htm 二人の偉大な日本紹介者 ハーンとモラエス] - 京都外国語大学
* {{Cite journal |和書|author=三成清香 |title=海を渡った物語 -ラフカディオハーンと再話、そして女性- |url=https://hdl.handle.net/10241/00010922 |publisher=宇都宮大学 |volume=博士論文 |issue=甲第17号 |year=2016 |naid=500001344479}}
* [https://aizuyaichi.or.jp/person/519/ 小泉八雲] | 新潟市會津八一記念館
* [https://www.lib-citymatsue.jp/yakumo.html 松江市立図書館八雲資料室]
* [https://www.hearn-museum-matsue.jp/ 小泉八雲記念館 | Lafcadio Hearn Memorial Museum]
* [http://www.city.yaizu.lg.jp/yaizu-yakumo/index.html 焼津小泉八雲記念館]
* [https://www.matsue-castle.jp/kyukyo/ 国指定史跡 小泉八雲旧居(ヘルン旧居)]
* [https://www1.gifu-u.ac.jp/~kameoka/H_link.html ラフカディオ・ハーン・リンク集]
* {{CRD|2000026684|小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について調べる|[[島根県立図書館]]}}
{{Normdaten}}
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[[Category:小泉八雲|*]]
[[Category:19世紀アイルランドの小説家]]
[[Category:20世紀アイルランドの小説家]]
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[[Category:19世紀イギリスのジャーナリスト]]
[[Category:20世紀イギリスのジャーナリスト]]
[[Category:島根大学の教員]]
[[Category:東京大学の教員]]
[[Category:早稲田大学の教員]]
[[Category:熊本大学の教員]]<!--前身校の教員-->
<!--[[Category:島根大学の教員]]島根県尋常師範学校(- 1897年)まで遡るのは無理か?-->
[[Category:松江市の文化]]
[[Category:イギリス統治時代のアイルランドの人物]]
[[Category:日本に帰化した人物]]
[[Category:イギリス系日本人]]
[[Category:アイルランド系日本人]]
[[Category:ギリシャ系日本人]]
[[Category:アイルランド系イギリス人]]
[[Category:ダブリン出身の人物]]
[[Category:ギリシャ出身の人物]]
[[Category:ギリシャの仏教徒]]
[[Category:隻眼の人物]]
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東部戦線
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東部戦線(とうぶせんせん, Eastern Front)は、一般にはある地域から見た場合の東側の戦場の意味であるが、多くの場合、第一次世界大戦および第二次世界大戦の両大戦において戦争を主導したドイツから見て、東に位置する東ヨーロッパ地域の戦場を指す。
現在の国名で言えば、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ロシア、バルト三国などがこれに該当する(第一次世界大戦に関しては東部戦線 (第一次世界大戦)を参照のこと)。
逆に西側に位置するフランス、ベルギー、オランダ地域は西部戦線と呼ばれる。
第一次世界大戦においてドイツは、東部戦線において勝利した。
第二次世界大戦においてドイツは、ポーランドに勝利したのち、ソビエト連邦との戦闘となり、初期においてはソビエト連邦の国土奥深く侵攻したものの、1944年以後には自国の国土の東部を占領された。この戦闘の詳細については独ソ戦を参照のこと。
なおロシアでは、第二次大戦におけるこの戦場を自国の西側に位置することから「西部戦線」(Западный Фронт)と呼ぶ場合もあれば、ヨーロッパ全体を概観する立場から「東部戦線」(Восточный Фронт)と呼ぶ場合もある。用語は固定的ではなく、文脈によって使い分けられる。前者を採った場合のロシアにとっての東部戦線とは、対日戦争を意味する。
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東部戦線は、一般にはある地域から見た場合の東側の戦場の意味であるが、多くの場合、第一次世界大戦および第二次世界大戦の両大戦において戦争を主導したドイツから見て、東に位置する東ヨーロッパ地域の戦場を指す。 現在の国名で言えば、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ロシア、バルト三国などがこれに該当する。 逆に西側に位置するフランス、ベルギー、オランダ地域は西部戦線と呼ばれる。 第一次世界大戦においてドイツは、東部戦線において勝利した。 第二次世界大戦においてドイツは、ポーランドに勝利したのち、ソビエト連邦との戦闘となり、初期においてはソビエト連邦の国土奥深く侵攻したものの、1944年以後には自国の国土の東部を占領された。この戦闘の詳細については独ソ戦を参照のこと。 なおロシアでは、第二次大戦におけるこの戦場を自国の西側に位置することから「西部戦線」と呼ぶ場合もあれば、ヨーロッパ全体を概観する立場から「東部戦線」と呼ぶ場合もある。用語は固定的ではなく、文脈によって使い分けられる。前者を採った場合のロシアにとっての東部戦線とは、対日戦争を意味する。
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[[Image:Eastern Front 1943-08 to 1944-12.png|thumb|250px|right|東部戦線(1943年8月-1944年12月)]]
'''東部戦線'''(とうぶせんせん, Eastern Front)は、一般にはある地域から見た場合の東側の戦場の意味であるが、多くの場合、[[第一次世界大戦]]および[[第二次世界大戦]]の両大戦において戦争を主導した[[ドイツ]]から見て、東に位置する[[東ヨーロッパ]]地域の戦場を指す。
現在の国名で言えば、[[ポーランド]]、[[ハンガリー]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]、[[ウクライナ]]、[[ロシア]]、[[バルト三国]]などがこれに該当する([[第一次世界大戦]]に関しては[[東部戦線 (第一次世界大戦)]]を参照のこと)。
逆に西側に位置する[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[オランダ]]地域は[[西部戦線]]と呼ばれる。
第一次世界大戦においてドイツは、東部戦線において勝利した。
第二次世界大戦においてドイツは、ポーランドに勝利したのち、[[ソビエト連邦]]との戦闘となり、初期においてはソビエト連邦の国土奥深く[[侵攻]]したものの、[[1944年]]以後には自国の国土の東部を占領された。この戦闘の詳細については'''[[独ソ戦]]'''を参照のこと。
なおロシアでは、第二次大戦におけるこの戦場を自国の西側に位置することから「西部戦線」({{lang|ru|Западный Фронт}})と呼ぶ場合もあれば、[[ヨーロッパ]]全体を概観する立場から「東部戦線」({{lang|ru|Восточный Фронт}})と呼ぶ場合もある。用語は固定的ではなく、文脈によって使い分けられる。前者を採った場合のロシアにとっての東部戦線とは、[[ソ連対日参戦|対日戦争]]を意味する。
== 歴史上、東部戦線と呼ばれた戦場 ==
* [[東部戦線 (南北戦争)]]
* [[東部戦線 (第一次世界大戦)]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/東部戦線|title=東部戦線|date= |publisher=DIGITALIO|accessdate=2023-01-16}}</ref>
* [[独ソ戦]]
== 脚注 ==
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[[Category:第一次世界大戦]]
[[Category:第二次世界大戦]]
[[Category:第二次世界大戦の作戦と戦い]]
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[[cs:Východní fronta 1941-1945]]
[[el:Μεγάλος Πατριωτικός Πόλεμος]]
[[hi:महान देशभक्तिपूर्ण युद्ध]]
[[ro:Frontul de Răsărit (Al Doilea Război Mondial)]]
[[uk:Східноєвропейський театр військових дій Другої світової війни]]
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18,354 |
560年
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560年(560 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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560年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚辰]]
* [[日本]]
** [[欽明天皇]]21年
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** [[梁 (南朝)|梁]] : [[天啓 (梁)|天啓]]3年
*** [[後梁 (南朝)|後梁]] : [[大定 (南朝後梁)|大定]]6年
*** [[陳 (南朝)|陳]] : [[天嘉 (陳)|天嘉]]元年
** [[北斉]] : [[乾明]]元年、[[皇建 (北斉)|皇建]]元年
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* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:560年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* 月日不明 - [[麹宝茂|麴宝茂]]、[[高昌|高昌国]]の王(* 生年不詳)
* 月日不明 - [[キュンリッチ (ウェセックス王)|キュンリッチ]]、[[ウェセックス|ウェセックス王国]]の王(* 生年不詳)
* 月日不明 - [[明帝 (北周)|明帝]]、[[北周]]の[[皇帝]](* [[534年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
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568年
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568年(568 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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568年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[戊子]]
* [[日本]]
** [[欽明天皇]]29年
** [[皇紀]]1228年
* [[中国]]
** [[陳 (南朝)|陳]]:[[光大]]2年
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** [[檀紀]]2901年
* [[ベトナム]]:
* [[仏滅紀元]]:
* [[ユダヤ暦]]:
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[慧思]]が南嶽[[衡山]]に入る
* [[ランゴバルド王国]](ロンバルド王国)建国
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[劉文静]]、[[唐]]の政治家、軍人(+[[619年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:568年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* 月日不明 - [[廃帝 (陳)|廃帝]](陳伯宗)、[[陳 (南朝)|陳]]第3代皇帝(*[[554年]])
* 月日不明 - [[武成帝]]、[[北斉]]第4代皇帝(*[[537年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年表一覧]]
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575年
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575年(575 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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575年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[日本]]
** [[敏達天皇]]4年
** [[皇紀]]1235年
* [[中国]]
** [[陳 (南朝)|陳]] : [[太建]]7年
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** [[北斉]] : [[武平 (北斉)|武平]]6年
** [[北周]] : [[建徳 (北周)|建徳]]4年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[平原王]]17年
** [[百済]] : [[威徳王 (百済)|威徳王]]22年
** [[新羅]]:(王)[[真興王]]36年、(元号)[[鴻済]]4年
** [[檀紀]]2908年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[智顗]]が初めて[[天台山]]に入る
== 誕生 ==
{{see also|Category:575年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[河上娘]]、[[崇峻天皇]]の女御(+ [[618年]])
* [[蕭瑀]]、[[唐]]、[[隋]]の[[政治家]](+ [[648年]])
* [[楊諒]]、[[隋]]の[[楊堅|文帝]]の五男(+ [[605年]])
*[[セヴェルス・セボフト]]、[[シリア]]の学者 (+[[667年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:575年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[蔡儁]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]][[西魏]]、[[北周]]の[[軍人]](* [[511年]])
* [[皮景和]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]][[北斉]]の[[軍人]](* [[521年]])
*[[高潤]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]][[北斉]]の皇族、[[高歓]]の十四男 (*[[546年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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584年
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584年(584 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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584年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲辰]]
* [[日本]]
** [[敏達天皇]]13年
** [[皇紀]]1244年
* [[中国]]
** [[陳 (南朝)|陳]] : [[至徳 (陳)|至徳]]2年
** [[後梁 (南朝)|後梁]] : [[天保 (南朝後梁)|天保]]23年
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** [[百済]] : [[威徳王 (百済)|威徳王]]31年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]6年、(元号)[[鴻済]]13年、[[建福 (新羅)|建福]]元年
** [[檀紀]]2917年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[智顗]]が[[陳 (南朝)|陳]]の都[[建康 (都城)|建康]]に出て、[[光宅寺]]で『[[法華文句]]』を講ずる
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[楊昭]]、[[隋]]の[[煬帝]]の長男(+ [[606年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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591年
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591年(591 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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591年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛亥]]
* [[日本]]
** [[崇峻天皇]]4年
** [[皇紀]]1251年
* [[中国]]
** [[隋]] : [[開皇]]11年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[嬰陽王]]2年
** [[百済]]:[[威徳王 (百済)|威徳王]]38年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]13年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]8年
** [[檀紀]]2924年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[智顗|天台智顗]]が、[[煬帝|晋王]]に[[菩薩戒]]を授け、「智者」の号を賜る
== 誕生 ==
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== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[楊瓚]]、[[隋]]の[[皇族]] (* [[550年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,359 |
596年
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596年(596 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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596年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[日本]]
** [[推古天皇]]4年
** [[皇紀]]1256年
* [[中国]]
** [[隋]] : [[開皇]]16年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[嬰陽王]]7年
** [[百済]]:[[威徳王 (百済)|威徳王]]43年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]18年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]13年
** [[檀紀]]2929年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[孝徳天皇]]、第36代[[天皇]](+ [[654年]])
* [[褚遂良]]、[[唐]]代の政治家、[[書家]](+ [[658年]])
* [[道宣]]、唐の[[律宗]]の[[僧]]、[[南山律宗]]の開祖(+ [[667年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[賀若誼]]、[[西魏]]、[[北周]]、[[隋]]の[[軍人]](* [[520年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,360 |
食器
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食器(しょっき)とは、食事に用いる容器や器具の総称で、容器については単に器(うつわ)と呼ぶ場合もある。
菜箸や鍋といった調理の際に用いる器具や容器は、調理器具として通常は食器の範疇に含めないが、食事中も卓上で用いられるものに関してはその限りではない。また、テーブルや椅子といった家具は食器ではないが、和食における膳や、洋食においてパンなどを直接乗せる布、ランチョンマットなどは食器の範疇に含まれることがある。抹茶や煎茶に用いる道具は、茶器または茶道具、飲酒に用いる道具は酒器とも呼ばれ、これらを食器とは区別して用いる場合もある。また、携帯や輸送、保存の為の容器で直接、食事の際に利用するもの(水筒、缶飲料の缶、ペットボトル、包み紙)なども広い意味での食器であるが、通常はこれを食器の範疇に含めない。
食文化の違い、食品・食材の違いによってさまざまな食器が存在する。日本では和食器・洋食器に大別されることが多く、洋食器はさらにガラス食器と陶磁器のチャイナなどに分かれる。
和食における食器。
椀や鉢よりも浅く、低い食器。後述の椀よりも汁気の少ない料理を入れるのに用いられる。皿も参照。
大別して飯椀と汁椀、盛椀の三種類がある。木製のものには木偏の椀、陶磁器製のものは石偏の碗、金属製のものには金偏の鋺の字を用いる。円形で底部が湾曲しており、片手で持ち上げることのできるものを椀または碗と呼ぶ。 蓋付きのものもあり、椀の縁に口を付けて食することもある為、椀の口径より狭い径の蓋が付くものが一般的である。
皿よりも深く、椀よりは浅い、広く口の開いた器を指す。大きさで大鉢、中鉢、小鉢と分けたり、形で深鉢、平鉢、浅鉢と分けたり、または用途で盛り鉢、向付(むこうづけ)と呼ぶことがある。
盃とも書く。盃を参照。主に酒を注いで飲む小さい器。
瓶を参照。主に飲料を入れるための容器。
一般に木製で作られた四角い容器の総称で、漆塗りの上に蒔絵・螺鈿などの装飾が施されているものもある。中には紙製のものや陶磁器のものもある。形状は四角が一般的であるが、円形や六角形、八角形のものもある。
鍋を参照。鍋は調理器具であるが、食器として食卓に供されることもある。特に、食卓で加熱しながら食事する「鍋料理」は和食を含め東アジアでは一般的な食事のスタイルである。
蒸器を参照。蒸器は調理器具であるが、料理を温かいまま食卓に供する、香りや風味を逃さない、具材を崩さないなどの目的でそのまま食器としても用いられる。特に蕎麦は、かつて蒸して調理していたことの名残として現在も形式的に蒸篭に盛って供されることも多い。
膳を参照。膳とは一人前の料理を載せる台のこと。盆は広く平らな容器を意味し、足の有無などによって膳と区別されるが、座卓においては会席膳と呼ばれる盆に似た形状の膳が用いられる。洋食における盆(トレー)が主に調理場から食卓まで料理を運ぶのに用いられるだけなのに対し、膳はそのまま食事中も食器の台として用いられる事が特徴的である。膳は和食における伝統的な食事のスタイルであり、しばしば膳一語を持って食事そのものを意味したり(例「朝の膳」、「膳部」、「配膳」など)、茶碗に盛られたご飯の数え方の単位としても用いられる(一膳)。膳が各人一人前の料理を乗せた台である事を強調する意味では、銘銘膳という語が用いられることもある。
茶器とは、抹茶や煎茶に用いる道具の総称。茶道具とも。茶器を参照。中国における茶器については中国茶器・中国茶具を参照。
洋食における食器。
使い捨ての物を除いて、食器は通常、使用後に台所用洗剤などを用いて手洗い、または食器洗い機で洗浄してから保管される。ただし、漆器や高価な陶磁器の場合は、洗剤を用いずに手洗いされるなど、特別な手入れの必要とされる食器もある。銀食器も洗剤で洗ってよいが、硫黄化合物や酸に触れると黒変するので、鶏卵やサラダドレッシングなどに触れると手早く洗い落とすのが望ましく、曇ったものは重曹を少し付けて磨くときれいになる。
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"text": "和食における食器。",
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"text": "椀や鉢よりも浅く、低い食器。後述の椀よりも汁気の少ない料理を入れるのに用いられる。皿も参照。",
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"text": "大別して飯椀と汁椀、盛椀の三種類がある。木製のものには木偏の椀、陶磁器製のものは石偏の碗、金属製のものには金偏の鋺の字を用いる。円形で底部が湾曲しており、片手で持ち上げることのできるものを椀または碗と呼ぶ。 蓋付きのものもあり、椀の縁に口を付けて食することもある為、椀の口径より狭い径の蓋が付くものが一般的である。",
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"text": "盃とも書く。盃を参照。主に酒を注いで飲む小さい器。",
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"text": "一般に木製で作られた四角い容器の総称で、漆塗りの上に蒔絵・螺鈿などの装飾が施されているものもある。中には紙製のものや陶磁器のものもある。形状は四角が一般的であるが、円形や六角形、八角形のものもある。",
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"text": "鍋を参照。鍋は調理器具であるが、食器として食卓に供されることもある。特に、食卓で加熱しながら食事する「鍋料理」は和食を含め東アジアでは一般的な食事のスタイルである。",
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"text": "蒸器を参照。蒸器は調理器具であるが、料理を温かいまま食卓に供する、香りや風味を逃さない、具材を崩さないなどの目的でそのまま食器としても用いられる。特に蕎麦は、かつて蒸して調理していたことの名残として現在も形式的に蒸篭に盛って供されることも多い。",
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"text": "膳を参照。膳とは一人前の料理を載せる台のこと。盆は広く平らな容器を意味し、足の有無などによって膳と区別されるが、座卓においては会席膳と呼ばれる盆に似た形状の膳が用いられる。洋食における盆(トレー)が主に調理場から食卓まで料理を運ぶのに用いられるだけなのに対し、膳はそのまま食事中も食器の台として用いられる事が特徴的である。膳は和食における伝統的な食事のスタイルであり、しばしば膳一語を持って食事そのものを意味したり(例「朝の膳」、「膳部」、「配膳」など)、茶碗に盛られたご飯の数え方の単位としても用いられる(一膳)。膳が各人一人前の料理を乗せた台である事を強調する意味では、銘銘膳という語が用いられることもある。",
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"text": "茶器とは、抹茶や煎茶に用いる道具の総称。茶道具とも。茶器を参照。中国における茶器については中国茶器・中国茶具を参照。",
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"text": "洋食における食器。",
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"text": "使い捨ての物を除いて、食器は通常、使用後に台所用洗剤などを用いて手洗い、または食器洗い機で洗浄してから保管される。ただし、漆器や高価な陶磁器の場合は、洗剤を用いずに手洗いされるなど、特別な手入れの必要とされる食器もある。銀食器も洗剤で洗ってよいが、硫黄化合物や酸に触れると黒変するので、鶏卵やサラダドレッシングなどに触れると手早く洗い落とすのが望ましく、曇ったものは重曹を少し付けて磨くときれいになる。",
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] |
食器(しょっき)とは、食事に用いる容器や器具の総称で、容器については単に器(うつわ)と呼ぶ場合もある。 菜箸や鍋といった調理の際に用いる器具や容器は、調理器具として通常は食器の範疇に含めないが、食事中も卓上で用いられるものに関してはその限りではない。また、テーブルや椅子といった家具は食器ではないが、和食における膳や、洋食においてパンなどを直接乗せる布、ランチョンマットなどは食器の範疇に含まれることがある。抹茶や煎茶に用いる道具は、茶器または茶道具、飲酒に用いる道具は酒器とも呼ばれ、これらを食器とは区別して用いる場合もある。また、携帯や輸送、保存の為の容器で直接、食事の際に利用するもの(水筒、缶飲料の缶、ペットボトル、包み紙)なども広い意味での食器であるが、通常はこれを食器の範疇に含めない。 食文化の違い、食品・食材の違いによってさまざまな食器が存在する。日本では和食器・洋食器に大別されることが多く、洋食器はさらにガラス食器と陶磁器のチャイナなどに分かれる。
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[[ファイル:Silbertafel Reiss 3 rem.jpg|thumb|250px|各種洋食器]]
[[ファイル:Place setting at a table in China.jpg|thumb|250px|中華料理の食器]]
'''食器'''(しょっき)とは、[[食事]]に用いる[[容器]]や器具の総称で、容器については単に'''器'''(うつわ)と呼ぶ場合もある。
[[菜箸]]や[[鍋]]といった調理の際に用いる器具や容器は、[[調理器具]]として通常は食器の範疇に含めないが、食事中も卓上で用いられるものに関してはその限りではない。また、[[テーブル (家具)|テーブル]]や[[椅子]]といった[[家具]]は食器ではないが、[[和食]]における[[膳]]や、[[洋食]]において[[パン]]などを直接乗せる[[布]]、[[ランチョンマット]]などは食器の範疇に含まれることがある。[[抹茶]]や[[煎茶]]に用いる道具は、[[茶器]]または[[茶道具]]、飲酒に用いる道具は[[酒器]]とも呼ばれ、これらを食器とは区別して用いる場合もある。また、携帯や輸送、保存の為の容器で直接、食事の際に利用するもの([[水筒]]、[[缶飲料]]の[[缶]]、[[ペットボトル]]、包み紙)なども広い意味での食器であるが、通常はこれを食器の範疇に含めない。
[[食文化]]の違い、食品・食材の違いによってさまざまな食器が存在する。日本では和食器・洋食器に大別されることが多く、洋食器はさらにガラス食器と[[陶磁器]]のチャイナなどに分かれる。
== 食器の一覧 ==
=== 和食器 ===
和食における食器。
==== 皿 ====
[[ファイル:Tempura in a basket by hirotomo in Kyoto.jpg|thumb|250px|籠]]
椀や鉢よりも浅く、低い食器。後述の椀よりも汁気の少ない料理を入れるのに用いられる。[[皿]]も参照。
* 大皿 - 25 cm以上のものを指すが、尺皿と呼ばれる30 cmのものが一般的{{Sfn|千澄子、九原秀樹|1989|pp=16}}。「大皿料理」などと用いられる場合には複数人が食べるための料理が盛られる皿を意味する。
* 中皿 - 大皿に比べ、形、色、絵柄が豊富である。五寸皿、六寸皿、七寸皿が該当し、15 cmから22 cm程度{{Sfn|千澄子、九原秀樹|1989|pp=22}}。分割されているプレート皿もあり、洗物を減らせるメリットがある。
* 盛り皿、平皿: 造りなどを盛るのに用いられる平らな皿。円形の他、長方形や多角形など様々な形状のものがある。
** 長角皿、長皿、かわら皿: 和食において[[焼き魚]]や[[刺身]]を乗せるのに用いられる長方形の平たい皿。和食においては例外的に手に持たず、膳に置いたまま使用される。かわら皿は長角皿で全体に緩やかなそりの入ったもの。
** 刺身皿: 長角皿が多いが、大型の丸皿や[[デザイン]]の工夫された皿、隅に醤油を入れる仕切り付きの皿もある。
** 板皿: 盛台と同義、もしくは盛台の形状を模した陶磁器の皿を指す。
* 盛台、板、塗り板: 汁気のない料理を盛りつける平らな食器。食材の匂いや色が移らないように漆塗りやカシュー塗りのものが多い。無垢の板では素地で食材の匂いや色が移らないように[[シソ|大葉]]・[[ダイコン]]のツマ(ケン)・[[海草]]などを敷いて用いる。
** 寿司盛台: 寿司を乗せるのに用いられる盛台。寿司下駄などとも呼ばれる。
** 八寸皿(八寸): 直径寸法が尺貫法による八寸である約24 - 25cmの皿のことで、数種類の前菜的な酒の肴を盛るのに用いられる。転じて、そうした料理の名称(八寸皿料理の略)としても用いられる。本来は縁が付いた杉のトレーで、元々は使い捨てであった。
** 籠(かご): 汁気のない料理を盛りつける食器で[[竹]]製のものが多く、素地・煤竹・塗りものがある。
* 小皿 - 10 cmから15 cm{{Sfn|千澄子、九原秀樹|1989|pp=30}}
** 取り皿、銘銘皿(銘々皿): 英名はmonkey dish。複数人が食べる料理が盛られた食器から、各自の料理を取り分けるための小皿。<br />和食器においては大きさが三寸 - 四寸内外。<br />自分の食べる量だけを取り分けることができ、他の料理の味が混ざらないように料理ごとに複数の皿を用意することがある。<br />複数の人が食べる為の料理が盛られた大皿・中皿から直接料理を取って口に運ぶ事を直箸(じかばし)と言い、正式な和食ではこれを作法に反するとして、各自が取り皿を用いる。会食においては給仕が取り分ける場合もある。
** 手塩皿(御手塩)、たれ皿、醤油皿、千代口、豆皿: 直径二寸内外の皿。小皿よりも更に小さい皿。薬味を入れる皿としても用いられる。<br />[[刺身]]や[[餃子]]・[[シュウマイ]]などで[[醤油]]や[[タレ]]、[[薬味]]などの少量で用が足りる調味料を入れ、料理を浸して調味するのに用いる皿。空の状態で食卓にあげられ、醤油瓶などから各自が適量を注いで用いられることが多い。その際、料理が深く浸るほどの多量の調味料を入れることは無作法とされる。深くたれ汁に浸す料理の場合は、[[呑水 (食器)]](とんすい)などの小鉢や[[蕎麦猪口]]などの深さのある食器が用いられる。餃子専用の中皿や刺身皿、寿司千代口などにはたれ皿を兼ねた仕切りやくぼみの付いたものがある。
** 薬味皿: 薬味を盛る為の小振りの皿で、複数の薬味を入れるために幾つかの窪みや仕切りがあるものや、たれ皿と兼用になっているものがある。
** 向付皿、突出し皿: おひたし、[[刺身]]、[[酢の物]]、[[和え物]]といった[[向付]]や[[突出し]]を盛るため小振りの皿。向皿や単に向付と呼ぶ事もある。
* 葉: 元来、食器として用いていたが、現代では入手が難しくなり一部の葉では食器よりも高価になった。汁気の多いものであっても漏らない様に、幅広く厚みがあり丈夫な形状のものが多く用いられる。皿だけでなく、包むことで弁当箱や蒸し器として用いられたり、料理や食材の仕切りや飾りつけとしても用いられる。
** 葉蘭([[ハラン (植物)|ハラン]]): 百合科植物。一般にバランと呼ばれることが多く、葉蘭、婆蘭、馬蘭の字を当てることがある。隈笹の葉の縁が白っぽい帯状であるのに対して葉蘭は葉全体が緑色。食べ物の仕切りや中敷、皿の上に葉蘭に料理を載せて彩りを兼ねて出すことがある。隈笹に比べてしなやかさが多い。
** 隈笹([[クマザサ]]): 稲科植物。バランとして葉蘭の代用にすることが多い。[[押し寿司]]・[[ちらし寿司]]などで段々重ねの仕切りとして用いたり、笹の上に料理を載せて彩りを兼ね、笹が持つ殺菌力を生かして利用される。握り寿司ではガリや刺身、[[寿司]]などを載せる。中に餡が入った草餅を隈笹でくるみ[[イグサ]]で縛ったものが[[笹団子]]で、両手の平で回すように揉むと葉がきれいに剥がれやすい。
** [[タケ|竹]]の皮(タケノコの皮): 敷いて食器として用いるより包むことで用いられることが多い。
** [[カキノキ|柿]]の葉: 殺菌力を生かせ、葉に厚みがあり、丈夫であるため[[柿の葉寿司]]に用いられる。
** 朴葉: 大型の[[ホウノキ]]の葉を生かして包むことに用いられることが多く、朴葉味噌では包んだまま焼くことにも用いられる。
* [[懐紙]]: [[和装]]において懐中にいれておき、複数用途に用いられる[[和紙]]。[[茶道]]においては取り皿の代わり、[[揚げ物]]では揚げ油の吸い取る。塗り板の上に敷いて料理を載せ、塗り板の色と一般に白である懐紙との色の対比を引き立たせる役目を担う<ref>{{Cite web|和書|url= https://wa-gokoro.jp/accomplishments/sado/436/#h-7|title=茶道の懐紙〜意外な使い方や豊富な種類〜|publisher=ワゴコロ|accessdate=2020-3-31}}</ref>。
==== 椀 ====
{{右|
[[ファイル:Egg-gohan6.jpg|thumb|none|ご飯茶碗]]
[[ファイル:Miso Soup 001.jpg|thumb|none|汁椀(吸物椀)]]
[[ファイル:Mold container Yoneyama.jpg|thumb|none|竹を素材としたモールド製の椀([[ヨネヤマ]]製)。近年、[[自然]][[素材]]の[[生態系]]へ悪影響を与える心配がなく[[紙]]よりも強度で勝るモールド容器が普及し始めた<ref name="packstyle">{{Cite web|和書|date=|url=https://promotion.packstyle.jp/eco/entry-101.html|title=モールド容器とは?機能性やメリット・デメリット、おすすめ商品3選を紹介|publisher=youki style magazine|accessdate=2022-10-10}}</ref>。]]
}}
大別して飯椀と汁椀、盛椀の三種類がある。木製のものには木偏の'''椀'''、陶磁器製のものは石偏の'''碗'''、金属製のものには金偏の'''鋺'''の字を用いる。円形で底部が湾曲しており、片手で持ち上げることのできるものを椀または碗と呼ぶ。
蓋付きのものもあり、椀の縁に口を付けて食することもある為、椀の口径より狭い径の蓋が付くものが一般的である。
* [[茶碗]]
** 飯椀(御飯茶碗) - ご飯を盛るための椀。大型のご飯を盛る容器としては[[丼鉢|丼]]があり、これは[[鉢]]に属するが、飯椀との区別が曖昧な形状のものもある。蓋ありと、蓋無しがある{{Sfn|千澄子、九原秀樹|1989|pp=52}}。
*** 夫婦茶碗 - 夫婦で使用するための大小二つ一組になった茶碗のこと。洋食器のペアグラスなどが同形の食器の組み合わせなのに対し、夫婦茶碗は男女の食事量の違いを考慮して同じデザインでも大きさが異なることが一般的である。他に、夫婦湯呑茶碗や夫婦箸などもある。
** 茶漬け茶碗 - [[茶漬け]]用の茶碗。
** 蒸し碗 - 口径が広く、浅い形で蒸し物や煮物を入れる蓋向(ふたむこう)と、茶碗蒸し用の蒸し茶碗がある{{Sfn|千澄子、九原秀樹|1989|pp=54}}。
* [[湯呑み茶碗]]
** 湯呑(ゆのみ)- 湯呑のうち、口径よりも高さが低いものは汲出し湯呑(または汲出し茶碗)、あるいは単に汲出しと呼ばれる。円筒形で縦長のものを長湯呑ということもある。<!-- 立湯呑、玉湯呑、丸湯呑、反湯呑、、 -->
** 煎茶碗 - [[煎茶]]をのむ、やや大きめの茶碗。飲み口が外に反っている。
** 抹茶碗 - [[抹茶]]をのむ、大きめの茶碗。
* 汁椀 - 汁ものを入れる為の椀。持ち手に熱を伝えない為、漆器が一般的で、蓋付きのものも多い。ご飯でも、漆器が好きな人もいる。汁は椀の口に口を付けて飲むため、湯呑やコップのように飲みやすい形状の縁取りがなされるが、具材は箸でも扱われる為、湯呑やコップより広い開口部を持つ。主に味噌汁に使われるが、雑炊・豚汁・水団の碗は一回り大きい。
** 雑炊椀
** 多用碗
* 盛椀: 主に煮物など、汁物ではないが汁気の多い料理を盛る椀。
* 竹椀: 竹を輪切りにして作成した椀で、盛り椀や蕎麦猪口などとして用いられる。意匠として竹椀の形状を模した陶磁器の椀もある。竹は他に、縦に割って皿として用いられることもある。
==== 鉢 ====
{{main|鉢}}
皿よりも深く、椀よりは浅い、広く口の開いた器を指す。大きさで大鉢、中鉢、小鉢と分けたり、形で深鉢、平鉢、浅鉢と分けたり、または用途で盛り鉢、向付(むこうづけ)と呼ぶことがある{{Sfn|千澄子、九原秀樹|1989|pp=34}}。
* [[丼鉢]] - 主に飯や麺類を盛るための鉢。(飯を盛った料理は[[丼物]]も参照)
* 呑水(とんすい)
* 深鉢
* 小鉢
* 向付鉢 - おひたし、刺身、酢の物、和え物といった向付や突出しを盛るため小振りの鉢。向鉢や単に向付と呼ぶ事もある
* 菓子鉢、菓子器(ヤンポ)
==== 杯 ====
盃とも書く。[[盃]]を参照。主に酒を注いで飲む小さい器。
* 猪口(ちょく、ちょこ) - 酒を注ぎ入れて飲む小さな器。あるいは[[本膳料理]]につく、刺身、[[酢の物]]などを盛る小さくて深い器。
* 蕎麦猪口
==== 瓶(びん) ====
[[ファイル:Japanese Teapot.jpg|thumb|right|土瓶]]
[[ファイル:Tetsubin.jpg|thumb|right|鉄瓶]]
[[瓶]]を参照。主に飲料を入れるための容器。
* 土瓶
* 鉄瓶
==== 箱 ====
一般に木製で作られた四角い[[容器]]の総称で、[[漆器|漆塗り]]の上に[[蒔絵]]・[[螺鈿]]などの装飾が施されているものもある。中には紙製のものや陶磁器のものもある。形状は四角が一般的であるが、円形や六角形、八角形のものもある。
* [[重箱]]: 重箱(じゅうばこ)とは、二重から五重に積み重ねられた、料理を入れる箱であり、四季を表す四重の箱が正式とされる。
*[[弁当箱]]: 弁当を入れるための箱。仕切りが設けられ、その中に小鉢等を収める事もある。松花堂弁当では中に四つの小鉢が収まる様に十字の仕切り板が設けられた弁当箱を用いる。
==== 鍋 ====
[[鍋]]を参照。鍋は調理器具であるが、食器として食卓に供されることもある。特に、食卓で加熱しながら食事する「鍋料理」は和食を含め東アジアでは一般的な食事のスタイルである。
==== 蒸器、蒸籠(せいろ)、ざる ====
[[蒸器]]を参照。蒸器は調理器具であるが、料理を温かいまま食卓に供する、香りや風味を逃さない、具材を崩さないなどの目的でそのまま食器としても用いられる。特に蕎麦は、かつて蒸して調理していたことの名残として現在も形式的に蒸篭に盛って供されることも多い。
==== 箸 ====
[[ファイル:Chinese spoons.jpg|thumb|right|レンゲ]]
*[[箸]]
** 塗箸
** [[菜箸]]
** [[箸置き]]
** [[箸立]]
** 折箸: 一本の竹を折り曲げピンセット状にした道具。現在の箸の原型ともされ、現在では神事などに用いられている。
** [[割り箸]]
==== 串 ====
* 楊枝: [[爪楊枝]]を参照。
** 黒文字: 菓子を切り分け口に運ぶ際に用いる幅広の楊枝。
==== 匙 ====
* [[散蓮華]](レンゲ)、柄杓、木杓子
* 箆([[へら]])、一本箸、こて、しゃもじ
==== 膳、盆 ====
[[膳]]を参照。膳とは一人前の料理を載せる台のこと。盆は広く平らな容器を意味し、足の有無などによって膳と区別されるが、座卓においては会席膳と呼ばれる盆に似た形状の膳が用いられる。洋食における盆(トレー)が主に調理場から食卓まで料理を運ぶのに用いられるだけなのに対し、膳はそのまま食事中も食器の台として用いられる事が特徴的である。膳は和食における伝統的な食事のスタイルであり、しばしば膳一語を持って食事そのものを意味したり(例「朝の膳」、「膳部」、「配膳」など)、茶碗に盛られたご飯の数え方の単位としても用いられる(一膳)。膳が各人一人前の料理を乗せた台である事を強調する意味では、銘銘膳という語が用いられることもある。
*箱膳: 膳の上に複数の料理や食器を並べながら重ね合わせ(スタッキング)できるように脚が膳の大きさの中に納まる形状をしている。
*会席膳: 座卓で用いるための盆に似た形状の浅い膳。
==== 酒器 ====
* [[瓶子]] [[銚子]]<br>瓶状の物を瓶子、ハンドルの付いた物を銚子(ちょうし)と云う。[[徳利]](とっくり)、片口(かたくち)、さしなべ
* 燗瓶(かんびん)、チロリ、黒千代香
* 杯、[[盃]]、ぐい呑、酒呑(さけのみ)<br>[[猪口]](ちょく)は本来は[[向付]]であり、酒器は[[杯]](はい、さかづき)と云う。可盃(べくさかずき)
* [[桝]]、枡
* 杯洗(はいせん)
==== 茶器 ====
[[ファイル:Kyusu by learza in Toorak, Melbourne.jpg|thumb|急須]]
茶器とは、抹茶や煎茶に用いる道具の総称。茶道具とも。[[茶器]]を参照。中国における茶器については[[中国茶#中国茶器|中国茶器]]・[[中国茶具]]を参照。
*[[急須]]
*湯冷まし
*汲出し、茶托、[[茶壺]]、[[薄茶器]]、[[茶入]]、[[棗 (茶器)]]
* 茶壷(ちゃふう)
* 蓋碗(がいわん)
* 茶海(ちゃかい)
* 茶杯(ちゃはい)、聞香杯(もんこうはい)(或いは飲杯と聞杯)
* [[茶托]]、茶盤、茶船、茶盂、水盂、[[茶巾]]、茶荷
=== 洋食器 ===
{{Right|
[[ファイル:Dessert Spoon.jpg|thumb|none|デザートスプーン]]
[[ファイル:Soup Spoon.jpg|thumb|none|スープスプーン]]
[[ファイル:A small cup of coffee.JPG|thumb|none|コーヒーカップ]]
[[ファイル:Cranberry wine.jpg|thumb|none|ワイングラス]]
[[ファイル:Figgjo Smørblomst tekanne.jpg|thumb|none|ティーポット]]
[[ファイル:Food Tongs.jpg|thumb|none|トング]]
}}
洋食における食器。
==== 形状による分類 ====
* [[カトラリー]] ([[:en:Cutlery|Cutlery]]) : 洋食器のうち食卓用金物の総称で、[[フォーク (食器)|フォーク]]・[[ナイフ]]・[[スプーン]]を指すことが多い。[[銀]]製や[[金]]製、[[ステンレス]]製、プラスチック製、木製のものなどがある。なお、広い意味では給仕に用いられる金物類も含む。
** [[フォーク (食器)|フォーク]]
*** デザートフォーク
** [[ナイフ]]
*** ディナーナイフ
*** バターナイフ
** [[スプーン]]
*** [[ティースプーン]]
*** デザートスプーン
*** [[テーブルスプーン]]
*** スープスプーン
***[[バー・スプーン]]
*** スポーク([[先割れスプーン]])
* ディッシュ: 盛り皿。大皿。鉢。取り皿であるプレート (plate) に対し、食べ物を盛って食卓に置く大皿を指す。
* [[プレート (曖昧さ回避)|プレート]] (plate) : 幅が広く、平らで窪みの少ない皿。ソーサーやプラッターを含む皿類の総称だが、単にプレートといった場合、主に様式的、儀式的、装飾的な食事に用いられる円形の平皿を指す。銀製のものは特にシルバープレート、あるいは単にシルバーと呼ぶ。
* アンダープレート (under plate) : 様式的、儀式的な食事において、料理を盛った皿の下に置かれる台皿。コース料理においては、アンダープレートはテーブルに置いたまま、上に乗った皿だけが取り替えられる。
* プラッター (platter) : 大皿。複数人用の料理を盛り付けるのに用いられ、しばしば装飾的な目的で果物などを飾りつけるのにも用いられる。楕円形のものが多く、円形、長方形、正方形のものなどがある。材質は金属や陶磁器、プラスチックなどがあり、様式的な食事においては銀製(特に高価なものは金製)のプラッターが用いられる。
* [[ソーサー]] (saucer) : 小型の皿。ティーカップやコーヒーカップの受け皿として用いられる。皿の表面はカップの底が当たっても傷つかないように、丈夫な形状であることが求められる。
* スープ皿 (soup plate) : スープを入れるための深さのある皿。より深いものはスープボウル(スープ鉢)やスープカップとなるが、様式的な食事ではスープ皿が用いられる事が多く、スプーンを使って食される。汁気の多いスープでは円形で窪みのあるもの、具が多く汁気にとろみのあるものでは楕円の深皿などが多い。シチュー皿とも。
* カレー皿: 日本では[[カレー_(代表的なトピック)|カレー]]のソースとライス([[飯|米飯]])が混ざらないように隔てのあるもの、楕円の深皿でソースボート(カレーソースを入れる器)と組みで用いるもの、平皿などがある。シチュー皿として用いることもある。平皿の場合は総じてシチュー皿に比べて高さが低い。
* グラタン皿 : シチュー皿に似るが、オーブンに入れられる様に耐熱性を重視し、分厚く長円形のものが多い。
* ステーキ皿、鉄板 : 鉄製でコンロやオーブンで熱した状態で用いられる皿で、通常は木製の台皿などと組み合わせて用いられる。
** [[ボウル]](サラダボウル、スープボウル、パンチボウル)
** [[フィンガーボウル]]
** シュガーボウル : 砂糖や角砂糖を入れる主に蓋付きの容器。シュガーポット、シュガーボックスとも。
** カフェオレボウル - スープボウルとも。
*ドリンクウェア : コップなどの飲料に用する食器。
** [[コップ]]([[カップ]])
*** [[ティーカップ]]
*** [[コーヒーカップ]]
*** [[氷コップ]]
*** スープカップ
*** [[グアンパ]]
** グラス : ガラス製のコップ。使用する飲料の種類による適温、適量、飲み口、芳香、スタイルなどの違いに応じて、様々な形状、種類のものが存在する。「グラス」自体がガラス製のコップやゴブレットを意味する語として使用されるが、グラスカップやグラスタンブラー(タンブラーグラス)など、形状を意味する語と組み合わせても用いられる。
*** [[ワイングラス]] : ワインを飲む為の、主に円形で取っ手の無い脚付きのガラス製の容器。ボルドータイプ ブルゴーニュタイプ等の種類がある。
*** [[スニフター|ブランデーグラス]] : ブランデーを飲む為の、主にワイングラスより幅広で口の広いグラス。
*** リキュールグラス : リキュールを飲む為の、主にワイングラスより小さい形状のグラス。
*** シェリーグラス : シェリーを飲むための、リキュールグラスを一回り小さくしたような形状のグラス。
*** シャンパングラス(クープシャンパン トールシャンパン フルートシャンパン)
*** [[オールドファッションドグラス]]: ウィスキーなどを飲むためのガラス製の背の低いタンブラー。通称:[[ロックグラス]]、OFグラス。
*** ウィスキーグラス : ウィスキーを飲むためのグラス。ロック用のグラスとして知られるオールド・ファッションド・グラスを指す事が一般的だが、シングルモルト用のより小型のものや短い足が付いたものもある。
*** [[ビアグラス]](ビールグラス): ビール用のグラス。[[パイント・グラス]]、ピルスナーグラス、フロートグラス、[[スニフター]]、など。
*** [[カクテル・グラス]] : 主にショートカクテルを飲む為の逆三角形型をした足付きグラスを指す。それ以外のカクテルに使用する為のグラスでは、コリンズグラスなどそのカクテルの名称を付したものが多い。特に専用のグラスがあるわけではなく、その他の飲料用のグラスで代用される場合もある。
** マグ : 取っ手の付いた円筒形のコップ。[[マグカップ]]は和製英語。ソーサーは付かない。
*** [[ビアマグ]] : ビール用のマグ。
** [[ジョッキ]] : 取っ手の付いた寸胴形の容器でマグよりも大きい。[[ビールジョッキ]]も参照。
** ゴブレット(カリス): 脚の付いた杯。取っ手や蓋の付いたものもある。
** タンブラー : 寸胴型のコップ。[[タンブラーグラス]]も参照。
* その他
** [[ティーポット]] [[ポット#ティーポット]]
** [[ポトスタカーンニク]]
** [[カクテル・ピン]]
** クリーマー (creamer) : ミルクやクリームを入れる小型の水差し。ミルクポットとも。
** [[バタークーラー]] - バターを入れる金属製の器。
** [[バターピッチャー]] - 上記と同じく蓋と皿が付いた器。
** [[ピッチャー (容器)|ピッチャー]]: 取っ手の付いた水差し。ビールなどに用いる。
** [[デキャンタ]]: [[ワイン]]などを[[デカンテーション]]する際に用いる容器。
** [[ジャグ]]({{lang-en-short|[[w:Jug (container)|jug]]}}): 広口の水差し。[[ジョッキ]]も参照。
** [[カラフェ]] : 水差し。ガラス製のコップとセットで用いられるものが多い。
** [[アイスペール]] : 氷入れ。
** [[トング]] : ピンセットのようにパンやパスタなどの食品を挟む道具。向かい合わせにしたフォークで代用する事もある。
** 布、[[テーブルクロス]]、プレースマット(ランチョンマット)、テーブルランナー: テーブルにのせる布であるが、様式的な食事ではその上に直接パンなどを置く事があり、食器としても扱われる。そのため、テーブルクロスの上にハンドバッグなどの食品以外のものを置くことはマナー違反とされる。(前記のものは、単に食事以外の時に装飾的な目的で掛けておくテーブルクロスとは区別される)
** ドイリー (doiliy)、コースター (coaster)
** [[シャンパンクーラー]](ワインクーラー)
** [[オイスタークーラー]]
** [[サラダボール]]
** [[ケーキスタンド]](チョコレートスタンド)
** [[キャビアスタンド]]
** [[ビュッフェスタンド]]
** [[オードブルスタンド]]
** [[トップコンスタンド]]
** [[オイスタープレート]]
** [[グレービーボート]]
** [[ソースポット]]
** [[スープウォーマー]]
** [[スープチューリン]]
** [[スープステーション]]
** [[スプリームサーバー]]
** [[おしぼり入]]
** [[ナプキンスタンド]]
** [[レードルスタンド]](お玉スタンド)
** [[爪楊枝入れ]]
** [[ウォーターポット]]
** [[アイスカップ]]
** [[ソフトクリームホルダー]]
** [[コップホルダー]]
** [[バナナホルダー]]
** [[パフェカップ]]
** [[ハニーディスペンサー]]
** [[ワインラック]]
==== 素材による分類 ====
* 陶磁器([[セラミック]])
** チャイナ(磁器): 白磁器のこと。
** [[ボーンチャイナ]]: チャイナのうち、骨灰を用いた乳白色の滑らかな磁器。
* シルバー([[銀食器]]): フォークやスプーンといったカトラリー類の他、銀皿などもある。[[銀]]も参照。洋食店などではステンレス製であっても、カトラリー類全般を総称して慣用的にシルバー(シルバーウェア)と呼ぶこともある。
* [[ピューター]](しろめ): スズを主成分とする低融点合金。ジョッキやビアマグに用いられる。
* ガラス器: 主に飲料用の容器(グラス)として用いられる。大きく分けて[[クリスタル]]製と[[ソーダガラス]]製に分かれる。その他、[[耐熱ガラス]]等。[[クリスタル]]は、透明度が高く、装飾が施しやすい特性とその輝きも加わる事から、レストランやパー等で用いられる([[バカラ (ガラス)|バカラ]]・[[HOYA]]等のグラスが代表的)。用途に応じて様々な形状のグラスがあり、また外面には彫刻が施されているものもある。
=== 使い捨ての食器 ===
* 紙皿 : 耐水性を高めるために表面コーティングした紙を成形した皿で、使い捨てに用いられることが多く、皿の種類や大きさは多岐にわたる。同様の目的でプラスチック製のものも多く出回っており、また環境負荷の少ない'''食べられる皿'''として、トウモロコシを原料とする皿が作られている。これは実際には、回収して家畜の飼料とすることを意図したもので、人が食べても人体への害はないものの、味については考慮されていない。
* [[植物]]の[[葉]]
** [[バナナ]]の葉 : [[インド料理]](特に南インド)では伝統的なスタイルとして、葉の上に料理を盛ることがある。葉が大きいため汁気の多い料理にも利用できる。
** [[ニオイタコノキ]]の葉: [[タコノキ科]][[タコノキ属]]の植物は[[マレーシア料理]]、[[タイ料理]]などで香り付けと、葉の上に料理を盛ったり、ご飯物を包んだりするのに用いられる。
* [[紙コップ]]
* 缶、ペットボトル、紙パック
* 素焼きのコップ : インドなどでは露天販売の飲料などの容器として
* [[ストロー]] :飲料を飲む際に用いられる細い筒状の道具。プラスチック製が一般的。ストロー (straw) は英語で麦わらの意であり、かつては麦わらを切ったものが利用されていた。
** [[ボンビーリャ]]
* [[爪楊枝]]
*規制 : [[2016年]]、[[フランス]]では、使い捨てのカップや皿を禁止(制限)する法律が制定。2020年以降、家庭用[[コンポスト]]で[[堆肥]]化できる生物由来素材を50%使うことを義務付けられることとなっている<ref>{{Cite news|url=http://www.cnn.co.jp/world/35089279.html |title=フランス、プラスチック製の使い捨て食器を禁止へ 世界初 |work=CNN |publisher=CNN |date=2016-09-20|accessdate=2016-09-20}}</ref>。
== 共用方法による分類 ==
* [[共用器]] : 複数の人用の料理が盛られる食器。大皿料理における大皿や、鍋料理における鍋など。
* [[銘々器]] : 食事の際に各人に割り当てられる食器。取り皿やコップ類、和食における膳など。
* [[属人器]] : 銘々器のうち、食器そのものが特定の人物が使うものとして認識されている食器。言い換えれば、属人器以外の銘々器は、一回の食事ごとに持ち主が定められる一時的な属人器ともいえる。日本や[[大韓民国|韓国]]の食文化における特徴のひとつとされ、[[ヨーロッパ]]や中国では一般的ではない。家庭においてはご飯茶碗や箸などが代表的な属人器とされるが、複数をセットで買い揃える事が多いティーカップやスプーンといった食器は属人器になり難い。一方、洋食器であっても、個々に買い揃えられる[[マグカップ]]などは属人器として扱われることが少なくない。
{{節スタブ}}
== 素材 ==
* [[陶磁器]]([[セラミック]])、[[土器]]、[[炻器]]
* [[漆器]]([[漆]])
* [[ガラス]]([[クリスタル・ガラス]])
* [[金属]]([[鉄]]、[[ステンレス]]、[[アルミニウム|アルミ]]、[[銀]]、[[銅]]、[[真鍮]]、[[ブリキ]]、「ニッケル」、[[金]])
* [[石]]
* [[木材]]、[[竹]]、[[植物]]、[[葉]]、[[樹皮]]、[[果実|実]]
* [[紙]]
* [[プラスチック]]
* [[骨]]、[[角]]、[[貝]]
== 手入れ ==
使い捨ての物を除いて、食器は通常、使用後に台所用[[洗剤]]などを用いて手洗い、または[[食器洗い機]]で洗浄してから保管される。ただし、[[漆器]]や高価な[[陶磁器]]の場合は、洗剤を用いずに手洗いされるなど、特別な手入れの必要とされる食器もある。[[銀食器]]も洗剤で洗ってよいが、[[硫黄]]化合物や[[酸]]に触れると黒変するので、[[鶏卵]]や[[サラダドレッシング]]などに触れると手早く洗い落とすのが望ましく、曇ったものは[[炭酸水素ナトリウム|重曹]]を少し付けて磨くときれいになる。
{{節スタブ}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=千澄子、九原秀樹 |year=1989 |title=和食器 |publisher=国際情報社|ref=harv}}
== 関連項目==
* [[調理]]
* [[食品用器具材料]]
* {{ill2|サービスカート|en|Serving cart}}(配膳台)
==外部リンク==
*{{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
{{Normdaten}}
{{キッチン器具}}
{{料理}}
{{デフォルトソート:しよつき}}
[[category:食器|*しよつき]]
[[Category:日用品]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E5%99%A8
|
18,362 |
セキュリティ
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セキュリティ(英: security)
もともと上の節で説明した概念と強く関係があるが、金融業界では、出資を募る団体を損害から保護する機能を果たしつつ出資などを募集する契約書の類をセキュリティと言い、日本語では有価証券と訳す。
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セキュリティ 危険や脅威から解放された状態。この抽象的な概念から下のようなさまざまな、より具体的な概念が派生している。
|
{{Otheruses||2017年のアメリカ映画|セキュリティ (映画)}}
'''セキュリティ'''({{lang-en-short|[[:en:security|security]]}})
*[[危険]]や脅威から解放された状態<ref>[https://www.lexico.com/definition/security]</ref>。この抽象的な概念から下のようなさまざまな、より具体的な概念が派生している。
== 危険や脅威から守るための段取りや手段 ==
*上述の「危険や脅威から解放された状態」を実現するための段取りや手段。[[人]]、[[住宅|住居]]、[[資産]]、[[組織]]、[[社会|地域社会]]、[[国家]]などを脅威から守るさまざまな計画・段取りや手段を指しうる。「危険」や「脅威」は分野ごとにさまざまなものを指し得る。
** (個人)個人の身体、個人の財産、住居などを脅威から守ること。[[日本語]]では'''[[警備]]'''と訳すことが多い。一般家庭を護るという意味で'''[[ホームセキュリティ]]'''とも。なお20年ほど前まではそう理解すればよかったが、最近では日本であれ欧米であれ若い人が日常会話で「セキュリティ」について話し合っていたら、たいてい自宅の物理的な警備のことは指しておらず、むしろ当節の末尾の「ITセキュリティ」「[[コンピュータセキュリティ]]」「[[ネットワーク・セキュリティ]]」のことを指している可能性が高い。
** (組織、企業)組織・企業などの施設などを脅威から守ること。日本語ではやはり'''[[警備]]'''と訳すことが多いが大組織や役所組織などでは'''[[保安]]'''と言う場合も。
** (国家)国家の諸要素を脅威から守ること。国民の生命、国の領土、国の経済などを、災害や他国が引き起こす脅威から守ること。日本語では'''[[安全保障]]'''や'''[[国家安全保障]]'''などと訳すことが多い。'''[[防衛]]'''つまり他国からの軍事的な攻撃から国を守ることだけでなく、'''[[防災]]'''つまり災害から国を守ること、あるいは'''[[食料安全保障]]'''つまり'''[[食料自給率]]の確保'''なども含まれる。グローバル化が進んでしまった近年では食料を確保するだけでは不十分で鍵となる各産業も自国内に残したり健全に育てておかなければ安全保障にかかわると認識され'''[[経済安全保障]]'''も含まれるようになってきた。
**(ITシステム) [[情報技術|IT]]領域つまり[[コンピュータ]]や[[コンピュータネットワーク]]関連の分野では'''[[コンピュータセキュリティ]]'''、'''[[ネットワーク・セキュリティ]]'''、'''[[情報セキュリティ]]'''。これらに加え、[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]、アプリケーション、コンテナ<ref>[https://www.redhat.com/en/topics/security/container-security What is container security?]Red Hat</ref>などまで含めてIT関連のセキュリティを全部まとめて'''ITセキュリティ'''という総称で呼ぶこともある<ref>[https://www.redhat.com/ja/topics/security RedHat「ITセキュリティを理解する」]</ref>。(なおここ数十年では個人レベル、組織レベル、国家レベルのどのレベルでもITシステムの使用度が増し必要不可欠になってきており、インターネットは世界中つながっておりサイバーアタックは日々数十億件ほども起きているとされるので、ITセキュリティを怠ると個人も組織も国家もあっけなく機能停止状態になってしまう。)
== 有価証券 ==
もともと上の節で説明した概念と強く関係があるが、[[金融]]業界では、[[出資]]を募る[[団体]]を損害から[[保護]]する機能を果たしつつ出資などを募集する[[契約書]]の類をセキュリティと言い、日本語では'''[[有価証券]]'''と訳す。
== 脚注 ==
{{reflist}}
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{{デフォルトソート:せきゆりていい}}
[[Category:セキュリティ|*]]
[[Category:英語の語句]]
[[Category:金融]]
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|
18,363 |
1031年
|
1031年(1031 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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"title": "死去"
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1031年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1031}}
{{year-definition|1031}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[日本]]
** [[長元]]4年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1691年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[天聖]]9年
** [[遼]] : [[景福 (遼)|景福]]元年
** [[大理国]] : [[正治 (大理)|正治]]5年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天成 (李朝)|天成]]4年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1031|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[平忠常の乱]]が[[源頼信]]によって鎮定される
* [[平忠常]]が源頼信に降伏
* [[後ウマイヤ朝]]、滅亡
== 誕生 ==
{{see also|Category:1031年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[覚円]]、[[平安時代]]の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[1098年]])
* [[マティルダ・オブ・フランダース]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]の王妃(+ [[1083年]])
* [[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1093年]])
* [[ルッジェーロ1世 (シチリア伯)|ルッジェーロ1世]]、[[シチリア]]伯(+ [[1101年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1031年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月25日]](太平11年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[聖宗 (遼)|聖宗]]、[[遼]]の第6代[[皇帝]](* [[971年]])
* [[6月28日]](長元4年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[平忠常]]、平安時代の武将(* [[975年]]?)
* [[7月20日]] - [[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]]、[[フランス王国]][[カペー朝]]の第2代国王(* [[972年]])
* [[顕宗 (高麗王)|顕宗]]、第8代[[高麗王]](* [[992年]])
* [[李徳明]]、[[西夏]]の王(* [[981年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1031}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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|
18,364 |
1093年
|
1093年(1093 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1093年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1093}}
{{year-definition|1093}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[日本]]
** [[寛治]]7年
** [[皇紀]]1753年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[元祐]]8年
** [[遼]] : [[太安 (遼)|太安]]9年
** [[西夏]] : [[天祐民安]]4年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[会豊]]2年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1093|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[白河天皇|白河上皇]]、諸国に濫立する[[荘園 (日本)|荘園]]の制止について、[[内大臣]][[藤原師通]]に[[諮問]]する。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1093年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[元海]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1156年]])
* [[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ帝国]]初代君主(+ [[1152年]])
* [[シモーネ・ダルタヴィッラ]]、[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア伯]](+ [[1105年]])
* [[恂子内親王]]、平安時代の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](+ [[1132年]])
* [[尋範]]、平安時代の僧(+ [[1174年]])
* [[藤原伊通]]、平安時代の[[公卿]](+ [[1165年]])
* [[李侗 (南宋)|李侗]]、[[南宋]]の[[儒学者]](+ [[1163年]])
* [[耶律雅里]]、[[遼]]の皇族(+ [[1123年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1093年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月17日]](寛治7年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[藤原実政]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1019年]])
* [[4月13日]] - [[フセヴォロド1世]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]](* [[1030年]])
* [[7月30日]] - [[ベルト・ド・オランド]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ1世 (フランス王)|フィリップ1世]]の最初の王妃(* 1050年代)
* [[8月29日]] - [[ユーグ1世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ1世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1057年]])
* [[9月8日]](寛治7年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[井伊共保]]、平安時代の[[豪族]]、[[井伊家]]初代当主(* [[1010年]])
* [[9月26日]](寛治7年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[馨子内親王]]、平安時代の[[皇族]]、[[斎院|賀茂斎院]]、[[後三条天皇]]の[[中宮]](* [[1029年]])
* [[11月13日]] - [[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1031年]])
* [[11月16日]] - [[マーガレット・オブ・スコットランド]]、スコットランド王マルカム3世の2番目の王妃(* [[1045年]]?)
* [[藤原基家 (陸奥守)|藤原基家]]、平安時代の[[公家]](* 生年未詳)
* [[ロベール1世 (フランドル伯)|ロベール1世]]、[[フランドル伯]](* [[1031年]]?)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1093}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,367 |
846年
|
846年(846 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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846年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|846}}
{{year-definition|846}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丙寅]]
* [[日本]]
** [[承和 (日本)|承和]]13年
** [[皇紀]]1506年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[会昌]]6年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]]:
* [[ユダヤ暦]]:
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=846|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 3月 - [[畿内]]諸国に諸家の[[氏姓]]の[[出自]]と[[皇胤]]を調査させる。
* 12月 - [[西大寺 (奈良市)|西大寺]][[講堂]]焼ける。
== 誕生 ==
{{see also|Category:846年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[11月1日]] - [[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]、[[カロリング朝]][[西フランク王国]]の国王(+ [[879年]])
* [[12月6日]] - [[ハサン・アスカリー]]、[[シーア派]]・[[十二イマーム派]]の第11代[[イマーム]](+ [[874年]])
* [[杜荀鶴]]、[[唐]]代の詩人(+ [[904年]]?)
== 死去 ==
{{see also|Category:846年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月30日]](承和13年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[文室秋津]]、[[平安時代]]の[[将軍]]、政治家(* [[787年]])
* [[9月10日]](承和13年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[藤原吉野]]、平安時代の[[公卿]](* [[786年]])
* [[趙帰真]]、[[唐]]の[[道士]](* 生年未詳)
* [[白居易]]{{要出典|date=2021-04}}、唐の[[詩人]](* [[772年]])
* [[武宗 (唐)|武宗]]、唐の第18代[[皇帝]](* [[814年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|846}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,368 |
1124年
|
1124年(1124 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
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1124年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
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{{year-definition|1124}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲辰]]
* [[日本]]
** [[保安 (元号)|保安]]5年、[[天治]]元年
** [[皇紀]]1784年
* [[中国]]
** [[北宋]] : [[宣和]]6年
** [[遼]] : [[保大 (遼)|保大]]4年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]2年
** [[西夏]] : [[元徳 (西夏)|元徳]]6年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天符睿武]]5年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
* [[ユリウス暦]] : 1169年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1124|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[西夏]]、[[金 (王朝)|金]]に滅ぼされる。
* [[日本]]、[[中尊寺金色堂]]が建立。
* [[藤原璋子]]に待賢門院の院号が宣下される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1124年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アリエノール・ダキテーヌ]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の王妃(+ [[1204年]])
* [[仁宗 (西夏)|仁宗]]、[[西夏]]の第5代[[皇帝]](+ [[1193年]])
* [[平経盛]]、[[平安時代]]の[[武将]]、[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1185年]])
* [[藤原忠雅]]、平安時代、[[鎌倉時代]]の公卿(+ [[1193年]])
* [[藤原光頼]]、平安時代の公卿、歌人(+ [[1173年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1124年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月23日]] - [[アレグザンダー1世 (スコットランド王)|アレグザンダー1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1078年]])
* [[5月22日]] - [[ヴィプレヒト2世 (グロイチュ伯)|ヴィプレヒト2世]]、[[オストマルク (ザクセン)|オストマルク]]、[[ラウジッツ辺境伯領|下ラウジッツ]]および[[マイセン辺境伯|マイセン]]の[[辺境伯]] (* [[1050年]]?)
* [[12月13日]] - [[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]、第162代[[教皇|ローマ教皇]](* 1065年/1068年?)
* [[ハサン・サッバーフ]]、[[イスラム教]][[シーア派]]の[[イスマーイール派]]・[[ニザール派]]の開祖(* 生年未詳)
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1124}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1124%E5%B9%B4
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18,369 |
1136年
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1136年(1136 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1136年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[日本]]
** [[保延]]2年
** [[皇紀]]1796年
* [[中国]]
** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]6年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天会 (金)|天会]]14年
** [[西夏]] : [[大徳 (西夏)|大徳]]2年
** [[西遼]] : [[康国]]3年
* [[朝鮮]]
** [[檀紀]] 3469年
** [[高麗]] : [[仁宗 (高麗王)|仁宗]]14年
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天彰宝嗣]]4年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1136|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:1136年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アル=ジャザリ]]、[[トルコ]]の[[ディヤルバクル]]出身の[[博学者]](+ [[1206年]])
* [[藤原成頼]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1202年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1136年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[6月15日]](保延2年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[藤原家忠]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1062年]])
* [[9月11日]](保延2年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]) - [[藤原家保]]、平安時代の公卿(* [[1080年]])
* [[11月15日]] - [[レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト3世]]、[[バーベンベルク家]]の[[オーストリア辺境伯]](* [[1073年]])
* [[訛里朶]]、[[金 (王朝)|金]]の[[皇族]](* [[1096年]])
* [[サヴァソルダ]]、[[バルセロナ]]で活躍した[[ユダヤ人]]の[[科学者]](* [[1070年]])
* [[ラーシド]]、[[アッバース朝]]の第30代[[カリフ]](* 生年未詳)
<!--* [[妙清]]-->
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1136}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,370 |
1140年
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1140年(1140 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1140年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚申]]
* [[日本]]
** [[保延]]6年
** [[皇紀]]1800年
* [[中国]]
** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]10年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天眷]]3年
** [[西夏]] : [[大慶 (夏仁宗)|大慶]]元年
** [[西遼]] : [[康国]]7年
* [[朝鮮]]
** [[檀紀]]3473年
* [[ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[紹明]]3年、[[大定 (李朝)|大定]]元年
* [[仏滅紀元]] : 1682年 - 1683年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 535年 - 536年
* [[ユダヤ暦]] : 4900年 - 4901年
{{Clear}}
== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[フランス]]の神学者[[ピエール・アベラール]]が再び異端と宣告される。
* [[スコットランド君主一覧|スコットランド王]]の[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]が[[イングランド]]より[[カーライル (イングランド)|カーライル]]の[[貨幣]]鋳造所を支配下に納め、[[スコットランド]]で初めて[[コイン]]を製造
* [[西行]]が23歳で出家。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1140年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[10月14日]](保延6年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[重仁親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](+ [[1162年]])
* [[慶円]]、平安時代、[[鎌倉時代]]の[[僧]](+ [[1223年]])
* [[辛棄疾]]、[[金 (王朝)|金]]、[[南宋]]の政治家、[[文人]](+ [[1207年]])
* [[能円]]、平安時代、鎌倉時代の僧(+ [[1199年]])
* [[藤原多子]]、平安時代、鎌倉時代の皇族(+ [[1202年]])
* [[三善康信]]、平安時代、鎌倉時代の[[公家]](+ [[1221年]])
* [[ピエール・ヴァルド]]、[[フランス]]の宗教家、[[ヴァルド派]]の始祖(+ [[1218年]]?)
== 死去 ==
{{see also|Category:1140年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[10月27日]](保延6年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[覚猷]]、[[平安時代]]の[[天台宗]]の[[僧]]、通称'''鳥羽僧正'''(* [[1053年]])
* [[楊再興]]、[[南宋]]の[[武将]](* [[1104年]])
* [[李綱]]、南宋の[[宰相]](* [[1085年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1140}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,371 |
1153年
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1153年(1153 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1153年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1153}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[日本]]
** [[仁平]]3年 (仁平2年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]] - 仁平3年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]])
** [[皇紀]]1813年
* [[中国]]
** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]23年
** [[金 (王朝)|金]] : [[天徳 (金)|天徳]]5年、[[貞元 (金)|貞元]]元年
** [[西夏]] : [[天盛]]5年
** [[大理国]] : [[大宝 (大理)|大宝]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]7年
** [[檀君紀元|檀紀]]3486年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[大定 (李朝)|大定]]14年
* [[仏滅紀元]] : 1695年 - 1696年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 548年 - 549年
* [[ユダヤ暦]] : 4913年 - 4914年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1153|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[イタロノルマン|ノルマン人]]がイスラム教徒の支援を受けて、シチリアが管理する[[ジェルバ]]島の反乱を抑制し<ref>{{cite book|last=Abulafia|first=David|title=The Norman kingdom of Africa and the Norman expeditions to Majorca and the Muslim Mediterranean|year=1985|publisher=Boydell Press|location=Woodbridge|isbn=0-85115-416-6|url=https://books.google.com/books?id=4DZf-RBtZ7IC&pg=PA32&lpg=PA32&dq=Norman+crusaders+and+the+Catalan+reconquest:+Robert+Burdet+and+the+principality+of+Tarragona+1129-55&source=bl&ots=cZMDAs578x&sig=Zqnswn_kjGEIjfxLYW1Ouhchr3Y&hl=en&sa=X&ei=BwEAT_OKJtKg8gPMwI3MAQ&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q&f=false}}</ref>、[[ケルケナ諸島|ケルケナ]]島を侵略する。
* [[ビザンチン帝国]]の首都である[[コンスタンティノープル]]が、[[セルジュ帝国]]の[[メルヴ]]を抜き世界最大の都市となる。
* [[5月24日]] – [[マルコム4世]]が12歳で[[スコットランド王]]位を祖父から継承し、5月27日に[[スコーン・プライオリー]]で戴冠した。
* [[8月19日]] – エルサレムの[[ボールドウィン3世]]が、[[エルサレム王国]]の支配を母親の[[メリセンデ]]から奪い、[[アスカロンの包囲|アスカロンも接収する]]。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1153年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[阿野全成]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[僧]](+ [[1203年]])
* [[グリエルモ2世]]、[[シチリア王国]][[オートヴィル朝|ノルマン朝]]の第3代国王(+ [[1189年]])
* [[信円]]、平安時代、鎌倉時代の[[興福寺]]の僧(+ [[1224年]])
* [[平通盛]]、平安時代の[[武将]](+ [[1184年]])
* [[藤原兼房 (太政大臣)|藤原兼房]]、平安時代、鎌倉時代の[[公卿]](+ [[1217年]])
* [[藤原季能]]、平安時代、鎌倉時代の[[公家]](+ [[1211年]])
* [[横山時兼]]、平安時代、鎌倉時代の武将(+ [[1213年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1153年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月10日]](仁平3年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[平忠盛]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1096年]])
* [[4月2日]](仁平3年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[寛信]]、平安時代の[[真言宗]]の[[僧]](* [[1084年]])
* [[5月24日]] - [[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1080年]]?)
* [[7月8日]] - [[エウゲニウス3世 (ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]、第167代[[教皇|ローマ教皇]](* 生年未詳)
* [[8月17日]] - [[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]]、[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]伯(* [[1127年]])
* [[8月21日]] - [[クレルヴォーのベルナルドゥス]]、[[フランス]]出身の[[神学者]](* [[1090年]])
* [[10月15日]](仁平3年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[源行国]]、平安時代の武将(* [[1081年]]?)
* [[12月22日]](仁平3年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[覚法法親王]]、平安時代の[[法親王]](* [[1092年]])
* [[アンナ・コムネナ]]、[[東ローマ帝国]]の[[歴史家]]、[[ニケフォロス・ブリュエンニオス]]の妻(* [[1083年]])
* [[李清照]]、[[北宋]]、[[南宋]]の[[詩人]](* [[1084年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1153}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:1153年|*]]
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|
18,372 |
1168年
|
1168年(1168 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
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"title": "死去"
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1168年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
|
{{年代ナビ|1168}}
{{year-definition|1168}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[戊子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[仁安 (日本)|仁安]]3年(仁安2年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]] - 仁安3年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]])
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1828年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[乾道 (宋)|乾道]]4年
** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]8年
* 中国周辺
** [[西遼]] : [[崇福]]5年?
** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[天盛]]20年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]22年
** [[檀君紀元|檀紀]]3501年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[政隆宝応]]6年
* [[仏滅紀元]] : 1710年 - 1711年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 563年 - 564年
* [[ユダヤ暦]] : 4928年 - 4929年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1168|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[3月30日]](仁安3年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - [[六条天皇]]が譲位し、第80代[[天皇]]・[[高倉天皇]]が即位。
* [[平清盛]]が[[厳島神社]]の現在の社殿を造営。
* 平清盛が出家する
== 誕生 ==
{{see also|Category:1168年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[加藤景正]]、[[鎌倉時代]]の[[陶工]]、[[瀬戸焼]]の祖(+ [[1249年]])
* [[郷御前]]、[[源義経]]の[[正室]](+ [[1189年]])
* [[章宗 (金)|章宗]]、[[金 (王朝)|金]]の第6代[[皇帝]](+ [[1208年]])
* [[寧宗 (宋)|寧宗]]、[[南宋]]の第4代皇帝(+ [[1224年]])
* [[三善長衡]]、[[鎌倉時代]]の[[官人]](+ [[1244年]])
* [[結城朝光]]、[[平安時代]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[御家人]](+ [[1254年]])
* [[李奎報]]、[[高麗]]の[[文人]](+ [[1241年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1168年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[8月12日]](仁安3年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[源清光]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1110年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1168}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:1168年|*]]
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18,373 |
629年
|
629年(629 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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629年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|629}}
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己丑]]
* [[日本]]
** [[舒明天皇]]元年
** [[皇紀]]1289年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]3年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[栄留王]]12年
** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]30年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]51年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]46年
** [[檀紀]]2962年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=629|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[2月2日]](舒明天皇元年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - 田村皇子が即位し、[[舒明天皇]]となる。
* [[玄奘]]の[[天竺]](現在の[[インド]])旅行(-[[645年]]、「[[大唐西域記]]」)
* 『[[梁書]]』の成立
== 誕生 ==
{{see also|Category:629年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[道昭]]、[[法相宗]]の[[僧]](+ [[700年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:629年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|629}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}}
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[[Category:629年|*]]
|
2003-09-26T13:05:03Z
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|
18,374 |
641年
|
641年(641 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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"text": "641年(641 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。",
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}
] |
641年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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{{year-definition|641}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛丑]]
* [[日本]]
** [[舒明天皇]]13年
** [[皇紀]]1301年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]15年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[栄留王]]24年
** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]42年、[[義慈王]]元年
** [[新羅]]:(王)[[善徳女王]]10年、(元号)[[仁平 (新羅)|仁平]]8年
** [[檀紀]]2974年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=641|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[アラブ]]軍が[[エジプト]]を征服
== 誕生 ==
{{see also|Category:641年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:641年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月11日]] - [[ヘラクレイオス]]、[[東ローマ帝国]]中期の[[皇帝]]、[[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]の開祖(* [[575年]]頃)
* [[11月17日]](舒明天皇13年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]) - [[舒明天皇]]、第34代天皇(* [[593年]]?)
* [[欧陽詢]]、[[唐]]代の[[書家]](* [[557年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|641}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:641年|*]]
|
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|
18,375 |
富嶽
|
富嶽(ふがく)は、太平洋戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。
1942年(昭和17年)、アメリカ軍による初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)と、日本軍による初のアメリカ本土空襲が行われた。この年、中島飛行機の創始者である中島知久平が立案した『必勝防空計画』に書かれていた、アメリカ合衆国本土を空襲した後にそのままヨーロッパまで飛行し、同盟国であったナチス・ドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」構想が、のちの富嶽である。同年8月15日、大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した。その中に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった。
アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち太平洋を横断してアメリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツに寄り補給を受け、再び逆のコースでアメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言う壮大な計画であった。全長45 m(米軍が太平洋戦争で実戦投入した4発戦略爆撃機ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65 m(B-29の1.5倍)、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400 km(B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。
中島飛行機が設計にかかわる。1943年(昭和18年)5月31日、中島は軍令部官邸での夕食会で本機(富嶽)の構想を説明する。昭和20年にはB-29大型爆撃機が大量配備され「要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ」と指摘し、B-29に対抗するには「其ノ飛行場ヲ使用不能ニスル事ガ考エラレル」と述べた。中島は、東條英機首相をはじめ、陸海軍大臣や関係者にも構想を訴えていたという。
このあと陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、これに軍需省も加わった体制で開発が進められた。しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に川西航空機に設計案を作らせ、しかも陸海軍や他社はおろか中島飛行機内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとくハ54×6基であったが、空冷四重星型という新形式の開発に手間取り、応急案としてハ44(空冷二重星型18気筒、2,450馬力/2,800 rpm)やハ50(空冷二重星型22気筒、3,100馬力/2,400 rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20 tから15 tに減らされた。
当時の日本はおろか戦後すぐのアメリカにおいてすらも、その技術力・工業力では手にあまると思える空前のスケールの機体(1946年に初飛行したアメリカ製の超大型爆撃機B-36ピースメーカーも推力不足に悩まされ、当時としては最新鋭の装備であったジェットエンジンをやむなく追加した)であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、与圧キャビンの研究、新式降着装置の開発も行われた。
1943年(昭和18年)より中島飛行機三鷹研究所構内に組み立て工場の建設が開始された。しかし1944年(昭和19年)4月28日、日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて超重爆撃機「富嶽」の研究を続行するかを検討した。富嶽を予定どおり生産した場合、日本陸軍の四式戦闘機(疾風)の943機減産、海軍の陸上爆撃機銀河235機の減産を招く見通しとなった。資材、工作機械、技術研究の観点から、富嶽の研究は「遺憾ながら中止せざるを得ない」との結論に至った。日本軍は同年6月下旬のマリアナ沖海戦に敗北、絶対国防圏の東の鎖ともいうべきサイパンも7月6日に陥落、最大の支援者であった東條首相は周囲からの排斥によって7月18日に辞職した。本土防空戦のための戦闘機開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。
羽田空港拡張工事中に見つかった、富嶽のものとされるハ50エンジンが、成田国際空港に隣接する千葉県芝山町の航空科学博物館で展示されていた。(現在、外部へ貸出中)
2016年、「富嶽を飛ばそう会」によって設計図から1/12のラジコンで復元され飛行が成功した。
「Z飛行機」を陸軍と海軍の要求に合うように、すり合わせる中で産まれた設計の一つがこの「富嶽」である。
他にアメリカ本土を長距離爆撃する機体として、陸軍のキ74とキ91の開発が進められたが、キ91は開発中止、キ74は審査中に終戦を迎えた。また、海軍も富嶽と競作する形でTBの開発を進めていたが、富嶽に敗れ開発中止となっている。
旅客機や輸送機へ転用する計画もあった。旅客機型は爆撃機型より一回り小さい全長33.5m、全幅50m、定員は4席x25列の100人。輸送機型は全幅を72mに拡大。この他にも爆撃用の装備を撤去し、機体下部に九七式七粍七固定機銃や九九式二〇ミリ機銃を搭載した掃射機型の計画も存在した。
アメリカがほぼ同時期に開発を開始した、ほぼ同サイズの戦略爆撃機B-36は、推進型に配置された6発のレシプロエンジンを搭載し第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)8月8日に初飛行を行い、1948年(昭和23年)に配備開始され、B-36D以降はジェットエンジンを左右の主翼下に各2基ずつ、計4基をパイロンで吊り下げて追加し、空前絶後の10発爆撃機となった。
しかし1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカでさえ持て余す運用の困難さと高価さゆえに温存され活躍の機会を得られず、また時代は既にB-36のようなレシプロエンジン機の速力では通用しないと考えられた。アメリカにおいて兵器として成功する大型の戦略爆撃機は、B-52ストラトフォートレスまで待つことになる。
注:予定である。
注:全て計画値であり、これ以外にもいくつもの計画案があった。
注:あくまで計画である。
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"text": "アメリカがほぼ同時期に開発を開始した、ほぼ同サイズの戦略爆撃機B-36は、推進型に配置された6発のレシプロエンジンを搭載し第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)8月8日に初飛行を行い、1948年(昭和23年)に配備開始され、B-36D以降はジェットエンジンを左右の主翼下に各2基ずつ、計4基をパイロンで吊り下げて追加し、空前絶後の10発爆撃機となった。",
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"text": "しかし1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカでさえ持て余す運用の困難さと高価さゆえに温存され活躍の機会を得られず、また時代は既にB-36のようなレシプロエンジン機の速力では通用しないと考えられた。アメリカにおいて兵器として成功する大型の戦略爆撃機は、B-52ストラトフォートレスまで待つことになる。",
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富嶽(ふがく)は、太平洋戦争中に日本軍が計画した、アメリカ本土爆撃を目的にした超大型戦略爆撃機である。名は富士山の別名にちなむ。
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'''富嶽'''(ふがく)は、[[太平洋戦争]]中に[[日本軍]]が計画した、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[アメリカ本土空襲|本土爆撃]]を目的にした超大型[[戦略爆撃機]]である。名は[[富士山]]の別名にちなむ。
== 富嶽による米本土爆撃計画 ==
[[1942年]]([[昭和]]17年)、[[アメリカ軍]]による初の[[日本本土空襲]]([[ドーリットル空襲]])と、日本軍による初の[[アメリカ本土空襲]]が行われた。この年、[[中島飛行機]]の創始者である[[中島知久平]]が立案した『必勝[[防空]]計画』に書かれていた、[[アメリカ合衆国]]本土を空襲した後にそのまま[[ヨーロッパ]]まで飛行し、[[日独伊三国同盟|同盟国]]であった[[ナチス・ドイツ]]または[[ドイツによるヨーロッパ占領|その占領地]]に[[着陸]]することが可能な大型長距離戦略爆撃機「Z飛行機」構想が、のちの'''富嶽'''である。同年8月15日、[[大本営#陸軍部|大本営陸軍部]]は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を[[陸軍省]]に要望した<ref name="叢書七五278">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、278-279頁「決戦兵器の研究」</ref>。その中に「超遠距離飛行機」「特殊気球([[風船爆弾|フ号装置]])ノ能力増大」という項目があった<ref name="叢書七五278" />。
アメリカ本土爆撃を視野に入れ、日本を飛び立ち[[太平洋]]を横断してアメリカ本土を爆撃、そのまま[[大西洋]]を横断してドイツに寄り[[給油|補給]]を受け、再び逆のコースでアメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、または[[ソビエト連邦|ソ連]]を爆撃しつつ[[世界]]を一周すると言う壮大な計画であった。全長45 [[メートル|m]](米軍が太平洋戦争で実戦投入した4発戦略爆撃機[[B-29 (航空機)|ボーイングB-29]]の1.5倍)、全幅65 m(B-29の1.5倍)、[[航空爆弾|爆弾]]搭載量20[[トン]](B-29の2.2倍)、[[航続距離]]は19,400 [[キロメートル|km]](B-29の3倍)、6発エンジンを目指した。
中島飛行機が[[設計]]にかかわる。[[1943年]](昭和18年)5月31日、中島は[[軍令部]]官邸での夕食会で本機(富嶽)の構想を説明する<ref>[[#高松宮日記6巻]]327頁</ref>。昭和20年にはB-29大型爆撃機が大量配備され「要スルニ現状デハ日本ノ軍需工場ハ全滅シテ戦力ヲ失フノハ明カデアルカラ、大型機ヲ急速ニ設計、生産ニ着手セネバナラヌ」と指摘し、B-29に対抗するには「其ノ飛行場ヲ使用不能ニスル事ガ考エラレル」と述べた<ref>[[#高松宮日記6巻]]328頁</ref>。中島は、[[東條英機]][[内閣総理大臣|首相]]をはじめ、陸海軍大臣や関係者にも構想を訴えていたという<ref>[[#高松宮日記6巻]]329頁</ref>。
このあと[[大日本帝国陸軍|陸]][[大日本帝国海軍|海軍]]共同の計画委員会によって計画が承認され、これに[[軍需省]]も加わった体制で[[開発]]が進められた。しかし陸海軍の要求性能が大幅に異なったため調整に苦労を強いられ、かつ軍需省は途中で独自に[[川西航空機]]に設計案を作らせ、しかも陸海軍や他社はおろか中島飛行機内部にさえ根強い反対論があるなど、開発体制には多くの問題があった。第一次案では、下記の仕様のごとく[[ハ54 (エンジン)|ハ54]]×6基であったが、[[空冷エンジン|空冷]]四重[[星型エンジン|星型]]という新形式の開発に手間取り<ref group="注釈">1944年当時、すでにアメリカ合衆国では[[排気量]]71.5 Lの空冷四重星型28気筒エンジン、[[プラット・アンド・ホイットニー R-4360]](ワスプ・メジャー)が完成していたが、これを搭載した機体の本格運用が開始されたのは、第二次世界大戦終結後の[[1947年]](昭和22年)である。</ref>、応急案として[[ハ44 (エンジン)|ハ44]](空冷二重星型18気筒、2,450[[馬力]]/2,800 [[rpm (単位)|rpm]])や[[ハ50 (エンジン)|ハ50]](空冷二重星型22気筒、3,100馬力/2,400 rpm)6基装備で暫定的に計画を進めた。この影響で爆弾搭載量も20 tから15 tに減らされた。
当時の日本はおろか戦後すぐのアメリカにおいてすらも、その[[技術]]力・[[工業国|工業力]]では手にあまると思える空前のスケールの[[機体]](1946年に初飛行したアメリカ製の超大型爆撃機[[B-36 (航空機)|B-36ピースメーカー]]も[[推力]]不足に悩まされ、当時としては最新鋭の装備であった[[ジェットエンジン]]をやむなく追加した)であったため、実現までに解決せねばならない諸問題が山積し、[[与圧]][[キャビン]]の研究、新式[[降着装置]]の開発も行われた。
1943年(昭和18年)より中島飛行機[[三鷹市|三鷹]]研究所構内に組み立て[[工場]]の建設が開始された。しかし[[1944年]](昭和19年)4月28日、日本軍は陸海軍当事者、軍需省、関係製作会社を集めて超重爆撃機「富嶽」の研究を続行するかを検討した<ref name="叢書七五278" />。富嶽を予定どおり生産した場合、日本陸軍の[[四式戦闘機]](疾風)の943機減産、海軍の陸上爆撃機[[銀河 (航空機)|銀河]]235機の減産を招く見通しとなった<ref name="叢書七五278" />。資材、[[工作機械]]、技術研究の観点から、富嶽の研究は「遺憾ながら中止せざるを得ない」との結論に至った<ref name="叢書七五278" />。日本軍は同年6月下旬の[[マリアナ沖海戦]]に敗北<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、482-483頁「聯合艦隊の戦果と損害」</ref>、[[絶対国防圏]]の東の鎖ともいうべき[[サイパンの戦い|サイパン]]も7月6日に[[陥落]]<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、4687-488頁「サイパン島守備隊の玉砕」</ref>、最大の支援者であった東條首相は周囲からの排斥によって7月18日に[[東條英機#退陣|辞職]]した<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、505-508頁「内閣改造の失敗と総辞職」</ref>。[[日本本土空襲|本土防空戦]]のための[[戦闘機]]開発優先・開発機種削減方針により、「この戦争に間に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。
== 現存物 ==
[[東京国際空港#沖合展開事業|羽田空港拡張工事]]中に見つかった、富嶽のものとされる[[ハ50 (エンジン)|ハ50エンジン]]が、[[成田国際空港]]に隣接する[[千葉県]][[芝山町]]の[[航空科学博物館]]で展示されていた。(現在、外部へ貸出中)
2016年、「富嶽を飛ばそう会」<ref group="注釈">[[富士重工業]]や[[三洋電機]]のOBによるもの。</ref>によって設計図から1/12のラジコンで復元され飛行が成功した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=EUs2wOoEnhk 【パノラマ動画】幻の「富嶽」に乗ってみた! 着陸はお花畑 ]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=czit-Q7c79k 幻の巨翼、大空に舞う 大型ラジコン「富嶽」]</ref>。
== 富嶽計画参加者 ==
* [[中村良夫 (技術者)|中村良夫]]:のちの[[本田技研工業|ホンダ]]四輪開発責任者。中島に就職したばかりで従軍し、[[立川市|立川]][[陸軍航空技術研究所]]第二研究所(陸軍航二研・航空発動機)に属しており、構想を実体化するタイミングでチームが編成され、一員として参加。中村は「それまでの日本最大の爆撃機は海軍の四発[[連山 (航空機)|連山]]であり、日本の航空産業が持てる経験技術をはるかに逸脱した無謀なプラン」と評している。自身の関与したエンジンに関しては「開発を終わっていた「[[ハ44 (エンジン)|ハ219]]」をベースとするものであったため、エンジン自体の構造強度と性能は、まあなんとかメドがつけられそうであった」と、想定される技術範囲内であったとする一方、エンジンの[[冷却]]に関しては複列型であればバッフルにより前後のバランスをとれるが、四列では一列から四列までを均等に冷却することがうまくできなかったことが基本的問題点であり、このため[[三菱重工業|三菱]]で開発中だった空冷複式22気筒「[[ハ50 (エンジン)|ハ50]]」を高出力化しようという代替案も出たが、これは基本仕様ですでに能力不足だったという<ref>中村良夫 著『クルマよ、何処へ行き給ふや―あるエンジニアによる哩石の記』[[グランプリ出版]] ISBN 4-906189-83-0 P55</ref>。
== 関連計画 ==
「Z飛行機」を陸軍と海軍の要求に合うように、すり合わせる中で産まれた設計の一つがこの「富嶽」である。
他にアメリカ本土を長距離爆撃する機体として、陸軍の[[キ74 (航空機)|キ74]]と[[キ91 (航空機)|キ91]]の開発が進められたが、キ91は開発中止、キ74は審査中に終戦を迎えた。また、海軍も富嶽と競作する形で[[TB (航空機)|TB]]の開発を進めていたが、富嶽に敗れ開発中止となっている。
[[旅客機]]や[[輸送機]]へ転用する計画もあった。旅客機型は爆撃機型より一回り小さい全長33.5m、全幅50m、定員は4席x25列の100人。輸送機型は全幅を72mに拡大<ref>『[[上毛新聞]]』2008年6月16日 社会面</ref>。この他にも爆撃用の装備を撤去し、機体下部に[[九七式七粍七固定機銃]]や[[九九式二〇ミリ機銃]]を搭載した[[ガンシップ|掃射機]]型の計画も存在した<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170515/k10010982461000.html 幻の大型軍用機「富嶽」の「掃射機」設計図見つかる] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。
アメリカがほぼ同時期に開発を開始した、ほぼ同サイズの戦略爆撃機[[B-36_(航空機)|B-36]]は、[[推進式 (航空機)|推進型]]に配置された6発の[[レシプロエンジン]]を搭載し[[第二次世界大戦]]後の[[1946年]](昭和21年)8月8日に初飛行を行い、[[1948年]](昭和23年)に配備開始され、B-36D<ref>B-36Bは初の武装型。R-4360-41 エンジン(3,500馬力)6基搭載。62機製造されたが生産された機体の中で59機がB-36Dに改造。</ref>以降はジェットエンジンを左右の主翼下に各2基ずつ、計4基をパイロンで吊り下げて追加し、空前絶後の10発爆撃機となった。
しかし[[1950年]]に勃発した[[朝鮮戦争]]においては、アメリカでさえ持て余す運用の困難さと高価さゆえに温存され活躍の機会を得られず、また時代は既に[[B-36 (航空機)|B-36]]のようなレシプロエンジン機の速力では通用しないと考えられた。アメリカにおいて兵器として成功する大型の戦略爆撃機は、[[B-52 (航空機)|B-52ストラトフォートレス]]まで待つことになる。
== 計画仕様 ==
=== 型式 ===
注:予定である。
* 六発
* 中翼[[単葉機|単葉]]
* [[翼平面形|直線テーパー翼]]
* 全金属製
* [[モノコック|応力外皮]]構造
* 引き込み脚、主輪数4(外側2輪は重量軽減のため[[離陸]]後投下)
* 前輪式
=== 機体仕様 ===
注:全て計画値であり、これ以外にもいくつもの計画案があった。
* 全長:46.00 m
* 全幅:63.00 m
* 全高:8.80 m
* 主翼面積:330.00 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]
* 発動機:中島ハ54空冷式4列星型36気筒([[ハ44 (エンジン)|ハ219]]複列星型18気筒を2台串型置) 5,000馬力(3725 kW)6発
* [[プロペラ]]:VDM[[調速機|定速]]6翅・8翅・[[2重反転プロペラ|二重反転]]4翅(いずれかで計画)
* プロペラ直径:4.5 - 4.8 m
* [[空虚重量|自重]]:42 t
* [[最大離陸重量|全備重量]]:122 t
* 最大速度:780 km/h(高度:10,000 m)
* 実用上昇限度:15,000 m 以上
* 航続距離:19,400 km 以上
=== 武装 ===
注:あくまで計画である。
* 20 mm [[航空機関砲|機関砲]] 4門
* 最大20 t までの爆弾
* [[航空魚雷]]20本([[雷撃]]仕様機)
== 登場作品 ==
=== 研究書 ===
* [[碇義朗]]『さらば空中戦艦富嶽-幻のアメリカ本土大空襲』[[光人社]]
* [[前間孝則]]『富嶽-米本土を爆撃せよ』
* 『3D[[コンピューターグラフィックス|CG]]シリーズ54 日本軍試作機のすべて』[[双葉社]]
* 前間孝則:「富嶽 上: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224484(2020年4月6日)。
* 前間孝則:「富嶽 下: 幻の超大型米本土爆撃機」、草思社文庫、ISBN 978-4794224491(2020年4月6日)。
=== ドキュメンタリー番組 ===
; [[土曜トップスペシャル|土曜スペシャル]]『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』(1979年[[大映映像]]製作、[[Nippon News Network|NNN]]系列局)
: ベースは前述の碇『さらば空中戦艦富嶽 - 幻のアメリカ本土大空襲』。司会役は[[水野晴郎]]。[[中島知久平]]役に[[ハナ肇]]、東條英機役に[[内田朝雄]]、[[近衛文麿]]役に[[久米明]]を当てた再現ドラマや、[[ミニチュア撮影]]と[[操演]]特撮技術を駆使した[[ニューヨーク]][[マンハッタン]]地区に林立する[[摩天楼]]の[[戦略爆撃]]映像も交え、開発計画の全貌を解説する構成がとられた。巨大な機体を有す高高度重爆撃機を敵艦隊への低空の雷撃に使用する、味方の被害が全くなく敵の[[P-51 (航空機)|P51]]迎撃機編隊を一方的に撃墜するなどの想定戦闘シーンが放映された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=16UE8TqAuYU さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲]</ref>。一回のみテレビ放映され、その後は2013年12月7日に[[日本映画専門チャンネル]]で放送されるまで、再放送もビデオ化・DVD化も一切されなかった。
; 『日本の極秘軍用機』(2007年[[ヒストリーチャンネル]]製作・放映、原題:Secret Japanese Aircraft of World War II)
: 富嶽の他、[[秋水]]、[[橘花]]、[[景雲 (航空機)|景雲]]を紹介・解説。
=== 創作 ===
; [[架空戦記]]各作品
: 史実より日本の国力が大きかったり、太平洋戦争下で開発に成功して戦局を有利にしたりする設定で登場する。[[檜山良昭]]『大逆転!幻の超重爆撃機』シリーズ、[[横山信義]]『[[巡洋戦艦]]「浅間」』シリーズ、[[佐藤大輔]]『[[レッドサン ブラッククロス]]』『仮想・太平洋戦史 目標、砲戦距離四万』など。
; 『[[機神兵団]]』(1992年の[[OVA]])
; 『[[荒野のコトブキ飛行隊]]』(2019年のTVアニメ)
: 第10話にて自由博愛連合所属の爆撃機として登場し、ラハマを爆撃敢行したがコトブキ飛行隊及びナサリン飛行隊とラハマ自警団らの活躍により阻止されている。
; [[世にも奇妙な物語 春の特別編 (2001年)|世にも奇妙な物語'01春の特別編]]『太平洋は燃えているか?』(2001年4月2日放送、[[フジテレビ系列]]局)
: 『雷神』という名で登場。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年二月十二日~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|month=3|ISBN=4-12-403396-6|ref=高松宮日記6巻}}
*<!--ホウエイチョウ75 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營陸軍部<8> {{small|―昭和十九年七月まで―}}|volume=第75巻|year=1974|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書75}}
== 関連項目 ==
* [[九二式重爆撃機]]
* [[アメリカ本土空襲]]
* [[零式小型水上機]] - 実際にアメリカ本土の爆撃に成功した機体
* [[風船爆弾]]
* [[ゼンガー (航空機)|Silbervogel]] - ドイツによるアメリカ本土爆撃計画。富嶽とは逆に日本が占領している[[南太平洋]]の島々に着陸する予定だった。
== 外部リンク ==
*[http://www.warbirds.jp/kakuki/kaksasie/hon/hon_fugaku.htm 中島 超遠距離爆撃機『富嶽』]
*[http://www.j-aircraft.org/xplanes/hikoki_files/g10.htm The Nakajima G10N1 Fugaku] {{en icon}}
*[http://gritz.web.fc2.com/fugaku/index.html 富嶽を飛ばそう会]:復元ラジコンの製作・飛行。
{{大日本帝国陸軍}}
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[[Category:日本の計画機]]
[[Category:中島飛行機の航空機]]
[[Category:中島知久平]]
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630年
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚寅]]
* [[日本]]
** [[舒明天皇]]2年
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** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]4年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[栄留王]]13年
** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]31年
** [[新羅]]:(王)[[真平王]]52年、(元号)[[建福 (新羅)|建福]]47年
** [[檀紀]]2963年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* 3月、高句麗の使い宴子抜、百済の使い素子ら来る。
* 8月、[[犬上御田鍬]]らを[[遣唐使]]に派遣(第1次遣唐使)
* [[唐]]、[[東突厥]]を一旦滅ぼす。[[682年]]に再興。
* [[ムハンマド]]らがアラビアを統一。
== 誕生 ==
{{see also|Category:630年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[11月7日]] - [[コンスタンス2世]] - [[東ローマ帝国]][[ヘラクレイオス王朝]]の[[皇帝]](+ [[668年]])
* [[狄仁傑]]、唐代の[[政治家]]、宰相(+ [[700年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:630年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[陸徳明]]、唐の[[経書|経学者]]、著書に『[[経典釈文]]』(* 生年不詳)
* [[杜如晦]]、唐の[[政治家]](* [[585年]])
* [[李神通]]、唐の[[宗室]]、軍人(* [[577年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙卯]]
* [[日本]]
** [[斉明天皇]]元年
** [[皇紀]]1315年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[永徽]]6年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]14年
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** [[新羅]]:[[武烈王]]2年
** [[檀紀]]2988年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[2月14日]](斉明天皇元年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - 第37代[[天皇]]・斉明天皇が即位([[重祚]])
* [[8月18日]](斉明天皇元年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - 斉明天皇、蝦夷と百済人らを難波宮で歓待。
* [[9月6日]](斉明天皇元年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - 遣唐使が帰国。
* 冬、[[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]が火災に遭い、[[川原宮|飛鳥川原宮]]に遷都。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:655年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月1日]] - [[マルティヌス1世 (ローマ教皇)|マルティヌス1世]]、第74代目[[ローマ教皇]](* 生年未詳)
* [[11月15日]] - [[ペンダ (マーシア王)|ペンダ]]、[[七王国時代]]の[[マーシア]]の王(* 生年未詳)
* [[阿史那社爾]]、[[突厥]]の[[首長]]、[[軍人]](* 生年未詳)
* [[王皇后 (唐高宗)|王皇后]]、[[中国]]の[[唐]]の高宗[[高宗 (唐)|李治]]の[[皇后]](* 生年未詳)
* [[高密公主]]、中国の唐の高宗[[李淵]]の四女(* 生年未詳)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[戊午]]
* [[日本]]
** [[斉明天皇]]4年
** [[皇紀]]1318年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[顕慶]]3年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]17年
** [[百済]]:[[義慈王]]18年
** [[新羅]]:[[武烈王]]5年
** [[檀紀]]2991年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[4月]] - [[阿倍比羅夫]]、[[蝦夷]]・[[みしはせ|粛慎]]の征討開始(-[[660年]])、[[越国]]を参照。
* [[11月]] - [[有間皇子]]が謀反
* [[唐]]が[[安西都護府]]を[[トルファン|高昌]]から[[亀茲]]に移転
== 誕生 ==
{{see also|Category:658年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アリー・ザイヌルアービディーン]]、[[シーア派]]第4代[[イマーム]](+ [[713年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:658年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* 5月 - [[建皇子]]、[[天智天皇]]の皇子(* [[650年]])
* [[11月26日]] - [[尉遅敬徳]]、[[唐]]の軍人(* [[585年]])
* [[12月13日]]([[斉明天皇]]4年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[有間皇子]]、[[孝徳天皇]]の皇子(* [[640年]])
* 月日不明 - [[褚遂良]]、唐の政治家・[[書家]](* [[596年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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660年
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[庚申]]
* [[日本]]
** [[斉明天皇]]6年
** [[皇紀]]1320年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[顕慶]]5年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]19年
** [[百済]]:[[義慈王]]20年
** [[新羅]]:[[武烈王]]7年
** [[檀紀]]2993年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[5月]] - [[天智天皇|中大兄皇子]]、飛鳥に[[水時計|漏刻台]]を造る
* [[7月]] - 新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし[[百済]]が[[唐]]・新羅連合軍に滅ぼされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32259910W8A620C1AA2P00/|title=亡命王族の寺 復元進む 百済寺跡・禁野本町遺跡(もっと関西)|publisher=日本経済新聞|date=2018-06-27|accessdate=2021-01-07}}</ref>。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済[[遺民]]による反抗運動が起きた。
* [[唐]]で[[高宗 (唐)|高宗]]に代わり[[則天武后]]が権力を握り始める
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[山上憶良]]、[[奈良時代]]初期の[[歌人]](+ [[733年]]?)
* [[御名部皇女]]、[[飛鳥時代]]の[[皇族]](+ 没年不詳)
== 死去 ==
{{see also|Category:660年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[義慈王]]、[[百済]]の第31代国王(* [[599年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|660}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,381 |
B-17 (航空機)
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ボーイング B-17 フライングフォートレス
飛行するB-17G-35-DL 42-107112(奥)B-17G-70-BO 43-37675(中央)(第532爆撃編隊所属、1944年撮影)
ボーイング B-17 フライングフォートレス(Boeing B-17 Flying Fortress)は、アメリカ合衆国のボーイング社が開発した大型戦略爆撃機。愛称の「フライングフォートレス(Flying Fortress)」は、「飛行要塞・空飛ぶ要塞」の意。
B-17は沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案されたが、1934年に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやっていける」爆撃機を目指すことになった。
B-17の機体ラインは、非常に滑らかな曲線と直線で構成されている。後期型は機銃多数を装備した物々しい外観を有する。B-17はエンジンの排気でタービンを回して高空の希薄な空気を十分な密度に圧縮してエンジンに送り込む排気タービン過給器(ターボチャージャー)によって、良好な高度性能を備えていた。しかし機体は密閉・与圧されていないため、寒冷地や高空では、搭乗員は従来と同様の防寒服装を必要とした。
B-17は強固な防弾装備と多くの防御火器で身を固めていたため、零戦の20ミリ機銃ですら効き目は薄く、撃墜は困難であった。防御火器は試作機で機銃5丁、後期型のG型では実に13丁の12.7 mm M2機関銃を装備していた。
1934年8月8日、アメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機だったマーティン社製B-10双発爆撃機の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した『多発爆撃機』を国内航空機メーカーに要求した。その当初の目的は、アラスカやハワイなど、アメリカの中心部から遠く離れた沿岸地域を防衛するためだったが、第二次世界大戦参戦以前のアメリカは孤立主義的傾向が強く、このような高性能・高コストの爆撃機を保有する事については議会や納税者からの反対が根強かった。そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、アメリカ本土防衛のための兵器である」という名目のもと、Flying Fortress(空飛ぶ要塞)と命名された。列車砲の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃することが念頭にあったためである。
第二次大戦開戦後、イギリスにC型が貸与され「フォートレス Mk.I」として、E型が「フォートレス Mk.II」、F型が「フォートレスMk.III」として運用された。しかし搭乗員・整備員の訓練不足に加えて少数機での爆撃にとどまったこと、爆撃照準器がノルデン爆撃照準器ではないことなどから、供与当初は目立った戦果をあげられなかった。後にフォートレスMk.Iの戦訓はD型に反映されることになった。
アメリカの欧州参戦後はアメリカ陸軍の主力爆撃機として活躍し、主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事した。だが、イギリスで兵力を蓄積しはじめた1942年はトーチ作戦(およびその後の北アフリカの作戦)が開始され、そのために戦力を抽出されてしまったためヨーロッパでの本格的な爆撃作戦は実施できなかった。そして戦局が連合軍側優位に傾き、さらに兵力の蓄積が進んだ1943年から昼間爆撃が本格化、フランスへの近距離爆撃で経験を積んでからドイツ本土への爆撃にも出撃するようになった。護衛戦闘機の航続距離が充分でなかった1943年頃まではドイツの迎撃戦闘機により多数の(時には10%を越える)損害が出ていたが、B-17の編隊はコンバット・ボックスで濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害するどころか逆に撃墜することもしばしばだった。ドイツ軍では最も火力が少ない正面からの一撃離脱戦法やFw190による「突撃飛行隊」の編成などで一定の戦果を上げたが、機銃と防御性能の強化により効果が減じられ、1944年以降はB/C型からD型に改良されたP-51マスタングをはじめとする高性能な戦闘機がB-17の護衛として随伴するとドイツの戦闘機は接近すら難しくなり、B-17の損害は一気に減少した。
また4発機のB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体でもあるため、エンジンの一つや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった(著名な例として42-3167号機がある)。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、機体そのものはボロボロになっても貴重な人材を連れ帰ることができるという点は非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。
以上の特徴から、B-17はおもに都市への夜間爆撃を担当したイギリス空軍のランカスター爆撃機以上にドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの米英2大爆撃機は、第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した。(後継機のB-29が日本へ投弾した量は約17万トン。)
B-17は主にハワイやアラスカ本土、アリューシャン列島、アメリカの植民地のフィリピンや同じ連合国のオランダ領東インド、オーストラリアに配備され、1943年頃まで活動した。
1941年12月8日に日本海軍によって行われた真珠湾攻撃においては、ヒッカム飛行場におかれていたB-17が日本軍の攻撃隊により地上撃破された。さらに攻撃中にアメリカ本土より飛行してきたB-17の編隊が、攻撃を行う日本海軍機と誤認され地上からの攻撃を受け、損傷した機がオアフ島内のゴルフ場に不時着している。またフィリピンのクラーク基地にいたあるパイロットが、「無塗装のB-17の外板の反射は、それが半ば隠されていてもおよそ110km離れたところからも見える」と指摘した。このようなカムフラージュ手法の油断で開戦時にアメリカ軍は相手につけこまれることになったのである。
1942年2月19日には蘭印作戦において、日本陸軍飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」は、バンドンの第7爆撃航空群への補充として飛行中であった2機のB-17Eとバタヴィア沖上空にて交戦した。B-17は2機の「隼」を旋回機関銃で撃墜するも1機(41-2503号機)が墜とされている。また攻撃を逃れバンドンへ到着したもう1機は日本軍の空襲により地上で焼失している。
1942年5月から1943年10月にかけて行われたアリューシャン方面の戦いでは、アラスカ本土の基地に駐留するB-17がアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島に上陸した日本軍や、それを援護する日本軍の艦船に対する空襲を数度に渡り行っているが、さしたる被害を日本軍に与えることはできなかった。一方、南東方面ではポートモレスビーを主たる基地として出撃し、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対する爆撃のほか、オーストラリア国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活動した。
ガダルカナル島攻防戦に参加した第六海軍航空隊飛行隊長兼分隊長の小福田少佐は、「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。(中略)撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。(後略)」と語っている。
B-17の対策は1942年初めに日本海軍が取りかかり、日本陸軍は12月末にB-17対策委員会を設け、鹵獲した数機のアメリカ軍機をこれに充てた。共に対策の第一は機銃の威力増強であった。海軍の零戦は世界に先駆けて20ミリ機銃を採用しており、B-17程度の防御力なら一発で撃墜可能と考えていたが効果がないという報告があった。川上陽平海軍技術少佐によれば、調査の結果、これは威力不足ではなく、5メートルほどの標的での射撃訓練を受けたパイロットが大型で尾部に防御火力を持つ四発重爆に対して、照準器の視野にあふれるため、相当接近したと錯覚して有効射程外から射撃して退避していることが原因であったという。
当時、搭載されていた20ミリ機銃でも威力不足と判断した日本海軍は30ミリ機銃の開発を決定し、1942年末には二式30ミリ機銃の試作品が完成し、1943年7月にはこれを装備した零戦がラバウルに送られ、アメリカ軍の大型航空機を一発で大破させた。陸軍の対策委員会発足当時は有効な20ミリ機銃がなく、1943年秋にドイツから入手したマウザーMG151/20が東部ニューギニアで一部に使用され、国産のホ五の装備開始は1944年3月からだった。対策委員会は応急処置として37ミリ戦車砲を屠龍と百式司偵に取り付けて1943年2月にラバウルに送ったが、一発ごとに手で装填するため空中では役に立ちがたかった。B-17対策に基づいて、航空機用の大口径砲は、37ミリのホ二〇三、40ミリのホ三〇一、57ミリのホ四〇一の3種が昭和18年度装備に決められた。ホ二〇三を屠龍に、ホ三〇一を鐘馗に装備し、1943年中に実戦で使用した。
しかし、航続距離に優れるB-24が揃ってくると1942年から1943年にかけてB-17装備部隊は順次B-24に改編されるか、、あるいは他方面に転出していき太平洋戦線においては戦争後半には偵察や救難などに従事している機体を除き、航続距離に難のあるB-17は姿を消した。偵察や救難などに従事している機体は、B-29やB-24による日本本土空襲の支援を行った。
1945年5月のドイツ降伏後、アメリカ陸軍ではヨーロッパ戦線で使用されていたB-17を太平洋戦線に回航して日本への戦略爆撃に使用することが検討されたが、ロバート・マクナマラら将校の分析によりB-29を大量生産した方が効率的と判明し、それらのB-17は廃棄された。
なお、対日戦開戦直後に、オランダ領東インドのジャワ島やコレヒドール島などに展開していたアメリカ軍のB-17CやB-17Dなど複数の機体が、逃げ遅れたため日本陸軍に完全な形で鹵獲されている。鹵獲後はP-40やホーカー ハリケーン、バッファロー、ハドソンなど他の鹵獲機と同じように、内地の陸軍飛行実験部に送られ研究対象にされた。
その他、飛行第64戦隊などは鹵獲した機体を南方で対大型重爆戦の攻撃訓練に使用している。または「敵機爆音集」と題し銃後の防空意識高揚のため高度別エンジン音と解説を収録されたり、羽田飛行場での鹵獲機展示会で展示された後、全国を巡回展示されたものもある。
さらに一式戦「隼」の開発模様を描いた1942年10月公開の映画『翼の凱歌』では、終盤の戦闘シーンにおいて鹵獲B-17が飛行第1戦隊(撮影協力の飛行戦隊)に所属する多数の「隼」ともども撮影に使用されている。これらの鹵獲機は終戦後、アメリカ軍によって廃棄されている。
太平洋戦争開戦以前の1939年頃には、ボーイング社から日本に対してB-17の売り込みがなされたこともあった。
1948年から始まった第一次中東戦争では、イスラエルのエジプト爆撃においてBf 109の戦後チェコ生産型でもあるS-199戦闘機に護衛されたB-17が、エジプト軍のスピットファイア戦闘機に迎撃されるという事態が生じている。他にも、森林火災と戦うための水爆弾の搭載機に改造されたB-17もある。なお、アメリカのキャノン機関に拉致監禁されていた鹿地亘(本名・瀬口貢)の証言によれば沖縄から立川に移動させられる際にB-17に搭乗したという。
B-17各型の合計生産数は12,731機。うち、ボーイング生産6,981機、ほかに3,000機がダグラス、2,750機がロッキード傘下のベガ・エアクラフトによって製造された。
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"text": "ボーイング B-17 フライングフォートレス(Boeing B-17 Flying Fortress)は、アメリカ合衆国のボーイング社が開発した大型戦略爆撃機。愛称の「フライングフォートレス(Flying Fortress)」は、「飛行要塞・空飛ぶ要塞」の意。",
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"text": "B-17は沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案されたが、1934年に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやっていける」爆撃機を目指すことになった。",
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"text": "B-17の機体ラインは、非常に滑らかな曲線と直線で構成されている。後期型は機銃多数を装備した物々しい外観を有する。B-17はエンジンの排気でタービンを回して高空の希薄な空気を十分な密度に圧縮してエンジンに送り込む排気タービン過給器(ターボチャージャー)によって、良好な高度性能を備えていた。しかし機体は密閉・与圧されていないため、寒冷地や高空では、搭乗員は従来と同様の防寒服装を必要とした。",
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"text": "B-17は強固な防弾装備と多くの防御火器で身を固めていたため、零戦の20ミリ機銃ですら効き目は薄く、撃墜は困難であった。防御火器は試作機で機銃5丁、後期型のG型では実に13丁の12.7 mm M2機関銃を装備していた。",
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"text": "1934年8月8日、アメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機だったマーティン社製B-10双発爆撃機の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した『多発爆撃機』を国内航空機メーカーに要求した。その当初の目的は、アラスカやハワイなど、アメリカの中心部から遠く離れた沿岸地域を防衛するためだったが、第二次世界大戦参戦以前のアメリカは孤立主義的傾向が強く、このような高性能・高コストの爆撃機を保有する事については議会や納税者からの反対が根強かった。そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、アメリカ本土防衛のための兵器である」という名目のもと、Flying Fortress(空飛ぶ要塞)と命名された。列車砲の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃することが念頭にあったためである。",
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"text": "第二次大戦開戦後、イギリスにC型が貸与され「フォートレス Mk.I」として、E型が「フォートレス Mk.II」、F型が「フォートレスMk.III」として運用された。しかし搭乗員・整備員の訓練不足に加えて少数機での爆撃にとどまったこと、爆撃照準器がノルデン爆撃照準器ではないことなどから、供与当初は目立った戦果をあげられなかった。後にフォートレスMk.Iの戦訓はD型に反映されることになった。",
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"text": "アメリカの欧州参戦後はアメリカ陸軍の主力爆撃機として活躍し、主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事した。だが、イギリスで兵力を蓄積しはじめた1942年はトーチ作戦(およびその後の北アフリカの作戦)が開始され、そのために戦力を抽出されてしまったためヨーロッパでの本格的な爆撃作戦は実施できなかった。そして戦局が連合軍側優位に傾き、さらに兵力の蓄積が進んだ1943年から昼間爆撃が本格化、フランスへの近距離爆撃で経験を積んでからドイツ本土への爆撃にも出撃するようになった。護衛戦闘機の航続距離が充分でなかった1943年頃まではドイツの迎撃戦闘機により多数の(時には10%を越える)損害が出ていたが、B-17の編隊はコンバット・ボックスで濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害するどころか逆に撃墜することもしばしばだった。ドイツ軍では最も火力が少ない正面からの一撃離脱戦法やFw190による「突撃飛行隊」の編成などで一定の戦果を上げたが、機銃と防御性能の強化により効果が減じられ、1944年以降はB/C型からD型に改良されたP-51マスタングをはじめとする高性能な戦闘機がB-17の護衛として随伴するとドイツの戦闘機は接近すら難しくなり、B-17の損害は一気に減少した。",
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"text": "また4発機のB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体でもあるため、エンジンの一つや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった(著名な例として42-3167号機がある)。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、機体そのものはボロボロになっても貴重な人材を連れ帰ることができるという点は非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。",
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"text": "以上の特徴から、B-17はおもに都市への夜間爆撃を担当したイギリス空軍のランカスター爆撃機以上にドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの米英2大爆撃機は、第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した。(後継機のB-29が日本へ投弾した量は約17万トン。)",
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"text": "B-17は主にハワイやアラスカ本土、アリューシャン列島、アメリカの植民地のフィリピンや同じ連合国のオランダ領東インド、オーストラリアに配備され、1943年頃まで活動した。",
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"text": "1941年12月8日に日本海軍によって行われた真珠湾攻撃においては、ヒッカム飛行場におかれていたB-17が日本軍の攻撃隊により地上撃破された。さらに攻撃中にアメリカ本土より飛行してきたB-17の編隊が、攻撃を行う日本海軍機と誤認され地上からの攻撃を受け、損傷した機がオアフ島内のゴルフ場に不時着している。またフィリピンのクラーク基地にいたあるパイロットが、「無塗装のB-17の外板の反射は、それが半ば隠されていてもおよそ110km離れたところからも見える」と指摘した。このようなカムフラージュ手法の油断で開戦時にアメリカ軍は相手につけこまれることになったのである。",
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"text": "1942年2月19日には蘭印作戦において、日本陸軍飛行第64戦隊・飛行第59戦隊の一式戦闘機「隼」は、バンドンの第7爆撃航空群への補充として飛行中であった2機のB-17Eとバタヴィア沖上空にて交戦した。B-17は2機の「隼」を旋回機関銃で撃墜するも1機(41-2503号機)が墜とされている。また攻撃を逃れバンドンへ到着したもう1機は日本軍の空襲により地上で焼失している。",
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"text": "1942年5月から1943年10月にかけて行われたアリューシャン方面の戦いでは、アラスカ本土の基地に駐留するB-17がアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島に上陸した日本軍や、それを援護する日本軍の艦船に対する空襲を数度に渡り行っているが、さしたる被害を日本軍に与えることはできなかった。一方、南東方面ではポートモレスビーを主たる基地として出撃し、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対する爆撃のほか、オーストラリア国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活動した。",
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"text": "ガダルカナル島攻防戦に参加した第六海軍航空隊飛行隊長兼分隊長の小福田少佐は、「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。(中略)撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。(後略)」と語っている。",
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"text": "B-17の対策は1942年初めに日本海軍が取りかかり、日本陸軍は12月末にB-17対策委員会を設け、鹵獲した数機のアメリカ軍機をこれに充てた。共に対策の第一は機銃の威力増強であった。海軍の零戦は世界に先駆けて20ミリ機銃を採用しており、B-17程度の防御力なら一発で撃墜可能と考えていたが効果がないという報告があった。川上陽平海軍技術少佐によれば、調査の結果、これは威力不足ではなく、5メートルほどの標的での射撃訓練を受けたパイロットが大型で尾部に防御火力を持つ四発重爆に対して、照準器の視野にあふれるため、相当接近したと錯覚して有効射程外から射撃して退避していることが原因であったという。",
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"text": "当時、搭載されていた20ミリ機銃でも威力不足と判断した日本海軍は30ミリ機銃の開発を決定し、1942年末には二式30ミリ機銃の試作品が完成し、1943年7月にはこれを装備した零戦がラバウルに送られ、アメリカ軍の大型航空機を一発で大破させた。陸軍の対策委員会発足当時は有効な20ミリ機銃がなく、1943年秋にドイツから入手したマウザーMG151/20が東部ニューギニアで一部に使用され、国産のホ五の装備開始は1944年3月からだった。対策委員会は応急処置として37ミリ戦車砲を屠龍と百式司偵に取り付けて1943年2月にラバウルに送ったが、一発ごとに手で装填するため空中では役に立ちがたかった。B-17対策に基づいて、航空機用の大口径砲は、37ミリのホ二〇三、40ミリのホ三〇一、57ミリのホ四〇一の3種が昭和18年度装備に決められた。ホ二〇三を屠龍に、ホ三〇一を鐘馗に装備し、1943年中に実戦で使用した。",
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"text": "1945年5月のドイツ降伏後、アメリカ陸軍ではヨーロッパ戦線で使用されていたB-17を太平洋戦線に回航して日本への戦略爆撃に使用することが検討されたが、ロバート・マクナマラら将校の分析によりB-29を大量生産した方が効率的と判明し、それらのB-17は廃棄された。",
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"text": "B-17各型の合計生産数は12,731機。うち、ボーイング生産6,981機、ほかに3,000機がダグラス、2,750機がロッキード傘下のベガ・エアクラフトによって製造された。",
"title": "生産数"
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ボーイング B-17 フライングフォートレスは、アメリカ合衆国のボーイング社が開発した大型戦略爆撃機。愛称の「フライングフォートレス」は、「飛行要塞・空飛ぶ要塞」の意。
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{{Redirect|B-17|[[スウェーデン]]の航空機「B 17」|サーブ 17}}
{{出典の明記|date=2023年1月}}
<!-- infobox以外を編集する際はboxの下までスクロールしてください。-->{{Infobox 航空機
| 名称 = ボーイング B-17 フライングフォートレス
| 画像 = File:B-17s-532d Bombardment Squadron.jpg
| キャプション = 飛行するB-17G-35-DL 42-107112(奥)<br/>B-17G-70-BO 43-37675(中央)<br/>(第532爆撃編隊所属、[[1944年]]撮影)
| 用途 = [[戦略爆撃機]]
| 分類 = [[爆撃機]]
| 設計者 =
| 製造者 = [[ボーイング]]社
| 運用者 =<br/>
**{{flagicon|USA}} [[アメリカ陸軍航空隊]]、[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍航空軍]]
**{{air force|UK}}ほか
| 初飛行年月日 = [[1935年]][[7月28日]]
| 生産数 = 12,731機<ref>イェンネ(Yenne) 2006, p. 8.</ref><ref>エンジェラッチ、マートリカーディ(Angelucci and Matricardi) 1988, p. 46.</ref>
| 生産開始年月日 =
| 運用開始年月日 = [[1938年]]4月
| 退役年月日 = [[1968年]]([[ブラジル空軍]])
| 運用状況 = 退役
| ユニットコスト = 23万8,329[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]](1945年)<ref>2016年の価値では258万1,000米ドル。</ref>
| 原型機 =
| 派生型 =<br/>
** [[XB-38 (航空機)|XB-38]]
** [[YB-40 (航空機)|YB-40]]
** [[C-108 (航空機)|C-108]]
}}
'''ボーイング B-17 フライングフォートレス'''(''Boeing B-17 Flying Fortress'')は、[[アメリカ合衆国]]の[[ボーイング]]社が開発した大型[[戦略爆撃機]]。愛称の「'''フライングフォートレス'''(Flying Fortress)」は、「飛行要塞・空飛ぶ要塞」の意。
== 特徴 ==
B-17は沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案されたが、1934年に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやっていける」爆撃機を目指すことになった<ref>{{Citation |和書 |author=[[マーチン・ケイディン]] |translator=南郷洋一郎 |date=1977年 |title=B-17空の要塞 |publisher=フジ出版 |pages=55-70}}</ref>。
B-17の機体ラインは、非常に滑らかな曲線と直線で構成されている。後期型は機銃多数を装備した物々しい外観を有する。B-17は[[航空用エンジン|エンジン]]の[[排気]]で[[タービン]]を回して高空の希薄な空気を十分な密度に[[圧縮機|圧縮]]してエンジンに送り込む[[ターボチャージャー|排気タービン過給器(ターボチャージャー)]]によって、良好な高度性能を備えていた<ref>渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫115頁</ref>。しかし機体は密閉・与圧されていないため、寒冷地や高空では、搭乗員は従来と同様の防寒服装を必要とした。
B-17は強固な[[防弾]]装備と多くの防御火器で身を固めていたため、[[零式艦上戦闘機|零戦]]の[[九九式二〇ミリ機銃|20ミリ機銃]]ですら効き目は薄く、撃墜は困難であった<ref>渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫115-116頁</ref>。防御火器は試作機で機銃5丁、後期型のG型では実に13丁の[[ブローニングM2重機関銃|12.7 mm M2機関銃]]を装備していた。
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ファイル:B-17 Schweinfurt.jpg|ドイツ上空で対空砲火を受けるB-17
ファイル:B-17G Chin Gun turret.JPG|B-17Gの機首先端下にある12.7mm 2門のガンタレット
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== 歴史 ==
=== 開発段階 ===
[[ファイル:B-17G formation on bomb run.jpg|thumb|250px|爆撃を行うB-17Gの編隊。]]
[[1934年]]8月8日、[[アメリカ陸軍]]は、当時の主力爆撃機だったマーティン社製[[B-10 (航空機)|B-10双発爆撃機]]の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した『多発爆撃機』を国内航空機メーカーに要求した。その当初の目的は、[[アラスカ]]や[[ハワイ]]など、アメリカの中心部から遠く離れた沿岸地域を防衛するためだったが、第二次世界大戦参戦以前のアメリカは[[孤立主義]]的傾向が強く、このような高性能・高コストの爆撃機を保有する事については[[アメリカ合衆国議会|議会]]や納税者からの反対が根強かった。{{要出典範囲|そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、[[アメリカ合衆国本土|アメリカ本土]]防衛のための兵器である」という名目のもと、Flying Fortress(空飛ぶ要塞)と命名された|date=2023年1月}}。[[列車砲]]の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃することが念頭にあったためである。
{{-}}
=== 欧州戦線 ===
[[ファイル:Large formation of Boeing B-17Fs of the 92nd Bomb Group.jpg|thumb|250px|欧州戦線で編隊を組むB-17F。]]
第二次大戦開戦後、[[イギリス]]にC型が貸与され「フォートレス Mk.I」として、E型が「フォートレス Mk.II」、F型が「フォートレスMk.III」として運用された。しかし搭乗員・整備員の訓練不足に加えて少数機での爆撃にとどまったこと、爆撃照準器が[[ノルデン爆撃照準器]]ではないことなどから、供与当初は目立った戦果をあげられなかった。後にフォートレスMk.Iの戦訓はD型に反映されることになった。
アメリカの欧州参戦後はアメリカ陸軍の主力爆撃機として活躍し、主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事した。だが、イギリスで兵力を蓄積しはじめた1942年は[[トーチ作戦]](およびその後の[[地中海の戦い (第二次世界大戦)|北アフリカの作戦]])が開始され、そのために戦力を抽出されてしまったためヨーロッパでの本格的な爆撃作戦は実施できなかった。そして戦局が連合軍側優位に傾き、さらに兵力の蓄積が進んだ[[1943年]]から昼間爆撃が本格化、フランスへの近距離爆撃で経験を積んでからドイツ本土への爆撃にも出撃するようになった。護衛戦闘機の航続距離が充分でなかった1943年頃まではドイツの迎撃戦闘機により多数の(時には10%を越える)損害が出ていたが、B-17の編隊は[[:en:Combat box|コンバット・ボックス]]で濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害するどころか逆に撃墜することもしばしばだった。ドイツ軍では最も火力が少ない正面からの一撃離脱戦法や[[フォッケウルフ Fw190|Fw190]]による「突撃飛行隊」の編成などで一定の戦果を上げたが、機銃と防御性能の強化により効果が減じられ、[[1944年]]以降はB/C型からD型に改良された[[P-51 (航空機)|P-51マスタング]]をはじめとする高性能な戦闘機がB-17の護衛として随伴するとドイツの戦闘機は接近すら難しくなり、B-17の損害は一気に減少した。
また4発機のB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体でもあるため、エンジンの一つや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった(著名な例として[[チャーリー・ブラウンとフランツ・スティグラー事件|42-3167号機]]がある)。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、機体そのものはボロボロになっても貴重な人材を連れ帰ることができるという点は非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。
以上の特徴から、B-17はおもに都市への夜間爆撃を担当した[[イギリス空軍]]の[[アブロ ランカスター|ランカスター]]爆撃機以上にドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの米英2大爆撃機は、第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した。(後継機の[[B-29 (航空機)|B-29]]が日本へ投弾した量は約17万トン。)
=== アジア・太平洋戦線 ===
[[File:A burned B-17C aircraft rests near Hangar Number Five, Hickam Field, following the attack by Japanese aircraft. Pearl... - NARA - 520602.tif|thumb|250px|日本軍による[[真珠湾攻撃]]時に[[ヒッカム空軍基地|ヒッカム飛行場]]で撃破されたB-17。]]
[[File:19th Bomb Group B-17 Australia 1942.jpg|thumb|250px|オーストラリア国内の基地に展開するB-17。]]
B-17は主に[[ハワイ]]や[[アラスカ]]本土、[[アリューシャン列島]]、アメリカの[[植民地]]の[[フィリピン]]や同じ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[オランダ領東インド]]、[[オーストラリア]]に配備され、1943年頃まで活動した。
1941年[[12月8日]]に日本海軍によって行われた[[真珠湾攻撃]]においては、ヒッカム飛行場におかれていたB-17が日本軍の攻撃隊により地上撃破された。さらに攻撃中にアメリカ本土より飛行してきたB-17の編隊が、攻撃を行う日本海軍機と誤認され地上からの攻撃を受け、損傷した機が[[オアフ島]]内の[[ゴルフ]]場に不時着している。またフィリピンのクラーク基地にいたあるパイロットが、「無塗装のB-17の外板の反射は、それが半ば隠されていてもおよそ110km離れたところからも見える」と指摘した<ref name="名前なし-20231105131207">『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』280頁</ref>。このような[[軍用機の塗装|カムフラージュ]]手法の油断で開戦時にアメリカ軍は相手につけこまれることになったのである<ref name="名前なし-20231105131207"/>。
1942年2月19日には[[蘭印作戦]]において、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[飛行第64戦隊]]・[[飛行第59戦隊]]の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]は、[[バンドン (インドネシア)|バンドン]]の第7爆撃航空群への補充として飛行中であった2機のB-17Eと[[バタビア|バタヴィア]]沖上空にて交戦した。B-17は2機の「隼」を旋回機関銃で撃墜するも1機(41-2503号機)が墜とされている。また攻撃を逃れバンドンへ到着したもう1機は日本軍の空襲により地上で焼失している<ref>梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年7月、p.21</ref>。
1942年5月から1943年10月にかけて行われた[[アリューシャン方面の戦い]]では、アラスカ本土の基地に駐留するB-17がアリューシャン列島の[[アッツ島]]や[[キスカ島]]に上陸した日本軍や、それを援護する日本軍の艦船に対する空襲を数度に渡り行っているが、さしたる被害を日本軍に与えることはできなかった。一方、[[ソロモン諸島|南東方面]]では[[ポートモレスビー]]を主たる基地として出撃し、[[ラバウル]]や[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]等の日本軍根拠地に対する爆撃のほか、オーストラリア国内の基地を拠点に洋上哨戒にも活動した。
[[ガダルカナル島]]攻防戦に参加した[[第六海軍航空隊]]飛行隊長兼分隊長の[[小福田晧文|小福田少佐]]は、「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。(中略)撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。(後略)」と語っている<ref>『零戦』(堀越二郎・奥宮正武)</ref>。
B-17の対策は1942年初めに日本海軍が取りかかり、日本陸軍は12月末にB-17対策委員会を設け、鹵獲した数機のアメリカ軍機をこれに充てた。共に対策の第一は機銃の威力増強であった<ref>渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫116頁</ref>。海軍の零戦は世界に先駆けて20ミリ機銃を採用しており、B-17程度の防御力なら一発で撃墜可能と考えていたが効果がないという報告があった。川上陽平海軍技術少佐によれば、調査の結果、これは威力不足ではなく、5メートルほどの標的での射撃訓練を受けたパイロットが大型で尾部に防御火力を持つ四発重爆に対して、照準器の視野にあふれるため、相当接近したと錯覚して有効射程外から射撃して退避していることが原因であったという<ref>『零戦よもやま物語』光人社NF文庫39-40頁</ref>。
当時、搭載されていた20ミリ機銃でも威力不足と判断した日本海軍は30ミリ機銃の開発を決定し、1942年末には二式30ミリ機銃の試作品が完成し、1943年7月にはこれを装備した零戦がラバウルに送られ、アメリカ軍の大型航空機を一発で大破させた<ref>渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫117頁</ref>。陸軍の対策委員会発足当時は有効な20ミリ機銃がなく、1943年秋にドイツから入手したマウザーMG151/20が東部ニューギニアで一部に使用され、国産のホ五の装備開始は1944年3月からだった。対策委員会は応急処置として37ミリ戦車砲を屠龍と百式司偵に取り付けて1943年2月に[[ラバウル]]に送ったが、一発ごとに手で装填するため空中では役に立ちがたかった。B-17対策に基づいて、航空機用の大口径砲は、37ミリのホ二〇三、40ミリのホ三〇一、57ミリのホ四〇一の3種が昭和18年度装備に決められた。ホ二〇三を屠龍に、ホ三〇一を鐘馗に装備し、1943年中に実戦で使用した<ref>渡辺洋二『死闘の本土上空』文春文庫117-118頁</ref>。
しかし、航続距離に優れる[[B-24 (航空機)|B-24]]が揃ってくると1942年から1943年にかけてB-17装備部隊は順次B-24に改編されるか、、あるいは他方面に転出していき太平洋戦線においては戦争後半には偵察や救難などに従事している機体を除き、航続距離に難のあるB-17は姿を消した。偵察や救難などに従事している機体は、B-29やB-24による[[日本本土空襲]]の支援を行った。
1945年5月の[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツ降伏]]後、アメリカ陸軍ではヨーロッパ戦線で使用されていたB-17を太平洋戦線に回航して日本への戦略爆撃に使用することが検討されたが、[[ロバート・マクナマラ]]ら将校の分析によりB-29を大量生産した方が効率的と判明し、それらのB-17は廃棄された。
[[ファイル:B17jp.jpg|thumb|250px|日本陸軍に[[鹵獲]]され、[[日章|日の丸]]の[[国籍標識]]を描きテスト飛行中のB-17。]]
なお、対日戦開戦直後に、オランダ領東インドの[[ジャワ島]]や[[コレヒドール島]]などに展開していたアメリカ軍のB-17CやB-17Dなど複数の機体が、逃げ遅れたため日本陸軍に完全な形で[[鹵獲]]されている。鹵獲後は[[P-40 (航空機)|P-40]]や[[ホーカー ハリケーン]]、[[F2A (航空機)|バッファロー]]、[[ハドソン (航空機)|ハドソン]]など他の鹵獲機と同じように、内地の[[陸軍航空審査部|陸軍飛行実験部]]に送られ研究対象にされた。
その他、飛行第64戦隊などは鹵獲した機体を南方で対大型重爆戦の攻撃訓練に使用している。または「敵機爆音集」と題し銃後の防空意識高揚のため高度別エンジン音と解説を収録されたり、[[東京国際空港|羽田飛行場]]での鹵獲機展示会で展示された後、全国を巡回展示されたものもある。
さらに一式戦「隼」の開発模様を描いた[[1942年]]10月公開の[[戦争映画|映画]]『[[翼の凱歌]]』では、終盤の戦闘シーンにおいて鹵獲B-17が[[飛行第1戦隊]](撮影協力の[[陸軍飛行戦隊|飛行戦隊]])に所属する多数の「隼」ともども撮影に使用されている。これらの鹵獲機は終戦後、アメリカ軍によって廃棄されている。
太平洋戦争開戦以前の1939年頃には、ボーイング社から日本に対してB-17の売り込みがなされたこともあった<ref>{{Cite book |和書 |author = 秋本実 |title = 巨人機物語 知られざる日本の空中要塞 |publisher = [[光人社]] |year = 2002 |page = 223 |isbn = 978-4-7698-2359-9}}</ref>。
=== 戦後 ===
1948年から始まった[[第一次中東戦争]]では、イスラエルのエジプト爆撃において[[メッサーシュミット Bf109|Bf 109]]の戦後チェコ生産型でもある[[アヴィア S-199|S-199]]戦闘機に護衛されたB-17が、エジプト軍の[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]戦闘機に迎撃されるという事態が生じている。他にも、森林火災と戦うための水爆弾の搭載機に改造されたB-17もある<ref>『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』59頁</ref>。なお、アメリカの[[キャノン機関]]に[[鹿地事件|拉致監禁]]されていた[[鹿地亘]](本名・瀬口貢)の証言によれば沖縄から立川に移動させられる際にB-17に搭乗したという<ref>{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101605206X03019530804¤t=10 |website=kokkai.ndl.go.jp |access-date=2023-04-06}}</ref>。
== 生産数 ==
B-17各型の合計生産数は12,731機。うち、ボーイング生産6,981機、ほかに3,000機が[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]]、2,750機が[[ロッキード]]傘下のベガ・エアクラフトによって製造された。
{|class="wikitable" style="text-align:center; background:#faf5ff"
|+'''生産数'''
!型!!生産数!!内訳!!初飛行
|-
|モデル 299||1||||[[1935年]]7月28日
|-bgcolor="#f5faff"
|YB-17||13||||[[1936年]]12月2日
|-
|YB-17A||1||||[[1938年]]4月29日
|-bgcolor="#f5faff"
|B-17B||39||||[[1939年]]6月27日
|-
|B-17C||38||||[[1940年]]7月21日
|-bgcolor="#f5faff"
|B-17D||42||||[[1941年]]2月3日
|-
|B-17E||512||||1941年9月5日
|-bgcolor="#f5faff"
|B-17F||3,405||||[[1942年]]5月30日
|-
|ボーイング||||2,300||
|-
|ダグラス||||605||
|-
|ベガ||||500||
|-bgcolor="#f5faff"
|B-17G||8,680||||
|-
|ボーイング||||4,035||
|-
|ダグラス||||2,395||
|-
|ベガ||||2,250||
|-bgcolor="#f5faff"
|'''総計'''||'''12,731'''||||
|}
{{-}}
== 諸元 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 機体名 !! colspan="3" | B-17G<ref>[http://www.alternatewars.com/SAC/B-17G_Flying_Fortress_SAC_-_27_April_1949.pdf B-17G Flying Fortress Specifications] STANDARD AIRCRAFT CHARACTERISTICS
<br/> [http://jasonblair.net/wp-content/uploads/2015/06/Pilots-Manual-for-Boeing-B-17-Flying-Fortress.pdf B-17 Pilots Manual]</ref>
|-
! ミッション
| BASIC || MAX BOMB || [[:en:Ferry flying|FERRY]]
|-
! 全長
| colspan="3" | 74.8ft (22.8m)
|-
! 全幅
| colspan="3" | 103.8ft (31.64m)
|-
! 全高
| colspan="3" | 19.1ft (5.82m)
|-
! 翼面積
| colspan="3" | 1,420ft<sup>2</sup> (131.92m<sup>2</sup>)
|-
! [[空虚重量]]
| colspan="3" | 35,972lbs (16,317kg)
|-
! 離陸重量
| 67,860lbs (30,781kg) || 67,864lbs (30,783kg) || 64,975lbs (29,472kg)
|-
! 戦闘重量
| 48,692lbs (22,086kg) || 47,384lbs (21,493kg) || 45,535lbs (20,654kg)
|-
! 燃料<ref>搭載可能燃料は機体内燃料タンクに2,780gal (10,523ℓ) + 爆弾槽に820gal (3,104ℓ) の合計3,600gal (13,627ℓ)</ref>
| 2,570gal (9,729ℓ) || 2,104gal (7,965ℓ) || 3,600gal (13,627ℓ)
|-
! 爆弾搭載量
| 10,000lbs (4,536kg) || 12,800lbs (5,806kg) || ―
|-
! プロペラ<ref>Propeller:HAMILTON STANDARD、Blade:No.6477A-0 (×3)、Diameter:11ft 7in (3.53m)、Area:9.79m<sup>2</sup></ref>
| colspan="3" | ブレード3枚 直径11ft 7in (3.53m) ×4
|-
! エンジン
| colspan="3" | [[カーチス・ライト|Wright]] [[ライト R-1820|R-1820-97]] (1,200Bhp 最大:1,380Bhp) ×4
|-
! 最高速度
| 282kn/26,700ft (522km/h 高度8,138m) || 283kn/26,700ft (524km/h 高度8,138m) || 284kn/26,700ft (526km/h 高度8,138m)
|-
! 上昇能力
| 1,870ft/m S.L. (9.50m/s 海面高度) || 1,940ft/m S.L. (9.86m/s 海面高度) || 2,045ft/m S.L. (10.39m/s 海面高度)
|-
! style="font-size:smaller" | 実用上昇限度
| 36,950ft (11,262m) || 37,400ft (11,400m) || 38,000ft (11,582m)
|-
! 航続距離
| 1,529n.mile (2,832km) || ― || 2,624n.mile (4,860km)
|-
! style="font-size:smaller" | 戦闘行動半径
| 873n.mile (1,617km) || 689n.mile (1,276km) || ―
|-
! 武装
| colspan="3" | [[ブローニングM2重機関銃|12.7mm M2 Browning]]×12 (弾数計5,970発)
|-
! 搭載能力
| colspan="3" | GP 2,000lbs×2・AP 1,600lbs×8・GP 1,000lbs×6・AP 1,000lbs×10・GP 500lbs×12・GP 250lbs×16・GP 100lbs×24 <br/> 上記の爆弾から12,800lbs (5,806kg) まで搭載可能
|-
|}
[[ファイル:Boeing B-17G.png|none|400px]]
== 派生型 ==
;ボーイング モデル299 (XB-17)
:アメリカ陸軍航空隊の要求に答えるためボーイングが開発したB-17最初の試作機。[[プラット・アンド・ホイットニー R-1690]]エンジン搭載。1935年に評価試験が行われ、他社との競合に勝ち開発契約を受注した。それ以来XB-17とも呼ばれたが、これは公式のものではない。1機製造。
;Y1B-17 (YB-17)
:モデル299により開発契約を受注した後に開発した試作機。[[ライト R-1820]]エンジンを装備。1936年12月2日初飛行。13機製造。
;B-17A (Y1B-17A)
:元々Y1B-17の静的試験のテストヘッドとして使用するはずだったが軍部は必要ないと判断、代わりにエンジンのテストヘッドとして使用された型。ターボチャージャーを各エンジンナセル下部に装備し試験を行いY1B-17より速く飛行できる事を証明した。試験終了後、B-17Aと改名した。1機製造。
;B-17B
:B-17の最初の量産型。1939年6月27日初飛行。B-17Aと比較してラダーとフラップを大型化、より強力なR-1820-51エンジンが装備された。機首銃塔は12.7mm機関銃に変更、機首上部の突起を除去した。内部システムも多くが変更され、特に注目すべきは空気ブレーキから油圧ブレーキに変更した事だった。1942年10月にB-17Bは全てRB-17Bに変更され、訓練や輸送、連絡任務に使用された(「R」はrestrictedの制限という意味である)。39機製造。
;B-17C
:より強力なR-1820-65エンジンに変更、銃塔やセルフシーリング式燃料タンク等の改修が行われた型。1940年7月初飛行。レンドリース法により、イギリス空軍に20機余りが'''Fortress Mk I'''として供与、38機製造。
;B-17D
:カウルフラップや電気系統等の変更、外部爆弾架の廃止、防弾版追加や防御機銃強化などが行われた型。42機製造、18機のB-17CがB-17Dに改修された。
;B-17E
:大規模な再設計が行われた型。[[ボーイング307]]に基づいた新しい垂直尾翼となり、後方の防御性向上のため尾部防御機銃を追加。胴体下部銃塔は生産機の最初の5分の1はB-25の胴体上部銃塔とよく似たものが装備され、後のB-17Eは[[ボールターレット]]が装備された。512機製造、イギリス空軍にも'''Fortress IIA'''として供与された。
;B-17F
: 機首防御機銃を増設、機体強化により爆装量が1,900 kgから3,600 kgに増加した型。これにより巡航速度は110 km/h低下したが、爆装量増加のメリットの方が遥かに有効であった。燃料タンクも増設、航続距離は1,400 kmに達した。3,405機製造、イギリス空軍にも'''Fortress II'''として供与された。ロッキード社とダグラス社もこの型の生産に協力し、それぞれ500機と605機を生産した。残りは[[シアトル]]のボーイング社で生産された<ref name="名前なし_2-20231105131207">『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』58頁</ref>。
;B-17G
:最多生産型。機首の「あご」に更に防御機銃を追加、生産数の多さから様々な用途に改修された。8,680機製造。'''Fortress III'''として85機がイギリスに供与された。ボーイング社は4,035機、ダグラス社は[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]において2,395機、ロッキード社は[[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]]で2,250機を生産した<ref name="名前なし_2-20231105131207"/>。
:;CB-17G
::64人の人員を輸送可能にした輸送機型。
:;DB-17G
::標的機の派生
:;JB-17G
::機首にアリソン T-56ターボプロップエンジンを装備したテストヘッド機。
:;MB-17G
::ミサイル発射試験の母機。
:;QB-17L
::標的機。
:;QB-17N
::標的機。
:;RB-17G
::偵察機の派生。
:;SB-17G
::救難機。後に'''B-17H'''に改名。
:;TB-17G
::特務訓練機。
:;VB-17G
::VIP輸送機。
;XB-38
:アリソン[[V-1710 (航空用エンジン)|V-1710-89]]換装型。試作のみ。
{{main|XB-38 (航空機)}}
;B-40
:編隊を敵機から掩護するために銃座を増設した護衛爆撃機。日本軍の翼端援護機に相当する。しかし銃弾の重量で飛行速度が鈍足で編隊についていけず、爆弾投下後は身軽になった編隊との性能差は更に開き、足手まといにしかならなかった。折しも護衛戦闘機の航続距離に目処がついたため、そのまま計画中止となり大半の機体は元のB-17Fに戻された。
{{main|YB-40 (航空機)}}
:;XB-40
::B-17Fの1機をベガ社で改造。
:;YB-40
::20機改造。
:;TB-40
::YB-40の搭乗員練習機。4機。Y/TB-40はベガ社のモデルナンバーを持つが改造作業はダグラス社で行われた。
;PB
:海軍型。P2BあるいはP4D/P3Vとならずボーイング・モデル50(PB)と同じ型番が与えられ、重複しているため注意。また20機のB-17Gが海軍においてその名称のままで使用された。
:;XPB-1
::各種テストに使用
:;PB-1G
::B-17H/SB-17Gに相当する海上救難型。
:;PB-1W
::[[早期警戒機|早期警戒型]]。
;F-9
:写真[[偵察機|偵察型]]。1945年に'''FB-17'''に、さらに1948年に'''RB-17'''と呼称が変更された。第二次大戦後も1952年から[[中央情報局|CIA]]の協力で、台湾の[[中華民国空軍|国府空軍]]第8大隊第34中隊が運用。対中国情報収集のため、同隊のB-26と共に838回の夜間偵察を行い、迎撃により3機が失われた。これら偵察機とは別に第一線を退いた老朽機が1947年までRB-17と類別されていたがZB-17となった。
;BQ-7
:「[[:en:Operation Aphrodite|アフロディーテ作戦]]」によって開発された無線誘導飛行爆弾。不要な装備を全て外し、[[軍用機のコックピット|コックピット]]にテレビカメラを計器盤と外を見るための計2台を設置して無線操縦できるようにされていた。だが、炸薬の安全装置解除が遠隔操作ではできないなどの問題があったため、[[パイロット (航空)|パイロット]]と[[航空機関士]]が搭乗して離陸を行い、イギリス[[領空]]内で誘導母機と合流し炸薬の安全装置を解除してから脱出するという無人機としてはまだ不完全なものだった。BQ-7は1944年4月から攻撃任務に投入されたものの、当時の技術的な問題から途中で操縦不能に陥り墜落することが多く攻撃は一度も成功しなかった。無線操縦装置の改良は続けられたが、その後[[ノルマンディー上陸作戦]]の成功により目標施設の地上制圧が可能になったこともあり、1945年に作戦中止となった。無人機型B-17は戦後も運用され、1946年の[[核実験]]「[[クロスロード作戦]]」では新型の無線操縦装置を取り付けたQB-17が核爆発後の降下物測定に使用された。
;CQ-4
:BQ-7の誘導母機。
;C-108
:試作輸送機型。これとは別に[[輸送機]]に改造された機体はCB-17、あるいはVB-17と呼称された。
{{main|C-108 (航空機)}}
;ドルニエ Do 200
:ドイツ空軍が輸送機として[[鹵獲]]運用していたB-17に与えた秘匿名称。
;[[ボーイング307]]
:B-17主翼・尾翼を利用した[[旅客機]]。世界で最初に客室を[[与圧]]した機体として有名。
;[[中島飛行機]] [[連山 (航空機)|G8N 連山]]
:南方にて日本軍が鹵獲したB-17を解体調査して得られたデータが開発に使用されている。機銃の配置もB-17と同一(B-17の機銃が12.7ミリ機銃が12門なのに対し、連山は20ミリ機銃が6門と13.2ミリ機銃が4門となっている)である。
== 運用国 ==
{{col|
* {{ARG}}
* {{BOL}}
* {{BRA}}
* {{CAN}}
* {{CHE}}(損傷して着陸を求めた機体などを接収)
* {{COL}}
* {{DNK}}
* {{DOM}}
|
* {{FRA}}
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* {{JPN1889}}(鹵獲機を使用)
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|
* {{POR}}
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* {{SSR}}
* {{SWE}}
* {{UK}}
* {{USA}}
}}
== 現存する機体 ==
{|class="wikitable" style="font-size: 90%; bacground-color: #fff;"
! 型名 !! 番号/名称 !! 機体写真 !! 所在地 !! 所有者 !! 公開状況 !! 状態 !! 備考
|-
|B-17D-BO
||40-3097<br/><br/>[[:en:The Swoose|''The Swoose'']]
||[[File:Boeing B-17D-BO Flying Fortress 40-3097 The Swoose LNose Restoration NMUSAF 25Sep09 (14598429154).jpg|180px]]
||アメリカ オハイオ州
||[[国立アメリカ空軍博物館]][https://www.nationalmuseum.af.mil/]
||公開
||修復中
||[https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196864/boeing‐b‐17d‐%20the‐swoose/]
|-
|B-17E-BO
||41-2446<br/>2257<br/>[[:en:Swamp Ghost|''Swamp Ghost'']]
||[[File:2H8A5719 (14368765142).jpg|180px]]
||アメリカ ハワイ州
||[[真珠湾航空博物館]][https://pacificaviationmuseum.org])
||公開
||保管中
||[https://jp.pacificaviationmuseum.org/wp-content/uploads/2016/11/b17eimage_8.jpg]
|-
|B-17E-BO
||41-2595<br/>2406<br/>''Desert Rat''
||
||アメリカ イリノイ州
||マイケル・W・ケルナー氏<br/>(Michael W. Kellner)
||非公開
||修復中
||[https://warbirdwatcher.com/tag/b-17e-41-2595/]
|-
|B-17E-BO
||41-9032<br/>2504<br/>[[:en:My Gal Sal (aircraft)|''My Gal Sal'']]
||[[File:My Gal Sal at National WWII Museum in New Orleans, LA.jpg|180px]]
||アメリカ ルイジアナ州
||[[:en:The National WWII Museum|国立第二次世界大戦博物館]][https://www.nationalww2museum.org/]
||公開
||静態展示
||[https://www.nationalww2museum.org/visit/exhibits]
|-
|B-17E-BO
||41-9210<br/>2682
||
||アメリカ ワシントン州
||[[フライング・ヘリテージ・コレクション|飛行遺産空中戦・兵器博物館]]
||公開
||保管中
||部品の状態で展示されている[http://447.insidetrackmagazine.com/b-17/b-17e-fhc/][https://www.pacificwrecks.com/aircraft/b-17/41-9210.html]。
|-
|B-17E-BO
||41-9234<br/>2706<br/>''Grey Ghost''
||[[:en:File:Black Cat B-17.jpg|写真]]
||パプアニューギニア
||{{Coord|-7.405955|146.805566|display=inline}}
|| -
||放置
||1943年1月8日、ワウ近くの山に衝突した。
現在回収作業が計画されている。
|-
|B-17F-1-BO
||41-24371<br/>3056<br/>''Devils from Hell''
||
||イタリア
||{{Coord|38.160690|13.436701|display=inline}}
|| -
||放置
||1943年4月18日にパレルモの海岸に不時着した。
|-
|B-17F-10-BO
||41-24485<br/>3170<br/>[[:en:Memphis Belle (aircraft)|''Memphis Belle'']]
||[[File:B-17F MEMPHIS BELLE USAF MUSEUM DAYTON (42069225265).jpg|180px]]
||アメリカ オハイオ州
||国立アメリカ空軍博物館
||公開
||静態展示
||飛行可能なG型には幾つか同名機があるが、この機体が本物の"Memphis Belle"である[https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195966/boeing-b-17f-memphis-belle/][https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Press-Room/News/Article-Display/Article/1429622/b-17f-memphis-belle-restoration-continues-to-move-closer-to-the-finish-line/][https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Press-Room/News/Article-Display/Article/1052156/b-17f-memphis-belle-to-be-placed-on-public-display-on-may-17-2018-at-national-m/]。
|-
|B-17F-20-BO
|41-24521<br/>3206<br/>''Black Jack<br/>/The Joker's Wild''
||[[:en:File:Blackjack B-17.jpg|写真]]
||ソロモン諸島
||{{Coord|-9.273986|159.775272|display=inline}}
|| -
||放置
||1943年7月11日に不時着水した<ref>{{Cite news|url=http://www.indopacificimages.com/index.php/papua-new-guinea-2/b-17f-black-jack/|title=The Complete Guide to the B-17F Black Jack WWII Wreck|work=Indo-Pacific Images|accessdate=2017-08-03|language=en-US}}</ref>。
|-
|B-17F-50-DL
||42-3374<br/>8310<br/>''Homesick Angel''
||
||アメリカ ネブラスカ州
||[[:en:Offutt Air Force Base|オファット空軍基地]][https://www.offutt.af.mil/]
||公開
||静態展示
||[https://www.offutt.af.mil/News/Features/Display/Article/312858/homesick-angel-receives-tender-loving-care/]
|-
|B-17F-70-BO
||42-29782<br/>4896<br/>''Boeing Bee''
||[[File:N17W(229782) Boeing B-17F Super Fortress Museum of Flt BFI 12JUL12 (7559327020).jpg|180px]]
||アメリカ ワシントン州
||[[:en:Museum of Flight|ミュージアム・オブ・フライト]][http://www.museumofflight.org/]
||公開
||静態展示
||世界で唯一飛行可能なB-17Fであるが、現在は静態展示となっている[http://www.museumofflight.org/aircraft/boeing-b-17f-flying-fortress]。
|-
|B-17G-1-BO
||42-31044<br/>6158<br/>''Her Did''
||[[File:Scuba divers on the wreck of a B-17 bomber.JPG|180px]]
||フランス
||{{Coord|42.572058|8.762800|display=inline}}
|| -
||放置
||1944年2月14日、コルシカ島近海に不時着水した<ref>{{Cite web|url=http://www.wrecksite.eu/wreck.aspx?142080|title=B-17G (Her Did)|last=|first=|date=|website=|accessdate=2017-08-03}}</ref>。
|-
|B-17G-35-BO
||42-32076<br/>7190<br/>[[:en:Shoo Shoo Shoo Baby|''Shoo Shoo Shoo Baby'']]
||[[File:Boeing B-17G National Museum of USAF 20150726 2.jpg|180px]]
||アメリカ オハイオ州
||国立アメリカ空軍博物館
||公開
||保管中
||[https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196270/boeing‐b‐17g‐%20flying‐fortress/]
|-
|B-17G-90-BO
||43-38635<br/>9615<br/>''Virgin's Delight''
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress ‘38635 - N - A’ “Virgin’s Delight” (N3702G) (29904058935).jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||[[:en:Castle Air Museum|キャッスル航空博物館]][https://www.castleairmuseum.org]
||公開
||静態展示
||[https://www.castleairmuseum.org/category/bomber]
|-
|B-17G-50-DL
||44-6393<br/>22616<br/>''Starduster''
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress ’44-6393’ “Starduster” (26948137531).jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||[[:en:March Field Air Museum|マーチフィールド航空博物館]][https://www.marchfield.org/]
||公開
||静態展示
||[https://www.marchfield.org/exhibits/b-17-flying-fortress/]
|-
|B-17G-60-DL
||44-6630<br/>22853
||[[:en:File:B-17 Vis Croatia.jpeg|写真]]
||クロアティア
||{{Coord|43.013095|16.211020|display=inline}}
|| -
||放置
||
|-
|B-17G-70-VE
||44-8543<br/>7943<br/>''Madras Maiden''
||[[File:Madras Maiden.jpg|180px]]
||アメリカ オレゴン州
||[[:en:Erickson Inc.|エリクソン航空機コレクション]][http://www.ericksoncollection.com/]
||公開
||飛行可能
||[http://www.ericksoncollection.com/aircraft/#/flyingfortress/]
|-
|B-17G-85-VE
||44-8846<br/>8246<br/>[[:en:The Pink Lady (aircraft)|''The Pink Lady'']]
||[[File:B17G Pink Lady - Duxford Flying Legends July 2009 (3711614822).jpg|180px]]
||フランス パリ
||"ヴォランテは永遠の要塞"財団[https://www.societe.com/societe/forteresse-toujours-volante-523817104.html]<br/>(Forteresse Toujours Volante)
||公開
||飛行可能
||
|-
|B-17G-85-VE
||44-8889<br/>8289
||
||フランス セーヌ=サン・ドニ県
||[[ル・ブルジェ航空宇宙博物館]][https://www.museeairespace.fr]
||非公開
||保管中
||
|-
|B-17G-85-DL
||44-83512<br/>32153
||[[File:B-17G Flying Fortress atLackland Air Force Base.jpg|180px]]
||アメリカ テキサス州
||[[アメリカ空軍航空兵遺産博物館]][https://myairmanmuseum.org/image-gallery/b-17-1-sn-44-83512/]
||公開
||静態展示
||42-97328"Heaven's Above"の塗装がされている[https://myairmanmuseum.org/image-gallery/b-17-1-sn-44-83512/][https://myairmanmuseum.org/image-gallery/b-17-2-sn-44-83512/]。
|-
|B-17G-85-DL
||44-83514<br/>32155<br/>[[:en:Sentimental Journey (aircraft)|''Sentimental Journey'']]
||[[File:B17 - Chino Airshow 2014 (14238777505).jpg|180px]]
||アメリカ アリゾナ州
||[[:en:Commemorative Air Force|記念空軍]](CAF)[https://commemorativeairforce.org/]
||公開
||飛行可能
||[https://commemorativeairforce.org/aircraft/1]
|-
|B-17G-85-DL
||44-83525<br/>32166
||[[File:Polk County, FL, USA - panoramio (54).jpg|180px]]
|rowspan="2"|アメリカ フロリダ州
|rowspan="2"|[[:en:Fantasy of Flight|ファンタジー・オブ・フライト]][https://www.fantasyofflight.com]
||公開
||保管中
||41-2489"Suzy Q"の塗装がされている。
|-
|B-17G-85-DL
||44-83542<br/>32183
||[[File:Boeing B-17G-85-DL Flying Fortress Piccadilly Princess BelowRNose FOF 27March2010 (14403962267).jpg|180px]]
||公開
||静態展示
||42-37994"Piccadilly Princess"の塗装がされている。
|-
|B-17G-85-DL
||44-83546<br/>32187
||[[File:Boeing B-17G G-BEDF - Flying Legends 2016 (27611663164).jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||[[:en:National Warplane Museum|国立軍用機博物館]][https://nationalwarplanemuseum.com/]<br/>軍用機修復社(Military Aircraft Restoration Corp.)からの貸与
||公開
||飛行可能
||41-24485"Memphis Belle"の塗装がされている。
予約すれば搭乗も可能[https://nationalwarplanemuseum.com/rides-1]。
|-
|B-17G-85-DL
||44-83559<br/>32200
||[[File:44-83559 Boeing B-17 Fortress U.S. Air Force (7519631714).jpg|180px]]
||アメリカ ネブラスカ州
||[[:en:Strategic Air Command & Aerospace Museum|戦略航空軍団・航空宇宙博物館]][https://sacmuseum.org]
||公開
||静態展示
||[https://sacmuseum.org/what-to-see/aircraft/b-17g-flying-fortress/]
|-
|B-17G-85-DL
||44-83563<br/>32204
||[[File:B17G Flying Fortress - Chino Airshow 2014 (16566683366).jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||[[:en:Lyon Air Museum|リヨン航空博物館]]
||公開
||飛行可能
||42-97400"Fuddy Duddy"の塗装がされている。
|-
|B-17G-85-DL
||44-83575<br/>32216
||[[File:Boeing B-17G Collings Foundation 20150719.jpg|180px]]
||アメリカ マサチューセッツ州
||[[:en:Collings Foundation|コリングス・ファウンデーション]][https://www.collingsfoundation.org/aircrafts/]
||不明
||不明
||42-31909"[[:en:Nine-O-Nine|Nine-O-Nine]]"の塗装がされている[http://www.collingsfoundation.org/aircrafts/boeing-b-17g-flying-fortress/]。
[[2019年]][[10月2日]]、[[ブラッドレー国際空港]]で着陸に失敗して倉庫に突入、大破した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-03 |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35143452.html |title=B17爆撃機、空港施設に衝突 7人死亡 米コネティカット州 |publisher= |accessdate=2019-10-03}}</ref>。
|-
|B-17G-90-DL
||44-83624<br/>32265
||[[File:INTERIOR OF AIR MOBILITY COMMAND MUSEUM, DOVER, DELAWARE.jpg|180px]]
||アメリカ デラウェア州
||[[:en:Air Mobility Command Museum|航空機動軍団博物館]][https://amcmuseum.org/]
||公開
||静態展示
||42-107112"Sleepy Time Gal"の塗装がされている[https://amcmuseum.org/at-the-museum/aircraft/b-17g-flying-fortress/]。
|-
|B-17G-90-DL
||44-83663<br/>32304<br/>''Short Bier''
||
||アメリカ ユタ州
||[[:en:Hill Aerospace Museum|ヒル航空宇宙博物館]][https://www.hill.af.mil/Home/Hill-Aerospace-Museum/]
||公開
||静態展示
||[https://www.hill.af.mil/About-Us/Fact-Sheets/Display/Article/397105/b-17-flying-fortress/]
|-
|B-17G-90-DL
||44-83684<br/>32325<br/>[[:en:Piccadilly Lilly II|''Piccadilly Lilly II'']]
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress ‘2102605 - X - A’ (really 44-83684 - N3713G) (26908453301).jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||[[プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館]][http://www.planesoffame.org]
||公開
||修復中
||飛行可能な状態へと修復している最中である[http://planesoffame.org/index.php?page=restoration-projects]。
|-
|B-17G-90-DL
||[[:en:B-17G "Flying Fortress" No. 44-83690|44-83690]]<br/>32331
||[[File:B-17G “Flying Fortress” Undergoing Restoration (49871322576).jpg|180px]]
||アメリカ ジョージア州
||[[:en:Museum of Aviation|ミュージアム・オブ・エイヴィエーション]][https://www.museumofaviation.org]
||公開
||修復中
||[[:en:Grissom Air Museum|グリソム航空博物館]][http://www.grissomairmuseum.com]より修復のため移管されている。
|-
|B-17G-95-DL
||44-83718<br/>32359
||
||ブラジル リオデジャネイロ
||[[:en:Museu Aeroespacial|航空宇宙博物館]]
||公開
||保管中
||
|-
|B-17G-95-DL
||44-83735<br/>32376<br/>''Mary Alice''
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress ‘238133’ (F-BDRS) (23935103089).jpg|180px]]
||イギリス ケンブリッジシャー州
||[[ダックスフォード帝国戦争博物館]][https://www.iwm.org.uk/visits/iwm-duxford]
||公開
||静態展示
||
|-
|B-17G-95-DL
||44-83785<br/>32426
||[[File:Boeing B-17G-95-DL Flying Fortress North American P-51D Mustang Live Bait LSideFronts EASM 4Feb2010 (14404398060).jpg|180px]]
||アメリカ マサチューセッツ州
||コリングス・ファウンデーション
||公開
||静態展示
||2015年に左記団体が[[:en:Evergreen Air and Space Museum|エヴァーグリーン航空宇宙博物館]](EASM)[https://www.evergreenmuseum.org/]より買った機体。
左の写真はEASM時代のもの[https://www.collingsfoundation.org/aircrafts/boeing-b-17g-flying-fortress/]。
|-
|B-17G-95-DL
||44-83790<br/>32431
||
||アメリカ ジョージア州
||ドン・ブルックス氏<br/>(Don Brooks)
||非公開
||修復中
||
|-
|B-17G-95-DL
||44-83814<br/>32455<br/>''City of Savannah''
||[[File:B-17 at Mighty 8th Air Force Museum, Pooler, GA, US.jpg|180px]]<br/>[[File:B-17 tail at Mighty 8th Air Force Museum, Pooler, GA, US.jpg|180px]]
||アメリカ ジョージア州
||[[:en:National Museum of the Mighty Eighth Air Force|国立強力第8空軍博物館]][http://www.mightyeighth.org]
||公開
||修復中
||[http://www.mightyeighth.org/b-17-exhibit/]
|-
|B-17G-95-DL<br/>PB-1W
||44-83863<br/>77231(USN)<br/>32504
||[https://farm9.staticflickr.com/8066/8213598105_dca1374551_b.jpg 写真]
||アメリカ フロリダ州
||[[:en:Air Force Armament Museum|空軍兵装博物館]][https://www.afarmamentmuseum.com]
||公開
||静態展示
||海軍型のPB-1Wとして海軍に納入され、運用された後に空軍で消火機として使用された機体。
42-30180の塗装がされている[https://www.afarmamentmuseum.com/details-b17.html]。
|-
|B-17G-95-DL
||44-83868<br/>32509
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress ‘483868 - N’ (N5237V) (33249478005).jpg|180px]]
||イギリス ロンドン
||[[イギリス空軍博物館]]ロンドン館[https://www.rafmuseum.org.uk/london/]
||公開
||静態展示
||[https://www.rafmuseum.org.uk/research/collections/boeing-b17g-fortress/]
|-
|B-17G-95-DL
||44-83872<br/>32513<br/>''[[:en:Texas Raiders|Texas Raiders]]''
||[[File:Boeing B-17G-95-DL Flying Fortress Texas Raiders 44-83872 N7227C RSide MX SNF 04April2014 (14584488174).jpg|180px]]
||アメリカ テキサス州
||記念空軍(CAF)
||公開
||事故大破
||"Texas Raiders"の名は、1969年にCAFによって名付けられた
[[ダラス航空ショー空中衝突事故|2022年11月の事故]]で大破
[https://commemorativeairforce.org/aircraft/2]。
|-
|B-17G-95-DL
||44-83884<br/>32525
||[[File:Barksdale Global Power Museum September 2015 08 (Boeing B-17G Flying Fortress).jpg|180px]]
||アメリカ ルイジアナ州
||[[:en:Barksdale Global Power Museum|バークスデール世界勢力博物館]][https://barksdale.oncell.com/en/index.html][http://www.barksdaleglobalpowermuseum.com/]
||公開
||静態展示
||ダグラス社製のB-17の最後から2番目の機体。
42-31255"Miss Liberty Belle"の塗装がされているが、側面の塗装は異なり、尾部は45-31340の塗装となっている[https://barksdale.oncell.com/en/5-b-17-87012.html]。
|-
|B-17G-100-VE
||44-85599<br/>8508
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress (299P), USA - Air Force AN1008645.jpg|180px]]
||アメリカ テキサス州
||[[:en:Dyess Air Force Base|ダイエス空軍基地]][https://www.dyess.af.mil]
||公開
||静態展示
||42-38133"Reluctant Dragon"の塗装がされている[https://virtualglobetrotting.com/map/reluctant-dragon-boeing-b-17/view/google/]。
|-
|B-17G-100-VE
||44-85583<br/>8542
||[http://1.bp.blogspot.com/-ppRalrrOgpI/UBajcuSYX4I/AAAAAAAAKP8/PK5qKoiyHyU/s1600/B-17+em+Recife.jpg 写真]
||ブラジル ペルナンブーコ州
||レシーフェ空軍基地<br/>(Recife Air Force Base)
||公開
||静態展示
||
|-
|B-17G-105-VE
||44-85718<br/>8627
||[[File:Dyess Air Force Base 2015 Air Show B-17 Flyby.jpg|180px]]
||アメリカ テキサス州
||[[:en:Lone Star Flight Museum|ローンスター航空博物館]][https://www.lonestarflight.org/]
||公開
||飛行可能
||42-38050"[[:en:Thunderbird (aircraft)|Thunderbird]]"の塗装がされている[https://www.lonestarflight.org/aircraft/boeing-b-17-flying-fortress]。
|-
|B-17G-105-VE
||44-85734<br/>8643
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress, Private JP6955312.jpg|180px]]
||アメリカ ジョージア州
||ドン・ブルックス氏<br/>(Don Brooks)
||公開
||修復中
||2011年の着陸失敗により一部焼損したため、44-83387を使用して展示可能な状態へと復元している最中である。
42-97849"[[:en:Liberty Belle|Liberty Belle]]"の塗装がされている。
|-
|B-17G-105-VE
||44-85738<br/>8647<br/>''Preston's Pride''
||[[File:Boeing B-17G Flying Fortress ‘0-85738 - K’ “Preston’s Pride” (29570014925).jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||トゥーレアリアメリカ退役軍人記念館[http://www.aviationmuseum.eu/Blogvorm/american-veterans-memorial/]
||公開
||静態展示
||
|-
|B-17G-105-VE
||44-85740<br/>8649
||[[File:Aluminum Overcast (9645921354).jpg|180px]]
||アメリカ ウィスコンシン州
||[[:en:Experimental Aircraft Association|実験航空機協会]](EAA)[https://www.eaa.org/]
||公開
||飛行可能
||42-102516"[[:en:Aluminum Overcast|Aluminum Overcast]]"の塗装がされている[https://www.eaa.org/shop/Flights/B17.aspx]。
|-
|B-17G-105-VE
||44-85778<br/>8687<br/>''Miss Angela''
||[[File:B17G Miss Angela.jpg|180px]]
||アメリカ カリフォルニア州
||[[:en:Palm Springs Air Museum|パームスプリングス航空博物館]][https://palmspringsairmuseum.org/]
||公開
||静態展示
||飛行可能ではあるが、現在は静態展示とされている[https://palmspringsairmuseum.org/wp-content/uploads/2015/09/B-17-popular-shot.jpg][https://palmspringsairmuseum.org/aircraft/]。
|-
|B-17G-105-VE
||44-85784<br/>8693<br/>''[[:en:Sally B|Sally B]]''
||[[File:B17 & P51 - Duxford August 2009 (3843937982).jpg|180px]]<br/>
[[File:B-17 Memphis Belle (5921837039).jpg|180px]]
||イギリス ケンブリッジシャー州
||ダックスフォード帝国戦争博物館
||公開
||飛行可能
||戦後、エリー・サリンボー氏(Elly Sallingboe)によって"Sally B"と名付けられた。
尾翼と胴体側面は41-24485"Memphis Belle"の塗装がされている[https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/70000084]。
|-
|B-17G-105-VE
||44-85790<br/>8699<br/>''Lacy Lady''
||[[File:Bomber Restaurant.jpg|180px]]
||アメリカ オレゴン州
||レイスィズ・ボマー・レストラン[http://www.thebomber.com/]<br/>所有:B-17アライアンス[http://www.b17alliance.com/]
||公開
||修復準備中
||かつてはガソリンスタンドにあった[https://2.bp.blogspot.com/-o78UdzTn3m4/WSxI9L4DPyI/AAAAAAAAE3o/ebEDfrCKIeAn99PmYQ3FCo5RLTbec3pnQCLcB/s1600/bomber_color.jpg]。
後に左記レストランが所有していたが、その後アライアンスの所有となってからは、機首や発動機などが修復のため取り外され、胴体のみ展示という形態をとっている[http://www.thebomber.com/history/amp/]。
ガソリンスタンド時代の様子。
[[ファイル:Bomber_Gas_Station.jpg|50x50ピクセル]]
|-
|B-17G-110-VE
||44-85813<br/>8722<br/>''Champaign Lady''
||[[File:B-17 Flying Fortress Project at the Champaign Aviation Museum.jpg|180px]]
||アメリカ オハイオ州
||[[:en:Champaign Aviation Museum|チャンペイン航空博物館]][https://www.champaignaviationmuseum.org]
||公開
||修復中
||カーティス・ライト社製ターボプロップエンジンを搭載して飛行していた機体。
飛行可能な状態へと修復されている[https://www.champaignaviationmuseum.org/b-17]。
|-
|B-17G-110-VE
||44-85828<br/>8737
||[[File:B17G Flying Fortress 561.jpg|180px]]
||アメリカ アリゾナ州
||[[ピマ航空宇宙博物館]][http://www.pimaair.org/]
||公開
||静態展示
||'I'll Be Around" (レプリカ)[http://www.pimaair.org/aircraft-by-name/item/boeing-b-17g-flying-fortress]
|-
|B-17G-110-VE
||45-85829<br/>8738<br/>''Yankee Lady''
||[[File:AirExpo 2010 - B-17 Flying Fortress "Yankee Lady" (4824667310).jpg|180px]]
||アメリカ ミシガン州
||[[:en:Yankee Air Museum|ヤンキー航空博物館]][http://yankeeairmuseum.org/]
||公開
||飛行可能
||左記博物館の所有となってから"Yankee Lady"と名付けられた[http://yankeeairmuseum.org/fly/]。
|-
|}
== 墜落事故 ==
*[[1935年]][[10月30日]]、ボーイング モデル299 (XB-17)が離陸直後に失速、スピンして地面に激突し炎上した。
*[[1945年]][[7月24日]] - [[浜名湖]]今切口付近を低空飛行中に[[高射砲]]を受けて神宮寺(湖西市新居町)付近の山中に墜落<ref name="chunichi2022">{{Cite web|和書|title=湖西・新居の「米殉国勇士之英魂碑」 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/521052 |website=中日新聞|accessdate=2022-08-12}}</ref>、搭乗員10人が死亡した<ref name="chunichi2022" />。1952年には、神宮寺に「米殉国勇士之英魂」の石碑が建立された<ref name="chunichi2022" />。2015年から慰霊祭が再開されている<ref name="chunichi2022" />。
*[[2019年]][[10月2日]] - [[コネティカット州]]ハートフォードの空港で離陸に失敗して炎上し、少なくとも7人が死亡した<ref>{{Cite web|和書|title=旧爆撃機が墜落、7人死亡 米東部の空港 |url=https://www.sankei.com/photo/story/news/191003/sty1910030005-n1.html |website=産経新聞|accessdate=2022-08-12}}</ref>。
*[[2022年]][[11月12日]] - [[ダラス・エグゼクティブ空港]]で開催された航空ショーにて[[P-63 (航空機)|ベル・P-63]]と[[空中衝突]]して墜落した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sponichi.co.jp/society/news/2022/11/13/kiji/20221113s00042000222000c.html|title=ダラスの航空ショーで軍用機同士が空中で接触 墜落して爆発炎上 会場は大パニック |publisher=スポニチ |date=2022-11-13 |accessdate=2022-11-12}}</ref>。
{{See also|ダラス航空ショー空中衝突事故}}
== 関連作品 ==
{{main|B-17に関連する作品の一覧}}
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 航空情報編集部編 『第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌』 1964年・酣燈社刊。
* [[木村秀政]] 『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』(小学館、1981年8月)
== 外部リンク ==
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* [http://www.stelzriede.com/ Marshall Stelzriede's Wartime Story] 元B-17航法士のWebページ(B-17による出撃経験談、B-17 Pilot Training Manual、写真が存在する)
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択捉島
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択捉島(えとろふとう)は、北海道千島列島南部に位置する同列島内で面積が最大の島。複数の活火山が存在する火山島である。ロシアによる実効支配が続く北方領土の一つである。中心集落は紗那村(クリリスク)。
地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・オ・ㇷ゚(etu-oro-o-p,鼻・の所・にある・所〈岬のある所〉)」あるいは「エトゥ・オㇿ・オ・ㇷ゚(etu-or-o-p,鼻・水・ある・もの〈クラゲ〉)」。ロシア名はイトゥルップ島(Итуруп、Iturup)。
面積は3,186.64平方キロメートル、長さは約214キロメートルに及ぶ細長い島であり、日本では、本土4島を除いて面積最大の島である。
国後島の北東にある国後水道(露: エカチェリーナ海峡 пролив Екатерины)を隔てて位置し、択捉島の北東にある択捉海峡(露: フリーズ海峡 пр. Фриза)を隔てて得撫島(露: ウルップ島 остров Уруп)へと連なっている。
人口6,739人。中心集落は、紗那(露: クリリスク Курильск - 「千島の町」の意)、2006年(平成18年)の人口は2,005人。
面積では日本の領土の島のうち本州、北海道、九州、四国に次ぐ(本土4島以外の大きさは、大きな方から順番に、択捉島 - 国後島 - 沖縄本島 - 佐渡島 - 奄美大島 - 対馬 - 淡路島)。国後島の2.1倍強、沖縄本島のおよそ2.7倍である。したがって「北方領土」の中でも最大の島であり、その面積は全体の63.4パーセントを占める。
北海道根室振興局管内に所属する日本最北端の島であり、択捉島最北端のカモイワッカ岬(露: コリツキー岬 М. Корицкий)は、北緯45度33分28秒 東経148度45分14秒 / 北緯45.55778度 東経148.75389度 / 45.55778; 148.75389 (カモイワッカ岬)の位置にあり、日本政府が領有権を主張する領域内で最北端の地である。
第二次世界大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍により武力占領され、現在はロシア連邦の実効支配下にある。ロシア側行政区においては、国後島や色丹島とは別の行政単位であるサハリン州クリル管区に位置付けされている。日本政府の見解では、上記は国際法違反であるとし不法占拠下にあるとしている(北方領土問題)。
北東から南西方向に伸びる細長い島であり、幅は約20 - 30キロメートルであるのに対し、長さは約214キロメートルとなっている。北東端はラッキベツ岬、南西端はベルタルベ岬である。島の北側には散布半島が突き出している。また、中部には単冠湾(ひとかっぷわん、露: カサトカ湾 Зал. Касатка)、南部には内保湾(ないぼわん)がある。平地は少なく、火山が多い。火口湖の得茂別湖(うるもんべつこ)も島の南部に位置している。
湖沼:蘂取沼(しべとろぬま、露: Озеро Славное、2.71 km)、トウロ沼(露: Озеро Сопочное、1.31 km)、瀬石沼(露: Рейдово озеро)、紗那沼(しゃなぬま、露: Озеро Лебединое、1.02 km)、ラウス沼(露: Озеро Куйбышевское、1.41 km)、年萌湖(としもいこ、露: Благодатное озеро、4.25 km)、キモン沼(露: Озеро Касатка)、ヤンケ沼(露: Озеро Октябрьское)、レブン沼(露: Озеро Среднее)、キモンマ沼(露: Лесозаводское озеро、1.45 km)、内保沼(ないぼぬま、露: Доброе озеро、2.56 km)、得茂別湖(うるもんべつこ、露: Озеро Красивое、5.71 km)。
アイヌが先住しており、17世紀後半にはメナシクルの勢力がのびた。
1945年(昭和20年)8月28日、太平洋戦争終戦間際、すなわち降伏文書調印(9月2日)直前にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破り、同島に上陸し占領した(この日は、米軍先遣隊が厚木に上陸し、本土の占領が開始されたのと同日である)。ポツダム宣言第7条により、日本国の諸地点は連合国に占領されたが、一般命令第1号により、同島を含む千島列島は、ソ連占領地となった。
1946年(昭和21年)1月29日、GHQからSCAPIN-677が命令された。これは、日本は同島を含む千島列島の施政権を停止させるものだった(ただし、領有権の放棄を命じたものではなかった)。直後の2月2日、ソ連はこれらの地域を自国領に編入した。それ以降、ソ連とその後継国家であるロシア連邦による実効支配が続いている。
ソ連軍上陸後は、ソ連軍兵士による強盗・殺人・強姦や略奪行為などが横行した。また、1945年(昭和20年)9月以降しばらくの間は、日本人の本土引き揚げは禁止されていたにもかかわらず、北海道本島に渡航する人が続出した。しかしある時期から、ソ連軍兵士の略奪行為などに対して、死刑執行も含めた厳罰が下されるようになった。日本人とロシア人との混住状態が1年以上続いたが、同島からの日本人の本土引き揚げは、1946年(昭和21年)12月から本格的に始まり、1948年(昭和23年)までにおおむね終了した。
かつての中心地である紗那は、引き続き同島の中心地である。他の主要集落として、軍民兼用の飛行場がある天寧(露: ブレヴェスニク Буревестник、2006年の人口は3,105人)などがある。これより島の南部や、別飛より北東部は、自然保護区域として地元のロシア人でさえも立入りが制限されている。留別(露: クイビシェフ Куйбышев)や蘂取(しべとろ、露: スラブノエ Слабное)はロシア人集落となったが、現在は両村とも廃村状態である。Google Earthの解析によれば、紗那から蘂取までの道路は、(途中の川に橋も架かっていないような悪路ではあるが)戦前に日本が作ったものが残っており、走行する自動車も認められる。また、蘂取には漁業施設と思われる建物が数軒認められる。
日本政府は1951年のサンフランシスコ平和条約に絡む国会審議の過程で主権を放棄する千島列島に択捉島が含まれるとしていた。その後、冷戦や朝鮮戦争の勃発などソビエトとの公的な外交チャネルが断絶した状態が続き、ようやく1956年(昭和31年)の日ソ平和条約交渉において択捉島を含む北方領土の返還を要求したがソビエトの受け入れるところではなく、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言による国交回復以降も、日本政府の返還要求をソ連が拒否し続けた。
1991年に、後に成立したロシア連邦が不法占拠を継承した。1994年秋に発生した北海道東方沖地震後、人口は減少傾向にあった。
そのような状態の中、ユダヤ系ロシア人のアレクサンドル・ヴェルホフスキーが創業した水産加工のギドロストロイ(Гидрострой)社(本社は豊原市(ユジノサハリンスク))が、周辺の豊富な水産資源と北米の冷凍食品市場とを結びつけて、1990年代後半以降瞬く間にめざましい成長を示し、同島の経済基盤は強固なものとなり現在に至る。なお、同社は現在、別飛(露: レイドヴォ Рейдово)に、米国製の機械を備えた日産400トンの加工が可能な大工場をもつほか、蓄積した豊富な資本を元に択捉銀行(БАНК ИТУРУП)を設立し、金融業にも乗り出している。しかし、日本政府が領土問題に関連して取引きの規制を行っているので、日本企業はこのビジネスチャンスに公式には協力できていない。
地下資源もあり、北部の茂世路岳(1124 m、露: クドリャブイ火山 Влк. Кудрявый、英: Medvezhia)は、その火山ガスにレアメタルであるレニウムを大量に含有している。このため、ロシア科学アカデミーの科学者たちは、レニウムの世界有数の産出源になり得る火山と見なしている。また、金鉱開発の可能性も指摘されている。
2015年を目標年次とするロシア連邦政府の「クリル諸島社会経済発展計画」の目玉として、工費12億ルーブル(約55億円)の公共投資により、中心都市のクリリスク(紗那)付近に全天候型、滑走路2,300 mのイトゥルップ空港が建設された。2008年3月 ギドロストロイ社によって着工、 2014年に完成、同年9月10日、50人の乗客が搭乗したオーロラ航空機が初めて着陸した。サハリン島のユジノサハリンスクへの定期便が就航しており、これによって「発展計画」の柱の一つである観光開発に大きな弾みがつくことが期待されている。
2012年5月、ギドロストロイ社が主導してクリリスクの近郊キタボエにて総額34億ルーブルを投じる港湾整備工事を着工したが、韓国の建設会社がロシア以外の企業として初めて北方領土の開発に参加することとなった。また、同年11月には観光客誘致策の一環として択捉島中心部にリゾートホテルを建設し、2015年に開業予定であるとの報道もなされている。
2022年ロシアのウクライナ侵攻が始まり、ロシア国内から海外への旅行が困難になると、択捉島にもモスクワやサンクトペテルブルグからリゾート客が訪れるようになった。
ウクライナ危機、クリミア危機によりロシア政府は国防を強化している。2016年4月には対艦ミサイルなどを配備し、軍事拠点の増設も発表された。また、2022年4月現在、衛星画像からSu-27などの戦闘軍用機が配備されているのが確認できる。
アメリカ海軍への牽制を考慮し、P-800対艦ミサイル系「バスチオン」「バル」が数機配備された。
戦前は、中心集落であった紗那まで定期の船便があったが、戦後は、北海道本島から択捉島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本島から島に直接渡る場合は、「ビザなし交流」に参加し、チャーター船で根室港から出発、紗那に入港する。(「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると国際航路を通航する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げるほか、クリリスクに到着後はロシアの税関当局による入域審査を受ける。)なお、このチャーター船の利用は、旧島民とその子孫、返還運動を行う団体から推薦された者などに限定され、一般の日本人が自由に利用することはできない。
小型船舶による渡航に関しては他国と共通であり、択捉島を含む南千島には航行区域に関する情報が日本小型船舶検査機構から開示されている。
現在の択捉島にアクセスする定期公共交通は、南樺太を拠点に運航されている。
ユジノサハリンスク空港(豊原大澤飛行場)からは、オーロラのプロペラ機(DHC-8-300)が週3便、運航されている。
道を自動車で片道2時間半かかる不便な場所にある。
コルサコフ(大泊)港からは、サハリンクリル海運の貨客船「イゴール・ファルハトディノフ」号が週2便就航している。この船は、月曜日にコルサコフを出港し、火曜日に択捉島、水曜日に色丹島および国後島に寄港したあと、木曜日にコルサコフに帰港し、金曜日に再びコルサコフを出港し、土曜日に国後島と色丹島、日曜日に択捉島に寄港したあと、月曜日にコルサコフに帰港するというスケジュールで、3〜12月に運航される。2017年現在、州政府は輸送力を強化するために、2隻の追加配備を検討している。
一般の日本人・外国人が択捉島を訪問するには、ロシアのビザを取得したあと、稚内または新千歳または成田などから直行便を利用するか、もしくはソウル経由でサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで択捉島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。この方法は、北方領土においてロシアの主権に服する行為であるとして内閣が1989年(平成元年)以来自粛を要請しているが、この自粛要請に法的強制力は無く、ギドロストロイ社への技術支援のための入境のほか、多くの書籍やホームページなどで、この方法によって同島に入境した日本人旅行者の体験記が確認できる。いうまでもなく、EU、米国、韓国はじめ、多くの外国人ビジネスマンや技術者は、ギドロストロイ社との取引・技術支援などのため、ごく普通にロシアの査証を取得し、同じ方法で同島に入域している。
択捉島の居住者は衛星を通じて送られてくるロシアのテレビ番組(SECAM方式 ロシアチャンネル)を見ているものと思われる。距離的に日本の地上波テレビの受信は難しい地域とされる。
ラジオ放送についてはクリルスク中継局 1602 kHz・1 kW・70.64 MHz。 放送時間は日本時間で4時から23時とされているが確認は出来ていない。放送系統はRadio Mayakとのこと。
携帯電話はロシアの携帯電話会社 (MegaFon MTS) が参入し、方式はGSMである。日本の携帯電話はローミング可能機であれば接続可能と推定されるが、確認はされていない。エリアはクリルスクとBurevestnikの周囲とされている。
各集落にあるディーゼル発電所により供給されていたが、オケアンスカヤ地区の地熱発電所が2006年から稼働してから、地熱発電への転換が徐々に図られている。
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"tag": "p",
"text": "ウクライナ危機、クリミア危機によりロシア政府は国防を強化している。2016年4月には対艦ミサイルなどを配備し、軍事拠点の増設も発表された。また、2022年4月現在、衛星画像からSu-27などの戦闘軍用機が配備されているのが確認できる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "アメリカ海軍への牽制を考慮し、P-800対艦ミサイル系「バスチオン」「バル」が数機配備された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "戦前は、中心集落であった紗那まで定期の船便があったが、戦後は、北海道本島から択捉島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本島から島に直接渡る場合は、「ビザなし交流」に参加し、チャーター船で根室港から出発、紗那に入港する。(「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると国際航路を通航する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げるほか、クリリスクに到着後はロシアの税関当局による入域審査を受ける。)なお、このチャーター船の利用は、旧島民とその子孫、返還運動を行う団体から推薦された者などに限定され、一般の日本人が自由に利用することはできない。",
"title": "交通アクセス"
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"text": "小型船舶による渡航に関しては他国と共通であり、択捉島を含む南千島には航行区域に関する情報が日本小型船舶検査機構から開示されている。",
"title": "交通アクセス"
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"text": "現在の択捉島にアクセスする定期公共交通は、南樺太を拠点に運航されている。",
"title": "交通アクセス"
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"text": "ユジノサハリンスク空港(豊原大澤飛行場)からは、オーロラのプロペラ機(DHC-8-300)が週3便、運航されている。",
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"text": "道を自動車で片道2時間半かかる不便な場所にある。",
"title": "交通アクセス"
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"text": "コルサコフ(大泊)港からは、サハリンクリル海運の貨客船「イゴール・ファルハトディノフ」号が週2便就航している。この船は、月曜日にコルサコフを出港し、火曜日に択捉島、水曜日に色丹島および国後島に寄港したあと、木曜日にコルサコフに帰港し、金曜日に再びコルサコフを出港し、土曜日に国後島と色丹島、日曜日に択捉島に寄港したあと、月曜日にコルサコフに帰港するというスケジュールで、3〜12月に運航される。2017年現在、州政府は輸送力を強化するために、2隻の追加配備を検討している。",
"title": "交通アクセス"
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"text": "一般の日本人・外国人が択捉島を訪問するには、ロシアのビザを取得したあと、稚内または新千歳または成田などから直行便を利用するか、もしくはソウル経由でサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで択捉島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。この方法は、北方領土においてロシアの主権に服する行為であるとして内閣が1989年(平成元年)以来自粛を要請しているが、この自粛要請に法的強制力は無く、ギドロストロイ社への技術支援のための入境のほか、多くの書籍やホームページなどで、この方法によって同島に入境した日本人旅行者の体験記が確認できる。いうまでもなく、EU、米国、韓国はじめ、多くの外国人ビジネスマンや技術者は、ギドロストロイ社との取引・技術支援などのため、ごく普通にロシアの査証を取得し、同じ方法で同島に入域している。",
"title": "交通アクセス"
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"text": "択捉島の居住者は衛星を通じて送られてくるロシアのテレビ番組(SECAM方式 ロシアチャンネル)を見ているものと思われる。距離的に日本の地上波テレビの受信は難しい地域とされる。",
"title": "通信"
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"text": "ラジオ放送についてはクリルスク中継局 1602 kHz・1 kW・70.64 MHz。 放送時間は日本時間で4時から23時とされているが確認は出来ていない。放送系統はRadio Mayakとのこと。",
"title": "通信"
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"text": "携帯電話はロシアの携帯電話会社 (MegaFon MTS) が参入し、方式はGSMである。日本の携帯電話はローミング可能機であれば接続可能と推定されるが、確認はされていない。エリアはクリルスクとBurevestnikの周囲とされている。",
"title": "通信"
},
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"text": "各集落にあるディーゼル発電所により供給されていたが、オケアンスカヤ地区の地熱発電所が2006年から稼働してから、地熱発電への転換が徐々に図られている。",
"title": "電力"
}
] |
択捉島(えとろふとう)は、北海道千島列島南部に位置する同列島内で面積が最大の島。複数の活火山が存在する火山島である。ロシアによる実効支配が続く北方領土の一つである。中心集落は紗那村(クリリスク)。 地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・オ・ㇷ゚」あるいは「エトゥ・オㇿ・オ・ㇷ゚」。ロシア名はイトゥルップ島(Итуруп、Iturup)。
|
{{Infobox Disputed Islands|plural=yes|name=択捉島|image name=[[ファイル:Iturup Terra cut.jpg|300px]]|image caption=択捉島|image size=300px|map_custom=|native name={{lang|ru|Остров Итуруп}}|native name link=ロシア語|second name=択捉島|second name link=日本語|location=[[太平洋]]<br>[[オホーツク海]]|coordinates={{coord|45|13|30|N|147|52|30|E|display=inline,title}}|archipelago=|total islands=|major islands=|area km2=3186.64|highest mount=[[西単冠山]]|elevation m=1634.0|country=RUS|country admin divisions title=[[州]]|country admin divisions=[[サハリン州]]|country admin divisions title 1=|country admin divisions 1=[[ロシア連邦]]サハリン州[[クリル管区]]|country claim=JPN|country claim divisions title=[[道]]・[[北海道#総合振興局・振興局(支庁)|振興局]]|country claim divisions=[[北海道]][[根室振興局]]|country claim divisions title 1=[[郡]]・[[市町村]]|country claim divisions 1=[[択捉郡]] [[紗那村]]・[[蘂取村]]|population=6485|population as of=[[2019年]]|density=|additional info=}}
'''択捉島'''(えとろふとう)は、[[北海道]][[千島列島]]南部に位置する同列島内で[[面積]]が最大の[[島]]。複数の[[活火山]]が存在する[[火山島]]である。[[ロシア]]による[[実効支配]]が続く[[北方領土問題|北方領土]]の一つである。中心集落は[[紗那村]]([[クリリスク]])。
地名の由来は、[[アイヌ語]]の「エトゥ・オロ・オ・ㇷ゚({{lang|ain-Latn|etu-oro-o-p}},鼻・の所・にある・所〈岬のある所〉)」あるいは「エトゥ・オㇿ・オ・ㇷ゚({{lang|ain-Latn|etu-or-o-p}},鼻・水・ある・もの〈[[クラゲ]]〉<ref>{{cite web |author=Виктория Чернышева |date=2014-02-02 |url=https://rg.ru/2014/02/02/kurily-site.html |title=10 особенностей Курильских островов |website=rg.ru |publisher=[[ロシア新聞]] |accessdate=2020-06-13|language=ru}}</ref>)」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/grp/1120P.pdf |title=アイヌ語地名リスト イチャ〜エリ P11-20 |website=hokkaido.lg.jp |publisher=北海道庁 |accessdate=2020-06-13}}</ref>。ロシア名は'''イトゥルップ島'''({{lang|ru|Итуруп}}、Iturup)。
== 地理 ==
[[ファイル:Iturup Relief Map, SRTM-1.jpg|thumb|地形図]]
[[ファイル:Southern-Kuril-Islands-ISS-Space.png|thumb|国際宇宙ステーションから見た[[歯舞群島]]、[[色丹島]]、[[国後島]]、択捉島、[[得撫島]]]]
面積は3,186.64[[平方キロメートル]]<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150402151848/http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201410/shima.pdf 島面積 平成26年10月1日時点]}} 国土地理院</ref>、長さは約214[[キロメートル]]に及ぶ細長い島であり、日本では、本土4島を除いて面積最大の島である。
[[国後島]]の北東にある'''[[国後水道]]'''([[ロシア語|露]]: エカチェリーナ海峡 {{lang|ru|пролив Екатерины}})を隔てて位置し、択捉島の北東にある'''[[択捉水道|択捉海峡]]'''(露: フリーズ海峡 {{lang|ru|пр. Фриза}})を隔てて[[得撫島]](露: ウルップ島 {{lang|ru|остров Уруп}})へと連なっている。
人口6,739人<ref>2006年([[平成]]18年)現在、ロシア統計より。</ref>。中心集落は、[[紗那村|紗那]](露: [[クリリスク]] {{lang|ru|Курильск}} - 「千島の町」の意)、2006年(平成18年)の人口は2,005人。
面積では日本の領土の[[島]]のうち[[本州]]、[[北海道]]、[[九州]]、[[四国]]に次ぐ(本土4島以外の大きさは、大きな方から順番に、択捉島 - 国後島 - 沖縄本島 - [[佐渡島]] - [[奄美大島]] - [[対馬]] - [[淡路島]])。[[国後島]]の2.1倍強、[[沖縄本島]]のおよそ2.7倍である。したがって「[[北方領土問題|北方領土]]」の中でも最大の島であり、その面積は全体の63.4[[パーセント]]を占める。
[[北海道]][[根室振興局]]管内に所属する'''日本最北端の島'''であり、択捉島最北端の[[カモイワッカ岬]](露: コリツキー岬 {{lang|ru|М. Корицкий}})は、{{ウィキ座標度分秒|45|33|28|N|148|45|14|E|name=カモイワッカ岬}}の位置にあり、日本政府が領有権を主張する領域内で最北端の地である。
[[第二次世界大戦]]末期に[[日ソ中立条約]]を一方的に破棄した[[赤軍|ソ連軍]]により武力占領され、現在は[[ロシア|ロシア連邦]]の[[実効支配]]下にある。ロシア側行政区においては、国後島や[[色丹島]]とは別の行政単位である[[サハリン州]][[クリル管区]]に位置付けされている。日本政府の見解では、上記は[[国際法]]違反であるとし不法占拠下にあるとしている([[北方領土問題]])。
北東から南西方向に伸びる細長い島であり、幅は約20 - 30キロメートルであるのに対し、長さは約214キロメートルとなっている。北東端は[[ラッキベツ岬]]、南西端は[[ベルタルベ岬]]である。島の北側には[[散布半島]]が突き出している。また、中部には[[単冠湾]](ひとかっぷわん、露: カサトカ湾 {{lang|ru|Зал. Касатка}})、南部には[[内保湾]]<small>(ないぼわん)</small>がある。平地は少なく、[[火山]]が多い。[[火口湖]]の[[得茂別湖]]<small>(うるもんべつこ)</small>も島の南部に位置している。
=== 主な地形 ===
<div style="font-size:90%;">{{座標一覧}}</div>
{{-}}
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="line-height:1.4em; font-size:95%"
|- style="white-space:nowrap;"
|+ 択捉島の火山<ref>{{cite web |date=2020 |url=https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/Japan_retto/map1.html |title=volcano distribution map |website=gbank.gsj.jp |publisher=[[地質調査総合センター]] |accessdate=2020-06-05}}</ref>
! 日本名 !! ローマ字 !! ロシア名 !! 英名 !! 座標 !! 標高([[メートル|m]]) !! 最新噴火 !! 備考
|-
! [[神威岳 (択捉島)|神威岳]]
| Kamui dake || влк. Камуй || Kamui volcano || {{ウィキ座標|45|30|57.2|N|148|48|22.4|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=神威岳}} || 1323 m || [[後期更新世]] || 神威岳とラッキベツ岳 (Demon) からなる火山群。北側開きの崩壊地形を持つ。
|-
! [[茂世路岳]]
| Moyoro dake || влк. Медвежий || Medvezhia || {{ウィキ座標|45|23|20.2|N|148|50|16.9|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=茂世路岳}} || 1124 m || 1999年 (Kudriavy)|| 約41万年前に形成された直径8 - 9{{nbsp}}kmのMedvezhia Calderaの後カルデラ火山で、茂世路岳はそのうち最大の山体のもの。同カルデラ内の他の後カルデラ火山として、硫黄岳 (Kudriavy, 975{{nbsp}}m)、焼山 (Meenshoi Brat, 562{{nbsp}}m) が東西に並ぶ。Kudriavyは噴気活動が活発な[[活火山]]で、[[レニウム]][[鉱床]]が存在する。
|-
! [[蘂取カルデラ|蘂取]]
| Shibetoro || Кальдера Цирк || Tsirk caldera || {{ウィキ座標|45|21|18|N|148|36|36|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=蘂取}} || - || [[カラブリアン]]〜[[チバニアン]] || 直径約6{{nbsp}}[[キロメートル|km]]のカルデラ。先カルデラ火山として蘂取岳などがある。
|-
! [[留茶留山]]
| Rucharu yama || Голетс || Golets || {{ウィキ座標|45|14|36.8|N|148|20|38.4|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=留茶留山}} || {{0}}442 m || 後期更新世〜[[完新世]] || 留茶留山 (Golets)、ポロス山 (Parusnaya) などからなる[[火砕丘]]。
|-
! <!-- 乙知志 (仮称) -->
| <!-- Occhishi --> || Ветровой перешеек || Vetrovoi Isthmus || {{ウィキ座標|45|13|56|N|148|15|33|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=Vetrovoi Isthmus}} || - || [[更新世]] || 直径6〜7{{nbsp}}kmのカルデラ。カルデラ内には直径1{{nbsp}}kmの火口があり、この火口の縁に小さな火砕丘(丸山)、またこの南南西約2{{nbsp}}kmにも火山体(朱須山)がある。
|-
! [[散布山]]
| Chirippu san || влк. Б. Хмельницкий || B. Khmelnytsky volcano || {{ウィキ座標|45|20|14.9|N|147|55|11.9|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=散布山}} || 1587 m || 1860年 || 散布山 (B. Khmelnytsky) と、その北約4.5{{nbsp}}kmにある北散布山 (Chirip, 1561{{nbsp}}m) の二峰からなる火山群。どちらも山頂付近に直径約250{{nbsp}}mの火口を持つ。火山群の西側に崩壊地形を持つ。
|-
! [[指臼岳]]
| Sashiusu dake || влк. Баранского || Baransky volcano || {{ウィキ座標|45|06|12.8|N|148|00|50.8|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=指臼岳}} || 1125 m || 1951年? || Grozny Groupの一つ。直径約500{{nbsp}}mの北開きの火口に中央火口丘を持つ。
|-
! [[小田萌山]]
| Odamoi yama || влк. Тебенькова || Tebenkov volcano || {{ウィキ座標|45|01|42.8|N|147|55|01.1|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=小田萌山}} || 1208 m || 完新世 || Grozny Groupの最高峰。南麓の谷で噴気活動がある。
|-
! [[焼山 (択捉島)|焼山]]
| Yakeyama || влк. Иван Грозный || Ivan Grozny volcano || {{ウィキ座標|45|00|40.8|N|147|52|19.7|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=焼山}} || 1158 m || 2012年 || Grozny Groupの一つ。直径3 - 3.5{{nbsp}}kmのカルデラを有する。
|-
! [[恩根登山]]
| Onnepuri yama || влк. Буревестник || Burevestnik volcano || {{ウィキ座標|44|52|37.0|N|147|27|35.5|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=恩根登山}} || 1422 m || - || Bogatyr Ridgeの一つ。
|-
! [[西単冠山]]
| Nishi-Hitokappu yama || Стокап || Stokap || {{ウィキ座標|44|50|22.5|N|147|20|39.3|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=西単冠山}} || 1634 m || 完新世 || Bogatyr Ridgeの西端に位置する択捉島最高峰の火山。
|-
! [[阿登佐岳]]
| Atosanupuri / Atosadake || Атсонупури || Atsonupuri || {{ウィキ座標|44|48|27.7|N|147|07|50.0|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=アトサヌプリ}} || 1209 m || 1812年? || 山頂部に直径1 - 2{{nbsp}}kmのカルデラを持つソンマ火山。
|-
! [[キモンマ沼]]
| Kimomma numa || Лесозаводское || Lesozavodskoye || {{ウィキ座標|44|46|48|N|147|13|18|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=キモンマ沼}} || - || 1982年? || 西占冠山と阿登佐岳の間の低地にある[[マール (火山)|マール]]。
|-
! [[得茂別湖|得茂別]]
| Urumombetsu || Кальдера Урбич || Urbich caldera || {{ウィキ座標|44|37|30|N|147|12|00|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=得茂別}} || {{00}}32 m || チバニアン || 直径6{{nbsp}}kmのカルデラ。カルデラ内には得茂別湖がある。南西側に得茂別カルデラの下位に六甲カルデラが半分埋もれている。
|-
! [[萌消湾|萌消]]
| Moekeshi / Moikeshi || Львиная Пасть || Lvinaya Past || {{ウィキ座標|44|37|00|N|146|59|00|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=萌消}} || - || 9400年前 || 直径約7×9{{nbsp}}kmのカルデラ。カルデラ底は海面下550{{nbsp}}mにある。約9400年前に総噴出量75{{nbsp}}[[立法キロメートル|km{{sup|3}}]]の噴火により形成した<ref>{{cite web|url=https://www2.bgs.ac.uk/vogripa/searchVOGRIPA.cfc?method=detail&id=1383&volcanoTypeFilterList=®ionFilterList=&sortField=volcanoName&sortOrder=ASC |title=Lyinaya Past |publisher=VOGRIPA |accessdate=2021-04-06}}</ref>。この噴火以前の択捉島の南端は六甲山麓であったが、噴火によって海が埋め立てられ一体化し、ベルタルベ山麓が南端となった。
|-
! [[ベルタルベ山]]
| Berutarube san || Берутарубе || Berutarube || {{ウィキ座標|44|27|42.5|N|146|55|55.2|E|type:mountain_region:RU-SAK|地図|name=ベルタルベ}} || 1221 m || 1812年? || 山頂付近に噴気活動があり、硫黄が堆積している。
|}
[[画像:Chirippu.jpg|thumb|北散布山 (1,561{{nbsp}}m) と散布山 (1,587{{nbsp}}m) を西から見る]]
* [[散布山]](ちりっぷさん、露: ボクダン・フメリニツキー火山、{{lang|ru|Богдан Хмельницкий}}、英: Chirip)1,587{{nbsp}}[[メートル|m]] - [[1843年]]と[[1860年]]に噴火している<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|散布山 有史以降の火山活動|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/152_Chirippusan/152_history.html|accessdate=2020-05-24}}</ref>。
* [[神威岳 (択捉島)|神威岳]](かむいだけ、英: Demon)1,323 m
* [[茂世路岳]](もよろだけ、1,124 m、露: クドリャブイ火山 {{lang|ru|Влк. Кудрявый}}、英: Medvezhia)- [[1778年]]、[[1883年]]、[[1999年]]に噴火が確認されている。[[1946年]]、[[1958年]]にも噴火した可能性がある<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|茂世路岳 有史以降の火山活動|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/151_Moyorodake/151_history.html|accessdate=2020-05-27}}</ref>。
* [[指臼岳]](さしうすだけ、英: Baransky)1,125 m - [[1951年]]に噴火か<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|指臼岳 有史以降の火山活動|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/153_Sashiusudake/153_history.html|accessdate=2020-06-09}}</ref>。
* [[小田萌山]](おだもいやま、露: {{lang|ru|Грозный}}、英: Grozny)1,208 m - 記録に残る火山活動はない<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|小田萌山|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/154_Odamoisan/154_index.html|accessdate=2020-06-24}}</ref>。
* [[焼山 (択捉島)|焼山]](やけやま)1,158 m - 択捉焼山とも呼ぶ。[[1968年]]、[[1970年]]、[[1973年]]、[[1989年]]、[[2012年]]に噴火が確認されている<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|択捉焼山 有史以降の火山活動|url=https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/sapporo/155_Etorofu-Yakeyama/155_history.html|accessdate=2020-06-24}}</ref>。
* [[阿登佐岳]](あとさぬぷり、露: {{lang|ru|Атсонупури}}、英: Atsonupuri)1,209 m - [[1812年]]、[[1932年]]に噴火。
* [[単冠山]](ひとかっぷやま、露: {{lang|ru|Богатырь}}、英: Bogatyr) - 連山
** 西単冠山(にしひとかっぷやま、露: {{lang-ru|Стокап}}、英: Stokap)1,629 m。択捉島の最高峰。
** 恩根登山(おんねのぼりやま)1,422 m
* [[ベルタルベ山]](ベルタルベさん、英: Berutarube)1,221 m - [[1812年]]に噴火があったかどうか、はっきりしていない。
湖沼:[[蘂取沼]](しべとろぬま、露: {{lang|ru|Озеро Славное}}、2.71{{nbsp}}[[平方キロメートル|km{{sup|2}}]])、[[トウロ沼]](露: {{lang|ru|Озеро Сопочное}}、1.31{{nbsp}}km{{sup|2}})、瀬石沼(露: {{lang|ru|Рейдово озеро}})、[[紗那沼]](しゃなぬま、露: {{lang|ru|Озеро Лебединое}}、1.02{{nbsp}}km{{sup|2}})、[[ラウス沼]](露: {{lang|ru|Озеро Куйбышевское}}、1.41{{nbsp}}km{{sup|2}})、[[年萌湖]](としもいこ、露: {{lang|ru|Благодатное озеро}}、4.25{{nbsp}}km{{sup|2}})、キモン沼(露: {{lang|ru|Озеро Касатка}})、ヤンケ沼(露: {{lang|ru|Озеро Октябрьское}})、レブン沼(露: {{lang|ru|Озеро Среднее}})、[[キモンマ沼]](露: {{lang|ru|Лесозаводское озеро}}、1.45{{nbsp}}km{{sup|2}})、[[内保沼]](ないぼぬま、露: {{lang|ru|Доброе озеро}}、2.56{{nbsp}}km{{sup|2}})、[[得茂別湖]](うるもんべつこ、露: {{lang|ru|Озеро Красивое}}、5.71{{nbsp}}km{{sup|2}})。
== 行政区分 ==
<!-- 中立性を期すため国際基準の国コード(日本=JP→ロシア=RU)を用いたアルファベット順に並べています。並び替えはしないでください。 -->
[[ファイル:Northern-Territories-of-Japan-Map-日本の北方領土の地図.png|380px|thumb|right|[[歯舞群島]]、[[色丹島]]、[[国後島]]、'''択捉島'''の位置図。<br />1.[[色丹村]]、2.[[泊村 (北海道根室振興局)|泊村]]、3.[[留夜別村]]、4.'''[[留別村]]'''、5.'''[[紗那村]]'''、6.'''[[蘂取村]]'''(4から6は択捉島に位置する)]]
{{multiple image
| direction = vertical
| image1 = USSR map NL 55-8 Shana.jpg
| image2 = USSR map NL 55-11 Naibo-numa.jpg
| image3 = USSR map NL 55-10 Rausu.jpg
| caption3 = 昭和28年の択捉島(北部・中部・南部([[国後島]]の北部や[[知床半島]]と))
}}
=== 日本 ===
* [[北海道]][[根室振興局]]
** [[択捉郡]] - [[留別村]]
** [[紗那郡]] - [[紗那村]]
** [[蘂取郡]] - [[蘂取村]]
=== ロシア ===
* [[サハリン州]]
** [[クリル管区]]
*** [[クリリスク]]
*** [[ブレヴェスニク]]
*** スラブノエ
*** [[ゴリャチエ・クリュチ村]]
== 歴史 ==
=== 第二次大戦終結まで ===
[[アイヌ]]が先住しており、[[17世紀]]後半には[[メナシクル]]の勢力がのびた。
* [[1635年]]([[寛永]]12年)、[[松前藩]]は藩士に命じ国後・択捉などを含む[[蝦夷地]]の地図を作成。
* [[1643年]](寛永20年)、[[オランダ東インド会社]]の[[地理学者]][[マルチン・ゲルリッツエン・フリース]]は、[[得撫島|ウルップ島]]に上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」([[オランダ東インド会社|東インド会社]]の土地)と命名し、択捉島は「スターテンライト」([[オランダ国]]の島)と名付け、[[国後島]]に上陸した<ref>[https://web.archive.org/web/20161212001131/http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/dcitynd.nsf/doc/D2A176198CF3A59C49257108001851D7?OpenDocument 「最初の千島探検」根室市公式HP]</ref>。
* [[1644年]]([[正保]]元年)、『[[正保御国絵図]]』にエトロホと記された島があり、択捉島が日本地図に記載された最初とされている。
* [[1661年]]([[寛文]]元年)『[[勢州船北海漂着記]]』にはに[[伊勢国]]松坂の七郎兵衛の船が漂流の末に同島に到達していたこと、『[[恵渡路部漂流記]]』には[[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]2年)に薩摩国大隅の船が同島に漂着していることについての記述がある<ref>[http://www.mctv.ne.jp/~takase/E18.htm 伊勢国松坂の船北海を漂流する]</ref>。
* [[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]5年)、松前藩主は[[江戸幕府|幕府]]に「[[北海道]]本島、[[樺太]]、[[千島列島]]、[[カムチャツカ半島|勘察加]]は自藩領」と報告。
* [[1731年]]([[享保]]16年)、国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。
* [[1754年]]([[宝暦]]4年)松前藩によって家臣の[[知行#知行概念の変質|知行地]]として開かれた[[千島国#国後場所の成立と択捉場所の分立|国後場所]]に属する。当初、国後場所の領域には択捉島や[[得撫島]]も含まれていた。[[場所請負制]]も参照。
** ロシア人の足跡としては、[[1766年]]([[明和]]3年)にウルップ島のイワン・チョールヌイ({{lang|ru|Иван Черный}})が、同島アイヌからヤサーク(毛皮税)を取り立てているのが、文献上でのロシア人最初のものである。さらに、その10年後には、ロシア商人シャパーリンも同島アイヌからヤサークを受け取っている。
* [[1786年]]([[天明]]6年)に[[最上徳内]]が同島を探検した際の上陸時に、ロシア人同士のトラブルにより取り残された3名の在留ロシア人がおり、アイヌの中には[[正教会|正教]]を信仰するものもあったことが確認されている(ロシアでは、国家に帰属し納税意識をもたせるため、進出した地で正教の[[宣教|布教]]がなされていた)。ただし、在留ロシア人たちは[[1791年]]までに帰国した。
* [[1798年]]([[寛政]]10年)、同島を影響下に置く意図をもつロシアに対抗するため、[[近藤重蔵]]がアイヌのエカシ([[乙名]])の了承のもと、日本領を示す「[[大日本恵登呂府|大日本恵土呂府]]」の木柱を立てた。その翌年には[[蝦夷地]]を幕府直轄領([[天領]])にし、[[高田屋嘉兵衛]]に航路を運営させる。
* [[1800年]](寛政12年)には国後場所から新たに択捉場所が分立し、「エトロフ[[会所 (近世)|会所]]」を[[振別郡|振別]]に開設したほか、役職のあるアイヌ([[役蝦夷]])が住民1,118人を調べ[[宗門人別改帳|恵登呂府村々人別帳]]([[戸籍#日本|戸籍]])を作成した([[場所請負制#場所請負制成立後の行政|場所請負制成立後の行政]]も参照)。さらに高田屋は老門に番屋を建て、漁場10か所を開き和人による漁業・越年を始めるなど、各村の礎が築かれていった<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100095299|title=根室管内視察記 (一〜三)|oldmeta=00482165}} 根室管内視察記(大正2年、北海タイムス)] 新聞記事文庫 神戸大学電子図書館</ref>。
* [[1807年]]([[文化 (元号)|文化]]4年)4月、紗那と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉の{{仮リンク|ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ|ru|Хвостов, Николай Александрович|label=フヴォストフ}}({{lang|ru|Хвостов}})率いる[[露米会社]]の武装集団によって襲撃されるという「[[文化露寇|シャナ事件]]」が発生。
** 紗那は、[[弘前藩]]と[[盛岡藩]]が警固を行っていたが、火力の差に圧されて奥地へ退避している。なお、会所に赴任中だった[[間宮林蔵]]も参戦し、徹底抗戦を主張している<ref>吉村昭、間宮林蔵</ref>。この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた。その後も、盛岡藩など東北諸藩が警備にあたった。
* [[1816年]](文化13年)、日本人の漂流民を乗せたロシア船パヴェル号が択捉島に来航、このとき督乗丸の[[小栗重吉]]、音吉、半兵衛の3名が帰国。
* [[1821年]]([[文政]]4年)、択捉島をふくむ東蝦夷地が松前藩に返還される。
* [[1855年]]([[安政]]2年)、[[日露和親条約]]が締結される。この時日本はアイヌを日本国民としたうえで、アイヌの生活圏が日本領であると主張し、同島の領有をロシアに認めさせた。開国後は幕府によって[[上知令|上知]]され、幕府領となり、警固は仙台藩に任された。
** [[1859年]](安政6年)、同島は[[仙台藩]]の領地となり、仙台藩兵が駐留し警固した。
* [[1869年]]([[明治]]2年)、蝦夷地を[[北海道]]に改称。[[開拓使]]が置かれる。
**[[8月15日 (旧暦)|旧暦8月15日]](9月20日) [[北海道 (令制)|北海道11国]]が置かれた際、[[千島国]]5郡が制定される。択捉島も千島国に属し、[[択捉郡]]、[[振別郡]]、[[紗那郡]]、[[蘂取郡]]が置かれる。また、同年7月から道外の複数の[[藩]]によって[[北海道の分領支配]]が行われる。択捉島は仙台藩、[[彦根藩]]、[[佐賀藩]]、[[土佐藩]]によって分領支配された。
* [[1871年]](明治4年)
**[[7月14日 (旧暦)|旧暦7月14日]](8月29日)、[[廃藩置県]]。
**[[8月20日 (旧暦)|旧暦8月20日]](10月4日)、[[北海道の分領支配]]の廃止。全域が開拓使の管轄となる。
[[ファイル:Japanese-Buddhist-Temple-Iturup-Etorofu.png|thumb|right|日本の択捉島の仏教寺院(1939年以前)]]
[[ファイル:Shana_Village_in_Etorofu_Island.JPG|thumb|right|択捉島の[[紗那村]]。昭和初期の紗那(手前は村立病院、左奥が択捉水産の工場、中央は郵便局の無線塔)、1945年以前]]
* [[1923年]]([[大正]]12年)、[[北海道一・二級町村制|北海道二級町村制]]が施行される。[[択捉郡]][[留別村]]、[[紗那郡]][[紗那村]]、[[蘂取郡]][[蘂取村]]の3郡3村が設置され、紗那村の中心地である紗那が同島の中心地となって、[[警察署]]、[[小学校]]、[[郵便局]]などの官公署が置かれた(現在も日本の制度上は、この3郡3村は存続している)。周辺は、[[親潮]](千島海流)と[[黒潮]](日本海流)とがぶつかる海域であって、水産資源が豊かである優良な漁場であったので、漁業が主たる産業となり、入植者が増加した。
*[[1930年]](昭和5年)最上徳内らが設置した寛政12年の標柱が朽ち果ててしまったため、北海道庁が蘂取村村長の大澤敏雄に新しく作り直す事を依頼した。この時、国境が定まっていたので'''御影石で記念碑'''を作る事にした。本土に発注して出来上がった御影石の記念碑は蘂取村から船で運搬、択捉島島民の手によって(主に公務員)人力で択捉島蘂取村[[カモイワッカ岬]]に『'''大日本恵登呂府』昭和の記念碑'''を立てた。
[[ファイル:択捉島蘂取村カモイワッカ岬記念碑 写真撮影・中田直次 写真提供公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟.jpg|サムネイル|択捉島蘂取村カモイワッカ岬記念碑写真提供・公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟 写真撮影・元島民中田直次]]
[[File:択捉島蘂取村カモイワッカ岬記念碑設置後の記念撮影 写真撮影・中田直次 写真提供公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟.jpg|thumb|択捉島蘂取村カモイワッカ岬の御影石の記念碑設置後の記念写真写真提供・公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟 写真撮影・元島民中田直次]]
* [[1940年]]([[昭和]]15年)、[[大日本帝国海軍|海軍]]が飛行場を整備し始める。
* [[1941年]](昭和16年)11月20日、海軍により突如、あらゆる船の島への入出港が禁じられ、また島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止させられて電信機には常時、水兵の見張りがついた。そして情報統制下の[[単冠湾]]に[[南雲忠一]]中将率いる[[航空母艦]]6隻を含む軍艦30隻の[[機動部隊]]が秘密裏に集結、[[真珠湾攻撃]]のため11月26日に[[ハワイ]]へ向け出港していった。この島外との徹底した情報の遮断は[[太平洋戦争]]が開戦した[[12月8日]]まで続けられた。
* [[1944年]](昭和19年)、千島方面防衛のため、天寧に[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第27軍 (日本軍)|第27軍]]司令部が新設され、[[海上機動旅団#海上機動第4旅団|海上機動第4旅団]]と[[第89師団 (日本軍)#沿革|独立混成第43旅団]]が編成される。
* [[1945年]](昭和20年)に入ると本土決戦準備のため、海上機動第4旅団含め千島列島から多くの部隊が内地に転用される。終戦時には[[第89師団 (日本軍)|第89師団]]が配置されていた。
** [[8月15日]]当時、留別村2,258人 紗那村1,001人 蕊取村349人の合計3,608人の住人が、択捉島に居住していた。
=== ソビエト時代 ===
[[1945年]](昭和20年)[[8月28日]]、[[太平洋戦争]]終戦間際、すなわち降伏文書調印([[9月2日]])直前に[[赤軍|ソ連軍]]が[[日ソ中立条約]]を一方的に破り、同島に上陸し占領した(この日は、米軍先遣隊が厚木に上陸し、本土の占領が開始されたのと同日である)。[[ポツダム宣言]]第7条により、日本国の諸地点は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に占領されたが、一般命令第1号により、同島を含む千島列島は、[[ソビエト連邦|ソ連]]占領地となった。
[[1946年]](昭和21年)[[1月29日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から[[SCAPIN]]-677が命令された。これは、日本は同島を含む千島列島の[[領有|施政権]]を停止させるものだった(ただし、領有権の放棄を命じたものではなかった)。直後の[[2月2日]]、ソ連はこれらの地域を自国領に編入した。それ以降、ソ連とその後継国家であるロシア連邦による実効支配が続いている。
ソ連軍上陸後は、ソ連軍兵士による強盗・殺人・[[強姦]]や略奪行為などが横行した。また、1945年(昭和20年)9月以降しばらくの間は、日本人の本土引き揚げは禁止されていたにもかかわらず、北海道本島に渡航する人が続出した。しかしある時期から、ソ連軍兵士の略奪行為などに対して、死刑執行も含めた厳罰が下されるようになった。日本人とロシア人との混住状態が1年以上続いたが、同島からの日本人の本土引き揚げは、1946年(昭和21年)12月から本格的に始まり、1948年(昭和23年)までにおおむね終了した。
かつての中心地である紗那は、引き続き同島の中心地である。他の主要集落として、軍民兼用の飛行場がある[[ブレヴェスニク|天寧]](露: ブレヴェスニク {{lang|ru|Буревестник}}、2006年の人口は3,105人)などがある。これより島の南部や、[[別飛村|別飛]]より北東部は、自然保護区域として地元のロシア人でさえも立入りが制限されている。[[留別村|留別]](露: クイビシェフ {{lang|ru|Куйбышев}})や[[蘂取村|蘂取]](しべとろ、露: スラブノエ {{lang|ru|Слабное}})はロシア人集落となったが、現在は両村とも廃村状態である。{{独自研究範囲|date=2016年3月|[[Google Earth]]の解析<ref group="注">[[2006年]]([[平成]]18年)に新バージョンとなり、写真の半分以上が高解像度画像となっている。</ref>によれば、紗那から蘂取までの道路は、(途中の[[川]]に[[橋]]も架かっていないような悪路ではあるが)戦前に日本が作ったものが残っており、走行する[[自動車]]も認められる。また、蘂取には漁業施設と思われる建物が数軒認められる。}}
日本政府は1951年の[[サンフランシスコ平和条約]]に絡む国会審議の過程で主権を放棄する千島列島に択捉島が含まれるとしていた。その後、冷戦や朝鮮戦争の勃発などソビエトとの公的な外交チャネルが断絶した状態が続き、ようやく1956年(昭和31年)の日ソ平和条約交渉において択捉島を含む[[北方地域|北方領土]]の返還を要求したがソビエトの受け入れるところではなく、[[1956年]](昭和31年)の[[日ソ共同宣言]]による国交回復以降も、日本政府の返還要求をソ連が拒否し続けた。
=== ソ連崩壊後の択捉島 ===
[[1991年]]に、後に成立した[[ロシア連邦]]が不法占拠を継承した。[[1994年]]秋に発生した[[北海道東方沖地震]]後、人口は減少傾向にあった。
そのような状態の中、ユダヤ系ロシア人の[[アレクサンドル・グリゴリエヴィチ・ヴェルホフスキー|アレクサンドル・ヴェルホフスキー]]が創業した水産加工のギドロストロイ({{lang|ru|Гидрострой}})社(本社は[[豊原市]]([[ユジノサハリンスク]]))が、周辺の豊富な水産資源と北米の冷凍食品市場とを結びつけて、[[1990年代]]後半以降瞬く間にめざましい成長を示し、同島の経済基盤は強固なものとなり現在に至る。なお、同社は現在、別飛(露: レイドヴォ {{lang|ru|Рейдово}})に、米国製の機械を備えた日産400[[トン]]の加工が可能な大工場をもつほか、蓄積した豊富な資本を元に[[択捉銀行]]({{lang|ru|БАНК ИТУРУП}})を設立し、金融業にも乗り出している。しかし、日本政府が領土問題に関連して取引きの規制を行っているので、日本企業はこのビジネスチャンスに公式には協力できていない。
地下資源もあり、北部の[[茂世路岳]](1124{{nbsp}}m、露: クドリャブイ火山 {{lang|ru|Влк. Кудрявый}}、英: Medvezhia)は、その[[火山ガス]]に[[レアメタル]]である[[レニウム]]を大量に含有している。このため、[[ロシア科学アカデミー]]の[[科学者]]たちは、レニウムの世界有数の産出源になり得る[[火山]]と見なしている。また、金鉱開発の可能性も指摘されている。
=== ロシア連邦政府の再開発計画 ===
[[2015年]]を目標年次とするロシア連邦政府の「クリル諸島社会経済発展計画」の目玉として、工費12億[[ルーブル]](約55億円)の公共投資により、中心都市の[[クリリスク]](紗那)付近に全天候型、滑走路2,300{{nbsp}}mの[[イトゥルップ空港]]が建設された。2008年3月 ギドロストロイ社によって着工<!-- 2010年に着工<ref>[https://web.archive.org/web/20131002102053/http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrn/rinjin2.pdf 北の隣人 2011] - 北海道北方領土対策根室地域本部</ref> -->、 2014年に完成、同年[[9月10日]]、50人の乗客が搭乗した[[オーロラ (航空会社)|オーロラ]]航空機が初めて着陸した<ref>[http://www.vostokmedia.com/n207779.html {{lang|ru|Аэропорт Итуруп на Курилах принял первых пассажиров: РИА "Восток-Медиа" }}<!-- Заголовок добавлен ботом -->]</ref>。サハリン島の[[ユジノサハリンスク]]への定期便が就航しており、これによって「発展計画」の柱の一つである観光開発に大きな弾みがつくことが期待されている{{誰2|date=2016年12月}}。
2012年5月、ギドロストロイ社が主導して[[クリリスク]]の近郊キタボエにて総額34億ルーブルを投じる港湾整備工事を着工したが、韓国の建設会社がロシア以外の企業として初めて北方領土の開発に参加することとなった<ref>[https://web.archive.org/web/20120624040005/http://mainichi.jp/select/news/20120530k0000m030049000c.html 北方領土:韓国企業が工事開始…択捉島の岸壁建設] - 毎日jp(毎日新聞社、2012年(平成24年)5月29日付)</ref>。また、同年11月には観光客誘致策の一環として択捉島中心部にリゾートホテルを建設し、2015年に開業予定であるとの報道もなされている<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201211/2012112100962&g=ind 択捉島に温泉施設、来年着工=韓国で泉質分析-ロシア企業] - 時事ドットコム(時事通信社、2012年(平成24年)11月21日付、2013年(平成25年)1月10日付)</ref>。
[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]が始まり、ロシア国内から海外への旅行が困難になると、択捉島にも[[モスクワ]]や[[サンクトペテルブルグ]]からリゾート客が訪れるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/international/04032a0955684b099f07a49c60d6d5e4 |title=ウクライナ侵攻が影響…北方領土・択捉島にロシア人観光客が |publisher=日テレニュース |date=2023-08-28 |accessdate=2023-08-31}}</ref>。
=== 軍事基地の増設 ===
ウクライナ危機、クリミア危機によりロシア政府は国防を強化している。2016年4月には対艦ミサイルなどを配備し、軍事拠点の増設も発表された。また、2022年4月現在、衛星画像からSu-27などの戦闘軍用機が配備されているのが確認できる。
アメリカ海軍への牽制を考慮し、P-800対艦ミサイル系「バスチオン」「バル」が数機配備された。
===その他===
*内保遺跡
*留別遺跡
== 交通アクセス ==
=== 空港・飛行場 ===
* [[ヤースヌイ空港]] - [[紗那村]] 2014年開港
* [[ブレヴェスニク空港]] (旧 天寧飛行場) - [[留別村]]
* {{ru|Ветровое}} (Vetrovoye, 蘂取第一飛行場) - [[蘂取村]] {{ウィキ座標|45|15|4|N|148|18|40.8|E||地図}} 旧日本軍によって建設、[[ソビエト連邦|ソ連]]によって拡張<ref>[http://maps.aopa.ru/id/ZAX3 {{ru|Карта аэродромов России}}]</ref>されたが、利用されていない。
* {{ru|Сопочный}} (Sopochniy, 蘂取第三飛行場) - 蘂取村 {{ウィキ座標|45|18|20.8|N|148|23|32.8|E||地図}} 旧日本軍によって建設<ref>[http://maps.aopa.ru/id/ZAN1 {{ru|Карта аэродромов России}}]</ref>されたが、利用されていない。
=== 北海道本島から ===
戦前は、中心集落であった紗那まで定期の船便があったが、戦後は、北海道本島から択捉島への定期公共交通は、船便・航空便ともに存在しない。北海道本島から島に直接渡る場合は、「[[ビザなし交流]]」に参加し、[[チャーター船]]で根室港から出発、紗那に入港する。(「ビザなし交流」の場合であっても、チャーター船がロシアが主張する領海に入ると国際航路を通航する船舶の慣例によってロシア国旗をマストに掲げるほか、クリリスクに到着後はロシアの[[税関]]当局による入域審査を受ける。)なお、このチャーター船の利用は、旧島民とその子孫、返還運動を行う団体から推薦された者などに限定され、一般の日本人が自由に利用することはできない。
[[小型船舶]]による渡航に関しては他国と共通であり、択捉島を含む南千島には[[航行区域]]に関する情報が[[日本小型船舶検査機構]]から開示されている<ref>[http://www.jci.go.jp/areamap/pdf_etc/heisui_02.pdf 平水及び沿岸区域図] - [[日本小型船舶検査機構]]</ref>。
=== サハリン島(樺太)から ===
現在の択捉島にアクセスする定期公共交通は、南[[樺太]]を拠点に運航されている。
[[ユジノサハリンスク空港]](豊原大澤飛行場)からは、[[オーロラ (航空会社)|オーロラ]]のプロペラ機([[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8-300]])が週3便、運航されている。
道を自動車で片道2時間半かかる不便な場所にある。
[[コルサコフ (サハリン州)|コルサコフ]]([[大泊町|大泊]])港からは、サハリンクリル海運の貨客船「イゴール・ファルハトディノフ」号が週2便就航している。この船は、月曜日にコルサコフを出港し、火曜日に択捉島、水曜日に[[色丹島]]および[[国後島]]に寄港したあと、木曜日にコルサコフに帰港し、金曜日に再びコルサコフを出港し、土曜日に国後島と色丹島、日曜日に択捉島に寄港したあと、月曜日にコルサコフに帰港するというスケジュールで、3〜12月に運航される。2017年現在、州政府は輸送力を強化するために、2隻の追加配備を検討している<ref>[http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/international/international/1-0369430.html 北方領土航路、増隻検討 サハリン州 輸送能力強化狙う] どうしんweb・北海道新聞(2017年02月17日)2017年02月17日閲覧</ref>。
一般の[[日本人]]・外国人が択捉島を訪問するには、[[ロシア]]の[[査証|ビザ]]を取得したあと、稚内または新千歳または成田などから直行便を利用するか、もしくは[[仁川国際空港|ソウル]]経由でサハリンに渡り、ユジノサハリンスクで択捉島への入境許可証を取得し、空路または海路でアクセスすることになる。この方法は、北方領土においてロシアの主権に服する行為であるとして[[内閣]]が[[1989年]](平成元年)以来自粛を要請しているが、この自粛要請に法的強制力は無く、ギドロストロイ社への技術支援のための入境のほか、多くの[[書籍]]や[[ホームページ]]などで、この方法によって同島に入境した日本人旅行者の体験記が確認できる。いうまでもなく、[[欧州連合|EU]]、[[アメリカ合衆国|米国]]、[[大韓民国|韓国]]はじめ、多くの外国人ビジネスマンや技術者は、ギドロストロイ社との取引・技術支援などのため、ごく普通にロシアの査証を取得し、同じ方法で同島に入域している。
== 通信 ==
択捉島の居住者は衛星を通じて送られてくるロシアのテレビ番組(SECAM方式 ロシアチャンネル)を見ているものと思われる。距離的に日本の地上波テレビの受信は難しい地域とされる。
ラジオ放送についてはクリルスク中継局 1602{{nbsp}}[[キロヘルツ|kHz]]・1{{nbsp}}[[キロワット|kW]]・70.64{{nbsp}}[[メガヘルツ|MHz]]。 放送時間は日本時間で4時から23時とされているが確認は出来ていない。放送系統はRadio Mayakとのこと。
携帯電話はロシアの携帯電話会社 (MegaFon MTS) が参入し、方式はGSMである。日本の携帯電話はローミング可能機であれば接続可能と推定されるが、確認はされていない。エリアはクリルスクとBurevestnikの周囲とされている。
== 電力 ==
各集落にあるディーゼル発電所により供給されていたが、オケアンスカヤ地区の地熱発電所が2006年から稼働してから、地熱発電への転換が徐々に図られている<ref>[https://pangea.stanford.edu/ERE/db/WGC/papers/WGC/2015/01061.pdf Geothermal Energy Use in Russia. Country Update for 2010-2015.Proceedings World Geothermal Congress 2015]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20161024024729/http://www8.cao.go.jp/hoppo/pamphlet/pdf/pamphlet10p07-08.pdf 北方領土の自然と社会] 内閣府</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20161024024009/http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tsk/russia/russia/r-yuzhno/today2006/y-today091208.htm 2006.12.8のニュース 北海道サハリン事務所情報] 北海道経済部商工局商業経済交流課ロシアグループ</ref>。
== 択捉島を題材にした著作物・映画・テレビ番組 ==
* [[エトロフ発緊急電]](新潮文庫刊) - [[佐々木譲]]の小説。第3回[[山本周五郎賞]]、[[日本推理作家協会賞]]他受賞作。[[第二次世界大戦]]は、日米間では、[[大日本帝国海軍]][[機動部隊]]による真珠湾奇襲で幕を開けた。そのとき、大日本帝国海軍は択捉島の単冠湾に集結してから出撃した。この史実を踏まえ、日本に潜入し日本側の動向を探っていたスパイが択捉島に潜入し、機動部隊の出撃を報じる緊急電を打っていたとする物語。[[日本放送協会|NHK]]で「[[エトロフ遥かなり]]」としてドラマ化され、1993年(平成5年)11月13日から全4話が放映された。
* [[もの食う人びと]](共同通信社刊) - [[辺見庸]]の[[ルポルタージュ]]集。同著中に収められている「美しき風の島にて」の章は、択捉島を舞台としている。
* [[イノセンス]] - [[押井守]]監督の[[アニメーション映画|アニメ]]作品。舞台の一つに「エトロフ経済特区」がある。
* [[エトロフの恋]] - [[島田雅彦]]の近未来小説。「無限カノン三部作」の最終作。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Iturup}}
* [[北方領土問題]]
* [[外務省]]
* [[スターリニズム]]
* [[択捉 (海防艦)|択捉(海防艦)]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]が保有した[[海防艦]]。[[占守型海防艦]]の5番艦。名称は本島にちなむ。
* [[中田重治]] - [[日本ホーリネス教会]]初代監督、若いとき[[メソジスト]]派の伝道者として択捉島で伝道していた。
== 外部リンク ==
* {{PDF|[https://web.archive.org/web/20181008135027/http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrn/H28-05dejitarutennjikai3.pdf 択捉島の概要]}} - 北海道
* [https://web.archive.org/web/20180917003115/http://4islands.jp/outline/etrof.php 北方四島 択捉島] - 別海町
* {{NHK for School clip|D0005310869_00000|択捉島(えとろふとう)}}
{{日本の極地}}
{{千島列島}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect= イトゥルップ島|サハリン州の島}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:えとろふとう}}
[[Category:択捉島|*]]
[[Category:北方領土]]
[[Category:千島列島]]
[[Category:北海道の島]]
[[Category:日本の極と端]]
[[Category:領有権をめぐって係争されている島]]
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2003-09-26T13:42:02Z
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2023-12-27T14:43:23Z
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954年
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954年(954 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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954年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲寅]]
* [[日本]]
** [[天暦]]8年
** [[皇紀]]1614年
* [[中国]]
** 五代
*** [[後周]] : [[顕徳]]元年
** 十国
*** [[南唐]] : [[保大 (南唐)|保大]]12年
*** [[呉越]] : 顕徳元年(後周の元号を使用)
*** [[南漢]] : [[乾和]]12年
*** [[後蜀 (十国)|後蜀]] : [[広政]]17年
*** [[北漢]] : [[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]7年([[後漢 (五代)|後漢]]の元号を継続して使用)
** その他
*** [[遼]] : [[応暦]]4年
*** [[于闐]] : [[同慶 (于闐)|同慶]]43年
* [[朝鮮]]
* [[ベトナム]]
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月7日]](天暦8年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]) - [[済信]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1030年]])
* [[昭平親王]]、平安時代の[[皇族]]、能書家(+ [[1013年]])
* [[安倍吉平]]、平安時代の[[陰陽師]]、[[陰陽家]](+ [[1027年]])
* [[碓井貞光]]、平安時代の[[武将]](+ [[1021年]])
* [[大中臣輔親]]、平安時代の[[公卿]]、[[歌人]]、[[中古三十六歌仙]]の一人(+ [[1038年]])
* [[藤原義孝]]、平安時代の[[公家]]、歌人、中古三十六歌仙の一人(+ [[974年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月9日]](天暦8年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[藤原穏子]]、[[醍醐天皇]]の[[女御]](* [[885年]])
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* [[9月28日]](天暦8年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]) - [[雅子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇女]]、[[斎宮|伊勢斎宮]]、[[藤原師輔]]の[[室]](* [[910年]])
* [[10月13日]](天暦8年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[重明親王]]、平安時代の[[皇族]](* [[906年]])
* [[郭威]]、[[五代十国時代|五代]][[後周]]の初代[[皇帝]](* [[904年]])
* [[馮道]]、[[中国]][[五代十国時代]]の[[政治家]](* [[882年]])
* [[劉崇]]、十国・[[北漢]]の初代皇帝(* [[895年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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ヤークトティーガー
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ヤークトティーガー(ドイツ語: Jagdtiger)は、第二次世界大戦後期に開発され、実戦に投入されたドイツの重駆逐戦車である。重戦車ティーガーII の車台を延長して砲塔を撤去し、戦闘室を構築して12.8cm砲を搭載した。制式番号はSd.Kfz.186である。
1943年初期、前線から「3,000メートルの距離で敵戦車を撃破可能な自走砲」を要望する声に応え、「12.8cm砲付き重突撃砲」の名で開発が始められた。開発はティーガーII とほぼ並行に進められ、同年12月から量産予定だったが、製造工場のニーベルンゲン・ヴェルケ(製作所)がIV号戦車生産に追われていたため、量産開始は翌年2月からとなった。生産開始に伴い、正式に「ヤークトティーガー」と命名された。1945年1月までに150輌生産予定だったが不可能とされ、1945年に入ってからの生産計画で100輌生産後にティーガーIIに生産切り替え、5月以降は(装甲戦闘車両の生産経験の無い)ユング社が生産を引き継ぐ予定であった。
工場側の記録では、1944年7月から1945年4月までの生産数は82輌に留まった。48輌のみ完成とする説もあるほか、逆に部隊配備のための輸送記録では100輌を越え、生産中に工場が爆撃されたこともあり、実際の生産数は不明確である。
主砲は超重戦車マウスに搭載予定の巨大な128mm砲(12.8 cm PaK 44 L/55)を搭載、射角は左右各10°ずつ、俯仰角は-7 - +15°の範囲で可動する。砲弾が28kgもの重さだったので砲弾と薬莢が分離式の装填方法がとられ、装填手は2名搭乗していた。他に、128mm砲の生産が遅れぎみであったため、代わりに71口径88mm砲(8.8cm PaK43/3 L/71)搭載型が計画されたが、2両のみの生産で終わった。主砲は移動時から戦闘態勢に入るまで、車外のトラベリング・クランプの解除に時間がかかる欠点があった。128mm PaK44は大戦中最強の対戦車砲であり、連合軍のいかなる戦車も撃破可能で、建物反対側に隠れたM4中戦車を撃破した記録もある。
前面最大250mmの分厚い装甲と、55口径128mm戦車砲という強力な攻撃力を兼ね備えていたが機動性は劣悪で、1日に移動できる距離が30 - 40kmあればいい方であり、2日で90km移動したことが「大記録」とされるほどであった。長距離移動を列車で行う場合、スカートを外し幅の狭い履帯を装着して貨車の幅に合わせるようになっていたが、現実には列車の手配が間に合わず自走することが多かった。
高い防御力の対価である大重量は、敵に撃破される前に、重量によるエンジンや変速器、ブレーキ故障の頻発や燃料消費が多いといった事態を引き起こした。また、行動不能になった場合の牽引も通常の牽引車では力不足で、戦闘による被撃破より、燃料切れや故障、軽度の損傷により放棄され、自爆処分された車輌の方が多かった。生産数が少なく戦局に大きな影響を与えることはなかったが、正面からヤークトティーガーを撃破できる連合軍の火砲は存在しなかった。
ヤークトティーガーは愛称ではなく制式名称である。
1943年2月から本車は開発が検討された。開発当初から「12.8cm砲付き重突撃砲」、「ティーガーHシャシーの12.8cm戦車駆逐車」等と呼称の揺れが見られる。「VI号戦車駆逐車」(Pz.Jg.VI、パンツァーイェーガーVI)という呼び方は、1944年3月4日に機甲兵総監部が作成した書類の1つに記されている。
1944年2月27日に作成された陸軍参謀本部部長の書類では、ティーガーの車体を用いた重戦車駆逐車が「ヤークトティーガー」の暗号名で呼称されることを示している。1944年3月4日の機甲兵総監部文書ではヤークトティーガー(ティーガーIIシャシーの55口径12.8cm対戦車砲44)との呼称が記載された。しかし、それ以後も各部局の書類上ではヤークトティーガーもしくはティーガーII戦車駆逐車など、さまざまな記載がなされている。
1944年9月11日、陸軍参謀本部部長作成の書類では、部隊における名称がヤークトティーガー、書類記載上の名称はヤークトティーガー型であることが記載された。しかし、最終段階にあっても記載される名称は揺れており、1944年11月28日の告知書では戦車駆逐車ティーガー、1945年2月25日の機甲兵総監部文書ではヤークトティーガー(ポルシェ式走行装置)という名称が見られる。
最初のヤークトティーガーは1944年6月ミーラウの機甲猟兵教導師団へ配備された。その後の量産車は、エレファントから装備転換された第653重戦車駆逐大隊と、1945年2月6日に編成命令が出された第512重戦車駆逐大隊(英語版)の2個重戦車駆逐大隊のみに配備された。
第653重戦車駆逐大隊はアルデンヌの戦いを援護するノルトヴィント作戦に投入されることになっていたが、連合軍の低空からの襲撃で夜間にのみ移動が可能であり、さらに長距離の移動は列車によらねばならず、その確保が遅れたり、移動途中で次々に故障するなどのトラブルにより、結局参加できたのはわずか3輌であった。
一方、第512重戦車駆逐大隊はリンツのニーベルゲン工場から送られた20輌を受領して第1中隊・第2中隊にそれぞれ10両ずつ配備し、補佐する突撃砲や対空自走砲小隊を付けた2個戦闘大隊を編成した。射撃訓練はデーレルスハイムで行われ、ルーデンドルフ橋(通称レマーゲン鉄橋)を渡ったアメリカ軍が築いた橋頭堡への攻撃に参加するが、ヤークトティーガーは少数ずつ到着次第順番に投入されてしまい、攻撃は失敗に終わった。アルバート・エルンスト中尉率いる第1中隊は残った6輌のヤークトティーガーで、撤収の援護を行う殿として活躍した。この功績でエルンストは大尉に昇進している。ジーゲン地区に後退した後、エルグステ地区に進出。エルンストの第1中隊は残余4両のヤークトティーガーに突撃砲4両、IV号戦車1両、4連装自走対空砲4両の小規模な戦闘団を編成、イーザーローンの街でアメリカ軍戦車24両を撃破するなど悩ませた末、アメリカ第1軍にルール包囲網の中では唯一堂々と降伏し、武装解除された。
ティーガー戦車を駆ってソ連戦車150輌以上を撃破したドイツ国防軍戦車エース、オットー・カリウス少尉の著した『ティーガー戦車隊』(英語版題名:Tigers In The Mud) には、レマーゲンの戦いにおいて、彼が率いた上記の第512重戦車駆逐大隊(英語版)(Schwere Panzerjäger-Abteilung 512.)第2中隊に所属する10輌のヤークトティーガーの戦いが記録されている。
カリウスは1945年からは第512重戦車駆逐大隊第2中隊の中隊長としてヤークトティーガー10輌を指揮することとなった。ヤークトティーガーは全重72トンもの重駆逐戦車だが旋回砲塔を持たないため、照準を合わせるには巨大な車体を方向転換させる必要があった。このため、操向変速機、転輪、履帯に過大な負担がかかるという無理のある設計であった。
また、8メートルもの長砲身はわずかな距離でもトラベリングクランプによる砲身固定をせずに走行すると、振動で砲身が揺動し、砲架のギアが摩耗して狂いによる照準誤差が発生したり、砲が使えなくなることも多かった。トラベリングクランプは車体正面の傾斜した前面に設けられており、解除するには乗員が車外に出る必要があった。しかも砲身の解除が必要になるのは戦闘中であることが多かったため、しばしば乗員を危険にさらすこととなった。それまで旋回砲塔のある戦車の指揮官であったカリウスは、全周方向に即応できないヤークトティーガーに非常に苦労させられた。
さらにこれらの技術的問題に加え、1945年のドイツ軍では練度の低下が問題となった。10輌のヤークトティーガーの車長のうち、東部戦線での従軍経験のある指揮官は3人程度で、残る7割は実戦経験が無かった。一例として、うまく偽装されていた2輌のヤークトティーガーの指揮官2人は、約1.5kmという迎撃に最適な距離でアメリカ軍戦車の縦隊を発見したにもかかわらず、存在しないアメリカ軍戦闘爆撃機からの攻撃を恐れて交戦しなかったうえ、現場を放棄して撤退する始末であった。その結果、過重なヤークトティーガーは走行による負荷で2輌とも故障し、うち1輌は自爆処分された。
同様の事態が再び起こることを恐れたカリウスは、部隊を指揮してジーゲン (Siegen) 谷の奥の高所から待ち伏せを行った。しかし、今度は味方であるはずのドイツ市民が谷に侵攻したアメリカ軍へ待ち伏せを通報し、カリウスの攻撃は失敗した。
ヴァイデナウではアメリカ軍戦車と遭遇戦となった。このときアメリカ軍のM4中戦車は直ちに家屋の裏に隠れたが、ヤークトティーガーの128mm砲は家屋を貫通してそれを撃破することに成功している。その直後、アメリカ軍機に発見されて爆撃されたが、損害は無かった。ただしその夜、後退時に爆弾のクレーターに落ちた1輌が破損した。もう1輌は、ヤークトティーガーを見たことの無いドイツの国民突撃隊が誤射したパンツァーファウストにより撃破された。
ウンナを出発してイーザーローンへ向かった時、距離600メートルでアメリカ軍戦車5輌を発見し、カリウスはヤークトティーガー1輌を迎撃に送り出したが、経験の無い車長は迎撃を行えなかった。地形は坂道であったが、敵に発見される前にこれを登りきり、照準可能なよう砲の俯角をとれる場所まで下ることをしなかったため、直ちに射撃できなかったのである。その間、アメリカ軍戦車5輌中2輌は逃走し、残り3輌との砲撃戦が展開された。アメリカ軍の砲撃はいずれもぶ厚いヤークトティーガーの前面装甲を撃ち抜けなかったが、ヤークトティーガーの方も1発も反撃できなかった。この際、前面装甲を敵に向けたまま後退すべきであったが、旋回して側面をさらしたヤークトティーガーは撃破され、6人の乗員全員が戦死した。この戦闘に関してカリウスは「一番良い兵器でも、訓練された兵が扱わねば何の役にも立たない」と記録している。カリウスは、最終的には残存したヤークトティーガーの砲の破壊を命じ、アメリカ軍に投降した。
以上、第512大隊第2中隊のヤークトティーガー10輌の戦果はアメリカ軍戦車1輌撃破のみで、ヤークトティーガー側は1輌が被撃破、1輌は味方の誤射で撃破され、残る8輌は戦わずして故障による放棄や自爆処分という結果に終わった。
車台はティーガーII の物を基本に、128mm砲を搭載する関係で約26cm延長し、転輪の配置の間隔も変更された物を使用しているが、走行装置は2種類存在する。
1つは生産初期につくられたポルシェ型で、ポルシェ社がエレファント駆逐戦車などで採用した外装式縦置きトーションバー・サスペンションを使用したものである。外観上、ポルシェ型では転輪が8枚見える(これは見えた通り8枚であり、ティーガーIやパンターは8組16枚または24枚であるので同一配置ではない)。
もう1つは内装式トーションバー・サスペンションを使用したヘンシェル社製の走行装置であり、ヘンシェル型ではティーガーIIと同じく転輪が片側9組18枚である。
ポルシェ型は生産コストと製造時間の短縮、整備性、重量軽減に優れると言う触れ込みで初期の車台に用いられたが、兵器局の走行装置試験で履帯が上下に脈動する問題が発生している。これは時速15km/hに達するまで乗員に不快な振動を感じさせるもので、生産第3号車にエレファント用の履帯を装着してみたが問題は解決せず、結局10輌(シャーシNo.305001 - 305011。305002はヘンシェル型)のみの生産に終わり、このうち5輌が第653重戦車駆逐大隊に実戦配備されるに留まった。
ヤークトティーガーの生産中の設計変更の内、もっとも大きなものが前項の車台変更(ポルシェ式サスペンションからヘンシェル式サスペンションへの変更)であるが、この他にも生産時期により細部の設計変更が随時行われている。ここに示したものは博物館の保管車両や写真等から判別可能な車体外装部の変更がほとんどで、車体内部機構の変更も行われていた可能性ももちろんあるが、詳細は不明である。
1945年4月以降、一部の車両(1両から4両程度とされる)がヤークトパンターと同じ71口径88mm戦車砲PaK43を搭載した状態で製造された。このタイプにはSd.Kfz.185の特殊車輌番号が付けられたとされるが、実戦投入されたかは不明である。
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"text": "ウンナを出発してイーザーローンへ向かった時、距離600メートルでアメリカ軍戦車5輌を発見し、カリウスはヤークトティーガー1輌を迎撃に送り出したが、経験の無い車長は迎撃を行えなかった。地形は坂道であったが、敵に発見される前にこれを登りきり、照準可能なよう砲の俯角をとれる場所まで下ることをしなかったため、直ちに射撃できなかったのである。その間、アメリカ軍戦車5輌中2輌は逃走し、残り3輌との砲撃戦が展開された。アメリカ軍の砲撃はいずれもぶ厚いヤークトティーガーの前面装甲を撃ち抜けなかったが、ヤークトティーガーの方も1発も反撃できなかった。この際、前面装甲を敵に向けたまま後退すべきであったが、旋回して側面をさらしたヤークトティーガーは撃破され、6人の乗員全員が戦死した。この戦闘に関してカリウスは「一番良い兵器でも、訓練された兵が扱わねば何の役にも立たない」と記録している。カリウスは、最終的には残存したヤークトティーガーの砲の破壊を命じ、アメリカ軍に投降した。",
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"text": "以上、第512大隊第2中隊のヤークトティーガー10輌の戦果はアメリカ軍戦車1輌撃破のみで、ヤークトティーガー側は1輌が被撃破、1輌は味方の誤射で撃破され、残る8輌は戦わずして故障による放棄や自爆処分という結果に終わった。",
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"text": "車台はティーガーII の物を基本に、128mm砲を搭載する関係で約26cm延長し、転輪の配置の間隔も変更された物を使用しているが、走行装置は2種類存在する。",
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"text": "1つは生産初期につくられたポルシェ型で、ポルシェ社がエレファント駆逐戦車などで採用した外装式縦置きトーションバー・サスペンションを使用したものである。外観上、ポルシェ型では転輪が8枚見える(これは見えた通り8枚であり、ティーガーIやパンターは8組16枚または24枚であるので同一配置ではない)。",
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"text": "もう1つは内装式トーションバー・サスペンションを使用したヘンシェル社製の走行装置であり、ヘンシェル型ではティーガーIIと同じく転輪が片側9組18枚である。",
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"text": "ポルシェ型は生産コストと製造時間の短縮、整備性、重量軽減に優れると言う触れ込みで初期の車台に用いられたが、兵器局の走行装置試験で履帯が上下に脈動する問題が発生している。これは時速15km/hに達するまで乗員に不快な振動を感じさせるもので、生産第3号車にエレファント用の履帯を装着してみたが問題は解決せず、結局10輌(シャーシNo.305001 - 305011。305002はヘンシェル型)のみの生産に終わり、このうち5輌が第653重戦車駆逐大隊に実戦配備されるに留まった。",
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"text": "ヤークトティーガーの生産中の設計変更の内、もっとも大きなものが前項の車台変更(ポルシェ式サスペンションからヘンシェル式サスペンションへの変更)であるが、この他にも生産時期により細部の設計変更が随時行われている。ここに示したものは博物館の保管車両や写真等から判別可能な車体外装部の変更がほとんどで、車体内部機構の変更も行われていた可能性ももちろんあるが、詳細は不明である。",
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"text": "1945年4月以降、一部の車両(1両から4両程度とされる)がヤークトパンターと同じ71口径88mm戦車砲PaK43を搭載した状態で製造された。このタイプにはSd.Kfz.185の特殊車輌番号が付けられたとされるが、実戦投入されたかは不明である。",
"title": "生産中の設計変更"
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] |
ヤークトティーガーは、第二次世界大戦後期に開発され、実戦に投入されたドイツの重駆逐戦車である。重戦車ティーガーII の車台を延長して砲塔を撤去し、戦闘室を構築して12.8cm砲を搭載した。制式番号はSd.Kfz.186である。
|
{{参照方法|date=2015-11-12}}
{{戦車
| 名称=ヤークトティーガー
| 画像=[[ファイル:Jagdtiger-Aberdeen.00059se8.jpg|300px]]
| 説明=
| 全長=10.654 m
| 車体長=7.62 m
| 全幅=3.625 m
| 全高=2.945 m
| 重量=75 t
| 懸架方式=[[トーションバー・スプリング|トーションバー]]方式
| 速度=
| 整地時速度=41.5 km/h
| 不整地時速度=20 km/h
| 行動距離=170 km 路外 120 km
| 主砲=[[12.8 cm PaK 44|55口径128 mm Pak44 L/55]](40発)
| 副武装=7.92mm [[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|MG34機関銃]] 1挺
| 装甲=
;戦闘室
*前面250 mm 傾斜75°(水平に対して。)
*側面80 mm 傾斜65°
*後面80 mm 傾斜80°
*上面40 - 45 mm
;車体
*前面上部150 mm 傾斜40°
*前面下部100 mm 傾斜40°
*側面80 mm 傾斜65°
*上面40 mm 底面25 mm
| エンジン名=[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]HL230P30<br />[[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]
| 出力=700 hp/3,000 rpm (520 kW)
| 乗員=6名
| 備考=
}}
'''ヤークトティーガー'''({{lang-de|Jagdtiger}})は、[[第二次世界大戦]]後期に開発され、実戦に投入された[[ドイツ国|ドイツ]]の[[駆逐戦車|重駆逐戦車]]である。[[重戦車]][[ティーガーII]] の[[プラットフォーム (自動車)|車台]]を延長して砲塔を撤去し、戦闘室を構築して12.8cm砲を搭載した。[[特殊車輌番号|制式番号]]は'''Sd.Kfz.186'''である。
== 開発 ==
1943年初期、前線から「3,000メートルの距離で敵戦車を撃破可能な自走砲」を要望する声に応え、「12.8cm砲付き重[[突撃砲]]」の名で開発が始められた。開発は[[ティーガーII]] とほぼ並行に進められ、同年12月から量産予定だったが、製造工場のニーベルンゲン・ヴェルケ(製作所)が[[IV号戦車]]生産に追われていたため、量産開始は翌年2月からとなった。生産開始に伴い、正式に「ヤークトティーガー」と命名された。1945年1月までに150輌生産予定だったが不可能とされ、1945年に入ってからの生産計画で100輌生産後にティーガーIIに生産切り替え、5月以降は([[装甲戦闘車両]]の生産経験の無い)ユング社が生産を引き継ぐ予定であった。
工場側の記録では、1944年7月から1945年4月までの生産数は82輌に留まった。48輌のみ完成とする説もあるほか、逆に部隊配備のための輸送記録では100輌を越え、生産中に工場が爆撃されたこともあり、実際の生産数は不明確である。
主砲は超重戦車[[マウス (戦車)|マウス]]に搭載予定の巨大な128mm砲([[12.8 cm PaK 44]] L/55)を搭載、射角は左右各10°ずつ、俯仰角は-7 - +15°の範囲で可動する。砲弾が28kgもの重さだったので砲弾と薬莢が分離式の装填方法がとられ、装填手は2名搭乗していた。他に、128mm砲の生産が遅れぎみであったため、代わりに71口径88mm砲([[8.8 cm PaK 43|8.8cm PaK43/3 L/71]])搭載型が計画されたが、2両のみの生産で終わった。主砲は移動時から戦闘態勢に入るまで、車外のトラベリング・クランプの解除に時間がかかる欠点があった。128mm PaK44は大戦中最強の[[対戦車砲]]であり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]のいかなる戦車も撃破可能で、建物反対側に隠れた[[M4中戦車]]を撃破した記録もある。
前面最大250mmの分厚い装甲と、55口径128mm戦車砲という強力な攻撃力を兼ね備えていたが機動性は劣悪で、1日に移動できる距離が30 - 40kmあればいい方であり、2日で90km移動したことが「大記録」とされるほどであった。長距離移動を列車で行う場合、スカートを外し幅の狭い履帯を装着して貨車の幅に合わせるようになっていたが、現実には列車の手配が間に合わず自走することが多かった。
高い防御力の対価である大重量は、敵に撃破される前に、重量によるエンジンや変速器、ブレーキ故障の頻発や燃料消費が多いといった事態を引き起こした。また、行動不能になった場合の牽引も通常の牽引車では力不足で、戦闘による被撃破より、燃料切れや故障、軽度の損傷により放棄され、自爆処分された車輌の方が多かった。生産数が少なく戦局に大きな影響を与えることはなかったが、正面からヤークトティーガーを撃破できる連合軍の火砲は存在しなかった。
== 名称の推移 ==
ヤークトティーガーは愛称ではなく制式名称である。
1943年2月から本車は開発が検討された。開発当初から「12.8cm砲付き重突撃砲」、「ティーガーHシャシーの12.8cm戦車駆逐車」等と呼称の揺れが見られる。「VI号戦車駆逐車」(Pz.Jg.VI、パンツァーイェーガーVI)という呼び方は、1944年3月4日に機甲兵総監部が作成した書類の1つに記されている。
1944年2月27日に作成された陸軍参謀本部部長の書類では、ティーガーの車体を用いた重戦車駆逐車が「ヤークトティーガー」の暗号名で呼称されることを示している。1944年3月4日の機甲兵総監部文書ではヤークトティーガー(ティーガーIIシャシーの55口径12.8cm対戦車砲44)との呼称が記載された。しかし、それ以後も各部局の書類上ではヤークトティーガーもしくはティーガーII戦車駆逐車など、さまざまな記載がなされている。
1944年9月11日、陸軍参謀本部部長作成の書類では、部隊における名称がヤークトティーガー、書類記載上の名称はヤークトティーガー型であることが記載された。しかし、最終段階にあっても記載される名称は揺れており、1944年11月28日の告知書では戦車駆逐車ティーガー、1945年2月25日の機甲兵総監部文書ではヤークトティーガー(ポルシェ式走行装置)という名称が見られる<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』130pから131p。</ref>。
== 部隊編成 ==
最初のヤークトティーガーは1944年6月ミーラウの機甲猟兵教導師団へ配備された。その後の量産車は、[[エレファント重駆逐戦車|エレファント]]から装備転換された[[第653重戦車駆逐大隊]]と、1945年2月6日に編成命令が出された{{仮リンク|第512重戦車駆逐大隊|en|512th Heavy Panzerjäger Battalion}}の2個重戦車駆逐大隊のみに配備された<ref name="TAM">[[田宮模型]], 1/35[[ミリタリーミニチュアシリーズ]], 35295, ドイツ 重駆逐戦車 ヤークトタイガー 初期生産型, 組立説明書, 実車解説</ref>。
第653重戦車駆逐大隊は[[バルジの戦い|アルデンヌの戦い]]を援護する[[ノルトヴィント作戦]]に投入されることになっていたが、連合軍の低空からの襲撃で夜間にのみ移動が可能であり、さらに長距離の移動は列車によらねばならず、その確保が遅れたり、移動途中で次々に故障するなどのトラブルにより、結局参加できたのはわずか3輌であった。
一方、第512重戦車駆逐大隊はリンツのニーベルゲン工場から送られた20輌を受領して第1中隊・第2中隊にそれぞれ10両ずつ配備し、補佐する突撃砲や対空自走砲小隊を付けた2個戦闘大隊を編成した。射撃訓練はデーレルスハイムで行われ、[[ルーデンドルフ橋]](通称レマーゲン鉄橋)を渡った[[アメリカ軍]]が築いた橋頭堡への攻撃に参加するが、ヤークトティーガーは少数ずつ到着次第順番に投入されてしまい、攻撃は失敗に終わった。[[アルバート・エルンスト]]中尉率いる第1中隊は残った6輌のヤークトティーガーで、撤収の援護を行う殿として活躍した。この功績でエルンストは大尉に昇進している。ジーゲン地区に後退した後、エルグステ地区に進出。エルンストの第1中隊は残余4両のヤークトティーガーに突撃砲4両、Ⅳ号戦車1両、4連装自走対空砲4両の小規模な戦闘団を編成、[[イーザーローン]]の街でアメリカ軍戦車24両を撃破するなど悩ませた末、アメリカ第1軍に[[ルール・ポケット|ルール包囲網]]の中では唯一堂々と降伏し、武装解除された。
== 戦闘記録 ==
ティーガー戦車を駆って[[ソビエト連邦|ソ連]]戦車150輌以上を撃破したドイツ国防軍戦車エース、[[オットー・カリウス]]少尉の著した『ティーガー戦車隊』(英語版題名:Tigers In The Mud) には、[[レマーゲンの戦い]]において、彼が率いた上記の{{仮リンク|第512重戦車駆逐大隊|en|512th Heavy Panzerjäger Battalion}}(Schwere Panzerjäger-Abteilung 512.)第2中隊に所属する10輌のヤークトティーガーの戦いが記録されている。
カリウスは1945年からは第512重戦車駆逐大隊第2中隊の中隊長としてヤークトティーガー10輌を指揮することとなった。ヤークトティーガーは全重72トンもの重駆逐戦車だが旋回砲塔を持たないため、照準を合わせるには巨大な車体を方向転換させる必要があった。このため、操向変速機、転輪、履帯に過大な負担がかかるという無理のある設計であった。
また、8メートルもの長砲身はわずかな距離でもトラベリングクランプによる砲身固定をせずに走行すると、振動で砲身が揺動し、砲架のギアが摩耗して狂いによる照準誤差が発生したり、砲が使えなくなることも多かった。トラベリングクランプは車体正面の傾斜した前面に設けられており、解除するには乗員が車外に出る必要があった。しかも砲身の解除が必要になるのは戦闘中であることが多かったため、しばしば乗員を危険にさらすこととなった。それまで旋回砲塔のある戦車の指揮官であったカリウスは、全周方向に即応できないヤークトティーガーに非常に苦労させられた。
さらにこれらの技術的問題に加え、1945年のドイツ軍では練度の低下が問題となった。10輌のヤークトティーガーの車長のうち、[[独ソ戦|東部戦線]]での従軍経験のある指揮官は3人程度で、残る7割は実戦経験が無かった。一例として、うまく偽装されていた2輌のヤークトティーガーの指揮官2人は、約1.5kmという迎撃に最適な距離でアメリカ軍戦車の縦隊を発見したにもかかわらず、存在しないアメリカ軍[[戦闘爆撃機]]からの攻撃を恐れて交戦しなかったうえ、現場を放棄して撤退する始末であった。その結果、過重なヤークトティーガーは走行による負荷で2輌とも故障し、うち1輌は自爆処分された。
同様の事態が再び起こることを恐れたカリウスは、部隊を指揮してジーゲン (Siegen) 谷の奥の高所から待ち伏せを行った。しかし、今度は味方であるはずのドイツ市民が谷に侵攻したアメリカ軍へ待ち伏せを通報し、カリウスの攻撃は失敗した。
ヴァイデナウではアメリカ軍戦車と遭遇戦となった。このときアメリカ軍の[[M4中戦車]]は直ちに家屋の裏に隠れたが、ヤークトティーガーの128mm砲は家屋を貫通してそれを撃破することに成功している。その直後、アメリカ軍機に発見されて爆撃されたが、損害は無かった。ただしその夜、後退時に爆弾のクレーターに落ちた1輌が破損した。もう1輌は、ヤークトティーガーを見たことの無いドイツの[[国民突撃隊]]が誤射した[[パンツァーファウスト]]により撃破された。
ウンナを出発してイーザーローンへ向かった時、距離600メートルでアメリカ軍戦車5輌を発見し、カリウスはヤークトティーガー1輌を迎撃に送り出したが、経験の無い車長は迎撃を行えなかった。地形は坂道であったが、敵に発見される前にこれを登りきり、照準可能なよう砲の俯角をとれる場所まで下ることをしなかったため、直ちに射撃できなかったのである。その間、アメリカ軍戦車5輌中2輌は逃走し、残り3輌との砲撃戦が展開された。アメリカ軍の砲撃はいずれもぶ厚いヤークトティーガーの前面装甲を撃ち抜けなかったが、ヤークトティーガーの方も1発も反撃できなかった。この際、前面装甲を敵に向けたまま後退すべきであったが、旋回して側面をさらしたヤークトティーガーは撃破され、6人の乗員全員が戦死した。この戦闘に関してカリウスは「一番良い兵器でも、訓練された兵が扱わねば何の役にも立たない」と記録している。カリウスは、最終的には残存したヤークトティーガーの砲の破壊を命じ、アメリカ軍に投降した。
以上、第512大隊第2中隊のヤークトティーガー10輌の戦果はアメリカ軍戦車1輌撃破のみで、ヤークトティーガー側は1輌が被撃破、1輌は味方の誤射で撃破され、残る8輌は戦わずして故障による放棄や自爆処分という結果に終わった。
== 2種類の車台 ==
[[ファイル:Jagdtiger 1 Bovington.jpg|thumb|250px|ポルシェ型の足回りをもつヤークトティーガー([[ボービントン戦車博物館]])]]
車台は[[ティーガーII]] の物を基本に、128mm砲を搭載する関係で約26cm延長し、転輪の配置の間隔も変更された物を使用しているが、走行装置は2種類存在する。
1つは生産初期につくられた[[ポルシェ]]型で、ポルシェ社がエレファント駆逐戦車などで採用した外装式縦置きトーションバー・サスペンションを使用したものである。外観上、ポルシェ型では転輪が8枚見える(これは見えた通り8枚であり、[[ティーガーI]]や[[V号戦車パンター|パンター]]は8組16枚または24枚であるので同一配置ではない)。
もう1つは内装式トーションバー・サスペンションを使用した[[ヘンシェル]]社製の走行装置であり、ヘンシェル型では[[ティーガーII]]と同じく転輪が片側9組18枚である。
ポルシェ型は生産コストと製造時間の短縮、整備性、重量軽減に優れると言う触れ込みで初期の車台に用いられたが、兵器局の走行装置試験で履帯が上下に脈動する問題が発生している。これは時速15km/hに達するまで乗員に不快な振動を感じさせるもので、生産第3号車にエレファント用の履帯を装着してみたが問題は解決せず、結局10輌(シャーシNo.305001 - 305011。305002はヘンシェル型)のみの生産に終わり、このうち5輌が[[第653重戦車駆逐大隊]]に実戦配備されるに留まった。
== 生産中の設計変更 ==
ヤークトティーガーの生産中の設計変更の内、もっとも大きなものが前項の車台変更(ポルシェ式サスペンションからヘンシェル式サスペンションへの変更)であるが、この他にも生産時期により細部の設計変更が随時行われている。ここに示したものは博物館の保管車両や写真等から判別可能な車体外装部の変更がほとんどで、車体内部機構の変更も行われていた可能性ももちろんあるが、詳細は不明である。
=== 1944年7月-9月 ===
*ポルシェ式サスペンションの車体(1号車、3-11号車)を使用<ref name="modeling-guide">『AFVモデリングガイド Vol.4 ドイツ重駆逐戦車』,芸文社, 2010年10月, ISBN 978-4863960244</ref>。
*起動輪は18枚歯、履帯はGg24/800/300<ref name="modeling-guide"/>。
*誘導輪はティーガーIIのものとは異なる専用設計のものを使用<ref name="modeling-guide"/>。
*4号車までは車体後部排気管にカバーを装備<ref name="modeling-guide"/>。
*主砲のトラベリングクランプ(輸送時の固定装置)は8月頃から装備<ref name="modeling-guide"/>。
*生産10号車までは車体に[[ツィンメリット・コーティング]]が施されている<ref name="modeling-guide"/>。ポルシェ式サスペンションを装備した最後の車両(11号車)から[[ツィンメリット・コーティング]]を廃止<ref name="modeling-guide"/>。
=== 1944年9月以降 ===
*ヘンシェル式サスペンションの車台に変更<ref name="modeling-guide"/>。
*起動輪は9枚歯、履帯はGg24/600/300。誘導輪はティーガーIIと同じ物に変更<ref name="modeling-guide"/>。
*車体後部エンジンデッキの点検ハッチ上に対空用の機関銃架を装備<ref name="modeling-guide"/>。
=== 1944年11月以降 ===
*車体後面パネルに搭載されていたジャッキおよびジャッキ台を廃止<ref name="modeling-guide"/>。
*主砲トラベリングクランプの接合部の構造強化<ref name="modeling-guide"/>。
=== 1944年12月以降 ===
*エンジンデッキ後部通風孔に装甲カバーを装着<ref name="modeling-guide"/>。
*戦闘室後面のハッチ上に取っ手を追加<ref name="modeling-guide"/>。
*戦闘室側面の予備履帯ラックを増設(片側4箇所から片側6箇所)<ref name="modeling-guide"/>。
*車体側面サイドフェンダー取り付け台座を増設(最前部、および5枚目の中央部)<ref name="modeling-guide"/>。
*操縦手ハッチ、無線手用ハッチの取っ手を2個ずつに増設<ref name="modeling-guide"/>。
*エンジンデッキ吊り下げフック 左右4個ずつに増設<ref name="modeling-guide"/>。
*燃料タンク通気パイプ 4箇所に増設<ref name="modeling-guide"/>。
*エンジングリル部に履帯交換用ワイヤー固定金具を装備<ref name="modeling-guide"/>。
*エンジン点検ハッチ上の対空用機関銃架をハッチ外の後方に移動<ref name="modeling-guide"/>。
*エンジン点検ハッチを開いた状態で固定するストッパーを追加<ref name="modeling-guide"/>。
*主砲防盾(ザウコップ)形状の切削加工工程削減(前面部分はスリーブ状の部分が無くなり単純な平板状に変更、接合部の切削加工を省略)<ref name="modeling-guide"/>。
=== 1945年2月以降 ===
*戦闘室上面に簡易クレーン搭載用の台座(ピルツ)を追加装備<ref name="modeling-guide"/>。
*回転式ペリスコープカバーの形状変更<ref name="ORE">[http://www.interq.or.jp/hokkaido/esp/AFV/ore-Jagd/ore-Jagd.htm Waffenamt Abteilung Satosh-Kido's Model Factory 私的ヤークトティーガー考察]</ref>。
*車体後面に大型牽引装置を装備<ref name="modeling-guide"/>。標準的な改修かは不明<ref name="ORE"/>。
*フロントフェンダーの接続部がリブ付きのものに変更<ref name="modeling-guide"/>。標準的な改修かは不明<ref name="ORE"/>。
*一部の車両は鉄道輸送用の狭軌履帯を装着した状態で工場出荷された。
=== その他の派生型 ===
1945年4月以降、一部の車両(1両から4両程度とされる)が[[ヤークトパンター]]と同じ71口径88mm戦車砲PaK43を搭載した状態で製造された<ref name="modeling-guide"/>。このタイプには'''Sd.Kfz.185'''の[[特殊車輌番号]]が付けられたとされるが、実戦投入されたかは不明である。
== 現存する車両 ==
*車台番号 305004、[[ボービントン戦車博物館]]
:終戦時にドイツ国内のハウシュテンベック実験場でイギリス軍により接収された車両で<ref name="modeling-guide"/>、ポルシェ式サスペンションと18枚歯の起動輪、排気管カバーを持ちツィンメリットコーティングの施された初期の生産車である。
*車台番号 305020、[[アメリカ陸軍兵器博物館|アメリカ陸軍兵器博物館 (アバディーン戦車博物館)]]
:1945年3月にドイツ西部の[[ラインラント=プファルツ州]]、[[ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ]]においてアメリカ軍{{仮リンク|第10機甲師団 (アメリカ軍)|label=第10機甲師団|en|10th Armored Division (United States)}}と交戦し鹵獲された車両で[[第653重戦車駆逐大隊]]所属の331号車(第3中隊、第3小隊の1号車)であった<ref name="TAM1">[[田宮模型]], 1/35[[ミリタリーミニチュアシリーズ]], 35295, ドイツ 重駆逐戦車 ヤークトタイガー 初期生産型, 組立説明書, 塗装解説図</ref>。本車は1944年10月の生産車で、ヘンシェル式サスペンションと9枚歯の起動輪を持つ。
*車台番号 305083、[[クビンカ戦車博物館]]
:1945年5月に[[オーストリア]]西部でソ連軍に鹵獲された第653重戦車駆逐大隊の所属車両で、1945年4月に生産された後期型に相当する。片側6箇所の予備履帯装着ラック、簡易クレーン用台座(ピルツ)、大型牽引装置、リブ付きのフロントフェンダーといった装備を持つほか、サイドフェンダーが装備された状態で展示されている。
<gallery widths="200px" heights="150px">
File:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 262 Jagdtiger sdkfz 186.jpg|[[ボービントン戦車博物館]]の展示車両。
File:Jagdtiger 1.jpg|[[アメリカ陸軍兵器博物館]]の展示車両。
File:Jagdtiger (s-n 305083) – Patriot Museum, Kubinka (38294634781).jpg|[[クビンカ戦車博物館]]の展示車両。
</gallery>
== 関連作品 ==
{{Main|VI号戦車ティーガーに関連する作品の一覧}}
== 脚注・出典 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* ヴァルター・J・シュピールベルガー、富岡吉勝 監修、木村義明 訳『重駆逐戦車』大日本絵画、1994年。ISBN 4-499-22637-6
* ヴァルター・J・シュピールベルガー、富岡吉勝 監修、津久部茂明 訳『ティーガー戦車』大日本絵画、1998年。ISBN 4-499-22685-6
* オットー・カリウス、菊地晟 訳『ティーガー戦車隊(下)』大日本絵画、1995年。ISBN 4-499-22653-8
* グランドパワー No.017 1995年10月号(デルタ出版)
* グランドパワー No.064 1998年9月号(デルタ出版)
* カール・アルマン『パンツァー・フォー』富岡吉勝(訳)、大日本絵画、1988年、ISBN 4-499-20519-0
== 関連項目 ==
*[[VI号戦車]]
*[[ティーガーII]]
*[[第653重戦車駆逐大隊]]
*{{仮リンク|第512重戦車駆逐大隊|en|512th Heavy Panzerjäger Battalion}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Jagdtiger|Jagdtiger}}
*{{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/ardennu1944/16457960.html |title==ほのぼの模型工房= ドイツ重駆逐戦車「ヤクトティーガー(jagdtiger)」画像集 |date=20191101000000}}
*[http://tank-photographs.s3-website-eu-west-1.amazonaws.com/jagdtiger-tank-destroyer-kubinka-tank-museum.html Surviving German WW2 Tanks The Jagdtiger Tank Destroyer]
{{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:やあくとたいかあ}}
[[Category:VI号戦車 (ティーガー)]]
[[Category:ドイツ国防軍の対戦車自走砲]]
|
2003-09-26T13:52:27Z
|
2023-07-29T12:35:11Z
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[
"Template:戦車",
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"Template:第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両",
"Template:参照方法",
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"Template:Normdaten"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC
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18,387 |
軽駆逐戦車ヘッツァー
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38式軽駆逐戦車ヘッツァー(けいくちくせんしゃヘッツァー)は、第二次世界大戦時のドイツの駆逐戦車。ドイツ語では Jagdpanzer 38(t)と呼ばれる。制式番号は Sd.Kfz.138/2 。ヘッツァー(独:Hetzer, 狩りの勢子)というニックネームは本来、次世代軽駆逐戦車であるE-10もしくはE-25計画用のものであったが、いつの間にか本車のものになっている。また、先に設計されたルーマニアのマレシャル駆逐戦車が、デザイン上の参考になっているとの説もある。
もともとはIII号突撃砲を生産するベルリンのアルケット社工場が爆撃され生産停止に陥った際、ドイツ陸軍最高司令部から、チェコのBMM社(ČKD社が再編されたもの)に同突撃砲の生産が代行できないかと打診されたのが開発のきっかけであった。1943年12月6日、BMM社には重量24トンの突撃砲を持ち上げ移動できる機材や組み立てスペースが無く、より小型の車輌しか生産できないと報告されたアドルフ・ヒトラーは同月17日に、新たに同社から提案された、38(t)n.A.偵察戦車のコンポーネントを使う13トン級軽突撃砲(後に小型駆逐戦車)を生産することに同意した。 第二次世界大戦末期のドイツに最も合致した戦車とも言われる。
足回りの形状が酷似しているため、古い資料では従来型の38(t)系からの流用と言う間違った解説が多かったが、実際は38(t)戦車の発展型であり、II号戦車L型ルクスとの競争に敗れ不採用となった「新型38(t)戦車」(38(t) n.A.。n.A.は新型を意味する neuer Artの略称)からの部品流用である。転輪の直径(775mmから825mmへ)や起動輪の歯数(19から20へ)、誘導輪の形や直径(535mmから620mmへ)、履帯のパターン・幅(290mmから305mmへ)、シャーシのサイズなどが異なっており、これらは従来型38(t)系には使われていない部品だった。 他にも、リーフスプリング式サスペンションは、38(t)系自走砲専用車台と同じ7mm厚板バネ16枚のタイプであるが、ノーズヘビー気味であったため1944年9月から前半部は9mm厚のものに変更された。この足回りに新設計のシャーシ、傾斜した装甲を持つ戦闘室と48口径の75ミリ対戦車砲(7.5 cm PaK 39)を搭載した軽駆逐戦車がヘッツァーである。
本車は安価(54,000ライヒスマルク、IV号戦車の半額に近い)で生産性も意識され、最優先事項とされたこともあり、わずか4ヶ月で設計を終えた。そして実物大木型模型すら完成していない1944年1月18日の段階で1,000輌が発注され、後に月産1,000輌が目標とされたが、1年足らずの生産期間で完成したヘッツァーはBMM社で2,047輌(回収戦車型やシュタールを含む)以上、シュコダ社で780輌以上だった。
ヘッツァーは実質的に戦車ではなく、厚い前面装甲と気休め程度の側・後面装甲に囲まれ、自走能力を持った対戦車砲にすぎない。それでも、傾斜装甲を取り入れ、防御力もいくらか向上させようと努力はしているが、この代償として、戦闘室内は大変狭く、また主砲が中心線を外れて装備されている関係で重量バランスも悪く、さらにエンジン出力が低く履帯の幅が狭いこともあり、重量やサイズから連想されるほど路外機動性は良くなかった。実際、車内レイアウトの関係上、車体右側が死角となり、他の乗員と隔離され後方に位置する戦車長からの前方視界は悪く、車内の狭さと合わせ、当時の乗員からの評判は良くなかった。この死角が原因で、個々に攻撃支援など行おうものなら弱い側面を突かれてたちまち撃破され、初陣であるワルシャワ蜂起の市街戦でも、ポーランド国内軍兵士の火炎瓶攻撃により失われている。敵戦車を待ち伏せ小隊単位で互いの死角を補い合い、単一の敵に集中砲火を浴びせ確実に仕留めていく「パックフロント」戦術こそが正しい本車の戦法であり、機動防御に本領を発揮した。
本車はドイツ陸軍の軍直轄戦車駆逐大隊、歩兵・国民擲弾兵師団の対戦車猟兵中隊、武装親衛隊の装甲擲弾兵師団に配備されたほか、75輌がハンガリー軍に供与されている。
軽駆逐戦車としての性能や運用については評価が分かれるものの、少なくとも、III号突撃砲の代替品あるいは後継という点では成功したと言える。戦後もドイツ軍向けだった生産ラインを用いて(多くはドイツで生産されていた、遠隔操作ではなく車内から直接操作される『リモコン機銃』の在庫が足りず装備していなかったが)ST-Iの名で150輌が追加生産され、非武装の訓練型ST-IIIも50輌が作られた。
1946年にはスイス陸軍がG-13の名で採用、チェコでは主砲であるPaK39が生産されていなかったため、代わってIII号突撃砲用のStuK40が装備され、同時に車内レイアウトや乗員配置を改善、戦車長と装填手の配置が入れ替わっている。外見的には主砲のマズルブレーキがあり、上部のリモコン機銃の代わりに装甲カバー付き旋回式ペリスコープを装備、またスイスオリジナルのMG-38用対空銃架を装備したものもあり、さらに側面に搭載された予備転輪と予備履帯により、ヘッツァーとの識別は容易である。シュコダ社により1950年までに158輌が作られ、戦争映画ではヘッツァー役で登場することもあり、また博物館にある稼動ヘッツァーとされる物の一部には、G-13の外見をヘッツァー風に改造したレプリカもある
大量生産されたため、第二次大戦期のドイツ軍駆逐戦車中最も多くの車両が現存している。また中にはスイスのG-13を改造した車両も存在するほか、個人所蔵の車両も多い。
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"text": "1946年にはスイス陸軍がG-13の名で採用、チェコでは主砲であるPaK39が生産されていなかったため、代わってIII号突撃砲用のStuK40が装備され、同時に車内レイアウトや乗員配置を改善、戦車長と装填手の配置が入れ替わっている。外見的には主砲のマズルブレーキがあり、上部のリモコン機銃の代わりに装甲カバー付き旋回式ペリスコープを装備、またスイスオリジナルのMG-38用対空銃架を装備したものもあり、さらに側面に搭載された予備転輪と予備履帯により、ヘッツァーとの識別は容易である。シュコダ社により1950年までに158輌が作られ、戦争映画ではヘッツァー役で登場することもあり、また博物館にある稼動ヘッツァーとされる物の一部には、G-13の外見をヘッツァー風に改造したレプリカもある",
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38式軽駆逐戦車ヘッツァー(けいくちくせんしゃヘッツァー)は、第二次世界大戦時のドイツの駆逐戦車。ドイツ語では Jagdpanzer 38(t)と呼ばれる。制式番号は Sd.Kfz.138/2。ヘッツァーというニックネームは本来、次世代軽駆逐戦車であるE-10もしくはE-25計画用のものであったが、いつの間にか本車のものになっている。また、先に設計されたルーマニアのマレシャル駆逐戦車が、デザイン上の参考になっているとの説もある。
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{{戦車
| 名称=38式駆逐戦車ヘッツァー
| 画像=[[ファイル:Hetzer lesany.jpg|300px]]
| 説明=[[チェコ]]のレシャニ軍事技術博物館にて動態保存されているヘッツァー
| 全長=6.27 [[メートル|m]]
| 車体長=4.87 m
| 全幅=2.63 m
| 全高=2.17 m
| 重量=15.75 t
| 懸架方式=リーフスプリング
| 速度=路上最大42 [[キロメートル毎時|km/h]]<br /> 路外平均15 km/h
| 行動距離=177 [[キロメートル|km]]
| 主砲=48口径7.5cm PaK39 L/48(41発)
| 副武装=7.92mm [[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|MG34]]機関銃
| 装甲=
*車体前面上下60mm
*側・後面20mm
*底面10mm
| エンジン名=[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]] Hl 203 P 30<br/>[[4ストローク機関|4ストローク]][[直列6気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]
| 出力=160 馬力
| 乗員=4 名
| 備考=
}}
[[ファイル:Warsaw_Uprising_-_Chwat.jpg|thumb|250px|初陣で失われ、修理後ポーランド国内軍に使用されるヘッツァー初期型(生産ナンバー21078)。車体前面に書かれた「[[フファット (戦車)|フファット]]」(Chwat)の愛称は、本車を回収した下士官の名からとられたもの。]]
'''38式軽駆逐戦車ヘッツァー'''(けいくちくせんしゃヘッツァー)は、[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ]]の[[駆逐戦車]]。ドイツ語では Jagdpanzer 38(t)と呼ばれる。[[特殊車輌番号|制式番号]]は Sd.Kfz.138/2 。ヘッツァー(独:Hetzer, 狩りの[[勢子]])という[[ニックネーム]]は本来、[[Eシリーズ (ドイツ国防軍)|次世代軽駆逐戦車]]である[[E-10 (戦車)|E-10]]もしくは[[E-25 (戦車)|E-25]]計画用のものであったが、いつの間にか本車のものになっている。また、先に設計されたルーマニアの[[マレシャル駆逐戦車]]が、デザイン上の参考になっているとの説もある。<ref> Steven J. Zaloga, ''Tanks of Hitler’s Eastern Allies 1941–45'', p. 31</ref><ref>Mark Axworthy, Cornel Scafeș, Cristian Crăciunoiu, ''Third Axis. Fourth Ally. Romanian Armed Forces in the European War, 1941-1945'', pp. 228-235.</ref>
== 概要 ==
もともとは[[III号突撃砲]]を生産する[[ベルリン]]のアルケット社工場が[[爆撃]]され生産停止に陥った際、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]最高司令部から、[[チェコ]]のBMM社([[:cs:Českomoravská Kolben Daněk|ČKD社]]が再編されたもの)に同突撃砲の生産が代行できないかと打診されたのが開発のきっかけであった。1943年12月6日、BMM社には重量24トンの突撃砲を持ち上げ移動できる機材や組み立てスペースが無く、より小型の車輌しか生産できないと報告された[[アドルフ・ヒトラー]]は同月17日に、新たに同社から提案された、38(t)n.A.偵察戦車のコンポーネントを使う13トン級軽突撃砲(後に小型駆逐戦車)を生産することに同意した<ref group="注">軽突撃砲として開発が始まったものなので本来は砲兵科で運用されるべきものであったが、ヘッツァーを配下の機甲科で運用したいグデーリアンの主張が勝ち、軽駆逐戦車に区分が変更された。</ref>。 第二次世界大戦末期のドイツに最も合致した戦車とも言われる。<ref>{{Cite book|和書|title=世界の戦車パーフェクトBOOK 最新版|date=2016年7月|year=2016年|publisher=コスミック出版}}</ref>
足回りの形状が酷似しているため、古い資料では従来型の38(t)系からの流用と言う間違った解説が多かった<ref group="注">1970年代に発売されたイタレリ社のプラモデルでは、先に発売されたヘッツァーの足周りパーツを38(t)やマルダーIIIのキットに流用するという誤りのためオーバーサイズであったが、2010年代に作られた新金型の38(t)偵察戦車のパーツを使った新製品に差し替えられた。</ref>が、実際は[[LT-38|38(t)戦車]]の発展型であり、[[II号戦車]]L型ルクスとの競争に敗れ不採用となった「新型38(t)戦車」(38(t) n.A.。n.A.は新型を意味する neuer Artの略称)からの部品流用である。転輪の直径(775mmから825mmへ)や起動輪の歯数(19から20へ)、誘導輪の形や直径(535mmから620mmへ)、[[無限軌道|履帯]]のパターン・幅(290mmから305mmへ)、シャーシのサイズなどが異なっており、これらは従来型38(t)系には使われていない部品だった。
他にも、[[重ね板ばね|リーフスプリング]]式[[サスペンション]]は、38(t)系自走砲専用車台と同じ7mm厚板バネ16枚のタイプであるが、ノーズヘビー気味であったため[[1944年]]9月から前半部は9mm厚のものに変更された。この足回りに新設計のシャーシ、傾斜した[[装甲]]を持つ戦闘室と48[[口径]]の75ミリ[[対戦車砲]]([[7.5 cm PaK 39]])を搭載した軽駆逐戦車がヘッツァーである。
本車は安価(54,000[[ライヒスマルク]]、[[IV号戦車]]の半額に近い)で生産性も意識され、最優先事項とされたこともあり、わずか4ヶ月で設計を終えた。そして実物大木型模型すら完成していない1944年1月18日の段階で1,000輌が発注され、後に月産1,000輌が目標とされたが、1年足らずの生産期間で完成したヘッツァーはBMM社で2,047輌(回収戦車型やシュタールを含む)以上、[[シュコダ]]社で780輌以上だった。
ヘッツァーは実質的に戦車ではなく、厚い前面装甲<ref group="注">1944年10月5日のドイツ兵器第一課の報告書によると、クロムウェル・チャーチルMk.III・M4A2(75)の75mm戦車砲はヘッツァーの前面を射貫できず、M4A3(76)・T-34-85もヘッツァーがそれらを撃破できる距離より近づく必要があり、IS-2の122mm砲(と、射撃実験には使われていない17ポンド砲)だけがヘッツァーの有効射程外から前面を射貫可能であった。</ref><ref name="ヒラリー/トム">ヒラリー・ドイル/トム・イェンツ「38式駆逐戦車ヘッツァー 1944-1945」 大日本絵画</ref>と気休め程度の側・後面装甲に囲まれ、自走能力を持った[[対戦車砲]]にすぎない。それでも、傾斜装甲を取り入れ、防御力もいくらか向上させようと努力はしているが、この代償として、戦闘室内は大変狭く、また主砲が中心線を外れて装備されている関係で重量バランスも悪く、さらにエンジン出力が低く履帯の幅が狭いこともあり、重量やサイズから連想されるほど路外機動性は良くなかった<ref group="注">運用部隊からは、(路外での)速度が遅すぎて偵察任務には使えず、また完全機械化された機甲師団に追従して行動できない、と報告されていた。</ref><ref name="ヒラリー/トム"/>。実際、車内レイアウトの関係上、車体右側が死角となり、他の乗員と隔離され後方に位置する戦車長<ref group="注">ヘッツァーは当初から主砲が後座しない"シュタール"型として生産され、戦車長はその真後ろに配置されるはずであったが、実際にはPaK39搭載となったため、やむなく他の乗員から離れた位置に変更された。</ref>からの前方視界は悪く、車内の狭さと合わせ、当時の乗員からの評判は良くなかった<ref group="注">戦車長と装填手の配置が他のドイツ戦車と左右逆のため、装填手は砲尾の薬莢受けの支柱の上から手を回して装填しなくてはならず、不便だった。</ref>。この死角が原因で、個々に攻撃支援など行おうものなら弱い側面<ref group="注">主砲のオフセット搭載のため射界、特に左側が狭く車体全体を動かして狙うこととなり、敵側に弱い側面を曝し易いのも欠点であった。</ref>を突かれてたちまち撃破され、初陣である[[ワルシャワ蜂起]]の[[市街戦]]でも、[[ポーランド国内軍]]兵士の[[火炎瓶]]攻撃により失われている<ref group="注">乗員は一名のみが脱出に成功、焼けた外見のわりに再生可能であったことからポーランド国内軍の装備となるが、出撃前に爆撃により瓦礫に埋もれ、戦後また修復されてポーランド陸軍博物館の展示物となった。</ref><ref>高橋慶史 「バトル・オブ・カンプグルッペ(アーマーモデリングVol.81 連載記事)」 大日本絵画</ref>。敵戦車を待ち伏せ小隊単位で互いの死角を補い合い、単一の敵に集中砲火を浴びせ確実に仕留めていく「[[パックフロント]]」戦術こそが正しい本車の戦法であり、機動防御に本領を発揮した<ref group="注">最初に配備された部隊での報告をとりあげた1944年10月の「戦車部隊ニュース」では、少なくとも小隊単位で運用すべきであり、ある防御戦闘では損害皆無で20輌の敵戦車(IS-2含む)を撃破したとある。</ref><ref name="ヒラリー/トム"/>。
本車は[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の軍直轄戦車駆逐大隊、歩兵・[[国民擲弾兵]]師団の対戦車猟兵中隊、[[武装親衛隊]]の装甲擲弾兵師団に配備されたほか、75輌が[[ハンガリー]]軍に供与されている<ref group="注">1944年7・8月、ルーマニアに対し購入したレアメタルの対価として計30輌のヘッツァーが引き渡される予定であったが、ドイツ軍向けですら不足していた時期であったため、結局行われなかった。しかしハンガリーには12月中に25輌ずつ三回に分けて鉄道輸送され、ドイツ[[南方軍集団]]の一翼として突撃砲大隊(隊によっては[[ズリーニィ]]と混成)が編成され、東部戦線で戦った。</ref><ref name="ヒラリー/トム"/>。
軽駆逐戦車としての性能や運用については評価が分かれるものの、少なくとも、III号突撃砲の代替品あるいは後継という点では成功したと言える。戦後もドイツ軍向けだった生産ラインを用いて(多くはドイツで生産されていた、[[遠隔操作]]ではなく車内から直接操作される『リモコン機銃』の在庫が足りず装備していなかったが)'''ST-I'''の名で150輌が追加生産され、非武装の訓練型'''ST-III'''も50輌が作られた。
[[1946年]]には[[スイス]]陸軍が'''G-13'''の名で採用<ref group="注">1945年末にスイス側からヘッツァー購入希望の打診があり、翌年2月末にシュコダ社がドイツ軍向けヘッツァーから改造したG-13試作車が、スイス軍関係者に披露された。第一生産ロットは大戦中にドイツ軍向けに製造されたパーツから組み上げられたものだが、主砲はStuK40に変更されていた。</ref>、チェコでは主砲であるPaK39が生産されていなかったため、代わってIII号突撃砲用のStuK40が装備され、同時に車内レイアウトや乗員配置を改善、戦車長と装填手の配置が入れ替わっている。外見的には主砲のマズルブレーキがあり、上部のリモコン機銃の代わりに装甲カバー付き旋回式[[潜望鏡|ペリスコープ]]を装備、またスイスオリジナルのMG-38用対空銃架を装備したものもあり、さらに側面に搭載された予備転輪と予備[[履帯]]により、ヘッツァーとの識別は容易である。シュコダ社により[[1950年]]までに158輌が作られ、[[戦争映画]]ではヘッツァー役で登場することもあり<ref group="注">映画『合衆国最後の日』『ハノーバー・ストリート』『ザ・ロンゲスト・デイ』では、マズルブレーキを付けたままのG-13が登場している。</ref>、また[[博物館]]にある稼動ヘッツァーとされる物の一部には、G-13の外見をヘッツァー風に改造したレプリカもある<ref group="注">ベルギー王立軍事博物館(案内板に表記されている)やムンスターのヘッツァー等はG-13改造と言われ、また個人所有で同様のレプリカヘッツァーも存在する。</ref>
== バリエーション ==
;38式回収戦車
:Bergepanzer 38(t)
:1944年5月から181輌が生産された、ヘッツァーと共通のコンポーネントで構成された戦車回収型。他に修理に戻ってきたヘッツァーから改造されたもの等が64輌あった。ヘッツァー装備の一個戦車駆逐中隊(定数14輌、後に不足のため10輌)につき1輌が配備された。
:オープントップで、エンジンや主砲の交換に使う組み立て式ジブクレーンを備えている。しかしヘッツァー同様にエンジンパワーが不足気味で、故障・損傷車を牽引した状態では傾斜4度以上の坂を上れず、泥濘地など履帯が沈むような悪路では牽引そのものが不可能であった。
;42/2式10.5cm突撃榴弾砲
:StuH42/2
:[[10.5cm突撃榴弾砲42|42式10.5cm突撃榴弾砲]]の後継
;15cm重歩兵砲搭載 38式駆逐戦車
:Jagdpanzer 38(t) sIG33/2
:オープントップ化された車体に15cm sIG33/2を搭載した歩兵の直接火力支援用自走砲型、生産終了した[[グリーレ|グリレ]]の後継。記録では6輌が新規生産され、39輌が修理に戻ってきたヘッツァーから改造されたとされるが、今のところ実戦部隊で運用中の写真は確認されていない。
;38式火焔放射戦車
:Flammpanzer 38(t)
:「ラインの守り作戦」での使用を念頭に、ヒトラーの要求で開発された火炎放射型。20輌のヘッツァーから主砲など装備を撤去し改造、700リットルの燃料タンクと放射器を搭載した。第352および353装甲火炎放射中隊に編成され、「北風作戦」で実戦投入された。他、38式回収戦車から改造され、戦後チェコ軍装備となったものが2輌あった。
;38式駆逐戦車 固定砲架(シュタール)型
:Jagdpanzer 38(t) Starr
:ヘッツァーの主砲からカルダン枠砲架と駐退復座器のシリンダーを省略してリジット式砲架に搭載し、その反動を車体全体で抑える簡易生産型で、3000輌の量産計画があった。試験の結果、通常型に比べ車体が受け止める反動は15から29%程増えただけであったが、負荷で砲そのものの寿命が短くなったり、旋回ハンドルを通じて衝撃が砲手の手に伝わり痺れさせるなどの問題も発生した。主砲の取り付け位置は、低くやや中央よりとなった。
:44年半ばには試作車が完成していたが、通常型の量産が軌道に乗っていたので、シュタール型はすぐには量産されなかった。大戦末期に試作車と先行量産車合わせて14輌が完成、一部が実戦参加している。14輌目はタトラ928[[ディーゼルエンジン]]を搭載した、38(d)式駆逐戦車計画のための試作車でもあった。
:戦後、BMM車が残されたパーツで14輌を組み上げ、うち半数は従来型同様のPaK39が搭載された。
[[ファイル:Panzerjäger G 13.jpg|thumb|250px|スイス陸軍のG13]]
;38(d)式駆逐戦車
:Jagdpanzer 38(d)
:タトラ928ディーセルエンジン(180hp)搭載型。大戦末期の計画車両。量産はされず。
;38式偵察戦車
:オープントップの回収戦車の車体に、24口径7.5cm砲K51を搭載した威力偵察用戦車で、1944年9月末に完成したが、試験を受けたものの量産されなかった。同じく回収戦車にFlaK38機関砲を搭載したタイプもあった。
;ST-I :[[チェコスロバキア]]での名称。最後期型とほぼ同仕様。
;G13 :[[スイス]]向けに[[シュコダ]]社が生産したモデル。主砲を[[III号突撃砲]]の48口径7.5cm砲StuK40に換装、車外に予備転輪ラックや折りたたみ式機銃架を追加した他、車内レイアウトを変更している。{{-}}
;PM-1 火炎放射戦車
チェコスロバキアが、ヘッツァーの主砲を撤去して開口部を塞ぎ、天板上面に、火炎放射器を装備した[[LT-38|LTvz.38]]の砲塔を載せ、火炎放射戦車に改造した試作車両。1946年に開発を開始したが、1956年に計画中止。
== 現存車両 ==
大量生産されたため、第二次大戦期のドイツ軍駆逐戦車中最も多くの車両が現存している。また中にはスイスのG-13を改造した車両も存在するほか、個人所蔵の車両も多い。
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ファイル:Hetzer in the Kubinka Museum 01.jpg|[[クビンカ戦車博物館]]
ファイル:Jagdpanzer 38(t) "Hetzer" (8095568625).jpg|[[フライング・ヘリテージ・コレクション]]
ファイル:Jagdpanzer38.jpg|[[ムンスター戦車博物館]]
ファイル:Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' pic01.JPG|[[トゥーン戦車博物館]]
ファイル:Hetzer 1.jpg|[[アメリカ陸軍兵器博物館]]
</gallery>
== 登場作品 ==
{{Main|38(t)戦車に関連する作品の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{参照方法|date=2019年8月|section=1}}
*ヴァルター・J・シュピールベルガー 「軽駆逐戦車」 大日本絵画
*グランドパワー No.089/No.090 (当時)デルタ出版
== 関連項目 ==
{{Commons|Jagdpanzer 38(t)}}
* [[駆逐戦車]]
* [[LT-38]]
{{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:へつつああけいくちくせんしや}}
[[Category:38(t)戦車]]
[[Category:ドイツ国防軍の対戦車自走砲]]
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2003-09-26T14:53:26Z
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18,388 |
口径
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口径(英: caliber)は、小火器や砲において銃砲身のサイズを示す言葉である。火器で使用される「口径」の語は、複数の意味で用いられる。
銃における口径は、銃身の内径(≒発射される弾丸の直径)を示す。単位としては、ヨーロッパで主用されるメートル法と米国で用いられるヤード・ポンド法の二つが用いられている。このほか重量単位が用いられることがある。銃身長は3インチや77ミリメートルといった実測値がそのまま表記される。
軍用弾においては、弾種は7.62x54mmR弾に見られるように口径×薬莢長の表記が用いられている。米国で開発された.50 BMG弾と.223レミントン弾がNATOの標準弾に指定された際には、12.7x99mm NATO弾と5.56x45mm NATO弾としてヤード・ポンド法表記から口径×薬莢長のメートル法表記に改められた。なお、軍用以外の用途においてインチ表記は制限を受けず、同種の弾薬に2つの名前が併存している。
弾薬の呼び径をインチ単位で表記する場合、小数点以下の数字に「口径」を付けて表現することがある。表記においては小数点(.)を数字の前に書き記すことも多い。1インチは25.4mmであるので、たとえば30口径は7.62mmである。また、50口径は別名「半インチ」(12.7mm)となる。数字の後ろに固有の名前をつけて弾種が表されるが、この数字は弾丸ではなく薬莢の直径を表している場合がある。たとえば、日本の警察用拳銃、ニューナンブM60やS&W M37に使用される.38スペシャル弾は、より長い薬莢を持つ.357マグナム弾(0.357インチ≒9.068mm)と薬莢の直径が同等である。この二種類の弾薬の場合、呼び径は異なっているもののある程度の互換性がある。
砲においては、銃と同様に砲身内径(bore diameter)、すなわち発射される砲弾の直径を示す言葉として用いられる口径と、砲身の長さを示す単位の短縮形である口径の二つの意味で用いられている。砲身の長さは口径長という語で表すのが正式だが、一般的にこちらで呼ばれる。
大砲の砲身長を示す単位として、その砲の口径が用いられている。すなわち砲身長の実測値を口径の値で割ったものを口径長と称し、砲身の長さを示す値として用いる。例えば70口径(長)の75ミリメートル砲とは、口径(砲身内径)が75ミリで、砲身長が75mm×70口径=5,250mm(5.25メートル)であることを表す。一般論では、同一口径の砲でも口径長が大きい砲のほうが砲身内を砲弾が通過する時間が長くなり、より長い間発射体を加速できる。そのため、その砲の撃つ弾の初速が上がり、徹甲弾は貫通力が増し、榴弾でも射距離を伸ばすことができる。しかしデメリットとして砲全体が重く大きくなるほか、砲身そのものの製造コストも上がり、使用時に砲身のたわみを考慮に入れる必要がある。
弾丸が鉛の球弾だったころは、鉛の重さが決まればその弾の直径は常に同じとなることから、弾丸の重さによって口径を示す方法が広く用いられていた。この方法は弾丸の形が紡錘状に変化することで意味を失ってしまったが、1950年代までのイギリスの大砲、散弾銃、日本の火縄銃の口径を示す方法として、現在も用いられている。
第二次世界大戦終結ごろまでにイギリスで設計された大砲は、同時期のドイツやフランスなどの欧州大陸諸国がメートル法(フランスはミリメートル(mm)、ドイツはセンチメートル(cm))による内径長表記式を用いていたのとは対照的に、独自の表記法を使用していた。
直接照準で使用される野砲や対戦車砲、戦車砲は伝統的に重量単位(ポンド)で口径が示されてきた。たとえば、第一次世界大戦における主力野砲であった18ポンド野砲の口径は約84mm、第二次大戦における主力野戦砲25ポンド野砲の口径は約87.6mm。戦後第一世代の戦車であるセンチュリオンの主砲は、センチュリオン Mk.Iでは17ポンド砲(約76.2mm)が搭載されており、イスラエルに輸出され中東戦争などで活躍したセンチュリオン Mk.IIIでは20ポンド砲(約84mm)に増強されている。
逆に間接照準で運用される榴弾砲やカノン砲では内径長による表記法が用いられていたが、単位にはインチが使用されていた。たとえば、第一次大戦期の榴弾砲では4.5インチ野戦榴弾砲の口径は約114mm、6インチ中榴弾砲の口径は約152mm、8インチ重榴弾砲の口径は約203mmであった。第二次大戦期の主力カノン砲であった5.5インチ砲の口径は約140mmである。
NATOへの加盟の影響もあってか現在ではメートル法(ミリメートル)を単位とする内径長による表記に統一されている。たとえば、イギリスで設計され戦後第二世代戦車の標準的な戦車砲となったロイヤル・オードナンス L7の口径は、105mmの表記が用いられている。
日本の火縄銃の口径も重量単位で示される。10匁の中筒(なかづつ)で約18mm、30匁の大筒(おおづつ)で約26mmの口径となる。
正確に言えば、散弾銃のサイズは番号と呼び、口径というのは間違いであるが、ほぼ同じ意味で用いられるのでここで説明する。
すなわち散弾銃のn番とは、1/nポンドの球形の鉛の直径であり、その球弾が適合する銃身の内径を言う。英語ではゲージ(gauge)という。数字が小さいほど大口径ということになる。競技用や狩猟用に広く世界的に用いられる散弾銃は12番口径で、その口径は約18.5mm、大型獣の狩猟に用いられる10番では約20mmとなる。その昔に水鳥撃ちで用いられたパント銃(ボートの舳先に据え付けて用いる銃。一発で多数の猟果があがる)は、1番や2番といった大口径となっており、インチを超えるものはそのまま内口径長で表されていた。例外的に米国で競技用に開発された410番は弾薬の直径をインチで表したもの、すなわち0.410インチであることからこう呼ばれている。
ちなみに散弾銃は、複数の散弾を納めた弾薬を発射する銃であるが、その散弾にも粒径による規格がある。欧米では大別して鳥撃ち用(Birdshot)と鹿撃ち用(Buckshot)に分けられ、各サイズを英数字で表している。鳥撃ち用の場合、数字が大きくなると散弾の直径が0.01インチずつ小さくなってゆく。この規格はそのままJISに取り込まれているが、そのサイズはメートル法に丸められている。たとえばBBは0.18インチで4.57mmだが、JISでは4.5mmとなっている。なお、このBBは遊戯銃で用いられているBB弾とはサイズが異なる。また、JISでは数字には「号」をつけて1号、2号のように呼称するが欧米では特に何もつけずに表記される。7-1/2などの端数に号をつけると煩雑になるので「7半」のような表記も行われる。鹿撃ち用の場合も数字が大きくなると直径は小さくなるがその単位は一定しておらず、0.01-0.03インチが用いられる。
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"text": "すなわち散弾銃のn番とは、1/nポンドの球形の鉛の直径であり、その球弾が適合する銃身の内径を言う。英語ではゲージ(gauge)という。数字が小さいほど大口径ということになる。競技用や狩猟用に広く世界的に用いられる散弾銃は12番口径で、その口径は約18.5mm、大型獣の狩猟に用いられる10番では約20mmとなる。その昔に水鳥撃ちで用いられたパント銃(ボートの舳先に据え付けて用いる銃。一発で多数の猟果があがる)は、1番や2番といった大口径となっており、インチを超えるものはそのまま内口径長で表されていた。例外的に米国で競技用に開発された410番は弾薬の直径をインチで表したもの、すなわち0.410インチであることからこう呼ばれている。",
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"text": "ちなみに散弾銃は、複数の散弾を納めた弾薬を発射する銃であるが、その散弾にも粒径による規格がある。欧米では大別して鳥撃ち用(Birdshot)と鹿撃ち用(Buckshot)に分けられ、各サイズを英数字で表している。鳥撃ち用の場合、数字が大きくなると散弾の直径が0.01インチずつ小さくなってゆく。この規格はそのままJISに取り込まれているが、そのサイズはメートル法に丸められている。たとえばBBは0.18インチで4.57mmだが、JISでは4.5mmとなっている。なお、このBBは遊戯銃で用いられているBB弾とはサイズが異なる。また、JISでは数字には「号」をつけて1号、2号のように呼称するが欧米では特に何もつけずに表記される。7-1/2などの端数に号をつけると煩雑になるので「7半」のような表記も行われる。鹿撃ち用の場合も数字が大きくなると直径は小さくなるがその単位は一定しておらず、0.01-0.03インチが用いられる。",
"title": "重量単位"
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口径は、小火器や砲において銃砲身のサイズを示す言葉である。火器で使用される「口径」の語は、複数の意味で用いられる。
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{{otheruses|銃砲に関する尺度}}
{{出典の明記|date=2019年10月}}
[[ファイル:Calibre bore length gdl.png|サムネイル|上が口径、下が口径長。]]
'''口径'''({{lang-en-short|caliber}})は、[[小火器]]や[[砲]]において[[銃砲身]]のサイズを示す言葉である。火器で使用される「口径」の語は、複数の意味で用いられる。
== 銃 ==
[[ファイル:VOG-17M Grenade machine gun cartridge.jpg|サムネイル|左:[[7.62x39mm弾]]と右:[[AGS-17|30x29mm榴弾]](この場合の口径は銃身の内径を指す)]]
[[銃]]における口径は、[[銃砲身|銃身]]の内径(≒発射される[[弾丸]]の直径)を示す。単位としては、[[ヨーロッパ]]で主用される[[メートル法]]と[[アメリカ合衆国|米国]]で用いられる[[ヤード・ポンド法]]の二つが用いられている。このほか重量単位が用いられることがある。銃身長は3[[インチ]]や77[[ミリメートル]]といった実測値がそのまま表記される。
軍用弾においては、弾種は[[7.62x54mmR弾]]に見られるように口径×薬莢長の表記が用いられている。米国で開発された.50 BMG弾と[[:en:.223 Remington|.223レミントン]]弾が[[北大西洋条約機構|NATO]]の標準弾に指定された際には、[[12.7x99mm NATO弾]]と[[5.56x45mm NATO弾]]としてヤード・ポンド法表記から口径×薬莢長のメートル法表記に改められた。なお、軍用以外の用途においてインチ表記は制限を受けず、同種の弾薬に2つの名前が併存している。
弾薬の呼び径をインチ単位で表記する場合、小数点以下の数字に「口径」を付けて表現することがある。表記においては小数点(.)を数字の前に書き記すことも多い。1インチは25.4mmであるので、たとえば30口径は7.62mmである。また、50口径は別名「半インチ」(12.7mm)となる。数字の後ろに固有の名前をつけて弾種が表されるが、この数字は弾丸ではなく[[薬莢]]の直径を表している場合がある。たとえば、[[日本の警察]]用拳銃、[[ニューナンブM60]]や[[S&W M37]]に使用される[[.38スペシャル弾]]は、より長い薬莢を持つ[[.357マグナム弾]](0.357インチ≒9.068mm)と薬莢の直径が同等である{{efn2|インチ表記「.38口径」をミリメートル表記に置き換える際に「9mm」とする場合が多いが、これは薬莢の直径が0.38インチ(9.65mm)であり、弾丸の直径が約9mmとなっていることによる。}}。この二種類の弾薬の場合、呼び径は異なっているもののある程度の互換性がある。
== 砲 ==
[[ファイル:CAESAR, French army licence registration '6093 0034' photo-1.JPG|サムネイル|[[M109 155mm自走榴弾砲|M109]]の39口径榴弾砲よりも長い、52口径榴弾砲を搭載した[[カエサル 155mm自走榴弾砲|カエサル自走榴弾砲]](この場合の口径は砲身長を指す)]]
砲においては、[[銃]]と同様に[[銃砲身|砲身]]内径(bore diameter)、すなわち発射される[[砲弾]]の直径を示す言葉として用いられる口径と、砲身の長さを示す単位の短縮形である口径の二つの意味で用いられている。砲身の長さは口径長という語で表すのが正式だが、一般的にこちらで呼ばれる。
[[大砲]]の砲身長を示す[[単位]]として、その砲の口径が用いられている。すなわち砲身長の実測値を口径の値で割ったものを口径長と称し、砲身の長さを示す値として用いる。例えば70口径(長)の75[[ミリメートル]]砲とは、口径(砲身内径)が75ミリで、砲身長が75mm×70口径=5,250mm(5.25[[メートル]])であることを表す。一般論では、同一口径の砲でも口径長が大きい砲のほうが砲身内を砲弾が通過する時間が長くなり、より長い間発射体を加速できる。そのため、その砲の撃つ弾の初速が上がり、[[徹甲弾]]は貫通力が増し、[[榴弾]]でも射距離を伸ばすことができる。しかしデメリットとして砲全体が重く大きくなるほか、砲身そのものの製造コストも上がり、使用時に砲身のたわみを考慮に入れる必要がある。
== 重量単位 ==
[[弾丸]]が[[鉛]]の[[球体|球]]弾だったころは、鉛の重さが決まればその弾の直径は常に同じとなることから、弾丸の重さによって口径を示す方法が広く用いられていた。この方法は弾丸の形が[[紡錘]]状に変化することで意味を失ってしまったが、[[1950年代]]までの[[イギリス]]の[[大砲]]、[[散弾銃]]、[[日本]]の[[火縄銃]]の口径を示す方法として、現在も用いられている。
=== イギリスの火砲 ===
[[第二次世界大戦]]終結ごろまでに[[イギリス]]で設計された[[大砲]]は、同時期の[[ドイツ]]や[[フランス]]などの[[ヨーロッパ|欧州大陸諸国]]が[[メートル法]](フランスは[[ミリメートル]](mm)、ドイツは[[センチメートル]](cm))による内径長表記式を用いていたのとは対照的に、独自の表記法を使用していた。
直接照準で使用される[[野砲]]や[[対戦車砲]]、[[戦車砲]]は伝統的に重量単位([[ポンド (質量)|ポンド]])で口径が示されてきた。たとえば、[[第一次世界大戦]]における主力野砲であった[[QF 18ポンド砲|18ポンド野砲]]の口径は約84mm、第二次大戦における主力[[野戦砲]][[QF 25ポンド砲|25ポンド野砲]]の口径は約87.6mm。[[戦車#第1世代主力戦車|戦後第一世代]]の[[戦車]]である[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]の[[主砲]]は、[[センチュリオン (戦車)#派生型|センチュリオン Mk.I]]では[[オードナンス QF 17ポンド砲|17ポンド砲]](約76.2mm)が搭載されており、[[イスラエル]]に輸出され[[中東戦争]]などで活躍したセンチュリオン Mk.IIIでは[[オードナンス QF 20ポンド砲|20ポンド砲]](約84mm)に増強されている。
逆に間接照準で運用される[[榴弾砲]]や[[カノン砲]]では内径長による表記法が用いられていたが、単位には[[インチ]]が使用されていた。たとえば、第一次大戦期の榴弾砲では[[QF 4.5インチ榴弾砲|4.5インチ野戦榴弾砲]]の口径は約114mm、[[BL 6インチ 26cwt榴弾砲|6インチ中榴弾砲]]の口径は約152mm、[[BL 8インチ榴弾砲 Mk6|8インチ重榴弾砲]]の口径は約203mmであった。第二次大戦期の主力カノン砲であった[[BL 5.5インチ砲|5.5インチ砲]]の口径は約140mmである。
[[北大西洋条約機構|NATO]]への加盟の影響もあってか現在ではメートル法(ミリメートル)を単位とする内径長による表記に統一されている。たとえば、イギリスで設計され[[戦車#第2世代主力戦車|戦後第二世代戦車]]の標準的な[[戦車砲]]となった[[ロイヤル・オードナンス L7]]の口径は、105mmの表記が用いられている。
=== 火縄銃 ===
[[日本]]の[[火縄銃]]の口径も重量単位で示される。10[[匁]]の中筒(なかづつ)で約18mm、30匁の大筒(おおづつ)で約26mmの口径となる<!--ここでは国友鉄砲研究会の資料による分類を用いた-->。
=== 散弾銃 ===
正確に言えば、[[散弾銃]]のサイズは番号と呼び、口径というのは間違いであるが、ほぼ同じ意味で用いられるのでここで説明する。
すなわち散弾銃のn番とは、1/n[[ポンド (質量)|ポンド]]の[[球体|球]]形の[[鉛]]の直径であり、その球弾が適合する[[銃砲身|銃身]]の内径を言う。[[英語]]ではゲージ(gauge)という。数字が小さいほど大口径ということになる。競技用や[[狩猟]]用に広く世界的に用いられる散弾銃は12番口径で、その口径は約18.5mm、大型獣の狩猟に用いられる10番では約20mmとなる。その昔に[[水鳥]]撃ちで用いられた[[パントガン|パント銃]]([[ボート]]の[[船首|舳先]]に据え付けて用いる[[銃]]。一発で多数の猟果があがる)は、1番や2番といった大口径となっており、[[インチ]]を超えるものはそのまま内口径長で表されていた。例外的に[[アメリカ合衆国|米国]]で競技用に開発された410番は[[弾薬]]の直径をインチで表したもの、すなわち0.410インチであることからこう呼ばれている。
ちなみに散弾銃は、複数の散弾を納めた[[弾薬]]を発射する銃であるが、その散弾にも粒径による規格がある。[[欧米]]では大別して鳥撃ち用(Birdshot)と鹿撃ち用(Buckshot)に分けられ、各サイズを[[散弾銃#用途による種類|英数字で表している]]。鳥撃ち用の場合、数字が大きくなると散弾の直径が0.01インチずつ小さくなってゆく。この規格はそのまま[[日本工業規格|JIS]]に取り込まれているが、そのサイズは[[メートル法]]に丸められている。たとえばBBは0.18インチで4.57mmだが、JISでは4.5mmとなっている。なお、このBBは[[遊戯銃]]で用いられている[[BB弾]]とはサイズが異なる。また、JISでは数字には「号」をつけて1号、2号のように呼称するが欧米では特に何もつけずに表記される。7-1/2などの端数に号をつけると煩雑になるので「7半」のような表記も行われる。鹿撃ち用の場合も数字が大きくなると直径は小さくなるがその単位は一定しておらず、0.01-0.03インチが用いられる<!--この規格も弾の重量が関係するらしいのだが諸説あってはっきりしないのでこの版では記述せず将来の課題とする-->。
==脚注==
<!--=== 出典 ===-->
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
== 関連項目 ==
* [[ライフリング]]
{{DEFAULTSORT:こうけい}}
[[Category:銃の構造・部品]]
[[Category:長さの単位]]
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2003-09-26T14:57:29Z
|
2023-10-07T09:55:40Z
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[
"Template:Lang-en-short",
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"Template:Otheruses",
"Template:出典の明記"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%BE%84
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18,389 |
ドイツ表現主義
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ドイツ表現主義(ドイツひょうげんしゅぎ、英: German Expressionism)は、ドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など各分野で流行し、「黄金の20年代」と呼ばれたベルリンを中心に花開いた。日本を含む世界各地の前衛芸術に影響を与え、現代芸術の先駆となった。
ドレスデン(ドイツ帝国時代のザクセン王国)で1905年に、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーらの前衛絵画グループ「ブリュッケ」が生まれ、ドイツ表現主義と言われる運動の起点になった(表現主義の項目を参照のこと)。表現主義(Expressionism)は印象主義(Impressionism)に対する言葉で、不安の感情などを表現している。1911年にはミュンヘンでカンディンスキーやフランツ・マルク芸術家グループ「青騎士」が生まれ、彫刻や音楽などにも広がっていった。建築においても、メンデルゾーンのアインシュタイン塔などの作品がある。ドイツ表現主義の主な作家・作品については以下のカテゴリーを参照。
ドイツ古典主義の美術を模範とするナチス・ドイツ時代には、「退廃芸術」の一つと規定され、激しい弾圧を受けた。ヴァイマル文化の項参照。
日本においては、単なる「表現主義」(「表現派」)ではなく「ドイツ表現主義」(「ドイツ表現派」)という言い方がなされることがあるが、これがどのような経緯で使われるようになったかについて明確に記載している文献は存在しない。ただ、 第二次世界大戦前から日本で「ドイツ表現派」という呼び方が用いられていたことを示す、次のような文献が存在する。
なお、『カラー版20世紀の美術』(監修・末永照和、美術出版社、2000年)においては、見出しにおいて(「ドイツ表現主義」という表現ではなく)「ドイツの表現主義」という表現を用いている(11ページ)。
ドイツ表現主義映画の代表作としては『プラーグの大学生』、『カリガリ博士』、『ゲニーネ』、『巨人ゴーレム』、『死滅の谷』、『吸血鬼ノスフェラトゥ』、『ファントム(英語版)』、『メトロポリス』、『M』などがある。
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"text": "ドイツ表現主義(ドイツひょうげんしゅぎ、英: German Expressionism)は、ドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など各分野で流行し、「黄金の20年代」と呼ばれたベルリンを中心に花開いた。日本を含む世界各地の前衛芸術に影響を与え、現代芸術の先駆となった。",
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ドイツ表現主義は、ドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など各分野で流行し、「黄金の20年代」と呼ばれたベルリンを中心に花開いた。日本を含む世界各地の前衛芸術に影響を与え、現代芸術の先駆となった。
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{{出典の明記|date=2017年6月}}
[[ファイル:Bundesarchiv B 145 Bild-P047333, Berlin, Mary Wigman-Studio.jpg|サムネイル|ドイツ[[:en:Expressionist_dance|表現主義舞踊]]の代表格[[マリー・ウィグマン]]]]
[[ファイル:Cabinet of Dr Caligari 1920 Lobby Card.jpg|サムネイル|映画「[[カリガリ博士]]」]]
[[ファイル:Franz Marc 005.jpg|サムネイル|[[フランツ・マルク]]「小さな青い馬」]]
'''ドイツ表現主義'''(ドイツひょうげんしゅぎ、{{lang-en-short|German Expressionism}})は、[[ドイツ]]において[[第一次世界大戦]]前に始まり[[1920年代]]に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など各分野で流行し、「黄金の20年代」と呼ばれた[[ベルリン]]を中心に花開いた。日本を含む世界各地の[[前衛芸術]]に影響を与え、現代芸術の先駆となった。
== 概要 ==
[[ドレスデン]]([[ドイツ帝国]]時代の[[ザクセン王国]])で1905年に、[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]らの前衛絵画グループ「[[ブリュッケ]]」が生まれ、ドイツ表現主義と言われる運動の起点になった([[表現主義]]の項目を参照のこと)。[[表現主義]](Expressionism)は[[印象主義]](Impressionism)に対する言葉で、不安の感情などを表現している。1911年には[[ミュンヘン]]で[[カンディンスキー]]や[[フランツ・マルク]]芸術家グループ「[[青騎士]]」が生まれ、彫刻や音楽などにも広がっていった。建築においても、メンデルゾーンの[[アインシュタイン塔]]などの作品がある。ドイツ表現主義の主な作家・作品については以下のカテゴリーを参照。
*[[:en:Category:German Expressionist painters|ドイツ表現主義の画家]]
*[[:en:Category:German Expressionist films|ドイツ表現主義の映画]]
*[[:en:Expressionist_dance|ドイツ表現主義の舞踊]]
*[[:en:Category:German Expressionist writers|ドイツ表現主義の文筆家]]
*[[:en:Category:German Expressionist dramatists and playwrights|ドイツ表現主義の劇作家]]
ドイツ[[古典主義]]の美術を模範とする[[ナチス・ドイツ]]時代には、「[[退廃芸術]]」の一つと規定され、激しい弾圧を受けた。[[ヴァイマル文化]]の項参照。
==「ドイツ表現主義」「ドイツ表現派」という呼び方について==
[[日本]]においては、単なる「表現主義」(「表現派」)ではなく「ドイツ表現主義」(「ドイツ表現派」)という言い方がなされることがあるが、これがどのような経緯で使われるようになったかについて明確に記載している文献は存在しない。ただ、 [[第二次世界大戦]]前から日本で「ドイツ表現派」という呼び方が用いられていたことを示す、次のような文献が存在する。
#大正11年(1922年)11月雑誌『解放』:[[山岸光宣]]「独逸表現派の社会革命劇 トルレルの『転変』を中心として」
#大正12年(1923年)1月3日-2月2日『東京朝日新聞』:[[田中總一郎]]「独逸表現派戯曲家」
なお、『カラー版20世紀の美術』(監修・末永照和、[[美術出版社]]、2000年)においては、見出しにおいて(「ドイツ表現主義」という表現ではなく)「ドイツの表現主義」という表現を用いている(11ページ)。
== ドイツ表現主義(映画) ==
ドイツ表現主義映画の代表作としては『[[プラーグの大学生 (1913年の映画)|プラーグの大学生]]』、『[[カリガリ博士]]』、『[[ゲニーネ]]』、『[[巨人ゴーレム (1920年の映画)|巨人ゴーレム]]』、『[[死滅の谷]]』、『[[吸血鬼ノスフェラトゥ]]』、『{{仮リンク|ファントム (1922年の映画)|label=ファントム|en|Phantom (1922 film)}}』、『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』、『[[M (1931年の映画)|M]]』などがある。
== 関連書籍 ==
*早崎守俊『ドイツ表現主義の誕生』三修社、1996 年
*神林恒道・編『ドイツ表現主義の世界:美術と音楽をめぐって』法律文化社、1995年
*土肥美夫『ドイツ表現主義の芸術』岩波書店、1991 年
== 関連項目 ==
* [[表現主義]]
* [[新即物主義]] - 表現主義に対抗する前衛芸術として現れた芸術運動
* [[表現主義音楽]]
* [[フィルム・ノワール]]
* [[ダリオ・アルジェント]] - イタリアのホラー映画監督。手掛けた作品群の随所に登場する極彩色豊かな照明や作風・世界観は、同監督が感銘を受けたドイツ表現主義の影響とされている。
*[[エミール・ノルデ]]
*[[ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街]]
== 外部リンク ==
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3084592 北ドイツ表現主義建築の研究]長谷川章、1991年
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18,390 |
紀元前496年
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紀元前496年(きげんぜん496ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「アルブスとトリコストゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元258年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前496年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前496年(きげんぜん496ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「アルブスとトリコストゥスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元258年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前496年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前496年'''(きげんぜん496ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「[[アウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシス|アルブス]]と[[ティトゥス・ウェルギニウス・トリコストゥス・カエリオモンタヌス (紀元前496年の執政官)|トリコストゥス]]が[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]258年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前496年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙巳]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]165年
** [[懿徳天皇]]15年
* [[中国]]
** [[周]] - [[敬王]]24年
** [[魯]] - [[定公 (魯)|定公]]14年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[景公 (斉)|景公]]52年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[定公 (晋)|定公]]16年
** [[秦]] - [[恵公 (春秋秦)|恵公]]5年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[昭王 (楚)|昭王]]20年
** [[宋 (春秋)|宋]] - [[景公 (宋)|景公]]21年
** [[衛]] - [[霊公 (衛)|霊公]]39年
** [[陳 (春秋)|陳]] - [[湣公 (陳)|湣公]]6年
** [[蔡]] - [[昭侯 (蔡)|昭侯]]23年
** [[曹 (春秋)|曹]] - [[曹伯陽|伯陽]]6年
** [[鄭]] - [[声公 (鄭)|声公]]5年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[簡公 (春秋燕)|簡公]]9年
** [[呉 (春秋)|呉]] - [[闔閭]]19年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1838年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 49年
* [[ユダヤ暦]] : 3265年 - 3266年
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== できごと ==
=== ギリシア ===
* 紀元前6世紀の[[僭主]][[ペイシストラトス]]の親戚でカルモスの息子ヒッパルコスは、[[アテネ]]の[[アルコン]]の選挙に勝利し、ペルシアへの抵抗は無意味だと主張した。
=== 共和政ローマ ===
* 紀元前508年に追放された[[王政ローマ]]最後の王[[タルクィニウス・スペルブス]]は、[[レギッルス湖畔の戦い]]で新しい[[共和政ローマ]]の軍に敗れた。この戦いの結果は、ラテン世界に対するローマの優位性を確立した。
* [[カルタゴ]]とローマは条約を結び、ローマの船はカルタゴの西部と貿易を行わず、カルタゴはラテンの政治を邪魔しないことが合意された。
=== 中国 ===
* [[晋 (春秋)|晋]]軍が范氏と中行氏の拠る[[朝歌]]を包囲した。
* [[衛]]の公叔戌が[[魯]]に亡命し、趙陽が[[宋 (春秋)|宋]]に亡命した。
* [[楚 (春秋)|楚]]の公子結と[[陳 (春秋)|陳]]の公孫佗人が軍を率いて頓を滅ぼした。
* [[越]]が[[呉 (春秋)|呉]]軍を欈李で破り、呉王[[闔閭]]は戦傷を受けて死去した。
* [[斉 (春秋)|斉]]と魯と衛が牽で会盟した。
* 斉と宋が洮で会盟した。
* 晋軍が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕らえた。また晋軍は[[鄭]]軍と范氏の軍を百泉で破った。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前496年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ソポクレス]] - アテネの劇作家、政治家([[紀元前406年]]没)
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前496年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[孫武]] - [[斉 (春秋)|斉]]の軍事思想家で[[孫子 (書物)|孫子]]の著者([[紀元前544年]]生)
* [[闔閭]] - 呉の王
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|496 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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18,391 |
キリスト教年表
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キリスト教年表(キリストきょうねんぴょう)では、キリスト教宣教史に関する重要なできごとを年表としてまとめる。
前1世紀 1世紀 2世紀 3世紀 4世紀 5世紀 6世紀 7世紀 8世紀 9世紀 10世紀
11世紀 12世紀 13世紀 14世紀 15世紀 16世紀 17世紀 18世紀 19世紀 20世紀 21世紀
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16世紀 17世紀 18世紀 19世紀 20世紀 21世紀
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{{キリスト教}}
'''キリスト教年表'''(キリストきょうねんぴょう)では、[[キリスト教]]宣教史に関する重要なできごとを[[年表]]としてまとめる。
__NOTOC__
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==キリスト教史の重要な出来事==
===前1世紀===
* [[紀元前63年]] [[共和政ローマ]]の将軍の[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]が[[エルサレム]]に入城する。[[ユダヤ]]地方([[イスラエル]]または[[パレスチナ]]ともいう)はローマの支配下に入る。
* [[紀元前34年]] [[ヘロデ大王]]、ローマから[[ユダヤ人]]の王に任命される。
* [[紀元前29年]] [[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]、ローマ初代皇帝(アウグストゥス)となり、[[ローマ帝国|帝政ローマ]]が始まる。
* [[紀元前7年]]~[[紀元前4年]]頃(伝:[[1年|紀元1年]]) [[イエス・キリスト|イエス]]がユダヤ地方の[[ベツレヘム]]に[[キリストの降誕|降誕]]する。
===1世紀===
* [[27年]] この頃、[[洗礼者ヨハネ]]が活動を開始する。イエスはヨハネより[[洗礼]]を受け、良き訪れと呼ぶ宣教活動を開始する。
* [[29年]]または[[30年]](伝:[[33年]]) イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で[[キリストの磔刑|磔刑]]になり、3日目に[[復活 (キリスト教)|復活]]した。復活の後、イエスが弟子たちに[[大宣教命令]]を与えた。
* [[35年]]または[[36年]] [[ステファノ]]が石打ちの刑で死に[[キリスト教]]の最初の[[殉教|殉教者]]([[致命者]])となる。迫害者[[パウロ]](本名サウロ)がイエスの幻を見て回心する。
* [[46年]] サウロが[[バルナバ]]とともに第1回伝道旅行([[キプロス]]・[[アナトリア半島|小アジア]])に出発し、途中で名をパウロと改める。
* [[47年]] 宣教方針をめぐって[[エルサレム]]で使徒会議が開かれ、異邦人への宣教が認められる。
* [[48年]] パウロが第2回伝道旅行(小アジア・ギリシャ)に出発し、途上でテサロニケ人への第1・第2の手紙が書かれる(~51)。
* [[52年]] パウロが第3回伝道旅行(小アジア・ギリシャ)に出発し、途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
* [[54年]] この頃、[[マルコによる福音書]]が書かれる。
* [[57年]] パウロはユダヤ人に訴えられて逮捕されるが、ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
* [[60年]] パウロはローマに到着し、以降数年を過ごす。フィリピ人・コロサイ人・フィレモンなどへの手紙を書く。この頃、[[ルカによる福音書]]が書かれる。続いて同じ著者によって、[[使徒言行録]]が書かれる。[[マタイによる福音書]]もこのころ成立。
* [[61年]] [[エルサレム]]の教会を指導していたイエスの兄弟[[ヤコブ (イエスの兄弟)|ヤコブ]]が[[殉教]]する。
* [[64年]] ローマの大火を理由として皇帝[[ネロ]]がキリスト教徒を迫害する。
* [[66年]] ユダヤ地方のユダヤ人達がローマ帝国に反旗を翻し、第1次[[ユダヤ戦争]]が起こる。
* [[70年]] ローマ軍がエルサレムを陥落させ、[[ユダヤ教]]の[[エルサレム神殿]]が廃墟となる。
* [[100年]] この頃までに[[ヨハネによる福音書]]・[[ヨハネの黙示録]]が完成する。
* [[100年]] この頃、[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]が[[ヤムニア会議]]で[[旧約聖書]][[正典]]を決定。
===2世紀===
* [[135年]] 第2次ユダヤ戦争([[バル・コクバの乱]])終結し、ローマ軍によってエルサレムは廃墟とされる。
===3世紀===
* [[230年]]頃 アレクサンドリアの[[オリゲネス]]が活動。初の体系的な[[キリスト教神学]]と評される。
* [[250年]] ローマ皇帝[[デキウス]]による大迫害が始まる。
* [[293年]] [[ローマ帝国]]、四分割される([[テトラルキア]])。
===4世紀===
* [[301年]] [[アルメニア王国]]がキリスト教を[[国家宗教|国教]]とする([[アルメニア使徒教会]])。当時のアルメニアは[[ローマ帝国]]の[[従属国]]だが、国家の国教としては世界初。
* [[303年]] ローマ皇帝[[ディオクレティアヌス]]がキリスト教禁圧令を出し迫害する。
* [[306年]] この頃、[[大アントニオス|アントニウス]]が[[アエギュプトゥス|エジプト]]で隠修士を集め、キリスト教最初の[[修道院]]を始める。
* [[312年]] ローマ皇帝[[コンスタンティヌス1世]]、十字架を旗印にしてミルヴィウス橋の戦いに勝利する。
* [[313年]] ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が[[ミラノ勅令|ミラノ寛容令]]を発し、キリスト教を公認する。
* [[318年]] エジプト、[[アレクサンドリア]]で、父と子の同質性を認める主教[[アレクサンドロス1世 (アレクサンドリア主教)|アレクサンドロス]]と、これを認めない[[アリウス派]]の間で論争が起こる。
* [[325年]] コンスタンティヌス1世によって[[第1ニカイア公会議]](最初の[[全地公会議]])が開かれ、父と子の同質性を確認し[[アリウス派]]が[[異端]]とされるが、アリウス論争はその後も長く続く。
* [[327年]] [[ジョージア (国)|ジョージア]]がキリスト教を国教とする([[グルジア正教会]])。
* [[350年]]頃 [[エチオピア]]がキリスト教([[コプト正教会]]、のちに独立して[[エチオピア正教会]])を国教とする。
* [[361年]] ローマ皇帝[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]](背教者ユリアヌス)がローマ古来の宗教の復活を企てる。
* [[374年]] [[アンブロジウス]]が[[ミラノ]]司教に着座。[[西方教会]]の典礼を整備する。
* [[375年]] [[民族移動時代|ゲルマン民族の大移動]]が開始される。
* [[379年]] [[カイサリアのバシレイオス]](聖大ワシリイ)永眠。[[東方教会]]で用いられる[[聖体礼儀]]の[[奉神礼]]文を整備。
* [[381年]] ローマ皇帝[[テオドシウス1世]]によって[[第1コンスタンティノポリス公会議]]が開かれ、[[ニカイア・コンスタンティノポリス信条]]が採択される。再びアリウス派が異端とされ、アリウス論争が決着する。
* [[386年]] [[アウグスティヌス]]が[[マニ教]]からキリスト教に回心する。
* [[388年]] キリスト教とユダヤ教の[[異宗婚]]が禁止される。
* [[389年]] [[ナジアンゾスのグレゴリオス]]永眠。[[東方教会]]の神学の大成者。
* [[392年]] ローマ皇帝[[テオドシウス1世]]がキリスト教をローマ帝国の国教に定める。
* [[395年]] ヒッポ(北アフリカ)の[[司教]]アウグスティヌスが『告白』を書く。
:ローマ帝国が東西に分離。
* [[397年]] カルタゴ会議で新約聖書正典を決定。
===5世紀===
* [[400年]]頃 [[金口イオアン]](ヨアンネス・クリュソストモス)活動、[[東方教会]]で最も標準的に用いられる[[聖体礼儀]]の[[奉神礼]]文を整備。
* [[409年]] [[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]がキリスト教寛容令を出す。
* [[410年]] [[ヒエロニムス]]がエルサレムで聖書を[[ラテン語]]に翻訳する([[ヴルガータ]]訳聖書)。
:アウグスティヌスが代表的著作『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』を著す。後世の[[プロテスタント]]に至るまで、[[西方教会]]の神学に大きな影響を与えた。
* [[411年]] [[ペラギウス]]論争起こる。
* [[431年]] [[エフェソス公会議]]で[[ペラギウス]]と[[ネストリウス派|ネストリウス]]を異端とする。ネストリウス派はペルシアに亡命。
* [[432年]] [[パトリキウス]]が[[アイルランド]]に伝道([[ケルト系キリスト教]]の始まり)。
* [[440年]] ローマ司教[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]が、ローマ司教の[[教皇首位説|首位権]]([[教皇権]])を主張する。
* [[451年]] [[カルケドン公会議]]で[[両性説|両性論]]が正統とされ、[[単性説|単性論]]と見なされた(当事者は[[合性論]]であり単性論とは違うと主張する)[[コプト正教会]]、[[シリア正教会]]、[[アルメニア使徒教会]]([[非カルケドン派正教会]])が分立する。
* [[452年]] ローマ教皇レオ1世が[[フン族]]の長[[アッティラ]]をローマから撤退させる。
* [[459年]] [[登塔者シメオン|登塔者克肖聖シメオン]]永眠。
* [[476年]] ゲルマン人の度重なる侵攻に耐えてきた[[西ローマ帝国]]が滅亡する。
* [[486年]] [[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス]]が[[フランク王国]]を建てる。
* [[496年]] フランク王クローヴィス、部下3千人と共にカトリックの洗礼を受ける。
===6世紀===
* [[517年]] ブルグント王ジギスムント、アリウス派からカトリックに改宗。
* [[529年]] [[ヌルシアのベネディクトゥス|ベネディクトゥス]]が[[モンテ・カッシーノ]]に[[修道院]]を開く([[ベネディクト会]])。
* [[535年]] [[ネストリウス派]]の宣教師が初めて[[中国]]を訪問。
* [[553年]] [[第2コンスタンティノポリス公会議]]が開かれる。
* [[590年]] ローマ教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]](大聖グレゴリオ)が着座する(この頃より、[[ローマ教皇]]という言葉が使われる)。
:[[アイルランド]]出身の修道士[[コルンバヌス]]、ヨーロッパ大陸に伝道を開始する。
* [[596年]] [[カンタベリーのアウグスティヌス]]が[[アングロ・サクソン人]]に伝道を開始する。
===7世紀===
* [[620年]] [[東ローマ帝国]](ビザンティン帝国)の公用語がラテン語からギリシア語に変わる。
* [[622年]] [[イスラム教]]を開いた[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]](マホメット)が[[マディーナ]](メディナ)に遷る。[[ヒジュラ暦]]元年。
* [[635年]] [[ネストリウス派]]の宣教師が中国の[[唐]]を訪問。
* [[638年]] [[イスラム帝国|イスラム軍]]が[[エルサレム]]ほか[[パレスチナ]]全域を制圧。
:[[長安]]にネストリウス派の教会・[[大秦寺]]が建つ。
* [[651年]] [[クルアーン]](コーラン)が編纂される。
* [[664年]] [[ウィットビー教会会議]]でケルト系キリスト教の主張が破られ、以後衰退。
* [[680年]] [[第3コンスタンティノポリス公会議]]で[[単意説|単意論]]が異端とされる。
===8世紀===
* [[700年]] イスラム軍が北アフリカを制圧。
* [[711年]] イスラム軍が[[イベリア半島]]を制圧。
* [[720年]] イスラム軍がフランク王国に侵入。
* [[726年]] [[聖像破壊運動]]。
* [[732年]] フランク王国宮宰[[カール・マルテル]]が[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]でイスラム軍を撃退し、イスラム軍のヨーロッパへの進軍が止む。
* [[745年]] [[ケルン]]に大司教座が設置される。
* [[750年]] [[ウマイヤ朝]]が滅亡し、[[アッバース朝]]が始まる。
* [[756年]] フランク王国宮宰[[ピピン3世 (フランク王)|小ピピン]]、[[ラヴェンナ]]の土地を教皇に寄進し、[[教皇領]]が始まる。
* [[780年]] [[養子的キリスト論|養子論]]論争。
* [[781年]] [[大秦景教流行中国碑]]が建てられる。
* [[787年]] [[第2ニカイア公会議]](最後の[[全地公会議]])で[[イコン|聖像]]の使用が認可される(聖像破壊運動の最終決着)。
* [[793年]] [[イングランド]]北部、[[リンデスファーン修道院]]、[[ノルマン人]]に襲われる([[ヴァイキング]]の南下遠征の始まり)。
* [[800年]] カール・マルテルの孫[[カール大帝]](シャルル・マーニュ)がローマで教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]から西ローマ皇帝として戴冠される。
===9世紀===
* [[829年]] 伝道師[[:en:Ansgar|アンスガル]]ら[[北欧]]の[[ヘーゼビュー]]、[[ビルカ]]に布教。850年代にもビルカで布教するが抵抗に遭い失敗する。
* [[844年]] [[聖餐論争]]。{{要出典|date=2021年8月}}
* [[846年]] イスラム軍が東ローマ帝国を攻撃する。
* [[848年]] [[二重予定説]]論争。{{要出典|date=2021年8月}}
* [[860年]] [[ノルマン人]]が[[ルーシ]]([[ウクライナ]]、[[ロシア]]など東スラヴ地域)を支配する。
* [[865年]] 聖書が[[古代教会スラヴ語]]に翻訳される。
* [[867年]] 西のローマと東のコンスタンティノープルの教会が一時的に分裂する。
* [[869年]] [[第4コンスタンティノポリス公会議]]開かれる。
* [[878年]] イスラム軍が[[シチリア|シチリア島]]を占領する。
===10世紀===
* [[950年]] [[デンマーク君主一覧|デンマーク王]][[ハーラル1世 (デンマーク王)|ハーラル1世]]がキリスト教を公認。
* [[957年]] キエフ公妃[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]がコンスタンティノポリスで受洗。
* [[962年]] [[東フランク王国]](ドイツ)国王[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[神聖ローマ帝国]]皇帝となる。
* [[988年]] [[キエフ大公国|キエフ大公]][[ウラジーミル1世]]が受洗し、主教座が設置される。
* [[989年]] キエフ大公ウラジーミル1世が東ローマ皇帝の妹と結婚し、[[正教会]]がルーシの国教になる素地となる。
* [[995年]] [[ノルウェー]]王[[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラヴ1世]]がキリスト教を導入。
* [[1000年]]頃 [[アイスランド]]が[[アルシング]]において[[アイスランドのキリスト教化|キリスト教を国教として受け入れる]]。
:キリスト教に改宗したアイスランド・[[ヴァイキング]]の[[レイフ・エリクソン]]、[[北アメリカ]]を「発見」。[[宣教|布教]]、[[領有]]化は成されなかった。
:[[スウェーデン]]王[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェットコンヌング]]が[[イングランド王国|イングランド]]人宣教師によって受洗。
===11世紀===
* [[1014年]] デンマーク王[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌーズ2世]]がキリスト教を[[国教]]とする。
* [[1020年]] [[クリュニー修道院]]の改革が、教会改革へと波及する。
* [[1041年]] 「神の休戦」が制定される。
* [[1049年]] ローマ教皇[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]が着座し、カトリック教会の綱紀粛正。
* [[1054年]] ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に[[破門]]し、[[東西教会の分裂]]が決定的となる。
* [[1073年]] ローマ教皇[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が教会改革を断行する。
* [[1074年]] カトリック教会において[[聖職者]]の独身制が決定され、妻帯していた司祭などが失職する。
* [[1075年]] カトリック教会において聖職者の平服が禁止される。俗人による聖職叙任が禁止される。
* [[1077年]] 教皇グレゴリウス7世に破門された神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]が赦しを請う([[カノッサの屈辱]])。
* [[1096年]] [[第1回十字軍]]が出発し、パレスチナと[[シリア]]の一部を占領する。
* [[1099年]] [[十字軍]]が[[エルサレム王国]]を建国。[[アンティオキア公国]]などの[[十字軍国家]]も並立。
===12世紀===
* [[1113年]] [[聖ヨハネ騎士団]]が認可される。
* [[1115年]] クレルヴォー修道院が創設される。
* [[1117年]] [[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ寺院]]が完成。
* [[1122年]] [[ヴォルムス協約]]が締結される。
* [[1123年]] [[第1ラテラン公会議]]開かれる。
* [[1128年]] [[テンプル騎士団]]が結成される。
* [[1139年]] [[第2ラテラン公会議]]開かれる。
* [[1140年]] 南フランスで[[カタリ派]]が広がる。
* [[1147年]] [[第2回十字軍]]。
* [[1155年]] [[スウェーデン]]王[[エリク9世 (スウェーデン王)|エリク9世]]、[[フィンランド]]へ布教([[北方十字軍]])。
* [[1160年]] [[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ランス大聖堂]]の建設開始。
* [[1163年]] [[ノートルダム大聖堂 (パリ)]]の建設開始。
* [[1170年]] [[オックスフォード大学]]が創設される。
* [[1177年]] 南フランスで[[ヴァルド派]]が広がる。
* [[1179年]] [[第3ラテラン公会議]]開かれる。
* [[1185年]] カトリック教会で単形色(パンのみ)の[[聖餐|聖体拝領]]と[[ロザリオ]]の使用が習慣化する。
* [[1189年]] [[第3回十字軍]]。
* [[1199年]] [[ドイツ騎士団]]が認可される。
===13世紀===
* [[1203年]] [[第4回十字軍]]が[[コンスタンティノープル包囲戦 (1203年)|コンスタンティノープルを占領]]して虐殺・略奪を行い、[[ラテン帝国]]を建国。
* [[1209年]] [[アルビジョア十字軍]]が[[カタリ派]]打倒の名目で南フランスへ派遣され、住民の虐殺を行う。
* [[1209年]] [[アッシジのフランチェスコ]]により[[イタリア]]で[[フランシスコ会]]が創立される。
* [[1212年]] [[少年十字軍]]が派遣され、その大多数が人身売買で奴隷にされる。
* [[1215年]] [[第4ラテラン公会議]]が[[聖変化|実体変化]]の教義を宣言し、聖職者の行動指針を示す。
* [[1216年]] [[ドミニコ]]が創立した[[ドミニコ会]]が認可される。
* [[1217年]] [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王の十字軍が[[エジプト]]を攻撃する。
* [[1218年]] [[第5回十字軍]]。
* [[1223年]] [[フランシスコ会]]が認可される。
* [[1228年]] [[第6回十字軍]]。
* [[1233年]] [[ケンブリッジ大学]]が創設される。
* [[1229年]] カトリック教会において信徒の聖書朗読が禁止される。
* [[1245年]] [[第1リヨン公会議]]開催、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の神聖ローマ皇帝位を剥奪。
* [[1248年]] [[第7回十字軍]]。
* [[1255年]] [[パリ大学]]が[[アリストテレス]][[哲学]]の講義を開始する。
* [[1270年]] [[第8回十字軍]]。
* [[1273年]] パリ大学教授でドミニコ会の[[トマス・アクィナス]]が『[[神学大全]]』を完成する。
* [[1274年]] [[第2リヨン公会議]]が教皇選挙の方式を改正。
* [[1289年]] フランシスコ会の[[ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ|モンテコルヴィノ]]が[[元 (王朝)|元]]の[[大都]]([[北京市|北京]])に派遣される。
===14世紀===
* [[1303年]] [[大都]]にカトリックの大司教座が設置される。
* [[1309年]] ローマ教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]が[[ローマ教皇庁|教皇庁]]を南フランスの[[アヴィニョン]]に移す([[アヴィニョン捕囚]])。
* [[1311年]] [[ヴィエンヌ公会議]]開かれる。
* [[1312年]] テンプル騎士団が弾圧される。
* [[1329年]] [[マイスター・エックハルト]]が異端審問にかけられる。
* [[1345年]] [[ルーシ]]で、のちに[[至聖三者聖セルギイ大修道院]]に発展する修道院が[[セルギー・ラドネシスキー|ラドネジのセルギイ]]により創始される。
* [[1377年]] ローマ教皇のアヴィニョン捕囚が終わる。
* [[1378年]] カトリック教会に二人の教皇が並立し、[[教会大分裂]]が始まる。
* [[1384年]] [[ジョン・ウィクリフ|ウィクリフ]]が英語聖書を翻訳、[[ロラード派]]と呼ばれる[[初期宗教改革]]運動が起こる。
===15世紀===
* [[1414年]] [[公会議主義]]者の主導によって[[コンスタンツ公会議]]が開かれ、教会大分裂を終わらせ、[[ヤン・フス]]を喚問・火刑に処す。
* [[1419年]] [[ボヘミア]]で[[フス戦争]]が始まる。
* [[1429年]] [[フランス]]で[[ジャンヌ・ダルク]]が火あぶりとなる。
* [[1431年]] [[公会議主義]]者主導による[[バーゼル公会議]]が始まる。
* [[1438年]] 教皇派が公会議をフェラーラ・フィレンツェに移転し、[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノープル総主教]]が出席して、東西教会合同の教令を採択(但し、後に正教会側はこの公会議を無効とする)。
* [[1448年]] [[ロシア正教会]]が独立・成立する。
* [[1453年]] [[オスマン帝国]]により、[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノポリスが陥落]]し、[[東ローマ帝国]](ビザンティン帝国)が滅亡する。
* [[1479年]] [[イベリア半島]]の[[カスティーリャ王国]]と[[アラゴン王国]]が合同して[[スペイン]]王国が成立する。
* [[1492年]] [[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]が[[アメリカ大陸]]に到達する(西欧人のアメリカ大陸発見)。
===16世紀===
* [[1504年]] [[ハイチ]]にカトリックの大司教座が設置される。
* [[1517年]] [[マルティン・ルター]]による[[宗教改革]]が開始される。
* [[1522年]] オスマン帝国がハンガリーを攻撃。
* [[1523年]] [[スイス]]・[[チューリヒ]]で[[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]がルター派とは異なる独自の(より急進的な)宗教改革を起こす(のちに急進派は[[アナバプテスト]]を結成、穏健派はカルヴァン派と統合)。
* [[1524年]] [[ドイツ農民戦争]]が始まる。
* [[1525年]] [[ウィリアム・ティンダル|ティンダル]]が聖書を英語に翻訳。
* [[1527年]] [[スウェーデン]]で[[ルーテル教会|ルター派]]宗教改革を開始。
* [[1529年]] オスマン帝国による[[第一次ウィーン包囲]]。
* [[1530年]] ルター派の信条をまとめた[[アウクスブルク信仰告白]]発布。
* [[1532年]] 神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が[[プロテスタント]]を容認する。
* [[1534年]] イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が[[国王至上法]]を発布して[[イングランド国教会]]を創設し、[[カトリック教会]]から分裂する。
* [[1535年]] カトリックとルター派の同盟軍が、[[アナバプテスト]](再洗礼派)を鎮圧。
* [[1536年]] ヘンリー8世がイギリス国内の修道院を解散させる。
* [[1536年]] [[デンマーク=ノルウェーの宗教改革]]。
* [[1540年]] ローマ教皇により[[イエズス会]]が修道会として認可される。
* [[1541年]] [[スイス]]・[[ジュネーヴ]]で[[ジャン・カルヴァン|カルヴァン]]が独自の宗教改革を進め、[[神権政治]]体制を布く。
* [[1545年]] [[トリエント公会議]]により、プロテスタント運動に対抗したカトリック教会内部の自己改革が頂点に達する([[対抗宗教改革]])。
* [[1546年]] プロテスタント、[[シュマルカルデン同盟]]を結び、カトリックと対決([[シュマルカルデン戦争]])。
* [[1547年]] [[イヴァン4世]](雷帝)がロシア皇帝([[ツァーリ]])に即位。
* [[1549年]] イエズス会員[[フランシスコ・ザビエル]]が来日し、キリスト教を伝える。
:ツヴィングリ派の一部とカルヴァン派が統合([[改革派教会]])。
* [[1560年]] [[ジョン・ノックス]]が[[スコットランド]]で[[カルヴァン主義]]に立脚した宗教改革を起こす([[スコットランド国教会]]、[[長老派教会]])。
* [[1563年]] [[イングランド国教会]]が『[[39箇条]]』を制定、のちの[[聖公会]]に繋がる基礎教理となる。
:ドイツ・[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯国]]で、[[カルヴァン主義]]に立脚した[[ハイデルベルク信仰問答]]が発布。
* [[1572年]] フランスで聖[[バルトロマイ]]の祝日に、プロテスタントが虐殺される([[サン・バルテルミの虐殺]])。
* [[1582年]] ローマ教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[グレゴリオ暦]]を公布する。イエズス会の宣教師[[マテオ・リッチ]]が[[マカオ]]に上陸。
* [[1584年]] マテオ・リッチ、[[天主実義]]を著述。
* [[1589年]] モスクワ[[府主教]]イオフが、初代[[モスクワ総主教|モスクワ及び全ルーシの総主教]]に就任、他の正教会の四人の総主教からその地位を承認される。
* [[1593年]] オスマン帝国が[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]を攻撃し、首都の[[ウィーン]]を包囲する。
* [[1596年]] [[ブレスト合同]]により、[[ウクライナ東方カトリック教会]]が成立する。
* [[1597年]] 長崎・西坂で[[豊臣秀吉]]の命によりキリスト教徒二十六名が処刑される([[日本二十六聖人]])。
* [[1598年]] フランスで[[ナントの勅令]]により、プロテスタント([[ユグノー]])が容認される。
* [[1600年]] スウェーデン、[[リンチェピングの血浴]]を行ない、ルター派を[[国教]]化する。
===17世紀===
* [[1604年]] [[オランダ改革派教会]]の中で[[アルミニウス主義]]論争が起こる。
* [[1611年]] [[欽定訳聖書]]が完成する。
* [[1618年]] [[三十年戦争]]が始まる。
* [[1619年]] [[ドルトレヒト会議]]でアルミニウス主義が退けられ、[[カルヴァン主義]]の教理を再確認する[[ドルト信仰基準]]が制定される。
* [[1620年]] イングランドを脱出した[[ピューリタン|清教徒]]がアメリカの[[マサチューセッツ州]][[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス]]に上陸。ヴァージニア州で黒人奴隷の使用を開始。
* [[1622年]] 長崎西坂で55名のキリシタンが処刑される([[元和の大殉教]])。
* [[1629年]] 長崎でキリシタン弾圧のために、[[踏み絵|踏絵]]がはじめて行われる。
* [[1633年]] [[ガリレオ・ガリレイ]]が地動説により[[異端審問]]を受ける。
* [[1637年]] 長崎、熊本で[[島原の乱]]。
* [[1640年]] [[ジャンセニズム|ヤンセニスム]]論争。
* [[1642年]] イングランド・スコットランドに[[清教徒革命]]勃発。
* [[1644年]] イングランド国王軍が議会軍に敗退する。
* [[1646年]] イングランド・スコットランドに共通する信条として、[[カルヴァン主義]]に立脚した[[ウェストミンスター信仰告白]]採択。
* [[1648年]] 清教徒革命により、イングランドの王制が廃止され、共和国となる。
* [[1648年]] [[ヴェストファーレン条約]]で三十年戦争終決。[[神聖ローマ帝国]]内での[[改革派教会]]([[カルヴァン主義]])を容認。
* [[1652年]] モスクワ総主教ニーコンの着座。以降1666年の追放まで、ロシア正教会の[[奉神礼]]をギリシャ化する改革を行う。これに反対する者は[[古儀式派]]を結成。
* [[1653年]] [[理神論]]が盛んになる。
* [[1660年]] [[イングランド王政復古]]。
* [[1643年]] ニューイングランド植民地連合が結成される。
* [[1649年]] メリーランド州で信教自由法が施行される。
* [[1670年]] [[シュペーナー]]により、ドイツ[[敬虔主義]]が始まる。
* [[1673年]] イングランドで、カトリック信徒の公職就任を禁止する審査律が施行される。
* [[1683年]] オスマン帝国の[[第二次ウィーン包囲]]失敗。キリスト教各国、神聖同盟を結び、イスラム教に反撃。
* [[1685年]] フランスでナントの勅令が廃止される。
* [[1688年]] イングランドで[[名誉革命]]により、議会が王権に対して決定的に優位に立つ。
* [[1689年]] イングランドで信教自由令が施行される。
===18世紀===
* [[1721年]] [[モスクワ総主教|モスクワ総主教庁]]が[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]により正式に廃止され、以降20世紀までモスクワ総主教位は空位となる。
* [[1734年]] ニューイングランドで大覚醒が起きる。
* [[1739年]] イングランド国教会の司祭であった[[ジョン・ウェスレー]]によって、[[アルミニウス主義]]に立脚した[[メソジスト]]運動が起こる。
* [[1755年]] ニューイングランド経験主義哲学が始まる。
* [[1775年]] [[アメリカ独立戦争]]が始まる。
* [[1776年]] [[アメリカ合衆国]]が建国される。
* [[1781年]] ドイツで信仰寛容令が布告され、修道院が閉鎖される。
* [[1784年]] アメリカで[[メソジスト監督教会]]が設立され、イングランド国教会から正式に分離独立。
:[[米国聖公会]]が成立(英国領土以外で初の独立した[[聖公会]])。
:リチャード・レイクスが日曜学校を始める。
* [[1785年]] アメリカで政教分離法と宗教税禁止法が施行される。
* [[1789年]] [[フランス革命]]が起こり、国王派とみなされた聖職者や修道士多数が迫害される。
* [[1792年]] [[ウィリアム・ケアリー (宣教師)|ウィリアム・ケアリー]]が[[バプテスト]]伝道協会を設立する。
:合衆国憲法修正箇条により、信教の自由と、国教制度の否定が明記される。
* [[1798年]] [[教皇領]]が[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]のイタリア侵攻によって消滅する。
* [[1799年]] イングランド国教会宣教協会が設立される。
===19世紀===
* [[1801年]] フランス、[[ローマ教皇]]と[[コンコルダート]]を締結。フランスに[[ローマ教皇庁]]の裁治権が復活。
* [[1804年]] イギリス聖書協会が設立される。
* [[1804年]] [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]がローマ教皇より戴冠されフランス皇帝に即位する。
* [[1806年]] [[神聖ローマ帝国]]が崩壊する。
* [[1807年]] [[ウィリアム・ウィルバーフォース|ウィルバーフォース]]が奴隷売買廃止運動を開始。
* [[1808年]] アメリカで奴隷貿易が禁止される。
* [[1810年]] [[アメリカン・ボード]]が設立される。
* [[1816年]] アメリカ聖書協会が設立される。
* [[1827年]] イギリスで審査律が廃止される。
* [[1833年]] [[オックスフォード運動]]で[[聖公会]]のカトリック的伝統回帰が起こる。
* [[1837年]] ギュツラフによる日本語聖書の作成。
* [[1839年]] [[チャーティズム|チャーティスト運動]]。
* [[1844年]] [[キリスト教青年会|YMCA]]が設立される。
* [[1846年]] [[福音同盟]]([[世界福音同盟]]の創立会員)が設立される。
* [[1849年]] [[キリスト教社会主義]]運動が始まる。
* [[1850年]] [[ギリシャ正教会]]の独立・成立がコンスタンティノープル総主教庁から承認される。
* [[1854年]] カトリック教会が[[無原罪の御宿り|聖母無原罪]]の[[教義]]を決定。
* [[1859年]] [[シナイ写本]]が発見される。
* [[1861年]] [[南北戦争]]。
* [[1865年]] 中国内地伝道会が設立される。
* [[1864年]] ローマ教皇が「[[誤謬表]]」を発表して、近代思想を非難する。フランス聖書協会が設立される。
* [[1868年]] 修道司祭[[ニコライ・カサートキン]]による洗礼で、日本での[[正教会]]信徒が函館で誕生する(ロシアへの漂流民としての日本人正教徒の前例はあり)。
* [[1869年]] [[第1バチカン公会議]]が[[教皇不可謬説]]を宣言する。
* [[1871年]] ドイツで体制側とカトリック教会側が対立し、[[文化闘争]]が行われる。
:教皇不可謬説に反対するドイツ、オランダなどの一部のカトリック教会が[[復古カトリック教会]]として離脱する。
* [[1873年]] 日本でキリシタン禁制の[[高札]]が撤去される。
* [[1879年]] [[日本聖書協会]]が設立される。
* [[1885年]] [[ルーマニア正教会]]が独立・成立する。
* [[1900年]] プロテスタント教会内で[[エキュメニズム|エキュメニカル運動]]が始まる。
===20世紀===
* [[1903年]] [[社会的福音]]が提唱される。
* [[1904年]] [[異言]]を強調する[[ペンテコステ派]]が誕生する。
* [[1910年]] エディンバラ世界宣教会議が開催される。
* [[1914年]] [[サラエヴォ事件]]が発生し、[[第一次世界大戦]]が始まる。
* [[1919年]] [[カール・バルト]]が『ローマ書』を発表。
* [[1922年]] [[ロシア革命]]の結果として[[ソビエト連邦|ソ連]]が成立し、これ以降ソ連政権下で[[ロシア正教会]]は大弾圧を受ける。
* [[1923年]] [[弁証法神学]](危機神学)が生まれる。アメリカで[[メイチェン論争]]により、[[キリスト教根本主義|ファンダメンタリズム]]と[[自由主義神学]]が対立する。
* [[1925年]] エキュメニカル運動の成果として[[カナダ合同教会]]が成立する。
* [[1929年]] ローマ教皇[[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]がイタリア政府と[[ラテラノ条約]]を締結する([[バチカン|バチカン市国]]の成立)。
* [[1931年]] アメリカの[[オハイオ州]][[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]で開かれた聖書研究者の大会の決議により「[[エホバの証人]]」という名称が採択される。
* [[1937年]] [[エディンバラ]]で信仰と職制世界会議が開催される。
* [[1939年]] ドイツ告白教会がナチス政権に対して抵抗運動を行う。
:イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、[[第二次世界大戦]]が始まる。
* [[1941年]] アメリカ教会協議会が設立される。
:日本がアメリカを攻撃し、[[太平洋戦争]]が始まる。
* [[1945年]] エジプトのナグ・ハマディで[[グノーシス主義]]関連の文書が大量に発見される([[ナグ・ハマディ写本|ナグ・ハマディ文書]])。
* [[1947年]] 大韓聖書協会が設立される。
:[[南インド教会]]が設立される。
:スウェーデンで[[ルター派世界連盟|ルーテル世界連盟]]が組織される。
* [[1949年]] フランスで[[エキュメニズム|超教派]]の修道会・[[テゼ共同体]]が結成される。
* [[1951年]] [[世界福音同盟]]の結成。
* [[1956年]] [[西ドイツ]]で良心的兵役拒否が容認される。
:{{要出典範囲|[[イングランド国教会]]、[[スコットランド聖公会]]、[[メソジスト]]が[[フル・コミュニオン|相互聖餐]]の関係を樹立する。|date=2021年8月}}
* [[1959年]] ローマ教皇がプロテスタントに再一致を呼びかける。
* [[1962年]] ローマ教皇[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]が[[第2バチカン公会議]]を開催する。
* [[1964年]] {{仮リンク|カトリックとルター派の対話|en|Catholic–Lutheran dialogue}}が始まる。
* [[1965年]] カトリック教会のローマ教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]と正教会の[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノープル総主教]][[アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)|アシナゴラス]]が会見し、[[1054年]]の相互破門を解く。
* [[1966年]] [[イングランド国教会]]の[[首座主教]]である[[カンタベリー大主教]]が、ローマ教皇パウロ6世を公式訪問、共同声明を発する<ref>{{Wayback|url=https://www.anglicancommunion.org/ecumenism/ecumenical-dialogues/roman-catholic/declarations.aspx|title=Joint Declarations of the Popes and the Archbishops of Canterbury|date=20200226020936}}</ref>。
* [[1970年]] [[日本ハリストス正教会]]が独立・成立する。
* [[1974年]] [[ローザンヌ世界伝道会議]]で[[ローザンヌ誓約]]が出される。
* [[1978年]] [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]がポーランド人として、またスラブ人として初のローマ教皇となる。
* [[1979年]] [[キャンパス・クルセード・フォー・クライスト]]が映画[[ジーザス (映画)|ジーザス]]を作成。宣教地で用いられる。
<!--詳細不明のためコメントアウト* [[1987年]] 「白いハト」事件-->
* [[1988年]] 「[[ロシア正教会]]千年祭」、ソ連で開催。[[988年]]のルーシの洗礼の千年記念であると同時に、[[ペレストロイカ]]による宗教政策緩和の象徴。
* [[1989年]] 東西ドイツ間の[[ベルリンの壁]]が崩壊する(共産主義国家の解体開始)。
* [[1991年]] [[ソビエト連邦の崩壊]]。東欧諸国で[[正教会]]復興。
* [[1994年]] [[北欧]]・[[バルト三国|バルト]]の[[ルーテル教会]]と、[[ブリテン諸島]]・[[イベリア半島]]の[[聖公会]]が[[フル・コミュニオン|相互聖餐]]の関係を樹立([[ポルヴォー・コミュニオン]])。
* [[1999年]] [[宗教改革記念日]]に、カトリック教会と[[ルター派世界連盟]]が、「[[義認の教理に関する共同宣言]]」に調印。
* [[2000年]] [[聖年|大聖年]](ジュビリー、[[ミレニアム]])、[[バチカン]]の「聖なる扉」(聖年にのみ開かれる扉のこと)が開かれる。
:ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が聖地エルサレムを訪問し、[[ユダヤ教]]の指導者と会談する(カトリックとユダヤ教の和解の一歩)。
===21世紀===
* [[2003年]] [[バック・トゥー・エルサレム]]運動。大宣教命令の成就を呼びかける。
* [[2007年]] ロシア正教会と[[在外ロシア正教会]]が和解。
* [[2013年]] ローマ教皇[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が約600年ぶりに[[ベネディクト16世の辞任|生前辞任]]。[[アルゼンチン]]出身の[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が[[アメリカ大陸]]出身者では初のローマ教皇となる。
* [[2016年]] ローマ教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]がスウェーデン訪問、[[ルター派世界連盟]]の指導者と共に[[宗教改革記念日]]の共同式典に参加<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM01H0B_R01C16A1EAF000/|title=ローマ法王、宗教改革の記念式典に出席 ルーテル派と共同声明|publisher=日本経済新聞|date=2016-11-01|accessdate=2021-08-12}}</ref>。
* [[2017年]] [[95か条の論題|ルターによる宗教改革開始]]から500周年。ドイツ・[[ルターシュタット・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク市]]ほか世界各地で祝典が開かれる。
* [[2018年]] [[ウクライナ正教会 (2018年設立)|ウクライナ正教会]]の承認を巡る対立で、[[ロシア正教会]]が[[正教会]]([[ギリシャ正教]])の名誉的首席である[[コンスタンティノープル総主教庁]]と絶縁<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kirishin.com/2018/10/23/20084/|title=ロシア正教会が「コンスタンチノープル総主教庁」と断絶 日本正教会も続く|publisher=キリスト新聞|date=2018年10月23日|accessdate=2021-08-12}}</ref>。
== 出典 ==
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紀元前406年
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紀元前406年(きげんぜん406ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「コッスス、アムブストゥス、コッスス、ポティトゥスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元348年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前406年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前406年(きげんぜん406ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「コッスス、アムブストゥス、コッスス、ポティトゥスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元348年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前406年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前406年'''(きげんぜん406ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「コッスス、アムブストゥス、コッスス、ポティトゥスが[[執政武官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]348年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前406年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙亥]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]255年
** [[孝昭天皇]]70年
* [[中国]]
** [[周]] - [[威烈王]]20年
** [[秦]] - [[簡公 (秦)|簡公]]9年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[烈公 (晋)|烈公]]10年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[声王]]2年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[宣公 (斉)|宣公]]50年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[簡公 (戦国燕)|簡公]]9年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[列侯 (趙)|烈侯]]3年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[文侯 (魏)|文侯]]40年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[景侯 (韓)|景侯]]3年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1928年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 139年
* [[ユダヤ暦]] : 3355年 - 3356年
{{Clear}}
== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[カリクラティダス]] ([[:en:Callicratidas|Callicratidas]]) が、[[リュサンドロス (提督)|リュサンドロス]]に代わって[[スパルタ]]の艦隊指揮官に任命された。カリクラティダスは艦隊を召集し、[[レスボス島]]の[[メテュムナ]] ([[:en:Mithymna|Methymna]]) に向かい、この町に[[攻城戦]]を仕掛けた。この動きは[[アテナイ]]への[[穀物]]供給を脅かすものとなった。
* [[アテナイ]]の艦隊司令[[アルキビアデス]]が、将軍たちの会議によって更迭された。代わって、この会議の一員であった[[コノン (アテナイ)|コノン]]提督がアテナイから派遣され、[[ミティリーニ]]を支援して参戦した。レスボス島防衛のため、コノンは、数において劣る自分の艦隊を、[[サモス島]]から、ミティリーニに近いヘカトンネシ島 (Hekatonnesi) へと移動させた。カリクラティダスからの攻撃を受けたコノンは、ミティリーニまで退却したが、そこでカリクラティダスのスパルタ艦隊に行く手を阻まれた。
* レスボス島近くで戦われた[[アルギヌサイの海戦]] ([[:en:Battle of Arginusae|Battle of Arginusae]]) は、アテナイ側が勝利し、コノンの封じ込めは失敗した。コノンを支援するため、アテナイ市民たちが編制した艦隊は、ほとんどが新造船から成り、乗組員の練度も不十分だった。この急ごしらえの艦隊はスパルタ艦隊より劣っていたが、艦隊の指揮官たちは新しい、変則的な戦術を用い、その結果、アテナイ側が意外にも劇的な勝利を収めることになった。スパルタ軍は大打撃を受け、カリクラティダスも殺された。
* 戦いの後、[[アテナイ]]に戻った[[テラメネス]] ([[:en:Theramenes|Theramenes]]) は、戦闘を指揮した8人の将軍たちを非難するアテネ市民たち動きを煽動した。アテナイに帰還した6人の将軍たちは、戦闘中に航行不能となった味方の艦船から生存者の救助を怠ったとして糾弾された。将軍たちは、[[ペリクレス]]の息子(小ペリクレス)を含め、皆死刑となった。
* スパルタは和平を申し出たが、アテナイの指導者[[クレオポン]] ([[:en:Cleophon (politician)|Cleophon]]) をこれを拒んだ。スパルタは、[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の[[サトラップ|サトラップ(太守)]][[小キュロス]]の求めに応じ、[[ダーダネルス海峡|ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)]]の艦隊の指揮権を[[リュサンドロス (提督)|リュサンドロス]]に与えた。
=== 共和政ローマ ===
* [[ローマ軍]]は、以降10年に及ぶ[[ウェイイ]]の[[攻城戦]]を始めた。
=== カルタゴ ===
* [[カルタゴ]]勢は、再び[[シチリア]]に侵攻し、[[アグリジェント|アクラガス(アグリゲントゥム)]]を攻めた。その軍営で、[[疫病]]([[ペスト#腺ペスト(bubonic plague)|腺ペスト]])が発生し、将軍[[ハンニバル・マゴ]]も罹患して病死した。指揮を引き継いだ[[ヒミルコ]] ([[:en:Himilco (general)|Himilco]]) は、アクラガス、[[ジェーラ|ゲラ]]、[[カマリナ]] を陥れた。ゲラの町は破壊され、財宝は奪われた。攻撃を生き延びた者は[[シラクサ|シュラクサイ]]へ逃れた。疫病は、帰還した兵士たちによって、カルタゴに持ち込まれた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前406年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前406年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[エウリピデス]] - [[アテナイ]]の[[劇作家]]([[紀元前480年]]ころ生)
* [[ハンニバル・マゴ]] - [[カルタゴ]]の将軍
* [[ソポクレス]] - [[アテナイ]]の[[劇作家]]、[[政治家]]([[紀元前495年]]ころ生)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|406 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前468年
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紀元前468年(きげんぜん468ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「バルバトゥスとプリスクスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元286年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前468年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前468年(きげんぜん468ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「バルバトゥスとプリスクスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元286年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前468年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前468年'''(きげんぜん468ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「バルバトゥスとプリスクスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]286年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前468年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]193年
** [[孝昭天皇]]8年
* [[中国]]
** [[周]] - [[貞定王]]元年
** [[秦]] - [[厲共公]]9年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[出公 (晋)|出公]]7年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[恵王 (楚)|恵王]]21年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[平公 (斉)|平公]]13年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[孝公 (燕)|孝公]]30年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[趙無恤|襄子]]8年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1866年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 77年
* [[ユダヤ暦]] : 3293年 - 3294年
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== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[スパルタ]]近郊の[[アルカディア県|アルカディア]]が、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]の支援を得て、スパルタに反抗した。アルゴスは、[[ティリンス]]の支配権を得た。
=== 共和政ローマ ===
* [[アンツィオ|アンティウム]]がローマ軍に占領された。
=== 中国 ===
* [[貞定王]]が28代目の周の王となった。
* [[越]]王[[勾践]]が舌庸を[[魯]]に派遣した。
* [[晋 (春秋)|晋]]の[[智瑶]]が[[鄭]]を攻撃した。
* 魯の[[哀公 (魯)|哀公]]が[[三桓氏]]の排除を図って失敗し、出奔した。
=== 文学 ===
* ギリシアの劇作家[[ソポクレス]]が[[アイスキュロス]]を破ってAthenian Prizeを受賞した。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前468年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アリステイデス (将軍)|アリステイデス]] - アテナイの政治家([[紀元前530年]]生)
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|468 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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ドナルド3世 (スコットランド王)
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ドナルド3世(スコットランド語: Domnall mac Donnchada、1033年 - 1099年)は、スコットランド王(在位:1093年 - 1094年5月、1094年11月 - 1097年)。ダンカン1世とノーサンブリア伯シューアドの妹シビルの次男でマルカム3世の弟。肌が白いことから白皙を意味するドナルド・ベイン(Donald Bane)ともいわれる。
父がマクベスに殺害された1040年にスコットランド西部沖のヘブリディーズ諸島に逃れ、以後この地で少年時代を過ごした。兄マルカム3世がイングランド好みであったのに対して、北方の荒々しい気風の中で育ったドナルドは野生好みで、大のイングランド嫌いであった。マルカム3世の中・南部を中心とした政治に不満を持っていた北・西部の豪族たちに支持され、ドナルドは1093年に兄がイングランド侵攻で敗死すると甥で兄の長男ダンカン(後のダンカン2世)を差し置いて王位についた。ドナルド3世は王位につくや、宮廷の様式・習慣をケルト式に戻した。
翌1094年5月、イングランドに人質となっていたダンカンは、イングランド王ウィリアム2世の支援を受け、王位奪還に立ち上がった。ドナルド3世はダンカンに敗れ廃位、わずか7ヶ月で王位を奪われた。ダンカンは即位してダンカン2世となった。
しかし、マルカム3世以来のイングランド臣従に対する重臣たちの反発は大きかった。半年後の11月、ドナルド・ベインは支持者やダンカン2世の異母弟エドマンドたちと謀ってダンカン2世を暗殺し、王位に復帰してエドマンドと共同統治を行った。
1097年、エドマンドの弟エドガーがウィリアム2世とエドガー・アシリングの力を借りて軍を起こした。ドナルド3世はエドマンドと共に戦ったが敗れて捕らえられ、再び廃位された上両目を刳り貫かれて追放された(両目を失明させられた後、王家の台所の下働きとされたともいわれる)。それからまもなく、ドナルド3世はフォファシャーのレスコビーにて没した。
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ドナルド3世は、スコットランド王。ダンカン1世とノーサンブリア伯シューアドの妹シビルの次男でマルカム3世の弟。肌が白いことから白皙を意味するドナルド・ベインともいわれる。
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{{基礎情報 君主
| 人名 = ドナルド3世
| 各国語表記 = Donald III / Domnall mac Donnchada
| 君主号 = [[スコットランド君主一覧|スコットランド国王]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 画像 = Donald III of Scotland - 16th-17th Century.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1093年]] - [[1094年]]5月<br>1094年11月 - [[1097年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1033年]]
| 生地 =
| 死亡日 = [[1099年]]
| 没地 = {{SCO843}}、[[レスコビー]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{SCO843}}、ダンケルド・アビー
| 配偶者1 = ベソック
| 子女 = ベソック
| 王家 = [[アサル朝|アサル家]]
| 王朝 = [[アサル朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]
| 母親 = シビル・オブ・ノーサンブリア
}}
'''ドナルド3世'''([[スコットランド語]]: Domnall mac Donnchada、[[1033年]] - [[1099年]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]](在位:[[1093年]] - [[1094年]]5月、1094年11月 - [[1097年]])。[[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]と[[ノーサンブリア伯]][[シューアド]]の妹シビルの次男で[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]の弟。肌が白いことから白皙を意味する'''ドナルド・ベイン'''(Donald Bane)ともいわれる。
== 生涯 ==
父が[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]に殺害された[[1040年]]にスコットランド西部沖の[[ヘブリディーズ諸島]]に逃れ、以後この地で少年時代を過ごした。兄マルカム3世が[[イングランド王国|イングランド]]好みであったのに対して、北方の荒々しい気風の中で育ったドナルドは野生好みで、大のイングランド嫌いであった。マルカム3世の中・南部を中心とした政治に不満を持っていた北・西部の豪族たちに支持され、ドナルドは1093年に兄がイングランド侵攻で敗死すると甥で兄の長男ダンカン(後の[[ダンカン2世 (スコットランド王)|ダンカン2世]])を差し置いて王位についた。ドナルド3世は王位につくや、宮廷の様式・習慣をケルト式に戻した<ref name="松村204">松村、P204。</ref><ref>森、P49 - P50、トランター、P59。</ref>。
翌1094年5月、イングランドに人質となっていたダンカンは、イングランド王[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]の支援を受け、王位奪還に立ち上がった。ドナルド3世はダンカンに敗れ廃位、わずか7ヶ月で王位を奪われた。ダンカンは即位して[[ダンカン2世 (スコットランド王)|ダンカン2世]]となった<ref name="松村204"></ref><ref>森、P50 - P51。</ref>。
しかし、マルカム3世以来のイングランド臣従に対する重臣たちの反発は大きかった。半年後の11月、ドナルド・ベインは支持者やダンカン2世の異母弟[[エドマンド・オブ・スコットランド|エドマンド]]たちと謀ってダンカン2世を[[暗殺]]し、王位に復帰してエドマンドと共同統治を行った<ref name="松村204"></ref><ref>森、P51 - P52、トランター、P59 - P60。</ref>。
1097年、エドマンドの弟[[エドガー (スコットランド王)|エドガー]]がウィリアム2世と[[エドガー・アシリング]]の力を借りて軍を起こした。ドナルド3世はエドマンドと共に戦ったが敗れて捕らえられ、再び廃位された上両目を刳り貫かれて追放された(両目を失明させられた後、王家の台所の下働きとされたともいわれる)。それからまもなく、ドナルド3世は[[フォファシャー]]の[[レスコビー]]にて没した<ref name="松村204"></ref><ref>森、P52、トランター、P60。</ref>。
== 子女 ==
* ベソック - ティンダル卿ユートレッドと結婚。娘ヘクスティルダはリチャード・カミンと結婚し、2人の子孫ジョン・カミンは後にスコットランド王位を請求した([[スコットランド独立戦争]])。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* [[森護]]『スコットランド王室史話』[[大修館書店]]、1988年。
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
== 関連項目 ==
* [[アイオナ島]]
* [[マクベス (シェイクスピア)]]
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{{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}}
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1579年
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1579年(1579 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1579年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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== 他の紀年法 ==
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* [[干支]] : [[己卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[天正]]7年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2239年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]12年
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* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
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** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2121年 - 2122年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 986年 - 987年
* [[ユダヤ暦]] : 5339年 - 5340年
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== カレンダー ==
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== できごと ==
* [[1月23日]] - [[ネーデルラント]]北部7州が[[ユトレヒト同盟]]を結成{{要出典|date=2021-03}}。
* [[10月11日]] - [[オスマン帝国]]大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が暗殺される。
=== 日本 ===
* [[4月]]([[天正]]7年3月) - [[越後国]]で[[御館の乱]]が終結。[[上杉景勝]]が新しい上杉氏の当主になる。これに伴い[[甲斐国]][[武田氏]]と[[相模国]][[後北条氏]]との[[甲相同盟]]が破綻。
* [[5月]] - [[安土城]]において[[織田信長]]が[[法華宗]]と[[浄土宗]]の[[法論|宗論]]を裁定する([[安土宗論]])。
* [[7月]] - 織田家臣[[明智光秀]]が[[丹波国]]を平定する。
* 10月 - この段階で甲斐武田氏と[[常陸国]][[佐竹氏]]との間で後北条氏を対敵とする[[甲佐同盟]]が成立。
* [[10月5日]](天正7年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[松平信康]]が[[遠江国|遠江]][[二俣城]]で自刃する。(信康事件)。
* [[10月19日]] - ([[天正]]7年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - 織田信長の侵攻を受け、城主の[[池田知正|荒木久左衛門]]が開城。[[有岡城の戦い]]が終結する。
== 誕生 ==
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* [[2月3日]](天正7年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[八条宮智仁親王]]、[[皇族]](+ [[1629年]])
* [[5月2日]](天正7年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]) - [[徳川秀忠]]、[[江戸幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1632年]])
* [[11月11日]] - [[フランス・スナイデルス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Frans-Snyders Frans Snyders Flemish painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1657年]])
* [[11月25日]](天正7年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]) - [[毛利秀元]]、[[武将]]・[[長府藩]]初代藩主(+ [[1650年]])
* [[春日局]]、[[徳川家光]]の[[乳母]](+ [[1643年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月28日]](天正7年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[山科言継]]、[[公家]](* [[1507年]])
* [[4月13日]](天正7年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[上杉憲政]]、[[武将]](* [[1523年]])
* [[4月19日]](天正7年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]) - [[上杉景虎]]、武将(* [[1554年]])
* [[4月22日]](天正7年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[蒲生定秀]]、武将( * [[1508年]])
* [[5月29日]](天正7年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]) - [[二条晴良]]、公家(* [[1526年]])
* [[7月6日]](天正7年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[竹中重治]]、武将(* [[1544年]])
* [[9月19日]](天正7年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]) - [[築山殿]]、徳川家康の正室(* [[1542年]]?)
* [[10月5日]](天正7年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[松平信康]]<ref>{{Harvnb|谷口克広|2007|pp=203-211}}</ref>、武将、徳川家康の長男(* [[1559年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
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ヤークトパンター
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ヤークトパンター(Jagdpanther)は第二次世界大戦中にナチス・ドイツで開発された駆逐戦車である。火力・防御力・機動力が高く、また他のドイツ重駆逐戦車に比較して信頼性に優れ、総合的にバランスのとれた装甲戦闘車両であった。
本車はパンター戦車の車体を利用し、前面装甲および側面上部を上方へ延長して戦闘室を構築、ここにパンターよりも口径の大きいPak43/3 88mm砲を搭載した。これはティーガーIの主砲であるKwK 36と同じ口径だが、砲身長が71口径となり貫徹力が上がっている。エンジン、走行装置などはパンターとほぼ同一である。こうした駆逐戦車が要求される前段階として、ドイツ国防軍は自動車牽引型の対戦車砲に対して機動力の点に不満を持ち、実用性の高い自走砲形式の戦闘車輛を要求したことが挙げられる。
陸軍兵器局は1942年8月3日に、新型のパンター戦車の車体に新規の8.8cm対戦車砲を組み合わせることを提案した。この時の量産予定は1943年7月であった。クルップ社に開発が要請されたものの、同社はIV号戦車の車体に88mm砲を搭載する作業に従事しており、1月までに設計図を作成することは無理であった。そこで10月にダイムラー・ベンツ社へ開発作業が移され、1943年夏には車輛を製造することを目標とした。クルップ社は設計の支援及び主砲と砲架の開発に当たった。ダイムラー・ベンツ社の設計はパンターIIの車体を基として行われ、1943年1月には技術的な詳細が決定された。しかし、1943年5月にはパンターIIの製造計画が中止され、8.8cm重突撃砲もまた、パンターIの車体を利用して製造されることとなった。改良点の変更は迅速に行われた。また1943年5月24日、ダイムラー・ベンツ社からMIAG社に製造が引き継がれた。パンターIIの設計によって改良すべき点はパンターの車体にも引き継がれ、改良済みの量産型車体は9月に工場で製作された。1943年6月、ダイムラー・ベンツ社は「71口径8.8cm砲搭載パンター中駆逐戦車」のモックアップを完成させ、MIAG社はこれを参考とした。試作車輛は1943年10月にMIAG社にて完成した。11月には試作2号車が完成した。
量産は当初5輌から10輌程度が細々と毎月生産された。製造遅延の大きな原因は変速機、操向変速機、そして駆動系統の強化であった。さらにMIAG社の労働力の不足と空襲も遅延の原因となった。1944年11月にはMNH社(ニーダーザクセン・ハノーファー工機製作所)とMBA社(マシーネンバウ・ウント・バーンベダルフ社)が生産に加わり、この状況は改善を見た。しかし最高生産数は1945年1月に72輌というものであり、以後数10輌のペースで生産が進んだものの、連合国の車輛生産数には到底抗し得るものではなかった。生産数は1944年1月~1945年4月の間にMIAG、NMH、MBA各社により計415輌と、比較的少数に終わった。
本車は駆逐戦車であり砲塔を搭載しない。車体後部に機関室、車体中央部に避弾経始に優れる戦闘室、車体前部に変速機、操向変速機と88mm主砲を配する。動力は後部機関室内のガソリンエンジンから床下のカルダンシャフトを介して車体前部の変速機へ通じ、ここで減速された後に操向変速機で左右の起動輪へと配分される。搭乗員は5名であった。車体前部、後方からみて左側に運転手が搭乗し、変速機を挟んで右側には前方機銃手兼無線手が搭乗した。戦闘室中央部、後方からみて主砲の左側には砲手が搭乗し、砲を操作する。ほか、装填手と車長が搭乗した。乗車用ハッチは3カ所に設けられた。指揮官の真上、装填手の左側、戦闘室後部である。
主砲は防楯をつけたうえで前面装甲板に装甲カラーを介して搭載された。この装甲カラーは初期型と後期型が存在する。初期型の装甲カラーは戦闘室内部で装甲板とリベット接合しており、取り外すためには狭い車内で作業する必要があった。後期型の装甲カラーは上下をそれぞれ4本のボルトで外部から接合したものに変えられた。この変更によって、カラーを外した際の前面装甲板の開口部が広がり、変速機と操向変速機の交換作業が円滑になった。主砲の砲身は戦闘室後部のハッチから抜き出し、防楯と装甲カラーを取り外すことで、開口部から変速機と操行変速機を取り出すことができた。初期型に比べ後期型は交換作業が楽に行えるようになり、整備上有利となった。
主砲に取り付けられた照準器はペリスコープ式のSfl.ZF1型であり、天井から照準器の頂部が突出し、視界を得ていた。主砲と連動して照準器が左右に動くため、天井にはこの作動部分を確保するために穴が開かれた。この開口部分に沿ってレールが設けられ、スライド式の装甲板がつけられている。車長用の偵察装置にはカニ目型の砲隊鏡のほか、ペリスコープが用意された。天井部分には硝煙を換気するためのベンチレーターが付けられた。ヤークトパンターにはIII号突撃砲のような司令塔が設けられておらず、代わりに回転式のペリスコープ、側方に固定されたペリスコープが設けられている。ヤークトパンターは生産中も細部の改良が続けられており、例えば操縦席前面のペリスコープ部分など、12種類もの形状の違いが確認できる。また機関部上面のレイアウトは当初パンターA型に準じていたが、途中からG型に準じたものに変更され、それぞれの長さの違いから戦闘室後部の傾斜角度が異なっている。前者はヤークトパンターG1型、後者はヤークトパンターG2型と分類された。
低い姿勢の固定式戦闘室に強力な主砲の組み合わせの駆逐戦車というコンセプトは、戦後の西ドイツのKJPz.4-5カノーネや、ソビエト連邦のSU-122-54などに受け継がれている。
主砲には71口径8.8cm戦車砲を搭載した。これはパンターに搭載された70口径7.5cm戦車砲 (7.5cm KwK42 L/70) を上回る威力を持つ。同じ砲を搭載するティーガーII同様、本車にも肉厚の1ピース型砲身の初期型と、軽量化され生産性・整備性の良い2ピース型の後期型砲身を搭載した車輛が存在した。搭載弾薬数は57発または60発である。射界は左右22度、俯仰角マイナス8度からプラス14度であった。射程は仰角15度で9350m、発射速度は毎分6から8発であった。
8.8cm KwK43/L71は、被帽徹甲弾(8.8cmPzGr39/43)、合成硬核徹甲弾(8.8cmPzGr40/43)、榴弾(8.8cmSprGr43)、対戦車榴弾(8.8cmHlGr39)を使用できた。弾頭重量10.16kgの被帽徹甲弾は初速1000m/sで射出された。垂直に立てられた鋼板に対する貫通性能は2,000mで154mm、1,500mで170mm、1,000mで186mm、500mで205mmである。また弾頭重量7.5kgの合成硬核徹甲弾は初速1130m/sで射出された。垂直に立てられた鋼板に対する貫通性能は2,000mで175mm、1,500mで205mm、1,000mで233mm、500mで270mmである。対戦車榴弾はすべての射程において90mmの貫通性能を発揮した。これを連合国側の配備した主力戦闘車輛の前面装甲と対照するならば以下の結果となる。
(貫通データは衝角60度、正面射撃を対象にして算出したもの)
走行時は床に固定された主砲固定フックを起こし、これを砲尾にかけて固定する。砲は仰角7度で固定された。固定しないままの走行時には砲身が大きく揺れ、操砲用のギアに大きな力を加えて損傷や精度の狂いなどの問題が発生した。
車体前面の、後方からみて右側には7.92mmMG34機関銃をボールマウント式銃架(生産時期により形状が微妙に違う三種類がある)に装備した。弾数は600発である。前面装甲は最大80mmだが、車体と戦闘室が一体化した避弾経始のよい設計になっていたため、実際の装甲防御力はさらに大きかった。
ほか、天井部分に自衛用の旋回式近接防御兵器が搭載された。これは26mmの榴弾を投射する。車内にはMP40を2挺、銃弾384発を携行した。
本車は避弾経始に優れた設計を実現している。前面上部装甲はパンター譲りの80mm鋼板を地面に対し30度の角度で配置し、命中弾を弾きやすくし、また弾道上の装甲の厚みを160mmに増やしている。前面下部装甲は地面に対し35度で配置され、この厚みは50mmである。側面装甲は側面上部が50mmの厚みを持ち、水平に対して60度に傾いている。走行装置の取り付けられている側面下部は40mmの厚みを持ち、鉛直に立てられている。車体後部は戦闘室後部が40mmの厚みを持ち、水平に対し55度の角度を持っている。機関室後部は40mm厚で、地面に対して60度に配置された。天井は25mm厚、床板は16mm厚の装甲板が用いられている。
本車の持つ正面防御能力に対し、連合軍の配備した主力戦闘車輛の主砲貫通性能を対照すると以下の結果となる。
(貫通データは衝角60度、正面射撃を対象にして算出したもの)
従ってヤークトパンターを撃破するためには側面へ迂回し、側面または後面に命中弾を浴びせる必要があった。幸運な一撃により操縦手のペリスコープに命中させた場合には撃破が期待でき、また履帯、減速器に命中させた場合にはヤークトパンターを停止させることができた。しかしとどめをさすには側面への直撃弾が必要であった。
機関室には自動消火装置が装備された。これは機関室の温度が160度を超えると、消火剤充填ボンベから炭素・塩素・臭素を混合した消火剤が噴射されるものであった。ただし温度検知器の配置不足から、温度のむらのない検出に無理があり、誤作動が多かった。
ザウコフ(豚の頭)型防盾の周囲の主砲架部装甲カラーは、車内からボルトで固定する初期型、外から固定するようになった中期型、ボルト孔周辺部の厚みを増した後期型の三種類が確認できる。またこの砲を(少なくとも試作型では)ザウコフごと十字砲架に載せた固定陣地用の対戦車砲・Pak43/3 Sockellafette(固定砲台)IIaも作られ、実戦で用いられた。
走行装置はパンター戦車のものとほぼ同一である。エンジンにはマイバッハ社製のHL230P30水冷V12ガソリンエンジンを採用した。このエンジンは3,000回転時に700馬力を出力し、全備重量45.5トンのヤークトパンターを時速55km/hで走行させた。航続距離は路上で250km、路外では100kmである。携行燃料は720リットルであり、燃費は路上で1km走行するのに2.8リットルを消費し、路外の場合1km走行するには7リットルを消費した。履帯は片側86枚を連結して構成した。この履帯の幅は660mm、履帯接地長は整地上で3,920cmである。接地圧は0.87kg/平方cmだった。
クラッチは乾式多板である。クラッチ板は3枚重ねられており、エンジンと主変速機との動力の接続と切断を行った。変速機はZF"AK7-200"を使用し、操向変速機は前進7段、後進1段のギアが選択できた。ステアリング方式にはMAN社製のシングルラディアス方式を採用し、旋回半径は10メートルであった。これは遊星歯車機構を用い、大きな旋回半径では片側の履帯の速度を落として対応し、小さい範囲で旋回するには、内側の履帯への動力を切断しブレーキをかけるものである。
懸架装置はダブルトーションバー方式である。これは2本のトーションバーを連結手でつなぎ、ヘアピンのように車体の床下へ横おきにしたもので、工数が増え、床下のスペースを消費して全高を高くする弊害があるが、優れた緩衝能力と大きなサスペンションストロークから高い地形への追従能力を持つ形式である。パンターの場合ねじれ応力のほかに曲げ応力も加わるものの、ドイツの戦車設計は問題なくこれをこなした。さらに転輪が挟み込み式に配置された。
砲塔を搭載しないことから主砲を指向できる射界は左右22度に限定され、この範囲外に敵が現れた場合にはその方向へと車輛ごと旋回する必要があった。このため本車は頻繁な方向転換を余儀なくされ、こうした機動は内部の変速機、操向変速機、あるいは履帯や起動輪などの走行装置に大きな負担をかけた。また長大な砲身と厚く面積の広い前面装甲のためノーズヘビーであることからも起動輪、第一転輪に大きな負担がかかった。パンターに使用された通常の駆動シャフトを本車に使用した場合、平均35kmで異常を起こした。1944年10月28日には減速装置が強化されてこの問題はほぼ克服された。強化された減速装置を装備したヤークトパンターは、故障を起こすことなく400kmから500kmを行動できた。
試験中の初期型などはパンターと同じ履帯の装着の仕方であるが、実戦配備されているヤークトパンターでは、いかなる理由か前後逆に履いている物が多い。
この車輛には制式番号:Sd.Kfz.173の番号があたえられた。また構想当初はパンターシャシーの重突撃砲、パンターの突撃砲などとも呼ばれている。
名称は制式採用後も「8.8cm43式対戦車砲搭載パンターI型車台の戦車駆逐車」、「戦車駆逐車パンター」、「8.8cm43式(71口径)対戦車砲付き駆逐戦車パンター」などと変遷した。1944年4月からは書類上でも制式に 「ヤークトパンター」と呼ばれるようになった。なお「V号駆逐戦車」(ごごうくちくせんしゃ、独:Jagdpanzer V)の呼び方は、わずかに終戦直前の書類の一つで「V号(重)駆逐戦車71口径8.8cm対戦車砲43/3ヤークトパンター」と記されたものが確認できるだけであり、大戦中においては一般的なものではなかった。
ヤークトパンターの名称は、1943年11月29日付けで最終決定されたものであった。1944年2月27日には総統命令によりヤークトパンターと内示名称が決定された。
余談だがヒトラーはこの車両に一目ぼれしたらしく、ヤークトパンターと直接命名したのはヒトラー本人であり、「この車両はティーガーII戦車数両の価値がある」と熱弁したという。
なお、田宮模型がプラモデルの商品名としてエルヴィン・ロンメルにちなんで「ロンメル」という名称を用いたため、日本国内ではそのように呼称されることもあるが、それはあくまでも商品名であり、実際にはそのような名称は使われていない。
新兵器を投入するには定数を満たして集中運用することが望ましいが、ヤークトパンターはそのような原則は無視して戦場へ送られ続けた。ヤークトパンターの配備された時期のドイツ軍は、戦況が日に日に悪化しており、新品の兵器を補充された部隊が即時投入されることは珍しいことではなかった。また兵器への習熟、訓練期間はなく、大部隊を編成し演習を行うことも無理であった。
1944年、まずヤークトパンターは第654(重)戦車駆逐大隊へ配備された。同大隊はそれまで東部戦線でフェルディナント重駆逐戦車を装備して戦っており、戦力の補充のため後送された。次に第559(重)戦車駆逐大隊と第519(重)戦車駆逐大隊が装備を改編した。第560(重)戦車駆逐大隊と第655(重)戦車駆逐大隊がそれにつづいたが、定数を満たすものではなく、その補充も遅々としたものだった。
第654(重)戦車駆逐大隊は西部戦線へ投入され、1944年7月30日の報告では、同大隊は第LXXIV戦車軍団に配属されており、うち3輌のヤークトパンターが、イギリス第6近衛戦車旅団のチャーチル戦車1個中隊を迎撃した。2分間の交戦の後に、チャーチル戦車2個中隊が援軍に現われ、ヤークトパンターは被弾して丘の背後へ後退した。この戦闘ではヤークトパンター2輌が履帯に被弾し、放棄された。チャーチル戦車はこの短い戦闘で11輌の損失を出した。この後の激しい戦闘によって消耗した同大隊は、1944年9月9日、グラーフェンベーア演習場へ補充のため後送されることが決定した。
1944年11月18日、第654(重)戦車駆逐大隊はグラーフェンベーア演習場から再び西部戦線へ鉄道輸送された。11月20日から30日までの連続作戦によってヤークトパンター18輌が失われた。戦果は敵戦車52輌撃破、9輌中破、対戦車砲10門の撃破であった。
第563(重)戦車駆逐大隊は1945年1月20日にアルレンシュタインで編成を行い、21日に終了するや出動となった。同大隊はヤークトパンター18輌とIV号駆逐戦車24輌を装備し、以後10日間の戦闘で敵戦車58輌を撃破した。ヤークトパンターは13輌を失った。この内訳は燃料不足による爆破放棄が8輌、行動不能による爆破放棄が1輌、長期間修理の後に爆破放棄が3輌であり、敵に撃破されたものは1輌のみであった。
1945年1月以降にもなると、ヤークトパンターの敵は敵戦車ではなく、燃料不足、補修部品の不足、初期不良、生産遅延であった。五月雨的に、基準も編成も考慮せず、生産するそばから最寄りの部隊へ配備し、戦場へ即投入するという状況もヤークトパンターの喪失を招いた。適切な補修のないまま分散配置されたヤークトパンターがひとたび故障を起こした場合、回収の手立てはほぼないに等しかった。例としては、SS第12戦車師団の戦車連隊に組み込まれた第560(重)戦車駆逐大隊のヤークトパンターが挙げられる。この車輛は1945年3月8日に故障し、回収作業が行われたのは3月21日であった。回収は連隊固有の戦車を優先して行われ、ヤークトパンターの作業は後回しにされた。また戦車連隊は大隊の事情を無視し、修理の終ったヤークトパンターを逐次不特定の部隊へ割り当てた。こうした戦局の末期的な悪化に伴う組織上の不備と混乱によって、故障を起こし、あるいは燃料の尽きたヤークトパンターはドイツ戦車兵自らの手で爆破放棄されていった。
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"text": "ヤークトパンター(Jagdpanther)は第二次世界大戦中にナチス・ドイツで開発された駆逐戦車である。火力・防御力・機動力が高く、また他のドイツ重駆逐戦車に比較して信頼性に優れ、総合的にバランスのとれた装甲戦闘車両であった。",
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"text": "本車はパンター戦車の車体を利用し、前面装甲および側面上部を上方へ延長して戦闘室を構築、ここにパンターよりも口径の大きいPak43/3 88mm砲を搭載した。これはティーガーIの主砲であるKwK 36と同じ口径だが、砲身長が71口径となり貫徹力が上がっている。エンジン、走行装置などはパンターとほぼ同一である。こうした駆逐戦車が要求される前段階として、ドイツ国防軍は自動車牽引型の対戦車砲に対して機動力の点に不満を持ち、実用性の高い自走砲形式の戦闘車輛を要求したことが挙げられる。",
"title": "開発経緯"
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"text": "陸軍兵器局は1942年8月3日に、新型のパンター戦車の車体に新規の8.8cm対戦車砲を組み合わせることを提案した。この時の量産予定は1943年7月であった。クルップ社に開発が要請されたものの、同社はIV号戦車の車体に88mm砲を搭載する作業に従事しており、1月までに設計図を作成することは無理であった。そこで10月にダイムラー・ベンツ社へ開発作業が移され、1943年夏には車輛を製造することを目標とした。クルップ社は設計の支援及び主砲と砲架の開発に当たった。ダイムラー・ベンツ社の設計はパンターIIの車体を基として行われ、1943年1月には技術的な詳細が決定された。しかし、1943年5月にはパンターIIの製造計画が中止され、8.8cm重突撃砲もまた、パンターIの車体を利用して製造されることとなった。改良点の変更は迅速に行われた。また1943年5月24日、ダイムラー・ベンツ社からMIAG社に製造が引き継がれた。パンターIIの設計によって改良すべき点はパンターの車体にも引き継がれ、改良済みの量産型車体は9月に工場で製作された。1943年6月、ダイムラー・ベンツ社は「71口径8.8cm砲搭載パンター中駆逐戦車」のモックアップを完成させ、MIAG社はこれを参考とした。試作車輛は1943年10月にMIAG社にて完成した。11月には試作2号車が完成した。",
"title": "開発経緯"
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"text": "量産は当初5輌から10輌程度が細々と毎月生産された。製造遅延の大きな原因は変速機、操向変速機、そして駆動系統の強化であった。さらにMIAG社の労働力の不足と空襲も遅延の原因となった。1944年11月にはMNH社(ニーダーザクセン・ハノーファー工機製作所)とMBA社(マシーネンバウ・ウント・バーンベダルフ社)が生産に加わり、この状況は改善を見た。しかし最高生産数は1945年1月に72輌というものであり、以後数10輌のペースで生産が進んだものの、連合国の車輛生産数には到底抗し得るものではなかった。生産数は1944年1月~1945年4月の間にMIAG、NMH、MBA各社により計415輌と、比較的少数に終わった。",
"title": "開発経緯"
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"text": "本車は駆逐戦車であり砲塔を搭載しない。車体後部に機関室、車体中央部に避弾経始に優れる戦闘室、車体前部に変速機、操向変速機と88mm主砲を配する。動力は後部機関室内のガソリンエンジンから床下のカルダンシャフトを介して車体前部の変速機へ通じ、ここで減速された後に操向変速機で左右の起動輪へと配分される。搭乗員は5名であった。車体前部、後方からみて左側に運転手が搭乗し、変速機を挟んで右側には前方機銃手兼無線手が搭乗した。戦闘室中央部、後方からみて主砲の左側には砲手が搭乗し、砲を操作する。ほか、装填手と車長が搭乗した。乗車用ハッチは3カ所に設けられた。指揮官の真上、装填手の左側、戦闘室後部である。",
"title": "構造"
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"text": "主砲は防楯をつけたうえで前面装甲板に装甲カラーを介して搭載された。この装甲カラーは初期型と後期型が存在する。初期型の装甲カラーは戦闘室内部で装甲板とリベット接合しており、取り外すためには狭い車内で作業する必要があった。後期型の装甲カラーは上下をそれぞれ4本のボルトで外部から接合したものに変えられた。この変更によって、カラーを外した際の前面装甲板の開口部が広がり、変速機と操向変速機の交換作業が円滑になった。主砲の砲身は戦闘室後部のハッチから抜き出し、防楯と装甲カラーを取り外すことで、開口部から変速機と操行変速機を取り出すことができた。初期型に比べ後期型は交換作業が楽に行えるようになり、整備上有利となった。",
"title": "構造"
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"text": "主砲に取り付けられた照準器はペリスコープ式のSfl.ZF1型であり、天井から照準器の頂部が突出し、視界を得ていた。主砲と連動して照準器が左右に動くため、天井にはこの作動部分を確保するために穴が開かれた。この開口部分に沿ってレールが設けられ、スライド式の装甲板がつけられている。車長用の偵察装置にはカニ目型の砲隊鏡のほか、ペリスコープが用意された。天井部分には硝煙を換気するためのベンチレーターが付けられた。ヤークトパンターにはIII号突撃砲のような司令塔が設けられておらず、代わりに回転式のペリスコープ、側方に固定されたペリスコープが設けられている。ヤークトパンターは生産中も細部の改良が続けられており、例えば操縦席前面のペリスコープ部分など、12種類もの形状の違いが確認できる。また機関部上面のレイアウトは当初パンターA型に準じていたが、途中からG型に準じたものに変更され、それぞれの長さの違いから戦闘室後部の傾斜角度が異なっている。前者はヤークトパンターG1型、後者はヤークトパンターG2型と分類された。",
"title": "構造"
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"text": "低い姿勢の固定式戦闘室に強力な主砲の組み合わせの駆逐戦車というコンセプトは、戦後の西ドイツのKJPz.4-5カノーネや、ソビエト連邦のSU-122-54などに受け継がれている。",
"title": "構造"
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"text": "主砲には71口径8.8cm戦車砲を搭載した。これはパンターに搭載された70口径7.5cm戦車砲 (7.5cm KwK42 L/70) を上回る威力を持つ。同じ砲を搭載するティーガーII同様、本車にも肉厚の1ピース型砲身の初期型と、軽量化され生産性・整備性の良い2ピース型の後期型砲身を搭載した車輛が存在した。搭載弾薬数は57発または60発である。射界は左右22度、俯仰角マイナス8度からプラス14度であった。射程は仰角15度で9350m、発射速度は毎分6から8発であった。",
"title": "攻撃力"
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"text": "8.8cm KwK43/L71は、被帽徹甲弾(8.8cmPzGr39/43)、合成硬核徹甲弾(8.8cmPzGr40/43)、榴弾(8.8cmSprGr43)、対戦車榴弾(8.8cmHlGr39)を使用できた。弾頭重量10.16kgの被帽徹甲弾は初速1000m/sで射出された。垂直に立てられた鋼板に対する貫通性能は2,000mで154mm、1,500mで170mm、1,000mで186mm、500mで205mmである。また弾頭重量7.5kgの合成硬核徹甲弾は初速1130m/sで射出された。垂直に立てられた鋼板に対する貫通性能は2,000mで175mm、1,500mで205mm、1,000mで233mm、500mで270mmである。対戦車榴弾はすべての射程において90mmの貫通性能を発揮した。これを連合国側の配備した主力戦闘車輛の前面装甲と対照するならば以下の結果となる。",
"title": "攻撃力"
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"text": "(貫通データは衝角60度、正面射撃を対象にして算出したもの)",
"title": "攻撃力"
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"text": "走行時は床に固定された主砲固定フックを起こし、これを砲尾にかけて固定する。砲は仰角7度で固定された。固定しないままの走行時には砲身が大きく揺れ、操砲用のギアに大きな力を加えて損傷や精度の狂いなどの問題が発生した。",
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"text": "車体前面の、後方からみて右側には7.92mmMG34機関銃をボールマウント式銃架(生産時期により形状が微妙に違う三種類がある)に装備した。弾数は600発である。前面装甲は最大80mmだが、車体と戦闘室が一体化した避弾経始のよい設計になっていたため、実際の装甲防御力はさらに大きかった。",
"title": "攻撃力"
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"text": "ほか、天井部分に自衛用の旋回式近接防御兵器が搭載された。これは26mmの榴弾を投射する。車内にはMP40を2挺、銃弾384発を携行した。",
"title": "攻撃力"
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"text": "本車は避弾経始に優れた設計を実現している。前面上部装甲はパンター譲りの80mm鋼板を地面に対し30度の角度で配置し、命中弾を弾きやすくし、また弾道上の装甲の厚みを160mmに増やしている。前面下部装甲は地面に対し35度で配置され、この厚みは50mmである。側面装甲は側面上部が50mmの厚みを持ち、水平に対して60度に傾いている。走行装置の取り付けられている側面下部は40mmの厚みを持ち、鉛直に立てられている。車体後部は戦闘室後部が40mmの厚みを持ち、水平に対し55度の角度を持っている。機関室後部は40mm厚で、地面に対して60度に配置された。天井は25mm厚、床板は16mm厚の装甲板が用いられている。",
"title": "防御力"
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"text": "本車の持つ正面防御能力に対し、連合軍の配備した主力戦闘車輛の主砲貫通性能を対照すると以下の結果となる。",
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"text": "(貫通データは衝角60度、正面射撃を対象にして算出したもの)",
"title": "防御力"
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"text": "従ってヤークトパンターを撃破するためには側面へ迂回し、側面または後面に命中弾を浴びせる必要があった。幸運な一撃により操縦手のペリスコープに命中させた場合には撃破が期待でき、また履帯、減速器に命中させた場合にはヤークトパンターを停止させることができた。しかしとどめをさすには側面への直撃弾が必要であった。",
"title": "防御力"
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"text": "機関室には自動消火装置が装備された。これは機関室の温度が160度を超えると、消火剤充填ボンベから炭素・塩素・臭素を混合した消火剤が噴射されるものであった。ただし温度検知器の配置不足から、温度のむらのない検出に無理があり、誤作動が多かった。",
"title": "防御力"
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"text": "ザウコフ(豚の頭)型防盾の周囲の主砲架部装甲カラーは、車内からボルトで固定する初期型、外から固定するようになった中期型、ボルト孔周辺部の厚みを増した後期型の三種類が確認できる。またこの砲を(少なくとも試作型では)ザウコフごと十字砲架に載せた固定陣地用の対戦車砲・Pak43/3 Sockellafette(固定砲台)IIaも作られ、実戦で用いられた。",
"title": "防御力"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "走行装置はパンター戦車のものとほぼ同一である。エンジンにはマイバッハ社製のHL230P30水冷V12ガソリンエンジンを採用した。このエンジンは3,000回転時に700馬力を出力し、全備重量45.5トンのヤークトパンターを時速55km/hで走行させた。航続距離は路上で250km、路外では100kmである。携行燃料は720リットルであり、燃費は路上で1km走行するのに2.8リットルを消費し、路外の場合1km走行するには7リットルを消費した。履帯は片側86枚を連結して構成した。この履帯の幅は660mm、履帯接地長は整地上で3,920cmである。接地圧は0.87kg/平方cmだった。",
"title": "機動力"
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"text": "クラッチは乾式多板である。クラッチ板は3枚重ねられており、エンジンと主変速機との動力の接続と切断を行った。変速機はZF\"AK7-200\"を使用し、操向変速機は前進7段、後進1段のギアが選択できた。ステアリング方式にはMAN社製のシングルラディアス方式を採用し、旋回半径は10メートルであった。これは遊星歯車機構を用い、大きな旋回半径では片側の履帯の速度を落として対応し、小さい範囲で旋回するには、内側の履帯への動力を切断しブレーキをかけるものである。",
"title": "機動力"
},
{
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"text": "懸架装置はダブルトーションバー方式である。これは2本のトーションバーを連結手でつなぎ、ヘアピンのように車体の床下へ横おきにしたもので、工数が増え、床下のスペースを消費して全高を高くする弊害があるが、優れた緩衝能力と大きなサスペンションストロークから高い地形への追従能力を持つ形式である。パンターの場合ねじれ応力のほかに曲げ応力も加わるものの、ドイツの戦車設計は問題なくこれをこなした。さらに転輪が挟み込み式に配置された。",
"title": "機動力"
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"text": "砲塔を搭載しないことから主砲を指向できる射界は左右22度に限定され、この範囲外に敵が現れた場合にはその方向へと車輛ごと旋回する必要があった。このため本車は頻繁な方向転換を余儀なくされ、こうした機動は内部の変速機、操向変速機、あるいは履帯や起動輪などの走行装置に大きな負担をかけた。また長大な砲身と厚く面積の広い前面装甲のためノーズヘビーであることからも起動輪、第一転輪に大きな負担がかかった。パンターに使用された通常の駆動シャフトを本車に使用した場合、平均35kmで異常を起こした。1944年10月28日には減速装置が強化されてこの問題はほぼ克服された。強化された減速装置を装備したヤークトパンターは、故障を起こすことなく400kmから500kmを行動できた。",
"title": "機動力"
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"text": "試験中の初期型などはパンターと同じ履帯の装着の仕方であるが、実戦配備されているヤークトパンターでは、いかなる理由か前後逆に履いている物が多い。",
"title": "機動力"
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"text": "この車輛には制式番号:Sd.Kfz.173の番号があたえられた。また構想当初はパンターシャシーの重突撃砲、パンターの突撃砲などとも呼ばれている。",
"title": "名称の変遷"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "名称は制式採用後も「8.8cm43式対戦車砲搭載パンターI型車台の戦車駆逐車」、「戦車駆逐車パンター」、「8.8cm43式(71口径)対戦車砲付き駆逐戦車パンター」などと変遷した。1944年4月からは書類上でも制式に 「ヤークトパンター」と呼ばれるようになった。なお「V号駆逐戦車」(ごごうくちくせんしゃ、独:Jagdpanzer V)の呼び方は、わずかに終戦直前の書類の一つで「V号(重)駆逐戦車71口径8.8cm対戦車砲43/3ヤークトパンター」と記されたものが確認できるだけであり、大戦中においては一般的なものではなかった。",
"title": "名称の変遷"
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"text": "ヤークトパンターの名称は、1943年11月29日付けで最終決定されたものであった。1944年2月27日には総統命令によりヤークトパンターと内示名称が決定された。",
"title": "名称の変遷"
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"text": "余談だがヒトラーはこの車両に一目ぼれしたらしく、ヤークトパンターと直接命名したのはヒトラー本人であり、「この車両はティーガーII戦車数両の価値がある」と熱弁したという。",
"title": "名称の変遷"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "なお、田宮模型がプラモデルの商品名としてエルヴィン・ロンメルにちなんで「ロンメル」という名称を用いたため、日本国内ではそのように呼称されることもあるが、それはあくまでも商品名であり、実際にはそのような名称は使われていない。",
"title": "名称の変遷"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "新兵器を投入するには定数を満たして集中運用することが望ましいが、ヤークトパンターはそのような原則は無視して戦場へ送られ続けた。ヤークトパンターの配備された時期のドイツ軍は、戦況が日に日に悪化しており、新品の兵器を補充された部隊が即時投入されることは珍しいことではなかった。また兵器への習熟、訓練期間はなく、大部隊を編成し演習を行うことも無理であった。",
"title": "実戦"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1944年、まずヤークトパンターは第654(重)戦車駆逐大隊へ配備された。同大隊はそれまで東部戦線でフェルディナント重駆逐戦車を装備して戦っており、戦力の補充のため後送された。次に第559(重)戦車駆逐大隊と第519(重)戦車駆逐大隊が装備を改編した。第560(重)戦車駆逐大隊と第655(重)戦車駆逐大隊がそれにつづいたが、定数を満たすものではなく、その補充も遅々としたものだった。",
"title": "実戦"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "第654(重)戦車駆逐大隊は西部戦線へ投入され、1944年7月30日の報告では、同大隊は第LXXIV戦車軍団に配属されており、うち3輌のヤークトパンターが、イギリス第6近衛戦車旅団のチャーチル戦車1個中隊を迎撃した。2分間の交戦の後に、チャーチル戦車2個中隊が援軍に現われ、ヤークトパンターは被弾して丘の背後へ後退した。この戦闘ではヤークトパンター2輌が履帯に被弾し、放棄された。チャーチル戦車はこの短い戦闘で11輌の損失を出した。この後の激しい戦闘によって消耗した同大隊は、1944年9月9日、グラーフェンベーア演習場へ補充のため後送されることが決定した。",
"title": "実戦"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "1944年11月18日、第654(重)戦車駆逐大隊はグラーフェンベーア演習場から再び西部戦線へ鉄道輸送された。11月20日から30日までの連続作戦によってヤークトパンター18輌が失われた。戦果は敵戦車52輌撃破、9輌中破、対戦車砲10門の撃破であった。",
"title": "実戦"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "第563(重)戦車駆逐大隊は1945年1月20日にアルレンシュタインで編成を行い、21日に終了するや出動となった。同大隊はヤークトパンター18輌とIV号駆逐戦車24輌を装備し、以後10日間の戦闘で敵戦車58輌を撃破した。ヤークトパンターは13輌を失った。この内訳は燃料不足による爆破放棄が8輌、行動不能による爆破放棄が1輌、長期間修理の後に爆破放棄が3輌であり、敵に撃破されたものは1輌のみであった。",
"title": "実戦"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1945年1月以降にもなると、ヤークトパンターの敵は敵戦車ではなく、燃料不足、補修部品の不足、初期不良、生産遅延であった。五月雨的に、基準も編成も考慮せず、生産するそばから最寄りの部隊へ配備し、戦場へ即投入するという状況もヤークトパンターの喪失を招いた。適切な補修のないまま分散配置されたヤークトパンターがひとたび故障を起こした場合、回収の手立てはほぼないに等しかった。例としては、SS第12戦車師団の戦車連隊に組み込まれた第560(重)戦車駆逐大隊のヤークトパンターが挙げられる。この車輛は1945年3月8日に故障し、回収作業が行われたのは3月21日であった。回収は連隊固有の戦車を優先して行われ、ヤークトパンターの作業は後回しにされた。また戦車連隊は大隊の事情を無視し、修理の終ったヤークトパンターを逐次不特定の部隊へ割り当てた。こうした戦局の末期的な悪化に伴う組織上の不備と混乱によって、故障を起こし、あるいは燃料の尽きたヤークトパンターはドイツ戦車兵自らの手で爆破放棄されていった。",
"title": "実戦"
}
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ヤークトパンター(Jagdpanther)は第二次世界大戦中にナチス・ドイツで開発された駆逐戦車である。火力・防御力・機動力が高く、また他のドイツ重駆逐戦車に比較して信頼性に優れ、総合的にバランスのとれた装甲戦闘車両であった。
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{{戦車
|名称=ヤークトパンター
|画像=[[ファイル:Jagdpanther Sd.Kfz.173 may 2008.jpg|300px]]
|説明=Jagdpanther(Sdkfz.173)
|全長=9.87 [[メートル|m]]
|車体長=6.87 m
|全幅=3.27 m<br />シュルツェン装着時3.42 m
|全高=2.715 m
|重量=45.5 t
|懸架方式=ダブル[[トーションバー]]方式
|速度=
|整地時速度=55 km/h
|不整地時速度=26 km/h
|行動距離=250 [[キロメートル|km]](整地)100km(路外)
|主砲=71口径88 mm Pak 43/3 もしくは 43/4(60発)
|副武装=7.92 mm [[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|MG34]]機関銃 ×1
|装甲=
*前面上部 80mm
*ザウコップ防盾部 96mm
*前面下部 65mm
*側面上部 52mm
*側面下部 40mm
*後面 40mm
*上面 13mm
*底面前部 20mm
*底面後部 13mm
|エンジン名=[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]]HL230 P30<br/>[[4ストローク機関|4ストローク]][[V型12気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン|ガソリン]]
|出力=700 hp (515 kW)
|乗員=5 名
}}
'''ヤークトパンター'''(Jagdpanther)は[[第二次世界大戦]]中に[[ナチス・ドイツ]]で開発された[[駆逐戦車]]である。火力・防御力・機動力が高く、また他のドイツ重駆逐戦車に比較して信頼性に優れ、総合的にバランスのとれた[[装甲戦闘車両]]であった。
== 開発経緯 ==
本車は[[V号戦車パンター|パンター戦車]]の車体を利用し、前面装甲および側面上部を上方へ延長して戦闘室を構築、ここにパンターよりも口径の大きいPak43/3 88mm砲を搭載した。これは[[ティーガーI]]の主砲であるKwK 36と同じ口径だが、砲身長が71口径となり貫徹力が上がっている。エンジン、走行装置などはパンターとほぼ同一である。こうした駆逐戦車が要求される前段階として、[[ドイツ国防軍]]は自動車牽引型の[[対戦車砲]]に対して機動力の点に不満を持ち、実用性の高い自走砲形式の戦闘車輛を要求したことが挙げられる。
陸軍兵器局は1942年8月3日に、新型のパンター戦車の車体に新規の8.8cm対戦車砲を組み合わせることを提案した。この時の量産予定は1943年7月であった。[[クルップ]]社に開発が要請されたものの、同社はIV号戦車の車体に88mm砲を搭載する作業に従事しており、1月までに設計図を作成することは無理であった。そこで10月に[[ダイムラー・ベンツ]]社へ開発作業が移され、1943年夏には車輛を製造することを目標とした。クルップ社は設計の支援及び主砲と砲架の開発に当たった。ダイムラー・ベンツ社の設計はパンターIIの車体を基として行われ、1943年1月には技術的な詳細が決定された。しかし、1943年5月にはパンターIIの製造計画が中止され、8.8cm重突撃砲もまた、パンターIの車体を利用して製造されることとなった。改良点の変更は迅速に行われた。また1943年5月24日、ダイムラー・ベンツ社からMIAG社に製造が引き継がれた。パンターIIの設計によって改良すべき点はパンターの車体にも引き継がれ、改良済みの量産型車体は9月に工場で製作された。1943年6月、ダイムラー・ベンツ社は「71口径8.8cm砲搭載パンター中駆逐戦車」の[[木型|モックアップ]]を完成させ、MIAG社はこれを参考とした。試作車輛は1943年10月にMIAG社にて完成した。11月には試作2号車が完成した。
[[ファイル:SdKfz173.jpg|thumb|250px|left|[[ムンスター戦車博物館]]の後期型]]
量産は当初5輌から10輌程度が細々と毎月生産された。製造遅延の大きな原因は変速機、操向変速機、そして駆動系統の強化であった。さらにMIAG社の労働力の不足と空襲も遅延の原因となった。1944年11月にはMNH社(ニーダーザクセン・ハノーファー工機製作所)とMBA社(マシーネンバウ・ウント・バーンベダルフ社)が生産に加わり、この状況は改善を見た。しかし最高生産数は1945年1月に72輌というものであり、以後数10輌のペースで生産が進んだものの、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の車輛生産数には到底抗し得るものではなかった。生産数は1944年1月~1945年4月の間にMIAG、NMH、MBA各社により計415輌と、比較的少数に終わった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p25。</ref>。
{{-}}
== 構造 ==
[[ファイル:Jagdpanther Tank Killer (6264900038).jpg|thumb|250px|left|上面。]]
本車は駆逐戦車であり砲塔を搭載しない。車体後部に機関室、車体中央部に避弾経始に優れる戦闘室、車体前部に変速機、操向変速機と88mm主砲を配する。動力は後部機関室内のガソリンエンジンから床下のカルダンシャフトを介して車体前部の変速機へ通じ、ここで減速された後に操向変速機で左右の起動輪へと配分される。搭乗員は5名であった。車体前部、後方からみて左側に運転手が搭乗し、変速機を挟んで右側には前方機銃手兼無線手が搭乗した。戦闘室中央部、後方からみて主砲の左側には砲手が搭乗し、砲を操作する。ほか、装填手と車長が搭乗した<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p28からp31。</ref>。乗車用ハッチは3カ所に設けられた。指揮官の真上、装填手の左側、戦闘室後部である。
主砲は防楯をつけたうえで前面装甲板に装甲カラーを介して搭載された。この装甲カラーは初期型と後期型が存在する。初期型の装甲カラーは戦闘室内部で装甲板とリベット接合しており、取り外すためには狭い車内で作業する必要があった<Ref name="重駆逐戦車p12-13">シュピールベルガー『重駆逐戦車』p12からp13。</ref>。後期型の装甲カラーは上下をそれぞれ4本のボルトで外部から接合したものに変えられた。この変更によって、カラーを外した際の前面装甲板の開口部が広がり、変速機と操向変速機の交換作業が円滑になった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p24。</ref>。主砲の砲身は戦闘室後部のハッチから抜き出し、防楯と装甲カラーを取り外すことで、開口部から変速機と操行変速機を取り出すことができた<ref>シュピールベルガー『パンター戦車』p221。</ref>。初期型に比べ後期型は交換作業が楽に行えるようになり、整備上有利となった。
主砲に取り付けられた照準器はペリスコープ式のSfl.ZF1型であり、天井から照準器の頂部が突出し、視界を得ていた。主砲と連動して照準器が左右に動くため、天井にはこの作動部分を確保するために穴が開かれた。この開口部分に沿ってレールが設けられ、スライド式の装甲板がつけられている。車長用の偵察装置にはカニ目型の砲隊鏡のほか、ペリスコープが用意された<ref>シュピールベルガー『パンター戦車』p225</ref>。天井部分には硝煙を換気するためのベンチレーターが付けられた。ヤークトパンターにはIII号突撃砲のような司令塔が設けられておらず、代わりに回転式のペリスコープ、側方に固定されたペリスコープが設けられている。ヤークトパンターは生産中も細部の改良が続けられており、例えば操縦席前面のペリスコープ部分など、12種類もの形状の違いが確認できる。また機関部上面のレイアウトは当初パンターA型に準じていたが、途中からG型に準じたものに変更され、それぞれの長さの違いから戦闘室後部の傾斜角度が異なっている。前者はヤークトパンターG1型、後者はヤークトパンターG2型と分類された。
低い姿勢の固定式戦闘室に強力な主砲の組み合わせの駆逐戦車というコンセプトは、戦後の[[西ドイツ]]の[[カノーネンヤークトパンツァー|KJPz.4-5カノーネ]]や、[[ソビエト連邦]]の[[SU-122-54 (自走砲)|SU-122-54]]などに受け継がれている。
== 攻撃力 ==
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-717-0017-12, Frankreich, Jagdpanther.jpg|thumb|250px|フランス戦線でのヤークトパンター(1944年)]]
主砲には71口径8.8cm戦車砲を搭載した。これはパンターに搭載された70口径7.5cm戦車砲 (7.5cm KwK42 L/70) を上回る威力を持つ。同じ砲を搭載する[[ティーガーII]]同様、本車にも肉厚の1ピース型砲身の初期型と、軽量化され生産性・整備性の良い2ピース型の後期型砲身を搭載した車輛が存在した。搭載弾薬数は57発または60発である。射界は左右22度、俯仰角マイナス8度からプラス14度であった。射程は仰角15度で9350m、発射速度は毎分6から8発であった<Ref name="パンターp279">シュピールベルガー『パンター戦車』p279</ref>。
8.8cm KwK43/L71は、被帽徹甲弾(8.8cmPzGr39/43)、合成硬核徹甲弾(8.8cmPzGr40/43)、榴弾(8.8cmSprGr43)、対戦車榴弾(8.8cmHlGr39)を使用できた。弾頭重量10.16kgの被帽徹甲弾は初速1000m/sで射出された。垂直に立てられた鋼板に対する貫通性能は2,000mで154mm、1,500mで170mm、1,000mで186mm、500mで205mmである。また弾頭重量7.5kgの合成硬核徹甲弾は初速1130m/sで射出された。垂直に立てられた鋼板に対する貫通性能は2,000mで175mm、1,500mで205mm、1,000mで233mm、500mで270mmである。対戦車榴弾はすべての射程において90mmの貫通性能を発揮した。これを連合国側の配備した主力戦闘車輛の前面装甲と対照するならば以下の結果となる<ref name="名前なし-1">シュピールベルガー『重駆逐戦車』p50</ref>。
* [[T-34|T-34-85]]の前面装甲を距離2,800mから射貫。
* [[KV-85]]の前面装甲を距離3,000mから射貫。
* [[IS-2]]の前面装甲を距離2,300mから射貫。
* [[クロムウェル巡航戦車]]の前面装甲を距離3,500mから射貫。
* [[チャーチル歩兵戦車]]の前面装甲を距離3,500mから射貫。
* [[M4中戦車|M4A2シャーマン]][[M1897 75mm野砲#アメリカ合衆国|75mm砲]]型の前面装甲を距離3,000mから射貫。
* M4A4シャーマン76mm砲型の前面装甲を距離3,000mから射貫。
(貫通データは衝角60度、正面射撃を対象にして算出したもの)
走行時は床に固定された主砲固定フックを起こし、これを砲尾にかけて固定する。砲は仰角7度で固定された。固定しないままの走行時には砲身が大きく揺れ、操砲用のギアに大きな力を加えて損傷や精度の狂いなどの問題が発生した<Ref name="重駆逐戦車p12-13"/>。
車体前面の、後方からみて右側には7.92mmMG34機関銃をボールマウント式銃架(生産時期により形状が微妙に違う三種類がある)に装備した。弾数は600発である<Ref name="パンターp279"/>。前面装甲は最大80mmだが、車体と戦闘室が一体化した[[避弾経始]]のよい設計になっていたため、実際の装甲防御力はさらに大きかった。
ほか、天井部分に自衛用の旋回式近接防御兵器が搭載された。これは26mmの榴弾を投射する。車内にはMP40を2挺、銃弾384発を携行した<Ref name="パンターp279"/>。
== 防御力 ==
[[ファイル:Jagdpanther1.jpg|thumb|250px|正面]]
[[ファイル:Jagdpanzer V Jagdpanther 2.jpg|thumb|250px|前面装甲の被弾痕。貫通したものは無い。]]
本車は避弾経始に優れた設計を実現している。前面上部装甲はパンター譲りの80mm鋼板を地面に対し30度の角度で配置し、命中弾を弾きやすくし、また弾道上の装甲の厚みを160mmに増やしている。前面下部装甲は地面に対し35度で配置され、この厚みは50mmである。側面装甲は側面上部が50mmの厚みを持ち、水平に対して60度に傾いている。走行装置の取り付けられている側面下部は40mmの厚みを持ち、鉛直に立てられている。車体後部は戦闘室後部が40mmの厚みを持ち、水平に対し55度の角度を持っている。機関室後部は40mm厚で、地面に対して60度に配置された。天井は25mm厚、床板は16mm厚の装甲板が用いられている<ref>シュピールベルガー『パンター戦車』添付資料11、装甲厚と傾斜角度のデータによる。p289</ref>。
本車の持つ正面防御能力に対し、連合軍の配備した主力戦闘車輛の主砲貫通性能を対照すると以下の結果となる<ref name="名前なし-1"/>。
* T-34-85の85mm砲は貫通不能。
* KV-85の85mm砲は貫通不能。
* IS-2の122mm砲は距離100mから貫通可能。
* クロムウェル巡航戦車の75mm砲は貫通不能。
* チャーチル歩兵戦車の75mm砲は貫通不能。
* M4A2シャーマン75mm砲型の75㎜砲は貫通不能。
* M4A4シャーマン76mm砲型の76.2mm砲は貫通不能。
(貫通データは衝角60度、正面射撃を対象にして算出したもの)
従ってヤークトパンターを撃破するためには側面へ迂回し、側面または後面に命中弾を浴びせる必要があった。幸運な一撃により操縦手のペリスコープに命中させた場合には撃破が期待でき、また履帯、減速器に命中させた場合にはヤークトパンターを停止させることができた。しかしとどめをさすには側面への直撃弾が必要であった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p49</ref>。
機関室には自動消火装置が装備された。これは機関室の温度が160度を超えると、消火剤充填ボンベから炭素・塩素・臭素を混合した消火剤が噴射されるものであった。ただし温度検知器の配置不足から、温度のむらのない検出に無理があり、誤作動が多かった。
ザウコフ(豚の頭)型防盾の周囲の主砲架部装甲カラーは、車内からボルトで固定する初期型、外から固定するようになった中期型、ボルト孔周辺部の厚みを増した後期型の三種類が確認できる。またこの砲を(少なくとも試作型では)ザウコフごと十字砲架に載せた固定陣地用の対戦車砲・Pak43/3 Sockellafette(固定砲台)IIaも作られ、実戦で用いられた。
== 機動力 ==
走行装置はパンター戦車のものとほぼ同一である。エンジンにはマイバッハ社製のHL230P30水冷V12ガソリンエンジンを採用した。このエンジンは3,000回転時に700馬力を出力し、全備重量45.5トンのヤークトパンターを時速55km/hで走行させた。航続距離は路上で250km、路外では100kmである。携行燃料は720リットルであり、燃費は路上で1km走行するのに2.8リットルを消費し、路外の場合1km走行するには7リットルを消費した。履帯は片側86枚を連結して構成した。この履帯の幅は660mm、履帯接地長は整地上で3,920cmである。接地圧は0.87kg/平方cmだった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p173。</ref>。
クラッチは乾式多板である。クラッチ板は3枚重ねられており、エンジンと主変速機との動力の接続と切断を行った。変速機はZF"AK7-200"を使用し、操向変速機は前進7段、後進1段のギアが選択できた。ステアリング方式にはMAN社製のシングルラディアス方式を採用し、旋回半径は10メートルであった。これは遊星歯車機構を用い、大きな旋回半径では片側の履帯の速度を落として対応し、小さい範囲で旋回するには、内側の履帯への動力を切断しブレーキをかけるものである<ref>シュピールベルガー『パンター戦車』p62。</ref>。
懸架装置はダブルトーションバー方式である。これは2本のトーションバーを連結手でつなぎ、ヘアピンのように車体の床下へ横おきにしたもので、工数が増え、床下のスペースを消費して全高を高くする弊害があるが、優れた緩衝能力と大きなサスペンションストロークから高い地形への追従能力を持つ形式である。パンターの場合ねじれ応力のほかに曲げ応力も加わるものの、ドイツの戦車設計は問題なくこれをこなした。さらに転輪が挟み込み式に配置された。
砲塔を搭載しないことから主砲を指向できる射界は左右22度に限定され、この範囲外に敵が現れた場合にはその方向へと車輛ごと旋回する必要があった<ref>シュピールベルガー『パンター戦車』p225。</ref>。このため本車は頻繁な方向転換を余儀なくされ、こうした機動は内部の変速機、操向変速機、あるいは履帯や起動輪などの走行装置に大きな負担をかけた。また長大な砲身と厚く面積の広い前面装甲のためノーズヘビーであることからも起動輪、第一転輪に大きな負担がかかった。パンターに使用された通常の駆動シャフトを本車に使用した場合、平均35kmで異常を起こした。1944年10月28日には減速装置が強化されてこの問題はほぼ克服された。強化された減速装置を装備したヤークトパンターは、故障を起こすことなく400kmから500kmを行動できた<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p35。</ref>。
試験中の初期型などはパンターと同じ履帯の装着の仕方であるが、実戦配備されているヤークトパンターでは、いかなる理由か前後逆に履いている物が多い。
== 名称の変遷 ==
この車輛には[[特殊車輌番号|制式番号]]:Sd.Kfz.173の番号があたえられた。また構想当初はパンターシャシーの重[[突撃砲]]、パンターの突撃砲などとも呼ばれている。
名称は制式採用後も「8.8cm43式対戦車砲搭載パンターI型車台の戦車駆逐車」、「戦車駆逐車パンター」、「8.8cm43式(71口径)対戦車砲付き駆逐戦車パンター」などと変遷した。1944年4月からは書類上でも制式に 「ヤークトパンター」と呼ばれるようになった。なお「V号駆逐戦車」(ごごうくちくせんしゃ、独:Jagdpanzer V)の呼び方は、わずかに終戦直前の書類の一つで「V号(重)駆逐戦車71口径8.8cm対戦車砲43/3ヤークトパンター」と記されたものが確認できるだけであり、大戦中においては一般的なものではなかった。<ref>ヴァルター・J.シュピールベルガー『重駆逐戦車』木村義明 訳、大日本絵画、1994年、pp.7f。</ref>
ヤークトパンターの名称は、1943年11月29日付けで最終決定されたものであった<Ref name="重駆逐戦車p8">シュピールベルガー『重駆逐戦車』p8。</ref>。1944年2月27日には総統命令によりヤークトパンターと内示名称が決定された<Ref name="重駆逐戦車p8"/><ref>シュピールベルガー『パンター戦車』p227。</ref>。
余談だがヒトラーはこの車両に一目ぼれしたらしく、ヤークトパンターと直接命名したのはヒトラー本人であり、「この車両はティーガーⅡ戦車数両の価値がある」と熱弁したという。
なお、[[田宮模型]]が[[プラモデル]]の商品名として[[エルヴィン・ロンメル]]にちなんで「ロンメル」という名称を用いたため、日本国内ではそのように呼称されることもあるが、それはあくまでも商品名であり、実際にはそのような名称は使われていない。
== 実戦 ==
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-721-0396-21, Frankreich, Jagdpanther.jpg|thumb|250px|left|フランスにおけるヤークトパンター(1944年)]]
新兵器を投入するには定数を満たして集中運用することが望ましいが、ヤークトパンターはそのような原則は無視して戦場へ送られ続けた。ヤークトパンターの配備された時期のドイツ軍は、戦況が日に日に悪化しており、新品の兵器を補充された部隊が即時投入されることは珍しいことではなかった。また兵器への習熟、訓練期間はなく、大部隊を編成し演習を行うことも無理であった。
1944年、まずヤークトパンターは第654(重)戦車駆逐大隊へ配備された。同大隊はそれまで[[東部戦線]]でフェルディナント重駆逐戦車を装備して戦っており、戦力の補充のため後送された。次に第559(重)戦車駆逐大隊と第519(重)戦車駆逐大隊が装備を改編した。第560(重)戦車駆逐大隊と第655(重)戦車駆逐大隊がそれにつづいたが、定数を満たすものではなく、その補充も遅々としたものだった。
第654(重)戦車駆逐大隊は[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]へ投入され、1944年7月30日の報告では、同大隊は第LXXIV戦車軍団に配属されており、うち3輌のヤークトパンターが、イギリス第6近衛戦車旅団のチャーチル戦車1個[[中隊]]を迎撃した。2分間の交戦の後に、チャーチル戦車2個中隊が援軍に現われ、ヤークトパンターは被弾して丘の背後へ後退した。この戦闘ではヤークトパンター2輌が履帯に被弾し、放棄された。チャーチル戦車はこの短い戦闘で11輌の損失を出した<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p32。</ref>。この後の激しい戦闘によって消耗した同大隊は、1944年9月9日、グラーフェンベーア演習場へ補充のため後送されることが決定した。
1944年11月18日、第654(重)戦車駆逐大隊はグラーフェンベーア演習場から再び西部戦線へ鉄道輸送された。11月20日から30日までの連続作戦によってヤークトパンター18輌が失われた。戦果は敵戦車52輌撃破、9輌中破、対戦車砲10門の撃破であった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p36。</ref>。
第563(重)戦車駆逐大隊は1945年1月20日にアルレンシュタインで編成を行い、21日に終了するや出動となった。同大隊はヤークトパンター18輌とIV号駆逐戦車24輌を装備し、以後10日間の戦闘で敵戦車58輌を撃破した。ヤークトパンターは13輌を失った。この内訳は燃料不足による爆破放棄が8輌、行動不能による爆破放棄が1輌、長期間修理の後に爆破放棄が3輌であり、敵に撃破されたものは1輌のみであった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p46。</ref>。
1945年1月以降にもなると、ヤークトパンターの敵は敵戦車ではなく、燃料不足、補修部品の不足、初期不良、生産遅延であった。五月雨的に、基準も編成も考慮せず、生産するそばから最寄りの部隊へ配備し、戦場へ即投入するという状況もヤークトパンターの喪失を招いた。適切な補修のないまま分散配置されたヤークトパンターがひとたび故障を起こした場合、回収の手立てはほぼないに等しかった。例としては、SS第12戦車師団の戦車連隊に組み込まれた第560(重)戦車駆逐大隊のヤークトパンターが挙げられる。この車輛は1945年3月8日に故障し、回収作業が行われたのは3月21日であった。回収は連隊固有の戦車を優先して行われ、ヤークトパンターの作業は後回しにされた。また戦車連隊は大隊の事情を無視し、修理の終ったヤークトパンターを逐次不特定の部隊へ割り当てた。こうした戦局の末期的な悪化に伴う組織上の不備と混乱によって、故障を起こし、あるいは燃料の尽きたヤークトパンターはドイツ戦車兵自らの手で爆破放棄されていった<ref>シュピールベルガー『重駆逐戦車』p47からp49。</ref>。
==現存車両==
* [[ボービントン戦車博物館]] - 後期生産型。終戦後、ハノーファーの生産工場内に未完成状態で放置されていたものを、試験のために{{仮リンク|王立電気機械工兵|en|Royal Electrical and Mechanical Engineers}}が組み立てた車両の一つ<ref>{{cite web|url=https://tankmuseum.org/tank-nuts/tank-collection/jagdpanther/|title=JAGDPANTHER|publisher=|accessdate=2020-8-30}}</ref>。
* [[ダックスフォード帝国戦争博物館]] - 初期生産型。ベルギーのヘクテル方面の戦闘で破壊された車両と伝えられ、機関部の左側面に3発の貫通痕がある<ref>{{cite web |url=http://www.iwm.org.uk/collections/item/object/70000322 |title=Sd Kfz 173 Jagdpanther (Tank Destoyer [sic]) |author=[[帝国戦争博物館]] |date= |work=Imperial War Museum Collections Search |publisher= |accessdate=17 February 2012}}</ref>。以前はロンドン館で展示されていた。
* [[ムンスター戦車博物館]]
* [[コブレンツ国防技術博物館]]
* [[クビンカ戦車博物館]]
* [[ソミュール戦車博物館]]
* [[ジンスハイム自動車・技術博物館]]
* [[トゥーン戦車博物館]]
* [[アメリカ陸軍兵器博物館]]
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ファイル:88mm Panzerjäger Jagdpanther (SdKfz 173).jpg|[[ボービントン戦車博物館]]の展示車両
ファイル:Jagdpanther.IWM.jpg|[[帝国戦争博物館]]所有車両。写真はロンドン館で展示されていた時のもの。
ファイル:Panzermuseum Munster 2010 0432.JPG|[[ムンスター戦車博物館]]の展示車両
ファイル:Jagdpanther ‘23 red’ – Patriot Museum, Kubinka (37583220904).jpg|クビンカ戦車博物館のパトリオット・パーク展示車両
ファイル:SdKfz 173 Jagdpanther Saumur.jpg|ソミュール戦車博物館の展示車両
ファイル:Sd. Kzf. 173 Jagdpanther (24570126908).jpg|ジンスハイム自動車・技術博物館展示車両
ファイル:Jagdpanther Thun 1.jpg|トゥーン戦車博物館展示車両
ファイル:Aberdeen proving grounds 028.JPG|アメリカ陸軍兵器博物館展示車両
ファイル:Jagdpanther Sd.Kfz.173 may 2008.jpg|[[コブレンツ国防技術博物館]]所有車両
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== 登場作品 ==
{{Main|V号戦車パンターに関連する作品の一覧}}
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* ヴァルター・J・シュピールベルガー、富岡吉勝 監修、木村義明 訳『重駆逐戦車』大日本絵画、1994年。ISBN 4-499-22637-6
* ヴァルター・J・シュピールベルガー、富岡吉勝 監修、木村義明 訳『パンター戦車』大日本絵画、1999年。ISBN 4-499-22694-5
== 外部リンク ==
{{Commons|Jagdpanther}}
*[http://www.battletanks.com/jagdpanther.htm Pictures of jagdpanther at battletanks.com]
*[http://www.achtungpanzer.com/pz15.htm Panzerjäger V Jagdpanther]
{{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}}
{{Normdaten}}
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[[Category:V号戦車 (パンター)]]
[[Category:ドイツ国防軍の対戦車自走砲]]
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シュルレアリスム
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シュルレアリスム(仏: surréalisme、英: surrealism)は、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである自動記述が行われていたが、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。シュルレアリスムはジークムント・フロイトの精神分析とカール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。ブルトンのほか、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、バンジャマン・ペレらの詩人を中心とする文学運動として始まったが、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンストらの画家やマン・レイらの写真家が参加し、1920年代末頃からスペインやベルギーからもサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、ルネ・マグリット、カミーユ・ゲーマンス(フランス語版)らが参加。分野もダリとブニュエルの『アンダルシアの犬』に代表される映画などを含む多岐にわたる芸術運動に発展した。
一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった。
1910年代に詩集『アルコール(英語版) 』(1913年)によってフランス詩を大きく変え、美術評論『キュビスムの画家たち(英語版)』(1913年)によってピカソ、ブラック、ピカビア、デュシャンらの前衛芸術家を支持したギヨーム・アポリネールは、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ピエール・ルヴェルディら、後にシュルレアリスト運動を牽引することになる若手作家をつなぐ役割を果たした。1917年に初演され、一大スキャンダルを巻き起こした、ジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、パブロ・ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』を支持し、プログラムを書いたのもアポリネールであった。彼はこのプログラムで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた。さらに、翌1918年にはシュルレアリスム演劇の先駆となった彼自身の戯曲『ティレジアスの乳房』が上演された。 シュルレアリスム運動を牽引したブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、バンジャマン・ペレらは1910年代末から1920年代初頭にかけて起こった文学・芸術運動ダダイスムにも参加していた。ブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『リテラチュール(文学)』には、1920年にトリスタン・ツァラをはじめとし多くのダダイストが寄稿し、ダダイスムの機関誌の役割を担っていたが、1921年頃からブルトンとツァラが対立し、運動内部の分裂につながった。根本的には、既成の秩序を破壊し、すべてを無意味化しようとするダダイストと、むしろ無意味、あるいは従来無意味とされてきた夢や無意識のなかに意味を見いだそうとする後のシュルレアリストの思想的な対立であった。
1924年10月にパリ7区のグルネル通り(フランス語版)に「シュルレアリスム研究所」が設立され、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が刊行された。彼は本書で初めて「シュルレアリスム」に明確な定義を与えた(上述)。シュルレアリスムの思想的基盤はフロイトとマルクスにあった。フロイト『夢判断』が発表されたのは1900年のことであり、医学生であったブルトンは、フロイトの精神分析における夢の世界と現実の世界、睡眠状態と覚醒状態の関係に関心を抱き、無意識の探求に人間の全体性の回復、人間解放の可能性を見いだした。同年12月にブルトン、アラゴン、ペレ、ピエール・ナヴィルによって機関誌『シュルレアリスム革命』が創刊された。本誌では、催眠実験、自動記述、夢の記述などによる無意識の表現、「優美な屍骸」、コラージュ、フロッタージュ、デカルコマニー、デペイズマンの技法など、シュルレアリスムの主なテーマがすべて取り上げられた。参加した文学者はブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、ペレのほか、アントナン・アルトー、レーモン・クノー、ルネ・クルヴェル、ルネ・シャール、ロベール・デスノス、ミシェル・レリス、芸術家はルイス・ブニュエル、ジャン・アルプ、マックス・エルンスト、ジョルジョ・デ・キリコ、パウル・クレー、オスカー・ココシュカ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、パブロ・ピカソ、フランシス・ピカビア、ジョルジュ・ブラック、ルネ・マグリット、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、マン・レイ、ピエール・ロワらであった。
『シュルレアリスム革命』誌は、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」が掲載された1929年12月15日付の第12号をもって終刊となった。この時点までに、運動内部での方針の不一致や対立によって脱会する者、あるいはブルトンに除名された者が少なくなかった。スーポー、デスノス、レリス、アルトーらであり、彼らは、アラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレらが1927年にフランス共産党に入党したのに対して、政党に関わることは拒否した。こうして、共産主義への傾倒を深めたシュルレアリストは、『シュルレアリスム革命』誌終刊翌年の1930年に後続誌『革命に奉仕するシュルレアリスム(フランス語版)』誌を創刊した。だが、この雑誌は1933年にわずか6号で終刊となった。内部対立が激化したからであり、その一因は、アラゴンが社会主義リアリズムに転向したことであった。運動自体は左傾化したものの、シュルレアリスムが文学・芸術革命に留まるか、社会革命に発展させるか、ファシズムが台頭した第二次世界大戦前夜にあって状況は一層複雑であった。
また、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の後続誌で、シュルレアリスムの美術雑誌としても重要なのは『ミノトール(フランス語版)』であった。アルベール・スキラ(フランス語版)を発行人、テリアード(フランス語版)を美術主幹として1933年6月に創刊された同誌は、1937年の第10号からブルトン、エリュアール、デュシャンらが編集委員として参加し、事実上、シュルレアリスムの雑誌となり、オーストリアの画家ヴォルフガング・パーレン、ドイツの人形作家・写真家ハンス・ベルメール、ベルギーの画家ポール・デルヴォー、チリの画家ロベルト・マッタ、スイスの彫刻家アルベルト・ジャコメッティらの作品が掲載された。
第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツがフランスを占領すると、多くのシュルレアリストが米国に亡命した。これは、フランスのユダヤ人、反ナチ運動家らを米国に疎開させるために結成された緊急救助委員会 (ERC) によって派遣されたヴァリアン・フライ(フランス語版)の尽力によるものであり、エルンストやデュシャンのように、美術品蒐集家・資産家のペギー・グッゲンハイム(フランス語版)から個人的な支援を受けて渡米したシュルレアリストもいた。彼らは戦時中にニューヨークを拠点として活動することになり、米国の画家らもシュルレアリスムの運動に参加した。アメリカで広がりを見せたシュルレアリスムは、抽象表現主義の誕生において重要な役割を果たすことになった。
1946年に亡命先の米国から帰国したブルトンは、1947年7月7日から9月30日までパリのマーグ画廊(フランス語版)で第6回国際シュルレアリスム展を開催した。この展覧会には、デュシャン、エルンスト、タンギー、ミロ、アルプ、ピエール・ロワ、パウル・クレー、ヴィクトル・ブローネル、ヴォルフガング・パーレン、ハンス・ベルメール、ロベルト・マッタら戦前からのシュルレアリストのほか、ヴィフレド・ラム、アーシル・ゴーキー、マルセル・ジャン(フランス語版)、フレデリック・キースラー、ケイ・セージ、ドロテア・タニング、トワイヤンらの作品が多数展示され、シュルレアリスムの大規模な回顧展となった。
1966年にブルトンが死去した。これにより、シュルレアリスムの詩人ジャン・シュステル(フランス語版)が、1969年に『ル・モンド』紙に「第四のうた」と題する記事を掲載して運動の終結を宣言した。この宣言は、日本でも「第四のうた - 宣言の形で」として1970年12月の『美術手帖』第336号に邦訳が掲載された。だが、シュステルのこの宣言に反対するシュルレアリスムの詩人ヴァンサン・ブーヌール(フランス語版)、美術評論家・造形作家のジャン=ルイ・ベドゥアン(フランス語版)らは活動を継続した。以後も個々の制作活動とは別に機関誌の刊行などを続け、他のシュルレアリストに受け継がれている。一方、他国に広がったシュルレアリスムはシュステルの宣言の影響を受けることなく、独自の活動を展開した。
1920年代にはフランス国外でもブルトンらの影響のもとに、あるいは独自に前衛文学・芸術運動が起こった。1927年にスペインの詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ、ラファエル・アルベルティ、ビセンテ・アレイクサンドレ、ルイス・セルヌーダ(スペイン語版)らによって結成された27年世代や、隠喩や諧謔を用いた新しい表現形式「グレゲリーア(スペイン語版)」を生み出したラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ(スペイン語版)は、しばしばシュルレアリスムの影響が指摘されるが、直接運動に関わったわけではない。スペインからは、彼らと親交の深かった画家のサルバドール・ダリ、映画監督のルイス・ブニュエルが1920年代末頃にシュルレアリスムの運動に参加し、さらに画家のオスカル・ドミンゲスは1930年代に入ってから参加した。フロイトがダリに出会ったのは1938年のことであった。この出会いは、シュルレアリスムに対するフロイトの認識を変えるほどのものであり、彼はシュテファン・ツヴァイクへの手紙に「私はシュルレアリストに守護聖人と仰がれていたが、それまでは彼らのことをまったくの狂人だと思っていた(アルコール含有量で言うなら狂気95%程度)。このスペイン人の若者の純真で熱狂的なまなざし、そして疑う余地のない卓越した技術力が私の認識を変えた」と書いている。
一方、1936年にスペイン内戦下のバルセロナでバンジャマン・ペレに出会って渡仏し、シュルレアリスムの運動に参加した画家レメディオス・ヴァロは、第二次大戦中にペレとともにメキシコに亡命し、同地で知り合ったイングランド生まれの画家・小説家のレオノーラ・キャリントンとともに神秘思想や先住民の神話・伝説の影響の強い画風によって1940年代以降のメキシコのシュルレアリスムを牽引した。一方、メキシコ文学におけるシュルレアリスムを代表するのはノーベル文学賞を受賞した詩人オクタビオ・パスである。また、大戦中にメキシコに亡命し、同地を拠点として活動した画家に、オーストリア出身のヴォルフガング・パーレンがいる。独自のシュルレアリスム技法「フュマージュ」を生み出したパーレンは1930年代後半にパリでブルトンらと活動を共にし、37年から38年にかけて国際シュルレアリスム展などに代表作を発表し、シュルレアリスムの美術雑誌『ミノトール』にも作品を発表した。
このほか、大戦中のシュルレアリストの亡命により、アルゼンチン、チリ、ブラジルなど南米各国にシュルレアリスムの運動が広がった。
キャリントンがシュルレアリスム運動に参加するきっかけとなったのは、1936年にロンドンのニューバーリントン・ギャラリーで開催された国際シュルレアリスム展(英語版)で、エルンスト、ダリ、デ・キリコ、マグリットらの作品に出会ったこと、特に同展覧会の英国側の主催者の一人ハーバート・リードが編纂した『シュルレアリスム』に掲載されたエルンストの作品《ナイチンゲールに脅かされる二人の子供》に衝撃を受けたことであった。彼女は翌1937年に渡仏して、エルンストのもとに身を寄せた。国際シュルレアリスム展に出展するほか、文学作品は1940年にブルトンが編纂したシュルレアリスムの傑作集『黒いユーモア選集』に掲載された。
なお、国際シュルレアリスム展は、1936年のロンドン、大規模な回顧展となった1947年のパリのほか、1938年にパリおよびアムステルダム、1940年にメキシコで開催された。
ベルギーのフランス語圏では、1924年、『シュルレアリスム革命』誌創刊とほぼ同時に、「ベルギーのブルトン」とも言われる詩人ポール・ヌージェ(フランス語版)が、詩人マルセル・ルコント(フランス語版)、作家カミーユ・ゲーマンスとともにシュルレアリスムの機関誌『コレスポンダンス(フランス語版)』を創刊した。これに先立って、別の機関誌の創刊を企てていた画家のルネ・マグリットと作家・画家のE・L・T・メザンス(フランス語版)、および詩人ポール・コリネ(フランス語版)やルイ・スキュトネール(フランス語版)、作曲家アンドレ・スーリー、作家・写真家マルセル・マリエン(フランス語版)らがヌージュらと合流し、ベルギー・シュルレアリスム(フランス語版)を牽引した。画家のポール・デルヴォーもこの運動に一時期参加するが、直接フランスのシュルレアリスム運動に参加したマグリットと違って、ベルギーで活動を続けながら、シュルレアリスム展に出展していた。
一方、共産主義との関わりにおいては、1932年にブルトンに出会ってシュルレアリスムに「啓示」を見いだした詩人アシール・シャヴェ(フランス語版)が1934年にラ・ルヴィエールでシュルレアリストのグループ「リュプチュール(フランス語版)(分裂)」を結成した。これは詩作と社会改革による人間の解放を目指す運動であった。
チェコスロバキアでは、1924年、フランスの『シュルレアリスム革命』誌、ベルギーの『コレスポンダンス』誌の創刊と機を一にして、芸術家連盟デヴィエトシル(フランス語版)に参加していた美術評論家・コラージュ作家のカレル・タイゲとヴィーチェスラフ・ネズヴァルが中心となって前衛芸術運動「ポエティスム(フランス語版)」が起こった。1927年には、フィリップ・スーポーがプラハでロートレアモンに関する講演を行い、これに深い感銘を受けたタイゲがスーポーの協力を得て、ロートレアモンの『マルドロールの歌』のチェコ語訳を出版することになった。スーポーはすでに前年、フランス共産党への入党をめぐってブルトンらと対立し、「文学的すぎる」という理由で除名されていたが、無名のまま没した詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』を最初に発掘し、ブルトン、アラゴンに紹介したのはスーポーであり、こうして、ポエティスムの運動はシュルレアリスムの運動と連動することになった。
ルーマニアで詩人イラリエ・ヴォロンカ(ルーマニア語版)とともにダダイスムの雑誌『75 H.P』を創刊した画家ヴィクトル・ブローネルは、同国の前衛詩人らが結成したドイツ表現主義、ロシア構成主義、ダダイスム、シュルレアリスムなどの前衛芸術運動に参加し、この運動の機関誌『ウヌ (Unu)』(1928年創刊、1935年終刊)に作品を掲載していた。すでに1903年に渡仏し、フランスで美術教育を受けた同郷人のコンスタンティン・ブランクーシと出会ったのは1930年に渡仏したときのことであり、このときイヴ・タンギーを介してデ・キリコとブルトンに出会った彼は、1931年にシュルレアリスムに参加した。第二次大戦中もユダヤ人であるにもかかわらず亡命が叶わず、ニューヨークでの活動には参加せず、やがてブルトンを中心とする運動からは離れるが、生涯にわたってシュルレアリストであった。
ユーゴスラビアでは詩人・画家のマルコ・リスティッチ(英語版)が早くも1925年に『シュルレアリスム革命』誌に詩を寄稿した。1926年から27年にかけてパリに滞在してブルトンらシュルレアリストと親交を深め、コラージュ作品を発表し、帰国後にシュルレアリスム運動を開始し、複数の機関誌を創刊。ユーゴスラビアを代表するシュルレアリストとして文学・芸術作品を発表し続けた。
日本におけるシュルレアリスムの紹介は、1927年に瀧口修造が刊行したシュルレアリスム詩のアンソロジーが最初とされる。また、ブルトン、エリュアールらと交友のあった山中散生が1933年に巴里東京新興美術展を開催し、1937年に瀧口修造との共同企画、『みづゑ』の後援による海外超現実主義作品展を開催した。これは、エルンスト、タンギー、ミロ、ピカソ、ハンス・ベルメール、マン・レイ、マグリット、デ・キリコ、インドリヒ・スティルスキー、ヘンリー・ムーア、ポール・ナッシュなど各国のシュルレアリストの作品377点を集めた大規模な展覧会であり、日本のシュルレアリスム運動における重要な契機となった(「日本におけるシュルレアリスム」参照)。
なお、とりわけドイツではファシズムの台頭に伴って多くの作家がフランスに亡命した。ドイツから亡命したシュルレアリスムの画家のうち、エルンストとハンス・ベルメールの作品は1937年にドイツ各地を巡回した退廃芸術展に出品されたうえに、ゲシュタポにより一時レ・ミル収容所に拘留された。
シュルレアリスムの主な概念を知る上で重要なのは、1938年にパリで国際シュルレアリスム展が開催された際にブルトンとエリュアールの共編によって刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』である。
シュルレアリスムの基本概念はオートマティスムであり、オートマティスムは本来、生理学・精神医学用語であったが、ブルトンは「理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」という心的オートマティスムとして再定義した。これは言語の自動記述だけでなく、絵画表現においても同様であり、たとえば、アンドレ・マッソンは人為的なトランス状態で「自動デッサン」を制作し(1924年から25年にかけて『シュルレアリスム革命』誌に発表)、イヴ・タンギーは、制作時に完全に自由になって思いがけない表現が生まれるように、事前に下絵を描くことはなかった。また、偶然性を狙ったコラージュ、フロッタージュ、デカルコマニーなどの技法も意識の介入を排除して、無意識を表出させようという試みである。実際、言語の自動記述が直接的であるのに対して、絵画の場合は描く行為・イメージ化において意識が介在するため、ピエール・ナヴィルは「絵画のオートマティスムは不可能である」と語っていた。
最初の自動記述の試みは、シュルレアリスムの運動が本格的に始まる前の1919年にブルトンとスーポーによって行われた。フロイトの自由連想法の影響を受けた自動記述は、理性に制御されない純粋な思考を表現するために、できるだけ無意識に近い状態で浮かんでくる言葉を書き付けて行った。次第にその速度を上げることで、主語(主体性)が排除され、内容も前後の脈絡のない抽象的な言葉やイメージの連続になる。スーポーとブルトンはこの実験を毎日8時間から10時間にわたって行った。この結果は同年10月から12月の『リテラチュール』誌(第8号から第10号)に「磁場」として発表され、翌1920年にシュルレアリスムの出版社オ・サン・パレイユ(フランス語版)から刊行された。自動記述の著書としては、1930年にエリュアールとブルトンによって発表された『無原罪の御宿り』も重要である。ここには自動記述の試みとして、神経衰弱疑似症の実験、強烈な偏執狂の疑似症の実験、全身麻酔疑似症の実験、表現錯乱疑似症の実験、早発性痴呆症疑似症の実験などについて記述され、表紙にはダリのエロティックな絵が掲載された。だが、一方で、こうした自動記述の試みは、多くの場合、催眠状態で行われたため、危険を伴うものであった。1922年9月に行われた催眠実験は、バンジャマン・ペレ、ルネ・クルヴェル、ロベール・デスノスが被験者になり、催眠状態に入った3人が他の参加者の質問に答えるという霊媒実験(心霊実験)を模した試みであった。この様子についてブルトンが「霊媒の登場」と題する一種の報告書を書き、『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号(1922年11月)に掲載した。だが、催眠実験(睡眠実験)がエスカレートすると、被験者が自分自身や参加者に危害を加える恐れがでてきた。クルヴェルは自殺を企てようとし、デスノスは周囲の友人にナイフを持って襲いかかったという。こうした危険性は、離人症や幻覚に伴う死の危険とともに、ブルトン自らが1934年の『ミノトール』誌第3・4合併号掲載の「自動メッセージ」と題する記事で明らかにし、事実上、これ以後、自動記述の実験は行われなくなった。
フロイトが1919年に著した小論「ウンハイムリッヒ(ドイツ語版)」(不気味なもの)は、「驚愕をもたらすもの、不安をかき立てるもの、ぞっとするような恐ろしさを与えるもの」として、シュルレアリスムの重要な概念の一つである。フロイトはこの論文で、ドイツ・ロマン派の作家E・T・A・ホフマンの短編小説『砂男』を例に挙げて分析している。ハンス・ベルメールが手足を切断された不気味で魅力的な人形(球体関節人形)を作るきっかけとなったのも、ホフマンのこの作品に基づいてジャック・オッフェンバックが作曲したオペラ『ホフマン物語』に登場する自動人形オランピアに触発されてのことであった。マグリットの最初のシュルレアリスム作品とされるのは1926年制作の《迷える騎手》であるが、1926年から27年にかけて制作された作品《鳥を食べる少女》や《殺意の空》には「気持ちをかき乱すような」鳥のイメージ、特に血を流す鳥や死んだ鳥が多く描かれている。また、《鳥を食べる少女》の副題は「快楽」であり、同郷人の詩人ヌージェは、マグリットはこの作品でフロイトの快楽原則をさらに探求し、「快楽の残虐さ」を描いているという。
アルフレッド・ジャリがソポクレスの『オイディプス王』に着想を得て書いた演劇『ユビュ王』(1896年刊行)は、シュルレアリスムの先駆、不条理演劇の先駆とされる作品であり、ミロの一連の「ユビュ」作品、エルンストの《オイディプス王》(1922年)、《ユビュ皇帝》(1923年)など、人間の心の混沌とした未知の領域、グロテスクで不気味な形象としてシュルレアリストが繰り返し取り上げた題材である。写真家ドラ・マールのフォト・モンタージュ作品《ユビュ王の肖像》(1936年)では、アルマジロの胎児を撮ったネガフィルムを使い、象のような形象により不気味さが強調されている。ヴィクトル・ブローネルの水彩《K氏の奇妙な事例》(1934年)も「ユビュ王」に着想を得た作品で、当時、欧州で台頭しつつあった独裁者の不気味な形象としてブルトンに絶賛された(同じ年に油彩《ヒトラー》も発表している)。同じく1934年制作の油彩《K氏の集中力》ではさらに太った男性の裸体にセルロイド製の小さい人形をたくさん貼り付けて不気味さを強調している。
このほか、ピカソが描いた牛頭人身の怪物「ミノタウロス」、アンドレ・マッソンの同じく「ミノタウロス」や恍惚状態で神託を告げた「ピューティアー」、または迷宮のモチーフ、ミロが1935年から1936年にかけて制作した一連の絵画『変身』などの神話・伝説の形象・モチーフが無意識の表象として取り上げられている。
また、女性の眼球を剃刀で切るシーンで始まるブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』(1928年)は、「不気味なもの」を最も強力に表現した映画として、後のヒッチコック監督の作品、特に『鳥』(1963年)などに影響を与えることになる。
シュルレアリストによって発掘されたロートレアモンの『マルドロールの歌(英語版)』(1868年)の一節「解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い(のように美しい)」は、デペイズマン(異なった環境で生じる違和感、不安感、驚異)の例として挙げられることが多く、シュルレアリスムではデ・キリコ、マグリット、エルンストの作品の特徴とされる。一方で、ロシア・フォルマリズムのシクロフスキーによって提唱された異化に近い概念でもあり、ブルトンはこれを「客観的偶然(フランス語版)」の概念として提唱した。すなわち、偶然による2つのものの接近・出会いによって「現実の中に潜む超現実が露呈し、不可思議(驚異)が現出する」瞬間である。
エルンストが《近づく思春期......(昴)》(1921年)など多くの作品で用いたコラージュの技法もこのような発想に基づいている。キュビスムのコラージュ(パピエ・コレ)とシュルレアリスムのコラージュの違いは、パピエ・コレでは、あらかじめ意図された視覚的効果があり、そのために複数の要素の組み合わせるのに対して、エルンストのコラージュは、あらかじめ意図されたものではなく、既存の印刷物や写真を組み合わせることで、その偶然性によって生み出される驚きや詩的イメージが重要になることである。エルンストは絵画としてだけでなく、コラージュ作品と小説を組み合わせて「ロマン・コラージュ(コラージュ小説)」として発表した。こうしたエルンストのコラージュについてアラゴンは「挑戦する絵画」と題する評論を発表した。パピエ・コレ、コラージュの発想から後にモンタージュ、アサンブラージュの技法が生まれることになる。
「客観的偶然」の概念に基づいてエルンストが生み出した技法は、この他にもフロッタージュ(こすり出し)、グラッタージュ(削り出し)などがある。フロッタージュは、木目の浮いた床板から着想を得た技法で、板や石などの表面に直接紙を当てて、その凹凸を鉛筆などでこすり出す方法である。《全都市》(1934年)などがこの技法で描かれている。
フロッタージュの応用であるグラッタージュは、キャンバス上に数種類の絵具を層状に塗り重ね、これを凹凸のある物体の上に載せ、次にパレットナイフで絵具層を削って、地塗層に物体の模様を写し出す技法である。代表作に《森と鳩》(1927年)がある。
同様の発想によるデカルコマニー(転写)は、1936年の『ミノトール』誌に発表されたオスカル・ドミンゲスの作品が最初のものとされる。2つ折りにした紙に絵具を入れ、再び紙を開いて偶発的な模様を得る方法であり、これを絵画に応用すると、支持体(基底材)や絵具の性質によって異なった効果が生じる。
「優美な屍骸」は絵画と文学の両方において行われた共同制作である。言葉による場合は、たとえば4人がそれぞれ任意に選んだ主語、述語、目的語、補語を組み合わせる。素描の場合は、紙を4つ折りにしてつなぎ目の印だけ付け、各自が先に描かれた絵を見ないで順番に(つなぎ目の印から)続きを描いていくという方法である。「優美な屍骸」という言葉は、5人がそれぞれ選んだ言葉を組み合わせてできた「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲む(Le cadavre / exquis / boira / le vin / nouveau)」によるものである。『シュルレアリスム革命』誌の第9・10合併号(1927年10月、テーマ「自動記述」)には、言葉による「優美な屍骸」作品のほか、素描作品も5点掲載され、これ以後、主にエルンスト、マッソン、ブルトン、タンギー、ブローネル、マックス・モリーズ(フランス語版)、ジャック・エロルド(フランス語版)らによって制作された。また、1948年にはポルトガルのシュルレアリスムの画家アントニオ・ドミンゲス、フェルナンド・アゼヴェド、アントニオ・ペドロ、モニーツ・ペレイラによって油彩による「優美な屍骸」の大作(150 x 180 cm)が発表された。
さらに造形においても、テーブルに女性の頭部、切断された手、ヴェール、多面体を配置したジャコメッティの《テーブル》、オオカミ(実際にはキツネ)の剥製の頭部と尾部をテーブルの前後に固定したブローネルの代表作《狼-テーブル》(1939年)など、客観的偶然、デペイズマン、あるいは「不気味なもの」を表わす作品が制作された。
シュルレアリスムの技法としては、このほか、ヴォルフガング・パーレンが考案したフュマージュ、ダリ独自の「偏執狂的批判的方法(フランス語版)」、また、シュルレアリスム独自の技法ではないがダリやマグリットの作品の特徴として挙げられるトロンプ・ルイユ(だまし絵)などがある。フュマージュは濡れたキャンバス(後に水彩絵具で描いたキャンバス)の表面をろうそくの煙で燻して黒い跡を付ける技法であり、幻影、亡霊、夢などを表現するオートマティスムの技法として、ダリも作品の一部に使用している。
ダリの偏執狂的批判的方法は、フロイトの精神分析やリヒャルト・フォン・クラフト=エビングの『性的精神病質(Psychopathia sexualis)』に深い関心を抱いていたダリが、これらを独自に解釈して1930年代に絵画理論として提唱したものであり、オートマティスムとは対照的に、技巧的で緻密な表現である。
トロンプ・ルイユの作品を多数制作したのは16世紀イタリアの画家ジュゼッペ・アルチンボルドであり、その奇抜さ、独創性によって20世紀になってから、主にシュルレアリストによって発掘・再評価された画家である。
なお、絵画におけるオートマティスムは、後の抽象表現主義、アンフォルメルなどの絵画運動、さらにはアクション・ペインティングなどの表現様式を生むきかっけとなった。
シュルレアリスムの先駆者、シュルレアリスムに影響を与えた作家・画家、またはシュルレアリストによって発掘・再評価された作家・画家は、主にドイツ・ロマン主義、幻想文学・幻想絵画、象徴主義、ゴシック美術やゴシック小説の作家または画家、および当時は異色とされたイタリア・ルネサンスの一部の画家である。文学については、『シュルレアリスム革命』誌、『ミノトール』誌などのシュルレアリスム運動の機関誌、およびブルトンが1940年に編纂した『黒いユーモア選集(フランス語版)』で紹介された。画家についてもこれらの機関誌のほか、各作家が評論・随筆を発表している。たとえばスーポーの『ウィリアム・ブレイク』(1928年)、『パオロ・ウッチェロ』(1929年)、『ロートレアモン』(1946年)、エリュアールの『芸術論集』(全3巻、1952-54年)、ブルトンの『超現実主義と絵画』(1928年)などである。
日本におけるシュルレアリスムは1920年代後半にまずは詩において開花し、1930年代に美術へと波及した。
詩人では、冨士原清一、西脇順三郎、瀧口修造、北園克衛、友部正人、友川かずき、棚夏針手など。小説家では安部公房が優れた作品を残している。
画家には、古賀春江、福沢一郎、阿部金剛、北脇昇、三岸好太郎、米倉壽仁、岡本唐貴、靉光、寺田政明、鎌田正蔵、杉全直、大塚耕二、矢崎博信、小山田二郎、西村元三朗、山下菊二、植月英俊などがいる。 写真家では、山本悍右などがいる。
漫画界では、不条理漫画といわれ、つげ義春のねじ式(1968年月刊『ガロ』6月増刊号に発表)によって初めてシュルレアリスム的表現の可能性が切り開かれ、漫画界のみならず多くの知識人、芸術家などに多大な影響を与えるとともに全共闘世代の圧倒的支持を得た。
日本におけるシュルレアリスムは、ネオ・ダダの系譜にある雑誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(1924年-1926年)から北園克衛、稲垣足穂、宇留河泰呂が、冨士原清一の『列』に合流して日本最初のシュルレアリスム専門雑誌『薔薇・魔術・学説』(1927年-1928年、冨士原清一が主宰 )が創刊されるなど、初期においてダダからの流れが重要な役割を果した。
また、愛知県では文化人の間でシュルレアリスムが流行し、特に愛知県名古屋市はシュルレアリストの拠点となっていた。その理由として、愛知県在住の詩人である山中散生がフランスのシュルレアリストと書簡で交流しており、愛知県にはフランスのシュルレアリスムの情報が直接もたらされていたことが挙げられる。同じく愛知県在住の画家であった下郷羊雄も、山中散生に感化されてシュルレアリスムに傾倒し、やがて愛知県のシュルレアリストの中心人物となっていった。当地におけるシュルレアリスムの興隆は、のちに「名古屋のシュルレアリスム」と称される一大ムーブメントとなった。名古屋のシュルレアリスムの系譜に連なる者としては、画家の尾澤辰夫らがいる。
1990年代末期頃から、日本のメディアや俗語において「シュール」であるということは、超現実主義の意味から逸脱して「ナンセンス」「不条理」であるという意味で使われるようになった。あくまで「シュールな」「シュールだ」というように略称でのみ使われ、本来のシュルレアリスムからは独立した別の概念として扱われている。
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"text": "シュルレアリスム(仏: surréalisme、英: surrealism)は、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである自動記述が行われていたが、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。シュルレアリスムはジークムント・フロイトの精神分析とカール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。ブルトンのほか、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、バンジャマン・ペレらの詩人を中心とする文学運動として始まったが、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンストらの画家やマン・レイらの写真家が参加し、1920年代末頃からスペインやベルギーからもサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、ルネ・マグリット、カミーユ・ゲーマンス(フランス語版)らが参加。分野もダリとブニュエルの『アンダルシアの犬』に代表される映画などを含む多岐にわたる芸術運動に発展した。",
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"text": "一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった。",
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"text": "1910年代に詩集『アルコール(英語版) 』(1913年)によってフランス詩を大きく変え、美術評論『キュビスムの画家たち(英語版)』(1913年)によってピカソ、ブラック、ピカビア、デュシャンらの前衛芸術家を支持したギヨーム・アポリネールは、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ピエール・ルヴェルディら、後にシュルレアリスト運動を牽引することになる若手作家をつなぐ役割を果たした。1917年に初演され、一大スキャンダルを巻き起こした、ジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、パブロ・ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』を支持し、プログラムを書いたのもアポリネールであった。彼はこのプログラムで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた。さらに、翌1918年にはシュルレアリスム演劇の先駆となった彼自身の戯曲『ティレジアスの乳房』が上演された。 シュルレアリスム運動を牽引したブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、バンジャマン・ペレらは1910年代末から1920年代初頭にかけて起こった文学・芸術運動ダダイスムにも参加していた。ブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『リテラチュール(文学)』には、1920年にトリスタン・ツァラをはじめとし多くのダダイストが寄稿し、ダダイスムの機関誌の役割を担っていたが、1921年頃からブルトンとツァラが対立し、運動内部の分裂につながった。根本的には、既成の秩序を破壊し、すべてを無意味化しようとするダダイストと、むしろ無意味、あるいは従来無意味とされてきた夢や無意識のなかに意味を見いだそうとする後のシュルレアリストの思想的な対立であった。",
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"text": "1924年10月にパリ7区のグルネル通り(フランス語版)に「シュルレアリスム研究所」が設立され、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が刊行された。彼は本書で初めて「シュルレアリスム」に明確な定義を与えた(上述)。シュルレアリスムの思想的基盤はフロイトとマルクスにあった。フロイト『夢判断』が発表されたのは1900年のことであり、医学生であったブルトンは、フロイトの精神分析における夢の世界と現実の世界、睡眠状態と覚醒状態の関係に関心を抱き、無意識の探求に人間の全体性の回復、人間解放の可能性を見いだした。同年12月にブルトン、アラゴン、ペレ、ピエール・ナヴィルによって機関誌『シュルレアリスム革命』が創刊された。本誌では、催眠実験、自動記述、夢の記述などによる無意識の表現、「優美な屍骸」、コラージュ、フロッタージュ、デカルコマニー、デペイズマンの技法など、シュルレアリスムの主なテーマがすべて取り上げられた。参加した文学者はブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、ペレのほか、アントナン・アルトー、レーモン・クノー、ルネ・クルヴェル、ルネ・シャール、ロベール・デスノス、ミシェル・レリス、芸術家はルイス・ブニュエル、ジャン・アルプ、マックス・エルンスト、ジョルジョ・デ・キリコ、パウル・クレー、オスカー・ココシュカ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、パブロ・ピカソ、フランシス・ピカビア、ジョルジュ・ブラック、ルネ・マグリット、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、マン・レイ、ピエール・ロワらであった。",
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"text": "『シュルレアリスム革命』誌は、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」が掲載された1929年12月15日付の第12号をもって終刊となった。この時点までに、運動内部での方針の不一致や対立によって脱会する者、あるいはブルトンに除名された者が少なくなかった。スーポー、デスノス、レリス、アルトーらであり、彼らは、アラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレらが1927年にフランス共産党に入党したのに対して、政党に関わることは拒否した。こうして、共産主義への傾倒を深めたシュルレアリストは、『シュルレアリスム革命』誌終刊翌年の1930年に後続誌『革命に奉仕するシュルレアリスム(フランス語版)』誌を創刊した。だが、この雑誌は1933年にわずか6号で終刊となった。内部対立が激化したからであり、その一因は、アラゴンが社会主義リアリズムに転向したことであった。運動自体は左傾化したものの、シュルレアリスムが文学・芸術革命に留まるか、社会革命に発展させるか、ファシズムが台頭した第二次世界大戦前夜にあって状況は一層複雑であった。",
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"text": "また、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の後続誌で、シュルレアリスムの美術雑誌としても重要なのは『ミノトール(フランス語版)』であった。アルベール・スキラ(フランス語版)を発行人、テリアード(フランス語版)を美術主幹として1933年6月に創刊された同誌は、1937年の第10号からブルトン、エリュアール、デュシャンらが編集委員として参加し、事実上、シュルレアリスムの雑誌となり、オーストリアの画家ヴォルフガング・パーレン、ドイツの人形作家・写真家ハンス・ベルメール、ベルギーの画家ポール・デルヴォー、チリの画家ロベルト・マッタ、スイスの彫刻家アルベルト・ジャコメッティらの作品が掲載された。",
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"text": "第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツがフランスを占領すると、多くのシュルレアリストが米国に亡命した。これは、フランスのユダヤ人、反ナチ運動家らを米国に疎開させるために結成された緊急救助委員会 (ERC) によって派遣されたヴァリアン・フライ(フランス語版)の尽力によるものであり、エルンストやデュシャンのように、美術品蒐集家・資産家のペギー・グッゲンハイム(フランス語版)から個人的な支援を受けて渡米したシュルレアリストもいた。彼らは戦時中にニューヨークを拠点として活動することになり、米国の画家らもシュルレアリスムの運動に参加した。アメリカで広がりを見せたシュルレアリスムは、抽象表現主義の誕生において重要な役割を果たすことになった。",
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"text": "1946年に亡命先の米国から帰国したブルトンは、1947年7月7日から9月30日までパリのマーグ画廊(フランス語版)で第6回国際シュルレアリスム展を開催した。この展覧会には、デュシャン、エルンスト、タンギー、ミロ、アルプ、ピエール・ロワ、パウル・クレー、ヴィクトル・ブローネル、ヴォルフガング・パーレン、ハンス・ベルメール、ロベルト・マッタら戦前からのシュルレアリストのほか、ヴィフレド・ラム、アーシル・ゴーキー、マルセル・ジャン(フランス語版)、フレデリック・キースラー、ケイ・セージ、ドロテア・タニング、トワイヤンらの作品が多数展示され、シュルレアリスムの大規模な回顧展となった。",
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"text": "1966年にブルトンが死去した。これにより、シュルレアリスムの詩人ジャン・シュステル(フランス語版)が、1969年に『ル・モンド』紙に「第四のうた」と題する記事を掲載して運動の終結を宣言した。この宣言は、日本でも「第四のうた - 宣言の形で」として1970年12月の『美術手帖』第336号に邦訳が掲載された。だが、シュステルのこの宣言に反対するシュルレアリスムの詩人ヴァンサン・ブーヌール(フランス語版)、美術評論家・造形作家のジャン=ルイ・ベドゥアン(フランス語版)らは活動を継続した。以後も個々の制作活動とは別に機関誌の刊行などを続け、他のシュルレアリストに受け継がれている。一方、他国に広がったシュルレアリスムはシュステルの宣言の影響を受けることなく、独自の活動を展開した。",
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"text": "1920年代にはフランス国外でもブルトンらの影響のもとに、あるいは独自に前衛文学・芸術運動が起こった。1927年にスペインの詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ、ラファエル・アルベルティ、ビセンテ・アレイクサンドレ、ルイス・セルヌーダ(スペイン語版)らによって結成された27年世代や、隠喩や諧謔を用いた新しい表現形式「グレゲリーア(スペイン語版)」を生み出したラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ(スペイン語版)は、しばしばシュルレアリスムの影響が指摘されるが、直接運動に関わったわけではない。スペインからは、彼らと親交の深かった画家のサルバドール・ダリ、映画監督のルイス・ブニュエルが1920年代末頃にシュルレアリスムの運動に参加し、さらに画家のオスカル・ドミンゲスは1930年代に入ってから参加した。フロイトがダリに出会ったのは1938年のことであった。この出会いは、シュルレアリスムに対するフロイトの認識を変えるほどのものであり、彼はシュテファン・ツヴァイクへの手紙に「私はシュルレアリストに守護聖人と仰がれていたが、それまでは彼らのことをまったくの狂人だと思っていた(アルコール含有量で言うなら狂気95%程度)。このスペイン人の若者の純真で熱狂的なまなざし、そして疑う余地のない卓越した技術力が私の認識を変えた」と書いている。",
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"text": "一方、1936年にスペイン内戦下のバルセロナでバンジャマン・ペレに出会って渡仏し、シュルレアリスムの運動に参加した画家レメディオス・ヴァロは、第二次大戦中にペレとともにメキシコに亡命し、同地で知り合ったイングランド生まれの画家・小説家のレオノーラ・キャリントンとともに神秘思想や先住民の神話・伝説の影響の強い画風によって1940年代以降のメキシコのシュルレアリスムを牽引した。一方、メキシコ文学におけるシュルレアリスムを代表するのはノーベル文学賞を受賞した詩人オクタビオ・パスである。また、大戦中にメキシコに亡命し、同地を拠点として活動した画家に、オーストリア出身のヴォルフガング・パーレンがいる。独自のシュルレアリスム技法「フュマージュ」を生み出したパーレンは1930年代後半にパリでブルトンらと活動を共にし、37年から38年にかけて国際シュルレアリスム展などに代表作を発表し、シュルレアリスムの美術雑誌『ミノトール』にも作品を発表した。",
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"text": "このほか、大戦中のシュルレアリストの亡命により、アルゼンチン、チリ、ブラジルなど南米各国にシュルレアリスムの運動が広がった。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "キャリントンがシュルレアリスム運動に参加するきっかけとなったのは、1936年にロンドンのニューバーリントン・ギャラリーで開催された国際シュルレアリスム展(英語版)で、エルンスト、ダリ、デ・キリコ、マグリットらの作品に出会ったこと、特に同展覧会の英国側の主催者の一人ハーバート・リードが編纂した『シュルレアリスム』に掲載されたエルンストの作品《ナイチンゲールに脅かされる二人の子供》に衝撃を受けたことであった。彼女は翌1937年に渡仏して、エルンストのもとに身を寄せた。国際シュルレアリスム展に出展するほか、文学作品は1940年にブルトンが編纂したシュルレアリスムの傑作集『黒いユーモア選集』に掲載された。",
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"text": "なお、国際シュルレアリスム展は、1936年のロンドン、大規模な回顧展となった1947年のパリのほか、1938年にパリおよびアムステルダム、1940年にメキシコで開催された。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"text": "ベルギーのフランス語圏では、1924年、『シュルレアリスム革命』誌創刊とほぼ同時に、「ベルギーのブルトン」とも言われる詩人ポール・ヌージェ(フランス語版)が、詩人マルセル・ルコント(フランス語版)、作家カミーユ・ゲーマンスとともにシュルレアリスムの機関誌『コレスポンダンス(フランス語版)』を創刊した。これに先立って、別の機関誌の創刊を企てていた画家のルネ・マグリットと作家・画家のE・L・T・メザンス(フランス語版)、および詩人ポール・コリネ(フランス語版)やルイ・スキュトネール(フランス語版)、作曲家アンドレ・スーリー、作家・写真家マルセル・マリエン(フランス語版)らがヌージュらと合流し、ベルギー・シュルレアリスム(フランス語版)を牽引した。画家のポール・デルヴォーもこの運動に一時期参加するが、直接フランスのシュルレアリスム運動に参加したマグリットと違って、ベルギーで活動を続けながら、シュルレアリスム展に出展していた。",
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"text": "一方、共産主義との関わりにおいては、1932年にブルトンに出会ってシュルレアリスムに「啓示」を見いだした詩人アシール・シャヴェ(フランス語版)が1934年にラ・ルヴィエールでシュルレアリストのグループ「リュプチュール(フランス語版)(分裂)」を結成した。これは詩作と社会改革による人間の解放を目指す運動であった。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"text": "チェコスロバキアでは、1924年、フランスの『シュルレアリスム革命』誌、ベルギーの『コレスポンダンス』誌の創刊と機を一にして、芸術家連盟デヴィエトシル(フランス語版)に参加していた美術評論家・コラージュ作家のカレル・タイゲとヴィーチェスラフ・ネズヴァルが中心となって前衛芸術運動「ポエティスム(フランス語版)」が起こった。1927年には、フィリップ・スーポーがプラハでロートレアモンに関する講演を行い、これに深い感銘を受けたタイゲがスーポーの協力を得て、ロートレアモンの『マルドロールの歌』のチェコ語訳を出版することになった。スーポーはすでに前年、フランス共産党への入党をめぐってブルトンらと対立し、「文学的すぎる」という理由で除名されていたが、無名のまま没した詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』を最初に発掘し、ブルトン、アラゴンに紹介したのはスーポーであり、こうして、ポエティスムの運動はシュルレアリスムの運動と連動することになった。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"text": "ルーマニアで詩人イラリエ・ヴォロンカ(ルーマニア語版)とともにダダイスムの雑誌『75 H.P』を創刊した画家ヴィクトル・ブローネルは、同国の前衛詩人らが結成したドイツ表現主義、ロシア構成主義、ダダイスム、シュルレアリスムなどの前衛芸術運動に参加し、この運動の機関誌『ウヌ (Unu)』(1928年創刊、1935年終刊)に作品を掲載していた。すでに1903年に渡仏し、フランスで美術教育を受けた同郷人のコンスタンティン・ブランクーシと出会ったのは1930年に渡仏したときのことであり、このときイヴ・タンギーを介してデ・キリコとブルトンに出会った彼は、1931年にシュルレアリスムに参加した。第二次大戦中もユダヤ人であるにもかかわらず亡命が叶わず、ニューヨークでの活動には参加せず、やがてブルトンを中心とする運動からは離れるが、生涯にわたってシュルレアリストであった。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"text": "ユーゴスラビアでは詩人・画家のマルコ・リスティッチ(英語版)が早くも1925年に『シュルレアリスム革命』誌に詩を寄稿した。1926年から27年にかけてパリに滞在してブルトンらシュルレアリストと親交を深め、コラージュ作品を発表し、帰国後にシュルレアリスム運動を開始し、複数の機関誌を創刊。ユーゴスラビアを代表するシュルレアリストとして文学・芸術作品を発表し続けた。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"text": "日本におけるシュルレアリスムの紹介は、1927年に瀧口修造が刊行したシュルレアリスム詩のアンソロジーが最初とされる。また、ブルトン、エリュアールらと交友のあった山中散生が1933年に巴里東京新興美術展を開催し、1937年に瀧口修造との共同企画、『みづゑ』の後援による海外超現実主義作品展を開催した。これは、エルンスト、タンギー、ミロ、ピカソ、ハンス・ベルメール、マン・レイ、マグリット、デ・キリコ、インドリヒ・スティルスキー、ヘンリー・ムーア、ポール・ナッシュなど各国のシュルレアリストの作品377点を集めた大規模な展覧会であり、日本のシュルレアリスム運動における重要な契機となった(「日本におけるシュルレアリスム」参照)。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"text": "なお、とりわけドイツではファシズムの台頭に伴って多くの作家がフランスに亡命した。ドイツから亡命したシュルレアリスムの画家のうち、エルンストとハンス・ベルメールの作品は1937年にドイツ各地を巡回した退廃芸術展に出品されたうえに、ゲシュタポにより一時レ・ミル収容所に拘留された。",
"title": "各国のシュルレアリスム"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "シュルレアリスムの主な概念を知る上で重要なのは、1938年にパリで国際シュルレアリスム展が開催された際にブルトンとエリュアールの共編によって刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』である。",
"title": "概念・技法"
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"text": "シュルレアリスムの基本概念はオートマティスムであり、オートマティスムは本来、生理学・精神医学用語であったが、ブルトンは「理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」という心的オートマティスムとして再定義した。これは言語の自動記述だけでなく、絵画表現においても同様であり、たとえば、アンドレ・マッソンは人為的なトランス状態で「自動デッサン」を制作し(1924年から25年にかけて『シュルレアリスム革命』誌に発表)、イヴ・タンギーは、制作時に完全に自由になって思いがけない表現が生まれるように、事前に下絵を描くことはなかった。また、偶然性を狙ったコラージュ、フロッタージュ、デカルコマニーなどの技法も意識の介入を排除して、無意識を表出させようという試みである。実際、言語の自動記述が直接的であるのに対して、絵画の場合は描く行為・イメージ化において意識が介在するため、ピエール・ナヴィルは「絵画のオートマティスムは不可能である」と語っていた。",
"title": "概念・技法"
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"text": "最初の自動記述の試みは、シュルレアリスムの運動が本格的に始まる前の1919年にブルトンとスーポーによって行われた。フロイトの自由連想法の影響を受けた自動記述は、理性に制御されない純粋な思考を表現するために、できるだけ無意識に近い状態で浮かんでくる言葉を書き付けて行った。次第にその速度を上げることで、主語(主体性)が排除され、内容も前後の脈絡のない抽象的な言葉やイメージの連続になる。スーポーとブルトンはこの実験を毎日8時間から10時間にわたって行った。この結果は同年10月から12月の『リテラチュール』誌(第8号から第10号)に「磁場」として発表され、翌1920年にシュルレアリスムの出版社オ・サン・パレイユ(フランス語版)から刊行された。自動記述の著書としては、1930年にエリュアールとブルトンによって発表された『無原罪の御宿り』も重要である。ここには自動記述の試みとして、神経衰弱疑似症の実験、強烈な偏執狂の疑似症の実験、全身麻酔疑似症の実験、表現錯乱疑似症の実験、早発性痴呆症疑似症の実験などについて記述され、表紙にはダリのエロティックな絵が掲載された。だが、一方で、こうした自動記述の試みは、多くの場合、催眠状態で行われたため、危険を伴うものであった。1922年9月に行われた催眠実験は、バンジャマン・ペレ、ルネ・クルヴェル、ロベール・デスノスが被験者になり、催眠状態に入った3人が他の参加者の質問に答えるという霊媒実験(心霊実験)を模した試みであった。この様子についてブルトンが「霊媒の登場」と題する一種の報告書を書き、『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号(1922年11月)に掲載した。だが、催眠実験(睡眠実験)がエスカレートすると、被験者が自分自身や参加者に危害を加える恐れがでてきた。クルヴェルは自殺を企てようとし、デスノスは周囲の友人にナイフを持って襲いかかったという。こうした危険性は、離人症や幻覚に伴う死の危険とともに、ブルトン自らが1934年の『ミノトール』誌第3・4合併号掲載の「自動メッセージ」と題する記事で明らかにし、事実上、これ以後、自動記述の実験は行われなくなった。",
"title": "概念・技法"
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"text": "フロイトが1919年に著した小論「ウンハイムリッヒ(ドイツ語版)」(不気味なもの)は、「驚愕をもたらすもの、不安をかき立てるもの、ぞっとするような恐ろしさを与えるもの」として、シュルレアリスムの重要な概念の一つである。フロイトはこの論文で、ドイツ・ロマン派の作家E・T・A・ホフマンの短編小説『砂男』を例に挙げて分析している。ハンス・ベルメールが手足を切断された不気味で魅力的な人形(球体関節人形)を作るきっかけとなったのも、ホフマンのこの作品に基づいてジャック・オッフェンバックが作曲したオペラ『ホフマン物語』に登場する自動人形オランピアに触発されてのことであった。マグリットの最初のシュルレアリスム作品とされるのは1926年制作の《迷える騎手》であるが、1926年から27年にかけて制作された作品《鳥を食べる少女》や《殺意の空》には「気持ちをかき乱すような」鳥のイメージ、特に血を流す鳥や死んだ鳥が多く描かれている。また、《鳥を食べる少女》の副題は「快楽」であり、同郷人の詩人ヌージェは、マグリットはこの作品でフロイトの快楽原則をさらに探求し、「快楽の残虐さ」を描いているという。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "アルフレッド・ジャリがソポクレスの『オイディプス王』に着想を得て書いた演劇『ユビュ王』(1896年刊行)は、シュルレアリスムの先駆、不条理演劇の先駆とされる作品であり、ミロの一連の「ユビュ」作品、エルンストの《オイディプス王》(1922年)、《ユビュ皇帝》(1923年)など、人間の心の混沌とした未知の領域、グロテスクで不気味な形象としてシュルレアリストが繰り返し取り上げた題材である。写真家ドラ・マールのフォト・モンタージュ作品《ユビュ王の肖像》(1936年)では、アルマジロの胎児を撮ったネガフィルムを使い、象のような形象により不気味さが強調されている。ヴィクトル・ブローネルの水彩《K氏の奇妙な事例》(1934年)も「ユビュ王」に着想を得た作品で、当時、欧州で台頭しつつあった独裁者の不気味な形象としてブルトンに絶賛された(同じ年に油彩《ヒトラー》も発表している)。同じく1934年制作の油彩《K氏の集中力》ではさらに太った男性の裸体にセルロイド製の小さい人形をたくさん貼り付けて不気味さを強調している。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "このほか、ピカソが描いた牛頭人身の怪物「ミノタウロス」、アンドレ・マッソンの同じく「ミノタウロス」や恍惚状態で神託を告げた「ピューティアー」、または迷宮のモチーフ、ミロが1935年から1936年にかけて制作した一連の絵画『変身』などの神話・伝説の形象・モチーフが無意識の表象として取り上げられている。",
"title": "概念・技法"
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"text": "また、女性の眼球を剃刀で切るシーンで始まるブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』(1928年)は、「不気味なもの」を最も強力に表現した映画として、後のヒッチコック監督の作品、特に『鳥』(1963年)などに影響を与えることになる。",
"title": "概念・技法"
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{
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"text": "シュルレアリストによって発掘されたロートレアモンの『マルドロールの歌(英語版)』(1868年)の一節「解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い(のように美しい)」は、デペイズマン(異なった環境で生じる違和感、不安感、驚異)の例として挙げられることが多く、シュルレアリスムではデ・キリコ、マグリット、エルンストの作品の特徴とされる。一方で、ロシア・フォルマリズムのシクロフスキーによって提唱された異化に近い概念でもあり、ブルトンはこれを「客観的偶然(フランス語版)」の概念として提唱した。すなわち、偶然による2つのものの接近・出会いによって「現実の中に潜む超現実が露呈し、不可思議(驚異)が現出する」瞬間である。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "エルンストが《近づく思春期......(昴)》(1921年)など多くの作品で用いたコラージュの技法もこのような発想に基づいている。キュビスムのコラージュ(パピエ・コレ)とシュルレアリスムのコラージュの違いは、パピエ・コレでは、あらかじめ意図された視覚的効果があり、そのために複数の要素の組み合わせるのに対して、エルンストのコラージュは、あらかじめ意図されたものではなく、既存の印刷物や写真を組み合わせることで、その偶然性によって生み出される驚きや詩的イメージが重要になることである。エルンストは絵画としてだけでなく、コラージュ作品と小説を組み合わせて「ロマン・コラージュ(コラージュ小説)」として発表した。こうしたエルンストのコラージュについてアラゴンは「挑戦する絵画」と題する評論を発表した。パピエ・コレ、コラージュの発想から後にモンタージュ、アサンブラージュの技法が生まれることになる。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "「客観的偶然」の概念に基づいてエルンストが生み出した技法は、この他にもフロッタージュ(こすり出し)、グラッタージュ(削り出し)などがある。フロッタージュは、木目の浮いた床板から着想を得た技法で、板や石などの表面に直接紙を当てて、その凹凸を鉛筆などでこすり出す方法である。《全都市》(1934年)などがこの技法で描かれている。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "フロッタージュの応用であるグラッタージュは、キャンバス上に数種類の絵具を層状に塗り重ね、これを凹凸のある物体の上に載せ、次にパレットナイフで絵具層を削って、地塗層に物体の模様を写し出す技法である。代表作に《森と鳩》(1927年)がある。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "同様の発想によるデカルコマニー(転写)は、1936年の『ミノトール』誌に発表されたオスカル・ドミンゲスの作品が最初のものとされる。2つ折りにした紙に絵具を入れ、再び紙を開いて偶発的な模様を得る方法であり、これを絵画に応用すると、支持体(基底材)や絵具の性質によって異なった効果が生じる。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "「優美な屍骸」は絵画と文学の両方において行われた共同制作である。言葉による場合は、たとえば4人がそれぞれ任意に選んだ主語、述語、目的語、補語を組み合わせる。素描の場合は、紙を4つ折りにしてつなぎ目の印だけ付け、各自が先に描かれた絵を見ないで順番に(つなぎ目の印から)続きを描いていくという方法である。「優美な屍骸」という言葉は、5人がそれぞれ選んだ言葉を組み合わせてできた「優美な屍骸は新しい葡萄酒を飲む(Le cadavre / exquis / boira / le vin / nouveau)」によるものである。『シュルレアリスム革命』誌の第9・10合併号(1927年10月、テーマ「自動記述」)には、言葉による「優美な屍骸」作品のほか、素描作品も5点掲載され、これ以後、主にエルンスト、マッソン、ブルトン、タンギー、ブローネル、マックス・モリーズ(フランス語版)、ジャック・エロルド(フランス語版)らによって制作された。また、1948年にはポルトガルのシュルレアリスムの画家アントニオ・ドミンゲス、フェルナンド・アゼヴェド、アントニオ・ペドロ、モニーツ・ペレイラによって油彩による「優美な屍骸」の大作(150 x 180 cm)が発表された。",
"title": "概念・技法"
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{
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"text": "さらに造形においても、テーブルに女性の頭部、切断された手、ヴェール、多面体を配置したジャコメッティの《テーブル》、オオカミ(実際にはキツネ)の剥製の頭部と尾部をテーブルの前後に固定したブローネルの代表作《狼-テーブル》(1939年)など、客観的偶然、デペイズマン、あるいは「不気味なもの」を表わす作品が制作された。",
"title": "概念・技法"
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"text": "シュルレアリスムの技法としては、このほか、ヴォルフガング・パーレンが考案したフュマージュ、ダリ独自の「偏執狂的批判的方法(フランス語版)」、また、シュルレアリスム独自の技法ではないがダリやマグリットの作品の特徴として挙げられるトロンプ・ルイユ(だまし絵)などがある。フュマージュは濡れたキャンバス(後に水彩絵具で描いたキャンバス)の表面をろうそくの煙で燻して黒い跡を付ける技法であり、幻影、亡霊、夢などを表現するオートマティスムの技法として、ダリも作品の一部に使用している。",
"title": "概念・技法"
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"text": "ダリの偏執狂的批判的方法は、フロイトの精神分析やリヒャルト・フォン・クラフト=エビングの『性的精神病質(Psychopathia sexualis)』に深い関心を抱いていたダリが、これらを独自に解釈して1930年代に絵画理論として提唱したものであり、オートマティスムとは対照的に、技巧的で緻密な表現である。",
"title": "概念・技法"
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"text": "トロンプ・ルイユの作品を多数制作したのは16世紀イタリアの画家ジュゼッペ・アルチンボルドであり、その奇抜さ、独創性によって20世紀になってから、主にシュルレアリストによって発掘・再評価された画家である。",
"title": "概念・技法"
},
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"text": "なお、絵画におけるオートマティスムは、後の抽象表現主義、アンフォルメルなどの絵画運動、さらにはアクション・ペインティングなどの表現様式を生むきかっけとなった。",
"title": "概念・技法"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "シュルレアリスムの先駆者、シュルレアリスムに影響を与えた作家・画家、またはシュルレアリストによって発掘・再評価された作家・画家は、主にドイツ・ロマン主義、幻想文学・幻想絵画、象徴主義、ゴシック美術やゴシック小説の作家または画家、および当時は異色とされたイタリア・ルネサンスの一部の画家である。文学については、『シュルレアリスム革命』誌、『ミノトール』誌などのシュルレアリスム運動の機関誌、およびブルトンが1940年に編纂した『黒いユーモア選集(フランス語版)』で紹介された。画家についてもこれらの機関誌のほか、各作家が評論・随筆を発表している。たとえばスーポーの『ウィリアム・ブレイク』(1928年)、『パオロ・ウッチェロ』(1929年)、『ロートレアモン』(1946年)、エリュアールの『芸術論集』(全3巻、1952-54年)、ブルトンの『超現実主義と絵画』(1928年)などである。",
"title": "シュルレアリスムの先駆者"
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{
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"text": "日本におけるシュルレアリスムは1920年代後半にまずは詩において開花し、1930年代に美術へと波及した。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
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"text": "詩人では、冨士原清一、西脇順三郎、瀧口修造、北園克衛、友部正人、友川かずき、棚夏針手など。小説家では安部公房が優れた作品を残している。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
},
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"text": "画家には、古賀春江、福沢一郎、阿部金剛、北脇昇、三岸好太郎、米倉壽仁、岡本唐貴、靉光、寺田政明、鎌田正蔵、杉全直、大塚耕二、矢崎博信、小山田二郎、西村元三朗、山下菊二、植月英俊などがいる。 写真家では、山本悍右などがいる。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
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"text": "漫画界では、不条理漫画といわれ、つげ義春のねじ式(1968年月刊『ガロ』6月増刊号に発表)によって初めてシュルレアリスム的表現の可能性が切り開かれ、漫画界のみならず多くの知識人、芸術家などに多大な影響を与えるとともに全共闘世代の圧倒的支持を得た。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
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"text": "日本におけるシュルレアリスムは、ネオ・ダダの系譜にある雑誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(1924年-1926年)から北園克衛、稲垣足穂、宇留河泰呂が、冨士原清一の『列』に合流して日本最初のシュルレアリスム専門雑誌『薔薇・魔術・学説』(1927年-1928年、冨士原清一が主宰 )が創刊されるなど、初期においてダダからの流れが重要な役割を果した。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
},
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"text": "また、愛知県では文化人の間でシュルレアリスムが流行し、特に愛知県名古屋市はシュルレアリストの拠点となっていた。その理由として、愛知県在住の詩人である山中散生がフランスのシュルレアリストと書簡で交流しており、愛知県にはフランスのシュルレアリスムの情報が直接もたらされていたことが挙げられる。同じく愛知県在住の画家であった下郷羊雄も、山中散生に感化されてシュルレアリスムに傾倒し、やがて愛知県のシュルレアリストの中心人物となっていった。当地におけるシュルレアリスムの興隆は、のちに「名古屋のシュルレアリスム」と称される一大ムーブメントとなった。名古屋のシュルレアリスムの系譜に連なる者としては、画家の尾澤辰夫らがいる。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "1990年代末期頃から、日本のメディアや俗語において「シュール」であるということは、超現実主義の意味から逸脱して「ナンセンス」「不条理」であるという意味で使われるようになった。あくまで「シュールな」「シュールだ」というように略称でのみ使われ、本来のシュルレアリスムからは独立した別の概念として扱われている。",
"title": "日本におけるシュルレアリスム"
}
] |
シュルレアリスムは、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである自動記述が行われていたが、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した。シュルレアリスムはジークムント・フロイトの精神分析とカール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。ブルトンのほか、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、バンジャマン・ペレらの詩人を中心とする文学運動として始まったが、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンストらの画家やマン・レイらの写真家が参加し、1920年代末頃からスペインやベルギーからもサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、ルネ・マグリット、カミーユ・ゲーマンスらが参加。分野もダリとブニュエルの『アンダルシアの犬』に代表される映画などを含む多岐にわたる芸術運動に発展した。 一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった。
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{{Redirect|シュール}}
[[ファイル:Exposition_Max_Ernst_Paris_1921.jpg|代替文=|サムネイル|290x290ピクセル|シュルレアリスムの出版社「オ・サン・パレイユ」で開催されたマックス・エルンスト展(1921年5月2日):左から同社創設者ルネ・イルソム、バンジャマン・ペレ、{{仮リンク|セルジュ・シャルシューヌ|fr|Serge Charchoune|label=}}フィリップ・スーポー(上部)、{{仮リンク|ジャック・リゴー|fr|Jacques Rigaut|label=}}(逆さま)、アンドレ・ブルトン]]
'''シュルレアリスム<ref group="注">日本では「超現実主義」のほか、カタカナ表記はフランス語と英語の発音が混同され「シュールレアリスム」、「シュールリアリスム」、「シュールレアリズム」、「シュールリアリズム」、「シュルレアリズム」、「シュルリアリズム」、「シュルリアリスム」などの表記揺れがある。</ref>'''({{lang-fr-short|surréalisme}}<ref group="注">{{IPA-fr|sy(ʁ)ʁealism}}</ref>、{{lang-en-short|surrealism}}<ref group="注">{{IPA-en|səˈri(ə)lɪz(ə)m}}</ref>)は、[[戦間期]]に[[フランス]]で起こった作家[[アンドレ・ブルトン]]を中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである[[自動記述]]が行われていたが、1924年にブルトンが『[[第一宣言|シュルレアリスム宣言]]』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的[[オートマティスム]]。[[理性]]による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した<ref>{{Cite book|title=Manifestes du surréalisme|date=|year=1985|publisher=Gallimard|author=André Breton|series=Folio|language=fr|page=36}}</ref>。シュルレアリスムは[[ジークムント・フロイト]]の[[精神分析学|精神分析]]と[[カール・マルクス]]の[[革命]]思想を思想的基盤とし、[[無意識]]の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。ブルトンのほか、[[ルイ・アラゴン]]、[[ポール・エリュアール]]、[[フィリップ・スーポー]]、[[バンジャマン・ペレ]]らの[[詩人]]を中心とする文学運動として始まったが、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]、[[マックス・エルンスト]]らの[[画家]]や[[マン・レイ]]らの[[写真家]]が参加し、1920年代末頃から[[スペイン]]や[[ベルギー]]からも[[サルバドール・ダリ]]、[[ルイス・ブニュエル]]、[[ルネ・マグリット]]、{{仮リンク|カミーユ・ゲーマンス|fr|Camille Goemans}}らが参加。分野もダリとブニュエルの『[[アンダルシアの犬]]』に代表される[[映画]]などを含む多岐にわたる芸術運動に発展した。
一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20191215s01/|title=シュルレアリスムと絵画|accessdate=2020-03-11|publisher=[[ポーラ美術館]]|date=2022-06-14}}</ref>。
== 歴史 ==
1910年代に詩集『{{ill2|アルコール(詩)|en|Alcools|label =アルコール}}
』(1913年)によってフランス詩を大きく変え<ref>[[浅野晃]]「解説」、浅野晃編『フランス詩集』白鳳社、1986年、200頁。</ref>、美術評論『{{ill2|キュビスムの画家たち|en|The Cubist Painters, Aesthetic Meditations}}』(1913年)によって[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック|ブラック]]、[[フランシス・ピカビア|ピカビア]]、[[マルセル・デュシャン|デュシャン]]らの前衛芸術家を支持した[[ギヨーム・アポリネール]]は、アンドレ・ブルトン、[[フィリップ・スーポー]]、[[ピエール・ルヴェルディ]]ら、後にシュルレアリスト運動を牽引することになる若手作家をつなぐ役割を果たした<ref>{{Cite web|和書|title=歴史 - 1887-1930 カフェ・ド・フロールでのシュルレアリスムの誕生|url=https://cafedeflore.fr/%e6%ad%b4%e5%8f%b2/?lang=ja|website=Café de Flore|accessdate=2020-03-12|language=ja|publisher=}}</ref>。1917年に初演され、一大スキャンダルを巻き起こした、[[ジャン・コクトー]]の[[台本]]、[[エリック・サティ]]の音楽、[[パブロ・ピカソ]]の[[舞台芸術]]、[[レオニード・マシーン]]の[[振付師|振付]]による前衛[[バレエ]]『[[パラード (バレエ)|パラード]]』を支持し、プログラムを書いたのもアポリネールであった。彼はこのプログラムで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた<ref name=":12">{{Cite web|和書|title=アポリネール|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%AB-27064|website=[[コトバンク]]|accessdate=2020-03-16|language=ja|publisher=|author=[[窪田般彌]]|work=小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』}}</ref>。さらに、翌1918年にはシュルレアリスム[[演劇]]の先駆となった彼自身の[[戯曲]]『ティレジアスの乳房』が上演された<ref>{{Cite web|和書|title=《ティレジアスの乳房》|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%B9%B3%E6%88%BF%E3%80%8B-1372021|website=コトバンク|accessdate=2020-03-16|language=ja|publisher=}}</ref>。
シュルレアリスム運動を牽引したブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、バンジャマン・ペレらは1910年代末から1920年代初頭にかけて起こった文学・芸術運動[[ダダイスム]]にも参加していた。ブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『[[リテラチュール]](文学)』には、1920年に[[トリスタン・ツァラ]]をはじめとし多くのダダイストが寄稿し、ダダイスムの機関誌の役割を担っていたが<ref>{{Cite web|title=Littérature. Edited by Louis Aragon, Andre Breton, and Philippe Soupault. Paris, 1919-1924. 20 numbers; new series, 13 numbers|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-03-12|publisher=University of Iowa|language=en}}</ref>、1921年頃からブルトンとツァラが対立し、運動内部の分裂につながった。根本的には、既成の秩序を破壊し、すべてを無意味化しようとするダダイストと、むしろ無意味、あるいは従来無意味とされてきた[[夢]]や無意識のなかに意味を見いだそうとする後のシュルレアリストの思想的な対立であった<ref>{{Cite journal|last=Carassus|author=|first=Émilien|year=|date=1985|title=De quelques surréalistes et du «Procès Barrés» Lettres inédites de Louis Aragon et de Pierre Drieu la Rochelle à Maurice Barrés|url=https://www.persee.fr/doc/litts_0563-9751_1985_num_13_1_1370|journal=Littératures|volume=13|issue=1|page=|pages=151-168|language=fr|doi=10.3406/litts.1985.1370}}</ref>。
[[ファイル:Man Ray Salvador Dali.jpg|左|サムネイル|[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]によるダリ(左)とマン・レイの肖像写真(1934年、[[アメリカ議会図書館]]蔵)]]
1924年10月に[[パリ7区]]の{{仮リンク|グルネル通り|fr|Rue de Grenelle|label=}}に「シュルレアリスム研究所」が設立され、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が刊行された。彼は本書で初めて「シュルレアリスム」に明確な定義を与えた(上述)。シュルレアリスムの思想的基盤はフロイトとマルクスにあった。フロイト『[[夢判断]]』が発表されたのは1900年のことであり、医学生であったブルトンは、フロイトの精神分析における夢の世界と現実の世界、睡眠状態と覚醒状態の関係に関心を抱き、無意識の探求に人間の全体性の回復、人間解放の可能性を見いだした<ref>{{Cite book|title=André Breton|date=|year=1999|publisher=Gallimard|author=Mark Polizzotti|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0-78441|title=シュルレアリスム|accessdate=2020-03-12|publisher=[[コトバンク]]}}</ref>。同年12月にブルトン、アラゴン、ペレ、[[ピエール・ナヴィル]]によって機関誌『[[シュルレアリスム革命]]』が創刊された。本誌では、[[催眠]]実験、[[自動記述]]、[[夢]]の記述などによる無意識の表現、「[[優美な屍骸]]」、[[コラージュ]]、[[フロッタージュ]]、[[デカルコマニー]]、[[デペイズマン]]の技法など、シュルレアリスムの主なテーマがすべて取り上げられた<ref name=":1">{{Cite web|title=La Révolution surréaliste - 6 années disponibles - Gallica|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb34381250f/date|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2020-03-12|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|title=LA RÉVOLUTION SURRÉALISTE|url=http://melusine-surrealisme.fr/site/Revolution_surrealiste/Revol_surr_index.htm|website=melusine-surrealisme.fr|accessdate=2020-03-12|publisher=Mélusine|language=fr}}</ref>。参加した文学者はブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポー、ペレのほか、[[アントナン・アルトー]]、[[レーモン・クノー]]、[[ルネ・クルヴェル]]、[[ルネ・シャール]]、[[ロベール・デスノス]]、[[ミシェル・レリス]]、芸術家は[[ルイス・ブニュエル]]、[[ジャン・アルプ]]、[[マックス・エルンスト]]、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]、[[パウル・クレー]]、[[オスカー・ココシュカ]]、[[サルバドール・ダリ]]、[[イヴ・タンギー]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[フランシス・ピカビア]]、[[ジョルジュ・ブラック]]、[[ルネ・マグリット]]、[[アンドレ・マッソン]]、[[ジョアン・ミロ]]、[[マン・レイ]]、[[ピエール・ロワ]]らであった<ref name=":1" /><ref name=":2" />。
[[ファイル:Sade Eluard.jpg|サムネイル|280x280ピクセル|『シュルレアリスム革命』誌第8号の表紙(1926年12月)- [[フォトモンタージュ|フォト・モンタージュ]]または「寄せ絵」による作品<ref name=":3" />]]
『シュルレアリスム革命』誌は、ブルトンの「シュルレアリスム[[第二宣言]]」が掲載された1929年12月15日付の第12号をもって終刊となった。この時点までに、運動内部での方針の不一致や対立によって脱会する者、あるいはブルトンに除名された者が少なくなかった。スーポー、デスノス、レリス、アルトーらであり、彼らは、アラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレらが1927年に[[フランス共産党]]に入党したのに対して、政党に関わることは拒否した<ref>{{Cite journal|last=Bridet|first=Guillaume|date=2011-12-01|title=Tensions entre les avant-gardes : le surréalisme et le Parti communiste|url=http://journals.openedition.org/itineraires/1366|journal=Itinéraires. Littérature, textes, cultures|issue=2011-4|pages=23-45|language=fr|doi=10.4000/itineraires.1366|issn=2100-1340}}</ref>。こうして、共産主義への傾倒を深めたシュルレアリストは、『シュルレアリスム革命』誌終刊翌年の1930年に後続誌『{{仮リンク|革命に奉仕するシュルレアリスム|fr|Le Surréalisme au service de la révolution}}』誌を創刊した。だが、この雑誌は1933年にわずか6号で終刊となった。内部対立が激化したからであり、その一因は、アラゴンが[[社会主義リアリズム]]に転向したことであった。運動自体は左傾化したものの、シュルレアリスムが文学・芸術革命に留まるか、社会革命に発展させるか、[[ファシズム]]が台頭した[[第二次世界大戦]]前夜にあって状況は一層複雑であった<ref name=":0">{{Cite web|title=Louis Aragon|url=http://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Louis_Aragon/105904|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-03-12|language=fr|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref><ref name=":5">[[大島博光]]『アラゴン』新日本新書、1990年 - 抜粋「[http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2956.html 『赤色戦線』・アラゴン事件(下)]」(大島博光記念館公式ウェブサイト)。</ref>。
また、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の後続誌で、シュルレアリスムの美術雑誌としても重要なのは『{{仮リンク|ミノトール|fr|Minotaure (revue)|label=}}』であった。{{仮リンク|アルベール・スキラ|fr|Albert Skira|label=}}を発行人、{{仮リンク|テリアード|fr|Tériade|label=}}を美術主幹として1933年6月に創刊された同誌は、1937年の第10号からブルトン、エリュアール、デュシャンらが編集委員として参加し、事実上、シュルレアリスムの雑誌となり、[[オーストリア]]の画家[[ヴォルフガング・パーレン]]、[[ドイツ]]の[[人形]]作家・写真家[[ハンス・ベルメール]]、[[ベルギー]]の画家[[ポール・デルヴォー]]、[[チリ]]の画家[[ロベルト・マッタ]]、[[スイス]]の[[彫刻]]家[[アルベルト・ジャコメッティ]]らの作品が掲載された<ref name=":3" /><ref>{{Cite web|title=Minotaure (1933-1939)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=1326|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-03-16|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>。
第二次大戦が勃発し、[[ナチス・ドイツ]]がフランスを占領すると、多くのシュルレアリストが[[アメリカ合衆国|米国]]に亡命した。これは、フランスの[[ユダヤ人]]、[[反ナチ運動]]家らを[[アメリカ合衆国|米国]]に疎開させるために結成された緊急救助委員会 (ERC) によって派遣された{{仮リンク|ヴァリアン・フライ|fr|Varian Fry}}の尽力によるものであり<ref>{{Cite web|title=La villa d’Air Bel à La Pomme à Marseille|url=http://museedelaresistanceenligne.org/media1697-La-villa-da|website=Musée de la résistance en ligne|accessdate=2019-09-28|publisher=Fondation de la Résistance (Département AERI)|language=fr}}</ref>、エルンストやデュシャンのように、美術品蒐集家・資産家の{{仮リンク|ペギー・グッゲンハイム|fr|Peggy Guggenheim|label=}}から個人的な支援を受けて渡米したシュルレアリストもいた<ref>{{Cite web|title=Peggy Guggenheim, collectionneuse d'art et d'hommes, célébrée par un documentaire|url=https://www.rtbf.be/culture/cinema/detail_peggy-guggenheim-collectionneuse-d-art-et-d-hommes-celebree-par-un-documentaire?id=9133579|website=RTBF Culture|date=2015-11-12|accessdate=2020-03-12|language=fr|publisher=|quote=Le film retrace la vie de celle qui eut pour amants des artistes aussi exceptionnels que Samuel Beckett, Max Ernst et Marcel Duchamp.}}</ref>。彼らは戦時中にニューヨークを拠点として活動することになり、米国の画家らもシュルレアリスムの運動に参加した。アメリカで広がりを見せたシュルレアリスムは、[[抽象表現主義]]の誕生において重要な役割を果たすことになった<ref>{{Cite web|和書|title=Chapter 4. シュール「その後」 {{!}} シュルレアリスムと絵画 - ダリ、エルンストと日本の「シュール」|url=https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20191215s01/|accessdate=2020-03-15|language=ja|publisher=ポーラ美術館}}</ref>。
1946年に亡命先の米国から帰国したブルトンは、1947年7月7日から9月30日までパリの{{仮リンク|マーグ画廊|fr|Galerie Maeght|label=}}で第6回国際シュルレアリスム展を開催した<ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=久保田有寿|date=2018-03|title=シュルレアリストのアルチンボルド受容に関する一考察――ニューヨーク近代美術館「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展を起点に|url=http://id.nii.ac.jp/1263/00000718/|journal=国立西洋美術館研究紀要|publisher=国立西洋美術館|volume=22|pages=13-30|issn=0919-0872}}</ref>。この展覧会には、デュシャン、エルンスト、タンギー、ミロ、アルプ、ピエール・ロワ、パウル・クレー、[[ヴィクトル・ブローネル]]、ヴォルフガング・パーレン、[[ハンス・ベルメール]]、ロベルト・マッタら戦前からのシュルレアリストのほか、[[ヴィフレド・ラム]]、[[アーシル・ゴーキー]]、{{仮リンク|マルセル・ジャン (画家)|fr|Marcel Jean (peintre)|label=マルセル・ジャン}}、[[フレデリック・キースラー]]、[[ケイ・セージ]]、[[ドロテア・タニング]]、[[トワイヤン]]らの作品が多数展示され、シュルレアリスムの大規模な回顧展となった<ref>{{Cite web|title=« LE SURRÉALISME EN 1947 », PARIS, GALERIE MAEGHT, 7 JUILLET-30 SEPTEMBRE 1947|url=http://mediation.centrepompidou.fr/education/ressources/ENS-Surrealisme/#1947|website=mediation.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-12|publisher=Centre Pompidou|language=fr}}</ref>。
1966年にブルトンが死去した。これにより、シュルレアリスムの詩人{{仮リンク|ジャン・シュステル|fr|Jean Schuster}}が、1969年に『[[ル・モンド]]』紙に「第四のうた」と題する記事を掲載して運動の終結を宣言した<ref>{{Cite news|title=LE SURRÉALISME AUJOURD'HUI|url=https://www.lemonde.fr/archives/article/1969/10/04/le-surrealisme-aujourd-hui_2417500_1819218.html|work=Le Monde.fr|date=1969-10-04|accessdate=2020-03-16|language=fr|author=Jean Gaudon}}</ref><ref>{{Cite news|title=Jean Schuster|url=https://www.lemonde.fr/archives/article/1995/10/20/jean-schuster_3892518_1819218.html|work=Le Monde.fr|date=1995-10-20|accessdate=2020-03-16|language=fr|author=Pierre Drachline}}</ref>。この宣言は、日本でも「第四のうた - 宣言の形で」として1970年12月の『[[美術手帖]]』第336号に邦訳が掲載された<ref>{{Cite journal|author=ジャン・シュステル|year=|date=1970-12-00|title=第四のうた--宣言の形で|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I261607-00|journal=美術手帖|volume=|page=|pages=82~86|language=ja}}</ref>。だが、シュステルのこの宣言に反対するシュルレアリスムの詩人{{仮リンク|ヴァンサン・ブーヌール|fr|Vincent Bounoure}}、[[美術評論家]]・[[造形作家]]の{{仮リンク|ジャン=ルイ・ベドゥアン|fr|Jean-Louis Bédouin}}らは活動を継続した。以後も個々の制作活動とは別に機関誌の刊行などを続け、他のシュルレアリストに受け継がれている<ref group="注">ジャン=ルイ・ベドゥアンの邦訳には、著書『シュルレアリスムの20年 1939-1959』([[三好郁朗]]訳、[[法政大学出版局]](りぶらりあ選書)1971年)のほか、彼が編纂した『アンドレ・ブルトン』([[稲田三吉]]・[[笹本孝]]共訳、[[思潮社]](セリ・ポエティク)1969年)、『ブルトン詩集』(稲田三吉・笹本孝共訳、思潮社、1974年)がある。</ref>。一方、他国に広がったシュルレアリスムはシュステルの宣言の影響を受けることなく、独自の活動を展開した。
== 各国のシュルレアリスム ==
=== スペイン ===
1920年代にはフランス国外でもブルトンらの影響のもとに、あるいは独自に前衛文学・芸術運動が起こった。1927年に[[スペイン]]の詩人[[フェデリコ・ガルシーア・ロルカ]]、[[ラファエル・アルベルティ]]、[[ビセンテ・アレイクサンドレ]]、{{仮リンク|ルイス・セルヌーダ|es|Luis Cernuda}}らによって結成された[[27年世代]]や<ref>{{Cite web|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/generation-de-1927/|title=GÉNÉRATION DE 1927|accessdate=2020-03-16|publisher=Encyclopédie Universalis|language=fr}}</ref>、[[隠喩]]や[[諧謔]]を用いた新しい表現形式「{{仮リンク|グレゲリーア|es|Greguería}}」を生み出した{{仮リンク|ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ|es|Ramón Gómez de la Serna}}は<ref group="注">ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナの邦訳には、『グレゲリーア抄』(2007年)、『乳房抄』(2008年)、『サーカス ― えも言われぬ美しさの、きらびやかにして、永遠なる』(2018年)などがある。いずれも平田渡訳、関西大学出版部([[関西大学]]東西学術研究所訳注シリーズ)。</ref>、しばしばシュルレアリスムの影響が指摘されるが、直接運動に関わったわけではない<ref>{{Cite journal|author=Laurie-Anne Laget|year=|date=2008-11-15|title=À la croisée des ismos. Ramonismo et surréalisme, un exemple de métissage culturel ?|url=http://journals.openedition.org/mcv/712|journal=Mélanges de la Casa de Velázquez. Nouvelle série|volume=38|issue=2|page=|pages=39-58|language=fr|doi=10.4000/mcv.712|issn=0076-230X}}</ref>。スペインからは、彼らと親交の深かった画家のサルバドール・ダリ、映画監督のルイス・ブニュエルが1920年代末頃にシュルレアリスムの運動に参加し、さらに画家の[[オスカル・ドミンゲス]]は1930年代に入ってから参加した。フロイトがダリに出会ったのは1938年のことであった。この出会いは、シュルレアリスムに対するフロイトの認識を変えるほどのものであり、彼は[[シュテファン・ツヴァイク]]への手紙に「私はシュルレアリストに[[守護聖人]]と仰がれていたが、それまでは彼らのことをまったくの狂人だと思っていた(アルコール含有量で言うなら狂気95%程度)。このスペイン人の若者の純真で熱狂的なまなざし、そして疑う余地のない卓越した技術力が私の認識を変えた」と書いている<ref>{{Cite book|title=Les Éditions Québec Amérique|date=|year=2003|publisher=Freud en question|author=Ginette Pelland|language=fr}}</ref>。
=== スペイン - メキシコ - オーストリア ===
一方、1936年に[[スペイン内戦]]下の[[バルセロナ]]でバンジャマン・ペレに出会って渡仏し、シュルレアリスムの運動に参加した画家[[レメディオス・バロ|レメディオス・ヴァロ]]は、第二次大戦中にペレとともに[[メキシコ]]に亡命し、同地で知り合った[[イングランド]]生まれの画家・小説家の[[レオノーラ・キャリントン]]とともに神秘思想や先住民の[[神話]]・[[伝説]]の影響の強い画風によって1940年代以降のメキシコのシュルレアリスムを牽引した<ref>{{Cite news|title=Female Surrealists Re-emerge in 2 Startling Shows|url=https://www.nytimes.com/2019/06/13/arts/design/leonora-carrington-paintings.html|work=The New York Times|date=2019-06-13|accessdate=2020-03-16|issn=0362-4331|language=en-US|author=Roberta Smith}}</ref>。一方、メキシコ文学におけるシュルレアリスムを代表するのは[[ノーベル文学賞]]を受賞した詩人[[オクタビオ・パス]]である<ref name=":7">{{Cite web|url=https://www.ac-clermont.fr/disciplines/fileadmin/user_upload/Lettres-Histoire/formations/Lettres/presentation_du_cote_de_l_imaginaire.pdf|title=Mise au point scientifique : LE SURRÉALISME|accessdate=2020-03-16|publisher=Académie Clermont-Ferrand|language=fr}}</ref>。また、大戦中にメキシコに亡命し、同地を拠点として活動した画家に、オーストリア出身のヴォルフガング・パーレンがいる。独自のシュルレアリスム技法「[[フュマージュ]]」を生み出したパーレンは1930年代後半にパリでブルトンらと活動を共にし、37年から38年にかけて国際シュルレアリスム展などに代表作を発表し<ref name=":6">{{Cite web|title=Wolfgang Paalen (1905-1959) - An Austrian Surrealist in Paris and Mexico|url=https://www.belvedere.at/en/wolfgang-paalen-1905-1959|website=www.belvedere.at|accessdate=2020-03-16|publisher=Österreichische Galerie Belvedere|author=Andreas Neufert, Franz Smola}}</ref><ref name=":13">{{Cite web|url=https://www.guggenheim.org/artwork/artist/wolfgang-paalen|title=Wolfgang Paalen|accessdate=2020-03-16|publisher=Solomon R. Guggenheim Foundation|language=en}}</ref>、シュルレアリスムの美術雑誌『ミノトール』にも作品を発表した。
このほか、大戦中のシュルレアリストの亡命により、[[アルゼンチン]]、[[チリ]]、[[ブラジル]]など南米各国にシュルレアリスムの運動が広がった。
=== イングランド - メキシコ ===
キャリントンがシュルレアリスム運動に参加するきっかけとなったのは、1936年にロンドンのニューバーリントン・ギャラリーで開催された{{仮リンク|ロンドン国際シュルレアリスム展|en|London International Surrealist Exhibition|label=国際シュルレアリスム展}}で、エルンスト、ダリ、デ・キリコ、マグリットらの作品に出会ったこと、特に同展覧会の英国側の主催者の一人[[ハーバート・リード]]が編纂した『シュルレアリスム』に掲載されたエルンストの作品《ナイチンゲールに脅かされる二人の子供》に衝撃を受けたことであった<ref name=":4">{{Cite web|title=LEONORA CARRINGTON|url=http://www.universalis.fr/encyclopedie/leonora-carrington/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2019-10-06|language=fr-FR|publisher=}}</ref><ref>{{Cite book|title=Max Ernst and Alchemy: A Magician in Search of Myth|date=|year=2001|publisher=University of Texas Press|author=M. E. Warlick|language=en|series=Surrealist Revolution Series}}</ref>。彼女は翌1937年に渡仏して、エルンストのもとに身を寄せた。国際シュルレアリスム展に出展するほか、文学作品は1940年にブルトンが編纂したシュルレアリスムの傑作集『黒いユーモア選集』に掲載された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0165-4.html|title=書籍紹介 - 黒いユーモア選集 下巻|accessdate=2019-10-06|publisher=国文社|language=ja}}</ref><ref>「レオノーラ・カリントン」[[有田忠郎]]訳、アンドレ・ブルトン編著『黒いユーモア選集』(下巻、[[山中散生]]・[[窪田般彌]]・[[小海永二]]編、[[国文社]]、1969年; [[河出書房新社]] / [[河出文庫]]、2007年)所収。</ref>。
なお、国際シュルレアリスム展は、1936年のロンドン、大規模な回顧展となった1947年のパリのほか、1938年にパリおよびアムステルダム、1940年にメキシコで開催された<ref name=":7" />。
=== ベルギー ===
ベルギーのフランス語圏では、1924年、『シュルレアリスム革命』誌創刊とほぼ同時に、「ベルギーのブルトン」とも言われる詩人{{仮リンク|ポール・ヌージェ|fr|Paul Nougé}}が<ref name=":8">{{Cite journal|和書|author=宮林寛|month=3|year=2011|title=「私はひとつの行為である」 : ポール・ヌジェ試論(その一)|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10030184-20110318-0129|journal=慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学|volume=52|page=|pages=129-144|publisher=[[慶應義塾大学]]日吉紀要刊行委員会|ISSN=09117199}}</ref>、詩人{{仮リンク|マルセル・ルコント|fr|Marcel Lecomte}}、作家カミーユ・ゲーマンスとともにシュルレアリスムの機関誌『{{仮リンク|コレスポンダンス|fr|Correspondance - Nougé, Goemans, Lecomte}}』を創刊した<ref name=":8" />。これに先立って、別の機関誌の創刊を企てていた画家のルネ・マグリットと作家・画家の{{仮リンク|E・L・T・メザンス|fr|E. L. T. Mesens}}、および詩人{{仮リンク|ポール・コリネ|fr|Paul Colinet}}や{{仮リンク|ルイ・スキュトネール|fr|Louis Scutenaire}}<ref>{{Cite journal|和書|author=佐野有沙|year=2019|title=『ジャックマン大通り』、偽名の楽しみ|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AA11413507-20191205-0001|journal=慶應義塾大学フランス文学研究室紀要|volume=24|page=|pages=1-16|publisher=慶應義塾大学フランス文学研究室}}</ref>、作曲家[[アンドレ・スーリー]]<ref>{{Cite journal|author=Sébastien Arfouilloux|year=|date=2005-04-15|title=Surréalisme et musique : les écrits d’André Souris|url=http://journals.openedition.org/textyles/581|journal=Textyles. Revue des lettres belges de langue française|volume=|issue=26-27|page=|pages=87-93|language=fr|doi=10.4000/textyles.581|issn=0776-0116}}</ref>、作家・写真家{{仮リンク|マルセル・マリエン|fr|Marcel Mariën}}らがヌージュらと合流し、{{仮リンク|ベルギー・シュルレアリスム|fr|Surréalisme belge}}を牽引した。画家のポール・デルヴォーもこの運動に一時期参加するが、直接フランスのシュルレアリスム運動に参加したマグリットと違って、ベルギーで活動を続けながら、シュルレアリスム展に出展していた<ref>{{Cite web|title=Une année Delvaux célébrée sur les terres natales du peintre surréaliste|url=https://www.rtbf.be/culture/arts/detail_une-annee-delvaux-celebree-sur-les-terres-natales-du-peintre-surrealiste?id=9710737|website=RTBF Culture|date=2017-09-18|accessdate=2020-03-16|language=fr}}</ref>。
一方、共産主義との関わりにおいては、1932年にブルトンに出会ってシュルレアリスムに「啓示」を見いだした詩人{{仮リンク|アシール・シャヴェ|fr|Achille Chavée}}が1934年に[[ラ・ルヴィエール]]でシュルレアリストのグループ「{{仮リンク|リュプチュール|fr|Rupture (groupe surréaliste)}}(分裂)」を結成した。これは詩作と社会改革による人間の解放を目指す運動であった<ref>{{Cite web|title=Achille Chavée|url=http://connaitrelawallonie.wallonie.be/fr/wallons-marquants/dictionnaire/chavee-achille#.Xm66HHL7SUk|website=connaitrelawallonie.wallonie.be|accessdate=2020-03-16|publisher=Connaître la Wallonie|language=fr|author=Paul Delforge}}</ref>。
=== チェコスロバキア ===
[[ファイル:Soupault_and_Nezval_1928.jpg|代替文=|サムネイル|219x219ピクセル|スーポー(左)とネズヴァル(プラハにて、1927年)]]
[[チェコスロバキア]]では、1924年、フランスの『シュルレアリスム革命』誌、ベルギーの『コレスポンダンス』誌の創刊と機を一にして、芸術家連盟{{仮リンク|デヴィエトシル|fr|Devětsil}}に参加していた美術評論家・[[コラージュ]]作家の[[カレル・タイゲ]]と[[ヴィーチェスラフ・ネズヴァル]]<ref group="注">ヴィーチェスラフ・ネズヴァルは『性の夜想曲 - チェコ・シュルレアリスムの〈エロス〉と〈夢〉』(赤塚若樹訳、風濤社、2015年)や[[ゴシック小説]]『少女ヴァレリエと不思議な一週間』(赤塚若樹訳、風濤社、2014年)を著している。</ref>が中心となって前衛芸術運動「{{仮リンク|ポエティスム|fr|Poétisme}}」が起こった<ref>{{Cite web|title=Poétisme / poetismus|url=https://www.larousse.fr/encyclopedie/litterature/po%C3%A9tisme/176117|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-03-16|language=fr|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref>。1927年には、フィリップ・スーポーが[[プラハ]]で[[ロートレアモン伯爵|ロートレアモン]]に関する講演を行い、これに深い感銘を受けたタイゲがスーポーの協力を得て、ロートレアモンの『マルドロールの歌』の[[チェコ語]]訳を出版することになった<ref>{{Cite journal|和書|author=河上春香|year=2016|title=戦間期チェコスロヴァキアにおけるシュルレアリスムのポリティクス ― 政治的イデオロギーと真理による自己統治をめぐって ─|url=https://doi.org/10.20631/bigaku.67.2_49|journal=美学|volume=67|issue=2|page=|pages=49-60|publisher=[[美学会]]}}</ref><ref group="注">最初の邦訳は、1952年に[[青柳瑞穂]]の翻訳により木馬社から刊行された。</ref>。スーポーはすでに前年、フランス共産党への入党をめぐってブルトンらと対立し、「文学的すぎる」という理由で除名されていたが<ref>{{Cite web|title=La muse et son poète - Anthologie 2D|url=https://www.calameo.com/read/001894862c43e12bae880|website=calameo.com|accessdate=2020-03-16|publisher=Calaméo|language=fr|page=35}}</ref>、無名のまま没した詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』を最初に発掘し、ブルトン、アラゴンに紹介したのはスーポーであり<ref name=":02">{{Cite book|title=Philippe Soupault. Qui êtes-vous ?|date=|year=1988|publisher=La Manufacture|author=Bernard Morlino|language=fr}}</ref>、こうして、ポエティスムの運動はシュルレアリスムの運動と連動することになった。
=== ルーマニア ===
ルーマニアで詩人{{仮リンク|イラリエ・ヴォロンカ|ro|Ilarie Voronca}}とともにダダイスムの雑誌『75 H.P』を創刊した画家ヴィクトル・ブローネルは、同国の前衛詩人らが結成したドイツ[[表現主義]]、[[ロシア構成主義]]、ダダイスム、シュルレアリスムなどの前衛芸術運動に参加し、この運動の機関誌『ウヌ ([[:ro:Unu (revistă)|''Unu'']])』(1928年創刊、1935年終刊)に作品を掲載していた<ref>{{Cite web|title=Unu (1928-1932)|url=http://dspace.bcucluj.ro/jspui/handle/123456789/32703|website=dspace.bcucluj.ro|accessdate=2020-03-16|publisher=Biblioteca Digitala BCU Cluj|language=ro}}</ref><ref>{{Cite web|title=BRAUNER -- PANA, Sasa (1902-1981). Sadismul Adevarului [Le Sadisme de la vérité]. Ilustratil de Victor Brauner, Marcel Iancu, Alfred Jarry, Kapralik, S. Perahim, Picasso, Man Ray, si Jacques Vaché. Bucarest: Steaua Artei pour Editura Unu, 1936.|url=https://www.christies.com/lotfinder/lot_details.aspx?intObjectID=5509583|website=www.christies.com|accessdate=2020-03-16|language=en|publisher=Christie's}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientBookline/service/reference.asp?INSTANCE=incipio&OUTPUT=PORTAL&DOCID=0468785&DOCBASE=CGPP|title=Unu (REVUE) : avantgarda literara / réd. Sasa Pana, Moldov|accessdate=2020-03-16|publisher=La Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref>。すでに1903年に渡仏し、フランスで美術教育を受けた同郷人の[[コンスタンティン・ブランクーシ]]と出会ったのは1930年に渡仏したときのことであり、このときイヴ・タンギーを介してデ・キリコとブルトンに出会った彼は、1931年にシュルレアリスムに参加した。第二次大戦中もユダヤ人であるにもかかわらず亡命が叶わず、ニューヨークでの活動には参加せず、やがてブルトンを中心とする運動からは離れるが、生涯にわたってシュルレアリストであった<ref name=":9">{{Cite web|title=Victor Brauner|url=https://www.ofpra.gouv.fr/fr/histoire-archives/galeries-d-images/les-refugies-celebres/victor-brauner|website=www.ofpra.gouv.fr|accessdate=2020-03-16|publisher=Office français de protection des réfugiés et apatrides (OFPRA)|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Victor Brauner, itinéraire d'un peintre juif sous l'Occupation|url=https://www.telerama.fr/scenes/victor-brauner-itineraire-d-un-peintre-juif-sous-l-occupation,88284.php|website=Télérama.fr|accessdate=2020-03-16|language=fr|publisher=|author=Yasmine Youssi}}</ref>。
=== ユーゴスラビア ===
[[ユーゴスラビア]]では詩人・画家の{{仮リンク|マルコ・リスティッチ|en|Marko Ristić (surrealist)}}が早くも1925年に『シュルレアリスム革命』誌に詩を寄稿した<ref>{{Cite web|title=La Révolution surréaliste|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5845102r|website=Gallica|date=1925-10-15|accessdate=2020-03-16|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France}}</ref>。1926年から27年にかけてパリに滞在してブルトンらシュルレアリストと親交を深め、コラージュ作品を発表し、帰国後にシュルレアリスム運動を開始し、複数の機関誌を創刊。ユーゴスラビアを代表するシュルレアリストとして文学・芸術作品を発表し続けた<ref>{{Cite web|title=MARKO RISTIĆ|url=https://www.avantgarde-museum.com/en/museum/collection/authorsmarko-ristic~pe4456/|website=Avantgarde Museum|accessdate=2020-03-16|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|title=Marko Ristić|url=https://www.ubugallery.com/gallery/artists/marko-ristic/|accessdate=2020-03-16|language=en-US|publisher=Ubu Gallery}}</ref>。
=== 日本 ===
日本におけるシュルレアリスムの紹介は、1927年に[[瀧口修造]]が刊行したシュルレアリスム詩の[[アンソロジー]]が最初とされる<ref name=":7" />。また、ブルトン、エリュアールらと交友のあった[[山中散生]]が1933年に巴里東京新興美術展を開催し、1937年に瀧口修造との共同企画、『みづゑ』の後援による海外超現実主義作品展を開催した。これは、エルンスト、タンギー、ミロ、ピカソ、ハンス・ベルメール、マン・レイ、マグリット、デ・キリコ、[[インジフ・シュティルスキー|インドリヒ・スティルスキー]]、[[ヘンリー・ムーア]]、[[ポール・ナッシュ]]など各国のシュルレアリストの作品377点を集めた大規模な展覧会であり、日本のシュルレアリスム運動における重要な契機となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://artscape.jp/artword/index.php/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E8%B6%85%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%B1%95|title=海外超現実主義作品展|accessdate=2020-03-27|publisher=artscape|author=足立元|language=ja}}</ref>(「[[シュルレアリスム#日本におけるシュルレアリスム|日本におけるシュルレアリスム]]」参照)。
=== ドイツ ===
なお、とりわけ'''ドイツ'''ではファシズムの台頭に伴って多くの作家がフランスに亡命した。ドイツから亡命したシュルレアリスムの画家のうち、エルンストとハンス・ベルメールの作品は1937年にドイツ各地を巡回した[[退廃芸術展]]に出品されたうえに、[[ゲシュタポ]]により一時[[レ・ミル収容所]]に拘留された<ref>{{Cite web|title=1937 / 1940 : Max Ernst, à Saint-Martin d'Ardèche et au camp des Milles|url=https://www.galerie-alain-paire.com/index.php?option=com_content&view=article&id=156&Itemid=6|website=Galerie d'art Alain Paire - Aix en provence|accessdate=2020-03-18|language=fr-fr|publisher=|author=Alain Paire}}</ref><ref>{{Cite web|title=Hans Bellmer, peintre surréaliste allemand|url=https://www.galeriedesannonciades.ch/oeuvres-en-vente/estampes-modernes/bellmer-hans-detail|website=www.galeriedesannonciades.ch|accessdate=2020-03-18|publisher=Galerie des Annonciades - Saint-Ursanne|language=fr}}</ref>。
== 概念・技法 ==
シュルレアリスムの主な概念を知る上で重要なのは、1938年にパリで国際シュルレアリスム展が開催された際にブルトンとエリュアールの共編によって刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』である<ref>邦訳:『シュルレアリスム簡約辞典』江原順編訳、[[現代思潮社]]、1971年。</ref>。
=== オートマティスム ===
シュルレアリスムの基本概念は[[オートマティスム]]であり、オートマティスムは本来、[[生理学]]・[[精神医学]]用語であったが、ブルトンは「理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」という心的オートマティスムとして再定義した。これは言語の自動記述だけでなく、絵画表現においても同様であり、たとえば、アンドレ・マッソンは人為的な[[トランス (意識)|トランス]]状態で「自動デッサン」を制作し<ref name=":10">{{Cite web|和書|title=オートマティスム/オートマティズム {{!}} 現代美術用語辞典|url=https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%A0%EF%BC%8F%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0|website=artscape.jp|accessdate=2020-03-18|language=ja|publisher=|author=中嶋泉}}</ref>(1924年から25年にかけて『シュルレアリスム革命』誌に発表)<ref>{{Cite web|title=La Révolution surréaliste|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb34381250f/date|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2020-03-18|publisher=Bibliothèque nationale de France - Gallica|language=fr}}</ref>、イヴ・タンギーは、制作時に完全に自由になって思いがけない表現が生まれるように、事前に下絵を描くことはなかった<ref name=":11">{{Cite web|title=La Révolution surréaliste, parcours découverte et pistes pédagogiques|url=http://mediation.centrepompidou.fr/education/ressources/ENS-surrealisme-pistes/ENS-surrealisme-pistes.htm|website=mediation.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|publisher=Centre Pompidou|author=Danièle Rousselier|year=2002|language=fr}}</ref>。また、偶然性を狙ったコラージュ、フロッタージュ、デカルコマニーなどの技法も意識の介入を排除して、無意識を表出させようという試みである<ref name=":11" />。実際、言語の自動記述が直接的であるのに対して、絵画の場合は描く行為・イメージ化において意識が介在するため、ピエール・ナヴィルは「絵画のオートマティスムは不可能である」と語っていた<ref name=":10" />。
最初の自動記述の試みは、シュルレアリスムの運動が本格的に始まる前の1919年にブルトンとスーポーによって行われた。フロイトの[[自由連想法]]の影響を受けた自動記述は、理性に制御されない純粋な思考を表現するために、できるだけ無意識に近い状態で浮かんでくる言葉を書き付けて行った。次第にその速度を上げることで、主語(主体性)が排除され、内容も前後の脈絡のない抽象的な言葉やイメージの連続になる。スーポーとブルトンはこの実験を毎日8時間から10時間にわたって行った<ref name=":62">{{Cite book|和書|title=フランス詩集|date=|year=1986|publisher=白鳳社|editor=浅野晃|page=162|series=青春の詩集・外国篇}}</ref><ref name=":82">{{Cite journal|和書|author=坪川達也|date=2018-02|title=脳とイマージュ : 朝吹亮二『アンドレ・ブルトンの詩的世界』に基づくシュルレアリスムの詩作と脳の機構に関する一考察|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00062752-00000139-0091|journal=教養論叢|volume=139|pages=91-101|publisher=慶應義塾大学法学研究会 |issn=0451-6087}}</ref>。この結果は同年10月から12月の『リテラチュール』誌(第8号から第10号)に「磁場」として発表され<ref>{{Cite web|title=Littérature No. 8|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/8/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-03-18|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 9|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/9/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-03-18|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref><ref>{{Cite web|title=Littérature No. 10|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/10/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-03-18|publisher=University of Iowa Libraries}}</ref>、翌1920年にシュルレアリスムの出版社{{仮リンク|オ・サン・パレイユ|fr|Au sans pareil|label=}}から刊行された<ref>邦訳:『磁場』[[阿部良雄]]訳『アンドレ・ブルトン集成(第3巻)』([[人文書院]]、1970年)所収。</ref>。自動記述の著書としては、1930年にエリュアールとブルトンによって発表された『無原罪の御宿り』も重要である<ref>邦訳:『処女懐胎』服部伸六訳、[[思潮社]]、1963年、1971年、1994年、</ref>。ここには自動記述の試みとして、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]疑似症の実験、強烈な[[偏執病|偏執狂]]の疑似症の実験、[[全身麻酔]]疑似症の実験、表現錯乱疑似症の実験、[[早発性痴呆]]症疑似症の実験などについて記述され<ref>ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン共著『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000156031-00 処女懐胎]』(服部伸六訳、[[思潮社]]、1994年) 参照。</ref>、表紙にはダリのエロティックな絵が掲載された<ref name=":14">{{Cite journal|和書|author=松岡茂雄|year=|date=2018-07-11|title=シュルレアリストたちの反カトリシズムと、ダリの《聖心》―アンドレ・ブルトンへの「痙攣」がダリに家族との断絶をもたらした|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81010404|journal=美術史論集|volume=9|page=|pages=94-125|publisher=[[神戸大学]]美術史研究会}}</ref>。だが、一方で、こうした自動記述の試みは、多くの場合、催眠状態で行われたため、危険を伴うものであった。1922年9月に行われた催眠実験は、バンジャマン・ペレ、ルネ・クルヴェル、ロベール・デスノスが被験者になり、催眠状態に入った3人が他の参加者の質問に答えるという[[霊媒]]実験([[心霊主義|心霊]]実験)を模した試みであった。この様子についてブルトンが「霊媒の登場」と題する一種の報告書を書き、『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号(1922年11月)に掲載した<ref>{{Cite web|title=Littérature No. 6 (New Series)|url=http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/litterature/6ns/pages/00cover2.htm|website=sdrc.lib.uiowa.edu|accessdate=2020-03-18|publisher=University of Iowa|language=fr}}</ref><ref>アンドレ・ブルトン著「霊媒の登場」[[巖谷國士|巌谷國士]]訳『[[現代詩手帖]]』(第14巻第8号、8-18頁、1971年8月、思潮社)、および『アンドレ・ブルトン集成6』「失われた足跡」(人文書院、1974年) 所収。</ref>。だが、催眠実験(睡眠実験)がエスカレートすると、被験者が自分自身や参加者に危害を加える恐れがでてきた。クルヴェルは[[自殺]]を企てようとし、デスノスは周囲の友人に[[ナイフ]]を持って襲いかかったという<ref>{{Cite journal|和書|author=泉谷安規 |date=2010-08 |title=アンドレ・ブルトン『通底器』における夢の記述の一読解の試み(Ⅰ) |url=https://hdl.handle.net/10129/3787 |journal=人文社会論叢. 人文科学篇 |publisher=弘前大学人文学部 |volume=24 |pages=1-12 |ISSN=1344-6061}}</ref>。こうした危険性は、[[離人症]]や[[幻覚]]に伴う死の危険とともに、ブルトン自らが1934年の『ミノトール』誌第3・4合併号掲載の「自動メッセージ」と題する記事で明らかにし<ref>{{Cite web|title=Minotaure (1933-1939)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=1326|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-03-18|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>、事実上、これ以後、自動記述の実験は行われなくなった<ref>{{Cite journal|author=Jenny Laurent|year=1988|date=|title=Les aventures de l'automatisme|url=https://www.persee.fr/doc/litt_0047-4800_1988_num_72_4_1463|journal=Littérature|volume=72|issue=4|page=|pages=3-11|language=fr|doi=10.3406/litt.1988.1463}}</ref>。
=== 不気味なもの ===
フロイトが1919年に著した小論「{{仮リンク|ウンハイムリッヒ|de|Das Unheimliche}}」(不気味なもの)は、「驚愕をもたらすもの、不安をかき立てるもの、ぞっとするような恐ろしさを与えるもの」として<ref>{{Cite journal|和書|author=植朗子|year=|date=2015-03-31|title=ドイツ民間伝説における死者の帰還 : 「不気味」という概念と伝承の事実性|url=https://hdl.handle.net/11094/70068|journal=文芸学研究|volume=19|page=|pages=26-42|doi=}}</ref>、シュルレアリスムの重要な概念の一つである。フロイトはこの論文で、ドイツ・[[ロマン主義|ロマン派]]の作家[[E.T.A.ホフマン|E・T・A・ホフマン]]の短編[[小説]]『[[砂男 (小説)|砂男]]』を例に挙げて分析している<ref>{{Cite journal|author=Olivier Rey|year=2002|title=Science, fantasme et Homme au sable|url=https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-00935059|journal=Conférence|volume=14|page=|pages=101-151|language=fr}}</ref>。ハンス・ベルメールが手足を切断された不気味で魅力的な人形([[球体関節人形]])を作るきっかけとなったのも、ホフマンのこの作品に基づいて[[ジャック・オッフェンバック]]が作曲したオペラ『[[ホフマン物語]]』に登場する自動人形オランピアに触発されてのことであった<ref>{{Cite journal|author=Rouquette Sylvie|year=2006|title=Hans Bellmer, la femme et la poupée|url=https://www.cairn.info/revue-cahiers-jungiens-de-psychanalyse-2006-1-page-17.htm|journal=Cahiers jungiens de psychanalyse|volume=117|page=|pages=17-24|language=fr|DOI=10.3917/cjung.117.0017}}</ref>。マグリットの最初のシュルレアリスム作品とされるのは1926年制作の《迷える[[騎手]]》であるが<ref>{{Cite web|title=1926 : "Le Jockey perdu", premier tableau surréaliste de René Magritte {{!}} Connaître la Wallonie|url=http://connaitrelawallonie.wallonie.be/fr/histoire/timeline/1926-le-jockey-perdu-premier-tableau-surrealiste-de-rene-magritte#.Xm4CsHL7SUk|website=connaitrelawallonie.wallonie.be|accessdate=2020-03-18|publisher=Connaître la Wallonie|language=fr|author=Marie Dewez}}</ref>、1926年から27年にかけて制作された作品《鳥を食べる少女》や《殺意の空》には「気持ちをかき乱すような」鳥のイメージ<ref name=":18" />、特に血を流す鳥や死んだ鳥が多く描かれている。また、《鳥を食べる少女》の副題は「快楽」であり、同郷人の詩人ヌージェは、マグリットはこの作品でフロイトの[[快楽原則]]をさらに探求し、「快楽の残虐さ」を描いているという<ref name=":18">{{Cite web|title=Le ciel meurtrier|url=https://www.centrepompidou.fr/id/c6bz6q/rdKX6n5/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Centre Pompidou|author=Didier Ottinger}}</ref>。
[[アルフレッド・ジャリ]]が[[ソポクレス]]の『[[オイディプス王]]』に着想を得て書いた演劇『[[ユビュ王]]』(1896年刊行)は、シュルレアリスムの先駆、[[不条理演劇]]の先駆とされる作品であり<ref>{{Cite web|url=http://www.cndp.fr/crdp-reims/fileadmin/documents/preac/culture_salmanazar/Ubu_Roi/15_DPeda_Ubu_Roi.pdf|title=UBU ROI. Dossier pédagogique|accessdate=2020-03-18|publisher=Réseau Canopé|language=fr}}</ref>、ミロの一連の「ユビュ」作品<ref>{{Cite web|title=Miró & Tériade, l'aventure d'Ubu|url=https://www.dessinoriginal.com/news/article/miro-teriade-l-aventure-d-ubu-279.html|website=www.dessinoriginal.com|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=DessinOriginal|date=2009-12-21}}</ref>、エルンストの《オイディプス王》(1922年)、《ユビュ皇帝》(1923年)など、人間の心の混沌とした未知の領域、グロテスクで不気味な形象としてシュルレアリストが繰り返し取り上げた題材である<ref>{{Cite web|title=Ubu Imperator|url=https://www.centrepompidou.fr/id/c9njGoa/rp9oEp/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Centre Pompidou|author=Didier Ottinger}}</ref>。写真家[[ドラ・マール]]のフォト・モンタージュ作品《ユビュ王の肖像》(1936年)では、[[アルマジロ]]の[[胎児]]を撮った[[ネガフィルム]]を使い、[[象]]のような形象により不気味さが強調されている<ref>{{Cite web|url=https://www.culture.gouv.fr/Sites-thematiques/Musees/Nos-musees/Valorisation-des-collections/Les-femmes-artistes-sortent-de-leur-reserve/Icones/Maar-Dora|title=Maar Dora|accessdate=2020-03-18|publisher=Ministère de la Culture|language=fr}}</ref>。ヴィクトル・ブローネルの水彩《K氏の奇妙な事例》(1934年)も「ユビュ王」に着想を得た作品で、当時、欧州で台頭しつつあった独裁者の不気味な形象としてブルトンに絶賛された(同じ年に油彩《ヒトラー》も発表している)<ref name=":9" /><ref name=":32">{{Cite web|title=VICTOR BRAUNER|url=http://www.universalis.fr/encyclopedie/victor-brauner/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-03-18|language=fr-FR|publisher=|author=Gérard Legrand}}</ref><ref>{{Cite web|title=L'étrange cas de Monsieur K.|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cBAe979/rb5xykj/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Centre Pompidou|author=Camille Morando}}</ref>。同じく1934年制作の油彩《K氏の集中力》ではさらに太った男性の裸体に[[セルロイド]]製の小さい人形をたくさん貼り付けて不気味さを強調している<ref>{{Cite web|title=Force de concentration de Monsieur K.|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cLrjMa7/r8r4Gza/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Centre Pompidou|author=Camille Morando}}</ref>。
このほか、ピカソが描いた牛頭人身の怪物「[[ミーノータウロス|ミノタウロス]]」、アンドレ・マッソンの同じく「ミノタウロス」や恍惚状態で神託を告げた「[[ピューティアー]]」、または[[迷宮]]のモチーフ、ミロが1935年から1936年にかけて制作した一連の絵画『[[変身 (絵画)|変身]]』などの神話・伝説の形象・モチーフが無意識の表象として取り上げられている。
また、女性の眼球を剃刀で切るシーンで始まるブニュエルとダリの『[[アンダルシアの犬]]』(1928年)は、「不気味なもの」を最も強力に表現した映画として、後の[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]監督の作品、特に『[[鳥 (1963年の映画)|鳥]]』(1963年)などに影響を与えることになる<ref>{{Cite journal|author=Bonnefon Gérard|year=|date=2005|title=Personnages sur grand écran|url=https://doi.org/10.3917/reli.017.0080|journal=Reliance|volume=17|issue=3|page=|pages=80|language=fr|doi=10.3917/reli.017.0080|issn=1774-9743}}</ref>。
=== 客観的偶然 ===
==== デペイズマン ====
シュルレアリストによって発掘されたロートレアモンの『{{ill2|マルドロールの歌|en|Les Chants de Maldoror}}』(1868年)の一節「解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会い(のように美しい)」は、[[デペイズマン]](異なった環境で生じる違和感、不安感、驚異)の例として挙げられることが多く、シュルレアリスムでは[[デ・キリコ]]、[[マグリット]]、[[エルンスト]]の作品の特徴とされる<ref name=":15">{{Cite web|和書|title=デペイズマン {{!}} 現代美術用語辞典ver.2.0|url=https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%87%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3|website=artscape.jp|accessdate=2020-03-18|language=ja|publisher=|author=成相肇}}</ref>。一方で、[[ロシア・フォルマリズム]]の[[ヴィクトル・シクロフスキー|シクロフスキー]]によって提唱された[[異化]]に近い概念でもあり<ref name=":15" />、ブルトンはこれを「{{仮リンク|客観的偶然|fr|Hasard objectif}}」の概念として提唱した。すなわち、偶然による2つのものの接近・出会いによって「現実の中に潜む超現実が露呈し、不可思議(驚異)が現出する」瞬間である<ref>{{Cite journal|和書|author=藤本恭比古|year=1979|date=1979|title=アンドレ ブルトンの《客観的偶然》について|url=https://doi.org/10.20767/elfk.14.0_1|journal=フランス文学論集|volume=14|page=|pages=1-9|publisher=九州フランス文学会}}</ref>。
==== コラージュ ====
エルンストが《近づく思春期……(昴)》(1921年)など多くの作品で用いた[[コラージュ]]の技法もこのような発想に基づいている。[[キュビスム]]のコラージュ([[パピエ・コレ]])とシュルレアリスムのコラージュの違いは、パピエ・コレでは、あらかじめ意図された視覚的効果があり、そのために複数の要素の組み合わせるのに対して、エルンストのコラージュは、あらかじめ意図されたものではなく、既存の[[印刷物]]や[[写真]]を組み合わせることで、その偶然性によって生み出される驚きや詩的イメージが重要になることである<ref name=":16">{{Cite web|title=ÉCRITS SUR L'ART MODERNE|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/ecrits-sur-l-art-moderne/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-03-18|language=fr-FR|publisher=|author=Marianne Jakobi}}</ref>。エルンストは絵画としてだけでなく、コラージュ作品と小説を組み合わせて「ロマン・コラージュ(コラージュ小説)」として発表した<ref group="注">邦訳に『百頭女』(1996年)、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1996年)、『慈善週間または七大元素』(1997年)がある。いずれも、[[巌谷国士]]訳、[[河出書房新社]]([[河出文庫]])刊。</ref>。こうしたエルンストのコラージュについてアラゴンは「挑戦する絵画」と題する評論を発表した<ref name=":16" />。パピエ・コレ、コラージュの発想から後に[[モンタージュ]]、[[アサンブラージュ]]の技法が生まれることになる<ref>{{Cite web|和書|title=パピエ・コレ:現代美術用語辞典|url=https://artscape.jp/dictionary/modern/1198428_1637.html|website=artscape.jp|accessdate=2020-03-18|publisher=陳岡めぐみ|language=ja}}</ref>。
==== フロッタージュ、グラッタージュ ====
「客観的偶然」の概念に基づいてエルンストが生み出した技法は、この他にも[[フロッタージュ]](こすり出し)、[[スクラッチボード|グラッタージュ]](削り出し)などがある。フロッタージュは、木目の浮いた床板から着想を得た技法で、板や石などの表面に直接紙を当てて、その[[凹凸]]を[[鉛筆]]などでこすり出す方法である。《全都市》(1934年)などがこの技法で描かれている<ref>{{Cite web|title=Frottage - Art Term|url=https://www.tate.org.uk/art/art-terms/f/frottage|website=Tate|accessdate=2020-03-18|language=en-GB|publisher=}}</ref>。
フロッタージュの応用であるグラッタージュは、[[キャンバス]]上に数種類の[[絵具]]を層状に塗り重ね、これを凹凸のある物体の上に載せ、次に[[パレットナイフ]]で絵具層を削って、地塗層に物体の模様を写し出す技法である。代表作に《森と鳩》(1927年)がある<ref>{{Cite web|title=Grattage - Art Term|url=https://www.tate.org.uk/art/art-terms/g/grattage|website=Tate|accessdate=2020-03-18|language=en-GB|publisher=}}</ref>。
==== デカルコマニー ====
同様の発想による[[デカルコマニー]](転写)は、1936年の『ミノトール』誌に発表された[[オスカル・ドミンゲス]]の作品が最初のものとされる<ref>{{Cite web|title=(DOMINGUEZ Oscar). JEAN Marcel. GRISOU. Le Lion La Fenêtre. Paris, J.L.M. 1990|url=https://www.gazette-drouot.com/lots/2363792|website=www.gazette-drouot.com|accessdate=2020-03-18|publisher=Gazette Drouot|language=fr}}</ref>。2つ折りにした紙に絵具を入れ、再び紙を開いて偶発的な模様を得る方法であり、これを絵画に応用すると、[[支持体]](基底材)や絵具の性質によって異なった効果が生じる<ref>{{Cite web|和書|title=《用語解説》デカルコマニー(転写) {{!}} シュルレアリスムと絵画 - ダリ、エルンストと日本の「シュール」|url=https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20191215s01/|accessdate=2020-03-18|language=ja|publisher=ポーラ美術館}}</ref>。
==== 優美な屍骸 ====
「[[優美な屍骸]]」は絵画と文学の両方において行われた共同制作である。言葉による場合は、たとえば4人がそれぞれ任意に選んだ[[主語]]、[[述語]]、[[目的語]]、[[補語]]を組み合わせる。素描の場合は、紙を4つ折りにしてつなぎ目の印だけ付け、各自が先に描かれた絵を見ないで順番に(つなぎ目の印から)続きを描いていくという方法である。「優美な屍骸」という言葉は、5人がそれぞれ選んだ言葉を組み合わせてできた「優美な屍骸は新しい[[葡萄酒]]を飲む(Le cadavre / exquis / boira / le vin / nouveau)」によるものである<ref name=":17">{{Cite web|title=Cadavre exquis|url=https://www.larousse.fr/encyclopedie/peinture/cadavre_exquis/151379|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref>。『シュルレアリスム革命』誌の第9・10合併号(1927年10月、テーマ「自動記述」)には、言葉による「優美な屍骸」作品のほか、素描作品も5点掲載され<ref>{{Cite web|title=La Révolution surréaliste|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5845141v|website=Gallica|date=1927-10-01|accessdate=2020-03-18|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France}}</ref>、これ以後、主にエルンスト、マッソン、ブルトン、タンギー、ブローネル、{{仮リンク|マックス・モリーズ|fr|Max Morise}}、{{仮リンク|ジャック・エロルド|fr|Jacques Hérold}}らによって制作された<ref name=":17" /><ref>{{Cite web|title=Cadavre Exquis, André Breton, Jacques Hérold, Yves Tanguy, Victor Brauner. Figure. 1934|url=https://www.moma.org/collection/works/36772|website=The Museum of Modern Art|accessdate=2020-03-18|language=en|publisher=MoMA}}</ref>。また、1948年には[[ポルトガル]]のシュルレアリスムの画家アントニオ・ドミンゲス、フェルナンド・アゼヴェド、アントニオ・ペドロ、モニーツ・ペレイラによって[[油彩]]による「優美な屍骸」の大作(150 x 180 cm)が発表された<ref>{{Cite web|title=Cadavre exquis|url=https://gulbenkian.pt/museu/works_cam/cadavre-exquis-156480/|website=Museu Calouste Gulbenkian|accessdate=2020-03-18|language=pt-pt}}</ref>。
さらに[[造形]]においても、テーブルに女性の頭部、切断された手、[[ヴェール]]、[[多面体]]を配置したジャコメッティの《テーブル》<ref>{{Cite web|title=Table|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cojj58/rKMEg6/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref>、[[オオカミ]](実際には[[キツネ]])の[[剥製]]の頭部と尾部をテーブルの前後に固定したブローネルの代表作《狼-テーブル》(1939年)など、客観的偶然、デペイズマン、あるいは「不気味なもの」を表わす作品が制作された<ref>{{Cite web|title=Loup-table|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cqrjab/r68Rnk/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2020-03-18|language=fr|publisher=Centre Pompidou|author=Camille Morando}}</ref>。
=== その他の技法 ===
シュルレアリスムの技法としては、このほか、[[ヴォルフガング・パーレン]]が考案した[[フュマージュ]]、ダリ独自の「{{仮リンク|偏執狂的批判的方法|fr|Méthode paranoïaque-critique}}」、また、シュルレアリスム独自の技法ではないがダリやマグリットの作品の特徴として挙げられる[[トロンプ・ルイユ]](だまし絵)<ref>{{Cite web|和書|title=トロンプ=ルイユ:現代美術用語辞典|url=https://artscape.jp/dictionary/modern/1198584_1637.html|website=artscape.jp|accessdate=2020-03-18|publisher=|author=暮沢剛巳|language=ja}}</ref>などがある。'''フュマージュ'''は濡れたキャンバス(後に[[水彩]]絵具で描いたキャンバス)の表面を[[ろうそく]]の[[煙]]で燻して黒い跡を付ける技法であり、幻影、亡霊、夢などを表現するオートマティスムの技法として、ダリも作品の一部に使用している<ref>{{Cite web|title=Fumage - Art Term|url=https://www.tate.org.uk/art/art-terms/f/fumage|website=www.tate.org.uk|accessdate=2020-03-18|language=en-GB|publisher=Tate}}</ref><ref>{{Cite web|title=‘The Messenger’, Wolfgang Paalen, 1941|url=https://www.tate.org.uk/art/artworks/paalen-the-messenger-t02392|website=www.tate.org.uk|accessdate=2020-03-18|language=en-GB|publisher=Tate}}</ref>。
ダリの'''偏執狂的批判的方法'''は、フロイトの精神分析や[[リヒャルト・フォン・クラフト=エビング]]の『性的精神病質([[:fr:Psychopathia sexualis|Psychopathia sexualis]])』に深い関心を抱いていたダリが、これらを独自に解釈して1930年代に絵画理論として提唱したものであり、オートマティスムとは対照的に、技巧的で緻密な表現である<ref>{{Cite web|title=SALVADOR DALÍ - La méthode « paranoïaque-critique »|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/salvador-dali/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-03-18|language=fr-FR|publisher=|author=Guitemie Maldonado}}</ref>。
'''トロンプ・ルイユ'''の作品を多数制作したのは16世紀[[イタリア]]の画家[[ジュゼッペ・アルチンボルド]]であり、その奇抜さ、独創性によって20世紀になってから、主にシュルレアリストによって発掘・再評価された画家である<ref name=":3" />。
なお、絵画におけるオートマティスムは、後の抽象表現主義、[[アンフォルメル]]などの絵画運動、さらには[[アクション・ペインティング]]などの表現様式を生むきかっけとなった<ref name=":10" />。
== シュルレアリスムの先駆者 ==
シュルレアリスムの先駆者、シュルレアリスムに影響を与えた作家・画家、またはシュルレアリストによって発掘・再評価された作家・画家は、主に[[ロマン主義#ドイツ|ドイツ・ロマン主義]]、[[幻想文学]]・[[幻想絵画]]、[[象徴主義]]、[[ゴシック]]美術や[[ゴシック小説]]の作家または画家、および当時は異色とされたイタリア・[[ルネサンス]]の一部の画家である。文学については、『シュルレアリスム革命』誌、『ミノトール』誌などのシュルレアリスム運動の機関誌、およびブルトンが1940年に編纂した『{{仮リンク|黒いユーモア選集|fr|Anthologie de l'humour noir}}』で紹介された。画家についてもこれらの機関誌のほか、各作家が評論・随筆を発表している。たとえばスーポーの『ウィリアム・ブレイク』(1928年)、『パオロ・ウッチェロ』(1929年)、『ロートレアモン』(1946年)、エリュアールの『芸術論集』(全3巻、1952-54年)<ref>邦訳:『芸術論集』(全2巻)江原順・康敏星共訳、[[未來社]]、1955年、1958年。</ref>、ブルトンの『超現実主義と絵画』(1928年)などである<ref>邦訳:『超現実主義と絵画』滝口修造訳、人文書院、1997年。</ref>。
=== 作家 ===
* {{仮リンク|フィリップ・ド・ボーマノワール|fr|Philippe de Beaumanoir (1250-1296)}}(1252~1254-1296)- フランスの[[法学者]]、{{仮リンク|ファトラジー|fr|Fatrasie}}(13世紀フランスで流行した支離滅裂な詩)で知られる。
* [[マルキ・ド・サド]](1740-1814)- フランス[[性愛文学]]の作家
* [[ジャン・パウル]](1763-1825)- ドイツの小説家、反古典主義的長編小説
* [[E.T.A.ホフマン|E・T・A・ホフマン]](1776-1822)- ドイツ幻想文学の作家、短編小説『[[砂男 (小説)|砂男]]』
* [[ジェラール・ド・ネルヴァル]](1808-1855)- フランス[[象徴主義|象徴派]]の詩人
* [[グザヴィエ・フォルヌレ]](1809-1884)- フランスの詩人、小説家、[[劇作家]]
* [[シャルル・ボードレール]](1821-1867)- フランス象徴派の詩人
* [[ステファヌ・マラルメ]](1842-1898)- フランス象徴派の詩人
* [[シャルル・クロス|シャルル・クロ]](1842-1888)- フランスのユーモア詩人
* [[ロートレアモン伯爵|ロートレアモン]](1846-1870)- フランスの詩人、『マルドロールの歌』
* [[アルチュール・ランボー]](1854-1891)- フランスの詩人、『[[地獄の季節]]』、『[[イリュミナシオン]]』
* [[アルフレッド・ジャリ]](1873-1907)フランスの小説家・劇作家、戯曲『ユビュ王』
* [[レーモン・ルーセル]](1877-1933)- フランスの詩人・小説家
* [[ギヨーム・アポリネール]](1880-1918)- フランスの詩人、詩集『アルコール』、演劇『ティレジアスの乳房』、性愛小説『[[若きドン・ジュアンの冒険]]』
=== 画家 ===
* [[パオロ・ウッチェロ]](1397-1475)- イタリア初期ルネサンスの画家
* [[ヒエロニムス・ボス]](ca.1450-1516)- ルネサンス期の[[ネーデルラント]]の画家、幻想絵画
* [[ピエロ・ディ・コジモ]](ca.1462-1521)- イタリア[[盛期ルネサンス]]の画家
* [[ハンス・バルドゥング]](1484-1545)- ルネサンス期のドイツの画家・[[版画家]]
* [[ジュゼッペ・アルチンボルド]](1526-1593)- [[マニエリスム]]を代表する[[イタリア]]の[[画家]]、モンタージュ(寄せ絵)、トロンプ=ルイユ
* [[ピーテル・ブリューゲル]](ca.1525-1569)- [[ブラバント公国]](現[[オランダ]])の画家
* [[フランシスコ・デ・ゴヤ]](1746-1828)- スペインの画家([[宮廷画家]])、『黒い絵』
* [[ウィリアム・ブレイク]](1757-1827)- イギリスの詩人・画家
* [[シャルル・メリヨン]](1821-1868)- フランスの版画家
* {{仮リンク|ロドルフ・ブレスダン|fr|Rodolphe Bresdin}}(1822-1885)フランスの版画家
* [[ギュスターヴ・モロー]](1826-1898)- フランス象徴主義の画家
* [[アルノルト・ベックリン]](1827-1901)- [[スイス]]象徴主義の画家
* [[オディロン・ルドン]](1840-1916)- フランスの画家、幻想絵画
* [[アンリ・ルソー]](1844-1910)- フランスの[[素朴派]]の画家
* [[マックス・クリンガー]](1857-1920)- ドイツの画家、版画家、[[彫刻家]]
<gallery perrow="5">
File:Jheronimus Bosch 023.jpg|ヒエロニムス・ボス《[[快楽の園]]》1490-1510年、[[プラド美術館]]蔵
File:Piero di Cosimo 013.jpg|ピエロ・ディ・コジモ《プロクリスの死》1495年頃、[[ナショナル・ギャラリー_(ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]蔵
File:Hans Baldung 025.jpg|ハンス・バルドゥング《死と乙女》1518-20年、[[バーゼル市立美術館]]蔵
File:Giuseppe Arcimboldo - Summer, 1573.jpg|ジュゼッペ・アルチンボルド《夏》1573年、[[ルーヴル美術館]]蔵
File:Brooklyn Museum - The Good Samaritan (Le bon samaritain) - Rodolphe Bresdin.jpg|ロドルフ・ブレスダン《[[善きサマリア人のたとえ|善きサマリア人]]》1861年頃、[[ブルックリン美術館]]蔵
File:Gustave Moreau 003.jpg|ギュスターヴ・モロー《[[ヘラクレスとレルネのヒュドラ]]》1876年、[[シカゴ美術館]]蔵
File:Redon.eye-balloon.jpg|オディロン・ルドン《眼=気球》1878年、[[ニューヨーク近代美術館]]蔵
File:Arnold Böcklin - Die Toteninsel V (Museum der bildenden Künste Leipzig).jpg|アルノルト・ベックリン《[[死の島 (ベックリン)|死の島]]》1880年、バーゼル市立美術館蔵
File:Klinger - Ängste - 1893.jpeg|マックス・クリンガー《手袋 : 不安》1893年、[[アルベルティーナ]]蔵
File:Henri Rousseau - Il sogno.jpg|アンリ・ルソー《[[夢 (アンリ・ルソーの絵)|夢]]》1910年、ニューヨーク近代美術館蔵
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== 日本におけるシュルレアリスム ==
=== 概要 ===
[[ファイル:Kamo 1938.jpg|thumb|200px|right|[[尾澤辰夫]]筆『鴨』[[1938年]]。]]
{{要出典範囲|[[日本]]におけるシュルレアリスムは1920年代後半にまずは詩において開花し、1930年代に美術へと波及した|date=2023年1月}}。
詩人では、[[冨士原清一]]、[[西脇順三郎]]、[[瀧口修造]]、[[北園克衛]]、[[友部正人]]、[[友川かずき]]、[[棚夏針手]]など。小説家では[[安部公房]]が優れた作品を残している。
画家には、[[古賀春江]]、[[福沢一郎]]、[[阿部金剛]]、[[北脇昇]]、[[三岸好太郎]]、[[米倉壽仁]]、[[岡本唐貴]]、[[靉光]]、[[寺田政明]]、[[鎌田正蔵]]、[[杉全直]]、[[大塚耕二]]、[[矢崎博信]]、[[小山田二郎]]、[[西村元三朗]]、[[山下菊二]]、[[植月英俊]]などがいる。
写真家では、[[山本悍右]]などがいる。
[[漫画]]界では、[[不条理漫画#不条理ギャグ|不条理漫画]]といわれ、[[つげ義春]]の[[ねじ式]]([[1968年]]月刊『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』6月増刊号に発表)によって初めてシュルレアリスム的表現の可能性が切り開かれ{{要出典|date=2020年3月}}、漫画界のみならず多くの[[知識人]]、[[芸術家]]などに多大な影響を与えるとともに[[全共闘世代]]の圧倒的支持を得た{{要出典|date=2020年3月}}。
日本におけるシュルレアリスムは、[[ネオ・ダダ]]の系譜にある雑誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(1924年-1926年<ref>{{Cite book|NCID=AA12232304|ref=harv}}</ref>)から[[北園克衛]]、[[稲垣足穂]]、[[宇留河泰呂]]が、[[冨士原清一]]の『列』に合流して日本最初のシュルレアリスム専門雑誌『薔薇・魔術・学説』(1927年-1928年、[[冨士原清一]]が主宰<ref>{{Cite book|NCID=BN01510857|ref=harv}}</ref>
)が創刊されるなど、初期においてダダからの流れが重要な役割を果した。
また、[[愛知県]]では[[文化人]]の間でシュルレアリスムが流行し<ref name="toyama">陶山伊知郎「医学博士・俳人馬場駿吉×『アイチアートクロニクル 1919-2019』」『[https://artexhibition.jp/topics/features/20190528-AEJ79245/ 医学博士・俳人 馬場駿吉 ×「アイチアートクロニクル 1919-2019」【スペシャリスト 鑑賞の流儀】 - 美術展ナビ|アート・エキシビション・ジャパン]』[[読売新聞グループ本社]]・[[読売新聞東京本社]]・[[読売新聞大阪本社]]・[[読売新聞西部本社]]。</ref>、特に愛知県[[名古屋市]]はシュルレアリストの拠点となっていた。その理由として、愛知県在住の詩人である[[山中散生]]がフランスのシュルレアリストと書簡で交流しており<ref name="toyama"/>、愛知県にはフランスのシュルレアリスムの[[情報]]が直接もたらされていたことが挙げられる<ref name="toyama"/>。同じく愛知県在住の画家であった[[下郷羊雄]]も、山中散生に感化されてシュルレアリスムに傾倒し<ref name="toyama"/>、やがて愛知県のシュルレアリストの中心人物となっていった<ref name="toyama"/>。当地におけるシュルレアリスムの興隆は、のちに「名古屋のシュルレアリスム」と称される一大ムーブメントとなった。名古屋のシュルレアリスムの系譜に連なる者としては、画家の[[尾澤辰夫]]らがいる。
=== 俗語としてのシュルレアリスム ===
[[1990年代]]末期頃から、日本のメディアや[[俗語]]において「シュール」であるということは、超現実主義の意味から逸脱して「[[ナンセンス]]」「[[不条理]]」であるという意味で使われるようになった。あくまで「シュールな」「シュールだ」というように略称でのみ使われ、本来のシュルレアリスムからは独立した別の概念として扱われている。
=== 研究 ===
* 近年の日本においてシュールレアリスム研究及び大学におけるシュールレアリスムの講義並びに実技(自由連想法を用いたディスカッションを含む)を行っている人物として[[多田夏雄]]が挙げられる。著書としてシュールレアリスム論(文星芸術大学紀要)。
* {{要出典範囲|シュールレアリスム研究家 [[黒沢義輝]]は戦前の日本におけるシュールレアリスム研究の第一人者である|date=2023年1月}}。
* {{要出典範囲|メディアアートの講義においてデペイズマンなどシュルレアリスムの技法の解説を行っている人物として中野圭がいる|date=2023年1月}}。
== 関連文献 ==
* 鈴木雅雄、林道郎『シュルレアリスム美術を語るために』(水声社、2011)ISBN 9784891768348
* 酒井健『シュルレアリスム : 終わりなき革命』(中央公論新社〈中公新書〉、 2011)ISBN 9784121020949
* 谷川渥『シュルレアリスムのアメリカ』(みすず書房、2009)ISBN 9784622074090
* 速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 : イメージの受容と創造』(日本放送出版協会、2009)ISBN 9784140911358
* 鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社、2007)ISBN 9784582702743
* 巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2002)ISBN 4480086781
* アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巖谷國士訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1992)ISBN 4003259017
* アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巖谷國士訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2003)ISBN 4003259025
* アンドレ・ブルトン『魔術的芸術 普及版』(巖谷國士・谷川渥ほか訳、[[河出書房新社]]、2002、新版2017)ISBN 430927904X
* アンドレ・ブルトン『超現実主義宣言』(生田耕作訳、中央公論新社〈中公文庫〉、1999)ISBN 412203499X
* 『水声通信:20 思想史のなかのシュルレアリスム 』([[水声社]]、2007年)
* 『水声通信:23 シュルレアリスム美術をどう語るか』(水声社、2008年)
* 『水声通信:25 シュルレアリスム美術はいかにして可能か』(水声社、2008年)
* 巖谷國士編 『ユリイカ 詩と批評 総特集ダダ・シュルレアリスムの21世紀』、2016年8月臨時増刊号、[[青土社]]
* 巌谷國士編 『ユリイカ シュルレアリスム』、1993年8月臨時増刊号、青土社
* 澤正宏/和田博文編『日本のシュールレアリスム』(世界思想社、1995年)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{Wikiquotelang|fr|Catégorie:Surréalisme}}
* [[ダダイスム]]
* [[前衛美術]]
* [[アバンギャルド]]
* [[美術文化協会]]
* [[前衛写真協会]]
* [[シュルレアリスム音楽]]
* [[シュール (曖昧さ回避)]]
== 外部リンク ==
* [http://www.surrealismus.cz/ Czech and Slovak Surrealist Group]
* [http://www.surrealistmovement-usa.org/ The Surrealist Movement in the United States]
* [http://www.surrealistgruppen.org/ Surrealist group of Stockholm]
* [http://www.serbiansurrealism.com/ Serbian Surrealism]
* [http://artscape.jp/dictionary/modern/1198053_1637.html シュルレアリスム:現代美術用語辞典] - artscape
* [http://melusine-surrealisme.fr/wp/ Mélusine (le Centre de Recherches sur le Surréalisme de Paris III)] - [[パリ大学|パリ第3大学]]シュルレアリスム研究所
* [https://www.research.manchester.ac.uk/portal/en/projects/the-ahrb-centre-for-studies-of-surrealism-and-its-legacies-project(9182d222-4cfe-489b-a944-4998933b322c).html/ The AHRB Centre for Studies of Surrealism and its Legacies] - [[マンチェスター大学]]AHRBシュルレアリスムとその遺産研究所
* [http://www.theatrales.uqam.ca/TheatreSurr.html Répertoire du théâtre surréaliste, son amont, son aval], André-Gilles Bourassa - ケベックの作家{{仮リンク|アンドレ=ジル・ブラッサ|fr|André-Gilles Bourassa}}によるシュルレアリスム演劇
* [http://melusine-surrealisme.fr/site/Surr-ts-pays/somsurr-ts-pays.htm Surréalistes de tous les pays] - 世界各国のシュルレアリスト(日本のシュルレアリスト50人を含む、フランス語)- Mélusine
* {{Kotobank|シュルレアリスム}}
{{シュルレアリスム}}
{{フランス文学}}
{{西洋の芸術運動}}
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[[Category:20世紀の文学]]
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[[Category:西洋美術史]]
[[Category:フランス語の語句]]
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18,400 |
ヨタ
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ヨタ(yotta、記号: Y)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10(=一𥝱)倍の量であることを示す。
1991年に定められたものであるが、名称決定には以下のような経緯がある。
ヨタが正式に定められる前、イタリア語で「8」を意味する otto(ギリシャ語の ὀκτώ (okto) とする説もある)に由来するオタ (otta) という接頭語が非公式に導入されていた。「8」を意味する語を用いたのは、10 = 1000 だからである。しかし、otta ではその記号が「0()」とまぎらわしい「O()」になってしまうことから、otta を変形した yotta が導入されることとなった。
また、2進接頭辞にヨタに基づいたヨビ(yobi、記号: Yi)が用意されている。ヨビは 2 = 1024 倍を意味する。
1991年の制定時は「最大の値のSI接頭語」だったが、2022年11月18日に第27回国際度量衡総会 (CGPM) にて、10のロナ (ronna、記号:R) と10のクエタ (quetta、記号:Q) を新たなSI接頭語とすることに決定したため、31年続いたこの座を明け渡した。
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'''ヨタ'''({{lang|und-Latn|yotta}}、記号: [[Y]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、基礎となる単位の [[1 E24|10<sup>24</sup>]](=一𥝱)倍の量であることを示す<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第4</ref>。
[[1991年]]に定められたものであるが、名称決定には以下のような経緯がある。
ヨタが正式に定められる前、[[イタリア語]]で「[[8]]」を意味する '''{{lang|it|otto}}'''([[ギリシャ語]]の {{lang|el|ὀκτώ}} (''okto'') とする説もある)に由来する'''オタ''' ('''{{lang|und-Latn|otta}}''') という接頭語が非公式に導入されていた。「8」を意味する語を用いたのは、10<sup>24</sup> = 1000<sup>8</sup> だからである。しかし、otta ではその記号が「{{読み仮名|0|ゼロ}}」とまぎらわしい「{{読み仮名|O|オー}}」になってしまうことから、{{lang|und-Latn|otta}} を変形した '''{{lang|und-Latn|yotta}}''' が導入されることとなった。
また、[[2進接頭辞]]にヨタに基づいた'''ヨビ'''({{lang|und-Latn|yobi}}、記号: Yi)が用意されている。ヨビは 2<sup>80</sup> = 1024<sup>8</sup> 倍を意味する。
1991年の制定時は「最大の値のSI接頭語」だったが、2022年11月18日に第27回[[国際度量衡総会]] (CGPM) にて、[[1 E27|10<sup>27</sup>]]の[[ロナ (単位)|ロナ]] (ronna、記号:R) と[[1 E30|10<sup>30</sup>]]の[[クエタ (単位)|クエタ]] (quetta、記号:Q) を新たなSI接頭語とすることに決定したため、31年続いたこの座を明け渡した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3439540|title=地球の重さは「6ロナグラム」 計量単位に接頭語4種追加|accessdate=2022-11-21|publisher=AFP}}</ref>。
== 関連項目 ==
* [[ヨクト]]
* [[ヨタバイト]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{SI接頭語}}
[[Category:SI接頭語|よた]]
<!-- The below are interlanguage links. -->
|
2003-09-26T15:48:34Z
|
2023-10-31T22:25:10Z
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18,402 |
エクサ
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エクサ(exa, 記号: E)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように基礎となる単位の 10(=百京)倍の量であることを示す。
1975年に定められたもので、ギリシャ語で「6」を意味する ἕξ (hex) に由来する。「6」を意味する語を用いたのは、10 = 1000 だからである。6 を意味する接頭語 εξα- (exa-) もこの ἕξ に由来するが、/h/ は発音されなくなった。
また、2進接頭辞にエクサに基づいたエクスビ(exbi, 記号: Ei)が用意されている。エクスビは 2 = 1024 倍を意味する。
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エクサ(exa, 記号: E)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように基礎となる単位の 1018(=百京)倍の量であることを示す。 1 エクサヘルツ (EHz) = 1018 ヘルツ (Hz)
1 エクサメートル (Em) = 1018 メートル (m)
1 エクサ秒 (Es) = 1018 秒 (s) 1975年に定められたもので、ギリシャ語で「6」を意味する ἕξ (hex) に由来する。「6」を意味する語を用いたのは、1018 = 10006 だからである。6 を意味する接頭語 εξα- (exa-) もこの ἕξ に由来するが、/h/ は発音されなくなった。 また、2進接頭辞にエクサに基づいたエクスビ(exbi, 記号: Ei)が用意されている。エクスビは 260 = 10246 倍を意味する。
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{{otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|その他|Exa}}
'''エクサ'''(exa, 記号: [[E]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように基礎となる単位の 10<sup>18</sup>(=百京)倍の量であることを示す<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第4</ref>。
* 1 [[エクサヘルツ]] (EHz) = 10<sup>18</sup> [[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] (Hz)
* 1 エクサメートル (Em) = 10<sup>18</sup> [[メートル]] (m)
* 1 エクサ秒 (Es) = 10<sup>18</sup> [[秒]] (s)
[[1975年]]に定められたもので、[[ギリシャ語]]で「[[6]]」を意味する '''{{lang|el|ἕξ}}''' (''hex'') に由来する。「6」を意味する語を用いたのは、10<sup>18</sup> = 1000<sup>6</sup> だからである。6 を意味する接頭語 '''{{lang|el|εξα-}}''' (''exa-'') もこの ἕξ に由来するが、/h/ は発音されなくなった。
また、[[2進接頭辞]]にエクサに基づいた'''エクスビ'''(exbi, 記号: Ei)が用意されている。エクスビは 2<sup>60</sup> = 1024<sup>6</sup> 倍を意味する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[アト]]
* [[ヘキサ]]
{{SI接頭語}}
{{DEFAULTSORT:えくさ}}
[[Category:SI接頭語]]
<!-- The below are interlanguage links. -->
[[he:תחיליות במערכת היחידות הבינלאומית#אקסה]]
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18,403 |
ペタ
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ペタ(peta, 記号: P)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の1つで、以下のように基礎となる単位の 10(=千兆)倍の量であることを示す。
10を表すエクサとともに1975年に定められたもので、ギリシャ語で「5」を意味する πέντε (pente) に由来する。これは 10 = 1000 だからである。peta は 5 を意味する接頭語 πεντα- (penta-) と似ているが、3文字目が抜けている。これはテラに倣ってつけられたもので、テラはギリシャ語で怪物を意味する teras に因むものだが、ギリシャ語で 4 を意味する接頭語 tetra- に似ており、3文字目を抜くと一致するためである。
コンピュータの分野においてペタを 1,125,899,906,842,624 (= 2 = 1024) の意味で用いる場合がある(ペタバイトなど)が、国際単位系ではこれは禁止されている。しかも、正しく10 を表す場合もある(例:1ペタビット/秒 (Pbps) = 10 ビット/秒)。この曖昧さを回避するために 2 については2進接頭辞「ペビ」(pebi, 記号: Pi)が導入されたが、あまり用いられていない。
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ペタ(peta, 記号: P)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の1つで、以下のように基礎となる単位の 1015(=千兆)倍の量であることを示す。 1 ペタヘルツ (PHz) = 1015 ヘルツ (Hz)
1 ペタメートル (Pm) = 1015 メートル (m)
1 ペタ秒 (Ps) = 1015 秒 (s) 1018を表すエクサとともに1975年に定められたもので、ギリシャ語で「5」を意味する πέντε (pente) に由来する。これは 1015 = 10005 だからである。peta は 5 を意味する接頭語 πεντα- (penta-) と似ているが、3文字目が抜けている。これはテラに倣ってつけられたもので、テラはギリシャ語で怪物を意味する teras に因むものだが、ギリシャ語で 4 を意味する接頭語 tetra- に似ており、3文字目を抜くと一致するためである。 コンピュータの分野においてペタを 1,125,899,906,842,624 (= 250 = 10245) の意味で用いる場合がある(ペタバイトなど)が、国際単位系ではこれは禁止されている。しかも、正しく1015 を表す場合もある(例:1ペタビット/秒 (Pbps) = 1015 ビット/秒)。この曖昧さを回避するために 250 については2進接頭辞「ペビ」(pebi, 記号: Pi)が導入されたが、あまり用いられていない。
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{{otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|かつて[[インドネシア]]に存在した[[軍隊]]|郷土防衛義勇軍|動物の権利団体PETA(People for the Ethical Treatment of Animals)|動物の倫理的扱いを求める人々の会}}
'''ペタ'''(peta, 記号: [[P]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の1つで、以下のように基礎となる単位の 10<sup>15</sup>(=千兆)倍の量であることを示す<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第4</ref>。
* 1 [[ペタヘルツ]] (PHz) = 10<sup>15</sup> [[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] (Hz)
* 1 ペタメートル (Pm) = 10<sup>15</sup> [[メートル]] (m)
* 1 ペタ秒 (Ps) = 10<sup>15</sup> [[秒]] (s)
10<sup>18</sup>を表す[[エクサ]]とともに[[1975年]]に定められたもので<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] pp.140-141、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年4月</ref>、[[ギリシャ語]]で「[[5]]」を意味する '''{{lang|el|πέντε}}''' (''pente'') に由来する。これは 10<sup>15</sup> = 1000<sup>5</sup> だからである。peta は 5 を意味する接頭語 '''{{lang|el|πεντα-}}''' (''penta-'') と似ているが、3文字目が抜けている。これは[[テラ]]に倣ってつけられたもので、テラはギリシャ語で怪物を意味する teras に因むものだが、ギリシャ語で 4 を意味する接頭語 tetra- に似ており、3文字目を抜くと一致するためである。
コンピュータの分野においてペタを 1,125,899,906,842,624 (= 2<sup>50</sup> = 1024<sup>5</sup>) の意味で用いる場合がある([[ペタバイト]]など)が、[[国際単位系]]ではこれは禁止されている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.112 右欄外注、「SI接頭語は、厳格に10の整数乗を意味しているもので、2のべき乗を示すために用いてはならない(例えば、1キロビットは1000ビットであって、1024ビットではない)。」、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年4月</ref>。しかも、正しく10<sup>15</sup> を表す場合もある(例:1ペタビット/秒 (Pbps) = 10<sup>15</sup> [[ビット毎秒|ビット/秒]])。この曖昧さを回避するために 2<sup>50</sup> については[[2進接頭辞]]「'''ペビ'''」(pebi, 記号: Pi)が導入されたが、あまり用いられていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[フェムト]]
{{SI接頭語}}
{{DEFAULTSORT:へた}}
[[Category:SI接頭語]]
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2023-01-03T13:24:39Z
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18,404 |
ギガ
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ギガ(giga、記号:G)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の1つで、基礎となる単位の10(=十億)倍の量であることを示す。
国際単位系 (SI) の制定時(1960年)にSI接頭語として定められたもので、古代ギリシア語で「巨人」を意味する γίγας (gigas) に由来する。初出は1947年の第14回国際純正・応用化学連合 (IUPAC) 総会の報告書の "The following prefixes to abbreviations for the names of units should be used(単位名の略語に次の接頭語を使用する必要がある): G giga 10×." という記述である。
英語においては、giga は、「固いg」(hard g) による[ˈɡɪɡə](ギガ)とも「柔らかいg」(soft g) による[ˈdʒɪɡə](ジガ)とも発音される。
1960年代と1980年代に発行されたアメリカ国立標準技術研究所 (NIST) によるメートル法接頭語の発音ガイドによって、アメリカ合衆国においては「ジガ」の発音も正式なものとされている。「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」では、共同脚本家であるボブ・ゲイルのミスにより "giga" が "jigo" と表記されており、発音も「ギガ」や「ジガ」ではなく「ジゴ」となっていることが知られている。日本語の翻訳(吹き替え)においても「ギガ」に訂正されることなく「ジゴ」として扱われている。
アメリカの作家ケビン・セルフによれば、ギガは1920年代に国際電気標準会議(IEC)のドイツ代表によって提案されたが、その際に、ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩集 Galgenlieder 第3版(1908年)の一節を提示していた。これは、ドイツ語による「固いg」(/ɡ/)で発音することが意図されていたことを示唆している。ケビン・セルフは、「柔らかいg」(/dʒ/)による発音がいつから行われるようになったかを確認できなかったが、1995年の時点で「固いg」に戻ったと主張している。
音声学者ジョン・C・ウェルズ(英語版)がイギリス人を対象に1998年に行った調査では、gigabyte(ギガバイト)の "gi" を、84 %が/ɡɪ/(ギ)、9 %が/dʒɪ/(ジ)、1 %が/dʒaɪ/(ジャイ)と発音した。
情報工学やITの分野において、SI接頭語「ギガ」は、国際単位系 (SI) の定めに従い十億(= 10)倍(= 1000 (10) メガの1000 (10) 倍)を示す場合と、国際規格などで定められていない俗習として1,073,741,824 (= 2) 倍(= 1024 (2) メビの1024 (2) 倍)を表す場合がある。
この曖昧さを回避するため、1,073,741,824 (= 2) 倍を示す接頭語として、国際規格(IEC 80000-13)にてSI接頭語と区別できる2進接頭辞「ギビ」(gibi、 記号: Gi) が定められているが、「ギビバイト」(gibibyte、記号: GiB) や「ギビビット」(gibibit、記号: Gibit,Gib) などの単位は、あまり用いられていない。
また、国際単位系 (SI) 第8版(2006年)にて、ギガやその他のSI接頭語を決して2のべき乗を表すために用いてはならないと定めているが、大手IT企業であるマイクロソフトなどが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず、2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない。なお、macOSでは、Mac OS X Leopard以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開のMac OS X Snow Leopard以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。
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"text": "英語においては、giga は、「固いg」(hard g) による[ˈɡɪɡə](ギガ)とも「柔らかいg」(soft g) による[ˈdʒɪɡə](ジガ)とも発音される。",
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"text": "1960年代と1980年代に発行されたアメリカ国立標準技術研究所 (NIST) によるメートル法接頭語の発音ガイドによって、アメリカ合衆国においては「ジガ」の発音も正式なものとされている。「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」では、共同脚本家であるボブ・ゲイルのミスにより \"giga\" が \"jigo\" と表記されており、発音も「ギガ」や「ジガ」ではなく「ジゴ」となっていることが知られている。日本語の翻訳(吹き替え)においても「ギガ」に訂正されることなく「ジゴ」として扱われている。",
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"text": "アメリカの作家ケビン・セルフによれば、ギガは1920年代に国際電気標準会議(IEC)のドイツ代表によって提案されたが、その際に、ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩集 Galgenlieder 第3版(1908年)の一節を提示していた。これは、ドイツ語による「固いg」(/ɡ/)で発音することが意図されていたことを示唆している。ケビン・セルフは、「柔らかいg」(/dʒ/)による発音がいつから行われるようになったかを確認できなかったが、1995年の時点で「固いg」に戻ったと主張している。",
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"text": "この曖昧さを回避するため、1,073,741,824 (= 2) 倍を示す接頭語として、国際規格(IEC 80000-13)にてSI接頭語と区別できる2進接頭辞「ギビ」(gibi、 記号: Gi) が定められているが、「ギビバイト」(gibibyte、記号: GiB) や「ギビビット」(gibibit、記号: Gibit,Gib) などの単位は、あまり用いられていない。",
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"text": "また、国際単位系 (SI) 第8版(2006年)にて、ギガやその他のSI接頭語を決して2のべき乗を表すために用いてはならないと定めているが、大手IT企業であるマイクロソフトなどが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず、2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない。なお、macOSでは、Mac OS X Leopard以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開のMac OS X Snow Leopard以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。",
"title": "情報工学やITにおける使用法"
}
] |
ギガ(giga、記号:G)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の1つで、基礎となる単位の109(=十億)倍の量であることを示す。 国際単位系 (SI) の制定時(1960年)にSI接頭語として定められたもので、古代ギリシア語で「巨人」を意味する γίγας (gigas) に由来する。初出は1947年の第14回国際純正・応用化学連合 (IUPAC) 総会の報告書の "The following prefixes to abbreviations for the names of units should be used(単位名の略語に次の接頭語を使用する必要がある): G giga 109×." という記述である。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語}}
'''ギガ'''({{fr|giga}}、記号:[[G]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の1つで、基礎となる単位の10<sup>9</sup>(=十億)倍の量であることを示す。
国際単位系 (SI) の制定時([[1960年]])にSI接頭語として定められたもので、[[古代ギリシア語]]で「[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]」を意味する '''{{lang|grc|γίγας}}''' ('''{{lang|grc-latn|gigas}}''') に由来する。初出は1947年の第14回[[国際純正・応用化学連合]] (IUPAC) 総会の報告書の "{{en|The following prefixes to abbreviations for the names of units should be used}}(単位名の略語に次の接頭語を使用する必要がある): G giga 10<sup>9</sup>×." という記述である<ref>{{Cite web|url=http://www.oed.com/view/Entry/78201|title=giga-, comb. form|last=|first=|accessdate=October 2011|website=Oxford English Dictionary|archive-url=|archive-date=}}</ref>。
== 英語における発音 ==
{{see also|{{仮リンク|硬いgと柔らかいg|en|Hard and soft G}}}}
[[英語]]においては、{{en|giga}} は、「固いg」({{en|''hard g''}}) による{{IPAc-en|ˈ|ɡ|ɪ|ɡ|ə}}(ギガ)とも「柔らかいg」({{en|''soft g''}}) による{{IPAc-en|ˈ|dʒ|ɪ|g|ə}}(ジガ)とも発音される<ref>{{cite web |title=SI prefixes and their etymologies |url=https://usma.org/si-prefixes-and-their-etymologies |website=US Metric Association |accessdate=27 November 2019}}</ref>。
1960年代と1980年代に発行された[[アメリカ国立標準技術研究所]] (NIST) によるメートル法接頭語の発音ガイドによって、[[アメリカ合衆国]]においては「ジガ」の発音も正式なものとされている<ref>NBS Special Publication 304 & 304A, revised August 1981, "A Brief History of Measurement Systems"</ref>。「[[バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ]]」では、共同脚本家である[[ボブ・ゲイル]]のミスにより {{en|"giga"}} が {{en|"jigo"}} と表記されており、発音も「ギガ」や「ジガ」ではなく「ジゴ」となっていることが知られている。日本語の翻訳([[吹き替え]])においても「ギガ」に訂正されることなく「ジゴ」として扱われている。
アメリカの作家ケビン・セルフによれば、ギガは1920年代に[[国際電気標準会議]](IEC)のドイツ代表によって提案されたが、その際に、ドイツの詩人[[クリスティアン・モルゲンシュテルン]]の詩集 ''{{interlang|en|Galgenlieder}}'' 第3版(1908年)の一節を提示していた<ref>{{cite book |author-last=Morgenstern |author-first=Christian |author-link=Christian Morgenstern |others=Illustrated by [[:en:Karl Walser|Karl Walser]] |title={{lang|de|Galgenlieder nebst dem 'Gingganz'}} |date=1917 |publisher=Bruno Cassirer |via=[[Project Gutenberg]] |location=Berlin, Germany |page=52 |edition=22 |language=German |quote=''[First four lines:]'' {{lang|de|Im Anfang lebte, wie bekannt, / als größter Säuger der ''Gig''-ant. / Wobei ''gig'' eine Zahl ist, die / es nicht mehr gibt, - so groß war sie!|italic=unset}}}} [These lines are the only appearance of ''gig'' in the book. {{lang|de|Gigant}} is German for "giant"; cf. "gigantic".]</ref><ref>{{cite book |author-last=Morgenstern |author-first=Christian |author-link=Christian Morgenstern |title=Gallows Songs: Christian Morgenstern's "Galgenlieder", Bilingual Edition: A Selection |date=1963 |translator-last=Knight |translator-first=Max |translator-link=Max Knight |publisher=University of California Press |isbn=9780520008847 |pages=24–25 |url=https://books.google.com/books?id=bPLXx5DYnT8C&pg=PA24 |accessdate=2016-02-20 |quote=''[Translation:]'' Of yore, on earth was dominant / the biggest mammal: the Gig-ant. / ("Gig" is a numeral so vast, / it's been extinct for ages past.)}}</ref>。これは、ドイツ語による「固いg」({{IPA|/ɡ/}})で発音することが意図されていたことを示唆している。ケビン・セルフは、「柔らかいg」({{IPA|/dʒ/}})による発音がいつから行われるようになったかを確認できなかったが、1995年の時点で「固いg」に戻ったと主張している<ref>{{cite journal |author-last=Self |author-first=Kevin |title=Technically speaking |journal=Spectrum |page=18 |publisher=[[IEEE]] |date=October 1994}}</ref><ref>{{cite journal |author-last=Self |author-first=Kevin |title=Technically speaking |journal=Spectrum |page=16 |publisher=[[IEEE]] |date=April 1995}}</ref>。
音声学者{{仮リンク|ジョン・C・ウェルズ|en|John C. Wells}}がイギリス人を対象に1998年に行った調査では、{{en|''gigabyte''}}(ギガバイト)の {{en|"gi"}} を、84 %が{{IPA|/ɡɪ/}}(ギ)、9 %が{{IPA|/dʒɪ/}}(ジ)、1 %が{{IPA|/dʒaɪ/}}(ジャイ)と発音した<ref>Wells, J. C. (1998). ''[http://www.phon.ucl.ac.uk/home/wells/poll98.htm LPD pronunciation preference poll 1998]''.</ref>。
== 強電や送電に関係する「ギガ」 ==
* [[ギガワット]] (GW) - [[発電所]]・発電プラント。日本ではギガワットはあまり使われずにテレビや新聞などでは「100万[[キロワット]]」(kW、「㌔㍗」などと[[組文字]]であることが多い)と表記されることが多い。
== 情報工学やITにおける使用法 ==
[[情報工学]]や[[情報技術|IT]]の分野において、SI接頭語「ギガ」は、国際単位系 (SI) の定めに従い'''十億'''(= 10<sup>9</sup>)'''倍'''(= 1000 (10<sup>3</sup>) メガの1000 (10<sup>3</sup>) 倍)を示す場合と、[[国際規格]]などで定められていない俗習<ref group="注">情報工学の分野において、接頭語「ギガ」を、国際単位系 (SI) の定めに従わず、俗習として1,073,741,824 (2<sup>30</sup>) 倍(= 1024 (2<sup>10</sup>) メビの1024 (2<sup>10</sup>) 倍)を示す場合があるのは、[[コンピュータ]]が内部ですべての数値を[[二進法|2進数]]に置き換えて処理していることと、1,024 (2<sup>10</sup>) が概ね1,000 (10<sup>3</sup>) であること、及び、代表的な[[オペレーティングシステム|OS]]([[Microsoft Windows]]や過去の[[macOS]]など)にて[[電子媒体|記憶媒体]]の容量や[[ファイルサイズ]]の換算に用いていることが主な理由である。</ref>として'''1,073,741,824''' (= 2<sup>30</sup>) '''倍'''(= 1024 (2<sup>10</sup>) メビの1024 (2<sup>10</sup>) 倍)を表す場合<ref name="Windows" group="注" />がある。
この曖昧さを回避するため、'''1,073,741,824''' (= 2<sup>30</sup>) '''倍'''を示す接頭語として、国際規格([[IEC 80000-13]])にてSI接頭語と区別できる[[2進接頭辞]]「'''ギビ'''」({{fr|gibi}}、 記号: Gi) が定められているが、「[[ギビバイト]]」({{fr|gibibyte}}、記号: GiB) や「[[ギビビット]]」({{fr|gibibit}}、記号: Gibit,Gib) などの単位は、あまり用いられていない{{efn2|name="Windows"}}。
また、国際単位系 (SI) 第8版(2006年)にて、ギガやその他のSI接頭語を'''決して2の[[冪乗|べき乗]]を表すために用いてはならない'''と定めている{{refnest|group="注"|「これらのSI接頭語は10の整数乗を表す。それらを決して2のべき乗を表すために用いてはならない(例えば,1キロビットは1000ビットであり,1024ビットではない)。IEC 規格 60027-2:2005,第3版,電気用文字記号―第2部:電気通信及びエレクトロニクス(IEC 60027-2: 2005, third edition, Letter symbols to be used in electrical technology –Part 2: Telecommunications and electronics)では2<sup>10</sup>,2<sup>20</sup>,2<sup>30</sup>,2<sup>40</sup>,2<sup>50</sup>,及び2<sup>60</sup>に対する接頭語がそれぞれ以下のように定義されている。
: 名称 / 記号
*キビ (kibi) / Ki
*メビ (mebi) / Mi
*ギビ (gibi) / Gi
*テビ (tebi) / Ti
*ペビ (pebi) / Pi
*エクスビ (exbi) / Ei
例えば,1[[キビバイト]]は1KiB {{=}} 2<sup>10</sup>B {{=}} 1024Bと書き表される。ここで,Bはバイトを表す。これらの接頭語はSIに属さないが,SI接頭語の誤用を避けるために,情報工学の分野では既に用いられている。」<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際単位系 (SI) 第8版(2006)日本語版(原書:国際度量衡局 日本語訳:産業技術総合研究所 計量標準総合センター)] 3.SI 単位の10進の倍量及び分量 3.1 SI接頭語 p.33サイドノート</ref> }}が、大手IT企業である[[マイクロソフト]]などが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず{{efn2|name="Windows"}}、'''2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない'''<ref name="difference" group="注" />。なお、[[macOS]]では、[[Mac OS X Leopard]]以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開の[[Mac OS X Snow Leopard]]以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT201402 |title=iOS および macOS でのストレージ容量の表示方法 |publisher=Apple Inc |date=2018-03-14 |access-date=2022-10-03 }}</ref>
=== コンピュータやスマートホンの販売店やユーザに使われる一般的な「ギガ」 ===
* [[ギガビット毎秒]] (Gbit/s) - [[コンピュータネットワーク]]の[[帯域幅]]など。1 Gbit/s = {{gaps|1|000|000|000|[[ビット毎秒|bit/s]]}}
* [[ギガヘルツ]] (GHz) - [[CPU]]の[[クロック周波数]]など。1 GHz = {{gaps|1|000|000|000|[[ヘルツ (単位)|Hz]]}}
* [[ギガバイト]] (GB) - [[オンラインストレージ|クラウドストレージ]]や[[ソリッドステートドライブ|シリコンディスク]]、[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]、[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]、[[SDメモリーカード|SDカード]]、[[DVD]]、[[Blu-ray Disc]]、[[SDRAM|内蔵メモリ]]など[[電子媒体|記憶媒体]]の容量や、[[ファイルサイズ]]を表すのに用いられる。国際単位系 (SI) の定めに従う場合<ref name="Windows" group="注">[[Microsoft Windows]]や過去の[[macOS]]では、コンピュータの記憶容量やファイルサイズについて、俗習に従い、1,024[[バイト (情報)|バイト]]を1[[キロバイト]]、1,024キロバイトを1[[メガバイト]]、1,024メガバイトを1[[ギガバイト]]と表している。(これらは[[国際規格]]([[IEC 80000-13]])に従う場合、1,024バイトを1[[キビバイト]]、1,024キビバイトを1[[メビバイト]]、1,024メビバイトを1[[ギビバイト]]と表すことができる。)</ref><ref name="difference" group="注">[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で記憶媒体の詳細な空き容量を調べてみると、カタログスペックとして記載されている容量より、表示される容量のほうが少なくなることが多い。これは記憶媒体の容量を、メーカーが国際単位系 (SI) に従い10の整数乗で計算することが多いのに対し、主なパソコンの[[オペレーティングシステム]]([[Microsoft Windows]]・過去の[[macOS]])が俗習に従い2のべき乗で計算することに起因する。</ref>、 1 GB = {{gaps|1|000|000|000|[[バイト (情報)|バイト]]}}
**上の用法から転じて、[[スマートフォン]]などを用いる際、月極でデータ通信量の上限が決まっている契約形態において、月のデータ通信量の上限に近くなった状況を「ギガが減る」<ref name="sim">{{Cite web|和書
|url=https://join.biglobe.ne.jp/mobile/sim/gurashi/word_giga/
|title=「ギガがない」「ギガが減る」のギガとは?用語解説や対策方法
|author=ラチーコ
|date=2021-10-01
|website=しむぐらし
|publisher=[[BIGLOBE]]
|accessdate=2022-02-15}}</ref><ref name="itmedia">{{cite news
|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1706/08/news043.html
|title=若者はみんな使っている? 謎のワード「ギガが減る」とは
|author=山口恵祐
|newspaper=itmedia news
|date=2017-06-08
|accessdate=2022-02-15}}</ref>、上限に達して通信速度が低下した状況を「ギガがない」などという表現を使用する者がいる<ref name="sim"/>。この用法は、「パケ死」という表現と入れ替わるようにして用いられるようになった<ref name="itmedia"/>。なお、[[Au (通信)|AU]]や[[IIJ]]などの大手通信会社の通信管理用アプリなどでは、データ残量と表示される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.au.com/support/faq/detail/23/a00000000123/|title=【My au】データ利用量を確認したい|publisher=au|accessdate=2022-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://help.iijmio.jp/answer/60a2452934156a001bb2e1fa|title=データ残量・クーポン残量の見方を教えてください。【ギガプラン・mioモバイル】|publisher=IIJ|accessdate=2022-10-03}}</ref>。
== SI接頭語 ==
{{SI接頭語}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|50em}}
== 外部リンク ==
* [http://www.bipm.org BIPM website]
{{デフォルトソート:きか}}
[[Category:SI接頭語]]
[[he:תחיליות במערכת היחידות הבינלאומית#גיגה]]
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18,405 |
テラ
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テラ(tera, 記号: T)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の1つで、基礎となる単位の10(=一兆)倍の量であることを示す。
国際単位系 (SI) の制定時(1960年)にSI接頭語として定められたもので、ギリシア語で「怪物」を意味する τέρας (teras) に由来する。
また、これはギリシア語で「4」を意味する接頭語 τετρα- (tetra-) に似ており、10 = 1000 でもあるため、ペタ以上の接頭語を制定する際に参考にされた。
情報工学の分野において、SI接頭語「テラ」は、国際単位系 (SI) の定めに従い一兆(= 10)倍(= 1000(10)ギガの1000(10)倍)を示す場合と、国際規格などで定められていない俗習として1,099,511,627,776(= 2)倍(= 1024(2)ギビの1024(2)倍)を表す場合がある。
この曖昧さを回避するため、1,099,511,627,776(= 2)倍を示す接頭語として、国際規格(IEC 80000-13)にてSI接頭語と区別できる2進接頭辞「テビ」(tebi,記号:Ti)が定められているが、「テビバイト」(tebibyte,記号:TiB)や「テビビット」(tebibit,記号:Tibit,Tib)などの単位は、あまり用いられていない。
また、国際単位系 (SI) 第8版(2006年)にて、ギガやその他のSI接頭語を決して2のべき乗を表すために用いてはならないと定めているが、大手IT企業であるマイクロソフトなどが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず、2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない。なお、macOSでは、Mac OS X Leopard以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開のMac OS X Snow Leopard以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。
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テラ(tera, 記号: T)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の1つで、基礎となる単位の1012(=一兆)倍の量であることを示す。
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'''テラ'''(tera, 記号: [[T]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の1つで、基礎となる単位の10<sup>12</sup>(=[[一兆]])倍の量であることを示す。
==概要==
国際単位系 (SI) の制定時([[1960年]])にSI接頭語として定められたもので、[[ギリシア語]]で「[[怪物]]」を意味する '''{{lang|el|τέρας}}''' (''teras'') に由来する。
また、これはギリシア語で「[[4]]」を意味する[[接頭語]] '''{{lang|el|τετρα-}}''' (''tetra-'') に似ており、10<sup>12</sup> = 1000<sup>4</sup> でもあるため、[[ペタ]]以上の接頭語を制定する際に参考にされた。
== 一般的な用法 ==
* [[テラヘルツ]] (THz) - 1 THz = {{gaps|1|000|000|000|000|[[ヘルツ (単位)|Hz]]}}
* [[テラビット毎秒]](Tbit/s) - [[コンピュータネットワーク]]の[[帯域幅]]など。1 Tbit/s = {{gaps|1|000|000|000|000|[[ビット毎秒|bit/s]]}}
* [[テラバイト]](TB) - [[オンラインストレージ|クラウドストレージ]]や[[ソリッドステートドライブ|シリコンディスク]]、[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]など[[電子媒体|記憶媒体]]の容量や、[[ファイルサイズ]]を表すのに用いられる。国際単位系 (SI) の定めに従う場合<ref name="Windows">[[Microsoft Windows]]や過去の[[macOS]]では、コンピュータの記憶容量やファイルサイズについて、俗習に従い、1,024[[バイト (情報)|バイト]]を1[[キロバイト]]、1,024キロバイトを1[[メガバイト]]、1,024メガバイトを1[[ギガバイト]]、1,024ギガバイトを1[[テラバイト]]と表している。(これらは[[国際規格]]([[IEC 80000-13]])に従う場合、1,024バイトを1[[キビバイト]]、1,024キビバイトを1[[メビバイト]]、1,024メビバイトを1[[ギビバイト]]、1,024ギビバイトを1[[テビバイト]]と表すことができる。)</ref><ref name="difference">[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で記憶媒体の詳細な空き容量を調べてみると、カタログスペックとして記載されている容量より、表示される容量のほうが少なくなることが多い。これは記憶媒体の容量を、メーカーが国際単位系 (SI) に従い10の整数乗で計算することが多いのに対し、主なパソコンの[[オペレーティングシステム]]([[Microsoft Windows]]・過去の[[macOS]])が俗習に従い2のべき乗で計算することに起因する。</ref>、 1 TB = {{gaps|1|000|000|000|000|[[バイト (情報)|バイト]]}}
== SI接頭語 ==
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== 情報工学の分野における使用法 ==
情報工学の分野において、SI接頭語「テラ」は、国際単位系 (SI) の定めに従い'''一兆'''(= 10<sup>12</sup>)'''倍'''(= 1000(10<sup>3</sup>)ギガの1000(10<sup>3</sup>)倍)を示す場合と、[[国際規格]]などで定められていない俗習<ref>情報工学の分野において、接頭語「ギガ」を、国際単位系 (SI) の定めに従わず、俗習として1,099,511,627,776(2<sup>40</sup>)倍(= 1024(2<sup>10</sup>)ギビの1024(2<sup>10</sup>)倍)を示す場合があるのは、[[コンピュータ]]が内部ですべての数値を[[二進法|2進数]]に置き換えて処理していることと、1,024(2<sup>10</sup>)が概ね1,000(10<sup>3</sup>)であること、及び、代表的な[[オペレーティングシステム|OS]]([[Microsoft Windows]]や過去の[[macOS]]など)にて[[電子媒体|記憶媒体]]の容量や[[ファイルサイズ]]の換算に用いていることが主な理由である。</ref>として'''1,099,511,627,776'''(= 2<sup>40</sup>)'''倍'''(= 1024(2<sup>10</sup>)ギビの1024(2<sup>10</sup>)倍)を表す場合<ref name="Windows" />がある。
この曖昧さを回避するため、'''1,099,511,627,776'''(= 2<sup>40</sup>)'''倍'''を示す接頭語として、国際規格([[IEC 80000-13]])にてSI接頭語と区別できる[[2進接頭辞]]「'''テビ'''」(tebi,記号:Ti)が定められているが、「[[テビバイト]]」(tebibyte,記号:TiB)や「[[テビビット]]」(tebibit,記号:Tibit,Tib)などの単位は、あまり用いられていない<ref name="Windows" />。
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:名称 / 記号
*キビ (kibi) / Ki
*メビ (mebi) / Mi
*ギビ (gibi) / Gi
*テビ (tebi) / Ti
*ペビ (pebi) / Pi
*エクスビ (exbi) / Ei
例えば,1[[キビバイト]]は1KiB = 2<sup>10</sup>B = 1024Bと書き表される。ここで,Bはバイトを表す。これらの接頭語はSIに属さないが,SI接頭語の誤用を避けるために,情報工学の分野では既に用いられている。」</ref>が、大手IT企業である[[マイクロソフト]]などが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず<ref name="Windows" />、'''2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない'''<ref name="difference" />。なお、[[macOS]]では、[[Mac OS X Leopard]]以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開の[[Mac OS X Snow Leopard]]以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT201402 |title=iOS および macOS でのストレージ容量の表示方法 |publisher=Apple Inc |date=2018-03-14 |access-date=2022-10-03 }}</ref>
== 脚注 ==
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[[Category:SI接頭語]]
[[he:תחיליות במערכת היחידות הבינלאומית#טרה]]
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18,406 |
ヘクト
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ヘクト(hecto, 記号:h)は、国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の10(=100)倍の量であることを示す。
1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。ヘクトは、ギリシャ語で「百」を意味する ἑκατόν (hecatón) に由来する。当時は、倍量の接頭語はギリシャ語から、分量の接頭語はラテン語から作成することとしていた。そこで、ギリシャ語の単語をフランス語風に変更して作られたのがヘクト (hecto) である。なお、フランス語ではエクトと発音する。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際に正式に承認された。
倍量の接頭語は12個あり、そのうちの9個の記号は大文字であるが、デカ、ヘクト、キロの3つは小文字である。これは、倍量には大文字を使うという決まりができる前にすでにデカ、ヘクト、キロが定められており、小文字で定着していたためである。なお、大文字のHは、インダクタンスの単位のヘンリーであるため、混同を避けるためにもヘクトの記号は立体・小文字でなけらばならない。
今日では、科学的な用途ではヘクトはほとんど用いられない。科学的な用途では、指数が3の倍数であるものの使用が好まれ、例えば2 hmではなく200 mまたは0.2 kmと書かれる。
例外は圧力の単位ヘクトパスカル (hPa) である。この単位はCGS単位系のバールをSI準拠のパスカルに置き替える際、それまでのミリバール (mbar, mb) と値を同じにするために導入されたものである。
なお、面積の単位ヘクタール (ha) は、元々は接頭語のヘクトとアールの組み合わせが由来であるが、現在では国際単位系(SI)においても計量法においても、10 000 mを表す特別の単位であって、接頭語 ヘクト を用いた単位ではない。
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ヘクト(hecto, 記号:h)は、国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の102(=100)倍の量であることを示す。 1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。ヘクトは、ギリシャ語で「百」を意味する ἑκατόν (hecatón) に由来する。当時は、倍量の接頭語はギリシャ語から、分量の接頭語はラテン語から作成することとしていた。そこで、ギリシャ語の単語をフランス語風に変更して作られたのがヘクト (hecto) である。なお、フランス語ではエクトと発音する。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際に正式に承認された。 倍量の接頭語は12個あり、そのうちの9個の記号は大文字であるが、デカ、ヘクト、キロの3つは小文字である。これは、倍量には大文字を使うという決まりができる前にすでにデカ、ヘクト、キロが定められており、小文字で定着していたためである。なお、大文字のHは、インダクタンスの単位のヘンリーであるため、混同を避けるためにもヘクトの記号は立体・小文字でなけらばならない。 今日では、科学的な用途ではヘクトはほとんど用いられない。科学的な用途では、指数が3の倍数であるものの使用が好まれ、例えば2 hmではなく200 mまたは0.2 kmと書かれる。 例外は圧力の単位ヘクトパスカル (hPa) である。この単位はCGS単位系のバールをSI準拠のパスカルに置き替える際、それまでのミリバール (mbar, mb) と値を同じにするために導入されたものである。 なお、面積の単位ヘクタール (ha) は、元々は接頭語のヘクトとアールの組み合わせが由来であるが、現在では国際単位系(SI)においても計量法においても、10 000 m2を表す特別の単位であって、接頭語 ヘクト を用いた単位ではない。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|コンピュータゲームメーカー|ヘクト (ゲーム会社)}}
'''ヘクト'''(hecto, 記号:[[h]])は、[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、基礎となる単位の10<sup>2</sup>(=[[100]])倍の量であることを示す。
[[1795年]]の当初の[[メートル法]]で定められた6つの接頭語の一つである。ヘクトは、[[ギリシャ語]]で「百」を意味する '''{{lang|grc|ἑκατόν}}''' ('''{{ラテン翻字|grc|hecatón}}''') に由来する。当時は、倍量の接頭語はギリシャ語から、分量の接頭語はラテン語から作成することとしていた。そこで、ギリシャ語の単語を[[フランス語]]風に変更して作られたのがヘクト (hecto) である。なお、フランス語ではエクトと発音する。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) でSIが制定される際に正式に承認された。
倍量の接頭語は12個あり、そのうちの9個の記号は大文字であるが、[[デカ]]、ヘクト、[[キロ]]の3つは小文字である。これは、倍量には大文字を使うという決まりができる前にすでに[[デカ]]、ヘクト、[[キロ]]が定められており、小文字で定着していたためである。なお、大文字のHは、インダクタンスの単位の[[ヘンリー (単位)|ヘンリー]]であるため、混同を避けるためにもヘクトの記号は立体・小文字でなけらばならない。
今日では、科学的な用途ではヘクトはほとんど用いられない。科学的な用途では、指数が3の倍数であるものの使用が好まれ、例えば2 hmではなく200 mまたは0.2 kmと書かれる。
例外は圧力の単位[[ヘクトパスカル]] (hPa) である。この単位は[[CGS単位系]]の[[バール (単位)|バール]]をSI準拠の[[パスカル (単位)|パスカル]]に置き替える際、それまでのミリバール (mbar, mb) と値を同じにするために導入されたものである。
なお、面積の単位[[ヘクタール]] (ha) は、元々は接頭語のヘクトと[[アール (単位)|アール]]の組み合わせが由来であるが、現在では[[国際単位系]](SI)においても[[計量法]]においても、10 000 m<sup>2</sup>を表す特別の単位であって、接頭語 ヘクト を用いた単位ではない。
{{SI接頭語}}
==関連項目==
{{Wiktionary}}
*[[ヘカトンケイル]] - 100の手という意味。50頭100手の巨人の姿をしているとされる。
*[[ヘクタン]] - 炭素数100の直鎖状の[[アルカン]]。ヘクト (hecto) の語尾がアルカンを意味する (ane) に変わっている。
{{DEFAULTSORT:へくと}}
[[Category:SI接頭語]]
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2003-09-26T15:51:46Z
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18,407 |
メガ
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メガ(mega, 記号:M)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の10(=百万)倍の量であることを示す。
例:
本来は「巨大な」を意味する接頭語で、ギリシャ語で「大きい」(great) という意味の μέγας (megas) に由来する。本来の意味での用例は、古典的な語ではメガホン、メガリス、また、大きな都市を表すメガポリス、メガシティ、メガロポリス、近年の例ではメガフロート、メガマックなどがある。
1874年、英国科学振興協会 (BA) がCGS単位系の電磁気の単位の標準化を行う際に、その一部としてマイクロとともに新たに導入された。CGS単位系で電磁気の単位を組み立てると、その示す値が非常に小さくまたは大きくなるため、それまであった接頭語だけでは足りず、新たな接頭語を導入する必要があった。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際、正式に承認された。
核兵器の威力を示すのに使われる単位であるメガトンは、メガTNTトン、つまり百万トンのTNT火薬の爆発力に相当するエネルギーを表す。
情報工学の分野において、SI接頭語「メガ」は、国際単位系 (SI) の定めに従い百万(= 10)倍(= 1000(10)キロの1000(10)倍)を示す場合と、国際規格などで定められていない俗習として1,048,576(= 2)倍(= 1024(2)キビの1024(2)倍)を表す場合がある。
この曖昧さを回避するため、1,048,576(= 2)倍を示す接頭語として、国際規格(IEC 80000-13)にてSI接頭語と区別できる2進接頭辞「メビ」(mebi,記号:Mi)が定められているが、「メビバイト」(mebibyte,記号:MiB)や「メビビット」(mebibit,記号:Mibit,Mib)などの単位は、あまり用いられていない。
また、国際単位系 (SI) 第8版(2006年)にて、メガやその他のSI接頭語を決して2のべき乗を表すために用いてはならないと定めているが、大手IT企業であるマイクロソフトなどが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず、2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない。なお、macOSでは、Mac OS X Leopard以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開のMac OS X Snow Leopard以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。
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"title": "情報工学の分野における使用法"
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メガ(mega, 記号:M)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の106(=百万)倍の量であることを示す。 例: 1メガワット (MW) = 1,000,000ワット (W)
1メガヘルツ (MHz) = 1,000,000ヘルツ (Hz)
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{{Otheruseslist|国際単位系 (SI) における接頭語|測定器|絶縁抵抗計|巨大数におけるメガ|多角形表記#スタインハウスのメガ|クラウド・オンラインストレージサービス|MEGA|[[カール・マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス]]の全集|Marx-Engels-Gesamtausgabe|[[ドラッグストア]]のメガ|紅屋商事}}
'''メガ'''(mega, 記号:[[M]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように、基礎となる単位の10<sup>6</sup>(=[[百万]])倍の量であることを示す。
例:
*1メガワット (MW) = 1,000,000[[ワット]] (W)
*1[[メガヘルツ]] (MHz) = 1,000,000[[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] (Hz)
==概要==
本来は「巨大な」を意味する接頭語で、[[ギリシャ語]]で「大きい」(great) という意味の '''{{lang|el|μέγας}}''' ('''megas''') に由来する。本来の意味での用例は、古典的な語では[[メガホン]]、[[巨石記念物|メガリス]]、また、大きな都市を表すメガポリス、[[メガシティ]]、[[メガロポリス]]、近年の例では[[メガフロート]]、[[メガマック]]などがある。
[[1874年]]、[[英国科学振興協会]] (BA) が[[CGS単位系]]の電磁気の単位の標準化を行う際に、その一部として[[マイクロ]]とともに新たに導入された。CGS単位系で電磁気の単位を組み立てると、その示す値が非常に小さくまたは大きくなるため、それまであった接頭語だけでは足りず、新たな接頭語を導入する必要があった。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) でSIが制定される際、正式に承認された。
[[核兵器]]の威力を示すのに使われる単位である[[メガトン]]は、メガ[[TNTトン]]、つまり百万[[トン]]の[[TNT火薬]]の爆発力に相当するエネルギーを表す。
== SI接頭語 ==
{{SI接頭語}}
== 情報工学の分野における使用法 ==
情報工学の分野において、SI接頭語「メガ」は、国際単位系 (SI) の定めに従い'''百万'''(= 10<sup>6</sup>)'''倍'''(= 1000(10<sup>3</sup>)キロの1000(10<sup>3</sup>)倍)を示す場合と、[[国際規格]]などで定められていない俗習<ref>情報工学の分野において、接頭語「メガ」を、国際単位系 (SI) の定めに従わず、俗習として1,048,576(2<sup>20</sup>)倍(= 1024(2<sup>10</sup>)キビの1024(2<sup>10</sup>)倍)を示す場合があるのは、[[コンピュータ]]が内部ですべての数値を[[二進法|2進数]]に置き換えて処理していることと、1,024(2<sup>10</sup>)が概ね1,000(10<sup>3</sup>)であること、及び、代表的な[[オペレーティングシステム|OS]]([[Microsoft Windows]]や過去の[[macOS]]など)にて[[電子媒体|記憶媒体]]の容量や[[ファイルサイズ]]の換算に用いていることが主な理由である。</ref>として'''1,048,576'''(= 2<sup>20</sup>)'''倍'''(= 1024(2<sup>10</sup>)キビの1024(2<sup>10</sup>)倍)を表す場合<ref name="Windows">[[Microsoft Windows]]や過去の[[macOS]]では、コンピュータの記憶容量やファイルサイズについて、俗習に従い、1,024[[バイト (情報)|バイト]]を1[[キロバイト]]、1,024キロバイトを1[[メガバイト]]と表している。(これらは[[国際規格]]([[IEC 80000-13]])に従う場合、1,024バイトを1[[キビバイト]]、1,024キビバイトを1[[メビバイト]]と表すことができる。)</ref><ref name="ITEngineersExamination">[[国家試験]]である[[情報処理技術者試験]]にて、「1Mバイト=1,000kバイト」として計算させる問題([[基本情報技術者]] 平成28年春期 午前 問12など)と、「1Mバイト=1,024kバイト」として計算させる問題(基本情報技術者 平成25年秋期 午前 問11など)が出題されている。</ref><ref name="TextBook">[https://seiai.ed.jp/sys/text/csd/cf13/c13b060.html 各教科書のキロバイト] - [[高等学校]]の[[教育課程]]「[[情報 (教科)|情報の科学]]」の教科書では、「[[キビバイト]]」や「[[メビバイト]]」など[[2進接頭辞]]を用いた単位の説明をせず、「キロ」を1,024倍、「メガ」を1,048,576倍(= 1,024キビの1,024倍)と説明するものが多い。 </ref>がある。
この曖昧さを回避するため、'''1,048,576'''(= 2<sup>20</sup>)'''倍'''を示す接頭語として、国際規格([[IEC 80000-13]])にてSI接頭語と区別できる[[2進接頭辞]]「'''メビ'''」(mebi,記号:Mi)が定められているが、「[[メビバイト]]」(mebibyte,記号:MiB)や「[[メビビット]]」(mebibit,記号:Mibit,Mib)などの単位は、あまり用いられていない<ref name="Windows" /><ref name="ITEngineersExamination" /><ref name="TextBook" />。
また、国際単位系 (SI) 第8版(2006年)にて、メガやその他のSI接頭語を'''決して2の[[冪乗|べき乗]]を表すために用いてはならない'''と定めている<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際単位系 (SI) 第8版(2006)日本語版(原書:国際度量衡局 日本語訳:産業技術総合研究所 計量標準総合センター)] 3.SI 単位の10進の倍量及び分量 3.1 SI接頭語 p.33サイドノート<br />「これらのSI接頭語は10の整数乗を表す。それらを決して2のべき乗を表すために用いてはならない(例えば,1キロビットは1000ビットであり,1024ビットではない)。IEC 規格 60027-2:2005,第3版,電気用文字記号―第2部:電気通信及びエレクトロニクス(IEC 60027-2: 2005, third edition, Letter symbols to be used in electrical technology –Part 2: Telecommunications and electronics)では2<sup>10</sup>,2<sup>20</sup>,2<sup>30</sup>,2<sup>40</sup>,2<sup>50</sup>,及び2<sup>60</sup>に対する接頭語がそれぞれ以下のように定義されている。
:名称 / 記号
*キビ (kibi) / Ki
*メビ (mebi) / Mi
*ギビ (gibi) / Gi
*テビ (tebi) / Ti
*ペビ (pebi) / Pi
*エクスビ (exbi) / Ei
例えば,1[[キビバイト]]は1KiB = 2<sup>10</sup>B = 1024Bと書き表される。ここで,Bはバイトを表す。これらの接頭語はSIに属さないが,SI接頭語の誤用を避けるために,情報工学の分野では既に用いられている。」</ref>が、大手IT企業である[[マイクロソフト]]などが、未だ国際単位系 (SI) の定めに完全には従っておらず<ref name="Windows" /><ref name="ITEngineersExamination" /><ref name="TextBook" />、'''2のべき乗を表す用法も混在する状況は解決されていない'''<ref>[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で記憶媒体の詳細な空き容量を調べてみると、カタログスペックとして記載されている容量より、表示される容量のほうが少なくなることが多い。これは記憶媒体の容量を、メーカーが国際単位系 (SI) に従い10の整数乗で計算することが多いのに対し、主なパソコンの[[オペレーティングシステム]]([[Microsoft Windows]]・過去の[[macOS]])が俗習に従い2のべき乗で計算することに起因する。</ref>。なお、[[macOS]]では、[[Mac OS X Leopard]]以前は2のべき乗(1024倍)が用いられていたが、2009年公開の[[Mac OS X Snow Leopard]]以降は10の整数乗(1000倍)を用いたストレージ容量やファイルサイズ表示に変更された。<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT201402 |title=iOS および macOS でのストレージ容量の表示方法 |publisher=Apple Inc |date=2018-03-14 |access-date=2022-10-03 }}</ref>
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[ミリオン]]
*{{prefix}}
*{{intitle}}
{{デフォルトソート:めか}}
[[Category:SI接頭語]]
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18,408 |
デカ
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デカ(deca, 記号:da)は国際単位系 (SI) および日本の計量法におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の10(=10)倍の量であることを示す。decaを用いた単語に、decahedron(十面体)、decade(十年間)、decathlon(十種競技)などがある。
SIの国際文書(英語版)における正式の英語表記は deca であり、これは英国でも日本でも同じである。ただし、アメリカ合衆国においてのみ、例外的に "deka" と綴られる(詳細は「リットル#英語表記」を参照)。
1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。デカは、ギリシャ語で「十」を意味する δέκα (deka) に由来する。当時は、倍量の接頭語はギリシャ語から、分量の接頭語はラテン語から作成することとしていた。そこで、ギリシャ語の単語をフランス語風に変更して作られたのがデカ (deca) である。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際に正式に承認された。
倍量の接頭語の記号のうちメガ(記号 M、10)以上の記号は大文字であるが、デカ(da)、ヘクト(h)、キロ(k)は小文字である。これは、倍量には大文字を使うという決まりができる前にすでにデカ、ヘクト、キロが定められており、すでに小文字で定着していたためである。デカの記号 da を、Da などと大文字にしてはならない(Da はSI併用単位であるダルトンの単位記号となっている)。また、SI接頭語の中では唯一記号が2文字である。1文字のdはデシに割り当てたためである。
科学的な用途では、キロ、メガ、ギガ、テラそしてミリ、マイクロ、ナノ、ピコなどの、指数が3の倍数であるものを使用することがほとんどであり、デカはまず用いられない。また、それ以外の用途でも、値が小さすぎて接頭語を用いる有用性があまり無いことから、デカ (da) が用いられることは皆無と考えてさしつかえない。例えば2デカメートルではなく20メートルと書かれる。ただし、中央ヨーロッパの一部(オーストリア、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーなど)ではデカグラム (dag) が比較的よく用いられる。これはメートル法以前にドイツ語圏で用いられていた単位である「ロート(ドイツ語版)」に由来する。
デカはアパレル業界において手袋・靴下の10着(1着は左右ペア)の単位として使われることがあり、この場合の単位記号は「X」(ローマ数字の10)である。
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デカ(deca, 記号:da)は国際単位系 (SI) および日本の計量法におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の101(=10)倍の量であることを示す。decaを用いた単語に、decahedron(十面体)、decade(十年間)、decathlon(十種競技)などがある。 SIの国際文書(英語版)における正式の英語表記は deca であり、これは英国でも日本でも同じである。ただし、アメリカ合衆国においてのみ、例外的に "deka" と綴られる(詳細は「リットル#英語表記」を参照)。 1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。デカは、ギリシャ語で「十」を意味する δέκα (deka) に由来する。当時は、倍量の接頭語はギリシャ語から、分量の接頭語はラテン語から作成することとしていた。そこで、ギリシャ語の単語をフランス語風に変更して作られたのがデカ (deca) である。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際に正式に承認された。 倍量の接頭語の記号のうちメガ(記号 M、106)以上の記号は大文字であるが、デカ(da)、ヘクト(h)、キロ(k)は小文字である。これは、倍量には大文字を使うという決まりができる前にすでにデカ、ヘクト、キロが定められており、すでに小文字で定着していたためである。デカの記号 da を、Da などと大文字にしてはならない(Da はSI併用単位であるダルトンの単位記号となっている)。また、SI接頭語の中では唯一記号が2文字である。1文字のdはデシに割り当てたためである。 科学的な用途では、キロ、メガ、ギガ、テラそしてミリ、マイクロ、ナノ、ピコなどの、指数が3の倍数であるものを使用することがほとんどであり、デカはまず用いられない。また、それ以外の用途でも、値が小さすぎて接頭語を用いる有用性があまり無いことから、デカ (da) が用いられることは皆無と考えてさしつかえない。例えば2デカメートルではなく20メートルと書かれる。ただし、中央ヨーロッパの一部(オーストリア、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーなど)ではデカグラム (dag) が比較的よく用いられる。これはメートル法以前にドイツ語圏で用いられていた単位である「ロート」に由来する。 デカはアパレル業界において手袋・靴下の10着(1着は左右ペア)の単位として使われることがあり、この場合の単位記号は「X」(ローマ数字の10)である。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|一部の警察官の通称としての刑事(デカ)|刑事}}
'''デカ'''(deca, 記号:da)は[[国際単位系]] (SI) および日本の[[計量法]]における[[SI接頭語]]の一つで、基礎となる単位の10<sup>1</sup>(=[[10]])倍の量であることを示す。decaを用いた単語に、decahedron([[十面体]])、[[デケイド|decade]]([[十年紀|十年間]])、decathlon([[十種競技]])などがある。
SIの国際文書(英語版)における正式の英語表記は '''deca''' であり、これは英国でも日本でも同じである。ただし、アメリカ合衆国においてのみ、例外的に "'''deka'''" と綴られる(詳細は「[[リットル#英語表記]]」を参照)。
[[1795年]]の当初の[[メートル法]]で定められた6つの接頭語の一つである。デカは、[[ギリシャ語]]で「十」を意味する '''δέκα''' ('''deka''') に由来する。当時は、倍量の接頭語はギリシャ語から、分量の接頭語はラテン語から作成することとしていた。そこで、ギリシャ語の単語を[[フランス語]]風に変更して作られたのがデカ (deca) である。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) でSIが制定される際に正式に承認された<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月。pp.132-133、第11回 国際度量衡総会(CGPM),1960年, 決議12</ref>。
倍量の接頭語の記号のうちメガ(記号 M、10<sup>6</sup>)以上の記号は[[大文字]]であるが、デカ(da)、[[ヘクト]](h)、[[キロ]](k)は小文字である。これは、倍量には大文字を使うという決まりができる前にすでにデカ、ヘクト、キロが定められており、すでに小文字で定着していたためである。デカの記号 da を、Da などと大文字にしてはならない(Da は[[SI併用単位]]である[[統一原子質量単位|ダルトン]]の単位記号となっている)。また、SI接頭語の中では唯一記号が2文字である。1文字のdは[[デシ]]に割り当てたためである。
科学的な用途では、[[キロ]]、[[メガ]]、[[ギガ]]、[[テラ]]そして[[ミリ]]、[[マイクロ]]、[[ナノ]]、[[ピコ]]などの、指数が3の倍数であるものを使用することがほとんどであり、デカはまず用いられない。また、それ以外の用途でも、値が小さすぎて接頭語を用いる有用性があまり無いことから、デカ (da) が用いられることは皆無と考えてさしつかえない。例えば2デカメートルではなく20メートルと書かれる。ただし、[[中央ヨーロッパ]]の一部([[オーストリア]]、[[ポーランド]]、[[チェコ]]、[[スロバキア]]、[[ハンガリー]]など)ではデカグラム (dag) が比較的よく用いられる。これはメートル法以前にドイツ語圏で用いられていた単位である「{{仮リンク|ロート (単位)|label=ロート|de|Lot (Einheit)}}」に由来する。
デカはアパレル業界において手袋・靴下の10着(1着は左右ペア)の単位として使われることがあり、この場合の単位記号は「X」([[ローマ数字]]の10)である。
== 符号位置 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称
{{CharCode|13170|3372|-|デカ<br />SQUARE DA}}
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== 出典 ==
<references />
{{SI接頭語}}
{{DEFAULTSORT:てか}}
[[Category:SI接頭語]]
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18,409 |
デシ
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デシ(deci, 記号: d)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10倍(= 10 分の 1、0.1 倍)の量であることを示す。"d"は立体かつ小文字でなければならない。
1795年の当初のメートル法で定められた6つのSI接頭語の一つである。デシは、ラテン語で十分の一を意味する decimus に由来する。当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語はギリシャ語から作成することとしていた。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。
使用例としてデシリットル (竕, dL)、デシベル (dB)などがある。また皮革の大きさを表す単位として、平方デシメートル (平粉; 1 dm = 10 cm × 10 cm) が使用されている。
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"text": "1795年の当初のメートル法で定められた6つのSI接頭語の一つである。デシは、ラテン語で十分の一を意味する decimus に由来する。当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語はギリシャ語から作成することとしていた。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。",
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"title": "概説"
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デシは国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10−1倍の量であることを示す。"d"は立体かつ小文字でなければならない。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|南アジア諸国出身者を指す民族名称|デシ (南アジア)|弟子|師弟}}
'''デシ'''(deci, 記号: [[d]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、基礎となる単位の 10<sup>−1</sup>倍(= [[10]] 分の 1、[[0.1]] 倍)の量であることを示す。"d"は[[立体活字|立体]]かつ小文字でなければならない。
== 概説 ==
[[1795年]]の当初の[[メートル法]]で定められた6つの[[SI接頭語]]の一つである。デシは、[[ラテン語]]で十分の一を意味する '''decimus''' に由来する。当時は、分量の接頭語は[[ラテン語]]から、倍量の接頭語は[[ギリシャ語]]から作成することとしていた。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。
使用例として[[デシリットル]] (竕, dL)、[[デシベル]] (dB)などがある。また[[皮革]]の大きさを表す単位として、[[平方メートル|平方]][[デシメートル]] (平粉; 1 dm{{sup|2}} = 10 [[センチメートル|cm]] × 10 cm) が使用されている。
== SI接頭語 ==
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[[Category:SI接頭語]]
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18,410 |
ミリ
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ミリ(milli, 記号:m)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10倍(= 1000 分の 1、0.001 倍)の量であることを示す。
1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。ミリは、ラテン語で「千」を意味する mille に由来する。当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語はギリシャ語から作成することとしていた。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。
ミリメートル (mm、粍) を指して単に「ミリ」とだけ言うことが多い。転じて、「1ミリも(〜ない/ぬ)」という形の、否定文脈で使われる程度副詞が用いられている。
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"text": "1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。ミリは、ラテン語で「千」を意味する mille に由来する。当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語はギリシャ語から作成することとしていた。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。",
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"text": "ミリメートル (mm、粍) を指して単に「ミリ」とだけ言うことが多い。転じて、「1ミリも(〜ない/ぬ)」という形の、否定文脈で使われる程度副詞が用いられている。",
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ミリは国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10−3倍の量であることを示す。 1 ミリメートル (mm) = 1/1000 メートル (m)
1 ミリリットル (mL) = 1/1000 リットル (L)
1 ミリグラム (mg) = 1/1000 グラム (g)
1 ミリ秒 (ms) = 1/1000 秒 (s)
1 ミリアンペア (mA) = 1/1000 アンペア (A) 1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。ミリは、ラテン語で「千」を意味する mille に由来する。当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語はギリシャ語から作成することとしていた。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。 ミリメートル (mm、粍) を指して単に「ミリ」とだけ言うことが多い。転じて、「1ミリも(〜ない/ぬ)」という形の、否定文脈で使われる程度副詞が用いられている。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|マレーシアの都市|ミリ (サラワク州)|マーシャル諸島の環礁・島|ミリ環礁|中国の自治県|ムリ・チベット族自治県}}
'''ミリ'''(milli, 記号:[[m]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10<sup>−3</sup>倍(= [[1000]] 分の 1、0.001 倍)の量であることを示す。
* 1 [[ミリメートル]] (mm) = 1/1000 [[メートル]] (m)
* 1 [[ミリリットル]] (mL) = 1/1000 [[リットル]] (L)
* 1 [[ミリグラム]] (mg) = 1/1000 [[グラム]] (g)
* 1 [[ミリ秒]] (ms) = 1/1000 [[秒]] (s)
* 1 ミリ[[アンペア]] (mA) = 1/1000 アンペア (A)
[[1795年]]の当初の[[メートル法]]で定められた6つの接頭語の一つである。ミリは、[[ラテン語]]で「千」を意味する '''mille''' に由来する。当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語はギリシャ語から作成することとしていた。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。
[[ミリメートル]] (mm) を指して単に「ミリ」とだけ言うことが多い。転じて、「1ミリも({{~}}ない/ぬ)」という形の、否定文脈で使われる程度副詞が用いられている<ref>[https://www.jpling.gr.jp/taikai/happyo/yosi/2020/a/yosi_2020a_b3 「1ミリもない」考] - 櫛橋比早子 (日本語学会 2020 年度春季大会)</ref><ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/207676 いまや国会議員も多用 「1ミリも…ない」の語源と意味] - [[日刊ゲンダイ]] (2017/06/18)</ref>。
== 出典 ==
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{{SI接頭語}}
[[Category:SI接頭語|みり]]
[[simple:Milli-]]
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18,411 |
センチ
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センチ(centi, 記号: c)は、国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10倍(= 100 分の 1、0.01 倍)の量であることを示す。
1795年の当初のメートル法で定められた6つの接頭語の一つである。
センチは、ラテン語で「百」を意味する centum に由来する。
当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語のギリシャ語から作成することとしていた。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。
日本においては、センチはセンチメートル (cm) 以外に用いられるのは稀であり、通常、単に「センチ」と言えばセンチメートルのことを指す。
ヨーロッパなどではセンチリットル (cL) が飲料の容量を表すのによく用いられ、特にワインの瓶でよく見られる。他にセンチグラム (cg) という用法がある。
また粘度の単位にセンチポアズ (cP) というものがある。
体積を計る cc(1 ccは1 mL)という単位は「cubic centimetre(立方センチメートル)」の略であるが、国際単位系では認められておらず、計量法でも使用は好ましくないとしている。
フランス語では「サンチ」と発音し、旧日本軍で大砲の口径などを「40サンチ砲」などと表現した。
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"text": "センチ(centi, 記号: c)は、国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10倍(= 100 分の 1、0.01 倍)の量であることを示す。",
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"text": "日本においては、センチはセンチメートル (cm) 以外に用いられるのは稀であり、通常、単に「センチ」と言えばセンチメートルのことを指す。",
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センチは、国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10−2倍の量であることを示す。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語}}
'''センチ'''(centi, 記号: [[c]])は、[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、基礎となる単位の 10<sup>−2</sup>倍(= [[100]] 分の 1、0.01 倍)の量であることを示す。
==概要==
[[1795年]]の当初の[[メートル法]]で定められた6つの[[接頭語]]の一つである。
センチは、[[ラテン語]]で「百」を意味する '''centum''' に由来する。
当時は、分量の接頭語はラテン語から、倍量の接頭語の[[ギリシャ語]]から作成することとしていた。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で SI が制定される際に正式に承認された。
日本においては、センチは[[センチメートル]] (cm) 以外に用いられるのは稀であり、通常、単に「センチ」と言えばセンチメートルのことを指す。
ヨーロッパなどではセンチ[[リットル]] (cL) が飲料の容量を表すのによく用いられ、特にワインの瓶でよく見られる。他にセンチ[[グラム]] (cg) という用法がある。
また[[粘度]]の単位にセンチ[[ポアズ]] (cP) というものがある。
[[体積]]を計る [[立方センチメートル|cc]](1 ccは1 mL)という単位は「cubic centimetre([[立方センチメートル]])」の略であるが、[[国際単位系]]では認められておらず、[[計量法]]でも使用は好ましくないとしている。
[[フランス語]]では「サンチ」と発音し、旧日本軍で大砲の口径などを「40サンチ砲」などと表現した<ref>[https://japanknowledge.com/tomonokai/card.html?id=123981&kw=センチメートル センチメートル]</ref><ref>[http://www.katch.ne.jp/~tsuka/matsuyama/28cmCanon.html < 二十八サンチ榴弾砲>]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{SI接頭語}}
[[Category:SI接頭語|せんち]]
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|
18,412 |
ナノ
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ナノ(nano, 記号: n)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10倍(= 十億分の一、0.000000001 倍)の量であることを示す。
1960年に導入されたもので、ギリシャ語で「小人」という意味の νάνος (nanos) に由来する。
電子機器やコンピュータシステムにおいて、「ナノ」で表される時間や長さ(ナノ秒 (ns)、ナノメートル (nm))はよく登場する。
ナノテクノロジーは、ナノメートル精度の加工技術で、それにより作られる機械がナノマシンである。
|
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"text": "ナノ(nano, 記号: n)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10倍(= 十億分の一、0.000000001 倍)の量であることを示す。",
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"text": "ナノテクノロジーは、ナノメートル精度の加工技術で、それにより作られる機械がナノマシンである。",
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ナノは国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10−9倍の量であることを示す。 1 ナノメートル = 0.000000001 メートル
1 ナノ秒 = 0.000000001 秒 1960年に導入されたもので、ギリシャ語で「小人」という意味の νάνος (nanos) に由来する。 電子機器やコンピュータシステムにおいて、「ナノ」で表される時間や長さはよく登場する。 ナノテクノロジーは、ナノメートル精度の加工技術で、それにより作られる機械がナノマシンである。
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{{otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語|その他}}
'''ナノ'''(nano, 記号: n)は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように、基礎となる単位の {{10^|−9}}倍(= 十[[億]]分の一、{{val|0.000000001}} 倍)の量であることを示す<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231004/k10014215441000.html ノーベル化学賞「量子ドット」発見のアメリカの研究者ら3人に]</ref>。
*{{val|1|ul=ナノメートル}} = {{val|0.000000001|ul=メートル}}
*{{val|1|ul=ナノ秒}} = {{val|0.000000001|ul=秒}}
[[1960年]]に導入されたもので、[[ギリシャ語]]で「小人」という意味の {{lang|el|'''νάνος''' }} ('''nanos''') に由来する。
電子機器や[[コンピュータ]]システムにおいて、「ナノ」で表される時間や長さ(ナノ秒 (ns)、ナノメートル (nm))はよく登場する。
[[ナノテクノロジー]]は、ナノメートル精度の加工技術で、それにより作られる機械が[[ナノマシン]]である。
{{SI接頭語}}
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:なの}}
[[Category:SI接頭語]]
[[simple:Nano-]]
|
2003-09-26T15:54:12Z
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|
18,413 |
マイクロ
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マイクロ(英: micro、記号: 立体の μ )は国際単位系 (SI) における接頭語の一つで、基礎となる単位の 10倍(= 百万分の一、0.000001倍)の量であることを示す。したがって、マイクロはミリの0.001倍、ナノの1000倍である。
マイクロは、ギリシャ語で「小さい」という意味の μικρός (mikros) に由来する。1874年、英国科学振興協会 (BA) がCGS単位系の電磁気の単位の標準化を行う際に、その一部としてメガとともに新たに導入された。CGS単位系で電磁気の単位を組み立てると、その示す値が非常に大きくまたは小さくなるため、それまであった接頭辞だけでは足りず、新たな接頭辞を導入する必要があった。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際、正式に承認された。
国際単位系 (SI) の規定では、"A(アンペア)"や"g(グラム)"のような単位記号と同様に、"k(キロ)"や"p(ピコ)"のようなSI接頭語も立体(ローマン体)で表記することが必須 (mandatory) であると定められている。したがって、しばしば、μ を斜体として「μ」(例えば、μm)と書かれることがあるが誤りである。
以下はマイクロメートルの表記の例である。
マイクロを表す記号には次の2つがある。
ユニコードコンソーシアムは前者1.のギリシャ文字を推奨しているが、実装はマイクロ記号を認識できる必要があるとしている。
前者1.のギリシャ文字「μ」(U+03BC GREEK LETTER SMALL MU) を用いると、環境によっては斜体で表示されることがあるので、後者2.の「μ」(U+00B5 MICRO SIGN)を用いる方がよい。
上記の2つの記号が共に使用することができない場合は、ラテン文字の"u"(小文字のユー)で代用されることもあるが、国際単位系国際文書の規定からは逸脱する。
接頭語とは関係なく、大きさが(非常に)小さいものについて「マイクロ」を冠する言葉がいくつかある。この場合は「ミクロ」と発音することがある。
|
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"text": "マイクロ(英: micro、記号: 立体の μ )は国際単位系 (SI) における接頭語の一つで、基礎となる単位の 10倍(= 百万分の一、0.000001倍)の量であることを示す。したがって、マイクロはミリの0.001倍、ナノの1000倍である。",
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"text": "マイクロは、ギリシャ語で「小さい」という意味の μικρός (mikros) に由来する。1874年、英国科学振興協会 (BA) がCGS単位系の電磁気の単位の標準化を行う際に、その一部としてメガとともに新たに導入された。CGS単位系で電磁気の単位を組み立てると、その示す値が非常に大きくまたは小さくなるため、それまであった接頭辞だけでは足りず、新たな接頭辞を導入する必要があった。1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でSIが制定される際、正式に承認された。",
"title": "概要"
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"text": "国際単位系 (SI) の規定では、\"A(アンペア)\"や\"g(グラム)\"のような単位記号と同様に、\"k(キロ)\"や\"p(ピコ)\"のようなSI接頭語も立体(ローマン体)で表記することが必須 (mandatory) であると定められている。したがって、しばしば、μ を斜体として「μ」(例えば、μm)と書かれることがあるが誤りである。",
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"text": "以下はマイクロメートルの表記の例である。",
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"text": "前者1.のギリシャ文字「μ」(U+03BC GREEK LETTER SMALL MU) を用いると、環境によっては斜体で表示されることがあるので、後者2.の「μ」(U+00B5 MICRO SIGN)を用いる方がよい。",
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"text": "上記の2つの記号が共に使用することができない場合は、ラテン文字の\"u\"(小文字のユー)で代用されることもあるが、国際単位系国際文書の規定からは逸脱する。",
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"tag": "p",
"text": "接頭語とは関係なく、大きさが(非常に)小さいものについて「マイクロ」を冠する言葉がいくつかある。この場合は「ミクロ」と発音することがある。",
"title": "単位以外"
}
] |
マイクロは国際単位系 (SI) における接頭語の一つで、基礎となる単位の 10−6倍の量であることを示す。したがって、マイクロはミリの0.001倍、ナノの1000倍である。 1 マイクロメートル = 0.000001 メートル = 0.001 ミリメートル = 1000 ナノメートル 1 マイクロ秒 = 0.000001 秒 = 0.001 ミリ秒 = 1000 ナノ秒 1 マイクログラム = 0.000001 グラム = 0.001 ミリグラム = 1000 ナノグラム
|
{{redirect|ミクロ}}
'''マイクロ'''({{lang-en-short|micro}}、記号: '''[[立体活字|立体]]'''の μ )は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語|接頭語]]の一つで、基礎となる単位の 10<sup>−6</sup>倍(= [[百万]]分の一、{{val|0.000001}}倍)の量であることを示す。したがって、マイクロはミリの0.001倍、ナノの1000倍である。
* 1 [[マイクロメートル]](記号:μm) = {{val|0.000001}} [[メートル]] = 0.001 [[ミリメートル]] = 1000 [[ナノメートル]]
* 1 [[マイクロ秒]] (記号:μs)= {{val|0.00000}}1 [[秒]] = 0.001 [[ミリ秒]] = 1000 [[ナノ秒]]
* 1 [[マイクログラム]](記号:μg) = {{val|0.000001}} [[グラム]] = 0.001 [[ミリグラム]] = 1000 [[ナノグラム]]
== 概要 ==
マイクロは、[[ギリシャ語]]で「小さい」という意味の '''{{lang|el|μικρός}}''' ('''mikros''') に由来する。[[1874年]]、[[英国科学振興協会]] (BA) が[[CGS単位系]]の電磁気の単位の標準化を行う際に、その一部として[[メガ]]とともに新たに導入された。CGS単位系で電磁気の単位を組み立てると、その示す値が非常に大きくまたは小さくなるため、それまであった[[接頭辞]]だけでは足りず、新たな接頭辞を導入する必要があった。[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) でSIが制定される際、正式に承認された。
== 表記 ==
[[国際単位系]] (SI) の規定では、"[[アンペア|A]]([[アンペア]])"や"[[グラム|g]]([[グラム]])"のような[[単位]][[記号]]と同様に、"[[キロ|k]]([[キロ]])"や"[[ピコ|p]]([[ピコ]])"のような[[SI接頭語]]も'''[[立体活字|立体]]'''([[ローマン体]])で表記することが'''必須''' (''mandatory'') であると定められている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、p.112、2020年4月。「接頭語記号は、その前後の文章の様式にかかわらず、単位記号と同様に立体で表記され、接頭語記号と単位記号の間に空白を空けずに記載する。」</ref><ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、5.2、p.116、2020年4月。「単位記号は、その前後の文章で使われている活字書体にかかわらず、直立体で表記される。」</ref><ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2.3.1、p.98 欄外、2020年4月。「単位記号は、直立体(ローマン体)フォントで表記することになっており、これは必須である。」
</ref><ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-EN.pdf The International System of Units (SI) 9th ed. Text in English] 2.3.1 Base units p.130 欄外注</ref>。したがって、しばしば、μ を'''[[斜体]]'''として「''μ''」(例えば、''μ''m)と書かれることがあるが誤りである<ref>[https://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2017/201708izumi.pdf 物理量・数値・単位と分率の表記についての提言] 「日本の出版・印刷業界には自社規格に強いこだわりがあるらしい。日本語ワープロソフトもその影響を受け,2バイト文字のギリシャ文字は斜字体(イタリック)になっているように見える。10<sup>-6</sup>を示す分量接頭記号 μ は,実社会に流通している印字のほとんどで ''μ'' となっている。円周率の {{math|[[π]]}} でも同じ現象が見られる。大学入試センター試験の試験問題でも,数年前まではマイクロリットルの単位記号を「''μ''{{JIS2004フォント|ℓ}}」と表記していた科目があった。学界だけでなく,初等中等教育を含めた一般社会でも,自然科学における記号では,立字体と斜字体ではその文字が意味する内容が異なることの認識が必要であろう。」、岩本振武、ぶんせき、2017年8月号、5・1 ギリシャ文字の字体、pp.343-344</ref>。
{| cellspacing="0" style="margin-bottom:2ex;"
|- style="font-size:500%; "
| style="text-align:left" | || μ || || || ''μ'' ||
|-
||| 立体(正しい)|| || ||斜体(誤り)||
|-
|}
以下は[[マイクロメートル]]の表記の例である。
{| cellspacing="0" style="margin-bottom:2ex;"
|- style="font-size:300%; "
| style="text-align:left" | || μm || || || ''μ''m ||
|-
||| 立体(正しい)|| || ||斜体(誤り)||
|-
|}
マイクロを表す記号には次の2つがある。
# [[Unicode|ユニコード]]の通常の[[ギリシャ文字]]領域に存在するミュー「[[μ]]」(<code>U+03BC</code> GREEK LETTER SMALL MU)
# Latin-1領域にあるマイクロ記号「µ」(<code>U+00B5</code> MICRO SIGN) (互換性のため)
[[ユニコードコンソーシアム]]は前者1.のギリシャ文字を推奨しているが、実装はマイクロ記号を認識できる必要があるとしている<ref>[https://unicode.org/reports/tr25/ Unicode Technical Report #25 Unicode Support for Mathematics]</ref>。
前者1.のギリシャ文字「[[μ]]」(<code>U+03BC</code> GREEK LETTER SMALL MU) を用いると、環境によっては斜体で表示されることがある<ref>[https://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2017/201708izumi.pdf 物理量・数値・単位と分率の表記についての提言] 岩本振武、ぶんせき、2017年8月号、5・1 ギリシャ文字の字体、pp.343-344</ref>ので、後者2.の「µ」(<code>U+00B5</code> MICRO SIGN)を用いる方がよい。
上記の2つの記号が共に使用することができない場合は、ラテン文字の"[[u]]"(小文字のユー)で代用されることもあるが、[[国際単位系国際文書]]の規定からは逸脱する。
== 単位以外 ==
[[SI接頭語|接頭語]]とは関係なく、大きさが(非常に)小さいものについて「マイクロ」を冠する言葉がいくつかある。この場合は「ミクロ」と発音することがある。
* [[マイクロバス]]
* [[マイクロフォン]]
* [[マイクロ波]](マイクロウェーブ)
* {{仮リンク|マイクロサージェリー|en|Microsurgery}}
* {{仮リンク|マイクロドージング|en|Microdosing}}
* [[マイクロメータ]]([[マイクロメートル]]とは意味が異なる)
* [[マイクロコンピュータ]]
* [[マイクロマシン]]
* [[マイクロフィルム]]
* [[マイクロファイバー]]、[[マイクロファイバークロス]]
* [[ゲームボーイミクロ]]
* [[ミクロの決死圏]](1966年の米国のSF映画、Fantastic Voyage の日本語のタイトル)
* [[ミクロマン]]
* [[日産・マーチ]]の輸出名および[[日産・マイクラC+C|派生コンバーチブル]]、「マイクラ」(micraはミクロンの複数形)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
== 外部リンク ==
* [https://pajoca.com/unicode-micro/ 「µ」と「μ」は違う文字! 違いと使い分け (マイクロとミュー)] 情報の海を泳ぐ、2021-11-23
== 関連項目 ==
{{SI接頭語}}
{{DEFAULTSORT:まいくろ}}
[[Category:SI接頭語]]
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18,414 |
ピコ
|
ピコ(pico, 記号:p)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10倍(= 一兆分の一、0.000 000 000 001 倍)の量であることを示す。
1960年に導入されたもので、イタリア語で「小さい」という意味の piccolo に由来する。
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ピコは国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10−12倍の量であることを示す。 1 ピコ秒 = 0.000 000 000 001 秒
1 ピコグラム = 0.000 000 000 001 グラム
1 ピコファラド = 0.000 000 000 001 ファラド
1 ピコワット = 0.000 000 000 001 ワット 1960年に導入されたもので、イタリア語で「小さい」という意味の piccolo に由来する。
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{{Otheruses|国際単位系 (SI) における接頭語}}
'''ピコ'''(pico, 記号:[[p]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10<sup>−12</sup>倍(= [[一兆]]分の一、0.000 000 000 001 倍)の量であることを示す。
* 1 [[ピコ秒]] = 0.000 000 000 001 [[秒]]
* 1 [[ピコグラム]] = 0.000 000 000 001 [[グラム]]
* 1 [[ピコファラド]] = 0.000 000 000 001 [[ファラド]]
* 1 [[ピコワット]] = 0.000 000 000 001 [[ワット]]
*
[[1960年]]に導入されたもので、[[イタリア語]]で「小さい」という意味の '''piccolo''' に由来する。
== 関連項目 ==
{{SI接頭語}}
[[Category:SI接頭語|ひこ]]
[[simple:Pico-]]
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18,415 |
フェムト
|
フェムト(femto, 記号:f)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10 倍(= 0.000 000 000 000 001 倍、千兆分の一)の量であることを示す。
1964年に導入されたもので、デンマーク語やノルウェー語で「15」を意味する femten に由来する。ただし、現在のフェムトメートル (fm) と同じ長さの単位だったフェルミの略称が "fm" だったため、10 倍の接頭語を "f" にするとメートルに接頭語をつけたものも "fm" になるからという俗説がある。
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フェムトは国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10−15 倍の量であることを示す。 1 フェムト秒 = 0.000 000 000 000 001 秒
1 フェムトメートル = 0.000 000 000 000 001 メートル 1964年に導入されたもので、デンマーク語やノルウェー語で「15」を意味する femten に由来する。ただし、現在のフェムトメートル (fm) と同じ長さの単位だったフェルミの略称が "fm" だったため、10−15 倍の接頭語を "f" にするとメートルに接頭語をつけたものも "fm" になるからという俗説がある。
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'''フェムト'''(femto, 記号:[[f]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10<sup>−15</sup> 倍(= 0.000 000 000 000 001 倍、千兆分の一)の量であることを示す。
* 1 [[フェムト秒]] = 0.000 000 000 000 001 [[秒]]
* 1 [[フェムトメートル]] = 0.000 000 000 000 001 [[メートル]]
[[1964年]]に導入されたもので、[[デンマーク語]]や[[ノルウェー語]]で「[[15]]」を意味する '''femten''' に由来する。ただし、現在の[[フェムトメートル]] (fm) と同じ長さの単位だったフェルミの略称が "fm" だったため、10<sup>−15</sup> 倍の接頭語を "f" にするとメートルに接頭語をつけたものも "fm" になるからという俗説がある。
== 関連項目 ==
{{SI接頭語}}
{{DEFAULTSORT:ふえむと}}
[[Category:SI接頭語]]
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18,416 |
アト
|
アト(atto, 記号:a)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10 倍(= 0.000 000 000 000 000 001 倍、百京分の一)の量であることを示す。アットとも。
1964年に導入されたもので、デンマーク語で「18」を意味する atten に由来する。
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"text": "1964年に導入されたもので、デンマーク語で「18」を意味する atten に由来する。",
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アトは国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10−18 倍の量であることを示す。アットとも。 1 アト秒 = 0.000 000 000 000 000 001 秒
1 アトメートル = 0.000 000 000 000 000 001 メートル 1964年に導入されたもので、デンマーク語で「18」を意味する atten に由来する。
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'''アト'''(atto, 記号:[[a]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように、基礎となる単位の 10<sup>−18</sup> 倍(= 0.000 000 000 000 000 001 倍、百京分の一)の量であることを示す。'''アット'''とも。
* 1 [[アト秒]] = 0.000 000 000 000 000 001 [[秒]]
* 1 [[アトメートル]] = 0.000 000 000 000 000 001 [[メートル]]
[[1964年]]に導入されたもので、[[デンマーク語]]で「[[18]]」を意味する '''atten''' に由来する。
== 関連項目 ==
* [[アトパーセク]] -- [[パーセク]]の 10<sup>−18</sup> 倍の長さ。約 3.085 [[センチメートル]]で、アリ3匹分と考えると分かりやすいだろう。科学者の間で冗談として使われる単位である。
{{SI接頭語}}
[[Category:SI接頭語|あと]]
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18,417 |
ヨクト
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ヨクト(yocto, 記号:y)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように基礎となる単位の 10 倍(= 0.000000000000000000000001 倍、一𥝱分の一)の量であることを示す。
1991年に導入されたもので、ギリシア語で「8」を意味する οκτώ (octo) に由来する。「8」を意味する語を用いたのは、10 が 1000 だからである。"y" がついたのは、"octo" では記号が "o"(オー)になり、"0"(ゼロ)とまぎらわしいためである(ヨタも参照のこと)。
なお、ダルトン、1 Da = 1.66053906660(50) ygである。
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"text": "なお、ダルトン、1 Da = 1.66053906660(50) ygである。",
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ヨクト(yocto, 記号:y)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、以下のように基礎となる単位の 10−24 倍(= 0.000000000000000000000001 倍、一𥝱分の一)の量であることを示す。 1 ヨクトグラム (yg) = 10−24 グラム (g) 1991年に導入されたもので、ギリシア語で「8」を意味する οκτώ (octo) に由来する。「8」を意味する語を用いたのは、10−24 が 1000-8 だからである。"y" がついたのは、"octo" では記号が "o"(オー)になり、"0"(ゼロ)とまぎらわしいためである(ヨタも参照のこと)。 なお、ダルトン、1 Da = 1.66053906660(50) ygである。
|
{{出典の明記|date=2019-04-10}}
'''ヨクト'''(yocto, 記号:[[y]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、以下のように基礎となる単位の {{10^|-24}} 倍(= {{val|0.000000000000000000000001}} 倍、一[[じょ|𥝱]]分の一)の量であることを示す。
* 1 ヨクトグラム (yg) = {{10^|-24}} [[グラム]] (g)
[[1991年]]に導入されたもので、[[ギリシア語]]で「[[8]]」を意味する {{lang|el|'''οκτώ'''}} ({{lang|el-Latn|'''octo'''}}) に由来する。「8」を意味する語を用いたのは、{{10^|-24}} が 1000{{sup|-8}} だからである。"y" がついたのは、"octo" では記号が "o"(オー)になり、"0"(ゼロ)とまぎらわしいためである([[ヨタ]]も参照のこと)。
なお、[[ダルトン]]、{{val|1|u=Da}} = {{val|1.66053906660|(50)|u=yg}}である。
== 関連項目 ==
* [[ヨタ]]
* {{SI接頭語}}
{{DEFAULTSORT:よくと}}
[[Category:SI接頭語]]
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|
18,418 |
ゼプト
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ゼプト(zepto, 記号:z)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10 倍(= 0.000000000000000000001 倍、十垓分の一)の量であることを示す。
1991年に導入されたもので、ギリシャ語で「7」を意味する σεπτα (septa) に由来する(フランス語の «sept»、ラテン語の "septem" という説もある)。7 は、10 = 1/1000 の 7 である。
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"text": "1991年に導入されたもので、ギリシャ語で「7」を意味する σεπτα (septa) に由来する(フランス語の «sept»、ラテン語の \"septem\" という説もある)。7 は、10 = 1/1000 の 7 である。",
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}
] |
ゼプト(zepto, 記号:z)は国際単位系 (SI) におけるSI接頭語の一つで、基礎となる単位の 10−21 倍(= 0.000000000000000000001 倍、十垓分の一)の量であることを示す。 1991年に導入されたもので、ギリシャ語で「7」を意味する σεπτα (septa) に由来する(フランス語の «sept»、ラテン語の "septem" という説もある)。7 は、10−21 = 1/10007 の 7 である。
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'''ゼプト'''(zepto, 記号:[[z]])は[[国際単位系]] (SI) における[[SI接頭語]]の一つで、基礎となる単位の {{10^|-21}} 倍(= {{val|0.000000000000000000001}} 倍、十[[垓]]分の一)の量であることを示す。
[[1991年]]に導入されたもので、[[ギリシャ語]]で「[[7]]」を意味する {{lang|el|'''σεπτα'''}} ({{lang|el-Latn|'''septa'''}}) に由来する([[フランス語]]の {{lang|fr|«'''sept'''»}}、[[ラテン語]]の {{lang|la|"'''septem'''"}} という説もある)。7 は、{{10^|-21}} = 1/1000{{sup|7}} の 7 である。
== 関連項目 ==
{{SI接頭語}}
{{Normdaten}}
[[Category:SI接頭語|せふと]]
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2022-11-23T04:17:21Z
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"Template:Normdaten"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%97%E3%83%88
|
18,420 |
浅草公園六区
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浅草公園六区(あさくさこうえんろっく)は、東京都台東区浅草にある歓楽街である。通称は浅草六区または公園六区。「六区」は元々1884年(明治17年)より始まった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指した。
浅草寺周辺の盛り場は元禄時代の頃からで、やがて江戸最大の規模に発展した。明治時代に入り欧米にならって都市公園を造るべく、浅草寺境内は1871年(明治4年)1月の社寺領上知令を受けて明治政府に公収され、1873年(明治6年)1月の『太政官布達第十六号』により1873年3月「浅草公園」と命名された。
1883年(明治16年)9月、浅草寺西側の火除地(通称「浅草田圃」)の一部を掘って池(大池、通称「瓢簞池」)とし、掘り出した土で西側と南側の池畔を築地して街区を造成。浅草寺裏手の通称「奥山」地区から見せ物小屋等が移転して歓楽街を形成した。1884年(明治17年)1月、公園地は東京府によって一区から六区までに区画され(同年9月に七区追加、1934年公園地から除外)、その歓楽街は「浅草公園地第六区」となった。
下谷区と浅草区が合併して台東区が誕生した1947年(昭和22年)の4月、「社寺等宗教団体の使用に供している地方公共団体有財産の処分に関すること」という内務文部次官通牒に基づき、同年5月をもって公園地から解除され、やがて浅草寺の所有に戻った。しかし一区から六区までの行政区画上の町名は、そのまま1965年(昭和40年)8月の住居表示制度導入まで残された。
とりわけ1886年(明治19年)5月に浅草公園が開園してからは、浅草公園の名よりも浅草六区の名が先行するまで栄えた。地図の上では、公園六区は旧浅草公園(六区を除く)と地域区分されていた。
1884年(明治17年)4月1日付で公園の差配・世話掛に、劇作家で『江湖新聞』創始者の福地源一郎が任命。主に第六区の経営、公園全体の差配を任されるが、1889年(明治22年)7月に解任となった。
前後して、浅草公園六区は1887年(明治20年)の根岸興行部の「常盤座」に始まり、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が注目を浴びた。1903年(明治36年)には、吉沢商店が日本初の映画専門館「電気館」をオープンした。
1890年(明治23年)に建設された凌雲閣(浅草六区北側)は通称「浅草十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で崩壊した。また、1912年2月(明治45年)、隣地には「浅草国技館」が開館した。
昭和に入ると「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博した。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期も娯楽の場として人気を博したが、1945年(昭和20年)になり東京大空襲で一帯は炎上した。終戦後すぐに再建され、軽演劇、女剣劇、ストリップ、およびその幕間に演じられたコントが注目を浴びた。芸能の殿堂・一大拠点として、六区からスターとなった芸能人も数多かった。
1951年(昭和26年)、浅草寺は観音本堂の再建のためにランドマークであった通称「瓢簞池」(古瓢簞池を含む)を売却。池は埋立てられ、1952年(昭和27年)に浅草楽天地の映画館「浅草宝塚劇場」と、1954年(昭和29年)には遊園地「楽天地スポーツランド」、1959年(昭和34年)には複合娯楽施設「新世界」が建った。また、1954年に観音本堂から六区興行街までの間が西参道商店街として整備された。
1950年代後半に最盛期を迎えた浅草六区も、高度成長期と呼ばれた1960年代に入りテレビ時代を迎え、1964年(昭和39年)の東京オリンピック以降は東京都区部西側の新宿、渋谷、池袋等の方面に若者の文化が芽生えると、平日は通行人が疎らになるほど人通りは激減した。若者世代の嗜好と合わなくなった映画館の多くは閉館となった。
最盛期の1954年には10軒もあったショー劇場も次々と閉館。1969年までに美人座はスーパーマーケットに、松竹座と公園劇場はボウリング場に、トキワ座は映画館に、国際セントラルは国際劇場の稽古場となり営業を休止した。同年夏には木馬ミュージックも閉館し、ロック座、カジノ座、浅草座が辛うじて残る状況となった。劇場の踊り子も新人が入らない状況が続き、ロック座では1955年には約30人いた踊り子も1969年には5人に激減。風前の灯火となっていた。
1974年(昭和49年)、新世界の跡地にウインズ浅草が造られると、週末だけは競馬目当ての客が集中する光景が多くなった。夜間は19時になると人通りも少なく、「不夜城」と詠われた嘗ての殷賑ぶりとは隔世の感となった。バブル景気期の1986年(昭和61年)には複合商業施設「浅草ROX」が開業、1988年(昭和63年)に映画『異人たちとの夏』のロケ舞台にはなったが、六区は長い停滞の時期を迎える。
2003年(平成15年)にNHK朝の連続テレビ小説『こころ』の舞台にもなった。この頃から公園六区の斜陽に歯止めを掛けるべく、地元の「浅草おかみさん会」等の下支え等により次第に復調の兆しを見せていた。
しかしながら2012年9月から10月にかけて、浅草六区にとって最後の映画館であった5館が相次いで閉館され、全ての映画館が消え去った。こうした映画街としての顔は消えたものの、2013年より六区ブロードウェイ商店街振興組合を中心に「浅草六区再生プロジェクト」が行われ、2015年12月商業施設「まるごとにっぽん」等が開業した(2021年6月リニューアル)。
2016年4月には道路での出店やイベントなどができる国家戦略特区の認定を目指した社会実験も行われた(街路全体を「劇場」と見立てた構想)。同社会実験は2016年9月に第2期を実施し、2017年1月13日には第3期を迎え、「浅草六区オープンカフェ」としてスタートした。近年は外国人観光客も多く、観光客向けのホテルやお土産屋も多くみられるようになった。
2019年9月には特区に指定され、これを活用して10月26日からは週末に全国各地のお祭りを誘致する取り組みが始まった。
2023年3月には、「六区」の名を冠し、訪日外国人が、芸者や活動弁士などが登場するイベント、畳敷きの客室といった日本文化を体験できる「浅草ビューホテルアネックス六区」が開業した。
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浅草公園六区(あさくさこうえんろっく)は、東京都台東区浅草にある歓楽街である。通称は浅草六区または公園六区。「六区」は元々1884年(明治17年)より始まった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指した。
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[[Image:Asakusa Rokku.jpg|thumb|375px|right|映画館が立ち並ぶ浅草六区の歓楽街、[[1937年]]([[昭和]]12年)1月<small><br />左 - 松竹館 [[池田義信]]の旧作『わが母の書』([[1936年]]([[昭和]]11年)12月作品)、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]の旧作『[[あさぎり峠]]』(1936年(昭和11年)10月作品)ほか上映中。<br />右 - [[常盤座]] アチャラカ演劇一座『[[笑の王国]]』([[古川緑波]]、[[菊田一夫]]退団後)上演中</small>]]
'''浅草公園六区'''(あさくさこうえんろっく)は、[[東京都]][[台東区]][[浅草]]にある[[歓楽街]]である。通称は'''浅草六区'''または公園六区。「六区」は元々[[1884年]]([[明治]]17年)より始まった[[浅草寺#浅草公園|浅草公園]]の築造・整備における区画番号の第六区画を指した。
== 略歴・概要 ==
[[File:Jintan 12kai.jpg|thumb|150px|left|[[凌雲閣]] (浅草十二階)の絵葉書。手前は通称「[[瓢簞池 (浅草)|瓢簞池]]」(公園四区)。]]
[[ファイル:Refreshment stall in Tokyo. Before 1902.jpg|サムネイル|明治時代]]
[[File:Asakusa 6ku.jpg|thumb|明治末期]]
=== 命名 ===
[[浅草寺]]周辺の盛り場は[[元禄時代]]の頃からで、やがて[[江戸]]最大の規模に発展した。[[明治時代]]に入り欧米にならって[[公園#都市公園(営造物公園)|都市公園]]を造るべく、浅草寺[[境内]]は[[1871年]](明治4年)1月の[[社寺領]][[上知令#明治政府による上知令|上知令]]を受けて[[明治政府]]に公収され、1873年(明治6年)1月の『[[公園#太政官布告による公園整備|太政官布達第十六号]]』により1873年3月「浅草公園」と命名された<ref>東京府は太政官政府に対して、他に[[芝公園]]、[[上野恩賜公園|上野公園]]、[[深川公園]]、[[飛鳥山公園]]を公園地として上申し、指定された。</ref>。
[[1883年]](明治16年)9月、浅草寺西側の[[火除地]](通称「浅草田圃」)の一部を掘って池(大池、通称「[[瓢簞池 (浅草)|瓢簞池]]」)とし、掘り出した土で西側と南側の池畔を築地して街区を造成。浅草寺裏手の通称「奥山」地区から[[見せ物小屋]]等が移転して歓楽街を形成した。1884年(明治17年)1月、公園地は[[東京府]]によって一区から六区までに区画され(同年9月に七区追加、1934年公園地から除外)、その歓楽街は「浅草公園地第六区」となった<ref>一区は浅草寺本堂周辺、二区は仲見世、三区は伝法院周辺、四区は大池と瓢簞池を含む周辺(現在の[[ウインズ浅草]]、浅草木馬館)、五区は奥山地区(現在の[[浅草花やしき]]付近)、六区は埋立地に出来た興業街(現在の[[浅草演芸ホール]]一帯)、七区は旧浅草馬道一帯(現在の仲見世の裏側、[[浅草公会堂]])。</ref>。
[[下谷区]]と[[浅草区]]が合併して台東区が誕生した[[1947年]]([[昭和]]22年)の4月、「社寺等宗教団体の使用に供している地方公共団体有財産の処分に関すること」という[[内務省_(日本)|内務]][[文部省|文部]][[事務次官|次官]]通牒に基づき、同年5月をもって公園地から解除され、やがて浅草寺の所有に戻った<ref>[http://meijitaisho.net/toa/asakusa_park.php 浅草公園1873年1月] 明治大正1868-1926</ref>。しかし一区から六区までの行政区画上の町名は、そのまま[[1965年]](昭和40年)8月の[[住居表示]]制度導入まで残された。
とりわけ1886年(明治19年)5月に浅草公園が開園してからは、浅草公園の名よりも浅草六区の名が先行するまで栄えた。地図の上では、公園六区は旧浅草公園(六区を除く)と地域区分されていた<ref>[https://www.city.taito.lg.jp/kurashi/kyodo/tyoukai/11tiku/kaminarimon/index.files/9-2.pdf 雷門地区地図・旧町名]
台東区役所HP</ref>。
=== 繁栄 ===
1884年(明治17年)4月1日付で公園の差配・世話掛に、劇作家で『江湖新聞』創始者の[[福地源一郎]]が任命。主に第六区の経営、公園全体の差配を任されるが、1889年(明治22年)7月に解任となった。
前後して、浅草公園六区は[[1887年]](明治20年)の[[根岸興行部]]の「[[常盤座]]」に始まり、演劇場、[[映画館|活動写真常設館]]、[[オペラ]]常設館などが出来て隆盛を誇り、[[江川マストン|江川の玉乗り]]、[[浅草オペラ]]、[[安来節]]等が注目を浴びた。[[1903年]](明治36年)には、[[吉沢商店]]が日本初の映画専門館「[[電気館]]」をオープンした。
[[1890年]](明治23年)に建設された[[凌雲閣]](浅草六区北側)は通称「浅草十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、1923年([[大正]]12年)[[9月1日]]の[[関東大震災]]で崩壊した。また、[[1912年]]2月(明治45年)、隣地には「[[浅草国技館]]」が開館した<ref>1914年に遊楽館(映画館)へ改装され、1917年に吾妻座(芝居小屋)へ改称され、1920年3月に焼失した。その後はニコニコ遊園地(ニコニコ園)開園した。 [http://www.12kai.com/12kai/kokugi.html 浅草国技館の変遷](2001年6月19日付)、[https://ameblo.jp/kumanecorow/image-10963720446-11370618025.html 熊猫楼](2011年7月24日付)参照。</ref>。
[[昭和]]に入ると「[[軽演劇|アチャラカ]]」と呼ばれた荒唐無稽の[[喜劇]]が好評を博した。[[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]にかけての時期も娯楽の場として人気を博したが、[[1945年]](昭和20年)になり[[東京大空襲]]で一帯は炎上した。終戦後すぐに再建され、[[軽演劇]]、[[女剣劇]]、[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]、およびその幕間に演じられた[[コント]]が注目を浴びた。芸能の殿堂・一大拠点として、六区からスターとなった[[芸能人]]も数多かった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E8%8D%89-24992 浅草(あさくさ)とは][[コトバンク]](2017年12月9日閲覧)</ref>。
[[1951年]](昭和26年)、浅草寺は観音本堂の再建のためにランドマークであった通称「[[瓢簞池 (浅草)|瓢簞池]]」(古瓢簞池を含む)を売却<ref>「ヒョウタン池身売り 浅草観音の本堂再建資金に」『[[朝日新聞]]』昭和26年7月13日3面</ref>。池は埋立てられ、[[1952年]](昭和27年)に[[東京楽天地|浅草楽天地]]の映画館「浅草宝塚劇場」と、[[1954年]](昭和29年)には遊園地「楽天地スポーツランド」<ref>[http://www.rakutenchi.co.jp/outline/pdf/ir/other09.pdf 東京楽天地浅草再開発計画について] 東京楽天地(2012年4月13日付)</ref>、[[1959年]](昭和34年)には複合娯楽施設「[[新世界 (浅草)|新世界]]」が建った<ref name="読売10-25広告">『[[読売新聞]]』朝刊1959年10月25日(東京版)20面掲載の「新世界」広告</ref>。また、1954年に観音本堂から六区興行街までの間が西参道商店街として整備された<ref>[http://www.asakusaomatsuri.com/商店街概要/ お祭り商店街西参道] 浅草西参道商店街振興組合(2017年12月9日閲覧)</ref>。
=== 没落 ===
[[1950年代]]後半に最盛期を迎えた浅草六区も、[[高度成長期]]と呼ばれた[[1960年代]]に入りテレビ時代を迎え、[[1964年]](昭和39年)の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]以降は[[東京都区部]]西側の[[新宿]]、[[渋谷]]、[[池袋]]等の方面に若者の文化が芽生えると、平日は通行人が疎らになるほど人通りは激減した。若者世代の嗜好と合わなくなった映画館の多くは閉館となった。
最盛期の1954年には10軒もあったショー劇場も次々と閉館。1969年までに美人座は[[スーパーマーケット]]に、松竹座と公園劇場は[[ボウリング場]]に、トキワ座は映画館に、国際セントラルは国際劇場の稽古場となり営業を休止した。同年夏には木馬ミュージックも閉館し、ロック座、カジノ座、浅草座が辛うじて残る状況となった。劇場の踊り子も新人が入らない状況が続き、ロック座では1955年には約30人いた踊り子も1969年には5人に激減。風前の灯火となっていた<ref>「消えゆく浅草の灯り 踊り子減り、小屋転業」『朝日新聞』夕刊1969年(昭和44年)12月3日11面(3版)</ref>。
[[1974年]](昭和49年)、新世界の跡地に[[ウインズ浅草]]が造られると、週末だけは[[競馬]]目当ての客が集中する光景が多くなった。夜間は19時になると人通りも少なく、「不夜城」と詠われた嘗ての殷賑ぶりとは隔世の感となった。[[バブル景気]]期の[[1986年]](昭和61年)には複合商業施設「[[浅草ROX]]」が開業、[[1988年]](昭和63年)に映画『[[異人たちとの夏]]』の[[ロケーション撮影|ロケ]]舞台にはなったが、六区は長い停滞の時期を迎える。
=== 現在 ===
[[File:Rokkuopencafe3th.jpg|thumb|right|alt=Rokkuopencafe3th|「浅草六区オープンカフェ」第3期開始記者会見の模様]]
[[2003年]]([[平成]]15年)に[[連続テレビ小説|NHK朝の連続テレビ小説]]『[[こころ (2003年のテレビドラマ)|こころ]]』の舞台にもなった。この頃から公園六区の斜陽に歯止めを掛けるべく、地元の「浅草おかみさん会」等の下支え等により次第に復調の兆しを見せていた<ref>[http://www.waseda.jp/sem-muranolt01/Survey2002/ch2.pdf 台東区] [[早稲田大学]]文学学術院</ref>。
しかしながら[[2012年]]9月から10月にかけて、浅草六区にとって最後の映画館であった5館が相次いで閉館され、全ての映画館が消え去った。こうした映画街としての顔は消えたものの、2013年より六区ブロードウェイ商店街振興組合を中心に「浅草六区再生プロジェクト」が行われ、2015年12月商業施設「[[東京楽天地#東京楽天地浅草ビル|まるごとにっぽん]]」等が開業した(2021年6月リニューアル)。
2016年4月には道路での出店やイベントなどができる[[国家戦略特別区域|国家戦略特区]]の認定を目指した[[社会実験]]も行われた(街路全体を「劇場」と見立てた構想)<ref>「[http://www.sankei.com/economy/news/160416/prl1604160023-n1.html 浅草六区にて国家戦略特区事業認定に向けて…]」[[産経デジタル|産経ニュース]](2016年4月16日配信)</ref>。同社会実験は2016年9月に第2期を実施し、2017年1月13日には第3期を迎え、「浅草六区オープンカフェ」としてスタートした。近年は外国人観光客も多く、観光客向けの[[ホテル]]やお土産屋も多くみられるようになった。
2019年9月には特区に指定され、これを活用して10月26日からは週末に全国各地のお祭りを誘致する取り組みが始まった<ref>「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019102602000122.html 浅草できょうからイベント続々]」[[東京新聞]]Web(2019年10月26日)2019年11月24日閲覧</ref>。
2023年3月には、「六区」の名を冠し、訪日外国人が、[[芸者]]や[[活動弁士]]などが登場するイベント、[[畳]]敷きの客室といった日本文化を体験できる「[[浅草ビューホテル]]アネックス六区」が開業した<ref>「[https://www.tokyo-np.co.jp/article/237849 文化発信・体験の拠点に 浅草に新ホテルが18日開業]」東京新聞Web(2023年3月14日)2023年4月3日閲覧</ref>。
== 主な劇場 ==
{{出典の明記|date=2017年8月}}
=== 昭和初期 ===
*[[昭和座]] - [[凌雲閣]]跡地(後に[[凌雲座]])、[[吉本興業]]直営、[[軽演劇]] ⇒ [[浅草東映]] ⇒ [[オーケー]]浅草店
*[[江川劇場]] - 玉乗りで知られる ⇒ [[浅草新劇場]] ⇒ [[浅草ビューホテル]]アネックス六区
*[[大都劇場]] - [[大都映画]]から吉本興業直営 ⇒ [[浅草中映劇場]] ⇒ 浅草ビューホテルアネックス六区
*[[遊楽館]] - 映画館(移転後) ⇒ [[遊楽館]] - 吉本興業直営、演芸場 ⇒ [[浅草大番会館]]
*[[浅草花月劇場]] - 吉本興業直営、[[レヴュー]]、[[軽演劇]]、演芸、映画 ⇒ 浅草パークホールビル
*[[大勝館]] - 映画館 ⇒ 浅草中映ボウル ⇒ キャピタル・ロマン・アポロ ⇒ [[浅草大勝館]] ⇒ [[ドン・キホーテ (企業)|ドン.キホーテ]]浅草店
*[[三友館]] - 映画館([[開進館勧工場]]の跡) ⇒ [[フランス座]] ⇒ 浅草東洋劇場 ⇒ [[浅草演芸ホール]]
*[[浅草映画劇場]] - 映画館 ⇒ 商店に分割
*[[富士館]] - 映画館 ⇒ 浅草日活劇場 ⇒ ビッグパンドラ浅草店本館(パチスロ店)
*[[オペラ館]] - レヴュー、[[ピエル・ブリヤント]] ⇒ 商店飲食店に分割
*[[千代田館]] - 映画館 ⇒ 閉鎖 ⇒ 浅草電気館パシフィックコート
*[[電気館]] - [[吉沢商店]]の日本初の映画館 ⇒ 浅草電気館パシフィックコート
*[[国際キネマ劇場]] - 映画館 ⇒ ROX
*[[帝国館]] - [[ルナパーク (浅草)|浅草公園ルナパーク]]内の映画館([[富士山縦覧場]]⇒[[日本パノラマ館]]跡地) ⇒ 浅草松竹映画劇場 ⇒ ROX
*[[松竹座]] - 映画館 ⇒ ROX
*[[松竹館]] - 映画館 ⇒ ROX
*[[大東京 (映画館)|大東京]] - 映画館、大正時代は[[マキノ・プロダクション]]封切館 ⇒ 商店に分割
*[[浅草東京クラブ|東京倶楽部]] - 映画館 ⇒ ROX3G
*[[常盤座]] - レヴュー ⇒ 浅草トキワ座 ⇒ ROX3G
*[[金龍館]] - レヴュー ⇒ 浅草ロキシー映画劇場 ⇒ ROX3G
*[[日本館]] - 映画館 ⇒ ROX2G ([[マクドナルド]]等)
*[[公園劇場]] - 劇場 ⇒ [[公園劇場]] - 吉本興業直営、演芸場 ⇒ ROXDOME
*[[万盛館]] (万成座、元蕎麦屋[[おく山萬盛庵]]) - 吉本興業直営、レヴュー、軽演劇 ⇒ 浅草ロック座
*[[玉木座]] - 芝居小屋(大幸館⇒日の出館⇒福和館⇒日本座⇒御園座の跡)、[[プペ・ダンサント]] ⇒ 商店
*[[通俗教育昆虫館|木馬館]] - 通俗教育昆虫館から改装。戦前戦後の長らく[[安来節]]の常打ち小屋として有名であったが、現在は2階が[[大衆演劇]]の劇場として、1階が[[浪曲]]の定席[[寄席]]「[[木馬亭]]」として現存。木馬([[メリーゴーランド]])はモニュメントとして残る。
*[[浅草公園水族館]] - 四区[[勧工場]]共栄館跡地、[[カジノ・フォーリー]] ⇒ [[常盤堂雷おこし本舗|奥山茶屋、雷5656茶屋]] ⇒ コンビニエンスストア
*[[観音劇場]] - 劇場(浅草オペラ)、映画館 ⇒ 百万弗劇場(ストリップ)⇒ 商店に分割
*[[宮戸座]] - 浅草公園裏の劇場。1896年に吾妻座(1887年開場)より改称。1923年に関東大震災で焼失し、1928年に落成復興。1937年2月に廃座 ⇒ 現在は[[料亭]]
=== 昭和30年代以降 ===
*[[浅草東映]]劇場
*:[[東映]]直営の封切館。「十二階」の跡地、[[建物疎開]]した「昭和座」の跡地に建設。[[1956年]]10月開館。[[2003年]]([[平成]]15年)[[5月22日]]に閉鎖。取り壊され、跡地にパチンコ店「サンシャイン浅草」が開店したが[[2020年]]1月に閉店。[[2022年]]3月に居抜きのままスーパーマーケットの[[オーケー]]が入居開店した。
**浅草東映パラス
**:東映直営の洋画封切館。東映洋画系。浅草東映劇場2階、上記同様に閉鎖。
**浅草東映ホール
**:東映直営。浅草東映劇場地下。名画座、[[ピンク映画|成人映画]]封切を経て[[日活|にっかつ]]封切の「浅草日活」。のち[[松竹]]に賃貸して「浅草松竹映画劇場」(3代目の移転場所)になるが、最終的に「浅草東映パラス1」となる。上記同様に閉鎖。
*[[浅草新劇場]]
*:邦画名画座。[[中映|中映株式会社]]経営。[[東宝]]・松竹・[[大映 (映画)|大映]]・日活の名作を組み合わせて上映。ただし、その組み合わせ方は一種異様で独特([[チャンバラ]]映画と[[ヤクザ映画]]と純愛物、封切終了直後の話題作とB級喜劇と[[アイドル]]映画など)。元々は実演劇場で「江川劇場」。戦時中は松竹の経営となり「浅草松竹新劇場」と改称。[[清水金一]]の実演が売り物であった。その後、松竹傍系の中映に移管され、名画座になる。[[2012年]][[10月21日]]に閉館。新劇会館・中劇会館ともに建物が老朽化したため、一括して再開発を行う。これで六区から映画館が完全に消滅した。
**浅草世界館
**:中映経営。成人映画上映。浅草新劇会館地下。[[1964年]](昭和39年)10月開館。[[2012年]][[9月17日]]閉館。
**浅草シネマ
**:中映経営。成人映画上映。浅草新劇会館地下。当初大勝館内に開館。のち新劇会館内の[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]劇場「カジノ座」の跡に入居。[[2012年]][[9月25日]]閉館。
**浅草座
**:株式会社浅草座(中映関連企業)経営。浅草新劇会館地下。ストリップ劇場。同系列の浅草美人座、浅草カジノ座を含め「ABCライン」と称した。閉鎖後浅草カジノ座が移転。さらに上述の浅草シネマが移転した。
*浅草中映劇場
*:中映経営。洋画名画座だったが、晩年は邦画名画座。旧大都劇場、浅草新東宝劇場、浅草映画劇場。[[中映|浅草中劇会館]]内。[[2012年]][[10月21日]]閉館。
**浅草名画座
**:中映経営。成人映画を上映していたが、晩年は邦画名画座。浅草中劇会館内。[[2012年]][[10月21日]]閉館。
*百万弗劇場
:ストリップ劇場。[[キリン館]](旧アウル館)⇒[[観音劇場]]の跡地(元[[国際劇場]]斜向)。[[渥美清]]が専属コメディアンとして在籍。1948年6月開場、1952年10月閉鎖。現在は商店に分割。
*浅草[[花月劇場]]
:[[吉本興業]]直営。戦前は[[レヴュー (演芸)|レビュー]]の「吉本ショウ」を上演。「[[あきれたぼういず]]」を売り出す。[[高見順]]の代表作『[[如何なる星の下に]]』([[1939年]](昭和14年) - [[1940年]](昭和15年) 連載)の舞台ともなった。戦後「浅草グランド劇場」と改称して洋画封切館に転身。その後、浅草花月劇場に名前を戻し軽演劇や女剣劇を上演。[[1960年代]]以降は東映作品を中心とした邦画名画座に転換。漫才ブーム終了直後に閉鎖([[1985年]][[2月19日]])。当時は吉本が東京で運営する唯一の事業所であったが、吉本側では既に浅草は終わった場所として見限っていたため、漫才ブーム後躍進した吉本の東京の拠点には成り得なかった。現在は「浅草パークホールビル」(JRA WINS別館)。なお、吉本興業は[[2006年]](平成18年)11月から[[2015年]](平成27年)7月まで、同地ではなく浅草観音裏の[[言問通り]]沿いにある[[常盤堂雷おこし本舗|雷5656会館]]5階のトキワホールにて「[[よしもと浅草花月]]」と銘打った演芸興行を定期的に行っていた。
*[[ロック座|浅草ロック座]]
:東宝の[[秦豊吉]]社長にストリップショウの有望性を説かれた東洋興業の[[松倉宇七]]が開業。戦後の浅草の中心的存在となり、特にストリップは東洋興業と中映がしのぎを削って発展させた。ロック座には踊り子([[ストリップ (性風俗)|ストリッパー]])の他有能なコメディアンが数多く在籍して隆盛を誇っていたがストリップを取り巻く環境が変化し、関西発祥の猥雑な興行形態が主体となるにつれ東洋興業はストリップ興行からの撤退を決意。人気ストリッパーだった東八千代([[斎藤智恵子]])と、歩興行の契約を結び運営一切を委譲。まもなく正式に売却し、斎藤の手により改築され内装・興行形態も一新。[[関西]]系の猥雑な内容を一切行わず、レビュー形式の舞踊を主体とした興行形態がロック座のスタイルとして確立し、ロック座チェーンの旗艦劇場として現在に至る。
*浅草東宝劇場
*:[[東京楽天地]]経営。[[1964年]](昭和39年)[[10月29日]]開場。東宝封切館であったが深夜興行には独特のプログラム([[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]特集、[[ゴジラ]]特集など)を組んでいた。元々は[[1954年]][[4月]]から浅草楽天地の遊戯施設「楽天地スポーツランド」があった箇所。2006年(平成18年)[[2月13日]]閉鎖。これで六区から封切館が消滅。2012年4月に取り壊された。跡地は後述の浅草宝塚劇場跡地と共に東京楽天地の手により一体で再開発され、2015年12月に商業施設[[東京楽天地#東京楽天地浅草ビル|まるごとにっぽん]]と[[リッチモンドホテルズ|リッチモンドホテルプレミア浅草インターナショナル]]が開業したが、まるごとにっぽんは2020年11月閉館。2021年6月[[ユニクロ]]が跡に入居開店し、まるごとにっぽんも一部復活した。
**浅草スカラ座
**:東京楽天地経営。浅草東宝劇場内に併設。東宝洋画系であった。
*浅草宝塚劇場
*:東京楽天地経営。[[1952年]](昭和27年)[[9月2日]]開場。開場番組は[[宝塚歌劇団]]の公演。東宝洋画系の映画館であるが、実演の興行も行われた。[[1968年]](昭和43年)7月12日閉館。取り壊されたのち、[[1969年]](昭和44年)[[7月9日]]「楽天地浅草ボウル」に改築されたが、これも再開発に伴い[[2010年]][[1月31日]]をもって閉鎖されて2012年4月に取り壊された。
**浅草テンプル劇場
**:東京楽天地経営。浅草宝塚劇場館内。浅草宝塚地下劇場として[[1952年]]9月に開場。東宝洋画系。
*[[大勝館]]
*:映画館。[[1962年]](昭和37年)まで松竹洋画系のロードショー劇場。松竹・中映が長年経営していたが斜陽により[[1971年]](昭和46年)10月11日をもって閉鎖。独特のゴシック様式の建物が取り壊されたのち、[[1972年]](昭和47年)12月に「浅草中映ボウル」に改築されるが、[[1977年]]には館内にキャピタル、ロマン(いずれも2階)、アポロ(地階)の各映画館が設けられる。キャピタルは洋画名画座だったが、ロマンとアポロはいずれも成人映画を上映していた。1980年代半ばに全館が閉鎖されてしまい、空家状態のまま長年放置されていた。
**[[浅草大勝館]]
**:大衆演劇を上演する劇場。浅草ロック座の斎藤智恵子が経営していた。中映が放置していた上記建物を2001年(平成13年)に買収し、館内を大改装して大衆演劇用劇場に転向。しかし2007年(平成19年)9月に老朽化に伴う再改築のため一時休業。再開後は名実共に大衆演劇の殿堂に相応しい劇場が誕生する予定とされたが、改築の目処が立たず、再度中映放置状態と同様に周囲を鉄製の仮設塀に囲まれた状態で廃墟建物として晒されていた。2012年に漸く[[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]が借地権と建物を買い取って取り壊し、同社店舗を核とした再開発ビルをオープンさせた。
**浅草カジノ座
**:中映経営。ストリップ劇場。大勝館の地下にあった。[[1971年]](昭和46年)に浅草新劇会館内(浅草座跡)に移転。
*[[フランス座|浅草フランス座]] ⇒ 浅草東洋館
*:東洋興業経営。ストリップ劇場。[[渥美清]]、[[萩本欽一]]、[[ビートたけし]]を輩出し、劇作家としても[[井上ひさし]]を世に送り出した伝説の劇場。東洋興業撤退後はビートたけしの師匠・[[深見千三郎]](久保七十二)が歩興行の契約を結び、一切を執り仕切っていた。深見の死後も興行を続けていたがストリップの退潮に抗しきれず、遂にストリップ興行を打ち切り舞台を改装。「浅草フランス座演芸場・浅草東洋館」と改称して[[漫才協会]]、[[東京演芸協会]]、[[ボーイズバラエティ協会]]といった各色物団体や[[落語協会]](正月上席)と提携した演芸興行を行い現在に至る。なお、月末には独自に若手芸人主体のお笑いライブを開催している。
**浅草東洋劇場
**:東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年(昭和39年)、上記フランス座を取り壊して開場。1971年(昭和46年)、上階にあった[[寄席]]・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。
**[[浅草演芸ホール]]
**:東洋興業経営。[[落語]]定席。1964年(昭和39年)、浅草東洋劇場上階に開設。1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場跡に移転。
*[[千代田館|浅草千代田館]]
:映画館。中映経営。かつては[[生駒雷遊]]が専属弁士となった時期があった。のち、[[大蔵貢]]が買収したこともある。中映経営後はその大蔵が経営していた[[新東宝]]の封切館となった時期もあった。最晩年は成人映画を上映していた。壁面の[[楽譜]]を象った[[ネオンサイン]]が独特。1976年(昭和51年)2月に閉鎖。
*[[電気館|浅草電氣館]]
:[[1903年]](明治36年)、日本初の映画封切館として誕生。のち、松竹の経営となり戦前は[[新興キネマ]]、戦後は[[大映]]の封切館となった。大映倒産後に中映に移管されて東映封切館になるが、1976年(昭和51年)2月に閉鎖。跡地は千代田館跡地と共に「浅草蚤の市」会場となっていたが、現在は飲食・住宅の複合施設「電氣館ビル」。
*浅草日活映画劇場
:[[富士館|浅草富士館]]。日活直営。1800人収容の大勝館・帝国館と並ぶ大規模劇場。閉鎖され、日活は建物を新世界興業に売却。改装の上、新世界内にあった[[キャバレー (接待飲食店)|キャバレー]]・新世界が移転して営業していた。その後取り壊され、現在は[[パチスロ]]店[[パンドラ (パチンコ)|パンドラ]]。
*浅草アンコール劇場
:もともとは「テアトル浅草」という名前の映画館。公園劇場に改称して実演を上演。軽演劇やストリップ、女剣劇と興行形態を転々とし、この名前で名画座となった後廃座。[[パチンコ]]店に転換した。松竹直営。現在は[[浅草ROX]]。
*浅草松竹映画劇場(初代)
:[[帝国館|浅草帝国館]]。松竹直営。浅草を代表する映画館の一つであったが、[[1983年]](昭和58年)に閉鎖された。現在は浅草ROX。
*[[浅草松竹演芸場]]
:松竹直営。軽演劇と色物専門の演芸場。現在は浅草ROX。
*[[浅草松竹座]]
:[[松竹歌劇団|松竹少女歌劇]]の本拠地。1963年5月には早くも廃座となり、同年12月には「浅草松竹ボーリング」に改装。のちボウリングブームの下火により再改装して丸石家具センターに賃貸していたが、1983年に取り壊された。現在は浅草ROX。
*[[浅草東京クラブ]]
:松竹直営の名画座。かつては隣接する金竜館・常盤座と三館共通制を採っていた。後ろから見ると[[芋虫]]の様な独特の形態をした建物であった。現在は閉鎖され、ROX3G(スーパーマルチコート併設)。
*浅草ロキシー映画劇場
:[[金龍館|浅草金竜館]]。松竹直営。洋画を上映。戦前及び終戦直後は松竹洋画系の基幹劇場であり、松竹の洋画関連部署である「ロキシー興行社」が同劇場内に所在していた。のち洋画の成人映画封切となるが、1983年(昭和58年)、「浅草松竹映画劇場」(2代目)と改称し松竹封切館になる。現在は閉鎖され、ROX3G。
*[[常盤座|浅草常盤座]]
:[[根岸興行部]]が建てた公園六区最初の劇場。[[根岸大歌劇団]](浅草オペラ)の本拠だった時代も。松竹系の常盤興行を経て松竹直営となり、戦後[[森川信]]一座の軽演劇等で好評を博す。[[1965年]](昭和40年)に中映に移管され、「浅草トキワ座」と改称。邦画名画座になるが不採算のため閉鎖。空家状態が続いたところを、おかみさん会が松竹から賃借して演劇の定期興行を再開した。しかし再開発に伴い松竹が権利を[[テーオーシー|TOC]]に譲渡し、閉鎖された。現在は浅草ROX3G。
*[[日本館|浅草日本館]]
:松竹直営。邦画の下番線館であったが、末期は松竹(東活)系成人映画の封切館であった。閉鎖され、現在は浅草ROX2G([[TSUTAYA]]が入居)。
*浅草六区ゆめまち劇場
:株式会社BIGUPシアター経営のレストランシアター。[[2014年]](平成26年)4月、浅草六区130周年記念として浅草ROX4階に開場。[[WAHAHA本舗]]の若手グループ'''娯楽座'''の常設公演が行われていた。2019年5月契約満了に伴い閉館。現在は[[くら寿司]] 浅草ROX店。
*[[木馬館|浅草木馬館]](公園四区)
*:根岸興行部経営で[[安来節]]の定席だったが、現在は十条・篠原演芸場の手に移り、大衆演劇の劇場に転換。
**浅草[[木馬亭]](公園四区)
**:根岸興行部経営。[[浪曲]]定席。[[1970年]](昭和45年)5月上席開場。毎月1~7日の興行で講談が一席入る。このほか現在は毎月中旬に軽演劇「浅草21世紀」の定期公演も行う。[[日本放送協会|NHK]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]『[[日本の話芸]]』や[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]]』の収録が行われたこともある。[[ももいろクローバーZ]]のシングルCD『[[ニッポン笑顔百景]]』のジャケット写真は木馬亭の舞台で撮影された。
*浅草美人座(六区界隈)
:中映経営。ストリップ劇場、2階は浅草ロマンス座(ストリップ劇場)。浅草小劇場⇒浅草ショー劇場(2階は[[新宿末廣亭|浅草末廣亭]]<ref>冨田均『聞書き・寄席末広亭』(雪渓書房、1980年)pp.77-78</ref>)の跡。1951年開場、1954年閉鎖。現在は[[三平ストア]]。
*国際セントラル劇場(六区界隈)
:元[[国際劇場]]4階のストリップ劇場。1950年4月に開場し、1951年12月に打止めとなった。現在は[[浅草ビューホテル]]。
== 主な商店街 ==
* 六区ブロードウェイ - すしや通りとひさご通りを結ぶ南北全長約300m。浅草六区のメインストリート。旧;浅草六区興行街。
* 浅草六区通り - [[伝法院通り]]から[[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|つくばエクスプレス・浅草駅]]5番出入口を結ぶ東西全長約100m。六区セントラルスクエア付近で浅草六区と重なるのみである。街燈には浅草を代表する芸能人を紹介する写真と解説が設置されている。旧;ロックフラワーロード。
== 交通 ==
*鉄道
** [[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草駅(TX)]]:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|15px|TX]]
** [[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]]
** [[浅草駅]]:[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[File:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|15px|TS]]
*バス
** 浅草公園六区停留所:[[都営バス]](草41、草43、上46、草63)
** つくばエクスプレス浅草駅停留所:[[めぐりん (台東区)|めぐりん]]東西めぐりん
== 脚注 ==
{{Reflist}}
; 参考資料
* 台東区文化財調査報告書第五集『浅草六区』(台東区[[教育委員会]]、1987年3月発行)
* 『地図物語 地図と写真でたどるあの日の浅草』(武揚堂、2006年12月発行)ISBN 978-4829710449
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Rokku Broadway}}
=== 関連組織 ===
*[[浅草寺]] - [[地主]]
*[[浅草花やしき]] - 隣接する[[遊園地]]
*[[浅草観音温泉]](閉店)
*[[松竹]] - 六区興行街の発展に関与
*[[中映]]
*[[東洋興業]]
*[[東京吉本]] - 戦前から戦後にかけて六区に多くの劇場・映画館を所有
*[[東京楽天地]]
=== 関連人物 ===
*[[浅草オペラ]] - [[田谷力三]]、[[藤原義江]]
*[[根岸興行部]] - [[根岸大歌劇団]]、[[根岸浜吉]]、[[根岸吉之助]]
*[[活動弁士]] - [[徳川夢声]]
*[[喜劇人の碑]] - [[榎本健一]](エノケン)、[[古川緑波]](ロッパ)、[[清水金一]](シミキン)、[[堺駿二]]、[[木戸新太郎]](キドシン)、[[大宮敏充]](デン助)、[[柳家金語楼]]、[[八波むと志]]、[[伴淳三郎]](バンジュン)、[[山茶花究]]、[[森川信]]、[[川田晴久]]
*[[喜劇人]]・[[軽演劇]] - [[浅香光代]]、[[佐山俊二]]、[[脱線トリオ]]([[由利徹]]、[[南利明 (俳優)|南利明]]、[[八波むと志]])、[[長門勇]]、[[てんぷくトリオ]]([[三波伸介 (初代)|三波伸介]]、[[戸塚睦夫]]、[[伊東四朗]])、[[スリーポケッツ]] ([[渥美清]]、[[関敬六]]、[[谷幹一]]、のちに[[海野かつを]])、[[コント55号]]([[萩本欽一]]、[[坂上二郎]])、[[ツービート]]([[ビートたけし]]、[[ビートきよし]])
*ゆかりの人物 - [[永井荷風]]、[[川端康成]]、[[サトウハチロー]]、[[菊田一夫]]、[[菊谷栄]]
== 外部リンク ==
* [https://www.edo.net/edo/ 今朝の浅草日記(江戸ネット)]
* [https://zatsuneta.com/archives/000552.html 台東区の地名の由来(東京知ったかぶり!)東京23区辞典]
* [http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata_asakusa_03.htm 川端康成の「浅草紅団」を歩く3(東京紅團)]
* [http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_Asakusa.htm ぶらり浅草(浅草見て歩く記)]
* [http://s-iijima.sakura.ne.jp/asakusa.htm 今昔の浅草界隈(iijiのページ)]
* [https://townphoto.net/taito.html 東京都台東区浅草(townphoto.net)]
{{DEFAULTSORT:あさくさこうえんろつく}}
[[Category:東京都の観光地]]
[[Category:東京都の文化]]
[[Category:浅草]]
[[Category:浅草の歴史]]
[[Category:日本の映画史]]
[[Category:演芸場|*あさくさ]]
[[Category:明治時代の東京]]
[[Category:1884年開業の施設]]
[[Category:1880年代日本の設立]]
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2003-09-26T16:04:04Z
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2023-12-12T07:36:09Z
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南千住駅
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南千住駅(みなみせんじゅえき)は、東京都荒川区南千住四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)の駅である。荒川区最東端の駅。
JR東日本の常磐線・東京メトロの日比谷線・首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスの3社の路線の駅がそれぞれあり、接続駅となっている。JR東日本の駅には「JJ 04」、東京メトロの駅には「H 21」、つくばエクスプレスの駅には「TX04」の駅番号が付与されている。
JRの駅には常磐線快速電車および中距離電車のみが停車し、東京メトロ千代田線に直通している常磐線各駅停車は当駅を経由しない。常磐線各駅停車のみが停車する綾瀬・亀有方面へ向かう場合には、北隣の北千住駅で各駅停車に乗り換えが可能である。かつては、中距離電車の当駅停車は日中のみだったが、2004年3月13日のダイヤ改正で終日停車するようになった。かつて設定されていた通勤快速や2005年7月9日より設定された特別快速は、当駅を通過する。またJRの駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。
JRの駅からは、貨物駅である日本貨物鉄道(JR貨物)隅田川駅へと通じる常磐線支線(隅田川貨物線)が分岐しており、貨物列車のみが使用する。つくばエクスプレスの工事のため使用を休止していた時期があり、その後改築されて使用が再開された。
天皇が茨城県方面での公務があり、つくばエクスプレスに乗車する場合は、起点である秋葉原駅ではなく、当駅を利用する場合がある。過去に2回運行された。
3社の駅はそれぞれ別々の建物であるため、各線相互の乗り換えの際には改札を出て道路を渡る必要がある。
JR東日本の駅舎は、つくばエクスプレスの建設工事に伴い2005年に建て替えられ、バリアフリー対応となった。また、東京メトロの駅舎も同年バリアフリー対応と内・外装の改修を目的としてリニューアルされている。なお、つくばエクスプレスの駅舎は当初からバリアフリー対応がなされている。
島式ホーム1面2線を有する高架駅で、ホームは2階にある。出口は南側の1か所のみで、日比谷線の駅の北口に近い。
地元住民から北口の設置の要望があるが、JR東日本は「出口を増設するほどに利用者が達していない」として自らが出資するには難色を示し、「地元(荒川区)が開設費用を負担するか、利用者が社内基準に達すれば、設置を検討する」としている。
JR東日本ステーションサービスによる業務委託駅で、自動券売機、多機能券売機、指定席券売機、自動改札機が設置されている。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。改札外にNewDaysKIOSKが、ホーム上に待合室がある。
(出典:JR東日本:駅構内図)
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。ホームは3階。出口は三ノ輪駅寄り(南口)と北千住駅寄り(北口)の2か所で、北口がJRの駅入口に近い。
エレベーターは北口側に設置されている。ただし、改札階から2番線(北千住方面)ホームへエレベーターで行く場合は、2階でエレベーターを乗り継ぐ必要がある。
駅北側に千住検車区が近接しており、ラッシュ時を中心に当駅始終着列車が設定されている。また、当駅で乗務員の交代が行われることがある。
当駅は、「北千住駅務管区南千住地域」として近隣の駅を管理している。
(出典:東京メトロ:構内立体図)
2020年2月7日よりスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。
曲は1番線が「桜の川堤」、2番線が「プリズム」(いずれも福嶋尚哉作曲)である。
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。ホームドアシステムなどの安全設備が導入されている。1階地上部(JR常磐線の高架下で、駅舎の反対側)にコンコースがあり、ホームは地下2階にある。出入口と改札は1か所。開業当初は改札横に売店があったが、その後閉店し、自動販売機が設置された。
開削工法で設置された駅であり、工事の際は設置位置の上にある常磐線南千住駅全体を仮線に移す工事が行われた。
また、付近はかつての小塚原刑場の跡地にかかっており、1998年の先行調査では井戸状の枠と104点の頭蓋骨、2002年の本調査では260点以上の頭蓋骨や1700点の四肢骨が出土した。このほかに馬・犬・猫の骨、寛永通宝や下駄・煙管等の小物も出土しているが、木の棺に入れられて埋葬された馬も1点発見されている。
JR東日本・東京メトロ・首都圏新都市鉄道のいずれも南千住駅の名称を用いるが、当時の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)日比谷線開業に際して日本国有鉄道(国鉄)との連絡業務を行わなかったため、長らく同じ駅名でも乗換駅として案内されないという状態になっていた。つくばエクスプレスでは開業前にはJR・東京メトロへの乗り換えが可能な案内を行っていたが、隣の北千住駅での乗り換えの方が至便であることや、同線とJR・東京メトロとの定期券での連絡運輸を設定していなかったことから、開業後も連絡運輸については従前のままである。ただし、3社ともに乗り換えの車内アナウンスは流れている。なお、2010年3月13日よりJR東日本とつくばエクスプレスとの間で定期券に限り当駅での連絡運輸を開始している。
近年の1日平均乗降人員は下表の通りである(東京メトロのみ)。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。
各社の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。
旧日光街道(国道4号)が当駅の西側を通っている。また、隅田川が近く江戸四宿として栄えた千住宿は当駅の付近と北千住駅の付近を総称して指しており、この辺りは小千住・千住南組といっていた。また、江戸時代の刑場である小塚原刑場、橋本左内や鼠小僧次郎吉などの墓のある回向院は当駅の近くにある。
JR駅に隣接して荒川区立南千住第二中学校がある。その他、東京都立産業技術高等専門学校荒川キャンパスおよび東京都立荒川工科高等学校の最寄り駅でもある。JR貨物の隅田川駅、日比谷線の車両基地である千住検車区も当駅の東側にある。また、日比谷線の駅南東部には都営バス南千住営業所があり、同営業所は都電南千住電車営業所の跡地となる。
2008年6月下旬には、JR駅舎前東側にマクドナルドや三徳が入居する平屋建ての商業施設がオープンした。このほか、東口側の複合商業施設としてはBiVi南千住、リブレ京成を核テナントとするLaLaテラス 南千住、23区初のロイヤルホームセンターが立地する。
松尾芭蕉が1689年、千住の地から奥の細道の旅に出立したことに因み、駅前広場に銅像が建立されている。
当駅は先に開業した地下鉄の日比谷線が高架で建設され、つくばエクスプレスはその地下をくぐる構造であるため、日本では4例しかない「同一駅で私鉄のホームが地下にあり地下鉄のホームが高架(地上)にある」という珍しい形態となっている。
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"text": "南千住駅(みなみせんじゅえき)は、東京都荒川区南千住四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)の駅である。荒川区最東端の駅。",
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"text": "JR東日本の常磐線・東京メトロの日比谷線・首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスの3社の路線の駅がそれぞれあり、接続駅となっている。JR東日本の駅には「JJ 04」、東京メトロの駅には「H 21」、つくばエクスプレスの駅には「TX04」の駅番号が付与されている。",
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"text": "JRの駅には常磐線快速電車および中距離電車のみが停車し、東京メトロ千代田線に直通している常磐線各駅停車は当駅を経由しない。常磐線各駅停車のみが停車する綾瀬・亀有方面へ向かう場合には、北隣の北千住駅で各駅停車に乗り換えが可能である。かつては、中距離電車の当駅停車は日中のみだったが、2004年3月13日のダイヤ改正で終日停車するようになった。かつて設定されていた通勤快速や2005年7月9日より設定された特別快速は、当駅を通過する。またJRの駅は、特定都区市内制度における「東京都区内」に属している。",
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"text": "JRの駅からは、貨物駅である日本貨物鉄道(JR貨物)隅田川駅へと通じる常磐線支線(隅田川貨物線)が分岐しており、貨物列車のみが使用する。つくばエクスプレスの工事のため使用を休止していた時期があり、その後改築されて使用が再開された。",
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"text": "JR東日本ステーションサービスによる業務委託駅で、自動券売機、多機能券売機、指定席券売機、自動改札機が設置されている。お客さまサポートコールシステムが導入されており、早朝はインターホンによる案内となる。改札外にNewDaysKIOSKが、ホーム上に待合室がある。",
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"text": "JR東日本・東京メトロ・首都圏新都市鉄道のいずれも南千住駅の名称を用いるが、当時の帝都高速度交通営団(営団地下鉄)日比谷線開業に際して日本国有鉄道(国鉄)との連絡業務を行わなかったため、長らく同じ駅名でも乗換駅として案内されないという状態になっていた。つくばエクスプレスでは開業前にはJR・東京メトロへの乗り換えが可能な案内を行っていたが、隣の北千住駅での乗り換えの方が至便であることや、同線とJR・東京メトロとの定期券での連絡運輸を設定していなかったことから、開業後も連絡運輸については従前のままである。ただし、3社ともに乗り換えの車内アナウンスは流れている。なお、2010年3月13日よりJR東日本とつくばエクスプレスとの間で定期券に限り当駅での連絡運輸を開始している。",
"title": "駅構造"
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"text": "近年の1日平均乗降人員は下表の通りである(東京メトロのみ)。",
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"text": "旧日光街道(国道4号)が当駅の西側を通っている。また、隅田川が近く江戸四宿として栄えた千住宿は当駅の付近と北千住駅の付近を総称して指しており、この辺りは小千住・千住南組といっていた。また、江戸時代の刑場である小塚原刑場、橋本左内や鼠小僧次郎吉などの墓のある回向院は当駅の近くにある。",
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"text": "JR駅に隣接して荒川区立南千住第二中学校がある。その他、東京都立産業技術高等専門学校荒川キャンパスおよび東京都立荒川工科高等学校の最寄り駅でもある。JR貨物の隅田川駅、日比谷線の車両基地である千住検車区も当駅の東側にある。また、日比谷線の駅南東部には都営バス南千住営業所があり、同営業所は都電南千住電車営業所の跡地となる。",
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"text": "当駅は先に開業した地下鉄の日比谷線が高架で建設され、つくばエクスプレスはその地下をくぐる構造であるため、日本では4例しかない「同一駅で私鉄のホームが地下にあり地下鉄のホームが高架(地上)にある」という珍しい形態となっている。",
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南千住駅(みなみせんじゅえき)は、東京都荒川区南千住四丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)・首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)の駅である。荒川区最東端の駅。
|
{{出典の明記|date=2021年3月}}
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|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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|よみがな = みなみせんじゅ
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|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])
* [[首都圏新都市鉄道]]([[#首都圏新都市鉄道|駅詳細]])}}
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[南千住]]四丁目
}}
{{座標一覧}}
[[ファイル:JR Joban-Line Minami-Senji Station East Exit.jpg|thumb|東口(2021年5月)]]
'''南千住駅'''(みなみせんじゅえき)は、[[東京都]][[荒川区]][[南千住]]四丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[首都圏新都市鉄道]](つくばエクスプレス)の[[鉄道駅|駅]]である。荒川区最東端の駅。
== 乗り入れ路線 ==
JR東日本の[[常磐線]]・東京メトロの[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]・首都圏新都市鉄道の[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の3社の路線の駅がそれぞれあり、接続駅となっている。JR東日本の駅には「'''JJ 04'''」、東京メトロの駅には「'''H 21'''」{{efn2|[[2020年]][[6月6日]]の[[虎ノ門ヒルズ駅]]開業に伴い、駅番号を「'''H 20'''」から「'''H 21'''」へ変更。}}、つくばエクスプレスの駅には「'''TX04'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。
JRの駅には[[常磐快速線|常磐線快速電車]]および[[中距離電車]]のみが停車し、東京メトロ[[東京メトロ千代田線|千代田線]]に直通している[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]は当駅を経由しない。常磐線各駅停車のみが停車する[[綾瀬駅|綾瀬]]・[[亀有駅|亀有]]方面へ向かう場合には、北隣の[[北千住駅]]で各駅停車に乗り換えが可能である{{efn2|なお、綾瀬駅経由で千代田線[[北綾瀬駅]]へ向かう際は、一旦日比谷線を使って北千住駅へ向かい、同駅で千代田線に乗り換えると、東京メトロ一社のみの通算運賃となり安価となる。}}。かつては、中距離電車の当駅停車は日中のみだったが、[[2004年]][[3月13日]]の[[2001年から2010年のJRダイヤ改正|ダイヤ改正]]で終日停車するようになった。かつて設定されていた[[常磐線#過去の列車|通勤快速]]や[[2005年]][[7月9日]]より設定された[[常磐線#品川駅 - 上野駅 - 勝田駅間|特別快速]]は、当駅を通過する。またJRの駅は、[[特定都区市内]]制度における「東京都区内」に属している。
JRの駅からは、[[貨物駅]]である[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[隅田川駅]]へと通じる常磐線支線(隅田川貨物線)が分岐しており、[[貨物列車]]のみが使用する。つくばエクスプレスの工事のため使用を休止していた時期があり、その後改築されて使用が再開された。
== 歴史 ==
* [[1896年]]([[明治]]29年)[[12月25日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=425}}</ref>。
* [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]、[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により常磐線の所属となる。
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。
* [[1961年]]([[昭和]]36年)[[3月28日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線の駅が開業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。
* [[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:緩行線(各駅停車)が営団地下鉄千代田線と相互直通運転を開始したことに伴い、国鉄の駅は快速停車駅となる。
* [[1974年]](昭和49年)[[7月1日]]:[[みどりの窓口]]が営業を開始<ref>{{Cite news|title=南千住駅に「みどりの窓口」開設|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1974-06-28|page=2}}</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:普通列車(中距離電車)が日中(9 - 16時台)停車となる。
* [[2001年]]([[平成]]13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-24|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** [[3月13日]]:通勤快速([[2006年]][[3月18日]]廃止)・特別快速([[2005年]][[7月9日]]より設定)を除く普通列車(中距離電車)が全停車となる。
** [[4月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、日比谷線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[8月24日]]:首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅が開業<ref name="news20050823">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051227171646/http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|title=つくばエクスプレス24日開業 モバイルもOK|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-23|accessdate=2020-11-28|archivedate=2005-12-27}}</ref><ref name="news20050824">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060106144928/http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|title=TX開業で沿線の暮らしに変化 住宅開発・生徒取り込み|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-24|accessdate=2020-11-28|archivedate=2006-01-06}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロ・首都圏新都市鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[8月31日]]:みどりの窓口の営業を終了。
* [[2015年]](平成27年)[[2月17日]]:日比谷線の駅に[[太陽光発電|太陽光発電システム]]が導入される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150216_ns122.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212151939/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150216_ns122.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日比谷線南千住駅で太陽光発電システムを稼働します|publisher=東京地下鉄|date=2015-02-16|accessdate=2020-12-12|archivedate=2020-12-12}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月7日]]:日比谷線ホームで[[発車メロディ]]の使用を開始<ref name="Train-melody-H"/>。
=== お召し列車の運行 ===
[[天皇]]が[[茨城県]]方面での公務があり、つくばエクスプレスに乗車する場合は、起点である[[秋葉原駅]]ではなく、当駅を利用する場合がある。過去に2回運行された。
* [[2008年]](平成20年)[[11月12日]]:[[上皇明仁|明仁天皇]]・[[上皇后美智子|美智子皇后]]夫妻と[[スペイン君主一覧|スペイン国王]][[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]・[[ソフィア (スペイン王妃)|ソフィア]]夫妻が、当駅で下車(往路は常磐線を利用した)。
* [[2010年]](平成22年)[[8月2日]]:明仁天皇・美智子皇后夫妻が、復路に当駅を利用(往路〈8月1日〉は秋葉原駅より乗車)。
== 駅構造 ==
3社の駅はそれぞれ別々の建物であるため、各線相互の乗り換えの際には[[改札]]を出て道路を渡る必要がある。
JR東日本の駅舎は、つくばエクスプレスの建設工事に伴い2005年に建て替えられ、[[バリアフリー]]対応となった。また、東京メトロの駅舎も同年バリアフリー対応と内・外装の改修を目的としてリニューアルされている。なお、つくばエクスプレスの駅舎は当初からバリアフリー対応がなされている。
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = green
|文字色 =
|駅名 = JR 南千住駅
|画像 = <!-- 画像を入れると記事のバランスが崩れるので入れないでください -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = みなみせんじゅ
|ローマ字 = Minami-Senju
|電報略号 = ナン
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[南千住]]四丁目5-1
|座標 = {{coord|35|44|3|N|139|47|58.3|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR 南千住駅}}
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|開業年月日 = [[1896年]]([[明治]]29年)[[12月25日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =25 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 15,481
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#00b261|■}}{{color|#3333ff|■}}[[常磐快速線|常磐線(快速)]]<br />(線路名称上は[[常磐線]])
|駅番号1 = {{駅番号r|JJ|04|#00b261|1}}
|前の駅1 = JJ 03 [[三河島駅|三河島]]
|駅間A1 = 2.2
|駅間B1 = 1.8
|次の駅1 = [[北千住駅|北千住]] JJ 05
|キロ程1 = 3.4 km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[上野駅|上野]]から5.6
|起点駅1 =
|所属路線2 = 常磐線(貨物支線・隅田川貨物線)
|隣の駅2 =
|前の駅2 = [[隅田川駅|隅田川]]
|駅間A2 = 2.3
|駅間B2 =
|次の駅2 =
|駅番号2 =
|キロ程2 = 5.7
|起点駅2 = [[三河島駅|三河島]]
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=1487_230913" />
* [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}}
|備考全幅 =
}}
[[島式ホーム]]1面2線を有する{{R|zeneki05}}[[高架駅]]で、ホームは2階にある。出口は南側の1か所のみで、日比谷線の駅の北口に近い。
地元住民から北口の設置の要望があるが、JR東日本は「出口を増設するほどに利用者が達していない」として自らが出資するには難色を示し、「地元(荒川区)が開設費用を負担するか、利用者が社内基準に達すれば、設置を検討する」としている。
[[JR東日本ステーションサービス]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で、[[自動券売機]]、多機能券売機<ref name="StationCd=1487_230913" />、[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=1487_230913" />、[[自動改札機]]が設置されている。[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、早朝はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1487_230913">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1487|title=駅の情報(南千住駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-13}}</ref>。改札外に[[NewDays|NewDaysKIOSK]]が、ホーム上に[[待合室]]がある。
==== のりば ====
<!--方面表記および路線表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!rowspan="2"|1
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|下り
|rowspan="2"|[[松戸駅|松戸]]・[[取手駅|取手]]・[[土浦駅|土浦]]・[[水戸駅|水戸]]・[[成田駅|成田]]方面
|-
|{{Color|#00b261|■}} [[成田線]]
|-
!2
|[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)<br>[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[上野東京ライン]]
|style="text-align:center;"|上り
|[[日暮里駅|日暮里]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1487.html JR東日本:駅構内図])
<gallery>
JR Joban-Line Minami-Senji Station Gates.jpg|改札口(2021年5月)
JR Joban-Line Minami-Senji Station Platform.jpg|ホーム(2021年5月)
</gallery>
{{-}}
=== 東京メトロ ===
{{駅情報
|社色 = #109ed4
|文字色 =
|駅名 = 東京メトロ 南千住駅
|画像 = <!-- 画像を入れると記事のバランスが崩れるので入れないでください -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = みなみせんじゅ
|ローマ字 = Minami-senju
|電報略号 = ナセ
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[南千住]]四丁目3-1
|座標 = {{coord|35|43|57|N|139|47|56|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ 南千住駅}}
|所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ)
|開業年月日 = [[1961年]]([[昭和]]36年)[[3月28日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|廃止年月日 =
|乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />28,241
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = {{color|#b5b5ac|●}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]
|駅番号 = {{駅番号r|H|21|#b5b5ac|4}}<ref name="tokyosubway"/>
|前の駅 = H 20 [[三ノ輪駅|三ノ輪]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 2.1
|次の駅 = [[北千住駅|北千住]] H 22
|キロ程 = 2.1
|起点駅 = 北千住<!--駅番号の付番とは逆-->
|備考全幅 =
}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]。ホームは3階。出口は[[三ノ輪駅]]寄り(南口)と北千住駅寄り(北口)の2か所で、北口がJRの駅入口に近い。
[[エレベーター]]は北口側に設置されている。ただし、改札階から2番線(北千住方面)ホームへエレベーターで行く場合は、2階でエレベーターを乗り継ぐ必要がある。
駅北側に[[千住検車区]]が近接しており、ラッシュ時を中心に当駅始終着列車が設定されている。また、当駅で乗務員の交代が行われることがある。
当駅は、「[[北千住駅|北千住]]駅務管区南千住地域」として近隣の駅を管理している<ref>{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=11|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
==== のりば ====
{| class="wikitable"
!番線!!路線!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線
|[[中目黒駅|中目黒]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/minami-senju/timetable/hibiya/a/index.html |title=南千住駅時刻表 中目黒方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|-
!2
|[[北千住駅|北千住]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/minami-senju/timetable/hibiya/b/index.html |title=南千住駅時刻表 北千住・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|}
(出典:[https://www.tokyometro.jp/station/minami-senju/index.html 東京メトロ:構内立体図])
<gallery>
Minamisenju-Sta-Tokyometro-Gate.JPG|JR南千住駅方面改札口(2016年5月)
Minamisenju-Sta-Tokyometro-Platform.JPG|日比谷線ホーム(2016年5月)
Minamisenju-Sta-Tokyometro.JPG|駅舎(北口)(2018年12月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
2020年2月7日より[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の[[発車メロディ]](発車サイン音)を使用している<ref name="Train-melody-H"/>。
曲は1番線が「桜の川堤」、2番線が「プリズム」(いずれも[[福嶋尚哉]]作曲)である<ref name="Train-melody-H">{{Cite web|和書|title=東京メトロ日比谷線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/505|date=2020-02-07|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2020-02-07|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。
=== 首都圏新都市鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = red
|文字色 =
|駅名 = 首都圏新都市鉄道 南千住駅
|画像 = <!-- 画像を入れると記事のバランスが崩れるので入れないでください -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = みなみせんじゅ
|ローマ字 = Minami-Senju
|電報略号 =
|所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[南千住]]四丁目4-1
|座標 = {{coord|35|44|0|N|139|47|57|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=首都圏新都市鉄道 南千住駅}}
|所属事業者= [[首都圏新都市鉄道]]
|開業年月日 = [[2005年]]([[平成]]17年)[[8月24日]]<ref name="news20050823"/><ref name="news20050824"/>
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面2線
|廃止年月日 =
|乗車人員 = <ref group="TX" name="TX2022" />5,672
|統計年度 = 2022年
|所属路線 = [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]
|前の駅 = TX03 [[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草]]
|駅間A = 2.5
|駅間B = 1.9
|次の駅 = [[北千住駅|北千住]] TX05
|駅番号 = '''TX04'''
|キロ程 = 5.6
|起点駅 = [[秋葉原駅|秋葉原]]
|備考 =
}}
[[File:TX04 Minami-Senju (rail).png|thumb|150px|配線図<ref>川島令三『【図説】日本の鉄道 首都近郊スペシャル 全線・全駅・全配線』講談社、2014年4月23日、40頁。</ref>]]
相対式ホーム2面2線を有する[[地下駅]]。[[ホームドア]]システムなどの安全設備が導入されている。1階地上部(JR常磐線の高架下で、駅舎の反対側)に[[コンコース]]があり、ホームは地下2階にある。出入口と改札は1か所。開業当初は改札横に[[売店]]があったが、その後閉店し、[[自動販売機]]が設置された。
[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]で設置された駅であり、工事の際は設置位置の上にある常磐線南千住駅全体を[[仮線]]に移す工事が行われた。
また、付近はかつての[[小塚原刑場]]の跡地にかかっており、1998年の先行調査では井戸状の枠と104点の頭蓋骨、2002年の本調査では260点以上の頭蓋骨や1700点の四肢骨が出土した<ref name="tx2007">{{Cite book|和書|title=つくばエクスプレス建設物語|editor=都市高速鉄道研究会|publisher=[[成山堂書店]]|date=2007-03-18|isbn=978-4-425-96121-4|page=21}}</ref>。このほかに馬・犬・猫の骨、[[寛永通宝]]や下駄・煙管等の小物も出土しているが、木の棺に入れられて埋葬された馬も1点発見されている<ref name="tx2007"/>。
==== のりば ====
<!--方面表記は、つくばエクスプレスの「駅全体図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Tsukuba Express mark.svg|23px]] つくばエクスプレス
|style="text-align:center;"|下り
|[[つくば駅|つくば]]方面<ref name="timetable">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/route_map/minami-senju/|title=<nowiki>南千住駅|駅情報・路線図</nowiki> |website=つくばエクスプレス |publisher=首都圏新都市鉄道 |accessdate=2021-05-04}}</ref>
|-
!2
|style="text-align:center;"|上り
|[[秋葉原駅|秋葉原]]方面<ref name="timetable" />
|}
<gallery>
Minamisenju Station-Ticket gate.JPG|改札口(2008年2月)
Tsukuba-express-04-Minami-senju-station-platform.jpg|ホーム(2008年1月)
</gallery>
=== 連絡運輸について ===
JR東日本・東京メトロ・首都圏新都市鉄道のいずれも'''南千住駅'''の名称を用いるが、当時の[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)日比谷線開業に際して[[日本国有鉄道]](国鉄)との連絡業務を行わなかったため、長らく同じ駅名でも[[乗換駅]]として案内されないという状態になっていた。つくばエクスプレスでは開業前にはJR・東京メトロへの乗り換えが可能な案内を行っていたが、隣の北千住駅での乗り換えの方が至便であることや、同線とJR・東京メトロとの[[定期乗車券|定期券]]での[[連絡運輸]]を設定していなかったことから、開業後も連絡運輸については従前のままである。ただし、3社ともに乗り換えの車内アナウンスは流れている。なお、2010年3月13日よりJR東日本とつくばエクスプレスとの間で定期券に限り当駅での連絡運輸を開始している。
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''15,481人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
* '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''28,241人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。
*: 東京メトロ全130駅中108位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。日比谷線の駅では最も乗降人員が少ない。
* '''首都圏新都市鉄道''' - 2022年度の1日平均'''乗車'''人員は'''5,672人'''である<ref group="TX" name="TX2022" />。
*: つくばエクスプレス線の快速停車駅では最も乗車人員が少ない。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
近年の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(東京メトロのみ)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="統計" name="arakawa">[https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kusei/gaiyo/suji.html 数字で表す荒川区(区勢概要)] - 荒川区</ref>
!rowspan=2|年度
!colspan=2|営団 / 東京メトロ
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2000年(平成12年)
|15,968
|
|-
|2001年(平成13年)
|16,656
|4.3%
|-
|2002年(平成14年)
|17,387
|4.4%
|-
|2003年(平成15年)
|17,794
|2.3%
|-
|2004年(平成16年)
|19,251
|8.2%
|-
|2005年(平成17年)
|20,357
|5.7%
|-
|2006年(平成18年)
|20,841
|2.4%
|-
|2007年(平成19年)
|22,161
|6.3%
|-
|2008年(平成20年)
|23,306
|5.2%
|-
|2009年(平成21年)
|23,951
|2.8%
|-
|2010年(平成22年)
|24,642
|2.9%
|-
|2011年(平成23年)
|24,941
|1.2%
|-
|2012年(平成24年)
|26,346
|5.6%
|-
|2013年(平成25年)
|27,173
|3.1%
|-
|2014年(平成26年)
|27,571
|1.5%
|-
|2015年(平成27年)
|28,375
|2.9%
|-
|2016年(平成28年)
|29,220
|3.0%
|-
|2017年(平成29年)
|30,040
|2.8%
|-
|2018年(平成30年)
|31,398
|4.5%
|-
|2019年(令和元年)
|31,245
|−0.5%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>23,621
|−24.4%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>25,092
|6.2%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>28,241
|12.5%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1890年代 - 1930年代) ===
各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員
!年度
!日本鉄道 /<br/>国鉄
!出典
|-
|1896年(明治29年)
|<ref group="備考">1896年12月25日開業。開業日から翌年3月31日までの計97日間を集計したデータ。</ref> 15
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref>
|-
|1897年(明治30年)
|41
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref>
|-
|1898年(明治31年)
|353
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref>
|-
|1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計-->
|392
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref>
|-
|1900年(明治33年)
|449
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref>
|-
|1901年(明治34年)
|431
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref>
|-
|1902年(明治35年)
|390
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref>
|-
|1903年(明治36年)
|336
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref>
|-
|1904年(明治37年)
|312
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref>
|-
|1905年(明治38年)
|308
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref>
|-
|1907年(明治40年)
|389
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref>
|-
|1908年(明治41年)
|364
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref>
|-
|1909年(明治42年)
|507
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref>
|-
|1911年(明治44年)
|757
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref>
|-
|1912年(大正元年)
|824
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref>
|-
|1913年(大正{{0}}2年)
|766
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref>
|-
|1914年(大正{{0}}3年)
|799
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref>
|-
|1915年(大正{{0}}4年)
|838
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref>
|-
|1916年(大正{{0}}5年)
|948
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref>
|-
|1919年(大正{{0}}8年)
|1,521
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref>
|-
|1920年(大正{{0}}9年)
|1,762
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref>
|-
|1922年(大正11年)
|2,185
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref>
|-
|1923年(大正12年)
|2,218
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref>
|-
|1924年(大正13年)
|2,765
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref>
|-
|1925年(大正14年)
|2,852
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref>
|-
|1926年(昭和元年)
|2,880
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref>
|-
|1927年(昭和{{0}}2年)
|2,955
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref>
|-
|1928年(昭和{{0}}3年)
|3,171
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref>
|-
|1929年(昭和{{0}}4年)
|3,060
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref>
|-
|1930年(昭和{{0}}5年)
|2,853
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref>
|-
|1931年(昭和{{0}}6年)
|2,689
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref>
|-
|1932年(昭和{{0}}7年)
|2,554
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref>
|-
|1933年(昭和{{0}}8年)
|2,619
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref>
|-
|1934年(昭和{{0}}9年)
|2,653
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref>
|-
|1935年(昭和10年)
|2,775
|<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) ===
各社の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="tokyo-toukei">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref>
!年度
!国鉄 /<br />JR東日本
!営団
!出典
|-
|1953年(昭和28年)
|12,562
|rowspan="7" style="text-align:center"|未<br />開<br />業
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref>
|-
|1954年(昭和29年)
|13,168
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1955年(昭和30年)
|13,571
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1956年(昭和31年)
|15,251
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1957年(昭和32年)
|15,455
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1958年(昭和33年)
|15,844
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref>
|-
|1959年(昭和34年)
|16,668
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref>
|-
|1960年(昭和35年)
|17,690
|<ref group="備考">1961年3月28日開業。開業日から同年3月31日までの計4日間を集計したデータ。</ref> 4,306
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref>
|-
|1961年(昭和36年)
|16,612
|2,424
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref>
|-
|1962年(昭和37年)
|16,781
|4,512
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref>
|-
|1963年(昭和38年)
|17,014
|5,843
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref>
|-
|1964年(昭和39年)
|17,355
|7,043
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref>
|-
|1965年(昭和40年)
|17,947
|8,095
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref>
|-
|1966年(昭和41年)
|18,606
|7,929
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref>
|-
|1967年(昭和42年)
|19,208
|8,967
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref>
|-
|1968年(昭和43年)
|19,036
|9,397
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref>
|-
|1969年(昭和44年)
|16,486
|10,250
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref>
|-
|1970年(昭和45年)
|15,740
|10,962
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref>
|-
|1971年(昭和46年)
|13,727
|12,022
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref>
|-
|1972年(昭和47年)
|12,671
|12,189
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref>
|-
|1973年(昭和48年)
|12,605
|12,052
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref>
|-
|1974年(昭和49年)
|12,633
|11,619
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
|12,686
|10,525
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref>
|-
|1976年(昭和51年)
|13,096
|10,742
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref>
|-
|1977年(昭和52年)
|13,315
|10,808
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref>
|-
|1978年(昭和53年)
|13,118
|10,959
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref>
|-
|1979年(昭和54年)
|12,410
|11,552
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
|11,715
|11,466
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref>
|-
|1981年(昭和56年)
|11,471
|11,562
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref>
|-
|1982年(昭和57年)
|11,493
|11,312
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref>
|-
|1983年(昭和58年)
|11,191
|11,344
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref>
|-
|1984年(昭和59年)
|11,181
|10,071
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
|11,230
|9,956
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref>
|-
|1986年(昭和61年)
|10,729
|9,800
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref>
|-
|1987年(昭和62年)
|10,404
|9,760
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref>
|-
|1988年(昭和63年)
|11,044
|9,918
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref>
|-
|1989年(平成元年)
|11,164
|10,055
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|11,290
|9,825
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|11,462
|9,423
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|11,290
|9,178
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|11,419
|9,077
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|11,715
|8,890
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|12,036
|8,560
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|12,282
|8,244
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|11,992
|8,036
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|11,778
|7,858
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|11,724
|7,743
|<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_01.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>11,852
|8,241
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref>
|}
=== 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計" name="arakawa" /><ref group="統計" name="tokyo-toukei"/>
!年度
!JR東日本
!営団 /<br />東京メトロ
!首都圏<br />新都市鉄道
!出典
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_01.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>11,985
|8,553
|rowspan="4" style="text-align:center"|未<br />開<br />業
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_01.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>12,253
|8,753
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_01.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>12,474
|9,003
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_01.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>13,283
|9,611
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>13,806
|9,986
|2,508
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>13,953
|10,266
|3,108
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>14,034
|11,074
|3,451
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>14,266
|11,518
|3,679
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>14,597
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|3,828
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>15,021
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|4,002
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>15,305
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|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_02.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>15,731
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|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_02.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>16,508
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|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_02.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>16,751
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|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_02.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>16,990
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|-
|2018年(平成30年)
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|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_02.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>17,201
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|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_02.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>13,655
|
|<ref group="TX" name="TX2020">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=1日平均乗車人員(年度別)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220315013924/https://www.mir.co.jp/company/number.html |archivedate=2022-03-15|page=|accessdate=2023-07-01|publisher=首都圏新都市鉄道|format=|language=日本語}}</ref>4,583
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_02.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>14,399
|
|<ref group="TX" name="TX2021">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=1日平均乗車人員(年度別)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230410073316/https://www.mir.co.jp/company/number.html |archivedate=2023-04-10|page=|accessdate=2023-07-01|publisher=首都圏新都市鉄道|format=|language=日本語}}</ref>5,133
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_02.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>15,481
|
|<ref group="TX" name="TX2022">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=1日平均乗車人員(年度別)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230630233726/https://www.mir.co.jp/company/number.html |archivedate=2023-06-30|page=|accessdate=2023-07-01|publisher=首都圏新都市鉄道|format=|language=日本語}}</ref>5,672
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Matsuobasho-Minamisenju.JPG|thumb|駅前広場に建つ松尾芭蕉の像]]
旧[[日光街道]]([[国道4号]])が当駅の西側を通っている。また、[[隅田川]]が近く[[江戸四宿]]として栄えた[[千住|千住宿]]は当駅の付近と[[北千住駅]]の付近を総称して指しており、この辺りは小千住・千住南組といっていた。また、[[江戸時代]]の[[刑場]]である[[小塚原刑場]]、[[橋本左内]]や[[鼠小僧|鼠小僧次郎吉]]などの墓のある[[回向院]]は当駅の近くにある。
JR駅に隣接して[[荒川区立南千住第二中学校]]がある。その他、[[東京都立産業技術高等専門学校]]荒川キャンパスおよび[[東京都立荒川工科高等学校]]の最寄り駅でもある。JR貨物の隅田川駅、日比谷線の[[車両基地]]である[[千住検車区]]も当駅の東側にある。また、日比谷線の駅南東部には[[都営バス南千住営業所]]があり、同営業所は[[東京都電車|都電]]南千住電車営業所の跡地となる。
2008年6月下旬には、JR駅舎前東側に[[日本マクドナルド|マクドナルド]]や[[三徳 (スーパーマーケット)|三徳]]が入居する平屋建ての商業施設がオープンした。このほか、東口側の[[複合商業施設]]としてはBiVi南千住、[[京成ストア|リブレ京成]]を核テナントとする[[三井不動産商業マネジメント|LaLaテラス 南千住]]、23区初の'''ロイヤルホームセンター'''が立地する。
[[松尾芭蕉]]が[[1689年]]、千住の地から[[奥の細道]]の旅に出立したことに因み、駅前広場に銅像が建立されている。
{{See also|南千住|日本堤}}
* [[東京都交通局]] [[都営バス南千住営業所|南千住自動車営業所]]
* [[泪橋]] - 駅前から貨物線[[跨線橋]]を経由し徒歩約5分。
* [[山谷 (東京都)]] - 駅前から貨物線跨線橋を経由し徒歩約10分。
* 荒川南千住五[[郵便局]] - 西口から徒歩約3分。
== バス路線 ==
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先
|-
!colspan="3"|南千住駅東口
|-
!2
|rowspan="2" style="text-align:center;"|[[都営バス]]
|[[都営バス南千住営業所#錦40系統|'''錦40''']]:[[錦糸町駅|錦糸町駅前]]
|-
!3
|[[都営バス南千住営業所#上46系統|'''上46''']]:[[上野広小路駅|上野松坂屋前]]・南千住車庫前
|-
!rowspan="2"|-
|style="text-align:center;"|[[荒川区コミュニティバス]]<br />「汐入さくら」
|[[京成バス金町営業所#北千住線|'''南千03''']]:南千住駅西口
|-
|style="text-align:center;"|[[京成バス]]
|'''北千01'''・'''北千02''':[[北千住駅|北千住駅東口(電大口)]]
|-
!colspan="3"|南千住車庫前
|-
!-
|style="text-align:center;"|都営バス
|{{Unbulleted list|[[都営バス南千住営業所#東42系統|'''東42-1''']]:[[東京駅のバス乗り場#八重洲南口|東京駅八重洲口]]|'''東42-2''':[[東神田]]|'''東42-3''':浅草雷門|'''上46''':上野松坂屋前}}
|-
!colspan="3"|南千住駅西口
|-
!4
|style="text-align:center;"|都営バス
|{{Unbulleted list|'''東42-1''':東京駅八重洲口|'''東42-2''':東神田}}
|-
!rowspan="2"|-
|style="text-align:center;"|荒川区コミュニティバス<br />(汐入さくら)
|'''南千03''':南千住駅東口
|-
|style="text-align:center;"|荒川区コミュニティバス<br />(さくら)
|[[荒川区コミュニティバス#さくら|'''南千01''']]・'''南千02'''・'''南千02-1''':南千住駅西口(環環)
|}
== その他 ==
当駅は先に開業した地下鉄の日比谷線が高架で建設され、つくばエクスプレスはその地下をくぐる構造であるため、日本では4例しかない「'''同一駅で私鉄のホームが地下にあり地下鉄のホームが高架(地上)にある'''」という珍しい形態となっている<ref group="注">同様の例は同じ都内の[[渋谷駅]]([[東京メトロ銀座線]]が高架、[[東急田園都市線]]と[[東急東横線]]が地下にある。東急の2路線は渋谷駅を境に田園都市線は[[東京メトロ半蔵門線]]と、東横線は[[東京メトロ副都心線]]と相互直通運転を行っている。銀座線のホームは半蔵門線、副都心線と違い自社である東京メトロが管轄している)、[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]の[[九条駅 (大阪府)|九条駅]]([[Osaka Metro中央線]]が高架、[[阪神なんば線]]が地下)、[[愛知県]][[名古屋市]][[名東区]]の[[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘駅]]でも見られる([[名古屋市営地下鉄東山線]]が高架、[[愛知高速交通東部丘陵線]]〈リニモ〉が地下)。</ref>。
== 隣の駅 ==
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)
:: {{Color|#ff0066|■}}特別快速
:::; 通過
:: {{Color|#3333ff|■}}{{Color|#33dd22|■}}快速
::: [[三河島駅]] (JJ 03) - '''南千住駅 (JJ 04)''' - [[北千住駅]] (JJ 05)
: 常磐線貨物支線(隅田川貨物線)
::: [[隅田川駅]] - '''南千住駅'''
; 東京地下鉄(東京メトロ)
: [[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線
::: [[三ノ輪駅]] (H 20) - '''南千住駅 (H 21)''' - 北千住駅 (H 22)
; 首都圏新都市鉄道
: つくばエクスプレス
::{{Color|red|■}}快速・{{Color|orange|■}}通勤快速(平日下りのみ運転)・{{Color|#000084|■}}区間快速・{{Color|gray|■}}普通
::: [[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草駅]] (TX03) - '''南千住駅 (TX04)''' - 北千住駅 (TX05)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"}}
=== 利用状況 ===
; JR・私鉄・地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の2000年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|22em}}
; 東京地下鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="メトロ"|22em}}
; 首都圏新都市鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="TX"|22em}}
; JR・私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京府統計書
{{Reflist|group="東京府統計"|17em}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|17em}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Minami-Senju Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1487|name=南千住}}
* [https://www.tokyometro.jp/station/minami-senju/index.html 南千住駅/H21 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ]
* [https://www.mir.co.jp/route_map/minami-senju/ 南千住駅 | 駅情報・路線図 | つくばエクスプレス]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{常磐線|mode=1}}
{{常磐線 (田端貨物線・隅田川貨物線)}}
{{東京メトロ日比谷線}}
{{首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線}}
{{鉄道路線フッター}}
{{DEFAULTSORT:みなみせんしゆ}}
[[Category:荒川区の鉄道駅]]
[[Category:南千住|みなみせんしゆえき]]
[[Category:日本の鉄道駅 み|なみせんしゆ]]
[[Category:日本鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東京地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:首都圏新都市鉄道の鉄道駅]]
[[Category:常磐線|みなみせんしゆえき]]
[[Category:1896年開業の鉄道駅]]
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2003-09-26T16:21:52Z
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18,423 |
654年
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654年(654 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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654年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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{{年代ナビ|654}}
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲寅]]
* [[日本]]
** [[白雉]]5年
** [[皇紀]]1314年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[永徽]]5年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]13年
** [[百済]]:[[義慈王]]14年
** [[新羅]]:[[真徳女王]]8年、[[武烈王]]元年
** [[檀紀]]2987年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=654|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* 2月 - [[高向玄理]]を[[遣唐使]]に派遣([[朝鮮半島]]における[[唐]]の侵略に関する情勢に対応するのも目的の一つと考えられている。)。
== 誕生 ==
{{see also|Category:654年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[高市皇子]]、[[天武天皇]]第1皇子(+ [[696年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:654年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[11月24日]](白雉5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[孝徳天皇]]、第36代[[天皇]](* [[596年]])
* [[高向玄理]]、[[飛鳥時代]]の学者
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|654}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}}
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[[Category:654年|*]]
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18,424 |
新御徒町駅
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新御徒町駅(しんおかちまちえき)は、東京都台東区にある、東京都交通局(都営地下鉄)・首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)の駅である。
都営地下鉄の大江戸線と、首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスが乗り入れ、接続駅となっている。都営地下鉄の駅には「E 10」、つくばエクスプレスの駅には「TX02」の駅番号がそれぞれ制定されている。
つくばエクスプレスの建設時は大江戸線の工事が先行していたことから、鉄道・運輸機構が大江戸線の建設主体である東京都地下鉄建設に工事を委託した。
大江戸線・つくばエクスプレス開業前の仮称はいずれも「元浅草」であった。
都営地下鉄大江戸線、つくばエクスプレスともに春日通り直下に島式ホーム1面2線を有する地下駅である。両線のコンコースが地下1階、大江戸線ホームが地下2階、乗り換え改札(TX管理)が地下3階、つくばエクスプレスのホームが地下4階に位置する。地上面からつくばエクスプレスのホームまでの深さは30.8 mであり、つくばエクスプレスの駅では秋葉原駅に次いで深い地下駅である。
大江戸線構内にはコンコースと大江戸線ホーム、大江戸線ホームと乗り換え改札階の間を連絡するエレベーターが、つくばエクスプレス構内にはコンコース - 乗り換え改札階 - つくばエクスプレス線ホームを連絡するエレベーターがそれぞれ設置され、バリアフリーが確保されている。
なお、つくばエクスプレスの駅の地下1・2階は躯体断面を大江戸線に合わせたため、天井が低く、小型の吊り下げサインが設置されている。一方で地下3階は階高が大きくなっている。
巣鴨駅務管区上野御徒町駅務区が管理する直営駅。蔵前駅寄りに留置線が2本あり、当駅始発・終着となる列車も運転されている。
(出典:都営地下鉄:駅構内図)
2019年5月から、将来の8両編成化に対応するためのホーム延長工事が開始されている。
かつてはA2出入口のビルが首都圏新都市鉄道の本社事務所だったが2017年に移転し、現在は登記上の本店所在地となっている。
開業以来の1日平均乗降人員の推移は以下の通り(首都圏新都市鉄道を除く)。
開業以来の1日平均乗車人員推移は下記の通り。
最寄りの停留所は「新御徒町駅前」である。都営バスと台東区循環バス「めぐりん」の「南めぐりん」「東西めぐりん」「ぐるーりめぐりん」が停車する。1番のりばが東上野一丁目2番、2番のりばが小島二丁目21番となる。都営大江戸線開業までは「元浅草一丁目」を名乗っていた。
|
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] |
新御徒町駅(しんおかちまちえき)は、東京都台東区にある、東京都交通局(都営地下鉄)・首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス)の駅である。
|
{{出典の明記|date=2021年3月}}
{{駅情報
|駅名 = 新御徒町駅
|画像 = Shin-okachimachi-a2.JPG
|画像説明 = A2番出入口(2007年8月)
|pxl = 300px
|よみがな = しんおかちまち
|ローマ字 = Shin-Okachimachi
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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}}
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])<br />[[首都圏新都市鉄道]]([[#首都圏新都市鉄道|駅詳細]])
|所在地 = [[東京都]][[台東区]]
}}
[[File:Shin-Okachimachi-STA Entrance-A1.jpg|thumb|A1番出入口(2021年8月)]]
'''新御徒町駅'''(しんおかちまちえき)は、[[東京都]][[台東区]]にある、[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])・[[首都圏新都市鉄道]]([[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]])の[[鉄道駅|駅]]である。
== 概要 ==
都営地下鉄の[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]と、首都圏新都市鉄道の[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]が乗り入れ、接続駅となっている。都営地下鉄の駅には「'''E 10'''」、つくばエクスプレスの駅には「'''TX02'''」の[[駅ナンバリング|駅番号]]がそれぞれ制定されている。
つくばエクスプレスの建設時は大江戸線の工事が先行していたことから、[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|鉄道・運輸機構]]が大江戸線の建設主体である[[東京都地下鉄建設]]に工事を委託した。
== 歴史 ==
大江戸線・つくばエクスプレス開業前の仮称はいずれも「元浅草」であった。
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[12月12日]]:都営地下鉄大江戸線の全通と同時に開業。
* [[2005年]](平成17年)[[8月24日]]:つくばエクスプレスが開業し、乗り換え駅となる<ref name="news20050823">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051227171646/http://www.asahi.com/tx2005/TKY200508220349.html|title=つくばエクスプレス24日開業 モバイルもOK|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-23|accessdate=2020-11-28|archivedate=2005-12-27}}</ref><ref name="news20050824">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060106144928/http://www.asahi.com/life/update/0824/007.html|title=TX開業で沿線の暮らしに変化 住宅開発・生徒取り込み|newspaper=朝日新聞|date=2005-08-24|accessdate=2020-11-28|archivedate=2006-01-06}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-06|archivedate=2020-05-01}}</ref>。
== 駅構造 ==
都営地下鉄大江戸線、つくばエクスプレスともに春日通り直下に[[島式ホーム]]1面2線を有する地下駅である。両線のコンコースが地下1階、大江戸線ホームが地下2階、乗り換え改札(TX管理)が地下3階、つくばエクスプレスのホームが地下4階に位置する。地上面からつくばエクスプレスのホームまでの深さは30.8 [[メートル|m]]であり、つくばエクスプレスの駅では秋葉原駅に次いで深い地下駅である。
大江戸線構内にはコンコースと大江戸線ホーム、大江戸線ホームと乗り換え改札階の間を連絡するエレベーターが、つくばエクスプレス構内にはコンコース - 乗り換え改札階 - つくばエクスプレス線ホームを連絡するエレベーターがそれぞれ設置され、バリアフリーが確保されている。
なお、つくばエクスプレスの駅の地下1・2階は躯体断面を大江戸線に合わせたため、天井が低く、小型の吊り下げサインが設置されている。一方で地下3階は階高が大きくなっている<ref>{{Cite book|和書|title=つくばエクスプレス建設物語|editor=都市高速鉄道研究会|publisher=[[成山堂書店]]|date=2007-03-18|isbn=978-4-425-96121-4|pages=16-17}}</ref>。
=== 東京都交通局 ===
{{駅情報
|社色 = #009f40
|文字色 =
|駅名 = 東京都交通局 新御徒町駅
|画像 = <!-- 記事のバランスが崩れるので、画像は入れないで下さい -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = しんおかちまち
|ローマ字 = Shin-okachimachi
|前の駅 = E 09 [[上野御徒町駅|上野御徒町]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 1.0
|次の駅 = [[蔵前駅|蔵前]] E 11
|電報略号 = 御<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/contract/pdf/short_course_text.pdf|title=安全施工管理責任者講習会テキスト|accessdate=2021-05-14|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語}}</ref>(駅名略称)
|駅番号 = {{駅番号r|E|10|#ce045b|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref>
|所属事業者 = [[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])
|所属路線 = {{color|#ce045b|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]
|キロ程 = 9.5
|起点駅 = [[都庁前駅|都庁前]]
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[元浅草]]一丁目5-2
|座標 = {{coord|35|42|24.8|N|139|46|58|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=東京都交通局 新御徒町駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[2000年]]([[平成]]12年)[[12月12日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />48,246
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[巣鴨駅]]務管区[[上野御徒町駅]]務区が管理する直営駅。[[蔵前駅]]寄りに留置線が2本あり、当駅始発・終着となる列車も運転されている<ref name="RJ704_36">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=36|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/timetable/oedo/E10BD.html |title=新御徒町 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-04}}</ref>
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
|[[飯田橋駅|飯田橋]]・[[都庁前駅|都庁前]]・{{small|(都庁前のりかえ)}}[[光が丘駅|光が丘]]方面
|-
!2
|[[両国駅|両国]]・[[大門駅 (東京都)|大門]]方面
|}
(出典:[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shin-okachimachi.html 都営地下鉄:駅構内図])
<gallery widths="180">
Shin-okachimachi-oedo-gate.JPG|改札口(2007年8月)
Toei-subway-E10-Shin-okachimachi-station-platform-20191201-151621.jpg|ホーム(2019年12月)
</gallery>
=== 首都圏新都市鉄道 ===
{{駅情報
|社色 = red
|文字色 =
|駅名 = 首都圏新都市鉄道 新御徒町駅
|画像 = <!-- 記事のバランスが崩れるので、画像は入れないで下さい -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = しんおかちまち
|ローマ字 = Shin-Okachimachi
|前の駅 = TX01 [[秋葉原駅|秋葉原]]
|駅間A = 1.6
|駅間B = 1.5
|次の駅 = [[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草]] TX03
|駅番号 = '''TX02'''
|所属事業者 = [[首都圏新都市鉄道]]
|所属路線 = [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]
|キロ程 = 1.6
|起点駅 = [[秋葉原駅|秋葉原]]
|所在地 = [[東京都]][[台東区]][[小島 (台東区)|小島]]二丁目21-18
|座標 = {{coord|35|42|25.4|N|139|46|54.9|E|region:JP_type:railwaystation|name=首都圏新都市鉄道 新御徒町駅}}
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[2005年]]([[平成]]17年)[[8月24日]]<ref name="news20050823"/><ref name="news20050824"/>
|乗車人員 = <ref group="tx" name="tx2022" />19,160
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[File:TX02 Shin-Okachimachi (rail).png|thumb|150px|配線図<ref>川島令三『【図説】日本の鉄道 首都近郊スペシャル 全線・全駅・全配線』講談社、2014年4月23日、15頁。</ref>]]
[[2019年]][[5月]]から、将来の8両編成化に対応するためのホーム延長工事が開始されている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mir.co.jp/assets_rti/pdf/2019.05.31_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200630123137/https://www.mir.co.jp/assets_rti/pdf/2019.05.31_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=8両編成化事業の実施を決定! 朝ラッシュ時間帯における抜本的な混雑緩和を図ります|publisher=首都圏新都市鉄道|date=2019-05-31|accessdate=2020-06-30|archivedate=2020-06-30}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO43489060Y9A400C1L60000|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190409153655/https://r.nikkei.com/article/DGXMZO43489060Y9A400C1L60000|title=TX設備投資185億円、新型車両やホーム延伸 19年度 乗客増や混雑緩和に対応|newspaper=日本経済新聞|date=2019-04-08|accessdate=2020-06-30|archivedate=2019-04-09}}</ref>。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|つくばエクスプレス
|style="text-align:center"|下り
|[[つくば駅|つくば]]方面<ref name="timetable">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/route_map/shin-okachimachi/|title=<nowiki>新御徒町駅|駅情報・路線図</nowiki> |website=つくばエクスプレス |publisher=首都圏新都市鉄道 |accessdate=2021-05-04}}</ref>
|-
!2
|style="text-align:center"|上り
|[[秋葉原駅|秋葉原]]方面<ref name="timetable" />
|}
<gallery widths="180">
Shin-okachimachi-tx-gate.JPG|改札口(2007年8月)
Tsukuba-express-02-Shin-okachimachi-station-platform.jpg|ホーム(2008年1月)
</gallery>
かつてはA2出入口のビルが首都圏新都市鉄道の本社事務所だったが[[2017年]]に移転し、現在は登記上の本店所在地となっている。
{{-}}
== 利用状況 ==
* '''都営地下鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''48,246人'''(乗車人員:24,572人、降車人員:23,674人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。開業当初の乗車人員の見込みは、24,000人であった<ref name="subway1212">{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-80.htm |title=大江戸線国立競技場~六本木~上野御徒町~都庁前間の開業について |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20001018231543/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-80.htm |archivedate=2000-10-18 |deadlinkdate=2022-11-15 }}</ref>。
*: 開業当初は乗降人員が少なかったが、2005年に乗換駅となってからは増加し、2008年度に3万人、2012年度に4万人、2016年度に5万人を越えた。
* '''首都圏新都市鉄道''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''19,160人'''である<ref group="tx" name="tx2022" />。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
開業以来の1日平均'''乗降'''人員の推移は以下の通り(首都圏新都市鉄道を除く)。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|都営地下鉄
|-
!1日平均<br/>乗降人員
!増加率
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="備考" name="toei-2000">2000年12月12日開業。開業日から翌年3月31日までの計110日間を集計したデータ。</ref>5,758
|
|-
|2001年(平成13年)
|6,912
|20.0%
|-
|2002年(平成14年)
|8,050
|16.5%
|-
|2003年(平成15年)
|9,284
|15.3%
|-
|2004年(平成16年)
|9,615
|3.6%
|-
|2005年(平成17年)
|14,897
|54.9%
|-
|2006年(平成18年)
|23,805
|59.8%
|-
|2007年(平成19年)
|29,826
|25.3%
|-
|2008年(平成20年)
|33,754
|13.2%
|-
|2009年(平成21年)
|36,165
|7.1%
|-
|2010年(平成22年)
|38,095
|5.3%
|-
|2011年(平成23年)
|38,535
|1.2%
|-
|2012年(平成24年)
|41,056
|6.5%
|-
|2013年(平成25年)
|43,399
|5.7%
|-
|2014年(平成26年)
|45,195
|4.1%
|-
|2015年(平成27年)
|48,354
|7.0%
|-
|2016年(平成28年)
|50,263
|3.9%
|-
|2017年(平成29年)
|52,281
|4.0%
|-
|2018年(平成30年)
|54,911
|5.0%
|-
|2019年(令和元年)
|57,712
|5.1%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="都交" name="toei2020" />41,489
|−28.1%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="都交" name="toei2021" />43,149
|4.0%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="都交" name="toei2022" />48,246
|11.8%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
開業以来の1日平均'''乗車'''人員推移は下記の通り。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!年度
!都営地下鉄
!首都圏<br />新都市鉄道
!出典
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="備考" name="toei-2000" />2,764
|rowspan="5" style="text-align:center"|未開業
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|3,288
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|3,828
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|4,404
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|4,638
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|7,704||<ref group="備考">2005年8月24日開業。開業日から翌年3月31日までの計219日間を集計したデータ。</ref>5,830
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|12,642||8,563
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|15,549||11,197
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|17,342||12,825
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|18,320||13,664
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|19,356||14,417
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|19,547||14,778
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|20,769||15,723
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|21,999||16,787
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|22,943||17,170
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|24,589||18,470
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|25,577||19,389
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|26,584||20,310
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|27,896||21,530
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|29,414||22,587
|<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104153832/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2021-11-04 |deadlinkdate=2022-11-12}}</ref>21,018
|<ref group="tx" name="tx2020">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=乗車人員|accessdate=2023-11-04|publisher=首都圏新都市鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210804143357/https://www.mir.co.jp/company/number.html|archivedate=2021-08-04|deadlink=}}</ref>15,944
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |title=各駅乗降人員一覧|東京都交通局 |website= |publisher=東京都交通局 |accessdate=2022-11-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221112011444/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html |archivedate=2022-11-12 |deadlinkdate=}}</ref>21,931
|<ref group="tx" name="tx2021">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=乗車人員|accessdate=2023-11-04|publisher=首都圏新都市鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220616114039/https://www.mir.co.jp/company/number.html|archivedate=2022-06-16|deadlink=}}</ref>17,090
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231102231721/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_03.pdf |archivedate=2023-11-03 }}</ref>24,572
|<ref group="tx" name="tx2022">{{Cite web|和書|url=https://www.mir.co.jp/company/number.html|title=乗車人員|accessdate=2023-06-01|publisher=首都圏新都市鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230630233726/https://www.mir.co.jp/company/number.html|archivedate=2023-06-30|deadlink=}}</ref>19,160
|
|}
;備考
{{Reflist|group="備考"}}
== 駅周辺 ==
* [[東京都道453号本郷亀戸線]](春日通り)
* 元浅草[[郵便局]]
* 佐竹商店街
* [[おかず横丁]]
* [[鳥越神社]]
* [[東京都立白鷗高等学校]]
* [[東京都立忍岡高等学校]]
* [[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ銀座線|銀座線]][[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]](600m程度離れているが、つくばエクスプレスの出口案内には稲荷町駅が記載されている)
<gallery>
Okazu yokochoh taito tokyo.jpg|おかず横丁
Satake shopping street taito tokyo.jpg|佐竹商店街
</gallery>
=== バス路線 ===
最寄りの[[バス停留所|停留所]]は「'''新御徒町駅前'''」である。[[都営バス]]と[[めぐりん (台東区)|台東区循環バス「めぐりん」]]の「南めぐりん」「東西めぐりん」「ぐるーりめぐりん」が停車する。1番のりばが[[東上野]]一丁目2番、2番のりばが小島二丁目21番となる。都営大江戸線開業までは「'''元浅草一丁目'''」を名乗っていた。
==== 一般路線バス ====
{|class="wikitable"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者
|-
|1||[[都営バス巣鴨営業所#都02系統(グリーンライナー)|都02]]||[[御徒町駅]]・[[上野広小路駅|上野広小路]]・[[春日駅 (東京都)|春日駅]]・[[茗荷谷駅]]||[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]||rowspan="2"|{{Color|green|■}}[[都営バス|都営]]
|-
|2||都02||[[元浅草]]三丁目・[[蔵前駅]]・[[本所 (墨田区)|本所]]一丁目・[[石原 (墨田区)|石原]]一丁目||[[錦糸町駅]]
|}
==== コミュニティバス ====
{|class="wikitable"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者
|-
| ||南めぐりん||[[浅草橋駅]]北・[[蔵前駅|大江戸線蔵前駅]]・[[田原町駅 (東京都)|田原町駅]]||生涯学習センター北(循環)||rowspan="2"|{{Color|red|■}}[[日立自動車交通|日立]]
|-
| ||東西めぐりん||[[ライフ・エクステンション研究所付属永寿総合病院|永寿総合病院]]東・台東区役所・[[上野駅]]・谷中・[[千駄木駅]]・[[京成上野駅]]・松が谷・[[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|TX浅草駅]]||[[浅草駅]](循環)
|-
| ||ぐるーりめぐりん||永寿総合病院東・台東区役所・[[上野駅|上野駅入谷口]]・[[三ノ輪駅]]・吉原大門・清川||浅草駅(循環)||{{Color|blue|■}}[[京成バス|京成]]
|}
== 隣の駅 ==
; 東京都交通局(都営地下鉄)
: [[File:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] 都営大江戸線
::: [[上野御徒町駅]] (E 09) - '''新御徒町駅 (E 10)''' - [[蔵前駅]] (E 11)
; 首都圏新都市鉄道
: つくばエクスプレス
::{{Color|red|■}}快速・{{Color|orange|■}}通勤快速(平日下りのみ運転)・{{Color|#000084|■}}区間快速・{{Color|gray|■}}普通
::: [[秋葉原駅]] (TX01) - '''新御徒町駅 (TX02)''' - [[浅草駅 (首都圏新都市鉄道)|浅草駅]] (TX03)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 利用状況に関する出典 ====
;東京都交通局 各駅乗降人員
{{Reflist|group="都交"|3}}
;首都圏新都市鉄道の1日平均利用客数
{{Reflist|group="tx"|3}}
; 私鉄・地下鉄の統計データ
{{Reflist|group="統計"}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="東京都統計"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[上野・浅草副都心]]
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Shin-Okachimachi Station}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shin-okachimachi.html 新御徒町駅] - 東京都交通局
* [https://www.mir.co.jp/route_map/shin-okachimachi/ 新御徒町駅 | 駅情報・路線図 | つくばエクスプレス]
{{都営地下鉄大江戸線}}
{{首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線}}
{{DEFAULTSORT:しんおかちまち}}
[[Category:台東区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 し|んおかちまち]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道駅]]
[[Category:首都圏新都市鉄道の鉄道駅]]
[[Category:2000年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-26T16:47:17Z
|
2023-11-22T22:00:49Z
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[
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