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86
86(八十六、はちじゅうろく、やそじあまりむつ)は自然数、また整数において、85の次で87の前の数である。
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{{整数|Decomposition=2 × 43}} '''86'''('''八十六'''、はちじゅうろく、やそじあまりむつ)は自然数、また整数において、[[85]]の次で[[87]]の前の数である。 == 性質 == *86は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[43]], 86 である。 **[[約数の和]]は[[132]]。 **[[約数]]の個数が3連続([[85]],86,[[87]])で同じになる2番目の中央の数である。1つ前は[[34]]、次は[[94]]。 *29番目の[[半素数]]である。1つ前は[[85]]、次は[[87]]。 *86 = 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} **4連続自然数の[[平方和]]で表せる3番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[126]]。 *[[ノントーティエント]]の10番目の[[偶数]]である。1つ前は[[76]]、次は[[90]]。 *{{sfrac|1|86}} = 0.0{{underline|116279069767441860465}}… (下線部は循環節で長さは21) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が21になる2番目の数である。1つ前は[[43]]、次は[[129]]。 *[[各位の和]]が14になる4番目の数である。1つ前は[[77]]、次は[[95]]。 *各位の[[平方和]]が[[平方数]]になる21番目の数である。1つ前は[[80]]、次は[[90]]。({{OEIS|A175396}}) *:8{{sup|2}} + 6{{sup|2}} = 100 = 10{{sup|2}} *86 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 9{{sup|2}} = 1{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和3通りで表せる4番目の数である。1つ前は[[81]]、次は[[89]]。({{OEIS|A025323}}) **86 = 1<sup>2</sup> + 2<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> = 1<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> *** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる5番目の数である。1つ前は[[77]]、次は[[89]]。({{OEIS|A025340}}) **86 = 1<sup>2</sup> + 2<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 1<sup>''n''</sup> + 2<sup>''n''</sup> + 9<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[738]]。({{OEIS|A074505}}) **86 = 1<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 1<sup>''n''</sup> + 6<sup>''n''</sup> + 7<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[560]]。({{OEIS|A074520}}) == その他 86 に関すること == *[[原子番号]] 86 の[[元素]]は[[ラドン]] (Rn)。 *[[中華人民共和国]]本土へ[[国際電話]]を掛ける際の国番号は 86 である<ref>{{Cite web |title=国番号「86」から迷惑電話相次ぐ…処理水放出とは無関係の個人・団体に 中国の抗議か |url=https://www.sankei.com/article/20230826-EVYUM6MSR5OTNKT4BAC6DLZ6QA/ |website=産経ニュース |date=2023-08-26 |access-date=2023-09-20 |language=ja |first=三塚 |last=聖平}}</ref>。 *第86代[[天皇]]は[[後堀河天皇]]である。 *[[日本]]の86代目の[[内閣総理大臣]]は、[[森喜朗]]。 *第86代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ヨハネス7世 (ローマ教皇)|ヨハネス7世]](在位:[[705年]][[3月1日]]~[[707年]][[10月18日]])である。 *英語の[[スラング]] 86 (Eighty-Six) **意味は名詞的に売り切れ、品切れ、お断り、泥酔客などで、コック・バーテン業界の隠語とされる。転じて動詞的に追い返す、追い出す、隠す、消す、殺すなど。過去形は eighty-sixed。語源は諸説あるが、[[ニューヨーク]]ウェストビレッヂのチャムリーズ ([[:en:Chumley's|Chumley's]]) という[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]時代の闇酒場 ([[:en:Speakeasy|Speakeasy]]) が86番地だったことに由来、という説が有力。手入れを避けるため表玄関からは入れなかったこの店に因むとされる。 *[[大相撲]]の年間勝利数記録は、86勝(年間6場所制施行以降)。[[2009年]],[[2010年]]に[[横綱]][[白鵬翔|白鵬]]が記録。 *[[クルアーン]]における第86番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[夜訪れるもの (クルアーン)|夜訪れるもの]]である。 === 特定の物品の名称 === *[[トヨタ自動車|トヨタ]]の後輪駆動最後の[[トヨタ・カローラレビン|カローラレビン]]/[[トヨタ・スプリンタートレノ|スプリンタートレノ]](1983~1987年)は、型式 [[トヨタ・AE86|'''AE86''']] からハチロクと呼ばれる。 **[[頭文字D]] ドラマCD 「番外編 ~[[土屋圭市|ドリキン]]青春グラフティー ~」に収録されている楽曲。 **'''ハチロクの日''' ([[8月6日]])、トヨタ・AE86型カローラレビン/スプリンタートレノに関するイベントが行われる。(また、2014年現在ではここに[[トヨタ・86]]/[[スバル・BRZ]]が加わった。) *トヨタのコンセプトカー FT-86、またはその市販車である[[トヨタ・86]]。 *[[CPU]] [[アーキテクチャ]] [[x86]] の略称。 *[[航空自衛隊]]で、[[ブルーインパルス]]でも使用された[[戦闘機]]・[[F-86 (戦闘機)|F-86F セイバー(旭光)]]。 *[[国鉄8620形蒸気機関車]]は、「ハチロク」の愛称で親しまれた。 *[[86-エイティシックス-]] - [[安里アサト]]作の日本の[[ライトノベル]]。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|8|}} *[[8月6日]] *[[ハチロク]] {{自然数}}
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87
87(八十七、はちじゅうしち、はちじゅうなな、やそじあまりななつ)は自然数、また整数において、86の次で88の前の数である。
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87(八十七、はちじゅうしち、はちじゅうなな、やそじあまりななつ)は自然数、また整数において、86の次で88の前の数である。
{{整数|Decomposition=3 × 29}} '''87'''('''八十七'''、はちじゅうしち、はちじゅうなな、やそじあまりななつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[86]]の次で[[88]]の前の数である。 == 性質 == *87は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[3]], [[29]], 87 である。 **[[約数の和]]は[[120]] 。 ***[[約数]]の和が[[倍積完全数]][[120]]になる3番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[95]]。 ***[[約数]]の和が[[倍積完全数]]になる6番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[95]]。 **[[約数]]の個数が3連続([[85]],[[86]],87)で同じになる2番目の3連続の中で最大の数である。1つ前は[[35]]、次は[[95]]。 *30番目の[[半素数]]である。1つ前は[[86]]、次は[[91]]。 *87 = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} **連続[[素数]]の[[平方和]]とみたとき1つ前は[[38]]、次は[[208]]。 **4連続素数の平方和で表せる最小の数である。次は[[204]]。 ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[503]]。({{OEIS|A135168}}) *{{sfrac|1|87}} = 0.{{underline|0114942528735632183908045977}}… (下線部は循環節で長さは28) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が28になる3番目の数である。1つ前は[[58]]、次は[[116]]。 *87 = 1 + 2 + 3 + 5 + 8 + 13 + 21 + 34 **[[フィボナッチ数列]]を構成する最初の8数の和である。1つ前は[[53]]、次は[[142]]。 * [[1]]~[[10]]までの[[約数]]の和である。1つ前は[[69]]、次は[[99]]。 * [[各位の和]]が15になる3番目の数である。1つ前は[[78]]、次は[[96]]。 * 87 = 16{{sup|2}} − 169 ** ''n'' = 16 のときの ''n''{{sup|2}} − 13{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[56]]、次は[[120]]。({{OEIS|A132768}}) == その他 87 に関すること == *[[原子番号]] 87 の[[元素]]は[[フランシウム]] (Fr)。 *第87代[[天皇]]は[[四条天皇]]。 *日本の87代目の[[内閣総理大臣]]は、[[小泉純一郎]]。 *第87代[[教皇|ローマ教皇]]は[[シシニウス (ローマ教皇)|シシニウス]](在位:[[708年]][[1月15日]]~[[2月4日]])である。 *[[テレビドラマ]] [[87%]] *[[Ju 87 (航空機)|Ju 87]] は、[[第二次世界大戦]]中の[[ドイツ]]の[[急降下爆撃機]]。 *[[Intel 8087]]・[[Intel 80387]]系列の[[FPU|数値演算コプロセッサ]]を総称して、x87 という。 *[[87分署シリーズ]]は[[エド・マクベイン]]の警察小説。 *[[クルアーン]]における第87番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[至高者 (クルアーン)|至高者]]である。 == 関連項目 == {{数字2桁|8|}} *[[8月7日]] {{自然数}}
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17,913
阪急神戸本線
神戸本線(こうべほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の神戸三宮駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。神戸本線自体を指して、またはその支線を含めて通称神戸線(こうべせん)と呼ばれる。ラインカラーは港町神戸の海からブルー(■)。 宝塚本線・京都本線と並ぶ阪急電鉄の基幹路線の一つであり、並行するJR神戸線(東海道本線)・阪神本線と共に大阪と神戸それぞれの随一の繁華街である梅田と三宮を結ぶ都市間鉄道(インターアーバン)の一つである。 ルーツの異なる京都線(京都本線及びその支線)と区別するために、 神戸線と宝塚線(宝塚本線およびその支線)を合わせて神宝線と総称されることもある。神戸三宮駅から阪急神戸高速線新開地駅まで直通運転を行なっている。 本路線は大正時代に、カーブの多い既存の阪神電車に対抗してスピード面で優位に立てるように阪神間を高速で走行することを前提に建設された。そのため、ほぼ直線的に大阪と神戸を結んでおり、阪神本線・JR神戸線よりも山手側を通っている。沿線は阪神間モダニズム文化圏に位置し、特に神戸市灘区や神戸市東灘区、芦屋市、西宮市の山手側を中心に関西有数の高級住宅街が広がっている。最初期の計画では伊丹付近の開発を名目に敷設免許を申請したことから、現行よりも北よりの伊丹駅・門戸厄神駅付近を通るルートとなっていた。その後、阪神間の短絡を目的に現在のルートに変更されたため、伊丹線を建設することとなった。 阪急と阪神両社は2006年に阪急阪神ホールディングスとして経営統合するまで、互いに乗客獲得や沿線開発において激しい競争を繰り広げてきた。2020年7月16日に伊丹線とともに開業100周年を迎えた。これを記念して一部電車にヘッドマークをつけ、同年9月まで運行された。 当記事において運行形態節での各種別の運行の変遷や、歴史節は当時の駅名で記述しており、「梅田駅」「三宮駅」とあるのは、それぞれ現在の大阪梅田駅、神戸三宮駅である。また、阪急の神戸駅は1936年3月までは後の上筒井駅、同年4月から1968年4月までは現在の神戸三宮駅を指す。 全体的に直線区間が多く、また大都市圏内の私鉄路線としては駅間距離が比較的長いため、普通列車も含めて十三駅 - 神戸三宮駅間では100 km/h前後の速度(最高速度は115 km/h)で運転される。 ただし、御影駅の大阪方にはS字に迂回するカーブが存在する。これは神戸線建設時、ルート上に朝日新聞創業者の一人、村山龍平の邸宅(現・香雪美術館)があり、村山が近所のカネボウ社長武藤山治、住友財閥総理事鈴木馬左也や近隣住民を誘って反対運動を行い、用地買収に難航したことによる。このため、この区間では最高速度が90 km/hに制限される。この区間では長らく65 km/hに制限され減速を強いられてきたが、線形改良(緩和曲線延長・ロングレール化・カント修正)により1993年7月に70 km/hに、2006年10月に90 km/hに向上した。 大阪梅田駅 - 西宮北口駅間は大阪平野を走りほぼ平坦であるが、西宮北口駅 - 神戸三宮駅間、特に夙川駅 - 春日野道駅間は山沿いのルートで六甲山地の麓を走るため、16.7‰ - 30.3‰の勾配が断続的に存在する。 大阪梅田駅 - 十三駅間の架線方式は、宝塚本線はシンプルカテナリーであるが、神戸本線・京都本線(厳密には宝塚本線の一部)はコンパウンドカテナリーである。 神崎川駅西側の神崎川橋梁には防潮扉が設置されており、台風接近による高潮や、地震後の津波等への対策として閉鎖されることがある。この場合、大阪梅田駅 - 園田駅間は運休(このうち大阪梅田駅 - 十三駅間は神戸本線のみ運休)となるが、過去には十三駅 - 神崎川駅間で上り線のみを利用して折り返し運転されたことや、園田駅に用意されている折り返し線を利用して園田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間の普通列車のみで折り返し運転をしていたこともある。それ以外にも、人身事故など輸送障害が発生した場合、園田駅で折り返し運転を行うこともある。なお、大阪梅田駅 - 西宮北口駅間の代替路線としては、宝塚本線(大阪梅田駅 - 宝塚駅)・今津線(宝塚駅 - 西宮北口駅)を経由するよう案内されたことがある。 岡本駅や王子公園駅などは、JR神戸線の駅からわずか数百メートルの距離にあり前者は摂津本山駅、後者は灘駅と乗り換え可能だが、JRとの乗り換え案内は行われていない。一方、塚口駅に関してはJR福知山線に同じ駅名である塚口駅があるものの、両駅間が1kmほど離れていることもあり乗り換え案内は行われていない。 阪急電鉄は神戸高速鉄道東西線神戸三宮駅 - 新開地駅間の第二種鉄道事業者であり、自社線扱いの「神戸高速線」として神戸三宮駅から新開地駅まで直通運転を行っている。 平日は9時 - 22時ごろ、土曜・休日は7時 - 19時ごろまで特急と普通がそれぞれ10分間隔(土曜・休日の19時以降は12分間隔)での運転が基本のダイヤとなっている。平日の夕ラッシュ時間帯は下り通勤急行と西宮北口駅発着の普通も運転されるほか、平日・土曜・休日ともに22時以降は準特急が運転される。平日の朝ラッシュ時間帯は16分サイクルとなっており特急・普通のほかに通勤特急・通勤急行・準急(今津線宝塚駅から直通、大阪梅田方面のみ)も運転される。 土曜は休日ダイヤが適用されている。以前は、月曜から土曜までが平日ダイヤ、日曜・祝日が休日ダイヤで運転されていたが、関西では京阪電鉄に次いで1992年12月に宝塚線、1993年2月に京都線で土曜ダイヤを導入しており、これに続く形で神戸線も1993年7月に土曜ダイヤを導入した。ちなみに当時、相互直通運転を行っていた山陽電鉄と神戸高速鉄道東西線・山陽電鉄本線に乗り入れていた阪神電鉄も同日から土曜ダイヤを導入している。のちにこの土曜ダイヤは、休日ダイヤを基本に、輸送力の不足する朝のみ西宮北口発梅田(現在の大阪梅田)行きの普通を増発するパターンとなり、2006年10月28日のダイヤ改正以降は完全に廃止されて土曜・休日ダイヤに一本化された。 乗務員は西宮北口駅で交替することがあり、交替した運転士が西宮北口駅発車時、警笛吹鳴を行うことがある。 日中の運転本数は次の通りである。 以下に各種別の詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「駅一覧」の節を参照。 神戸本線の最速達種別で、深夜を除きほぼ終日運転される。基本的には大阪梅田駅 - 新開地駅間の運転だが、早朝に西宮北口発新開地行きがあるほか朝夕には大阪梅田駅 - 高速神戸駅間の運転もある。2022年12月17日のダイヤ改正以降、十三駅 - 西宮北口駅で最高115 km/h、それ以外の区間では最高110 km/hで運転を行っており、大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間を上下列車ともに最速27分20秒(表定速度:70.9 km/h、平均速度:76.8 km/h)で走行している。また、線形が良く通過運転距離が比較的長い十三駅 - 西宮北口駅間では、下り列車が最速8分45秒、上り列車が最速8分30秒(平均速度:93.2 km/h)で走行しており、並行して走行するJR西日本の新快速に匹敵する高速運転を実施している。 115 km/h運転を行う特急は、2006年10月28日のダイヤ改正当初、乗務員がもつスタフに「A特急」と表記されていたが、2020年3月14日の神戸高速線を経て乗り入れを行う山陽電鉄線のダイヤ改正に合わせたダイヤ変更にて、日中を走る5000系・6000系の最高速度110km/h車が撤退したことにより、乗務員が持つスタフから「A特急」の表記が無くなった。 途中、西宮北口駅で普通に接続する。また、大阪梅田方面の列車は、神戸三宮駅で普通に接続する。さらに、高速神戸駅で阪神の普通と接続する。 大阪梅田駅 - 宝塚駅間は宝塚本線の急行に乗車するよりも、実際には特急で西宮北口駅まで行き、今津北線に乗り換えたほうが宝塚駅へ先着することも少なくない。日中時間帯での差は1分程度である。 1930年の運転開始以来、戦時中と阪神・淡路大震災直後を除き、ほぼ一貫して設定されている。1930年の運転開始当初の途中停車駅は西宮北口駅のみで、1937年に十三駅を追加して以降は永らく十三駅と西宮北口駅のみであった。阪神・淡路大震災後の1995年6月12日のダイヤ改正で岡本駅に、2006年10月28日のダイヤ改正で夙川駅に、それぞれ新たに停車するようになった。2000年から沿線の王子動物園でジャイアントパンダが公開されており、行楽シーズンには最寄り駅である王子公園駅に臨時停車することもあったが、現在では行われていない。 平日朝ラッシュ時に一部が10両編成で運転されていたが、2022年12月17日の改正で10両編成運転をとりやめ8両に統一された。 特急の停車駅に、伊丹線との接続駅である塚口駅を加えた種別で、平日の朝ラッシュ時間帯に大阪梅田駅 - 神戸三宮駅・高速神戸駅・新開地駅間で、8両編成または10両編成で運転されている。10両編成の神戸三宮側先頭車両には女性専用車両が設定されている。 1995年6月12日のダイヤ改正から運転開始し、1998年から2001年には深夜時間帯にも運転されていた。2006年10月28日のダイヤ改正で夙川駅が停車駅に追加された。 早朝深夜において、かつての快速急行に代わる優等列車であり、2022年12月17日のダイヤ改正で設定された。大阪梅田駅 - 新開地駅間で運行される。途中、西宮北口駅で普通に接続する。早朝に新開地発大阪梅田行きが1本運転されるほかは夜間に運転される。 伊丹線との接続駅である塚口駅および西宮北口駅 - 神戸三宮駅間の各駅への速達列車として、平日の深夜及び土休日の早朝、深夜に運転される。 23時45分に大阪梅田駅を出発する列車は、夙川駅から神戸三宮駅までの最終列車の役割を担う。 特急と並び、戦前から存在する種別であり、長年停車駅が変わっていない。 阪神・淡路大震災前は、平日朝夕の混雑時間帯と深夜、休日の午前・午後・深夜に運転されていた。休日午前と午後の急行は梅田駅 - 西宮北口駅間の運転で、阪神競馬場で競馬が開催される日には梅田駅 - 仁川駅間の臨時急行となり、西宮北口駅発着の急行は運休となっていた。また1987年12月13日のダイヤ改正から1995年6月12日のダイヤ改正前までは、平日朝に限り10両編成の運転も行われていた。 1995年6月のダイヤ改正から2001年3月のダイヤ改正までは、主に平日夕方以降の運転に縮小されたが、2001年3月のダイヤ改正で平日夕方の急行が通勤急行に置き換わった。かつては高速神戸駅発着(平日は阪神・淡路大震災前まで朝ラッシュ時、休日は1998年2月ダイヤ改正まで深夜に1本)の列車も存在していた。 2016年ダイヤ改正までは平日朝ラッシュ時間帯の運行もあったが、2021年現在は、平日ダイヤでは深夜時間帯、休日ダイヤでは早朝、深夜時間帯のみ運行されている。 阪神・淡路大震災後の1995年2月頃の臨時ダイヤでは梅田駅 - 西宮北口駅間で終日にわたって急行が設定(昼間10分間隔、特急は終日運転休止)されたことがある。1995年3月頃より特急の運転が復活し、急行は朝夕のみの運転に戻った。また、終戦直後から特急運転復活までの間も、急行が終日運転されていたことがある。 平日の朝と夕方のラッシュ時間帯に、全列車8両編成で運転される。朝ラッシュは神戸三宮から大阪梅田方面に、夕ラッシュは大阪梅田方面から神戸三宮方面に運行される。伊丹線との接続駅である塚口駅に加え、他の優等列車が通過する武庫之荘駅に停車する。塚口駅 - 神戸三宮駅間は各駅に停車し、この時間帯の西宮北口駅発着の普通を補完する役割も持つ。 大阪梅田方面に向かう列車は、途中、六甲駅で特急を待避し、西宮北口駅で通勤特急に接続する。神戸三宮方面に向かう列車は、途中、西宮北口駅で特急に接続する。 1995年6月のダイヤ改正で運転を開始。当初は平日朝の上り急行を置き換える形で、三宮発梅田行きが設定された。2001年3月のダイヤ改正では平日夕方の下りにも、急行を置き換える形で運転されるようになった。上り列車は西宮北口駅で梅田側に2両増結して、西宮北口駅から梅田駅まで10両編成で運転されていた。この10両編成のうち、2007年10月26日までは、座席収納装置のある8200系が充当される際は座席が収納された状態で運用された。2016年3月19日のダイヤ改正で利用客の減少に伴い10両編成が廃止され、全列車が全区間通して8両編成での運転となった。また、朝ラッシュ時の神戸三宮発の列車が新開地・高速神戸発に延長された。これにより、運行区間が神戸高速線まで拡大されたが、神戸高速線への直通は2022年12月のダイヤ改正で消滅した。 英語表記は、2019年1月に「Express」から「Commuter Express」に変更された。 平日朝ラッシュ時に今津線からの直通列車として、8両編成で宝塚発大阪梅田行きのみ運転される。西宮北口駅では神戸本線との連絡線である9号線を通過するが、9号線では乗降の取り扱いは行わないため同駅は通過扱いとなっている(但し、ダイヤの関係で約1分間運転停車する)。通勤急行が停車する武庫之荘駅には停車しないため、神戸本線においては通勤急行よりも準急の方が格上という珍しい停車駅設定となっている(これは通勤急行が準急より後に設定されたことによる。但し、路線図などでは準急が格下として扱われている)。 1957年10月に運転を開始。かつては仁川発梅田行きも1本あったが、これは後に宝塚発に変更されている。1995年6月12日より2001年3月のダイヤ改正までは、平日夕方に3本の梅田発宝塚行きがあったが、この列車は今津線内の宝塚方面行きホーム有効長の関係上、6両編成で運転されていた(「阪急今津線」も参照)。 各駅に停車する種別で、終日運転される。昼間時は大阪梅田駅 〜神戸三宮駅間で運転され、上下列車とも西宮北口駅で必ず特急との待避・接続を行うが、西宮北口駅出発後は大阪梅田駅・神戸三宮駅まで先着するダイヤとなっている。なお平日ラッシュ時は園田駅・六甲駅で特急や通勤特急を待避する列車がある。西宮北口駅発着列車が朝・夕・夜に設定されており、特に平日夕方の下りの通勤急行運行時間帯は全て西宮北口行きである。高速神戸駅・新開地駅へは早朝・平日朝ラッシュ時・深夜のみ乗り入れる。このほか、平日朝に1本のみ武庫之荘発大阪梅田行きがある。 大阪梅田方面において、平日の23時23分・土休日の23時20分に神戸三宮駅を出発する列車は、武庫之荘駅 - 大阪梅田駅の最終列車の役割を担う。ただし、西宮北口駅で準特急に接続する。また、平日・土休日に24時03分に新開地を出発する列車は、新開地駅 - 西宮北口駅の最終列車の役割を担う。神戸三宮方面において、24時10分に大阪梅田駅を出発する列車は、中津駅 - 西宮北口駅の最終列車の役割を担う。 阪神・淡路大震災前の日中は、平日・土曜日のみ特急が梅田駅 - 神戸三宮駅間を最速26分で運転していたため原則六甲駅で待避を行っており、また休日では六甲駅での待避をしない(そのため後続の特急は徐行運転を強いられた)代わりに臨時列車の運転も考慮して西宮北口駅での長時間停車と園田駅での待避を行っていた。 2016年3月19日のダイヤ改正では、平日朝の上り梅田行き1本が西宮北口行きに変更となったほか、西宮北口発梅田行き1本が廃止となり、平日朝の西宮北口駅 - 梅田駅(2019年からは大阪梅田駅)間の上り列車2本が削減された。また、平日夕方の西宮北口発高速神戸行き3本と、西宮北口発神戸三宮行き1本が廃止となった。これらの折り返しの上り列車については、始発駅を高速神戸駅もしくは神戸三宮駅から西宮北口駅に変更となり、平日夕方の西宮北口駅 - 神戸三宮駅間の列車4往復が削減された。 2021年のダイヤ改正では、大阪梅田駅を発車する最終の時刻が繰り上げられた。 2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中において大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間の上り列車が最速43分20秒(表定速度:44.7 km/h、平均速度:58 km/h、下り列車は最速44分00秒)で走行している。早朝においては、西宮北口駅での優等列車の待避が無いため、大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間の上り下り列車ともに最速39分30秒(表定速度:49.1 km/h、平均速度:下り59.5 km/h・上り58 km/h)で走行している。また、線形が良く駅間距離が比較的長い十三駅 - 西宮北口駅間では、昼の上り列車が最速13分40秒(表定速度:57.9 km/h、平均速度:66 km/h、下り列車は最速13分45秒)、早朝の上り列車が最速13分30秒(表定速度:58.7 km/h、平均速度:66.9 km/h、下り列車は最速13分45秒)で走行しており、各駅に停車する列車としてはかなりの高速運転を実施している。 1998年2月ダイヤ改正までは、山陽電気鉄道からは六甲駅まで直通運転を行っていたが、山陽電鉄線内の種別に関係なく、神戸本線内は普通として運転されていた。ただし種別表示は、山陽電鉄線内の種別を表示していた(例えば山陽電鉄線内特急の場合は、特急表示のまま神戸本線内を各駅に停車していた)。 なお大阪梅田駅 - 武庫之荘駅・西宮北口駅間で運転される普通は、阪急電鉄公式ウェブサイトの時刻表では「区間普通」または「区普」と表示され、大阪梅田駅・西宮北口駅 - 神戸三宮駅・高速神戸駅・新開地駅間で運転される「普通」とは表示上で区別されている。 元は2008年秋より運転を開始した、春・秋の行楽期限定の嵐山駅直通の臨時列車。嵐山線各駅のホーム有効長の関係で6両編成であり、現在は7000系7006F「京とれいん 雅洛」が充当される。 2009年秋までは臨時という種別で運転し、直通運転に充当した編成には専用のサボや、ドア側面にはその旨を表示するステッカーが用意された。2010年春の行楽期より、新たに直通特急という種別が与えられ、直通運転に充当される編成には専用の「直通特急」の種別幕が追加された。運転日は、春・秋の行楽期の特定の土曜・日曜・祝日(運転日は公式ウェブサイトなどで随時発表される)で、高速神戸駅発着と今津線経由の宝塚駅発着がそれぞれ1日1往復運転される。この列車は十三駅でスイッチバックして京都本線に直通するため、梅田駅には乗り入れなかった。神戸本線内の停車駅は、高速神戸発着が快速急行と同一、宝塚発着が準急と同一。高速神戸行きは六甲駅で特急を待避した。 2011年より新たに「あたご」(高速神戸駅発着)・「とげつ」(今津線経由宝塚駅発着)という愛称がそれぞれ付けられたが、専用編成のうち7017Fが2015年11月から2017年11月までわたせせいぞうのイラストによる神戸の観光スポットなどがあしらわれたラッピング列車「爽風」となったことから、2016年には直通特急の愛称も「爽風」として運転された。 2018年3月17日から2019年10月31日には同じ「爽風」の愛称で、中村佑介のイラストによるラッピング列車を運行していた(2018年11月17日にデザイン一部リニューアル)が、ラッピングされる編成が変更されたため、嵐山駅直通の臨時列車の愛称は「あたご」に戻された。 2019年春以降は「あたご」「とげつ」の運転が取りやめられ、平日の火曜・水曜・木曜に限り「京とれいん 雅洛」による直通特急(列車愛称はなし)が西宮北口駅 - 嵐山駅間で運転されている。 2020年春以降は新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う緊急事態宣言発令の影響や、利用状況を踏まえ運転を取り止めている。 毎年、神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜は、夜間に神戸三宮発大阪梅田行きの臨時特急が増発される。停車駅は特急と同一。また、みなとこうべ海上花火大会開催日も同様に、神戸三宮発(一部は高速神戸発)大阪梅田行き臨時特急が増発される。臨時特急が運転される際には、その直前に出発する普通が六甲駅で待避するため時刻が若干変更される。 過去には、山陽電鉄須磨浦公園駅までの乗り入れが廃止された直後の1998年7月19日・20日・25日・26日と8月1日・2日・8日・9日(いずれも土曜・日曜・祝日)の計8日間、須磨海水浴場等への利便を図るため、梅田発(当時)須磨浦公園行き臨時特急「ドルフィン号」が運転されたことがあり、7000系6両編成が使用された。停車駅は十三・西宮北口・岡本・三宮・花隈・高速神戸・新開地・山陽須磨で、新開地駅と山陽須磨駅の間はノンストップであった。ただ、この臨時特急の運転は1998年の僅か1年のみで終わっており、以降阪急車が新開地以西に乗り入れることはなくなった。 このほか、阪急ブレーブスの本拠地であった西宮球場でプロ野球公式戦が開催された際には、梅田駅 - 西宮北口駅間で臨時特急が運転されることがあった。また、1981年に神戸沖で開催された神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア '81)の期間中には、休日を中心に梅田駅 - 三宮駅間の臨時特急が運転されることがあった。 上記の臨時特急と同じく、神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜の4日間とみなとこうべ海上花火大会開催日の深夜に、神戸三宮発大阪梅田行きの臨時快速急行が増発される。 かつて、1990年頃から阪神・淡路大震災発生前まで、春・秋の行楽期の土曜・日曜・祝日に限り、午前中と夕方に梅田駅 - 三宮駅間に臨時快速急行が運転されていたことがある(通称「大運転」)。これ以外にも、かつて土曜日昼間時間帯が下校する高校生らで混雑していたことがあったため、1993年7月のダイヤ改正で土曜日の12時台(下校時間帯)に梅田駅 - 三宮駅間の臨時快速急行が設定された(夏休みなどの休校期間中は一部区間のみ回送列車として運転)。この土曜日昼間の臨時快速急行は震災を機に運休となり、1995年6月のダイヤ改正で正式に廃止された。 阪神競馬場での競馬開催日夕方には、今津線仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される(仁川駅16:00 - 17:40発で最短10分間隔)。途中の停車駅は塚口駅・十三駅のみであり、西宮北口駅は準急と同様に客扱いはせず通過としている(但し運転停車は実施。「阪急今津線」の記事も参照)。 仁川発大阪梅田行きは、かつては本来のダイヤでは西宮北口始発である定期列車の急行の一部を運休させて、そのダイヤを使って仁川発の臨時急行として振り替えていた時期があった(西宮北口駅の時刻表や1993年7月発行の阪急電鉄時刻表にも明記されていた)。言い換えれば、西宮北口駅では運休扱いだが、塚口駅以東では運転されているという現象が生じていたことがあった。 2006年までは梅田発仁川行きも運転されていた。1980年代までは午前中に20分程度の間隔で運転されてきたが、これは1993年のダイヤ改正で廃止された。以降は桜花賞・宝塚記念などの阪神競馬場でのGI開催日の朝に限り3本のみ(梅田発8時37分・8時57分・9時17分)の運転となっていたが、利用客減少などの理由により、2006年10月28日のダイヤ改正で運行が中止された。 このほか、昭和50年代までは、週末の夕方に三宮または六甲発梅田行きの臨時急行が運転されていたことがあったが、これらは前面に掲げられる列車種別板には「臨急」の2文字しか書かれず、行き先などがまったく入っていなかった。 なお、「準急」が運転を開始した時は「臨時急行」と称され、列車表示板も2文字のみで「臨急」となっていたが、前記「臨急」と停車駅が異なり、混乱を避けるためにのちに改称された。 表示幕には『臨時』(赤色枠に白文字)の種別も用意されているが、普通列車は臨時であっても定期列車と同じ『普通』と表示されている(駅ホームの発車案内板も同じ)。 休日ダイヤで運転する8月中旬のお盆期間と年末の平日朝に限り、混雑緩和のため西宮北口発大阪梅田行き普通が臨時で増発される。また、なにわ淀川花火大会開催当日も、開始直前の夕方から夜間にかけて西宮北口発大阪梅田行き普通が、終了後の夜間に大阪梅田発西宮北口行き普通が、それぞれ増発される(いずれも園田駅で特急を待避)。 2020年3月14日ダイヤ改正以降はすべての列車が、ワンハンドルマスコン車両で運転されている。基本的に(土休日は全列車)8両編成で運転されるが、平日朝ラッシュ時には8両編成の大阪梅田側に2両を増結し、10両で運転する列車が数本ある。また京都本線との直通特急は6両で運転される。西宮車庫からの入出庫で当線を経由する伊丹線、甲陽線の車両はそれぞれ「阪急伊丹線#運行形態・車両」、「阪急甲陽線#現在の車両」を参照。 2021年9月現在、運行される車両は以下のとおり。 1907年、村野山人らにより神戸から芦屋・西宮・御影を経由して神戸に戻る環状路線、灘循環電気軌道が出願される。だが、免許が下りたのは、山側の神戸市葺合 - 芝村(西宮駅)間のみであった。一方、1910年に宝塚本線と箕面線を開業させた箕面有馬電気軌道は、灘循環電気軌道に接続して阪神間連絡を図る目的で、1913年に十三から伊丹を経て門戸にいたる路線の特許を申請した。不況などにより灘循環電気軌道の建設が頓挫すると、灘循環電気軌道の軌道敷設権を譲り受けることになり、箕面有馬電気軌道は阪神間の軌道敷設権を手中に収めることになった。箕面有馬電気軌道はこれを機にルートの短絡を追求し、尼崎市内において現行よりもやや南よりのルートを企図したものの、伊丹市の反対に遭い、折衷案として塚口駅を経由する現行ルートに落ち着いた。なお建設時は大阪で海運業者を営んでいた岸本兼太郎に資金援助を仰いでいる。1918年に箕面有馬電気軌道は阪神急行電鉄と社名を改め、1920年には十三駅 - 神戸駅(のちの上筒井駅、現在の神戸市中央区坂口通2丁目に位置した)間を開業させ、阪神間輸送に参入した。 神戸本線は先行して開業していた宝塚本線と同じく軌道法準拠で敷設されたものの、全線にわたって直線主体の線形を採用していることから、同法本来の制限速度であった時速25マイル(約40 km/h)よりも高い、時速35マイル(約56 km/h)での運行が認可された。後には、さらに110 km/hまで軌道法準拠でスピードアップを行っている。建設時は第一次世界大戦勃発のため鉄鋼などの資材価格が高騰しており、神崎川駅 - 西宮北口駅間では鉄の使用を節約すべく、日本初のコンクリート製電柱を採用した。さらに駅間距離も先行して開業していた阪神本線より長く取られ、特に神崎川駅 - 西宮北口駅間に至っては、開業時は途中駅が塚口駅1つのみとされており、その駅間平均距離は5.75 kmにも達していた(後の昭和期における住宅開発で、園田駅と武庫之荘駅が追加開業した)。 開業時、「綺麗で早うて。ガラアキ 眺めの素敵によい涼しい電車」をキャッチコピーとして大阪の梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を50分(開業から5日間は60分)で結び、国鉄の大阪駅 - 三ノ宮駅間51分、阪神の同60分に対して優位に立った。対する阪神のキャッチコピーは「またずにのれる阪神電車」で、その通り電車の頻発運行で対抗した。 だが、開業当初の神戸本線は、大阪側と神戸側双方のターミナルに問題を抱えていた。梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間では併用軌道の宝塚本線に乗り入れていたためにボトルネックとなっており、他方神戸駅は神戸市の中心部より手前に位置していたのである。大阪側の問題は、1926年に梅田駅 - 十三駅間に神戸本線と宝塚本線の分離された高架線が完成したことで解消する。一方の神戸側は、阪急が工費や地下構造物の問題から高架での三宮乗り入れを希望したが、神戸市会(現在の神戸市議会)が市内に乗り入れる鉄道路線は地下線とする原則を崩さなかったため工事が遅れていた(「阪神急行電鉄#三宮高架乗り入れ騒動」の項目も参照のこと)。結局、省線(現在のJR神戸線)が三ノ宮駅付近を高架化すると市会は高架化に対する容認論に傾き、1936年に現在の神戸三宮駅(開設当時は神戸駅)までの開業に漕ぎつけた。三宮乗り入れ後、西灘駅(現在の王子公園駅) - 上筒井駅間の旧線に関しては、支線の上筒井線として1940年の廃止まで90形単行による折り返し運行が行われた。 沿線開発では宝塚本線開業時同様、住宅開発が積極的に進められた。この頃になると、阪急のみならず芦屋六麓荘、関西土地などといった民間宅地開発業者も開発に参入するようになり、結果として伊丹・西宮七園・夙川・六麓荘町・岡本・御影など良好な住宅地が沿線に形成され、のちにこれらの新興住宅地は、高級住宅街となった。これらの開発はそれ独自の文化も生み出し、後に阪神間モダニズムと呼ばれるようになる。 1938年7月に発生した阪神大水害では、住吉川橋梁の橋桁が流出するなどの甚大な被害を被っている。いったんは仮線により復旧するものの、同年8月1日に発生した豪雨で再び不通となった。この復旧は住吉川の改良と並行して行われ、新住吉川橋梁には梅田駅の省線を乗り越える部分に使われていた橋桁を再利用している。 もともと阪神本線と比較して駅数が少ない神戸本線であるが、1922年5月には集電装置を他の私鉄に先駆けてポールからパンタグラフに交換し、同年12月には梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間の所要時間を40分に短縮した。1926年には梅田駅 - 十三駅間の線路別複々線・専用軌道化が完成して35分とし、そして1930年4月1日には強力な200馬力級電動機を搭載する900形を使用して途中西宮北口駅のみ停車する特急を新設し、30分にまで短縮する。速度向上はその後も続き、1931年10月には28分、1934年7月には25分とし、梅田駅では駅正面に「神戸ユキ急行電車のりば」・「神戸行特急廿五分」と掲げてアピールした。ちなみに、この梅田駅 - 神戸駅間25分運転での表定速度は、高速運転を行ったことで知られる新京阪鉄道(後の京阪電気鉄道新京阪線 → 阪急電鉄京都本線)のP-6形による「超特急」の表定速度(京阪京都 - 天神橋間34分30秒運転で、73.7 km/h)よりも高い78.0 km/hで、戦前の記録では阪和電気鉄道の「超特急」が記録した81.6 km/hについで日本第2位であった。これは現在もなお、阪急の特急の最速である。1936年4月には三宮乗り入れにより距離が若干伸びたにもかかわらず、より高出力な電動機を搭載する920形を投入することで、西宮北口駅のみ停車による25分運転を維持した。この特急運転は、太平洋戦争の戦況が悪化した1944年まで続けられた。 なお、1934年からは鉄道省が運営する東海道本線でも電化の完成によって急行電車(急電)の運転が開始されており、大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車により24分で結んでいた。また阪神では、1936年に元町までの地下線による延伸が実現、高頻度運転により「大阪・神戸の中央へまたずにのれる」というアピールを行っている。 また開業時から1942年まで、梅田駅 - 十三駅間を移動する乗客は宝塚本線の電車を利用するように定められ、神戸本線の電車には乗車できなかった。これは郊外路線の宝塚本線と、都市間路線の神戸本線を完全に分ける施策によるといわれている。 大阪 - 神戸間には、開業時既に国鉄東海道本線(省線)と阪神電気鉄道本線が開通しており、前者は主に中長距離の利用を中心とし、後者は駅の多さと高頻度運転によって棲み分けがなされていた。西宮神社での祭事時に、当時阪神地域の電力事業も行っていた阪神電鉄が電力を融通した結果、阪急が設置した西宮戎駅(臨時駅)から神社までの街灯がすべて消えてしまったことへの補償を兼ねて、阪急の運行トラブルの際に阪神が臨時列車を運転したことが、現在の振替輸送の原点とされる。また、阪神傘下の摂津電気自動車による香枦園駅(現在の香櫨園駅) - 苦楽園間無軌道電車(トロリーバス)敷設計画を輸送力の関係から肩代わりする形で、甲陽線の建設を行っている。 時代が下り、戦後昭和40年代になると、神戸高速鉄道に阪急・阪神両社の電車が直通するようになった。1995年の阪神・淡路大震災で各社とも大きな被害を受けたことから、復興支援を兼ねて、定期券の利用に関して、梅田駅 - 三宮駅(いずれも当時)間を含む磁気式の通勤定期券を利用している場合に限り、阪急・阪神双方の梅田駅・三宮駅で、また三宮駅 - 高速神戸駅間を含む通勤定期券を利用している場合は阪急・阪神双方の三宮駅から高速神戸駅までの神戸高速線内各駅(花隈駅・西元町駅・元町駅)で、それぞれ乗降ができる制度が1996年10月から実施されるなど、両社の協調は一層深まり、村上ファンドによる阪神株の買い集めを経て、遂には両者の経営統合による「阪急阪神ホールディングス」および「阪急阪神東宝グループ」の誕生に至った(阪急・阪神経営統合を参照)。 終戦後の1949年、神戸本線での特急運転が再開された。このときから全ての特急が十三駅に停車するようになった。特急の梅田駅 - 神戸駅(現・神戸三宮駅)間の所要時間は1949年の運転開始当初30分、その後はおおむね28分で推移した。1993年のダイヤ改正では、平日のみ停車駅を維持したまま25分台での運転を実現した。 1995年1月17日の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)により、西宮北口駅 - 夙川駅間の高架橋や、神戸阪急ビルが破壊されるなど神戸本線は甚大な被害を受け、暫定運行を強いられた。全線復旧した1995年6月以後は、すべての特急が岡本駅に停車するようになった。これは同年3月に予定されていたダイヤ改正が遅れて実施されたもので、同駅の利用増への対応と、平日日中の普通が六甲駅で特急の通過待ちを行っていたのを解消し、普通の所要時間を短縮する目的があった。同時に、通勤時間帯の需要に応じた列車種別を新たに設けている。 また2006年10月には経営統合を行った阪神とともに、2007年3月のJRさくら夙川駅開業に呼応したダイヤ改正が行われ、阪急神戸本線では特急が夙川駅に停車し、同駅における甲陽線との接続改善を実施した。併せて線形・自動列車停止装置 (ATS) が改良されたこと、並びに昼間時の特急の神崎川駅 - 西宮北口駅間の最高速度を115 km/hへ引き上げたことにより、特急は停車駅を一駅増やしたにもかかわらず、梅田駅 - 三宮駅間の所要時間が10秒 - 60秒短縮(下り列車で最速27分00秒、上り列車で最速27分10秒)、普通も同区間で30秒 - 80秒短縮された(下り列車で最速43分40秒、上り列車で最速43分00秒)。 現在の神戸本線特急における大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間所要時間は、最速で上り下り共に27分20秒となっており、戦後の最速である1993年改正ダイヤに比べて約1分延びている。 1949年12月3日、神戸駅 - 京阪神京都駅(現在の大宮駅)間に直通特急の運転が開始された。当時の京都本線は1500 V電化、神戸本線は600 V電化と電圧が異なっていたことから、800系2編成を複電圧車に改造し、直通列車に充当することとした。 直通特急の停車駅は西宮北口・十三・高槻市・西院で、梅田駅には入線せず十三駅構内の折り返し線を用いて直通を行う形態をとっていた。 しかし通し利用の乗客数は少なく、1951年10月8日に京神間直通特急の運転は廃止された。2008年になって前記の嵐山駅への直通特急が運転され始め、臨時列車ながら事実上復活した。 1968年の神戸高速鉄道東西線開業後は、阪急の列車は山陽電気鉄道の須磨浦公園駅まで、山陽の列車は六甲駅まで、それぞれ乗り入れて相互直通運転を行っていた(乗り入れ先では各駅停車)が、1998年2月に山陽姫路駅 - 阪神電鉄梅田駅間で直通特急の運転を開始したのに合わせて、阪急の山陽電鉄への乗り入れが中止された。 この直通運転に見られる、他社線乗り入れによって自社の輸送力に制約が発生する問題は、阪神なんば線直通運転開始後の近鉄奈良線など双方の編成規模に差異がある組み合わせで見られるネックである。 2004年10月の近畿地方交通審議会答申第8号で、「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」のうち、「乗り継ぎ利便性の向上に資する事業」として、三宮駅付近で神戸市営地下鉄西神・山手線との相互直通運転が盛り込まれた。 春日野道駅以西を地下化して直通するというもので、実現した場合は、現在の神戸三宮駅や神戸高速鉄道との相互直通運転は廃止となる可能性もある。もっとも、2004年時点では神戸市側が難色を示しているという報道もあり、その後進展していなかった。2013年12月になって、神戸市長の久元喜造が阪急神戸線と神戸市営地下鉄西神・山手線の直通運転案の検討に入る考えを示したことが報じられている。 2017年11月、神戸新聞社の取材によって、従来の神戸三宮駅で接続するルートの他、王子公園駅から地下線を建設して新神戸駅で接続するルート、神戸高速鉄道東西線(阪神神戸高速線)高速長田駅もしくは山陽電気鉄道本線板宿駅で接続するルートが候補となっていると報じられた。 しかしながら神戸市内はJRや阪急、阪神、山陽電鉄などが運行して東西交通の利便性が高いなどの理由から、多額の投資で得られる効果は限定的と推計され、神戸市は乗り入れ構想を撤回しないものの事業化は当面見送ることを決めた。 また、近畿地方交通審議会答申第8号では、阪急・大阪市の提案により、大阪市営地下鉄(現在のOsaka Metro)四つ橋線 西梅田駅 - 北梅田駅(仮称) - 十三駅間2.9 kmの延伸が「中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として盛り込まれ、2004年8月には「2015年頃を目途に、四つ橋線を十三駅まで延伸し、阪急神戸本線との相互直通運転を行う」との報道もなされた。ただし、答申自体は阪急との乗り入れに触れられておらず、現実には集電方式の違いや、西梅田駅とほぼ同深度にある阪神本線のトンネルが延伸の支障になるなどの問題があったことから、報道内容や実現性などが疑問視されていた。これに関連して、2006年12月に四つ橋線の十三駅までの延伸構想に関する報道がなされており、また阪急新大阪連絡線の整備構想もあわせて報道されたことから、阪急神戸本線と四つ橋線の相互乗り入れに関する内容は収束の傾向にある。 なお、この答申第8号では、京都本線と神戸本線の相互直通運転が「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」として挙げられている。 神戸本線では最も駅間距離の長い (3.3 km)、西宮北口駅 - 武庫之荘駅間の武庫川橋梁上に、新駅(仮称・武庫川新駅)を設置する構想がある。古くは旧瓦木村が1942年に西宮市と合併する際に交わした覚書の中に旧瓦木村の近くに新駅を設置することを条件として求めていたことが記載されており、長きにわたり特に西宮市側の住民により熱心に展開されてきた。阪神・淡路大震災後、老朽化に伴う武庫川橋梁架け替え工事を行った際に旧鉄橋の両側にコンクリート橋を架橋することによって上下線間に島式ホームが設置できる程度のスペースが確保されたため、ここへ新駅を設置しようという動きがみられている。 新駅設置に向けて、2000年には「阪急武庫川駅誘致推進協議会」が結成され、1万人を超える署名を添えた陳情が西宮市議会で採択されたほか、山田知西宮市長(当時)が意欲を見せ(2008年12月10日の市議会本会議で発言)、阪急電鉄角和夫社長も前向きな意向を示すなど、具体的に動きを見せた時期もあったが、山田知市長の死去に伴う市長交代(河野昌弘)などもありその後は暫く動きが途絶えた。一方、尼崎市側は市の財政難を理由に設置には消極的であった。ただ、2012年になり西宮市が新駅設置のための調査費を計上したことで、新駅設置へ向けて再び動きを見せるようになり、2013年には西宮市と県、阪急電鉄がつくる検討会に尼崎市が参加するようになったが同市はあくまで慎重な姿勢であった。 2021年9月3日、阪急電鉄・兵庫県・西宮市・尼崎市からなる検討会にて事業の具体化に向けた検討に入ることで合意したことを発表した。構想では、新設されるホームは現在の橋脚を活用するため、線路間の内側に片面ホームをそれぞれ設ける2面2線とし、可動式ホーム柵、エレベーター、エスカレータも設置される。改札口は西宮市側と尼崎市側にそれぞれ1箇所ずつ設置される。建設費用は駅工事に50億円、駐輪場や周辺工事に10億円の約60億円を見込む。乗降客数は近隣駅などからの転移で2万2623人と算出、両市側とも徒歩または自転車での交通アクセスを想定している。 2022年11月1日、西宮市、尼崎市、阪急電鉄の3者が新駅設置に向けて合意書に調印したことで、新駅設置が正式に決定した。なお、開業時期は未定。 西宮市は、市道中津浜線においてボトルネックとなっている車庫横踏切道(西宮車庫東隣)など3か所の踏切の廃止を目的に、武庫川橋梁 - 西宮北口駅間において連続立体交差事業(鉄道高架化)を検討している。 駅名は廃止時のもの。 2021年の通年平均の乗降客数は次の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神戸本線(こうべほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の神戸三宮駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。神戸本線自体を指して、またはその支線を含めて通称神戸線(こうべせん)と呼ばれる。ラインカラーは港町神戸の海からブルー(■)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "宝塚本線・京都本線と並ぶ阪急電鉄の基幹路線の一つであり、並行するJR神戸線(東海道本線)・阪神本線と共に大阪と神戸それぞれの随一の繁華街である梅田と三宮を結ぶ都市間鉄道(インターアーバン)の一つである。 ルーツの異なる京都線(京都本線及びその支線)と区別するために、 神戸線と宝塚線(宝塚本線およびその支線)を合わせて神宝線と総称されることもある。神戸三宮駅から阪急神戸高速線新開地駅まで直通運転を行なっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本路線は大正時代に、カーブの多い既存の阪神電車に対抗してスピード面で優位に立てるように阪神間を高速で走行することを前提に建設された。そのため、ほぼ直線的に大阪と神戸を結んでおり、阪神本線・JR神戸線よりも山手側を通っている。沿線は阪神間モダニズム文化圏に位置し、特に神戸市灘区や神戸市東灘区、芦屋市、西宮市の山手側を中心に関西有数の高級住宅街が広がっている。最初期の計画では伊丹付近の開発を名目に敷設免許を申請したことから、現行よりも北よりの伊丹駅・門戸厄神駅付近を通るルートとなっていた。その後、阪神間の短絡を目的に現在のルートに変更されたため、伊丹線を建設することとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "阪急と阪神両社は2006年に阪急阪神ホールディングスとして経営統合するまで、互いに乗客獲得や沿線開発において激しい競争を繰り広げてきた。2020年7月16日に伊丹線とともに開業100周年を迎えた。これを記念して一部電車にヘッドマークをつけ、同年9月まで運行された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当記事において運行形態節での各種別の運行の変遷や、歴史節は当時の駅名で記述しており、「梅田駅」「三宮駅」とあるのは、それぞれ現在の大阪梅田駅、神戸三宮駅である。また、阪急の神戸駅は1936年3月までは後の上筒井駅、同年4月から1968年4月までは現在の神戸三宮駅を指す。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全体的に直線区間が多く、また大都市圏内の私鉄路線としては駅間距離が比較的長いため、普通列車も含めて十三駅 - 神戸三宮駅間では100 km/h前後の速度(最高速度は115 km/h)で運転される。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、御影駅の大阪方にはS字に迂回するカーブが存在する。これは神戸線建設時、ルート上に朝日新聞創業者の一人、村山龍平の邸宅(現・香雪美術館)があり、村山が近所のカネボウ社長武藤山治、住友財閥総理事鈴木馬左也や近隣住民を誘って反対運動を行い、用地買収に難航したことによる。このため、この区間では最高速度が90 km/hに制限される。この区間では長らく65 km/hに制限され減速を強いられてきたが、線形改良(緩和曲線延長・ロングレール化・カント修正)により1993年7月に70 km/hに、2006年10月に90 km/hに向上した。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅 - 西宮北口駅間は大阪平野を走りほぼ平坦であるが、西宮北口駅 - 神戸三宮駅間、特に夙川駅 - 春日野道駅間は山沿いのルートで六甲山地の麓を走るため、16.7‰ - 30.3‰の勾配が断続的に存在する。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅 - 十三駅間の架線方式は、宝塚本線はシンプルカテナリーであるが、神戸本線・京都本線(厳密には宝塚本線の一部)はコンパウンドカテナリーである。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "神崎川駅西側の神崎川橋梁には防潮扉が設置されており、台風接近による高潮や、地震後の津波等への対策として閉鎖されることがある。この場合、大阪梅田駅 - 園田駅間は運休(このうち大阪梅田駅 - 十三駅間は神戸本線のみ運休)となるが、過去には十三駅 - 神崎川駅間で上り線のみを利用して折り返し運転されたことや、園田駅に用意されている折り返し線を利用して園田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間の普通列車のみで折り返し運転をしていたこともある。それ以外にも、人身事故など輸送障害が発生した場合、園田駅で折り返し運転を行うこともある。なお、大阪梅田駅 - 西宮北口駅間の代替路線としては、宝塚本線(大阪梅田駅 - 宝塚駅)・今津線(宝塚駅 - 西宮北口駅)を経由するよう案内されたことがある。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "岡本駅や王子公園駅などは、JR神戸線の駅からわずか数百メートルの距離にあり前者は摂津本山駅、後者は灘駅と乗り換え可能だが、JRとの乗り換え案内は行われていない。一方、塚口駅に関してはJR福知山線に同じ駅名である塚口駅があるものの、両駅間が1kmほど離れていることもあり乗り換え案内は行われていない。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "阪急電鉄は神戸高速鉄道東西線神戸三宮駅 - 新開地駅間の第二種鉄道事業者であり、自社線扱いの「神戸高速線」として神戸三宮駅から新開地駅まで直通運転を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "平日は9時 - 22時ごろ、土曜・休日は7時 - 19時ごろまで特急と普通がそれぞれ10分間隔(土曜・休日の19時以降は12分間隔)での運転が基本のダイヤとなっている。平日の夕ラッシュ時間帯は下り通勤急行と西宮北口駅発着の普通も運転されるほか、平日・土曜・休日ともに22時以降は準特急が運転される。平日の朝ラッシュ時間帯は16分サイクルとなっており特急・普通のほかに通勤特急・通勤急行・準急(今津線宝塚駅から直通、大阪梅田方面のみ)も運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "土曜は休日ダイヤが適用されている。以前は、月曜から土曜までが平日ダイヤ、日曜・祝日が休日ダイヤで運転されていたが、関西では京阪電鉄に次いで1992年12月に宝塚線、1993年2月に京都線で土曜ダイヤを導入しており、これに続く形で神戸線も1993年7月に土曜ダイヤを導入した。ちなみに当時、相互直通運転を行っていた山陽電鉄と神戸高速鉄道東西線・山陽電鉄本線に乗り入れていた阪神電鉄も同日から土曜ダイヤを導入している。のちにこの土曜ダイヤは、休日ダイヤを基本に、輸送力の不足する朝のみ西宮北口発梅田(現在の大阪梅田)行きの普通を増発するパターンとなり、2006年10月28日のダイヤ改正以降は完全に廃止されて土曜・休日ダイヤに一本化された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "乗務員は西宮北口駅で交替することがあり、交替した運転士が西宮北口駅発車時、警笛吹鳴を行うことがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日中の運転本数は次の通りである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以下に各種別の詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「駅一覧」の節を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "神戸本線の最速達種別で、深夜を除きほぼ終日運転される。基本的には大阪梅田駅 - 新開地駅間の運転だが、早朝に西宮北口発新開地行きがあるほか朝夕には大阪梅田駅 - 高速神戸駅間の運転もある。2022年12月17日のダイヤ改正以降、十三駅 - 西宮北口駅で最高115 km/h、それ以外の区間では最高110 km/hで運転を行っており、大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間を上下列車ともに最速27分20秒(表定速度:70.9 km/h、平均速度:76.8 km/h)で走行している。また、線形が良く通過運転距離が比較的長い十三駅 - 西宮北口駅間では、下り列車が最速8分45秒、上り列車が最速8分30秒(平均速度:93.2 km/h)で走行しており、並行して走行するJR西日本の新快速に匹敵する高速運転を実施している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "115 km/h運転を行う特急は、2006年10月28日のダイヤ改正当初、乗務員がもつスタフに「A特急」と表記されていたが、2020年3月14日の神戸高速線を経て乗り入れを行う山陽電鉄線のダイヤ改正に合わせたダイヤ変更にて、日中を走る5000系・6000系の最高速度110km/h車が撤退したことにより、乗務員が持つスタフから「A特急」の表記が無くなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "途中、西宮北口駅で普通に接続する。また、大阪梅田方面の列車は、神戸三宮駅で普通に接続する。さらに、高速神戸駅で阪神の普通と接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅 - 宝塚駅間は宝塚本線の急行に乗車するよりも、実際には特急で西宮北口駅まで行き、今津北線に乗り換えたほうが宝塚駅へ先着することも少なくない。日中時間帯での差は1分程度である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1930年の運転開始以来、戦時中と阪神・淡路大震災直後を除き、ほぼ一貫して設定されている。1930年の運転開始当初の途中停車駅は西宮北口駅のみで、1937年に十三駅を追加して以降は永らく十三駅と西宮北口駅のみであった。阪神・淡路大震災後の1995年6月12日のダイヤ改正で岡本駅に、2006年10月28日のダイヤ改正で夙川駅に、それぞれ新たに停車するようになった。2000年から沿線の王子動物園でジャイアントパンダが公開されており、行楽シーズンには最寄り駅である王子公園駅に臨時停車することもあったが、現在では行われていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "平日朝ラッシュ時に一部が10両編成で運転されていたが、2022年12月17日の改正で10両編成運転をとりやめ8両に統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "特急の停車駅に、伊丹線との接続駅である塚口駅を加えた種別で、平日の朝ラッシュ時間帯に大阪梅田駅 - 神戸三宮駅・高速神戸駅・新開地駅間で、8両編成または10両編成で運転されている。10両編成の神戸三宮側先頭車両には女性専用車両が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1995年6月12日のダイヤ改正から運転開始し、1998年から2001年には深夜時間帯にも運転されていた。2006年10月28日のダイヤ改正で夙川駅が停車駅に追加された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "早朝深夜において、かつての快速急行に代わる優等列車であり、2022年12月17日のダイヤ改正で設定された。大阪梅田駅 - 新開地駅間で運行される。途中、西宮北口駅で普通に接続する。早朝に新開地発大阪梅田行きが1本運転されるほかは夜間に運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "伊丹線との接続駅である塚口駅および西宮北口駅 - 神戸三宮駅間の各駅への速達列車として、平日の深夜及び土休日の早朝、深夜に運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "23時45分に大阪梅田駅を出発する列車は、夙川駅から神戸三宮駅までの最終列車の役割を担う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特急と並び、戦前から存在する種別であり、長年停車駅が変わっていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "阪神・淡路大震災前は、平日朝夕の混雑時間帯と深夜、休日の午前・午後・深夜に運転されていた。休日午前と午後の急行は梅田駅 - 西宮北口駅間の運転で、阪神競馬場で競馬が開催される日には梅田駅 - 仁川駅間の臨時急行となり、西宮北口駅発着の急行は運休となっていた。また1987年12月13日のダイヤ改正から1995年6月12日のダイヤ改正前までは、平日朝に限り10両編成の運転も行われていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1995年6月のダイヤ改正から2001年3月のダイヤ改正までは、主に平日夕方以降の運転に縮小されたが、2001年3月のダイヤ改正で平日夕方の急行が通勤急行に置き換わった。かつては高速神戸駅発着(平日は阪神・淡路大震災前まで朝ラッシュ時、休日は1998年2月ダイヤ改正まで深夜に1本)の列車も存在していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2016年ダイヤ改正までは平日朝ラッシュ時間帯の運行もあったが、2021年現在は、平日ダイヤでは深夜時間帯、休日ダイヤでは早朝、深夜時間帯のみ運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "阪神・淡路大震災後の1995年2月頃の臨時ダイヤでは梅田駅 - 西宮北口駅間で終日にわたって急行が設定(昼間10分間隔、特急は終日運転休止)されたことがある。1995年3月頃より特急の運転が復活し、急行は朝夕のみの運転に戻った。また、終戦直後から特急運転復活までの間も、急行が終日運転されていたことがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平日の朝と夕方のラッシュ時間帯に、全列車8両編成で運転される。朝ラッシュは神戸三宮から大阪梅田方面に、夕ラッシュは大阪梅田方面から神戸三宮方面に運行される。伊丹線との接続駅である塚口駅に加え、他の優等列車が通過する武庫之荘駅に停車する。塚口駅 - 神戸三宮駅間は各駅に停車し、この時間帯の西宮北口駅発着の普通を補完する役割も持つ。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "大阪梅田方面に向かう列車は、途中、六甲駅で特急を待避し、西宮北口駅で通勤特急に接続する。神戸三宮方面に向かう列車は、途中、西宮北口駅で特急に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1995年6月のダイヤ改正で運転を開始。当初は平日朝の上り急行を置き換える形で、三宮発梅田行きが設定された。2001年3月のダイヤ改正では平日夕方の下りにも、急行を置き換える形で運転されるようになった。上り列車は西宮北口駅で梅田側に2両増結して、西宮北口駅から梅田駅まで10両編成で運転されていた。この10両編成のうち、2007年10月26日までは、座席収納装置のある8200系が充当される際は座席が収納された状態で運用された。2016年3月19日のダイヤ改正で利用客の減少に伴い10両編成が廃止され、全列車が全区間通して8両編成での運転となった。また、朝ラッシュ時の神戸三宮発の列車が新開地・高速神戸発に延長された。これにより、運行区間が神戸高速線まで拡大されたが、神戸高速線への直通は2022年12月のダイヤ改正で消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "英語表記は、2019年1月に「Express」から「Commuter Express」に変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "平日朝ラッシュ時に今津線からの直通列車として、8両編成で宝塚発大阪梅田行きのみ運転される。西宮北口駅では神戸本線との連絡線である9号線を通過するが、9号線では乗降の取り扱いは行わないため同駅は通過扱いとなっている(但し、ダイヤの関係で約1分間運転停車する)。通勤急行が停車する武庫之荘駅には停車しないため、神戸本線においては通勤急行よりも準急の方が格上という珍しい停車駅設定となっている(これは通勤急行が準急より後に設定されたことによる。但し、路線図などでは準急が格下として扱われている)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1957年10月に運転を開始。かつては仁川発梅田行きも1本あったが、これは後に宝塚発に変更されている。1995年6月12日より2001年3月のダイヤ改正までは、平日夕方に3本の梅田発宝塚行きがあったが、この列車は今津線内の宝塚方面行きホーム有効長の関係上、6両編成で運転されていた(「阪急今津線」も参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "各駅に停車する種別で、終日運転される。昼間時は大阪梅田駅 〜神戸三宮駅間で運転され、上下列車とも西宮北口駅で必ず特急との待避・接続を行うが、西宮北口駅出発後は大阪梅田駅・神戸三宮駅まで先着するダイヤとなっている。なお平日ラッシュ時は園田駅・六甲駅で特急や通勤特急を待避する列車がある。西宮北口駅発着列車が朝・夕・夜に設定されており、特に平日夕方の下りの通勤急行運行時間帯は全て西宮北口行きである。高速神戸駅・新開地駅へは早朝・平日朝ラッシュ時・深夜のみ乗り入れる。このほか、平日朝に1本のみ武庫之荘発大阪梅田行きがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大阪梅田方面において、平日の23時23分・土休日の23時20分に神戸三宮駅を出発する列車は、武庫之荘駅 - 大阪梅田駅の最終列車の役割を担う。ただし、西宮北口駅で準特急に接続する。また、平日・土休日に24時03分に新開地を出発する列車は、新開地駅 - 西宮北口駅の最終列車の役割を担う。神戸三宮方面において、24時10分に大阪梅田駅を出発する列車は、中津駅 - 西宮北口駅の最終列車の役割を担う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "阪神・淡路大震災前の日中は、平日・土曜日のみ特急が梅田駅 - 神戸三宮駅間を最速26分で運転していたため原則六甲駅で待避を行っており、また休日では六甲駅での待避をしない(そのため後続の特急は徐行運転を強いられた)代わりに臨時列車の運転も考慮して西宮北口駅での長時間停車と園田駅での待避を行っていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2016年3月19日のダイヤ改正では、平日朝の上り梅田行き1本が西宮北口行きに変更となったほか、西宮北口発梅田行き1本が廃止となり、平日朝の西宮北口駅 - 梅田駅(2019年からは大阪梅田駅)間の上り列車2本が削減された。また、平日夕方の西宮北口発高速神戸行き3本と、西宮北口発神戸三宮行き1本が廃止となった。これらの折り返しの上り列車については、始発駅を高速神戸駅もしくは神戸三宮駅から西宮北口駅に変更となり、平日夕方の西宮北口駅 - 神戸三宮駅間の列車4往復が削減された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2021年のダイヤ改正では、大阪梅田駅を発車する最終の時刻が繰り上げられた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中において大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間の上り列車が最速43分20秒(表定速度:44.7 km/h、平均速度:58 km/h、下り列車は最速44分00秒)で走行している。早朝においては、西宮北口駅での優等列車の待避が無いため、大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間の上り下り列車ともに最速39分30秒(表定速度:49.1 km/h、平均速度:下り59.5 km/h・上り58 km/h)で走行している。また、線形が良く駅間距離が比較的長い十三駅 - 西宮北口駅間では、昼の上り列車が最速13分40秒(表定速度:57.9 km/h、平均速度:66 km/h、下り列車は最速13分45秒)、早朝の上り列車が最速13分30秒(表定速度:58.7 km/h、平均速度:66.9 km/h、下り列車は最速13分45秒)で走行しており、各駅に停車する列車としてはかなりの高速運転を実施している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1998年2月ダイヤ改正までは、山陽電気鉄道からは六甲駅まで直通運転を行っていたが、山陽電鉄線内の種別に関係なく、神戸本線内は普通として運転されていた。ただし種別表示は、山陽電鉄線内の種別を表示していた(例えば山陽電鉄線内特急の場合は、特急表示のまま神戸本線内を各駅に停車していた)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお大阪梅田駅 - 武庫之荘駅・西宮北口駅間で運転される普通は、阪急電鉄公式ウェブサイトの時刻表では「区間普通」または「区普」と表示され、大阪梅田駅・西宮北口駅 - 神戸三宮駅・高速神戸駅・新開地駅間で運転される「普通」とは表示上で区別されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "元は2008年秋より運転を開始した、春・秋の行楽期限定の嵐山駅直通の臨時列車。嵐山線各駅のホーム有効長の関係で6両編成であり、現在は7000系7006F「京とれいん 雅洛」が充当される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2009年秋までは臨時という種別で運転し、直通運転に充当した編成には専用のサボや、ドア側面にはその旨を表示するステッカーが用意された。2010年春の行楽期より、新たに直通特急という種別が与えられ、直通運転に充当される編成には専用の「直通特急」の種別幕が追加された。運転日は、春・秋の行楽期の特定の土曜・日曜・祝日(運転日は公式ウェブサイトなどで随時発表される)で、高速神戸駅発着と今津線経由の宝塚駅発着がそれぞれ1日1往復運転される。この列車は十三駅でスイッチバックして京都本線に直通するため、梅田駅には乗り入れなかった。神戸本線内の停車駅は、高速神戸発着が快速急行と同一、宝塚発着が準急と同一。高速神戸行きは六甲駅で特急を待避した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2011年より新たに「あたご」(高速神戸駅発着)・「とげつ」(今津線経由宝塚駅発着)という愛称がそれぞれ付けられたが、専用編成のうち7017Fが2015年11月から2017年11月までわたせせいぞうのイラストによる神戸の観光スポットなどがあしらわれたラッピング列車「爽風」となったことから、2016年には直通特急の愛称も「爽風」として運転された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2018年3月17日から2019年10月31日には同じ「爽風」の愛称で、中村佑介のイラストによるラッピング列車を運行していた(2018年11月17日にデザイン一部リニューアル)が、ラッピングされる編成が変更されたため、嵐山駅直通の臨時列車の愛称は「あたご」に戻された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2019年春以降は「あたご」「とげつ」の運転が取りやめられ、平日の火曜・水曜・木曜に限り「京とれいん 雅洛」による直通特急(列車愛称はなし)が西宮北口駅 - 嵐山駅間で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2020年春以降は新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う緊急事態宣言発令の影響や、利用状況を踏まえ運転を取り止めている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "毎年、神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜は、夜間に神戸三宮発大阪梅田行きの臨時特急が増発される。停車駅は特急と同一。また、みなとこうべ海上花火大会開催日も同様に、神戸三宮発(一部は高速神戸発)大阪梅田行き臨時特急が増発される。臨時特急が運転される際には、その直前に出発する普通が六甲駅で待避するため時刻が若干変更される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "過去には、山陽電鉄須磨浦公園駅までの乗り入れが廃止された直後の1998年7月19日・20日・25日・26日と8月1日・2日・8日・9日(いずれも土曜・日曜・祝日)の計8日間、須磨海水浴場等への利便を図るため、梅田発(当時)須磨浦公園行き臨時特急「ドルフィン号」が運転されたことがあり、7000系6両編成が使用された。停車駅は十三・西宮北口・岡本・三宮・花隈・高速神戸・新開地・山陽須磨で、新開地駅と山陽須磨駅の間はノンストップであった。ただ、この臨時特急の運転は1998年の僅か1年のみで終わっており、以降阪急車が新開地以西に乗り入れることはなくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "このほか、阪急ブレーブスの本拠地であった西宮球場でプロ野球公式戦が開催された際には、梅田駅 - 西宮北口駅間で臨時特急が運転されることがあった。また、1981年に神戸沖で開催された神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア '81)の期間中には、休日を中心に梅田駅 - 三宮駅間の臨時特急が運転されることがあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "上記の臨時特急と同じく、神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜の4日間とみなとこうべ海上花火大会開催日の深夜に、神戸三宮発大阪梅田行きの臨時快速急行が増発される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "かつて、1990年頃から阪神・淡路大震災発生前まで、春・秋の行楽期の土曜・日曜・祝日に限り、午前中と夕方に梅田駅 - 三宮駅間に臨時快速急行が運転されていたことがある(通称「大運転」)。これ以外にも、かつて土曜日昼間時間帯が下校する高校生らで混雑していたことがあったため、1993年7月のダイヤ改正で土曜日の12時台(下校時間帯)に梅田駅 - 三宮駅間の臨時快速急行が設定された(夏休みなどの休校期間中は一部区間のみ回送列車として運転)。この土曜日昼間の臨時快速急行は震災を機に運休となり、1995年6月のダイヤ改正で正式に廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "阪神競馬場での競馬開催日夕方には、今津線仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される(仁川駅16:00 - 17:40発で最短10分間隔)。途中の停車駅は塚口駅・十三駅のみであり、西宮北口駅は準急と同様に客扱いはせず通過としている(但し運転停車は実施。「阪急今津線」の記事も参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "仁川発大阪梅田行きは、かつては本来のダイヤでは西宮北口始発である定期列車の急行の一部を運休させて、そのダイヤを使って仁川発の臨時急行として振り替えていた時期があった(西宮北口駅の時刻表や1993年7月発行の阪急電鉄時刻表にも明記されていた)。言い換えれば、西宮北口駅では運休扱いだが、塚口駅以東では運転されているという現象が生じていたことがあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2006年までは梅田発仁川行きも運転されていた。1980年代までは午前中に20分程度の間隔で運転されてきたが、これは1993年のダイヤ改正で廃止された。以降は桜花賞・宝塚記念などの阪神競馬場でのGI開催日の朝に限り3本のみ(梅田発8時37分・8時57分・9時17分)の運転となっていたが、利用客減少などの理由により、2006年10月28日のダイヤ改正で運行が中止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "このほか、昭和50年代までは、週末の夕方に三宮または六甲発梅田行きの臨時急行が運転されていたことがあったが、これらは前面に掲げられる列車種別板には「臨急」の2文字しか書かれず、行き先などがまったく入っていなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なお、「準急」が運転を開始した時は「臨時急行」と称され、列車表示板も2文字のみで「臨急」となっていたが、前記「臨急」と停車駅が異なり、混乱を避けるためにのちに改称された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "表示幕には『臨時』(赤色枠に白文字)の種別も用意されているが、普通列車は臨時であっても定期列車と同じ『普通』と表示されている(駅ホームの発車案内板も同じ)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "休日ダイヤで運転する8月中旬のお盆期間と年末の平日朝に限り、混雑緩和のため西宮北口発大阪梅田行き普通が臨時で増発される。また、なにわ淀川花火大会開催当日も、開始直前の夕方から夜間にかけて西宮北口発大阪梅田行き普通が、終了後の夜間に大阪梅田発西宮北口行き普通が、それぞれ増発される(いずれも園田駅で特急を待避)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2020年3月14日ダイヤ改正以降はすべての列車が、ワンハンドルマスコン車両で運転されている。基本的に(土休日は全列車)8両編成で運転されるが、平日朝ラッシュ時には8両編成の大阪梅田側に2両を増結し、10両で運転する列車が数本ある。また京都本線との直通特急は6両で運転される。西宮車庫からの入出庫で当線を経由する伊丹線、甲陽線の車両はそれぞれ「阪急伊丹線#運行形態・車両」、「阪急甲陽線#現在の車両」を参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2021年9月現在、運行される車両は以下のとおり。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1907年、村野山人らにより神戸から芦屋・西宮・御影を経由して神戸に戻る環状路線、灘循環電気軌道が出願される。だが、免許が下りたのは、山側の神戸市葺合 - 芝村(西宮駅)間のみであった。一方、1910年に宝塚本線と箕面線を開業させた箕面有馬電気軌道は、灘循環電気軌道に接続して阪神間連絡を図る目的で、1913年に十三から伊丹を経て門戸にいたる路線の特許を申請した。不況などにより灘循環電気軌道の建設が頓挫すると、灘循環電気軌道の軌道敷設権を譲り受けることになり、箕面有馬電気軌道は阪神間の軌道敷設権を手中に収めることになった。箕面有馬電気軌道はこれを機にルートの短絡を追求し、尼崎市内において現行よりもやや南よりのルートを企図したものの、伊丹市の反対に遭い、折衷案として塚口駅を経由する現行ルートに落ち着いた。なお建設時は大阪で海運業者を営んでいた岸本兼太郎に資金援助を仰いでいる。1918年に箕面有馬電気軌道は阪神急行電鉄と社名を改め、1920年には十三駅 - 神戸駅(のちの上筒井駅、現在の神戸市中央区坂口通2丁目に位置した)間を開業させ、阪神間輸送に参入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "神戸本線は先行して開業していた宝塚本線と同じく軌道法準拠で敷設されたものの、全線にわたって直線主体の線形を採用していることから、同法本来の制限速度であった時速25マイル(約40 km/h)よりも高い、時速35マイル(約56 km/h)での運行が認可された。後には、さらに110 km/hまで軌道法準拠でスピードアップを行っている。建設時は第一次世界大戦勃発のため鉄鋼などの資材価格が高騰しており、神崎川駅 - 西宮北口駅間では鉄の使用を節約すべく、日本初のコンクリート製電柱を採用した。さらに駅間距離も先行して開業していた阪神本線より長く取られ、特に神崎川駅 - 西宮北口駅間に至っては、開業時は途中駅が塚口駅1つのみとされており、その駅間平均距離は5.75 kmにも達していた(後の昭和期における住宅開発で、園田駅と武庫之荘駅が追加開業した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "開業時、「綺麗で早うて。ガラアキ 眺めの素敵によい涼しい電車」をキャッチコピーとして大阪の梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を50分(開業から5日間は60分)で結び、国鉄の大阪駅 - 三ノ宮駅間51分、阪神の同60分に対して優位に立った。対する阪神のキャッチコピーは「またずにのれる阪神電車」で、その通り電車の頻発運行で対抗した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "だが、開業当初の神戸本線は、大阪側と神戸側双方のターミナルに問題を抱えていた。梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間では併用軌道の宝塚本線に乗り入れていたためにボトルネックとなっており、他方神戸駅は神戸市の中心部より手前に位置していたのである。大阪側の問題は、1926年に梅田駅 - 十三駅間に神戸本線と宝塚本線の分離された高架線が完成したことで解消する。一方の神戸側は、阪急が工費や地下構造物の問題から高架での三宮乗り入れを希望したが、神戸市会(現在の神戸市議会)が市内に乗り入れる鉄道路線は地下線とする原則を崩さなかったため工事が遅れていた(「阪神急行電鉄#三宮高架乗り入れ騒動」の項目も参照のこと)。結局、省線(現在のJR神戸線)が三ノ宮駅付近を高架化すると市会は高架化に対する容認論に傾き、1936年に現在の神戸三宮駅(開設当時は神戸駅)までの開業に漕ぎつけた。三宮乗り入れ後、西灘駅(現在の王子公園駅) - 上筒井駅間の旧線に関しては、支線の上筒井線として1940年の廃止まで90形単行による折り返し運行が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "沿線開発では宝塚本線開業時同様、住宅開発が積極的に進められた。この頃になると、阪急のみならず芦屋六麓荘、関西土地などといった民間宅地開発業者も開発に参入するようになり、結果として伊丹・西宮七園・夙川・六麓荘町・岡本・御影など良好な住宅地が沿線に形成され、のちにこれらの新興住宅地は、高級住宅街となった。これらの開発はそれ独自の文化も生み出し、後に阪神間モダニズムと呼ばれるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1938年7月に発生した阪神大水害では、住吉川橋梁の橋桁が流出するなどの甚大な被害を被っている。いったんは仮線により復旧するものの、同年8月1日に発生した豪雨で再び不通となった。この復旧は住吉川の改良と並行して行われ、新住吉川橋梁には梅田駅の省線を乗り越える部分に使われていた橋桁を再利用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "もともと阪神本線と比較して駅数が少ない神戸本線であるが、1922年5月には集電装置を他の私鉄に先駆けてポールからパンタグラフに交換し、同年12月には梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間の所要時間を40分に短縮した。1926年には梅田駅 - 十三駅間の線路別複々線・専用軌道化が完成して35分とし、そして1930年4月1日には強力な200馬力級電動機を搭載する900形を使用して途中西宮北口駅のみ停車する特急を新設し、30分にまで短縮する。速度向上はその後も続き、1931年10月には28分、1934年7月には25分とし、梅田駅では駅正面に「神戸ユキ急行電車のりば」・「神戸行特急廿五分」と掲げてアピールした。ちなみに、この梅田駅 - 神戸駅間25分運転での表定速度は、高速運転を行ったことで知られる新京阪鉄道(後の京阪電気鉄道新京阪線 → 阪急電鉄京都本線)のP-6形による「超特急」の表定速度(京阪京都 - 天神橋間34分30秒運転で、73.7 km/h)よりも高い78.0 km/hで、戦前の記録では阪和電気鉄道の「超特急」が記録した81.6 km/hについで日本第2位であった。これは現在もなお、阪急の特急の最速である。1936年4月には三宮乗り入れにより距離が若干伸びたにもかかわらず、より高出力な電動機を搭載する920形を投入することで、西宮北口駅のみ停車による25分運転を維持した。この特急運転は、太平洋戦争の戦況が悪化した1944年まで続けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なお、1934年からは鉄道省が運営する東海道本線でも電化の完成によって急行電車(急電)の運転が開始されており、大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車により24分で結んでいた。また阪神では、1936年に元町までの地下線による延伸が実現、高頻度運転により「大阪・神戸の中央へまたずにのれる」というアピールを行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また開業時から1942年まで、梅田駅 - 十三駅間を移動する乗客は宝塚本線の電車を利用するように定められ、神戸本線の電車には乗車できなかった。これは郊外路線の宝塚本線と、都市間路線の神戸本線を完全に分ける施策によるといわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "大阪 - 神戸間には、開業時既に国鉄東海道本線(省線)と阪神電気鉄道本線が開通しており、前者は主に中長距離の利用を中心とし、後者は駅の多さと高頻度運転によって棲み分けがなされていた。西宮神社での祭事時に、当時阪神地域の電力事業も行っていた阪神電鉄が電力を融通した結果、阪急が設置した西宮戎駅(臨時駅)から神社までの街灯がすべて消えてしまったことへの補償を兼ねて、阪急の運行トラブルの際に阪神が臨時列車を運転したことが、現在の振替輸送の原点とされる。また、阪神傘下の摂津電気自動車による香枦園駅(現在の香櫨園駅) - 苦楽園間無軌道電車(トロリーバス)敷設計画を輸送力の関係から肩代わりする形で、甲陽線の建設を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "時代が下り、戦後昭和40年代になると、神戸高速鉄道に阪急・阪神両社の電車が直通するようになった。1995年の阪神・淡路大震災で各社とも大きな被害を受けたことから、復興支援を兼ねて、定期券の利用に関して、梅田駅 - 三宮駅(いずれも当時)間を含む磁気式の通勤定期券を利用している場合に限り、阪急・阪神双方の梅田駅・三宮駅で、また三宮駅 - 高速神戸駅間を含む通勤定期券を利用している場合は阪急・阪神双方の三宮駅から高速神戸駅までの神戸高速線内各駅(花隈駅・西元町駅・元町駅)で、それぞれ乗降ができる制度が1996年10月から実施されるなど、両社の協調は一層深まり、村上ファンドによる阪神株の買い集めを経て、遂には両者の経営統合による「阪急阪神ホールディングス」および「阪急阪神東宝グループ」の誕生に至った(阪急・阪神経営統合を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "終戦後の1949年、神戸本線での特急運転が再開された。このときから全ての特急が十三駅に停車するようになった。特急の梅田駅 - 神戸駅(現・神戸三宮駅)間の所要時間は1949年の運転開始当初30分、その後はおおむね28分で推移した。1993年のダイヤ改正では、平日のみ停車駅を維持したまま25分台での運転を実現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1995年1月17日の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)により、西宮北口駅 - 夙川駅間の高架橋や、神戸阪急ビルが破壊されるなど神戸本線は甚大な被害を受け、暫定運行を強いられた。全線復旧した1995年6月以後は、すべての特急が岡本駅に停車するようになった。これは同年3月に予定されていたダイヤ改正が遅れて実施されたもので、同駅の利用増への対応と、平日日中の普通が六甲駅で特急の通過待ちを行っていたのを解消し、普通の所要時間を短縮する目的があった。同時に、通勤時間帯の需要に応じた列車種別を新たに設けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また2006年10月には経営統合を行った阪神とともに、2007年3月のJRさくら夙川駅開業に呼応したダイヤ改正が行われ、阪急神戸本線では特急が夙川駅に停車し、同駅における甲陽線との接続改善を実施した。併せて線形・自動列車停止装置 (ATS) が改良されたこと、並びに昼間時の特急の神崎川駅 - 西宮北口駅間の最高速度を115 km/hへ引き上げたことにより、特急は停車駅を一駅増やしたにもかかわらず、梅田駅 - 三宮駅間の所要時間が10秒 - 60秒短縮(下り列車で最速27分00秒、上り列車で最速27分10秒)、普通も同区間で30秒 - 80秒短縮された(下り列車で最速43分40秒、上り列車で最速43分00秒)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "現在の神戸本線特急における大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間所要時間は、最速で上り下り共に27分20秒となっており、戦後の最速である1993年改正ダイヤに比べて約1分延びている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1949年12月3日、神戸駅 - 京阪神京都駅(現在の大宮駅)間に直通特急の運転が開始された。当時の京都本線は1500 V電化、神戸本線は600 V電化と電圧が異なっていたことから、800系2編成を複電圧車に改造し、直通列車に充当することとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "直通特急の停車駅は西宮北口・十三・高槻市・西院で、梅田駅には入線せず十三駅構内の折り返し線を用いて直通を行う形態をとっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "しかし通し利用の乗客数は少なく、1951年10月8日に京神間直通特急の運転は廃止された。2008年になって前記の嵐山駅への直通特急が運転され始め、臨時列車ながら事実上復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1968年の神戸高速鉄道東西線開業後は、阪急の列車は山陽電気鉄道の須磨浦公園駅まで、山陽の列車は六甲駅まで、それぞれ乗り入れて相互直通運転を行っていた(乗り入れ先では各駅停車)が、1998年2月に山陽姫路駅 - 阪神電鉄梅田駅間で直通特急の運転を開始したのに合わせて、阪急の山陽電鉄への乗り入れが中止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この直通運転に見られる、他社線乗り入れによって自社の輸送力に制約が発生する問題は、阪神なんば線直通運転開始後の近鉄奈良線など双方の編成規模に差異がある組み合わせで見られるネックである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2004年10月の近畿地方交通審議会答申第8号で、「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」のうち、「乗り継ぎ利便性の向上に資する事業」として、三宮駅付近で神戸市営地下鉄西神・山手線との相互直通運転が盛り込まれた。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "春日野道駅以西を地下化して直通するというもので、実現した場合は、現在の神戸三宮駅や神戸高速鉄道との相互直通運転は廃止となる可能性もある。もっとも、2004年時点では神戸市側が難色を示しているという報道もあり、その後進展していなかった。2013年12月になって、神戸市長の久元喜造が阪急神戸線と神戸市営地下鉄西神・山手線の直通運転案の検討に入る考えを示したことが報じられている。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2017年11月、神戸新聞社の取材によって、従来の神戸三宮駅で接続するルートの他、王子公園駅から地下線を建設して新神戸駅で接続するルート、神戸高速鉄道東西線(阪神神戸高速線)高速長田駅もしくは山陽電気鉄道本線板宿駅で接続するルートが候補となっていると報じられた。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "しかしながら神戸市内はJRや阪急、阪神、山陽電鉄などが運行して東西交通の利便性が高いなどの理由から、多額の投資で得られる効果は限定的と推計され、神戸市は乗り入れ構想を撤回しないものの事業化は当面見送ることを決めた。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また、近畿地方交通審議会答申第8号では、阪急・大阪市の提案により、大阪市営地下鉄(現在のOsaka Metro)四つ橋線 西梅田駅 - 北梅田駅(仮称) - 十三駅間2.9 kmの延伸が「中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として盛り込まれ、2004年8月には「2015年頃を目途に、四つ橋線を十三駅まで延伸し、阪急神戸本線との相互直通運転を行う」との報道もなされた。ただし、答申自体は阪急との乗り入れに触れられておらず、現実には集電方式の違いや、西梅田駅とほぼ同深度にある阪神本線のトンネルが延伸の支障になるなどの問題があったことから、報道内容や実現性などが疑問視されていた。これに関連して、2006年12月に四つ橋線の十三駅までの延伸構想に関する報道がなされており、また阪急新大阪連絡線の整備構想もあわせて報道されたことから、阪急神戸本線と四つ橋線の相互乗り入れに関する内容は収束の傾向にある。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "なお、この答申第8号では、京都本線と神戸本線の相互直通運転が「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」として挙げられている。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "神戸本線では最も駅間距離の長い (3.3 km)、西宮北口駅 - 武庫之荘駅間の武庫川橋梁上に、新駅(仮称・武庫川新駅)を設置する構想がある。古くは旧瓦木村が1942年に西宮市と合併する際に交わした覚書の中に旧瓦木村の近くに新駅を設置することを条件として求めていたことが記載されており、長きにわたり特に西宮市側の住民により熱心に展開されてきた。阪神・淡路大震災後、老朽化に伴う武庫川橋梁架け替え工事を行った際に旧鉄橋の両側にコンクリート橋を架橋することによって上下線間に島式ホームが設置できる程度のスペースが確保されたため、ここへ新駅を設置しようという動きがみられている。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "新駅設置に向けて、2000年には「阪急武庫川駅誘致推進協議会」が結成され、1万人を超える署名を添えた陳情が西宮市議会で採択されたほか、山田知西宮市長(当時)が意欲を見せ(2008年12月10日の市議会本会議で発言)、阪急電鉄角和夫社長も前向きな意向を示すなど、具体的に動きを見せた時期もあったが、山田知市長の死去に伴う市長交代(河野昌弘)などもありその後は暫く動きが途絶えた。一方、尼崎市側は市の財政難を理由に設置には消極的であった。ただ、2012年になり西宮市が新駅設置のための調査費を計上したことで、新駅設置へ向けて再び動きを見せるようになり、2013年には西宮市と県、阪急電鉄がつくる検討会に尼崎市が参加するようになったが同市はあくまで慎重な姿勢であった。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2021年9月3日、阪急電鉄・兵庫県・西宮市・尼崎市からなる検討会にて事業の具体化に向けた検討に入ることで合意したことを発表した。構想では、新設されるホームは現在の橋脚を活用するため、線路間の内側に片面ホームをそれぞれ設ける2面2線とし、可動式ホーム柵、エレベーター、エスカレータも設置される。改札口は西宮市側と尼崎市側にそれぞれ1箇所ずつ設置される。建設費用は駅工事に50億円、駐輪場や周辺工事に10億円の約60億円を見込む。乗降客数は近隣駅などからの転移で2万2623人と算出、両市側とも徒歩または自転車での交通アクセスを想定している。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2022年11月1日、西宮市、尼崎市、阪急電鉄の3者が新駅設置に向けて合意書に調印したことで、新駅設置が正式に決定した。なお、開業時期は未定。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "西宮市は、市道中津浜線においてボトルネックとなっている車庫横踏切道(西宮車庫東隣)など3か所の踏切の廃止を目的に、武庫川橋梁 - 西宮北口駅間において連続立体交差事業(鉄道高架化)を検討している。", "title": "今後の事業計画・構想" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "駅名は廃止時のもの。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2021年の通年平均の乗降客数は次の通り。", "title": "駅一覧" } ]
神戸本線(こうべほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の神戸三宮駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。神戸本線自体を指して、またはその支線を含めて通称神戸線(こうべせん)と呼ばれる。ラインカラーは港町神戸の海からブルー(■)。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 神戸本線 |路線色=#007ac4 |画像=Hankyu-Kobe-Line Series8000 1000.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=神戸本線を走行する[[阪急1000系電車 (2代) |1000系]]と[[阪急8000系電車|8000系]]<br>(2019年4月14日 岡本駅 - 御影駅間) |国={{JPN}} |所在地=[[大阪府]]、[[兵庫県]] |起点=[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] |終点=[[三宮駅|神戸三宮駅]] |駅数=16駅 |路線記号=[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|21px|HK]] HK |開業={{start date and age|1920|7|16}} |全通={{start date and age|1936|4|1}} |休止= |廃止= |所有者=[[阪急電鉄]] |運営者=阪急電鉄 |車両基地=[[西宮車庫]] |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=32.3 [[キロメートル|km]] |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]]) |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|阪急型ATS(パターン式)]] |最高速度=115 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="himitu">『阪急電鉄のひみつ』 - PHP研究所</ref> |路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg }} '''神戸本線'''(こうべほんせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]から[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[三宮駅|神戸三宮駅]]までを結ぶ[[阪急電鉄]]の[[鉄道路線]]。神戸本線自体を指して、またはその支線を含めて通称'''神戸線'''(こうべせん)と呼ばれる。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は[[日本の港町|港町]]神戸の海からブルー({{Color|#007ac4|■}})。 == 概要 == {{阪急神戸本線路線図}} [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急京都本線|京都本線]]と並ぶ阪急電鉄の基幹路線の一つであり、並行する[[JR神戸線]]([[東海道本線]])・[[阪神本線]]と共に大阪と神戸それぞれの随一の[[繁華街]]である[[梅田]]と[[三宮]]を結ぶ都市間鉄道([[インターアーバン]])の一つである。 ルーツの異なる京都線(京都本線及びその支線)と区別するために、 神戸線と宝塚線(宝塚本線およびその支線)を合わせて[[神宝線]]と総称されることもある。神戸三宮駅から[[阪急神戸高速線]][[新開地駅]]まで[[直通運転]]を行なっている。 本路線は[[大正]]時代に、カーブの多い既存の[[阪神電気鉄道|阪神電車]]に対抗してスピード面で優位に立てるように[[阪神間]]を高速で走行することを前提に建設された。そのため、ほぼ直線的に大阪と神戸を結んでおり<ref group="注釈">ただしスピード面においてはJRの[[新快速]]には及ばない。</ref>、阪神本線・JR神戸線よりも山手側を通っている。沿線は[[阪神間モダニズム]]文化圏に位置し、特に[[灘区|神戸市灘区]]や[[東灘区|神戸市東灘区]]、[[芦屋市]]、[[西宮市]]の山手側を中心に[[関西]]有数の[[高級住宅街]]が広がっている。最初期の計画では[[伊丹市|伊丹]]付近の開発を名目に敷設免許を申請したことから、現行よりも北よりの[[伊丹駅 (阪急)|伊丹駅]]・[[門戸厄神駅]]付近を通るルートとなっていた。その後、阪神間の短絡を目的に現在のルートに変更されたため、[[阪急伊丹線|伊丹線]]を建設することとなった。 [[ファイル:Hankyu Railway Kobe Line1.JPG|thumb|250px|none|直線主体の阪急神戸本線の線路]] 阪急と阪神両社は[[2006年]]に[[阪急阪神ホールディングス]]として経営統合するまで、互いに乗客獲得や沿線開発において激しい競争を繰り広げてきた<ref>{{Cite web|和書|title=阪急・阪神の“100年戦争” 現実の統合劇にもテレビさながらのドラマ|url=https://www.sankeibiz.jp/econome/news/151025/ecd1510251715002-n1.htm|website=SankeiBiz|date=2015-10-25|accessdate=2022-01-06|language=ja|publisher=産経新聞社}}</ref>。[[2020年]]7月16日に伊丹線とともに開業100周年を迎えた<ref name="hankyu20200701">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/86e18c1774519ffa2ad7f5d29b028ece5966f2d7.pdf 2020年7月16日、阪急神戸線が開通100周年を迎えます]}} - 阪急電鉄、2020年7月1日</ref>。これを記念して一部電車にヘッドマークをつけ、同年9月まで運行された<ref>{{Citenews|title=阪急神戸線が開業100年 「綺麗で早うて。ガラアキで…」 当時、広告も話題に|url=https://mainichi.jp/articles/20200716/k00/00m/040/097000c|newspaper=毎日新聞|date=2020-07-16|accessdate=2020-07-17}}</ref><ref>{{Citenews|title=阪急神戸線開通100年 時代駆け抜け1世紀 写真で回顧|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202007/0013516810.shtml|newspaper=神戸新聞NEXT|date=2020-07-17|accessdate=2020-07-17}}</ref>。 当記事において運行形態節での各種別の運行の変遷や、歴史節は当時の駅名で記述しており、「梅田駅」「三宮駅」とあるのは、それぞれ現在の大阪梅田駅、神戸三宮駅である。また、阪急の神戸駅は1936年3月までは後の[[上筒井駅]]、同年4月から1968年4月までは現在の神戸三宮駅を指す。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間 32.3&nbsp;[[キロメートル|km]] * [[軌間]]:1435&nbsp;[[ミリメートル|mm]] * 駅数:16駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流1500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:115&nbsp;km/h<ref name="himitu" /> * [[車両基地]]:[[西宮車庫]] * 2022年度の混雑率:134%(神崎川→十三 7:33-8:33)<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf |archiveurl= |title=最混雑区間における混雑率(令和4年度) |date=2023-07-14 |accessdate=2023-12-27 |publisher=国土交通省 |page=4 |format=PDF}}</ref> == 路線概況 == 全体的に直線区間が多く、また大都市圏内の私鉄路線としては駅間距離が比較的長いため、普通列車も含めて十三駅 - 神戸三宮駅間では100&nbsp;km/h前後の速度(最高速度は115&nbsp;km/h)で運転される。 ただし、[[御影駅 (阪急)|御影駅]]の大阪方にはS字に迂回するカーブが存在する。これは神戸線建設時、ルート上に[[朝日新聞]]創業者の一人、[[村山龍平]]の邸宅(現・[[香雪美術館]])があり、村山が近所の[[カネボウ (1887-2008)|カネボウ]]社長[[武藤山治 (実業家)|武藤山治]]、[[住友財閥]]総理事[[鈴木馬左也]]や近隣住民を誘って反対運動を行い、用地買収に難航したことによる。このため、この区間では最高速度が90&nbsp;km/hに制限される。この区間では長らく65&nbsp;km/hに制限され減速を強いられてきたが、[[線形 (路線)|線形]]改良(緩和曲線延長・ロングレール化・[[カント (路線)|カント]]修正)により[[1993年]]7月に70&nbsp;km/hに、[[2006年]]10月に90&nbsp;km/hに向上した。 大阪梅田駅 - [[西宮北口駅]]間は[[大阪平野]]を走りほぼ平坦であるが、西宮北口駅 - 神戸三宮駅間、特に[[夙川駅]] - [[春日野道駅 (阪急)|春日野道駅]]間は山沿いのルートで[[六甲山地]]の麓を走るため、16.7[[パーミル|‰]] - 30.3‰の勾配が断続的に存在する。 大阪梅田駅 - 十三駅間の[[架線]]方式は、[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]は[[架空電車線方式#分類|シンプルカテナリー]]であるが、神戸本線・京都本線(厳密には宝塚本線の一部)は[[架空電車線方式#分類|コンパウンドカテナリー]]である。 [[神崎川駅]]西側の[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]橋梁には[[陸閘|防潮扉]]が設置されており、[[台風]]接近による[[高潮]]や、[[地震]]後の[[津波]]等への対策として閉鎖されることがある。この場合、大阪梅田駅 - [[園田駅]]間は運休(このうち大阪梅田駅 - 十三駅間は神戸本線のみ運休)となるが、過去には十三駅 - 神崎川駅間で上り線のみを利用して折り返し運転されたことや、園田駅に用意されている折り返し線を利用して園田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間の普通列車のみで折り返し運転をしていたこともある。それ以外にも、人身事故など輸送障害が発生した場合、園田駅で折り返し運転を行うこともある<ref>{{cite news |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202112/0014943828.shtml |title=阪急神戸線で人身事故、一時運転見合わせ 25日深夜に再開 |newspaper=[[神戸新聞]] |publisher=[[神戸新聞社]] |date=2021-12-25 |accessdate=2021-12-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211225162253/https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202112/0014943828.shtml |archivedate=2021-12-26 }}</ref>。なお、大阪梅田駅 - 西宮北口駅間の代替路線としては、[[阪急宝塚本線|宝塚本線]](大阪梅田駅 - [[宝塚駅]])・[[阪急今津線|今津線]](宝塚駅 - 西宮北口駅)を経由するよう案内されたことがある。 [[岡本駅 (兵庫県)|岡本駅]]や[[王子公園駅]]などは、JR神戸線の駅からわずか数百メートルの距離にあり前者は[[摂津本山駅]]、後者は[[灘駅]]と乗り換え可能だが、JRとの乗り換え案内は行われていない。一方、[[塚口駅 (阪急)|塚口駅]]に関してはJR[[福知山線]]に同じ駅名である[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]があるものの、両駅間が1kmほど離れていることもあり乗り換え案内は行われていない。 == 運行形態 == 阪急電鉄は[[神戸高速鉄道]][[阪急神戸高速線|東西線]]神戸三宮駅 - [[新開地駅]]間の[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]であり、自社線扱いの「[[阪急神戸高速線|神戸高速線]]」として神戸三宮駅から新開地駅まで直通運転を行っている。<!--直通や乗り入れという語は自社線に対しても使います。念のため。--> 平日は9時 - 22時ごろ、土曜・休日は7時 - 19時ごろまで[[特別急行列車|特急]]と[[普通列車|普通]]がそれぞれ10分間隔(土曜・休日の19時以降は12分間隔)での運転が基本のダイヤとなっている。平日の夕[[ラッシュ時|ラッシュ時間帯]]は下り通勤急行と西宮北口駅発着の普通も運転されるほか、平日・土曜・休日ともに22時以降は[[準特急]]が運転される。平日の朝ラッシュ時間帯は16分サイクルとなっており特急・普通のほかに通勤特急・通勤急行・準急(今津線宝塚駅から直通、大阪梅田方面のみ)も運転される。 土曜は休日ダイヤが適用されている。以前は、月曜から土曜までが平日ダイヤ、日曜・祝日が休日ダイヤで運転されていたが、関西では[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]]に次いで[[1992年]]12月に宝塚線、[[1993年]]2月に京都線で土曜ダイヤを導入しており、これに続く形で神戸線も1993年7月に土曜ダイヤを導入した。ちなみに当時、相互直通運転を行っていた山陽電鉄と神戸高速鉄道東西線・山陽電鉄本線に乗り入れていた阪神電鉄も同日から土曜ダイヤを導入している。のちにこの土曜ダイヤは、休日ダイヤを基本に、輸送力の不足する朝のみ西宮北口発梅田(現在の大阪梅田)行きの普通を増発するパターンとなり、2006年10月28日のダイヤ改正<ref name="release20060622">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200606222N1.pdf 神戸線におけるATS(自動列車停止装置)の改良と、神戸線・宝塚線のダイヤ改正について]}} - 阪急電鉄プレスリリース、2006年6月22日</ref><ref name="release20060803">{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200608031N2.pdf 阪急電鉄・能勢電鉄のダイヤ改正の実施日について]}} - 阪急電鉄プレスリリース、2006年8月3日</ref>以降は完全に廃止されて土曜・休日ダイヤに一本化された。 乗務員は西宮北口駅で交替することがあり、交替した運転士が西宮北口駅発車時、[[警笛]]吹鳴を行うことがある。 日中の運転本数は次の通りである。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center" |- |+日中の運行パターン !colspan="2"|駅名<br/>\<br/>種別 !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|大阪梅田|height=5em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|神戸三宮|height=5em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|新開地|height=5em}} ![[山陽電鉄本線|山陽<br/>電鉄]]<br/>直通 !本数 |- !rowspan="3" style="width:1em;"|本数 |style="background:#fcc;"|特急 |colspan="7" style="background:#fcc;"| |colspan="2" style="background:white;"| |6本 |- |rowspan="2" style="background:#ddd;"|普通 |colspan="4" style="background:#ddd;"| |colspan="5" style="background:white;"| |6本 |- |colspan="3" style="background:white;"| |colspan="5" style="background:#ddd;"| |[[山陽姫路駅|山陽<br/>姫路]] |2本 |} === 列車種別 === 以下に各種別の詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「[[#駅一覧|駅一覧]]」の節を参照。 ==== 特急 ==== [[File:Hankyu 9104 at Okamoto Station.JPG|thumb|9000系による特急新開地行き]] 神戸本線の最速達種別で、深夜を除きほぼ終日運転される。基本的には大阪梅田駅 - 新開地駅間の運転だが、早朝に西宮北口発新開地行きがあるほか朝夕には大阪梅田駅 - 高速神戸駅間の運転もある。2022年12月17日のダイヤ改正以降、十三駅 - 西宮北口駅で最高115 km/h、それ以外の区間では最高110 km/hで運転を行っており、大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間を上下列車ともに最速27分20秒(表定速度:70.9&nbsp;km/h、平均速度:76.8&nbsp;km/h)で走行している。また、線形が良く通過運転距離が比較的長い十三駅 - 西宮北口駅間では、下り列車が最速8分45秒、上り列車が最速8分30秒(平均速度:93.2&nbsp;km/h)で走行しており、並行して走行するJR西日本の[[新快速]]に匹敵する高速運転を実施している。 115&nbsp;km/h運転を行う特急は、2006年10月28日のダイヤ改正当初、乗務員がもつスタフに「A特急」と表記されていたが、2020年3月14日の神戸高速線を経て乗り入れを行う山陽電鉄線のダイヤ改正に合わせたダイヤ変更にて、日中を走る5000系・6000系の最高速度110km/h車が撤退したことにより、乗務員が持つスタフから「A特急」の表記が無くなった<ref group="注釈">なお6000系は平日朝に限り10両編成の特急大阪梅田行きの増結車両で2022年12月17日のダイヤ改正まで使用されていた。かつて存在していた10両編成の特急は最高速度110km/hに合わせたダイヤとなっていた。</ref>。 途中、西宮北口駅で普通に接続する。また、大阪梅田方面の列車は、神戸三宮駅で普通に接続する。さらに、高速神戸駅で阪神の普通と接続する。 大阪梅田駅 - 宝塚駅間は宝塚本線の急行に乗車するよりも、実際には特急で西宮北口駅まで行き、今津北線に乗り換えたほうが宝塚駅へ先着することも少なくない。日中時間帯での差は1分程度である。 [[1930年]]の運転開始以来、[[戦中|戦時中]]と[[阪神・淡路大震災]]直後を除き、ほぼ一貫して設定されている。1930年の運転開始当初の途中停車駅は西宮北口駅のみで、1937年に十三駅を追加<ref group="注釈">ただし十三駅で京都行急行・特急に接続する列車のみ。全列車停車は戦後の特急運転再開時から。(『レイル No.47』P16)</ref>して以降は永らく十三駅と西宮北口駅のみであった。阪神・淡路大震災後の1995年6月12日のダイヤ改正で岡本駅に、2006年10月28日のダイヤ改正で夙川駅に、それぞれ新たに停車するようになった<ref name="release20060622" /><ref name="release20060803" />。[[2000年]]から沿線の[[神戸市立王子動物園|王子動物園]]で[[ジャイアントパンダ]]が公開されており、行楽シーズンには最寄り駅である[[王子公園駅]]に臨時停車することもあったが、現在では行われていない。 平日朝ラッシュ時に一部が10両編成で運転されていたが、2022年12月17日の改正で10両編成運転をとりやめ8両に統一された<ref name="hankyu20221012">{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)初発より 阪急全線(神戸線・宝塚線・京都線)でダイヤ改正を実施 ~2024年に京都線で座席指定サービスを開始します~|publisher=阪急電鉄|date=2022-10-12|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。 ==== 通勤特急 ==== 特急の停車駅に、伊丹線との接続駅である塚口駅を加えた種別。平日の朝ラッシュ時間帯に大阪梅田駅 - 神戸三宮駅・高速神戸駅・新開地駅間で、8両編成または10両編成で運転されている。10両編成の神戸三宮側先頭車両には女性専用車両が設定されている。 1995年6月12日のダイヤ改正から運転開始し、1998年から2001年には深夜時間帯にも運転されていた。2006年10月28日のダイヤ改正で夙川駅が停車駅に追加された。 ==== 準特急 ==== 早朝深夜における優等列車。大阪梅田駅 - 新開地駅間で運行され、途中の西宮北口駅で普通に接続する。早朝に新開地発大阪梅田行きが1本運転されるほかは夜間に運転される。 2022年12月17日のダイヤ改正で「快速急行」の停車駅などの運行形態はそのままに、種別名のみを変更する形で設定された。 1987年12月14日に快速急行として設定された当初は岡本駅は通過していた。1995年6月12日改正時の特急の同駅停車に合わせて、快速急行も停車するようになった。 ==== 急行 ==== 伊丹線との接続駅である塚口駅および西宮北口駅 - 神戸三宮駅間の各駅への速達列車として、平日の深夜及び土休日の早朝、深夜に運転される。 23時45分に大阪梅田駅を出発する列車は、夙川駅から神戸三宮駅までの最終列車の役割を担う。 特急と並び、戦前から存在する種別であり、長年停車駅が変わっていない。 阪神・淡路大震災前は、平日朝夕の混雑時間帯と深夜、休日の午前・午後・深夜に運転されていた。休日午前と午後の急行は梅田駅 - 西宮北口駅間の運転で、阪神競馬場で競馬が開催される日には梅田駅 - [[仁川駅]]間の[[#臨時急行|臨時急行]]となり、西宮北口駅発着の急行は運休となっていた。また1987年12月13日のダイヤ改正から1995年6月12日のダイヤ改正前までは、平日朝に限り10両編成の運転も行われていた。 1995年6月のダイヤ改正から2001年3月のダイヤ改正までは、主に平日夕方以降の運転に縮小されたが、2001年3月のダイヤ改正で平日夕方の急行が通勤急行に置き換わった。かつては高速神戸駅発着(平日は阪神・淡路大震災前まで朝ラッシュ時、休日は1998年2月ダイヤ改正まで深夜に1本)の列車も存在していた。 2016年ダイヤ改正までは平日朝ラッシュ時間帯の運行もあったが、2021年現在は、平日ダイヤでは深夜時間帯、休日ダイヤでは早朝、深夜時間帯のみ運行されている。 阪神・淡路大震災後の1995年2月頃の臨時ダイヤでは梅田駅 - 西宮北口駅間で終日にわたって急行が設定(昼間10分間隔、特急は終日運転休止)されたことがある。1995年3月頃より特急の運転が復活し、急行は朝夕のみの運転に戻った。また、終戦直後から特急運転復活までの間も、急行が終日運転されていたことがある。 ==== 通勤急行 ==== [[ファイル:Hankyu 8000 series Commuter-express at Tsukaguchi.jpg|thumb|8000系による通勤急行]] 平日の朝と夕方のラッシュ時間帯に、全列車8両編成で運転される。朝ラッシュは神戸三宮から大阪梅田方面に、夕ラッシュは大阪梅田方面から神戸三宮方面に運行される。伊丹線との接続駅である塚口駅に加え、他の優等列車が通過する[[武庫之荘駅]]に停車する。塚口駅 - 神戸三宮駅間は各駅に停車し、この時間帯の西宮北口駅発着の普通を補完する役割も持つ。 大阪梅田方面に向かう列車は、途中、六甲駅で特急を待避し、西宮北口駅で通勤特急に接続する。神戸三宮方面に向かう列車は、途中、西宮北口駅で特急に接続する。 1995年6月のダイヤ改正で運転を開始。当初は平日朝の上り急行を置き換える形で、三宮発梅田行きが設定された。2001年3月のダイヤ改正では平日夕方の下りにも、急行を置き換える形で運転されるようになった。上り列車は西宮北口駅で梅田側に2両増結して、西宮北口駅から梅田駅まで10両編成で運転されていた。この10両編成のうち、2007年10月26日までは、座席収納装置のある[[阪急8200系電車|8200系]]が充当される際は座席が収納された状態で運用された。2016年3月19日のダイヤ改正で利用客の減少に伴い10両編成が廃止され、全列車が全区間通して8両編成での運転となった。また、朝ラッシュ時の神戸三宮発の列車が新開地・高速神戸発に延長された。これにより、運行区間が神戸高速線まで拡大されたが、神戸高速線への直通は2022年12月のダイヤ改正で消滅した。 英語表記は、2019年1月に「'''Express'''」から「'''Commuter Express'''」に変更された。 ==== 準急 ==== [[File:Hankyu 8002f Semi Exp Umeda 20190830.jpg|thumb|8000系による準急]] 平日朝ラッシュ時に今津線からの直通列車として、8両編成で宝塚発大阪梅田行きのみ運転される。西宮北口駅では神戸本線との[[連絡線]]である9号線を通過するが、9号線では乗降の取り扱いは行わないため同駅は通過扱いとなっている(但し、ダイヤの関係で約1分間[[停車 (鉄道)|運転停車]]する)。通勤急行が停車する武庫之荘駅には停車しないため、神戸本線においては通勤急行よりも準急の方が格上という[[停車 (鉄道)#千鳥停車|珍しい停車駅設定]]となっている(これは通勤急行が準急より後に設定されたことによる。但し、路線図などでは準急が格下として扱われている)。 1957年10月に運転を開始。かつては仁川発梅田行きも1本あったが、これは後に宝塚発に変更されている。1995年6月12日より2001年3月のダイヤ改正までは、平日夕方に3本の梅田発宝塚行きがあったが、この列車は今津線内の宝塚方面行きホーム[[有効長]]の関係上、6両編成で運転されていた(「[[阪急今津線]]」も参照)。 ==== 普通 ==== [[ファイル:Hankyu7000 7006F.jpg|thumb|7000系による普通([[王子公園駅]]付近)]] 各駅に停車する種別で、終日運転される。昼間時は大阪梅田駅 〜神戸三宮駅間で運転され、上下列車とも西宮北口駅で必ず特急との待避・接続を行うが、西宮北口駅出発後は大阪梅田駅・神戸三宮駅まで先着するダイヤとなっている。なお平日ラッシュ時は[[園田駅]]・六甲駅で特急や通勤特急を待避する列車がある。西宮北口駅発着列車が朝・夕・夜に設定されており、特に平日夕方の下りの通勤急行運行時間帯は全て西宮北口行きである。高速神戸駅・新開地駅へは早朝・平日朝ラッシュ時・深夜のみ乗り入れる。このほか、平日朝に1本のみ武庫之荘発大阪梅田行きがある。 大阪梅田方面において、平日の23時23分・土休日の23時20分に神戸三宮駅を出発する列車は、武庫之荘駅 - 大阪梅田駅の最終列車の役割を担う。ただし、西宮北口駅で準特急に接続する。また、平日・土休日に24時03分に新開地を出発する列車は、新開地駅 - 西宮北口駅の最終列車の役割を担う。神戸三宮方面において、24時10分に大阪梅田駅を出発する列車は、中津駅 - 西宮北口駅の最終列車の役割を担う。 阪神・淡路大震災前の日中は、平日・土曜日のみ特急が梅田駅 - 神戸三宮駅間を最速26分で運転していたため原則六甲駅で待避を行っており、また休日では六甲駅での待避をしない(そのため後続の特急は徐行運転を強いられた)代わりに臨時列車の運転も考慮して西宮北口駅での長時間停車と園田駅での待避を行っていた。 2016年3月19日のダイヤ改正では、平日朝の上り梅田行き1本が西宮北口行きに変更となったほか、西宮北口発梅田行き1本が廃止となり、平日朝の西宮北口駅 - 梅田駅(2019年からは大阪梅田駅)間の上り列車2本が削減された。また、平日夕方の西宮北口発高速神戸行き3本と、西宮北口発神戸三宮行き1本が廃止となった。これらの折り返しの上り列車については、始発駅を高速神戸駅もしくは神戸三宮駅から西宮北口駅に変更となり、平日夕方の西宮北口駅 - 神戸三宮駅間の列車4往復が削減された。 2021年のダイヤ改正では、大阪梅田駅を発車する最終の時刻が繰り上げられた。 2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中において大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間の上り列車が最速43分20秒(表定速度:44.7&nbsp;km/h、平均速度:58&nbsp;km/h、下り列車は最速44分00秒)で走行している。早朝においては、西宮北口駅での優等列車の待避が無いため、大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間の上り下り列車ともに最速39分30秒(表定速度:49.1&nbsp;km/h、平均速度:下り59.5&nbsp;km/h・上り58&nbsp;km/h)で走行している。また、線形が良く駅間距離が比較的長い十三駅 - 西宮北口駅間では、昼の上り列車が最速13分40秒(表定速度:57.9&nbsp;km/h、平均速度:66&nbsp;km/h、下り列車は最速13分45秒)、早朝の上り列車が最速13分30秒(表定速度:58.7&nbsp;km/h、平均速度:66.9&nbsp;km/h、下り列車は最速13分45秒)で走行しており、各駅に停車する列車としてはかなりの高速運転を実施している。 1998年2月ダイヤ改正までは、山陽電気鉄道からは六甲駅まで直通運転を行っていたが、山陽電鉄線内の種別に関係なく、神戸本線内は普通として運転されていた。ただし種別表示は、山陽電鉄線内の種別を表示していた(例えば山陽電鉄線内特急の場合は、特急表示のまま神戸本線内を各駅に停車していた)。 なお大阪梅田駅 - 武庫之荘駅・西宮北口駅間で運転される普通は、阪急電鉄公式ウェブサイトの時刻表では「区間普通」または「区普」と表示され、大阪梅田駅・西宮北口駅 - 神戸三宮駅・高速神戸駅・新開地駅間で運転される「普通」とは表示上で区別されている。 === 臨時列車 === ==== 直通特急 ==== {{See also|阪急嵐山線#臨時列車}} 元は2008年秋より運転を開始した、春・秋の行楽期限定の[[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]直通の[[臨時列車]]。[[阪急嵐山線|嵐山線]]各駅のホーム[[有効長]]の関係で6両編成であり、現在は[[阪急7000系電車|7000系]]7006F「[[阪急7000系電車#京とれいん 雅洛|京とれいん 雅洛]]」<ref name=2019autumn>{{Cite web|和書|date=2019-11 |url=https://www.hankyu.co.jp/area_info/autumn2019/pdf/rinji.pdf |format=PDF |title=秋の嵐山へは便利な直通列車で! |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2019-11-03}}</ref>が充当される。 2009年秋までは'''臨時'''という種別で運転し、直通運転に充当した編成には専用のサボや、ドア側面にはその旨を表示するステッカーが用意された。2010年春の行楽期より、新たに'''直通特急'''という種別が与えられ、直通運転に充当される編成には専用の「直通特急」の種別幕が追加された。運転日は、春・秋の行楽期の特定の土曜・日曜・祝日(運転日は公式ウェブサイトなどで随時発表される)で、高速神戸駅発着と今津線経由の宝塚駅発着がそれぞれ1日1往復運転される。この列車は十三駅で[[スイッチバック]]して[[阪急京都本線|京都本線]]に直通するため、梅田駅には乗り入れなかった。神戸本線内の停車駅は、高速神戸発着が快速急行と同一、宝塚発着が準急と同一。高速神戸行きは六甲駅で特急を待避した。 2011年より新たに「あたご」(高速神戸駅発着)・「とげつ」(今津線経由宝塚駅発着)という愛称がそれぞれ付けられたが、専用編成のうち7017Fが2015年11月から2017年11月まで[[わたせせいぞう]]のイラストによる神戸の観光スポットなどがあしらわれた[[ラッピング車両|ラッピング列車]]「爽風」となったことから<ref>[https://railf.jp/news/2016/03/28/170000.html 阪急神戸線・宝塚線のラッピング列車の愛称が決定] - railf.jp(鉄道ファン)鉄道ニュース、2016年3月28日掲載</ref>、2016年には直通特急の愛称も「爽風」として運転された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-3-29 |url=http://tokk.hankyu-ad.jp:80/160401/rinji.pdf |format=PDF |title=春の臨時列車運転のご案内 |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2017-12-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160418211239/http://tokk.hankyu-ad.jp:80/160401/rinji.pdf |archivedate=2016-04-18}}</ref><ref>[http://railf.jp/news/2016/05/01/203000.html 阪急で嵐山への臨時直通列車運転] - railf.jp、2016年5月1日掲載</ref>。 2018年3月17日から2019年10月31日には同じ「爽風」の愛称で、[[中村佑介]]のイラストによるラッピング列車を運行していた(2018年11月17日にデザイン一部リニューアル)<ref>[https://railf.jp/news/2018/11/18/184000.html 阪急神戸線・宝塚線・京都線のラッピング列車デザインをリニューアル] - raif.jp、2018年11月18日掲載</ref>が、ラッピングされる編成が変更されたため、嵐山駅直通の臨時列車の愛称は「あたご」に戻された<ref>{{Cite web|和書|date=2018年 |url=http://www.hankyu.co.jp/area_info/sakura2018/pdf/rinji.pdf |format=PDF |title=春の臨時直通列車情報 |publisher=阪急電鉄 |accessdate=2018-04-02}}</ref>。 2019年春以降は「あたご」「とげつ」の運転が取りやめられ、平日の火曜・水曜・木曜に限り「京とれいん 雅洛」による直通特急(列車愛称はなし)が西宮北口駅 - 嵐山駅間で運転されている<ref name=2019autumn/>。 2020年春以降は[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症の拡大]]に伴う緊急事態宣言発令の影響や、利用状況を踏まえ運転を取り止めている。 <gallery> ファイル:HANKYU-KOBE ATAGO.JPG|高速神戸駅に停車中の直通特急・嵐山行き ファイル:Hankyu7117-2016-11-20.jpg|わたせせいぞうイラストラッピング列車「爽風」で運転された直通特急・嵐山行き(夙川駅にて) ファイル:阪急神戸線に乗り入れる京とれいん雅洛.jpg|直通特急として運行される京とれいん雅洛(西宮北口駅にて撮影) </gallery> ==== 臨時特急 ==== 毎年、[[神戸ルミナリエ]]開催期間中の土曜・日曜は、夜間に神戸三宮発大阪梅田行きの臨時特急が増発される<ref>[http://www.hankyu.co.jp/topics/details/229.html 神戸ルミナリエ開催にあわせて運転の臨時列車ご案内] - 阪急電鉄ホームページ、2015年12月8日閲覧</ref>。停車駅は特急と同一。また、[[みなとこうべ海上花火大会]]開催日も同様に、神戸三宮発(一部は高速神戸発)大阪梅田行き臨時特急が増発される。臨時特急が運転される際には、その直前に出発する普通が六甲駅で待避するため時刻が若干変更される。 過去には、山陽電鉄須磨浦公園駅までの乗り入れが廃止された直後の1998年7月19日・20日・25日・26日と8月1日・2日・8日・9日(いずれも土曜・日曜・祝日)の計8日間、[[須磨海水浴場]]等への利便を図るため、梅田発(当時)須磨浦公園行き臨時特急「ドルフィン号」が運転されたことがあり、7000系6両編成が使用された。停車駅は十三・西宮北口・岡本・三宮・花隈・高速神戸・新開地・[[山陽須磨駅|山陽須磨]]で、新開地駅と山陽須磨駅の間はノンストップであった。ただ、この臨時特急の運転は1998年の僅か1年のみで終わっており、以降阪急車が新開地以西に乗り入れることはなくなった。 このほか、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]の本拠地であった[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]で[[日本プロ野球|プロ野球]]公式戦が開催された際には、梅田駅 - 西宮北口駅間で臨時特急が運転されることがあった。また、[[1981年]]に神戸沖で開催された[[神戸ポートアイランド博覧会]](ポートピア '81)の期間中には、休日を中心に梅田駅 - 三宮駅間の臨時特急が運転されることがあった。 ==== 臨時快速急行 ==== 上記の臨時特急と同じく、神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜の4日間とみなとこうべ海上花火大会開催日の深夜に、神戸三宮発大阪梅田行きの臨時快速急行が増発された。 かつて、1990年頃から阪神・淡路大震災発生前まで、春・秋の行楽期の土曜・日曜・祝日に限り、午前中と夕方に梅田駅 - 三宮駅間に臨時快速急行が運転されていたことがある(通称「大運転」)。これ以外にも、かつて土曜日昼間時間帯が下校する高校生らで混雑していたことがあったため、1993年7月のダイヤ改正で土曜日の12時台(下校時間帯)に梅田駅 - 三宮駅間の臨時快速急行が設定された(夏休みなどの休校期間中は一部区間のみ回送列車として運転)<ref>交友社「鉄道ファン」1993年11月号「POST」</ref>。この土曜日昼間の臨時快速急行は震災を機に運休となり、1995年6月のダイヤ改正で正式に廃止された。 ==== 臨時急行 ==== [[阪神競馬場]]での競馬開催日夕方には、今津線仁川発大阪梅田行きの臨時急行が運転される(仁川駅16:00 - 17:40発で最短10分間隔)。途中の停車駅は塚口駅・十三駅のみであり、[[西宮北口駅]]は準急と同様に客扱いはせず通過としている(但し運転停車は実施。「[[阪急今津線]]」の記事も参照)<!--大阪梅田駅には8号線ないし9号線のいずれか空いている方に到着するが、後続の特急に影響が及ばないよう、大阪梅田駅到着後は2〜3分で回送として折り返す-->。 仁川発大阪梅田行きは、かつては本来のダイヤでは西宮北口始発である定期列車の急行の一部を運休させて、そのダイヤを使って仁川発の臨時急行として振り替えていた時期があった(西宮北口駅の時刻表や1993年7月発行の阪急電鉄時刻表にも明記されていた<ref group="注釈">1993年7月発行の阪急電鉄時刻表に於ける神戸線の土曜日ダイヤのページにおいて、西宮北口駅発の急行の2本の時刻欄に「阪神競馬開催日は仁川駅発に変更となりますので西宮北口駅にはまいりません」と注釈があることが確認できる。</ref>)。言い換えれば、西宮北口駅では運休扱いだが、塚口駅以東では運転されているという現象が生じていたことがあった。 2006年までは梅田発仁川行きも運転されていた。1980年代までは午前中に20分程度の間隔で運転されてきたが、これは1993年のダイヤ改正で廃止された。以降は[[桜花賞]]・[[宝塚記念]]などの阪神競馬場でのGI開催日の朝に限り3本のみ(梅田発8時37分・8時57分・9時17分)の運転となっていたが、利用客減少などの理由により、2006年10月28日のダイヤ改正で運行が中止された<ref>『関西の鉄道』No.52 2007年新春号、関西鉄道研究会、2007年</ref>。 このほか、昭和50年代までは、週末の夕方に三宮または六甲発梅田行きの臨時急行が運転されていたことがあったが、これらは前面に掲げられる列車種別板には「臨急」の2文字しか書かれず、行き先などがまったく入っていなかった。 なお、「[[#準急|準急]]」が運転を開始した時は「臨時急行」と称され、列車表示板も2文字のみで「臨急」となっていたが、前記「臨急」と停車駅が異なり、混乱を避けるためにのちに改称された。 ==== 普通 ==== 表示幕には『臨時』(赤色枠に白文字)の種別も用意されているが、普通列車は臨時であっても定期列車と同じ『普通』と表示されている(駅ホームの発車案内板も同じ)。 休日ダイヤで運転する8月中旬の[[お盆]]期間と年末の平日朝に限り、混雑緩和のため西宮北口発大阪梅田行き普通が臨時で増発される。また、[[なにわ淀川花火大会]]開催当日も、開始直前の夕方から夜間にかけて西宮北口発大阪梅田行き普通が、終了後の夜間に大阪梅田発西宮北口行き普通が、それぞれ増発される(いずれも園田駅で特急を待避)。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === 2020年3月14日ダイヤ改正以降はすべての列車が、ワンハンドルマスコン車両で運転されている。基本的に(土休日は全列車)8両編成で運転されるが、平日朝ラッシュ時には8両編成の大阪梅田側に2両を増結し、10両で運転する列車が数本ある。また京都本線との[[#直通特急|直通特急]]は6両で運転される。西宮車庫からの入出庫で当線を経由する伊丹線、甲陽線の車両はそれぞれ「[[阪急伊丹線#運行形態・車両]]」、「[[阪急甲陽線#現在の車両]]」を参照。 2021年9月現在、運行される車両は以下のとおり。 * [[阪急6000系電車|6000系]] * [[阪急7000系電車|7000系]] * [[阪急8000系電車|8000系]] * [[阪急8200系電車|8200系]] * [[阪急9000系電車|9000系]] * [[阪急1000系電車 (2代)|1000系]](2代) <!-- ラッピング車両についてはここではなく車両の記事に記述してください。--> <gallery> File:Hankyu 7119 at Okamoto Station.JPG|7000系 ファイル:阪急電鉄8000系.jpg|8000系 ファイル:Hankyu 8200 Series 8201F.jpg|8200系 ファイル:阪急9000系9000F.jpg|9000系 ファイル:Hankyu 1000F at Juso.jpg|1000系 </gallery> === 過去の使用車両 === * [[阪急5000系電車|5000系]] * [[阪急3000系電車|3000系]]<ref>[http://railf.jp/news/2012/12/05/140000.html 阪急3000系3054編成が正雀へ] - railf.jp、2012年12月5日掲載</ref> * [[阪急5100系電車|5100系]] * [[阪急5200系電車|5200系]] * [[阪急2200系電車|2200系]] - 形式としては消滅。[[阪神・淡路大震災]]で被災した廃車車両以外は電装解除の上6000系に編入、2019年に7000系に編入された。 * [[阪急2300系電車|2300系]] - 京都線用の車両で、3300系の大量投入に合わせて、1969年から2年間程度神戸線に転属、山陽電鉄線にも直通した。 * [[阪急2800系電車|2800系]] - 京都線用の車両で、編成としての運用はなく、5000系や5200系の編成内に組み込まれて運用されたほか、[[さよなら運転]]でも神戸本線を走行した。 * [[阪急2000系電車#2021系(2071系)|2021系]] * [[阪急2000系電車|2000系]] * [[阪急1200系電車|1200系]] * [[阪急1010系電車|1100系]] * [[阪急1010系電車|1010系]] * [[阪急1000形電車 (初代)|1000形]](初代) * [[阪急810系電車|810系]] * [[阪急800系電車|800系]] * [[阪急610系電車|610系]] * [[阪急920系電車|920系]] * [[阪急900形電車|900形]] * [[阪急600形電車|600形]] * [[阪急500形電車 (初代)|300形]] * [[阪急98形電車|98形]] * [[阪急96形電車|96形]] <!--* [[阪急90形電車|90形]](今津線・上筒井線・甲陽線・伊丹線用)--> * [[阪急51形電車|51形]] <!--* [[阪急47形電車|47形]](伊丹線用)--> <!--* [[阪急40形電車|40形]](今津線・甲陽線・伊丹線用)--> <!--* [[阪急37形電車|37形]](今津線・甲陽線・伊丹線用)--> * [[箕面有馬電気軌道1形電車|1形]] <gallery> ファイル:Hankyu 5053 at Okamoto Station.JPG|5000系 ファイル:Hankyu 3082F.jpg|3000系 </gallery> === 山陽電鉄線からの直通車両(1998年2月まで) === *[[山陽電気鉄道5030系電車|5030系]] *[[山陽電気鉄道5000系電車|5000系]] *[[山陽電気鉄道3000系電車|3050系]] *[[山陽電気鉄道3000系電車|3000系]] *[[山陽電気鉄道2700系電車|2700系]] - 山陽から直通した唯一の釣掛駆動車 *[[山陽電気鉄道2000系電車|2000系]] == 歴史 == === 開業まで === 1907年、[[村野山人]]らにより神戸から芦屋・西宮・御影を経由して神戸に戻る環状路線、'''灘循環電気軌道'''が出願される。だが、免許が下りたのは、山側の神戸市葺合 - 芝村(西宮駅)間のみであった。一方、[[1910年]]に[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]と[[阪急箕面線|箕面線]]を開業させた[[箕面有馬電気軌道]]は、灘循環電気軌道に接続して阪神間連絡を図る目的で、[[1913年]]に十三から伊丹を経て[[東光寺 (西宮市)|門戸]]にいたる路線の特許を申請した。不況などにより灘循環電気軌道の建設が頓挫すると、灘循環電気軌道の軌道敷設権を譲り受けることになり、箕面有馬電気軌道は阪神間の軌道敷設権を手中に収めることになった。箕面有馬電気軌道はこれを機にルートの短絡を追求し、尼崎市内において現行よりもやや南よりのルートを企図したものの、伊丹市の反対に遭い、折衷案として塚口駅を経由する現行ルートに落ち着いた。なお建設時は大阪で海運業者を営んでいた[[岸本兼太郎]]に資金援助を仰いでいる<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2016-4 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 66 |issue = 4 |page = 11 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。1918年に箕面有馬電気軌道は'''[[阪神急行電鉄]]'''と社名を改め、[[1920年]]には十三駅 - 神戸駅(のちの[[上筒井駅]]、現在の神戸市中央区坂口通2丁目に位置した)間を開業させ、阪神間輸送に参入した。 神戸本線は先行して開業していた宝塚本線と同じく[[軌道法]]準拠で敷設されたものの、全線にわたって直線主体の線形を採用していることから、同法本来の制限速度であった時速25マイル(約40&nbsp;km/h)よりも高い、時速35マイル(約56&nbsp;km/h)での運行が認可された。後には、さらに110&nbsp;km/hまで軌道法準拠でスピードアップを行っている。建設時は[[第一次世界大戦]]勃発のため鉄鋼などの資材価格が高騰しており、神崎川駅 - 西宮北口駅間では鉄の使用を節約すべく、日本初の[[コンクリート]]製[[電柱]]を採用した{{要出典|date=2020年8月}}。さらに駅間距離も先行して開業していた[[阪神本線]]より長く取られ、特に神崎川駅 - 西宮北口駅間に至っては、開業時は途中駅が塚口駅1つのみとされており、その駅間平均距離は5.75&nbsp;kmにも達していた(後の昭和期における住宅開発で、園田駅と武庫之荘駅が追加開業した)。 === 開業後の推移 === 開業時、「'''綺麗で早うて。ガラアキ 眺めの素敵によい涼しい電車'''」を[[キャッチコピー]]<ref name="hankyu20200701" />として大阪の梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を50分(開業から5日間は60分)で結び<ref>{{Cite journal |和書 |url=https://www.graphkobe.jp/detail/087.html |title=交通のあゆみ(上) |date=1979-12 |publisher=神戸市 |journal=市民のグラフこうべ |issue=87 |accessdate=2020-09-09}}</ref>、国鉄の[[大阪駅]] - [[三ノ宮駅]]間51分、阪神の同60分に対して優位に立った。対する阪神のキャッチコピーは「'''またずにのれる阪神電車'''」で、その通り電車の頻発運行で対抗した。 だが、開業当初の神戸本線は、大阪側と神戸側双方のターミナルに問題を抱えていた。梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間では[[併用軌道]]の宝塚本線に乗り入れていたためにボトルネックとなっており、他方神戸駅は神戸市の中心部より手前に位置していたのである。大阪側の問題は、[[1926年]]に梅田駅 - 十三駅間に神戸本線と宝塚本線の分離された高架線が完成したことで解消する。一方の神戸側は、阪急が工費や地下構造物の問題から高架での三宮乗り入れを希望したが、神戸市会(現在の神戸市議会)が市内に乗り入れる鉄道路線は地下線とする原則を崩さなかったため工事が遅れていた(「[[阪神急行電鉄#三宮高架乗り入れ騒動]]」の項目も参照のこと)。結局、省線(現在のJR神戸線)が三ノ宮駅付近を高架化すると市会は高架化に対する容認論に傾き<ref>{{Cite book |和書 |year=2005 |title=ひょうご 懐かしの鉄道 |publisher=神戸新聞総合出版センター |page=37}}</ref>、1936年に現在の神戸三宮駅(開設当時は神戸駅)までの開業に漕ぎつけた。三宮乗り入れ後、西灘駅(現在の王子公園駅) - 上筒井駅間の旧線に関しては、支線の[[阪急上筒井線|上筒井線]]として1940年の廃止まで[[阪急90形電車|90形]]単行による折り返し運行が行われた。 沿線開発では宝塚本線開業時同様、住宅開発が積極的に進められた。この頃になると、阪急のみならず芦屋六麓荘、[[関西土地]]などといった[[民間宅地開発業者]]も開発に参入するようになり、結果として[[伊丹市|伊丹]]・[[西宮七園]]・[[夙川]]・[[六麓荘町]]・[[岡本 (神戸市)|岡本]]・[[御影 (神戸市)|御影]]など良好な住宅地が沿線に形成され、のちにこれらの[[新興住宅地]]は、[[高級住宅街]]となった。これらの開発はそれ独自の文化も生み出し、後に[[阪神間モダニズム]]と呼ばれるようになる。 [[1938年]]7月に発生した[[阪神大水害]]では、住吉川橋梁の橋桁が流出するなどの甚大な被害を被っている。いったんは仮線により復旧するものの、同年8月1日に発生した豪雨で再び不通となった。この復旧は住吉川の改良と並行して行われ、新住吉川橋梁には梅田駅の省線を乗り越える部分に使われていた橋桁を再利用している<ref name=rail1>{{Cite book |和書 |year=2004 |title=レイル No.47 |publisher=プレス・アイゼンバーン |pages=16-17}}</ref>。 === 高速運転の開始 === [[File:Hankyu Umeda Station in the 1930s.jpg|thumb|250px|1936年ごろの梅田駅。「神戸行特急廿五分」の表記が見られる。]] もともと阪神本線と比較して駅数が少ない神戸本線であるが、1922年5月には[[集電装置]]を他の[[私鉄]]に先駆けてポールからパンタグラフに交換し、同年12月には梅田駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間の所要時間を40分に短縮した。1926年には梅田駅 - 十三駅間の線路別[[複々線]]・[[専用軌道]]化が完成して35分とし、そして1930年4月1日には強力な200[[馬力]]級[[電動機]]<ref group="注釈">端子電圧750&nbsp;V時1時間定格出力150&nbsp;kW、定格回転数780&nbsp;[[rpm (単位)|rpm]]の芝浦SE-140を搭載。ただし、当時の神戸本線は架線電圧が直流600&nbsp;Vであったため、端子電圧600&nbsp;Vとして本来の80パーセントに当たる120&nbsp;kWで使用される期間が戦後も長く続いた。</ref>を搭載する[[阪急900形電車|900形]]を使用して途中西宮北口駅のみ停車する特急を新設し、30分にまで短縮する。速度向上はその後も続き、1931年10月には28分、1934年7月には25分とし<ref>{{Cite book |和書 |year=2004 |title=レイル No.47 |publisher=プレス・アイゼンバーン |page=14}}</ref>、梅田駅では駅正面に「'''神戸ユキ急行電車のりば'''」・「'''神戸行特急廿五分'''」と掲げてアピールした。ちなみに、この梅田駅 - 神戸駅間25分運転での表定速度は、高速運転を行ったことで知られる[[新京阪鉄道]](後の[[京阪電気鉄道]]新京阪線 → 阪急電鉄[[阪急京都本線|京都本線]])の[[新京阪鉄道P-6形電車|P-6形]]による「[[超特急]]」の表定速度([[大宮駅 (京都府)|京阪京都]] - [[天神橋筋六丁目駅|天神橋]]間34分30秒運転で、73.7&nbsp;km/h)よりも高い78.0&nbsp;km/hで、[[戦前]]の記録では[[阪和電気鉄道]]の「[[超特急]]」が記録した81.6&nbsp;km/hについで日本第2位であった。これは現在もなお、阪急の特急の最速である。1936年4月には[[三宮]]乗り入れにより距離が若干伸びたにもかかわらず、より高出力な電動機<ref group="注釈">端子電圧750&nbsp;V時1時間定格出力170&nbsp;kW、定格回転数810&nbsp;rpmの芝浦SE-151を搭載。こちらも900形のSE-140と同様、実際には端子電圧600&nbsp;Vで使用されたため、136&nbsp;kW級として運用される期間が長く続いた。</ref>を搭載する[[阪急920形電車|920形]]を投入することで、西宮北口駅のみ停車による25分運転を維持した。この特急運転は、[[太平洋戦争]]の戦況が悪化した1944年まで続けられた。 なお、1934年からは[[鉄道省]]が運営する東海道本線でも電化の完成によって[[京阪神快速#関西急電|急行電車]](急電)の運転が開始されており、大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車により24分で結んでいた。また阪神では、1936年に[[元町 (神戸市)|元町]]までの地下線による延伸が実現、高頻度運転により「大阪・神戸の中央へまたずにのれる」というアピールを行っている。 また開業時から1942年まで、梅田駅 - 十三駅間を移動する乗客は宝塚本線の電車を利用するように定められ、神戸本線の電車には乗車できなかった。これは郊外路線の宝塚本線と、都市間路線の神戸本線を完全に分ける施策によるといわれている{{誰2|date=2020年8月}}。 === 阪神電気鉄道との関係 === 大阪 - 神戸間には、開業時既に国鉄[[東海道本線]](省線)と[[阪神電気鉄道]][[阪神本線|本線]]が開通しており、前者は主に中長距離の利用を中心とし、後者は駅の多さと[[ダイヤグラム#パターンダイヤ|高頻度運転]]によって棲み分けがなされていた。[[西宮神社]]での祭事時に、当時阪神地域の電力事業も行っていた阪神電鉄が電力を融通した結果、阪急が設置した[[西宮戎駅]]([[臨時駅]])から神社までの街灯がすべて消えてしまったことへの補償を兼ねて、阪急の運行トラブルの際に阪神が臨時列車を運転したことが、現在の振替輸送の原点とされる{{要出典|date=2020年8月}}。また、阪神傘下の[[摂津電気自動車]]による香枦園駅(現在の[[香櫨園駅]]) - [[苦楽園]]間無軌道電車([[トロリーバス]])敷設計画を輸送力の関係から肩代わりする形で、[[阪急甲陽線|甲陽線]]の建設を行っている。 時代が下り、戦後昭和40年代になると、神戸高速鉄道に阪急・阪神両社の電車が直通するようになった。1995年の[[阪神・淡路大震災]]で各社とも大きな被害を受けたことから、復興支援を兼ねて、[[定期乗車券|定期券]]の利用に関して、梅田駅 - 三宮駅(いずれも当時)間を含む磁気式の通勤定期券を利用している場合に限り、阪急・阪神双方の梅田駅・三宮駅で、また三宮駅 - 高速神戸駅間を含む通勤定期券を利用している場合は阪急・阪神双方の三宮駅から高速神戸駅までの神戸高速線内各駅([[花隈駅]]・[[西元町駅]]・[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]])で、それぞれ乗降ができる制度<ref>[http://rail.hankyu.co.jp/ryoukin/teiki.html 阪神電鉄との梅田・三宮間通勤定期券の相互利用について] - 阪急電鉄</ref>が1996年10月から実施される<ref>{{Cite news |title=梅田-三宮間通勤定期 阪急、阪神どちらもOK 新サービスで定期客増狙う |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-09-24 |page=1 }}</ref>など、両社の協調は一層深まり、[[村上ファンド]]による阪神株の買い集めを経て、遂には両者の経営統合による「[[阪急阪神ホールディングス]]」および「[[阪急阪神東宝グループ]]」の誕生に至った([[阪急・阪神経営統合]]を参照)。 === 終戦後 === [[終戦]]後の1949年、神戸本線での特急運転が再開された。このときから全ての特急が十三駅に停車するようになった<ref>{{Cite book |和書 |year=2004 |title=レイル No.47 |publisher=プレス・アイゼンバーン |page=17}}</ref>。特急の梅田駅 - 神戸駅(現・神戸三宮駅)間<!--阪神間では高速神戸なのか三宮なのか分からない-->の所要時間は1949年の運転開始当初30分、その後はおおむね28分で推移した。1993年のダイヤ改正では、平日のみ停車駅を維持したまま25分台<ref group="注釈">正確には梅田駅 - 神戸駅間25分50秒の運転であるが、時刻表は1分未満の端数を切り捨てるために、25分の表記がなされた。</ref>での運転を実現した。 [[1995年]][[1月17日]]の[[阪神・淡路大震災]]([[兵庫県南部地震]])により、西宮北口駅 - 夙川駅間の高架橋や、[[神戸阪急ビル]]が破壊されるなど神戸本線は甚大な被害を受け、暫定運行を強いられた。全線復旧した1995年6月以後は、すべての特急が[[岡本駅 (兵庫県)|岡本駅]]に停車するようになった。これは同年3月に予定されていたダイヤ改正が遅れて実施されたもので、{{要出典範囲|同駅の利用増への対応|date=2020年8月}}と、平日日中の普通が六甲駅で特急の通過待ちを行っていた<ref group="注釈">10分間隔になって以降の休日日中の普通は六甲駅での通過待ちを行わなかった分、特急が途中で減速運転を強いられた。</ref>のを解消し、普通の所要時間を短縮する目的があった。同時に、通勤時間帯の需要に応じた列車種別を新たに設けている。 また2006年10月には経営統合を行った阪神とともに、2007年3月のJR[[さくら夙川駅]]開業に呼応したダイヤ改正が行われ、阪急神戸本線では特急が夙川駅に停車し、同駅における甲陽線との接続改善を実施した。併せて線形・[[自動列車停止装置]] (ATS) が改良されたこと、並びに昼間時の特急の神崎川駅 - 西宮北口駅間の最高速度を115&nbsp;km/hへ引き上げたことにより、特急は停車駅を一駅増やしたにもかかわらず、梅田駅 - 三宮駅間の所要時間が10秒 - 60秒短縮(下り列車で最速27分00秒、上り列車で最速27分10秒)、普通も同区間で30秒 - 80秒短縮された(下り列車で最速43分40秒、上り列車で最速43分00秒)。 現在の神戸本線特急における大阪梅田駅 - 神戸三宮駅間所要時間は、最速で上り下り共に27分20秒となっており、戦後の最速である1993年改正ダイヤに比べて約1分延びている。 ==== 京都本線との直通特急 ==== {{See also|神京・京宝特急}} 1949年12月3日、神戸駅 - 京阪神京都駅(現在の[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]])間に直通特急の運転が開始された。当時の京都本線は1500&nbsp;V電化、神戸本線は600&nbsp;V電化と電圧が異なっていたことから、[[阪急800系電車|800系]]2編成を[[複電圧車]]に改造し、直通列車に充当することとした。 直通特急の停車駅は西宮北口・十三・[[高槻市駅|高槻市]]・[[西院駅|西院]]で、梅田駅には入線せず十三駅構内の折り返し線を用いて直通を行う形態をとっていた<ref group="注釈">この時は梅田駅 - 十三駅間の三複線が完成しておらず、梅田駅発着の京都本線列車は宝塚本線の線路に乗り入れる形で運転を実施しており、神戸本線から十三線(当時の十三駅 - [[淡路駅]]間の正式線路名称)へは十三駅で直接乗り入れることが可能であった。</ref>。 しかし通し利用の乗客数は少なく、1951年10月8日に京神間直通特急の運転は廃止された。2008年になって前記の[[#直通特急|嵐山駅への直通特急]]が運転され始め、臨時列車ながら事実上復活した。 ==== 山陽電気鉄道との直通運転 ==== 1968年の[[神戸高速鉄道]][[阪急神戸高速線|東西線]]開業後は、阪急の列車は[[山陽電気鉄道]]の[[須磨浦公園駅]]まで、山陽の列車は[[六甲駅]]まで、それぞれ乗り入れて相互[[直通運転]]を行っていた(乗り入れ先では各駅停車)が、1998年2月に[[山陽姫路駅]] - [[阪神電気鉄道|阪神電鉄]][[大阪梅田駅 (阪神)|梅田駅]]間で[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]の運転を開始したのに合わせて、阪急の山陽電鉄への乗り入れが中止された。 * 直通運転開始以来、阪急側からの列車は、ごく一部の例外を除き、終日、特急が直通していた。ただし山陽電鉄線への乗り入れは、ホーム有効長の制約などから、6両編成に限定されていた(直通運転開始前の特急は7両が標準)。 * 後の8両編成化においても、山陽直通特急は6両の制約が付き纏った。このため、輸送力が必要な平日朝夕時間帯の列車については、1970年(昭和45年)12月改正以降、三宮駅での増結・解放が行われるようになった。 * 山陽電鉄側からは、昼間の場合、1時間に2本が六甲駅まで直通した(阪神側も同様に1時間当たり2本が大石駅まで直通した)。山陽電鉄側からも原則として特急が乗り入れたが(阪急線内は各駅に停車)、普通が乗り入れることもあった。運転上は御影駅構内(神戸三宮方)の引き上げ線で折り返していた。 * 特急の慢性的な輸送力不足に対応するため、1984年(昭和59年)3月25日改正より、休日の山陽直通列車はすべて普通となり、特急は全列車が新開地駅・高速神戸駅発着となり8両編成化された(高速神戸駅発着の特急は阪神電鉄の車両が新開地の折り返しホームを使用するための処置であった)。1987年(昭和62年)12月13日改正<!--確かに平日ダイヤは14日からですが。-->からは、平日昼間(主に9時から15時)の山陽直通列車もすべて普通となり、同時間帯の特急は新開地駅・高速神戸駅発着の8両編成に統一され、輸送力の増強が行われた。その一方で、すべての須磨浦公園駅発着の特急が、三宮駅での増結・解放の対象になったわけではなく、最も利用客が多い平日朝夕に、須磨浦公園駅発着の特急が6両で運転されるような事態も発生した。 ** 当時の時刻表では、(特急以外も含めて)6両編成で運転する列車には『★』印が付けられていた。 * 1995年(平成7年)の[[阪神・淡路大震災]]で、一部区間が不通となったため、山陽電鉄線への直通は中止された。同年8月より山陽電鉄線への直通が再開されたが、平日の終日、土休日の梅田駅(当時)発の15時まで(15時以降は普通のみ)は特急が直通するようになり、須磨浦公園駅・東須磨駅発着の特急は6両編成で運転されるようになり(一部は三宮駅で増結・解放を行った)、1998年(平成10年)の直通運転中止まで続けられた。 * 現在では直通運転は行われていないが、臨時列車などの運転に対応するため、その後も乗り入れ免許はそのまま維持された<ref group="注釈">ただ、阪急電鉄の第二種鉄道事業区間であった神戸高速鉄道東西線三宮(当時) - 西代間のうち、新開地 - 西代間の第二種鉄道事業が2010年10月1日付で廃止となったこともあり、当面は直通列車が運転される見込みはない。</ref>。 この直通運転に見られる、他社線乗り入れによって自社の輸送力に制約が発生する問題は、[[阪神なんば線]]直通運転開始後の[[近鉄奈良線]]など双方の編成規模に差異がある組み合わせで見られるネックである。 === 年表 === *[[1920年]](大正9年)[[7月16日]]:阪神急行電鉄が十三駅 - 神戸駅(のちの上筒井駅)間を開業。 *[[1926年]](大正15年)[[7月5日]]:梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間が高架化。複線の別線を新設し宝塚本線と分離。 *[[1930年]](昭和5年)[[4月1日]]:特急運転開始(全線所要時間30分、西宮北口駅のみ停車)。 *[[1934年]](昭和9年)[[7月1日]]:特急の所要時間を25分に短縮、以後、「阪神間25分」は「快速阪急」の象徴となる。 *[[1936年]](昭和11年) **4月1日:西灘駅(現在の王子公園駅) - 神戸駅(現在の神戸三宮駅)間が開業。西灘駅開業。これまでの神戸駅を上筒井駅に改称、西灘駅 - 上筒井駅間は上筒井線となる。特急は距離延伸にもかかわらず25分運転を維持。 **[[9月12日]]:園田駅開業。 *[[1937年]](昭和12年)[[10月20日]]:武庫之荘駅開業。 *[[1938年]](昭和13年) **[[7月3日]] - [[7月5日]]:[[阪神大水害]]により被災<ref name=rail1/>。 **[[7月16日]]:仮復旧<ref name=rail1/>。 **[[8月1日]]:この日の豪雨で再び不通となる<ref name=rail1/>。 **[[8月6日]]:不通区間を徒歩連絡とし運転再開<ref name=rail1/>。 **[[10月1日]]:複線で開通。その後、1942年3月まで本復旧工事が行われる<ref name=rail1/>。 *[[1940年]](昭和15年)[[5月20日]]:上筒井線廃止。 *[[1945年]](昭和20年)[[6月7日]]:第3回[[大阪大空襲]]により新淀川橋梁から十三駅付近で被災。夕方から神戸線のみ復旧。 *[[1947年]](昭和22年)4月1日:戦時中に運転休止されていた急行が復活。 *[[1949年]](昭和24年) **4月1日:戦時中に運転休止されていた特急が復活(所要時間30分、昼間12分間隔、十三駅と西宮北口駅に停車)。 **12月1日:[[鉄道の最高速度|最高速度]]110&nbsp;km/h認可。 **[[12月3日]]:神戸駅 - 京阪神京都駅(現在の大宮駅)間直通の特急を運転開始。 *[[1950年]](昭和25年):特急の所要時間を28分に短縮。 *[[1951年]](昭和26年)[[10月8日]]:神戸駅 - 京阪神京都駅間直通特急を廃止。 *[[1953年]](昭和28年)4月1日 平日昼間の運転間隔を12分から10分に短縮。特急・普通が昼間10分間隔で運転されるダイヤは、現在まで60年以上続いている。 *[[1957年]](昭和32年)[[10月1日]]:平日朝の今津線直通準急が運転を開始。 *[[1965年]](昭和40年)[[5月9日]]:西宮北口駅 - 夙川駅間高架化工事が着手される *[[1966年]](昭和41年)[[6月26日]]:西宮北口駅 - 夙川駅間下り線が高架化される<ref>100年のあゆみ 部門史 p371</ref>。 *[[1967年]](昭和42年) **[[3月21日]]:西宮北口駅 - 夙川駅間が高架化される<ref>100年のあゆみ 部門史 p371</ref>。 **[[10月8日]]:架線電圧を600&nbsp;Vから1500&nbsp;Vに昇圧。 *[[1968年]](昭和43年) **[[3月18日]]:[[自動列車停止装置]](ATS)の使用を開始<ref>{{Cite news |和書|title=関西五私鉄 保安度向上へ急ピッチ 各社がATS設置へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-21 |page=2 }}</ref>。 **[[3月20日]]:ダイヤ改正により、神戸高速鉄道方面への直通運転(神戸駅以西は回送扱い)を開始。 **[[4月7日]]:神戸高速鉄道・山陽電気鉄道と相互直通運転を開始。神戸駅を三宮駅と改称。 *[[1970年]](昭和45年)[[12月14日]]:ダイヤ改正により、平日朝夕、三宮駅での須磨浦公園発着の特急の増結・解放運用を開始。 *[[1978年]](昭和53年)[[3月10日]]:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。 *[[1979年]](昭和54年)[[7月1日]]:園田駅付近高架化完成。 *[[1984年]](昭和59年) **[[3月25日]]:西宮北口駅の[[平面交差]]解消。休日の須磨浦公園直通列車はすべて普通列車となる。 **[[5月5日]]:六甲駅構内で山陽電気鉄道回送列車との[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#阪急神戸線六甲駅列車衝突事故|衝突事故]]発生。 **[[6月1日]]:西灘駅を王子公園駅と改称。 *[[1985年]](昭和60年)[[11月18日]]:平日朝の上り列車2本に10両編成の特急が登場。 *[[1987年]](昭和62年)[[12月13日]]:ダイヤ改正。十三駅・塚口駅・西宮北口駅・夙川駅・六甲駅に停車する快速急行の運行を開始。特急は阪神間26 - 27分にスピードアップ。休日昼間も10分間隔運転。平日朝夕を除き、須磨浦公園直通列車は普通列車となる。平日朝の上り列車3本に10両編成の急行が登場。平日朝の上り列車の10両編成の特急が3本となる。 *[[1993年]](平成5年)[[7月18日]]:ダイヤ改正により、梅田駅 - 三宮駅間の特急25分運転が復活。土曜ダイヤ導入。平日朝の10両編成が、上り列車は特急5本、急行5本、下り列車は特急5本となる。 *[[1995年]](平成7年) **[[1月17日]]:阪神・淡路大震災で全線が不通に<ref name="交通950119">{{Cite news |title=阪神間の鉄道分断状態 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-19 |page=1 }}</ref>。 **[[1月18日]]:梅田駅 - 西宮北口駅間での運転を再開{{R|交通950119}}。 **[[2月13日]]:御影駅 - 王子公園駅間が復旧し運転を再開<ref name="RJ354">{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |title = 阪神大震災から1年 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |pages = 86-88 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。同区間で普通列車の折り返し運転を開始。 **[[3月13日]]:王子公園駅 - 三宮駅間が復旧し運転を再開<ref name="RJ354"/>。御影駅 - 三宮駅(当時)間で普通列車の折り返し運転を開始。 **4月7日:夙川駅 - 岡本駅間が復旧<ref name="RJ354"/>。同区間で普通列車の折り返し運転を開始。 **6月1日:岡本駅 - 御影駅間が復旧<ref name="RF412">{{Cite journal|和書 |date = 1995-08 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 35 |issue = 8 |page = 125 |publisher = [[交友社]] }}</ref>。神戸高速鉄道の三宮駅 - 花隈駅間復旧に伴い、夙川駅 - 神戸高速鉄道新開地駅間で普通列車の折り返し運転を開始。 **[[6月12日]]:西宮北口駅 - 夙川駅間が復旧し、神戸本線全線での運転を再開<ref name="RF412"/>。これに合わせてダイヤ改正を実施し、特急の停車駅に塚口駅を加えた通勤特急、急行の停車駅に武庫之荘駅を加えた通勤急行の運行を開始。平日朝の10両編成の急行が廃止。岡本駅が特急をはじめとする全列車の停車駅に。今津線を経由する夕方の準急を運転開始。 **[[8月13日]]:神戸高速鉄道東西線の新開地 - 高速長田間の復旧に伴い、山陽電気鉄道須磨浦公園駅までの乗り入れを再開。須磨浦公園直通は平日・休日とも終日、特急が主体となる。 *[[1998年]](平成10年)[[2月15日]]:山陽電気鉄道との相互直通運転を中止し、神戸高速鉄道新開地駅までの乗り入れへと変更<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-4 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 48 |issue = 4 |page = 110 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。 *[[2001年]](平成13年)3月10日:今津線を経由する夕方の準急を廃止。全列車8両編成化<ref group="注釈">1998年2月15日の改正の際、全列車8両編成化がうたわれていたが、西宮北口駅から急行として梅田へ向かい、直通準急として折り返す運用があったため、実際の全列車8両編成化はこのダイヤ改正からであった。</ref>。 *[[2006年]](平成18年)[[10月28日]]:昼間時間帯の神崎川駅 - 西宮北口駅における最高速度が115&nbsp;km/hに引き上げられ(阪急線内で最速、日本の民鉄4位)、特急・通勤特急が新たに夙川駅に停車<ref name="release20060622" /><ref name="release20060803" />。また、このダイヤ改正により、梅田発仁川行きの「臨時急行」が廃止(仁川発の臨時急行は存続)。 *[[2010年]](平成22年)[[3月14日]]:これまでの路線図における「神戸線」という表記を、「神戸本線」に統一。 *[[2011年]](平成23年)[[7月25日]] - [[9月25日]]:[[東日本大震災]]の影響による電力不足への懸念から、日中の普通の約4割を6両に減車し運行<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/special/10005/OSK201107250145.html |title=阪急電鉄、節電運行スタート 8両を6両へ |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2011-07-25 |accessdate=2019-11-13 }}</ref>。 *[[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:三宮駅を神戸三宮駅に改称、同時に全駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hankyu20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="hankyu20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref>。 *[[2016年]](平成28年)[[3月19日]]:ダイヤ改正<ref name="PICT1">{{Cite journal|和書|date=2016-4|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=66|issue=4|page=28|publisher=[[電気車研究会]]}}</ref>。10両編成の通勤急行が廃止。10両編成の通勤特急に女性専用車両を設定。通勤急行の運転区間が神戸三宮駅から新開地駅まで拡大。 *[[2019年]](令和元年)10月1日:梅田駅を大阪梅田駅に改称<ref name="hankyu20190730">{{Cite press release |和書 |title=「梅田」「河原町」「石橋」の駅名を10月1日に変更します |publisher=阪急電鉄 |date=2019-07-30 |url=https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf |format=PDf |accessdate=2019-07-31}}</ref>。 *[[2020年]](令和2年) ** [[10月5日]]:王子公園駅 - 神戸三宮駅間にある[[阿部美樹志]]が手掛けた神戸市内線高架橋が[[土木学会選奨土木遺産]]に認定される<ref name="pr20201005">{{Cite press release|和書|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/a2f6683940381590050c5234ae238dd4a52aa583.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201210164905/https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/a2f6683940381590050c5234ae238dd4a52aa583.pdf|format=PDF|language=日本語|title=阪急電鉄神戸市内線高架橋が「土木学会選奨土木遺産」に認定されました|publisher=阪急電鉄|date=2020-10-05|accessdate=2020-12-12|archivedate=2020-12-10}}</ref>。 **[[11月23日]]:六甲駅 - 御影駅間の踏切で新開地発大阪梅田行き特急が乗用車と衝突し脱線する事故発生。負傷者なし<ref name="kobe20201124">{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202011/0013886697.shtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201123153402/http://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202011/0013886697.shtml|title=踏切に無人の車が進入か 阪急神戸線で脱線事故|newspaper=神戸新聞|date=2020-11-24|accessdate=2020-12-12|archivedate=2020-11-23}}</ref>(「[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#阪急神戸線踏切脱線事故|阪急神戸線踏切脱線事故]]」参照)。 == 今後の事業計画・構想 == === 神戸市営地下鉄西神・山手線との相互直通運転構想 === [[2004年]]10月の近畿地方交通審議会答申第8号で、「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」のうち、「乗り継ぎ利便性の向上に資する事業」として、三宮駅付近で[[神戸市営地下鉄]][[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]]との[[直通運転|相互直通運転]]が盛り込まれた<ref name="kktmlit-shingi852">{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/shingi/pdf/8-5-2.pdf 第8回近畿地方交通審議会資料]}} - 近畿地方交通審議会</ref>。 [[春日野道駅 (阪急)|春日野道駅]]以西を地下化して直通するというもので、実現した場合は、現在の神戸三宮駅や[[神戸高速鉄道]]との相互直通運転は廃止となる可能性もある<ref name="kobe-np20040724" /><ref name="kobe-np20040829" />。もっとも、2004年時点では神戸市側が難色を示しているという報道もあり<ref name="kobe-np20040724">[https://web.archive.org/web/20040724071345/http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/0722ke39320.html 阪急、神戸地下鉄と直結検討 三宮駅を地下化](Internet Archive) - [[神戸新聞]](2004年7月22日)</ref><ref name="kobe-np20040829">[https://web.archive.org/web/20040805110758/http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/0729ke40340.html 新開地乗り入れ廃止も 阪急電鉄](Internet Archive) - 神戸新聞(2004年7月29日)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20041012053146/http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/1009ke52320.html 阪急、神戸地下鉄乗り入れ「望ましい」 近畿交通審] - 神戸新聞(2004年10月09日)</ref><ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/information/mayor/teireikaiken/h16/160830.html 市長定例会見](Internet Archive) - [[神戸市]](2004年8月30日)</ref>、その後進展していなかった。2013年12月になって、神戸市長の[[久元喜造]]が阪急神戸線と神戸市営地下鉄西神・山手線の直通運転案の検討に入る考えを示したことが報じられている<ref>[http://www.asahi.com/articles/OSK201312090025.html 阪急神戸線と神戸市営地下鉄、相互直通運転を検討へ] - 朝日新聞、2013年12月9日</ref>。 2017年11月、[[神戸新聞社]]の取材によって、従来の神戸三宮駅で接続するルートの他、王子公園駅から地下線を建設して[[新神戸駅]]で接続するルート、神戸高速鉄道[[阪神神戸高速線|東西線(阪神神戸高速線)]][[高速長田駅]]もしくは[[山陽電気鉄道]][[山陽電気鉄道本線|本線]][[板宿駅]]で接続するルートが候補となっていると報じられた<ref>{{Cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201711/0010758721.shtml|title=神戸地下鉄と阪急乗り入れ 新神戸、長田駅など候補|newspaper=神戸新聞NEXT|publisher=神戸新聞社|date=2017-11-24|accessdate=2017-11-29}}</ref>。 しかしながら神戸市内はJRや阪急、阪神、山陽電鉄などが運行して東西交通の利便性が高いなどの理由から、多額の投資で得られる効果は限定的と推計され、神戸市は乗り入れ構想を撤回しないものの事業化は当面見送ることを決めた<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/202003/0013170138.shtml 相互乗り入れ「投資見合わず」神戸地下鉄と阪急電鉄の協議仕切り直し] - 神戸新聞NEXT ひょうご経済プラス、2020年3月6日</ref>。 === 大阪市営地下鉄四つ橋線との相互直通運転構想 === {{Main|西梅田・十三連絡線|Osaka Metro四つ橋線#延伸計画|阪急新大阪連絡線}} また、近畿地方交通審議会答申第8号では、阪急・[[大阪市]]の提案により、[[大阪市営地下鉄]](現在の[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]])[[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] [[西梅田駅]] - [[北梅田駅]](仮称) - 十三駅間2.9&nbsp;kmの延伸が「中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」として盛り込まれ<ref name="kktmlit-shingi852" />、2004年8月には「2015年頃を目途に、四つ橋線を[[十三駅]]まで延伸し、阪急神戸本線との相互直通運転を行う」との報道もなされた。ただし、答申自体は阪急との乗り入れに触れられておらず、現実には[[集電装置|集電方式]]の違いや、西梅田駅とほぼ同深度にある[[阪神本線]]のトンネルが延伸の支障になるなどの問題があったことから、報道内容や実現性などが疑問視されていた。これに関連して、2006年12月に四つ橋線の十三駅までの延伸構想に関する報道がなされており、また[[阪急新大阪連絡線]]の整備構想もあわせて報道されたことから<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200612080108.html|newspaper=朝日新聞大阪版|date=2006-12-09|title=北ヤード新線、大筋合意 大阪市地下鉄四つ橋線乗り入れ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070124060135/http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200612080108.html |archivedate=2007-01-24 |accessdate=2019-12-23}}</ref>、阪急神戸本線と四つ橋線の相互乗り入れに関する内容は収束の傾向にある{{要出典|date=2019年12月}}。 なお、この答申第8号では、京都本線と神戸本線の相互直通運転が「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」として挙げられている<ref name="kktmlit-shingi852" />。 === 新駅設置計画 === [[ファイル:Hankyu Mukogawa bridge A 20110513.jpg|thumb|150px|right|阪急武庫川橋梁(2011年5月撮影)<br/>別線工法により旧鉄橋の両側に新設された、2004年3月竣工のコンクリート橋である。]] 神戸本線では最も駅間距離の長い (3.3&nbsp;km)、西宮北口駅 - 武庫之荘駅間の[[武庫川]]橋梁上に、新駅(仮称・'''[[武庫川新駅]]''')を設置する構想がある。古くは旧[[瓦木村]]が[[1942年]]に西宮市と合併する際に交わした覚書の中に旧瓦木村の近くに新駅を設置することを条件として求めていたことが記載されており<ref name="mbs221101">{{Cite web|和書|url=https://www.mbs.jp/news/kansainews/20221101/GE00046620.shtml |title=【速報】阪急神戸線「西宮北口」~「武庫之荘」間に新駅設置を発表 地元住民らが悲願 |publisher=[[毎日放送]] |date=2022-11-01 |accessdate=2022-11-01 }}</ref>、長きにわたり特に西宮市側の住民により熱心に展開されてきた。阪神・淡路大震災後、老朽化に伴う武庫川橋梁架け替え工事を行った際に旧鉄橋の両側にコンクリート橋を架橋することによって上下線間に島式ホームが設置できる程度のスペースが確保されたため、ここへ新駅を設置しようという動きがみられている。 新駅設置に向けて、[[2000年]]には「阪急武庫川駅誘致推進協議会」が結成され、1万人を超える署名を添えた陳情が西宮市議会で採択されたほか、[[山田知]]西宮市長(当時)が意欲を見せ([[2008年]][[12月10日]]の市議会本会議で発言)、阪急電鉄[[角和夫]]社長も前向きな意向を示すなど、具体的に動きを見せた時期もあった<ref>[https://web.archive.org/web/20081219183859/http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0001617653.shtml 「武庫川新駅」に意欲 阪急電鉄] - 神戸新聞(2008年12月17日)</ref>が、山田知市長の死去に伴う市長交代([[河野昌弘]])などもありその後は暫く動きが途絶えた。一方、尼崎市側は市の財政難を理由に設置には消極的であった<ref name="kobe210904">{{cite news| url=https://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/202109/0014649940.shtml |title=阪急「武庫川新駅」実現へ 80年来の悲願、4者合意 西宮、尼崎両市で具体化へ検討 | author=大田将之、山岸洋介、大盛周平 |newspaper=[[神戸新聞]] | publisher=[[神戸新聞社]] | date=2021-09-04 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。ただ、[[2012年]]になり西宮市が新駅設置のための調査費を計上したことで、新駅設置へ向けて再び動きを見せるようになり<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004821904.shtml 阪急「武庫川新駅」を検討へ 西宮市が調査費計上] - 神戸新聞(2012年2月17日)</ref><ref name="nishi1903" />、2013年には西宮市と県、阪急電鉄がつくる検討会に尼崎市が参加するようになったが同市はあくまで慎重な姿勢であった<ref name="kobe210904"/>。 [[2021年]][[9月3日]]、阪急電鉄・兵庫県・西宮市・尼崎市からなる検討会にて事業の具体化に向けた検討に入ることで合意したことを発表した<ref>{{cite news |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202109/0014649930.shtml |title=武庫川新駅、4者合意 西宮、尼崎市など検討入り 阪急神戸線| newspaper=神戸新聞| publisher=神戸新聞社 | date=2021年9月3日|accessdate=2021-09-10}}</ref><ref name="kobe210904"/>。構想では、新設されるホームは現在の橋脚を活用するため、線路間の内側に片面ホームをそれぞれ設ける2面2線とし、可動式ホーム柵、エレベーター、エスカレータも設置される。改札口は西宮市側と尼崎市側にそれぞれ1箇所ずつ設置される<ref>{{Cite report |title=(仮)武庫川周辺阪急新駅に関する検討について |url=https://www.nishi.or.jp/kotsu/kotsu/kotsukeikaku/kentohokokusho.files/m_shinekikentohokokusho.pdf |author=兵庫県 / 尼崎市 / 西宮市 / 阪急電鉄 |publisher=西宮市交通政策課 |format=PDF |date=September 2021 |accessdate=2021-09-04}}</ref>。建設費用は駅工事に50億円、駐輪場や周辺工事に10億円の約60億円を見込む<ref name="kobe210904"/>。乗降客数は近隣駅などからの転移で2万2623人と算出<ref name="kobe210904"/>、両市側とも徒歩または自転車での交通アクセスを想定している<ref name="kobe210904"/>。 [[2022年]][[11月1日]]、西宮市、尼崎市、阪急電鉄の3者が新駅設置に向けて合意書に調印したことで、新駅設置が正式に決定した。なお、開業時期は未定<ref name="mbs221101" />。 === 連続立体交差事業 === 西宮市は、市道中津浜線において[[ボトルネック]]となっている車庫横踏切道([[西宮車庫]]東隣)など3か所の踏切の廃止を目的に、武庫川橋梁 - 西宮北口駅間において[[連続立体交差事業]](鉄道高架化)を検討している<ref name="nishi1903">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.nishi.or.jp/shisei/sogokeikaku/shiseihoshin/H31syuyo.files/H31shuyou.pdf#page=17 |title=平成31年度 主要な事業等の概要 |publisher=[[西宮市]] |date=2019-03-25 |accessdate=2019-03-28 }}</ref>。 == 駅一覧 == ;凡例 :●:停車、◆:今津線直通列車のみ通過、|↑:通過、↑:片方向のみ運転 * 通勤特急:平日の朝のみ運転。 * 準特急:早朝深夜のみ運転。 * 急行:[[阪神競馬場|阪神競馬]]開催時に大阪梅田行きのみ運転される臨時急行は◆印の西宮北口駅を通過。 * 準急:平日朝に大阪梅田行きのみ運転。 * 通勤急行:平日朝に大阪梅田行きのみ、平日夕に神戸三宮行きのみ運転。 * 普通:各駅に停車するため省略。 * 接続路線の ( ) 内の英数字はその路線の駅の駅番号を表す。 * 神戸本線の[[駅ナンバリング|駅番号]]は2013年12月21日より導入<ref name="hankyu20130430" /><ref name="hankyu20130605" />。 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅番号 !style="width:14em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|駅間<br />営業<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007ac4;"|累計<br />営業<br />キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#cf9;"|{{縦書き|準急|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#f96;"|{{縦書き|通勤急行|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#fc9;"|{{縦書き|急行|height=3em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#fcc;"|{{縦書き|準特急|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#fb7;"|{{縦書き|通勤特急|height=5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007ac4; background:#f99;"|{{縦書き|特急|height=3em}} !style="border-bottom:solid 3px #007ac4;"|接続路線 !colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #007ac4;"|所在地 |- !HK-01 |[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]]([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]: HS 01)<br>[[大阪市高速電気軌道]]:[[ファイル:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]: M16)、[[ファイル:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]([[東梅田駅]]: T20)、[[ファイル:Osaka Metro Yotsubashi line symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]([[西梅田駅]]: Y11)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])・{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線|JR宝塚線]]・{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]]・{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]([[大阪駅]]: JR-A47・JR-G47・JR-F01・JR-O11)・{{JR西路線記号|K|H}} [[JR東西線]]([[北新地駅]]: JR-H44) |rowspan="4" colspan="2" style="width: 1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]][[大阪市]]|height=12em}} |rowspan="2"|[[北区 (大阪市)|北区]] |- !HK-02 |[[中津駅 (阪急)|中津駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |- !HK-03 |[[十三駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |[[阪急電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]] |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[淀川区]] |- !HK-04 |[[神崎川駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |- !HK-05 |[[園田駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |rowspan="12" style="width: 1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[兵庫県]]|height=6em}} |rowspan="3" colspan="2"|[[尼崎市]] |- !HK-06 |[[塚口駅 (阪急)|塚口駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|10.2 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|| |阪急電鉄:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急伊丹線|伊丹線]] |- !HK-07 |[[武庫之荘駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|12.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |- !HK-08 |[[西宮北口駅]]<br /><small>([[阪急西宮ガーデンズ]]前)</small> |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|15.6 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|◆ |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |阪急電鉄:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急今津線|今津線]](大阪梅田方面と一部直通運転:下記参照) |rowspan="2" colspan="2"|[[西宮市]] |- !HK-09 |[[夙川駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|18.3 |rowspan="8" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|今津線[[宝塚駅]]から直通運転|height=13em}} |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |阪急電鉄:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急甲陽線|甲陽線]] |- !HK-10 |[[芦屋川駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|21.0 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |colspan="2"|[[芦屋市]] |- !HK-11 |[[岡本駅 (兵庫県)|岡本駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|23.4 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |&nbsp; |rowspan="6" style="width: 1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[神戸市]]|height=6em}} |rowspan="2"|[[東灘区]] |- !HK-12 |[[御影駅 (阪急)|御影駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|25.6 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |- !HK-13 |[[六甲駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|27.4 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[灘区]] |- !HK-14 |[[王子公園駅]]<br /><small>([[神戸市立王子動物園|王子動物園]]・[[神戸市王子スタジアム|王子スタジアム]]前)</small> |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|29.2 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |- !HK-15 |[[春日野道駅 (阪急)|春日野道駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|30.7 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[中央区 (神戸市)|中央区]] |- !HK-16 |[[三宮駅|神戸三宮駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|32.3 |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |阪急電鉄:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸高速線|神戸高速線]](一部直通運転:下記参照)<br />阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] 本線 (HS 32)<br/>[[神戸市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KobeSeishin.svg|14px]] [[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]]([[三宮駅]]:S03)、[[ファイル:Subway KobeKaigan.svg|14px]] [[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]]([[三宮・花時計前駅]]:K01)<br />[[神戸新交通]]:{{駅番号s|#9686BD|white|P}} [[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]](三宮駅:P01)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|A}} 東海道本線(JR神戸線)([[三ノ宮駅]]:JR-A61) |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="10"|'''西宮北口駅から'''<br />○準急…[[阪急今津線|今津線]][[宝塚駅]]まで<br />○臨時急行…今津線[[仁川駅]]まで<br />'''神戸三宮駅から'''<br />○普通・急行・準特急・通勤特急・特急…神戸高速線[[新開地駅]]まで |} * 上記のほか、春・秋の行楽期には、西宮北口駅 - 嵐山線嵐山駅間の直通特急が運転されることがある。神戸本線内の停車駅は、塚口駅と十三駅(十三駅で京都本線に転線するため、大阪梅田駅には乗り入れない)。 * 神戸高速線内は全列車各駅に停車。 * 春・秋の行楽シーズンに王子公園駅に特急が臨時停車したことがある。 * 神崎川駅 - 園田駅間で大阪府[[豊中市]]を通るが、駅はない。 <!--* 大阪梅田駅では[[JR東西線]][[北新地駅]]との乗り換えには相当の時間がかかる。--> <!-- *[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]との連絡乗車券([[天神橋筋六丁目駅]]経由指定のもの)を使う場合、大阪梅田駅と[[梅田駅 (大阪市高速電気軌道)|梅田駅]]([[東梅田駅]]、[[西梅田駅]]含む)相互間、[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]と[[西中島南方駅]]相互間のOsaka Metroとの乗り継ぎはできない。 (神戸本線内各駅からの大阪地下鉄連絡乗車券は発売していない)--> === 廃駅 === 駅名は廃止時のもの。 *[[新淀川駅]](中津駅 - 十三駅間) - 1926年7月2日廃止 *[[西宮戎駅]](西宮北口駅 - 夙川駅間) - [[正月]]期の[[西宮神社]]・[[廣田神社]]参拝客を確保する目的で戦前に設置されていた[[臨時駅]] === 過去の接続路線 === *大阪梅田駅(当時は梅田駅):阪急[[阪急北野線|北野線]] - 1949年1月1日休止 *中津駅:阪神[[阪神北大阪線|北大阪線]] - 1975年5月6日廃止 *王子公園駅(当時は西灘駅):阪急[[阪急上筒井線|上筒井線]] - 1940年5月20日廃止。1936年までの神戸本線 === 主要駅の乗降客数 === 2021年の通年平均の乗降客数は次の通り<ref>[https://www.hankyu.co.jp/station/passenger.html 駅別乗降人員|阪急電鉄]</ref>。 *大阪梅田:349,521人 *十三:52,424人 *塚口:36,466人 *武庫之荘:39,375人 *西宮北口:78,383人 *夙川:22,003人 *岡本:21,153人 *六甲:21,932人 *神戸三宮:77,001人 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 9 関西2 | year = 2009 | isbn = 978-4-10-790027-2 | ref = imao }} *{{Cite book | 和書 | author=国土交通省鉄道局(監修)|authorlink=国土交通省| title = 鉄道要覧 | publisher = [[電気車研究会]]・[[鉄道図書刊行会]] }} *{{Cite book |和書 |year=2004 |title=レイル No.47 |publisher=プレス・アイゼンバーン |isbn=4-87112-447-9}} *{{Cite journal|和書 |date = 2016-4 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 66 |issue = 4 |publisher = [[電気車研究会]] }}特集:阪急電鉄神戸線 *{{Cite journal|和書 |date = 1998-12 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 48 |issue = 12|publisher = 電気車研究会 }}特集:阪急電鉄 == 関連項目 == {{Commonscat}} *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[阪神国道電軌]](後の[[阪神国道線]]) *[[阪神間モダニズム]] *[[神京・京宝特急]] *[[阪神本線]] == 外部リンク == * [https://www.hankyu.co.jp/station/kobe/ 神戸線 | 路線・駅 | 阪急電鉄] {{阪急電鉄の路線}} {{DEFAULTSORT:はんきゆうこうへほんせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|こうへほんせん]] [[Category:阪急電鉄の鉄道路線|こうへほん]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:兵庫県の交通]] [[Category:阪神間]]
2003-09-22T18:18:41Z
2023-12-27T05:07:38Z
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アンワル・アッ=サーダート
(ムハンマド・)アンワル・アッ=サーダート(アラビア語: محمد أنور السادات, ラテン文字転写: Muḥammad Anwar al-Sādāt, 1918年12月25日 - 1981年10月6日)は、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第3代大統領(第2代アラブ連合共和国大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。 ファーストネームは「ムハンマド・アンワル」と2語1組の複合名でこのひとまとまり全てがファーストネームとなる。しかしながら公人として有名になったためムハンマドが省略され単にアンワルとのみ呼ばれるようになったことから、単に「アンワル・アッ=サーダート」や日本式に定冠詞を省いた「アンワル・サダト」とすることが広く行われている。 ラストネームの「アッ=サーダート」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本では存命中から現在に至るまで、外務省や新聞・報道は一貫してサダトと表記しており、一般にはこちらの方がより広く知られている。 サダトは1918年、ミヌーフィーヤ県のミト・アブー・アル=クムで貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として生まれた。1937年末にはカイロの王立陸軍士官学校1期生を卒業し、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附としてマンカバド(英語版)に転属。ここで2期生卒業のガマール・アブドゥル=ナーセル、ザカリア・ムヒエディン(英語版)と出会い、やがて彼らは密かに士官達の祖国解放運動に加わる。それは1922年にイギリスの保護領として成立したエジプト王国において、実権を握るイギリス軍の支配から真に祖国を解放しようという運動であった。1939年12月にカイロ・マーディ(英語版)の陸軍通信学校に入学、卒業時には生徒代表として答辞を読む。卒業後はマーディに留まり、通信部隊長となり僻地に転任したナセルとアーメルに代わって地下組織の育成に勤しんだ。 第二次世界大戦中の1942年、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団はエル・アラメインまで進撃していた。祖国解放を目指したサダトはゲズィーラ島のザマーレク(英語版)にナセルらと集まり、ドイツ軍に呼応してカイロ市内でナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した。さらに、イギリスの圧力で解任された参謀総長アジズ・エル・アル=マスリ(英語版)がドイツ軍より呼応を求められていると知るや、その手段を講じ、最終的にドイツ軍陣地までエジプト陸軍の飛行機を飛ばそうと計画するも、離陸直前に飛行機が大破して失敗した。その後、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員(サラム作戦(英語版))が逮捕され自白したことでサダトの名前が上がり、軍法会議にかけられる。なお、スパイの協力者であった踊り子ヒクマト・ファフミーがサダトの愛人であったとのち告白しているがサダトはこれを否定している。その後、証拠不十分で銃殺は免れたが軍籍剥奪の上投獄され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。1944年に脱獄し終戦までカイロの日本庭園で潜伏した。 士官学校の同期で友人のガマール・アブドゥル=ナセルとともに自由将校団を結成し、1952年のクーデター(エジプト革命)に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し国民に革命の発表を行なった。 革命によって1953年、エジプトは王制を廃止し共和制へ移行した。サダトは新政府のリーダーとなったナセルを支え、ナセル政権が成立した1954年、国務大臣に就任する。1958年にナセルがエジプトとシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し、その初代大統領の地位に就くとサダトも翌年連合国務長官に任命された。さらに1960年から1968年まで人民議会議長を務める。この間の1964年には副大統領に任命され、大統領評議会の議員となった。このときの副大統領就任は短期間であったが1969年12月19日に再び副大統領に任命され、翌年10月15日まで同職を務めた。 1970年9月28日、ナセルが死去すると副大統領として大統領代行を務めることになったサダトは国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。同年10月15日、サダトは正式に大統領に就任し、大統領就任後はナセルの社会主義的経済政策を改めて経済自由化を進めるとともにイスラム主義の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させた。これらの政策に対する反対派は一掃し、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。さらに1961年にシリアが離脱して以来、連合国家の体をなしていなかったアラブ連合共和国の正式な解体を決断し1971年9月2日、国号をエジプト・アラブ共和国に改めた。 大統領就任当初、サダトはナセルが敷いた汎アラブ対イスラエル強硬路線を継承し、シリアやリビアとともにアラブ共和国連邦を結成した。1973年10月6日、シリアと共同でイスラエルに開戦して第四次中東戦争を主導し、イスラエル軍に大打撃を与えた。これによってサダトは国民的英雄となった。 この戦争前にはソビエト連邦の軍事顧問団を追放しており、1974年2月にアメリカ合衆国との国交を正常化させ、当時のリチャード・ニクソン政権から軍事的経済的援助を受け、1976年にはナセルの親ソ・反米の外交路線を完全に反ソ・親米に転換した。同年3月にソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月に中ソ対立を起こしていた中国にホスニー・ムバラク副大統領を派遣して毛沢東と会見させて武器を購入した。同年9月にはサウジアラビアやモロッコ、イランなどとともに結成した反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)の本部をカイロに置き、第一次シャバ紛争(英語版)やオガデン戦争ではザイールとソマリアを支援してアフリカからのソ連の影響力排除を画策し、ソ連のアフガニスタン侵攻を批判してモスクワオリンピックをボイコットして反政府武装勢力のムジャヒディンへの支援を表明した。 1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問した。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌1978年にアメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デービッド合意にこぎつけた。そして1979年には両国間に平和条約が結ばれた。 この合意は長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領(英語版)されたシナイ半島の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。 この歴史的合意により、サダトはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞し世界各国から高い支持を受けた。だが、このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、スーダンのモハメド・アン=ヌメイリを除くアラブ諸国の指導者とイスラム教徒の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また1974年から1982年まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。 1978年11月、イラクのバグダッドで行われた1978年アラブ首脳会議(英語版)でエジプトは主導国であるにもかかわらず、アラブ連盟を追放された。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロからブルギーバ政権下のチュニジアのチュニスへと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。 1979年1月、イランでルーホッラー・ホメイニーが指導するイラン革命が勃発した。サダトは親しかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうとイスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。 イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、1981年9月にサダトは共産主義者、ナセル支持者、フェミニスト、イスラム原理派、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1600人におよび、国際的な非難を受けた。 この間に発生した経済恐慌と反対派に対する抑圧によって、サダトに対する国民の支持はますます失われていった。 1981年10月6日、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中にイスラム復興主義過激派のジハード団に所属するハリド・イスランブリ砲兵中尉によって暗殺された。 サダト本人も自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には、「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも、自らの死を予期する記述がある。しかし事件当日、制服の方が崩れると言うことでサダトは防弾チョッキを着ようとはしなかった。 そのため4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機のミラージュが見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前にエンジン故障を装い突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたがイスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は突撃銃で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ砲兵中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。 銃撃戦は約2分間続いた。キューバの特命全権大使、オマーンの将官、中国の軍事技術者、コプト正教司祭を含む11名が死亡し、ホスニー・ムバーラク副大統領、ブトロス・ブトロス=ガーリ外務大臣、訪問客のアイルランドのジェームズ・タリー国防大臣、4人のアメリカ軍連絡将校を含む38名が負傷した。 保安部隊は不意を突かれたものの、間もなく応戦した。 暗殺隊の2人が射殺され、イスランブリ砲兵中尉と他の暗殺隊は憲兵隊によってその場で逮捕された。 首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され、11人の医師による手術を受けたが同日午後7時50分(日本時間7日午前2時50分)、エジプト政府から正式にその死が発表された。62歳没。サダトの後継として、ムバラク副大統領が大統領に昇格した。ムバラク副大統領もこの攻撃で手を負傷し、サダトの葬儀には世界中から多くの高官が参列した。その亡骸はナスルシティ(英語版)のピラミッド状の無名戦士の記念碑(英語版)に葬られた。 サダトは2度結婚している。最初の妻エーサン・マジと1949年5月29日に離婚し、その日に16歳年下のエジプト人とイギリス人の混血であるジーハーン・サフワト・ラオウフ(英語版)(当時15歳)と結婚(再婚)した。サダトはジーハーンとの間に三人の娘と一人の息子をもうけた。ジーハーンは『In Search of Identity』(1977年)により2001年にパール・バック賞を受賞している。
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(ムハンマド・)アンワル・アッ=サーダートは、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第3代大統領(第2代アラブ連合共和国大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。
{{大統領 | 人名 = アンワル・アッ=サーダート | 各国語表記 = {{lang|ar|&#1605;&#1581;&#1605;&#1583; &#1571;&#1606;&#1608;&#1585; &#1575;&#1604;&#1587;&#1575;&#1583;&#1575;&#1578;}} [[ファイル:Nobel prize medal.svg|18px|ノーベル賞受賞者]] | 画像 = Anwar Sadat cropped.jpg | 画像サイズ = | キャプション = | 国名 = {{flagicon|EGY1972}} [[エジプト|エジプト・アラブ共和国]] | 代数 = 初 | 職名 = [[近代エジプトの国家元首の一覧#アラブ連合共和国|大統領]] | 就任日 = [[1971年]][[9月2日]] | 退任日 = [[1981年]][[10月6日]] | 副大統領 = | 副大統領職 = | 元首 = <!-- ↓省略可↓ --> | 国名2 = {{UAR}} | 代数2 = 第2 | 職名2 = [[近代エジプトの国家元首の一覧#アラブ連合共和国|大統領]] | 就任日2 = [[1970年]][[10月15日]] | 退任日2 = [[1971年]][[9月2日]]<br /><small>(1970年[[9月28日]]から10月15日まで大統領代行)</small> | 副大統領2 = | 副大統領職2 = | 元首2 = | 国名3 = {{UAR}} | 代数3 = | 職名3 = 副大統領 | 就任日3 = [[1964年]][[2月17日]] | 退任日3 = [[1964年]][[3月23日]]<br />[[1969年]][[12月19日]] – [[1970年]][[10月15日]] | 副大統領3 = | 副大統領職3 = | 元首3 = [[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領 | 国名4 = {{flagicon|EGY1972}} [[エジプト|エジプト・アラブ共和国]] | 代数4 = 第3代・第7 | 職名4 = 首相<br />(共和政エジプト第11代・第15代首相) | 就任日4 = [[1973年]][[3月26日]] | 退任日4 = [[1974年]][[9月25日]]<br />[[1980年]][[3月15日]] – [[1981年]][[10月6日]] | 副大統領4 = | 副大統領職4 = | 元首4 = アンワル・アッ=サーダート大統領(兼務) | 国名5 = {{UAR}} | 代数5 = 第2 | 職名5 = 人民議会議長 | 就任日5 = [[1960年]][[7月21日]] | 退任日5 = [[1968年]][[11月12日]] | 副大統領5 = | 副大統領職5 = | 元首5 = ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領 <!-- ↑省略可↑ --> | 出生日 = {{生年月日と年齢|1918|12|25|死去}} | 生地 = {{EGY1882}}、[[ミヌーフィーヤ県]]<br />ミト・アブー・アル=クム | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1918|12|25|1981|10|6}} | 没地 = {{EGY1972}}、[[カイロ]] | 配偶者 = ジーハーン・アッ=サーダート | 政党 = アラブ社会主義連合([[1977年]]まで)<br />[[国民民主党 (エジプト)|国民民主党]] | サイン =Anwar El Sadat Signature.svg }} {{thumbnail:begin}} {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1978年|ノーベル平和賞|[[キャンプ・デービッド合意]]}} {{thumbnail:end}} '''(ムハンマド・)アンワル・アッ=サーダート'''({{翻字併記|ar|&#1605;&#1581;&#1605;&#1583; &#1571;&#1606;&#1608;&#1585; &#1575;&#1604;&#1587;&#1575;&#1583;&#1575;&#1578;|{{transl|ar|Muḥammad Anwar al-Sādāt}}}}, [[1918年]][[12月25日]] - [[1981年]][[10月6日]])は、[[エジプト]]の[[軍人]]、[[政治家]]。共和政エジプト第3代[[近代エジプトの国家元首の一覧#アラブ連合共和国|大統領]](第2代[[アラブ連合共和国]]大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。 == 名前 == ファーストネームは「ムハンマド・アンワル」と2語1組の複合名でこのひとまとまり全てがファーストネームとなる。しかしながら公人として有名になったためムハンマドが省略され単にアンワルとのみ呼ばれるようになったことから、単に「アンワル・アッ=サーダート」や日本式に定冠詞を省いた「アンワル・サダト」とすることが広く行われている。 ラストネームの「アッ=サーダート」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本では存命中から現在に至るまで、[[外務省]]<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/searchresult.html?cx=011758268112499481406%3Afkqokg_sxzw&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E3%82%B5%E3%83%80%E3%83%88 外務省公式サイト]における「サダト大統領」の表記例。</ref>や新聞・報道は一貫して'''サダト'''と表記しており、一般にはこちらの方がより広く知られている。 == 経歴 == === 自由将校団への参加とエジプト革命 === サダトは1918年、[[ミヌーフィーヤ県]]のミト・アブー・アル=クムで貧しい[[スーダン]]系エジプト人一家の13人兄弟の一人として生まれた。[[1937年]]末には[[カイロ]]の[[エジプト軍#士官学校|王立陸軍士官学校]]1期生を卒業し<ref>{{Cite book| author = John McCain, Mark Salter | title =Hard Call: Great Decisions and the Extraordinary People Who Made Them |year=2007 | publisher =Twelve | url = https://books.google.co.jp/books?id=fnVlAgAAQBAJ&pg=PT104&lpg=PT104&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=eZgmsYRmUt&sig=vplploYl049_I1AsaWS6eZnn0mA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEILTAB#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false}}</ref>、当初カイロ近郊の通信部隊に配属されたが、間もなく第3旅団附として{{仮リンク|マンカバド|en|Manqabad}}に転属。ここで2期生卒業の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、{{仮リンク|ザカリア・ムヒエディン|en|Zakaria Mohieddin}}と出会い、やがて彼らは密かに士官達の祖国解放運動に加わる。それは[[1922年]]に[[イギリス]]の[[保護領]]として成立した[[エジプト王国]]において、実権を握る[[イギリス軍]]の支配から真に祖国を解放しようという運動であった。1939年12月にカイロ・{{仮リンク|マーディ|en|Maadi}}の陸軍通信学校に入学、卒業時には生徒代表として答辞を読む<ref>{{Cite book| author = Magdalena Alagna | title =Anwar Sadat |year=2004 | publisher =Rosen Pub Group | pages = 30 | url = https://books.google.co.jp/books?id=9lIOS5DjocIC&pg=PA30&lpg=PA30&dq=Manqabad%E3%80%80ww2&source=bl&ots=NSShINeoYl&sig=s2EJnat9I_IO_PBmontKKF7GPek&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiiuPKU7JDYAhVBlJQKHbJWAjoQ6AEIMzAC#v=onepage&q=Manqabad%E3%80%80ww2&f=false}}</ref>。卒業後はマーディに留まり、通信部隊長となり僻地に転任したナセルとアーメルに代わって地下組織の育成に勤しんだ。 [[第二次世界大戦]]中の[[1942年]]、[[エルヴィン・ロンメル]]率いる[[ドイツ・アフリカ軍団]]は[[エル・アラメイン]]まで進撃していた。祖国解放を目指したサダトは[[ゲズィーラ島]]の{{仮リンク|ザマーレク|en|Zamalek}}にナセルらと集まり、ドイツ軍に呼応してカイロ市内でナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した<ref name="林(1973)115">[[#林(1973)|林(1973)、p.115]]</ref>。さらに、イギリスの圧力で解任された参謀総長{{仮リンク|アジズ・エル・アル=マスリ|en|Aziz Ali al-Misri}}がドイツ軍より呼応を求められていると知るや、その手段を講じ、最終的にドイツ軍陣地までエジプト陸軍の飛行機を飛ばそうと計画するも<ref name="林(1973)119-120">[[#林(1973)|林(1973)、p.119-120]]</ref>、離陸直前に飛行機が大破して失敗した。その後、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員({{仮リンク|サラム作戦|en|Operation Salam}})が逮捕され自白したことでサダトの名前が上がり、軍法会議にかけられる<ref name="林(1973)119-120"/>。なお、スパイの協力者であった踊り子ヒクマト・ファフミーがサダトの愛人であったとのち告白しているがサダトはこれを否定している<ref name="林(1973)119-120"/>。その後、証拠不十分で銃殺は免れたが軍籍剥奪の上投獄され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。[[1944年]]に脱獄し終戦までカイロの日本庭園で潜伏した。 士官学校の同期で友人の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ガマール・アブドゥル=ナセル]]とともに[[自由将校団]]を結成し、[[1952年]]の[[クーデター]]([[エジプト革命 (1952年)|エジプト革命]])に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し国民に革命の発表を行なった。 === ナセル政権下で === 革命によって[[1953年]]、エジプトは[[王制]]を廃止し[[共和制]]へ移行した。サダトは新政府のリーダーとなったナセルを支え、ナセル政権が成立した[[1954年]]、国務大臣に就任する。[[1958年]]にナセルがエジプトと[[シリア]]を合邦して[[アラブ連合共和国]]を建国し、その初代[[大統領]]の地位に就くとサダトも翌年連合国務長官に任命された。さらに[[1960年]]から[[1968年]]まで[[人民議会 (エジプト)|人民議会]][[議長]]を務める。この間の[[1964年]]には[[副大統領]]に任命され、大統領評議会の議員となった。このときの副大統領就任は短期間であったが[[1969年]][[12月19日]]に再び副大統領に任命され、翌年[[10月15日]]まで同職を務めた。 === 大統領就任 === [[1970年]][[9月28日]]、ナセルが死去すると副大統領として大統領代行を務めることになったサダトは国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。同年10月15日、サダトは正式に大統領に就任し、大統領就任後はナセルの[[社会主義]]的経済政策を改めて経済自由化を進めるとともに[[イスラム主義]]の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させた。これらの政策に対する反対派は一掃し、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。さらに[[1961年]]にシリアが離脱して以来、連合国家の体をなしていなかったアラブ連合共和国の正式な解体を決断し[[1971年]][[9月2日]]、国号をエジプト・アラブ共和国に改めた。 === 第四次中東戦争と対イスラエル和平 === 大統領就任当初、サダトはナセルが敷いた汎アラブ対[[イスラエル]]強硬路線を継承し、シリアや[[リビア]]とともに[[アラブ共和国連邦]]を結成した。[[1973年]][[10月6日]]、シリアと共同でイスラエルに開戦して[[第四次中東戦争]]を主導し、イスラエル軍に大打撃を与えた。これによってサダトは国民的英雄となった。 [[Image:Begin, Carter and Sadat at Camp David 1978.jpg|thumb|220px|1978年のキャンプデービッド合意、左から、ベギン、カーター、サダト。]] [[Image:Sadat and Begin (cropped) - USNWR.jpg|thumb|220px|サダトとベギン。]] この戦争前には[[ソビエト連邦]]の軍事顧問団を追放しており、[[1974年]]2月に[[アメリカ合衆国]]との国交を正常化させ、当時の[[リチャード・ニクソン]]政権から軍事的経済的援助を受け<ref>Craig A. Daigle, "The Russians are going: Sadat, Nixon and the Soviet presence in Egypt." Middle East 8.1 (2004): 1.</ref><ref>Moshe Gat (2012). In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Palgrave Macmillan. pp. 256–58.</ref>、[[1976年]]にはナセルの親ソ・[[反米]]の外交路線を完全に反ソ・[[親米]]に転換した。同年3月にソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月に[[中ソ対立]]を起こしていた[[中華人民共和国|中国]]に[[ホスニー・ムバラク]]副大統領を派遣して[[毛沢東]]と会見させて武器を購入した<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1976/04/22/archives/egypt-and-china-sign-arms-pact-hail-closer-ties-cairo-is-said-to.html|title=EGYPT AND CHINA SIGN ARMS PACT, HAIL CLOSER TIES|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1976-04-22|accessdate=2019-07-11}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.360doc.com/content/15/0908/10/7536781_497643422.shtml|title={{lang|zh|长城拥抱苏伊士:中埃军事合作的那些事儿}} |work=360doc{{lang|zh|个人图书馆}} |date=2015-09-08 |accessdate=2019-07-11}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1979/06/06/china-will-sell-arms-to-egypt-sadat-announces/3c70f99a-2fa6-4dea-a92e-b8fbd8d0a97c/|title=China Will Sell Arms to Egypt, Sadat Announces |work=[[ワシントン・ポスト]] |date=1979-06-06 |accessdate=2019-07-11}}</ref>。同年9月には[[サウジアラビア]]や[[モロッコ]]、[[イラン]]などとともに結成した反ソ同盟{{仮リンク|サファリ・クラブ|en|Safari Club}}の本部をカイロに置き<ref>Heikal, Iran: The Untold Story (1982), p. 114.</ref><ref>Cooley, John. Unholy Wars: Afghanistan, America and International Terrorism. London: Pluto Press, 1999; 3rd edition, 2002. ISBN 9780745319179 p.17</ref>、{{仮リンク|第一次シャバ紛争|en|Shaba I}}や[[オガデン戦争]]では[[ザイール]]と[[ソマリア]]を支援して[[アフリカ]]からのソ連の影響力排除を画策し<ref>Bronson, Thicker than Oil (2006), p. 134. </ref>、[[ソ連のアフガニスタン侵攻]]を批判して[[モスクワオリンピック]]をボイコットして反政府武装勢力の[[ムジャヒディン]]への支援を表明した<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1981/09/23/world/sadat-says-us-buys-soviet-arms-in-egypt-for-afghan-rebels.html|title=SADAT SAYS U.S. BUYS SOVIET ARMS IN EGYPT FOR AFGHAN REBELS |work=[[ニューヨーク・タイムズ]] |date=1981-09-23 |accessdate=2019-07-12}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/02/14/egypt-says-it-trains-afghan-rebels/a09f455a-fca0-48c0-b7fe-12e8c9bcede6/|title=Egypt Says It Trains Afghan Rebels |work=[[ワシントン・ポスト]] |date=1980-02-14 |accessdate=2019-07-12}}</ref>。 [[1977年]]にイスラエルの[[メナヘム・ベギン]]首相の招きで[[エルサレム]]を訪問した。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌[[1978年]]にアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領の仲介のもと、[[キャンプ・デービッド合意]]にこぎつけた。そして[[1979年]]には両国間に[[エジプト・イスラエル平和条約|平和条約]]が結ばれた。 この合意は長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]でイスラエルに{{仮リンク|イスラエルのシナイ半島占領|label=占領|en|Israeli occupation of the Sinai Peninsula}}された[[シナイ半島]]の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。 === 国民からの反発 === この歴史的合意により、サダトはベギンとともに[[1978年]][[ノーベル平和賞]]を受賞し世界各国から高い支持を受けた。だが、このエジプト=イスラエル単独和平は「[[パレスチナ]]の[[アラブ人]]同胞に対する裏切り」と受け取られ、[[スーダン]]の[[モハメド・アン=ヌメイリ]]<ref>[http://www.mongabay.com/reference/country_studies/libya/GOVERNMENT.html Libya - Government]</ref>を除く[[アラブ諸国]]の指導者と[[ムスリム|イスラム教徒]]の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また[[1974年]]から[[1982年]]まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。 1978年11月、[[イラク]]の[[バグダッド]]で行われた{{仮リンク|1978年アラブ首脳会議|en|1978 Arab League summit}}でエジプトは主導国であるにもかかわらず、[[アラブ連盟]]を追放された<ref>Tucker, Spencer C.; Roberts, Priscilla (12 May 2008). The Encyclopedia of the Arab-Israeli Conflict: A Political, Social, and Military History [4 volumes]: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. ISBN 9781851098422.</ref>。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロから[[ハビーブ・ブルギーバ|ブルギーバ]]政権下の[[チュニジア]]の[[チュニス]]へと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み<ref>Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)</ref>、後に[[イラン・イラク戦争]]を引き起こす原因の1つになったともされる。 [[File:Queen Farah of Persia Egyption President Anwar Sadat Mohammad Reza Shah Pahlavi of Persia 1975.jpg|thumb|right|220px|1975年、イランの[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パーレビ国王]]とともに]] 1979年1月、イランで[[ルーホッラー・ホメイニー]]が指導する[[イラン革命]]が勃発した。サダトは親しかった[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]][[シャー|皇帝]]のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうとイスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。 イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、[[1981年]]9月にサダトは[[共産主義|共産主義者]]、ナセル支持者、[[フェミニスト]]、[[イスラム原理主義|イスラム原理派]]、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1600人におよび、国際的な非難を受けた。 この間に発生した経済恐慌と反対派に対する抑圧によって、サダトに対する国民の支持はますます失われていった。 === 暗殺 === {{main|{{仮リンク|アンワル・アッ=サーダート暗殺事件|en|Assassination of Anwar Sadat}}}} 1981年[[10月6日]]、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中にイスラム復興主義過激派の[[ジハード団]]に所属する[[ハリド・イスランブリ]]砲兵[[中尉]]によって暗殺された。 サダト本人も、自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも、自らの死を予期する記述がある。しかし事件当日、制服の方が崩れると言うことで、サダトは防弾チョッキを着ようとはしなかった。 そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機の[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュ]]が見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前にエンジン故障を装い突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたがイスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は[[アサルトライフル|突撃銃]]で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。その時、イスランブリ砲兵中尉が「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。 銃撃戦はなおも約2分間続き、[[キューバ]]の[[特命全権大使]]や[[オマーン]]の将官、中国の軍事技術者<ref>{{cite web|title={{lang|zh|我驻埃及使馆在开罗祭奠烈士张宝玉}}|publisher=[[人民網]]|date=2017-09-30|accessdate=2018-07-30|url=http://world.people.com.cn/n1/2017/0930/c1002-29570772.html}}</ref>、[[コプト正教]][[司祭]]を含む11名が死亡、[[ホスニー・ムバラク]]副大統領、[[ブトロス・ブトロス=ガーリ]]外務大臣、訪問客の[[アイルランド]]の[[ジェームズ・タリー]]国防大臣、4人の[[アメリカ軍]]連絡将校を含む38名が負傷した。 保安部隊は不意を突かれたものの、間もなく応戦した。 暗殺隊の2人が射殺され、イスランブリ砲兵中尉と他の暗殺隊は憲兵隊によってその場で逮捕された。 首・胸・腰などに被弾したサダトは病院へ搬送され、11人の医師による手術を受けたものの同日午後7時50分(日本時間7日午前2時50分)、エジプト政府から正式にその死が発表された。{{没年齢|1918|12|25|1981|10|6}}。サダトの後継としてムバラク副大統領が大統領に昇格した。ムバラク副大統領もこの攻撃で手を負傷し、サダトの葬儀には世界中から多くの高官が参列した。サダトの亡骸は、{{仮リンク|ナスルシティ|en|Nasr City}}の[[ピラミッド]]状の{{仮リンク|無名戦士の記念碑 (エジプト)|en|Unknown Soldier Memorial (Egypt)|label=無名戦士の記念碑}}に葬られた。 == 家族 == サダトは2度結婚している。最初の妻エーサン・マジと[[1949年]][[5月29日]]に離婚し、その日に16歳年下のエジプト人とイギリス人の混血である{{仮リンク|ジーハーン・サーダート|en|Jehan Sadat|label=ジーハーン・サフワト・ラオウフ}}(当時15歳)と結婚(再婚)した。サダトはジーハーンとの間に三人の娘と一人の息子をもうけた。ジーハーンは『In Search of Identity』(1977年)により2001年に[[パール・バック賞]]を受賞している。 == 邦訳著作 == *{{Cite book|和書|translator=[[井上幸治 (西洋史学者)|井上幸治]]|title=ナイルの叛乱|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|date=1958-08|id={{NDLJP|2995898}}}} - フランス語版を元にしている。 *{{Cite book|和書|translator=[[朝日新聞東京本社]]外報部|title=サダト自伝 : エジプトの夜明けを|publisher=[[ヘラルド朝日|朝日イブニングニュース社]]|date=1978-06|id={{NDLJP|12284107}}}} *{{Cite book|和書|translator=[[読売新聞]]外報部|title=サダト・最後の回想録|publisher=[[読売新聞社]]|date=1982-09|id={{NDLJP|11924240}}}} == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=林武|title=ナセル小伝|publisher=日本国際問題研究所|series=国際問題新書|date=1973-03-30|id={{NDLJP|12262433}}|ref=林(1973) }} == 関連項目 == *[[自由将校団]] *[[第四次中東戦争]] *[[キャンプ・デービッド合意]] *[[ミストラル級強襲揚陸艦#ウクライナ情勢と引渡し延期問題|ミストラル級強襲揚陸艦]] フランスからロシアに引き渡される予定だった「ウラジオストク」「セヴァストポリ」が[[2014年ウクライナ騒乱|ウクライナ危機]]の影響で破談となり、後にエジプト海軍に引き渡され、その際にその名が付けられる。 *[[ファラオの処刑]] == 外部リンク == {{commons|Anwar Sadat}} * [http://www.anwarsadat.org/ Official website] {{ar icon}} * http://www.anwarelsadat.com/ * http://www.elsadat.info/ * http://www.bsos.umd.edu/sadat <!-- 編集の利便性、見易さを考えて「Template:先代次代」形式にしています。 --> {{先代次代|{{Flagicon|EGY1972}} [[近代エジプトの国家元首の一覧#エジプト・アラブ共和国|エジプト・アラブ共和国<br />大統領]]|[[1971年]] - [[1981年]]|アラブ連合共和国大統領<br />より移行|[[スーフィー・アブー・ターリブ]]<br />(代行、人民議会議長)}} {{先代次代|{{Flagicon|UAR}} [[近代エジプトの国家元首の一覧#アラブ連合共和国|アラブ連合共和国大統領]]|[[1970年]] - [[1971年]]|[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]|エジプト・アラブ共和国大統領<br />へ移行}} {{先代次代|{{Flagicon|EGY1972}} [[エジプト・アラブ共和国]]<br />首相|[[1980年]] - [[1981年]]|{{仮リンク|ムスタファー・ハリール|en|Mustafa Khalil}}|[[ホスニー・ムバラク]]}} {{先代次代|{{Flagicon|EGY1972}} [[エジプト・アラブ共和国]]<br />首相|[[1973年]] - [[1974年]]|{{仮リンク|アジーズ・セドキー|en|Aziz Sedki}}|{{仮リンク|アブドルアジーズ・ムハンマド・ヘガーズィー|en|Abd El Aziz Muhammad Hejazi}}}} {{ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年)}} {{エジプト大統領}} {{パーソン・オブ・ザ・イヤー|state=expanded|state3=expanded}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あつさあたあと あんわる}} [[Category:アンワル・アッ=サーダート|*]] [[Category:エジプトの大統領]] [[Category:エジプトの首相]] [[Category:エジプトの軍人]] [[Category:アラブ連合共和国の大統領]] [[Category:アラブ連合共和国の首相]] [[Category:アラブ連合共和国の軍人]] [[Category:アラブ共和国連邦の大統領]] [[Category:アラブ共和国連邦の首相]] [[Category:アラブ共和国連邦の軍人]] [[Category:20世紀の軍人]] [[Category:暗殺された政治家]] [[Category:ノーベル平和賞受賞者]] [[Category:エジプトの反共主義者]] [[Category:アラブ連合共和国の反共主義者]] [[Category:アラブ共和国連邦の反共主義者]] [[Category:20世紀の統治者]] [[Category:タイム誌が選ぶパーソン・オブ・ザ・イヤー]] [[Category:ミヌーフィーヤ県出身の人物]] [[Category:20世紀エジプトの人物]] [[Category:1918年生]] [[Category:1981年没]]
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インチョン
インチョン(漢字:仁川、朝鮮語: 인천)は、朝鮮半島中部西岸にある大韓民国の都市名である。 朝鮮戦争中には国連軍による大規模な仁川上陸作戦が行われ、それに由来したアメリカ海軍軍艦名にもなっている。
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インチョンは、朝鮮半島中部西岸にある大韓民国の都市名である。 朝鮮戦争中には国連軍による大規模な仁川上陸作戦が行われ、それに由来したアメリカ海軍軍艦名にもなっている。 仁川広域市 仁川国際空港 仁川上陸作戦 インチョン(USS Inchon - イオー・ジマ級強襲揚陸艦の7番艦。2016年現在は退役済。 仁川級フリゲート - 大韓民国海軍が建造・配備したフリゲート。 『インチョン!』- 1982年に公開されたアメリカ合衆国・大韓民国合作の戦争映画。
'''インチョン'''([[漢字]]:'''仁川'''、{{lang-ko|'''인천'''}})は、[[朝鮮半島]]中部西岸にある[[大韓民国]]の[[都市]]名である。 [[朝鮮戦争]]中には[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]による大規模な[[仁川上陸作戦]]が行われ、それに由来した[[アメリカ海軍]][[軍艦]]名にもなっている。 ;地名 *[[仁川広域市]] *[[仁川国際空港]] ;軍事 *[[仁川上陸作戦]]([[:en:Battle_of_Inchon|Battle of Inchon]]) *[[インチョン_(強襲揚陸艦)|インチョン]](USS Inchon(LPH-12 )<small>([[:en:USS_Inchon_(LPH-12)|英語版]])</small> - [[イオー・ジマ級強襲揚陸艦]]の7番艦。[[2016年]]現在は退役済。 *[[仁川級フリゲート]](インチョン級フリゲート:{{lang-ko|인천급 호위함}}) - [[大韓民国海軍]]が建造・配備した[[フリゲート]]。 ;作品 *『[[インチョン!]]』- [[1982年]]に公開された[[アメリカ合衆国]]・大韓民国合作の[[戦争映画]]。 {{aimai}} {{デフォルトソート:いんちよん}}
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ジハード団
ジハード団(تنظيم الجهاد Tanzīm al-Jihād)は、エジプトのイスラム過激派組織である。 イスラム国家の建設とカリフ制の復興を掲げて武装闘争を行っている。ムスリム同胞団の穏健路線に飽き足らない者たちが1970年代頃にいくつかの過激な急進主義の小組織を結成し、これらが1980年に合同したことにより結成された。本来はエジプト政府の打倒を、現在はアメリカやイスラエルを攻撃することをも目標としている。理論的指導者はムハンマド・ファラジュ(英語版)(1954年-1982年)で、"Islamic-fascism"とも呼ばれるその理論はパンフレット" الفريضة الغائبة "(英語: neglected obligation)によって広く知られた。主な指導者はアフガニスタンで対ソ連戦に加わりウサーマ・ビン・ラーディンに思想的影響を与えたことで知られるアイマン・アッ=ザワーヒリー。オマル・アブドッラフマーンも同団体と関係が深い。現在はエジプト・イスラム・ジハード団(アラビア語: الجهاد الإسلامي المصري、Egyptian Islamic Jihad、EIJ)と名乗っている。 閣僚級のエジプト要人や、アメリカの役人に対するテロ活動を行っている。イスラーム法(シャリーア)以外の法を施行する為政者はムスリム(イスラム教徒)であろうと背教者でありジハードによって排除せねばならないと断じており、そのため1990年代半ばまでは外国人への攻撃よりも国内の要人の暗殺を優先してきた。1981年にはジハード団の計画により、兵士ハリド・イスランブリがアンワル・アッ=サーダート大統領を暗殺(英語版)。1993年に内務相暗殺事件、首相暗殺未遂事件を相次いで起こすが、ともに一般民衆を巻き添えにするテロであったためにエジプト国民から激しい非難を受けた。 1980年代にエジプト政府により徹底的な弾圧を受け、1993年からは国外活動重視に転じ、アルバニアに拠点を置く。1995年には在パキスタン・エジプト大使館爆破事件を起こした。その後はウサーマ・ビン・ラーディンのアルカーイダに接近。1998年にビンラーディンの組織した「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」に参加し、ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破事件に関与したとされる。 エジプト国内のコプト教徒に対する激しい憎悪・虐殺でも悪名が知られており、他宗教に対する敵対的姿勢で知られている。
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ジハード団は、エジプトのイスラム過激派組織である。
{{出典の明記|date=2012年11月}} '''ジハード団'''('''&#1578;&#1606;&#1592;&#1610;&#1605; &#1575;&#1604;&#1580;&#1607;&#1575;&#1583;''' Tanz&#299;m al-Jih&#257;d)は、[[エジプト]]の[[イスラーム過激派|イスラム過激派組織]]である。 ==概要== [[イスラム国家]]の建設と[[カリフ]]制の復興を掲げて武装闘争を行っている。[[ムスリム同胞団]]の穏健路線に飽き足らない者たちが[[1970年代]]頃にいくつかの過激な急進主義の小組織を結成し、これらが[[1980年]]に合同したことにより結成された。本来はエジプト政府の打倒を、現在は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イスラエル]]を攻撃することをも目標としている。理論的指導者は{{仮リンク|ムハンマド・ファラジュ|en|Muhammad abd-al-Salam Faraj}}([[1954年]]-[[1982年]])で、"Islamic-fascism"<ref>Eikmeier, Dale C., [http://www.carlisle.army.mil/usawc/Parameters/Articles/07spring/eikmeier.htm ''Qutbism: An Ideology of Islamic-Fascism'']</ref>とも呼ばれるその理論はパンフレット" {{lang|ar|[[:ar:الفريضة الغائبة (كتاب)|الفريضة الغائبة]]}} "({{lang-en|neglected obligation}})によって広く知られた。主な指導者は[[アフガニスタン]]で対[[ソビエト連邦|ソ連]]戦に加わり[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]に思想的影響を与えたことで知られる[[アイマン・アッ=ザワーヒリー]]。[[オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)|オマル・アブドッラフマーン]]も同団体と関係が深い。現在は'''エジプト・イスラム・ジハード団'''({{lang-ar|الجهاد الإسلامي المصري}}、Egyptian Islamic Jihad、EIJ)と名乗っている。 == 活動 == 閣僚級のエジプト要人や、アメリカの役人に対する[[テロリズム|テロ活動]]を行っている。イスラーム法([[シャリーア]])以外の法を施行する為政者は[[ムスリム]]([[イスラム教|イスラム教徒]])であろうと背教者であり[[ジハード]]によって排除せねばならないと断じており、そのため[[1990年代]]半ばまでは外国人への攻撃よりも国内の要人の暗殺を優先してきた。[[1981年]]にはジハード団の計画により、兵士[[ハリド・イスランブリ]]が[[アンワル・アッ=サーダート]][[エジプトの大統領|大統領]]を{{仮リンク|アンワル・アッ=サーダート暗殺事件|label=暗殺|en|Assassination of Anwar Sadat}}。[[1993年]]に内務相暗殺事件、首相暗殺未遂事件を相次いで起こすが、ともに一般民衆を巻き添えにするテロであったためにエジプト国民から激しい非難を受けた。 [[1980年代]]にエジプト[[政府]]により徹底的な弾圧を受け、[[1993年]]からは国外活動重視に転じ、[[アルバニア]]に拠点を置く。[[1995年]]には在[[パキスタン]]・エジプト大使館爆破事件を起こした。その後はウサーマ・ビン・ラーディンの[[アルカーイダ]]に接近。[[1998年]]にビンラーディンの組織した「[[ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線]]」に参加し、[[ケニア]]・[[タンザニア]]の[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]に関与したとされる。 エジプト国内の[[コプト正教会|コプト教徒]]に対する激しい憎悪・[[虐殺]]でも悪名が知られており、他[[宗教]]に対する敵対的姿勢で知られている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}} *[[イスラム集団]] *[[イスラーム教徒による宗教的迫害]] {{対テロ戦争}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:しはあとたん}} [[Category:アルカーイダ]] [[Category:対テロ戦争]] [[Category:エジプトの組織]] [[Category:エジプトのイスラム教]] [[Category:イスラーム主義組織]] [[Category:アメリカ合衆国によりテロリスト認定された組織]] [[Category:欧州連合によりテロリスト認定された組織]] [[Category:イギリス内務省によりテロリスト認定された組織]] [[Category:ロシア連邦保安庁によりテロリスト認定された組織]] [[Category:オーストラリアによりテロリスト認定された組織]] [[Category:エジプトによりテロリスト認定された組織]] [[Category:公安調査庁の国際テロリズム要覧で言及されたテロ組織]]
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狭山日高インターチェンジ
狭山日高インターチェンジ(さやまひだかインターチェンジ)は、埼玉県狭山市根岸にある、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のインターチェンジ。 入間IC出口の分岐や入間市街に向かう道路が渋滞している場合、このICが使用される。 所在地は狭山市内であるが、日高市および飯能市との境界に近接している。 元々農地であり工業用地等の開発は比較的遅れていた地域である。しかし他のIC周辺よりもまとまった土地を安く得ることができることや、また、圏央道全通時に日本全国各地へ連絡でき、かつ都心へ1時間圏内であるため、関越自動車道・中央自動車道等を使い安定した輸送できることから、運送業者・倉庫業者の物流拠点が集まりつつある。 ※秩父方面への観光ルートである国道299号に近いが、国道299号は拡幅されていない箇所が多く、大型観光バスは関越道花園ICから国道140号バイパスを利用している。 インターチェンジに隣接して、新光工業地域と狭山工業団地が広がる。また、本田技研工業がある川越狭山工業団地までは都市計画道路でつながっている。
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狭山日高インターチェンジ(さやまひだかインターチェンジ)は、埼玉県狭山市根岸にある、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)のインターチェンジ。 入間IC出口の分岐や入間市街に向かう道路が渋滞している場合、このICが使用される。 所在地は狭山市内であるが、日高市および飯能市との境界に近接している。
{{出典の明記|date=2020年1月}} {{高速道路施設 |施設名 = 狭山日高インターチェンジ |画像ファイル = Sayama hidaka ic toll gate.JPG |画像説明 = 料金所 |道路名1 = {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] |番号1 = 46 |料金所番号1 = 01-064 |標識1 =(内回り)狭山日高IC [[飯能市|飯能]]<br />(外回り)狭山 [[日高市|日高]] 飯能 |起点1 = [[茅ヶ崎ジャンクション|茅ヶ崎JCT]] |距離1 = 69.3 |前の施設1 = [[狭山パーキングエリア|狭山PA]] |距離A1 = 0.9 |次の施設1 = [[圏央鶴ヶ島インターチェンジ|圏央鶴ヶ島IC]] |距離B1 = 6.8 |一般道 = {{Ja Pref Route Sign|pref=埼玉|number=262|width=20|align=left}}[[埼玉県道262号日高狭山線]] |供用開始日 = [[1996年]]([[平成]]8年)[[3月26日]] |通行台数 = 11,086台/日(2012年度) |郵便番号 = 350-1325 |住所 = [[埼玉県]][[狭山市]]根岸615 |座標 = {{coord|35|51|57.15|N|139|22|40.91|E|scale:10000_region:JP}} |備考 = }} '''狭山日高インターチェンジ'''(さやまひだかインターチェンジ)は、[[埼玉県]][[狭山市]]根岸にある、[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)の[[インターチェンジ]]。 [[入間インターチェンジ|入間IC]]出口の分岐や[[入間市|入間市街]]に向かう道路が渋滞している場合、このICが使用される。 所在地は狭山市内であるが、[[日高市]]および[[飯能市]]との境界に近接している。 == 歴史 == * [[1996年]](平成8年)[[3月26日]]:[[青梅インターチェンジ|青梅IC]] - [[鶴ヶ島ジャンクション|鶴ヶ島JCT]]間開通に伴い、供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ktr.mlit.go.jp/oomiya/02sigoto/468/gaiyou.htm |title=圏央道の概要・進捗状況 |publisher=国土交通省 関東地方整備局 大宮国道事務所 |accessdate=2017-01-08}}</ref>。 == 周辺 == 元々農地であり工業用地等の開発は比較的遅れていた地域である。しかし他のIC周辺よりもまとまった土地を安く得ることができることや、また、圏央道全通時に日本全国各地へ連絡でき、かつ都心へ1時間圏内であるため、[[関越自動車道]]・[[中央自動車道]]等を使い安定した輸送できることから、運送業者・倉庫業者の物流拠点が集まりつつある。 === 観光地 === * [[智光山公園]] * [[サイボク]] * [[巾着田]] * [[高麗神社]] * [[秩父御嶽神社]] * 埼玉県営[[狭山稲荷山公園]] * 埼玉県営[[彩の森入間公園]] * [[メッツァ (テーマパーク)|メッツァ]] ※秩父方面への観光ルートである[[国道299号]]に近いが、国道299号は拡幅されていない箇所が多く、大型観光バスは[[関越自動車道|関越道]][[花園インターチェンジ|花園IC]]から国道140号バイパスを利用している。 === ショッピング === * [[イオン (店舗ブランド)|イオン]]狭山店(旧・カルフール狭山店) * [[丸広百貨店]]入間店 * スーパー[[ビバホーム]]狭山日高インター飯能店 === 近隣立地企業 === * [[小岩井乳業]]関東支店・東京工場・統括物流センター * [[本田技研工業]]埼玉製作所 * [[西武物流]] * [[新潟運輸]] * [[カネ美食品]]埼玉工場 * [[アサヒロジスティクス]]狭山物流センター インターチェンジに隣接して、[[新光工業地域]]と[[狭山工業団地]]が広がる。また、[[本田技研工業]]がある[[川越狭山工業団地]]までは都市計画道路でつながっている。 === 駅 === * [[狭山市駅]]([[西武鉄道]]・[[西武新宿線]]) * [[入間市駅]](西武鉄道・[[西武池袋線|池袋線]]) * [[仏子駅]](西武鉄道・池袋線) == 接続する道路 == * 直接接続 ** {{Ja Exp Route Sign|C4}}[[首都圏中央連絡自動車道]](46番) ** [[埼玉県道262号日高狭山線]] * 間接接続 ** [[国道407号]] ** [[埼玉県道347号馬引沢飯能線]] ** [[埼玉県道397号堀兼根岸線]] == 隣 == ; {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] : (45)[[入間インターチェンジ|入間IC]] - [[狭山パーキングエリア|狭山PA]] - '''(46)狭山日高IC''' - (47)[[圏央鶴ヶ島インターチェンジ|圏央鶴ヶ島IC]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本のインターチェンジ一覧]] == 外部リンク == * [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路] * [https://www.city.sayama.saitama.jp/ 狭山市] * [https://www.city.hidaka.lg.jp/ 日高市] {{首都圏中央連絡自動車道}} {{Road-stub}} {{DEFAULTSORT:さやまひたかいんたあちえんし}} [[Category:日本のインターチェンジ さ|やまひたか]] [[Category:埼玉県のインターチェンジ|さやまひたか]] [[Category:狭山市の交通]] [[Category:1996年開業の道路施設]]
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東京湾アクアライン
東京湾アクアライン(とうきょうわんアクアライン、英語: TOKYO-WAN-AQUA-LINE EXPWY)・東京湾アクアライン連絡道(とうきょうわんアクアラインれんらくどう、AQUA RENRAKU EXPWY)は、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市へ至る高速道路である。東京湾横断道路・東京湾横断道路連絡道として地域高規格道路の計画路線に指定されている。 高速道路ナンバリングによる路線番号はアクアライン・アクア連絡道ともに 「CA」 が割り振られている。 東京湾の中央部を、神奈川県側の川崎市から千葉県側の木更津市までをほぼ一直線に結んで横断する、自動車専用道路の有料道路の名称で、川崎浮島ジャンクション (JCT) - 木更津金田インターチェンジ (IC) 間を「東京湾アクアライン」、木更津金田IC - 木更津JCT間を「東京湾アクアライン連絡道」という。東京湾横断道路の建設に関する特別措置法では、川崎市と木更津市との間で東京湾を横断する一般国道を東京湾横断道路と定義しており、また、旧日本道路公団による有料管理を前提としていわゆる民活の手法が具体化されていた。道路法上は、一般国道409号の路線に指定されており、自動車専用道路に指定されている。 東京湾アクアライン道路全体の総延長は15.1キロメートル (km) で、このうち、東京湾を横断する川崎側の約9.5 km区間に東京湾アクアトンネル(以下、アクアトンネル) と呼ばれるトンネル、木更津側の約4.4 km区間に東京湾アクアブリッジ(以下、アクアブリッジ)と呼ばれる橋がある。 トンネルと橋が直結される場所は、人工島である海ほたるパーキングエリア (PA) が設けられ、海ほたるPA内で川崎・木更津両方向共にUターンが可能である。アクアブリッジは、日本一の長さ(全長4,384 m)の橋梁、アクアトンネルは、山手トンネル・関越トンネル・飛驒トンネルに次ぐ日本第4位の長さ(全長9,607 m)の道路トンネルで、海底道路トンネルとしては日本最長、世界でも第2位の長さである。またアクアトンネル内は、一般国道の中でも日本一標高が低い位置(海面下60 m)を通る場所で知られる。 木更津人工島である海ほたるPAは、幅100 m、全長650 mで5階建ての休憩施設がある。いっぽうの川崎人工島である「風の塔」は直径195 mの円形の人工島で、アクアトンネルの中間に位置し、トンネル内の換気を行っている。 1997年12月18日に開通。日本道路公団が一般有料道路として管理していたが、2000年7月3日の事業計画変更に伴い、2013年4月27日に開通した首都圏中央連絡自動車道の東金ジャンクション(JCT) - 木更津JCTを含め東京湾横断・木更津東金道路と有料道路事業の道路名を変更。同時に京葉道路・千葉東金道路で構成されていた料金プール制(通称:千葉プール)に組み込まれた。2005年10月1日の道路公団民営化により、現在は東日本高速道路管理の全国路線網となっている。 1988年11月には川崎人工島(風の塔)と木更津人工島(海ほたるパーキングエリア)の間のトンネル部分に警察管轄区域の管轄区分線を設定し、区分線西側を神奈川県警、区分線東側を千葉県警察が管轄している。また、1997年10月には関係自治体の千葉県・東京都・神奈川県・木更津市・川崎市が管轄区分線と同様に協定し、境界線を定めた。また、同年12月には消防部局の管轄の取り決めを行い、アクアブリッジ全体とアクアトンネル上り線を木更津市消防本部(木更津消防署金田分署)が、アクアトンネル下り線を川崎市消防局(臨港消防署浮島出張所)が担当することとなった。木更津人工島および浮島JCT管理Aヤードにはアクアトンネルの避難坑を走行することができる、車体の低い専用消防車の車庫が設置され、消火活動車(化学消防車に準ずる装備)、救助活動車(救助工作車に準ずる装備)、救急活動車(救急車に準ずる装備)がそれぞれ1台ずつ配備されている。 夜景スポットの魅力を高めるため、150メートル間隔に設置していたポール型照明を撤去し、LED照明を計285灯を新たに取り付ける工事に2013年11月から着工し、2014年8月に完成した。 川崎と木更津とを結ぶアクアラインは、川崎側はシールドトンネル、木更津側は橋梁を採用している。この構造は当初構想された工法・構造から一大転換されて採用されたものである。 1971年頃の構想では、川崎側と木更津側の両側を橋梁構造とし、中央部をシールドトンネルではなく沈埋トンネルとするものであった。トンネルを採用したのは、船舶および航空機という東京湾の海上および上空の既存の交通との兼ね合いである。 つまり、全ての区間で橋梁構造を採用すると大型船舶の航行に支障をきたす。だからといって、橋梁で大型船舶を通過させるだけの高度を確保すると羽田空港を離着陸する航空機の障害となる。そのため、大型船舶を航行可能とするトンネル部分を設ける必要があったのである。 実は、この構想段階では二つの案が含まれており、一方(A案)は当時のトンネル換気技術に基づいて、中央部に3 kmの沈埋トンネルを建設し、盛り土構造の2つの人工島で橋梁と接続するものであった。他方(B案)も中央部のみを沈埋トンネルとする点は変わらないが、トンネル中央部にも換気用の人工島を設置して2本の沈埋トンネルを接続し合計5 kmをトンネル構造とする案であった。 そして工費の優位性からA案が詳細に検討され、1975年に建設省が中央部をトンネル構造とする案を発表して、以降はA案を前提として事業の調査が進められた。1981年頃には換気技術の進歩を反映させ、1本の沈埋トンネルにおいて中央部5 kmとする案に変更されたが、中央部を1本の沈埋トンネルとするA案の構造に変わりはなかった。 1985年度になると、中央部を沈埋トンネルとする構造から、川崎側の10 km全てをトンネルの構造とし、そのトンネルの工法もシールド工法とするように計画変更がなされた。その理由は、川崎側は船舶の航行が多く、実際に建設予定地には1日に1,300隻もの船舶が通過しているとされたが、全体の約7割が川崎側の橋梁予定部分に集中していたためである。また、川崎側を橋梁からトンネルにし、さらに中央部も含めてトンネルの工法を沈埋工法からシールド工法に変更すれば建設時・供用開始後の航行する船舶への影響を少なくできるとされた。 構想当初においてはシールド工法は発展途上であり、小口径のトンネルのみに採用され大口径の海底トンネルに採用された事例は無かったが、シールド工法は構想中にも進歩し続けていたので技術的に実現可能に至ったという経緯からである。さらに施工費用の面では、川崎側をトンネル構造に変更したとしても、軟弱な地盤に下部工の施工費用をかけて橋梁とするものと大差無いことも判明したため、現在の構造が採用されるに至った。 シールドトンネル(アクアトンネル)と橋梁(アクアブリッジ)は、長さ約650 m、幅約100 mの木更津人工島(海ほたるPA)で結ばれており、アクアブリッジの橋げたは、海ほたる付近で総トン数2,000トンの船舶が航行可能な径間の確保と、桁下部分のクリアランスを確保するため高くなっている。また、耐震性と走行性の向上を図るため、日本国内には前例がない最多11径間となる多径間連続化が図られている。 アクアトンネルの掘削は、浮島、川崎人工島(風の塔)、および木更津人工島の3か所から発進した世界最大径となる外径14.14 mの合計8機のシールドマシンによって進められた。 川崎人工島は、トンネルの中間地点に位置するドーナツ型の縦穴基地であり、シールドマシンを発進させるため最初に木更津人工島とともに建設された。川崎人工島は供用開始後トンネルの換気塔のためにも使用され、その中心には排気ガスと新鮮な空気を入れ替える設備がある。東京湾に吹く風を利用して換気するため、換気塔の傾斜などは、季節ごとに変わる風の向きや強さを全て空気力学的に計算された結果である。川崎人工島の構造物の素材には、羽田空港を離着陸する飛行機が発するレーダー波を乱反射しないものが使用されている。 トンネルの換気塔は川崎側にも設置され、浮島換気口として機能している。浮島換気口はピラミッド状(四角錐)の装飾を有していたが、羽田空港D滑走路供用開始時には換気口上部が航路の障害となったため、2009年に上部の12 mを取り払う改修工事が行われた。 シールド工法の断面は円状であるため、アクアトンネルの車道下側に、緊急車両などが通る管理用道路や光ファイバーなどの通信ケーブルが設置されている。この車道下側は、避難用通路としても機能するように、気圧を0.1%高めることで、火災発生時に煙の侵入を防いでおり、車道からスロープで降りられるようになっている。車道には300m置きに避難口(上下線合わせて66箇所)があり、避難用通路にはNEXCO東日本 岩槻道路管制センターにつながる、直通の非常電話も設置されている。 アクアラインはトンネル部、橋梁部とも4車線だが、将来的に6車線化が可能な構造で建設されている。アクアトンネルには、現在の上下線に加えて2車線分のトンネルをもう1本掘削できるよう坑口部の準備工事がなされており、海ほたるPAの休日用駐車場の奥に300 m程のトンネルが掘削されている他、風の塔も3本目のトンネルが接続可能な構造となっている。また、アクアブリッジは外側に車線を追加する拡幅が可能な構造となっている。 東京湾アクアラインの開通によって、木更津 - 川崎間の距離が約100 kmから30 km、所要時間も約90分から約30分へと短縮された。千葉房総エリアの半島性が緩和され、首都圏の物流効率の向上や、房総半島の経済産業発展や両岸地域の相互文化交流に寄与している。 総工費は約1兆4,409億円に対して開通時の利用は推定交通量を大幅に下回り、その費用対効果の面で批判を招いた。これは、通行料金が高速道路全国プール制に組み込まれず、アクアライン単独償還で非常に高額なためで、普通車の海上部は通常料金で1 km当たり198.68円であり、同様に高額な料金の本州四国連絡道路の252.72円より若干低い。その結果、採算性に重大な問題が生じているが、これは元々の推定交通量の見通しが出鱈目だったという指摘がある。開通20年後(2017年)には、上下線合わせて一日64,000台、すなわち片側2車線上を24時間休みなしに、毎日2.7秒に1台の自動車が通過するであろうという交通量が推定されていた。 通行料金の設定は、数回の料金改定を経て、普通車料金で1997年の開通当時は4,000円だったのが3,000円まで引き下げられた経緯を持つ。 建設の目的の一つとして、東京湾環状道路を構成し、また圏央道とともに3環状道路の一番外側の環状道路の一部を担い、首都高速湾岸線等の渋滞緩和に役立つことが期待されていたが、僅か15キロメートルの道路なのに高額な通行料金のため、アクアラインに利用転換する自動車が無く、目立った成果はなかった。 木更津地区の更なる活性化が期待されていたが、木更津は単なる通過点となり、開業すると房総半島在住の買物客が比較的安価な運賃である高速バス(後述)を利用して、東京都内や横浜へ流出してしまう「ストロー効果」が促進された結果、木更津駅前の百貨店である木更津そごうやスーパーマーケットが相次いで撤退し、駅前商店街がシャッター通り化したり、アクアラインの開通を見込んで造成した住宅地や工業団地の用地が売れ残り、地価が暴落するなど、木更津市を中心とした商圏経済に大打撃となり、2010年代前半までの長期間に渡って低迷する一因になった。 2007年に館山自動車道が全線開通したことで、東京から南房総までの所要時間が約1時間前後短縮された。 2009年、森田健作がETC無線走行に限り「普通車800円へ引き下げる」と千葉県知事選挙で公約し当選した。公約は麻生内閣との協議を経て実行された。社会実験による通行料金引き下げにより、アクアラインの交通量は増加。1日の平均交通量が平均1万台だったものが4万台となった。千葉県は、通行料金の引き下げによる経済効果は、2年半で1,155億円と推計した。 また、京浜地域に通勤する労働者が、木更津市や君津市内に相次いで引越しして地価が急騰したり、郊外にアウトレットモールやショッピングセンターが順次進出して、アクアライン開業前の経済状況に回復しつつある。 2013年4月に首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が東金JCTまでが開通し、房総半島山間部を横断することにより、茂原市・夷隅郡など外房北部地域への到達時間も短縮された。 一方で、競合する東京湾フェリーの輸送台数が2008年度に比べて約3割減少し、フェリーが1艘削減されたり、JR東日本では館山自動車道と競合する内房線の特急「さざなみ」の利用者が蘇我駅 - 館山駅で減少し、特に2015年のダイヤ改正で、特別急行列車の君津駅 - 館山駅間で定期運行廃止や本数の大幅削減、日中の運転系統分離を強いられたり、開通翌年の1998年には、房総夏ダイヤが廃止されるデメリットも表れている。また、対岸の神奈川県側における経済効果(2014年4月から2016年9月まで)は約127億円と千葉県における経済効果(約869億円)やアクアラインと直接結んでいない東京都における経済効果(約148億円)と比べても少なく、「もっと両岸の交流を活発にすべき」との指摘もある。 東京湾横断道路の構想は、1961年(昭和36年)に産業計画会議から出された第12次勧告「東京湾の横断堤を~高潮と交通の解決策として~」内にも記述があり、昭和30年代から構想そのものは存在したが、それから30年以上の歳月を経て1997年(平成9年)に実現した道路である。 東京湾横断道路の建設に関する特別措置法に基づき、民間・地方公共団体・日本道路公団の共同出資により設立した東京湾横断道路株式会社が建設・管理を行い、日本道路公団が道路を所有し、対外調整を行う方式によって事業が実施された。建設工事は東京湾横断道路株式会社が東京湾アクアラインの海上部にあたる約14.3 km区間を担当し、日本道路公団は、事業調整・用地買収・漁業補償のほかに、川崎市と木更津市の陸上部の建設を受け持った。 東京湾の海底はヘドロ層の軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こるなど海底トンネルとしては悪条件が重なっており、人類を初めて月面に到達させたアメリカ合衆国連邦政府の「アポロ計画」になぞらえて、技術者たちからは「土木のアポロ計画」と呼ばれた。工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンが使用され、総工費は約1兆4,000億円にも達した。 東京湾アクアトンネルは道路法第46条第3項の5 km以上の長大トンネルで、ほぼ全てが東京湾の真下を潜る水底トンネルも兼ねているため、浮島JCT - 海ほたるPA間は危険物積載車両の通行が禁止されている。 該当車両は東関東道や京葉道路などへ大きく迂回しなければならないが、接続する首都高速湾岸線の東京港トンネル・空港北トンネル・多摩川トンネル・川崎航路トンネル、更には湾岸線に並行する首都高速1号羽田線の羽田トンネルも危険物積載車両の通行が禁止されており、川崎方面へは一般道路を経由するか、東名高速などへ迂回する必要がある。 なお、規制区間の手前である上り線の袖ケ浦ICと木更津金田ICの手前には、該当車両の退出を促す注意標識が設置されている。海ほたるPAは、Uターンする必要こそあるものの、木更津方面からのみ該当車両の利用が可能である。 木更津金田IC - 木更津JCT間は「東京湾アクアライン連絡道(アクア連絡道)」区間として、東京湾アクアラインとは別料金となっている。木更津西JCT - 木更津JCT間(1.5 km)は高速自動車国道である東関東自動車道千葉富津線に含まれ、高速自動車国道普通区間の料金が適用される。 整備重視の料金から利用重視の料金への転換という方針のもと、2014年(平成26年)4月1日に伊勢湾岸道路と同等の1キロメートル当たり108.1円に料金水準が引き下げられた。ただし、債務の返済状況やETC車の割合が増え料金徴収コスト差が拡大している現状を考慮し、ETC限定で当面10年間実施とされた。 ETC普通車800円は、消費税率が8%となる2014年度以降も、千葉県が引き続き費用の一部を負担することを前提としてそのままの額で継続されることになり、財源は平成25年度補正予算により手当された。 割引期間は、10年間という報道もあるが、これは前述の利用重視の料金水準の実施期間を元に報道されたもので、NEXCOのプレスリリースでは「当分の間」、事業許可においては「東日本高速道路株式会社が別に定める日まで」 とされており、必要な財源の執行は、日本国政府および千葉県の協議により、年度ごとの毎年更新となっていた。 千葉県は補助を継続し、平成27年度千葉県予算案で、東京湾アクアライン料金割引事業として5億円が計上されている。日本国政府と千葉県の事業継続協議は年度ごとの実施であったが、2019年度からは3年ごとの協議に改められた。2022年(令和4年)3月30日に向こう3年間の継続が決まったことが国土交通省から発表された。国と県が毎年それぞれ約5億円づつ拠出する。 2023年6月、国土交通省道路局、千葉県、NEXCO東日本の三者は休日の夕方時間帯における上り線(木更津→川崎方面)の渋滞緩和策としてロードプライシング(変動料金)制度を同年7月22日から2024年3月31日までの予定でETC搭載の全車種を対象に「ETC社会実験制度」として導入することを発表した。ロードプライシングを導入するのは2021年開催の東京オリンピック・パラリンピックに伴う首都高速道路での期間限定導入以来、2例目となる。 アクアライン特別割引(割引率約23%)は、2002年7月19日から実施していた社会実験が 2006年4月1日から恒久化されたものである。その後もETC車を対象にした社会実験割引が相次いで実施され、2007年8月20日に通勤割引を開始、同年9月25日からは特定区間割引が実施されていた。 2009年3月、生活対策に基づく高速道路料金の引き下げ開始と同時に、各種時間帯割引が本格的に開始された。まず、3月20日から休日特別割引(上限1,000円)がアクアラインで先行実施され、3月28日には深夜割引・通勤割引、3月30日には平日夜間割引・平日昼間割引も開始された。 2009年千葉県知事選挙で、森田健作がETC無線走行に限り普通車800円へ引き下げると公約し当選した。これにより、内閣総理大臣麻生太郎と会談が行われ、麻生政権下の国土交通省(日本国政府)と千葉県が必要費用を負担する社会実験として、2009年8月1日から通行料金を毎日終日800円(普通車)へ大幅に引き下げた。当初予定は2011年(平成23年)3月31日までであったが、さらに延長された。 2009年8月からの料金引き下げ社会実験(ETC割引800円)を開始してからは、交通量が2008年度比で1.5倍前後に伸び、2012年度は4月に開業した三井アウトレットパーク 木更津による波及効果が大きく 2008年度全日比で約1.8倍、2005年度道路交通センサス平日24時間交通量比では約3倍と通行量が増大した。それでも、開通20年後(2017年)に推定していた上下線合わせて一日64,000台の交通量には達していない現状がある。 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」「令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 開通当初は、高額な通行料金による通行量の少なさから自然渋滞は発生しなかったが、通行料の値下げ施策により次第に交通量が増加したことで、通勤時間帯やゴールデンウィークなどピーク期に、東京湾アクアトンネルの両端にあたる川崎浮島ジャンクション(上り線)と海ほたるPA入口(下り線)付近で、速度低下による1 km程度の混雑が日常的に見られるようになった。休日の日中は、海ほたるPAへの入庫待ちのために、分岐手前付近で渋滞を起こすこともある。また、トンネルや連絡橋の坂道とほぼ直線という線形から、追突事故や故障車が発生しやすく、車線規制による事故渋滞を生ずることもある。 交通量が飛躍的に増加した2012年以降は、週末・休日の夕方に上り線川崎浮島JCTからアクア連絡道の木更津JCTまで全線にわたる渋滞が頻繁に発生するようになった(並行ルートの京葉道路や東関東道でも同時間帯は渋滞している場合が多い)。 主に川崎・東京方面から、房総半島へレジャーで向かったマイカーが、Uターンラッシュを生じさせるものであり、木更津JCTから川崎浮島JCTまで90分以上になることもある。これは、川崎浮島JCTの接続道路となる首都高速湾岸線と異なり片側2車線である上、アクア連絡道と木更津金田ICが合流する木更津本線料金所手前と、川崎浮島JCT手前の登坂速度低下がボトルネックとなっており、交通容量の逼迫から発生するものである。また下り線においては、週末・休日の朝から昼にかけて、海ほたるPA手前や木更津金田IC付近を先頭とする渋滞が、接続する首都高速湾岸線両方向にも伸び、大型連休時などは、大井JCTから海ほたるPAまで数時間費やすこともある。 2013年4月27日から、上り線のアクアトンネル終点(浮島側)手前の登坂部分の壁側面に、速度低下を防ぐ効果がある「ペースメーカーライト」を設置している。 陸上部は、東京湾アクアラインが神奈川県川崎市に約0.3 km、千葉県木更津市側に0.6 kmにあり、千葉県木更津市にある東京湾アクアライン連絡道(木更津金田IC - 木更津JCT)に8.6 kmある。線形は全線に渡って東西方向にほぼ一直線で、海ほたるPAや、東京湾の海上部の橋梁区間を木更津から川崎方面に向かうと、左前方に横浜市街地、遠方に富士山を望むことができる。東京湾に浮かぶ海ほたるは、世界的にみても珍しい海上のパーキングエリアとなっている。 東京湾横断道路株式会社(とうきょうわんおうだんどうろ、英: TRANS-TOKYO BAY HIGHWAY CORPORATION)は、1986年(昭和61年)10月1日に設立された第三セクター企業である。 1987年(昭和62年)7月13日、東京湾横断道路の建設に関する特別措置法に基づき、日本道路公団と建設協定を締結し、東京湾横断道路建設事業者となった。開通前日の1997年(平成9年)12月17日、改めて道路公団と管理協定を締結し、日常的管理業務をおこなっている。本社は東京都品川区大井1丁目20番6号住友大井町ビル北館5階。 交通量が想定を下回る一方、運賃が比較的安価な高速バスの路線は開通時から設定され、木更津駅から横浜駅・新宿駅・品川駅・川崎駅・羽田空港など、あるいは東京駅から木更津駅・君津駅・袖ケ浦駅・茂原駅・安房鴨川駅・勝浦駅・館山駅など房総半島各地への路線が運行され充実している。近年では木更津周辺から都心への通勤客も増加しており、鉄道と並ぶ通勤の足としても利用されている。 アクアライン開通後にパークアンドライドを想定して、木更津金田バスターミナル、袖ケ浦バスターミナル、君津バスターミナル、市原バスターミナル、市原鶴舞バスターミナルも設置された。 羽田空港・横浜方面および新富士駅から成田空港へのリムジンバスは、通常ルートである首都高速湾岸線が大渋滞や通行止めになった際に、アクアラインへ迂回運行する場合がある。 逆にアクアラインが長時間通行止めになることが予告されている「ちばアクアラインマラソン」開催日(2012年から基本的に隔年開催で10月の日曜日、ただし2020年は中止)などは、下記路線の内の重要便がアクアラインを経由しない首都高速湾岸線に迂回運行することもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東京湾アクアライン(とうきょうわんアクアライン、英語: TOKYO-WAN-AQUA-LINE EXPWY)・東京湾アクアライン連絡道(とうきょうわんアクアラインれんらくどう、AQUA RENRAKU EXPWY)は、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市へ至る高速道路である。東京湾横断道路・東京湾横断道路連絡道として地域高規格道路の計画路線に指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高速道路ナンバリングによる路線番号はアクアライン・アクア連絡道ともに 「CA」 が割り振られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京湾の中央部を、神奈川県側の川崎市から千葉県側の木更津市までをほぼ一直線に結んで横断する、自動車専用道路の有料道路の名称で、川崎浮島ジャンクション (JCT) - 木更津金田インターチェンジ (IC) 間を「東京湾アクアライン」、木更津金田IC - 木更津JCT間を「東京湾アクアライン連絡道」という。東京湾横断道路の建設に関する特別措置法では、川崎市と木更津市との間で東京湾を横断する一般国道を東京湾横断道路と定義しており、また、旧日本道路公団による有料管理を前提としていわゆる民活の手法が具体化されていた。道路法上は、一般国道409号の路線に指定されており、自動車専用道路に指定されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京湾アクアライン道路全体の総延長は15.1キロメートル (km) で、このうち、東京湾を横断する川崎側の約9.5 km区間に東京湾アクアトンネル(以下、アクアトンネル) と呼ばれるトンネル、木更津側の約4.4 km区間に東京湾アクアブリッジ(以下、アクアブリッジ)と呼ばれる橋がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "トンネルと橋が直結される場所は、人工島である海ほたるパーキングエリア (PA) が設けられ、海ほたるPA内で川崎・木更津両方向共にUターンが可能である。アクアブリッジは、日本一の長さ(全長4,384 m)の橋梁、アクアトンネルは、山手トンネル・関越トンネル・飛驒トンネルに次ぐ日本第4位の長さ(全長9,607 m)の道路トンネルで、海底道路トンネルとしては日本最長、世界でも第2位の長さである。またアクアトンネル内は、一般国道の中でも日本一標高が低い位置(海面下60 m)を通る場所で知られる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "木更津人工島である海ほたるPAは、幅100 m、全長650 mで5階建ての休憩施設がある。いっぽうの川崎人工島である「風の塔」は直径195 mの円形の人工島で、アクアトンネルの中間に位置し、トンネル内の換気を行っている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1997年12月18日に開通。日本道路公団が一般有料道路として管理していたが、2000年7月3日の事業計画変更に伴い、2013年4月27日に開通した首都圏中央連絡自動車道の東金ジャンクション(JCT) - 木更津JCTを含め東京湾横断・木更津東金道路と有料道路事業の道路名を変更。同時に京葉道路・千葉東金道路で構成されていた料金プール制(通称:千葉プール)に組み込まれた。2005年10月1日の道路公団民営化により、現在は東日本高速道路管理の全国路線網となっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1988年11月には川崎人工島(風の塔)と木更津人工島(海ほたるパーキングエリア)の間のトンネル部分に警察管轄区域の管轄区分線を設定し、区分線西側を神奈川県警、区分線東側を千葉県警察が管轄している。また、1997年10月には関係自治体の千葉県・東京都・神奈川県・木更津市・川崎市が管轄区分線と同様に協定し、境界線を定めた。また、同年12月には消防部局の管轄の取り決めを行い、アクアブリッジ全体とアクアトンネル上り線を木更津市消防本部(木更津消防署金田分署)が、アクアトンネル下り線を川崎市消防局(臨港消防署浮島出張所)が担当することとなった。木更津人工島および浮島JCT管理Aヤードにはアクアトンネルの避難坑を走行することができる、車体の低い専用消防車の車庫が設置され、消火活動車(化学消防車に準ずる装備)、救助活動車(救助工作車に準ずる装備)、救急活動車(救急車に準ずる装備)がそれぞれ1台ずつ配備されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "夜景スポットの魅力を高めるため、150メートル間隔に設置していたポール型照明を撤去し、LED照明を計285灯を新たに取り付ける工事に2013年11月から着工し、2014年8月に完成した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "川崎と木更津とを結ぶアクアラインは、川崎側はシールドトンネル、木更津側は橋梁を採用している。この構造は当初構想された工法・構造から一大転換されて採用されたものである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1971年頃の構想では、川崎側と木更津側の両側を橋梁構造とし、中央部をシールドトンネルではなく沈埋トンネルとするものであった。トンネルを採用したのは、船舶および航空機という東京湾の海上および上空の既存の交通との兼ね合いである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "つまり、全ての区間で橋梁構造を採用すると大型船舶の航行に支障をきたす。だからといって、橋梁で大型船舶を通過させるだけの高度を確保すると羽田空港を離着陸する航空機の障害となる。そのため、大型船舶を航行可能とするトンネル部分を設ける必要があったのである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "実は、この構想段階では二つの案が含まれており、一方(A案)は当時のトンネル換気技術に基づいて、中央部に3 kmの沈埋トンネルを建設し、盛り土構造の2つの人工島で橋梁と接続するものであった。他方(B案)も中央部のみを沈埋トンネルとする点は変わらないが、トンネル中央部にも換気用の人工島を設置して2本の沈埋トンネルを接続し合計5 kmをトンネル構造とする案であった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "そして工費の優位性からA案が詳細に検討され、1975年に建設省が中央部をトンネル構造とする案を発表して、以降はA案を前提として事業の調査が進められた。1981年頃には換気技術の進歩を反映させ、1本の沈埋トンネルにおいて中央部5 kmとする案に変更されたが、中央部を1本の沈埋トンネルとするA案の構造に変わりはなかった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1985年度になると、中央部を沈埋トンネルとする構造から、川崎側の10 km全てをトンネルの構造とし、そのトンネルの工法もシールド工法とするように計画変更がなされた。その理由は、川崎側は船舶の航行が多く、実際に建設予定地には1日に1,300隻もの船舶が通過しているとされたが、全体の約7割が川崎側の橋梁予定部分に集中していたためである。また、川崎側を橋梁からトンネルにし、さらに中央部も含めてトンネルの工法を沈埋工法からシールド工法に変更すれば建設時・供用開始後の航行する船舶への影響を少なくできるとされた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "構想当初においてはシールド工法は発展途上であり、小口径のトンネルのみに採用され大口径の海底トンネルに採用された事例は無かったが、シールド工法は構想中にも進歩し続けていたので技術的に実現可能に至ったという経緯からである。さらに施工費用の面では、川崎側をトンネル構造に変更したとしても、軟弱な地盤に下部工の施工費用をかけて橋梁とするものと大差無いことも判明したため、現在の構造が採用されるに至った。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "シールドトンネル(アクアトンネル)と橋梁(アクアブリッジ)は、長さ約650 m、幅約100 mの木更津人工島(海ほたるPA)で結ばれており、アクアブリッジの橋げたは、海ほたる付近で総トン数2,000トンの船舶が航行可能な径間の確保と、桁下部分のクリアランスを確保するため高くなっている。また、耐震性と走行性の向上を図るため、日本国内には前例がない最多11径間となる多径間連続化が図られている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アクアトンネルの掘削は、浮島、川崎人工島(風の塔)、および木更津人工島の3か所から発進した世界最大径となる外径14.14 mの合計8機のシールドマシンによって進められた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "川崎人工島は、トンネルの中間地点に位置するドーナツ型の縦穴基地であり、シールドマシンを発進させるため最初に木更津人工島とともに建設された。川崎人工島は供用開始後トンネルの換気塔のためにも使用され、その中心には排気ガスと新鮮な空気を入れ替える設備がある。東京湾に吹く風を利用して換気するため、換気塔の傾斜などは、季節ごとに変わる風の向きや強さを全て空気力学的に計算された結果である。川崎人工島の構造物の素材には、羽田空港を離着陸する飛行機が発するレーダー波を乱反射しないものが使用されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "トンネルの換気塔は川崎側にも設置され、浮島換気口として機能している。浮島換気口はピラミッド状(四角錐)の装飾を有していたが、羽田空港D滑走路供用開始時には換気口上部が航路の障害となったため、2009年に上部の12 mを取り払う改修工事が行われた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "シールド工法の断面は円状であるため、アクアトンネルの車道下側に、緊急車両などが通る管理用道路や光ファイバーなどの通信ケーブルが設置されている。この車道下側は、避難用通路としても機能するように、気圧を0.1%高めることで、火災発生時に煙の侵入を防いでおり、車道からスロープで降りられるようになっている。車道には300m置きに避難口(上下線合わせて66箇所)があり、避難用通路にはNEXCO東日本 岩槻道路管制センターにつながる、直通の非常電話も設置されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アクアラインはトンネル部、橋梁部とも4車線だが、将来的に6車線化が可能な構造で建設されている。アクアトンネルには、現在の上下線に加えて2車線分のトンネルをもう1本掘削できるよう坑口部の準備工事がなされており、海ほたるPAの休日用駐車場の奥に300 m程のトンネルが掘削されている他、風の塔も3本目のトンネルが接続可能な構造となっている。また、アクアブリッジは外側に車線を追加する拡幅が可能な構造となっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東京湾アクアラインの開通によって、木更津 - 川崎間の距離が約100 kmから30 km、所要時間も約90分から約30分へと短縮された。千葉房総エリアの半島性が緩和され、首都圏の物流効率の向上や、房総半島の経済産業発展や両岸地域の相互文化交流に寄与している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "総工費は約1兆4,409億円に対して開通時の利用は推定交通量を大幅に下回り、その費用対効果の面で批判を招いた。これは、通行料金が高速道路全国プール制に組み込まれず、アクアライン単独償還で非常に高額なためで、普通車の海上部は通常料金で1 km当たり198.68円であり、同様に高額な料金の本州四国連絡道路の252.72円より若干低い。その結果、採算性に重大な問題が生じているが、これは元々の推定交通量の見通しが出鱈目だったという指摘がある。開通20年後(2017年)には、上下線合わせて一日64,000台、すなわち片側2車線上を24時間休みなしに、毎日2.7秒に1台の自動車が通過するであろうという交通量が推定されていた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "通行料金の設定は、数回の料金改定を経て、普通車料金で1997年の開通当時は4,000円だったのが3,000円まで引き下げられた経緯を持つ。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "建設の目的の一つとして、東京湾環状道路を構成し、また圏央道とともに3環状道路の一番外側の環状道路の一部を担い、首都高速湾岸線等の渋滞緩和に役立つことが期待されていたが、僅か15キロメートルの道路なのに高額な通行料金のため、アクアラインに利用転換する自動車が無く、目立った成果はなかった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "木更津地区の更なる活性化が期待されていたが、木更津は単なる通過点となり、開業すると房総半島在住の買物客が比較的安価な運賃である高速バス(後述)を利用して、東京都内や横浜へ流出してしまう「ストロー効果」が促進された結果、木更津駅前の百貨店である木更津そごうやスーパーマーケットが相次いで撤退し、駅前商店街がシャッター通り化したり、アクアラインの開通を見込んで造成した住宅地や工業団地の用地が売れ残り、地価が暴落するなど、木更津市を中心とした商圏経済に大打撃となり、2010年代前半までの長期間に渡って低迷する一因になった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2007年に館山自動車道が全線開通したことで、東京から南房総までの所要時間が約1時間前後短縮された。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2009年、森田健作がETC無線走行に限り「普通車800円へ引き下げる」と千葉県知事選挙で公約し当選した。公約は麻生内閣との協議を経て実行された。社会実験による通行料金引き下げにより、アクアラインの交通量は増加。1日の平均交通量が平均1万台だったものが4万台となった。千葉県は、通行料金の引き下げによる経済効果は、2年半で1,155億円と推計した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、京浜地域に通勤する労働者が、木更津市や君津市内に相次いで引越しして地価が急騰したり、郊外にアウトレットモールやショッピングセンターが順次進出して、アクアライン開業前の経済状況に回復しつつある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2013年4月に首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が東金JCTまでが開通し、房総半島山間部を横断することにより、茂原市・夷隅郡など外房北部地域への到達時間も短縮された。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方で、競合する東京湾フェリーの輸送台数が2008年度に比べて約3割減少し、フェリーが1艘削減されたり、JR東日本では館山自動車道と競合する内房線の特急「さざなみ」の利用者が蘇我駅 - 館山駅で減少し、特に2015年のダイヤ改正で、特別急行列車の君津駅 - 館山駅間で定期運行廃止や本数の大幅削減、日中の運転系統分離を強いられたり、開通翌年の1998年には、房総夏ダイヤが廃止されるデメリットも表れている。また、対岸の神奈川県側における経済効果(2014年4月から2016年9月まで)は約127億円と千葉県における経済効果(約869億円)やアクアラインと直接結んでいない東京都における経済効果(約148億円)と比べても少なく、「もっと両岸の交流を活発にすべき」との指摘もある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "東京湾横断道路の構想は、1961年(昭和36年)に産業計画会議から出された第12次勧告「東京湾の横断堤を~高潮と交通の解決策として~」内にも記述があり、昭和30年代から構想そのものは存在したが、それから30年以上の歳月を経て1997年(平成9年)に実現した道路である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "東京湾横断道路の建設に関する特別措置法に基づき、民間・地方公共団体・日本道路公団の共同出資により設立した東京湾横断道路株式会社が建設・管理を行い、日本道路公団が道路を所有し、対外調整を行う方式によって事業が実施された。建設工事は東京湾横断道路株式会社が東京湾アクアラインの海上部にあたる約14.3 km区間を担当し、日本道路公団は、事業調整・用地買収・漁業補償のほかに、川崎市と木更津市の陸上部の建設を受け持った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東京湾の海底はヘドロ層の軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こるなど海底トンネルとしては悪条件が重なっており、人類を初めて月面に到達させたアメリカ合衆国連邦政府の「アポロ計画」になぞらえて、技術者たちからは「土木のアポロ計画」と呼ばれた。工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンが使用され、総工費は約1兆4,000億円にも達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "東京湾アクアトンネルは道路法第46条第3項の5 km以上の長大トンネルで、ほぼ全てが東京湾の真下を潜る水底トンネルも兼ねているため、浮島JCT - 海ほたるPA間は危険物積載車両の通行が禁止されている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "該当車両は東関東道や京葉道路などへ大きく迂回しなければならないが、接続する首都高速湾岸線の東京港トンネル・空港北トンネル・多摩川トンネル・川崎航路トンネル、更には湾岸線に並行する首都高速1号羽田線の羽田トンネルも危険物積載車両の通行が禁止されており、川崎方面へは一般道路を経由するか、東名高速などへ迂回する必要がある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、規制区間の手前である上り線の袖ケ浦ICと木更津金田ICの手前には、該当車両の退出を促す注意標識が設置されている。海ほたるPAは、Uターンする必要こそあるものの、木更津方面からのみ該当車両の利用が可能である。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "木更津金田IC - 木更津JCT間は「東京湾アクアライン連絡道(アクア連絡道)」区間として、東京湾アクアラインとは別料金となっている。木更津西JCT - 木更津JCT間(1.5 km)は高速自動車国道である東関東自動車道千葉富津線に含まれ、高速自動車国道普通区間の料金が適用される。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "整備重視の料金から利用重視の料金への転換という方針のもと、2014年(平成26年)4月1日に伊勢湾岸道路と同等の1キロメートル当たり108.1円に料金水準が引き下げられた。ただし、債務の返済状況やETC車の割合が増え料金徴収コスト差が拡大している現状を考慮し、ETC限定で当面10年間実施とされた。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ETC普通車800円は、消費税率が8%となる2014年度以降も、千葉県が引き続き費用の一部を負担することを前提としてそのままの額で継続されることになり、財源は平成25年度補正予算により手当された。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "割引期間は、10年間という報道もあるが、これは前述の利用重視の料金水準の実施期間を元に報道されたもので、NEXCOのプレスリリースでは「当分の間」、事業許可においては「東日本高速道路株式会社が別に定める日まで」 とされており、必要な財源の執行は、日本国政府および千葉県の協議により、年度ごとの毎年更新となっていた。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "千葉県は補助を継続し、平成27年度千葉県予算案で、東京湾アクアライン料金割引事業として5億円が計上されている。日本国政府と千葉県の事業継続協議は年度ごとの実施であったが、2019年度からは3年ごとの協議に改められた。2022年(令和4年)3月30日に向こう3年間の継続が決まったことが国土交通省から発表された。国と県が毎年それぞれ約5億円づつ拠出する。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2023年6月、国土交通省道路局、千葉県、NEXCO東日本の三者は休日の夕方時間帯における上り線(木更津→川崎方面)の渋滞緩和策としてロードプライシング(変動料金)制度を同年7月22日から2024年3月31日までの予定でETC搭載の全車種を対象に「ETC社会実験制度」として導入することを発表した。ロードプライシングを導入するのは2021年開催の東京オリンピック・パラリンピックに伴う首都高速道路での期間限定導入以来、2例目となる。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アクアライン特別割引(割引率約23%)は、2002年7月19日から実施していた社会実験が 2006年4月1日から恒久化されたものである。その後もETC車を対象にした社会実験割引が相次いで実施され、2007年8月20日に通勤割引を開始、同年9月25日からは特定区間割引が実施されていた。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2009年3月、生活対策に基づく高速道路料金の引き下げ開始と同時に、各種時間帯割引が本格的に開始された。まず、3月20日から休日特別割引(上限1,000円)がアクアラインで先行実施され、3月28日には深夜割引・通勤割引、3月30日には平日夜間割引・平日昼間割引も開始された。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2009年千葉県知事選挙で、森田健作がETC無線走行に限り普通車800円へ引き下げると公約し当選した。これにより、内閣総理大臣麻生太郎と会談が行われ、麻生政権下の国土交通省(日本国政府)と千葉県が必要費用を負担する社会実験として、2009年8月1日から通行料金を毎日終日800円(普通車)へ大幅に引き下げた。当初予定は2011年(平成23年)3月31日までであったが、さらに延長された。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2009年8月からの料金引き下げ社会実験(ETC割引800円)を開始してからは、交通量が2008年度比で1.5倍前後に伸び、2012年度は4月に開業した三井アウトレットパーク 木更津による波及効果が大きく 2008年度全日比で約1.8倍、2005年度道路交通センサス平日24時間交通量比では約3倍と通行量が増大した。それでも、開通20年後(2017年)に推定していた上下線合わせて一日64,000台の交通量には達していない現状がある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "(出典:「平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」「令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "開通当初は、高額な通行料金による通行量の少なさから自然渋滞は発生しなかったが、通行料の値下げ施策により次第に交通量が増加したことで、通勤時間帯やゴールデンウィークなどピーク期に、東京湾アクアトンネルの両端にあたる川崎浮島ジャンクション(上り線)と海ほたるPA入口(下り線)付近で、速度低下による1 km程度の混雑が日常的に見られるようになった。休日の日中は、海ほたるPAへの入庫待ちのために、分岐手前付近で渋滞を起こすこともある。また、トンネルや連絡橋の坂道とほぼ直線という線形から、追突事故や故障車が発生しやすく、車線規制による事故渋滞を生ずることもある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "交通量が飛躍的に増加した2012年以降は、週末・休日の夕方に上り線川崎浮島JCTからアクア連絡道の木更津JCTまで全線にわたる渋滞が頻繁に発生するようになった(並行ルートの京葉道路や東関東道でも同時間帯は渋滞している場合が多い)。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "主に川崎・東京方面から、房総半島へレジャーで向かったマイカーが、Uターンラッシュを生じさせるものであり、木更津JCTから川崎浮島JCTまで90分以上になることもある。これは、川崎浮島JCTの接続道路となる首都高速湾岸線と異なり片側2車線である上、アクア連絡道と木更津金田ICが合流する木更津本線料金所手前と、川崎浮島JCT手前の登坂速度低下がボトルネックとなっており、交通容量の逼迫から発生するものである。また下り線においては、週末・休日の朝から昼にかけて、海ほたるPA手前や木更津金田IC付近を先頭とする渋滞が、接続する首都高速湾岸線両方向にも伸び、大型連休時などは、大井JCTから海ほたるPAまで数時間費やすこともある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2013年4月27日から、上り線のアクアトンネル終点(浮島側)手前の登坂部分の壁側面に、速度低下を防ぐ効果がある「ペースメーカーライト」を設置している。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "陸上部は、東京湾アクアラインが神奈川県川崎市に約0.3 km、千葉県木更津市側に0.6 kmにあり、千葉県木更津市にある東京湾アクアライン連絡道(木更津金田IC - 木更津JCT)に8.6 kmある。線形は全線に渡って東西方向にほぼ一直線で、海ほたるPAや、東京湾の海上部の橋梁区間を木更津から川崎方面に向かうと、左前方に横浜市街地、遠方に富士山を望むことができる。東京湾に浮かぶ海ほたるは、世界的にみても珍しい海上のパーキングエリアとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東京湾横断道路株式会社(とうきょうわんおうだんどうろ、英: TRANS-TOKYO BAY HIGHWAY CORPORATION)は、1986年(昭和61年)10月1日に設立された第三セクター企業である。", "title": "東京湾横断道路株式会社" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)7月13日、東京湾横断道路の建設に関する特別措置法に基づき、日本道路公団と建設協定を締結し、東京湾横断道路建設事業者となった。開通前日の1997年(平成9年)12月17日、改めて道路公団と管理協定を締結し、日常的管理業務をおこなっている。本社は東京都品川区大井1丁目20番6号住友大井町ビル北館5階。", "title": "東京湾横断道路株式会社" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "交通量が想定を下回る一方、運賃が比較的安価な高速バスの路線は開通時から設定され、木更津駅から横浜駅・新宿駅・品川駅・川崎駅・羽田空港など、あるいは東京駅から木更津駅・君津駅・袖ケ浦駅・茂原駅・安房鴨川駅・勝浦駅・館山駅など房総半島各地への路線が運行され充実している。近年では木更津周辺から都心への通勤客も増加しており、鉄道と並ぶ通勤の足としても利用されている。", "title": "高速バス" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アクアライン開通後にパークアンドライドを想定して、木更津金田バスターミナル、袖ケ浦バスターミナル、君津バスターミナル、市原バスターミナル、市原鶴舞バスターミナルも設置された。", "title": "高速バス" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "羽田空港・横浜方面および新富士駅から成田空港へのリムジンバスは、通常ルートである首都高速湾岸線が大渋滞や通行止めになった際に、アクアラインへ迂回運行する場合がある。", "title": "高速バス" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "逆にアクアラインが長時間通行止めになることが予告されている「ちばアクアラインマラソン」開催日(2012年から基本的に隔年開催で10月の日曜日、ただし2020年は中止)などは、下記路線の内の重要便がアクアラインを経由しない首都高速湾岸線に迂回運行することもある。", "title": "高速バス" } ]
東京湾アクアライン・東京湾アクアライン連絡道は、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市へ至る高速道路である。東京湾横断道路・東京湾横断道路連絡道として地域高規格道路の計画路線に指定されている。 高速道路ナンバリングによる路線番号はアクアライン・アクア連絡道ともに 「CA」 が割り振られている。
{{redirect|アクアライン|企業|アクアライン (企業)}} {{Infobox_road |種別・系統 = [[地域高規格道路]]<br/>(東京圏都市圏自動車専用道路)<br/>[[高速自動車国道]]<ref group="注釈">アクアライン連絡道の一部のみ[[東関東自動車道]]千葉富津線の支線扱い。</ref><br/>([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[File:AQUA-LINE AQUA RENRAKU EXP(CA).svg|250px|東京湾アクアライン]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|CA}} 東京湾アクアライン<br />{{Ja Exp Route Sign|CA}} 東京湾アクアライン連絡道 |名前の補足 = [[File:Japanese National Route Sign 0409.svg|24px]][[国道409号]] |総距離 = 15.1 [[キロメートル|km]](東京湾アクアライン)<ref name="kyotei-besshi8">{{Cite web|和書|url=https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1001_8.pdf|title=料金の額及びその徴収期間|accessdate=2014-10-16|publisher=日本高速道路保有・債務返済機構|format=PDF}}</ref><br />8.6 km(アクア連絡道)<ref name="kyotei-besshi8" /> |開通年 = [[1997年]]([[平成]]9年)[[12月18日]] |起点 = [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]] |終点 = [[千葉県]][[木更津市]] |接続する主な道路 = [[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign B.svg|24px]] [[首都高速湾岸線]]<br />[[ファイル:Japanese_National_Route_Sign_0409.svg|24px]] [[国道409号]]<br />[[ファイル:Japanese_National_Route_Sign_0410.svg|24px]] [[国道410号]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E14}} [[館山自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] }} '''東京湾アクアライン'''(とうきょうわんアクアライン、{{Lang-en|TOKYO-WAN-AQUA-LINE EXPWY}}<ref name="Japan's Expressway Numbering System">{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)・'''東京湾アクアライン連絡道'''(とうきょうわんアクアラインれんらくどう、AQUA RENRAKU EXPWY<ref name="Japan's Expressway Numbering System" />)は、[[神奈川県]][[川崎市]]から[[東京湾]]を横断して[[千葉県]][[木更津市]]へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]である。'''東京湾横断道路'''・'''東京湾横断道路連絡道'''として[[地域高規格道路]]の計画路線に指定されている。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号はアクアライン・アクア連絡道ともに 「'''CA'''」 が割り振られている<ref>[http://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/files/numbering_tsuchi002.pdf 「高速道路ナンバリングの導入について」(平成29年2月14日付け国道企第55号)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170217063651/http://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/files/numbering_tsuchi002.pdf |date=2017年2月17日 }}、国土交通省道路局長通知、2017年2月14日</ref>。 ==概説== {{Vertical_images_list|Tokyobay-aqualine-jan7-2015.ogv|(動画) 空から東京湾アクアライン|HanedaAirport tagged (2006-11-13).JPG|東京湾アクアライン・[[川崎市|川崎]]側入り口がある[[浮島ジャンクション|浮島JCT]](画面右下)|浮島換気口.jpg|浮島換気口(最上部がカットされる前の状態)|幅=200px|枠幅=200px}} 東京湾の中央部を、神奈川県側の川崎市から千葉県側の木更津市までをほぼ一直線<ref>[[川崎浮島ジャンクション]]から500mの地点ではわずかに湾曲がある。</ref>に結んで横断する、[[自動車専用道路]]の[[有料道路]]の名称で{{Sfn|小川・栗栖・田宮|2016|p=57}}、[[川崎浮島ジャンクション]] (JCT) - [[木更津金田インターチェンジ]] (IC) 間を「東京湾アクアライン」、木更津金田IC - [[木更津JCT]]間を「東京湾アクアライン連絡道」という。'''東京湾横断道路の建設に関する特別措置法'''では、川崎市と木更津市との間で東京湾を横断する[[一般国道]]を'''東京湾横断道路'''と定義しており、また、旧[[日本道路公団]]による有料管理を前提としていわゆる民活の手法が具体化されていた。[[道路法]]上は、[[国道409号|一般国道409号]]の路線に指定されており、[[自動車専用道路]]に指定されている。 東京湾アクアライン道路全体の総延長は15.1[[キロメートル]] (km) で、このうち、東京湾を横断する川崎側の約9.5 km区間に'''東京湾アクアトンネル'''(以下、アクアトンネル)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jehdra.go.jp/pdf/441.pdf|title=水底トンネル等における危険物積載車両の通行禁止・制限 規制対象トンネル位置図|accessdate=2016-01-17|publisher=独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構|format=PDF}}</ref> と呼ばれる[[トンネル]]、木更津側の約4.4 km区間に'''東京湾アクアブリッジ'''(以下、アクアブリッジ)と呼ばれる[[橋]]がある<ref name=E-NEXCO_bridge>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/01.pdf |format=PDF |title=【別添】点検計画・修繕計画(橋梁) |page=51 |work=高速道路のインフラ長寿命化計画(行動計画) |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2021-10-09 }}</ref>{{Sfn|小川・栗栖・田宮|2016|p=57}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=94}}<ref name="千葉県県土整備部">{{Cite web|和書|author=県土整備部道路計画課 |date=2014-04-01 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/doukei/aqualine/aqualinegaiyou/ |title=東京湾アクアラインの概要 |work=千葉県ホームページ |publisher=[[千葉県]] |accessdate=2017-01-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170116180952/https://www.pref.chiba.lg.jp/doukei/aqualine/aqualinegaiyou/ |archivedate=2017-1-16}}</ref>。 トンネルと橋が直結される場所は、[[人工島]]である[[海ほたるパーキングエリア]] (PA) が設けられ、海ほたるPA内で川崎・木更津両方向共に[[Uターン]]が可能である<ref name="千葉県県土整備部"/>。アクアブリッジは、[[日本一の一覧|日本一]]の長さ(全長4,384 m)の橋梁{{sfn|浅井建爾|2015|p=vi}}、アクアトンネルは、[[山手トンネル]]・[[関越トンネル]]・[[飛驒トンネル]]に次ぐ日本第4位の長さ(全長9,607 m)の道路トンネルで{{sfn|浅井建爾|2015|p=v}}、海底道路トンネルとしては日本最長、世界でも第2位の長さである<ref group="注釈">2021年現在の最長記録は、2019年12月に開通したノルウェーの{{仮リンク|ルフルケトンネル|no|Ryfylketunnelen|en|Ryfylke Tunnel}}である。</ref>{{sfn|浅井建爾|2001|p=241}}<ref name="千葉県県土整備部"/>。またアクアトンネル内は、一般国道の中でも日本一標高が低い位置(海面下60 m)を通る場所で知られる{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=141}}。 木更津人工島である海ほたるPAは、幅100 m、全長650 mで5階建ての休憩施設がある<ref name="千葉県県土整備部"/>。いっぽうの川崎人工島である「風の塔」は直径195 mの円形の人工島で、アクアトンネルの中間に位置し、トンネル内の換気を行っている<ref name="千葉県県土整備部"/>。 1997年12月18日に開通。日本道路公団が[[有料道路|一般有料道路]]として管理していたが、[[2000年]][[7月3日]]の事業計画変更に伴い、2013年4月27日に開通した[[首都圏中央連絡自動車道]]の[[東金インターチェンジ|東金ジャンクション]](JCT) - [[木更津ジャンクション|木更津JCT]]を含め東京湾横断・木更津東金道路と有料道路事業の道路名を変更。同時に[[京葉道路]]・[[千葉東金道路]]で構成されていた料金プール制([[通称]]:[[千葉プール路線|千葉プール]])に組み込まれた。[[2005年]][[10月1日]]の[[道路公団民営化]]により、現在は[[東日本高速道路]]管理の[[全国路線網]]となっている。 [[1988年]]11月には川崎人工島(風の塔)と木更津人工島(海ほたるパーキングエリア)の間のトンネル部分に警察管轄区域の管轄区分線を設定し、区分線西側を[[神奈川県警]]、区分線東側を[[千葉県警察]]が管轄している<ref>[http://www.police.pref.chiba.jp/content/common/000007595.pdf 千葉県警察] - 「東京湾横断道路における管轄区域及び警察官の職権行使に関する協定について」</ref>。また、[[1997年]]10月には関係自治体の千葉県・東京都・神奈川県・木更津市・川崎市が管轄区分線と同様に協定し、境界線を定めた<ref>[http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1119 はまれぽ.com]</ref>。また、同年12月には消防部局の管轄の取り決めを行い、アクアブリッジ全体とアクアトンネル上り線を[[木更津市消防本部|木更津市消防本部(木更津消防署金田分署)]]が、アクアトンネル下り線を[[川崎市消防局|川崎市消防局(臨港消防署浮島出張所)]]が担当することとなった<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/980/cmsfiles/contents/0000116/116483/021106-2.pdf|title=東京湾アクアライン トンネル防災システムの概要|accessdate=2021-08-08|publisher=川崎市消防防災指導公社|format=pdf}}</ref><ref>[https://www.city.kisarazu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/715/h30toukei.pdf 平成30年版 消防統計] - 木更津市消防本部</ref>。木更津人工島および浮島JCT管理Aヤードにはアクアトンネルの避難坑を走行することができる、車体の低い専用消防車の車庫が設置され、消火活動車([[化学消防車]]に準ずる装備)、救助活動車([[救助工作車]]に準ずる装備)、救急活動車(救急車に準ずる装備)がそれぞれ1台ずつ配備されている<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/980/cmsfiles/contents/0000116/116483/021106-1.pdf|title=健康福祉委員会資料1 所管事務の調査(視察)(1)東京湾アクアラインについて|accessdate=2021-08-08|publisher=川崎市|date=2020-11-06|author=川崎市消防局}}</ref>。 夜景スポットの魅力を高めるため、150メートル間隔に設置していたポール型照明を撤去し、[[LED照明]]を計285灯を新たに取り付ける工事に2013年11月から着工し、2014年8月に完成した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/news/140826/chb14082602130005-n1.htm 「夜景の名所」魅力もアップ 東京湾アクアライン照明リニューアル] 産経ニュース 2014年8月26日 (2014年9月2日閲覧)</ref>。 === 路線データ === * 道路名:東京湾横断道路(名称:東京湾アクアライン)<ref name="千葉県県土整備部"/> * 路線名:[[国道409号|一般国道409号]]<ref name="千葉県県土整備部"/> * 起点:神奈川県川崎市[[川崎区]][[浮島町 (川崎市)|浮島町]]地先<ref name="千葉県県土整備部"/> * 終点:千葉県木更津市中島<ref name="千葉県県土整備部"/> * 延長:15.1 [[キロメートル|km]]<ref name="千葉県県土整備部"/> * [[道路構造令|道路規格]]:第1種第2級・[[自動車専用道路]]<ref name="千葉県県土整備部"/> * 設計速度・最高速度:80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="千葉県県土整備部"/> * 車線数:3.5 [[メートル|m]]×4車線(将来構想6車線)<ref name="千葉県県土整備部"/> * 総事業費:約1兆4409億円 * 事業期間:1987年([[昭和]]62年)7月 - 1997年12月 * 開通:[[1997年]]([[平成]]9年)[[12月18日]]<ref name="千葉県県土整備部"/> * 推定交通量 ** 供用時:25,000台/日 ** 20年後:64,000台/日 * 最急勾配 : 4% === 構造 === [[ファイル:Tokyo-bay aqualine01.jpg|thumb|東京湾アクアライン橋梁部。左端は海ほたるPAで、そこから川崎までの間は海底トンネルで結ばれる。([[日本道路公団|JH]]時代に撮影 2005年)]] [[川崎市|川崎]]と[[木更津市|木更津]]とを結ぶアクアラインは、川崎側は[[シールドトンネル]]、木更津側は橋梁を採用している。この構造は当初構想された工法・構造から一大転換されて採用されたものである。 1971年頃の構想では、川崎側と木更津側の両側を橋梁構造とし、中央部をシールドトンネルではなく[[沈埋トンネル]]とするものであった<ref name="つなぐ5頁">『東京湾をつなぐ』、5頁</ref>。トンネルを採用したのは、船舶および航空機という東京湾の海上および上空の既存の交通との兼ね合いである。 つまり、全ての区間で橋梁構造を採用すると大型船舶の航行に支障をきたす。だからといって、橋梁で大型船舶を通過させるだけの高度を確保すると[[東京国際空港|羽田空港]]を離着陸する航空機の障害となる。そのため、大型船舶を航行可能とするトンネル部分を設ける必要があったのである<ref name="つなぐ5頁">『東京湾をつなぐ』、5頁</ref>。 実は、この構想段階では二つの案が含まれており、一方(A案)は当時のトンネル換気技術に基づいて、中央部に3&nbsp;kmの沈埋トンネルを建設し、盛り土構造の2つの人工島で橋梁と接続するものであった。他方(B案)も中央部のみを沈埋トンネルとする点は変わらないが、トンネル中央部にも換気用の人工島を設置して2本の沈埋トンネルを接続し合計5&nbsp;kmをトンネル構造とする案であった。 そして工費の優位性からA案が詳細に検討され、1975年に建設省が中央部をトンネル構造とする案を発表して、以降はA案を前提として事業の調査が進められた。1981年頃には換気技術の進歩を反映させ、1本の沈埋トンネルにおいて中央部5&nbsp;kmとする案に変更されたが、中央部を1本の沈埋トンネルとするA案の構造に変わりはなかった。 1985年度になると、中央部を沈埋トンネルとする構造から、川崎側の10&nbsp;km全てをトンネルの構造とし、そのトンネルの工法もシールド工法とするように計画変更がなされた。その理由は、川崎側は船舶の航行が多く、実際に建設予定地には1日に1,300隻もの船舶が通過しているとされたが、全体の約7割が川崎側の橋梁予定部分に集中していたためである<ref name="150頁">『東京湾横断道路のすべて』、150頁</ref>。また、川崎側を橋梁からトンネルにし、さらに中央部も含めてトンネルの工法を沈埋工法からシールド工法に変更すれば建設時・供用開始後の航行する船舶への影響を少なくできるとされた<ref name="150頁"/>。 構想当初においてはシールド工法は発展途上であり、小口径のトンネルのみに採用され大口径の海底トンネルに採用された事例は無かったが、シールド工法は構想中にも進歩し続けていたので技術的に実現可能に至ったという経緯からである。さらに施工費用の面では、川崎側をトンネル構造に変更したとしても、軟弱な地盤に下部工の施工費用をかけて橋梁とするものと大差無いことも判明したため<ref name="150頁"/>、現在の構造が採用されるに至った。 シールドトンネル(アクアトンネル)と橋梁(アクアブリッジ)は、長さ約650&nbsp;m、幅約100&nbsp;mの木更津人工島(海ほたるPA)で結ばれており、アクアブリッジの橋げたは、海ほたる付近で総トン数2,000トンの船舶が航行可能な径間の確保と、桁下部分のクリアランスを確保するため高くなっている<ref name="千葉県県土整備部"/>。また、耐震性と走行性の向上を図るため、日本国内には前例がない最多11径間となる多径間連続化が図られている<ref name="千葉県県土整備部"/>。 [[ファイル:Kawasaki artificial island.jpg|thumb|風の塔([[川崎人工島]])。人工島の外径は約195&nbsp;mの円形で、中央部には海底トンネル換気用として、海上96&nbsp;mの大塔と海上81&nbsp;mの小塔の2つの換気塔が建つ<ref name="千葉県県土整備部"/>。]] アクアトンネルの掘削は、浮島、川崎人工島(風の塔)、および木更津人工島の3か所から発進した世界最大径となる外径14.14&nbsp;mの合計8機のシールドマシンによって進められた<ref name="千葉県県土整備部"/><ref name="12頁">『東京湾をつなぐ』、12頁</ref>。 [[川崎人工島]]は、トンネルの中間地点に位置するドーナツ型の縦穴基地であり、シールドマシンを発進させるため最初に木更津人工島とともに建設された。川崎人工島は供用開始後トンネルの換気塔のためにも使用され、その中心には排気ガスと新鮮な空気を入れ替える設備がある。東京湾に吹く風を利用して換気するため、換気塔の傾斜などは、季節ごとに変わる風の向きや強さを全て空気力学的に計算された結果である<ref name="51頁">『東京湾をつなぐ』、51頁</ref>。川崎人工島の構造物の素材には、羽田空港を離着陸する飛行機が発するレーダー波を乱反射しないものが使用されている。 トンネルの換気塔は川崎側にも設置され、浮島換気口として機能している。浮島換気口はピラミッド状(四角錐)の装飾を有していたが、[[東京国際空港|羽田空港]]D滑走路供用開始時には換気口上部が航路の障害となったため、2009年に上部の12&nbsp;mを取り払う改修工事が行われた<ref name="NIKKEI STYLE">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO97639700U6A220C1000000/|title= NIKKEI STYLE 防災・渋滞対策… 東京湾アクアラインの秘密を調べた|publisher=日本経済新聞|accessdate=2017-7-1}}</ref>。 シールド工法の断面は円状であるため、アクアトンネルの車道下側に、緊急車両などが通る管理用道路や[[光ファイバー]]などの通信ケーブルが設置されている。この車道下側は、避難用通路としても機能するように、[[気圧]]を0.1%高めることで、火災発生時に煙の侵入を防いでおり、車道からスロープで降りられるようになっている<ref name="NIKKEI STYLE"/><ref name="162頁">『東京湾横断道路のすべて』、162頁</ref>。車道には300m置きに避難口(上下線合わせて66箇所)があり、避難用通路にはNEXCO東日本 岩槻道路管制センターにつながる、直通の[[非常電話]]も設置されている<ref>[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/626/2626630/?r=1 『カオスだもんね!』東京湾アクアラインのさらに下にある秘密の地下通路に潜入!] - 週刊アスキー・2014年10月7日</ref>。 アクアラインはトンネル部、橋梁部とも4車線だが、将来的に6車線化が可能な構造で建設されている。アクアトンネルには、現在の上下線に加えて2車線分のトンネルをもう1本掘削できるよう坑口部の準備工事がなされており、海ほたるPAの休日用駐車場の奥に300&nbsp;m程のトンネルが掘削されている他、風の塔も3本目のトンネルが接続可能な構造となっている。また、アクアブリッジは外側に車線を追加する拡幅が可能な構造となっている<ref name="NIKKEI STYLE"/>。 === 建設の効果 === 東京湾アクアラインの開通によって、木更津 - 川崎間の距離が約100 kmから30 km、所要時間も約90分から約30分へと短縮された<ref name="千葉県県土整備部"/>。千葉房総エリアの半島性が緩和され、首都圏の物流効率の向上や、房総半島の経済産業発展や両岸地域の相互文化交流に寄与している<ref name="千葉県県土整備部"/>{{Sfn|小川・栗栖・田宮|2016|p=57}}。 ==== 開業初期 ==== 総工費は約1兆4,409億円に対して開通時の利用は推定交通量を大幅に下回り、その[[コストパフォーマンス|費用対効果]]の面で批判を招いた<ref name="sakurai"/>。これは、通行料金が[[日本の高速道路|高速道路]][[全国路線網|全国プール制]]に組み込まれず、アクアライン単独償還で非常に高額なためで<ref name="sakurai"/>、普通車の海上部は通常料金で1 km当たり198.68円であり、同様に高額な料金の[[本州四国連絡道路]]の252.72円より若干低い。その結果、採算性に重大な[[問題]]が生じているが、これは元々の推定交通量の見通しが出鱈目だったという指摘がある<ref>[[猪瀬直樹]]『道路の権力』66ページ</ref>。開通20年後([[2017年]])には、上下線合わせて一日64,000台、すなわち片側2車線上を24時間休みなしに、毎日2.7[[秒]]に1台の自動車が通過するであろうという交通量が推定されていた<ref name="sakurai">{{cite news | author = [[櫻井よしこ]] | url = http://yoshiko-sakurai.jp/2001/05/10/3750 | title = 「 どうする気なのか『道路公団』未曾有の大赤字 」 | newspaper = 『[[週刊新潮]]』2001年5月17日号 | publisher = [[新潮社]] | date = 2001-05-10 | accessdate = 2017-02-09 }}。ちなみに、64,000台という交通量は、後述の社会実験開始後の週末1日あたりの平均通行量の1.5倍である</ref>。 通行料金の設定は、数回の料金改定を経て、普通車料金で1997年の開通当時は4,000円だったのが3,000円まで引き下げられた経緯を持つ。 建設の[[目的]]の一つとして、[[放射線・環状線#東京圏|東京湾環状道路]]を構成し、また圏央道とともに[[3環状9放射|3環状道路]]の一番外側の環状道路の一部を担い、[[首都高速湾岸線]]等の渋滞緩和に役立つことが期待されていたが<ref>{{PDFlink|[https://www.iss.u-tokyo.ac.jp/~matsumur/csf2012-5.pdf 東京湾アクアライン料金引下げ 社会実験の政策分析]}}. [[東京大学]]. 2016年5月9日閲覧。</ref>、僅か15[[キロメートル]]の道路なのに高額な通行料金のため、アクアラインに利用転換する自動車が無く、目立った成果はなかった<ref name="sakurai"/>。 木更津地区の更なる活性化が期待されていたが、木更津は単なる通過点となり、開業すると房総半島在住の買物客が比較的安価な運賃である[[高速バス]]([[東京湾アクアライン#高速バス|後述]])を利用して、東京都内や横浜へ流出してしまう「[[ストロー効果]]」が促進された結果、[[木更津駅]]前の[[百貨店]]である[[アクア木更津|木更津そごう]]や[[スーパーマーケット]]が相次いで撤退し、駅前商店街が[[シャッター通り]]化したり、アクアラインの開通を見込んで造成した住宅地や工業団地の用地が売れ残り、[[地価]]が暴落するなど、木更津市を中心とした[[商圏]]経済に大打撃となり、[[2010年代]]前半までの長期間に渡って低迷する一因になった<ref>{{Cite web|和書|title=高速道路、高規格幹線道路による「ストロー現象」に関する質問主意書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169123.htm|website=衆議院|accessdate=2021-02-20|author=江田憲司|date=2008-02-28}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=木更津、君津が上位独占 住宅駆け込みで需要増 公示地価上昇率|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/184647|website=千葉日報|accessdate=2021-02-20|date=2014-03-19}}</ref><ref>{{Cite news | author = 佐滝 剛弘 |title=百貨店「大量閉店」の陰にある高速バスの進展 | url = https://toyokeizai.net/articles/-/380410?page=3 | newspaper = 週刊東洋経済 |date=2020-10-17 | accessdate = 2022-09-17 | page = 3}}</ref>。 2007年に[[館山自動車道]]が全線開通したことで、東京から[[南房総]]までの所要時間が約1時間前後短縮された。 ==== 値下げ後 ==== [[File:よし!アクアラインで行こう (3777921948).jpg|thumb|利用を促す千葉県知事(当時)の森田健作。2009年8月撮影]] 2009年、[[森田健作]]がETC無線走行に限り「普通車800円へ引き下げる」と千葉県知事選挙で公約し当選した。公約は[[麻生内閣]]との協議を経て実行された。社会実験による通行料金引き下げにより、アクアラインの交通量は増加。1日の平均交通量が平均1万台だったものが4万台となった。千葉県は、通行料金の引き下げによる経済効果は、2年半で1,155億円と推計した<ref>[https://www.pref.chiba.lg.jp/doukei/topics/2016/aqualine-kouka.html アクアライン割引による経済波及効果について] 千葉県</ref>。 また、京浜地域に通勤する労働者が、木更津市や君津市内に相次いで[[引越し]]して地価が急騰したり、郊外に[[アウトレットモール]]や[[ショッピングセンター]]が順次進出して、アクアライン開業前の経済状況に回復しつつある<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=平成30年度消費者購買動向調査(千葉県の商圏)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/keishi/toukeidata/shouken/h30/h30kekka.html|website=千葉県|accessdate=2021-02-20|date=2019-03-28}}</ref>。 2013年4月に[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)が[[東金ジャンクション|東金JCT]]までが開通し、[[房総半島]]山間部を横断することにより、[[茂原市]]・[[夷隅郡]]など[[外房]]北部地域への到達時間も短縮された。 一方で、競合する[[東京湾フェリー]]の輸送台数が2008年度に比べて約3割減少し、フェリーが1艘削減されたり、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]では[[館山自動車道]]と競合する[[内房線]]の特急「[[さざなみ (列車)|さざなみ]]」の利用者が[[蘇我駅]] - [[館山駅]]で減少し、特に2015年のダイヤ改正で、[[特別急行列車]]の[[君津駅]] - 館山駅間で定期運行廃止や本数の大幅削減、日中の運転系統分離を強いられたり、開通翌年の1998年には、房総夏ダイヤが廃止されるデメリットも表れている<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/politics_economy_kiji.php?i=nesp1308014662 フェリー3割減 タクシーは増加 公共交通機関に明暗 アクアライン値下げ実験] 千葉日報2011年6月14日</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/36890 高速道路が影響 縮小していく房総特急] - 乗りものニュース・2014年12月21日</ref>。また、対岸の神奈川県側における経済効果(2014年4月から2016年9月まで)は約127億円と千葉県における経済効果(約869億円)やアクアラインと直接結んでいない東京都における経済効果(約148億円)と比べても少なく、「もっと両岸の交流を活発にすべき」との指摘もある<ref>{{Cite web|和書|title=千葉869億円・神奈川127億円…大差ついたアクアライン経済効果、対岸との交流少ない川崎側 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20221217-OYT1T50263/ |website=読売新聞 |date=2022-12-18 |access-date=2022-12-18}}</ref>。 == 歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2017年1月}} 東京湾横断道路の構想は、1961年(昭和36年)に[[産業計画会議]]から出された第12次勧告「東京湾の横断堤を~高潮と交通の解決策として~」内にも記述があり、昭和30年代から構想そのものは存在したが、それから30年以上の歳月を経て1997年(平成9年)に実現した道路である{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=93}}。 東京湾横断道路の建設に関する特別措置法に基づき、民間・地方公共団体・日本道路公団の共同出資により設立した東京湾横断道路株式会社が建設・管理を行い、日本道路公団が道路を所有し、対外調整を行う方式によって事業が実施された<ref name="千葉県県土整備部"/>。建設工事は東京湾横断道路株式会社が東京湾アクアラインの海上部にあたる約14.3 km区間を担当し、日本道路公団は、事業調整・用地買収・漁業補償のほかに、川崎市と木更津市の陸上部の建設を受け持った<ref name="千葉県県土整備部"/>。 東京湾の海底はヘドロ層の軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こるなど海底トンネルとしては悪条件が重なっており、人類を初めて[[月]]面に到達させた[[アメリカ合衆国連邦政府]]の「[[アポロ計画]]」になぞらえて、技術者たちからは「土木のアポロ計画」と呼ばれた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=94-95}}。工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンが使用され、総工費は約1兆4,000億円にも達した{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=94}}。 * [[1961年]]([[昭和]]36年)7月:産業計画会議第12次勧告として「東京湾の横断堤を~高潮と交通の解決策として~」内で川崎・木更津間の交通路を提言する<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_12.pdf |title=東京湾に横断堤を |format=PDF |author=[[産業計画会議]]|publisher=[[電力中央研究所]] |accessdate=2018-04-14 }}</ref>。 * [[1966年]](昭和41年)4月:建設省が調査を開始する。 * [[1971年]](昭和46年)4月:建設省が「民間事業主体の活用による東京湾横断道路の建設について」の中間報告があった。 * [[1972年]](昭和47年)7月:東京湾横断道路研究会が設立される。 * [[1973年]](昭和48年) ** 3月:建設省が東京湾横断道路調査中間報告書を作成される。 ** 6月:研究会が東京湾横断道路事業計画案をまとめる。 ** 12月:[[オイルショック|石油ショック]]の影響により、政府予算編成方針で大型プロジェクトの新規着工延期を決定する。 * [[1974年]](昭和49年)12月:木更津市促進期成同盟が建設大臣宛に要望書が提出される。 * [[1975年]](昭和50年)8月:建設省が技術会議において「技術的には建設可能」との結論を得る。 * [[1976年]](昭和51年)8月:日本道路公団に東京湾横断道路調査室を設置される。 * [[1978年]](昭和53年)5月:第8次道路整備5カ年計画において、「調査を進め事業化を図る」と位置づけられる * [[1979年]](昭和54年)7月:日本道路公団東京第一建設局に東京湾横断道路調査課を設置する。 * [[1980年]](昭和55年)8月:日本道路公団が海上ボーリングを実施する。 * [[1981年]](昭和56年) ** 4月:川崎 - 木更津 - 成田間が[[国道409号]]に指定される。 ** 6月:[[国土庁]]首都圏整備計画で「調査を進め計画の具体的推進を図る」と位置づけられる。 ** 11月:日本道路公団が「東京湾横断道路の調査概要」をまとめる。 * [[1982年]](昭和57年)8月:第9次道路整備5カ年計画案において「調査を完了し、建設に着手する」と明記される。 * [[1989年]]([[平成]]元年)5月27日:着工される。 * [[1996年]](平成8年)3月28日:アクア連絡道袖ケ浦IC - 木更津JCT間(4.7 km)開通<ref name="shisan">{{Cite web|和書|url=https://www.jehdra.go.jp/pdf/hoyu/h038.pdf|title=道路資産保有及び貸付状況(路線別)|accessdate=2014-03-04|publisher=日本高速道路保有・債務返済機構|format=PDF}}</ref>。 * [[1997年]](平成9年) ** 12月3日:アクア連絡道木更津金田IC - 袖ケ浦IC間(3.9 km)開通<ref name="shisan" />。 ** 12月18日:東京湾アクアライン浮島JCT - 木更津金田IC間(15.1 km)開通<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/doukei/aqualine/aqualinegaiyou/|title=東京湾アクアラインの概要|date=2012-07-31|accessdate=2014-03-04|publisher=千葉県}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[8月1日]]:ETC無線通行に限り、通行料を毎日終日800円(普通車)へ大幅に引き下げ<ref name="aqua line20090801">[http://www.aqua800.com/ アクアライン800円実現化推進協議会 - アクアライン料金を800円に]</ref>。 * [[2022年]]([[令和]]4年)[[3月30日]] - ETC通行料金800円(普通車)の3年間延長を発表 *[[2023年]](令和5年)[[7月1日]](予定) - ETC社会実験「【CA】東京湾アクアライン上り線(木更津→川崎方面)におけるETC時間帯別料金」を2024年3月31日までの土日祝に実施 == インターチェンジなど == {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green;"|{{縦書き|路線名}} !style="border-bottom:3px solid green;white-space:nowrap;"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|起点<span style="font-size:90%"><br />から</span><br /><span style="font-size:90%">([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="9" style="text-align:center"|[[File:Shuto Urban Expwy Sign K6.svg|24px]][[首都高速神奈川6号川崎線]] |- |rowspan="5" style="text-align:center;"|{{縦書き|東京湾アクアライン}} !style="background-color:#BFB"|1 |[[浮島インターチェンジ (神奈川県)|浮島IC]]<br />[[川崎浮島ジャンクション|川崎浮島JCT]] |[[国道409号]]<br />[[File:Shuto Urban Expwy Sign B.svg|24px]][[首都高速湾岸線]] |style="text-align:right"|0.0 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[神奈川県]]<br />[[川崎市]]<br />[[川崎区]] |- !style="background-color:#BFB"|- |東京湾アクアトンネル |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|- |長さ 9,607 m<br />危険物積載車両通行禁止<br />トンネルの中間地点に[[川崎人工島]](風の塔) |- !style="background-color:#BFB"|- |[[海ほたるパーキングエリア|海ほたるPA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|9.8 |style="text-align:center"|○ |木更津人工島 [[Uターン]]が可能 |rowspan="7" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[千葉県]]}} |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[木更津市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |東京湾アクアブリッジ |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|- |長さ 5,384 m |-style="height:2em;" !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|2 |rowspan="2"|[[木更津金田本線料金所|木更津TB]]<br />[[木更津金田インターチェンジ|木更津金田IC]] |rowspan="2"|国道409号 |rowspan="2" style="text-align:right"|15.1 |rowspan="2"| |rowspan="2"|[[三井アウトレットパーク 木更津]]への最寄りIC(東京・川崎方面) |- |rowspan="4" style="text-align:center;"|{{縦書き|東京湾アクアライン連絡道}} |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[袖ケ浦インターチェンジ|袖ケ浦IC]] |国道409号<br />[[国道410号]]<br />[[国道16号]] |style="text-align:right"|19.0 |style="text-align:center"|[[袖ケ浦バスターミナル|●]] |三井アウトレットパーク 木更津への最寄りIC(千葉・館山・茂原方面) |[[袖ケ浦市]] |- !style="background-color:#BFB"| - |(木更津西JCT)<ref name="kyotei-besshi8" /> | |style="text-align:right"|22.2 | |一般国道409号東京湾横断・木更津東金道路と東関東自動車道千葉富津線の境界<br />一般道との接続なし |rowspan="2"|木更津市 |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[木更津ジャンクション|木更津JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E14}} [[館山自動車道]] |style="text-align:right"|23.7 | | |- |colspan="9" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] |} == 路線状況 == {{Infobox tunnel |name = 東京湾アクアライン(トンネル部) |image = |caption = |location = [[神奈川県]][[川崎市]]および[[千葉県]][[木更津市]] |coordinates = |os_grid_ref = |route = |status = 運用中 |start = 神奈川県川崎市 |end = 千葉県木更津市 |startwork = |open = [[1997年]][[12月18日]] |close = |owner = |engineer = |operator = [[東日本高速道路]] |traffic = 自動車 |character = |toll = |vpd = 11,462 台(2005年度) |construction = |length = 9,547 m(下り)<br />9,541 m(上り) |lanes = 2車線(1方向×2本) |speed = |hielevation = |lowelevation = -60m |height = |width = 7m(車道幅員) |grade = }} 東京湾アクアトンネルは[[道路法]]第46条第3項の5&nbsp;km以上の長大トンネルで、ほぼ全てが[[東京湾]]の真下を潜る[[水底トンネル]]も兼ねている{{efn|同様の措置を受ける[[山手トンネル]]([[2015年]])が全線開通するまでは、日本で唯一の長大水底トンネルだった。}}ため、浮島JCT - 海ほたるPA間は[[危険物]]積載車両の通行が禁止されている。 該当車両は[[東関東自動車道|東関東道]]や[[京葉道路]]などへ大きく[[迂回]]しなければならないが、接続する[[首都高速湾岸線]]の[[東京港トンネル]]・[[空港北トンネル]]・[[多摩川トンネル]]・[[川崎航路トンネル]]、更には湾岸線に並行する[[首都高速1号羽田線]]の[[羽田トンネル]]も危険物積載車両の通行が禁止されており、川崎方面へは一般道路を経由するか、[[東名高速道路|東名高速]]などへ迂回する必要がある。 なお、規制区間の手前である上り線の袖ケ浦ICと木更津金田ICの手前には、該当車両の退出を促す注意標識が設置されている。海ほたるPAは、Uターンする必要こそあるものの、木更津方面からのみ該当車両の利用が可能である。 === 通行料金 === 木更津金田IC - 木更津JCT間は「'''東京湾アクアライン連絡道(アクア連絡道)'''」区間として、'''東京湾アクアライン'''とは別料金となっている。木更津西JCT - 木更津JCT間(1.5&nbsp;km)は[[高速自動車国道]]である[[東関東自動車道#路線名・道路名|東関東自動車道千葉富津線]]に含まれ、高速自動車国道普通区間の料金が適用される<ref name="kyotei-besshi8" />。 ==== 現行料金(2019年10月1日 - ) ==== {| class="wikitable" style="text-align:center" |- |+ 東京湾アクアライン(川崎浮島JCT - 木更津金田IC)<br/>通行料金 |- ! 車種 !! 現金車 !! (参考)<br/>ETC通常料金<br />(- 2024年3月31日・予定) !! ETC/ETC2.0<br/>「アクアライン割引{{Efn|name="aquaspecialfee"|正式名称は、「一般国道409号及び468号(東京湾横断・木更津東金道路)における割引」。}}」 |- | 軽自動車 || 2,510円 || 1,600円 || 640円 |- | 普通車 || 3,140円 || 1,960円 || 800円 |- | 中型車 || 3,770円 || 2,320円 || 960円 |- | 大型車 || 5,190円 || 3,130円 || 1,320円 |- | 特大車 || 8,640円 || 5,100円 || 2,200円 |} {| class="wikitable" |+東京湾アクアライン(川崎浮島JCT - 木更津金田IC、上り線川崎浮島JCT方面{{Efn|木更津金田IC/木更津TB - 川崎浮島JCT間の川崎方面の一部区間または全区間の走行のみ対象。木更津TB(川崎方面)・木更津金田入口(川崎方面)・「[[海ほたるパーキングエリア#Uターン|海ほたる料金所(川崎方面から川崎方面へのUターン走行)]]」で当社会実験の時間判定・料金収受を行う。木更津方面から木更津方面のUターン走行においては「海ほたる料金所(木更津方面への料金所・発券所)」・木更津TB(木更津JCT方面)・木更津金田出口料金所(海ほたるからの出口)では料金の払い戻し・収受は行わないため往路の木更津金田入口料金所・木更津TBの時間判定で全走行の料金が確定する。}})<br>土休日{{Efn|ここで言う「土休日」は土曜・日曜・祝日と1月2日・1月3日・2月12日を指す。}}ETC車社会実験通行料金<br>(2023年7月22日 - 2024年3月31日)(予定)<ref name="socialexperiment">{{Cite press release |title=【CA】東京湾アクアライン上り線(木更津→川崎方面)におけるETC時間帯別料金の実施について |publisher=国土交通省道路局高速道路課・千葉県県土整備部道路計画課・ 東日本高速道路 |date=2023-06-21 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2023/06/21a/pdf.pdf |format=PDF |language=ja |trans-title= |access-date=2023-06-21 |archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref> ! rowspan="2" |車種 ! rowspan="2" |(参考)<br/>ETC通常料金<br />(- 2024年3月31日・予定) ! rowspan="2" |(参考)<br />ETC/ETC2.0<br />「アクアライン割引{{Efn|name="aquaspecialfee"}}」 ! colspan="3" |時間帯 |- !0:00 - 13:00 !13:00 - 20:00 !20:00 - 24:00 |- ! 軽自動車 |align="center"| 1,600円 |align="center"| 640円 |align="center"| 640円 |align="center"| 960円 |align="center"| 480円 |- ! 普通車 |align="center"| 1,960円 |align="center"| 800円 |align="center"| 800円 |align="center"| 1,200円 |align="center"| 600円 |- ! 中型車 |align="center"| 2,320円 |align="center"| 960円 |align="center"| 960円 |align="center"| 1,440円 |align="center"| 720円 |- ! 大型車 |align="center"| 3,130円 |align="center"| 1,320円 |align="center"| 1,320円 |align="center"| 1,980円 |align="center"| 990円 |- ! 特大車 |align="center"| 5,100円 |align="center"| 2,200円 |align="center"| 2,200円 |align="center"| 3,300円 |align="center"| 1,650円 |} 整備重視の料金から利用重視の料金への転換という方針のもと、2014年(平成26年)4月1日に[[伊勢湾岸道路]]と同等の1キロメートル当たり108.1円に料金水準が引き下げられた<ref name="kokudokansen20140625">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001044538.pdf#page=5 |title=これまでの経緯について |accessdate=2015-05-26 |date=2014-06-25 |format=PDF |work=第12回国土幹線道路部会 配布資料1 |publisher=国土交通省 }}</ref>。<!-- (15.1km×108.1円/km+150円)×1.08 -->ただし、債務の返済状況やETC車の割合が増え料金徴収コスト差が拡大している現状を考慮し、ETC限定で当面10年間実施とされた<ref name="nexcopress20140314">{{Cite press release|和書|title=新たな高速道路料金について |publisher=東日本高速道路(株)、中日本高速道路(株)、西日本高速道路(株) |date=2014-03-14 |format=PDF |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2014/0314/00006608.html |accessdate=2015-05-26 }}</ref>。 ETC普通車800円は、消費税率が8%となる2014年度以降も、千葉県が引き続き費用の一部を負担することを前提としてそのままの額で継続されることになり、財源は平成25年度補正予算により手当された<ref>[http://www.weekly-net.co.jp/logistics/post-9395.php 東京湾アクアライン 料金割引継続へ] - 物流ウィークリー(2014年2月12日閲覧)</ref>。<!--執筆者向け 注:平成25年度補正予算による措置については、出典には終了日が明示されていないため、これを記述する場合は別途出典を提示ください。--> 割引期間は、10年間という報道もあるが<ref name="nikkei20140215">{{cite news|title = 東京湾アクアライン通行料 800円、10年間継続へ|url = http://www.nikkei.com/article/DGXNZO66836880U4A210C1L71000/ |publisher = [[日本経済新聞]]|date = 2014年2月15日| accessdate = 2014年3月29日}}</ref><ref name="mainichi20140329">{{cite news |title= 東京湾アクアライン:「普通車800円」今後10年継続へ |url= http://mainichi.jp/select/news/20140329k0000e020247000c.html |publisher= [[毎日新聞]] |date= 2014-03-29 |accessdate= 2014-03-29 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140330205018/http://mainichi.jp/select/news/20140329k0000e020247000c.html |archivedate= 2014年3月30日 |deadlinkdate= 2017年10月 }}</ref>、これは前述の利用重視の料金水準の実施期間を元に報道されたもので、NEXCOのプレスリリースでは「当分の間」<ref name=nexcopress20140314/>、事業許可においては「東日本高速道路株式会社が別に定める日まで」<ref name=jigyokyoka20150325>{{Cite web|和書|url=http://www.e-nexco.co.jp/company/law_ordinance/1503business_license/pdfs/03.pdf#page=58 |title=料金の額及びその徴収期間 |accessdate=2015-05-26 |format=PDF |work=高速自動車国道北海道縦貫自動車道函館名寄線等に関する事業について 平成27年3月25日許可 |publisher=東日本高速道路 |page=58 }}</ref> とされており、必要な財源の執行は、日本国政府および千葉県の協議により、年度ごとの毎年更新となっていた<ref name=asahi20190118>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM1K5W83M1KUDCB014.html |title=千葉)アクアライン通行料、新年度から3年間は800円:朝日新聞デジタル |accessdate=2021-02-22}}</ref>。 千葉県は補助を継続し、[[2015年|平成27年]]度千葉県予算案で、東京湾アクアライン料金割引事業として5億円が計上されている<ref name="chiba20140131">{{cite news|title = 2015年度千葉県当初予算案の主な事業|url = http://www.chibanippo.co.jp/news/politics/238075|publisher = [[千葉日報]]|date = 2015年1月31日| accessdate = 2015年2月28日}}</ref>。日本国政府と千葉県の事業継続協議は年度ごとの実施であったが、2019年度からは3年ごとの協議に改められた<ref name=asahi20190118/>。2022年(令和4年)3月30日に向こう3年間の継続が決まったことが国土交通省から発表された<ref>{{Cite web|和書|title=アクアラインの通行料、800円のままで決着 25年3月末まで延長 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ3Z4WNJQ3ZUTIL01V.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |accessdate=2022-03-31 |date=2022-03-30}}</ref>。国と県が毎年それぞれ約5億円づつ拠出する。 2023年6月、国土交通省道路局、千葉県、NEXCO東日本の三者は休日の夕方時間帯における上り線(木更津→川崎方面)の渋滞緩和策として[[ロードプライシング]]([[ダイナミック・プライシング|変動料金]])制度を同年7月22日から2024年3月31日までの予定でETC搭載の全車種を対象に「ETC社会実験制度」として導入することを発表した。ロードプライシングを導入するのは2021年開催の[[2020年東京オリンピック・パラリンピック|東京オリンピック・パラリンピック]]に伴う首都高速道路での期間限定導入以来、2例目となる<ref name="socialexperiment" /><ref>{{Cite news |和書 |title=アクアライン 「コロナ後」見据えて変動料金制の試験導入 千葉県など、来月22日から |newspaper=産経新聞 |date=2023-06-20 |url=https://www.sankei.com/article/20230620-2RMZJVUTKVJK7FT2PZHKOYBYHE/ |access-date=2023-06-21 |format= |agency= |location=東京都千代田区 |publisher=産経新聞社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=アクアライン、変動料金導入 渋滞緩和へ今夏から―国交省 |newspaper=JIJI.com(時事通信) |date=2023-06-21 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023062000848&g=eco |access-date=2023-06-21 |format= |agency= |location=東京都中央区 |publisher=時事通信社 |isbn= |issn= |oclc= |pmid= |pmd= |bibcode= |doi= |id= |page= |pages= |at= |language=ja |trans-title= |quote= |archive-url= |archive-date= |ref= |postscript=}}</ref>。 ==== アクアライン特別割引導入から2014年3月まで ==== {| class="wikitable" style="text-align:center" |- |+ 東京湾アクアライン(川崎浮島JCT - 木更津金田IC)<br/>通行料金 |- ! 車種 !! 通常料金 !! ETCアクアライン<br/>特別割引 !! ETC社会実験割引<br/>(2009年8月 - ) |- | [[軽自動車]] || 2,400円 || 1,860円 || 640円 |- | [[普通自動車#高速道路料金区分における普通車|普通車]] || 3,000円 || 2,320円 || 800円 |- | [[中型自動車#有料路料金区分における中型車|中型車]] || 3,600円 || 2,780円 || 960円 |- | [[大型自動車#高速道路料金区分における大型車|大型車]] || 4,950円 || 3,830円 || 1,320円 |- | [[特定大型車#高速道路料金区分における特大車|特大車]] || 8,250円 || 6,380円 || 2,200円 |} アクアライン特別割引(割引率約23%)は、[[2002年]][[7月19日]]から実施していた[[社会実験]]が [[2006年]][[4月1日]]から恒久化されたものである。その後もETC車を対象にした社会実験割引が相次いで実施され、[[2007年]][[8月20日]]に[[ETC割引制度#通勤割引|通勤割引]]を開始、同年[[9月25日]]からは特定区間割引が実施されていた<ref>{{PDFlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/kansa/chousei/gaibu/documents/2h21zen.pdf#page&#61;103 平成21年度 千葉県包括外部監査の結果報告書]}}、99-101ページ</ref>。 [[2009年]][[3月]]、[[ETC割引制度#生活対策|生活対策]]に基づく高速道路料金の引き下げ開始と同時に、各種時間帯割引が本格的に開始された。まず、[[3月20日]]から休日特別割引(上限1,000円)がアクアラインで先行実施され<ref group="注釈">他の高速道路とは別に上限1,000円である。</ref>、[[3月28日]]には[[ETC割引制度#深夜割引|深夜割引]]・通勤割引、[[3月30日]]には平日夜間割引・平日昼間割引も開始された。 [[2009年千葉県知事選挙]]で、[[森田健作]]がETC無線走行に限り普通車800円へ引き下げると公約し当選した。これにより、[[内閣総理大臣]][[麻生太郎]]と会談が行われ、[[麻生政権]]下の[[国土交通省]]([[日本国政府]])と千葉県が必要費用を負担する社会実験として、2009年[[8月1日]]から通行料金を毎日終日800円(普通車)へ大幅に引き下げた。当初予定は[[2011年]](平成23年)[[3月31日]]までであったが、さらに延長された。 === 交通量 === 2009年8月からの料金引き下げ社会実験(ETC割引800円)を開始してからは、交通量が2008年度比で1.5倍前後に伸び、2012年度は4月に開業した[[三井アウトレットパーク 木更津]]による波及効果が大きく<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/c/news/politics/129160 交通量、平均14%アップ 木更津アウトレットと相乗効果 アクアライン 昨年4月~今年1月] 2013年3月26日 千葉日報</ref> 2008年度全日比で約1.8倍、2005年度道路交通センサス平日24時間交通量比では約3倍と通行量が増大した。それでも、開通20年後(2017年)に推定していた上下線合わせて一日64,000台の交通量には達していない現状がある。 '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!平成11(1999)年度!!|平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度 |- | 川崎浮島IC/JCT - 海ほたるPA || {{0}}6,350|| 11,462 || 29,339 || 40,204 || 46,745 |- | 海ほたるPA - 木更津金田IC || {{0}}6,282 || 11,661 || 29,239 || 40,115 || 47,142 |- | 木更津金田IC - 袖ヶ浦IC || {{0}}5,089 || {{0}}8,291 || 19,901 || 25,699 || 28,962 |- | 袖ヶ浦IC - 木更津JCT || {{0}}5,820 || {{0}}8,340 || 18,369 || 24,117 || 27,214 |} {{smaller|(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)}} ==== 社会実験開始前後の1日あたりの平均通行量 ==== {| class="wikitable" |+ 社会実験開始後の累計(44ヶ月間)の状況<ref>{{Cite web|和書|date=2013-05-14 |url=http://www.pref.chiba.lg.jp/doukei/press/2013/20130514aqua-traffic.html |title=東京湾アクアラインの交通量について(平成25年3月分及び社会実験開始後の累計) |publisher=千葉県土整備部道路計画課高速道対策班 |accessdate=2013-07-27}}</ref> ! 区分 !! 実験開始後44ヶ月間の平均<br />(平成21年8月1日~平成25年3月31日) !! 実験開始前平成20年度の平均<br />(平成20年4月1日~平成21年3月31日) !! 対平成20年度比 |- style="text-align:right" ! 全日 | 34,200台/日 || 20,800台/日 || 164% |- style="text-align:right" ! 土日祝 | 42,500台/日 || 27,800台/日 || 153% |- style="text-align:right" ! 平日 | 30,100台/日 || 17,200台/日 || 175% |} ==== 渋滞 ==== 開通当初は、高額な通行料金による通行量の少なさから[[渋滞|自然渋滞]]は発生しなかったが、通行料の値下げ施策により次第に交通量が増加したことで、通勤時間帯やゴールデンウィークなどピーク期に、東京湾アクアトンネルの両端にあたる[[川崎浮島ジャンクション]](上り線)と海ほたるPA入口(下り線)付近で、速度低下による1&nbsp;km程度の混雑が日常的に見られるようになった。休日の日中は、海ほたるPAへの入庫待ちのために、分岐手前付近で渋滞を起こすこともある。また、トンネルや連絡橋の坂道とほぼ直線という線形から、追突事故や故障車が発生しやすく、車線規制による事故渋滞を生ずることもある。 交通量が飛躍的に増加した2012年以降は、週末・休日の夕方に上り線[[川崎浮島ジャンクション|川崎浮島JCT]]からアクア連絡道の[[木更津ジャンクション|木更津JCT]]まで全線にわたる渋滞が頻繁に発生するようになった<ref>[http://www.jartic.or.jp/guide/yosoku/index1.php 渋滞予測>東京湾アクアライン] [[日本道路交通情報センター]]</ref>(並行ルートの京葉道路や東関東道でも同時間帯は渋滞している場合が多い<ref>[http://www.jartic.or.jp/guide/yosoku/index1.php 渋滞予測>館山道] [[日本道路交通情報センター]]</ref>)。 主に川崎・東京方面から、[[房総半島]]へレジャーで向かった[[自家用車|マイカー]]が、[[Uターンラッシュ]]を生じさせるものであり、木更津JCTから川崎浮島JCTまで90分以上になることもある。これは、川崎浮島JCTの接続道路となる首都高速湾岸線と異なり片側2車線である上、アクア連絡道と木更津金田ICが合流する木更津本線料金所手前と、川崎浮島JCT手前の登坂速度低下が[[ボトルネック]]となっており、交通容量の逼迫から発生するものである。また下り線においては、週末・休日の朝から昼にかけて、海ほたるPA手前や木更津金田IC付近を先頭とする渋滞が、接続する首都高速湾岸線両方向にも伸び、大型連休時などは、大井JCTから海ほたるPAまで数時間費やすこともある。 2013年4月27日から、上り線のアクアトンネル終点(浮島側)手前の登坂部分の壁側面に、速度低下を防ぐ効果がある「ペースメーカーライト」を設置している<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20130516/350711/ 点滅する光で渋滞を緩和、アクアライン] 2013年5月16日 日経BPケンプラッツ</ref><ref>{{Cite journal |和書|author =遠藤元一|author2 =中川浩|author3 =深瀬正之|author4 =橋本弾|title =東京湾アクアラインの渋滞対策について|date =2015|publisher =交通工学研究会|journal =交通工学論文集|volume =1|issue =4|doi=10.14954/jste.1.4_B_1|pages =B1-B8|ref = }}</ref>。 === 道路管理者 === * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]] [[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 東京湾アクアライン管理事務所 : 全線 ==== 路側放送(ハイウェイラジオ) ==== * アクアトンネル(川崎浮島JCT - 海ほたるPA 東京湾アクアトンネル内):上下線別内容を放送。 * アクアブリッジ(海ほたるPA - 木更津金田IC) == 地理 == 陸上部は、東京湾アクアラインが神奈川県川崎市に約0.3&nbsp;km、千葉県木更津市側に0.6 kmにあり<ref name="千葉県県土整備部"/>、千葉県木更津市にある東京湾アクアライン連絡道(木更津金田IC - 木更津JCT)に8.6 kmある。線形は全線に渡って東西方向にほぼ一直線で、海ほたるPAや、東京湾の海上部の橋梁区間を木更津から川崎方面に向かうと、左前方に横浜市街地、遠方に富士山を望むことができる{{Sfn|小川・栗栖・田宮|2016|p=57}}。東京湾に浮かぶ海ほたるは、世界的にみても珍しい海上のパーキングエリアとなっている<ref name="千葉県県土整備部"/>。 === 通過する自治体 === * [[神奈川県]] ** [[川崎市]] * [[千葉県]] ** [[木更津市]] - [[袖ケ浦市]] - 木更津市 === 交差する道路 === *[[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign B.svg|26px]] 首都高速湾岸線(川崎浮島JCT、川崎市川崎区浮島町) * [[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign K6.svg|26px]] 首都高速神奈川6号川崎線(川崎浮島JCT、川崎市川崎区浮島町) * {{Ja Exp Route Sign|E14}} 館山自動車道(館山道)(木更津JCT、木更津市中尾) * {{Ja Exp Route Sign|C4}} 首都圏中央連絡自動車道(圏央道)(木更津JCT、木更津市中尾) == 東京湾横断道路株式会社 == {{基礎情報 会社 |社名= 東京湾横断道路株式会社 |英文社名= TRANS-TOKYO BAY HIGHWAY CORPORATION |ロゴ= |種類= [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報= <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> |略称= |国籍= {{JPN}} |本社郵便番号= 140-0014 |本社所在地= [[東京都]][[品川区]][[大井 (品川区)|大井]]1丁目20番6号<br />住友大井町ビル北館 5階 |本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 36|本社緯度秒 = 27.1|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 139|本社経度分 = 43|本社経度秒 = 51.7|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = No |本社地図国コード = JP |設立= [[1986年]](昭和61年)[[10月1日]] |業種= サービス業 |法人番号 = 2010801014658 |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容= 東京湾アクアラインの維持、修繕等の管理事業 |代表者= 代表取締役社長 遠藤元一 |資本金= * 900億円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=東京湾横断道路株式会社 |authorlink= |date=2023-6-28 |title=第37期(令和4年4月1日 - 令和5年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |発行済株式総数 = * 180万株 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |売上高= * 単独: 76億6571万9000円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益 = * 単独: 2億9632万3000円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = * 単独: 3億0045万3000円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益 = * 単独: 2億1510万2000円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産 = * 単独: 956億4445万7000円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |総資産= * 単独: 3589億6704万4000円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数= * 単独: 112人 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |決算期= [[3月31日]] |会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref name="fy" /><!-- 更新する際は出典を修正してください --> |主要株主= * [[東日本高速道路]] 33.33% * [[千葉県]] 15.56% * [[神奈川県]] 5.00% * [[東京都]] 5.00% * [[川崎市]] 3.33% * [[横浜市]] 2.50% * [[みずほ銀行]] 1.19% * [[三菱UFJ銀行]] 1.19% * [[日本製鉄]] 1.05% * [[JFEスチール]] 0.99% * [[三井住友信託銀行]] 0.86% * [[茨城県]] 0.83% * [[埼玉県]] 0.83% * (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |主要子会社= |関係する人物= |外部リンク= https://www.aqua-line.co.jp/ |特記事項= }} '''東京湾横断道路株式会社'''(とうきょうわんおうだんどうろ、{{Lang-en-short|TRANS-TOKYO BAY HIGHWAY CORPORATION}})は、[[1986年]](昭和61年)[[10月1日]]に設立された[[第三セクター]]企業である。 [[1987年]]([[昭和]]62年)[[7月13日]]、東京湾横断道路の建設に関する特別措置法に基づき、日本道路公団と建設協定を締結し、東京湾横断道路建設事業者となった。開通前日の1997年(平成9年)[[12月17日]]、改めて道路公団と管理協定を締結し、日常的管理業務をおこなっている。本社は[[東京都]][[品川区]][[大井 (品川区)|大井]]1丁目20番6号住友大井町ビル北館5階。 === 業務 === * 建設協定に基づく横断道路の新設工事 : 会社は横断道路のうち、海上部の詳細設計および工事を行い、陸上部や基本設計・漁業補償については、直接[[日本道路公団]]が行った。1997年(平成9年)[[12月1日]]に、東京湾アクアラインの道路価額1.2兆円を日本道路公団に売却済であり、2005年(平成17年)[[10月1日]]に、日本道路公団の[[債務]]を承継した[[日本高速道路保有・債務返済機構]]から、長期の[[割賦販売|割賦]]による工事代金の分割支払いが行われている。 * 管理協定にもとづく維持、修繕等の管理 * 休憩施設事業 : 海ほたるPAの営業 {{-}} == 高速バス == 交通量が想定を下回る一方、[[運賃]]が比較的安価な[[高速バス]]の路線は開通時から設定され、[[木更津駅]]から[[横浜駅]]・[[新宿駅]]・[[品川駅]]・[[川崎駅]]・[[東京国際空港|羽田空港]]など、あるいは[[東京駅]]から木更津駅・[[君津駅]]・[[袖ケ浦駅]]・[[茂原駅]]・[[安房鴨川駅]]・[[勝浦駅]]・[[館山駅]]など房総半島各地への路線が運行され充実している。近年では木更津周辺から都心への通勤客も増加しており、鉄道と並ぶ通勤の足としても利用されている。 アクアライン開通後に[[パークアンドライド]]を想定して、[[木更津金田バスターミナル]]、[[袖ケ浦バスターミナル]]、[[君津バスターミナル]]、[[市原バスターミナル]]、[[市原鶴舞バスターミナル]]も設置された。 羽田空港・横浜方面および[[新富士駅 (静岡県)|新富士駅]]から[[成田国際空港|成田空港]]への[[リムジンバス]]は、通常ルートである[[首都高速湾岸線]]が大渋滞や通行止めになった際に、アクアラインへ[[迂回]]運行する場合がある。 逆にアクアラインが長時間通行止めになることが予告されている「ちばアクアラインマラソン」開催日(2012年から基本的に隔年開催で10月の日曜日、ただし2020年は中止)などは、下記路線の内の重要便がアクアラインを経由しない首都高速湾岸線に迂回運行することもある。 === 東京都心 - 房総半島 === * '''東京 - 木更津線'''([[京成バス]]・[[日東交通 (千葉県)|日東交通]]): [[京成バス東雲車庫|東雲車庫]] - [[東京駅のバス乗り場|東京駅]]⇔木更津金田BT - 木更津駅 - [[新日本製鐵君津製鐵所|君津製鐵所]] * '''東京 - 三井アウトレットパーク線'''(京成バス・日東交通): [[浜松町バスターミナル|浜松町BT]] - 東京駅⇔[[三井アウトレットパーク 木更津|三井アウトレットパーク]] * '''東京 - 君津線'''(京成バス・日東交通): [[東雲駅 (東京都)|東雲車庫]]/浜松町BT-東京駅⇔木更津金田BT - [[木更津羽鳥野バスストップ|木更津羽鳥野BS]] - 君津BT - 君津駅 - [[青堀駅]] * '''東京 - 袖ケ浦線'''(小湊鉄道)【[[東京ガウライナー]]】: 東京駅鍛冶橋駐車場⇔袖ケ浦BT - [[袖ケ浦駅]] * '''東京 - 館山線'''【[[房総なのはな号]]】([[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]・日東交通): 東京駅⇔[[上総湊駅]] - [[道の駅富楽里とみやま|ハイウェイオアシス富楽里]] - 館山駅 - [[千倉駅]]前 - [[安房白浜駅|安房白浜]] * '''東京 - 鴨川線'''【[[アクシー号]]】(京成バス・日東交通): 東京タワー - 浜松町BT - [[東京駅のバス乗り場|東京駅]]⇔木更津金田BT - [[かずさアカデミアパーク|かずさアーク]] - [[久留里駅]]前 - 安房鴨川 - [[鴨川シーワールド]] - [[亀田総合病院|亀田病院]] * '''東京 - 勝浦線'''(京成バス・小湊鉄道・日東交通): 浜松町BT - 東京駅⇔木更津金田BT - [[市原鶴舞バスターミナル|市原鶴舞BT]] - 大多喜 - 勝浦駅 - 御宿/安房小湊 * '''東京 - 茂原線'''(小湊鉄道): 東雲車庫 - 東京駅⇔市原鶴舞BT - 長南駐車場 - [[茂原駅]] * '''品川 - 木更津線'''([[京浜急行バス]]・日東交通・小湊鉄道): 品川駅⇔袖ケ浦BT - 木更津駅 * '''品川 - 長浦線'''(京浜急行バス・日東交通・小湊鉄道): 品川駅⇔袖ケ浦BT - 袖ケ浦駅 - [[長浦駅 (千葉県)|長浦駅]] * '''品川・羽田空港 - 大多喜線'''(京浜急行バス・小湊鉄道): 品川駅(品川グース) - 羽田空港⇔大多喜オリブ - [[大多喜駅]] *'''渋谷 - 木更津線'''([[東急トランセ]]・[[小湊鉄道]]):[[渋谷マークシティ|渋谷駅(マークシティ)]]- [[袖ケ浦バスターミナル|袖ケ浦BT]] - [[木更津駅|木更津駅西口]] * '''新宿 - 木更津線'''【[[アクアライナー (高速バス)|アクアライナー]]】([[小田急ハイウェイバス]]・小湊鉄道): [[新宿駅のバス乗り場|新宿駅]]⇔袖ケ浦BT - 木更津駅 * '''新宿 - 三井アウトレットパーク線'''【アクアライナー】(小田急ハイウェイバス・小湊鉄道): 新宿駅⇔三井アウトレットパーク * '''新宿 - 館山線'''【[[新宿なのはな号]]】(JRバス関東・日東交通): 新宿駅⇔木更津羽鳥野BS - ハイウェイオアシス富楽里 - 館山駅 * '''新宿 - 君津線'''【新宿君津号】(JRバス関東・日東交通): 新宿駅⇔木更津羽鳥野BS - 君津BT - 君津駅 * '''池袋 - 三井アウトレットパーク線'''(小湊鉄道): 池袋駅⇔三井アウトレットパーク * '''新小岩 - 三井アウトレットパーク線'''(京成バス・小湊鉄道): [[新小岩駅]] - [[一之江駅]] - [[葛西駅]]⇔三井アウトレットパーク === 羽田空港 - 房総半島 === * '''羽田空港 - 木更津線'''(京浜急行バス・[[東京空港交通]]・日東交通・小湊鉄道): 羽田空港⇔木更津金田BT - 袖ケ浦BT - 木更津駅 * '''羽田空港 - 君津線'''(京浜急行バス・日東交通): 羽田空港⇔君津BT - 君津駅 - 君津製鐵所 * '''羽田空港 - 五井・東金線'''(京浜急行バス・小湊鉄道): 羽田空港⇔[[市原バスターミナル|市原BT]] - [[五井駅]] - [[東金駅]] * '''羽田空港 - 蘇我線'''(京浜急行バス・小湊鉄道): 羽田空港⇔[[蘇我駅]] * '''羽田空港 - 大網線'''(東京空港交通・[[千葉中央バス]]): 羽田空港⇔[[鎌取駅]] - [[誉田駅]] - [[土気駅]] - [[大網駅]] === 神奈川 - 房総半島 === * '''川崎 - 木更津線'''([[川崎鶴見臨港バス]]・日東交通・小湊鉄道・[[東京湾横断道路サービス]]): [[川崎駅]] - 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海峡横断プロジェクトのひとつ([[房総半島]]と[[三浦半島]]を結ぶ道路計画) * [[ストロー効果]] * [[木更津キャッツアイ]] * [[関越トンネル]] * [[延長別トンネルの一覧]] * [[延長別日本の交通用トンネルの一覧]] * [[延長別日本の道路トンネルの一覧]] * [[東西連係ガス導管]] - アクアラインの10&nbsp;kmほど南で東京湾を横断するもう1本のトンネル、天然ガスのパイプラインを通している。 * [[亀井静香]] - アクアライン開通時の[[建設大臣]]。開通直前に料金の5年間値下げを決定した。 * [[浜田幸一]] - [[ビートたけしのTVタックル]]で「ハマコー道路」などと揶揄される。本人も自分が推進役の1人であったことを認めている。 * [[港珠澳大橋]] - 橋梁と長大海底トンネルというアクアラインと同じ構造を持つ中国広東省珠海市と香港新界離島区ランタオ島およびマカオ花地瑪堂区を結ぶ海上橋。 == 外部リンク == * [https://www.umihotaru.com/ 海ほたる] * [https://www.pref.chiba.lg.jp/doukei/aqualine/ 東京湾アクアライン] - 千葉県 * {{YouTube|OsX944VXVxs|東京湾横断道路 製作:東京文映}} {{東日本高速道路}} {{海底トンネル}} {{3環状9放射}} {{東京湾アクアライン}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse=on |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=東京湾アクアトンネル |1-1=関東地方の道路トンネル |1-2=海底トンネル |redirect2=東京湾アクアブリッジ |2-1=東京湾の橋 |redirect3=東京湾横断道路 |3-1=品川区の企業 }} {{デフォルトソート:とうきようわんあくあらいん}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:地域高規格道路]] [[Category:神奈川県の道路]] [[Category:千葉県の道路]] [[Category:一般国道|409とうきようわんあくあらいん]] [[Category:東京湾]] [[Category:1997年開業の道路施設]] [[Category:浜田幸一]]
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斉明天皇
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう、旧字体: 齊明天皇、594年〈推古天皇2年〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)は、日本の第35代天皇(在位:642年2月19日〈皇極天皇元年1月15日〉- 645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉)および第37代天皇(在位:655年2月14日〈斉明天皇元年1月3日〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。 諱は寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ、新字体:宝女王)、または寶皇女(読みは同じ、新字体:宝皇女)。後者の諱の表記の方が一般化しているが、これは後世の尊称とみられている。 『日本書紀』及び『藤氏家伝』によると孝徳天皇に譲位した後、重祚する前は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼ばれた。また『万葉集』の中皇命(なかつすめらみこと)を斉明天皇とする説もある。 和風諡号は天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、新字体:天豊財重日足姫天皇)。漢風諡号の「皇極天皇」「斉明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。 茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。敏達天皇の皇曾孫にあたる。 はじめ高向王(用明天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。 後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、推古天皇の時と同様、中継ぎの女帝として皇極天皇元年(642年)1月15日、皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行った。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。 皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、健児に命じて、翹岐の目の前で相撲をとらせた。これが記紀上初の相撲節会の記述となる。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き四方を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。このことを民衆が称えて「至徳まします大王」と呼ばれた。同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮に遷幸。 皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の天皇の譲位(退位)とされる。 新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が奉られた。 孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。 斉明天皇元年には、高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献した。 有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。なお、研究者の中には、これらの工事を飛鳥盆地とその周辺を宮都として整備する構想の一環であったとする見解もある(→飛鳥京)。 対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。 『日本書紀』では、北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、政所を置き郡領を任命して帰ったとある。さらに「幣賄弁島(へろべのしま)」まで出兵し、能登馬身龍が戦死するも粛慎 (みしはせ)に勝利したと伝える。「後方羊蹄」については、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)のほか、松浦武四郎の尻別川流域説など諸説ある。「幣賄弁島」については粛慎の本拠地である樺太とする説や、奥尻島とする説などがある。北海道ではなく、青森に比定する説も強く、定説は存在しない。 遺伝子分析の結果から、ニヴフやギリヤークと言った人々とオホーツク文化人遺跡で発掘された遺骨の調査により、オホーツク文化人がニブフ、ギリヤーク人と類縁である。粛慎 (みしはせ)がオホーツク文化人と推測する説があるが、確証はなく、推論の域を出ない。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。 在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。 直木孝次郎は斉明天皇のこれらの動向について、記紀における神功皇后の三韓征伐説話のモデルになったのではないかと推測している。 ※前節に記載されたものを除く。 陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」で、直径約45メートルの円墳である。 ただし、研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されており、そのほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 河内祥輔は、舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにもかかわらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説を採る。 また、仮説としながらも寶女王の天皇在位を斉明天皇としてのみとして、舒明天皇崩御後から孝徳天皇即位までは内乱による天皇空位期であり、上宮王家滅亡から古人大兄皇子殺害までの「事件」は内乱による「戦い」であった可能性を指摘している。 乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の王殺しとする。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極は殺害される代わりに強制的に退位を選ばせざるを得ない状況に追い込まれた。ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。 だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたとする。 『善光寺縁起』によれば、皇極天皇は一度崩御し、地獄に向かっていたところを本多善光の息子の善佐と阿弥陀如来に助けられた。現世に戻ると、本多善光と善佐を甲斐と信濃の国司とし、信濃に如来をまつるための御堂を建立した。これが善光寺の始まりとされる。
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皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇は、日本の第35代天皇および第37代天皇。 舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。
{{Hatnote|「'''皇極天皇'''」と「'''宝皇女'''」はこの項目へ[[Wikipedia:リダイレクト|転送]]されています。}} {{基礎情報 天皇 | 名 =皇極天皇<br/>斉明天皇 | 代数=第35代天皇<br/>第37 | 画像=Empress Kogyoku-Saimei.jpg | 説明= 『御歴代百廿一天皇御尊影』より「斉明天皇」 | 在位='''皇極天皇''':[[642年]][[2月19日]] - [[645年]][[7月12日]]<br />皇極天皇元年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]] - 皇極天皇4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]<br/>'''斉明天皇''':[[655年]][[2月14日]] - [[661年]][[8月24日]]<br/>斉明天皇元年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]] - 斉明天皇7年7月24日 | 時代=[[飛鳥時代]] | 都=[[飛鳥宮]] | 皇居=皇極天皇:<br /> 1. [[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]<br />斉明天皇:<br /> 1. 飛鳥板蓋宮<br /> 2. [[川原宮|飛鳥川原宮]]<br /> 3. [[岡本宮|飛鳥後岡本宮]]<br /> 4. 飛鳥田中宮<br /> 5. [[朝倉橘広庭宮]] | 諱=寶(宝) | 漢風諡号=皇極天皇(第35代)<br/>斉明天皇(第37代) | 和風諡号=天豊財重日足姫天皇 | 別名= | 生年=西暦[[594年]] | 生地= | 没年=[[661年]][[8月24日]] | 没地= | 陵墓=越智崗上陵 | 先代=[[舒明天皇]](第34代)<br />[[孝徳天皇]](第36代) | 次代=[[孝徳天皇]](第36代)<br />[[天智天皇]](第38代) | 子 =[[漢皇子]]<br>[[天智天皇]]<br>[[間人皇女]]<br>[[天武天皇]] | 夫=[[高向王]]<br>[[舒明天皇]] | 父親=[[茅渟王]]([[敏達天皇]]皇孫) | 母親=[[吉備姫王]]([[欽明天皇]]皇孫) | 注釈=[[女帝]]。皇極天皇が[[重祚]]して斉明天皇。 |}} {{基礎情報 皇后 |皇后名 = 宝皇女 |立后根拠 = 第34代天皇后 |画像 = |画像幅 = |画像代替文 = |画像説明 = |在位期間 = [[630年]]3月1日 ‐ [[641年]]11月17日 |和暦在位期間 = [[舒明天皇]]2年1月12日 ‐ 舒明天皇13年10月9日 |皇后 = [[630年]]3月1日([[舒明天皇]]2年1月12日)(大后) |配偶者1 = [[舒明天皇]] |配偶者2 = 高向王 |結婚 = |脚注 = }} '''皇極天皇'''(こうぎょくてんのう)、[[重祚]]して'''斉明天皇'''(さいめいてんのう、{{旧字体|'''齊明天皇'''}}、[[594年]]〈[[推古天皇]]2年〉- [[661年]][[8月24日]]〈斉明天皇7年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]〉)は、[[日本]]の第35代[[天皇]](在位:[[642年]][[2月19日]]〈皇極天皇元年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]〉- [[645年]][[7月12日]]〈皇極天皇4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]〉)および第37代天皇(在位:[[655年]][[2月14日]]〈斉明天皇元年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。 [[舒明天皇]]の[[皇后]]で、[[天智天皇]]・[[間人皇女]]([[孝徳天皇]]の皇后)・[[天武天皇]]の母である。[[推古天皇]]から1代おいて即位した[[女帝]]([[女性天皇]])になる。 == 諱・諡号 == [[諱]]は'''寶女王'''(たからのひめみこ/たからのおおきみ、{{smaller|新字体:}}宝女王)、または'''寶皇女'''({{smaller|読みは同じ、新字体:}}宝皇女)。後者の諱の表記の方が一般化しているが、これは後世の尊称とみられている。 『[[日本書紀]]』及び『[[藤氏家伝]]』によると[[孝徳天皇]]に[[譲位]]した後、[[重祚]]する前は'''皇祖母尊'''(すめみおやのみこと)と呼ばれた<ref group="注釈">斉明天皇は孝徳天皇の姉であるが義理の母でもある。皇極天皇2年([[643年]])に亡くなった斉明天皇の母の[[吉備姫王]]も吉備島皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)と呼ばれ、天智天皇3年([[664年]])に亡くなった舒明天皇の母の[[糠手姫皇女]]も嶋皇祖母命と呼ばれた。</ref>。また『[[万葉集]]』の'''中皇命'''(なかつすめらみこと)を斉明天皇とする説もある<ref group="注釈">[[間人皇女]]とする説もある。</ref>。 [[諡号|和風諡号]]は'''天豐財重日足姬天皇'''(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、{{smaller|新字体:}}天豊財重日足姫天皇)。漢風諡号の「皇極天皇」「斉明天皇」は代々の天皇と共に[[淡海三船]]によって名付けられたとされる。 == 略歴 == {{節スタブ}} [[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|150px|天皇系図 26~37代]] [[画像:Emperor family tree38-50.png|thumb|right|150px|天皇系図 38~50代]] [[茅渟王]]の第一王女。母は[[吉備姫王]]。[[敏達天皇]]の皇曾孫にあたる。 はじめ[[高向王]]([[用明天皇]]の孫)と[[結婚]]して、[[漢皇子]]を産んだ。 後に[[舒明天皇]]2年[[1月12日]]([[630年]][[3月1日]])、37歳で[[舒明天皇]]の皇后に立てられる。[[舒明天皇]]との間に、[[天智天皇|中大兄皇子(のちの天智天皇)]]・[[間人皇女]]([[孝徳天皇]]の[[皇后]])・[[天武天皇|大海人皇子(のちの天武天皇)]]を産んだ。 [[舒明天皇]]13年[[10月9日]]([[641年]][[11月17日]])、 [[舒明天皇]]が[[崩御]]する。 === 皇極天皇としての即位 === [[舒明天皇]]の後、継嗣となる[[皇子]]が定まらなかったので、[[推古天皇]]の時と同様、中継ぎの女帝として皇極天皇[[元年]]([[642年]])[[1月15日]]、'''皇極天皇'''として即位した。49歳であった。『[[日本書紀]]』によれば、天皇は古の道に従って政を行った。在位中は、[[蘇我蝦夷]]が[[大臣 (古代日本)|大臣]]として重んじられ、その子・[[蘇我入鹿|入鹿]]が自ら国政を執った。 皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には[[安曇比羅夫]]が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、[[翹岐]]が従者を伴い来日した。同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、[[健児]]に命じて、翹岐の目の前で[[相撲#古代|相撲]]をとらせた。これが記紀上初の[[相撲節会]]の記述となる。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き[[四方]]を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。このことを民衆が称えて「至徳まします大王」と呼ばれた。同年9月3日(10月1日)、[[百済大寺]]の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、[[小墾田宮]]に遷幸。 皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に[[飛鳥板蓋宮]]に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が[[山背大兄王]]を攻め、11月11日に王は自害。 === 乙巳の変 === 皇極天皇4年6月12日([[645年]]7月10日)、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する([[乙巳の変]]・[[大化の改新]])。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の[[孝徳天皇]])に大王位を譲った。日本史上初の天皇の'''[[譲位]]([[退位]])'''とされる。 新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が奉られた。 === 孝徳天皇の時代 === {{Main|孝徳天皇}} * [[白雉]]2年3月15日([[651年]]4月10日) - [[十師]]たちを呼んで設斎。 * 白雉4年([[653年]])、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。 * 白雉5年10月1日([[654年]]11月15日)、中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]に行幸。10月10日、孝徳天皇が崩御。12月8日に[[山田上ノ山古墳|大坂磯長陵]]に葬り、行宮に戻る。 === 重祚 === 孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年([[655年]])1月3日、62歳のとき、[[板蓋宮|飛鳥板蓋宮]]で再び皇位に即いた(史上初の[[重祚]])<ref group="注釈">この62歳での即位は[[光仁天皇]]と並ぶ高齢記録だが、斉明天皇は重祚であるため最高齢記録として捉えられることは稀である。</ref>。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。 斉明天皇元年には、[[高句麗]]、[[百済]]<ref group="注釈">百済の大使は余宜受、副使は調信仁で、総員100余人であった。</ref>、[[新羅]]<ref group="注釈">新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死。</ref>が使を遣わして[[朝貢]]してきた。また、[[蝦夷]]と[[隼人]]も衆を率いて内属し、朝献した。 [[有間皇子]]の変に際して、[[蘇我赤兄]]は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。なお、研究者の中には、これらの工事を[[飛鳥盆地]]とその周辺を宮都として整備する構想の一環であったとする見解もある(→[[飛鳥京]])<ref> 木下正史『古代の漏刻と時刻制度』(吉川弘文館、2020年)P363-375.</ref>。 == 対外政策 == 対外的には、[[朝鮮半島]]の諸国と使者を交換し、[[唐]]にも使者を遣わした。 === 蝦夷平定 === 『[[日本書紀]]』では、北方の[[蝦夷]]に対し、三度にわたって[[阿倍比羅夫]]を海路の遠征に送って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、政所を置き[[郡司|郡領]]を任命して帰った<ref>[http://www.t-komazawa.ac.jp/column/net/backnumber/04/ 苫小牧駒澤大学:駒大在学生応援:インターネット講座■ 第4回 北海道と胆振地方の古代史]([https://web.archive.org/web/20190109205433/https://www.t-komazawa.ac.jp/column/net/backnumber/04/ アーカイブ])</ref>とある。さらに「幣賄弁島(へろべのしま)」まで出兵し、[[能登馬身龍]]が戦死するも'''[[粛慎 (日本)|粛慎 (みしはせ)]]'''に勝利したと伝える。「後方羊蹄」については、余市説<ref group="注釈">地方史研究所編「余市」に[[瀧川政次郎]]「後方羊蹄」=余市説</ref><ref>[https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/yoichistory/2017/sono158.html 余市町でおこったこんな話 その158「『余市』の刊行と阿倍比羅夫(その2)」|まちの紹介 |北海道余市町ホームページ]</ref>([[後志国]][[余市郡]])、[[末期古墳]]のある札幌・[[江別古墳群|江別]]説([[石狩国]][[札幌郡]])や恵庭・千歳説([[胆振国]][[千歳郡]])<ref group="注釈">北海道歴史家協議会編「歴史家―第四号」[[河野広道|河野廣道]] 胆振鉏=[[勇払郡|勇払]]又は江別、後方羊蹄=江別と苫小牧の間とする説など。 </ref>のほか、[[松浦武四郎]]の[[尻別川]]流域説など諸説ある。「幣賄弁島」については粛慎の本拠地である樺太とする説<ref>西鶴定嘉『樺太史の栞』( 樺太庁、1941年)</ref>や、[[奥尻島]]とする説などがある。北海道ではなく、青森に比定する説も強く、定説は存在しない。 [[遺伝子]]分析の結果<ref>[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200902040080.html 消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査。朝日新聞2009年2月4日]</ref><ref>[http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー 北海道新聞2012年6月18日朝刊]</ref>から、ニヴフやギリヤークと言った人々とオホーツク文化人遺跡で発掘された遺骨の調査により、オホーツク文化人がニブフ、ギリヤーク人と類縁である。粛慎 (みしはせ)が[[オホーツク文化|オホーツク文化人]]と推測する説があるが、確証はなく、推論の域を出ない。詳細は[[粛慎 (日本)|粛慎 (みしはせ)]]の項を参照。 === 朝鮮半島への軍事介入 === 在位5年([[660年]])に[[百済]]が唐と[[新羅]]によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子[[扶余豊璋|豊璋]]を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、[[筑紫国|筑紫]]の[[朝倉橘広庭宮|朝倉宮]]に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに[[称制]]し、[[朴市秦造田来津]](造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、[[白村江の戦い]]を戦ったが、[[唐]]と[[新羅]]の連合軍に敗北した。 [[直木孝次郎]]は斉明天皇のこれらの動向について、[[記紀]]における[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]説話のモデルになったのではないかと推測している<ref>直木孝次郎『神話と歴史』(吉川弘文館、2006年)</ref>。 {{Main|三韓征伐}} == 年譜 == <small>※前節に記載されたものを除く。</small> * 斉明天皇元年([[655年]]) ** 7月11日 - 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人を饗応。 ** 8月1日 - 河辺麻呂が大唐から帰国。 ** 10月13日 - 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。 ** 冬 - 飛鳥板蓋宮が火災に遭い、[[川原宮|飛鳥川原宮]]に遷幸。 * 斉明天皇2年([[656年]]・63歳) ** 8月8日 - 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。 ** 9月 - 高句麗へ、大使に膳葉積、副使に[[坂合部磐鍬]]以下の使を遣わす。 ** 飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応。やがて宮室が建ったので、そこに遷幸し[[岡本宮|後飛鳥岡本宮]]と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。 *** [[香久山]]の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。 *** 吉野宮を作る。 *** [[多武峰]]に両槻宮を作る。 *:この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20140408-JVVATTWDZVKNDDR4K6QR2ZFSFI/|title=斉明天皇(3)「狂心」と非難された無謀な運河開削|publisher=産経新聞|author=[[奈良県立図書情報館]]長・[[帝塚山大学]]特別客員教授 [[千田稔 (歴史地理学者)|千田稔]]|work=産経WEST|date=2014-4-8|accessdate=2016-2-3}}</ref>。 ** 西海使の佐伯栲縄と[[難波国勝|吉士国勝]]らが百済より還って、[[鸚鵡]]を献上する。 * 斉明天皇3年([[657年]]・64歳) ** 7月3日 - [[吐火羅|覩貨邏]]国(とからのくに)の男2人・女4人が[[筑紫]]に漂着したので、召す。 ** 7月15日 - [[須弥山]]の像を[[飛鳥寺]]の西に造り、[[盂蘭盆会]]を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。 ** 9月 - 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。 ** この年 - 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。 * 斉明天皇4年([[658年]]・65歳) ** 1月13日 - 左大臣[[巨勢徳多]]が死去。 ** 4月 - 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の[[恩荷]]を[[山本郡|渟代]]・[[津軽郡 (陸奥国)|津軽]]二郡の郡領に定め、有馬浜で[[渡島国|渡島]]の蝦夷を饗応。 ** 5月 - 皇孫の[[建皇子|建王]]が8歳で薨去。天皇は甚だ哀しんだ。 ** 7月4日 - 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。 ** 7月 - 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、[[玄奘]]法師から無性衆生義([[法相宗]])を受ける。 ** 10月15日 - 紀温湯に行く。 ** 11月5日 - 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。 ** 11月11日 - 有間皇子を絞首刑に、[[塩屋鯯魚]]と新田部米麻呂を斬刑にする。 ** この年 - 沙門の智喩が[[指南車]]を作る。 * 斉明天皇5年([[659年]]・66歳) ** 1月3日 - 紀温湯から帰る。 ** 3月1日 - [[吉野]]に行く。 ** 3月3日 - [[近江国|近江]]の平浦に行幸。 ** 3月10日 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。 ** 3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り[[陸奥国|陸奥]]と[[越国|越]]の蝦夷を饗応。 ** 3月 - 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に[[秋田郡|飽田]]・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、[[胆振国|胆振鉏]]の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。[[羊蹄山|後方羊蹄]]に郡領を置く。[[粛慎 (日本)|粛慎 (みしはせ)]]([[オホーツク文化|オホーツク文化人]])と戦って帰り、虜49人を献じる。 ** 7月3日 - [[坂合部磐鍬|坂合部石布]]と[[津守吉祥]]を唐国に遣わす。 ** 7月15日 - 群臣に詔して、京の内の寺に[[盂蘭盆経]]を説かせ、七世の父母に報いさせる。 * 斉明天皇6年([[660年]]・67歳) ** 1月1日 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に到着。 ** 3月 - 阿倍比羅夫に粛慎 (みしはせ)を討たせる。比羅夫は、[[石狩川|大河]]のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を[[樺太|幣賄弁島]]まで追って彼らと戦い、これを破る。 ** 5月8日 - 賀取文らが難波館に到着。 ** 5月 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、[[仁王会|仁王般若会]]を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて[[漏刻]]を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎 (みしはせ)47人を饗応。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来。 ** 7月16日 - 賀取文らが帰る。覩貨邏人の[[乾豆波斯達阿]]が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。 ** 7月 - 百済が唐と新羅により滅亡。 ** 9月5日 - 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来日。[[鬼室福信]]が百済復興のために戦っていることを伝える。 ** 10月 - [[鬼室福信]]が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。 ** 12月24日 - 軍器の準備のため、難波宮へ行幸。 * 斉明天皇7年([[661年]]・68歳) ** 1月6日 - 西に向かって出航。 ** 1月8日 - 大伯海に至る。[[大田皇女]]が皇女を産み、[[大来皇女|大伯皇女]]と名付ける。 ** 1月14日 - [[伊予国|伊予]]の熟田津の石湯行宮に泊まる。 ** 3月25日 - 娜大津に着き、磐瀬行宮に居す。 ** 4月 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。 ** 5月9日 - [[朝倉橘広庭宮]]に遷幸。 ** 5月23日 - [[耽羅]]が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献。 ** 7月24日 - 朝倉宮で崩御。 ** 8月1日 - 皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に到着。 ** 10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。 ** 10月23日 - 天皇の喪が[[難波津]]に着く。 ** 11月7日 - 飛鳥の川原で[[殯]]した。9日まで[[挙哀|発哀]]。 == 在位中の重臣一覧 == {| class="wikitable" ! 年月日(西暦) !! 左大臣 !! 右大臣 !! 内臣 |- | 斉明天皇元年1月3日<br/>(655年2月14日) | [[巨勢徳多]](留任) | | [[藤原鎌足|中臣鎌足]](留任) |- | 斉明天皇4年1月13日<br/>(658年2月20日) | | | 中臣鎌足 |} ==系図== {{ahnentafel top|斉明天皇の系譜|width=100%}} {{ahnentafel-compact5 |style=font-size: 100%; line-height: 100%; |border=1 |boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0; |boxstyle_1=background-color: #fcc; |boxstyle_2=background-color: #fb9; |boxstyle_3=background-color: #ffc; |boxstyle_4=background-color: #bfc; |boxstyle_5=background-color: #9fe; |1= 1. 第35代 皇極天皇<br/>第37代 斉明天皇 |2= 2. [[茅渟王]] |3= 3. [[吉備姫王]] |4= 4. [[押坂彦人大兄皇子]] |5= 5. 大俣王 |6= 6. [[桜井皇子]] |8= 8. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]] |9= 9. [[広姫]] |12= 12. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]] (=16) |13= 13. [[蘇我堅塩媛]] |16= 16. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=12) |17= 17. [[石姫皇女]] |18= 18. [[息長真手王]] |24= 24. [[継体天皇|第26代 継体天皇]] |25= 25. [[手白香皇女]] |26= 26. [[蘇我稲目]] }}</center> {{ahnentafel bottom}} {{皇室飛鳥時代}} {{女性天皇系図}} == 陵・霊廟 == [[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[奈良県]][[高市郡]][[高取町]]大字車木にある'''越智崗上陵'''(おちのおかのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は[[円墳|円丘]]。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」で、直径約45メートルの円墳である。 ただし、研究者の間では[[明日香村]]の'''[[牽牛子塚古墳]]'''が陵墓として有力視されており<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20100911052544/http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010090901000532.html|title=帝斉明天皇の陵墓と特定 奈良・牽牛子塚古墳|work=47NEWS|publisher=[[共同通信]]|date=2010-09-09|accessdate=2010-09-09|language=日本語}}</ref>、そのほか同村の[[岩屋山古墳]]、[[橿原市]]の小谷古墳も候補としてあげられている。 また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 == 研究 == === 皇后冊立 === {{See also|皇后}} [[河内祥輔]]は、舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である[[田眼皇女]]も妃にいたにもかかわらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、[[天智天皇]]の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説を採る<ref name="kawachi">河内祥輔 『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)P54-60</ref>。 また、仮説としながらも寶女王の天皇在位を斉明天皇としてのみとして、舒明天皇崩御後から孝徳天皇即位までは内乱による天皇空位期であり、上宮王家滅亡から[[古人大兄皇子]]殺害までの「事件」は内乱による「戦い」であった可能性を指摘している<ref name="kawachi"/>。 === 乙巳の変と皇極王権否定説 === [[乙巳の変]]はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。[[佐藤長門]]は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の[[王殺し]]とする<ref name="sato"/>。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極は殺害される代わりに強制的に退位を選ばせざるを得ない状況に追い込まれた。ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。 だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたとする<ref name="sato">佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6)</ref>。 == 伝承 == 『[[善光寺縁起]]』によれば、皇極天皇は一度崩御し、地獄に向かっていたところを[[本田善光|本多善光]]の息子の善佐と[[阿弥陀如来]]に助けられた。現世に戻ると、本多善光と善佐を[[甲斐国|甲斐]]と[[信濃国|信濃]]の国司とし、信濃に如来をまつるための御堂を建立した。これが[[善光寺]]の始まりとされる<ref>{{Cite book|和書 |title=善光寺縁起ものがたり |date=2009年4月1日 |publisher=光竜堂 |pages=144-154}}</ref>。 == 在位年と西暦との対照表 == <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 1px solid #999; margin: 0.5em auto;"> <div class="NavHead" style="background-color: #CCCCFF; font-size: 90%; border-left: 3em soli; text-align: center; font-weight: bold;">在位年と西暦との対照表 </div> <div class="NavContent" style="padding: 1em 0 0 0; font-size: 90%; text-align: center;"> ; 太字は『日本書紀』の[[太歳]]干支の年。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !皇極天皇!!元年!!2年!!3年!!4年 |- |[[西暦]]||'''[[642年]]'''||[[643年]]||[[644年]]||[[645年]] |- |[[干支]]||'''[[壬寅]]'''||[[癸卯]]||[[甲辰]]||[[乙巳]] |} {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !斉明天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年 |- |[[西暦]]||'''[[655年]]'''||[[656年]]||[[657年]]||[[658年]]||[[659年]]||[[660年]]||[[661年]] |- |[[干支]]||'''[[乙卯]]'''||[[丙辰]]||[[丁巳]]||[[戊午]]||[[己未]]||[[庚申]]||[[辛酉]] |} </div></div> == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|Empress Saimei}} * [[村山神社]](境内が、百済救援のために筑紫に向かった斉明天皇が滞在した娜大津の[[磐瀬行宮]]の跡だと伝えられる。) * [[日本における女性の合戦参加の年表]] * [[善光寺縁起]] == 外部リンク == * [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/037/index.html 越智崗上陵] - 宮内庁 * {{Kotobank}} {{歴代天皇一覧}} {{歴代皇后一覧}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=皇極天皇 |1-1=飛鳥時代の天皇 |1-2=女性天皇 |1-3=飛鳥時代の女性 |redirect2=宝皇女 |2-1=日本の皇后 |2-2=飛鳥時代の女性皇族 |2-3=飛鳥時代の后妃後宮 }} {{DEFAULTSORT:さいめいてんのう}} [[Category:斉明天皇|*]] [[Category:飛鳥時代の天皇]] [[Category:女性天皇]] [[Category:日本の上皇]] [[Category:7世紀の女性君主]] [[Category:7世紀日本の天皇]] [[Category:舒明天皇|+]] [[Category:日本の女性歌人]] [[Category:7世紀の歌人]] [[Category:飛鳥時代の女性]] [[Category:7世紀日本の女性皇族]] [[Category:594年生]] [[Category:661年没]]
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CRT Cランタイム - プログラミング言語Cのライブラリ(標準CライブラリやPOSIXライブラリなど)に含まれる内容をランタイムライブラリとして構成したもの。 毛細血管再充満時間 両室ペーシング療法 の略。 - 重症慢性心不全患者の心室同期不全に対して、左心室中隔側と自由壁側から同時にペーシングし血行動態の改善を図る治療法。心臓再同期療法ともいわれる。 陰極線管。ブラウン管を参照 中国の剰余定理 重慶軌道交通 オートバイロードレース世界選手権MotoGPクラスの車両レギュレーションのひとつ。クレーミング・ルール・チーム の略 戦闘結果表 - 主にボードゲームのウォー・シミュレーションゲームで使用される戦闘解決のための表(コンピュータゲームでは内部処理されるため画面上には戦闘結果しか出ない)。攻撃側と防御側の戦力比を求め、サイコロ(ダイス)を振って双方の損害を出す。 栃木放送の略称 - 旧社名「ラジオ栃木」時代の略称をそのまま使用 テキーラ規制委員会の略称 クライシスレスポンスチーム の略。コミュニティーの危機に際し、支援者への支援を中心に、期間限定で精神保健サービスを提供する多職種の専門職チーム。危機対応チーム、緊急支援活動チーム、こころのレスキュー隊などともいわれる。 目標基準準拠検査 - 標準学力検査(標準化された学力検査) 自転車ロードレースにおける、クリテリウムの略称。 現状問題構造ツリー Customer Response Teleservice 方式 - 電話投票の方式の一つ 批判的人種理論 Crt コップ座 (Crater) の略符。
'''CRT''' * Cランタイム (C Run-Time) - [[プログラミング言語]][[C言語|C]]の[[ライブラリ]]([[標準Cライブラリ]]や[[POSIX]]ライブラリなど)に含まれる内容を[[ランタイムライブラリ]]として構成したもの。 * [[毛細血管再充満時間]] (Capillary Refilling Time) * [[両室ペーシング療法]] (Cardiac Resynchronization Therapy) の略。 - 重症慢性心不全患者の心室同期不全に対して、左心室中隔側と自由壁側から同時にペーシングし血行動態の改善を図る治療法。心臓再同期療法ともいわれる。 * 陰極線管 (Cathode Ray Tube)。[[ブラウン管]]を参照 * [[中国の剰余定理]] (Chinese Remainder Theorem) * [[重慶軌道交通]] (Chongqing Rail Transit) * [[オートバイ]][[ロードレース世界選手権]]MotoGPクラスの車両[[ロードレース世界選手権のレギュレーション|レギュレーション]]のひとつ。[[ロードレース世界選手権#MotoGPクラス|クレーミング・ルール・チーム]] (Claiming Rule Team) の略 * [[戦闘結果表]] ([[:en:Combat results table|Combat Results Table]]) - 主にボードゲームの[[ウォー・シミュレーションゲーム]]で使用される戦闘解決のための表(コンピュータゲームでは内部処理されるため画面上には戦闘結果しか出ない)。攻撃側と防御側の戦力比を求め、サイコロ(ダイス)を振って双方の損害を出す。 * [[栃木放送]]の略称 (Company Radio Tochigi) - 旧社名「ラジオ栃木」時代の略称をそのまま使用 * [[テキーラ規制委員会]]の略称 (Consejo Regulador del Tequila A.C) * クライシスレスポンスチーム (Crisis Response Team) の略。コミュニティーの危機に際し、支援者への支援を中心に、期間限定で精神保健サービスを提供する多職種の専門職チーム。危機対応チーム、緊急支援活動チーム、こころのレスキュー隊などともいわれる。 * 目標基準準拠検査 (Criterion Referenced Test) - 標準学力検査(標準化された学力検査) * [[自転車]][[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]における、クリテリウム(Criterium: 一定の基準を満たした周回コースで競われるワンデーレース)の略称。 * 現状問題構造ツリー ([[:en:Current reality tree (theory of constraints)|Current Reality Tree]]) * Customer Response Teleservice 方式 - [[電話投票]]の方式の一つ * {{仮リンク|批判的人種理論|en|Critical Race Theory}} (Critical Race Theory) '''Crt''' * [[コップ座]] (Crater) の略符。 {{aimai}}
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天橋立
天橋立(あまのはしだて)は、京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州。日本三景の一つであり、2013年の観光入込客数は178万1900人と京都市を除いた京都府内の観光地で第1位である。 2017年(平成29年)4月、文化庁により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された。 一般的に「天橋立」と表記されるが、砂州を走る府道の名称は天の橋立線である。「橋立」と略される場合もあり、例えば対岸の与謝野町には橋立中学校がある。 読み方は「あまのはしだて」であるが、立の字を濁らせずに「たて」と読むことがある。2003年から2004年にかけて、宮津市と与謝郡4町の合併協議において新市の名称を公募したところ、上位10点に入った「天橋立」「天の橋立」「橋立」にはそれぞれ、濁らせた読みと濁らせない読みの両方が含まれる。なお、合併自体は断念された。 『運歩色葉集』には天橋立を意味する1文字の漢字(国字)が記載されている。之繞に「日」を九つ、読みは「はしだて」である。『詞林三知抄』にも、雁垂れに「有」を六つの一文字で「あまのはしたて」と読ませる文字が紹介されている。 天橋立の北部、およそ南西方向へ延びている部分を大天橋または北砂州という。切戸を隔てて南部、およそ南東方向へ延びている部分を小天橋または南砂州という。これら2か所が宮津湾と阿蘇海を分断し、切戸と文殊水道(天橋立運河)によって両水域がかろうじて繋がっている。切戸には大天橋という橋が架かる。また文殊水道には小天橋という橋が架かり「廻旋橋」として知られる。さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を第2小天橋という。これら3か所で天橋立の砂州部分をなし、全幅は20-170メートル、全長は大天橋と小天橋を合わせて約3.2キロメートル、第2小天橋を合わせると約3.6キロメートルである。北方にある傘松地区からは3地区を眺めることができ、これら4地区を合わせて都市公園法に基づく都市公園「京都府立天橋立公園」をなす。文殊堂・智恩寺とその門前町のある天橋立南方を文殊地区という。 全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。この松は、人の手により植林されたものではなく、大部分が自然発生的に生えたものである。1994年(平成6年)、「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」は、天橋立に生える老松、奇松12本の愛称を公募し「九世戸の松」「知恵の松」などが命名された。天橋立には「日本の道100選」に選定された京都府道607号天の橋立線が走っている。当路線は延長約3.2キロメートル、幅員3.5-12.1メートルであり、近畿自然歩道に指定されている。 天橋立は、宮津湾の西側沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、天橋立西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより、海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が堆積したことにより形成された。 『古事記』によると、イザナギとイザナミの国生みにおいて天の浮橋に立ち、天の沼矛をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島になったとする。このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり、天の浮橋が天橋立のことと言われている。なお、オノゴロ島の位置は現在の沼島であるという説が有力である。 『丹後国風土記』には次のように述べられている。 イザナギは久志備の浜の北にある元伊勢籠神社の真名井原(イザナミのいる奥宮)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れてしまった、というのが天橋立の名の由来である。また『丹後国風土記』では天橋立の「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明している。 民俗学者柳田國男は、風土記のいう「天の椅立」がこの砂州を指していることに疑問を呈した。柳田は、ハシダテと言えば専ら梯子を立てたように険しい岩山を指すものであって、それが崩れたものを橋立と呼ぶのは不自然であると主張した。また上記逸文の「此の里の海に長く大きなる前あり」の部分は白文で「此里之海有長大石前」と記されているが、大石前(おおいそざき)は元々湾の外側、山上の寺となっている成相山のことであったものがいつの間にか湾内の砂州に移ったものと述べている。 2万年前、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地であった。そのため陳活雄らによると、野田川など河川からの流出土砂の堆積を考えなければ、7,000年前までは天橋立の原型すらなかった。一方、天橋立の基礎部分には砂でなく石か岩があるという説もある。その後、6,000年前の縄文時代に海面が上昇し、海底に砂州が形成され始めた。およそ2,200年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、ちょうど海面が低くなった時であったため海面上に現れた。小谷聖史は3,000年前に海面低下によって現れたとするが、砂州は砂嘴が伸びてできるものであり、海面低下のみを理由とする場合はその後の前進・発達が説明できない。ただ小谷の指摘は、天橋立がいつから形成され始めたかを説明するためには海面変動を考慮しなければならないことを示した点で注目された。 例えば2004年の新潟県中越地震や2008年の岩手・宮城内陸地震では、土砂崩れによって川がせき止められる例が多発した。形成された天然ダム(土砂ダム)は、現代においては決壊を未然に防ぐ措置を講じることもできるが、決壊した場合は大規模な土石流となって水と土砂が流下することとなる。有井広幸は、傘松付近を流れる真名井川などで発生した土石流によって供給された土砂が、阿蘇海方面へ運搬された可能性を指摘する。真名井川は現在は阿蘇海へ注いでいるが、2004年度の調査によって元は宮津湾に流入していたと考えられている。ただし、真名井川などからの流入量だけでは天橋立を形成するには足りないため、さらに北方に大きな供給地が存在した可能性がある。 丹後半島東部には兵庫県北部から京都府与謝郡伊根町にわたって延びる山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中している。その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、中流域の松尾集落付近に川と隣接した地滑り地形が見られる。有井によると周囲の地形から、かつて宮津市北部を震源とする地震によって地滑りが発生し、これが世屋川をせき止め、やがて土石流となって宮津湾に流れ込んだとされる。阿蘇海周辺におけるボーリング調査の結果、2,200年前に阿蘇海の汽水化が進んだと判明した。地震、地滑り、土石流はこの頃に発生し、砂州が大きくなって宮津湾と阿蘇海を分離した。 平安時代から江戸時代中期にかけて、宮津湾の海流によって砂が供給され続けて大天橋が完成した。その後、江戸時代後期から明治時代前期にかけて小天橋から形成され、宮津湾最奥の宮津城および城下町にあたる地域でも堆積があった。 江戸時代後期以降の小天橋の発達は『宮津市史』などが宮津市世屋地区における焼畑農業や文殊地区における新田開発といった人為的影響を強調し、文殊地区の新田開発が与えた影響については支持されている。世屋地区では中世以来、第二次世界大戦後にガス・電気が普及するまで薪炭が冬季の収入源であった。ただし薪にされる木は根元が残され、そこから再び木が育って数十年後に切り出されることを繰り返すものである。よって表土の流出は起こりにくい。焼畑も同様に根を掘り起こすものではないため、こちらも表土流出は少ない。そもそも表土を流出させるような開発を続けていては生活できなくなってしまう。有井は歴史的・民俗技術的見地から、世屋地区の人為的影響は考えにくいとする。 天橋立の松並木は雪舟筆『天橋立図』に描かれ、以降の絵画でも同様であることから、安定した林容を保ってきたと推定される。現在、天橋立には5,000本から8,000本の松が生えている。 海岸線における松並木といえば防砂林や薪炭供給用の人工林であることが多い。ところが宮津湾においては丹後半島に守られる地形により北西季節風の影響が少なく、由良川河口に見られるのみである。季節風の影響を強く受ける丹後半島北東部に、京都府京丹後市久美浜町の小天橋のような松林が見られることとは対照的である。天橋立は砂州の幅が狭く、集落などがないため防砂林的性格は薄い。また薪炭供給地としての役割も与えられなかった。阿蘇海北岸に国分寺が置かれ、古代から中世にかけて一帯は府中という丹後の政治経済の中心地であった。薪炭供給地であれば、近世の京都(平安京)周辺の山林が禿山であったように、近くて山を登る必要のない天橋立に松林は残らないはずである。『正保丹後国絵図』の写しによると、供給地は前述のように世屋地区など宮津市北部であった。付近の林ではコナラやクヌギが優勢であることなどから、長年にわたり供給が行われたと考えられる。 また、松林が維持されたのは伐採の制限があったことを理由とする。府中地区には籠神社や真名井神社などが集まり、禁足地である山林も所有していたことから、天橋立の松林も神聖な場所として扱われていたと考えられた。近代以降は観光地・名勝地としてさらに保護されるようになっていった。 京都府が主催する日本博府域展開アート・プロジェクト「もうひとつの京都―光のアトリエ―」の一環として、天橋立と元伊勢籠神社を光と音楽で彩るライトアップイベントが、2020年10月16日(金)から11月3日(火)まで行われた。天橋立の小天橋には、実験的音楽や現代美術を手掛ける池田亮司のオーディオビジュアルわんわんわわん 作品「data-verse1」が展示され、大型スクリーンと電子音楽で幻想的な世界が演出された。 天橋立が名勝地として認知され始めたのは8世紀初頭、西国三十三所の28番札所である成相寺が開山した頃といわれる。成相寺から見られる天橋立は絶好の眺望を誇る。江戸時代まで天橋立を描いた絵画は、『天橋立図』を除けば府中地区から眺めたものが多い。平安時代、小式部内侍は次の和歌を詠んだ。 1643年(寛永20年)、林春斎は『日本国事跡考』において次のように述べ、松島、宮島、天橋立を奇観と紹介した。 1689年(元禄2年)、貝原益軒は『己巳紀行』において「日本三景」という言葉を初めて用いた。 これによると、天橋立を「日本の三景の一とする」ことは既に世に広く言われていることであって、貝原はそれを改めて実感したに過ぎないということである。 特記ないものは、京都府資料「天橋立を未来に引き継ぐために」による。 2007年、京都府・宮津市などは「天橋立―日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に対し世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)記載資産候補としての提案を行った。2008年時点でリストには選ばれなかったが、カテゴリーIa「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」 という評価を受けた。リスト入りのためには「普遍的な価値をもった、内外に比類のない白砂青松であることを示す」という課題が設定された。 明治時代まで、来訪者は寺社へ参詣する旅の中で天橋立の景観を楽しんでいた。天橋立を望む視点は、自然とその道中の峠や阿蘇海などの船上、寺社周辺が主であった。とりわけ代表的な三つの視点、樗峠(おうちとうげ、現在の大内峠)、傘松、栗田峠(くんだとうげ)からの眺めは三絶または三大観と呼ばれ、景観研究の対象となった。他に文殊側に位置する櫻山(桜山)や玄妙庵があり、吉見豆人は1921年、著書『天橋紀行』の中で「樗峠、傘松、櫻山、丹後富士(由良ケ岳)を天橋四大観と呼ぶそうだが、その中では櫻山が一番感じが良い」と述べた。一方『樗嶺志』は天橋四大観として栗田峠、大内峠、成相山、櫻山を挙げた。玄妙庵は1386年、足利義満が智恩寺に参拝した際に訪れ「ああこれまさに玄妙なるかな」と詠嘆したことが名前の由来であり、昭和前期の絵はがきに「玄妙庵からの眺めは四大観の一つ」という記述がある。 戦後は天橋立五大観として傘松、玄妙庵、大内峠、滝上公園、獅子崎を挙げた記述が見られた。1970年、文殊地区に天橋立ビューランドが開業すると、そこから天橋立を望む飛龍観が斜め一文字、一字観、雪舟観とともに四大観と呼ばれるようになった。これらのように、明治以降に言われる四大観や五大観は人によって、また時代によって差異があった。1986年、宮津商工会議所などが「天橋立十景」を選定した。これらは新たな展望地や車道の整備に伴い加えられたものであったり、伝統的な視点が再評価されたものである。天橋立地域の広範囲を一体的に眺める遠景を中心としており、櫻山や玄妙庵のような近距離の視点は含まれていない。 1971年(昭和46年)に京都府が企画し、京都在住の日本画家12名に府内の名勝を描かせた「京の百景」にも選出され、岩澤重夫によって描かれ、1973年(昭和48年)京都市内で開催された展覧会に出品されている。 2021年(令和3年)1月に実施された大学入学共通テストの地理の試験問題として天橋立の眺望に関する問題が出題された。 近年、天橋立は侵食により縮小・消滅の危機にある。戦前までの砂州は、現代よりスリムで弓なりの美しい曲線を描いていたとされ、戦後は以前より歪に変形してしまったといわれている。これは戦後に河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の堆積・侵食バランスが崩れたこと、および府中・日置両地区の港湾に防波堤が設けられたことにより漂砂が遮断されたことが原因であるとされてきたが、現在は河川からの流入量の変化より、むしろ侵食の原因は湾内の海流の変化が原因であると言われる。侵食を防ぐため、行政では写真の南側よりの眺めである飛龍観の右側のノコギリ状になっている砂浜部分に養浜を行うために砂州上に小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めている。 松食い虫の大量発生のため、一時は松の立ち枯れが頻発し全滅の危機に瀕した。その後、害虫の駆除が行われた結果、小康状態を保っている。 豪雨などで流木が大量に漂着して景観を損ねてしまうことがある。2013年の台風18号でも大量の流木等が漂着した。 天橋立によって隔てられた内海である阿蘇海に、2000年頃からカキが繁殖するようになり、カキの殻が大量に天橋立周辺に集積し、カキ礁(英語版)(「カキ殻島」)が形成されるようになった。これが景観を損ねているとして、京都府は2015年7月11日から大掛かりな撤去作業を開始している。 松は海岸や山の尾根などの痩せた土地でも育つ代わりに、肥えた土地では生育しにくい。自ら落とす枝葉により土壌の富栄養化が進むと、松以外の植物が育ちやすくなるのである。天橋立の松林が長く維持されたのは、住民が燃料として松の落ち葉や落ち枝を日常利用していたからである。また、松はヤニを多く含み、燃やすと高温になるため製鉄にも用いられた。現代では化石燃料に転換するにつれ松を利用しなくなったため、根元に雑草が茂るようになった。天橋立は地下水位が高く、苦労なく吸水できるため松の根が深く張らない傾向にある。また表土が栄養に富んだ腐植土となったことで、幹だけが大きく育ってバランスが悪くなり、台風や大雪による倒木も多発した。 天橋立では松を育てるための施肥や侵食対策の山土により、広葉樹が増加している。2013年8月時点、幹周り10センチメートル以上の松約4,525本に対し、同じく広葉樹は約1,260本ある。府は広葉樹の伐採と腐植土の除去を試験的に行った結果、松への日光量が増加し、中から外への見通しが良くなった。その一方で外観に大きな変化はなかった。これを踏まえ、府は5年計画により広葉樹300本を伐採し、松の密度を均等にするための移植を行う。 最寄り駅は、南側の京都丹後鉄道宮豊線の天橋立駅である。天橋立(全長約3.6km、廻旋橋から船越の松まで約2.4km)は、徒歩で約50分、自転車で約20分程度である。 北側の傘松公園へは天橋立駅から路線バスで傘松ケーブル下のバス停まで約25分。天橋立観光船(丹後海陸交通)で天橋立桟橋から一の宮桟橋まで約12分(桟橋から徒歩で約5分)。与謝天橋立ICから車で約15分である。 最寄りの空港であるコウノトリ但馬空港へ、大阪国際空港(伊丹)からの定期航空路が日本エアコミューターにより運航されている。同空港からは豊岡駅までの連絡バスが全但バスにより運行されており、同駅にて京都丹後鉄道宮豊線への乗換えが可能である。大阪国際空港で日本航空の東京便と連絡。 最寄りのインターチェンジ(IC) は、京都縦貫自動車道の宮津天橋立ICと山陰近畿自動車道の与謝天橋立ICである。天橋立南側(智恩寺側)へは宮津天橋立ICから国道176号と京都府道2号を使う。天橋立北側(傘松公園側)へは与謝天橋立ICを降りたあと、国道176号・国道178号を使い、北上する。駐車場の多くは有料である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "天橋立(あまのはしだて)は、京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州。日本三景の一つであり、2013年の観光入込客数は178万1900人と京都市を除いた京都府内の観光地で第1位である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)4月、文化庁により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一般的に「天橋立」と表記されるが、砂州を走る府道の名称は天の橋立線である。「橋立」と略される場合もあり、例えば対岸の与謝野町には橋立中学校がある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "読み方は「あまのはしだて」であるが、立の字を濁らせずに「たて」と読むことがある。2003年から2004年にかけて、宮津市と与謝郡4町の合併協議において新市の名称を公募したところ、上位10点に入った「天橋立」「天の橋立」「橋立」にはそれぞれ、濁らせた読みと濁らせない読みの両方が含まれる。なお、合併自体は断念された。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『運歩色葉集』には天橋立を意味する1文字の漢字(国字)が記載されている。之繞に「日」を九つ、読みは「はしだて」である。『詞林三知抄』にも、雁垂れに「有」を六つの一文字で「あまのはしたて」と読ませる文字が紹介されている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "天橋立の北部、およそ南西方向へ延びている部分を大天橋または北砂州という。切戸を隔てて南部、およそ南東方向へ延びている部分を小天橋または南砂州という。これら2か所が宮津湾と阿蘇海を分断し、切戸と文殊水道(天橋立運河)によって両水域がかろうじて繋がっている。切戸には大天橋という橋が架かる。また文殊水道には小天橋という橋が架かり「廻旋橋」として知られる。さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を第2小天橋という。これら3か所で天橋立の砂州部分をなし、全幅は20-170メートル、全長は大天橋と小天橋を合わせて約3.2キロメートル、第2小天橋を合わせると約3.6キロメートルである。北方にある傘松地区からは3地区を眺めることができ、これら4地区を合わせて都市公園法に基づく都市公園「京都府立天橋立公園」をなす。文殊堂・智恩寺とその門前町のある天橋立南方を文殊地区という。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。この松は、人の手により植林されたものではなく、大部分が自然発生的に生えたものである。1994年(平成6年)、「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」は、天橋立に生える老松、奇松12本の愛称を公募し「九世戸の松」「知恵の松」などが命名された。天橋立には「日本の道100選」に選定された京都府道607号天の橋立線が走っている。当路線は延長約3.2キロメートル、幅員3.5-12.1メートルであり、近畿自然歩道に指定されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "天橋立は、宮津湾の西側沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、天橋立西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより、海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が堆積したことにより形成された。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『古事記』によると、イザナギとイザナミの国生みにおいて天の浮橋に立ち、天の沼矛をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島になったとする。このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり、天の浮橋が天橋立のことと言われている。なお、オノゴロ島の位置は現在の沼島であるという説が有力である。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『丹後国風土記』には次のように述べられている。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イザナギは久志備の浜の北にある元伊勢籠神社の真名井原(イザナミのいる奥宮)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れてしまった、というのが天橋立の名の由来である。また『丹後国風土記』では天橋立の「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明している。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "民俗学者柳田國男は、風土記のいう「天の椅立」がこの砂州を指していることに疑問を呈した。柳田は、ハシダテと言えば専ら梯子を立てたように険しい岩山を指すものであって、それが崩れたものを橋立と呼ぶのは不自然であると主張した。また上記逸文の「此の里の海に長く大きなる前あり」の部分は白文で「此里之海有長大石前」と記されているが、大石前(おおいそざき)は元々湾の外側、山上の寺となっている成相山のことであったものがいつの間にか湾内の砂州に移ったものと述べている。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2万年前、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地であった。そのため陳活雄らによると、野田川など河川からの流出土砂の堆積を考えなければ、7,000年前までは天橋立の原型すらなかった。一方、天橋立の基礎部分には砂でなく石か岩があるという説もある。その後、6,000年前の縄文時代に海面が上昇し、海底に砂州が形成され始めた。およそ2,200年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、ちょうど海面が低くなった時であったため海面上に現れた。小谷聖史は3,000年前に海面低下によって現れたとするが、砂州は砂嘴が伸びてできるものであり、海面低下のみを理由とする場合はその後の前進・発達が説明できない。ただ小谷の指摘は、天橋立がいつから形成され始めたかを説明するためには海面変動を考慮しなければならないことを示した点で注目された。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "例えば2004年の新潟県中越地震や2008年の岩手・宮城内陸地震では、土砂崩れによって川がせき止められる例が多発した。形成された天然ダム(土砂ダム)は、現代においては決壊を未然に防ぐ措置を講じることもできるが、決壊した場合は大規模な土石流となって水と土砂が流下することとなる。有井広幸は、傘松付近を流れる真名井川などで発生した土石流によって供給された土砂が、阿蘇海方面へ運搬された可能性を指摘する。真名井川は現在は阿蘇海へ注いでいるが、2004年度の調査によって元は宮津湾に流入していたと考えられている。ただし、真名井川などからの流入量だけでは天橋立を形成するには足りないため、さらに北方に大きな供給地が存在した可能性がある。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "丹後半島東部には兵庫県北部から京都府与謝郡伊根町にわたって延びる山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中している。その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、中流域の松尾集落付近に川と隣接した地滑り地形が見られる。有井によると周囲の地形から、かつて宮津市北部を震源とする地震によって地滑りが発生し、これが世屋川をせき止め、やがて土石流となって宮津湾に流れ込んだとされる。阿蘇海周辺におけるボーリング調査の結果、2,200年前に阿蘇海の汽水化が進んだと判明した。地震、地滑り、土石流はこの頃に発生し、砂州が大きくなって宮津湾と阿蘇海を分離した。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "平安時代から江戸時代中期にかけて、宮津湾の海流によって砂が供給され続けて大天橋が完成した。その後、江戸時代後期から明治時代前期にかけて小天橋から形成され、宮津湾最奥の宮津城および城下町にあたる地域でも堆積があった。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "江戸時代後期以降の小天橋の発達は『宮津市史』などが宮津市世屋地区における焼畑農業や文殊地区における新田開発といった人為的影響を強調し、文殊地区の新田開発が与えた影響については支持されている。世屋地区では中世以来、第二次世界大戦後にガス・電気が普及するまで薪炭が冬季の収入源であった。ただし薪にされる木は根元が残され、そこから再び木が育って数十年後に切り出されることを繰り返すものである。よって表土の流出は起こりにくい。焼畑も同様に根を掘り起こすものではないため、こちらも表土流出は少ない。そもそも表土を流出させるような開発を続けていては生活できなくなってしまう。有井は歴史的・民俗技術的見地から、世屋地区の人為的影響は考えにくいとする。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "天橋立の松並木は雪舟筆『天橋立図』に描かれ、以降の絵画でも同様であることから、安定した林容を保ってきたと推定される。現在、天橋立には5,000本から8,000本の松が生えている。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "海岸線における松並木といえば防砂林や薪炭供給用の人工林であることが多い。ところが宮津湾においては丹後半島に守られる地形により北西季節風の影響が少なく、由良川河口に見られるのみである。季節風の影響を強く受ける丹後半島北東部に、京都府京丹後市久美浜町の小天橋のような松林が見られることとは対照的である。天橋立は砂州の幅が狭く、集落などがないため防砂林的性格は薄い。また薪炭供給地としての役割も与えられなかった。阿蘇海北岸に国分寺が置かれ、古代から中世にかけて一帯は府中という丹後の政治経済の中心地であった。薪炭供給地であれば、近世の京都(平安京)周辺の山林が禿山であったように、近くて山を登る必要のない天橋立に松林は残らないはずである。『正保丹後国絵図』の写しによると、供給地は前述のように世屋地区など宮津市北部であった。付近の林ではコナラやクヌギが優勢であることなどから、長年にわたり供給が行われたと考えられる。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、松林が維持されたのは伐採の制限があったことを理由とする。府中地区には籠神社や真名井神社などが集まり、禁足地である山林も所有していたことから、天橋立の松林も神聖な場所として扱われていたと考えられた。近代以降は観光地・名勝地としてさらに保護されるようになっていった。", "title": "形成史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "京都府が主催する日本博府域展開アート・プロジェクト「もうひとつの京都―光のアトリエ―」の一環として、天橋立と元伊勢籠神社を光と音楽で彩るライトアップイベントが、2020年10月16日(金)から11月3日(火)まで行われた。天橋立の小天橋には、実験的音楽や現代美術を手掛ける池田亮司のオーディオビジュアルわんわんわわん 作品「data-verse1」が展示され、大型スクリーンと電子音楽で幻想的な世界が演出された。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "天橋立が名勝地として認知され始めたのは8世紀初頭、西国三十三所の28番札所である成相寺が開山した頃といわれる。成相寺から見られる天橋立は絶好の眺望を誇る。江戸時代まで天橋立を描いた絵画は、『天橋立図』を除けば府中地区から眺めたものが多い。平安時代、小式部内侍は次の和歌を詠んだ。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1643年(寛永20年)、林春斎は『日本国事跡考』において次のように述べ、松島、宮島、天橋立を奇観と紹介した。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1689年(元禄2年)、貝原益軒は『己巳紀行』において「日本三景」という言葉を初めて用いた。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これによると、天橋立を「日本の三景の一とする」ことは既に世に広く言われていることであって、貝原はそれを改めて実感したに過ぎないということである。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "特記ないものは、京都府資料「天橋立を未来に引き継ぐために」による。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2007年、京都府・宮津市などは「天橋立―日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に対し世界遺産暫定一覧表(暫定リスト)記載資産候補としての提案を行った。2008年時点でリストには選ばれなかったが、カテゴリーIa「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」 という評価を受けた。リスト入りのためには「普遍的な価値をもった、内外に比類のない白砂青松であることを示す」という課題が設定された。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "明治時代まで、来訪者は寺社へ参詣する旅の中で天橋立の景観を楽しんでいた。天橋立を望む視点は、自然とその道中の峠や阿蘇海などの船上、寺社周辺が主であった。とりわけ代表的な三つの視点、樗峠(おうちとうげ、現在の大内峠)、傘松、栗田峠(くんだとうげ)からの眺めは三絶または三大観と呼ばれ、景観研究の対象となった。他に文殊側に位置する櫻山(桜山)や玄妙庵があり、吉見豆人は1921年、著書『天橋紀行』の中で「樗峠、傘松、櫻山、丹後富士(由良ケ岳)を天橋四大観と呼ぶそうだが、その中では櫻山が一番感じが良い」と述べた。一方『樗嶺志』は天橋四大観として栗田峠、大内峠、成相山、櫻山を挙げた。玄妙庵は1386年、足利義満が智恩寺に参拝した際に訪れ「ああこれまさに玄妙なるかな」と詠嘆したことが名前の由来であり、昭和前期の絵はがきに「玄妙庵からの眺めは四大観の一つ」という記述がある。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "戦後は天橋立五大観として傘松、玄妙庵、大内峠、滝上公園、獅子崎を挙げた記述が見られた。1970年、文殊地区に天橋立ビューランドが開業すると、そこから天橋立を望む飛龍観が斜め一文字、一字観、雪舟観とともに四大観と呼ばれるようになった。これらのように、明治以降に言われる四大観や五大観は人によって、また時代によって差異があった。1986年、宮津商工会議所などが「天橋立十景」を選定した。これらは新たな展望地や車道の整備に伴い加えられたものであったり、伝統的な視点が再評価されたものである。天橋立地域の広範囲を一体的に眺める遠景を中心としており、櫻山や玄妙庵のような近距離の視点は含まれていない。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)に京都府が企画し、京都在住の日本画家12名に府内の名勝を描かせた「京の百景」にも選出され、岩澤重夫によって描かれ、1973年(昭和48年)京都市内で開催された展覧会に出品されている。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)1月に実施された大学入学共通テストの地理の試験問題として天橋立の眺望に関する問題が出題された。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "近年、天橋立は侵食により縮小・消滅の危機にある。戦前までの砂州は、現代よりスリムで弓なりの美しい曲線を描いていたとされ、戦後は以前より歪に変形してしまったといわれている。これは戦後に河川にダムなどが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の堆積・侵食バランスが崩れたこと、および府中・日置両地区の港湾に防波堤が設けられたことにより漂砂が遮断されたことが原因であるとされてきたが、現在は河川からの流入量の変化より、むしろ侵食の原因は湾内の海流の変化が原因であると言われる。侵食を防ぐため、行政では写真の南側よりの眺めである飛龍観の右側のノコギリ状になっている砂浜部分に養浜を行うために砂州上に小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めている。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "松食い虫の大量発生のため、一時は松の立ち枯れが頻発し全滅の危機に瀕した。その後、害虫の駆除が行われた結果、小康状態を保っている。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "豪雨などで流木が大量に漂着して景観を損ねてしまうことがある。2013年の台風18号でも大量の流木等が漂着した。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "天橋立によって隔てられた内海である阿蘇海に、2000年頃からカキが繁殖するようになり、カキの殻が大量に天橋立周辺に集積し、カキ礁(英語版)(「カキ殻島」)が形成されるようになった。これが景観を損ねているとして、京都府は2015年7月11日から大掛かりな撤去作業を開始している。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "松は海岸や山の尾根などの痩せた土地でも育つ代わりに、肥えた土地では生育しにくい。自ら落とす枝葉により土壌の富栄養化が進むと、松以外の植物が育ちやすくなるのである。天橋立の松林が長く維持されたのは、住民が燃料として松の落ち葉や落ち枝を日常利用していたからである。また、松はヤニを多く含み、燃やすと高温になるため製鉄にも用いられた。現代では化石燃料に転換するにつれ松を利用しなくなったため、根元に雑草が茂るようになった。天橋立は地下水位が高く、苦労なく吸水できるため松の根が深く張らない傾向にある。また表土が栄養に富んだ腐植土となったことで、幹だけが大きく育ってバランスが悪くなり、台風や大雪による倒木も多発した。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "天橋立では松を育てるための施肥や侵食対策の山土により、広葉樹が増加している。2013年8月時点、幹周り10センチメートル以上の松約4,525本に対し、同じく広葉樹は約1,260本ある。府は広葉樹の伐採と腐植土の除去を試験的に行った結果、松への日光量が増加し、中から外への見通しが良くなった。その一方で外観に大きな変化はなかった。これを踏まえ、府は5年計画により広葉樹300本を伐採し、松の密度を均等にするための移植を行う。", "title": "文化的景観" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最寄り駅は、南側の京都丹後鉄道宮豊線の天橋立駅である。天橋立(全長約3.6km、廻旋橋から船越の松まで約2.4km)は、徒歩で約50分、自転車で約20分程度である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北側の傘松公園へは天橋立駅から路線バスで傘松ケーブル下のバス停まで約25分。天橋立観光船(丹後海陸交通)で天橋立桟橋から一の宮桟橋まで約12分(桟橋から徒歩で約5分)。与謝天橋立ICから車で約15分である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "最寄りの空港であるコウノトリ但馬空港へ、大阪国際空港(伊丹)からの定期航空路が日本エアコミューターにより運航されている。同空港からは豊岡駅までの連絡バスが全但バスにより運行されており、同駅にて京都丹後鉄道宮豊線への乗換えが可能である。大阪国際空港で日本航空の東京便と連絡。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "最寄りのインターチェンジ(IC) は、京都縦貫自動車道の宮津天橋立ICと山陰近畿自動車道の与謝天橋立ICである。天橋立南側(智恩寺側)へは宮津天橋立ICから国道176号と京都府道2号を使う。天橋立北側(傘松公園側)へは与謝天橋立ICを降りたあと、国道176号・国道178号を使い、北上する。駐車場の多くは有料である。", "title": "交通" } ]
天橋立(あまのはしだて)は、京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州。日本三景の一つであり、2013年の観光入込客数は178万1900人と京都市を除いた京都府内の観光地で第1位である。 2017年(平成29年)4月、文化庁により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された。
[[ファイル:Amanohashidate view from Kasamatsu Park01s3s4410.jpg|thumb|北側(傘松公園)からの眺望 - 斜め一文字]] {{Location map | Japan Kyoto | lat_deg = 35 | lat_min = 34 | lat_sec = 09.69 | lat_dir = N | lon_deg = 135 | lon_min = 11 | lon_sec = 29.46 | lon_dir = E | label = 天橋立 | position = right | width = 220 | float = right | caption = 京都府内における天橋立の位置 | alt = 天橋立は京都府北部にある }} [[ファイル:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|[[雪舟]]筆『[[天橋立図]]』([[京都国立博物館]]蔵、[[国宝]]) 東側より - 雪舟観]] '''天橋立'''(あまのはしだて)は、[[京都府]][[宮津市]]の[[宮津湾]]と[[内海]]の[[阿蘇海]]を南北に隔てる全長3.6[[キロメートル]]の湾口[[砂州]]{{sfn|浅井建爾|2001|pp=130-131}}。[[日本三景]]の一つであり<ref>{{Kotobank|日本三景|2=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典}}(2015年4月12日閲覧。)</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=日本三景観光連絡協議会|url=http://nihonsankei.jp/|title=日本三景 公式サイト|accessdate=2015-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150412121308/http://nihonsankei.jp/|archivedate=2015-04-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=丹後広域振興局建設部丹後土木事務所|url=http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/hashitate.html|title=日本三景天橋立|work=京都府ホームページ|accessdate=2015-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150412121401/http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/hashitate.html|archivedate=2015-04-12}}</ref>、[[2013年]]の観光入込客数は178万1900人と[[京都市]]を除いた京都府内の観光地で第1位である<ref name="ktp">{{Cite web|和書|date=2014-09|publisher=府観光課地域観光担当|url=https://www.pref.saga.lg.jp/web/var/rev0/0149/7637/honbun.pdf|title=平成25年観光入込客数及び観光消費額調査結果概要|accessdate=2015-04-12|work=『統計京都』2014年9月号|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150412113653/http://www.pref.kyoto.jp/tokei/monthly/tokeikyoto/tk2014/tktokushu201409c.pdf|archivedate=2015-04-12}}</ref>。 2017年(平成29年)4月、[[文化庁]]により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「[[日本遺産]]」の「[[丹後ちりめん回廊]]」を構成する文化財のひとつに認定された<ref>{{Cite web|和書|author=文化庁|authorlink=文化庁|date=|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/nihon_isan/pdf/nihon_isan_pamphlet_2019.pdf|title=日本遺産認定ストーリー一覧|work=「日本遺産(Japan Heritage)」について|accessdate=2020-11-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=文化庁|authorlink=文化庁|date=|url=https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story043/index.html|title=300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊|website=日本遺産ポータルサイト|accessdate=2020-11-11}}</ref>。 == 名称 == 一般的に「天橋立」と表記されるが、砂州を走る府道の名称は'''天の橋立'''線である<ref>{{Cite web|和書|publisher=丹後広域振興局|url=http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/rosenmei.html|title=路線名一覧|accessdate=2018-10-31}}</ref>。「橋立」と略される場合もあり、例えば対岸の[[与謝野町]]には[[与謝野町宮津市中学校組合立橋立中学校|'''橋立'''中学校]]がある。 読み方は「あまのはしだて」であるが、立の字を濁らせずに「たて」と読むことがある。2003年から2004年にかけて、宮津市と[[与謝郡]]4町の合併協議において新市の名称を公募したところ、上位10点に入った「天橋立」「天の橋立」「橋立」にはそれぞれ、濁らせた読みと濁らせない読みの両方が含まれる。なお、合併自体は断念された<ref>{{Cite web|和書|publisher=宮津市・加悦町・岩滝町・伊根町・野田川町合併協議会|url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/283127/my5.jp/namae.pdf|format=PDF|title=新市の名称募集結果(国立国会図書館インターネット資料収集保存事業)|accessdate=2018-10-31}}</ref>。 『[[運歩色葉集]]』には天橋立を意味する1文字の漢字([[国字]])が記載されている。之繞に「日」を九つ、読みは「はしだて」である<ref name="tame">{{Cite web|和書|publisher=[[駒澤大学]]|url=https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/ko_tame22.html|title=ことばの溜め池|accessdate=2018-10-31}}</ref><ref name="ndl_1126453_22">{{国立国会図書館デジタルコレクション|1126453/22|運歩色葉集|format=EXTERNAL}}</ref>。『詞林三知抄』にも、雁垂れに「有」を六つの一文字で「あまのはしたて」と読ませる文字が紹介されている<ref>{{cite book|url=https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00222/bunko20_00222_p0037.jpg|title=『詞林三知抄』(早稲田大学図書館 伊地知鉄男文庫)|accessdate=2021-09-11}}</ref>。 == 地理 == {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 天橋立公園の大きさ<ref name="gaiyou">{{Cite web|和書|publisher=丹後広域振興局|url=http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/hashitate_gaiyo.html|title=天橋立の概要|accessdate=2018-10-31}}</ref> ! 区域 !! 延長([[メートル|m]]) !! 最大幅(m) !! 最小幅(m) !! 面積([[ヘクタール|ha]]) |- | '''大天橋''' || 2410 || 170 || 40 || 18.8 |- | '''小天橋''' || {{0}}830 || 105 || 20 || {{0}}4.9 |- | '''第2小天橋''' || {{0}}410 || {{0}}25 || {{0}}7 || {{0}}0.9 |- | 小計 || 3650 || || || 24.6 |- | '''傘松''' || {{0}}120 || {{0}}60 || 15 || {{0}}0.5 |- | 合計 || || || || 25.1 |} 天橋立の北部、およそ南西方向へ延びている部分を'''大天橋'''または北砂州という。切戸を隔てて南部、およそ南東方向へ延びている部分を'''小天橋'''<ref group="注釈">京都府[[京丹後市]][[久美浜町]]にある砂州([[小天橋]])とは別。</ref>または南砂州という。これら2か所が宮津湾と阿蘇海を分断し、切戸と文殊水道(天橋立[[運河]])によって両水域がかろうじて繋がっている。切戸には大天橋という[[橋]]が架かる。また文殊水道には小天橋という橋が架かり「廻旋橋」として知られる<ref>{{Cite web|和書|publisher=一般社団法人 プレスマンユニオン|url=https://tabi-mag.jp/ky0524/|title=廻旋橋|accessdate=2018-11-03}}</ref>。さらに文殊水道を隔てて南側にある部分を'''第2小天橋'''という。これら3か所で天橋立の砂州部分をなし、全幅は20-170[[メートル]]、全長は大天橋と小天橋を合わせて約3.2[[キロメートル]]、第2小天橋を合わせると約3.6キロメートルである。北方にある'''傘松'''地区からは3地区を眺めることができ、これら4地区を合わせて[[都市公園法]]に基づく都市公園「京都府立天橋立公園」をなす<ref name="gaiyou" /><ref name="kids">{{Cite web|和書|publisher=丹後広域振興局|url=http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/kids_amanohasidate.html|title=天橋立を知って守ろう!|accessdate=2018-11-04}}</ref>。文殊堂・[[智恩寺 (宮津市)|智恩寺]]とその[[門前町]]のある天橋立南方を'''文殊'''地区という<ref>{{Cite web|和書|publisher=京都府|url=http://www.pref.kyoto.jp/hashidate-model/documents/s2-07-12.pdf|format=PDF|title=2 地域の現況地形等|accessdate=2018-11-02}}</ref>。 全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一のものであり、[[白砂青松]]を具現するかのごとく一帯には[[マツ|松]]林が生え、東側には白い[[砂浜]]が広がる。この松は、人の手により植林されたものではなく、大部分が自然発生的に生えたものである{{sfn|浅井建爾|2001|pp=130-131}}。1994年([[平成]]6年)、「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」は、天橋立に生える老松、奇松12本の愛称を公募し「九世戸の松」「知恵の松」などが命名された。天橋立には「[[日本の道100選]]」に選定された[[京都府道607号天の橋立線]]が走っている。当路線は延長約3.2キロメートル、幅員3.5-12.1メートルであり、[[近畿自然歩道]]に指定されている<ref name="mirai">{{Cite web|和書| url = http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/documents/1216856684119.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20181129184154/pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/documents/1216856684119.pdf | format = PDF | author = 京都府丹後土木事務所 | title = 天橋立を未来に引き継ぐために | publisher = 京都府 | date = 2008-7 | accessdate = 2018-11-4 | archivedate = 2018-11-29}}</ref>。 [[File:View from the observatory of Nariai-ji Temple in Miyazu, Kyoto 01.jpg|thumb|center|650px|[[成相寺]]のパノラマ展望所から見た宮津湾と天橋立]] == 形成史 == 天橋立は、宮津湾の西側沿岸流により[[砂礫]]が[[海流]]によって運ばれ、天橋立西側の[[野田川 (京都府)|野田川]]の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより、海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が[[堆積]]したことにより形成された{{sfn|浅井建爾|2001|pp=130-131}}。 === 日本神話における天橋立 === {{See also|オノゴロ島}} 『[[古事記]]』によると、[[イザナギ]]と[[イザナミ]]の[[国生み]]において'''天の浮橋'''に立ち、[[天沼矛|天の沼矛]]をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島になったとする。このようにしてできたのが「オノゴロ島」であり<ref>{{Cite web|和書|publisher=『[[世界大百科事典]]』第2版|url=https://kotobank.jp/word/%E7%A3%A4%E9%A6%AD%E6%85%AE%E5%B3%B6-453810|title=磤馭慮島(おのころ-じま)|accessdate=2018-11-01}}</ref>、天の浮橋が天橋立のことと言われている<ref name="kanko">{{Cite web|和書|publisher=天橋立観光協会|url=http://www.amanohashidate.jp/1/rekishi.html|title=歴史と文化|accessdate=2018-11-01}}</ref>。なお、オノゴロ島の位置は現在の[[沼島]]であるという説が有力である<ref>{{Cite book|和書|author=吉井良隆 編|year=1999|title=第二巻 えびす信仰事典|page=|publisher=[[戎光祥出版]]}}</ref>。 『[[丹後国風土記]]』には次のように述べられている。 {{Quotation|與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九[[丈#日本|丈]]、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を'''天の椅立'''と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。|『丹後国風土記逸文』<ref name="arii">{{Cite web|和書|publisher=有井弘之|url=http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/36arii.pdf|title=天橋立の形成過程について(京都府埋蔵文化財論集 第6集)|format=PDF|accessdate=2018-10-31}}</ref>|}} {{Quotation|与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。前の方の突出部を'''天の椅立'''(はしだて)と名づけ、後の方を久志の浜と名づける。そういうわけは、国をお生みになった大神の伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立といった。ところが大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(くしび・神異)であられると不思議にお思いになった。それ故、久志備の浜といった。|(釈文)<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[大阪大学]]|url=http://sahswww.med.osaka-u.ac.jp/~prevdiag/gasshuku/2009/contents.html|title=神話と天橋立|accessdate=2018-11-02}}</ref>|}} イザナギは久志備の浜の北にある元伊勢[[籠神社]]の真名井原(イザナミのいる奥宮)に天から通うために梯子を作ったが、寝ている間に倒れてしまった、というのが天橋立の名の由来である<ref>{{Cite web|和書|publisher=丹後一宮 元伊勢籠神社|url=http://www.motoise.jp/amanohasidate/amanohashidate.html|title=天と地を結ぶ伝説の架け橋|accessdate=2018-11-02}}</ref>。また『丹後国風土記』では天橋立の「東の海を與謝の海(与謝の海=宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ」と説明している。 民俗学者[[柳田國男]]は、風土記のいう「天の椅立」がこの砂州を指していることに疑問を呈した。柳田は、ハシダテと言えば専ら梯子を立てたように険しい岩山を指すものであって、それが崩れたものを橋立と呼ぶのは不自然であると主張した。また上記逸文の「此の里の海に長く'''大きなる前'''あり」の部分は[[#原文|白文]]で「此里之海有長'''大石前'''<ref name="tame" />」と記されているが、大石前(おおいそざき)は元々湾の外側、山上の寺となっている成相山のことであったものがいつの間にか湾内の砂州に移ったものと述べている<ref>{{Cite book|和書|author=柳田國男|year=1937|title=地名の研究|page=45|publisher=古今書院}}</ref>。 === 天橋立の出現 === 2万年前、現在の宮津湾にあたる一帯は完全な陸地であった。そのため陳活雄らによると、野田川など河川からの流出土砂の堆積を考えなければ、7,000年前までは天橋立の原型すらなかった<ref name="chin">陳活雄、岩垣 雄一「[https://doi.org/10.2208/proce1989.39.371 砂階の形成と侵食に関する研究 天橋立海岸について]」『海岸工学論文集』1992年 39巻 p.371-375, {{doi|10.2208/proce1989.39.371}}, [[土木学会]]。注記:論文タイトル中の「砂階」は「砂嘴」の誤りであるが、著作権者の表記をそのまま採用している。</ref>。一方、天橋立の基礎部分には砂でなく石か岩があるという説もある<ref name="mirai" />。その後、6,000年前の[[縄文時代]]に[[縄文海進|海面が上昇]]し、海底に砂州が形成され始めた。およそ2,200年前に発生した地震によって大量の土砂が宮津湾に流入し、ちょうど海面が低くなった時であったため海面上に現れた<ref name="arii" />。小谷聖史は3,000年前に海面低下によって現れたとするが<ref name="odani">{{Cite book|和書|author=小谷聖史|year=2005|title=天の橋立の生い立ち|page=45|publisher=自費出版}}</ref>、砂州は[[砂嘴]]が伸びてできるものであり<ref group="注釈">'''砂嘴'''は、湾に面した海岸や岬の先端などから細長く突き出るように伸びている砂礫質の州である。一方'''砂州'''は、砂嘴が伸びて対岸にほとんど結びつくようになったものをいう。「[https://www.gsi.go.jp/kikaku/tenkei_umi.html 5.海の作用による地形]」(国土地理院)より。</ref>、海面低下のみを理由とする場合はその後の前進・発達が説明できない。ただ小谷の指摘は、天橋立がいつから形成され始めたかを説明するためには海面変動を考慮しなければならないことを示した点で注目された<ref name="chin" />。 例えば2004年の[[新潟県中越地震]]や2008年の[[岩手・宮城内陸地震]]では、土砂崩れによって川がせき止められる例が多発した。形成された[[天然ダム]](土砂ダム)は、現代においては決壊を未然に防ぐ措置を講じることもできるが、決壊した場合は大規模な[[土石流]]となって水と土砂が流下することとなる。有井広幸は、傘松付近を流れる真名井川などで発生した土石流によって供給された土砂が、阿蘇海方面へ運搬された可能性を指摘する。真名井川は現在は阿蘇海へ注いでいるが、2004年度の調査によって元は宮津湾に流入していたと考えられている。ただし、真名井川などからの流入量だけでは天橋立を形成するには足りないため、さらに北方に大きな供給地が存在した可能性がある<ref name="arii" />。 [[丹後半島]]東部には[[兵庫県]]北部から京都府与謝郡[[伊根町]]にわたって延びる山田[[断層]]が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中している。その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、中流域の松尾[[集落]]付近に川と隣接した地滑り地形が見られる。有井によると周囲の地形から、かつて宮津市北部を震源とする地震によって地滑りが発生し、これが世屋川をせき止め、やがて土石流となって宮津湾に流れ込んだとされる。阿蘇海周辺における[[ボーリング]]調査の結果、2,200年前に阿蘇海の[[汽水域|汽水]]化が進んだと判明した。地震、地滑り、土石流はこの頃に発生し、砂州が大きくなって宮津湾と阿蘇海を分離した<ref name="arii" />。 === 天橋立の発達 === [[平安時代]]から[[江戸時代]]中期にかけて、宮津湾の海流によって砂が供給され続けて大天橋が完成した。その後、江戸時代後期から[[明治時代]]前期にかけて小天橋から形成され、宮津湾最奥の[[宮津城]]および[[城下町]]にあたる地域でも堆積があった<ref name="arii" /><ref name="odani" />。 江戸時代後期以降の小天橋の発達は『宮津市史』などが宮津市[[世屋]]地区における[[焼畑農業]]や文殊地区における[[新田開発]]といった人為的影響を強調し、文殊地区の新田開発が与えた影響については支持されている。世屋地区では中世以来、[[第二次世界大戦]]後にガス・電気が普及するまで[[薪|薪炭]]が冬季の収入源であった。ただし薪にされる木は根元が残され、そこから再び木が育って数十年後に切り出されることを繰り返すものである。よって[[表土]]の流出は起こりにくい。焼畑も同様に根を掘り起こすものではないため、こちらも表土流出は少ない。そもそも表土を流出させるような開発を続けていては生活できなくなってしまう。有井は歴史的・民俗技術的見地から、世屋地区の人為的影響は考えにくいとする<ref name="arii" />。 === 松並木の維持 === 天橋立の松並木は[[雪舟]]筆『天橋立図』に描かれ、以降の絵画でも同様であることから、安定した林容を保ってきたと推定される。現在、天橋立には5,000本<ref name="kids" /><ref name="mirai" />から8,000本<ref>{{Cite web|和書|publisher=天橋立観光協会|url=http://www.amanohashidate.jp/spot/amanohashidate/|title=天橋立|観光スポット|accessdate=2018-11-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)|url=http://trains.willer.co.jp/enjoy/walking/data/0003.html|title=特別名勝 天橋立松並木を散策|accessdate=2018-11-06}}</ref>の松が生えている。 海岸線における松並木といえば[[防砂林]]や薪炭供給用の人工林であることが多い。ところが宮津湾においては丹後半島に守られる地形により北西[[季節風]]の影響が少なく、[[由良川]][[河口]]に見られるのみである。季節風の影響を強く受ける丹後半島北東部に、京都府京丹後市[[久美浜町]]の[[小天橋]]のような松林が見られることとは対照的である。天橋立は砂州の幅が狭く、集落などがないため防砂林的性格は薄い。また薪炭供給地としての役割も与えられなかった。阿蘇海北岸に[[国分寺]]が置かれ、古代から中世にかけて一帯は[[府中村 (京都府)|府中]]という[[丹後国|丹後]]の政治経済の中心地であった。薪炭供給地であれば、近世の京都([[平安京]])周辺の山林が[[禿山]]であったように、近くて山を登る必要のない天橋立に松林は残らないはずである。『[[江戸幕府の地図事業#天保国絵図|正保丹後国絵図]]』の写しによると、供給地は前述のように世屋地区など宮津市北部であった。付近の林では[[コナラ]]や[[クヌギ]]が優勢であることなどから、長年にわたり供給が行われたと考えられる。 また、松林が維持されたのは伐採の制限があったことを理由とする。府中地区には籠神社や[[真名井神社 (宮津市)|真名井神社]]などが集まり、禁足地である山林も所有していたことから、天橋立の松林も神聖な場所として扱われていたと考えられた。近代以降は観光地・名勝地としてさらに保護されるようになっていった<ref name="arii" />。 == 観光 == 京都府が主催する日本博府域展開アート・プロジェクト「もうひとつの京都―光のアトリエ―」の一環として、天橋立と元伊勢籠神社を光と音楽で彩るライトアップイベントが、2020年10月16日(金)から11月3日(火)まで行われた。天橋立の小天橋には、実験的音楽や現代美術を手掛ける池田亮司のオーディオビジュアルわんわんわわん 作品「data-verse1」が展示され、大型スクリーンと電子音楽で幻想的な世界が演出された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/383753 |title=日本三景「天橋立」幻想的に |publisher =京都新聞 |accessdate=2020-10-25}}</ref>。 == 文化的景観 == 天橋立が名勝地として認知され始めたのは8世紀初頭、[[西国三十三所]]の28番札所である[[成相寺]]が開山した頃といわれる。成相寺から見られる天橋立は絶好の眺望を誇る<ref name="genkyou">{{Cite web|和書|publisher=京都府|url=http://www.pref.kyoto.jp/hashidate-model/documents/s2-07-12.pdf|title=2 地域の現況地形等|format=PDF|accessdate=2018-11-03}}</ref>。江戸時代まで天橋立を描いた絵画は、『天橋立図』を除けば府中地区から眺めたものが多い<ref>{{Cite web|和書|publisher=宮津市|url=http://www.city.miyazu.kyoto.jp/www/info/detail.jsp?id=1982|title=みやづ歴史紀行(第14回)|accessdate=2018-11-06}}</ref>。[[平安時代]]、[[小式部内侍]]は次の[[和歌]]を詠んだ。 {{quotation|大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立|[[小倉百人一首]]|}} [[1643年]]([[寛永]]20年)、[[林鵞峰|林春斎]]は『日本国事跡考』において次のように述べ、[[松島]]、[[厳島|宮島]]、天橋立を奇観と紹介した<ref name="mirai" />。 {{quotation|松島此島之外有小島若干殆如盆池月波之景境致之佳與丹後天橋立安藝嚴島爲'''三處奇觀'''|日本国事跡考<ref>{{Cite web|和書|publisher=京都大学|url=https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013642|title=日本国事跡考(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)|accessdate=2018-11-05}}</ref>|}} {{quotation|松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と'''三処の奇観'''となす|(釈文)<ref group="注釈">[https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013642 日本国事跡考]([[京都大学]])を参考に[[訓読]]したもの。</ref>|}} [[1689年]]([[元禄]]2年)、[[貝原益軒]]は『己巳紀行』において「日本三景」という言葉を初めて用いた。 {{quotation|そして府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、'''日本の三景'''の一とするも宜也|己巳紀行<ref name="kanko" />|}} これによると、天橋立を「日本の三景の一とする」ことは既に世に広く言われていることであって、貝原はそれを改めて実感したに過ぎないということである<ref name="kanko" />。 === 天橋立の沿革 === 特記ないものは、京都府資料「天橋立を未来に引き継ぐために」{{R|mirai}}による。 * [[1873年]] - [[太政官布告・太政官達|太政官布達]]第16号により地盤国有公園に指定。 * 1922年3月8日 - [[内務省 (日本)|内務省]]告示第49号により名勝に指定。 * 1923年1月1日 - 京都府立公園に指定。 * 1952年11月22日 - [[文化財保護法]]により[[特別名勝]]に指定。 * 1955年 ** 3月31日 - 都市計画公園に決定。 ** 6月1日 - [[若狭湾国定公園]]に指定。 * 1959年4月1日 - 湾岸保全区域を指定(1971年11月16日変更)。 * 1964年10月20日 - [[都市公園法]]による供用を開始。 * 1971年3月19日 - 港湾隣接地域を指定。 * 1983年5月18日 - 日本の名松100選。 * 1985年7月22日 - [[名水百選|名水100選]](磯清水)。 * 1987年 ** 1月10日 - [[日本の白砂青松100選]]。 ** 8月10日 - [[日本の道100選]](京都府道607号天の橋立線)。 * 1996年7月10日 - [[日本の渚百選|日本の渚100選]]。 * 2007年 ** 1月31日 - [[美しい日本の歴史的風土100選]]。 ** 2月16日 - [[日本の歴史公園100選]]。 ** 5月10日 - [[日本の地質百選|日本の地質100選]]。 ** 8月3日 - 若狭湾国定公園の区域変更に伴い[[丹後天橋立大江山国定公園]]に指定。 * 2014年3月18日 - 「宮津天橋立の文化的景観」の名称で[[重要文化的景観]]として選定(2015年1月26日、文殊地区を追加選定)<ref>{{Cite web|和書|publisher=全国文化的景観地区連絡協議会|url=https://www.bunkeikyo.jp/landscape/landscape-104|title=宮津天橋立の文化的景観|accessdate=2018-11-06}}</ref>。 2007年、[[京都府庁|京都府]]・宮津市などは「天橋立―日本の文化景観の原点」という名で、[[文化庁]]に対し[[世界遺産]]暫定一覧表(暫定リスト)記載資産候補としての提案を行った。2008年時点でリストには選ばれなかったが、カテゴリーIa「提案書の基本的主題を基に準備を進めるべきもの」 という評価を受けた<ref>{{Cite web|和書|publisher=京都府|url=http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/sekaiisan_toroku.html|title=天橋立世界遺産登録に係る取り組みについて|accessdate=2018-11-06}}</ref>。リスト入りのためには「普遍的な価値をもった、内外に比類のない白砂青松であることを示す」という課題が設定された<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[産経新聞]]|url=https://www.sankei.com/article/20140110-WTEFJ47BTNMIJOPRC7JPKT3BH4/|title=【関西の議論】「天橋立」×「宇治茶」、世界文化遺産登録へ“京対決”つばぜり合い|accessdate=2018-11-06}}</ref>。 === 眺望 === [[ファイル:Amanohashidate view from Mt Moju02s3s4592.jpg|thumb|南側からの眺望 - 飛龍観]] 明治時代まで、来訪者は寺社へ参詣する旅の中で天橋立の景観を楽しんでいた。天橋立を望む視点は、自然とその道中の峠や阿蘇海などの船上、寺社周辺が主であった。とりわけ代表的な三つの視点、樗峠(おうちとうげ、現在の大内峠)、傘松、栗田峠(くんだとうげ)からの眺めは三絶または三大観と呼ばれ、景観研究の対象となった。他に文殊側に位置する櫻山(桜山)や玄妙庵があり、吉見豆人は1921年、著書『天橋紀行』の中で「樗峠、傘松、櫻山、丹後富士(由良ケ岳)を天橋'''四大観'''と呼ぶそうだが、その中では櫻山が一番感じが良い」と述べた。一方『樗嶺志』は天橋四大観として栗田峠、大内峠、成相山、櫻山を挙げた。玄妙庵は1386年、[[足利義満]]が智恩寺に参拝した際に訪れ「ああこれまさに玄妙なるかな」と詠嘆したことが名前の由来であり、昭和前期の絵はがきに「玄妙庵からの眺めは四大観の一つ」という記述がある<ref name="fukamachi">深町加津枝、奥敬一「[https://doi.org/10.5632/jila.67.813 天橋立における歴史的景観の変遷と地域住民の景観評価に関する研究]」『ランドスケープ研究』2004年 67巻 5号 p.813-818, {{doi|10.5632/jila.67.813}}</ref>。 戦後は天橋立'''五大観'''として傘松、玄妙庵、大内峠、滝上公園、獅子崎を挙げた記述が見られた。1970年、文殊地区に[[天橋立ビューランド]]が開業すると、そこから天橋立を望む飛龍観が斜め一文字、一字観、雪舟観とともに四大観と呼ばれるようになった。これらのように、明治以降に言われる四大観や五大観は人によって、また時代によって差異があった。1986年、宮津商工会議所などが「天橋立十景」を選定した。これらは新たな展望地や車道の整備に伴い加えられたものであったり、伝統的な視点が再評価されたものである。天橋立地域の広範囲を一体的に眺める遠景を中心としており、櫻山や玄妙庵のような近距離の視点は含まれていない<ref name="fukamachi" />。 1971年(昭和46年)に京都府が企画し、京都在住の日本画家12名に府内の名勝を描かせた「京の百景」にも選出され、[[岩澤重夫]]によって描かれ、1973年(昭和48年)京都市内で開催された展覧会に出品されている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=京の百景絵画集 |publisher=京都府 |date=1973 |page=108 |isbn=}}</ref>。 2021年(令和3年)1月に実施された[[大学入学共通テスト]]の地理の試験問題として天橋立の眺望に関する問題が出題された<ref group="注釈">地理Bの第5問の問3に天橋立の眺望の撮影地点を問う問題が出題。</ref><ref>{{Cite news |title=大学共通テストに天橋立や丹後ちりめん出題 地理Aと地理B |newspaper=京都新聞 |date=2021-01-16 |author= |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/472238 |accessdate=2021-01-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://cdn.mainichi.jp/item/jp/etc/kyotsu-2021/pdf/GGBP.pdf | title = 2021年度 大学入学共通テスト 地理B | publisher = 毎日新聞| accessdate = 2021-01-17 }}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 天橋立十景<ref group="注釈">東方の雪舟観から北方の天上大パノラマ観まで、およそ時計回りに列挙してある。</ref><ref name="fukamachi" /> ! 景観 !! 視点 !! 距離(m)<ref group="注釈">天橋立の中心部にある夫婦松までの距離。</ref> |- | '''雪舟観'''<ref group="注釈">雪舟が『天橋立図』を描いた視点とは異なる。</ref> || 獅子崎展望所 || 2,140 |- | 島崎蒼龍観 || 島崎公園 || 3,290 |- | 戦国ロマン八幡山 || 八幡山 || 4,640 |- | 滝上弓ヶ観 || 滝上山 || 2,930 |- | '''飛龍観''' || 天橋立ビューランド || 1,790 |- | 文殊の知恵海道 || 智恩寺 || 1,140 |- | '''一字観''' || 大内峠 || 5,000 |- | 天平の歴史みち || [[丹後国分寺]]跡 || 1,680 |- | '''斜め一文字''' || [[傘松公園]] || 2,070 |- | 天上大パノラマ観 || 仙台山 || 3,390 |- | colspan=3 | 備考:'''太字'''は前述した戦後の四大観。 |} === 景観問題 === [[File:Amanohashidate embankment aerial photograph.JPG|thumb|天橋立の空中写真。(1975年撮影)<br>砂州の外海側(写真下方)に設置された小型の堆砂堤が多数見える。内海側(写真上方)には設置されていない。外海側のみが、潮流による侵食を受け続けていることが分かる<ref group="注釈">分かりやすくするために、オリジナル画像より回転(画像上方が西)、拡大及び[[トリミング (写真)|トリミング]]を施す。</ref>。<br>{{国土航空写真}}]] ; 砂州の侵食 近年、天橋立は[[侵食]]により縮小・消滅の危機にある。戦前までの砂州は、現代よりスリムで弓なりの美しい曲線を描いていたとされ、戦後は以前より歪に変形してしまったといわれている{{sfn|浅井建爾|2001|pp=130-131}}。これは戦後に河川に[[ダム]]などが作られ、山地から海への土砂供給量が減少し、天橋立における土砂の[[堆積]]・侵食バランスが崩れたこと{{sfn|浅井建爾|2001|pp=130-131}}、および府中・[[日置村 (京都府)|日置]]両地区の港湾に[[防波堤]]が設けられたことにより漂砂が遮断されたこと<ref name="chin" />が原因であるとされてきたが、{{要出典|範囲=現在は河川からの流入量の変化より、むしろ侵食の原因は湾内の海流の変化が原因であると言われる|date=2018年11月}}。侵食を防ぐため、行政では写真の南側よりの眺めである飛龍観の右側のノコギリ状になっている砂浜部分に[[養浜]]を行うために砂州上に小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めている。 ; 松食い虫の大量発生 [[松食い虫]]の大量発生のため、一時は松の立ち枯れが頻発し全滅の危機に瀕した。その後、害虫の駆除が行われた結果、小康状態を保っている。 ; 流木の漂着 豪雨などで流木が大量に漂着して景観を損ねてしまうことがある。2013年の[[平成25年台風第18号|台風18号]]でも大量の流木等が漂着した<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130924000161 |title=天橋立 景観台無し 台風18号禍 流木、撤去めど立たず |newspaper=『[[京都新聞]]』 |publisher=京都新聞社 |date=2013-09-24}}</ref>。 ;「カキ殻島」の発生 天橋立によって隔てられた内海である阿蘇海に、2000年頃から[[カキ (貝)|カキ]]が繁殖するようになり、カキの殻が大量に天橋立周辺に集積し、{{仮リンク|カキ礁|en|Oyster reef}}(「カキ殻島」)が形成されるようになった{{sfn|西垣友和|山本圭吾|遠藤光|竹野功璽|2011}}。これが景観を損ねているとして、京都府は2015年7月11日から大掛かりな撤去作業を開始している<ref>{{Cite news|title=天橋立に「カキ殻島」…大量繁殖で景観損なう|newspaper=『[[読売新聞]]』|date=2015-07-10|author=|url=http://www.yomiuri.co.jp/eco/20150710-OYT1T50081.html|accessdate=2015-07-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150712144424/http://www.yomiuri.co.jp/eco/20150710-OYT1T50081.html|archivedate=2015年7月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ; 広葉樹 松は海岸や山の尾根などの痩せた土地でも育つ代わりに、肥えた土地では生育しにくい。自ら落とす枝葉により土壌の富栄養化が進むと、松以外の植物が育ちやすくなるのである。天橋立の松林が長く維持されたのは、住民が燃料として松の落ち葉や落ち枝を日常利用していたからである。また、松は[[松脂|ヤニ]]を多く含み、燃やすと高温になるため製鉄にも用いられた。現代では[[化石燃料]]に転換するにつれ松を利用しなくなったため、根元に雑草が茂るようになった<ref name="hozen">{{Cite web|和書|publisher=京都府|url=http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/hasitate_hozen.html|title=天橋立の保全対策について|accessdate=2018-11-29}}</ref>。天橋立は地下水位が高く、苦労なく吸水できるため松の根が深く張らない傾向にある。また表土が栄養に富んだ腐植土となったことで、幹だけが大きく育ってバランスが悪くなり、[[台風]]や大雪による倒木も多発した<ref name="hozen" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=参議院|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2018pdf/20180301002.pdf|title=日本三景をめぐる|format=PDF|accessdate=2018-11-05}}</ref>。 天橋立では松を育てるための施肥や侵食対策の山土により、[[広葉樹]]が増加している。2013年8月時点、幹周り10[[センチメートル]]以上の松約4,525本に対し、同じく広葉樹は約1,260本ある<ref>{{Cite web|和書|publisher=『産経新聞』|url=https://www.sankei.com/smp/west/news/140131/wst1401310061-s.html|title=「白砂青松」広葉樹生えすぎて台無し!? 天橋立、3月に50本試験伐採|accessdate=2018-11-29}}</ref>。府は広葉樹の伐採と[[腐植土]]の除去を試験的に行った結果、松への日光量が増加し、中から外への見通しが良くなった。その一方で外観に大きな変化はなかった。これを踏まえ、府は5年計画により広葉樹300本を伐採し、松の密度を均等にするための移植を行う<ref>{{Cite web|和書|publisher=『京都新聞』|url=https://s.kyoto-np.jp/environment/article/20180929000080|title=天橋立の広葉樹伐採へ 京都府、増加で松の景観損なう|accessdate=2018-11-29}}</ref>。 == 名所・施設 == * 元伊勢[[籠神社]] - 丹後国一宮<ref name="sansaku" />。 * 成相山[[成相寺]] - [[西国三十三所]]の28番札所<ref name="sansaku" />。 * 天橋山[[智恩寺 (宮津市)|智恩寺]] - 日本三文殊<ref name="sansaku" />。808年([[大同 (日本)|大同]]3年)創建の伝承を有し、古くから知恵を授かる文殊信仰の寺院として知られている。[[境内]]には[[重要文化財]]の[[多宝塔]]がある<ref name="sansaku" />。 * [[天橋立神社]](橋立明神) * [[薄田兼相|岩見重太郎]][[仇討]]の場 * 岩見重太郎試し斬りの石 * {{Anchors|磯清水}}磯清水 - 砂嘴にある[[井戸]]。両側が海であるにもかかわらず、口に含んでも塩味を感じない不思議な名水として古くから珍重されている。[[和泉式部]]が「''橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし''」と詠ったと伝えられている。[[環境省]]選定の名水百選<ref>[http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=55 磯清水] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110612161308/http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=55 |date=2011年6月12日 }} - [http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/index.html 名水百選] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110926201248/http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/index.html |date=2011年9月26日 }} - [[環境庁]]</ref>に選ばれている。2013年時点では、天橋立神社の[[手水]]として用いられている。湧き水であるので飲まないように注意する立て札が出ている。 * [[天橋立海水浴場]] * [[天橋立府中海水浴場]] <gallery> ファイル:Amanohashidate Hashidate-myojin01n4200.jpg|橋立明神 ファイル:Amanohashidate Miyazu Bay02o4592.jpg|天橋立府中海水浴場(冬季) ファイル:AMANO-HASHIDATE (Road in sand bar) Kyoto,JAPAN.jpg|砂州にある一本道 ファイル:天橋立砂浜.jpg|天橋立の砂浜 </gallery> == 周辺 == * 廻旋橋 - 文殊地区と天橋立を結び、橋の中央部分が90度回転する[[可動橋]]<ref name="sansaku">{{Cite web|和書|title=海の京都 日本三景 天橋立 散策マップ|url=https://www.amanohashidate.jp/spot/wp-content/uploads/sites/3/2018/01/sansakumap1.pdf|website=天橋立文珠繁栄会、天橋立府中観光会|date=|accessdate=2022-09-21|language=ja}}</ref>。[[1923年]](大正12年)に人力で動く橋が完成<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.amanohashidate.jp/spot/%E5%BB%BB%E6%97%8B%E6%A9%8B/ |title=廻旋橋 - 観光スポット - 天橋立観光協会 |access-date=2023-05-13 |publisher=天橋立観光協会}}</ref>。[[1957年]](昭和35年)5月に手動ではなくなり電動式になった<ref name=":0" /><ref name="sansaku" />。湾奥部にある[[日本冶金工業]]関連の貨物船や大型の遊覧船を通すために橋を回転させるほか、2009年からは日曜日に限り船が通らないときも回転させるようになっている。 * 知恵の輪灯篭 - 「九世の渡」の安全を祈って建立された輪灯篭<ref name="sansaku" />。この灯篭の輪を3回くぐり抜けると知恵が授けられると言い伝えられている<ref name="sansaku" />。 * [[阿蘇の舟屋]] - 阿蘇湾の北側に位置する府中地区にあり、天橋立を正面に約30軒ほどの舟屋がある<ref name="sansaku" />。 * [[天橋立温泉]] <gallery> Swivel bridge in Amanohashidate Kyoto,JAPAN.jpg|廻旋橋が回転した様子 Chie-no-wa toro.jpg|知恵の輪灯篭 </gallery> == 交通 == === 空路 === 最寄りの空港である[[但馬飛行場|コウノトリ但馬空港]]へ、[[大阪国際空港]](伊丹)からの定期航空路が[[日本エアコミューター]]により運航されている。同空港からは[[豊岡駅 (兵庫県)|豊岡駅]]までの連絡バスが[[全但バス]]により運行されており、同駅にて京都丹後鉄道宮豊線への乗換えが可能である。大阪国際空港で[[日本航空]]の東京便と連絡。 === 鉄道 === 最寄り[[鉄道駅|駅]]は、南側の[[京都丹後鉄道宮豊線]]の[[天橋立駅]]である。廻旋橋まで0.4 km、廻旋橋から船越の松まで約2.5 km<ref name="sansaku" />。<br /> 北側の傘松公園<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/kasamatsu_park/|title=天橋立傘松公園|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref>に上る[[天橋立鋼索鉄道|天橋立ケーブルカー]]/[[チェアリフト|リフト]]<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/cablecar/|title=天橋立ケーブルカー|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref>の府中駅へは[[天橋立観光船]]で約22分(乗船12分 + 各駅と各桟橋間が徒歩5分ずつ)、または当駅前から下記路線バスで天橋立ケーブル下バス停まで約25分<ref name="kasamatsu">{{Cite web|和書|title=傘松公園|url=https://www.amanohashidate.jp/spot/kasamatsu/|website=|date=|accessdate=2022-09-21|language=ja}}</ref>。 ; 京都方面から * [[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[山陰本線]]・[[京都丹後鉄道宮福線]]経由([[京都駅|京都]] - [[福知山駅|福知山]] - [[宮津駅|宮津]] - 天橋立)約1時間40分<ref name="sansaku" /> * JR西日本山陰本線・[[舞鶴線]]・[[京都丹後鉄道宮舞線]]経由(京都 - [[綾部駅|綾部]] - [[西舞鶴駅|西舞鶴]] - [[丹後由良駅|丹後由良]] - 宮津 - 天橋立)約2時間<ref name="sansaku" /> {{See|はしだて (列車)}} === 路線バス === ; [[高速バス]] * [[丹後海陸交通|丹海バス]] ** 京都線<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/%e4%ba%ac%e9%83%bd%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a4%a9%e6%a9%8b%e7%ab%8b/|title=京都から天橋立|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref> ** 大阪線<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/%e5%a4%a7%e9%98%aa%e3%81%8b%e3%82%89%e5%a4%a9%e6%a9%8b%e7%ab%8b/|title=大阪から天橋立|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref> ; 一般[[路線バス]] * 丹海バス<ref>{{Cite web|url=https://www.tankai.jp/rosen_img/rosenzu.pdf|title=丹海バス全路線系統 路線図一覧|publisher=丹後陸海交通|format=PDF|accessdate=2023-12-04}}</ref> <ref>{{Cite web|url=https://www.tankai.jp/routebus/|title=路線バス|publisher=丹後陸海交通|format=PDF|accessdate=2023-12-04}}</ref> ** 5系統 伊根線 ** 7・8・9 系統 蒲入線 === 道路 === ; [[日本の高速道路|高速道路]] 最寄りの[[インターチェンジ]](IC) は、[[京都縦貫自動車道]]の[[宮津天橋立インターチェンジ|宮津天橋立IC]]と[[山陰近畿自動車道]]の[[与謝天橋立インターチェンジ|与謝天橋立IC]]である。天橋立南側(智恩寺側)へは宮津天橋立ICから[[国道176号]]と京都府道2号を使う。天橋立北側(傘松公園側)へは与謝天橋立ICを降りたあと、国道176号・国道178号を使い、北上する。駐車場の多くは有料である<ref name="FAQ">{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/faq/|title=FAQ|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref>。 * 京都市・大阪市方面からの主なルート : 京都縦貫自動車道経由で約1時間15分<ref name="sansaku" />。 * 大阪市・神戸市方面からの主なルート : [[中国自動車道]] - [[吉川ジャンクション|吉川JCT]] - [[舞鶴若狭自動車道]] - [[綾部ジャンクション|綾部JCT]] - 京都縦貫自動車道経由で約1時間40分<ref name="sansaku" />。 * 名古屋市方面からの主なルート : [[名神高速道路]] - [[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]] - 京都縦貫自動車道経由で約3時間20分<ref name="sansaku" />。 ; [[日本の国道|一般国道]] * [[国道178号]] - 海沿いの区間は自然災害による通行止めや荒天による事前通行規制区間多し<ref name="道路情報">{{Cite web|url=https://dobokubousai.pref.kyoto.jp/pc/|title=京都府道路情報管理・提供システム|publisher=京都府|accessdate=2023-12-04}}</ref> <ref name="事前通行規制区間">{{Cite web|url=https://dobokubousai.pref.kyoto.jp/pc/|title=事前通行規制区間(丹後管内)|publisher=京都府丹後広域振興局|accessdate=2023-12-04}}</ref>。 ** [[道の駅海の京都 宮津]]<ref>{{Cite web|url=http://michinoeki-miyazu.jp/|title=道の駅 海の京都宮津|publisher=ハマカゼプロジェクト|accessdate=2023-12-04}}</ref> ; [[主要地方道]] * [[京都府道・兵庫県道2号宮津養父線]] - 国道178号同様、通行止めや事前通行規制区間多し<ref name="道路情報" /> <ref name="事前通行規制区間" /> * [[京都府道605号栗田半島線]] ; [[都道府県道|一般府道]] * '''[[京都府道607号天の橋立線]]''' - 天橋立を形作る砂州上の道路。総延長約3.2 km、[[徒歩所要時間|徒歩]]約40 - 50分、自転車約15分。<br />'''自動車通行不可'''。夏季行楽期の7月14日から8月31日までを除き、排気量125 cc以下の[[原動機付自転車|原付バイク]]は通行可<ref name="FAQ" />。砂州の全長は約3.6 km、天橋立駅から廻旋橋まで0.4 km、廻旋橋から船越の松まで約2.5 km<ref name="sansaku" />。 === 船 === * [[天橋立観光船]]<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/sightseeingboat/|title=天橋立観光船|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-03}}</ref> - 天橋立駅から天橋立桟橋まで徒歩5分、天橋立桟橋から一の宮桟橋まで約12分、一の宮桟橋からケーブルカー/リフト府中駅まで徒歩約5分<ref name="kasamatsu" />。[[与謝天橋立インターチェンジ|与謝天橋立IC]]から車で約15分<ref name="kasamatsu" />。 * 天橋立モーターボート<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/moterboat/|title=天橋立モーターボート|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref>。 === レンタサイクルなど === * 天橋立[[レンタサイクル]]<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/bicycle_rental/|title=天橋立レンタサイクル|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref> * 天橋立[[電動キックボード]]<ref>{{Cite web|url=https://www.amano-hashidate.com/ekickboard/|title=天橋立電動キックボード|website=天橋立に行こう!|publisher=丹後陸海交通|accessdate=2023-12-04}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * 岩垣雄一『天橋立物語 その文化と歴史と保全』技報堂出版、2007年7月、ISBN 978-4-7655-1721-8。 *{{Citation |和書|author=西垣友和 |authorlink=西垣友和 |author2=山本圭吾 |author3=遠藤光 |authorlink3=遠藤光 |author4=竹野功璽 |authorlink4=竹野功璽 | title=阿蘇海の海藻相およびミヤベモク群落について | periodical=京都府農林水産技術センター海洋センター研究報告 |year=2011 |publisher=[[京都府農林水産技術センター]]海洋センター |volume=33 |issn=2185-3908 |url=https://www.pref.kyoto.jp/kaiyo/documents/1302583105812.pdf |pages=13−16 |ref=harv }} == 関連項目 == * [[日本の特別名勝一覧]] * [[日本三大松原]] * [[股のぞき]] * [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]] * [[はしだて (列車)|はしだて(列車)]] - [[京都駅]]と丹後地方を直結する[[特別急行列車]]。 * [[橋立 (防護巡洋艦)|橋立(防護巡洋艦)]] - [[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]で、[[松島型防護巡洋艦|松島型]]の3番艦。艦名は天橋立に因む。 * [[はしだて (特務艇)|はしだて(特務艇)]] - [[海上自衛隊]]の特務艇。 * [[波せき地蔵堂]] * [[成ヶ島]] * [[小天橋]] - 京都府[[京丹後市]][[久美浜町]]にある砂州。 *[[天橋立観光船]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.kyotoside.jp/entry/20200929 京都府公式メディア(天橋立)] * [https://www.pref.kyoto.jp/koen-annai/ama.html 天橋立公園(風致公園):京都府のサイト] * [https://www.amanohashidate.jp/ 天橋立観光協会] * 空中写真 [https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=968229&dispType=1 南部] [https://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=967582&dispType=1 北部] - 地図・空中写真閲覧サービス([[国土地理院]]) * {{国指定文化財等データベース|401|1644|天橋立}} * {{Kotobank}} {{日本三景}} {{名水百選}} {{Coord|35|34|9.7|N|135|11|29.5|E|region:JP-26_type:landmark|display=title}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あまのはしたて}} [[Category:日本の砂州]] [[Category:重要文化的景観]] [[Category:特別名勝]] [[Category:京都府の観光地]] [[Category:平成百景]] [[Category:日本の地質百選]] 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厳島
厳島(いつくしま)は、広島県廿日市市宮島町にある島。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島。 古代より、島そのものが自然崇拝の対象であったと考えられる。平安時代末期以降は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。江戸時代中期には、丹後国(現・京都府北部)の天橋立、陸奥国(現・東北地方東部の宮城県)の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており、2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した。原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つである。 景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。その社殿群の構成は、平安時代の寝殿造の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山原始林は、1996年(平成8年)にユネスコ世界遺産に登録されている。。海岸の一部は2012年(平成24年)7月3日、ミヤジマトンボの生息地としてラムサール条約に登録された。 島の最高峰・弥山(標高535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年(明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の渡し船に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。 島の全域(周辺海域を含む)が1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。 かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年(平成17年)に廿日市市と合併した。2021年(令和3年)8月2日、厳島神社付近の町並みは「廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区」として重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 「いつくしま(厳島、異表記:嚴島、嚴嶋ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ。神使の鴉〈カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。 島の名として「嚴嶋大明神」のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年(1643年)に儒学者・林春斎(林鵞峰)が著した『日本国事跡考』のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる「三処奇観(さんじょきかん)」の一文にもその名が見える。この景観評価は「日本三景」の由来となった。 「みやじま(宮島、異表記:宮嶋ほか)」という地名は、江戸時代以降のもので、「ミヤ(宮(神社)+ シマ(島)」を意味する。「宮島」は同名他所の地名でもあるので、安芸国(芸州)の宮島に特定する意をもって「安芸宮島/安芸の宮島(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の寛保2年(1742年)の伊予松山藩の座頭記録には「芸州宮嶋江参詣......」とある。 この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する国土地理院は「厳島(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省は「宮島(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。 地方自治体としても、1889年(明治22年)の町制施行時には「厳島町」であったが、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。 ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵、新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体(藝、國、圖、繪、會、禮)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する。 広島湾の西の端、広島市街の南西約20kmに位置する。島は周囲約30km、面積30.2kmで楕円形の形状をなしている。対岸の本州(廿日市市阿品~同市大野)に寄り添うように北東から南西に伸びる(島の北東径約9km、南西径約4km)。対岸(本州)と島を隔てる瀬戸は「大野瀬戸(おおのせと)」と呼ばれ、最も狭い所で300mしか離れていない(宮島口港~宮島港間のフェリー航路は1.8km)。大野瀬戸の反対側(島から南東方向)には、絵の島、大奈佐美島、能美島(江田島等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は風化によってやや崩落しており、満潮時には「蓬莱島(ほうらいじま)」と呼ばれる島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。 島は主に花崗岩で構成されている。中国山地の断層運動によって隆起し、最終氷期終焉期の海水面上昇(c. 海水準変動)によって本州本島と水域で隔てられた島に変わったと考えられている。平地は少なく弥山や駒ヶ林など500m級の急峻な山が連なっていることから、深い谷や滝が多くある。島の東西方向と南北方向に断層が見られる。 島の最高峰である弥山(みせん)の標高値は、国土地理院発行の2万5千分1地形図上では529.8メートルと表記されてきた。これは1892年設置の二等三角点の計測値であるが、現在では三角点より南南西方向約16.8メートルの地点の標高がそれよりも高い535メートルであることが確認されている。 瀬戸内海気候に分類され、気候は温暖。夏は30°Cを超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の厳島神社周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の「弥山おろし」が知られる。これは太田川の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている。 植生は典型的な暖地温帯常緑広葉樹林である。ただし、一般的な照葉樹林とは趣が異なり、例えば南方系のミミズバイ(ハイノキの一種。高地性である)と針葉樹のモミ(西日本の低海抜地域には通常見られない)が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。 固有種として、ミヤジマカエデとミヤジマシモツケがある。ただし、ミヤジマカエデは島に定着自生しているかどうか議論がある。ミヤジマシモツケは対岸にも分布している。 信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物の指定および世界遺産の登録を受けている。 近年、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、海藻の一種アオサが大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は諸説あるが、明らかではない。 中国地方に一般的に棲息するタヌキ、ニホンアナグマ、モグラ類のほか、100種を超す鳥類が確認されている。 厳島に棲息するシカとサルは、フェリー桟橋付近にも現れたり、マスコットキャラクターとして図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。 厳島のシカは、第二次世界大戦後(戦後)に厳島を接収したGHQの兵士がスポーツハンティングの対象として撃っていたために激減した。現在島に棲息する鹿は21世紀初期の分子遺伝学による分析で、広島と山口と近い宮島固有の歴史を持つ鹿であることが証明されている。また、一部で奈良の春日大社から譲り受けたという噂があるが、厳島神社の側には譲渡された記録が残っていない。 サルについては、江戸時代以前には記録がなく、古い絵巻物でも猿の絵は猿回しに現れる程度で非常に少ない。そのため、そうは古くない時期に外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、1962年(昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために小豆島にある日本モンキーセンターからニホンザル45頭が移入されている。これに関連して、2011年(平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により愛知県犬山市へのニホンザルの移送が行われている。 シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになった。早くも1998年には旧宮島町が「宮島町シカ対策協議会」を設立して、この時点でシカを野生復帰させる方針を決定している。2000年頃の被害としては「植物の樹皮や新芽がシカにかじられる」「雄のシカが樹齢の若い樹で角をとぐために枯死する」といったものが主であったが、やがてシカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報じられた。被害の原因は議論があり確定的ではない。観光客や住民からの苦情をうけて、地元廿日市市は2008年9月に『宮島地域シカ保護管理ガイドライン』(PDF)を策定し、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施している。 この管理対策により2012年8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したという。市側は餌やり禁止により生息地を分散させる取り組みに一定の成果が出ているとしている。 この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。 昆虫の固有種として、ミヤジマトンボ Orthetrum poecilops miyajimaenisis (Yuki and Doi, 1938) があり、国の絶滅危惧種に指定されている(2007年版では「絶滅危惧I類(CR+EN)」。昆虫類レッドリスト (環境省)を参照)。これは中国大陸南部に分布するシオカラトンボ属の O. poecilops (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている。 厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。 本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている。広島大学による考古学的調査(2004年〈平成16年〉)では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文から弥生時代の土器や石器が数多く発見されているほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。 厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石や大川浦において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜や大川浦、御床浦において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。 弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。 上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期の製塩土器が見つかっているほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性を指摘している。下室浜からも、古墳時代の祭祀に用いられたとみられる滑石製勾玉が採集されている。 弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺(大聖院の前身)は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある。 平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。 伝承では推古天皇元年(西暦換算〈以下同様〉:593年)、豪族佐伯鞍職がイチキシマヒメの神託によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌しており、後に厳島神主家となった。文献上の初出は弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。 厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。 久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、保元6年(1156年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱で源頼朝が捕らえられ、清盛は正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、仁治2年(1241年)の造営による(現在の本社社殿は元亀2年〈1571年〉、毛利元就の再建によるもの)。さらに四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。 清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市の倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。 清盛の庇護によって京の雅な文化が移入され、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、宋の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。 1990~1991年に発掘調査が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半の土層から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている。この頃には島をご神体とする信仰が広がっており、祭祀のために滞在する神職や貴族がいた他は島に住む者はいなかった。 厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾経塚(清盛塚)からは、1944年(昭和19年)に開墾された際に銅製経筒と陶製甕の外容器、経巻、青白磁合子、古鏡、刀片、青磁片などの遺物が出土したほか、研究者による踏査でも青白磁合子や白磁小壺、中世須恵器甕などの破片が採集されており、12世紀前半以降に埋納された経塚とみられている。 1185年の壇ノ浦の戦いをもって平氏が滅んだのち、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽上皇側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条は乾元元年(1302年)に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「とはずがたり」に書き留めている。 正安2年(1300年)に水精寺の座主坊が対岸の地御前神社(厳島神社の境外摂社)から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。天文7年(1538年)には厳島大願寺の僧尊海が、一切経(高麗八万大蔵経)を求めて朝鮮半島に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った八曲屏風「瀟湘八景図」の裏面に漢文による紀行文「尊海渡海日記」(大願寺所有、国の重要文化財)を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は中期朝鮮語研究の貴重な史料となっている。 戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。弘治元年(1555年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった(厳島の戦いを参照)。以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理(元亀2年〈1571年〉)によるところも大きい。 天正15年(1587年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが窺える。秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成の形で今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治初期の廃仏毀釈の際には厳島神社末社豊国神社本殿となり現在に至る。 西暦1595年(日本は文禄4年)に現ベルギーのアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン領南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」には、厳島がItoqulchimaとして記されている。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。 考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している。 江戸時代、厳島は広島藩に4か所ある町制(広島城下・三原城下・尾道・厳島)の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは厳島神社・大聖院・大願寺の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および安芸国の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが窺える。 厳島では平清盛以来舞楽の伝統があったところへ、毛利元就が永禄6年(1563年)に能を奉納したのを皮切りに観世太夫が演じる(永禄11年〈1568年〉)など芸能が発展した。歌舞伎や大相撲の興行も盛んで、井原西鶴の『浮世草子』には西国三大芝居どころとして金比羅・備中宮内(吉備津神社)と並び称されている。富くじも盛んに催された。 参拝客や文化人相手の観光商売が水もので、島に産業がないことを町衆が嘆いているのを知った宮島光明院の僧誓真は、弁財天の琵琶に着想を得てしゃもじを名物として売り出すことを町衆に教えた。願掛けの文字を入れたしゃもじ(杓子)はたちまち土産品として人気が出た。現在でもしゃもじの別名を「みやじま」と呼んで、高校野球では広島県代表がしゃもじで応援するのが定番となるほど定着している。誓真は水不足に悩む町衆のために井戸を掘ったり(「誓真釣井」)、小舟を着けられるよう雁木を造ったりと厳島のために尽くし、「宮島の大恩人」として慕われた。光明院の近くには「誓真大徳碑」が今も残っている。 尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。慶応2年8月(1866年9月頃)、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上馨。桂小五郎(木戸孝允)も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。 慶応4年3月13日から明治元年10月18日(1868年の4月5日から12月1日)にかけて神仏分離令が発布されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。 1876年(明治8年)、老朽化していた海上の厳島神社の大鳥居が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居である。 初代内閣総理大臣・伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、厳島をたびたび訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるものである。また、大願寺境内には「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する土産菓子となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかった逸話を基に発案された」という説が広く流布している。詳しくは別項「もみじ饅頭」を参照のこと。 島の東沖合いにある江田島に海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。 1889年(明治22年)、佐伯郡で町村制が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町(宮島町の前身)が発足する。 1897年(明治30年)8月、広島湾要塞の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌1898年(明治31年)、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは1926年(大正15年)に廃止されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。 1923年(大正12年)、厳島は国の史跡名勝に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。 第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。 1936年(昭和11年)、日独合作映画『新しき土』の撮影が行われた。 1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下では、爆風によって島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。 日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年(昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が厳島を訪問している。 1950年(昭和25年)には、厳島全体が瀬戸内海国立公園の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「宮島町」に改称した。1952年(昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。1959年(昭和34年)には広島県立水産資源研究所(現・宮島水族館)がオープンした。 1960年代から1970年代にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。海上保安庁は、直径30cmの白い円盤を海に沈めて透明度を測定していたが、1969年の厳島付近の調査ではわずか20cmで円盤が見えなくなるという、日本屈指の汚染状態となっていた。汚染源は、工場排水やし尿投棄によるものであった。 1991年(平成3年)9月27日に襲来した台風19号では、厳島神社左楽房(国宝の附指定)や能舞台(重要文化財)が倒壊するなど甚大な被害が出た。 1996年(平成8年)には、厳島神社がユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。日本の世界遺産としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に原爆ドームも(5件目として)登録されている。 台風による被害は2004年(平成16年)の台風18号も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めたヴェネツィア(イタリア)などと同じく地球温暖化による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。 2005年(平成17年)11月3日、宮島町は大野町とともに廿日市市に編入される。これに伴い、厳島神社の住所(社務所所在地住所)は「佐伯郡宮島町1-1」から「廿日市市宮島町1-1」に変わった。 2016年(平成28年)のG7伊勢志摩サミット(第42回先進国首脳会議)に伴う広島外務大臣会合の際は、初日にG7の外務大臣が揃って厳島神社を訪問した。 2023年(令和5年)、G7広島サミット(第49回先進国首脳会議)においては、各国首脳が厳島神社を訪れ、その後「岩惣」に移動してセッション3「外交・安全保障」をワーキングディナー形式で実施した。 厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏・毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から「社奉行」に任じられた厳島神主家の棚守房顕が天正8年(1580年)に記した『棚守房顕覚書』には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い。 島全体が神域(神体)とされたため、血や死といった穢れの忌避は顕著であった。 『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を「地御前神社」(所在地:廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。 鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、この島は「女神の御神体内」とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた機織や布晒(ぬのさらし)も禁忌とされていた(山の神』を参照)。『棚守房顕覚書』は「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市の町は鎌倉時代、厳島神社の祭礼最終日(毎月20日)に立った市場から発展した町である。 厳島に棲息するニホンジカは太古から棲息していたと見られるが、歴史時代に入ると奈良の春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、神使として大切に扱われるようになった。それ以来、厳島では、鹿が家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えるようになった。『棚守房顕覚書』によると、鹿を害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したという。 厳島に棲息するニホンザルは古くから、彼らが家に入り込んで食べ物を盗っていっても捕まえて罰することはなかったという。 町の商家や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。元旦に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。第二次世界大戦後は数人が行うのみにまで減っていたが、21世紀初期には見直されるようになり、行う家や店が増えつつある。 毎年8月11日には宮島水中花火大会が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。 島内には厳島神社以外にも大聖院をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、宮島水族館、宮島歴史民俗資料館、広島大学大学院理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。 国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人台(2009年〈平成21年〉の船舶運輸実績〈片道〉は約346万人)。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。 弥山などへの登山者も多いが、島には信仰上の理由や文化財・自然保護のために開発されなかった原生林が広がっており、登山道から迷い込むなどする遭難がたびたび発生する。そのため、島を所管する広島県警察廿日市警察署と宮島消防署が十分な装備での入山など注意喚起をしている。 2007年(平成19年)から、毎年1回、廿日市商工会議所主催のご当地検定である「宮島検定」が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した『宮島本』(※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる)を発行している。 厳島が観光地として発展するにつれて地元行政の負担も増大してきたことから、2023年(令和5年)10月1日より、廿日市市が法定外普通税として「宮島訪問税」を課すこととなった。 来訪者に負担を求める法定外普通税・法定外目的税は先行していくつか存在するが、宮島訪問税は原因者負担の考え方により設計され、宮島住民などを課税対象から除外していることに特徴がある。 課税対象は船舶により宮島に入る行為であるが、上述のように宮島住民や宮島への通勤・通学者は課税対象外となり、未就学児・修学旅行などの学校行事による団体訪問・障がい者については課税免除とされる。 税率は「1人1回100円」と「1人1年間で500円」の選択制であり、フェリーを利用して宮島を訪問する場合は、(課税対象外・課税免除に該当せず、後者の方法により納税済みでもない場合)1回分の税金がフェリー運賃とともに特別徴収される。なお、青春18きっぷなど、宮島航路を含みつつも広域で販売されるフリーきっぷでは、宮島訪問税を含まずに販売される場合があり、そのような乗車券を利用して宮島航路に乗船する場合は、別途で訪問税分のみのきっぷを購入する形となる。 最寄り駅はJR山陽本線の宮島口駅と広島電鉄宮島線の広電宮島口駅。駅前にある桟橋からフェリーが運行している。 一部の宿が宿泊者専用の駐車場を備えているのを除き、島内に観光客用の駐車場は存在せず、町内の道幅も極めて狭い。また市街地は20km/h、少し内陸にあるうぐいす歩道と杉の浦、包ヶ浦は30km/hの速度制限がかかっている。さらに商店街は毎日10時30分から17時まで車両の通行が禁止される。そのため広島市街地からは西広島バイパス、山陽自動車道からは廿日市ICをそれぞれ経由して国道2号に入り、宮島口駅周辺の有料駐車場で下車、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。 JR西日本宮島フェリー(宮島連絡船)と宮島松大汽船のフェリーが、宮島口桟橋(JR宮島口駅から徒歩3分、広電宮島口駅から徒歩1分)から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は宮島桟橋行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。 広島港からは瀬戸内シーラインの高速船(所要約30分)があるほか、瀬戸内海汽船の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。 アクアネット広島は、厳島神社と同様に世界遺産である原爆ドームと合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の平和記念公園近くの元安桟橋と厳島を結ぶ「世界遺産航路」を就航している。また、マリーナホップと宮島の間に高速船を就航している。大野桟橋と宮島港3号桟橋間の「宮島行大鳥居遊覧航路」は不定期運航である。 島内ではかつて広電バスが運行されていたが廃止されてからは、宮島交通が「メイプルライナー」をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - 宮島水族館間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある。2012年に宮島交通は「メイプルライナー」をカープタクシー傘下の宮島カープタクシーに譲渡した。 公共交通でないものでは、人力車がある。 広島観光開発が紅葉谷駅から弥山山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している。 「厳島神社#描かれた厳島神社」は、厳島神社がどのように描かれてきたかを紐解く内容であって、安芸の宮島(厳島)を対象としていないが、そもそも画題としての厳島神社と安芸の宮島は多分に重複している。絵画作品において、厳島神社関連を外して安芸の宮島を描いたものも無いわけではないが、特筆性の高いものを見出すのは難しい。 『鉄道唱歌』は日本の鉄道沿線の素晴らしさを七五調で詠い込んだ長大な唱歌で、大和田建樹が作詞を手がけたものであるが、その「第2集 山陽九州編」は、山陽本線がまだ全通していない1900年(明治33年)9月3日に刊行された。歴史的意義の大きい場所には1節でなく幾つかの節を割り振る傾向のあった大和田のこと、厳島を詠うのには4節も使っている。 19番の「己斐の松原」は現在の広島市西区旧己斐町地区(当時の佐伯郡己斐村)の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった松原で、しかしその松は1967年(昭和42年)頃に全て伐採されてしまった。「五日市」は現在の広島市佐伯区旧五日市町地区(当時の佐伯郡五日市村)。「宮島駅」は山陽本線の駅で、当時の山陽鉄道宮島駅、のちの日本国有鉄道(国鉄)宮島駅、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)宮島口駅。20番の「市杵島姫のまします宮どころ」は、女神・市杵島姫(いちきしまひめ)のいらっしゃる宮所/宮処(意:神の鎮座する所)、すなわち、厳島神社もしくは宮島(厳島)を指す。22番は、天文24年10月1日(1555年10月16日)に起きた厳島の戦いについて歌っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "厳島(いつくしま)は、広島県廿日市市宮島町にある島。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代より、島そのものが自然崇拝の対象であったと考えられる。平安時代末期以降は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。江戸時代中期には、丹後国(現・京都府北部)の天橋立、陸奥国(現・東北地方東部の宮城県)の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており、2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した。原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。その社殿群の構成は、平安時代の寝殿造の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山原始林は、1996年(平成8年)にユネスコ世界遺産に登録されている。。海岸の一部は2012年(平成24年)7月3日、ミヤジマトンボの生息地としてラムサール条約に登録された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "島の最高峰・弥山(標高535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年(明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の渡し船に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "島の全域(周辺海域を含む)が1934年(昭和9年)に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年(平成17年)に廿日市市と合併した。2021年(令和3年)8月2日、厳島神社付近の町並みは「廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区」として重要伝統的建造物群保存地区に選定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「いつくしま(厳島、異表記:嚴島、嚴嶋ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社の祭神の筆頭に挙げられる女神・イチキシマヒメ(市杵島姫)の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ。神使の鴉〈カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "島の名として「嚴嶋大明神」のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年(1643年)に儒学者・林春斎(林鵞峰)が著した『日本国事跡考』のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる「三処奇観(さんじょきかん)」の一文にもその名が見える。この景観評価は「日本三景」の由来となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「みやじま(宮島、異表記:宮嶋ほか)」という地名は、江戸時代以降のもので、「ミヤ(宮(神社)+ シマ(島)」を意味する。「宮島」は同名他所の地名でもあるので、安芸国(芸州)の宮島に特定する意をもって「安芸宮島/安芸の宮島(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の寛保2年(1742年)の伊予松山藩の座頭記録には「芸州宮嶋江参詣......」とある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する国土地理院は「厳島(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省は「宮島(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "地方自治体としても、1889年(明治22年)の町制施行時には「厳島町」であったが、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵、新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体(藝、國、圖、繪、會、禮)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "広島湾の西の端、広島市街の南西約20kmに位置する。島は周囲約30km、面積30.2kmで楕円形の形状をなしている。対岸の本州(廿日市市阿品~同市大野)に寄り添うように北東から南西に伸びる(島の北東径約9km、南西径約4km)。対岸(本州)と島を隔てる瀬戸は「大野瀬戸(おおのせと)」と呼ばれ、最も狭い所で300mしか離れていない(宮島口港~宮島港間のフェリー航路は1.8km)。大野瀬戸の反対側(島から南東方向)には、絵の島、大奈佐美島、能美島(江田島等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は風化によってやや崩落しており、満潮時には「蓬莱島(ほうらいじま)」と呼ばれる島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "島は主に花崗岩で構成されている。中国山地の断層運動によって隆起し、最終氷期終焉期の海水面上昇(c. 海水準変動)によって本州本島と水域で隔てられた島に変わったと考えられている。平地は少なく弥山や駒ヶ林など500m級の急峻な山が連なっていることから、深い谷や滝が多くある。島の東西方向と南北方向に断層が見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "島の最高峰である弥山(みせん)の標高値は、国土地理院発行の2万5千分1地形図上では529.8メートルと表記されてきた。これは1892年設置の二等三角点の計測値であるが、現在では三角点より南南西方向約16.8メートルの地点の標高がそれよりも高い535メートルであることが確認されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "瀬戸内海気候に分類され、気候は温暖。夏は30°Cを超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の厳島神社周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の「弥山おろし」が知られる。これは太田川の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "植生は典型的な暖地温帯常緑広葉樹林である。ただし、一般的な照葉樹林とは趣が異なり、例えば南方系のミミズバイ(ハイノキの一種。高地性である)と針葉樹のモミ(西日本の低海抜地域には通常見られない)が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "固有種として、ミヤジマカエデとミヤジマシモツケがある。ただし、ミヤジマカエデは島に定着自生しているかどうか議論がある。ミヤジマシモツケは対岸にも分布している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物の指定および世界遺産の登録を受けている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "近年、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、海藻の一種アオサが大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は諸説あるが、明らかではない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中国地方に一般的に棲息するタヌキ、ニホンアナグマ、モグラ類のほか、100種を超す鳥類が確認されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "厳島に棲息するシカとサルは、フェリー桟橋付近にも現れたり、マスコットキャラクターとして図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "厳島のシカは、第二次世界大戦後(戦後)に厳島を接収したGHQの兵士がスポーツハンティングの対象として撃っていたために激減した。現在島に棲息する鹿は21世紀初期の分子遺伝学による分析で、広島と山口と近い宮島固有の歴史を持つ鹿であることが証明されている。また、一部で奈良の春日大社から譲り受けたという噂があるが、厳島神社の側には譲渡された記録が残っていない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "サルについては、江戸時代以前には記録がなく、古い絵巻物でも猿の絵は猿回しに現れる程度で非常に少ない。そのため、そうは古くない時期に外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、1962年(昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために小豆島にある日本モンキーセンターからニホンザル45頭が移入されている。これに関連して、2011年(平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により愛知県犬山市へのニホンザルの移送が行われている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになった。早くも1998年には旧宮島町が「宮島町シカ対策協議会」を設立して、この時点でシカを野生復帰させる方針を決定している。2000年頃の被害としては「植物の樹皮や新芽がシカにかじられる」「雄のシカが樹齢の若い樹で角をとぐために枯死する」といったものが主であったが、やがてシカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報じられた。被害の原因は議論があり確定的ではない。観光客や住民からの苦情をうけて、地元廿日市市は2008年9月に『宮島地域シカ保護管理ガイドライン』(PDF)を策定し、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この管理対策により2012年8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したという。市側は餌やり禁止により生息地を分散させる取り組みに一定の成果が出ているとしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "昆虫の固有種として、ミヤジマトンボ Orthetrum poecilops miyajimaenisis (Yuki and Doi, 1938) があり、国の絶滅危惧種に指定されている(2007年版では「絶滅危惧I類(CR+EN)」。昆虫類レッドリスト (環境省)を参照)。これは中国大陸南部に分布するシオカラトンボ属の O. poecilops (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている。広島大学による考古学的調査(2004年〈平成16年〉)では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文から弥生時代の土器や石器が数多く発見されているほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石や大川浦において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜や大川浦、御床浦において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期の製塩土器が見つかっているほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性を指摘している。下室浜からも、古墳時代の祭祀に用いられたとみられる滑石製勾玉が採集されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺(大聖院の前身)は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "伝承では推古天皇元年(西暦換算〈以下同様〉:593年)、豪族佐伯鞍職がイチキシマヒメの神託によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌しており、後に厳島神主家となった。文献上の初出は弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、保元6年(1156年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱で源頼朝が捕らえられ、清盛は正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、仁治2年(1241年)の造営による(現在の本社社殿は元亀2年〈1571年〉、毛利元就の再建によるもの)。さらに四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市の倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "清盛の庇護によって京の雅な文化が移入され、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、宋の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990~1991年に発掘調査が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半の土層から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている。この頃には島をご神体とする信仰が広がっており、祭祀のために滞在する神職や貴族がいた他は島に住む者はいなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾経塚(清盛塚)からは、1944年(昭和19年)に開墾された際に銅製経筒と陶製甕の外容器、経巻、青白磁合子、古鏡、刀片、青磁片などの遺物が出土したほか、研究者による踏査でも青白磁合子や白磁小壺、中世須恵器甕などの破片が採集されており、12世紀前半以降に埋納された経塚とみられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1185年の壇ノ浦の戦いをもって平氏が滅んだのち、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽上皇側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって御家人の藤原親実が厳島神主家となった。厳島神社は承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条は乾元元年(1302年)に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「とはずがたり」に書き留めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "正安2年(1300年)に水精寺の座主坊が対岸の地御前神社(厳島神社の境外摂社)から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。天文7年(1538年)には厳島大願寺の僧尊海が、一切経(高麗八万大蔵経)を求めて朝鮮半島に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った八曲屏風「瀟湘八景図」の裏面に漢文による紀行文「尊海渡海日記」(大願寺所有、国の重要文化財)を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は中期朝鮮語研究の貴重な史料となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。弘治元年(1555年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった(厳島の戦いを参照)。以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理(元亀2年〈1571年〉)によるところも大きい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "天正15年(1587年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが窺える。秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成の形で今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治初期の廃仏毀釈の際には厳島神社末社豊国神社本殿となり現在に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "西暦1595年(日本は文禄4年)に現ベルギーのアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン領南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」には、厳島がItoqulchimaとして記されている。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "江戸時代、厳島は広島藩に4か所ある町制(広島城下・三原城下・尾道・厳島)の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは厳島神社・大聖院・大願寺の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および安芸国の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが窺える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "厳島では平清盛以来舞楽の伝統があったところへ、毛利元就が永禄6年(1563年)に能を奉納したのを皮切りに観世太夫が演じる(永禄11年〈1568年〉)など芸能が発展した。歌舞伎や大相撲の興行も盛んで、井原西鶴の『浮世草子』には西国三大芝居どころとして金比羅・備中宮内(吉備津神社)と並び称されている。富くじも盛んに催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "参拝客や文化人相手の観光商売が水もので、島に産業がないことを町衆が嘆いているのを知った宮島光明院の僧誓真は、弁財天の琵琶に着想を得てしゃもじを名物として売り出すことを町衆に教えた。願掛けの文字を入れたしゃもじ(杓子)はたちまち土産品として人気が出た。現在でもしゃもじの別名を「みやじま」と呼んで、高校野球では広島県代表がしゃもじで応援するのが定番となるほど定着している。誓真は水不足に悩む町衆のために井戸を掘ったり(「誓真釣井」)、小舟を着けられるよう雁木を造ったりと厳島のために尽くし、「宮島の大恩人」として慕われた。光明院の近くには「誓真大徳碑」が今も残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。慶応2年8月(1866年9月頃)、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上馨。桂小五郎(木戸孝允)も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "慶応4年3月13日から明治元年10月18日(1868年の4月5日から12月1日)にかけて神仏分離令が発布されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1876年(明治8年)、老朽化していた海上の厳島神社の大鳥居が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "初代内閣総理大臣・伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、厳島をたびたび訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるものである。また、大願寺境内には「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する土産菓子となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかった逸話を基に発案された」という説が広く流布している。詳しくは別項「もみじ饅頭」を参照のこと。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "島の東沖合いにある江田島に海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)、佐伯郡で町村制が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町(宮島町の前身)が発足する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1897年(明治30年)8月、広島湾要塞の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌1898年(明治31年)、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは1926年(大正15年)に廃止されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)、厳島は国の史跡名勝に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1936年(昭和11年)、日独合作映画『新しき土』の撮影が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下では、爆風によって島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年(昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が厳島を訪問している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)には、厳島全体が瀬戸内海国立公園の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「宮島町」に改称した。1952年(昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。1959年(昭和34年)には広島県立水産資源研究所(現・宮島水族館)がオープンした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1960年代から1970年代にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。海上保安庁は、直径30cmの白い円盤を海に沈めて透明度を測定していたが、1969年の厳島付近の調査ではわずか20cmで円盤が見えなくなるという、日本屈指の汚染状態となっていた。汚染源は、工場排水やし尿投棄によるものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1991年(平成3年)9月27日に襲来した台風19号では、厳島神社左楽房(国宝の附指定)や能舞台(重要文化財)が倒壊するなど甚大な被害が出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)には、厳島神社がユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。日本の世界遺産としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に原爆ドームも(5件目として)登録されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "台風による被害は2004年(平成16年)の台風18号も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めたヴェネツィア(イタリア)などと同じく地球温暖化による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)11月3日、宮島町は大野町とともに廿日市市に編入される。これに伴い、厳島神社の住所(社務所所在地住所)は「佐伯郡宮島町1-1」から「廿日市市宮島町1-1」に変わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2016年(平成28年)のG7伊勢志摩サミット(第42回先進国首脳会議)に伴う広島外務大臣会合の際は、初日にG7の外務大臣が揃って厳島神社を訪問した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)、G7広島サミット(第49回先進国首脳会議)においては、各国首脳が厳島神社を訪れ、その後「岩惣」に移動してセッション3「外交・安全保障」をワーキングディナー形式で実施した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏・毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から「社奉行」に任じられた厳島神主家の棚守房顕が天正8年(1580年)に記した『棚守房顕覚書』には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "島全体が神域(神体)とされたため、血や死といった穢れの忌避は顕著であった。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を「地御前神社」(所在地:廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられた。また、この島は「女神の御神体内」とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた機織や布晒(ぬのさらし)も禁忌とされていた(山の神』を参照)。『棚守房顕覚書』は「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後まで続いた。廿日市の町は鎌倉時代、厳島神社の祭礼最終日(毎月20日)に立った市場から発展した町である。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "厳島に棲息するニホンジカは太古から棲息していたと見られるが、歴史時代に入ると奈良の春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、神使として大切に扱われるようになった。それ以来、厳島では、鹿が家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えるようになった。『棚守房顕覚書』によると、鹿を害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したという。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "厳島に棲息するニホンザルは古くから、彼らが家に入り込んで食べ物を盗っていっても捕まえて罰することはなかったという。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "町の商家や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。元旦に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。第二次世界大戦後は数人が行うのみにまで減っていたが、21世紀初期には見直されるようになり、行う家や店が増えつつある。", "title": "風習" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "毎年8月11日には宮島水中花火大会が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "島内には厳島神社以外にも大聖院をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、宮島水族館、宮島歴史民俗資料館、広島大学大学院理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人台(2009年〈平成21年〉の船舶運輸実績〈片道〉は約346万人)。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "弥山などへの登山者も多いが、島には信仰上の理由や文化財・自然保護のために開発されなかった原生林が広がっており、登山道から迷い込むなどする遭難がたびたび発生する。そのため、島を所管する広島県警察廿日市警察署と宮島消防署が十分な装備での入山など注意喚起をしている。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)から、毎年1回、廿日市商工会議所主催のご当地検定である「宮島検定」が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した『宮島本』(※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる)を発行している。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "厳島が観光地として発展するにつれて地元行政の負担も増大してきたことから、2023年(令和5年)10月1日より、廿日市市が法定外普通税として「宮島訪問税」を課すこととなった。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "来訪者に負担を求める法定外普通税・法定外目的税は先行していくつか存在するが、宮島訪問税は原因者負担の考え方により設計され、宮島住民などを課税対象から除外していることに特徴がある。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "課税対象は船舶により宮島に入る行為であるが、上述のように宮島住民や宮島への通勤・通学者は課税対象外となり、未就学児・修学旅行などの学校行事による団体訪問・障がい者については課税免除とされる。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "税率は「1人1回100円」と「1人1年間で500円」の選択制であり、フェリーを利用して宮島を訪問する場合は、(課税対象外・課税免除に該当せず、後者の方法により納税済みでもない場合)1回分の税金がフェリー運賃とともに特別徴収される。なお、青春18きっぷなど、宮島航路を含みつつも広域で販売されるフリーきっぷでは、宮島訪問税を含まずに販売される場合があり、そのような乗車券を利用して宮島航路に乗船する場合は、別途で訪問税分のみのきっぷを購入する形となる。", "title": "文化・施設・観光" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "最寄り駅はJR山陽本線の宮島口駅と広島電鉄宮島線の広電宮島口駅。駅前にある桟橋からフェリーが運行している。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一部の宿が宿泊者専用の駐車場を備えているのを除き、島内に観光客用の駐車場は存在せず、町内の道幅も極めて狭い。また市街地は20km/h、少し内陸にあるうぐいす歩道と杉の浦、包ヶ浦は30km/hの速度制限がかかっている。さらに商店街は毎日10時30分から17時まで車両の通行が禁止される。そのため広島市街地からは西広島バイパス、山陽自動車道からは廿日市ICをそれぞれ経由して国道2号に入り、宮島口駅周辺の有料駐車場で下車、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "JR西日本宮島フェリー(宮島連絡船)と宮島松大汽船のフェリーが、宮島口桟橋(JR宮島口駅から徒歩3分、広電宮島口駅から徒歩1分)から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は宮島桟橋行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "広島港からは瀬戸内シーラインの高速船(所要約30分)があるほか、瀬戸内海汽船の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "アクアネット広島は、厳島神社と同様に世界遺産である原爆ドームと合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の平和記念公園近くの元安桟橋と厳島を結ぶ「世界遺産航路」を就航している。また、マリーナホップと宮島の間に高速船を就航している。大野桟橋と宮島港3号桟橋間の「宮島行大鳥居遊覧航路」は不定期運航である。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "島内ではかつて広電バスが運行されていたが廃止されてからは、宮島交通が「メイプルライナー」をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - 宮島水族館間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある。2012年に宮島交通は「メイプルライナー」をカープタクシー傘下の宮島カープタクシーに譲渡した。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "公共交通でないものでは、人力車がある。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "広島観光開発が紅葉谷駅から弥山山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している。", "title": "交通アクセス" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "「厳島神社#描かれた厳島神社」は、厳島神社がどのように描かれてきたかを紐解く内容であって、安芸の宮島(厳島)を対象としていないが、そもそも画題としての厳島神社と安芸の宮島は多分に重複している。絵画作品において、厳島神社関連を外して安芸の宮島を描いたものも無いわけではないが、特筆性の高いものを見出すのは難しい。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "『鉄道唱歌』は日本の鉄道沿線の素晴らしさを七五調で詠い込んだ長大な唱歌で、大和田建樹が作詞を手がけたものであるが、その「第2集 山陽九州編」は、山陽本線がまだ全通していない1900年(明治33年)9月3日に刊行された。歴史的意義の大きい場所には1節でなく幾つかの節を割り振る傾向のあった大和田のこと、厳島を詠うのには4節も使っている。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "19番の「己斐の松原」は現在の広島市西区旧己斐町地区(当時の佐伯郡己斐村)の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった松原で、しかしその松は1967年(昭和42年)頃に全て伐採されてしまった。「五日市」は現在の広島市佐伯区旧五日市町地区(当時の佐伯郡五日市村)。「宮島駅」は山陽本線の駅で、当時の山陽鉄道宮島駅、のちの日本国有鉄道(国鉄)宮島駅、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)宮島口駅。20番の「市杵島姫のまします宮どころ」は、女神・市杵島姫(いちきしまひめ)のいらっしゃる宮所/宮処(意:神の鎮座する所)、すなわち、厳島神社もしくは宮島(厳島)を指す。22番は、天文24年10月1日(1555年10月16日)に起きた厳島の戦いについて歌っている。", "title": "関連作品" } ]
厳島(いつくしま)は、広島県廿日市市宮島町にある島。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は安芸の宮島(あきのみやじま)、または宮島。
{{Otheruseslist|[[地名]]|かつて存在した[[地方公共団体|自治体]]|宮島町|'''厳島'''のその他の用法|厳島_(曖昧さ回避)}} {{Redirect|安芸の宮島|楽曲|安芸の宮島 (水森かおりの曲)}} {{Infobox 島 |島名=厳島 |画像=[[ファイル:Miyajima From The Ferry (30093845).jpeg|290px]] |画像説明=奥は[[弥山 (広島県)|弥山]]の北麓。手前に見えるのは大野瀬戸に面して鎮座する[[厳島神社]] |座標= |緯度度 = 34 | 緯度分 = 16 | 緯度秒 = 0 | N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 132| 経度分 = 18 | 経度秒 = 0 | E(東経)及びW(西経) = E |面積=30.39 |周囲=28.9 |標高=535.0 |最高峰=[[弥山_(広島県)|弥山]] |最大都市= |諸島= |海域=[[瀬戸内海]] [[安芸灘]] |国={{JPN}}([[広島県]][[廿日市市]])<ref>{{Cite book|author=日本離島センター|year=2004|title=日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』|edition=第2版|publisher=日本離島センター|isbn=9784931230224}}</ref><ref name="misen">{{Cite web|和書|url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2005-1006.html|title=厳島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値が変わります|publisher=国土地理院|date=2005-10-06|accessdate=2009-09-20}}</ref> |地図 = {{Location map|Japan Hiroshima Prefecture#Japan|relief=1|float=center|label=厳島}} |OSMズーム = 10 }} [[ファイル:Itsukushimajinja-5.jpg|thumb|280px|<center>[[厳島神社大鳥居]](満潮時)]] [[ファイル:1167-1 Miyajimachō, Hatsukaichi-shi, Hiroshima-ken 739-0588, Japan - panoramio (3).jpg|thumb|280px|<center>(干潮時)]] [[ファイル:Sanki-gongen-dō.jpg|thumb|200px|<center>[[大聖院 (宮島)#伽藍|三鬼権現堂]]<br />([[弥山 (広島県)|弥山]]山頂付近に所在)]] '''厳島'''(いつくしま)は、[[広島県]][[廿日市市]]宮島町にある島。[[瀬戸内海]]西部、[[広島湾]]の北西部に位置する。通称は'''安芸の宮島'''(あきのみやじま)、または'''宮島'''。 == 概要 == [[古代]]より、島そのものが[[自然崇拝]]の対象であったと考えられる。[[平安時代]]末期以降は、[[厳島神社]]の影響力の強さや[[海運|海上交通]]の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。[[江戸時代]]中期には、[[丹後国]](現・[[京都府]]北部)の[[天橋立]]、[[陸奥国]](現・[[東北地方]]東部の[[宮城県]])の[[松島]]と並ぶ、[[日本三景]]の一つに挙げられる[[景勝地]]として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった<ref name="itsukushima">{{Cite web|和書|title=1泊2日のRefresh Trip #68 新垣結衣さんが広島県の宮島、山口県の岩国を1泊2日で巡る旅をナビゲート|月刊旅色2021年2月号|url=https://tabiiro.jp/book/monthly/202102/refreshtrip/|website=トラベルウェブマガジン旅色|accessdate=2021-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210125031923/https://tabiiro.jp/book/monthly/202102/refreshtrip/|archivedate=2021-01-25|language=ja}}{{cite web|url=https://whc.unesco.org/en/list/776/|title=Itsukushima Shinto Shrine|publisher=UNESCO World Heritage Centre|accessdate=2023–11–23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123101919/https://edition.cnn.com/travel/itsukushima-shrine-japan-tourist-tax-intl-hnk/index.html|archivedate=2006–03–02|language=en-AU}}{{Cite web|date=2023–10–03|url=https://edition.cnn.com/travel/itsukushima-shrine-japan-tourist-tax-intl-hnk/index.html|title=Japan implements tourist tax at famous ‘floating shrine’ to combat overtourism|author=Lilit Marcus|accessdate=2023–11–23|publisher=[[CNN]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123101919/https://edition.cnn.com/travel/itsukushima-shrine-japan-tourist-tax-intl-hnk/index.html|archivedate=2023–11–23|language=en-AU}}{{Cite web|和書|date=2020–03–30|title=世界文化遺 産|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52641.html|website=はつたび 廿日市市観光公式サイト|publisher=廿日市市|accessdate=2023–11–23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201203201733/https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52641.html|archivedate=2020–12–03|language=ja}}{{Cite web|和書|date=2023–10–04|title=「観光客」だけでなく「地域住民」の満足度も目標値に オーバーツーリズム対策と課題|url=https://news.radiko.jp/article/station/LFR/96379/|website=[[radiko|radiko news]]|accessdate=2023–11–23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231123100957/https://news.radiko.jp/article/station/LFR/96379/|archivedate=2023–11–23|language=ja}}</ref>。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており<ref group="*">[[廿日市市]]発表による[[2008年]]の宮島地区への入り込み観光客数は343万人。[[1998年]]から[[2006年]]までは300万人を割り込んだが、[[2007年]](307万人)以降は再び300万人台となっている。</ref>、[[2011年]]には、[[トリップアドバイザー]]が「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000046.000001853.html トリップアドバイザー「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20を発表 最も人気の高い日本の観光スポットは、広島県の宮島(厳島神社)に!] PRtimes.2020年9月24日閲覧</ref>。[[原爆ドーム]]とならんで[[広島県]]の代名詞的存在の一つである<ref name="itsukushima"/>。 景勝地としての厳島の中心は、[[厳島神社]]である<ref name="itsukushima"/>。海上に浮かぶ朱塗の[[厳島神社大鳥居|大鳥居]]と社殿で知られる厳島神社は、[[平安時代]]末期に[[平清盛]]が厚く庇護したことで大きく発展した<ref name="itsukushima"/>。その[[神社建築|社殿群]]の構成は、平安時代の[[寝殿造]]の様式を取り入れた優れた建築景観をなし、敷地内の神社殿は海上に立地し、海と景観に調和して配置され、中央に人工建築、手前に海、背景に山々の三位一体が組み合わさり、人工の成果と自然の要素を組み合わせた景観は他に比類がなく、これらは清盛の卓越した発想によるものである<ref name="itsukushima"/>。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも[[国宝]])などのほか、主要な建造物はすべて[[国宝]]または国の[[重要文化財]]に指定されている<ref name="itsukushima"/>。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「[[平家納経]]」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および[[弥山 (広島県)|弥山]][[原始林]]は、[[1996年]](平成8年)に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]に登録されている<ref name="itsukushima"/>。。海岸の一部は[[2012年]](平成24年)[[7月3日]]、[[ミヤジマトンボ]]の生息地として[[ラムサール条約]]に登録された<ref>{{Cite web |title=Miyajima {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/2056 |website=rsis.ramsar.org |accessdate=2021-09-15 |date=2012-7-3}}</ref>。 島の[[最高峰]]・[[弥山_(広島県)|弥山]]([[標高]]535[[メートル]])山頂から望む[[瀬戸内海]]の多島美も人気があり、毎年[[元旦]]未明には[[初日の出]]を目指す人で混み合う。この地を愛した[[伊藤博文]]は「[[日本三景]]の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで[[明治]]時代後期に弥山への一般登山路が整備された。[[1900年]](明治33年)に定期航路が開設されると、旧来の[[渡し船]]に依存していた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。 島の全域(周辺海域を含む)が[[1934年]]([[昭和]]9年)に[[瀬戸内海国立公園]]に編入され、[[自然公園法]]が定める特別保護区域となっている。[[1952年]](昭和27年)には国の[[特別史跡]]及び[[特別名勝]]に指定され、弥山の原始林は国の[[天然記念物]]に指定されている。 かつて島全体が[[佐伯郡]][[宮島町]]と一致していたが、[[2005年]](平成17年)に廿日市市と合併した。[[2021年]](令和3年)[[8月2日]]、厳島神社付近の町並みは「廿日市市宮島町伝統的建造物群保存地区」として[[重要伝統的建造物群保存地区]]に選定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/51/66946.html|title=重要伝統的建造物群保存地区選定|accessdate=2021/09/15|publisher=廿日市市}}</ref>。 === 名称 === {{Anchors|語源|由来}} ==== 厳島 ==== {{Anchors|厳島 (名称)|厳島 (語源)|厳島の語源}} 「'''いつくしま'''('''厳島'''、{{small|異表記}}:'''嚴島'''、'''嚴嶋'''ほか)」という地名は、「'''イツク'''(斎く。意:心身のけがれ<ref group="*">汚れ(けがれ)と[[穢れ]](けがれ)。</ref>を除き、身を清めて[[神 (神道)|神]]に仕える)'''+ [[wikt:しま#名詞:地形|シマ]]'''(島)」から来ていると考えられており、[[厳島神社]]の[[祭神]]の筆頭に挙げられる[[女神]]・'''[[イチキシマヒメ]]'''(市杵島姫)<ref group="*">神社では神の名に[[尊称]]を付けるが、ここでは重要ではなく冗長さを増すだけなので、「イチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)」なら「イチキシマヒメ(市杵島姫)」、「スサノオノミコト(素戔男尊)」なら「スサノオ(素戔男尊)」と記すこととする。また、宗像三女神の記載順は厳島神社に準拠する。</ref>の名に由来するか、少なくとも[[同根語]]である。厳島神社[[縁起#転用|縁起]]の伝えるところでは、[[スサノオ]](素戔男)の娘とされる[[宗像三女神]]、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。[[タキリビメ]]の別名)、[[タギツヒメ]](湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉({{small|しんあ}}。[[神使]]の[[wikt:鴉|鴉]]〈[[カラス]]〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。 島の名として「嚴嶋大明神」のように[[平安時代]]からの用例がある。{{Anchors|三処奇観|日本国事跡考}}[[江戸時代]]前期の[[寛永]]20年([[1643年]])に[[儒学者]]・林春斎([[林鵞峰]])が著した『日本国事跡考』のうちの[[陸奥国]]のくだりにある、いわゆる「三処奇観({{small|さんじょきかん}})」の一文にもその名が見える。この景観評価は「[[日本三景]]」の由来となった。 {{Quotation|[[原文]]<br />松島 此島之外有小島若干 殆如盆池月波之景 境致之佳 與 丹後天橋立 陸奧松島 安藝'''嚴島''' 此三處為奇觀── 林春斎『日本国事跡考』<br /><br />《[[原文#書き下し|書き下し文]]》<br />{{ruby|松島|まつしま}}、{{ruby|此|こ}}の{{ruby|島|しま}}の{{ruby|外|ほか}}に{{ruby|小島|をじま}}{{ruby|若干|じやくかん}}あり、{{ruby|殆|ほとん}}ど盆池月波の{{ruby|景|けい}}の{{ruby|如|ごと}}し、{{ruby|境致|きやうち}}の{{ruby|佳|か}}なる、{{ruby|[[丹後国|丹後]]|たんご}}{{ruby|[[天橋立]]|あまのはしだて}}、{{ruby|[[陸奥国|陸奥]]|むつ}}{{ruby|[[松島]]|まつしま}}、{{ruby|[[安芸国|安芸]]|あき}}{{ruby|'''厳島'''|いつくしま}}、{{ruby|此|こ}}の{{ruby|三処|さんじよ}}を{{ruby|奇観|きかん}}と{{ruby|為|な}}す。<br /><br />《現代日本語訳例》<br />松島、この島のほかに小さな島がいくつかある。その景色はあたかも池の水面に浮かぶ月の光の波のようだ。景観の美しさ素晴らしさにより、丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この3箇所は絶景となっている。}} [[ファイル:Miyajima in de provincie Aki-Rijksmuseum RP-P-2008-214.jpeg|thumb|250px|[[歌川国貞]]『紅毛油絵風 安芸の宮島』]] [[ファイル:The Famous Scenes of the Sixty States 50 Aki.jpg|thumb|180px|[[歌川広重]]『[[六十余州名所図会]] 安芸 巌島 祭礼之図』]] [[ファイル:Brooklyn Museum - Itsukushima in Aki Province - Utagawa Hiroshige (Ando).jpg|thumb|180px|歌川広重『日本三景 安芸 厳島』]] [[ファイル:Hiroshige II Aki Miyajima.jpg|thumb|180px|[[歌川広重 (2代目)|2代目歌川広重]]『諸国名所百景 安芸宮島汐干』]]<!-- ※これら4画像は下の節に係る。--> ==== 宮島 ==== {{Anchors|宮島 (名称)|宮島 (語源)|宮島の語源}} 「'''みやじま'''('''宮島'''、{{small|異表記}}:'''宮嶋'''ほか)」という地名は、[[江戸時代]]以降のもので、「'''[[wikt:みや#日本語|ミヤ]]'''([[wikt:宮|宮]]([[神社]])+ '''[[wikt:しま#名詞:地形|シマ]]'''(島)」を意味する。「[[宮島]]」は同名他所の地名でもあるので、[[安芸国|安芸国(芸州)]]の宮島に特定する意をもって「'''安芸宮島'''/'''安芸の宮島'''(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期の[[寛保]]2年([[1742年]])の[[伊予松山藩]]の座頭記録には「'''芸州宮嶋'''江参詣……」とある。 === 「厳島」「宮島」の使い分け === {{Anchors|厳島宮島使い分け}} この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。測量を所掌する[[国土地理院]]は「'''厳島'''(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める[[日本の国有林|国有林]]を管理する[[林野庁]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/policy/business/sitasimou/mori_zukuri/recreation/hirosima/miyajima.html |title=宮島(みやじま)風景林 |publisher=近畿中国森林管理局 |accessdate=2020-06-15}}</ref>、周辺海域を含めた国立公園を管理する[[環境省]]<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.env.go.jp/park/setonaikai/ |title=瀬戸内海国立公園 |publisher=近畿地方環境事務所 |accessdate=2020-06-15}}</ref>は「'''宮島'''(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと[[漢字]]の平易さから[[観光]]PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。 [[地方公共団体|地方自治体]]としても、[[1889年]](明治22年)の[[町村制|町制]]施行時には「厳島町」であったが、[[第二次世界大戦]]後の[[1950年]](昭和25年)には「[[宮島町]]」へ変更されるなど、[[行政]]地名にも揺れがあった。学術書や[[公文書]]の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。これら表記の併存は[[江戸時代]]中期には見られた。以下に実例をあげる。 ここからは、[[地名]](藩政村名・[[村#行政村|行政村]]名など)や作品(絵図、[[浮世絵]]、[[新版画]]など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている[[旧字体]]([[wikt:藝|藝]]、[[wikt:國|國]]、[[wikt:圖|圖]]、[[wikt:繪|繪]]、[[wikt:會|會]]、[[wikt:禮|禮]])は全て[[新字体]]に変換する。異字・俗字はそのまま表記する<ref>一部参考:[http://miyapri.web.fc2.com/ukiyoe_list.htm 宮島の浮世絵ギャラリー]</ref>。 * [[源通親]] 『高倉院'''嚴島'''御幸記』/不明 :: [[治承]]4年(1180年)[[高倉天皇|高倉院]]の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて'''宮島'''あるいは'''宮じま'''表記。 * 『[[平家物語]]』/鎌倉時代 :: 巻第四・厳島御幸は『高倉院嚴島御幸記』を素材として書かれている。すべて'''厳島'''表記。 * [[貝原益軒]] 『安芸国'''厳島'''図』/[[享保]]5年([[1720年]])作。 * [[長沢芦雪]] 『絹本淡彩'''宮島'''八景図』/[[寛政]]6年([[1794年]])[[落款|款]]記。 * [[北尾重政]] 『浮絵安芸国佐伯郡'''厳嶋'''図』/[[18世紀]]後期に刊行。 * [[歌川豊広]] 『日本三景』/[[文政]]年間([[1818年|1818]]-[[1830年]]間)に刊行。 :: 添えられている[[狂歌師]]・司馬の屋嘉門(芝の屋山陽の別号)の[[漢詩]]には「夕日輝{{small|レ}}波'''厳島'''山」とある一方で、図中の説明には「安芸州'''宮島'''」とある。 * [[歌川国貞]] 『紅毛油絵風 安芸の'''宮島'''』/文政8年([[1825年]])刊行。 * [[歌川広重]] 『[[六十余州名所図会]] 安芸 '''厳島''' 祭礼之図』/[[嘉永]]6年([[1854年]])刊行。 * 歌川広重 『国尽張交図会 十五 安芸'''宮嶋'''』/[[幕末]]直前に刊行。 * 歌川広重 [[団扇絵]]『日本三景 安芸 '''厳島'''』/嘉永5年-[[安政]]4年([[1852年|1852]]-[[1858年]])中に刊行。 :: 広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重([[歌川重宣]])や3代目広重([[後藤寅吉]])もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、[[明治維新]]以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを窺わせる。その傾向が、対岸にある[[鉄道駅]]および地区名としての「宮島口」(厳島口ではない)に現れている<ref group="*">江戸時代には[[広島城]][[城下町|下]]や草津村(現・[[広島市]][[西区_(広島市)|西区]])からの渡航が主であり、宮島口という地名は存在していない。[[西日本旅客鉄道|JR]][[宮島口駅]]は開設当初「宮島駅」(当時は[[日本国有鉄道|国鉄]]に買収される前の[[山陽鉄道]])、[[広電宮島口駅]]は「電車宮島駅」といった。</ref>。 * [[歌川広重 (2代目)|2代目歌川広重]] 『諸国名所百景 安芸'''宮島'''汐干』/安政6年([[1860年]])刊行。 * [[明治元年]]([[1868年]]/[[1869年]])、藩政村<ref group="*">[[江戸幕府|江戸]][[幕藩体制]]の実態が無くなってからも、行政町村([[近代]]行政町村)が制度として整備される1889年(昭和22年)までは“藩政村的な自然町村”が事実上存続していた。それは、[[中世]]の自然村でも近代の行政町村でもない。</ref>として[[安芸国]][[佐伯郡]]に「安芸[[広島藩]][[地方知行|知行]]'''厳島'''」あり/『[[旧高旧領取調帳]]』より。 * [[地方公共団体|地方自治体]]「'''厳島'''町」の成立/[[1889年]]([[明治]]22年)施行。 * [[小林清親]] 『日本名勝図会 '''厳島'''』/[[1896年]](明治29年)刊行。 * [[川瀬巴水]] 『旅みやげ 第二集』「晴天の雪('''宮嶋''')」/[[1921年]]([[大正]]10年)刊行。 * 地方自治体「厳島町」から「[[宮島町|'''宮島'''町]]」への名称変更/[[1950年]]([[昭和]]25年)施行。 == 地理 == [[広島湾]]の西の端、[[広島市]]街の南西約20[[キロメートル|km]]に位置する。島は周囲約30km、[[面積]]30.2[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name="Miyajima-geo">[http://www.miyajima-wch.jp/jp/miyajima/01.html 宮島の地理] - 廿日市市</ref>で楕円形の形状をなしている。対岸の[[本州]]([[廿日市市]]阿品~同市大野)に寄り添うように北東から南西に伸びる(島の北東径約9km、南西径約4km)。対岸([[本州]])と島を隔てる[[瀬戸]]は「'''大野瀬戸'''(おおのせと)」と呼ばれ、最も狭い所で300[[メートル|m]]しか離れていない(宮島口港~宮島港間の[[フェリー]]航路は1.8km)。大野瀬戸の反対側(島から南東方向)には、[[絵の島]]、[[大奈佐美島]]、[[能美島]]([[江田島]]等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は[[風化]]によってやや崩落しており、満潮時には「'''蓬莱島'''(ほうらいじま)」と呼ばれる島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。 [[ファイル:Itsukushima-island.png|サムネイル|なし|厳島と周辺の島々]] === 地質 === 島は主に[[花崗岩]]で構成されている。[[中国山地]]の[[断層]]運動によって隆起し、[[最終氷期]]終焉期の海水面上昇(''c.'' [[海水準変動]])によって[[本州]]本島と水域で隔てられた島に変わったと考えられている。平地は少なく[[弥山 (広島県)|弥山]]や駒ヶ林など500m級の急峻な山が連なっていることから、深い谷や滝が多くある。島の東西方向と南北方向に[[断層]]が見られる。 === 弥山の標高 === 島の[[最高峰]]である[[弥山 (広島県)|弥山]](みせん)の[[標高]]値は、[[国土地理院]]発行の[[地形図|2万5千分1地形図]]上では529.8メートルと表記されてきた。これは[[1892年]]設置の二等[[三角点]]の計測値であるが、現在では三角点より南南西方向約16.8メートルの地点の標高がそれよりも高い535メートルであることが確認されている{{r|misen}}。 === 気候 === [[瀬戸内海気候]]に分類され、気候は温暖。夏は30{{℃}}を超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の[[厳島神社]]周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の「弥山おろし」が知られる。これは[[太田川]]の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52602.html |title=宮島物知り図鑑:宮島の地理|publisher=廿日市市|accessdate=2020-9-24}}</ref>。 === 生物相 === ==== 植物相 ==== {{Anchors|植生}}[[植生]]は典型的な暖地[[温帯]][[常緑広葉樹林]]である。ただし、一般的な[[照葉樹林]]とは趣が異なり、例えば南方系の[[ミミズバイ]]([[ハイノキ]]の一種。高地性である)と針葉樹の[[モミ]](西日本の低海抜地域には通常見られない)が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。 [[固有種]]として、[[ミヤジマカエデ]]と[[ミヤジマシモツケ]]がある。ただし、ミヤジマカエデは島に定着自生しているかどうか議論がある。ミヤジマシモツケは対岸にも分布している。 信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物の指定および世界遺産の登録を受けている。 近年{{いつ|date=2019年6月}}、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、[[海藻]]の一種[[アオサ]]が大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は諸説あるが、明らかではない。 ==== 動物相 ==== [[ファイル:Flock of Japanese macaques near Miyajima Ropeway Shishi-iwa station.jpg|thumb|200px|[[ニホンザル]]の群れ/[[広島観光開発|宮島ロープウェー獅子岩駅]]にて撮影。]] [[ファイル:A deer of Itsukushima.jpg|thumb|200px|[[ニホンジカ]]/[[弥山_(広島県)|弥山]]にて撮影。]] [[中国地方]]に一般的に棲息する[[タヌキ]]、[[ニホンアナグマ]]、[[モグラ]]類のほか、100種を超す[[鳥類]]が確認されている。 厳島に棲息する[[シカ]]と[[サル]]は、[[宮島桟橋|フェリー桟橋]]付近にも現れたり、[[マスコット]][[キャラクター]]として図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。 {{See also|宮島の鹿|宮島の猿|鹿猿}} 厳島のシカは、[[第二次世界大戦]]後([[戦後]])に厳島を接収した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の兵士が[[スポーツハンティング]]の対象として撃っていたために激減した{{要出典|date=2013年8月}}。現在島に棲息する鹿は21世紀初期の[[分子遺伝学]]による分析で、広島と山口と近い宮島固有の歴史を持つ鹿であることが{{いつ|date=2019年6月}}証明されている。また、一部で[[奈良]]の[[春日大社]]から譲り受けたという噂があるが、厳島神社の側には譲渡された記録が残っていない。 サルについては、[[江戸時代]]以前には記録がなく、古い[[絵巻物]]でも猿の絵は[[猿回し]]に現れる程度で非常に少ない。そのため、そうは古くない時期に外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、[[1962年]](昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために[[小豆島]]にある[[日本モンキーセンター]]から[[ニホンザル]]45頭が移入されている<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/kodomo/closeup/2010/CK2010022102100004.html] 中日新聞2010年2月21日付</ref>。これに関連して、[[2011年]](平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により[[愛知県]][[犬山市]]へのニホンザルの移送が行われている。 ==== シカの頭数管理問題について ==== シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになった。早くも[[1998年]]には旧[[宮島町]]が「宮島町シカ対策協議会」を設立して、この時点でシカを野生復帰させる方針を決定している。[[2000年]]頃の被害としては「植物の樹皮や新芽がシカにかじられる」「雄のシカが樹齢の若い樹で角をとぐために枯死する」といったものが主であったが<ref>[http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~miyajima/7sikagai/newpage2.htm 宮島のシカの食害/広島大学大学院附属宮島自然植物研究所],2002年。2013年10月20日閲覧</ref>、やがてシカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報じられた<ref>たとえば[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/news/20080620-OYT8T00834.htm 宮島のシカ削減へ 観光客を角で突く、フン害絶えず/読売新聞広島版、2008年6月20日付]。閲覧は[http://blog.goo.ne.jp/nougaku_hiro/e/5bd7e36dc881fb2c7129b22ceea621ec 獣害を裏返せ - gooブログ]より、2013年10月20日閲覧</ref>。被害の原因は議論があり確定的ではない。観光客や住民からの苦情をうけて、地元廿日市市は2008年9月に『[http://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/sumai_machi/nouringyo/documents/miyajima_deer_guidelines.pdf 宮島地域シカ保護管理ガイドライン]』(PDF)を策定し、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施している。 この管理対策により[[2012年]]8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したという<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201208300004.html 宮島シカ、市街地海側で半減/中国新聞2012年8月30日付]、閲覧は[http://www.47news.jp/localnews/hiroshima/2012/08/post_20120830002115.html 宮島シカ、市街地海側で半減/47ニュース]、2013年10月20日閲覧</ref>。市側は餌やり禁止により生息地を分散させる取り組みに一定の成果が出ているとしている。 この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。 <!-- そもそも1日3[[キログラム]]の餌が必要な鹿には人の与える餌では足りない。 餌やり禁止以前は鹿煎餅販売店は一つしかなく、全体の餌量に影響していたとは考えにくい。 現在も市街地への依存が強い鹿も、夜は山に帰り、普段から自分で餌を採取している。 廿日市市は餌やり禁止当初に芝生を造成し、鹿が飢えないようにサポートしたが、逆に個体数増加が考えられるので、今は増やしていないなど、対応が必ずしも一貫していない。 また、市では餓死した個体は発見されていないとしているが、より学術的な検証は必要であろう。そもそも、純然たる野生状態においても春先には飢えによる衰弱死は確認されるのであり、仮に餓死した個体が発見されたとしても評価には議論が必要である。餌やり禁止以降も個体数、繁殖率共に高い数字を維持し、全国のニホンジカの平均寿命を上回る 9歳、10歳での出産が多く見られることが報告されている。 頭数管理の方法として避妊を求める声があるが、鹿自身への悪影響や避妊去勢により、分泌物が変化した場合の島の植物への悪影響が考えられ、専門家は否定的である。また、もう一つの保護地域の奈良も、野生動物への避妊は効果が見込めないとしている。 現在も餌やりの即時全面中止の方針に反対するボランティアが入島して餌やりを続けている<ref group="*">ウェブサイトやブログ等、ネットで餌やりを公言している団体だけでもNPO法人[[アニマルライツセンター]]、日本動物愛護協会、岡山動物愛護会、宮島の鹿愛護会など多数ある。</ref>など、問題は依然として継続しており、より学術的な調査と論点整理を踏まえた根本的解決を模索する動きが続けられている。 --> ==== 固有種 ==== [[昆虫]]の[[固有種]]として、[[ミヤジマトンボ]] {{Snamei|Orthetrum poecilops miyajimaenisis}} (Yuki and Doi, 1938) があり、国の[[絶滅危惧種]]に指定されている(2007年版では「絶滅危惧I類(CR+EN)」。[[昆虫類レッドリスト (環境省)]]を参照)。これは[[中国大陸]]南部に分布する[[シオカラトンボ]]属の {{Snamei|en|Orthetrum poecilops|O. poecilops}} (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/setouti/seto/11/971108.html 希少 中国南部が原産/ミヤジマトンボ] 中国新聞1997年11月8日付。2011年11月23日閲覧</ref>。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201109160028.html ミヤジマトンボ生息地を調査] 中国新聞2011年9月16日付。2011年11月23日閲覧</ref>。 == 歴史 == 厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・[[民俗史]]については依然として未解明の部分も多い。 === 先史時代 === [[本州]]に人が住み始めた[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている<ref name="Araki_2005">荒木亮司・三枝健二「宮島町下室浜遺跡のナイフ形石器」『研究紀要』第5集(2005) 広島県立歴史民俗資料館</ref>。[[広島大学]]による[[考古学]]的調査(2004年〈平成16年〉)では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、[[縄文時代|縄文]]から[[弥生時代]]の[[土器]]や[[石器]]が数多く発見されている<ref name="Furuse_2006">{{cite journal|和書|author=古瀬清秀, 加藤徹, 今井千佳子 |title=厳島における考古学的踏査とその検討(1) |journal=内海文化研究紀要 |ISSN=03863182 |publisher=広島大学文学部附属内海文化研究施設 |date=2006 |issue=34 |pages=1-22 |id={{CRID|1520853833797331200}}}}</ref>ほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。 厳島は[[縄文海進]]がピークに達した頃に独立した島になったとみられる。それ以前の遺物として赤石{{r|Furuse_2006}}や大川浦<ref name="Furuse_2007">{{cite journal|和書|author=古瀬清秀, 加藤徹, 竹広文明, 脇山佳奈, 荒木亮司 |date=2007-03 |url=https://doi.org/10.15027/25393 |title=厳島における考古学的踏査とその検討(2) : 大川浦遺跡に関する考古学的検討 |journal=内海文化研究紀要 |ISSN=03863182 |publisher=広島大学大学院文学研究科附属内海文化研究施設 |volume=35 |pages=1-54 |doi=10.15027/25393 |id={{CRID|1390290699831241984}}}}</ref>において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜<ref>中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(2)-宮島町上室浜遺跡採集の石鏃について」『内海文化研究紀要』第24号(1995) 広島大学文学部内海文化研究施設</ref>や大川浦、御床浦{{r|Furuse_2006}}において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。 [[弥山_(広島県)|弥山]]山頂一帯に見られる巨石群は[[磐座]]とみられる。磐座を祭祀対象とする[[山岳信仰]]の開始は一般に古墳時代以降とされる<ref>時枝務『山岳霊場の考古学的研究』 株式会社雄山閣 2018</ref>。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡<ref>河瀬正利「広島県佐伯郡廿日市町地御前南遺跡出土の遺物について」『[https://sitereports.nabunken.go.jp/108319 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報VII]』(1984) 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室</ref>など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない<ref group="*">わずかに大川浦から「石棒の可能性が想定される」片岩製の石製品2点が採集されているが、いずれも破片であり、明確に石棒と言えるものではない。また、片岩製の粗製石棒は西日本の縄文晩期末~弥生前期初頭の遺跡に普遍的に見られ、厳島信仰の存在を示す特異な遺物とは言えない。</ref>。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。 === 古代・中古 === 上述の上室浜や下室浜などから[[古墳時代]]後期の[[製塩]]土器が見つかっている<ref>中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(1)」『内海文化研究紀要』第23号(1994) 広島大学文学部内海文化研究施設</ref>{{r|Furuse_2006}}ほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており{{r|Furuse_2006|Furuse_2007}}、盛んに塩作りが行われていた事が窺える。大川浦からは[[10世紀]]から[[12世紀]]のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは[[古代]][[祭|祭祀]]の場である可能性を指摘している{{r|Furuse_2007}}。下室浜からも、[[古墳時代]]の[[祭祀]]に用いられたとみられる[[滑石]]製[[勾玉]]が採集されている{{r|Araki_2005}}<ref>[http://home.hiroshima-u.ac.jp/miyajima/pdf/Newsletter6_2005.pdf#search=%27%E8%8D%92%E6%9C%A8%E4%BA%AE%E5%8F%B8+%E5%8B%BE%E7%8E%89%27 荒木亮司「下室浜採集の遺物について」『宮島自然植物実験所ニュースレター』第6号(2005) 広島大学大学院理学研究科付属宮島自然植物実験所]</ref>。 弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、[[古墳時代]]末から[[奈良時代]]にかけての[[須恵器]]や[[土師器]]、[[瑪瑙]]製[[勾玉]]、[[鉄鏃]]などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の[[斎場]]に神を招き降ろす[[祭祀]]が行なわれた[[磐座]]に比定する説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=妹尾周三 |year=2012 |title=安芸、厳島における新発見の祭祀遺跡 : 弥山の中腹で発見された岩塊群の検討 |journal=Museum |ISSN=00274003 |publisher=東京国立博物館 |issue=639 |pages=5-21 |id={{CRID|1522262180723700736}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/024091296}}</ref>。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺([[大聖院_(宮島)|大聖院]]の前身)は従来[[鎌倉時代]]に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある<ref>妹尾周三「安芸厳島(伊都岐島)弥山水精寺の創建について」『佛教藝術』第304号(2009) 毎日新聞社</ref>。 [[平安時代]]には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた[[歌枕]]の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。 {{Quotation|{{ruby|入り海|いりうみ}}の {{ruby|二十浦|はたうら}}かけて{{ruby|十島|としま}}なる {{ruby|中|なか}}に{{ruby|香|か}}{{ruby|深|ふか}}き{{ruby|島|しま}}は{{ruby|七浦|ななうら}}  ── [[小野篁]]}} {{Quotation|{{ruby|恩賀島|たぐひなきしま}}の{{ruby|姿|すがた}}は{{ruby|自|おの}}ずから {{ruby|蓬の山|よもぎのやま}}も{{ruby|此処|ここ}}にありけり  ── [[在原業平]]}} 伝承では[[推古天皇]]元年({{small|[[西暦]]換算〈以下同様〉}}:[[593年]])、[[豪族]][[佐伯鞍職]]が[[イチキシマヒメ]]の[[神託]]によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は[[佐伯直]]の出で[[伴造]]として[[安芸国]]佐伯郡を管掌しており、後に[[厳島神主家]]となった。文献上の初出は[[弘仁]]2年([[811年]])に名神に預かったという記事であり、『[[延喜式神名帳]]』(平安中期)において[[名神大社]]に列せられた。 厳島神社が現在の威容を構築したのは[[平氏]]一門の後ろ盾を得た[[平安時代]]末期である。 [[ファイル:Heikenoukyou.jpg|サムネイル|『平家納経』 厳島神社所蔵]] [[久安]]2年([[1146年]])、[[安芸国#国司|安芸守]]に任ぜられた[[平清盛]]は、父・[[平忠盛]]の事業を受け継いで[[高野山]]大塔の再建をすすめていたが、[[保元]]6年([[1156年]])の[[落慶|落慶法要]]に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。[[平治の乱]]で[[源頼朝]]が捕らえられ、清盛は[[正三位]]に列せられると、さっそく厳島神社を[[寝殿造]]の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、[[仁治]]2年([[1241年]])の造営による(現在の本社社殿は[[元亀]]2年〈[[1571年]]〉、[[毛利元就]]の再建によるもの)<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝 28(厳島神社)』(朝日新聞社、1997)、pp.'''2''', 231</ref>。さらに[[四天王寺]]から[[舞楽]]を移し入れ、また多くの[[甲冑]]や[[刀剣]]などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した[[平家納経]](国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。 清盛の大きな狙いは[[日宋貿易]]にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。[[博多]]の湊(日本最初の人工港)や[[大輪田泊]](平氏政権の拠点・[[摂津国]]福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。[[呉市]]の[[倉橋島]]と本州の間にある[[音戸の瀬戸]]は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。 清盛の庇護によって[[京都|京]]の雅な文化が移入され、[[後白河天皇|後白河上皇]]・[[高倉天皇|高倉上皇]]・[[建春門院]]・[[建礼門院]]ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、[[宋_(王朝)|宋]]の文物ももたらされた。清盛は宋船による[[厳島参詣]]も行っている。 1990~1991年に[[発掘調査]]が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、[[12世紀]]後半の[[土層 (考古学)|土層]]から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている<ref>『菩提院遺跡発掘調査報告 - 宮島町立歴史民俗資料館収蔵庫建設に伴う発掘調査の記録』(2005) 宮島町教育委員会</ref>。{{要出典範囲|date=2015年6月|この頃には島をご神体とする信仰が広がっており、祭祀のために滞在する神職や貴族がいた他は島に住む者はいなかった。}} 厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾[[経塚]](清盛塚)からは、[[1944年]](昭和19年)に開墾された際に銅製[[経筒]]と陶製甕の外容器、経巻、[[青白磁]][[合子]]、古鏡、刀片、[[青磁]]片などの遺物が出土したほか、研究者による踏査でも[[青白磁]][[合子]]や[[白磁]]小壺、中世[[須恵器]]甕などの破片が採集されており、[[12世紀]]前半以降に埋納された経塚とみられている<ref>『台風被災復興支援 厳島神社国宝展』(2005) 奈良国立博物館</ref><ref>村上勇・西尾克己「中国地域の経塚出土陶磁-貿易陶磁の出土状況と様相について-」『貿易陶磁研究 第24号』(2004) 日本貿易陶磁研究会</ref>。 === 中世 === 1185年の[[壇ノ浦の戦い]]をもって[[平氏]]が滅んだのち、[[鎌倉時代]]に入ると、厳島神社ははじめ[[源氏]]の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]側に属したために争いの後に神主家の座を奪われ、代わって[[御家人]]の[[藤原親実]]が[[厳島神主家]]となった。厳島神社は[[承元]]元年([[1207年]])と[[貞応]]2年([[1223年]])に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけては荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣者は絶えず、例えば[[出家]]して旅路にあった[[後深草院二条]]は[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[1302年]])に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「[[とはずがたり]]」に書き留めている。 [[正安]]2年([[1300年]])に水精寺の座主坊が対岸の[[地御前神社]](厳島神社の境外[[摂末社|摂社]])から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。[[天文_(元号)|天文]]7年([[1538年]])には厳島[[大願寺_(廿日市市)|大願寺]]の僧[[尊海]]が、[[経典#漢訳経典|一切経]]([[高麗八万大蔵経]])を求めて[[朝鮮半島]]に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った<!--重文指定は一双でなく一隻-->八曲屏風「[[瀟湘八景|瀟湘八景図]]」の裏面に漢文による紀行文「尊海渡海日記」(大願寺所有、国の[[重要文化財]]<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9604 国指定文化財等データベース:紙本墨書尊海渡海日記][[文化庁]].2020年9月24日閲覧</ref>)を遺している。これは日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は[[中期朝鮮語]]研究の貴重な史料となっている<ref>{{cite journal|author=辻星児|url=http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/10976|title=『尊海渡海日記』に記された朝鮮語について|DOI=10.18926/10976|journal=文化共生学研究 |volume=5 |issue=1 |pages=71-84|year=2007|publisher=[[岡山大学]]院文化科学研究科|accessdate=2023-06-19}}</ref>。 [[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に入ると、[[安芸国|安芸]]を本拠に勢力を伸ばしていた[[毛利氏]]と、衰退しつつこそあったものの[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]を領有していた[[大内氏]]が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされた。[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、[[毛利元就]]は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる[[陶晴賢]]を討ち、戦国大名としての躍進のきっかけとなった([[厳島の戦い]]を参照)。以後[[毛利氏]]は中国地方10か国に加え[[豊前国|豊前]]・[[伊予国|伊予]]をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理([[元亀]]2年〈[[1571年]]〉)によるところも大きい。 [[ファイル:Battle of Miyajima-2.jpg|中央|サムネイル|1000x1000ピクセル|「藝備義兵防長攻逆勢圖」[[歌川貞秀|玉蘭斎貞秀]]画]] [[ファイル:Senjyou-kaku - Toyokuni shrine , 千畳閣 豊國神社 - panoramio.jpg|サムネイル|千畳閣]] [[天正]]15年([[1587年]])、すでに[[関白]][[太政大臣]]となっていた[[豊臣秀吉]]は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・[[安国寺恵瓊]]に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが窺える。秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成の形で今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「[[千畳閣]]」と通称され、[[明治]]初期の[[廃仏毀釈]]の際には厳島神社末社豊国神社本殿となり現在に至る。 西暦[[1595年]](日本は[[文禄]]4年)に現[[ベルギー]]の[[アントウェルペン]](アントワープ。当時は[[スペイン]]領[[南ネーデルラント]])で刊行された、[[ヨーロッパ]]最初の日本地図とされる「[[ルイス・テイセラ|テイセラ]]の日本図」<ref>{{Cite web|和書|url=http://kicho.lib.agu.ac.jp/4DACTION/Web_Meisai?kubun=8&seq=3|publisher=愛知学院大学|title=テイセラ日本図|quote=正確には、[[アブラハム・オルテリウス]]がテイセラの原図を基に「世界の舞台」1595年版に収録したもの。|accessdate=2020-9-24}}</ref>には、厳島が'''Itoqulchima'''として記されている。この地図には[[令制国]]名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。 考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している<ref>『祝師屋敷跡発掘調査報告書』(1995) 祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団</ref>。 === 近世 === [[ファイル:誓真釣井 Seishin-Tsurui Wall - panoramio.jpg|サムネイル|誓真釣井]] [[江戸時代]]、厳島は[[広島藩]]に4か所ある町制([[広島市|広島城下]]・[[三原市|三原城下]]・[[尾道市|尾道]]・'''厳島''')の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは[[厳島神社]]・[[大聖院_(宮島)|大聖院]]・[[大願寺_(廿日市市)|大願寺]]の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および[[安芸国]]の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが窺える。 厳島では平清盛以来[[舞楽]]の伝統があったところへ、毛利元就が[[永禄]]6年([[1563年]])に[[能]]を奉納したのを皮切りに[[観世流|観世太夫]]が演じる(永禄11年〈[[1568年]]〉)など芸能が発展した。[[歌舞伎]]や[[大相撲]]の興行も盛んで、[[井原西鶴]]の『[[浮世草子]]』には'''西国三大芝居どころ'''として[[旧金毘羅大芝居|金比羅]]・[[備中国|備中]]宮内([[吉備津神社]])と並び称されている。[[富くじ]]も盛んに催された。 参拝客や文化人相手の観光商売が水もので、島に産業がないことを町衆が嘆いているのを知った宮島光明院の僧[[誓真]]は、弁財天の琵琶に着想を得て[[しゃもじ]]を名物として売り出すことを町衆に教えた。願掛けの文字を入れたしゃもじ(杓子)はたちまち土産品として人気が出た。現在でもしゃもじの別名を「みやじま」と呼んで、[[日本の高校野球|高校野球]]では[[広島県]]代表がしゃもじで応援するのが定番となるほど定着している。誓真は水不足に悩む町衆のために井戸を掘ったり(「誓真釣井」)、小舟を着けられるよう[[雁木_(港湾)|雁木]]を造ったりと厳島のために尽くし、「宮島の大恩人」として慕われた。光明院の近くには「誓真大徳碑」が今も残っている。 === 幕末 === [[尊皇攘夷]]・[[公武合体]]を掲げる[[長州藩]]と[[徳川幕府]]の対立が頂点に達し、[[長州征討]]において厳島対岸も戦場となった。[[慶応]]2年[[8月 (旧暦)|8月]]([[1866年]]9月頃<ref group="*">[[旧暦]]([[和暦]])の慶応2年8月1日と8月30日(同月最終日)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])では1866年9月9日と10月8日。</ref>)、第二次[[長州征討]]の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は[[勝海舟]]、長州藩代表は[[広沢真臣]]と[[井上馨]]。桂小五郎([[木戸孝允]])も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。 === 近代 === [[ファイル:NDL-DC 1312720-Toyohara Chikanobu-日本三景之内安芸厳島之図-明治1 -cmb.jpg|サムネイル|『日本三景之内安芸厳島之図』楊洲周延画 [[明治]]元年([[1868年]])]] [[慶応]]4年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]から[[明治元年]][[10月18日 (旧暦)|10月18日]]([[1868年]]の[[4月5日]]から[[12月1日]])にかけて[[神仏分離令]]が発布されると、民衆を巻き込んだ[[廃仏毀釈]]運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて[[廃寺]]となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。 [[1876年]]([[明治]]8年)、老朽化していた海上の[[#厳島神社大鳥居|厳島神社の大鳥居]]が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居である。 初代[[内閣総理大臣]]・[[伊藤博文]]は厳島の[[弥山 (広島県)|弥山]][[三鬼大権現]]を厚く信奉しており、厳島をたびたび訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるものである。また、大願寺境内には「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する[[土産菓子]]となった[[もみじ饅頭]]の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかった逸話を基に発案された」という説が広く流布している。詳しくは別項「[[もみじ饅頭]]」を参照のこと。 島の東沖合いにある[[江田島]]に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。 [[ファイル:Torii ca 1900.jpg|サムネイル|厳島神社大鳥居 1900年ごろ]] [[1889年]](明治22年)、[[佐伯郡]]で[[町村制]]が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町([[宮島町]]の前身)が発足する。 [[1897年]](明治30年)8月、[[広島湾要塞]]の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌[[1898年]](明治31年)、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは[[1926年]]([[大正]]15年)に廃止<ref>[[土木学会]]『日本の近代土木遺産』2005年版p220-221(土木学会出版)</ref>されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。 [[1923年]](大正12年)、厳島は国の[[史跡]][[名勝]]に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。 [[ファイル:KITLV A959 - Itsukushima jinja (midden), de shinto-schrijn op Itsukushima, een eiland bij Hatsukaichi in Japan, KITLV 107992.tiff|サムネイル|厳島神社とその周辺 [[1930年代の日本|1930年代]]ごろ]] [[第二次世界大戦]]中には、厳島の南沖合いの[[柱島]]沖が[[聯合艦隊]]の泊地となり([[柱島泊地]])、[[呉海軍工廠|海軍工廠]]を持つ[[呉市]]や、[[第2総軍 (日本軍)|第2総軍]]・陸軍[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]司令部が置かれた重要拠点・[[広島市]]の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。 [[1936年]]([[昭和]]11年)、日独合作映画『[[新しき土]]』の撮影が行われた。 [[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下]]では、爆風によって島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。 === 現代 === 日本の敗戦と共に、厳島は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍・[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に接収された。占領後の[[1954年]](昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中の[[マリリン・モンロー]]と[[ジョー・ディマジオ]]の夫妻が厳島を訪問している。 [[1950年]](昭和25年)には、厳島全体が[[瀬戸内海国立公園]]の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「[[宮島町]]」に改称した。[[1952年]](昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。[[1959年]](昭和34年)には広島県立水産資源研究所(現・[[宮島水族館]])がオープンした。 [[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて、厳島周辺の海域の水質悪化はピークを迎えた。[[海上保安庁]]は、直径30㎝の白い円盤を海に沈めて透明度を測定していたが、1969年の厳島付近の調査ではわずか20cmで円盤が見えなくなるという、日本屈指の汚染状態となっていた。汚染源は、[[工場排水]]や[[海洋投入|し尿投棄]]によるものであった<ref>「広がる海の公害 特にひどい宮島 汚染、四年前の十倍」『中國新聞』昭和45年1月4日 15面</ref>。 [[1991年]]([[平成]]3年)[[9月27日]]に襲来した[[平成3年台風第19号|台風19号]]では、厳島神社左楽房(国宝の附指定)や能舞台(重要文化財)が倒壊するなど甚大な被害が出た。 [[1996年]](平成8年)には、厳島神社が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[世界遺産]]([[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]])に登録された。[[日本の世界遺産]]としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に[[原爆ドーム]]も(5件目として)登録されている。 [[ファイル:Secretary Kerry Poses for a Photo With His Counterparts (25742344763).jpg|thumb|250px|2016年G7広島外務大臣会合の際の厳島神社訪問]] 台風による被害は[[2004年]](平成16年)の[[平成16年台風第18号|台風18号]]も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めた[[ヴェネツィア]]([[イタリア]])などと同じく[[地球温暖化]]による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。 [[2005年]](平成17年)[[11月3日]]、[[宮島町]]は[[大野町 (広島県)|大野町]]とともに[[廿日市市]]に[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]される。これに伴い、厳島神社の住所([[社務所]]所在地住所)は「[[佐伯郡]]宮島町1-1」から「廿日市市宮島町1-1」に変わった。 [[2016年]](平成28年)のG7伊勢志摩サミット([[第42回先進国首脳会議]])に伴う広島外務大臣会合の際は、初日にG7の[[外務大臣]]が揃って厳島神社を訪問した。 [[2023年]]([[令和]]5年)、G7広島サミット([[第49回先進国首脳会議]])においては、各国首脳が厳島神社を訪れ、その後「[[岩惣]]」に移動してセッション3「外交・安全保障」をワーキングディナー形式で実施した。 {{Clear}} == 風習 == 厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に[[陶氏]]・[[毛利氏]]の御師として精神面を支え、[[大内氏]]から「社奉行」に任じられた[[厳島神主家]]の[[棚守房顕]]が[[天正]]8年([[1580年]])に記した『[[棚守房顕覚書]]』には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い<ref group="*">『棚守房顕覚書』は、説明を付して[[1975年]](昭和50年)に宮島町から出版されている。</ref>。 === 穢れの忌避 === {{Anchors|ケガレの忌避}} 島全体が神域([[神体]])とされたため、[[血]]や[[死]]といった[[穢れ]]の忌避は顕著であった。 『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR[[宮島口駅]]のやや西にあり、遺族は[[喪]]が明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「[[あの世]]」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は[[第二次世界大戦]]頃までは続いていた。また、島には[[墓地]]も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、[[出産]]が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外[[摂末社|摂社]]を「[[地御前神社]]」(所在地:[[廿日市市]]地御前、[[江戸時代]]における[[安芸国]][[佐伯郡]][[地御前村]])というように、ここでいう「地の方」とは対岸の[[本州]]を指す。また、[[月経|生理]]中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。 === 耕作・機織の禁止 === {{Anchors|耕作・機織りの禁止}} [[鉄]]の[[農具]]を土に立てることを[[禁忌|忌み]]、[[耕作]]は禁じられた。また、この島は「女神の御[[神体]]内」とされたことから、女性の仕事の象徴とみなされていた[[機織]]や布[[晒]](ぬのさらし)も禁忌とされていた([[山の神]]』を参照)。『棚守房顕覚書』は「絶えて[[五穀]]を作らず、布織り布さらす事を禁ず」と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸から[[行商人]]が船を出す光景は[[第二次世界大戦]]後まで続いた。[[廿日市市|廿日市]]の町は[[鎌倉時代]]、厳島神社の祭礼最終日(毎月20日)に立った[[市場]]から発展した町である。 === 鹿・猿との共生 === [[ファイル:芸州厳島図会 塔岡楊枝店.jpg|サムネイル|『芸州厳島図会 塔岡楊枝店』 [[天保]]13年([[1842年]]) 現在の塔の岡。五重塔、千畳閣近辺。]] {{Anchors|シカ・サルとの共生}} 厳島に棲息する[[ニホンジカ]]は太古から棲息していたと見られるが、[[歴史時代]]に入ると[[奈良]]の[[春日大社]]にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、[[神使]]として大切に扱われるようになった。それ以来、厳島では、鹿が家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えるようになった。『棚守房顕覚書』によると、鹿を害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸に放したという。 厳島に棲息する[[ニホンザル]]は古くから、彼らが家に入り込んで食べ物を盗っていっても捕まえて罰することはなかったという。 === 潮汲み === 町の[[商家]]や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。[[元旦]]に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。[[第二次世界大戦]]後は数人が行うのみにまで減っていたが、21世紀初期には見直されるようになり、行う家や店が増えつつある。 == 文化・施設・観光 == 毎年[[8月11日]]には[[宮島水中花火大会]]が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。 島内には厳島神社以外にも[[大聖院 (宮島)|大聖院]]をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、[[宮島水族館]]、[[宮島歴史民俗資料館]]、[[広島大学]][[大学院]]理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。 国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人台([[2009年]]〈平成21年〉の船舶運輸実績〈片道〉は約346万人<ref>[http://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/shisei/toukei/documents/2010h.pdf 廿日市市統計書(2010年版)H.運輸・通信]</ref>)。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。 [[弥山 (広島県)|弥山]]などへの[[登山]]者も多いが、島には信仰上の理由や文化財・自然保護のために開発されなかった[[原生林]]が広がっており、登山道から迷い込むなどする遭難がたびたび発生する<ref name="東京新聞_20180126">宮島で遭難相次ぐ/広島・本年度29件救助/ルート外は深い原生林『[[東京新聞]]』朝刊2018年1月26日(特報面)</ref>。そのため、島を所管する[[広島県警察]][[廿日市警察署]]と宮島[[消防署]]が十分な装備での入山など注意喚起をしている{{r|東京新聞_20180126}}。 [[2007年]](平成19年)から、毎年1回、[[廿日市]][[商工会議所]]主催の[[ご当地検定]]である「宮島検定」が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される<ref>[http://www.cci201.or.jp/mk/top.htm 宮島検定(廿日市商工会議所)]</ref>。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した『宮島本』(※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる)を発行している。 === 宮島訪問税 === 厳島が観光地として発展するにつれて地元行政の負担も増大してきたことから、[[2023年]](令和5年)10月1日より、廿日市市が[[法定外普通税]]として「宮島訪問税」を課すこととなった<ref name="itsukushima"/><ref name="税概要">[https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/110/59551.html 宮島訪問税の概要] 廿日市市、2023年7月11日(2023年9月2日閲覧)。</ref>。 来訪者に負担を求める法定外普通税・[[法定外目的税]]は先行していくつか存在するが、宮島訪問税は原因者負担の考え方により設計され<ref name="税概要" />、宮島住民などを課税対象から除外していることに特徴がある<ref name="税概要" /><ref>{{PDFLink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000758653.pdf 「宮島訪問税」制度の概要]}} 総務省、2023年9月2日閲覧。</ref>。 課税対象は船舶により宮島に入る行為であるが、上述のように宮島住民や宮島への通勤・通学者は課税対象外となり、未就学児・[[修学旅行]]などの学校行事による団体訪問・障がい者については課税免除とされる<ref name="税概要" />。 税率は「1人1回100円」と「1人1年間で500円」の選択制であり、フェリーを利用して宮島を訪問する場合は、(課税対象外・課税免除に該当せず、後者の方法により納税済みでもない場合)1回分の税金がフェリー運賃とともに[[特別徴収]]される。なお、[[青春18きっぷ]]など、宮島航路を含みつつも広域で販売されるフリーきっぷでは、宮島訪問税を含まずに販売される場合があり、そのような乗車券を利用して宮島航路に乗船する場合は、別途で訪問税分のみのきっぷを購入する形となる<ref>[https://trafficnews.jp/post/127857 青春18きっぷのみで乗船不可に「宮島フェリー」 ICOCA導入の一方で改札方式も変更] 乗りものニュース、2023年8月30日(2023年9月2日閲覧)。</ref>。 == 交通アクセス == [[ファイル:Miyajima.jpg|thumb|250px|<center>島内の家並</center>]] === 鉄道 === 最寄り駅は[[西日本旅客鉄道|JR]][[山陽本線 (広島地区)|山陽本線]]の[[宮島口駅]]と[[広島電鉄宮島線]]の[[広電宮島口駅]]。駅前にある桟橋からフェリーが運行している。 === 車 === 一部の宿が宿泊者専用の駐車場を備えているのを除き、島内に観光客用の駐車場は存在せず、町内の道幅も極めて狭い。また市街地は20[[キロメートル毎時|km/h]]、少し内陸にあるうぐいす歩道と杉の浦、包ヶ浦は30km/hの[[速度制限]]がかかっている。さらに商店街は毎日10時30分から17時まで車両の通行が禁止される<ref name="M-access">[http://www.miyajima-wch.jp/jp/access/01.html 宮島 アクセス]</ref>。そのため[[広島市]]街地からは[[西広島バイパス]]、[[山陽自動車道]]からは[[廿日市インターチェンジ|廿日市IC]]をそれぞれ経由して[[国道2号]]に入り、宮島口駅周辺の有料駐車場で下車、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。 === 船 === [[ファイル:Miyajima and coast.png|サムネイル|259x259ピクセル|宮島口駅(対岸)と宮島フェリーターミナル]] [[JR西日本宮島フェリー]]([[宮島連絡船]])と[[宮島松大汽船]]の[[フェリー]]が、宮島口桟橋(JR[[宮島口駅]]から徒歩3分、[[広電宮島口駅]]から徒歩1分)から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は[[宮島桟橋]]行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。 [[広島港]]からは[[瀬戸内シーライン]]の[[高速船]](所要約30分)があるほか、[[瀬戸内海汽船]]の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。 [[アクアネット広島]]は、厳島神社と同様に世界遺産である[[原爆ドーム]]と合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の[[広島平和記念公園|平和記念公園]]近くの[[元安桟橋]]と厳島を結ぶ「世界遺産航路」を就航している。また、[[マリーナホップ]]と宮島の間に高速船を就航している。大野桟橋<ref name="aqua-net-h">{{Cite web|和書|url=http://www.aqua-net-h.co.jp/ohno/|title=宮島行大鳥居遊覧航路 |publisher=アクアネット広島|accessdate=2015-6-19}}</ref>と[[宮島桟橋|宮島港3号桟橋]]間の「宮島行大鳥居遊覧航路」は不定期運航である。 === 島内交通 === [[ファイル:Miyajima Ropeway (13890461069).jpg|サムネイル|宮島ロープウェイ]] ;海岸地区 島内ではかつて[[広電バス]]が運行されていたが廃止されてからは、[[宮島交通]]が「メイプルライナー」をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - [[宮島水族館]]間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある<ref>http://www.miyajima.or.jp/timetable/newryoukin2.pdf</ref>。2012年に[[宮島交通]]は「メイプルライナー」を[[カープタクシー]]傘下の[[宮島カープタクシー]]に譲渡した。 公共交通でないものでは、[[人力車]]がある{{r|M-access}}。 ;島の内部 [[広島観光開発]]が紅葉谷駅から[[弥山 (広島県)|弥山]]山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している<ref>[http://miyajima-ropeway.info/ropeway/access.html 交通アクセス] - 宮島ロープウェイ</ref>。 {{Clear}} == 関連作品 == === 美術 === [[ファイル:厳島八景之図 谷原麋鹿.jpg|サムネイル|『厳島八景之図 谷原麋鹿』 19世紀 [[岳亭一麿]]画]] 「[[厳島神社#描かれた厳島神社]]」は、厳島神社がどのように描かれてきたかを紐解く内容であって、安芸の宮島(厳島)を対象としていないが、そもそも画題としての厳島神社と安芸の宮島は多分に重複している。[[絵画]]作品において、厳島神社関連を外して安芸の宮島を描いたものも無いわけではないが、特筆性の高いものを見出すのは難しい。 === 音楽 === {{Anchors|楽曲|唱歌|鉄道唱歌}}『[[鉄道唱歌]]』は日本の[[鉄道]]沿線の素晴らしさを[[七五調]]で詠い込んだ長大な[[唱歌]]で、[[大和田建樹]]が[[作詞]]を手がけたものであるが、その「第2集 山陽九州編」は、[[山陽本線]]がまだ全通していない[[1900年]](明治33年)[[9月3日]]に刊行された。歴史的意義の大きい場所には1節でなく幾つかの節を割り振る傾向のあった大和田のこと、厳島を詠うのには4節も使っている。 {{Quotation| * 山陽九州編19番 {{ruby|己斐の松原|こいのまつばら}} {{ruby|五日市|いつかいち}} いつしか過ぎて{{ruby|厳島|いつくしま}} {{ruby|鳥居|とりい}}を前にながめやる {{ruby|宮島駅|みやじまえき}}につきにけり * 山陽九州編20番 {{ruby|[[汽笛]]|きてき}}ならして客を待つ {{ruby|[[汽船]]|きせん}}に乗れば十五分 早くもここぞ{{ruby|[[イチキシマヒメ|市杵島]]|いちきしま}} {{ruby|姫|ひめ}}のまします{{ruby|宮|みや}}どころ * 山陽九州編21番 海にいでたる{{ruby|廻廊|かいろう}}の 板を浮かべてさす{{ruby|汐|しお}}に うつる{{ruby|燈籠|とうろ}}の火の影は 星か{{ruby|蛍|ほたる}}か{{ruby|漁火|いさりび}}か * 山陽九州編22番 {{ruby|[[毛利元就]]|もうり もとなり}}この島に 城をかまえて君の{{ruby|敵|あだ}} {{ruby|[[陶晴賢]]|すえ はるかた}}を{{ruby|誅|ちゅう}}せしは のこす{{ruby|武臣|ぶしん}}の{{ruby|鑑|かがみ}}なり }} 19番の「己斐の松原」は現在の[[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]旧[[己斐町]]地区(当時の[[佐伯郡]]己斐村)の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった[[松原]]で、しかしその松は[[1967年]](昭和42年)頃に全て[[伐採]]されてしまった。「五日市」は現在の広島市[[佐伯区]]旧[[五日市町 (広島県)|五日市町]]地区(当時の佐伯郡五日市村)。「宮島駅」は[[山陽本線]]の駅で、当時の[[山陽鉄道]]宮島駅、のちの[[日本国有鉄道]](国鉄)宮島駅、現在の[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[宮島口駅]]。20番の「市杵島姫のまします宮どころ」は、女神・市杵島姫({{small|[[イチキシマヒメ|いちきしまひめ]]}})のいらっしゃる宮所/宮処(意:神の鎮座する所)、すなわち、厳島神社もしくは宮島(厳島)を指す。22番は、[[天文 (元号)|天文]]24年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]([[1555年]][[10月16日]])に起きた[[厳島の戦い]]について歌っている。 === 映画 === * [[弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻]](1921年) - 宮島を舞台にした場面に、厳島神社・五重塔・鹿・その他のものが登場。 * [[地獄門]](1953年) - 厳島神社が登場。 * [[太陽、海を染めるとき]](1961年) - 宮島ロープウエーなどが登場。 * [[フランケンシュタイン対地底怪獣]](1965年) * [[夜霧の慕情]](1966年) * [[トラック野郎・爆走一番星]](1975年) == 出身人物・ゆかりのある人物 == * [[豊嶋弥左衛門]] - 能楽師 * [[吉田豊作]] - 俳優 * [[石原光子]] - 衆議院議員[[石原慎太郎]]の母 * [[向井久子]] - バレーボール選手 == 人口・世帯数 == 2023年11月1日時点の宮島町の人口は1417人、世帯数は785世帯<ref>[https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/soshiki/126/10971.html 住民基本台帳人口(最新)] 廿日市市 2023年12月9日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=*}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考資料 == {{節スタブ}} * [http://www.rcc.net/prewar-film/pref_hiroshima_content.htm ひろしま戦前の風景] - 中国放送(RCC)。戦前の映像がある。 * {{Cite book|和書|author=祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団 |title=祝師屋敷跡発掘調査報告書 |publisher=祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団 |year=1995 |NCID=BA50705715 |id={{全国書誌番号|20039225}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000002866285 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat}} {{Wikivoyage|ja:宮島|宮島}} * [[日本三大一覧]] ** [[日本三景]] * [[宮尾城]] * [[大聖院 (宮島)]] * [[宮島郵便局]] * [[宮島サービスエリア]] * [[広島観光開発]] * [[厳島港]] * [[紅葉谷川庭園砂防施設]] * [[日本の秘境100選]] * [[中国地方の史跡一覧]] * [[日本の特別名勝一覧]] * [[厳島 (防護巡洋艦)]] - [[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]。[[松島型防護巡洋艦]]の2番艦。艦名は本島にちなむ。 * [[広島ドラゴンフライズ]] - プロバスケットボールチーム。チームのデザインに厳島関連のものが使われている。 == 外部リンク == * {{国指定文化財等データベース|401|2315|厳島}} * [https://www.miyajima.or.jp/index.php 社団法人宮島観光協会] * [https://www.aqua-net-h.co.jp/ アクアネット広島(世界遺産航路・宮島大野航路を運航)] {{日本三景}} {{日本のラムサール条約登録湿地}} {{重要伝統的建造物群保存地区}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:いつくしま}} [[Category:厳島 (広島県)|*]] [[Category:瀬戸内海国立公園]] [[Category:広島湾]] [[Category:広島県の島]] [[Category:広島県の自然景勝地]] [[Category:特別名勝]] [[Category:広島県にある国指定の名勝]] [[Category:特別史跡]] [[Category:広島県にある国指定の史跡]] [[Category:廿日市市の歴史]] 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松島
松島(まつしま)は、宮城県北東部の松島湾内外にある約260の島々からなる諸島やそれを擁する多島海(島の数については諸説ある。後述)。または、湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の一つに数えられている。2019年の観光入込客数は約598万人。かつては「東の松島 西の象潟」と謳われ、同じく東北地方に存在していた修景地の象潟と並び称されていた。 松島湾は仙台湾の中央部に位置する支湾で、宮城県東松島市の唐戸島南東端と宮城郡七ヶ浜町の花渕埼の間にある多島海である。このうち塩竈市が面する松島湾南西部は塩竈湾、あるいは千賀ノ浦と呼ばれる。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸がさらに進んだ沈降地形で、溺れ谷に海水が入り込み山頂が島として残っている。そのうち松島湾中南部にある比較的大きな島々の集まりは浦戸諸島と呼ばれる。松島湾中央部の島が全くない海域の水深はおおむね2メートルで、海底が浅いため波が荒くなると海底の泥が舞い上がって海水が濁りやすい。 この地形の成り立ちについては、以下のような説が唱えられている。鮮新世に起こった地盤運動によって現在よりも内陸に広がっていた仙台湾が隆起して陸地化し、同時に地塊運動によって現在の松島湾に当たる部分に陸地が突出して、半島のような地形となった。やがてこの部分は河川によって浸食され、谷間が刻まれる。更新世初期に現在言われる長町利府構造線の断層運動によってこの半島は徐々に海中に没し、海蝕面が形成され、高い所は島となった。更新世中期から後期にかけて沈んだ半島が再び隆起して海蝕台地となり、再び河蝕を受ける。更新世末期に長町利府構造線の撓曲によって再び沈水して、高い部分のみが島として残り、周囲に溺れ谷が多数形成された。度重なる隆起と沈降と浸食によって現在見られるような松島の地形が形作られたのである。松島湾中央部の島が全くない海域は、かつて谷間に発達した平野部だったと考えられている。また、これ以外の説もある。 この地域の大部分の地層は第三紀層の凝灰岩、砂岩、礫岩など侵食に非常に脆い岩質で出来ており、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。そのため多くの小島は上部に松などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。さらに、海水面近くが波に洗われて鋭角に抉られており、ややキノコに似た形になっているものもある。また、侵食による奇岩や日本三大渓に数えられる嵯峨渓のような海蝕崖も見られる。このように侵食、風化作用を受けやすい地層の上に松島は成り立っているため、長い間に風景も少しずつ変化してきたと考えられ、過去の文献に記載されたものと現在のものとの間には微妙な違いがあると考えられている。 1970年1月31日、昭和45年1月低気圧による暴風雨が松島を襲った際には、荒岬島(塩釜市)が一晩で消滅するなど地形の変化の大きさを裏付ける記録も残る。 松島の島々はしばしば「八百八島」と形容されるが、島々の数については正確に把握されておらず、古くから文献によって様々に書き記されてきた。江戸時代に大淀三千風が松島を広く紹介するために編纂した『松島眺望集』では92、仙台藩が編纂した地誌『封内風土記』では87、1910年(明治43年)の『松島公園経営概要』では240余、1981年(昭和56年)の『県立自然公園松島学術調査報告書』では230の島々があるとされ、また松島湾を管轄する第二管区海上保安本部は島の数を128と把握しているという。このように島々の数が不確定だったために昭和40年代頃に調査が行われ、260余りという数が松島の統一見解とされて、これが各機関に通達された。『松島町史(通史編2)』(1991年)ではこの島々の数の問題について触れ、国土地理院地図などを参考に、松島湾内の島々で名称のあるものが144、無名の島々が98あると記している。ただし、この数には、埋め立てられたり、地震や自然の崩落によって島とは言えなくなったりしたものがいくつか含まれている。これに加えて、岩礁を島の数として含めた場合、松島湾の島の数は約300になるだろうとも付け足している。 湾内の主な魚類はハゼ、アナゴ、貝類はカキ、アサリ。石斛(せっこく)は野生ラン科植物で宮城県辺りが野生の北限といわれる。松島周辺では「イワタケ」の別名がある。花の開花時期は5月下旬から6月初旬で、ピンクの花が咲く。絶滅危惧種だったが、瑞巌寺境内の老杉の枝に着生している原株から増やして、現在は鉢植えの土産になっている。 松島湾周囲の松島丘陵や島の高台には「松島四大観」(まつしましだいかん)と呼ばれる修景地点が散在している。これらは、江戸時代に仙台藩の儒学者・舟山萬年によって選ばれた「塩松環海四山」に由来する。 観光用の展望施設はないが、797年(延暦16年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が絶賛した「長老坂」(北緯38度22分6.9秒 東経141度2分44.3秒。現・宮城県道144号赤沼松島線)からの眺望が古くから著名。 その他の展望台としては、「西行戻しの松」(北緯38度21分59.4秒 東経141度3分10.5秒 / 北緯38.366500度 東経141.052917度 / 38.366500; 141.052917 (西行戻しの松公園))、新富山(北緯38度22分32.1秒 東経141度3分49.4秒 / 北緯38.375583度 東経141.063722度 / 38.375583; 141.063722 (新富山))、松島城(いわゆる天守閣風建築物)、塩竈と松島海岸一帯が望める「双観山」(北緯38度21分9.3秒 東経141度3分44.5秒 / 北緯38.352583度 東経141.062361度 / 38.352583; 141.062361 (双観山))、扇谷などがある。また、松尾芭蕉が松島に滞在した際に宿泊した熱田屋(瑞巌寺参道入口付近)の跡地にある商業施設の屋上が無料開放されている。大観山は現在ホテルの敷地内であるため、ホテルの利用客しか入れない。 かつて松島湾を見晴らせる松島タワーがあったが、解体された。 松島は月見の名所として著名で、画題にもなってきた。松島の月は、14世紀には中国にも知られるほど著名で、元代の薩都拉がその著書『雁門集』において「雄島煙波松島月」と記している。 伊達政宗が豊臣秀吉から伏見桃山城にあった茶室を譲り受け江戸の藩邸に移築し、その後、仙台藩2代藩主伊達忠宗が松島に移させたこの建物は、松島遊覧に訪れる仙台藩の姫君や側室、あるいは江戸幕府の巡見使などの接遇、宿泊の場所として利用されると同時に月見の館としても利用され「月見御殿」と呼ばれた。後の5代藩主伊達吉村がこれに「観瀾亭」と名付けた。 1643年(寛永20年)には、儒学者・林春斎がその著書『日本国事跡考』において、 「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、与丹後天橋立・安芸厳島為三処奇観」と記し、日本三景という括りが始まったとされるが、この日本三景の原典にも松島の月が出てくる。この原典もあって、日本三景に各々「雪月花」をあてる場合、松島には「月」があてられる。 17世紀後半になると、松尾芭蕉が延宝年間に「武蔵野の月の若生えや松島種」と詠んで松島の月に憧れ、『奥の細道』の冒頭でも「...松島の月先心にかゝりて...」と記して江戸を発っている。 1922年(大正11年)12月3日、アルベルト・アインシュタインが月見をするため松島を訪れた。東北本線で仙台駅から(初代)松島駅に到着し、松島電車(路面電車)に乗り換えて五大堂前電停に着いた頃には既に16時を過ぎ、十三夜の月が上っていた。それを見たアインシュタインは、「おお月が...おお月が...」と言ったまま絶句したという。その後、「どんな名工の技も、この美しさを残すことはできない」と同行者に言ったとされる。 以上のように、松島は「雪月花」の「月」があまりに有名で、松島温泉も月見風呂をイメージ写真に使用している。「雪」については、年に数回積もる程度であるためほとんど見ることは出来ないが、積雪があるとプロのカメラマンのみならず、アマチュアの写真愛好家も集まってきて、主に五大堂越しの松島の雪景色をフレームに収めている。「花」については、展望台でもある「西行戻しの松」が桜の名所として著名である。西行戻しの松公園一帯には260本余の桜が植えられている。 松島には大小の遊覧船が就航しており、船上より島々を眺めることができる。船上からカモメ(主にウミネコ)に餌やりをするのが名物になっていたが、糞害により松が枯れ始めた事から2014年4月1日より湾内での餌やりは禁止となった。 大型遊覧船の航路は松島港発着で松島湾内や奥松島を巡るものが中心だが、塩釜港と松島港とを繋ぐ航路もある。小型船の航路は、奥松島遊覧船桟橋を発着して嵯峨渓を巡る観光航路と、主に塩釜港発着で湾内の小島へ渡る連絡船航路がある。日本三大渓といわれる奥松島の嵯峨渓には暗礁が多くあるため、大型遊覧船では遠巻きにしか見られないが、小型船だと近づけるため波の静かな日には海食洞をくぐることが出来る場合がある。その他に季節運航でディナークルーズ(仙台港発着もある)、サンセットクルーズ、ナイトクルーズ、かき鍋クルーズなどがある。 江戸時代には仙台城下と海運の拠点港がある石巻とを繋ぐ石巻街道があったが、このうち塩釜港から石巻港の間を船で繋ぐ航路は「松島海道」と呼ばれた。松尾芭蕉が奥の細道で塩竈から松島へ舟で渡ったとの記述があるが、これは「松島海道」の一部に乗船したものと考えられている。 2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波で浮桟橋4基や小型の遊覧船の多くが流出する被害を受けたが同年4月29日に遊覧船の運航が再開された。 仙台空港(北緯38度8分21.6秒 東経140度55分42.9秒 / 北緯38.139333度 東経140.928583度 / 38.139333; 140.928583 (仙台空港))発着の遊覧飛行も存在している。セスナ機またはヘリコプターで、仙台および松島の上空を巡るコースがいくつか設定されている。松島灯籠流し花火大会を上空から見ることも可能。 松島は平安時代から和歌の歌枕としてしばしば用いられた。源重之による「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」が松島を詠んだ初めての歌とされる。源重之は陸奥国(松島を含む現在の東北地方東側)に下向した人物であるから、実際に松島の景色を見た上でこの歌を詠んだのかもしれない。ただし一般的には、松島に限らず地名としての歌枕は観念上のものであり、実際の景色を見ていたかどうかは問題ではなかった。 鎌倉時代になると、実際の松島の風景について記述する文献が登場する。虎関師錬の『元亨釈書』には「其地東溟之浜、小嶼千百数、曲州環浦奇峰異石、天下之絶境也。」と記されている。室町時代には、松島を実際に訪れた道興が『廻国雑記』においてこれを言及している。しかし、こうした事例も僅かな旅人による特殊な事例であり、松島が名勝地として知れ渡るのは仙台藩伊達氏によってここが保護、整備される江戸時代以降である。 江戸時代に松島を世に知らしめた俳人の先達として、大淀三千風がいる。三千風は1669年(寛文9年)から1687年(貞享4年)の間、雄島の庵室に長く留まった伊勢出身の俳人で、仙台や塩竈、石巻の歌名所の整備に尽力した人物でもある。三千風は『松島両吟集』や『金花山両吟集』を著し、さらに俳人500名から松島についての俳句を募り、これを編んで1682年(天和2年)に『松島眺望集』を出版した。『松島眺望集』では編纂した俳句の他に、島92箇所、崎33箇所、浦21箇所を含む松島の約200箇所を見所として紹介している。この後、1689年(元禄2年)に松尾芭蕉が松島を訪れ、他にも西山宗因、加舎白雄、大島蓼太、小林一茶などの俳人達が松島を訪れた。 松島は明治時代以前、極楽浄土への往生や死者の冥福を祈る人が訪れる霊場でもあり、遺骨の一部を雄島へ納める風習も明治初期まであった。 各指定の範囲は松島湾に面する自治体であるが、「仙台・松島国際観光モデル地区」は松島湾に面していない仙台市や多賀城市も加わる。 「日本遺産・百選」では「仙台・松島」が範囲である。 松島の一部が指定されているものには以下のものがある。 松島湾の沿岸には東松島市、松島町、利府町、塩竈市、七ヶ浜町の5つの市町がある。 松島湾東部に位置する東松島市の宮戸島(北緯38度20分6.7秒 東経141度9分10.6秒 / 北緯38.335194度 東経141.152944度 / 38.335194; 141.152944 (宮戸島))や野蒜海岸(北緯38度22分11.6秒 東経141度9分54.7秒 / 北緯38.369889度 東経141.165194度 / 38.369889; 141.165194 (野蒜海岸))一帯の地区が奥松島とも呼ばれている。日本三大渓の嵯峨渓(北緯38度19分25.4秒 東経141度10分39.9秒 / 北緯38.323722度 東経141.177750度 / 38.323722; 141.177750 (嵯峨渓))への観光船発着港がある。野蒜海岸は波の静かな浜辺で夏場は海水浴場として賑わう。竹浜という鳴き砂の浜辺もあるが、保全のため立ち入り制限されている。宮城県道27号奥松島松島公園線(奥松島パークライン)が、海岸沿いを走るドライブコースとして知られると共に、例年、体育の日に松島ハーフマラソン大会の開催コースとされている。陸繋島の宮戸島には里浜貝塚(北緯38度20分9.9秒 東経141度8分45.2秒 / 北緯38.336083度 東経141.145889度 / 38.336083; 141.145889 (里浜貝塚))という貝塚がある。里浜貝塚は、縄文時代前期(約6,000年前)から弥生時代初めまでの約4,000年間の遺跡で、貝塚は島の標高20-40メートルの高台に位置している。 松島町は松島湾の北部に当たる。百人一首にも詠まれた霊場の島・雄島(北緯38度21分54.5秒 東経141度3分44.8秒 / 北緯38.365139度 東経141.062444度 / 38.365139; 141.062444 (雄島))、伊達政宗が再興した瑞巌寺(北緯38度22分19.7秒 東経141度3分35.3秒 / 北緯38.372139度 東経141.059806度 / 38.372139; 141.059806 (瑞巌寺))、「バラ寺」の通称がある円通院(北緯38度22分16.6秒 東経141度3分34.6秒 / 北緯38.371278度 東経141.059611度 / 38.371278; 141.059611 (円通院))、五大堂(北緯38度22分10.8秒 東経141度3分50.4秒 / 北緯38.369667度 東経141.064000度 / 38.369667; 141.064000 (五大堂))などの寺院、伊達家の迎賓館であり月見のための施設でもある観瀾亭(月見御殿。北緯38度22分9.4秒 東経141度3分41.5秒)などの歴史的建造物や、湾内遊覧船の発着港の松島港がある。また、土産屋、飲食店、宿泊施設などが立ち並ぶ。2008年(平成20年)には松島温泉が開湯した。普通車310台駐車可能で無料の町営三十刈駐車場(ちょうえいさんじゅうがりちゅうしゃじょう)がある。 利府町の浜田地区が松島湾西部に面している。仙石線の陸前浜田駅がある。 塩竈市は松島湾の南西部に当たる。塩竈湾は、古くは陸奥国府・多賀城(北緯38度18分23.9秒 東経140度59分18秒 / 北緯38.306639度 東経140.98833度 / 38.306639; 140.98833 (陸奥国府・多賀城))の外港、江戸時代以降は仙台城下(北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.5秒 / 北緯38.260250度 東経140.870694度 / 38.260250; 140.870694 (仙台城下町の中心部「芭蕉の辻」))の外港だった。平城京政府、奥州藤原氏、伊達氏など、この地を治めた統治者によって保護されてきた鹽竈神社(北緯38度19分7.6秒 東経141度0分45.2秒 / 北緯38.318778度 東経141.012556度 / 38.318778; 141.012556 (鹽竈神社))や、松島湾内の遊覧船、桂島(北緯38度20分2.8秒 東経141度5分44.5秒 / 北緯38.334111度 東経141.095694度 / 38.334111; 141.095694 (桂島))、寒風沢島(北緯38度19分58.2秒 東経141度7分24.3秒 / 北緯38.332833度 東経141.123417度 / 38.332833; 141.123417 (寒風沢島))などへの離島航路の発着港の塩釜港がある。塩釜港は近海マグロが多く水揚げされることもあって寿司屋が集中している。夏季には塩竈みなと祭が催される。 松島湾の南部の七ヶ浜町には、宮城県で最も利用客が多い海水浴場である菖蒲田浜(北緯38度17分20.4秒 東経141度3分55.6秒 / 北緯38.289000度 東経141.065444度 / 38.289000; 141.065444 (菖蒲田海水浴場))、県内有数のヨットハーバーである小浜港、高山外国人避暑地(北緯38度17分40.7秒 東経141度4分48.2秒 / 北緯38.294639度 東経141.080056度 / 38.294639; 141.080056 (高山外国人避暑地))と七ヶ浜国際村(北緯38度17分53.8秒 東経141度4分3.7秒 / 北緯38.298278度 東経141.067694度 / 38.298278; 141.067694 (七ヶ浜国際村))、鼻節神社(北緯38度17分45.3秒 東経141度5分5.3秒 / 北緯38.295917度 東経141.084806度 / 38.295917; 141.084806 (鼻節神社))などがある。 2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)とその直後に襲来した大津波によって、島の文化財の一部が破損するなどの被害が発生したが、周辺の自治体と比較して被害は軽微で済んでいる。その理由として、津波は浅い海に入ると速度が落ちて急激にエネルギーを失うのと、浦戸諸島が防波堤の役割を果たし、津波の勢いを弱めたと見られている。 松島は国の特別名勝に指定されており、管理団体である宮城県によって「特別名勝松島保存管理計画」が策定されている。文化財保護法および前述の保存管理計画に基づき、特別名勝「松島」指定区域内の保護地区において現状変更(建築物の新築等)を行う際には、宮城県教育委員会および文化庁長官の許可が必要になる。高台での建物新築も現状変更にあたるが、東日本大震災による被害により住民から高台への移転要望が高まったため、宮城県が文化庁に規制緩和を求め協議の結果、その方向で検討されることとなった。今後、宮城県と指定範囲の塩竈市、東松島市、松島町、七ヶ浜町、利府町などで協議を進めていく方針。 また文化庁は、松島における「がれき処理施設」の建設も特例で許可することとなった(2014年3月までの限定許可。周囲の景観に対して施設の色・形状を配慮するなどの制約のもと)。 仙台からの行き方。仙台側(南側)から列挙。 JR東北本線の一ノ関・小牛田方面からは、塩釜駅で仙石東北ラインに乗り換え(または松島駅で途中下車し、高城町駅まで徒歩連絡)、高城町駅で仙石線普通列車に乗り換えて松島海岸駅もしくは野蒜駅へ向かう。 また、仙台空港から松島・奥松島へは、松島・平泉直行バス(岩手県北バス)の利用も可能。 松島は、「海面上、湖上の松が茂っている単独の島」という一般名詞でもあるため、それが固有名詞化するなどして、日本各地に「松島」という地名がある。「松島 (曖昧さ回避)」参照。他方、宮城県の松島と似た、海面上や湖上に大小様々な島や岩が散在する風景を「○○の松島」などともいう(類例:銀座)。この場合、島の頭部に生えている木が松でなくともよく、場合によっては木が生えていなくともよい。 ただし、同様な風景である三重県の英虞湾は、「松島」と言われることを非常に嫌う傾向がある。 なお、各地にある「松島温泉」という名称の温泉では、宮城県の松島との混同を防ぐため、「○○松島温泉」(「○○」は地域名など)という名称も併用している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松島(まつしま)は、宮城県北東部の松島湾内外にある約260の島々からなる諸島やそれを擁する多島海(島の数については諸説ある。後述)。または、湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の一つに数えられている。2019年の観光入込客数は約598万人。かつては「東の松島 西の象潟」と謳われ、同じく東北地方に存在していた修景地の象潟と並び称されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "松島湾は仙台湾の中央部に位置する支湾で、宮城県東松島市の唐戸島南東端と宮城郡七ヶ浜町の花渕埼の間にある多島海である。このうち塩竈市が面する松島湾南西部は塩竈湾、あるいは千賀ノ浦と呼ばれる。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸がさらに進んだ沈降地形で、溺れ谷に海水が入り込み山頂が島として残っている。そのうち松島湾中南部にある比較的大きな島々の集まりは浦戸諸島と呼ばれる。松島湾中央部の島が全くない海域の水深はおおむね2メートルで、海底が浅いため波が荒くなると海底の泥が舞い上がって海水が濁りやすい。", "title": "地形・自然" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この地形の成り立ちについては、以下のような説が唱えられている。鮮新世に起こった地盤運動によって現在よりも内陸に広がっていた仙台湾が隆起して陸地化し、同時に地塊運動によって現在の松島湾に当たる部分に陸地が突出して、半島のような地形となった。やがてこの部分は河川によって浸食され、谷間が刻まれる。更新世初期に現在言われる長町利府構造線の断層運動によってこの半島は徐々に海中に没し、海蝕面が形成され、高い所は島となった。更新世中期から後期にかけて沈んだ半島が再び隆起して海蝕台地となり、再び河蝕を受ける。更新世末期に長町利府構造線の撓曲によって再び沈水して、高い部分のみが島として残り、周囲に溺れ谷が多数形成された。度重なる隆起と沈降と浸食によって現在見られるような松島の地形が形作られたのである。松島湾中央部の島が全くない海域は、かつて谷間に発達した平野部だったと考えられている。また、これ以外の説もある。", "title": "地形・自然" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この地域の大部分の地層は第三紀層の凝灰岩、砂岩、礫岩など侵食に非常に脆い岩質で出来ており、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。そのため多くの小島は上部に松などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。さらに、海水面近くが波に洗われて鋭角に抉られており、ややキノコに似た形になっているものもある。また、侵食による奇岩や日本三大渓に数えられる嵯峨渓のような海蝕崖も見られる。このように侵食、風化作用を受けやすい地層の上に松島は成り立っているため、長い間に風景も少しずつ変化してきたと考えられ、過去の文献に記載されたものと現在のものとの間には微妙な違いがあると考えられている。 1970年1月31日、昭和45年1月低気圧による暴風雨が松島を襲った際には、荒岬島(塩釜市)が一晩で消滅するなど地形の変化の大きさを裏付ける記録も残る。", "title": "地形・自然" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "松島の島々はしばしば「八百八島」と形容されるが、島々の数については正確に把握されておらず、古くから文献によって様々に書き記されてきた。江戸時代に大淀三千風が松島を広く紹介するために編纂した『松島眺望集』では92、仙台藩が編纂した地誌『封内風土記』では87、1910年(明治43年)の『松島公園経営概要』では240余、1981年(昭和56年)の『県立自然公園松島学術調査報告書』では230の島々があるとされ、また松島湾を管轄する第二管区海上保安本部は島の数を128と把握しているという。このように島々の数が不確定だったために昭和40年代頃に調査が行われ、260余りという数が松島の統一見解とされて、これが各機関に通達された。『松島町史(通史編2)』(1991年)ではこの島々の数の問題について触れ、国土地理院地図などを参考に、松島湾内の島々で名称のあるものが144、無名の島々が98あると記している。ただし、この数には、埋め立てられたり、地震や自然の崩落によって島とは言えなくなったりしたものがいくつか含まれている。これに加えて、岩礁を島の数として含めた場合、松島湾の島の数は約300になるだろうとも付け足している。", "title": "地形・自然" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "湾内の主な魚類はハゼ、アナゴ、貝類はカキ、アサリ。石斛(せっこく)は野生ラン科植物で宮城県辺りが野生の北限といわれる。松島周辺では「イワタケ」の別名がある。花の開花時期は5月下旬から6月初旬で、ピンクの花が咲く。絶滅危惧種だったが、瑞巌寺境内の老杉の枝に着生している原株から増やして、現在は鉢植えの土産になっている。", "title": "地形・自然" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "松島湾周囲の松島丘陵や島の高台には「松島四大観」(まつしましだいかん)と呼ばれる修景地点が散在している。これらは、江戸時代に仙台藩の儒学者・舟山萬年によって選ばれた「塩松環海四山」に由来する。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "観光用の展望施設はないが、797年(延暦16年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が絶賛した「長老坂」(北緯38度22分6.9秒 東経141度2分44.3秒。現・宮城県道144号赤沼松島線)からの眺望が古くから著名。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その他の展望台としては、「西行戻しの松」(北緯38度21分59.4秒 東経141度3分10.5秒 / 北緯38.366500度 東経141.052917度 / 38.366500; 141.052917 (西行戻しの松公園))、新富山(北緯38度22分32.1秒 東経141度3分49.4秒 / 北緯38.375583度 東経141.063722度 / 38.375583; 141.063722 (新富山))、松島城(いわゆる天守閣風建築物)、塩竈と松島海岸一帯が望める「双観山」(北緯38度21分9.3秒 東経141度3分44.5秒 / 北緯38.352583度 東経141.062361度 / 38.352583; 141.062361 (双観山))、扇谷などがある。また、松尾芭蕉が松島に滞在した際に宿泊した熱田屋(瑞巌寺参道入口付近)の跡地にある商業施設の屋上が無料開放されている。大観山は現在ホテルの敷地内であるため、ホテルの利用客しか入れない。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "かつて松島湾を見晴らせる松島タワーがあったが、解体された。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "松島は月見の名所として著名で、画題にもなってきた。松島の月は、14世紀には中国にも知られるほど著名で、元代の薩都拉がその著書『雁門集』において「雄島煙波松島月」と記している。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "伊達政宗が豊臣秀吉から伏見桃山城にあった茶室を譲り受け江戸の藩邸に移築し、その後、仙台藩2代藩主伊達忠宗が松島に移させたこの建物は、松島遊覧に訪れる仙台藩の姫君や側室、あるいは江戸幕府の巡見使などの接遇、宿泊の場所として利用されると同時に月見の館としても利用され「月見御殿」と呼ばれた。後の5代藩主伊達吉村がこれに「観瀾亭」と名付けた。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1643年(寛永20年)には、儒学者・林春斎がその著書『日本国事跡考』において、 「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、与丹後天橋立・安芸厳島為三処奇観」と記し、日本三景という括りが始まったとされるが、この日本三景の原典にも松島の月が出てくる。この原典もあって、日本三景に各々「雪月花」をあてる場合、松島には「月」があてられる。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "17世紀後半になると、松尾芭蕉が延宝年間に「武蔵野の月の若生えや松島種」と詠んで松島の月に憧れ、『奥の細道』の冒頭でも「...松島の月先心にかゝりて...」と記して江戸を発っている。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1922年(大正11年)12月3日、アルベルト・アインシュタインが月見をするため松島を訪れた。東北本線で仙台駅から(初代)松島駅に到着し、松島電車(路面電車)に乗り換えて五大堂前電停に着いた頃には既に16時を過ぎ、十三夜の月が上っていた。それを見たアインシュタインは、「おお月が...おお月が...」と言ったまま絶句したという。その後、「どんな名工の技も、この美しさを残すことはできない」と同行者に言ったとされる。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以上のように、松島は「雪月花」の「月」があまりに有名で、松島温泉も月見風呂をイメージ写真に使用している。「雪」については、年に数回積もる程度であるためほとんど見ることは出来ないが、積雪があるとプロのカメラマンのみならず、アマチュアの写真愛好家も集まってきて、主に五大堂越しの松島の雪景色をフレームに収めている。「花」については、展望台でもある「西行戻しの松」が桜の名所として著名である。西行戻しの松公園一帯には260本余の桜が植えられている。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "松島には大小の遊覧船が就航しており、船上より島々を眺めることができる。船上からカモメ(主にウミネコ)に餌やりをするのが名物になっていたが、糞害により松が枯れ始めた事から2014年4月1日より湾内での餌やりは禁止となった。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大型遊覧船の航路は松島港発着で松島湾内や奥松島を巡るものが中心だが、塩釜港と松島港とを繋ぐ航路もある。小型船の航路は、奥松島遊覧船桟橋を発着して嵯峨渓を巡る観光航路と、主に塩釜港発着で湾内の小島へ渡る連絡船航路がある。日本三大渓といわれる奥松島の嵯峨渓には暗礁が多くあるため、大型遊覧船では遠巻きにしか見られないが、小型船だと近づけるため波の静かな日には海食洞をくぐることが出来る場合がある。その他に季節運航でディナークルーズ(仙台港発着もある)、サンセットクルーズ、ナイトクルーズ、かき鍋クルーズなどがある。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "江戸時代には仙台城下と海運の拠点港がある石巻とを繋ぐ石巻街道があったが、このうち塩釜港から石巻港の間を船で繋ぐ航路は「松島海道」と呼ばれた。松尾芭蕉が奥の細道で塩竈から松島へ舟で渡ったとの記述があるが、これは「松島海道」の一部に乗船したものと考えられている。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波で浮桟橋4基や小型の遊覧船の多くが流出する被害を受けたが同年4月29日に遊覧船の運航が再開された。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "仙台空港(北緯38度8分21.6秒 東経140度55分42.9秒 / 北緯38.139333度 東経140.928583度 / 38.139333; 140.928583 (仙台空港))発着の遊覧飛行も存在している。セスナ機またはヘリコプターで、仙台および松島の上空を巡るコースがいくつか設定されている。松島灯籠流し花火大会を上空から見ることも可能。", "title": "松島の眺望" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "松島は平安時代から和歌の歌枕としてしばしば用いられた。源重之による「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」が松島を詠んだ初めての歌とされる。源重之は陸奥国(松島を含む現在の東北地方東側)に下向した人物であるから、実際に松島の景色を見た上でこの歌を詠んだのかもしれない。ただし一般的には、松島に限らず地名としての歌枕は観念上のものであり、実際の景色を見ていたかどうかは問題ではなかった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "鎌倉時代になると、実際の松島の風景について記述する文献が登場する。虎関師錬の『元亨釈書』には「其地東溟之浜、小嶼千百数、曲州環浦奇峰異石、天下之絶境也。」と記されている。室町時代には、松島を実際に訪れた道興が『廻国雑記』においてこれを言及している。しかし、こうした事例も僅かな旅人による特殊な事例であり、松島が名勝地として知れ渡るのは仙台藩伊達氏によってここが保護、整備される江戸時代以降である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "江戸時代に松島を世に知らしめた俳人の先達として、大淀三千風がいる。三千風は1669年(寛文9年)から1687年(貞享4年)の間、雄島の庵室に長く留まった伊勢出身の俳人で、仙台や塩竈、石巻の歌名所の整備に尽力した人物でもある。三千風は『松島両吟集』や『金花山両吟集』を著し、さらに俳人500名から松島についての俳句を募り、これを編んで1682年(天和2年)に『松島眺望集』を出版した。『松島眺望集』では編纂した俳句の他に、島92箇所、崎33箇所、浦21箇所を含む松島の約200箇所を見所として紹介している。この後、1689年(元禄2年)に松尾芭蕉が松島を訪れ、他にも西山宗因、加舎白雄、大島蓼太、小林一茶などの俳人達が松島を訪れた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "松島は明治時代以前、極楽浄土への往生や死者の冥福を祈る人が訪れる霊場でもあり、遺骨の一部を雄島へ納める風習も明治初期まであった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "各指定の範囲は松島湾に面する自治体であるが、「仙台・松島国際観光モデル地区」は松島湾に面していない仙台市や多賀城市も加わる。 「日本遺産・百選」では「仙台・松島」が範囲である。", "title": "指定など" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "松島の一部が指定されているものには以下のものがある。", "title": "指定など" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "松島湾の沿岸には東松島市、松島町、利府町、塩竈市、七ヶ浜町の5つの市町がある。", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "松島湾東部に位置する東松島市の宮戸島(北緯38度20分6.7秒 東経141度9分10.6秒 / 北緯38.335194度 東経141.152944度 / 38.335194; 141.152944 (宮戸島))や野蒜海岸(北緯38度22分11.6秒 東経141度9分54.7秒 / 北緯38.369889度 東経141.165194度 / 38.369889; 141.165194 (野蒜海岸))一帯の地区が奥松島とも呼ばれている。日本三大渓の嵯峨渓(北緯38度19分25.4秒 東経141度10分39.9秒 / 北緯38.323722度 東経141.177750度 / 38.323722; 141.177750 (嵯峨渓))への観光船発着港がある。野蒜海岸は波の静かな浜辺で夏場は海水浴場として賑わう。竹浜という鳴き砂の浜辺もあるが、保全のため立ち入り制限されている。宮城県道27号奥松島松島公園線(奥松島パークライン)が、海岸沿いを走るドライブコースとして知られると共に、例年、体育の日に松島ハーフマラソン大会の開催コースとされている。陸繋島の宮戸島には里浜貝塚(北緯38度20分9.9秒 東経141度8分45.2秒 / 北緯38.336083度 東経141.145889度 / 38.336083; 141.145889 (里浜貝塚))という貝塚がある。里浜貝塚は、縄文時代前期(約6,000年前)から弥生時代初めまでの約4,000年間の遺跡で、貝塚は島の標高20-40メートルの高台に位置している。", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "松島町は松島湾の北部に当たる。百人一首にも詠まれた霊場の島・雄島(北緯38度21分54.5秒 東経141度3分44.8秒 / 北緯38.365139度 東経141.062444度 / 38.365139; 141.062444 (雄島))、伊達政宗が再興した瑞巌寺(北緯38度22分19.7秒 東経141度3分35.3秒 / 北緯38.372139度 東経141.059806度 / 38.372139; 141.059806 (瑞巌寺))、「バラ寺」の通称がある円通院(北緯38度22分16.6秒 東経141度3分34.6秒 / 北緯38.371278度 東経141.059611度 / 38.371278; 141.059611 (円通院))、五大堂(北緯38度22分10.8秒 東経141度3分50.4秒 / 北緯38.369667度 東経141.064000度 / 38.369667; 141.064000 (五大堂))などの寺院、伊達家の迎賓館であり月見のための施設でもある観瀾亭(月見御殿。北緯38度22分9.4秒 東経141度3分41.5秒)などの歴史的建造物や、湾内遊覧船の発着港の松島港がある。また、土産屋、飲食店、宿泊施設などが立ち並ぶ。2008年(平成20年)には松島温泉が開湯した。普通車310台駐車可能で無料の町営三十刈駐車場(ちょうえいさんじゅうがりちゅうしゃじょう)がある。", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "利府町の浜田地区が松島湾西部に面している。仙石線の陸前浜田駅がある。", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "塩竈市は松島湾の南西部に当たる。塩竈湾は、古くは陸奥国府・多賀城(北緯38度18分23.9秒 東経140度59分18秒 / 北緯38.306639度 東経140.98833度 / 38.306639; 140.98833 (陸奥国府・多賀城))の外港、江戸時代以降は仙台城下(北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.5秒 / 北緯38.260250度 東経140.870694度 / 38.260250; 140.870694 (仙台城下町の中心部「芭蕉の辻」))の外港だった。平城京政府、奥州藤原氏、伊達氏など、この地を治めた統治者によって保護されてきた鹽竈神社(北緯38度19分7.6秒 東経141度0分45.2秒 / 北緯38.318778度 東経141.012556度 / 38.318778; 141.012556 (鹽竈神社))や、松島湾内の遊覧船、桂島(北緯38度20分2.8秒 東経141度5分44.5秒 / 北緯38.334111度 東経141.095694度 / 38.334111; 141.095694 (桂島))、寒風沢島(北緯38度19分58.2秒 東経141度7分24.3秒 / 北緯38.332833度 東経141.123417度 / 38.332833; 141.123417 (寒風沢島))などへの離島航路の発着港の塩釜港がある。塩釜港は近海マグロが多く水揚げされることもあって寿司屋が集中している。夏季には塩竈みなと祭が催される。", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "松島湾の南部の七ヶ浜町には、宮城県で最も利用客が多い海水浴場である菖蒲田浜(北緯38度17分20.4秒 東経141度3分55.6秒 / 北緯38.289000度 東経141.065444度 / 38.289000; 141.065444 (菖蒲田海水浴場))、県内有数のヨットハーバーである小浜港、高山外国人避暑地(北緯38度17分40.7秒 東経141度4分48.2秒 / 北緯38.294639度 東経141.080056度 / 38.294639; 141.080056 (高山外国人避暑地))と七ヶ浜国際村(北緯38度17分53.8秒 東経141度4分3.7秒 / 北緯38.298278度 東経141.067694度 / 38.298278; 141.067694 (七ヶ浜国際村))、鼻節神社(北緯38度17分45.3秒 東経141度5分5.3秒 / 北緯38.295917度 東経141.084806度 / 38.295917; 141.084806 (鼻節神社))などがある。", "title": "周辺" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)とその直後に襲来した大津波によって、島の文化財の一部が破損するなどの被害が発生したが、周辺の自治体と比較して被害は軽微で済んでいる。その理由として、津波は浅い海に入ると速度が落ちて急激にエネルギーを失うのと、浦戸諸島が防波堤の役割を果たし、津波の勢いを弱めたと見られている。", "title": "東日本大震災の影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "松島は国の特別名勝に指定されており、管理団体である宮城県によって「特別名勝松島保存管理計画」が策定されている。文化財保護法および前述の保存管理計画に基づき、特別名勝「松島」指定区域内の保護地区において現状変更(建築物の新築等)を行う際には、宮城県教育委員会および文化庁長官の許可が必要になる。高台での建物新築も現状変更にあたるが、東日本大震災による被害により住民から高台への移転要望が高まったため、宮城県が文化庁に規制緩和を求め協議の結果、その方向で検討されることとなった。今後、宮城県と指定範囲の塩竈市、東松島市、松島町、七ヶ浜町、利府町などで協議を進めていく方針。", "title": "東日本大震災の影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また文化庁は、松島における「がれき処理施設」の建設も特例で許可することとなった(2014年3月までの限定許可。周囲の景観に対して施設の色・形状を配慮するなどの制約のもと)。", "title": "東日本大震災の影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "仙台からの行き方。仙台側(南側)から列挙。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "JR東北本線の一ノ関・小牛田方面からは、塩釜駅で仙石東北ラインに乗り換え(または松島駅で途中下車し、高城町駅まで徒歩連絡)、高城町駅で仙石線普通列車に乗り換えて松島海岸駅もしくは野蒜駅へ向かう。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、仙台空港から松島・奥松島へは、松島・平泉直行バス(岩手県北バス)の利用も可能。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "松島は、「海面上、湖上の松が茂っている単独の島」という一般名詞でもあるため、それが固有名詞化するなどして、日本各地に「松島」という地名がある。「松島 (曖昧さ回避)」参照。他方、宮城県の松島と似た、海面上や湖上に大小様々な島や岩が散在する風景を「○○の松島」などともいう(類例:銀座)。この場合、島の頭部に生えている木が松でなくともよく、場合によっては木が生えていなくともよい。", "title": "日本国内の松島" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ただし、同様な風景である三重県の英虞湾は、「松島」と言われることを非常に嫌う傾向がある。", "title": "日本国内の松島" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、各地にある「松島温泉」という名称の温泉では、宮城県の松島との混同を防ぐため、「○○松島温泉」(「○○」は地域名など)という名称も併用している。", "title": "日本国内の松島" } ]
松島(まつしま)は、宮城県北東部の松島湾内外にある約260の島々からなる諸島やそれを擁する多島海(島の数については諸説ある。後述)。または、湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の一つに数えられている。2019年の観光入込客数は約598万人。かつては「東の松島 西の象潟」と謳われ、同じく東北地方に存在していた修景地の象潟と並び称されていた。
{{otheruses}} {{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|38.3586|141.0889}}|caption=松島|width=256}} {{座標一覧}} [[ファイル:Matsushima miyagi z.JPG|thumb|300px|松島]] '''松島'''(まつしま)は、[[宮城県]]北東部の松島湾内外にある約260の島々からなる[[諸島]]やそれを擁する[[多島海]]<ref name="読売20210808">【ニッポン絵ものがたり】川瀬巴水「松島双子島」祈りの島 絶景に浮かぶ満月『[[読売新聞]]』日曜朝刊別刷り「よみほっと」2021年8月8日</ref>(島の数については諸説ある。[[#地形・自然|後述]])。または、湾周囲を囲む[[松島丘陵]]も含めた修景地区のことである。[[日本三景]]の一つに数えられている<ref name="読売20210808"/>。2019年の観光入込客数は約598万人<ref>[https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/818398.pdf 『観光統計概要 令和元年(1~12月)』宮城県経済商工観光部観光課]</ref>。かつては「東の松島 西の[[象潟]]」と謳われ、同じく東北地方に存在していた修景地の[[象潟]]と並び称されていた。 == 地形・自然 == 松島湾は[[仙台湾]]の中央部に位置する支湾で、宮城県[[東松島市]]の唐戸島南東端と[[宮城郡]][[七ヶ浜町]]の花渕埼の間にある[[多島海]]である<ref name="heisa">[https://www.env.go.jp/water/heisa/heisa_net/waters/matusimawan.html 閉鎖性海域ネット] 環境省(2018年6月6日閲覧)</ref>。このうち[[塩竈市]]が面する松島湾南西部は塩竈湾、あるいは千賀ノ浦と呼ばれる。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来た[[リアス式海岸]]がさらに進んだ沈降地形で、溺れ谷に海水が入り込み山頂が[[島]]として残っている。そのうち松島湾中南部にある比較的大きな島々の集まりは[[浦戸諸島]]と呼ばれる。松島湾中央部の島が全くない海域の水深はおおむね2メートルで、海底が浅いため波が荒くなると海底の泥が舞い上がって海水が濁りやすい<ref name="kensi5">『宮城縣史』復刻版5(地誌交通史)22頁</ref>。 この地形の成り立ちについては、以下のような説が唱えられている。[[鮮新世]]に起こった地盤運動によって現在よりも内陸に広がっていた仙台湾が[[隆起]]して陸地化し、同時に地塊運動によって現在の松島湾に当たる部分に陸地が突出して、[[半島]]のような地形となった。やがてこの部分は河川によって[[浸食]]され、谷間が刻まれる。[[更新世]]初期に現在言われる長町利府構造線の[[断層]]運動によってこの半島は徐々に海中に没し、海蝕面が形成され、高い所は島となった。更新世中期から後期にかけて沈んだ半島が再び隆起して海蝕台地となり、再び河蝕を受ける。更新世末期に[[長町-利府線断層帯|長町利府構造線]]の撓曲によって再び沈水して、高い部分のみが島として残り、周囲に[[溺れ谷]]が多数形成された。度重なる隆起と沈降と浸食によって現在見られるような松島の地形が形作られたのである。松島湾中央部の島が全くない海域は、かつて谷間に発達した平野部だったと考えられている<ref name="kensi5"/>。また、これ以外の説もある。 この地域の大部分の[[地層]]は[[第三紀]]層の[[凝灰岩]]、[[砂岩]]、[[礫岩]]など[[侵食]]に非常に脆い岩質で出来ており、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。そのため多くの小島は上部に[[マツ|松]]などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。さらに、海水面近くが波に洗われて鋭角に抉られており、やや[[キノコ]]に似た形になっているものもある。また、侵食による奇岩や[[日本三大渓]]に数えられる[[嵯峨渓]]のような海蝕崖も見られる。このように侵食、[[風化]]作用を受けやすい地層の上に松島は成り立っているため、長い間に風景も少しずつ変化してきたと考えられ、過去の文献に記載されたものと現在のものとの間には微妙な違いがあると考えられている。 [[1970年]][[1月31日]]、[[昭和45年1月低気圧]]による暴風雨が松島を襲った際には、荒岬島(塩釜市)が一晩で消滅する<ref>荒岬島(松島)が消える『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月2日朝刊 12版 15面</ref>など地形の変化の大きさを裏付ける記録も残る。 松島の島々はしばしば「八百八島」と形容されるが、島々の数については正確に把握されておらず、古くから文献によって様々に書き記されてきた。[[江戸時代]]に大淀三千風が松島を広く紹介するために編纂した『松島眺望集』では92、[[仙台藩]]が編纂した地誌『[[封内風土記]]』では87、1910年([[明治]]43年)の『松島公園経営概要』では240余、1981年(昭和56年)の『県立自然公園松島学術調査報告書』では230の島々があるとされ、また松島湾を管轄する[[第二管区海上保安本部]]は島の数を128と把握しているという。このように島々の数が不確定だったために昭和40年代頃に調査が行われ、260余りという数が松島の統一見解とされて、これが各機関に通達された。『松島町史(通史編2)』(1991年)ではこの島々の数の問題について触れ、[[国土地理院]]地図などを参考に、松島湾内の島々で名称のあるものが144、無名の島々が98あると記している。ただし、この数には、埋め立てられたり、地震や自然の崩落によって島とは言えなくなったりしたものがいくつか含まれている。これに加えて、[[岩礁]]を島の数として含めた場合、松島湾の島の数は約300になるだろうとも付け足している<ref>『松島町史』(通史編2)214-216頁</ref>。 <gallery> ファイル:211030 Kameshima Matsushima Miyagi pref Japan01n.jpg|亀島 ファイル:Nioujima.jpg|仁王島。松島を象徴する島のひとつ。仁王像が葉巻をくわえて座っているように見える。 ファイル:Senganjima.jpg|千貫島。[[伊達政宗]]お気に入りの島だったと言われている。 ファイル:Komonejima.jpg|小藻根島。長命穴はこの島の南端にあった<ref name="jiji20110319" />。 ファイル:Kanejima.jpg|鐘島。4つの洞門に打ち寄せる波が鐘の音のように聞こえたことが名の由来。 ファイル:Futagojima.jpg|双子島 ファイル:Misagojima.jpg|みさご島 ファイル:Kaerujima.jpg|かえる島。見た目が[[蛙]]のようである。 ファイル:Meganejima.jpg|高島。通称「めがね島」。 ファイル:Chōmei-ana 2006.jpg|小藻根島南端に存在した高さ約5メートルの「長命穴」。遊覧船で通り抜けると寿命が3年延びるとされた観光の名所であったが、[[東北地方太平洋沖地震]]によって崩壊した<ref name="jiji20110319">{{Cite news|title=名勝・松島、崩落被害=「長命穴」消え、半壊の島も-国宝「瑞巌寺」は壁にひび|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201103/2011031900412|publisher=[[時事通信社]]|date=2011年3月19日|accessdate=2011年3月28日}}。</ref> ファイル:Yoroijima of Matsushima Bay, natural wave rock.JPG|鎧島。波頭のような形状をしている。 </gallery> === 生物 === 湾内の主な魚類は[[ハゼ]]、[[アナゴ]]、貝類は[[カキ (貝)|カキ]]、[[アサリ]]。[[石斛]](せっこく)は野生[[ラン科]]植物で宮城県辺りが野生の北限といわれる。松島周辺では「イワタケ」の別名がある。花の開花時期は5月下旬から6月初旬で、ピンクの花が咲く。[[絶滅危惧種]]だったが、[[瑞巌寺]][[境内]]の老[[杉]]の枝に着生している原株から増やして、現在は鉢植えの土産になっている。 == 松島の眺望 == === 松島四大観 === {{座標一覧|section=松島四大観}} [[File:Mutsu Province, View of Matsushima, Sight Map from Mount Tomi.jpg|thumb|[[歌川広重]]『[[六十余州名所図会]] [[陸奥国|陸奥]] 松島富山眺望之略図』(江戸時代・[[安政]]期)]] 松島湾周囲の松島丘陵や島の高台には「松島四大観」(まつしましだいかん)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.matsushima-kanko.com/midokoro/nihonsankei/shidaikan.html |title=四大観 |publisher=松島観光協会 |accessdate=2011-04-30 }} </ref>と呼ばれる修景地点が散在している。これらは、江戸時代に仙台藩の儒学者・舟山萬年によって選ばれた「塩松環海四山」に由来する<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16124.pdf 特別名勝松島保存管理計画]}}(宮城県教育委員会 2010年3月)</ref>。 * '''壮観'''({{Coord|38|20|25.9|N|141|9|7.1|E|region:JP|name=壮観(大高森より見る景色)}}):[[東松島市]]にある[[宮戸島]]の[[大高森]]からみる景色。[[標高]]105.8メートル。他の三箇所は視界の方向が限定されるのに対して、この場所には四方を遮る物がなく広大な視界を得られるのが特徴である<ref name="松島町史四大観">『松島町史』(通史編2)220-222頁</ref>。松島湾に対しては東端から西方向を眺める形となり、奥松島の島々の他、遠く[[船形山]]([[奥羽山脈]])が一望出来る。夕陽で真っ赤に染まった松島の風景写真として度々用いられる。 * '''麗観'''({{Coord|38|23|48.4|N|141|6|22.5|E|region:JP|name=麗観(富山より見る景色)}}):[[松島町]]の富山にある大仰寺よりみる景色。標高116.8メートル。南方向に松島湾や奥松島を眺める。湾や島々が整然と見えるこの場所は、江戸時代に大淀三千風によって編まれた句集『松島眺望集』や、他の文献でも言及されている。また1876年(明治9年)の[[巡幸]]で[[明治天皇]]もここを訪れて風景を観賞した。ただ、手樽湾が干拓されたために、現在の麗観と過去の麗観は異なるものになっている<ref name="松島町史四大観"/>。 * '''幽観'''({{Coord|38|21|11.6|N|141|3|18.3|E|region:JP|name=幽観(扇谷より見る景色)}}):松島町と[[利府町]]の境界部にある扇谷からみる景色。標高55.8メートル。東南方向に塩竈湾を眺める。扇状に開ける視界はそれほど広くないが、静かなたたずまいから幽観と称される<ref name="松島町史四大観"/>。 * '''偉観'''({{Coord|38|19|9.7|N|141|4|2.6|E|region:JP|name=偉観(多聞山より見る景色)}}):[[七ヶ浜町]]の代ヶ崎の多聞山からみる景色。標高55.6メートル。北方向に塩竈湾、さらに奥の松島湾、奥松島を眺める。東、西、北の修景地があるのに南を欠くのは惜しいと考えた舟山萬年が調査を重ねて付け加えた場所である<ref name="松島町史四大観"/>。 === その他の展望施設 === {{座標一覧|section=その他の展望施設}} 観光用の展望施設はないが、[[797年]]([[延暦]]16年)に[[征夷大将軍]]・[[坂上田村麻呂]]が絶賛した「長老坂」({{ウィキ座標|38|22|6.9|N|141|2|44.3|E|region:JP|地図|name=長老坂}}。現・[[宮城県道144号赤沼松島線]])からの眺望が古くから著名<ref>『宮城県利府町誌』</ref>。 その他の[[展望台]]としては、「[[西行]]戻しの松」({{Coord|38|21|59.4|N|141|3|10.5|E|region:JP|name=西行戻しの松公園}})、[[新富山]]({{Coord|38|22|32.1|N|141|3|49.4|E|region:JP|name=新富山}})、松島城(いわゆる天守閣風建築物)、塩竈と松島海岸一帯が望める「双観山」({{Coord|38|21|9.3|N|141|3|44.5|E|region:JP|name=双観山}})、扇谷<ref>[http://www.matsushima-kanko.com/miru/detail.php?id=135 四大観 幽観 扇谷] 松島観光協会(2018年10月8日閲覧)</ref>などがある。また、松尾芭蕉が松島に滞在した際に宿泊した熱田屋(瑞巌寺参道入口付近)の跡地にある商業施設の屋上が無料開放されている<ref>[http://www.kahoku.co.jp/news/2009/07/20090702t12029.htm 松島の観光拠点「玉手箱館」開店 物産と飲食施設]『[[河北新報]]』2009年7月2日</ref>。大観山は現在ホテルの敷地内であるため、ホテルの利用客しか入れない。 かつて松島湾を見晴らせる[[松島タワー]]があったが、解体された。 <gallery> ファイル:matsushima_otakamori08Dec07.jpg|(壮観)大高森の眺望 ファイル:Ootakamori_evening.JPG|(壮観)大高森の眺望 ファイル:matsushima_tomiyama10Mar07.jpg|(麗観)富山の眺望 File:MatsushimaYondaikanReikanView.JPG|(麗観)富山の眺望 File:MatsushimaYondaikanReikanObservatory.JPG|(麗観)富山の展望台 ファイル:matsushima_ogidani23Nov07.jpg|(幽観)扇谷の眺望 ファイル:matsushima_tamonsan11Feb07.jpg|(偉観)多聞山の眺望 ファイル:211030 Saigyo Modoshi no Matsu Park Matsushima Miyagi pref Japan01n.jpg|西行戻しの松公園の眺望 ファイル:Sokansan.JPG|双観山の眺望 ファイル:Matsushimajo.JPG|松島城展望台 ファイル:20091011松島.jpg|松島周辺の空撮 ファイル:View of Matsushima.jpg|五大堂の眺望 ファイル:Sea gulls at Matsushima.jpg|松島観光船と[[カモメ]] ファイル:Matsushima historical video tour - 2008-8-8.webm|2008年の松島 </gallery> === 雪月花 === [[File:Matsushima_with_moon.jpg|thumb|松島と月]] [[File:211030 Kanrantei Matsushima Miyagi pref Japan03s3.jpg|thumb|観瀾亭]] [[File:Saigyomatsu.jpg|thumb|西行戻しの松公園の桜]] 松島は[[月見]]の名所として著名で、画題にもなってきた<ref name="読売20210808"/>。松島の月は、[[14世紀]]には[[中国]]にも知られるほど著名で、[[元 (王朝)|元]]代の[[薩都剌|薩都拉]]がその著書『雁門集』において「雄島煙波松島月」と記している。 [[伊達政宗]]が[[豊臣秀吉]]から[[伏見桃山城]]にあった[[茶室]]を譲り受け[[江戸屋敷|江戸の藩邸]]に移築し、その後、仙台藩2代藩主[[伊達忠宗]]が松島に移させたこの建物は、松島遊覧に訪れる仙台藩の姫君や[[側室]]、あるいは[[江戸幕府]]の[[巡見使]]などの接遇、宿泊の場所として利用されると同時に月見の館としても利用され「月見御殿」と呼ばれた。後の5代藩主[[伊達吉村]]がこれに「観瀾亭」と名付けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.matsushima-kanko.com/miru/detail.php?id=144 |title=観瀾亭 |publisher=松島観光協会 |accessdate=2018-08-08 }}</ref>。 [[1643年]]([[寛永]]20年)には、[[儒学者]]・[[林鵞峰|林春斎]]がその著書『日本国事跡考』において、 「'''松島'''、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、与[[丹後国|丹後]]天橋立・[[安芸国|安芸]]厳島為三処奇観<ref>[http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i191/image/01/i191s0047.html 日本国事跡考(47頁/80頁)]([[京都大学]]附属図書館所蔵)</ref>」と記し、[[日本三景]]という括りが始まったとされるが、この日本三景の原典にも松島の月が出てくる。この原典もあって、日本三景に各々「[[雪月花]]」をあてる場合、松島には「月」があてられる。 17世紀後半になると、[[松尾芭蕉]]が[[延宝]]年間に「[[武蔵野]]の月の若生えや松島種」と詠んで松島の月に憧れ、『[[奥の細道]]』の冒頭でも「…松島の月先心にかゝりて…」と記して[[江戸]]を発っている。 [[1922年]]([[大正]]11年)[[12月3日]]、[[アルベルト・アインシュタイン]]が月見をするため松島を訪れた。[[東北本線]]で[[仙台駅]]から(初代)[[松島駅]]に到着し、[[松島電車]]([[路面電車]])に乗り換えて五大堂前[[電停]]に着いた頃には既に16時を過ぎ、[[十三夜]]の月が上っていた。それを見たアインシュタインは、「おお月が…おお月が…」と言ったまま絶句したという。その後、「どんな名工の技も、この美しさを残すことはできない」と同行者に言ったとされる。 以上のように、松島は「雪月花」の「月」があまりに有名で、[[松島温泉 (宮城県)|松島温泉]]も月見風呂をイメージ写真に使用している。「[[雪]]」については、年に数回積もる程度であるためほとんど見ることは出来ないが、積雪があるとプロの[[カメラマン]]のみならず、アマチュアの写真愛好家も集まってきて、主に[[五大堂]]越しの松島の雪景色をフレームに収めている。「[[花]]」については、展望台でもある「[[西行]]戻しの松」が[[桜]]の名所として著名である。西行戻しの松公園一帯には260本余の桜が植えられている。 === 遊覧船 === 松島には大小の[[遊覧船]]が就航しており、船上より島々を眺めることができる。船上から[[カモメ]](主に[[ウミネコ]])に餌やりをするのが名物になっていたが、糞害により松が枯れ始めた事から2014年4月1日より湾内での餌やりは禁止となった。 大型遊覧船の航路は松島港発着で松島湾内や奥松島を巡るものが中心だが、[[塩釜港]]と松島港とを繋ぐ航路もある。小型船の航路は、奥松島遊覧船桟橋を発着して嵯峨渓を巡る観光航路と、主に塩釜港発着で湾内の小島へ渡る連絡船航路がある。日本三大渓といわれる奥松島の嵯峨渓には[[暗礁]]が多くあるため、大型遊覧船では遠巻きにしか見られないが、小型船だと近づけるため波の静かな日には海食洞をくぐることが出来る場合がある。その他に季節運航でディナークルーズ([[仙台港]]発着もある)、サンセットクルーズ、ナイトクルーズ、[[かき鍋]]クルーズなどがある。 江戸時代には仙台[[城下町|城下]]と海運の拠点港がある[[石巻市|石巻]]とを繋ぐ[[石巻街道]]があったが、このうち塩釜港から石巻港の間を船で繋ぐ航路は「松島海道」と呼ばれた。[[松尾芭蕉]]が[[奥の細道]]で塩竈から松島へ舟で渡ったとの記述があるが、これは「松島海道」の一部に乗船したものと考えられている。 2011年3月11日の[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による[[津波]]で[[桟橋|浮桟橋]]4基や小型の遊覧船の多くが流出する被害を受けたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001104270002 |title=松島の観光船、一部再開 29日から |publisher=[[朝日新聞]] |date=2011-04-27 |accessdate=2011-04-30 }}</ref>同年4月29日に遊覧船の運航が再開された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110429-OYT1T00805.htm |title=日本三景・松島の遊覧船、運航再開 |publisher=読売新聞 |date=2011-04-30 |accessdate=2011-04-30 }}</ref>。 === 遊覧飛行 === [[仙台空港]]({{Coord|38|8|21.6|N|140|55|42.9|E|region:JP|name=仙台空港}})発着の遊覧飛行も存在している。セスナ機またはヘリコプターで、仙台および松島の上空を巡るコースがいくつか設定されている。松島灯籠流し花火大会を上空から見ることも可能。 == 文化 == === 文芸 === [[ファイル:Togetsukyō Bridge in Ojima 2008.jpg|thumb|島名が[[歌枕]]として知られる雄島。右に見える長さ約20メートルの赤い橋「渡月橋」は東北地方太平洋沖地震によって流失し<ref name="jiji20110319" />、2013年7月に再建された<ref>[http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20130702_03.htm 松島観光の発展つなごう 津波で流失、渡月橋復活」]『河北新報』2013年7月2日</ref>。]] 松島は[[平安時代]]から[[和歌]]の[[歌枕]]としてしばしば用いられた。[[源重之]]による「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」が松島を詠んだ初めての歌とされる。源重之は[[陸奥国]](松島を含む現在の[[東北地方]]東側)に下向した人物であるから、実際に松島の景色を見た上でこの歌を詠んだのかもしれない。ただし一般的には、松島に限らず地名としての歌枕は観念上のものであり、実際の景色を見ていたかどうかは問題ではなかった<ref name="松島町史文芸">『松島町史』(通史編2)218-219頁</ref>。 [[鎌倉時代]]になると、実際の松島の風景について記述する文献が登場する。[[虎関師錬]]の『[[元亨釈書]]』には「其地東溟之浜、小嶼千百数、曲州環浦奇峰異石、天下之絶境也。」と記されている。[[室町時代]]には、松島を実際に訪れた[[道興]]が『廻国雑記』においてこれを言及している。しかし、こうした事例も僅かな旅人による特殊な事例であり、松島が名勝地として知れ渡るのは仙台藩[[伊達氏]]によってここが保護、整備される江戸時代以降である<ref name="松島町史文芸"/>。 江戸時代に松島を世に知らしめた俳人の先達として、[[大淀三千風]]がいる。三千風は1669年([[寛文]]9年)から1687年([[貞享]]4年)の間、雄島の庵室に長く留まった[[伊勢国|伊勢]]出身の俳人で、仙台や塩竈、石巻の歌名所の整備に尽力した人物でもある。三千風は『松島両吟集』や『金花山両吟集』を著し、さらに俳人500名から松島についての俳句を募り、これを編んで1682年([[天和 (日本)|天和]]2年)に『松島眺望集』を出版した。『松島眺望集』では編纂した俳句の他に、島92箇所、崎33箇所、浦21箇所を含む松島の約200箇所を見所として紹介している。この後、1689年([[元禄]]2年)に松尾芭蕉が松島を訪れ、他にも[[西山宗因]]、[[加舎白雄]]、[[大島蓼太]]、[[小林一茶]]などの俳人達が松島を訪れた<ref name="松島町史文芸"/>。 * [[源重之]] 「松島や [[雄島 (松島町)|雄島]]の磯に あさりせし [[海人|あま]]の袖こそ かくは濡れしか」(『[[後拾遺集]]』) *:雄島は松島湾内に浮かぶ霊場の島。 * [[殷富門院大輔]] 「見せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変わらず」(『[[千載和歌集]]』恋四884) *:[[百人一首]]の90番の歌。上記の重之の歌を[[本歌取]]して読まれた句である。 * [[伊達政宗]] 「いづる間も ながめこそやれ [[みちのく|陸奥]]の 月まつ島の 秋のゆふべは」 *:著名な松島の月を詠んだ歌。「月'''待つ'''」と「'''松'''島」が[[掛詞]]となっている。 * 伊達政宗 「心なき 身にだに月を 松島や 秋のもなかの 夕暮れの空」 * 伊達政宗 「所がら 類はわけて 無かりけり 名高きつきを 袖に松島」 * 伊達政宗 「松島や 雄島の磯の 秋の空 名高き月や 照りまさるらん」 * [[松尾芭蕉]] 「島々や 千々にくだきて 夏の海」 * [[田原坊]] 「松島や さて松島や 松島や」 *:この句は松尾芭蕉が『[[奥の細道]]』で松島を訪れた際に、あまりに絶景なので句が浮かばず、「松島や ああ松島や 松島や」という句を詠んだという[[逸話]]とされて紹介されることもあるが、[[1821年]]([[文政]]4年)に出版された桜田周甫の『松島(嶋)図誌』に田原坊の句とともに芭蕉が松島で句が詠めなかったという逸話とともに掲載されたため、混同された可能性がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000204432 |title=レファレンス共同データベース |publisher =[[国立国会図書館]] |accessdate=2019-12-09}}</ref>。小説家の[[司馬遼太郎]]は、[[紀行|紀行集]]『[[街道をゆく]]』「仙台・石巻」にて、「松島や ああ松島や 松島や」の句が芭蕉作として松島の看板などの観光資料に記されていることに対し、松島の観光関係者を批判している。 * [[河合曾良]] 「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」(『奥の細道』) * [[日本舞踊]]・[[常磐津節]]『岸漣漪常磐松島(松島)』 === 美術 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- |[[File:Plate with Matsushima Bay Design, c. 1680-1700, Arita, hard-paste porcelain with overglaze enamels - Gardiner Museum, Toronto - DSC00385.JPG|center|165px]] |[[File:Yōshū Chikanobu Matsushima in Rikuzen Province.jpg|center|220px]] |[[File:Godaido at Matsushima by Takahashi Yuichi.jpg|center|320px]] |- |[[有田焼]]の松島のデザイン<br />([[1680年]]~[[1700年]]頃)<!--[[カナダ]]・{{仮リンク|ガーディナー博物館|en|Gardiner Museum}}所蔵--> |[[楊洲周延]]『名勝美人会 陸前 松島』<br />([[1897年]]~[[1898年]]頃)<ref>[http://jp.japanese-finearts.com/item/list2.php?number=A1-89-303-03&spid=S5460519b43f0d 名勝美人会 陸前 松島](秋華洞)</ref> |[[高橋由一]]『松島五大堂図』<br />([[明治時代]]、県指定有形文化財)<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/ken-03godaidou.html 松島五大堂図](宮城県)</ref> |} === 信仰 === 松島は[[明治時代]]以前、[[極楽浄土]]への[[往生]]や死者の[[冥福]]を祈る人が訪れる[[霊場]]でもあり、遺骨の一部を雄島へ納める風習も明治初期まであった<ref name="読売20210808"/>。 == 指定など == * [[日本三景]]([[1643年]]([[寛永]]20年)) * 宮城県立自然公園松島([[1902年]]([[明治]]35年)9月) * 国の[[文化財]]([[特別名勝]])([[1952年]]([[昭和]]27年)[[11月22日]]) * [[新日本旅行地100選]]([[1966年]](昭和41年)11月) * [[国際観光モデル地区]]([[1986年]](昭和61年)[[3月24日]]) * [[日本の白砂青松100選]]([[1987年]](昭和62年)[[1月10日]]) * [[新日本観光地100選]](1987年(昭和62年)3月) * [[日本の都市公園100選]]([[1989年]]([[平成]]元年)[[7月28日]]) * [[日本遺産・百選]]([[2002年]](平成14年)[[9月15日]]) * [[日本の地質百選]]([[2007年]](平成19年)5月) * [[平成百景]]([[2009年]](平成21年)4月) * [[世界で最も美しい湾クラブ]]([[2013年]](平成25年)[[12月6日]])<ref>[http://www.town.miyagi-matsushima.lg.jp/index.cfm/8,13247,31,html 日本初! 松島湾が『世界で最も美しい湾クラブ』に加盟](松島町)</ref><ref>[http://www.world-bays.com/ the Most Beautiful Bays in the World Club]</ref> 各指定の範囲は松島湾に面する自治体であるが、「仙台・松島国際観光モデル地区」は松島湾に面していない[[仙台市]]や[[多賀城市]]も加わる<ref>仙台・松島国際観光モデル地区の区域は仙台市、塩釜市、多賀城市、秋保町、松島町、七ヶ浜町、宮城町、利府町、鳴瀬町(以上[[1986年]](昭和61年)3月指定当時)である。現在の仙台市のうち1988年に秋保町とともに編入された旧[[泉市]](現・市内[[泉区 (仙台市)|泉区]])や、東松島市のうち2005年に鳴瀬町と合併し廃止した旧[[矢本町]]は含まれていない。</ref><ref>[https://www.pref.miyagi.jp/site/kankou/course.html 宮城県観光のあゆみ] - 宮城県</ref>。 「日本遺産・百選」では「仙台・松島」が範囲である。 松島の一部が指定されているものには以下のものがある。 * [[日本の渚百選]]「奥松島」(1996年(平成8年)) * [[遊歩百選]]「奥松島[[嵯峨渓]]」(2002年(平成14年)) * [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]]「塩釜から松島へ・絶景のみち」(2004年(平成16年)12月27日) == 周辺 == {{座標一覧|section=周辺}} 松島湾の沿岸には[[東松島市]]、[[松島町]]、[[利府町]]、[[塩竈市]]、[[七ヶ浜町]]の5つの市町がある。 === 東松島市 === 松島湾東部に位置する東松島市の[[宮戸島]]({{Coord|38|20|6.7|N|141|9|10.6|E|region:JP|name=宮戸島}})や[[野蒜海岸]]({{Coord|38|22|11.6|N|141|9|54.7|E|region:JP|name=野蒜海岸}})一帯の地区が奥松島とも呼ばれている。日本三大渓の嵯峨渓({{Coord|38|19|25.4|N|141|10|39.9|E|region:JP|name=嵯峨渓}})への観光船発着港がある。野蒜海岸は波の静かな浜辺で夏場は海水浴場として賑わう。竹浜という[[鳴き砂]]の浜辺もあるが、保全のため立ち入り制限されている。[[宮城県道27号奥松島松島公園線]](奥松島パークライン)が、海岸沿いを走るドライブコースとして知られると共に、例年、体育の日に[[松島ハーフマラソン大会]]の開催コースとされている。[[陸繋島]]の宮戸島には[[里浜貝塚]]({{Coord|38|20|9.9|N|141|8|45.2|E|region:JP|name=里浜貝塚}})という貝塚がある。里浜貝塚は、[[縄文時代]]前期(約6,000年前)から[[弥生時代]]初めまでの約4,000年間の遺跡で、貝塚は島の標高20-40メートルの高台に位置している。 === 松島町 === 松島町は松島湾の北部に当たる。[[百人一首]]にも詠まれた霊場の島・[[雄島 (松島町)|雄島]]({{Coord|38|21|54.5|N|141|3|44.8|E|region:JP|name=雄島}})、[[伊達政宗]]が再興した[[瑞巌寺]]({{Coord|38|22|19.7|N|141|3|35.3|E|region:JP|name=瑞巌寺}})、「バラ寺」の通称がある[[円通院 (宮城県松島町)|円通院]]({{Coord|38|22|16.6|N|141|3|34.6|E|region:JP|name=円通院}})、[[五大堂]]({{Coord|38|22|10.8|N|141|3|50.4|E|region:JP|name=五大堂}})などの寺院、[[伊達家]]の迎賓館であり[[月見]]のための施設でもある観瀾亭(月見御殿。{{ウィキ座標|38|22|9.4|N|141|3|41.5|E|region:JP|地図|name=観瀾亭(月見御殿)}})などの歴史的建造物や、湾内遊覧船の発着港の松島港がある。また、土産屋、飲食店、宿泊施設などが立ち並ぶ。[[2008年]](平成20年)には[[松島温泉 (宮城県)|松島温泉]]が開湯した。普通車310台駐車可能で無料の町営三十刈駐車場(ちょうえいさんじゅうがりちゅうしゃじょう)がある。 === 利府町 === 利府町の浜田地区が松島湾西部に面している。仙石線の[[陸前浜田駅]]がある。 === 塩竈市 === 塩竈市は松島湾の南西部に当たる。塩竈湾は、古くは[[陸奥国|陸奥]][[国府]]・[[多賀城]]({{Coord|38|18|23.9|N|140|59|18|E|region:JP|name=陸奥国府・多賀城}})の外港、江戸時代以降は仙台城下({{Coord|38|15|36.9|N|140|52|14.5|E|region:JP|name=仙台城下町の中心部「芭蕉の辻」}})の外港だった。[[平城京]]政府、[[奥州藤原氏]]、[[伊達氏]]など、この地を治めた統治者によって保護されてきた[[鹽竈神社]]({{Coord|38|19|7.6|N|141|0|45.2|E|region:JP|name=鹽竈神社}})や、松島湾内の遊覧船、[[桂島 (宮城県)|桂島]]({{Coord|38|20|2.8|N|141|5|44.5|E|region:JP|name=桂島}})、[[寒風沢島]]({{Coord|38|19|58.2|N|141|7|24.3|E|region:JP|name=寒風沢島}})などへの離島航路の発着港の[[塩釜港]]がある。塩釜港は近海[[マグロ]]が多く水揚げされることもあって寿司屋が集中している。夏季には[[塩竈みなと祭]]が催される。 === 七ヶ浜町 === 松島湾の南部の七ヶ浜町には、宮城県で最も利用客が多い海水浴場である[[菖蒲田海水浴場|菖蒲田浜]]({{Coord|38|17|20.4|N|141|3|55.6|E|region:JP|name=菖蒲田海水浴場}})、県内有数の[[ヨットハーバー]]である[[小浜港 (宮城県)|小浜港]]、[[高山外国人避暑地]]({{Coord|38|17|40.7|N|141|4|48.2|E|region:JP|name=高山外国人避暑地}})と[[七ヶ浜国際村]]({{Coord|38|17|53.8|N|141|4|3.7|E|region:JP|name=七ヶ浜国際村}})、[[鼻節神社]]({{Coord|38|17|45.3|N|141|5|5.3|E|region:JP|name=鼻節神社}})などがある。 <gallery> ファイル:NobiruBeach.jpg|奥松島の野蒜海岸 ファイル:Sagakei2.jpg|日本三大渓のひとつ嵯峨渓 ファイル:Hanabushi Shrine.jpg|鼻節神社 ファイル:Takayama Summer Resort for non-Japanese viewed from Azukihama Beach.JPG|高山外国人避暑地と小豆浜サーフスポット ファイル:Amphitheatre of Shichigahama Kokusai-mura 1.JPG|七ヶ浜国際村のアンフィシアター ファイル:Plymouth House at Shichigahama Kokusai-mura.JPG|七ヶ浜国際村にあるプリマスハウス ファイル:Kobama yacht.jpg|小浜港に係留されたヨット </gallery> == 東日本大震災の影響 == [[2011年]][[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])とその直後に襲来した大[[津波]]によって、島の文化財の一部が破損するなどの被害が発生したが、周辺の自治体と比較して被害は軽微で済んでいる。その理由として、津波は浅い海に入ると速度が落ちて急激にエネルギーを失うのと、[[浦戸諸島]]が防波堤の役割を果たし、津波の勢いを弱めたと見られている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110323-OYT1T00077.htm 「松島が守ってくれた」対岸の町、死者1人]『読売新聞』2011年3月23日</ref><ref>{{Cite news|title=名勝・松島の復旧に力 ボランティア続々集結|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110323t15072.htm |date=2011-03-23|accessdate=2011-3-23}}</ref>。 松島は国の[[特別名勝]]に指定されており、管理団体である宮城県によって「特別名勝松島保存管理計画」が策定されている。[[文化財保護法]]および前述の保存管理計画に基づき、特別名勝「松島」指定区域内の保護地区において現状変更(建築物の新築等)を行う際には、宮城県教育委員会および文化庁長官の許可が必要になる<ref>[https://www.shichigahama.com/benricho/otoiawase/b53-010.html 特別名勝「松島」の現状変更と埋蔵文化財に関する手続きについて](七ヶ浜町サイト)</ref><ref>[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16124.pdf 「特別名勝松島保存管理計画」](宮城県サイト)</ref>。高台での建物新築も現状変更にあたるが、[[東日本大震災]]による被害により住民から高台への移転要望が高まったため、宮城県が[[文化庁]]に規制緩和を求め協議の結果、その方向で検討されることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110430-OYT1T00166.htm |title=松島の周辺、高台での住宅建設緩和へ…文化庁 |publisher=読売新聞 |date=2011-04-30 |accessdate=2011-04-30 }}</ref>。今後、宮城県と指定範囲の[[塩竈市]]、[[東松島市]]、[[松島町]]、[[七ヶ浜町]]、[[利府町]]などで協議を進めていく方針<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110430t11029.htm |title=「松島」保護・復興を両立 宮城県、5市町と近く検討会 |publisher=河北新報]|date=2011-04-30 |accessdate=2011-04-30 }}</ref>。 また文化庁は、松島における「がれき処理施設」の建設も特例で許可することとなった(2014年3月までの限定許可。周囲の景観に対して施設の色・形状を配慮するなどの制約のもと)<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140804063234/http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011052101000310.html |title=文化庁、「松島」に処理施設許可 震災特例で|publisher=[[共同通信]] |date=2011-05-21 |accessdate=2011-05-27 }}</ref>。 == 交通 == 仙台からの行き方。仙台側(南側)から列挙。 ; 塩竈へ * 鉄道:[[東日本旅客鉄道|JR]][[仙石線]]・[[本塩釜駅]]下車。 ; 松島へ * 鉄道:JR仙石線・[[松島海岸駅]]下車。 *: [[仙台駅]] - 松島海岸駅:22.7[[キロメートル|km]]、[[普通列車]]約40分、400[[円 (通貨)|円]] * 高速道路: [[三陸沿岸道路|三陸自動車道]]・[[松島海岸インターチェンジ|松島海岸IC]]より[[宮城県道144号赤沼松島線]](長老坂)を通って約3km * 一般道: [[国道45号]]沿い([[勾当台公園]]の国道45号始点から27km、55分<ref>[http://www.thr.mlit.go.jp/road/koutsu/jikoku/route045.html 東北のみち情報]([[国土交通省]][[東北地方整備局]]道路部)</ref>) *: 仙台市内から松島へは塩竈を迂回する[[宮城県道8号仙台松島線|利府街道]]および長老坂経由の方が距離的には近いが、景色がよくないうえ、休日は長老坂周辺で渋滞に巻き込まれる。国道45号経由でも渋滞するが、途中塩竈の風景を見ながら松島に着くことができる。 ; 奥松島へ * 鉄道: JR仙石線・[[野蒜駅]]下車。 * 高速道路: 三陸自動車道・[[鳴瀬奥松島インターチェンジ|鳴瀬奥松島IC]] JR[[東北本線]]の[[一ノ関駅|一ノ関]]・[[小牛田駅|小牛田]]方面からは、[[塩釜駅]]で[[仙石東北ライン]]に乗り換え(または松島駅で途中下車し、[[高城町駅]]まで徒歩連絡)、高城町駅で仙石線普通列車に乗り換えて松島海岸駅もしくは野蒜駅へ向かう。 また、[[仙台空港]]から松島・奥松島へは、松島・[[平泉]]直行バス([[岩手県北自動車|岩手県北バス]])の利用も可能。 == 日本国内の松島 == 松島は、「海面上、湖上の松が茂っている単独の島」という[[一般名詞]]でもあるため、それが[[固有名詞]]化するなどして、日本各地に「松島」という地名がある。「[[松島 (曖昧さ回避)]]」参照。他方、宮城県の松島と似た、海面上や湖上に大小様々な島や岩が散在する風景を「○○の松島」などともいう(類例:[[銀座]])。この場合、島の頭部に生えている木が松でなくともよく、場合によっては木が生えていなくともよい。 * 日本三大松島 ** 松島(宮城県) ** [[九十九島 (西海国立公園)|九十九島]]([[長崎県]]) ** [[天草松島]]([[熊本県]]) * [[大沼 (七飯町)|大沼]]([[湖]]の松島)([[北海道]]) * [[五浦海岸]](関東の松島)([[茨城県]])<ref>「日研」新聞編集委員会 編『茨城108景をめぐる』川崎松濤 監修、[[筑波書林]]、平成3年9月20日、219pp.(4ページより)</ref> * [[鴨川松島]]([[千葉県]]) * [[堂ヶ島]]([[伊豆国|伊豆]]の松島)([[静岡県]]) * [[篠島]]([[東海道|東海]]の松島)([[愛知県]]) * [[鳥羽湾]]([[志摩国|志摩]]の松島)([[三重県]]) * [[東尋坊]]([[越前国|越前]]松島)([[福井県]]) * [[丹後松島]]([[京都府]]) * [[香住海岸]]の磯の松島、沖の松島([[兵庫県]]) * [[但馬御火浦]]の田井の松島、三尾ノ松島(兵庫県) * [[紀の松島]]([[和歌山県]]) * [[浦富海岸]]の千貫松島([[山陰地方|山陰]]の松島)([[鳥取県]]) * [[出雲松島]]([[島根県]]) * [[須佐湾]](西の松島)([[山口県]]) * [[橘湾 (徳島県)|橘湾]]([[阿波国|阿波]]の松島)([[徳島県]]) * [[松島 (長崎県)|瀬戸の松島]](長崎県) * [[日向松島]]([[宮崎県]]) * [[薩摩松島]]([[鹿児島県]]) * [[羽地内海]](沖縄の松島)([[沖縄県]]) {{要出典範囲|ただし、同様な風景である[[三重県]]の[[英虞湾]]は、「松島」と言われることを非常に嫌う傾向がある。|date=2021年6月}} {{要出典範囲|なお、各地にある「[[松島温泉]]」という名称の[[温泉]]では、宮城県の松島との混同を防ぐため、「○○松島温泉」(「○○」は地域名など)という名称も併用している。|date=2021年6月}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * 松島町史編纂委員会『松島町史』(通史編2) 松島町、1991年。 * 宮城縣史編纂委員会『宮城縣史』復刻版5(地誌交通史)宮城県、1987年。 * 宮城縣史編纂委員会『宮城縣史』復刻版16(観光)宮城県、1987年。 == 関連項目 == * [[宮城県の観光地]] * [[日本三大一覧]] * [[斎太郎節]] * [[象潟]](東の松島、西の象潟) * [[松島パークホテル]] * [[松島 (防護巡洋艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[防護巡洋艦]]。[[松島型防護巡洋艦]]の[[ネームシップ]]。艦名は本諸島に因む。 * [[天橋立]] - 同じく日本三景の一つ。 * [[厳島]] - 同上。 * [[閉鎖性水域]] * 県立自然公園松島 - {{Wikidata+icon|Q6788200|y}} == 外部リンク == {{Sisterlinks |commonscat=Matsushima (Matsushima Bay) |v=no |voy=Matsushima }} * [https://www.matsushima-kanko.com/ 日本三景松島] - 松島観光協会 <!-- リンク切れ** [http://www.matsushima-kanko.com/midokoro/nihonsankei/shidaikan.html 松島四大観]--> * [http://www.okumatsusima.jp/ 奥松島公社] * [https://www.town.miyagi-matsushima.lg.jp/ 松島町] * [https://www.city.shiogama.miyagi.jp/life/4/32/161/ 塩竈市観光情報] * [https://www.okumatsushima-kanko.jp/ 東松島市観光物産協会] * [https://www.emecs.or.jp/upload/encsea/kaiiki/040.pdf 日本の閉鎖性海域 松島湾] * [https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/182 国指定文化財 データベース] - 文化庁 * [http://www.satohama-jomon.jp/ 奥松島縄文村歴史資料館] * [https://sites.google.com/view/sendaiwan/ 仙台湾貝塚の基礎的研究―後藤勝彦の考古学―] * {{Cite journal|和書|author=小川功 |title=日本三景・松島の観光振興と旅館経営者 : -大宮司雅之輔による観光鉄道への関与を中心として- |journal=跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 |issn=13481118 |publisher=[[跡見学園女子大学]] |year=2010 |month=mar |issue=9 |pages=1-24 |naid=110007523543 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テスカトリポカ
テスカトリポカ(Tezcatlipoca)は、アステカ神話における主要な神の一つである。大熊座の神であり、夜空の神であり、アステカ民族の神殿に祀られた。 神々の中で最も大きな力を持つとされ、キリスト教の宣教師たちによって悪魔とされた。Tezcatlipoca は、ナワトル語で tezcatl (鏡)、poca (煙る)という言葉から成り、従ってその名は「煙を吐く鏡」を意味する。鏡とは、メソアメリカ一帯で儀式に使用された黒曜石の鏡のことを示す。 その神性は、夜の空、夜の風、北の方角、大地、黒耀石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている。この神の持つ多くの別名は神性の異なる側面を示している。Moyocoyani (モヨコヤニ、全能者)、Titlacauan (ティトラカワン、我らは彼の奴隷)、Ipalnemoani (イパルネモアニ、我らを生かしている者)、Necoc Yaotl (ネコク・ヤオトル、両方の敵)、Tloque Nahuaque (トロケ・ナワケ、近くにいる者傍らにいる者の王)、 Yohualli Ehecatl (ヨワリ・エエカトル、夜の風)、Ome acatl (オメ・アカトル、2の葦)、Ilhuicahua Tlalticpaque (イルウィカワ・トラルティクパケ、天と地の所有者)などである。 赤、青、白、黒の4兄弟神があり、それぞれテスカトリポカと呼ばれるが、黒神が特にこの名で呼ばれている。眼には見えず、夜、猫の姿をかりて徘徊する。また火の発明者、太陽神、強酒の発見者などともいわれ、人間のいけにえを求めたともいわれる。 通常テスカトリポカは、身体は黒く、顔に黒と黄色の縞模様を塗った姿として描かれ、しばしば右足が黒耀石の鏡か蛇に置き換わった姿で表現される。これはアステカの創世神話において大地の怪物と戦い、右足を失ったことを表している。時として胸の上に鏡が置かれ、鏡から煙が生じている様子で描かれる場合もある。 テスカトリポカのナワルはジャガーであり、神性のジャガー的な側面が Tepeyollotl (テペヨロトル、山の心臓)という神とされる。 アステカの祭祀暦であるトナルポワリ暦でテスカトリポカはトレセーナ「1のオセロトル(ジャガー)」を司り、またアカトル(葦)の日の支配者である 。 テスカトリポカの姿はオルメカ人やマヤ人に信仰された初期のメソアメリカの神々を思い起こさせる。いくつかの類似点が、マヤ神話の『ポポル・ヴフ』に書かれたキチェ族の神に存在する。ポポル・ヴフの中心的な神は、トヒル という黒耀石を意味する名であり、生贄を要求する神であった。また、古典期マヤの統治と雷の神である「神K」は、煙を出す黒耀石のナイフを額につけ、片足が蛇に置き換わった姿で描かれている。 テスカトリポカはしばしば、アステカの文化英雄である神ケツァルコアトルのライバルとされる。創世神話の一つ「5つの太陽」において、 最初の世界はテスカトリポカが太陽として支配していたが、52年周期が13回経過した(676年)後、ケツァルコアトルによってテスカトリポカは大きな棒で殴られ水の中に放り込まれ、太陽の座を交代した。そこで彼はジャガーに変身して水から飛び出し、世界に住んでいた巨人を皆殺しにしてしまった。 2番目の世界はケツァルコアトルが太陽として支配したが、52年周期が13回経過した(676年)後、ジャガーに変身したテスカトリポカが現れケツァルコアトルを蹴り、太陽の座から追い落とした。この世界に住んでいた者たちを強い風が運び去り、一部の残った者も猿に変身させられた。 3番目の世界はトラロックが太陽として支配したが、52年周期が7回経過した(364年)後、ケツァルコアトルが天から火の雨を降らせ、トラロックを太陽の座から引き摺り下ろした。 4番目の世界はチャルチウィトリクエが太陽として支配したが、大洪水によりこの世界に住む者は流され魚に姿を変えられた。今の世界は第5の世界に当たる。 別の創世神話においては、テスカトリポカ、ケツァルコアトル、ウィツィロポチトリ、シペ・トテックの4人の神が世界を創世したとされた。彼らはそれぞれ黒、白、青、赤のテスカトリポカと言われた。4人のテスカトリポカは、男女の二元性を表す始原神オメテクトリとオメシワトルの息子であり、世界と人と同様に、他の全ての神の創造者である。 ケツァルコアトルとテスカトリポカの対立関係は、テスカトリポカがケツァルコアトルを騙し、トゥーラの支配者の地位から追いやったトピルツィン・ケツァルコアトルの伝説においても語られている。しかし、興味深いことはケツァルコアトルとテスカトリポカは共同で異なるものを創造し、両者とも生命の創造に関与したと見られることである。メソアメリカ地域宗教の専門家カール・タウベとメアリ・ミラーは、「何よりもテスカトリポカは衝突を通じての変化を具現化した存在である」と説明している。 テスカトリポカは『ボルジア絵文書』(en)の最初のページにトナルポワリ暦における20日の象徴を身につけた姿で表されている。コスピ絵文書では闇の精霊とされ、ラウド絵文書でも同様である。テスカトリポカ信仰は王権と関連付けられる。王の儀式において最も長く最も敬虔な祈りの対象であり、即位の演説の際にしばしば言及されたほどである。テスカトリポカの神殿はテノチティトランの祭祀区域のなかにあったとされる。 テスカトリポカの祭祀は、アステカ太陽暦の5番目の月である Toxcatl (トシュカトル、乾燥)の期間に行われた。祭りの準備は1年前から行われ、神官によってテスカトリポカによく似た若い男性が選ばれた。祭りまでの一年間、男性は宝石を身につけ8人の従者をつけられ、神のような生活を送った。最後の1週間に歌い踊り大いに食べ、4人の若い女性と結婚した。祭り当日、男性は神本人の如く崇められ、自ら神殿の階段を昇り、神官はその胸を切り裂き心臓を取り出し太陽への生贄とした。生贄の死の直後、翌年の祭りのために新しい犠牲者が選ばれた。9番目の月の祭りである Miccailhuitontli (ミッカイルウィトントリ、死の小祝宴) 、15番目の月の祭りである Panquetzaliztli (パンケツァリストリ、旗の掲揚)においても祭られた。 大英博物館に、テスカトリポカを表したと考えられる人間の頭蓋骨を基材にした黒曜石と翡翠のモザイクのマスクが所蔵されている。マスクは1400年から1521年の間に製作されたと見られる。メキシコで発見され、1860年代にヘンリー・クリスティによって大英博物館に寄付された。モザイクのはめ石はターコイズと亜炭で作られ、その目は貝のリングと黄鉄鉱でできている。それらは30歳代と見られる人間の頭蓋骨の上に直接配置された。歯は頭蓋骨そのままのものだが、上前歯4本が無くなっている。頭蓋骨の後ろの部分は切断され、革が張られていた。頭蓋骨と顎の部分は革でつながれており、動かすことができる。大きさは高さ19.5センチメートル、幅12.5センチメートルである。おそらく着用者の腰の部分につけられたと思われる。マスクの発見場所は知られていないが、高位の神官か皇帝自身が使用したと考えられている。 アステカ創造神話の一つに、テスカトリポカとケツァルコアトルが力をあわせて世界を創造したという伝説がある。創世が行われる前には、2神の前には海しかなく、Cipactli (シパクトリ、ワニの女神)と呼ばれる大地の怪物がいた。怪物をひきつけるためにテスカトリポカは自らの足を餌にし、怪物はその足を食らった。2神は怪物を捕らえ、その身体から大地を作った。その後、人間が創造され、人々はシパクトリの苦痛を慰めるため生贄を捧げることになった。この伝説によって、テスカトリポカは片足がない姿で表される。 一方で他の創世神話において、テスカトリポカが太陽として世界を支配することになったが、ケツァルコアトルは宇宙を敵に支配されることに我慢ができず、テスカトリポカを打ちのめし空から追いやった。怒ったテスカトリポカはジャガーに姿を変え、世界を滅ぼした。ケツァルコアトルは太陽の座をテスカトリポカと替わり、世界の2番目の時代を開始する。 テスカトリポカはケツァルコアトルを打ち倒し、テスカトリポカの送った強風は世界を荒廃させ、生き残った人間は猿に変身させられた。雨の神トラロックが3番目の時代の世界の太陽となったが、ケツァルコアトルが世界を再び滅ぼす火を送り、生き残った人間は鳥に変身させられた。4番目の時代の世界は水の女神チャルチウィトリクエが太陽となったが、大洪水に破壊され、生き残った人間は魚に姿を変えられた。
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テスカトリポカ(Tezcatlipoca)は、アステカ神話における主要な神の一つである。大熊座の神であり、夜空の神であり、アステカ民族の神殿に祀られた。
{{Otheruses|Yayauhqui Tezcatlipoca(ヤヤウキ・テスカトリポカ、黒いテスカトリポカ)|Tlatlauhqui Tezcatlipoca(トラトラウキ・テスカトリポカ、赤いテスカトリポカ)|カマシュトリ}} {{Otheruses|アステカ神話におけるテスカトリポカ|佐藤究による長編小説『テスカトリポカ』|テスカトリポカ (小説)}} [[ファイル:Black Tezcatlipoca.jpg|thumb|right|300px|黒いテスカトリポカ(『ボルジア絵文書』)。]] '''テスカトリポカ'''('''Tezcatlipoca''')は、[[アステカ神話]]における主要な神の一つである。[[大熊座]]の神であり、夜空の神であり、アステカ民族の神殿に祀られた。 == 概要 == 神々の中で最も大きな力を持つとされ、キリスト教の宣教師たちによって[[悪魔]]とされた。'''Tezcatlipoca''' は、[[ナワトル語]]で '''tezcatl''' (鏡)、'''poca''' (煙る)という言葉から成り、従ってその名は「'''煙を吐く鏡'''」を意味する。鏡とは、[[メソアメリカ]]一帯で儀式に使用された[[黒曜石]]の鏡のことを示す。 [[ファイル:Tepeyollotl 1.jpg|thumb|left|300px|テスカトリポカの化身の一つ「[[テペヨロトル]]」。]] その神性は、夜の空、夜の風、北の方角、大地、黒耀石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている。この神の持つ多くの別名は神性の異なる側面を示している。'''Moyocoyani''' (モヨコヤニ、全能者)、'''Titlacauan''' (ティトラカワン、我らは彼の奴隷)、'''Ipalnemoani''' (イパルネモアニ、我らを生かしている者)、'''Necoc Yaotl''' (ネコク・ヤオトル、両方の敵)、'''Tloque Nahuaque''' (トロケ・ナワケ、近くにいる者傍らにいる者の王)<ref>意訳して「天と地の所有者」と解釈する説もある。テスカトリポカ以外の神にも用いられる。</ref>、 '''Yohualli Ehecatl''' (ヨワリ・エエカトル、夜の風)<ref>9柱の夜の神のうち、'''Ehecatl''' (エエカトル、風)の時間を司る神が '''Itztli''' ([[イツトリ]]、黒曜石)である。姿は黒いテスカトリポカと同一である。</ref>、'''Ome acatl''' (オメ・アカトル、2の葦)<ref>Omacatl(オマカトル)とも書く。別の神と見なす説もある。</ref>、'''Ilhuicahua Tlalticpaque''' (イルウィカワ・トラルティクパケ、天と地の所有者)<ref>トロケ・ナワケ同様、他の神にも用いられる。</ref>などである。 赤、青、白、黒の4兄弟神があり、それぞれテスカトリポカと呼ばれるが、黒神が特にこの名で呼ばれている。眼には見えず、夜、猫の姿をかりて徘徊する。また火の発明者、太陽神、強酒の発見者などともいわれ、人間のいけにえを求めたともいわれる。 通常テスカトリポカは、身体は黒く、顔に黒と黄色の縞模様を塗った姿として描かれ、しばしば右足が黒耀石の鏡か蛇に置き換わった姿で表現される。これはアステカの創世神話において大地の怪物と戦い、右足を失ったことを表している。時として胸の上に鏡が置かれ、鏡から煙が生じている様子で描かれる場合もある。 テスカトリポカの[[ナワル]]は[[ジャガー]]であり<ref>Nahual は「匿われた者」の意。魔術使いの動物</ref>、神性のジャガー的な側面が '''Tepeyollotl''' ([[テペヨロトル]]、山の心臓)という神とされる<ref>創世神話における現在(第五)の世界は地震により終わると予言されている。また、第一の世界を崩壊させたのは一匹のジャガーである。</ref><ref>次の2神もテスカトリポカの化身・忌み名として、同一視される。'''Chalchiuhtotolin''' ([[チャルチウトトリン]]、宝石の七面鳥)は、祭りの際にテスカトリポカを罪の象徴として雄の七面鳥で表したとされる。イツトリ (黒耀石)は名前の通り、メソアメリカ地域の鏡・ナイフの材料である。</ref>。 アステカの祭祀暦である[[トナルポワリ暦]]でテスカトリポカは[[トレセーナ]]「1のオセロトル(ジャガー)」を司り、またアカトル(葦)の日の支配者である<ref name="名前なし-1">Taube & Miller 1993 p. 164</ref> <ref>ボルジア[[絵文書]]によると、「1のジャガー」は[[ケツァルコアトル]]、「1のリザード」が '''Yayauhqui Tezcatlipoca''' (ヤヤウキ・テスカトリポカ、黒いテスカトリポカ)である。また、葦の日の神は '''Tezcatlipoca Ixquimilli''' (テスカトリポカ・イシュキミリ、目に包帯を巻いたテスカトリポカ)である。</ref>。 テスカトリポカの姿はオルメカ人やマヤ人に信仰された初期のメソアメリカの神々を思い起こさせる。いくつかの類似点が、[[マヤ神話]]の『[[ポポル・ヴフ]]』に書かれた[[キチェ族]]の神に存在する。ポポル・ヴフの中心的な神は、[[トヒル]]<ref>Huracan、[[フラカン]]のことを指す。</ref> という黒耀石を意味する名であり、生贄を要求する神であった。また、古典期マヤの統治と雷の神である「神K」は、煙を出す黒耀石のナイフを額につけ、片足が蛇に置き換わった姿で描かれている<ref>Manikin Scepter (人間型の笏)としても知られる。今日では、K'awil ([[カウィール]])と読むことが判明している。</ref>。 == ケツァルコアトルとテスカトリポカ == [[ファイル:Quetzalcoatl and Tezcatlipoca.jpg|thumb|right|300px|ケツァルコアトルとテスカトリポカ(『ボルボニクス絵文書』)。]] テスカトリポカはしばしば、アステカの[[文化英雄]]である神[[ケツァルコアトル]]のライバルとされる。創世神話の一つ「5つの太陽」において<ref>以下記述、『ラミレス絵文書』による。http://www.famsi.org/research/christensen/pinturas/index.html</ref>、 最初の世界はテスカトリポカが太陽として支配していたが、52年周期が13回経過した(676年)後、ケツァルコアトルによってテスカトリポカは大きな棒で殴られ水の中に放り込まれ、太陽の座を交代した。そこで彼はジャガーに変身して水から飛び出し、世界に住んでいた巨人を皆殺しにしてしまった。 2番目の世界はケツァルコアトルが太陽として支配したが、52年周期が13回経過した(676年)後、ジャガーに変身したテスカトリポカが現れケツァルコアトルを蹴り、太陽の座から追い落とした。この世界に住んでいた者たちを強い風が運び去り、一部の残った者も猿に変身させられた。 3番目の世界は[[トラロック]]が太陽として支配したが、52年周期が7回経過した(364年)後、ケツァルコアトルが天から火の雨を降らせ、トラロックを太陽の座から引き摺り下ろした。 4番目の世界は[[チャルチウィトリクエ]]が太陽として支配したが、大洪水によりこの世界に住む者は流され魚に姿を変えられた。今の世界は第5の世界に当たる。 別の創世神話においては、テスカトリポカ、ケツァルコアトル、[[ウィツィロポチトリ]]、[[シペ・トテック]]の4人の神が世界を創世したとされた。彼らはそれぞれ黒、白、青、赤のテスカトリポカと言われた。4人のテスカトリポカは、男女の二元性を表す始原神[[オメテクトリ]]と[[オメシワトル]]の息子であり、世界と人と同様に、他の全ての神の創造者である<ref>前述の『ラミレス絵文書』の神話では、'''Tlaclau queteztzatlipuca''' (トラクラウ・ケテスツァリポカ、赤い煙を吐く羽根)、'''Yayanque tezcatlipuca''' (ヤヤウキ・テスカトリポカ、黒い煙を吐く鏡)、'''Queçalcoatl''' (ケツァルコアトル、羽根のある蛇)、'''Omitecilt''' ([[オミテクトリ]]、骨の神)の4人であり、両親である神も[[トナカテクトリ]]と[[トナカシワトル]]である。</ref>。 ケツァルコアトルとテスカトリポカの対立関係は、テスカトリポカがケツァルコアトルを騙し、[[トゥーラ]]の支配者の地位から追いやったトピルツィン・ケツァルコアトルの伝説においても語られている。しかし、興味深いことはケツァルコアトルとテスカトリポカは共同で異なるものを創造し、両者とも生命の創造に関与したと見られることである。メソアメリカ地域宗教の専門家[[カール・タウベ]]とメアリ・ミラーは、「何よりもテスカトリポカは衝突を通じての変化を具現化した存在である」と説明している<ref name="名前なし-1"/>。 テスカトリポカは『ボルジア[[コデックス#新大陸のコデックス(絵文書)|絵文書]]』([[:en:Codex Borgia|en]])の最初のページにトナルポワリ暦における20日の象徴を身につけた姿で表されている。コスピ絵文書では闇の精霊とされ、ラウド絵文書でも同様である<ref>英語版に『[[ドレスデン絵文書]]』も同様との記載あり。ただしドレスデン絵文書はマヤの絵文書である。</ref>。テスカトリポカ信仰は王権と関連付けられる。王の儀式において最も長く最も敬虔な祈りの対象であり、即位の演説の際にしばしば言及されたほどである。テスカトリポカの神殿は[[テノチティトラン]]の祭祀区域のなかにあったとされる。 == テスカトリポカの祭祀 == [[ファイル:Flickr - Nic's events - British Museum with Cory and Mary, 6 Sep 2007 - 358.jpg|thumb|180px|テスカトリポカの仮面(大英博物館)。]] テスカトリポカの祭祀は、[[シウポワリ|アステカ太陽暦]]の5番目の月である '''Toxcatl''' ([[トシュカトル]]、乾燥)の期間に行われた。祭りの準備は1年前から行われ、神官によってテスカトリポカによく似た若い男性が選ばれた。祭りまでの一年間、男性は宝石を身につけ8人の従者をつけられ、神のような生活を送った。最後の1週間に歌い踊り大いに食べ、4人の若い女性と結婚した<ref>[[ショチケツァル]]、[[シロネン]]、[[アトラトナン]]、[[ウィシュトシワトル]]の4神を模している。</ref>。祭り当日、男性は神本人の如く崇められ、自ら神殿の階段を昇り、神官はその胸を切り裂き心臓を取り出し太陽への生贄とした。生贄の死の直後、翌年の祭りのために新しい犠牲者が選ばれた。9番目の月の祭りである '''Miccailhuitontli''' ([[ミッカイルウィトントリ]]、死の小祝宴) 、15番目の月の祭りである '''Panquetzaliztli''' (パンケツァリストリ、旗の掲揚)においても祭られた<ref>同じ戦争の神として、[[メシカ族]]の祖先神ウィツィロポチトリと同一視されていたため。</ref>。 [[大英博物館]]に、テスカトリポカを表したと考えられる人間の頭蓋骨を基材にした黒曜石と翡翠のモザイクのマスクが所蔵されている。マスクは1400年から1521年の間に製作されたと見られる。メキシコで発見され、1860年代にヘンリー・クリスティによって大英博物館に寄付された。モザイクのはめ石は[[トルコ石|ターコイズ]]と[[亜炭]]で作られ、その目は貝のリングと黄鉄鉱でできている。それらは30歳代と見られる人間の頭蓋骨の上に直接配置された。歯は頭蓋骨そのままのものだが、上前歯4本が無くなっている。頭蓋骨の後ろの部分は切断され、革が張られていた。頭蓋骨と顎の部分は革でつながれており、動かすことができる。大きさは高さ19.5センチメートル、幅12.5センチメートルである。おそらく着用者の腰の部分につけられたと思われる。マスクの発見場所は知られていないが、高位の神官か皇帝自身が使用したと考えられている。 == 神話におけるテスカトリポカ == アステカ創造神話の一つに、テスカトリポカとケツァルコアトルが力をあわせて世界を創造したという伝説がある。創世が行われる前には、2神の前には海しかなく、'''Cipactli''' (シパクトリ、ワニの女神)と呼ばれる大地の怪物がいた。怪物をひきつけるためにテスカトリポカは自らの足を餌にし、怪物はその足を食らった。2神は怪物を捕らえ、その身体から大地を作った。その後、人間が創造され、人々はシパクトリの苦痛を慰めるため生贄を捧げることになった。この伝説によって、テスカトリポカは片足がない姿で表される。 一方で他の創世神話において、テスカトリポカが太陽として世界を支配することになったが、ケツァルコアトルは宇宙を敵に支配されることに我慢ができず、テスカトリポカを打ちのめし空から追いやった。怒ったテスカトリポカはジャガーに姿を変え、世界を滅ぼした。ケツァルコアトルは太陽の座をテスカトリポカと替わり、世界の2番目の時代を開始する。 テスカトリポカはケツァルコアトルを打ち倒し、テスカトリポカの送った強風は世界を荒廃させ、生き残った人間は猿に変身させられた。雨の神トラロックが3番目の時代の世界の太陽となったが、ケツァルコアトルが世界を再び滅ぼす火を送り、生き残った人間は鳥に変身させられた。4番目の時代の世界は水の女神チャルチウィトリクエが太陽となったが、大洪水に破壊され、生き残った人間は魚に姿を変えられた<ref>洪水を生き残った夫婦が、5番目(今)の時代の人間の祖になったという伝説もあり、テスカトリポカが関係している。</ref>。 == 関連項目 == * [[ヨナルデパズトーリ]] :'''ヨナルデパズトーリ'''('''Youaltepuztli''')は、テスカトリポカの化身の一つであるとされる。1928年に出版されたカトリック神父でありオカルト研究家[[モンタギュー・サマーズ]]の吸血鬼を扱った著書<ref>Montague Summers, THE VAMPIRE HIS KITH AND KIN, London, K. Paul Trench, Trubner, 1928, P.261</ref>によると、その名は「夜の斧」という意味であり、皆が寝静まった夜中に木の根元に斧を振り下ろすような音が聞こえ、騒音の原因を調べようとした者の前に、首の無い朽ち果てた死体の姿として現れるとされる。 :木を切る音の正体は死体の胸にある小さな二つのドアが開け閉めされる音であり、勇敢な者は死体の胸の穴に手をいれ黒い心臓をつかみ、脅すことでこの魔物を退散させる。しかし、ほとんどの者は恐ろしい亡霊を見た恐怖で命を落す。 :この本の中で、テスカトリポカは地獄の王でメキシコ人の魂を集め、その姿は蛇の尻尾を持った小さな悪魔であると紹介されている。 :'''Yaotzin'''(敵)として知られ、千の恐ろしい化身をもち、手にした魔術の楽器で不吉な音を出すとされる。そして、しばしばジャガーの雄たけびや不吉な鳥の鳴き声をあげ、聞いたものを死に至らしめる。その化身の一つとして、ヨナルデパズトーリがあげられている。 :本来のナワトル語では、yohualli (夜)、tepoztli (斧)であり、yohualtepoztli (ヨワルテポストリ)が正しい表記であるが<ref>ナワトル語のweb辞書[http://sites.estvideo.net/malinal/nahuatl.page.html Dictionnaire de la langue nahuatl classique]を参照のこと。</ref>、日本語文献ではヨナルデパズトーリと読み、そのスペルは Youaltepuztli と書くのが一般的である。 * [[ジャガーの戦士]] * [[テスカトリポカ (小惑星)]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|3}} == 参考文献 == * [[増田義郎]]監修 リチャード・F・タウンゼント著 『図説 アステカ文明』 武井摩利訳、[[創元社]]、2004年 * ル・クレジオ著 『メキシコの夢』 望月芳郎訳、[[新潮社]]、1991年 * Gisele Diaz, Alan Roders(1993), The Codex Borgia: A Full-Color Restoration of the Ancient Mexican Manuscript, Dover Pubns == 外部リンク == {{Commonscat|Tezcatlipoca}} *[http://www.famsi.org/mayawriting/codices/index.html FAMSI The Ancient Codices] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てすかとりほか}} [[Category:アステカ神話の神]] [[Category:夜の神]] [[Category:死神]] [[Category:美の神]]
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アルバイト
アルバイト(「労働」「仕事」を意味するドイツ語: Arbeit に由来する外来語)は、期間の定めのある労働契約(有期労働契約)に基づき、企業・公的機関などによって雇用される従業員または労働者を指す、日本や韓国における俗称である。略称としてバイトとも呼ばれるほか、アルバイト形態で働く人を指す和製造語として「アルバイター」「フリーアルバイター(フリーター)」が派生した。 非正規雇用の雇用形態の一種とされているが、正規雇用(期間の定めのない労働契約)としてのアルバイト社員とする企業もある。 「アルバイト」と「契約社員」の区別は慣習的なものであり、企業がそのように勝手に呼称を使い分けているだけに過ぎず、同一同格の労働者である(「パートタイム(非常勤)」と「アルバイト」の区分についても同様)。 労働法的にはあくまで双方とも労働者であり、単に労働時間や契約期間が異なるに過ぎない。労働力調査においては勤め先での呼称にて集計されている。 アルバイトであっても、年次有給休暇を始めとする労働者としての権利の行使、会社が正社員に提供する福利厚生などの対象になる。 なお日本の健康保険法においては2か月以内、雇用保険法においては1か月以内の有期労働契約は、日雇いに区分される。 「アルバイト」という語は、ドイツ語で「仕事」を意味する名詞の「Arbeit」に由来する(日本語の仕事と同様にarbeitも労働や物理学的な意味の仕事など意味は多岐にわたる)。日本では明治時代に学生の間で使われていた隠語が一般に誤って広まった。ドイツ語で、日本語でいうアルバイトに近い表現としては、英語からの外来語で「ジョプ(Job [dʒɔp])」がある。こうした経緯もあり、日本では学業を本務とする者がその傍らに労働をする場合に「アルバイト」の語を用いる例が多い。 英語では、アルバイトは「パート・タイマー(part-timer)」、アルバイトの仕事は「パート・タイム・ジョブ(part-time job)」や「サイド・ジョブ(side job)」などという。夜にアルバイトすることを動詞で「ムーンライト(moonlight)」、夜のアルバイトを名詞で「ムーンライティング(moonlighting)」という英語の表現もある。 日本国外にもフルタイムの雇用とパートタイムの雇用、期限の定めのある雇用(非正規雇用)と期限の定めのない雇用(正規雇用)といった区別はあるが、それらを指して「アルバイト」という呼称が用いられることはほとんどない。韓国では、日本と同様の意味で「아르바이트」(アルバイトゥ)やその略称の「아르바」「알바」(アルバ)を用いる。 勤務時間は、年間の就業日数が増えるほど、勤務時間も増える傾向にあるが、正社員よりは少ない。
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アルバイトは、期間の定めのある労働契約(有期労働契約)に基づき、企業・公的機関などによって雇用される従業員または労働者を指す、日本や韓国における俗称である。略称としてバイトとも呼ばれるほか、アルバイト形態で働く人を指す和製造語として「アルバイター」「フリーアルバイター(フリーター)」が派生した。 非正規雇用の雇用形態の一種とされているが、正規雇用(期間の定めのない労働契約)としてのアルバイト社員とする企業もある。 「アルバイト」と「契約社員」の区別は慣習的なものであり、企業がそのように勝手に呼称を使い分けているだけに過ぎず、同一同格の労働者である(「パートタイム」と「アルバイト」の区分についても同様)。 労働法的にはあくまで双方とも労働者であり、単に労働時間や契約期間が異なるに過ぎない。労働力調査においては勤め先での呼称にて集計されている。 アルバイトであっても、年次有給休暇を始めとする労働者としての権利の行使、会社が正社員に提供する福利厚生などの対象になる。 なお日本の健康保険法においては2か月以内、雇用保険法においては1か月以内の有期労働契約は、日雇いに区分される。
{{Otheruseslist|[[労働]][[契約]]のいち形態|同一呼称がある鉱物|曹長石|[[カタール国]]にある[[サッカースタジアム]]|アル・バイト・スタジアム}} {{日本の雇用者}} '''アルバイト'''(「[[労働]]」「仕事」を意味する{{Lang-de|Arbeit}} に由来する<ref name="日経20210626">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO73172030T20C21A6W01000/ 【何でもランキング】このカタカナ語 何語由来?/正答が多かったベスト5 アルバイト]『[[日本経済新聞]]』土曜朝刊別刷り「NIKKEIプラス1」2021年6月26日(同日閲覧)</ref>[[外来語]])は、'''期間の定めのある労働契約'''('''[[有期労働契約]]''')に基づき、[[企業]]・公的機関などによって[[雇用]]される従業員または[[労働者]]を指す、[[日本]]や[[大韓民国|韓国]]における[[俗称]]である。[[略称]]として'''バイト'''とも呼ばれるほか、アルバイト形態で働く人を指す和製造語として「アルバイター」「フリーアルバイター([[フリーター]])」が派生した。 '''[[非正規雇用]]'''の雇用形態の一種とされているが、[[正規雇用]]([[期間の定めのない労働契約]])としてのアルバイト社員とする企業もある。 「アルバイト」と「'''[[契約社員]]'''」の'''区別は慣習的なもの'''であり、[[企業]]がそのように'''勝手に呼称を使い分けているだけ'''に過ぎず、'''同一同格の労働者'''である(「'''パートタイム'''([[非常勤]])」と「アルバイト」の区分についても同様)。 [[労働法]]的にはあくまで双方とも労働者であり、単に労働時間や契約期間が異なるに過ぎない。[[労働力調査]]においては'''勤め先での呼称'''にて集計されている<ref>{{Cite report|language=ja|publisher=総務省 |title=労働力調査 用語の解説 |date=2018-05 |url=https://www.e-stat.go.jp/statistics/00200531}}</ref>。 アルバイトであっても、[[年次有給休暇]]を始めとする労働者としての権利の行使、会社が正社員に提供する[[福利厚生]]などの対象になる<ref>[https://web.archive.org/web/20150812081337/http://www.mhlw.go.jp/topics/2007/06/tp0605-1k.html パートタイム労働法の改正について] [[厚生労働省]]</ref>。 なお日本の[[健康保険法]]においては2か月以内、[[雇用保険法]]においては1か月以内の有期労働契約は、[[日雇い]]に区分される。 {{Main2|アルバイトを含めた非正規雇用を取り巻く日本の諸問題|フリーター}} == 語源・日本語以外の表現 == 「アルバイト」という語は、[[ドイツ語]]で「仕事」を意味する名詞の「'''Arbeit'''」に由来する(日本語の仕事と同様にarbeitも[[労働]]や物理学的な意味の[[仕事 (物理学)|仕事]]など意味は多岐にわたる)。[[日本]]では[[明治]]時代に[[学生]]の間で使われていた[[隠語]]が一般に誤って広まった。ドイツ語で、[[日本語]]でいうアルバイトに近い表現としては、[[デングリッシュ|英語からの外来語]]で「ジョプ(Job {{IPA-de|dʒɔp|}})」がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180101194829/https://kicho-dx.com/news/detail/252|title=アルバイトとは?アルバイトとパートの違いは?|publisher=(株)Bookkeeping|work=記帳代行DX|accessdate=2018-01-01}}</ref>。こうした経緯もあり、日本では学業を本務とする者がその傍らに労働をする場合に「アルバイト」の語を用いる例が多い。 [[英語]]では、アルバイトは「パート・タイマー({{En|part-timer}})」、アルバイトの仕事は「パート・タイム・ジョブ({{En|part-time job}})」や「サイド・ジョブ({{En|side job}})」などという。夜にアルバイトすることを[[動詞]]で「ムーンライト({{En|moonlight}})」、夜のアルバイトを[[名詞]]で「ムーンライティング({{En|moonlighting}})」という英語の表現もある<ref>{{Cite book|和書|title=NHKカタカナ英語うそ・ほんと|author=坂田俊策|publisher=[[日本放送出版協会]]|date=1988-05-20|page=51}}</ref>。 日本国外にもフルタイムの雇用とパートタイムの雇用、期限の定めのある雇用(非正規雇用)と期限の定めのない雇用(正規雇用)といった区別はあるが、それらを指して「アルバイト」という呼称が用いられることはほとんどない。韓国では、日本と同様の意味で「{{Ko|아르바이트}}」(アルバイトゥ)やその略称の「{{Ko|아르바}}」「{{Ko|알바}}」(アルバ)を用いる。 == 統計 == === 日本 === 勤務時間は、年間の就業日数が増えるほど、勤務時間も増える傾向にあるが、正社員よりは少ない。 {{Wide image|Employed person in Japan by type.svg|600px|[[日本]]における役員を除く雇用者(年齢別)<ref>[[総務省 (日本)|総務省]] [[労働力調査]]</ref>。<br>下から、[[青]]は[[正規雇用]]、[[橙色|橙]]は[[パートタイム]]、[[緑色|緑]]は'''アルバイト'''、[[赤色|赤]]は[[派遣労働者]]、[[紫色|紫]]は[[契約社員]]、[[茶色|茶]]は[[嘱託社員]]、[[ピンク]]はその他。}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[フリーター]] * [[社員]] * [[パートタイマー]] * [[契約社員]] * [[ボラバイト]] * [[非正規雇用]] * [[バイトテロ]] * [[イベントスタッフ]] == 外部リンク == ; [[厚生労働省]] * [https://part-tanjikan.mhlw.go.jp/ 多様な働き方の実現応援サイト] * [https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/lp/arubaito/ 確かめようアルバイトの労働条件] * [https://www.startup-roudou.mhlw.go.jp/parttime/ アルバイトを雇う際に知っておきたいポイント] * [https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/part_haken/ 非正規雇用(有期・パート・派遣労働)] - [[厚生労働省]] * [https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/jigyounushi/page08.html 非正規雇用労働者(有期・パート)の雇用] - [[厚生労働省]] ; [[総務省]][[統計局]] * [https://www.stat.go.jp/data/shugyou/2022/ 令和4年就業構造基本調査] * [https://www.stat.go.jp/data/roudou/index.html 労働力調査] ; [[労働組合]]など * [http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/koyou/part/index.html 連合|労働・賃金・雇用 非正規雇用] - [[日本労働組合総連合会]](連合)公式サイト内 ; その他 * [http://www.sljfaq.org/afaq/german.html Which Japanese words come from German?](sljfaq.org) {{就業}} {{DEFAULTSORT:あるはいと}} [[Category:労働の形態]] [[Category:非正規雇用]] [[Category:ドイツ語由来の外来語]]
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コンターマシン
コンターマシン(工業の時はコンタマシンという)(英語:band saw)とは、帯鋸(のこぎり刃がついた輪状の工具)で、板金を切断するための工作機械である。帯鋸盤、バンドソーとも呼ばれる。コンター (contour)とは輪郭のことで、板に描いた線に従って板など加工品を動かして外形を加工するのに用いる。
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コンターマシン(工業の時はコンタマシンという)とは、帯鋸(のこぎり刃がついた輪状の工具)で、板金を切断するための工作機械である。帯鋸盤、バンドソーとも呼ばれる。コンター (contour)とは輪郭のことで、板に描いた線に従って板など加工品を動かして外形を加工するのに用いる。
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17,973
品質工学
品質工学(ひんしつこうがく、英: quality engineering)とは、技術開発・新製品開発を効率的に行う開発技法。考案者の田口玄一の名を冠してタグチメソッドとも呼ばれる(TMと略される)。特に海外ではこちらの呼び方が一般的である。 事業経営の中で技術戦略の重要性はますます高まるばかりであるが、モノ造りの世界が相変わらず従来の科学的思考や統計的な考え方のパラダイムに浸かっていて、開発の効率化は停滞しており、その上、社会的トラブルが頻発して後手管理の再発防止型の生産活動(もぐら叩き)が行われているのが現状である。 品質工学は欧米ではタグチメソッドと呼ばれ、創始者は田口玄一である。 品質工学の本質的な考え方は「社会的損失の最小化」「個人の自由の和の拡大」など頭脳労働の生産性の改革を考えることが狙いである。このことを「技術戦略」と考えている。モノ造りは企業側の理屈ではなく、顧客側の理屈で考えて企業の利益と顧客側の損失とがバランスするような経営をすることを狙っている。 田口玄一は「品質工学の目的は社会的な生産性を上げること。しかも頭脳労働の生産性が大切だということだ。企業でもR&Dで新産業を作る研究をすれば、失業者は吸収できるし、開発段階で機能性の評価をやって無駄な労働時間を短縮すれば、2日の休みを3日か4日にすることだってできる。その休みを旅行やスポーツなどの趣味やレジャーに使えば国全体が潤うことになる」と語っている。 主に3つの分野で構成される。 パラメータ設計に入る前に重要なことは、時代の潮流を考えて、技術テーマを選択するのは技術責任者の役割であり責任である。技術開発テーマが決まったら、技術者が顧客の立場に立って「システム選択」することになるが、顧客が欲しい機能を考えて、理想機能を満足するシステムをたくさん考案することが大切である。考案したシステムの良し悪しを判断するのが「機能性評価」である。機能性評価はシステムとは関係なく、顧客が使う立場で信号とノイズを考えてSN比で評価することが大切である。 その後で、パラメータ設計(厳密にはロバスト設計という方が適切である)を行うのであるが、品質工学では「品質が欲しければ、品質を測るな。機能性を評価せよ」と言うことが合言葉になっていて、品質問題を解決する場合には、品質特性などのスカラー量は使わずに、理想機能( y = β M {\displaystyle y=\beta M} )を特性値と考えてパラメータ設計を行う。 パラメータ設計の手順は以下の通りである。 パラメータ設計は低コストの部品を使って、SN比で機能性の改善を行うが、品質改善の目的はコスト改善であるから、品質とコストのバランスを考えることが大切でマネジメントの問題である。 そこで、パラメータ設計でSN比を6dB改善できれば、市場のばらつきが1/4になるのだから、1/4の低コスト部品を使っても目的機能は変わらないことになる。この場合、3dBを品質改善に、残りの3dBをコスト改善に廻せば、2倍の品質で半分のコストが達成できるのである。 許容差設計は「品質改善の成果をコスト改善に還元できる手法」なのである。 ここで初めて「損失関数」が必要になるのである。損失関数は「目標値からのばらつき」に比例するもので、目標値に調整した後のSN比の真数の逆数に比例する。すなわち、 L {\displaystyle L} (円) = A Δ 2 {\displaystyle {\frac {A}{\Delta ^{2}}}} (1/SN比)で表され、 Δ {\displaystyle \Delta } は機能限界、 A {\displaystyle A} は機能限界を超えたときの損失で市場に出たときの品質損失を表す。 最近社会的トラブルに関係する「安全設計」にこの考え方が適用できる。品質工学における安全設計とは、「信頼性に頼るのでなく、事故が起きたときに被害を最小にする設計である」。例えば、航空機事故の場合、航空機が落ちたとき人命を2億円と考えて、損害に見合うような安全装置を設置するなどである。照明器具が落下した場合、人間の頭の上で止まって直接危害を加えない安全装置を設けるなどである。 許容差設計では、部品コストと品質コストがバランスし、両者の和が最小になるように許容差を決めることである。したがって、「コストが決まらないと許容差は決められない」ことになる。逆に言えば部品が決まれば品質の良否を判定する許容差が決定する。 許容差 Δ {\displaystyle \Delta } は下記のように損失関数から決める。 Δ = A A 0 Δ 0 {\displaystyle \Delta ={\sqrt {\frac {A}{A_{0}}}}\Delta _{0}} A {\displaystyle A} :部品コストや Δ {\displaystyle \Delta } を超えたときの廃棄費用 A 0 {\displaystyle A_{0}} :機能限界 Δ 0 {\displaystyle \Delta _{0}} を超えたときの社会的損失(円) Δ 0 {\displaystyle \Delta _{0}} :機能限界で消費者の許容限界 生産者と組み立て者の場合は、生産者の許容差 Δ {\displaystyle \Delta } は組み立て者の機能限界 Δ 0 {\displaystyle \Delta _{0}} と組み立て者が機能限界 Δ 0 {\displaystyle \Delta _{0}} を超えたときの損失 A 0 {\displaystyle A_{0}} から上式で決める。 安全率 φ {\displaystyle \varphi } は上式から、 A 0 A = Δ 0 Δ = φ {\displaystyle {\sqrt {\frac {A_{0}}{A}}}={\frac {\Delta _{0}}{\Delta }}=\varphi } で表される。 望目特性と望小特性の安全率であるが望大特性の安全率は φ = Δ Δ 0 {\displaystyle \varphi ={\frac {\Delta }{\Delta _{0}}}} で表される。 組み立て品の許容差を決めるときには、機能限界 Δ 0 {\displaystyle \Delta _{0}} から出力特性 y {\displaystyle y} の許容差 Δ y {\displaystyle \Delta y} を求め、直交多項式 y = m y + a ( x A − m A ) + b ( x B − m B ) + ⋯ {\displaystyle y=my+a(xA-mA)+b(xB-mB)+\cdots } 安全率 φ = A 0 A {\displaystyle \varphi ={\sqrt {\frac {A_{0}}{A}}}} 出力特性の許容差 Δ y = Δ 0 φ {\displaystyle \Delta y={\frac {\Delta _{0}}{\varphi }}} A部品の許容差 Δ A Δ y a = Δ 0 a φ {\displaystyle \Delta A{\frac {\Delta y}{a}}={\frac {\Delta _{0}}{a\varphi }}} B部品の許容差 Δ B = Δ y b = Δ 0 b φ {\displaystyle \Delta B={\frac {\Delta y}{b}}={\frac {\Delta _{0}}{b\varphi }}} 「メーカー側(製造者)の損失」と「ユーザー側(顧客)の損失」の和をバランス良く小さくすることが、品質工学の目的である。「ユーザー側(顧客)の損失」の中の機能のばらつきを小さくする手法としてパラメータ設計がある。 「メーカー側(製造者)の損失」いわゆる、生産コストは、 生産上のコスト=材料費+加工費+管理費+公害等の損失 となる。 この内、材料費、加工費、公害等の損失は、主に設計段階で決まるが、管理費は、生産部門が与えられた工程で規格通りの製品を出荷するための管理(品質管理)費で、管理に依存する。工程の状態を高水準に維持したり、装置が故障する前に予防措置をとらねばならないが、その対策が過剰品質になれば、何れは、価格に跳ね返り競争力を失うことになる。従って、経済性を勘案した工程管理のあり方が重要になる。この分野をオンライン(製造)における品質工学と言うが、許容差決定が最前提にあることは言うまでも無い。 オンライン品質工学は、製造工程において一番少ない経費で一番良い品質にするための仕事のやり方であるが、具体的な方法論には下記のようなものがある。 MT(英: Mahalanobis Taguchi)法という新しい多次元情報データによる予測、診断、分析法が提案され、実用例が多数の企業から報告されている。第一次産業革命は、加工運搬などの肉体労働を機械化することで、重労働作業から人間を解放したのみでなく、生産性の向上で生活水準を豊かにした(現在はMahalanobisの距離を使っていない手法も普及し、その中でT法が主力となると思われるが、MTシステムの名前はそのまま使われている)。 米国では、農業の生産性が向上し、現在では2%以下の農業人口で、米国の全人口の2倍の人々に対して十分な農産物が供給できるようになったという。 それらの改善は、農作業や農産物の運搬、貯蔵に必要な作業の機械化による生産性が建国当時の100倍になったが、現在も人間による作業が残されている。 特に乳幼児や高齢者の世話に多くの人手を必要にしている。それらの作業を機械化するには漫画に出てくるようなロボットの開発が必要である。人間や動物の持つ能力でコンピュータが持っていない能力の1つが「パターン認識能力」である。 パターン認識は、広くは言語の理解能力であるが、品質工学のMT法では蓄積されたデータベースからの判断問題(診断や予測)のみを取り上げる。 当初提案されたのはMT(Mahalanobis Taguchi)法であったがその後各種提案されている。MT法というとこの最初に提案されたMT法を指したり、この提案された全ての手法を指す場合の2通りがある。MTシステムと言った場合は手法全体のことを指すことが多い(ただし、MTSという略号はTS法の初期の呼び名であることもあり、古い文献を参照する場合は注意すること) 戦略としての品質工学は欧米ではタグチメソッド(Taguchi methodsとかTaguchi quality engineering)と呼ばれている。 タグチメソッドは、予測の精度を機能性評価によるSN比(信号対雑音比)を用いる方法である。SN比は判断の誤りの大きさを結果で評価する方法で、関数空間の関係のみならず、多次元空間の関係にも応用できるのである。 多次元空間には様々な時系列のデータも入るので、ここに示す方法は工学のみならず医学や経営学や社会学や自然現象(地震や天候など)の分野にも利用できるが、データベースは個々の分野の専門家の仕事でタグチメソッドではない。 商品や技術分野でパラメータ設計を行うときにも制御因子を選ぶのは専門家の仕事であって、システムの良否を判断することがタグチメソッドの機能性の評価であると同じことである。 MT法では判断する場合、データベースとして、単位空間を決めて異常空間の大きさを予測するのであるが、単位空間はあくまでも均一な空間であるから正常空間や普通な空間を考える。 MTシステムには、MT法、MTA法、MTS法、TS法、T法などが用意されている。 MTシステムのMはマハラノビスMahalanobisのMで、Tは田口の頭文字を表し、マハラノビスの考案したマハラノビスの距離を、田口の手によって拡張された概念である。 MT法はマハラノビスの距離を用いて逆行列を利用した方法で単位空間で求めた観測の対象の平均値が1になることが特徴である。逆行列の計算精度が維持できる程度の項目間の多重共線性がなく(逆行列の計算精度に影響する)、 σ = 0 {\displaystyle \sigma =0} でない場合に使用できる。 MTシステムの1つであるが、逆行列を利用した場合、相関係数が1の場合や相関が強くなって精度が下がる場合には、解析ができないなど不具合が発生する。これは多重共線性と呼ばれる問題である。これを逆行列の代わりに余因子行列を用いて一部解決したのがMTA法である。この方法で求めた距離の値もMT法と異なるが、多重共線性が発生していなければ、MT法と完全な相関を持ち距離は定数倍されるだけである。またMTAの拡張方法が永田(早稲田大学)より提案されている。 シュミットの直交展開を利用した方法であるが、この方法は単位空間が中央にある場合、予測の対象に正・負の符号を付与することが可能である。解析に当たっては信号の真の値の確からしさが重要で、計測対象の距離とは計測対象の真値を直接推定予測することができる。したがって信号の真値の信頼度によって結果が変わる可能性があることが指摘されている。 TS法と同じように予測の対象が正・負の符号が考えられる場合、下記の3つの方法が用意されている。 どちらも真値がある場合に用いる。 真値がある場合、真値と単位空間の各項目のSN比と感度を計算して、各項目の重み付けして真値Mを推定する。 T法(1)(2)では項目に対してデータ数はいくらでもよく、 n = 1 {\displaystyle n=1} 個でもよい。 【項目診断の流れ】 現在のパラメータ設計では、市場調査等で、しばしば目的機能を対象にする場合がある。例えば、市場調査の結果、スイッチの場合、クリック感などが評価される。その目的機能は距離、押し圧の関係で波状の曲線形状となる。 このような曲線の場合は、変数変換で比例関係にはできない。SN比は、ノイズに対する安定性の評価であることから、比例関係でない場合も色々なノイズ条件下でも標準条件と同じように機能することを評価したいのである。この評価方法を標準SN比(別称 N0(エヌゼロ)法)と言うが、TS法及びT法と並び、新しい概念である。なお、古くから正常と異常の判定基準(0, 1)評価の標準寄与率から求められる標準SN比があるが、それとは区別されたい。 従来のSN比は、顧客の欲しい機能を表す信号の効果と顧客が望まないノイズの効果との比で表したものであるが、信号の効果の中には、比例項の変動 S β {\displaystyle S_{\beta }} と信号の2次項のばらつきSMresが含まれるため、そのばらつきは誤差変動 S e {\displaystyle S_{e}} とは別なばらつきでノイズの影響ではないのである。そこで、ノイズの影響だけが顧客が望まないものであるから、信号の効果とノイズの効果を完全に分離することを考えたのが標準SN比である。したがって、2段階設計では、まずノイズの効果だけを考えて最適条件を求めてから、信号の効果を β 1 = 1 {\displaystyle \beta _{1}=1} 、2次効果 β 2 = 0 {\displaystyle \beta _{2}=0} になるように要因効果図の制御因子でチューニングするのである。従来SN比に比べて再現性が高くなるのが特徴である。 従来のSN比は η = 10 log β 2 σ 2 {\displaystyle \eta =10\log {\frac {\beta ^{2}}{\sigma ^{2}}}} で表し、標準SN比は η = 10 log 1 σ 2 {\displaystyle \eta =10\log {\frac {1}{\sigma ^{2}}}} で表される。 標準SN比は、目的機能でも基本機能でも用いられるが、ベンチマークと品質の比較をする場合には再現性は必要ないので、従来SN比を用いることになる。 機能性評価では、実験データの出力のエネルギー(ST)は、有効エネルギー(Sβ)と有害エネルギー(SN)の和でピタコラスの定理で表されるから、ST=Sβ+SNとなる。顧客の満足度を表すSN比は、有効エネルギーと有害エネルギーの比で考えることができるから、 で表される。新SN比は、信号の水準数やデータ数に関係ないことが特徴である。MT法でSN比を求める場合、従来SN比ではSβ<Veの場合はη=0として考えるが、新SN比では総べてのデータを採用できることが特徴である。SN比は相対比較であるから、利得の改善に意味があって、SN比の絶対値は問題にしないという考えが従来SN比であるが、絶対値も変わらない新SN比の方が損失関数を求める場合には便利である。
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"構成する分野" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "パラメータ設計に入る前に重要なことは、時代の潮流を考えて、技術テーマを選択するのは技術責任者の役割であり責任である。技術開発テーマが決まったら、技術者が顧客の立場に立って「システム選択」することになるが、顧客が欲しい機能を考えて、理想機能を満足するシステムをたくさん考案することが大切である。考案したシステムの良し悪しを判断するのが「機能性評価」である。機能性評価はシステムとは関係なく、顧客が使う立場で信号とノイズを考えてSN比で評価することが大切である。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後で、パラメータ設計(厳密にはロバスト設計という方が適切である)を行うのであるが、品質工学では「品質が欲しければ、品質を測るな。機能性を評価せよ」と言うことが合言葉になっていて、品質問題を解決する場合には、品質特性などのスカラー量は使わずに、理想機能( y = β M {\\displaystyle y=\\beta M} )を特性値と考えてパラメータ設計を行う。 パラメータ設計の手順は以下の通りである。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "パラメータ設計は低コストの部品を使って、SN比で機能性の改善を行うが、品質改善の目的はコスト改善であるから、品質とコストのバランスを考えることが大切でマネジメントの問題である。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "そこで、パラメータ設計でSN比を6dB改善できれば、市場のばらつきが1/4になるのだから、1/4の低コスト部品を使っても目的機能は変わらないことになる。この場合、3dBを品質改善に、残りの3dBをコスト改善に廻せば、2倍の品質で半分のコストが達成できるのである。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "許容差設計は「品質改善の成果をコスト改善に還元できる手法」なのである。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ここで初めて「損失関数」が必要になるのである。損失関数は「目標値からのばらつき」に比例するもので、目標値に調整した後のSN比の真数の逆数に比例する。すなわち、 L {\\displaystyle L} (円) = A Δ 2 {\\displaystyle {\\frac {A}{\\Delta ^{2}}}} (1/SN比)で表され、 Δ {\\displaystyle \\Delta } は機能限界、 A {\\displaystyle A} は機能限界を超えたときの損失で市場に出たときの品質損失を表す。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "最近社会的トラブルに関係する「安全設計」にこの考え方が適用できる。品質工学における安全設計とは、「信頼性に頼るのでなく、事故が起きたときに被害を最小にする設計である」。例えば、航空機事故の場合、航空機が落ちたとき人命を2億円と考えて、損害に見合うような安全装置を設置するなどである。照明器具が落下した場合、人間の頭の上で止まって直接危害を加えない安全装置を設けるなどである。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "許容差設計では、部品コストと品質コストがバランスし、両者の和が最小になるように許容差を決めることである。したがって、「コストが決まらないと許容差は決められない」ことになる。逆に言えば部品が決まれば品質の良否を判定する許容差が決定する。 許容差 Δ {\\displaystyle \\Delta } は下記のように損失関数から決める。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "Δ = A A 0 Δ 0 {\\displaystyle \\Delta ={\\sqrt {\\frac {A}{A_{0}}}}\\Delta _{0}}", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "A {\\displaystyle A} :部品コストや Δ {\\displaystyle \\Delta } を超えたときの廃棄費用", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "A 0 {\\displaystyle A_{0}} :機能限界 Δ 0 {\\displaystyle \\Delta _{0}} を超えたときの社会的損失(円)", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Δ 0 {\\displaystyle \\Delta _{0}} :機能限界で消費者の許容限界", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "生産者と組み立て者の場合は、生産者の許容差 Δ {\\displaystyle \\Delta } は組み立て者の機能限界 Δ 0 {\\displaystyle \\Delta _{0}} と組み立て者が機能限界 Δ 0 {\\displaystyle \\Delta _{0}} を超えたときの損失 A 0 {\\displaystyle A_{0}} から上式で決める。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "安全率 φ {\\displaystyle \\varphi } は上式から、", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "A 0 A = Δ 0 Δ = φ {\\displaystyle {\\sqrt {\\frac {A_{0}}{A}}}={\\frac {\\Delta _{0}}{\\Delta }}=\\varphi }", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "で表される。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "望目特性と望小特性の安全率であるが望大特性の安全率は", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "φ = Δ Δ 0 {\\displaystyle \\varphi ={\\frac {\\Delta }{\\Delta _{0}}}}", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "で表される。", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "組み立て品の許容差を決めるときには、機能限界 Δ 0 {\\displaystyle \\Delta _{0}} から出力特性 y {\\displaystyle y} の許容差 Δ y {\\displaystyle \\Delta y} を求め、直交多項式", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "y = m y + a ( x A − m A ) + b ( x B − m B ) + ⋯ {\\displaystyle y=my+a(xA-mA)+b(xB-mB)+\\cdots }", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "安全率 φ = A 0 A {\\displaystyle \\varphi ={\\sqrt {\\frac {A_{0}}{A}}}}", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "出力特性の許容差 Δ y = Δ 0 φ {\\displaystyle \\Delta y={\\frac {\\Delta _{0}}{\\varphi }}}", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "A部品の許容差 Δ A Δ y a = Δ 0 a φ {\\displaystyle \\Delta A{\\frac {\\Delta y}{a}}={\\frac {\\Delta _{0}}{a\\varphi }}}", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "B部品の許容差 Δ B = Δ y b = Δ 0 b φ {\\displaystyle \\Delta B={\\frac {\\Delta y}{b}}={\\frac {\\Delta _{0}}{b\\varphi }}}", "title": "オフライン(開発・設計)における品質工学" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「メーカー側(製造者)の損失」と「ユーザー側(顧客)の損失」の和をバランス良く小さくすることが、品質工学の目的である。「ユーザー側(顧客)の損失」の中の機能のばらつきを小さくする手法としてパラメータ設計がある。", "title": "オンライン(製造)における品質工学" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "「メーカー側(製造者)の損失」いわゆる、生産コストは、", "title": "オンライン(製造)における品質工学" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "生産上のコスト=材料費+加工費+管理費+公害等の損失", "title": "オンライン(製造)における品質工学" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "となる。", "title": "オンライン(製造)における品質工学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この内、材料費、加工費、公害等の損失は、主に設計段階で決まるが、管理費は、生産部門が与えられた工程で規格通りの製品を出荷するための管理(品質管理)費で、管理に依存する。工程の状態を高水準に維持したり、装置が故障する前に予防措置をとらねばならないが、その対策が過剰品質になれば、何れは、価格に跳ね返り競争力を失うことになる。従って、経済性を勘案した工程管理のあり方が重要になる。この分野をオンライン(製造)における品質工学と言うが、許容差決定が最前提にあることは言うまでも無い。", "title": "オンライン(製造)における品質工学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "オンライン品質工学は、製造工程において一番少ない経費で一番良い品質にするための仕事のやり方であるが、具体的な方法論には下記のようなものがある。", "title": "オンライン(製造)における品質工学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "MT(英: Mahalanobis Taguchi)法という新しい多次元情報データによる予測、診断、分析法が提案され、実用例が多数の企業から報告されている。第一次産業革命は、加工運搬などの肉体労働を機械化することで、重労働作業から人間を解放したのみでなく、生産性の向上で生活水準を豊かにした(現在はMahalanobisの距離を使っていない手法も普及し、その中でT法が主力となると思われるが、MTシステムの名前はそのまま使われている)。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "米国では、農業の生産性が向上し、現在では2%以下の農業人口で、米国の全人口の2倍の人々に対して十分な農産物が供給できるようになったという。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "それらの改善は、農作業や農産物の運搬、貯蔵に必要な作業の機械化による生産性が建国当時の100倍になったが、現在も人間による作業が残されている。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "特に乳幼児や高齢者の世話に多くの人手を必要にしている。それらの作業を機械化するには漫画に出てくるようなロボットの開発が必要である。人間や動物の持つ能力でコンピュータが持っていない能力の1つが「パターン認識能力」である。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "パターン認識は、広くは言語の理解能力であるが、品質工学のMT法では蓄積されたデータベースからの判断問題(診断や予測)のみを取り上げる。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当初提案されたのはMT(Mahalanobis Taguchi)法であったがその後各種提案されている。MT法というとこの最初に提案されたMT法を指したり、この提案された全ての手法を指す場合の2通りがある。MTシステムと言った場合は手法全体のことを指すことが多い(ただし、MTSという略号はTS法の初期の呼び名であることもあり、古い文献を参照する場合は注意すること)", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "戦略としての品質工学は欧米ではタグチメソッド(Taguchi methodsとかTaguchi quality engineering)と呼ばれている。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "タグチメソッドは、予測の精度を機能性評価によるSN比(信号対雑音比)を用いる方法である。SN比は判断の誤りの大きさを結果で評価する方法で、関数空間の関係のみならず、多次元空間の関係にも応用できるのである。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "多次元空間には様々な時系列のデータも入るので、ここに示す方法は工学のみならず医学や経営学や社会学や自然現象(地震や天候など)の分野にも利用できるが、データベースは個々の分野の専門家の仕事でタグチメソッドではない。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "商品や技術分野でパラメータ設計を行うときにも制御因子を選ぶのは専門家の仕事であって、システムの良否を判断することがタグチメソッドの機能性の評価であると同じことである。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "MT法では判断する場合、データベースとして、単位空間を決めて異常空間の大きさを予測するのであるが、単位空間はあくまでも均一な空間であるから正常空間や普通な空間を考える。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "MTシステムには、MT法、MTA法、MTS法、TS法、T法などが用意されている。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "MTシステムのMはマハラノビスMahalanobisのMで、Tは田口の頭文字を表し、マハラノビスの考案したマハラノビスの距離を、田口の手によって拡張された概念である。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "MT法はマハラノビスの距離を用いて逆行列を利用した方法で単位空間で求めた観測の対象の平均値が1になることが特徴である。逆行列の計算精度が維持できる程度の項目間の多重共線性がなく(逆行列の計算精度に影響する)、 σ = 0 {\\displaystyle \\sigma =0} でない場合に使用できる。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "MTシステムの1つであるが、逆行列を利用した場合、相関係数が1の場合や相関が強くなって精度が下がる場合には、解析ができないなど不具合が発生する。これは多重共線性と呼ばれる問題である。これを逆行列の代わりに余因子行列を用いて一部解決したのがMTA法である。この方法で求めた距離の値もMT法と異なるが、多重共線性が発生していなければ、MT法と完全な相関を持ち距離は定数倍されるだけである。またMTAの拡張方法が永田(早稲田大学)より提案されている。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "シュミットの直交展開を利用した方法であるが、この方法は単位空間が中央にある場合、予測の対象に正・負の符号を付与することが可能である。解析に当たっては信号の真の値の確からしさが重要で、計測対象の距離とは計測対象の真値を直接推定予測することができる。したがって信号の真値の信頼度によって結果が変わる可能性があることが指摘されている。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "TS法と同じように予測の対象が正・負の符号が考えられる場合、下記の3つの方法が用意されている。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "どちらも真値がある場合に用いる。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "真値がある場合、真値と単位空間の各項目のSN比と感度を計算して、各項目の重み付けして真値Mを推定する。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "T法(1)(2)では項目に対してデータ数はいくらでもよく、 n = 1 {\\displaystyle n=1} 個でもよい。", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "【項目診断の流れ】", "title": "MT法(MTシステム)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "現在のパラメータ設計では、市場調査等で、しばしば目的機能を対象にする場合がある。例えば、市場調査の結果、スイッチの場合、クリック感などが評価される。その目的機能は距離、押し圧の関係で波状の曲線形状となる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "このような曲線の場合は、変数変換で比例関係にはできない。SN比は、ノイズに対する安定性の評価であることから、比例関係でない場合も色々なノイズ条件下でも標準条件と同じように機能することを評価したいのである。この評価方法を標準SN比(別称 N0(エヌゼロ)法)と言うが、TS法及びT法と並び、新しい概念である。なお、古くから正常と異常の判定基準(0, 1)評価の標準寄与率から求められる標準SN比があるが、それとは区別されたい。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "従来のSN比は、顧客の欲しい機能を表す信号の効果と顧客が望まないノイズの効果との比で表したものであるが、信号の効果の中には、比例項の変動 S β {\\displaystyle S_{\\beta }} と信号の2次項のばらつきSMresが含まれるため、そのばらつきは誤差変動 S e {\\displaystyle S_{e}} とは別なばらつきでノイズの影響ではないのである。そこで、ノイズの影響だけが顧客が望まないものであるから、信号の効果とノイズの効果を完全に分離することを考えたのが標準SN比である。したがって、2段階設計では、まずノイズの効果だけを考えて最適条件を求めてから、信号の効果を β 1 = 1 {\\displaystyle \\beta _{1}=1} 、2次効果 β 2 = 0 {\\displaystyle \\beta _{2}=0} になるように要因効果図の制御因子でチューニングするのである。従来SN比に比べて再現性が高くなるのが特徴である。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "従来のSN比は η = 10 log β 2 σ 2 {\\displaystyle \\eta =10\\log {\\frac {\\beta ^{2}}{\\sigma ^{2}}}} で表し、標準SN比は η = 10 log 1 σ 2 {\\displaystyle \\eta =10\\log {\\frac {1}{\\sigma ^{2}}}} で表される。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "標準SN比は、目的機能でも基本機能でも用いられるが、ベンチマークと品質の比較をする場合には再現性は必要ないので、従来SN比を用いることになる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "機能性評価では、実験データの出力のエネルギー(ST)は、有効エネルギー(Sβ)と有害エネルギー(SN)の和でピタコラスの定理で表されるから、ST=Sβ+SNとなる。顧客の満足度を表すSN比は、有効エネルギーと有害エネルギーの比で考えることができるから、", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "で表される。新SN比は、信号の水準数やデータ数に関係ないことが特徴である。MT法でSN比を求める場合、従来SN比ではSβ<Veの場合はη=0として考えるが、新SN比では総べてのデータを採用できることが特徴である。SN比は相対比較であるから、利得の改善に意味があって、SN比の絶対値は問題にしないという考えが従来SN比であるが、絶対値も変わらない新SN比の方が損失関数を求める場合には便利である。", "title": "その他" } ]
品質工学とは、技術開発・新製品開発を効率的に行う開発技法。考案者の田口玄一の名を冠してタグチメソッドとも呼ばれる(TMと略される)。特に海外ではこちらの呼び方が一般的である。
{{出典の明記|date=2012年1月}} '''品質工学'''(ひんしつこうがく、{{lang-en-short|quality engineering}})とは、技術開発・新製品開発を効率的に行う開発技法。考案者の[[田口玄一]]の名を冠して'''タグチメソッド'''とも呼ばれる(TMと略される)。特に海外ではこちらの呼び方が一般的である。 == 狙い == 事業経営の中で技術戦略の重要性はますます高まるばかりであるが、モノ造りの世界が相変わらず従来の科学的思考や統計的な考え方のパラダイムに浸かっていて、開発の効率化は停滞しており、その上、社会的トラブルが頻発して後手管理の再発防止型の生産活動(もぐら叩き)が行われているのが現状である。 品質工学は欧米ではタグチメソッド<ref>{{lang-en-short|Taguchi methods}}</ref>と呼ばれ、創始者は[[田口玄一]]である。 品質工学の本質的な考え方は「社会的損失の最小化」「個人の自由の和の拡大」など頭脳労働の生産性の改革を考えることが狙いである。このことを「技術戦略」と考えている。モノ造りは企業側の理屈ではなく、顧客側の理屈で考えて企業の利益と顧客側の損失とがバランスするような経営をすることを狙っている。 [[田口玄一]]は「品質工学の目的は社会的な生産性を上げること。しかも頭脳労働の生産性が大切だということだ。企業でもR&Dで新産業を作る研究をすれば、失業者は吸収できるし、開発段階で機能性の評価をやって無駄な労働時間を短縮すれば、2日の休みを3日か4日にすることだってできる。その休みを旅行やスポーツなどの趣味やレジャーに使えば国全体が潤うことになる」と語っている。 == 構成する分野 == 主に3つの分野で構成される。 # 開発設計段階、つまり生産に入る前のオフラインでの品質工学(パラメータ設計→損失関数) # 生産段階、つまり生産のオンラインでの品質工学(損失関数) # MT法(マハラノビス・タグチ)法 == オフライン(開発・設計)における品質工学 == === パラメータ設計 === パラメータ設計に入る前に重要なことは、時代の潮流を考えて、技術テーマを選択するのは技術責任者の役割であり責任である。技術開発テーマが決まったら、技術者が顧客の立場に立って「システム選択」することになるが、顧客が欲しい機能を考えて、理想機能を満足するシステムをたくさん考案することが大切である。考案したシステムの良し悪しを判断するのが「機能性評価」である。機能性評価はシステムとは関係なく、顧客が使う立場で信号とノイズを考えて[[SN比]]で評価することが大切である。 その後で、パラメータ設計(厳密にはロバスト設計という方が適切である)を行うのであるが、品質工学では「品質が欲しければ、品質を測るな。機能性を評価せよ」と言うことが合言葉になっていて、品質問題を解決する場合には、品質特性などのスカラー量は使わずに、理想機能(<math>y = \beta M</math>)を特性値と考えてパラメータ設計を行う。 パラメータ設計の手順は以下の通りである。 #テーマの分析 #目的機能の明確化 #理想機能の定義(<math>y = \beta M</math>) #計測特性は何か(信号因子とノイズの選択) #SN比や感度を求める #制御因子を決める #直交表に制御因子を割り付けて、信号やノイズとの直積実験を行う #データ解析を行う #要因効果図を作成して最適条件と現行条件やベンチマーク条件を求める #確認実験で最適と現行の利得の再現性をチェックする #再現性が悪い場合は特性値やノイズや制御因子の見直しを行う ===許容差設計=== パラメータ設計は低コストの部品を使って、[[SN比]]で機能性の改善を行うが、品質改善の目的はコスト改善であるから、品質とコストのバランスを考えることが大切でマネジメントの問題である。 そこで、パラメータ設計でSN比を6dB改善できれば、市場の[[統計的ばらつき|ばらつき]]が1/4になるのだから、1/4の低コスト部品を使っても目的機能は変わらないことになる。この場合、3dBを品質改善に、残りの3dBをコスト改善に廻せば、2倍の品質で半分のコストが達成できるのである。 許容差設計は「品質改善の成果をコスト改善に還元できる手法」なのである。 ここで初めて「[[損失関数]]」が必要になるのである。損失関数は「目標値からのばらつき」に比例するもので、目標値に調整した後のSN比の真数の逆数に比例する。すなわち、<math>L</math>(円) = <math>\frac{A}{\Delta^2}</math> (1/SN比)で表され、<math>\Delta</math>は機能限界、<math>A</math>は機能限界を超えたときの損失で市場に出たときの品質損失を表す。 #部品や組み立て品の許容差設計 #直交多項式を使った応答解析による許容差設計 最近社会的トラブルに関係する「安全設計」にこの考え方が適用できる。品質工学における安全設計とは、「信頼性に頼るのでなく、事故が起きたときに被害を最小にする設計である」。例えば、航空機事故の場合、航空機が落ちたとき人命を2億円と考えて、損害に見合うような安全装置を設置するなどである。照明器具が落下した場合、人間の頭の上で止まって直接危害を加えない安全装置を設けるなどである。 ===許容差決定=== 許容差設計では、部品コストと品質コストがバランスし、両者の和が最小になるように許容差を決めることである。したがって、「コストが決まらないと許容差は決められない」ことになる。逆に言えば部品が決まれば品質の良否を判定する許容差が決定する。 許容差<math>\Delta</math>は下記のように損失関数から決める。  <math>\Delta = \sqrt{\frac{A}{A_0}} \Delta_0</math>  <math>A</math>:部品コストや<math>\Delta</math>を超えたときの廃棄費用  <math>A_0</math>:機能限界<math>\Delta_0</math>を超えたときの社会的損失(円)  <math>\Delta_0</math>:機能限界で消費者の許容限界 生産者と組み立て者の場合は、生産者の許容差<math>\Delta</math>は組み立て者の機能限界<math>\Delta_0</math>と組み立て者が機能限界<math>\Delta_0</math>を超えたときの損失<math>A_0</math>から上式で決める。 安全率 <math>\varphi</math> は上式から、 <math>\sqrt{\frac{A_0}{A}} = \frac{\Delta_0}{\Delta} = \varphi</math> で表される。 望目特性と望小特性の安全率であるが望大特性の安全率は <math>\varphi = \frac{\Delta}{\Delta_0}</math> で表される。 組み立て品の許容差を決めるときには、機能限界<math>\Delta_0</math>から出力特性<math>y</math>の許容差<math>\Delta y</math>を求め、直交多項式 <math>y =my+a(xA-mA)+b(xB-mB)+ \cdots</math> 安全率 <math> \varphi = \sqrt{\frac{A_0}{A}}</math> 出力特性の許容差 <math>\Delta y= \frac{\Delta_0}{\varphi}</math> A部品の許容差 <math>\Delta A \frac{\Delta y}{a} = \frac{\Delta_0}{a \varphi}</math> B部品の許容差 <math>\Delta B = \frac{\Delta y}{b} = \frac{\Delta_0}{b \varphi}</math> ==オンライン(製造)における品質工学== 「メーカー側(製造者)の損失」と「ユーザー側(顧客)の損失」の和をバランス良く小さくすることが、品質工学の目的である。「ユーザー側(顧客)の損失」の中の機能のばらつきを小さくする手法としてパラメータ設計がある。 「メーカー側(製造者)の損失」いわゆる、生産コストは、  生産上のコスト=材料費+加工費+管理費+公害等の損失 となる。 この内、材料費、加工費、公害等の損失は、主に設計段階で決まるが、管理費は、生産部門が与えられた工程で規格通りの製品を出荷するための管理(品質管理)費で、管理に依存する。工程の状態を高水準に維持したり、装置が故障する前に予防措置をとらねばならないが、その対策が過剰品質になれば、何れは、価格に跳ね返り競争力を失うことになる。従って、経済性を勘案した工程管理のあり方が重要になる。この分野をオンライン(製造)における品質工学と言うが、許容差決定が最前提にあることは言うまでも無い。 オンライン品質工学は、製造工程において一番少ない経費で一番良い品質にするための仕事のやり方であるが、具体的な方法論には下記のようなものがある。 #フィードバック制御: 作った製品の特性値を調べ、目標値とある程度以上の差がある時、工程を正常に戻すフィードバック制御の管理理論. #工程の診断と調節: 合格・不合格の判定しかできない場合の工程設計理論.例)ビンの製造工程、アルミダイキャスト製造工程 #工程連結のシステム設計: 一連の加工工程を連結する場合の稼働率、在庫費用を考慮した最適連結方式を求める方法. #フィードフォワード制御(適応制御): 部品や中間製品の特性を調べ、相手部品を選んだり、工程条件を変えて製品を目標値通りに作る適応制御方式の設計理論. #検査設計: 検査方法が決まっている時、工程の品質水準とその工程での不良率を調べ、検査するかしないかを決定する方法. #予防保全方式の設計: 出荷した製品が機能しなかったり、生産機械が故障して止まってしまう場合の予防保全の設計方式. #安全システムの設計と保全: 故障表示は設置されていても、故障表示装置自体の異常は人間がチェックしなければならない.この場合の点検方式の理論. ==MT法(MTシステム)== [[MT]]({{lang-en-short|Mahalanobis Taguchi}})法という新しい多次元情報データによる予測、診断、分析法が提案され、実用例が多数の企業から報告されている。第一次産業革命は、加工運搬などの肉体労働を機械化することで、重労働作業から人間を解放したのみでなく、生産性の向上で生活水準を豊かにした(現在はMahalanobisの距離を使っていない手法も普及し、その中でT法が主力となると思われるが、MTシステムの名前はそのまま使われている)。 米国では、農業の生産性が向上し、現在では2%以下の農業人口で、米国の全人口の2倍の人々に対して十分な農産物が供給できるようになったという。 それらの改善は、農作業や農産物の運搬、貯蔵に必要な作業の機械化による生産性が建国当時の100倍になったが、現在も人間による作業が残されている。 特に乳幼児や高齢者の世話に多くの人手を必要にしている。それらの作業を機械化するには漫画に出てくるようなロボットの開発が必要である。人間や動物の持つ能力でコンピュータが持っていない能力の1つが「パターン認識能力」である。 パターン認識は、広くは言語の理解能力であるが、品質工学のMT法では蓄積されたデータベースからの判断問題(診断や予測)のみを取り上げる。 当初提案されたのはMT(Mahalanobis Taguchi)法であったがその後各種提案されている。MT法というとこの最初に提案されたMT法を指したり、この提案された全ての手法を指す場合の2通りがある。MTシステムと言った場合は手法全体のことを指すことが多い(ただし、MTSという略号はTS法の初期の呼び名であることもあり、古い文献を参照する場合は注意すること) 戦略としての品質工学は欧米ではタグチメソッド(Taguchi methodsとかTaguchi quality engineering)と呼ばれている。 タグチメソッドは、予測の精度を機能性評価によるSN比(信号対雑音比)を用いる方法である。SN比は判断の誤りの大きさを結果で評価する方法で、関数空間の関係のみならず、多次元空間の関係にも応用できるのである。 多次元空間には様々な時系列のデータも入るので、ここに示す方法は工学のみならず医学や経営学や社会学や自然現象(地震や天候など)の分野にも利用できるが、データベースは個々の分野の専門家の仕事でタグチメソッドではない。 商品や技術分野でパラメータ設計を行うときにも制御因子を選ぶのは専門家の仕事であって、システムの良否を判断することがタグチメソッドの機能性の評価であると同じことである。 MT法では判断する場合、データベースとして、単位空間を決めて異常空間の大きさを予測するのであるが、単位空間はあくまでも均一な空間であるから正常空間や普通な空間を考える。 MTシステムには、MT法、MTA法、MTS法、TS法、T法などが用意されている。 MTシステムのMは[[マハラノビス]]MahalanobisのMで、Tは田口の頭文字を表し、マハラノビスの考案した[[マハラノビスの距離]]を、田口の手によって拡張された概念である。 === MT法 === MT法はマハラノビスの距離を用いて[[逆行列]]を利用した方法で単位空間で求めた観測の対象の平均値が1になることが特徴である。逆行列の計算精度が維持できる程度の項目間の多重共線性がなく(逆行列の計算精度に影響する)、<math> \sigma = 0</math>でない場合に使用できる。 === MTA法 === MTシステムの1つであるが、逆行列を利用した場合、相関係数が1の場合や相関が強くなって精度が下がる場合には、解析ができないなど不具合が発生する。これは多重共線性と呼ばれる問題である。これを逆行列の代わりに余因子行列を用いて一部解決したのがMTA法である。この方法で求めた距離の値もMT法と異なるが、多重共線性が発生していなければ、MT法と完全な相関を持ち距離は定数倍されるだけである。またMTAの拡張方法が永田(早稲田大学)より提案されている。 === TS法 === シュミットの直交展開を利用した方法であるが、この方法は単位空間が中央にある場合、予測の対象に正・負の符号を付与することが可能である。解析に当たっては信号の真の値の確からしさが重要で、計測対象の距離とは計測対象の真値を直接推定予測することができる。したがって信号の真値の信頼度によって結果が変わる可能性があることが指摘されている。 === T法 === TS法と同じように予測の対象が正・負の符号が考えられる場合、下記の3つの方法が用意されている。 * T法(1):両側T法で表される場合。パターン差による推定法は結果が中央付近のメンバーを単位空間にとる。経営利益や株価や降雨量などは変化が安定しているときのデータが単位空間で正負のどちらのデータも予測したい場合に用いる。 * T法(2):片側T法で表される場合でパターン差距離を用いる方法で、端に単位空間をとり、異常の診断や予測に用いる。歩留まりは100%が単位空間で、地震予測では震度1未満が単位空間でそれからの距離を予測したい場合に使用する。 どちらも真値がある場合に用いる。 真値がある場合、真値と単位空間の各項目のSN比と感度を計算して、各項目の重み付けして真値Mを推定する。 * T法(3)RT法:信号の真値がない場合。文字認識の場合、「違う」ということは分かるが、どの程度「違う」のか分からない。火災の場合でも、ぼやや火事や大火事など真値が分からないので、項目ごとにメンバー(データ)を求めて、データごとのSN比と感度を求めて、両者からMTA法を使って単位空間の距離<math>D</math>を求める。単位空間の<math>D</math>と単位空間に属さないメンバーの<math>D</math>を比較する。 T法(1)(2)では項目に対してデータ数はいくらでもよく、<math>n=1</math>個でもよい。 【項目診断の流れ】 #単位空間データ、信号データを用意して、信号データの距離を推定する。 #信号データを異常種類別に分類する #分類した信号データ(異常の種類)別に、距離を特性値として2水準の直交表を利用して要因効果図を作成する。 #診断したい未知データの距離を特性値として、2水準の直交表を利用した要因効果図を作成する。 #未知データの要因効果図と、既に分類してある信号データの要因効果図と比較して、同じ異常のパターンを探す。 ==その他== ===標準SN比=== 現在のパラメータ設計では、市場調査等で、しばしば目的機能を対象にする場合がある。例えば、市場調査の結果、スイッチの場合、クリック感などが評価される。その目的機能は距離、押し圧の関係で波状の曲線形状となる。 このような曲線の場合は、変数変換で比例関係にはできない。SN比は、ノイズに対する安定性の評価であることから、比例関係でない場合も色々なノイズ条件下でも標準条件と同じように機能することを評価したいのである。この評価方法を標準SN比(別称 N0(エヌゼロ)法)と言うが、TS法及びT法と並び、新しい概念である。なお、古くから正常と異常の判定基準(0, 1)評価の標準寄与率から求められる標準SN比があるが、それとは区別されたい。 従来のSN比は、顧客の欲しい機能を表す信号の効果と顧客が望まないノイズの効果との比で表したものであるが、信号の効果の中には、比例項の変動<math>S_\beta </math>と信号の2次項のばらつきSMresが含まれるため、そのばらつきは誤差変動<math>S_e</math>とは別なばらつきでノイズの影響ではないのである。そこで、ノイズの影響だけが顧客が望まないものであるから、信号の効果とノイズの効果を完全に分離することを考えたのが標準SN比である。したがって、2段階設計では、まずノイズの効果だけを考えて最適条件を求めてから、信号の効果を<math>\beta_1 = 1</math>、2次効果<math>\beta_2 = 0 </math>になるように要因効果図の制御因子でチューニングするのである。従来SN比に比べて再現性が高くなるのが特徴である。 従来のSN比は <math>\eta =10 \log \frac{\beta^2}{\sigma^2}</math> で表し、標準SN比は <math>\eta = 10 \log \frac{1}{\sigma^2}</math> で表される。 標準SN比は、目的機能でも基本機能でも用いられるが、ベンチマークと品質の比較をする場合には再現性は必要ないので、従来SN比を用いることになる。 === エネルギー比型SN比(新SN比) === 機能性評価では、実験データの出力のエネルギー(ST)は、有効エネルギー(Sβ)と有害エネルギー(SN)の和でピタコラスの定理で表されるから、ST=Sβ+SNとなる。顧客の満足度を表すSN比は、有効エネルギーと有害エネルギーの比で考えることができるから、 : SN比(η)=(Sβ/nr)/(SN/nr)=Sβ/SN デシベルでは10log(Sβ/SN) : 感度(S)=10log(Sβ/nr) で表される。新SN比は、信号の水準数やデータ数に関係ないことが特徴である。MT法でSN比を求める場合、従来SN比ではSβ<Veの場合はη=0として考えるが、新SN比では総べてのデータを採用できることが特徴である。SN比は相対比較であるから、利得の改善に意味があって、SN比の絶対値は問題にしないという考えが従来SN比であるが、絶対値も変わらない新SN比の方が損失関数を求める場合には便利である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> {{Engineering fields}} {{Tech-stub}} 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品質管理
品質管理(ひんしつかんり、QC、Quality control)は、顧客に提供する商品およびサービスの品質を向上するための、企業の一連の活動体系。 品質管理には、広義・狭義の品質管理がある。 広義の品質管理は、マネジメントとしての品質管理のことを指し、品質マネジメント(Quality management)として知られ、JISでは「品質要求事項を満たすことに焦点を合わせた品質マネジメントの一部」と定義している。 企業の生産現場において「品質管理」と言う場合は狭義の品質についての管理を指していることが多い。狭義の品質管理には以下のような捉え方がある。 設計品質においては品質規格を高く設定するほどコストも急激に上昇するため高ければ良いというものではなく、利益を得られる範囲で仕様を設定する必要がある。また適合品質を高めるには検査が必要となるが、設計品質通りに製品ができず集団の中でばらつきがあり不良があったり手直しが必要になるなどし、検査基準を厳しくするほどやはりコストが上昇することとなる。適切な(狭義の)品質管理を行うことで設計品質、適合品質とコストの関係を改善できるが、そのコントロールについてはマネジメントが担当する部分と言えるため、広義の品質管理において対応する内容である。 製品によっては購入者に適切な品質管理がされていることを告知するために「QC Pass」や「QA Passed」、「OK to ship」などと言うステッカーを張り付けたり、証書を添付する場合がある。それらの証明は、単に社内だけのものから外部認定機関によるものまで様々である。 Quality Control (QC) ということばは、アメリカのベル研究所の技師であった時のウォルター・シューハートが1931年に著した The Economic Control of Manufactured Product (D. Van Nostrand Company via インターネットアーカイブ)において初めて現れたとされている。 日本においては第二次世界大戦敗戦後1948年から始まった日本科学技術連盟、海外技術調査委員会所属の品質管理調査委員会品質管理調査部会の調査活動や1949年のGHQが行なったいわゆるCCS経営者講座を端緒とする。特に日本科学技術連盟は日本の国勢調査についての計画立案のため来日していたW・エドワーズ・デミングを招聘し統計的プロセス制御と品質管理について講義を行なった。デミングはベル研究所でシューハートに学んだ統計学者である。このことにより当初日本における品質管理において統計的手法に偏重した傾向を持つこととなる。1956年には日本産業規格において「品質管理とは買い手の要求に合った品質の製品を、経済的に作り出すための、全ての手段の体系」「近代的な品質管理は、統計的な手段を採用しているので、統計的品質管理(statistical quality control)と呼ぶことがある」と定義された。 デミングの教えを受けた各企業の現場において品質管理手法は発展していき昭和30年代中頃〜後半にかけて統計的なアプローチでないものが多く見られるようになっていった。企業の全段階の人々の協業が重視され、組織の壁をなくした協業体制によって品質管理を推進する手法が確立する。統計的なアプローチにとどまらないものとしてQCサークル活動、カイゼンなどがある。また製造部門にとどまらずサービス部門や管理部門など全社的にQC活動を広げた活動は TQC(Total Quality Control)と呼ばれるようになった。このTQCが発展したものがTQM(Total Quality Management)である。デミングの業績は当初彼の本国アメリカではあまり評価されていなかったが、1980年にNBCが If Japan can... Why can't we?(日本にできて、なぜ我々にできないのか?)というドキュメンタリーを放送したことにより注目され、1990年代にかけてアメリカでTQCが再定義され普及しすることとなり、アメリカの製造業の復活に大きく貢献したとされる。 QC(TQM)の手法には、QC七つ道具、新QC七つ道具、商品企画七つ道具、戦略立案七つ道具、統計的方法、品質機能展開、FMEA、FTA、QCストーリー(QC的問題解決法)などの手法がある。このうちQC七つ道具など七つ道具という組み合わせを用いる手法は日本で考えられた手法(ただし個々の手法には日本国外で考え出されたものもある)であるのに対し、統計的方法、FMEA、FTAなどは日本国外で考えられた手法である。なお、現在QC七つ道具は世界的に広がっており(英語版Wikipedia:Seven basic tools of quality)、ISO9001において明示されていない品質ツールに関してアメリカ品質協会(American Society for Quality)においてもQC七つ道具が品質ツールとして認知されている。一方、ビッグデータの時代になり、QC七つ道具はうまく使えなくなってきている。それを解決するためにDX(デジタルトランスフォーメーション)に対応するQC七つ道具としてDN7が提案されている。 管理を行うにあたり、現象を数値的・定量的に分析するための技法。いずれも可視化によって、誰にでもすぐに問題点がわかったり説明を容易にすることを狙っている。 QC七つ道具が定量的な現象分析を狙うのに対し、新QC七つ道具は定性的な分析を狙う。問題の構造を早期に明らかにするのが目的である。 FMEAはFailure Mode and Effects Analysisの頭文字で、故障モード影響解析ともいい、システムに起こり得る故障モードを列挙した上で、そこから周囲への影響度の高い故障モードを抽出し、故障原因、システムへの影響評価、影響の深刻度などを視覚化して事前に対策を講じる手法である。産業分野では製品設計や工程設計の過程での潜在的故障、不良モードの早期発見と未然防止のために導入されている。また、米国では医療用のHFMEA(Health care FMEA)が利用されている。 システムの故障など一定の望ましくない事象を図の頂上に置き、故障を発生させる可能性のある事象(重大な事故やトラブルに影響するサブシステムや部品の状態)を下位に向かって列挙して樹木状に結んでフォルトツリー(Fault Tree)を作成し、故障の確率を算出するリスク評価手法。 HAZOP(HAZard and OPerability study)はサブシステム・コンポーネント間に複雑な干渉がある場合に用いられるもので、化学プラントのハザード分析法として開発されたが、ソフトウエアのハザード分析などにも使用されている。 STAMP/STPAはシステムの大規模化・複雑化に伴い、サブシステムやコンポーネントに不具合はなくても、サブシステムやコンポーネントの相互作用(コンポーネント間やコンポーネントと人間の間のインターフェースのミスなど)で不具合が発生する状況に対応するため開発されたハザード分析手法である。
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品質管理は、顧客に提供する商品およびサービスの品質を向上するための、企業の一連の活動体系。
'''品質管理'''(ひんしつかんり、QC、Quality control)は、顧客に提供する[[商品]]および[[サービス]]の[[品質]]を向上するための、[[企業]]の一連の活動体系。 ==概要== 品質管理には、広義・狭義の品質管理がある。 広義の品質管理は、[[経営管理論|マネジメント]]としての品質管理のことを指し、品質マネジメント(Quality management)として知られ、[[日本工業規格|JIS]]では「品質要求事項を満たすことに焦点を合わせた品質マネジメントの一部」と定義している<ref>[[ISO 9000|JISQ9000]] 「[[品質マネジメントシステム]]-基本及び用語」-「3.3.7 品質管理」参照</ref>。 企業の生産現場において「品質管理」と言う場合は狭義の品質についての管理を指していることが多い。狭義の品質管理には以下のような捉え方がある。 *設計品質 …… 設計者が目標する品質規格([[仕様]])であり、「狙った品質」<ref name="名前なし-1">{{Harv|品質管理便覧}} [1] 品質管理概論 - 1.2 企業と品質管理 の記載より抜粋、要約</ref>。 *合致品質 …… 買い手の要求を満たす品質<ref name="名前なし-2">{{Harv|新版品質管理便覧2版}} 1.2.1 品質の意味 より</ref>。 *適合品質 …… 製品特性やサービスの水準が仕様や規定、需要に適合しているかと言う観点からみた、実際の品質<ref name="名前なし-1"/><ref name="名前なし-2"/>。 設計品質においては品質規格を高く設定するほどコストも急激に上昇するため高ければ良いというものではなく、利益を得られる範囲で仕様を設定する必要がある。また適合品質を高めるには検査が必要となるが、設計品質通りに製品ができず集団の中でばらつきがあり不良があったり手直しが必要になるなどし、検査基準を厳しくするほどやはりコストが上昇することとなる。適切な(狭義の)品質管理を行うことで設計品質、適合品質とコストの関係を改善できるが、そのコントロールについてはマネジメントが担当する部分と言えるため、広義の品質管理において対応する内容である<ref name="名前なし-1"/>。 製品によっては購入者に適切な品質管理がされていることを告知するために「QC Pass」や「QA Passed」、「OK to ship」などと言うステッカーを張り付けたり、証書を添付する場合がある。それらの証明は、単に社内だけのものから外部認定機関によるものまで様々である。 ==歴史== Quality Control (QC) ということばは、アメリカの[[ベル研究所]]の技師であった時の[[ウォルター・シューハート]]が[[1931年]]に著した [https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.150272 The Economic Control of Manufactured Product] (D. Van Nostrand Company via [[インターネットアーカイブ]])において初めて現れたとされている<ref>{{Harv|品質管理便覧}} [1] 品質管理概論より</ref>。 日本においては[[第二次世界大戦]]敗戦後[[1948年]]から始まった[[日本科学技術連盟]]、海外技術調査委員会所属の品質管理調査委員会品質管理調査部会の調査活動や[[1949年]]の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が行なったいわゆるCCS経営者講座<ref>{{Harv|後藤}} CCS: Civil Communication Section、民間通信局が行なった製造業企業経営者を対象とした講座</ref>を端緒とする。特に日本科学技術連盟は日本の国勢調査についての計画立案のため来日していた[[W・エドワーズ・デミング]]を招聘し[[統計的プロセス制御]]と品質管理について講義を行なった。デミングはベル研究所でシューハートに学んだ統計学者である。このことにより当初日本における品質管理において統計的手法に偏重した傾向を持つこととなる。1956年には[[日本産業規格]]において「品質管理とは買い手の要求に合った品質の製品を、経済的に作り出すための、全ての手段の体系」「近代的な品質管理は、統計的な手段を採用しているので、統計的品質管理(statistical quality control)と呼ぶことがある」と定義された<ref>JIS Z 8101 : 1956 において定義された。なおZ 8101-1「統計-用語及び記号-第1部」の「まえがき」に記載ある通り、この品質管理定義を引き継いでいた JIS Z 8101 : 1981 は廃止されJIS Z 8101-1 : 1999に置き換えられており現在この品質管理定義の文言は残っていない</ref>。 デミングの教えを受けた各企業の現場において品質管理手法は発展していき[[1955年|昭和30年]]代中頃〜後半にかけて統計的なアプローチでないものが多く見られるようになっていった。企業の全段階の人々の協業が重視され、組織の壁をなくした協業体制によって品質管理を推進する手法が確立する。統計的なアプローチにとどまらないものとして[[QCサークル]]活動<ref>{{Harv|新版品質管理便覧}} 「1.5.4 全員参加の品質管理への展開」参照。同じ職場で品質管理活動を自主的に行う小グループをこう呼ぶ。マネジメントはこのようなQCサークル活動と連携を強めることが求められる。</ref>、[[改善|カイゼン]]などがある。また製造部門にとどまらずサービス部門や管理部門など全社的にQC活動を広げた活動は '''[[TQC]]'''(Total Quality Control)と呼ばれるようになった。このTQCが発展したものが'''[[TQM]]'''(Total Quality Management)である。デミングの業績は当初彼の本国アメリカではあまり評価されていなかったが、[[1980年]]に[[NBC]]が ''If Japan can... Why can't we?''(日本にできて、なぜ我々にできないのか?)というドキュメンタリーを放送したことにより注目され、[[1990年代]]にかけて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でTQCが再定義され普及しすることとなり、アメリカの製造業の復活に大きく貢献したとされる<ref>{{Harv|品質管理学会}} 「転換期を迎える品質管理とその課題」赤尾洋二 などより</ref>。 == QC手法 == QC(TQM)の手法には、QC七つ道具、新QC七つ道具、商品企画七つ道具、戦略立案七つ道具、統計的方法、品質機能展開、[[FMEA]]、[[フォルトツリー解析|FTA]]、QCストーリー(QC的問題解決法)などの手法がある<ref name="matsumoto">{{Cite web|和書|author=松本 隆|url=https://www.jsa.or.jp/datas/media/10000/md_2421.pdf |title=第6章 社内標準化とTQM |publisher=日本規格協会グループ |date= |accessdate=2022-11-27}}</ref>。このうちQC七つ道具など七つ道具という組み合わせを用いる手法は日本で考えられた手法(ただし個々の手法には日本国外で考え出されたものもある)であるのに対し、統計的方法、FMEA、FTAなどは日本国外で考えられた手法である<ref name="matsumoto" />。なお、現在QC七つ道具は世界的に広がっており(英語版Wikipedia:[[w:Seven basic tools of quality|Seven basic tools of quality]])、[[ISO9001]]において明示されていない品質ツールに関してアメリカ品質協会([[w:American Society for Quality|American Society for Quality]])においてもQC七つ道具が品質ツールとして認知されている<ref name="Hammar">{{Cite web |author=Mark Hammar|url=https://advisera.com/9001academy/blog/2017/04/18/how-to-use-quality-control-tools-to-improve-your-qms/|title=How to use quality control tools to improve your QMS|publisher=Advisera|date=2017-04-18|accessdate=2022-12-25}}</ref>。一方、[[ビッグデータ]]の時代になり、QC七つ道具はうまく使えなくなってきている。それを解決するためにDX([[デジタルトランスフォーメーション]])に対応するQC七つ道具として[[DN7]]が提案されている。 === QC七つ道具 === [[File:C control chart.svg|200px|thumb|right|管理図]] [[画像:Pareto graphic 01.png|thumb|right|230px|パレート図]] [[File:Ishikawa Fishbone Diagram.svg|240px|thumb|right|特性要因図の一例。]] [[画像:散布図.png|thumb|200px|right|散布図の例]] 管理を行うにあたり、現象を[[数値]]的・[[定量的研究|定量的]]に分析するための技法。いずれも[[可視化]]によって、誰にでもすぐに問題点がわかったり説明を容易にすることを狙っている。 {{See|QC七つ道具}} # [[チェックシート]] #: 確認要点事項を予め抜粋しまとめられたツール。チェックシートは、必要とするデータが何かを瞬時に理解し、集めたデータを簡単に整理することが目的であり、その点に注意して作成しなくてはならない。 # グラフ #: 数値[[データ]]をそのまま見ても全体を把握しにくいため、目で見てわかりやすく全体の状況を早く正しく知るために、[[統計図表|グラフ]]を作成する。 # [[管理図]] #: 工程の管理を行うためのツール。管理図は工程が安定状態にあるかどうかを把握するための判断材料となる。時間別などの規則に従ってデータを[[サンプリング]]して集計を取り、その結果を群として系列で折れ線グラフを作成する。管理図では、中心線 (CL) と管理限界によって、点の配置と分布からその管理工程の異常が判断できる。管理限界には上方限界 (UCL) ・下方限界 (LCL) があり、3シグマを設定する場合が多い。 # [[パレート図]] #: 工程改善に用いられるツール。工程で発生している問題を原因別・損失金額別などに分類し、その件数の大きい順に並べて棒グラフおよび累計曲線を図に表したもの。[[パレート図]]は工程の改善活動の検討の場において、改善効果が期待できる問題の抽出に用いる。工程が持っている問題を分類して図示する事で、真っ先に改善しなければならない問題を容易に把握できる。 # [[特性要因図]] (cause and effect diagram) #: 問題抽出に用いられるツール。ある問題に対して関連する原因の洗い出しを行うため、問題(特性)とその発生の原因(要因)だと考えられる事項とを[[矢印]]で結んで図示したもの。その図の形状が魚の骨の形に似ていることから、別名'''魚の骨図''' (fishbone diagram) とも呼ばれる。[[特性要因図]]は工程の更なる能力の向上を検討する場において有効な手法であり、[[ブレインストーミング]]の要領で要因を抽出して洗い出した要因の関連性を特性要因図に表し、アプローチを行う要因の順位付けを行う為の資料とする。 <!--##: 参考外部リンク:客観説TQM[http://www.objective-tqm-lab.com/std6.html]--> # [[ヒストグラム]] #: データの傾向を判断できるようにするツール。データの[[集合]]に対して[[平均値]]・[[分布]]を読み取るためのもの。ヒストグラムはバラツキが顕在するあるデータの集合において、全体の傾向を把握するために用いられる。[[度数分布表|度数]]を元にヒストグラムを作成することによって、データの集合全体の平均値、データの[[分散 (確率論)|分散]]を把握できる。品質管理においてヒストグラムの分布を読み取り、その結果に基づき次の行動に移すことが重要とされている。ヒストグラムの山の形状から工程の安定性を、山の広がり具合から[[標準偏差]]σを、規格値を記述することで[[規格]]外れなどの問題点が存在するかを判断できる。 # [[散布図]] #: 2つの対となるデータを横軸(原因系)と縦軸(結果系)としてプロットした図。[[散布図]]は2つの変量の相互関係を可視化するのに有効な手法。 ===新QC七つ道具=== QC七つ道具が定量的な現象分析を狙うのに対し、新QC七つ道具は[[定性的研究|定性的]]な分析を狙う。問題の構造を早期に明らかにするのが目的である。 * 連関図法 * [[KJ法|親和図法]] * [[系統図]]法 * [[アローダイアグラム法]] * [[マトリックス]]図法 * マトリックスデータ解析法 * PDPC法 === FMEA === FMEAはFailure Mode and Effects Analysisの頭文字で、故障モード影響解析ともいい、システムに起こり得る故障モードを列挙した上で、そこから周囲への影響度の高い故障モードを抽出し、故障原因、システムへの影響評価、影響の深刻度などを視覚化して事前に対策を講じる手法である<ref name="matsumoto" /><ref name="tanaka">{{Cite web|和書|author=田中健次 |url=https://www.niph.go.jp/journal/data/51-3/200251030010.pdf |title=トラブルの未然防止に有効な手法:FMEAとは |publisher=国立保健医療科学院 |date= |accessdate=2022-11-27}}</ref><ref name="ipa" />。産業分野では製品設計や工程設計の過程での潜在的故障、不良モードの早期発見と未然防止のために導入されている<ref name="tanaka" />。また、米国では医療用のHFMEA(Health care FMEA)が利用されている<ref name="tanaka" />。 {{See|FMEA}} === FTA === システムの故障など一定の望ましくない事象を図の頂上に置き、故障を発生させる可能性のある事象(重大な事故やトラブルに影響するサブシステムや部品の状態)を下位に向かって列挙して樹木状に結んでフォルトツリー(Fault Tree)を作成し、故障の確率を算出するリスク評価手法<ref name="matsumoto" /><ref name="ipa">{{Cite web|和書|author=独立行政法人情報処理推進機構技術本部 ソフトウェア高信頼化センターソフトウェア高信頼化推進委員会障害原因診断 WG |url=https://www.ipa.go.jp/files/000045158.pdf |title=大規模・複雑化した組込みシステムのための障害診断手法 モデルベースアプローチによる事後V&Vの提案|publisher=一般財団法人土木研究センター |date= |accessdate=2022-11-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |url=https://www.pwrc.or.jp/yougo_g/pdf_g/y1308-P054-054.pdf |title=用語解説 |publisher=一般財団法人土木研究センター |date= |accessdate=2022-11-27}}</ref>。 {{See|フォルトツリー解析}} === HAZOP === HAZOP(HAZard and OPerability study)はサブシステム・コンポーネント間に複雑な干渉がある場合に用いられるもので、化学プラントのハザード分析法として開発されたが、ソフトウエアのハザード分析などにも使用されている<ref name="ipa" />。 {{See|HAZOP}} === STAMP/STPA === STAMP/STPAはシステムの大規模化・複雑化に伴い、サブシステムやコンポーネントに不具合はなくても、サブシステムやコンポーネントの相互作用(コンポーネント間やコンポーネントと人間の間のインターフェースのミスなど)で不具合が発生する状況に対応するため開発されたハザード分析手法である<ref name="ipa" />。 {{See|STAMP/STPA}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==参考文献== *W・エドワーズ・デミング『危機からの脱出 Ⅰ・Ⅱ』 原題OUT OF THE CRISIS、成沢俊子+漆嶋稔訳、日経BPクラシックス、2022年。Ⅰ:ISBN978-4-296-00061-6, Ⅱ:978-4-296-00071-5。 *{{Cite book|和書|author=日本規格品質管理便覧編集委員会(編)|title=品質管理便覧|date=1962|publisher=日本規格協会|ref={{sfnRef|品質管理便覧}}}} *{{Cite book|和書|author=日本規格品質管理便覧編集委員会(編)|title=新版品質管理便覧|date=1977|publisher=日本規格協会|ISBN=978-4542501010|ref={{sfnRef|新版品質管理便覧}}}} *{{Cite book|和書|author=朝香鐵一・石川馨・山口襄(共同監修)|title=新版品質管理便覧 2版|date=1988|publisher=日本規格協会|ISBN=978-4542251014|ref={{sfnRef|新版品質管理便覧2版}}}} *{{Cite book|和書|author=日本品質管理学会(編)|title=(社)日本品質管理学会のあゆみ : 1986年から1990年まで|date=1991|publisher=日本品質管理学会|ref={{sfnRef|日本品質管理学会}}}} *{{Cite book|和書|author=後藤俊夫 (著)|title=忘れ去られた経営の原点―GHQが教えた「経営の質」CCS経営者講座|date=1999-03|publisher=生産性出版|ISBN=978-4820116523|ref = {{sfnRef|後藤}}}} == 関連項目 == * [[製造に関する記事一覧]] * [[品質]] - [[不良品]] * [[品質保証]] * [[リコール (自動車)]]、[[リコール (一般製品)]] * [[製造物責任法]](PL法) * [[PDCAサイクル]] * [[QCストーリー]] * [[QCサークル]] * [[方針管理]] * [[デミング賞]] * [[ISO 9000]] * [[ISO 13485]] * [[生産技術]] * [[品質マネジメントシステム]] * [[AQL]] * [[統計的プロセス制御]] * [[ソフトウェア品質]] * [[シックス・シグマ]] * [[ZD運動]] * [[HALT]] ;品質管理に関する資格試験 * [[品質管理検定]](別名:QC検定) * [[ITパスポート試験]](国家試験・[[情報処理技術者試験]]) * [[統計検定_(資格)|統計検定]] {{食品科学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひんしつかんり}} [[Category:品質管理|*]] [[Category:製造]] [[Category:設計]] [[Category:品質]] [[Category:統計的プロセス制御]] [[Category:ビジネススキル]]
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西暦
西暦()とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す。 西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。 なお 西暦元年とイエスの実際の生年には、ずれがある(詳細は「#西暦元年とイエス生年のずれ」を参照)。 西暦は西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADの代わりにCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)の代わりに『Before Common Era(BCE)』に切り替える動きが広まっている(詳細は「#中立的な表現」を参照)。 西暦の年数は従来からのデファクト・スタンダードであったが、改めて、情報処理における日付と時刻のデータ形式を規定する国際規格 ISO 8601と日本産業規格 JIS X 0301 において、パリにおけるメートル条約の調印年月日を1875年5月20日とすることで西暦の年月日を定義している(ISO 8601#起点)。 西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された。525年、ディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世の委託を受けてキリスト教の移動祝日である復活祭の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位日である284年8月29日を紀元とする。)に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである。 聖書の記述によると、イエスが復活した日はユダヤ教の過越の祭り(春分の頃の最初の満月の日)の前日から3日目の日曜日(主日)であり、伝承では「ユダヤ暦でニサンの月の14日」(ユリウス暦の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した。そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した。また、紀元の始点を(イエス生誕と一般的に考えられているクリスマスの12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた。 イエス・キリストの割礼日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。 また、ザ・ガーディアンは、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している。 西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは10世紀以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである。 西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。 東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準。西暦紀元前5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。 また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でもアトス山、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会などがユリウス暦を使用している。他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁、ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。 ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前1年ごろに生まれたと考えられている。これは、新約聖書の2つの記述が根拠となっている。 これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている。 西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。例えばカエサルが暗殺された年は紀元前44年である。この記法は17世紀のフランスイエズス会の神学者ディオニシウス・ペタヴィウス (Dionysius Petavius) (1583-1652)(別名ドニ・プト (en:Denis Pétau) )の発案によるものであり、18世紀末になってようやく一般化した。 日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、英語の“Before Christ”の略であるB.C.またはBCである。 西暦1年より前の年数を表すには「紀元前」を用いるので、通常は0年や負数を持つ西暦年は存在しない(0世紀も存在しない)。しかし天文学では西暦の概念を数直線上の0および負数へ拡張して用いる。これは天文学的紀年法(en:Astronomical year numbering)と呼ばれる。 天文学的紀年法が準拠する数直線: この場合、西暦1年は「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「-1年」、紀元前3年は「-2年」・・・と表記される。例えば紀元前44年(カエサルが暗殺された年)は、西暦-43年である。この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格であるISO 8601でも採用されている。ISO 8601においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、-0001 は紀元前2年、-0002 は紀元前3年である(ただし、事前に通信の送信側と受信側との間での合意が必要である)。 日本では西暦年での表記が増えており、「2023年」あるいは下2桁のみで「23年」または数字の前にアポストロフィ(')を付して「'23年」と表記する事が多い。元号と区別するためには、「西暦2023年」と、「西暦」を年の前に付ける。ただし「西暦+下2桁」(例えば、西暦23年)とは書かない(詳細は後節の「#西暦と各国の紀年法の関係」を参照)。また、百年紀を跨ぐ複数の年を表す場合には略さずに4桁で表記される。 キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、大日本帝国では神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。 英語では、2023または23と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD 2023" と書く。紀元前ならば "123 BC" と書く。 英語のADは、ラテン語の Anno Domini(主〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味するAprès Jésus-Christ / Avant Jésus-Christ(を略したもの)を使う。 キリスト教に基づく表現であるAnno Domini(AD)、Before Christ(BC)を、より中立的に、たとえば英語ではCommon Era(共通紀元)、 Before Common Era(共通紀元前)とする動きが起きている。 もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE (Vulgar Era) を使う動きがあった。背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダードになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。 2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した。『ワールド・アルマナック』2007年度版なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。また、アメリカの大学入試テストなどを運営する非営利団体のカレッジボードなども導入している。 たとえば、Unicode Standard ではceとbceを使っている。 日本には、16世紀にカトリック教会の宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、江戸時代になって禁教令が出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、1641年における、平戸のオランダ商館の出島への移転は、西暦が使われたことを、長崎奉行が問題視したために実行された。 再び西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で1872年(明治5年)に天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まってから(改暦の詳細については「明治改暦」を参照)のことであり、日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである。 日本の政府機関や地方公共団体などが作成する公文書(住民票など)における年の表記は、基本的に元号のみが用いられているが、日本国憲法の政教分離規定・信教の自由の観点から、国民が提出する申請書などへの西暦の使用が禁止されているわけではない(元号#元号使用の現状を参照)。 気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示(第13条)や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示、日本国旅券の名義人の生年、運転免許証や個人番号カードの有効期限のように、(ごく一部の例外として)西暦を使用する法令も存在する。また外交青書は、西暦主体の表記となっている。 今日の日常生活では、「2000年(平成12年)」のように元号と併記する場合がある。主要なマスメディア(新聞・テレビなど)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している(その他日本国内における元号との使い分け事例などについては「元号#元号使用の現状」を参照)。 西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元(皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。現在でも法令として有効である閏年の置き方に関する勅令(閏年ニ関スル件、明治31年5月11日勅令第90号)では、閏年の判定を西暦ではなく、神武天皇即位紀元によって行うことが定められた。西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものであるが、戦後は一般には用いられていない。 西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを和暦、あるいは邦暦、日本暦と呼ぶことがある。 この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、幕末から昭和時代にかけては「西洋紀元」を省略して「西紀」と言う表記も行われていた。本来なら西暦より西紀のほうがふさわしく、西暦と訳すのに適切なのは(西暦は「西洋の暦」の意であるから)グレゴリオ暦のはずである。実際、村田文夫の『西洋聞見録 後編』(1871年)では、「西暦」は西洋の暦法であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦)を指している。まれに「キリスト紀元」(「基督紀元」)の表記も見られる。 中華民国では、辛亥革命勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元(中華民国暦)を採用した。中華民国では宣統の次の元号のように「民国」という表記で扱われている。中華民国が台湾に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公的な場で使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。 1949年10月1日に成立した中華人民共和国では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので、西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。 朝鮮半島で南北に存在する大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、同一の朝鮮民族を主体とする2つの国家が独自の紀年法を西暦と併用して維持している。 韓国では朝鮮神話における最初の王朝、檀君朝鮮の初代王である檀君の即位年とされる紀元前2333年を紀元とした檀君紀元が提唱され、建国直後の西暦1948年(檀君紀元4281年)から1961年(同4294年)までは公文書に記載されていたが、1962年1月1日からは廃止された。ただし、その後も檀君紀元は民間の中で使用が続けられている。 北朝鮮では西暦1948年の建国から西暦のみが使われてきたが、1997年9月9日から主体暦の使用が告知され、公式行事や同国の報道機関で使用されるようになった。これは同国の初代かつ唯一の国家主席である金日成の生誕年である西暦1912年を紀元としたもので、結果として民国紀元(中華民国暦)と同年となる。日本語で表記する場合には「主体□□年」、ないし朝鮮語の発音をカタカナにした「チュチェ□□年」となる。 東南アジア・南アジア地域のうち、仏教、特に上座部仏教の信徒が多数を占めているタイ・カンボジア・ラオス・ミャンマー・スリランカなどでは、仏教の開祖である釈迦の入滅(死去)した年を基準とする仏滅紀元(仏暦)が普及している。なお、ミャンマーとスリランカでは釈迦の入滅年とされる紀元前544年を紀元元年、タイ・カンボジア・ラオスではその翌年である紀元前543年を紀元元年とし、1年のずれが生じている。 特に王室が仏教を厚く保護するタイ王国ではこの仏暦が公式文書で使われている。この場合、タイ語では仏滅紀元、西暦が普及している国で広く使われる英語や日本語では西暦で表記される例がある。また、西暦1940年(仏滅紀元2483年)に仏暦が9月で打ち切られて元日が揃えられ、「西暦y年m月d日=仏滅紀元y+543年m月d日」の計算式が成立したが、一部では整理前の年号が使用されているともいわれる(詳細は「仏滅紀元」も参照)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "西暦()とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお 西暦元年とイエスの実際の生年には、ずれがある(詳細は「#西暦元年とイエス生年のずれ」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "西暦は西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADの代わりにCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)へ、同時に紀元前(BC)の代わりに『Before Common Era(BCE)』に切り替える動きが広まっている(詳細は「#中立的な表現」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西暦の年数は従来からのデファクト・スタンダードであったが、改めて、情報処理における日付と時刻のデータ形式を規定する国際規格 ISO 8601と日本産業規格 JIS X 0301 において、パリにおけるメートル条約の調印年月日を1875年5月20日とすることで西暦の年月日を定義している(ISO 8601#起点)。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された。525年、ディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世の委託を受けてキリスト教の移動祝日である復活祭の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位日である284年8月29日を紀元とする。)に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "聖書の記述によると、イエスが復活した日はユダヤ教の過越の祭り(春分の頃の最初の満月の日)の前日から3日目の日曜日(主日)であり、伝承では「ユダヤ暦でニサンの月の14日」(ユリウス暦の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した。そこで、ここから過越の祭りと同日である復活祭の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した。また、紀元の始点を(イエス生誕と一般的に考えられているクリスマスの12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イエス・キリストの割礼日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、ザ・ガーディアンは、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "西暦1年から524年までは概念上の存在であり、同時代に紀年法として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは10世紀以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準。西暦紀元前5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でもアトス山、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会などがユリウス暦を使用している。他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁、ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前1年ごろに生まれたと考えられている。これは、新約聖書の2つの記述が根拠となっている。", "title": "西暦元年とイエス生年のずれ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている。", "title": "西暦元年とイエス生年のずれ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。例えばカエサルが暗殺された年は紀元前44年である。この記法は17世紀のフランスイエズス会の神学者ディオニシウス・ペタヴィウス (Dionysius Petavius) (1583-1652)(別名ドニ・プト (en:Denis Pétau) )の発案によるものであり、18世紀末になってようやく一般化した。", "title": "紀元前" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、英語の“Before Christ”の略であるB.C.またはBCである。", "title": "紀元前" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "西暦1年より前の年数を表すには「紀元前」を用いるので、通常は0年や負数を持つ西暦年は存在しない(0世紀も存在しない)。しかし天文学では西暦の概念を数直線上の0および負数へ拡張して用いる。これは天文学的紀年法(en:Astronomical year numbering)と呼ばれる。", "title": "紀元前" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "天文学的紀年法が準拠する数直線:", "title": "紀元前" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この場合、西暦1年は「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「-1年」、紀元前3年は「-2年」・・・と表記される。例えば紀元前44年(カエサルが暗殺された年)は、西暦-43年である。この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格であるISO 8601でも採用されている。ISO 8601においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、-0001 は紀元前2年、-0002 は紀元前3年である(ただし、事前に通信の送信側と受信側との間での合意が必要である)。", "title": "紀元前" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本では西暦年での表記が増えており、「2023年」あるいは下2桁のみで「23年」または数字の前にアポストロフィ(')を付して「'23年」と表記する事が多い。元号と区別するためには、「西暦2023年」と、「西暦」を年の前に付ける。ただし「西暦+下2桁」(例えば、西暦23年)とは書かない(詳細は後節の「#西暦と各国の紀年法の関係」を参照)。また、百年紀を跨ぐ複数の年を表す場合には略さずに4桁で表記される。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、大日本帝国では神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "英語では、2023または23と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、\"AD 2023\" と書く。紀元前ならば \"123 BC\" と書く。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "英語のADは、ラテン語の Anno Domini(主〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味するAprès Jésus-Christ / Avant Jésus-Christ(を略したもの)を使う。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "キリスト教に基づく表現であるAnno Domini(AD)、Before Christ(BC)を、より中立的に、たとえば英語ではCommon Era(共通紀元)、 Before Common Era(共通紀元前)とする動きが起きている。", "title": "中立的な表現" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE (Vulgar Era) を使う動きがあった。背景には、19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダードになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。", "title": "中立的な表現" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した。『ワールド・アルマナック』2007年度版なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。また、アメリカの大学入試テストなどを運営する非営利団体のカレッジボードなども導入している。", "title": "中立的な表現" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "たとえば、Unicode Standard ではceとbceを使っている。", "title": "中立的な表現" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本には、16世紀にカトリック教会の宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、江戸時代になって禁教令が出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、1641年における、平戸のオランダ商館の出島への移転は、西暦が使われたことを、長崎奉行が問題視したために実行された。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "再び西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で1872年(明治5年)に天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まってから(改暦の詳細については「明治改暦」を参照)のことであり、日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本の政府機関や地方公共団体などが作成する公文書(住民票など)における年の表記は、基本的に元号のみが用いられているが、日本国憲法の政教分離規定・信教の自由の観点から、国民が提出する申請書などへの西暦の使用が禁止されているわけではない(元号#元号使用の現状を参照)。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示(第13条)や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示、日本国旅券の名義人の生年、運転免許証や個人番号カードの有効期限のように、(ごく一部の例外として)西暦を使用する法令も存在する。また外交青書は、西暦主体の表記となっている。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "今日の日常生活では、「2000年(平成12年)」のように元号と併記する場合がある。主要なマスメディア(新聞・テレビなど)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している(その他日本国内における元号との使い分け事例などについては「元号#元号使用の現状」を参照)。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元(皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。現在でも法令として有効である閏年の置き方に関する勅令(閏年ニ関スル件、明治31年5月11日勅令第90号)では、閏年の判定を西暦ではなく、神武天皇即位紀元によって行うことが定められた。西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものであるが、戦後は一般には用いられていない。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを和暦、あるいは邦暦、日本暦と呼ぶことがある。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、幕末から昭和時代にかけては「西洋紀元」を省略して「西紀」と言う表記も行われていた。本来なら西暦より西紀のほうがふさわしく、西暦と訳すのに適切なのは(西暦は「西洋の暦」の意であるから)グレゴリオ暦のはずである。実際、村田文夫の『西洋聞見録 後編』(1871年)では、「西暦」は西洋の暦法であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦)を指している。まれに「キリスト紀元」(「基督紀元」)の表記も見られる。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "中華民国では、辛亥革命勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元(中華民国暦)を採用した。中華民国では宣統の次の元号のように「民国」という表記で扱われている。中華民国が台湾に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公的な場で使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1949年10月1日に成立した中華人民共和国では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので、西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "朝鮮半島で南北に存在する大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、同一の朝鮮民族を主体とする2つの国家が独自の紀年法を西暦と併用して維持している。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "韓国では朝鮮神話における最初の王朝、檀君朝鮮の初代王である檀君の即位年とされる紀元前2333年を紀元とした檀君紀元が提唱され、建国直後の西暦1948年(檀君紀元4281年)から1961年(同4294年)までは公文書に記載されていたが、1962年1月1日からは廃止された。ただし、その後も檀君紀元は民間の中で使用が続けられている。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "北朝鮮では西暦1948年の建国から西暦のみが使われてきたが、1997年9月9日から主体暦の使用が告知され、公式行事や同国の報道機関で使用されるようになった。これは同国の初代かつ唯一の国家主席である金日成の生誕年である西暦1912年を紀元としたもので、結果として民国紀元(中華民国暦)と同年となる。日本語で表記する場合には「主体□□年」、ないし朝鮮語の発音をカタカナにした「チュチェ□□年」となる。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "東南アジア・南アジア地域のうち、仏教、特に上座部仏教の信徒が多数を占めているタイ・カンボジア・ラオス・ミャンマー・スリランカなどでは、仏教の開祖である釈迦の入滅(死去)した年を基準とする仏滅紀元(仏暦)が普及している。なお、ミャンマーとスリランカでは釈迦の入滅年とされる紀元前544年を紀元元年、タイ・カンボジア・ラオスではその翌年である紀元前543年を紀元元年とし、1年のずれが生じている。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "特に王室が仏教を厚く保護するタイ王国ではこの仏暦が公式文書で使われている。この場合、タイ語では仏滅紀元、西暦が普及している国で広く使われる英語や日本語では西暦で表記される例がある。また、西暦1940年(仏滅紀元2483年)に仏暦が9月で打ち切られて元日が揃えられ、「西暦y年m月d日=仏滅紀元y+543年m月d日」の計算式が成立したが、一部では整理前の年号が使用されているともいわれる(詳細は「仏滅紀元」も参照)。", "title": "西暦と各国の紀年法の関係" } ]
西暦とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す。 西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。 なお 西暦元年とイエスの実際の生年には、ずれがある(詳細は「#西暦元年とイエス生年のずれ」を参照)。 西暦は西ヨーロッパのキリスト教(カトリック教会、および後のプロテスタント)地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた植民活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、19世紀以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADの代わりにCommon Eraへ、同時に紀元前(BC)の代わりに『Before Common Era(BCE)』に切り替える動きが広まっている(詳細は「#中立的な表現」を参照)。
{{未検証|date=2015年12月}} {{読み仮名|'''西暦'''|せいれき}}とは、[[キリスト教]]で救世主と見なされる[[イエス・キリスト]]が生まれたとされる年を元年([[紀元]])とする[[紀年法]]<ref>{{Cite book |和書 |author=J・D・ブルゴワン |others=池上俊一(監修)、南條郁子(訳) |date=2001年5月20日 |title=暦の歴史 |publisher=創元社 |series=「知の再発見」双書 |ISBN=978-4-422-21156-5 |page=66}}</ref>と、イエス・キリストが[[ユダヤ人]]として[[割礼]]を受けた日を紀元1年1月1日とする[[紀年法]]<ref>佐藤幸治『文化としての暦』1998年、創元社、 「西洋の年初」p.69</ref><ref name="名前なし-1">[https://www.theguardian.com/science/1999/sep/23/technology1 The Guardian "The YK2 bug in all our calendars" 23 Sep 1999]</ref>がある。[[ラテン文字]]表記は[[ヨーロッパ]]各国で異なるが、[[日本語]]や[[英語圏]]では、[[ラテン語]]の「'''A.D.'''」または「'''AD'''」が使われる。A.D.またADとは「[[wikt:anno Domini|アンノドミニ (Anno Domini)]]」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。'''西暦紀元'''、'''キリスト紀元'''ともいう。 注釈がない場合、現在の[[日本]]では[[グレゴリオ暦]]による紀年法を指す<ref group="注">1582年10月4日までは[[ユリウス暦]]による紀年法を指す。</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/reki/shinreki.html | title=現行の暦法 | work=[[海上保安庁]] | accessdate=2021-11-14}}</ref>。 西暦には通常は[[0年]]は存在しないが、[[ISO 8601]]や[[天文学的紀年法]]においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「[[#0と負の西暦]]」を参照)。 なお 西暦元年とイエスの実際の生年には、ずれがある(詳細は「[[#西暦元年とイエス生年のずれ]]」を参照)。 西暦は[[西ヨーロッパ]]のキリスト教([[カトリック教会]]、および後の[[プロテスタント]])地域から徐々に普及し(後述)、西欧諸国が世界各地で進めた[[植民地|植民]]活動などによって伝わった結果、現在において世界で最も広く使われている紀年法となっている。 しかし、[[19世紀]]以降においては、非キリスト教徒との関係から、ADの代わりに{{lang|en|'''Common Era'''}}(略:'''CE'''、「'''共通紀元'''」の意)へ、同時に[[紀元前]](BC)の代わりに『'''{{lang|en|Before Common Era}}(BCE)'''』に切り替える動きが広まっている(詳細は「[[#中立的な表現]]」を参照)。 == 定義 == 西暦の年数は従来からの[[デファクト・スタンダード]]であったが、改めて、情報処理における[[日付]]と[[時刻]]のデータ形式を規定する国際規格 [[ISO 8601]]と[[日本産業規格]] [[JIS X 0301]] において、パリにおける[[メートル条約]]の調印年月日を'''1875年5月20日'''とすることで西暦の年月日を定義している([[ISO 8601#起点]])。 == 歴史 == === 誕生 === 西暦は[[6世紀]]の[[ローマ]]<ref group="注">当時のローマは東ローマ帝国の承認を受けた[[東ゴート王国]]の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック大王]]による支配下にあり、ローマ教皇は管轄地域である西方地域での影響力を持っていた。</ref>の[[神学者]][[ディオニュシウス・エクシグウス]]によって算出された<ref name="名前なし-2">[[#佐藤2009|佐藤(2009), p.37]]</ref><ref name=okazaki1>[[#okazaki1996|岡崎 1996]], 第二章 中世における普遍史の展開,ディオニシウス・エウシグウス</ref>。[[525年]]、ディオニュシウスは[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス1世 (ローマ教皇)|ヨハネス1世]]の委託を受けて[[キリスト教]]の[[移動祝日]]である[[復活祭]]の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていた[[ディオクレティアヌス紀元]]([[ローマ皇帝]][[ディオクレティアヌス]]の[[即位]]日である284年8月29日を紀元とする。)に替えて、イエス・キリストの[[受肉]](生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その迫害者の名を残す事が疎まれたからである<ref name="名前なし-2"/><ref name=okazaki1/>。 [[聖書]]の記述によると、イエスが[[復活 (キリスト教)|復活]]した日は[[ユダヤ教]]の[[過越]]の祭り([[春分]]の頃の最初の満月の日)の前日から3日目の[[日曜日]]([[主日]])であり、伝承では「[[ユダヤ暦]]でニサンの月の14日」([[ユリウス暦]]の[[3月25日]])とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した<ref name=okazaki2>[[#okazaki1996|岡崎 1996]], 第二章 中世における普遍史の展開,ディオニシウスの算定方法</ref>。そこで、ここから過越の祭りと同日である[[復活祭]]の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、一巡に要する532年にその時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、31年を加えた<ref name=okazaki2/>。これにより「ディオクレティアヌス紀元279年=キリスト紀元563年」の等式が成り立ち、この年号を出発点として他の年号が求められた<ref name=okazaki2/>。ディオニシウスはこの年号を「主の体現より (ab incarnatione Domini)」と表した<ref name=okazaki1/>。また、紀元の始点を(イエス生誕と一般的に考えられている[[クリスマス]]の12月25日ではなく)1月1日までさかのぼらせた<ref name=okazaki2/>。 === 割礼日 === [[イエス・キリスト]]の[[割礼]]日を紀元1年1月1日とする紀年法は、割礼年初と称される。佐藤幸治は自著の中で以下のように説明している。 {{Quotation|イエスはユダヤ人として生まれたので、ユダヤの風習で八日目に神との契約である割礼を受けた。 この重要な儀式がイエスの誕生の12月25日の八日後に行われ、それを機に新しい年が始まるというものである。12月25日の八日後であるから、当時の数え方に従えば、現在の1月1日である。|佐藤幸治|『文化としての暦』1998年、創元社、「西洋の年初」p.69}} また、[[ザ・ガーディアン]]は、紀元1年1月1日から毎年1月1日には、イエス・キリストの割礼日を祝ってきたということを説明している<ref>-「that's 2000 years from January 1 in AD 1. What does that date represent? It's the start of a year, but so what? In a Christian tradition (I write as an atheist) we need to ask what it is we are commemorating. Actually the relevant anniversaries for Christianity are all during AD 2000, with January 1 marking a Judaic ritual. ...January 1 marks the circumcision of Jesus. 」(The Guardian "The YK2 bug in all our calendars" 23 Sep 1999)</ref><ref name="名前なし-1"/>。 === 受容 === 西暦[[1年]]から[[524年]]までは概念上の存在であり、同時代に[[紀年法]]として使用されたことはない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、[[731年]]に[[ベネディクト会|ベネディクト会士]][[ベーダ・ヴェネラビリス]]が『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、キリスト教会のなかで広く使われ始めたのは[[10世紀]]以降であり、一般の人が使い始めたのはヨーロッパでも16世紀に入ってからである<ref>[[#佐藤2009|佐藤(2009), p.40]]</ref>。 西暦が国際社会全体で、最も用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や[[植民地]]拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。 === 正教圏 === [[東ローマ帝国]]などの[[正教会]]諸国では10世紀以降、[[世界創造紀元]](『[[旧約聖書]]』の『[[創世記]]』にある[[天地創造]]が基準。西暦[[紀元前]]5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。 また紀年法が異なるのみならず、正教圏では[[20世紀]]初頭に至るまで西欧とは異なり、[[グレゴリオ暦]]ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でも[[アトス山]]、[[エルサレム総主教庁]]、[[ロシア正教会]]、[[セルビア正教会]]などがユリウス暦を使用している。他方、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]、[[ギリシャ正教会]]などは[[修正ユリウス暦]]と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。 == 西暦元年とイエス生年のずれ == ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれていると考えられている。現在では、イエスは[[ヘロデ大王]]の治世の末期、[[紀元前4年|紀元前1年]]ごろに生まれたと考えられている。これは、[[新約聖書]]の2つの記述が根拠となっている。 {{Quotation|大規模な人口調査が行われた年にイエスが[[ベツレヘム]]で誕生した。|[[ルカによる福音書]]|第2章}} :&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;※この人口調査は紀元前4年に行われたとされている。 {{Quotation|救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ2歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した。|[[マタイによる福音書]]|第2章}} これらの記述自体に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年という説が有力視されているため、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている。 {{See also|ナザレのイエス#イエスの生年}} == 紀元前 == {{main|紀元前}} 西暦1年以前を表現する場合、西暦1年の前年を[[0年]]ではなく[[紀元前1年]]とし、過去に遡る度に年数を増やす「西暦紀元前」を使う。例えば[[カエサル]]が暗殺された年は紀元前44年である。この記法は[[17世紀]]のフランス[[イエズス会]]の神学者ディオニシウス・ペタヴィウス (Dionysius Petavius) (1583-1652)(別名ドニ・プト<ref group="注">ディオニシウス・ペタヴィウスはラテン語の名前、ドニ・プトはフランス語の名前である。</ref> ([[:en:Denis Pétau]]) )の発案によるものであり、[[18世紀]]末になってようやく一般化した。 日本では、通常「紀元前××××年」と言う。日本での欧文表記は、[[英語]]の“{{lang|en|Before Christ}}”の略である'''B.C.'''または'''BC'''である。 === 0と負の西暦 === 西暦1年より前の年数を表すには「[[紀元前]]」を用いるので、通常は0年や[[負数]]を持つ西暦年は存在しない(0世紀も存在しない)。しかし[[天文学]]では西暦の概念を[[直線#座標|数直線]]上の0および負数へ拡張して用いる。これは[[天文学的紀年法]]([[:en:Astronomical year numbering]])と呼ばれる。 [[天文学的紀年法]]が準拠する[[直線#座標|数直線]]:[[File:Numberline.png|Numberline]] この場合、西暦1年は「1年」、紀元前1年は「0年」、紀元前2年は「-1年」、紀元前3年は「-2年」・・・と表記される。例えば紀元前44年([[カエサル]]が暗殺された年)は、西暦-43年である。この拡張された西暦は、日付と時刻の表記を規定する国際規格である[[ISO 8601]]でも採用されている。[[ISO 8601]]においては、年の表記は 0001 が西暦1年を表し、0000 は紀元前1年、-0001 は紀元前2年、-0002 は紀元前3年である(ただし、事前に通信の送信側と受信側との間での合意が必要である)。{{main|0年#西暦0年|ISO 8601#日付}} == 表記 == <!-- 以下をコメント化。無理に「元号との統一性」とかいうよりも、具体的に韓国語でどうなのかを書き足せば十分でしょう。「漢字圏」の範囲もあいまいですし。 漢字圏では西暦年を表す際、[[元号]]との統一性から漢字2文字を[[接頭辞]]的に使い、「西暦{{#time:Y}}年」のように表すのが一般的である。西暦の普及に伴い、西暦年のみで表記する機会が格段に増えたため、「西暦」そのものを省略して「{{#time:Y}}年」、あるいは下2桁のみで「{{#time:y}}年」と表記する。 --> [[日本]]では西暦年での表記が増えており、「{{#time:Y}}年」あるいは下2桁のみで「{{#time:y}}年」または数字の前に[[アポストロフィ]](')を付して「'{{#time:y}}年」と表記する事が多い<ref group>{{Cite web|和書 | url=https://faq.calbee.co.jp/faq_detail.html?id=94#:~:text=%E3%80%8C%E3%83%9D%E3%83%86%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E3%80%8D%E3%82%84%E3%80%8C%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%88%E3%81%B3%E3%81%9B%E3%82%93,%E3%82%92%E5%8D%B0%E5%AD%97%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82| title=賞味期限は、どこに表示されていますか?| work=[[カルビー]] | accessdate=2021-11-14}}</ref>。[[元号]]と区別するためには、「西暦{{#time:Y}}年」と、「西暦」を年の前に付ける。ただし「西暦+下2桁」(例えば、西暦{{#time:y}}年)とは'''書かない'''(''詳細は後節の「[[#西暦と各国の紀年法の関係]]」を参照'')。また、[[百年紀]]を跨ぐ複数の年を表す場合には略さずに4桁で表記される。 キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、[[大日本帝国]]では[[神武天皇即位紀元]](皇紀)を指していた。 [[英語]]では、{{#time:Y}}または{{#time:y}}と書くのが普通だが、まれに西暦である事を明示するためには、"AD {{#time:Y}}" と書く。紀元前ならば "123 BC" と書く。 英語のADは、[[ラテン語]]の {{la|Anno Domini}}([[主 (宗教)|主]]〈イエス・キリスト〉の年に)に由来するが、他の多くのヨーロッパ諸語ではラテン語表現を使わない<ref group="注">たとえば[[wikt:AD|ウィクショナリー「AD」]]([[wikt:en:AD|英語版]])を参照。</ref>。たとえばフランス語ならば、フランス語で「キリスト前/後」を意味する{{lang|fr|Après Jésus-Christ}} / {{lang|fr|Avant Jésus-Christ}}(を略したもの)を使う。 == 中立的な表現 == キリスト教に基づく表現である{{lang|la|Anno Domini}}(AD)、{{lang|en|Before Christ}}(BC)を、より中立的に、たとえば英語では{{lang|en|[[:en:Common Era|Common Era]]}}(共通紀元)、 {{lang|en|Before Common Era}}(共通紀元前)とする動きが起きている。 <!-- 以前の版で、「略して CE とかsmallcap」とかあったが、C.E. もあり、smallcapである必要もない。英語の事であり、英語版に譲れば十分だろう。--> もともと18世紀ごろからユダヤ教徒の間で、Common EraやVE (Vulgar Era) を使う動きがあった。背景には、[[19世紀]]から[[20世紀]]初期にかけて、西洋のシステムが[[グローバルスタンダード]]になって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透して行き、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったことがある。 2002年に、イングランドとウェールズの公立学校が、CE、BCE を導入した<ref>{{cite news|url=http://www.thisislondon.co.uk/news/article-531644-ad-and-bc-become-cebce.do |title=AD and BC become CE/BCE |date=9 February 2002 |accessdate=2012-02-05 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111220120909/http://www.thisislondon.co.uk/news/article-531644-ad-and-bc-become-cebce.do |archivedate=December 20, 2011 }}</ref>。『[[ワールド・アルマナック]]』2007年度版なども追随し、出版業界でも切り替えの動きが広がっている。また、アメリカの大学入試テストなどを運営する非営利団体の[[カレッジボード]]なども導入している<ref>[https://collegereadiness.collegeboard.org/sat-subject-tests/subjects/history/world-history World History Subject Test]([[カレッジボード]] [[SAT (大学進学適性試験)]] 歴史テストのページ)</ref>。 たとえば、[[Unicode]] Standard では{{Smallcaps|ce}}と{{Smallcaps|bce}}を使っている。 == 西暦と各国の紀年法の関係 == === 日本 === 日本には、[[16世紀]]に[[カトリック教会]]の宣教師によって西暦がもたらされた。しかし、[[江戸時代]]になって[[禁教令]]が出されると、西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、使用が禁じられた。実際、[[1641年]]における、[[平戸]]の[[オランダ商館]]の[[出島]]への移転は、西暦が使われたことを、[[長崎奉行]]が問題視したために実行された。 再び西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で1872年([[明治]]5年)に[[天保暦]]([[太陰太陽暦]])から[[グレゴリオ暦]]([[太陽暦]])への移行が決まってから(''[[改暦]]の詳細については「[[明治改暦]]」を参照'')のことであり、日常生活に普及し始めたのは[[戦後#第二次世界大戦後|第二次世界大戦後]]のことである。 日本の政府機関や地方公共団体などが作成する[[公文書]]([[住民票]]など)における年の表記は、基本的に[[元号]]のみが用いられているが、[[日本国憲法]]の[[政教分離原則|政教分離]]規定・[[信教の自由]]の観点から、国民が提出する申請書などへの西暦の使用が禁止されているわけではない([[元号#元号使用の現状]]を参照)。 気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=414M60000800025 |title=気象測器検定規則 |accessdate=2015-02-14 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref>に定められた気象機器の検定証印の年表示(第13条)や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示、[[日本国旅券]]の名義人の生年、[[運転免許証]]や[[個人番号カード]]の有効期限のように、(ごく一部の例外として)西暦を使用する法令も存在する。また[[外交青書]]は、西暦主体の表記となっている。 今日の日常生活では、「[[2000年]]([[平成]]12年)」のように元号と併記する場合がある。主要な[[マスメディア]]([[新聞]]・[[テレビ]]など)の多くは、主に西暦を使用しており、[[法令番号]]や[[判例]]など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している(''その他日本国内における元号との使い分け事例などについては「[[元号#元号使用の現状]]」を参照'')。 西暦と同様の紀年法として、日本には[[神武天皇即位紀元]](皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀も用いられた。現在でも法令として有効である[[閏年]]の置き方に関する[[勅令]]([[s:閏年ニ關スル件|閏年ニ関スル件]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000004707&searchDiv=1&current=1 |title=閏年ニ関スル件 |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2023-09-05}}</ref>、明治31年5月11日勅令第90号)では、閏年の判定を西暦ではなく、神武天皇即位紀元によって行うことが定められた。西暦は法制化されていないため、長期紀年法としては、神武天皇即位紀元が、今でも法制上かつ暦法上の唯一のものであるが、戦後は一般には用いられていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.543life.com/campus127.html|title=こよみの学校 第127回『神武天皇即位紀元の皇紀』|publisher=暦生活 |accessdate=2023-09-05}}</ref>。 西暦に対して、元号を用いた日本独自の紀年法のことを'''[[和暦]]'''、あるいは'''邦暦'''、'''日本暦'''と呼ぶことがある<ref>邦暦の使用例 [http://www.pref.niigata.jp/kyoiku/soumu/soumuka/kouhou/tyouki/nenhyo1.htm 新潟県庁:新潟県の教育統計:図説「新潟県教育20世紀のあゆみ」:教育史年表(教育法制・教育改革)]</ref>。 ==== 「西紀」の語 ==== この方式の紀年法の日本での呼び名は、今日では「西暦」と呼ばれる事が圧倒的に多いが、幕末から昭和時代にかけては「西洋紀元」を省略して「西紀」と言う表記も行われていた。本来なら西暦より西紀のほうがふさわしく、西暦と訳すのに適切なのは(西暦は「西洋の暦」の意であるから)[[グレゴリオ暦]]のはずである<ref>[[#佐藤2009|佐藤(2009), pp.31-32, p.65]]</ref>。実際、[[村田文夫]]の『西洋聞見録 後編』(1871年)では、「西暦」は西洋の[[暦法]]であるグレゴリオ暦(あるいは[[ユリウス暦]])を指している。まれに「キリスト紀元」(「基督紀元」)の表記も見られる。 === 中国 === [[中華民国]]では、[[辛亥革命]]勃発([[1911年]])の翌年に当たる[[1912年]]に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする[[民国紀元]](中華民国暦)を採用した。中華民国では[[宣統]]の次の元号のように「[[民国]]」という表記で扱われている。中華民国が[[台湾]]に逃れた[[1949年]]10月以降も、政府機関が公的な場で使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。 1949年10月1日に成立した[[中華人民共和国]]では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので、西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。 === 朝鮮半島 === 朝鮮半島で南北に存在する[[大韓民国]](韓国)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)では、同一の[[朝鮮民族]]を主体とする2つの国家が独自の紀年法を西暦と併用して維持している。 韓国では[[朝鮮神話]]における最初の王朝、[[檀君朝鮮]]の初代王である[[檀君]]の即位年とされる[[紀元前2333年]]を紀元とした[[檀君紀元]]<ref group="注">檀君紀元と西暦では新年のずれは生じない。西暦{{#time:Y}}年は檀君紀元{{#expr:{{#time:Y}}+2333}}年となる。</ref>が提唱され、建国直後の西暦[[1948年]](檀君紀元4281年)から[[1961年]](同4294年)までは公文書に記載されていたが<ref group="注">なお、同年8月15日の建国直後には[[大韓民国臨時政府]](上海亡命政府)が成立した[[1919年]]を紀元とする「[[大韓民国 (年号)|大韓民国暦]]」が使われたが、1か月で使用が停止された。</ref>、[[1962年]]1月1日からは廃止された<ref group="注">韓国の初代大統領は1919年の臨時政府でも大統領を務めた[[李承晩]]で、彼は強いナショナリズム政策を取っていたが、李の失脚後に1961年の[[5・16軍事クーデター|軍事クーデター]]で政権を奪取した[[朴正煕]]は強権による近代化路線への変更を準備していた。</ref>。ただし、その後も檀君紀元は民間の中で使用が続けられている<ref group="注">韓国の歴史教育では檀君自体は実在するとされている。</ref>。 北朝鮮では西暦1948年の建国から西暦のみが使われてきたが、1997年9月9日から[[主体暦]]の使用が告知され、公式行事や同国の報道機関<ref group="注">一例として、北朝鮮の国営通信社である[[朝鮮中央通信]]の公式サイトでは、朝鮮語と英語の双方で主体暦と西暦の併記が行なわれている。</ref>で使用されるようになった。これは同国の初代かつ唯一の[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]である[[金日成]]の生誕年である西暦[[1912年]]を紀元としたもので<ref group="注">金日成は主体暦導入3年前の1994年に死去していた。この主体暦導入決定は彼の長男で、北朝鮮の2代目最高指導者となった[[金正日]]により実施された。</ref>、結果として民国紀元(中華民国暦)と同年となる。日本語で表記する場合には「主体□□年」、ないし朝鮮語の発音をカタカナにした「チュチェ□□年」となる<ref group="注">西暦{{#time:Y}}年は主体(チュチェ){{#expr:{{#time:Y}}-1911}}年。</ref>。 === 東南アジア・南アジア地域 === 東南アジア・南アジア地域のうち、[[仏教]]、特に[[上座部仏教]]の信徒が多数を占めている[[タイ王国|タイ]]・[[カンボジア]]・[[ラオス]]・[[ミャンマー]]・[[スリランカ]]などでは、仏教の開祖である[[釈迦]]の[[入滅]](死去)した年を基準とする[[仏滅紀元]](仏暦)が普及している。なお、ミャンマーとスリランカでは釈迦の入滅年とされる[[紀元前544年]]を紀元元年、タイ・カンボジア・ラオスではその翌年である[[紀元前543年]]を紀元元年とし、1年のずれが生じている。 特に[[チャクリー王朝|王室]]が仏教を厚く保護するタイ王国ではこの仏暦が公式文書で使われている。この場合、タイ語では仏滅紀元、西暦が普及している国で広く使われる英語や日本語では西暦で表記される例がある<ref group="注">たとえば、西暦2017年(仏暦2560年)に日本で開催される「第18回タイ・フェスティバル2017」では、タイ語の案内では仏暦[http://site.thaiembassy.jp/th/news/announcement/5422/ (実例)]、日本語の案内では西暦[http://site.thaiembassy.jp/jp/news/announcement/5423/ (実例)]の紀年法が採用されている。出典:[[駐日タイ王国大使館|在東京タイ王国大使館]]、「[http://site.thaiembassy.jp/jp/ 公式サイト]」、2017年5月1日閲覧。</ref>。また、西暦[[1940年]](仏滅紀元2483年)に仏暦が9月で打ち切られて元日が揃えられ、「西暦y年m月d日=仏滅紀元y+543年m月d日」の計算式が成立したが<ref group="注">例えば、西暦{{#time:Y}}年は仏滅紀元{{#expr:{{#time:Y}}+543}}年。</ref>、一部では整理前の年号が使用されているともいわれる(''詳細は「[[仏滅紀元]]」も参照'')。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author = 岡崎 勝世 |year = 1996 |title = 聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か |edition = Kindle版 |publisher = 講談社 |series = 講談社現代新書 |isbn = 978-4061493216 |ref = okazaki1996}} *{{Cite book |和書 |author = 佐藤 正幸 |date = 2009-08-30 |title = 世界史における時間 |publisher = [[山川出版社]] |series = 世界史リブレット128 |isbn = 978-4-634-34966-7 |ref = 佐藤2009}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} {{ウィキプロジェクトリンク|紀年法|[[画像:Nuvola apps date.svg|34px]]}} * [[グレゴリオ暦]] * [[紀元]] * [[紀元前]] * [[イエス・キリスト]] * [[クリスマス]] * [[コンプトゥス]] * [[太陰太陽暦]] * [[世界暦]] * [[和暦]] * [[元号]] * [[世紀]] * [[年表]] * [[クロノグラム]] {{Chronology}} {{DEFAULTSORT:せいれき}} [[Category:紀年法]] [[Category:キリスト教用語]] [[Category:1年]] [[Category:532年]] [[als:Christliche Zeitrechnung]]
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鈴鹿市
鈴鹿市(すずかし)は、三重県の中北部に位置する人口約19万の市である。市のキャッチコピーは「さぁ、きっともっと鈴鹿。海あり、山あり、匠の技あり」。 第二次世界大戦中に鈴鹿海軍工廠の設置を目的に軍部の強い意向により市町村合併がなされ軍都ととして誕生した都市である。戦後は、その広大な軍用地を転換し、工業都市として生まれ変わった。かつては旭化成やカネボウなど繊維産業が盛んだった。また、本田技研工業の鈴鹿製作所があり、関連の自動車部品工場なども多くみられる。 F1の日本グランプリやオートバイの8時間耐久レースなど国際及び国内レースなどが多数開催され、世界的にも有名な日本有数のレーシングコースである鈴鹿サーキットがあり、近年では日本のモータースポーツの聖地とも言われる。 三重県の北部に位置し、東は伊勢湾に面し西は鈴鹿山脈まで広がっている。市域の北は三重県最大の都市四日市市、南は三重県の県庁所在地津市に接している。 かつて市街地は、旧城下町の神戸(近鉄鈴鹿市駅前)、漁港の白子、軍の工廠があった平田の3か所に分散していたが、次第に中央道路に沿って商業施設を中心に開発が進み、西条や庄野羽山も発展してきている。 古くは日本書紀に市内の地名の由来伝説が登場し、奈良時代には東海道、伊勢国の国府が置かれたなどの長い歴史を持つ。 現在の鈴鹿市の領域は、飛鳥時代から東国に通じる交通の要衝として発展し、中心部の神戸藩(かんべはん)と、伊勢亀山藩、紀州藩、伊勢西条藩の各藩が存在していた。戦国時代には神戸城へ織田信長の三男・神戸信孝を養子に迎え、江戸時代には東海道の宿場町として石薬師宿と庄野宿を擁し、白子(しろこ)は港町および伊勢参宮街道の宿場町として栄えた。戦前から戦時中の工廠建設によって、広域合併をして発足。「鈴鹿」の市名を持つが、旧河芸郡の地域が市の中核だった。 副市長が2人置かれているほか、会計管理者は会計課の職員が担っている。 1992年、市制50周年を記念して首に鈴を付けた鹿をモチーフとしたキャラクターが制定され、名称の「ベルディ」は公募で決定された。 東名阪自動車道では市のカントリーサインにも使用されている。なお、デザインは手塚プロダクションによるもので同社が著作権を有している。 三重県議会議員選挙は市の全域をもって「鈴鹿市選挙区」を成している。定数は4人である。 衆議院議員選挙は市の全域が三重2区に含まれている。2021年時点の選出議員は、川崎秀人(自由民主党)である。 工業の製造品出荷額、農業の生産額はともに県内トップクラスであり、農工のバランスがとれた都市といえる。 第二次世界大戦前は海軍工廠、基地を擁する軍都。戦後は海軍施設跡地に自動車、電機などの企業を誘致し、現在は製造品出荷額は県2位である。 米、伊勢茶、さつきなどを中心とする農業の生産額は県1位である。 のりが養殖され、また、アナゴ、コウナゴが水揚げされる。白子地区には三重県水産研究所鈴鹿水産研究室がある。 (2015年9月現在) ※鈴鹿市内の郵便番号は以下の通り。 鈴鹿市は23の地区から成る。 白子駅と鈴鹿駅にはそれぞれ特急列車が停車する。市役所は鈴鹿駅のほか鈴鹿市駅からも近い。関西本線は市の西部を、近鉄名古屋線は市の東部を通過している。 市道については主なものを記載。 従来、市内を使用の本拠地としている自動車のナンバープレートには三重運輸支局を示す表示(三重ナンバー)がなされていたが、ご当地ナンバー制度が初めて施行された2006年(平成18年)10月10日より「鈴鹿ナンバー」が導入され、鈴鹿市と亀山市を使用の本拠地とする自動車が対象となっている。 この表記について統計に基づく世論調査ではないが、ポータルサイトのYahoo! JAPANが施行に先立つ同年9月25日から27日の間に行ったウェブ上における人気投票では、同時に施行された17のご当地ナンバーの中で次点より4倍近い得票を得る人気となった。この結果について投票主催者は『鈴鹿サーキットやF1のイメージが強い』ことが理由ではないかと分析している。 *は鈴鹿市シティセールス特命大使。
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鈴鹿市(すずかし)は、三重県の中北部に位置する人口約19万の市である。市のキャッチコピーは「さぁ、きっともっと鈴鹿。海あり、山あり、匠の技あり」。
{{日本の市 | 自治体名 = 鈴鹿市 | 画像 = SUZUKA CIRCUIT on 26th November 2022.jpg | 画像の説明 = [[鈴鹿サーキット]] | 市旗 = [[ファイル:Flag of Suzuka, Mie.svg|100px|鈴鹿市旗]] | 市旗の説明 = 鈴鹿[[市長村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Suzuka, Mie.svg|80px|鈴鹿市章]] | 市章の説明 = 鈴鹿[[市長村章|市章]]<br><small>[[1944年]][[12月1日]]制定</small> | 都道府県 = 三重県 | コード = 24207-1 | 隣接自治体 = [[四日市市]]、[[津市]]、[[亀山市]]<br />[[滋賀県]][[甲賀市]] | 木 = [[ケヤキ]] | 花 = [[サツキ]] | シンボル名 = 市のマスコット | 鳥など = ベルディ | 郵便番号 = 513-8701 | 所在地 = 鈴鹿市神戸一丁目18番18号<br />{{Coord|format=dms|region:JP-24_type:adm3rd|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Suzuka City Hall.jpg|250px|市役所庁舎]] | 外部リンク= {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|24|207|image=Suzuka in Mie Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.88|frame-longitude=136.55|text=市庁舎位置}} | 特記事項 = }} '''鈴鹿市'''(すずかし)は、[[三重県]]の中北部に位置する人口約19万の[[市]]である。市の[[キャッチコピー]]は「さぁ、きっともっと鈴鹿。海あり、山あり、匠の技あり」<ref>伊勢新聞"[http://www.isenp.co.jp/news/20130323/news05.htm 「さぁ、きっともっと鈴鹿。」 鈴鹿市のキャッチコピー決定 ]"<[https://megalodon.jp/2013-0323-1459-09/www.isenp.co.jp/news/20130323/news05.htm ウェブ魚拓]>2013年3月23日(2013年3月23日閲覧。)</ref>。 == 概要 == [[第二次世界大戦]]中に[[鈴鹿海軍工廠]]の設置を目的に[[大日本帝国海軍|軍部]]の強い意向により市町村合併がなされ軍都ととして誕生した都市である<ref>{{Cite journal|和書|author=今井信雄, 前田至剛 |year=2010 |url=https://doi.org/10.32214/iasr.2.0_27 |title=軍都の空間から地方都市の形成へ |journal=関西学院大学先端社会研究所紀要 |volume=2 |pages=27-41 |doi=10.32214/iasr.2.0_27 |publisher=関西学院大学先端社会研究所}}</ref>。戦後は、その広大な軍用地を転換し、[[工業都市]]として生まれ変わった。かつては[[旭化成]]や[[クラシエホールディングス|カネボウ]]など[[繊維産業]]が盛んだった。また、[[本田技研工業]]の鈴鹿製作所があり、関連の自動車部品工場なども多くみられる。 [[フォーミュラ1|F1]]の[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]やオートバイの[[鈴鹿8時間耐久ロードレース|8時間耐久レース]]など国際及び国内レースなどが多数開催され、世界的にも有名な日本有数のレーシングコースである[[鈴鹿サーキット]]があり、近年では日本の[[モータースポーツ]]の聖地とも言われる。 == 地理 == === 位置 === 三重県の北部に位置し、東は[[伊勢湾]]に面し西は[[鈴鹿山脈]]まで広がっている。市域の北は三重県最大の都市[[四日市市]]、南は三重県の県庁所在地[[津市]]に接している。 === 市街地 === [[ファイル:Suzuka city center area Aerial photograph.1987.jpg|thumb|center|540px|鈴鹿市中心部周辺の空中写真。画像右に近鉄[[鈴鹿市駅]]、伊勢鉄道[[鈴鹿駅]]、市役所のある神戸地区。画像左下角にある大規模な施設は、[[本田技研工業]]の鈴鹿製作所。1987年撮影の14枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] かつて市街地は、旧城下町の神戸(近鉄[[鈴鹿市駅]]前)、漁港の[[白子 (鈴鹿市)|白子]]、軍の工廠があった平田の3か所に分散していたが、次第に[[三重県道54号鈴鹿環状線|中央道路]]に沿って商業施設を中心に開発が進み、西条や庄野羽山も発展してきている。 === 自然 === * 河川:[[鈴鹿川]]、[[安楽川 (三重県)|安楽川]]、[[御幣川]]、[[金沢川]]、[[堀切川]]、[[中の川]] * 山:[[入道ヶ岳]]、野登山 * 湖沼:[[加佐登調整池]](白鳥湖)、[[竜ヶ池 (鈴鹿市)|竜ヶ池]] * [[鈴鹿国定公園]] * [[伊勢の海県立自然公園]] === 隣接する自治体 === *[[四日市市]] *[[津市]] *[[亀山市]] *[[滋賀県]][[甲賀市]] == 歴史 == 古くは[[日本書紀]]に市内の地名の由来伝説が登場し、[[奈良時代]]には[[東海道]]、[[伊勢国]]の[[国府]]が置かれたなどの長い歴史を持つ。 現在の鈴鹿市の領域は、[[飛鳥時代]]から東国に通じる交通の要衝として発展し、中心部の[[神戸藩]](かんべはん)と、[[伊勢亀山藩]]、[[紀州藩]]、[[伊勢西条藩]]の各藩が存在していた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[神戸城]]へ[[織田信長]]の三男・[[織田信孝|神戸信孝]]を養子に迎え、[[江戸時代]]には[[東海道]]の[[宿場町]]として[[石薬師宿]]と[[庄野宿]]を擁し、[[白子 (鈴鹿市)|白子]](しろこ)は[[港町]]および[[伊勢参宮街道]]の[[宿場町]]として栄えた。戦前から戦時中の工廠建設によって、広域合併をして発足。「[[鈴鹿]]」の市名を持つが、旧[[河芸郡]]の地域が市の中核だった。 === 沿革 === * [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月1日]] - [[鈴鹿郡]][[石薬師村]]・[[国府村 (三重県)|国府村]]・[[庄野村]]・[[高津瀬村]]・[[牧田村 (三重県)|牧田村]]・[[河芸郡]][[神戸町 (三重県)|神戸町]]・[[白子町 (三重県)|白子町]]・[[稲生村 (三重県)|稲生村]]・[[飯野村 (三重県)|飯野村]]・[[一ノ宮村 (三重県)|一ノ宮村]]・[[河曲村]]・[[玉垣村]]・[[箕田村 (三重県)|箕田村]]・[[若松村 (三重県)|若松村]]が合併して発足。 * [[1954年]](昭和29年)[[8月1日]] - 河芸郡[[栄村 (三重県)|栄村]]・[[天名村]]・[[合川村 (三重県)|合川村]]を編入。 * 1954年(昭和29年)12月1日 - [[亀山市]]の一部(小田町・和泉町・西富田町・中富田町)を編入。 * [[1957年]](昭和32年)[[4月15日]] - 鈴鹿郡[[三鈴村]]の一部(大字下大久保・岸田・山本・小社・小岐須・大久保)を編入。 * 1957年(昭和32年)[[6月15日]] - 鈴鹿郡[[鈴峰村]]の一部(大字深溝・三畑町・追分)を編入。 * [[1962年]](昭和37年)9月 - [[鈴鹿サーキット]]が開場<ref name="chunichi20161128">{{Cite news|和書|author=山本克也|title=匠地技 鈴鹿サーキット 三重(1) 熱意が生んだ難コース|newspaper=[[中日新聞]]|publisher=[[中日新聞社]]|date=2016-11-28|page=1|edition=夕刊}}</ref>。[[市町村歌|市民歌]]「[[鈴鹿の空は微笑む]]」、市民[[音頭]]「鈴鹿おどり」を制定。 * [[1967年]](昭和42年)[[4月1日]] - 鈴鹿郡鈴峰村を編入。 * [[1975年]](昭和50年) - 年間を通じて[[交通事故]]による死者率が都市別で全国3位(10万人当たり17.8)となった<ref>{{Cite news|和書|title=交通事故死 地域差の解消に重点|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1976-01-14|edition=朝刊13版|page=22}}</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)[[1月1日]] - 市民憲章を制定。 * [[2007年]](平成19年)[[4月15日]] - [[三重県中部地震]]が発生、市内では西条地区で震度5弱を観測したほか、神戸地区で震度4を観測した。 == 人口 == {{人口統計|code=24207|name=鈴鹿市|image=Population distribution of Suzuka, Mie, Japan.svg}} == 市政 == *[[市町村長|市長]]:[[末松則子]] 任期:[[2023年]](令和5年)[[5月1日]]から[[2027年]](令和9年)[[4月30日]] [[副市町村長|副市長]]が2人置かれているほか、[[会計管理者]]は会計課の職員が担っている。 === 歴代市長 === * 初代市長:[[奥田茂造]] *2代目市長:[[杉本龍造]] - 初の名誉市民 *3代目市長:[[野村仲三郎]] *4代目市長:[[衣斐賢譲]] *5代目市長:[[加藤栄 (鈴鹿市長)|加藤栄]] *6代目市長:[[川岸光男]] *7代目市長:[[末松則子]] - 就任4期目 === 市役所の機構 === *危機管理部 *政策経営部 *総務部 *地域振興部 *文化スポーツ部 *環境部 *子ども政策部 *健康福祉部 *産業振興部 *土木部 *都市整備部 *会計課 *上下水道局 *教育委員会 *[[鈴鹿市消防本部|消防本部]] *選挙管理委員会 *監査委員 *公平委員会 *農業委員会 *固定資産評価審査委員会 === 市議会 === {{main|鈴鹿市議会}} === マスコット === [[1992年]]、市制50周年を記念して首に[[鈴]]を付けた[[鹿]]をモチーフとしたキャラクターが制定され、名称の「ベルディ」は公募で決定された<ref>[http://www.city.suzuka.lg.jp/city/profile/gairyaku/index1_6.html 鈴鹿市] マスコットキャラクター</ref>。 [[東名阪自動車道]]では市の[[カントリーサイン]]にも使用されている。なお、デザインは[[手塚プロダクション]]によるもので同社が著作権を有している。 == 県政・国政 == [[三重県議会]]議員選挙は市の全域をもって「鈴鹿市選挙区」を成している。定数は4人である。 衆議院議員選挙は市の全域が[[三重県第2区|三重2区]]に含まれている。2021年時点の選出議員は、[[川崎秀人]](自由民主党)である。 == 経済 == 工業の製造品出荷額、農業の生産額はともに県内トップクラスであり、農工のバランスがとれた都市といえる。 === 産業 === [[ファイル:Suzuka Chamber of Commerce and Industry 20100308.jpg|thumb|鈴鹿商工会議所]] ==== 製造業 ==== 第二次世界大戦前は[[海軍工廠]]、[[基地]]を擁する軍都。戦後は海軍施設跡地に自動車、電機などの企業を誘致し、現在は製造品出荷額は県2位である。 ===== 市内に工場を置く主な企業 ===== *[[旭化成]] *[[味の素AGF|AGF鈴鹿]] *[[住友電装]] *[[住友ファーマ]] *[[フジクラ]] *[[富士電機]] *富士フイルムマニュファクチャリング *[[日本コンクリート工業|NC中日本コンクリート工業]] *[[日立Astemo]] *[[本田技研工業]](ホンダ) ==== 伝統産業 ==== *[[伊勢形紙]] *[[鈴鹿墨]] === 農業 === [[コメ|米]]、[[伊勢茶]]、さつきなどを中心とする農業の生産額は県1位である。 === 水産業 === のりが養殖され、また、アナゴ、コウナゴが水揚げされる。白子地区には[[三重県水産研究所]]鈴鹿水産研究室がある。 *[[白子港|白子漁港]] *若松漁港 *鈴鹿漁港 === 商業 === ==== 主なショッピングモール ==== * [[イオンモール鈴鹿]] ** [[イオンタウン鈴鹿]]<!--当該項目に『イオンモール鈴鹿を補完する』との記述あり。--> * [[イオンタウン鈴鹿玉垣]] * 鈴鹿ハンター * [[鈴鹿ラッツ]] (旧スキップタウン) * [[フレスポ]]鈴鹿 * [[白子ショッピングタウンサンズ]](2021年2月21日より一時休業) === 日本郵政グループ === (2015年9月現在) *[[日本郵便|日本郵便株式会社]] : :*[[鈴鹿郵便局]](西条)- 集配局、ホリデーサービス実施 :*[[白子郵便局]](白子町)- 集配局、ホリデーサービス実施 :*鈴鹿神戸郵便局(神戸) :*鈴鹿玉垣郵便局(東玉垣町)- ホリデーサービス実施 :*鈴鹿若松郵便局(若松東) :*鈴鹿寺家郵便局(寺家) :*鈴鹿石薬師郵便局(石薬師町) :*鈴鹿暁郵便局(南玉垣町) :*鈴鹿長太郵便局(長太旭町) :*鈴鹿旭が丘郵便局(東旭が丘)- ホリデーサービス実施 :*鈴鹿磯山郵便局(磯山) :*椿郵便局(山本町) :*合川郵便局(三宅町) :*鈴鹿国府郵便局(国府町) :*鈴峰郵便局(伊船町) :*鈴鹿箕田郵便局(南堀江) :*久間田郵便局(下大久保町) :*鈴鹿加佐登郵便局(加佐登) :*鈴鹿道伯郵便局(道伯) :*鈴鹿庄野郵便局(庄野共進) :*鈴鹿江島郵便局(東江島町) :*鈴鹿算所郵便局(算所) :*鈴鹿天名郵便局(御薗町) :*鈴鹿稲生郵便局(稲生西) :*鈴鹿白子本町郵便局(白子本町) :*庄内簡易郵便局(東庄内町) :*鈴鹿自由丘簡易郵便局(自由ヶ丘) *[[ゆうちょ銀行]] ** 名古屋支店 鈴鹿ハンター内出張所(算所)(ATMのみ/ホリデーサービス実施) ** 名古屋支店 [[MEGAドン・キホーテUNY鈴鹿店]]内出張所(南玉垣町)(ATMのみ/ホリデーサービス実施) ** 名古屋支店 [[イオンモール鈴鹿]]内出張所(庄野羽山=しょうのはやま)(ATMのみ/ホリデーサービス実施) ** 名古屋支店 [[ファミリーマート]]鈴鹿自由ヶ丘店内出張所(自由ヶ丘)(ATM・カード取り扱いのみ/ホリデーサービス実施) :その他簡易郵便局を除く各郵便局にATMが設置されている。 ※鈴鹿市内の郵便番号は以下の通り。 *「'''510-02xx'''」=南部地域。白子郵便局の集配担当。 *「'''513-00xx'''」「'''513-08xx'''」「'''513-11xx'''」「'''519-03xx'''」=北部地域。鈴鹿郵便局の集配担当。 *なお、西庄内町('''519-0271''')・東庄内町('''519-0272''')は[[亀山郵便局]]([[亀山市]]東御幸町実泥)の集配担当となっている。 == 姉妹都市・提携都市 == ===海外=== ;友好都市 * {{Flagicon|FRA}} [[フランス共和国]][[ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏|ペイ・ド・ラ・ロワール地方]][[ル・マン|ルマン]]市 *:[[1990年]][[5月27日]] 友好都市提携 * {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]][[:en:Bellefontaine, Ohio|ベルファウンテン]]市 *:[[1991年]][[8月7日]] 友好都市提携 ===国内=== ;その他 *{{Flagicon|JPN}}[[外国人集住都市会議]] *:[[静岡県]][[浜松市]]が中心に呼びかけ、日本国内の[[外国人]]が多く住む街の[[地方公共団体|自治体]]や[[国際交流協会]]などが集まり、外国人住民が多数居住する都市の行政と地域の国際交流のために設立された組織。 == 地域 == 鈴鹿市は23の地区から成る。 *国府(こう)地区 *庄野(しょうの)地区 *:市の中部に位置する地区。中央道路沿線には工場や複数の大型ショッピングセンターなどが立ち並び、新市街となっている。 *:[[東海道五十三次]][[庄野宿]]で知られる。 *加佐登(かさど)地区 *牧田(まきた)地区 *石薬師(いしやくし)地区 *:[[東海道五十三次]][[石薬師宿]]が所在した。 *[[白子 (鈴鹿市)|白子]](しろこ)地区 *:市の東部、伊勢湾沿いに位置し、市内で最大の駅である[[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄名古屋線|名古屋線]][[白子駅]]があり、実質的な鈴鹿市の中心部である。 *:駅東側は白子漁港があり、また旧街道沿いには旧家が多く立ち並ぶ。白子地区については、[[白子 (鈴鹿市)]]に詳しい。 *稲生(いのう)地区 *:白子地区西側に位置する地区。北西部には[[鈴鹿サーキット]]を有し、南部には水田地帯が広がる。 *飯野(いいの)地区 *河曲(かわの)地区 *一ノ宮(いちのみや)地区 *:神戸地区北東部に位置する地区。北は[[鈴鹿川]]を挟んで[[四日市市]][[河原田]]と接する。 *:現在の地名は、地区には[[都波岐神社・奈加等神社]]があり、これが[[伊勢国]][[一宮]]だったことに由来する。 *:市内最大の水田地帯が地区の多くを占める。 *箕田(みだ)地区 *:上箕田、中箕田、下箕田に分かれ、その周辺に堀江や西一色や林崎がある。 *:漁業では小女子や海苔の養殖が盛ん。 *:長太、伊勢若松に通じる塩浜街道が通る。 *玉垣(たまがき)地区 *:北は神戸地区、東は若松地区、西は飯野地区、南は白子地区に接する。 *:地区の中心を[[国道23号]]が南北に貫いている。 *:フジクラや富士電機、AGFといった巨大な工場は、この地区にある。 *若松(わかまつ)地区 *:白子地区北側から箕田地区南側まで、[[近鉄名古屋線]]と[[伊勢湾]]沿いに細長く位置する地区。漁業を主とし、若松産の[[マアナゴ|穴子]]は特に有名。 *神戸(かんべ)地区 *:市役所を初めとする行政機関を多く有する地区である。 *:[[近鉄鈴鹿線]]・[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢鉄道]]沿線で、2つの駅がある。 *栄(さかえ)地区 - 奄芸郡栄村(1889年)→河芸郡栄村(1896年)→編入(1954年) *:市の最南端に位置し、東は[[伊勢湾]]に面し、西は天名地区、北は稲生地区及び白子地区、南は[[津市]]と隣接する。 *:地区の東部に近鉄名古屋線、西部に伊勢鉄道が走っている。 *天名(あまな)地区 - 奄芸郡天名村(1889年)→河芸郡天名村(1896年)→編入(1954年) *合川(あいかわ)地区 - 奄芸郡合川村(1889年)→河芸郡合川村(1896年)→編入(1954年) *井田川(いだがわ)地区 *久間田(くまだ)地区 *椿(つばき)地区 *:市の最西部に位置し、[[入道ヶ岳]]山麗に広がる地区。ゴルフコースやキャンプ場といったレジャー施設などが多く、また[[椿大神社]]を初めとして神社仏閣も多い。 *深伊沢(ふかいざわ)地区 *鈴峰(れいほう)地区 *:椿地区の南側に位置し、椿地区同様にゴルフコースを多数有する自然豊かな地区。[[東名阪自動車道]]の[[鈴鹿インターチェンジ]]がある。 *庄内(しょうない)地区 == 施設 == === 行政施設 === * [[鈴鹿警察署]] * [[鈴鹿市消防本部]] * [[鈴鹿簡易裁判所]] * 鈴鹿税務署 * ハローワーク鈴鹿 === 文化施設 === [[ファイル:Memorial Hall of Kodayu-DAIKOKUYA.jpg|thumb|right|大黒屋光太夫記念館のエントランス。右に光太夫像が建つ。]] * イスのサンケイホール鈴鹿(鈴鹿市民会館) * 鈴鹿市文化会館 * [[鈴鹿市立図書館]] ** [[鈴鹿市立図書館#江島分館|江島分館]] * [[大黒屋光太夫記念館]] * [[鈴鹿市考古博物館]] === スポーツ施設 === * AGF鈴鹿体育館(鈴鹿市立体育館) ** 西部体育館 * 鈴鹿市武道館 * AGF鈴鹿陸上競技場([[石垣池公園陸上競技場]]) ** 石垣池公園野球場 * 三重交通Gスポーツの杜鈴鹿([[三重県営鈴鹿スポーツガーデン]]) === 病院 === * 2次救急医療施設 ** [[鈴鹿中央総合病院]] ** 鈴鹿回生病院 * 1次救急輪番病院 ** 高木病院 ** 塩川病院 - [[1955年]](昭和30年)に設立<ref name="chunichi2017516">{{Cite news|和書|author=山本克也|title=誠仁会塩川病院 60年感謝の集い 鈴鹿|newspaper=中日新聞|publisher=中日新聞社|date=2017-05-16|edition=朝刊 鈴鹿亀山版|page=14}}</ref>。 ** 村瀬病院 * 大規模災害急性期病院(上記含む) ** [[国立病院機構鈴鹿病院]] ** 鈴鹿厚生病院 ** さくら病院 == 学校 == === 小学校 === {{Col| *[[鈴鹿市立合川小学校]] *[[鈴鹿市立旭が丘小学校]] *[[鈴鹿市立愛宕小学校]] *[[鈴鹿市立天名小学校]] *[[鈴鹿市立飯野小学校]] *[[鈴鹿市立石薬師小学校]] *[[鈴鹿市立井田川小学校]] *[[鈴鹿市立一ノ宮小学校]] *[[鈴鹿市立稲生小学校]] *[[鈴鹿市立加佐登小学校]] *[[鈴鹿市立河曲小学校]] *[[鈴鹿市立神戸小学校]] *[[鈴鹿市立国府小学校]] *[[鈴鹿市立郡山小学校]] *[[鈴鹿市立栄小学校]] | *[[鈴鹿市立桜島小学校]] *[[鈴鹿市立庄内小学校]] *[[鈴鹿市立庄野小学校]] *[[鈴鹿市立白子小学校]] *[[鈴鹿市立清和小学校]] *[[鈴鹿市立玉垣小学校]] *[[鈴鹿市立鼓ヶ浦小学校]] *[[鈴鹿市立椿小学校]] *[[鈴鹿市立長太小学校]] *[[鈴鹿市立深伊沢小学校]] *[[鈴鹿市立牧田小学校]] *[[鈴鹿市立箕田小学校]] *[[鈴鹿市立明生小学校]] *[[鈴鹿市立鈴西小学校]] *[[鈴鹿市立若松小学校]] }} === 特別支援学校 === *[[三重県立杉の子特別支援学校]] **石薬師分校 === 中学校 === *[[鈴鹿市立大木中学校]] *[[鈴鹿市立神戸中学校]] *[[鈴鹿市立白鳥中学校]] *[[鈴鹿市立白子中学校]] *[[鈴鹿市立創徳中学校]] *[[鈴鹿市立千代崎中学校]] *[[鈴鹿市立鼓ヶ浦中学校]] *[[鈴鹿市立天栄中学校]] *[[鈴鹿市立平田野中学校]] *[[鈴鹿市立鈴峰中学校]] === 高等学校 === *[[三重県立神戸高等学校]] *[[三重県立飯野高等学校]] *[[三重県立稲生高等学校]] *[[三重県立白子高等学校]] *[[三重県立石薬師高等学校]] *[[鈴鹿高等学校]] === 中高一貫校 === *[[鈴鹿中等教育学校]] ===高等専門学校=== *[[鈴鹿工業高等専門学校]] ===大学・短大=== [[ファイル:Suzuka University of Medical Science Shiroko Campus 20100312.jpg|thumb|[[鈴鹿医療科学大学]]白子キャンパス]] *[[鈴鹿大学]] *[[鈴鹿大学短期大学部]] *[[鈴鹿医療科学大学]] **千代崎キャンパス **白子キャンパス == 交通 == === 鉄道 === ;[[東海旅客鉄道]](JR東海) * [[関西本線]] ** [[河曲駅]] - [[加佐登駅]] ;[[近畿日本鉄道]](近鉄) * [[近鉄名古屋線|名古屋線]] ** [[磯山駅]] - [[鼓ヶ浦駅]] - [[白子駅]] - [[千代崎駅]] - [[伊勢若松駅]] - [[箕田駅]] - [[長太ノ浦駅]] * [[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]](全線市内) ** 伊勢若松駅 - [[柳駅]] - 鈴鹿市駅 - [[三日市駅]] - [[平田町駅]] ;[[伊勢鉄道]] * [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]] ** 鈴鹿駅 - [[玉垣駅]] - [[鈴鹿サーキット稲生駅]] - [[徳田駅 (三重県)|徳田駅]] - [[中瀬古駅]] 白子駅と鈴鹿駅にはそれぞれ特急列車が停車する。市役所は鈴鹿駅のほか鈴鹿市駅からも近い。関西本線は市の西部を、近鉄名古屋線は市の東部を通過している。 === 路線バス === ==== 高速バス ==== * [[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|東京高速バス]]([[三重交通]]、[[三交伊勢志摩交通]]、[[西武観光バス]]) ※夜行便。 ** [[西武バス大宮営業所]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[池袋駅]]・[[バスタ新宿]]([[新宿駅]]南口)・[[立川駅]] - [[桑名駅]]・[[近鉄四日市駅]]・'''三交鈴鹿'''・'''白子駅西口'''・[[津駅]]・[[松阪駅]]・[[伊勢市駅]]・鳥羽バスセンター ** 西武バス大宮営業所・大宮駅・池袋駅・[[横浜駅]][[YCAT]] - 桑名駅・近鉄四日市駅・'''三交鈴鹿'''・'''白子駅西口'''・津駅・松阪駅・伊勢市駅・鳥羽バスセンター * WILLER EXPRESS: [[川崎駅]]・バスタ新宿 - 近鉄四日市駅・'''白子駅'''・津駅・松阪駅・伊勢市駅([[ベイラインエクスプレス]]) ※夜行 * JAMJAMライナー: [[東京ディズニーランド]]・バスタ新宿・横浜駅 - [[豊橋駅]]・[[名古屋駅]]南・近鉄四日市駅・'''白子駅''' ([[ジャムジャムエクスプレス]]) ※夜行 ==== 一般路線バス ==== * [[三重交通]] * [[C-BUS (コミュニティバス)|C-BUS]](市が運営する[[コミュニティバス]]) === 道路 === ==== 高速自動車国道 ==== * [[東名阪自動車道]] ** [[鈴鹿インターチェンジ]] * [[新名神高速道路]] ** [[鈴鹿パーキングエリア]](PIT SUZUKA、[[スマートインターチェンジ]]併設) ==== 一般国道 ==== * [[国道1号]] * [[国道23号]] ** [[鈴鹿四日市道路]](2020年3月31日新規事業化) ** [[中勢バイパス]] * [[国道25号]] - 市内はすべて国道1号の重複区間 * [[国道306号]] ==== 県道・市道 ==== [[ファイル:Suzuka Circuit road Mie JAPAN.jpg|thumb|right|「サーキット道路」(鈴鹿サーキット付近、国道23号方面を望む)]] 市道については主なものを記載。 * 主要地方道 ** [[三重県道6号四日市楠鈴鹿線]] ** [[三重県道8号四日市鈴鹿環状線]] ** [[三重県道11号四日市関線]] ** [[三重県道27号神戸長沢線]] ** [[三重県道41号亀山鈴鹿線]] ** [[三重県道54号鈴鹿環状線]](中央道路) * 一般県道 ** [[三重県道103号四日市鈴鹿線]] ** [[三重県道115号鈴鹿宮妻峡線]] ** [[三重県道144号鈴鹿関線]] ** [[三重県道407号三畑四日市線]] ** [[三重県道506号鈴鹿港線]] ** [[三重県道507号千代崎港線]] ** [[三重県道551号白子停車場線]] ** [[三重県道552号伊勢若松停車場線]] ** [[三重県道553号伊勢若松停車場神戸地子線]] ** [[三重県道560号鈴鹿公園長沢線]] ** [[三重県道563号稲生山線]] ** [[三重県道564号鼓ヶ浦線]] ** [[三重県道635号南堀江須賀線]] ** [[三重県道637号辺法寺加佐登停車場線]] ** [[三重県道638号西庄内高塚線]] ** [[三重県道641号平野亀山線]] ** [[三重県道642号国府白子停車場線]] ** [[三重県道643号三行庄野線]] ** [[三重県道645号上野鈴鹿線]] ** [[三重県道648号鈴鹿芸濃線]] ** [[三重県道650号三宅一身田停車場線]] *市道加佐登鼓ヶ浦線(サーキット道路) ;廃止した県道 *[[三重県道523号加佐登停車場線]] *[[三重県道640号長明寺井田川停車場線]] === 鈴鹿ナンバー === 従来、市内を使用の本拠地としている自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]には[[三重運輸支局]]を示す表示(三重ナンバー)がなされていたが、[[ご当地ナンバー]]制度が初めて施行された[[2006年]](平成18年)[[10月10日]]より「鈴鹿ナンバー」が導入され、鈴鹿市と[[亀山市]]を使用の本拠地とする自動車が対象となっている。 この表記について統計に基づく世論調査ではないが、ポータルサイトの[[Yahoo! JAPAN]]が施行に先立つ同年9月25日から27日の間に行ったウェブ上における人気投票では、同時に施行された17のご当地ナンバーの中で次点より4倍近い得票を得る人気となった。この結果について投票主催者は『鈴鹿サーキットやF1のイメージが強い』ことが理由ではないかと分析している<ref>[http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/quiz/quizresults.php?poll_id=16&wv=1&typeFlag=2 番付 - 鈴鹿ナンバーが圧倒的人気](Yahoo! ニュース) - Yahoo! JAPAN (2011年9月10日閲覧)</ref>。 == 観光 == [[画像:Tsubaki-shrine.jpg|right|thumb|椿大神社拝殿]] [[ファイル:長太の大樟01.jpg|thumb|長太の大楠]] [[ファイル:神戸城跡.jpg|サムネイル|神戸城跡]] [[ファイル:伊奈富神社庭園 (2).jpg|サムネイル|伊奈富神社庭園]] === 史跡・旧跡 === * [[椿大神社]](つばきおおかみやしろ) * [[桃林寺 (鈴鹿市)|桃林寺]](とうりんじ) * [[神宮寺 (鈴鹿市)|神宮寺]] - 稲生西。神宮寺、別当寺 * [[伊奈冨神社]](いのうじんじゃ)<ref>[[伊奈富神社]]</ref> - 伊勢国総社の推定神社の一つ。紫つつじの名所 * [[慈恩寺 (鈴鹿市)|慈恩寺]] - 稲生西。別当寺 * [[福楽寺 (鈴鹿市)|福楽寺]] - 稲生塩屋 * [[伊勢国分寺跡]] * [[龍光寺]](りょうこうじ) - [[釈迦]]の涅槃図を所蔵。毎年春に開帳がある。 * [[神戸城]]址:県史跡。 * [[観音寺 (鈴鹿市寺家)|子安観音寺]](白子山観音寺) - 安産のご利益があるとされる。国の天然記念物の「[[白子不断ザクラ]]」が境内にある。 * [[白鳥塚古墳 (鈴鹿市)|白鳥塚古墳]] - [[ヤマトタケル]]の[[能褒野王塚古墳|能褒野(のぼの)陵墓]]として有力視された[[古墳]]。 * [[加佐登神社]](かさどじんじゃ) - [[日本武尊]]を祀る神社。 * [[観音寺 (鈴鹿市高塚町)|荒神山(高神山)観音寺]] - [[荒神山の喧嘩]]の舞台。 * [[石薬師宿]] * [[石薬師寺]] * [[長太の大楠]] * [[勝速日神社]](かつはやひじんじゃ) === レジャー === [[ファイル:2011 WTCC Race of Japan (Race 2).jpg|thumb|[[鈴鹿サーキット]]]] * [[鈴鹿サーキット]] - [[1962年]](昭和37年)9月に開場<ref name="chunichi20161128"/>。 * [[鼓ヶ浦海水浴場]] * [[千代崎海水浴場]] * [[鈴鹿さつき温泉]] * [[小岐須渓谷]] === 祭り === *[[神戸石取祭]] *[http://www.suzuka-hanabi.com/ 鈴鹿げんき花火大会] - 白子港緑地で9月に開かれる花火大会<ref name="chunichi201698">{{Cite news|和書|author=山本克也|title=鈴鹿花火へ企画多彩 近鉄白子駅 記念券や特別列車|newspaper=中日新聞|publisher=中日新聞社|date=2016-09-08|edition=津市民版|page=16}}</ref>。 === 名物 === *立石餅 - 神戸宿の名物で、焦げ目があるごつごつした表面の細長い餅の中に餡子が入っている<ref name="chunichi2017418">{{Cite news|和書|author=大橋脩人|title=食旅 餅街道中膝栗毛 お伊勢さん菓子博2017 其の二 立石餅 青春時代 懐かしむ味|newspaper=中日新聞|publisher=中日新聞社|date=2017-04-18|edition=朝刊 三重版|page=14}}</ref>。 ==== 公園 ==== * ダイセーフォレストパーク(鈴鹿青少年の森) * 神戸公園 * 弁天山公園 * 桜の森公園 * 桜島公園 * 自由ヶ丘公園 * 平田池公園 * 江島公園 * 玉垣中央公園 * 高岡山中央公園 * 御座池公園 * 箕田公園 * 江島総合スポーツ公園 * 鼓ヶ浦サン・スポーツランド * 鈴鹿フラワーパーク * 深谷公園 * [[石垣池公園]] * 海のみえる岸岡山緑地 * 鈴鹿川河川緑地 == 関連有名人 == <nowiki>*</nowiki>は鈴鹿市シティセールス特命大使。 ; 鈴鹿市出身者 * [[大黒屋光太夫]](回船船頭) * [[斎藤緑雨]](明治時代の小説家、評論家)- [[1992年]]に鈴鹿市により[[斎藤緑雨賞]]が創設されたことがあるが、賞は1996年に廃止された。 * [[佐佐木信綱]](国文学者・歌人・第一回[[文化勲章]]受章者) * [[大龍隆寛]](元十両力士) * [[北川正恭]](元三重県知事) * [[樋口英明]]([[裁判官]]) * [[今村隆郎]]([[日清オイリオグループ]]会長、元[[日本植物油協会]]会長) * [[荒木真一]]([[内閣府]][[政策統括官]]、元[[原子力規制庁]][[長官官房]][[審議官]]) * [[伊藤智也]]([[2008年北京パラリンピック|北京パラリンピック]]車いす陸上競技で金メダル) * [[田中哲司]]*(俳優) * [[Kouichi]](ミュージシャン、Everlasting-K) * [[中西雅哉]](ミュージシャン、[[THE ORAL CIGARETTES]]) * [[加藤紀子]]*(女優・タレント) * [[中西永輔]]*(元サッカー選手) * [[小倉隆史]]*(元サッカー選手、2016年[[名古屋グランパス]]GM兼監督) * [[清水りさ]](レースクイーン、イメージモデル) * [[石川末廣]](陸上競技選手、[[リオデジャネイロオリンピック]]マラソン代表) * [[宝満まどか]](タレント) * [[大谷みつほ]](女優) * [[松阪ゆうき]](歌手、元ものまねタレント) * [[やない由紀]](タレント) * [[道端史帆]] (ファッションモデル) * [[伊藤拓摩]]([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]][[アルバルク東京]]元ヘッドコーチ) * [[磯部恵美]](アナウンサー) * [[谷元圭介]]*(プロ野球選手、[[北海道日本ハムファイターズ]]→[[中日ドラゴンズ]]) * [[浅尾美和]]*(元ビーチバレー選手) * [[後藤史]](メンタルトレーナー、元女子サッカー選手、後藤三知は妹) * [[伊藤大司]](元プロバスケット選手、アルバルク東京→[[レバンガ北海道]](レンタル移籍)→[[滋賀レイクスターズ]]) * [[笹山貴哉]](バスケットボール選手) * [[北村実穂]](アナウンサー) * [[本田理紗子]](歌手・女優) * [[伊藤涼太]](ゴルファー) * [[後藤三知]]*(女子サッカー選手、[[浦和レッドダイヤモンズ・レディース|浦和レッズレディース]]→[[レアル・ソシエダ・フェメニーノ]]→[[INAC神戸レオネッサ]]) * [[衛藤昂]]*(陸上競技選手、リオデジャネイロオリンピック走高跳び代表) * [[北村文男]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]) * [[澤田真吾]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]]) * [[寺井有美]](元バレーボール選手) * [[伊田篤史]]*([[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]) * [[真山隼人]]*(浪曲師) * [[旗手怜央]](サッカー選手、[[川崎フロンターレ]]→[[セルティックFC]]) * [[森島司]](サッカー選手、[[サンフレッチェ広島]]) * [[吉田温紀]](サッカー選手、[[名古屋グランパスエイト]]) * [[有沙瞳]](元[[宝塚歌劇団]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]娘役) * [[金田陽介]](漫画家) * [[内山命]](元アイドル、元[[SKE48]]) * [[中村祐斗]](プロボクサー、日本スーパーフライ級ユース王者) * DENSEN(DJ) * [[矢吹正道]](プロボクサー) ; 鈴鹿市出身者以外 * [[山中智恵子]]([[歌人]]) * [[服部高顯]](元[[最高裁判所長官]]、名誉市民) * [[本田宗一郎]]([[本田技研工業]]創業者、名誉市民) * [[中嶋悟]]*(元F1ドライバー、[[鈴鹿サーキットレーシングスクール]]初代校長) * [[井村久美子]]*(元[[陸上競技]]選手、鈴鹿市在住) * [[大西めぐみ]](タレント) * [[髙田真史帆]](歌手、元[[TREASURE (音楽グループ)|TREASURE]]) * [[清水美依紗]] (歌手) == スポーツチーム == * サッカー ** [[鈴鹿ポイントゲッターズ]]([[日本フットボールリーグ]])- [[Jリーグ加盟を目指すクラブ]]の1つである。 * ラグビー ** [[三重ホンダヒート]]([[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]]) * ハンドボール **[[三重バイオレットアイリス]]([[日本ハンドボールリーグ]]女子) * 社会人野球 ** [[Honda鈴鹿硬式野球部]] - 1994年に[[第65回都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で優勝している。 == その他 == * [[市外局番]]は市内全域で'''059'''(四日市[[単位料金区域|MA]]。四日市市や[[三重郡]]の自治体と同じ)が使用される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.asahi.mie.jp/asahi490/12.pdf|format=PDF|title=市外局番変更のお知らせ|work=[[朝日町 (三重県)|朝日町]]|date=2018-01-01|accessdate=2021-02-27}}</ref>。 ** [[2006年]](平成18年)[[1月31日]]までは0593が使用されていた。 ** 市外局番は[[津市]]と同じ059であるが、津市はMAが違う(津MA)ため、市外局番からダイヤルする必要がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[鈴鹿市警察]] == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Wikivoyage|Suzuka|鈴鹿市{{en icon}}}} * {{Official website|name=鈴鹿市ホームページ}} * {{Twitter|suzuka_city}} * {{Facebook|suzukacity}} * {{LINE公式アカウント|suzukacity}} * [http://www.city.suzuka.lg.jp/gikai/index.html 鈴鹿市議会] * [http://www.kanko.suzuka.mie.jp/ 鈴鹿市観光協会] * {{ウィキトラベル インライン|鈴鹿市|鈴鹿市}} * {{Osmrelation|4538846}} * {{Googlemap|鈴鹿市}} {{鈴鹿市の町・字}} {{三重県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すすかし}} [[Category:三重県の市町村]] [[Category:鈴鹿市|*]] [[Category:城下町|すすか]] [[Category:1942年設置の日本の市町村]]
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イングマール・ベルイマン
エルンスト・イングマール・ベルイマン(スウェーデン語: Ernst Ingmar Bergman, 1918年7月14日 - 2007年7月30日)は、スウェーデンの映画監督、脚本家、舞台演出家。 「神の沈黙」「愛と憎悪」「生と死」などを主要なモチーフに、映画史に残る数多くの名作を発表した。 「ベルイマン」の発音は正しくは「ベーリマン」に近い。 イングマール・ベルイマンは1918年7月14日、スウェーデンのウプサラで生まれた。父は牧師であり、兄のダーグは外交官、妹のマルガレータはのちに小説家となった。ベルイマン家は首都ストックホルムで生活しており、ベルイマンもそこで育ち、1937年にはストックホルム高等学校(現ストックホルム大学)の文学・美術史学科に入学して、舞台演出の道へと進んだ。 1942年には映画会社のスヴェンスク・フィルム社に入社し、1943年にはエルセ・フィシェルと結婚。なお、1945年にエルセとは離婚し、その後も多くの女性と結婚と離婚を繰り返して、ベルイマンは通算で5度の結婚を行った。1944年、アルフ・シェーベルイ監督の『もだえ』の脚本を手がけた。また同年、ヘルシンボリ市立劇場の主任演出家となり、その後もヨーテボリやノーショーピング、マルメ、ストックホルムなどの都市で舞台演出を行った。 1945年、『危機』で映画監督としてデビューし、その後、数本の低予算映画の中で自らのスタイルを模索する。 1950年、『夏の遊び』の頃から映画監督ベルイマンとしてのスタイルを確立した。 1952年、『不良少女モニカ』でフランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに賞賛される。 しかし、批評家から激賞されても興行的な成功を中々出せず、プロデューサーからも「次回作で興行的な成功がなければ二度と映画は撮らせない」と圧力を掛けられる。そんな中で制作した1955年公開の『夏の夜は三たび微笑む』が翌年のカンヌ国際映画祭にて特設賞である「詩的ユーモア賞」(仏語:Prix de l'humour poétique)を受賞し、国際的な評価を得ると同時にスウェーデン国内でも大成功を収めた。 1950年代後半からは『夏の夜は三たび微笑む』での成功により得た映画制作の自由のもと、立て続けに良作を発表。神の存在をテーマとした『第七の封印』(1957年)では、再びカンヌ国際映画祭に出品され、審査員特別賞を受賞し、2年連続受賞を果たす。人生の老いについて普遍的に描いた『野いちご』(1958年)では、ベルリン国際映画祭でグランプリにあたる金熊賞を受賞。権力と迷信の対立をコメディタッチに描いた『魔術師』(1958年)では、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、数年のうちに世界三大映画祭の主要部門を制覇する。 1960年代に入っても精力的に活動を続け、復讐と神の存在を描いた『処女の泉』(1960年)が米国アカデミー賞にて外国語映画賞を受賞し、世界的な映画監督としての名声を不動のものにする。また、『鏡の中にある如く』(1961年)、『冬の光』(1962年)、『沈黙』(1963年)の3作品、いわゆる「神の沈黙」三部作と呼ばれる作品群を発表し、こちらも高い評価を獲得。特に『鏡の中にある如く』はベルイマン作品として2年連続で米国アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した。 1963年にはストックホルム王立劇場の総監督となる。1965年、チャールズ・チャップリンと共にエラスムス賞を受賞。1966年にはゴトランド島の北にあるフォーレ島での生活を始めた。 その後、「神の沈黙」三部作以降は主に愛人であった女優リヴ・ウルマンを主役に据えて、『仮面/ペルソナ』(1967年)といった、人間の本質に迫る数多くの良質の作品を発表し続けた。 1970年代頃には黒澤明やフェデリコ・フェリーニらと共に世界的な巨匠としての地位を確立していたが、1976年にスウェーデン警察に脱税容疑で逮捕される。これは無実であり2ヶ月後には釈放されたものの、突然の出来事でショックを受けたベルイマンは入院し、回復するとスウェーデンを去ることを表明して、ヨーロッパ諸国を回る。その放浪の途中に滞在したノルウェーでは、イングリッド・バーグマンにとって最後の出演映画となった『秋のソナタ』を撮影する。その後、西ドイツのミュンヘンに落ち着いた。1978年にはスウェーデンで名誉回復がなされたため、のちに帰国した。 1982年に公開された5時間超の大作『ファニーとアレクサンデル』を最後に映画監督業から引退。その後は以前から映画製作と並行して手がけていたスウェーデン王立劇場での舞台演劇に専念、舞台演出家兼脚本家としての活動を続けた。ただし、『愛の風景』(1992年)、『日曜日のピュ』(1994年)、『不実の愛、かくも燃え』(2000年)など、自伝的作品を中心に脚本家として映画製作にも携わった。 1991年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。1995年には最後の妻であるイングリドを亡くした。 2003年、突如として、20年ぶりの監督作品『サラバンド』を発表。この映画はベルイマンにとって最初で最後となるデジタルHD撮影による作品であり、監督としての健在ぶりをアピールした。 2007年7月30日、スウェーデンのフォーレ島にて死去。89歳だった。8月19日には同島で葬儀と埋葬が行われた。 一般的に、イングマール・ベルイマンは20世紀を代表する映画監督の一人とみなされている。2002年に『Sight & Sound』が行ったアンケート調査によれば、ベルイマンは映画監督が選ぶ映画監督ランキングで第8位にランクインした。デンマークの映画監督であるビレ・アウグストは、黒澤明とフェデリコ・フェリーニに並ぶ三大映画監督として、ベルイマンの名前を挙げている。ウディ・アレンやクシシュトフ・キェシロフスキなど、ベルイマンに影響を受けたと告白する映画監督は枚挙に暇がない。 『第七の封印』や『沈黙』のような、形而上学的とも言われる代表作から難解な作家とも評されるが、一方で(時に難解なテーマを伴ってはいても全体的には)わかりやすい作品も多い。また、女性を主役に据えた作品が多いのも特徴である。ベルイマンは正式な結婚を少なくとも5度行っており、そのような自身の女性遍歴を反映したかのような作品も数多く見られる。 ベルイマンの映画は舞台劇的と評されることが多いが、ベルイマン本人はあるインタビューの中で、自作の映画『ある結婚の風景』を舞台化するときに、構成やセリフのほとんどを書き換えなければならなかった例を挙げて、映画と舞台は別物であると訴えている。ちなみに演劇では主にウィリアム・シェイクスピアとアウグスト・ストリンドベリを好んで取り上げ、自らの劇団を率いて日本で大胆な解釈に基づく『ハムレット』とストリンドベリの『令嬢ジュリー』、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を上演したこともある。 その他
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エルンスト・イングマール・ベルイマン(スウェーデン語: Ernst Ingmar Bergman, 1918年7月14日 - 2007年7月30日)は、スウェーデンの映画監督、脚本家、舞台演出家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「神の沈黙」「愛と憎悪」「生と死」などを主要なモチーフに、映画史に残る数多くの名作を発表した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「ベルイマン」の発音は正しくは「ベーリマン」に近い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イングマール・ベルイマンは1918年7月14日、スウェーデンのウプサラで生まれた。父は牧師であり、兄のダーグは外交官、妹のマルガレータはのちに小説家となった。ベルイマン家は首都ストックホルムで生活しており、ベルイマンもそこで育ち、1937年にはストックホルム高等学校(現ストックホルム大学)の文学・美術史学科に入学して、舞台演出の道へと進んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1942年には映画会社のスヴェンスク・フィルム社に入社し、1943年にはエルセ・フィシェルと結婚。なお、1945年にエルセとは離婚し、その後も多くの女性と結婚と離婚を繰り返して、ベルイマンは通算で5度の結婚を行った。1944年、アルフ・シェーベルイ監督の『もだえ』の脚本を手がけた。また同年、ヘルシンボリ市立劇場の主任演出家となり、その後もヨーテボリやノーショーピング、マルメ、ストックホルムなどの都市で舞台演出を行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1945年、『危機』で映画監督としてデビューし、その後、数本の低予算映画の中で自らのスタイルを模索する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1950年、『夏の遊び』の頃から映画監督ベルイマンとしてのスタイルを確立した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1952年、『不良少女モニカ』でフランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに賞賛される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、批評家から激賞されても興行的な成功を中々出せず、プロデューサーからも「次回作で興行的な成功がなければ二度と映画は撮らせない」と圧力を掛けられる。そんな中で制作した1955年公開の『夏の夜は三たび微笑む』が翌年のカンヌ国際映画祭にて特設賞である「詩的ユーモア賞」(仏語:Prix de l'humour poétique)を受賞し、国際的な評価を得ると同時にスウェーデン国内でも大成功を収めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1950年代後半からは『夏の夜は三たび微笑む』での成功により得た映画制作の自由のもと、立て続けに良作を発表。神の存在をテーマとした『第七の封印』(1957年)では、再びカンヌ国際映画祭に出品され、審査員特別賞を受賞し、2年連続受賞を果たす。人生の老いについて普遍的に描いた『野いちご』(1958年)では、ベルリン国際映画祭でグランプリにあたる金熊賞を受賞。権力と迷信の対立をコメディタッチに描いた『魔術師』(1958年)では、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、数年のうちに世界三大映画祭の主要部門を制覇する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1960年代に入っても精力的に活動を続け、復讐と神の存在を描いた『処女の泉』(1960年)が米国アカデミー賞にて外国語映画賞を受賞し、世界的な映画監督としての名声を不動のものにする。また、『鏡の中にある如く』(1961年)、『冬の光』(1962年)、『沈黙』(1963年)の3作品、いわゆる「神の沈黙」三部作と呼ばれる作品群を発表し、こちらも高い評価を獲得。特に『鏡の中にある如く』はベルイマン作品として2年連続で米国アカデミー賞の外国語映画賞を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1963年にはストックホルム王立劇場の総監督となる。1965年、チャールズ・チャップリンと共にエラスムス賞を受賞。1966年にはゴトランド島の北にあるフォーレ島での生活を始めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、「神の沈黙」三部作以降は主に愛人であった女優リヴ・ウルマンを主役に据えて、『仮面/ペルソナ』(1967年)といった、人間の本質に迫る数多くの良質の作品を発表し続けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1970年代頃には黒澤明やフェデリコ・フェリーニらと共に世界的な巨匠としての地位を確立していたが、1976年にスウェーデン警察に脱税容疑で逮捕される。これは無実であり2ヶ月後には釈放されたものの、突然の出来事でショックを受けたベルイマンは入院し、回復するとスウェーデンを去ることを表明して、ヨーロッパ諸国を回る。その放浪の途中に滞在したノルウェーでは、イングリッド・バーグマンにとって最後の出演映画となった『秋のソナタ』を撮影する。その後、西ドイツのミュンヘンに落ち着いた。1978年にはスウェーデンで名誉回復がなされたため、のちに帰国した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1982年に公開された5時間超の大作『ファニーとアレクサンデル』を最後に映画監督業から引退。その後は以前から映画製作と並行して手がけていたスウェーデン王立劇場での舞台演劇に専念、舞台演出家兼脚本家としての活動を続けた。ただし、『愛の風景』(1992年)、『日曜日のピュ』(1994年)、『不実の愛、かくも燃え』(2000年)など、自伝的作品を中心に脚本家として映画製作にも携わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1991年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。1995年には最後の妻であるイングリドを亡くした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2003年、突如として、20年ぶりの監督作品『サラバンド』を発表。この映画はベルイマンにとって最初で最後となるデジタルHD撮影による作品であり、監督としての健在ぶりをアピールした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年7月30日、スウェーデンのフォーレ島にて死去。89歳だった。8月19日には同島で葬儀と埋葬が行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一般的に、イングマール・ベルイマンは20世紀を代表する映画監督の一人とみなされている。2002年に『Sight & Sound』が行ったアンケート調査によれば、ベルイマンは映画監督が選ぶ映画監督ランキングで第8位にランクインした。デンマークの映画監督であるビレ・アウグストは、黒澤明とフェデリコ・フェリーニに並ぶ三大映画監督として、ベルイマンの名前を挙げている。ウディ・アレンやクシシュトフ・キェシロフスキなど、ベルイマンに影響を受けたと告白する映画監督は枚挙に暇がない。", "title": "監督としての特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "『第七の封印』や『沈黙』のような、形而上学的とも言われる代表作から難解な作家とも評されるが、一方で(時に難解なテーマを伴ってはいても全体的には)わかりやすい作品も多い。また、女性を主役に据えた作品が多いのも特徴である。ベルイマンは正式な結婚を少なくとも5度行っており、そのような自身の女性遍歴を反映したかのような作品も数多く見られる。", "title": "監督としての特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ベルイマンの映画は舞台劇的と評されることが多いが、ベルイマン本人はあるインタビューの中で、自作の映画『ある結婚の風景』を舞台化するときに、構成やセリフのほとんどを書き換えなければならなかった例を挙げて、映画と舞台は別物であると訴えている。ちなみに演劇では主にウィリアム・シェイクスピアとアウグスト・ストリンドベリを好んで取り上げ、自らの劇団を率いて日本で大胆な解釈に基づく『ハムレット』とストリンドベリの『令嬢ジュリー』、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を上演したこともある。", "title": "監督としての特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その他", "title": "受賞" } ]
エルンスト・イングマール・ベルイマンは、スウェーデンの映画監督、脚本家、舞台演出家。 「神の沈黙」「愛と憎悪」「生と死」などを主要なモチーフに、映画史に残る数多くの名作を発表した。 「ベルイマン」の発音は正しくは「ベーリマン」に近い。
{{ActorActress | 芸名 = Ingmar Bergman | ふりがな = イングマール・ベルイマン | 画像ファイル =Ingmar Bergman Smultronstallet.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント =『[[野いちご]]』撮影中のベルイマン([[1957年]]) | 本名 = エルンスト・イングマール・ベルイマン(Ernst Ingmar Bergman) | 出生地 = {{SWE}} [[ウプサラ]] | 死没地 = {{SWE}} {{仮リンク|フォーレ (島)|label=フォーレ|en|Fårö}} | 国籍 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1918 | 生月 = 7 | 生日 = 14 | 没年 = 2007 | 没月 = 7 | 没日 = 30 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[舞台演出家]] | ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]、[[舞台]] | 活動期間 = [[1944年]] - [[2005年]] | 配偶者 = Else Fisher(1943年 - 1945年)<br/>Ellen Lundström(1945年 - 1950年)<br/>Gun Grut(1951年 - 1959年)<br/>[[ケビ・ラレテイ]](1959年 - 1969年)<br/>Ingrid von Rosen(1971年 - 1995年死別) | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = '''監督・脚本'''<br>『[[第七の封印 (映画)|第七の封印]]』(1957年)<br/>『[[野いちご]]』(1957年)<br/>『[[処女の泉]]』(1960年)<br/>『[[鏡の中にある如く]]』(1961年)<br/>『[[仮面/ペルソナ]]』(1966年)<br/>『[[叫びとささやき]]』(1972年)<br/>『[[秋のソナタ]]』(1978年)<br/>『[[ファニーとアレクサンデル]]』(1982年)<hr>'''脚本'''<br>『[[愛の風景]]』(1992年)<!-- 誰もが認める代表作品を記述 --> | アカデミー賞 = '''[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第33回アカデミー賞|1960年]]『[[処女の泉]]』<br />[[第34回アカデミー賞|1961年]]『[[鏡の中にある如く]]』<br />[[第56回アカデミー賞|1983年]]『[[ファニーとアレクサンデル]]』<br/>'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br/>[[第43回アカデミー賞|1970年]] | カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第11回カンヌ国際映画祭|1958年]]『[[女はそれを待っている]]』<br/>'''[[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員特別賞]]'''<br />[[第10回カンヌ国際映画祭|1957年]]『[[第七の封印]]』<br />'''詩的ユーモア賞'''<br />[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]『[[夏の夜は三たび微笑む]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>[[第13回カンヌ国際映画祭|1960年]]『処女の泉』<ref>{{Cite web|url=http://fipresci.org/festival/13th-cannes-film-festival/ |title=13th Cannes Film Festival |accessdate=2020-01-04|work=Fipresci.org}}</ref><br/>'''[[カンヌ国際映画祭 バルカン賞|フランス映画高等技術委員会賞]]'''<br />[[第26回カンヌ国際映画祭|1973年]]『[[叫びとささやき]]』<br/>'''[[パルム・ドール・ドヌール]]'''<br/>[[第50回カンヌ国際映画祭|1997年]] | ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第8回ベルリン国際映画祭|1958年]]『[[野いちご]]』<br/>'''[[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>1958年『野いちご』<ref>{{Cite web|url=http://fipresci.org/festival/8th-berlinale/ |title=8th Berlinale |accessdate=2020-01-04|work=Fipresci.org}}</ref><br/>'''国際カトリック映画事務局賞'''<br/>[[1962年]]『[[鏡の中にある如く]]』 | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]]'''<br />1959年『[[魔術師 (1958年の映画)|魔術師]]』<br/>'''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>1983年『ファニーとアレクサンデル』<br>'''[[:it:Premio Pasinetti|パシネッティ賞]]'''<br>1959年『魔術師』<br/>'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br/>1971年 | ヨーロッパ映画賞 = '''[[ヨーロッパ映画賞 生涯貢献賞|生涯貢献賞]]'''<br/>1988年 | 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]]'''<br />1987年 | セザール賞 = '''外国映画賞'''<br/>1984年『ファニーとアレクサンデル』<br/>'''名誉賞'''<br/>1976年 | ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br/>1959年『野いちご』<br/>1960年『処女の泉』<br />1974年『ある結婚の風景』<br/>1976年『鏡の中の女』<br/>1978年『[[秋のソナタ]]』<br />[[第41回ゴールデングローブ賞|1983年]]『ファニーとアレクサンデル』 | 全米映画批評家協会賞 = '''[[全米映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br/>1967年『仮面/ペルソナ』<br/>1968年『恥』<br/>1970年『[[沈黙の島]]』<br />'''脚本賞'''<br />1972年『叫びとささやき』<br />1974年『ある結婚の風景』<br />'''特別賞'''<br />1975年『[[魔笛]]』 | ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]'''<br />[[第38回ニューヨーク映画批評家協会賞|1972年]]『叫びとささやき』<br />[[第49回ニューヨーク映画批評家協会賞|1983年]]『ファニーとアレクサンデル』<br/>'''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 脚本賞|脚本賞]]'''<br />[[第38回ニューヨーク映画批評家協会賞|1972年]]『叫びとささやき』<br />[[第40回ニューヨーク映画批評家協会賞|1974年]]『ある結婚の風景』<br />'''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第49回ニューヨーク映画批評家協会賞|1983年]]『ファニーとアレクサンデル』 | ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br/>[[第3回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1976年]]『[[鏡の中の女]]』<br/>[[第10回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1984年]]『ファニーとアレクサンデル』 | その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br/>'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]'''<br />1973年『[[叫びとささやき]]』<br />1978年『[[秋のソナタ]]』<br />'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br/>1959年『[[野いちご]]』<br/>1969年『[[恥 (映画)|恥]]』<br/>1973年『[[叫びとささやき]]』<br/>1978年『[[秋のソナタ]]』 | 備考 = }} '''エルンスト・イングマール・ベルイマン'''({{Lang-sv|'''Ernst Ingmar Bergman'''}}, [[1918年]][[7月14日]] - [[2007年]][[7月30日]])は、[[スウェーデン]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[舞台演出家]]<ref group="注釈">Ingmar Bergmanのスウェーデン語による発音については、外部サイトを参照のこと。[http://ja.forvo.com/search/Bergman/]</ref>。 「神の沈黙」「愛と憎悪」「生と死」などを主要なモチーフに、映画史に残る数多くの名作を発表した<ref>『[[大辞泉]]』の「ベルイマン」の項目より</ref>。 「ベルイマン」の発音は正しくは「ベーリマン」に近い<ref>[https://www.rightpronunciation.com/languages/swedish/parola-3383.asp?id1=21 Ingmar Bergman] RIGHT PRONUNCIATION 2018年5月4日参照。</ref>。 == 生涯 == [[File:Kinema-Junpo-1962-February-special-1.jpg|thumb|180px|<small>『キネマ旬報』1962年2月決算特別号より。</small>]] イングマール・ベルイマンは[[1918年]][[7月14日]]、スウェーデンの[[ウプサラ]]で生まれた。父は牧師であり、兄のダーグは外交官、妹のマルガレータはのちに小説家となった{{Sfn|小松|2000|pp=12–13}}。ベルイマン家は首都[[ストックホルム]]で生活しており、ベルイマンもそこで育ち、1937年にはストックホルム高等学校(現[[ストックホルム大学]])の文学・美術史学科に入学して、舞台演出の道へと進んだ{{Sfn|小松|2000|p=19}}。 1942年には映画会社のスヴェンスク・フィルム社に入社し、1943年にはエルセ・フィシェルと結婚{{Sfn|小松|2000|p=25}}。なお、1945年にエルセとは離婚し、その後も多くの女性と結婚と離婚を繰り返して、ベルイマンは通算で5度の結婚を行った。[[1944年]]、[[アルフ・シェーベルイ]]監督の『[[もだえ]]』の脚本を手がけた。また同年、[[ヘルシンボリ]]市立劇場の主任演出家となり{{Sfn|小松|2000|p=31}}、その後も[[ヨーテボリ]]{{Sfn|小松|2000|p=38}}や[[ノーショーピング]]、[[マルメ]]、ストックホルムなどの都市で舞台演出を行った{{Sfn|小松|2000|pp=62–63}}。 [[1945年]]、『[[危機 (映画)|危機]]』で映画監督としてデビューし<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=スウェーデンの巨匠 映画監督イングマール・ベルイマンの葬儀が行われる|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2269187|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-07-02|date=2007-08-19}}</ref>、その後、数本の低予算映画の中で自らのスタイルを模索する。 [[1950年]]、『[[夏の遊び]]』の頃から映画監督ベルイマンとしてのスタイルを確立した。 [[1952年]]、『[[不良少女モニカ]]』で[[フランス]]の[[ヌーヴェル・ヴァーグ]]の作家たちに賞賛される{{Sfn|小松|2000|p=65}}。 しかし、批評家から激賞されても興行的な成功を中々出せず、プロデューサーからも「次回作で興行的な成功がなければ二度と映画は撮らせない」と圧力を掛けられる。そんな中で制作した[[1955年]]公開の『[[夏の夜は三たび微笑む]]』が翌年の[[カンヌ国際映画祭]]にて特設賞である「詩的ユーモア賞」(仏語:Prix de l'humour poétique)を受賞し、国際的な評価を得る<ref name=":0" />と同時にスウェーデン国内でも大成功を収めた。 1950年代後半からは『夏の夜は三たび微笑む』での成功により得た映画制作の自由のもと、立て続けに良作を発表。神の存在をテーマとした『[[第七の封印 (映画)|第七の封印]]』([[1957年]])では、再び[[カンヌ国際映画祭]]に出品され、[[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員特別賞]]を受賞し、2年連続受賞を果たす。人生の老いについて普遍的に描いた『[[野いちご]]』([[1958年]])では、[[ベルリン国際映画祭]]でグランプリにあたる[[金熊賞]]を受賞。権力と迷信の対立をコメディタッチに描いた『[[魔術師 (1958年の映画)|魔術師]]』([[1958年]])では、[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]]を受賞し、数年のうちに世界三大映画祭の主要部門を制覇する。 1960年代に入っても精力的に活動を続け、復讐と神の存在を描いた『[[処女の泉]]』([[1960年]])が米国[[第33回アカデミー賞|アカデミー賞]]にて[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、世界的な映画監督としての名声を不動のものにする。また、『[[鏡の中にある如く]]』([[1961年]])、『[[冬の光]]』([[1962年]])、『[[沈黙 (1963年の映画)|沈黙]]』([[1963年]])の3作品、いわゆる「神の沈黙」三部作と呼ばれる{{Sfn|小松|2000|p=118}}作品群を発表し、こちらも高い評価を獲得。特に『鏡の中にある如く』はベルイマン作品として2年連続で米国[[アカデミー賞]]の外国語映画賞を受賞した。 1963年にはストックホルム王立劇場の総監督となる{{Sfn|小松|2000|p=129}}。1965年、[[チャールズ・チャップリン]]と共に[[エラスムス賞]]を受賞。1966年には[[ゴトランド島]]の北にあるフォーレ島での生活を始めた{{Sfn|小松|2000|p=154}}。 その後、「神の沈黙」三部作以降は主に愛人であった女優[[リヴ・ウルマン]]を主役に据えて、『[[仮面/ペルソナ]]』([[1967年]])といった、人間の本質に迫る数多くの良質の作品を発表し続けた。 1970年代頃には[[黒澤明]]や[[フェデリコ・フェリーニ]]らと共に世界的な巨匠としての地位を確立していたが、1976年にスウェーデン警察に脱税容疑で逮捕される。これは無実であり2ヶ月後には釈放されたものの、突然の出来事でショックを受けたベルイマンは入院し、回復するとスウェーデンを去ることを表明して、ヨーロッパ諸国を回る。その放浪の途中に滞在した[[ノルウェー]]では、[[イングリッド・バーグマン]]にとって最後の出演映画となった『[[秋のソナタ]]』を撮影する。その後、[[西ドイツ]]の[[ミュンヘン]]に落ち着いた{{Sfn|小松|2000|pp=172–173}}。1978年にはスウェーデンで名誉回復がなされたため{{Sfn|小松|2000|p=218}}、のちに帰国した。 [[1982年]]に公開された5時間超の大作『[[ファニーとアレクサンデル]]』を最後に映画監督業から引退{{Sfn|小松|2000|p=188}}。その後は以前から映画製作と並行して手がけていたスウェーデン王立劇場での舞台演劇に専念、舞台演出家兼脚本家としての活動を続けた。ただし、『[[愛の風景]]』(1992年)、『日曜日のピュ』(1994年)、『不実の愛、かくも燃え』(2000年)など、自伝的作品を中心に脚本家として映画製作にも携わった。 [[1991年]]、[[高松宮殿下記念世界文化賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|title=イングマール・ベルイマン - 高松宮殿下記念世界文化賞|url=https://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/bergman|website=www.praemiumimperiale.org|accessdate=2021-07-02|publisher=[[日本美術協会]]}}</ref>。1995年には最後の妻であるイングリッドを亡くした<ref name=":0" />。 [[2003年]]、突如として、20年ぶりの監督作品『[[サラバンド (映画)|サラバンド]]』を発表。この映画はベルイマンにとって最初で最後となるデジタルHD撮影による作品であり、監督としての健在ぶりをアピールした。 [[2007年]]7月30日、スウェーデンのフォーレ島にて死去。89歳だった<ref>{{Cite web|和書|title=スウェーデンの巨匠 映画監督イングマール・ベルイマン死去|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2261787|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-07-02|date=2007-07-30}}</ref>。8月19日には同島で葬儀と埋葬が行われた<ref name=":0" />。 == 監督としての特徴 == 一般的に、イングマール・ベルイマンは20世紀を代表する映画監督の一人とみなされている。2002年に『Sight & Sound』が行ったアンケート調査によれば、ベルイマンは映画監督が選ぶ映画監督ランキングで第8位にランクインした<ref name="Sight & Sound">{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/sight-and-sound/polls/greatest-films-all-time/2002 |title=The Greatest Films of All Time… in 2002 |website=BFI |language=en |date=2021-05-18 |accessdate=2023-12-21}}</ref>。[[デンマーク]]の映画監督である[[ビレ・アウグスト]]は、[[黒澤明]]と[[フェデリコ・フェリーニ]]に並ぶ三大映画監督として、ベルイマンの名前を挙げている<ref name="BBC">BBC NEWS、“[http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6921960.stm Film director Bergman dies at 89]”、2007年7月30日。(参照:2009年9月11日)</ref>。[[ウディ・アレン]]<ref name="TIME">Richard Corliss、“[http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1648917,00.html?iid=sphere-inline-bottom Woody Allen on Ingmar Bergman]”、2007年8月1日。(参照:2009年9月11日)</ref><ref>{{Cite web|和書|title=故イングマール・ベルイマン監督へ、米映画界から賞賛の声|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2262073|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-07-02|date=2007-07-31}}</ref>や[[クシシュトフ・キェシロフスキ]]など、ベルイマンに影響を受けたと告白する映画監督は枚挙に暇がない。 『第七の封印』や『沈黙』のような、形而上学的とも言われる代表作から難解な作家とも評されるが、一方で(時に難解なテーマを伴ってはいても全体的には)わかりやすい作品も多い。また、女性を主役に据えた作品が多いのも特徴である。ベルイマンは正式な結婚を少なくとも5度行っており、そのような自身の女性遍歴を反映したかのような作品も数多く見られる。 ベルイマンの映画は舞台劇的と評されることが多いが、ベルイマン本人はあるインタビューの中で、自作の映画『ある結婚の風景』を舞台化するときに、構成やセリフのほとんどを書き換えなければならなかった例を挙げて、映画と舞台は別物であると訴えている<ref>G・ウィリアム・ジョーンズ編/三木宮彦訳「ベルイマンは語る」青土社 p142 5行目「……映画用のシナリオを舞台用の台本にアレンジしたのですが、結局シナリオからはセリフを五つもらっただけだし、舞台化そのものも失敗作に終わりました。」</ref>。ちなみに演劇では主に[[ウィリアム・シェイクスピア]]と[[アウグスト・ストリンドベリ]]を好んで取り上げ、自らの劇団を率いて日本で大胆な解釈に基づく『[[ハムレット]]』とストリンドベリの『[[令嬢ジュリー]]』、[[三島由紀夫]]の『[[サド侯爵夫人]]』を上演したこともある。 == 作品 == *[[危機 (映画)|危機]] ''Kris'' (1946年) *[[われらの恋に雨が降る]] ''Det regnar på vår kärlek'' (1946年) *[[インド行きの船]] ''Skepp till India land'' (1947年) *[[闇の中の音楽]] ''Musik i mörker'' (1948年) *[[愛欲の港]] ''Hamnstad'' (1948年) *[[牢獄 (映画)|牢獄]] ''Fängelse'' (1949年) *[[渇望]] ''Törst'' (1949年) *[[歓喜に向かって]] ''Till glädje'' (1950年) *[[それはここでは起こらない]] ''Sånt händer inte här'' (1950年) *[[夏の遊び]] ''Sommarlek'' (1951年) *[[シークレット・オブ・ウーマン]] ''Kvinnors väntan'' (1952年) *[[不良少女モニカ]] ''Sommaren med Monika'' (1953年) *[[道化師の夜]] ''Gycklarnas afton'' (1953年) *[[愛のレッスン]] ''En Lektion i kärlek'' (1954年) *[[女たちの夢]] ''Kvinnodröm'' (1955年) *[[夏の夜は三たび微笑む]] ''Sommarnattens leende'' (1955年) *[[第七の封印 (映画)|第七の封印]] ''Det Sjunde inseglet'' (1957年) *[[野いちご]] ''Smultronstället'' (1957年) *[[女はそれを待っている]] ''Nära livet'' (1958年) *[[魔術師 (1958年の映画)|魔術師]] ''Ansiktet'' (1958年) *[[処女の泉]] ''Jungfrukällan'' (1960年) *[[悪魔の眼]] ''Djävulens öga'' (1960年) *[[鏡の中にある如く]] ''Såsom i en spegel'' (1961年) *[[冬の光]] ''Nattvardsgästerna'' (1962年) *[[沈黙 (1963年の映画)|沈黙]] ''Tystnaden'' (1963年) *[[この女たちのすべてを語らないために]] ''För att inte tala om alla dessa kvinnor'' (1964年) *[[仮面/ペルソナ]] ''Persona'' (1966年) *ダニエル ''Daniel'' (1967年) 短編 *[[狼の時刻]] ''Vargtimmen'' (1968年) *[[恥 (映画)|恥]] ''Skammen'' (1968年) 別題『ベルイマン監督の恥』 *[[夜の儀式]] ''Riten'' (1969年) テレビ映画 *[[情熱 (映画)|情熱]] ''En Passion'' (1969年) 別題『沈黙の島』 *[[フォール島の記録]] ''Faro Document'' (1970年) ドキュメンタリー *[[愛のさすらい]] ''Beröringen'' (1971年) 別題『ザ・タッチ』 *[[叫びとささやき]] ''Viskningar och rop'' (1972年) *[[ある結婚の風景]] ''Scener ur ett äktenskap'' (1973年) *[[魔笛 (1975年の映画)|魔笛]] ''Trollflöjten'' (1975年) テレビ映画 *[[鏡の中の女]] ''Ansikte mot ansikte'' (1976年) *[[蛇の卵]] ''Das Schlangenei'' (1977年) *[[秋のソナタ]] ''Höstsonaten'' (1978年) *[[フォール島の記録1979]] ''Fårö-dokument 1979'' (1979年) ドキュメンタリー *[[夢の中の人生]] ''Aus dem Leben der Marionetten'' (1980年) テレビ映画 *[[ファニーとアレクサンデル]] ''Fanny och Alexander'' (1982年) *[[母の面影]] ''Karins ansikte'' (1984年) 短編ドキュメンタリー *[[リハーサルの後で]] ''Efter repetitionen'' (1984年) テレビ映画 *[[ベルイマンの世界/ドキュメント「ファニーとアレクサンデル」]] ''Dokument Fanny och Alexander'' (1986年) ドキュメンタリー *[[サラバンド (映画)|サラバンド]] ''Saraband'' (2003年) テレビ映画 === 脚本のみ === *[[もだえ (映画)|もだえ]] ''Hets'' (1944年) [[アルフ・シェーベルイ]]監督 *[[エヴァ (映画)|エヴァ]] ''Eva'' (1948年) [[グスタフ・モランデル]]監督 *[[愛の風景]] ''Den goda viljan'' (1992年) [[ビレ・アウグスト]]監督 *[[日曜日のピュ]] ''Söndagsbarn'' (1992年) [[ダニエル・ベルイマン]]監督 *[[不実の愛、かくも燃え]] ''Trolösa'' (2000年) [[リヴ・ウルマン]]監督 === 関連ドキュメンタリー === *[[リヴ&イングマール ある愛の風景]] ''Liv&Ingmar''(2012年)ディーラージ・アコルカール監督 *[[グッバイ・ベルイマン]] ''Trespassing Bergman''(2013年)ヤーネ・マグヌッソン、ヒネク・パラス共同監督 *[[イングマール・ベルイマン-振付師の目を通して]](2016年)''Ingmar Bergman Through the Choreographer's eye''フレデリック・スタッティン監督 *[[イングマール・ベルイマンを探して]] ''Searching For Ingmar Bergman''(2018年)[[マルガレーテ・フォン・トロッタ]]監督 *[[:en:Bergman: A Year in a Life|A Year In a Life]]''ett år, ett liv''(2018年)ヤーネ・マグヌッソン監督 == 受賞 == {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" ! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 |- ! rowspan="8" style="text-align:left"|[[カンヌ国際映画祭]] | [[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]] | 詩的ユーモア賞 | 『[[夏の夜は三たび微笑む]]』 | {{won}} |- | [[第10回カンヌ国際映画祭|1957年]] | [[カンヌ国際映画祭 審査員賞|審査員特別賞]] | 『[[第七の封印]]』 | {{won}} |- | [[第11回カンヌ国際映画祭|1958年]] | [[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督賞]] | 『[[女はそれを待っている]]』 | {{won}} |- | rowspan="2" | [[第13回カンヌ国際映画祭|1960年]] | 特別表彰 | rowspan="2" | 『[[処女の泉]]』 | {{won}} |- | [[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]<ref>{{Cite web|url=http://fipresci.org/festival/13th-cannes-film-festival/ |title=13th Cannes Film Festival |accessdate=2020-01-04|work=Fipresci.org}}</ref> | {{won}} |- | [[第26回カンヌ国際映画祭|1973年]] | [[カンヌ国際映画祭 バルカン賞|フランス映画高等技術委員会賞]] | 『[[叫びとささやき]]』 | {{won}} |- | [[第50回カンヌ国際映画祭|1997年]] | [[パルム・ドール・ドヌール]] | style="text-align:center"|- | {{won}} |- | [[第51回カンヌ国際映画祭|1998年]] | [[エキュメニカル審査員賞]] | 全作品に対して | {{won}} |- ! rowspan="6" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]] | 1956年 | [[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]] | 『夏の夜は三たび微笑む』 | {{nom}} |- | 1958年 | 総合作品賞 | 『野いちご』 | {{nom}} |- | 1959年 | 総合作品賞 | 『[[魔術師 (1958年の映画)|魔術師]]』 | {{nom}} |- | 1962年 | 総合作品賞 | 『[[鏡の中にある如く]]』 | {{nom}} |- | 1983年 | [[英国アカデミー賞 外国語作品賞|外国語作品賞]] | 『[[ファニーとアレクサンデル]]』 | {{nom}} |- | 1988年 | [[英国アカデミー賞 フェローシップ賞|フェローシップ賞]] | style="text-align:center"|- | {{won}} |- ! rowspan="4" style="text-align:left"| [[ボディル賞]] | 1957年 | [[ボディル賞 非アメリカ映画賞|非アメリカ映画賞]] | 『夏の夜は三たび微笑む』 | {{won}} |- | 1959年 | 非アメリカ映画賞 | 『[[野いちご]]』 | {{won}} |- | 1974年 | 非アメリカ映画賞 | 『叫びとささやき』 | {{won}} |- | 1979年 | 非アメリカ映画賞 | 『[[秋のソナタ]]』 | {{won}} |- ! rowspan="3" style="text-align:left"| [[ベルリン国際映画祭]] | rowspan="2" | [[第8回ベルリン国際映画祭|1958年]] | [[金熊賞]] | rowspan="2" | 『野いちご』 | {{won}} |- | [[ベルリン国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]<ref>{{Cite web|url=http://fipresci.org/festival/8th-berlinale/ |title=8th Berlinale |accessdate=2020-01-04|work=Fipresci.org}}</ref> | {{won}} |- | [[第12回ベルリン国際映画祭|1962年]] | 国際カトリック映画事務局賞 | 『鏡の中にある如く』 | {{won}} |- ! rowspan="5" style="text-align:left"| [[ヴェネツィア国際映画祭]] | 1958年 | イタリア批評家賞 | 『野いちご』 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1959年 | [[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]] | rowspan="2" | 『魔術師』 | {{won}} |- | イタリア批評家賞 | {{won}} |- | 1971年 | [[栄誉金獅子賞]] | style="text-align:center"|- | {{won}} |- | 1983年 | [[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]] | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{won}} |- ! rowspan="13" style="text-align:left"| [[アカデミー賞]] | [[第32回アカデミー賞|1959年]] | [[アカデミー脚本賞|脚本賞]] | 『野いちご』 | {{nom}} |- | [[第33回アカデミー賞|1960年]] | [[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]] | 『処女の泉』 | {{won}} |- | [[第34回アカデミー賞|1961年]] | 外国語映画賞 | rowspan="2" | 『鏡の中にある如く』 | {{won}} |- | [[第35回アカデミー賞|1962年]] | 脚本賞 | {{nom}} |- | [[第43回アカデミー賞|1970年]] | [[アービング・G・タルバーグ賞]] | style="text-align:center"|- | {{won}} |- | rowspan="3" | [[第46回アカデミー賞|1973年]] | [[アカデミー作品賞|作品賞]] | rowspan="3" | 『叫びとささやき』 | {{nom}} |- | [[アカデミー監督賞|監督賞]] | {{nom}} |- | 脚本賞 | {{nom}} |- | [[第49回アカデミー賞|1976年]] | 監督賞 | 『[[鏡の中の女]]』 | {{nom}} |- | [[第51回アカデミー賞|1978年]] | 脚本賞 | 『秋のソナタ』 | {{nom}} |- | rowspan="3" | [[第56回アカデミー賞|1983年]] | 監督賞 | rowspan="3" | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{nom}} |- | 脚本賞 | {{nom}} |- | 外国語映画賞 | {{won}} |- ! rowspan="10" style="text-align:left"| [[ゴールデングローブ賞]] | 1959年 | [[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]] | 『野いちご』 | {{won}} |- | 1960年 | 外国語映画賞 | 『処女の泉』 | {{won}} |- | 1968年 | 外国語映画賞 | 『恥』 | {{nom}} |- | 1972年 | 外国語映画賞 | 『叫びとささやき』 | {{nom}} |- | 1974年 | 外国語映画賞 | 『[[ある結婚の風景]]』 | {{won}} |- | 1975年 | 外国語映画賞 | 『魔笛』 | {{nom}} |- | 1976年 | 外国語映画賞 | 『鏡の中の女』 | {{won}} |- | 1978年 | 外国語映画賞 | 『秋のソナタ』 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1983年 | 外国語映画賞 | rowspan="2" | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{won}} |- | [[ゴールデングローブ賞 監督賞|監督賞]] | {{nom}} |- ! rowspan="8" style="text-align:left"| [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]] | rowspan="2" | 1959年 | [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]] | 『第七の封印』 | {{won}} |- | 特別賞 | style="text-align:center"|- | {{won}} |- | 1969年 | 外国語映画賞 | 『恥』 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1973年 | 外国語映画賞 | rowspan="2" | 『叫びとささやき』 | {{won}} |- | [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]] | {{won}} |- | rowspan="2" | 1978年 | 外国語映画賞 | rowspan="2" | 『秋のソナタ』 | {{won}} |- | 監督賞 | {{won}} |- | 1983年 | 外国語映画賞 | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{won}} |- ! style="text-align:left"| [[マール・デル・プラタ国際映画祭]] | 1959年 | 最優秀作品賞 | 『野いちご』 | {{won}} |- ! rowspan="8" style="text-align:left"| [[ナストロ・ダルジェント賞]] | 1960年 | 外国監督賞 | 『野いちご』 | {{won}} |- | 1961年 | 外国監督賞 | 『第七の封印』 | {{won}} |- | 1965年 | 外国監督賞 | 『[[沈黙 (1963年の映画)|沈黙]]』 | {{nom}} |- | 1968年 | 外国監督賞 | 『仮面/ペルソナ』 | {{nom}} |- | 1974年 | 外国監督賞 | 『叫びとささやき』 | {{won}} |- | 1979年 | 外国監督賞 | 『秋のソナタ』 | {{won}} |- | 1984年 | 外国監督賞 | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{won}} |- | 1996年 | 特別賞 | style="text-align:center"|- | {{won}} |- ! rowspan="4" style="text-align:left"| [[キネマ旬報ベスト・テン]] | rowspan="2" | 1961年 | 外国映画ベスト・テン | rowspan="2" | 『処女の泉』 | {{won|1位}} |- | 外国映画監督賞 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1962年 | 外国映画ベスト・テン | rowspan="2" | 『野いちご』 | {{won|1位}} |- | 外国映画監督賞 | {{won}} |- ! rowspan="6" style="text-align:left"| [[ゴールデン・ビートル賞]] | rowspan="2" | 1964年 | 作品賞 | rowspan="2" | 『沈黙』 | {{won}} |- | 監督賞 | {{won}} |- | 1967年 | 作品賞 | 『仮面/ペルソナ』 | {{won}} |- | 1973年 | 作品賞 | 『叫びとささやき』 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1983年 | 作品賞 | rowspan="2" | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{won}} |- | 監督賞 | {{won}} |- ! rowspan="16" style="text-align:left"| [[全米映画批評家協会賞]] | rowspan="3" | 1967年 | [[全米映画批評家協会賞|作品賞]] | rowspan="3" | 『[[仮面/ペルソナ]]』 | {{won}} |- | [[全米映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]] | {{won}} |- | 脚本賞 | {{draw|2位}} |- | rowspan="2" | 1968年 | 作品賞 | 『[[恥 (映画)|恥]]』 | {{won}} |- | 監督賞 | 『恥』『[[狼の時刻]]』 | {{won}} |- | rowspan="3" | 1970年 | 作品賞 | rowspan="3" | 『[[沈黙の島]]』 | {{draw|2位}} |- | 監督賞 | {{won}} |- | 脚本賞 | {{draw|2位}} |- | rowspan="3" | 1972年 | 作品賞 | rowspan="3" | 『叫びとささやき』 | {{draw|3位}} |- | 監督賞 | {{draw|3位}} |- | 脚本賞 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1974年 | 作品賞 | rowspan="2" | 『ある結婚の風景』 | {{won}} |- | 脚本賞 | {{won}} |- | 1975年 | 特別賞 | 『[[魔笛 (1975年の映画)|魔笛]]』 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1983年 | 作品賞 | rowspan="2" | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{draw|2位}} |- | 監督賞 | {{draw|3位}} |- ! rowspan="11" style="text-align:left"| [[ニューヨーク映画批評家協会賞]] | 1970年 | [[ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞|作品賞]] | 『沈黙の島』 | {{draw|次点}} |- | rowspan="3" | 1972年 | 作品賞 | rowspan="3" | 『叫びとささやき』 | {{won}} |- | [[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]] | {{won}} |- | [[ニューヨーク映画批評家協会賞 脚本賞|脚本賞]] | {{won}} |- | rowspan="3" | 1974年 | 作品賞 | rowspan="3" | 『ある結婚の風景』 | {{draw|次点}} |- | 監督賞 | {{draw|次点}} |- | 脚本賞 | {{won}} |- | rowspan="2" | 1978年 | 監督賞 | rowspan="2" | 『秋のソナタ』 | {{draw|次点}} |- | [[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]] | {{draw|次点}} |- | rowspan="2" | 1983年 | 外国語映画賞 | rowspan="2" | 『ファニーとアレクサンデル』 | {{won}} |- | 監督賞 | {{won}} |- ! rowspan="5" style="text-align:left"| [[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] | 1974年 | 外国監督賞 | 『叫びとささやき』 | {{won}} |- | rowspan="3" | 1984年 | 外国映画賞 | rowspan="3" | 『ファニーとアレクサンデル』 | 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「故イングマール・ベルイマン監督へ、米映画界から賞賛の声」AFPBB 2007年7月31日 2019年11月3日閲覧</ref> | style="text-align:center"|- | {{won}} |- ! style="text-align:left"|[[ヨーロッパ映画賞]] | 1988年 | [[ヨーロッパ映画賞 生涯貢献賞|生涯貢献賞]] | style="text-align:center"|- | {{won}} |- ! style="text-align:left"|[[国際フィルム・アーカイヴ連盟]] | 2003年 | FIAF賞 | style="text-align:center"|- | {{won}} |} '''その他''' *1965年:[[エラスムス賞]] *1976年:[[ゲーテ賞]] *1985年:[[レジオンドヌール勲章]] *1987年:[[ドイツ連邦共和国功労勲章]] *1991年:[[高松宮殿下記念世界文化賞]] 演劇・映像部門 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=イングマール・ベルイマン|date=1989-01-20|title=ベルイマン自伝|publisher=新潮社|translator=木原武一|isbn=978-4105210014|ref={{SfnRef|ベルイマン|1989}} }} * {{Citation|和書|author=小松弘|date=2000-11-01|title=ベルイマン|publisher=清水書院|isbn=978-4389411664|ref={{SfnRef|小松|2000}} }} * {{Citation|和書|date=1990-04-02|title=ベルイマンは語る|publisher=青土社|editor=G・ウィリアム・ジョーンズ|translator=三木宮彦|isbn=978-4791750719|ref={{SfnRef|ジョーンズ|1990}} }} == 外部リンク == {{commons|Ingmar Bergman}} *[https://www.ingmarbergman.se/ Ingmar Bergman Face to Face]{{sv icon}}{{en icon}} *{{allcinema name|815|イングマール・ベルイマン}} *{{Kinejun name|52296|イングマール・ベルイマン}} *{{IMDb name|0000005|Ingmar Bergman}} * {{Kotobank|ベルイマン(Ingmar Bergman)}} {{イングマール・ベルイマン監督作品}} {{アービング・G・タルバーグ賞}} {{カンヌ国際映画祭監督賞}} {{全米映画批評家協会賞 監督賞}} {{ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へるいまん いんくまある}} [[Category:イングマール・ベルイマン|*]] [[Category:スウェーデンの映画監督]] [[Category:スウェーデンの脚本家]] [[Category:舞台演出家]] [[Category:エラスムス賞]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:英国アカデミー賞受賞者]] [[Category:高松宮殿下記念世界文化賞受賞者]] [[Category:レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:ストックホルム大学出身の人物]] [[Category:ウプサラ出身の人物]] [[Category:1918年生]] [[Category:2007年没]]
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ローマ人
ローマ人(ローマじん)は、古代ローマにおける国籍(ローマ市民権)を得た者。その背景は時代や状況によって大きく異なる。
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ローマ人(ローマじん)は、古代ローマにおける国籍(ローマ市民権)を得た者。その背景は時代や状況によって大きく異なる。 古代のイタリア半島中部に居住していたインド・ヨーロッパ語族系民族であるラテン人。ローマは元々ラテン人の都市国家の一つであり、更にラティウム戦争で全ラテン人はローマ住民として両者は同一化した。 1.が建設したローマ共和国およびローマ帝国(セウェルス朝まで)で、ローマ市民権を付与された者。同盟市戦争を経て市民権を獲得したイタリア半島の在住者、補助軍での軍役や植民者との混血などでローマ化された人々に付与された場合が多い。一方で、イタリア半島南部のギリシア系住民、多額の納税による取得、異民族の有力者への名誉的な市民権の付与なども行われた為、ラテン人の血統を引かない者やラテン語話者でない人々も存在した。 帝政中期に行われたカラカラ帝による「アントニヌス勅令」後にローマ市民権を取得した者。この勅令は帝国内の全自由民がローマ市民権を保有することを定めたもので、その数は無秩序に拡大され単にローマ領内の民衆を指す言葉になった(特定の民族を意味しなくなった)。東西分裂後の東ローマ帝国では住民の大半がギリシャ系であったが、ローマ市民権保持者として15世紀の帝国滅亡まで「ローマ人」(ギリシア語: Ρωμαίοι、ローマイオイ)と自称しつづけた。滅亡後も、オスマン帝国は正教徒のことを「ルーム」(ローマ人)と呼んでいた。
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ブリテン諸島
ブリテン諸島(ブリテンしょとう、英: British Isles)は、ヨーロッパ大陸の北西沖の大西洋上に浮かぶ諸島。グレートブリテン島とアイルランド島の2つの大きな島と、その周囲の大小の島々から成る。イギリス諸島とも呼ばれる。 この諸島の名前は2000年間にもわたって使用されており、ローマの博物学者大プリニウスは「それ自体をアルビオンとよび、その周辺の島々は簡潔に Britanniae (ブリタニエ) とよばれている」と記述している。 これら6000を越える島々の総面積は315,134 kmであり、主な島や島群には以下がある。 古来、島の外からは "Brit-" または "Prit-" で始まる様々なよび方がされ、島の住民は大洋の島という意味の oceani insulae または島々を意味する insularum と呼んでいた。英語が使われるようになってから British Isles と呼ばれるようになった。 古代のブリテン諸島の住人は紀元前5世紀に進入してきた Bruthin または Priteni と称するケルト人であった。古代の地理学者達は住民の集団の名をとりラテン語(例:Bretannae)やギリシャ語(例:Βρηττανων)のような自分達の言語に直し島々を呼んだ。 ストラボンの『地理誌』第4巻ではブリテン島を Prettanikee と綴り、Prettans または Brettans と島々を呼んだ。例えば地理2.1.18, "...οι νοτιωτατοι των Βρηττανων βορηιοτηροι τουτον ηισιν".(Brettans南部のほとんどがこれよりさらに北にある)。これは紀元10年ごろに書かれたものであるが、現存する最古の写本は6世紀のものである。 大プリニウスはラテン語によるこの島々への術語を紀元70年ごろ『博物誌』4.102節で用いた。Albion ipsi nomen fuit, cum Britanniae vocarentur omnes de quibus mox paulo dicemus.(『島々全体』は Britannias と呼ばれる時、アルビオン(Albion)はその名である。)次の4.103節ではグレートブリテン、アイルランドおよびその他の小さな島々といったBritanniasを構成する島々を列挙している。 プトレマイオスはアイルランド (Hibernia) はBritanniaという島々のグループに属するとし、幾分詳しい。プトレマイオスの地理学第2巻1章はヒベルニア、ブリタンニアの島と題が付けられた。 地理に関する早期の現存する考察はほぼ古代の言語に限られている。歴史上の地理学者による英語の "British Isles" は宗教改革以降にのみ見られる。 原住民によるこの島々への最古の集合的な用語の出典は、6世紀のアイルランドの僧侶聖コルンバによるブリテンの人々への伝道活動を記した『聖コルンバ伝(英語版)』である。これは7世紀末にアイオナ島にかなりの数のピクト人およびイングランド人の僧侶と共に住んでいたアイルランドの僧侶アドムナン(アイルランド語版)により書かれ、当時ブリテン諸島全体の権威と考えられていた。この作品ではこの諸島は「大洋の島々」の意の oceani insulae と呼ばれ、使用は控えめだった。 他の原住民の典拠は8世紀に書かれたベダの Historia ecclesiastica gentis Anglorum にある。そこでは「島々」を意味する insularum が使われていた。 それらの語は宗教改革後の英語の用法には入らなかった。最初の引用の "British Isles" が1621年、権威あるオックスフォード英語辞典に加えられた。 大陸のゲラルドゥス・メルカトル(1512年)、バルタザール・モレトゥス(1624年)、ジョヴァンニ・マジーニ(1596年)、アブラハム・オルテリウス(1570年)、ゼバスティアン・ミュンスター(1550年)が "British Isles" とした地図を制作した。オルテリウスはほとんどの地図で1570年にはイングランド、スコットランド、アイルランドは政治的に名目上は少なくとも分離していた見解をはっきりさせた:"Angliae, Scotiae et Hiberniae, sive Britannicar. insularum descriptio"(イングランド、スコットランドおよびアイルランド、またはブリテン諸島の記述)、加えてこの時期の多くの地図ではコーンウォールが別の国として描かれており、特にメルカトルがそうであった。 政治的には、イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)とアイルランド共和国という2つの主権国家、チャネル諸島といわれるガーンジー島とジャージー島およびマン島の3つのイギリス王室直轄属領に分かれている。 このため、イギリスの主権に属さないアイルランド共和国やマン島などの人々や、北アイルランドのナショナリスト、スコットランド、ウェールズ、あるいはケルト系のコーンウォールの一部の人々も、「ブリテン諸島」という呼称に不快感を示すことがある。 以上に述べたのは地理的な概念としてのブリテン諸島 (British Isles) であるが、これに対して英国法上の概念としてのブリテン諸島 (British Islands) は以下のものを総称するものである。 以上から明らかなように、イギリスの海外領土は含まれず、また当然ながら隣国であるアイルランド共和国も含まれない。
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ブリテン諸島は、ヨーロッパ大陸の北西沖の大西洋上に浮かぶ諸島。グレートブリテン島とアイルランド島の2つの大きな島と、その周囲の大小の島々から成る。イギリス諸島とも呼ばれる。 この諸島の名前は2000年間にもわたって使用されており、ローマの博物学者大プリニウスは「それ自体をアルビオンとよび、その周辺の島々は簡潔に Britanniae (ブリタニエ) とよばれている」と記述している。
{{Infobox islands |local_name = British Isles {{collapsible list |titlestyle = background:transparent; text-align:center; font-size:9pt; |liststyle = text-align:center; |title = 他言語での名称 |1= {{native name|ga|Éire agus an Bhreatain Mhór}}<ref name=tearma>The British Isles ''s'' ''pl'' ''Na hOileáin bhriontanacha'' {{cite web | url = http://www.tearma.ie/Search.aspx?term=the+British+Isles | title = the British Isles | work = téarma.ie – Dictionary of Irish Terms | publisher = [[Foras na Gaeilge]] and [[Dublin City University]] | access-date = 18 November 2016}}</ref> |2 = {{native name|cy|Ynysoedd Prydain}} |3 = {{native name|kw|Enesow Bretennek}} |4 = {{native name|gd|Eileanan Bhreatainn}}<ref>{{Citation|url=http://www.gla.ac.uk/departments/celtic/duilleagangidhlig/|title=University of Glasgow Department of Celtic}}</ref> |5 = {{native name|gv|Ny h-Ellanyn Goaldagh}}<ref>{{Citation|url=http://www.tynwald.org.im/papers/press/2008/pr33.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20090224221228/http://www.tynwald.org.im/papers/press/2008/pr33.pdf|url-status=dead|archive-date=24 February 2009|title=Office of The President of Tynwald}}</ref> |6 = {{native name|fr|Îles Britanniques}}<ref>{{cite web|title=Règlement (1953) (Amendement) Sur l'importation et l'exportation d'animaux|url=https://www.jerseylaw.je/laws/enacted/Pages/L-17-1953.aspx|website=[[Jersey Legal Information Board]]|access-date=2 February 2012}}</ref> }} |image_name = MODIS - Great Britain and Ireland - 2012-06-04 during heat wave.jpg |image_caption = 2012年の[[NASA]]による衛星画像。[[シェトランド諸島]]および[[チャンネル諸島]]は写っていない。 |image_alt = ヨーロッパ内でのイギリス諸島の位置 |map_image = British Isles (orthographic projection).svg |map_size = 220 |location = {{仮リンク|北西ヨーロッパ|en|Northwestern Europe}} |coordinates = {{Coord|54|N|4|W|scale:10000000|display=inline,title}} |waterbody = [[大西洋]] |area_km2 = 315159 |area_footnotes = <ref name=area>[http://islands.unep.ch/Cindex.htm Country/Territory Index, Island Directory], United Nations Environment Programme. Retrieved 9 August 2015.<br />[https://www.gov.im/categories/business-and-industries/iom-key-facts-guide/island-facts/ Island Facts] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160304050532/https://www.gov.im/categories/business-and-industries/iom-key-facts-guide/island-facts/ |date=4 March 2016 }}, Isle of Man Government. Retrieved 9 August 2015.<br />According to the UNEP, the Channel Islands have a land area of {{val|194|u=km2|fmt=commas}}, the Republic of Ireland has a land area of {{val|70,282|u=km2|fmt=commas}}, and the United Kingdom has a land area of {{val|244,111|u=km2|fmt=commas}}. According to the Isle of Man Government, the Isle of Man has a land area of {{val|572|u=km2|fmt=commas}}. 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|{{note|footnote_a}} アイルランド共和国では[[アイルランド時間]]、イギリスおよび関連する地域では[[イギリス夏時間]]となる。 }} }} '''ブリテン諸島'''(ブリテンしょとう、{{lang-en-short|British Isles}})は、[[ヨーロッパ大陸]]の北西沖の[[大西洋]]上に浮かぶ[[島嶼|諸島]]。[[グレートブリテン島]]と[[アイルランド島]]の2つの大きな島と、その周囲の大小の島々から成る。'''イギリス諸島'''とも呼ばれる<ref>長谷川孝治 "イギリス[諸島]" 世界大百科事典 第2版 平凡社 / 日立システムアンドサービス</ref>。 この諸島の名前は2000年間にもわたって使用されており、[[ローマ帝国|ローマ]]の[[博物学者]][[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]は「それ自体を''[[アルビオン]]''とよび、その周辺の島々は簡潔に {{lang|la|''Britanniae''}} (ブリタニエ) とよばれている」と記述している<ref>『[[博物誌]]』{{lang|la|''Naturalis Historia''}} (iv.xvi.102) </ref>。 == 主な島々 == これら6000を越える島々の総面積は315,134 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]であり、主な島や島群には以下がある。 ; * '''[[グレートブリテン島]]''' * '''[[アイルランド島]]''' * [[マン島]](グレートブリテン島とアイルランド島の間の[[アイリッシュ海]]北寄り) * [[ワイト島]](グレートブリテン島南側、[[イギリス海峡|英仏海峡]]内) * [[シリー諸島]](グレートブリテン島南西のコンウォール半島の沖、[[ケルト海]]上) * [[オークニー諸島]](スコットランド北側、北大西洋上) * [[シェトランド諸島]](オークニー諸島の北側) * [[フェア島]](オークニー諸島とシェトランド諸島の間) * [[ヘブリディーズ諸島]](スコットランド北西側、北大西洋上) * [[アングルシー島]](ウェールズの北側、アイリッシュ海中央) * [[ホリー島]](アングルシー島西側) * [[アラン諸島]](アイルランド島西側) * [[ランディ島]](ウェールズとコーンウォール半島に挟まれた[[ブリストル海峡]]内) * [[チャンネル諸島]](フランスの[[コタンタン半島]](別名ノルマンディー半島)西側、英仏海峡内) == ブリテン諸島の名称の由来 == 古来、島の外からは {{lang|la|"Brit-"}} または {{lang|la|"Prit-"}} で始まる様々なよび方がされ、島の住民は大洋の島という意味の {{lang|la|''oceani insulae''}} または島々を意味する {{lang|la|''insularum''}} と呼んでいた。[[英語]]が使われるようになってから {{lang|en|''British Isles''}} と呼ばれるようになった。 === 古代の地理学者 === 古代のブリテン諸島の住人は[[紀元前5世紀]]に進入してきた {{lang|gd|''Bruthin''}} または {{lang|gd|''Priteni''}} と称する[[ケルト人]]であった。古代の[[地理学]]者達は住民の集団の名をとり[[ラテン語]](例:{{lang|la|Bretannae}})や[[ギリシア語|ギリシャ語]](例:{{lang|el|Βρηττανων}})のような自分達の言語に直し島々を呼んだ。 [[ストラボン]]の『[[地理誌]]』第4巻ではブリテン島を {{lang|grc|''Prettanikee''}} と綴り、{{lang|grc|''Prettans''}} または {{lang|grc|''Brettans''}} と島々を呼んだ。例えば地理2.1.18, {{lang|el|"...οι νοτιωτατοι των Βρηττανων βορηιοτηροι τουτον ηισιν".}}(Brettans南部のほとんどがこれよりさらに北にある)。これは紀元[[10年]]ごろに書かれたものであるが、現存する最古の写本は[[6世紀]]のものである。 [[大プリニウス]]はラテン語によるこの島々への術語を紀元[[70年]]ごろ『[[博物誌]]』4.102節で用いた。{{lang|la|''Albion ipsi nomen fuit, cum Britanniae vocarentur omnes de quibus mox paulo dicemus.''}}(『島々全体』は {{lang|la|Britannias}} と呼ばれる時、アルビオン({{lang|la|Albion}})はその名である。)次の4.103節ではグレートブリテン、アイルランドおよびその他の小さな島々といった{{lang|la|Britannias}}を構成する島々を列挙している。 [[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]はアイルランド ({{lang|la|''Hibernia''}}) は{{lang|la|''Britannia''}}という島々のグループに属するとし、幾分詳しい。プトレマイオスの[[地理学 (プトレマイオス)|地理学]]第2巻1章は''ヒベルニア、ブリタンニアの島''と題が付けられた。 === 原住民の典拠 === 地理に関する早期の現存する考察はほぼ古代の言語に限られている。歴史上の地理学者による英語の {{lang|en|"British Isles"}} は[[宗教改革]]以降にのみ見られる。 原住民によるこの島々への最古の集合的な用語の出典は、[[6世紀]]のアイルランドの僧侶聖[[コルンバ]]によるブリテンの人々への伝道活動を記した『{{仮リンク|聖コルンバ伝|en|Life of Columba}}』である。これは[[7世紀]]末に[[アイオナ島]]にかなりの数のピクト人および[[イングランド人]]の僧侶と共に住んでいたアイルランドの僧侶{{仮リンク|アドムナン|ga|Naomh Adhamhnán}}により書かれ、当時ブリテン諸島全体の権威と考えられていた。この作品ではこの諸島は「大洋の島々」の意の {{lang|la|''oceani insulae''}} と呼ばれ<ref>Sharpe版2巻、46 = Reeves版2巻、47</ref>、使用は控えめだった。 他の原住民の典拠は[[8世紀]]に書かれたベダの {{lang|la|''Historia ecclesiastica gentis Anglorum''}} にある。そこでは「島々」を意味する {{lang|la|''insularum''}} が使われていた。 それらの語は宗教改革後の英語の用法には入らなかった。最初の引用の {{lang|en|"British Isles"}} が[[1621年]]、権威ある[[オックスフォード英語辞典]]に加えられた。 === ルネッサンスの地図製作者 === 大陸の[[ゲラルドゥス・メルカトル]]([[1512年]])、バルタザール・モレトゥス([[1624年]])、[[ジョヴァンニ・マジーニ]](1596年)、[[アブラハム・オルテリウス]]([[1570年]])、[[ゼバスティアン・ミュンスター]](1550年)が {{lang|en|"British Isles"}} とした[[地図]]を制作した。オルテリウスはほとんどの地図で1570年にはイングランド、スコットランド、アイルランドは政治的に名目上は少なくとも分離していた見解をはっきりさせた:{{lang|la|"Angliae, Scotiae et Hiberniae, sive Britannicar. insularum descriptio"}}(イングランド、スコットランドおよびアイルランド、またはブリテン諸島の記述)、加えてこの時期の多くの地図では[[コーンウォール]]が別の国として描かれており、特にメルカトルがそうであった。 === 近代の歴史学者 === {{節スタブ}} == 現代の呼称問題 == [[File:British Isles Euler diagram 15.svg|thumb|ブリテン諸島における用語の[[オイラー図]]]] [[File:British Isles Diagram-ja.jpg|thumb|ブリテン諸島の呼称を模式化した図の日本語訳]] 政治的には、[[イギリス|イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)]]と[[アイルランド|アイルランド共和国]]という2つの主権国家、[[チャネル諸島]]といわれる[[ガーンジー島]]と[[ジャージー島]]および[[マン島]]の3つの[[イギリスの王室属領|イギリス王室直轄属領]]に分かれている。 このため、イギリスの主権に属さない[[アイルランド|アイルランド共和国]]や[[マン島]]などの人々や、[[北アイルランド]]の[[アイルランドのナショナリズム|ナショナリスト]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]、あるいは[[ケルト]]系の[[コーンウォール]]の一部の人々も、「ブリテン諸島」という呼称に不快感を示すことがある。 == 法的な意義でのブリテン諸島 == [[File:British Isles - UK & Ireland.png|thumb|250px|ブリテン諸島における主権国家およびその下位区分]] 以上に述べたのは'''地理的な概念としてのブリテン諸島''' ({{lang|en|''British '''Isles'''''}}) であるが、これに対して'''[[英国法]]上の概念としてのブリテン諸島''' ({{lang|en|''British '''Islands'''''}}) は以下のものを総称するものである。 * [[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]] ** [[イングランドおよびウェールズ]] ** [[スコットランド]] ** [[北アイルランド]] * [[イギリスの王室属領|王室属領]] ** [[ジャージー|ジャージー代官管轄区]] ** [[ガーンジー|ガーンジー代官管轄区]] ** [[マン島]] 以上から明らかなように、[[イギリスの海外領土]]は含まれず、また当然ながら隣国である[[アイルランド|アイルランド共和国]]も含まれない。 == 脚注 == <references /> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふりてんしよとう}} [[Category:イギリスの島]] [[Category:アイルランドの島]] [[Category:ブリテン諸島|*ふりてんしよとう]] [[Category:ヨーロッパの島]] [[Category:ヨーロッパの地域]] [[Category:地名に関する論争]]
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月 (オペラ)
童話オペラ『月』(つき、独:Der Mond)は、カール・オルフが作曲したオペラ。初演は1939年2月5日、バイエルン国立歌劇場で行われた。リブレットはオルフ自身によるもので、1937年から1938年にかけて作曲された。 日本での初演は、「月を盗んだ話」というタイトルで2005年10月1日、札幌室内歌劇場による日本語上演。2010年1月には、新国立劇場小劇場での上演も行われた。 語り手(高テノール・裏声)、4人の若者(テノール、バリトン、バリトン、バス)、農夫2名(バス)、天上の秩序を保つ老人ペトルス(バス)、酒場の亭主(バリトン)、村長(テノール)、死人たち(合唱)、月を盗まれる人々(混声合唱と児童合唱)、月の光で目がさめる死人たち(独唱と混声合唱)、月を見つけた子供 通常のオーケストラ、ピアノ、オルフ独特の非ヨーロッパ系打楽器群、混声合唱団、独唱者、児童合唱団 語り手が話し始める。「昔々ある国がありました。その国の夜は、いつも真っ暗で月も昇らず、天には覆いが被ったように真っ暗でした。それというのも、この世界が創造されたときに、夜のための光まで行き渡らなかったからです。その国から4人の若者が旅に出た。別の国にたどり着き夕闇がせまってくると、1本の大きなオークの木に輝く玉が吊るされて、遠くまで弱い光を投げかけていた。太陽ほど明るくないが、なんでも良く見えた。」ここまで、語り手が話した後、若者達の会話が始まる。若者は農夫に尋ねた「あれは何だ」。農夫は「月だよ、俺達の村長が3ターレルで買ってきたんだ。毎日明るく照るように磨かなきゃならんのだが、磨き賃に毎週1ターレル、村長が呉れるんだ」と言う。 若者達は、この月を盗んで俺達の村に持ち帰ろうと相談。そして実行、この村はまた月を買えばいいんだ。手押し車に乗せる。自分達の村に帰るが、人々は「何に役立つんだ」と盛んに言う。磨いてオークの大木にくくりつけた。明るくなった村で、酔っ払いも夜道に迷うことなく安心してドンチャン騒ぎが始まる、大変な賑やかさだ。3ターレルで買ってきたと説明。毎週1ターレルの磨き賃をもらうことになり、4人の若者はいつしか老人になった。4人のうち一人死ぬたびに遺言によって月の4分の1を切り取って、棺おけに入れていく。4人死ぬとその村はまた、真っ暗になって夜道でぶつかったりするようになった。 一方、死人の世界では、4人が持ち寄った月を1つにして、明るくなった。沢山の死人たちが明るくなった世界で騒ぎ出し、飲む打つ買うが始まる。九柱戯やら賭け事やらであまりの騒がしさで喧嘩も始まる。4人は、月が大切ならもっと静かにしてくれと言うが、収まらないので、月を消してしまう。しかし、月をともせという死人たち。老羊飼いのペトルスが角笛をもって見回りにやってくる。ペトルスは騒ぎに向かって、落雷による雷鳴を大音響で聞かせて驚かし、静かになってから事情を調べに降りてきた。事情を聞いてペトルスが可笑しがって、一緒に酒を酌み交わす、そのうちにペトルスが魔法を使う。死人たちは眠い中でペトルスの話を聞く「そうか、あれが月と言うものか、だが、光は生きている者の為にある。お前達の寿命はとっくに終わっている。眠れ、もう眠れ」と諭す。語り手が、「こうしてペトルスは死人たちを鎮め、月を掲げて天に吊るした」と語る。そこに、寝巻きを着た子供が登場、「あ! あそこにお月様がかかっている!」との声。死人たちの静かな寝息が低音楽器で聞こえる。 歌劇でも現実にはありそうもない荒唐無稽な筋書きが多いが、この童話オペラも荒唐無稽な話である。オルフはグリム童話集から題材をとり、自分自身によるテキストと音楽で、愉快な作品を残した。この作風の流れの頂点は『童話オペラ「賢い女」』であろう。2作共に従来のオーケストラも活躍し、打楽器群が華やかさを付け加えるのは『カルミナ・ブラーナ』の流れを感じる。 その後の『ベルナウの女』以後、オルフらしさの個性が極められて行くことになるが、『暴君エディプス王』に到ると、大衆芸術から離れてしまう。作品が悪いと言うのではなく、オルフの考える言語、音響、身振り動作、舞台美術といった総合的な芸術の分野に、オルフがますます完璧さをもって踏み込んで行くから、必然的に実際の演奏を客席で体験しなければならない性質を強めるという事である。この『童話オペラ「月」』は上演時間も『童話オペラ「賢い女」』と同じく約80分で、長時間の拘束になる一般的なオペラに比べ、長くは感じない。この曲の場合は、各所で明るい合唱と楽器が華やかに場面を盛り上げている。全体を通して、ドイツ語の話し言葉での語感が韻を踏んでいるのか、声もリズミカルである。最後の場面では、マンドリンの静かな可愛らしいメロディーの上に、男の子の感嘆の声「Ah, da haengt ja der Mond!」が印象的で、締めくくりが美しい。
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童話オペラ『月』は、カール・オルフが作曲したオペラ。初演は1939年2月5日、バイエルン国立歌劇場で行われた。リブレットはオルフ自身によるもので、1937年から1938年にかけて作曲された。 日本での初演は、「月を盗んだ話」というタイトルで2005年10月1日、札幌室内歌劇場による日本語上演。2010年1月には、新国立劇場小劇場での上演も行われた。
{{出典の明記|date=2016年10月16日 (日) 16:04 (UTC)}} {{Portal クラシック音楽}} 童話オペラ『'''月'''』(つき、[[ドイツ語|独]]:''{{lang|de|Der Mond}}'')は、[[カール・オルフ]]が作曲した[[オペラ]]。初演は[[1939年]]2月5日、[[バイエルン国立歌劇場]]で行われた。[[リブレット (音楽)|リブレット]]はオルフ自身によるもので、[[1937年]]から[[1938年]]にかけて作曲された。 日本での初演は、「月を盗んだ話」というタイトルで2005年10月1日、札幌室内歌劇場による日本語上演。2010年1月には、新国立劇場小劇場での上演も行われた。 == 登場人物 == 語り手(高テノール・裏声)、4人の若者(テノール、バリトン、バリトン、バス)、農夫2名(バス)、天上の秩序を保つ老人ペトルス(バス)、酒場の亭主(バリトン)、村長(テノール)、死人たち(合唱)、月を盗まれる人々(混声合唱と児童合唱)、月の光で目がさめる死人たち(独唱と混声合唱)、月を見つけた子供 == 使用楽器 == 通常のオーケストラ、ピアノ、オルフ独特の非ヨーロッパ系打楽器群、混声合唱団、独唱者、児童合唱団 == あらすじ == 語り手が話し始める。「昔々ある国がありました。その国の夜は、いつも真っ暗で月も昇らず、天には覆いが被ったように真っ暗でした。それというのも、この世界が創造されたときに、夜のための光まで行き渡らなかったからです。その国から4人の若者が旅に出た。別の国にたどり着き夕闇がせまってくると、1本の大きなオークの木に輝く玉が吊るされて、遠くまで弱い光を投げかけていた。太陽ほど明るくないが、なんでも良く見えた。」ここまで、語り手が話した後、若者達の会話が始まる。若者は農夫に尋ねた「あれは何だ」。農夫は「月だよ、俺達の村長が3ターレルで買ってきたんだ。毎日明るく照るように磨かなきゃならんのだが、磨き賃に毎週1[[ターラー (通貨)|ターレル]]、村長が呉れるんだ」と言う。 若者達は、この月を盗んで俺達の村に持ち帰ろうと相談。そして実行、この村はまた月を買えばいいんだ。手押し車に乗せる。自分達の村に帰るが、人々は「何に役立つんだ」と盛んに言う。磨いてオークの大木にくくりつけた。明るくなった村で、酔っ払いも夜道に迷うことなく安心してドンチャン騒ぎが始まる、大変な賑やかさだ。3ターレルで買ってきたと説明。毎週1ターレルの磨き賃をもらうことになり、4人の若者はいつしか老人になった。4人のうち一人死ぬたびに遺言によって月の4分の1を切り取って、棺おけに入れていく。4人死ぬとその村はまた、真っ暗になって夜道でぶつかったりするようになった。 一方、死人の世界では、4人が持ち寄った月を1つにして、明るくなった。沢山の死人たちが明るくなった世界で騒ぎ出し、飲む打つ買うが始まる。[[九柱戯]]やら賭け事やらであまりの騒がしさで喧嘩も始まる。4人は、月が大切ならもっと静かにしてくれと言うが、収まらないので、月を消してしまう。しかし、月をともせという死人たち。老羊飼いのペトルスが角笛をもって見回りにやってくる。ペトルスは騒ぎに向かって、落雷による雷鳴を大音響で聞かせて驚かし、静かになってから事情を調べに降りてきた。事情を聞いてペトルスが可笑しがって、一緒に酒を酌み交わす、そのうちにペトルスが魔法を使う。死人たちは眠い中でペトルスの話を聞く「そうか、あれが月と言うものか、だが、光は生きている者の為にある。お前達の寿命はとっくに終わっている。眠れ、もう眠れ」と諭す。語り手が、「こうしてペトルスは死人たちを鎮め、月を掲げて天に吊るした」と語る。そこに、寝巻きを着た子供が登場、「あ! あそこにお月様がかかっている!」との声。死人たちの静かな寝息が低音楽器で聞こえる。 == 解説 == 歌劇でも現実にはありそうもない荒唐無稽な筋書きが多いが、この童話オペラも荒唐無稽な話である。オルフは[[グリム童話|グリム童話集]]から題材をとり、自分自身によるテキストと音楽で、愉快な作品を残した。この作風の流れの頂点は『童話オペラ「賢い女」』であろう。2作共に従来のオーケストラも活躍し、打楽器群が華やかさを付け加えるのは『[[カルミナ・ブラーナ]]』の流れを感じる。 その後の『ベルナウの女』以後、オルフらしさの個性が極められて行くことになるが、『暴君エディプス王』に到ると、大衆芸術から離れてしまう。作品が悪いと言うのではなく、オルフの考える言語、音響、身振り動作、舞台美術といった総合的な芸術の分野に、オルフがますます完璧さをもって踏み込んで行くから、必然的に実際の演奏を客席で体験しなければならない性質を強めるという事である。この『童話オペラ「月」』は上演時間も『童話オペラ「賢い女」』と同じく約80分で、長時間の拘束になる一般的なオペラ<ref>例えば「''トスカ''」115分、「''椿姫''」120分、「''カルメン''」140分、「''フィガロの結婚''」170分、「''ルル''」180分、「''タンホイザー''」180分である。</ref>に比べ、長くは感じない。この曲の場合は、各所で明るい合唱と楽器が華やかに場面を盛り上げている。全体を通して、ドイツ語の話し言葉での語感が韻を踏んでいるのか、声もリズミカルである。最後の場面では、[[マンドリン]]の静かな可愛らしいメロディーの上に、男の子の感嘆の声「Ah, da haengt ja der Mond!」が印象的で、締めくくりが美しい。 ==脚注== {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:つき}} [[Category:1930年代のオペラ]] [[Category:ドイツ語のオペラ]] [[Category:1939年の音楽]] [[Category:オルフの楽曲]] [[Category:月を題材とした楽曲]] [[Category:死後の世界を舞台とした作品]] [[Category:民話・童話を題材とした作品]]
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アイルランド島
アイルランド島(アイルランドとう、Island of Ireland)は、ヨーロッパ大陸の北西沖に位置し、アイリッシュ海を挟んで東にグレートブリテン島に接する、ヨーロッパで3番目に大きな島である。面積は8万4421kmで、北海道本島の約1.08倍の面積であり、世界では20番目に大きな島である。 南北450km、東西260kmで、中央部の低地を丘陵地帯が取り囲む地形である。山は全体的に低く南西部にあるカラントゥール山が1041mで最も高い。島内最長の河川シャノン川が北東から南西に流れ、無数の湖を有する。気候は、西の大西洋を北上してきた北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)の影響で温暖である。 古くはローマ人にヒベルニア(Hibernia; ラテン語で「冬の国」「冬の土地」の意)と呼ばれていた。アイルランド英語では、エリン(英語版)と呼ばれる。 政治的には、ダブリンを首都とする南西部大半のアイルランド共和国と、ベルファストを首都とする北部の北アイルランド(アルスターの一部)に分かれ、北アイルランドはグレートブリテン島のイングランド・スコットランド・ウェールズとともにグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する。 アイルランド島は北のアルスター、東のレンスター、南のマンスター、西のコノートに大きく分かれる。
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アイルランド島は、ヨーロッパ大陸の北西沖に位置し、アイリッシュ海を挟んで東にグレートブリテン島に接する、ヨーロッパで3番目に大きな島である。面積は8万4421km2で、北海道本島の約1.08倍の面積であり、世界では20番目に大きな島である。 南北450km、東西260kmで、中央部の低地を丘陵地帯が取り囲む地形である。山は全体的に低く南西部にあるカラントゥール山が1041mで最も高い。島内最長の河川シャノン川が北東から南西に流れ、無数の湖を有する。気候は、西の大西洋を北上してきた北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)の影響で温暖である。 古くはローマ人にヒベルニアと呼ばれていた。アイルランド英語では、エリンと呼ばれる。 政治的には、ダブリンを首都とする南西部大半のアイルランド共和国と、ベルファストを首都とする北部の北アイルランド(アルスターの一部)に分かれ、北アイルランドはグレートブリテン島のイングランド・スコットランド・ウェールズとともにグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する。
{{出典の明記|date=2019-12-04}} {{Infobox 島 |島名=アイルランド<br/>エール |画像=[[ファイル:Ireland (MODIS).jpg|220px|アイルランド島]]<br/>[[ファイル:Map of Ireland in Europe.svg|220px|アイルランド島の位置]] | 緯度度 = 53 | 緯度分 = 0 | 緯度秒 = 0 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 8 |経度分 = 0 | 経度秒 = 0 | E(東経)及びW(西経) = W | 地図国コード = IE |面積=8万4421 |周囲= |標高=1041 |最高峰= [[カラントゥール山]] |最大都市= [[ダブリン]](アイルランド)<br>[[ベルファスト]](イギリス) |諸島= [[ブリテン諸島]] |海域=[[大西洋]]・[[アイリッシュ海]] |国= {{IRE}}<br/>{{GBR}} [[ファイル:Ulster banner.svg|20px]] [[北アイルランド]] |OSM要否=no }} '''アイルランド島'''(アイルランドとう、{{lang|en|Island of Ireland}})は、[[ヨーロッパ大陸]]の北西沖に位置し、[[アイリッシュ海]]を挟んで東に[[グレートブリテン島]]に接する、[[ヨーロッパ]]で3番目に大きな[[島]]である。面積は8万4421km{{sup|2}}で、[[北海道]]本島の約1.08倍の面積であり、世界では20番目に大きな島である。 南北450km、東西260kmで、中央部の低地を丘陵地帯が取り囲む地形で海岸線は7527㎞にも及ぶ。山は全体的に低く南西部にある[[キャラントゥール山|カラントゥール山]]が1041mで最も高い。島内最長の河川[[シャノン川]]が北東から南西に流れ、無数の[[湖]]を有する。[[気候]]は、西の[[大西洋]]を北上してきた[[北大西洋海流]]([[メキシコ湾流]]の延長)の影響で温暖である。 古くは[[ローマ人]]にヒベルニア({{lang|la|Hibernia}}; [[ラテン語]]で「冬の国」「冬の土地」の意)と呼ばれていた<ref>https://www.vaguelyinteresting.co.uk/land-of-winter/</ref>。[[アイルランド英語]]では、{{ill2|エリン (アイルランド島)|en|Erin|label=エリン}}と呼ばれる。 政治的には、[[ダブリン]]を首都とする南西部大半の[[アイルランド|アイルランド共和国]]と、[[ベルファスト]]を首都とする北部の[[北アイルランド]]([[アルスター]]の一部)に分かれ、北アイルランドはグレートブリテン島の[[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[ウェールズ]]とともに[[イギリス|グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国]](イギリス)を構成する。 == 地方区分 == {{アイルランドの行政区画}} アイルランド島は北の[[アルスター]]、東の[[レンスター]]、南の[[マンスター]]、西の[[コノート]]に大きく分かれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{アイルランド関連の項目}} {{アイルランドの地方行政区画}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あいるらんととう}} [[Category:アイルランド島|*]] [[Category:国境がある島]]
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イギリス君主一覧
イギリス君主一覧(イギリスくんしゅいちらん)では、現在のイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)につながるグレートブリテン島の各地を支配した以下のイギリスの君主を対象とする。 1707年5月1日のイングランド王国とスコットランド王国の併合以降、グレートブリテン王国およびイギリスでは、12人の君主が存在している(詳細は「イギリスの君主」参照)。イングランドとスコットランドは1603年3月24日以降、ステュアート朝時代に同君連合であった。 1801年1月1日、グレートブリテンはアイルランド王国を併合し(それ以前もグレートブリテンとの同君連合であった)、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立した。その後、アイルランドの大半が1922年12月6日に連合を離脱し、国号は1927年4月12日に現在の「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」に改称された。 13世紀末にイングランドに征服される以前のウェールズには、デバイバルス、ポウィス、グゥイネッズなどの小王国があった。 サウェリン・アプ・グリフィズはウェールズの諸侯を従えてウェールズ大公を名乗るが、敗死。ダヴィズが継承者を主張するがイングランド軍に捕らえられて処刑された。 以後は、イングランド王国、グレートブリテン王国、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の第1王位継承者がプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)の称号を持つ。2022年9月10日現在は、ウィリアム王太子。 七王国時代に、諸王の間で台頭して他の王たちを臣従させた王をブレトワルダと呼ぶ。 9世紀半ばのデーン人の侵入後、諸王国で覇権を確立したウェセックス王がデーン人と戦い、次第に統一イングランド王国を形成していった。 1707年5月1日にイングランド王国とスコットランド王国が政治的に統合されて以来、13人のイギリス君主がいる。イングランドとスコットランドは1603年3月24日以来、同君連合にあった。1801年1月1日、グレートブリテン王国とアイルランド王国が合併した結果、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が誕生し、1920年代の南アイルランドの分離により、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国になった。 アン女王は、1702年3月8日以来、イングランド王国、スコットランド王国、およびアイルランド王国を統治していた。彼女は、1707年5月1日にイングランドとスコットランドが政治的に統合された後、グレートブリテン王国の君主になった。彼女の通算在位期間は、12年と147日であった。 アン女王の在位中、議会は1701年王位継承法で王位継承規則を定め、ゾフィー・フォン・ハノーファー(ジェームズ6世・1世の孫娘)と彼女の非カトリックの子孫を将来の王位継承者として定義した。ソフィアがすでに死去していたため、王位はアン女王からソフィアの息子であるジョージ1世に継承された。アン女王とジョージ1世は、両者もジェームズ1世・6世の曾孫であり、はとこであった。ジョージ1世とアンとの関係を示す家系図については、「en:George I of Great Britain#Family tree」を参照。 アン女王の後継者である全てのイギリス君主は、長子相続によって王位を継承している。 黄色背景や丸数字は歴代の王。 チェルディッチ(セルディック)からエグバートまでの系譜は定かではない。
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イギリス君主一覧(イギリスくんしゅいちらん)では、現在のイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)につながるグレートブリテン島の各地を支配した以下のイギリスの君主を対象とする。 1707年5月1日のイングランド王国とスコットランド王国の併合以降、グレートブリテン王国およびイギリスでは、12人の君主が存在している(詳細は「イギリスの君主」参照)。イングランドとスコットランドは1603年3月24日以降、ステュアート朝時代に同君連合であった。 1801年1月1日、グレートブリテンはアイルランド王国を併合し(それ以前もグレートブリテンとの同君連合であった)、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立した。その後、アイルランドの大半が1922年12月6日に連合を離脱し、国号は1927年4月12日に現在の「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」に改称された。 1707年までのスコットランドの王たち 1707年までのイングランドの王たち 13世紀末にイングランドが征服する以前にウェールズの各地方を支配した君主たち 1707年にイングランドとスコットランドが合邦して以降のグレートブリテン王国の国王、女王たち 1801年以降のグレートブリテン及びアイルランド連合王国の王たち 1922年にアイルランド自由国が連合王国から分離して以降のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(現在のイギリス)の王たち
{{infobox | style = width: auto; | above = [[イギリス|グレートブリテン及び<br>北アイルランド連合王国]] | image = [[File:Royal Coat of Arms of the United Kingdom (Both Realms).svg|300px|alt=Royal Arms]] | below = [[イギリスの国章|国章]] (左が通常版; 右が[[スコットランド]]版){{Efn|現在の[[イギリスの国章]]には2つのバージョンがある。左が通常版、右がスコットランド版。共通バージョンのシールドでは、[[イングランド]]が1番目と4番目に、[[スコットランド]]が2番目に、[[北アイルランド]]が3番目にそれぞれ描かれている。スコットランド版の盾では、[[イングランド王室紋章]]と[[:en:Royal arms of Scotland|スコットランド王室紋章]]が交差している<ref>{{cite web|url=http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Symbols/Coatsofarms.aspx |title=Coats of arms |website=royal.gov.uk |access-date=9 May 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090304201929/http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Symbols/Coatsofarms.aspx |archive-date=4 March 2009}}</ref>。}} }} '''イギリス君主一覧'''(イギリスくんしゅいちらん)では、現在の[[イギリス]](グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)につながる[[グレートブリテン島]]の各地を支配した以下の'''[[イギリスの君主]]'''を対象とする。 1707年5月1日の[[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]の併合以降、[[グレートブリテン王国]]および[[イギリス]]では、12人の君主が存在している(詳細は「[[イギリスの君主]]」参照)。イングランドとスコットランドは1603年3月24日以降、[[ステュアート朝]]時代に[[同君連合]]であった。 1801年1月1日、グレートブリテンは[[アイルランド王国]]を併合し(それ以前もグレートブリテンとの同君連合であった)、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]が成立した。その後、[[アイルランド自由国|アイルランドの大半]]が1922年12月6日に[[英愛条約|連合を離脱し]]、国号は1927年4月12日に現在の「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」に改称された。 *[[1707年]]までの[[スコットランド]]の王たち *1707年までの[[イングランド]]の王たち *[[13世紀]]末にイングランドが征服する以前に[[ウェールズ]]の各地方を支配した君主たち *1707年にイングランドとスコットランドが合邦して以降の[[グレートブリテン王国]]の国王、女王たち *[[1801年]]以降の[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]の王たち *[[1922年]]に[[アイルランド自由国]]が連合王国から分離して以降の[[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]](現在のイギリス)の王たち == グリートブリテン王国成立以前 == === スコットランド王国 === {{Main|スコットランド君主一覧}} === ウェールズ === {{See also|ウェールズの君主}} [[13世紀]]末にイングランドに征服される以前のウェールズには、[[デバイバルス]]、[[ポウイス王国|ポウィス]]、[[グゥイネッズ王国|グゥイネッズ]]などの小王国があった。 ==== グゥイネッズ ==== *[[グリフィズ・アプ・カナン]]([[1075年]] - [[1137年]]) *[[オワイン・グウィネズ|オーワイン・グゥイネッズ]](1137年 - [[1170年]]) グリフィズの息子 *オーワイン・グゥイネッズの3子による分割支配 **ダヴィズ・アプ・オーワイン(1170年 - [[1194年]]) **カナン・アプ・オーワイン(1170年 - [[1174年]]) **ロドリ・アプ・オーワイン(1170年 - 1194年) *[[サウェリン・アプ・ヨルウェルス]](大サウェリン、1194年 - [[1240年]]) オーワインの孫 *[[ダヴィズ・アプ・サウェリン]](1240年 - [[1246年]]) ルウェリンの息子 *[[サウェリン・アプ・グリフィズ]](末代公サウェリン、1246年 - [[1282年]]) 大サウェリンの孫 *[[ダヴィズ・アプ・グリフィズ]]([[1283年]]没)末代公サウェリンの兄弟 サウェリン・アプ・グリフィズはウェールズの諸侯を従えて[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ大公]]を名乗るが、敗死。ダヴィズが継承者を主張するがイングランド軍に捕らえられて処刑された。 ==== ウェールズ公 ==== *[[サウェリン・アプ・グリフィズ]]([[1267年]]公認 - [[1282年]]) 以後は、イングランド王国、グレートブリテン王国、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の第1王位継承者が[[プリンス・オブ・ウェールズ]](ウェールズ公)の称号を持つ。2022年9月10日現在は、[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム王太子]]。 === 七王国 === *[[ケント王国]] *[[エセックス王国]] *[[サセックス王国]] *[[ウェセックス]]王国 *[[イースト・アングリア|イーストアングリア王国]] *[[マーシア]]王国 *[[ノーサンブリア]]王国 ==== ブレトワルダ ==== 七王国時代に、諸王の間で台頭して他の王たちを臣従させた王を[[ブレトワルダ]]と呼ぶ。 *サセックス王[[アェレ (サセックス王)|アエレ]]([[477年]] - [[514年]]) *ウェセックス王[[チェルディッチ (ウェセックス王)|チェルディッチ]]([[519年]] - [[534年]]) *ウェセックス王[[チェウリン]]([[560年]] - [[591年]]) *ウェセックス王[[イネ (ウェセックス王)|イネ]]([[688年]] - [[727年]]) *ケント王[[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト]]([[591年]] - [[616年]]) *イーストアングリア王[[レドワルド (イーストアングリア王)|レドワルド]](616年 - [[627年]]) *ノーザンブリア王[[エドウィン (ノーザンブリア王)|エドウィン]](627年 - [[632年]]) *ノーザンブリア王[[オスワルド (ノーザンブリア王)|オズワルド]]([[633年]] - [[641年]]) *ノーザンブリア王[[オズウィ (ノーザンブリア王)|オズウィ]](641年 - [[670年]]) *マーシア王[[エゼルバルド (マーシア王)|エゼルバルド]]([[735年]] - [[757年]]) *マーシア王[[オファ (マーシア王)|オファ]](757年 - [[796年]]) エゼルバルドの従兄弟 *ウェセックス王[[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]([[828年]] - [[839年]]) *ウェセックス王[[エゼルウルフ]](839年 - [[858年]]) エグバートの息子 *ウェセックス王[[エゼルバルド (ウェセックス王)|エゼルバルド]](858年 - [[860年]]) エゼルウルフの息子 *ウェセックス王[[エゼルベルト (ウェセックス王)|エゼルベルト]](860年 - [[866年]]) エゼルウルフの息子 *ウェセックス王[[エゼルレッド (ウェセックス王)|エゼルレッド]](866年 - [[871年]]) エゼルウルフの息子 [[9世紀]]半ばの[[デーン人]]の侵入後、諸王国で覇権を確立したウェセックス王がデーン人と戦い、次第に統一イングランド王国を形成していった。 === イングランド王国 === {{Main|イングランド君主一覧}} == 一覧(グレートブリテン王国成立以後) == [[合同法 (1707年)|1707年5月1日]]に[[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]が[[:en:Political union|政治的に統合]]されて以来、13人の[[イギリスの君主|イギリス君主]]がいる。イングランドとスコットランドは1603年3月24日以来、[[同君連合]]にあった。1801年1月1日、[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]が合併した結果、[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]が誕生し、1920年代の[[南アイルランド]]の分離により、[[イギリス|グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国]]になった。 [[アン (イギリス女王)|アン女王]]は、1702年3月8日以来、[[イングランド王国]]、[[スコットランド王国]]、および[[アイルランド王国]]を統治していた。彼女は、[[合同法 (1707年)|1707年5月1日]]にイングランドとスコットランドが[[:en:Political union|政治的に統合]]された後、[[グレートブリテン王国]]の君主になった。彼女の通算在位期間は、12年と147日であった。 アン女王の在位中、議会は[[1701年王位継承法]]で王位継承規則を定め、[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー・フォン・ハノーファー]]([[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世・1世]]の孫娘)と彼女の非カトリックの子孫を将来の王位継承者として定義した。ソフィアがすでに死去していたため、王位はアン女王からソフィアの息子である[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]に継承された。アン女王とジョージ1世は、両者もジェームズ1世・6世の曾孫であり、はとこであった。ジョージ1世とアンとの関係を示す家系図については、「[[:en:George I of Great Britain#Family tree]]」を参照。 アン女王の後継者である全てのイギリス君主は、長子相続によって王位を継承している。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 国王 / 女王 ! 肖像 ! 紋章 ! 誕生 ! 結婚 ! 崩御 ! 続柄 ! 注釈 |- ! colspan=8 style="background-color:#ccccff" | [[ステュアート朝]] |- | '''[[アン (イギリス女王)|アン]]'''<br/>{{nowrap|[[1707年]][[5月1日]]{{Efn|name=OS|旧暦}}}}<br/>–<br/>{{nowrap|[[1714年]][[8月1日]]{{Efn|name=OS}}}}<br/>''(7年, 93日)''<hr/>{{Small|([[1702年]][[3月8日]]より<br>イングランドおよびスコットランド女王{{Efn|参照:[[イングランド君主一覧]]}}<br/>''(12年, 147日)''}} | [[File:Dahl, Michael - Queen Anne - NPG 6187.jpg|100px]] | [[File:Royal Arms of England (1603-1707).svg|90px]] | [[1665年]][[2月6日]]{{Efn|name=OS}}<br />[[セント・ジェームズ宮殿]]<hr />[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]<br/>と[[アン・ハイド]]の女子 | [[ジョージ (カンバーランド公)|ジョージ・オブ・デンマーク]]<br/>[[セント・ジェームズ宮殿]]<br />[[1683年]][[7月28日]]{{Efn|name=OS}}<br />子女5人 | [[1714年]][[8月1日]]{{Efn|name=OS}}<br />[[ケンジントン宮殿]]<br>(49歳没) | ジェームズ2世の女子<hr/>[[権利の章典]] | <ref>{{Cite web |date=2015-12-30 |title=Anne (r. 1702–1714) |url=https://www.royal.uk/anne-r-1702-1714 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20180125020033/https://www.royal.uk/anne-r-1702-1714 |archive-date=25 January 2018 |access-date=16 January 2018 |website=royal.gov.uk}}</ref> |- ! colspan=8 style="background-color: #ccccff" | [[ハノーヴァー朝]] |- | [[ジョージ1世 (イギリス王)|{{nowrap|'''ジョージ1世'''}}]]<br />''ジョージ・ルイス''<br />[[1714年]][[8月1日]]{{Efn|name=OS}}<br />{{ndash}}<br />[[1727年]][[6月11日]]{{Efn|name=OS}}<br>''(12年, 315日)'' | [[File:King George I by Sir Godfrey Kneller, Bt.jpg|100px]] | [[File:Royal Arms of Great Britain (1714-1801).svg|90px]] | [[1660年]][[5月28日]]{{Efn|name=OS}}<br />[[:en:Leineschloss|ライネシュロス]]<hr />[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト]]<br />と[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ]]の男子 | [[ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]<br />[[1682年]][[11月21日]]{{Efn|name=OS}}<br />子女2人 | [[1727年]][[6月11日]]{{Efn|name=OS}}<br />[[オスナブリュック]]<br>(67歳没) | [[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世・1世]]の曾孫息子<hr/>[[1701年王位継承法]] | <ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/george-i-r-1714-1727|title=George I (r. 1714–1727)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20160507210904/https://www.royal.uk/george-i-r-1714-1727|archive-date=7 May 2016|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- | [[ジョージ2世 (イギリス王)|{{nowrap|'''ジョージ2世'''}}]]<br />''ジョージ・オ-ガスタス''<br />[[1727年]][[6月11日]]{{Efn|name=OS}}<br />{{ndash}}<br />[[1760年]][[10月25日]]<br>''(33年, 126日)'' | [[File:George II by Thomas Hudson.jpg|100px]] | [[File:Royal Arms of Great Britain (1714-1801).svg|90px]] | [[1683年]][[10月30日]]{{Efn|name=OS}}<br />[[:en:Herrenhausen Palace|ヘレンハウゼン宮殿]]<hr />[[ジョージ1世 (イギリス王)|{{nowrap|ジョージ1世}}]]<br />と[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]の男子 | [[キャロライン・オブ・アーンズバック]]<br />[[ヘレンハウゼン王宮庭園]]<br />[[1705年]][[8月22日]]{{Efn|name=OS}}<br />子女8人 | [[1760年]][[10月25日]]<br />[[ケンジントン宮殿]]<br>(76歳没) |ジョージ1世の男子 | <ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/george-ii-r-1727-1760|title=George II (r. 1727–1760)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20160507222248/https://www.royal.uk/george-ii-r-1727-1760|archive-date=7 May 2016|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- | [[ジョージ3世 (イギリス王)|{{nowrap|'''ジョージ3世'''}}]]<br />''ジョージ・ウィリアム・フレデリック''<br />[[1760年]][[10月25日]]<br />{{ndash}}<br />[[1820年]][[1月29日]]<br>''(59年, 97日)'' | [[File:Allan Ramsay - King George III in coronation robes - Google Art Project.jpg|100px]] | {{Small|1801年まで:}}<br/>[[File:Royal Arms of Great Britain (1714-1801).svg|90px]]<br/>{{Small|1801年–1816年:}}<br/>[[File:Royal Arms of United Kingdom (1801-1816).svg|90px]]<br/>{{Small|1816年以後:}}<br/>[[File:Royal Arms of United Kingdom (1816-1837).svg|90px]] | [[1738年]][[5月24日]]{{Efn|name=OS}}<br />[[:en:Norfolk House|ノーフォークハウス]]<hr />[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック王子]]<br />と[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ]]の男子 | [[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ]]<br />[[セント・ジェームズ宮殿]]<br />[[1761年]][[9月8日]]<br />子女15人 | [[1820年]][[1月29日]]<br />[[ウィンザー城]]<br>(81歳没) |[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の孫息子 |<ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/george-iii-r-1760-1820|title=George III (r. 1760–1820)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180520150812/https://www.royal.uk/george-iii-r-1760-1820|archive-date=20 May 2018|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- | [[ジョージ4世 (イギリス王)|{{nowrap|'''ジョージ4世'''}}]]<br />''ジョージ・オーガスタス・フレデリック''<br />[[1820年]][[1月29日]]<br />{{ndash}}<br />[[1830年]][[6月26日]]<br>''(10年, 149日)'' | [[File:George IV 1821 color.jpg|100px]] | [[File:Royal Arms of United Kingdom (1816-1837).svg|90px]] | [[1762年]][[8月12日]]<br />[[セント・ジェームズ宮殿]]<hr />[[ジョージ3世 (イギリス王)|{{nowrap|ジョージ3世}}]]<br />と[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ]]の男子 | [[キャロライン・オブ・ブランズウィック|キャロライン・オブ・ブランズウィック=ウォルフェンビュッテル]]<br />セント・ジェームズ宮殿<br />[[1795年]][[4月8日]]<br />女子1人 | [[1830年]][[6月26日]]<br />ウィンザー城<br>(67歳没) |ジョージ3世の男子 | <ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/king-george-iv-r-1820-1830|title=King George IV (r. 1820–1830)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20170819063405/https://www.royal.uk/king-george-iv-r-1820-1830|archive-date=19 August 2017|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- | [[ウィリアム4世 (イギリス王) |{{nowrap|'''ウィリアム4世'''}}]]<br />''ウィリアム・ヘンリー''<br />[[1830年]][[6月26日]]<br />{{ndash}}<br />[[1837年]][[6月20日]]<br>''(6年, 360日)'' | [[File:William IV.jpg|100px]] | [[File:Royal Arms of United Kingdom (1816-1837).svg|90px]] | [[1765年]][[8月21日]]<br />[[バッキンガム宮殿]]<hr />{{nowrap|ジョージ3世}}<br />と[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ]]の男子 | [[アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン]]<br />[[:en:Kew Palace|キュー宮殿]]<br />[[1818年]][[7月13日]]<br />女子2人 | [[1837年]][[6月20日]]<br />ウィンザー城<br>(71歳没) |ジョージ3世の男子<br>ジョージ4世の弟 | <ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/william-iv-r-1830-1837|title=William IV (r. 1830–1837)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20170921001850/https://www.royal.uk/william-iv-r-1830-1837|archive-date=21 September 2017|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- | [[ヴィクトリア (イギリス女王)|'''ヴィクトリア''']]<br />''アレクサンドリナ・ヴィクトリア''<br />[[1837年]][[6月20日]]<br />{{ndash}}<br />[[1901年]][[1月22日]]<br>''(63年, 217日)'' | [[File:Queen Victoria 1843.jpg|100px]] | [[File:Arms of the United Kingdom (Variant 1).svg|90px]] | [[1819年]][[5月24日]]<br />[[ケンジントン宮殿]]<hr />[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント=ストラサーン公エドワード王子]]<br />と[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド]]の女子 | [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート]]<br />セント・ジェームズ宮殿<br />[[:en:Wedding of Queen Victoria and Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha|1840年2月10日]]<br />子女9人 | [[:en:State funeral of Queen Victoria|1901年1月22日]]<br />[[オズボーン・ハウス]]<br>(81歳没) |ジョージ3世の孫娘<br>ウィリアム4世の姪 | <ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/victoria-r-1837-1901|title=Victoria ( r. 1837–1901)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180125015954/https://www.royal.uk/victoria-r-1837-1901|archive-date=25 January 2018|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- ! colspan=8 style="background-color: #ccccff" | [[ザクセン=コーブルク=ゴータ家|ザクセン=コーブルク=ゴータ朝]](1917年まで),[[ウィンザー朝]](1917年以降){{Efn|1917年7月17日、ジョージ5世は英国王室の名前をザクセン=コーブルク=ゴータからウィンザーに変更した<ref>{{London Gazette|issue=30186|page=7119|date=17 July 1917}}</ref>。この変更は、第一次世界大戦中の大英帝国における反ドイツ感情に対応して行われた。エディンバラ公フィリップとエリザベス2世女王の子孫は、王立司令によりウィンザー家に属している(1952年4月9日、エリザベス2世女王による枢密院宣言)。ただし、家系図の通常の規則の下では、彼らは父方の子孫により、オルデンブルク家(デンマークの統治家であり、旧ギリシャ王国)のグリュックスブルク分家のメンバーでもある。したがって、チャールズ3世はウィンザー朝でグリュックスブルク王朝の男系子孫の最初の君主であり、ウィンザー家の以前の君主の場合のようにザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートの男系子孫ではない。}} |- | '''{{nowrap|[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]}}'''<br />''アルバート・エドワード''<br />[[1901年]][[1月22日]]<br />{{ndash}}<br />[[1910年]][[5月6日]]<br>''(9年, 105日)'' | [[File:King Edward VII by Sir (Samuel) Luke Fildes.jpg|100px]] | [[File:Arms of the United Kingdom (Variant 1).svg|90px]] | [[1841年]][[11月9日]]<br />[[バッキンガム宮殿]]<hr />[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート]]<br />と[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の<br />男子 | [[アレクサンドラ・オブ・デンマーク]]<br />[[:en:St George's Chapel, Windsor Castle|セント・ジョージ聖堂]]<br />[[:en:Wedding of Albert Edward, Prince of Wales, and Princess Alexandra of Denmark|1863年3月10日]]<br />子女6人 | [[:en:State funeral of Edward VII|1910年5月6日]]<br />[[バッキンガム宮殿]]<br>(68歳没) | ヴィクトリアの男子 | <ref>{{cite web|url=https://www.royal.uk/edward-vii-r1901-1910|title=Edward VII (r.1901–1910)|website=royal.gov.uk|accessdate=12 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180125015924/https://www.royal.uk/edward-vii-r1901-1910|archive-date=25 January 2018|dead-url=no|df=dmy-all}}</ref> |- | '''{{nowrap|[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]}}'''<br />''ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート''<br />[[1910年]][[5月6日]]<br />{{ndash}}<br />[[1936年]][[1月20日]]<br>''(25年, 260日)'' | [[File:Frederick Howard Michael (1865–1936) - George V (1865–1936) (copy after Samuel Luke Fildes) - 0-775 - Government Art Collection.jpg|100px]] | [[File:Arms of the United Kingdom (Variant 1).svg|90px]] | [[1865年]][[6月3日]]<br />[[:en:Marlborough House|マールボロウハウス]]<hr />{{nowrap|[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]}}<br />と[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク]]の<br />男子 | [[メアリー・オブ・テック]]<br />[[セント・ジェームズ宮殿]]<br />[[:en:Wedding of Prince George, Duke of York, and Princess Mary of Teck|1893年7月6日]]<br />子女6人 | [[1936年]][[1月20日]]<br />[[サンドリンガム・ハウス]]<br>(70歳没) | エドワード7世の男子 | <ref>{{cite web |url=https://www.royal.uk/george-v-r-1910-1936 |title=George V (r. 1910–1936) |website=royal.gov.uk |accessdate=12 January 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180125020319/https://www.royal.uk/george-v-r-1910-1936 |archive-date=25 January 2018 |dead-url=no |df=dmy-all }}</ref> |- | '''{{nowrap|[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]}}'''<br />''エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド''<br />[[1936年]][[1月20日]]<br />{{ndash}}<br />[[1936年]][[12月11日]][[エドワード8世の退位|退位]]<br>''(327日)'' | [[File:His Majesty King Edward VIII in Garter Robes (cropped).jpg|100px]] | [[File:Arms of the United Kingdom (Variant 1).svg|90px]] | [[1894年]][[6月23日]]<br />[[ホワイト・ロッジ]]<hr />{{nowrap|[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]}}<br />と[[メアリー・オブ・テック]]<br />の男子 | [[ウォリス・シンプソン]]<br />[[:en:Château de Candé|キャンデ城]]<br />[[ウォリス・シンプソン#結婚とエドワード8世の退位|1937年6月3日]] | [[1972年]][[5月28日]]<br />[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]<br>(77歳没) | ジョージ5世の男子 | <ref>{{cite web |url=https://www.royal.uk/edward-viii-jan-dec-1936 |title=Edward VIII (Jan–Dec 1936) |website=royal.gov.uk |accessdate=3 August 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160507221901/https://www.royal.uk/edward-viii-jan-dec-1936 |archive-date=7 May 2016 |dead-url=no |df=dmy-all }}</ref> |- | '''{{nowrap|[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]}}'''<br />''アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ''<br />[[1936年]][[12月11日]]<br />{{ndash}}<br />[[1952年]][[2月6日]]<br>''(15年, 58日)'' | [[File:King George VI.jpg|100px]] | [[File:Arms of the United Kingdom (Variant 1).svg|90px]] | [[1895年]][[12月14日]]<br />[[サンドリンガム・ハウス]]<hr />{{nowrap|ジョージ5世}}<br />と[[メアリー・オブ・テック]]<br />の男子 | [[エリザベス・ボーズ=ライアン]]<br />[[ウェストミンスター寺院]]<br />[[:en:Wedding of Prince Albert, Duke of York, and Lady Elizabeth Bowes-Lyon|1923年4月26日]]<br />女子2人 | [[:en:Death and state funeral of George VI|1952年2月6日]]<br />サンドリンガム・ハウス<br>(56歳没) | エドワード8世の弟<hr/>[[エドワード8世の退位]] | <ref>{{cite web |url=https://www.royal.uk/george-vi-r1936-1952 |title=George VI (r.1936–1952) |website=royal.gov.uk |accessdate=12 January 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171201035747/https://www.royal.uk/george-vi-r1936-1952 |archive-date=1 December 2017 |dead-url=no |df=dmy-all }}</ref> |- | '''{{nowrap|[[エリザベス2世]]}}'''<br />''エリザベス・アレクサンドラ・メアリー''<br />[[1952年]][[2月6日]]<br />{{ndash}}<br />[[2022年]][[9月8日]]<br>''(70年,215日)'' | [[File:Queen Elizabeth II in Coronation Robes.jpg|100px]] | [[File:Arms of the United Kingdom.svg|90px]] | [[1926年]][[4月21日]]<br />[[メイフェア]]<hr />{{nowrap|[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]}}<br />と[[エリザベス・ボーズ=ライアン]]の女子 | [[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ・マウントバッテン]]<br />ウェストミンスター寺院<br />[[:en:Wedding of Princess Elizabeth and Philip Mountbatten|1947年11月20日]]<br />子女4人 | [[エリザベス2世の死|2022年9月8日]]<br />[[バルモラル城]]<br>(96歳没) | ジョージ6世の女子 | <ref>{{cite web |url=https://www.royal.uk/queen-elizabeth |title=Queen Elizabeth II|website=royal.gov.uk |accessdate=2023-09-28}}</ref> |- | '''[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]'''<br />''チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ''<br />[[2022年]][[9月8日]]<br><ref>{{cite news |title=英エリザベス女王、死去 英王室発表|url=https://www.bbc.com/japanese/62840312|access-date=9 September 2022 |publisher=BBCニュース|date=9 September 2022}}</ref><ref>{{cite news |title=イギリスの新国王はチャールズ3世|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-62844110|access-date=9 September 2022 |publisher=BBCニュース|date=9 September 2022}}</ref><br>{{Ndash}}<br />在位中<br>''({{Age in years and days|2022|09|08|duration=yes}})'' | [[ファイル:King Charles III (July 2023).jpg|140x140ピクセル]] | [[File:Arms of the United Kingdom.svg|90px]] | [[1948年]][[11月14日]]<br />[[バッキンガム宮殿]]<hr />[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ・マウントバッテン]]と[[エリザベス2世]]の男子 |{{font color|grey|(1)}} [[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ・スペンサー]] (1996年離婚)<br>[[セント・ポール大聖堂]]<br>[[:en:Wedding of Prince Charles and Lady Diana Spencer|1981年7月29日]]<br>男子2人<hr />{{font color|grey|(2)}} [[カミラ (イギリス王妃)|カミラ・パーカー・ボウルズ]]<br>[[:en:Windsor Guildhall|ウィンザー・ギルドホール]]<br>[[:en:Wedding of Prince Charles and Camilla Parker Bowles|2005年4月9日]] | ''存命中''<br>({{age|1948|11|14}}歳) |エリザベス2世の男子 |<ref>{{Cite web |last=Bridge |first=London |date=2022-09-08 |title=The King |url=https://www.royal.uk/the-king |access-date=2022-09-09 |website=The Royal Family |language=en}}</ref> |} == 君主の年表 == {{center|1=<timeline> ImageSize = width:1000 height:auto barincrement:25 PlotArea = top:10 bottom:30 right:70 left:5 AlignBars = justify DateFormat = yyyy Period = from:1707 till:2023 TimeAxis = orientation:horizontal ScaleMajor = unit:year increment:10 start:1710 ScaleMinor = unit:year increment:10 start:1710 Colors = id:canvas value:rgb(1,1,1) id:s value:orange id:h value:blue id:sx value:red id:w value:green id:eon value:blue Backgroundcolors = canvas:canvas BarData = barset:Rulers bar:eon PlotData= align:center textcolor:black fontsize:8 width:25 shift:(0,-5) bar:eon color:eon from: 1707 till: 1714 color:s text:[[ステュアート朝|Stuart]] from: 1714 till: 1901 color:h text:[[ハノーヴァー朝|Hanover]] from: 1901 till: 1917 color:sx 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== 関連項目 == *[[イギリスの君主]] *[[イギリス王室]] *[[イギリス王妃・王配一覧]] *[[イギリスの歴史]] **[[イングランドの歴史]] **[[スコットランドの歴史]] **[[ウェールズの歴史]] *[[アイルランドの歴史]] *[[アイルランド王国]] *[[ウィリアムとメアリー]] *ウェストミンスター憲章 *[[英連邦王国]] *[[イギリスの首相]]([[イギリスの首相の一覧|一覧]]) *[[内閣 (イギリス)|イギリスの内閣]]([[イギリスの内閣一覧|一覧]]) == 外部リンク == *[http://www9.wind.ne.jp/chihiro-t/royal/England/E_index.htm イギリス王家の家系図] * {{cite web |url=http://www.archontology.org/nations/uk/england |title=Archontology – English Kings/Queens from 871 to 1707 |website=archontology.org|accessdate=2019-06-18}} * {{cite web |url=http://www.britannia.com/history/h6f.html |title=Britannia: Monarchs of Britain |website=britannia.com|accessdate=2019-06-18}} * {{cite web |url=http://www.britroyals.com/rulers.htm |title=British Royal Family History – Kings and Queens |website=britroyals.com|accessdate=2019-06-18}} {{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}} {{イギリス関連の項目}} {{DEFAULTSORT:いきりすくんしゆ}} [[Category:イギリスの君主|*]] [[Category:君主の一覧]] [[Category:イギリス関連一覧|くんしゆ]]
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化合物一覧
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'''化合物一覧'''(かごうぶついちらん)では、ウィキペディア日本語版に記事が存在する[[化合物]]の一覧を掲載する。 ==ア行== * 亜鉛華 → [[酸化亜鉛]] - [[亜鉛|Zn]][[酸素|O]] * [[亜塩素酸]] - [[水素|H]][[塩素|Cl]][[酸素|O]]<sub>2</sub> * [[亜塩素酸カリウム]] - [[カリウム|K]][[塩素|Cl]][[酸素|O]]<sub>2</sub> * [[亜塩素酸ナトリウム]] - [[ナトリウム|Na]][[塩素|Cl]][[酸素|O]]<sub>2</sub> * [[青葉アルコール]] - [[炭素|C]]<sub>6</sub>[[水素|H]]<sub>11</sub>[[ヒドロキシル基|OH]] * [[アクリルアミド]] - [[炭素|C]]<sub>3</sub>[[水素|H]]<sub>5</sub>[[窒素|N]][[酸素|O]] * [[アクリル酸]] - [[炭素|C]]<sub>2</sub>[[水素|H]]<sub>3</sub>[[カルボン酸|COOH]] * [[アクリル酸ナトリウム]] - [[アクリル酸|CH<sub>2</sub>CHCOO]][[ナトリウム|Na]] * [[アクリル酸メチル]] - [[アクリル酸|CH<sub>2</sub>=CHCOO]][[メチル基|CH<sub>3</sub>]] * [[アクリロニトリル]] - [[ビニル基|CH<sub>2</sub>=CH]][[シアノ基|CN]] * [[アクロレイン]] - [[炭素|C]]<sub>2</sub>[[水素|H]]<sub>3</sub>[[アルデヒド|CHO]] * [[アコニチン]] - [[炭素|C]]<sub>34</sub>[[水素|H]]<sub>47</sub>[[窒素|N]][[酸素|O]]<sub>11</sub> * [[亜酸化炭素]] - [[炭素|C]]<sub>3</sub>[[酸素|O]]<sub>2</sub> * [[亜酸化窒素]] - [[窒素|N]]<sub>2</sub>[[酸素|O]] * [[アジ化アンモニウム]] - [[アンモニウム|NH<sub>4</sub>]][[窒素|N]]<sub>3</sub> * [[アジ化エチル]] - 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映画女優
映画女優(えいがじょゆう)
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映画女優(えいがじょゆう) 映画に特化して出演する女性の俳優(女優) ⇒ 女優 1. をテーマに製作された映画のタイトル 1925年(大正14年)製作・公開、細山喜代松監督の日本のサイレント映画 ⇒ 映画女優 (1925年の映画) 1987年(昭和62年)製作・公開、市川崑監督の日本の長篇劇映画 ⇒ 映画女優 (1987年の映画)
'''映画女優'''(えいがじょゆう) # [[映画]]に特化して出演する女性の俳優(女優) ⇒ [[俳優#性別での分類|女優]] # 1. をテーマに製作された映画のタイトル ## 1925年(大正14年)製作・公開、[[細山喜代松]]監督の日本の[[サイレント映画]] ⇒ [[映画女優 (1925年の映画)]] ## 1987年(昭和62年)製作・公開、[[市川崑]]監督の日本の長篇劇映画 ⇒ [[映画女優 (1987年の映画)]] == 関連項目 == * {{Prefix}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:えいかしよゆう}} [[Category:同名の作品]]
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紀伊
紀伊(きい)
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紀伊(きい) 紀伊国 - かつての令制国の一つ(きいのくに)。 紀伊郡 - 山城国の郡。 紀伊 (歌人) - 平安時代院政期の女流歌人。 紀伊 (戦艦) - 日本海軍の戦艦、紀伊型戦艦。 紀伊 (列車) - かつて東京駅〜紀伊勝浦駅の間を運行していた寝台列車。
'''紀伊'''(きい) * [[紀伊国]] - かつての[[令制国]]の一つ(きいのくに)。 * [[紀伊郡]] - [[山城国]]の郡。 * [[祐子内親王家紀伊|紀伊 (歌人)]] - 平安時代院政期の女流歌人。 * 紀伊 (戦艦) - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[戦艦]]、[[紀伊型戦艦]]。 * [[紀伊 (列車)]] - かつて[[東京駅]]〜[[紀伊勝浦駅]]の間を運行していた[[寝台列車]]。 == 関連項目 == * {{prefix}} * {{prefix|紀伊国}} * {{intitle}} * {{intitle|紀伊国}} * [[紀伊国坂]](曖昧さ回避) * [[紀伊村]](曖昧さ回避) * [[紀州]](曖昧さ回避) {{Aimai}} {{デフォルトソート:きい}} [[Category:日本の旧地域名]]
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セルゲイ・パラジャーノフ
セルゲイ・パラジャーノフ (アルメニア語: Սարգիս Հովսեփի Փարաջանյան, ラテン文字転写:Sargis Hovsepi Parajanyan, ロシア語: Сергей Иосифович Параджанов, ウクライナ語: Сергій Йосипович Параджанов, 1924年1月9日 - 1990年7月20日) は、ソ連の映画監督、脚本家、画家、工芸家。グルジア・トビリシ出身のアルメニア人。 1924年 1月9日、グルジアのトビリシ(旧ティフリス)でサルキス・ホヴセピ・パラジャニャンとして生まれた。父方の祖父は二輪馬車職人の家に生まれた四輪馬車の御者であった。パラジャーノフという名は祖父が第二ギルド商人の資格を取得する際に改名したロシア名である。父親は皇帝軍の年少士官であったが、革命後は古美術と中古品を商う店を経営した。姉が二人おり、三兄弟の末っ子であった。幼少期にはバイオリンや歌、バレエ、絵画などのクラスを受講し、芸術的に恵まれた環境で育ったと言われている。 1946年、モスクワの全ソ国立映画大学の監督科に入学した。アレクサンドル・ドヴジェンコやイーゴリ・サフチェンコ、ミハイル・ロンムなどの元で映画製作を学んだ。1947年の夏に悪ふざけに耽っていたトビリシの学生らとともに同性愛の嫌疑をかけられて逮捕され、初めて投獄された。翌1948年の初めに釈放された。1951年、初の短編『Молдавская сказка』を製作した。また、1950年にタタール人の女学生と結婚したが、翌1951年に彼女は女学生の家族の報復によって殺害された。 1953年からはキエフに定住した。翌1954年にヤーコフ・バゼリャンと共同監督でモルダヴィアの詩人エムリアン・ブーコフの物語を脚色した初の長編『アンドリエーシ』を発表した。1955年にはウクライナ人のスヴェトラーナ・チェルバチュークと再婚して一子をもうけたが、1961年に離婚した。1957年にはテレビ放映用に『黄金の手』や『ナタリヤ・ウジヴィ』、『ドゥムカ』といった3本の短編を製作した。 1961年、戦争の悲劇を扱った長編『ウクライナ・ラプソディ』を発表。翌1962年には宗教セクトに蝕まれるドンバスの坑夫たちを描いた長編『石の上の花』を発表した。この時期の諸作品には形式的にも内容的にも当局が求めた社会主義リアリズムに忠実であろうとする志向が顕著であり、後年の作品との共通点は見られないとされている。また、パラジャーノフは1962年に公開されたアンドレイ・タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』に強い影響を受けたと言われている。 1964年、ウクライナの作家ミハイル・コテュビンスキイの誕生百年祭に向けた『忘れられた祖先の影』の脚色をドウジェンコ記念キエフ映画スタジオに依頼された。同作の撮影はカルパチア山脈の東側ジャビー村でグッツールの協力の下に行われ、チーフカメラマンとしてユーリイ・イリエンコが起用された。翌1965年に完成した同作はマール・デル・プラタ国際映画祭でグランプリを受賞するなどその独自のスタイルと色彩が国際的に賞賛されるが、映画祭の枠外で上映されたモスクワでの評判は今ひとつであり、全国的な配給には至らなかった。キエフでの封切りの際にパラジャーノフはウクライナの知識人たちに対する不当な逮捕と拘留に公に反対した。同作はパラジャーノフの名前を世界的に広めただけでなく、ウクライナの民族主義的な知識人たちにも歓迎された。1966年には同作がフランスで上映されたが、タイトルは『火の馬』と改題され、本編もオリジナル版の100分から95分に短縮された。同作の題名は日本でも『火の馬』として知られているが、英語版では『Shadows of the Forgotten Ancestors』となっている。また、1965年から1966年にかけて、再びキエフ映画スタジオから依頼された『キエフのフレスコ画』を製作し始めたが、シュールレアリスムを思わせる前衛的なスタイルが原因となって製作は中止された。最終的に同作はパラジャーノフ自身が15分の短編として編集したものが1966年に発表された。 1968年の夏にはアルメニアのエレヴァンに召喚され、アルメニア語で復活を意味するハルティンの名を持つアシューグに捧げる伝記絵巻『サヤト・ノヴァ』の準備に取りかかった。『キエフのフレスコ画』の製作が中止となり、ウクライナに居られなくなったパラジャーノフに同作の構想を示唆したのは文芸学者ヴィクトル・シクロフスキーであった。1969年、完成した同作がモスクワやキエフ、エレヴァン、トビリシで封切られたが、難解で退廃的と見なされ、ソ連の国家映画委員会であるゴスキノに激しく糾弾された。これ以後、パラジャーノフは10本の映画を企画したが、同委員会に全て却下された。『サヤト・ノヴァ』はセルゲイ・ユトケーヴィッチによって字幕の追加や短縮などの再編集が行われ、1971年に『ざくろの色』として再上映された。しかし、検閲によっていくつものシーンが削除され、その箇所は現在でも観ることが出来ない。 1973年にはアンデルセンの童話集をテレビ用に翻案した脚本に許可が下りたが、同年12月にモスクワから短い旅行の帰りに尋問を受け、キエフにて検挙された。これはウクライナ人の歴史家ヴァレンチン・モロツの裁判での証言の拒否やベラルーシのミンスクにおけるソ連当局への批判的で挑発的な発言が問題視されたためと思われる。映画同業者からはパラジャーノフを擁護する声やソ連政府への抗議運動が国内外で起きたが、1974年に有罪になり、不当な罪状で5年間の懲役判決を受けて投獄された。その後、国際的な映画祭を通じてすでにその名声が高まっていたパラジャーノフの救済のために、ロベルト・ロッセリーニやフェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開した。その成果もあって、1977年12月に釈放された。しかし、その後もソ連当局からは危険人物と見なされ、1982年2月には家宅捜査を受けた末にトビリシで再び逮捕されたが、無罪となって同年11月に釈放された。この2回の投獄により過酷な労働を課せられたパラジャーノフは苦痛を味わったと言われている。 1983年、トビリシで改革的な文化政策を取ったグルジア共産党第一書記エドゥワルト・シュワルナゼによってパラジャーノフに再び撮影許可が降りた。翌1984年にグルジア民話を脚色した『スラム砦の伝説』を製作し、16年ぶりに映画監督として復帰した。同作はモスクワでの封切りの際に強烈な支持を受け、ヨーロッパでも高く評価された。1985年にはパラジャーノフのコラージュやデッサンなどの展覧会がトビリシで開催された。 1985年のミハイル・ゴルバチョフ書記長就任後、ペレストロイカによってパラジャーノフは64歳になって初めて出国を許可され、自由な映画製作が可能となった。1987年、ミハイル・レールモントフの『アシク・ケリブ』の映画化に着手し、同年10月にアゼルバイジャンのシュリリ村で撮影を開始した。翌1988年に完成した同作はヴェネツィア国際映画祭やニューヨーク映画祭などに招待され、その独自性が国際的な賞賛を受けた。パラジャーノフは同作をアンドレイ・タルコフスキーに捧げた。この時期、フランスでは『カイエ・デュ・シネマ』誌とフェスティバル・ドトヌの先導により、パラジャーノフの全作品上映が行われた。また、1988年にはエレヴァンでパラジャノフのコラージュや人形などの展覧会が行われ、大きな成功を収めた。 1989年、自伝的作品『告白』を準備していたが、肺と心臓の疾患が悪化したために入院した。その後、左肺に癌が見つかり、葉摘出手術を受けるためにトビリシからモスクワに移された。1990年にもヨーロッパの映画祭へ訪問する前に肺炎を患い、訪問先のボルドーで入院した。その後、トビリシに戻ると呼吸器系の合併症になり、エレヴァンで手当を受けた後にパリのサン・ルイ病院で化学療法を受けた。しかし、危篤状態に陥り、パラジャーノフはエレヴァンに戻ることを希望。同年7月21日、肺炎により66歳で死去した。 パラジャーノフの死によって未完となった『告白』は1992年に製作されたドキュメンタリー『Parajanov: The Last Spring』に収められた。また、映画化されることのなかった多数の脚本のうち7本がフランス語に翻訳され、ロシアより先に出版された。日本では『七つの夢』と邦訳された書籍がダゲレオ出版社から販売された。他の監督によって映画化された脚本や構想にレオニード・オスィクの『ヴルーベリについてのエチュード』(1989年)やユーリイ・イリエンコの『ザ・ゾーン/スワンの湖』(1990年)がある。また、1973年以降の収容所生活で製作し始めた無数の絵画やコラージュ作品も残されている。
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セルゲイ・パラジャーノフ は、ソ連の映画監督、脚本家、画家、工芸家。グルジア・トビリシ出身のアルメニア人。
{{ActorActress| | 芸名 = Sergei Parajanov | ふりがな = セルゲイ・パラジャーノフ | 画像ファイル = Sergei Parajanov. 1. Yuri Mechitov.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像コメント = | 本名 = サルキス・ホヴセピ・パラジャニャン<br />Սարգիս Հովսեփի Փարաջանյան | 出生地 = [[グルジア・ソビエト社会主義共和国]] [[トビリシ]] | 死没地 ={{AMSSR}} [[エレバン]] | 国籍 = {{SSR1923}} | 民族 = [[アルメニア人]] | 身長 = | 血液型 = | 生年 =1924 | 生月 =1 | 生日 =9 | 没年 =1990 | 没月 =7 | 没日 =20 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[画家]]、[[工芸家]] | 活動期間 = [[1951年]] - [[1968年]]<br />[[1984年]] - [[1990年]] | 配偶者 =Nigyar Kerimova ([[1950年]] - [[1951年]]) ※死別<br />スヴェトラーナ・チェルバチューク ([[1956年]] - [[1962年]]) ※離婚 | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = [http://www.parajanov.com Parajanov.com] | 主な作品 = 『[[火の馬]]』<br />『[[ざくろの色]]』(1969年) | その他の賞 = '''[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]'''<br>'''[[:en:Sitges Film Festival#Winners|最優秀監督賞]]'''<br>[[1986年]]『[[スラム砦の伝説]]』 | 備考 = }} '''セルゲイ・パラジャーノフ''' ('''{{lang-hy|Սարգիս Հովսեփի Փարաջանյան}}''', ラテン文字転写:'''Sargis Hovsepi Parajanyan''', '''{{lang-ru|Сергей Иосифович Параджанов}}''', '''{{lang-uk|Сергій Йосипович Параджанов}}''', [[1924年]][[1月9日]] - [[1990年]][[7月20日]]) 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1961年、戦争の悲劇を扱った長編『ウクライナ・ラプソディ』を発表。翌[[1962年]]には宗教セクトに蝕まれる[[ドンバス]]の坑夫たちを描いた長編『石の上の花』を発表した。この時期の諸作品には形式的にも内容的にも当局が求めた[[社会主義リアリズム]]に忠実であろうとする志向が顕著であり、後年の作品との共通点は見られないとされている。また、パラジャーノフは1962年に公開された[[アンドレイ・タルコフスキー]]の『[[僕の村は戦場だった]]』に強い影響を受けたと言われている。 [[1964年]]、ウクライナの作家ミハイル・コテュビンスキイの誕生百年祭に向けた『忘れられた祖先の影』の脚色をドウジェンコ記念キエフ映画スタジオに依頼された。同作の撮影は[[カルパチア山脈]]の東側ジャビー村でグッツールの協力の下に行われ、チーフカメラマンとしてユーリイ・イリエンコが起用された。翌[[1965年]]に完成した同作は[[マール・デル・プラタ国際映画祭]]でグランプリを受賞するなどその独自のスタイルと色彩が国際的に賞賛されるが、映画祭の枠外で上映されたモスクワでの評判は今ひとつであり、全国的な配給には至らなかった。[[キエフ]]での封切りの際にパラジャーノフはウクライナの知識人たちに対する不当な逮捕と拘留に公に反対した。同作はパラジャーノフの名前を世界的に広めただけでなく、ウクライナの[[民族主義]]的な知識人たちにも歓迎された。[[1966年]]には同作が[[フランス]]で上映されたが、タイトルは『[[火の馬]]』と改題され、本編もオリジナル版の100分から95分に短縮された。同作の題名は[[日本]]でも『火の馬』として知られているが、英語版では『''Shadows of the Forgotten Ancestors''』となっている。また、1965年から1966年にかけて、再びキエフ映画スタジオから依頼された『キエフのフレスコ画』を製作し始めたが、[[シュルレアリスム|シュールレアリスム]]を思わせる前衛的なスタイルが原因となって製作は中止された。最終的に同作はパラジャーノフ自身が15分の短編として編集したものが1966年に発表された。 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[[1973年]]には[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の童話集をテレビ用に翻案した脚本に許可が下りたが、同年[[12月]]にモスクワから短い旅行の帰りに尋問を受け、キエフにて検挙された。これはウクライナ人の歴史家ヴァレンチン・モロツの裁判での証言の拒否や[[ベラルーシ]]の[[ミンスク]]におけるソ連当局への批判的で挑発的な発言が問題視されたためと思われる。映画同業者からはパラジャーノフを擁護する声やソ連政府への抗議運動が国内外で起きたが、[[1974年]]に有罪になり、不当な罪状で5年間の懲役判決を受けて投獄された。その後、国際的な映画祭を通じてすでにその名声が高まっていたパラジャーノフの救済のために、[[ロベルト・ロッセリーニ]]や[[フェデリコ・フェリーニ]]、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[ジャン=リュック・ゴダール]]といった[[ヨーロッパ]]中の映画人が抗議運動を展開した。その成果もあって、[[1977年]]12月に釈放された。しかし、その後もソ連当局からは危険人物と見なされ、[[1982年]][[2月]]には家宅捜査を受けた末にトビリシで再び逮捕されたが、無罪となって同年[[11月]]に釈放された。この2回の投獄により過酷な労働を課せられたパラジャーノフは苦痛を味わったと言われている。 [[1983年]]、トビリシで改革的な文化政策を取ったグルジア共産党第一書記エドゥワルト・シュワルナゼによってパラジャーノフに再び撮影許可が降りた。翌[[1984年]]にグルジア民話を脚色した『スラム砦の伝説』を製作し、16年ぶりに映画監督として復帰した。同作はモスクワでの封切りの際に強烈な支持を受け、ヨーロッパでも高く評価された。[[1985年]]にはパラジャーノフの[[コラージュ]]やデッサンなどの展覧会がトビリシで開催された。 1985年の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]書記長就任後、[[ペレストロイカ]]によってパラジャーノフは64歳になって初めて出国を許可され、自由な映画製作が可能となった。[[1987年]]、[[ミハイル・レールモントフ]]の『アシク・ケリブ』の映画化に着手し、同年[[10月]]に[[アゼルバイジャン]]のシュリリ村で撮影を開始した。翌[[1988年]]に完成した同作は[[ヴェネツィア国際映画祭]]や[[ニューヨーク映画祭]]などに招待され、その独自性が国際的な賞賛を受けた。パラジャーノフは同作をアンドレイ・タルコフスキーに捧げた<ref>{{cite web |url=http://www.parajanov.com/ashikkerib.html |title=ASHIK KERIB |accessdate=4 November 2014 |work=Parajanov.com}}</ref>。この時期、フランスでは『[[カイエ・デュ・シネマ]]』誌とフェスティバル・ドトヌの先導により、パラジャーノフの全作品上映が行われた。また、1988年にはエレヴァンでパラジャノフのコラージュや人形などの展覧会が行われ、大きな成功を収めた。 [[1989年]]、自伝的作品『告白』を準備していたが、肺と心臓の疾患が悪化したために入院した。その後、左肺に癌が見つかり、葉摘出手術を受けるためにトビリシからモスクワに移された。[[1990年]]にもヨーロッパの映画祭へ訪問する前に肺炎を患い、訪問先の[[ボルドー]]で入院した。その後、トビリシに戻ると呼吸器系の合併症になり、エレヴァンで手当を受けた後に[[パリ]]のサン・ルイ病院で化学療法を受けた。しかし、危篤状態に陥り、パラジャーノフはエレヴァンに戻ることを希望。同年[[7月21日]]、肺炎により66歳で死去した。 パラジャーノフの死によって未完となった『告白』は[[1992年]]に製作されたドキュメンタリー『''Parajanov: The Last Spring''』に収められた。また、映画化されることのなかった多数の脚本のうち7本が[[フランス語]]に翻訳され、ロシアより先に出版された。日本では『七つの夢』と邦訳された書籍がダゲレオ出版社から販売された。他の監督によって映画化された脚本や構想にレオニード・オスィクの『ヴルーベリについてのエチュード』(1989年)やユーリイ・イリエンコの『ザ・ゾーン/スワンの湖』([[1990年]])がある。また、1973年以降の収容所生活で製作し始めた無数の絵画やコラージュ作品も残されている。 == 作品 == *''{{lang|ru|Молдавская сказка}}'' (1951年) 短編 *アンドリエーシ ''{{lang|ru|Андриеш}}'' (1954年) ヤーコフ・バゼリャンと共同監督 *黄金の手 ''{{lang|ru|Золотые руки}}'' (1957年) 短編ドキュメンタリー *ナタリア・ウジヴィ ''{{lang|ru|Наталия Ужвий}}'' (1957年) 短編 *ドゥムカ ''{{lang|ru|Думка}}'' (1957年) 短編ドキュメンタリー *村一番の若者 ''{{lang|ru|Первый парень}}'' (1958年) *ウクライナ・ラプソディー ''{{lang|ru|Украинская рапсодия}}'' (1961年) *石の上の花 ''{{lang|ru|Цветок на камне}}'' (1962年) *[[火の馬]] ''{{lang|ru|Тіні забутих предків}}'' (1964年) *キエフのフレスコ画 ''{{lang|ru|Киевские фрески}}'' (1966年) 短編 *''{{lang|hy|Հակոբ Հովնաթանյան}}'' (1967年) 短編ドキュメンタリー *''{{lang|hy|Երեխաներ Կոմիտասին}}'' (1968年) 短編ドキュメンタリー *サヤト・ノヴァ ''{{lang|hy|Նռան գույնը}}'' (1968年) *[[ざくろの色]] (1971年) [[セルゲイ・ユトケーヴィッチ]]による『サヤト・ノヴァ』の再編集版 *スラム砦の伝説 ''{{lang|hy|ამბავი სურამის ციხისა}}'' (1984年) *[[ニコ・ピロスマニ|ピロスマニ]]のアラベスク ''{{lang|ru|Арабески на тему Пиросмани}}'' (1985年) 短編ドキュメンタリー *アシク・ケリブ ''{{lang|hy|აშიკი ქერიბი}}'' (1988年) *告白 ''{{lang|hy|Խոստովանանք}}'' (1989年 - 1990年) 未完 == 参考文献 == * パトリック・カザルス『セルゲイ・パラジャーノフ』(1998年、永田靖・永田共子訳、国文社、ISBN 4-7720-0458-0) * 『''{{lang|ru|Лебон Григорян Параджанов}}''』 (2011年、{{lang|ru|Молодая гвардия}}、ISBN 978-5-235-03438-9) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.parajanov.com Parajanov.com (公式サイト)] * [https://pandorafilms.wordpress.com/parajanov/ パラジャーノフ 生誕90周年記念映画祭] * {{allcinema name|2492|セルゲイ・パラジャーノフ}} * {{imdb name|0660886|Sergei Parajanov}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はらしやあのふ せるけい}} [[Category:ソビエト連邦の映画監督]] [[Category:ジョージアの映画監督]] [[Category:ウクライナの映画監督]] [[Category:アルメニアの映画監督]] [[Category:アルメニアの画家]] [[Category:ジョージアの画家]] [[Category:ウクライナの画家]] [[Category:ソビエト連邦の画家]] [[Category:ソビエト連邦の脚本家]] [[Category:アルメニアの脚本家]] [[Category:ジョージアの脚本家]] [[Category:ウクライナの脚本家]] 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火炎瓶
火炎瓶(かえんびん、火焔瓶とも表記)は、主にガラス製の瓶にガソリン・灯油などの可燃性の液体を充填した、簡易な焼夷弾の一種である。冬戦争における故事から、「モロトフ・カクテル(Molotov cocktail)」とも呼ばれる。 国際法の一つである特定通常兵器使用禁止制限条約(通称CCW)は「焼夷(い)兵器の使用の禁止又は制限に関する議定書(議定書III)」において、火炎瓶を焼夷兵器のひとつとして位置づけている。同条約は、砲弾や火炎放射器といった他の焼夷兵器同様、特定の状況下・攻撃対象に対する火炎瓶の使用を一部制限している。 日本の火炎びんの使用等の処罰に関する法律が定めるところによると、火炎びん(火炎瓶)とは、「ガラスびんその他の容器にガソリン、灯油その他引火しやすい物質を入れ、その物質が流出し、又は飛散した場合にこれを燃焼させるための発火装置又は点火装置を施したもので、人の生命、身体又は財産に害を加えるのに使用されるもの」である。 投擲された火炎瓶は、着地した衝撃で瓶が割れ、燃料が飛散するとともに発火する着発式の投擲武器である。 瓶にガソリンや灯油を入れ、布などで栓をするだけでも火炎瓶として機能する。この場合、火種(栓にした布に火をつけるのが一般的)をつけてから投擲する必要がある。密封が甘いと、投擲時に詰めた布が外れてしまう事故が起きてしまい、投擲者自身に火がつく恐れがある危険な武器である。この素朴な方式の火炎瓶は身近な材料だけで製造でき、単純な投石よりも強力になるため、即席兵器としてよく見られる。 これに対して、塩素酸塩や重クロム酸塩と硫酸の化学反応を利用して発火させる方式は点火の必要がなく、安全性でも優れている。具体的には片方の物質を火炎瓶の外側に塗布し、もう片方を燃料に混入して、火炎瓶が割れたときに混ざるようにするものである。 比較的作成が容易で、さらに昨今ではインターネットの普及で、簡単に作り方を調べることができるようになり、未成年者が興味本位で作成し、悪戯に使用する事件も起きている。 軍用の兵器としては手榴弾に比べて殺傷力が劣り、また梱包爆薬ほどの破壊力もないため、装甲車両を炎上させて戦闘能力を低下させる急造の対戦車兵器として使われる。ガソリンエンジン車両は燃料に引火して爆発炎上しやすいため脅威となる。引火しにくいディーゼルエンジン車両でも装甲表面、アンテナやカメラなどの損傷を防ぐため消火作業に人手がさかれることで戦闘を妨害する効果がある。 本格的に使用された初の戦争は1936年からのスペイン内戦とされる。 1939年のノモンハン事件の際には日本陸軍によって即席の対戦車兵器として使用され、サイダー瓶を使った急造火炎瓶を肉薄して戦車に投げつけ対抗した。ソ連赤軍の主力であったBT戦車はガソリンエンジンだった上、車体の塗装に使われたペンキに引火性があり、火炎瓶で攻撃すると容易に動力部まで引火し、炎上した。しかし肉薄攻撃を強いられるために日本側の損害も大きく、赤軍が戦車を無塗装にするなどの対策を取り始めると戦果は落ちていった。そもそもソ連側の損害は主に九四式三十七粍砲によるものであり、火炎瓶は擱座した戦車に止めを刺す形で使用されることが多かった。日本軍の使用する地雷や手榴弾、火炎瓶は梯形隊形で攻撃するソ連戦車には大きな脅威とはならなかったとされる。ノモンハンの戦訓から、以後赤軍の開発する戦車は軽油で動くディーゼルエンジン化され、のちの第二次世界大戦に役立つことになる。 同年末のフィンランド冬戦争の際にもフィンランド国防軍が対戦車兵器として使用した。当時のソ連外相モロトフは、国際連盟でソ連の無差別爆撃について追及された際に「資本主義に搾取されるフィンランド人民のために赤色空軍はパンを投下している」と強弁したことがあった。このため、ソ連軍のRRAB-3収束焼夷弾が「モロトフのパン籠」と揶揄された。そして、火炎瓶は「パン籠」に対するフィンランド人民からの「お礼」であるカクテル(ウォッカの蒸留所で生産された)という意味で「モロトフ・カクテル」と名づけられ、以降火炎瓶の代名詞となった。なおソ連は、独ソ戦中に火炎瓶の製造許可命令にモロトフが署名したのがその語源と主張している。 第二次世界大戦におけるドイツ陸軍では、ガラス容器を2重(卵型の容器の中に試験管型の容器が入っている)にして、割れると2種類の液体が混合して発火する化学反応型の火炎瓶兵器を制式使用していた。イギリスでは民兵組織のホーム・ガード専用装備として通常の火炎瓶の他、「76号SIP手榴弾(英語版)(No. 76 SIP Grenade) 」を600万個ほど製造していた。手榴弾という名目であるが、白リンとガソリンが封入されており、瓶が割れて白リンが空気に触れると自然発火し、ガソリンが燃える火炎瓶であった。ホーム・ガードでは志願者向けの教育ビデオで火炎瓶の効果的な投擲方法を解説していた。 ハンガリー動乱では抵抗側の火炎瓶によってソ連軍の戦車が400両ほど破壊された。 国家が戦争状態にあるときは、国民に火炎瓶を作り、抵抗するよう呼びかけることがある。2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ウクライナのマスメディアがテレビ番組で火炎瓶の作り方と火炎瓶で抵抗するよう呼びかける放送がされた。ビールの醸造所では火炎瓶製造に乗り出し、軍や警察も装備する他、市民が投擲の訓練を行うなどしている。 第二次世界大戦後の日本においては、1950年代に日本共産党が組織した山村工作隊や中核自衛隊による武装闘争で多用され、爆発物取締罰則違反として公判が行われたが、1956年(昭和31年)6月27日の最高裁判所判決において「同法の規制対象となる『爆発物』とは、その爆発作用そのものによって公共の安全を攪乱し、または、人の身体や財産を傷害・損壊するに足る破壊力を有するものであり、......(火焔瓶は)いわゆる爆発物に該当しない」として、最高検察庁の主張を退けた。これは、刑法では国家が人を罰するという性質上、厳密な解釈が求められるために罪刑法定主義にもとづき、類推解釈が禁じられているからである。 その後、1971年(昭和46年)11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し、その中で過激派の学生の投じた火炎瓶が松本楼を直撃し、2代目の建物を焼失させるなど、1970年代の学生運動や三里塚闘争でよく使われたが、当時の法律では火炎瓶自体については規制することができなかった。そのため、火炎瓶について前述の通り定義して規制する「火炎びんの使用等の処罰に関する法律」を制定し、1972年(昭和47年)5月14日に施行した。 昭和50年版犯罪白書によれば、1968年(昭和43年)10月の日本大学工学部校舎放火事件を皮切りに、火炎瓶は過激派集団の主たる凶器としてしばしば用いられるようになり、1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)までの3年間に使用された火炎びんの総数は約1万2,000本、押収された火炎びんの総数は約1万7,000本に上った。こうして1972年(昭和47年)の火炎びんの使用等の処罰に関する法律の制定、さらにはその原材料として使用されるおそれのある毒物及び劇物の規制を強化するため、毒物及び劇物取締法の一部改正が行われた。その後、火炎瓶事犯は著しく減少したものの、1975年(昭和50年)の沖縄海洋博阻止闘争など、使用例自体は以後も見られた。
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火炎瓶(かえんびん、火焔瓶とも表記)は、主にガラス製の瓶にガソリン・灯油などの可燃性の液体を充填した、簡易な焼夷弾の一種である。冬戦争における故事から、「モロトフ・カクテル」とも呼ばれる。
[[File:Molotovin cocktail.jpg|thumb|200px|冬戦争で[[フィンランド]]が使用した火炎瓶]] '''火炎瓶'''(かえんびん、'''火焔瓶'''とも表記)は、主に[[ガラス]]製の[[瓶]]に[[ガソリン]]・[[灯油]]などの[[可燃物|可燃性]]の[[液体]]を充填した、簡易な[[焼夷弾]]の一種である。[[冬戦争]]における故事から、「'''モロトフ・カクテル'''(Molotov cocktail)」とも呼ばれる<ref name="nikkeibp20220316">{{Cite web|和書|title=ウクライナ市民が自作する「弱者の武器」モロトフ・カクテルとは |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/031400118/ |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |date=2022-03-16 |accessdate=2022-03-16 |language=ja}}</ref>。 == 概要 == 国際法の一つである[[特定通常兵器使用禁止制限条約]](通称CCW)は「焼夷(い)兵器の使用の禁止又は制限に関する議定書(議定書Ⅲ)」において、火炎瓶を焼夷兵器のひとつとして位置づけている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/ccw/ccw.html |title=特定通常兵器使用禁止制限条約の概要(Convention on Certain Conventional Weapons:CCW)|外務省 |accessdate=2022-04-06 |publisher=[[外務省]](日本) |date=2018-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220406060801/https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/ccw/ccw.html |archivedate=2022-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/ccw.htm |title=過度に傷害を与え又は無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止又は制限に関する条約 |accessdate=2022-04-06 |publisher=[[同志社大学]] |author=新井京}}</ref>。同条約は、[[砲弾]]や[[火炎放射器]]といった他の焼夷兵器同様、特定の状況下・攻撃対象に対する火炎瓶の使用を一部制限している。 [[日本]]の[[火炎びんの使用等の処罰に関する法律]]が定めるところによると、火炎びん(火炎瓶)とは、「ガラスびんその他の容器に[[ガソリン]]、[[灯油]]その他[[引火]]しやすい物質を入れ、その物質が流出し、又は飛散した場合にこれを[[燃焼]]させるための発火装置又は点火装置を施したもので、人の生命、身体又は財産に害を加えるのに使用されるもの」である。 投擲された火炎瓶は、着地した衝撃で[[瓶]]が割れ、[[燃料]]が飛散するとともに発火する着発式の投擲[[武器]]である。 瓶に[[ガソリン]]や[[灯油]]を入れ、[[布]]などで栓をするだけでも火炎瓶として機能する。この場合、[[火種]](栓にした布に火をつけるのが一般的)をつけてから投擲する必要がある。密封が甘いと、投擲時に詰めた布が外れてしまう事故が起きてしまい、投擲者自身に火がつく恐れがある危険な武器である<ref name="asahi20220226">{{Cite web|和書|title=「火炎瓶 作り方」ウクライナで検索回数急増 当局が市民に呼びかけ |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ2V5QJJQ2VUHBI040.html |website=朝日新聞デジタル |date=2022-02-26 |accessdate=2022-02-28 |language=ja}}</ref>。この素朴な方式の火炎瓶は身近な材料だけで製造でき、単純な[[投石]]よりも強力になるため、[[即席爆発装置|即席兵器]]としてよく見られる<ref name="asahi20220226" /><ref name="nikkeibp20220316" />。 これに対して、[[塩素酸塩]]や[[クロム酸塩|重クロム酸塩]]と[[硫酸]]の[[化学反応]]を利用して発火させる方式は点火の必要がなく、安全性でも優れている。具体的には片方の物質を火炎瓶の外側に塗布し、もう片方を燃料に混入して、火炎瓶が割れたときに混ざるようにするものである。 比較的作成が容易で、さらに昨今では[[インターネット]]の普及で、簡単に作り方を調べることができるようになり<ref name="asahi20220226" />、[[未成年者]]が興味本位で作成し、[[悪戯]]に使用する[[事件]]も起きている<ref> {{cite news | title = 「日本人の彼女が手伝った」 日本大使館火炎瓶事件の男が明かす | url = http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2012011016078 | newspaper = 東亜日報 | date = 2012-01-10 | accessdate = 2012-01-10 | language = 日本語 | quote = 火炎瓶の作り方は、オンライン上の百科辞典サイト、ウィキペディアを検索して知った。 }} </ref>。 軍用の兵器としては[[手榴弾]]に比べて殺傷力が劣り、また[[梱包爆薬]]ほどの破壊力もないため、[[装甲戦闘車両|装甲車両]]を炎上させて[[戦闘]]能力を低下させる急造の[[対戦車兵器]]として使われる<ref name="nikkeibp20220316" />。[[ガソリンエンジン]]車両は[[燃料]]に引火して爆発炎上しやすいため脅威となる。引火しにくい[[ディーゼルエンジン]]車両でも装甲表面、アンテナやカメラなどの損傷を防ぐため消火作業に人手がさかれることで戦闘を妨害する効果がある。 == 歴史 == 本格的に使用された初の戦争は1936年からの[[スペイン内戦]]とされる<ref name="nikkeibp20220316" />。 1939年の[[ノモンハン事件]]の際には[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]によって即席の対戦車兵器として使用され、[[サイダー]]瓶を使った[[手投火焔瓶|急造火炎瓶]]を[[肉弾|肉薄]]して戦車に投げつけ対抗した。[[赤軍|ソ連赤軍]]の主力であった[[BT戦車]]は[[ガソリンエンジン]]だった上、車体の塗装に使われた[[ペンキ]]に[[引火性]]があり、火炎瓶で攻撃すると容易に動力部まで引火し、炎上した。しかし肉薄攻撃を強いられるために日本側の損害も大きく、赤軍が戦車を無塗装にするなどの対策を取り始めると戦果は落ちていった。そもそもソ連側の損害は主に[[九四式三十七粍砲]]によるものであり、火炎瓶は[[座礁|擱座]]した戦車に止めを刺す形で使用されることが多かった。日本軍の使用する[[対戦車地雷|地雷]]や[[手榴弾]]、火炎瓶は[[斜線陣|梯形隊形]]で攻撃するソ連戦車には大きな脅威とはならなかったとされる<ref>{{Cite book|和書|author=マクシム・コロミーエツ、鈴木邦宏(監修)、小松徳仁(翻訳)|title=ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い(独ソ戦車戦シリーズ)|year=2005|publisher=[[大日本絵画]]|isbn=978-4-499228-88-6|page=127}}</ref>。ノモンハンの戦訓から、以後赤軍の開発する戦車は[[軽油]]で動く[[ディーゼルエンジン]]化され、のちの[[第二次世界大戦]]に役立つことになる。 [[Image:Molotov bread basket.jpg|right|thumb|「{{仮リンク|モロトフのパン籠|en|Molotov bread basket}}」ことソ連製RRAB-3集束爆弾]] 同年末の[[冬戦争|フィンランド冬戦争]]の際にも[[フィンランド国防軍]]が対戦車兵器として使用した。当時のソ連外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]は、[[国際連盟]]でソ連の[[絨毯爆撃|無差別爆撃]]について追及された際に「[[資本主義]]に[[搾取]]されるフィンランド人民のために[[赤色空軍]]は[[パン]]を投下している」と強弁したことがあった。このため、ソ連軍のRRAB-3収束焼夷弾が「モロトフのパン籠」と揶揄された。そして、火炎瓶は「パン籠」に対するフィンランド人民からの「お礼」である[[カクテル]]([[ウォッカ]]の蒸留所で生産された)という意味で「モロトフ・カクテル」と名づけられ、以降火炎瓶の代名詞となった<ref>{{Cite web |author= |date= |url= https://www.nytimes.com/1986/11/20/opinion/l-how-the-molotov-cocktail-got-its-name-085186.html|title=How the Molotov Cocktail Got Its Name |website=NYTimes.com |publisher= |accessdate=2018-10-22}}</ref><ref name="nikkeibp20220316" />。なおソ連は、[[独ソ戦]]中に火炎瓶の製造許可命令にモロトフが署名したのがその語源と主張している<ref>{{Cite book|和書|title=冬戦争|date=2月10日|year=2014年|publisher=イカロス出版|page=40|author=斎木伸生}}</ref>。 第二次世界大戦における[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]では、ガラス容器を2重([[卵]]型の容器の中に[[試験管]]型の容器が入っている)にして、割れると2種類の液体が混合して発火する化学反応型の火炎瓶兵器を[[制式名称|制式]]使用していた。[[イギリス]]では民兵組織の[[ホーム・ガード]]専用装備として通常の火炎瓶の他、「{{仮リンク|No.76特別焼夷手榴弾|en|No. 76 Special Incendiary Grenade|label=76号SIP手榴弾}}(No. 76 SIP Grenade) 」を600万個ほど製造していた<ref>[http://www.home-guard.org.uk/hg/gren76.html No.76 SIP Grenade]</ref>。[[手榴弾]]という名目であるが、[[白リン]]とガソリンが封入されており、瓶が割れて[[白リン]]が空気に触れると[[自然発火]]し、ガソリンが燃える火炎瓶であった。ホーム・ガードでは志願者向けの教育ビデオで火炎瓶の効果的な投擲方法を解説していた<ref name="nikkeibp20220316" />。 [[ハンガリー動乱]]では抵抗側の火炎瓶によってソ連軍の戦車が400両ほど破壊された<ref name="nikkeibp20220316" />。 国家が戦争状態にあるときは、国民に火炎瓶を作り、抵抗するよう呼びかけることがある。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]では、[[ウクライナ]]のマスメディアがテレビ番組で火炎瓶の作り方と火炎瓶で抵抗するよう呼びかける放送がされた<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2022-02-26 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000246062.html|title=【速報】「ウクライナにいて国を守る」ゼレンスキー大統領が国民に呼びかけ |website=テレビ朝日 |publisher= |accessdate=2022-2-26}}</ref><ref>{{Cite web |title=ウクライナのテレビ局、「火炎瓶」のつくり方の番組放映 |url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35184113.html |website=CNN.co.jp |accessdate=2022-02-28 |language=ja}}</ref>。ビールの醸造所では火炎瓶製造に乗り出し<ref>{{Cite web|和書|title=ビールの代わりに火炎瓶製造 対ロ抗戦―ウクライナ醸造所:時事ドットコム |url=https://web.archive.org/web/20220228054929/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022022800709&g=int |website=時事ドットコム |accessdate=2022-02-28 |language=ja}}</ref>、軍や警察も装備する他<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナの醸造所、ビールに代わり火炎瓶製造 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3392311?pid=24244906 |website=www.afpbb.com |accessdate=2022-03-16 |language=ja}}</ref>、市民が投擲の訓練を行うなどしている<ref name="asahi20220226" />。 === 戦後の日本 === [[File:Kaenbin.jpg|thumb|[[成田国際空港|新東京国際空港]]の[[成田空港問題|反対運動]]([[三里塚闘争]])でも火炎瓶は用いられた([[成田空港 空と大地の歴史館]])]] [[戦後#日本での「戦後」の位置づけ|第二次世界大戦後の日本]]においては、[[1950年代]]に[[日本共産党]]が組織した[[山村工作隊]]や[[中核自衛隊]]による[[武装闘争]]で多用され、[[爆発物取締罰則]]違反として公判が行われたが、1956年([[昭和]]31年)6月27日の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[判決 (日本法)|判決]]において「同法の規制対象となる『爆発物』とは、その爆発作用そのものによって[[公共]]の[[安全]]を攪乱し、または、人の身体や財産を傷害・損壊するに足る破壊力を有するものであり、……(火焔瓶は)いわゆる爆発物に該当しない」として、[[最高検察庁]]の主張を退けた<ref>{{Cite 判例検索システム | 事件名 = 爆発物取締罰則違反 | 法廷名 = [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]大法廷 | 裁判形式 = 判決 | 裁判年 = 1956 | 裁判月 = 6 | 裁判日 = 27 | 判例集 = 刑集第10巻6号921頁 | 事件番号 = 昭和29(あ)3956 | url = https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51376 }}</ref>。これは、[[刑法 (日本)|刑法]]では[[国家]]が人を罰するという性質上、厳密な解釈が求められるために[[罪刑法定主義]]にもとづき、[[類推解釈]]が禁じられているからである。 その後、1971年(昭和46年)11月19日、[[沖縄返還協定]]反対[[デモ活動|デモ]]が[[日比谷公園]]内で激化し、その中で[[過激派]]の学生の投じた火炎瓶が[[松本楼]]を直撃し、2代目の建物を焼失させるなど、[[1970年代]]の[[学生運動]]や[[三里塚闘争]]でよく使われたが、当時の[[日本法|法律]]では火炎瓶自体については規制することができなかった。そのため、火炎瓶について[[#概要|前述]]の通り定義して規制する「[[火炎びんの使用等の処罰に関する法律]]」を制定し、1972年(昭和47年)5月14日に施行した。 昭和50年版[[犯罪白書]]によれば、1968年(昭和43年)10月の日本大学工学部校舎放火事件を皮切りに、火炎瓶は過激派集団の主たる凶器としてしばしば用いられるようになり、1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)までの3年間に使用された火炎びんの総数は約1万2000本、押収された火炎びんの総数は約1万7000本に上った。こうして1972年(昭和47年)の火炎びんの使用等の処罰に関する法律の制定、さらにはその原材料として使用されるおそれのある毒物及び劇物の規制を強化するため、[[毒物及び劇物取締法]]の一部改正が行われた。その後、火炎瓶事犯は著しく減少したものの、1975年(昭和50年)の[[沖縄国際海洋博覧会|沖縄海洋博]]阻止闘争など、使用例自体は以後も見られた<ref>{{Cite web|和書|author= |url=https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/16/nfm/n_16_2_1_1_2_4.html |title= 昭和50年版 犯罪白書 第1編/第1章/第2節/4 手製爆弾・火炎びん等を使用する犯罪 |website= |publisher= |date= |accessdate=2021-05-16}}</ref>。 == 画像 == <gallery widths="180" heights="150"> ファイル:2010 0515 rama 4 and sathorn 26.JPG|[[タイ王国|タイ]]におけるデモで火炎瓶を投げる参加者(2010年) ファイル:A squad of Home Guard soldiers training to defend a street with 'Molotov cocktail' petrol bombs, March 1941. H8128.jpg|火炎瓶を使用した訓練を行う[[ホーム・ガード]]の隊員 ファイル:British Home Guard Improvised Weapons.JPG|布の代わりに写真フィルムを使った火炎瓶(ホームガードの個人装備)。 ファイル:Protestas Terrazas del Ávila, 05Jul2014 (14561338626).jpg|2014年のベネズエラにおける抗議活動で投げられる火炎瓶 ファイル:Reporter’s Notebook - Thriving Kyiv Becomes Battle Zone, Almost Overnight 03.jpg|[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]に際し、火炎瓶を作るウクライナの市民(2022年) ファイル:Training bijstandseenheid 12 (molotov zoom).jpg|alt=|[[オランダ王立保安隊]]の機動部隊の訓練で火炎瓶に着火した様子(2021年) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|45em}} == 参考文献 == * {{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/ccw/ccw.html |title=特定通常兵器使用禁止制限条約の概要(Convention on Certain Conventional Weapons:CCW)|外務省 |accessdate=2022-04-06 |publisher=[[外務省]](日本) |date=2018-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220406060801/https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/ccw/ccw.html |archivedate=2022-04-06}} * {{Cite web|和書|url=https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/ccw.htm |title=過度に傷害を与え又は無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止又は制限に関する条約 |accessdate=2022-04-06 |publisher=[[同志社大学]] |author=新井京}} * {{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e550c2fc35671a5c1ff0a0b2c25c1b368c3826fa |title=火炎瓶による市民の抵抗は合法? 徹底抗戦を掲げるウクライナと戦時国際法について(JSF) - 個人 - Yahoo!ニュース |accessdate=2022-04-06 |publisher=[[Yahoo!]]}} == 関連項目 == * [[手投火焔瓶]] - [[大日本帝国陸軍]]の制式[[武器]]。 * [[火炎びんの使用等の処罰に関する法律]] * [[焼夷弾]] * [[非致死性兵器]] == 外部リンク == &ensp;{{Commons&cat-inline}} * {{Egov law|347AC1000000017|火炎びんの使用等の処罰に関する法律}} * {{Cite 判例検索システム | 事件名 = 爆発物取締罰違反(予備的に放火、同未遂)、脅迫、加重逃走(予備的に単純逃走)、傷害、銃砲刀劍類等所持取締令違反、火薬類取締法違反、外国人登録令違反、被拘禁者奪取、爆発物取締罰則違反(予備的に犯人蔵匿)、公務執行妨害 | 法廷名 = [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第二小法廷 | 裁判形式 = 判決 | 裁判年 = 1953 | 裁判月 = 11 | 裁判日 = 23 | 判例集 = 刑集第7巻11号2121頁 | 事件番号 = 昭和28(あ)2878 | url = https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55737 }} {{デフォルトソート:かえんひん}} [[Category:火炎瓶|*]] [[Category:フィンランドの歴史]] [[Category:手榴弾]] [[Category:対戦車兵器]] [[Category:テロリズム]] [[Category:日本の新左翼の思想・文化]] [[Category:不正規戦争]]
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1032年
1032年(1032 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1032年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1032}} {{year-definition|1032}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬申]] * [[日本]] ** [[長元]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1692年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[天聖]]10年、[[明道 (北宋)|明道]]元年 ** [[遼]] : [[重熙]]元年 ** [[西夏]] : [[顕道]]元年 ** [[大理国]] : [[正治 (大理)|正治]]6年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天成 (李朝)|天成]]5年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1032|Type=J|表題=可視}} == できごと == * チベット系[[タングート]]族の[[李元昊]]が父の死により西平王の地位を継承。 == 誕生 == {{see also|Category:1032年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[10月19日]](長元5年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[娟子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[斎院|賀茂斎院]]、[[源俊房]]の[[正室]](+ [[1103年]]) * [[安倍宗任]]、平安時代の[[武将]](+ [[1108年]]) * [[英宗 (宋)|英宗]]、[[北宋]]の第5代[[皇帝]](+ [[1067年]]) * [[増誉]]、平安時代の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[1116年]]) * [[程顥]]、北宋の[[儒学者]](+ [[1085年]]) * [[道宗 (遼)|道宗]]、[[遼]]の第8代皇帝(+ [[1101年]]) * [[ルーラッハ (スコットランド王)|ルーラッハ]]、[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](+ [[1058年]]) == 死去 == {{see also|Category:1032年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ベスプリム]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]](* 986年/987年) * [[ヨハネス19世 (ローマ教皇)|ヨハネス19世]]、第144代[[ローマ教皇]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1032}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1032ねん}} [[Category:1032年|*]]
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1057年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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マルカム2世 (スコットランド王)
マルカム2世(スコットランド・ゲール語:Máel Coluim mac Cináeda、英語:Malcolm II of Scotland、954年頃 - 1034年11月25日)は、アルピン朝最後のスコットランド王(在位 : 1005年 - 1034年)。ケネス2世の長男。他の王位継承権保持者を倒して王位についたことから、「破壊王(スコットランド・ゲール語:Forranach)」の名で呼ばれた。 マルカム2世は、残忍な性格であったと伝えられる。1005年、軍を起こしてケネス3世を破り、彼を殺害し、王位を奪った。 1018年にカラムの戦い(en)においてアングル人のロージアン王国軍を破り、これを併合した。同じ年、ブリトン人のストラスクライド王国(英語版)の王位を孫のダンカン(後のダンカン1世)に継承させた。 また、スコットランド独特のタニストリーと呼ばれる王位継承システムを長子相続のシステムに変えた。しかし、マルカム2世自身には男子継承者がいなかったため、実際に効果を発揮するのは、孫のダンカン1世の長男マルカム3世以降になる。 マルカム2世は、1034年11月25日、グラームズの砦近くで、反対派に殺害された。 マルカム2世には娘2人しかおらず、王位は娘たちの息子らが継承した。
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マルカム2世は、アルピン朝最後のスコットランド王。ケネス2世の長男。他の王位継承権保持者を倒して王位についたことから、「破壊王」の名で呼ばれた。
{{基礎情報 君主 | 人名 = マルカム2世 | 各国語表記 = Malcolm II / Máel Coluim mac Cináeda | 君主号 = [[スコットランド君主一覧|スコットランド国王]] | 継承者 = | 継承形式 = | 画像 = Malcolm II of Scotland.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = | 在位 = [[1005年]] - [[1034年]] | 戴冠日 = | 別号 = | 全名 = | 出生日 = [[954年]]頃 | 生地 = | 死亡日 = [[1034年]][[11月25日]] | 没地 = {{SCO843}}、グラームズ | 埋葬日 = | 埋葬地 = {{SCO843}}、[[アイオナ島|アイオナ]] | 配偶者1 = | 子女 = ベソック<br>ドウナダ | 王家 = [[アルピン朝|アルピン家]] | 王朝 = [[アルピン朝]] | 王室歌 = | 父親 = [[ケネス2世 (スコットランド王)|ケネス2世]] | 母親 = }} '''マルカム2世'''([[スコットランド・ゲール語]]:Máel Coluim mac Cináeda、英語:Malcolm II of Scotland、[[954年]]頃 - [[1034年]][[11月25日]])は、[[アルピン朝]]最後の[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](在位 : [[1005年]] - [[1034年]])。[[ケネス2世 (スコットランド王)|ケネス2世]]の長男。他の王位継承権保持者を倒して王位についたことから、「'''破壊王'''(スコットランド・ゲール語:Forranach)」の名で呼ばれた<ref name=T36>トランター、p. 36</ref>。 == 生涯 == マルカム2世は、残忍な性格であったと伝えられる<ref name=M26>森、p. 26</ref>。[[1005年]]、軍を起こして[[ケネス3世 (スコットランド王)|ケネス3世]]を破り、彼を殺害し、王位を奪った。 [[1018年]]にカラムの戦い([[:en:Battle of Carham|en]])において[[アングル人]]の[[ロージアン|ロージアン王国]]軍を破り、これを併合した<ref name=T36 />。同じ年、[[ブリトン人]]の{{仮リンク|ストラスクライド王国|en|Kingdom of Strathclyde}}の王位を孫のダンカン(後の[[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]])に継承させた<ref name=M26 />。 また、スコットランド独特の[[タニストリー]]と呼ばれる王位継承システムを長子相続のシステムに変えた<ref>森、p. 27</ref>。しかし、マルカム2世自身には男子継承者がいなかったため、実際に効果を発揮するのは、孫のダンカン1世の長男マルカム3世以降になる。 マルカム2世は、[[1034年]][[11月25日]]、グラームズの砦近くで、反対派に殺害された<ref>森、p. 29</ref>。 == 子女 == マルカム2世には娘2人しかおらず、王位は娘たちの息子らが継承した。 * ベソック - 1000年頃にアサル領主・ダンケルド大修道院長クリナンと結婚、[[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]の母。 * ドウナダ - 初めオークニー伯シグルズ(シーガード)と結婚しオークニー伯トールフィン(ソーフィン)をもうけた。シグルズの死後、マリ領主フィンレックと再婚、[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]をもうけた。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 森護 『スコットランド王室史話』 大修館書店、1988年 * ナイジェル・トランター 『スコットランド物語』 大修館書店、1997年 {{スコットランド王|15代,1005-1034}} {{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まるかむ2}} [[Category:スコットランドの君主]] [[Category:アルピン家]] [[Category:暗殺された王族]] [[Category:11世紀ヨーロッパの君主]] [[Category:11世紀スコットランドの人物]] [[Category:1034年没]]
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1005年
1005年(1005 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1005年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1005}} {{year-definition|1005}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[乙巳]] * [[日本]] ** [[寛弘]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1665年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[景徳]]2年 ** [[遼]] : [[統和]]23年 ** [[大理国]] : [[明治 (大理)|明治]]9年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] ** [[前黎朝]] : [[応天 (前黎朝)|応天]]12年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1005|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[寛弘]]元年12月(1005年1月13日以降) - [[明経博士]]海広澄が[[清原広澄]]に改姓、[[明経道]][[清原氏 (広澄流)|清原氏]]の発祥 * [[北宋]]にて[[冊府元亀]]の編纂開始( - [[1013年]]) * [[芝大神宮]]創建。 == 誕生 == {{see also|Category:1005年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月9日]](寛弘2年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[性信入道親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[僧]](+ [[1085年]]) * [[9月26日]](寛弘2年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[藤原長家]]、平安時代の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1064年]]) * [[クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]、第149代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1047年]]) * [[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]、[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](+ [[1057年]]) == 死去 == {{see also|Category:1005年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月19日]] - [[黎桓]]、[[ベトナム]]の[[前黎朝]]の創始者(* [[941年]]) * [[4月25日]](寛弘2年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[平惟仲]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[944年]]) * [[10月31日]](寛弘2年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[安倍晴明]]、平安時代の[[陰陽師]](* [[921年]]<ref>[[宝賀寿男]]『古代氏族系譜集成』上巻、古代氏族研究会、1986年、369頁。また卒年85歳(「安倍氏系図」(『続群書類従』巻第170 所収)による)とも一致する。</ref>) * [[馬依澤]]、[[アラビア半島]]出身の[[北宋]]の[[天文学者]](* [[910年]]?) * [[黎龍鉞]]、ベトナムの前黎朝の第2代皇帝(* [[983年]]) == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1005}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1005ねん}} [[Category:1005年|*]]
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1040年(1040 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1054年
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1054年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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吸着地雷
吸着地雷(きゅうちゃくじらい、ドイツ語: Hafthohlladung、吸着成型炸薬の意味)とは、モンロー/ノイマン効果によって装甲を貫通し、打撃を与える対戦車兵器。磁力によって敵戦車の装甲に密着させて爆発する。 ドイツ国防軍が1942年に採用した歩兵用の対戦車兵器である。成形炸薬を内蔵した漏斗状の本体の先端に、木製のブラケットを介して3個の永久磁石が取り付けられている。磁石は成形炸薬と目標との最適距離(スタンドオフ)を保つ役割も果たす。 使用時には敵戦車の死角を利用して肉薄し、敵戦車に直接取り付ける。磁石がきちんと敵戦車に吸着したことを確認した後、摩擦発火式遅延信管(M39卵型手榴弾のそれに似た形状)の点火紐を引っ張って信管を作動させる。なお、信管の作動後は直ちに安全圏に退避しなければ、自分が爆発に巻き込まれる危険があった。 モンロー/ノイマン効果を利用しているため140mmもの装甲板を貫通する高威力を有していた。しかし敵戦車に直接肉薄する必要があるため、敵の随伴歩兵やタンクデサントが近くにいたり、複数の敵戦車が援護し合った場合の使用は自殺行為であり、決して使い勝手の良い兵器では無かった。 このため1943年以降の歩兵の対戦車火器の主力は、同じくモンロー/ノイマン効果を用いてはいるものの投射兵器として、離れた場所から物陰に潜んで戦車を攻撃することが可能なパンツァーファウストに取って代わられていき、1944年5月に生産は終了したが、残存していた吸着地雷はそのまま使用された。 ドイツはこの兵器を開発して以降、敵軍が同種の兵器を使用することを怖れ、自軍の戦車にツィンメリット・コーティングと呼ばれる非磁性体を塗布することで対抗策とした。第二次世界大戦の中期以降のドイツ軍戦車の装甲表面がゴツゴツして見えるのは、均一に厚く塗ると重くなるのと、被弾時の剥離を最小限に抑えるために刻まれたパターンである。 しかし実際にドイツ以外の国で開発・使用されたのは同じ枢軸国側の日本軍の九九式破甲爆雷だけであり、連合側のソビエトやアメリカ、イギリスがこの兵器を使用しないことが判明した為、ドイツ軍はツィンメリットの塗布を廃止した。実際、歩兵が敵戦車に肉迫して取り付ける必要のある本兵器は、対戦車兵器としてはほとんど「最後の手段」であり、特にバズーカやPIATの実用化に成功した米英軍では全く用の無い代物であったと言える。
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吸着地雷とは、モンロー/ノイマン効果によって装甲を貫通し、打撃を与える対戦車兵器。磁力によって敵戦車の装甲に密着させて爆発する。
{{出典の明記|date=2017年6月14日 (水) 13:04 (UTC)}} {{Infobox Weapon |name=Hafthohlladung |image= [[Image:Haft-Hohlladung granare 3kg.jpg|250px]] |caption= ドイツ、ムンスター戦車博物館に展示されている吸着地雷。 |origin= {{Flagcountry|DEU1935}} |type= 対戦車地雷、対戦車手榴弾 <!-- Type selection --> |is_explosive= yes <!-- Service history --> |service= 1942年 - 1945年 |used_by= |wars= [[第二次世界大戦]] <!-- Production history --> |designer= |design_date= |manufacturer= |unit_cost= |production_date= 1942年11月 - 1944年5月 |number= 553,900発 |variants= HHL 3<br/ >HHL 3.5 <!-- General specifications --> |spec_label= |weight= 3,000g (HHL 3)<br/ >3,500g (HHL 3.5) |length= |part_length= |width= |height= 272mm |diameter= 150mm |crew= <!-- Explosive specifications --> |filling= |filling_weight= 1,500g (HHL 3)<br/ >1,700g (HHL 3.5) |detonation= 摩擦点火式遅延信管<br/ >発火時間:4.5秒(1943年5月以降の生産型では、7.5秒に改良) |yield= }} '''吸着地雷'''(きゅうちゃくじらい、{{lang-de|Hafthohlladung}}、吸着成型炸薬の意味)とは、[[モンロー/ノイマン効果]]によって装甲を貫通し、打撃を与える対戦車兵器。[[磁力]]によって敵戦車の[[装甲]]に密着させて爆発する。 == 概要 == [[File:Bundesarchiv Bild 146-1971-033-09, Volkssturm-Ausbildung mit Panzer V (Panther).jpg|150px|left|thumb|[[V号戦車パンター]]を使って、吸着地雷の使用訓練を行う[[国民突撃隊]]。<br/ >使用時には、写真のように戦車に肉薄する必要があった。]] [[ドイツ国防軍]]が1942年に採用した[[歩兵]]用の対戦車兵器である。成形炸薬を内蔵した漏斗状の本体の先端に、木製のブラケットを介して3個の永久磁石が取り付けられている。磁石は成形炸薬と目標との最適距離(スタンドオフ)を保つ役割も果たす。 使用時には敵[[戦車]]の[[死角]]を利用して[[肉薄]]し、敵戦車に直接取り付ける。磁石がきちんと敵戦車に吸着したことを確認した後、[[摩擦発火式遅延信管]]([[M39卵型手榴弾]]のそれに似た形状)の点火紐を引っ張って信管を作動させる。なお、信管の作動後は直ちに安全圏に退避しなければ、自分が爆発に巻き込まれる危険があった。 モンロー/ノイマン効果を利用しているため140mmもの[[装甲#装甲材の種類|装甲板]]を貫通する高威力を有していた。しかし敵戦車に直接肉薄する必要があるため、敵の随伴歩兵や[[タンクデサント]]が近くにいたり、複数の敵戦車が援護し合った場合の使用は自殺行為であり、決して使い勝手の良い兵器では無かった。 このため1943年以降の歩兵の対戦車火器の主力は、同じくモンロー/ノイマン効果を用いてはいるものの投射兵器として、離れた場所から物陰に潜んで戦車を攻撃することが可能な[[パンツァーファウスト]]に取って代わられていき、1944年5月に生産は終了したが、残存していた吸着地雷はそのまま使用された。 == ドイツ軍の対策 == [[ドイツ]]はこの兵器を開発して以降、敵軍が同種の兵器を使用することを怖れ、自軍の[[戦車]]に[[ツィンメリット・コーティング]]と呼ばれる非[[磁性体]]を塗布することで対抗策とした。[[第二次世界大戦]]の中期以降のドイツ軍戦車の装甲表面がゴツゴツして見えるのは、均一に厚く塗ると重くなるのと、被弾時の剥離を最小限に抑えるために刻まれたパターンである。 しかし実際にドイツ以外の国で開発・使用されたのは同じ枢軸国側の日本軍の[[九九式破甲爆雷]]だけであり、連合側のソビエトやアメリカ、イギリスがこの兵器を使用しないことが判明した為、ドイツ軍はツィンメリットの塗布を廃止した。実際、[[歩兵]]が敵戦車に肉迫して取り付ける必要のある本兵器は、対戦車兵器としてはほとんど「最後の手段」であり、特に[[バズーカ]]や[[PIAT]]の実用化に成功した米英軍では全く用の無い代物であったと言える。 == 登場作品 == === ゲーム === ;『[[トータル・タンク・シミュレーター]]』 :ドイツのSMG(サブマシンガン兵)、ATR(対戦車ライフル兵)、突撃兵が3つずつ携行している。 ;『[[バトルフィールドV]]』 :援護兵のガジェットとして登場する。使用の際は、信管を起動させてから投げつける必要がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Hafthohlladungen}} * [[九九式破甲爆雷]] * [[ツィンメリット・コーティング]] * [[パンツァーファウスト]] * [[リムペットマイン]] {{デフォルトソート:きゆうちやくしらい}} [[Category:対戦車兵器]]
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対戦車砲
対戦車砲(たいせんしゃほう)とは、対戦車兵器として使用される大砲である。 歩兵部隊の戦車に対する防御用火砲として特化し、初速・貫徹力を重視し発射速度に優れ、かつ戦車からの発見・攻撃を防ぐために高さを低くした火砲である。照準眼鏡を用い、直接照準により射撃する。対戦車砲は低伸弾道(ライナー性で、直進し、長距離を飛んでも落差が少ない)を描く砲弾を撃ち出し、目標を砲弾の存速によって打ち破ることを目的とする。主目標は装甲された車両であるが、榴弾を用いて対人戦闘も可能である。ただし観測員を置いた間接砲撃は通常行わない。 通常、火砲は砲兵の装備であるが、対戦車砲は歩兵砲と同様に歩兵の装備となることも多い。また、当初は人力で陣地間を移動させながら戦うことを想定され、小型軽量な砲が使われた。第二次世界大戦前半頃までの戦車は総じて装甲が薄かったため小型の対戦車砲で対処可能であったものの、やがて火力と装甲のシーソーゲームが始まり進化を遂げ、大戦後半には野砲・高射砲・カノン砲(加農)と変わらない大きさとなり、牽引には人力や輓馬ではなく、中・大型の自動車や牽引車が必要になった。また砲自体が戦車の車体に搭載されるようになり、突撃砲や自走砲に進化する。 第二次大戦後、大型化して運用が難しくなってしまった対戦車砲は、砲種の統合および軽便な無反動砲や対戦車ミサイルの登場、また機動性に富む自走砲の進化によって消滅して行った。現代ではごく一部の国の二線級部隊に、野砲をかねた対戦車砲が残っているのみである。 戦車は第一次世界大戦にイギリス陸軍によって初めて実戦に投入された。ドイツ陸軍は歩兵による近接戦闘と野砲による直接射撃によりそれに対応した。カノン砲は直接照準、高初速を生かし、最前線に配置されていた。 第一次大戦後、各国は野砲を歩兵に随伴可能に軽量化した対戦車砲という新たな火砲を生みだし、ジャンルとして確立された。当時の戦車はまだ装甲も薄く、口径20〜45mm程度の軽砲でも充分対応できた。しかし、第二次大戦開戦によりシーソーゲームは熾烈を極め、大戦中期には50〜75mmが、大戦末期には85〜90mmが主流となる。 第二次大戦初期、一部の戦車の装甲防御力に対し既存の対戦車砲(その当時で37mm級、50mm級)が威力不足であったため、野戦高射砲で対抗することがあった。高射砲は大口径(75~105mm級)、高初速、発射速度大など、スペック上は対戦車任務に適しているようだが、対戦車用の徹甲弾や直接照準器、また、水平射撃時の砲架や駐退機の強度などが考慮されていなければならず、最初から地上目標を想定した両用砲でなければ有効に使用できない。前線での咄嗟の思いつきで使っても有効に使用することはできず、対戦車戦に戦果を挙げた高射砲は、あらかじめ対戦車戦闘を想定して設計されていたものである。 ドイツ陸軍の8.8 cm FlaK 18/36/37やソ連赤軍の52-K 85mm高射砲はあらかじめ対戦車戦闘を考慮して設計されており、当初から徹甲弾も支給されていたため実際に戦場でも対戦車戦闘が行えた。しかしながらその汎用性の高さからくる耐久性を上げるため、野戦高射砲としては重量は大変重くなり、また対戦車砲としては射撃姿勢が高く目立ち対戦車運用には必ずしも適当ではなかった。 大日本帝国陸軍の八八式七糎野戦高射砲は野戦高射砲として大変軽量かつ小型に仕上がり、比較的短時間の防空戦闘という運用には適していた。しかし開発時点では直接照準による対地攻撃を行う事を考慮しておらず、軽量ゆえに耐久性が低いため、無理な平射時にはしばしば駐退機の故障・破損を起こした。本砲では駐退機構造自体が、射角が高じるにつれ後座長が短くなるなど複雑でデリケートな構造であった。本砲は仰角15度以下の平射は想定しておらず、使用するには爆風よけの防盾と砲口制退器の装備が必要だった。1934年6月に海岸砲として配備された物には平射照準具が装備され、俯角は7度まで可能であった。 イギリス陸軍のQF 3.7インチ高射砲も対戦車戦闘は考慮されておらず、アメリカ陸軍のM1 90mm高射砲も有効な対戦車戦闘ができなかった。 以下に挙げた物は広く使用された物で、試作品の域を出ない物は除く。 大戦中、ドイツ国防軍は戦前半は質において、後半は量において優勢な敵と戦った。つまり常に戦車劣勢の立場にあっため国力の劣るドイツは、大戦全期を通じ積極的に対戦車砲の開発を行った。 「88(アハト・アハト)」こと8.8 cm FlaK 18/36/37は最も有名であるが、本来は対戦車砲ではなく野戦高射砲である。もともと対戦車砲を運用する歩兵連隊の対戦車(後に戦車猟兵・戦車駆逐)中隊用ではなかったが、大戦当初から空軍地上部隊から一部が陸軍に割譲され、「重対戦車砲」という名目で対戦車部隊の装備となっていた例もある。 ソ連軍(労農赤軍)も列強各国と同様対戦車砲の開発に努め、当時としては比較的高い威力のものを装備していた。更に、幸いにも野砲として配備された76.2mm F-22 M1936等に対戦車砲としての能力があったため、他の国々が37~50mm級の対戦車砲しか持っていなかった時期に、75mm級の砲で戦うことができた(ただし砲兵の装備であり、歩兵の自衛用ではなかった)。そして、より量産向けである後継のZiS-3が、実質的に独ソ戦中期以降の主力対戦車砲として使用された。 なお、ソ連軍の砲術では帝政ロシア軍以来一貫して直接照準による平射が重視されており、口径122mmや152mmの榴弾砲でさえも全て直接照準器が装備され、対戦車戦闘を行えるようになっていた。 日本陸軍の仮想戦場であったシベリアや中国大陸、東南アジアなどはいずれもインフラ開発が低度でありまた地形が険阻で戦車の運用には不向きであった。日中戦争(支那事変)において中国軍の陸軍は歩兵中心に構成されており、機甲戦力の生産と配備に積極的だったソ連とは不可侵協定を結んでいたことから、おのずと対戦車兵器よりも対歩兵向きの榴弾兵器が重視され、有限のリソースは海軍戦力や対歩兵用兵器(榴弾砲など)に集中させられた。また、タングステンやニッケルなどの希少金属の制約により弾頭の金属の質が劣っていたこと、そして徹甲弾(AP)でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾(AP-HE)を主用したために日本軍の徹甲弾の強度は厚い装甲に対しては不足しており、結果として旧軍は対戦車戦において非常に苦労することとなった。費用と資材の制約から被帽付徹甲弾(APC)を使用できなかった点もそれに拍車をかけた。 イギリス軍は火砲を口径ではなく砲弾の重量で呼称する伝統があり、第二次大戦中の対戦車砲もその伝統に従って名称がつけられた。戦車の装甲を貫通させることを最優先としたために当初徹甲弾しか供給されておらず、支援砲撃用に転用できないなどイギリス的な頑迷さが見られる。あまりに不評だったため、大戦後半には榴弾も開発され供給された。 敵戦車に対しては味方の戦車ではなく、機動力のある戦車駆逐部隊(タンクデストロイヤー)が要請に応じ駆けつけて迎え撃つ方針であったアメリカ軍の場合、牽引式対戦車砲より対戦車自走砲である駆逐戦車が充実していた。しかも大戦末期の「バルジの戦い」で、牽引式対戦車砲の多くが遭遇戦で配置する間もなく撃破されてしまったことから、戦車駆逐部隊は全てを自走砲化することが決定された。 また、戦争後半にはかの有名なバズーカが大量配備され、歩兵の自衛用対戦車兵器の主力となっていった。 第二次世界大戦における戦車と対戦車砲の関係はまさに「盾と矛」の関係であった。開戦当初は37~47mm程の口径が標準であったものが中期には50~57mm級、75~76.2mm級と大型化し、大戦末期には88~100mm(多くは野砲や高射砲兼用で、歩兵ではなく砲兵隊の装備)以上の物も量産されていた。口径が88mmを超える砲になると大きさ、重量もかなりのものになり、人力で移動可能で待ち伏せのため隠蔽するという従来の対戦車砲の運用法から完全に逸脱してしまった。この問題の解決法として、各国は対戦車砲を様々な車台に搭載し自走砲化をすすめた。また、大戦末期からはバズーカやパンツァーファウストに代表される成形炸薬弾を使用した携帯式のロケットランチャーや無反動砲が急速に発達し、牽引式対戦車砲がなくても歩兵が戦車を破壊できるようになった。さらに、小型の対戦車ミサイルが実用化されると遠距離からでも戦車を破壊できるようになり、対戦車砲の存在意義は薄れ急速に姿を消していった。 現在では中国とロシア等旧共産圏に一部の野砲兼用型が残されているのみであるが、冷戦終結後は対戦車砲の最大の相手である機甲部隊の大侵攻という状況自体が発生しにくくなっているため、チェチェン紛争のような低強度紛争では榴弾による火力支援を主な任務としていると思われる。
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"第二次世界大戦における戦車と対戦車砲の関係はまさに「盾と矛」の関係であった。開戦当初は37~47mm程の口径が標準であったものが中期には50~57mm級、75~76.2mm級と大型化し、大戦末期には88~100mm(多くは野砲や高射砲兼用で、歩兵ではなく砲兵隊の装備)以上の物も量産されていた。口径が88mmを超える砲になると大きさ、重量もかなりのものになり、人力で移動可能で待ち伏せのため隠蔽するという従来の対戦車砲の運用法から完全に逸脱してしまった。この問題の解決法として、各国は対戦車砲を様々な車台に搭載し自走砲化をすすめた。また、大戦末期からはバズーカやパンツァーファウストに代表される成形炸薬弾を使用した携帯式のロケットランチャーや無反動砲が急速に発達し、牽引式対戦車砲がなくても歩兵が戦車を破壊できるようになった。さらに、小型の対戦車ミサイルが実用化されると遠距離からでも戦車を破壊できるようになり、対戦車砲の存在意義は薄れ急速に姿を消していった。", "title": "第二次世界大戦後の対戦車砲" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在では中国とロシア等旧共産圏に一部の野砲兼用型が残されているのみであるが、冷戦終結後は対戦車砲の最大の相手である機甲部隊の大侵攻という状況自体が発生しにくくなっているため、チェチェン紛争のような低強度紛争では榴弾による火力支援を主な任務としていると思われる。", "title": "第二次世界大戦後の対戦車砲" } ]
対戦車砲(たいせんしゃほう)とは、対戦車兵器として使用される大砲である。
{{出典の明記|date=2007年5月}} '''対戦車砲'''(たいせんしゃほう)とは、[[対戦車兵器]]として使用される[[大砲]]である。 {{射程と弾道による大砲の分類}} __TOC__ {{-}} == 概要 == [[歩兵]]部隊の[[戦車]]に対する防御用火砲として特化し、[[砲口初速|初速]]・[[貫徹力]]を重視し発射速度に優れ、かつ戦車からの発見・攻撃を防ぐために高さを低くした火砲である。照準眼鏡を用い、直接照準により射撃する。対戦車砲は低伸弾道(ライナー性で、直進し、長距離を飛んでも落差が少ない)を描く砲弾を撃ち出し、目標を砲弾の存速によって打ち破ることを目的とする。主目標は装甲された車両であるが、榴弾を用いて対人戦闘も可能である。ただし観測員を置いた間接砲撃は通常行わない。 通常、火砲は[[砲兵]]の装備であるが、対戦車砲は[[歩兵砲]]と同様に歩兵の装備となることも多い。また、当初は人力で陣地間を移動させながら戦うことを想定され、小型軽量な砲が使われた。[[第二次世界大戦]]前半頃までの戦車は総じて[[装甲]]が薄かったため小型の対戦車砲で対処可能であったものの、やがて火力と装甲のシーソーゲームが始まり進化を遂げ、大戦後半には[[野砲]]・[[高射砲]]・[[カノン砲]](加農)と変わらない大きさとなり、牽引には人力や[[輓馬]]ではなく、中・大型の自動車や[[砲兵トラクター|牽引車]]が必要になった。また砲自体が[[戦車]]の車体に搭載されるようになり、[[突撃砲]]や[[自走砲]]に進化する。 第二次大戦後、大型化して運用が難しくなってしまった対戦車砲は、砲種の統合および軽便な[[無反動砲]]や[[対戦車ミサイル]]の登場、また機動性に富む[[自走砲]]の進化によって消滅して行った。現代ではごく一部の国の二線級部隊に、野砲をかねた対戦車砲が残っているのみである。 == 開発の経緯 == 戦車は[[第一次世界大戦]]に[[イギリス陸軍]]によって初めて実戦に投入された。[[ドイツ陸軍]]は歩兵による近接戦闘と野砲による直接射撃によりそれに対応した。カノン砲は直接照準、高初速を生かし、最前線に配置されていた。 第一次大戦後、各国は野砲を歩兵に随伴可能に軽量化した'''対戦車砲'''という新たな火砲を生みだし、ジャンルとして確立された。当時の戦車はまだ装甲も薄く、[[口径]]20〜45mm程度の軽砲でも充分対応できた。しかし、第二次大戦開戦によりシーソーゲームは熾烈を極め、大戦中期には50〜75mmが、大戦末期には85〜90mmが主流となる。 === 第二次大戦期における高射砲による対戦車戦闘 === 第二次大戦初期、一部の戦車の装甲防御力に対し既存の対戦車砲(その当時で37mm級、50mm級)が威力不足であったため、野戦高射砲で対抗することがあった。高射砲は大口径(75~105mm級)、高初速、発射速度大など、スペック上は対戦車任務に適しているようだが、対戦車用の徹甲弾や直接照準器、また、水平射撃時の砲架や[[駐退機]]の強度などが考慮されていなければならず、最初から地上目標を想定した両用砲でなければ有効に使用できない。前線での咄嗟の思いつきで使っても有効に使用することはできず、対戦車戦に戦果を挙げた高射砲は、あらかじめ対戦車戦闘を想定して設計されていたものである。 [[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の[[8.8 cm FlaK 18/36/37]]や[[労農赤軍|ソ連赤軍]]の[[52-K 85mm高射砲]]はあらかじめ対戦車戦闘を考慮して設計されており、当初から徹甲弾も支給されていたため実際に戦場でも対戦車戦闘が行えた。しかしながらその汎用性の高さからくる耐久性を上げるため、野戦高射砲としては重量は大変重くなり、また対戦車砲としては射撃姿勢が高く目立ち対戦車運用には必ずしも適当ではなかった。 [[大日本帝国陸軍]]の[[八八式七糎野戦高射砲]]は野戦高射砲として大変軽量かつ小型に仕上がり、比較的短時間の防空戦闘という運用には適していた。しかし開発時点では直接照準による対地攻撃を行う事を考慮しておらず、軽量ゆえに耐久性が低いため、無理な平射時にはしばしば駐退機の故障・破損を起こした。本砲では駐退機構造自体が、射角が高じるにつれ後座長が短くなるなど複雑でデリケートな構造であった。本砲は仰角15度以下の平射は想定しておらず、使用するには爆風よけの防盾と砲口制退器の装備が必要だった。[[1934年]]6月に[[海岸砲]]として配備された物には平射照準具が装備され、俯角は7度まで可能であった。 イギリス陸軍の[[QF 3.7インチ高射砲]]も対戦車戦闘は考慮されておらず、[[アメリカ陸軍]]の[[M1 90mm高射砲]]も有効な対戦車戦闘ができなかった。 == 第二次世界大戦において使用された対戦車砲 == ''以下に挙げた物は広く使用された物で、試作品の域を出ない物は除く。'' === ドイツ === 大戦中、[[ドイツ国防軍]]は戦前半は質において、後半は量において優勢な敵と戦った。つまり常に戦車劣勢の立場にあっため国力の劣るドイツは、大戦全期を通じ積極的に対戦車砲の開発を行った。 「88(アハト・アハト)」こと[[8.8 cm FlaK 18/36/37]]は最も有名であるが、本来は対戦車砲ではなく野戦高射砲である。もともと対戦車砲を運用する歩兵連隊の対戦車(後に戦車猟兵・戦車駆逐)中隊用ではなかったが、大戦当初から[[ドイツ空軍 (国防軍)|空軍]]地上部隊から一部が陸軍に割譲され、「重対戦車砲」という名目で対戦車部隊の装備となっていた例もある。 ; [[3.7 cm PaK 36]] L45 (45口径37mm対戦車砲) [[Image:Pak35-36L45.jpg|thumb|250px|3.7 cm PaK 36 L45]] : 大戦初期の主力対戦車砲。[[ラインメタル]]社製だが、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権をとる以前、協定を結んでいたソ連国内で開発・試験され、ドイツより先の1931年にM1930(1K)としてソ連赤軍にも採用されている。37mm級としては威力のある方だったが[[フランス]]や[[イギリス]]、ソ連の重装甲戦車相手に苦戦し、「ドアノッカー(叩くだけで貫通できない)」の蔑称がつけられた。能力的にはソ連侵攻あたりが限界だったが、砲口に差し込んで発射する専用の[[成形炸薬]]弾が開発されたことにより、近距離対戦車兵器としてその後も使われた。車載用として[[Sd Kfz 250]]や[[Sd Kfz 251]]の小隊長車に使われ、戦車砲型が初期の[[III号戦車]]に搭載された。 : また、本砲は[[中華民国]]にも輸出され、[[日中戦争]]において日本戦車に対し威力を発揮した。日本側も本砲を多数[[鹵獲]]し、改修を加え'''ラ式37mm対戦車砲'''(ラ式とは本砲を生産したラインメタル社を指す)として配備した。またソ連赤軍では鹵獲したものをそのまま使用したり、45mm砲身に載せ換え改造してから使用している。 {{-}} ; [[5 cm PaK 38]] L60 (60口径50mm対戦車砲)<ref> [http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/50atg_pak38.htm 大砲と装甲の研究(Pak38)]</ref> [[Image:Pak 38 01.jpg|250px|thumb|5cm PaK 38]] : 近代兵器の一大実験場となった[[スペイン内戦]]におけるPak36の実戦レポートから、より強力な対戦車砲が必要であると感じた軍によって開発され、1939年より生産が開始された。実戦テスト的な意味合いも込めて1940年4月には早くも実戦配備についている。翌年開始された[[独ソ戦]]では、従来のPaK35/36ではソ連の新型戦車の装甲を貫通できず、これに比べ本砲では近距離なら[[T-34]]や[[KV-1]]をなんとか仕留めることができた。 : 貫徹力はAPC-HE(徹甲榴弾)を用いた場合、命中角60度で73mm/100m、61mm/500m。[[タングステン]]芯を用いたPzgr 40 APCR(硬芯徹甲)弾では、命中角60度で143mm/100m、86mm/500mとより強い貫徹力があったが、完全撃破するには数発撃ち込む必要があった。また、当時のドイツにおいてタングステン合金は貴重であったが、T-34に対抗できるPaK 40が十分に配備されるようになった1942年まで、APCR弾は生産を縮小せず作られ続けた。最終的に約9500門が生産され、運用は終戦まで続いた。同じ60口径の戦車砲型が後期の[[III号戦車]]などに搭載された。 {{-}} ; [[7.5 cm PaK 97/38]] L36(36口径75mm対戦車砲) [[Image:Pak97-38 CFB Borden 1.jpg|thumb|250px|7.5cm PaK 97/38]] :ドイツ軍が独ソ戦において遭遇したT-34中戦車やKV-1重戦車はこれまで運用してきた3.7 cm PaK 36や5 cm PaK 38では分の悪い相手であったため、ドイツ軍は早急にこれらの戦車に対抗可能な対戦車砲を必要としていた。しかし本命の7.5 cm PaK 40の配備には時間がかかるため、[[ポーランド侵攻]]や[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]において大量に鹵獲したフランス製[[M1897 75mm野砲]]の砲身を5cm PaK 38の砲架に搭載し、砲口に多孔式マズルブレーキを装着して急造の対戦車砲に改造した。 : HEAT弾を使用すれば[[T-34]]には十分対抗可能であり、KV-1の側面装甲も貫通可能であったが、7.62 cm PaK 36(r) と違って尾栓は断隔螺式のままであるため発射速度が遅かった。薬室も7.5cm PaK 40用の長薬莢に適合させる改造を行っていなかったため弾薬の互換性が無く、低初速故に徹甲弾の威力も低かった。また反動に対し砲架が十分なものでなかったため、PaK 40の配備に伴い第一線から退いていった。 {{-}} ; [[7.62 cm PaK 36(r)]] L51.1 (51.1口径76.2mm対戦車砲) [[Image:PaK 36r cfb borden 2.jpg|thumb|250px|7.62cm PaK 36(r) この展示砲の砲身は後座状態で、マズルブレーキも失われている]] : ドイツ軍は[[バルバロッサ作戦]]で、ソ連軍の[[F-22 76mm野砲|M1936 F-22師団砲(野砲)]]を大量に捕獲、7.62 cm FK 296(r)と名づけてそのまま使用していたが、強力なT-34[[中戦車]]や[[KV-1]][[重戦車]]に対抗すべくこれを対戦車砲に改造した。 : 防盾は二重構造となり、照準が一人でできるように操作ハンドルを左側に集め、砲身の先にはマズルブレーキが付いた。またより強力なPaK40用の長い薬莢を使えるように、薬室が改造されている。ピンチヒッター的な砲ではあったが、[[独ソ戦|東部戦線]]から[[北アフリカ戦線]]まで、また自走砲に搭載され活躍した。 {{-}} ; [[7.5 cm PaK 40]] L46 (46口径75mm対戦車砲)<ref>[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/2GOU-T.htm Pak40/2を搭載した対戦車自走砲]([[2号戦車]]車台)、 [http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/SdKfz251-22.htm Pak40を搭載した対戦車自走砲の例(2)]([[Sd.Kfz.251]]車台)、[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/38t-TM.htm Pak40/3を搭載した対戦車自走砲]([[LT-38]]車台)、[http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/75atg_pak40.htm 大砲と装甲の研究](Pak40)</ref> [[Image:Pak40 parola 1.jpg|thumb|250px|PaK 40]] : 大戦後半の主力対戦車砲で、PaK38の拡大版。1942年より部隊配備が開始され、終戦まで運用された。ここに来てようやく敵新型戦車に有効な兵器となったが、大型化により人力移動は困難となった。 : 自走砲用としてマルダー系の対戦車[[自走砲]]に搭載され、PaK40/1は[[マルダーI]]用、PaK40/2は[[マルダーII]]用、PaK40/3は[[マルダーIII]]用である。なお、駆逐戦車に搭載されたのは48口径のPaK39、突撃砲のものはStuK40、戦車用はKwK40で、同系列ではあるが砲架や薬室などの異なる別物(特に後者二つは弾頭は同じでも薬莢がボトルネック型で、対戦車砲とは砲弾の互換性が無い)である。貫徹力は命中角60度で89mm/1000m(APC-HE)、96mm/1000m(APCR)。終戦までに約23,000門が生産された。 {{-}} ; [[8.8 cm PaK 43]] L71 (71口径88mm対戦車砲) [[Image:8.8 cm PaK 43 1.JPG|thumb|250px|PaK 43]] : 対戦車兵器として威力を発揮した「88」だったが、高射砲のままでは姿勢が高く発見されやすいため、[[クルップ]]社が対戦車砲として改良したのが本砲である。全周射撃可能なまま姿勢は低くなったが、重すぎた(PaK43は砲車無しで3.6トン、砲車付きで5トン、PaK43/41は4.4トン)ため、人力での迅速な陣地転換が不可能だった。なお、砲車が付けられたままでの緊急射撃時には、左右30度ずつの限定旋回となる。 : 閉鎖器は戦車砲のように縦型で、野戦火砲にしては珍しく電気式の発砲機構を持つ。これをもとにした戦車砲型が[[ティーガーII]](VI号戦車B型)、[[エレファント重駆逐戦車]](フェルディナント)や[[ヤクトパンター]]、[[ナースホルン]]といった[[駆逐戦車]]、対戦車自走砲に搭載された。 {{-}} ; [[8.8 cm PaK 43/41]] L71 (71口径88mm対戦車砲)<ref>[http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/88atg_pak43-41.htm 大砲と装甲の研究(Pak43/41)]</ref> [[Image:PaK43-41 base borden military museum 5.jpg|thumb|250px|PaK 43/41]] : PaK43の全周旋回可能なクロイツラフェッテ(十字型砲架)の生産が遅延したため、繋ぎとして[[ラインメタル]]社は砲身はPaK43、脚は10.5cm leFH18軽榴弾砲、車輪は15cm sFH18重榴弾砲という、既存の部品を寄せ集めた8.8cm Pak43/41対戦車砲を作りあげ、併行生産を行った。また、閉鎖器は以前の8.8cm砲同様に水平スライド式に戻され、発砲装置も一般の対戦車砲と同じになり、砲弾と砲身を除きほとんど別物になった。 : 性能的にはPaK43と同等だが、砲架の関係で左右28度ずつの限定旋回である。対戦車砲としてはあまりにも巨大になってしまったため、使用する兵からは「敵から見れば撃ち損じ無しの大きな標的」と自嘲され、『納屋の戸 (Scheunentor)』とあだ名されたが威力は素晴らしく、あらゆる敵戦車を敵の有効射程外から撃破できた。 : しかしPaK43の生産が軌道にのった後は牽引式対戦車砲型は製造打ち切りとなって自走砲搭載型にシフトし、数もずっと少ない。 {{-}} ; [[7.5 cm Pak 41|7.5 cm PaK 41]] : ゲルリッヒ理論に基づき開発された[[ゲルリッヒ砲]]である。これは砲が先に行くにしたがって細くなっており、高初速で砲弾を打ち出せるものだった。また、砲弾も弾芯にタングステンを用いており、貫徹力は非常に強かった。が、砲の特性上砲身の寿命が短く、また、砲弾もドイツ国内でタングステンが産出されなかったこともあり大量生産できる状態になかった。故に、わずかに150門が生産されたにとどまった。 === ソビエト連邦 === ソ連軍(労農赤軍)も列強各国と同様対戦車砲の開発に努め、当時としては比較的高い威力のものを装備していた。更に、幸いにも[[野砲]]として配備された[[F-22 76mm野砲|76.2mm F-22 M1936]]等に対戦車砲としての能力があったため、他の国々が37~50mm級の対戦車砲しか持っていなかった時期に、75mm級の砲で戦うことができた(ただし砲兵の装備であり、歩兵の自衛用ではなかった)。そして、より量産向けである後継のZiS-3が、実質的に[[独ソ戦]]中期以降の主力対戦車砲として使用された。 なお、ソ連軍の砲術では[[ロシア帝国|帝政ロシア]]軍以来一貫して直接照準による平射が重視されており、口径122mmや152mmの[[榴弾砲]]でさえも全て直接照準器が装備され、対戦車戦闘を行えるようになっていた。 ; 45mm対戦車砲<ref>[http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/45_m1942atg.htm 大砲と装甲の研究(45mm対戦車砲M1942)]、[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/SU-45.htm 45mm対戦車砲を搭載した対戦車自走砲の例]</ref> [[Image:45mm M1932 parola 1.jpg|thumb|250px|Pak35/36を基にしたことがよく分かる45mm対戦車砲M1932]] : ソ連に於いてこう呼ばれる砲は3種ある。それらは開発年で区別され、それぞれ'''[[19-K 45mm対戦車砲|M1932(19K)]]'''、'''[[53-K 45mm対戦車砲|M1937(53K)]]'''、'''[[M-42 45mm対戦車砲|M1942]]'''と呼ばれる。32年型は46口径、42年型は60口径であり、より貫徹力を増した。特にM1942はタングステン芯の徹甲弾を用いると近距離では高い貫通力を発揮、[[V号戦車パンター|パンター戦車]]の100mm厚鋳造製防盾を射貫した例もある。また、[[BT戦車]]やT-26軽戦車の主砲として、戦車砲型が20Kの名で採用されている。[[独ソ戦]]中期以降はドイツ軍の戦車の装甲が厚みを増したため次第に2戦級兵器となるが、終戦直前の[[ソ連対日参戦|対日参戦]]時には装甲の薄い日本軍戦車相手に依然として威力を発揮した。 : これらは前述のラインメタル3.7cm Pak35/36のソ連版・37mm対戦車砲M1930(1K)の口径を拡大したもので、構造的に同一であった。ドイツ製と比べると車輪がスポーク式なのが識別点である。 {{-}} ; [[ZiS-2 57mm対戦車砲]]<ref>[http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/57atg_zis-2.htm 大砲と装甲の研究(ZIS-2)]、 [http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/ZIS-30.htm ZiS-2を搭載した対戦車自走砲の例]、[http://www.flamesofwar.com/Article.asp?ArticleID=921 ZiS-2を改良したZiS-4を搭載した戦車]</ref> [[Image:Zis2 nn.jpg|thumb|250px|ZiS-2]] : ドイツ軍が重戦車を開発することを見越して開発されたもの。72.9口径という非常に長い砲身のため、高初速の弾丸を発射できた。 : 砲架は簡易な設計でありタイヤもトラックのものを流用していたが、工作技術の低いソ連において長い砲身を削りだすのは非常に困難で、価格はZiS-3をはるかに上回った。そのためソ連軍対戦車砲の主力とはなりえず比較的少数が生産され、コムソモーレッツ砲兵用トラクターに搭載した[[ZiS-30 (自走砲)|ZiS-30]]や、T-34 1941年型に搭載したT-34-57と共に[[モスクワの戦い|モスクワ攻防戦]]に実戦投入されている。 {{-}} ; [[ZiS-3 76mm野砲|ZiS-3 76.2mm師団砲]]([[野砲]])<ref>[http://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/gun_db/zis-3_76fg.htm 大砲と装甲の研究(ZIS-3)]、[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/SU-76.htm ZiS-3を搭載した対戦車自走砲の例(2)(ソ連軍)]、[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/TACAMR-2.htm ZiS-3を搭載した対戦車自走砲の例(3)(ルーマニア軍)]</ref> [[Image:ZiS3 nn.jpg|thumb|250px|ZiS-2と同じ砲架のZiS-3]] : 大戦中のソ連軍砲兵師団の主力野砲で、世界で最も多く(約48,000門)生産された砲。独ソ戦初期に大量に失われたM1936 F-22師団砲(後に上記の7.62 cm Pak 36(r)に改造される)や、構造が複雑で生産性に難点のあるUSV M1939師団砲などの後継として、より簡易な設計となっており[[大量生産]]された : 。砲架はZiS-2と同じで、直接照準器を備え対戦車砲としても威力を発揮し、自国のみならずこの砲を捕獲した[[枢軸国]]側でも使われた。ドイツ戦車兵からは「ラッチュ・バム」(ドイツ語の着弾音と砲声の擬音。高初速([[超音速]])なので射撃音が着弾よりも後に聞こえる、という事から)と呼ばれた。 {{-}} ; [[BS-3 100mm野砲|BS-3 100mm師団砲]] [[Image:BS-3-batey-haosef-1.jpg|thumb|250px|BS-3]] : 1944年末に登場した、海軍の砲から発展した大型野砲であり、対戦車砲としても大戦中では最強クラスの威力を誇る。[[SU-100 (自走砲)|SU-100]]や[[T-54]]に搭載されたのも、これと同系列である。 : 1955年には[[滑腔砲]]であるT-12が、さらに後にはM87が登場し、旧式のZiS-3とBS-3は多数が友好国に供与・売却され、長らく使われ未だ予備役のものもある。 {{-}} === 日本 === 日本陸軍の仮想戦場であったシベリアや中国大陸、東南アジアなどはいずれもインフラ開発が低度でありまた地形が険阻で戦車の運用には不向きであった。[[日中戦争]]([[支那事変]])において[[国民革命軍|中国軍]]の陸軍は歩兵中心に構成されており、機甲戦力の生産と配備に積極的だったソ連とは不可侵協定を結んでいたことから、おのずと対戦車兵器よりも対歩兵向きの榴弾兵器が重視され、有限のリソースは海軍戦力や対歩兵用兵器(榴弾砲など)に集中させられた。また、タングステンやニッケルなどの[[希少金属]]の制約により弾頭の金属の質が劣っていた<ref>「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」21頁。</ref><ref>「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」23頁では押収された[[3.7_cm_PaK_36|ラ式37mm対戦車砲]]の1937年製の弾丸と概ね同等とされており、同資料においては「タングステン」弾を他国の同種の弾丸と同等のものとして各種の計算を行っている。</ref>こと、そして徹甲弾(AP)でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾(AP-HE)を主用したために日本軍の[[徹甲弾]]の強度は厚い装甲に対しては不足しており、結果として旧軍は対戦車戦において非常に苦労することとなった。費用と資材の制約から被帽付徹甲弾(APC)を使用できなかった点もそれに拍車をかけた。 ; [[九四式三十七粍砲]] : 1930年代中頃に採用された対戦車砲。 ; [[九〇式野砲|機動九〇式野砲]] [[File:Type90FG.jpg|thumb|right|250px|機動九〇式野砲]] : 1930年代初頭に採用された新型野砲である[[九〇式野砲]]を[[1935年]](皇紀2595年)に機動化、機動九〇式野砲として制式化したもの。上述のソ連軍ZiS-3 76.2mm師団砲と同じく本来は野砲ではあるが、比較的高初速高威力であり主な配備先も機械化野砲兵連隊のみならず[[戦車師団]]の[[機動砲兵連隊]]や、[[戦車連隊]]の砲兵中隊であったため対戦車砲としても積極的に使用され、その高性能を発揮した。 {{-}} ; [[一式機動四十七粍速射砲|一式機動四十七粍砲]] [[Image:Antitank gun Japanese Type 1 front 3-4 view.jpg|thumb|right|250px|一式機動四十七粍砲]] : [[1940年代]]初頭に採用された対戦車砲。 {{-}} === イギリス === イギリス軍は火砲を口径ではなく砲弾の重量で呼称する伝統があり、第二次大戦中の対戦車砲もその伝統に従って名称がつけられた。戦車の装甲を貫通させることを最優先としたために当初徹甲弾しか供給されておらず、支援砲撃用に転用できないなどイギリス的な頑迷さが見られる。あまりに不評だったため、大戦後半には[[榴弾]]も開発され供給された。 ; [[オードナンス QF 2ポンド砲|2ポンド対戦車砲]](52口径40mm) [[Image:AWM-QF-2-pounder-1.jpg|thumb|250px|2ポンド対戦車砲]] : 大戦初期のイギリス軍主力対戦車砲。[[ダンケルクの戦い]]で装備を大量喪失したため6ポンド砲への更新が遅れ引き続き量産、[[北アフリカ戦線]]においてドイツ戦車の表面硬化装甲に対し弾頭が砕けるなど、威力不足が露呈した。被帽付き徹甲弾の開発などで対処したが、戦争が進むにつれ次第により強力な砲に置き換えられていった。全周射撃が可能な凝った砲架を持つ。 {{-}} ; [[オードナンス QF 6ポンド砲|6ポンド対戦車砲]]<ref>[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/DEACON.htm 6ポンド対戦車砲を搭載した対戦車自走砲の例]</ref>(52口径57mm) [[Image:QF-6-pounder-batey-haosef-1.jpg|thumb|right|250px|6ポンド対戦車砲]] : 前述の2ポンド砲の後継として、1941年に[[北アフリカ]]において最初の実戦配備に就いた。アメリカは同砲を57mm対戦車砲M1として[[ライセンス生産]]していたため、両砲は互換性を持ち、事実同じ砲弾を使用したが、品質面でアメリカ製のものが求められた。後期にはタングステン芯を用いた[[APDS]]弾の配備により、近距離では侮れない貫通力を発揮する。 {{-}} ; [[オードナンス QF 17ポンド砲|17ポンド対戦車砲]]<ref>[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/ARCHER.htm 17ポンド対戦車砲を搭載した対戦車自走砲の例(1)]、[http://schafe.z1.bbzone.net/combat/data/AVENGER.htm 17ポンド対戦車砲を搭載した対戦車自走砲の例(2)]</ref>(58口径76.2mm) [[Image:QF-17-pounder-batey-haosef-2.jpg|thumb|right|250px|17ポンド対戦車砲]] : 第二次世界大戦中、イギリスが開発した中で最も威力のある対戦車砲である。かなり大型で、イギリス軍はこの砲を自国の戦車に搭載することを望んだが、イギリス軍待望の新型巡航戦車[[クロムウェル巡航戦車|Mk.IX クロムウェル]]には車幅が足りなかったため搭載できず、結局、同砲をそのまま旋回砲塔に収められるのはアメリカ製[[M4中戦車]]と[[M10 (駆逐戦車)|M10駆逐戦車]]だけという、皮肉な選定結果に終わった。この砲を載せたシャーマンVC、およびIC"[[シャーマン ファイアフライ|ファイアフライ]]"、そして、アキリーズ駆逐戦車はドイツ重戦車を仕留める威力を見せたが、装甲はもとのままであり、他の戦車の後方から支援したり、待ち伏せ等駆逐戦車的に用いられた。 : 同砲を装備したイギリス戦車には、クロムウェルから発展した[[チャレンジャー巡航戦車]](A30)、鉄道輸送のための車幅制限を無くし、大型砲塔を載せた[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン巡航戦車]](A41)、[[チャーチル歩兵戦車]]の拡大発展型であるブラック・プリンス歩兵戦車(A43)があり、対戦車自走砲には他にも[[バレンタイン歩兵戦車]]の車体を利用したアーチャー17ポンド対戦車自走砲、戦後のアヴェンジャー17ポンド対戦車自走砲(A30)がある。 === アメリカ === 敵戦車に対しては味方の戦車ではなく、機動力のある戦車駆逐部隊(タンクデストロイヤー)が要請に応じ駆けつけて迎え撃つ方針であったアメリカ軍の場合、牽引式対戦車砲より対戦車自走砲である[[駆逐戦車]]が充実していた。しかも大戦末期の「[[バルジの戦い]]」で、牽引式対戦車砲の多くが遭遇戦で配置する間もなく撃破されてしまったことから、戦車駆逐部隊は全てを自走砲化することが決定された。 また、戦争後半にはかの有名な[[バズーカ]]が大量配備され、歩兵の自衛用対戦車兵器の主力となっていった。 ; [[M3 37mm砲]] [[Image:37-mm-at-gun-fort-benning-1.jpg|thumb|250px|M3 37mm砲]] : アメリカに於ける37mmクラスの対戦車砲である。コピーというほどではないが、ドイツのPaK36が参考になっており、貫徹力は914mで45mmと、同クラスの砲としては威力が大きい。イギリス軍に供与された[[M3軽戦車|戦車]]砲型、後にアメリカ軍の対戦車砲型が北アフリカでドイツ戦車に対し使われ威力不足とされたが、太平洋戦域では装甲の薄い日本戦車相手に効果があり広く使われた。 : また、[[トーチカ]]への近距離からの集中砲撃や、日本兵の集団突撃を阻止するために[[キャニスター弾|散弾]]を用いての平射という、巨大な[[ショットガン]]のような前装式大砲さながらの使い方もされた。 : アメリカ軍のほか、[[英印軍]]や中華民国にも供与された。 {{-}} ; [[オードナンス QF 6ポンド砲|M1 57mm対戦車砲]] [[Image:Three Inch M-5 Gun.jpg|thumb|right|250px|M5 76.2mm対戦車砲]] : イギリスの6ポンド対戦車砲を自国規格に改修したもので、砲を肩付けで指向する方式から旋回ハンドルを回す方式に、またタイヤなどにも違いが見られる。 {{-}} ; [[M5 3インチ砲]] : 3インチ(76.2mm)高射砲の砲身と、これに105mm榴弾砲の砲架、閉鎖機、駐退機構を組み合わせた砲。ゆえに対戦車砲としては背が高いが、距離914mで96mmの装甲を貫通と、ドイツの7.5cm Pak40に近い性能を発揮する。2500門が生産されたが、米軍の場合、同じ威力の砲を搭載した[[M10 (駆逐戦車)|M10]]・[[M18 (駆逐戦車)|M18]]といった駆逐戦車の方が主力であり何倍も多く生産・配備されている。 === イタリア === ; [[Da 47/32|47mm32口径砲]] : [[オーストリア]]のベーラー社が開発し、[[オランダ]]や[[ソビエト連邦|ソ連]]に採用された他、イタリアで[[ライセンス生産]]された多目的砲。詳しくは当該項目を参照。 === ルーマニア === ; [[75 mm レシツァ モデル 1943]] ([[:en:75 mm Reșița Model 1943|en]]) [[File:Tun 75 mm Resita Model 1943.jpg|thumb|250px|75 mm レシツァ モデル 1943]] : 初速: 1030m/s, 発射速度: 20発/分, 仰俯角: - 7°+ 35°,左右旋回角: 70°, 最大射程(榴弾): 12,000 m {{-}} === スウェーデン === ; [[ボフォース 37mm対戦車砲]] : スウェーデンの[[ボフォース]](ブーフォス:Bofors)社が開発した対戦車砲。1934年にスウェーデン軍に採用されたのを始め、各国に輸出された。詳しくは当該項目を参照。 === フランス === ; [[オチキス 25mm対戦車砲]] [[Image:47mm hotchkiss cfb borden 2.JPG|thumb|right|250px|オチキス47mm対戦車砲]] : [[オチキス]](Hochkiss)社が開発し、1930年代初頭に[[フランス軍]]に採用された対戦車砲。詳しくは当該項目を参照。 {{-}} ; オチキス 47mm対戦車砲 : フランス軍の標準対戦車砲。 === チェコスロバキア === ; シュコダ M1937 37mm対戦車砲 [[Image:Škoda 37 mm Model 1937 side.jpg|thumb|right|250px|シュコダ37mm対戦車砲1937年型]] : [[シュコダ]](スコダ:SKODA)社は戦前から当時のチェコスロバキア、現在のチェコにある自動車メーカであると共に、[[LT-35|35(t)戦車]]などで知られる兵器メーカーである。同社が戦前製造したのが本砲であり、砲口に多孔式[[マズルブレーキ]]が装着されている。ドイツによるチェコ併合後には、'''Pak37(t)'''の名称で使用された。 {{-}} ;[[47mm P.U.V. vz. 36砲]] :スコダにより開発された対戦車砲。ドイツがチェコ併合により接収し、'''4.7cm PaK 36(t)'''の名称で使用、また牽引砲としてのみならず、旧式化した[[I号戦車]]の車台に搭載した[[I号対戦車自走砲]]としても用いられた。 == 第二次世界大戦後の対戦車砲 == 第二次世界大戦における戦車と対戦車砲の関係はまさに「盾と矛」の関係であった。開戦当初は37~47mm程の口径が標準であったものが中期には50~57mm級、75~76.2mm級と大型化し、大戦末期には88~100mm(多くは野砲や高射砲兼用で、歩兵ではなく砲兵隊の装備)以上の物も量産されていた。口径が88mmを超える砲になると大きさ、重量もかなりのものになり、人力で移動可能で待ち伏せのため隠蔽するという従来の対戦車砲の運用法から完全に逸脱してしまった。この問題の解決法として、各国は対戦車砲を様々な車台に搭載し[[自走砲]]化をすすめた。また、大戦末期からは[[バズーカ]]や[[パンツァーファウスト]]に代表される[[成形炸薬弾]]を使用した携帯式の[[対戦車ロケット|ロケットランチャー]]や[[無反動砲]]が急速に発達し、牽引式対戦車砲がなくても歩兵が戦車を破壊できるようになった。さらに、小型の対戦車[[ミサイル]]が実用化されると遠距離からでも戦車を破壊できるようになり、対戦車砲の存在意義は薄れ急速に姿を消していった。 現在では中国とロシア等[[東側諸国|旧共産圏]]に一部の野砲兼用型が残されているのみであるが、[[冷戦]]終結後は対戦車砲の最大の相手である機甲部隊の大侵攻という状況自体が発生しにくくなっているため、[[チェチェン紛争]]のような[[低強度紛争]]では榴弾による火力支援を主な任務としていると思われる。 == その他 == * [[対戦車砲一覧]] * [[対戦車ライフル]] * [[戦車砲]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 佐山二郎 『大砲入門』 光人社〈光人社NF文庫〉、2008年、389頁。 * [[陸軍省]][[陸軍技術本部|技術本部]]第二部「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」アジア歴史資料センター Ref.A03032065000 == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://sus3041.web.infoseek.co.jp/ |title=大砲と装甲の研究 |date=20030803082702}} {{大砲}} {{weapon-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいせんしやほう}} [[Category:対戦車砲|*]]
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18,023
対戦車ロケット弾
対戦車ロケット弾(たいせんしゃロケットだん、英語: antitank rocket)は、ロケット弾化された対戦車擲弾。誘導機能を有さない点で対戦車ミサイルと区別されるが、最近では簡易誘導装置による弾道修正ロケット(誘導ロケット: guided rocket)も登場している。 戦車や装甲車を近距離から撃破する個人携行のロケット弾は、第二次世界大戦時に登場したアメリカ合衆国のバズーカを端緒とする。簡単な金属製のチューブを発射筒として、この中に対戦車ロケット弾を装填し、発射筒で射出方向をコントロールして発射するもので、発火機構は、トリガーで発電した電気によってロケット弾尾部の推進薬に点火する方式であった。 このように、チューブの中や後方にロケットを装着し、これを発射筒としてロケットを射出するという形態は、以後、各国で模倣・踏襲されていった。またドイツ国では、バズーカに範を取ったパンツァーシュレックと並行して、無反動砲としてのパンツァーファウストを開発したが、これは成型炸薬を装填した弾頭部分を砲身の外に出し、大型化することで装甲貫徹能力の強化を図っており、後にはパンツァーファウスト44やRPG-7など、この手法を導入した対戦車ロケット弾も登場した。 冷戦終結後、グローバル化とマルチハザード化の進展とともに戦争以外の軍事作戦(MOOTW)や低強度紛争(LIC)などが注目されるようになったが、これらの作戦・紛争においては戦車の脅威は乏しく、個人携帯対戦車兵器は塹壕や各種建造物などの障害物を排除するために用いられるほうが多くなっていた。しかし戦車の厚い装甲を貫徹するための成形炸薬弾は、コンクリートや土嚢、煉瓦などからなる障害物を破壊するのには適さず、十分な効果が得られなかった。 このことから、戦車ではなくこのような障害物への対処を主眼とした個人携帯ロケット弾として、障害物を貫通するために弾頭を前後に2個搭載したタンデム弾頭や、熱および爆発効果を向上させたサーモバリック弾頭が開発されて、装備されるようになってきた。
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対戦車ロケット弾は、ロケット弾化された対戦車擲弾。誘導機能を有さない点で対戦車ミサイルと区別されるが、最近では簡易誘導装置による弾道修正ロケットも登場している。
[[ファイル:M72 1.gif|thumb|right|200px|[[M72 LAW]]のロケット弾の断面図]] '''対戦車ロケット弾'''(たいせんしゃロケットだん、{{Lang-en|antitank rocket}})は、[[ロケット弾]]化された[[対戦車擲弾]]。[[ミサイルの誘導方式|誘導機能]]を有さない点で[[対戦車ミサイル]]と区別されるが、最近では簡易誘導装置による弾道修正ロケット(誘導ロケット: {{Lang|en|guided rocket}})も登場している{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=671-672}}。 == 概要 == [[戦車]]や[[装甲車]]を近距離から撃破する個人携行のロケット弾は、[[第二次世界大戦]]時に登場した[[アメリカ合衆国]]の[[バズーカ]]を端緒とする{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=672-676}}。簡単な金属製のチューブを[[ロケットランチャー|発射筒]]として、この中に対戦車ロケット弾を装填し、発射筒で射出方向をコントロールして発射するもので、発火機構は、トリガーで発電した電気によってロケット弾尾部の[[ロケットエンジンの推進剤|推進薬]]に点火する方式であった{{Sfn|床井|2008|pp=198-202}}。 このように、チューブの中や後方にロケットを装着し、これを発射筒としてロケットを射出するという形態は、以後、各国で模倣・踏襲されていった{{Sfn|床井|2008|pp=198-202}}。また[[ドイツ国]]では、バズーカに範を取った[[パンツァーシュレック]]と並行して、[[無反動砲]]としての[[パンツァーファウスト]]を開発したが、これは[[成形炸薬弾|成型炸薬]]を装填した弾頭部分を砲身の外に出し、大型化することで[[装甲]]貫徹能力の強化を図っており、後には[[パンツァーファウスト44]]や[[RPG-7]]など、この手法を導入した対戦車ロケット弾も登場した{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=672-676}}{{Sfn|床井|2008|pp=198-202}}。 == 対障害物ロケット弾 == [[冷戦]]終結後、[[グローバル化]]と[[マルチハザード]]化の進展とともに[[戦争以外の軍事作戦]](MOOTW)や[[低強度紛争]](LIC)などが注目されるようになったが、これらの作戦・紛争においては戦車の脅威は乏しく、個人携帯対戦車兵器は塹壕や各種建造物などの障害物を排除するために用いられるほうが多くなっていた{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=672-676}}。しかし戦車の厚い装甲を貫徹するための成形炸薬弾は、[[コンクリート]]や[[土嚢]]、[[煉瓦]]などからなる障害物を破壊するのには適さず、十分な効果が得られなかった{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=672-676}}。 このことから、戦車ではなくこのような障害物への対処を主眼とした個人携帯ロケット弾として、障害物を貫通するために弾頭を前後に2個搭載した[[成形炸薬弾#タンデム弾頭|タンデム弾頭]]や、熱および爆発効果を向上させた[[燃料気化爆弾|サーモバリック弾頭]]が開発されて、装備されるようになってきた{{Sfn|弾道学研究会|2012|pp=672-676}}。 == 対戦車ロケット弾一覧 == {{Columns-start|num=3}} * {{USA}} ** [[バズーカ]] *** [[89mmロケット発射筒 M20改4型]] ** [[M72 LAW]] ** [[FGM-172 SRAW]] (弾道修正機能あり) * {{ISR}} ** {{仮リンク|IMI B-300|en|B-300|label=B-300}} - アメリカ軍で[[SMAW ロケットランチャー|SMAW]]として採用。 ** [[MATADOR]] - {{SIN}}との共同開発。 * {{SWE}}+{{UK}} ** [[NLAW]] * {{ESP}} ** [[C90-CR]] {{Column}} * {{SSR}}/{{RUS}} ** [[RPG-7]] ** [[RPG-16]] ** [[RPG-18]] ** [[RPG-22]] ** [[RPG-26]] ** [[RPG-27]] ** [[RPG-28]] ** [[RPG-29]] ** [[RPG-30]] ** [[RPG-32]] {{Column}} * {{CHN}} ** [[69式ロケットランチャー]] ** [[PF-89]] * {{DEU1935}} ** [[パンツァーシュレック]] * {{BRD2}} ** [[パンツァーファウスト44]] ** [[パンツァーファウスト3]] * {{FRA}} ** [[APILAS]] * {{YUG}} ** [[M90ロケットランチャー]] {{Columns-end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Notelist2}} --> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=弾道学研究会|year=2012|title=火器弾薬技術ハンドブック|publisher=[[防衛技術協会]]|ncid=BB10661098}} * {{Citation|和書|last=床井|first=雅美|year=2008|title=現代サポート・ウェポン図鑑|publisher=[[徳間書店]]|series=[[徳間文庫]]|isbn=978-4198928360}} == 関連項目 == * [[無反動砲]] [[Category:対戦車ロケット弾|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%88%A6%E8%BB%8A%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E5%BC%BE
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かご形三相誘導電動機
かご形三相誘導電動機(かごがたさんそうゆうどうでんどうき)とは三相交流で回転磁界を生成し、導体の両端を総て短絡した「かご型構造」のかご形回転子を利用した電動機(すなわち三相誘導電動機)である。 巻線形三相誘導電動機や整流子電動機と比べた場合、 総磁束が鉄心の飽和磁束に規定されるので、巻線の誘起電圧は回転数に比例し、これに負荷電流による巻線の電圧降下を加えたものが端子電圧になる。 この特性に合わせて、瞬時の回転数に比例した電圧と周波数の交流で運転すれば、高効率で優れた特性の速度制御が可能である。このような制御方式を可変電圧可変周波数制御と呼ぶ。しかし、従前は任意の周波数と電圧を自由に生成することが極めて困難であったため、商用周波数電源で運転されていた。そのため、起動トルクが低く大きなモータを使うなど様々の制約を受けていた。 大電力半導体素子の出現した現在では、インバータによる可変電圧可変周波数制御が容易に利用できるようになり、従前の制御方式よりも小型高効率のため、急速にこの制御方式に切り替えられている。現在の教科書・専門書の解説・解析はほとんど従前の固定周波数を前提に記述されているので、可変周波数動作ではスベリ率をスベリ周波数に直して考察するなど適切な変換が必要となる。 特殊な使い方として、電動機は回転磁界に見合った軸回転をしようと作用することから、二次側の回転が電動機回転を上回る場合に電動機回転に戻そうとする力が働くので発電ブレーキとして使用することも可能である。 かご型回転子は、棒状の導体の両端を端絡環に溶接又はろう付けした構造になっている。小容量と中容量の誘導電動機では、導体と端絡環と通風翼が純度の高いアルミニウムの加圧鋳造で造られた一体構造となっている。 時間定格にもよるが、一般的に大型機には他動式の冷却ファン、中・小型機には自己回転軸に装備された自冷式の冷却ファンを装備するものが多く、自冷式では正逆回転のいずれにも対流が発生するように遠心式ファンとカバーの組み合わせとなっている。 始動時の考慮点としては、電源が許容できる始動電流・固定子巻線の始動電流による電磁力に対する耐力・回転子導体の起動銅損による発熱がある。 定格電圧をそのまま投入する方法。 特徴は、 など。 全電圧始動法を用いることができない場合は、以下に示す減電圧始動法が用いられる。 始動時に電動機の一次巻線をスター結線として投入し、一定時間経過後にデルタ結線とする。5.5kW以上の電動機で軽負荷または無負荷始動のもの。あるいは送風機などの強-弱切り替えにも使われる。 電磁接触器を3個使用した、3コンタクター型が推奨されている。これは、電動機停止時に電圧が印可されないものである。 特徴は、 始動時に電動機の一次巻線と直列にリアクトルを挿入し、起動後に短絡する。なお、一次巻線のうち1相または2相のみにリアクトルまたは抵抗器を挿入するものはクザ始動と呼ばれ、リアクトル始動法の簡易版と言えるものである。ポンプ・ファンなどの2乗低減トルク負荷のクッションスタート用として用いられる。特徴は、 V結線の単巻変圧器を使用して電圧を下げて始動し、起動後に全電圧を投入する。始動電流を特に抑えたい場合に使われる。 特徴は、 本来は速度(回転数)制御の手段の一つであり、極数変換方式の電動機はポールチェンジモータと呼ばれる。固定子コイルの接続を切換えることにより磁界の回転数を変化させ、始動特性の調節や回転子の速度制御を行う。特徴は、 始動と速度制御とを兼ねる方法である。 インバータ法、可変電圧可変周波数制御: 交流入力を大電力半導体素子など(IGBT、GTOサイリスタ、水銀整流器等)を用いたインバータにより(回転数)周波数に比例した交流の電圧を発生させて(電圧V/周波数f=一定制御)、速度を調整するもの。モータの逆起電力に回路のインピーダンス(電圧)降下を加算した電圧を加えることが特徴であるが、これは直流機起動法と共通であり、交流のため制御要素として周波数と位相が加わっている。 〔参考:火力原子力発電必携(社)火力原子力発電技術協会〕 クローリング(次同期運転)とは、始動時に同期速度の1/7付近でトルクの谷を生じ、負荷の要求するトルクよりも小さくなり加速しなくなる現象である。磁束成分に基本波と同方向の第7調波を多く含むために起きる。始動電流に近い電流が流れ、持続すると焼損する。 軽減策として、斜めスロットが使用される。
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かご形三相誘導電動機(かごがたさんそうゆうどうでんどうき)とは三相交流で回転磁界を生成し、導体の両端を総て短絡した「かご型構造」のかご形回転子を利用した電動機(すなわち三相誘導電動機)である。
[[ファイル:Induction-motor-3a-partial-180px.gif|thumb|180px|かご形三相誘導電動機]] [[Image:Squirrel cage.jpg|thumb|180px|かご型回転子概念図<br />導体を両端で短絡した形状から「かご型」と呼ぶ]] '''かご形三相誘導電動機'''(かごがたさんそうゆうどうでんどうき)とは[[三相交流]]で[[回転磁界]]を生成し、[[電気伝導体|導体]]の両端を総て[[短絡]]した「かご型構造」のかご形[[回転子]]を利用した[[電動機]](すなわち[[誘導電動機|三相誘導電動機]])である。 == 特徴 == * [[単相誘導電動機]]と異なり、三相交流だけで回転磁界を発生させることができ、回転磁界をつくるための装置が不要。<!--うぅむ、これは「かご形」の特徴ではないから「三相」の方に持って行った方が良いかもなぁ・・・--> * 三相電源のうち、二極を入れ替えることで正転と逆転を切り替えることができる。 [[巻線形三相誘導電動機]]や[[整流子電動機]]と比べた場合、 * 構造が単純で安価である。 * 回転子に絶縁部がなく高熱に耐えるので高速域の過負荷に強い。 * ブラシやスリップリングのような摩耗・接触通電部分がないため、保守が簡単で堅牢(数年間の連続運転が可能)。 * 反面、始動[[トルク]]が小さく回転速度の調整範囲が狭い。 * 巻線形誘導電動機に比べ、始動トルクが小さく、大型機では始動時の突入電流を抑制するための始動装置(後述)が必要。 == 特性 == 総[[磁束]]が鉄心の飽和磁束に規定されるので、巻線の誘起電圧は回転数に比例し、これに負荷電流による巻線の電圧降下を加えたものが端子電圧になる。 この特性に合わせて、瞬時の回転数に比例した[[電圧]]と[[周波数]]の交流で運転すれば、高効率で優れた特性の速度制御が可能である。このような制御方式を[[可変電圧可変周波数制御]]と呼ぶ。しかし、従前は任意の周波数と電圧を自由に生成することが極めて困難であったため、商用周波数電源で運転されていた。そのため、起動トルクが低く大きなモータを使うなど様々の制約を受けていた。 大[[電力半導体素子]]の出現した現在では、[[インバータ]]による可変電圧可変周波数制御が容易に利用できるようになり、従前の制御方式よりも小型高効率のため、急速にこの制御方式に切り替えられている。現在の教科書・専門書の解説・解析はほとんど従前の固定周波数を前提に記述されているので、可変周波数動作ではスベリ率をスベリ周波数に直して考察するなど適切な変換が必要となる。 特殊な使い方として、電動機は回転磁界に見合った軸回転をしようと作用することから、二次側の回転が電動機回転を上回る場合に電動機回転に戻そうとする力が働くので発電ブレーキとして使用することも可能である。 == 構造 == かご型[[回転子]]は、棒状の導体の両端を端絡環に[[溶接]]又は[[ろう付け]]した構造になっている。小容量と中容量の誘導電動機では、導体と端絡環と通風翼が純度の高い[[アルミニウム]]の加圧[[鋳造]]で造られた一体構造となっている<ref>電気主任技術者国家試験問題 第三種機械 平成16年度</ref>。 時間定格にもよるが、一般的に大型機には他動式の冷却ファン、中・小型機には自己回転軸に装備された自冷式の冷却ファンを装備するものが多く、自冷式では正逆回転のいずれにも対流が発生するように遠心式ファンとカバーの組み合わせとなっている。 == 商用周波数での始動法 == 始動時の考慮点としては、電源が許容できる始動電流・固定子巻線の始動電流による電磁力に対する耐力・回転子導体の起動銅損による発熱がある<ref>[https://www.jeea.or.jp/course/contents/07102/ 音声付き電気技術解説講座 > 電気機器 > 誘導電動機の各種始動法の特徴] [[日本電気技術者協会]]</ref>。 {| class="wikitable" |+かご形三相誘導電動機の商用周波数での始動法の比較<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/fa/products/lvd/lvsw/pmerit/comdev/lowvoltage.html モータの減電圧始動] [[三菱電機]]</ref> !colspan="2"|始動法 !colspan="5"|特性 !rowspan="2"|費用 !rowspan="2"|用途 |- !小分類!!大分類!!始動電流!!始動トルク!!加速トルク!!最大トルク!!全電圧切り替え時の突入電流 |- |colspan="2"|全電圧||colspan="2"|1||最大||大||-||最安||電源容量の許す限り |- |rowspan="2"|スターデルタ||オープン||rowspan="2" colspan="2"|1/3||rowspan="2"|小||rowspan="2"|小||大||安||無負荷・軽負荷始動のもの |- |クローズド||小||やや高||消火ポンプなどの防災設備 |- |colspan="2"|リアクトル||50 60 70 80 90%||25 36 49 64 81%||大||最大||小||高||2乗トルク低減負荷 |- |colspan="2"|コンドルファ||30 46 68%||25 42 64%||やや小||やや小||小||最も高||始動電流を特に抑えたいもの |- |colspan="2"|クザ||-||-||-||-||-||-||- |} === 全電圧始動法 === 定格電圧をそのまま投入する方法。 特徴は、 * 電動機外付けの始動装置が不要であり安価である。 * 始動[[電流]]が非常に大きい。 * 始動[[トルク]]が比較的大きい。 * 他の負荷への影響が大きい。 など。 * 小型の電動機には広く用いられている。 * 中大型の電動機でも、他の負荷への影響や、固定子巻線の始動電流や始動中の電動機の温度上昇が許容できるならこの方法がよい。 * 中大型のかご形三相誘導電動機で全電圧始法動を用いる場合、始動電流抑制や始動トルク向上などのため、特殊かご形[[回転子]]が用いられる場合がある。これは、回転子を横切る磁界の周波数が始動時は高く、回転数が上がると低くなることを利用し、始動時に回転子回路(二次回路)の抵抗が高くなるような回転子構造とすることにより、始動電流の抑制や始動トルクの増大を図るものである。特殊かご形回転子は、構造により深みぞかご形と二重かご形に分類される。 全電圧始動法を用いることができない場合は、以下に示す減電圧始動法が用いられる。 === Y-Δ始動法 === 始動時に電動機の一次巻線を[[スター結線]]として投入し、一定時間経過後に[[デルタ結線]]とする。5.5kW以上の[[電動機]]で軽負荷または無負荷始動のもの。あるいは送風機などの強-弱切り替えにも使われる。 [[電磁接触器]]を3個使用した、3コンタクター型が推奨されている。これは、電動機停止時に電圧が印可されないものである。 特徴は、 * 外付けの始動装置が不要であり、減電圧始動法の中では一番安価である。 * 始動電流が全電圧始動法の3分の1となる。 * 始動トルクが定格の3分の1と小さい。 * 制御装置からの配線芯数について直入れ始動で最低3芯で済むのに対し、スターデルタ始動は最低6芯が必要。 * オープンの場合、切換時にショックがある。切り替えのタイミングによってはサージの発生により保護装置が動作する場合がある。 * クローズドの場合、抵抗の発熱のため、起動間隔が制限される場合がある。 * 電気に関する専門知識の乏しい者が点検・保守をすると、始動用と運転用の電磁接触器を同時投入させたり、配線ミスで電源短絡事故を起こすので注意を要する。 === リアクトル始動法 / クザ始動法 === 始動時に電動機の一次巻線と直列に[[リアクトル]]を挿入し、起動後に短絡する。なお、一次巻線のうち1相または2相のみにリアクトルまたは抵抗器を挿入するものはクザ始動と呼ばれ、リアクトル始動法の簡易版と言えるものである。ポンプ・ファンなどの2乗低減トルク負荷のクッションスタート用として用いられる。特徴は、 * 始動電流のわりに始動トルクが小さい。 * 始動装置は抵抗やリアクトルであり、変圧器を用いるコンドルファ法などに比べれば低コスト。 === コンドルファ法 === V結線の単巻[[変圧器]]を使用して電圧を下げて始動し、起動後に全電圧を投入する。始動電流を特に抑えたい場合に使われる。 特徴は、 * 始動装置が[[変圧器]]であり、リアクトル始動やクザ始動よりも高価である。 * 始動電流のわりに始動トルクが小さい。 * 始動から運転への切換え時のショックが少ない。 === 極数切換法 === [[画像:emf_3vf.gif|thumb|260px|電動機の1相誘起電圧と回転数<br />回転数:周波数と電圧が比例]] 本来は速度(回転数)制御の手段の一つであり、極数変換方式の電動機はポールチェンジモータと呼ばれる。固定子コイルの接続を切換えることにより磁界の回転数を変化させ、始動特性の調節や回転子の速度制御を行う。特徴は、 * 段階的な速度制御となる(極数が倍になると、速度は約半分となる。例えば4極と8極の変換)。 * 高頻度の速度切り替えには適さない。 * メイン極数以外では効率が悪い場合がある。 === 可変周波数起動法 === 始動と速度制御とを兼ねる方法である<ref>[https://www.jeea.or.jp/course/contents/09201/ 音声付き電気技術解説講座 > 電気応用 > 誘導電動機の可変速制御] 日本電気技術者協会</ref>。 [[インバータ]]法、[[VVVFインバータ制御|可変電圧可変周波数制御]]: 交流入力を大電力半導体素子など(IGBT、GTOサイリスタ、水銀整流器等)を用いたインバータにより(回転数)周波数に比例した交流の電圧を発生させて(電圧V/周波数f=一定制御)、速度を調整するもの。モータの逆起電力に回路のインピーダンス(電圧)降下を加算した電圧を加えることが特徴であるが、これは直流機起動法と共通であり、交流のため制御要素として周波数と位相が加わっている。 * 高起動トルク、高効率で小型モータを採用できる * 滑らかな速度制御が可能で、運転中に連続的な速度制御が必要な場合に有用。 * 通常の電動機を使用可である場合が多く、既設改造に適する。 * [[高調波]]対策が必要。 * トルク脈動による部分共振が発生する場合がある。 * インバータ故障時商用電源直結運転可能な回路構成にする方法が一般的であるが、大容量機では減電圧始動系の起動回路を併設する必要がある 〔参考:火力原子力発電必携(社)火力原子力発電技術協会〕 === クローリング === クローリング(次同期運転)とは、始動時に[[同期速度]]の1/7付近でトルクの谷を生じ、負荷の要求するトルクよりも小さくなり加速しなくなる現象である。磁束成分に基本波と同方向の第7調波を多く含むために起きる。始動電流に近い電流が流れ、持続すると焼損する。 軽減策として、斜めスロットが使用される<ref>電気主任技術者国家試験問題 第一種機械 平成22年度 問1</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} ==参考文献== {{Refbegin}} *{{cite book|和書|title=火力原子力発電必携 |editor=火力原子力発電技術協会 |edition=改訂第7版 |date=2007 |ncid=BA88734716 }} {{Refend}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Squirrel-cage motors}} * [[かご形三相誘導発電機]] * [[巻線形三相誘導電動機]] * [[電磁開閉器]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20080209123427/http://www.eccj.or.jp/qanda/he_qa/elec/d0005.html 低圧かご形誘導電動機の始動法 (ECCJ)] {{DEFAULTSORT:かこかたさんそうゆうとうてんとうき}} [[Category:電動機]] {{Electronics-stub}}
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ナイ
ナイ
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ナイ ナーイ (Ney) - アラブ音楽で使われる笛。 ナイ (Nai) - パンパイプ(管楽器)のルーマニアでの呼称。 ナイ (naik) - インドネシア語でupを意味する。 ジョセフ・ナイ (Nye) - アメリカ合衆国の国際政治学者。 ビル・ナイ (Nighy) - イギリスの俳優。 ビル・ナイ (教育者) (Nye) - アメリカ合衆国の科学教育者、テレビ司会者、コメディアン、俳優、作家。
'''ナイ''' * [[ナーイ]] (Ney) - [[アラブ音楽]]で使われる[[笛]]。 * ナイ (Nai) - [[パンパイプ]]([[管楽器]])の[[ルーマニア]]での呼称。 * ナイ (naik) - [[インドネシア語]]で[[up]]を意味する。 ; 姓 * [[ジョセフ・ナイ]] (Nye) - アメリカ合衆国の国際政治学者。 * [[ビル・ナイ]] (Nighy) - イギリスの俳優。 * [[ビル・ナイ (教育者)]] (Nye) - アメリカ合衆国の科学教育者、テレビ司会者、コメディアン、俳優、作家。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ない}} [[Category:英語の姓]]
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対戦車ライフル
対戦車ライフル(たいせんしゃライフル)は、戦車の装甲を貫通させるための銃で、対戦車兵器の一つである。 現在の対物ライフルの前身となった存在である。 対戦車ライフルは徹甲弾を用いて運動エネルギーで敵戦車の装甲を貫通させ、車内の乗員を殺傷したり、車両を破壊するための兵器である。 戦車や装甲車の装甲は小銃用の通常銃弾では貫通が難しい。初期の戦車や装甲車は、弾芯に硬度の高い金属を用いた徹甲弾で貫通できたものの、戦車がより厚い本格的な防弾装甲鋼板を用いるようになると、より大口径の弾丸を発射できる大型の銃が必要となり、対戦車ライフルが誕生した。 その後の戦車の進歩に伴って、対戦車ライフルに用いられる弾薬も大口径化・大威力化していったが、ライフル(小銃)の形式であるかぎり、人が肩で受けられる反動には限界があるため、貫通能力の向上には限界があった。そこで15mmを超える口径を持つものには、人が構える方式ではなく、三脚架に架装するものや、車輪付きの銃架に搭載するものも登場した。これらはもはやライフルというより機関砲であった。 戦車のさらなる防御力強化に、対戦車ライフルは進歩は追いついていけなくなり、有効性を失っていった。どうしても正面からの対戦車戦闘が求められた場合は、覗き窓などの弱点を狙ったり、履帯を狙って走行を妨害する戦術を用いた。全く通用しなかったわけでもなく、フィンランドの継続戦争においてラハティ20mm対戦車ライフルがKV-1重戦車を撃破した事例がある。 成型炸薬弾を発射する個人携帯式対戦車兵器が登場し普及すると、対戦車ライフルはそれらに対戦車兵器としての地位を明け渡した。 戦後、歩兵用の対戦車兵器は弾頭にRPGなどの成型炸薬を利用した無反動砲や携行ロケットランチャー、そして対戦車ミサイルに引き継がれた。現在では対物ライフルと名を変えて装備が行われている。 「対戦車ライフル」という分野の兵器は、第一次世界大戦後期に戦車に対抗するための歩兵用の火器としてドイツ軍により開発された。なお、世界最初のものは、歩兵用の小銃をそのまま拡大して設計された、といういささか強引な開発過程を辿った、事実上の戦時急造品である。 第一次大戦後には各国で本格的な開発が進められ、対戦車ライフルはその性格上高い対装甲貫通力が求められたが、大口径の弾薬を用いると必然的に反動が大きくなるため、高威力の追求と共に安定した射撃が行えることが追求され、反動を制御できることが重要となった。また、大型の銃弾を装弾するため速射性が低いことを補う必要があり、自動式(オートマチック)の作動機構を持つことが模索された。 これらの点から、開発の傾向としては、比較的小口径だが軽量(相対的に)のものと、大口径・大型で大威力だが重量のあるものとの二極化が進んだ。 日本、フィンランド、スイスは口径20mm、またそれを超える大型のものを開発することを選択し、ドイツは7.92mmの小口径ながら装薬(発射薬)の多い弾薬を使用する、1人でも持ち運べる比較的小型のものを開発した。ソビエトでは他国に先駆けて装甲防御力の高い(装甲の厚い)戦車を開発していたこともあり、高性能な対戦車ライフルの開発に力を入れていたが、求められる能力と実用性の間に折り合いがつかず、多種類の試作品が作られて試験が繰り返されていたが、赤軍首脳部が必要以上に高性能なものを求めたこともあり、計画の迷走が続いていた。この他、チェコスロヴァキアでは、7.92mmから15mmまで、ボルトアクション方式の手動連発式から反動利用式/ガス圧利用式の全自動方式まで各種幅広い作動方式のものが開発・試作されており、その中には世界に先駆けて実用化された “ブルパップ方式” のものもあった。珍しいものでは、スウェーデンでは無反動砲と同じ作動原理を持つ、事実上の小口径無反動砲を対戦車ライフルとして開発している。 これらの対戦車ライフルの貫通力は、高いものでもその有効射程内 (300–100m) で30mm前後で、40mmを超えることは稀であったが、第二次世界大戦開戦前の戦間期では、エンジンの出力の関係上、戦車の側もさほど装甲を厚くできなかったため、この程度の能力があれば戦車に対して充分な威力を発揮でき、兵器としての実用性は充分と考えられていた。 第二次世界大戦開戦時には各国で歩兵用主力対戦車兵器として装備されていた他、比較的小型の戦車(軽戦車)の主武装としても装備されていた。そのため、初期には広く使用されたが、戦争が進むにつれて「戦車」というカテゴリーの兵器は急速に進歩を遂げてゆき、次第に装甲が強化されていくと、対戦車ライフル程度の装甲貫通力では装甲を貫通することが難しくなっていった。これに対処するために弾頭にタングステン合金を用いて貫通力を向上させることが行われたが、タングステンは高価な希少資源であり、前線部隊に十分な数の弾薬を行き渡らせることが難しかった。更にそれですらも戦車の装甲増加に貫通力が追いつかなくなり、“対戦車ライフル”というカテゴリーの兵器は急速に廃れていった。 その後の位置づけには各国で差があり、ドイツでは全自動化と大口径化が模索されたものの、成型炸薬弾を発射する個人携帯式対戦車兵器であるパンツァーシュレックやパンツァーファウストの両種が登場すると、対戦車ライフルの前線運用は中止され、後継品の開発計画も全て中止された。一方、ソ連赤軍では、独ソ戦の開戦により対戦車兵器を可能な限り早急かつ大量に装備する必要性に迫られ、開戦前より開発していた一連の試作品の中から、大量生産が可能なものを急遽採用し、大量に製造して部隊配備し、数で補う方針を採った。更に、ドイツ軍戦車に対する有効性が失われたあとも、“バズーカ”のような有力な歩兵用対戦車兵器が実用化されなかったこともあり、戦車の覗き孔の防弾ガラス部分を狙うよう射撃手を訓練してかなりの戦果をあげ、終戦まで現役で使用した。第二次大戦中のドイツ軍装甲車輌が装備したシュルツェンは、元来HEAT対策ではなく、こうしたソビエト軍による対戦車ライフル攻撃への対策のためである。イギリスは対戦車ライフルを使い続けたものの、手持ち式迫撃砲(携行擲弾発射器)の一種であるPIATが登場すると主力対戦車兵器の座を明け渡した。 一方、対戦車ライフルというものにあまり積極性を向けなかった国もあり、アメリカでは他国の対戦車ライフル並の威力を持つ弾薬を使用する重機関銃、ブローニングM2 HMGを制式化して広く装備したため、試作以上の段階には進まず、成形炸薬弾(HEAT弾)を用いる携行ロケットランチャーである“バズーカ”の開発に世界に先んじて成功したこともあり、0.60口径(0.60インチ=15.24mm)という大口径のものを自国開発したものの制式化していない。フランスでは25mm口径の軽便な小口径対戦車砲を装備していたため、国産の対戦車ライフルを開発せず、他国製の輸入に留めている。 以後、対戦車ライフルは重い弾丸の持つ優れた弾道直進性を活かして対人狙撃に用いられたり、軽車両などを狙うようになる。場合によっては低空飛行する航空機を目標にした対空火器としても用いられた。第二次世界大戦後、朝鮮戦争においても共産軍には用いられており、朝鮮戦争後は無反動砲や携行ロケット砲に置き換えられてしばらく姿を消すが、ベトナム戦争でアメリカ軍が使用した例がある(ブローニングM2重機関銃#長距離狙撃兵器としてを参照)。現在では対物ライフルという名称で使用されている。 3名(指揮観測、射手、弾薬運搬)で一丁を運用するのが通例であった。日本、フィンランド、スイスなどの大型銃の場合には対戦車砲なみに一個分隊、十数名で運用する場合もある。 小型の対戦車ライフルは歩兵小隊ごとに一丁から数丁が配備され、小隊規模で運用されていた。対戦車ライフルが必要とされた最大の理由は歩兵小隊が直接、戦車に対抗できることにある。大型の大砲による直接射撃を行うには大隊本部か連隊本部を通して砲兵に動いて貰わなければならず、最前線にいる歩兵小隊が目の前にいる戦車への攻撃を依頼するには命令系統が遠すぎるのである。この点において対戦車ライフルは敵と直面している小隊長レベルの判断で即時、自由に運用できるメリットが大きい。 ※名称の下の数字は使用弾薬(弾頭径x弾薬全長) ドイツ帝国/ ドイツ国 フィンランド 大日本帝国 イギリス スイス ポーランド スウェーデン ソビエト連邦 チェコスロバキア アメリカ合衆国 21世紀となり、前述のように「戦車の装甲を貫いて破壊するための兵器」としての対戦車ライフルは使われることがなくなったため、「対戦車ライフル」という用語も過去のものとなったが、現在の用途に即した「対物ライフル」という用語が誕生した後も、「大型大口径の軍用ライフル」を指すものとして“対戦車ライフル”という言葉は残っている。 そのため、軍民を問わず、特に対装甲用途に限定されているわけではない対物ライフルを指して「対戦車ライフル」と呼称している例を見ることがある。世界各国の戦闘糧食を紹介した書籍を著した大久保義信の著作にも、公式には対物ライフルとして装備されているものを、兵士が「ATライフル」(AT=AntiTank)と呼称している例が記述されている。 なお、対戦車ライフルが現役で用いられていた時代には、これを指して“エレファントガン(象撃ち銃、象銃:英語: Elephant gun)”と呼ぶことが一般的であった。“エレファントガン”とはゾウに代表される大型の動物を狩猟する際に用いられる、大口径・強装薬の猟銃の通称だが、“巨大なライフル”“大口径のライフル”の意味でも用いられていたもので、通常の歩兵用小銃に比して大口径・長大な対戦車ライフルを指す通称として用いられた。第一次世界大戦においては、戦車の登場以前にも、機関銃の射撃を避けるための防盾を用いて塹壕や陣地に接近する戦術に対抗するためにエレファントガンを用いて狙撃(エレファントガンの威力であれば歩兵が手に持って動かせる程度の重量(板厚)の鋼板であれば貫通できた)を行っており、戦車が実戦投入されてから対戦車ライフルが開発されるまでの間は、エレファントガンを暫定的な対戦車兵器として用いていたため、最初から対戦車ライフルとして開発・配備されたものに対しても、継続的に通称されたものである。 この“エレファントガン”の通称が用いられていた対戦車ライフルで著名なものは、イギリスのボーイズ .55 in 対戦車ライフルで、特にボーイズを導入したアメリカ海兵隊はこの呼称を好んで用いていた。また、フィンランドのラハティ L-39をフィンランド兵は “Norsupyssy”(ノルスピッシィ:フィンランド語で「象 (Norsu) 銃 (pyssy)」)”と通称していた。 書籍 webページ
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対戦車ライフル(たいせんしゃライフル)は、戦車の装甲を貫通させるための銃で、対戦車兵器の一つである。 現在の対物ライフルの前身となった存在である。
[[ファイル:AT rifle Type 97 1.JPG|サムネイル|300ピクセル|日本の[[九七式自動砲]](口径 20mm)]] [[ファイル:Wz35 antitank rifle SA-kuva 113078.jpg|サムネイル|300ピクセル|ポーランドのWz.35(口径 7.92mm)]] '''対戦車ライフル'''(たいせんしゃライフル)は、[[戦車]]の[[装甲]]を貫通させるための[[銃]]で、[[対戦車兵器]]の一つである。 現在の[[対物ライフル]]の前身となった存在である。 == 概要 == 対戦車ライフルは[[徹甲弾]]を用いて[[運動エネルギー]]で敵[[戦車]]の[[装甲]]を貫通させ、車内の乗員を殺傷したり、車両を破壊するための兵器である。 戦車や[[装甲車]]の装甲は[[小銃]]用の通常[[弾丸|銃弾]]では貫通が難しい。初期の戦車や装甲車{{Efn2|極初期の戦車や装甲車は装甲に防弾鋼ではなく[[ボイラー]]用の[[炭素鋼]]を用いていた。これらは通常の鋼板よりも耐弾力に優れていたが、本質的には銃弾に耐える硬度はない。}}は、弾芯に硬度の高い金属を用いた徹甲弾で貫通できたものの、戦車がより厚い本格的な防弾装甲鋼板を用いるようになると、より大口径の弾丸を発射できる大型の[[銃]]が必要となり、対戦車ライフルが誕生した。 その後の戦車の進歩に伴って、対戦車ライフルに用いられる弾薬も大口径化・大威力化していったが、ライフル(小銃)の形式であるかぎり、人が肩で受けられる反動には限界があるため、貫通能力の向上には限界があった。そこで15mmを超える口径を持つものには、人が構える方式ではなく、三脚架に架装するものや、車輪付きの銃架に搭載するものも登場した。これらはもはやライフルというより[[機関砲]]であった。   戦車のさらなる防御力強化に、対戦車ライフルは進歩は追いついていけなくなり、有効性を失っていった。どうしても正面からの対戦車戦闘が求められた場合は、覗き窓などの弱点を狙ったり、[[無限軌道|履帯]]を狙って走行を妨害する戦術を用いた。全く通用しなかったわけでもなく、フィンランドの[[継続戦争]]において[[ラハティ L-39 対戦車銃|ラハティ20mm対戦車ライフル]]が[[KV-1]][[重戦車]]を撃破した事例がある。 [[成型炸薬弾]]を発射する個人携帯式[[対戦車兵器]]が登場し普及すると、対戦車ライフルはそれらに対戦車兵器としての地位を明け渡した。 戦後、歩兵用の対戦車兵器は弾頭に[[RPG (兵器)|RPG]]などの[[成形炸薬弾|成型炸薬]]を利用した[[無反動砲]]や携行[[ロケットランチャー]]、そして[[対戦車ミサイル]]に引き継がれた。現在では[[対物ライフル]]と名を変えて装備が行われている。 == 歴史 == [[ファイル:NZ troops with captured_German anti-tank rifle 1918 IWM Q 11264.jpg|サムネイル|260ピクセル|世界初の対戦車ライフルである、ドイツの Mauser Tankgewehr M1918(口径 13.25mm)を持つ英連邦軍([[ニュージーランド軍]])の兵士達。人間と比較したその巨大さがわかる。<br/>(1918年8月26日の撮影)]] 「対戦車ライフル」という分野の兵器は、[[第一次世界大戦]]後期に[[戦車]]に対抗するための[[歩兵]]用の[[火器]]としてドイツ軍により開発された。なお、世界最初のものは、歩兵用の小銃をそのまま拡大して設計された、といういささか強引な開発過程を辿った、事実上の戦時急造品である{{Efn2|より本格的な対戦車兵器として、同じ弾薬を用いる大口径機関銃が開発されていたが、戦争終結には間に合わなかった。}}。 第一次大戦後には各国で本格的な開発が進められ、対戦車ライフルはその性格上高い対装甲貫通力が求められたが、大口径の弾薬を用いると必然的に反動が大きくなるため、高威力の追求と共に安定した射撃が行えることが追求され、反動を制御できることが重要となった。また、大型の銃弾を装弾するため速射性が低いことを補う必要があり、自動式(オートマチック)の作動機構を持つことが模索された。 これらの点から、開発の傾向としては、比較的小口径だが軽量(相対的に)のものと、大口径・大型で大威力だが重量のあるものとの二極化が進んだ。 [[日本]]、[[フィンランド]]、[[スイス]]は口径20mm、またそれを超える大型のものを開発することを選択し、ドイツは7.92mmの[[口径|小口径]]ながら装薬(発射薬)の多い弾薬を使用する、1人でも持ち運べる比較的小型のものを開発した。ソビエトでは他国に先駆けて装甲防御力の高い(装甲の厚い)戦車を開発していたこともあり、高性能な対戦車ライフルの開発に力を入れていたが、求められる能力と実用性の間に折り合いがつかず、多種類の試作品が作られて試験が繰り返されていたが、赤軍首脳部が必要以上に高性能なものを求めたこともあり、計画の迷走が続いていた。この他、チェコスロヴァキアでは、7.92mmから15mmまで、ボルトアクション方式の手動連発式から反動利用式/ガス圧利用式の全自動方式まで各種幅広い作動方式のものが開発・試作されており、その中には世界に先駆けて実用化された “[[ブルパップ方式]]” のものもあった。珍しいものでは、スウェーデンでは[[無反動砲]]と同じ作動原理を持つ、事実上の小口径無反動砲を対戦車ライフルとして開発している。 これらの対戦車ライフルの貫通力は、高いものでもその有効射程内 (300–100m) で30mm前後で、40mmを超えることは稀であったが、第二次世界大戦開戦前の戦間期では、[[エンジン]]の出力の関係上、戦車の側もさほど[[装甲]]を厚くできなかったため、この程度の能力があれば戦車に対して充分な威力を発揮でき、兵器としての実用性は充分と考えられていた。 [[第二次世界大戦]]開戦時には各国で歩兵用主力対戦車兵器として装備されていた他、比較的小型の戦車([[軽戦車]])の主武装としても装備されていた。そのため、初期には広く使用されたが、戦争が進むにつれて「戦車」というカテゴリーの兵器は急速に進歩を遂げてゆき、次第に装甲が強化されていくと、対戦車ライフル程度の装甲貫通力では装甲を貫通することが難しくなっていった。これに対処するために弾頭に[[タングステン]]合金を用いて貫通力を向上させることが行われたが、タングステンは高価な希少資源であり、前線部隊に十分な数の弾薬を行き渡らせることが難しかった。更にそれですらも戦車の装甲増加に貫通力が追いつかなくなり、“対戦車ライフル”というカテゴリーの兵器は急速に廃れていった。 その後の位置づけには各国で差があり、ドイツでは全自動化と大口径化が模索されたものの、[[成型炸薬弾]]を発射する個人携帯式[[対戦車兵器]]である[[パンツァーシュレック]]や[[パンツァーファウスト]]の両種が登場すると、対戦車ライフルの前線運用は中止され、後継品の開発計画も全て中止された。一方、[[赤軍|ソ連赤軍]]では、[[独ソ戦]]の開戦により対戦車兵器を可能な限り早急かつ大量に装備する必要性に迫られ、開戦前より開発していた一連の試作品の中から、大量生産が可能なものを急遽採用し、大量に製造して部隊配備し、数で補う方針を採った。更に、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]戦車に対する有効性が失われたあとも、“[[バズーカ]]”のような有力な歩兵用対戦車兵器が実用化されなかったこともあり、戦車の覗き孔の防弾ガラス部分を狙うよう射撃手を訓練してかなりの戦果をあげ、終戦まで現役で使用した。第二次大戦中のドイツ軍[[装甲戦闘車両|装甲車輌]]が装備した[[装甲#増加装甲|シュルツェン]]は、元来[[成形炸薬弾|HEAT]]対策ではなく、こうしたソビエト軍による対戦車ライフル攻撃への対策のためである。[[イギリス]]は対戦車ライフルを使い続けたものの、手持ち式[[迫撃砲]]([[グレネードランチャー|携行擲弾発射器]])の一種である[[PIAT]]が登場すると主力対戦車兵器の座を明け渡した。 一方、対戦車ライフルというものにあまり積極性を向けなかった国もあり、アメリカでは他国の対戦車ライフル並の威力を持つ弾薬を使用する[[重機関銃]]、[[ブローニングM2重機関銃|ブローニングM2 HMG]]を制式化して広く装備したため、試作以上の段階には進まず、[[成形炸薬弾]](HEAT弾)を用いる携行ロケットランチャーである“[[バズーカ]]”の開発に世界に先んじて成功したこともあり、0.60口径(0.60[[インチ]]=15.24mm)という大口径のものを自国開発したものの制式化していない{{Efn2|対戦車ライフル自体はイギリスのものを少数導入して使用している。}}。フランスでは25mm口径の軽便な小口径[[対戦車砲]]を装備していたため、国産の対戦車ライフルを開発せず、他国製の輸入に留めている。 以後、対戦車ライフルは重い弾丸の持つ優れた弾道直進性を活かして対人[[狙撃]]に用いられたり、[[装甲車|軽車両]]などを狙うようになる。場合によっては低空飛行する航空機を目標にした対空火器としても用いられた。[[第二次世界大戦]]後、[[朝鮮戦争]]においても共産軍には用いられており、朝鮮戦争後は無反動砲や携行ロケット砲に置き換えられてしばらく姿を消すが、[[ベトナム戦争]]で[[アメリカ軍]]が使用した例がある([[ブローニングM2重機関銃#長距離狙撃兵器として]]を参照)。現在では[[対物ライフル]]という名称で使用されている。 {{main|対物ライフル}} == 運用法 == 3名(指揮観測、射手、[[弾薬]]運搬)で一丁を運用するのが通例であった。[[日本]]、[[フィンランド]]、[[スイス]]などの大型[[銃]]の場合には[[対戦車砲]]なみに一個[[分隊]]、十数名で運用する場合もある。 小型の対戦車ライフルは[[歩兵]][[小隊]]ごとに一丁から数丁が配備され、小隊規模で運用されていた。対戦車ライフルが必要とされた最大の理由は歩兵小隊が直接、[[戦車]]に対抗できることにある。大型の[[大砲]]による直接射撃を行うには[[大隊]]本部か[[連隊]]本部を通して[[砲兵]]に動いて貰わなければならず、最前線にいる歩兵小隊が目の前にいる戦車への攻撃を依頼するには命令系統が遠すぎるのである。この点において対戦車ライフルは敵と直面している小隊長レベルの判断で即時、自由に運用できるメリットが大きい。 == 各国の対戦車ライフル == ※名称の下の数字は使用弾薬(弾頭径x弾薬全長) {{col|{{DEU1871}}/{{DEU1935}} * [[マウザー M1918]] *: 13.25x92mm *: ※本銃が世界初の「対戦車ライフル」である。 * [[PzB38]] *: 7.92x94mm * [[PzB39]] *: 7.92x94mm * [[PzB M.SS.41|PzB M.SS.41 (PzB 41(t)]] *: 7.92x94mm {{FIN}} * [[ラハティ L-39 対戦車銃|ラハティ L-39]] *: 20x138mm {{JPN1889}} * [[九七式自動砲]] *: 20x125mm {{UK}} * Godsal 600/500 (Godsal 1918)<ref>[https://www.historicalfirearms.info/post/183659980049/godsal-1918-anti-tank-rifle-while-the-imperial HISTORICAL FIREARMS>Godsal 1918 Anti-Tank Rifle]</ref> *: 12.7x81mm * [[ボーイズ対戦車ライフル|ボーイズ .55 in 対戦車ライフル]] *: 13.9x99mm {{CHE}} * [[エリコン SSG|エリコン SSG32]] *: 20x72mm * [[エリコン SSG|エリコン SSG36]] *: 20x110mm * [[ゾロターン S-18/100]] *: 20x105mm * [[:en:Solothurn S-18/1000|ゾロターン S-18/1000]] *: 20x138mm * [[ゾロターン S-18/1100]] *: 20x138mm * [[:de:24_mm_Tankb%C3%BCchse_41|Tb41]] *: 24x139mm [[画像:Flag of Poland (1928-1980).svg|25x20px|ポーランドの旗]] [[ポーランド]] * [[:en:Anti-tank rifle, model 35|wz.35]] *: 7.92x107mm {{SWE}} * {{lang|sv|Pvg m/40(Pansarvärnsgevär modell 40) / G m/40(Gevär modell 40)}}<ref>[http://www.gotavapen.se/gota/artiklar/rifles_se/gev39_40.htm Swedish Military Rifles 1894 - 1995>Gev m/39 Gev m/40]</ref> *: 8x63mm * [[カールグスタフ pvg m/42]] *: 20x180mm | {{SSR1923}} * ウラジミロフ対戦車銃<ref>[https://topwar.ru/27570-protivotankovoe-ruzhe-vladimirova.html topwar.ru>{{lang|ru|Противотанковое ружье Владимирова]}}] (ロシア語ページ)</ref> *: 12.7/14.5/20mm * ルカビシュニコフ PTR-39<ref>[https://topwar.ru/27577-ptr-rukavishnikova-obr-1939-goda.html topwar.ru>{{lang|ru|ПТР Рукавишникова обр. 1939 года}}] (ロシア語ページ)</ref> *: 14.5x114mm * ショロホフ対戦車銃 *: 12.7mmx108mm *: ※[[マウザー M1918]]の口径変更/細部改修型 * [[シモノフPTRS1941]] *: 14.5x114mm * [[デグチャレフPTRD1941]] *: 14.5x114mm {{CSK}} * ZK382<ref>[http://www.vhu.cz/exhibit/ceskoslovenska-protitankova-puska-zk-382/ VHU PRAHA>Československá protitanková puška ZK 382]</ref> *: 7.92x145mm * ZK404<ref>[http://www.vhu.cz/exhibit/protitankova-puska-zk-404/ VHU PRAHA>Protitanková puška ZK 404]</ref> *: 7.92x94mm * ZK407<ref>[http://www.vhu.cz/exhibit/samonabijeci-protitankova-puska-zk-407/ VHU PRAHA>Samonabíjecí protitanková puška ZK 407]</ref> *: 7.92x94mm * ZK416{{r|15786431.jpg}} *: 15x104mm {{USA}} * ウィンチェスター パグスレー.50 (Winchester Pugsley .50)<ref>[https://www.historicalfirearms.info/post/157666232719/experimental-1918-winchester-50-calibre-anti-tank HISTORICAL FIREARMS>Experimental 1918 Winchester .50 Calibre Anti-Tank Rifle]</ref> *: 12.7x99mm * ウィンチェスター ウィリアムズ.50 (Winchester Williams .50)<ref>[http://www.smallarmsreview.com/display.article.cfm?idarticles=434 Small Arms Review>The Winchester .50 cal. Semiautomatic Rifle]</ref> *: 12.7x99mm * .60 T1E1<ref>[https://forums.spacebattles.com/threads/the-obscure-american-60-cal-anti-tank-rifle-t1-t1e1.378781/ SPACE BATTLES.com>SpaceBattles Debate Forums>The Obscure American .60 Cal Anti-Tank Rifle, T1 & T1E1]</ref> *: 15.2x114mm}} == 名称について == 21世紀となり、前述のように「戦車の装甲を貫いて破壊するための兵器」としての対戦車ライフルは使われることがなくなったため、「対戦車ライフル」という用語も過去のものとなったが、現在の用途に即した「対物ライフル」という用語が誕生した後も、「大型大口径の軍用ライフル」を指すものとして“対戦車ライフル”という言葉は残っている。 そのため、軍民を問わず、特に対装甲用途に限定されているわけではない対物ライフルを指して「対戦車ライフル」と呼称している例を見ることがある。世界各国の[[戦闘糧食]]を紹介した書籍を著した[[大久保義信]]の著作にも、公式には対物ライフルとして装備されているものを、兵士が「ATライフル」(AT=AntiTank)と呼称している例が記述されている<ref>大久保義信:著 『戦闘糧食(コンバット・レーション)の三ツ星をさがせ!』 ({{ISBN2|978-4-7698-1365-1}}) [[光人社]]:刊 2007年 ※新装版</ref>。 なお、対戦車ライフルが現役で用いられていた時代には、これを指して“エレファントガン(象撃ち銃、象銃:{{lang-en|Elephant gun}})”と呼ぶことが一般的であった。“エレファントガン”とは[[ゾウ]]に代表される大型の動物を[[狩猟]]する際に用いられる、大口径・強装薬の[[猟銃]]の通称だが、“巨大なライフル”“大口径のライフル”の意味でも用いられていたもので、通常の歩兵用小銃に比して大口径・長大な対戦車ライフルを指す通称として用いられた。第一次世界大戦においては、戦車の登場以前にも、機関銃の射撃を避けるための[[防楯_(日本軍)|防盾]]を用いて[[塹壕]]や[[陣地]]に接近する戦術に対抗するためにエレファントガンを用いて狙撃(エレファントガンの威力であれば歩兵が手に持って動かせる程度の重量(板厚)の鋼板であれば貫通できた)を行っており、戦車が実戦投入されてから対戦車ライフルが開発されるまでの間は、エレファントガンを暫定的な対戦車兵器として用いていたため{{Efn2|対戦車ライフルが開発されて広く配備されていた第2次世界大戦においても、エレファントガンを対戦車ライフルの代用として配備した例がある。}}、最初から対戦車ライフルとして開発・配備されたものに対しても、継続的に通称されたものである。 {{main|en:Elephant_gun#Use_in_war}} この“エレファントガン”の通称が用いられていた対戦車ライフルで著名なものは、イギリスの[[ボーイズ対戦車ライフル|ボーイズ .55 in 対戦車ライフル]]で<ref> Jim Henderson:著 『22 Battalion』 War History Branch Dept of Internal Affairs(Wellington, N.Z.):刊 1958年(初版)</ref>、特にボーイズを導入した[[アメリカ海兵隊]]はこの呼称を好んで用いていた。また、フィンランドの[[ラハティ L-39 対戦車銃|ラハティ L-39]]をフィンランド兵は “Norsupyssy”(ノルスピッシィ:[[フィンランド語]]で「象 (Norsu) 銃 (pyssy)」)”と通称していた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|refs= <ref name="15786431.jpg">{{cite web | url = http://img20.itiexue.net/1578/15786431.jpg | archiveurl = https://web.archive.org/web/20190510064029/img20.itiexue.net/1578/15786431.jpg | format = [[JPEG|JPG]] | title = 15786431.jpg | website = itiexue.net | accessdate = 2019-5-10 | archivedate = 2019-5-10 | deadlinkdate = 2022年10月5日 }}</ref> }} == 参考文献・参照元 == '''書籍''' * [[小林源文]]:著 『武器と爆薬 <small>悪魔のメカニズム図解</small>』 (ISBN 978-4-499-22934-0) 大日本絵画 2007年 *: 第3章「装甲と砲弾」[1:対戦車火器の登場] 54-55頁 '''webページ''' * [http://world.guns.ru/atr-e.html WORLDGUNS>Anti-tank rifles - a brief introduction] * [http://www.antitank.co.uk/ Collecting Anti Tank Rifles] ** [http://www.antitank.co.uk/history.htm History] ** [http://www.antitank.co.uk/ww1_anti-tank_rifles1.htm WW1 Anti-Tank rifles] ** [http://www.antitank.co.uk/rifles.htm WW2 Anti-Tank rifles] * [http://www.quarryhs.co.uk/ATRart.htm Military Guns & Ammunition>An Introduction to Anti-Tank Rifle Cartridges] == 関連項目 == * [[対物ライフル]] * [[狙撃銃]] * [[対戦車兵器]] == 外部リンク == {{commonscat|anti-tank rifles}} * [http://world.guns.ru/atr-e.html WORLDGUNS Modern Firearms & Ammunition Encyclopedia of firearms and ammunition of the XX and XXI centuries>Anti-tank rifles] * [http://www.antitank.co.uk/index.htm Collecting Anti Tank Rifles] {{小火器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいいせんしやらいふる}} [[Category:対戦車ライフル|*]] [[Category:小火器の種類]]
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巻線形三相誘導電動機
巻線形三相誘導電動機(まきせんがたさんそうゆうどうでんどうき)は、三相結線の巻線形回転子をスリップリング・ブラシを経て外部回路に接続した三相誘導電動機である。 回転子巻線に接続された外部回路を二次側回路といい、短絡接続や抵抗接続することでトルク・速度制御が可能である。 巻線型回転子は、全スロットに絶縁電線を均等に分布させて挿入した巻線の端子は、軸上に設けられた3個のスリップリングに接続され、ブラシを経て外部抵抗に接続できるようになっている。 二次側(回転子)巻線の電力を回生することによって速度を制御することが可能である。 損失が少ない。 二次側回路に電気抵抗を挿入し二次側電力を変化させることができ、始動トルクを調節することができる。 速度を下げるのにしたがって損失が大きくなる。 ゲルゲス現象とは、巻線・スリップリング・ブラシの不良などで二次側の一相が開放され単相になったとき、同期速度の1/2からの加速が不可能となる現象である。そのまま運転を継続すると、起動電流に近い電流が流れて焼損する場合がある。
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巻線形三相誘導電動機(まきせんがたさんそうゆうどうでんどうき)は、三相結線の巻線形回転子をスリップリング・ブラシを経て外部回路に接続した三相誘導電動機である。 回転子巻線に接続された外部回路を二次側回路といい、短絡接続や抵抗接続することでトルク・速度制御が可能である。
'''巻線形三相誘導電動機'''(まきせんがたさんそうゆうどうでんどうき)は、[[三相交流|三相]]結線の巻線形[[回転子]]を[[スリップリング]]・[[ブラシ]]を経て外部回路に接続した[[三相誘導電動機]]である。 回転子[[巻線]]に接続された外部回路を二次側回路といい、[[短絡]]接続や[[電気抵抗|抵抗]]接続することで[[トルク]]・[[回転速度|速度]]制御が可能である。 == 特徴 == * 始動特性が良い。 * 運転特性が悪い。 * スリップリング・ブラシの保守が必要。 == 構造 == 巻線型回転子は、全スロットに絶縁電線を均等に分布させて挿入した巻線の端子は、軸上に設けられた3個のスリップリングに接続され、ブラシを経て外部抵抗に接続できるようになっている。<ref group="脚注" name = "電験">電気主任技術者国家試験問題平成16年度第3種</ref> == 速度制御法・始動法 == === 二次励磁法 === 二次側(回転子)巻線の[[電力]]を回生することによって[[速度]]を制御することが可能である。 損失が少ない。 * 静止セルビウス方式: [[サイリスタ]]を利用して電源に回生する。 * クレーマー方式: 電動機回転軸に直結した[[整流子電動機]]の動力として回収する。 === 二次抵抗法 === 二次側回路に電気抵抗を挿入し二次側電力を変化させることができ、始動トルクを調節することができる。 速度を下げるのにしたがって損失が大きくなる。 === ゲルゲス現象 === ゲルゲス現象とは、巻線・スリップリング・ブラシの不良などで二次側の一相が開放され単相になったとき、[[同期速度]]の1/2からの加速が不可能となる現象である。そのまま運転を継続すると、起動電流に近い電流が流れて焼損する場合がある。 == 仕様 == * 滑り:トルク一定の負荷を負って回転しているとき、二次抵抗を大きくすると増加する。<ref group="脚注" name = "電験"/> == 脚注 == <references group="脚注" /> == 関連項目 == * [[かご形三相誘導電動機]] * [[巻線形三相誘導発電機]] [[category:電動機|まきせんかたさんそうゆとうてんとうき]]
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北アイルランド
北アイルランド(きたアイルランド、英語: Northern Ireland、アイルランド語: Tuaisceart Éireannアイルランド語発音: [ˈt̪ɣuəʃcəɾɣt̪ɣ ˈeːɾjən̪ɣ]、アルスター・スコットランド語: Norlin Airlann)は、イギリスの一部であり、カントリー、州、領土、地域と様々に表現される 。 北アイルランドは、アイルランド島の北東部に位置し、南と西にアイルランド共和国と国境を接している。2011年の人口は1,810,863人で、アイルランド島の人口の約30%、英国の人口の約3%を占めている。 1998年に制定された北アイルランド法により設立された北アイルランド議会(所在地にちなんでストームントと呼ばれている)は、様々な権限のある政策を担当しているが、それ以外の分野はイギリス政府が担当している。北アイルランドは、いくつかの分野でアイルランド共和国と協力している。 北アイルランドは、1920年のアイルランド統治法によってアイルランドが分割された際に、1921年に北東部の6つの郡の分権政府として誕生した。北アイルランドの人口の大半は、イギリス国内に留まることを望むユニオニストであった。北アイルランドの人口の大半は、イギリスからの植民者の子孫であるプロテスタントの人々である。一方、南アイルランド(1922年にアイルランド自由国となる)の多数派と北アイルランドのかなりの少数派は、独立したアイルランドの統一を望むアイルランド民族主義者(ナショナリスト)とカトリック教徒であった。今日では、前者は一般的に自分たちをイギリス人と見なし、後者は一般的に自分たちをアイルランド人と見なしているが、北アイルランドやアルスターのアイデンティティを主張する人は、あらゆる背景を持つ多数の少数派である。 北アイルランドの誕生には、分割を擁護する側と反対する側の両方の暴力が伴った。1920年から22年にかけて、首都ベルファストでは、主にプロテスタント・ユニオニストとカトリック・ナショナリストの民間人による大規模な共同体間の暴力が発生した。500人以上が死亡し、1万人以上が難民となったが、そのほとんどがカトリック教徒であった。その後の数十年間、北アイルランドではユニオニスト党の政権が連綿と続いていた。両コミュニティによる非公式な相互分離が行われ、北アイルランドの第一大臣デヴィッド・トリンブルが「カトリック教徒にとっての冷たい家」と呼んだように、ユニオニスト政権はアイルランドの民族主義者とカトリック教徒の少数派に対する差別で非難されていた。 1960年代後半には、カトリック教徒とナショナリストに対する差別をなくそうとするキャンペーンが、それをリパブリカンの戦線と見なしたロイヤリストによって反対された。リパブリカンとロイヤリストの準軍組織と軍が30年に渡って対立し、3,500人以上の命と50,000人以上の負傷者を出した「北アイルランド問題」を引き起こした 。1998年の「聖金曜日合意(Good Friday Agreement)」は、準軍の武装解除や治安の正常化など、和平プロセスの大きな一歩となったが、宗派間の対立や隔離は依然として大きな社会問題となっており、散発的な暴力も続いている。 北アイルランドの経済は、分割時にはアイルランドで最も工業化が進んでいたが、北アイルランド問題による政治的・社会的混乱の結果、衰退していった。北アイルランドの経済は、1990年代後半から大きく成長した。最初の成長は、「平和の配当」とアイルランド共和国との貿易の増加によるもので、その後も世界中からの観光、投資、ビジネスが大幅に増加している。北アイルランドの失業率は1986年に17.2%とピークに達したが、2014年6-8月期には6.1%となり、1年間で1.2%ポイント減少し、英国の数値6.2%と同様になっている。 北アイルランド、アイルランドの他の地域、英国の他の地域の文化的つながりは複雑で、北アイルランドはアイルランドの文化と英国の文化の両方を共有している。多くのスポーツでは、アイルランド島が1つのチームを構成しているが、サッカーの北アイルランドのサッカー代表チームは例外である。北アイルランドはコモンウェルスゲームズでは別個に出場し、オリンピックでは北アイルランド出身者はイギリスとアイルランドのどちらかの代表として出場することができる。 1920年に成立したアイルランド統治法によってアイルランド島は南北に分割され、それぞれに自治権が付与された。その後に発生したアイルランド独立戦争の講和条約である英愛条約に基づいて、南部26県によりアイルランド自由国が建国され、グレートブリテン及びアイルランド連合王国より分離した際は北アイルランドも自由国の管轄内に含まれていた。しかしアイルランド自由国で内戦が始まったため、英愛条約の条項に基づいて北アイルランド議会は自由国からの離脱を表明して連合王国に留まることになった。 19世紀にアイルランドがグレートブリテンおよびアイルランド連合王国へと併合されて以来、アイルランドにおいてはユニオニスト(イギリスとの連合維持を主張)とナショナリスト(イギリスからの独立を主張)の対立が続いていた。アイルランド全土がイギリスに支配されていた時代から、北アイルランド地域はグレートブリテン島からの植民者が多数を占めており、ユニオニストの勢力が強かった。また、必ずしもアイルランド人即ちナショナリストではなく、経済的に考えると英国に帰属した方が有利であると考える者も多かった。このようなことが考慮されて、北アイルランドはイギリス統治下に残留することになった。 1960年代後半になると、アメリカ合衆国の公民権運動の影響を受けて、社会的に差別を受けていたカトリックの「一人一票」を要求する社会運動が活発になったが、プロテスタント主体であった北アイルランド政府はこれを抑圧。情勢は緊迫化し、深刻な分断と対立が発生した。以降、1990年代前半までIRA暫定派を始めとするナショナリストとユニオニスト双方の私兵組織と、政府当局(英陸軍、北アイルランド警察)とが相争う抗争が続き、血の日曜日事件など数多くの武力弾圧やテロによって数千名にものぼる死者が発生するなど、「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態が生じ、社会と経済の混乱は極めて苛烈なものとなった。北アイルランド議会はこの事態に対処できなかったため、1972年3月30日の「1972年北アイルランド暫定法(en:Northern Ireland (Temporary Provisions) Act 1972)」で議会は停止され、翌1973年7月18日の「1973年北アイルランド憲法法(en:Northern Ireland Constitution Act 1973)」によって正式に廃止、翌1974年7月17日の「1974年北アイルランド法(en:Northern Ireland Act 1974)」によって、イギリス本国の枢密院による直接統治が行われるようになった。 1990年代になると和平への道が模索され始め、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によってベルファスト合意が形成され、アイルランド政府は国民投票の結果、北アイルランドの領有権を放棄。またこれに基づいて、全政党が参加する北アイルランド議会が復活した。この功績によって、穏健派政党の党首であるデヴィッド・トリンブルとジョン・ヒュームにノーベル平和賞が授与されている。北アイルランドとアイルランド共和国は自由往来が保障され、国境検問が廃止された。 過激派によるテロが収まったことを受け、シティグループや富士通など、外国企業による新たな直接投資が相次ぎ、経済成長を遂げている。 2016年のイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票で離脱派が賛成多数となったことを受け、再び南部との間の国境問題が浮上した。国境の取扱についてイギリスの議会でも議論がまとまらず、同国の欧州連合(EU)離脱は2020年まで先延ばしを繰り返し厳格な国境の復活は回避された。離脱の移行期間が終了した2020年12月31日以後も北アイルランドはEU単一市場に留まっており他のイギリスの地域とは別の扱いを受けている。代わりに、グレートブリテン島との間のアイリッシュ海に、イギリス国内でありながら通関などの手続きが必要な事実上の境界が設けられている。 1960年代に北アイルランド問題が発生する以前、本土の政党との関係で言うと、アルスター統一党が保守党に代わり、アルスター自由党が自由党に代わり、それぞれストーモント議会(The Parliament of Northern Ireland・旧議会)を支配していた。北アイルランド労働党については、本土の労働党と強い協力関係を有していなかった。この他、アイルランド統一を掲げるナショナリスト党とシン・フェインが活動していた。 1960年代の後半から1990年代にかけ、宗教差別を発端としたユニオニスト、ナショナリスト両勢力の私兵組織が騒乱やテロを繰り返す、いわゆる「北アイルランド問題」が巻き起こり、1972年にストーモント議会が廃止されてイギリス政府による直接統治が始まった。この社会的混乱に各政党も強い影響を受けた。アルスター統一党は、サニングデール合意を批判して保守党との関係を断絶した。アルスター自由党は、自由民主党へと衣替えしたが支持を失い、現在、同盟党の姉妹政党に落ちついている。解党された北アイルランド労働党の一部の議員によって社会民主労働党が結党された。 近年になり、イギリスの主要政党が北アイルランドの選挙に参加しようとする動きが見られる。保守党は、1980年代の終わりから候補者を送り出しているが、ほとんど支持を得られていない。自由民主党は、同盟党を支援している。 現在の北アイルランド政府(英語版)は、1998年のベルファスト合意によって設立が決定されたが、2002年から機能を停止した。同時に設置された北アイルランド議会(The Northern Ireland 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人口あたりの国内総生産(GDP)は2005年時点で19,603ユーロであり、北西イングランド地方やウェールズよりも多い。1986年に17.2%にも及んでいた失業率は2001年には4.5%にまで減少した。労働者の特徴として、他の英国内地域に比べて長時間勤務を行っていること、収入について性差が少ないことなどが挙げられる。 2021年に行われた国勢調査では、北アイルランドの住民のうち45.7%がカトリック及びカトリック系諸派の信仰を自認したのに対し、43.48%がプロテスタントまたはキリスト教諸派を信仰していた。かつてはプロテスタントが多数派であったが、カトリック教徒はプロテスタントよりも出生率が高い傾向にあり、年々カトリックの割合が増加、プロテスタントの割合の減少する傾向が続いており、2021年の調査で初めて割合が逆転した。 同調査によると、住民の31.86%が自身をイギリス人であると規定し、同様に29.36%がアイルランド人、そして19.78%が北アイルランド人であるとした。ブレグジット以降、イギリス人と自認する割合は減少傾向にある。2004年の調査では、全体の59%は長期的な視野にたった英国による北アイルランド統治を是認すると述べ、22%が統一アイルランドの形成を支持している。態度が不明確な層が存在するのは、北アイルランド同盟党が一定の支持を受けていることからも裏付けられる。最近の選挙においては、親プロテスタント政党と親カトリック政党はともに4割台の支持を得ており、残りの2割がそれ以外の政党に投票している。 2005年以前に生まれた全ての住民には、アイルランド共和国の市民権が自動的に与えられていた。これはベルファスト合意を受けて2001年に制定されたアイルランド共和国の国籍法の条項によっている。ベルファスト合意においては、イギリスとアイルランド両国が北アイルランドの全ての住民にアイルランド人またはイギリス人となる権利を与えるとある。現在でもこれは大多数の住民に適用されている。 歴史的な経緯から、北アイルランドではイギリスとアイルランドの双方に由来する文化がみられる。言語は英語の他にアイルランド語とアルスター・スコットランド語 (en) が公用語として認められている。アイルランド共和国ではアイルランド語の復興運動により多くの国民がアイルランド語の知識を習得しているが、北アイルランドでは復興運動は乏しく、2011年の調査によるとアイルランド語の多少の知識がある人の割合は11%、読み書きが可能なレベルではわずか3.7%にとどまっている。また、アルスター・スコットランド語はさらに少数派で読み書きが可能なレベルの割合は0.9%に過ぎない。現在では中国系移民の増加を反映して中国語が2番目の母語集団となっている。 この地域を象徴するものの一つとしてアマの花がある。 食事には特に特有のものはないが、アルスター・フライという朝食が著名である。ベーコン、目玉焼き、ソーダパンまたはポテトパンからなる。 北アイルランドではサッカーとラグビーが最も盛んなスポーツとなっている。しかしカトリック系住民の間では、ゲーリック・ゲームズ(ゲーリック・フットボールとハーリング)の人気も高い。 1890年にサッカーリーグのアイリッシュ・フットボールリーグが創設され、2013年にNIFLプレミアシップへと改称されている。北アイルランドサッカー協会(IFA)によって構成されるサッカー北アイルランド代表は、FIFAワールドカップには3度出場しており1958年大会ではベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権には、2016年大会で初出場を果たしベスト16に進出した。著名な選手としては、1960年代から1970年代にかけてマンチェスター・ユナイテッドで活躍した、ジョージ・ベストが存在する。 ラグビーアイルランド代表は、北アイルランドおよびアイルランド共和国との合同チームであり欧州における強豪として知られる。クリケットアイルランド代表も北アイルランドおよびアイルランド共和国との合同チームである。ゴルフでは、ローリー・マキロイが2011年の全米オープンを皮切りにメジャー選手権を4度制しており、グレアム・マクダウェルが2010年の全米オープン、ダレン・クラークが2011年の全英オープンでそれぞれ優勝している。スヌーカーでは、アレックス・ヒギンズとデニス・テイラーという2人の世界王者を輩出している。モータースポーツでは、ジョン・ワトソンとエディ・アーバインという2人の有名F1ドライバーを輩出している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北アイルランド(きたアイルランド、英語: Northern Ireland、アイルランド語: Tuaisceart Éireannアイルランド語発音: [ˈt̪ɣuəʃcəɾɣt̪ɣ ˈeːɾjən̪ɣ]、アルスター・スコットランド語: Norlin Airlann)は、イギリスの一部であり、カントリー、州、領土、地域と様々に表現される 。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北アイルランドは、アイルランド島の北東部に位置し、南と西にアイルランド共和国と国境を接している。2011年の人口は1,810,863人で、アイルランド島の人口の約30%、英国の人口の約3%を占めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1998年に制定された北アイルランド法により設立された北アイルランド議会(所在地にちなんでストームントと呼ばれている)は、様々な権限のある政策を担当しているが、それ以外の分野はイギリス政府が担当している。北アイルランドは、いくつかの分野でアイルランド共和国と協力している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "北アイルランドは、1920年のアイルランド統治法によってアイルランドが分割された際に、1921年に北東部の6つの郡の分権政府として誕生した。北アイルランドの人口の大半は、イギリス国内に留まることを望むユニオニストであった。北アイルランドの人口の大半は、イギリスからの植民者の子孫であるプロテスタントの人々である。一方、南アイルランド(1922年にアイルランド自由国となる)の多数派と北アイルランドのかなりの少数派は、独立したアイルランドの統一を望むアイルランド民族主義者(ナショナリスト)とカトリック教徒であった。今日では、前者は一般的に自分たちをイギリス人と見なし、後者は一般的に自分たちをアイルランド人と見なしているが、北アイルランドやアルスターのアイデンティティを主張する人は、あらゆる背景を持つ多数の少数派である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "北アイルランドの誕生には、分割を擁護する側と反対する側の両方の暴力が伴った。1920年から22年にかけて、首都ベルファストでは、主にプロテスタント・ユニオニストとカトリック・ナショナリストの民間人による大規模な共同体間の暴力が発生した。500人以上が死亡し、1万人以上が難民となったが、そのほとんどがカトリック教徒であった。その後の数十年間、北アイルランドではユニオニスト党の政権が連綿と続いていた。両コミュニティによる非公式な相互分離が行われ、北アイルランドの第一大臣デヴィッド・トリンブルが「カトリック教徒にとっての冷たい家」と呼んだように、ユニオニスト政権はアイルランドの民族主義者とカトリック教徒の少数派に対する差別で非難されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1960年代後半には、カトリック教徒とナショナリストに対する差別をなくそうとするキャンペーンが、それをリパブリカンの戦線と見なしたロイヤリストによって反対された。リパブリカンとロイヤリストの準軍組織と軍が30年に渡って対立し、3,500人以上の命と50,000人以上の負傷者を出した「北アイルランド問題」を引き起こした 。1998年の「聖金曜日合意(Good Friday 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世界遺産に登録されているジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸を始めとする観光地も多い。", "title": "行政区画" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "北アイルランドの経済規模はイギリスの4地域中で最小である。主要産業は造船、ロープおよび繊維製造などであったが、次第にサービス業が占める比率が増加している。北アイルランド紛争により長年の停滞を経験したが、和平成立後はイギリスとアイルランド両国の好景気を受けて失業率が改善するなど落ち着きを取り戻しつつある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "人口あたりの国内総生産(GDP)は2005年時点で19,603ユーロであり、北西イングランド地方やウェールズよりも多い。1986年に17.2%にも及んでいた失業率は2001年には4.5%にまで減少した。労働者の特徴として、他の英国内地域に比べて長時間勤務を行っていること、収入について性差が少ないことなどが挙げられる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2021年に行われた国勢調査では、北アイルランドの住民のうち45.7%がカトリック及びカトリック系諸派の信仰を自認したのに対し、43.48%がプロテスタントまたはキリスト教諸派を信仰していた。かつてはプロテスタントが多数派であったが、カトリック教徒はプロテスタントよりも出生率が高い傾向にあり、年々カトリックの割合が増加、プロテスタントの割合の減少する傾向が続いており、2021年の調査で初めて割合が逆転した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "同調査によると、住民の31.86%が自身をイギリス人であると規定し、同様に29.36%がアイルランド人、そして19.78%が北アイルランド人であるとした。ブレグジット以降、イギリス人と自認する割合は減少傾向にある。2004年の調査では、全体の59%は長期的な視野にたった英国による北アイルランド統治を是認すると述べ、22%が統一アイルランドの形成を支持している。態度が不明確な層が存在するのは、北アイルランド同盟党が一定の支持を受けていることからも裏付けられる。最近の選挙においては、親プロテスタント政党と親カトリック政党はともに4割台の支持を得ており、残りの2割がそれ以外の政党に投票している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2005年以前に生まれた全ての住民には、アイルランド共和国の市民権が自動的に与えられていた。これはベルファスト合意を受けて2001年に制定されたアイルランド共和国の国籍法の条項によっている。ベルファスト合意においては、イギリスとアイルランド両国が北アイルランドの全ての住民にアイルランド人またはイギリス人となる権利を与えるとある。現在でもこれは大多数の住民に適用されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "歴史的な経緯から、北アイルランドではイギリスとアイルランドの双方に由来する文化がみられる。言語は英語の他にアイルランド語とアルスター・スコットランド語 (en) が公用語として認められている。アイルランド共和国ではアイルランド語の復興運動により多くの国民がアイルランド語の知識を習得しているが、北アイルランドでは復興運動は乏しく、2011年の調査によるとアイルランド語の多少の知識がある人の割合は11%、読み書きが可能なレベルではわずか3.7%にとどまっている。また、アルスター・スコットランド語はさらに少数派で読み書きが可能なレベルの割合は0.9%に過ぎない。現在では中国系移民の増加を反映して中国語が2番目の母語集団となっている。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この地域を象徴するものの一つとしてアマの花がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "食事には特に特有のものはないが、アルスター・フライという朝食が著名である。ベーコン、目玉焼き、ソーダパンまたはポテトパンからなる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北アイルランドではサッカーとラグビーが最も盛んなスポーツとなっている。しかしカトリック系住民の間では、ゲーリック・ゲームズ(ゲーリック・フットボールとハーリング)の人気も高い。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1890年にサッカーリーグのアイリッシュ・フットボールリーグが創設され、2013年にNIFLプレミアシップへと改称されている。北アイルランドサッカー協会(IFA)によって構成されるサッカー北アイルランド代表は、FIFAワールドカップには3度出場しており1958年大会ではベスト8の成績を収めた。UEFA欧州選手権には、2016年大会で初出場を果たしベスト16に進出した。著名な選手としては、1960年代から1970年代にかけてマンチェスター・ユナイテッドで活躍した、ジョージ・ベストが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ラグビーアイルランド代表は、北アイルランドおよびアイルランド共和国との合同チームであり欧州における強豪として知られる。クリケットアイルランド代表も北アイルランドおよびアイルランド共和国との合同チームである。ゴルフでは、ローリー・マキロイが2011年の全米オープンを皮切りにメジャー選手権を4度制しており、グレアム・マクダウェルが2010年の全米オープン、ダレン・クラークが2011年の全英オープンでそれぞれ優勝している。スヌーカーでは、アレックス・ヒギンズとデニス・テイラーという2人の世界王者を輩出している。モータースポーツでは、ジョン・ワトソンとエディ・アーバインという2人の有名F1ドライバーを輩出している。", "title": "スポーツ" } ]
北アイルランドは、イギリスの一部であり、カントリー、州、領土、地域と様々に表現される。 北アイルランドは、アイルランド島の北東部に位置し、南と西にアイルランド共和国と国境を接している。2011年の人口は1,810,863人で、アイルランド島の人口の約30%、英国の人口の約3%を占めている。 1998年に制定された北アイルランド法により設立された北アイルランド議会(所在地にちなんでストームントと呼ばれている)は、様々な権限のある政策を担当しているが、それ以外の分野はイギリス政府が担当している。北アイルランドは、いくつかの分野でアイルランド共和国と協力している。
{{Otheruses|アイルランド島のイギリス領地域|アイルランド島の北部|アルスター}} {{基礎情報 国 | 自治領等 = y | 略名 =北アイルランド | 日本語国名 =北アイルランド | 公式国名 ='''{{lang|en|Northern Ireland}}'''([[英語]])<br />'''{{lang|ga|Tuaisceart Éireann}}'''<small>([[アイルランド語]])</small><br />'''{{lang|sco|Norlin Airlann}}'''<small>([[スコットランド語]])</small> | 国章リンク = ([[北アイルランドの国章|国章]]) | 標語 =''[[Dieu et mon droit]]''<br />([[フランス語]]:''神と私の権利'') | 位置画像 =Northern Ireland in the UK and Europe.svg | 公用語 = [[アイルランド英語|英語]]、[[アイルランド語]]、<br />[[:en:Ulster Scots dialects|アルスター・スコットランド語]] | 首都 =[[ベルファスト]] | 最大都市 =ベルファスト | 元首等肩書 =[[イギリスの君主|連合王国国王]] | 元首等氏名 =[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] | 首相等肩書 =[[w:First Minister and deputy First Minister of Northern Ireland|第一大臣]] | 首相等氏名 =(空席) | 面積順位 = | 面積大きさ =1 E10 | 面積値 =13,843 | 水面積率 = | 人口統計年 =2020 | 人口順位 = | 人口大きさ =1 E6 | 人口値 =1,908,250 | 人口密度値 =138 | GDP統計年元 = | GDP値元 = | GDP統計年MER = | GDP順位MER = | GDP値MER = | GDP統計年 =2002 | GDP順位 = | GDP値 =332億 | GDP/人 =19,603 | 建国形態 =発足 | 建国年月日 = [[アイルランド統治法 (1920年)|アイルランド統治法]] ([[1920年]]) | 通貨 = [[スターリング・ポンド|UKポンド]] (£) | 通貨コード =GBP | 時間帯 =GMT (UTC+0) | 夏時間 =UTC+1 | 国歌名 =ロンドンデリーの歌(事実上) | ISO 3166-1 = GB ([[ISO 3166-2:GB|GB-NIR]]) | ccTLD =[[.ie]], [[.uk]] | 国際電話番号 = 353 48, 44 28 | 注記 =[[国花]]:[[シャムロック]]<br />[[守護聖人]]:[[聖パトリック]] }} '''北アイルランド'''(きたアイルランド、{{lang-en|Northern Ireland}}、{{lang-ga|Tuaisceart Éireann}}<ref>[http://www.justice.ie/ga/JELR/Pages/WP07000106 An Roinn Dlí agus Cirt agus Comhionannais : Tuaisceart Éireann]. Justice.ie. Retrieved on 2013-07-23.</ref>{{IPA-ga|ˈt̪ˠuəʃcəɾˠt̪ˠ ˈeːɾʲən̪ˠ}}、[[:en:Ulster Scots dialects|アルスター・スコットランド語]]: {{lang|sco|Norlin Airlann}})は、[[イギリス]]の一部であり、[[イギリスのカントリー|カントリー]]、州、領土、地域と様々に表現される<ref>{{Cite web|title=Statistic of the United Kingdom|url=http://www.ons.gov.uk/ons/guide-method/geography/beginner-s-guide/administrative/the-countries-of-the-uk/index.html|archiveurl=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20160105160709/http://www.ons.gov.uk/ons/guide-method/geography/beginner-s-guide/administrative/the-countries-of-the-uk/index.html|archivedate=5 January 2016|accessdate=5/9/2021}}</ref><ref>{{Cite web|title=Northern Ireland|url=https://www.britannica.com/place/Northern-Ireland|website=[[Encyclopædia Britannica]]|accessdate=11 October 2015}}</ref> <ref name="alphabeticalNI2">{{Citation|last=S. Dunn|last2=H. Dawson|year=2000|title=An Alphabetical Listing of Word, Name and Place in Northern Ireland and the Living Language of Conflict|publisher=Edwin Mellen Press|place=Lampeter|quote=One specific problem – in both general and particular senses – is to know what to call Northern Ireland itself: in the general sense, it is not a country, or a province, or a state – although some refer to it contemptuously as a statelet: the least controversial word appears to be jurisdiction, but this might change.}}</ref><ref name="interpretingNI2">{{Citation|last=J. Whyte|last2=G. FitzGerald|year=1991|title=Interpreting Northern Ireland|publisher=Oxford University Press|place=Oxford|quote=One problem must be adverted to in writing about Northern Ireland. This is the question of what name to give to the various geographical entities. These names can be controversial, with the choice often revealing one's political preferences. ... some refer to Northern Ireland as a 'province'. That usage can arouse irritation particularly among nationalists, who claim the title 'province' should be properly reserved to the four historic provinces of Ireland-Ulster, Leinster, Munster, and Connacht. If I want to a label to apply to Northern Ireland I shall call it a 'region'. Unionists should find that title as acceptable as 'province': Northern Ireland appears as a region in the regional statistics of the United Kingdom published by the British government.}}</ref><ref name="placeApart2">{{Citation|last=D. Murphy|year=1979|title=A Place Apart|publisher=Penguin Books|place=London|quote=Next – what noun is appropriate to Northern Ireland? 'Province' won't do since one-third of the province is on the wrong side of the border. 'State' implies more self-determination than Northern Ireland has ever had and 'country' or 'nation' are blatantly absurd. 'Colony' has overtones that would be resented by both communities and 'statelet' sounds too patronizing, though outsiders might consider it more precise than anything else; so one is left with the unsatisfactory word 'region'.}}</ref>。 北アイルランドは、[[アイルランド島]]の北東部に位置し、南と西に[[アイルランド|アイルランド共和国]]と国境を接している。2011年の人口は1,810,863人で、アイルランド島の人口の約30%、英国の人口の約3%を占めている。 1998年に制定された[[北アイルランド法 (1998年)|北アイルランド法]]により設立された[[北アイルランド議会]](所在地にちなんでストームントと呼ばれている)は、様々な権限のある政策を担当しているが、それ以外の分野は[[イギリス政府]]が担当している。北アイルランドは、いくつかの分野でアイルランド共和国と協力している<ref name="gfa">{{Citation|url=http://peacemaker.un.org/node/1697|title=Northern Ireland Peace Agreement (The Good Friday Agreement)|last=Government of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland|last2=Government of Ireland|year=1998}}</ref>。 == 概要 == 北アイルランドは、1920年の[[アイルランド統治法 (1920年)|アイルランド統治法]]によってアイルランドが[[分割]]された際に、1921年に[[北アイルランドのカウンティ|北東部の6つの郡]]の分権政府として誕生した。北アイルランドの人口の大半は、イギリス国内に留まることを望むユニオニストであった<ref>{{Cite web|url=http://www.uup.org/policy/standing-up-for-northern-ireland/index.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090504140541/http://www.uup.org/policy/standing-up-for-northern-ireland/index.php|archivedate=4 May 2009|title=Standing up for Northern Ireland|publisher=[[Ulster Unionist Party]]|accessdate=2 August 2008}}</ref>。北アイルランドの人口の大半は、イギリスからの植民者の子孫であるプロテスタントの人々である。一方、[[南アイルランド]](1922年に[[アイルランド自由国]]となる)の多数派と北アイルランドのかなりの少数派は、独立したアイルランドの統一を望む[[アイルランドのナショナリズム|アイルランド民族主義者]](ナショナリスト)とカトリック教徒であった<ref>Richard Jenkin, 1997, ''Rethinking ethnicity: arguments and explorations'', SAGE Publications: London: "In Northern Ireland the objectives of contemporary nationalists are the reunification of Ireland and the removal of British government."</ref><ref>Peter Dorey, 1995, ''British politics since 1945'', Blackwell Publishers: Oxford: "Just as some Nationalists have been prepared to use violence in order to secure Irish reunification, so some Unionists have been prepared to use violence in order to oppose it."</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sinnfein.ie/policies/document/155|title=Strategy Framework Document: Reunification through Planned Integration: Sinn Féin's All Ireland Agenda|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060716075752/http://www.sinnfein.ie/policies/document/155|archivedate=16 July 2006|accessdate=5/9/2021}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sdlp.ie/policy_details.php?id=78|title=Policy Summaries: Constitutional Issues|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090618145438/http://www.sdlp.ie/policy_details.php?id=78|archivedate=18 June 2009|publisher=[[Social Democratic and Labour Party]]|accessdate=2 August 2008}}</ref>。今日では、前者は一般的に自分たちをイギリス人と見なし、後者は一般的に自分たちを[[アイルランド人]]と見なしているが、北アイルランドや[[アルスター]]のアイデンティティを主張する人は、あらゆる背景を持つ多数の少数派である<ref>{{Cite web|url=http://www.ark.ac.uk/nilt/2014/Community_Relations/NINATID.html|title=Which of these best describes the way you think of yourself?|year=2014|website=Northern Ireland Life and Times Survey|accessdate=24 March 2016}}</ref>。 北アイルランドの誕生には、[[アイルランド独立戦争|分割を擁護する側と反対する側の両方の暴力]]が伴った。1920年から22年にかけて、首都[[ベルファスト]]では、主にプロテスタント・ユニオニストとカトリック・ナショナリストの民間人による大規模な共同体間の暴力が発生した<ref name="Lynch2019">Lynch, Robert.</ref>。500人以上が死亡し<ref name="auto1">Lynch (2019), p.99</ref>、1万人以上が難民となったが、そのほとんどがカトリック教徒であった<ref name="auto">Lynch (2019), pp.171–176</ref>。その後の数十年間、北アイルランドではユニオニスト党の政権が連綿と続いていた<ref>David McKittrick & David McVea.</ref>。両コミュニティによる非公式な相互分離<ref>McKittrick & McVea, p.18</ref>が行われ、北アイルランドの第一大臣[[デヴィッド・トリンブル]]が「カトリック教徒にとっての冷たい家<ref>{{Cite web|author=David|first=Trimble|title=Nobel Lecture|url=https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1998/trimble/lecture/|website=The Nobel Prize|accessdate=8 August 2020}}</ref>」と呼んだように、ユニオニスト政権はアイルランドの民族主義者とカトリック教徒の少数派に対する差別で非難されていた<ref>Gallagher, Tom.</ref>。 [[1960年代]]後半には、カトリック教徒とナショナリストに対する差別をなくそうとするキャンペーンが、それをリパブリカンの戦線と見なした[[アルスター・ロイヤリズム|ロイヤリスト]]によって反対された<ref>Maney, Gregory.</ref>。リパブリカンとロイヤリストの準軍組織と軍が30年に渡って対立し、3,500人以上の命と50,000人以上の負傷者を出した「[[北アイルランド問題]]」を引き起こした<ref>{{Cite web|url=https://cain.ulster.ac.uk/sutton/tables/Status_Summary.html|title=CAIN: Sutton Index of Deaths|website=cain.ulster.ac.uk|accessdate=5/9/2021}}</ref> <ref name="auto2">{{Cite web|url=https://cain.ulster.ac.uk/ni/security.htm|title=CAIN: Northern Ireland Society - Security and Defence|website=cain.ulster.ac.uk|accessdate=5/9/2021}}</ref>。1998年の「[[聖金曜日合意]](Good Friday Agreement)」は、準軍の武装解除や治安の正常化など、和平プロセスの大きな一歩となったが、[[セクト主義|宗派間の対立]]や隔離は依然として大きな社会問題となっており、散発的な暴力も続いている<ref>"The troubles were over, but the killing continued.</ref>。 北アイルランドの経済は、分割時にはアイルランドで最も工業化が進んでいたが、[[北アイルランド問題]]による政治的・社会的混乱の結果、衰退していった<ref>{{Cite book|last=McCourt|first=Malachy|title=History of Ireland|date=2004|publisher=MJF Books, Fine Communications|location=New York|isbn=978-1-60671-037-1|page=324}}</ref>。北アイルランドの経済は、1990年代後半から大きく成長した。最初の成長は、「平和の配当」とアイルランド共和国との貿易の増加によるもので、その後も世界中からの観光、投資、ビジネスが大幅に増加している。北アイルランドの失業率は1986年に17.2%とピークに達したが、2014年6-8月期には6.1%となり、1年間で1.2%ポイント減少し<ref>[http://www.detini.gov.uk/economic_overview___8211__october_2014.pdf?rev=0 Department of Enterprise, Trade, and Investment: Full Economic Overview, 15 October 2014] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141107220447/http://www.detini.gov.uk/economic_overview___8211__october_2014.pdf?rev=0|date=7 November 2014}}</ref>、英国の数値6.2%と同様になっている<ref>{{Cite web|url=https://www.theguardian.com/business/2014/sep/17/uk-unemployment-rate-falls-lowest-level-2008-financial-crisis|title=UK unemployment rate falls to lowest level since 2008 financial crisis|author=Larry Elliott|website=The Guardian|accessdate=5/9/2021}}</ref>。 北アイルランド、アイルランドの他の地域、英国の他の地域の文化的つながりは複雑で、北アイルランドはアイルランドの文化と英国の文化の両方を共有している。多くのスポーツでは、アイルランド島が1つのチームを構成しているが、サッカーの[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランドのサッカー代表チーム]]は例外である。北アイルランドは[[コモンウェルスゲームズ]]では別個に出場し、[[近代オリンピック|オリンピック]]では北アイルランド出身者は[[オリンピックのイギリス選手団|イギリス]]と[[オリンピックのアイルランド選手団|アイルランド]]のどちらかの代表として出場することができる。 == 歴史 == 1920年に成立した[[アイルランド統治法 (1920年)|アイルランド統治法]]によって[[アイルランド島]]は南北に{{仮リンク|アイルランドの分割|label=分割|en|Partition of Ireland}}され、それぞれに自治権が付与された。その後に発生した[[アイルランド独立戦争]]の講和条約である[[英愛条約]]に基づいて、南部26県により[[アイルランド自由国]]が建国され、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]より分離した際は北アイルランドも自由国の管轄内に含まれていた。しかしアイルランド自由国で[[アイルランド内戦|内戦]]が始まったため、英愛条約の条項に基づいて北アイルランド議会は自由国からの離脱を表明して連合王国に留まることになった。 19世紀にアイルランドがグレートブリテンおよびアイルランド連合王国へと併合されて以来、アイルランドにおいては[[ユニオニスト]](イギリスとの連合維持を主張)と[[ナショナリスト]](イギリスからの独立を主張)の対立が続いていた。アイルランド全土がイギリスに支配されていた時代から、北アイルランド地域は[[グレートブリテン島]]からの植民者が多数を占めており、ユニオニストの勢力が強かった。また、必ずしもアイルランド人即ちナショナリストではなく、経済的に考えると英国に帰属した方が有利であると考える者も多かった<ref>{{Cite news|title=Why is Northern Ireland part of the United Kingdom?|url=https://www.economist.com/the-economist-explains/2013/11/07/why-is-northern-ireland-part-of-the-united-kingdom|work=[[エコノミスト|The Economist]]|date=2013-11-07|accessdate=2019-11-01|issn=0013-0613}}</ref>。このようなことが考慮されて、北アイルランドはイギリス統治下に残留することになった。 1960年代後半になると、[[アメリカ合衆国]]の[[公民権運動]]の影響を受けて、社会的に差別を受けていた[[カトリック教会|カトリック]]の「一人一票」を要求する社会運動が活発になったが、[[プロテスタント]]主体であった北アイルランド政府はこれを抑圧。情勢は緊迫化し、深刻な分断と対立が発生した。以降、1990年代前半まで[[IRA暫定派]]を始めとするナショナリストとユニオニスト双方の[[私兵]]組織と、政府当局([[英陸軍]]、[[北アイルランド警察]])とが相争う抗争が続き、[[血の日曜日事件 (1972年)|血の日曜日事件]]など数多くの武力弾圧やテロによって数千名にものぼる死者が発生するなど、「[[北アイルランド問題|北アイルランド紛争]]」と呼ばれる事態が生じ、社会と経済の混乱は極めて苛烈なものとなった。[[北アイルランド議会]]はこの事態に対処できなかったため、[[1972年]][[3月30日]]の「1972年北アイルランド暫定法([[:en:Northern Ireland (Temporary Provisions) Act 1972]])」で議会は停止され、翌[[1973年]][[7月18日]]の「1973年北アイルランド憲法法([[:en:Northern Ireland Constitution Act 1973]])」によって正式に廃止、翌[[1974年]][[7月17日]]の「1974年北アイルランド法([[:en:Northern Ireland Act 1974]])」によって、イギリス本国の[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]による直接統治が行われるようになった。 1990年代になると和平への道が模索され始め、1998年になるとユニオニストおよびナショナリスト政党、私兵組織とイギリス、アイルランド両政府によって[[ベルファスト合意]]が形成され、アイルランド政府は国民投票の結果、北アイルランドの領有権を放棄。またこれに基づいて、全政党が参加する北アイルランド議会が復活した。この功績によって、穏健派政党の党首である[[デヴィッド・トリンブル]]と[[ジョン・ヒューム]]に[[ノーベル平和賞]]が授与されている。北アイルランドとアイルランド共和国は自由往来が保障され、国境[[検問]]が廃止された<ref name="毎日新聞20210303">[https://mainichi.jp/articles/20210303/ddm/007/030/115000c 北アイルランド EUの関税適用/英国内に「境界」再び火種/通関で品不足 不満増大]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年3月3日(国際面)2021年3月12日閲覧</ref>。 過激派によるテロが収まったことを受け、[[シティグループ]]や[[富士通]]など、外国企業による新たな直接投資が相次ぎ、経済成長を遂げている。 2016年の[[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票]]で離脱派が賛成多数となったことを受け、再び南部との間の国境問題が浮上した。国境の取扱について[[イギリスの議会]]でも議論がまとまらず、同国の[[欧州連合]](EU)離脱は2020年まで先延ばしを繰り返し厳格な国境の復活は回避された。離脱の移行期間が終了した2020年12月31日以後も北アイルランドはEU単一市場に留まっており他のイギリスの地域とは別の扱いを受けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/78835?page=4|title=漁業権問題を大きくした事情|accessdate=2021年1月2日|publisher=現代ビジネス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/55504697|title=イギリスにとって新時代始まる EU離脱完了|accessdate=2021年1月2日|publisher=[[BBC]]}}</ref>。代わりに、[[グレートブリテン島]]との間の[[アイリッシュ海]]に、イギリス国内でありながら[[通関]]などの手続きが必要な事実上の境界が設けられている<ref name="毎日新聞20210303"/>。 == 政治 == [[File:StormontGeneral.jpg|thumb|[[ベルファスト]]の[[北アイルランド議会|議会]][[w:Parliament Buildings (Northern Ireland)|議事堂]]]] 1960年代に北アイルランド問題が発生する以前、本土の[[政党]]との関係で言うと、[[アルスター統一党]]が[[保守党 (イギリス)|保守党]]に代わり、[[アルスター自由党]]が[[自由党 (イギリス)|自由党]]に代わり、それぞれ[[北アイルランド議会#旧議会|ストーモント議会]]({{en|The Parliament of Northern Ireland}}・旧議会)を支配していた。[[北アイルランド労働党]]については、本土の[[労働党 (イギリス)|労働党]]と強い協力関係を有していなかった。この他、アイルランド統一を掲げる[[ナショナリスト党]]と[[シン・フェイン党|シン・フェイン]]が活動していた。 1960年代の後半から1990年代にかけ、宗教差別を発端としたユニオニスト、ナショナリスト両勢力の私兵組織が騒乱やテロを繰り返す、いわゆる「'''[[北アイルランド問題]]'''」が巻き起こり、[[1972年]]にストーモント議会が廃止されてイギリス政府による直接統治が始まった。この社会的混乱に各政党も強い影響を受けた。アルスター統一党は、[[サニングデール合意]]を批判して保守党との関係を断絶した。アルスター自由党は、自由民主党へと衣替えしたが支持を失い、現在、同盟党の姉妹政党に落ちついている。解党された北アイルランド労働党の一部の議員によって社会民主労働党が結党された。 近年になり、イギリスの主要政党が北アイルランドの選挙に参加しようとする動きが見られる。保守党は、1980年代の終わりから候補者を送り出しているが、ほとんど支持を得られていない。[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]]は、同盟党を支援している。 === ベルファスト合意以後 === {{main|北アイルランド議会}} 現在の{{仮リンク|北アイルランド政府|en|Northern Ireland Executive}}は、[[1998年]]の[[ベルファスト合意]]によって設立が決定されたが、2002年から機能を停止した。同時に設置された[[北アイルランド議会#現議会|北アイルランド議会]]({{en|The Northern Ireland Assembly}})も、一時は、党派間の対立によって機能停止に追い込まれた。[[2003年]]の北アイルランド総選挙においては、強硬派のシン・フェインや[[民主統一党 (北アイルランド)|民主統一党]]が穏健派以上の票を獲得するなど、政治的対立が先鋭化する傾向も見られる。[[2007年]][[3月26日]]には、シン・フェインと民主統一党との間で自治機能を同年[[5月8日]]より再開させることで合意が形成されたものの、エネルギー政策をめぐる対立が激化し2017年1月に再び機能を停止。2020年1月10日にシン・フェインと民主統一党が自治政府再建で合意し、翌11日より議会が再開した<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20200112-FFJJ4HGV75IPPMGYBDMGMW3TRI/|title=英領北アイルランドで3年崩壊していた自治政府が復活 継続に向けて未だに残る不安|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-01-12|accessdate=2020-01-12}}</ref>。 北アイルランド議会における主要政党や、その議席数([[2022年]]4月時点)については、「[[北アイルランド議会#現議会]]」参照。 [[庶民院 (イギリス)|イギリス下院]]の総選挙においては、人口比に従って全646議席の内の18議席が北アイルランドに割り当てられている。[[2017年イギリス総選挙]]によって決定した現在の議席数は、民主統一党が10議席、シン・フェインが7議席、無所属が1議席で、社会民主労働党とアルスター統一党は議席を失った。シン・フェインの議員は、女王への宣誓の拒否、統一アイルランドを正統政府と見なす、などの信念から議会に参加していない。2017年の総選挙の結果、どの党も過半数を得られなかった([[ハング・パーラメント]])ために、[[保守党_(イギリス)|保守統一党]]政権は民主統一党との[[閣外協力]]協議を始めた。シン・フェインに対しても、民主統一党に対抗して登院すべきという批判があがるなど、両党への注目は俄に高まっている。 ==行政区画== [[File:NI11w.jpg|300px|right]] {{seealso|北アイルランドの地方行政区画}} 次の11の行政区からなる。 # [[ベルファスト]] # [[アーズ・アンド・ノース・ダウン]] # [[アントリム・アンド・ニュータウンアベイ]] # [[リスバーン・アンド・カースルレー]] # [[ニューリー・モーン・アンド・ダウン]] # [[アーマー・シティ・バンブリッジ・アンド・クレイガヴォン]] # [[ミッド・アンド・イースト・アントリム]] # [[コーズウェー・コースト・アンド・グランス]] # [[ミッド・アルスター]] # [[デリー・シティ・アンド・ストラバン]] # [[ファーマナ・アンド・オマー]] ベルファスト以外には[[ロンドンデリー]]、[[ニュリー]]、[[アーマー]]、[[リスバーン]]が主要都市として挙げられる。 世界遺産に登録されている[[ジャイアンツ・コーズウェー]]とコーズウェー海岸を始めとする観光地も多い。 == 経済 == 北アイルランドの経済規模はイギリスの4地域中で最小である。主要産業は造船、ロープおよび繊維製造などであったが、次第にサービス業が占める比率が増加している。北アイルランド紛争により長年の停滞を経験したが、和平成立後はイギリスとアイルランド両国の好景気を受けて失業率が改善するなど落ち着きを取り戻しつつある。 人口あたりの[[国内総生産]](GDP)は2005年時点で19,603[[ユーロ]]であり、北西[[イングランド]]地方や[[ウェールズ]]よりも多い<ref>[http://europa.eu/rapid/pressReleasesAction.do?reference=STAT/05/13&format=HTML&aged=0&language=en&guiLanguage=en Regional GDP per capita in the EU25]. 25 January 2005. Eurostat. ''URL accessed 10 May 2006''.</ref>。1986年に17.2%にも及んでいた失業率は2001年には4.5%にまで減少した<ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/business/1402261.stm "Northern Ireland's economic fears"]. 22 June 2001. Orla Ryan, BBC. ''URL accessed 10 May 2006''.</ref>。労働者の特徴として、他の英国内地域に比べて長時間勤務を行っていること、収入について性差が少ないことなどが挙げられる<ref>[http://www.detini.gov.uk/cgi-bin/get_builder_page?page=2058&amp;site=4&amp;parent=48 Economic Overview]. 2006. Northern Ireland DETI. ''URL accessed 10 May 2006''.</ref>。 == 国民 == === 宗教 === {{Main|en:Demographics of Northern Ireland|en:People of Northern Ireland|en:Religion in Northern Ireland}} {{bar box |title= 北アイルランドの宗教 |titlebar=#ddd |left1=宗教名 |right1=割合* |float=right |bars= {{bar percent|ローマ・カトリック教会|blue|45.7}} {{bar percent|プロテスタント**|lightblue|43.78}} {{bar percent|[[無宗教]]または無回答|grey|9.13}} {{bar percent|キリスト教以外|yellow|1.5}} |caption=<small>*May not add to 100% due to rounding<br />** [[w:Church of Ireland|Church of Ireland]], [[w:Presbyterian Church in Ireland|Presbyterian Church in Ireland]] and others</small> }} 2021年に行われた国勢調査では、北アイルランドの住民のうち45.7%がカトリック及びカトリック系諸派の信仰を自認したのに対し、43.48%がプロテスタントまたはキリスト教諸派を信仰していた。かつてはプロテスタントが多数派であったが、カトリック教徒はプロテスタントよりも出生率が高い傾向にあり、年々カトリックの割合が増加、プロテスタントの割合の減少する傾向が続いており、2021年の調査で初めて割合が逆転した<ref name="TheGuardian202209">{{Cite news|title=Catholics outnumber Protestants in Northern Ireland for first time|newspaper=The Guardian|date=2022年9月23日|accessdate=2022年9月23日|url=https://amp.theguardian.com/world/2022/sep/22/catholics-outnumber-protestants-northern-ireland-census}}</ref>。 === 帰属意識 === 同調査によると、住民の31.86%が自身をイギリス人であると規定し、同様に29.36%がアイルランド人、そして19.78%が北アイルランド人であるとした。[[ブレグジット]]以降、イギリス人と自認する割合は減少傾向にある<ref name="TheGuardian202209"/>。2004年の調査では、全体の59%は長期的な視野にたった英国による北アイルランド統治を是認すると述べ、22%が統一アイルランドの形成を支持している<ref>[http://www.ark.ac.uk/nilt/2004/Political_Attitudes/NIRELAND.html Ark survey, 2004. Answers to the question "Do you think the long-term policy for Northern Ireland should be for it to [one of the following<nowiki>]</nowiki>"]</ref>。態度が不明確な層が存在するのは、[[北アイルランド同盟党]]が一定の支持を受けていることからも裏付けられる。最近の選挙においては、親プロテスタント政党と親カトリック政党はともに4割台の支持を得ており、残りの2割がそれ以外の政党に投票している<ref name="TheGuardian202209"/>。 === アイルランド共和国国籍 === 2005年以前に生まれた全ての住民には、アイルランド共和国の[[市民権]]が自動的に与えられていた。これはベルファスト合意を受けて2001年に制定されたアイルランド共和国の国籍法の条項によっている。ベルファスト合意においては、イギリスとアイルランド両国が北アイルランドの全ての住民にアイルランド人またはイギリス人となる権利を与えるとある。現在でもこれは大多数の住民に適用されている。 === 教育 === {{main|イギリスの教育#北アイルランドの教育}} == 言語 == [[File:Ulster Covenant Commemoration Parade, Belfast, September 2012 (010).JPG|thumb|right|[[w:Orange Order|オレンジ結社]]の行進]] 歴史的な経緯から、北アイルランドではイギリスとアイルランドの双方に由来する文化がみられる。言語は[[英語]]の他に[[アイルランド語]]と[[アルスター・スコットランド語]]{{enlink|Ulster Scots dialects|a=on}}が公用語として認められている。アイルランド共和国ではアイルランド語の復興運動により多くの国民がアイルランド語の知識を習得しているが、北アイルランドでは復興運動は乏しく、2011年の調査によるとアイルランド語の多少の知識がある人の割合は11%、読み書きが可能なレベルではわずか3.7%にとどまっている。また、アルスター・スコットランド語はさらに少数派で読み書きが可能なレベルの割合は0.9%に過ぎない。現在では中国系移民の増加を反映して[[中国語]]が2番目の母語集団となっている。 == 文化 == この地域を象徴するものの一つとして[[アマ (植物)|アマ]]の花がある。 食事には特に特有のものはないが、[[アルスター・フライ]]<ref>{{Cite web |url = https://www.bbc.co.uk/food/recipes/theulsterfry_92143|title = The Ulster fry|website = www.bbc.co.uk|publisher = BBC|date = |accessdate = 2020-06-09}}</ref>という朝食が著名である。[[ベーコン]]、[[目玉焼き]]、[[ソーダブレッド|ソーダパン]]または[[ポテトパンケーキ|ポテトパン]]からなる。 == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|北アイルランドのスポーツ|en|Sport in Northern Ireland}}}} 北アイルランドでは[[サッカー]]と[[ラグビーユニオン|ラグビー]]が最も盛んな[[スポーツ]]となっている。しかしカトリック系住民の間では、[[ゲーリック・ゲームズ]]([[ゲーリック・フットボール]]と[[ハーリング]])の人気も高い。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|北アイルランドのサッカー|en|Association football in Northern Ireland}}}} [[1890年]]にサッカーリーグのアイリッシュ・フットボールリーグが創設され、[[2013年]]に'''[[NIFLプレミアシップ]]'''へと改称されている。[[アイリッシュ・フットボール・アソシエーション|北アイルランドサッカー協会]](IFA)によって構成される[[サッカー北アイルランド代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には3度出場しており[[1958 FIFAワールドカップ|1958年大会]]ではベスト8の成績を収めた。[[UEFA欧州選手権]]には、[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]で初出場を果たしベスト16に進出した。著名な選手としては、[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]で活躍した、'''[[ジョージ・ベスト]]'''が存在する。 === その他の競技 === [[ラグビーアイルランド代表]]は、北アイルランドおよびアイルランド共和国との合同チームであり欧州における強豪として知られる。[[クリケットアイルランド代表]]も北アイルランドおよびアイルランド共和国との合同チームである。[[ゴルフ]]では、[[ローリー・マキロイ]]が2011年の[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]を皮切りに[[メジャー選手権]]を4度制しており、[[グレアム・マクダウェル]]が2010年の全米オープン、[[ダレン・クラーク]]が2011年の[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]]でそれぞれ優勝している。[[スヌーカー]]では、アレックス・ヒギンズとデニス・テイラーという2人の世界王者を輩出している。[[モータースポーツ]]では、[[ジョン・ワトソン (レーサー)|ジョン・ワトソン]]と[[エディ・アーバイン]]という2人の有名[[フォーミュラ1|F1]]ドライバーを輩出している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[北アイルランドの旗]] * [[北アイルランド問題]] * 北アイルランド問題に関する研究者 ** [[南野泰義]] ** [[門倉俊雄]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Northern Ireland|Northern Ireland}} {{Wiktionary}} '''政府''' * [http://www.niassembly.gov.uk/ 北アイルランド議会] {{en icon}} * [http://www.nio.gov.uk/ 英国政府北アイルランド担当省] {{en icon}} '''観光''' * [http://www.discovernorthernireland.com/ 北アイルランド政府観光庁] {{en icon}} * [http://www.visitbritain.jp/destinations/northern-ireland/index.aspx 英国政府観光庁 - 北アイルランド] {{ja icon}} '''その他''' * {{Kotobank}} {{連合王国構成国と王室領}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:きたあいるらんと}} [[Category:北アイルランド|*]] [[Category:アイルランド島|きた]] [[Category:ケルト]]
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Lynx (ウェブブラウザ)
Lynx(リンクス)は、テキストベースのウェブブラウザである。多くのUnix系OSや Windows、macOS (Lynxlet) で動作する。 以上の特徴から、ウェブアクセシビリティを検証するために用いられることもある。2015年時点のWeb標準に準拠していない。
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Lynx(リンクス)は、テキストベースのウェブブラウザである。多くのUnix系OSや Windows、macOS (Lynxlet) で動作する。
{{混同|Links}} {{Infobox Software| 名称 = Lynx |logo = |スクリーンショット = Japanese_Wikipedia_Main_Page_on_Lynx.png |説明文 = Lynx [[Microsoft Windows|Win32]] 日本語対応版 |開発元 = [[カンザス大学]] |最新版 = 2.8.9rel.1 |最新版発表日 = {{release date and age|2018|07|08}} <ref name="release_date">{{Cite web |url=https://lynx.invisible-island.net/lynx2.8.9/breakout/CHANGES |title=https://lynx.invisible-island.net/lynx2.8.9/breakout/CHANGES |accessdate=2023-08-03}}</ref> |最新評価版 = 2.9.0dev.12 |最新評価版発表日 = {{release date and age|2023|01|09}} <ref>{{Cite web |url=https://lynx.invisible-island.net/current/CHANGES.html#v2.9.0dev.12 |title=https://lynx.invisible-island.net/current/CHANGES.html#v2.9.0dev.12 |accessdate=2023-08-03}}</ref> |対応OS = [[クロスプラットフォーム]] |サポート状況 = 開発中 |種別 = [[ウェブブラウザ]] |ライセンス = [[GNU General Public License|GPL]] |公式サイト = {{URL|https://lynx.invisible-island.net/}} }} '''Lynx'''(リンクス)は、[[キャラクタユーザインタフェース|テキストベース]]の[[ウェブブラウザ]]である。多くの[[Unix系]]OSや [[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]] (Lynxlet) で動作する。 == 特徴 == * [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]で軽快、快適に操作できるように設計されている。一方、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]で操作できる範囲はごく限られる。 * 画像を表示しない。インライン画像の代わりに、[[alt属性]]により指定された代替テキストを表示する。外部[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]を用いて画像を表示するよう設定は可能。 * テーブルに対応していない。表示領域に収まるテーブルであれば適切に各セルのテキストを配置して表示できる場合がある。 * フレームに対応していない。フレーム内の各文書へのリンクが表示されるため、それらを個別に閲覧することは可能。 * link要素によるナビゲーションに対応している。 以上の特徴から、[[アクセシビリティ|ウェブアクセシビリティ]]を検証するために用いられることもある。2015年時点のWeb標準に準拠していない。 == 他のテキストブラウザ == * [[ELinks]] * [[Links]] * [[Netrik]] * [[w3m]] == 関連項目 == * [[コンピュータアクセシビリティ]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == {{Portal|FLOSS|}} * [http://lynx.browser.org/ Lynx] * [http://linux4u.jinr.ru/usoft/WWW/www_crl.com/subir/lynx.html Extremely Lynx] * [http://lynx-win32-pata.sourceforge.jp/ Lynx for Win32 (by patakuti) - Lynx Win32 日本語対応版] {{ウェブブラウザ}} {{FLOSS-stub}} [[Category:テキストブラウザ]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:1992年のソフトウェア]]
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アドレナリン
アドレナリン(adrenaline、英名)、エピネフリン(epinephrine、米名、IUPAC組織名:4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール)は、副腎髄質より分泌されるホルモンであり、薬物である。また、神経節や脳神経系における神経伝達物質でもある。分子式はC9H13NO3である。闘争・逃走反応において重要な役割を果たす。 ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。 「生体内で合成される生理活性物質」という捉え方と、「医薬品」という捉え方の違いから、生物学の教科書・論文では世界共通でアドレナリンと呼んでいる。欧州薬局方では「アドレナリン」が採用されているほか、日本でも医薬品の正式名称を定める日本薬局方が2006年4月に改正され、一般名がエピネフリンからアドレナリンに変更されている。 交感神経が興奮した状態、すなわち「闘争か逃走か (fight-or-flight)」のホルモンと呼ばれる。動物が敵から身を守る、あるいは獲物を捕食する必要にせまられるなどといった状態に相当するストレス応答を、全身の器官に引き起こす。 興奮すると分泌される。例えば喧嘩になった時に分泌されて、血まみれや骨折の状態になっても全く痛みを感じないといったケースもある。 アドレナリンはカテコールアミン(アドレナリン、ノルアドレナリンおよびドパミン)の一つである。L-チロシンからL-ドーパを経て順にドパミン、ノルアドレナリン(ノルエピネフリン)、アドレナリン(エピネフリン)と生合成される。 アドレナリンは1895年にナポレオン・ツィブルスキによって初めて発見された。彼が動物の副腎から抽出したものには血圧を上げる効果が見られたが、これにはアドレナリンとその他のカテコールアミンも含まれていた。彼はこれらの抽出物を"nadnerczyna"と呼んだ。これとは独立に、ニュージャージーの研究所にいた高峰譲吉と助手の上中啓三は1900年にウシの副腎からアドレナリンを発見し、1901年に世界で初めて結晶化に成功した。この時、実際に実験に成功したのは上中であった。同時期、副腎から放出されている血圧を上げる物質の抽出研究は世界中で行われており、ドイツのフェルトはブタから分離した物質に「スプラレニン (suprarenin)」、アメリカ合衆国の研究者ジョン・ジェイコブ・エイベル(英語版)はヒツジの副腎から分離した物質に「エピネフリン (epinephrine)」と名付けた。アドレナリンは英語、スプラレニンはラテン語、エピネフリンはギリシア語でそれぞれ副腎を意味する語に由来する。 アドレナリンは1904年にフリードリヒ・シュトルツ(英語版)およびヘンリー・デーキンらによって独立に合成された。 エピネフリンはアドレナリンとは分子式の異なる物質であったが、高峰の死後に、エイベルは高峰の研究は自分の盗作であると主張した。これはアドレナリン発表寸前に高峰がエイベルの研究室を訪問した事実を盾に取った主張であった。それまでの実績が主として発酵学の分野で、こうした分野での実績に乏しい高峰が、研究に大きな役割を果たした上中の功績を強調せず、自己の業績として発表したことも、本当に高峰らの業績だったのかを疑わせる一因であったと指摘する考えもある。しかし、後年、上中の残した実験ノートより反証が示されており、またエイベルの方式では抽出できないことも判明して、高峰と上中のチームが最初のアドレナリンの発見者であったことは確定している。なお、上中が残した実験ノートは兵庫県西宮市の名刹・教行寺に保管されている。 現在ではアドレナリンもエピネフリンも同じ物質のことを指しているが、ヨーロッパでは高峰らの功績を認めて「アドレナリン」の名称が使われているのに対して、アメリカではエイベルの主張を受けて、副腎髄質ホルモンを「エピネフリン」と呼んでいる。 アドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬や、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられる。有害反応には、動悸、心悸亢進、不安、頭痛、振戦、高血圧などがある。 心停止の4つの病態、すなわち心室細動、無脈性心室頻拍、心静止、無脈性電気活動はいずれも心マッサージは必要であるが、そのうち前2者は除細動が、後2者に対してはアドレナリンが第1選択として長く使用されてきた。近年ではバソプレシンが救命率、生存退院率に寄与する場合もあると言われてバソプレシンも補助的に使用を推奨される場合もある。 アドレナリンの投与法は、その時の病態や個人差による感受性の差があるので一律には決められないが、アナフィラキシーショックの場合は筋肉注射や皮下注射では1回投与量は0.2~0.5mlであり、原則0.5ml以下を守るべきである。血圧等vital signを見ながら数秒毎ないし数分毎の追加も考慮しなければならない。代謝は速やかなので、1回投与量および必要による複数回追加の配慮、これが治療のポイントである。筋注か皮下注かによる臨床上の大きな違いはない。 点滴や静脈内投与の場合、希釈割合、投与速度、ワンショット後押し、等の様々なやり方によりその効果が変わってくる。なお心静止時の静脈投与や1mg心内注の臨床上の使用目的は別に扱うべき問題である。 また局所麻酔剤に10万分の1程度添加して、麻酔時間の延長、局所麻酔剤中毒の予防、手術時出血の抑制を図ることもある。 代謝は、まずモノアミン酸化酵素によって酸化(脱アミノ化)され、最終的にはバニリルマンデル酸として尿中に排泄される。 商品名として「エピスタ」「ボスミン」「エピペン」がある。 褐色細胞腫は副腎腫瘍の一つであり、多量のカテコールアミンが分泌される疾患である。 アドレナリン中毒、アドレナリン・ジャンキー(adrenaline junkie)とは、「物理的、社会的、法的、財政的リスクを無視した、新規で強烈な経験の追求」で得られる感覚の追求に取り組んでいる人のことを指す。それらの活動として、極端に危険なスポーツ、薬物乱用、危険セックス、犯罪行為があげられる。この用語は、生理的ストレスにある環境での、アドレナリンの循環レベルの増加に関連するものである 。 アドレナリンは、非常に強力な肉体力(火事場の馬鹿力)に関係しており、これはしばしば危機の時に発生する。たとえば、子供が下に閉じ込められたときに、親が車の一部を持ち上げたというエピソードが存在する。
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アドレナリン(adrenaline、英名)、エピネフリン(epinephrine、米名、IUPAC組織名:4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール)は、副腎髄質より分泌されるホルモンであり、薬物である。また、神経節や脳神経系における神経伝達物質でもある。分子式はC9H13NO3である。闘争・逃走反応において重要な役割を果たす。 ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。 「生体内で合成される生理活性物質」という捉え方と、「医薬品」という捉え方の違いから、生物学の教科書・論文では世界共通でアドレナリンと呼んでいる。欧州薬局方では「アドレナリン」が採用されているほか、日本でも医薬品の正式名称を定める日本薬局方が2006年4月に改正され、一般名がエピネフリンからアドレナリンに変更されている。
{{Otheruses|ホルモンのアドレナリン|その他}} {{drugbox | | width = 200 | image = Adrenaline chemical structure.png | image2 = Epinephrine-3d-CPK.png |imagename=''(R)''-(−)-<small>L</small>-Epinephrine or ''(R)''-(−)-<small>L</small>-adrenaline |IUPAC_name = ''(R)''-4-(1-hydroxy-<br />2-(methylamino)ethyl)benzene-1,2-diol |CAS_number = 51-43-4 |ATC_prefix = A01 |ATC_suffix = AD01 |ATC_supplemental ={{ATC|B02|BC09}}{{ATC|C01|CA24}}{{ATC|R01|AA14}}{{ATC|R03|AA01}}{{ATC|S01|EA01}} |PubChem = 838 |DrugBank = APRD00450 | KEGG = D00095 |C = 9 | H = 13 | N = 1 | O = 3 |molecular_weight = 183.204 g/mol |bioavailability = Nil (oral) |metabolism = [[シナプス]] |elimination_half-life = 2分 |excretion = n/a |pregnancy_AU = A |pregnancy_US = C |legal_AU = S4 |legal_US = Rx-only |legal_UK = POM |routes_of_administration =[[静脈注射]]、[[筋肉内注射]]、[[点滴静脈注射]] }} '''アドレナリン'''('''adrenaline'''、英名)、'''エピネフリン'''('''epinephrine'''、米名、IUPAC組織名:4-[1-ヒドロキシ-2-(メチルアミノ)エチル]ベンゼン-1,2-ジオール)は、[[副腎髄質]]より分泌される[[ホルモン]]であり、薬物である<ref name=Chan2013>{{cite book | first1 = Michael | last1 = Lieberman | first2 = Allan | last2 = Marks | first3 = Alisa | last3 = Peet | name-list-format = vanc | title=Marks' Basic Medical Biochemistry: A Clinical Approach | date = 2013 | publisher = Wolters Kluwer Health/Lippincott Williams & Wilkins | location = Philadelphia | isbn = 9781608315727 | page = 175 | edition = 4th | url = https://books.google.com/books?id=3FNYdShrCwIC&pg=PA175 }}</ref><ref>{{cite web |url= http://www.guidetopharmacology.org/GRAC/LigandDisplayForward?ligandId=479|title=(-)-adrenaline|date=21 August 2015 |accessdate=2015-08 }}</ref>。また、[[神経節]]や脳神経系における[[神経伝達物質]]でもある<ref name=Chan2013 /><ref name="NHM Epinephrine">{{cite book |vauthors=Malenka RC, Nestler EJ, Hyman SE |veditors=Sydor A, Brown RY | title = Molecular Neuropharmacology: A Foundation for Clinical Neuroscience | year = 2009 | publisher = McGraw-Hill Medical | location = New York, USA | isbn = 9780071481274 | page = 157 | edition = 2nd | chapter = Chapter 6: Widely Projecting Systems: Monoamines, Acetylcholine, and Orexin | quote = Epinephrine occurs in only a small number of central neurons, all located in the medulla. 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https://www.pref.aichi.jp/eiseiken/3f/jph.html |title= 第十五改正日本薬局方-高峰譲吉発見・命名の「アドレナリン」を日本名として採用 |publisher= 愛知県衛生研究所 |date= 2006-06-30 |accessdate= 2020-01-22 }}</ref>。 == 生理学的効果 == [[交感神経]]が[[興奮]]した状態、すなわち「[[闘争・逃走反応|闘争か逃走か]] (fight-or-flight)」のホルモンと呼ばれる。動物が敵から身を守る、あるいは獲物を捕食する必要にせまられるなどといった状態に相当するストレス応答を、全身の器官に引き起こす。 * 運動器官への血液供給増大を引き起こす反応 ** [[心筋]]収縮力の上昇 ** 心、肝、骨格筋の血管拡張 ** 皮膚、粘膜の血管収縮 ** [[消化管]]運動低下 * [[呼吸]]におけるガス交換効率の上昇を引き起こす反応 ** [[気管支平滑筋]]弛緩 * 感覚器官の感度を上げる反応 ** [[瞳孔散大]] * 痛覚の麻痺 * [[勃起不全]] 興奮すると分泌される。例えば[[喧嘩]]になった時に分泌されて、血まみれや骨折の状態になっても全く痛みを感じないといったケースもある。 == 構造と生合成 == アドレナリンは[[カテコールアミン]](アドレナリン、[[ノルアドレナリン]]および[[ドーパミン|ドパミン]])の一つである。L-[[チロシン]]から[[レボドパ|L-ドーパ]]を経て順にドパミン、ノルアドレナリン([[ノルエピネフリン]])、アドレナリン(エピネフリン)と生合成される。 == 歴史 == アドレナリンは1895年に[[:en:Napoleon Cybulski|ナポレオン・ツィブルスキ]]によって初めて発見された<ref>[https://ameblo.jp/yudaganka/entry-10729407260.html アドレナリンとエピネフリン]</ref>。彼が動物の副腎から抽出したものには[[血圧]]を上げる効果が見られたが、これにはアドレナリンとその他の[[カテコールアミン]]も含まれていた。彼はこれらの抽出物を"nadnerczyna"と呼んだ。これとは独立に、[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]の研究所にいた[[高峰譲吉]]と助手の[[上中啓三]]は1900年に[[ウシ]]の[[副腎]]からアドレナリンを発見し<ref>{{cite journal |author=Yamashima T |title=Jokichi Takamine (1854–1922), the samurai chemist, and his work on adrenalin |journal=J Med Biogr |volume=11 |issue=2 |pages=95–102 |year=2003 |pmid=12717538}}</ref><ref name="pmid10454061">{{cite journal |author=Bennett M |title=One hundred years of adrenaline: the discovery of autoreceptors |journal=Clin Auton Res |volume=9 |issue=3 |pages=145–59 |year=1999 |pmid=10454061 |doi=10.1007/BF02281628}}</ref>、1901年に世界で初めて[[結晶化]]に成功した<ref>{{cite book |author=Takamine J |title=The isolation of the active principle of the suprarenal gland |work=The Journal of Physiology |publisher=Cambridge University Press |location=Great Britain |year=1901 |pages=xxix-xxx 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9784876985876}}</ref>。 現在ではアドレナリンもエピネフリンも同じ物質のことを指しているが、ヨーロッパでは高峰らの功績を認めて「アドレナリン」の名称が使われているのに対して、アメリカではエイベルの主張を受けて、[[副腎髄質ホルモン]]を「エピネフリン」と呼んでいる。 == 医療用途 == [[ファイル:Adrenalin Ampulle.jpg|right|thumb|160px|アドレナリン(商品名「スプラレニン」)の[[アンプル]]]]{{複数の問題 | section = 1 | 脚注の不足 = 2023年6月24日 (土) 13:12 (UTC) | 更新 = 2023年6月24日 (土) 13:12 (UTC) | 正確性 = 2023年6月24日 (土) 13:12 (UTC) | Wikify = 2023年6月24日 (土) 13:12 (UTC) }} アドレナリンは[[心停止]]時に用いたり、[[アナフィラキシーショック]]や[[敗血症]]に対する血管収縮薬や、[[気管支喘息]][[発作]]時の気管支拡張薬として用いられる。有害反応には、[[動悸]]、心悸亢進、[[不安]]、[[頭痛]]、[[振戦]]、[[高血圧]]などがある。 心停止の4つの病態、すなわち[[心室細動]]、無脈性心室頻拍、心静止、無脈性電気活動はいずれも心マッサージは必要であるが、そのうち前2者は除細動が、後2者に対してはアドレナリンが第1選択として長く使用されてきた。近年では[[バソプレシン]]が救命率、生存退院率に寄与する場合もあると言われてバソプレシンも補助的に使用を推奨される場合もある。 アドレナリンの投与法は、その時の病態や個人差による感受性の差があるので一律には決められないが、アナフィラキシーショックの場合は筋肉注射や皮下注射では1回投与量は0.2~0.5mlであり、原則0.5ml以下を守るべきである。血圧等vital signを見ながら数秒毎ないし数分毎の追加も考慮しなければならない。代謝は速やかなので、1回投与量および必要による複数回追加の配慮、これが治療のポイントである。筋注か皮下注かによる臨床上の大きな違いはない。 点滴や静脈内投与の場合、希釈割合、投与速度、ワンショット後押し、等の様々なやり方によりその効果が変わってくる。なお心静止時の静脈投与や1mg心内注の臨床上の使用目的は別に扱うべき問題である。 * メモ1. 循環器内科領域で心疾患にβblockerを使う頻度が極めて多くなっている。βブロッカー内服中の患者のアナフィラキシーショックで、大量のアドレナリンでも効果不十分でグルカゴンでやっと効果が出て回復したとの次の症例報告は貴重である。『遮断薬内服中のため治療に難渋した造影剤アナフィラキシーショックによる心肺停止に対してグルカゴン投与で救命できた1例.  仙台市立病院医誌35, 62-65, 2015. https://hospital.city.sendai.jp/pdf/p062-065%2035.pdf 』 * メモ2. β1選択的であってもβ2選択的気管支喘息薬と併用するのは原則禁忌で、極めて慎重を期する問題である。 * メモ3. フェノチアジン系の[[抗精神病薬]]はα1-blockade作用があるため、かつては「アドレナリン反転」と言って、アナフィラキシーショックの際のアドレナリン併用禁忌とされた時期があったが、2018年3月になり日本でもアナフィラキシーショックの場合は、抗精神病薬とアドレナリンの「併用禁忌」が正式に解除された。世界では併用禁忌に元々なっていない。日本で併用禁忌になった経緯は不明。 * メモ4 『Epinephrine absorption in children with a history of anaphylaxis. J Allergy Clin Immunol. 1998 Jan;101(1 Pt 1):33-7. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/9449498/ 』アドレナリン注射の注射経路と効果については、この論文を根拠にしてアドレナリン投与は筋注でなければ駄目だとの意見がある。しかしこの論文では測定値に外因性・内因性を区別していない。即ちこのデータには神経反射による内因性アドレナリン放出も含むと考えられる。また皮下注射でも筋肉注射でも最、短測定時間の5分に最初のピークがあるので、効果の発現時間にも大きな差はないと言える。最大効果発現強度や最大効果発現時間には筋注・皮下注の差はあるとしても、個体間の感受性の差・同一個体での病態による感受性の差を考えると、皮下注を否定する根拠は乏しい。実地臨床で大切なのはアドレナリン注射の効果を見ながら、必要時の追加投与のタイミングを見定めることである。 また[[局所麻酔剤]]に10万分の1程度添加して、麻酔時間の延長、局所麻酔剤中毒の予防、手術時出血の抑制を図ることもある。 [[代謝]]は、まず[[モノアミン酸化酵素]]によって酸化(脱アミノ化)され、最終的には[[バニリルマンデル酸]]として尿中に排泄される。 商品名として「エピスタ」「ボスミン」「[[エピペン]]」がある。 === 併用禁忌 === * [[カフェイン]](カフェイン飲料・製剤)-相互に作用を増強させ、心臓に負荷をかける。突然死の原因につながることもある。 * タバコ([[喫煙]]) - 相互に作用を増強、精神活動を賦活、錯乱を招く恐れがある。 * 血管拡張作用のある薬 - 血管収縮作用を減弱させ、相互に効力を弱める。 * [[ブチロフェノン系]]、[[フェノチアジン系]]薬等(α遮断作用のある薬)-アドレナリンの作用を逆転させ、急激な血圧降下を起こす。 == アドレナリンと疾患 == [[褐色細胞腫]]は副腎腫瘍の一つであり、多量の[[カテコールアミン]]が分泌される疾患である。 == 社会と文化== ===アドレナリン中毒=== '''アドレナリン中毒'''、'''アドレナリン・ジャンキー'''(adrenaline junkie)とは、「物理的、社会的、法的、財政的リスクを無視した、新規で強烈な経験の追求」で得られる感覚の追求に取り組んでいる人のことを指す<ref>{{cite book|last1=Zuckerman|first1=Marvin | name-list-format = vanc |title=Sensation seeking and risky behavior|date=2007|publisher=American Psychological Association|location=Washington, DC|isbn=978-1591477389|edition=2. print.}}</ref>。それらの活動として、極端に危険なスポーツ、[[薬物乱用]]、危険セックス、犯罪行為があげられる。この用語は、生理的ストレスにある環境での、アドレナリンの循環レベルの増加に関連するものである<ref name="Jänig">{{cite book|last1=Jänig|first1=Wilfrid | name-list-format = vanc |title=The integrative action of the autonomic nervous system : neurobiology of homeostasis|date=2006|publisher=UK|location=Cambridge|isbn=9780521845182|pages=143–146}}</ref> 。 ===火事場の馬鹿力=== アドレナリンは、非常に強力な肉体力(火事場の馬鹿力)に関係しており、これはしばしば危機の時に発生する。たとえば、子供が下に閉じ込められたときに、親が車の一部を持ち上げたというエピソードが存在する<ref>{{cite news|title=When Fear Makes Us Superhuman|url=http://www.scientificamerican.com/article/extreme-fear-superhuman/|accessdate=25 August 2015|publisher=Scientific American|date=28 December 2009}}</ref><ref>{{cite book|last1=Wise|first1=Jeff | name-list-format = vanc | title=Extreme fear : the science of your mind in danger|date=2009|publisher=Palgrave Macmillan|location=New York|isbn=978-0230614390|edition=1st}}</ref>。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{Commons|Epinephrine}} * [[アドレナリン反転]] ==外部リンク== *{{脳科学辞典|アドレナリン}} *[https://npo-takamine.org/who_is_takaminejokichi/scientist_inventor/adrenaline/ アドレナリンの発見(高峰譲吉博士研究会HPより)] {{ホルモン}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あとれなりん}} [[Category:神経伝達物質]] [[Category:ストレス]] [[Category:ホルモン]] [[Category:カテコールアミン]] [[Category:WHOエッセンシャルドラッグ]] [[Category:ノルアドレナリン放出薬]] [[Category:高峰譲吉]]
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不破哲三
不破 哲三(ふわ てつぞう、本名:上田 建二郎、1930年〈昭和5年〉1月26日 - )は、日本の政治家、共産主義者。日本共産党中央委員会常任幹部会委員、党付属社会科学研究所所長。前党中央委員会議長。元衆議院議員(11期)。「不破哲三」はペンネーム。 日本共産党元副委員長の上田耕一郎は実兄。父は教育評論家の上田庄三郎。 当時上田家には「跡取り」がいなかったため、父子共々養子として引き取られる。両親は高知県の出身。 旧制東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)、第一高等学校を経て、東京大学理学部物理学科卒業。 1970年、40歳で日本共産党の書記局長に就任し、当時マスコミから「共産党のプリンス」と呼ばれた。 1974年1月29日の予算委員会では、日本分析化学研究所が実施していた放射能測定で、データがねつ造されていることを指摘した(「米原子力潜水艦放射能測定不正事件」)。 1982年に宮本顕治が中央委員会議長になり、不破が幹部会委員長に就任した。1984年にキューバのフィデル・カストロと3時間以上に及んで会談した。 1987年に公式には「心臓病のため」幹部会委員長を降り、第18回大会で新設された中央委員会副議長に就任した。村上弘委員長退任後、幹部会委員長に復帰した。選挙で党の躍進が続いた頃、マスコミから「スマイリング・コミュニスト」(微笑する共産主義者)(1998年度流行語大賞特別賞受賞)と呼ばれた。1998年に、31年間対立・絶縁していた中国共産党との交流を再開した。 2000年の党大会で中央委員会議長に就任。2004年の党大会で全面的な綱領改定の提案をおこなった。2006年1月の党大会で高齢などを理由に議長職を退任し、党中央委員会付属社会科学研究所の所長に就任した。なお、中央委員会議長職は党規約上廃止されていないが、不破の退任以後は空席となっている。 140冊以上の著作があるほか、「赤旗」の評論員論文・無署名論文の多くを執筆したともいわれる。 子ども向けのテレビ番組『ウゴウゴルーガ』(フジテレビ他)において政治家としてではなく、登山の講師(「やまのぼりのえらいひと」)として出演したことがあるほど山登りが好き。70歳までは毎年元日に富士山に登り、初日の出を見ていたという。現在の自宅も神奈川県相模原市緑区(旧津久井郡津久井町)の山中にある。 時代小説も好きで、少年時代はその方面での作家にもなりたかったと語っている。またテレビ時代劇を愛好し、時代劇専門チャンネルを視聴している。 TBS『クイズダービー』に、「野党の委員長と1年生議員大会」で、当時1年生議員の高崎裕子と出場し10万点を達成した。 2010年、読売新聞の連載企画、「時代の証言者」で、「昔は軍国少年だった」と語った。 メガネが最も似合う各界の著名人として、1998年に日本メガネベストドレッサー賞(政界部門)を受賞した。 直木賞作家の水上勉と交流があり、水上勉が死去した際に追悼文を書いている。 妻の七加子が伝記を出版している。七加子は日本共産党員で、2020年(令和2年)5月17日に死去した。 日本共産党を離党した筆坂秀世は、離党後行った共産党批判のなかで、不破が2000年に日朝国交正常化交渉で北朝鮮による日本人拉致問題を事実上棚上げにすることを求めた、と主張した。不破は、(拉致問題が疑惑だった段階では)それに応じた緻密な外交努力をするべきと主張したのであって、これを拉致棚上げの主張と非難するのは曲解である、と反論している。 2017年に86歳の不破哲三が常任幹部会委員に留任、84歳の浜野忠夫が幹部会副委員長に就任したことに触れて、筆坂は80代で未だに引退せずに自身の元で人事を牛耳らせた男を三役に置いたことに、「共産党の幹部の誰一人として異論を挟めない共産党の異常が露見している。共産党が普通の政党になるならばまず物言えない体制こそ改めるべき」と強く批判している。 2001年の九州南西海域工作船事件における海上保安庁の対応を肯定する日本共産党の見解に対して、当時党議長だった不破は「中国は『海保はやりすぎだ』と批判している」ことを主張し、日本共産党のこの見解の発表を潰したとされている。 論文「日本社会党の綱領的路線の問題点」の中で、社会党の平和革命路線を批判する中で「『暴力革命唯一論』者の議論は,民主主義を擁護する人民の力を無視した受動的な敗北主義の議論である。しかし,反対に『平和革命』の道を唯一のものとして絶対化する『平和革命必然論』もまた,米日支配層の反動的な攻撃にたいする労働者階級と人民の警戒心を失わせる日和見主義的『楽観主義』の議論であり,解放闘争の方法を誤まらせるものなのである」と述べており、公安調査庁は共産党の「敵の出方論」を裏付けるものだとしている。 近年、エンゲルスへの批判を強めており、まずは『空想から科学へ』で定義された「資本主義の基本矛盾」について疑問を呈し、つづいてエンゲルスによる『資本論』第2・3部の編集方針についても批判を行った。新日本出版社は、この不破の見解に沿って旧来の新日本新書版『資本論』の改訂を行い、『新版 資本論』を完結させた(2019~2021年)。これに対して、川上則道、谷野勝明などから厳しい批判が出されている。 著書は140冊以上にのぼり、日本の政治家としては最も多い。消しクズが散らからなくてよいからと、早くからワープロでの執筆も始めている。回顧録を共産党とは対極の保守系出版社である新潮社から出版したことは話題になったが、本人は「それも面白いかな」と述べている。
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不破 哲三は、日本の政治家、共産主義者。日本共産党中央委員会常任幹部会委員、党付属社会科学研究所所長。前党中央委員会議長。元衆議院議員(11期)。「不破哲三」はペンネーム。 日本共産党元副委員長の上田耕一郎は実兄。父は教育評論家の上田庄三郎。
{{政治家 | 人名 = 不破 哲三 | 各国語表記 = ふわ てつぞう<br>(上田 建二郎)<br>(うえだ けんじろう) | 画像 = The-Zenei-1967-January-Special-1.png | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 1966年10月26日 | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1930|1|26}} | 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[中野区]]<br />(現・[[東京都]][[中野区]]) | 没年月日 = | 死没地 = | 出身校 = [[東京大学理学部]][[物理学科]] | 前職 = | 現職 = 日本共産党常任幹部会委員、[[日本共産党中央委員会付属社会科学研究所|党付属社会科学研究所]]所長 | 所属政党 = [[日本共産党]] | 称号・勲章 = 日本共産党名誉役員<br/>日本共産党[[日本共産党#表彰制度|50年党員]] | 親族(政治家) = 父・[[上田庄三郎]]<br />兄・[[上田耕一郎]] | 配偶者 = 妻・上田七加子(1928年 - 2020年) | サイン = | ウェブサイト = | サイトタイトル = | 職名 = [[国会議員|衆議院議員]] | 国旗 = JPN | 選挙区 = ([[東京都第6区 (中選挙区)|旧東京6区]]→)<br/>[[比例東京ブロック]] | 当選回数 = 11回 | 就任日 = [[1969年]][[12月27日]] | 退任日 = [[2003年]][[10月10日]] | 職名2 = [[File:Flag of the Japanese Communist Party.svg|25px]] 第3代[[日本共産党議長]] | 就任日2 = [[2000年]][[11月24日]] | 退任日2 = [[2006年]][[1月14日]] | 職名3 = [[File:Flag of the Japanese Communist Party.svg|25px]] 第2代・第4代[[日本共産党中央委員会幹部会委員長|日本共産党幹部会委員長]] | 就任日3 = [[1982年]][[7月31日]] - [[1987年]][[11月29日]]<br />[[1989年]][[5月29日]] | 退任日3 = [[2000年]][[11月24日]] | 職名4 = [[File:Flag of the Japanese Communist Party.svg|25px]] 初代[[日本共産党中央委員会書記局長|日本共産党書記局長]] | 就任日4 = [[1970年]][[7月7日]] | 退任日4 = [[1982年]][[7月31日]] }} '''不破 哲三'''(ふわ てつぞう、本名:上田 建二郎、[[1930年]]〈[[昭和]]5年〉[[1月26日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]、[[共産主義者]]。[[日本共産党|日本共産党中央委員会常任幹部会]]委員、[[日本共産党中央委員会付属社会科学研究所|党付属社会科学研究所]]所長。前党中央委員会議長。元[[衆議院]]議員(11期)。「不破哲三」は[[ペンネーム]]。 日本共産党元副委員長の[[上田耕一郎]]は実兄。父は教育評論家の[[上田庄三郎]]。 == 経歴 == [[File:Fuwa Tetsuzo.png|thumb|180px|1956年]] 当時上田家には「跡取り」がいなかったため、父子共々[[養子]]として引き取られる{{要出典|date=2016年7月}}。両親は[[高知県]]の出身<ref>『時代の証言者・不破哲三2』[[読売新聞]]、2010年11月2日付。</ref>。 旧制東京府立第六中学校(現・[[東京都立新宿高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[東京大学理学部]]物理学科卒業。 1970年、40歳で日本共産党の[[日本共産党中央委員会書記局長|書記局長]]に就任し<ref>{{cite web |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-10-25/2010102502_02_0.html |title=「読売」連載に不破氏登場 来月から30回 「時代の証言者」 |date=2010-10-25 |accessdate=2022-8-29 |website=[[しんぶん赤旗]]}}</ref>、当時マスコミから「共産党のプリンス」と呼ばれた。 1974年1月29日の予算委員会では、[[日本分析化学研究所]]が実施していた放射能測定で、データがねつ造されていることを指摘した(「米[[原子力潜水艦]]放射能測定不正事件」)<ref name="mayumi16">{{cite web |url=http://www.mayumi.gr.jp/book/pdf/16.pdf |title=森山欽司 ─反骨のヒューマニスト─ 第十六章 |format=PDF |accessdate=2013-08-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071008122641/http://www.mayumi.gr.jp/book/pdf/16.pdf |archivedate=2007年10月8日 }} </ref>。 [[1982年]]に[[宮本顕治]]が中央委員会議長になり、不破が幹部会委員長に就任した。[[1984年]]に[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ]]と3時間以上に及んで会談した。{{Main|日本とキューバの関係}} [[1987年]]に公式には「心臓病のため」幹部会委員長を降り、第18回大会で新設された中央委員会副議長に就任した。[[村上弘]]委員長退任後、幹部会委員長に復帰した。選挙で党の躍進が続いた頃、マスコミから「スマイリング・コミュニスト」(微笑する共産主義者)([[1998年]]度[[流行語大賞]]特別賞受賞)と呼ばれた<ref>{{Cite web |title=第15回 1998年 授賞語 |url=https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00015 |website=「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞 |access-date=2022-8-29}}</ref>。1998年に、31年間対立・絶縁していた[[中国共産党]]との交流を再開した。 [[2000年]]の党大会で中央委員会議長に就任。[[2004年]]の党大会で全面的な綱領改定の提案をおこなった。[[2006年]]1月の党大会で高齢などを理由に議長職を退任し、党中央委員会付属社会科学研究所の所長に就任した。なお、中央委員会議長職は党規約上廃止されていないが、不破の退任以後は空席となっている。 140冊以上の著作があるほか、「赤旗」の評論員論文・無署名論文の多くを執筆したともいわれる。 == 年表 == *[[1930年]](昭和5年)[[教育評論家]]の[[上田庄三郎]]の次男として[[東京府]][[豊多摩郡]][[中野町 (東京府)|中野町]](現・東京都中野区)に生まれる。 *[[1947年]](昭和22年)[[日本共産党]]に入党する。 *[[1953年]](昭和28年)[[東京大学]][[理学部]]物理学科を卒業して、鉄鋼労連(現・[[日本基幹産業労働組合連合会|基幹労連]])に[[書記]]として就職する。 *[[1964年]](昭和39年)日本共産党中央委員に就任する。 *[[1969年]](昭和44年)[[衆議院議員]]に初当選する([[東京都第6区 (中選挙区)|東京都第6区]]、[[1996年]]の小選挙区制導入以後は[[比例東京ブロック]]単独で、連続10回当選) *[[1970年]](昭和45年)日本共産党書記局長に就任する。 *[[1982年]](昭和57年)日本共産党幹部会委員長に就任する。 *[[1987年]](昭和62年)日本共産党中央委員会副議長に就任する。 *[[1989年]](平成元年)日本共産党幹部会委員長に再任する。 *[[2000年]](平成12年)日本共産党中央委員会議長に就任する。 *[[2003年]](平成15年)衆議院議員を引退する。 *[[2004年]](平成16年)日本共産党常任幹部会委員・[[日本共産党中央委員会付属社会科学研究所]]所長<ref>{{Cite web |title=大会の機構と人事 |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-12/2006011202_05_0.html |website=しんぶん赤旗 |access-date=2022-8-29 |date=2006-1-12}}</ref>。 *[[2006年]](平成18年)日本共産党議長を退任する。日本共産党常任幹部会委員留任。 *[[2010年]](平成22年)日本共産党常任幹部会委員・日本共産党社会科学研究所所長<ref>{{Cite web |title=日本共産党中央委員会の機構と人事 |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-17/2010011702_03_0.html |website=しんぶん赤旗 |access-date=2022-8-29 |date=2010-1-17}}</ref><ref>{{Cite web |title=日本共産党中央委員会の機構と人事/幹部会(57人) |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-17/2010011702_04_0.html |website=しんぶん赤旗 |access-date=2022-8-29 |date=2010-1-17}}</ref><ref>{{Cite web |title=日本共産党中央委員会の機構と人事について/2010年1月22日 |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-23/2010012304_05_0.html |website=しんぶん赤旗 |access-date=2022-08-29 |date=2010-1-23 |author=日本共産党中央委員会書記局}}</ref>。 *[[2014年]](平成26年)日本共産党常任幹部会委員留任<ref>{{Cite web |title=日本共産党中央委員会の機構と人事 |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-19/2014011902_04_0.html |website=しんぶん赤旗 |access-date=2022-8-29 |date=2014-1-19}}</ref>。 *[[2017年]](平成29年)日本共産党常任幹部会委員留任。 *[[2020年]](令和2年)日本共産党常任幹部会委員留任<ref name="名前なし-2">{{Cite web |title=中央委員会の機構と人事(第28回党大会) |url=https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/yakuin.html |access-date=2022-8-29 |publisher=日本共産党 |work=党紹介}}</ref>。 == 名前の由来 == *『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』の中で本人が「不破哲三」の由来について、自宅付近にあった塗装業者「不破建設」と、当時の職場である鉄鋼産業労働組合の「鉄」から名付けたと語っている。鉄鋼労連は[[日本労働組合総評議会|総評]]系で[[日本社会党]]員(特に[[社会党右派|右派]])が多数を占めていたため、機関誌「[[前衛 (雑誌)|前衛]]」などへの寄稿の際この[[ペンネーム]]を使用していた。 *実兄・上田耕一郎は、'''耕'''一郎と'''建'''二郎とで労農同盟を意味する命名であると語っている([[経済 (雑誌)|経済]]2004年1月号での[[鶴見俊輔]]との対談での発言)。 == 人物== ===趣味・嗜好=== 子ども向けのテレビ番組『[[ウゴウゴルーガ]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]他)において政治家としてではなく、[[登山]]の講師(「やまのぼりのえらいひと」)として出演したことがあるほど山登りが好き。70歳までは毎年[[元日]]に[[富士山]]に登り、[[初日の出]]を見ていたという<ref>[[『不破哲三 時代の証言』]][[中央公論新社]](2011年3月)</ref>。現在の自宅も[[神奈川県]][[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]](旧[[津久井郡]][[津久井町]])の山中にある<ref>{{Cite interview|和書|subject=不破哲三|interviewer=三浦俊章、池田伸壹|title=いま社会主義とは ロシア革命100年、不破哲三氏語る|date=2017-11-19|url=https://www.asahi.com/articles/ASKC84QJSKC8ULZU00F.html|accessdate=2022-8-29|work=[[朝日新聞]]}}{{要購読}}</ref>。 [[時代小説]]も好きで、少年時代はその方面での作家にもなりたかったと語っている<ref>『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』([[新潮社]] 2005年)</ref>。またテレビ時代劇を愛好し、[[時代劇専門チャンネル]]を視聴している<ref>[[毎日新聞]]2008年8月4日付。</ref>。 1990年、[[TBSテレビ|TBS]]の「[[クイズダービー]]」の{{要出典範囲|「野党の委員長と新人議員大会」|date=2023年11月}}に[[高崎裕子]]と出場し<ref>読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞、報知新聞(1990年7月28日付朝刊ラ・テ欄)より。</ref>、{{要出典範囲|date=2013年7月14日|10万点を達成した。}} ===人物像=== 2010年、[[読売新聞]]の連載企画、「時代の証言者」で、「昔は軍国少年だった」と語った<ref>[時代の証言者]共産党・不破哲三(2)「神国」信じた軍国少年 読売新聞 2010年11月2日</ref>。 メガネが最も似合う各界の著名人として、[[1998年]]に[[日本メガネベストドレッサー賞]](政界部門)を受賞した<ref>{{cite web |url=http://www.ioft.jp/best-dressers/ |title=前回 第25回 日本 メガネ ベストドレッサー賞  |publisher=国際メガネ展 IOFT |accessdate=2013-08-17}}</ref>。 [[直木賞]]作家の[[水上勉]]と交流があり、水上勉が死去した際に追悼文を書いている<ref>{{cite web |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-09-12/03_01.html |title=追悼 水上勉さんのこと |accessdate=2022-8-29 |author=不破哲三 |date=2004-9-12 |website=しんぶん赤旗}}</ref>。 妻の七加子が伝記を出版している<ref>{{Cite journal ja-jp|title=生きることも、愛することも、女にとっては革命です [[瀬戸内寂聴]]×上田七加子|journal=[[婦人公論]]|serial=2012年8月22日号|publisher=[[中央公論新社]]|pages=50p-55p}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20120626-OYT8T00939.htm |title=『道ひとすじ 不破哲三とともに生きる』 上田七加子著 |access-date=2022-8-29 |publisher=読売新聞 |website=本よみうり堂 |work=書評 |date=2012-7-2 |author=橋本五郎 |authorlink=橋本五郎 |archive-url=https://archive.ph/th4NA/ |archive-date=2013-5-1 |deadlinkdate=2022-8}}</ref>。七加子は日本共産党員で、2020年(令和2年)5月17日に死去した<ref>{{Cite news|title=共産・不破元議長の妻、上田七加子氏死去|newspaper=産経新聞|date=2020-5-20|url=https://www.sankei.com/article/20200520-33QVHBFKAVLG5ICNNH2LTSCFCM/|access-date=2022-8-29}}</ref>。 == 批判 == 日本共産党を離党した[[筆坂秀世]]は、離党後行った共産党批判のなかで、不破が2000年に[[日朝国交正常化交渉]]で[[北朝鮮による日本人拉致問題]]を事実上棚上げにすることを求めた、と主張した。不破は、(拉致問題が疑惑だった段階では)それに応じた緻密な外交努力をするべきと主張したのであって、これを拉致棚上げの主張と非難するのは曲解である、と反論している<ref name="赤旗2006.4.19">{{Cite web |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-19/2006041925_01_0.html |title=筆坂秀世氏の本を読んで |access-date=2022-8-29 |website=しんぶん赤旗 |date=2006-4-19 |author=不破哲三}}</ref>。{{Main|筆坂秀世}} 2017年に86歳の不破哲三が常任幹部会委員に留任、84歳の[[浜野忠夫]]が幹部会副委員長に就任したことに触れて、筆坂は80代で未だに引退せずに自身の元で人事を牛耳らせた男を三役に置いたことに、「共産党の幹部の誰一人として異論を挟めない共産党の異常が露見している。共産党が普通の政党になるならばまず物言えない体制こそ改めるべき」と強く批判している<ref name="名前なし-2"/><ref>{{Cite news|title=トランプに対抗できるのは安倍首相だけ? 高まる安倍政治への支持と低迷する野党|newspaper=[[JBpress]]|date=2017-1-31|last=筆坂|first=秀世|access-date=2022-8-29|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49052?page=4|page=4}}{{要購読}}</ref>。 2001年の[[九州南西海域工作船事件]]における[[海上保安庁]]の対応を肯定する日本共産党の見解に対して、当時党議長だった不破は「中国は『海保はやりすぎだ』と批判している」ことを主張し、日本共産党のこの見解の発表を潰したとされている<ref name=":0">{{Cite news |title=【強権解剖】第2部 拡散⑥ 親密・仲違い繰り返す〝兄弟党〟 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2021-8-30 |last=小野田 |first=雄一 |first9=浩生 |last9=渡辺 |first8=朋 |first7=貴郎 |last8=桑村 |last7=原川 |first6=慎二 |last6=内藤 |first5=浩 |last5=森 |first4=紀雄 |last4=桜井 |first3=美奈 |last3=三井 |first2=和正 |last2=板東 |url=https://www.sankei.com/article/20210830-3YGDHK6PJFJMRGN2LMWILI5EBY/ |access-date=2022-8-29}}{{要購読}}</ref>。 論文「日本社会党の綱領的路線の問題点」の中で、社会党の平和革命路線を批判する中で「『暴力革命唯一論』者の議論は,民主主義を擁護する人民の力を無視した受動的な敗北主義の議論である。しかし,反対に『平和革命』の道を唯一のものとして絶対化する『平和革命必然論』もまた,米日支配層の反動的な攻撃にたいする労働者階級と人民の警戒心を失わせる日和見主義的『楽観主義』の議論であり,解放闘争の方法を誤まらせるものなのである」と述べており、[[公安調査庁]]は共産党の「[[敵の出方論]]」を裏付けるものだとしている<ref>{{Cite web|url=https://www.moj.go.jp/psia/habouhou-kenkai.html|title=共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解|accessdate=2017-11-25|date=|publisher=公安調査庁}}</ref>。 近年、エンゲルスへの批判を強めており、まずは『空想から科学へ』で定義された「資本主義の基本矛盾」について疑問を呈し、つづいてエンゲルスによる『資本論』第2・3部の編集方針についても批判を行った。新日本出版社は、この不破の見解に沿って旧来の新日本新書版『資本論』の改訂を行い、『新版 資本論』を完結させた(2019~2021年)。これに対して、川上則道<ref>{{Cite book|和書|title=マルクス『再生産表式論』の魅力と可能性|year=2014年|publisher=本の泉社}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=『空想から科学へ』と資本主義の基本矛盾|year=2018年|publisher=本の泉社}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=本当にマルクスは書いたのか、エンゲルスは見落としたのか|publisher=本の泉社|year=2022年}}</ref>、[[谷野勝明]]<ref>{{Cite journal|author=谷野勝明|year=2020年|title=『恐慌の運動論の発見』と利潤率低下『矛盾の展開』論の『取り消し』はあったか|journal=経済経営研究所年報|volume=第42集}}</ref><ref>{{Cite journal|author=谷野勝明|year=2020年|title=『資本論』体系形成の段階区分について~『恐慌の運動論の発見』による「大転換」説批判|journal=経済系|volume=第280集}}</ref><ref>{{Cite journal|author=谷野勝明|year=2022年|title=『恐慌の運動論』と並ぶ『可能性、根拠』論の探求について~恐慌論体系の『可能性、根拠、運動論』説批判|journal=経済経営研究所年報|volume=第44集}}</ref>などから厳しい批判が出されている。 == 著書 == 著書は140冊以上にのぼり、日本の政治家としては最も多い。消しクズが散らからなくてよいから{{要出典|date=2014年5月}}と、早くから[[ワードプロセッサ|ワープロ]]での執筆も始めている。回顧録を共産党とは対極の保守系出版社である[[新潮社]]から出版したことは話題になったが、本人は「それも面白いかな」と述べている{{要出典|date=2014年5月}}。 {{Div col|2}} *{{Cite book|和書|title=マルクス主義と現代修正主義|publisher=[[大月書店]]|date=1965-04-15|id={{NDLJP|3027996}}}} *{{Cite book|和書|title=日本の中立化と安全保障|publisher=[[新日本出版社]]|date=1968-08-30|id={{NDLJP|9545940}}}} *{{Cite book|和書|title=現代政治と科学的社会主義|publisher=新日本出版社|date=1968-12-20|id={{NDLJP|3446276}}}} *{{Cite book|和書|title=大学問題の焦点|publisher=[[日本青年出版社]]|series=青年学習新書|date=1969}} *{{Cite book|和書|title=不破哲三著作集 日本の独立と民主主義の展望|publisher=大月書店|date=1969}} *{{Cite book|和書|title=人民的議会主義|publisher=新日本出版社|date=1970}} のち新書上下 *{{Cite book|和書|title=科学的社会主義と政治革新|publisher=大月書店|date=1972-07-14|id={{NDLJP|12250415}}}} *{{Cite book|和書|title=沖縄基地とニクソン戦略|series=新日本新書|publisher=新日本出版社|date=1972-09-20|id={{NDLJP|12013851}}}} *{{Cite book|和書|title=新しい半世紀への前進 日本共産党と七〇年代の任務|publisher=新日本出版社|date=1973-11-10|id={{NDLJP|11925606}}}} *{{Cite book|和書|title=青年と語る 科学的社会主義と日本の未来|series=新日本新書|publisher=新日本出版社|date=1975-04-25|id={{NDLJP|11923736}}}} *{{Cite book|和書|title=科学的社会主義研究|publisher=新日本出版社|date=1976}} *{{Cite book|和書|title=自由と民主主義の旗|publisher=新日本出版社|date=1976}} *{{Cite book|和書|title=進歩と変革の大道を|publisher=新日本出版社|date=1978-07-30|id={{NDLJP|11927283}}}} *{{Cite book|和書|title=科学的社会主義研究. 続|publisher=新日本出版社|date=1979}} *{{Cite book|和書|title=不破哲三国会論戦集|publisher=新日本出版社|date=1979-07-20|id={{NDLJP|11923908}}}} *{{Cite book|和書|title=現代前衛党論|publisher=新日本出版社|date=1980-10-05|id={{NDLJP|11924470}}}} *{{Cite book|和書|title=労働戦線に革新の旗を|series=新日本新書|date=1980-04-10|publisher=新日本出版|id={{NDLJP|12167839}}}} *{{Cite book|和書|title=日本共産党その歴史と路線 中央人民大学講義集|publisher=新日本出版社|date=1981-05-05|id={{NDLJP|11924114}}}} *{{Cite book|和書|title=不破哲三政策論集 上|series=日本の進路と政策問題|publisher=新日本出版社|date=1981-10-15|id={{NDLJP|11926550}}}} *{{Cite book|和書|title=『資本論』と今日の時代|publisher=新日本出版社|date=1982-05-01|id={{NDLJP|11939253}}}} *{{Cite book|和書|title=スターリンと大国主義|publisher=新日本新書|date=1982}} *{{Cite book|和書|title=不破哲三政策論集 下|series=80年代論・地方政治論|publisher=新日本出版社|date=1982-01-10|id={{NDLJP|11926955}}}} *{{Cite book|和書|title=講座「[[家族・私有財産・国家の起源|家族、私有財産および国家の起源]]入門」|publisher=新日本出版社|date=1983}} *{{Cite book|和書|title=社会主義入門 「[[空想から科学へ]]」百年|publisher=新日本出版社|date=1983-04-25|id={{NDLJP|12251001}}}} *{{Cite book|和書|title=日本共産党と革新政治|publisher=新日本出版社|date=1983-02-25|id={{NDLJP|11925351}}}} *{{Cite book|和書|title=現代に生きるマルクス|publisher=新日本出版社|date=1984-03-25|id={{NDLJP|12246158}}}} *{{Cite book|和書|title=講座日本共産党の綱領路線|publisher=新日本出版社|date=1984-05-05|id={{NDLJP|11926168}}}} *{{Cite book|和書|title=続・不破哲三政策論集|publisher=新日本出版社|date=1985}} *{{Cite book|和書|title=経営での活動と党建設 多数者の結集をめざして|publisher=新日本出版社|date=1986-01-10|id={{NDLJP|11926454}}}} *{{Cite book|和書|title=政策活動入門|publisher=新日本出版社|date=1986}} のち文庫  *{{Cite book|和書|title=政策争点と反核平和論 不破哲三政策論集|publisher=新日本出版社|date=1986-03-30|id={{NDLJP|11925252}}}} *{{Cite book|和書|title=選挙戦での日本共産党論 不破哲三政策論集|publisher=新日本出版社|date=1986-12-15|id={{NDLJP|11927005}}}} *{{Cite book|和書|title=古典への旅 マルクス、エンゲルス、レーニンを訪ねて|publisher=新日本新書|date=1987-05-15|id={{NDLJP|12246377}}}} *{{Cite book|和書|title=世界史のなかの社会主義|publisher=新日本出版社|date=1987}} *{{Cite book|和書|title=地方政治の争点と選択 不破哲三政策論集|publisher=新日本出版社|date=1987-08-25|id={{NDLJP|11946040}}}} *『自然の弁証法 エンゲルスの足跡をたどる』新日本出版社 1988 *『「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算』新日本出版社 1988 *『レーニン「カール・マルクス」を読む』新日本出版社 1988 *『「新しい思考」はレーニン的か』新日本出版社 1989 のち文庫  *『インドとデンマーク』新日本出版社 1989 *『革新・平和の主流と逆流 不破哲三政策論集』新日本出版社 1989 *『科学的社会主義と執権問題』新日本文庫 1990 *『科学的社会主義における民主主義の探究 マルクス、エンゲルス、レーニンの活動から』新日本出版社 1990 *『激動の時代の生きがい 女性・青年・労働者のなかで』新日本出版社 1990 *『自然の秘密をさぐる 宇宙から生命・頭脳まで 不破哲三対談集』新日本出版社 1990 *『社会主義の原点と未来』新日本出版社 1990 *『90年代・世界と日本の新しい進路』新日本出版社 1991 *『ソ連・東欧問題と現代の世界』新日本出版社 1991 *『ソ連覇権主義の解体と日本共産党』新日本出版社 1991 *『日本共産党綱領と歴史の検証』新日本出版社 1991 *『現代史のなかの日本共産党』新日本新書 1992 *『ソ連・中国・北朝鮮-三つの覇権主義 たたかいの記録』新日本出版社 1992 *『科学的社会主義の運動論』新日本出版社 1993 *『国政の争点と体制選択論 不破哲三政策論集』新日本出版社 1993 *『労働基準法を考える』新日本新書 1993 *『史的唯物論研究』新日本出版社 1994 *『時代の本流をつかむ』新日本出版社 1994 *『日本共産党にたいする干渉と内通の記録 ソ連共産党秘密文書から』上下 新日本出版社 1994 *『科学的社会主義のすすめ 対話』新日本新書 1995 *『経営のなかの日本共産党 情勢をどうつかみ、どう活動するか』新日本出版社 1995 *『綱領路線の今日的発展』新日本出版社 1995 *『いま政治と政党を考える』新日本出版社 1996 *『古典学習のすすめ』新日本出版社 1996 *『マルクス、エンゲルス百年 日本共産党はなにをうけついできたか』新日本出版社 1996 *『新しい世紀新しい日本』新日本出版社 1997 *『エンゲルスと『資本論』』新日本出版社 上下 1997 *『革新の本流を大河のように』新日本出版社 1997 *『新しい国づくりを提唱する』新日本出版社 1998 *『現代日本における大衆的前衛党』新日本出版社 1998 *『レーニンと「資本論」』新日本出版社、1998-2001 :[1]―市場理論とロシア資本主義―』(1998年) :[2]― 一九〇五年革命前後―』(1999年) :[3]―マルクス主義論―』(1999年) :[4]―戦争と帝国主義―』(1999年) :[5]―一九一七年・『国家と革命』―』(2000年) :[6]―干渉戦争の時代―』2000年) :[7]─最後の三年間─』(2001年) *『千島問題と平和条約』新日本出版社 1998 *『地方政治と議員活動』新日本出版社 1998 *『二十一世紀の日本をめざして 98年参院選全記録』新日本出版社 1998 *『日本共産党と中国共産党の新しい関係』新日本出版社 1998 *『現代史のなかで日本共産党を考える』新日本出版社 1999 *『私たちの日本改革論』新日本出版社 1999 *『「首都移転」を考える』新日本出版社 2000 *『日米核密約』新日本出版社 2000 *『日本共産党の歴史と綱領を語る ブックレット版』新日本出版社 2000 *『科学的社会主義を学ぶ』新日本出版社 2001 *『ここに『歴史教科書』問題の核心がある』新日本出版社 2001 *『世紀の転換点に立って』新日本出版社 2001 *『二十一世紀と「科学の目」』新日本出版社 2001 *『日本共産党綱領を読む』新日本出版社 2001 *『二十一世紀はどんな時代になるか』新日本出版社 2002 *『二つの世紀と日本共産党』新日本出版社 2002 *『北京の五日間』新日本出版社 2002 *『歴史教科書と日本の戦争』小学館 2002 *『マルクスと『資本論』再生産論と恐慌』全3巻(新日本出版社 2003年) *『『資本論』全三部を読む 代々木『資本論』ゼミナール・講義集』全7冊 新日本出版社 2003-2004 *『ふたたび「科学の目」を語る 二十一世紀の資本主義と社会主義』新日本出版社 2003 *『議会の多数を得ての革命 古典研究』新日本出版社 2004 *『新・日本共産党綱領を読む』新日本出版社 2004 *『世界の流れのなかで憲法問題を考える』日本共産党中央委員会出版局 2004 *『チュニジアの七日間』新日本出版社 2004 *『日本共産党綱領 報告集』[[日本共産党中央委員会出版局]] 2004 *『マルクス未来社会論 古典研究』新日本出版社 2004 *『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』([[新潮社]] 2005年)ISBN 4104783013 *『日本外交のゆきづまりをどう打開するか―戦争終結60周年 アジア諸国との最近の関係をめぐって』(日本共産党中央委員会出版局 2005年)ISBN 4530015572 *『いまこの世界をどう見るか―アジア・アフリカ・ラテンアメリカ』(新日本出版社 2005年)ISBN 4406031936 *『党綱領の理論上の突破点について』(日本共産党中央委員会出版局 2005年)ISBN 4530044009 *『[http://www.shinnihon-net.co.jp/catalog/product_info.php?products_id=1603 21世紀の世界と社会主義]』([[新日本出版社]] 2006年)ISBN 4406032568 *『[http://www.shinnihon-net.co.jp/catalog/product_info.php?products_id=1595 日本の前途を考える]』(新日本出版社 2006年)ISBN 4406032347 ※「日本外交のゆきづまりをどう打開するか」、[http://www.jcp.or.jp/publish/teiki-zassi/zenei/2005/0512zenei.html 前衛2005年12月号No.797]に掲載の「憲法九条改定論の三つの盲点」他収録 *『21世紀の世界と社会主義 日中理論会談で何を語ったか』新日本出版社 2006 *『日本共産党史を語る』新日本出版社 2006 *『日本共産党史を語る』新日本出版社 2006-2007 *『いま世界がおもしろい』(「科学の目」講座)新日本出版社 2007 *『憲法対決の全体像』新日本出版社 2007 *『古典への招待』新日本出版社 2008-2009 *『マルクスは生きている』(平凡社新書 2009年)ISBN 4582854613 *『激動の世界はどこに向かうか 日中理論会談の報告』新日本出版社 2009 *『日米核密約歴史と真実』新日本出版社 2010 *『マルクス、エンゲルス革命論研究』新日本出版社 2010 *『マルクスとともに現代を考える マルクスは生きている 社会進歩と女性』新日本出版社 2010 *『「科学の目」で見る日本と世界』新日本出版社 2011 *『不破哲三時代の証言』中央公論新社 2011 ※読売新聞朝刊「時代の証言者」掲載の内容に加筆したもの *『『資本論』はどのようにして形成されたか マルクスによる経済学変革の道程をたどる』新日本出版社 2012 *『古典教室 第1巻 (第1課マルクス『賃金、価格および利潤』第2課マルクス『経済学批判・序言』)』新日本出版社 2013 *『古典教室 第2巻 (第3課エンゲルス『空想から科学へ』)』新日本出版社 2013 *『古典教室 第3巻 (第4課エンゲルス『フランスにおける階級闘争』〈マルクス〉への「序文」/第5課マルクス、エンゲルス以後の理論史)』新日本出版社 2013 *『歴史から学ぶ 日本共産党史を中心に』新日本出版社 2013 *『党綱領の力点』日本共産党中央委員会出版局 2014 *『スターリン秘史』新日本出版社 2015-2016(全6巻) {{Div col end}} ;山岳 *『回想の山道 私の山行ノートから』山と渓谷社 1993 *『私の南アルプス』([[山と渓谷社]] 1998年)のち文庫  ;文学 *『[[宮本百合子]]と十二年』新日本出版社 1986 *『私の宮本百合子論 『獄中への手紙』から『道標』へ』新日本出版社 1991 *『[[小林多喜二]] 時代への挑戦』(新日本出版社 2008年)ISBN 978-4-406-05149-1 ===共著=== {{Div col|2}} *『マルクス主義と現代イデオロギー』上田耕一郎共著 大月書店 1963 *『この世界と日本をどうみる』[[浅井基文]]共著 新日本出版社 1992 *『郷土人形西・東 :民俗文化に魅せられて』[[上田七加子]]共著 里文出版 2013 *『新日本共産党宣言』[[井上ひさし]]共著 光文社 1999 *『一滴の力水 同じ時代を生きて』[[水上勉]]共著 光文社 2000 *『世界、日本、そして憲法 私たちはどんな時代に生き、学ぶのか』[[山田敬男]]共著 学習の友社 2006 *『同じ世代を生きて 水上勉・不破哲三往復書簡』新日本出版社 2007 *『現代史とスターリン』[[渡辺治]]共著 新日本出版社、2017年 {{Div col end}} ===翻訳=== *レーニン『国会と選挙』大月書店 1972 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group=注釈|1}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=筆坂秀世|authorlink=筆坂秀世|date=2006年(平成18年)|title=日本共産党|series=[[新潮新書]]|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106101649|ref=筆坂(2006)}} == 関連項目 == 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阪急千里線
千里線(せんりせん)は、大阪府大阪市北区の天神橋筋六丁目駅から大阪府吹田市の北千里駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。北千里駅まで延伸されるまでは千里山線あるいは千里山支線と呼ばれていた。北千里線と呼ばれることもあるが、正式なものではない。 なお、正式な起点は天神橋筋六丁目駅だが、列車運行上は北千里駅から天神橋筋六丁目駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。 京都線系統の路線の一つ。千里丘陵に広がる千里ニュータウンを縦断し、後述の直通運転路線と合わせて大阪市中心部や繁華街を結ぶ通勤・通学路線である。淡路駅をジャンクションとして、天神橋筋六丁目駅 - 京都河原町駅間及び大阪梅田駅 - 北千里駅間で、終日にわたり京都本線との直通運転が行われている。阪急の支線で、本線と終日にわたって直通運転を行う路線は千里線が唯一である。また、天神橋筋六丁目駅から大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 堺筋線と相互直通運転を行っており、堺筋線の終点駅である天下茶屋駅まで乗り入れている。 2021年4月1日に開業100周年を迎えた。 天神橋筋六丁目駅から千里山駅までは戦前に開業した区間で、急曲線や急勾配が続き、運転上のネックとなっている。例えば、豊津駅 - 関大前駅間には35 km/hの制限速度が設定されている。南千里駅 - 千里山駅間には35 ‰の勾配があり、新型車両を投入するに当たってはこの区間で勾配起動試験を必ず行っている。 千里山駅から北千里駅までは、1963年以降に開通した阪急の鉄道路線の中では最も新しい区間であり、直線的な線形で運行速度も速い。また、当該区間はすべて高架線・掘割またはトンネルからなっており、踏切は一つも設置されていない。南千里駅 - 山田駅間には阪急唯一の山岳トンネルである「千里トンネル」があるが、地下鉄と同様の開削工法で建設されたため構造は地下鉄のものと変わらない。 ほとんどの列車が以下のように他の路線との直通運転を行っており、千里線内で完結する列車は早朝の淡路発天神橋筋六丁目行き、天神橋筋六丁目発北千里行き、淡路発北千里行きと深夜の北千里発淡路行き、北千里発天神橋筋六丁目行きの数本のみである。千里線内で完結する列車であってもOsaka Metroの車両が充当されることがある。後述の堺筋準急以外はいずれも普通列車である。 日中は、AとC、Bと高槻市駅 - 大阪梅田駅間の普通を一組とし、この二組を20分間隔で交互に運転する。それぞれの組は淡路駅で連絡を図る。 朝・夕・夜には天下茶屋駅 - 淡路駅および京都本線正雀駅・茨木市駅・京都河原町駅間の列車や相川発天下茶屋行きも設定されている。 普通列車の運転間隔は列車によってばらつきがある。ラッシュ時は3 - 8分間隔、日中は概ね10分間隔だが土休日の淡路駅 - 天神橋筋六丁目駅間は堺筋準急が運転されるためばらつきが大きく、6 - 14分間隔となる。 また京都本線と堺筋線とを直通運転する速達列車として準急(堺筋準急)が設定されている。平日は朝に下り7本と夕方に上り7本、土休日は昼間に20分間隔で、いずれも全て京都河原町駅発着で運転される。千里線内では柴島駅を通過するが、これが千里線で通過列車が設定されている唯一の駅である。Osaka Metroの車両は京都本線高槻市駅以遠には原則として乗り入れないため、全列車阪急車両が使用される。 堺筋線との相互直通運転を行う前までは天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 阪急京都駅(現在の大宮駅)間の普通列車も運転されていた(のちに河原町駅〈現在の京都河原町駅〉まで延長)。この運転系統は一時期まったく運行されていなかったが、2011年5月14日のダイヤ改正から天下茶屋発河原町行きの普通列車が設定され、2019年1月19日のダイヤ改正からは京都河原町発天下茶屋行きの普通列車も設定されたため、上下ともこの運行系統は復活している。 2007年3月17日のダイヤ改正前は堺筋準急に代わって急行(堺筋急行)、快速急行(堺筋快速急行)として運転されていた。また、1956年4月までは京都本線の大阪側ターミナルが天神橋駅であったことから、天神橋駅 - 淡路駅間では特急も運転されていた。1959年に同区間が千里山線・千里線の所属になってからは、定期の特急の設定はない。 1970年に千里丘陵で開催された日本万国博覧会の期間中は、観客輸送のため当時会場最寄り駅として臨時営業していた万国博西口駅へ向けて臨時列車群が運行された。そのうち、運用上特記されるものを記す。 2009年と2011年から2018年までは、春・秋の行楽期に嵐山線へ直通する臨時列車が天下茶屋駅 - 嵐山線嵐山駅間に設定されていた。 6300系・7000系(京とれいん 雅洛)・9300系を除く正雀車庫所属の京都本線の車両(ロングシート車)が共通で使用され、千里線専用の車両はない。堺筋線直通列車はすべて8両編成で、阪急の車両のほかOsaka Metroの66系も使用される。一方で、大阪梅田発着の列車は8両編成と7両編成が使用されているが、2019年1月改正より、平日ダイヤの日中はすべて7両編成に統一された。2015年で運行を終了した2300系は堺筋線に入線できないことから、梅田駅 - 北千里駅間で使用されていた。 当線の歴史は、北大阪電気鉄道が1921年に十三駅 - 豊津駅間を開業させたことに遡る。当初から大阪市内への乗り入れを計画していたが、資金難で淀川への架橋ができなかった。そこで、現・崇禅寺駅付近 - 現・吹田駅付近で東海道本線の旧線跡を譲り受け、阪神急行電鉄(阪急)の十三駅に接続することで当座をしのぐこととした。同社は大阪市内での墓地集約からの不足を見越し、沿線で霊園の開発を積極的に行ったため、「墓地電車」の異名を取った。 一方京阪電気鉄道は、京阪本線のバイパスとして大阪 - 京都間で淀川右岸を通る高速新線を計画していた。城東線払下が政治問題化し、大阪側起点を梅田以外で模索していた京阪は、北大阪電気鉄道が持つ天神橋 - 淡路間の免許に目を付けた。五島慶太らの斡旋により北大阪電鉄株式の大半を取得、新京阪鉄道を設立して1923年に同社から鉄道事業の譲渡を受けた。1925年には淀川を渡る天神橋駅 - 淡路駅間を開業して天神橋駅 - 淡路駅 - 千里山駅間を本線として扱うようになり、3年後の1928年には淡路駅から高槻町駅まで、次いで京都西院駅までを開通させて天神橋駅 - 京都西院駅を本線、淡路駅 - 千里山駅を千里山支線、淡路駅 - 十三駅を十三支線として扱うようになった。1930年に新京阪は親会社の京阪電気鉄道に合併し、旧北大阪電気鉄道線については、淡路駅 - 十三駅間が十三線、淡路駅 - 千里山駅間が千里山線となり、さらに1943年には陸上交通事業調整法による交通調整で京阪と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄(阪急電鉄の前身)の路線となる。合併後の1944年4月より、宝塚本線に乗り入れる形で梅田(現在の大阪梅田)発着の京都方面急行列車が設定される。京阪が再発足して分離した1949年12月の時点では、新京阪線の名称を京都線と改めただけで、各路線の区間には変更がなかった。しかし、第二次世界大戦後の1956年には京都本線の特急は全列車が梅田発着になり、実質的に十三線が本線として扱われるようになっていた。1959年に、梅田駅 - 十三駅間に京都本線用の線路が敷設(手続き上は北野線の再開および宝塚線の増設という扱い)された際に、十三駅 - 淡路駅間が京都本線、天神橋駅 - 淡路駅間が千里山線に所属が変更された。 1960年、千里山駅の北方で開発が計画されていた千里ニュータウンへの交通手段として、千里山線の延長を大阪府から要請された。京阪神急行電鉄は府が要望した千里山駅から南地区センター付近までに加えて、宝塚線の混雑緩和を目的として箕面線桜井駅まで延長する計画を持っていた。1961年12月に千里山延長線(千里山駅 - 桜井駅間)の敷設免許を取得し、翌1962年8月に千里山駅 - 新千里山駅(南地区センター付近、現在の南千里駅)間を第1期工事として着工、1963年8月に開業した。新千里山駅からは北西に向かい、中央地区センター付近を経由して桜井駅に至る経路をとる計画であったが、府は新千里山駅の北方向に位置する北地区センター付近を経由するよう要望した。千里ニュータウン内では東部のみを通ることになる上、宝塚線の輸送改善としては遠回りになることからこれに抵抗し、北地区センター付近へは別で敷設免許を取得してこれを支線とする計画に落ち着いた。1965年1月に新千里山駅 - 北千里山駅(北地区センター付近、北千里駅として開業)間の敷設免許を取得し、同年12月に着工、1967年3月に開通した。開通と同時に路線名を千里線に、新千里山駅を南千里駅に改称した。北千里駅では日本初の本格的な自動改札機が導入された。 一方で、大阪市は1963年に地下鉄1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)を千里ニュータウンまで延長する計画を策定していた。この計画路線は日本万国博覧会(大阪万博)に合わせて整備されることになったが、協議の末、京阪神急行電鉄が中心となって設立した北大阪急行電鉄が大阪市外の江坂駅以北の建設運営を担うこととなった。これにより中央地区センター付近に鉄道が乗り入れることとなり、1970年に千里中央駅が開業している。その後、桜井駅に至る計画は宝塚線の輸送力が増強されたことなどから破棄され、南千里駅 - 桜井駅間の敷設免許は1972年12月に失効した。 京阪神急行電鉄は1950年代後半に天神橋駅から国鉄天満駅への延長を計画していた。1956年9月から1958年3月にかけて都市交通審議会大阪部会が行った審議では、大阪市と民営鉄道の計画路線の競合についても論議され、天神橋駅 - 天満駅間を含めたすべての計画路線を免許すべきとの答申がなされた。また、大阪府の提案を基に「国鉄天満駅から堺筋を経て動物園付近に至るもの」が答申された。その後、地下鉄1号線の混雑が激化する中、1962年度に行われた都市交通審議会大阪部会では地下鉄1号線の混雑緩和およびそのバイパス路線の建設を中心に論議された。京阪神急行電鉄は堺筋を通る路線への乗り入れを表明する一方、それぞれの計画を持つ南海電鉄と大阪市が対立した結果、これら三者での協議に持ち込まれた。数年に亘る協議で最後まで解決を見なかった軌間の調整について大阪陸運局長に裁定を求めた結果、京阪神急行電鉄と大阪市が主張する1435 mmとなり、二者での協議に移行した。相互直通運転に関する基本協定の調停後、京阪神急行電鉄は天神橋駅の地下化など関連工事に着手し、1969年12月の大阪市営地下鉄堺筋線の開業と相互直通運転の開始に至った。これに伴って天神橋駅は大阪市と共同使用の天神橋筋六丁目駅となった。 1970年の大阪万博開催にあたっては、千里線も会場までのアクセスに供されることとなり、南千里駅 - 北千里駅間に万博期間中の臨時駅として西ゲートに直結する万国博西口駅を設置し、北千里駅に引き上げ線と交差渡り線を新設した。阪急各線から前述の臨時列車を運行し、万国博の大量輸送の一端を担った。 淡路駅付近7.1 km(うち、千里線は3.8 km)の区間で大阪市が事業主体となった連続立体交差事業(高架化)が行われており、2028年度に高架切り替え、2031年度の事業完了予定である。完成すると、千里線内では11箇所の踏切が除却され、柴島駅と下新庄駅も同時に高架駅となる。 駅名は廃止時のもの。 すべての駅で堺筋線天下茶屋駅経由・南海空港線関西空港駅までの連絡乗車券が発売されている。さらに2011年5月14日からは、線内では北端の北千里駅ならびに京都本線と接続する淡路駅の2駅のみではあるが、既存の関西空港駅までの連絡乗車券よりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売していたが、2023年9月30日に発売を終了した。 南海高野線のフリー乗車券「高野山1dayチケット」の阪急発売分の場合は、阪急・Osaka Metroも乗り放題になるため、南海高野線へのアクセスは天下茶屋駅経由のほか大阪梅田駅経由なども選択可能である。
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山田駅間には阪急唯一の山岳トンネルである「千里トンネル」があるが、地下鉄と同様の開削工法で建設されたため構造は地下鉄のものと変わらない。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ほとんどの列車が以下のように他の路線との直通運転を行っており、千里線内で完結する列車は早朝の淡路発天神橋筋六丁目行き、天神橋筋六丁目発北千里行き、淡路発北千里行きと深夜の北千里発淡路行き、北千里発天神橋筋六丁目行きの数本のみである。千里線内で完結する列車であってもOsaka Metroの車両が充当されることがある。後述の堺筋準急以外はいずれも普通列車である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日中は、AとC、Bと高槻市駅 - 大阪梅田駅間の普通を一組とし、この二組を20分間隔で交互に運転する。それぞれの組は淡路駅で連絡を図る。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "朝・夕・夜には天下茶屋駅 - 淡路駅および京都本線正雀駅・茨木市駅・京都河原町駅間の列車や相川発天下茶屋行きも設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "普通列車の運転間隔は列車によってばらつきがある。ラッシュ時は3 - 8分間隔、日中は概ね10分間隔だが土休日の淡路駅 - 天神橋筋六丁目駅間は堺筋準急が運転されるためばらつきが大きく、6 - 14分間隔となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また京都本線と堺筋線とを直通運転する速達列車として準急(堺筋準急)が設定されている。平日は朝に下り7本と夕方に上り7本、土休日は昼間に20分間隔で、いずれも全て京都河原町駅発着で運転される。千里線内では柴島駅を通過するが、これが千里線で通過列車が設定されている唯一の駅である。Osaka Metroの車両は京都本線高槻市駅以遠には原則として乗り入れないため、全列車阪急車両が使用される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "堺筋線との相互直通運転を行う前までは天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 阪急京都駅(現在の大宮駅)間の普通列車も運転されていた(のちに河原町駅〈現在の京都河原町駅〉まで延長)。この運転系統は一時期まったく運行されていなかったが、2011年5月14日のダイヤ改正から天下茶屋発河原町行きの普通列車が設定され、2019年1月19日のダイヤ改正からは京都河原町発天下茶屋行きの普通列車も設定されたため、上下ともこの運行系統は復活している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2007年3月17日のダイヤ改正前は堺筋準急に代わって急行(堺筋急行)、快速急行(堺筋快速急行)として運転されていた。また、1956年4月までは京都本線の大阪側ターミナルが天神橋駅であったことから、天神橋駅 - 淡路駅間では特急も運転されていた。1959年に同区間が千里山線・千里線の所属になってからは、定期の特急の設定はない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1970年に千里丘陵で開催された日本万国博覧会の期間中は、観客輸送のため当時会場最寄り駅として臨時営業していた万国博西口駅へ向けて臨時列車群が運行された。そのうち、運用上特記されるものを記す。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2009年と2011年から2018年までは、春・秋の行楽期に嵐山線へ直通する臨時列車が天下茶屋駅 - 嵐山線嵐山駅間に設定されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "6300系・7000系(京とれいん 雅洛)・9300系を除く正雀車庫所属の京都本線の車両(ロングシート車)が共通で使用され、千里線専用の車両はない。堺筋線直通列車はすべて8両編成で、阪急の車両のほかOsaka Metroの66系も使用される。一方で、大阪梅田発着の列車は8両編成と7両編成が使用されているが、2019年1月改正より、平日ダイヤの日中はすべて7両編成に統一された。2015年で運行を終了した2300系は堺筋線に入線できないことから、梅田駅 - 北千里駅間で使用されていた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "当線の歴史は、北大阪電気鉄道が1921年に十三駅 - 豊津駅間を開業させたことに遡る。当初から大阪市内への乗り入れを計画していたが、資金難で淀川への架橋ができなかった。そこで、現・崇禅寺駅付近 - 現・吹田駅付近で東海道本線の旧線跡を譲り受け、阪神急行電鉄(阪急)の十三駅に接続することで当座をしのぐこととした。同社は大阪市内での墓地集約からの不足を見越し、沿線で霊園の開発を積極的に行ったため、「墓地電車」の異名を取った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方京阪電気鉄道は、京阪本線のバイパスとして大阪 - 京都間で淀川右岸を通る高速新線を計画していた。城東線払下が政治問題化し、大阪側起点を梅田以外で模索していた京阪は、北大阪電気鉄道が持つ天神橋 - 淡路間の免許に目を付けた。五島慶太らの斡旋により北大阪電鉄株式の大半を取得、新京阪鉄道を設立して1923年に同社から鉄道事業の譲渡を受けた。1925年には淀川を渡る天神橋駅 - 淡路駅間を開業して天神橋駅 - 淡路駅 - 千里山駅間を本線として扱うようになり、3年後の1928年には淡路駅から高槻町駅まで、次いで京都西院駅までを開通させて天神橋駅 - 京都西院駅を本線、淡路駅 - 千里山駅を千里山支線、淡路駅 - 十三駅を十三支線として扱うようになった。1930年に新京阪は親会社の京阪電気鉄道に合併し、旧北大阪電気鉄道線については、淡路駅 - 十三駅間が十三線、淡路駅 - 千里山駅間が千里山線となり、さらに1943年には陸上交通事業調整法による交通調整で京阪と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄(阪急電鉄の前身)の路線となる。合併後の1944年4月より、宝塚本線に乗り入れる形で梅田(現在の大阪梅田)発着の京都方面急行列車が設定される。京阪が再発足して分離した1949年12月の時点では、新京阪線の名称を京都線と改めただけで、各路線の区間には変更がなかった。しかし、第二次世界大戦後の1956年には京都本線の特急は全列車が梅田発着になり、実質的に十三線が本線として扱われるようになっていた。1959年に、梅田駅 - 十三駅間に京都本線用の線路が敷設(手続き上は北野線の再開および宝塚線の増設という扱い)された際に、十三駅 - 淡路駅間が京都本線、天神橋駅 - 淡路駅間が千里山線に所属が変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1960年、千里山駅の北方で開発が計画されていた千里ニュータウンへの交通手段として、千里山線の延長を大阪府から要請された。京阪神急行電鉄は府が要望した千里山駅から南地区センター付近までに加えて、宝塚線の混雑緩和を目的として箕面線桜井駅まで延長する計画を持っていた。1961年12月に千里山延長線(千里山駅 - 桜井駅間)の敷設免許を取得し、翌1962年8月に千里山駅 - 新千里山駅(南地区センター付近、現在の南千里駅)間を第1期工事として着工、1963年8月に開業した。新千里山駅からは北西に向かい、中央地区センター付近を経由して桜井駅に至る経路をとる計画であったが、府は新千里山駅の北方向に位置する北地区センター付近を経由するよう要望した。千里ニュータウン内では東部のみを通ることになる上、宝塚線の輸送改善としては遠回りになることからこれに抵抗し、北地区センター付近へは別で敷設免許を取得してこれを支線とする計画に落ち着いた。1965年1月に新千里山駅 - 北千里山駅(北地区センター付近、北千里駅として開業)間の敷設免許を取得し、同年12月に着工、1967年3月に開通した。開通と同時に路線名を千里線に、新千里山駅を南千里駅に改称した。北千里駅では日本初の本格的な自動改札機が導入された。 一方で、大阪市は1963年に地下鉄1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)を千里ニュータウンまで延長する計画を策定していた。この計画路線は日本万国博覧会(大阪万博)に合わせて整備されることになったが、協議の末、京阪神急行電鉄が中心となって設立した北大阪急行電鉄が大阪市外の江坂駅以北の建設運営を担うこととなった。これにより中央地区センター付近に鉄道が乗り入れることとなり、1970年に千里中央駅が開業している。その後、桜井駅に至る計画は宝塚線の輸送力が増強されたことなどから破棄され、南千里駅 - 桜井駅間の敷設免許は1972年12月に失効した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "京阪神急行電鉄は1950年代後半に天神橋駅から国鉄天満駅への延長を計画していた。1956年9月から1958年3月にかけて都市交通審議会大阪部会が行った審議では、大阪市と民営鉄道の計画路線の競合についても論議され、天神橋駅 - 天満駅間を含めたすべての計画路線を免許すべきとの答申がなされた。また、大阪府の提案を基に「国鉄天満駅から堺筋を経て動物園付近に至るもの」が答申された。その後、地下鉄1号線の混雑が激化する中、1962年度に行われた都市交通審議会大阪部会では地下鉄1号線の混雑緩和およびそのバイパス路線の建設を中心に論議された。京阪神急行電鉄は堺筋を通る路線への乗り入れを表明する一方、それぞれの計画を持つ南海電鉄と大阪市が対立した結果、これら三者での協議に持ち込まれた。数年に亘る協議で最後まで解決を見なかった軌間の調整について大阪陸運局長に裁定を求めた結果、京阪神急行電鉄と大阪市が主張する1435 mmとなり、二者での協議に移行した。相互直通運転に関する基本協定の調停後、京阪神急行電鉄は天神橋駅の地下化など関連工事に着手し、1969年12月の大阪市営地下鉄堺筋線の開業と相互直通運転の開始に至った。これに伴って天神橋駅は大阪市と共同使用の天神橋筋六丁目駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1970年の大阪万博開催にあたっては、千里線も会場までのアクセスに供されることとなり、南千里駅 - 北千里駅間に万博期間中の臨時駅として西ゲートに直結する万国博西口駅を設置し、北千里駅に引き上げ線と交差渡り線を新設した。阪急各線から前述の臨時列車を運行し、万国博の大量輸送の一端を担った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "淡路駅付近7.1 km(うち、千里線は3.8 km)の区間で大阪市が事業主体となった連続立体交差事業(高架化)が行われており、2028年度に高架切り替え、2031年度の事業完了予定である。完成すると、千里線内では11箇所の踏切が除却され、柴島駅と下新庄駅も同時に高架駅となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "駅名は廃止時のもの。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "すべての駅で堺筋線天下茶屋駅経由・南海空港線関西空港駅までの連絡乗車券が発売されている。さらに2011年5月14日からは、線内では北端の北千里駅ならびに京都本線と接続する淡路駅の2駅のみではあるが、既存の関西空港駅までの連絡乗車券よりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売していたが、2023年9月30日に発売を終了した。", "title": "南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "南海高野線のフリー乗車券「高野山1dayチケット」の阪急発売分の場合は、阪急・Osaka Metroも乗り放題になるため、南海高野線へのアクセスは天下茶屋駅経由のほか大阪梅田駅経由なども選択可能である。", "title": "南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券" } ]
千里線(せんりせん)は、大阪府大阪市北区の天神橋筋六丁目駅から大阪府吹田市の北千里駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。北千里駅まで延伸されるまでは千里山線あるいは千里山支線と呼ばれていた。北千里線と呼ばれることもあるが、正式なものではない。 なお、正式な起点は天神橋筋六丁目駅だが、列車運行上は北千里駅から天神橋筋六丁目駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 千里線 |路線色=#2a9b50 |画像=Senri line.JPG |画像サイズ=300px |画像説明=[[阪急3300系電車|3300系]]による普通[[天下茶屋駅|天下茶屋]]行き<br>(2010年2月 [[山田駅 (大阪府)|山田駅]]付近) |国={{JPN}} |所在地=[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]・[[東淀川区]]、[[吹田市]] |起点=[[天神橋筋六丁目駅]]<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成18年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.151</ref> |終点=[[北千里駅]]<ref name="youran" /> |駅数=11駅 |路線記号=[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|21px|HK]] HK |開業=[[1921年]][[4月1日]] |最終延伸=[[1967年]][[3月1日]] |休止= |廃止= |所有者=[[阪急電鉄]] |運営者=阪急電鉄 |車両基地=[[阪急電鉄正雀工場|正雀車庫・工場]]、[[桂車庫]] |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=13.6 [[キロメートル|km]] |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]]) |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置= |最高速度=80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> |路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg }} {{阪急千里線路線図}} '''千里線'''(せんりせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[天神橋筋六丁目駅]]から大阪府[[吹田市]]の[[北千里駅]]までを結ぶ[[阪急電鉄]]の[[鉄道路線]]。北千里駅まで延伸されるまでは'''千里山線'''あるいは千里山支線と呼ばれていた。北千里線と呼ばれることもあるが、正式なものではない。 なお、正式な起点は天神橋筋六丁目駅だが、列車運行上は北千里駅から天神橋筋六丁目駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。 == 概要 == 京都線系統の路線の一つ。[[千里丘陵]]に広がる[[千里ニュータウン]]を縦断し、後述の直通運転路線と合わせて[[大阪市]]中心部や繁華街を結ぶ通勤・通学路線である。[[淡路駅]]をジャンクションとして、天神橋筋六丁目駅 - [[京都河原町駅]]間及び[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] - 北千里駅間で、終日にわたり[[阪急京都本線|京都本線]]との直通運転が行われている。阪急の支線で、本線と終日にわたって直通運転を行う路線は千里線が唯一である{{Efn2|2023年1月現在、当路線以外で本線と直通する定期列車がある支線は神戸線系統の[[阪急今津線|今津北線]]があるが、平日朝ラッシュ時の大阪梅田行きのみの運転。かつては宝塚線系統の[[阪急箕面線|箕面線]]も定期列車において本線との直通運転を行っていた。}}。また、天神橋筋六丁目駅から[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行っており、堺筋線の終点駅である[[天下茶屋駅]]まで乗り入れている。 [[2021年]][[4月1日]]に開業100周年を迎えた<ref>{{Cite press release|和書|title=阪急千里線が2021年に開業100周年を迎えます 開業100周年を記念し、「ヘッドマークの掲出」や「グッズの販売」などを実施します|publisher=阪急電鉄|date=2021-03-29|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/63b98805d3e536cda2641549b948d0d11f00fdfb.pdf|format=PDF|accessdate=2021-03-30}}</ref>。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):13.6 [[キロメートル|km]] * [[軌間]]:1435 [[ミリメートル|mm]] * 駅数:11駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流1500 [[ボルト (単位)|V]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada" /> * [[車両基地]]:[[阪急電鉄正雀工場|正雀車庫・工場]]、[[桂車庫]] * 混雑率:105%(2020年度:下新庄駅→淡路駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf#page=4|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2022-03-03|publisher=国土交通省|page=4|format=PD}}</ref> == 沿線概況 == <!-- [[淡路駅]]で、[[阪急京都本線|京都本線]]と[[平面交差]]している。下り・上りともに淡路駅構内手前に複雑な分岐があり、いずれの方向から進入する際も、早朝や深夜を除きほとんどの列車が京都本線の列車を待つために淡路駅手前で信号待ち停車を余儀なくされる。2018年度末までの全線開通を目指すJR[[おおさか東線]]とは、淡路駅が乗り換え駅となる。またそれにあわせて千里線と京都本線は[[立体交差]]になり、千里線は[[柴島駅]] - [[下新庄駅]]間が高架化される予定である。--> [[天神橋筋六丁目駅]]から[[千里山駅]]までは戦前に開業した区間で、急曲線や急勾配が続き、運転上のネックとなっている。例えば、[[豊津駅 (大阪府)|豊津駅]] - [[関大前駅]]間には35 km/hの制限速度が設定されている。[[南千里駅]] - 千里山駅間には35 [[パーミル|‰]]の勾配があり、新型車両を投入するに当たってはこの区間で勾配起動試験を必ず行っている。 千里山駅から北千里駅までは、[[1963年]]以降に開通した阪急の鉄道路線の中では最も新しい区間であり、直線的な線形で運行速度も速い。また、当該区間はすべて[[高架橋|高架線]]・[[切土|掘割]]または[[トンネル]]からなっており、[[踏切]]は一つも設置されていない。南千里駅 - 山田駅間には阪急唯一の山岳トンネルである「千里トンネル」があるが、地下鉄と同様の[[開削工法]]で建設されたため構造は地下鉄のものと変わらない。 <gallery> ファイル:Hankyu 8300 Series between Toyotsu and Kandaimae.jpg|豊津駅 - 関大前駅間の急カーブを走行する[[阪急8300系電車|8300系]] ファイル:Hankyu Senri Tunnel_2.jpg|阪急唯一の山岳トンネルである「千里トンネル」 </gallery> == 運行形態 == {{See also|阪急京都本線#運行形態}} === 定期列車 === ほとんどの列車が以下のように他の路線との[[直通運転]]を行っており、千里線内で完結する列車は早朝の淡路発天神橋筋六丁目行き、天神橋筋六丁目発北千里行き、淡路発北千里行きと深夜の北千里発淡路行き、北千里発天神橋筋六丁目行きの数本のみである。千里線内で完結する列車であってもOsaka Metroの車両が充当されることがある。後述の堺筋準急以外はいずれも[[普通列車]]である。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !!!運転区間!! colspan="3" | 経由路線 |- ! A | 北千里駅 - [[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] |千里線 | colspan="2" | 京都本線 |- ! B | 北千里駅 - 天下茶屋駅 | colspan="2" | 千里線 | 堺筋線 |- ! C | [[高槻市駅]] - 天下茶屋駅 | 京都本線 | 千里線 | 堺筋線 |} 日中は、AとC、Bと高槻市駅 - 大阪梅田駅間の普通を一組とし、この二組を20分間隔で交互に運転する。それぞれの組は淡路駅で連絡を図る。 朝・夕・夜には天下茶屋駅 - 淡路駅および京都本線[[正雀駅]]・[[茨木市駅]]・[[京都河原町駅]]間の列車や[[相川駅|相川]]発天下茶屋行きも設定されている。 普通列車の運転間隔は列車によってばらつきがある。ラッシュ時は3 - 8分間隔、日中は概ね10分間隔だが土休日の淡路駅 - 天神橋筋六丁目駅間は堺筋準急が運転されるためばらつきが大きく、6 - 14分間隔となる。 また京都本線と堺筋線とを直通運転する速達列車として'''準急'''(堺筋準急)が設定されている。平日は朝に下り7本と夕方に上り7本、土休日は昼間に20分間隔で、いずれも全て京都河原町駅発着で運転される。千里線内では[[柴島駅]]を通過するが、これが千里線で通過列車が設定されている唯一の駅である。Osaka Metroの車両は京都本線高槻市駅以遠には原則として乗り入れないため、全列車阪急車両が使用される。 堺筋線との相互直通運転を行う前までは天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 阪急京都駅(現在の[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]])間の普通列車も運転されていた(のちに河原町駅〈現在の京都河原町駅〉まで延長)。この運転系統は一時期まったく運行されていなかったが、[[2011年]]5月14日のダイヤ改正から天下茶屋発河原町行きの普通列車が設定され、[[2019年]]1月19日のダイヤ改正からは京都河原町発天下茶屋行きの普通列車も設定されたため、上下ともこの運行系統は復活している。 2007年3月17日のダイヤ改正前は堺筋準急に代わって'''急行'''(堺筋急行)、'''快速急行'''(堺筋快速急行)として運転されていた。また、1956年4月までは京都本線の大阪側ターミナルが天神橋駅であったことから、天神橋駅 - 淡路駅間では特急も運転されていた。1959年に同区間が千里山線・千里線の所属になってからは、定期の特急の設定はない。 === 臨時列車 === ==== 大阪万博輸送列車 ==== [[1970年]]に千里丘陵で開催された[[日本万国博覧会]]の期間中は、観客輸送のため当時会場最寄り駅として臨時営業していた[[山田駅 (大阪府)|万国博西口駅]]へ向けて臨時列車群が運行された。そのうち、運用上特記されるものを記す。 ; エキスポ準急 : 梅田駅(現在の大阪梅田駅) - [[北千里駅]]間と地下鉄堺筋線[[動物園前駅]] - 北千里駅間に設定されていた。後者には[[大阪市交通局]](現在のOsaka Metro)の車両も充当されていた。なお、この列車が他事業者の路線ではあるが、地下鉄車両が日本で3番目に優等列車として運行した事例であった{{Efn2|最初の事例は[[都営地下鉄浅草線]]の[[京浜急行電鉄]]乗り入れ列車、2番目は[[東京メトロ東西線|当時の営団東西線]]での快速運転}}。 :; 停車駅 :* 梅田駅発着:梅田駅 - [[十三駅]] - 淡路駅 - 吹田駅 - 関大前駅 - 南千里駅 - 万国博西口駅 - 北千里駅 :* 動物園前駅発着:動物園前駅 -(この間各駅に停車)- 天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅 - 吹田駅 - 関大前駅 - 南千里駅 - 万国博西口駅 - 北千里駅 : ; エキスポ直通 : 万国博会場から[[阪急神戸本線|神戸線]]・[[阪急宝塚本線|宝塚線]]に直通した列車で、十三駅の[[引き上げ線]]で[[スイッチバック]]していた。運転区間は万国博西口駅 - 十三駅 - 宝塚線[[宝塚駅]]間と万国博西口駅 - 十三駅 - [[阪急神戸高速線|神戸高速線]][[高速神戸駅]]間であった。 :; 停車駅 :* 宝塚線発着:万国博西口駅 - 南千里駅 - 関大前駅 - 吹田駅 - 淡路駅 - 十三駅 - [[曽根駅 (大阪府)|曽根駅]] - [[豊中駅]] - 石橋駅(現在の[[石橋阪大前駅]]) - [[池田駅 (大阪府)|池田駅]] - [[川西能勢口駅]] - [[雲雀丘花屋敷駅]] - 宝塚駅 :* 神戸線発着:万国博西口駅 - 南千里駅 - 関大前駅 - 吹田駅 - 淡路駅 - 十三駅 - [[園田駅]] - [[塚口駅 (阪急)|塚口駅]] - [[西宮北口駅]] - [[六甲駅]] - 三宮駅(現在の[[神戸三宮駅]]) - [[花隈駅]] - 高速神戸駅 ==== 嵐山線直通列車 ==== {{Main|阪急嵐山線#臨時列車}} [[2009年]]と[[2011年]]から[[2018年]]までは、春・秋の行楽期に嵐山線へ直通する臨時列車が天下茶屋駅 - [[阪急嵐山線|嵐山線]][[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]間に設定されていた。 == 使用車両 == [[阪急6300系電車|6300系]]・[[阪急7000系電車|7000系]]([[京とれいん|京とれいん 雅洛]])・[[阪急9300系電車|9300系]]を除く[[阪急電鉄正雀工場|正雀車庫]]所属の[[阪急京都本線#使用車両|京都本線の車両]](ロングシート車)が共通で使用され、千里線専用の車両はない。堺筋線直通列車はすべて8両編成で、阪急の車両のほかOsaka Metroの[[大阪市交通局66系電車|66系]]も使用される。一方で、大阪梅田発着の列車は8両編成と7両編成が使用されているが、2019年1月改正より、平日ダイヤの日中はすべて7両編成に統一された。2015年で運行を終了した[[阪急2300系電車|2300系]]は堺筋線に入線できないことから、梅田駅 - 北千里駅間で使用されていた。 {{Main2|現用車両|阪急京都本線#現用車両|過去の車両|阪急京都本線#過去の車両}} == 歴史 == 当線の歴史は、'''[[北大阪電気鉄道]]'''が[[1921年]]に十三駅 - 豊津駅間を開業させたことに遡る。当初から大阪市内への乗り入れを計画していたが、資金難で[[淀川]]への架橋ができなかった。そこで、現・[[崇禅寺駅]]付近 - 現・[[吹田駅 (阪急)|吹田駅]]付近で[[東海道本線]]の旧線跡を譲り受け、阪神急行電鉄(阪急)の十三駅に接続することで当座をしのぐこととした。同社は大阪市内での墓地集約からの不足を見越し、沿線で[[墓|霊園]]の開発を積極的に行ったため、「墓地電車」の異名を取った。 一方[[京阪電気鉄道]]は、[[京阪本線]]のバイパスとして大阪 - 京都間で淀川右岸を通る高速新線を計画していた。[[大阪環状線|城東線]]払下が政治問題化し、大阪側起点を[[梅田]]以外で模索していた京阪は、北大阪電気鉄道が持つ天神橋 - 淡路間の免許に目を付けた{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=123–124}}。[[五島慶太]]らの斡旋により北大阪電鉄株式の大半を取得、[[新京阪鉄道]]を設立して[[1923年]]に同社から鉄道事業の譲渡を受けた{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=124–129}}{{Efn2|北大阪電気鉄道は鉄道事業譲渡後、土地経営を行う会社として京阪土地と改称し、後に京阪に吸収合併される{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=128,190–192}}。}}。[[1925年]]には淀川を渡る天神橋駅 - 淡路駅間を開業して天神橋駅 - 淡路駅 - 千里山駅間を本線として扱うようになり、3年後の[[1928年]]には淡路駅から高槻町駅まで、次いで[[京都西院駅]]までを開通させて天神橋駅 - 京都西院駅を本線、淡路駅 - 千里山駅を千里山支線、淡路駅 - 十三駅を十三支線として扱うようになった{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=172–175}}<ref>{{Cite book ja|title=大禮記念京都大博覽會誌 |date=1929-03-23 |publisher=大禮記念京都大博覽會誌編纂部 |editor-last=原田 |editor-first=登 |pages=340–341 |id={{NDLJP|1024784/316}}}}</ref>。1930年に新京阪は親会社の[[京阪電気鉄道]]に合併し、旧北大阪電気鉄道線については、淡路駅 - 十三駅間が十三線、淡路駅 - 千里山駅間が'''千里山線'''となり{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=212–213,216–220}}{{Efn2|1936年に線路名称が改定され、十三線・千里山線は新京阪本線・嵐山線とともに新京阪線に属する路線ということになった{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|p=264}}。}}、さらに[[1943年]]には[[陸上交通事業調整法]]による交通調整で京阪と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄(阪急電鉄の前身)の路線となる{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=298–303}}。合併後の1944年4月より、[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]に乗り入れる形で梅田(現在の大阪梅田)発着の京都方面急行列車が設定される{{Sfn|茂原|1959|pp=47–48}}{{Efn2|戦災により1945年10月休止、1948年8月再開{{Sfn|茂原|1959|pp=47–48}}。}}。京阪が再発足して分離した1949年12月の時点では、新京阪線の名称を京都線と改めただけで、各路線の区間には変更がなかった。しかし、第二次世界大戦後の1956年には京都本線の特急は全列車が梅田発着になり、実質的に十三線が本線として扱われるようになっていた。1959年に、梅田駅 - 十三駅間に京都本線用の線路が敷設(手続き上は[[阪急北野線|北野線]]の再開および宝塚線の増設という扱い)された際に、十三駅 - 淡路駅間が京都本線、天神橋駅 - 淡路駅間が千里山線に所属が変更された。 1960年、千里山駅の北方で開発が計画されていた[[千里ニュータウン]]への交通手段として、千里山線の延長を大阪府から要請された{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=60–61}}。京阪神急行電鉄は府が要望した千里山駅から南地区センター付近までに加えて、宝塚線の混雑緩和を目的として[[阪急箕面線|箕面線]][[桜井駅 (大阪府)|桜井駅]]まで延長する計画を持っていた{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=61–62}}。[[1961年]]12月に千里山延長線(千里山駅 - 桜井駅間)の敷設免許を取得し、翌1962年8月に千里山駅 - 新千里山駅(南地区センター付近、現在の[[南千里駅]])間を第1期工事として着工、1963年8月に開業した{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=62–63}}。新千里山駅からは北西に向かい、中央地区センター付近を経由して桜井駅に至る経路をとる計画であったが、府は新千里山駅の北方向に位置する北地区センター付近を経由するよう要望した{{Sfn|阪急電鉄|1982|p=63}}<ref>{{Cite journal |author=中田大三 |authorlink=中田大三 |title=千里山地区開発計画と鉄道計画 |journal=交通技術 |volume=18 |issue=2 |date=1963-02-01 |year=1963 |publisher=交通協力会 |pages=56–57 |language=ja |id={{NDLJP|2248235/12}}}}</ref>。千里ニュータウン内では東部のみを通ることになる上、宝塚線の輸送改善としては遠回りになることからこれに抵抗し、北地区センター付近へは別で敷設免許を取得してこれを支線とする計画に落ち着いた{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=63–64}}。1965年1月に新千里山駅 - 北千里山駅(北地区センター付近、[[北千里駅]]として開業)間の敷設免許を取得し、同年12月に着工、[[1967年]]3月に開通した{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=64,66}}。開通と同時に路線名を'''千里線'''に、新千里山駅を南千里駅に改称した{{Sfn|阪急電鉄|1982|p=66}}。北千里駅では日本初の本格的な[[自動改札機]]が導入された{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=64–65}}。 一方で、大阪市は1963年に地下鉄1号線(現在の[[Osaka Metro御堂筋線]])を千里ニュータウンまで延長する計画を策定していた{{Sfn|大阪市交通局|1980|pp=268–271}}。この計画路線は[[日本万国博覧会]](大阪万博)に合わせて整備されることになったが、協議の末、京阪神急行電鉄が中心となって設立した[[北大阪急行電鉄]]が大阪市外の[[江坂駅]]以北の建設運営を担うこととなった{{Sfn|大阪市交通局|1980|p=274}}。これにより中央地区センター付近に鉄道が乗り入れることとなり、1970年に[[千里中央駅]]が開業している。その後、桜井駅に至る計画は宝塚線の輸送力が増強されたことなどから破棄され、南千里駅 - 桜井駅間の敷設免許は[[1972年]]12月に失効した{{Sfn|森口|2001|pp=120–121}}。 京阪神急行電鉄は1950年代後半に天神橋駅から国鉄[[天満駅]]への延長を計画していた{{Sfn|阪急電鉄|1982|p=67}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|p=263}}。1956年9月から1958年3月にかけて[[都市交通審議会]]大阪部会が行った審議では、大阪市と民営鉄道の計画路線の競合についても論議され、天神橋駅 - 天満駅間を含めたすべての計画路線を免許すべきとの答申がなされた{{Sfn|阪急電鉄|1982|p=67}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|p=263}}。また、大阪府の提案を基に「国鉄天満駅から堺筋を経て動物園付近に至るもの」が答申された{{Sfn|阪急電鉄|1982|p=67}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|pp=263,265}}。その後、地下鉄1号線の混雑が激化する中、1962年度に行われた都市交通審議会大阪部会では地下鉄1号線の混雑緩和およびそのバイパス路線の建設を中心に論議された{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=67–68}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|p=267}}。京阪神急行電鉄は堺筋を通る路線への乗り入れを表明する一方、それぞれの計画を持つ南海電鉄と大阪市が対立した結果、これら三者での協議に持ち込まれた{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=68–69}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|pp=267–272}}。数年に亘る協議で最後まで解決を見なかった軌間の調整について大阪陸運局長に裁定を求めた結果、京阪神急行電鉄と大阪市が主張する1435 mmとなり、二者での協議に移行した{{Sfn|阪急電鉄|1982|p=69}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|p=268}}。相互直通運転に関する基本協定の調停後、京阪神急行電鉄は天神橋駅の地下化など関連工事に着手し、1969年12月の大阪市営地下鉄堺筋線の開業と相互直通運転の開始に至った{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=70–72}}{{Sfn|大阪市交通局|1980|p=272}}。これに伴って天神橋駅は大阪市と共同使用の天神橋筋六丁目駅となった{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=70–72}}。 [[1970年]]の大阪万博開催にあたっては、千里線も会場までのアクセスに供されることとなり、南千里駅 - 北千里駅間に万博期間中の臨時駅として西ゲートに直結する[[万国博西口駅]]を設置し、北千里駅に[[引き上げ線]]と交差渡り線を新設した{{Sfn|阪急電鉄|1982|pp=74–76}}。阪急各線から前述の[[#臨時列車|臨時列車]]を運行し、万国博の大量輸送の一端を担った。 === 連続立体交差事業 === 淡路駅付近7.1 km(うち、千里線は3.8 km)の区間で[[大阪市]]が事業主体となった[[連続立体交差事業]](高架化)が行われており、2028年度に高架切り替え、2031年度の事業完了予定である。完成すると、千里線内では11箇所の踏切が除却され、柴島駅と下新庄駅も同時に[[高架駅]]となる<ref>{{Cite book ja|title=阪急電鉄京都線・千里線連続立体交差事業 |publisher=大阪市、阪急電鉄 |year=2023 |url=https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000162741.html |format=PDF |accessdate=2023-12-25}}</ref>。 {{Double image aside|left|Shin-Kanzakigawa Bridge 1.JPG|220|Shin-Kanzakigawa Bridge 2.JPG|220|神崎川に架かる新神崎川橋梁には、東海道本線時代の橋脚が一部流用されていた。円柱形の橋脚がそれである<ref>辻 良樹 『関西 鉄道考古学探見』、[[JTBパブリッシング]]、2007年、77, 78p。{{ISBN2|978-4-533-06908-6}}</ref>。 <br>この新神崎川橋梁は、淡路駅付近立体交差事業に伴い、2017年に仮線(左写真奥)に切り替えられている<ref>{{Cite web|和書|title=家の中で廃線跡探訪 ネットで辿るかつての路線たち |website=鉄道コム |url=https://www.tetsudo.com/report/239/2.html |accessdate=2020-05-04}}</ref>。}} {{-}} === 年表 === * [[1921年]](大正10年) ** [[4月1日]]:北大阪電気鉄道が十三駅 - 豊津駅間を開業<ref>{{Citation|title=地方鉄道運輸開始 |periodical=官報 |issue=2602 |publisher=印刷局 |date=1921-04-07 |page=202 |language=ja |id={{NDLJP|2954717/6}}}}</ref>。 ** [[10月26日]]:豊津駅 - 千里山駅間が開業<ref>{{Citation|title=地方鉄道運輸開始 |periodical=官報 |issue=2602 |publisher=印刷局 |date=1921-11-02 |page=49 |language=ja |id={{NDLJP|2954891/11}}}}</ref>。 * [[1922年]](大正11年)[[5月1日]]:豊津駅 - 千里山駅間に大学前駅開業<ref>{{Citation|title=地方鉄道停留所設置 |periodical=官報 |issue=2943 |publisher=印刷局 |date=1922-05-26 |page=667 |language=ja |id={{NDLJP|2955060/8}}}}</ref>。 * [[1923年]](大正12年)4月1日:新京阪鉄道が北大阪電気鉄道の鉄道路線を譲り受ける{{Sfn|京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会|1960|pp=128–129}}。 * [[1925年]](大正14年)[[10月15日]]:新京阪鉄道が天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 淡路駅間を開業<ref>{{Citation|title=地方鉄道運輸開始 |periodical=官報 |issue=3953 |publisher=印刷局 |date=1925-10-27 |page=691 |language=ja |id={{NDLJP|2956102/7}}}}</ref>。同時に淡路駅 - 千里山駅間を複線化し、車両限界も新京阪線仕様となる。 * [[1928年]](昭和3年)[[1月16日]]:全線の架線電圧を600 Vから1500 Vに昇圧。 * [[1930年]](昭和5年)[[9月15日]]:京阪電気鉄道が新京阪鉄道を合併。'''千里山線'''となる。 * [[1938年]](昭和13年)9月15日:花壇前駅を千里山遊園駅に改称。 * [[1943年]](昭和18年) ** [[10月1日]]:阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併し京阪神急行電鉄が発足。東吹田駅を吹田駅に、西吹田駅を市役所前駅に改称。 ** [[12月1日]]:千里山遊園駅を千里山厚生園駅に改称。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[2月1日]]:天神橋駅 - 柴島駅間の[[長柄駅 (大阪府)|長柄駅]]廃止。 ** [[9月1日]]:大学前駅休止。 * [[1946年]](昭和21年) ** [[4月7日]]:千里山厚生園駅を千里山遊園駅に改称。 ** [[6月25日]]:大学前駅営業再開。 * [[1949年]](昭和24年)12月1日:京阪電気鉄道が分離。千里山線は京阪神急行電鉄に残存する。 * [[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]:千里山遊園駅を女子学院前駅に改称。 * [[1951年]](昭和26年)4月1日:女子学院前駅を花壇町駅に改称。 * [[1959年]](昭和34年)[[2月18日]]:京都本線の天神橋駅 - 淡路駅間を千里山線に編入。千里山線の列車が梅田駅(現在の大阪梅田駅)乗り入れ開始。 * [[1962年]](昭和37年)[[8月10日]]:千里山駅 - 新千里山駅間第1期延伸工事起工。 * [[1963年]](昭和38年)[[8月29日]]:千里山駅 - 新千里山駅(現在の南千里駅)間が開業。 * [[1964年]](昭和39年)[[4月10日]]:市役所前駅と(旧)吹田駅を廃止し吹田駅開業、花壇町駅と大学前駅を廃止し関大前駅開業。 * [[1965年]](昭和40年)[[12月11日]]:新千里山駅 - 北千里山駅間延伸建設工事起工。 * [[1967年]](昭和42年)[[3月1日]]:新千里山駅 - 北千里駅間が開業し'''千里線'''に改称。新千里山駅を南千里駅に改称。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[11月10日]]:[[日本万国博覧会]]アクセスのため南千里駅 - 北千里駅間に万国博西口駅を開設。 ** [[12月6日]]:大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)との相互直通運転開始<ref>{{Cite news |title=梅田駅拡張 第2期工事完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1969-11-27 |page=1 }}</ref>。天神橋駅を移転し天神橋筋六丁目駅に改称。 * [[1970年]](昭和45年)9月14日:万国博西口駅廃止。 * [[1973年]](昭和48年)[[11月23日]]:万国博西口駅跡の400 [[メートル|m]]南に山田駅開業。 * [[1979年]](昭和54年) ** 淀川治水対策の一環で新淀川橋梁を架け替え。新旧で両岸取付部はほぼ同地点だが、両地点を直線で結ぶ(流れ方向に直交する)ガーダー橋だった旧橋梁に対して、新橋梁は右岸で曲線の線形を描くトラス橋となったため、柴島駅南側の曲線が緩和された。 ** [[3月5日]]:天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅間で平日に堺筋急行を運転開始(堺筋線・京都本線河原町方面直通)。 * [[2001年]](平成13年)[[3月24日]]:夕方の堺筋急行を堺筋快速急行に変更。 * [[2004年]](平成16年)[[7月1日]]:大阪市交通局により天神橋筋六丁目駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref>{{Cite journal|和書|title=鉄道記録帳|journal=RAIL FAN|date=2004年10月号|issue=10|volume=51|publisher=鉄道友の会|page=27}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月17日]]:堺筋急行・堺筋快速急行が廃止され、堺筋準急が運転開始。 * [[2011年]](平成23年)[[5月14日]]:土休日の昼間にも堺筋準急が運転開始。 * [[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:天神橋筋六丁目駅を除く全駅に駅ナンバリング導入(天神橋筋六丁目駅の駅番号は引き続き堺筋線のものを使用)<ref name="hankyu20130430">{{Cite press release|title=〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します |publisher=阪急電鉄 |date=2013-04-30 |language=ja |url=https://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf |format=PDF |accessdate=2023-09-22}}</ref><ref name="hankyu20130605">{{Cite press release|title=阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します! |publisher=長岡京市、阪急電鉄 |date=2013-06-05 |language=ja |url=https://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf |format=PDF |accessdate=2023-09-22}}</ref>。 == 駅一覧 == * 全駅[[大阪府]]内に所在。 * 堺筋準急:平日朝夕と土休日昼間運転。堺筋線内では各駅に停車。 * 普通:各駅に停車するため省略。 * 接続路線の ( ) 内の英数字はその路線の[[駅ナンバリング|駅番号]]を表す。 * ●:停車、|:通過。 {| class="wikitable" rules="all" !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #2a9b50"|駅番号 !style="width:11em; border-bottom:solid 3px #2a9b50"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2a9b50"|駅間<br />営業キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2a9b50"|累計<br />営業キロ !style="width:1em; background:#cfc; border-bottom:solid 3px #2a9b50;line-height:100%"|{{縦書き|堺筋準急}} !style="border-bottom:solid 3px #2a9b50"|接続路線 !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #2a9b50"|所在地 |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="4"|'''天神橋筋六丁目駅から'''<br />○普通・堺筋準急…[[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]][[天下茶屋駅]]まで |- !K11 |[[天神橋筋六丁目駅]]<ref group="*">他社接続の共同使用駅で、Osaka Metroの管轄駅である。駅番号はOsaka Metro堺筋線としてのもので、阪急としての駅番号は付与されていない。</ref> |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka Metro Sakaisuji line symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]](直通:上記参照)・[[File:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T18) |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=4em}} |[[北区 (大阪市)|北区]] |- !HK-87 |[[柴島駅]] |style="text-align:right"|2.2 |style="text-align:right"|2.2 |style="text-align:center; background:#cfc"|| |&nbsp; |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[東淀川区]] |- !HK-63 |[[淡路駅]] |style="text-align:right"|1.3 |style="text-align:right"|3.5 |style="text-align:center; background:#cfc"|● |[[阪急電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]](一部直通:下記参照)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]]([[JR淡路駅]]: JR-F04){{Refnest|group="注"|name="transfer"|連絡運輸は行っていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/assets/pdf/stipulation/2021/covenant_unyu.pdf |title=旅客連絡運輸規則 |format=PDF |pages=14-16 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2021 |accessdate=2021-11-02}}</ref>。}} |- !HK-88 |[[下新庄駅]] |style="text-align:right"|0.9 |style="text-align:right"|4.4 |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-89 |[[吹田駅 (阪急)|吹田駅]] |style="text-align:right"|1.6 |style="text-align:right"|6.0 |&nbsp; |&nbsp; |rowspan="7" colspan="2"|[[吹田市]] |- !HK-90 |[[豊津駅 (大阪府)|豊津駅]] |style="text-align:right"|0.9 |style="text-align:right"|6.9 |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-91 |[[関大前駅]] |style="text-align:right"|0.9 |style="text-align:right"|7.8 |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-92 |[[千里山駅]] |style="text-align:right"|0.8 |style="text-align:right"|8.6 |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-93 |[[南千里駅]] |style="text-align:right"|1.6 |style="text-align:right"|10.2 |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-94 |[[山田駅 (大阪府)|山田駅]] |style="text-align:right"|1.4 |style="text-align:right"|11.6 |&nbsp; |[[大阪モノレール]]:[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線(本線)]] (16) |- !HK-95 |[[北千里駅]] |style="text-align:right"|2.0 |style="text-align:right"|13.6 |&nbsp; |&nbsp; |- !colspan="4"|直通運転区間<!-- 最長の --> |colspan="4"|'''淡路駅から'''<br /> ○普通…堺筋線天下茶屋駅・天神橋筋六丁目駅方面と京都本線[[京都河原町駅]]方面{{Efn2|京都河原町行きは一部のみで、それ以外は[[高槻市駅]]まで。}}、北千里駅方面と京都本線[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]方面<br />○堺筋準急…堺筋線天下茶屋駅・天神橋筋六丁目駅方面と京都本線[[京都河原町駅]]方面 |} {{Reflist|group="*"}} * 千里線と直通運転する堺筋線との連絡乗車券を購入した場合、[[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]([[東梅田駅]]・[[西梅田駅]]含む)、[[西中島南方駅]]と[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]相互間では直接乗り継ぎできない。後述の[[#南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券|南海電鉄との連絡乗車券]]も同様である。 * 阪急の[[吹田駅 (阪急)|吹田駅]]とJR京都線の[[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]]は600 mほど離れている。 === 廃駅 === 駅名は廃止時のもの。 * [[長柄駅 (大阪府)|長柄駅]](天神橋駅 - 柴島駅間) - 1944年2月1日廃止 * (旧)[[吹田駅 (阪急)|吹田駅]](下新庄駅 - 市役所前駅間) - 1964年4月10日市役所前駅に統合され、市役所前駅は吹田駅に改称 * [[関大前駅|花壇町駅]](豊津駅 - 大学前駅間) - 1964年4月10日大学前駅との間に設けられた関大前駅に統合され廃止 * [[関大前駅|大学前駅]](花壇町駅 - 千里山駅間) - 1964年4月10日花壇町駅との間に設けられた関大前駅に統合され廃止 * [[山田駅 (大阪府)|万国博西口駅]](南千里駅 - 北千里駅間) - [[日本万国博覧会]]会場最寄り駅として1969年11月10日から1970年9月14日まで営業した[[臨時駅]] == 南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券 == すべての駅で堺筋線天下茶屋駅経由・[[南海空港線]][[関西空港駅]]までの連絡乗車券が発売されている。さらに[[2011年]][[5月14日]]からは、線内では北端の北千里駅ならびに京都本線と接続する淡路駅の2駅のみではあるが、既存の関西空港駅までの連絡乗車券よりもさらに割安な「[[京都アクセスきっぷ|関空アクセスきっぷ]]」も発売していたが<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110509000135 河原町-関空1200円 阪急、南海、大阪市地下鉄が協力] - [[京都新聞]]、2011年5月9日。</ref>、[[2023年]][[9月30日]]に発売を終了した<ref>{{Cite web|和書|title=運賃改定に伴う一部企画乗車券の発売価格見直しと発売終了について |publisher=南海電気鉄道 |language=ja |url=https://www.nankai.co.jp/traffic/info/kaitei_20230810.html |access-date=2023-10-23}}</ref>。 [[南海高野線]]のフリー乗車券「[[高野山1dayチケット]]」の阪急発売分の場合は、阪急・Osaka Metroも乗り放題になるため、南海高野線へのアクセスは天下茶屋駅経由のほか大阪梅田駅経由なども選択可能である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book ja|editor-last=茂原 |editor-first=祥三 |title=京阪神急行電鉄五十年史 |date=1959-06-30 |publisher=京阪神急行電鉄 |language=ja |id={{NDLJP|8798380}}}} * {{Cite book ja|editor=京阪電気鉄道株式会社史料編纂委員会 |title=鉄路五十年 |date=1960-12-25 |publisher=京阪電気鉄道 |language=ja |id={{NDLJP|2493959}}}} * {{Cite book ja|title=大阪市交通局七十五年史 |date=1980-03-31 |publisher=大阪市交通局 |language=ja |id={{NDLJP|12064869}} |ref={{SfnRef|大阪市交通局|1980}}}} * {{Cite book ja|editor=阪急電鉄 |title=75年のあゆみ |volume=記述編 |publisher=阪急電鉄 |date=1982-10-19 |language=ja |id={{NDLJP|11955303}}}} * {{Cite book ja|last=森口 |first=誠之 |title=鉄道未成線を歩く |volume=私鉄編 |publisher=JTB |year=2001 |language=ja |isbn=4-533-03922-7}} * {{Cite book ja|others=今尾恵介(監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線 |publisher=新潮社 |volume=9号 関西2 |year=2009 |isbn=978-4-10-790027-2 |ref=imao}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[大阪万博の交通]] * [[阪急新大阪連絡線]] {{阪急電鉄の路線}} {{京阪電気鉄道の路線}} {{DEFAULTSORT:はんきゆうせんりせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|せんりせん]] [[Category:阪急電鉄の鉄道路線|せんり]] [[Category:新京阪鉄道|路せんりやません]] [[Category:大阪府の交通]]
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阪急箕面線
箕面線(みのおせん)は、大阪府池田市の石橋阪大前駅から大阪府箕面市の箕面駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。 紅葉と滝の名所箕面公園や箕面温泉への行楽路線であるとともに、大阪への通勤・通学路線でもある。宝塚本線とともに前身の箕面有馬電気軌道によって開業した阪急電鉄の創業路線でもある。宝塚本線の支線であり、戦前は、箕面支線という表記も見られた。 基本的に線内折り返し運転で、平日朝ラッシュ時(8時台まで)は4 - 9分間隔、土休日夜(19時台以降)は12分間隔、それ以外の時間帯は10分間隔で運転されている。2022年12月17日のダイヤ改正前までは、平日朝ラッシュ時には宝塚本線に直通する箕面発大阪梅田行きの普通列車が設定されていた。 宝塚本線直通列車は2010年代から縮小傾向にあり、2015年3月21日のダイヤ改正で通勤準急が準急に格下げされ、2018年7月7日のダイヤ改正で朝の梅田駅(現在の大阪梅田駅)発着の準急や梅田駅発の普通の運転がなくなり、平日朝ラッシュ時の梅田行き普通2本のみの運転となった。通勤準急および準急は箕面線内の各駅に停車していた(宝塚本線内での停車駅は異なる)。2022年12月のダイヤ改正で最後まで残った大阪梅田行き普通2本も廃止され、長らく続いた大阪方面への直通列車が全廃となった。 大阪梅田行きが減った分、平日朝ラッシュ時の上り列車は石橋阪大前駅にて宝塚本線の通勤特急または特急「日生エクスプレス」と接続するようにしたことで大阪梅田駅までの所要時間を短縮している。 毎年、大晦日(12月31日)の深夜から翌年元日(1月1日)の早朝にかけて、阪急電鉄の他路線同様に終夜運転が行われている(2020年の大晦日を除く)。ダイヤは毎年個別に案内されるため、年により多少異なってくるが、概ね30分に1本の運行である。正月三が日は、以前は宝塚本線が特別ダイヤ(正月ダイヤ)としていたため、箕面線も宝塚本線との接続を考慮して同様に特別ダイヤで運転していた。なお、この「正月ダイヤ」は2015年をもって廃止され、2016年より、正月三が日も通常の土休日ダイヤで運転されている。 かつて秋の紅葉シーズン等における休日昼間には、1980年頃まで梅田駅直通の臨時準急電車が毎時4本ほど運行されていたが、現在は行われていない。また、ホタルの観察シーズンの6月には梅田駅 - 箕面駅間の定期準急の一部を「ほたる」号として運転し、特製のヘッドマークが取り付けられた。近年の臨時列車(団体列車を除く)の運転状況は以下の通りである。 列車はすべて4両編成で、平井車庫に所属する以下の4両編成が主に使用される。 かつては線内でも8両編成充当の列車が存在した。充当車両は宝塚本線で運用されているすべての8両編成(「阪急宝塚本線#使用車両」を参照。能勢電鉄所属の6000系を含む)で、平日朝ラッシュ時の大阪梅田行き直通列車のほか、線内折り返し列車にも8両編成が存在していたが、すべて2018年7月7日のダイヤ改正で廃止されている。 阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が、1910年に宝塚本線と併せて開業させた。当初、分岐駅の石橋駅はデルタ線、終点の箕面駅はループ線となっており、梅田駅→石橋駅→箕面駅→石橋駅→宝塚駅(あるいはその逆)の系統で運転される電車も設定されていたといわれている。 なお1961年12月に箕面線桜井駅 - 千里線千里山駅間の事業免許を取得し、桜井駅から西国街道沿いに東へ直進する新線計画が立てられていたが、1972年12月に免許を取り下げている。詳細は「阪急千里線」の項目を参照。
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箕面線(みのおせん)は、大阪府池田市の石橋阪大前駅から大阪府箕面市の箕面駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。 紅葉と滝の名所箕面公園や箕面温泉への行楽路線であるとともに、大阪への通勤・通学路線でもある。宝塚本線とともに前身の箕面有馬電気軌道によって開業した阪急電鉄の創業路線でもある。宝塚本線の支線であり、戦前は、箕面支線という表記も見られた。
<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください--> {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 箕面線 |路線色=#f26627 |画像=Hankyu 6000 series 6024F between Makiochi and Minoh.jpg |画像サイズ=300px |画像説明= 箕面線普通の[[阪急6000系電車|6000系]]<br/>(牧落駅 - 箕面駅間) |国={{JPN}} |所在地=[[大阪府]][[池田市]]、[[豊中市]]、[[箕面市]] |起点=[[石橋阪大前駅]] |終点=[[箕面駅]] |駅数=4駅 |路線記号=[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|21px|HK]] HK |開業={{start date and age|1910|3|10}} |休止= |廃止= |所有者=[[阪急電鉄]] |運営者=阪急電鉄 |車両基地=[[平井車庫]] |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=4.0 [[キロメートル|km]] |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]]) |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置= |最高速度=80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> |路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg }} {{阪急箕面線路線図}} '''箕面線'''(みのおせん)は、[[大阪府]][[池田市]]の[[石橋阪大前駅]]から大阪府[[箕面市]]の[[箕面駅]]までを結ぶ[[阪急電鉄]]の鉄道路線。 == 概要 == 紅葉と滝の名所[[箕面公園]]や[[箕面温泉]]への行楽路線であるとともに、大阪への通勤・通学路線でもある。[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]とともに前身の[[箕面有馬電気軌道]]によって開業した阪急電鉄の創業路線でもある。宝塚本線の支線であり、戦前は、'''箕面支線'''という表記も見られた。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):4.0km * [[軌間]]:1435mm * 駅数:4駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:80km/h<ref name="terada" /> * 車両基地:[[平井車庫]] == 運行形態 == 基本的に線内折り返し運転で、平日朝ラッシュ時(8時台まで)は4 - 9分間隔、土休日夜(19時台以降)は12分間隔、それ以外の時間帯は10分間隔で運転されている。2022年12月17日のダイヤ改正前までは、平日朝ラッシュ時には宝塚本線に直通する箕面発[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田]]行きの普通列車が設定されていた。 宝塚本線直通列車は2010年代から縮小傾向にあり、2015年3月21日のダイヤ改正で通勤準急が準急に格下げされ、2018年7月7日のダイヤ改正で朝の梅田駅(現在の大阪梅田駅)発着の準急や梅田駅発の普通の運転がなくなり<ref name="hhhd20180522">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/5959.pdf 7月7日初発より宝塚線のダイヤ改正を実施します 〜平日 朝・夕方の通勤・通学時間帯における混雑の緩和と利便性の向上を図ります〜]}} - 阪急電鉄、2018年5月22日</ref>、平日朝ラッシュ時の梅田行き普通2本のみの運転となった<ref name="hankyu20180620">[http://www.hankyu.co.jp/topics/details/799.html 7月7日(土)からの宝塚線全列車時刻表] - 阪急電鉄、2018年6月20日</ref>。通勤準急および準急は箕面線内の各駅に停車していた(宝塚本線内での停車駅は異なる)。2022年12月のダイヤ改正で最後まで残った大阪梅田行き普通2本も廃止され<ref name="hankyu20221012">{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)初発より 阪急全線(神戸線・宝塚線・京都線)でダイヤ改正を実施 〜2024年に京都線で座席指定サービスを開始します〜|publisher=阪急電鉄|date=2022-10-12|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>、長らく続いた大阪方面への直通列車が全廃となった<ref name="maidona20221112">{{Cite news |title=さよなら阪急箕面線「大阪梅田行き直通列車」 北大阪急行延伸も影響…12月ダイヤ改正で“長い歴史”に幕 |newspaper=まいどなニュース |date=2022-11-12 |url=https://maidonanews.jp/article/14764959 |access-date=2022-12-22}}</ref>。 大阪梅田行きが減った分、平日朝ラッシュ時の上り列車は石橋阪大前駅にて宝塚本線の通勤特急または特急「[[日生エクスプレス]]」と接続するようにしたことで大阪梅田駅までの所要時間を短縮している。 <gallery> Hankyu Mino-h of semiexp 7015F.jpg|箕面駅停車中の[[阪急7000系電車|7000系]]7015F(8両編成)による準急梅田行き。<br/>現在は廃止された箕面線内の準急。 </gallery> 毎年、[[大晦日]](12月31日)の深夜から翌年[[元日]](1月1日)の早朝にかけて、阪急電鉄の他路線同様に[[終夜運転]]が行われている(2020年の大晦日を除く)。ダイヤは毎年個別に案内されるため、年により多少異なってくるが、概ね30分に1本の運行である。[[正月三が日]]は、以前は宝塚本線が特別ダイヤ(正月ダイヤ)としていたため、箕面線も宝塚本線との接続を考慮して同様に特別ダイヤで運転していた。なお、この「正月ダイヤ」は[[2015年]]をもって廃止され、[[2016年]]より、正月三が日も通常の土休日ダイヤで運転されている。 かつて秋の紅葉シーズン等における休日昼間には、[[1980年]]頃まで梅田駅直通の臨時準急電車が毎時4本ほど運行されていたが、現在は行われていない。また、[[ホタル]]の観察シーズンの6月には梅田駅 - 箕面駅間の定期準急の一部を「ほたる」号として運転し、特製のヘッドマークが取り付けられた。近年の臨時列車(団体列車を除く)の運転状況は以下の通りである。 *[[2007年]]:秋の行楽シーズンに線内折り返しの臨時普通列車が10往復程度運転された。ただし、ウェブサイトや広報紙での告知はなかった。4連1編成が投入され、通常の10分間隔で運転される普通列車の合間を縫うように20分間隔で運転された。 *[[2009年]]:[[4月18日]]・[[4月19日|19日]]・[[4月25日|25日]]・[[4月26日|26日]]の4日間に限り、梅田発箕面行き臨時列車([[十三駅]]と[[石橋阪大前駅|石橋駅]]のみ停車)が午前中に2本運転された。 *[[2010年]]:[[4月29日]]の1日限り、阪急電鉄創業100周年を記念した梅田発箕面行き臨時列車(十三駅と石橋駅のみ停車)が1本運転された。 == 車両 == 列車はすべて4両編成で、[[平井車庫]]に所属する以下の4両編成が主に使用される。 *[[阪急5100系電車|5100系]] *[[阪急6000系電車|6000系]] *[[阪急7000系電車|7000系]] *[[阪急8000系電車|8000系]] かつては線内でも8両編成充当の列車が存在した。充当車両は宝塚本線で運用されているすべての8両編成(「[[阪急宝塚本線#使用車両]]」を参照。[[能勢電鉄]]所属の6000系を含む)で、平日朝ラッシュ時の大阪梅田行き直通列車のほか、線内折り返し列車にも8両編成が存在していたが、すべて[[2018年]][[7月7日]]のダイヤ改正で廃止されている。 <gallery widths="200"> ファイル:Hankyu 5100 5134 Minoh.jpg|箕面線内普通の5100系 ファイル:Hankyu6000 6014 Minoh.jpg|箕面線内普通の6000系 ファイル:Hankyu 7000 series 7031F between Sakurai and Makiochi.jpg|箕面線内普通の7000系 ファイル:Hankyu8040-minosen.JPG|2両編成を2編成連結して箕面線内で運用される8000系 </gallery> == 歴史 == {{出典の明記|date=2018年6月|section=1}} 阪急電鉄の前身である'''[[箕面有馬電気軌道]]'''が、1910年に宝塚本線と併せて開業させた。当初、分岐駅の石橋駅は[[デルタ線]]、終点の箕面駅は[[ループ線]]となっており、梅田駅→石橋駅→箕面駅→石橋駅→宝塚駅(あるいはその逆)の系統で運転される[[電車]]も設定されていたといわれている。 なお[[1961年]]12月に箕面線桜井駅 - 千里線千里山駅間の事業免許を取得し、桜井駅から[[西国街道]]沿いに東へ直進する新線計画が立てられていたが、[[1972年]]12月に免許を取り下げている<ref>森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』 JTB、2001年、pp.120-121</ref>。詳細は「[[阪急千里線]]」の項目を参照。 * [[1910年]](明治43年) ** [[3月10日]]:石橋駅 - 箕面駅間が開業<ref>和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、p.135</ref><ref name="chizucho" />。 ** [[4月12日]]:桜井駅開業<ref name="chizucho">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』9号 関西2、新潮社、2009年、p.51</ref>。 * [[1921年]](大正10年)[[12月30日]]:牧落駅開業<ref name="chizucho" />。 * [[1953年]](昭和28年)[[4月1日]]:平日朝に梅田駅 - 箕面駅間に準急を設定<ref name="rekishi-chizuchou">今尾恵介・原武史『日本鉄道旅行歴史地図帳』10号 関西私鉄、新潮社、2011年、pp.50-51</ref>。 * [[1968年]](昭和43年)[[5月1日]]:[[自動列車停止装置]](ATS)を設置し、供用開始<ref name=交通1968-0221>{{Cite news |和書|title=関西五私鉄 保安度向上へ急ピッチ 各社がATS設置へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-21 |page=2 }}</ref>。 * [[1969年]](昭和44年)[[8月24日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。 * [[1978年]](昭和53年)3月10日:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更<ref>和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、p.136</ref>。 * [[1997年]](平成9年)[[11月16日]]:ダイヤ改正で準急廃止。通勤準急を代わりに設定。 * [[2000年]](平成12年)[[6月4日]]:ダイヤ改正で平日朝夕に従来の通勤準急に代わり梅田駅 - 箕面駅間に準急を設定。 * [[2003年]](平成15年)[[8月30日]]:ダイヤ改正で夕方の箕面線直通の準急を廃止、平日朝の準急は通勤準急に種別変更。 * [[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref name="hankyu20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="hankyu20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref>。 *[[2015年]](平成27年)[[3月21日]]:ダイヤ改正で通勤準急が廃止され、準急に変更。 *[[2018年]](平成30年)[[7月7日]]:ダイヤ改正で準急および梅田駅(現在の大阪梅田駅)発の直通列車、8両編成の線内折り返し列車を廃止<ref name="hankyu20180620"/>。 *[[2019年]](令和元年)[[10月1日]]:石橋駅を石橋阪大前駅に改称<ref name="hankyu20190730">{{Cite press release |和書 |title=「梅田」「河原町」「石橋」の駅名を10月1日に変更します |publisher=阪急電鉄 |date=2019-07-30 |url=https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf |format=PDf |accessdate=2019-07-31}}</ref>。 *[[2022年]](令和4年)[[12月17日]]:ダイヤ改正で大阪梅田行きの直通列車が廃止され、全列車が線内折り返しとなる<ref name="hankyu20221012" /><ref name="maidona20221112" />。 *[[2026年]]([[令和]]8年)春頃(予定):[[ワンマン運転]]を開始<ref name="hankyu20240323">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/040acf91061bbe61374f567a69bdc960b9c103f3.pdf 伊丹線・箕面線・嵐山線においてワンマン運転を開始します]}} - 阪急電鉄、2023年11月13日</ref>。 == 駅一覧 == * 全駅[[大阪府]]内に所在。 * 線内折り返し普通のみで、全駅に停車する。 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は2013年12月21日より導入<ref name="hankyu20130430" /><ref name="hankyu20130605" />。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|駅番号 !style="width:7em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|駅間<br />営業キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|累計<br />営業キロ !style="border-bottom:solid 3px #f26627;"|接続路線 !style="border-bottom:solid 3px #f26627;"|所在地 |- !HK-48 |[[石橋阪大前駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |[[阪急電鉄]]:[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]] |style="white-space:nowrap;"|[[池田市]] |- !HK-57 |[[桜井駅 (大阪府)|桜井駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|1.6 |&nbsp; |rowspan="3"|[[箕面市]] |- !HK-58 |[[牧落駅]] |style="text-align: right;"|1.1 |style="text-align: right;"|2.7 |&nbsp; |- !HK-59 |[[箕面駅]] |style="text-align: right;"|1.3 |style="text-align: right;"|4.0 |&nbsp; |} * 石橋阪大前駅 - 桜井駅間で[[豊中市]]([[飛地]]の石橋麻田町)を通るが、駅はない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{阪急電鉄の路線}} {{DEFAULTSORT:はんきゆうみのおせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|みのおせん]] [[Category:阪急電鉄の鉄道路線|みのお]] [[Category:大阪府の交通]]
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ローマ共和国
ローマ共和国(ローマきょうわこく)
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ローマ共和国(ローマきょうわこく) 古代ローマ共和国 → 共和政ローマ 1798年に樹立された共和国 → ローマ共和国 (18世紀) 1849年に樹立された共和国 → ローマ共和国 (19世紀)
'''ローマ共和国'''(ローマきょうわこく) * 古代ローマ共和国 → [[共和政ローマ]] * [[1798年]]に樹立された共和国 → [[ローマ共和国 (18世紀)]] * [[1849年]]に樹立された共和国 → [[ローマ共和国 (19世紀)]] {{DEFAULTSORT:ろおまきようわこく}} {{aimai}} [[Category:イタリアの歴史]]
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SPQR
SPQRとは、ラテン語の「Senātus Populusque Rōmānus(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)」、「ローマの元老院と人民(市民)」の略語。すなわち古代ローマの国家全体(共和政ローマ・ローマ帝国)の主権者を指す。また、現代の「紳士淑女諸君」のように、演説などの冒頭の挨拶にも使われた。 「SPQR」の文字は、古代の国家ローマとその市民の栄光と誇りを現すものであり、当時ローマ帝国の領域であった現在のヨーロッパや北アフリカにいたるあらゆる地域で公共物にすべて刻まれ、ローマ軍団の軍旗などにも使われた。ローマ時代の遺跡やそれを基にした建造物、ローマ市の盾形の紋章に見て取ることができる。 現在もローマ市の広報に使用されており、「SPQR『ゴミはクズカゴヘ』」といった風に使用されるほか、マンホールの蓋やタクシーのドアにも描かれている。また、「Sono pazzi questi Romani.(このローマ市民どもは可笑しい)」という皮肉に解されることもある。
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SPQRとは、ラテン語の「Senātus Populusque Rōmānus(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)」、「ローマの元老院と人民(市民)」の略語。すなわち古代ローマの国家全体(共和政ローマ・ローマ帝国)の主権者を指す。また、現代の「紳士淑女諸君」のように、演説などの冒頭の挨拶にも使われた。
{{出典の明記|date=2016-10-04}} [[File:Insigne Romanum coronatum.svg|thumb|100px|ローマ市の紋章]] [[File:Romeinse vlag.jpg|thumb|upright|A modern recreation of a [[aquila (Roman)|Roman standard]]]] [[File:Stemma reggio emilia municipio.jpg|thumb|200px|[[レッジョ・エミリア]]にあるSPQRの紋章([[イタリア]]では多くの建物の壁にこのような紋章が取り付けられている。)]] [[File:ManholeSPQR.JPG|right|thumb|200px|[[ローマ]]にある四角い[[マンホールの蓋]]。SPQRの文字が見える。]] {{lang|la|'''SPQR'''}}とは、[[ラテン語]]の「{{lang|la|'''S'''enātus '''P'''opulus'''q'''ue '''R'''ōmānus}}(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)」、「ローマの[[元老院 (ローマ)|元老院]]と人民(市民)」の[[略語]]。すなわち[[古代ローマ]]の国家全体([[共和政ローマ]]・[[ローマ帝国]])の主権者を指す。また、現代の「紳士淑女諸君」のように、[[演説]]などの冒頭の挨拶にも使われた。 == 概要 == === 過去の使用例 === 「{{lang|la|SPQR}}」の文字は、古代の国家ローマとその市民の栄光と誇りを現すものであり、当時ローマ帝国の領域であった現在の[[ヨーロッパ]]や[[北アフリカ]]にいたるあらゆる地域で公共物にすべて刻まれ、[[ローマ軍団]]の[[軍旗]]などにも使われた。ローマ時代の遺跡やそれを基にした建造物、[[ローマ]]市の盾形の紋章に見て取ることができる。 === 現在の使用例 === 現在も[[ローマ|ローマ市]]の広報に使用されており、「{{lang|la|SPQR}}『ゴミはクズカゴヘ』」といった風に使用されるほか、[[マンホールの蓋]]や[[タクシー]]のドアにも描かれている。また、「{{lang|it|'''S'''ono '''p'''azzi '''q'''uesti '''R'''omani.}}(このローマ市民どもは可笑しい)」という皮肉に解されることもある。 == 関連項目 == {{commons&cat}} {{wiktionary}} * [[ローマ法]] * [[バチカン]] * [[Civis romanus sum]] {{DEFAULTSORT:SPQR}} [[Category:古代ローマ]] [[Category:古代ローマの名言]] [[Category:ラテン語の成句]] [[Category:頭字語]] [[Category:略語]]
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18,049
ビュザンティオン
ビュザンティオン(古代ギリシャ語: Βυζάντιον、ラテン文字転写: Byzántion)は、ヨーロッパの南東、バルカン半島のトラキアの東端に位置する小さな半島(現在のトルコ領イスタンブールの旧市街地区)の先端部分にあった、古代ギリシア人の建設による都市である。アジア側の対岸にはカルケドンがある。 表記は、ビュザンティオンのほか、ビザンティオン、ビザンティウム、ビザンチウム、とされることもある。 ビュザンティオン、ビザンティオンはギリシア語表記に、ビザンティウム(Byzantium)はラテン語表記に由来している。 紀元前667年頃にメガラからの植民者たちによって建設され、彼らの王ビュザンタスにちなんでビュザンティオンと名づけられたとされている。しかし、それ以前に原住民であるトラキア人の都市があったという説もあり、建設については伝説の域を出るものではない。ギリシャ神話では、デルポイの予言に従いビュザス(英語版)が建設したと伝えられる。 その後、紀元前5世紀始めのペルシア戦争までアケメネス朝ペルシアに服属していたが、紀元前478年にギリシア連合軍によって攻略された(ビュザンティオン包囲戦)。その後はアテナイの属国となったが、他の諸都市と共に紀元前357年に反乱(同盟市戦争)を起こし、これに勝利して自治を回復した。紀元前4世紀半ばからマケドニア王ピリッポス2世がトラキア一帯に勢力を伸ばすと、紀元前340年にビュザンティオンは彼による包囲を受けたが、ペルシアとアテナイによる援軍を受け、これを撃退した。 196年のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの時代に、対立皇帝を最後まで支持し続けた懲罰として街は破壊されたが、すぐに再建された。後にコンスタンティノポリスの重要な建築物となる競馬場(ヒッポドローム)もこの時に建設されたものがもととなった。 4世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、ビュザンティオンが東西南北の交通路の要衝に位置し、天然の良港金角湾を持つことに着目し、大都市の建設に着手した。落成式は工事の完了を待たず、330年5月11日に執り行われた。コンスタンティヌスはビュザンティオンをノウァ・ローマ(Nova Roma、「新しいローマ」の意)と改称したが普及せず、コンスタンティノポリス(「コンスタンティヌスの都市」の意)として知られるようになった。この出来事がしばしば「コンスタンティノポリスへの遷都」と表現されることがあるが、歴史学的には、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする物語は、後世に創作された伝説に過ぎないと考えられている。 この街を実質的な首都とした東ローマ帝国は、後世その旧称を取って、「ビザンティン帝国」、「ビザンツ帝国」などと呼ばれることになる。以後、帝国滅亡までその首都として繁栄し、中世ヨーロッパ有数の大都市として政治・経済・文化・宗教上重要な位置をしめ、「八つの名を持つ都市」として知られた。 1453年にオスマン帝国がコンスタンティノポリスを陥落させて以降帝国の首都とし、再びこの都市は東地中海地域を覆う大帝国の首都として栄えることとなった。オスマン帝国時代には次第に「イスタンブール」という都市名称が普及し、現在にいたっている。ビュザンティオンおよびコンスタンティノポリスの後身であるイスタンブールは続々と郊外へと市街地を拡大させ、オスマン帝国の滅亡後もトルコ最大の都市として繁栄を続け、現在では全域で1,000万人近い人口を抱える巨大都市へと発展をとげている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ビュザンティオン(古代ギリシャ語: Βυζάντιον、ラテン文字転写: Byzántion)は、ヨーロッパの南東、バルカン半島のトラキアの東端に位置する小さな半島(現在のトルコ領イスタンブールの旧市街地区)の先端部分にあった、古代ギリシア人の建設による都市である。アジア側の対岸にはカルケドンがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "表記は、ビュザンティオンのほか、ビザンティオン、ビザンティウム、ビザンチウム、とされることもある。 ビュザンティオン、ビザンティオンはギリシア語表記に、ビザンティウム(Byzantium)はラテン語表記に由来している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "紀元前667年頃にメガラからの植民者たちによって建設され、彼らの王ビュザンタスにちなんでビュザンティオンと名づけられたとされている。しかし、それ以前に原住民であるトラキア人の都市があったという説もあり、建設については伝説の域を出るものではない。ギリシャ神話では、デルポイの予言に従いビュザス(英語版)が建設したと伝えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後、紀元前5世紀始めのペルシア戦争までアケメネス朝ペルシアに服属していたが、紀元前478年にギリシア連合軍によって攻略された(ビュザンティオン包囲戦)。その後はアテナイの属国となったが、他の諸都市と共に紀元前357年に反乱(同盟市戦争)を起こし、これに勝利して自治を回復した。紀元前4世紀半ばからマケドニア王ピリッポス2世がトラキア一帯に勢力を伸ばすと、紀元前340年にビュザンティオンは彼による包囲を受けたが、ペルシアとアテナイによる援軍を受け、これを撃退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "196年のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの時代に、対立皇帝を最後まで支持し続けた懲罰として街は破壊されたが、すぐに再建された。後にコンスタンティノポリスの重要な建築物となる競馬場(ヒッポドローム)もこの時に建設されたものがもととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "4世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、ビュザンティオンが東西南北の交通路の要衝に位置し、天然の良港金角湾を持つことに着目し、大都市の建設に着手した。落成式は工事の完了を待たず、330年5月11日に執り行われた。コンスタンティヌスはビュザンティオンをノウァ・ローマ(Nova Roma、「新しいローマ」の意)と改称したが普及せず、コンスタンティノポリス(「コンスタンティヌスの都市」の意)として知られるようになった。この出来事がしばしば「コンスタンティノポリスへの遷都」と表現されることがあるが、歴史学的には、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする物語は、後世に創作された伝説に過ぎないと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この街を実質的な首都とした東ローマ帝国は、後世その旧称を取って、「ビザンティン帝国」、「ビザンツ帝国」などと呼ばれることになる。以後、帝国滅亡までその首都として繁栄し、中世ヨーロッパ有数の大都市として政治・経済・文化・宗教上重要な位置をしめ、「八つの名を持つ都市」として知られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1453年にオスマン帝国がコンスタンティノポリスを陥落させて以降帝国の首都とし、再びこの都市は東地中海地域を覆う大帝国の首都として栄えることとなった。オスマン帝国時代には次第に「イスタンブール」という都市名称が普及し、現在にいたっている。ビュザンティオンおよびコンスタンティノポリスの後身であるイスタンブールは続々と郊外へと市街地を拡大させ、オスマン帝国の滅亡後もトルコ最大の都市として繁栄を続け、現在では全域で1,000万人近い人口を抱える巨大都市へと発展をとげている。", "title": "歴史" } ]
ビュザンティオンは、ヨーロッパの南東、バルカン半島のトラキアの東端に位置する小さな半島(現在のトルコ領イスタンブールの旧市街地区)の先端部分にあった、古代ギリシア人の建設による都市である。アジア側の対岸にはカルケドンがある。 表記は、ビュザンティオンのほか、ビザンティオン、ビザンティウム、ビザンチウム、とされることもある。 ビュザンティオン、ビザンティオンはギリシア語表記に、ビザンティウム(Byzantium)はラテン語表記に由来している。
{{Redirect|ビザンチウム|2012年の映画|ビザンチウム (映画)}} {{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=ひゆさんていおん__世界史}} [[File:Locator map Byzantion.PNG|thumb|ビュザンティオンの位置]] '''ビュザンティオン'''({{翻字併記|grc|Βυζάντιον|Byzántion|区=、}})は、[[ヨーロッパ]]の南東、[[バルカン半島]]の[[トラキア]]の東端に位置する小さな半島(現在の[[トルコ]]領[[イスタンブール]]の旧市街地区)の先端部分にあった、[[古代ギリシア]]人の建設による[[都市]]である。アジア側の対岸には[[カルケドン]]がある。 表記は、ビュザンティオンのほか、'''ビザンティオン'''、'''ビザンティウム'''、'''ビザンチウム'''、とされることもある。 ビュザンティオン、ビザンティオンはギリシア語表記に、ビザンティウム({{La|Byzantium}})はラテン語表記に由来している。 == 歴史 == [[紀元前667年]]頃に[[メガラ]]からの植民者たちによって建設され、彼らの王[[ビュザンタス]]にちなんでビュザンティオンと名づけられたとされている。しかし、それ以前に原住民である[[トラキア人]]の都市があったという説もあり、建設については伝説の域を出るものではない。[[ギリシャ神話]]では、[[デルポイ]]の予言に従い{{仮リンク|ビュザス|en|Byzas}}が建設したと伝えられる。 その後、[[紀元前5世紀]]始めの[[ペルシア戦争]]まで[[アケメネス朝]]ペルシアに服属していたが、[[紀元前478年]]にギリシア連合軍によって攻略された([[ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年)|ビュザンティオン包囲戦]])。その後は[[アテナイ]]の属国となったが、他の諸都市と共に[[紀元前357年]]に反乱([[同盟市戦争 (紀元前357年-紀元前355年)|同盟市戦争]])を起こし、これに勝利して自治を回復した<ref>デモステネス, 「ロドス人解放のために」, 3</ref><ref>ディオドロス, XVI. 22</ref>。[[紀元前4世紀]]半ばから[[マケドニア王]][[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]がトラキア一帯に勢力を伸ばすと、[[紀元前340年]]にビュザンティオンは彼による包囲を受けたが、ペルシアとアテナイによる援軍を受け、これを撃退した。 [[196年]]の[[ローマ帝国|ローマ]][[ローマ皇帝|皇帝]][[セプティミウス・セウェルス]]の時代に、対立皇帝を最後まで支持し続けた懲罰として街は破壊されたが、すぐに再建された。後にコンスタンティノポリスの重要な建築物となる競馬場([[コンスタンティノープル競馬場|ヒッポドローム]])もこの時に建設されたものがもととなった。 {{Main2|4世紀〜15世紀の歴史の詳細|コンスタンティノープル}} [[Image:Bizansist touchup.jpg|thumb|400px|コンスタンティノポリスの俯瞰図]] 4世紀にはローマ皇帝[[コンスタンティヌス1世]]が、ビュザンティオンが東西南北の交通路の要衝に位置し、天然の良港[[金角湾]]を持つことに着目し、大都市の建設に着手した。落成式は工事の完了を待たず、[[330年]][[5月11日]]に執り行われた<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p27</ref>。コンスタンティヌスはビュザンティオンを'''ノウァ・ローマ'''(Nova Roma、「新しいローマ」の意)と改称したが普及せず、コンスタンティノポリス(「コンスタンティヌスの都市」の意)として知られるようになった。この出来事がしばしば「コンスタンティノポリスへの遷都」と表現されることがあるが、歴史学的には、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする物語は、後世に創作された伝説に過ぎないと考えられている<ref>[[#根津2008|根津2008]]、p.7</ref><ref>[[#南川2015|南川2015]]、pp.15-16</ref><ref>[[#井上1990|井上1990]]、pp.62-73</ref>。 この街を実質的な[[首都]]とした[[東ローマ帝国]]は、後世その旧称を取って、「ビザンティン帝国」、「ビザンツ帝国」などと呼ばれることになる。以後、帝国滅亡までその首都として繁栄し、中世ヨーロッパ有数の大都市として政治・経済・文化・宗教上重要な位置をしめ、「八つの名を持つ都市」として知られた。 {{Main2|15世紀以降の歴史の詳細|イスタンブール}} [[1453年]]に[[オスマン帝国]]が[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノポリスを陥落]]させて以降帝国の首都とし、再びこの都市は東地中海地域を覆う大帝国の首都として栄えることとなった。オスマン帝国時代には次第に「イスタンブール」という都市名称が普及し、現在にいたっている。ビュザンティオンおよびコンスタンティノポリスの後身であるイスタンブールは続々と郊外へと市街地を拡大させ、オスマン帝国の滅亡後もトルコ最大の都市として繁栄を続け、現在では全域で1,000万人近い人口を抱える巨大都市へと発展をとげている。 == 註 == {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|title=生き残った帝国ビザンティン|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|year=1990|isbn=4-06-149032-X|ref=井上1990}} *{{Cite book|和書|author=尚樹啓太郎|authorlink=尚樹啓太郎|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[東海大学出版会]]|year=1999|isbn=9784486014317|ref=尚樹1999}} *{{Cite book|和書|author=根津由喜夫|authorlink=根津由喜夫|title=ビザンツの国家と社会|publisher=[[山川出版社]]|year=2008|ref=根津2008}} *{{Cite book|和書|author=南川高志|authorlink=南川高志|title=ユリアヌス 逸脱のローマ皇帝|publisher=山川出版社|year=2015|ref=南川2015}} *[[デモステネス]]著、加来彰俊他訳、『弁論集1』、[[京都大学学術出版会]]、2006年 *[https://web.archive.org/web/20151016022053/http://history.soregashi.com/diodoros.html ディオドロス、『歴史叢書』]([http://history.soregashi.com/ 史料室]) {{DEFAULTSORT:ひゆさんていおん}} [[Category:イスタンブールの歴史]] [[Category:古代ギリシア都市]] [[Category:ギリシャの歴史的地域]]
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日本の色の一覧
日本の色の一覧(にほんのいろのいちらん)は、日本語で呼称される様々な色と、その簡単な語源の一覧。色名一覧も参照のこと。 色名は表す色を実際に示し、対応するRGB値(16進数およびsRGB色空間による、HTMLのcolor属性)を掲載。ただし、ここで示したものは近似色であり一例。ただし、実際には使われない色もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本の色の一覧(にほんのいろのいちらん)は、日本語で呼称される様々な色と、その簡単な語源の一覧。色名一覧も参照のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "色名は表す色を実際に示し、対応するRGB値(16進数およびsRGB色空間による、HTMLのcolor属性)を掲載。ただし、ここで示したものは近似色であり一例。ただし、実際には使われない色もある。", "title": null } ]
日本の色の一覧(にほんのいろのいちらん)は、日本語で呼称される様々な色と、その簡単な語源の一覧。色名一覧も参照のこと。 色名は表す色を実際に示し、対応するRGB値(16進数およびsRGB色空間による、HTMLのcolor属性)を掲載。ただし、ここで示したものは近似色であり一例。ただし、実際には使われない色もある。
'''日本の色の一覧'''(にほんのいろのいちらん)は、[[日本語]]で呼称される様々な[[色]]と、その簡単な[[語源]]の一覧。[[色名一覧]]も参照のこと。 色名は表す色を実際に示し、対応する[[RGB]]値(16進数およびsRGB[[色空間]]による、[[HyperText Markup Language|HTML]]のcolor[[属性]])を掲載。ただし、ここで示したものは近似色であり一例。ただし、実際には使われない色もある。 == あ行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#165e83" style="color:white"|<br/>#165E83||あいいろ<br/>[[藍色]]||[[染料]]の「[[アイ (植物)|アイ(藍)]]」の色。緑みがかった青。 |- |bgcolor="#5E7C85" style="color:white"|<br/>#5E7C85||あいねず<br/>[[藍鼠]]||藍みをおびた暗い鼠色。 |- |bgcolor="#0067C0" style="color:white"|<br/>#0067C0||あお<br/>[[青]]||[[色の三原色]]の一つ。緑系も青と分類されることもある。 |- |bgcolor="#72BAA7" style="color:white"|<br/>#72BAA7||あおたけいろ<br/>[[青竹|青竹色]]||[[竹]]の幹の色。明るい緑。 |- |bgcolor="#858954" style="color:white"|<br/>#858954||あおに<br/>[[青丹]]||[[顔料]]や化粧料の[[眉墨]]に使われた青粘土のような暗い黄緑色。 |- |bgcolor="#324356" style="color:white"|<br/>#324356||あおにびいろ<br/>[[青鈍色]]||[[青色]]に[[橡]]などの墨系染料を掛け合わせ、鉄で媒染した色。 |- |bgcolor="#0090A8" style="color:white"|<br/>#0090A8||あおみどり<br/>[[青緑]]||緑と青の中間色。 |- |bgcolor="#6F51A1" style="color:white"|<br/>#6F51A1||あおむらさき<br/>[[青紫]]||青と紫の中間色。 |- |bgcolor="#ED1A3D" style="color:white"|<br/>#ED1A3D||あか<br/>[[赤]]||[[色の三原色]]の一つ。古代には、「明」(あかるい、あける)の意か。 |- |bgcolor="#db8449" style="color:white"|<br/>#DB8449||あかくちば<br/>[[赤朽葉]]||晩秋の赤く色づいた朽葉の色。赤みがかった赤茶色。 |- |bgcolor="#F6B894"|<br/>#F6B894||あかこういろ<br/>[[赤香色]]||僧衣に用いられた。赤みがかった淡い橙色。 |- |bgcolor="#F15A22" style="color:white"|<br/>#F15A22||あかだいだい<br/>[[赤橙]]||赤と橙色の中間色。 |- |bgcolor="#B13546" style="color:white"|<br/>#B13546||あかねいろ<br/>[[茜色]]||染料の[[アカネ|茜]]で染めた色。赤褐色。 |- |bgcolor="#EB6EA5" style="color:white"|<br/>#EB6EA5||あかむらさき<br/>[[マゼンタ|赤紫]]||[[躑躅]]や[[牡丹]]の花ような赤みが強い鮮やかな紫色。暗く渋い紅色。 |- |bgcolor="#BCB09C" style="color:white"|<br/>#BCB09C||あくいろ<br/>[[灰汁色]]||[[灰汁]]のような黄みがかった灰色。 |- |bgcolor="#DF7163" style="color:white"|<br/>#DF7163||あさあけ<br/>[[浅緋]]||茜で薄く染めた緋色。 |- |bgcolor="#FFCC33"|<br/>#FFCC33||あさぎいろ<br/>[[浅黄色]]||薄い黄色。 |- |bgcolor="#00A4AC" style="color:white"|<br/>#00A4AC||あさぎいろ<br/>[[浅葱色]]||[[ネギ|葱]]の葉の色を薄くしたような青緑。 |- |bgcolor="#9BCF97" style="color:white"|<br/>#9BCF97||あさみどり<br/>[[浅緑]]||若葉のような薄い緑色。黄みがかった明るい緑色。 |- |bgcolor="#98514B" style="color:white"|<br/>#98514B||あずきいろ<br/>[[小豆色]]||[[アズキ|小豆]]の色から。紫味を帯びた赤褐色。 |- |bgcolor="#D6C6AF"|<br/>#D6C6AF||あまいろ<br/>[[亜麻#亜麻色|亜麻色]]||[[アマ (植物)|亜麻]]の[[繊維]]の色。 |- |bgcolor="#CD6118" style="color:white"|<br/>#CD6118||あめいろ<br/>[[飴色]]||[[水飴]]に由来する、深みのある強い橙色。 |- |bgcolor="#B168A8" style="color:white"|<br/>#B168A8||あやめいろ<br/>[[菖蒲色]]||[[アヤメ|菖蒲]]の紫の花の色。赤みがかった紫色。 |- |bgcolor="#F0B694"|<br/>#F0B694||あらいがき<br/>[[洗柿]]||柿色が淡くなった橙色。 |- |bgcolor="#D0826C" style="color:white"|<br/>#D0826C||あらいしゅ<br/>[[洗朱]]||薄い朱色。黄色みを帯びた朱色。 |- |bgcolor="#F4A466" style="color:white"|<br/>#F4A466||あんずいろ<br/>[[アプリコット (色)|杏色]]||熟した杏の果実の色。やわらかい橙色。 |- |bgcolor="#bb5561" style="color:white"|<br/>#BB5561||いちごいろ<br/>[[苺色]]||鮮やかに色づいた苺の実の色。少し紫がかった赤。 |- |bgcolor="#FFD3E4"|<br/>#FFD3E4||いっこんぞめ<br/>[[一斤染め|一斤染]]||[[紅花]]で染めたやや淡い紅色。 |- |bgcolor="#D0576B" style="color:white"|<br/>#D0576B||いまよういろ<br/>[[今様色]]||今流行の色という意味。[[平安時代]]に流行した薄い紅色。 |- |bgcolor="#918D40" style="color:white"|<br/>#918D40||うぐいすいろ<br/>[[鶯色]]||小鳥の[[ウグイス|鶯]]、その[[羽毛]]の色から。灰色がかった緑褐色。 |- |bgcolor="#715C1F" style="color:white"|<br/>#715C1F||うぐいすちゃ<br/>[[鶯茶]]||鶯の羽のような褐色がかった渋みのある黄緑色。 |- |bgcolor="#FABF14"|<br/>#FABF14||うこんいろ<br/>[[鬱金色]]||ウコンの根で染めた色。 |- |bgcolor="#CEB4B9" style="color:white"|<br/>#CEB4B9||うすいろ<br/>[[薄色]]||[[紫根]]に[[椿]][[灰汁]]または[[明礬]]で染めた薄い紫色。 |- |bgcolor="#B15C65" style="color:white"|<br/>#B15C65||うすくれない<br/>[[薄紅]]||ややくすんだ紅色。 |- |bgcolor="#F3BF88"|<br/>#F3BF88||うすこう<br/>[[淡香]]||黄みの淡い黄褐色。 |- |bgcolor="#A3A3A2" style="color:white"|<br/>#A3A3A2||うすずみいろ<br/>[[薄墨色]]||墨を薄めたようなやや薄い灰色。 |- |bgcolor="#BCE1DF"|<br/>#BCE1DF||うすみずいろ<br/>[[薄水色]]||薄い[[水色]]。淡い青緑色。 |- |bgcolor="#9d896c" style="color:white"|<br/>#9D896C||うつぶしいろ<br/>[[空五倍子色]]||[[虫こぶ]]で染めたやや褐色がかった淡い灰色。 |- |bgcolor="#FBFBF6"|<br/>#FBFBF6||うのはないろ<br/>[[卯の花色]]||卯の花の色。わずかに黄みがかった白。 |- |bgcolor="#AD7984" style="color:white"|<br/>#AD7984||うめねずみ<br/>[[梅鼠]]||[[紅梅]]の花の赤みのある薄い鼠色。 |- |bgcolor="#C1D8AC"|<br/>#C1D8AC||うらはやなぎ<br/>[[裏葉柳]]||淡い黄みを含んだ薄い緑色。 |- |bgcolor="#CD8C5C" style="color:white"|<br/>#CD8C5C||えどちゃ<br/>[[江戸茶]]||江戸時代前期の流行色。黄みの深い赤褐色。 |- |bgcolor="#745399" style="color:white"|<br/>#745399||えどむらさき<br/>[[江戸紫]]||江戸時代前期の流行色。青みがかった紫色。 |- |bgcolor="#640125" style="color:white"|<br/>#640125||えびいろ<br/>[[葡萄色|葡萄色/海老色]]||植物の「[[ブドウ]]」はもともと「[[wikt:葡萄|葡萄]]」と書いて「えび」と読んでいた。<br/>のちに[[甲殻類]]の「[[エビ]]」と混同され、海老色とも書かれる。 |- |bgcolor="#7A4171" style="color:white"|<br/>#7A4171||えびぞめ<br/>[[葡萄染]]||葡萄葛の熟した実の色。赤みがかった少し薄い紫色。 |- |bgcolor="#6c2c2f" style="color:white"|<br/>#6C2C2F||えびちゃ<br/>[[葡萄色#海老茶|葡萄茶/海老茶]]||伊勢海老のような色。赤みの茶色もしくは紫みの暗い赤。 |- |bgcolor="#B3424A" style="color:white"|<br/>#B3424A||えんじいろ<br/>[[えんじ色|臙脂色]]||黒味がかった濃い赤色。<br/>[[ベニバナ|紅花]]か[[カイガラムシ|カイガラムシ科]]の昆虫(主にエンジムシ)で染めることが一般的。 |- |bgcolor="#EC6D51" style="color:white"|<br/>#EC6D51||えんたんいろ<br/>[[鉛丹色]]||酸化鉛のやや赤みを強くした鮮やかな橙色。 |- |bgcolor="#769164" style="color:white"|<br/>#769164||おいたけいろ<br/>[[老竹色]]||年を経た意味の灰みをおびた老竹の色。ややくすんで灰色がかった緑色。 |- |bgcolor="#a596c7" style="color:white"|<br/>#A596C7||おうちいろ<br/>[[楝色]]||初夏に咲く楝の花のような薄い青紫色。 |- |bgcolor="#C39143" style="color:white"|<br/>#C39143||おうどいろ<br/>[[黄土色]]||[[顔料]]の『[[黄土]]』の色。赤みがかった黄色。 |- |bgcolor="#F47A55" style="color:white"|<br/>#F47A55||おうたん/おうに<br/>[[黄丹]]||紅花と[[クチナシ|梔子(くちなし)]]で染めた[[オレンジ色]]。<br/>[[顔料]]の[[鉛丹]]に似た色であることから。[[皇太子]]の[[和服#用語集|袍(ほう)]]に用いられる[[禁色]]。 |} == か行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#C3B091" style="color:white"|<br/>#C3B091||かーきいろ<br/>[[カーキ色]]||帯赤茶褐色。[[明治]]末期から[[昭和]]初期にかけて[[日本陸軍]]の[[軍服]]に用いられた。 |- |bgcolor="#7F1184" style="color:white"|<br/>#7F1184||かいむらさきいろ<br/>[[貝紫色]]||特殊な[[巻貝]]の色素で染める紫。 |- |bgcolor="#ed6d3d" style="color:white"|<br/>#ED6D3D||かきいろ<br/>[[柿色]]||[[カキノキ|柿]]の実の色。鮮やかな朱赤。 |- |bgcolor="#BD7862" style="color:white"|<br/>#BD7862||かきしぶいろ<br/>[[柿渋色]]||色づく前のカキの実をしぼって作られる灰がかった黄赤色。 |- |bgcolor="#5E3862" style="color:white"|<br/>#5E3862||かきつばたいろ<br/>[[カキツバタ|杜若色]]||杜若の花の色。菖蒲色よりも赤みの強い紫色。 |- |bgcolor="#4D5269" style="color:white"|<br/>#4D5269||かちいろ/かついろ<br/>[[勝色]]||[[紺色]]の一種。[[鎌倉時代]]に[[武士]]の間で流行した。 |- |bgcolor="#C5591A" style="color:white"|<br/>#C5591A||かばいろ<br/>[[樺色|樺色/蒲色]]||[[カバノキ属|樺]]の樹皮または水草の[[ガマ|蒲]]の穂の色。赤みのある橙色。 |- |bgcolor="#726250" style="color:white"|<br/>#726250||かばちゃ<br/>[[樺茶]]||樺色を帯びた茶色。 |- |bgcolor="#C5E4Ed"|<br/>#C5E4ED||かめのぞき<br/>[[瓶覗き|瓶覗]]||[[藍染め]]で、藍瓶に浸す回数が少ない、瓶を覗いただけのような薄い藍色。 |- |bgcolor="#D93448" style="color:white"|<br/>#D93448||からくれない<br/>[[唐紅|唐紅/韓紅]]||鮮やかな濃い[[紅色]]。<br/>名前は「韓紅花」とも書き[[三韓|韓]]から伝来した紅の意味、唐は後の当て字。 |- |bgcolor="#D0AF4C"|<br/>#D0AF4C||からしいろ<br/>[[芥子色]]||[[からし]]の色。やや鈍い黄色。 |- |bgcolor="#A06705" style="color:white"|<br/>#A06705||からちゃ<br/>[[唐茶]]||黄みがかった茶色。 |- |bgcolor="#FFD768"|<br/>#FFD768||かりやすいろ<br/>[[苅安色|苅安色/刈安色]]||日本の伝統色の一つ。カリヤスという草で染める、青色がかった黄色。 |- |bgcolor="#C37854" style="color:white"|<br/>#C37854||かわらけいろ<br/>[[土器色]]||土器のようにくすんだ黄褐色。 |- |bgcolor="#f8b862"|<br/>#F8B862||かんぞういろ<br/>[[萱草色]]||[[萱草]]の花の色。明るい黄みがかった橙色。 |- |bgcolor="#FFD400"|<br/>#FFD400||きいろ<br/>[[黄色]]||[[色の三原色]]の一つ。 |- |bgcolor="#6A4C9C" style="color:white"|<br/>#6A4C9C||ききょういろ<br/>[[桔梗色]]||[[桔梗]]の花の色、青みを帯びた紫色。 |- |bgcolor="#bfbd9e" style="color:white"|<br/>#BFBD9E||きくじん<br/>[[麹塵]]||醸造に用いる[[麹]](こうじ)の色に由来する灰色がかった緑。<br/>[[天皇]]が平常時に着る[[麹塵袍]](きくじんのほう)の色。 |- |bgcolor="#C48847" style="color:white"|<br/>#C48847||きつねいろ<br/>[[きつね色|狐色]]||狐の毛の色。薄い茶褐色。<br/>食品の加熱処理の際の焦げすぎない程度の色を表す比喩。 |- |bgcolor="#C2B280" style="color:white"|<br/>#C2B280||きなりいろ<br/>[[生成色]]||染色や脱色をしていない生地の色。 |- |bgcolor="#FCF16E"|<br/>#FCF16E||きはだいろ<br/>[[黄蘗色]]||[[キハダ (植物)|キハダ]]の樹皮で染めた、わずかに[[緑]]みの明るい[[黄色]]。 |- |bgcolor="#B9C42F" style="color:white"|<br/>#B9C42F||きみどりいろ<br/>[[黄緑|黄緑色]]||黄みがかった緑色。 |- |bgcolor="#D8A373"|<br/>#D8A373||きゃらいろ<br/>[[伽羅色]]||茶色がかった暗い黄褐色。 |- |bgcolor="#772F6D" style="color:white"|<br/>#772F6D||きょうむらさき<br/>[[京紫]]||紫色。江戸紫より鮮やかな紫。 |- |bgcolor="#FFD700"|<br/>#FFD700||きんいろ/こんじき<br/>[[金色]]||黄金色(こがねいろ)とも呼ぶ。黄橙色、山吹色で金属光沢を持つ色。 |- |bgcolor="#C0C0C0"|<br/>#C0C0C0||ぎんいろ<br/>[[銀色]]||白銀色(しろがねいろ)とも呼ぶ。白ないし明るい灰色で金属光沢を持つ色。 |- |bgcolor="#F12B00" style="color:white"|<br/>#F12B00||ぎんしゅ<br/>[[朱色#銀朱|銀朱]]||硫化水銀の色。黄みがかった朱色。 |- |bgcolor="#E0861A" style="color:white"|<br/>#E0861A||きんちゃ<br/>[[金茶]]||山吹茶とも呼ぶ。明るく[[黄色]]がかった[[茶色]]。[[金色]]に近い色合い。 |- |bgcolor="#BBBCBF" style="color:white"|<br/>#BBBCBF||ぎんねずみ<br/>[[銀鼠]]||[[銀色]]のようなほんのり青みを含んだ明るい灰色。 |- |bgcolor="#7B8D42" style="color:white"|<br/>#7B8D42||くさいろ<br/>[[草色]]||若草が色濃くなったようなくすみのある濃い黄緑色。 |- |bgcolor="#FFD768"|<br/>#FFD768||くちなしいろ<br/>[[梔子色|梔子色/支子色]]||[[クチナシ]]の実で染めた、少し赤みのある黄色。 |- |bgcolor="#896A45" style="color:white"|<br/>#896A45||くちばいろ<br/>[[朽葉|朽葉色]]||[[イチョウ|銀杏]]などの黄葉の色。 |- |bgcolor="#800000" style="color:white"|<br/>#800000||くりいろ<br/>[[マルーン (色)|栗色]]||[[クリ|栗]]の皮のような赤みの焦茶色。 |- |bgcolor="#433634" style="color:white"|<br/>#433634||くりいろ<br/>[[涅色]]||川底の泥のような茶みがかった黒。 |- |bgcolor="#6C1912" style="color:white"|<br/>#6C1912||くりうめ<br/>[[栗梅]]||栗色を帯びた濃い赤茶色。 |- |bgcolor="#A86F4C" style="color:white"|<br/>#A86F4C||くるみいろ<br/>[[胡桃色]]||[[胡桃]]の木の皮や実の外皮などを使って染めた黄褐色。 |- |bgcolor="#AD002D" style="color:white"|<br/>#AD002D||ぐれんいろ<br/>[[紅蓮|紅蓮色]]||決まった色はないが濃い紅で、よく炎の色に喩えられる。 |- |bgcolor="#C22047" style="color:white"|<br/>#C22047||くれないいろ<br/>[[紅色]]||「べにいろ」とも読む。[[ベニバナ|紅花]]で染色した鮮やかな赤。 |- |bgcolor="#000000" style="color:white"|<br/>#000000||くろ<br/>[[黒]]||[[無彩色]]。最も暗い色。 |- |bgcolor="#DABC91"|<br/>#DABC91||くわぞめ<br/>[[桑染]]||褐色を帯びたくすんだ黄色。 |- |bgcolor="#465DAA" style="color:white"|<br/>#465DAA||ぐんじょういろ<br/>[[群青色]]||やや紫みを帯びた深い青色。 |- |bgcolor="#595045" style="color:white"|<br/>#595045||けしずみいろ<br/>[[消炭色]]||消し炭のような橙みの暗い灰色。 |- |bgcolor="#594255" style="color:white"|<br/>#594255||けしむらさき<br/>[[滅紫]]||「めっし」とも読む。くすんだ紫。 |- |bgcolor="#F6F7F8"|<br/>#F6F7F8||げっぱく<br/>[[月白]]||月の光のような薄い青みを含んだ白色。 |- |bgcolor="#543f32" style="color:white"|<br/>#543F32||けんぽういろ<br/>[[憲法色]]||[[剣術家]]の[[吉岡直綱|吉岡憲法]]が広めたとされる。黒褐色。 |- |bgcolor="#002E4E" style="color:white"|<br/>#002E4E||こいあい/こあい<br/>[[濃藍]]||[[藍染]]の中でも最も濃い色の一つで、極めて暗い藍色。 |- |bgcolor="#EFCD9A"|<br/>#EFCD9A||こういろ<br/>[[香色]]||[[クローブ|丁子]]の蕾の煮汁で染めた色。鈍い黄赤。丁子色とも言う。 |- |bgcolor="#FF5234" style="color:white"|<br/>#FF5234||こうじいろ<br/>[[柑子色]]||[[コウジ (柑橘類)|コウジミカン]]の色。明るい黄赤色。 |- |bgcolor="#E86B79" style="color:white"|<br/>#E86B79||こうばいいろ<br/>[[紅梅色]]||[[紅梅]]の花の色。やや紫みのある淡い紅色。 |- |bgcolor="#d99502" style="color:white"|<br/>#D99502||こうろぜん<br/>[[黄櫨染御袍|黄櫨染]]||第一の[[禁色]]。天皇が使用した。黄がかった茶色。 |- |bgcolor="#250d00" style="color:white"|<br/>#250d00||こくたん<br/>[[黒檀色|黒檀]]||[[黒檀]]の木材の色。赤みがかった黒色。 |- |bgcolor="#7b6c3e" style="color:white"|<br/>#7B6C3E||こくぼうしょく<br/>[[国防色]]||帯青茶褐色。昭和期の日本陸軍の軍装色。 |- |bgcolor="#78882d" style="color:white"|<br/>#78882D||こけいろ<br/>[[苔色]]||[[苔]]のような深く渋い黄緑色。 |- |bgcolor="#6A4D32" style="color:white"|<br/>#6A4D32||こげちゃ<br/>[[焦茶]]||物が焼け焦げたような黒みがかった茶色。 |- |bgcolor="#8C6589" style="color:white"|<br/>#8C6589||こだいむらさき<br/>[[貝紫色|古代紫]]||すこし赤みを帯びた紫色。 |- |bgcolor="#EA930A" style="color:white"|<br/>#EA930A||こはくいろ<br/>[[琥珀色]]||琥珀の石のような色。透明感のある黄褐色。 |- |bgcolor="#716246" style="color:white"|<br/>#716246||こびちゃ<br/>[[媚茶]]||昆布茶とも呼ぶ。[[海藻]]の[[コンブ]]の色。やや黒ずんだ黄褐色。 |- |bgcolor="#E4A343" style="color:white"|<br/>#E4A343||こむぎいろ<br/>[[小麦色]]||[[小麦]]の殻粒の色。やわらかい赤みのある黄色。 |- |bgcolor="#233B6C" style="color:white"|<br/>#233B6C||こんいろ<br/>[[紺色]]||紫がかっている暗い青。 |- |bgcolor="#211E55" style="color:white"|<br/>#211E55||こんききょう<br/>[[桔梗色|紺桔梗]]||紺色を帯びた濃い桔梗色。 |- |bgcolor="#1A4472" style="color:white"|<br/>#1A4472||こんじょういろ<br/>[[紺青 (色)|紺青色]]||紫色を帯びた暗い上品な青。 |} == さ行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#FEEEED"|<br/>#FEEEED||さくらいろ<br/>[[桜色]]||[[サクラ|桜]]の花の色。淡い紅色。 |- |bgcolor="#5C9291" style="color:white"|<br/>#5C9291||さびあさぎ<br/>[[錆浅葱]]||ややくすんだ浅い緑青色。 |- |bgcolor="#6C3424" style="color:white"|<br/>#6C3424||さびいろ<br/>[[錆色]]||[[金属]]の[[錆]]の色。暗い灰みの黄赤。 |- |bgcolor="#FF7F50" style="color:white"|<br/>#FF7F50||さんごいろ<br/>[[珊瑚色]]||赤い[[珊瑚]]を粉末にした顔料の色。黄みがかった明るい赤。 |- |bgcolor="#968ABD" style="color:white"|<br/>#968ABD||しおんいろ<br/>[[紫苑色]]||[[シオン (植物)|紫苑]]の花の色。淡い紫色。 |- |bgcolor="#ad7e4e" style="color:white"|<br/>#AD7E4E||しかんちゃ<br/>[[芝翫茶]]||[[江戸時代]]の流行色の1つ。ややくすんだ赤褐色。 |- |bgcolor="#400B36" style="color:white"|<br/>#400B36||しこん<br/>[[紫紺]]||紺色がかった暗めの紫色。 |- |bgcolor="#080000" style="color:white"|<br/>#080000||しっこく<br/>[[漆黒]]||[[黒漆]]を塗った[[漆器]]のような深く艶のある黒。純粋な黒。『純白』の対義語。 |- |bgcolor="#F19072" style="color:white"|<br/>#F19072||しののめいろ<br/>[[東雲色]]||曙色とも呼ばれる。夜明けの東の空を思わせる明るい黄赤色。 |- |bgcolor="#7E0F09" style="color:white"|<br/>#7E0F09||しゃくどういろ<br/>[[赤銅色]]||金属の[[赤銅]]の色。艶のある暗い赤。 |- |bgcolor="#EF454A" style="color:white"|<br/>#EF454A||しゅいろ<br/>[[朱色]]||やや黄を帯びた赤色。[[朱肉]]に用いられる色。 |- |bgcolor="#CE313D" style="color:white"|<br/>#CE313D||しょうじょうひ<br/>[[猩々緋]]||中国由来の空想上の動物である[[猩猩|猩々]]の血の赤色([[緋色]])。 |- |bgcolor="#DAC4A5"|<br/>#DAC4A5||しらちゃ<br/>[[白茶 (色)|白茶]]||薄くて明るい感じの茶色。 |- |bgcolor="#FFFFFF"|<br/>#FFFFFF||しろ<br/>[[白]]||[[無彩色]]。最も明るい色。純白。 |- |bgcolor="#B1063A" style="color:white"|<br/>#B1063A||しんく<br/>[[真紅]]||深紅とも書く。濃い紅色。または、真っ赤な色。 |- |bgcolor="#59b9c6" style="color:white"|<br/>#59B9C6||しんばしいろ<br/>[[新橋色]]||日本の伝統色の一つ。わずかに緑がかった明るい青。 |- |bgcolor="#973C3F" style="color:white"|<br/>#973C3F||すおういろ<br/>[[蘇芳色]]||[[蘇芳]]で染めた色。黒味を帯びた赤色。 |- |bgcolor="#6f514c" style="color:white"|<br/>#6F514C||すすたけいろ<br/>[[煤竹色]]||煙で煤けた竹の色。暗い赤褐色。 |- |bgcolor="#864337" style="color:white"|<br/>#864337||すずめいろ<br/>[[雀色]]||[[スズメ|雀]]の頭のような灰色がかった茶色。夕暮れ時のことを「雀色時(すずめいろどき)」と言う。 |- |bgcolor="#343434" style="color:white"|<br/>#343434||すみいろ<br/>[[墨色]]||[[墨]]のような灰色がかった黒色。 |- |bgcolor="#705DA8" style="color:white"|<br/>#705DA8||すみれいろ<br/>[[菫色]]||[[スミレ|菫]]の[[花弁]]の色。やや青みの濃い紫色。 |- |bgcolor="#60B49F" style="color:white"|<br/>#60B49F||せいじいろ<br/>[[青磁色]]||秘色(ひそく・ひしょく)とも呼ばれる。[[青磁]]に似た薄い緑色。 |- |bgcolor="#F9C1CF"|<br/>#F9C1CF||せきちくいろ<br/>[[石竹色]]||[[石竹]]の花の色。淡い紅色。 |- |bgcolor="#474b42" style="color:white"|<br/>#474B42||せんさいちゃ<br/>[[仙斎茶]]||千歳茶とも書く。暗い緑がかった茶色。 |- |bgcolor="#AB6953" style="color:white"|<br/>#AB6953||そほ<br/>[[赭]]||[[赤土]](赭土)のことを指す。茶色に近い暗い赤。 |- |bgcolor="#90D7EC"|<br/>#90D7EC||そらいろ<br/>[[空色]]||[[晴天]]時の[[空]]の色を示す明るく淡い青色。青と白の中間色。 |} == た行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#B36C3C" style="color:white"|<br/>#B36C3C||たいしゃいろ<br/>[[弁柄|代赭色]]||褐色を帯びた黄色または赤色。 |- |bgcolor="#FFB74C"|<br/>#FFB74C||だいだいいろ<br/>[[橙色]]||果物の[[ダイダイ]]の実から転じる。赤と黄色の中間色。 |- |<br/>-||たまむしいろ<br/>[[玉虫色]]||[[タマムシ|玉虫]]の体の光沢色に由来。光の干渉によって起こる金緑から金紫の色調変化。 |- |bgcolor="#9f563a" style="color:white"|<br/>#9F563A||だんじゅうろうちゃ<br/>[[柿色#団十郎茶|団十郎茶]]||[[弁柄]]と柿渋で染めた灰色がかった黄赤。 |- |bgcolor="#92b5a9" style="color:white"|<br/>#92B5A9||ちぐさいろ<br/>[[千草色]]||褪せた薄い藍色の上にさらに薄い藍をかけた色のこと。 緑がかった淡い青。 |- |bgcolor="#994C00" style="color:white"|<br/>#994C00||ちゃいろ<br/>[[茶色]]||[[茶]]を染料として使ったときに出る色に由来する。オレンジ色と黒の中間色。 |- |bgcolor="#B4866B" style="color:white"|<br/>#B4866B||ちょうじちゃ<br/>[[丁子茶]]||茶を帯びた[[香色|丁子色]]。 |- |bgcolor="#E761A4" style="color:white"|<br/>#E761A4||つつじいろ<br/>[[躑躅色]]||[[ツツジ|躑躅]]の花の色から。紫味の鮮やかな紅色。 |- |bgcolor="#21A0DB" style="color:white"|<br/>#21A0DB||つゆくさいろ<br/>[[縹#露草色・花色|露草色]]||[[露草]]の色。淡く鮮やかな青色。 |- |bgcolor="#003149" style="color:white"|<br/>#003149||てつこん<br/>[[鉄紺]]||鉄色がかった[[紺色]]。わずかに緑みを帯びた暗い青色。 |- |bgcolor="#F3A696"|<br/>#F3A696||ときいろ<br/>[[鴇色]]||朱鷺色とも書く。[[トキ|鴇]]の風切羽のような紫に近い紅色。 |- |bgcolor="#007B43" style="color:white"|<br/>#007B43||ときわいろ<br/>[[常磐色]]||常緑樹の葉の色。濃い緑色。 |- |bgcolor="#22825D" style="color:white"|<br/>#22825D||とくさいろ<br/>[[木賊色]]||[[トクサ|木賊]]のような青みがかった緑。 |- |<br/>-||どどめいろ<br/>[[どどめ色]]||諸説あり正確な定義のない色。[[桑]]の実の色、または[[土留|土留め]]の色か。 |- |bgcolor="#F4DDA5"|<br/>#F4DDA5||とのこいろ<br/>[[砥粉色]]||[[砥石]]で刃物を研いだ時に出る砥石の粉「砥粉」の色。赤みの鈍い黄色。 |- |bgcolor="#85403A" style="color:white"|<br/>#85403A||とびいろ<br/>[[鳶色]]||[[トビ|鳶]]の[[羽毛]]の色から。赤みのある茶色。 |- |bgcolor="#1c305c" style="color:white"|<br/>#1C305C||とめこん<br/>[[留紺]]||それ以上染めることのできない紺色。 |- |bgcolor="#fff1cf"|<br/>#FFF1CF||とりのこいろ<br/>[[鳥の子色]]||鶏の卵の殻の色。黄色がかった白。 |} == な行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#B0CA71" style="color:white"|<br/>#B0CA71||なえいろ<br/>[[苗色]]||稲の苗のような淡い感じの緑色。明るい[[萌葱色]]。 |- |bgcolor="#824880" style="color:white"|<br/>#824880||なすこん<br/>[[茄子紺]]||[[ナス|茄子]]の実の色。紫みの濃い紺色。 |- |bgcolor="#F6ADC6"|<br/>#F6ADC6||なでしこいろ<br/>[[撫子色]]||ナデシコの花の色。淡い紅色。 |- |bgcolor="#FCD900"|<br/>#FCD900||なのはないろ<br/>[[菜の花色]]||[[菜の花]]の花色。明るく鮮やかな黄色。 |- |bgcolor="#AA8C63" style="color:white"|<br/>#AA8C63||なまかべいろ<br/>[[生壁色]]||塗りたての乾いていない土壁の色。灰色みの黄褐色。 |- |bgcolor="#7B7C7D" style="color:white"|<br/>#7B7C7D||なまりいろ<br/>[[鉛色]]||[[鉛]]のような少し青みを帯びた灰色。 |- |bgcolor="#008899" style="color:white"|<br/>#008899||なんどいろ<br/>[[納戸色]]||[[納戸]]の奥行きの闇を思わせる緑がかった深い青色。 |- |bgcolor="#E45E32" style="color:white"|<br/>#E45E32||にいろ<br/>[[丹色]]||赤土の色。赤みがかった灰黄色から赤褐色。 |- |bgcolor="#513743" style="color:white"|<br/>#513743||にせむらさき<br/>[[似紫]]||高価な[[生薬]]であった[[ムラサキ|紫根(しこん)]]の代わりに、藍の下染めの上に[[スオウ|蘇芳(すおう)]]などで染めた紫色。<br/>くすんだ青みのある赤紫。 |- |bgcolor="#727171" style="color:white"|<br/>#727171||にびいろ<br/>[[鈍色]]||濃い灰色。 |- |bgcolor="#fffffb"|<br/>#FFFFFB||にゅうはくしょく<br/>[[乳白色]]||[[乳]]のような不透明な白。 |- |bgcolor="#000B00" style="color:white"|<br/>#000B00||ぬれがらす<br/>[[濡烏]]||[[カラス|烏]]の羽毛のような艶のある黒。濡羽色とも言う。 |- |bgcolor="#908E65" style="color:white"|<br/>#908E65||ねぎしいろ<br/>[[根岸色]]||[[根岸 (台東区)|根岸]]で採れた土で塗った壁の色。緑がかった渋い薄茶色。 |- |bgcolor="#949495" style="color:white"|<br/>#949495||ねずみいろ<br/>[[鼠色]]||[[ネズミ|鼠]]の[[毛 (動物)|体毛]]の色に由来。灰色全般を指す。 |- |bgcolor="#fff9e2"|<br/>#FFF9E2||ねりいろ<br/>[[練色]]||[[絹]]糸を漂白する前の練糸のようにわずかに黄味がかった白。 |} == は行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#808080" style="color:white"|<br/>#808080||はいいろ<br/>[[灰色]]||物を燃やした後に残る[[灰]]の色。無彩色。白と黒の中間色。 |- |bgcolor="#E8D3D1"|<br/>#E8D3D1||はいざくら<br/>[[桜色|灰桜]]||灰色がかった明るい紅色。 |- |bgcolor="#bfa46f" style="color:white"|<br/>#BFA46F||はしばみいろ<br/>[[榛色]]||[[ハシバミ属|榛]]の種子の色。黄色がかった薄茶色。 |- |bgcolor="#F1BB93"|<br/>#F1BB93||はだいろ<br/>[[肌色]]||[[日本人]]の膚(はだ)の色に似せた薄いオレンジ。<br/>現在は特定の色を肌色と規定することはおかしいとして、「薄橙」「ペールオレンジ」などと呼ぶように変更されつつある。 |- |bgcolor="#95859C" style="color:white"|<br/>#95859C||はとばいろ<br/>[[鳩羽色]]||[[鳩]]の羽の色。灰みがかった薄い青紫色。 |- |bgcolor="#267CA7" style="color:white"|<br/>#267CA7||はなだいろ<br/>[[縹|縹色]]||染料「縹(つゆくさ)」から。薄い藍色。 |- |bgcolor="#f0908d"|<br/>#F0908D||はねずいろ<br/>[[唐棣色]]||「唐棣(はねず)」は[[ニワウメ|庭梅(にわうめ)]]の古名。庭梅の花のような薄赤色。 |- |bgcolor="#E73275" style="color:white"|<br/>#E73275||ばらいろ<br/>[[薔薇色]]||[[薔薇]]の花の色。鮮やかな紅色。比喩として使われる。 |- |bgcolor="#E54848" style="color:white"|<br/>#E54848||ひいろ<br/>[[緋色]]||最も明るい[[茜色]]。 |- |bgcolor="#83CCD2"|<br/>#83CCD2||びゃくぐん<br/>[[白群]]||白みを帯びた青。 |- |bgcolor="#DAEAD0"|<br/>#DAEAD0||びゃくろく<br/>[[白緑]]||白みを帯びた淡い緑色。 |- |bgcolor="#7B4334" style="color:white"|<br/>#7B4334||ひわだいろ<br/>[[桧皮色]]||桧皮([[ヒノキ|檜〈ひのき〉]]の表皮を取り去った後の皮)の色に由来する、赤茶色。 |- |bgcolor="#82AE46" style="color:white"|<br/>#82AE46||ひわもえぎ<br/>[[鶸萌黄]]||黄みの強い黄緑色。 |- |bgcolor="#85A1A0" style="color:white"|<br/>#85A1A0||ふかがわねずみ<br/>[[深川鼠]]||薄い青緑みの灰色。 |- |bgcolor="#004025" style="color:white"|<br/>#004025||ふかみどり<br/>[[深緑]]||青みと黒みの強い濃い緑色。 |- |bgcolor="#AFB4DB"|<br/>#AFB4DB||ふじいろ<br/>[[藤色]]||[[フジ (植物)|藤]]の花の色から。淡い青味のある紫色。 |- |bgcolor="#606DA1" style="color:white"|<br/>#606DA1||ふじなんど<br/>[[藤納戸]]||灰みを帯びた淡い青紫色。 |- |bgcolor="#9B95C9" style="color:white"|<br/>#9B95C9||ふじむらさき<br/>[[藤色#藤紫・藤鼠|藤紫]]||明るい青紫色。 |- |bgcolor="#6B4978" style="color:white"|<br/>#6B4978||ふたあい<br/>[[二藍]]||染料「藍」と「呉藍(紅)」を使った染色法に由来する。平安時代に愛好された紫系統の色。 |- |bgcolor="#E5004F" style="color:white"|<br/>#E5004F||べにあか<br/>[[紅赤]]||わずかに紫みを含んだ鮮やかな赤。 |- |bgcolor="#C22047" style="color:white"|<br/>#C22047||べにいろ<br/>[[紅色]]||「くれないいろ」とも読む。[[ベニバナ|紅花]]で染色した鮮やかな赤。 |- |bgcolor="#B63D1B" style="color:white"|<br/>#B63D1B||べにかばいろ<br/>[[紅樺色]]||紅色がかった樺色。 |- |bgcolor="#F83929" style="color:white"|<br/>#F83929||べにひ<br/>[[紅緋]]||[[ベニバナ|紅花]]染めと[[鬱金]]などの黄みの色を染め重ねられた色。冴えた黄みの赤色。 |- |bgcolor="#8F2E14" style="color:white"|<br/>#8F2E14||べんがらいろ<br/>[[弁柄色]]||顔料の「ベンガラ」の色。暗い赤みを帯びた茶色。 |- |bgcolor="#E761A4" style="color:white"|<br/>#E761A4||ぼたんいろ<br/>[[牡丹色]]||[[牡丹]]の花の色。濃い紫紅色。 |} == ま行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#FB3C02" style="color:white"|<br/>#FB3C02||まがいべに<br/>[[紛紅]]||蘇芳で紅に似せて染めた色。 |- |bgcolor="#5B7E91" style="color:white"|<br/>#5B7E91||ますはないろ<br/>[[枡花色]]||五代目市川団十郎が好んだ淡い青。灰色がかった薄い青。 |- |bgcolor="#3F7735" style="color:white"|<br/>#3F7735||まつばいろ<br/>[[松葉色]]||[[松]]の葉の色。くすんだ緑。 |- |bgcolor="#F08300" style="color:white"|<br/>#F08300||みかんいろ<br/>[[蜜柑色]]||[[ウンシュウミカン|蜜柑]]の果実の色。赤みが少なく黄色みが強い橙色。 |- |bgcolor="#8CD2BC" style="color:white"|<br/>#8CD2BC||みずあさぎ<br/>[[水浅葱]]||水色がかった[[浅葱色]]。緑みの淡い青色。 |- |bgcolor="#AFDFE4"|<br/>#AFDFE4||みずいろ<br/>[[水色]]||澄んだ水の色。淡い緑みの青。 |- |bgcolor="#008000" style="color:white"|<br/>#008000||みどり<br/>[[緑]]||黄色と青緑の中間色。 |- |bgcolor="#6E6B41" style="color:white"|<br/>#6E6B41||みるいろ<br/>[[海松色]]||[[ミル目]]の[[緑藻]]である[[ミル属|海松(みる)]]のような灰色がかった黄緑色。 |- |bgcolor="#A757A8" style="color:white"|<br/>#A757A8||むらさき<br/>[[紫]]||青と赤の中間色。 |- |bgcolor="#966f9c" style="color:white"|<br/>#966F9C||むらさきにび<br/>[[紫鈍]]||紫みの灰色。 |- |bgcolor="#594255" style="color:white"|<br/>#594255||めっし<br/>[[滅紫]]||「けしむらさき」とも読む。くすんだ紫。 |- |bgcolor="#A9D159"|<br/>#A9D159||もえぎいろ<br/>[[萌黄|萌黄色]]||芽吹いたばかりの若葉の色。さえた黄緑色。 |- |bgcolor="#006C4F" style="color:white"|<br/>#006C4F||もえぎいろ<br/>[[萌黄|萌葱色]]||[[ネギ|葱]]の芽の色。鮮やかな緑。 |- |bgcolor="#C7B370"|<br/>#C7B370||もくらんいろ<br/>[[木蘭色]]||樹皮で染めた色。鈍い黄褐色。 |- |bgcolor="#F58F98"|<br/>#F58F98||ももいろ<br/>[[桃色]]||[[モモ|桃]]の花の色。明るく淡い赤。 |- |bgcolor="#542D24" style="color:white"|<br/>#542D24||ももしおちゃ<br/>[[小豆色#百塩茶|百塩茶]]||何度も染め重ねたような非常に濃い赤褐色。 |} == や行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#A8C97F" style="color:white"|<br/>#A8C97F||やなぎいろ<br/>[[柳色]]||やや白味がかった黄緑色。 |- |bgcolor="#BFBD9E"|<br/>#BFBD9E||やまばといろ<br/>[[麹塵|山鳩色]]||ヤマバトの羽の色。灰色がかった緑。麹塵とも呼ばれる。 |- |bgcolor="#F8B400"|<br/>#F8B400||やまぶきいろ<br/>[[ヤマブキ|山吹色]]||[[ヤマブキ|山吹]]の花の色。オレンジ色と黄色の中間色。 |- |bgcolor="#EE9D19" style="color:white"|<br/>#EE9D19||ゆうおういろ<br/>[[雄黄|雄黄色]]||硫化ヒ素の結晶の色。明るい鮮やかな黄色。 |- |bgcolor="#616B07" style="color:white"|<br/>#616B07||よもぎいろ<br/>[[蓬色]]||ヨモギの葉の色。やや青味の緑。 |- |bgcolor="#6D3C14" style="color:white"|<br/>#6D3C14||ようかんいろ<br/>[[小豆色#羊羹色|羊羹色]]||和菓子の[[羊羹]]の色から。黒に近い暗い赤褐色。 |} == ら行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#BF794E" style="color:white"|<br/>#BF794E||らくだいろ<br/>[[駱駝色]]||駱駝の毛の色。黄みの薄い茶色。 |- |bgcolor="#6E6636" style="color:white"|<br/>#6E6636||りかんちゃ<br/>[[璃寛茶]]||江戸時代の流行色の1つ。暗い緑がかった茶色。 |- |bgcolor="#897845" style="color:white"|<br/>#897845||りきゅうちゃ<br/>[[利休茶]]||[[千利休]]が好んだ色。緑がかった薄茶色。 |- |bgcolor="#888E7E" style="color:white"|<br/>#888E7E||りきゅうねず<br/>[[利休鼠]]||江戸時代の流行色の1つ。[[千利休]]を連想した色。緑がかった灰色。 |- |bgcolor="#6967AB" style="color:white"|<br/>#6967AB||りんどういろ<br/>[[竜胆色]]||[[リンドウ|竜胆]]の花の色。薄い青紫色。 |- |bgcolor="#2A5CAA" style="color:white"|<br/>#2A5CAA||るりいろ<br/>[[瑠璃色]]||宝玉「[[ラピスラズリ|瑠璃(るり、ラピスラズリ)]]」の色に由来する、深い青。 |- |bgcolor="#224B8F" style="color:white"|<br/>#224B8F||るりこん<br/>[[瑠璃色|瑠璃紺]]||瑠璃色がかった紺色。深い紫みの青色。 |- |bgcolor="#FFF450"|<br/>#FFF450||れもんいろ<br/>[[檸檬色]]||[[レモン]]の色。やや緑みを帯びた薄い黄色。 |- |bgcolor="#AA5C3F" style="color:white"|<br/>#AA5C3F||れんがいろ<br/>[[煉瓦色]]||[[煉瓦]]のような赤みのくすんだ茶色。 |- |bgcolor="#0c0c0c" style="color:white"|<br/>#0C0C0C||ろいろ<br/>[[呂色]]||漆黒の艶のないもの。艶消し加工をした黒漆の色。 |- |bgcolor="#5BAD92" style="color:white"|<br/>#5BAD92||ろくしょう<br/>[[緑青]]||[[銅]]の[[錆]]の色。明るく鈍い青緑色。 |- |bgcolor="#8c7042" style="color:white"|<br/>#8C7042||ろこうちゃ<br/>[[路考茶]]||赤みがかった暗い黄褐色。 |} == わ行 == {| class="wikitable" style="font-size:small" !style="width:5em"|色!!style="width:7em"|色名!!備考 |- |bgcolor="#ABC900" style="color:white"|<br/>#ABC900||わかくさいろ<br/>[[若草色]]||若草のようなあざやかな黄緑。 |- |bgcolor="#7CC28E" style="color:white"|<br/>#7CC28E||わかたけいろ<br/>[[若竹色]]||字義は若い竹の色だが、実際は若い竹ほど青味が強い。緑寄りの明るい黄緑色。 |- |bgcolor="#CCDE68"|<br/>#CCDE68||わかないろ<br/>[[若菜色]]||立春に芽を出す食用植物の淡い緑色。 |- |bgcolor="#C7DC68"|<br/>#C7DC68||わかなえいろ<br/>[[若苗色]]||稲の苗のような黄緑色。 |- |bgcolor="#A4CA68" style="color:white"|<br/>#A4CA68||わかばいろ<br/>[[若葉色]]||草木の若葉のようなやわらかい黄緑色。 |- |bgcolor="#A5CD89" style="color:white"|<br/>#A5CD89||わかみどり<br/>[[若緑 (色)|若緑]]||松の若葉のような明るく浅い黄緑色。 |- |bgcolor="#E0EBAF"|<br/>#E0EBAF||わかめいろ<br/>[[若芽色]]||植物の新芽のように淡く明るい緑色。 |- |bgcolor="#8EC298" style="color:white"|<br/>#8EC298||わさびいろ<br/>[[山葵色]]||[[山葵]]のような薄い黄緑色。 |- |bgcolor="#9CC5E6" style="color:white"|<br/>#9CC5E6||わすれなぐさいろ<br/>[[勿忘草色]]||[[ワスレナグサ|勿忘草]]の花の色。明るい青色。 |} == 関連項目 == * [[色]] * [[色名一覧]] * [[日本の伝統色]] * [[国鉄色]] {{color topics}} {{DEFAULTSORT:にほんのいろのいちらん}} [[Category:色]] [[Category:色名一覧|*にほん]] [[Category:語句の一覧]]
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鎌倉幕府の執権一覧
鎌倉幕府の執権一覧(かまくらばくふのしっけんいちらん)は、鎌倉幕府における執権の一覧。 執権職は北条氏が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、3代将軍源実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。 →鎌倉将軍一覧参照。 北条氏の嫡流は「得宗家」と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)において、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16代守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。また、北条貞将が守時の死を受けて、鎌倉陥落の際に17代執権に任じられたとする説がある。
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鎌倉幕府の執権一覧(かまくらばくふのしっけんいちらん)は、鎌倉幕府における執権の一覧。 執権職は北条氏が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、3代将軍源実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。 →鎌倉将軍一覧参照。 北条氏の嫡流は「得宗家」と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)において、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16代守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。また、北条貞将が守時の死を受けて、鎌倉陥落の際に17代執権に任じられたとする説がある。
'''鎌倉幕府の執権一覧'''(かまくらばくふのしっけんいちらん)は、[[鎌倉幕府]]における[[執権]]の一覧。 [[執権]]職は[[北条氏]]が独占し、世襲した。当初から大きな勢力を持っていたが、3代将軍[[源実朝]]暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。しかしながら将軍職は[[公家]]や[[皇族]]を[[京都|京]]から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。 →[[鎌倉将軍一覧]]参照。 北条氏の嫡流は「[[得宗家]]」と称され、得宗家の当主またはその後継者が幼少の時には北条氏の庶流から執権が任じられた。元弘の乱の最終段階([[鎌倉の戦い]]・[[東勝寺合戦]])において、13代[[北条基時|基時]]・14代[[北条高時|高時]](得宗家)・15代[[北条貞顕|貞顕]]・16代[[北条守時|守時]]の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。また、[[北条貞将]]が守時の死を受けて、鎌倉陥落の際に17代執権に任じられたとする説がある<ref>「歴史読本」新人物往来社 2011年10月号 97頁~98頁、『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P.197-198(「金沢貞将」の項、執筆:細川重男)。</ref>。 == 一覧 == {| class="sortable wikitable" style="text-align:center; font-size:95%; margin:10px 0px;" |- ! 代 ! 氏名 !! class="unsortable" | 肖像 ! 官位 ! 在職 !! 期間 ! {{Nowrap|享年}} ! 出身家・備考 |- !1 |<small>ほうじょう ときまさ</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条時政]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Dai_Nihon_Rokujūyoshō,_Izu_Hōjō_Sagaminokami_Tokimasa_by_Yoshitora.jpg|80px]] |{{Display none|05-12/}}[[従五位|従五位下]]<br />遠江守 |{{Display none|01-/}}{{Nowrap begin}}[[建仁]]3年([[1203年]])9月<br />&nbsp;- [[元久]]2年([[1205年]])閏7月{{Nowrap end}} |{{Display none|0}}1年 {{Nowrap|11か月}} |78 |[[北条氏]] |- !2 |<small>ほうじょう よしとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条義時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Yoshitoki777.PNG|80px]] |{{Display none|04-12/}}[[従四位|従四位下]]<br />[[右京権大夫]] |{{Display none|02-/}}{{Nowrap begin}}元久2年([[1205年]])閏7月<ref>[[承元]]3年([[1209年]])就任説もある(岡田清一「執権制の成立と建保合戦」(『中世日本の諸相 下巻』吉川弘文館、1989年 および『鎌倉幕府と東国』続群書類従完成会、2006年))。</ref><br />&nbsp;- [[貞応]]3年([[1224年]])6月13日{{Nowrap end}} |18年 {{Nowrap|11か月}} |62 |[[得宗|得宗家]] |- !3 |<small>ほうじょう やすとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条泰時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:YASUTOKI NISHIKI.PNG|80px]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|04-02/}}[[正四位|正四位下]]<br />[[左京大夫|左京権大夫]] |{{Display none|03-/}}{{Nowrap begin}}貞応3年([[1224年]])6月28日<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.geocities.jp/namikita_sampo2/061129meigetuin/061129meigetuin.htm|title=鎌倉散歩2:12回・鎌倉秋映|accessdate=2018-07-07|website=www.geocities.jp}}</ref><br />&nbsp;- [[仁治]]3年([[1242年]])6月15日{{Nowrap end}} |18年 |60 |得宗家 |- !4 |<small>ほうじょう つねとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条経時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Houjou Tsunetoki.JPG|80px]] |{{Display none|05-02/}}[[正五位|正五位下]]<br />[[武蔵守]] |{{Display none|04-/}}{{Nowrap begin}}仁治3年([[1242年]])6月15日<br />&nbsp;- [[寛元]]4年([[1246年]])3月23日{{Nowrap end}} |{{Display none|0}}3年 {{Nowrap|9か月}} |23 |得宗家 |- !5 |<small>ほうじょう ときより</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条時頼]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Hōjō Tokiyori.jpg|80px]] |{{Display none|05-02/}}[[正五位|正五位下]]<br />[[相模国|相模守]] |{{Display none|05-/}}{{Nowrap begin}}寛元4年([[1246年]])3月23日<br />&nbsp;- [[康元]]元年([[1256年]])11月22日{{Nowrap end}} |10年 {{Nowrap|8か月}} |37 |得宗家 |- !6 |<small>ほうじょう ながとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条長時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:NAGATOKI.PNG|80px]] |{{Display none|05-11/}}[[従五位|従五位上]]<br />武蔵守 |{{Display none|06-/}}{{Nowrap begin}}康元元年([[1256年]])11月22日<br />&nbsp;- [[文永]]元年([[1264年]])7月3日{{Nowrap end}} |{{Display none|0}}7年 {{Nowrap|7か月}} |35 | style="white-space:nowrap;" |[[赤橋流北条氏|赤橋流]] |- !7 |<small>ほうじょう まさむら</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条政村]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Masamura777.PNG|80px]] |{{Display none|04-02/}}[[正四位|正四位下]]<br />左京権大夫 |{{Display none|07-/}}{{Nowrap begin}}文永元年([[1264年]])8月11日<br />&nbsp;- 文永5年([[1268年]])3月5日{{Nowrap end}} |{{Display none|0}}3年 {{Nowrap|7か月}} |69 |[[政村流北条氏|政村流]] |- !8 |<small>ほうじょう ときむね</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条時宗]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Hōjō Tokimune.jpg|80px]] |{{Display none|05-02/}}[[正五位|正五位下]]<br />相模守 |{{Display none|08-/}}{{Nowrap begin}}文永5年([[1268年]])3月5日<br />&nbsp;- [[弘安]]7年([[1284年]])4月4日{{Nowrap end}} |16年 {{Nowrap|1か月}} |34 |得宗家 |- !9 |<small>ほうじょう さだとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条貞時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Hōjō Sadatoki,Maekenkozitu.jpg|80px]] |{{Display none|04-11/}}[[従四位|従四位上]]<br />相模守 |{{Display none|09-/}}{{Nowrap begin}}弘安7年([[1284年]])4月4日<br />&nbsp;- [[正安]]3年([[1301年]])8月22日{{Nowrap end}} |17年 {{Nowrap|4か月}} |40 |得宗家 |- !10 |<small>ほうじょう もろとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条師時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:MOROTOKI777.PNG|80px]] |{{Display none|05-12/}}[[従四位|従四位下]]<br />相模守 |{{Display none|10-/}}{{Nowrap begin}}正安3年([[1301年]])8月22日<br />&nbsp;- [[応長]]元年([[1311年]])9月21日{{Nowrap end}} |10年 {{Nowrap|1か月}} |37 |[[宗政流北条氏|宗政流]] |- !11 | style="white-space:nowrap;" |<small>ほうじょう むねのぶ</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条宗宣]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Hojo Munenobu.png|80px]] |{{Display none|04-12/}}[[従四位|従四位下]]<br />陸奥守 |{{Display none|11-/}}{{Nowrap begin}}応長元年([[1311年]])10月3日<br />&nbsp;- 応長2年([[1312年]])5月29日{{Nowrap end}} |{{Display none|00年}} {{Nowrap|8か月}} |54 |[[大仏流北条氏|大仏流]] |- !12 |<small>ほうじょう ひろとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条煕時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:HIROTOKI.PNG|80px]] |正五位下<br />相模守 |{{Display none|12-/}}{{Nowrap begin}}応長2年([[1312年]])6月2日<br />&nbsp;- [[正和]]4年([[1315年]])7月12日{{Nowrap end}} |{{Display none|0}}3年 {{Nowrap|1か月}} |37 |政村流 |- !13 |<small>ほうじょう もととき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条基時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Fuonji_Nyudo_Shinnin.jpg|80px]] |{{Display none|05-12/}}正五位下<br />相模守 |{{Display none|13-/}}{{Nowrap begin}}正和4年([[1315年]])7月12日<br />&nbsp;- 正和5年([[1316年]])7月9日{{Nowrap end}} |{{Display none|0}}1年 |48 |普恩寺流 |- !14 |<small>ほうじょう たかとき</small><br /><span style="font-size:135%">[[北条高時]]</span><br /><small>&nbsp;</small>||[[ファイル:Hōjō Takatoki.jpg|80px]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|04-12/}}従四位下<br />[[修理大夫|修理権大夫]] |{{Display none|14-/}}{{Nowrap 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西南アジア
西南アジア(せいなんアジア)は、アジアの一角を指す地域概念であるが、定義によって指し示す地理範囲が大きく異なるので、注意を要する。英語でSouthwest Asia、 Southwestern Asiaの場合は、一般にアフガニスタンからトルコ、エジプトに至る地域を指す。
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西南アジア(せいなんアジア)は、アジアの一角を指す地域概念であるが、定義によって指し示す地理範囲が大きく異なるので、注意を要する。英語でSouthwest Asia、 Southwestern Asiaの場合は、一般にアフガニスタンからトルコ、エジプトに至る地域を指す。 西アジアと南アジアをあわせた地域。 中東とほぼ同じ地域。日本で最もよく見られている用例。 西アジアと南アジアの中間地域である、アフガニスタン南部・パキスタン西部・イラン東部をあわせた地域。主にパシュトゥーン人、バルーチ人などのイラン語群の言葉を話す遊牧民が居住する。 南カフカスを除いた西アジアの地域。
[[Image:Location-Asia-UNsubregions.png|thumb|225px|国際連合によるアジアの地域の分類[http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm] {{legend|#0000E0|[[北アジア]]}} {{legend|#E000E0|[[中央アジア]]}} {{legend|#00E000|[[西アジア]]}} {{legend|#E00000|[[南アジア]]}} {{legend|#FFFF20|[[東アジア]]}} {{legend|#FFC000|[[東南アジア]]}}]] '''西南アジア'''(せいなんアジア)は、[[アジア]]の一角を指す地域概念であるが、定義によって指し示す地理範囲が大きく異なるので、注意を要する。英語で'''Southwest Asia'''、''' Southwestern Asia'''の場合は、一般に[[アフガニスタン]]から[[トルコ]]、[[エジプト]]に至る地域を指す。 #[[西アジア]]と[[南アジア]]をあわせた地域。 #[[中東]]とほぼ同じ地域。日本で最もよく見られている用例。 #西アジアと南アジアの中間地域である、[[アフガニスタン]]南部・[[パキスタン]]西部・[[イラン]]東部をあわせた地域。主に[[パシュトゥーン人]]、[[バルーチ人]]などの[[イラン語群]]の言葉を話す[[遊牧民]]が居住する。 #[[南コーカサス|南カフカス]]を除いた西アジアの地域。 {{アジア}} {{aimai}} {{デフォルトソート:せいなんあしあ}} [[Category:中東|せいなんあしあ]] [[Category:アジアの地域|せいなんあしあ]]
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大工
大工(だいく)とは、主として木造建造物の建築・修理を行う職人のこと。古くは建築技術者の職階を示し、木工に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる人物をさしていた、番匠(ばんじょう)とも。現在の建築業界においてはさまざまな新しい技術や工法、新建材の知識はもとより、建築工程をまとめる過程において建築業務に携わる他職人や業者の関連業務知識が必要とされる場合があり、現在でも木造建築の建築業務などにおいては実質的現代棟梁であるとされる場合が多い。 かつては一般の木造建築の職人を「右官」と呼んでいたが、江戸時代頃から一般の職人も大工と呼び、統率者に対しては、棟梁と呼ぶようになった。江戸の発音では「デエク」である。 飛鳥時代に今も使われている「さしがね」を考案したとも言われる聖徳太子が組織し、都造りのため天皇のそばで建築の「木」に関わる職を「右官」、「土」に関わる職を「左官」と呼んでいたという説もある。 現在の建設業で「左官」以外の職種は設計も含め、「大工」より派生したものが非常に多い。 最近よく使われる「意匠」というのは、「匠(大工)」が「意図する(考えた)」という意味でデザイン性を表す昔ながらの言葉である。 宮大工(みやだいく)は、神社・仏閣の建造などを行う大工。堂宮大工とも、宮番匠とも言われる。釘を使わずに接木を行う(引き手・継ぎ手)など、伝統的な技法を伝える。寺社を「お宮さん」と言っていたので宮大工という。 寺社大工(宮大工と同じ)は主に木造軸組構法(ただしこの枠組から外れる構造物もある)で寺社を造る大工。江戸時代に町奉行、寺社奉行という行政上の自治の管轄が違ったため町大工と区別される。いまでも宮大工といわず寺社大工という地域もある。ただし郊外など二つの管轄から外れる地域では明確な区別がないともいえる。このことから現代でも寺社大工と町大工を兼ねる工務店も多い。また郊外という空間上の制限がない場所柄と農家の顧客が主なこともあり町場と違い大断面の木材と基本となる間尺(モジュール)も比較的大きく、仕口や材料も奢ったものも多く寺社建築に近かったことも要因である。都市部近郊では未だに築300年程の農家も多く存在する。 一般的な木造住宅における木材・建材の加工・取り付け作業を行う大工。近代においては単なる「番匠」とはこの事をさす。 宮大工ではないが、木造住宅の墨付け・きざみ・建て方および屋根仕舞・外部造作・内部造作全般を取り仕切るバランスのとれた1人親方と職人を指す。 請負大工とも呼ばれ、各下請け業者の束ねも行う。 一般的に「大工さん」と親しみを込めて呼ばれるのは、この家屋大工(木造大工・住宅大工・家大工とも呼ばれる)である。 最近の分業制により、「木」「建材(ベニヤ・塩ビシート枠)」等の造作を家屋大工・造作大工が行い、コンピュータを使った自動機械によるプレカット木材の建前を建て方大工(鳶であることが多い)が行う住宅建築が増えている。 外装板・石膏ボード・断熱材のみならず、天井造作・フロア張りなども専門職が行うようにもなってきている。 また、住宅の建築を依頼する先も高度経済成長期より家屋大工から、工務店・建設会社へ移ってきているため、現在は職人を指すことが多い。 主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)。 町場の由来は、古くから日本各地で相互扶助の単位として町(町場)という共同体のことからであり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の庶民のまつりごと(自治、祭礼)は伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。 こうした自治の場で町大工は冠婚葬祭の互助活動などや消火活動(町火消)、祭礼(山車・神輿の作成)、橋、井戸の屋根、つるべや上水道の枡、木管や下水道のどぶ板といった町内インフラストラクチャーの作成、保守などを、町鳶(とび職)と協力して担ってきた。現代で言えばインフラストラクチャーを大工が作りイベントを鳶職が行ったといえる。 普請においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが不文律であり、それをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある。しかし町の中でも商店や職人を積極的に贔屓にするが、不文律の拘束は弱く、町鳶、町大工、町火消しなどの「町」を冠する職方には我々の町の、という誇りをこめたニュアンスがある。寺社大工と良く比較されるが、確かに工具の豊富さや砥石一つとっても寺社大工のように数百万円もするようなものを持つ者も少ないが、都市部の限られた空間と時間と予算の制約の中で技術を培ってきたのも間違いなく、都市部(築地など)では築100年以上の三階建て住宅も現存する。 主に木造枠組壁構法で家屋を造る大工。近年アメリカで開発され(ヨーロッパなどの木造家屋も小屋組がトラス構造であるが、基本的には軸組工法である。)技術導入された工法である。企業の枠組みの中に組み込まれており地域密着型でないため、町大工とはいえない。 数寄屋大工(すきやだいく)は、茶室を造る大工。主に木造軸組工法で茶室風を取り入れて家屋を造る(数寄屋造り、書院造りという)。 わび・さびや花鳥風月といった粋や趣を表現し、実用一辺倒ではない細工や材料を用いる。茶室に限らず趣味人の大店や商人などが、蔵やはなれ、母屋や料亭、旅館までも用いた。緻密な細工物が多用されるので建具大工の素養が必要である。また抱える職方も特殊で、特に左官屋などはこてによるレリーフ(こて絵)を作ることができる。また、今では日本に少数しかいないが、茶室には欠かせない炉を専門とする炉壇師という職人もいる。町大工には社会的な役割が強く、顧客も庶民であったため実用的な建築が求められ、寺社大工には神社・仏閣の様式美が求められていた。それに対し数奇屋大工は予算的にも自由が利き、今で言えば芸術家肌といえる。 船大工(ふなだいく)は、木造船(和船、帆掛け舟、屋形船)の建造などを行う大工。船番匠とも言われる。日本でも1965年(昭和40年)頃までは、各地の商業港の近郊河川でだるま船(運搬船)を改装して水上生活をする者が多数見られ、木造船は身近な存在であったが、現在、純木造船は少なく、技術を伝える者もほとんどいない。 漁師町では大工と船大工を兼業する者も多く、社会的な役割も町大工に近かった。また非常に稀であるが日本各地の漁師町では、洒落なのか、軸組みの技術が無い者が造ったのか、材料の入手の問題であったのか、いずれかは解らないが、船大工の工法を使った家屋が見受けられ、現代の建築基準法や工法に当てはまらないシェル構造に近い家があり、極端にいえば船底のない船が建っているといえる。 長崎県の精霊流しで使われる精霊船を作る技工も船大工と呼ばれる。 建具大工(たてぐだいく)は、障子・ふすまなどの製作を主とする大工。(表具屋、建具屋と呼称することが多い) 欄間を作る大工は彫り物大工とも呼ばれ専業になっているが、需要がなくなっているため技術継承者がいない。 昔の家屋大工より派生した専門職種である。ふすまや障子、畳などは、現在と違い「動産」であったので借家住まいの店子は、引越しの度、これらを持ち回った。この様なことから顧客層に違いが生じ、家屋大工と建具大工の分業を進めた要因といわれる。またこれらのことから都市部では家屋のモジュールが平面だけではなく高さも大まかに統一されていたのはリサイクルという観点からも驚愕すべき事実である。(どの家に持って行っても大体はめ込めた) 家具大工(かぐだいく)は、家具を作る大工。指物師とも。(箪笥職人、家具職人と呼称されることが多い)主に葛籠(竹製ではない)、ちゃぶ台、茶箪笥、箪笥(階段箪笥、薬箪笥)などを造っていた。 家具大工は昔から四方転びと呼ばれる踏み台の出来で腕前を評価された。昔は家屋大工と明確な区別がなかったが、この様に小さな家具も日常的に造っていたので現在では分業している。明治維新以降、神戸と横浜では西洋家具が造られる様になった。横浜では駕籠、馬具職人が転職したのに対し神戸では中国、四国地方を中心とした船大工技術を伝承する塩飽大工という寺社大工集団の一部が転職したといわれている。この様なことから和箪笥職人と西洋家具職人と区分けされる由縁である。 型枠大工(かたわくだいく)はコンクリート打込み用の型枠を作りこむ大工。180×90cm厚さ12mmの合板(コンパネともいう)と30×48ミリ(関東)の角材を釘で接合し内外両面を一定間隔の内法を内法保持金物(セパレーター)で確保し型枠をつくる。コンクリート重量で変形破壊しないように単管(鋼管)と鎖、支持鋼管で外側から圧縮力もしくは下方から支持力をかけるという作業をする。 一般には細かい造作よりも、いかに速く仕事を行うかが勝負(10m2程度/日)とされるが、打ち放しなど表面仕上げの精度が要求される場合、塗装合板(片面が平滑)などを使うが、型枠大工の技量と、左官・土工・監督の技術連携が成否を左右する。戦後、朝鮮半島より技術が伝わり、当初は家屋大工を組織して鉄筋まで行っていたが、RC造(鉄筋コンクリート造)の構造体型枠パネル専門の大工となった。昭和30年代まではバラ板と呼ばれる木材を寄せ合わせてコンクリート用の枠を型どっていたが、現在は東南アジアで生産されている通称コンパネと呼ばれるラワン材を主とする積層パネルと補助桟と呼ぶ木材で型枠パネルを組み立てている。東南アジアでの森林伐採問題は、このコンパネに必要な南洋材を世界各国に生産・輸出するためであるのが主な原因である。 町大工(町場大工)に対して野丁場大工ともいわれる。(野帳場ともいう、造成地や埋立地など町の形成される前の場所や町や寺社という自治単位からはずれる、または超える規模の仕事の場所をさす。) 造作大工(ぞうさくだいく)は、主にRC造等の住宅やマンションの内部の造作、プレカット木造住宅の内部の造作を行う大工。造作とは主要構造部(梁、柱、土台、小屋組、階段)以外の壁、床、天井、窓枠、巾木等をさす。 50年代頃より壁・天井の造作が軽量鉄骨工事に切り替わり、大工仕事は木材を使う部分に限られてきた。 店舗を作る大工(内装大工ともいう)も造作大工であるが、専門知識が別に必要となる。 家屋大工との違いは、墨付け・きざみ・建て方の技術を習得している大工であるかそうでないかで判断すべきであろう。 町大工(町場大工)に対して野丁場大工ともいわれる。 棟梁(とうりょう)は大工の職長・親方。木造建築物の采配を行う責任者。 日本建築の屋根の重要部材(棟と梁が主)は親方が墨付けし、棟上げ式の長でもあることからそう呼ばれる。 日本でも明治期に建築家が養成されるまでは建築設計士であり現場監督であり積算者であり渉外者であり職人であり経営者でありそれらを全て兼ね備えた者を指す。 また、棟梁は集団の統率者を指す言葉としても用いられ、例えば武家の棟梁=征夷大将軍である。 大工となるには、一般的に座学と実践の両方を含む修業が必要である。まずは見習いとして始まり、数年の修業を経て技術や知識を身に付け、一人前の大工となる。さらに経験を積むことで、現場監督として現場で指揮を執る棟梁になることができる。また、働き始める前に専門教育を受けて一定の知識や技能を身に付けたり仕事に必要な資格を取得したりするケースも多い。 専門教育を受けずに見習いとして働き始めるケースも存在するが、高等学校や高等専門学校、専修学校、短期大学、職業訓練施設などの建築科や建設科、あるいは大学の建設工学科や建築学科(もしくはそれに類する学科・コースなど)などで専門教育を受けた上で働き出すケースも多い。これらの学校を卒業することで、専門的な技術や知識を身に付けることができるだけでなく、建築士や建築大工技能士、木造建築物の組立て等作業主任者などの大工としての仕事に生かすことのできる資格を取得することもできる。専修学校や職業訓練施設では、大工の育成を目的とした学校・学科・コースも多く存在し、中には宮大工育成に特化した学校などもある。 見習いとして働き始めてから一人前の大工となるまでの期間は、大工の種類にもよるが、最低でも2~3年、長い場合は10年以上掛かる場合が多い。 一人前となると、一人親方として親方の下から独立し、個人事業主として自身で仕事を探し、請け負うことで生計を立てる。さらに経験・研鑽を積み、弟子(見習い)を取ったり現場で指揮を執ったりするようになると、棟梁と呼ばれる親方となる。 鋸、鉋といった様々な工具や釘などを使う。これらを国内で唯一、専門で展示する施設「竹中大工道具館」が兵庫県神戸市にある。
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"寺社大工(宮大工と同じ)は主に木造軸組構法(ただしこの枠組から外れる構造物もある)で寺社を造る大工。江戸時代に町奉行、寺社奉行という行政上の自治の管轄が違ったため町大工と区別される。いまでも宮大工といわず寺社大工という地域もある。ただし郊外など二つの管轄から外れる地域では明確な区別がないともいえる。このことから現代でも寺社大工と町大工を兼ねる工務店も多い。また郊外という空間上の制限がない場所柄と農家の顧客が主なこともあり町場と違い大断面の木材と基本となる間尺(モジュール)も比較的大きく、仕口や材料も奢ったものも多く寺社建築に近かったことも要因である。都市部近郊では未だに築300年程の農家も多く存在する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一般的な木造住宅における木材・建材の加工・取り付け作業を行う大工。近代においては単なる「番匠」とはこの事をさす。 宮大工ではないが、木造住宅の墨付け・きざみ・建て方および屋根仕舞・外部造作・内部造作全般を取り仕切るバランスのとれた1人親方と職人を指す。 請負大工とも呼ばれ、各下請け業者の束ねも行う。 一般的に「大工さん」と親しみを込めて呼ばれるのは、この家屋大工(木造大工・住宅大工・家大工とも呼ばれる)である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最近の分業制により、「木」「建材(ベニヤ・塩ビシート枠)」等の造作を家屋大工・造作大工が行い、コンピュータを使った自動機械によるプレカット木材の建前を建て方大工(鳶であることが多い)が行う住宅建築が増えている。 外装板・石膏ボード・断熱材のみならず、天井造作・フロア張りなども専門職が行うようにもなってきている。 また、住宅の建築を依頼する先も高度経済成長期より家屋大工から、工務店・建設会社へ移ってきているため、現在は職人を指すことが多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": 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"text": "数寄屋大工(すきやだいく)は、茶室を造る大工。主に木造軸組工法で茶室風を取り入れて家屋を造る(数寄屋造り、書院造りという)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "わび・さびや花鳥風月といった粋や趣を表現し、実用一辺倒ではない細工や材料を用いる。茶室に限らず趣味人の大店や商人などが、蔵やはなれ、母屋や料亭、旅館までも用いた。緻密な細工物が多用されるので建具大工の素養が必要である。また抱える職方も特殊で、特に左官屋などはこてによるレリーフ(こて絵)を作ることができる。また、今では日本に少数しかいないが、茶室には欠かせない炉を専門とする炉壇師という職人もいる。町大工には社会的な役割が強く、顧客も庶民であったため実用的な建築が求められ、寺社大工には神社・仏閣の様式美が求められていた。それに対し数奇屋大工は予算的にも自由が利き、今で言えば芸術家肌といえる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "船大工(ふなだいく)は、木造船(和船、帆掛け舟、屋形船)の建造などを行う大工。船番匠とも言われる。日本でも1965年(昭和40年)頃までは、各地の商業港の近郊河川でだるま船(運搬船)を改装して水上生活をする者が多数見られ、木造船は身近な存在であったが、現在、純木造船は少なく、技術を伝える者もほとんどいない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "漁師町では大工と船大工を兼業する者も多く、社会的な役割も町大工に近かった。また非常に稀であるが日本各地の漁師町では、洒落なのか、軸組みの技術が無い者が造ったのか、材料の入手の問題であったのか、いずれかは解らないが、船大工の工法を使った家屋が見受けられ、現代の建築基準法や工法に当てはまらないシェル構造に近い家があり、極端にいえば船底のない船が建っているといえる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "長崎県の精霊流しで使われる精霊船を作る技工も船大工と呼ばれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "建具大工(たてぐだいく)は、障子・ふすまなどの製作を主とする大工。(表具屋、建具屋と呼称することが多い)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "欄間を作る大工は彫り物大工とも呼ばれ専業になっているが、需要がなくなっているため技術継承者がいない。 昔の家屋大工より派生した専門職種である。ふすまや障子、畳などは、現在と違い「動産」であったので借家住まいの店子は、引越しの度、これらを持ち回った。この様なことから顧客層に違いが生じ、家屋大工と建具大工の分業を進めた要因といわれる。またこれらのことから都市部では家屋のモジュールが平面だけではなく高さも大まかに統一されていたのはリサイクルという観点からも驚愕すべき事実である。(どの家に持って行っても大体はめ込めた)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "家具大工(かぐだいく)は、家具を作る大工。指物師とも。(箪笥職人、家具職人と呼称されることが多い)主に葛籠(竹製ではない)、ちゃぶ台、茶箪笥、箪笥(階段箪笥、薬箪笥)などを造っていた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "家具大工は昔から四方転びと呼ばれる踏み台の出来で腕前を評価された。昔は家屋大工と明確な区別がなかったが、この様に小さな家具も日常的に造っていたので現在では分業している。明治維新以降、神戸と横浜では西洋家具が造られる様になった。横浜では駕籠、馬具職人が転職したのに対し神戸では中国、四国地方を中心とした船大工技術を伝承する塩飽大工という寺社大工集団の一部が転職したといわれている。この様なことから和箪笥職人と西洋家具職人と区分けされる由縁である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "型枠大工(かたわくだいく)はコンクリート打込み用の型枠を作りこむ大工。180×90cm厚さ12mmの合板(コンパネともいう)と30×48ミリ(関東)の角材を釘で接合し内外両面を一定間隔の内法を内法保持金物(セパレーター)で確保し型枠をつくる。コンクリート重量で変形破壊しないように単管(鋼管)と鎖、支持鋼管で外側から圧縮力もしくは下方から支持力をかけるという作業をする。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一般には細かい造作よりも、いかに速く仕事を行うかが勝負(10m2程度/日)とされるが、打ち放しなど表面仕上げの精度が要求される場合、塗装合板(片面が平滑)などを使うが、型枠大工の技量と、左官・土工・監督の技術連携が成否を左右する。戦後、朝鮮半島より技術が伝わり、当初は家屋大工を組織して鉄筋まで行っていたが、RC造(鉄筋コンクリート造)の構造体型枠パネル専門の大工となった。昭和30年代まではバラ板と呼ばれる木材を寄せ合わせてコンクリート用の枠を型どっていたが、現在は東南アジアで生産されている通称コンパネと呼ばれるラワン材を主とする積層パネルと補助桟と呼ぶ木材で型枠パネルを組み立てている。東南アジアでの森林伐採問題は、このコンパネに必要な南洋材を世界各国に生産・輸出するためであるのが主な原因である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "町大工(町場大工)に対して野丁場大工ともいわれる。(野帳場ともいう、造成地や埋立地など町の形成される前の場所や町や寺社という自治単位からはずれる、または超える規模の仕事の場所をさす。)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "造作大工(ぞうさくだいく)は、主にRC造等の住宅やマンションの内部の造作、プレカット木造住宅の内部の造作を行う大工。造作とは主要構造部(梁、柱、土台、小屋組、階段)以外の壁、床、天井、窓枠、巾木等をさす。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "50年代頃より壁・天井の造作が軽量鉄骨工事に切り替わり、大工仕事は木材を使う部分に限られてきた。 店舗を作る大工(内装大工ともいう)も造作大工であるが、専門知識が別に必要となる。 家屋大工との違いは、墨付け・きざみ・建て方の技術を習得している大工であるかそうでないかで判断すべきであろう。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "町大工(町場大工)に対して野丁場大工ともいわれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "棟梁(とうりょう)は大工の職長・親方。木造建築物の采配を行う責任者。", "title": "棟梁" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本建築の屋根の重要部材(棟と梁が主)は親方が墨付けし、棟上げ式の長でもあることからそう呼ばれる。", "title": "棟梁" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本でも明治期に建築家が養成されるまでは建築設計士であり現場監督であり積算者であり渉外者であり職人であり経営者でありそれらを全て兼ね備えた者を指す。", "title": "棟梁" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、棟梁は集団の統率者を指す言葉としても用いられ、例えば武家の棟梁=征夷大将軍である。", "title": "棟梁" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大工となるには、一般的に座学と実践の両方を含む修業が必要である。まずは見習いとして始まり、数年の修業を経て技術や知識を身に付け、一人前の大工となる。さらに経験を積むことで、現場監督として現場で指揮を執る棟梁になることができる。また、働き始める前に専門教育を受けて一定の知識や技能を身に付けたり仕事に必要な資格を取得したりするケースも多い。", "title": "キャリア" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "専門教育を受けずに見習いとして働き始めるケースも存在するが、高等学校や高等専門学校、専修学校、短期大学、職業訓練施設などの建築科や建設科、あるいは大学の建設工学科や建築学科(もしくはそれに類する学科・コースなど)などで専門教育を受けた上で働き出すケースも多い。これらの学校を卒業することで、専門的な技術や知識を身に付けることができるだけでなく、建築士や建築大工技能士、木造建築物の組立て等作業主任者などの大工としての仕事に生かすことのできる資格を取得することもできる。専修学校や職業訓練施設では、大工の育成を目的とした学校・学科・コースも多く存在し、中には宮大工育成に特化した学校などもある。", "title": "キャリア" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "見習いとして働き始めてから一人前の大工となるまでの期間は、大工の種類にもよるが、最低でも2~3年、長い場合は10年以上掛かる場合が多い。", "title": "キャリア" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一人前となると、一人親方として親方の下から独立し、個人事業主として自身で仕事を探し、請け負うことで生計を立てる。さらに経験・研鑽を積み、弟子(見習い)を取ったり現場で指揮を執ったりするようになると、棟梁と呼ばれる親方となる。", "title": "キャリア" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鋸、鉋といった様々な工具や釘などを使う。これらを国内で唯一、専門で展示する施設「竹中大工道具館」が兵庫県神戸市にある。", "title": "大工道具" } ]
大工(だいく)とは、主として木造建造物の建築・修理を行う職人のこと。古くは建築技術者の職階を示し、木工に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる人物をさしていた、番匠(ばんじょう)とも。現在の建築業界においてはさまざまな新しい技術や工法、新建材の知識はもとより、建築工程をまとめる過程において建築業務に携わる他職人や業者の関連業務知識が必要とされる場合があり、現在でも木造建築の建築業務などにおいては実質的現代棟梁であるとされる場合が多い。
{{Otheruseslist|日常用語としての大工|歴史用語|大工 (日本古代・中世)|大工と略される高等学校|長崎県立大村工業高等学校|宮崎県宮崎市の地名|大工 (宮崎市)}} {{複数の問題 |出典の明記=2019年9月 |独自研究=2019年9月 }} [[Image:Fotothek_df_n-10_0000828.jpg|thumb|ドイツの大工]] [[Image:Indiacarpenter.jpg|thumbnail|インドの大工]] '''大工'''(だいく)とは、主として木造建造物の[[建築]]・修理を行う[[職人]]のこと。古くは建築技術者の職階を示し、[[木工]]に限らず各職人を統率する長、または工事全体の長となる人物をさしていた<ref group=注釈>[[古代]][[造寺司]]においては、建築に限らず工匠の長を「大工」、副を「少工」と呼んでいた。</ref>、番匠(ばんじょう)とも。現在の建築業界においてはさまざまな新しい技術や工法、新建材の知識はもとより、建築工程をまとめる過程において建築業務に携わる他[[職人]]や[[事業者|業者]]の関連業務知識が必要とされる場合があり、現在でも木造建築の建築業務などにおいては実質的現代[[棟梁]]であるとされる場合が多い。 == 概説 == [[Image:Carpenter.jpg|thumb|200px|普請現場で働く'''大工'''。威勢の良い男で、[[入れ墨]]をしている。<br />(『童謡妙々車』(刊行年:嘉永8年(1855年)~明治7年(1874年)より)<ref>[http://www.library-noda.jp/homepage/digilib/wako/208.html 童謡妙々車]</ref>)。]] かつては一般の[[木造建築]]の職人を「右官」<ref group=注釈>右官については土木建築の技能職の[[左官]]に対して、事務職としての呼称であったとの説もある。</ref>と呼んでいたが、[[江戸時代]]頃から一般の職人も大工と呼び、統率者に対しては、[[棟梁]]と呼ぶようになった。[[江戸]]の発音では「デエク」である。 [[飛鳥時代]]に今も使われている「さしがね」を考案したとも言われる[[聖徳太子]]が組織し、都造りのため[[天皇]]のそばで建築の「木」に関わる職を「右官」、「土」に関わる職を「[[左官]]」と呼んでいたという説もある。 現在の建設業で「左官」以外の職種は設計も含め、「大工」より派生したものが非常に多い。 最近よく使われる「意匠」というのは、「匠(大工)」が「意図する(考えた)」という意味でデザイン性を表す昔ながらの言葉である。 == 分類 == [[Image:Takashina_Takakane_001.JPG|thumb|none|600px|『[[春日権現験記]]絵』延慶2年(1309年) 高階隆兼 [[三の丸尚蔵館]]蔵]] === 宮大工 === ====概要==== [[宮大工]](みやだいく)は、[[神社]]・[[寺院|仏閣]]の建造などを行う大工。<!----渡り大工、---->堂宮大工とも、宮番匠とも言われる。[[釘]]を使わずに接木を行う(引き手・継ぎ手)など、伝統的な技法を伝える。[[寺社]]を「お宮さん」と言っていたので宮大工という。 [[寺社大工]](宮大工と同じ)は主に[[木造軸組構法]](ただしこの枠組から外れる構造物もある)で寺社を造る大工。江戸時代に[[町奉行]]、[[寺社奉行]]という行政上の[[自治]]の[[管轄]]が違ったため町大工と区別される。いまでも宮大工といわず寺社大工という地域もある。ただし[[郊外]]など二つの管轄から外れる地域では明確な区別がないともいえる。このことから現代でも寺社大工と町大工を兼ねる[[工務店]]も多い。また郊外という空間上の制限がない場所柄と[[農家]]の顧客が主なこともあり町場と違い大[[断面]]の[[木材]]と基本となる間尺([[モジュール]])も比較的大きく、[[仕口]]や材料も奢ったものも多く寺社建築に近かったことも要因である。[[都市]]部近郊では未だに築300年程の[[農家]]も多く存在する。 ==== 外部リンク ==== * [http://www.sanuki-ie.com/gallely-miyadaiku01.htm 宮大工の仕事] - 讃岐の舎づくり倶楽部 === 家屋大工 === 一般的な[[木造住宅]]における[[木材]]・[[建材]]の加工・取り付け作業を行う大工。近代においては単なる「番匠」とはこの事をさす。 宮大工ではないが、木造住宅の[[墨付け]]・[[きざみ]]・[[建て方]]および[[屋根仕舞]]・外部[[造作]]・内部造作全般を取り仕切るバランスのとれた1人親方と職人を指す。 請負大工とも呼ばれ、各下請け業者の束ねも行う。 一般的に「大工さん」と親しみを込めて呼ばれるのは、この家屋大工(木造大工・住宅大工・家大工とも呼ばれる)である。 最近の分業制により、「木」「建材(ベニヤ・塩ビシート枠)」等の造作を家屋大工・造作大工が行い、[[コンピュータ]]を使った自動機械によるプレカット木材の[[上棟式|建前]]を建て方大工(鳶であることが多い)が行う住宅建築が増えている。 外装板・[[石膏ボード]]・[[断熱材]]のみならず、天井造作・フロア張りなども専門職が行うようにもなってきている。 また、住宅の建築を依頼する先も[[高度経済成長]]期より家屋大工から、工務店・建設会社へ移ってきているため、現在は職人を指すことが多い。 ==== 町大工 ==== 主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)。 [[町場]]の由来は、古くから日本各地で[[相互扶助]]の単位として町(町場)という[[共同体]]のことからであり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の[[庶民]]のまつりごと(自治、[[祭礼]])は伝統的にこの単位で行われ、その[[慣行]]が今でも残っているところも少なくない。 こうした自治の場で町大工は[[冠婚葬祭]]の[[互助活動]]などや[[消火活動]]([[町火消]])、祭礼([[山車]]・[[神輿]]の作成)、[[橋]]、[[井戸]]の屋根、[[つるべ]]や上水道の[[枡]]、[[木管]]や[[下水道]]のどぶ板といった町内インフラストラクチャーの作成、保守などを、町鳶([[とび職]])と協力して担ってきた。現代で言えば[[インフラストラクチャー]]を大工が作り[[イベント]]を鳶職が行ったといえる。 [[普請]]においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが[[不文律]]であり、それをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある。しかし町の中でも商店や職人を積極的に[[贔屓]]にするが、不文律の拘束は弱く、町鳶、町大工、町火消しなどの「町」を冠する職方には我々の町の、という誇りをこめたニュアンスがある。寺社大工と良く比較されるが、確かに工具の豊富さや[[砥石]]一つとっても寺社大工のように数百万円もするようなものを持つ者も少ないが、都市部の限られた空間と時間と予算の制約の中で技術を培ってきたのも間違いなく、都市部([[築地]]など)では築100年以上の三階建て住宅も現存する。 ==== ツーバイフォー大工、プレハブ大工 ==== 主に[[木造枠組壁構法]]で家屋を造る大工。近年アメリカで開発され(ヨーロッパなどの木造家屋も[[小屋]]組が[[トラス]]構造であるが、基本的には軸組工法である。)技術導入された工法である。企業の枠組みの中に組み込まれており[[地域密着]]型でないため、町大工とはいえない。 === 数寄屋大工 === 数寄屋大工(すきやだいく)は、[[茶室]]を造る大工。主に木造軸組工法で茶室風を取り入れて家屋を造る([[数寄屋造り]]、[[書院造]]りという)。 [[わび・さび]]や花鳥風月といった[[粋]]や趣を表現し、実用一辺倒ではない細工や材料を用いる。茶室に限らず趣味人の[[大店]]や商人などが、[[蔵]]や[[はなれ]]、[[母屋]]や[[料亭]]、[[旅館]]までも用いた。緻密な[[細工]]物が多用されるので建具大工の素養が必要である。また抱える職方も特殊で、特に左官屋などは[[こて (工具)|こて]]による[[レリーフ]]([[こて絵]])を作ることができる。また、今では日本に少数しかいないが、茶室には欠かせない[[炉]]を専門とする[[炉壇師]]という職人もいる。町大工には社会的な役割が強く、顧客も庶民であったため実用的な建築が求められ、寺社大工には神社・仏閣の様式美が求められていた。それに対し数奇屋大工は予算的にも自由が利き、今で言えば芸術家肌といえる。 === 船大工 === 船大工(ふなだいく)は、木造[[船]]([[和船]]、[[帆掛け舟]]、[[屋形船]])の建造などを行う大工。船番匠とも言われる。日本でも1965年(昭和40年)頃までは、各地の[[商業]][[港]]の[[近郊]][[河川]]で[[だるま船]](運搬船)を改装して[[水上生活者|水上生活をする者]]が多数見られ、木造船は身近な存在であったが、現在、純木造船は少なく、技術を伝える者もほとんどいない。 [[漁師]]町では大工と船大工を兼業する者も多く、[[社会]]的な役割も町大工に近かった。また非常に稀であるが日本各地の漁師町では、[[洒落]]なのか、[[木造軸組構法|軸組みの技術]]が無い者が造ったのか、材料の入手の問題であったのか、いずれかは解らないが、船大工の工法を使った[[家屋]]が見受けられ、現代の[[建築基準法]]や工法に当てはまらない[[シェル構造]]に近い家があり、極端にいえば[[船体|船底]]のない船が建っているといえる。 [[長崎県]]の[[精霊流し]]で使われる精霊船を作る技工も船大工と呼ばれる。 === 建具大工 === [[建具大工]](たてぐだいく)は、[[障子]]・[[襖|ふすま]]などの製作を主とする大工。([[表具]]屋、[[建具]]屋と呼称することが多い) [[欄間]]を作る大工は彫り物大工とも呼ばれ専業になっているが、需要がなくなっているため技術継承者がいない。 昔の家屋大工より派生した専門職種である。ふすまや障子、畳などは、現在と違い「[[動産]]」であったので[[借家]]住まいの[[店子]]は、引越しの度、これらを持ち回った。この様なことから顧客層に違いが生じ、家屋大工と建具大工の分業を進めた要因といわれる。またこれらのことから都市部では家屋のモジュールが平面だけではなく高さも大まかに統一されていたのは[[リサイクル]]という観点からも驚愕すべき事実である。(どの家に持って行っても大体はめ込めた) === 家具大工 === [[家具大工]](かぐだいく)は、[[家具]]を作る大工。指物師とも。(箪笥職人、家具職人と呼称されることが多い)主に[[葛籠]](竹製ではない)、[[ちゃぶ台]]、[[茶箪笥]]、[[箪笥]](階段箪笥、薬箪笥)などを造っていた。 家具大工は昔から[[四方転び]]と呼ばれる[[踏み台]]の出来で腕前を評価された。昔は家屋大工と明確な区別がなかったが、この様に小さな家具も日常的に造っていたので現在では分業している。[[明治維新]]以降、[[神戸市|神戸]]と[[横浜市|横浜]]では[[西洋家具]]が造られる様になった。横浜では[[駕籠]]、[[馬具]]職人が転職したのに対し神戸では中国、四国地方を中心とした船大工技術を伝承する塩飽大工という寺社大工集団の一部が転職したといわれている。この様なことから和箪笥職人と西洋家具職人と区分けされる由縁である。 === 型枠大工 === [[型枠大工]](かたわくだいく)はコンクリート打込み用の型枠を作りこむ大工。180×90cm厚さ12mmの[[合板]]([[コンクリートパネル|コンパネ]]ともいう)と30×48ミリ(関東)の角材を釘で接合し内外両面を一定間隔の内法を内法保持金物(セパレーター)で確保し型枠をつくる。コンクリート重量で変形破壊しないように単管(鋼管)と鎖、支持鋼管で外側から圧縮力もしくは下方から支持力をかけるという作業をする。 一般には細かい造作よりも、いかに速く仕事を行うかが勝負(10m2程度/日)とされるが、打ち放しなど表面仕上げの精度が要求される場合、塗装合板(片面が平滑)などを使うが、型枠大工の技量と、左官・[[土工]]・監督の技術連携が成否を左右する。戦後、朝鮮半島より技術が伝わり、当初は家屋大工を組織して鉄筋まで行っていたが、[[RC造]]([[鉄筋コンクリート造]])の構造体型枠パネル専門の大工となった。昭和30年代まではバラ板と呼ばれる木材を寄せ合わせてコンクリート用の枠を型どっていたが、現在は東南アジアで生産されている通称コンパネと呼ばれるラワン材を主とする積層パネルと補助桟と呼ぶ木材で型枠パネルを組み立てている。東南アジアでの森林伐採問題は、このコンパネに必要な南洋材を世界各国に生産・輸出するためであるのが主な原因である。 町大工(町場大工)に対して野丁場大工ともいわれる。(野帳場ともいう、[[造成地]]や[[埋立地]]など町の形成される前の場所や町や寺社という自治単位からはずれる、または超える規模の仕事の場所をさす。) === 造作大工(たたき大工) === [[造作大工]](ぞうさくだいく)は、主にRC造等の住宅や[[マンション]]の内部の造作、プレカット木造住宅の内部の造作を行う大工。造作とは主要構造部(梁、柱、土台、小屋組、階段)以外の壁、床、天井、窓枠、巾木等をさす。 50年代頃より壁・天井の造作が[[軽量鉄骨]]工事に切り替わり、大工仕事は木材を使う部分に限られてきた。 店舗を作る大工(内装大工ともいう)も造作大工であるが、専門知識が別に必要となる。 家屋大工との違いは、墨付け・きざみ・建て方の技術を習得している大工であるかそうでないかで判断すべきであろう。 町大工(町場大工)に対して野丁場大工ともいわれる。 == 棟梁 == {{main|棟梁}} [[棟梁]](とうりょう)は大工の[[職長]]・親方。[[木構造 (建築)|木造]][[建築物]]の采配を行う責任者。 [[日本建築]]の[[屋根]]の重要部材([[棟]]と[[梁 (建築)|梁]]が主)は親方が[[墨付け]]し、[[棟上げ式]]の長でもあることからそう呼ばれる。 日本でも明治期に[[建築家]]が養成されるまでは[[建築設計士]]であり[[現場監督]]であり[[積算コンサルタント|積算者]]であり[[渉外]]者であり職人であり[[経営者]]でありそれらを全て兼ね備えた者を指す。 また、棟梁は集団の統率者を指す言葉としても用いられ、例えば[[武家の棟梁]]=[[征夷大将軍]]である。 == キャリア == 大工となるには、一般的に座学と実践の両方を含む[[訓練|修業]]が必要である。まずは[[徒弟|見習い]]として始まり、数年の修業を経て技術や知識を身に付け、一人前の大工となる。さらに経験を積むことで、現場監督として現場で指揮を執る棟梁になることができる。また、働き始める前に専門教育を受けて一定の知識や技能を身に付けたり仕事に必要な資格を取得したりするケースも多い。 === 教育 === 専門教育を受けずに見習いとして働き始めるケースも存在するが、[[高等学校]]<ref group=注釈>[[長崎県立島原工業高等学校]]、[[茨城県立つくば工科高等学校]]などの建築技術科、[[東京都立墨田工業高等学校]] 定時制課程建築・大工コースなど</ref>や[[高等専門学校]]、[[専修学校]]<ref group="注釈">[[東北電子専門学校]]建築大工技能科、[[新潟工科専門学校]] 工業専門課程 建築大工科、[[東京日建工科専門学校]] 建築大工科、[[東海工業専門学校金山校]] 工業専門課程 大工技術科、[[大阪工業技術専門学校]] 工業専門課程 I部大工技能学科、専門学校[[日本工科大学校]] 工業専門課程 建築職人マイスター専攻科、[[新潟日建工科専門学校]] 大工測量科、[[日本建築専門学校]][[建築科]]、[[仙台工科専門学校]] 大工技能学科 や[[木造建築科]]など</ref>、[[短期大学]]、[[職業訓練施設]]<ref group=注釈>職業訓練施設などではiワークかしわ([[柏工業専門校]])建築大工科、[[サンヨーホームズ]]・施工技能者養成塾『サンヨーホームズ・カーペンタースクール』北海道の[[高等技術専門学院]](函館、北見、帯広、札幌、旭川、釧路)、山形県立[[山形職業能力開発専門校]]、[[福島県立テクノアカデミー]]浜、松本技術専門校 などの「建築技術科」、[[ポリテクセンター]]兵庫(兵庫職業能力開発促進センター)マンション建築技術科、[[住友林業建築技術専門校]]、[[東京建築高等職業訓練校]]、[[大宮建設高等職業訓練校]]、[[横浜建築高等職業訓練校]]、砺波、高岡、富山、魚津にある建築高等職業訓練校普通課程、濃飛建設職業能力開発校建築施工系木造建築科、企業や組合主催では、有限会社 美里住建大工スクール、一般社団法人東京大工塾、[[東京建築カレッジ]]、KONDOグループテクニカルセンターなどや、各都道府県に所在する労働局登録教習機関など</ref>などの[[建築科]]や[[建設科]]、あるいは[[大学]]の[[建設工学科]]や[[建築学科]](もしくはそれに類する学科・コースなど)などで専門教育を受けた上で働き出すケースも多い。これらの学校を卒業することで、専門的な技術や知識を身に付けることができるだけでなく、[[建築士]]や[[建築大工技能士]]、[[木造建築物の組立て等作業主任者]]などの大工としての仕事に生かすことのできる資格を取得することもできる<ref group=注釈>一部は卒業後の実務経験が必要。また、教育機関によっては取得できない資格もある。</ref><ref>[https://jp.stanby.com/magazine/entry/2300006 大工になるにはどんな方法がある?挑戦したい資格と経験者の本音とは] スタンバイplus+、2022年5月31日</ref>。専修学校や職業訓練施設では、大工の育成を目的とした学校・学科・コースも多く存在し、中には[[宮大工]]育成に特化した学校<ref group=注釈>[[伝統文化と環境福祉の専門学校]]伝統建築学科、[[職藝学院]]建築職藝専門課程コースなど</ref>などもある。 === 見習いから棟梁になるまで === 見習いとして働き始めてから一人前の大工となるまでの期間は、大工の種類にもよるが、最低でも2~3年、長い場合は10年以上掛かる場合が多い<ref>[https://www.plushome.co.jp/blog/recruit/153199 大工の見習い期間は10年⁉︎ 修行時間が長くて、きついからやめたほうがいいってホント?] 株式会社ぷらすホーム、2023年2月6日</ref><ref>[https://www.recruit.aidagroup.co.jp/magazine/colomn-carpenter-works/ 大工の仕事内容とは?見習い大工の役割やスキルを解説【建築コラム】] アイダマガジン、2023年5月20日閲覧</ref><ref name="nakaoka">[https://www.nakaoka-koumuten.com/upbringing 大工さんの育成] 株式会社中岡工務店、2023年5月20日閲覧</ref>。 一人前となると、'''[[一人親方]]'''として親方の下から独立し、[[個人事業主]]として自身で仕事を探し、請け負うことで生計を立てる<ref name="nakaoka" />。さらに経験・研鑽を積み、弟子(見習い)を取ったり現場で指揮を執ったりするようになると、'''棟梁'''と呼ばれる親方となる<ref>[https://hitorioyakata.or.jp/blog/9 建設業における一人親方のなり方やリスク、従業員を雇用した際の手続きを解説!] 労災センター共済会、最終更新2021年12月20日</ref>。 == 大工道具 == [[鋸]]、[[鉋]]といった様々な[[工具]]や[[釘]]などを使う。これらを国内で唯一、専門で展示する施設「[[竹中大工道具館]]」が[[神戸市|兵庫県神戸市]]にある。 {{main|工具#大工道具}} == 大工に関する言葉== *大工の心得([[宮本武蔵]] 著「[[五輪書]]<ref>宮本武蔵『五輪書』大河内昭爾訳、教育社(教育社新書)1981年、46頁,[[兵法]]を大工の道にたとえて言ったときのもの</ref>」より、番号は便宜上付した) #仕事が曲がらないこと。 #留めを合わせること。 #かんなでよく削ること。 #やたらに磨き立ててごまかさないこと。 #後で歪まないこと。 *雪隠大工 - [[便所|雪隠]]しか造作できない大工を意味する。転じて、仕事が下手な大工を嘲って言う[[俗語]]。[[藪医者]]と同様の意味。 == 大工が主人公の作品 == * 小説『石版東京図絵』[[永井龍男]]、中央公論新社 (1975/4/10) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の大工仕事]] * [[日本の住宅]] * [[日本建築史]] * [[木造軸組構法]] * [[寝殿造]]・[[武家造]]・[[書院造]]・[[数寄屋造り]] * [[鳶職]]・[[左官]] * [[家具]]・[[建具]]・[[和船]] * [[RC造]] * [[適材適所]] * [[西岡常一]] * [[カーペンターズ]] * [[ナザレのヨセフ]] - [[イエス・キリスト]]の養父で、職業は大工であったと伝わる。 * [[水車#歴史|水車大工]] * [[Tomo-Style]] {{建築}} {{Architecture-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいく}} [[Category:大工|*]] [[Category:建築施工]] [[Category:技能者]] [[Category:建築に関する職業]] [[Category:建設に関する職業]]
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ノウァ・ローマ
ノウァ・ローマ (コイネー:Νέα Ῥώμη(Nea Romē) ネア・ローメー、ラテン語: Nova Roma) は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がボスポラス海峡のヨーロッパ大陸側に新たな帝国の首都として建設した都市の通称。 もともとビュザンティオン、あるいはビザンティウムと呼ばれる都市があった地であり、後にはコンスタンティノープルと呼ばれるようになり、20世紀にイスタンブールと改称して現在に至る。「ノウァ・ローマ」「ネア・ローメー」という名は公式に使われたものではないが、街を賛美する文脈で数多くの古代ローマや中世東ローマ帝国の文献に登場している。 326年から330年にかけて、コンスタンティヌス1世はローマに習いビザンティウムを根本的に作り替えた。この都市は、「新たな第二のローマ」(ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμη)、「アルマ・ローマ」(Ἄλμα Ῥώμα)、「ビュザンティアース・ローマ」(Βυζαντιάς Ῥώμη)、「東のローマ」(ἑῴα Ῥώμη)、「コンスタンティヌスの街ローマ」(Roma Constantinopolitana)などと呼ばれた。 ノウァ・ローマすなわち「新しいローマ」という名は、285年にディオクレティアヌスがこの町を東の帝国の首都に定めて以降、ローマに続く第二の首都となったことに由来する。現在でも、この名はギリシア正教会のコンスタンディーヌポリ全地総主教の正式名称の一部として残っている。
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ノウァ・ローマ は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がボスポラス海峡のヨーロッパ大陸側に新たな帝国の首都として建設した都市の通称。 もともとビュザンティオン、あるいはビザンティウムと呼ばれる都市があった地であり、後にはコンスタンティノープルと呼ばれるようになり、20世紀にイスタンブールと改称して現在に至る。「ノウァ・ローマ」「ネア・ローメー」という名は公式に使われたものではないが、街を賛美する文脈で数多くの古代ローマや中世東ローマ帝国の文献に登場している。
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背景
背景()は、絵画や写真などの主題以外の物を指す用語であり、転じて漫画などの背景を描く人や周囲の状況、物事の裏に隠れた事情などをさす。語源は背の景()、つまり後ろに見えるもの。 特に絵画、中でも静物画や人物画の場合は主題の状況や位置を示し、印象をいっそう増す効果があるので非常に重要視される。 舞台芸術において背景とは周囲の風景や空を表す書割などの舞台装置のことで、西洋ではルネサンス期から、日本でも歌舞伎の盛況により江戸時代以降徐々に発達した。 人物等の背景にある絵。演劇、映画、テレビドラマなどのセットの一部として用いられたり、アニメのセル画でよく使われる。 風景を描いた板を背景にスタジオ撮影する場合があり、この場合の背景画は書き割りと呼ぶ。背景をスクリーンにし、別に撮影した動画を映写する場合はリアプロジェクションである。比喩的に予め役割が決められた駒のような人間像をも書き割りと呼ぶことがある。 背景美術とは、アニメーションの映像を構成する基本的なふたつの大きな要素のうちのひとつである。ひとつはキャラクターや道具などの作画(動画)の部分であり、もうひとつがそのキャラクターが演技する生活舞台を表現する背景美術である。作品の雰囲気を左右し、クオリティーにも大きな影響を与える。スタッフクレジットでは単に「背景」と表記される。また、「バックグラウンド」とも呼ぶ。 背景美術にかかわる仕事は大きく分けてふたつ存在する。ひとつは、監督との打ち合わせから作品のイメージを汲み取り緻密な設定を行う「美術設定」「美術ボード」。もうひとつは、美術監督のもとで実際に背景画の制作を行う「背景」である。「美術設定」や「美術ボード」を手がけるのは主に美術監督となる。作品のイメージを形にするとともに、建造物の構造や室内インテリアなど画面上で矛盾が生じないように細かい部分まで綿密に設定する。また、最終的にキャラクターと合わせて画面に表示されるため、キャラクターとしっくりなじむタッチ・色調にすることも大切である。監督や色彩設計担当との打ち合わせを重ね、方向性を固めていく。 「背景」スタッフは、設定や画面レイアウトに基づき背景画を制作する。基本的に完成度の高い「絵」であることが求められるが、個性を主張しすぎてもいけない。全体のテイストを崩さない微妙なバランスが求められる。30分のアニメで使用される背景画は、およそ200 - 300枚となり、膨大な背景画があってこそそこで動くキャラクターが生きてくる。 写真撮影をする際に使用するボードのこと。撮影する作品や商品をより良く見せるための効果として背景ボードを使用する。
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背景は、絵画や写真などの主題以外の物を指す用語であり、転じて漫画などの背景を描く人や周囲の状況、物事の裏に隠れた事情などをさす。語源は背の景、つまり後ろに見えるもの。 特に絵画、中でも静物画や人物画の場合は主題の状況や位置を示し、印象をいっそう増す効果があるので非常に重要視される。
{{混同|背景 (物語)|デスクトップの背景}} {{wiktionary}} {{出典の明記|date=2011年9月}} {{読み仮名|'''背景'''|はいけい}}は、[[絵画]]や[[写真]]などの主題以外の物を指す[[用語]]であり、転じて[[漫画]]などの背景を描く人や周囲の状況、物事の裏に隠れた事情などをさす。語源は{{読み仮名|'''背の景'''|せのけしき}}、つまり'''後ろに見えるもの'''。 特に絵画、中でも[[静物画]]や[[人物画]]の場合は[[主題]]の状況や位置を示し、印象をいっそう増す[[効果]]があるので非常に重要視される。 == 舞台芸術における背景 == [[舞台芸術]]において'''背景'''とは周囲の風景や空を表す[[書割]]などの[[舞台装置]]のことで、[[西洋]]では[[ルネサンス]]期から、[[日本]]でも[[歌舞伎]]の盛況により[[江戸時代]]以降徐々に発達した。 == 背景画 == 人物等の背景にある[[絵]]。[[演劇]]、[[映画]]、[[テレビドラマ]]などのセットの一部として用いられたり、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の[[セル画]]でよく使われる。 風景を描いた板を背景にスタジオ撮影する場合があり、この場合の背景画は[[書割|書き割り]]と呼ぶ。背景を[[スクリーン]]にし、別に撮影した動画を映写する場合はリアプロジェクションである。比喩的に予め役割が決められた[[駒]]のような人間像をも書き割りと呼ぶことがある。 == 背景美術 == '''背景美術'''とは、[[アニメーション]]の映像を構成する基本的なふたつの大きな要素のうちのひとつである。ひとつはキャラクターや道具などの作画(動画)の部分であり、もうひとつがそのキャラクターが演技する生活舞台を表現する背景美術である。作品の雰囲気を左右し、クオリティーにも大きな影響を与える。スタッフクレジットでは単に「'''背景'''」と表記される。また、「'''バックグラウンド'''」とも呼ぶ。 背景美術にかかわる仕事は大きく分けてふたつ存在する。ひとつは、[[アニメ監督|監督]]との打ち合わせから作品のイメージを汲み取り緻密な設定を行う「'''美術設定'''」「'''美術ボード'''」。もうひとつは、[[美術監督]]のもとで実際に背景画の制作を行う「'''背景'''」である。「美術設定」や「美術ボード」を手がけるのは主に美術監督となる。作品のイメージを形にするとともに、建造物の構造や室内インテリアなど画面上で矛盾が生じないように細かい部分まで綿密に設定する。また、最終的にキャラクターと合わせて画面に表示されるため、キャラクターとしっくりなじむタッチ・色調にすることも大切である。監督や[[色彩設定|色彩設計]]担当との打ち合わせを重ね、方向性を固めていく。 「背景」スタッフは、設定や画面レイアウトに基づき背景画を制作する。基本的に完成度の高い「絵」であることが求められるが、個性を主張しすぎてもいけない。全体のテイストを崩さない微妙なバランスが求められる。30分のアニメで使用される背景画は、およそ200 - 300枚となり、膨大な背景画があってこそそこで動くキャラクターが生きてくる。 === 主な技法 === ; グラデーション : '''グラデーション'''とは、ふたつの色を掛け合わせ色の境目が目立たないように着彩する(2色間の色味を徐々に変化させる)ことであり、主に空気遠近法や材質感を表現するための技法である。 ; はがし : 自然な石・岩・崖・地面・ブロック・レンガなど、表面のザラザラ感・ゴツゴツ感・起伏感の様な質感を付けた背景画を描写する場合にはこの'''はがし'''という効果を使って表現する。 : 地塗りの際、画用紙が濡れている間に、凸凹のある画用紙などを押し付け、絵の具を剥がし取り質感を表現する。絵の具の濡れ方や押し付け方によって、大小様々な質感を作り出すことが出来る。 === 主な背景 === ; 城壁・[[煉瓦|レンガ]]の壁 : 同じような形が連続する城壁の石やレンガの壁などは、単調にならないように強弱をつけ、リズム感を持たせて描くようにする。石やレンガは、茶色と決めつけず黄色っぽさ・赤味・影の紫系から青味と、幅広く表現することがポイントである。 : また、石の表現や石組みの隙間(目地)の変化のある描き方を心掛けなくてはならない。縦横・単調な区切りではなく、凸凹のある石と石によって出来上がっている隙間に、十分気をつけて表現することが大切である。 ; メカニック背景 : アニメーション背景におけるメカニック的・SF的描写の基盤は「光沢感のある金属質」の表現となる。この表現をグラデーション・刷毛・メカ線を巧みに使用して背景画を仕上げていく。 : 光や室内灯が、金属製の壁に反射している様子を「グラデーション」の効果を使用して金属の質感と光沢感を強調、表現していく。また、描き込み作業ではパースに添ってメカ線を描きこむことになるが、その際メカ線が単調にならないようにすることが大切である。単調なメカ線だと変化が弱い平面的な背景になってしまうので、メカ線の創意工夫が必要となる。 === 背景の種類 === ; イメージ背景 : '''イメージ背景'''とは、キャラクターがいる場所の背景ではなく心象を表現する背景画である(回想シーンなどでも使用される)。 : 色には誰もが共通するイメージがあり、メッセージが込められている。該当カットの状況を把握し、色味が持つ心理的・視覚的効果を踏まえてイメージ背景画を描写することになる。 ; ハイコン背景 : '''ハイコン背景'''とは、「'''ハイコントラスト背景'''」の略称であり、[[雷]]や[[稲妻]]や爆発などの一瞬にして強い光を感じさせるようなコントラストのある場面を表現する背景画である。 : 強い光を表現することが重要で、光源の状況を把握し、明るい部分と暗い部分の差を大きくし、ハイコン背景画を描写することになる。 : 例として、光が当たっている部分を白っぽく、暗い部分(影を含む)を暗くし(場合によっては黒)、明度差をつけて表現する。 ; ハーモニー : '''ハーモニー'''とは、演出的に臨場感や期待感や画面に深みを与えたいときなどに表現する背景画である。そのため、キャラクターや画面を強調する効果が得られる。 : キャラクターの部分も背景の方で着彩するので、「背景」と「線のみトレスされたセル」を重ねて1枚の止め絵的な背景画となる。 : また、キャラクターも背景と同じような質感で表現されるため、絵画的なタッチまたは劇画調の雰囲気でハーモニーを描写することになる。 : ハーモニーの完成度は背景画を描写する担当者の個性に委ねられ、印象派の油絵のようなハーモニーもある。 == 背景ボード == 写真撮影をする際に使用するボードのこと。撮影する作品や商品をより良く見せるための効果として背景ボードを使用する。 {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1= 背景画 |1-1= 絵画のジャンル |1-2= 舞台芸術 |1-3= テレビドラマ |1-4= アニメ製作の手法と役職 }} {{art-stub}} {{DEFAULTSORT:はいけい}} [[Category:絵画技術]] [[Category:撮影技術]] [[Category:舞台芸術]] [[category:和製漢語]] [[Category:アニメ製作の手法と役職]]
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優勝
優勝(ゆうしょう、英: win, victory)とは、スポーツ競技の選手権大会や様々なコンクールなどにおいて、出場した個人もしくは団体が、大会に参加した他の誰よりも優れていると認められ第1位になること。 優勝したものは、優勝者、優勝チーム、ウィナー(英: Winner, victor)と呼ばれる。さらに優勝に準じた者、もしくはチーム(つまり第2位)は準優勝と呼ぶ。 トーナメント方式において、優勝者を決める戦いのことを優勝戦または決勝戦と呼び、優勝戦(決勝戦)に出るものを決めるための戦いのことを準優勝戦または準決勝戦と呼ぶ。さらに準優勝戦(準決勝戦)に出るものを決めるための戦いのことを、準々優勝戦または準々決勝戦と呼ぶ。 優勝者・チームにはさまざまな形で報奨がなされる。賞金・副賞・トロフィー・盾・表彰状・優勝旗・ペナントなど。オリンピックの金メダル、FIFAワールドカップのトロフィー、UEFAチャンピオンズリーグのビッグイヤー、アメリカスカップのトロフィー、マスターズ・トーナメントのグリーンジャケット、大相撲の天皇賜杯、高校野球の紫紺の優勝旗(選抜大会)や深紅の優勝旗(高校選手権)、社会人野球(都市対抗)の黒獅子旗、高校ラグビーの飛球の旗、NBAのチャンピオンリング、世界選手権自転車競技大会のマイヨ・アルカンシエル、マラソンの月桂冠、レスリング(世界選手権)のチャンピオンベルト、競馬の優勝レイなどが有名。 大会によっては、優勝者・チームに応じて異なる報奨が与えられる場合もある。また、一定以上の勝利数やポイントを獲得した参加者やチームがいない場合は、勝利数やポイントが最多の参加者・チームを優勝者とせず、「優勝者なし」として報酬を与えない場合もある。 一部のスポーツでは(F1などのモータースポーツ、大相撲・プロレスなどの格闘技)、一つの大会での優勝者と年間(もしくはその時点)での最優秀者であるチャンピオンを区別している。大相撲ではチャンピオンに相当する地位は横綱であり、幕内最高優勝力士よりも地位が高い。 また、これと似たような考え方を、テレビなどの(特に視聴者参加型の)クイズ番組などでも採用することがあり、通常放送時に誕生する優勝者と、それら優勝者のみを集めて行われる大会で優勝した者に与えられるグランドチャンピオンなどという称号で区別されることもある。 サッカー競技において、無敗優勝を達成したチームの称号としてインヴィンシブルズ(無敵の者達、英: The Invincibles)という呼称が存在する。このインヴィンシブルズと呼ばれたチームは、サッカーの歴史上数チーム存在するが、一般的にはアーセン・ヴェンゲル監督の指揮の下、2003-04シーズンにプレミアリーグ無敗優勝を達成した『アーセナル』を指す事が多い。 大会を終えて複数の競技者で決着が付かない場合、当該競技者すべてを優勝と認定する場合もある。これを同時優勝と呼ぶ。2者の場合は両者優勝、さらに学生スポーツにおける学校対抗の場合、両校優勝ともいわれる。 同時優勝となるケースは以下の通り。 同時優勝となった場合、いずれの競技者も正式に優勝者として認定されるため、連覇記録も継続される。トロフィーなどは表彰式では優勝者で支える形となり、次回大会まで持ち回りとなるか、レプリカを用意することになる。金メダルはこのケースに備えて予備され、優勝賞金などは等分される場合が多い(準優勝金額と合算の上で等分される場合もある。例えば優勝100万円・準優勝50万円の場合、合算した150万円を等分して75万円ずつ与える)。 1.のケースではかつてトーナメントの優勝戦などで必ずしも決着を付けず同時優勝となることも少なくなかったが、今日では延長戦やプレーオフなど何らかの形で決着をつける大会が増えたため、このケースでの同時優勝は少なくなった(主にラグビーの国内大会などで稀に見られる程度)。なお、複数名の競技者によって同時に同一コースを走行または周回するような競走スタイルをとる個人対抗競技に於いて、2名以上の選手(ないしは、その選手が操縦する自動車・馬などの動物など)が同時に決勝点に到達したと認められる場合は、1着同着と判定されることがあり、その場合は同時優勝となる。主に競馬などでいくつかの事例が見られる。 2.のケースは天災やその他不可抗力により中止せざるを得ない場合に限られるが、大抵は後日改めて試合(振替試合)を行う場合が多いため、同時優勝に至ることは国民体育大会のように期間が限られた大会や天災や感染症、治安の悪化などによる被害が甚大であるため振替試合の目処が立たない場合となり、大会規定によっては「優勝なし」とする場合もある(特に優勝戦中止の理由が進出した選手・チーム全ての責めに帰すべき事由の場合、制裁のために同時準優勝とする場合もある)。 3.のケースとしては2015年の全国高等学校ハンドボール選抜大会にて法政二と浦添の試合にて誤審が認められ、当初34対33とされていたスコアが33対33に訂正、しかしこれが発表された3月28日は決勝戦開催日、しかも試合は既に始まっていたため再試合困難とされ開催中の決勝を打ち切って両校優勝、準決勝敗退校に誤審の割を食う形になった法政二を加えた3校を3位とした。 参加登録が1競技者のみだった場合、あるいは他の参加者が大会前または途中で棄権または失格となり優勝戦開始直前までに1競技者のみ残った場合、大会規定によっては優勝者と見なす場合もあり、これを認定優勝と呼ぶ。この場合は優勝戦を行わずして優勝となることが多く、主に地域レベルのアマチュアトーナメントで時折参加登録が1競技者のみに伴う認定優勝が見られる。 特殊なケースとして、コパ・スダメリカーナ2016において決勝戦を戦う予定だったシャペコエンセが、ラミア航空2933便墜落事故で選手とコーチ陣の大半が死亡し決勝戦が中止になったが、対戦相手となるはずだったアトレティコ・ナシオナルが優勝を譲渡したため、シャペコエンセが認定優勝となった。 かつて行われていた将棋の棋戦の中には、規定の条件を満たした者全員を「優勝」と見なしていたものがある(逆に条件を満たした者がいない場合は「優勝者なし」となる)。優勝者は、(1名しか優勝者がいない)他の棋戦での優勝者と同格に扱われていた(例えば、ある棋戦におけるシードの条件が「棋戦優勝者」の場合、条件をクリアしていると見なされる)。 オールスター勝ち抜き戦では、1回に最大4名の優勝者を出したことがある。 俗語として、大満足であること、あるいは大満足できる体験をすること、最高なことをいう用法がある。2020年11月30日に発表された「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2020』」では、「優勝」が6位にランクインし、選考結果サイトでは三省堂国語辞典の編集委員・飯間浩明による語釈が掲載された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "優勝(ゆうしょう、英: win, victory)とは、スポーツ競技の選手権大会や様々なコンクールなどにおいて、出場した個人もしくは団体が、大会に参加した他の誰よりも優れていると認められ第1位になること。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "優勝したものは、優勝者、優勝チーム、ウィナー(英: Winner, victor)と呼ばれる。さらに優勝に準じた者、もしくはチーム(つまり第2位)は準優勝と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "トーナメント方式において、優勝者を決める戦いのことを優勝戦または決勝戦と呼び、優勝戦(決勝戦)に出るものを決めるための戦いのことを準優勝戦または準決勝戦と呼ぶ。さらに準優勝戦(準決勝戦)に出るものを決めるための戦いのことを、準々優勝戦または準々決勝戦と呼ぶ。", "title": "優勝と試合名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "優勝者・チームにはさまざまな形で報奨がなされる。賞金・副賞・トロフィー・盾・表彰状・優勝旗・ペナントなど。オリンピックの金メダル、FIFAワールドカップのトロフィー、UEFAチャンピオンズリーグのビッグイヤー、アメリカスカップのトロフィー、マスターズ・トーナメントのグリーンジャケット、大相撲の天皇賜杯、高校野球の紫紺の優勝旗(選抜大会)や深紅の優勝旗(高校選手権)、社会人野球(都市対抗)の黒獅子旗、高校ラグビーの飛球の旗、NBAのチャンピオンリング、世界選手権自転車競技大会のマイヨ・アルカンシエル、マラソンの月桂冠、レスリング(世界選手権)のチャンピオンベルト、競馬の優勝レイなどが有名。", "title": "優勝と報奨" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大会によっては、優勝者・チームに応じて異なる報奨が与えられる場合もある。また、一定以上の勝利数やポイントを獲得した参加者やチームがいない場合は、勝利数やポイントが最多の参加者・チームを優勝者とせず、「優勝者なし」として報酬を与えない場合もある。", "title": "優勝と報奨" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一部のスポーツでは(F1などのモータースポーツ、大相撲・プロレスなどの格闘技)、一つの大会での優勝者と年間(もしくはその時点)での最優秀者であるチャンピオンを区別している。大相撲ではチャンピオンに相当する地位は横綱であり、幕内最高優勝力士よりも地位が高い。", "title": "優勝とチャンピオン" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、これと似たような考え方を、テレビなどの(特に視聴者参加型の)クイズ番組などでも採用することがあり、通常放送時に誕生する優勝者と、それら優勝者のみを集めて行われる大会で優勝した者に与えられるグランドチャンピオンなどという称号で区別されることもある。", "title": "優勝とチャンピオン" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "サッカー競技において、無敗優勝を達成したチームの称号としてインヴィンシブルズ(無敵の者達、英: The Invincibles)という呼称が存在する。このインヴィンシブルズと呼ばれたチームは、サッカーの歴史上数チーム存在するが、一般的にはアーセン・ヴェンゲル監督の指揮の下、2003-04シーズンにプレミアリーグ無敗優勝を達成した『アーセナル』を指す事が多い。", "title": "無敗優勝" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大会を終えて複数の競技者で決着が付かない場合、当該競技者すべてを優勝と認定する場合もある。これを同時優勝と呼ぶ。2者の場合は両者優勝、さらに学生スポーツにおける学校対抗の場合、両校優勝ともいわれる。", "title": "同時優勝" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "同時優勝となるケースは以下の通り。", "title": "同時優勝" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "同時優勝となった場合、いずれの競技者も正式に優勝者として認定されるため、連覇記録も継続される。トロフィーなどは表彰式では優勝者で支える形となり、次回大会まで持ち回りとなるか、レプリカを用意することになる。金メダルはこのケースに備えて予備され、優勝賞金などは等分される場合が多い(準優勝金額と合算の上で等分される場合もある。例えば優勝100万円・準優勝50万円の場合、合算した150万円を等分して75万円ずつ与える)。", "title": "同時優勝" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1.のケースではかつてトーナメントの優勝戦などで必ずしも決着を付けず同時優勝となることも少なくなかったが、今日では延長戦やプレーオフなど何らかの形で決着をつける大会が増えたため、このケースでの同時優勝は少なくなった(主にラグビーの国内大会などで稀に見られる程度)。なお、複数名の競技者によって同時に同一コースを走行または周回するような競走スタイルをとる個人対抗競技に於いて、2名以上の選手(ないしは、その選手が操縦する自動車・馬などの動物など)が同時に決勝点に到達したと認められる場合は、1着同着と判定されることがあり、その場合は同時優勝となる。主に競馬などでいくつかの事例が見られる。", "title": "同時優勝" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2.のケースは天災やその他不可抗力により中止せざるを得ない場合に限られるが、大抵は後日改めて試合(振替試合)を行う場合が多いため、同時優勝に至ることは国民体育大会のように期間が限られた大会や天災や感染症、治安の悪化などによる被害が甚大であるため振替試合の目処が立たない場合となり、大会規定によっては「優勝なし」とする場合もある(特に優勝戦中止の理由が進出した選手・チーム全ての責めに帰すべき事由の場合、制裁のために同時準優勝とする場合もある)。", "title": "同時優勝" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "3.のケースとしては2015年の全国高等学校ハンドボール選抜大会にて法政二と浦添の試合にて誤審が認められ、当初34対33とされていたスコアが33対33に訂正、しかしこれが発表された3月28日は決勝戦開催日、しかも試合は既に始まっていたため再試合困難とされ開催中の決勝を打ち切って両校優勝、準決勝敗退校に誤審の割を食う形になった法政二を加えた3校を3位とした。", "title": "同時優勝" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "参加登録が1競技者のみだった場合、あるいは他の参加者が大会前または途中で棄権または失格となり優勝戦開始直前までに1競技者のみ残った場合、大会規定によっては優勝者と見なす場合もあり、これを認定優勝と呼ぶ。この場合は優勝戦を行わずして優勝となることが多く、主に地域レベルのアマチュアトーナメントで時折参加登録が1競技者のみに伴う認定優勝が見られる。", "title": "認定優勝" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "特殊なケースとして、コパ・スダメリカーナ2016において決勝戦を戦う予定だったシャペコエンセが、ラミア航空2933便墜落事故で選手とコーチ陣の大半が死亡し決勝戦が中止になったが、対戦相手となるはずだったアトレティコ・ナシオナルが優勝を譲渡したため、シャペコエンセが認定優勝となった。", "title": "認定優勝" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "かつて行われていた将棋の棋戦の中には、規定の条件を満たした者全員を「優勝」と見なしていたものがある(逆に条件を満たした者がいない場合は「優勝者なし」となる)。優勝者は、(1名しか優勝者がいない)他の棋戦での優勝者と同格に扱われていた(例えば、ある棋戦におけるシードの条件が「棋戦優勝者」の場合、条件をクリアしていると見なされる)。", "title": "将棋の勝ち抜き戦方式の棋戦における優勝" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "オールスター勝ち抜き戦では、1回に最大4名の優勝者を出したことがある。", "title": "将棋の勝ち抜き戦方式の棋戦における優勝" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "俗語として、大満足であること、あるいは大満足できる体験をすること、最高なことをいう用法がある。2020年11月30日に発表された「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2020』」では、「優勝」が6位にランクインし、選考結果サイトでは三省堂国語辞典の編集委員・飯間浩明による語釈が掲載された。", "title": "備考" } ]
優勝とは、スポーツ競技の選手権大会や様々なコンクールなどにおいて、出場した個人もしくは団体が、大会に参加した他の誰よりも優れていると認められ第1位になること。 優勝したものは、優勝者、優勝チーム、ウィナーと呼ばれる。さらに優勝に準じた者、もしくはチーム(つまり第2位)は準優勝と呼ぶ。
'''優勝'''(ゆうしょう、{{lang-en-short|win, victory}})とは、[[スポーツ|スポーツ競技]]の[[選手権]]大会や様々なコンクールなどにおいて、出場した個人もしくは団体が、大会に参加した他の誰よりも優れている<ref group="注釈">例外的にひとつの大会で複数の個人・団体が優勝とされることがある(詳細は「[[#同時優勝]]」参照)。</ref>と認められ第1位になること。 優勝したものは、優勝者、優勝チーム、ウィナー({{lang-en-short|Winner, victor}})と呼ばれる。さらに優勝に準じた者、もしくはチーム(つまり第2位)は[[準優勝]]と呼ぶ。 == 優勝と試合名 == [[トーナメント方式]]において、優勝者を決める戦いのことを[[決勝戦|優勝戦]]または決勝戦と呼び、優勝戦(決勝戦)に出るものを決めるための戦いのことを準優勝戦または[[準決勝]]戦と呼ぶ。さらに準優勝戦(準決勝戦)に出るものを決めるための戦いのことを、準々優勝戦または[[準々決勝]]戦と呼ぶ。 == 優勝と報奨 == 優勝者・チームにはさまざまな形で報奨がなされる。賞金・副賞・[[トロフィー]]・[[盾]]・表彰状・[[優勝旗]]・[[優勝ペナント|ペナント]]など。[[近代オリンピック|オリンピック]]の[[金メダル]]、[[FIFAワールドカップ]]の[[FIFAワールドカップトロフィー|トロフィー]]、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の[[ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ|ビッグイヤー]]、[[アメリカスカップ]]のトロフィー、[[マスターズ・トーナメント]]の[[ジャケット|グリーンジャケット]]、[[大相撲]]の[[天皇杯|天皇賜杯]]、[[日本の高校野球|高校野球]]の紫紺の優勝旗([[選抜高等学校野球大会|選抜大会]])や深紅の優勝旗([[全国高等学校野球選手権大会|高校選手権]])、[[社会人野球]]([[都市対抗野球大会|都市対抗]])の黒獅子旗、[[全国高等学校ラグビーフットボール大会|高校ラグビー]]の飛球の旗、[[NBA]]の[[チャンピオンリング]]、[[世界選手権自転車競技大会]]の[[マイヨ・アルカンシエル]]、[[マラソン]]の[[ゲッケイジュ|月桂冠]]、[[アマチュアレスリング|レスリング]]([[レスリング世界選手権|世界選手権]])の[[チャンピオンベルト]]、[[競馬]]の[[優勝レイ]]などが有名。 大会によっては、優勝者・チームに応じて異なる報奨が与えられる場合もある。また、一定以上の勝利数やポイントを獲得した参加者やチームがいない場合は、勝利数やポイントが最多の参加者・チームを優勝者とせず、「優勝者なし」として報酬を与えない場合もある<ref group="注釈">主な例として、「[[日立 世界・ふしぎ発見!]]」では1986年10月4日から2000年7月8日までの期間、ヒトシ君人形を4個以上獲得した回答者が皆無の場合はトップ賞無しになるルールとなっていた。</ref>。 == 優勝とチャンピオン == 一部のスポーツでは([[フォーミュラ1|F1]]などの[[モータースポーツ]]、[[大相撲]]・[[プロレス]]などの格闘技)、一つの大会での優勝者と年間(もしくはその時点)での最優秀者であるチャンピオンを区別している。大相撲ではチャンピオンに相当する地位は[[横綱]]<ref group="注釈">ただし、英語では「大関」をChampionと呼ぶことがある[https://www.waeijisho.net/word.html?id=10937]。この場合「横綱」はGrand Championと呼ぶ[https://www.waeijisho.net/word.html?id=226]。</ref>であり、幕内最高優勝力士よりも地位が高い。 また、これと似たような考え方を、テレビなどの(特に視聴者参加型の)[[クイズ番組]]などでも採用することがあり、通常放送時に誕生する優勝者と、それら優勝者のみを集めて行われる大会で優勝した者に与えられる'''グランドチャンピオン'''などという称号で区別されることもある。 == 無敗優勝 == {{Main|スポーツ無敗記録一覧}} {{See also|インヴィンシブルズ (サッカー)}} [[サッカー|サッカー競技]]において、無敗優勝を達成したチームの称号として'''インヴィンシブルズ'''(無敵の者達、{{lang-en-short|The Invincibles}})という呼称が存在する。このインヴィンシブルズと呼ばれたチームは、[[サッカーの歴史]]上数チーム存在するが、一般的には[[アーセン・ヴェンゲル]]監督の指揮の下、[[FAプレミアリーグ2003-2004|2003-04シーズン]]に[[プレミアリーグ]]無敗優勝を達成した『[[アーセナルFC|アーセナル]]』を指す事が多い<ref>{{cite web |url=http://www.gettyimages.com/detail/51204716/Getty-Images-Sport |title=Arsenal v Middlesbrough |date=22 August 2004 |publisher=Getty Images |accessdate=7 September 2010}}</ref>。 == 完全優勝 == :優勝に至るまでの過程も非常に優れたものであった場合は「'''完全優勝'''」と呼ばれる。以下の場合に言われることが多い。 * 全ての競技を制覇する * [[リーグ戦]]において、全てのチームに勝ち越す、または全勝する。大学野球では全チームから勝ち点を奪う。カンファレンス制の場合は[[インターリーグ|交流戦]]も含め対戦した全球団(プロ野球では11球団)に勝ち越しまたは全勝したら完全優勝と呼ばれる。 * 最初から最後まで首位を明け渡さずに優勝する。 * ポストシーズン制の場合で、レギュラシーズン1位の上プレーオフも制する。プロ野球の場合は上記の全球団勝ち越しとの区別のためにリーグ優勝&日本一を完全制覇と呼ぶことも多い<ref group="注釈">ただし一時期、レギュラシーズン2位以下の球団がプレーオフを制した場合、その球団がリーグ優勝となる制度も存在していた。</ref>。また、NFLの場合はレギュラーシーズンからスーパーボウルまで全勝しての優勝を完全制覇と呼んでおり、2016-17シーズン終了時点では[[マイアミ・ドルフィンズ]]のみが達成している。 * [[2シーズン制|前後期制]]の場合で、前期・後期ともに優勝する。 * 全試合において無失点、または全試合に勝利する。 * [[競輪]]・[[競艇]]・[[オートレース]]においては、予選競走を含めた全レースで1着を獲ることをいう。 == 同時優勝 == 大会を終えて複数の競技者で決着が付かない場合、当該競技者すべてを優勝と認定する場合もある。これを'''同時優勝'''と呼ぶ。2者の場合は'''両者優勝'''、さらに学生スポーツにおける学校対抗の場合、'''両校優勝'''ともいわれる。 同時優勝となるケースは以下の通り。 # レギュレーション通りでは決着が付かず引き分けまたは同率首位となる場合。 # 優勝戦などが中止になり、延期も困難な場合。 # 勝ち進む中で[[誤審]]が発生し、これが無ければ別の選手もしくはチームが優勝していた可能性があると判断された場合。 同時優勝となった場合、いずれの競技者も正式に優勝者として認定されるため、連覇記録も継続される。トロフィーなどは表彰式では優勝者で支える形となり、次回大会まで持ち回りとなるか、レプリカを用意することになる。金メダルはこのケースに備えて予備され、優勝賞金などは等分される場合が多い(準優勝金額と合算の上で等分される場合もある。例えば優勝100万円・準優勝50万円の場合、合算した150万円を等分して75万円ずつ与える)。 1.のケースではかつてトーナメントの優勝戦などで必ずしも決着を付けず同時優勝となることも少なくなかったが、今日では延長戦やプレーオフなど何らかの形で決着をつける大会が増えたため、このケースでの同時優勝は少なくなった(主にラグビーの国内大会などで稀に見られる程度)。なお、複数名の競技者によって同時に同一コースを走行または周回するような競走スタイルをとる個人対抗競技に於いて、2名以上の選手(ないしは、その選手が操縦する自動車・馬などの動物など)が同時に決勝点に到達したと認められる場合は、1着同着と判定されることがあり<ref group="注釈">こういったケースでの着順判定には、主に[[写真判定]]が用いられる。</ref>、その場合は同時優勝となる。主に競馬などでいくつかの事例が見られる。 2.のケースは天災やその他不可抗力により中止せざるを得ない場合に限られるが、大抵は後日改めて試合([[振替試合]])を行う場合が多いため、同時優勝に至ることは[[国民体育大会]]のように期間が限られた大会や天災や感染症、治安の悪化などによる被害が甚大であるため振替試合の目処が立たない場合となり、大会規定によっては「優勝なし」とする場合もある(特に優勝戦中止の理由が進出した選手・チーム全ての責めに帰すべき事由の場合、制裁のために同時準優勝とする場合もある)。 3.のケースとしては[[2015年]]の[[全国高等学校ハンドボール選抜大会]]にて法政二と浦添の試合にて誤審が認められ、当初34対33とされていたスコアが33対33に訂正、しかしこれが発表された[[3月28日]]は決勝戦開催日、しかも試合は既に始まっていたため再試合困難とされ開催中の決勝を[[打ち切り|打ち切って]]両校優勝、準決勝敗退校に誤審の割を食う形になった法政二を加えた3校を3位とした。 == 認定優勝 == 参加登録が1競技者のみだった場合、あるいは他の参加者が大会前または途中で棄権または失格となり優勝戦開始直前までに1競技者のみ残った場合、大会規定によっては優勝者と見なす場合もあり、これを'''認定優勝'''と呼ぶ。この場合は優勝戦を行わずして優勝となることが多く、主に地域レベルのアマチュアトーナメントで時折参加登録が1競技者のみに伴う認定優勝が見られる。 特殊なケースとして、[[コパ・スダメリカーナ2016]]において決勝戦を戦う予定だった[[アソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウ|シャペコエンセ]]が、[[ラミア航空2933便墜落事故]]で選手とコーチ陣の大半が死亡し決勝戦が中止になったが、対戦相手となるはずだった[[アトレティコ・ナシオナル]]が優勝を譲渡したため、シャペコエンセが認定優勝となった<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3110309|title=シャペコエンセのスダメリカーナ優勝が決定、対戦相手にはフェアプレー賞|newspaper=[[フランス通信社]](AFPBB)|date=2016-12-6|accessdate=2017-1-4}}</ref>。 == 将棋の勝ち抜き戦方式の棋戦における優勝 == かつて行われていた[[棋戦 (将棋)|将棋の棋戦]]の中には、規定の条件を満たした者全員を「優勝」と見なしていたものがある(逆に条件を満たした者がいない場合は「優勝者なし」となる)。優勝者は、(1名しか優勝者がいない)他の棋戦での優勝者と同格に扱われていた(例えば、ある棋戦におけるシードの条件が「棋戦優勝者」の場合、条件をクリアしていると見なされる)。 * [[名人A級勝抜戦]](1950年 - 1959年)- 5人抜き(5連勝)以上を達成すると優勝。 * [[オールスター勝ち抜き戦]](1978年 - 2003年)- 5人抜き(5連勝)以上を達成すると優勝。 オールスター勝ち抜き戦では、1回に最大4名の優勝者を出したことがある<ref group="注釈">第8回(1985年度)、第12回(1989年度)、第13回(1990-91年度)。</ref>。 == 備考 == 俗語として、大満足であること、あるいは大満足できる体験をすること、最高なことをいう用法がある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「今年の新語2020」ベスト10|三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2020」|url=https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/shingo/2020/best10/|website=dictionary.sanseido-publ.co.jp|accessdate=2020-12-01|language=jp}}</ref>。2020年11月30日に発表された「[[三省堂]] 辞書を編む人が選ぶ『[[今年の新語|今年の新語2020]]』」では、「優勝」が6位にランクインし<ref name=":0" />、選考結果サイトでは[[三省堂国語辞典]]の編集委員・[[飯間浩明]]による語釈が掲載された<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/shingo/2020/best10/index.html|title=「今年の新語2020」ベスト10|work=三省堂 辞書を編む人が選ぶ「今年の新語2020」|publisher=三省堂|accessdate=2020-12-01}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[決勝戦]] * [[優勝旗]] * [[準優勝]] * [[ディフェンディングチャンピオン]] {{Sports-stub}} [[Category:優勝|*]]
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キューブ
キューブ(cube)は英語で立方体の意。また、3乗の意。
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キューブ(cube)は英語で立方体の意。また、3乗の意。
{{Wiktionary|cube}} '''キューブ'''({{lang|en|cube}})は[[英語]]で[[正六面体|立方体]]の意。また、[[冪乗|3乗]]の意。 == 人物 == * [[CUBE (お笑いコンビ)]] - [[プロダクション人力舎]]に所属していたお笑いコンビ。 * [[CUBE(K5)]] - 日本の電子音楽家。 == 企業・ブランド == * [[キューブ (芸能プロダクション)]] - [[日本]]の[[芸能事務所|芸能プロダクション]]。 * [[キューブ (企業)]] - [[ドイツ]]の[[自転車]]メーカー。 * [[キューブ (アパレルメーカー)]] * [[CUBEエンターテインメント]] - [[大韓民国|韓国]]の芸能プロダクション。 * CUBE - 有限会社[[CUFFS]]のアダルトゲームブランド。 * Radio<sup>3</sup>(レディオキューブ) - [[三重エフエム放送]](FM三重)の愛称。 == 建造物 == * The CUBE - [[京都駅]]の駅ビル内にある専門店街。 * グランキューブ大阪 - [[大阪府立国際会議場]]の別称。 == 映画 == * [[キューブ (映画)]] - [[ヴィンチェンゾ・ナタリ]]監督の[[カナダの映画|カナダ映画]]。 * [[CUBE 一度入ったら、最後]] - [[清水康彦]]監督の[[日本映画]]。 == 番組 == * [[CUBE (TBSラジオ)]] - [[TBSラジオ]]のラジオ番組。 * [[福岡NEWSファイル CUBE]] - [[テレビ西日本]]のテレビ番組。 * [[The Cube (ゲーム番組)]] - イギリス[[ITV (イギリス)|ITV]]のテレビ番組。 == 音楽 == * [[Cube (曲)]] - [[星野源]]の楽曲。 * [[cube (アルバム)]] - [[BENNIE K]]のアルバム。 == 製品 == * [[CUBE!]] - MASAが開発したゲームソフト。 * [[日産・キューブ]] - [[日産自動車]]の乗用車。 * [[ニンテンドーゲームキューブ]] - [[任天堂]]のゲーム機。 * [[ルービックキューブ]] - 立体パズルの一種。 * [[ラミーキューブ]](Rummikub) - ボードゲームの一種。 * [[Power Mac G4 Cube]]([[:en:Power Mac G4 Cube|英語版]]) - [[Apple|Apple Computer]]のパソコン。 * Qube - [[サン・マイクロシステムズ]]が販売していたサーバーの名前。 * [[Qube!]] - [[ダイキン工業]]株式会社が販売するのレンダリングマネジメントシステムの名前。 == その他 == * 漫画『[[魔法少女たると☆マギカ The Legend of "Jeanne d'Arc"]]』における、[[キュゥべえ]]の別名。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:きゆうふ}} [[Category:英語の語句]] [[Category:同名の作品]]
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18,068
オイルソース
オイルソースは、パスタ料理のソースの種類の1つ。一般的にオリーブ・オイルにニンニクや唐辛子の風味を移しただけのごくシンプルなソースをいう。オリーブ・オイルをベースとしたソース一般をいう場合もある。 唐辛子は料理によって入れない場合もある。逆にペペロンチーノでは唐辛子は必須である。 唐辛子はサヤをそのまま入れる場合もあるし、2つにちぎって種を取り除いたものを入れたり、輪切りやみじん切りにしたものを使う場合もある。種やその周りは辛く刺激が強いので、これを取り除くかどうかでも風味の調節が可能である。 ニンニクもまた輪切り、みじん切り、あるいはその混合、または皮をむいてそのまま使用することもある。これも切り方によって食感や香りなどが変化するので好みや料理に応じて使い分けることができる。ニンニクに芽がある場合調理する前に取り除いた方が風味が良く、また、あらかじめ包丁の腹などで軽く潰しておくと風味が出やすい。切り口を空気に数十分程度さらしておくと風味が強くなるといわれている。 まずフライパンや片手鍋などにオリーブ・オイルとニンニクを入れて焦がさないように弱火にかける。途中で唐辛子を加えてさらに熱し、ニンニクと唐辛子の風味をじっくりと油に移していく。ニンニクがうっすらと色づいたら出来上がりである。 唐辛子は火を通す時間や切った大きさ(切らない場合もある)によって辛さや香りが変わってくるので、好みによって入れるタイミングを加減する。唐辛子を先にいれると辛さと香りが強く出たソースを作ることができる。また唐辛子を細かく切れば切るほど辛味の効いたソースになる。 ニンニクや唐辛子は、火が通った時点で取り除いてしまってもよいし、そのままソースとして使っても良い。いったんソースから取り出して油分を吸い取っておき、後で盛り付ける時に再利用する方法もある。 ペペロンチーノに使用する場合は、ここで火を止めてパスタの茹で汁を一人前につき大さじで1~3杯程度加え、軽くかき混ぜて油となじませる。この茹で汁は、ソースをなめらかなものとし、ニンニクや唐辛子に火が通り過ぎるのを防ぐとともに、ソースに適度な塩分を加える役割もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オイルソースは、パスタ料理のソースの種類の1つ。一般的にオリーブ・オイルにニンニクや唐辛子の風味を移しただけのごくシンプルなソースをいう。オリーブ・オイルをベースとしたソース一般をいう場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "唐辛子は料理によって入れない場合もある。逆にペペロンチーノでは唐辛子は必須である。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "唐辛子はサヤをそのまま入れる場合もあるし、2つにちぎって種を取り除いたものを入れたり、輪切りやみじん切りにしたものを使う場合もある。種やその周りは辛く刺激が強いので、これを取り除くかどうかでも風味の調節が可能である。", "title": "下処理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ニンニクもまた輪切り、みじん切り、あるいはその混合、または皮をむいてそのまま使用することもある。これも切り方によって食感や香りなどが変化するので好みや料理に応じて使い分けることができる。ニンニクに芽がある場合調理する前に取り除いた方が風味が良く、また、あらかじめ包丁の腹などで軽く潰しておくと風味が出やすい。切り口を空気に数十分程度さらしておくと風味が強くなるといわれている。", "title": "下処理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "まずフライパンや片手鍋などにオリーブ・オイルとニンニクを入れて焦がさないように弱火にかける。途中で唐辛子を加えてさらに熱し、ニンニクと唐辛子の風味をじっくりと油に移していく。ニンニクがうっすらと色づいたら出来上がりである。", "title": "一般的な作り方" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "唐辛子は火を通す時間や切った大きさ(切らない場合もある)によって辛さや香りが変わってくるので、好みによって入れるタイミングを加減する。唐辛子を先にいれると辛さと香りが強く出たソースを作ることができる。また唐辛子を細かく切れば切るほど辛味の効いたソースになる。", "title": "一般的な作り方" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ニンニクや唐辛子は、火が通った時点で取り除いてしまってもよいし、そのままソースとして使っても良い。いったんソースから取り出して油分を吸い取っておき、後で盛り付ける時に再利用する方法もある。", "title": "一般的な作り方" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ペペロンチーノに使用する場合は、ここで火を止めてパスタの茹で汁を一人前につき大さじで1~3杯程度加え、軽くかき混ぜて油となじませる。この茹で汁は、ソースをなめらかなものとし、ニンニクや唐辛子に火が通り過ぎるのを防ぐとともに、ソースに適度な塩分を加える役割もある。", "title": "一般的な作り方" } ]
オイルソースは、パスタ料理のソースの種類の1つ。一般的にオリーブ・オイルにニンニクや唐辛子の風味を移しただけのごくシンプルなソースをいう。オリーブ・オイルをベースとしたソース一般をいう場合もある。
{{出典の明記|date=2020-03-11}} '''オイルソース'''は、[[パスタ]]料理の[[ソース (調味料)|ソース]]の種類の1つ。一般的に[[オリーブ・オイル]]に[[ニンニク]]や[[唐辛子]]の風味を移しただけのごくシンプルなソースをいう。オリーブ・オイルをベースとしたソース一般をいう場合もある。 ==材料== *[[オリーブ・オイル]] *[[ニンニク]] *[[唐辛子]] 唐辛子は料理によって入れない場合もある。逆に[[アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ|ペペロンチーノ]]では唐辛子は必須である。 ==下処理== 唐辛子はサヤをそのまま入れる場合もあるし、2つにちぎって種を取り除いたものを入れたり、輪切りやみじん切りにしたものを使う場合もある。種やその周りは辛く刺激が強いので、これを取り除くかどうかでも風味の調節が可能である。 ニンニクもまた輪切り、みじん切り、あるいはその混合、または皮をむいてそのまま使用することもある。これも切り方によって食感や香りなどが変化するので好みや料理に応じて使い分けることができる。ニンニクに芽がある場合調理する前に取り除いた方が風味が良く、また、あらかじめ包丁の腹などで軽く潰しておくと風味が出やすい。切り口を空気に数十分程度さらしておくと風味が強くなるといわれている。 ==一般的な作り方== まず[[フライパン]]や片手鍋などにオリーブ・オイルとニンニクを入れて焦がさないように弱火にかける。途中で唐辛子を加えてさらに熱し、ニンニクと唐辛子の風味をじっくりと油に移していく。ニンニクがうっすらと色づいたら出来上がりである。 唐辛子は火を通す時間や切った大きさ(切らない場合もある)によって辛さや香りが変わってくるので、好みによって入れるタイミングを加減する。唐辛子を先にいれると辛さと香りが強く出たソースを作ることができる。また唐辛子を細かく切れば切るほど辛味の効いたソースになる。 ニンニクや唐辛子は、火が通った時点で取り除いてしまってもよいし、そのままソースとして使っても良い。いったんソースから取り出して油分を吸い取っておき、後で盛り付ける時に再利用する方法もある。 [[アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ|ペペロンチーノ]]に使用する場合は、ここで火を止めてパスタの茹で汁を一人前につき大さじで1~3杯程度加え、軽くかき混ぜて油となじませる。この茹で汁は、ソースをなめらかなものとし、ニンニクや唐辛子に火が通り過ぎるのを防ぐとともに、ソースに適度な[[塩分]]を加える役割もある。 ==関連== *[[イタリア料理]] *[[パスタ]] *[[アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ]](俗に言うペペロンチーノ) {{DEFAULTSORT:おいるそおす}} [[category:パスタ料理]] [[category:野菜のソース]] [[Category:イタリアの食文化]] [[Category:ニンニク]] [[Category:唐辛子]]
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オゾン
オゾン(ozone)は、3つの酸素原子からなる酸素の同素体である。分子式はO3で、折れ線型の構造を持つ。腐食性が高く、生臭く特徴的な刺激臭を持つ有毒な気体である。地球の大気中にとても低い濃度で存在している。漢字で阿巽とも当てて書いた。活性酸素の一種。 常温常圧では薄青色の気体である。沸点−111.9 °C (161.25 K) で紺色の液体となり、凝固点−192.5 °C (80.65 K) で濃紫色の固体となる。中心の酸素原子と両端の酸素原子の結合は2本とも等価で、オゾン分子は O=O-O と O-O=O の2つの極限構造からなる共鳴混成体であると考えられる。 オゾンはフッ素に次ぐ強い酸化力を持つため、高濃度では猛毒である。吸い込むと内臓が酸化されてびらん状になる。日本における作業環境基準は0.1ppmである。 オゾンは、オランダの科学者Martinus Van Marumによって1785年にその存在が発見された。その後、1840年に、ドイツ・スイスの化学者であるクリスチアン・シェーンバインによって、オゾンが酸素から形成されることが発見された。彼は雷雨の中でオゾンが現れることに注目し、そしてその奇妙なにおいから、ギリシア語で「臭い」を意味する ὄζειν (Ozein) に因み Ozon と名付けた。 一般に空気中での紫外線照射、または酸素中での無声放電など高いエネルギーを持つ電子と酸素分子の衝突によって発生する。オゾンの発生は主に以下の化学式で表せる。 またオゾンは不安定な分子であるため、放置しておくと以下の化学式で酸素に変化する。 この反応は温度や圧力が上昇するほど速くなる。 いくつかの電気機器は人間が臭いを感じる程度のオゾンを発生させる。特にブラウン管テレビやコピー機など高電圧を用いる装置で起こる。ブラシによって整流する電気モーターは機器内で繰り返される火花によってオゾンを発生させる。エレベーターやポンプなどに使われる大型モータは小さいモータよりもオゾン発生量が多い。なお、これは整流子電動機特有の現象で、整流子のない誘導電動機・同期電動機ではオゾンは発生しない。この他に、例えばアーク溶接実施時のように、波長の短い紫外線(UVC)を空気中で発生させた場合も、空気中に含まれる酸素分子が反応を起こしてオゾンが発生する。 工業的にオゾンを用いる場合、一般に水銀灯による短い波長の紫外線照射や高電圧による低温放電によって生産される。低温放電装置は二枚の電極板によって構成され、電極表面を、高い誘電率をもつホウケイ酸ガラス(パイレックスガラス)や雲母のような絶縁体で覆う。交流高電圧を電極にかけると無声放電が起こり、平板間に流した酸素分子が解離し、他の酸素分子と再結合することによってオゾンが発生する。また、陰極に黒鉛電極、陽極に白金電極を用い、希硫酸を電気分解することによって陽極からオゾンが酸素との混合気体として生成される。同様に固体高分子電解質膜を、白金を用いた陰極と二酸化鉛を用いた陽極で挟み、水を電気分解することでも陽極からオゾンが酸素との混合気体として生成される。 オゾンが水に対して酸化剤として働く時の半反応式は次のように表される。 酸性溶液中では溶液内の水素イオンが直接反応し、生成した水酸化物イオンが溶液内の水素イオンと反応して水ができる。半反応式は次のようになる。 オゾンを用いた有機合成反応の例としてオゾン酸化が挙げられる。アルケンをオゾンで酸化すると-C-O-O-C-O-という並びの5員環構造を持つオゾニドが生じ、還元的な後処理をすることによりケトンまたはアルデヒドが得られる。一方、酸化的な後処理をするとケトンまたはカルボン酸が得られる。 有機高分子をオゾンにさらすと劣化が起こり、時に亀裂が生じる。この現象をオゾンクラッキングと呼ぶ。 大気の中で成層圏に存在するものはオゾン層を形成し、生命にとって有害な紫外線が地表に降り注ぐ量を和らげている。一方、地表付近では、オゾンは光化学オキシダントなどとして生成し大気汚染の原因となる。成層圏中のオゾン量はドブソン単位で表される。工業で用いられる場合、ppmや容量パーセント濃度または重量パーセント濃度で表される。 オゾンは、フッ素に次ぐ強力な酸化作用があり、殺菌やウイルスの不活化、脱臭・脱色、有機物の除去などに用いられる。 日本およびアメリカ合衆国 では、食品添加物として認可されている。 水道水の殺菌に塩素消毒の代わりにオゾンが用いられる国家も多い。オゾンは有機塩素化合物を生成しないため、処理後の水にも残留せず、塩素と比較して味や匂いの変化が少ない。従って、いくつかのシステムでは配管での細菌増殖を防ぐために少量のオゾンを添加することがある。日本では近年、東京都水道局、大阪市水道局、阪神水道企業団、大阪広域水道企業団等で水道水の高度浄水処理において、殺菌の一環として用いられており、追随する地方公共団体や水道運営事業者も増えてきている。 気体としてのオゾンは、その毒性により高度な濃度管理が求められるため、オゾンガスをミキシング又はバブリングと呼ばれる手法で水に溶け込ませたり、電気分解により水に含まれる酸素を利用して作る「オゾン水」として活用される例が増えている。オゾンの不安定な性質により数十分で酸素と水に戻るので残留性のない殺菌水として使えるほか、塩素系殺菌剤やエタノール系殺菌剤が使えない場合にも使用される。細菌の細胞を直接破壊・分解するため、耐性菌を生まない利点もある。 ヨーロッパでは医療への活用が多数試され、その効果が発表されている。近年は日本でも医療、介護、食品、酪農を主とする農業などの分野で殺菌、消臭、廃棄物処理目的で使われることが多くなった。ホテルの客室などに置ける小型の脱臭用オゾン発生器も販売されている。 日本では、1923年に小川正彦により医療用オゾンガス発生器が発明され、ヨーロッパではドイツで1957年に発明されている。 ヒトでは、難治性の疾患では、感染症、皮膚病、免疫不全、がんの補助療法、老人病、慢性リウマチ、アレルギーなどに有効性が示されている。獣医学分野では、犬や猫に対し腫瘍やがんに対するオゾン療法に十分な効果があり、クオリティ・オブ・ライフの改善が見られるとされる。 歯科医療においては、虫歯の治療においてオゾンガスを患部に当てるヒールオゾンという治療法がある。 医薬品医療機器等法に基づく医療用具として、オゾン水手洗い機が認可されている。 日本では食品添加物として認められている。主流の殺菌料である次亜塩素酸ナトリウムと比較して、そのままオゾンガスを溶かすのではなく単に水道水を電解し陽極にできたオゾン水によってオゾンの濃度を高めることで殺菌力を高くすることができ、使用後の洗浄が不必要で安全性が高く食品の味を損ねにくく、クロロホルムを生成しないという点が特徴的である。アメリカ合衆国では、1997年6月に食品の殺菌剤として安全性に問題がないGRAS(一般安全認定)に分類され、FDAが2001年6月に食品添加物として安全であると発表している。 農薬の代わりとして、病害対策に用いられる。噴霧することで多くの病害菌を殺菌できるため、農作物に残留しない病害防除として利用することができ、収穫時にも収穫した農産物の殺菌に利用できる。キュウリのうどんこ病などの病害対策ができるため、農薬の低減が期待される。 大麦・人参の発芽率の向上、カイワレダイコン、ハツカダイコン、トマトの生育促進効果も確認されている。 畜産においては、消臭・殺菌に用いられる。畜舎にオゾンガスを噴霧することで硫黄系の臭気を分解することができる。従来は殺菌力があまり高くなかったが、平均5000 nmであった気泡径を5 nmにすることで、サルモネラ菌や鳥インフルエンザウイルスなどへの殺菌効果が見られ、また、残留農薬等に関するポジティブリスト制度にも対応できる。 越後地方などでは春先の晴天時に雪の広がる田畑に糸や布を広げて漂白する「雪晒し」が行われる。雪晒しは雪の表面に紫外線が当たって発生するオゾンの作用を利用したものである。 半導体部品の洗浄において、主流のRCA洗浄ではアンモニアや塩酸フッ化物が用いられるが、オゾンガスを溶解させたオゾン水は排水処理の面で環境負荷が低く、代替として半導体の基板表面の有機物や金属の除去・洗浄に用いられている。 また、水を使わずに(あるいはあまり使わずに)オゾン気流によって除菌や洗濯を行う洗濯機の例がある。また、その後継機種では風呂の残り湯を使用する際、オゾンで除菌・浄化したり、オゾン水そのものを洗濯のすすぎに利用するものもある。 ジーンズを着古した風合いにするオゾン加工にも使われる。 オゾンには急性・慢性双方の中毒症がある。 急性中毒では目や呼吸器が刺激され、高濃度になるにつれて咳やめまいが引き起こされる。さらに高濃度になると呼吸困難や麻痺、および昏睡状態になり、放置しておけば死亡する。 慢性中毒では倦怠感や神経過敏など神経の異常や、呼吸器の異常を来たす。 オゾンを発生させる可能性のある場ではたとえ低濃度であろうと活性炭入りのマスクをつけることが望まれるが、目の粘膜も保護できる全面マスクの使用がより好ましい。より高濃度(10 ppm以上)の場合はガスマスクの使用が必須になる。 オゾンは光化学オキシダントの主成分である。近年、日本では、光化学スモッグ注意報を発令する都道府県の数が増加しているが、これは、中国大陸からの越境大気汚染によって広域化していると考えられている。また、オゾンの強力な酸化性のため、植物や農業に対する悪影響が憂慮されている。 又、農業残渣には窒素が多く含まれており、いわゆる野焼きする事により二酸化窒素が大量に発生、更に二酸化窒素は紫外線エネルギーの吸収で一酸化窒素と原子状酸素に分解され、生成した原子状酸素は酸素分子と結合して強力な酸化性物質であるオゾンを生成する、周辺の生活環境への悪影響が憂慮される。 オゾンは酸素を含む酸化力の高い化学種で、広義の活性酸素の一つとされる。活性酸素は、狭義ではスーパーオキシドアニオンラジカルやヒドロキシルラジカルを指し、オゾンを含まないが、水中での分解過程では、オゾンの一部が狭義の活性酸素の一つであるヒドロキシラジカルを経て分解することも知られている。 自動車等のタイヤを保管する際は、電気機器の近くを避けるようにという説明がタイヤメーカーからなされているが、その理由は、#発生の節で述べられているとおり、モーターから発生するオゾンが、タイヤの主成分である合成ゴムを侵すからである(オゾンクラッキング)。
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"自動車等のタイヤを保管する際は、電気機器の近くを避けるようにという説明がタイヤメーカーからなされているが、その理由は、#発生の節で述べられているとおり、モーターから発生するオゾンが、タイヤの主成分である合成ゴムを侵すからである(オゾンクラッキング)。", "title": "その他の影響" } ]
オゾン(ozone)は、3つの酸素原子からなる酸素の同素体である。分子式はO₃で、折れ線型の構造を持つ。腐食性が高く、生臭く特徴的な刺激臭を持つ有毒な気体である。地球の大気中にとても低い濃度で存在している。漢字で阿巽とも当てて書いた。活性酸素の一種。
{{Otheruses|酸素の同素体|その他}} {{Chembox | Name = オゾン | ImageFile = Ozone-1,3-dipole.png | ImageSize = 150px | ImageFileL1 = Ozone-3D-vdW.png | ImageSizeL1 = 125px | ImageFileR1 = Ozone-elpot-3D-vdW.png | ImageSizeR1 = 125px | IUPACName = オゾン | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 10028-15-6 }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = O<sub>3</sub> | MolarMass = 47.998 g mol<sup>−1</sup> | Appearance = 淡青色気体 | Density = 2.144 g L<sup>−1</sup> (0 ℃), 気体 | Solubility = 0.105 g / 100 mL (0 ℃) | MeltingPt = 80.7 K, −192.5 ℃ | BoilingPt = 161.3 K, −111.9 ℃ }}<!-- | [[三重点]] | 80.6 K, 0.0114 ;mbar |- |Classification/shape | AX2E |- --> | Section4 = {{Chembox Thermochemistry | DeltaHf = +142.3 kJ mol<sup>−1</sup> | Entropy = 237.7 J K<sup>−1</sup> mol<sup>−1</sup> }} | Section7 = {{Chembox Hazards | EUClass = 酸化剤 ('''O''')}} }} '''オゾン'''(ozone)は、3つの[[酸素|酸素原子]]からなる酸素の[[同素体]]である。[[化学式|分子式]]はO₃で、折れ線型の構造を持つ。[[腐食|腐食性]]が高く、生臭く特徴的な刺激臭を持つ有毒な[[気体]]である。[[地球の大気]]中にとても低い濃度で存在している。漢字で'''阿巽'''とも当てて書いた<ref>[[松村明]]編 「オゾン」『大辞林 4.0』 [[三省堂]]、2019年。</ref>。[[活性酸素]]の一種。 == 性質 == [[常温]][[常圧]]では薄青色の[[気体]]である。[[沸点]]−111.9 [[セルシウス度|℃]] (161.25 [[ケルビン|K]]) で紺色の[[液体]]となり、[[凝固点]]−192.5 ℃ (80.65 K) で濃紫色の[[固体]]となる。中心の酸素原子と両端の酸素原子の結合は2本とも等価で、オゾン[[分子]]は {{chem|O{{=}}O|+|-O|-}} と {{chem|O|-|-O|+|{{=}}O}} の2つの極限構造からなる[[共鳴理論|共鳴混成体]]であると考えられる。 オゾンは[[フッ素]]に次ぐ強い[[酸化|酸化力]]を持つため、高濃度では猛毒である。吸い込むと内臓が酸化されて[[びらん]]状になる。[[日本]]における作業環境基準は0.1[[ppm]]である<ref>[https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00tb3545&dataType=1&pageNo=1 ○感染の危険のある寝具類におけるオゾンガス消毒について(平成19年3月30日)(医政経発第0330002号)(各都道府県衛生主管部(局)長あて厚生労働省医政局経済課長通知)]、2019年2月3日閲覧。</ref>。 == 発見 == オゾンは、オランダの科学者Martinus Van Marumによって1785年にその存在が発見された。その後、[[1840年]]に、[[ドイツ]]・[[スイス]]の[[化学者]]である[[クリスチアン・シェーンバイン]]によって、オゾンが酸素から形成されることが発見された。彼は[[雷雨]]の中でオゾンが現れることに注目し、そしてその奇妙なにおいから、[[ギリシア語]]で「臭い」を意味する {{lang|el|ὄζειν}} ({{lang|el-Latn|''Ozein''}}) に因み Ozon と名付けた。 == 生成 == 一般に空気中での[[紫外線]]照射、または酸素中での[[無声放電]]など高いエネルギーを持つ[[電子]]と酸素分子の衝突によって発生する。オゾンの発生は主に以下の[[化学式]]で表せる。 : <chem>3O2 -> 2O3</chem> またオゾンは不安定な分子であるため、放置しておくと以下の化学式で酸素に変化する。 : <chem>2O3 -> 3O2</chem> この反応は[[温度]]や[[圧力]]が上昇するほど速くなる。 なお、直接酸素分子からオゾンが生成されるとは限らず、特に光化学スモッグなどでは[[オゾン前駆体]]という[[窒素酸化物]](NOx)や[[揮発性有機化合物]](VOC)などが発生に関与している。 いくつかの[[電気機器]]は人間が臭いを感じる程度のオゾンを発生させる。特に[[ブラウン管]]テレビや[[複写機|コピー機]]など高電圧を用いる装置で起こる。ブラシによって整流する[[電動機|電気モーター]]は機器内で繰り返される火花によってオゾンを発生させる。[[エレベーター]]や[[ポンプ]]などに使われる大型モータは小さいモータよりもオゾン発生量が多い。なお、これは[[整流子電動機]]特有の現象で、整流子のない[[誘導電動機]]・[[同期電動機]]ではオゾンは発生しない。この他に、例えば[[アーク溶接]]実施時のように、波長の短い紫外線(UVC)を空気中で発生させた場合も、空気中に含まれる酸素分子が反応を起こしてオゾンが発生する。 === オゾンの生産 === [[工業]]的にオゾンを用いる場合、一般に[[水銀灯]]による短い[[波長]]の紫外線照射や高電圧による低温[[放電]]によって生産される。低温放電装置は二枚の[[電極|電極板]]によって構成され、電極表面を、高い[[誘電率]]をもつホウケイ酸ガラス([[パイレックス|パイレックスガラス]])や[[雲母]]のような[[絶縁体]]で覆う。[[交流]]高電圧を電極にかけると[[無声放電]]が起こり、平板間に流した酸素分子が解離し、他の酸素分子と再結合することによってオゾンが発生する。また、[[カソード|陰極]]に[[黒鉛]]電極、[[アノード|陽極]]に[[白金]]電極を用い、希[[硫酸]]を[[電気分解]]することによって陽極からオゾンが酸素との混合気体として生成される。同様に固体高分子電解質膜を、白金を用いた陰極と[[二酸化鉛]]を用いた陽極で挟み、[[水]]を電気分解することでも陽極からオゾンが酸素との混合気体として生成される。 == オゾンによる酸化反応 == オゾンが水に対して酸化剤として働く時の半反応式は次のように表される。 :<chem>O3{} + H2O{} + 2\mathit{e}^- -> O2{} + 2OH^-</chem> 酸性溶液中では溶液内の[[水素イオン]]が直接反応し、生成した[[水酸化物イオン]]が溶液内の水素イオンと反応して水ができる。半反応式は次のようになる。 :<chem>O3{} + 2H^+{} + 2\mathit{e}^- -> O2{} + H2O</chem> === オゾン酸化 === {{Main|オゾン酸化}} オゾンを用いた[[有機合成]]反応の例として[[オゾン酸化]]が挙げられる。[[アルケン]]をオゾンで酸化すると-C-O-O-C-O-という並びの5員環構造を持つオゾニドが生じ、[[還元]]的な後処理をすることにより[[ケトン]]または[[アルデヒド]]が得られる。一方、[[酸化]]的な後処理をするとケトンまたは[[カルボン酸]]が得られる。 [[ファイル:Ozonolysis Scheme.png|300px|center|オゾン酸化]] 有機[[高分子]]をオゾンにさらすと劣化が起こり、時に亀裂が生じる。この現象をオゾンクラッキングと呼ぶ。 == オゾン層 == {{Main|オゾン層}} [[大気]]の中で[[成層圏]]に存在するものは[[オゾン層]]を形成し、[[生命]]にとって有害な[[紫外線]]が地表に降り注ぐ量を和らげている。一方、地表付近では、オゾンは[[光化学オキシダント]]などとして生成し[[大気汚染]]の原因となる。成層圏中のオゾン量は[[ドブソン単位]]で表される。工業で用いられる場合、[[ppm]]や[[容量パーセント濃度]]または[[重量パーセント濃度]]で表される。 == 利用法 == オゾンは、[[フッ素]]に次ぐ強力な[[酸化|酸化作用]]があり、[[殺菌]]や[[ウイルス]]の不活化、[[脱臭]]・[[漂白剤|脱色]]、[[有機物]]の除去などに用いられる。 日本および[[アメリカ合衆国]]<ref>[http://www.fda.gov/OHRMS/Dockets/98fr/062601a.htm] ([[アメリカ食品医薬品局|FDA]])</ref> では、[[食品添加物]]として認可されている<!--他の国は?-->。 === 殺菌・脱臭 === [[水道水]]の殺菌に[[塩素消毒]]の代わりにオゾンが用いられる国家も多い。オゾンは[[有機塩素化合物]]を生成しないため、処理後の水にも残留せず、[[塩素]]と比較して味や匂いの変化が少ない。従って、いくつかのシステムでは配管での細菌増殖を防ぐために少量のオゾンを添加することがある。日本では近年、[[東京都水道局]]、[[大阪市水道局]]、[[阪神水道企業団]]、[[大阪広域水道企業団]]等で水道水の[[高度浄水処理]]において、殺菌の一環として用いられており、追随する[[地方公共団体]]や水道運営事業者も増えてきている。 気体としてのオゾンは、その毒性により高度な濃度管理が求められるため、オゾンガスをミキシング又はバブリングと呼ばれる手法で水に溶け込ませたり、電気分解により水に含まれる酸素を利用して作る「オゾン水」として活用される例が増えている。オゾンの不安定な性質により数十分で酸素と水に戻るので残留性のない殺菌水として使えるほか、[[塩素]]系殺菌剤や[[エタノール]]系殺菌剤が使えない場合にも使用される。[[細菌]]の[[細胞]]を直接破壊・分解するため、[[耐性菌]]を生まない利点もある<ref name="nikkei201806300">【Biz Frontier】オゾン活用法/環境にやさしく、有効な酸化力『[[日本経済新聞]]』2018年8月31日(27面)。</ref>。 [[ヨーロッパ]]では[[医療]]への活用が多数試され、その効果が発表されている。近年は日本でも医療、[[介護]]、[[食品]]、[[酪農]]を主とする[[農業]]などの分野で殺菌、消臭、廃棄物処理目的で使われることが多くなった。[[ホテル]]の客室などに置ける小型の脱臭用オゾン発生器も販売されている<ref name="nikkei201806300"/>。 === 医療 === 日本では、[[1923年]]に小川正彦により医療用オゾンガス発生器が発明され、ヨーロッパでは[[ドイツ]]で[[1957年]]に発明されている<ref name="伝統獣医誌161">{{Cite journal|和書|author=清水無空|author2=清水紀子|title=小動物におけるオゾン療法|journal=日本伝統獣医学会誌|volume=16|number=1 |date=2008-05 |pages=37-42 |naid=40016162010}}</ref>。 [[ヒト]]では、難治性の疾患では、[[感染症]]、[[皮膚病]]、[[免疫不全]]、[[悪性腫瘍|がん]]の補助療法、老人病、慢性[[リウマチ]]、[[アレルギー]]などに有効性が示されている<ref>Renate Viebahn-Haensler『{{PDFlink|[http://ozone.fixa.jp/pdf/shupanbutsu/saishin-no-ozon-ryouhou.pdf ヨーロッパにおける最新のオゾン療法]}}』{{リンク切れ|date=2010年12月}}、日本医療・環境オゾン研究会訳、2002年</ref>。[[獣医学]]分野では、[[犬]]や[[猫]]に対し腫瘍や[[悪性腫瘍|がん]]に対するオゾン療法に十分な効果があり、[[クオリティ・オブ・ライフ]]の改善が見られるとされる<ref name="伝統獣医誌161" />。 [[歯科]]医療においては、[[う蝕|虫歯]]の治療においてオゾンガスを患部に当てる[[ヒールオゾン]]という治療法がある。 [[医薬品医療機器等法]]に基づく医療用具として、オゾン水手洗い機が認可されている<ref name="食品加工技術261" />。 === 食品 === 日本では[[食品添加物]]として認められている。主流の[[殺菌料]]である[[次亜塩素酸ナトリウム]]と比較して、そのままオゾンガスを溶かすのではなく単に水道水を電解し陽極にできたオゾン水によってオゾンの濃度を高めることで殺菌力を高くすることができ、使用後の洗浄が不必要で安全性が高く食品の味を損ねにくく、[[クロロホルム]]を生成しないという点が特徴的である<ref name="食品加工技術261">{{Cite journal|吉田幸一|title=高濃度オゾン水による食品分野での適応 |journal=『食品加工技術』|publisher=日本食品機械研究会 |volume=26|isdue=1 |date=2006 |pages=1-10 |naid=40007246918}}</ref>。[[アメリカ合衆国]]では、1997年6月に食品の殺菌剤として安全性に問題がないGRAS(一般安全認定)に分類され、[[アメリカ食品医薬品局|FDA]]が[[2001年]]6月に食品添加物として安全であると発表している<ref name="食品加工技術261" />。 === 農業 === [[農薬]]の代わりとして、病害対策に用いられる。噴霧することで多くの病害菌を殺菌できるため、農作物に残留しない病害防除として利用することができ、収穫時にも収穫した農産物の殺菌に利用できる<ref name="農業技術638">{{Cite journal|author=草刈眞一|title=オゾン水による病害防除技術 養液栽培と農業分野へのオゾン水利用技術|journal=『農業技術』 |volume=63 |issue=8 |date=2008-08 |pages=337-344 |naid=40016165471 }}</ref>。キュウリの[[うどんこ病]]などの病害対策ができるため、農薬の低減が期待される<ref name="食品加工技術261" />。 [[大麦]]・[[人参]]の発芽率の向上、[[カイワレダイコン]]、[[ハツカダイコン]]、[[トマト]]の生育促進効果も確認されている<ref name="農業技術638" />。 === 畜産 === 畜産においては、消臭・殺菌に用いられる。畜舎にオゾンガスを噴霧することで[[硫黄]]系の臭気を分解することができる。従来は殺菌力があまり高くなかったが、平均5000 [[ナノメートル|nm]]であった気泡径を5 nmにすることで、[[サルモネラ菌]]や[[鳥インフルエンザ]]ウイルスなどへの殺菌効果が見られ、また、[[残留農薬等に関するポジティブリスト制度]]にも対応できる<ref>{{Cite journal|和書|author=松村栄治 |title=ナノピコバブルオゾン水の特性および効果 世界最小ナノバブルを超えた超微細気泡オゾン水(ポジティブリスト、HACCPに対応した新しい消毒技術) |journal=養豚の友 |number=463 |date=2007-10 |page=40-42 |naid=40015650377 }}</ref>。 === 漂白 === 越後地方などでは春先の晴天時に[[雪]]の広がる田畑に糸や布を広げて漂白する「雪晒し」が行われる<ref name="ihcsa">{{Cite web|和書|url=http://ihcsacafe.ihcsa.or.jp/wp-content/uploads/2015/04/jofu_j.pdf|title=越後上布 雪国で育まれた伝統の布|publisher=国際交流サービス協会|accessdate=2020-12-13}}</ref>。雪晒しは雪の表面に[[紫外線]]が当たって発生するオゾンの作用を利用したものである<ref name="ihcsa" />。 === 洗浄 === [[半導体]]部品の洗浄において、主流の[[RCA洗浄]]では[[アンモニア]]や塩酸フッ化物<!--塩酸フッ化物とは?-->が用いられるが、オゾンガスを溶解させたオゾン水は排水処理の面で環境負荷が低く<ref>{{Cite journal|和書|title=水の活性化と機能水-表面処理における各種対策について |journal=鍍金の世界 |publisher=日本鍍金材料協同組合 |volume=41|isdue=4|date=2008-04 |pages=52-56 |naid=40016050513 }}</ref>、代替として半導体の基板表面の有機物や金属の除去・洗浄に用いられている<ref>{{cite journal|和書|author=黒部洋|title=機能水の製造方法および洗浄効果 オプト・半導体デバイスにおけるウェットプロセスの技術トレンド(薬品・機能水編)|journal=マテリアルステージ |volume=7|number=10|date=2008-01 |pages=40-43 |publisher=技術情報協会 |naid=40015808393}}</ref>。 また、水を使わずに(あるいはあまり使わずに)オゾン気流によって除菌や洗濯を行う[[洗濯機]]の例がある<ref>[[2006年]]3月、内部でオゾンを発生させ、水を使わずに(あるいはあまり使わずに)除菌や洗濯を行う洗濯機が[[三洋電機]]から発売された。</ref>。また、その後継機種では風呂の残り湯を使用する際、オゾンで除菌・浄化したり、オゾン水そのものを洗濯のすすぎに利用するものもある<ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/01/21/1815.html 三洋、“オゾンすすぎ”で洗浄力がアップした三代目「AQUA」](家電Watch、2008年1月21日)</ref>。 [[ジーンズ]]を着古した風合いにするオゾン加工にも使われる<ref name="nikkei201806300"/>。 == 毒性 == オゾンには急性・慢性双方の[[中毒|中毒症]]がある。 急性中毒では[[目]]や[[呼吸器]]が刺激され、高濃度になるにつれて[[咳]]や[[めまい]]が引き起こされる。さらに高濃度になると[[呼吸困難]]や[[麻痺]]、および[[昏睡]]状態になり、放置しておけば[[死亡]]する。 慢性中毒では[[倦怠感]]や神経過敏など[[神経]]の異常や、[[呼吸器]]の異常を来たす。 オゾンを発生させる可能性のある場ではたとえ低濃度であろうと[[活性炭]]入りの[[マスク]]をつけることが望まれるが、目の[[粘膜]]も保護できる全面マスクの使用がより好ましい。より高濃度(10 ppm以上)の場合は[[ガスマスク]]の使用が必須になる。<ref>{{PDFlink|[http://www.gigadata.com.tw/WinTax/driver/finetax/std_ozone050322jp.pdf オゾン利用に関する安全管理規準]}} - 経済産業省・省エネルギー技術開発プログラム「省エネルギー型廃水処理技術開発」高濃度オゾン利用研究専門委員会(平成17年(2005年)3月作成;平成25年(2013年)6月18日閲覧…外部サイトにて現存)</ref> == その他の影響 == オゾンは[[光化学オキシダント]]の主成分である。近年、日本では、[[光化学スモッグ]]注意報を発令する[[都道府県]]の数が増加しているが、これは、[[大気汚染#日本の状況|中国大陸からの越境大気汚染]]によって広域化していると考えられている。また、オゾンの強力な酸化性のため、植物や農業に対する悪影響が憂慮されている。 又、農業残渣には窒素が多く含まれており、いわゆる野焼きする事により二酸化窒素が大量に発生、更に二酸化窒素は[[紫外線]]エネルギーの吸収で一酸化窒素と原子状酸素に分解され、生成した原子状酸素は酸素分子と結合して強力な酸化性物質であるオゾンを生成する、周辺の生活環境への悪影響が憂慮される。 オゾンは酸素を含む酸化力の高い化学種で、広義の[[活性酸素]]の一つとされる。活性酸素は、狭義では[[スーパーオキシドアニオン|スーパーオキシドアニオンラジカル]]や[[ヒドロキシルラジカル]]を指し、オゾンを含まないが、水中での分解過程では、オゾンの一部が狭義の活性酸素の一つであるヒドロキシラジカルを経て分解することも知られている。 [[自動車]]等の[[タイヤ]]を保管する際は、電気機器の近くを避けるようにという説明がタイヤメーカーからなされているが<ref>例: [http://tyre.dunlop.co.jp/tyre/products/tyrecheck/keeping.html タイヤの保管の仕方] - [[ダンロップ]]</ref>、その理由は、[[#発生]]の節で述べられているとおり、[[電動機|モーター]]から発生するオゾンが、タイヤの主成分である[[合成ゴム]]を侵すからである(オゾンクラッキング)。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[1,3-双極子]] * [[ヒールオゾン]] – 歯科用オゾン発生装置の商品名。う歯の歯根管殺菌にオゾンの殺菌機能が使用される。 * [[環状オゾン]] *[[三硫黄]] == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Wiktionary|オゾン}} * [http://www.j-ozone.org/ 特定非営利活動法人 日本オゾン協会] * [http://www.kanozo.jp/ 特定非営利活動法人 完全オゾン処理型循環ろ過機安全推進協議会] * {{Kotobank}} * {{EoE|Ozone|Ozone}} {{オゾン層破壊}} {{酸素の同素体}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おそん}} [[Category:酸素]] [[Category:オゾン層破壊]] [[Category:温室効果ガス]] [[Category:活性酸素]] [[Category:有毒ガス]] [[Category:同素体]]
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トマトソース
トマトソース(英: Tomato sauce)は、トマトをベースとして作られたソースの総称。日本ではフランス料理に範を取る洋食系のものと、イタリア料理の基本となるサルサ・ディ・ポモドーロがよく知られている。 主に、肉や魚介、豆類などの煮込み料理のソースに利用される。ソースの調理過程で使用するトマトは、ソースのなめらかな舌触りを出すために、皮を湯むきして、あらかじめ種を取り除いておく。また、一緒に使われる玉ねぎを透き通るまで炒めて甘味を引き出した後、トマトを加えてオーブンなどで一緒に火を通してじっくり煮込むことで、甘くマイルドなソースに仕上げる。 パスタと合わせたものを、トマトパスタの基本として特にポモドリーノ(pomodorino)と呼ぶことが多い。ここから派生して、以下のソースができる。 ハーバード大学医学部によると、トマトソースにはフラボノイドが豊富に含まれており、野菜や果物同様、物忘れを防ぐ効果がある。
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トマトソースは、トマトをベースとして作られたソースの総称。日本ではフランス料理に範を取る洋食系のものと、イタリア料理の基本となるサルサ・ディ・ポモドーロがよく知られている。 主に、肉や魚介、豆類などの煮込み料理のソースに利用される。ソースの調理過程で使用するトマトは、ソースのなめらかな舌触りを出すために、皮を湯むきして、あらかじめ種を取り除いておく。また、一緒に使われる玉ねぎを透き通るまで炒めて甘味を引き出した後、トマトを加えてオーブンなどで一緒に火を通してじっくり煮込むことで、甘くマイルドなソースに仕上げる。
{{脚注の不足|date=2019-09-13}} [[ファイル:Concasse de tomate2.JPG|thumb|250px|トマトソース]] '''トマトソース'''({{lang-en-short|Tomato sauce}})は、[[トマト]]をベースとして作られた[[ソース (調味料)|ソース]]の総称。[[日本]]では[[フランス料理]]に範を取る[[洋食]]系のものと、[[イタリア料理]]の基本となるサルサ・ディ・ポモドーロがよく知られている。 主に、肉や魚介、豆類などの煮込み料理のソースに利用される{{sfn|講談社編|2013|p=62}}。ソースの調理過程で使用するトマトは、ソースのなめらかな舌触りを出すために、皮を湯むきして、あらかじめ種を取り除いておく{{sfn|講談社編|2013|p=62}}。また、一緒に使われる[[玉ねぎ]]を透き通るまで炒めて甘味を引き出した後、トマトを加えてオーブンなどで一緒に火を通してじっくり煮込むことで、甘くマイルドなソースに仕上げる{{sfn|講談社編|2013|p=62}}。 == パスタソース == [[image:Spaghettata.JPG|250px|thumb|right|トマトソース・スパゲッティ]] [[パスタ]]と合わせたものを、トマトパスタの基本として特にポモドリーノ(pomodorino)と呼ぶことが多い。ここから派生して、以下のソースができる。 * [[唐辛子]]を加えて辛くすれば、[[アラビアータ]] * [[魚介類]]を加えれば、[[ペスカトーレ]] * [[アサリ]]を加えれば、[[ヴォンゴレ|ボンゴレ・ロッソ]](ロッソは「赤い」の意 ※「白い」の意はビアンコ。ボンゴレでもボンゴレ・ビアンコはトマトソースではない) * [[挽肉]]と[[セロリ]]と[[ニンジン]]の微塵切りなどを加えると、[[ミートソース]]([[ボロネーゼ]]) * 炒めた[[パンチェッタ]]を加えて、[[アマトリチャーナ]] * [[アンチョビ]]、[[ケッパー]]、ブラック[[オリーブ]]を加えると、[[プッタネスカ]] * [[オレガノ]]を加えれば、[[マリナーラソース|マリナーラ]] == 健康 == ハーバード大学医学部によると、トマトソースにはフラボノイドが豊富に含まれており、野菜や果物同様、物忘れを防ぐ効果がある<ref>{{Cite web|title=Can flavonoids help fend off forgetfulness?|url=https://www.health.harvard.edu/blog/can-flavonoids-help-fend-off-forgetfulness-202109172596|website=Harvard Health|date=2021-09-17|accessdate=2022-01-08|language=en|first=Heidi|last=Godman}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author =講談社編|title = からだにやさしい旬の食材 野菜の本|date=2013-05-13|publisher = [[講談社]]|isbn=978-4-06-218342-0|ref=harv}} == 関連文献 == * L'Arte della cucina in Italia, Emilio Faccioli, Einaudi, Milano, 1987 * Richard Hering: Herings Lexikon der Küche. Hrsg.: F. Jürgen Herrmann. 23. Auflage. Fachbuchverlag Pfanneberg, Haan-Gruiten 2001, ISBN 3-8057-0470-4. * Erhard Gorys: Das neue Küchenlexikon. Hrsg.: Peter Schimmel. Deutscher Taschenbuch Verlag, München 2001, ISBN 3-423-36245-6. * Der Silberlöffel. Phaidon Press, Berlin 2006, ISBN 0-7148-9665-9. * Giuseppe Parisi (Redakteur): Cucina Italiana: Das große Buch der Italienischen Küche. Hrsg.: Accademia Italiana della Cucina. Delphin Verlag, München 1987, ISBN 3-7735-5317-X. == 関連項目 == {{Commonscat|Tomato sauce}} * [[イタリア料理]] * [[パスタ]] * [[ピザ]] * [[トマトピューレ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とまとそおす}} [[Category:野菜のソース]] [[Category:トマト]] [[Category:イタリアの食文化]] [[Category:パスタ料理]] [[Category:タマネギ]]
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埼玉高速鉄道
埼玉高速鉄道株式会社(さいたまこうそくてつどう、英: Saitama Railway Corporation)は、埼玉県川口市及びその周辺で埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)を運営する第三セクター方式の鉄道会社。通称および略称はSR。本社は埼玉県さいたま市緑区の浦和美園駅構内に置かれている。 社名の「高速鉄道」とは新幹線のような高速鉄道ではなく、「都市高速鉄道」を意味する。 埼玉県と帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄〈東京メトロ〉)、および沿線の路線バスを運行する国際興業や東武鉄道、そして西武鉄道、協和埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)、沿線自治体の川口市、浦和市(現・さいたま市)、鳩ヶ谷市(現在は川口市に編入)が出資して1992年3月に設立された第三セクター鉄道事業者である。軌道・駅舎の大部分が地下にあり、日本地下鉄協会では民営・準公営(第3セクター)の地下鉄事業者の一つとしている。 当初は2006年の開業を予定していたが、浦和美園駅付近で建設中であった埼玉スタジアム2002が2002 FIFAワールドカップの開催会場の一つに決定したことを受けて、工期が2002年の運行に間に合う様短縮された。 開業当初より、東京メトロ南北線を経て、東急目黒線と相互直通運転を行っており、2023年3月18日からは東急新横浜線および相鉄線との直通運転も開始された。また、臨時列車では一時期、日吉駅から先の東急東横線を介し、横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅まで直通運転を行っていた(みなとみらい号を参照)。2006年9月25日より直通相手先の東急目黒線で急行列車の運行が開始されたが、その後も埼玉高速鉄道線内では全列車が各駅停車での運転となっている。ただし埼玉高速鉄道線の活性化の一環として、優等列車の運転が埼玉高速鉄道延伸検討委員会などで検討されている。 埼玉高速鉄道線は、かつての武州鉄道をなぞるように岩槻駅を経由して蓮田駅までの延伸も予定されている。この区間については2000年の運輸政策審議会答申第18号において「2015年までに開業することが適当な路線」として示されているが、採算性の問題が解消されず、2021年時点でも延伸区間は未着工である。2012年10月1日、さいたま市の清水勇人市長は「(2012年から見て)おおむね5年後の事業着手」を発表し、これを報じた『日本経済新聞』の記事は延伸区間の開業が2025年頃になるという見通しを伝えた。 開業後は、当初の見込みを大きく下回る輸送人員に留まった。このため建設費の債務償還にも支障が出る恐れが生じ、埼玉県庁や沿線各市による協議が続けられていたが、沿線での宅地開発進行による乗客の増加、当時の埼玉県知事上田清司が立ち上げた埼玉高速鉄道延伸検討委員会の成果により、2003年度には借入金への支払利息と減価償却費を除く基礎的収支が開業後初の黒字となった。 さらに経営再建を進めるため、2004年にしなの鉄道の経営で辣腕を振るった杉野正を上田自ら社長に招聘し、旅行業への進出やギフト販売(2007年1月末日をもって終了)など副業にも乗り出した。しかし、杉野は自民党神奈川県連の推薦を受け、2007年の神奈川県知事選挙に立候補するため2006年11月16日の臨時取締役会を最後に退任した。その後、加藤吉泰副社長が代表取締役も兼ねてとしてつなぎを務めてきたが、2007年1月17日の株主総会で近藤彰男 が代表取締役社長に就任した。その後、2014年6月には東日本旅客鉄道(JR東日本)出身の荻野洋が社長に就任している。 2009年度以降は償却前純損益が黒字で推移していたが、総建設費2587億円、うち有利子負債額1575億円という巨額の利子負担に対する償還のため、償却後の営業損益は2014年度まで15年連続赤字であった。これを見て、埼玉高速鉄道の大株主である埼玉県庁は抜本的な経営再建に着手し、金融機関の債権総額440億円の9割以上に当たる417億円に対し、川口市やさいたま市と協調した第三セクター等改革推進債発行による損失補填、および埼玉県自体が持つ債権244億円の半額を超える139億円のデットエクイティスワップ (DES) による株式化により、埼玉高速鉄道の債務額を2014年3月末時点の1183億円から578億円減の605億円へと、2015年3月末時点でほぼ半減させ、残る債務の返済についても最大債権者の鉄道建設・運輸施設整備支援機構の分を含めた、債務返済繰り延べを実施する事業再生ADR(裁判外紛争解決)の実施を2014年9月に発表した。これにより埼玉高速鉄道の経営は改善し、2015年度に初めて償却後純損益が黒字となった。 ワンマン運転実施のために各駅にはホームドア(扶桑電機工業製)が設けられている。中間駅には待避線がないが、利用者の増加を図るために、埼玉高速鉄道延伸検討委員会において優等列車の運転の検討も行われており、鳩ヶ谷駅に待避線を設置する計画がある。 赤羽岩淵駅より東京メトロ南北線・東急目黒線・東急新横浜線・相鉄新横浜線・本線・いずみ野線への直通運転を行っている。 埼玉高速鉄道は以下の車両を保有している。 埼玉高速鉄道中期経営計画(2019-2021)によると、予備車確保の観点から1編成を増備する計画を打ち出したものの、この車両が2000系の増備扱いとなるのか新型車両になるのか、また2000系と同じく6両編成で発注するのか東急3020系と同じく8両編成にするかや、増備車を相模鉄道直通対応とするかについての言及は、この時点ではされていなかった。 埼玉高速鉄道中期経営計画(2022-2024)では、その増備計画を拡大した上で変更し、実施方策(主な取組)として「東急新横浜線との直通運転に向けた車両・地上設備の整備」「相互直通運転各社局の8両編成化に伴う新造車両の導入」「岩槻延伸に向けた車両の増備の検討」を掲げている。その増備車両として、2022年4月21日に2000系とは別の相鉄直通対応の新型車両8両編成1本を近畿車輛に発注したと公表した。プラットフォームなどを共通化した車両を導入する予定で、東京メトロ17000系と設計を共通化するとしている。鉄道チャンネルでは、岩槻延伸に向けたものと報じている。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。ICカード・きっぷとも同額。2019年(令和元年)10月1日改定。 川口元郷駅から東京メトロ南北線志茂駅、王子神谷駅までの片道運賃は30円を割引する。 開業時から初乗り運賃は210円であった。関東の地下鉄では横浜市営地下鉄に匹敵する金額であり、全体的にも日本の普通鉄道としては高額の部類に入る。 開業時では5年毎の運賃値上げも計画されていたが、2003年度に借入金への支払利息と減価償却費を除く基礎的収支が黒字となったことから、5周年にあたる2006年3月や、10周年にあたる2011年3月も値上げは実施されていなかった。初の運賃改定は消費税の税率が5%から8%へ引き上げられた2014年4月1日であるが、1円単位の運賃は導入されず、初乗り運賃も据え置かれた。2019年10月1日の改定時も初乗り運賃は据え置かれた。 なお、東急電鉄全線・相模鉄道・都営地下鉄・横浜高速鉄道等、東京メトロ以外とは連絡普通乗車券や往復乗車券は発売されていないため、PASMOやSuicaといったIC乗車カードでの乗車でない場合は、下車駅で運賃精算が必要である。 2007年から、IC乗車カードとしてPASMOおよびSuicaが利用可能になっている。2013年3月23日より、交通系ICカード全国相互利用サービス開始で、TOICA、ICOCAなども利用可能になった。 回数券は、金額式の「普通回数券」(11枚綴り)、平日日中と土休日終日利用できる「時差回数券」(12枚綴り)、土休日専用の「土・休日割引回数券」(14枚綴り)が発売されているほか、土休日用に限り7枚綴りのハーフ回数券「7枚土・休日割引回数券」も発売されている。 2018年3月17日発売分より、通学定期券が約2割値下げされた。 埼玉高速鉄道では、2002年3月28日よりIC定期券を発売していた。そのため、各駅の自動改札機にはIC定期券をかざすため、カードリーダ/ライタ (R/W) が取り付けられていた。システムはJR東日本のSuicaと同様、FeliCaを採用した交通サイバネ規格に準じたものであり、改札機のR/WもSuicaと同仕様のものが設置されていた。カード裏面のID番号の頭2文字のアルファベットはSR。 これは同社の利用活性化運動の一環として、また2002年には浦和美園駅が最寄りの埼玉スタジアム2002が開催会場の一つとなった2002 FIFAワールドカップの観客輸送のため、東川口駅でのJR武蔵野線との乗り換えの利便を図る目的で、Suicaとの相互乗り入れを目論んで導入された。しかし、JR東日本側は「料金処理システム準備中」を理由に時期尚早と判断した。そのため、PASMOとSuicaの相互利用開始までの5年間は、全く互換性のない鉄道IC定期券として運用されていた。またその間のIC定期券は、東京メトロ南北線など他の鉄道事業者との連絡定期券としての利用もできないため、連絡定期券を利用する場合は、磁気定期券を利用せざるを得ないという制限を強いられていた。このほか、ストアードフェア(チャージ)の機能も有していなかったため、乗り越しの際の自動精算や、定期券以外のプリペイド式ICカードの発売も行われなかった。 このIC定期券は、2007年3月18日に運用が開始されたPASMO導入準備のため、2006年9月10日で新規の定期券の発売を終了した。さらに、2006年11月20日以降は自動改札機での使用、自動発売機での継続定期券の発売が停止されたが、有人通路での使用は引き続き可能としていたほか、窓口で申し込みをすれば継続定期券の発行も可能であった。しかし、PASMO導入後は、PASMO用に新たに設置し直された自動改札機のR/Wでの使用はできず、利用者は一旦IC定期券を返却(または磁気定期券に交換)したうえ、新たにPASMO定期券を購入する必要が生じた。 以下のいずれも赤羽岩淵駅では発売されていないので下車駅で申し出て購入する。 2008年4月1日から発売を開始。発売額は埼玉高速鉄道の各駅から赤羽岩淵駅までの片道普通運賃を2割引きして2倍した額に、東京メトロ一日乗車券の発売額(大人710円)を合算した額とされていた。その後、東京メトロ一日乗車券は2015年に600円に値下げされ、効力も2016年に使用開始から24時間となっているが、「SR東京メトロパス」の効力は発売当日限りで変更はない。 私鉄+東京メトロの組み合わせでのメトロパスの発売は小田急電鉄、東武鉄道、東急電鉄に続き4社目である(東葉高速鉄道も同日に「東葉東京メトロパス」を発売開始)。 イオンモール浦和美園に入居するイオンシネマ浦和美園の映画鑑賞券と往復乗車券をセットにした企画商品。2014年5月1日から発売を開始。埼玉高速鉄道の各駅から浦和美園駅までの片道普通運賃を3割引き(学生、シニアは5割引き)のうえ2倍とした金額に1300円を合算した発売額で販売されている。特典としてミニポップコーン券も付与されている。東京メトロ各駅から乗車した場合は浦和美園駅下車時に改札口で赤羽岩淵駅発着の当きっぷへの差額精算で変更が可能である。 当初は2014年9月30日までの期間限定発売とされたが、同年10月1日よりイオンモール浦和美園の指定店舗で利用できるソフトドリンクサービス券を特典として付与した上で通年発売されている。 土休日と年末年始と埼玉県民の日に発売される。浦和美園駅 - 赤羽岩淵駅間の全線が乗り降り自由で、発売額は2019年10月1日に100円(小児50円)値下げされ、580円(小児290円)となっている。 特定日に販売される。 しらこばと水上公園へのバスや入場券付きの往復割引切符。鉄道3割引、国際興業バス1割引、入場券100円引(小中学生は50円引)で、さらにデイリーヤマザキ50円引券2枚とプール遊具貸出100円引券が付く。中学生用もある。夏期のみ発売。 3年ぶりの発売となった2022年は、土休日とお盆期間中のみの発売で、プール入場券は別途購入でコンビニ割引券も付かない形式になり、大人は鉄道が半額に、小児の発売額は全駅一律300円(鉄道100円)となった。 11月14日の埼玉県民の日に発売される。2011年度以降はSR一日乗車券と同一の割引乗車券として発売されている。 2010年度以前のフリー区間は埼玉県内の浦和美園駅 - 川口元郷駅間であり、発売額は450円(学生350円、小児230円)であった。 2022年8月現在。大人用の発売額。単位は円。 2001年の開業時から2008年までパスネットを導入していた。カードに印字される符丁はSRであった。同社パスネットの中には浦和レッドダイヤモンズや大宮アルディージャの選手集合写真を使った特製カードもあった。 臨時列車「みなとみらい号」運転時に限り埼玉みなとみらい往復フリー切符を発売していた。 浦和美園駅構内の空きスペースを皮切りに2018年10月、駐輪場シェアサービスを開始した。アイキューソフィア(東京都新宿区)のシステムを利用する。 2006年9月19日から11月30日にかけての平日に、国土交通省関東地方整備局などが埼玉高速鉄道の4駅(浦和美園駅・戸塚安行駅・鳩ヶ谷駅・川口元郷駅)周辺の商業施設の駐車場を活用したパーク&ライドの社会実験が実施された。インターネットを使って携帯電話やカーナビゲーションなどに駐車場の空車情報や都心への道路の混雑状況などの情報を送り、実験参加者に駐車場に車を停めて電車を利用するかどうかを判断してもらい、自家用車と電車の利用状況の関係を検証する目的のものであった。 2004年7月1日に代表取締役社長に就任した杉野正は、しなの鉄道時代に「信濃のカルロス・ゴーン」とも呼ばれたほどコスト削減の手腕に評価が高く、その実力に期待が集まった。埼玉高速鉄道に転じた杉野は早速、契約関係の見直しなどによって3割のコスト削減を目指し、実現した場合にはそのうち1割分を社員に還元するなどの独特の案を発表した。 収入増にも力を入れ、それまで在籍していた旅行代理店エイチ・アイ・エス (HIS) とのパイプを活かして旅行業に進出したほか、ギフト販売などの副業に乗り出した。また、浦和美園駅の北方にある車両基地の東側社有地に整備された埼玉スタジアム2002への歩行者専用道路で飲食物を販売したり、駅構内の空きスペースに喫茶店や健康施設などをテナントとして誘致したりするなど、資産の有効活用などで成果をあげた。車内および駅構内への液晶テレビ(一部はプロジェクター)設置による動画(デジタルサイネージ)広告として2006年に開始した「SaiNet Vision」も、しなの鉄道時代に杉野が発案し成功したものの流用である。 一方で、自社線内の減便を中心とするダイヤ改正を、就任わずか3か月後の2004年10月1日に行うと発表(その後撤回)したり、東京地下鉄からの出向社員に対する大幅な給与削減案で東京地下鉄側を刺激したりするといった手法は、東京地下鉄側の態度を硬化させ、両者の関係を悪化させる事態となった。この給与削減案は、該当する社員らの強い反発で白紙撤回、杉野が謝罪するという異例の事態で終息を見た。このような展開となった理由は、当該社員らが運行の中枢を担う職務を行っており、案に反発した複数の社員が辞職を申し出たことで、列車の運行が不可能になる可能性があったためである。この結果、杉野は若手を育成する方針に転換した。 最終的に杉野は2007年の神奈川県知事選挙への出馬を決意し、杉野を招聘した当時の埼玉県知事の上田清司が慰留するも、7月の再任からわずか4か月後の11月に退任した。杉野の退任後、旅行業については漸次縮小され、ギフト販売は2007年1月に終了している。埼玉高速鉄道に関する社内・社外での対立が大きく報じられる事はなくなったが、埼玉高速鉄道の経営再建は巨額の有利子債務のために難航し、2014年の事業再生ADRに至った。一方、2012年に「Saiho Railway Vision」 (SRV) と改称されたデジタルサイネージ広告の提供、浦和レッズ戦やサッカー日本代表戦などでの歩行者道路飲食販売など、杉野時代に開始されたサービスの一部はその後も継続されている。
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"さらに経営再建を進めるため、2004年にしなの鉄道の経営で辣腕を振るった杉野正を上田自ら社長に招聘し、旅行業への進出やギフト販売(2007年1月末日をもって終了)など副業にも乗り出した。しかし、杉野は自民党神奈川県連の推薦を受け、2007年の神奈川県知事選挙に立候補するため2006年11月16日の臨時取締役会を最後に退任した。その後、加藤吉泰副社長が代表取締役も兼ねてとしてつなぎを務めてきたが、2007年1月17日の株主総会で近藤彰男 が代表取締役社長に就任した。その後、2014年6月には東日本旅客鉄道(JR東日本)出身の荻野洋が社長に就任している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2009年度以降は償却前純損益が黒字で推移していたが、総建設費2587億円、うち有利子負債額1575億円という巨額の利子負担に対する償還のため、償却後の営業損益は2014年度まで15年連続赤字であった。これを見て、埼玉高速鉄道の大株主である埼玉県庁は抜本的な経営再建に着手し、金融機関の債権総額440億円の9割以上に当たる417億円に対し、川口市やさいたま市と協調した第三セクター等改革推進債発行による損失補填、および埼玉県自体が持つ債権244億円の半額を超える139億円のデットエクイティスワップ (DES) による株式化により、埼玉高速鉄道の債務額を2014年3月末時点の1183億円から578億円減の605億円へと、2015年3月末時点でほぼ半減させ、残る債務の返済についても最大債権者の鉄道建設・運輸施設整備支援機構の分を含めた、債務返済繰り延べを実施する事業再生ADR(裁判外紛争解決)の実施を2014年9月に発表した。これにより埼玉高速鉄道の経営は改善し、2015年度に初めて償却後純損益が黒字となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ワンマン運転実施のために各駅にはホームドア(扶桑電機工業製)が設けられている。中間駅には待避線がないが、利用者の増加を図るために、埼玉高速鉄道延伸検討委員会において優等列車の運転の検討も行われており、鳩ヶ谷駅に待避線を設置する計画がある。", "title": "路線" }, 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"p", "text": "2018年3月17日発売分より、通学定期券が約2割値下げされた。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "埼玉高速鉄道では、2002年3月28日よりIC定期券を発売していた。そのため、各駅の自動改札機にはIC定期券をかざすため、カードリーダ/ライタ (R/W) が取り付けられていた。システムはJR東日本のSuicaと同様、FeliCaを採用した交通サイバネ規格に準じたものであり、改札機のR/WもSuicaと同仕様のものが設置されていた。カード裏面のID番号の頭2文字のアルファベットはSR。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これは同社の利用活性化運動の一環として、また2002年には浦和美園駅が最寄りの埼玉スタジアム2002が開催会場の一つとなった2002 FIFAワールドカップの観客輸送のため、東川口駅でのJR武蔵野線との乗り換えの利便を図る目的で、Suicaとの相互乗り入れを目論んで導入された。しかし、JR東日本側は「料金処理システム準備中」を理由に時期尚早と判断した。そのため、PASMOとSuicaの相互利用開始までの5年間は、全く互換性のない鉄道IC定期券として運用されていた。またその間のIC定期券は、東京メトロ南北線など他の鉄道事業者との連絡定期券としての利用もできないため、連絡定期券を利用する場合は、磁気定期券を利用せざるを得ないという制限を強いられていた。このほか、ストアードフェア(チャージ)の機能も有していなかったため、乗り越しの際の自動精算や、定期券以外のプリペイド式ICカードの発売も行われなかった。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このIC定期券は、2007年3月18日に運用が開始されたPASMO導入準備のため、2006年9月10日で新規の定期券の発売を終了した。さらに、2006年11月20日以降は自動改札機での使用、自動発売機での継続定期券の発売が停止されたが、有人通路での使用は引き続き可能としていたほか、窓口で申し込みをすれば継続定期券の発行も可能であった。しかし、PASMO導入後は、PASMO用に新たに設置し直された自動改札機のR/Wでの使用はできず、利用者は一旦IC定期券を返却(または磁気定期券に交換)したうえ、新たにPASMO定期券を購入する必要が生じた。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下のいずれも赤羽岩淵駅では発売されていないので下車駅で申し出て購入する。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2008年4月1日から発売を開始。発売額は埼玉高速鉄道の各駅から赤羽岩淵駅までの片道普通運賃を2割引きして2倍した額に、東京メトロ一日乗車券の発売額(大人710円)を合算した額とされていた。その後、東京メトロ一日乗車券は2015年に600円に値下げされ、効力も2016年に使用開始から24時間となっているが、「SR東京メトロパス」の効力は発売当日限りで変更はない。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "私鉄+東京メトロの組み合わせでのメトロパスの発売は小田急電鉄、東武鉄道、東急電鉄に続き4社目である(東葉高速鉄道も同日に「東葉東京メトロパス」を発売開始)。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "イオンモール浦和美園に入居するイオンシネマ浦和美園の映画鑑賞券と往復乗車券をセットにした企画商品。2014年5月1日から発売を開始。埼玉高速鉄道の各駅から浦和美園駅までの片道普通運賃を3割引き(学生、シニアは5割引き)のうえ2倍とした金額に1300円を合算した発売額で販売されている。特典としてミニポップコーン券も付与されている。東京メトロ各駅から乗車した場合は浦和美園駅下車時に改札口で赤羽岩淵駅発着の当きっぷへの差額精算で変更が可能である。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "当初は2014年9月30日までの期間限定発売とされたが、同年10月1日よりイオンモール浦和美園の指定店舗で利用できるソフトドリンクサービス券を特典として付与した上で通年発売されている。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "土休日と年末年始と埼玉県民の日に発売される。浦和美園駅 - 赤羽岩淵駅間の全線が乗り降り自由で、発売額は2019年10月1日に100円(小児50円)値下げされ、580円(小児290円)となっている。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "特定日に販売される。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しらこばと水上公園へのバスや入場券付きの往復割引切符。鉄道3割引、国際興業バス1割引、入場券100円引(小中学生は50円引)で、さらにデイリーヤマザキ50円引券2枚とプール遊具貸出100円引券が付く。中学生用もある。夏期のみ発売。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "3年ぶりの発売となった2022年は、土休日とお盆期間中のみの発売で、プール入場券は別途購入でコンビニ割引券も付かない形式になり、大人は鉄道が半額に、小児の発売額は全駅一律300円(鉄道100円)となった。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "11月14日の埼玉県民の日に発売される。2011年度以降はSR一日乗車券と同一の割引乗車券として発売されている。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2010年度以前のフリー区間は埼玉県内の浦和美園駅 - 川口元郷駅間であり、発売額は450円(学生350円、小児230円)であった。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2022年8月現在。大人用の発売額。単位は円。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2001年の開業時から2008年までパスネットを導入していた。カードに印字される符丁はSRであった。同社パスネットの中には浦和レッドダイヤモンズや大宮アルディージャの選手集合写真を使った特製カードもあった。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "臨時列車「みなとみらい号」運転時に限り埼玉みなとみらい往復フリー切符を発売していた。", "title": "運賃・乗車券" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "浦和美園駅構内の空きスペースを皮切りに2018年10月、駐輪場シェアサービスを開始した。アイキューソフィア(東京都新宿区)のシステムを利用する。", "title": "二次交通への取り組み" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2006年9月19日から11月30日にかけての平日に、国土交通省関東地方整備局などが埼玉高速鉄道の4駅(浦和美園駅・戸塚安行駅・鳩ヶ谷駅・川口元郷駅)周辺の商業施設の駐車場を活用したパーク&ライドの社会実験が実施された。インターネットを使って携帯電話やカーナビゲーションなどに駐車場の空車情報や都心への道路の混雑状況などの情報を送り、実験参加者に駐車場に車を停めて電車を利用するかどうかを判断してもらい、自家用車と電車の利用状況の関係を検証する目的のものであった。", "title": "二次交通への取り組み" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2004年7月1日に代表取締役社長に就任した杉野正は、しなの鉄道時代に「信濃のカルロス・ゴーン」とも呼ばれたほどコスト削減の手腕に評価が高く、その実力に期待が集まった。埼玉高速鉄道に転じた杉野は早速、契約関係の見直しなどによって3割のコスト削減を目指し、実現した場合にはそのうち1割分を社員に還元するなどの独特の案を発表した。", "title": "杉野正の経営改革" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "収入増にも力を入れ、それまで在籍していた旅行代理店エイチ・アイ・エス (HIS) とのパイプを活かして旅行業に進出したほか、ギフト販売などの副業に乗り出した。また、浦和美園駅の北方にある車両基地の東側社有地に整備された埼玉スタジアム2002への歩行者専用道路で飲食物を販売したり、駅構内の空きスペースに喫茶店や健康施設などをテナントとして誘致したりするなど、資産の有効活用などで成果をあげた。車内および駅構内への液晶テレビ(一部はプロジェクター)設置による動画(デジタルサイネージ)広告として2006年に開始した「SaiNet Vision」も、しなの鉄道時代に杉野が発案し成功したものの流用である。", "title": "杉野正の経営改革" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方で、自社線内の減便を中心とするダイヤ改正を、就任わずか3か月後の2004年10月1日に行うと発表(その後撤回)したり、東京地下鉄からの出向社員に対する大幅な給与削減案で東京地下鉄側を刺激したりするといった手法は、東京地下鉄側の態度を硬化させ、両者の関係を悪化させる事態となった。この給与削減案は、該当する社員らの強い反発で白紙撤回、杉野が謝罪するという異例の事態で終息を見た。このような展開となった理由は、当該社員らが運行の中枢を担う職務を行っており、案に反発した複数の社員が辞職を申し出たことで、列車の運行が不可能になる可能性があったためである。この結果、杉野は若手を育成する方針に転換した。", "title": "杉野正の経営改革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "最終的に杉野は2007年の神奈川県知事選挙への出馬を決意し、杉野を招聘した当時の埼玉県知事の上田清司が慰留するも、7月の再任からわずか4か月後の11月に退任した。杉野の退任後、旅行業については漸次縮小され、ギフト販売は2007年1月に終了している。埼玉高速鉄道に関する社内・社外での対立が大きく報じられる事はなくなったが、埼玉高速鉄道の経営再建は巨額の有利子債務のために難航し、2014年の事業再生ADRに至った。一方、2012年に「Saiho Railway Vision」 (SRV) と改称されたデジタルサイネージ広告の提供、浦和レッズ戦やサッカー日本代表戦などでの歩行者道路飲食販売など、杉野時代に開始されたサービスの一部はその後も継続されている。", "title": "杉野正の経営改革" } ]
埼玉高速鉄道株式会社は、埼玉県川口市及びその周辺で埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)を運営する第三セクター方式の鉄道会社。通称および略称はSR。本社は埼玉県さいたま市緑区の浦和美園駅構内に置かれている。 社名の「高速鉄道」とは新幹線のような高速鉄道ではなく、「都市高速鉄道」を意味する。
{{Otheruses|企業|この企業が運営する鉄道路線|埼玉高速鉄道線}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 埼玉高速鉄道株式会社 | 英文社名 = Saitama Railway Corporation | ロゴ = [[File:Saitama Railway Logo.svg|120px]] | 画像 = [[File:浦和美園駅西口2015.JPG|300px]] | 画像説明 = 本社が併設されている[[浦和美園駅]] | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = SR、埼玉高速 | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 336-0967 | 本社所在地 = [[埼玉県]][[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]][[美園 (さいたま市)|美園]]四丁目12番地<ref name="会社概要">[https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/outline.php 会社概要] {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/about/corporate/outline.php |date=20220615065007 }} 埼玉高速鉄道(2020年2月26日閲覧)</ref> | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 53 | 本社緯度秒 = 37.82 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139 | 本社経度分 = 43 | 本社経度秒 = 39.67 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP-11 | 設立 = [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月25日]] | 業種 = 陸運業 | 事業内容 = 旅客鉄道事業 他 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 荻野 洋 | 資本金 = 1億円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>) | 売上高 = 102億4054万3000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) | 営業利益 = 34億7625万9000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) | 純利益 = 32億2982万5000円<br />(2018年3月期<ref name="nenpou2017" />) | 純資産 = 117億3745万6000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) | 総資産 = 692億9133万2000円<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) | 従業員数 = 203人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017" />) | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = [[埼玉県]] 49.30%<br/>[[川口市]] 20.28%<br/>[[東京地下鉄]] 15.60%<br/>[[さいたま市]] 7.00%<br/>[[埼玉りそな銀行]] 0.99%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>) | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[杉野正]](前代表取締役社長)<br />[[土屋義彦]](元[[埼玉県知事]]) | 外部リンク = https://s-rail.co.jp/ | 特記事項 = }} '''埼玉高速鉄道株式会社'''(さいたまこうそくてつどう、{{Lang-en-short|Saitama Railway Corporation}})は、[[埼玉県]][[川口市]]及びその周辺で[[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線)を運営する[[第三セクター]]方式の[[鉄道事業者|鉄道会社]]。通称および略称は'''SR'''<ref>『[[埼玉新聞]]』2017年8月3日朝刊1面</ref>。本社は[[埼玉県]][[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]]の[[浦和美園駅]]構内に置かれている<ref name="会社概要"/><ref group="注釈">埼玉高速鉄道公式サイトにある[https://s-rail.co.jp/line/urawamisono.php 浦和美園駅] {{Wayback|url=https://s-rail.co.jp/line/urawamisono.php |date=20220406171729 }}(2020年2月26日閲覧)の住所は「さいたま市緑区美園4-12」で、本社所在地(さいたま市緑区美園四丁目12番地)と同一である。</ref>。 社名の「高速鉄道」とは[[新幹線]]のような[[高速鉄道]]ではなく、「[[都市高速鉄道]]」を意味する<ref>[http://news.mynavi.jp/series/trivia/084/ 鉄道トリビア (84) あんまり速くないのに「高速鉄道」ってどうして?] {{Wayback|url=http://news.mynavi.jp/series/trivia/084/ |date=20170924094013 }} - マイナビニュース、2011年1月29日</ref>。 == 概要 == 埼玉県と[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄、現・[[東京地下鉄]]〈東京メトロ〉)、および沿線の[[路線バス]]を運行する[[国際興業]]や[[東武鉄道]]、そして[[西武鉄道]]、[[あさひ銀行|協和埼玉銀行]](現・[[埼玉りそな銀行]])、沿線[[地方公共団体|自治体]]の[[川口市]]、[[浦和市]](現・さいたま市)、[[鳩ヶ谷市]](現在は川口市に編入)が出資して[[1992年]]3月に設立された[[第三セクター鉄道]]事業者である。軌道・駅舎の大部分が地下にあり、[[日本地下鉄協会]]では民営・準公営(第3セクター)の[[地下鉄]]事業者の一つとしている<ref>[http://www.jametro.or.jp/japan/ 日本の地下鉄] {{Wayback|url=http://www.jametro.or.jp/japan/ |date=20200824034935 }} 日本地下鉄協会(2020年2月26日閲覧)</ref>。 当初は[[2006年]]の開業を予定していたが、[[浦和美園駅]]付近で建設中であった[[埼玉スタジアム2002]]が[[2002 FIFAワールドカップ]]の開催会場の一つに決定したことを受けて、工期が[[2002年]]の運行に間に合う様短縮された。 開業当初より、[[東京メトロ南北線]]を経て、[[東急目黒線]]と相互[[直通運転]]を行っており、2023年3月18日からは[[東急新横浜線]]および[[相模鉄道|相鉄線]]との直通運転も開始された。また、[[臨時列車]]では一時期、[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]から先の[[東急東横線]]を介し、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]]の[[元町・中華街駅]]まで直通運転を行っていた([[みなとみらい号]]を参照)。2006年9月25日より直通相手先の東急目黒線で[[急行列車]]の運行が開始されたが、その後も埼玉高速鉄道線内では全列車が[[各駅停車]]での運転となっている。ただし埼玉高速鉄道線の活性化の一環として、優等列車の運転が埼玉高速鉄道延伸検討委員会などで検討されている<ref name="SREkento">[https://web.archive.org/web/20100819041421/http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/sr-enshinkento-result.html 埼玉高速鉄道延伸検討委員会] *{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20100827114428/http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/378804.pdf 平成18年度第1回検討会 資料2 追越し施設の効果等の検証]}}</ref>。 埼玉高速鉄道線は、かつての[[武州鉄道]]をなぞるように[[岩槻駅]]を経由して[[蓮田駅]]までの延伸も予定されている。この区間については[[2000年]]の[[運輸政策審議会答申第18号]]において「2015年までに開業することが適当な路線」として示されているが、採算性の問題が解消されず、[[2021年]]時点でも延伸区間は未着工である。[[2012年]]10月1日、さいたま市の[[清水勇人]]市長は「(2012年から見て)おおむね5年後の事業着手」を発表し、これを報じた『[[日本経済新聞]]』の記事は延伸区間の開業が[[2025年]]頃になるという見通しを伝えた<ref name=nikkei20121001>『日本経済新聞』2012年10月2日付記事「[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO46769140R01C12A0L72000/ 地下鉄7号線延伸、事業着手5年後に延期 さいたま市発表] {{Wayback|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNZO46769140R01C12A0L72000/ |date=20121113203341 }}」(2020年2月26日閲覧)</ref>。 開業後は、当初の見込みを大きく下回る輸送人員に留まった<ref group="注釈">開業直後の時点で、乗車人員は目標の1日10万5000人に対して実数は3分の1に満たない3万4000人であった。</ref>。このため建設費の[[債務]]償還にも支障が出る恐れが生じ、[[埼玉県庁]]や沿線各市による協議が続けられていたが、沿線での宅地開発進行による乗客の増加<ref name="committee20120202" group="注釈">2012年2月2日に開催された「[http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/chika7-enshinkento.html 地下鉄7号線延伸検討委員会] {{Wayback|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sr-committee/chika7-enshinkento.html |date=20130221020046 }}」第5回会議の参考資料-a、「{{PDFlink|[http://www.pref.saitama.lg.jp/uploaded/attachment/483709.pdf 埼玉高速鉄道線沿線の人口推移]}}」によると、駅から半径1.5km圏内の人口は2001年度からの10年間で21万9410人から25万2394人へと3万2984人 (15.0%) 増加し、埼玉高速鉄道の1日当たり乗車人員は2001年度の4万7000人から2011年度4月 - 9月には8万5600人、3万8600人 (82.1%) 増となった。ただし、これでも埼玉県などによる予測値よりは低い。</ref>、当時の埼玉県[[都道府県知事|知事]][[上田清司]]が立ち上げた埼玉高速鉄道延伸検討委員会の成果により、[[2003年]]度には借入金への支払利息と[[減価償却]]費を除く基礎的収支が開業後初の黒字となった。 さらに経営再建を進めるため、[[2004年]]に[[しなの鉄道]]の経営で辣腕を振るった[[杉野正]]を上田自ら社長に招聘し、[[旅行会社|旅行業]]への進出やギフト販売([[2007年]]1月末日をもって終了)など副業にも乗り出した。しかし、杉野は[[自由民主党 (日本)|自民党]]神奈川県連の推薦を受け、2007年の[[神奈川県]]知事[[選挙]]に立候補するため2006年11月16日の臨時取締役会を最後に退任した<ref group="注釈">同選挙で杉野は当時現職知事の[[松沢成文]]に敗れた。</ref>。その後、加藤吉泰副社長が代表取締役も兼ねてとしてつなぎを務めてきたが、2007年1月17日の株主総会で[[近藤彰男]]<ref group="注釈">近藤は1947年2月26日生まれ、[[上智大学]]外国語学部卒業後に[[ソニー]]へ入社し、その後に日本テレコム(現在の[[ソフトバンクテレコム]]の前身)へ転じた後、埼玉高速鉄道に移る前は[[ジェムプラス#日本法人|日本ジェムプラス]]の代表取締役社長を務めていた。</ref> が代表取締役社長に就任した。その後、2014年6月には[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)出身の荻野洋が社長に就任している<ref group="注釈">荻野は1945年、埼玉県生まれ。[[東京大学]]卒業後に[[日本国有鉄道]](国鉄)へ入社し、[[国鉄分割民営化]]後のJR東日本で本社広報部長、[[盛岡ターミナルビル]]社長、[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]支社長(同社取締役)となり、その後は[[日本レストランエンタプライズ]]社長や[[日本ホテル]]会長などJR東日本のグループ企業で代表取締役を務めた。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kitakamigawa.or.jp/290226%20%E5%8C%97%E4%B8%8A%E5%B7%9DRCA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0.pdf|format=PDF|title=北上川リバーカルチャーアソシエーション(北上川RCA)「国際文化交流フォーラム」開催案内(2017年2月26日開催)|accessdate=2018年3月25日|publisher=}} {{Wayback|url=http://www.kitakamigawa.or.jp/290226%20%E5%8C%97%E4%B8%8A%E5%B7%9DRCA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A0.pdf |date=20180325232154 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://misonobito.jp/35|title=みその pick up 『「美園」の秘めた可能性を、「付加価値」として魅せていきたい』、2017年3月14日付|accessdate=2018年3月25日|publisher=みその出版「美園人」}} {{Wayback|url=http://misonobito.jp/35 |date=20180325171535 }}</ref>。 [[2009年]]度以降は償却前純損益が黒字で推移していたが、総建設費2587億円、うち有利子負債額1575億円<ref group="注釈">建設費の内訳では工事費が2370億円で9割以上を占め、残りは車両費等127億円、建設利息70億円となっていた。出典:埼玉県、2017。</ref>という巨額の[[利子]]負担に対する償還のため、償却後の営業損益は[[2014年]]度まで15年連続赤字であった。これを見て、埼玉高速鉄道の大株主である埼玉県庁は抜本的な経営再建に着手し、金融機関の債権総額440億円の9割以上に当たる417億円に対し、川口市やさいたま市と協調した[[第三セクター等改革推進債]]発行による損失補填、および埼玉県自体が持つ債権244億円の半額を超える139億円の[[デットエクイティスワップ]] (DES) による株式化により、埼玉高速鉄道の債務額を2014年3月末時点の1183億円から578億円減の605億円へと、2015年3月末時点でほぼ半減させ、残る債務の返済についても最大債権者の[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]の分を含めた、債務返済繰り延べを実施する[[事業再生ADR]](裁判外紛争解決)の実施を2014年9月に発表した<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXLZO77017610S4A910C1L72000/ 埼玉高速鉄道の健全化急ぐ 県、事業再生ADRを発表] {{Wayback|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO77017610S4A910C1L72000/ |date=20180325171342 }}」『日本経済新聞』2014年9月13日付(2020年2月26日閲覧)</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017-09-27 |url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/20150710sr.html |title=埼玉高速鉄道の経営再構築 |publisher=埼玉県 |accessdate=2020-02-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180325232123/https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/20150710sr.html |archivedate=20180325 }} {{Wayback|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/20150710sr.html |date=20180325232123 }}</ref>。これにより埼玉高速鉄道の経営は改善し、[[2015年]]度に初めて償却後純損益が黒字となった<ref>「[http://www.saitama-np.co.jp/news/2016/07/01/04.html 開業以来、初の黒字…埼玉高速鉄道、純利益20億円 経営再建へ一歩] {{Wayback|url=http://www.saitama-np.co.jp/news/2016/07/01/04.html |date=20160703082223 }}」『[[埼玉新聞]]』2016年6月30日(2020年2月26日閲覧)</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;" |+経営状況 ! !!営業収益!!営業利益!!経常利益!!純利益!!繰越利益剰余金!!有利子負債残高!!純資産 |- !2000年度 |1億1000万円|| || || || || || |- !2001年度 |51億4000万円||△51億8000万円|| ||△88億2000万円|| || || |- !2002年度 |58億1000万円||△53億3000万円|| ||△90億4000万円|| || || |- !2003年度 |62億4000万円||△42億3000万円|| ||△70億円|| || || |- !2004年度 |66億7000万円||△35億7000万円|| ||△62億8000万円|| || || |- !2005年度 |69億円||△29億8000万円|| ||△52億8000万円|| || || |- !2006年度 |74億9000万円||△21億4000万円|| ||△45億円|| || || |- !2007年度 |79億3000万円||△18億5000万円|| ||△39億8000万円|| || || |- !2008年度 |81億5000万円||△18億8000万円|| ||△38億8000万円|| ||1455億円||313億9032万5000円 |- !2009年度 |80億6000万円||△18億8359万1000円||△44億4801万3000円||△36億6812万1000円|| ||1374億円||288億3710万4000円 |- !2010年度 |81億3000万円||△18億3588万7000円||△41億1677万7000円||△41億3465万7000円|| ||1275億円||287億8140万2000円 |- !2011年度 |80億5400万円||△18億7000万円||△39億3600万円||△39億4300万円||△631億1457万7000円||1248億7100万円||288億4607万4000円 |- !2012年度 |83億7823万2000円||△16億4930万9000円||△35億9531万7000円||△36億{{0}}616万4000円||△667億2074万2000円||1210億7300万円||292億8692万8000円 |- !2013年度 |87億{{0}}800万円||△10億6000万円||△28億6769万7000円||△29億1499万5000円||△696億3573万8000円||1161億8500万円||303億1390万4000円 |- !2014年度 |89億3931万3000円||△5億{{0}}459万2000円||△21億6455万4000円||△443億1935万8000円||0円||584億6000万円||56億7352万3000円 |- !2015年度 |94億3806万2000円||22億4382万2000円||15億1603万1000円||20億5636万2000円||20億5636万2000円||572億2400万円||58億3770万6000円 |- !2016年度 |98億0802万6000円||30億8909万2000円||24億6514万8000円||26億6992万4000円||47億2628万7000円||559億4800万円||85億763万1000円 |- !2017年度 |102億4054万2000円||34億7625万8000円||29億6720万6000円||32億2982万4000円||79億5611万1000円||513億余り||117億3745万6000円 |- !2018年度 |105億9083万6000円||39億0237万4000円||35億1822万7000円||57億1010万0000円||136億6621万1000円||469億余り||174億4755万6000円 |- !2019年度 |108億8186万9000円||41億8695万円||38億5204万4000円||35億0854万円||171億7475万2000円||455億余り||209億5609万6000円 |} == 歴史 == * [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月25日]] 設立<ref name="会社概要"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]] 埼玉高速鉄道線開業<ref name="会社概要"/>。同時に営団(現:[[東京地下鉄]])[[東京メトロ南北線|南北線]]、[[東急目黒線]]との直通運転を開始。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]] ICカード[[PASMO]]を導入。[[Suica]]とも相互利用開始。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月14日]] [[パスネット]]の自動改札機での使用を終了。 ** [[6月22日]] 東急目黒線[[武蔵小杉駅]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]間延伸開業に伴って、相互直通運転を日吉駅まで延長。 * [[2013年]](平成25年)[[3月23日]] [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始で、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。 * [[2015年]](平成27年)[[1月29日]] [[事業再生ADR]]([[裁判外紛争解決手続]])成立<ref>[http://www.s-rail.co.jp/news/2015/pr20150129-adr-procedure-approved.html 事業再生ADR手続きの成立について] {{Wayback|url=http://www.s-rail.co.jp/news/2015/pr20150129-adr-procedure-approved.html |date=20230408060745 }} 埼玉高速鉄道(2015年1月29日)2020年2月26日閲覧</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[2月4日]] [[埼玉学園大学]]と包括的連携協定に調印<ref>[https://www.s-rail.co.jp/news/2020/saigaku-renkeikyotei.php 埼玉学園大学との連携協定締結について] {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/news/2020/saigaku-renkeikyotei.php |date=20200226124908 }} 埼玉高速鉄道(2020年2月4日)2020年2月26日閲覧</ref>。 * [[2023年]](令和5年)3月18日 [[東急新横浜線]]、[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]との直通運転を開始。 == 路線 == * [[ファイル:Saitama Stadium Line symbol.svg|20px|SR]] [[埼玉高速鉄道線]](埼玉スタジアム線):[[赤羽岩淵駅]] (SR19) - [[浦和美園駅]] (SR26) 14.6&nbsp;km 8駅<ref name="会社概要"/> [[File:Saitama Railway Linemap.svg|thumb|none|400px|路線図(クリックで拡大)]] [[ワンマン運転]]実施のために各駅には[[ホームドア]](扶桑電機工業製)が設けられている。中間駅には[[待避駅|待避線]]がないが、利用者の増加を図るために、埼玉高速鉄道延伸検討委員会において優等列車の運転の検討も行われており、[[鳩ヶ谷駅]]に待避線を設置する計画がある<ref name="SREkento" />。 赤羽岩淵駅より東京メトロ南北線・東急目黒線・東急新横浜線・相鉄新横浜線・本線・いずみ野線への直通運転を行っている。 == 車両 == {{Main2|他社も含めた埼玉高速鉄道線で運用される車両|埼玉高速鉄道線#車両}} 埼玉高速鉄道は以下の車両を保有している。 *[[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]] <gallery widths="200"> ファイル:Series-SR2000-2802.jpg|2000系 </gallery> 埼玉高速鉄道中期経営計画(2019-2021)によると、予備車確保の観点から1編成を増備する計画を打ち出したものの<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/up_pdf/chuki-keiei-keikaku-2019.pdf |title=埼玉高速鉄道中期経営計画(2019-2021) |access-date=2022-04-29 |publisher=埼玉高速鉄道 }} {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/up_pdf/chuki-keiei-keikaku-2019.pdf |date=20201101091151 }}</ref>、この車両が2000系の増備扱いとなるのか新型車両になるのか、また2000系と同じく6両編成で発注するのか東急3020系と同じく8両編成にするかや、増備車を[[相模鉄道]]直通対応とするかについての言及は、この時点ではされていなかった。 埼玉高速鉄道中期経営計画(2022-2024)では、その増備計画を拡大した上で変更し、実施方策(主な取組)として「東急新横浜線との直通運転に向けた車両・地上設備の整備」「相互直通運転各社局の8両編成化に伴う新造車両の導入」「岩槻延伸に向けた車両の増備の検討」を掲げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-rail.co.jp/up_pdf/sr-3yr-plan-2022.pdf |title=埼玉高速鉄道中期経営計画(2022-2024) |access-date=2022-04-22 |publisher=埼玉高速鉄道 }} {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/up_pdf/sr-3yr-plan-2022.pdf |date=20220421031709 }}</ref>。その増備車両として、2022年4月21日に2000系とは別の相鉄直通対応の新型車両8両編成1本を[[近畿車輛]]に発注したと公表した<ref name="tetsudo-ch20220421">{{Cite web|和書|url=https://tetsudo-ch.com/12338551.html |title=岩槻延伸にむけて新車1編成発注! 埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線がなにやらおもしろくなってきた! |access-date=2022-04-22 |date=2022-04-21 |website=鉄道チャンネル }} {{Wayback|url=https://tetsudo-ch.com/12338551.html |date=20220421064753 }}</ref>。プラットフォームなどを共通化した車両を導入する予定で、[[東京メトロ17000系電車|東京メトロ17000系]]と設計を共通化するとしている<ref name="tetsudo-ch20220421" />。[[鉄道チャンネル]]では、岩槻延伸に向けたものと報じている<ref name="tetsudo-ch20220421" />。 == 運賃・乗車券 == 大人普通旅客[[運賃]](小児半額・10円未満切り上げ)。ICカード・きっぷとも同額。2019年([[令和]]元年)10月1日改定<ref name="s-rail20190905">{{Cite press release|1=和書|title=旅客運賃の認可及び改定について|publisher=埼玉高速鉄道|date=2019-09-05|url=https://www.s-rail.co.jp/news/2019/pr20190905-shohizei.php|access-date=2022-05-25|archive-date=2022年5月24日|archive-url=https://web.archive.org/web/20220524172333/https://www.s-rail.co.jp/news/2019/pr20190905-shohizei.php|url-status=live}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !キロ程!!運賃(円) |- |初乗り3km||210 |- |4 - 5||270 |- |6 - 7||310 |- |8 - 9||350 |- |10 - 11||400 |- |12 - 13||440 |- |14 - 15||480 |} 川口元郷駅から東京メトロ南北線[[志茂駅]]、[[王子神谷駅]]までの片道運賃は30円を割引する。 開業時から初乗り運賃は210円であった<ref name="SaitamaKosoku200102">[https://web.archive.org/web/20011102203342fw_/http://www.s-rail.co.jp/untin.htm まもなく走り出す21世紀最初の直結電車~埼玉県初の地下鉄「埼玉高速鉄道」運賃設定認可~](埼玉高速鉄道ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2001年時点の版)。</ref>。[[関東地方|関東]]の地下鉄では[[横浜市営地下鉄]]に匹敵する金額であり、全体的にも日本の普通鉄道としては高額の部類に入る。 開業時では5年毎の運賃値上げも計画されていたが、2003年度に借入金への支払利息と減価償却費を除く基礎的収支が黒字となったことから、5周年にあたる2006年3月や、10周年にあたる2011年3月も値上げは実施されていなかった。初の運賃改定は[[消費税]]の税率が5%から8%へ引き上げられた2014年4月1日であるが、1円単位の運賃は導入されず、初乗り運賃も据え置かれた<ref>[http://www.s-rail.co.jp/news/2014/post-163.html 旅客運賃の認可及び改定について] {{Wayback|url=http://www.s-rail.co.jp/news/2014/post-163.html |date=20140407095450 }} 埼玉高速鉄道(2014年3月6日)2020年2月26日閲覧</ref>。2019年10月1日の改定時も初乗り運賃は据え置かれた。 なお、[[東急電鉄]]全線・[[相模鉄道]]・[[都営地下鉄]]・[[横浜高速鉄道]]等、東京メトロ以外とは[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡普通乗車券]]や往復乗車券は発売されていないため、[[PASMO]]や[[Suica]]といった[[乗車カード|IC乗車カード]]での乗車でない場合は、下車駅で[[不足賃|運賃精算]]が必要である。 2007年から、IC乗車カードとしてPASMOおよびSuicaが利用可能になっている。2013年3月23日より、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始で、[[TOICA]]、[[ICOCA]]なども利用可能になった。 === 回数券 === [[回数乗車券|回数券]]は、金額式の「普通回数券」(11枚綴り)、平日日中と土休日終日利用できる「時差回数券」(12枚綴り)、土休日専用の「土・休日割引回数券」(14枚綴り)が発売されているほか、土休日用に限り7枚綴りのハーフ回数券「7枚土・休日割引回数券」も発売されている<ref>[https://www.s-rail.co.jp/ticket/coupon.php 回数券] {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/ticket/coupon.php |date=20190322141516 }} - 埼玉高速鉄道、2020年2月19日閲覧</ref>。 === 定期券 === 2018年3月17日発売分より、通学定期券が約2割値下げされた<ref name="s-rail20180119">{{Cite press release|1=和書|title=3月17日(土)通学定期券を最大22.2%値下げへ!! ~ 埼玉高速鉄道は、沿線地域の子育て世帯を応援します ~|publisher=埼玉高速鉄道|date=2018-01-19|url=https://www.s-rail.co.jp/news/2018/pr20180119-student-pass-nesage.php|access-date=2022-05-25|archive-date=2022年10月23日|archive-url=https://web.archive.org/web/20221023182442/https://www.s-rail.co.jp/news/2018/pr20180119-student-pass-nesage.php|url-status=live}}</ref>。 ==== IC定期券 ==== 埼玉高速鉄道では、2002年3月28日より[[ICカード|IC]][[定期乗車券|定期券]]を発売していた。そのため、各駅の[[自動改札機]]にはIC定期券をかざすため、カードリーダ/ライタ (R/W) が取り付けられていた。システムはJR東日本の[[Suica]]と同様、[[FeliCa]]を採用した[[交通サイバネ規格]]に準じたものであり、改札機のR/WもSuicaと同仕様のものが設置されていた。カード裏面のID番号の頭2文字のアルファベットはSR。 これは同社の利用活性化運動の一環として、また2002年には浦和美園駅が最寄りの埼玉スタジアム2002が開催会場の一つとなった[[2002 FIFAワールドカップ]]の観客輸送のため、[[東川口駅]]でのJR[[武蔵野線]]との乗り換えの利便を図る目的で、Suicaとの相互乗り入れを目論んで導入された。しかし、JR東日本側は「料金処理システム準備中」を理由に時期尚早と判断した。そのため、PASMOとSuicaの相互利用開始までの5年間は、全く互換性のない鉄道IC定期券として運用されていた。またその間のIC定期券は、東京メトロ南北線など他の鉄道事業者との[[定期乗車券#連絡定期券・共通定期券|連絡定期券]]としての利用もできないため、連絡定期券を利用する場合は、磁気定期券を利用せざるを得ないという制限を強いられていた。このほか、ストアードフェア(チャージ)の機能も有していなかったため、乗り越しの際の自動精算や、定期券以外のプリペイド式ICカードの発売も行われなかった。 このIC定期券は、2007年3月18日に運用が開始されたPASMO導入準備のため、2006年9月10日で新規の定期券の発売を終了した。さらに、2006年11月20日以降は自動改札機での使用、自動発売機での継続定期券の発売が停止されたが、有人通路での使用は引き続き可能としていたほか、窓口で申し込みをすれば継続定期券の発行も可能であった。しかし、PASMO導入後は、PASMO用に新たに設置し直された自動改札機のR/Wでの使用はできず、利用者は一旦IC定期券を返却(または磁気定期券に交換)したうえ、新たにPASMO定期券を購入する必要が生じた。 === 割引乗車券 === 以下のいずれも赤羽岩淵駅では発売されていないので下車駅で申し出て購入する。 ==== SR東京メトロパス ==== {{See also|東京メトロ24時間券#東京メトロパス}} 2008年4月1日から発売を開始。発売額は埼玉高速鉄道の各駅から赤羽岩淵駅までの片道普通運賃を2割引きして2倍した額に、[[東京地下鉄一日乗車券|東京メトロ一日乗車券]]の発売額(大人710円)を合算した額とされていた。その後、東京メトロ一日乗車券は2015年に600円に値下げされ、効力も2016年に使用開始から24時間となっているが、「SR東京メトロパス」の効力は発売当日限りで変更はない。 私鉄+東京メトロの組み合わせでのメトロパスの発売は[[小田急電鉄]]、[[東武鉄道]]、東急電鉄に続き4社目である([[東葉高速鉄道]]も同日に「[[東京地下鉄一日乗車券#東京メトロパス|東葉東京メトロパス]]」を発売開始)。 ==== シネマきっぷ ==== [[イオンモール浦和美園]]に入居する[[イオンエンターテイメント|イオンシネマ]]浦和美園の映画鑑賞券と往復乗車券をセットにした企画商品。2014年5月1日から発売を開始。埼玉高速鉄道の各駅から浦和美園駅までの片道普通運賃を3割引き(学生、シニアは5割引き)のうえ2倍とした金額に1300円を合算した発売額で販売されている。特典としてミニ[[ポップコーン]]券も付与されている。東京メトロ各駅から乗車した場合は浦和美園駅下車時に改札口で赤羽岩淵駅発着の当きっぷへの差額精算で変更が可能である。 当初は2014年9月30日までの期間限定発売とされたが、同年10月1日より[[イオンモール浦和美園]]の指定店舗で利用できるソフトドリンクサービス券を特典として付与した上で通年発売されている。 ==== SR一日乗車券 ==== [[File:埼玉高速鉄道 SR一日乗車券.png|thumb|SR一日乗車券<br>2018年11月23日のもの。2019年10月1日に580円へ値下げ<ref name="pr20190925">[https://www.s-rail.co.jp/news/2019/pr20190925-kikakuken-kaitei.php 割引乗車券の運賃改定について〜令和元年10月1日発売分から〜] {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/news/2019/pr20190925-kikakuken-kaitei.php |date=20200223181413 }} - 埼玉高速鉄道(2019年9月25日)2020年2月26日閲覧</ref>。]] 土休日と年末年始と[[埼玉県民の日]]に発売される[[一日乗車券]]。浦和美園駅 - 赤羽岩淵駅間の全線が乗り降り自由で、発売額は2019年10月1日に100円(小児50円)値下げされ、580円(小児290円)となっている<ref name="pr20190925" /><ref name="otoku" />。 イベントなどに合わせて異なる名称や金額、効力で発売される場合がある。川口市で毎年夏に開催される[[たたら祭り]]に合わせて、3年ぶりの開催となった2022年から発売されている「たたら祭りハッピーきっぷ」は300円(小児150円)である<ref>{{Cite press release|和書|title=埼スタ線が300円で乗り放題!第42回たたら祭りハッピーきっぷを発売します|publisher=埼玉高速鉄道|date=2022-08-05|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/dd8067e90ac3c201bcefb4f14b26937cfd1c0354.pdf|format=PDF|access-date=2023-12-08}}</ref><ref group="注釈">2019年までは南鳩ヶ谷駅または鳩ヶ谷駅までの往復割引乗車券を発売していた。</ref>。[[鉄道の日]]にあわせて10月<!--14日以外に発売された年もある。-->に発売される「鉄道の日記念 一日乗車券」は有効期間中(概ね翌年の3月末まで)の平日でも利用できる<ref>{{Cite press release|和書|title=2023年鉄道の日記念 一日乗車券|publisher=埼玉高速鉄道|date=2023-09-29|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_img/fb7a646006fb60d9db289b893e6adaa6e8c3d92e.pdf|format=PDF|access-date=2023-12-08}}</ref>。 ==== SR往復割引乗車券 ==== 特定日に販売される。 * [[南鳩ヶ谷駅]]:[[川口オートレース場]]の開催日に発売される往復運賃券。埼玉高速鉄道の各駅からの運賃が3割引。以前は、隣駅である[[川口元郷駅]]および[[鳩ヶ谷駅]]間の乗車が対象で、発売額は100円であった。 * [[戸塚安行駅]]:[[川口緑化センター]]のイベント時に発売される往復乗車券。埼玉高速鉄道の各駅からの運賃が3割引。2014年時点では発売されてない。 ==== しらこばと往復割引セット乗車券 ==== [[しらこばと水上公園]]へのバスや入場券付きの往復割引切符。鉄道3割引、[[国際興業]]バス1割引、入場券100円引(小中学生は50円引)で、さらに[[デイリーヤマザキ]]50円引券2枚とプール遊具貸出100円引券が付く。中学生用もある。夏期のみ発売<ref>[https://www.s-rail.co.jp/event/2019/shirakobato2019.php 夏の定番!おとくなきっぷでしらこばと水上公園へ行こう!] {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/event/2019/shirakobato2019.php |date=20200218075955 }} - 埼玉高速鉄道、2020年2月19日閲覧</ref>。 3年ぶりの発売となった2022年は、土休日とお盆期間中のみの発売で、[[プール]]入場券は別途購入でコンビニ割引券も付かない形式になり、大人は鉄道が半額に、小児の発売額は全駅一律300円(鉄道100円)となった<ref>[https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/4a25d6a1894e6ea9bdd6f83e21b4e86ea60bc2a2.pdf 3年ぶりに復活!運賃割引超拡大!!しらこばと往復割引セット乗車券を発売 〜鉄道・バスがセットだから安心!!お子様だけでもOK〜] {{Wayback|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_pdf/4a25d6a1894e6ea9bdd6f83e21b4e86ea60bc2a2.pdf |date=20220731074315 }} - 埼玉高速鉄道、2022年7月8日</ref>。 2023年も鉄道半額・バス1割引で発売されたが、プール入場券付き(100円割引)となった。小児は全駅一律480円である<ref name="shirakobato2023">{{Cite press release|和書|title=海なし県 埼玉県民のオアシス「しらこばと水上公園」しらこばと往復割引セット乗車券を発売 〜今年はプール入場券付き!!セットでおトク!|publisher=埼玉高速鉄道|date=2023-07-05|url=https://www.s-rail.co.jp/news/up_img/1c0299333f02d8def81886c1109199060d2c3b38.pdf|format=PDF|access-date=2023-12-08}}</ref>。 ==== 「埼玉県民の日」一日乗車券 ==== [[11月14日]]の[[埼玉県民の日]]に発売される。2011年度以降はSR一日乗車券と同一の割引乗車券として発売されている。 2010年度以前のフリー区間は埼玉県内の浦和美園駅 - 川口元郷駅間であり、発売額は450円(学生350円、小児230円)であった。 ==== 発売額 ==== 2023年12月現在<ref name="otoku">[https://www.s-rail.co.jp/ticket/otoku.php おとくなきっぷのご紹介] - 埼玉高速鉄道、2023年12月8日閲覧</ref>、しらこばと往復割引セット乗車券は埼玉高速鉄道お知らせ2023年7月5日による<ref name="shirakobato2023" />。大人用の発売額。単位は円。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !キロ程!!メトロパス||シネマきっぷ||しらこばと |- |初乗り3km||800||1600||1270 |- |4 - 5||880||1680||1330 |- |6 - 7|||940||1800||1410 |- |8 - 9||1000||1800||1410 |- |10 - 11||1060||1860||1450 |- |12 - 13||1120||1920||1490 |- |14 - 15||1180||1980||1530 |} === その他 === 2001年の開業時から2008年まで[[パスネット]]を導入していた。カードに印字される符丁は'''SR'''であった。同社パスネットの中には[[浦和レッドダイヤモンズ]]や[[大宮アルディージャ]]の選手集合写真を使った特製カードもあった。 臨時列車「[[みなとみらい号]]」運転時に限り埼玉みなとみらい往復フリー切符を発売していた。 == 二次交通への取り組み == === 駐輪場シェア === 浦和美園駅構内の空きスペースを皮切りに2018年10月、[[駐輪場]]シェアサービスを開始した。アイキューソフィア(東京都新宿区)のシステムを利用する<ref>[https://www.sankei.com/article/20181005-LJR7QEB7LBPX7NQEDAL6AZAOCY/ 「埼玉高速鉄道が駐輪場シェアサービス」] {{Wayback|url=https://www.sankei.com/article/20181005-LJR7QEB7LBPX7NQEDAL6AZAOCY/ |date=20211205182341 }}[[産経新聞]]ニュース(2018年10月5日)2018年10月26日閲覧。</ref>。 === パーク&ライド社会実験 === 2006年9月19日から11月30日にかけての平日に、[[国土交通省]][[地方整備局#関東地方整備局|関東地方整備局]]などが埼玉高速鉄道の4駅(浦和美園駅・[[戸塚安行駅]]・[[鳩ヶ谷駅]]・[[川口元郷駅]])周辺の商業施設の[[駐車場]]を活用した[[パークアンドライド|パーク&ライド]]の[[社会実験]]が実施された。[[インターネット]]を使って[[携帯電話]]や[[カーナビゲーション]]などに駐車場の空車情報や都心への道路の混雑状況などの情報を送り、実験参加者に駐車場に車を停めて電車を利用するかどうかを判断してもらい、自家用車と電車の利用状況の関係を検証する目的のものであった。 == 杉野正の経営改革 == 2004年7月1日に代表取締役社長に就任した[[杉野正]]は、しなの鉄道時代に「[[信濃国|信濃]]の[[カルロス・ゴーン]]」とも呼ばれたほどコスト削減の手腕に評価が高く、その実力に期待が集まった。埼玉高速鉄道に転じた杉野は早速、契約関係の見直しなどによって3割のコスト削減を目指し、実現した場合にはそのうち1割分を社員に還元するなどの独特の案を発表した。 収入増にも力を入れ、それまで在籍していた旅行代理店[[エイチ・アイ・エス]] (HIS) とのパイプを活かして旅行業に進出したほか、ギフト販売などの副業に乗り出した。また、浦和美園駅の北方にある車両基地の東側社有地に整備された埼玉スタジアム2002への歩行者専用道路で飲食物を販売したり、駅構内の空きスペースに喫茶店や健康施設などをテナントとして誘致したりするなど、資産の有効活用などで成果をあげた。車内および駅構内への液晶テレビ(一部はプロジェクター)設置による動画([[デジタルサイネージ]])広告として2006年に開始した「[[SaiNet Vision]]」も、しなの鉄道時代に杉野が発案し成功したものの流用である<ref group="注釈">駅や車両などの鉄道施設へのデジタルサイネージは2002年にJR東日本が[[トレインチャンネル]]で導入していたが、東京地下鉄の[[Tokyo Metro ビジョン]]はまだ始まっていなかった。「SaiNet Vision」は南北線や東急目黒線の区間内でも見られたため、東京地下鉄では自社サービスに先駆けて埼玉高速鉄道の車両でデジタルサイネージサービスの提供がなされた。</ref>。 一方で、自社線内の減便を中心とするダイヤ改正を、就任わずか3か月後の2004年10月1日に行うと発表(その後撤回)したり、東京地下鉄からの出向社員に対する大幅な給与削減案で東京地下鉄側を刺激したりするといった手法は、東京地下鉄側の態度を硬化させ、両者の関係を悪化させる事態となった。この給与削減案は、該当する社員らの強い反発で白紙撤回、杉野が謝罪するという異例の事態で終息を見た。このような展開となった理由は、当該社員らが運行の中枢を担う職務を行っており、案に反発した複数の社員が辞職を申し出たことで、列車の運行が不可能になる可能性があったためである。この結果、杉野は若手を育成する方針に転換した。 最終的に杉野は2007年の神奈川県知事選挙への出馬を決意し、杉野を招聘した当時の埼玉県知事の上田清司が慰留するも、7月の再任からわずか4か月後の11月に退任した。杉野の退任後、旅行業については漸次縮小され、ギフト販売は2007年1月に終了している。埼玉高速鉄道に関する社内・社外での対立が大きく報じられる事はなくなったが、埼玉高速鉄道の経営再建は巨額の有利子債務のために難航し、2014年の事業再生ADRに至った。一方、2012年に「Saiho Railway Vision」 (SRV) と改称されたデジタルサイネージ広告の提供、浦和レッズ戦やサッカー日本代表戦などでの歩行者道路飲食販売など、杉野時代に開始されたサービスの一部はその後も継続されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat|Saitama Railway}} *[[東京地下鉄]] *[[国際興業]] *[[東武鉄道]] *[[西武鉄道]] *[[埼玉りそな銀行]] *[[鉄道むすめ]] - ドラマの第3・4話に登場。主演は[[谷澤恵里香]]([[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]])。 *[[武州鉄道]] *[[森谷真弓]] - 車内アナウンスを担当 *[[鈴木あきえ]] - CM出演歴あり *[[東葉高速鉄道]] == 外部リンク == *[https://s-rail.co.jp/ 埼玉高速鉄道 埼玉スタジアム線] - 公式サイト *[https://s-rail.co.jp/area/ えすあーるタウン情報] - 沿線情報サイト *{{Twitter|srail_info|埼玉高速鉄道【公式】}} *{{Facebook|srail.jp|埼玉高速鉄道株式会社}} *{{YouTube|c=UC9NAtpHIC-Xc3kWaaQ9lHfQ|埼玉高速鉄道株式会社}} {{PASMO}} {{パスネット}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいたまこうそくてつとう}} [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:埼玉高速鉄道|*]] [[Category:さいたま市緑区の企業]] [[Category:埼玉県の交通]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:日本の地下鉄]] [[Category:第三セクター鉄道]] [[Category:東京の地下鉄]]
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東葉高速鉄道東葉高速線
東葉高速線(とうようこうそくせん)は、千葉県船橋市の西船橋駅と千葉県八千代市の東葉勝田台駅を結ぶ東葉高速鉄道が運営する鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はTR。 「東葉高速線」の路線名は、『鉄道要覧』にも記載されている正式なものである。 当初の計画より変更した主なものは以下の通りである。 ほぼすべての列車が西船橋から東京地下鉄(東京メトロ)東西線と相互直通運転しており、一部は東西線経由で中野駅より東日本旅客鉄道(JR東日本)中央緩行線の三鷹駅まで運転する。東葉高速鉄道保有車両と東京メトロ保有車両による運用があるが、東葉車はATS-Pが設置されておらずJR線に直通が出来ないため、東葉勝田台 - 西船橋 - 中野間の運用に限られる。 終電は平日・土休日ともに東葉勝田台駅0時54分着と遅く、新京成電鉄新京成線や京成本線に乗り換えることは出来ない。 列車種別は以下の3種類があるが、東葉高速線内は全て各駅に停車する。種別は東京メトロ東西線と共通で、東西線内での種別のまま当線内でも運転する。ただし、下りは種別を案内しないか「各駅停車」と案内する。 東葉高速線で最も多く運行されている列車で、東葉高速線内は各駅に停車し、東西線西船橋駅 - 東陽町駅間のみ快速運転をする。全列車が東西線中野駅、さらに一部は同駅から中央緩行線三鷹駅に直通する。かつては下りに八千代緑が丘行が存在していたが、現行ダイヤでは全て東葉勝田台行である。日中時はほぼ全列車が中野駅 - 東葉勝田台駅間の快速として運転されている。また朝及び午後以降に中央緩行線三鷹駅 - 東葉勝田台駅間運転の列車が設定されている。 平日朝の上り方面のみ運行され、東葉高速線内は各駅に停車し、東西線西船橋 - 浦安間のみ快速運転する。現行ダイヤでは東葉勝田台駅発中野行き・東葉勝田台発三鷹行きが設定されている。車両や駅によっては「通快」と略して表示される。 東西線内の快速運転時間外および朝夕ラッシュ時のみに運行される。 三鷹駅 - 東葉勝田台駅間の列車・中野駅 - 東葉勝田台駅間の列車双方とも多く運行されるが、深夜と土休日の大半は中野駅発着の運行となる。東陽町駅 - 東葉勝田台駅間の列車や、平日には中野発八千代緑が丘行きが2本設定されている。東葉高速線内のみ運行の八千代緑が丘駅 - 東葉勝田台駅間の列車は平日下りと土休日のみの運行で平日上りの運行はない。ちなみに、西行初電は八千代緑が丘発三鷹行き、東葉勝田台発の初電も三鷹行きである(土休日は両者とも中野行き)。 1999年12月3日までの「快速」は、東西線西船橋 - 東陽町間のみ快速運転で、東葉高速線内は各駅停車だった。速達化を図る目的で、東葉高速線内も快速運転する東葉快速が1999年12月4日のダイヤ改正で新設された。東葉高速線内の停車駅は西船橋駅、北習志野駅、八千代緑が丘駅、東葉勝田台駅。車両や駅によっては「東快」と略して表示されていた。また、中央緩行線三鷹 - 中野間では東葉高速線内各駅停車の快速と同じく「快速」と案内されていた。 当初、平日朝の西船橋方面行と夕方の東葉勝田台行に設定され、1999年12月の新設時は上下2本で運行、2007年3月18日のダイヤ改正で上下4本に増発されたが、元々この東葉快速の設定により、通過駅では通勤時間帯に10分以上の間隔が空くことがあった。このため、東葉快速通過後に到着する電車に乗客が集中することとなり、2008年3月15日のダイヤ改正では上下2本に本数が削減され、2007年3月のダイヤ改正前の運行本数に戻されたが、2009年3月14日のダイヤ改正では朝の上り方面が廃止され、夕方の下り東葉勝田台行のみ4本の運転となった。また、八千代緑が丘駅で各駅停車が待避を兼ねて東葉快速と緩急接続をしていたが、2007年3月のダイヤ改正で下りの待避はなくなった。 2011年3月11日の東日本大震災発生以降、東葉快速の運転は中止されていたが、同年9月12日に平常ダイヤに戻り運転を再開した。 下りの東葉快速も通過駅の乗車人数が年々増加していることから2014年3月15日のダイヤ改正で廃止され、快速に変更されたことにより全ての列車が東葉高速線内は各駅停車となった。 運用される車両も当初はほとんどが東葉高速車であったが、徐々に東京メトロ車での運用が増えていき、2008年3月15日のダイヤ改正から運行終了までは全てメトロの車両で運用されていた。 2021年度の最混雑区間(東海神 → 西船橋間)の混雑率は71%である。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 2006年11月20日から、平日朝ラッシュ時の西行(中野方面)列車に女性専用車が導入されている。東葉勝田台を6:34 - 8:32に出発する列車が対象となる。設定当初は中野まで設定されていたが、大手町駅の出口の関係で2006年11月29日より東京メトロ東西線内大手町までに短縮された。東西線内で9:00を過ぎると解除される。 開業当初から10両編成の列車で統一されている。保安装置の関係上JR東日本の車両が乗り入れることはできない。 車両には東葉高速線が乗り入れ先の東京メトロ東西線も含めて、千葉と東京を結ぶ路線であることから「陽は東から昇り西に沈む」ことをイメージし、「サンライズ(日の出・朝日)を表す赤」・「デイタイム(昼間)の白」・「サンセット(日の入り・夕日)を表すオレンジ」のラインカラーを配している。 距離が比較的に長い東海神駅 - 飯山満駅間に新駅を設置する構想がある。船橋市が設置費用(約65億円)を負担して誘致する請願駅となる予定で2028年(令和10年)度の開業を目指している。同時に老朽化している船橋市立医療センターを新駅予定地の近隣に移転させて周辺一帯を「メディカルタウン」にする構想もある。 当初は2026年(令和8年)度の開業を目指していたが、新型コロナウイルスの影響により、土地区画整理事業が遅れていることを受けて、2年延期することを2023年(令和5年)10月に発表した。
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東葉高速線(とうようこうそくせん)は、千葉県船橋市の西船橋駅と千葉県八千代市の東葉勝田台駅を結ぶ東葉高速鉄道が運営する鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はTR。 「東葉高速線」の路線名は、『鉄道要覧』にも記載されている正式なものである。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Tōyō Rapid Railway Logo.png|25px|link=東葉高速鉄道]] 東葉高速線 |路線色=#00b16b |ロゴ=File:Number prefix Toyo-Rapid.svg |ロゴサイズ=40px |画像=ToyoRapid2104F.jpg |画像サイズ=300px <!-- あくまで「路線記事」なので、このテンプレには東葉高速線内で撮影した画像をお願いします。--> |画像説明=[[東葉高速鉄道2000系電車|東葉高速2000系]]([[飯山満駅]] - [[東海神駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[千葉県]][[船橋市]]・[[八千代市]] |起点=[[西船橋駅]] |終点=[[東葉勝田台駅]] |駅数=9駅 |路線記号=TR |開業={{start date and age|1996|4|27}}<ref name="chibanippo1996428">{{Cite news| title = 21世紀に向け“発進” 東葉高速鉄道 盛大に開業祝う | newspaper = [[千葉日報]] | page = 13 | publisher = 千葉日報社 | date = 1996-04-28 }}</ref> |休止= |廃止= |所有者=[[東葉高速鉄道]] |運営者=東葉高速鉄道 |車両基地=[[八千代緑が丘車両基地]]<br>[[深川車両基地|深川検車区]]ならびに[[深川検車区行徳分室|行徳分室]](東京メトロ車) |使用車両=[[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]] |路線距離=16.2 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= 38‰ (西船橋→東海神)<ref name="Tetsudoukai1996-4">鉄道界図書出版『鉄道界』1996年4月号ニュース「東葉高速線(西船橋 - 東葉勝田台)開業」pp.4 - 20。</ref> |最小曲線半径= 500 m <ref name="Drive1996-5">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1996年5月号ニュース「東葉高速線西船橋 - 東葉勝田台間開業」pp.38 - 40。</ref> |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車制御装置|WS-ATC (ATC-3)]] |最高速度=100 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> |路線図=File:Tōyō Rapid Railway Linemap.svg }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#fff|#00b16b}} {{BS-table}} {{BS|HST|||[[三鷹駅]]|}} {{BS|STR|||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:中央線([[中央・総武緩行線|各駅停車]]・[[中央線快速|快速]])|}} {{BS|HST|||[[中野駅 (東京都)|中野駅]]|}} {{BS3|STR+l|ABZgr|||||}} {{BS3|STR|STR|O2=POINTERg@fq||||[[東京地下鉄|東京メトロ]]:[[東京メトロ東西線|東西線]]|}} {{BS3|LSTR|LSTR||||||}} {{BS3|STRl|STRq|vSTR+r-STR|||JR東:[[総武快速線|総武線(快速)]]|}} {{BS3||LSTR|vSTR|||JR東:総武線(各駅停車)|}} {{BS3||O1=HUBrg|BHF|O2=HUBq|vBHF-STR|O3=HUBeq|0.0|TR01 [[西船橋駅]]||}} {{BS5|hSTRq|hBHFq|O2=HUBe|KRZh|vKRZh||||JR東:[[武蔵野線]]|}} {{BS3||ABZgl|vABZg+r-STR|||JR東:[[京葉線]]|}} {{BS3||tSTRa|vSTR||||}} {{BS3|vSTR+l|tKRZv|vSTRr||||}} {{BS5|STR+l|vKRZu|tKRZ|STRq||||[[京成電鉄|京成]]:[[京成本線|本線]]|}} {{BS5|STR|vSTR|tSTR2|tSTRc3|||||}} {{BS5|STR|vSTR|tSTRc1|tSTR+4||||[[東武鉄道|東武]]:[[東武野田線|野田線]]|}} {{BS5|STR|vSTR|STR+l|tKRZ|HSTq|||[[新船橋駅]]|}} {{BS5|HST|vHST|KHSTe|tSTR||||[[京成船橋駅]]・[[船橋駅]]|}} {{BS5|STRr|vSTR||tBHF||2.1|TR02 [[東海神駅]]||}} {{BS5|vSTRq|vSTRr||htSTRe|||||}} {{BS5||||hKRZW||||[[海老川]]|}} <!--{{BS3|||ehBHF|||新駅}}--> {{BS3|||hBHF|6.1|TR03 [[飯山満駅]]||}} {{BS3|||htSTRa||||}} {{BS5|||STRq|tKRZ|BHFq|O5=HUBa|||[[新京成電鉄|新京成]]:[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]|}} {{BS5||||tBHF|O4=HUBaq||O5=HUBrf|8.1|TR04 [[北習志野駅]]||}} {{BS3|||tBHF|9.8|TR05 [[船橋日大前駅]]||}} {{BS3|||htSTRe||||}} {{BS3|||hKRZW|||[[坪井川 (千葉県)|坪井川]]|}} {{BS3|||hBHF|11.0|TR06 [[八千代緑が丘駅]]||}} {{BS5||||hABZgl|KDSTeq||[[八千代緑が丘車両基地]]||}} {{BS3|||hBHF|13.8|TR07 [[八千代中央駅]]||}} {{BS3|||hKRZW||[[印旛放水路|新川]]橋梁||}} {{BS3|||hBHF|15.2|TR08 [[村上駅 (千葉県)|村上駅]]||}} {{BS3|||htSTRa||||}} {{BS3|||tKBHFe|O3=HUBa|16.2|TR09 [[東葉勝田台駅]]||}} {{BS5|||STRq|BHFq|O4=HUBe|STRq|||[[勝田台駅]]|}} {{BS||||京成:本線|}} |} |} '''東葉高速線'''(とうようこうそくせん)は、[[千葉県]][[船橋市]]の[[西船橋駅]]と千葉県[[八千代市]]の[[東葉勝田台駅]]を結ぶ[[東葉高速鉄道]]が運営する[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''TR'''<ref name="TR-H260303" />。 「東葉高速線」の路線名は、『[[鉄道要覧]]』にも記載されている正式なもの<!--だが、[[車内放送]]など-->で<!--は「東葉高速'''鉄道'''線」と案内される場合が…「東葉高速鉄道線」は東葉高速鉄道の鉄道路線全般(一路線のみの保有であるが)の意味。「新京成電鉄線」「天竜浜名湖鉄道線」などと同様。-->ある。 == 路線データ == * 管轄(事業種別):東葉高速鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):16.2km ** 全線のうち、37%にあたる5,875 mは地下トンネル、59%にあたる9,456 mは橋りょう(高架橋)、4%にあたる774 mは[[土工 (工種)|土工]]区間である<ref name="JRCEA36-37">[[日本鉄道施設協会]]「日本鉄道施設協会誌」1996年9月号 p.36 - 37。</ref>。 ** 時刻表などでは「上り」・「下り」の案内をする場合もあるが、[[東京メトロ東西線]]同様に西船橋→東葉勝田台方面を向かう列車を'''A線'''、東葉勝田台→西船橋方面に向かう列車を'''B線'''と呼称する<ref name="JRCEA36-37"/>。 * [[軌間]]:1,067mm * 駅数:9駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線([[架空電車線方式]]・[[直流電化|直流]]1500[[ボルト (単位)|V]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 保安装置:[[自動列車制御装置|WS-ATC (ATC-3)]] ** 日本国内の架空電車線方式の路線でWS-ATCを使用しているのは[[Osaka Metro堺筋線]]と本路線のみである。 * 最高速度:地上区間:100km/h <ref name="JRCEA41-43">日本鉄道施設協会「日本鉄道施設協会誌」1996年9月号 pp.41 - 43。</ref>(八千代緑が丘 - 八千代中央間のみ<ref name="JRCEA41-43"/>)・地下区間:75km/h <ref name="JRCEA41-43"/> * 最大勾配:38‰ (運輸省特認・西船橋→東海神のA線<ref name="Tetsudoukai1996-4"/>。東海神→西船橋のB線は35‰、ほかにも35‰勾配区間がある<ref name="Tetsudoukai1996-4"/>)。本線ではないが、八千代緑が丘車両基地への入出庫線には40‰ の急勾配がある<ref name="Tetsudoukai1996-4"/> * 車両基地所在地:八千代緑が丘駅 * 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]) [[File:ToyoRapidShelter.jpg|thumb|none|200px|飯山満 - 北習志野間。飯山満トンネルと習志野台トンネルに挟まれた地上区間で、特殊防音壁覆蓋型(シェルター)が設置されている<ref name="PIC1996-8">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1996年8月号「東葉高速鉄道の概要」pp.56 -59。</ref>。]] 当初の計画より変更した主なものは以下の通りである。 * 船橋日大前駅及び村上駅を[[請願駅]]として設置<ref name="JRCEA32">日本鉄道施設協会『日本鉄道施設協会誌』1996年9月号特集「首都圏における新線開業」内「V.東葉高速鉄道 - 東葉高速線 - 」p.32 - 33。</ref>。 * [[船橋市]][[夏見]]付近(東海神 - 飯山満間)の高架区間を地下式に変更<ref name="JRCEA32"/> * 一部開削工法区間を[[新オーストリアトンネル工法|NATM工法]]区間に変更<ref name="JRCEA32"/> * 八千代緑が丘駅の車庫線と本線との交差をオーバーパスからアンダーパスに変更<ref name="JRCEA32"/> * 北習志野駅における新京成線及び東葉勝田台駅における京成線との連絡施設を建設<ref name="JRCEA32"/> ; 主な構造物 :* トンネル<ref name="Tetsudoukai1996-4"/> :** 海神トンネル(東海神駅含む):2,722 m(A線・東葉勝田台方面行き)、2,733 m(B線・西船橋方面行き)<ref>東葉勝田台寄り坑口約216 mに覆蓋(シェルター)設置。</ref> :** 飯山満トンネル:170.5 m <ref>西船橋寄り坑口約76 mに覆蓋(シェルター)設置。</ref> :** 習志野台トンネル(北習志野駅・船橋日大前駅含む):2,366.8 m<ref>飯山満トンネルとの間の地上区間約94 mに覆蓋(シェルター)設置。</ref> :** 勝田台トンネル(東葉勝田台駅含む):615.0 m :* 最長橋梁 新川橋梁(市道第1 - 7架道橋 131 m・市道大和田村上線架道橋 55 m含む):330 m (八千代中央 - 村上間<ref name="Tetsudoukai1996-4"/>) == 歴史 == {{See also|東葉高速鉄道#概要}} * [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月29日]] - 西船橋 - 東葉勝田台間の建設計画を[[運輸省]]が認可<ref name="RP393_108">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=5月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1981-08-01|volume=31|issue=第8号(通巻第393号)|page=108|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[9月20日]] - 西船橋 - 東葉勝田台間の建設工事に着手<ref name="RP456_107">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=9月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1985-12-01|volume=35|issue=第12号(通巻第456号)|page=107|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月28日]] - 第1期開業区間となる西船橋 - 八千代(→八千代中央)間の開業を、1991年4月から1993年(平成5年)4月に延期<ref name="Drive1996-5"/>。 * [[1993年]](平成5年)[[3月18日]] - 第2期区間となる八千代(→八千代中央) - 勝田台(→東葉勝田台)間を含めて、全線の開業を1993年(平成5年)4月から1995年4月に延期<ref name="Drive1996-5"/>。 * [[1995年]](平成7年) ** [[2月22日]] - 全線の開業を1995年(平成7年)4月から1996年4月に延期<ref name="Drive1996-5"/>。 ** [[8月17日]] - 駅名が決定<ref name="chibanippo199521">{{Cite news| title = 東葉高速線の駅名決まる | newspaper = [[千葉日報]] | page = 16 | publisher = 千葉日報社 | date = 1995-08-18 }}</ref>。 ** [[12月7日]] - 東葉高速線に初めて1000形電車が入線する<ref name="JRMA1996-7">日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1996年7月号国内情報「東葉高速線開業の概要」pp.46 - 50。</ref>。 * [[1996年]](平成8年) ** [[1月17日]] - [[習熟運転]]を開始<ref name="Drive1996-5"/>。 ** [[3月16日]] - [[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ東西線|東西線]]との相互直通運転を前提とした、営業運転に近い習熟運転を開始<ref name="Drive1996-5"/>。[[営団5000系電車]]を譲り受けて改造した[[東葉高速鉄道1000形電車|1000形電車]]が東西線で営業運転開始。 * [[1996年]](平成8年)[[4月27日]] - 西船橋 - 東葉勝田台間開業<ref name="chibanippo1996428"/>。営団地下鉄東西線と相互直通運転開始<ref name="chibanippo1996428"/>。 * [[1999年]](平成11年)[[12月6日]] - 前々日のダイヤ改正により、東葉快速を運転開始。 * [[2006年]](平成18年)[[11月20日]] - 平日の朝ラッシュ時に、西船橋・[[中野駅 (東京都)|中野]]方面行きの列車に女性専用車を導入<ref name="ToyoKousoku200610">[https://web.archive.org/web/20080218211713fw_/http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2006/061027/061027.html 女性専用車両を導入します](東葉高速鉄道更新情報・2008年時点の版)。</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が14時46分に発生し終日運休。 ** [[3月14日]] - 地震による発電所の停止に伴う電力供給逼迫で[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]が実施され、東葉快速が運休。 ** [[9月12日]] - 東葉快速が運転再開。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]] - 東葉快速を廃止<ref name="TR-H260207"/>。また、[[駅ナンバリング]]を導入<ref name="TR-H260303"/>。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]] - ダイヤ改正により[[八千代緑が丘駅]]始発の上り始発列車を運転開始。また西船橋行きを取りやめ、八千代緑が丘 - 東葉勝田台間の区間運転を除く全列車を東西線直通化。 * [[2025年]](令和7年)3月 - 保安装置を地上信号方式([[WS-ATC]])から車内信号方式([[CS-ATC]])に更新予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/SafetyReport2022.pdf#page=20 |title=安全報告書 2022 |publisher=東葉高速鉄道 |date=2022-09 |format=PDF |page=18 |accessdate=2022-12-11}}</ref>。 == 運行形態 == ほぼすべての列車が西船橋から[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ東西線|東西線]]と[[直通運転|相互直通運転]]しており、一部は東西線経由で[[中野駅 (東京都)|中野駅]]より[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央・総武緩行線|中央緩行線]]の[[三鷹駅]]まで運転する。東葉高速鉄道保有車両と東京メトロ保有車両による運用があるが、東葉車は[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]が設置されておらずJR線に直通が出来ないため、東葉勝田台 - 西船橋 - 中野間の運用に限られる。 [[終電]]は平日・土休日ともに東葉勝田台駅0時54分着と遅く、[[新京成電鉄新京成線]]や[[京成本線]]に乗り換えることは出来ない。 === 現在の列車種別 === 列車種別は以下の3種類があるが、東葉高速線内は全て各駅に停車する。種別は東京メトロ東西線と共通で、東西線内での種別のまま当線内でも運転する。ただし、下りは種別を案内しないか「各駅停車」と案内する。 {{see also|東京メトロ東西線#列車種別}} ==== 快速 ==== 東葉高速線で最も多く運行されている列車で、東葉高速線内は各駅に停車し、東西線西船橋駅 - 東陽町駅間のみ快速運転をする。全列車が東西線中野駅、さらに一部は同駅から中央緩行線三鷹駅に直通する。かつては下りに八千代緑が丘行が存在していたが、現行ダイヤでは全て東葉勝田台行である。日中時はほぼ全列車が中野駅 - 東葉勝田台駅間の快速として運転されている。また朝及び午後以降に中央緩行線三鷹駅 - 東葉勝田台駅間運転の列車が設定されている。 ==== 通勤快速 ==== 平日朝の上り方面のみ運行され、東葉高速線内は各駅に停車し、東西線西船橋 - [[浦安駅 (千葉県)|浦安]]間のみ快速運転する。現行ダイヤでは東葉勝田台駅発中野行き・東葉勝田台発三鷹行きが設定されている。車両や駅によっては「通快」と略して表示される。 ==== 各駅停車 ==== 東西線内の快速運転時間外および朝夕ラッシュ時のみに運行される。 三鷹駅 - 東葉勝田台駅間の列車・中野駅 - 東葉勝田台駅間の列車双方とも多く運行されるが、深夜と土休日の大半は中野駅発着の運行となる。東陽町駅 - 東葉勝田台駅間の列車や、平日には中野発八千代緑が丘行きが2本設定されている。東葉高速線内のみ運行の八千代緑が丘駅 - 東葉勝田台駅間の列車は平日下りと土休日のみの運行で平日上りの運行はない。ちなみに、西行初電は八千代緑が丘発三鷹行き、東葉勝田台発の初電も三鷹行きである(土休日は両者とも中野行き)。 === 過去の列車種別 === ==== 東葉快速 ==== 1999年12月3日までの「快速」は、東西線西船橋 - [[東陽町駅|東陽町]]間のみ快速運転で、東葉高速線内は各駅停車だった。速達化を図る目的で、東葉高速線内も快速運転する'''東葉快速'''が[[1999年]][[12月4日]]のダイヤ改正で新設された。東葉高速線内の停車駅は西船橋駅、北習志野駅、八千代緑が丘駅、東葉勝田台駅。車両や駅によっては「東快」と略して表示されていた。また、中央緩行線三鷹 - 中野間では東葉高速線内各駅停車の快速と同じく「快速」と案内されていた。 当初、平日朝の西船橋方面行と夕方の東葉勝田台行に設定され、1999年12月の新設時は上下2本で運行、[[2007年]]3月18日のダイヤ改正で上下4本に増発されたが、元々この東葉快速の設定により、通過駅では通勤時間帯に10分以上の間隔が空くことがあった<ref name="ToyoKousoku200703">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070309102408fw_/http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2007/070303/070303kaisei.pdf 3月18日(日)にダイヤ改正を実施します]}}(東葉高速鉄道更新情報・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)。</ref>。このため、東葉快速通過後に到着する電車に乗客が集中することとなり、[[2008年]]3月15日のダイヤ改正では上下2本に本数が削減され、2007年3月のダイヤ改正前の運行本数に戻されたが<ref name="ToyoKousoku200803">[https://web.archive.org/web/20080408134952fw_/http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2008/080303/080303.html ダイヤ改正について](東葉高速鉄道更新情報・2008年時点の版)。</ref>、[[2009年]]3月14日のダイヤ改正では朝の上り方面が廃止され、夕方の下り東葉勝田台行のみ4本の運転となった。また、八千代緑が丘駅で各駅停車が待避を兼ねて東葉快速と緩急接続をしていたが、2007年3月のダイヤ改正で下りの待避はなくなった。 [[2011年]]3月11日の[[東日本大震災]]発生以降、東葉快速の運転は中止されていたが、同年9月12日に平常ダイヤに戻り運転を再開した。 下りの東葉快速も通過駅の乗車人数が年々増加していることから[[2014年]]3月15日のダイヤ改正で廃止され、快速に変更されたことにより全ての列車が東葉高速線内は各駅停車となった<ref name="TR-H260207">{{Cite press release|和書|url=http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260207.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212185500/https://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260207.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ダイヤ改正の実施について|publisher=東葉高速鉄道|date=2014-02-07|accessdate=2021-08-20|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 運用される車両も当初はほとんどが東葉高速車であったが、徐々に東京メトロ車での運用が増えていき、2008年3月15日のダイヤ改正から運行終了までは全てメトロの車両で運用されていた。 == 利用状況 == 2021年度の最混雑区間([[東海神駅|東海神]] → 西船橋間)の[[定員#混雑率・乗車率|混雑率]]は'''71%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和3年度)|date=2022-07-24|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=5|format=PDF}}</ref>。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間(東海神 → 西船橋間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1996年(平成{{0}}8年) | 10 || 14,240 || style="background-color: #ccffcc;"|15,900 || style="background-color: #ccffcc;"|'''112''' | |- |1997年(平成{{0}}9年) | 10 || 14,240 || 16,200 || '''114''' | |- |1998年(平成10年) | 10 || 14,240 || 18,810 || style="background-color: #ffcccc;"|'''132''' | |- |2000年(平成12年) | 12 || || || '''102''' | |- |2002年(平成14年) | 12 || 17,088 || 16,098 || '''94''' | |- |2003年(平成15年) | 12 || || || '''94''' | |- |2004年(平成16年) | 12 || || || '''94''' | |- |2005年(平成17年) | 12 || || || '''97''' | |- |2006年(平成18年) | 12 || || || ''' ''' | |- |2007年(平成19年) | 12 || || || '''119''' | |- |2008年(平成20年) | 12 || || || ''' ''' | |- |2009年(平成21年) | 12 || 18,216 || 19,311 || '''106''' | |- |2010年(平成22年) | 12 || 18,216 || 18,494 || '''102''' | |- |2011年(平成23年) | 12 || 18,216 || 20,337 || '''112''' | |- |2012年(平成24年) | 12 || 18,216 || 18,433 || '''101''' | |- |2013年(平成25年) | 12 || 18,216 || 18,451 || '''101''' | |- |2014年(平成26年) | 12 || 18,216 || 19,905 || '''109''' | |- |2015年(平成27年) | 12 || 18,216 || 20,460 || '''112''' | |- |2016年(平成28年) | 12 || 18,216 || 21,272 || '''117''' | |- |2017年(平成29年) | 12 || 18,216 || style="background-color: #ffcccc;"|21,860 || '''120''' | |- |2018年(平成30年) | 12 || 18,216 || 21,779 || '''120''' | |- |2019年(令和元年) | 12 || 18,216 || 21,055 || '''116''' | |- |2020年(令和{{0}}2年) | 12 || 18,216 || style="background-color: #ccffff;"|10,297 || style="background-color: #ccffff;"|'''57''' | |- |2021年(令和{{0}}3年) | 12 || 18,216 || 12,990 || '''71''' | |} == 女性専用車 == 2006年11月20日から、平日朝ラッシュ時の西行(中野方面)列車に[[女性専用車両|女性専用車]]が導入されている<ref name="ToyoKousoku200610"/>。東葉勝田台を6:34 - 8:32に出発する列車が対象となる。設定当初は中野まで設定されていたが、大手町駅の出口の関係で2006年11月29日より東京メトロ東西線内[[大手町駅 (東京都)|大手町]]までに短縮された。東西線内で9:00を過ぎると解除される。 == 使用車両 == 開業当初から10両編成の列車で統一されている。保安装置の関係上JR東日本の車両が乗り入れることはできない。 車両には東葉高速線が乗り入れ先の[[東京メトロ東西線]]も含めて、[[千葉県|千葉]]と[[東京都|東京]]を結ぶ路線であることから「[[太陽|陽]]は東から昇り西に沈む」ことをイメージし、「[[日の出|サンライズ(日の出・朝日)]]を表す赤」・「[[昼|デイタイム(昼間)]]の白」・「[[夕焼け|サンセット(日の入り・夕日)]]を表すオレンジ」の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]を配している<ref name="SUBWAY2005-3-1">日本地下鉄協会『SUBWAY』2005年3月号車両紹介「新造車両の導入について」pp.48 - 50。</ref>。 === 自社車両 === * [[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]] <gallery> ファイル:Toyo rapid railway 2000 series 2107F Out of service.jpg|2000系 </gallery> === 乗り入れ車両 === * [[東京地下鉄]] ** [[営団05系電車|05系]] ** [[営団07系電車|07系]] ** [[東京メトロ15000系電車|15000系]] <gallery> ファイル:Tokyo-Metro-Series05-R.jpg|05系 ファイル:Tokyo Metro 05 series 05-142f 20200623.jpg|05N系 ファイル:Tokyo-Metro-Series07.jpg|07系 ファイル:Tokyo Metro Tozai 15102 Minami-Gyotoku 20101015.jpg|15000系 </gallery> === 過去の自社車両 === * [[東葉高速鉄道1000形電車|1000形]](1996年4月27日 - 2006年12月4日) <gallery> ファイル:Tōyō Rapid 1008F.JPG|1000形 </gallery> === 過去の乗り入れ車両 === * [[帝都高速度交通営団]]・東京地下鉄 ** [[営団5000系電車|5000系]](1996年4月27日 - 2007年3月17日) <gallery> ファイル:Model 5000-Stainless Steel of Teito Rapid Transit Authority.JPG|営団5000系 </gallery> == 駅一覧 == * 全駅[[千葉県]]内に所在。全営業列車が各駅に停車。[[駅ナンバリング|駅番号]]は[[2014年]][[3月15日]]より順次導入<ref name="TR-H260303">{{Cite press release|和書|url=http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260303.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210820141658/http://www.toyokosoku.co.jp/wp/images/H260303.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「駅ナンバリング」を導入します|publisher=東葉高速鉄道|date=2014-03-03|accessdate=2021-08-20|archivedate=2021-08-20}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00b16b;"|駅番号 !style="width:8em; border-bottom:solid 3px #00b16b;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b16b;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b16b;"|累計キロ !style="border-bottom:solid 3px #00b16b;"|接続路線 !style="border-bottom:solid 3px #00b16b;"|所在地 |- !TR01 |[[西船橋駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |[[東京地下鉄]]:'''[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-23)<br />([[中野駅 (東京都)|中野駅]]経由 [[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|JR中央線]][[三鷹駅]]まで直通運転)'''<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 総武線(各駅停車)(JB 30) ・[[ファイル:JR JM line symbol.svg|18px|JM]] [[武蔵野線]] (JM 10) ・[[ファイル:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] |rowspan="5"|[[船橋市]] |- !TR02 |[[東海神駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|2.1 |&nbsp; |- !TR03 |[[飯山満駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|6.1 |&nbsp; |- !TR04 |[[北習志野駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|8.1 |[[新京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|18px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]] (SL19) |- !TR05 |[[船橋日大前駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|9.8 |&nbsp; |- !TR06 |[[八千代緑が丘駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|11.0 |&nbsp; |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[八千代市]] |- !TR07 |[[八千代中央駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|13.8 |&nbsp; |- !TR08 |[[村上駅 (千葉県)|村上駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|15.2 |&nbsp; |- !TR09 |[[東葉勝田台駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|16.2 |[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]([[勝田台駅]]:KS31) |} == 新駅設置計画 == 距離が比較的に長い東海神駅 - 飯山満駅間に新駅を設置する構想がある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28241050W8A310C1L71000/ 東葉高速鉄道の「船橋新駅」構想が始動] - [[日本経済新聞]] 2018年3月16日</ref>。船橋市が設置費用(約65億円)を負担して誘致する[[請願駅]]となる予定で2028年(令和10年)度の開業を目指している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=千葉 船橋市 東葉高速鉄道の新駅設置へ 新年度予算案に計上 |url=https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20220223/1000077011.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-03-01 |author=日本放送協会 |date=2022-02-23}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=東葉高速線、新駅の開業2年延期 飯山満―東海神間 船橋市、土地区画事業遅れで 2028年度末見込み |url=https://www.chibanippo.co.jp/news/economics/1120493 |website=千葉日報 |access-date=2023-10-24 |date=2023-10-20}}</ref>。同時に老朽化している[[船橋市立医療センター]]を新駅予定地の近隣に移転させて周辺一帯を「メディカルタウン」にする構想もある<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/jouhoukoukai/004/02/0131/p062630_d/fil/sankou2.pdf |title=医療センターが生まれ変わります! |accessdate=2022-03-01 |author=健康福祉局健康・高齢部健康政策課企画係 |website=船橋市}}</ref>。 当初は2026年(令和8年)度の開業を目指していたが、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の影響により、[[土地区画整理事業]]が遅れていることを受けて、2年延期することを2023年(令和5年)10月に発表した<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=千葉・東葉高速鉄道、新駅開業は2年延期 土地区画整理に遅れ |url=https://mainichi.jp/articles/20231023/k00/00m/010/313000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-10-24 |date=2023-10-23 |author=石塚孝志}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』1996年5月号ニュース「東葉高速鉄道 西船橋 - 東葉勝田台間開業」pp.38 - 40(深谷 一男 東葉高速鉄道(株)運輸部運転課長) * 日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1996年7月号国内情報「東葉高速線開業の概要」pp.46 - 50(東葉高速鉄道株式会社技術部車両課 黒川勝之・新井正男) * 日本鉄道施設協会「日本鉄道施設協会誌」1996年9月号「V. 東葉高速鉄道」 == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{デフォルトソート:とうようこうそくてつとうとうようこうそくせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|とうようこうそくせん]] [[Category:第三セクター路線]] [[Category:東葉高速鉄道|路とうようこうそくせん]] [[Category:千葉県の交通]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%91%89%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%89%84%E9%81%93%E6%9D%B1%E8%91%89%E9%AB%98%E9%80%9F%E7%B7%9A
18,074
永久磁石同期電動機
永久磁石同期電動機(えいきゅうじしゃくどうきでんどうき、Permanent Magnet Synchronous Motor; PMSM)は、回転子(界磁)に永久磁石(強磁性体)を使用した同期電動機である。この項目では、制御・駆動用の電源回路が別置きのものを記載する。 利点として、次の点があげられる。 注意事項として次の点があげられる。 鉄道車両用分野では、東芝が鉄道総合技術研究所と組む形で積極的に推進している。それまで主流だった誘導電動機よりも効率が改善されているだけでなく、同じく東芝が推進する全閉自冷式構造の採用により、内部冷却のため外気を通す必要がなく電動機内部の清掃が原則不要となる事から、保守性にも優れている。近年、特に高負荷となる加減速を多用する地下鉄や各駅停車専用車向けで製造される車両を中心に導入が進んでいる。 埋込構造永久磁石同期電動機 (Interior Permanent Magnet Synchronous Motor) は、界磁に永久磁石を埋め込んだ空げきのある常磁性体を使用することにより、永久磁石によるトルクだけではなく、界磁の磁気抵抗の非対称性によるトルク(リラクタンストルク)をも利用できるものである。高速回転でも磁石が脱落する危険が少ない。IPMモータと呼ばれることもある。 表面構造永久磁石同期電動機 (Surface Permanent Magnet Synchronous Motor) は、永久磁石をロータ表面に組み込む形の同期電動機である。SPMモータと呼ばれることもある。磁石の磁束密度を有効に使うことが可能であるが、高速回転では磁石が割れたり、脱落したりする欠点がある。 いずれも専用のインバータと組合わせ、高効率になるような電圧波形で電機子を励磁する。 インバータ制御される電動機を持つ各種機器に使用される。これらの機器すべてにおいて使用されているとは限らず、直流電動機や誘導電動機が使用される場合もある。 鉄道車両用分野では、東芝が主制御装置とセットで積極的に推進していることから、同社と取り引きのある鉄道会社で導入が進んでいる。
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永久磁石同期電動機は、回転子(界磁)に永久磁石(強磁性体)を使用した同期電動機である。この項目では、制御・駆動用の電源回路が別置きのものを記載する。
{{Redirect|PMG|[[深澤辰哉]]・[[向井康二]]・[[宮舘涼太]] ([[Snow Man]]) の楽曲「P.M.G.」|Snow Mania S1}} '''永久磁石同期電動機'''(えいきゅうじしゃくどうきでんどうき、Permanent Magnet Synchronous Motor; ''PMSM'')は、[[回転子]]([[界磁]])に[[永久磁石]]([[強磁性]]体)を使用した[[同期電動機]]である。この項目では、[[制御]]・駆動用の[[電源回路]]が別置きのものを記載する。 == 特徴 == 利点として、次の点があげられる。 *二次銅損(回転子の銅損)がないため、[[誘導電動機]]・[[電磁石同期電動機]]などより高効率で小形・軽量化が可能である。 *[[整流子]]・ブラシ・界磁励磁回路・[[スリップリング]]がなく、保守が容易である。 *界磁の損失による温度上昇がないことから、界磁温度上昇に対する保護が不要である。ただし、界磁に使用されている永久磁石が[[キュリー温度]]に近づくと[[保磁力]]が弱まる。 *回転速度が電源[[周波数]]によって定まり、負荷に応じて変化しないため、速度制御精度が優れている。 *[[誘導電動機]]や[[電磁石同期電動機]]に比べ、[[蓄電池電車]]や[[狭軌]]鉄道の場合に有利。 注意事項として次の点があげられる。 *商用電源駆動が不可能なため、専用の[[VVVFインバータ制御|可変電圧可変周波数制御 (VVVF)]] [[インバータ]]が必要である。 *電動機1台ごとに1台のインバータ(1C1M、すなわち個別制御)が必要である。2in1や4in1としてインバータ装置を集約設置する例もあるが、実態としては電動機の数だけインバータ装置があることに変わりはない。 *惰行での回転でも常に発電する事から、必要に応じて[[遮断器]]を併用する。電気自動車やハイブリッド車ではこれを逆手にとって、通常のエンジン動力車における惰行時のエンジンブレーキ並みの低い減速度で回生する制御をおこなう。運転者がこれをキャンセルさせるために軽くアクセルペダルに足を置く、いわゆる「滑空」と呼ばれるものがある。 *[[正弦波]]駆動のセンサレス制御の場合、直流バスの過電流保護用シャント抵抗の電圧から交流電流を再現し回転子位置を[[マイクロコントローラ]]にて演算するため、高慣性・高トルク負荷の場合、脱調のため起動不能になる場合がある。 *[[矩形波]]駆動のセンサレス制御の場合、逆起電力を検出することで回転子の[[同期電動機#相差角とトルク|位相角]]を検出するため、検出不能な起動時の位置合わせで逆回転する場合があり、安全上の配慮が必要である。 *[[ホール素子]]を用いた[[センサ|センサー]]は、高温に弱い。 鉄道車両用分野では、[[東芝]]が[[鉄道総合技術研究所]]と組む形で積極的に推進している<ref name="toshiba">{{Cite web|和書|title=鉄道車両用永久磁石同期電動機(PMSM)システム |url=http://www.toshiba.co.jp/sis/railwaysystem/jp/solution/eco/pdf/permanent_magnet_synchronous_motor_for_propulsion_systems.pdf |publisher=東芝 |format=PDF |accessdate=2016-06-29}}</ref><ref>[http://www.rtri.or.jp/rd/division/rd42/rd4220/rd42200102.html 永久磁石同期機を用いた全閉形主電動機]、鉄道総合技術研究所</ref>。それまで主流だった誘導電動機よりも効率が改善されているだけでなく、同じく東芝が推進する全閉自冷式構造の採用により、内部冷却のため外気を通す必要がなく電動機内部の清掃が原則不要となる事から、保守性にも優れている。近年<!--- だいたい2011年以降 --->、特に高負荷となる加減速を多用する地下鉄や各駅停車専用車向けで製造される車両を中心に導入が進んでいる。 == 分類 == === 埋込構造永久磁石同期電動機 === '''埋込構造永久磁石同期電動機''' (Interior Permanent Magnet Synchronous Motor) は、界磁に永久磁石を埋め込んだ空げきのある[[常磁性]]体を使用することにより、永久磁石による[[トルク]]だけではなく、界磁の[[磁気抵抗]]の非対称性によるトルク(リラクタンストルク)をも利用できるものである。高速回転でも磁石が脱落する危険が少ない。IPMモータと呼ばれることもある。 === 表面構造永久磁石同期電動機 === 表面構造永久磁石同期電動機 (Surface Permanent Magnet Synchronous Motor) は、永久磁石をロータ表面に組み込む形の同期電動機である。SPMモータと呼ばれることもある。磁石の磁束密度を有効に使うことが可能であるが、高速回転では磁石が割れたり、脱落したりする欠点がある。 いずれも専用の[[インバータ]]と組合わせ、高効率になるような[[電圧]]波形で[[電機子]]を励磁する。 == 用途 == インバータ制御される電動機を持つ各種機器に使用される。これらの機器すべてにおいて使用されているとは限らず、[[直流電動機]]や[[誘導電動機]]が使用される場合もある。 * [[電気自動車]]・[[ハイブリッドカー]] * [[エレベーター]] * [[電車]]などの鉄道車両 * インバータ駆動の[[家電機器|家電製品]]([[エアコン]]、[[冷蔵庫]]、[[洗濯機]]など) 鉄道車両用分野では、東芝が主制御装置とセットで積極的に推進していることから、同社と取り引きのある鉄道会社で導入が進んでいる。 == 注記 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [https://www.jeea.or.jp/course/contents/07111/ 音声付き電気技術解説講座 > 電気機器 > PM同期モータについて ] 日本電気技術者協会 *{{PDFLink|[https://www.jema-net.or.jp/jema/data/5239system.pdf 知っておきたいPMモータ]}} [[日本電機工業会]] == 関連項目 == * [[永久磁石同期発電機]] * [[電磁石同期電動機]] * [[無整流子電動機]] - [[直流整流子電動機]]をそのまま置き換えられるように、制御回路が組み込まれた電動機である。入力は直流、電動機の構造は永久磁石同期電動機と同じである。 *[[JR東日本E331系電車]]日本国内の新製車両として初めてPMSMを搭載した営業試験車 *[[JR九州305系電車]] *[[営団01系電車]] *[[営団02系電車]] *[[営団05系電車]] *[[東京メトロ1000系電車]] *[[東京メトロ2000系電車]] *[[東京メトロ13000系電車]] *[[東京メトロ16000系電車]] *[[東京メトロ17000系電車]] *[[東京メトロ18000系電車]] *[[東武70000系電車]] *[[西武40000系電車]] *[[阪神5700系電車]] *[[阪急1000系電車 (2代)]] *[[北大阪急行電鉄9000形電車]] *[[釜山交通公団1000系電車|釜山都市鉄道2代目1000系]] *[[ソウル特別市都市鉄道公社5000系電車|ソウル交通公社5000系]]・[[ソウル特別市都市鉄道公社7000系電車|7000系]](共通設計新型車両) == 外部リンク == *[http://www.neomag.jp/mailmagazines/topics/letter201007.html 交流で回転する同期モータ](ネオマグ株式会社) {{電動機}} {{DEFAULTSORT:えいきゆうししやくとうきてんとうき}} [[Category:電動機]]
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玄武
玄武(げんぶ、拼音: xuánwŭ ショワンウー)は、中国の神、四象の「太陰(老陰)」、四神の一つ、霊獣。北の星宿の神格化。玄天上帝ともいう。宋代には避諱のため、真武と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられている。上帝翁、上帝公などとも呼ばれる。福建省では黒虎(こっこ)に置き換わっている。 玄武は、北方を守護する、水神。玄は黒を意味し、黒は五行説では北方の色とされ水を表す。 亀蛇合体像の形をとる。脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれたり、尾が蛇となっている場合などもある。ただし玄天上帝としては黒服の男性に描かれる。 古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、陰陽が合わさる様子に例えている。 「玄武」の本来の表記は(発音は同じ)「玄冥」(「冥」は「陰」を意味し、玄武は「太陰神」とされた)であり、(北方の神である)玄武は、(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて(亀卜=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。玄武は、暗闇を司っており、こっそり、盗難、多淫などをあらわす。 「玄武」の「武」は、玄武の「武神」としての神性に由来し、後漢の蔡邕は「北方の玄武、甲殻類の長である」と述べ、北宋の洪興祖は「武という亀蛇は、北方にいる。故に玄と言う。身体には鱗と甲羅があり故に武という」と述べた。玄武の武神としての神性は、信仰を得られず、唐宋以降には伝わらなかった。 中国天文学では、周天を天の赤道帯に沿って4分割した1つで、北方七宿の総称。北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿に象った。 日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の北側壁にも玄武が描かれている。 俳句において冬の季語である「冬帝」・「玄帝」と同義であり、冬(北・玄)の象徴である。なお、冬のことを「玄冬」ともいう。 白虎、青竜、朱雀とともに四神という形で一組にされ、西を白虎、東を青龍、南を朱雀と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。玄武は北方の守護を司どるが、玄武と北方との結び付きは、五行説が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら戦国時代ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。
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玄武は、中国の神、四象の「太陰(老陰)」、四神の一つ、霊獣。北の星宿の神格化。玄天上帝ともいう。宋代には避諱のため、真武と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられている。上帝翁、上帝公などとも呼ばれる。福建省では黒虎(こっこ)に置き換わっている。
{{Otheruses|中国の神|その他}} {{出典の明記|date=2017年12月}} {{中華圏の事物 |タイトル=玄武 |画像種別= |画像=[[File:Genbu from Takamatsuzuka.JPEG|250px]] |画像の説明=玄武([[高松塚古墳]]壁画)。 |英文=Xuanwu / Black Tortoise |簡体字= |繁体字= |ピン音=xuánwŭ |通用= |注音符号= |ラテン字= |広東語ピン音= |広東語= |上海語= |閩南語白話字= |台湾語= |カタカナ=ショワンウー |ひらがな=げんぶ }} [[File:Zhenwu.JPG|thumb|200px|玄武(玄天上帝)。]] {{二十八宿}} '''玄武'''(げんぶ、{{ピン音|xuánwŭ|ショワンウー}})は、[[中国]]の[[神]]、[[四象]]の「太陰(老陰)」、[[四神]]の一つ、[[霊獣]]。北の[[二十八宿|星宿]]の神格化。'''玄天上帝'''ともいう。[[宋 (王朝)|宋]]代には[[避諱]]のため、'''真武'''と改名されている。[[清]]代には'''北極佑聖真君'''に封じられている。'''上帝翁'''、'''上帝公'''などとも呼ばれる。[[福建省]]では黒虎(こっこ)に置き換わっている。 == 概要 == 玄武は、北方を守護する、[[水神]]。玄は[[黒]]を意味し、黒は[[五行思想|五行説]]では北方の色とされ水を表す。 亀蛇合体像の形をとる。[[脚]]の長い[[カメ|亀]]に[[蛇]]が巻き付いた形で描かれたり、尾が蛇となっている場合などもある。ただし玄天上帝としては黒服の男性に描かれる。 古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、[[後漢]]末の[[魏伯陽]]は「[[周易参同契]]」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、[[陰陽]]が合わさる様子に例えている。 「玄武」の本来の表記は(発音は同じ)「玄冥」(「冥」は「陰」を意味し、玄武は「[[太陰]]神」とされた)であり、(北方の神である)玄武は、(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて([[亀卜]]=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。玄武は、暗闇を司っており、こっそり、盗難、多淫などをあらわす。 「玄武」の「武」は、玄武の「武神」としての神性に由来し、後漢の[[蔡邕]]は「北方の玄武、甲殻類の長である」と述べ、[[北宋]]の[[洪興祖]]は「武という亀蛇は、北方にいる。故に玄と言う。身体には鱗と甲羅があり故に武という」と述べた。玄武の武神としての神性は、信仰を得られず、[[唐]]宋以降には伝わらなかった。 中国天文学では、周天を[[天の赤道]]帯に沿って4分割した1つで、北方七宿の総称。北方七宿の形をつなげて[[ヘビ|蛇]]のからみついた[[カメ|亀]]の姿に象った。 日本では、[[奈良県]]の[[薬師寺]]金堂の本尊台座や、[[明日香村]]の[[キトラ古墳]]の石槨内壁の北側壁にも玄武が描かれている。 [[俳句]]において[[冬]]の[[季語]]である「冬帝」・「玄帝」と同義であり、冬(北・玄)の象徴である。なお、冬のことを「玄冬」ともいう<ref group="注釈">「厳冬(げんとう)」は冬の寒さが最も厳しい頃を言う[[同音異義語]]である。</ref>。 == 中国神話の玄武 == [[白虎]]、[[青竜]]、[[朱雀]]とともに[[四神]]という形で一組にされ、西を白虎、東を青龍、南を朱雀と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。玄武は北方の守護を司どるが、玄武と北方との結び付きは、[[五行思想|五行説]]が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連項目== {{Commonscat|Black Tortoise}} {{Wiktionary|玄武}} *[[ケートス]] - [[白虎]]と共に星座上で該当し([[:en:Cetus in Chinese astronomy|英語版]])、ケートスにも水に関連し冥界を行き来する伝承が存在する。 *[[十二天将]] *[[玄武隊]] *[[玄武洞]] *[[玄武岩]] *[[玄武門の変]] *[[MAO (漫画)|MAO]]([[高橋留美子]]) {{東アジアの伝説の生物}} {{DEFAULTSORT:けんふ}} [[Category:四神]] [[Category:中国神話の生物]] [[Category:道教の神]] [[Category:中国神話の神]] [[Category:神話・伝説の亀]] [[Category:神話・伝説の蛇]]
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白虎
白虎(びゃっこ、拼音: báihŭ バイフー)は、中国の伝説上の神獣である四神の1つで、西方を守護する。白い虎の形をとる。白は、五行説では西方の色とされる。 文献上は『礼記』曲礼上や『淮南子』天文訓に載せる。なお、漢代の文献には西方を白虎としないものもあり、『礼記』では麟(りん、麒麟)・鳳(ほう、鳳凰)・亀(き、霊亀)・竜(りゅう、応竜)を四霊とし、虎のかわりに麒麟があげられている。また『史記』では西方を白虎でなく咸池とする。 中国天文学では、周天を天の赤道帯に沿って4分割した1で、二十八宿のうち西方七宿(奎・婁・胃・昴・畢・觜・参)を総称して白虎とした。 日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の西側壁にも白虎が描かれている。その他、神田明神、秩父神社など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 俳句において秋の季語である「白帝」と同義であり、秋(西・白)の象徴である。 朱雀、玄武、青龍とともに四神という形で一組にされ、南を朱雀、北を玄武、東を青龍と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。白虎は西方の守護を司どるが、白虎と西方との結び付きは、五行説が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら戦国時代ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 東京都港区虎ノ門にはかつて門があり、江戸時代江戸城西に位置したため、白虎にちなんで虎ノ門と呼ばれたという。 いわゆる四神・四獣は伝説上の生物とされているが、白変種による白い虎はホワイトタイガーとして実在する。
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白虎は、中国の伝説上の神獣である四神の1つで、西方を守護する。白い虎の形をとる。白は、五行説では西方の色とされる。 文献上は『礼記』曲礼上や『淮南子』天文訓に載せる。なお、漢代の文献には西方を白虎としないものもあり、『礼記』では麟(りん、麒麟)・鳳(ほう、鳳凰)・亀(き、霊亀)・竜(りゅう、応竜)を四霊とし、虎のかわりに麒麟があげられている。また『史記』では西方を白虎でなく咸池とする。 中国天文学では、周天を天の赤道帯に沿って4分割した1で、二十八宿のうち西方七宿(奎・婁・胃・昴・畢・觜・参)を総称して白虎とした。 日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の西側壁にも白虎が描かれている。その他、神田明神、秩父神社など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 俳句において秋の季語である「白帝」と同義であり、秋(西・白)の象徴である。
{{Otheruses|霊獣}} {{中華圏の事物 |タイトル= 白虎 |画像種別= |画像= [[File:Asuka Byako.JPEG|250px]] |画像の説明= 白虎([[高松塚古墳]]の壁画)。 |英文= Baihu / White Tiger |簡体字= |繁体字= |ピン音= báihŭ |通用 = |注音符号= |ラテン字= |広東語ピン音= |広東語= |上海語= |閩南語白話字= |台湾語= |カタカナ=バイフー |ひらがな=びゃっこ }} {{二十八宿}} '''白虎'''(びゃっこ、{{ピン音|báihŭ|バイフー}})は、中国の[[伝説]]上の神獣である[[四神]]の1つで、西方を守護する。白い虎の形をとる。[[白]]は、[[五行思想|五行説]]では西方の色とされる。 文献上は『[[礼記]]』曲礼上や『[[淮南子]]』天文訓に載せる。なお、漢代の文献には西方を白虎としないものもあり、『礼記』礼運では麟(りん、[[麒麟]])・鳳(ほう、[[鳳凰]])・亀(き、[[霊亀 (四霊)|霊亀]])・[[竜]](りゅう、[[応竜]])を四霊とし、虎のかわりに麒麟があげられている<ref>[[s:zh:禮記/禮運|『礼記』礼運]]「麟・鳳・亀・龍、謂之四霊。」</ref>。また『[[史記]]』『[[漢書]]』では西方を白虎でなく咸池とし、白虎は[[参宿]]の別名とする<ref>[[s:zh:史記/卷027|『史記』天官書]][[s:zh:漢書/卷026|『漢書』天文志]]「東宮蒼龍…南宮朱鳥…西宮咸池…北宮玄武」</ref>。 中国天文学では、周天を[[天の赤道]]帯に沿って4分割した1で、[[二十八宿]]のうち西方七宿([[奎宿|奎]]・[[婁宿|婁]]・[[胃宿|胃]]・[[昴宿|昴]]・[[畢宿|畢]]・[[觜宿|觜]]・[[参宿|参]])を総称して白虎とした。 日本では、[[奈良県]]の[[薬師寺]]金堂の本尊台座や、[[明日香村]]の[[キトラ古墳]]の石槨内壁の西側壁にも白虎が描かれている。その他、[[神田明神]]、[[秩父神社]]など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 [[俳句]]において[[秋]]の[[季語]]である「白帝」と同義であり、秋(西・白)の象徴である。 == 中国神話の白虎 == [[朱雀]]、[[玄武]]、[[青竜|青龍]]とともに[[四神]]という形で一組にされ、南を朱雀、北を玄武、東を青龍と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。白虎は西方の守護を司どるが、白虎と西方との結び付きは、[[五行思想|五行説]]が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 ==地名== [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]にはかつて門があり、[[江戸時代]][[江戸城]]西に位置したため、白虎にちなんで虎ノ門と呼ばれたという<ref>{{citation|和書|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/39.html|title=虎ノ門(とらのもん)|publisher=港区公式ホームページ}}</ref>。 == ホワイトタイガー == [[ファイル:Singapore Zoo Tigers.jpg|thumb|left|200px|ホワイトタイガー]] いわゆる[[四神]]・四獣は伝説上の生物とされているが、[[白変種]]による白い虎は[[ホワイトタイガー]]として実在する。 {{Clearleft}} == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|White Tiger (Chinese mythology)}} {{Wiktionary|白虎}} * [[十二天将]] * [[白虎隊]] * [[バクホー油田]] {{東アジアの伝説の生物}} {{デフォルトソート:ひやつこ}} [[Category:四神]] [[Category:神話・伝説の虎]] [[Category:中国神話の生物]] [[Category:中国神話の神]]
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朱雀
朱雀(すざく、すじゃく、しゅじゃく、拼音: zhūquè チューチュエ)とは、中国の伝説上の神獣(神鳥)で、四神(四獣・四象)・五獣の一つで朱鳥とも呼ばれる。福建省では赤虎(せきこ)に置き換わっている。 朱雀は南方を守護する神獣とされる。長生の神とされ、天之四霊の一つである。赤い翼を広げた鳳凰様の鳥形で表される。同じく中国古代の想像上の鳥である鳳凰とは異なるが、同一起源とする説もあり、同一視されることもある。あくまで神格のある鳥であり、信仰の対象ではあるがいわゆる悪魔や唯一神、列神の類ではないことが最大の特徴である。 万物は木、火、土、金、水の5種類の元素からなるとする古代中国の五行説では、「火」の象徴であり、方位は「南」に該当する。 日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の南側壁にも朱雀が描かれている。その他、神田明神、秩父神社など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 俳句において夏の季語である「炎帝」・「赤帝」と同義である。春・秋・冬の場合はそれぞれ「青帝(蒼帝)」・「白帝」・「玄帝」と色に相応する名前があるが、夏の場合は「炎帝」しか普及していない(「赤帝」はほぼ使われておらず、「朱帝」に至っては歳時記に掲載されていない)。なお、夏のことを「朱夏」ともいう。 玄武、青竜、白虎とともに四神という形で一組にされ、北を玄武、東を青龍、西を白虎と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。朱雀は南方の守護を司どるが、朱雀と南方との結び付きは、五行説が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら戦国時代ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 朱雀は、私年号として、寺社の縁起や地方の地誌等に散見される。私年号は逸年号とも呼ばれ、『日本書紀』に現れない年号をいう。通説では、天武天皇が定めた元号である「朱鳥」(686年)の別称、美称とされる(坂本太郎等の説)。読み方は上記の「すざく」「すじゃく」「しゅじゃく」のほか「あかすずみ」と読まれた可能性も考えられる。 8世紀の終わりに成立した『続日本紀』の神亀元年(724年)冬十月の条には聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」という記述がみられる。 中国の星座である二十八宿(月の見かけ上の通り道である白道を28分したもの)は、四神の名によって7宿ずつ4つにまとめられ、それぞれが四神の姿をかたどるとされる。 そのうちの1つ、南方朱雀に属する7宿のうち、中央の「星宿」は、西洋星座のうみへび座の心臓部に当たり、その中心は、うみへび座の最輝星うみへび座α星である。「孤独な者」を意味する名をもつこの2等星は、明るい星の少ない中にあって目立つ星であり、「星」という宿名からもわかるように、中国の天文家にも、最も古くから知られてきた星の一つであった。このオレンジ色の星が、ライチョウなど羽色が橙色系の胸をもつ鳥とともに、「朱雀」という瑞鳥のイメージの成立に、何らかの形で関与している可能性もある。 なお、同じ南方朱雀の「翼宿」は、朱雀の翼である。
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朱雀とは、中国の伝説上の神獣(神鳥)で、四神(四獣・四象)・五獣の一つで朱鳥とも呼ばれる。福建省では赤虎(せきこ)に置き換わっている。
{{Otheruses|伝説上の生物|その他}} {{中華圏の事物 |タイトル=朱雀 |画像種別= |画像=[[File:Wadang-zhuque.jpg||250px]] |画像の説明= 朱雀の[[意匠]]を施した[[瓦]]。 |英文= Zhuque / Vermilion Bird |簡体字= |繁体字= |ピン音=zhūquè |通用= |注音符号= |ラテン字= |広東語ピン音= |広東語= |上海語= |閩南語白話字= |台湾語= |カタカナ=チューチュエ |ひらがな=すざく<br>すじゃく<br>しゅじゃく }} {{二十八宿}} '''朱雀'''(すざく、すじゃく、しゅじゃく、{{ピン音|zhūquè|チューチュエ}})とは、[[中華人民共和国|中国]]の[[伝説]]上の神獣(神鳥)で、[[四神]](四獣・四象)・[[五行思想|五獣]]の一つで'''朱鳥'''(しゅちょう)とも呼ばれる。[[福建省]]では赤虎(せきこ)に置き換わっている。 ==概要== 朱雀は南方を守護する神獣とされる。長生の神とされ、[[天之四霊]]の一つである<ref>『古文参同契集解』「文昌為太微主星,即魁中戴筐六星,号南極統星,為人身,朱雀之神,録人長生之籍」</ref>。赤い翼を広げた[[鳳凰]]様の[[鳥類|鳥]]形で表される。同じく中国古代の想像上の鳥である鳳凰とは異なるが、同一起源とする説もあり、同一視されることもある。あくまで神格のある鳥であり、信仰の対象ではあるがいわゆる悪魔や唯一神、列神の類ではないことが最大の特徴である。 万物は木、火、土、金、水の5種類の元素からなるとする古代中国の[[五行思想|五行説]]では、「火」の象徴であり、方位は「南」に該当する。 日本では、[[奈良県]]の[[薬師寺]]金堂の本尊台座や、[[明日香村]]の[[キトラ古墳]]の石槨内壁の南側壁にも朱雀が描かれている。その他、[[神田明神]]、[[秩父神社]]など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 [[俳句]]において[[夏]]の[[季語]]である「炎帝」・「赤帝」と同義である。春・秋・冬の場合はそれぞれ「青帝(蒼帝)」・「白帝」・「玄帝」と色に相応する名前があるが、夏の場合は「炎帝」しか普及していない(「赤帝」はほぼ使われておらず、「朱帝」に至っては歳時記に掲載されていない)。なお、夏のことを「朱夏」ともいう。 ==中国神話の朱雀== [[玄武]]、[[青竜]]、[[白虎]]とともに[[四神]]という形で一組にされ、北を玄武、東を青龍、西を白虎と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。朱雀は南方の守護を司どるが、朱雀と南方との結び付きは、[[五行思想|五行説]]が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 ==日本の私年号としての朱雀== 朱雀は、[[私年号]]として、[[寺社]]の縁起や地方の地誌等に散見される。私年号は逸年号とも呼ばれ、『[[日本書紀]]』に現れない[[年号]]をいう。通説では、[[天武天皇]]が定めた元号である「[[朱鳥]]」([[686年]])の別称、美称とされる([[坂本太郎_(歴史学者)|坂本太郎]]等の説)。読み方は上記の「すざく」「すじゃく」「しゅじゃく」のほか「あかすずみ」と読まれた可能性も考えられる<ref>『日本書紀』巻第二十九天武天皇下、天武天皇9年7月10日条「朱雀(あかすずみ、赤い[[スズメ]])南門に有り」、10年7月1日条「朱雀見ゆ」</ref>。 8世紀の終わりに成立した『[[続日本紀]]』の[[神亀]]元年([[724年]])冬十月の条には[[聖武天皇]]の[[詔]]として「[[白鳳]]より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」という記述がみられる。 == 星空の朱雀 == 中国の[[星座]]である[[二十八宿]]([[月]]の見かけ上の通り道である[[白道]]を28分したもの)は、四神の名によって7宿ずつ4つにまとめられ、それぞれが四神の姿をかたどるとされる。 そのうちの1つ、南方朱雀に属する7宿のうち、中央の「[[星宿]]」は、西洋星座の[[うみへび座]]の心臓部に当たり、その中心は、うみへび座の最輝星[[アルファルド|うみへび座α星]]である。「孤独な者」を意味する名をもつこの2等星は、明るい星の少ない中にあって目立つ星であり、「星」という宿名からもわかるように、中国の天文家にも、最も古くから知られてきた星の一つであった。このオレンジ色の星が、[[ライチョウ]]など羽色が橙色系の胸をもつ鳥とともに、「朱雀」という瑞鳥のイメージの成立に、何らかの形で関与している可能性もある。 なお、同じ南方朱雀の「[[翼宿]]」は、朱雀の翼である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Vermilion Bird}} {{Wiktionary|朱雀}} * [[二中歴]]・[[海東諸国記]] *[[十二天将]] *[[朱雀隊]] *[[朱雀大路]]・[[朱雀門]] *[[朱雀院]] *[[朱雀天皇]]・[[後朱雀天皇]] *[[朱雀帝]] {{東アジアの伝説の生物}} {{日本の私年号}} {{DEFAULTSORT:すさく}} [[Category:日本の私年号]] [[Category:飛鳥時代|元すさく]] [[Category:中国天文学]] [[Category:四神]] [[Category:神話・伝説の鳥]] [[Category:中国神話の生物]] [[Category:中国神話の神]]
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青竜
青竜(旧字体: 靑龍、せいりゅう、せいりょう、拼音: qīnglóng チンロン)は、中国の伝説上の神獣で東西南北を守護する四神(四象)の1つ。東方を守護し、蒼竜(そうりゅう)とも呼ばれる。青龍は古来瑞兆とされており、幸運の天之四霊とは蒼竜、朱雀、玄武、白虎のこと。青龍は、春(1月、2月、3月)を司る。 現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように緑色植物の色であり、本来は緑色を指しているとされる。また、青は五行説では東方の色とされる。 天文学上は、二十八宿の東方七宿に対応する。東方七宿(角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿)をつなげて竜の姿に見立てたことに由来する。 道教における人格神化した名前では、神君「孟章」と呼ばれ、「龍族」の始祖とされた。 清瀧権現の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。 日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の東側壁にも青龍が描かれている。その他、神田明神、秩父神社など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 俳句において春の季語である「青帝(せいてい)」・「蒼帝(そうてい)」・「東帝」と同義であり、春(東・青)の象徴である。但し、「炎帝」・「白帝」・「玄帝(冬帝)」と違い、「青帝」はあまり使われない季語であるため、小型の歳時記や季寄せから削除されている場合が多い。なお、春のことを「青春」ともいう。 朱雀、玄武、白虎とともに四神という形で一組にされ、南を朱雀、北を玄武、西を白虎と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。青龍は東方の守護を司どるが、青龍と東方との結び付きは、五行説が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら戦国時代ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 青龍山、青竜山を山号とする寺院は以下の通り。
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青竜は、中国の伝説上の神獣で東西南北を守護する四神(四象)の1つ。東方を守護し、蒼竜(そうりゅう)とも呼ばれる。青龍は古来瑞兆とされており、幸運の天之四霊とは蒼竜、朱雀、玄武、白虎のこと。青龍は、春(1月、2月、3月)を司る。 現代日本語では青は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように緑色植物の色であり、本来は緑色を指しているとされる。また、青は五行説では東方の色とされる。 天文学上は、二十八宿の東方七宿に対応する。東方七宿(角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿)をつなげて竜の姿に見立てたことに由来する。 道教における人格神化した名前では、神君「孟章」と呼ばれ、「龍族」の始祖とされた。 清瀧権現の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。 日本では、奈良県の薬師寺金堂の本尊台座や、明日香村のキトラ古墳の石槨内壁の東側壁にも青龍が描かれている。その他、神田明神、秩父神社など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 俳句において春の季語である「青帝(せいてい)」・「蒼帝(そうてい)」・「東帝」と同義であり、春(東・青)の象徴である。但し、「炎帝」・「白帝」・「玄帝(冬帝)」と違い、「青帝」はあまり使われない季語であるため、小型の歳時記や季寄せから削除されている場合が多い。なお、春のことを「青春」ともいう。
{{otheruses}} {{中華圏の事物 |タイトル=青竜 |画像種別= |画像=[[File:Wadang-qinglong.jpg|250px]] |画像の説明=青竜の[[意匠]]を施した[[瓦]]。 |繁体字=青龍 |簡体字=青龙 |ピン音=qīnglóng |通用ピン音= |注音符号= |ラテン字= |カタカナ=チンロン |広東語ピン音= |広東語発音= |上海語ピン音= |上海語発音= |閩南語白話字= |閩南語発音= |台湾語白話字= |台湾語発音= |閩東語平話字= |閩東語発音= |漢音読み= |慣用読み= |ひらがな=せいりゅう |英文=Qinglong / Azure Dragon }}{{二十八宿}} '''青竜'''({{旧字体|靑龍}}、せいりゅう、せいりょう、{{ピン音|qīnglóng|チンロン}})は、[[中国]]の[[伝説]]上の神獣で東西南北を守護する[[四神]](四象)の1つ。東方を守護し、'''蒼竜'''(そうりゅう)とも呼ばれる。青龍は古来瑞兆とされており、幸運の[[天之四霊]]とは蒼竜、[[朱雀]]、[[玄武]]、[[白虎]]のこと<ref>『三輔黄図』「青龍、白虎、朱雀、玄武,天之四霊,以正四方」</ref>。青龍は、[[春]](1月、2月、3月)を司る<ref>{{Cite web|和書|url=https://oggi.jp/6752210#i-5 |title=「青龍」とは? その意味や「ご利益」、「四神獣」に関係する言葉を徹底解説! |access-date=2023-07-06 |publisher=Oggi.jp |date=2022-07-05}}</ref>。 現代日本語では[[青]]は英語で言うブルーを意味することが多いが、「青」の原義は青山(せいざん)・青林(せいりん)のように[[緑色植物亜界|緑色植物]]の色であり、本来は[[緑#緑をさす「青」|緑色]]を指しているとされる。また、青は[[五行思想|五行説]]では東方の色とされる<ref>『太上洞玄霊宝十師度人妙経』「東海龍王,青衣青冠,青幢青蓋...南海龍王,赤衣赤冠,赤幢赤蓋」</ref><ref>『道法会元』「右符訣在角宿下五指甲右。存四海龍王,并龍,随其方色」</ref><ref>しかし、『西遊記』では、四海龍王の名は'''西海'''は敖閏と記されている。『西遊記』「西海龍王敖閏,与太子摩昂,領水兵助戦,把三頭犀牛収服。行者謝了天兵、龍王,救出師父」</ref>。 天文学上は、[[二十八宿]]の東方七宿に対応する。東方七宿([[角宿]]・[[亢宿]]・[[氐宿]]・[[房宿]]・[[心宿]]・[[尾宿]]・[[箕宿]])をつなげて[[竜]]の姿に見立てたことに由来する。 [[道教]]における人格神化した名前では、神君「孟章」と呼ばれ<ref>『雲笈七籤』「左有青龍名孟章,右有白虎名監兵,前有朱雀名陵光,後有玄武名執明」</ref>、「龍族」の始祖とされた<ref>『金鎖流珠引』「東方青龍祖孟章」</ref>。 [[清瀧権現]]の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。 日本では、[[奈良県]]の[[薬師寺]]金堂の本尊台座や、[[明日香村]]の[[キトラ古墳]]の石槨内壁の東側壁にも青龍が描かれている。その他、[[神田明神]]、[[秩父神社]]など多くの場所で四神の彫像や絵を確認できる。 [[俳句]]において[[春]]の[[季語]]である「青帝(せいてい)」・「蒼帝(そうてい)」・「東帝」と同義であり、春(東・青)の象徴である。但し、「炎帝」・「白帝」・「玄帝(冬帝)」と違い、「青帝」はあまり使われない季語であるため、小型の[[歳時記]]や季寄せから削除されている場合が多い。なお、春のことを「[[青春]]」ともいう。 == 中国神話の青龍 == [[朱雀]]、[[玄武]]、[[白虎]]とともに[[四神]]という形で一組にされ、南を朱雀、北を玄武、西を白虎と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。青龍は東方の守護を司どるが、青龍と東方との結び付きは、[[五行思想|五行説]]が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった。 == 山岳 == *[[青龍山 (多賀町)]] - [[滋賀県]][[犬上郡]][[多賀町]]にある標高333mの山。 *[[青龍山 (美馬市)]] - [[徳島県]][[美馬市]]にある標高820mの山。 == 山号 == 青龍山、青竜山を山号とする寺院は以下の通り。 * [[勝国寺 (世田谷区)|勝国寺]]([[東京都]][[世田谷区]]) * [[養寿院]]([[埼玉県]][[川越市]]) * [[林泉寺 (文京区)|林泉寺]](東京都[[文京区]]) * [[薬王寺 (白井市)|薬王寺]]([[千葉県]][[白井市]]) * [[瑞泉寺 (犬山市)|瑞泉寺]]([[愛知県]][[犬山市]]) * [[吉祥寺 (群馬県川場村)|吉祥寺]]([[群馬県]][[川場村]]) * [[本覚寺 (静岡市)|本覚寺]]([[静岡県]][[静岡市]]) * [[西音寺 (滋賀県多賀町)|西音寺]]([[滋賀県]][[多賀町]]) * [[浄光寺 (葛飾区)|浄光寺]](東京都[[葛飾区]]) * [[金蓮寺 (西尾市)|金蓮寺]](愛知県[[西尾市]]) * [[茂林寺]]([[群馬県]][[館林市]]) * [[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]([[神奈川県]][[鎌倉市]]) * [[瑞巌寺]]([[宮城県]][[松島町]]) * [[野中寺]]([[大阪府]][[羽曳野市]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Azure Dragon}} {{Wiktionary|青竜}} * [[十二天将]] * [[青龍隊]] * [[青龍偃月刀]] * [[小青竜湯]] * [[蒼龍 (空母)]] * [[蒼龍 (御召艦)]] * [[そうりゅう (潜水艦)]] {{東アジアの伝説の生物}} {{デフォルトソート:せいりゆう}} [[Category:四神]] [[Category:中国の竜]] [[Category:日本の竜]] [[Category:中国神話の神]]
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バンシー
バンシー(英語: banshee、アイルランド語: bean sidhe)は、アイルランドおよびスコットランドに伝わる妖精である。人の死を叫び声で予告するという。 バンシーの叫びが聞こえた家では近いうちに死者が出るとされるが、死が近い人の家すべてに現れるというわけではなく、純粋なケルトやゲール系の家族のもとにしか来ないともいわれる。1692年の、いわゆる「グレンコーの虐殺」の前、マクドナルド一族のバンシー(クーニアックと呼ばれる)が叫ぶ声が、夜ごと聞こえたという。 多くのバンシーが叫び声を上げるのは、死者が勇敢な人物か、聖なる人物であった証という。アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のバンシーがいて、故郷を遠く離れて暮らしている者にも、故郷にいる一族の死を伝えたといわれる。 アイルランド地方に伝わる一説では、バンシーは長い黒髪で緑色の服に灰色のマントを着た女性の姿をしているとされるが、叫びが聞こえる時は、その姿は見えないという。 その叫びは、ありとあらゆる叫び声(人間以外も含める)を合わせたような凄まじいもので、どんなに熟睡している者でも飛び起きるほどである。 また、バンシーの目はこれから死ぬ者のために泣くので燃えるような赤色をしているという。 妖精が自身と交わった相手に加護を与える例として、バンシーの垂れた乳房を吸った人間は彼女の養子になることができ、望みを叶えられると語られている。ただ、その行為については「乳房を吸う度胸のある人」「垂れた乳房を吸うことができた大胆な人間」とする説のほか、「バンシーと接吻することができた人」というものもある。 バンシーとは、ケルト語の「フェアリーの女('ban'は女、'shee'は妖精)」という意味の言葉からきており、ベン・シー、ベン・ニーア等々の別名がある。 ゲール語(古代アイルランド語)では「嘆きの妖精('ban'は泣く、'shee'は妖精もしくは女性)」以外にも「泣き女」という直訳もなされる。 ウィリアム・バトラー・イェイツによれば、葬礼での農民の行う、英語で「Keen」ゲール語で「Caoine(クイーナ)」と呼ばれる、「弔い泣き」は、バンシーの模倣であるという。ただ、久保田悠羅ほか著『アンデッド』では、「泣き女」の習俗が先にあり、それが「一族のあるものに死が近づくと出て嘆く」バンシーへと変化した可能性を示唆している。 バンシーの民話はアイルランドからスコットランドにかけて伝承されており、その姿形や振る舞いなどは多様性に富んでいる。また、カナダへ移住するオグラダイ家についていったものがいる他、移民などによって一部はアメリカにも伝わったようで、独立戦争時のアメリカ南部に「霧の夜、アビのような声を上げながら黄色い髪を振り乱し嘆くバンシー」の伝承があったという。またバンシー信仰の変化したものとして、自分のお気に入りのものの死や病気を嘆くこともある「緑のグラシュティグ」が、「ベン・ニーァとは何のかかわりもない」にも拘らずバンシーとして語られているというものがある。 バンシーは、「マックかオーで始まる」姓の家に属するといい、「オグレディ家、オニール家、オブライエン家、オコナー家」に属しているというが、キャサリン・M・ブリッグズ『妖精事典』には、スコットランド西部で伝わるバンシーの一種、クーンチアッハが属する姓の中に「マクミラン家、マカイ家、マクファーラン家」の他「マシソン家、ケリー家、ショー家、カリー家」がある。 アイルランドとスコットランド高原地方では「浅瀬の濯ぎ女」あるいは「水辺のすすぎ女(little washer by the ford)」という名でも知られている。 彼女は出産のために早く死んだ女の霊で、本来の寿命が尽きるまで洗い残した自身の衣服を洗わなければならないという伝承がある。が、より有名な伝承は、血に染まった男の経帷子を洗うことによってその男の死を予告するというものである(伝承ではケルト神話の英雄ク・ホリンの死を予言したともいわれている)。 水木しげるは、「ビアンニー」を紹介する際「産褥で死んだ女の霊」とし、そのような悲劇の霊とされるものが汎世界的にいる旨を指摘しているが、キャサリン・M・ブリッグズは、他の妖精と比べてバンシーが、人に憑く幽霊としての妖精と違う点を指摘し、ブラウニー伝承に出る、「属する家の者から肩掛けを与えられた妖精が逃げた」話がクーンチアッハにもある旨を紹介している。また、屋根に止まったカラスを、「バンシーだ」と説明されることから、ズキンガラスの姿をするとされる女神バウの神話の変化したもの、という説もあり、バンシー伝承の起源はほかの妖精と同じく特定が困難である。 第二次世界大戦中のドイツ空軍のロンドン空襲に際しての空襲警報のサイレンを「バンシーの叫び」と呼んだ。 J・F・ワイルド(en:Jane Wilde)の説によればアイルランドのバンシーは「嘗て若くして死んだその家の美少女の幽霊」であるとし、『妖怪と精霊の事典』は、アイルランドの「ベン・シー」は美女の形をとると言っている。スコットランドのバンシーは、ほかの妖精と同じく、鼻腔が一つの鼻、大きく突き出した前歯、垂れ下がった乳房という描写をされる。 他、各地で語られるバンシーあるいはその別名、類似したものを挙げる。 スコットランドの高地地方、西方の島、また北東部のバンフシャーに伝わるバンシーで、小柄で、緑色の服を着、赤い水かきのある足を持つ。また彼女に見られる前に彼女と川の間に入ることができれば、3つの願いをかなえてくれるといわれ、また3つの質問にも答えてくれるが、その際彼女からの3つの質問へ答えなければならないとされる。彼女の垂れた乳房を吸うことができれば、ベン・ニーァの養子だと主張できるという。 スコットランドの高地地方におけるバンシーの別名で、「フーア」の類。災難がある前の新月、滝の辺りで泣き叫ぶといわれ、姿は見せないとされる。スコットランド西部のアーガイルシャー(アーガイル・アンド・ビュート)、ヘブリディーズ諸島のいくつかの島には、緑色の短いガウンとスカート、山の高い白い帽子をかぶった小柄な女性か少女という形をした、クーンチアッハ(caointeach ゲール語で「泣き叫ぶもの」)が、仕える家で死者の出る前に泣き叫ぶ。アイラ島では、クーンチアッハがその作業を邪魔した人の足へ濡れた亜麻布をたたきつけ、利かなくしたという話が伝えられている。 またウェールズではカヒライス(en:Cyhyraeth)と呼ばれる、姿は見えないが、伝染病や災害による大量死の前触れとして恐ろしい声を上げるものが伝えられている。この「クーニアックのウェールズ版」(バンシーと同じく、異郷で死んだ同胞の死も嘆いた)の他、ウェールズ西部のカーディガンシャーに、「グラッハ・ア・フリビン」(「Gwrach_Y_rhibyn」グラッハ・ア・カヒライスとも。ウェールズ語でGwrachは「醜い老婆」Rhibynが「縞」「列」)という女妖精が伝えられている。これはもつれた髪の毛と黒く伸びた歯、不釣り合いに長く萎びた腕、という具体的な形をし、警告を与えたい人間へ姿を見せずにくっついていき、親族が十字路や小川に行くと、地面や水面を叩きながら死ぬ人について(子供である場合「うちの子が!」等と)ぞっとするような声で叫ぶ。時々、数日後死ぬ者が直接聞くことがあり、その場合は声が不明瞭であるという。 ナルニア国物語の白い魔女のモデルであると言われている。また、ハリー・ポッターとアズカバンの囚人ではまね妖怪ボガートが変身する生徒の恐怖の対象として登場した(原作のみ)。
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バンシーは、アイルランドおよびスコットランドに伝わる妖精である。人の死を叫び声で予告するという。 バンシーの叫びが聞こえた家では近いうちに死者が出るとされるが、死が近い人の家すべてに現れるというわけではなく、純粋なケルトやゲール系の家族のもとにしか来ないともいわれる。1692年の、いわゆる「グレンコーの虐殺」の前、マクドナルド一族のバンシー(クーニアックと呼ばれる)が叫ぶ声が、夜ごと聞こえたという。 多くのバンシーが叫び声を上げるのは、死者が勇敢な人物か、聖なる人物であった証という。アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のバンシーがいて、故郷を遠く離れて暮らしている者にも、故郷にいる一族の死を伝えたといわれる。 アイルランド地方に伝わる一説では、バンシーは長い黒髪で緑色の服に灰色のマントを着た女性の姿をしているとされるが、叫びが聞こえる時は、その姿は見えないという。 その叫びは、ありとあらゆる叫び声(人間以外も含める)を合わせたような凄まじいもので、どんなに熟睡している者でも飛び起きるほどである。 また、バンシーの目はこれから死ぬ者のために泣くので燃えるような赤色をしているという。 妖精が自身と交わった相手に加護を与える例として、バンシーの垂れた乳房を吸った人間は彼女の養子になることができ、望みを叶えられると語られている。ただ、その行為については「乳房を吸う度胸のある人」「垂れた乳房を吸うことができた大胆な人間」とする説のほか、「バンシーと接吻することができた人」というものもある。 バンシーとは、ケルト語の「フェアリーの女('ban'は女、'shee'は妖精)」という意味の言葉からきており、ベン・シー、ベン・ニーア等々の別名がある。 ゲール語(古代アイルランド語)では「嘆きの妖精('ban'は泣く、'shee'は妖精もしくは女性)」以外にも「泣き女」という直訳もなされる。 ウィリアム・バトラー・イェイツによれば、葬礼での農民の行う、英語で「Keen」ゲール語で「Caoine(クイーナ)」と呼ばれる、「弔い泣き」は、バンシーの模倣であるという。ただ、久保田悠羅ほか著『アンデッド』では、「泣き女」の習俗が先にあり、それが「一族のあるものに死が近づくと出て嘆く」バンシーへと変化した可能性を示唆している。
{{Otheruses|アイルランドの伝承に登場する妖精|その他}} [[File:Banshee.jpg|thumb|バンシー]] '''バンシー'''({{lang-en|banshee}}、{{lang-ga|bean sidhe}})は、[[アイルランド]]および[[スコットランド]]に伝わる[[妖精]]である。人の死を叫び声で予告するという。 バンシーの叫びが聞こえた家では近いうちに[[死|死者]]が出るとされるが、死が近い人の家すべてに現れるというわけではなく、純粋な[[ケルト]]や[[ゲール人|ゲール系]]の家族のもとにしか来ないともいわれる。[[1692年]]の、いわゆる「[[グレンコーの虐殺]]」の前、マクドナルド一族のバンシー(クーニアックと呼ばれる)が叫ぶ声が、夜ごと聞こえたという。 多くのバンシーが叫び声を上げるのは、死者が勇敢な人物か、聖なる人物であった証という。アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のバンシーがいて、故郷を遠く離れて暮らしている者にも、故郷にいる一族の死を伝えたといわれる。 アイルランド地方に伝わる一説では、バンシーは長い黒[[髪]]で緑色の服に灰色のマントを着た女性の姿をしているとされるが、叫びが聞こえる時は、その姿は見えないという。 その叫びは、ありとあらゆる叫び声(人間以外も含める)を合わせたような凄まじいもので、どんなに熟睡している者でも飛び起きるほどである。 また、バンシーの目はこれから死ぬ者のために泣くので燃えるような赤色をしているという。 妖精が自身と[[性交|交わった]]相手に加護を与える例として、バンシーの垂れた[[乳房]]を吸った人間は彼女の養子になることができ、望みを叶えられると語られている。ただ、その行為については「乳房を吸う度胸のある人」{{Sfn|ローズマリ・エレン・グィリー|1995|p=429}}「垂れた乳房を吸うことができた大胆な人間」{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=269}}とする説のほか、「バンシーと接吻することができた人」{{Sfn|久保田悠羅|2007|p=127}}というものもある。 バンシーとは、[[ケルト語]]の「フェアリーの女('ban'は女、'shee'は妖精)」という意味の言葉からきており、'''ベン・シー'''、'''ベン・ニーア'''等々の別名がある。 ゲール語(古代アイルランド語)では「嘆きの妖精('ban'は泣く、'shee'は妖精もしくは女性)」以外にも「泣き女」という直訳もなされる。 [[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]によれば、葬礼での農民の行う、英語で「Keen」ゲール語で「Caoine(クイーナ)」と呼ばれる、「弔い泣き」は、バンシーの模倣であるという{{Sfn|W・B・イェイツ|1986|p=221}}。ただ、久保田悠羅ほか著『アンデッド』では、「[[泣き女]]」の習俗が先にあり、それが「一族のあるものに死が近づくと出て嘆く」バンシーへと変化した可能性を示唆{{Sfn|久保田悠羅|2007|p=124}}している。 == 伝承の分布・類似例 == バンシーの民話はアイルランドからスコットランドにかけて伝承されており、その姿形や振る舞いなどは多様性に富んでいる。また、[[カナダ]]へ移住するオグラダイ家についていったものがいる{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1991|p=40}}他、移民などによって一部は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にも伝わったようで、[[独立戦争]]時のアメリカ南部に「霧の夜、[[アビ]]のような声を上げながら黄色い髪を振り乱し嘆くバンシー」の伝承があったという{{Sfn|ローズマリ・エレン・グィリー|1995|p=430}}。またバンシー信仰の変化したものとして、自分のお気に入りのものの死や[[病気]]を嘆くこともある「緑の[[グラシュティグ]]」が、「ベン・ニーァとは何のかかわりもない」にも拘らずバンシーとして語られている{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=269}}というものがある。 バンシーは、「マックかオーで始まる」姓の家に属するといい、「オグレディ家、オニール家、オブライエン家、オコナー家{{Sfn|久保田悠羅|2007|p=124}}」に属しているというが、キャサリン・M・ブリッグズ『妖精事典』には、スコットランド西部で伝わるバンシーの一種、クーンチアッハが属する姓の中に「マクミラン家、マカイ家、マクファーラン家」の他「マシソン家、ケリー家、ショー家、カリー家」がある。 アイルランドとスコットランド[[ハイランド地方|高原地方]]では「浅瀬の濯ぎ女」{{Sfn|ローズマリ・エレン・グィリー|1995|p=429}}あるいは「水辺のすすぎ女(little washer by the ford)」{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=372}}という名でも知られている。 彼女は[[出産]]のために早く死んだ女の霊で、本来の寿命が尽きるまで洗い残した自身の衣服を洗わなければならないという伝承がある。が、より有名な伝承は、血に染まった男の経帷子を洗うことによってその男の死を予告するというものである(伝承では[[ケルト神話]]の英雄[[クー・フーリン|ク・ホリン]]の死を予言したともいわれている)。 [[水木しげる]]は、「ビアンニー」を紹介する際「[[産褥]]で死んだ女の霊」とし、そのような悲劇の霊とされるものが汎世界的にいる旨を指摘している<ref group="注釈">{{Cite book |和書 |author=水木しげる |title=水木しげるの世界妖怪事典 |date=1985-07 |publisher=[[東京堂出版]] |page=100 |ISBN=449010555X}} なお{{Harvtxt|水木しげる|2017|p=526}}によればビアンニーは後に「ベン・ニーァ」と書かれた。</ref>が、キャサリン・M・ブリッグズは、他の妖精と比べてバンシーが、人に憑く幽霊としての妖精と違う点を指摘{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1991|p=60}}し、ブラウニー伝承に出る、「属する家の者から肩掛けを与えられた妖精が逃げた」{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=60}}話がクーンチアッハにもある旨を紹介している。また、屋根に止まった[[カラス]]を、「バンシーだ」と説明されることから、ズキンガラスの姿をするとされる女神[[バズヴ|バウ]]の神話の変化したもの、という説も{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=244}}あり、バンシー伝承の起源はほかの妖精と同じく特定が困難である。 [[第二次世界大戦]]中の[[ドイツ空軍]]の[[バトル・オブ・ブリテン|ロンドン空襲]]に際しての空襲警報の[[サイレン]]を「バンシーの叫び」と呼んだ{{Sfn|W・チャーチル|1950|p=61}}。 J・F・ワイルド([[:en:Jane Wilde]])の説によればアイルランドのバンシーは「嘗て若くして死んだその家の美少女の幽霊」であるとし、『妖怪と精霊の事典』は、アイルランドの「ベン・シー」は美女の形をとると言っている。スコットランドのバンシーは、ほかの妖精と同じく、鼻腔が一つの鼻、大きく突き出した前歯、垂れ下がった乳房という描写をされる。 他、各地で語られるバンシーあるいはその別名、類似したものを挙げる。 * ベン・ニーァ([[:en:Bean-nighe]] ゲール語で「洗う女」) スコットランドの[[ハイランド地方|高地地方]]、西方の島、また北東部のバンフシャーに伝わるバンシーで、小柄で、緑色の服を着、赤い[[水かき]]のある足を持つ。また彼女に見られる前に彼女と川の間に入ることができれば、3つの願いをかなえてくれるといわれ、また3つの質問にも答えてくれるが、その際彼女からの3つの質問へ答えなければならないとされる。彼女の垂れた乳房を吸うことができれば、ベン・ニーァの養子だと主張できるという{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=339}}。 * クーニアック([[:en:Caoineag]] ゲール語で「泣く者」) スコットランドの[[ハイランド地方|高地地方]]におけるバンシーの別名で、「[[フーア]]」の類。災難がある前の[[新月]]、滝の辺りで泣き叫ぶといわれ、姿は見せないとされる{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=88}}。スコットランド西部のアーガイルシャー([[アーガイル・アンド・ビュート]])、[[ヘブリディーズ諸島]]のいくつかの島には、緑色の短い[[ガウン]]と[[スカート]]、山の高い白い[[帽子]]をかぶった小柄な女性か少女という形をした、クーンチアッハ(caointeach ゲール語で「泣き叫ぶもの」)が、仕える家で死者の出る前に泣き叫ぶ{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=103}}。アイラ島では、クーンチアッハがその作業を邪魔した人の足へ濡れた[[亜麻]]布をたたきつけ、利かなくしたという話が伝えられている{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=339}}。 また[[ウェールズ]]ではカヒライス([[:en:Cyhyraeth]])と呼ばれる、姿は見えないが、[[伝染病]]や災害による大量死の前触れとして恐ろしい声を上げるものが伝えられている。この「クーニアックのウェールズ版」{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=66}}(バンシーと同じく、異郷で死んだ同胞の死も嘆いた)の他、ウェールズ西部の[[ケレディジョン|カーディガンシャー]]に、「グラッハ・ア・フリビン」(「Gwrach_Y_rhibyn」グラッハ・ア・カヒライスとも。[[ウェールズ語]]でGwrachは「醜い老婆」Rhibynが「縞」「列」)という女妖精が伝えられている。これはもつれた髪の毛と黒く伸びた[[歯]]、不釣り合いに長く萎びた腕、という具体的な形をし、警告を与えたい人間へ姿を見せずにくっついていき、親族が十字路や小川に行くと、地面や水面を叩きながら死ぬ人について(子供である場合「うちの子が!」等と)ぞっとするような声で叫ぶ。時々、数日後死ぬ者が直接聞くことがあり、その場合は声が不明瞭であるという{{Sfn|キャサリン・M・ブリッグズ|1992|p=93}}。 == 影響を与えた作品 == [[ナルニア国物語]]の白い魔女のモデルであると言われている{{誰2|date=2023-03-10}}。また、[[ハリー・ポッターとアズカバンの囚人]]ではまね妖怪ボガートが変身する生徒の恐怖の対象として登場した(原作のみ)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=ローズマリ・エレン・グィリー|authorlink=ローズマリ・エレン・グィリー |title=妖怪と精霊の事典 |publisher=[[青土社]] |date=1995-08 |isbn=978-4791753833 |ref={{SfnRef|ローズマリ・エレン・グィリー|1995}} }} * Évelyne Sorlin, Cris de vie, cris de mort : les fées du destin dans les pays celtiques., Helsinki : Suomalainen Tiedeakatemia, 1991。 * {{Cite book |和書 |author= キャサリン・M・ブリッグズ|title=妖精事典 |publisher=[[冨山房]] |date=1992-09 |isbn=978-4572000934 |ref={{SfnRef|キャサリン・M・ブリッグズ|1992}} }} * {{Cite book |和書 |author= ウィンストン・チャーチル|authorlink=ウィンストン・チャーチル|title=第二次大戦回顧録第7巻 |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1950- |ref={{SfnRef|W・チャーチル|1950}} }} * {{Cite book |和書 |author= キャサリン・M・ブリッグズ|title=イギリスの妖精 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1991-03 |isbn=978-4480831101 |ref={{SfnRef|キャサリン・M・ブリッグズ|1991}} }} * {{Cite book |和書 |author=久保田悠羅とF.E.A.R |title=アンデッド |publisher=[[新紀元社]] |date=2007-04 |isbn=978-4-7753-0528-7 |ref={{SfnRef|久保田悠羅|2007}} }} * {{Cite book |和書 |author=水木しげる|authorlink=水木しげる|title=[[水木しげる漫画大全集]]補巻3媒体別妖怪画報集(3) |publisher=[[講談社]] |date=2017-12 |isbn= 978-4065107881|ref={{SfnRef|水木しげる|2017}} }} * {{Cite book |和書 |author=ウィリアム・バトラー・イェイツ|authorlink=ウィリアム・バトラー・イェイツ|title=ケルト幻想物語 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1986-04 |isbn=978-4480020499|ref={{SfnRef|W・B・イェイツ|1986}} }} == 関連項目 == * [[F2H (航空機)]] : 愛称 == 外部リンク == {{Wiktionarylang|en|Bansee}} {{Commonscat-inline}} {{Normdaten}} {{神話物語群}} {{デフォルトソート:はんしい}} [[Category:ケルト神話]] [[Category:アイルランドの伝説の生物]] [[Category:死と文化]] [[Category:スコットランドの伝承]] [[Category:妖精]]
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レプラコーン
レプラコーン (英: Leprechaun) は、アイルランドの伝承に登場する妖精。 多くのケルト妖精譚を編纂したW.B.イェイツは、レプラホーン (Lepracaun) の名は Leith-bhrogan、すなわち片足靴屋を意味するとした。垣根に座って靴を修繕する姿が見られる悪霊の子供で堕落した妖精と伝えられる。役割により、クルラホーン (Cluricauns、泥酔したレプラコーンを指す) 、ファー・ジャルグ(Far Darrig、悪戯好きの赤い服のレプラコーン)などの別名を持つ。働く姿を見せる妖精であることから、スコットランドやイギリスに伝わるブラウニーとも類似するが、ブラウニーは人間に奉仕する妖精であるのに対し、レプラホーンはほとんどの場合自らの為にしか働かない。 靴職人とされ、グリム童話の『小人の靴屋』に登場する妖精とはこのレプラコーンのこととも言われる。地中の宝物のことを知っており、うまく捕まえることができると黄金のありかを教えてくれるが、大抵の場合、黄金を手に入れることはできない。 「小さな体」を意味する名であり、ルブラホーン、ラバーキン、ルホルバン、ルプラホーンとも呼ばれる。英語読みではレプラカーン。小さなしわくちゃの顔にごま塩のあごひげ、とがった鼻に輝く目をしている。銀のボタンの赤ジャケット、茶色の半ズボン、銀の留め金つきの黒ブーツを履くという。また、一日に靴を片方しか作らないが、体が小さくて余り仕事が出来ないから、または一本足であるからとも言われる。たいてい皮のエプロンをし、忙しそうに小槌でコツコツと靴の修理をしている。 この妖精は金の入った壺を持ち、一瞬でも目をそらすとすぐに悪戯を仕掛け、笑いながら姿を消すといわれている。アイルランド南西部には「レプラコーンに注意」 (Leprechaun crossing) の交通標識があることで有名である。 『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』では、クィディッチのアイルランドチームのマスコットとして登場し、会場に金貨を降らせた。ただしこの話のレプラコーンが降らせた金貨は、2、3時間ほどで消滅する。 現在知られるレプラコーンの源となる妖精の、もっとも早期な例は、Lúchorpáin(「小さな体」の意)という名の水棲または両棲の妖精たちで、『フェルグス・マク・レーティの冒険』(Echtra Fergus mac Léti 英語: Adventure of Fergus son of Léti)に登場し、この作品の古稿は8世紀にさかのぼるとされる。アルスターの王、フェルグス・マク・レーティが水辺でうたたねしていると、三匹のルーホルバン(?)たちによって水中にひきずりこまれるが、目を覚ましてそいつらを手でとらえ、海・池・湖で自由に泳げる力を授けろと要求する。
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レプラコーン は、アイルランドの伝承に登場する妖精。
{{Otheruses|妖精のレプラコーン|その他の「レプラコーン」|レプラカーン}} [[ファイル:Leprechaun ill artlibre jnl.png|thumb|Leprechaun]] '''レプラコーン''' ({{lang-en-short|Leprechaun}}) は、[[アイルランド]]の伝承に登場する[[妖精]]。 == 概要 == 多くのケルト妖精譚を編纂した[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|W.B.イェイツ]]は、レプラホーン (Lepracaun) の名は {{lang|ga|Leith}}-{{lang|ga|bhrogan}}、すなわち片足靴屋を意味するとした<ref name="wby">[[#Yeats|W.B.イェイツ]], "アイルランドの妖精の分類 (The Solitary Fairies)"</ref>。垣根に座って靴を修繕する姿が見られる悪霊の子供で堕落した妖精と伝えられる<ref name="wby"/>。役割により、クルラホーン (Cluricauns、泥酔したレプラコーンを指す) 、ファー・ジャルグ(Far Darrig、悪戯好きの赤い服のレプラコーン)などの別名を持つ<ref>Gienna Matson 『Celtic Mythology, A to Z』(2010), "FAIRIES", p.54</ref>。働く姿を見せる妖精であることから、スコットランドやイギリスに伝わる[[ブラウニー]]とも類似するが、ブラウニーは人間に奉仕する妖精であるのに対し、レプラホーンはほとんどの場合自らの為にしか働かない<ref name="ency">Patricia Monaghan 『The Encyclopedia of Celtic Mythology and Folklore』(2004), "leprechaun", p.286</ref>。 靴職人とされ<ref name="ency"/>、グリム童話の『{{仮リンク|小人の靴屋|en|The Elves and the Shoemaker}}』に登場する妖精とはこのレプラコーンのこととも言われる。地中の宝物のことを知っており、うまく捕まえることができると黄金のありかを教えてくれるが、大抵の場合、黄金を手に入れることはできない。 「小さな体」を意味する名であり、'''ルブラホーン'''、'''ラバーキン'''、'''ルホルバン'''、'''ルプラホーン'''とも呼ばれる。英語読みでは'''レプラカーン'''。小さなしわくちゃの顔にごま塩のあごひげ、とがった鼻に輝く目をしている。銀のボタンの赤ジャケット、茶色の半ズボン、銀の留め金つきの黒ブーツを履くという。また、一日に靴を片方しか作らないが、体が小さくて余り仕事が出来ないから、または一本足であるからとも言われる。たいてい皮のエプロンをし、忙しそうに小槌でコツコツと靴の修理をしている。 この妖精は金の入った壺を持ち<ref name="ency"/>、一瞬でも目をそらすとすぐに悪戯を仕掛け、笑いながら姿を消すといわれている。アイルランド南西部には「レプラコーンに注意」 (Leprechaun crossing) の交通標識があることで有名である。 『[[ハリー・ポッターと炎のゴブレット]]』では、[[クィディッチ]]のアイルランドチームのマスコットとして登場し、会場に金貨を降らせた。ただしこの話のレプラコーンが降らせた金貨は、2、3時間ほどで消滅する。 == 原型 == 現在知られるレプラコーンの源となる妖精の、もっとも早期な例は、{{lang|ga|''Lúchorpáin''}}(「小さな体」の意)という名の水棲または両棲の妖精たちで、『フェルグス・マク・レーティの冒険』({{lang|ga|''Echtra Fergus mac Léti''}} {{lang-en|Adventure of Fergus son of Léti}})に登場し、この作品の古稿は8世紀にさかのぼるとされる<ref>Mackillop, "..luchorpán, depicted in the 8th century text Echtra F.m.L;".."suggests that initially the leprechaun was an aquatic or at least amphibious creature"</ref>。[[アルスター]]の王、[[フェルグス・マク・レーティ]]が水辺でうたたねしていると、三匹のルーホルバン(?)たちによって水中にひきずりこまれるが、目を覚ましてそいつらを手でとらえ、海・池・湖で自由に泳げる力を授けろと要求する<ref>Mackillop</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 情報源 == * D. A. Binchy (ed. & trans.), [http://www.ucd.ie/tlh/trans/dab.eriu.16.001.t.text.html "The Saga of Fergus mac Léti"], ''[[:en:Ériu (journal)|Ériu]] 16, 1952, pp. 33-48 == 参考文献 == {{参照方法|date=2016年12月|section=1}} * Mackillop, James, ''Dictionary of Celtic Mytholgy'' (1998) * {{Cite book |和書 |last=ローズ |first=キャロル |others=[[松村一男]]監訳 |title=世界の妖精・妖怪事典 |publisher=[[原書房]] |series=シリーズ・ファンタジー百科 |date=2003-12 |id={{ISBN2|4-562-03712-1}}。ISBN 978-4-562-03712-4 }}<!--2008年5月16日 (金) 08:38 (UTC)--> * {{Cite book |和書 |author=ウィリアム・バトラー・イェイツ|authorlink=ウィリアム・バトラー・イェイツ |translator=[[井村君江]] |year=1986 |title=ケルト妖精物語 |series=ちくま文庫 |publisher=筑摩書房 |ref="Yeats" }} == 関連項目 == {{Commonscat|Leprechauns}} * {{仮リンク|レプラコーン (映画)|en|Leprechaun_(film_series)}} - [[ホラー映画]]シリーズ。 * [[ミル・エンズ公園]] * [[クライトンのレプラコーン]] *[[小人 (伝説の生物)]] {{Western-europe-stub}} {{Myth-stub}} {{デフォルトソート:れふらこおん}} [[Category:アイルランドの伝説の生物]] [[Category:神話・伝説の水生生物]] [[Category:妖精]]
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ドラキュラ伯爵
ドラキュラ伯爵(ドラキュラはくしゃく、英:Count Dracula)は、ブラム・ストーカーによるイギリスの小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)に登場する悪役の吸血鬼。表向きはルーマニアのトランシルヴァニア地方に住む由緒ある貴族だが、実は若い美女の生き血を好む吸血鬼であり、物語の進展に伴ってイギリスに渡り、災いを招く。その後のフィクション作品に多大な影響を与え、フィクションにおける吸血鬼の設定を確立したとみなされている。ドラキュラはあくまで吸血鬼(ヴァンパイア)の中の一キャラクターの固有名詞であるが、日本ではしばしば吸血鬼それ自体を指す言葉としても用いられる。 キャラクターのモデルとなったのは15世紀のワラキア公国の君主ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)と、ストーカーがアシスタントを務めていた俳優ヘンリー・アーヴィングであると指摘されている。 ドラキュラ伯爵の吸血鬼としての設定はそれまでのフィクションや伝承上の吸血鬼の設定をまとめたものであり、特に人間を噛んで同族の吸血鬼に変える能力が知られる。後の映画などの翻案作品や、ドラキュラがモチーフの作品などによって追加された、あるいは変化した設定も多く、その中には日光が致命的な弱点とされるなど、今日には標準設定とみなされているものもある。 ドラキュラのモデルは15世紀のワラキア(現ルーマニア南部)公ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ、ヴラド・ドラキュラ)とされているが、設定として使われているのはドラキュラというヴラドのニックネームと、出身地が現在のルーマニアという点だけである。ストーカーはこの地域に行ったことがなかったが、地図や文献でよく調査していた。 ヴラド3世がドラキュラと呼ばれ、また自称もしていたのは事実である。これはヴラドの父がドラクルと呼ばれたことに起因する(名前に「a」がつくことで息子という意味が加わり、ドラクルの息子「ドラキュラ」となる)。ドラクルという語は悪魔を意味する場合もあり、後世ドラキュラ公の父ドラクル公は「悪魔公」とも呼ばれた。それに伴い息子のヴラド・ドラキュラ公も「悪魔の子」という意味でのドラキュラと解釈されるに至り、本作のドラキュラ伯爵のイメージに取り入れられている。だが、ドラクルという語の原義は竜であり、本来的にドラクル公は「悪魔」とあだ名されたわけではない。実際には父がドラクルと呼ばれたのは「ドラゴン騎士団」に所属していたためであり、ヴラド・ドラキュラ公も存命時は「悪魔の子」ではなく「小竜公」とでもいうような意味で呼ばれていた。 小説中にはアイルランドの吸血鬼伝説および、ドラキュラ以前に書かれた同じアイルランド人作家でトリニティ・カレッジの先輩であるシェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』(1872年)の影響が強く見られる。実際、ドラキュラの初稿では舞台はトランシルヴァニアではなくカーミラと同じオーストリアだった。棺で眠るといった特徴もカーミラと共通で、以降の吸血鬼作品のモデルになった。 1920年代に、原作者未亡人、フローレンス・ストーカーから正式に版権を取得した、ハミルトン・ディーンによる戯曲が上演される。当時の舞台劇の主流は「室内劇」であり、舞台台本も原作を大幅に改編せざるを得ず、原作における冒頭のドラキュラ城のシークエンスをはじめとして、原作の見せ場がことごとくカットされた。舞台はセワード博士の病院と、カーファックス修道院の納骨堂の2場で進行する。このためドラキュラ伯爵は、上流階級の家に招かれるだけの容姿と礼儀作法を備えざるを得なくなり、黒の夜会服を着こなす「貴公子然としたイメージ」が確立された。この舞台ではドラキュラが観客に背を向けて一瞬にして消滅するイリュージョンの演出があり、そのために後頭部(首)が隠れる大きな襟の立ったマントが必要だった。ドラキュラのマントの襟が立っているのはこの時の名残である。マントの正確な着方は襟を寝かせるもの。このスタイルを初めて映像化したのが『魔人ドラキュラ』(1931年)である。 映画ではベラ・ルゴシのあと、ロン・チェイニー・ジュニア、ジョン・キャラダインが、戦後は英国ハマー・フィルム・プロダクションのシリーズでクリストファー・リーがドラキュラを演じている。ことにクリストファー・リーはドラキュラ映画初のカラー作品『吸血鬼ドラキュラ』(1958年)で獰猛なドラキュラを殺伐と演じて大好評を博し、それまで不動と思われたルゴシ=ドラキュラのイメージを塗り替えるに至り、半世紀経過した現在でも語り継がれる当たり役となった。リーがドラキュラ役を退いて以降、主だったところでは、フランク・ランジェラ、ゲイリー・オールドマン、リチャード・ロクスバーグ、ルーク・エヴァンズといった面々がドラキュラを演じている。特にエヴァンズは映画『ドラキュラZERO』(2014年)において、それまでの作品とは一線を画する中世トランシルヴァニア時代のドラキュラを演じている。日本では岡田眞澄、岸田森がドラキュラを演じている。 原作小説では「背の高い痩せた男」「燃えるような赤い目」という印象で繰り返し描かれる。 登場当初は白髪の老人で、中盤から血を吸って若返り黒髪になる。「鷲を思わせる精悍な顔つきで、ピンと尖った口ひげを蓄え、青白い肌とは不釣り合いに赤い唇に尖った犬歯が覗いている」「手は一見するときめ細かいがよく見たらゴツゴツしていて、手のひらの中央に毛が生えており、爪を尖った形に切りそろえている」といった容貌。服装は黒ずくめであるという他は特に記述されていない。 対して性格や趣味趣向は細かく描写されている。登場当初こそ物腰穏やかな老紳士といった風を装っているが、次第に傲岸で獰猛な本性を顕わにしていく。プライドが高く、他者に侮られるのは我慢がならず、追い詰められても虚勢を張る。他方、長年書庫に篭ってイギリスの地理や文化を研究し、英語を自在に操れるよう練習を積むなど勉強熱心であり、召使いなどがいないため来客の給仕や城に囲っている女吸血鬼の世話といった家事をみずからこなすなど、律儀な面もある。生活面では人間らしさは皆無である。通常の食事を摂る様子はなく、煙草も吸わない。自室に家具はなく荒れるに任されており、金貨やわずかな身だしなみ品といった人間社会に紛れ込む上で必要最低限のものしか所持していない。 吸血鬼としての性質もまた細かく描写されている(その中には後世のイメージとは異なる部分も多い)。血を吸ったり、自らの血を分け与えた者を吸血鬼に変える。また催眠術のような力で、自分に惹かれる性質の者に遠方から影響を与えることができる。怪力無双かつ変幻自在で、塵になって空を飛んだり、狼や蝙蝠に変身することができる。狼や鼠などを操り、また天候もある程度操作できる。だがこうした超能力を発揮できるのは夜間のみで、日中は怪力を備えただけの存在となる。そのため主な活動期間は日没から日の出まで。だが日光は弱点ではなく、昼間に出歩く場面もある。日中は特定の「避難所」(故郷の土を敷き詰めた棺や箱、自殺者の墓、配下の吸血鬼の棲家)で眠らなければ力を回復することができない。他人の家にはその家の家人に招かれなければ入ることができないが、一度招かれればあとは自由に出入りできる。潮の満ち引きを除き、流れる水の上を渡れない。影が無く、鏡に映らない。十字架をはじめとする神の息のかかっているものとニンニクを忌避する。 称号は伯爵(Count)ということにはなっているが、ルーマニアの貴族階級にはこの称号はなく、ドラキュラが仮に貴族とされていても、「伯爵」というのは単なる敬称に過ぎない可能性が高い。実際、小説中においてドラキュラ当人がこの称号を名乗ったり用いたりする場面はなく、署名をする際には「D」とのみ記し、彼の墓標にもただ「ドラキュラ(DRACULA)」とのみ書かれる。 ドラキュラの容姿はハミルトン・ディーンの舞台戯曲以来、映画『魔人ドラキュラ』のヒットもあり、オールバックの髪型で夜会服にマントを羽織るスタイルが定着している。しかし戦前から40年代までの映画でドラキュラ、および吸血鬼が牙を装着したものは世界最古の吸血鬼映画『ノスフェラトゥ』(1922年)を除いては皆無で、戦後に英国ハマー・フィルムが制作した『吸血鬼ドラキュラ』(1958年)から、吸血鬼が牙を着けることがポピュラーになった。戦前のルゴシ、戦後のリーの2大スターによってドラキュラのスタイルが確固たるものになったといってよい。唇を血で濡らしている描写を初めて映像表現したのも映画『吸血鬼ドラキュラ』である。 映画・演劇では演出上の理由でキャラクター設定が多岐にわたって改変される。 右側にある人名は、ドラキュラを演じた役者名。
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ドラキュラ伯爵は、ブラム・ストーカーによるイギリスの小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)に登場する悪役の吸血鬼。表向きはルーマニアのトランシルヴァニア地方に住む由緒ある貴族だが、実は若い美女の生き血を好む吸血鬼であり、物語の進展に伴ってイギリスに渡り、災いを招く。その後のフィクション作品に多大な影響を与え、フィクションにおける吸血鬼の設定を確立したとみなされている。ドラキュラはあくまで吸血鬼(ヴァンパイア)の中の一キャラクターの固有名詞であるが、日本ではしばしば吸血鬼それ自体を指す言葉としても用いられる。 キャラクターのモデルとなったのは15世紀のワラキア公国の君主ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)と、ストーカーがアシスタントを務めていた俳優ヘンリー・アーヴィングであると指摘されている。 ドラキュラ伯爵の吸血鬼としての設定はそれまでのフィクションや伝承上の吸血鬼の設定をまとめたものであり、特に人間を噛んで同族の吸血鬼に変える能力が知られる。後の映画などの翻案作品や、ドラキュラがモチーフの作品などによって追加された、あるいは変化した設定も多く、その中には日光が致命的な弱点とされるなど、今日には標準設定とみなされているものもある。
{{otheruses|ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』の登場人物|テレビドラマ|ドラキュラ伯爵 (テレビドラマ)}} {{複数の問題|出典の明記=2014-9|独自研究=2014-9}} {{Expand English|Count Dracula|date=2023年12月}} {{Infobox character | colour = | name = ドラキュラ伯爵<br />Count Dracula | series = 『[[吸血鬼ドラキュラ]]』 | image = [[File:Bela Lugosi as Dracula, anonymous photograph from 1931, Universal Studios.jpg|250px]] | image_upright = | alt = | caption = 1931年公開の映画『[[魔人ドラキュラ]]』でドラキュラを演じる[[ベラ・ルゴシ]] | first = | last = | creator = [[ブラム・ストーカー]] | portrayer = 「[[#関連作品|関連作品]]」を参照 | voice = | info-hdr = | noinfo = | fullname = | nickname = | alias = | species = [[吸血鬼]] | gender = 男性 | occupation = | affiliation = | title = | family = | spouse = | significantother = | children = | relatives = | religion = | nationality = }} '''ドラキュラ伯爵'''(ドラキュラはくしゃく、英:Count Dracula)は、[[ブラム・ストーカー]]による[[イギリス]]の小説『[[吸血鬼ドラキュラ]]』(1897年)に登場する[[悪役]]の[[吸血鬼]]。表向きは[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]地方に住む由緒ある貴族だが、実は若い美女の生き血を好む吸血鬼であり、物語の進展に伴ってイギリスに渡り、災いを招く。その後のフィクション作品に多大な影響を与え、フィクションにおける吸血鬼の設定を確立したとみなされている。ドラキュラはあくまで吸血鬼(ヴァンパイア)の中の一キャラクターの固有名詞であるが、日本ではしばしば吸血鬼それ自体を指す言葉としても用いられる。 キャラクターのモデルとなったのは15世紀のワラキア公国の君主[[ヴラド・ツェペシュ]](ヴラド3世)と、ストーカーがアシスタントを務めていた俳優[[ヘンリー・アーヴィング]]であると指摘されている。 ドラキュラ伯爵の吸血鬼としての設定はそれまでのフィクションや伝承上の吸血鬼の設定をまとめたものであり、特に人間を噛んで同族の吸血鬼に変える能力が知られる。後の映画などの翻案作品や、ドラキュラがモチーフの作品などによって追加された、あるいは変化した設定も多く、その中には日光が致命的な弱点とされるなど、今日には標準設定とみなされているものもある。 == 概要・特色 == [[ファイル:Vlad Tepes 002.jpg|thumb|left|200px|[[ヴラド・ツェペシュ]]公]] ドラキュラのモデルは15世紀の[[ワラキア]](現[[ルーマニア]]南部)公[[ヴラド・ツェペシュ|ヴラド3世]](ヴラド・ツェペシュ、ヴラド・ドラキュラ)とされているが、設定として使われているのはドラキュラというヴラドのニックネームと、出身地が現在の[[ルーマニア]]という点だけである。ストーカーはこの地域に行ったことがなかったが、地図や文献でよく調査していた。 ヴラド3世がドラキュラと呼ばれ、また自称もしていたのは事実である。これはヴラドの父がドラクルと呼ばれたことに起因する(名前に「a」がつくことで息子という意味が加わり、ドラクルの息子「ドラキュラ」となる)。ドラクルという語は悪魔を意味する場合もあり、後世ドラキュラ公の父ドラクル公は「悪魔公」とも呼ばれた。それに伴い息子のヴラド・ドラキュラ公も「悪魔の子」という意味でのドラキュラと解釈されるに至り、本作のドラキュラ伯爵のイメージに取り入れられている。だが、ドラクルという語の原義は竜であり、本来的にドラクル公は「悪魔」とあだ名されたわけではない。実際には父がドラクルと呼ばれたのは「[[ドラゴン騎士団]]」に所属していたためであり、ヴラド・ドラキュラ公も存命時は「悪魔の子」ではなく「小竜公」とでもいうような意味で呼ばれていた。 [[ファイル:Stoker Dracula Notes Personal.jpg|150px|left|thumb|ブラム・ストーカー自筆の「ドラキュラ」のメモ原稿]] [[ファイル:CastelulBran.JPG|150px|thumb|ストーカーがドラキュラ城のモデルとしたとされるルーマニアのブラン城]] 小説中にはアイルランドの吸血鬼伝説および、ドラキュラ以前に書かれた同じアイルランド人作家で[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]]の先輩である[[シェリダン・レ・ファニュ]]の『[[カーミラ]]』([[1872年]])の影響が強く見られる。実際、ドラキュラの初稿では舞台は[[トランシルヴァニア]]ではなくカーミラと同じ[[オーストリア]]だった。棺で眠るといった特徴もカーミラと共通で、以降の吸血鬼作品のモデルになった。 [[ファイル:Dracula by Hamilton Deane & John L. Balderston 1938.jpg|200px|left|thumb|アメリカで上演された「ドラキュラ」の舞台劇のポスター(1938年)]] 1920年代に、原作者未亡人、フローレンス・ストーカーから正式に版権を取得した、ハミルトン・ディーンによる戯曲が上演される。当時の舞台劇の主流は「室内劇」であり、舞台台本も原作を大幅に改編せざるを得ず、原作における冒頭のドラキュラ城のシークエンスをはじめとして、原作の見せ場がことごとくカットされた。舞台はセワード博士の病院と、カーファックス修道院の納骨堂の2場で進行する。このためドラキュラ伯爵は、上流階級の家に招かれるだけの容姿と礼儀作法を備えざるを得なくなり、黒の夜会服を着こなす「貴公子然としたイメージ」が確立された。この舞台ではドラキュラが観客に背を向けて一瞬にして消滅するイリュージョンの演出があり、そのために後頭部(首)が隠れる大きな襟の立ったマントが必要だった。ドラキュラのマントの襟が立っているのはこの時の名残である。マントの正確な着方は襟を寝かせるもの。このスタイルを初めて映像化したのが『[[魔人ドラキュラ]]』(1931年)である。 映画では[[ベラ・ルゴシ]]のあと、[[ロン・チェイニー・ジュニア]]、[[ジョン・キャラダイン]]が、戦後は英国[[ハマー・フィルム・プロダクション]]のシリーズで[[クリストファー・リー]]がドラキュラを演じている。ことにクリストファー・リーはドラキュラ映画初のカラー作品『[[吸血鬼ドラキュラ (1958年の映画)|吸血鬼ドラキュラ]]』(1958年)で獰猛なドラキュラを殺伐と演じて大好評を博し、それまで不動と思われたルゴシ=ドラキュラのイメージを塗り替えるに至り、半世紀経過した現在でも語り継がれる当たり役となった。リーがドラキュラ役を退いて以降、主だったところでは、[[フランク・ランジェラ]]、[[ゲイリー・オールドマン]]、[[リチャード・ロクスバーグ]]、[[ルーク・エヴァンズ]]といった面々がドラキュラを演じている。特にエヴァンズは映画『[[ドラキュラZERO]]』(2014年)において、それまでの作品とは一線を画する中世トランシルヴァニア時代のドラキュラを演じている。日本では[[岡田眞澄]]、岸田森がドラキュラを演じている。 == キャラクター == 原作小説では「背の高い痩せた男」「燃えるような赤い目」という印象で繰り返し描かれる。 登場当初は白髪の老人で、中盤から血を吸って若返り黒髪になる。「鷲を思わせる精悍な顔つきで、ピンと尖った口ひげを蓄え、青白い肌とは不釣り合いに赤い唇に尖った犬歯が覗いている」「手は一見するときめ細かいがよく見たらゴツゴツしていて、手のひらの中央に毛が生えており、爪を尖った形に切りそろえている」といった容貌。服装は黒ずくめであるという他は特に記述されていない。 対して性格や趣味趣向は細かく描写されている。登場当初こそ物腰穏やかな老紳士といった風を装っているが、次第に傲岸で獰猛な本性を顕わにしていく。プライドが高く、他者に侮られるのは我慢がならず、追い詰められても虚勢を張る。他方、長年書庫に篭ってイギリスの地理や文化を研究し、英語を自在に操れるよう練習を積むなど勉強熱心であり、召使いなどがいないため来客の給仕や城に囲っている女吸血鬼の世話といった家事をみずからこなすなど、律儀な面もある。生活面では人間らしさは皆無である。通常の食事を摂る様子はなく、煙草も吸わない。自室に家具はなく荒れるに任されており、金貨やわずかな身だしなみ品といった人間社会に紛れ込む上で必要最低限のものしか所持していない。 吸血鬼としての性質もまた細かく描写されている(その中には後世のイメージとは異なる部分も多い)。血を吸ったり、自らの血を分け与えた者を吸血鬼に変える。また催眠術のような力で、自分に惹かれる性質の者に遠方から影響を与えることができる。怪力無双かつ変幻自在で、塵になって空を飛んだり、狼や蝙蝠に変身することができる。狼や鼠などを操り、また天候もある程度操作できる。だがこうした超能力を発揮できるのは夜間のみで、日中は怪力を備えただけの存在となる。そのため主な活動期間は日没から日の出まで。だが日光は弱点ではなく、昼間に出歩く場面もある。日中は特定の「避難所」(故郷の土を敷き詰めた棺や箱、自殺者の墓、配下の吸血鬼の棲家)で眠らなければ力を回復することができない。他人の家にはその家の家人に招かれなければ入ることができないが、一度招かれればあとは自由に出入りできる。潮の満ち引きを除き、流れる水の上を渡れない。影が無く、鏡に映らない。十字架をはじめとする神の息のかかっているものとニンニクを忌避する。 称号は[[伯爵]](Count)ということにはなっているが、ルーマニアの貴族階級にはこの称号はなく、ドラキュラが仮に貴族とされていても、「伯爵」というのは単なる敬称に過ぎない可能性が高い。実際、小説中においてドラキュラ当人がこの称号を名乗ったり用いたりする場面はなく、署名をする際には「D」とのみ記し、彼の墓標にもただ「ドラキュラ(DRACULA)」とのみ書かれる。 [[File:Dracula 1958 c.jpg|thumb|1958年公開の映画『[[吸血鬼ドラキュラ (1958年の映画)|吸血鬼ドラキュラ]]』でドラキュラを演じる[[クリストファー・リー]]]] ドラキュラの容姿はハミルトン・ディーンの舞台戯曲以来、映画『[[魔人ドラキュラ]]』のヒットもあり、オールバックの髪型で夜会服にマントを羽織るスタイルが定着している。しかし戦前から40年代までの映画でドラキュラ、および吸血鬼が牙を装着したものは世界最古の吸血鬼映画『[[吸血鬼ノスフェラトゥ|ノスフェラトゥ]]』(1922年)を除いては皆無で、戦後に英国ハマー・フィルムが制作した『[[吸血鬼ドラキュラ (1958年の映画)|吸血鬼ドラキュラ]]』(1958年)から、吸血鬼が牙を着けることがポピュラーになった。戦前のルゴシ、戦後のリーの2大スターによってドラキュラのスタイルが確固たるものになったといってよい。唇を血で濡らしている描写を初めて映像表現したのも映画『吸血鬼ドラキュラ』である。 映画・演劇では演出上の理由でキャラクター設定が多岐にわたって改変される。 == 関連作品 == 右側にある人名は、ドラキュラを演じた役者名。 === 映画 === * [[吸血鬼ノスフェラトゥ]](Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens、[[1922年]])マックス・シュレック * [[魔人ドラキュラ]](Dracula、[[1931年]])[[ベラ・ルゴシ]] * [[吸血鬼ドラキュラ (1958年の映画)|吸血鬼ドラキュラ]](Dracula、[[1958年]])[[クリストファー・リー]] * [[ドラキュラ (1979年の映画)|ドラキュラ]](Dracula、1979年)[[フランク・ランジェラ]] * [[ドラキュラ都へ行く]](Love at First Bite、1979年)[[ジョージ・ハミルトン]] * [[ノスフェラトゥ (1979年の映画)|ノスフェラトゥ]](Nosferatu: Phantom der Nacht、1979年)[[クラウス・キンスキー]] * [[ドラキュリアン]](The Monster Squad、1987年)[[ダンカン・レガー]] * [[ドラキュラ (1992年の映画)|ドラキュラ]](Bram Stoker's Dracula、[[1992年]])[[ゲイリー・オールドマン]] * [[ドラキュリア]](Dracula 2000、[[2000年]])[[ジェラルド・バトラー]] * [[ヴァン・ヘルシング (映画)|ヴァン・ヘルシング]](VAN HELSING、2004年)[[リチャード・ロクスバーグ]] * [[怪物くん (テレビドラマ)|映画 怪物くん]](2011年)[[八嶋智人]]、[[本村健太郎]] * [[ダリオ・アルジェントのドラキュラ]](Dracula 3D、2012年)[[トーマス・クレッチマン]] * [[モンスター・ホテル]] ([[:en:Hotel Transylvania|Hotel Transylvania]]、2012 & 2015年) - [[アニメーション]]映画 - * [[ドラキュラZERO]](Dracula Untold、2014年)[[ルーク・エヴァンス]] * [[レンフィールド]](Renfield、2023年)[[ニコラス・ケイジ]] === テレビドラマ === * [[土曜ワイド劇場]]-吸血鬼ドラキュラ神戸に現わる 悪魔は女を美しくする(1979年)[[岡田眞澄 ]] * [[怪物くん (テレビドラマ)|怪物くん]](2010年)[[八嶋智人]] * [[ドラキュラ伯爵 (テレビドラマ)|ドラキュラ伯爵]] (Dracula, 2020年) [[クレス・バング]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{wikisourcelang|en|Dracula}} 日本語訳書籍については[[吸血鬼ドラキュラ]]を参照。 * 『ドラキュラ伝説 : 吸血鬼のふるさとをたずねて』 レイモンド・T.マクナリー/ラドゥ・フロレスク 共著 [[矢野浩三郎]] 訳、1978年、[[角川選書]]26、ISBN 978-4047030268 * 『ドラキュラの世紀末 : ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』 [[丹治愛]] 著、1997年、[[東京大学出版会]]、ISBN 4130830252 * 『ドラキュラの精神史 (フィギュール彩 77) 』 [[小野俊太郎]] 著、2016年、[[彩流社]]、ISBN 978-4-7791-7082-9 == 関連項目 == * [[悪魔城ドラキュラ]] * [[女ドラキュラ]] * [[怪物くん]] * [[ドン・ドラキュラ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とらきゆら}} [[Category:ドラキュラ|*]] [[Category:フィクションの吸血鬼]] [[Category:ルーマニア]] [[Category:1890年代の小説]] [[Category:アイルランドの小説]] [[Category:ユニバーサル・モンスターズ|*とらきゆら]] [[Category:ヴラド3世]]
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熊毛郡 (山口県)
熊毛郡(くまげぐん)は、山口県(周防国)の郡。内陸から瀬戸内海に突き出した室津半島と変化に富んだ地勢であり、近郊型農業や漁業が主な産業である。 人口27,266人、面積119.7km2、人口密度228人/km2。(2023年7月1日、推計人口) 以下の3町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町のほか、下記の区域にあたる。
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熊毛郡(くまげぐん)は、山口県(周防国)の郡。内陸から瀬戸内海に突き出した室津半島と変化に富んだ地勢であり、近郊型農業や漁業が主な産業である。 人口27,266人、面積119.7km²、人口密度228人/km²。(2023年7月1日、推計人口) 以下の3町を含む。 上関町(かみのせきちょう) 田布施町(たぶせちょう) 平生町(ひらおちょう)
{{Pathnavbox| *{{Pathnav|令制国一覧|山陽道|周防国|'''熊毛郡'''|hide=1}} *{{Pathnav|日本|中国地方|山口県|'''熊毛郡'''|hide=1}} }} [[画像:Yamaguchi Kumage-gun.png|frame|山口県熊毛郡の位置(1.上関町 2.田布施町 3.平生町)]] '''熊毛郡'''(くまげぐん)は、[[山口県]]([[周防国]])の[[郡]]。内陸から[[瀬戸内海]]に突き出した[[室津半島]]と変化に富んだ地勢であり、近郊型農業や漁業が主な産業である。 {{郡データ換算|山口県|上関町|田布施町|平生町}} 以下の3町を含む。 * [[上関町]](かみのせきちょう) * [[田布施町]](たぶせちょう) * [[平生町]](ひらおちょう) == 郡域 == [[1879年]]([[明治]]12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町のほか、下記の区域にあたる。 * [[光市]]の全域 * [[周南市]]の一部(八代より南東) * [[柳井市]]の一部(伊保庄・阿月) == 歴史 == * [[養老]]5年([[721年]]) - 一部区域が[[玖珂郡]]として分離。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での支配は以下の通り。(41村) {| class="wikitable" |- ! style="width:25%" colspan=2 | [[知行]] ! style="width:5%" | 村数 ! 村名 |- | rowspan=2 | [[藩|藩領]] | 周防[[山口藩]]<ref>右記のほか田布施村が記載されているが詳細不明。</ref> | 40村 | 麻郷村、麻郷奥村、別府村、上田布施村、下田布施村、波野村、大波野村、平生村、曽根村、大野南村、大野北村、宇佐木村、伊保庄村、伊保庄南村、佐賀村、小郡村、室津村<ref>尾国村と合わせて室津尾国村として記載。</ref>、尾国村<ref>室津村と合わせて室津尾国村として記載。</ref>、樋口村、清尾村、原村、八代村<ref>上八代村・下八代村に分かれて記載。</ref>、呼坂村、安田村、小松原村、小周防村、立野村、光井村、室積村、室積浦、岩田村、束荷村、塩田村、宿井村、吉井村、川西村、三輪村、大河内村、三井村、浅江村 |- | 山口藩・周防[[徳山藩]] | 1村 | 島田村 |} * 明治4年 ** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1871年]][[8月5日]]) - 徳山藩が廃藩。領地が山口藩の管轄となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[山口県]]'''の管轄となる。 ** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により'''山口県'''の管轄となる。 * 明治初年 - 吉井村が宿井村に合併。(40村) * 明治9年([[1876年]])(47村) ** [[大島郡 (山口県)|大島郡]]長島・八島・祝島・佐合島・馬島・牛島の所属郡が本郡に変更。 ** [[玖珂郡]]竪ヶ浜村の所属郡が本郡に変更。 * 明治12年([[1879年]])[[1月6日]] - [[郡区町村編制法]]の山口県での施行により行政区画としての'''熊毛郡'''が発足。郡役所が室積村に設置。 === 町村制以降の沿革 === [[画像:Yamaguchi Kumage-gun 1889.png|right|frame|1.伊保庄村 2.伊保庄南村 3.室津村 4.上関村 5.佐賀村 6.大野村 7.平生村 8.曽根村 9.麻里府村 10.麻郷村 11.田布施村 12.塩田村 13.城南村 14.三輪村 15.岩田村 16.室積村 17.光井村 18.島田村 19.浅江村 20.三井村 21.周防村 22.束荷村 23.三丘村 24.高水村 25.勝間村 26.八代村(紫:光市 赤:周南市 桃:柳井市 橙:上関町 黄:田布施町 緑:平生町)]] * [[明治]]22年([[1889年]])[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、下記の各村が発足。(26村) ** '''[[伊保庄村]]'''、'''[[阿月村|伊保庄南村]]'''(それぞれ単独村制。現・柳井市) ** '''[[室津 (上関町)|室津村]]'''(単独村制。現・上関町) ** '''[[上関町|上関村]]''' ← 長島、八島、祝島(現・上関町) ** '''[[佐賀村 (山口県)|佐賀村]]''' ← 尾国村、佐合島、小郡村、佐賀村(現・平生町) ** '''[[大野村 (山口県)|大野村]]''' ← 大野南村、大野北村(現・平生町) ** '''[[平生町|平生村]]''' ← 平生村、竪ヶ浜村、平生町<ref>平生村のうち町分。本項では町数に数えない。</ref>、宇佐木村(現・平生町) ** '''[[曽根村 (山口県)|曽根村]]'''(単独村制。現・平生町) ** '''[[麻里府村]]''' ← 馬島、別府村(現・田布施町) ** '''[[麻郷村]]''' ← 麻郷村、麻郷奥村(現・田布施町) ** '''[[田布施町|田布施村]]''' ← 下田布施村、上田布施村、波野村、大波野村(現・田布施町) ** '''[[塩田村 (山口県)|塩田村]]'''(単独村制。現・光市) ** '''[[城南村 (山口県)|城南村]]''' ← 宿井村、川西村(現・田布施町) ** '''[[三輪村 (山口県)|三輪村]]'''、'''[[岩田村 (山口県)|岩田村]]'''(それぞれ単独村制。現・光市) ** '''[[室積町|室積村]]''' ← 牛島、室積浦、室積村(現・光市) ** '''[[光井村]]'''、'''[[島田村 (山口県)|島田村]]'''、'''[[浅江村]]'''、'''[[三井村 (山口県)|三井村]]'''(それぞれ単独村制。現・光市) ** '''[[周防村]]''' ← 小周防村、立野村(現・光市) ** '''[[束荷村]]'''(単独村制。現・光市) ** '''[[三丘村]]''' ← 小松原村、安田村(現・周南市) ** '''[[高水村]]''' ← 清尾村、樋口村、原村(現・周南市) ** '''[[勝間村 (山口県)|勝間村]]''' ← 呼坂村、大河内村(現・周南市) ** '''[[八代村 (山口県)|八代村]]'''(単独村制。現・周南市) * 明治29年([[1896年]])[[9月1日]] - [[郡制]]を施行。 * 明治34年([[1901年]])[[3月1日]] - 伊保庄南村が改称して'''[[阿月村]]'''となる。 * 明治36年([[1903年]])4月1日 - 平生村が町制施行して'''[[平生町]]'''となる。(1町25村) * 明治39年([[1906年]])[[1月1日]] - 室積村が町制施行して'''[[室積町]]'''となる。(2町24村) * [[大正]]10年([[1921年]])[[2月11日]] - 田布施村が町制施行して'''[[田布施町]]'''となる。(3町23村) * 大正12年([[1923年]])4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 * 大正15年([[1926年]])[[7月1日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 * [[昭和]]14年([[1939年]])4月1日 - 光井村・島田村・浅江村・三井村が合併して'''[[光町 (山口県)|周南町]]'''が発足。(4町19村) * 昭和15年([[1940年]])[[10月1日]] - 周南町が改称して'''[[光町 (山口県)|光町]]'''となる。 * 昭和18年([[1943年]]) ** 4月1日 - 光町・室積町が合併して'''[[光市]]'''が発足し、郡より離脱。(2町19村) ** [[11月3日]] - 岩田村・三輪村・塩田村・束荷村が合併して'''[[大和町 (山口県)|大和村]]'''が発足。(2町16村) * 昭和24年([[1949年]])4月1日 - 高水村のうち大字原の一部が勝間村に編入<ref name="原">現在の奥関屋。</ref>。 * 昭和25年([[1950年]])4月1日 - 周防村のうち大字小周防の一部が勝間村に編入<ref name="小周防">現在の中村。</ref>。 * 昭和30年([[1955年]]) ** 1月1日(2町10村) *** 麻郷村・麻里府村・田布施町・城南村が合併し、改めて'''田布施町'''が発足。 *** 平生町・大野村・曽根村・佐賀村が合併し、改めて'''平生町'''が発足。 ** 7月1日 - 周防村が光市に編入。(2町9村) * 昭和31年([[1956年]]) ** [[7月20日]] - 阿月村が[[柳井市]]に編入。(2町8村) ** [[9月30日]](3町3村) *** 伊保庄村が柳井市に編入。 *** 三丘村・高水村・勝間村・八代村が合併して'''[[熊毛町]]'''が発足。 * 昭和32年([[1957年]])4月10日 - 光市のうち大字立野の一部が大和村に編入<ref name="立野">現在の岩田立野。</ref>。 * 昭和33年([[1958年]])[[2月1日]] - 室津村が上関村に編入。上関村が即日町制施行して'''[[上関町]]'''となる。(4町1村) * 昭和46年([[1971年]])[[1月15日]] - 大和村が町制施行して'''[[大和町 (山口県)|大和町]]'''となる。(5町) * [[平成]]15年([[2003年]])[[4月21日]] - 熊毛町が[[徳山市]]・[[新南陽市]]・[[都濃郡]][[鹿野町 (山口県)|鹿野町]]と合併して'''[[周南市]]'''が発足し、郡より離脱。(4町) * 平成16年([[2004年]])[[10月4日]] - 大和町が光市と合併し、改めて'''光市'''が発足、郡より離脱。(3町) === 変遷表 === {{hidden begin |title = 自治体の変遷 |titlestyle = background:lightgrey; }} {| class="wikitable" style="font-size:x-small" ! colspan="3" | 明治22年以前 ! style="white-space:nowrap;" | 明治22年<br />4月1日 ! style="white-space:nowrap;" | 明治22年 - 大正15年 ! colspan="3" | 昭和元年 - 昭和29年 ! style="white-space:nowrap;" | 昭和30年 - 昭和39年 ! style="white-space:nowrap;" | 昭和40年 - 昭和64年 ! 平成元年 - 現在 ! 現在 |- | colspan="2" | 大島郡牛島 | style="background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 牛島 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 室積村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 明治39年1月1日<br />町制 室積町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" colspan="2" | 室積町 | rowspan="7" | 昭和18年4月1日<br />光市 | rowspan="7" | 光市 | rowspan="7" | 光市 | rowspan="14" | 平成16年10月4日<br />光市 | rowspan="14" | 光市 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 室積浦 | style="background-color:#9cf;" | 室積浦 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 室積村 | style="background-color:#9cf;" | 室積村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三井村 | style="background-color:#9cf;" | 三井村 | style="background-color:#9cf;" | 三井村 | style="background-color:#9cf;" | 三井村 | style="white-space:nowrap; background-color:#6ff;" rowspan="4" | 昭和14年4月1日<br />周南町 | style="white-space:nowrap; background-color:#6ff;" rowspan="4" | 昭和15年10月1日<br />改称 光町 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 島田村 | style="background-color:#9cf;" | 島田村 | style="background-color:#9cf;" | 島田村 | style="background-color:#9cf;" | 島田村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 浅江村 | style="background-color:#9cf;" | 浅江村 | style="background-color:#9cf;" | 浅江村 | style="background-color:#9cf;" | 浅江村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 光井村 | style="background-color:#9cf;" | 光井村 | style="background-color:#9cf;" | 光井村 | style="background-color:#9cf;" | 光井村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 塩田村 | style="background-color:#9cf;" | 塩田村 | style="background-color:#9cf;" | 塩田村 | style="background-color:#9cf;" | 塩田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 塩田村 | style="white-space:nowrap; background-color:#9cf;" rowspan="4" | 昭和18年11月3日<br />大和村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 大和村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="5" | 昭和46年1月15日<br />町制 大和町 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 束荷村 | style="background-color:#9cf;" | 束荷村 | style="background-color:#9cf;" | 束荷村 | style="background-color:#9cf;" | 束荷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 束荷村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三輪村 | style="background-color:#9cf;" | 三輪村 | style="background-color:#9cf;" | 三輪村 | style="background-color:#9cf;" | 三輪村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 三輪村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 岩田村 | style="background-color:#9cf;" | 岩田村 | style="background-color:#9cf;" | 岩田村 | style="background-color:#9cf;" | 岩田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 岩田村 |- | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 立野村 | style="background-color:#9cf;" | 一部<ref name="立野" /> | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 立野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 周防村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 周防村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" colspan="2" | 周防村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 周防村 | style="background-color:#9cf;" | 昭和32年4月10日<br />大和村に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 一部 | rowspan="2" | 昭和30年7月1日<br />光市に編入 | rowspan="2" | 光市 |- | style="white-space:nowrap; background-color:#9cf;" rowspan="2" | 小周防村 | style="background-color:#9cf;" | 一部 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 小周防村 |- | style="white-space:nowrap; background-color:#9cf;" | 一部<ref name="小周防" /> | style="background-color:#9cf;" | 昭和25年4月1日<br />勝間村に編入 | style="background-color:#6ff;" rowspan="10" | 昭和31年9月30日<br />熊毛町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="10" | 熊毛町 | style="white-space:nowrap;" rowspan="10" | 平成15年4月21日<br />周南市の一部 | rowspan="10" | 周南市 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 呼坂村 | style="background-color:#9cf;" | 呼坂村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 勝間村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 勝間村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" colspan="3" | 勝間村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大河内村 | style="background-color:#9cf;" | 大河内村 |- | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 原村 | style="background-color:#9cf;" | 一部<ref name="原" /> | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 原村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 高水村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 高水村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" colspan="2" | 高水村 | style="background-color:#9cf;" | 昭和24年4月1日<br />勝間村に編入 |- | style="background-color:#9cf;" | 一部 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 高水村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 清尾村 | style="background-color:#9cf;" | 清尾村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 樋口村 | style="background-color:#9cf;" | 樋口村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小松原村 | style="background-color:#9cf;" | 小松原村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 三丘村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 三丘村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" colspan="3" | 三丘村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 安田村 | style="background-color:#9cf;" | 安田村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 八代村 | style="background-color:#9cf;" | 八代村 | style="background-color:#9cf;" | 八代村 | style="background-color:#9cf;" | 八代村 | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 八代村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 下田布施村 | style="background-color:#9cf;" | 下田布施村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 田布施村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 大正10年2月11日<br />町制 田布施町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" colspan="3" | 田布施町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 昭和30年1月1日<br />田布施町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 田布施町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 田布施町 | style="white-space:nowrap; background-color:#6ff;" rowspan="11" | 田布施町 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 上田布施村 | style="background-color:#9cf;" | 上田布施村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 波野村 | style="background-color:#9cf;" | 波野村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大波野村 | style="background-color:#9cf;" | 大波野村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宿井村 | style="background-color:#9cf;" | 宿井村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 城南村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 城南村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" colspan="3" | 城南村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 吉井村 | style="background-color:#9cf;" | 明治初年<br />宿井村に合併 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 川西村 | style="background-color:#9cf;" | 川西村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 麻郷村 | style="background-color:#9cf;" | 麻郷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 麻郷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 麻郷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" colspan="3" | 麻郷村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 麻郷奥村 | style="background-color:#9cf;" | 麻郷奥村 |- | colspan="2" | 大島郡馬島 | style="background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 馬島 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 麻里布村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 麻里布村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" colspan="3" | 麻里布村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 別府村 | style="background-color:#9cf;" | 別府村 |- | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 平生村 | style="background-color:#6ff;" | 町分 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 平生村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 平生村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 明治36年4月1日<br />町制 平生町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" colspan="3" | 平生町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 昭和30年1月1日<br />平生町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 平生町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 平生町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="11" | 平生町 |- | style="background-color:#9cf;" | &nbsp; |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宇佐木村 | style="background-color:#9cf;" | 宇佐木村 |- | colspan="2" | 玖珂郡竪ヶ浜村 | style="white-space:nowrap; background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 竪ヶ浜村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大野北村 | style="background-color:#9cf;" | 大野北村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 大野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 大野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" colspan="3" | 大野村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大野南村 | style="background-color:#9cf;" | 大野南村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 曽根村 | style="background-color:#9cf;" | 曽根村 | style="background-color:#9cf;" | 曽根村 | style="background-color:#9cf;" | 曽根村 | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 曽根村 |- | colspan="2" | 大島郡佐合島 | style="background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 佐合島 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 佐賀村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 佐賀村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" colspan="3" | 佐賀村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小郡村 | style="background-color:#9cf;" | 小郡村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 佐賀村 | style="background-color:#9cf;" | 佐賀村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 尾国村 | style="background-color:#9cf;" | 尾国村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 室津村 | style="background-color:#9cf;" | 室津村 | style="background-color:#9cf;" | 室津村 | style="background-color:#9cf;" | 室津村 | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 室津村 | style="background-color:#6ff;" | 昭和33年2月1日<br />上関村に編入<br />即日町制 上関町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 上関町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 上関町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="4" | 上関町 |- | colspan="2" | 大島郡長島 | style="background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 長島 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 上関村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 上関村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" colspan="3" | 上関村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 昭和33年2月1日<br />町制 上関町 |- | colspan="2" | 大島郡八島 | style="background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 八島 |- | colspan="2" | 大島郡祝島 | style="background-color:#9cf;" | 明治9年<br />所属変更 祝島 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 伊保庄南村 | style="background-color:#9cf;" | 伊保庄南村 | style="white-space:nowrap; background-color:#9cf;" | 伊保庄南村 | style="background-color:#9cf;" | 明治34年3月1日<br />改称 阿月村 | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 阿月村 | 昭和31年7月20日<br />柳井市に編入 | rowspan="2" | 柳井市 | rowspan="2" | 平成17年2月21日<br />柳井市の一部 | rowspan="2" | 柳井市 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 伊保庄村 | style="background-color:#9cf;" | 伊保庄村 | style="background-color:#9cf;" | 伊保庄村 | style="background-color:#9cf;" | 伊保庄村 | style="background-color:#9cf;" colspan="3" | 伊保庄村 | 昭和31年9月30日<br />柳井市に編入 |} {{hidden end}} == 行政 == ;歴代郡長 {| class="wikitable" !代!! 氏名!! 就任年月日!! 退任年月日!! 備考 |- |1||||明治12年([[1879年]])1月6日|||| |- |||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1988|date=1988-11-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=35 山口県|isbn=4040013506|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1988}}}} * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] * [https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/22/15505.html 令和元年刊山口県統計年鑑・付録] == 関連項目 == * [[熊毛郡 (鹿児島県)]] - 鹿児島県にある同名の郡 {{周防国の郡}} {{山口県の郡}} {{山口県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くまけくん}} [[Category:熊毛郡 (山口県)|*]] [[Category:山口県の郡]] [[Category:周防国の郡]] [[Category:柳井市の歴史]] [[Category:光市の歴史]] [[Category:周南市の歴史]] [[Category:上関町]] [[Category:田布施町]] [[Category:平生町]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%AF%9B%E9%83%A1_(%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9C%8C)
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スコット・ジョプリン
スコット・ジョプリン(英語: Scott Joplin, 1867年か1868年(後述) - 1917年4月1日)はアメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人の作曲家、ピアノ演奏家。ラグタイムで有名な演奏家・作曲家であり、「ラグタイム王」(King of Ragtime)と呼ばれている。 黒人元奴隷農夫のジャイルズ・ジョプリン(Jiles Joplin)とフローレンス・ギヴェンス(Florence Givens)の息子として生まれた。母もアフリカ系アメリカ人だったが、生まれつき自由民だった。 誕生日は長年にわたり、1868年11月24日であると考えられてきたが、ラグタイム研究家のエドワード・バーリン(Edward Berlin)の研究により誤りであることが判明、現在では1867年7月から1868年4月までの間に出生したのではないかという説が有力である。 出生地はテキサス州東部の州境地帯(アーカンソー州 - ルイジアナ州 - テキサス州)に位置するカス郡の郡都・リンデン(Linden、人口およそ2万4千人)付近。かつては、1868年11月24日にダラスとリトルロックのほぼ中間に位置する同州ボウイ郡テクサカーナ(Texarkana,TX)で生まれたのだと考えられてきた。 1875年、家族と共にテキサス州テクサーカナに移り住んだ。早くから音楽的才能が現れ、バンジョーを上手くこなした。両親は彼の才能を伸ばすことに力を貸し、特に母は生活費を削ってピアノを買い与えた。この時代の黒人は教育の機会が与えられず、仕事も限られていたので、「何か自分の身を助ける才能があれば」と願ったのだと考えられる。1876年にはJulius Weissの指導で音楽を習う(ピアノは独学と言われるが、10代でダンス音楽の演奏家になった)。 1882年ごろに親元から離れ、ミシシッピー川流域のサロンの1つ「メイプル・リーフ・サロン」で演奏、白人の音楽出版者ジョン・スターク(英語版)に出会う。1890年ごろにセントルイスに移り住み、アメリカ中西部のサロンや売春宿で演奏した。1893年にはシカゴのコロンビアン・エクスポジション隣接のスポーツ・エリアで演奏した。1894年にミズーリ州セダリア(Sedalia)へ移り住み、そこから8人の仲間と共にテキサス・メドレー・カルテットを編成し、ニューヨークまで演奏旅行をした。 1895年、クラシック音楽のピアニスト・作曲家としての人生を歩みたいと願い、黒人のためのジョージ・R・スミス大学で学ぶ。彼はヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつける音楽を追求していた。これは後日、音楽ジャンル『ラグ』として認知されるようになった。 1896年9月16日、カンサス&テキサス鉄道会社(en)(The Katy, K&Tの意)の宣伝のためにテキサス州Wako近くで行った車両同士の正面衝突(en)(衝撃によるボイラー爆発で、5万人の観客の一部に破片が飛び、結局2名死亡と重傷者の出る大事故になった)にジョプリンは作曲へのインスピレーションを感じ、『ザ・グレート・クラッシュ・コリジョン・マーチ The Great Crush Collision March』を作曲した。その後、1899年ごろから1914年まで15年間にわたって多くのラグを作曲した。 1900年にセントルイスに移り住み、ジョン・スタークと親交を深めた。スタークは彼の作品『メイプル・リーフ・ラグ Maple Leaf Rag』を発売し、大成功を収めた。1901年にはスコット・ハイデン(Scott Hayden)と共に『サンフラワー・スロウ・ドラッグ Sunflower Slow Drag』を作曲、さらにハイデンの妹ベルと結婚したが、彼女はジョプリンの音楽に理解が無く、2人は1903年に離婚した。1902年に代表作『ジ・エンターテイナー The Entertainer』を作曲、1903年にオペラ『ゲスト・オブ・オナー(名誉ある客) A Guest of Honor』を作曲したが、このオペラは失われて現存しない。 1907年、33歳のロッティー・ストークス(Lottie Stokes)に出会い、その後10年を幸せに送った。ストークスはベルと違い、音楽を愛していた。1911年にニューヨークへ移り住み、オペラ『トゥリーモニシャ Treemonisha』を作曲。 1915年、オーケストラの代わりに彼のピアノでの演奏でオペラが公演されたことが一度あったが不評に終わった。後にベルが述べたところによると、それがジョプリンにとって精神的に相当な衝撃であった。 1917年1月中旬、梅毒により精神・肉体に異常をきたし、ブルックリンの病院に入院。晩年は認知症が発現し入退院を繰り返していた。同年4月1日に死去した。死因は直接的には肺炎ということであったが、実際には梅毒による複合的な身体機能の劣化であると考えられる。 彼の存命中、版権から得られる収入はあったが、重要な作曲家としては認知されず、1970年代になってようやくその音楽が見直された。 1973年、映画『スティング』の中で、彼の音楽が使われ大ヒット、音楽部門でアカデミー賞を得た。これと前後してピアノ演奏によるレコードが次々と登場し、多くは全米のクラシック音楽セールスで上位に入った。1976年、彼のオペラ『トゥリーモニシャ Treemonisha』が演奏され、ピューリッツァー賞を得た。 現代ではセントルイスでは彼が2年間住んでいた家が "Scott Joplin State" という博物館になっており、6ドル払うと見学出来るようになっている。
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スコット・ジョプリンはアメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人の作曲家、ピアノ演奏家。ラグタイムで有名な演奏家・作曲家であり、「ラグタイム王」と呼ばれている。
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | Name = スコット・ジョプリン<br />{{lang|en|Scott Joplin}} | Img = Scott Joplin.jpg | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = classic | Birth_name = | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = <!-- 個人のみ --> | Born = [[1867年]]か[[1868年]]<br />{{USA}} [[テキサス州]] | Died = {{死亡年月日と没年齢|1868|1|31|1917|4|1}}<br />{{USA}} [[ニューヨーク州]] | Origin = | Instrument = [[ピアノ]] | Genre = [[クラシック音楽]]<br />[[ポピュラー音楽]]<br />[[ラグタイム]] | Occupation = [[作曲家]]<br />[[ピアニスト]] | Years_active = | Label = | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = | Notable_instruments = }} '''スコット・ジョプリン'''({{lang-en|Scott Joplin}}, [[1867年]]か[[1868年]](後述) - [[1917年]][[4月1日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[アフリカ系アメリカ人]]の[[作曲家]]、[[ピアノ奏者|ピアノ演奏家]]。[[ラグタイム]]で有名な演奏家・作曲家であり、「'''ラグタイム王'''」({{lang|en|King of Ragtime}})と呼ばれている。 == 生涯 == === 生い立ち === [[奴隷|黒人元奴隷]]農夫のジャイルズ・ジョプリン({{lang|en|Jiles Joplin}})とフローレンス・ギヴェンス({{lang|en|Florence Givens}})の息子として生まれた<ref name="ANB">{{Cite ANB|id=1800645|title=Joplin, Scott|last=Berlin|first=Edward A.}}</ref>。母も[[アフリカ系アメリカ人]]だったが、生まれつき自由民だった<ref name="ANB" />。 誕生日は長年にわたり、[[1868年]][[11月24日]]であると考えられてきたが、ラグタイム研究家のエドワード・バーリン({{lang|en|Edward Berlin}})の研究により誤りであることが判明、現在では[[1867年]]7月から1868年4月までの間に出生したのではないかという説が有力である。 出生地はテキサス州東部の州境地帯([[アーカンソー州]] - [[ルイジアナ州]] - [[テキサス州]])に位置する[[カス郡 (テキサス州)|カス郡]]の郡都・リンデン(Linden、人口およそ2万4千人)付近。かつては、[[1868年]][[11月24日]]に[[ダラス]]と[[リトルロック (アーカンソー州)|リトルロック]]のほぼ中間に位置する同州[[ボウイ郡 (テキサス州)|ボウイ郡]][[テクサーカナ (テキサス州)|テクサカーナ]]([[テキサス州|Tex]][[アーカンソー州|ark]][[ルイジアナ州|ana]],TX)で生まれたのだと考えられてきた。 1875年、家族と共にテキサス州[[テクサーカナ (テキサス州)|テクサーカナ]]に移り住んだ。早くから音楽的才能が現れ、[[バンジョー]]を上手くこなした。両親は彼の才能を伸ばすことに力を貸し、特に母は生活費を削って[[ピアノ]]を買い与えた。この時代の黒人は教育の機会が与えられず、仕事も限られていたので、「何か自分の身を助ける才能があれば」と願ったのだと考えられる。1876年にはJulius Weissの指導で音楽を習う(ピアノは独学と言われるが、10代でダンス音楽の演奏家になった)。 === 独り立ち === 1882年ごろに親元から離れ、[[ミシシッピー川]]流域のサロンの1つ「メイプル・リーフ・サロン」で演奏、白人の音楽出版者{{仮リンク|ジョン・スティルウェル・スターク|en|John Stillwell Stark|label=ジョン・スターク}}に出会う。1890年ごろに[[セントルイス]]に移り住み、アメリカ中西部のサロンや売春宿で演奏した。1893年には[[シカゴ]]のコロンビアン・エクスポジション隣接のスポーツ・エリアで演奏した。1894年に[[ミズーリ州]]セダリア([[:en:Sedalia, Missouri|Sedalia]])へ移り住み、そこから8人の仲間と共にテキサス・メドレー・カルテットを編成し、[[ニューヨーク]]まで演奏旅行をした。 === ラグ === 1895年、[[クラシック音楽]]のピアニスト・作曲家としての人生を歩みたいと願い、黒人のためのジョージ・R・スミス大学で学ぶ。彼はヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつける音楽を追求していた。これは後日、音楽ジャンル『[[ラグタイム|ラグ]]』として認知されるようになった。 1896年9月16日、カンサス&テキサス鉄道会社([[:en:Missouri–Kansas–Texas Railroad|en]])(The Katy, K&Tの意)の宣伝のためにテキサス州Wako近くで行った車両同士の正面衝突([[:en:Crush, Texas|en]])(衝撃によるボイラー爆発で、5万人の観客の一部に破片が飛び、結局2名死亡と重傷者の出る大事故になった)にジョプリンは作曲へのインスピレーションを感じ、『ザ・グレート・クラッシュ・コリジョン・マーチ ''The Great Crush Collision March''』を作曲した。その後、1899年ごろから1914年まで15年間にわたって多くのラグを作曲した。 1900年にセントルイスに移り住み、ジョン・スタークと親交を深めた。スタークは彼の作品『[[メイプルリーフ・ラグ|メイプル・リーフ・ラグ]] ''Maple Leaf Rag''』を発売し、大成功を収めた。1901年にはスコット・ハイデン(Scott Hayden)と共に『[[サンフラワー・スロウ・ドラッグ]] ''Sunflower Slow Drag''』を作曲、さらにハイデンの妹ベルと結婚したが、彼女はジョプリンの音楽に理解が無く、2人は1903年に離婚した。1902年に代表作『[[ジ・エンターテイナー]] ''The Entertainer''』を作曲、1903年にオペラ『ゲスト・オブ・オナー(名誉ある客) ''A Guest of Honor''』を作曲したが、このオペラは失われて現存しない。 === 晩年 === 1907年、33歳のロッティー・ストークス({{lang|en|Lottie Stokes}})に出会い、その後10年を幸せに送った。ストークスはベルと違い、音楽を愛していた。1911年にニューヨークへ移り住み、オペラ『トゥリーモニシャ ''Treemonisha''』を作曲。 1915年、オーケストラの代わりに彼のピアノでの演奏でオペラが公演されたことが一度あったが不評に終わった。後にベルが述べたところによると、それがジョプリンにとって精神的に相当な衝撃であった。 1917年1月中旬、[[梅毒]]により精神・肉体に異常をきたし、ブルックリンの病院に入院。晩年は[[認知症]]が発現し入退院を繰り返していた。同年4月1日に死去した。死因は直接的には[[肺炎]]ということであったが、実際には梅毒による複合的な身体機能の劣化であると考えられる。 == 死後 == [[ファイル:Scott Joplin House.jpg|サムネイル|ジョップリンの自宅 現在は博物館(ミズーリ州セントルイス)]] 彼の存命中、版権から得られる収入はあったが、重要な作曲家としては認知されず、[[1970年代]]になってようやくその音楽が見直された。 [[1973年]]、映画『[[スティング (映画)|スティング]]』の中で、彼の音楽が使われ大ヒット、音楽部門でアカデミー賞を得た。これと前後してピアノ演奏によるレコードが次々と登場し、多くは全米のクラシック音楽セールスで上位に入った。[[1976年]]、彼のオペラ『トゥリーモニシャ ''Treemonisha''』が演奏され、ピューリッツァー賞を得た。 現代ではセントルイスでは彼が2年間住んでいた家が "Scott Joplin State" という博物館になっており、6ドル払うと見学出来るようになっている。 == 作品リスト == === ピアノ曲 === * コンビネーション・マーチ ''Combination March'' - 1896年 * ハーモニー・クラブ・ワルツ ''Harmony Club Waltz'' - 1896年 * ザ・グレート・クラッシュ・コリジョン・マーチ ''The Great Crush Collision March'' - 1896年 * [[メイプルリーフ・ラグ|メイプル・リーフ・ラグ]] ''Maple Leaf Rag'' - 1899年 * [[オリジナル・ラグ|オリジナル・ラグズ]] ''Original Rags'' - 1899年 *: チャールズ・N・ダニエルズ(Charles N. Daniels)の編曲による。 * スワイプシー=ケーク・ウォーク ''Swipesy-Cake Walk'' - 1900年 *: A. マーシャル(Arthur Marshall)との共作。 * オーガスタン・クラブ・ワルツ ''Augustan Club Waltz'' - 1901年 * [[ピーチェリン・ラグ]] ''Peacherine Rag'' - 1901年 * [[サンフラワー・スロウ・ドラッグ]] ''Sunflower Slow Drag'' - 1901年 *: S. ハイデン(Scott Hayden)との共作。 * イージー・ウィナーズ ''The Easy Winners'' - 1901年 * ブリーズ・フロム・アラバマ ''A Breeze From Alabama'' - 1902年 * クレオファ ''Cleopha'' - 1902年 * エリート・シンコペーションズ ''Elite Syncopations'' - 1902年 * マーチ・マジェスティック ''March Majestic'' - 1902年 * [[ジ・エンターテイナー]] ''The Entertainer'' - 1902年 * [[ストレニアス・ライフ]] ''The Strenuous Life'' - 1902年 * パーム・リーフ・ラグ ''Palm Leaf Rag'' - 1903年 * サムシング・ドゥイング ''Something Doing'' - 1903年 *: S. ハイデン(Scott Hayden)との共作。 * [[Weeping Willow|しだれ柳(ウィーピング・ウィロー)]] ''Weeping Willow'' - 1903年 * カスケーズ ''The Cascades'' - 1904年 * [[クリサンシマム|菊の花(クリサンシマム)]] ''The Chrysanthemum'' - 1904年 * フェイヴァリット ''The Favorite'' - 1904年 * シカモア ''The Sycamore'' - 1904年 * [[ベセーナ]] ''Bethena'' - 1905年 * ビンクス・ワルツ ''Binks' Waltz'' - 1905年 * レオラ ''Leola'' - 1905年 * ローズバッド・マーチ ''The Rosebud March'' - 1905年 * アントワネット ''Antoinette'' - 1906年 * ユージニア ''Eugenia'' - 1906年 * [[ラグタイム・ダンス]] ''The Ragtime Dance'' - 1906年 *: 1902年の改訂からさらに短縮された版であり、現在もっともよく知られる版。1899年の初版と1902年の改訂版の損失を埋めるため出版された。 * グラジオラス・ラグ ''Gladiolus Rag'' - 1907年 * ヘリオトロープの花束 ''Heliotrope Bouquet'' - 1907年 *: L. ショーヴァン(Louis Chauvin)との共作。 * リリー・クイーン ''Lily Queen'' - 1907年 *: A. マーシャル(Arthur Marshall)との共作。 * ローズ・リーフ・ラグ ''Rose Leaf Rag'' - 1907年 * サーチライト・ラグ ''Searchlight Rag'' - 1907年 * ノンパレル ''The Nonpareil'' - 1907年 * フィグ・リーフ・ラグ ''Fig Leaf Ra''g - 1908年 * [[パイン・アップル・ラグ]] ''Pine Apple Rag'' - 1908年 * スクール・オブ・ラグタイム ''School of Ragtime'' - 1908年 * 砂糖きび(シュガー・ケイン) ''Sugar Cane'' - 1908年 * カントリー・クラブ ''Country Club'' - 1909年 * ユーフォニック・サウンズ ''Euphonic Sounds'' - 1909年 * パラゴン・ラグ ''Paragon Rag'' - 1909年 * 楽しい一時(プレザント・モーメンツ) ''Pleasant Moments'' - 1909年 * [[ソラース]] ''Solace'' - 1909年 * ウォール・ストリート・ラグ ''Wall Street Rag'' - 1909年 * [[シルバー・スワン・ラグ]] ''Silver Swan Rag'' - 1909~10年(死後出版) *: 1914年に[[ピアノロール]]へ録音されたが長らく忘れ去られ、その後1970年に再発見され、翌年1971年に楽譜が出版された。 * ストップタイム・ラグ ''Stoptime Rag'' - 1910年 * フェシリティ・ラグ ''Felicity Rag'' - 1911年 *: S. ハイデン(Scott Hayden)との共作。 * スコット・ジョプリンのニュー・ラグ ''Scott Joplin's New Rag'' - 1912年 * リアル・スロウ・ドラッグ ''A real slow Drag'' - 1913年 *: オペラ「トゥリーモニシャ」からの編曲作品。 * キスメット・ラグ ''Kismet Rag'' - 1913年 *: S. ハイデン(Scott Hayden)との共作。 * [[マグネティック・ラグ]] ''Magnetic Rag'' - 1914年 * リフレクション・ラグ ''Reflection Rag'' - 1917年(死後出版) === 歌曲 === * アイ・アム・シンキング・オブ・マイ・ピカニニー・デイズ ''I Am Thinking of My Pickanniny Days''(Henry Jackson詞) - 1902年 * リトル・ブラック・ベイビー ''Little Black Baby''(Louis Armstrong Bristol詞) - 1903年 * サラ・ディア ''Sarah Dear''(Henry Jackson詞) - 1905年 * スノーイング・サンプソン ''Snoring Sampson'' (Harry La Mertha詞) - 1907年 * ホエン・ユア・ヘア・イズ・ライク・ザ・スノウ ''When Your Hair Is Like the Snow''("Owen Spendthrift"詞) - 1907年 === バレエ === * [[ラグタイム・ダンス]] ''The Ragtime Dance'' - 1899年 === オペラ === * ゲスト・オブ・オナー(名誉ある客) ''A Guest of Honor'' - 1903年(消失) * トゥリーモニシャ ''Treemonisha'' - 1911年 === その他 === * [[ラグタイム・ダンス]] ''The Ragtime Dance'' - 1902年 *: ナレーションとピアノのための作品。1899年発表のバレエ音楽からの改訂版。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.trachtman.org/ragtime/ Ragtime Piano MIDI files by Warren Trachtman] * {{IMSLP|id=Joplin%2C_Scott|cname=スコット・ジョプリン}} * {{OL author}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:しよふりん すこつと}} [[Category:アメリカ合衆国の作曲家]] [[Category:アメリカ合衆国のピアニスト]] [[Category:アフリカ系アメリカ人のミュージシャン]] [[Category:テキサス州テクサーカナ出身の人物]] [[Category:梅毒で死亡した人物]] [[Category:1868年生]] [[Category:1917年没]]
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意味
意味(いみ)とは、次のような概念である。 意味に関しては、多くの研究において問題とされており、例えば、次のような問いがみられる。
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意味(いみ)とは、次のような概念である。 言葉(単語・用語など)が持っているとする概念のこと。言葉の意味、語の意味、語句の意味、用語の意味、言意、語意、語義などともいう。例えば、「雨」は、音声としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「空から水滴が落ちてくる現象」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。 ある行動や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた理由のこと。 ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性や理由のこと。 意味論が対象とするものである「意味」 意味に関しては、多くの研究において問題とされており、例えば、次のような問いがみられる。 言語などの手段によるコミュニケーションにおいて意味はどのように伝わるのか。(あるいは伝わらないのか。) ある行動や発言における意味はどのように知ることができるのか。
{{出典の明記|date=2021年4月}} {{簡易区別|「ニュアンス」}} '''意味'''(いみ)とは、次のような[[概念]]である。 #[[言葉]]([[単語]]・[[用語]]など)が持っているとする[[概念]]のこと。'''言葉の意味'''、'''[[語]]の意味'''、'''語句の意味'''、'''[[用語]]の意味'''、'''言意'''、'''語意'''、'''語義'''などともいう。例えば、「[[雨]]」は、[[音声]]としては「ア」と「メ」が組み合わさっただけのものであるが、そこには「[[空]]から[[水滴]]が落ちてくる[[現象]]」「空から落ちてくる水滴自体」というような意味が備わっている。 #ある[[行動]]や発言が持つ必要性、もしくはそれが行われた[[理由]]のこと。 #ある物([[物体]]や[[システム]]など)が[[存在]]する必要性や理由のこと。 #[[意味論 (曖昧さ回避)|意味論]]が[[対象]]とするものである「意味」 意味に関しては、多くの[[研究]]において問題とされており、例えば、次のような問いがみられる。 *[[言語]]などの手段による[[コミュニケーション]]において意味はどのように伝わるのか。(あるいは伝わらないのか。) *ある行動や発言における意味はどのように知ることができるのか。 ==関連項目== {{Wiktionary|意味}} *[[意味論 (曖昧さ回避)|意味論]]({{Lang-en-short|semantics|links=no}}) **[[言語学]]分野 ***[[モンタギュー文法]] ***[[語彙意味論]] ***[[形式意味論]] (数理も含む) **論理及数理分野 ***[[ゲーム意味論]] ***[[プログラム意味論]] ****[[公理的意味論]] ****[[操作的意味論]] ****[[表示的意味論]] *[[言語哲学]]分野(広義の意味論、意味の理論、{{Lang-en-short|theory of meaning|links=no}}) **{{仮リンク|意味 (哲学)|en|Meaning (philosophy)|label=}} *[[認知心理学]]分野 **[[アフォーダンス]] *その他 **[[理解社会学]] **[[エスノメソドロジー]] **[[ロゴセラピー]] **[[人生の意義]] **[[一般意味論]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いみ}} [[Category:知識]] [[Category:言語哲学の概念]] [[Category:哲学的論理学]]
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カギ
カギ、かぎ
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カギ、かぎ 鍵 - 錠を開閉する道具。 錠前 - 扉などを締め、鍵で開閉される道具。 鉤 - 先が曲がった棒状の道具。 亅部 - 漢字の部首。 問題を解決するために必要な要素。 嘉義市 - 台湾の都市。稀に仮名で「カギ市」と書かれる。 カギ島 (Kagi) - モルディブ カーフ環礁 の無人島。 何儀 - 黄巾賊頭目の1人。 賈誼 - 前漢時代の政治思想家。
{{Wiktionary|かぎ}} '''カギ'''、'''かぎ''' ; 一般名称 * [[鍵]] - 錠を開閉する道具。 * [[錠前]] - 扉などを締め、鍵で開閉される道具。 * [[鉤]] - 先が曲がった棒状の道具。 * [[亅部]] - 漢字の部首。 * 問題を解決するために必要な要素。 ; 地名 * [[嘉義市]] - 台湾の都市。稀に仮名で「カギ市」と書かれる。 * カギ島 ({{en|Kagi}}) - [[モルディブ]] カーフ環礁 ({{interlang|En|Kaafu Atoll}}) の無人島。 ; 人名 * [[何儀]] - [[黄巾賊]]頭目の1人。 * [[賈誼]] - [[前漢]]時代の政治思想家。 == 関連項目 == * 先頭一致ページ名一覧 : 「{{Prefix|カギ|カギ}}」、「{{Prefix|かぎ|かぎ}}」。 * 語句含むページ名一覧 : 「{{Intitle|カギ|カギ}}」、「{{Intitle|かぎ|かぎ}}」。 * [[Wikipedia:索引 かき#かき]] {{aimai}} {{デフォルトソート:かき}}
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万葉線
万葉線(まんようせん)は、万葉線株式会社が運営する路面電車の路線の総称である。富山県高岡市の高岡駅停留場から同県射水市の六渡寺駅までを結ぶ高岡軌道線(たかおかきどうせん)と、六渡寺駅から射水市の越ノ潟駅までを結ぶ新湊港線(しんみなとこうせん)の2路線から構成される。両線で一体的に運行されていることから、本項目ではこれらを一括して解説する。 本路線は軌道法による軌道路線である高岡軌道線と、鉄道事業法による鉄道路線である新湊港線の2路線で構成されている。両線で一体的な運行を行っているため、全線にわたって路面電車タイプの小振りな電車が使用されている。 高岡軌道線区間はほぼ全線が道路上を走る併用軌道であるが、米島口停留場 - 能町口停留場間が専用軌道になっており、西日本旅客鉄道(JR西日本)氷見線、日本貨物鉄道(JR貨物)新湊線を跨いでいる。また、中伏木停留場 - 六渡寺駅間も専用軌道となっている。 米島口駅のそばに万葉線本社および車庫がある。越ノ潟駅で富山新港の港口を渡る富山県営渡船に連絡する。 現在の高岡軌道線にあたる路線は富山地方鉄道に、新湊港線にあたる路線は越中鉄道(1943年に富山地方鉄道へ吸収合併)によって造られたものである。 1930年10月12日、現在の新湊港線区間にあたる西越ノ潟駅(現存せず) - 新湊東口駅(現在の東新湊駅)間が開業、12月23日には越ノ潟駅 - 西越ノ潟駅間が開業した。当時は越中鉄道(後の射水線)の一部だった。その後、1932年11月9日に東新湊駅 - 庄川口駅間、1933年12月25日に庄川口駅 - 新伏木口駅(現在の六渡寺駅)間が開業した。 1948年に現在の高岡軌道線区間にあたる地鉄高岡(現在の高岡駅停留場) - 伏木港間が開業、当時は伏木線(または高伏線)と呼ばれていた。また、これ以降、宇都宮芳賀ライトレール線が2018年に着工(2023年に開業)するまで長らく軌道線の新規建設が無かったため、『日本最後の市内軌道計画』とも呼ばれることになった。 1951年に国鉄新湊線の旅客営業廃止に伴って米島口停留場 - 新湊駅(現在の六渡寺駅)間が開業し、射水線を経由して地鉄高岡 - 富山軌道線西町間の直通運転が開始された。1959年に高岡軌道線(地鉄高岡 - 新湊間)が高岡市内の交通一元化のため、加越能鉄道(1950年設立、現在の加越能バス)に譲渡された。射水線、富山軌道線との直通運転は継続されたが、富山軌道線への乗り入れは1961年に廃止されている。 1966年、富山新港の建設により射水線が分断され、高岡側の路線も加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となった。富山市への直通運転ができなくなったことに加え、モータリゼーションの影響もあって、この頃から旅客は減少に転じた。1971年には高岡市の要請により、伏木線(米島口 - 伏木港間)が廃止されている。 2001年に加越能鉄道が高岡軌道線と新湊港線を廃止する意向を表明したため、両線を存続させるべく高岡市、旧新湊市が中心となり第三セクター会社「万葉線株式会社」を設立。2002年4月に両線とも同社に移管され、新会社での運行を開始した。 全停留場・駅が富山県に所在する。高岡停留場 - 吉久駅間の各停留場・駅と中新湊駅は高岡市に、その他の駅は射水市に所在する。中新湊駅も高岡市と射水市の境界に近く、実質的には射水市の代表駅となっている。 停留場名・駅名欄のカッコ内の名称は副駅名やネーミングライツによる愛称。 高岡西高校、高岡第一高校、高岡商業高校の3校は、2013年(平成25年)1月16日に連名で高岡市に、高岡市片原町交差点から北西方向に直進する富山県道64号高岡氷見線の高岡商業高校前まで約2.1 kmの延伸要望書を提出した。 3校の沿線にはバス路線もあるが本数が少なく満員で乗れないこともあり、生徒達は帰宅時に高岡駅まで徒歩で向かうことも多く、高岡商業高校校長が他2校に提案しまとまったもので、沿線には3校のほか幼稚園の教諭・保育士を育成する養成所など合せて約2000人の生徒・学生が、また近隣には工場などもあり通学通勤客を見込めるとしている。 また沿線には、高岡駅から約650mの山町筋と約1250m離れた金屋町の2箇所の国の重要伝統的建造物群保存地区があり、観光客に利用してもらうことによる観光の強化、中心市街地の活性化が見込めるとしている。要望を受けた高岡市長は、「検討課題は多いが、実現の可能性を見極めていきたい」と返答した。 同年1月30日には、高岡市議会新幹線・公共交通対策特別委員会は、片原町交差点から富山県道64号高岡氷見線と交差する国道8号までの1.5 kmを延伸した場合、車両費を除き約38億円の事業費が必要とした。
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万葉線(まんようせん)は、万葉線株式会社が運営する路面電車の路線の総称である。富山県高岡市の高岡駅停留場から同県射水市の六渡寺駅までを結ぶ高岡軌道線(たかおかきどうせん)と、六渡寺駅から射水市の越ノ潟駅までを結ぶ新湊港線(しんみなとこうせん)の2路線から構成される。両線で一体的に運行されていることから、本項目ではこれらを一括して解説する。
{{Otheruses|富山県にある路面電車路線|この路線を運営する会社|万葉線 (企業)}} {{混同|万葉まほろば線|x1=JR西日本桜井線の愛称の|link1=桜井線|万葉あかね線|x2=近江鉄道八日市線の愛称の|link2=近江鉄道八日市線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=万葉線 |路線色=ff0000 |ロゴ= |ロゴサイズ= |画像=Itram.jpeg |画像サイズ=300px |画像説明=軌道区間を走る[[万葉線MLRV1000形電車|MLRV1000形「アイトラム」]](2005年8月) |国={{JPN}} |所在地=[[富山県]] |起点=[[高岡駅|高岡駅停留場]] |終点=[[越ノ潟駅]] |駅数=8駅 |停留場数=17箇所 |経由路線=高岡軌道線、新湊港線 |路線記号= |開業=[[1930年]]([[昭和]]5年)[[10月12日]] |休止= |廃止= |所有者=[[越中鉄道]]→[[富山地方鉄道]]→[[加越能鉄道]]→[[万葉線 (企業)|万葉線株式会社]] |運営者=万葉線株式会社 |車両基地= |使用車両=[[万葉線 (企業)#車両]]を参照 |路線距離=12.9 [[キロメートル|km]](高岡軌道線8.0 km、新湊港線4.9 km) |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](広小路 - 米島口間)<br>[[単線]](上記以外) |電化方式=[[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]], [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=特殊自動閉塞式([[トロリーコンタクター]]式) |保安装置= |最高速度=40 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図=[[File:Manyōsen Linemap.svg|300px]] }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header|停留場・施設・接続路線}} {{BS-table}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%;"}} *営業キロの起点は高岡軌道線が高岡駅停留場、<br>新湊港線は越ノ潟駅である。 *新湊港線の1966年以前の駅や施設については、<br>「[[富山地方鉄道射水線]]」を参照。 ---- {{BS4|||STR||||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:[[城端線]]|}} {{BS4|ABZq+l|BHFq|O2=HUBa|ABZqr||||[[高岡駅]] [[あいの風とやま鉄道線]]|}} {{BS4|STR|uKBHFa|O2=HUBe|||0.0|[[高岡駅|高岡駅停留場]]||}} {{BS4|STR|ueBHF|||0.1|高岡駅前停留場|-2014|}} {{BS4|STR|O1=POINTERg@fq|uSTR|||||JR西:[[氷見線]]|}} {{BS4|LSTR|uBHF|||0.5|[[末広町停留場 (富山県)|末広町停留場]]||}} {{BS2|uBHF||0.7|[[片原町停留場]]||}} {{BS2|uBHF||0.9|[[坂下町停留場]]||}} {{BS2|uBHF||1.3|[[急患医療センター前停留場]]||}} {{BS2|uBHF||1.7|[[広小路停留場]]||}} {{BS2|uBHF||2.1|[[志貴野中学校前停留場]]||}} {{BS2|uBHF||2.4|[[市民病院前停留場]]||}} {{BS2|uBHF||3.0|[[江尻停留場]]||}} {{BS2|uBHF||3.3|[[旭ヶ丘停留場]]||}} {{BS2|uBHF||3.8|[[荻布停留場]]||}} {{BS2|uBHF||4.1|[[新能町停留場]]||}} {{BS2|uBHF||4.4|[[米島口停留場]]||}} {{BS4|LSTR|ueABZgl|||||''[[加越能バス|加越能鉄道]]:[[加越能鉄道伏木線|伏木線]]''|}} {{BS4|BHF|uSTR|||||[[能町駅]]|}} {{BS4|ABZgl|umKRZo|||||JR西:氷見線|}} {{BS4|STRl|umKRZo|STR+r||||[[日本貨物鉄道|JR貨物]]:[[新湊線]]|}} {{BS2|uBHF|LSTR|5.5|[[能町口停留場]]||}} {{BS2|uBHF|KDSTxe|6.0|[[新吉久停留場]]|右:[[高岡貨物駅]]|}} {{BS2|uBHF|exBHF|6.7|[[吉久停留場]]|右:''[[吉久駅 (国鉄)|吉久駅]]''|}} {{BS4||uBHF|exBHF|exBOOT|7.5|[[中伏木停留場]]||}} {{BS2|uSTR|exSTR|||中:''[[中伏木駅 (国鉄)|中伏木駅]]''→''[[高岡貨物駅|(貨)新湊駅]]''<ref group="注">平成九年度『鉄道要覧』では、新湊駅は営業キロ上では能町起点3.6kmの六渡寺駅に隣接する位置にあったことになっている。ただし、実際には同駅の駅本屋は旧・中伏木駅の位置にあった。</ref>|}} {{BS2|uSTR|exSTR|||右:''[[如意の渡し]]''|}} {{BS2|uSTR|exSTR||↑'''高岡軌道線'''|}} {{BS4||umSWBHF|exKBHFe||8.0/4.9|[[六渡寺駅]]|右:''[[高岡貨物駅|新湊駅]]''|}} {{BS2|STR|||↓'''新湊港線'''|}} {{BS2|hKRZWae||||[[庄川]]|}} {{BS2|BHF||4.3|[[庄川口駅]]||}} {{BS2|BHF||3.5|[[第一イン新湊 クロスベイ前駅]]||}} {{BS2|BHF||2.9|[[新町口駅]]||}} {{BS2|BHF||2.3|[[中新湊駅]]||}} {{BS2|BHF||1.3|[[東新湊駅]]||}} {{BS4|exKBSTaq|eABZgr|||||''[[日本高周波鋼業]]専用線''|}} {{BS2|BHF||0.7|[[海王丸駅]]||}} {{BS2|KBHFxe|BOOT|0.0|[[越ノ潟駅]]|[[富山県営渡船]]|}} {{BS2|exSTR||||''[[富山地方鉄道|富山地鉄]]:[[富山地方鉄道射水線|射水線]]''||}} |} |} '''万葉線'''(まんようせん)は、[[万葉線 (企業)|万葉線株式会社]]が運営する[[路面電車]]の路線の総称である。[[富山県]][[高岡市]]の[[高岡駅|高岡駅停留場]]から同県[[射水市]]の[[六渡寺駅]]までを結ぶ'''高岡軌道線'''(たかおかきどうせん)と、六渡寺駅から射水市の[[越ノ潟駅]]までを結ぶ'''新湊港線'''(しんみなとこうせん)の2路線から構成される{{sfn|マイナビ|2015|p=131}}。両線で一体的に運行されていることから、本項目ではこれらを一括して解説する。 == 概要 == 本路線は[[軌道法]]による[[軌道法|軌道路線]]である高岡軌道線と、[[鉄道事業法]]による[[鉄道路線]]である新湊港線の2路線で構成されている。両線で一体的な運行を行っているため、全線にわたって路面電車タイプの小振りな電車が使用されている。 高岡軌道線区間はほぼ全線が[[道路]]上を走る[[併用軌道]]であるが、米島口停留場 - 能町口停留場間が[[専用軌道]]になっており、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[氷見線]]、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[新湊線]]を跨いでいる。また、中伏木停留場 - 六渡寺駅間も専用軌道となっている。 米島口駅のそばに万葉線本社および車庫がある{{sfn|朝日|2011|p=19}}{{sfn|平凡社|2021|p=21}}。越ノ潟駅で[[伏木富山港|富山新港]]の港口を渡る[[富山県営渡船]]に連絡する<ref name="getnavi">{{Cite web|和書|url = https://getnavi.jp/vehicles/66606/|title = 路面電車と郊外電車のいいとこ取り! 全国でも類を見ない単線区間が主流の富山県「万葉線」|website = GetNavi web|date = 2016-09-10|accessdate = 2021-12-09}}</ref><ref name="nikkan20200430">{{Cite web|和書|url = https://www.nikkansports.com/leisure/column/railwayclub/news/202004280000287.html|title = 立川志の輔アナウンスの万葉線 すべてにガッテン|website = 日刊スポーツ|archiveurl = https://web.archive.org/web/20200812071615/https://www.nikkansports.com/leisure/column/railwayclub/news/202004280000287.html|date = 2020-04-30|archivedate = 2020-08-12|accessdate = 2021-12-09}}</ref>。 {{Main2|運行形態|万葉線 (企業)#運行形態}} [[File:DE7071 normal.jpg|thumb|none|庄川口駅付近を走るデ7070形(2008年12月26日)]] === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):全長12.9 [[キロメートル|km]]<ref name="getnavi"/><ref name="sankei20210818">{{Cite news|url = https://www.sankei.com/article/20210818-QLI2L4Y6NFJVVOBJWOTXYDMEHA/|title = 【街行く路面電車】富山・万葉線 人との距離の近さ 緩やかに走る|newspaper = 産経ニュース|date = 2021-08-18|accessdate = 2021-12-09}}</ref> ** 高岡軌道線:高岡駅停留場 - 六渡寺駅間8.0 km ** 新湊港線:越ノ潟駅 - 六渡寺駅間4.9 km * [[軌間]]:1067[[ミリメートル|mm]]<ref name="getnavi"/> * 駅数:合計25駅(高岡駅停留場と越ノ潟駅を含み、六渡寺駅を重複計上せず) ** 高岡軌道線:18駅(高岡駅停留場と六渡寺駅を含む) ** 新湊港線:8駅(六渡寺駅と越ノ潟駅を含む) * 複線区間:広小路停留場 - 米島口停留場間{{sfn|寺田|2013|p=93}} * 電化区間:全線([[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]){{sfn|寺田|2013|p=93}} * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 専用軌道区間:米島口停留場 - 能町口停留場間、中伏木停留場 - 六渡寺駅間 * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:特殊自動閉塞式([[トロリーコンタクター]]式)<ref group="注">軌道運転規則第2条に基づき国土交通大臣の許可を得た方法であり、鉄道統計年報においては「その他の方式」とされる。なお新湊港線は鉄道であるが、上記の許可に基づき続行運転も可能である。</ref><!--とさでん交通伊野線における出典に合わせて表現を統一(本来はとさでん交通の社内表現であるが、実態を最も適切に表しているため)--> * 最高速度:40 km/h{{sfn|寺田|2013|p=93}} == 歴史 == {{See also|富山地方鉄道射水線}} 現在の高岡軌道線にあたる路線は[[富山地方鉄道]]に、新湊港線にあたる路線は[[越中鉄道]](1943年に富山地方鉄道へ吸収合併)によって造られたものである。 1930年10月12日、現在の新湊港線区間にあたる[[西越ノ潟駅]](現存せず) - 新湊東口駅(現在の[[東新湊駅]])間が開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}<ref name="S51022">[{{NDLDC|2957612/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1930年10月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、12月23日には越ノ潟駅 - 西越ノ潟駅間が開業した{{sfn|朝日|2011|p=21}}<ref name="S51223">[{{NDLDC|1073565/8}} 『鉄道統計資料. 昭和5年度 』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。当時は[[富山地方鉄道射水線|越中鉄道]](後の射水線)の一部だった。その後、1932年11月9日に東新湊駅 - [[庄川口駅]]間{{sfn|朝日|2011|p=21}}<ref name="S71122">{{Citation|title=地方鉄道運輸開始 |periodical=官報 |issue=1770 |publisher=内閣印刷局 |date=1932-11-22 |page=571 |language=ja |id={{NDLJP|2958241/9}}}}<br />{{Citation|title=正誤 |periodical=官報 |issue=1771 |publisher=内閣印刷局 |date=1932-11-24 |page=603 |language=ja |id={{NDLJP|2958242/9}}}}</ref>、1933年12月25日に庄川口駅 - 新伏木口駅(現在の[[六渡寺駅]])間が開業した{{sfn|朝日|2011|p=21}}<ref name="S90109">[{{NDLDC|2958576/9}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1934年1月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 1948年に現在の高岡軌道線区間にあたる地鉄高岡(現在の[[高岡駅|高岡駅停留場]]) - 伏木港間が開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}、当時は[[加越能鉄道伏木線|伏木線]](または高伏線)と呼ばれていた。また、これ以降、[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]が2018年に着工(2023年に開業)するまで長らく軌道線の新規建設が無かったため、『日本最後の市内軌道計画』とも呼ばれることになった<ref name="ttt50" />。 1951年に国鉄新湊線の旅客営業廃止に伴って米島口停留場 - 新湊駅(現在の[[六渡寺駅]])間が開業し、[[富山地方鉄道射水線|射水線]]を経由して地鉄高岡 - [[富山地方鉄道富山軌道線|富山軌道線]][[西町停留場|西町]]間の直通運転が開始された{{sfn|朝日|2011|p=12}}<ref>『目で見る 高岡・氷見・新湊の100年』(1993年11月27日、郷土出版社発行)125ページ「新庄川鉄橋を走る地鉄電車」より。</ref>。1959年に高岡軌道線(地鉄高岡 - 新湊間)が高岡市内の交通一元化のため、加越能鉄道(1950年設立、現在の[[加越能バス]])に譲渡された。射水線、富山軌道線との直通運転は継続されたが、富山軌道線への乗り入れは1961年に廃止されている。 1966年、富山新港の建設により射水線が分断され、高岡側の路線も加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となった。富山市への直通運転ができなくなったことに加え、[[モータリゼーション]]の影響もあって、この頃から旅客は減少に転じた。1971年には高岡市の要請により、伏木線(米島口 - 伏木港間)が廃止されている。 2001年に加越能鉄道が高岡軌道線と新湊港線を廃止する意向を表明したため、両線を存続させるべく高岡市、旧[[新湊市]]が中心となり[[第三セクター]]会社「万葉線株式会社」を設立{{sfn|マイナビ|2015|p=131}}。2002年4月に両線とも同社に移管され、新会社での運行を開始した<ref name="sankei20210818"/>{{sfn|朝日|2011|p=21}}。 === 年表 === * [[1930年]](昭和5年) ** [[10月12日]] - 西越ノ潟駅(現存せず) - 新湊東口駅(現在の東新湊駅)間1.2 kmが開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}<ref name="S51022" />{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 ** [[12月23日]] - 越ノ潟駅 - 西越ノ潟駅間0.2 kmが開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}<ref name="S51223" />{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[1932年]](昭和7年) ** [[8月18日]] - 新湊東口駅を越ノ潟方へ移転の上、東新湊駅(初代)に改称<ref name="S71122" />。 ** [[11月9日]] - 新湊東口駅 - 庄川口駅間2.7 kmが開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}。東新湊駅 - 中新湊駅間は一般運輸営業、中新湊駅 - 庄川口駅間は旅客運輸営業<ref name="S71122" />。 * [[1933年]](昭和8年)[[12月25日]] - 庄川口駅 - 新伏木口駅(現在の六渡寺駅)間0.6 kmが開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}。庄川口駅廃止(復活日不明)。中学校前駅開業。中新湊駅 - 庄川口駅間貨物運輸営業開始<ref name="S90109" />。 * [[1934年]]頃 - 新伏木口駅を新伏木港駅に改称<ref name="chizucho">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』6号 北信越、新潮社、2008年、p.34</ref>。 * [[1939年]](昭和14年)[[4月1日]] - 新伏木港駅を新湊駅に、東新湊駅(初代)を東新湊高周波前駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364353/95}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第209号、日本電気協会、1939年5月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1943年]](昭和18年)[[1月1日]] - 越中鉄道が富山地方鉄道に合併、同社の射水線となる{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|朝日|2011|p=14}}。 * [[1944年]] ** [[3月3日]] - 新湊 - 高岡駅前間および米島口 - 伏木港間の鉄道敷設特許を申請<ref name="ttt50">『富山地方鉄道五十年史』(1983年3月28日、富山地方鉄道株式会社発行)368頁。</ref>。 ** [[11月5日]] - 特許され一部工事着手(後に資材不足からの調達待ちと戦況激化で工事が一時中断)<ref name="ttt50" />。 * [[1945年]](昭和20年)[[8月15日]] - 高周波前駅を東新湊駅(2代)に改称<ref name="chizucho" />{{sfn|地鉄|1979|p=175}}。 * [[1948年]](昭和23年)[[4月10日]]<ref name="sankei20210818"/> - 富山地方鉄道により地鉄高岡停留場 - 伏木港駅間7.3 kmが開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|地鉄|1979|p=175}}。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月20日]] - 中学校前駅を西新湊駅(初代)に改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[1951年]](昭和26年)[[4月1日]] - 米島口停留場 - 新湊駅(現在の六渡寺駅)間3.6 kmが開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|地鉄|1979|p=176}}。湶町停留場(現在の広小路停留場) - 米島口間複線化{{sfn|寺田|2013|p=245}}。射水線を経由し地鉄高岡停留場 - 富山軌道線西町停留場間の直通運転開始{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|地鉄|1979|p=176}}。 * [[1955年]](昭和30年)[[10月14日]] - 新町口駅開業{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|地鉄|1979|p=176}}。 * [[1958年]](昭和33年)[[5月7日]] - 湶町停留場を広小路停留場に改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[1959年]](昭和34年)4月1日 - 地鉄高岡停留場 - 伏木港駅間、米島口停留場 - 新湊駅間を富山地方鉄道から加越能鉄道に譲渡{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|地鉄|1979|p=176}}。地鉄高岡駅を新高岡駅に改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|地鉄|1979|p=179}}<ref group="注">服部重敬『富山地鉄笹津・射水線』(RMLIBRARY 107、2008年[[ネコ・パブリッシング]])p.8に、「新高岡駅」の看板が見える駅舎写真(1962年5月28日撮影)が掲載されている。</ref>。 * [[1961年]](昭和36年)[[7月18日]] - 新高岡停留場 - 富山軌道線西町停留場間の直通運転廃止。 * [[1962年]](昭和37年)3月 - 車庫区を湶町から米島口に移転。同時に鉄軌道部事務所を車庫区に併設<ref name="hoiku">飯島巌・西脇恵・諸河久 『私鉄の車両10 富山地方鉄道 加越能鉄道』 保育社、1985年、ISBN 4-586-53210-6、p.150</ref>。 * [[1963年]](昭和38年)[[9月15日]] - 新高岡駅を国鉄高岡駅前広場に移転、路線長を0.1 km短縮<ref>服部重敬『富山地鉄笹津・射水線』(RMLIBRARY 107、2008年[[ネコ・パブリッシング]])p.35。</ref>。 * [[1966年]](昭和41年)[[4月5日]] - 富山新港の建設に伴い、射水線のうち新湊駅 - 越ノ潟駅間を富山地方鉄道から加越能鉄道に譲渡し新湊港線とする{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|地鉄|1979|p=180}}。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[9月1日]] 米島口駅 - 伏木港駅間2.9 kmを廃止{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}、現在の路線となる。 ** [[11月15日]] - [[ワンマン運転|ワンマン]]化{{sfn|地鉄|1979|p=180}}。それに伴い新湊港線の各駅を完全駅員無配置化。 * [[1976年]](昭和51年)[[9月11日]] - 台風で庄川橋梁が流失し新湊駅 - 越ノ潟駅間が不通{{sfn|寺田|2013|p=245}}{{sfn|地鉄|1979|p=180}}。これにより同区間が[[廃線]]寸前となったが、住民の存続運動によって廃線を免れた<ref>『各駅停車 全国歴史散歩17 富山県』(北日本新聞社編、1979年7月30日初版発行)154ページ</ref>。 * [[1977年]](昭和52年)[[10月1日]] - 新湊駅 - 越ノ潟駅間が復旧{{sfn|寺田|2013|p=245}}。高岡市庁前停留場を本丸会館前停留場に改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[1979年]](昭和54年) - 新高岡駅を高岡駅前停留場に改称。 * [[1980年]](昭和55年)[[12月6日]] - 高岡軌道線、新湊港線の愛称が「万葉線」となる{{sfn|朝日|2011|p=21}}。 * [[1985年]](昭和60年)3月 - 新湊駅を六渡寺駅、西新湊駅(初代)を新湊市役所前駅にそれぞれ改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}。<!-- 鉄道線として開業したので「駅」--> * [[1990年]]([[平成]]2年)[[4月1日]] - 越ノ潟口駅を移転し、海王丸駅に改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[2001年]](平成13年)[[4月5日]] - 万葉線株式会社が設立{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[2002年]](平成14年) ** [[2月14日]] - 万葉線株式会社への譲渡認可<ref name="RP717_110">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=2月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2002-05-01|volume=52|issue=第5号(通巻第717号)|page=110|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ** 4月1日 - 万葉線として営業開始{{sfn|朝日|2011|p=21}}。 * [[2004年]](平成16年)[[12月27日]] - 本丸会館前停留場を広小路停留場側に約100m移転、上屋および安全地帯を整備。ただし、従前の交換設備は移転せず<ref group="注">『日本の路面電車ハンドブック 2011年版』(日本路面電車同好会)p.77では、本丸会館前停留場と交換設備は同一停留場区域とされている。</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[11月1日]] - 新湊市の合併に伴い、新湊市役所前駅を射水市新湊庁舎前駅に改称{{sfn|寺田|2013|p=245}}。また利便性向上のために、片原町停留場、坂下町停留場、志貴野中学前停留場に副駅名がつけられる。 * [[2007年]](平成19年)[[6月1日]] - 米島口停留場に副駅名がつけられる。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]] - 末広町停留場開業{{sfn|朝日|2011|p=21}}{{sfn|寺田|2013|p=245}}。 * [[2014年]](平成26年)[[3月29日]] - 高岡駅前停留場を高岡駅停留場に、本丸会館前停留場を急患医療センター前停留場にそれぞれ改称<ref name="knp20140329">{{Cite news|和書|title = (広告特集)クルン高岡きょう開業|newspaper = 北日本新聞|date = 2014-03-29|pages = 24}}</ref>。高岡駅停留場の移転に伴い、0.1 km延長<ref name="toyama20190330">{{Cite news|和書|title = 万葉線新駅完成祝う 110メートル延伸、待合室整備|newspaper = 富山新聞|date = 2014-03-30|pages = 28}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[10月11日]] - 射水市役所の新庁舎完成による新湊庁舎の廃止に伴い、射水市新湊庁舎前駅を西新湊駅(2代)に改称<ref name="H28">{{PDFlink|[http://www.manyosen.co.jp/news/img/ekimeihenkou.pdf 駅名変更のご案内]}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[5月1日]] - 停留所名に[[命名権]](ネーミングライツ)を導入(同日から3年間)<ref name="manyoname">{{Cite web|和書|url=https://www.manyosen.co.jp/season/2020/94988/|title=ネーミングライツについて|publisher=[[万葉線 (企業)|万葉線]]|date=2020-04-24|accessdate=2021-12-02}}</ref><ref name="chu20200429">{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/10548|title = 「万葉線」駅・停留所 命名権6社決まる 来月から|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = |date = 2020-04-29|archivedate = |accessdate = 2021-12-09}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[4月1日]] - 万葉線開業20周年を迎え、[[万葉線MLRV1000形電車|アイトラム]]1両に記念ヘッドマークを付けた記念号が運行される(10月31日まで)<ref name="Kitanihon20220401">「万葉線開業20年を記念 ヘッドマーク車両運行」『北日本新聞』 2022年4月1日21面</ref><ref name="Kitanihon20220402">「守れ!未来行き市民の足 利用増へ工夫凝らす 万葉線開業20年 記念号 出発進行」『北日本新聞』 2022年4月2日28面</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[9月1日]] - 西新湊駅を第一イン新湊 クロスベイ前駅に改称<ref>[https://www.manyosen.co.jp/season/2023/95103/ 駅名改称のお知らせ] - 万葉線、2023年8月18日、同年8月21日閲覧。</ref>。 <gallery mode="packed" heights="160"> File:ManyoLineCrossBridge.jpg|運河を渡る万葉線の電車(2014年9月21日) File:ManyoLineTrafficLights.JPG|中新湊駅の下り信号機(2014年9月21日) </gallery> == 駅一覧 == 全停留場・駅が富山県に所在する。高岡停留場 - 吉久駅間の各停留場・駅と中新湊駅は高岡市に{{sfn|平凡社|2021|p=23}}、その他の駅は射水市に所在する{{sfn|平凡社|2021|p=23}}。中新湊駅も高岡市と射水市の境界に近く、実質的には射水市の代表駅となっている。 停留場名・駅名欄のカッコ内の名称は副駅名や[[命名権|ネーミングライツ]]による愛称<ref name="manyoname"/><ref name="chu20200429"/>。 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:85%;" |- !rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}} !rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|停留場名(副駅名・愛称) !rowspan="2" style="width:4.5em;"|停留場間<br />営業<br />キロ !colspan="2"|累計営業キロ !rowspan="2"|停留場の周辺 !rowspan="2"|備考 !rowspan="2" style="width:1em;"|所在地 |- !style="width:4em;"|高岡駅<br />から !style="width:4em;"|越ノ潟<br />から |- |rowspan="18" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|高岡軌道線|height=10em}} | [[高岡駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|12.9 | [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[あいの風とやま鉄道]][[高岡駅]]([[あいの風とやま鉄道線]]、[[城端線]]、[[氷見線]])<ref name="nikkan20200430"/><br/>[[ウイング・ウイング高岡]] | 1959年、地鉄高岡より新高岡に改称。<br/>1963年、国鉄高岡駅前広場に移転。<br/>1979年、新高岡より高岡駅前に改称。<br/>2014年、高岡駅前より改称、現在地に移転<ref name="knp20140329"/><ref name="toyama20190330"/>。 |rowspan="16" style="text-align:center; width:1em;" | [[高岡市]] |- | [[末広町停留場 (富山県)|末広町]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|12.4 | [[御旅屋セリオ]]<br/>末広町商店街<br/>オタヤ通り商店街 | 2020年 - 2023年のネーミングライツによる愛称名は「サンデンコーポレーション 末広町」{{sfn|平凡社|2021|p=23}}。 |- | [[片原町停留場|片原町]](山町筋入口) |style="text-align:right;"|0.2 |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|12.2 | [[山町筋]] | 上屋がなく、電停の安全地帯は白線のみ。<br />交換設備がある。 |- | [[坂下町停留場|坂下町]](高岡大仏口) |style="text-align:right;"|0.2 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|12.0 | [[高岡大仏]]([[大佛寺 (高岡市)|大佛寺]])<br/>山町筋 |&nbsp; |- | [[急患医療センター前停留場|急患医療センター前]](古城公園西口) |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|11.6 | 高岡市急患医療センター<br />高岡古城公園([[高岡城]]) | 1977年、高岡市庁前より改称。<br />2005年、広小路側に約100m移転。ただし交換設備は移転せず。<br />2014年、本丸会館前より改称<ref name="knp20140329"/>。 |- | [[広小路停留場|広小路]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|11.2 | [[高岡警察署 (富山県)|高岡警察署]]<br />高岡商工会議所ビル<br />[[高岡市農業協同組合]]会館 | 1958年、湶町より改称。 |- | [[志貴野中学校前停留場|志貴野中学校前]](高岡市役所前) |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|10.8 | [[高岡市立志貴野中学校]]<br/>[[高岡市役所]]{{sfn|マイナビ|2015|p=132}}<br/>[[高岡市美術館]] | 上下線の電停とも[[ドラえもん]]装飾を施した'''ドラえもん電停'''になっている<ref>{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASK8S6TDDK8SPUZB00T.html|title = 富山)藤子・F・不二雄ギャラリー最寄り駅をラッピング|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20170902063153/https://www.asahi.com/articles/ASK8S6TDDK8SPUZB00T.html|date = 2017-09-01|archivedate = 2017-09-02|accessdate = 2021-12-09}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000011987|title = ドラえもん電停お披露目 万葉線の志貴野中学校前|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(北日本新聞)|date = 2017-09-04|accessdate = 2021-12-09}}</ref>。 |- | [[市民病院前停留場|市民病院前]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|10.5 | [[高岡市民病院]]<br />[[公共職業安定所|ハローワーク]]高岡 |&nbsp; |- | [[江尻停留場|江尻]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|9.9 | [[イオン (企業)|イオン]]高岡店 |&nbsp; |- | [[旭ヶ丘停留場|旭ヶ丘]](ひだまりの湯 旭ヶ丘){{sfn|平凡社|2021|p=23}} |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|9.6 | [[日本曹達]]高岡工場 |rowspan="2"|[[日本曹達]]、[[日本ゼオン]]の[[専用鉄道|専用線]]と[[平面交差]]があった<ref group="注">日本国内において鉄道線と軌道線がほぼ90度で平面交差する例は、現在では[[愛媛県]][[松山市]]の[[伊予鉄道]][[大手町駅 (愛媛県)|大手町駅]]で見られるもののみである。</ref>。 |- | [[荻布停留場|荻布]](ゼオン 荻布){{sfn|平凡社|2021|p=23}} |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|9.1 | [[日本ゼオン]]高岡工場<br/>JR西日本[[能町駅]](氷見線) |- | [[新能町停留場|新能町]] |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|8.8 | JR西日本能町駅(氷見線) |&nbsp; |- | [[米島口停留場|米島口]](アルビス米島店前) |style="text-align:right;"|0.3 |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|8.5 | 万葉線本社{{sfn|マイナビ|2015|p=132}}、米島車庫<br/>[[アルビス (チェーンストア)|アルビス]]米島店 | 次の能町口までの間、JR[[氷見線]]、[[新湊線]]との[[立体交差]]がある{{sfn|平凡社|2021|p=20}}。<br />1971年まで[[加越能鉄道伏木線|伏木線]]が分岐。 |- | [[能町口停留場|能町口]](サニーライブグループ 能町口){{sfn|平凡社|2021|p=23}} |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|5.5 |style="text-align:right;"|7.4 | [[日本重化学工業]]高岡事業所 |&nbsp; |- | [[新吉久停留場|新吉久]](TEKリサイクルセンター 新吉久){{sfn|平凡社|2021|p=23}} |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|6.9 | [[日本貨物鉄道]](JR貨物)[[高岡貨物駅]] | 下り電停は上屋付のホームがあるが、上り電停はホームがなく、白線の安全地帯のみ。<br/>交換設備がある。 |- | [[吉久停留場|吉久]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|6.7 |style="text-align:right;"|6.2 | JR貨物高岡貨物駅 | 上屋がなく、電停の安全地帯は白線のみ{{sfn|マイナビ|2015|p=133}}。 |- | [[中伏木停留場|中伏木]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|7.5 |style="text-align:right;"|5.4 |[[伏木富山港]](伏木事務所) | 以前は交換設備があった。 |rowspan="6" style="text-align:center; width:1em;"|[[射水市]] |- |rowspan="2"|[[六渡寺駅]](牧田組本社 六渡寺){{sfn|平凡社|2021|p=23}} |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.5 |rowspan="2" style="text-align:right;"|8.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|4.9 |rowspan="2"| 庄川左岸緑地運動広場<br/>牧田組本社([[登録有形文化財]]){{sfn|マイナビ|2015|p=133}}<ref>{{文化遺産オンライン|149235|牧田組本社(旧南島商行本店)}}</ref> |rowspan="2"| 1985年、新湊より改称。<br/>交換設備がある。 |- |rowspan="8" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|新湊港線|height=8em}} |- |[[庄川口駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:right;"|4.3 |[[新湊漁港]]西地区 |&nbsp; |- |[[第一イン新湊 クロスベイ前駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|9.4 |style="text-align:right;"|3.5 |[[クロスベイ新湊]]<br/>[[射水市消防本部|新湊消防署]]<br/>[[富山県立新湊高等学校]] |1985年、西新湊より新湊市役所前に改称。<br/>2005年、市町村合併に伴い、新湊市役所前より射水市新湊庁舎前に改称。<br/>2016年、新湊庁舎廃止に伴い、射水市新湊庁舎前より西新湊に改称。<br/>2023年、西新湊より改称。 |- |[[新町口駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|10.0 |style="text-align:right;"|2.9 |射水市新湊中央文化会館 |&nbsp; |- |[[中新湊駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|10.6 |style="text-align:right;"|2.3 |中新湊商店街 |&nbsp; |style="text-align:center; width:1em;" | [[高岡市]] |- |[[東新湊駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|11.6 |style="text-align:right;"|1.3 |新湊漁港東地区 |&nbsp; |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|[[射水市]] |- |[[海王丸駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|12.2 |style="text-align:right;"|0.7 |[[海王丸パーク]]{{sfn|マイナビ|2015|p=133}} |1990年、越ノ潟口より海王丸に改称、現在地に移転。 |- |[[越ノ潟駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|12.9 |style="text-align:right;"|0.0 |[[伏木富山港]]新湊地区(富山新港)<br/>[[富山県営渡船]]<ref name="getnavi"/><ref name="nikkan20200430"/> |&nbsp; |} == 延伸構想 == [[富山県立高岡西高等学校|高岡西高校]]、[[高岡第一高等学校|高岡第一高校]]、[[富山県立高岡商業高等学校|高岡商業高校]]の3校は、[[2013年]](平成25年)1月16日に連名で高岡市に、高岡市片原町交差点から北西方向に直進する[[富山県道64号高岡氷見線]]の高岡商業高校前まで約2.1 kmの延伸要望書を提出した。 3校の沿線にはバス路線もあるが本数が少なく満員で乗れないこともあり、生徒達は帰宅時に高岡駅まで徒歩で向かうことも多く、高岡商業高校校長が他2校に提案しまとまったもので、沿線には3校のほか幼稚園の教諭・保育士を育成する養成所など合せて約2000人の生徒・学生が、また近隣には工場などもあり通学通勤客を見込めるとしている。 また沿線には、高岡駅から約650mの[[山町筋]]と約1250m離れた[[金屋町 (高岡市)|金屋町]]の2箇所の国の[[重要伝統的建造物群保存地区]]があり、観光客に利用してもらうことによる観光の強化、中心市街地の活性化が見込めるとしている。要望を受けた高岡市長は、「検討課題は多いが、実現の可能性を見極めていきたい」と返答した<ref>「高岡西・高岡一・高岡商の3高校 万葉線延伸 市に要望」『北日本新聞』 2013年1月19日25面</ref>。 同年1月30日には、高岡市議会新幹線・公共交通対策特別委員会は、片原町交差点から富山県道64号高岡氷見線と交差する[[国道8号]]までの1.5 kmを延伸した場合、車両費を除き約38億円の事業費が必要とした<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.47news.jp/localnews/toyama/2013/01/post_20130131092413.html|title = 万葉線延伸費38億円 高岡市見通し|publisher = 47NEWS|deadlinkdate = 2021年12月|archiveurl = https://archive.is/20130704124941/http://www.47news.jp/localnews/toyama/2013/01/post_20130131092413.html|date = 2013-01-31|archivedate = 2013-07-04|accessdate = 2021-12-20}}</ref>。 == その他 == * 毎年[[5月1日]]に高岡市中心市街地にて[[高岡御車山祭|御車山祭]]が行われる際、御車山巡行のために万葉線の[[架線]]が一時撤去される<ref>{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/60629/2|title = 架線を撤去し山車通過 世界に認められる祭りを支える鉄道会社の心意気|website = 乗りものニュース|date = 2016-11-29|accessdate = 2021-12-09}}</ref><ref group="注">[[秩父鉄道]]においても、[[秩父夜祭]]の際に山車を通すため、[[御花畑駅]]近くの踏切の架線を外せるようになっているほか、過去には[[京都市電]]において、[[祇園祭]]の山鉾巡行の際に類似の措置が執られていた(京都市電の項目を参照)。</ref>。祭礼当日、御車山を通すため架線を、巡行路にあたる坂下町交差点から、片原町交差点間の約330mに渡り外し、巡行後に架け直す処置をとる。架線を架ける際、電車の上での点検作業なども見ることができる。また当日は[[急患医療センター前停留場]]から[[高岡駅|高岡駅停留場]]間は期間(時間)運休となる。 * 毎年旧暦8月に行われる高岡七夕まつりでは片原町 - 高岡駅間の運行が休止される<ref>{{Cite web|和書|url = https://plus.chunichi.co.jp/blog/ito/article/264/3967/|title = 七夕飾りを楽しめる路面電車…万葉線|website = 中日新聞Web|archiveurl = |date = 2015-07-15|archivedate = |accessdate = 2021-12-20}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 出典として脚注引用していない文献は、削除される場合があります --> * {{Cite book|和書|title = 写真でつづる富山地方鉄道50年の歩み|publisher = 富山地方鉄道|date = 1979-07-17|ref = {{sfnref|地鉄|1979}} }} * {{Cite book|和書|title = 週刊歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 19 富山地方鉄道 富山ライトレール・万葉線 黒部峡谷鉄道・北越急行|publisher = [[朝日新聞出版]]|date = 2011-07-24|ref = {{sfnref|朝日|2011}} }} * {{Cite book|和書|title = 改訂新版 データブック日本の私鉄|author = [[寺田裕一]]|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|date = 2013-01-19|isbn = 978-4-7770-1336-4|ref = {{sfnref|寺田|2013}} }} * {{Cite journal|和書|title = 北陸の私鉄・第三セクター大紹介 万葉線|journal = 徹底ガイド! 北陸新幹線まるわかりBOOK|publisher = [[マイナビ]]|date = 2015-02-08|isbn = 978-4-8399-5292-1|pages = 131-133|ref = {{sfnref|マイナビ|2015}} }} * {{Cite journal|和書|title = 万葉線|journal = 日本路面電車地図鑑|author = 地理情報開発(編)|publisher = [[平凡社]]|date = 2021-06-20|isbn = 978-4-582-94606-2|pages = 20-23|ref = {{sfnref|平凡社|2021}} }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * [https://www.manyosen.co.jp/ 万葉線株式会社] {{富山地方鉄道の路線}} {{日本の路面電車}} {{DEFAULTSORT:まんようせん}} [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:中部地方の鉄道路線|まんようせん]] [[Category:第三セクター路線]] [[Category:万葉線|*]] [[Category:富山県の交通]] [[Category:鉄道路線の愛称]] {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1= 万葉線高岡軌道線 |1-1=日本の路面電車路線 |1-2=中部地方の鉄道路線 |1-3=第三セクター路線 |1-4=万葉線 |1-5=富山県の交通 |redirect2= 万葉線新湊港線 |2-1=中部地方の鉄道路線 |2-2=第三セクター路線 |2-3=万葉線 |2-4=富山県の交通 |redirect3= 加越能鉄道高岡軌道線 |3-1=中部地方の鉄道路線 (廃止) |3-2=富山地方鉄道 |3-3=加越能鉄道 |3-4=かつて存在した路面電車路線 |redirect4= 加越能鉄道新湊港線 |4-1=中部地方の鉄道路線 (廃止) |4-2=富山地方鉄道 |4-3=加越能鉄道 }}
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福井市
福井市(ふくいし)は、福井県北部(嶺北)に位置する市。福井県の県庁所在地及び県内で人口が最多の市で、中核市に指定されている。旧足羽郡。1889年(明治22年)市制施行。 県人口の約34%が暮らしている。戦国時代の武将柴田勝家の北ノ庄城時代から城下町として都市形成しはじめ、江戸時代には石高68万石を数える大城下町となった。福居、福井と地名を変えた親藩統治を経て、現在もなお県政の中心として福井城本丸跡に福井県庁がある。江戸時代の福井は日本屈指の大都市で朝倉氏滅亡後一乗谷から移転した文化人の影響もあり華やかな文化や行事が行われていた。 1940年代に福井大空襲、福井地震(1か月後に集中豪雨で九頭竜川堤防決壊)とわずか3年の間にそれぞれ人口の1〜2%を失う大災厄に2度も見舞われるという、近現代日本の都市としては唯一ともいえる経験を経ながら、当時の倍以上の人口にまで復興したことから不死鳥を街のシンボルとしている。 2002年(平成14年)の「21世紀を拓く創造プラン」(第5次福井市総合計画)策定より、「人、街、自然、文化の『交・響・楽・彩 ふくい』(まじわり・ひびきあい・たのしみ・いろどるまち)」をスローガンに街づくりを進めている。 西から日本海、丹生山地、福井平野、両白山地(越美山地)と並ぶ。海岸部は鷹巣港付近を境に北側が三里浜の名を持つ砂浜、南側は岩場が続き、その海岸から約100m先にその形から名前が付いた亀島が浮かぶ。総面積の約半分を山林が占め、市西側の丹生山地には国見岳(656m)、その中腹に五太子の滝がある。海岸部を除く全域が九頭竜川水系流域にあり、本流を含む三大河川が合流する地点から東側の南北に平野が広がるが、その中例外として市中心部のすぐ南側に足羽山(117m)、兎越山(89m)、八幡山(139m)の足羽三山が連なる。南東部には一乗谷など、足羽川及びその支流に沿った谷間の小盆地が点在し、東端付近には市最高地点の飯降山(884m)がそびえる。 日本海側気候であり、年間を通して降水量が多い。比較的低緯度のため気温は雪国としては高く、年平均気温14.8°Cは南関東郊外都市部と同程度。やや内陸に位置し、冬は沿岸部の新潟市や金沢市などと比較して積雪しやすい。降雪量や最深積雪の平年値は富山市より少ないものの、日本海寒帯気団収束帯の影響を受けると北陸3都で一番のドカ雪に見舞われることもある。暖冬年と寒冬年の降積雪量の差が大きいのが特徴である。38豪雪となった1963年1月31日には過去最深積雪213cmを記録。これは豪雪都市として知られている青森市の209cm(1945年2月21日)をも上回る記録であり、全国の県庁所在地では最も多い。近年は暖冬続きのため積雪量は減っていたが、2011年1月31日には119cmを記録し、1986年1月の127cm以来25年ぶりに積雪が1mを超えた。2018年2月6日には147cmを記録し、1981年1月以来37年ぶりの130cm超となった。真冬日はほとんどなく、東北以北のように降雪後の凍結状態が続く事は少ない。 梅雨後半には島根県などと同様に日本海側としては暖湿流の影響を受けやすく、過去には平成16年7月福井豪雨など幾度の豪雨に見舞われている。 過去最高気温は1922年8月20日の38.5°Cと高く、夏は蒸し暑くなる。過去最低気温は1904年1月27日の-15.1度と新潟、富山、金沢よりも低く内陸性気候の特色が出ている。(ただし冬の平均最低気温は富山のほうが低い。) 一方、旧越廼村地区などの日本海に面する地域は北西季節風と対馬暖流の影響で冬でも温暖なため雪より雨のことも多く、積雪も少ないなど同じ市内でも中心部とは大きな差がある。 福井市では市域を大きく8つのブロックに区分し、さらに概ね市立小学校区に合わせた49の地区に細分している。この地区を単位として地区公民館、地区自治会連合会、消防団分団、以下と一部異なる6ブロック制の地区社会福祉協議会、警察署管轄で2団体に分けられる地区交通安全協会の支部などの施設や組織を設けている。 嶺北地方内において、北端のあわら市、南端の南越前町を除く8市町と接している。なお、越前市とは池田町・鯖江市を含む4市町境となっている山頂一点のみで接している。勝山市とは林道でのみ接続しているため、積雪のある冬季は一般車両の通行ができない。 住民票の写し交付など基本的なサービスの窓口は、市街中心部に位置する市役所本庁舎のほか、市街を取り巻く位置にあるサービスセンター4箇所、1959年以降に編入した区域(旧藤岡村を除く)にある連絡所8箇所の体制となっている。 福井市が加入している一部事務組合(福井県の全市町が加入している団体を除く)。 いわゆる平成の大合併において、福井市は2006年2月1日に、隣接する足羽郡美山町、丹生郡越廼村・清水町の3町村を編入合併している。 他30市とともに日本最初の市制を施行した1889年当時、平野部の旧福井城下のみであった市域は南東の足羽郡、北東の吉田郡、南西の丹生郡および北西の坂井郡にあった周辺町村との合併による拡大が度重なることで山地や海岸に達し、3町村の編入によって当初の約120倍の面積となっている。また、旧美山町には旧大野郡の地域が含まれているため、3町村編入後の市域には丹生、坂井、吉田、足羽、大野の5郡にあった地域を含むこととなった。 (研)は国立研究開発法人、他は中期目標管理法人。 選定療養費を徴収できる病床数200以上の医療機関を病床数の多い順に列挙した。 集配郵便局名(所在地など):郵便番号、集配区域の順(太字は所在地付近の郵便番号)。なお、郵便番号簿に掲載されていない市内地名の郵便番号は918-0000である。 繊維産業が盛ん。最近では化学工業も盛んになってきている。 郊外立地の商業施設が目立つが、1977年11月市街地北部に開業した施設ショッピングタウンピアは大手スーパーマーケットジャスコと、70を超える地元専門店が同居する福井方式と呼ばれ、その後の全国各地の大型商業施設設立に影響を与えた。なお同施設は近隣に同種の施設が誕生するなどして業績が悪化、2003年5月に閉鎖となっている。百貨店は駅前の西武福井店(旧だるまや西武)のみである。 現在市内にある主なショッピングセンター、大型スーパーは以下の通りである。 福井市に本店(※印)、または支店を置く金融機関(農協、信漁連、郵便局会社、保険会社を除く) このほか、日本銀行が事務所を、東京スター銀行がATM(食料品チェーンストアのハニー店舗内の出張所)、セブン銀行がATM(福井銀行との提携による支店外機の置換、セブン-イレブン店内の出張所)を、ローソン銀行がATM(ローソン店内の出張所)をそれぞれ設置している。 以下の株式上場企業11社が、福井市に本社または登記上の本店を置いている。 上記以外にニューリアルプロパティ、福井放送、福邦銀行の株式非公開3社が北陸財務局における有価証券報告書の公衆縦覧対象企業となっているほか、福井市を創業地としている上場企業には、アトム、飛島建設、PLANT、前田建設工業、山善がある。 福井市の市外局番は0776となっており、市内及びあわら市、坂井市、吉田郡永平寺町との通話には市外局番不要、かつ市内通話料金適用。 また美山地区の市外局番は福井市への編入時点では07797であったが、2007年4月1日に市内他地区などが使用してきた0776へ統合され、それまで市内通話料金であった大野市・勝山市(市外局番0779)との通話は、隣接区域通話料金適用となった。 現時点では市内局番3桁化になる予定はないが、NTTによれば、もし3桁化された場合は(077)6xx-ooooと、一桁繰り上がる形となる。市外局番077は滋賀県の大津市、草津市などの京都近郊で使用されているが、MAが異なるため、3桁化されても滋賀県の077エリアとの間での通話はこれまで通り077からダイヤルすることとなる。 隣の丹生郡は基本的に0778だったが、後に福井市と合併する清水町と越廼村だけは、なぜか福井市と同じ0776だった。 以下に市内局番を示す。ただし、境界付近において地理的条件などから隣接地区の市内局番であったり、番号ポータビリティ利用による電話会社の相違が生じるなど、これと異なる場所も一部ある。 近年では福井市内中心部でも本来は永平寺町で使われている63や、越廼地区で使われている89など、局番の不足による周辺区域の番号が使われている。 NTT西日本による級局区分は、2級局である。 ※は高度専門課程設置校 市の中心となる駅:福井駅 福井駅には、北陸新幹線の駅が設置される予定である。 市域内発着の一般乗合事業(路線バス・乗合タクシー)を行っている事業者 利用者限定で無料バスを定期運行している路線 COVID-19の影響により運休・減便を実施している事業者・路線あり。 太字は名誉市民(大武元市長を含め7名)、斜字は市民栄誉賞受賞者(4名)。 (※)は出生が福井市で、ほかの出身市町村の比重が大きい人物。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "福井市(ふくいし)は、福井県北部(嶺北)に位置する市。福井県の県庁所在地及び県内で人口が最多の市で、中核市に指定されている。旧足羽郡。1889年(明治22年)市制施行。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "県人口の約34%が暮らしている。戦国時代の武将柴田勝家の北ノ庄城時代から城下町として都市形成しはじめ、江戸時代には石高68万石を数える大城下町となった。福居、福井と地名を変えた親藩統治を経て、現在もなお県政の中心として福井城本丸跡に福井県庁がある。江戸時代の福井は日本屈指の大都市で朝倉氏滅亡後一乗谷から移転した文化人の影響もあり華やかな文化や行事が行われていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1940年代に福井大空襲、福井地震(1か月後に集中豪雨で九頭竜川堤防決壊)とわずか3年の間にそれぞれ人口の1〜2%を失う大災厄に2度も見舞われるという、近現代日本の都市としては唯一ともいえる経験を経ながら、当時の倍以上の人口にまで復興したことから不死鳥を街のシンボルとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)の「21世紀を拓く創造プラン」(第5次福井市総合計画)策定より、「人、街、自然、文化の『交・響・楽・彩 ふくい』(まじわり・ひびきあい・たのしみ・いろどるまち)」をスローガンに街づくりを進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "西から日本海、丹生山地、福井平野、両白山地(越美山地)と並ぶ。海岸部は鷹巣港付近を境に北側が三里浜の名を持つ砂浜、南側は岩場が続き、その海岸から約100m先にその形から名前が付いた亀島が浮かぶ。総面積の約半分を山林が占め、市西側の丹生山地には国見岳(656m)、その中腹に五太子の滝がある。海岸部を除く全域が九頭竜川水系流域にあり、本流を含む三大河川が合流する地点から東側の南北に平野が広がるが、その中例外として市中心部のすぐ南側に足羽山(117m)、兎越山(89m)、八幡山(139m)の足羽三山が連なる。南東部には一乗谷など、足羽川及びその支流に沿った谷間の小盆地が点在し、東端付近には市最高地点の飯降山(884m)がそびえる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本海側気候であり、年間を通して降水量が多い。比較的低緯度のため気温は雪国としては高く、年平均気温14.8°Cは南関東郊外都市部と同程度。やや内陸に位置し、冬は沿岸部の新潟市や金沢市などと比較して積雪しやすい。降雪量や最深積雪の平年値は富山市より少ないものの、日本海寒帯気団収束帯の影響を受けると北陸3都で一番のドカ雪に見舞われることもある。暖冬年と寒冬年の降積雪量の差が大きいのが特徴である。38豪雪となった1963年1月31日には過去最深積雪213cmを記録。これは豪雪都市として知られている青森市の209cm(1945年2月21日)をも上回る記録であり、全国の県庁所在地では最も多い。近年は暖冬続きのため積雪量は減っていたが、2011年1月31日には119cmを記録し、1986年1月の127cm以来25年ぶりに積雪が1mを超えた。2018年2月6日には147cmを記録し、1981年1月以来37年ぶりの130cm超となった。真冬日はほとんどなく、東北以北のように降雪後の凍結状態が続く事は少ない。 梅雨後半には島根県などと同様に日本海側としては暖湿流の影響を受けやすく、過去には平成16年7月福井豪雨など幾度の豪雨に見舞われている。 過去最高気温は1922年8月20日の38.5°Cと高く、夏は蒸し暑くなる。過去最低気温は1904年1月27日の-15.1度と新潟、富山、金沢よりも低く内陸性気候の特色が出ている。(ただし冬の平均最低気温は富山のほうが低い。) 一方、旧越廼村地区などの日本海に面する地域は北西季節風と対馬暖流の影響で冬でも温暖なため雪より雨のことも多く、積雪も少ないなど同じ市内でも中心部とは大きな差がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "福井市では市域を大きく8つのブロックに区分し、さらに概ね市立小学校区に合わせた49の地区に細分している。この地区を単位として地区公民館、地区自治会連合会、消防団分団、以下と一部異なる6ブロック制の地区社会福祉協議会、警察署管轄で2団体に分けられる地区交通安全協会の支部などの施設や組織を設けている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "嶺北地方内において、北端のあわら市、南端の南越前町を除く8市町と接している。なお、越前市とは池田町・鯖江市を含む4市町境となっている山頂一点のみで接している。勝山市とは林道でのみ接続しているため、積雪のある冬季は一般車両の通行ができない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "住民票の写し交付など基本的なサービスの窓口は、市街中心部に位置する市役所本庁舎のほか、市街を取り巻く位置にあるサービスセンター4箇所、1959年以降に編入した区域(旧藤岡村を除く)にある連絡所8箇所の体制となっている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "福井市が加入している一部事務組合(福井県の全市町が加入している団体を除く)。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "いわゆる平成の大合併において、福井市は2006年2月1日に、隣接する足羽郡美山町、丹生郡越廼村・清水町の3町村を編入合併している。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "他30市とともに日本最初の市制を施行した1889年当時、平野部の旧福井城下のみであった市域は南東の足羽郡、北東の吉田郡、南西の丹生郡および北西の坂井郡にあった周辺町村との合併による拡大が度重なることで山地や海岸に達し、3町村の編入によって当初の約120倍の面積となっている。また、旧美山町には旧大野郡の地域が含まれているため、3町村編入後の市域には丹生、坂井、吉田、足羽、大野の5郡にあった地域を含むこととなった。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "(研)は国立研究開発法人、他は中期目標管理法人。", "title": "国家機関" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "選定療養費を徴収できる病床数200以上の医療機関を病床数の多い順に列挙した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "集配郵便局名(所在地など):郵便番号、集配区域の順(太字は所在地付近の郵便番号)。なお、郵便番号簿に掲載されていない市内地名の郵便番号は918-0000である。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "繊維産業が盛ん。最近では化学工業も盛んになってきている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "郊外立地の商業施設が目立つが、1977年11月市街地北部に開業した施設ショッピングタウンピアは大手スーパーマーケットジャスコと、70を超える地元専門店が同居する福井方式と呼ばれ、その後の全国各地の大型商業施設設立に影響を与えた。なお同施設は近隣に同種の施設が誕生するなどして業績が悪化、2003年5月に閉鎖となっている。百貨店は駅前の西武福井店(旧だるまや西武)のみである。 現在市内にある主なショッピングセンター、大型スーパーは以下の通りである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "福井市に本店(※印)、または支店を置く金融機関(農協、信漁連、郵便局会社、保険会社を除く)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このほか、日本銀行が事務所を、東京スター銀行がATM(食料品チェーンストアのハニー店舗内の出張所)、セブン銀行がATM(福井銀行との提携による支店外機の置換、セブン-イレブン店内の出張所)を、ローソン銀行がATM(ローソン店内の出張所)をそれぞれ設置している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以下の株式上場企業11社が、福井市に本社または登記上の本店を置いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上記以外にニューリアルプロパティ、福井放送、福邦銀行の株式非公開3社が北陸財務局における有価証券報告書の公衆縦覧対象企業となっているほか、福井市を創業地としている上場企業には、アトム、飛島建設、PLANT、前田建設工業、山善がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "福井市の市外局番は0776となっており、市内及びあわら市、坂井市、吉田郡永平寺町との通話には市外局番不要、かつ市内通話料金適用。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また美山地区の市外局番は福井市への編入時点では07797であったが、2007年4月1日に市内他地区などが使用してきた0776へ統合され、それまで市内通話料金であった大野市・勝山市(市外局番0779)との通話は、隣接区域通話料金適用となった。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現時点では市内局番3桁化になる予定はないが、NTTによれば、もし3桁化された場合は(077)6xx-ooooと、一桁繰り上がる形となる。市外局番077は滋賀県の大津市、草津市などの京都近郊で使用されているが、MAが異なるため、3桁化されても滋賀県の077エリアとの間での通話はこれまで通り077からダイヤルすることとなる。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "隣の丹生郡は基本的に0778だったが、後に福井市と合併する清水町と越廼村だけは、なぜか福井市と同じ0776だった。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下に市内局番を示す。ただし、境界付近において地理的条件などから隣接地区の市内局番であったり、番号ポータビリティ利用による電話会社の相違が生じるなど、これと異なる場所も一部ある。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "近年では福井市内中心部でも本来は永平寺町で使われている63や、越廼地区で使われている89など、局番の不足による周辺区域の番号が使われている。 NTT西日本による級局区分は、2級局である。", "title": "生活基盤" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "※は高度専門課程設置校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "市の中心となる駅:福井駅", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "福井駅には、北陸新幹線の駅が設置される予定である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "市域内発着の一般乗合事業(路線バス・乗合タクシー)を行っている事業者", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "利用者限定で無料バスを定期運行している路線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "COVID-19の影響により運休・減便を実施している事業者・路線あり。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "太字は名誉市民(大武元市長を含め7名)、斜字は市民栄誉賞受賞者(4名)。", "title": "出身関連著名人" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "(※)は出生が福井市で、ほかの出身市町村の比重が大きい人物。", "title": "出身関連著名人" } ]
福井市(ふくいし)は、福井県北部(嶺北)に位置する市。福井県の県庁所在地及び県内で人口が最多の市で、中核市に指定されている。旧足羽郡。1889年(明治22年)市制施行。
{{日本の市 | 自治体名 = 福井市 | 画像 = Fukui montage.jpg | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td>[[一乗谷朝倉氏遺跡]]<td>[[北ノ庄城]]内の[[柴田勝家]]像</tr> <tr><td colspan="2">[[福井城]]趾と[[福井県庁]]</tr> <tr><td>[[足羽川]]の桜並木<td>[[越前海岸]]・鉾島</tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Fukui, Fukui.svg|100px|福井市旗]] | 市旗の説明 = 福井[[市町村旗|市旗]]<br />[[1963年]][[9月1日]]制定 | 市章 = [[ファイル:Emblem of Fukui, Fukui.svg|75px|福井市章]] | 市章の説明 = 福井[[市町村章|市章]]<br />[[1925年]][[9月28日]]制定 | 都道府県 = 福井県 | コード = 18201-0 | 隣接自治体 = [[坂井市]]、[[勝山市]]、[[大野市]]、[[越前市]]、[[鯖江市]]、[[今立郡]][[池田町 (福井県)|池田町]]、[[吉田郡]][[永平寺町]]、[[丹生郡]][[越前町]] | 木 = [[マツ]] | 花 = [[アジサイ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 910-8511(910-0005) | 所在地 = 福井市大手三丁目10番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-18|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=36.035|frame-longitude=136.25|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Fukui city hall.jpg|250px|福井市役所]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|18|201|image=Fukui in Fukui prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} | 特記事項 = {{(!}} style="background:none" {{!}}+ style="font-size:small" {{!}} 福井市の元の境界<br />(2006年2月1日合併前) {{!}}- {{!}} style="border:0" {{!}} [[ファイル:Fukui before-Fukui-city.png|福井市の旧境界(2006年2月1日合併前)]] {{!}} style="border:0" {{!}} # 福井市 # [[美山町 (福井県)|旧美山町]] # [[越廼村|旧越廼村]] # [[清水町 (福井県)|旧清水町]] {{!)}} 市章は1925年9月28日制定 }} '''福井市'''(ふくいし)は、[[福井県]]北部([[嶺北]])に位置する[[市]]。福井県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]及び県内で人口が最多の市で、[[中核市]]に指定されている。旧[[足羽郡]]。1889年(明治22年)[[市制]]施行。 == 概要 == [[File:Skyline of Fukui City02.jpg|thumb|200px|left|[[足羽山]][[愛宕坂|横坂]]から見た<br>福井市中心市街地]] [[File:Fukui city aerial 03.jpg|thumb|200px|空から見た[[福井駅 (福井県)|福井駅]]周辺]] 県人口の約34%が暮らしている。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将[[柴田勝家]]の[[北ノ庄城]]時代から[[城下町]]として都市形成しはじめ、[[江戸時代]]には石高68万石を数える大城下町となった。福居、福井と地名を変えた[[親藩]]統治を経て、現在もなお県政の中心として[[福井城]][[本丸]]跡に福井県庁がある。江戸時代の福井は日本屈指の大都市で[[朝倉氏]]滅亡後[[一乗谷]]から移転した文化人の影響もあり華やかな文化や行事が行われていた。 1940年代に[[福井大空襲]]、[[福井地震]](1か月後に[[集中豪雨]]で[[九頭竜川]]堤防決壊)とわずか3年の間にそれぞれ人口の1〜2%を失う大災厄に2度も見舞われるという、近現代日本の都市としては唯一ともいえる経験を経ながら、当時の倍以上の人口にまで復興したことから不死鳥を街のシンボルとしている。 [[2002年]]([[平成]]14年)の「21世紀を拓く創造プラン」(第5次福井市総合計画)策定より、'''「人、街、自然、文化の『{{color|#9C543E|交}}・{{Color|#315C41|響}}・{{Color|#1F5092|楽}}・{{Color|#7D4E7D|彩}} ふくい』(まじわり・ひびきあい・たのしみ・いろどるまち)」'''をスローガンに街づくりを進めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fukui.lg.jp/sisei/plan/plan/p000612_d/fil/011.pdf#page=3|format=PDF|title=福井市総合計画 基本計画|page=6|publisher=福井市|date=2000年12月22日|accessdate=2016-05-03}}</ref>。 {{-}} ==地理== [[File:Fukui city center area Aerial photograph.1975.jpg|thumb|200px|福井市中心部の空中写真。1975年撮影の12枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] [[File:Gotaishi Falls.jpg|thumb|200px|[[五太子の滝]]]] [[File:Hokoshima 2018.jpg|thumb|200px|[[鉾島]]]] ===地形=== 西から[[日本海]]、[[丹生山地]]、[[福井平野]]、[[両白山地]]([[越美山地]])と並ぶ。海岸部は鷹巣港付近を境に北側が[[三里浜]]の名を持つ砂浜、南側は岩場が続き、その海岸から約100m先にその形から名前が付いた[[亀島 (福井県)|亀島]]が浮かぶ。総面積の約半分を山林が占め、市西側の丹生山地には国見岳(656m)、その中腹に[[五太子の滝]]がある。海岸部を除く全域が九頭竜川水系流域にあり、本流を含む三大河川が合流する地点から東側の南北に平野が広がるが、その中例外として市中心部のすぐ南側に足羽山(117m)、兎越山(89m)、八幡山(139m)の足羽三山が連なる。南東部には[[一乗谷朝倉氏遺跡|一乗谷]]など、足羽川及びその支流に沿った谷間の小盆地が点在し、東端付近には市最高地点の飯降山(884m)がそびえる。 ====山岳==== ;主な山 *[[両白山地]](越美山地) - [[飯降山]]、[[一乗城山]]、[[文殊山 (福井県)|文殊山]]、[[東山 (福井市)|東山]] *[[丹生山地]] - [[国見岳 (福井県)|国見岳]]、大芝山、[[丹生山地#六所山|六所山]]、[[越知山]]、高須山、[[下市山]]、乙坂山 *足羽三山 - [[足羽山]]、[[兎越山]]、[[八幡山 (福井県)|八幡山]] *[[城山 (福井市)|城山]] ====河川==== ;主な川 *[[九頭竜川]]水系: **九頭竜川 - [[片川]]、[[七瀬川 (福井県)|七瀬川]]、[[日野川 (福井県)|日野川]] **(日野川) - [[底喰川]]、[[足羽川]]、[[狐川]]、[[志津川]]、[[江端川]]、[[浅水川]]、[[天王川]]、[[未更毛川]] **(足羽川) - [[荒川 (福井県)|荒川]]、[[一乗谷川]]、[[芦見川]]、[[羽生川]] *その他水系:[[高須川]]、[[三本木川]]、[[一光川]]、[[大味川]] ====湖沼==== ;主な池 *[[武周ヶ池]] ====海岸==== ;海洋 *[[日本海]] ;海岸 *[[越前海岸]] **[[三里浜]] ;島嶼 *[[鉾島]] *[[亀島 (福井県)|亀島]] ===気候=== [[日本海側気候]]であり、年間を通して降水量が多い。比較的低緯度のため気温は[[豪雪地帯|雪国]]としては高く、年平均気温14.8℃は南関東郊外都市部と同程度。やや内陸に位置し、冬は沿岸部の[[新潟市]]や[[金沢市]]などと比較して積雪しやすい。降雪量や最深積雪の平年値は[[富山市]]より少ないものの、[[日本海寒帯気団収束帯]]の影響を受けると北陸3都で一番のドカ雪に見舞われることもある。暖冬年と寒冬年の降積雪量の差が大きいのが特徴である。[[38豪雪]]となった[[1963年]]1月31日には過去最深積雪213cmを記録。これは豪雪都市として知られている[[青森市]]の209cm([[1945年]]2月21日)をも上回る記録であり、全国の県庁所在地では最も多い。近年は暖冬続きのため積雪量は減っていたが、[[2011年]]1月31日には119cmを記録し、[[1986年]]1月の127cm以来25年ぶりに積雪が1mを超えた。[[2018年]]2月6日には147cmを記録し、[[1981年]]1月以来37年ぶりの130cm超となった。[[真冬日]]はほとんどなく、東北以北のように降雪後の凍結状態が続く事は少ない。 [[梅雨]]後半には島根県などと同様に日本海側としては暖湿流の影響を受けやすく、過去には[[平成16年7月福井豪雨]]など幾度の豪雨に見舞われている。 過去最高気温は[[1922年]]8月20日の38.5℃と高く、夏は蒸し暑くなる。過去最低気温は[[1904年]]1月27日の-15.1度と新潟、富山、金沢よりも低く内陸性気候の特色が出ている。(ただし冬の平均最低気温は富山のほうが低い。) 一方、旧[[越廼村]]地区などの日本海に面する地域は北西[[季節風]]と[[対馬暖流]]の影響で冬でも温暖なため雪より雨のことも多く、積雪も少ないなど同じ市内でも中心部とは大きな差がある。 {{Weather box |location = 福井地方気象台(福井市豊島、標高9m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 19.9 |Feb record high C = 21.8 |Mar record high C = 26.2 |Apr record high C = 32.0 |May record high C = 34.9 |Jun record high C = 36.6 |Jul record high C = 38.6 |Aug record high C = 38.5 |Sep record high C = 37.7 |Oct record high C = 32.3 |Nov record high C = 27.5 |Dec record high C = 24.6 |year record high C = 38.6 |Jan high C = 6.7 |Feb high C = 7.8 |Mar high C = 12.2 |Apr high C = 18.3 |May high C = 23.3 |Jun high C = 26.5 |Jul high C = 30.4 |Aug high C = 32.2 |Sep high C = 27.7 |Oct high C = 22.1 |Nov high C = 16.0 |Dec high C = 9.8 |year high C = 19.4 |Jan mean C = 3.2 |Feb mean C = 3.7 |Mar mean C = 7.2 |Apr mean C = 12.8 |May mean C = 18.1 |Jun mean C = 22.0 |Jul mean C = 26.1 |Aug mean C = 27.4 |Sep mean C = 23.1 |Oct mean C = 17.1 |Nov mean C = 11.3 |Dec mean C = 5.9 |year mean C = 14.8 |Jan low C = 0.5 |Feb low C = 0.3 |Mar low C = 2.8 |Apr low C = 7.8 |May low C = 13.4 |Jun low C = 18.2 |Jul low C = 22.7 |Aug low C = 23.7 |Sep low C = 19.4 |Oct low C = 13.1 |Nov low C = 7.3 |Dec low C = 2.7 |year low C = 11.0 |Jan record low C = -15.1 |Feb record low C = 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humidity = 74 |Jul humidity = 76 |Aug humidity = 73 |Sep humidity = 76 |Oct humidity = 76 |Nov humidity = 78 |Dec humidity = 81 |year humidity = 75 |unit precipitation days = 0.5 mm |Jan precipitation days = 24.3 |Feb precipitation days = 20.0 |Mar precipitation days = 17.4 |Apr precipitation days = 13.3 |May precipitation days = 12.0 |Jun precipitation days = 11.9 |Jul precipitation days = 13.5 |Aug precipitation days = 9.9 |Sep precipitation days = 12.4 |Oct precipitation days = 13.4 |Nov precipitation days = 17.5 |Dec precipitation days = 23.5 |year precipitation days = 189.2 |Jan snow days = 23.2 |Feb snow days = 19.5 |Mar snow days = 11.3 |Apr snow days = 1.5 |May snow days = 0.0 |Jun snow days = 0.0 |Jul snow days = 0.0 |Aug snow days = 0.0 |Sep snow days = 0.0 |Oct snow days = 0.0 |Nov snow days = 0.6 |Dec snow days = 13.2 |year snow days = 69.2 |Jan sun = 65.4 |Feb sun = 88.4 |Mar sun = 136.3 |Apr sun = 172.3 |May sun = 191.1 |Jun sun = 146.8 |Jul sun = 155.4 |Aug sun = 205.7 |Sep sun = 151.2 |Oct sun = 154.4 |Nov sun = 114.4 |Dec sun = 72.2 |year sun = 1653.7 |source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1897年-現在)<ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=57&block_no=47616&year=&month=&day=&view= | title = 平年値ダウンロード | accessdate = 2023-09 | publisher = 気象庁}} </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=57&block_no=47616&year=&month=&day=&view= | title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) | accessdate = 2023-09 | publisher = 気象庁}} </ref> }}{{Weather box|location=越廼(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=19.8|Feb record high C=21.4|Mar record high C=24.4|Apr record high C=30.5|May record high C=33.6|Jun record high C=36.1|Jul record high C=38.2|Aug record high C=37.7|Sep record high C=36.6|Oct record high C=31.1|Nov record high C=26.1|Dec record high C=22.9|year record high C=38.2|Jan high C=8.1|Feb high C=8.5|Mar high C=11.9|Apr high C=17.2|May high C=22.0|Jun high C=25.0|Jul high C=29.3|Aug high C=30.9|Sep high C=26.8|Oct high C=21.5|Nov high C=16.4|Dec high C=11.1|year high C=19.1|Jan mean C=5.5|Feb mean C=5.5|Mar mean C=8.2|Apr mean C=13.1|May mean C=17.8|Jun mean C=21.3|Jul mean C=25.7|Aug mean C=27.2|Sep mean C=23.4|Oct mean C=18.3|Nov mean C=13.3|Dec mean C=8.2|year mean C=15.6|Jan low C=2.9|Feb low C=2.7|Mar low C=4.8|Apr low C=9.2|May low C=14.0|Jun low C=18.3|Jul low C=22.8|Aug low C=24.3|Sep low C=20.6|Oct low C=15.6|Nov low C=10.4|Dec low C=5.5|year low C=12.6|Jan record low C=-3.8|Feb record low C=-4.7|Mar record low C=-1.2|Apr record low C=0.6|May record low C=6.9|Jun record low C=10.1|Jul record low C=16.2|Aug record low C=17.6|Sep record low C=13.6|Oct record low C=6.9|Nov record low C=1.5|Dec record low C=-1.3|year record low C=-4.7|Jan precipitation mm=218.4|Feb precipitation mm=139.8|Mar precipitation mm=156.6|Apr precipitation mm=143.0|May precipitation mm=157.6|Jun precipitation mm=157.8|Jul precipitation mm=225.7|Aug precipitation mm=146.7|Sep precipitation mm=230.2|Oct precipitation mm=166.1|Nov precipitation mm=173.6|Dec precipitation mm=253.8|year precipitation mm=2169.4|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=23.6|Feb precipitation days=18.3|Mar precipitation days=15.5|Apr precipitation days=12.0|May precipitation days=11.3|Jun precipitation days=11.3|Jul precipitation days=12.4|Aug precipitation days=8.7|Sep precipitation days=11.8|Oct precipitation days=11.8|Nov precipitation days=15.7|Dec precipitation days=23.0|year precipitation days=175.6|Jan sun=46.2|Feb sun=72.7|Mar sun=132.9|Apr sun=176.3|May sun=194.2|Jun sun=145.9|Jul sun=163.9|Aug sun=215.4|Sep sun=150.4|Oct sun=138.8|Nov sun=96.7|Dec sun=53.8|year sun=1587.3|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=57&block_no=1316&year=&month=&day=&view= |title=越廼 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-03-28 |publisher=気象庁}}</ref>}} ===地域=== ====行政区画==== 福井市では市域を大きく8つのブロックに区分し、さらに概ね市立小学校区に合わせた49の地区に細分している。この地区を単位として地区[[公民館]]、地区[[町内会|自治会]]連合会、[[消防団]]分団、以下と一部異なる6ブロック制の地区[[社会福祉協議会]]、警察署管轄で2団体に分けられる地区[[交通安全協会]]の支部などの施設や組織を設けている。 <!--原則一般的な読みになるものは振り仮名を省略しています。但し清水は"きよみず"、"しょうず"も有力な読みのためあえて入れました。--> ; 不死鳥ブロック - 主に市街中心部(7地区) : 春山、宝永、順化、松本、日之出、旭、日新 ; あたごブロック - 不死鳥ブロックの南及び西に隣接する区域(4地区) : 木田、豊(みのり)、足羽(あすわ)、湊 ; みなみブロック - あたごブロックの西及び南に隣接する区域(6地区) : 清明(せいめい)、東安居(ひがしあご)、社南、社北、社西、麻生津(あそうづ) ; あずまブロック - 北東部(5地区) : 和田、円山(えんざん)、啓蒙、岡保(おかぼ)、東藤島 ; 九頭竜ブロック - 市街北部、同周辺域及び九頭竜川右岸部(5地区) : 西藤島、中藤島、河合、森田、明新 : 中藤島地区の小学校名は「島」の付かない中藤小学校となっている。 ; 光ブロック - 南西部(8地区) : 安居、一光(いかり)、殿下(でんが)、越廼(こしの)、清水(しみず)西、清水東、清水南、清水北 : 旧清水町の4地区を「清水地区」と総称する場合がある。一光地区の小学校は休校中。 ; 川西ブロック - 北西部(7地区) : 大安寺、国見、鶉、棗、鷹巣、本郷、宮ノ下 : 旧[[坂井郡]]のうち、現在の[[あわら市]]、[[坂井市]]全域と[[永平寺町]]のごく一部を除く区域。宮ノ下地区は小学校が無い唯一の地区。 ; 足羽ブロック - 南東部(7地区) : 酒生(さこう)、一乗、上文殊、文殊、東郷、六条、美山 : 美山を除く6地区は旧足羽町の最終区域で、これを「東足羽地区」と総称する場合がある。また旧美山町を区域とする美山地区は、下宇坂、上宇坂、下味見、上味見、芦見、羽生の旧6村区域に再細分する場合もある。 ===人口=== {{人口統計|code=18201|name=福井市|image=Population distribution of Fukui, Fukui, Japan.svg}} ====健康==== *平均年齢 46.9歳(2015年国勢調査) ===隣接自治体=== [[嶺北|嶺北地方]]内において、北端の[[あわら市]]、南端の[[南越前町]]を除く8市町と接している。なお、越前市とは池田町・鯖江市を含む4市町境となっている山頂一点のみで接している。勝山市とは林道でのみ接続しているため、積雪のある冬季は一般車両の通行ができない。 ;{{Flagicon|福井県}}[[福井県]] *[[坂井市]] *[[吉田郡]]:[[永平寺町]] *[[勝山市]] *[[大野市]] *[[今立郡]]:[[池田町 (福井県)|池田町]] *[[越前市]] *[[鯖江市]] *[[丹生郡]]:[[越前町]] ==歴史== [[File:Fukui Castle02bs3200.jpg|thumb|200px|[[福井城]]]] ===近代=== ;明治時代 *[[1896年]]([[明治]]29年)7月 - [[北陸本線]]が開業、8月に福井駅が開業する。 *[[1899年]](明治32年)5月 - 福井市に電灯がつく。 *[[1903年]](明治36年)7月 - 福井市に電話開通。 ;大正時代 *[[1925年]]([[大正]]14年)8月 - 福井市内にバス営業開始。 ===近現代=== ;昭和 *[[1930年]]([[昭和]]5年)7月11日 - 集中豪雨により足羽川の水位が上昇。内水氾濫により市内一帯が冠水<ref>豪雨、福井市に移り数十年来の洪水『大阪毎日新聞』昭和5年7月12日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p558 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 *[[1935年]](昭和10年)1月4日 - [[福井市歌]](作詞:一力強、作曲:[[山田耕筰]])を制定。 *[[1943年]](昭和18年)3月19日 - 福井駅前繁華街で火災。佐佳枝劇場から出火し、隣接するだるま屋百貨店などへ延焼<ref>福井駅前で火事、だるま屋百貨店焼く『北國毎日新聞』昭和18年3月20日夕刊(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p713 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 *[[1945年]](昭和20年)7月19日 - [[福井空襲]]、36,060戸焼失、死者1583人。 *[[1948年]](昭和23年)6月28日 - [[福井地震]]、36,184戸倒壊、死者3769人。7月に大洪水。 *[[1952年]](昭和27年)4月 - 福井復興博覧会が開催される。 *[[1959年]](昭和34年)8月 - [[NHK福井放送局]]がテレビ放映を開始する。 *[[1960年]](昭和35年)12月 - [[越美北線]]が開業する。 *[[1963年]](昭和38年) **1月 - [[昭和38年1月豪雪|三八豪雪]]、福井市内で213cm(観測史上1位)の積雪を記録する。 **4月 - [[北陸本線]]、福井-金沢間で複線電化、丹生郡殿下村が編入される。 *[[1968年]](昭和43年)10月 - 福井[[国民体育大会|国体]]開催。 *[[1970年]](昭和45年)4月 - 福井市の人口が20万人を超える。 * 昭和40年代後半から - 丹生郡清水町北部にて住宅団地「グリーンハイツ」の整備が始まる。 *[[1975年]](昭和50年) **現在の[[福井市役所]]庁舎が完成する。 **9月 - 北陸自動車道福井-高岡間開通。 *[[1981年]](昭和56年) **1月 - [[五六豪雪]]。 **11月 - 現在の[[福井県]]庁舎完成。 *[[1986年]](昭和61年)9月 - 福井市の人口が25万人を超える。 *[[1988年]](昭和63年)12月 - 新市民歌「[[わたしのまち ときめきのまち]]」(作詞:宮下義則、補作:[[島田陽子 (詩人)|島田陽子]]、作曲:[[ダ・カーポ (歌手グループ)|榊原政敏]])を発表。 ===現代=== ;平成時代 *[[2000年]]([[平成]]12年)11月1日 - [[特例市]]に移行する。 *[[2004年]](平成16年)7月18日 - [[平成16年7月福井豪雨|福井豪雨]]。最大雨量87mm/hを記録。福井市春日の[[足羽川]]堤防で破堤、足羽郡美山町から福井市街地までの広範にかけ冠水。また、美山町下味見地区や福井市一乗谷地区などで[[土石流]]が発生。越美北線、[[国道364号]]などの橋梁を流失。 *[[2005年]](平成17年) **4月1日 - [[福井港]]が[[関税法]]による[[開港]]指定を受ける。 **4月18日 - 北陸本線の市内中心部区間(越前花堂-森田間のうち福井車庫-開発陸橋)が高架となり福井駅新駅舎が完成する。 *[[2010年]](平成22年) 6月19日〜6月20日 - [[2010年日本APEC]]の一環としてエネルギー担当相会合(EMM)開催。「エネルギー安全保障に向けた低炭素化対策に関する福井宣言」が採択された。福井市は同市の魅力を国内外に発信<ref>[http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21192&storytopic=2 APEC好機に福井市がHP開設 3カ国語動画サイトでPR][[福井新聞]]2010年4月28日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 *[[2018年]](平成30年) 9月29日~10月9日 - 福井国体(福井しあわせ元気国体)開催。 *[[2019年]](平成31年) 4月1日 - [[中核市]]に移行する。福井県から[[保健所]]事務などが移管され、市独自の保健所を設置。 ===行政区画の変遷=== * [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、[[足羽郡]]福井城下<ref group="注釈">福井月見町、福井葵町、福井豊町、福井氷川町、福井松影町、福井旭町、福井寿町、福井川上町、福井不動町、福井岩堀町、福井常盤木町、福井毛矢町、福井相生町、福井足羽上町、福井足羽下町、福井緑町、福井玉井町、福井千歳町、福井九十九町、福井若松町、福井栄町、福井館町、福井照手上町、福井照手中町、福井照手下町、福井湊上町、福井湊中町、福井湊下町、福井花月上町、福井花月中町、福井花月下町、福井錦上町、福井錦中町、福井錦下町、福井佐久良上町、福井佐久良中町、福井佐久良下町、福井佐佳枝上町、福井佐佳枝中町、福井佐佳枝下町、福井乾上町、福井乾中町、福井乾下町、福井春山上町、福井春山中町、福井春山下町、福井大和上町、福井大和中町、福井大和下町、福井東上町、福井東下町、福井江戸上町、福井江戸下町、福井浪花上町、福井浪花中町、福井浪花下町、福井尾上上町、福井尾上中町、福井尾上下町、福井老松上町、福井老松中町、福井老松下町、福井宝永上町、福井宝永中町、福井宝永下町、福井簸川上町、福井簸川中町、福井簸川下町、福井松ヶ枝上町、福井松ヶ枝中町、福井松ヶ枝下町、福井清川上町、福井清川中町、福井清川下町、福井日ノ出上町、福井日ノ出中町、福井日ノ出下町、福井手寄上町、福井手寄中町、福井手寄下町、福井豊島上町、福井豊島中町、福井豊島下町、福井吉野上町、福井吉野中町、福井吉野下町が存在。</ref>・石場畑方の区域をもって福井市が発足。当時の人口は3万9863人、面積は4.43平方キロメートルであった。 * [[1931年]]([[昭和]]6年)4月1日 - 足羽郡[[東安居村]]の一部(三橋)を編入。 * [[1936年]](昭和11年) ** [[5月1日]] - 足羽郡[[和田村 (福井県足羽郡)|和田村]]を編入。 ** [[10月1日]] - 足羽郡[[木田村 (福井県)|木田村]]を編入。 * [[1939年]](昭和14年)[[8月1日]] - 足羽郡東安居村を編入。 * [[1941年]](昭和16年)4月1日 - [[吉田郡]][[円山東村]]を編入。 * [[1942年]](昭和17年)[[5月5日]] - 吉田郡[[円山西村]]を編入。人口が10万人を超える。 * [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - 吉田郡[[西藤島村]]の一部(田原下・牧の島)を編入。 * [[1949年]](昭和24年)4月1日 - 足羽郡[[社村 (福井県)|社村]]の一部([[小山谷町|小山谷]])を編入。 * [[1951年]](昭和26年)[[3月30日]] - 吉田郡西藤島村を編入。 * [[1954年]](昭和29年) ** 4月1日 - 足羽郡社村を編入。 ** 8月1日 - [[丹生郡]][[西安居村]]を編入。 * [[1955年]](昭和30年)[[3月19日]] - 吉田郡[[中藤島村]]を編入。 * [[1956年]](昭和31年) ** [[4月10日]] - 足羽郡[[足羽町|足羽村]]の一部(大町別所・大町・江端・大島・下荒井)を編入。 ** 10月1日 - 足羽郡[[麻生津村 (福井県)|麻生津村]]を編入。 * [[1957年]](昭和32年) ** 4月1日 - [[坂井郡]][[大安寺村 (福井県)|大安寺村]]の一部(南楢原・北楢原・田ノ谷・四十谷・岸水・天菅生)を編入。 ** 5月1日 - 吉田郡[[河合村 (福井県)|河合村]]を編入。 * [[1959年]](昭和34年)[[2月1日]] - 丹生郡[[国見村]]を編入。 * [[1961年]](昭和36年)10月1日 - 吉田郡[[藤岡村]]を編入。 * [[1963年]](昭和38年)4月1日 - 丹生郡[[殿下村]]を編入。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[5月17日]] - 坂井郡[[川西町 (福井県)|川西町]]を編入。 ** [[7月30日]] - 吉田郡[[森田町]]を編入。 * [[1971年]](昭和46年)[[9月1日]] - 足羽郡[[足羽町]]を編入。 * [[2006年]]([[平成]]18年)2月1日 - 足羽郡[[美山町 (福井県)|美山町]]・丹生郡[[清水町 (福井県)|清水町]]・[[越廼村]]を編入。 == 行政 == === 市長 === ;福井市長 *[[東村新一]](2007年[[12月23日]]就任、前福井市副市長、4期目) ;歴代首長 :[[地方自治法]]施行以前の歴代市長 *初代 鈴木準道 1889年5月27日 - 1895年1月27日 *2代 渡辺弘 1895年4月13日 - 1901年7月18日 *3代 東郷龍雄 1901年10月8日 - 1907年9月8日 *4代 山品捨録 1907年10月8日 - 1921年8月25日 *5代 武内徹 1921年6月4日 - 1926年8月18日 *6代 [[永井環]] 1926年8月29日 - 1930年8月28日 *7代 大月斎庵 1930年11月6日 - 1935年1月19日 *8代 [[斎藤直橘]] 1935年7月2日 - 1941年8月30日 *9代 [[落合慶四郎]] 1941年9月3日 - 1945年9月2日 *10代 熊谷太三郎 1945年10月2日 - 1947年5月1日 :歴代公選市長 *初代 [[熊谷太三郎]](旧法下最後の市長、元福井市会議員) 1947年5月2日 - 1959年5月1日 3期(満了) *2代 [[坪川信三]](前衆議院議員) 1959年5月2日 - 1963年5月1日 1期(満了) *3代 島田博道(医師、元陸軍軍医)1963年5月2日 - 1974年3月24日 3期(死亡) *4代 [[大武幸夫]](前福井市総務部長)1974年5月12日 - 1994年1月28日 5期(死亡) *5代 [[酒井哲夫]](前福井市助役)1994年3月13日 - 2006年3月12日 3期(満了) *6代 [[坂川優]](前福井県議会議員) 2006年3月13日 - 2007年10月30日 1期(辞職) <!--特色的な行政施策など--> ===市民生活窓口=== [[住民票]]の写し交付など基本的なサービスの窓口は、市街中心部に位置する市役所本庁舎のほか、市街を取り巻く位置にあるサービスセンター4箇所、1959年以降に編入した区域(旧藤岡村を除く)にある連絡所8箇所の体制となっている。 * 北サービスセンター(堀ノ宮一丁目、[[福井県農業協同組合|JA福井県]]西藤島出張所内) * 西サービスセンター(渕二丁目、[[エーコープ|Aコープ]]やしろ店敷地内) * 東サービスセンター(松城町、[[パリオCITY]]敷地内) * 南サービスセンター(花堂南二丁目、[[ショッピングシティベル]]内) * 川西連絡所(砂子坂町、鶉公民館内:旧川西町) * 国見連絡所(鮎川町、国見公民館内:旧国見村) * 殿下連絡所(風尾町、殿下公民館内:旧殿下村) * 東足羽連絡所(東郷二ケ町、東体育館との合築:旧足羽町) * 森田連絡所(下森田藤巻町、森田公民館内:旧森田町) * 美山連絡所(美山町、旧美山総合支所庁舎:旧美山町) * 越廼連絡所(茱崎町、越廼公民館内:旧越廼村) * 清水連絡所(風巻町、清水健康管理センター内:旧清水町) ===広域行政=== ;一部事務組合 福井市が加入している[[一部事務組合]](福井県の全市町が加入している団体を除く)。 * 鯖江広域衛生施設組合(越廼・清水地区のみ対象) * 丹生衛生管理組合(越廼・清水地区のみ対象) * 福井坂井地区広域市町村圏事務組合 - ごみ処理、計算機、地域振興などの事業 ===市町村合併=== いわゆる[[市町村合併|平成の大合併]]において、福井市は2006年2月1日に、隣接する足羽郡美山町、丹生郡越廼村・清水町の3町村を編入合併している。 他30市とともに日本最初の[[市制]]を施行した[[1889年]]当時、平野部の旧福井城下のみであった市域は南東の[[足羽郡]]、北東の[[吉田郡]]、南西の[[丹生郡]]および北西の[[坂井郡]]にあった周辺町村との合併による拡大が度重なることで[[山地]]や[[海岸]]に達し、3町村の編入によって当初の約120倍の面積となっている。また、旧美山町には旧[[大野郡 (福井県)|大野郡]]の地域が含まれているため、3町村編入後の市域には丹生、坂井、吉田、足羽、大野の5郡にあった地域を含むこととなった。 ;合併決定までの経過 * [[2002年]][[10月8日]] 福井市・鯖江市・美山町・越廼村・清水町任意合併協議会開催 * [[2003年]][[6月1日]] 福井市・鯖江市・美山町・越廼村・清水町合併協議会設置<br /> 2005年2月1日に5市町村が合併し、現在の福井市役所を新市役所とする「福井市」(人口約33万人)を新設する方向で検討された。 * [[2004年]][[6月30日]] 福井市・鯖江市・美山町・越廼村・清水町合併協議会解散<br />当時の[[鯖江市長]]が示した自治権強化に折り合いが付かず、同市の協議離脱により白紙となった。 * 2004年[[11月22日]] 福井市、美山町、越廼村、清水町の4市町村による福井圏域合併協議会を設置<br />2006年2月1日に3町村を廃し福井市へ編入の方針 * [[2005年]][[2月25日]] 合併協定調印、翌月各市町村議会可決 * 2005年[[7月5日]] [[福井県議会]]可決 * 2005年[[8月29日]] [[総務大臣]][[告示]] <!--現在、[[特例市]]に指定されている。また、福井市は2015年11月、[[2019年]][[4月1日]]を目標期日として[[中核市]]移行を目指すことを表明した<ref>{{Cite web |url=http://www.city.fukui.lg.jp/sisei/plan/policy/chukakushi.html |title=中核市への移行について |publisher=福井市 |date=2016-05-12 |accessdate=2016-07-02 }}</ref>。--> ;編入区域の主な取扱 * 旧町村の役場をそれぞれ総合支所(5課体制の部組織)とし、窓口業務など住民に密接なサービスを維持。なお総合支所はいずれも合併から15年を経過した2021年4月1日に廃止のうえ、市民生活部の出先機関である連絡所へ移行、うち越廼並びに清水の両連絡所は旧総合支所庁舎の近隣に別途ある市施設への設置となった。 * 3つの地域審議会を合併後原則10年間設置。2015年度末をもって廃止。 * 編入区域の地名は、原則として従来の大字名に「町」を付した名称となった。例外として「丁目」の区域は従来通りの名称、旧字体漢字を用いている大字は新字体の町名に変更、従来の福井市域にある町名と重複する大字には旧町名・地区名または方角を冠した町名となっている。なお、美山町役場(現・美山連絡所)所在地の同町朝谷島では、地名に「美山」の文字を残す地元合意が行なわれた結果、福井市美山町に変更となった。 * 旧町村議会の議員は合併時に失職。市議会では従来からの議員任期と同じ2007年5月まで定数3増、編入した各地区を選挙区とし、2006年3月5日にそれぞれ1名を選出する増員選挙を実施(市全域において任期満了の迫る市長の選挙、及び合併前の市域において欠員のあった市議会議員の補欠選挙も同日実施)。次期選挙(2007年4月22日実施)で議員定数を合併前の36に戻し、市全域を一選挙区とした。 == 議会 == === 市議会 === {{main|福井市議会}} ===県議会=== {{Main|2023年福井県議会議員選挙}} * 定数:12人 * 選挙区:福井市選挙区 * 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日 {| class="wikitable" |- !議員名!!会派名!!備考 |- | [[清水智信]] || [[自由民主党 (日本)|自民党]]県政会 || |- | 野田哲生 || 民主・みらい ||党籍は[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]] |- | 西本恵一 || [[公明党]] || |- | 中村綾菜 || 無所属 || |- | 松田泰典 || 自民党県政会 || |- | 渡辺大輔 || 民主・みらい ||党籍は無所属 |- | 福野大輔 || 無所属 || |- | 畑孝幸 || 自民党県政会 || |- | 長田光広 || 自民党県政会 || |- | 大森哲男 || 自民党県政会 || |- | 山浦光一郎 || 自民党県政会 || |- | 藤本一希 || [[参政党]]福井 || |} === 衆議院 === * 選挙区:[[福井県第1区|福井1区]](福井市、[[大野市]]、[[勝山市]]、[[あわら市]]、[[坂井市]]、[[吉田郡]]) * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:375,210人 * 投票率:56.82% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[稲田朋美]] || align="center" | 62 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 136,171票 || align="center" | ○ |- | || 野田富久 || align="center" | 74 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || align="right" | 71,845票 || align="center" | ○ |} ==国家機関== [[File:Fukui District Court01b3200.jpg|thumb|200px|福井地方裁判所本庁(手前)と福井春山合同庁舎]] ===官公庁=== *[[裁判所]] - [[福井地方裁判所]]、[[福井家庭裁判所]]、[[福井簡易裁判所]]、福井[[検察審査会]] *[[内閣府]] - [[警察庁]][[中部管区警察局]]福井県情報通信部 *[[総務省]] - [[行政評価局|近畿管区行政評価局]]福井行政監視行政相談センター *[[法務省]] ** [[福井地方検察庁]]、福井区検察庁、大野区検察庁 ** 福井地方法務局 ** [[福井刑務所]]、名古屋少年鑑別所福井少年鑑別支所(法務少年支援センターふくい) ** 福井保護観察所 ** [[出入国在留管理庁]][[名古屋出入国在留管理局]]福井出張所 ** [[公安調査庁]]中部公安調査局金沢公安調査事務所福井駐在官室 * [[財務省]] ** [[北陸財務局]]福井財務事務所 ** [[大阪税関]]敦賀税関支署福井出張所 ** [[国税庁]][[金沢国税局]] - 業務センター福井分室、福井税務署 * [[厚生労働省]] ** [[近畿厚生局]]福井事務所 ** [[福井労働局]] *** 福井労働基準監督署、福井公共職業安定所(ハローワーク福井) *[[農林水産省]] ** [[北陸農政局]]福井県拠点 ** [[林野庁]][[近畿中国森林管理局]]福井森林管理署 *[[国土交通省]] ** [[近畿地方整備局]]福井河川国道事務所 *** 福井国道維持出張所 ** 近畿地方整備局足羽川ダム工事事務所 ** [[中部運輸局]][[福井運輸支局]](海事部門のみ[[敦賀市]]) ** [[気象庁]][[福井地方気象台]] *[[防衛省]] ** [[自衛隊福井地方協力本部]] *** 福井募集案内所 === 独立行政法人 === (研)は[[国立研究開発法人]]、他は[[独立行政法人|中期目標管理法人]]。 * [[日本司法支援センター]]法テラス福井 * (研)[[日本原子力研究開発機構]]地域共生室福井事務所 * [[労働者健康安全機構]]福井産業保健総合支援センター * [[勤労者退職金共済機構]] - 建設業退職金共済福井県支部、林業退職金共済福井県支部 * [[高齢・障害・求職者雇用支援機構]]福井支部福井障害者職業センター * (研)[[森林研究・整備機構]]近畿北陸整備局福井水源林整備事務所 * (研)[[産業技術総合研究所]]関西センター福井サイト * [[日本貿易振興機構]]福井貿易情報センター * [[エネルギー・金属鉱物資源機構]]福井国家石油備蓄基地事務所 * [[自動車技術総合機構]]中部検査部福井事務所 * [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]北陸新幹線建設局 ** 福井鉄道建設所、福井鉄道軌道建設所、福井鉄道建築建設所 * 鉄道建設・運輸施設整備支援機構東京支社 - 福井鉄道電気建設所、福井鉄道機械建設所 * [[自動車事故対策機構]]福井支所 ==施設== [[File:Fukui Police Station 2018.jpg|thumb|200px|[[福井警察署]]]] [[File:Fukui City FD.jpg|thumb|200px|[[福井市消防局]]]] [[File:Fukui-Prefectural-Hospital.jpg|thumb|200px|[[福井県立病院]]]] [[File:Fukui-chuo PO.jpg|thumb|200px|[[福井中央郵便局]]]] [[File:Fukui International Activities Plaza03b3200.jpg|thumb|200px|[[福井県国際交流会館]]]] ===警察=== ;本部 *[[福井県警察]] ;警察署 * [[福井警察署]](開発五丁目) - 概ね[[足羽川]]〜[[日野川 (福井県)|日野川]]〜[[九頭竜川]]の右岸部及び美山地区を管轄 * [[福井南警察署]](江守中町) - 美山地区を除き概ね足羽川〜日野川〜九頭竜川の左岸部を管轄。ただし市北西端にあるテクノポート三丁目は[[坂井西警察署]]([[坂井市]][[三国町]])の管轄。 ===消防=== ;本部 *[[福井市消防局]] ;消防署 *中消防署(松本四丁目) - 九頭竜ブロック及び春山、宝永、順化、松本、日新、湊、東安居、安居、一光地区 *南消防署(花堂中一丁目) - 木田、豊、足羽、清明、社南、社北、社西、麻生津、文殊、上文殊、清水地区 *東消防署(和田東二丁目) - あずまブロック及び日之出、旭、酒生、一乗、東郷、六条、美山地区 *臨海消防署(西畑町) - 川西ブロック及び殿下、越廼地区 ===医療=== ;主な医療機関 [[選定療養]]費を徴収できる病床数200以上の[[医療機関]]を病床数の多い順に列挙した。 * [[福井県立病院]](四ツ井二丁目) * [[福井赤十字病院]](月見二丁目) * [[福井県済生会病院]](和田中町) * [[福井総合病院]](江上町) * 松原病院(文京二丁目) * 福井病院(江上町、[[精神科]]単科) * [[福井厚生病院]](下六条町) ===郵便局=== 集配郵便局名(所在地など):[[日本の郵便番号|郵便番号]]、集配区域の順('''太字'''は所在地付近の郵便番号)。なお、郵便番号簿に掲載されていない市内地名の郵便番号は'''918-0000'''である。 ;主な郵便局 *[[福井中央郵便局]](大手三丁目):'''910-00xx''',910-01xx,910-08xx,910-31xx,910-32xx,910-8xxx : 概ね足羽川以北かつ国道8号以西全域および以東北部、ならびに大安寺・宮ノ下・鶉・棗・本郷地区 *鷹巣郵便局(浜住町):'''910-33xx''' 鷹巣地区 *国見郵便局(鮎川町):'''910-34xx''' 国見地区 *[[福井南郵便局]](板垣四丁目):910-21xx,910-35xx,910-36xx,'''918-8xxx''',919-03xx : 概ね足羽川以南、および足羽川以北かつ国道8号以東の南部、ならびに西安居・一光・殿下・越廼・清水地区 **上二桁が91ではじまる福井県全域([[あわら市]]吉崎を除く)を受け持つ統括局である。 *市波郵便局(市波町):'''910-22xx''' 美山地区(下宇坂・芦見地域) *上宇坂郵便局(境寺町):'''910-23xx''',910-24xx 美山地区(上以外の地域) ===図書館=== ;主な図書館 *[[福井県立図書館]] *[[福井市立図書館]] *[[福井市立みどり図書館]] *[[福井市立桜木図書館]] *[[福井市立美山図書館]] *[[福井市立図書館#福井市立清水図書館|福井市立清水図書館]] ===交流施設=== *[[福井県立音楽堂]] *[[フェニックス・プラザ]] <!--* [[福井市文化会館]] 2021年閉館--> <!--* [[福井まちなか文化施設 響のホール]] 2020年閉館--> *[[AOSSA]](福井県県民ホール) *[[福井県国際交流会館]] *[[福井県産業会館]] ===文化施設=== ;博物館・美術館など * [[福井県立歴史博物館]] * [[福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館]] * [[福井県立こども歴史文化館]] * [[福井市立郷土歴史博物館]] * [[福井市自然史博物館]] * [[福井市グリフィス記念館]] * [[おさごえ民家園]] * [[福井県立美術館]] * [[福井市美術館]] * [[福井市愛宕坂茶道美術館]] * [[ふくい藤田美術館]] * [[福井市橘曙覧記念文学館]] * [[福井市水道記念館]] <!--* [[ブータンミュージアム]] 勝山市へ移転--> ===運動施設=== *[[福井運動公園]](福町) - [[福井運動公園陸上競技場]](9.98スタジアム)、[[福井県営球場]]、[[福井県営体育館]] など *[[ふくい健康の森]](真栗町) *[[福井市スポーツ公園]](安田町) - [[福井市スポーツ公園野球場]] など *[[福井市体育館]](松本四丁目) *[[福井県立武道館]](三ツ屋町) *福井県立馬術競技場(福井ホースパーク、海老助町) *福井県立ライフル射撃場(杉谷町) *福井県立アーチェリー・クライミングセンター(合谷町) {{-}} ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== ====海外==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|USA}}[[ニューブランズウィック (ニュージャージー州)|ニューブランズウィック市]]([[アメリカ合衆国]] [[ニュージャージー州]]) *:[[1982年]]([[昭和]]57年)[[5月]] - 姉妹都市提携 *{{Flagicon|USA}}[[フラトン (カリフォルニア州)|フラトン市]](アメリカ合衆国 [[カリフォルニア州]]) *:[[1989年]]([[平成]]元年)[[11月]] - 姉妹都市提携 ;提携都市 *{{Flagicon|CHN}}[[杭州市]]([[中華人民共和国]] [[浙江省]]) *:1989年(平成元年)[[11月]] - 友好都市提携 *{{Flagicon|KOR}} [[水原市]]([[大韓民国]] [[京畿道]]) *:[[2001年]](平成13年)[[12月]] - 友好都市提携 ====国内==== ;姉妹都市 *{{Flagicon|熊本県}}[[熊本市]]([[九州地方]] [[熊本県]]) *:[[1994年]](平成6年)[[11月]] - 姉妹都市提携 ;提携都市 *{{Flagicon|茨城県}}[[結城市]]([[関東地方]] [[茨城県]]) *:[[2002年]](平成14年)[[4月]] - 友好都市提携 ===その他=== *{{Flagicon|SVN}}[[スロベニア|スロベニア共和国]] *:[[2022年]]([[令和]]4年)10月 - 市内に在福井[[名誉領事|名誉領事館]]を設置。 ==経済== [[File:福井商工会議所.jpg|thumb|200px|[[福井商工会議所]]]] [[File:Fukui Station Ekimae2.jpg|thumb|200px|[[福井駅 (福井県)|福井駅前大通]]]] ;産業人口(2015年国勢調査) *第一次産業: 2,824人 *第二次産業: 32,932人 *第三次産業: 90,375人 ;主な産業 繊維産業が盛ん。最近では化学工業も盛んになってきている。 ===商工会議所=== ;商工会議所 *[[福井商工会議所]](西木田二丁目) ;商工会 *福井北商工会(下森田町) - 森田、河合、宮ノ下、鶉、棗、鷹巣地区 *福井東商工会(東郷二ケ町) - 東藤島、岡保、東足羽、美山、麻生津地区 *福井西商工会(小羽町) - 国見、越廼、殿下、清水地区 ===第一次産業=== ====農業==== ;農業協同組合 *[[福井県農業協同組合]](大手三丁目) *三里浜特産農業協同組合(坂井市三国町黒目) - 棗地区における[[ラッキョウ]]、[[スイカ]]などの特定品目対象。 ====林業==== ;森林組合 *福井森林組合(文京六丁目) *美山町森林組合(美山町) - 美山地区 *越前福井森林組合(越前市高瀬一丁目) - 越廼、清水地区 ====漁業==== ;主な漁港 *[[鷹巣港|鷹巣漁港]] *長橋漁港 *菅生漁港 *鮎川漁港 *白浜(国見)漁港 *大丹生漁港 *大味漁港 *茱崎漁港 *居倉漁港 ;漁業協同組合 *福井市漁業協同組合(浜住町) *越廼漁業協同組合(茱崎町) - 越廼地区 *九頭竜川中部漁業協同組合(吉田郡永平寺町松岡葵一丁目) *足羽川漁業協同組合(市波町) ===第二次産業=== ====工業==== *化学工業 ;主な工業地域 *[[福井臨海工業地帯]] ===第三次産業=== ====商業==== 郊外立地の商業施設が目立つが、1977年11月市街地北部に開業した施設'''[[ショッピングタウンピア]]'''は大手スーパーマーケット[[ジャスコ]]と、70を超える地元専門店が同居する'''福井方式'''と呼ばれ、その後の全国各地の大型商業施設設立に影響を与えた。なお同施設は近隣に同種の施設が誕生するなどして業績が悪化、2003年5月に閉鎖となっている。百貨店は駅前の[[西武福井店]](旧だるまや西武)のみである。 現在市内にある主な[[ショッピングセンター]]、大型スーパーは以下の通りである。 ;主な商業施設 *[[パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス|パン・パシフィック・インターナショナル]]系 **[[フェアモール福井]](大和田二丁目:[[アピタ]]福井大和田店・エルパ)<!--直接子会社のユニー株式会社--> **[[ドン・キホーテ (企業)|MEGAドン・キホーテ]]UNY福井店(飯塚町:旧アピタ福井店)<!--株式会社ドン・キホーテ子会社のUDリテール株式会社--> *[[ヤスサキ]]系 **パワーシティフクイワイプラザ(新保北一丁目) **[[パリオCITY]](松城町) **ワイプラザ福井南店(羽水二丁目) *[[平和堂]]系 **[[ショッピングシティベル]](花堂南二丁目:ベル、[[アル・プラザ]]ベル) **[[フレンドタウン福井]](西開発二丁目) *その他 **[[PLANT|PLANT-3]]清水店(三留町) **[[ショッピングセンター#オープンモール|パワーセンター]]ワッセ(久喜津町:[[バロー (チェーンストア)|バロー]]久喜津店など、個別建造店舗の集合施設) **ライフガーデン福井南(下河北町) <!--本節最上段に記述があるのでコメントアウト 昔は[[イオン (企業)|イオン]](旧'''ジャスコ''')系列のジャスコ福井店とジャスコピア店があった。--> *[[順化 (福井市)|順化]](片町)は北陸地方の代表的[[歓楽街]]の一つである。 ===金融機関=== 福井市に本店(※印)、または支店を置く金融機関(農協、信漁連、郵便局会社、保険会社を除く) <!--※付き・無しの順で、それぞれ五十音順としています--> {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[政策金融機関]] ** [[商工組合中央金庫]] ** [[日本政策金融公庫]] {{Col-break}} * 郵便貯金銀行 ** [[ゆうちょ銀行]] {{Col-break}} * [[都市銀行]] ** [[みずほ銀行]] ** [[三井住友銀行]] {{Col-break}} * [[地方銀行]] ** [[福井銀行]]※ ** [[北陸銀行]] ** [[北國銀行]] {{Col-break}} * [[第二地方銀行]] ** [[福邦銀行]]※ {{Col-break}} * [[信託銀行]] ** [[三井住友信託銀行]] {{Col-end}} {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[信用金庫]] ** [[福井信用金庫]]※ ** [[越前信用金庫]] {{Col-break}} * [[労働金庫]] ** [[北陸労働金庫]] {{Col-break}} * [[信用協同組合]] ** [[福井県医師信用組合]]※ ** [[福泉信用組合]]※ ** [[イオ信用組合]] ** [[横浜幸銀信用組合]] {{Col-break}} * [[証券会社]] ** [[益茂証券]]※ ** [[三津井証券]]※ ** [[今村証券]] ** [[岩井コスモ証券]] ** [[SMBC日興証券]] ** [[大和証券]] <!--** [[野村證券]] 2023年5月閉鎖--> ** [[ほくほくTT証券]] ** [[みずほ証券]] {{Col-end}} このほか、[[日本銀行]]が事務所を、[[東京スター銀行]]が[[現金自動預け払い機|ATM]](食料品チェーンストアの[[ハニー (協同組合)|ハニー]]店舗内の出張所)、[[セブン銀行]]がATM(福井銀行との提携による支店外機の置換、[[セブン-イレブン]]店内の出張所)を、[[ローソン銀行]]がATM([[ローソン]]店内の出張所)をそれぞれ設置している。 ===拠点を置く企業=== ====株式上場企業など==== 以下の株式上場企業11社が、福井市に本社または登記上の本店を置いている。 {{Colbegin}} * [[KYCOMホールディングス]](東S・9685) * [[熊谷組]](東P・1861) * [[セーレン]](東P・3569) * [[田中化学研究所]](東S・4080) * [[日華化学]](東P、名P・4463) * [[福井銀行]](東P・8362) * [[福井コンピュータホールディングス]](東P・9790) * [[フクビ化学工業]](東S、名M・7871) * [[三谷商事]](東S・8066) * [[三谷セキサン]](東S・5273) * [[ユニフォームネクスト]](東G・3566) <!-- * [[ローヤル電機]](JQ・6593) ←2013.09 東京へ移転 --> {{Colend}} 上記以外に[[ニューリアルプロパティ]]、[[福井放送]]、福邦銀行の株式非公開3社が[[北陸財務局]]における[[有価証券報告書]]の公衆縦覧対象企業となっているほか、福井市を創業地としている上場企業には、[[アトム (飲食業)|アトム]]、[[飛島建設]]、[[PLANT]]、[[前田建設工業]]、[[山善]]がある。 ==生活基盤== ===ライフライン=== ====電力==== * [[北陸電力送配電]](60Hz) ====ガス==== * [[福井都市ガス]](13A) ====上下水道==== * [[福井市企業局]] ====有線電気通信==== * [[西日本電信電話|NTT西日本]] * [[福井ケーブルテレビ]] ;市外局番 福井市の市外局番は'''0776'''となっており、市内及びあわら市、坂井市、吉田郡永平寺町との通話には市外局番不要、かつ市内通話料金適用。 また美山地区の市外局番は福井市への編入時点では07797であったが、[[2007年]][[4月1日]]に市内他地区などが使用してきた0776へ統合され、それまで市内通話料金であった大野市・勝山市(市外局番0779)との通話は、隣接区域通話料金適用となった<ref>[https://www.ntt-west.co.jp/info/support/union.html 市町村合併に伴う単位料金区域及び電話番号の変更について] - 西日本電信電話</ref>。 現時点では市内局番3桁化になる予定はないが、NTTによれば、もし3桁化された場合は(077)6xx-ooooと、一桁繰り上がる形となる。市外局番077は[[滋賀県]]の[[大津市]]、[[草津市]]などの京都近郊で使用されているが、[[単位料金区域|MA]]が異なるため、3桁化されても滋賀県の077エリアとの間での通話はこれまで通り077からダイヤルすることとなる。 隣の丹生郡は基本的に0778だったが、後に福井市と合併する清水町と越廼村だけは、なぜか福井市と同じ0776だった。 ;市内局番 以下に[[市内局番]]を示す。ただし、境界付近において地理的条件などから隣接地区の市内局番であったり、[[番号ポータビリティ]]利用による電話会社の相違が生じるなど、これと異なる場所も一部ある。 * [[西日本電信電話]](NTT西日本) ** 足羽川以北・九頭竜川以南・北陸本線以西と北陸本線以東は国道8号以西が県道吉野福井線以南、国道8号以東北陸道以西は荒川以南 20-30,37(福井交換局) ** 足羽川以南・国道8号以西、江端川以北 32-36,43,84,88(福井南交換局) ** 西安居・一光地区 37 ** 麻生津・文殊地区 38,39 ** 六条・酒生・東郷・上文殊地区 41(足羽交換局) ** 一乗谷地区 43 ** 九頭竜川以南で北陸本線以東・県道吉野福井線以北(国道8号以東は荒川以北) 52-54,57(福井東交換局) ** 河合地区 55 ** 森田地区 56 ** 大安寺・宮ノ下地区 59 ** 鶉・本郷地区 83 ** 棗地区 85 ** 鷹巣地区 86,87 ** 国見地区 88 ** 越廼地区 89 ** 上宇坂・羽生・下味見地区 90(福井美山交換局) ** 上味見地区 93 ** 下宇坂・芦見地区 96(市波交換局) ** 殿下地区 97 ** 清水地区 98 ** [[ひかり電話]] 50,60 * [[NTTコミュニケーションズ]] 31 * [[KDDI]] 65,76,80 * [[ソフトバンク]] 84,91,92,95 * [[楽天コミュニケーションズ]] 94 * (空き番号 40,42,44-49,62,69-71,99) 近年では福井市内中心部でも本来は永平寺町で使われている63や、越廼地区で使われている89など、局番の不足による周辺区域の番号が使われている。 <!--他市町はそれぞれの項目で *** 坂井市 **** 春江町 51,58 **** 丸岡町 66-68 **** 坂井町 72 **** 三国町 81,82 *** 永平寺町 **** 松岡地区 61 **** 永平寺地区 63 **** 上志比地区 64 *** あわら市 **** 金津地区 73,74 **** 芦原地区 75,77,78 ***** 北潟地区 79 --> NTT西日本による級局区分は、2級局である。 == 教育 == [[ファイル:Fukui university.jpg|thumb|200px|[[福井大学]]]] [[ファイル:FUTTOWER.JPG|thumb|200px|[[福井工業大学]]]] ===大学=== ;国立 *[[福井大学]] 本部・文京キャンパス<!--([[医学部]]のみ[[永平寺町]])福井市とは直接関係なく、リンク先に医学部に関する詳述もあるのでのでコメントアウト--> ;私立 *[[仁愛大学]] *[[星槎大学]] 福井学習センター *[[福井医療大学]] *[[福井工業大学]] 本部・福井キャンパス *[[放送大学]] 福井学習センター ===短期大学=== ;私立 * [[仁愛女子短期大学]] === 専修学校 === <!--この項には、修了時に学位に準ずる称号(高度専門士、専門士)が取れない課程のみ設置している専修学校は記入しない--> ※は[[高度専門士|高度専門課程]]設置校 {{colbegin|2}} * [[福井県立看護専門学校]]<!--公立学校を先頭に--> <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[大原学園]]福井校 ** 大原スポーツ医療保育福祉専門学校 ** 大原簿記法律専門学校福井校 ** 福井情報ITクリエイター専門学校 ** 福井ホテルトラベル専門学校 </div> <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * [[金井学園]](旧・新和学園) ** 福井県医療福祉専門学校 ** 福井製菓専門学校 </div> <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * 専門学校デザイン・ラボ フクイ<!--学校法人大正学園--> * 専門学校福井文化服装学院※<!--学校法人朝日学園--> * [[福井市医師会看護専門学校]]<!--一般社団法人福井市医師会--> * 福井歯科専門学校<!--一般社団法人福井県歯科医師会--> </div> {{clear}} {{Colend}} === 高等学校 === {{colbegin|2}} * [[福井県立足羽高等学校]] * [[福井県立羽水高等学校]] * [[福井県立科学技術高等学校]] * [[福井県立高志中学校・高等学校|福井県立高志高等学校]]※中高併設 * [[福井県立福井商業高等学校]] * [[福井県立福井農林高等学校]] * [[福井県立藤島高等学校]] * [[福井県立道守高等学校]](定時制) * [[啓新高等学校]] * [[仁愛女子高等学校]] * [[福井工業大学附属福井中学校・高等学校|福井工業大学附属福井高等学校]]※中高併設 * [[福井南高等学校]] * [[北陸中学校・高等学校|北陸高等学校]]※中高併設 {{Colend}} === 義務教育学校 === * [[福井大学教育学部附属義務教育学校]] === 中学校 === {{colbegin|2}} * [[福井県立高志中学校・高等学校|福井県立高志中学校]]※中高併設 * [[福井市明倫中学校]] * [[福井市明道中学校]] * [[福井市進明中学校]] * [[福井市藤島中学校]] * [[福井市光陽中学校]] * [[福井市社中学校]] * [[福井市至民中学校]]※[[特認校]] * [[福井市足羽中学校]] * [[福井市足羽第一中学校]] * [[福井市大東中学校]] * [[福井市成和中学校]] * [[福井市灯明寺中学校]] * [[福井市森田中学校]] * [[福井市安居中学校]] * [[福井市川西中学校]] * [[福井市国見中学校]] * [[福井市大安寺中学校]] * [[福井市鷹巣中学校]] * [[福井市棗中学校]] * [[福井市殿下中学校]] * [[福井市美山中学校]] * [[福井市越廼中学校]] * [[福井市清水中学校]] * [[福井市杉坂中学校]] * [[福井工業大学附属福井中学校・高等学校|福井工業大学附属福井中学校]]※中高併設 * [[北陸中学校・高等学校|北陸中学校]]※中高併設 {{Colend}} === 小学校 === <!--福井市の小学校は「立」はつかない--> {{colbegin|2}} * [[福井市木田小学校]] * [[福井市豊小学校]] * [[福井市足羽小学校]] * [[福井市東安居小学校]] * [[福井市湊小学校]] * [[福井市春山小学校]] * [[福井市順化小学校]] * [[福井市宝永小学校]] * [[福井市松本小学校]] * [[福井市日之出小学校]] * [[福井市旭小学校]] * [[福井市和田小学校]] * [[福井市円山小学校]] * [[福井市啓蒙小学校]] * [[福井市西藤島小学校]] * [[福井市社北小学校]] * [[福井市社西小学校]] * [[福井市社南小学校]] * [[福井市安居小学校]] * [[福井市中藤小学校]] * [[福井市大安寺小学校]] * [[福井市河合小学校]] * [[福井市麻生津小学校]] * [[福井市国見小学校]] * [[福井市岡保小学校]] * [[福井市東藤島小学校]] * [[福井市殿下小学校]] * [[福井市鶉小学校]] * [[福井市本郷小学校]] * [[福井市棗小学校]] * [[福井市鷹巣小学校]] * [[福井市長橋小学校]] * [[福井市高須城小学校]](現在休校) * [[福井市森田小学校]] * [[福井市明新小学校]] * [[福井市酒生小学校]] * [[福井市一乗小学校]] * [[福井市上文殊小学校]] * [[福井市六条小学校]] * [[福井市文殊小学校]] * [[福井市東郷小学校]] * [[福井市日新小学校]] * [[福井市清明小学校]] * [[福井市下宇坂小学校]] * [[福井市立羽生小学校]] * [[福井市美山啓明小学校]] * [[福井市越廼小学校]] * [[福井市清水北小学校]] * [[福井市清水東小学校]] * [[福井市清水西小学校]] * [[福井市清水南小学校]] * [[福井市杉坂小学校]] {{Colend}} ===特別支援学校=== ;国立 *[[福井大学教育学部附属特別支援学校]](高等部・中学部・小学部) ;県立 *[[福井県立福井特別支援学校]](高等部・中学部・小学部) *[[福井県立福井東特別支援学校]](高等部・中学部・小学部)(福井県立病院に併設) **月見分教室(高等部・中学部・小学部)(福井赤十字病院内) *[[福井県立福井南特別支援学校]](高等部・中学部・小学部) **清水分教室(高等部) *[[福井県立清水特別支援学校]](中学部・小学部) *[[福井県立盲学校]](高等部・中学部・小学部・幼稚部) *[[福井県立ろう学校]](高等部・中学部・小学部・幼稚部) ===インターナショナルスクール=== *[[北陸朝鮮初中級学校]]([[各種学校]]) == 交通 == ===鉄道=== [[File:Happiring 2018.jpg|thumb|200px|[[福井駅 (福井県)|福井駅西口]]]] [[File:JR West Fukui Station East Exit 20180814(2) as.jpg|thumb|200px|再開発の続く[[福井駅 (福井県)|福井駅東口]]]] 市の中心となる駅:'''[[福井駅 (福井県)|福井駅]]''' ====新幹線==== 福井駅には、[[北陸新幹線]]の駅が設置される予定である。 ====鉄道路線==== ;[[File:JR logo (west).svg|25px|西日本旅客鉄道|link=西日本旅客鉄道]][[西日本旅客鉄道]](JR西日本) *{{color|#0072bc|■}}[[北陸本線]]:([[鯖江市]]) - [[大土呂駅]] - [[越前花堂駅]] - '''福井駅''' - [[森田駅]] - ([[坂井市]]) *{{color|#0072bc|■}}[[越美北線]](九頭竜線):越前花堂駅 - [[六条駅]] - [[足羽駅]] - [[越前東郷駅]] - [[一乗谷駅]] - [[越前高田駅]] - [[市波駅]] - [[小和清水駅]] - [[美山駅]] - [[越前薬師駅]] - [[越前大宮駅]] - [[計石駅]] - ([[大野市]]) ;[[えちぜん鉄道]] *{{Color|#ff6600|■}}[[えちぜん鉄道勝山永平寺線|勝山永平寺線]]:'''福井駅''' - [[新福井駅]] - [[福井口駅]] - [[越前開発駅]] - [[越前新保駅]] - [[追分口駅]] - [[東藤島駅]] - [[越前島橋駅]] - ([[永平寺町]]) *{{Color|#0066ff|■}}[[えちぜん鉄道三国芦原線|三国芦原線]]:福井口駅 - [[まつもと町屋駅]] - [[西別院駅]] - 田原町駅 - [[福大前西福井駅]] - [[日華化学前駅]] - [[八ツ島駅]] - [[新田塚駅]] - [[中角駅]] - [[鷲塚針原駅]] - (坂井市) * 都道府県庁への連絡 ** 福井駅が福井県庁最寄駅である。 * 広範囲な連絡 ** 福井駅にはJR西日本の以下の[[在来線]]定期[[特別急行列車|特急列車]]が発着している。 *** [[サンダーバード (列車)|サンダーバード]] *** [[しらさぎ (列車)|しらさぎ]] *** [[ダイナスター (列車)|ダイナスター]] *** [[おはようエクスプレス・おやすみエクスプレス]](平日のみ) ** [[新幹線]]停車駅との間は、特急「しらさぎ」を利用して[[米原駅]]又は[[名古屋駅]]で[[東海道新幹線]]、特急「サンダーバード」を利用して[[京都駅]]で東海道新幹線、又は[[新大阪駅]]で[[山陽新幹線]]、特急「サンダーバード」「しらさぎ」「ダイナスター」「おはようエクスプレス」「おやすみエクスプレス」を利用して[[金沢駅]]で北陸新幹線とそれぞれ連絡している。 ===軌道=== [[File:Orange Fukuram.JPG|thumb|200px|[[福井鉄道福武線]]]] ;[[福井鉄道]](福鉄) *{{Color|green|■}}[[福井鉄道福武線|福武線]]:(鯖江市) - [[三十八社駅]] - [[泰澄の里駅]] - [[浅水駅]] - [[ハーモニーホール駅]] - [[清明駅]] - [[江端駅]] - [[ベル前駅]] - [[花堂駅]] - [[赤十字前駅]] - [[商工会議所前駅]] - [[足羽山公園口駅]] - [[福井城址大名町駅]] - [[仁愛女子高校駅]] - [[田原町駅 (福井県)|田原町駅]]、福井城址大名町駅 - '''福井駅駅''' ===空港=== {{main|小松飛行場}} *小松空港から、[[2022年]]時点で国内線は[[東京国際空港|東京(羽田)]]、[[成田国際空港|成田]]、[[新千歳空港|札幌(新千歳)]]、[[仙台空港|仙台]]、[[福岡空港|福岡]]および[[那覇空港|那覇]]へそれぞれ就航している。国際線の発着もある<!-- 変動が多いので、航空会社・路線については載せない -->。主な[[時刻表]]では「小松空港(金沢・福井)」と表記されている。小松空港へは福井駅東口から[[小松空港連絡バス]]によって約1時間程度で結ばれている。 *[[福井空港]] - [[坂井市]][[春江町]]江留中に所在するが、定期便の発着はない。 ===バス=== ====路線バス、コミュニティ交通==== 市域内発着の一般乗合事業([[路線バス]]・[[乗合タクシー]])を行っている事業者 *〔[[京福グループ]]〕 **[[京福バス]] **[[福井交通]](乗合タクシー6路線、予約制フィーダー交通「ほやほや号」、福井市南東地区フルデマンドタクシー) **[[ケイカン交通]](乗合タクシー新田塚春江線) *[[福井鉄道]] *[[えちぜん鉄道]] **新保・大和田巡回バス「[[あおぞらくん]]」:運行は福井交通に委託 **[[デマンドバス|デマンドタクシー]]「[[テクノポート号]]」:運行はケイカン交通に委託 *福井市 **乗合タクシー本郷線、高屋線:運行は光タクシーに委託 **美山地域バス:運行は光タクシー及び京福バスに委託 **海岸地域バス:運行は京福バスに委託 **清水地域バス「きらら号」:運行は光タクシーに委託 *[[池田町 (福井県)|池田町]](町民協働バス マイバス) *鷹巣・棗地域コミュニティバス運行協議会(デマンドタクシー「鷹巣・棗ふくふく号」:運行は福井交通に委託) *酒生地域コミュニティバス運行協議会(地域コミュニティバス「酒生いきいきバス」:運行は京福バスに委託) *殿下地域コミュニティバス運行協議会(デマンドタクシー「殿下かじかポッポー」:運行は光タクシーに委託) *鶉〜宮ノ下〜大安寺地域コミュニティバス運行協議会(デマンドタクシー「鶉山バス」:運行は福井交通に委託) *日新コミュニティバス運行協議会(地域コミュニティバス「日新さんさんバス」:運行は京福バスに委託) *岡保地域交通検討協議会(地域コミュニティバス「コシヒカリの里号」「岡の泉号」:運行は京福バスに委託) *森田地域コミュニティバス運行協議会(地域コミュニティバス「もりたん」:運行は京福バスに委託) *東郷地域コミュニティバス運行協議会(地域コミュニティバス「東郷おつくねバス」:運行は福井交通に委託) ====定期バス==== 利用者限定で[[無料送迎バス|無料バス]]を定期運行している路線 *[[福井県]](「[[フレンドリーバス]]」福井駅東口 - [[福井県立図書館]]:運行は京福バス及び福井交通に委託) ====高速バス==== [[COVID-19]]の影響により運休・減便を実施している事業者・路線あり。 {{Main|福井駅 (福井県)#バス路線}} ===道路=== [[File:Saiwai bridge.jpg|thumb|200px|[[フェニックス通り (福井県福井市)|フェニックス通り]]([[幸橋 (福井市)|幸橋]])]] ====高速道路==== *{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]] **(鯖江市) - (8)[[福井インターチェンジ|福井IC]] - (9)[[福井北ジャンクション・インターチェンジ|福井北JCT/IC]] - (吉田郡永平寺町) ;自動車専用道路 *{{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]] **(吉田郡永平寺町) - (9)福井北JCT/IC ====国道==== *[[国道8号]]([[福井バイパス]]) *[[国道158号]] *[[国道305号]](市内区間全線で[[国道365号]]と重複) *[[国道364号]] *[[国道416号]] *[[国道476号]] ====県道==== ;[[主要地方道]] {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[福井県道2号武生美山線]] * [[福井県道3号福井大森河野線]] * [[福井県道・石川県道5号福井加賀線]] * [[福井県道6号福井四ヶ浦線]] * [[福井県道10号丸岡川西線]] * [[福井県道11号福井停車場線]] * [[福井県道18号鯖江美山線]] {{Col-break}} * [[福井県道25号福井今立線]] * [[福井県道28号福井朝日武生線]] * [[福井県道29号福井金津線]] * [[福井県道30号福井丸岡線]] * [[福井県道31号篠尾勝山線]] * [[福井県道32号清水美山線]] {{Col-end}} ;[[一般県道]] {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[福井県道102号春江川西線|102号春江川西線]] * [[福井県道103号福井三国線|103号福井三国線]] * [[福井県道111号舟橋松岡線|111号舟橋松岡線]] * [[福井県道112号栃神谷鳴鹿森田線|112号栃神谷鳴鹿森田線]] * [[福井県道113号稲津松岡線|113号稲津松岡線]] * [[福井県道114号吉野福井線|114号吉野福井線]] * [[福井県道115号殿下福井線|115号殿下福井線]] * [[福井県道116号徳光福井線|116号徳光福井線]] * [[福井県道125号森田停車場線|125号森田停車場線]] * [[福井県道126号森田停車場中角線|126号森田停車場中角線]] * [[福井県道128号福井停車場米松線|128号福井停車場米松線]] * [[福井県道129号福井新停車場線|129号福井新停車場線]] * [[福井県道155号八幡横越線|155号八幡横越線]] * [[福井県道156号佐野山岸線|156号佐野山岸線]] {{Col-break}} * [[福井県道164号大畑松岡線|164号大畑松岡線]] * [[福井県道165号京善原目線|165号京善原目線]] * [[福井県道172号皿谷大野線|172号皿谷大野線]] * [[福井県道176号御本丸大手町線|176号御本丸大手町線]] * [[福井県道177号山奥九十九橋線|177号山奥九十九橋線]] * [[福井県道178号篠尾出作線|178号篠尾出作線]] * [[福井県道179号淵上志比口線|179号淵上志比口線]] * [[福井県道180号東郷福井線|180号東郷福井線]] * [[福井県道181号東郷麻生津線|181号東郷麻生津線]] * [[福井県道182号三尾野別所線|182号三尾野別所線]] * [[福井県道183号上一光大丹生線|183号上一光大丹生線]] * [[福井県道184号別所朝日線|184号別所朝日線]] * [[福井県道185号鯖江清水線|185号鯖江清水線]] * [[福井県道191号鯖江浅水線|191号鯖江浅水線]] {{Col-break}} * [[福井県道195号大土呂停車場河北線|195号大土呂停車場河北線]] * [[福井県道208号徳光鯖江線|208号徳光鯖江線]] * [[福井県道227号鷹巣港線|227号鷹巣港線]] * [[福井県道228号福井停車場勝見線|228号福井停車場勝見線]] * [[福井県道229号福井鯖江線|229号福井鯖江線]] * [[福井県道238号一乗谷朝倉氏遺跡東大味線|238号一乗谷朝倉氏遺跡東大味線]] * [[福井県道242号勝見稲津線|242号勝見稲津線]] * [[福井県道251号本郷福井線|251号本郷福井線]] * [[福井県道252号三尾野鯖江線|252号三尾野鯖江線]] * [[福井県道253号清水麻生津線|253号清水麻生津線]] * [[福井県道256号福井港線|256号福井港線]] * [[福井県道265号ふくい健康の森線|265号ふくい健康の森線]] * [[福井県道268号福井森田丸岡線|268号福井森田丸岡線]] * [[福井県道801号永平寺福井自転車道線|801号永平寺福井自転車道線]] {{Col-end}} ===道の駅=== *[[道の駅一乗谷あさくら水の駅|一乗谷あさくら水の駅]](安波賀中島町) ===港湾=== *[[福井港]]([[地方港湾]]、[[特定港]]) *[[鷹巣港]](地方港湾、[[避難港]]) ==観光== [[ファイル:Asakura Yakata of Ichijodani Asakura Family Historic Ruins02s3s4440.jpg|thumb|一乗谷朝倉氏遺跡]] [[File:Fukui Castle02bs3200.jpg|thumb|福井城址]] [[ファイル:Youkoukan03s4592.jpg|thumb|養浩館庭園]] [[ファイル:Row of sakura, Asuwa River, Fukui.jpg|thumb|足羽川桜並木]] ===名所・旧跡=== ====城郭・館==== *[[一乗谷朝倉氏遺跡]](国の[[特別名勝]]及び[[特別史跡]]、出土品は[[重要文化財]]に指定) *[[福井城]]趾 *[[北庄城]]跡 ====神社==== *[[福井神社]]・[[恒道神社]] *[[柴田神社]] *[[佐佳枝廼社]] *[[神明神社 (福井市)|神明神社]] *[[足羽神社]] *[[藤島神社]] ====寺院==== *[[大安禅寺]](本堂、庫裏、開山堂、開基堂、鐘楼の5棟が国の[[重要文化財]]) ====教会==== *[[福井宝永教会]] ====史跡==== *[[養浩館庭園]](お泉水)(国の[[名勝]]) ===観光スポット=== ====景勝地・自然公園==== *[[足羽川桜並木|足羽川堤防]]([[日本さくら名所100選]]) *[[足羽山]]公園 *[[越前加賀海岸国定公園]] **[[越前海岸]]([[亀島 (福井県)|亀島]]、[[鉾島]]、大崎海岸遊歩道) *[[越前水仙の里公園]] *国見岳森林公園([[二枚田幹線林道]]) ====温泉==== *伊自良温泉 *[[佐野温泉]] *[[大安寺温泉]] *[[鷹巣温泉]] *美山森林温泉 ====海水浴場==== * 鷹巣海水浴場 * 鮎川海水浴場 * 越廼海水浴場 ====娯楽施設==== ;レジャー施設・映画館 *スポーツプラザWAVE40(ボウリング場) *フクイレジャーランドワイプラザ店(ボウリングなど) *[[福井シネマ]](2018年閉館) *[[メトロ劇場]] *[[テアトルサンク]] *[[エルパ|福井コロナシネマワールド]] ==文化・名物== ===祭事・催事=== *[[福井フェニックスまつり]][[イッチョライ]]([[1954年]](昭和29年)〜、毎年8月上旬) *[[ふくい春祭り]]・[[越前時代行列]](4月上旬ごろ) *[[福井競輪場]] *[[睦月神事]] - [[1978年]](昭和53年)[[5月22日]]に国の[[重要無形民俗文化財]]に指定された。 *[[糸崎の仏舞]] - [[2004年]](平成16年)[[2月6日]]に国の重要無形民俗文化財指定された。 ===信仰=== *福井宝永教会:福井県福井市宝永3-7-8 **交通 ***[[京福バス]] 57 心臓センター・町屋線 教育センター停留所 徒歩約3分 ***[[福井駅 (福井県)|福井駅]] 徒歩約10分 ===名産・特産=== ;特産品 *[[木田チリメンジソ]] *[[笏谷石]] ;伝統産業 *[[銀杏材木工品]] *[[越前和蝋燭]] *[[福井仏壇]] ===スポーツ=== ====野球==== *[[福井ミリオンドリームズ]]([[日本野球連盟]]) ====サッカー==== *[[福井ユナイテッドFC]]([[北信越フットボールリーグ]]) ====バスケットボール==== *[[福井バスケットボールクラブ|福井ブローウィンズ]]([[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3リーグ]]公式試合参加資格・1次審査合格) ==出身関連著名人== '''太字'''は名誉市民(大武元市長を含め7名)、''斜字''は市民栄誉賞受賞者(4名)。 (※)は出生が福井市で、ほかの出身市町村の比重が大きい人物。 <!--市制以後著名活動のあった福井市及び現市域にあった旧町村の出身人物をリストアップしてみました。--> <!--熊谷太三郎(政治家)は歴代市長にて--> <!--福井市及び現市域にあった旧町村の存命中出身者(除政治家)を五十音順にリストアップしてみました。故人は下部、市郡制施行までに活躍した現市域の出身人物は歴史節へ。--> {{Colbegin}} * [[朝田のぼる]] - [[歌手]] * [[阿部真由美]] - [[福井放送]][[アナウンサー]] * [[天谷由佳]] - [[フリーアナウンサー]] * '''[[天谷直弘]]''' - [[経済評論家]](元[[資源エネルギー庁]]長官) * '''[[雨田光平]]''' - [[彫刻家]]、[[ハープ]]奏者、[[箏曲]]京極流宗家 * [[石黒正数]] - [[漫画家]] * [[幾代通]] - [[民法学者]] * [[石田和外 (裁判官)|石田和外]] - [[裁判官]] * [[井上寿美枝]] - [[福井放送]][[アナウンサー]] * [[池田光咲]] - [[ファッションモデル]]、[[俳優|女優]] * [[伊丹幸雄]] - [[歌手]] * [[伊藤俊也]] - [[映画監督]] * [[ナナ・イロ|岩堀路子]] - [[ミュージシャン]]([[ナナ・イロ]]) * [[植木庚子郎]] - [[政治家]](元[[法務大臣]]・[[大蔵大臣]]) * [[宇野重吉]] - [[俳優]]、[[演出家]] * [[梅ノ花市五郎]] - 元[[力士]] * [[大緑仁吉]] - 元力士 * [[小川誠子]] - [[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]] * [[岡田啓介]] - 第31代[[内閣総理大臣]] * '''[[奥むめお]]''' - 政治家(元[[参議院議員]]) * [[大森房吉]] - [[地震学者]] * [[小木茂光]] - 俳優 * [[小野寺昭憲]] - 俳優、映画監督 * [[加藤寛治]] - [[海軍軍人]] * [[川上テルヒサ]] - [[パンク・ロック|パンク]][[演歌]][[シンガーソングライター]] * [[川崎和男]] - [[デザイン]]ディレクター、[[医学博士]] * [[河崎義祐]] - 映画監督 * [[河原雅彦]] - 俳優、演出家、[[脚本家]] * [[歌う応援隊ヒトミリリィ#メンバー|川縁清志]]【[[歌う応援隊ヒトミリリィ]]】 - [[歌手]]、[[アコースティックギター]] * [[川本真琴]] - [[ミュージシャン]] * [[北川和歌子]] - 女優、脚本家 * ''[[栗原陵矢]]'' - [[プロ野球選手]]([[福岡ソフトバンクホークス]]、[[2020年東京オリンピック|2020年東京五輪]]金メダリスト) * [[さかいちよみ。]]-フリーのアナウンサー([[福井放送]]・[[福井街角放送]]で活躍中) * [[榊原仟]] - [[心臓外科学|心臓外科学者]] * '''[[白川静]]''' - [[漢文学]]者、古文字学者 * [[清水邦広]] - [[バレーボール]]選手([[2008年北京オリンピック|2008年北京五輪]]代表) * ''[[清水智信]]'' - [[プロボクサー]]([[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[スーパーフライ級]]元王者) * [[白井淳夫]] - 日本有数の[[ジャズ]]・[[サクソフォーン]]奏者 * [[須賀原洋行]] - 漫画家 * [[杉野早季]] - ミュージカル俳優 * [[瀬戸弘司]] - [[舞台俳優]]、[[YouTuber]] * ''[[高田稔浩]]'' - [[陸上競技選手]]([[アテネパラリンピック]]金メダリスト) * [[高山正行]] - 日本最初(日本芸能界初)のプロ和太鼓奏者([[王将太鼓]]) * [[竹島宏]] - [[演歌歌手|歌手]] * [[塚本麿充]] - [[美術史家]] * [[築田多吉]] - [[看護師]] * [[津田寛治]] - 俳優 * [[土屋公雄]] - 彫刻家 * [[坪内知佳]] - 会社経営者 * [[津村節子]] - 作家、[[小説家]] * [[道上美璃]] - [[NHK宮崎放送局]][[日本のアナウンサー|アナウンサー]] * [[戸田弥生]] - [[ヴァイオリニスト]] * [[冨田圭潤]] - [[カーチスホールディングス]] 代表執行役社長 * [[豊田三郎 (画家)|豊田三郎]] - 洋画家 * [[中垣内祐一]] - バレーボール指導者([[バレーボール日本男子代表]]元監督)、元選手([[バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]代表) * [[中島敏]] - 海上保安庁長官 * [[仲澤忠厚]] - 元プロ野球選手 * [[中村優子]] - [[俳優|女優]] * [[中山卓也 (俳優)|中山卓也]] - 俳優 * [[中山由佳]] - 元[[福島中央テレビ]]アナウンサー * '''[[南部陽一郎]]''' - [[物理学者]]、2008年[[ノーベル物理学賞]]受賞 * [[長谷川清]] - [[台湾総督]](1940 - 1944年)・海軍軍人 * [[馬場啓之助]] - [[経済学者]] * [[福井山常志]] - 元力士 * '''[[藤田良雄]]''' - [[天文学者]] * [[藤田宜永]] - 作家、小説家 * [[本郷直樹]] - 歌手、俳優 * [[前波ヨシアキ]] - [[ミュージシャン]]([[せきずい]]) * [[真杉静枝]] - 作家、小説家 * [[松下圭一]] - [[政治学者]] * [[松山足羽]] - [[俳人]] * [[美城れん]] - 元[[宝塚歌劇団]][[専科 (宝塚歌劇)|専科]]男役 * [[道端ジェシカ]] - [[ファッションモデル]] * [[三村亜生]] - 女子[[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手 * [[森川陽一郎]] - [[映像作家]]、元映画監督 * [[山崎昭]] - 経済学者 * [[山本哲士]] - [[教育学者]]、政治学者、[[教育]][[評論家]] * [[山本浩司 (俳優)|山本浩司]] - 俳優、映画監督 * [[吉岡真央]] - [[NHK高知放送局]]アナウンサー * [[吉川壽一]] - [[書家]] * ''[[吉田正尚]]'' - プロ野球選手([[ボストン・レッドソックス]]、[[2020年東京オリンピック|2020年東京五輪]]金メダリスト) * [[吉田喜重]] - 映画監督 * [[脇本雄太]] - [[競輪選手]]、[[リオデジャネイロオリンピック]]出場。 * [[渡辺悟仙]] - 国際的水墨画家・「[[日本南画院]]」元理事長 * [[五木ひろし]] - 歌手 * [[稲田朋美]] - 政治家・衆議院議員・元防衛大臣 {{Colend}} == その他 == {{出典の明記|section=1|date=2019年8月}} {{独自研究|section=1|date=2019年8月}} * 海岸近くの市南西部で北緯36度、東経136度の両線が交差する。[[世界測地系]]における同地点は[[測量法]]に関連した[[平面直角座標系]]に規定する19箇所ある座標原点のひとつ(6系)に指定されており、福井、三重、滋賀、京都、大阪、奈良、和歌山の2府5県内の筆界点などの地点を示す公共測量に、ここからの平面直角座標値が用いられている。 * 福井市には市職員だけで結成した和太鼓団体『不死鳥太鼓』が存在している。本格的に太鼓チーム化されたのは、地元の和太鼓奏者である[[高山正行]]を指導者に招いてからであり、以降、「福井フェニックスまつり」「100万人のためのマーチング」など活動の場が大いに広がった。 * 2003年、市がごみ分別周知のため制作し[[福井ケーブルテレビ]]で放送された啓発ビデオの主人公、[[リサイクル戦隊ワケルンジャー]]が[[ローカルヒーロー]]として地域のみならず全国報道に採り上げられるなど大きな反響を呼んだ。 * 福井市民の歌は[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]の歌う「わたしのまちときめきのまち」。市政100周年を記念して[[1989年]]に制作された。毎週日曜に[[福井エフエム放送|FM福井]]で放送される「福井市政ガイド」ではBGMとして流れる。ゴミ収集車もこの音楽を流しながら現れるので市民にとってはメロディーだけは馴染み深い。また、17時の時報ミュージックサイレンとしての使用されている。 * [[千葉県]][[松戸市]]の生活ゴミを委託で処分していた。現在も委託を受けているかどうかは不明。 <!--「歴史」に記述があるのでコメントアウトします→*2004年7月福井豪雨で足羽川が氾濫した。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === <!-- 文献参照ページ --> {{Reflist|2}} <!-- == 参考文献 == --> <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> == 関連項目 == {{Sisterlinks |commons=福井市 |commonscat=Fukui,_Fukui |q=no |v=no |voy=ja:福井市 |d=Q201618 }} {{Multimedia|福井市の画像}} {{See also|Category:福井市}} * [[福井藩]] * [[福井都市圏]] * [[福井市役所]] * [[福井市企業局]](水道・ガス事業) * [[福井県農業協同組合]] * [[福井市農業協同組合]] * [[福井市南部農業協同組合]] * [[越前丹生農業協同組合]](旧清水町・越廼村) * [[越前美山農業協同組合]](旧美山町) * [[フェニックス通り (福井県福井市)]] * [[俺たちの行進曲]](福井市を舞台とした映画) == 外部リンク == {{osm box|r|4799846}} ; 行政 * {{Official website}} * {{Twitter|fukui_kohou|福井市広報課}} * {{Facebook|fukuicity|福井市役所}} * {{YouTube|user = fukuikohou|広報福井市}} ; 観光 * [https://fuku-iro.jp/ 福いろ] 福井市観光協会 * {{ウィキトラベル インライン|福井市|福井市}} {{日本の都道府県庁所在地}} {{福井県の自治体}} {{日本の中核市}} {{日本100大都市}} {{福井市の地域}} {{福井市の町・字}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふくいし}} [[Category:福井県の市町村]] [[Category:福井市|*]] [[Category:城下町]] [[Category:都道府県庁所在地]] [[Category:中核市]] [[Category:観光圏]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]]
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東葉高速鉄道1000形電車
東葉高速鉄道1000形電車(とうようこうそくてつどう1000がたでんしゃ)は、1995年(平成7年)から2006年(平成18年)にかけて東葉高速鉄道に在籍していた通勤形電車である。 後継の2000系は2000形とはならずに“系”とされたが、その後も本形式は“系”に変更されることはなかった。 1996年(平成8年)4月の東葉高速線開業に合わせて、同社が1995年(平成7年)から、乗り入れ先である帝都高速度交通営団(以下「営団」)東西線で使用されていた5000系電車10両編成10本の計100両(全てセミステンレス車)を譲受し、整備改造した車両である。これらの他に10両編成2本の計20両も譲受しているが、その後の計画変更により鉄道車両としては入籍されなかった。 当初計画では新車導入も考えられていたが中古車両導入となった理由は、東葉高速線の建設費が当初予想を上回ったために(「東葉高速鉄道#設立の経緯と路線建設」を参照)車両製造費を削減する必要があったこと、同時期に営団が05系投入による5000系の置き換えを進めており丁度余剰となっていたこと、乗り入れで引き続き営団東西線を走行するのに際して検査など営団での取り扱い上有利だった(営団深川工場に委託していた)ことなどが挙げられる。 譲渡された車両は、1993年(平成5年)頃に05系の5 - 7次車により置き換えられた、5000系の3次車を中心とするグループである。東葉高速線の開業が当初の予定より遅れたため、営団で余剰となってからしばらくの間は深川検車区・行徳検車区(現・深川検車区行徳分室)・綾瀬検車区・新木場検車区(現・和光検車区新木場分室)に分散して保管された。 東葉高速線の開業は1996年4月27日だが、開業より早い同年3月16日に東西線のダイヤ改正が実施されたため、先行して同線内の営業運転に就いた。 譲受にあたっては、特に東西線と相互直通運転をすることから東葉高速鉄道としての独自性と近代的なイメージをアピールするデザインをめざした。 改造工事は1995年(平成7年)4月より深川工場内の車体更新修繕場と新木場検車区(当時)内の新木場CRにおいてメトロ車両で実施された。改造後は同年12月上旬より順次、八千代緑が丘車両基地に回送された。 主な改造内容は以下の通り。 改造に際して、内装は全面的に更新されている。 編成形態は5000系時代と変化ないが、車両番号は営団時代の装備機器と製造順によって付されるものから、車両の連結位置で付されるものに変更された。 具体的には以下のとおりである。以下、本項目では便宜上、F(Formation = 編成の略)を「編成名」として(第7編成なら「07F」として)解説する。 開業当初、09Fと10Fは開業前に乗務員訓練に使用されていた関係で本格的な改造を行うことができず、ラインカラーの変更と戸袋窓撤去のみの暫定的な改造で運用に入っていた(外部リンク参照)が、開業後に正式な改造が実施されている。また、尾灯や車側表示灯などの灯具には当初LEDが使用されていたが、経年劣化による照度低下により、後年電球に交換されている。 残りの2本は増発予備車として、上記の改造がなされずに東葉高速鉄道には入籍しないまま保留された。後に増車計画は中止となり、この時点で改造途中だった11Fは改造を中断された。この後は2本とも部品取り車となり、一部台車を他編成に供出して仮台車になった車両もあったものの、機器は車庫内の移動ができる程度に整備されていた。これらは2004年(平成16年)に新車置き換え計画が浮上したことから、翌2005年(平成17年)中に解体された。 登場時、社章は前面右上の計2か所のみに入れられていたが、2005年以降側面の戸袋部分にも順次緑色の社章ステッカーが追加で貼付された。 改造時に東日本旅客鉄道(JR東日本、以下「JR」)線に対応する保安機器類と列車無線が撤去されているため、同線への乗り入れは不可能となった。ただし、深川工場への検査入場時などJR線に入らない運用に限って本来営団(→東京メトロ)車が使われる運用に充当される場合があった。 2001年(平成13年)1月に行われた運輸政策審議会答申第18号において、営団地下鉄東西線の輸送力増強対応として同線の保安装置をWS-ATC装置から新CS-ATC装置へと更新することが決定された。同線と相互乗り入れを行う東葉高速鉄道側も対応することを受け入れ、この時点で車両を改造で対応させるのか、新車で対応させるのか長期視点で種々検討を行った。 検討の結果、本形式に新CS-ATC対応改造を実施した場合、経年を考慮すると近い将来に車両の更新が必要となり、改造費用が無駄となることも判明した。2001年9月、当初の計画より車両更新時期を早め更新用の新車を導入することが決定された。 その後、2004年(平成16年)12月7日より後継車である2000系の営業運転が開始された。これにより本系列は順次置き換えられ、2000系の導入から2年を経た2006年(平成18年)12月3日に東葉高速線内での営業運転を終了した。 最後まで使用された06Fは、12月4日に深川検車区への移動を兼ねて東西線の朝ラッシュ時の東京メトロ車の運用に入り、東西線での営業運転も終えた。この際、1061は最初で最後の女性専用車指定を受けた。営業運転終了に際し、2007年初頭に大々的にイベントが行われた5000系とは異なり、記念パスネットカードの発売はされたものの、車両への記念シールの貼り付けなど特別なことは一切されなかった。 なお、2006年11月20日から東西線に女性専用車が設定されたが、1000形は営業運転終了が間近で休日運用のみの予備扱いとされたため、06F以外は告知シールは貼付されなかった。 運用離脱車は順次解体されていたが、最後まで残存していた06Fを含む最終3編成については解体されず、東京メトロ5000系ステンレス車と共に、インドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api(現.PT Kereta Commuter Indonesia)にジャカルタ近郊の通勤電車用として売却されることとなり、2006年10月に09Fが、11月に08Fが、2007年1月に06Fがそれぞれ深川検車区から甲種車両輸送されている。06Fは現地でholeckと衝突事故を起こしたが、無事に営業復活した。現在は東葉塗装から現地塗装に塗り直されている。 廃車された編成および代替で営業開始した2000系の編成は以下の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東葉高速鉄道1000形電車(とうようこうそくてつどう1000がたでんしゃ)は、1995年(平成7年)から2006年(平成18年)にかけて東葉高速鉄道に在籍していた通勤形電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "後継の2000系は2000形とはならずに“系”とされたが、その後も本形式は“系”に変更されることはなかった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)4月の東葉高速線開業に合わせて、同社が1995年(平成7年)から、乗り入れ先である帝都高速度交通営団(以下「営団」)東西線で使用されていた5000系電車10両編成10本の計100両(全てセミステンレス車)を譲受し、整備改造した車両である。これらの他に10両編成2本の計20両も譲受しているが、その後の計画変更により鉄道車両としては入籍されなかった。", "title": "導入の目的" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当初計画では新車導入も考えられていたが中古車両導入となった理由は、東葉高速線の建設費が当初予想を上回ったために(「東葉高速鉄道#設立の経緯と路線建設」を参照)車両製造費を削減する必要があったこと、同時期に営団が05系投入による5000系の置き換えを進めており丁度余剰となっていたこと、乗り入れで引き続き営団東西線を走行するのに際して検査など営団での取り扱い上有利だった(営団深川工場に委託していた)ことなどが挙げられる。", "title": "導入の目的" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "譲渡された車両は、1993年(平成5年)頃に05系の5 - 7次車により置き換えられた、5000系の3次車を中心とするグループである。東葉高速線の開業が当初の予定より遅れたため、営団で余剰となってからしばらくの間は深川検車区・行徳検車区(現・深川検車区行徳分室)・綾瀬検車区・新木場検車区(現・和光検車区新木場分室)に分散して保管された。", "title": "導入の目的" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "東葉高速線の開業は1996年4月27日だが、開業より早い同年3月16日に東西線のダイヤ改正が実施されたため、先行して同線内の営業運転に就いた。", "title": "導入の目的" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "譲受にあたっては、特に東西線と相互直通運転をすることから東葉高速鉄道としての独自性と近代的なイメージをアピールするデザインをめざした。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "改造工事は1995年(平成7年)4月より深川工場内の車体更新修繕場と新木場検車区(当時)内の新木場CRにおいてメトロ車両で実施された。改造後は同年12月上旬より順次、八千代緑が丘車両基地に回送された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "主な改造内容は以下の通り。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "改造に際して、内装は全面的に更新されている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "編成形態は5000系時代と変化ないが、車両番号は営団時代の装備機器と製造順によって付されるものから、車両の連結位置で付されるものに変更された。", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "具体的には以下のとおりである。以下、本項目では便宜上、F(Formation = 編成の略)を「編成名」として(第7編成なら「07F」として)解説する。", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "開業当初、09Fと10Fは開業前に乗務員訓練に使用されていた関係で本格的な改造を行うことができず、ラインカラーの変更と戸袋窓撤去のみの暫定的な改造で運用に入っていた(外部リンク参照)が、開業後に正式な改造が実施されている。また、尾灯や車側表示灯などの灯具には当初LEDが使用されていたが、経年劣化による照度低下により、後年電球に交換されている。", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "残りの2本は増発予備車として、上記の改造がなされずに東葉高速鉄道には入籍しないまま保留された。後に増車計画は中止となり、この時点で改造途中だった11Fは改造を中断された。この後は2本とも部品取り車となり、一部台車を他編成に供出して仮台車になった車両もあったものの、機器は車庫内の移動ができる程度に整備されていた。これらは2004年(平成16年)に新車置き換え計画が浮上したことから、翌2005年(平成17年)中に解体された。", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "登場時、社章は前面右上の計2か所のみに入れられていたが、2005年以降側面の戸袋部分にも順次緑色の社章ステッカーが追加で貼付された。", "title": "編成図" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "改造時に東日本旅客鉄道(JR東日本、以下「JR」)線に対応する保安機器類と列車無線が撤去されているため、同線への乗り入れは不可能となった。ただし、深川工場への検査入場時などJR線に入らない運用に限って本来営団(→東京メトロ)車が使われる運用に充当される場合があった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)1月に行われた運輸政策審議会答申第18号において、営団地下鉄東西線の輸送力増強対応として同線の保安装置をWS-ATC装置から新CS-ATC装置へと更新することが決定された。同線と相互乗り入れを行う東葉高速鉄道側も対応することを受け入れ、この時点で車両を改造で対応させるのか、新車で対応させるのか長期視点で種々検討を行った。", "title": "営業運転の終了" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "検討の結果、本形式に新CS-ATC対応改造を実施した場合、経年を考慮すると近い将来に車両の更新が必要となり、改造費用が無駄となることも判明した。2001年9月、当初の計画より車両更新時期を早め更新用の新車を導入することが決定された。", "title": "営業運転の終了" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、2004年(平成16年)12月7日より後継車である2000系の営業運転が開始された。これにより本系列は順次置き換えられ、2000系の導入から2年を経た2006年(平成18年)12月3日に東葉高速線内での営業運転を終了した。", "title": "営業運転の終了" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "最後まで使用された06Fは、12月4日に深川検車区への移動を兼ねて東西線の朝ラッシュ時の東京メトロ車の運用に入り、東西線での営業運転も終えた。この際、1061は最初で最後の女性専用車指定を受けた。営業運転終了に際し、2007年初頭に大々的にイベントが行われた5000系とは異なり、記念パスネットカードの発売はされたものの、車両への記念シールの貼り付けなど特別なことは一切されなかった。", "title": "営業運転の終了" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、2006年11月20日から東西線に女性専用車が設定されたが、1000形は営業運転終了が間近で休日運用のみの予備扱いとされたため、06F以外は告知シールは貼付されなかった。", "title": "営業運転の終了" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "運用離脱車は順次解体されていたが、最後まで残存していた06Fを含む最終3編成については解体されず、東京メトロ5000系ステンレス車と共に、インドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api(現.PT Kereta Commuter Indonesia)にジャカルタ近郊の通勤電車用として売却されることとなり、2006年10月に09Fが、11月に08Fが、2007年1月に06Fがそれぞれ深川検車区から甲種車両輸送されている。06Fは現地でholeckと衝突事故を起こしたが、無事に営業復活した。現在は東葉塗装から現地塗装に塗り直されている。", "title": "営業運転の終了" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "廃車された編成および代替で営業開始した2000系の編成は以下の通り。", "title": "営業運転の終了" } ]
東葉高速鉄道1000形電車(とうようこうそくてつどう1000がたでんしゃ)は、1995年(平成7年)から2006年(平成18年)にかけて東葉高速鉄道に在籍していた通勤形電車である。 後継の2000系は2000形とはならずに“系”とされたが、その後も本形式は“系”に変更されることはなかった。
{{Pathnav|営団5000系電車|frame=1}} {{鉄道車両 | 車両名 = 東葉高速鉄道1000形電車 | 背景色 = #3fb036 | 文字色 = White | 画像 = Tōyō Rapid 1008F.JPG | 画像説明 = 東葉高速鉄道1000形<br />(2006年9月8日 / 葛西駅) | 運用者 = [[東葉高速鉄道]] | 種車 = [[営団5000系電車]] | 改造所 = [[メトロ車両]]([[深川車両基地|深川工場]]・[[新木場車両基地|新木場CR]]) | 改造年 = 1995年 - 1996年 | 改造数 = 10両編成10本(100両)<br />ほかに将来増発用として10両編成2本(20両)を確保(未改造) | 運用開始 = 1996年3月16日 | 運用終了 = 2006年12月4日 | 投入先 = [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]・[[東京メトロ東西線]] | 編成 = 10両編成(8M2T) | 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]]) | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V([[架空電車線]]方式) | 最高運転速度 = 100 km/h | 設計最高速度 = 100 km/h | 起動加速度 = 3.5 km/h/s | 常用減速度 = 4.0 km/h/s | 非常減速度 = 5.0 km/h/s | 編成定員 = 1,424(座席564)人 | 車両定員 = 先頭車 136(座席50)人<br />中間車 144(座席58)人 | 車両重量 = 30.0 - 38.0t | 編成重量 = 358.4t | 全長 = 20,000 mm | 全幅 = 2,870mm | 全高 = 4,135 mm<br />パンタグラフ折りたたみ 4,145 mm | 床面高さ = 1,150 mm | 車体 = [[セミステンレス車両]] | 台車 = SUミンデン式台車 FS-502A形 | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] | 主電動機出力 = 100kW | 駆動方式 = [[WN駆動方式]] | 歯車比 = 99:16 (6.19) | 編成出力 = 3,200kW | 制御方式 = [[界磁添加励磁制御]] | 制御装置 = [[三菱電機]]製 ABFM138-15MRH | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車制御装置]] ([[自動列車制御装置#ATC-3型|WS]]-ATC) | 備考 = 上記のデータは鉄道ファン1996年3月号記事から }} '''東葉高速鉄道1000形電車'''(とうようこうそくてつどう1000がたでんしゃ)は、[[1995年]]([[平成]]7年)から[[2006年]](平成18年)にかけて[[東葉高速鉄道]]に在籍していた[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]][[電車]]である。 後継の[[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]]は2000形とはならずに“系”とされたが、その後も本形式は“系”に変更されることはなかった。 == 導入の目的 == [[1996年]]([[平成]]8年)4月の[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]開業に合わせて、同社が[[1995年]](平成7年)から、乗り入れ先である[[帝都高速度交通営団]](以下「営団」)[[東京メトロ東西線|東西線]]で使用されていた[[営団5000系電車|5000系電車]]10両編成10本の計100両(全て[[セミステンレス車両|セミステンレス車]])を譲受し、整備改造した車両である。これらの他に10両編成2本の計20両も譲受しているが、その後の計画変更により鉄道車両としては入籍されなかった。 当初計画では新車導入も考えられていたが中古車両導入となった理由は、東葉高速線の建設費が当初予想を上回ったために(「[[東葉高速鉄道#設立の経緯と路線建設]]」を参照)車両製造費を削減する必要があったこと、同時期に営団が[[営団05系電車|05系]]投入による5000系の置き換えを進めており丁度余剰となっていたこと、乗り入れで引き続き営団東西線を走行するのに際して[[日本の鉄道車両検査|検査]]など営団での取り扱い上有利だった([[深川車両基地#深川工場|営団深川工場]]に委託していた)ことなどが挙げられる。 譲渡された車両は、[[1993年]](平成5年)頃に05系の5 - 7次車により置き換えられた、5000系の3次車を中心とするグループである。東葉高速線の開業が当初の予定より遅れたため、営団で余剰となってからしばらくの間は[[深川検車区]]・行徳検車区(現・[[深川検車区行徳分室]])・[[綾瀬車両基地|綾瀬検車区]]・新木場検車区(現・[[新木場車両基地|和光検車区新木場分室]])に分散して保管された。 東葉高速線の開業は1996年[[4月27日]]だが、開業より早い同年[[3月16日]]に東西線のダイヤ改正が実施されたため、先行して同線内の営業運転に就いた。 == 改造 == 譲受にあたっては、特に東西線と相互直通運転をすることから東葉高速鉄道としての独自性と近代的なイメージをアピールする[[デザイン]]をめざした。 改造工事は[[1995年]](平成7年)4月より深川工場内の車体更新修繕場と新木場検車区(当時)内の新木場CRにおいて[[メトロ車両]]で実施された。改造後は同年12月上旬より順次、[[八千代緑が丘車両基地]]に[[回送]]された。 主な改造内容は以下の通り<ref name="example">交友社「鉄道ファン」1996年3月号記事ならびに鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1996年10月臨時増刊号新車年鑑</ref>。 === 車外 === [[ファイル:Tōyō Rapid 1009F.JPG|thumb|1000形の前面<br />(2006年10月17日 / 西船橋駅)]] * 前面形状は、周辺が台形断面の部材で縁取られ<ref group="注">この正面形状は「窓の周りを囲う」という意味から「額縁型」と呼ばれ、[[1970年代]]後半から[[1990年代]]前半にかけて流行した形状である。</ref>、縁取り内側の上半分は粘着[[フィルム]]でつや消し黒色に仕上げられ、下半分はコルゲートを撤去し、下端には[[アンチクライマー]]が取り付けられた。また、[[前照灯]]と[[尾灯]]は左右対称に水平に並んだ丸型独立4灯から、配置は近似のまま左右の2灯ずつを角形のベゼルにまとめた角形4灯に取り替えられた。 * 東葉高速線は[[千葉県|千葉]]と[[東京]]を東西に結ぶ路線であることから「[[太陽|陽]]は東から昇り西に沈む」ことをイメージし、「[[日の出|サンライズ(日の出・朝日)]]を表す赤」・「[[昼|デイタイム(昼間)]]の白」・「[[夕焼け|サンセット(夕日)]]を表すオレンジ」の[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]を配置した<ref name="JRMA1996-7">日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1996年7月号国内情報「東葉高速線開業の概要」pp.46 - 50。</ref>。 * 前面[[方向幕|行先表示幕]]交換([[ゴシック体]]→[[丸ゴシック体]]、[[ローマ字]]併記)。なお、側面表示器は設置されなかった。 * 車体[[台枠]]・屋根材・窓枠などの補修<ref group="注">これに合わせて[[西船橋駅|西船橋]]方先頭車後部にあったパンタグラフ撤去跡が整形されている。</ref>、高圧・低圧[[配線|艤装配線]]の取り換え。 * [[トンネル]]内温度上昇対策として[[制御装置]]とブレーキ装置の更新。([[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]→[[界磁添加励磁制御]]、[[発電ブレーキ]]→[[回生ブレーキ]]) * [[エア・コンディショナー|冷房装置]]の搭載(譲受車は全て非冷房)。冷房・制御電源として[[静止形インバータ]] (SIV) を2台取り付け。 ** 冷房装置は[[三菱電機]]製[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]CU-764形 冷房能力24.5kW (21,000kcal/h) を2台搭載。 ** 電源装置は三菱電機製の190kVA出力、静止形インバータ([[三相交流]]440V出力)である。この電源装置は5両分の冷房装置と2両分の制御装置励磁電源用として電源供給を行う。 * 床下機器はほとんど種車のままだが、改造に際して明るいグレーに塗り直されている。 === 車内 === 改造に際して、内装は全面的に更新されている。 * 客室 ** 側面は[[デコラ|化粧板]]を白色系のものへ交換。床敷物は座席前がベージュ色、中央通路が東葉高速線沿線にある[[クヌギ]]の幹をイメージした茶色系のものへ交換。 ** [[鉄道車両の座席|座席モケット]]は[[新緑]]の[[萌え]]たイメージの黄緑色地に[[クロマツ|黒松]]をイメージした[[モザイク]]模様を入れた総柄モケットへ、[[優先席]]部は薄紫色系のものへ交換。 ** 客用ドアは新調し交換、ドアガラスを大形化・[[複層ガラス|複層構造]]化し、車内側が化粧板仕上げとなった。また種車に[[戸袋]]窓のあったものは、車内外ともに板材を貼り戸袋窓を撤去(新製時から省略されていた車両と同様の外観)。 ** 側窓は種車から変更なく上段下降・下段上昇式の2段式のままだが、[[カーテン]]はベージュ色の物を新調。 ** 妻面は化粧板を白色系を基本として上部を緑色としたものへ交換。妻面窓および[[貫通扉]]は存置。 ** [[網棚]]は種車によって金網式とパイプ式が混在のまま。[[つり革]]はいずれも白色の丸形、座席前レール方向とドア付近レール方向のみ設置。 ** 冷房用ダクトは同時期の営団5000系への改造と同様、車内側天井に[[繊維強化プラスチック|FRP]]製のダクトを取り付けた簡易形のスポット式を搭載。[[扇風機]]は40cm径のものを新調し各車5台ずつ設置。 * 乗務員室 ** [[操縦席|乗務員室]]内は5000系時代とほぼ同じのまま。ただし、改造に際してJR線乗り入れ機器の撤去(運転台周辺機器・保安装置・列車無線装置・屋根上の[[列車無線アンテナ]]などの撤去)が実施されている。 ** 内装は濃淡の緑色系、計器盤は濃紺色である。[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]は[[デッドマン装置]]付([[力行]]1 - 4[[ノッチ]])、ブレーキハンドルは[[電磁直通ブレーキ|電磁直通式]]である。 * その他 ** これらの改造は、同時期に営団が5000系に実施されていた冷房搭載改造や大規模改修工事'''B修工事'''(主に初期車が対象)施工車と同様の内容である。改造コストを抑えるため、冷房装置は屋根の補強を抑えられる集約分散方式とし、車体全体の補強も極力控えられた。同様の改造をした営団5000系は、改造後10 - 15年程度の使用が見込まれていた。 == 編成図 == 編成形態は5000系時代と変化ないが、[[鉄道の車両番号|車両番号]]は営団時代の装備機器と製造順によって付されるものから、車両の連結位置で付されるものに変更された。 * 千の位:系列名(全車両1) * 百・十の位:編成番号 (01, 02 … 10) * 一の位:[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]側から1, 2 … 0 具体的には以下のとおりである。以下、本項目では便宜上、F(Formation = 編成の略)を「編成名」として(第7編成なら「07F」として)解説する。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:80%;" |-style="border-bottom:solid 3px #f33;" |style="background-color:#ccc; width:6em;"|&nbsp; |colspan="10"|{{TrainDirection| [[東葉勝田台駅|東葉勝田台]] | [[西船橋駅|西船橋]]・<small>[[東京メトロ東西線|東西線]][[中野駅 (東京都) |中野]] }} !rowspan="3" style="border-bottom:solid 4px #6f6;"|編成番号 |- !車種 |'''1000形''' (1)<br />(CT1) |'''1000形''' (2)<br />(M1) |'''1000形''' (3)<br />(M2) |'''1000形''' (4)<br />(M1) |'''1000形''' (5)<br />(Mc) |'''1000形''' (6)<br />(Tc) |'''1000形''' (7)<br />(M1) |'''1000形''' (8)<br />(M2) |'''1000形''' (9)<br />(M1) |'''1000形''' (0)<br />(CM2) |-style="border-bottom:solid 4px #f93;" !搭載機器 | SIV || CONT || CP,MG || CONT || CP,MG || SIV || CONT || CP,MG || CONT || CP,MG |- !車両番号 | 1011 <br />1021<br />:<br />1091<br />1101 | 1012 <br />1022<br />:<br />1092<br />1102 | 1013 <br />1023<br />:<br />1093<br />1103 | 1014 <br />1024<br />:<br />1094<br />1104 | 1015 <br />1025<br />:<br />1095<br />1105 | 1016 <br />1026<br />:<br />1096<br />1106 | 1017 <br />1027<br />:<br />1097<br />1107 | 1018 <br />1028<br />:<br />1098<br />1108 | 1019 <br />1029<br />:<br />1099<br />1109 | 1010 <br />1020<br />:<br />1090<br />1100 | 01F<br />02F<br />:<br />09F<br />10F |} * 5号車、6号車は簡易運転台付だが、04Fの1046号車だけは簡易運転台はなく、車種は「T」である。 * CONT:主制御器(パンタグラフ搭載車)、SIV:静止形インバータ190kVA、MG:電動発電機12kVA、CP:空気圧縮機 * 橙字は5000系2次車 * 青字は5000系3次車 * 緑文字は5000系4次車 * 水色文字は5000系5次車 * ◇は東葉勝田台方に菱形集電装置を搭載 * 少なくとも'''※'''は5000系時代に戸袋窓閉鎖(5次車以降は新造時から) * 車種ごとの搭載機器と製造次ごとの製造年は5000系の項を参照 * 車両の入れ替えは譲渡に伴うものを記載している {| class="wikitable" style="font-size:80%;" |-style="text-align:center" !&nbsp; !colspan="10"|←[[西船橋駅|西船橋]]・[[中野駅 (東京都)|中野]]/[[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]→ !rowspan="2"|備考 |-style="text-align:center" !編成番号 | CM || M1◇ || M2 || M1◇ || Tc/T || Mc/M || M1◇ || M2 || M1◇ || CT |-style="text-align:center" |営団第60編成 |style="color:orange;"|'''5010''' |style="color:black;"|'''5332''' |style="color:black;"|'''5684''' |style="color:black;"|'''5331''' |style="color:black;"|'''5910''' |style="color:black;"|'''5110''' |style="color:black;"|'''5344''' |style="color:black;"|'''5683''' |style="color:black;"|'''5321''' |style="color:orange;"|'''5810''' | |-style="text-align:center" |営団第72編成 |style="color:blue;"|'''※5022''' |style="color:blue;"|'''※5266''' |style="color:blue;"|'''※5644''' |style="color:blue;"|'''※5265''' |style="color:aqua;"|'''※5907''' |style="color:aqua;"|'''※5107''' |style="color:aqua;"|'''※5341''' |style="color:blue;"|'''※5643''' |style="color:blue;"|'''※5264''' |style="color:blue;"|'''※5822''' |東葉1000形第8編成に改造→インドネシアへ譲渡 |-style="text-align:center" |営団第73編成 |style="color:blue;"|5023 |style="color:blue;"|5269 |style="color:blue;"|5646 |style="color:blue;"|5268 |style="color:aqua;"|5912 |style="color:aqua;"|5112 |style="color:aqua;"|5346 |style="color:blue;"|5245 |style="color:blue;"|5267 |style="color:blue;"|5823 |東葉1000形第11編成に改造→廃車 |-style="text-align:center" |営団第74編成 |style="color:blue;"|5024 |style="color:blue;"|5272 |style="color:blue;"|5648 |style="color:blue;"|5271 |style="color:aqua;"|5913 |style="color:green;"|5654 |style="color:green;"|5280 |style="color:blue;"|5647 |style="color:blue;"|5270 |style="color:blue;"|5824 |{{Color|green|5654}}は{{Color|aqua|5113}}から、{{Color|green|5280}}は{{Color|aqua|5347}}から入れ替え(第77編成との間で交換) |-style="text-align:center" |営団第86編成 |style="color:green;"|5036 |style="color:green;"|5308 |style="color:green;"|5672 |style="color:green;"|5307 |style="color:aqua;"|5903 |style="color:green;"|5656 |style="color:green;"|5283 |style="color:green;"|5671 |style="color:green;"|5306 |style="color:green;"|5836 |譲渡時に一部他の編成と組み換え |-style="text-align:center" |colspan="12"|そのほか第69・70・71・75・76・82・94編成が譲渡された |-style="text-align:center" !colspan="12"|↓ |-style="text-align:center" !東葉高速01F |1010 |1019 |1018 |1017 |1016 |1015 |1014 |1013 |1012 |1011 |&nbsp; |-style="text-align:center" !: | : || : || : || : || : || : || : || : || : || : |&nbsp; |-style="text-align:center" !東葉高速10F |1100 |1109 |1108 |1107 |1106 |1105 |1104 |1103 |1102 |1101 |&nbsp; |} 開業当初、09Fと10Fは開業前に[[習熟運転|乗務員訓練]]に使用されていた関係で本格的な改造を行うことができず、ラインカラーの変更と戸袋窓撤去のみの暫定的な改造で運用に入っていた([http://blog.livedoor.jp/h_nekomata/archives/51202616.html 外部リンク参照])が、開業後に正式な改造が実施されている。また、[[尾灯]]や[[車側表示灯]]などの灯具には当初[[発光ダイオード|LED]]が使用されていたが、経年劣化による照度低下により、後年[[電球]]に交換されている。 残りの2本は'''増発予備車'''として、上記の改造がなされずに東葉高速鉄道には入籍しないまま保留された。後に増車計画は中止となり、この時点で改造途中だった11Fは改造を中断された。この後は2本とも[[部品取り]]車となり、一部[[鉄道車両の台車|台車]]を他編成に供出して仮台車になった車両もあったものの、機器は車庫内の移動ができる程度に整備されていた。これらは[[2004年]](平成16年)に新車置き換え計画が浮上したことから、翌[[2005年]](平成17年)中に解体された。 登場時、[[シンボルマーク|社章]]は前面右上の計2か所のみに入れられていたが、2005年以降側面の戸袋部分にも順次緑色の社章ステッカーが追加で貼付された。 == 運用 == 改造時に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本、以下「JR」)線に対応する保安機器類と列車無線が撤去されているため、同線への乗り入れは不可能となった。ただし、深川工場への検査入場時などJR線に入らない運用に限って本来営団(→東京メトロ)車が使われる運用に充当される場合があった。 == 営業運転の終了 == [[ファイル:Toyo1000-kawasakicitypier-20070114.jpg|thumb|神奈川臨海鉄道の[[千鳥町駅 (神奈川県)|千鳥町駅]]に<br />留置される1061F]] [[2001年]](平成13年)1月に行われた[[運輸政策審議会答申第18号]]において、[[東京メトロ東西線|営団地下鉄東西線]]の輸送力増強対応として同線の保安装置をWS-ATC装置から[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC装置]]へと更新することが決定された。同線と相互乗り入れを行う東葉高速鉄道側も対応することを受け入れ、この時点で車両を改造で対応させるのか、新車で対応させるのか長期視点で種々検討を行った<ref name="SUBWAY">日本地下鉄協会会報「SUBWAY」2005年3月号記事</ref>。 検討の結果、本形式に新CS-ATC対応改造を実施した場合、経年を考慮すると近い将来に車両の更新が必要となり、改造費用が無駄となることも判明した。2001年9月、当初の計画より車両更新時期を早め更新用の新車を導入することが決定された<ref group="注">5000系も同様の理由により05N系に置き換えられることとなった。</ref><ref name="SUBWAY"/>。 その後、[[2004年]](平成16年)[[12月7日]]より後継車である[[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]]の営業運転が開始された。これにより本系列は順次置き換えられ、2000系の導入から2年を経た[[2006年]](平成18年)[[12月3日]]に東葉高速線内での営業運転を終了した<ref group="注">その後、5000系も翌2007年3月で全車引退。</ref>。 最後まで使用された06Fは、[[12月4日]]に深川検車区への移動を兼ねて<ref group="注">深川検車区→[[中野駅 (東京都)|中野駅]]→[[八王子駅]]→[[川崎貨物駅]]→[[神奈川臨海鉄道]][[千鳥町駅 (神奈川県)|千鳥町駅]]→[[川崎港|川崎市営埠頭]]→[[インドネシア]]という経路で行われたため、東西線に入線する必要があった。</ref>東西線の朝[[ラッシュ時]]の東京メトロ車の運用に入り、東西線での営業運転も終えた。この際、1061は最初で最後の[[女性専用車両|女性専用車]]指定を受けた。営業運転終了に際し、2007年初頭に大々的にイベントが行われた5000系とは異なり、記念[[パスネット]]カードの発売はされたものの、車両への記念シールの貼り付けなど特別なことは一切されなかった。 なお、2006年11月20日から東西線に女性専用車が設定されたが、1000形は営業運転終了が間近で休日運用のみの予備扱いとされたため、06F以外は告知シールは貼付されなかった。 運用離脱車は順次解体されていたが、最後まで残存していた06Fを含む最終3編成については解体されず、東京メトロ5000系ステンレス車と共に、インドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Api(現.[[KRLコミューターライン|PT Kereta Commuter Indonesia]])に[[ジャボデタベック|ジャカルタ近郊]]の通勤電車用として売却されることとなり、2006年10月に09Fが、11月に08Fが、2007年1月に06Fがそれぞれ深川検車区から[[車両輸送|甲種車両輸送]]されている。06Fは現地でholeckと衝突事故を起こしたが、無事に営業復活した。現在は東葉塗装から現地塗装に塗り直されている。 === 各編成の廃車日 === [[廃車 (鉄道)|廃車]]された編成および代替で営業開始した2000系の編成は以下の通り。 * 01F(2005年4月6日廃車)→2103F * 02F(2005年11月21日廃車)→2104F * 03F(廃車日不明・2005年12月解体)→2107F * 04F(2005年12月5日廃車)→2106F * 05F(2005年11月27日廃車)→2105F * 06F(2006年12月4日離脱・インドネシアへ売却)→2110F * 07F(2005年1月30日廃車)→2102F * 08F(2006年11月中旬離脱・インドネシアへ売却)→2109F * 09F(2006年10月27日離脱・インドネシアへ売却)→2108F * 10F(2005年1月17日廃車)→2101F * 11F・12F(廃車済・2005年6月上旬解体) * 他に増発用として2111Fが投入されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[交友社]]「[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] ** 1996年3月号CAR INFO 来春開業へ向けて登場!「東葉高速鉄道1000形」(取材協力・東葉高速鉄道) * [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]]「[[鉄道ピクトリアル]]」 ** 1996年10月臨時増刊号新車年鑑1996年版「東葉高速鉄道1000形」(東葉高速鉄道 (株) 技術部車両課 黒川勝之 著) * 日本地下鉄協会会報「SUBWAY」 ** 2005年3月号「新造車両の導入について」(東葉高速鉄道株式会社 運輸施設部 車両課長 黒川勝之 著) == 関連項目 == {{commons|Tōyō Rapid 1000 series}} * [[KRLジャボタベック]] {{rail-stub}} {{DEFAULTSORT:とうようこうそくてつとう1000かたてんしや}} [[Category:日本の電車]] [[category:東葉高速鉄道|車1000]] [[Category:東京地下鉄から譲渡された鉄道車両]] [[Category:インドネシアの電車]] [[Category:汽車製造製の電車]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:日本車輌製造製の電車]] [[Category:近畿車輛製の電車]] [[Category:川崎重工業製の電車]] [[Category:帝國車輛工業製の電車]]
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三岐鉄道三岐線
三岐線(さんぎせん)は、三重県四日市市の富田駅から三重県いなべ市の西藤原駅までを結ぶ三岐鉄道の鉄道路線である。このうち富田駅 - 三岐朝明信号場間は貨物列車専用であり、旅客列車は近鉄富田駅 - 三岐朝明信号場間の近鉄連絡線を通り、すべて近鉄富田駅発着となっている。 全線単線の電化路線である。旅客輸送を行っているほか、富田駅 - 東藤原駅間でセメントを中心とした貨物輸送を行っている。日本においてJR以外でセメント輸送を行う鉄道事業者は三岐鉄道のほかにもあったが、西武鉄道が1996年(平成8年)に、秩父鉄道と樽見鉄道が2006年(平成18年)にセメント輸送を廃止して以降は本路線のみとなっている。 旅客列車には、西武鉄道の中古車両が黄色とオレンジ色のカラーリングを施され使用されている。貨物輸送の割合が大きいが、通学・生活路線として、また鈴鹿山脈へのハイキングの足などとして旅客輸送の比率も高まっている。 当路線は鉄道敷設法別表75項「三重県四日市ヨリ岐阜県関ケ原ヲ経テ滋賀県木ノ本ニ至ル鉄道」の一部を形成し、「三岐鉄道」という社名も三重県四日市と岐阜県大垣市上石津を経て、関ヶ原とを結ぶことを目指したことによるものであった。 1928年藤原鉄道に対し四日市市 - 関ヶ原町間他の鉄道敷設免許状が下付され、三岐鉄道に名称を改め会社を設立。社長は三重県の実業家伊藤伝七が就任し、取締役には浅野セメント(浅野財閥)から専務取締役の浅野良三、金子喜代太が、浅野財閥系の鶴見臨港鉄道から取締役の山田胖が、小野田セメントから専務取締役の狩野宗三が名を連ねた(浅野セメント・小野田セメントとも現在の太平洋セメントの前身)。 1931年7月23日に富田 - 東藤原間が開業し、同年12月23日に東藤原 - 西藤原間が延伸開業したものの、1937年に西藤原 - 関ヶ原間の免許が失効し、富田 - 西藤原間が建設されただけにとどまった。 近鉄連絡線建設前は旅客列車も国鉄富田駅発着であったが、近鉄富田駅まで歩いて移動する乗客が多かった。近鉄連絡線建設には富田駅前の商店街が反対したが、完成後も国鉄富田駅への旅客列車を運行することで妥協した。しかし、近鉄富田駅利用客の多さは歴然で、1985年(昭和60年)に旅客列車は近鉄富田駅発着に統一された。 旅客列車は、1時間あたり朝が3 - 4本、それ以外の時間帯では2本程度(保々駅 - 西藤原駅間は時間帯によって1本)の運転である。近鉄富田駅 - 保々駅間の区間運転列車も設定されている。貨物列車が走る兼ね合いもあってパターンダイヤにはなっていない。2013年3月17日のダイヤ変更より若干減便され、昼間に近鉄富田駅 - 保々駅間の区間列車が復活した。以前は夕方に沿線の学生のために近鉄富田駅 - 保々駅間に臨時列車が1往復設定されており、この列車は土曜日・休日と春・夏・冬の学校長期休暇期間は運休となっていたが、現在は運転日を指定する列車は設定されていない。すべて各駅に停車する普通列車であるが、1989年(平成元年)まで急行が運転されていた実績もある。 旅客列車・貨物列車ともワンマン運転を行っている。ただし、早朝・夜間(近鉄富田駅・東藤原駅を除く全駅が無人になる時間帯)の列車には車掌が乗務している。西野尻駅以外は有人駅であるため車内に運賃箱は設置されていない。 貨物列車の行き違いのため、交換駅は180 - 250m程度の有効長をもつ。全交換駅で安全側線が整備され、列車の行き違い時には、上下列車が場内信号機により停車せず同時に駅構内に進入できる。終点以外の大半の駅(暁学園前駅・北勢中央公園口駅・大安駅・西野尻駅以外)で行き違いが可能である。保々駅・伊勢治田駅・東藤原駅には貨物列車の着発線があり、貨物列車1本を待避させた上で、旅客列車(または貨物列車)同士の行き違いも可能である。 自転車を電車内に持ち込めるサイクルパス制度があり、近鉄富田駅以外で利用できる。大矢知駅 - 三里駅間は土曜・休日の全列車と春・夏・冬の学校長期休暇期間の日中時間帯のみ利用でき、三里駅 - 西藤原駅間は毎日・全列車で利用できる。 三重県北勢地域を走る三岐線は、ほぼ平坦で、トンネルは存在しない。起点である富田駅周辺には商業施設が多いが、終点西藤原駅に向かうにつれて、住宅地、さらに進むと田畑および農村と沿線風景は変化する。 三岐線の旅客列車が全列車乗り入れる近鉄富田駅は、近鉄名古屋線との乗換駅であり、駅前には路線バスも発着することから、三岐線系統で最も乗降客数が多い駅である。近鉄富田駅を後にした列車は、しばらく近鉄名古屋線と並走し、住宅地の中を進む。関西本線をオーバークロスすると、三岐朝明信号場で、富田駅から来る三岐線と合流する。三岐線の起点駅は富田駅であるが、富田駅 - 三岐朝明信号場間の旅客営業は行われておらず、貨物営業のみとなっている。関西本線を再びオーバークロスすると、大矢知駅。久留倍官衙遺跡の最寄駅である。右手に朝明川と並走しつつ伊坂ダムの最寄駅である平津駅を過ぎると、水田が広がる。次の暁学園前駅はその名の通り、暁学園の最寄駅であるため通学客も多いほか、三岐鉄道が開発した住宅地「あかつき台」への最寄駅である。暁学園前駅の駅ビル「あかつきプラザビル」には三岐鉄道が経営する駄菓子屋も入居している。列車は、朝明川と並走し、住宅地「八千代台」、「あさけが丘」最寄駅の山城駅に到着する。山城駅には、近鉄四日市駅やイオンモール東員方面に向かう三岐鉄道バスが乗り入れている。山城駅を過ぎると水田が再び広がり、保々駅に到着する。保々駅には、保々車両区、CTCセンターがあり、三岐線の中枢となる駅であるため、保々止まりの列車も設定されている。ここまで並走してきた朝明川を渡り、路線は朝明川北岸に進む。北勢中央公園口駅は、北勢中央公園の最寄駅であるとともに、住宅地「高見台」が近い。次の梅戸井駅を過ぎると、図書館が併設された駅舎が特徴的な大安駅は宇賀渓の最寄駅である。両ヶ池公園の最寄駅である三里駅から終点西藤原駅までは、終日全列車に自転車を持ち込むことができる。次の丹生川駅には貨物鉄道博物館が併設されている。青川を渡ると側線のある伊勢治田駅に到着する。伊勢治田駅は青川渓の最寄駅である。次の東藤原駅に太平洋セメント藤原工場が隣接している。東藤原駅からはセメントが出荷されており、三岐線貨物輸送における一大拠点である。貨物輸送は富田駅から同駅までで、ここから先は旅客営業のみとなる。列車はセメント工場の中を通り抜け、セメント採掘現場により削られた山肌が特徴的な藤原岳を左手に見ながら走ると、三岐線唯一の無人駅西野尻駅に到着する。藤原町の集落の中に位置する、終点西藤原駅には機関車が展示されているほか、乗用鉄道模型のレイアウトがあり、乗車することができるイベントも開催されている。西藤原駅は聖宝寺、鈴鹿山脈藤原岳、御池岳登山口も近く、登山シーズンには多くの登山客で賑わう。 2019年10月1日現在。 三岐線および近鉄連絡線の輸送実績を下表に記す。2012年度以降、鉄道統計年報においては北勢線と合算されているため、輸送人員については三重県統計書の数値を用いる。輸送密度は貨物専用区間を含む全営業キロで除されている。 輸送人員は年度での値である。1965年以降における最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 出典:鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修) 2011年(平成23年度)までの、三岐線および近鉄連絡線の輸送実績を下表に記す(2012年度以降は北勢線と合算されており単独データが存在しない)。 最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 出典:鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修) 三岐線はJR富田駅 - 西藤原駅の三岐線および三岐朝明信号場 - 近鉄富田駅の近鉄連絡線(近鉄連絡線の起点は三岐朝明信号場である)から構成されるが、実際は近鉄富田駅 - 西藤原駅間で旅客営業を、JR富田駅 - 東藤原駅間で貨物営業を行なっている。便宜上、旅客営業を行なう近鉄富田駅 - 西藤原駅間と貨物営業のみを行なうJR富田駅 - 三岐朝明信号場間の2区間に分けて記載する。 全駅・信号場とも三重県に所在。括弧書き(背景色がグレー)の駅は廃止駅。廃止駅の廃止年は休止期間があった場合は休止年を記載している。乗車人員は2006年度(平成18年度)の値を記している。 この区間は貨物営業のみ。全駅・信号場とも四日市市に所在。 近鉄富田駅 - 三岐朝明信号場間は近鉄連絡線。同線含む近鉄富田駅 - 西藤原駅間が旅客営業区間。三岐朝明信号場 - 東藤原駅間が貨物営業区間。 ※近鉄富田駅、東藤原駅以外は早朝(始発から6:30)と夜間(21:00以降)は無人になる。西野尻駅は終日無人。 かつては複数の鉄道会社からの譲渡車のほか、自社発注車も存在したが、現在は西武鉄道からの譲渡車で統一されている。西武でも黄色を主体とした塗装を採用していたが、これは偶然の一致である。 (事業用車) 以前は窓周りが緑色、窓上と窓下が紺色という、京成電鉄の青電によく似た塗装だったが、この色が沿線の田園風景と区別がつきにくいという声があり、現在の黄色を主体に、裾のみ朱色という塗り分けになった。
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三岐線(さんぎせん)は、三重県四日市市の富田駅から三重県いなべ市の西藤原駅までを結ぶ三岐鉄道の鉄道路線である。このうち富田駅 - 三岐朝明信号場間は貨物列車専用であり、旅客列車は近鉄富田駅 - 三岐朝明信号場間の近鉄連絡線を通り、すべて近鉄富田駅発着となっている。
{{Infobox rail line | box_width = 300px | name = [[File:Sangi logomark.svg|20px]] 三岐線 | color = ffd400 | image = Sangi-Line Series801.jpg | image_width = 300px | image_alt = 三岐線の電車 | caption = 三岐線を走行する801系電車<br/>(2022年1月 [[丹生川駅]] - [[三里駅]]間) | system = | start = 起点:[[富田駅 (三重県)|富田駅]](三岐線)、[[三岐朝明信号場]](近鉄連絡線) | end = 終点:[[西藤原駅]](三岐線)、[[近鉄富田駅]](近鉄連絡線) | stations = 三岐線15駅、近鉄連絡線1駅 | routes = | open = {{Start date|1931|07|23|df=y}} | owner = [[三岐鉄道]] | stock = [[#車両|車両]]を参照 | linelength_km = 26.5 | linelength = (富田-西藤原間)<br />{{Convert|1.1|km|mi|abbr=on}}(三岐朝明信号場-近鉄富田間) | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}} | minradius_m = 200 | el = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | speed = 最高{{convert|70|kph|mph|lk=on|abbr=on}} | maxincline = 25 [[パーミル|‰]] (1 [[度 (角度)|°]] 25 [[分 (角度)|′]]) | map = [[ファイル:Sangi Railway Linemap.svg|250px]] | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header|停車場・施設・接続路線|#ffd400}} {{BS-table}} {{BS4||KRW+l|KRWgr||||↑↓[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[関西線 (名古屋地区)|関西線]]|}} {{BS4||DST|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|STR|{{BSkm|-|0.0*}}|[[富田駅 (三重県)|富田駅]]||}} {{BS6|||STR|STR|XBHF-L|O5=HUBrg|KXBHFa-R|O6=HUBeq|{{BSkm|0.0|-}}|[[近鉄富田駅]]||}} {{BS6||STRq|KRZu|KRZu|STRr|O5=HUB|STR|||←[[近畿日本鉄道]]:[[近鉄名古屋線|名古屋線]]↑|}} {{BS6|||eBHF|O3=HUBaq|STR|O4=HUBq|HUBr|kSTR3|{{BSkm|-|0.4*}}|''富田西口駅''|-1985|}} {{BS6|||ABZg+l|KRZu|kSTRr+1|kSTRc4|||↑↓三岐線/近鉄連絡線→||}} {{BS4|STRq|KRZo|STRr||||←JR東海:関西線↑|}} {{BS2|DST||{{BSkm|1.1|1.0*}}|[[三岐朝明信号場]]||}} {{BS2|BHF||2.6|[[大矢知駅]]||}} {{BS2|BHF||4.2|[[平津駅]]||}} {{BS2|BHF||5.4|[[暁学園前駅]]||}} {{BS2|BHF||7.1|[[山城駅]]||}} {{BS2|BHF||9.6|[[保々駅]]||}} {{BS2|BHF||11.3|[[北勢中央公園口駅]]|1997-|}} {{BS2|eBHF||11.4|''[[北勢中央公園口駅|大長駅]]''|-1997|}} {{BS2|BHF||13.2|[[梅戸井駅]]||}} {{BS2|eBHF||15.3|''[[大安駅 (三重県)|大井田駅]]''|-1986|}} {{BS2|BHF||15.4|[[大安駅 (三重県)|大安駅]]|1986-|}} {{BS2|BHF||17.2|[[三里駅]]||}} {{BS2|BHF||19.7|[[丹生川駅]]||}} {{BS2|BHF||20.9|[[伊勢治田駅]]||}} {{BS2|BHF||23.2|[[東藤原駅]]||}} {{BS4|KBSTaq|ABZglr|KBSTeq||||←[[太平洋セメント]]専用線→||}} {{BS2|BHF||25.4|[[西野尻駅]]||}} {{BS2|KBHFe||26.6|[[西藤原駅]]||}} {{BS-colspan}} ---- 大矢知 - 西藤原の各駅のキロ程は近鉄富田から |} |} '''三岐線'''(さんぎせん)は、[[三重県]][[四日市市]]の[[富田駅 (三重県)|富田駅]]から三重県[[いなべ市]]の[[西藤原駅]]までを結ぶ[[三岐鉄道]]の[[鉄道路線]]である。このうち富田駅 - 三岐朝明信号場間は貨物列車専用であり、[[旅客列車]]は[[近鉄富田駅]] - 三岐朝明信号場間の'''近鉄連絡線'''を通り、すべて近鉄富田駅発着となっている。 <!-- 信号場の名称は[[ノート:北大社信号場]]での議論に倣い「信号場」としました--> == 概要 == 全線単線の[[鉄道の電化|電化]]路線である。旅客輸送を行っているほか、富田駅 - [[東藤原駅]]間で[[セメント]]を中心とした貨物輸送を行っている。日本においてJR以外でセメント輸送を行う鉄道事業者は三岐鉄道のほかにもあったが、[[西武鉄道]]が[[1996年]](平成8年)に、[[秩父鉄道]]と[[樽見鉄道]]が[[2006年]](平成18年)にセメント輸送を廃止して以降は本路線のみとなっている。 旅客列車には、西武鉄道の中古車両が黄色とオレンジ色のカラーリングを施され使用されている。貨物輸送の割合が大きいが、通学・生活路線として、また[[鈴鹿山脈]]へのハイキングの足などとして旅客輸送の比率も高まっている。 [[ファイル:Sangi line 01.jpg|thumb|none|240px|藤原岳へ向かう列車]] === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]): ** 三岐線:富田 - 西藤原間 26.5km(富田 - 三岐朝明間1.0kmは貨物営業のみ)<ref name="sone26 3">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 3頁]]</ref> ** 近鉄連絡線:三岐朝明信号場 - 近鉄富田間 1.1km<ref name="sone26 3"/> * [[軌間]]:1067mm<ref name="sone26 3"/> * 駅数:三岐線15駅、近鉄連絡線1駅(いずれも起終点駅含む)<ref name="sone26 3"/> * 複線区間:なし(全線単線)<ref name = "現有私鉄概説_33" /> * 電化区間:全線(直流1500V)<ref name = "現有私鉄概説_33" /> * 最急勾配:25[[パーミル]](伊勢治田 - 東藤原間、東藤原 - 西野尻間)<ref name = "現有私鉄概説_33">[[#現有私鉄概説|「現有私鉄概説 三岐鉄道」p.33]]</ref> * 最小曲線半径:200メートル<ref name = "現有私鉄概説_33" />。 * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式<ref name = "現有私鉄概説_33" /> * 最高速度:70km/h<ref name="sone26 25"/> * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:なし == 歴史 == 当路線は[[鉄道敷設法]]別表75項「三重県四日市ヨリ岐阜県関ケ原ヲ経テ滋賀県木ノ本ニ至ル鉄道」の一部を形成し、「三岐鉄道」という社名も三重県四日市と岐阜県[[大垣市]][[上石津町|上石津]]を経て、[[関ケ原町|関ヶ原]]とを結ぶことを目指したことによるものであった。 1928年藤原鉄道に対し四日市市 - 関ヶ原町間他の鉄道敷設免許状が下付され、三岐鉄道に名称を改め会社を設立<ref>[{{NDLDC|1077362/561}} 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。社長は三重県の実業家[[伊藤伝七 (11代目)|伊藤伝七]]<ref>[{{NDLDC|2127124/170}} 『人事興信録. 第8版(昭和3年)』]国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が就任し、取締役には[[浅野セメント]]([[浅野財閥]])<ref>[{{NDLDC|1077362/192}} 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>から専務取締役の[[浅野良三]]、[[金子喜代太]]が、浅野財閥系の[[鶴見臨港鉄道]]<ref>[{{NDLDC|1077362/160}} 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>から取締役の山田胖が、[[小野田セメント]]<ref>[{{NDLDC|1077362/767}} 『日本全国諸会社役員録. 第37回(昭和4年)](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>から専務取締役の狩野宗三が名を連ねた(浅野セメント・小野田セメントとも現在の[[太平洋セメント]]の前身)。 1931年7月23日に富田 - 東藤原間が開業し、同年12月23日に東藤原 - 西藤原間が延伸開業したものの、1937年に西藤原 - 関ヶ原間の免許が失効し、富田 - 西藤原間が建設されただけにとどまった<ref name="sone26 24">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 24頁]]</ref>。 近鉄連絡線建設前は旅客列車も国鉄富田駅発着であったが、近鉄富田駅まで歩いて移動する乗客が多かった<ref name="sone26 18-19">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 18-19頁]]</ref>。近鉄連絡線建設には富田駅前の商店街が反対したが、完成後も国鉄富田駅への旅客列車を運行することで妥協した<ref name="sone26 25">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 25頁]]</ref>。しかし、近鉄富田駅利用客の多さは歴然で、[[1985年]](昭和60年)に旅客列車は近鉄富田駅発着に統一された<ref name="sone26 18-19"/>。 === 年表 === * [[1883年]]([[明治]]16年) [[稲葉三右衛門]]が、四日市<!-- 1883年当時は国鉄どころか前身の関西鉄道すら未開業なので駅はまだない。--> - 関ヶ原間を結ぶ[[勢江鉄道構想|勢江鉄道建設申請書]]を提出するも認可されず。 * [[1927年]]([[昭和]]2年) ** 3月 [[浅野セメント]]が藤原鉄道、[[小野田セメント]]が員弁鉄道として鉄道敷設免許を申請<ref name="sone26 24"/>。 ** 11月 藤原鉄道として計画を一本化して鉄道敷設免許申請。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[6月9日]] 藤原鉄道に対し鉄道免許状下付([[四日市市]] - [[不破郡]][[関ケ原町]]間、四日市市 - [[三重郡]][[塩浜村]]間、[[員弁郡]][[大長村 (三重県)|大長村]] - 三重郡[[富田 (四日市市)|富田町]]間、三重郡[[三重村 (三重県)|三重村]] - 同郡[[川島村 (三重県)|川島村]]間)<ref>[{{NDLDC|2956897/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年6月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[9月20日]] 三岐鉄道株式会社設立<ref name="kid10">[{{NDLDC|1190630/63}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>11月1日名称変更届出[{{NDLDC|1022010/9}} 『鉄道統計資料. 昭和3年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1931年]](昭和6年) ** [[7月23日]] 富田 - 東藤原間が開業<ref>[{{NDLDC|2957843/15}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年7月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[12月23日]] 東藤原 - 西藤原間が延伸開業<ref>[{{NDLDC|2957981/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年1月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *1932年(昭和7年)12月 小野田セメント藤原工場操業開始。翌年1月よりセメント出荷<ref>『近代日本と地域交通』、343頁</ref> *1935年(昭和10年) **6月26日 鉄道免許取消(四日市起点1.1km-保々間及び連絡線 指定ノ期限マテニ竣工セサルタメ)<ref>[{{NDLDC|2959024/8}} 「鉄道免許取消」『官報』1935年6月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 **12月13日 起業廃止(許可)(四日市 - 四日市起点1.1km間、三重郡[[常磐村 (三重県)|常磐村]] - 同郡川島村間)<ref>[{{NDLDC|2959166/12}} 「鉄道起業廃止」『官報』1935年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *1937年(昭和12年)12月2日 鉄道免許失効(員弁郡[[西藤原村]] - 不破郡関ケ原町間 指定ノ期限マテニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)<ref>[{{NDLDC|2959762/23}} 「鉄道免許失効」『官報』1937年12月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1950年]](昭和25年)[[10月30日]] 富田 - 大矢知間に三岐朝明駅開業<ref name="sone26 25"/>。 * [[1952年]](昭和27年)[[12月1日]] 富田駅から[[日本国有鉄道|国鉄]][[四日市駅]]まで旅客列車直通運転開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[1954年]](昭和29年)[[3月29日]] 全線電化され、貨物列車で電気機関車を使用開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[1956年]](昭和31年)[[12月25日]] 電車運転開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]] 富田駅から国鉄四日市駅までの旅客列車直通運転廃止<ref name="sone26 25"/>。 * [[1965年]](昭和40年) **[[7月1日]] 三岐朝明 - 富田間に富田西口駅開業<ref name=IMAO-31>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介 |title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5 |page=31}}</ref>。 **[[8月21日]] 萱生駅を暁学園前駅に改称<ref name="sone26 25"/>。 * [[1968年]](昭和43年)[[6月1日]] 三里駅を宇賀渓口駅に改称<ref name="sone26 25"/>。 * [[1970年]](昭和45年)[[6月25日]] 近鉄富田 - 三岐朝明間の近鉄連絡線が開業<ref name="sone26 25"/>。 * [[1974年]](昭和49年)[[4月1日]] 富田・近鉄富田 - 東藤原間が[[列車集中制御装置|CTC]]化<ref name="sone26 25"/>。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]] 富田 - 三岐朝明間の旅客営業を休止<ref name="sone26 25"/>、富田西口駅廃止<ref name=IMAO-31 />。 ** [[5月16日]] 貨物列車のワンマン運転開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[1986年]](昭和61年)[[3月25日]] 大井田駅を移設し大安駅に改称<ref name="sone26 25"/>。宇賀渓口駅を三里駅に改称<ref name="sone26 25"/>。 * [[1988年]](昭和63年)[[1月7日]] 旅客列車のワンマン運転開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** 4月1日 旅客車両の冷房化開始<ref name="sone26 25"/>。三岐朝明駅を廃止、三岐朝明信号場に変更<ref name="sone26 25"/>。また、朝にのみ運転されていた急行も廃止。 * [[1990年]](平成2年)[[11月2日]] [[炭酸カルシウム]]・[[フライアッシュ]](石炭灰)の貨物輸送を開始。 * [[1994年]](平成6年)[[12月3日]] 最高速度が60km/hから70km/hに引き上げられる<ref>{{Cite news |title=三岐鉄道が速度アップ ダイヤ改正 40年来の悲願達成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-12-05 |page=1 }}</ref>。。 * [[1997年]](平成9年)4月1日 大長駅を移設し北勢中央公園口駅に改称<ref name="sone26 25"/>。電車内に[[自転車]]を無料で持ち込めるサービスを開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[7月24日]] [[中部国際空港]]向けの埋立土砂輸送を開始<ref name="sone26 25"/>。 * [[2002年]](平成14年)[[12月21日]] 中部国際空港向けの埋立土砂輸送を終了<ref>{{Cite journal|和書|title=鉄道記録帳2002年12月|date=2003-03-01|journal=RAIL FAN|issue=2|volume=50|publisher=鉄道友の会|page=25}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年) 完全冷房化<ref name="sone26 32"/>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[9月4日]] [[平成23年台風第12号|台風12号]]に伴う大雨で保々 - 北勢中央公園口間の[[朝明川]]橋梁が損傷し全線で不通に。 ** [[9月6日]] 近鉄富田 - 山城間と三里 - 西藤原駅間で運転再開。 ** [[9月7日]] 山城 - 保々間で運転再開。 ** [[9月8日]] 梅戸井 - 三里間で運転再開。 ** [[11月10日]] 保々 - 梅戸井間で運転再開し全線復旧。 * [[2012年]](平成24年) ** [[2月8日]] 東藤原駅構内で電気機関車が脱線し、伊勢治田 - 西藤原間が不通に。10日運転再開。 ** [[2月29日]] 骨材輸送が廃止され、東藤原 - 富田 - 四日市間で骨材輸送最終記念列車を運転。 ** [[6月27日]] 東藤原駅構内で電気機関車が脱線し、伊勢治田 - 西藤原間が不通に。30日伊勢治田 - 東藤原間が運転再開。 ** [[11月8日]] 三里駅構内で、富田発東藤原行きの普通列車(3両編成)が[[安全側線]]に進入し車止めを乗り越えて先頭車両が脱線。梅戸井 - 西藤原間が不通に<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/national/update/1108/NGY201211080024.html|title=赤信号見落とし?列車脱線 三重の三岐鉄道、けが人なし|work=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞|date=2012-11-08|accessdate=2012-11-09}}</ref>。11日梅戸井 - 東藤原間が運転再開(東藤原 - 西藤原間は引き続きバス代行)。 * [[2013年]](平成25年)[[1月12日]] 東藤原 - 西藤原間が運転再開<ref>{{Cite press release|和書|title=平成25年1月12日(予定)三岐線全線開通のお知らせ|publisher=三岐鉄道|date=2012-12-20|url=http://www.sangirail.co.jp/contents/annai/sangisen/24.12.20.html|accessdate=2012-12-25}}</ref>。 == 運行形態 == 旅客列車は、1時間あたり朝が3 - 4本、それ以外の時間帯では2本程度(保々駅 - 西藤原駅間は時間帯によって1本)の運転である。近鉄富田駅 - 保々駅間の区間運転列車も設定されている。貨物列車が走る兼ね合いもあって[[パターンダイヤ]]にはなっていない。2013年3月17日のダイヤ変更より若干減便され、昼間に近鉄富田駅 - 保々駅間の区間列車が復活した。以前は夕方に沿線の学生のために近鉄富田駅 - 保々駅間に臨時列車が1往復設定されており、この列車は土曜日・休日と春・夏・冬の学校長期休暇期間は運休となっていたが、現在は運転日を指定する列車は設定されていない。すべて各駅に停車する普通列車であるが、[[1989年]]([[平成]]元年)まで急行が運転されていた実績もある。 旅客列車・貨物列車とも[[ワンマン運転]]を行っている。ただし、早朝・夜間(近鉄富田駅・東藤原駅を除く全駅が無人になる時間帯)の列車には車掌が乗務している。西野尻駅以外は有人駅であるため車内に運賃箱は設置されていない。 貨物列車の行き違いのため、[[列車交換|交換駅]]は180 - 250m程度の[[有効長]]をもつ。全交換駅で[[安全側線]]が整備され、列車の行き違い時には、上下列車が場内信号機により停車せず同時に駅構内に進入できる。終点以外の大半の駅(暁学園前駅・北勢中央公園口駅・大安駅・西野尻駅以外)で行き違いが可能である。保々駅・伊勢治田駅・東藤原駅には貨物列車の着発線があり、貨物列車1本を待避させた上で、旅客列車(または貨物列車)同士の行き違いも可能である。 自転車を電車内に持ち込める[[サイクルトレイン|サイクルパス]]制度があり、近鉄富田駅以外で利用できる。大矢知駅 - 三里駅間は土曜・休日の全列車と春・夏・冬の学校長期休暇期間の日中時間帯のみ利用でき、三里駅 - 西藤原駅間は毎日・全列車で利用できる<ref>[https://www.sangirail.co.jp/contents/annai/sangisen/cyclepass/cyclepass.html 三岐線のサイクルパス] - 三岐鉄道、2021年8月16日閲覧</ref>。 == 沿線概況 == 三重県北勢地域を走る三岐線は、ほぼ平坦で、トンネルは存在しない。起点である富田駅周辺には商業施設が多いが、終点西藤原駅に向かうにつれて、住宅地、さらに進むと田畑および農村と沿線風景は変化する。 三岐線の旅客列車が全列車乗り入れる[[近鉄富田駅]]は、[[近鉄名古屋線]]との乗換駅であり、駅前には路線バスも発着することから、三岐線系統で最も乗降客数が多い駅である。近鉄富田駅を後にした列車は、しばらく近鉄名古屋線と並走し、住宅地の中を進む。[[関西本線]]をオーバークロスすると、[[三岐朝明信号場]]で、[[富田駅 (三重県)|富田駅]]から来る三岐線と合流する。三岐線の起点駅は富田駅であるが、富田駅 - 三岐朝明信号場間の旅客営業は行われておらず、貨物営業のみとなっている。関西本線を再びオーバークロスすると、[[大矢知駅]]。[[久留倍官衙遺跡]]の最寄駅である。右手に[[朝明川]]と並走しつつ[[伊坂ダム]]の最寄駅である[[平津駅]]を過ぎると、水田が広がる。次の[[暁学園前駅]]はその名の通り、[[学校法人暁学園 (三重県)|暁学園]]の最寄駅であるため通学客も多いほか、三岐鉄道が開発した住宅地「あかつき台」への最寄駅である。暁学園前駅の駅ビル「あかつきプラザビル」には三岐鉄道が経営する[[駄菓子屋]]も入居している。列車は、朝明川と並走し、住宅地「八千代台」、「あさけが丘」最寄駅の[[山城駅]]に到着する。山城駅には、[[近鉄四日市駅]]や[[イオンモール東員]]方面に向かう三岐鉄道バスが乗り入れている。山城駅を過ぎると水田が再び広がり、[[保々駅]]に到着する。保々駅には、保々車両区、[[列車集中制御装置|CTC]]センターがあり、三岐線の中枢となる駅であるため、保々止まりの列車も設定されている。ここまで並走してきた朝明川を渡り、路線は朝明川北岸に進む。[[北勢中央公園口駅]]は、北勢中央公園の最寄駅であるとともに、住宅地「高見台」が近い。次の[[梅戸井駅]]を過ぎると、[[図書館]]が併設された駅舎が特徴的な[[大安駅 (三重県)|大安駅]]は[[宇賀渓]]の最寄駅である。両ヶ池公園の最寄駅である[[三里駅]]から終点西藤原駅までは、終日全列車に自転車を持ち込むことができる。次の[[丹生川駅]]には[[貨物鉄道博物館]]が併設されている。青川を渡ると側線のある[[伊勢治田駅]]に到着する。伊勢治田駅は青川渓の最寄駅である。次の[[東藤原駅]]に[[太平洋セメント]]藤原工場が隣接している。東藤原駅からは[[セメント]]が出荷されており、三岐線貨物輸送における一大拠点である。貨物輸送は富田駅から同駅までで、ここから先は旅客営業のみとなる。列車はセメント工場の中を通り抜け、セメント採掘現場により削られた山肌が特徴的な[[藤原岳]]を左手に見ながら走ると、三岐線唯一の無人駅[[西野尻駅]]に到着する。藤原町の集落の中に位置する、終点[[西藤原駅]]には機関車が展示されているほか、乗用鉄道模型のレイアウトがあり、乗車することができるイベントも開催されている。西藤原駅は聖宝寺、[[鈴鹿山脈]]藤原岳、[[御池岳]]登山口も近く、登山シーズンには多くの登山客で賑わう。 == 運賃・切符 == {{Main2|運賃額|三岐鉄道#運賃}} === 普通乗車券・回数券・定期券 === * 三岐線内有人駅では[[硬券]]による[[入場券]]・[[乗車券]]を発売している。 * [[回数乗車券|回数券]]は、普通回数券(10枚分の価格で11枚発券)と、5枚分の価格で6枚発券される昼間割引回数券(平日10 - 16時と、土休日の終日使用可)がある。 * 通勤[[定期乗車券|定期]]は1・3・6か月定期の3種類がある。通学定期については、1・3・6か月定期と、学期定期として1・2・3学期定期および前・後学期定期(原則として当該学期の始業式から終業式当日まで有効)が設定されている。 * [[近鉄名古屋線]]、[[近鉄湯の山線|湯の山線]]および[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]との間に[[定期乗車券|連絡定期券]](学期定期は設定されていない)が発売されている<ref>[https://www.sangirail.co.jp/contents/ad/question.html 三岐電車・よくあるご質問] - 三岐鉄道</ref>。 * それ以外の路線(近鉄名古屋線を介しての[[三岐鉄道北勢線]]、JR線、[[養老鉄道養老線|養老鉄道線]])との連絡定期券・連絡切符は設定されていない。 === 企画乗車券 === 2019年10月1日現在<ref>[https://www.sangirail.co.jp/contents/ad/static/joshaken1.htm 三岐鉄道 乗車券のご案内] - 三岐鉄道、2019年10月5日閲覧</ref>。 ; 1日乗り放題パス : 三岐線内1日乗り降り自由の「1日乗り放題パス」に代わり、2009年10月1日より北勢線でも使用が可能な『三岐鉄道1日乗り放題パス』(大人1200円、小人600円)が三岐鉄道全線の有人駅で発売されている。 == 利用状況 == === 輸送実績 === 三岐線および近鉄連絡線の輸送実績を下表に記す。2012年度以降、鉄道統計年報においては北勢線と合算されているため、輸送人員については三重県統計書の数値を用いる。輸送密度は貨物専用区間を含む全営業キロで除されている。 輸送人員は年度での値である。1965年以降における最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center; font-size:90%;" |- ! colspan="8"|年度別輸送実績表 |- ! rowspan="2"|年 度 ! colspan="4"|輸送人員(乗車人員)<br />[万人/年度] ! rowspan="2"|輸送密度<br />[人/日] ! rowspan="2"|貨物輸送量<br />[万t/年度] ! rowspan="2"|関連特記事項 |- |通勤定期 |通学定期 |定期外 !合 計 |- ! style="font-weight: normal;"|1965(昭和40) |301.5 |←← |88.8 |'''390.3''' |&nbsp; |''92.6'' | style="text-align:left;"|萱生駅を暁学園前駅に改称 暁学園新設開校 |- ! style="font-weight: normal;"|1966(昭和41) |325.9 |←← |84.2 |'''410.1''' |&nbsp; | style="background-color: #ccffcc;"|''84.9'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1967(昭和42) |321.4 |←← | style="background-color: #ccffcc;"|80.2 |'''401.6''' |&nbsp; |''107.4'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1968(昭和43) |308.7 |←← |85.4 |'''394.1''' |&nbsp; |''105.8'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1969(昭和44) |307.9 |←← |81.6 |'''389.6''' |&nbsp; |''93.2'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1970(昭和45) |305.3 |←← |84.1 | style="background-color: #ccffcc;"|'''389.4''' |&nbsp; |''148.4'' | style="text-align:left;"|近鉄連絡線開通 近鉄富田駅に乗り入れ開始 |- ! style="font-weight: normal;"|1971(昭和46) |320.1 |←← |90.9 |'''411.1''' |&nbsp; |''166.7'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1972(昭和47) |321.9 |←← |91.4 |'''413.3''' |&nbsp; |''179.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1973(昭和48) |340.0 |←← |92.4 | style="background-color: #ffcccc;"|'''432.4''' |&nbsp; |''182.2'' | style="text-align:left;"|旅客輸送量最大を記録 |- ! style="font-weight: normal;"|1974(昭和49) |333.2 |←← |95.8 |'''429.0''' |&nbsp; |''140.3'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1975(昭和50) | style="background-color: #ffcccc;"|140.5 |191.1 |94.7 |'''426.3''' |3,396 |''120.5'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976(昭和51) |131.3 |182.7 |97.6 |'''411.6''' |3,252 |''127.5'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977(昭和52) |131.7 |181.4 | style="background-color: #ffcccc;"|102.3 |'''415.5''' |3,297 |''149.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978(昭和53) |126.2 | style="background-color: #ccffcc;"|172.0 |96.7 |'''395.1''' | style="background-color: #ccffcc;"|3,210 |''179.4'' | style="text-align:left;"|保々駅近隣に朝明高校新設開校 |- ! style="font-weight: normal;"|1979(昭和54) |127.9 |177.0 |99.1 |'''404.0''' |3,344 |''198.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980(昭和55) |128.1 |184.6 |101.2 |'''414.0''' | style="background-color: #ffcccc;"|3,424 |''196.1'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981(昭和56) |123.7 | style="background-color: #ffcccc;"|198.3 |99.3 |'''421.3''' |3,415 |''155.8'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982(昭和57) |125.9 |185.4 |99.0 |'''410.3''' |3,353 |''144.4'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983(昭和58) |123.5 |176.2 |96.8 |'''396.5''' |3,225 |''141.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984(昭和59) |116.1 |167.2 |91.1 |'''374.4''' |3,077 |''138.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985(昭和60) |114.8 |165.0 |91.7 |'''371.5''' |3,077 |''129.7'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986(昭和61) |114.4 |162.7 |96.1 |'''373.2''' |3,087 |''105.0'' | style="text-align:left;"|大安駅開業 |- ! style="font-weight: normal;"|1987(昭和62) |109.6 |168.4 |91.8 |'''369.8''' |3,026 |''131.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988(昭和63) |105.0 |179.5 |93.1 |'''377.6''' |3,061 |''135.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989(平成元) |97.8 |185.2 |91.3 |'''374.3''' |3,078 |''125.0'' | style="text-align:left;"|旅客車両の冷房化開始 |- ! style="font-weight: normal;"|1990(平成2) |99.3 |197.8 |95.7 |'''392.9''' |3,215 |''124.5'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991(平成3) |100.5 |196.7 |97.1 |'''394.3''' |3,246 |''118.2'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992(平成4) |105.0 |193.5 |98.7 |'''397.2''' |3,285 |''141.5'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993(平成5) |102.0 |192.9 |96.8 |'''391.7''' |3,232 |''148.4'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994(平成6) |95.4 |189.2 |91.2 |'''375.8''' |3,119 |''151.4'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995(平成7) |92.2 |176.2 |93.5 |'''361.9''' |3,017 |''147.8'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996(平成8) |91.4 |172.6 |92.6 |'''356.6''' |3,010 |''134.4'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997(平成9) |89.9 | style="background-color: #ccffff;"|157.5 |81.6 |'''329.0''' |2,807 |''125.0'' | style="text-align:left;"|北勢中央公園口駅開業 |- ! style="font-weight: normal;"|1998(平成10) |90.1 |161.5 |77.6 |'''329.2''' |2,809 |''130.2'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999(平成11) |86.3 |159.1 |73.5 |'''318.9''' |2,714 |''102.5'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000(平成12) |81.1 |164.8 | style="background-color: #ccffff;"|72.5 |'''318.4''' | style="background-color: #ccffff;"|2,687 |''224.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001(平成13) |77.4 |170.0 |72.9 |'''320.3''' |2,733 | style="background-color: #ffcccc;"|''282.4'' | style="text-align:left;"|貨物輸送量最大を記録 |- ! style="font-weight: normal;"|2002(平成14) |72.7 |167.5 |73.0 | style="background-color: #ccffff;"|'''313.2''' |2,708 |''232.2'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003(平成15) | style="background-color: #ccffff;"|71.1 |170.6 |74.7 |'''316.4''' |2,799 |''122.4'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004(平成16) |72.0 |172.0 |76.5 |'''320.5''' |2,868 | style="background-color: #ccffff;"|''103.7'' | style="text-align:left;"|保々駅 - 西藤原駅間の列車を大増発 |- ! style="font-weight: normal;"|2005(平成17) |72.6 |175.5 |78.2 |'''326.3''' |2,920 |''105.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006(平成18) |75.6 |169.0 |79.5 |'''324.1''' |2,905 |''109.5'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007(平成19) |79.2 |169.6 |82.4 |'''331.2''' |2,954 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008(平成20) |82.4 |169.8 |83.5 |'''335.7''' |2,981 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009(平成21) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |331.2 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2010(平成22) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |335.8 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011(平成23) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |321.1 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012(平成24) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |322.9 |&nbsp; |99.0 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013(平成25) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |328.7 |&nbsp; |106.0 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2014(平成26) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |320.0 |&nbsp; |105.8 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2015(平成27) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |324.6 |&nbsp; |103.5 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2016(平成28) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |316.3 |&nbsp; |108.8 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2017(平成29) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |315.3 |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} 出典:鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修) === 営業成績 === [[2011年]]([[平成]]23年度)までの、三岐線および近鉄連絡線の輸送実績を下表に記す(2012年度以降は北勢線と合算されており単独データが存在しない)。 最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:right; font-size:90%;" |- ! colspan="13"|年度別営業成績表 |- ! rowspan="2"|年度 ! colspan="5"|旅客運賃収入 [千円/年度] ! rowspan="2"|貨物運輸収入<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|運輸雑収<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業収益<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業経費<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業損益<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業<br />係数 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定期外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|合計 |- ! style="font-weight: normal;"|1975(昭和50) |210,013 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|121,576 | style="background-color: #ccffcc;"|''2,254'' |'''333,843''' | style="background-color: #ccffcc;"|''477,188'' |39,919 | style="background-color: #ccffcc;"|'''850,950''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976(昭和51) |197,929 |←←←← |127,793 |''2,684'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''328,406''' |''691,921'' | style="background-color: #ccffcc;"|14,142 |'''1,034,469''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977(昭和52) |212,868 |←←←← |135,439 | style="background-color: #ffcccc;"|''2,800'' |'''351,107''' |''853,945'' |54,992 |'''1,260,046''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978(昭和53) |233,531 |←←←← |144,757 |''2,698'' |'''380,987''' |''961,290'' |69,236 |'''1,411,513''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979(昭和54) |245,655 |←←←← |149,884 |''2,231'' |'''397,770''' |''1,044,492'' |51,525 |'''1,493,788''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980(昭和55) |250,868 |←←←← |153,078 |''2,021'' |'''405,967''' |''1,134,028'' |73,911 |'''1,613,908''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981(昭和56) |258,610 |←←←← |153,397 |''1,714'' |'''413,721''' |''1,173,773'' |75,738 |'''1,663,233''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982(昭和57) |273,174 |←←←← |162,948 |''1,055'' |'''437,177''' | style="background-color: #ffcccc;"|''1,292,004'' |71,596 | style="background-color: #ffcccc;"|'''1,800,777''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983(昭和58) |267,636 |←←←← |168,324 |''710'' |'''436,670''' |''1,283,269'' |72,929 |'''1,792,868''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984(昭和59) |274,628 |←←←← |165,919 |''632'' |'''441,178''' |''1,270,809'' |73,232 |'''1,785,220''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985(昭和60) |272,978 |←←←← |169,418 |''659'' |'''443,055''' |''1,200,343'' |84,672 |'''1,728,070''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986(昭和61) |290,680 |←←←← |189,864 |''688'' |'''481,232''' |''948,346'' |82,085 |'''1,511,663''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987(昭和62) | style="background-color: #ffcccc;"|142,874 | style="background-color: #ccffcc;"|142,967 |184,782 |''786'' |'''471,409''' |''856,364'' |85,666 |'''1,413,439''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988(昭和63) |136,186 |153,167 |184,367 |''876'' |'''474,596''' |''866,606'' |124,419 |'''1,465,621''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989(平成元) |125,337 |160,157 |181,344 |''346'' |'''467,184''' |''807,781'' |131,015 |'''1,405,980''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990(平成2) |131,459 |177,252 |203,951 |''166'' |'''512,662''' |''808,270'' |145,230 |'''1,466,328''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991(平成3) |134,188 | style="background-color: #ffcccc;"|180,116 |214,135 |''36'' |'''528,475''' |''788,696'' |132,110 |'''1,449,281''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992(平成4) |137,057 |178,541 |217,819 |''36'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''533,453''' |''899,461'' |150,707 |'''1,583,621''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993(平成5) |135,482 |178,790 |209,762 |''36'' |'''524,070''' |''928,555'' |181,210 |'''1,633,835''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994(平成6) |128,323 |176,103 |198,680 |''36'' |'''503,142''' |''937,939'' |181,238 |'''1,622,319''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995(平成7) |125,052 |165,218 |204,328 |''36'' |'''494,634''' |''907,794'' | style="background-color: #ffcccc;"|186,114 |'''1,588,542''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996(平成8) |123,077 |164,847 |204,683 |''36'' |'''492,643''' |''834,905'' |176,047 |'''1,503,595''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997(平成9) |125,830 | style="background-color: #ccffff;"|155,161 |204,732 |''36'' |'''485,759''' |''786,217'' |173,668 |'''1,445,644''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998(平成10) |126,299 |159,903 |195,898 |''36'' |'''482,136''' |''768,855'' |171,440 |'''1,422,431''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999(平成11) |121,334 |157,048 |184,951 |''36'' |'''463,369''' |''652,754'' |159,605 |'''1,275,728''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000(平成12) |114,508 |160,191 |184,321 |''36'' | style="background-color: #ccffff;"|'''459,056''' |''814,459'' | style="background-color: #ccffff;"|151,952 |'''1,425,467''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001(平成13) |110,673 |166,404 |188,159 | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |'''465,236''' |''976,319'' |153,747 |'''1,595,302''' |'''1,579,547''' |'''15,755''' |99.0 |- ! style="font-weight: normal;"|2002(平成14) |104,686 |165,567 |191,043 |''0'' |'''461,296''' |''847,938'' |159,578 |'''1,468,812''' |'''1,461,553''' |'''7,259''' |99.5 |- ! style="font-weight: normal;"|2003(平成15) | style="background-color: #ccffff;"|103,873 |171,692 |195,900 |''0'' |'''471,465''' |''588,599'' |161,068 |'''1,221,132''' |'''1,203,424''' |'''17,708''' |98.5 |- ! style="font-weight: normal;"|2004(平成16) |105,002 |175,191 |201,270 |''0'' |'''481,463''' |''480,090'' |154,052 |'''1,115,605''' |'''1,102,819''' |'''12,786''' |98.9 |- ! style="font-weight: normal;"|2005(平成17) |106,895 |178,384 |205,942 |''0'' |'''491,221''' |''517,542'' |150,899 |'''1,159,662''' |'''1,066,783''' |'''92,879''' |92.0 |- ! style="font-weight: normal;"|2006(平成18) |113,221 |171,456 |208,891 |''0'' |'''493,568''' | style="background-color: #ccffff;"|''414,404'' |155,685 | style="background-color: #ccffff;"|'''1,063,657''' |'''1,094,406''' |'''△ 30,749''' |102.9 |- ! style="font-weight: normal;"|2007(平成19) |118,699 |169,935 |218,863 |''0'' |'''507,497''' |''469,372'' |148,504 |'''1,125,373''' |'''1,096,477''' |'''28,896''' |97.4 |- ! style="font-weight: normal;"|2008(平成20) |122,934 |168,251 | style="background-color: #ffcccc;"|222,571 |''0'' |'''513,756''' |''465,937'' |140,306 |'''1,119,999''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} 出典:鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修) === 戦前の輸送収支実績 === {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center; font-size:90%;" |- ! colspan="11"|戦前の輸送収支実績 |- !年度 !輸送人員<br />(人) !貨物量<br />(トン) !営業収入<br />(円) !営業費<br />(円) !営業益金<br />(円) !その他損金(円) !支払利子(円) !政府補助金<br />(円) |- |1931||225,086||15,169||45,689||52,468||▲ 6,779||雑損82||20,895|| |- |1932||351,395||61,849||102,062||90,012||12,050||雑損償却金5,332||21,245||18,265 |- |1933||381,907||172,462||182,651||110,333||72,318||自動車業1,272雑損40,369||18,532||38,033 |- |1934||387,890||131,001||153,166||116,198||36,968||自動車業16,187償却金55,760||14,520||58,419 |- |1935||417,024||210,153||211,955||120,955||91,000||自動車業1,079償却金92,440||9,517||53,466 |- |1936||433,534||223,320||229,845||134,604||95,241||自動車業1,329償却金55,000||4,735||43,974 |- |1937||459,799||226,630||234,265||144,490||89,775||自動車業2,302償却金55,413<br />雑損53||4,102||45,316 |- ||1939||563,905||246,481||||||||||||| |- ||1941||696,068||348,930||||||||||||| |- ||1943||1,067,698||318,991||||||||||||| |- |1945||1,938,765||156,445|||||||||||| |- |} *鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版 == 営業区間および駅一覧 == 三岐線はJR富田駅 - 西藤原駅の三岐線および三岐朝明信号場 - 近鉄富田駅の近鉄連絡線(近鉄連絡線の起点は三岐朝明信号場である)から構成されるが、実際は近鉄富田駅 - 西藤原駅間で旅客営業を、JR富田駅 - 東藤原駅間で貨物営業を行なっている。便宜上、旅客営業を行なう近鉄富田駅 - 西藤原駅間と貨物営業のみを行なうJR富田駅 - 三岐朝明信号場間の2区間に分けて記載する。 全駅・信号場とも[[三重県]]に所在。括弧書き(背景色が{{Bgcolor|#ccc|グレー}})の駅は廃止駅。廃止駅の廃止年は休止期間があった場合は休止年を記載している。乗車人員は2006年度(平成18年度)の値を記している。 === 富田駅 - 三岐朝明信号場間 === この区間は貨物営業のみ。全駅・信号場とも[[四日市市]]に所在。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="" |- !style="width:9em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|駅名 !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|駅間<br />キロ !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|累計<br />キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|{{縦書き|行違設備|height=5em}} !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|開業年 !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|廃止年 !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|接続路線 |- |[[富田駅 (三重県)|富田駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |有 |1931年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:left;"|東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]] (CJ09) |- |style="background-color:#ccc;"|([[#その他|富田西口駅]]) |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:center;"| - |1965年 |1985年 |&nbsp; |- |{{Bgcolor|#ccc|(三岐朝明駅)}}<br />[[三岐朝明信号場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:center;"| - |1950年 |1989年<br />信号場化 |&nbsp; |} === 近鉄富田駅 - 西藤原駅間 === 近鉄富田駅 - 三岐朝明信号場間は近鉄連絡線。同線含む近鉄富田駅 - 西藤原駅間が旅客営業区間。三岐朝明信号場 - 東藤原駅間が貨物営業区間。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="" |- !rowspan="2" style="width:9em;border-bottom:solid 3px #ffd400;"|駅名 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|駅間<br />キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|累計<br />キロ !rowspan="2" style="width:1em;border-bottom:solid 3px #ffd400;"|{{縦書き|行違設備|height=5em}} !colspan="2"|乗車人員 !style="width:4em;border-bottom:solid 3px #ffd400;" rowspan="2"|開業年 !style="width:4em;border-bottom:solid 3px #ffd400;" rowspan="2"|廃止年 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|接続路線 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|所在地 |- !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|{{Nowrap|実数<br />人/年}} !style="width:1em;border-bottom:solid 3px #ffd400;"|{{縦書き|順位}} |- |[[近鉄富田駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|1,372,415 |style="text-align:right;"|1 |1970年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:left;"|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]] (E17) |rowspan="8" style="white-space:nowrap;"|[[四日市市]] |- |{{Bgcolor|#ccc|(三岐朝明駅)}}<br />三岐朝明信号場 |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:center;"| - |style="text-align:center;"| - |1950年 |1989年<br />信号場化 |&nbsp; |- |[[大矢知駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|2.6 |有 |style="text-align:right;"|114,334 |style="text-align:right;"|8 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[平津駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|4.2 |有 |style="text-align:right;"|78,401 |style="text-align:right;"|9 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[暁学園前駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|5.4 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|629,077 |style="text-align:right;"|2 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[山城駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|7.1 |有 |style="text-align:right;"|170,015 |style="text-align:right;"|4 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[保々駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|9.6 |有 |style="text-align:right;"|198,612 |style="text-align:right;"|3 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[北勢中央公園口駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|11.3 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|138,105 |style="text-align:right;"|6 |1997年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[北勢中央公園口駅|大長駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|11.4 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:center;"| - |style="text-align:center;"| - |1931年 |1997年 |&nbsp; |[[員弁郡]]<br>[[東員町]] |- |[[梅戸井駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|13.2 |有 |style="text-align:right;"|54,826 |style="text-align:right;"|11 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |rowspan="9"|[[いなべ市]] |- |style="background-color:#ccc;"|([[大安駅 (三重県)|大井田駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|15.3 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:center;"| - |style="text-align:center;"| - |1931年 |1986年 |&nbsp; |- |[[大安駅 (三重県)|大安駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|15.4 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|161,865 |style="text-align:right;"|5 |1986年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[三里駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|17.2 |有 |style="text-align:right;"|132,628 |style="text-align:right;"|7 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[丹生川駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|19.7 |有 |style="text-align:right;"|47,456 |style="text-align:right;"|13 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[伊勢治田駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|20.9 |有 |style="text-align:right;"|65,983 |style="text-align:right;"|10 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[東藤原駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|23.2 |有 |style="text-align:right;"|16,296 |style="text-align:right;"|14 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[西野尻駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|25.4 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|12,893 |style="text-align:right;"|15 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |- |[[西藤原駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|26.6 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|47,894 |style="text-align:right;"|12 |1931年 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |} ※近鉄富田駅、東藤原駅以外は早朝(始発から6:30)と夜間(21:00以降)は無人になる。西野尻駅は終日無人。 == 車両 == かつては複数の鉄道会社からの譲渡車のほか、自社発注車も存在したが、現在は[[西武鉄道]]からの譲渡車で統一されている。西武でも黄色を主体とした塗装を採用していたが、これは偶然の一致である。 === 現有車両 === ==== 電車 ==== *801系 - 元西武[[西武701系電車|701系]]<ref name="sone26 32">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 32頁]]</ref> ** 801F - [[1989年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。 ** 803F - [[1992年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。2019年4月に西武鉄道時代の[[赤電 (西武)|赤電]]塗装に復元された<ref>[https://railf.jp/news/2019/04/22/110000.html 三岐鉄道801系803編成が「赤電」塗装で営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年4月22日</ref>。 ** 805F - [[1997年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。2018年3月に西武鉄道時代の黄色塗装(レモンイエロー)に復元された<ref>[https://www.sangirail.co.jp/contents/annai/sangisen/seibucolor/seibuyellow.html 三岐線で西武カラーを復元!] - 三岐鉄道、2018年4月20日閲覧</ref><ref>[https://railf.jp/news/2018/04/27/000000.html 三岐鉄道801系西武復刻塗色編成が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年4月27日</ref>。 * 101系 - 元西武[[西武411系電車#401系(2代)|401系]]<ref name="sone26 32"/>。 ** 101F - [[1990年]]移籍。 ** 103F - [[1991年]]移籍。 ** 105F - [[1994年]]移籍。 * 851系 - 元西武701系<ref name="sone26 32"/>。 ** 851F - [[1995年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。 [[2013年]]に脱線事故でクハ1851を失い、代わりに部品確保用として購入してあった元西武[[西武101系電車#新101系・301系|新101系]]のクハ1238を整備、クハ1881として連結したため編成の前後で顔が異なっている。 * 751系 - 元新101系<ref name="sone26 32"/>。 ** 751F - [[2009年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。編成の組換え及び行先表示のLED化がされている。 <gallery> ファイル:Sanki101Series01.jpg|三岐線 101系 ファイル:Sangi 101.jpg|旧標準色の復刻塗装となった101編成、過去に所属した電車はこの塗装であった。 ファイル:Sanki801Series01.jpg|三岐線 801系(広告車両) ファイル:0903150740_hobo_sangi_S751.jpg|三岐線 751系(2009年3月) </gallery> ==== 電気機関車 ==== * [[三岐鉄道ED45形電気機関車|ED45形]] - [[1954年]]以降に製造<ref name="sone26 33">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 33頁]]</ref>。一部は[[東武鉄道]](東武)からの移籍車両。貨物列車牽引用。 * [[南海ED5201形電気機関車|ED301形]] - [[1984年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。元[[南海電気鉄道]](南海)ED5201形<ref name="sone26 32"/>。入換用<ref name="sone26 32"/>。 * [[東武ED5060形電気機関車|ED5081形]] - [[2003年]]移籍<ref name="sone26 32"/>。元東武鉄道ED5080形ED5081・ED5082(ED5081は[[2014年]]、ED5082は[[2011年]]竣功)。 ==== 貨車 ==== (事業用車) * [[三岐鉄道ワム200形貨車|ワム200形]] - ワム229が救援車として残存(籍無)。 === 過去在籍した車両 === ==== 電車 ==== [[ファイル:Kotoden-1013.jpg|thumb|right|200px|琴電譲渡後の120形<br />(琴電1013形電車・[[仏生山駅|仏生山工場]])]] [[ファイル:Kotoden 1063 takamatsutikou.jpg|thumb|right|200px|琴電譲渡後の130形<br />(琴電1063形電車・[[高松築港駅|高松築港]]付近)]] 以前は窓周りが緑色、窓上と窓下が紺色という、[[京成電鉄]]の[[青電 (京成)|青電]]によく似た塗装だったが、この色が沿線の田園風景と区別がつきにくいという声があり、現在の黄色を主体に、裾のみ朱色という塗り分けになった。 * [[三岐鉄道モハ100形電車|モハ100形・モハ110形・クハ200形]] - [[1956年]]の電車運転開始に合わせ移籍。[[1978年]]までに全廃。 ** モハ100形 - 元日本国有鉄道(国鉄)[[豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車#モハ80形|モハ1620形]]。 ** モハ110形 - 元国鉄[[豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車#モハ30形|モハ1610形]]。 ** クハ200形 *** クハ200 - 元国鉄[[豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車#クハ60形|クハ5600形]]。 *** クハ201 - [[1958年]]移籍。元西武[[武蔵野鉄道クハ5855形電車|クハ1231形]]。 * [[三岐鉄道モハ120形電車|モハ120形・モハ130形・クハ210形]] ** モハ120 - 122、クハ210・211 - [[1959年]]新造。[[1983年]]廃車後[[高松琴平電気鉄道]](琴電)へ譲渡。 ** モハ130形 - [[1966年]]新造。1983年廃車後琴電へ譲渡。 ** モハ125、クハ215・216 - [[1976年]]移籍。[[小田急電鉄]](小田急)[[小田急2100形電車|2100形]]廃車発生品の車体に[[西武所沢車両工場]]手持ちの電装品・台車を組み合わせたもの。[[1991年]]までに全廃。 * モハ140形 - [[1969年]]移籍。小田急[[小田急1600形電車|1600形]]の車体に西武所沢車両工場手持ちの電装品・台車を組み合わせたもの。1980年10月に廃車となった後[[近江鉄道]]へ譲渡され[[近江鉄道モハ203形電車#モハ205|モハ203形]]となる。 * [[三岐鉄道モハ150形電車|モハ150形]] - 西武所沢車両工場で西武[[西武311系電車|311系]]廃車発生品の台車・電装品を利用して製造。 ** モハ150・151 - [[1972年]]新造。新製車体。[[1992年]]までに全廃。 ** モハ155・156 - [[1975年]]新造。車体は[[相模鉄道]](相鉄)[[相鉄2000系電車|2000系]]の車体更新発生品。1988年廃車。 *[[三岐鉄道501系電車|501系]] - [[1977年]]移籍。元西武鉄道[[西武501系電車|501系]]。1995年までに全廃。 *[[三岐鉄道601系電車|601系]] - [[1981年]]移籍。元西武鉄道[[西武451系電車|451系]]・[[西武551系電車|571系]]。[[2009年]]までに全廃。 ==== 電気機関車 ==== [[ファイル:Sangi ed22 2.JPG|thumb|ED22 2]] * ED22形 - 1956年移籍。元国鉄[[信濃鉄道1形電気機関車|ED22形]]。1984年廃車。 * ED5000形 - [[1979年]]移籍。元東武[[東武ED5000形電気機関車|ED5000形]]。[[1993年]]ED45形に編入。 * ED500形 - [[2000年]]移籍。元[[大井川鐵道|大井川鉄道]][[大阪窯業セメントいぶき500形電気機関車|ED500形]]。[[2002年]]廃車。 * [[秩父鉄道デキ200形電気機関車|デキ200形]] - 2000年移籍<ref name="sone26 32"/>。元[[秩父鉄道]]デキ200形<ref name="sone26 32"/>。[[2011年]]廃車<ref name="sone26 32"/>、[[2013年]]解体。 {{-}} === 車両数の変遷 === {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:90%;" |- !年 !モハ120形 !モハ130形 !クハ210形 !モハ150形 !501系 !601系 !801系 !101系 !851系 !751系 !計(冷房車) |- |1982||4||1||4||4||6||||||||||||19 |- |1983<br>-1987||1||||2||4||6||6||||||||||19 |- |1988||1||||2||2||6||8||||||||||19 |- |1989||1||||2||2||6||8||||||||||19 |- |1990||1||||2||2||3||8||3||||||||19(3) |- |1991||||||1||2||3||8||3||2||||||19(5) |- |1992||||||||||3||8||3||4||||||19(7) |- |1993||||||||||3||6||6||4||||||19(10) |- |1994||||||||||3||6||6||6||||||21(12) |- |1995||||||||||3||6||6||6||||||21(12) |- |1996||||||||||||6||6||6||3||||21(15) |- |1997||||||||||||6||6||6||3||||21(15) |- |1998<br>-2008||||||||||||2||8||6||4||||20(18) |- |2009<br>-2011||||||||||||||8||6||4||3||21(21) |- |} *1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在 * 『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール == その他 == [[ファイル:SG-Tomida-Nishiguchi Station-Aerial photography.png|thumb|right|300px|現役時代の富田西口駅。{{国土航空写真}}。1975年度。]] * 1952 - 1964年には、国鉄富田駅を経由して国鉄四日市駅に直通する旅客列車があった。当時[[非電化]]だった国鉄四日市駅直通のために気動車を使用しており、関西本線[[富田浜駅|富田浜]] - 四日市間には三岐鉄道からの直通列車専用の「午起駅」も設けられた。 * 富田駅構内の近鉄名古屋線をアンダークロスする部分には、近鉄富田駅への乗換客の便宜を図って「富田西口駅」という名のプラットホームがあり(近鉄富田駅と同一駅扱い)、朝の富田行き列車のみ停車していた。このホームは近鉄連絡線開業後も国鉄富田行列車が廃止されるまで使われていた。 * 1983年には、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で放送されていた刑事ドラマ『[[太陽にほえろ!]]』571話「誘拐」の名古屋ロケにおいて、三岐線電車車内や沿線などで撮影が行われた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *武知京三『近代日本と地域交通』臨川書店、1994年 * {{Cite journal | 和書 | author = 藤岡雄一 | title = 現有私鉄概説 三岐鉄道 | journal = [[鉄道ピクトリアル]]臨時増刊号 | year = 2000 | month = 5 | issue = 685 | pages = 32 - 38 | ref = 現有私鉄概説}} * {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 長良川鉄道・明知鉄道・樽見鉄道・三岐鉄道・伊勢鉄道|date=2011-09-18|ref=sone26}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{DEFAULTSORT:さんきてつとうさんきせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|さんきせん]] [[Category:三岐鉄道|路さんきせん]] [[Category:三重県の交通]] [[Category:鉱山鉄道]]
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三岐鉄道北勢線
北勢線(ほくせいせん)は、三重県桑名市の西桑名駅から三重県いなべ市の阿下喜駅までを結ぶ三岐鉄道の鉄道路線である。 日本では数少なくなった一般的な営業を行う762mm軌間のナローゲージの鉄道路線の一つである。路線は1914年(大正3年)、大山田(現在の西桑名)- 楚原間14.5kmに軽便鉄道として開業した。戦時統合などによる運営主体の変更を複数回経て近畿日本鉄道(近鉄)の路線となっていたが、累積赤字により近鉄が廃止の意向を打ち出したため、2003年(平成15年)4月1日から10年間の地元自治体の支援を条件として三岐鉄道が運営を継承した。なお、支援はその後3年毎に更新されている。 1909年(明治42年)に軽便鉄道法が公布されると、員弁川沿線の各町村間に鉄道敷設の気運が高まった。1912年(明治45年)には、富田軽便鉄道との免許取得合戦に勝ち、北勢鉄道株式会社が設立された。3年の年月をかけて、1914年(大正3年)に大山田(現在の西桑名) - 楚原間14.5kmを開業したのを皮切りに、1915年(大正4年)には桑名町(後の桑名京橋) - 大山田間0.7kmが、1916年(大正5年)には楚原 - 阿下喜東(後の六石)間4.6kmが開業した。一方、近隣の藤原岳に産出する石灰岩およびセメントを運搬するために鉄道の敷設が計画される。三岐鉄道(三岐線)の前身である員弁鉄道が当時の北勢鉄道線が利用できないか調査を行ったが、同線は到底大量貨物輸送には適さないとの調査結果を受け、員弁川対岸に三岐鉄道線(三岐線)の建設が行われることとなる。阿下喜東 - 阿下喜間については山間の険しい位置にあり、難工事が予想されたため着工できず、同区間は無賃の自動車で運行された。1931年(昭和6年)六石 - 阿下喜間1.4kmが開業し、同時に全線が電化された。これは、員弁川の対岸で三岐鉄道(三岐線)が富田 - 東藤原間を開業するわずか15日前であった。北勢鉄道線と三岐鉄道線は員弁川をはさんで並行する形となったが、北勢鉄道線は立地条件の良さもあって三岐鉄道線に比べ圧倒的に多い旅客輸送量を記録した。1934年に北勢鉄道は北勢電気鉄道に社名を改めた。 1940年(昭和15年)に陸運統制令が公布され、1942年(昭和17年)に、三重県下自動車輸送業及び鉄・軌道運送事業の合併が閣議決定された。その後、幾多の変遷を経て、県内の北勢電気鉄道・桑名電軌・三岐鉄道・三重鉄道・安濃鉄道・松阪電気鉄道・神都交通・志摩電気鉄道と乗合自動車業者は合併されることとなった。しかし、北勢電気鉄道は合併による損出が多大であること、三岐鉄道は貨物輸送が主体で乗合自動車の兼業が無いことを理由に統合に反対した。県当局及び合併関係業者の協議会では、貨物輸送が主体の三岐鉄道(三岐線)、廃線が前提の桑名電軌および安濃鉄道の3社を除外した県内全業者を合併する件が決定したが、相変わらず北勢電気鉄道のみが反対意志をひるがえさなかった。最終的に北勢電気鉄道は三重交通に合併・統合されるが、三重交通発足時の合併条件に格段の配慮が行われた。すなわち、北勢電気鉄道と神都交通の株式のみを三重交通の第一種株式(第二・三種と比べ配当率が優遇される)とすることとし、他の被合併会社の第二・三種と差をつけたのである。これは、当時の北勢電気鉄道が他の鉄道会社と比べ、経営状態が良かったことを物語っている。 戦後、近鉄名古屋線・近鉄山田線などの幹線鉄道路線は近鉄が、北勢線・三重線(現在の湯の山、内部・八王子線)・志摩線などの支線鉄道路線は三重交通が運営していた。一方、バス路線はその大半を三重交通が運営していたが、1961年(昭和36年)に運輸営業を廃止した近鉄伊勢線の代替バスを近鉄が運営するなど、三重県内の鉄道・バス事業の運営は近鉄と三重交通が入り乱れていた。この状況を打開するため、近鉄と三重交通との間で、三重県内の鉄道路線は近鉄が、バス路線については三重交通が一元的に運営とする基本方針がまとめられた。これに従って、1964年(昭和39年)に三重交通の全額出資で三重電気鉄道が設立され、三重交通が鉄道事業を三重電気鉄道に分離譲渡した上、1965年(昭和40年)に近畿日本鉄道が三重電気鉄道を合併することにより、三重県内の鉄道運営主体が近鉄に一元化された。これにより、北勢線は近鉄の路線となった。近鉄時代には牽引運転やタブレット閉塞の廃止、ATSや列車無線の導入、ワンマン化など徹底した近代化が行われた。廃線表明直前には技術面・保安面は他の私鉄ローカル線と同レベルに引き上げられていた。 2000年(平成12年)に近鉄が経営改善のため北勢線の廃線を表明した。三重交通によるバスへの転換の予定だったが、地元沿線市町では北勢線が地域の公共交通として重要度が高いことを理由に、鉄道として存続させる方針を確認し第三セクターでの運営等を検討した。その後、2002年(平成14年)に近鉄が国土交通省に対して北勢線の事業廃止届を提出し、北勢線の廃止時期が確定した。地元沿線市町では、第三セクターによる運営では機関の設立が路線廃止までに間に合わないこと、および鉄道運営のノウハウもないことから、近隣の三岐鉄道に対して北勢線の運営を依頼した。 これに対して、三岐鉄道は「北勢線を延命存続するのではなく、リニューアルして運行を引き継ぐ」という方針で北勢線の運行継承を決定した。北勢線の三岐鉄道での運営スキームとして、 こととした。この結果、北勢線の鉄道用地は沿線市町の所有となり、鉄道の運行・運営および鉄道施設(線路・駅舎設備など)と車両の所有を三岐鉄道が行うこととなった。これは、沿線市町が鉄道設備の所有・維持管理までは行わないことから、一般に言う「上下分離方式」には当たらない。ここで特筆すべきは、リニューアル計画で新駅設置や曲線改良工事等を行う場合、工事費用は三岐鉄道側の負担(沿線市町からの運営資金・補助金・自社資金)となるが、土地取得に要する費用は沿線市町の負担となる点である。 こうして2003年(平成15年)4月1日に近鉄が三岐鉄道に北勢線鉄道事業を譲渡し、三岐鉄道による北勢線の運営が開始された。これは鉄道事業法施行後初の民間事業者間での鉄道事業譲渡・譲受のケースとなった。現在では、現業(駅務や保線などの各部門)を行う職員については、「三岐鉄道による北勢線の運営開始以前からの三岐の社員に交代」「北勢線鉄道事業の譲渡譲受と同時に近鉄の社員が三岐に転籍」「三岐鉄道による北勢線の運営が開始以後に三岐の社員として新規採用」の三方式で賄われているが、近鉄から三岐に転籍した社員は定年退職等で減少しつつある。 沿線市町の支援は暫定的に2013年度から3年、2016年度から3年それぞれ延長されている。 この北勢線の譲渡・譲受の形態および運営スキームは、後の南海貴志川線から和歌山電鐵への鉄道事業譲渡・譲受の場合でも採用された。 日中時間帯は西桑名駅 - 阿下喜駅間の列車と西桑名駅 - 楚原駅間の列車がほぼ交互に運行されており、1時間あたり西桑名駅 - 楚原駅間は2本、楚原駅 - 阿下喜駅間は1本運行されている。このほか西桑名駅 - 東員駅・大泉駅間に区間運転列車が設定されており、多い時間帯では1時間に4本運転されている。列車はすべてワンマン運転を行っている。三岐鉄道の運営になって以来、リニューアル工事の進捗にあわせてダイヤ改正が実施され、本数の増加・所要時間の短縮が行われている。 ※ 2005年(平成17年)3月26日ダイヤ改正以前については、表中の「東員」を「北大社」に読み替える。 北勢線と三岐線は員弁川の左岸・右岸にほぼ並行しているが、かつては北勢線の輸送量が三岐線に比べて圧倒的に多かった。これは、北勢線沿線の人口が多く開発が進んでいること、起点駅(北勢線: 国鉄・近鉄桑名駅、三岐線: 国鉄富田駅)の規模の差によるものである。ところが、北勢線の輸送量は1975年(昭和50年)以降減少し続け、近年は三岐線輸送量の6 - 7割程度まで落ち込んだ。三岐線では、近鉄富田駅への乗り入れ、列車のスピードアップ、車両の冷房化、パークアンドライド・キスアンドライド施設の拡充、などが実施されているのに対し、北勢線ではこのような施策が実施されてこなかった結果といえる。北勢線では近鉄時代の1977 - 78年(昭和52 - 53年)に新車導入、信号自動化、ATS新設、西桑名駅移転などの大規模な近代化工事が実施されたが、輸送量は下げ止まらなかった。三岐鉄道移管後、列車のスピードアップ、車両の冷房化、パークアンドライド施設の拡充、などの実施により、輸送量は2005年度(平成17年度)以降はおおむね上昇傾向に転じている。 北勢線の輸送量の推移を下表に記す。2012年度以降、鉄道統計年報においては三岐線と合算されているため、代わりに桑名市の資料を用いる(端数処理が鉄道統計年報の四捨五入に対して切り捨てとなっている)。 1965年度(昭和40年度)以降の最高値を赤色の枠で、最低値を青色の枠で囲んで表記している。 2011年度までの北勢線の営業成績を下表に記す(2012年度以降は三岐線と合算されており単独データが存在しない)。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 ※運輸雑収には福利厚生施設収入を含む。 以前は、北勢線全線に並行する路線バスがあり、北勢線よりも路線バスの方が所要時間が短く運転本数も多かった。三岐鉄道による運営となって以降、北勢線では高速化および増発・最終列車の時刻繰り下げが行われる一方で、路線バスは減便・最終便の時刻繰り上げ・益生駅前経由便(最短経路)の廃止等が行なわれた。 三岐鉄道運行によるバス路線が廃止された(すなわち、三岐鉄道が阿下喜 - 西桑名間の路線を北勢線に一本化した)現在は、桑名 - 星川以西の各区間(三重交通)、桑名 - 西別所間(八風バス)で並行バス路線が設定されている。また、バス路線の廃止により公共交通手段が失われた地域も存在する(並行路線バスルート上3か所の医療施設のうち1か所で公共交通手段が失われた)。 ※表中、「休日」とは「土・日・祝日・年末年始」を、「平日」とは「休日」以外の日を言う。 2019年10月1日現在。 北勢線が三岐鉄道の運営になって以来、三岐鉄道が立案した「北勢線リニューアル計画」によって駅の廃止・統廃合が進められた。新駅および既設駅の一部については、キスアンドライドやパークアンドライドの推進を図るため、無料駐車場や駅前ロータリーが整備された。 全駅・信号場三重県に所在。括弧書き(背景色がグレー)の駅は廃止駅。駅間キロは現存する駅および信号場間の値を示す。廃止駅の廃止年は休止期間があった場合、休止年を記載している。 7編成24両の車両が在籍する。現在、すべての車両が高速化改造工事を施され、冷房化改造工事が引き続き進行している。近鉄時代から編成に番号(K71など)が付されている。なお三重交通・近鉄時代の形式は制御電動車(cM)・制御車(cT)・付随車(T)がそれぞれ「モ」「ク」「サ」だったが、冷房化・高速化改造編成から三岐線と同じ「クモハ」「クハ」「サハ」に改められている。「クモハ」の形式記号を使用しているJR以外の鉄道事業者は少ない。 各編成は電動車の270系と、付随車であるそれ以外の形式によって組成される。 ↑阿下喜 方 ↓西桑名 方 ※制: 制御装置、電: 電動発電機、イ: 静止型インバータ、空: 空気圧縮機、冷: 冷房装置 北勢線の活性化を図るため、以下の4つの事業が進められている。 北勢線沿線の名所、名産、電車を題材にした駅スタンプが西桑名駅、東員駅、阿下喜駅に設置されている。西桑名駅では七里の渡し跡とハマグリと電車、東員駅では猪名部神社と電車、阿下喜駅では駅舎とアジサイが描かれている。
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北勢線(ほくせいせん)は、三重県桑名市の西桑名駅から三重県いなべ市の阿下喜駅までを結ぶ三岐鉄道の鉄道路線である。
{{Infobox rail line | box_width = 300px | name = [[File:Sangi logomark.svg|20px]] 北勢線 | color = ffd400 | image = Sangi Railway 270 series between Sohara and Ohda.jpg | image_width = 300px | image_alt = | caption = 明智川拱橋を渡る270系電車<br/>(楚原駅 - 麻生田駅間) | system = | start = 起点:[[西桑名駅]] | end = 終点:[[阿下喜駅]] | stations = 13駅 | routes = | open = {{Start date|1914|04|05|df=y}} | owner = 北勢鉄道→北勢電気鉄道→<br />[[三重交通|三重交通→三重電気鉄道]]→<br />[[近畿日本鉄道]]→<br />[[三岐鉄道]] | stock = [[#車両|車両]]を参照 | linelength_km = 20.4 | linelength = | gauge = {{RailGauge|762mm|lk=on}} | minradius_m = | el = [[直流電化|直流]]750 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | speed = 最高{{convert|45|kph|mph|lk=on|abbr=on}}<ref name="speed">[http://www.hokuseisen.com/common/pdf/kanko-map_a.pdf パンフレット] - 北勢線事業運営協議会</ref> | maxincline = | map = [[ファイル:Map-hokusei20060401.png|250px]] | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header|停車場・施設・接続路線|#ffd400}} {{BS-table}} {{BS2|exKBHFa||0.7|''[[桑名京橋駅]]''||}} {{BS4|uexSTR|O1=POINTERg@fq|exSTR|||||[[桑名電軌]]|}} {{BS4|uexSTR|exBHF|O2=HUBa|||0.1|''西桑名駅''|-1977|}} {{BS4|uexKBHFe|O1=HUBaq|exSTRl|O2=HUBx|KBHFxaq|O3=HUBeq|STR+r|0.0|[[西桑名駅]]|1977-|}} {{BS4|STRq|BHFq|O2=HUB|STRq|KRZo|||[[桑名駅]] [[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[関西線 (名古屋地区)|関西線]]|}} {{BS4|STR+l|KBHFeq|O2=HUB||STR||| [[養老鉄道]]:[[養老鉄道養老線|養老線]]|}} {{BS4|KRZu|BHFq|O2=HUBe|STRq|KRZo||| [[近畿日本鉄道|近鉄]]:[[近鉄名古屋線|名古屋線]]|}} {{BS4||||BHF|1.1|[[馬道駅]]||}} {{BS4||||BHF|2.0|[[西別所駅]]||}} {{BS4||||eBHF|2.8|''[[稗田前駅]]''|-1969|}} {{BS4||||BHF|3.5|[[蓮花寺駅]]||}} {{BS4||||BHF|4.1|[[在良駅]]||}} {{BS4||||eBHF|5.0|''[[坂井橋駅]]''|-2005|}} {{BS4||||BHF|5.5|[[星川駅 (三重県)|星川駅]]|2005-|}} {{BS4||||eBHF|5.8|''星川駅''|-1969|}} {{BS4||||BHF|6.9|[[七和駅]]||}} {{BS4||||BHF|8.0|[[穴太駅 (三重県)|穴太駅]]||}} {{BS4||||eBHF|9.1|''[[六把野駅]]''|-2005|}} {{BS4||||BHF|9.7|[[東員駅]]|2005-|}} {{BS4||||DST|10.3|[[北大社信号場]]||}} {{BS4||||eBHF|11.4|''[[大木駅 (三重県)|大木駅]]''|-1969|}} {{BS4||||eBHF|12.1|''[[大泉東駅]]''|-2004|}} {{BS4||||BHF|12.4|[[大泉駅 (三重県)|大泉駅]]|2004-|}} 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[[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:なし == 歴史 == {{出典の明記|section=1|date=2010年9月}} === 北勢鉄道創立 === {{基礎情報 会社 |社名 = 北勢電気鉄道 |ロゴ = [[File:Hokusei Railway logomark.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[三重県]][[桑名市]]桑名470-1<ref name="NDLDC1184231"/> |設立 = [[1912年]](大正元年)[[8月10日]]<ref name="NDLDC1184231"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |事業内容 = 旅客鉄道事業、石材・砂利採取 他 <ref name="NDLDC1184231"/> |代表者 = 社長 [[松本長蔵]]<ref name="NDLDC1184231"/> |資本金 = 500,000円(払込額)<ref name="NDLDC1184231"/> |特記事項 = 上記データは1943年(昭和18年)現在<ref name="NDLDC1184231">[{{NDLDC|1184231/47}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}} 1909年(明治42年)に[[軽便鉄道法]]が公布されると、[[員弁川]]沿線の各町村間に鉄道敷設の気運が高まった。1912年(明治45年)には、富田軽便鉄道との免許取得合戦に勝ち、北勢鉄道株式会社が設立された。3年の年月をかけて、1914年(大正3年)に大山田(現在の西桑名) - 楚原間14.5kmを開業したのを皮切りに、1915年(大正4年)には桑名町(後の桑名京橋) - 大山田間0.7kmが、1916年(大正5年)には楚原 - 阿下喜東(後の六石)間4.6kmが開業した。一方、近隣の[[藤原岳]]に産出する[[石灰岩]]および[[セメント]]を運搬するために鉄道の敷設が計画される。[[三岐鉄道]]([[三岐鉄道三岐線|三岐線]])の前身である[[員弁鉄道]]が当時の北勢鉄道線が利用できないか調査を行ったが、同線は到底大量貨物輸送には適さないとの調査結果を受け、員弁川対岸に三岐鉄道線(三岐線)の建設が行われることとなる。阿下喜東 - 阿下喜間については山間の険しい位置にあり、難工事が予想されたため着工できず、同区間は無賃の自動車で運行された。1931年(昭和6年)六石 - 阿下喜間1.4kmが開業し、同時に全線が電化された。これは、員弁川の対岸で三岐鉄道(三岐線)が富田 - 東藤原間を開業するわずか15日前であった。北勢鉄道線と三岐鉄道線は員弁川をはさんで並行する形となったが、北勢鉄道線は立地条件の良さもあって三岐鉄道線に比べ圧倒的に多い旅客輸送量を記録した。1934年に北勢鉄道は北勢電気鉄道に社名を改めた。 === 三重交通へ統合 === 1940年(昭和15年)に[[陸運統制令]]が公布され、1942年(昭和17年)に、三重県下自動車輸送業及び鉄・軌道運送事業の合併が閣議決定された。その後、幾多の変遷を経て、県内の北勢電気鉄道・[[桑名電軌]]・三岐鉄道・[[四日市あすなろう鉄道内部・八王子線|三重鉄道]]・[[安濃鉄道]]・[[三重電気鉄道松阪線|松阪電気鉄道]]・[[三重交通神都線|神都交通]]・[[近鉄志摩線|志摩電気鉄道]]と乗合自動車業者は合併されることとなった。しかし、北勢電気鉄道は合併による損出が多大であること、三岐鉄道は貨物輸送が主体で乗合自動車の兼業が無いことを理由に統合に反対した。県当局及び合併関係業者の協議会では、貨物輸送が主体の三岐鉄道(三岐線)、廃線が前提の桑名電軌および安濃鉄道の3社を除外した県内全業者を合併する件が決定したが、相変わらず北勢電気鉄道のみが反対意志をひるがえさなかった。最終的に北勢電気鉄道は[[三重交通]]に合併・統合されるが、三重交通発足時の合併条件に格段の配慮が行われた。すなわち、北勢電気鉄道と神都交通の株式のみを三重交通の第一種株式(第二・三種と比べ配当率が優遇される)とすることとし、他の被合併会社の第二・三種と差をつけたのである。これは、当時の北勢電気鉄道が他の鉄道会社と比べ、経営状態が良かったことを物語っている。 === 三重電気鉄道を経て近鉄に合併 === 戦後、[[近鉄名古屋線]]・[[近鉄山田線]]などの幹線鉄道路線は近鉄が、北勢線・三重線(現在の[[近鉄湯の山線|湯の山]]、[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部]]・[[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]])・[[近鉄志摩線|志摩線]]などの支線鉄道路線は三重交通が運営していた。一方、バス路線はその大半を三重交通が運営していたが、1961年(昭和36年)に運輸営業を廃止した[[近鉄伊勢線]]の代替バスを近鉄が運営するなど、三重県内の鉄道・バス事業の運営は近鉄と三重交通が入り乱れていた。この状況を打開するため、近鉄と三重交通との間で、三重県内の鉄道路線は近鉄が、バス路線については三重交通が一元的に運営とする基本方針がまとめられた。これに従って、1964年(昭和39年)に三重交通の全額出資で三重電気鉄道が設立され、三重交通が鉄道事業を三重電気鉄道に分離譲渡した上、1965年(昭和40年)に近畿日本鉄道が三重電気鉄道を合併することにより、三重県内の鉄道運営主体が近鉄に一元化された。これにより、北勢線は近鉄の路線となった。近鉄時代には牽引運転や[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|タブレット閉塞]]の廃止、[[自動列車停止装置|ATS]]や[[列車無線]]の導入、[[ワンマン運転|ワンマン]]化など徹底した近代化が行われた。廃線表明直前には技術面・保安面は他の私鉄ローカル線と同レベルに引き上げられていた。 === 三岐鉄道へ運営移管 === 2000年(平成12年)に近鉄が経営改善のため北勢線の廃線を表明した。[[三重交通]]によるバスへの転換の予定だったが、地元沿線市町では北勢線が地域の公共交通として重要度が高いことを理由に、鉄道として存続させる方針を確認し[[第三セクター]]での運営等を検討した。その後、2002年(平成14年)に近鉄が国土交通省に対して北勢線の事業廃止届を提出し、北勢線の廃止時期が確定した。地元沿線市町では、第三セクターによる運営では機関の設立が路線廃止までに間に合わないこと、および鉄道運営のノウハウもないことから、近隣の三岐鉄道に対して北勢線の運営を依頼した。 これに対して、三岐鉄道は「北勢線を延命存続するのではなく、リニューアルして運行を引き継ぐ」という方針で北勢線の運行継承を決定した。北勢線の三岐鉄道での運営スキームとして、 #沿線市町は、「近鉄からの北勢線鉄道用地取得費の沿線市町負担分」+「10年間の運営資金(リニューアル費用+赤字補填)」として55億円を拠出する #近鉄は鉄道用地を有償で沿線市町に、鉄道施設(軌道・車両など)を無償で三岐鉄道に譲渡する こととした。この結果、北勢線の鉄道用地は沿線市町の所有となり、鉄道の運行・運営および鉄道施設(線路・駅舎設備など)と車両の所有を三岐鉄道が行うこととなった。これは、沿線市町が鉄道設備の所有・維持管理までは行わないことから、一般に言う「[[上下分離方式]]」には当たらない。ここで特筆すべきは、リニューアル計画で新駅設置や曲線改良工事等を行う場合、工事費用は三岐鉄道側の負担(沿線市町からの運営資金・補助金・自社資金)となるが、土地取得に要する費用は沿線市町の負担となる点である。 こうして2003年(平成15年)4月1日に近鉄が三岐鉄道に北勢線鉄道事業を譲渡し、三岐鉄道による北勢線の運営が開始された。これは[[鉄道事業法]]施行後初の<!-- 単なる譲渡なら近畿日本鉄道から高野山電気鉄道への譲渡なども該当するはず -->民間事業者間での鉄道事業譲渡・譲受のケースとなった。現在では、現業(駅務や保線などの各部門)を行う職員については、「三岐鉄道による北勢線の運営開始以前からの三岐の社員に交代」「北勢線鉄道事業の譲渡譲受と同時に近鉄の社員が三岐に転籍」「三岐鉄道による北勢線の運営が開始以後に三岐の社員として新規採用」の三方式で賄われているが、近鉄から三岐に転籍した社員は定年退職等で減少しつつある。 沿線市町の支援は暫定的に2013年度から3年<ref>[https://www.city.kuwana.lg.jp/maas/kurashi/koutsuu/24-10644-225-351.html 北勢線の支援と現状] - 桑名市、2014年6月3日閲覧</ref>、2016年度から3年<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160217/ddl/k24/020/035000c 三岐鉄道:3年間で6.5億円を財政支援 沿線2市1町] - 毎日新聞、2018年4月11日閲覧</ref><ref>[http://www1.g-reiki.net/kuwana/reiki_honbun/r069RG00001289.html 桑名市三岐鉄道北勢線運営維持費補助金交付要綱] - 桑名市、2018年4月11日閲覧</ref>それぞれ延長されている。 この北勢線の譲渡・譲受の形態および運営スキームは、後の[[南海電気鉄道|南海]][[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]]から[[和歌山電鐵]]への鉄道事業譲渡・譲受の場合でも採用された。 === 年譜 === *[[1912年]]([[明治]]45年)[[1月16日]] 北勢鉄道株式会社として設立免許される<ref name="sone26 26">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』26号 26頁]]</ref>。 *1912年([[大正]]元年)[[8月10日]] 北勢鉄道創立<ref name="sone26 26"/>。<!--7月30日~大正に改元--> *[[1913年]](大正2年)[[5月3日]] 桑名町(後の桑名京橋) - 阿下喜東(後の六石)間が着工。 *[[1914年]](大正3年)[[4月5日]] 大山田(現在の西桑名) - 楚原間14.5kmが開業<ref name="sone26 26"/>。 *[[1915年]](大正4年)[[8月5日]] 桑名町(後の桑名京橋) - 大山田間0.7kmが開業<ref name="sone26 26"/>。 *[[1916年]](大正5年) ** [[5月10日]] 星川駅廃止。 ** [[8月6日]] 楚原 - 阿下喜東(後の六石)間4.6kmが開業<ref name="sone26 26"/>(三重交通・近鉄の社史では8月5日開業との記載があるが、当時の鉄道院文書・官報では8月6日に開業となっている)。 *[[1927年]]([[昭和]]2年)[[9月8日]] 星川駅が貨物駅として開業届出。 *[[1929年]](昭和4年) **[[5月17日]] 阿下喜東(後の六石) - 阿下喜間延長免許<ref name="sone26 26"/>。 **8月 大山田駅を西桑名駅に改称<ref name="imao">[[#imao|『日本鉄道旅行地図帳』p.30]]</ref>。 *[[1930年]] **[[2月5日]] 阿下喜東(後の六石) - 阿下喜間土木工事施工認可。 **[[5月19日]]全線の電化工事施工認可。 *[[1931年]](昭和6年) **7月 大泉駅を大泉東駅に改称<ref name="imao" />。 **[[7月8日]] 六石 - 阿下喜間1.4kmが開業し全通<ref name="sone26 26"/>。同時に阿下喜東駅を六石駅に改称<ref name="sone26 26"/>。全線が電化<ref name="sone26 26"/>、北大社変電所(300kW[[回転変流機]]2台)運用開始。車両8両新製配置([[北勢鉄道モハニ50形電車|モハニ50形]]50 - 55{旅客・荷物合造電車。後の三重交通モニ221形→近鉄モニ220形221 - 226}、[[北勢鉄道20形電気機関車|デ21形]]21・22{電気機関車。後の三重交通71形71・72→近鉄デ40形45・46})。<!--三重交通時代の電気機関車は「デ」無しの形式称号の筈です--> *[[1932年]](昭和7年)[[11月1日]] 星川駅旅客営業開始。 *[[1934年]](昭和9年)[[6月27日]] 北勢鉄道が北勢電気鉄道に社名変更<ref name="sone26 26"/>。 *[[1938年]](昭和13年)5月3日 西別所 - 蓮花寺間に稗田前駅開業。 *[[1940年]](昭和15年)11月 電力事情悪化により1往復の列車運転を休止。 *[[1941年]](昭和16年)[[6月1日]] 1往復の列車運転を復活。 *[[1942年]](昭和17年) **[[10月9日]] 第一回三重県旅客自動車運輸事業統合審議会開催、関西急行鉄道を除く鉄道・軌道・自動車全事業者の合併を決議。 **[[10月23日]] 統合主体業者打合会が開催される。北勢電気鉄道・神都交通・三岐鉄道・三重鉄道・志摩電気鉄道・松阪電気鉄道・南紀自動車が出席。 **[[12月20日]] 北勢砂利興業株式会社を設立し砂利採取販売事業を分離。 *[[1943年]](昭和18年) **8月6日 県当局および統合関係業者協議会開催される。三岐鉄道・安濃鉄道・桑名電軌を除外した全業者の合併を決議。 **[[12月24日]] 臨時株主総会において合併契約を承認・可決。 *[[1944年]](昭和19年) **[[2月11日]] 北勢電気鉄道ほか6社(神都交通・三重鉄道・松阪電気鉄道・志摩電気鉄道・三重乗合・伊賀自動車)が合併し、[[三重交通]](母体会社は神都交通)が発足<ref name="sone26 26"/>(申請[[1月15日]]、認可[[1月31日]]・[[2月1日]]・[[2月15日]])。 **[[3月1日]] 北勢線の路線名称制定。 **[[7月1日]] 西別所 - 蓮花寺間の稗田前駅、坂井橋 - 七和間の星川駅、北大社 - 大泉東間の大木駅、長宮 - 楚原間の畑新田駅休止。 *[[1945年]](昭和20年) **2月1日 西桑名車両区を阿下喜駅構内に疎開。 **[[7月19日]] 桑名町 - 西桑名間が戦災のため運輸営業休止<ref name="sone26 26"/>(申請[[8月12日]]、認可[[10月29日]])。 *[[1947年]](昭和22年)[[2月10日]] 西桑名 - 阿下喜間の列車運行間隔を従来の30分間隔から35分間隔とし、所要時分を52分から57分にスピードダウン(多客と電力事情の悪化、車両の出力不足が原因)。 *[[1948年]](昭和23年)[[9月23日]] 桑名京橋 - 西桑名間の運行再開<ref name="sone26 26"/>。桑名町駅を桑名京橋駅に改称(新駅名は一般公募による)。 *[[1949年]](昭和24年) **[[3月26日]] 車両1両新製配置(モニ221形{後の近鉄モニ220形}227)。 **[[9月22日]] 集中豪雨により一部区間で運転休止。[[9月25日]]に復旧・開通。 *[[1950年]](昭和25年) **1月16日 阿下喜駅構内で列車脱線転覆。重傷者5名を出す。 **[[6月16日]] 車両3両新製配置([[三重交通サ150形電車|サ101形]]104 - 106)。 **[[12月15日]] 車両4両新製配置([[三重交通サ150形電車|サ151形]]{後の近鉄サ150形}151 - 154)。 *[[1951年]](昭和26年) **[[1月17日]] 車両2両新製配置(サ151形{後の近鉄サ150形}155 - 156)。 **[[10月18日]] 電力事情悪化のため、6列車を当面運転休止とする。 *[[1952年]](昭和27年) **[[2月22日]] 客車11両のブレーキ装置を改良し貫通制動とする(STE[[直通ブレーキ#SME|非常直通ブレーキ]]{{要検証|date=2010年12月}})。<!--電動車がSMEであったことや、後年の付随車のブレーキ形式から考えて、SET(この名は初見です)ではなくSTE非常直通ブレーキであったはずです。資料の誤読、誤植、あるいは転記ミスではないでしょうか?--> **9月 員弁川砂利採取線で使用する蒸気機関車(21形21)を森製作所にてディーゼル機関車へ改造(D21形21)。 *[[1953年]](昭和28年)9月 桑名京橋駅付近に北勢線初の自動踏切警報機を設置。 *[[1954年]](昭和29年) **[[9月1日]] 豪雨のため西桑名車庫が浸水し、検査車両・モーター等が冠水する。 **[[10月5日]] 北大社変電所の300kW[[回転変流機]]1台を[[水銀整流器]]に更新し運用開始。 **[[10月28日]] 架線電圧を600Vから750Vに昇圧。 *[[1957年]](昭和32年)[[11月25日]] 通学客で満員の上り電車が過速のため上笠田 - 麻生田間の下り勾配S字カーブ(山田川橋梁桑名寄り)で脱線転覆。死者3人、重傷者3人、軽傷者多数を出す<ref>{{Cite news|title=北勢線(三重)で通勤電車転落|date=1957-11-25|newspaper=読売新聞|page=5|issue=夕刊}}</ref>。 *[[1959年]](昭和34年)[[9月26日]] 台風15号(伊勢湾台風)の直撃を受け5日間不通。西桑名車庫浸水。 *[[1960年]](昭和35年) **2月1日 内燃動力を廃止。 **[[10月6日]] 上笠田 - 麻生田間S字カーブ修正の短絡線開通。 *[[1961年]](昭和36年) **6月27日 集中豪雨のため上笠田 - 麻生田間土砂崩壊。7日間運転休止。 **11月1日 桑名京橋 - 西桑名間(0.7km)廃止(認可9月25日)。国道1号線の混雑対策による平面交差解消のため。 *[[1962年]](昭和37年)三重線(後の湯ノ山、内部・八王子線)からサ151形{後の近鉄サ150形}157{サ166を改番}が転属配置。 *[[1964年]](昭和39年) **[[1月7日]] 三重電気鉄道設立(三重交通100%出資)<ref name="sone26 26"/>。 **2月1日 三重交通が鉄道事業を三重電気鉄道に分離譲渡<ref name="sone26 26"/>。 **3月 車両16両が三重線から転属配置([[三重交通サ360形電車|サ360形]]363 - 368{後の近鉄サ130形133 - 138}6両、[[三重交通サ2000形電車|サ2000形]]2001 - 2007{後の近鉄サ140形141 - 147}7両、[[三重交通モ4400形電車|モ4400形]]4401M1+4401T+4401M2号車{後の近鉄ク200形202+サ100形101+サ200形201)3両)。車両3両廃車(サ100形104 - 106)。 **6月 西別所変電所(500kW水銀整流器1台)運用開始。 *[[1965年]](昭和40年)[[4月1日]] 近畿日本鉄道が三重電気鉄道を合併し近鉄の路線となる<ref name="sone26 26"/>。 *[[1966年]](昭和41年) **3月 連結器が[[連結器#ピン・リンク式連結器|ピン・リンク式]]から、柴田式[[連結器#自動連結器|自動連結器]]を小型化したもの(柴田式3/4上作用自動連結器(CSC91形自動連結器))に交換。同時に自動ブレーキ化も完了(SME・STE→AMA・ATAブレーキ)。 **[[10月1日]] 貨物営業休止<ref name="sone26 26"/>。 *[[1967年]](昭和42年)4月1日 麻生田変電所(300kW水銀整流器1台: 内部線浜田変電所から移設)運用開始。 *[[1968年]](昭和43年)3月 北大社変電所の300kW回転変流機1台を撤去。 *[[1969年]](昭和44年)[[5月15日]] 休止中の稗田前駅、星川駅、大木駅、畑新田駅廃止。 *[[1972年]](昭和47年)2月 西別所変電所の500kW水銀整流器1台をシリコン整流器に更新し運用開始。 *[[1974年]](昭和49年)[[7月25日]] 藤川橋梁の橋脚1基が増水のため傾斜。七和 - 上笠田間において30日間バス代行輸送を行う。 *[[1976年]](昭和51年)11月 北大社・麻生田変電所の300kW水銀整流器各1台をシリコン整流器に更新し運用開始。 *[[1977年]](昭和52年) **5月10日 北大社車庫竣工。 **[[5月11日]] 西桑名駅移転<ref name="sone26 26"/>。西桑名 - 馬道間0.1km短縮。 **[[10月11日]]車両8両新製配置([[三岐鉄道270系電車|モ270形]]271 - 276、ク170形171・172)。 **この年 車両11両(モニ220形225 - 227、サ130形133、サ150形151 - 157)を内部・八王子線に転属させる。 *[[1978年]](昭和53年)[[8月26日]] 単線自動閉塞化<ref name="sone26 26"/>。ATS使用開始<ref name="sone26 26"/>。 *[[1985年]](昭和60年)4月1日 名古屋への並行路線となる三重交通の高速バス名古屋桑名高速線(名古屋 - 大山田団地)が運行開始される。 *[[1990年]]([[平成]]2年)[[8月31日]] 車両1両新製配置(モ277形277)。 *[[1991年]](平成3年)[[11月15日]] 列車無線使用開始。 *[[1992年]](平成4年) **[[9月15日]] 北勢線電化当初から使用していた220形電車4両(モ220形222・224、ク220形221・223)を除籍<ref>{{Cite news |title=敬老の日にラストラン 近鉄北勢線220形が引退 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-09-17 |page=2 }}</ref>(8月16日 - 9月15日の日祝日にさよなら運転を実施)。 **[[9月19日]] ワンマン運転開始(3両編成のみ)<ref>{{Cite news |title=近鉄、北勢線をワンマン運転に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-07-13 |page=1 }}</ref>。各駅にホームミラー、乗車証発行機設置。 *[[1999年]](平成11年)[[3月16日]] ダイヤ改正。昼間帯、北大社 - 阿下喜間1時間ヘッドに減便。 *[[2000年]](平成12年) **[[7月3日]] 近鉄が経営改善のため北勢線の廃線を表明する<ref name="sone26 26"/>。 **[[8月3日]] 桑名・員弁広域連合構成自治体(桑名市、員弁郡・桑名郡各町)が「北勢線問題勉強会」に参画。 *[[2001年]](平成13年)[[2月2日]] 「近鉄北勢線利用促進協議会」が設置される。 *[[2002年]](平成14年) **[[2月4日]] 桑名・員弁広域連合自治体協議会において、北勢線を鉄道として存続させる方針を確認。 **[[3月18日]] 桑名・員弁広域連合長(桑名市長)が三岐鉄道に対し北勢線の鉄道存続への協力を要請。 **[[3月28日]] 近鉄が国土交通省に対して北勢線の事業廃止届を提出<ref name="sone26 26"/>。 **[[6月7日]] 桑名・員弁広域連合が三重県知事に対し北勢線の鉄道存続に対する支援を要請<ref name="sone26 26"/>。 **[[8月21日]] 三重県知事が北勢線の鉄道存続に向けて支援する旨回答<ref name="sone26 26"/>。 **[[9月4日]] 北勢線沿線市町(桑名市・東員町・員弁町・北勢町)が三岐鉄道に対し正式に北勢線運行を依頼。三岐鉄道は運行承継を決定。 **[[11月8日]] 「北勢線運営協議会」が設置される。 **[[11月11日]] 「北勢線対策室」が設置される。 *[[2003年]](平成15年) **[[1月8日]] 国土交通省へ近鉄から三岐鉄道への鉄道事業譲渡譲受認可申請が行われる。認可は[[3月6日]]。 **4月1日 近鉄が三岐鉄道に北勢線鉄道事業を譲渡<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2003年4月 |date = 2003-07-01 |journal = RAIL FAN |issue = 7 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 23 }}</ref>。三岐鉄道による北勢線の運営が開始される(運賃は三岐鉄道の賃率に改正されたが、列車ダイヤの改正は無し)。 **[[5月2日]] 三岐鉄道塗色(黄色)の車両(276号車)が初登場する<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2003-08-01 |title = RAILWAY TOPICS(三岐鉄道北勢線にコーポレートカラー電車が登場) |journal = 鉄道ジャーナル |issue = 8 |volume = 37 |publisher = 鉄道ジャーナル社 |page = 97 }}</ref>。営業運行開始は[[5月5日]]。 **10月24日 砕石運搬車(保線作業に使用)3両が導入される。 **10月31日 架線自動張力調整装置(テンションバランサー)が西桑名 - 楚原間に設置される。 *[[2004年]](平成16年) **4月1日 大泉東駅・長宮駅を廃止統合し大泉駅開業。六石駅廃止。 **4月13日 北勢線施設整備株式会社(北勢線に関する鉄道活性化補助事業を行なう第三セクター)が設立される<ref>{{Cite news |title=北勢線高速化で3セク設立 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2004-04-16 |page=1 }}</ref>。 **[[5月1日]] 交換駅(馬道・在良・七和・楚原駅)の左側通行化工事完成。 *[[2005年]](平成17年) **[[1月11日]] 4両編成も含む全列車のワンマン運転開始<ref>{{Cite journal |和書|url=https://www.mintetsu.or.jp/association/mintetsu/pdf/68_p08_09.pdf |format=PDF |title=「鉄道のあるまち」を次世代につなぐ 三岐線・北勢線の歴史 |date=2019 |publisher=日本民営鉄道協会 |journal=みんてつ |volume=68 |issue=冬号 |page=8 }}</ref>。 **3月26日 坂井橋駅を廃止移転し星川駅開業。六把野駅・北大社駅を廃止統合し東員駅開業。北大社駅を信号場に変更。星川駅・東員駅の開業式典は[[3月19日]]に実施。 **[[5月25日]] 旧大泉東 - 大泉間で高圧配電設備(信号・駅舎電源)使用開始。 **[[6月24日]] 北勢線初の高速化改造(弱め界磁段追加)電車が出場(271+146+171編成)。 *[[2006年]](平成18年) **[[3月14日]] 東員 - 大泉間の出発・場内(北大社信号場のみ)信号機3現示(GYR)化{従来は2現示(YR)}。 **4月1日 楚原 - 麻生田間の上笠田駅廃止。 **[[4月11日]] 戸上川の増水により東員 - 大泉間の茶屋川橋梁の橋脚1基が傾き、付近で下り電車が脱線。東員 - 阿下喜間が不通となる<ref name="sone26 26"/>。死傷者は無し。4月13日から大泉 - 阿下喜間が<ref name="sone26 26"/>、5月23日から東員 - 大泉間が列車運行再開<ref name="sone26 26"/>。 **[[7月12日]] 旧上笠田駅構内軌道を曲線改良工事により直線化。 **[[8月4日]] 北勢線初の冷房電車運行開始(272+147+172編成)。出場は[[8月2日]]。 **10月18日 東員 - 北大社信号場間の橋梁(第20号溝橋)が撤去される。北勢線の橋が総数47か所となる。 <!--**[[12月23日]] 北勢線2本目の冷房電車運行開始(271+146+171編成)。出場は[[12月22日]]。--> *[[2007年]](平成19年) <!--**[[1月10日]] いなべ市内にある保育園・幼稚園の園児が描いたぬり絵作品を車内に掲示する「こどもぬりえギャラリー列車」が運行開始される(276+135+134編成)。--> **[[1月21日]] 旧大泉東駅構内軌道を曲線改良工事により線形変更(5→1曲線)。 <!--**[[7月28日]] 北勢線3本目の冷房電車運行開始(275+138+145編成)。出場は[[7月27日]]。--> **8月4日 - 8月26日 麻生田 - 阿下喜間の西六石川橋梁架け替えのため同区間運休し、バス代行輸送を行なう。[[8月27日]]工事完成・平常ダイヤに戻る。 **10月1日 「北勢線対策室」が移転する(大泉駅北西・旧法務局→楚原駅南東・旧農協)。 **[[10月30日]] 蓮花寺駅に自動改札機・券売機・精算機が設置され運用開始。これにより北勢線全駅に自動改札機・券売機・精算機が設置。 *[[2008年]](平成20年) **[[7月9日]] 旧坂井橋駅構内軌道を曲線改良工事により線形変更。 <!--**[[7月26日]] 北勢線4本目の冷房電車運行開始(274+144+137+143編成)。出場は7月25日。--> **[[12月1日]] 蓮花寺駅を従来駅の約130m阿下喜方(在良地区市民センター隣接地)に移設。<!--ダイヤ改正事項は運行形態の項で記載--> **[[12月4日]] 西別所変電所・麻生田変電所を使用停止し、北大社変電所のみの運用となる。後に、西別所変電所・麻生田変電所は撤去。 **[[12月7日]] 穴太 - 東員間の藤川橋梁を含む前後区間を曲線改良工事により線形変更、供用開始。藤川橋梁は新橋に架け替えられる。 **12月20日 276+135+134編成が高速化改造され運行開始される。出場は[[12月19日]]。これにより北勢線車両全編成(7編成)が高速化改造が完了。 <!--*2009年(平成21年) **[[2月27日]] 東員町内にある保育園・幼稚園の園児が描いたぬり絵作品を車内に掲示する「こどもぬりえギャラリー列車」が運行開始される(276+135+134編成)。[[3月15日]]まで 。 **[[7月30日]] 北勢線5本目の冷房電車運行開始(273+142+136+141編成)。出場は[[7月29日]]。--> *[[2011年]](平成23年)[[1月12日]] 三岐鉄道初の女性運転士(2名)が北勢線に誕生する。 == 運行形態 == 日中時間帯は西桑名駅 - 阿下喜駅間の列車と西桑名駅 - 楚原駅間の列車がほぼ交互に運行されており、1時間あたり西桑名駅 - 楚原駅間は2本、楚原駅 - 阿下喜駅間は1本運行されている。このほか西桑名駅 - 東員駅・大泉駅間に区間運転列車が設定されており、多い時間帯では1時間に4本運転されている。列車はすべて[[ワンマン運転]]を行っている。三岐鉄道の運営になって以来、リニューアル工事の進捗にあわせてダイヤ改正が実施され、本数の増加・所要時間の短縮が行われている。 {| class="wikitable" border="1" cellpadding="3" cellspacing="1" style="text-align:center; font-size:85%;" |- !rowspan="2" style="width:8em;"|ダイヤ<br />改正日 !colspan="4"|列車本数 !rowspan="2" style="font-weight: normal;"|阿下喜 - <br />西桑名間<br />運転時分 !rowspan="2"|ダイヤ改正内容・特記事項 |- |西桑名 - <br />東員間 |東員 - <br />大泉間 |大泉 - <br />楚原間 |楚原 - <br />阿下喜間 |- ! style="font-weight: normal;"|2003年<br />(平成15年)<br />4月1日 |上42本<br />下42本<br />計84本 |上19本<br />下18本<br />計37本 |上19本<br />下18本<br />計37本 |上18本<br />下17本<br />計35本 ! style="font-weight: normal;"|52分 |style="text-align:left;"|近鉄より譲受のダイヤ。昼間、北大社 - 阿下喜間で列車運転間隔が2時間開く時間帯がある。<br />最終 西桑名発21:30阿下喜行き 22:00楚原行き 22:30北大社行き |- ! style="font-weight: normal;"|2003年<br />(平成15年)<br />9月1日 |上43本<br />下43本<br />計86本 |上22本<br />下22本<br />計44本 |上22本<br />下22本<br />計44本 |上21本<br />下22本<br />計43本 ! style="font-weight: normal;"|52分 |style="text-align:left;"|西桑名発阿下喜行き最終列車が1時間30分繰り下げられ、西桑名発23:00となる。<br />昼間、北大社 - 阿下喜間の列車運転間隔が1時間となる。 |- ! style="font-weight: normal;"|2004年<br />(平成16年)<br />4月1日 |上44本<br />下44本<br />計88本 |上39本<br />下39本<br />計78本 |上35本<br />下35本<br />計70本 |上22本<br />下23本<br />計45本 !&nbsp; |style="text-align:left;"|大泉東・長宮・六石駅廃止、大泉駅開業。大泉駅折り返しの列車が設定される。<br />北大社 - 楚原間増発。昼間、西桑名 - 楚原間の列車運転間隔が30分となる。 |- ! style="font-weight: normal;"|2005年<br />(平成17年)<br />3月26日 |上46本<br />下46本<br />計92本 |上41本<br />下41本<br />計82本 |上36本<br />下36本<br />計72本 |上23本<br />下24本<br />計47本 !&nbsp; |style="text-align:left;"|坂井橋・六把野・北大社駅廃止、星川・東員駅開業。<br />西桑名 - 楚原間、昼間運転間隔が30分から原則27分となる。<br />大泉駅折り返しの列車が4本設定される。 |- ! style="font-weight: normal;"|2005年<br />(平成17年)<br />7月1日 |上46本<br />下46本<br />計92本 |上41本<br />下41本<br />計82本 |上41本<br />下41本<br />計82本 |上23本<br />下24本<br />計47本 ! style="font-weight: normal;"|49分 |style="text-align:left;"|大泉駅列車行き違い設備完成。列車行き違い待ち時間が短縮される。<br />大泉折り返し列車がすべて楚原折り返しに変更。 |- ! style="font-weight: normal;"|2006年<br />(平成18年)<br />4月1日 |上45本<br />下45本<br />計90本 |上41本<br />下42本<br />計83本 |上41本<br />下42本<br />計83本 |上30本<br />下31本<br />計61本 ! style="font-weight: normal;"|47分 |style="text-align:left;"|北大社信号場内曲線改良、上笠田駅廃止、阿下喜駅2線化設備完成。<br />楚原 - 阿下喜間増発(同区間、一部時間帯27分間隔に)。<br />夕方 - 深夜下り列車の大半が阿下喜行きに変更。 |- ! style="font-weight: normal;"|2008年<br />(平成20年)<br />12月1日 |上45本<br />下45本<br />計90本 |上41本<br />下42本<br />計83本 |上41本<br />下42本<br />計83本 |上28本<br />下28本<br />計56本 ! style="font-weight: normal;"|46分 |style="text-align:left;"|旧坂井橋・上笠田駅構内曲線改良、蓮花寺駅移転<br />下り勾配速度制限撤廃 変電所等の増強工事完成<br />昼間の列車運転間隔が30分となり減便。夕方の列車を増発。総本数は変化なし。 |- |} ※ 2005年(平成17年)3月26日ダイヤ改正以前については、表中の「東員」を「北大社」に読み替える。 == 利用状況 == {{出典の明記|section=1|date=2010年1月}} 北勢線と[[三岐鉄道三岐線|三岐線]]は[[員弁川]]の左岸・右岸にほぼ並行しているが、かつては北勢線の輸送量が三岐線に比べて圧倒的に多かった。これは、北勢線沿線の人口が多く開発が進んでいること、起点駅(北勢線: 国鉄・近鉄[[桑名駅]]、三岐線: 国鉄[[富田駅 (三重県)|富田駅]])の規模の差によるものである。ところが、北勢線の輸送量は1975年(昭和50年)以降減少し続け、近年は三岐線輸送量の6 - 7割程度まで落ち込んだ。三岐線では、[[近鉄富田駅]]への乗り入れ、列車のスピードアップ、車両の冷房化、[[パークアンドライド]]・[[キスアンドライド]]施設の拡充、などが実施されているのに対し、北勢線ではこのような施策が実施されてこなかった結果といえる。北勢線では近鉄時代の1977 - 78年(昭和52 - 53年)に新車導入、信号自動化、ATS新設、西桑名駅移転などの大規模な近代化工事が実施されたが、輸送量は下げ止まらなかった。三岐鉄道移管後、列車のスピードアップ、車両の冷房化、パークアンドライド施設の拡充、などの実施により、輸送量は[[2005年]]度(平成17年度)以降はおおむね上昇傾向に転じている。 === 輸送実績 === 北勢線の輸送量の推移を下表に記す。2012年度以降、鉄道統計年報においては三岐線と合算されているため、代わりに桑名市の資料<ref>[http://www.city.kuwana.lg.jp/index.cfm/24,10644,c,html/10644/20191213-092742.pdf 利用者実績(内訳)の推移] - 桑名市</ref>を用いる(端数処理が鉄道統計年報の四捨五入に対して切り捨てとなっている)。 1965年度(昭和40年度)以降の最高値を赤色の枠で、最低値を青色の枠で囲んで表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center; font-size:90%;" |- ! colspan="8"|年度別輸送実績 |- ! rowspan="2"|運営主体 ! rowspan="2"|年度<br />[年度] ! colspan="4"|輸送人員(乗車人員)<br />[万人/年度] ! rowspan="2"|輸送密度<br />[人/日] ! rowspan="2"|特記事項 |- |通勤定期 |通学定期 |定期外 |合計 |- !rowspan="6"|'''北勢鉄道<br />改称<br />北勢電気鉄道''' ! style="font-weight: normal;"|1925(大正14) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; | style="background-color: #ccffcc;"|'''64.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1929(昭和 4) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''75.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- !style="font-weight: normal;"|1932(昭和 7) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''66.4''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1935(昭和10) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''73.0''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1939(昭和14) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''104.0''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1942(昭和17) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''214.8''' |&nbsp; |&nbsp; |- !'''三重交通''' ! style="font-weight: normal;"|1958(昭和33) |206.8 |←←← |156.8 |'''363.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- !rowspan="28"|'''近畿日本鉄道''' ! style="font-weight: normal;"|1975(昭和50) |437.0 |←←← |160.1 |'''597.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976(昭和51) |422.5 |←←← |131.0 |'''553.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977(昭和52) |417.5 |←←← |131.6 |'''549.1''' |&nbsp; |style="text-align:left;"|新車8両導入・西桑名駅小移転 |- ! style="font-weight: normal;"|1978(昭和53) |418.3 |←←← |132.2 |'''550.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979(昭和54) |416.7 |←←← |120.8 |'''537.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980(昭和55) |416.6 |←←← |123.1 |'''539.7''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981(昭和56) |396.8 |←←← |114.1 |'''510.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982(昭和57) |376.7 |←←← |110.7 |'''487.4''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983(昭和58) |376.3 |←←← |108.4 |'''484.7''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984(昭和59) |367.8 |←←← |100.8 |'''468.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985(昭和60) |357.4 |←←← |98.3 |'''455.7''' |&nbsp; |style="text-align:left;"|沿線 - 名古屋間の高速バス運行開始 |- ! style="font-weight: normal;"|1986(昭和61) |358.3 |←←← |97.6 |'''455.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987(昭和62) |349.0 |←←← |90.2 |'''439.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988(昭和63) |344.2 |←←← |85.4 |'''429.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989(平成元) | style="background-color: #ffcccc;"|128.7 | style="background-color: #ccffcc;"|200.0 |82.9 |'''411.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990(平成 2) |124.3 |208.5 |84.1 |'''416.8''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991(平成 3) |123.9 | style="background-color: #ffcccc;"|210.3 |85.5 |'''419.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992(平成 4) |117.3 |201.8 |86.4 |'''405.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993(平成 5) |111.6 |194.3 |83.6 |'''389.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994(平成 6) |104.9 |187.4 |78.9 |'''371.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995(平成 7) |99.4 |182.0 |81.7 |'''363.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996(平成 8) |92.9 |175.1 |77.9 |'''345.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997(平成 9) |86.6 |161.7 |69.9 |'''318.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998(平成10) |79.3 |154.4 |66.9 |'''300.7''' | style="background-color: #ffcccc;"|3,344 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999(平成11) |75.6 |154.5 |63.6 |'''293.7''' |3,282 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000(平成12) |70.6 |152.6 |58.6 |'''281.8''' |3,178 |style="text-align:left;"|近鉄が北勢線廃止を表明 |- ! style="font-weight: normal;"|2001(平成13) |63.4 |140.8 |57.2 |'''261.4''' |2,996 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002(平成14) |55.0 |130.7 | style="background-color: #ccffff;"|55.0 |'''240.7''' |&nbsp; |&nbsp; |- !rowspan="16"|'''三岐鉄道''' ! style="font-weight: normal;"|2003(平成15) |52.7 |98.4 | style="background-color: #ccffff;"|55.0 |'''206.1''' |2,278 |style="text-align:left;"|近鉄から三岐鉄道に移管 |- ! style="font-weight: normal;"|2004(平成16) | style="background-color: #ccffff;"|47.6 |88.0 |56.7 | style="background-color: #ccffff;"|'''192.3''' | style="background-color: #ccffff;"|2,159 |style="text-align:left;"|高速化事業着手 |- ! style="font-weight: normal;"|2005(平成17) |51.4 | style="background-color: #ccffff;"|86.4 |67.9 |'''205.7''' |2,299 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006(平成18) |54.9 |87.6 |68.4 |'''210.9''' |2,376 |style="text-align:left;"|桑名延伸事業・車両冷房化着手 |- ! style="font-weight: normal;"|2007(平成19) |57.4 |88.6 |73.6 |'''219.7''' |2,480 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008(平成20) |59.9 |91.3 |77.1 |'''228.3''' |2,580 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009(平成21) |60.3 |89.5 |72.2 |'''222.0''' |2,539 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2010(平成22) |58.6 |94.6 |74.0 |'''227.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011(平成23) |59.9 |99.1 |73.9 |'''232.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012(平成24) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |235.4 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013(平成25) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |246.7 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2014(平成26) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |243.9 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2015(平成27) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |254.4 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2016(平成28) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |257.3 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2017(平成29) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |255.8 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2018(平成30) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |257.2 |&nbsp; |&nbsp; |} === 営業成績 === 2011年度までの北勢線の営業成績を下表に記す(2012年度以降は三岐線と合算されており単独データが存在しない)。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center; font-size:90%;" |- ! colspan="12"|年度別営業成績 |- ! rowspan="2"|運営主体 ! rowspan="2"|年度<br />[年度] ! colspan="5"|旅客運賃収入 [千円/年度] ! rowspan="2"|運輸雑収<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業収益<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業経費<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業損益<br />[千円/年度] ! rowspan="2"|営業<br />係数 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定期外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|小計 |- !rowspan="6"|'''近<br />畿<br />日<br />本<br />鉄<br />道''' ! style="font-weight: normal;"|1997(平成 9) |298,613 |←←←← |←←←← | style="background-color: #ffcccc;"|''675'' |'''299,288''' |23,430 |'''322,718''' | style="background-color: #ffcccc;"|'''1,130,431''' | style="background-color: #ccffff;"|'''△ 807,713''' |350.3 |- ! style="font-weight: normal;"|1998(平成10) |283,317 |←←←← |←←←← |''666'' |'''283,983''' |23,537 |'''307,520''' |'''1,107,167''' |'''△ 799,647''' |360.0 |- ! style="font-weight: normal;"|1999(平成11) |134,548 |←←←← |137,766 |''657'' |'''272,971''' |16,962 |'''289,933''' |'''1,029,255''' |'''△ 739,322''' |355.0 |- ! style="font-weight: normal;"|2000(平成12) |59,208 |71,121 |126,539 |''661'' |'''257,529''' |16,658 |'''274,187''' |'''1,007,495''' |'''△ 733,308''' |367.4 |- ! style="font-weight: normal;"|2001(平成13) |53,058 |65,726 |124,092 |''646'' |'''243,522''' | style="background-color: #ccffcc;"|16,222 |'''259,744''' |'''966,205''' |'''△ 706,461''' |372.0 |- ! style="font-weight: normal;"|2002(平成14) | style="background-color: #ccffcc;"|45,705 | style="background-color: #ccffcc;"|61,464 | style="background-color: #ccffcc;"|118,202 |''641'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''226,012''' | style="background-color: #ffcccc;"|28,696 | style="background-color: #ccffcc;"|'''254,708''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- !rowspan="16"|'''三<br />岐<br />鉄<br />道''' ! style="font-weight: normal;"|2003(平成15) |56,005 |100,380 |124,053 | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |'''280,438''' | style="background-color: #ccffff;"|2,554 |'''282,992''' |'''822,578''' |'''△ 539,586''' |290.7 |- ! style="font-weight: normal;"|2004(平成16) |53,294 |97,841 |130,549 |''0'' |'''281,684''' |4,403 |'''286,087''' |'''775,807''' |'''△ 489,720''' |271.2 |- ! style="font-weight: normal;"|2005(平成17) |60,373 |97,567 |153,968 |''0'' |'''311,908''' |8,280 |'''320,187''' |'''778,496''' |'''△ 458,309''' |243.1 |- ! style="font-weight: normal;"|2006(平成18) |64,125 |97,525 |159,215 |''0'' |'''320,865''' |8,429 |'''329,294''' | style="background-color: #ccffff;"|'''772,072''' | style="background-color: #ffcccc;"|'''△ 442,778''' |234.5 |- ! style="font-weight: normal;"|2007(平成19) |67,792 |99,384 |171,799 |''0'' |'''338,975''' |8,061 |'''347,035''' |'''790,727''' |'''△ 443,692''' |227.9 |- ! style="font-weight: normal;"|2008(平成20) |71,312 |101,868 | style="background-color: #ffcccc;"|177,662 |''0'' |'''350,842''' |8,261 |'''359,103''' |'''822,373''' |'''△ 463,270''' |229.0 |- ! style="font-weight: normal;"|2009(平成21) |73,377 |100,432 |167,174 |''0'' |'''340,982''' |&nbsp; |'''347,000''' |'''791,000''' |'''△ 444,000''' |227 |- ! style="font-weight: normal;"|2010(平成22) |71,708 |105,796 |170,709 |''0'' |'''348,213''' |&nbsp; |'''355,000''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011(平成23) | style="background-color: #ffcccc;"|75,011 | style="background-color: #ffcccc;"|110,877 |171,584 |''0'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''357,471''' |&nbsp; | style="background-color: #ffcccc;"|'''366,000''' |'''666,000''' |'''△ 300,000''' |182 |} ※運輸雑収には福利厚生施設収入を含む。 === 北勢線と並行バス路線 === 以前は、北勢線全線に並行する路線バスがあり、北勢線よりも路線バスの方が所要時間が短く運転本数も多かった。三岐鉄道による運営となって以降、北勢線では高速化および増発・最終列車の時刻繰り下げが行われる一方で、路線バスは<!--北勢線の利便性向上に伴う利用者の逸走によって、←検証不可能-->減便・最終便の時刻繰り上げ・益生駅前経由便(最短経路)の廃止等が行なわれた。 三岐鉄道運行によるバス路線が廃止された(すなわち、三岐鉄道が阿下喜 - 西桑名間の路線を北勢線に一本化した)現在は、桑名 - 星川以西の各区間(三重交通)、桑名 - 西別所間([[八風バス]])で並行バス路線が設定されている。また、バス路線の廃止により公共交通手段が失われた地域も存在する(並行路線バスルート上3か所の医療施設のうち1か所{{どこ|date=2019年1月}}で公共交通手段が失われた)。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center; font-size:90%;" |- ! colspan="6"|桑名 - 阿下喜間の鉄道とバスの比較 |- !北勢線ダイヤ改正日 !交通機関 !運転本数 !運転所要時間 !運転時間帯 !大人運賃 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2003年<br />(平成15年)<br />4月1日現在 |鉄道 |1日17.5往復 概ね1時間に<br />1 - 2本(朝ラッシュ時)<br />1本(朝ラッシュ以外)<br />0.5本(11 - 12時台) |概ね52 - 60分<br />(時間帯によっては52 - 71分) |西桑名発5:42 - 22:30<br />(阿下喜行き最終は21:30)<br /> 阿下喜発5:46 - 21:50 |460円 |- |バス |平日1日31往復<br />休日1日上り29・下り27往復<br />概ね1時間に2本<br />(平日朝夕時間帯では<br />1時間に3本) |概ね46 - 53分<br />(時間帯によっては44 - 53分)<br />※員弁総合病院前経由便新設 |桑名駅前発平日7:10 - 20:20 <br />桑名駅前発休日7:25 - 20:20 <br />阿下喜発平日6:15 - 19:10<br />阿下喜発休日6:20 - 20:10 |660円 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2003年<br />(平成15年)<br />9月1日現在 |鉄道 |1日21.5往復 概ね1時間に<br />1 - 2本(朝ラッシュ時)<br />1本(昼間)<br />1 - 2本(夕方から深夜まで) |概ね52 - 60分<br />(時間帯によっては52 - 74分) |西桑名発5:34 - 23:00<br /> 阿下喜発5:37 - 22:18 |460円 |- |バス |平日1日31往復<br />休日1日上り29・下り27往復<br />概ね1時間に2本<br />(平日朝夕時間帯では<br />1時間に3本) |概ね46 - 53分<br />(時間帯によっては44 - 53分)<br /> |桑名駅前発平日7:10 - 20:20 <br />桑名駅前発休日7:25 - 20:20 <br />阿下喜発平日6:15 - 19:10<br />阿下喜発休日6:20 - 20:10 |660円 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2005年<br />(平成17年)<br />3月26日現在 |鉄道 |1日23.5往復 概ね1時間に<br />1 - 2本(朝ラッシュ時)<br />1本(午前中)<br />1 - 2本(午後から深夜まで) |概ね49 - 55分<br />(時間帯によっては49 - 62分) |西桑名発5:38 - 23:00<br /> 阿下喜発5:38 - 22:19 |460円 |- |バス |平日1日31往復<br />休日1日上り29・下り27往復<br />概ね1時間に2本<br />(平日朝夕時間帯では<br />1時間に3本) |概ね46 - 53分<br />(時間帯によっては44 - 53分)<br /> |桑名駅前発平日7:10 - 20:20 <br />桑名駅前発休日7:25 - 20:20 <br />阿下喜発平日6:15 - 19:10<br />阿下喜発休日6:20 - 20:10 |660円 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2005年<br />(平成17年)<br />12月20日現在 |鉄道 |1日23.5往復 概ね1時間に<br />1 - 2本(朝ラッシュ時)<br />1本(午前中)<br />1 - 2本(午後から深夜まで) |概ね49 - 55分<br />(時間帯によっては49 - 62分) |西桑名発5:38 - 23:00<br /> 阿下喜発5:38 - 22:19 |460円 |- |バス |平日1日24往復 休日1日23往復<br />概ね1時間に2本<br />(昼間一部時間帯では<br />1時間に1本) |概ね46 - 53分<br />(時間帯によっては44 - 53分) |桑名駅前発平日7:10 - 20:20 <br />桑名駅前発休日7:50 - 20:20 <br />阿下喜発平日6:15 - 19:10<br />阿下喜発休日6:40 - 19:10 |660円 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2006年<br />(平成18年)<br />4月1日現在 |鉄道 |1日30.5往復 概ね1時間に<br />1 - 3本(朝ラッシュ時)<br />1本(午前中)<br />2本(午後から深夜まで) |概ね47 - 56分<br />(時間帯によっては47 - 62分) |西桑名発5:36 - 23:00<br /> 阿下喜発5:37 - 22:27 |460円 |- |バス |平日1日24往復 休日1日23往復<br />概ね1時間に2本<br />(昼間一部時間帯では<br />1時間に1本) |概ね46 - 53分<br />(時間帯によっては44 - 53分) |桑名駅前発平日7:10 - 20:20 <br />桑名駅前発休日7:50 - 20:20 <br />阿下喜発平日6:15 - 19:10<br />阿下喜発休日6:40 - 19:10 |660円 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2006年<br />(平成18年)<br />12月20日現在 |鉄道 |1日30.5往復 概ね1時間に<br />1 - 3本(朝ラッシュ時)<br />1本(午前中)<br />2本(午後から深夜まで) |概ね47 - 56分<br />(時間帯によっては47 - 62分) |西桑名発5:36 - 23:00<br /> 阿下喜発5:37 - 22:27 |460円 |- |バス |平日1日17往復 休日1日16往復<br />概ね1時間に1本<br />(一部時間帯では1時間に2本) |概ね53分<br />(時間帯によっては51 - 53分)<br />※最短経路の益生駅前経由便廃止 |桑名駅前発平日7:10 - 20:00 <br />桑名駅前発休日7:50 - 20:00 <br />阿下喜発平日6:00 - 18:10 <br />阿下喜発休日6:40 - 18:10 |660円 |- !style="font-weight: normal;" rowspan="2"|2007年<br />(平成19年)<br />12月20日現在 |鉄道 |1日30.5往復 概ね1時間に<br />1 - 3本(朝ラッシュ時)<br />1本(午前中)<br />2本(午後から深夜まで) |概ね47 - 56分<br />(時間帯によっては47 - 62分) |西桑名発5:36 - 23:00<br /> 阿下喜発5:37 - 22:27 |460円 |- |バス |平日1日14往復 休日1日13往復<br />1時間に1本<br />(桑名発8時台・平日の阿下喜発6時台<br />のみ1時間に2本) |概ね53分<br />(時間帯によっては51 - 53分) |桑名駅前発平日7:30 - 19:50 <br />桑名駅前発休日8:05 - 19:50 <br />阿下喜発平日6:10 - 18:10 <br />阿下喜発休日6:50 - 18:10 |660円 |} ※表中、「休日」とは「土・日・祝日・年末年始」を、「平日」とは「休日」以外の日を言う。 == 運賃・切符 == {{Main2|運賃額|三岐鉄道#運賃}} === 普通乗車券・回数券・定期券 === * 普通乗車券・回数券・定期券は、エンコード券となっている。 * 回数券は、通常の回数券(10枚分の価格で11枚発券)と、5枚分の価格で6枚発券される昼間割引回数券(平日10 - 16時・土日祝日は終日使用可能)がある。 * 北勢線内の駅員配置駅では、硬券の入場券が常備されている。 * [[近鉄名古屋線]]を介した、前後の三岐鉄道線の運賃通算は行われない。 * 通勤定期は1・3・6か月定期の3種類がある。通学定期については、1・3・6か月定期のほか、学期定期として1・2・3学期定期および前・後学期定期(原則として当該学期の始業式から終業式当日まで有効)が設定されている。 * 北勢線西桑名駅 - 近鉄桑名駅乗り換えによる、学期定期を除く[[定期乗車券|連絡定期券]]が発売されていた<ref>[https://sangirail.co.jp/faq/ よくある質問] - 三岐鉄道</ref>(対象の区間は三岐鉄道[[三岐鉄道三岐線|三岐線]]に同じく近鉄名古屋線、[[近鉄湯の山線|湯の山線]]および[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]])。なお学期定期は当初より設定されておらず、連絡定期券は、三岐鉄道発売分は2023年3月31日をもって、近鉄発売分は2023年5月15日をもって終売となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://sangirail.co.jp/files/2023hokuseirenrakusyuryo.pdf |title=三岐鉄道北勢線と近鉄線の連絡定期券の発売を終了いたします。 |publisher=三岐鉄道株式会社 鉄道部運輸課 |access-date=2023-06-30}}</ref>。 * [[関西線 (名古屋地区)|関西線]]などのJR線・[[養老鉄道養老線]]との連絡定期券、連絡切符は設定されていない。 === 企画乗車券 === 2019年10月1日現在<ref>[https://www.sangirail.co.jp/contents/ad/static/joshaken1.htm 三岐鉄道 乗車券のご案内] - 三岐鉄道、2019年10月5日閲覧</ref>。 ;三岐鉄道1日乗り放題パス :2009年10月1日から北勢線を含む三岐鉄道全線で使用できる『三岐鉄道1日乗り放題パス』が大人1200円、小人600円で三岐鉄道全線の有人駅で販売されている。 ;阿下喜温泉往復割引切符 :阿下喜温泉「あじさいの里」の温泉入浴券と北勢線各駅 - 阿下喜駅の往復乗車券をセットにした切符である。西桑名 - 七和間発は1300円、穴太 - 東員間発は1100円、大泉 - 麻生田間発は900円で、北勢線内の駅員配置駅にて販売されている。 <!-- https://www.sangirail.co.jp/contents/ad/static/joshaken1.htm に掲載されていない。発売終了? ;大穴馬券 :[[大泉駅 (三重県)|大泉駅]] - [[穴太駅 (三重県)|穴太駅]]と穴太駅 - [[馬道駅]]の乗車券をセットにした切符で、価格は400円である。北勢線内の駅員配置駅で販売されている。第2弾からは、上げ馬神事が行われる[[猪名部神社]]([[東員駅]]最寄)の[[朱印 (神社仏閣)|御朱印]]が裏面に押印されている。また、第3弾からはオリジナル祈願[[絵馬]]が付属し、願いことを書いて駅の設置場所に取りつけた絵馬は、猪名部神社に奉納される(この扱いは乗車券発行開始年度の3月31日まで)。 :*2005年(平成17年)2月25日‐「大穴馬券」第1弾発売開始。馬券タイプと[[左馬]]タイプがあった。なお、本「大穴馬券」に名古屋競馬のロゴを特別に印字し、[[名古屋競馬場]]にて競馬ファン向けに配られたことがある。 :*2005年(平成17年)11月24日‐「大穴馬券」第2弾発売開始。今回から、絵馬タイプと左馬タイプとなった。 :*2006年(平成18年)12月19日‐「大穴馬券」第3弾発売開始。 :*2007年(平成19年)12月16日‐「大穴馬券」第4弾発売開始。今回から、絵馬タイプのみの発売となり、お守りとしても使用可能なように袋が取り付けられた。 --> == 営業区間および駅一覧 == 北勢線が三岐鉄道の運営になって以来、三岐鉄道が立案した「北勢線リニューアル計画」によって駅の廃止・統廃合が進められた。新駅および既設駅の一部については、[[キスアンドライド]]や[[パークアンドライド]]の推進を図るため、無料駐車場や駅前ロータリーが整備された。 全駅・信号場[[三重県]]に所在。括弧書き(背景色が{{Bgcolor|#ccc|グレー}})の駅は廃止駅。駅間キロは現存する駅および信号場間の値を示す。廃止駅の廃止年は休止期間があった場合、休止年を記載している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:95%;" |- !style="width:8em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|営業キロ<br><ref name="imao" /> !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|{{縦書き|行違設備}} !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|開業年 !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|廃止年 !style="width:5em;line-height:1.2em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|乗車人員<br />人/日<br /><small>近鉄最終年<br />-2003年度-</small> !style="width:5em;line-height:1.2em; border-bottom:solid 3px #ffd400;"|乗車人員<br />人/日<br /><small>-2016年度-</small> !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|接続路線・備考 !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;"|所在地 |- |style="background-color:#ccc;"|([[桑名京橋駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:center;"| - |1915年 |1961年 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |桑名京橋駅 - 西桑名駅間0.7km 1961年廃止 |rowspan="10"|[[桑名市]] |- |[[西桑名駅]] |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"| - |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|2,781 |style="text-align:right;"|2,696 |style="text-align:left;"|[[東海旅客鉄道]]:{{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]]([[桑名駅]]: CJ07)<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]](桑名駅: E13)<br />[[養老鉄道]]:[[養老鉄道養老線|養老線]](桑名駅) |- |[[馬道駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|1.1 |有 |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|153 |style="text-align:right;"|240 |&nbsp; |- |[[西別所駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:center;"| - |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|230 |style="text-align:right;"|171 |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[稗田前駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:center;"| - |1938年 |1944年 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |[[蓮花寺駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|3.5 |style="text-align:center;"| - |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|301 |style="text-align:right;"|384 |&nbsp; |- |[[在良駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|4.1 |有 |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|159 |style="text-align:right;"|171 |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[坂井橋駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|5.0 |style="text-align:center;"| - |1914年 |2005年 |style="text-align:right;"|367 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |[[星川駅 (三重県)|星川駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|5.5 |style="text-align:center;"| - |2005年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|792 |坂井橋駅移転改称 |- |[[七和駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|6.9 |有 |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|362 |style="text-align:right;"|332 |&nbsp; |- |[[穴太駅 (三重県)|穴太駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|8.0 |style="text-align:center;"| - |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|307 |style="text-align:right;"|346 |&nbsp; |rowspan="5"|[[員弁郡]]<br />[[東員町]] |- |style="background-color:#ccc;"|([[六把野駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|9.1 |style="text-align:center;"| - |1914年 |2005年 |style="text-align:right;"|549 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |[[東員駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|9.7 |有 |2005年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|517 |六把野駅、北大社駅移転統合 |- |{{Bgcolor|#ccc|([[北大社信号場|北大社駅]])}}<br />[[北大社信号場]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|10.3 |style="text-align:center;"| - |1914年 |2005年<br />信号場化 |style="text-align:right;"|247 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[大木駅 (三重県)|大木駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|11.4 |style="text-align:center;"| - |1914年 |1944年 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[大泉東駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|12.1 |style="text-align:center;"| - |1914年 |2004年 |style="text-align:right;"|57 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |rowspan="9" style="white-space:nowrap;"|[[いなべ市]] |- |[[大泉駅 (三重県)|大泉駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|12.4 |有 |2004年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|278 |大泉東駅、長宮駅移転統合 |- |style="background-color:#ccc;"|([[長宮駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|12.9 |style="text-align:center;"| - |1914年 |2004年 |style="text-align:right;"|72 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[畑新田駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|14.1 |style="text-align:center;"| - |1914年 |1944年 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |[[楚原駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|14.4 |有 |1914年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|444 |style="text-align:right;"|637 |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[上笠田駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|16.1 |style="text-align:center;"| - |1916年 |2006年 |style="text-align:right;"|38 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |[[麻生田駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|18.1 |style="text-align:center;"| - |1916年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|115 |style="text-align:right;"|155 |&nbsp; |- |style="background-color:#ccc;"|([[六石駅]]) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|19.0 |style="text-align:center;"| - |1916年 |2004年 |style="text-align:right;"|21 |style="text-align:right;"| |&nbsp; |- |[[阿下喜駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|20.4 |有 |1931年 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|394 |style="text-align:right;"|330 |&nbsp; |} == 施設 == === 線路 === *線形 **半径140m以下の急曲線が多数存在する。最急曲線は[[楚原駅]] - [[麻生田駅]]間の曲線半径80mである。過去には[[西桑名駅]]構内に半径40mの急曲線が存在した。 **最急勾配は、楚原駅桑名方の33[[パーミル]]である。 *軌道 **[[軌間]]は762mmである。「特殊狭軌」または「ナローゲージ」と呼ばれる。 **[[軌条]](レール)は、かつては[[軽便鉄道]]規格の15k・22kレール(それぞれ1mあたり15kg・22kg)が使用されていた。現在は重軌条化が進み、車庫線以外では40Nレール(一部50N・30kレール)が使用される。北大社車庫内には現在も22kレールが残存する。 **半径300m未満の曲線には[[脱線防止ガード]](護輪軌条)が設置されている。脱線防止ガードの設置基準は半径200m以下の曲線であり、これよりも設置基準を厳しくすることで安全性が確保されている。 **[[枕木|マクラギ]]は、[[枕木|PCマクラギ]]は用いられず、すべて木マクラギである。 *分岐器・転轍器 [[ファイル:Img Point of narrow gauge 2.jpg|170px|right|thumb|大泉駅の乗越分岐器]] **[[分岐器]]は、分岐側の曲線半径が小さいため列車通過制限速度が厳しく(15・20・25km/h)列車の高速化を阻んでいる。 **本線上の[[分岐器|転轍器]]は、三岐鉄道の運営移管以降に新設・改良されたもの([[東員駅]]・[[北大社信号場]]・[[大泉駅 (三重県)|大泉駅]]・[[阿下喜駅]])には[[分岐器#電気転轍機|電気転轍機]](東員駅から遠隔制御)が用いられるが、以前から設置されているもの([[馬道駅]]・[[在良駅]]・[[七和駅]]・楚原駅)は[[分岐器#手動転轍器|発条転轍機]]である。 **東員駅・大泉駅には[[安全側線]]が設置され、列車行き違い時の上下列車の駅構内同時進入が可能となっている。当駅の安全側線への分岐には[[分岐器#乗越分岐器|乗越分岐器]]が用いられているが、特殊狭軌線用の乗越分岐器は非常に珍しい。 === 橋梁 === * 軽便鉄道規格の簡素なものが多く、桁長さが短く、桁厚さが薄く、橋脚数が多いのが特徴である。 * 橋台・橋脚は西桑名駅 - 楚原駅間については石積みが、楚原駅 - 阿下喜駅間については無筋コンクリート製が多い。 * 楚原駅 - 麻生田駅間の「六把野井水拱橋」は「日本の近代土木遺産 - 現存する重要な土木構造物2000選」の認定を受けている。無筋コンクリート製の[[アーチ橋]]で、斜橋となっており、土木技術的にきわめて貴重なものである。この橋の阿下喜方にある「明智川拱橋」は無筋コンクリート製の3連アーチ橋となっており、北勢線列車の好撮影地である。 * 藤川橋梁は、北勢線高速化工事の一環として行われる曲線改良工事によって、別線にて付け替えられた。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |+主な橋梁 |- !駅 間 !橋 梁 名 !キロ程 !径間 !橋台数 !橋脚数 !桁・橋梁種別 !河川・道路名 !所 在 地 |- |星川 - 七和間 ||嘉例川橋梁 |5.7 |16.3 |2 |2 |鉄桁 |嘉例川 |rowspan="2"|桑名市 |- |七和 - 穴太間 |弁天川橋梁 |7.5 |15.1 |2 |2 |鉄桁 |弁天川 |- |穴太 - 東員間 |藤川橋梁 |9.4 |? |2 |0 |コンクリート桁 |藤川 |rowspan="2"|員弁郡<br />東員町 |- |東員 - 大泉間 |茶屋川橋梁 |11.0 |54.6 |2 |7 |鉄桁 |戸上川 |- |rowspan="3"|楚原 - 麻生田間 |六把野井水拱橋 |13.1 |9.1 |2 |0 |コンクリートアーチ |六把野井水 |rowspan="3"|いなべ市 |- |明智川拱橋 |15.5 |19.8 |2 |2 |コンクリートアーチ |明智川 |- |山田川橋梁 |17.0 |43.3 |2 |6 |鉄桁 |山田川 |} <gallery> ファイル:Fuji-riv-bridge.jpg|藤川橋梁(架替前) ファイル:Roppanoisui-riv-bridge3.jpg|六把野井水拱橋 ファイル:Akechi-riv-bridge.jpg|明智川拱橋 ファイル:Yamada-riv-bridge.jpg|山田川橋梁 </gallery> === 車庫 === *[[北大社信号場]]内にある。 *車庫内で車両の[[日本の鉄道車両検査#仕業検査|列車検査]]・[[日本の鉄道車両検査#交番検査|月検査]]を施工するが、定期検査([[日本の鉄道車両検査#全般検査|全般検査]]・[[日本の鉄道車両検査#重要部検査・台車検査|重要部検査]])を行う施設が無いため、定期検査時は車両の主要部品を車庫外に持ち出して他の車両工場で検査を実施する。 *入出庫のために、東員駅 - 北大社信号場間に[[回送|回送列車]]が設定されている。 === 電気 === [[ファイル:Sangi railway hokusei line Kitaoyashiro transformer substation 20070211 1543.jpg|250px|right|thumb|北大社変電所]] *変電所 **現在、北大社変電所のみ稼動している。以前は、西別所変電所、北大社変電所、麻生田変電所の3か所の[[変電所]]であったが、北大社変電所は北勢線高速化工事の一環として出力増強工事が行われ、西別所変電所と麻生田変電所は撤去された。 *電路設備 **[[架線]]は、[[架空電車線方式#シンプルカテナリー式|シンプルカテナリー方式]]である。 **[[電柱]]はコンクリート柱化工事が進行中である。 **架線自動張力調整装置(テンションバランサー)が西桑名駅 - 楚原駅間に設置されている。 **北勢線高速化工事の一環として、[[架空電車線方式#概要|き電線]]の増強工事が行われた。 === 保安装置・その他 === *信号・連動装置・CTC **[[日本の鉄道信号#常置信号機|常置信号機]]として、場内信号機、出発信号機、誘導信号機(東員駅のみ)、入換信号機(東員駅・北大社信号場)、中継信号機が設けられている。場内信号機直下には、手信号代用機が併設される。 **[[鉄道信号機|信号機]]は、大半の区間において2位式(黄色: Y、赤色: R)を採用するが、途中に北大社信号場を含む東員駅 - 大泉駅間は3位式となっている。 **馬道・東員・大泉・阿下喜の各駅および北大社信号場ではすべての信号機が、在良・楚原駅では一部の信号機がLED化されている。 **終端駅である西桑名・阿下喜駅以外に七和・東員・大泉・楚原駅および北大社信号場で列車折り返しが可能である。このうち七和・大泉・楚原駅では下り列車が下り本線に入線しそのまま上り方向に折り返す。一方、東員駅では上下方向から上り本線、下り本線のいずれにも入線可能で、かつ上下どちらの方向にも出発が可能である。これは、東員駅で北大社車庫への出入庫列車との車両取り替えが行なわれることに対応させるためである。 **[[列車集中制御装置|列車集中制御装置 (CTC) ]] が設置され、東員駅の運転指令において全駅の信号制御および[[分岐器#電気転轍器|電気転轍機]]の制御が可能となっている。情報伝送は[[光ケーブル]]を使用する。 **[[連動装置]]は、三岐鉄道の運営移管以降に新設・改良されたもの([[東員駅]]+[[北大社信号場]]、[[大泉駅 (三重県)|大泉駅]]、[[阿下喜駅]])については[[連動装置#連動装置の種類|第一種継電連動装置]]が、これ以外の従前から設置されているもの([[馬道駅]]・[[在良駅]]・[[七和駅]]・[[楚原駅]])は[[連動装置#連動装置の種類|第三種継電連動装置]]となっている。 *ATS **多変周式・連続照査型の「近鉄型[[自動列車停止装置|ATS]]」を採用している。 **ATSの速度制限段としては0・15・25・35・45km/hの5段となっているが、現在進行中の「車両の高速化工事」によって70km/hの制限段が追加された。現在、70km/hの制限段は使用されておらず、運転最高速度も45km/hのままである。 **西桑名駅・東員駅留置線・阿下喜駅には[[自動列車停止装置|終端用ATS]]があり、線路終点部分での列車の過走を防止するようになっている。 **急曲線部分・急勾配部分の速度制限箇所の一部には[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|速度超過防止用ATS]]が備えられている。 **地上子は通常2本のレールの間に置くが、軌間が狭い北勢線では上り電車用と下り電車用の識別が困難であるため地上子は2本のレールの外側(進行方向に向かって右側)に設置される。 *踏切 [[ファイル:Img Over hang alarm signal.jpg|170px|right|thumb|大泉駅横にあるオーバーハング型警報機]] **[[踏切#種類|第1種踏切]]([[踏切警報機|警報機]]・[[遮断機]]付き)73か所、[[踏切#種類|第3種踏切]](警報機のみ)3か所の合計76か所の[[踏切]]がある。[[踏切#種類|第4種踏切]](警報機・遮断機共なし)はなく、全踏切で自動化されており、中小私鉄路線としては近代化が進んでいる。なお、これらの設備の大半は近鉄時代に整備されたものである。 **東員駅にて、北勢線全線の踏切の集中監視を行っている。以前は、西桑名駅・北大社駅・阿下喜駅の3か所で、それぞれのエリアごとに監視を行っていた。 **穴太駅 - 東員駅間の穴太7号踏切、東員駅 - 大泉駅間の東員12号踏切には、視認性に優れたオーバーハング型警報機を各2基備えている。 **東員駅 - 大泉駅間の東員12号踏切には、踏切障害検知装置・踏切障害報知装置を備えている。 **西桑名駅 - 馬道駅間の西桑名第2号踏切では、762mm(北勢線)・1067mm(JR[[関西本線]])・1435mm([[近鉄名古屋線]])の3種類の[[軌間]]が臨める。 *標識 **北勢線が以前は近鉄の路線であったことから近鉄タイプの標識が多く使用される。近年、速度制限標識等が三岐線と共にJR仕様に変更されつつある。 == 車両 == 7編成24両の車両が在籍する。現在、すべての車両が高速化改造工事を施され、冷房化改造工事が引き続き進行している。近鉄時代から編成に番号(K71など)が付されている。なお三重交通・近鉄時代の形式は制御電動車(cM)・制御車(cT)・付随車(T)がそれぞれ「モ」「ク」「サ」だったが、冷房化・高速化改造編成から三岐線と同じ「クモハ」「クハ」「サハ」に改められている。「クモハ」の形式記号を使用しているJR以外の鉄道事業者は少ない<ref>三岐以外では[[西武鉄道|西武]]・[[流鉄]]・[[伊豆急行|伊豆急]]・[[伊豆箱根鉄道|伊豆箱根]]・[[静岡鉄道|静鉄]]・[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]。[[四国旅客鉄道|JR四国]]は分割民営化後の新製車については形式記号を廃止している。</ref>。 === 現有形式 === *[[近鉄270系電車|270系]] *[[三重交通サ2000形電車|140形]] *[[三重交通モ4400形電車|200系]] *[[三重交通サ360形電車|130形]] 各編成は電動車の270系と、付随車であるそれ以外の形式によって組成される。 ↑阿下喜 方 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="text-align:center;" |- !colspan="12"|編成 |- !編成 !車番 !形式 !寸法<br />(長×幅×高)<br />[mm] !自重<br />[t] !定員<br />(座席)<br />[人] !台車 !車体 !製造初年 !製造所 !主電動機 !車載装置※ |- |rowspan="3"|K71 |271 |クモハ<br />270 |15600×2110×3670 |15.9 |72<br /> (28) |KD219<br />KD219A |全鋼 |1977年 |[[近畿車輛]] |38kW×2 |制・冷 |- |146 |サハ<br />140 |11380×2130×3256 |10.3 |54<br /> (24) |NT-7K |全鋼 |1960年 |[[日本車輌製造|日本車両]] |― |イ・冷 |- |171 |クモハ<br />170 |15600×2110×3190 |14.8 |73<br /> (28) |KD219<br />KD219A |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×2 |電・空・冷 |- |rowspan="3"|K72 |272 |クモハ<br />270 |15600×2110×3670 |15.9 |72<br /> (28) |KD219<br />KD219A |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×2 |制・冷 |- |147 |サハ<br />140 |11380×2130×3256 |10.3 |54<br /> (24) |NT-7K |全鋼 |1961年 |日本車両 |― |イ・冷 |- |172 |クモハ<br />170 |15600×2110×3190 |14.8 |73<br /> (28) |KD219<br />KD219A |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×2 |電・空・冷 |- |rowspan="4"|K73 |273 |モ<br />270 |15600×2110×3670 |15.6 |75<br /> (40) |KD219 |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×4 |制 |- |142 |サ<br />140-1 |11380×2130×3256 |9.1 |62<br /> (29) |NT-7K |全鋼 |1960年 |日本車両 |― |冷 |- |136 |サ<br />130 |11380×2130×3190 |9.0 |65<br /> (32) |KD219G |半鋼 |1954年 |[[帝國車輛工業|帝国車輌]] |― |冷 |- |141 |ク<br />140 |11380×2130×3256 |10.4 |61<br /> (28) |NT-7K |全鋼 |1960年 |日本車両 |― |電・空・冷 |- |rowspan="4"|K74 |274 |モ<br />270 |15600×2110×3670 |15.6 |75<br /> (40) |KD219 |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×4 |制 |- |144 |サ<br />140-1 |11380×2130×3256 |9.1 |62<br /> (29) |NT-7K |全鋼 |1960年 |日本車両 |― |冷 |- |137 |サ<br />130 |11380×2130×3190 |9.0 |65<br /> (32) |KD219G |半鋼 |1954年 |帝国車輌 |― |冷 |- |143 |ク<br />140 |11380×2130×3256 |10.4 |61<br /> (28) |NT-7K |全鋼 |1960年 |日本車両 |― |電・空・冷 |- |rowspan="3"|K75 |275 |モ<br />270 |15600×2110×3670 |15.6 |75<br /> (40) |KD219 |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×4 |制 |- |138 |サ<br />130 |11380×2130×3190 |9.0 |65<br /> (32) |KD219B |半鋼 |1954年 |帝国車輌 |― |イ・冷 |- |145 |ク<br />140 |11380×2130×3256 |10.4 |61<br /> (28) |NT-7K |全鋼 |1960年 |日本車両 |― |電・空・冷 |- |rowspan="3"|K76 |276 |モ<br />270 |15600×2110×3670 |15.6 |75<br /> (40) |KD219 |全鋼 |1977年 |近畿車輛 |38kW×4 |制 |- |135 |サ<br />130 |11380×2130×3190 |9.0 |65<br /> (32) |KD219G |半鋼 |1954年 |[[ナニワ工機]] |― |― |- |134 |ク<br />130 |11380×2130×3419 |10.5 |57<br /> (28) |KD219E |半鋼 |1954年 |帝国車輌 |― |電・空 |- |rowspan="4"|K77 |277 |モ<br />277 |15600×2110×3670 |13.8 |72<br /> (24) |KD219F |全鋼 |1990年 |近畿車輛 |38kW×4 |制 |- |201 |サ<br />200 |10750×2130×3171 |10.4 |65<br /> (30) |ND106K |全鋼 |1959年 |日本車両 |― |― |- |101 |サ<br />100 |10700×2130×3171 |7.6 |68<br /> (32) |ND106AK |全鋼 |1959年 |日本車両 |― |― |- |202 |ク<br />200 |10750×2130×3190 |11.0 |63<br /> (28) |ND106K |全鋼 |1959年 |日本車両 |― |電・空 |- |} ↓西桑名 方 ※制: 制御装置、電: 電動発電機、イ: 静止型インバータ、空: 空気圧縮機、冷: 冷房装置 === 過去の在籍形式 === *蒸気機関車 **[[北勢鉄道1形蒸気機関車|北勢1形]] **[[北勢鉄道4形蒸気機関車|北勢4形]] **[[北勢鉄道5形蒸気機関車|北勢5形→三重交通21・31形]] **[[北勢鉄道8形蒸気機関車|北勢8形]] *電気機関車 **[[北勢鉄道20形電気機関車|北勢20形→三重交通71形]] **[[松阪電気鉄道デキ11形電気機関車|松阪電鉄デキ11形→三重交通61形]] *ディーゼル機関車 **[[三重交通D21形ディーゼル機関車|三重交通D21形]] *電動客車 **[[北勢鉄道モハニ50形電車|北勢モハニ50形→三重交通モニ220形→近鉄モニ220・モ220・ク220形]] *客車・付随客車 **[[北勢鉄道ハフ1形客車|北勢ハフ1形→三重交通サニ401・411・421・サ451形]] **[[三重交通サ150形電車|三重交通サニ431・サ100・150形]]<!--サ100形も104~106が北勢線で使用されています。--> == 北勢線活性化・リニューアル事業 == 北勢線の活性化を図るため、以下の4つの事業が進められている。 ;北勢線高速化事業 :[[2004年]](平成16年)4月から5ヵ年の計画で「北勢線高速化事業」(国・県・市町による幹線鉄道活性化補助事業)が開始された。阿下喜 - 西桑名間の52分かかる所要時間を10分短縮して42分にすることを目指している。主な事業内容としては、駅の新設・統廃合、列車行き違い設備新設、阿下喜駅2線化設備新設、曲線改良、橋梁改修、北大社変電所出力増強、電路支持物改良・き電線増強工事などがある。 ;西桑名駅乗り継ぎ円滑化事業 :[[2006年]](平成18年)4月から3ヵ年の計画で「北勢線西桑名駅乗り継ぎ円滑化事業」(国・県・市町による幹線鉄道活性化補助事業)が開始された。路線を延伸して西桑名駅を北側に移設する計画である。また、本事業とは別にJR・近鉄桑名駅も橋上駅舎化の上、現在よりも南側に移設される計画で、両駅間での乗り換えの利便性が向上する。 ;北勢線近代化事業 :2004年(平成16年)4月から、「北勢線近代化事業」(国・県・市町による鉄道軌道近代化設備整備費補助事業)が開始され、車両の冷房化・高速化工事、駅務機器の自動化システム整備、東員駅舎整備、CTCの整備等が行われている。 :[[ファイル:Hokusei_272_cooler_train.JPG|250px|right|thumb|冷房化改造電車(272+147+172号車)]] :;車両の冷房化・高速化 ::近鉄からの運営移管時は全車両に冷房がなかったが、2006年(平成18年)から順次冷房が装備されている。冷房装置は一般の電車のように屋根上に装備するのではなく、客室内の床上に設置される(15m車は1両に2台、10m車は1両に1台)。 ::また、冷房化と同時並行で車両の高速走行対応化工事(70km/h)も施工されている。具体的な改造内容としては、モーターの分散配置、制御段に[[弱め界磁|弱界磁段]]追加、[[自動列車停止装置|ATS]]制御段の追加などである。ただし、地上側の軌道・信号設備が高速化未対応のため、現状での運転最高速度は従前通り45km/hにとどまっている。 ::[[ファイル:Hokuseisenn-jidoukasystem-1.jpg|250px|right|thumb|駅務機器自動化システム(自動券売機・改札機)西別所駅にて]] :;[[駅集中管理システム|駅務機器の自動化システム]]整備 ::(1) [[無賃乗車]]の防止、(2) 降車駅での旅客の精算を不要とし旅客へのサービス向上を図る、(3) 駅務員等の人件費節減を図るため、各駅(馬道駅上りホームを除く)に[[自動券売機]]・[[自動精算機]]・[[自動改札機]]・旅客案内放送装置・インターホン・[[監視カメラ]]が設置されている。 ::[[東員駅]] において各駅([[西桑名駅]]・[[馬道駅]]上りホームを除く)の遠隔監視(各駅の状況の確認、各駅の自動券売機・自動精算機・自動改札機遠隔操作、各駅への旅客案内放送の実施、各駅からのインターホンでの問い合わせ対応、各駅のシャッターの開閉)ができる。 ::[[ファイル:Toin-station.jpg|250px|right|thumb|東員駅舎と駅前ロータリー]] :;東員駅舎整備・CTCの整備 ::西桑名駅および北大社駅に分散していた現場運転・駅務部門を新設する東員駅に集約し、あわせて東員駅にCTCを整備し各駅の信号制御を東員駅から集中監視することとした。本工事は、[[2005年]](平成17年)3月に終了した。 :: ;その他リニューアル事業など :走行中の揺れは他の鉄道と比べてかなり大きい。これを解消するために軌道強化工事が継続的に実施されている。 :また、近鉄時代は、同じく762mm軌間の[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]]・[[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]]と共に、[[列車交換|交換駅]]では右側通行であったが、三岐鉄道に移管後しばらくして一般的な左側通行に改められた。 == 駅スタンプ == 北勢線沿線の名所、名産、電車を題材にした[[駅スタンプ]]が西桑名駅、東員駅、阿下喜駅に設置されている。西桑名駅では[[七里の渡し]]跡と[[ハマグリ]]と電車、東員駅では[[猪名部神社]]と電車、阿下喜駅では[[駅舎]]と[[アジサイ]]が描かれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sangirail.co.jp/contents/annai/hokusei/ticket/stamp/kinenstamp.htm|title=北勢線入場券付き記念スタンプ|publisher=三岐鉄道|language=日本語|accessdate=2009年10月25日}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=日本鉄道旅行地図帳|publisher=[[新潮社]]|series=新潮「旅」ムック|volume=8号 関西1|pages=17,30|year=2008|ref=imao}} * {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 長良川鉄道・明知鉄道・樽見鉄道・三岐鉄道・伊勢鉄道|date=2011-09-18|ref=sone26}} == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Sangi Railway Hokusei Line}} *[http://www.sangirail.co.jp/ 三岐鉄道] *[http://www.hokuseisen.com/ 北勢線事業運営協議会 ] *[http://www.city.kuwana.lg.jp/ 桑名市役所] *[http://www.town.toin.lg.jp/ 東員町役場] *[http://www.city.inabe.mie.jp/ いなべ市役所] {{DEFAULTSORT:ほくせいせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:三岐鉄道|路ほくせいせん]] [[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|廃ほくせい]] [[Category:三重交通|路ほくせいせん]] [[Category:北勢電気鉄道|路]] [[Category:日本の軽便鉄道|さんきてつとうほくせいせん]] [[Category:部分廃止路線]] [[Category:三重県の交通|さんきてつとうほくせいせん]]
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ウィリアム・ハーシェル
サー・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel, 1738年11月15日 - 1822年8月25日)は、ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。ドイツ語名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル(Friedrich Wilhelm Herschel)である。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる。 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルはハノーファーの家の10人兄弟姉妹の4番目の子供として生まれた(うち4人は早世している)。1753年、父イザークと長兄ヤーコプが勤めていたハノーファー近衛連隊の楽団にオーボエ奏者として入団した。当時イギリスとハノーファー選帝侯国はジョージ2世の下で同君連合を組んでいた。1755年、彼の楽団はイギリスへの赴任を命じられた。ヘルシェルは短期間で英語を習得し、1757年にイギリスに渡って名前をフレデリック・ウィリアム・ハーシェルと名乗るようになった。 イギリスでのハーシェルは音楽教師として、また楽団長として成功を収めた。ハーシェルはヴァイオリンやオーボエ、後にはオルガンも演奏した。彼は24曲の交響曲や数多くの協奏曲・教会音楽などを作曲した。しかし今日では彼の曲の多くは忘れられている。ハーシェルはニューカッスルやリーズ、ハリファックスのオーケストラの団長を務めた後、バースでオクタゴン・チャペルのオルガン奏者に就任した。この地で彼は市民音楽会指揮者の職にも就いた。この頃に妹のカロライン・ハーシェルもイギリスに移り、彼と共に生活するようになった。 ハーシェルは音楽に携わるうちに次第に数学にも興味を抱くようになり、さらに天文学も学ぶようになった。1773年頃から本格的に天文学に携わり、自ら望遠鏡を製作し始め、天文学者のネヴィル・マスケリンと面識を得るようになった。ハーシェルは月を観測して月面の山の高さを測定したり、二重星のカタログの編纂などを行なった。 ハーシェルの人生の転機は1781年3月13日に訪れた。この日、彼はバースのニュー・キング・ストリート19番地にある自宅で天王星を発見した。この発見によって彼は一躍有名人となり、以後天文学の研究に専念するようになった。当時のイギリス王ジョージ3世を称えてこの新惑星に「ジョージの星」(Georgium Sidus) と命名したことで、彼の名声は一層高まった(実際にはこの名前は定着しなかった。特にフランスではこの惑星をイギリス王の名前で呼ぶことは敬遠されたため、'Uranus' という名称が定着する以前は 'Herschel' と呼ばれていた)。この年、ハーシェルはコプリ・メダルを受賞し、王立協会会員に推薦された。1782年にハーシェルはジョージ3世から国王付天文官 (The King's Astronomer) に任命され、彼と妹は1782年8月1日にバッキンガムシャー(現バークシャー)のダチェットに移住した。ここでも彼は望遠鏡製作者としての仕事を続け、数多くの望遠鏡を天文学者に販売した。 1783年にハーシェルはカロラインに1台の望遠鏡を与え、これをきっかけにして彼女も天文学上の発見(特に彗星の発見)をなすこととなった。カロラインは兄の助手として働き、彼が望遠鏡で観測を行なう際には記録係を務めた。 ダチェットの地は湿気が多い環境だったため、1785年6月にハーシェル兄妹はオールド・ウィンザーのクレイ・ホールに転居した。クレイ・ホール・ファームは彫刻家ペーター・シェーマーケルスによる胸像がウィンザー教区教会に置かれているトップハム・フートの父、サミュエル・フートが所有していた。トップハムの母はこのファームを兄弟のリチャード・トップハムに売却し、リチャードはシドニー・ブリュークラークに相続した。1786年4月3日にハーシェル達はウィンザー・ロードのスラウに移り住んだ。ハーシェルは以後の生涯をこの地で過ごし、彼の家はオブザバトリー・ハウス (Observatory House) の名で知られるようになった。1963年に高層オフィスビルを建設するためにこの家は取り壊され、現在はない。 1788年5月7日、ハーシェルはスラウのアプトンにあるセント・ローレンス教会で未亡人メアリー・ピットと結婚した。これ以来妹のカロラインは離れに住むようになったが、その後もハーシェルの助手を務めた。 ハーシェルはその生涯で400台以上の望遠鏡を製作した。その中でも最大で最も有名な望遠鏡は焦点距離40フィート(12m)、口径49 1/2 インチ (126cm) の反射望遠鏡(40フィート望遠鏡)である。1789年8月28日、この大望遠鏡を使っての初観測で彼は土星の新たな衛星エンケラドゥスを発見した。この発見から1ヶ月も経たないうちに彼はもう一つの新衛星ミマスも発見した。しかしこの40フィート望遠鏡は非常に扱いにくかったため、ハーシェルの観測の多くはより小さな焦点距離20フィート (6.1m) の望遠鏡を使って行なわれた。ハーシェルは望遠鏡の口径の一部を覆い隠すことによって非常に高い角分解能が得られることを発見した。この原理は今日の天文学における干渉法の基礎をなすものである。なお、40フィート望遠鏡は老朽化により1839年に息子ジョンにより解体され、現在は反射鏡と鏡筒の一部のみが保存されている。 1792年3月7日、ハーシェルとメアリーの間に息子ジョンが生まれた。1816年には摂政皇太子(後のジョージ4世)からナイトに叙せられた。彼は1820年にロンドン天文学会を共同で設立した。この学会は1830年に勅許を得て王立天文学会となった。 1822年8月25日、ハーシェルはスラウのオブザバトリー・ハウスで没し、アプトンのセント・ローレンス教会近くに埋葬された。 息子のジョン・ハーシェルも天文学者として名を成し、写真の研究でも名を残した。またウィリアムの弟のアレクサンダーもイギリスに移住し、カロラインとウィリアムの家の近くに住んでいた。 ハーシェルが数多くの望遠鏡を製作し、また天王星を発見したバースの家は現在ではウィリアム・ハーシェル博物館となっている。 ハーシェルは後半生に土星の2個の衛星、ミマスとエンケラドゥスを発見し、天王星の衛星チタニアとオベロンも発見している。これらの衛星の名前はハーシェル自身によってではなく、息子のジョン・ハーシェルによってウィリアムの死後の1847年と1852年にそれぞれ命名された。 ハーシェルは星雲の大規模なカタログを編纂する仕事にも取り組んだ。また、二重星の研究も続け、二重星の多くがそれまで考えられていたような見かけの二重星ではなく、実際に連星であることを最初に発見した。このことは、天体のケプラー運動が太陽系外でも成立していることを示唆した先がけであった。 恒星の固有運動の研究から、ハーシェルは我々の太陽系が宇宙空間の中を運動していることに初めて気づき、その運動のおよその方向を求めた。また、天の川の構造を研究し、天の川を構成する星々が円盤状に分布することを明らかにした。天の川を直径約6,000光年、厚み1,100光年とし、太陽がほぼ中心に位置していると考えた。ハーシェルの天の川銀河のモデルは、すべての恒星の実際の光度が皆等しく見かけの光度がその星までの距離のみに依存する(距離の二乗に逆比例)と仮定し、また比較的明るい星のみを数えたので、現在知られている天の川銀河の直径(約10万光年)の約20分の1のサイズとなった。ハーシェル自身は天の川銀河(=当時認識では全宇宙)の大きさを絶対的な距離では表現しておらず、全天で一番明るい、したがって「すべての星の実際の光度は同じ」という仮定の下では太陽系に一番近いことになるシリウスまで距離を単位として、直径850、厚み155とした。現在では、もちろんハーシェルが彼の宇宙モデルの基礎にした「すべての星の実際の光度は同じ」や恒星の空間密度分布が一様であるという仮定は誤りであることが知られている。しかし、当時は個々の星までの正確な距離や実際の光度が知られていなかったにもかかわらず、夜空を600以上の区画に分けて見える星の数と明るさを記録するという地道で根気のいる作業で定量的に解析した成果であり、現在でも天の川銀河の形状などを解説するときに必ず引き合いに出される偉大な業績である。 ハーシェルはまた「星のような」を意味する asteroid という語を発明した(これはギリシャ語の asteroeides に由来し、aster は「星」、-eidos は「形」を意味する)。1802年に惑星の衛星や小惑星が恒星に似た点光源的な様態を示すことを表す際にこの語を用いた(これに対して惑星は全て円盤状に見える)。この年の3月にはヴィルヘルム・オルバースが歴史上2個目の小惑星であるパラスを発見している。 ハーシェルは数多くの重要な科学的発見を行なったが、反面、荒唐無稽な推測も嫌うことがなかった。ハーシェルは、全ての惑星、さらには太陽にすら生命はもちろん文明が存在すると考えていた。太陽は低温の固い表面を持ち、不透明な雲の層がこの表面を高温の大気から守っているとし、この奇妙な環境に適応した様々な生物種がその上に生息すると考えていた。またハーシェルは太陽系の惑星の配置を彼が傾倒していた音楽理論と結びつけるなど、現代の天文学以前の世代の存在であることも確かである。 1800年頃にはハーシェルは赤外線放射を発見している。彼は太陽光をプリズムに透過させ、可視光のスペクトルの赤色光を越えた位置に温度計を置く実験を行なった。この実験で温度計の温度は上昇し、このことから彼は、赤色光の先にも目に見えない光が存在すると結論づけた。
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サー・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルは、ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。ドイツ語名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルである。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる。
{{出典の明記|date=2021-03}} {{Infobox Scientist | name = フレデリック・ウィリアム・ハーシェル<br />Frederick William Herschel | image = William Herschel01.jpg | caption = | birth_date = [[1738年]][[11月15日]] | birth_place = [[File:Flag of Hanover (1692).svg|26px]] [[ハノーファー選帝侯国]]、[[ハノーファー]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1738|11|15|1822|8|25}} | death_place = {{ENG}}、[[スラウ]] | residence = | nationality = | field = [[天文学]] | work_institution = | alma_mater = | doctoral_advisor = | doctoral_students = | known_for = [[天王星]]の発見 | prizes = [[コプリ・メダル]]([[1781年]]) | religion = | footnotes = }} {{Portal クラシック音楽}} サー・'''フレデリック・ウィリアム・ハーシェル'''(Sir Frederick William Herschel, [[1738年]][[11月15日]] - [[1822年]][[8月25日]])は、[[ドイツ]]の[[ハノーファー]]出身の[[イギリス]]の[[天文学者の一覧|天文学者]]・[[音楽家]]・[[望遠鏡]]製作者。ドイツ語名は'''フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル'''(Friedrich Wilhelm Herschel)である。[[天王星]]の発見や[[赤外線]]放射の発見など、[[天文学]]における数多くの業績で知られる。 == 生涯 == フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルは[[ハノーファー]]の家の10人兄弟姉妹の4番目の子供として生まれた(うち4人は早世している)。[[1753年]]、父イザークと長兄ヤーコプが勤めていたハノーファー近衛連隊の楽団に[[オーボエ]]奏者として入団した。当時イギリスと[[ハノーファー選帝侯国]]は[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の下で[[同君連合]]を組んでいた。[[1755年]]、彼の楽団はイギリスへの赴任を命じられた。ヘルシェルは短期間で英語を習得し、[[1757年]]にイギリスに渡って名前を'''フレデリック・ウィリアム・ハーシェル'''と名乗るようになった。 イギリスでのハーシェルは音楽教師として、また楽団長として成功を収めた。ハーシェルはヴァイオリンやオーボエ、後にはオルガンも演奏した。彼は24曲の交響曲や数多くの協奏曲・[[教会音楽]]などを作曲した。しかし今日では彼の曲の多くは忘れられている。ハーシェルは[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]や[[リーズ]]、[[ハリファックス (ウェスト・ヨークシャー州)|ハリファックス]]のオーケストラの団長を務めた後、[[バース (イギリス)|バース]]でオクタゴン・チャペルのオルガン奏者に就任した。この地で彼は市民音楽会指揮者の職にも就いた。この頃に妹の[[カロライン・ハーシェル]]もイギリスに移り、彼と共に生活するようになった。 ハーシェルは音楽に携わるうちに次第に[[数学]]にも興味を抱くようになり、さらに天文学も学ぶようになった。[[1773年]]頃から本格的に天文学に携わり、自ら[[望遠鏡]]を製作し始め、天文学者の[[ネヴィル・マスケリン]]と面識を得るようになった。ハーシェルは[[月]]を観測して月面の山の高さを測定したり、[[二重星]]の[[星表|カタログ]]の編纂などを行なった。 ハーシェルの人生の転機は[[1781年]][[3月13日]]に訪れた。この日、彼はバースのニュー・キング・ストリート19番地にある自宅で[[天王星]]を発見した。この発見によって彼は一躍有名人となり、以後天文学の研究に専念するようになった。当時のイギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]を称えてこの新惑星に「ジョージの星」(''Georgium Sidus'') と命名したことで、彼の名声は一層高まった(実際にはこの名前は定着しなかった。特にフランスではこの惑星をイギリス王の名前で呼ぶことは敬遠されたため、'Uranus' という名称が定着する以前は 'Herschel' と呼ばれていた)。この年、ハーシェルは[[コプリ・メダル]]を受賞し、[[王立協会]]会員に推薦された<ref>{{FRS |code = NA8060 |title = Herschel; Sir; William (1738 - 1822) |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>。[[1782年]]にハーシェルはジョージ3世から国王付天文官 (The King's Astronomer) に任命され、彼と妹は1782年8月1日に[[バッキンガムシャー]](現[[バークシャー]])のダチェットに移住した。ここでも彼は望遠鏡製作者としての仕事を続け、数多くの望遠鏡を天文学者に販売した。 [[1783年]]にハーシェルはカロラインに1台の望遠鏡を与え、これをきっかけにして彼女も天文学上の発見(特に[[彗星]]の発見)をなすこととなった。カロラインは兄の助手として働き、彼が望遠鏡で観測を行なう際には記録係を務めた。 ダチェットの地は湿気が多い環境だったため、[[1785年]]6月にハーシェル兄妹は[[オールド・ウィンザー]]のクレイ・ホールに転居した。クレイ・ホール・ファームは彫刻家[[ペーター・シェーマーケルス]]による胸像がウィンザー教区教会に置かれている[[トップハム・フート]]の父、サミュエル・フートが所有していた。トップハムの母はこのファームを兄弟のリチャード・トップハムに売却し、リチャードはシドニー・ブリュークラークに相続した。[[1786年]][[4月3日]]にハーシェル達は[[ウィンザー・ロード]]の[[スラウ]]に移り住んだ。ハーシェルは以後の生涯をこの地で過ごし、彼の家はオブザバトリー・ハウス (''Observatory House'') の名で知られるようになった。1963年に高層オフィスビルを建設するためにこの家は取り壊され、現在はない。 [[1788年]][[5月7日]]、ハーシェルはスラウのアプトンにあるセント・ローレンス教会で未亡人メアリー・ピットと結婚した。これ以来妹のカロラインは離れに住むようになったが、その後もハーシェルの助手を務めた。 [[Image:Herschel_40_foot.jpg|thumb|40フィート望遠鏡]] ハーシェルはその生涯で400台以上の望遠鏡を製作した。その中でも最大で最も有名な望遠鏡は焦点距離40フィート(12m)、口径49 1/2 インチ (126cm) の反射望遠鏡([[40フィート望遠鏡]])である。[[1789年]][[8月28日]]、この大望遠鏡を使っての初観測で彼は[[土星]]の新たな[[衛星]][[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]を発見した。この発見から1ヶ月も経たないうちに彼はもう一つの新衛星[[ミマス (衛星)|ミマス]]も発見した。しかしこの40フィート望遠鏡は非常に扱いにくかったため、ハーシェルの観測の多くはより小さな焦点距離20フィート (6.1m) の望遠鏡を使って行なわれた。ハーシェルは望遠鏡の口径の一部を覆い隠すことによって非常に高い角[[分解能]]が得られることを発見した。この原理は今日の天文学における[[干渉法]]の基礎をなすものである。なお、40フィート望遠鏡は老朽化により[[1839年]]に息子ジョンにより解体され、現在は反射鏡と鏡筒の一部のみが保存されている。 [[1792年]][[3月7日]]、ハーシェルとメアリーの間に息子ジョンが生まれた。[[1816年]]には[[摂政皇太子]](後の[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]])から[[ナイト]]に叙せられた。彼は[[1820年]]にロンドン天文学会を共同で設立した。この学会は1830年に勅許を得て[[王立天文学会]]となった。 [[1822年]][[8月25日]]、ハーシェルはスラウのオブザバトリー・ハウスで没し、アプトンのセント・ローレンス教会近くに埋葬された。 息子の[[ジョン・ハーシェル]]も天文学者として名を成し、[[写真]]の研究でも名を残した。またウィリアムの弟のアレクサンダーもイギリスに移住し、カロラインとウィリアムの家の近くに住んでいた。 ハーシェルが数多くの望遠鏡を製作し、また天王星を発見したバースの家は現在ではウィリアム・ハーシェル博物館となっている。 == その他の天文学上の業績 == [[ファイル:Herschel-Galaxy.png|thumb|right|250px|ハーシェルが恒星の計数観測に基づいて描いた天の川銀河の構造]] ハーシェルは後半生に土星の2個の衛星、ミマスとエンケラドゥスを発見し、天王星の衛星[[チタニア (衛星)|チタニア]]と[[オベロン (衛星)|オベロン]]も発見している。これらの衛星の名前はハーシェル自身によってではなく、息子のジョン・ハーシェルによってウィリアムの死後の[[1847年]]と[[1852年]]にそれぞれ命名された。 ハーシェルは[[星雲]]の大規模なカタログを編纂する仕事にも取り組んだ。また、二重星の研究も続け、二重星の多くがそれまで考えられていたような見かけの二重星ではなく、実際に[[連星]]であることを最初に発見した。このことは、天体の[[ケプラー運動]]が[[太陽系]]外でも成立していることを示唆した先がけであった。 [[恒星]]の[[固有運動]]の研究から、ハーシェルは我々の太陽系が宇宙空間の中を運動していることに初めて気づき、その運動のおよその方向を求めた。また、[[天の川]]の構造を研究し、天の川を構成する星々が円盤状に分布することを明らかにした。天の川を直径約6,000[[光年]]、厚み1,100光年とし、太陽がほぼ中心に位置していると考えた。ハーシェルの天の川銀河のモデルは、すべての恒星の実際の光度が皆等しく見かけの光度がその星までの距離のみに依存する(距離の二乗に逆比例)と仮定し、また比較的明るい星のみを数えたので、現在知られている天の川銀河の直径(約10万光年)の約20分の1のサイズとなった。ハーシェル自身は天の川銀河(=当時認識では全宇宙)の大きさを絶対的な距離では表現しておらず、全天で一番明るい、したがって「すべての星の実際の光度は同じ」という仮定の下では太陽系に一番近いことになる[[シリウス]]まで距離を単位として、直径850、厚み155とした。現在では、もちろんハーシェルが彼の宇宙モデルの基礎にした「すべての星の実際の光度は同じ」や恒星の空間密度分布が一様であるという仮定は誤りであることが知られている。しかし、当時は個々の星までの正確な距離や実際の光度が知られていなかったにもかかわらず、夜空を600以上の区画に分けて見える星の数と明るさを記録するという地道で根気のいる作業で定量的に解析した成果であり、現在でも天の川銀河の形状などを解説するときに必ず引き合いに出される偉大な業績である。 ハーシェルはまた「星のような」を意味する ''asteroid'' という語を発明した(これはギリシャ語の ''asteroeides'' に由来し、''aster'' は「星」、''-eidos'' は「形」を意味する)。[[1802年]]に惑星の衛星や[[小惑星]]が恒星に似た点光源的な様態を示すことを表す際にこの語を用いた(これに対して惑星は全て円盤状に見える)。この年の3月には[[ヴィルヘルム・オルバース]]が歴史上2個目の小惑星である[[パラス (小惑星)|パラス]]を発見している。 ハーシェルは数多くの重要な科学的発見を行なったが、反面、荒唐無稽な推測も嫌うことがなかった。ハーシェルは、全ての惑星、さらには太陽にすら生命はもちろん文明が存在すると考えていた。太陽は低温の固い表面を持ち、不透明な雲の層がこの表面を高温の大気から守っているとし、この奇妙な環境に適応した様々な生物種がその上に生息すると考えていた。またハーシェルは太陽系の惑星の配置を彼が傾倒していた音楽理論と結びつけるなど、現代の天文学以前の世代の存在であることも確かである。 == 赤外線放射の発見 == [[1800年]]頃にはハーシェルは[[赤外線]]放射を発見している。彼は太陽光を[[プリズム]]に透過させ、[[可視光]]の[[スペクトル]]の赤色光を越えた位置に温度計を置く実験を行なった。この実験で温度計の温度は上昇し、このことから彼は、赤色光の先にも目に見えない光が存在すると結論づけた。 == 命名 == * [[ガーネット・スター|ケフェウス座&mu;星]]はこれまで知られている最も半径の大きな恒星の一つで、「ハーシェルのガーネット・スター」として知られている。 * [[月]]と[[火星]]の[[クレーター]]にハーシェルの名前が付けられたものがある(「[[ハーシェル (月のクレーター)]]」および「[[ハーシェル (火星のクレーター)]]」を参照)。 * [[土星]]の衛星[[ミマス (衛星)|ミマス]]の巨大なクレーターも[[ハーシェル (ミマスのクレーター)|ハーシェル・クレーター]]と命名されている。 * [[1964年]]に発見された[[小惑星番号]]2000番の[[小惑星]]には「[[ハーシェル (小惑星)|ハーシェル]]」と命名された。 * 18世紀から19世紀にかけて、一部の天文学者は[[天王星]]のことを「ハーシェル」と呼んでいた。例えば、1795年にパリで出版された『[[ジョン・フラムスティード|フラムスティード]]星図』の第3版では、天王星にあたる[[おうし座34番星]]に対して Herschel と記している。また、1835年にアメリカで出版された『[[バリット]]星図』の太陽系図でも天王星を Herschel としている。 * [[カナリア諸島]]の[[ラ・パルマ島]]には[[ウィリアム・ハーシェル望遠鏡]]がある。 * [[2009年]]5月14日に[[ヨーロッパ宇宙機関]]によって赤外線宇宙望遠鏡である[[ハーシェル宇宙望遠鏡]]が打ち上げられた。 * 現在は使われていないが、[[ハーシェルのぼうえんきょう座|ハーシェルの望遠鏡座]]という[[星座]]が設定されたことがあった。 == 関連項目 == * [[天文学者の一覧#18世紀生まれの天文学者|18世紀生まれの天文学者]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons|William Herschel}} * [http://www.messier.seds.org/xtra/similar/herschel.html William Herschel's Deep Sky Catalog] * [http://www.messier.seds.org/xtra/Bios/wherschel.html Friedrich Wilhelm (William) Herschel] * Full text of ''[http://www.gutenberg.net/etext/12340 The Story of the Herschels]'' (1886) - [[プロジェクト・グーテンベルク]] * [http://adsabs.harvard.edu//full/seri/JRASC/0074//0000134.000.html Biography: JRASC '''74''' (1980) 134] * [http://www.npg.org.uk/live/search/person.asp?search=ss&sText=herschel&LinkID=mp02166 Portraits of William Herschel] at the National Portrait Gallery (United Kingdom) * [https://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/herschel/ 日本ハーシェル協会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はあしえる ういりあむ}} [[Category:ウィリアム・ハーシェル|*]] [[Category:イギリスの天文学者]] [[Category:ドイツの天文学者]] [[Category:18世紀の学者]] [[Category:19世紀の自然科学者]] [[Category:ドイツの作曲家]] [[Category:イギリスの作曲家]] [[Category:教会音楽家]] [[Category:コプリ・メダル受賞者]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:ドイツ系イギリス人]] [[Category:カロライン・ハーシェル|ういりあむ]] [[Category:ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの人物]] [[Category:ハノーファー出身の人物]] [[Category:天文学に関する記事|ういりあむはあしえる]] [[Category:1738年生]] [[Category:1822年没]]
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国道2号
国道2号(こくどう2ごう)は、大阪府大阪市から福岡県北九州市門司区に至る一般国道である。 旧山陽道(近世山陽道・西国街道)を前身とする路線で、大阪から旧山陽道をほぼ踏襲し、本州と九州の間を関門トンネルで結び、関門トンネル門司側出口から程なくの老松公園前で終点となる。岡山県岡山市から広島県福山市までは戦前の大規模な経路変更のために、旧鴨方往来を前身とし、岡山県総社市や井原市、小田郡矢掛町などを経由するかつての山陽道からは大きく外れている。兵庫県から山口県の大半の区間で山陽自動車道と並走している。 一般国道の路線を指定する政令に基づく起終点および重要な経過地は次のとおり。 路線の前身は古代から存在した山陽道である。この山陽道は京都を起点とし、大阪を経由せず神戸に直接向かい山陽地方を東西に抜けて九州へ至る。 1876年(明治9年)に太政官達第60号(道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム)により一等国道となる。 1885年(明治18年)2月24日に内務省告示第6号「國道表」により國道三號「東京ヨリ神戸港ニ達スル路線」、國道四號「東京ヨリ長崎港ニ達スル路線」に指定されたがいずれも大阪を通らない経路が採られ、現在の大阪府大阪市 - 兵庫県西宮市に相当する区間は二十六號「大坂府ト廣島鎭臺トヲ拘聯スル路線」として指定された。 1920年(大正9年)4月1日に道路法に基づく「路線認定」が施行され、國道二號「東京市ヨリ鹿兒島縣廳所在地ニ達スル路線(甲)」として指定されて現在の国道1号、国道2号、国道3号に相当する路線が誕生し、初めて大阪経由となる。 1926年(大正15年)6月9日に、重要性が増した倉敷を通過させるために岡山県岡山市 - 広島県沼隈郡津之郷村間の旧山陽道を踏襲する本国道を県道とし、旧鴨方往来を踏襲する県道を本国道とする経路変更が決まる。変更後の経路で高梁川の霞橋は総工費48万9000円の4分の3を国から補助を得て架け替えられた。 1928年(昭和3年)7月に霞橋の架け替えが完了する。1929年(昭和4年)から新経路へ移行し、現在の岡山市中心部から倉敷市中心部 - 浅口市 - 浅口郡里庄町 - 笠岡市 - 福山市中心部を経て福山市津之郷町へ至る経路が本国道となり、現在の岡山市中心部より総社市(吉備路) - 倉敷市真備町 - 小田郡矢掛町 - 井原市 - 福山市神辺町を経て福山市津之郷町へ至る経路は県道となる。新経路は国道に昇格しても直ちに整備されず、旧鴨方往来は戦後に自動車通行量が増加すると笠岡市民が「日本一狭い国道」と称するほど狭隘で屈曲した悪路で、県道に降格した旧山陽道が1960年代初頭まで東西の主要交通路を担った。地図上で変更後経路の国道収載は戦後以降である。 1938年(昭和13年)7月5日、阪神大水害により神戸市内一帯が冠水、国道が寸断される。 1962年(昭和37年)兵庫県神戸市内の国道2号の経路は、昭和37年11月19日付建設省告示第2908号において変更される。変更前の経路は、三宮東交差点を西進し、兵庫県道21号神戸明石線から国道28号を経て現国道2号の東尻池交差点へと至るルートであった。 この変更後、国道174号が最短国道となった。 大阪から神戸にかけての区間は従来、「第二阪神国道」である国道43号に対して「第一阪神国道」や「一国(いちこく)」と略称されていたが、近年は国道2号を指して「にこく」と呼称する者もおり混乱も散見される。この区間は大正時代に阪神国道電軌の資金で建設され、1975年(昭和50年)に廃止されるまで路面電車の阪神国道線が併用軌道で通過していた。 兵庫県の姫路市や加古川市の一部区間は、多大な交通量の対策として国道として極めて稀な一方通行規制を執り、兵庫県内は交通量が多い区間でバイパス建設の採用が多い。 岡山県は岡山市東区から浅口市、笠岡市の一部区間でバイパスが建設されている。バイパス供用後に当時の現道は県と市へ順次移管されたが、岡山市中心部は2016年(平成28年)3月31日まで別線として指定区間が残存した。 尾道バイパス以西の広島・山口両県では、急カーブが連続する区間で直進矢印(↑)を最短約1メートル (m) 間隔で路面に標記した「(対向車線はみ出しと逆走防止のための)視線誘導標示」が各所に見られる。 広島県内の広島岩国道路は国道2号のバイパスとして建設された一般有料道路だが、事実上は山陽自動車道と一体化している。 山口県内は小郡道路の小郡ICで国道9号と重複して下関市の印内交差点から再び国道2号の単独区間となる。国道9号は関門海峡に沿い下関駅がある中心街へ向かうが、国道2号は内陸部を通過して関門トンネル手前で中心街へ向かう山口県道57号下関港線と分岐している。 国道2号を補完する目的で整備されて後に無料開放された有料道路に、岡山ブルーラインと通称される岡山県道397号寒河本庄岡山線、欽明路道路と通称される山口県道15号岩国玖珂線、長府道路がある。 国道2号のバイパスとして整備されている道路のみ記す。 兵庫県 岡山県 広島県 広島県 - 山口県 山口県 本州の山口県から九州の福岡県を結ぶ区間の関門海峡は、自動車専用道路の関門トンネルと、自転車と歩行者用の人道トンネルがある。 海底トンネルで県境をまたぐ一般国道は国道2号と国道409号の東京湾アクアラインの2路線で、国道2号は歩行者の通行が可能である。海底トンネルである関門トンネルが1958年(昭和33年)に開通しているため、関門海峡の海上区間に国道の航路はない。 最も橋の数が多い国道は国道2号であることが知られており、2 m以上の橋だけでもその数は1279箇所ある。 下関市と北九州市間の関門国道トンネルは車道に加えて歩行者用トンネルが設けられ、海底部はエレベータで地上と連結させて国道2号の歩道施設の一部とされている。 従来は沿道に整備がなかった道の駅が、2011年(平成23年)にバイパス区間に開業された。 自動車専用道路区間にはサービスエリア・パーキングエリアが複数存在する。 下記区間は事前通行規制区間で、雨量により通行止めされる。 ※ バイパスのうち現道となっていないもの区間の接続路線については各記事を参照。 近畿地方整備局管内 中国地方整備局管内 九州地方整備局管内 兵庫県管理区間 広島県管理区間 広島市・広島県管理区間 日本のミュージシャンの楽曲に出身地の道路として登場する。
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国道2号(こくどう2ごう)は、大阪府大阪市から福岡県北九州市門司区に至る一般国道である。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Redirect|国道2号線|国道2号線を含むその他の用法|国道2号 (曖昧さ回避)}} {{Infobox road |種別・系統 = [[一般国道]] |アイコン = {{Ja Route Sign|2|width=100}} |名前 = 国道2号 |総延長 = 674.9 [[キロメートル|km]] |実延長 = 674.8 km(全国5位)<!-- 国交省2020年版道路現況で5位に陥落しました --> |現道 = 598.8 km |起点 = [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]<br />[[梅田新道]]交差点<br />({{Coord|34|41|53.6|N|135|30|2.3|E|region:JP-27|name=梅田新道交差点}}) |終点 = [[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]<br />老松公園前交差点<br />({{Coord|33|56|50.4|N|130|58|6.1|E|region:JP-40|name=老松公園前交差点}}) |主な経由都市 = [[兵庫県]][[尼崎市]]、[[西宮市]]、[[芦屋市]]、[[神戸市]]、[[加古川市]]、[[明石市]]、[[姫路市]]<br />[[岡山県]][[岡山市]]、[[倉敷市]]、[[備前市]]<br />[[広島県]][[福山市]]、[[尾道市]]、[[東広島市]]、[[広島市]]、[[廿日市市]]<br />[[山口県]][[岩国市]]、[[山口市]]、[[下関市]] |制定年 = [[1952年]]([[昭和]]27年) |接続する主な道路 = <!-- 1桁・2桁国道のみを記述、重複部は上位の国道のみ記載、高速自動車国道や都市高速は書かない -->{{Ja Route Sign|1|width=24}} [[国道1号]]<br />{{Ja Route Sign|25|width=24}} [[国道25号]]<br />{{Ja Route Sign|43|width=24}} [[国道43号]]<br />{{Ja Route Sign|28|width=24}} [[国道28号]]<br />{{Ja Route Sign|29|width=24}} [[国道29号]]<br />{{Ja Route Sign|30|width=24}} [[国道30号]]<br />{{Ja Route Sign|31|width=24}} [[国道31号]]<br />{{Ja Route Sign|54|width=24}} [[国道54号]]<br />{{Ja Route Sign|9|width=24}} [[国道9号]]<br />{{Ja Route Sign|3|width=24}} [[国道3号]] |地図画像 = {{Switcher |[[File:Japan National Route 2 Map.png|250px]] |路線図を表示 |{{Maplink2|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=180|zoom=6|frame-latitude=34.5|frame-longitude=133.5 |type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} |Wikimedia maps を表示 }} }} {{座標一覧}} [[File:Kilometre-Zero Osaka Japan.jpg|thumb|国道2号 起点<br />(大阪市道路元標)<br />[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]] [[梅田新道]]交差点]] [[File:国道2号 終点 北九州市門司区.jpg|thumb|国道2号 終点ポスト<br />[[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]<br />老松公園前交差点]] '''国道2号'''(こくどう2ごう)は、[[大阪府]][[大阪市]]から[[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]に至る[[一般国道]]である。 == 概要 == 旧[[山陽道]](近世山陽道・[[西国街道]])を前身とする路線で、[[大阪市|大阪]]から旧[[山陽道]]をほぼ踏襲し、[[本州]]と[[九州]]の間を[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]で結び、[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]門司側出口から程なくの老松公園前で終点となる。[[岡山県]][[岡山市]]から[[広島県]][[福山市]]までは[[戦前]]の大規模な経路変更のために、旧[[鴨方往来]]を前身とし、岡山県[[総社市]]や[[井原市]]、[[小田郡]][[矢掛町]]などを経由するかつての山陽道<ref group="注釈">現在そのルートは[[国道486号]]となっている。</ref>からは大きく外れている。[[兵庫県]]から[[山口県]]の大半の区間で[[山陽自動車道]]と並走している。 === 路線データ === <!--政令に基づくので現在の市町村名に直さない--> 一般国道の路線を指定する政令<ref name=s40>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=340CO0000000058|title=一般国道の路線を指定する政令(昭和40年3月29日政令第58号)|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]|accessdate=2019-10-24}}</ref><ref group="注釈">一般国道の路線を指定する政令の最終改正日である2004年3月19日の政令(平成16年3月19日政令第50号)に基づく表記。</ref>に基づく起終点および重要な経過地は次のとおり。 * 起点:[[大阪市]]([[北区 (大阪市)|北区]]、[[梅田新道]]交差点=[[国道1号]]・[[国道25号]]・[[国道176号]]終点・[[国道26号]]・[[国道163号]]起点) * 終点:[[北九州市]]([[門司区]]、老松公園前交差点=[[国道3号]]起点) * 重要な経過地:[[尼崎市]](杭瀬本町)、[[西宮市]](池田町)、[[芦屋市]](清水町)、[[神戸市]](灘区)、[[明石市]]、[[加古川市]](加古川町寺家町 加古川町河原)、[[高砂市]](阿弥陀町魚橋)、[[姫路市]](本町 飾磨区三宅一丁目)、兵庫県[[太子町 (兵庫県)|揖保郡太子町]]、[[龍野市]]、[[相生市]](池之内)、[[赤穂市]](東有年)、[[備前市]]、[[岡山市]]、岡山県[[早島町|都窪郡早島町]]、[[倉敷市]]、[[笠岡市]]、[[福山市]]、[[尾道市]]、[[三原市]](時貞町)、[[竹原市]](西野町)、[[東広島市]]、広島県[[海田町|安芸郡海田町]]、[[広島市]]、[[廿日市市]]、[[大竹市]]、[[岩国市]]、山口県[[玖珂町|玖珂郡玖珂町]]<ref group="注釈" name="iwakuni">2006年3月20日に岩国市・由宇町・本郷村・周東町・錦町・美川町・美和町・玖珂町と合併し、新・[[岩国市]]が発足。</ref>、同郡周東町<ref group="注釈" name="iwakuni"/>、[[下松市]]、[[徳山市]](徳山)<ref group="注釈" name="tokuyama">2003年4月21日に 徳山市・都濃郡鹿野町・熊毛郡熊毛町・新南陽市と合併して[[周南市]]が発足。</ref>、新南陽市(福川)<ref group="注釈" name="tokuyama"/>、[[防府市]]、[[山口市]]、同県吉敷郡小郡町<ref group="注釈" >2005年10月1日 に[[山口市]]と合併。</ref>、[[宇部市]](吉見)、同県[[山陽町 (山口県)|厚狭郡山陽町]]<ref group="注釈" >2005年3月22日に小野田市と合併して、[[山陽小野田市]]が発足。</ref>、[[下関市]] * [[延長 (日本の道路)#総延長|総延長]] : 674.9 [[キロメートル|km]]<small>(大阪市 6.2 km、兵庫県 129.5 km、神戸市 67.0 km、岡山県 72.7 km、岡山市 29.1 km、広島県 157.0 km、広島市 52.4 km、山口県 158.6 km、北九州市 2.3 km)</small><ref name="encho">{{Cite web|和書|format=XLS|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/tokei-nen/2022/xlsx/d_genkyou26.xlsm|title=表26 一般国道の路線別、都道府県別道路現況|work=道路統計年報2022|publisher=[[国土交通省]][[道路局]]|accessdate=2023-06-05}}</ref><ref group="注釈" name="encho">[[2021年]][[3月31日]]現在</ref> * 重用延長 : 0.0 km<small>(大阪市 - km、兵庫県 - km、神戸市 - km、岡山県 - km、岡山市 - km、広島県 0.0 km、広島市 - km、山口県 - km、北九州市 - km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" /> * 実延長 : 674.8 km<small>(大阪市 6.2 km、兵庫県 129.5 km、神戸市 67.0 km、岡山県 72.7 km、岡山市 29.1 km、広島県 157.0 km、広島市 52.3 km、山口県 158.6 km、北九州市 2.3 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" /> ** 現道 : 598.8 km<small>(大阪市 6.2 km、兵庫県 90.5 km、神戸市 58.7 km、岡山県 62.9 km、岡山市 29.1 km、広島県 155.0 km、広島市 35.5 km、山口県 158.6 km、北九州市 2.3 km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" /> ** 旧道 : 44.5 km<small>(大阪市 - km、兵庫県 39.1 km、神戸市 - km、岡山県 - km、岡山市 - km、広島県 - km、広島市 5.4 km、山口県 - km、北九州市 - km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" /> ** 新道 : 31.6 km<small>(大阪市 - km、兵庫県 - km、神戸市 8.3 km、岡山県 9.8 km、岡山市 - km、広島県 2.0 km、広島市 11.4 km、山口県 - km、北九州市 - km)</small><ref name="encho" /><ref group="注釈" name="encho" /> * [[指定区間]]:大阪市北区梅田一丁目3番 - 北九州市門司区老松町3番1(全線)ただし、以下の区間を除く。 ** 明石市立石一丁目4番1(和坂交差点) - 明石市魚住町清水井桶田2149番1(清水交差点) - 姫路市本町241番(大手前交差点) - 兵庫県揖保郡太子町山田字美之路591番2([[太子東ランプ|太子東IC]]):[[第二神明道路]]・[[加古川バイパス]]・[[姫路バイパス]]と並行する区間) ** 福山市神村町字伊勢山下6000番2([[神村ランプ|松永バイパス東口交差点]]) - 尾道市正徳町535番17(バイパス合流部) - 尾道市福地町620番1(福地IC):[[松永道路]]・[[尾道バイパス]]と並行する区間 ** 尾道市正徳町535番17(バイパス合流部) - 三原市糸崎八丁目167番23 - 三原市糸崎八丁目206番2(糸崎ランプ):[[木原道路]]・[[三原バイパス]]と並行する区間 ** 広島市[[西区 (広島市)|西区]]庚午北一丁目418番1([[西広島バイパス]]入口交差点・[[西広島バイパス]]出口交差点) - 広島市[[佐伯区]]海老園二丁目310番3(佐伯区役所) - 廿日市市地御前五丁目1929番21(西広島ランプ):[[西広島バイパス]]と並行する区間([[宮島街道]]) == 歴史 == [[ファイル:Okayama map circa 1930.PNG|thumb|1930年(昭和5年)頃の岡山市街。変更前の経路が国道として「山陽道」と記されている。]] 路線の前身は[[古代]]から存在した[[山陽道]]である。この山陽道は[[京都]]を起点とし、[[大阪市|大阪]]を経由せず[[神戸]]に直接向かい[[山陽地方]]を東西に抜けて[[九州]]へ至る。 [[1876年]]([[明治]]9年)に[[s:道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム|太政官達第60号(道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム)]]により一等国道となる{{sfn|社団法人中国建設弘済会|2007|p=205}}。 [[1885年]](明治18年)2月24日に[[内務省 (日本)|内務省]][[告示]]第6号「[[s:國道表 (明治十八年二月二十四日)|國道表]]」により國道三號「東京ヨリ神戸港ニ達スル路線」、國道四號「東京ヨリ長崎港ニ達スル路線」に指定されたがいずれも大阪を通らない経路が採られ、現在の[[大阪府]][[大阪市]] - [[兵庫県]][[西宮市]]に相当する区間は二十六號「大坂府ト廣島鎭臺トヲ拘聯スル路線」として指定された。 [[1920年]]([[大正]]9年)4月1日に[[s:道路法 (大正八年法律第五十八号)|道路法]]に基づく「[[s:國道路線認定ノ件 (大正九年四月一日)|路線認定]]」が施行され、國道二號「東京市ヨリ鹿兒島縣廳所在地ニ達スル路線(甲)」として指定されて現在の[[国道1号]]、国道2号、[[国道3号]]に相当する路線が誕生し、初めて大阪経由となる。 [[1926年]](大正15年)6月9日に、重要性が増した[[倉敷市|倉敷]]を通過させるために[[岡山県]][[岡山市]] - [[広島県]][[沼隈郡]][[津之郷村]]<ref group="注釈">現在の[[福山市]]津之郷町。</ref>間の<small>旧</small>山陽道を踏襲する本国道を県道とし、<small>旧</small>[[鴨方往来]]を踏襲する県道{{refnest|group="注釈" |当時の県道は、岡山県道岡山玉島線、岡山県道玉島笠岡線、広島県道・岡山県道福山笠岡線{{sfn|福山市史編纂委員会|1983|pp=744-745}}、広島県道広島福山線{{sfn|福山市史編纂委員会|1983|pp=744-745}}。}}を本国道とする{{sfn|岡山県史編纂委員会|1987|p=107}}{{sfn|小田郡教育會|1941|p=387}}経路変更が決まる。変更後の経路で[[高梁川]]の[[霞橋]]は総工費48万9000円の4分の3を国から補助を得て架け替え{{sfn|社団法人中国建設弘済会|2007|p=207}}られた。 [[1928年]]([[昭和]]3年)7月に霞橋<ref group="注釈">現在の霞橋側道橋。</ref>の架け替えが完了{{sfn|社団法人中国建設弘済会|2007|p=207}}する。[[1929年]](昭和4年)から新経路へ移行{{sfn|福山市史編纂委員会|1983|pp=744-745}}{{sfn|津之郷町史編纂委員会|2012|p=134}}し、現在の[[北区 (岡山市)|岡山市中心部]]から[[倉敷市]]中心部 - [[浅口市]] - [[浅口郡]][[里庄町]] - [[笠岡市]] - [[福山市]]中心部を経て福山市津之郷町へ至る経路{{refnest|group="注釈" |岡山市から浅口市境にかけての本国道は岡山バイパス、玉島バイパスへの移行に伴い、現在は[[岡山県道21号岡山児島線]](一部) - [[岡山県道162号岡山倉敷線]](全線) - [[国道429号]](一部)となっている。}}が本国道となり、現在の岡山市中心部より[[総社市]]([[吉備路]]) - 倉敷市[[真備町]] - [[小田郡]][[矢掛町]] - [[井原市]] - 福山市[[神辺町]]を経て福山市津之郷町へ至る経路は県道{{refnest|group="注釈" |当時の県道は、岡山県道岡山井原線{{sfn|小田郡教育會|1941|pp=387, 468-469}}、広島県道・岡山県道福山井原線、広島県道尾道井原線{{sfn|福山市史編纂委員会|1983|p=745}}。}}となる。新経路は国道に昇格しても直ちに整備されず{{sfn|津之郷町史編纂委員会|2012|p=134}}{{sfn|福山市史編纂委員会|1983|p=745}}、<small>旧</small>鴨方往来は[[戦後]]に自動車通行量が増加すると笠岡市民が「日本一狭い国道」{{sfn|社団法人中国建設弘済会|2007|p=209}}と称するほど狭隘で屈曲した悪路で、県道に降格した<small>旧</small>山陽道が[[1960年代]]初頭まで東西の主要交通路{{refnest|group="注釈" |広島県[[深安郡]][[神辺町]](現・福山市)では九州方面から阪神地方へ向かう長距離自動車の通過交通が問題になり、[[1957年]]([[昭和]]32年)[[8月28日]]に[[根本龍太郎]][[建設大臣]]による現地視察が行われたほか、<small>旧</small>山陽道を踏襲する広島県道福山井原線の改修を求めて建設大臣への陳情が行われた<ref>{{Cite news |title=根本建設大臣 来町 |newspaper=神邊町廣報 第42号 |date=1957-10-01 |author=神辺町広報編集事務室 |publisher=深安郡神辺町役場}}</ref><ref>{{Cite news |title=陳情 建設大臣へ 道路改修など |newspaper=神邊町廣報 第42号 |date=1957-10-01 |author=神辺町広報編集事務室 |publisher=深安郡神辺町役場}}</ref>。また岡山県井原市では<small>旧</small>山陽道を踏襲する岡山県道福山井原線が一次改築されるまでの間の交通対策として[[1959年]](昭和34年)[[6月12日]]の岡山県公安委員会告示第51号により上出部町402番地先(的場)から下出部町676番地先(出部大曲り)までの岡山県道福山井原線(近世山陽道)を西行きとし、下出部町676番地先(出部大曲り)から井原町166の3地先(昭和通り)までの井原市道井原笹賀線(中世山陽道{{sfn|岡山県立博物館|1984|p=68}})を東行きとする一方通行が実施されていた<ref>{{Cite news |title=新しくできた 一方通行 警察だより |newspaper=第99号 井原市広報 |date=1959-07-10 |publisher=井原市役所}}</ref>。}}を担った。地図上で変更後経路の国道収載は戦後以降である。 [[1938年]]([[昭和]]13年)[[7月5日]]、[[阪神大水害]]により神戸市内一帯が冠水、国道が寸断される<ref>水源地が決壊、阪神沿線に濁流『東京朝日新聞』(昭和13年7月6日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p227-228 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 [[1962年]](昭和37年)兵庫県神戸市内の国道2号の経路は、昭和37年11月19日付建設省告示第2908号において変更される。変更前の経路は、三宮東交差点を西進し、[[兵庫県道21号神戸明石線]]から[[国道28号]]を経て現国道2号の東尻池交差点へと至るルートであった。 この変更後、[[国道174号]]が最短国道となった。 === 年表 === <!-- 戦後の新道路法施行後の出来事のみ記述。--> * [[1952年]]([[昭和]]27年)[[12月4日]] - 新道路法に基づく「[[s:一級国道の路線を指定する政令 (昭和二十七年)|路線指定]]」で、[[大阪府]][[大阪市]] - [[福岡県]][[門司市]]間の「[[一級国道]]2号」として指定される。 * [[1963年]](昭和38年) - この年度で全線の一次改築が完了{{sfn|建設省中国地方建設局|1982|p=75}}する。 * [[1965年]](昭和40年)[[4月1日]] - 道路法改正により一級と二級の区別が撤廃されて「一般国道2号」となる。 === 並行する旧街道 === * [[山陽道]]([[西国街道]]):岡山県岡山市 - 広島県福山市の間は除く。[[山陽自動車道]]と区別するため、多くは「旧山陽道」と称される。 * [[鴨方往来]]:岡山県岡山市 - 広島県福山市 == 路線状況 == [[File:Sakurabashi Intersection in 201409.JPG|thumb|[[桜橋交差点]]<br>([[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]曾根崎新地)]] [[File:R372-290.jpg|thumb|兵庫県姫路市 下寺町交差点(東側から)<br />一方通行区間への西進は進入禁止とされ、市道へと迂回するよう指示がある。]] 大阪から神戸にかけての区間は従来、「第二阪神国道」である[[国道43号]]に対して「第一阪神国道」や「一国(いちこく)」と略称されていたが、近年は国道2号を指して「にこく」と呼称する者<ref group="注釈">同様の混乱は、[[東京都|東京]]と[[横浜市|横浜]]の[[京浜]]間においても、「第一京浜国道」[[国道15号]]と「第二京浜国道」[[国道1号]]の間でも発生している。</ref>もおり混乱も散見される。この区間は[[大正]]時代に[[阪神国道電軌]]の資金で建設され、[[1975年]](昭和50年)に廃止されるまで[[路面電車]]の[[阪神国道線]]が[[併用軌道]]で通過していた。 兵庫県の姫路市や加古川市の一部区間は、多大な交通量の対策として国道として極めて稀な[[一方通行]]規制<ref group="注釈">双方とも、東行きのみが国道に指定され、西行きの国道に実質的に相当する一方通行の市道がある。関連項目も参照のこと。</ref>を執り、兵庫県内は交通量が多い区間で[[バイパス道路|バイパス]]建設の採用が多い。 岡山県は岡山市[[東区 (岡山市)|東区]]から[[浅口市]]、[[笠岡市]]の一部区間でバイパスが建設されている。バイパス供用後に当時の現道は県と市へ順次移管されたが、岡山市中心部は2016年(平成28年)3月31日まで別線として指定区間<ref>{{Cite press release |和書 |title=岡山市内における一般国道2号の路線名称が変わります |url=http://www.cgr.mlit.go.jp/okakoku/news/2015/contents/oshirase_71.pdf |format=[[PDF]] |publisher=国土交通省中国地方整備局 岡山国道事務所 |date=2016-03-30 |archiveurl= https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10341921/www.cgr.mlit.go.jp/okakoku/news/2015/contents/oshirase_71.pdf|archivedate=2016-04-01 |accessdate=2023-11-23}}</ref>が残存した。 [[尾道バイパス]]以西の広島・山口両県では、急カーブが連続する区間で直進矢印(↑)を最短約1[[メートル]] (m) 間隔で路面に標記した「(対向車線はみ出しと逆走防止のための)[[視線誘導施設|視線誘導標示]]」が各所に見られる。 広島県内の[[広島岩国道路]]は国道2号のバイパスとして建設された[[有料道路|一般有料道路]]だが、事実上は[[山陽自動車道]]と一体化している。 山口県内は[[小郡道路]]の[[小郡インターチェンジ (小郡道路)|小郡IC]]で[[国道9号]]と重複して下関市の印内交差点から再び国道2号の単独区間となる。国道9号は[[関門海峡]]に沿い[[下関駅]]がある中心街へ向かうが、国道2号は内陸部を通過して[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]手前で中心街へ向かう[[山口県道57号下関港線]]と分岐している。 国道2号を補完する目的で整備されて[[無料開放された道路一覧|後に無料開放された有料道路]]に、[[岡山ブルーライン]]と通称される[[岡山県道397号寒河本庄岡山線]]、欽明路道路と通称される[[山口県道15号岩国玖珂線]]、長府道路がある。 === バイパス === 国道2号のバイパスとして整備されている道路のみ記す。 '''兵庫県'''[[File:R002-2019-019.jpg|thumb|[[姫路バイパス]]<br>兵庫県姫路市飾磨区三宅]] * [[浜手バイパス]] * [[大阪湾岸道路]]西伸部 [[六甲アイランド北出入口|六甲アイランド北]] - 駒栄〔未供用〕 * {{Ja Exp Route Sign|E93}} [[第二神明道路]] * {{Ja Exp Route Sign|E94}} [[神戸西バイパス]](第二神明道路北線) * [[加古川バイパス]] * [[姫路バイパス]] * [[太子竜野バイパス]] * [[相生有年道路]]〔一部供用〕 '''岡山県'''[[File:R002 1-446.jpg|thumb|[[岡山バイパス]]<br>岡山県岡山市南区豊成]] * [[三石バイパス]] * [[岡山バイパス]] * [[玉島バイパス]] * [[玉島笠岡道路]]〔部分供用〕 * [[笠岡バイパス]]〔部分供用〕 '''広島県'''[[File:R054-020.jpg|thumb|[[新広島バイパス]]<br>([[国道54号]]の起点付近)<br>広島県広島市中区国泰寺町]] * 神島バイパス * [[福山道路]]〔未供用〕 * [[赤坂バイパス]] * {{Ja Exp Route Sign|E76}} [[松永道路]] * [[尾道バイパス]] * [[木原道路]] * [[三原バイパス]] * [[本郷バイパス (広島県)|本郷バイパス]] * [[田万里バイパス]] * [[西条バイパス]] * [[安芸バイパス]] * [[東広島バイパス]] * [[新広島バイパス]] * [[広島南道路]]〔部分供用〕 * [[西広島バイパス]] * {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]]([[山陽自動車道]]に[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|並行する一般国道自動車専用道路]]) '''広島県 - 山口県''' * [[岩国・大竹道路]]〔未供用〕 '''山口県''' * [[岩国バイパス]] * [[花岡拡幅|花岡バイパス]] * [[周南バイパス]] * [[防府バイパス]] * {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[小郡道路]] * [[厚狭・埴生バイパス]] * [[小月バイパス]] === 有料道路 === * {{Ja Exp Route Sign|E93}} [[第二神明道路]](兵庫県) * {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]]([[山陽自動車道]]に[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|並行する一般国道自動車専用道路]])(広島県) * [[関門トンネル (国道2号)|関門国道トンネル]](山口県 - 福岡県) === 通称 === * 第一阪神国道(通称:いちこく) {{sfn|佐藤健太郎|2015|p=71}}: 大阪府大阪市北区 - 兵庫県神戸市中央区 * [[ラーメン]]街道 - 兵庫県芦屋市 * [[曽根崎通]] : 大阪府大阪市 * [[宮島街道]] : 広島県広島市 - 広島県廿日市市 === 重複区間 === [[File:R250-058.jpg|thumb|[[国道250号]]との重複<br />岡山県瀬戸内市長船町長船]] * [[国道171号]](兵庫県西宮市・札場筋交差点 - 神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]]・三宮東交差点) * [[国道28号]](兵庫県神戸市[[長田区]]・東尻池交差点 - 明石市・狩口交差点) * [[国道250号]](兵庫県神戸市長田区・東尻池交差点 - 明石市・小久保交差点) * [[国道312号]](兵庫県姫路市[[御国野町国分寺]]・御国野交差点 - 姫路市市川橋通・姫路天神前交差点) * 国道250号(岡山県[[備前市]]・伊部東交差点 - 岡山市[[東区 (岡山市)|東区]]浅川・[[岡山バイパス]]東分岐点) * [[国道433号]](広島県廿日市市・上平良(かみへら)交差点 - 大竹市) * [[国道9号]](山口県山口市・[[小郡インターチェンジ (小郡道路)|交通センター前交差点]] - 下関市・印内交差点) * [[国道490号]](山口県宇部市車地・車地交差点 - 宇部市瓜生野・瓜生野交差点) === 海上区間 === 本州の山口県から九州の福岡県を結ぶ区間の[[関門海峡]]は、自動車専用道路の[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]と、自転車と歩行者用の人道トンネルがある<ref name="松波2008p86">[[#酷道をゆく|松波成行 2008]], p. 86.</ref>。 [[水底トンネル|海底トンネル]]で県境をまたぐ一般国道は国道2号と[[国道409号]]の[[東京湾アクアライン]]の2路線で、国道2号は歩行者の通行が可能<ref name="松波2008p86" />である。海底トンネルである関門トンネルが[[1958年]]([[昭和]]33年)に開通しているため、関門海峡の海上区間に国道の航路はない<ref name="松波2008p86" />。 === 道路施設 === ==== 主な橋梁 ==== 最も橋の数が多い国道は国道2号であることが知られており、2&nbsp;[[メートル|m]]以上の橋だけでもその数は1279箇所ある{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=145}}。 <!--独立記事があるもの、「大橋」と名の付くものを中心に掲載--> * 大阪府 ** [[淀川大橋]]([[新淀川]]、大阪市福島区 - 西淀川区) ** 神崎大橋([[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]、大阪市西淀川区) * 兵庫県 ** [[武庫大橋]]([[武庫川]]、尼崎市 - 西宮市) ** 加古川橋・新加古川大橋([[加古川]]、加古川市)※新加古川橋は、加古川バイパスの橋。 ** [[市川橋 (兵庫県)|市川橋]]([[市川 (兵庫県)|市川]]、姫路市) ** 姫路大橋([[市川 (兵庫県)|市川]]、姫路市) ※ 姫路バイパス ** 夢前橋([[夢前川]]、姫路市) ** 揖保川大橋([[揖保川]]、たつの市) * 岡山県 ** 備前大橋([[吉井川]]、瀬戸内市 - 岡山市東区) ** [[旭川大橋 (岡山市)|旭川大橋]]([[旭川 (岡山県)|旭川]]、岡山市中区 - 南区) ** 高梁川大橋([[高梁川]]、倉敷市) * 広島県 <!--** 神島橋([[芦田川]]、福山市)--> ** [[黄金橋 (広島市)|黄金橋]]([[猿猴川]]、広島市南区) ** [[平野橋 (広島市)|平野橋]]([[京橋川]]、広島市南区 - 広島市中区) ** [[新明治橋 (広島市)|新明治橋]]([[元安川]]、広島市中区) ** [[新住吉橋 (広島市)|新住吉橋]]([[旧太田川]]、広島市中区) ** [[新観音橋]]([[天満川 (広島県)|天満川]]、広島市中区 - 広島市西区) ** [[旭橋 (広島市)|旭橋]]([[太田川放水路]]、広島市西区) <!--** 栄橋([[小瀬川]]、大竹市 - 山口県玖珂郡和木町)--> * 山口県 ** 椹野川大橋([[椹野川]]、山口市) ==== 主なトンネル ==== [[ファイル:関門トンネル 下関側 入口.JPG|thumb|[[関門国道トンネル]]<br />(下関側車道出入口)<br /> 山口県下関市椋野町2丁目]] [[下関市]]と[[北九州市]]間の[[関門国道トンネル]]は車道に加えて歩行者用トンネルが設けられ、海底部は[[エレベーター|エレベータ]]{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=27-28}}で地上と連結させて国道2号の歩道施設の一部{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=27-28}}とされている。 * 兵庫県 ** 城山トンネル<!--曖昧さ回避。[[城山トンネル (山陽自動車道)]]は削除ずみ。[[Wikipedia:削除依頼/城山トンネル (山陽自動車道)]]-->([[太子町 (兵庫県)|揖保郡太子町]])※[[姫路バイパス]] * 岡山県 ** 三石第一トンネル([[備前市]]) * 広島県 ** 下木原トンネル([[三原市]]) ※ [[三原バイパス]] ** 時広トンネル(三原市) ※ 三原バイパス * 山口県 ** 防府第一トンネル([[防府市]]) ※ [[防府バイパス]] ** 防府第三トンネル(防府市) ※ 防府バイパス ** 長府トンネル([[下関市]]) ** [[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]](下関市 - 福岡県[[北九州市]][[門司区]]) ==== 道の駅 ==== 従来は沿道に整備がなかった[[道の駅]]が、[[2011年]]([[平成]]23年)にバイパス区間に開業された<!--情報源が分かりにくいためコメントアウト:{{Efn|これと対照的に日本海側を走る[[国道9号]]では、国道路線最多の22駅の道の駅がある(2015年現在)。}}-->{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=155}}。 * 岡山県 ** [[道の駅笠岡ベイファーム|笠岡ベイファーム]](笠岡市)([[笠岡バイパス]]上) * 広島県 ** [[道の駅みはら神明の里|みはら神明の里]](三原市)([[三原バイパス]]上) ** [[道の駅西条のん太の酒蔵|西条のん太の酒蔵]](東広島市)([[西条バイパス]]上) * 山口県 ** [[道の駅ソレーネ周南|ソレーネ周南]](周南市) ==== 休憩施設 ==== 自動車専用道路区間には[[サービスエリア]]・[[パーキングエリア]]が複数存在する。 * 兵庫県 ** [[明石サービスエリア]]([[第二神明道路]]) ** [[別所パーキングエリア]]([[姫路バイパス]]) ** [[姫路サービスエリア]]([[姫路バイパス]]) * 広島県 ** [[今津パーキングエリア]]([[松永道路]] 岡山・大阪方面にのみ設置) <!--記事に取り消し線は使用しないでください。--*[[尾道西パーキングエリア]](尾道バイパス 広島・下関方面にのみ設置)(2015年3月30日廃止)--> ** [[佐方サービスエリア]]([[西広島バイパス]]) === 事前通行規制区間 === 下記区間は[[事前通行規制区間]]で、雨量により通行止めされる。 * 兵庫県上郡町の一部 * 岡山県備前市(三石船坂 - 三石四十谷、三石木谷口 - 八木山、伊里中 - 東片上) 連続雨量250&nbsp;mmを超える場合に通行停止となる。 * 広島県三原市(木原 - 糸崎町) * 山口県岩国市(岩国 - 関戸) 連続雨量250&nbsp;mmを超える場合に通行停止となる<ref group="注釈">この区間は錦川のかつての急屈曲部における崖を削って建設された区間であり規制されているが、大部分の(高速道路を経由しない)長距離交通は上記の補完路線である欽明路道路(錦川に沿わず山岳部をトンネルで抜ける短絡道路)を経由するため、岩国市以東 - 周南市以西間の交通にはほぼ影響はない。</ref>。 == 地理 == === 通過する自治体 === * [[大阪府]] ** [[大阪市]]([[北区 (大阪市)|北区]] - [[福島区]] - [[西淀川区]]) * [[兵庫県]] ** [[尼崎市]] - [[西宮市]] - [[芦屋市]] - [[神戸市]]([[東灘区]] - [[灘区]] - [[中央区 (神戸市)|中央区]] - [[兵庫区]] - [[長田区]] - [[須磨区]] - [[垂水区]]) - [[明石市]] - [[加古川市]] - [[高砂市]] - [[姫路市]] - [[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]] - [[たつの市]] - [[相生市]] - [[赤穂市]] - [[赤穂郡]][[上郡町]] * [[岡山県]] ** [[備前市]] - [[瀬戸内市]] - [[岡山市]]([[東区 (岡山市)|東区]] - [[中区 (岡山市)|中区]] - [[南区 (岡山市)|南区]]<!-- 青江で北区と南区の境を通る -->) - [[都窪郡]][[早島町]] - [[倉敷市]] - [[浅口市]] - [[浅口郡]][[里庄町]] - [[笠岡市]] * [[広島県]] ** [[福山市]] - [[尾道市]] - [[三原市]] - [[竹原市]] - [[東広島市]] - [[広島市]]([[安芸区]]) - [[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[海田町]] - 広島市(安芸区 - [[南区 (広島市)|南区]] - [[中区 (広島市)|中区]] - [[西区 (広島市)|西区]] - [[佐伯区]]) - [[廿日市市]] - [[大竹市]] * [[山口県]] ** [[玖珂郡]][[和木町]] - [[岩国市]] - [[周南市]] - [[下松市]] - 周南市 - [[防府市]] - [[山口市]] - [[宇部市]] - [[山陽小野田市]] - [[下関市]] * [[福岡県]] ** [[北九州市]]([[門司区]]) === 交差する道路 === <!-- 一般国道・高速自動車国道・自動車専用道路等を記載 --> ※ バイパスのうち現道となっていないもの区間の接続路線については各記事を参照。 ==== 現道 ==== '''近畿地方整備局管内''' * 大阪府 ** [[国道1号]]・[[国道25号]]・[[国道176号]](※国道1号重複=[[国道163号]]、国道25号重複=[[国道26号]]・[[国道165号]])(大阪市北区・[[梅田新道]]交差点起点) * 兵庫県 ** [[国道171号]](西宮市・札場筋交差点 -(重複)- 神戸市中央区・三宮東交差点) ** [[国道43号]](神戸市灘区・岩屋交差点) ** [[阪神高速3号神戸線]][[生田川出入口]](神戸市中央区) ** [[阪神高速32号新神戸トンネル]]国道2号出入口(神戸市中央区) ** [[国道174号]](神戸市中央区・税関前交差点) ** [[京町筋]](神戸市中央区・京橋交差点) ** [[阪神高速3号神戸線]][[柳原出入口]](神戸市兵庫区) ** [[阪神高速3号神戸線]][[湊川出入口]](神戸市長田区) ** [[国道28号]](神戸市長田区・東尻池交差点 -(重複)- 明石市・狩口交差点) ** [[国道250号]](神戸市長田区・東尻池交差点 -(重複)- 明石市・和坂交差点 -(重複)- 明石市・小久保交差点) ** [[阪神高速3号神戸線]][[若宮出入口]](神戸市須磨区) ** [[国道175号]](※国道175号重複=[[国道427号]])(明石市・和坂交差点 - (重複) - 神戸市西区・[[玉津インターチェンジ|玉津IC]]) ** 国道2号旧道(明石市・和坂交差点) ** [[東播磨南北道路]](加古川市・[[加古川中央ジャンクション|加古川中央JCT]]) ** 国道2号旧道 (高砂市・高砂北ランプ) ** [[国道250号]](高砂市・高砂西ランプ - (重複) - 高砂市・中筋交差点) ** [[国道312号]][[播但連絡道路]](姫路市・[[姫路ジャンクション|姫路JCT]]) ** 国道312号現道(姫路市・姫路東ランプ) ** [[国道179号]]・ 国道2号旧道(揖保郡太子町・[[太子東ランプ|太子東IC]]) ** [[国道29号]](姫路市・[[太子上太田ジャンクション|太子上太田JCT・IC]]) ** 国道179号(たつの市・[[福田ランプ]]) ** [[国道373号]](赤穂市・有年原交差点) '''中国地方整備局管内''' * 岡山県 ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]] 11 [[備前インターチェンジ (山陽自動車道)|備前IC]](備前市) ** [[国道374号]](備前市・伊部東交差点) ** [[国道250号]](備前市・伊部東交差点 -(重複)- 岡山市東区・岡山バイパス東合流部) ** [[岡山ブルーライン]](岡山県道397号寒河本庄岡山線)[[君津インターチェンジ (岡山県)|君津JCT・IC]](岡山市東区) ** [[国道30号]](岡山市北区・青江交差点) ** [[国道180号]][[岡山西バイパス]](岡山市南区・大樋橋西交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道・{{Ja Exp Route Sign|E30}} [[瀬戸中央自動車道]] 1 [[早島インターチェンジ|早島IC]](都窪郡早島町) ** [[国道429号]](倉敷市・大西交差点・玉島阿賀崎) ** 国道429号・国道2号[[玉島笠岡道路]](倉敷市・玉島西IC) * 広島県 ** [[国道182号]](福山市・明神町交差点)(※国道182号重複=[[国道314号]]) ** [[国道313号]](福山市・府中分かれ交差点) ** 国道2号旧道(福山市・神村ランプ) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山陽自動車道]] [[福山西インターチェンジ|福山西IC]](福山市) ** {{Ja Exp Route Sign|E76}} [[西瀬戸自動車道]] [[西瀬戸尾道インターチェンジ|西瀬戸尾道IC]](尾道市) ** [[国道184号]](尾道市・栗原IC) ** 国道2号旧道(尾道市・福地IC) ** 国道2号旧道(三原市・糸崎ランプ) ** [[国道432号]](竹原市・新庄交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E75}} [[東広島呉自動車道]]([[国道375号]]) 2 [[上三永インターチェンジ|上三永IC]](東広島市) ** [[国道375号]][[御薗宇バイパス]](東広島市・御薗宇交差点) ** [[国道486号]](東広島市・溝迫交差点) ** [[国道31号]](安芸郡海田町・大正交差点) ** 国道2号[[東広島バイパス]](安芸郡海田町・海田ランプ) ** [[広島高速道路2号線]][[東雲出入口]](広島市南区) ** [[国道487号]](広島市南区・平野橋東交差点) ** [[国道54号]](※国道54号重複=[[国道183号]]・[[国道191号]]・[[国道261号]])(広島市中区・市役所前交差点) ** 国道2号旧道(宮島街道)(広島市西区・西広島バイパス入口交差点) ** [[国道433号]](廿日市市・上平良交差点 -(重複)- 大竹市・北栄交差点)(※国道433号重複=[[国道488号]]) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]] 32-1 [[廿日市インターチェンジ|廿日市IC]](廿日市市) ** 国道2号旧道(宮島街道)(廿日市市・西広島ランプ) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[広島岩国道路]] 32-3 [[大竹インターチェンジ|大竹IC]](大竹市) ** [[国道186号]](大竹市・みどり橋東詰交差点) * 山口県 ** [[国道188号]](※国道188号重複=[[国道189号]])(岩国市・立石交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 34 [[岩国インターチェンジ|岩国IC]](岩国市) ** [[国道187号]](岩国市・錦橋交差点) ** [[国道437号]](岩国市・八幡下交差点) ** [[国道376号]](岩国市・郵便局前交差点) ** [[国道188号]](下松市・末武中交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 37 [[徳山東インターチェンジ|徳山東IC]](周南市) ** [[国道315号]](周南市・三田川交差点) ** [[国道489号]](周南市・大神交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 38 [[徳山西インターチェンジ|徳山西IC]](周南市) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 39 [[防府東インターチェンジ|防府東IC]](防府市) ** [[国道262号]](防府市・沖高井交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 40 [[防府西インターチェンジ|防府西IC]](防府市) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 41 [[山口南インターチェンジ|山口南IC]](山口市) ** [[国道9号]](山口市・[[小郡インターチェンジ (小郡道路)|交通センター前交差点]] -(重複)- 下関市・印内交差点) ** [[国道190号]](山口市・[[岡屋インターチェンジ|岡屋IC]]) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} [[山口宇部道路]] [[嘉川インターチェンジ|嘉川IC]](山口市) ** [[国道490号]](宇部市・車地交差点 -(重複)- 瓜生野交差点) ** [[国道316号]](山陽小野田市・杣尻交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2}} 山陽自動車道 45 [[埴生インターチェンジ|埴生IC]](山陽小野田市) ** [[国道190号]](下関市) ** [[国道491号]](下関市・才川交差点) ** {{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]]・{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[関門橋]](関門自動車道) 37 [[下関インターチェンジ|下関IC]](下関市) '''九州地方整備局管内''' * 福岡県 ** [[国道3号]](北九州市門司区・老松公園前交差点終点) ==== 旧道 ==== '''兵庫県管理区間''' * 国道2号現道(※国道2号現道重複=[[国道175号]]・[[国道427号]])(明石市・和坂交差点) * [[国道250号]](明石市・小久保交差点) * 国道2号現道(加古川バイパス・姫路バイパス)(高砂市・高砂北ランプ) * [[国道312号]](姫路市・御国野交差点 -(重複)- 姫路天神前交差点) * [[国道372号]](姫路市・下寺町交差点) * 国道2号現道(姫路バイパス・太子竜野バイパス)(揖保郡太子町・[[太子東ランプ|太子東IC]]) * [[国道179号]](揖保郡太子町・[[太子東ランプ|太子東IC]]) '''広島県管理区間''' * 国道2号現道(赤坂バイパス・松永道路)(福山市・神村ランプ) * [[国道317号]]旧道(尾道市・尾道大橋入口交差点) * [[国道184号]](尾道市・祇園橋東詰交差点<ref group="注釈">当交差点は全方向終日右折禁止となっており、当線西行きから184号へは4つ手前のしまなみ交流館前交差点を直進し、新浜橋東詰交差点を右折する。184号から当線西行きへは1つ先の交差点(名称なし)を右折する。</ref>) * 国道2号現道(尾道バイパス・木原道路)(福山市・福地IC) * [[国道185号]](三原市・糸崎8丁目交差点) * 国道2号現道(木原道路・三原バイパス)(三原市・糸崎ランプ) '''広島市・広島県管理区間''' * 国道2号現道(新広島バイパス・西広島バイパス)(広島市西区・西広島バイパス入口交差点) * 国道2号現道(西広島バイパス)(廿日市市・西広島ランプ) === 主な峠 === * [[鯰峠]]([[高さ#地理|標高]]100&nbsp;[[メートル|m]]) : 兵庫県赤穂市 - 赤穂郡上郡町 * [[船坂峠]](標高180&nbsp;m) : 兵庫県赤穂郡上郡町 - 岡山県備前市 * 廿木峠(標高120&nbsp;m) : 山口県岩国市 * [[椿峠 (山口県)|椿峠]](標高94&nbsp;m) : 山口県周南市 - 防府市 * 吉見峠(標高90&nbsp;m) : 山口県宇部市吉見 - 宇部市船木 * 談合峠(標高70&nbsp;m) : 山口県山陽小野田市 == ギャラリー == <gallery mode="nolines" widths="180" heights="120"> File:R002 1-010.jpg|起点、[[梅田新道]]交差点<br>大阪府大阪市北区曾根崎 File:兵庫県明石市内.jpg|[[国道28号]]との分岐<br>兵庫県明石市大蔵八幡町 File:R429-0000.jpg|岡山県岡山市東区金田 File:Route 2 in Hikino-cho, Fukuyama, Hiroshima, Japan.jpg|[[松永道路]]<br>広島県福山市神村町 File:R031-086.jpg|広島県三原市糸崎町 File:山口県 山陽小野田市内.jpg|山口県山陽小野田市埴生 File:R3-1-016.jpg|終点、老松公園前交差点<br>([[国道3号]]、起点)<br>福岡県北九州市門司区 </gallery> == 国道2号を舞台とする歌曲 == 日本の[[ミュージシャン]]の楽曲に出身地の道路として登場する。 * [[国道二号線]] : 神戸市出身のパンクバンド、[[ガガガSP]]の4thシングル曲{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=238&ndash;239|ps=、「生まれ故郷の歌」より。}}。 * ルート2 : 広島市出身の[[奥田民生]]のソロ初アルバム『[[29 (奥田民生のアルバム)|29]]』に収められた歌曲{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=238&ndash;239|ps=、「生まれ故郷の歌」より。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎 |authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター) |year=2014 |title=ふしぎな国道 |publisher=[[講談社]] |series=講談社現代新書 |isbn=978-4-06-288282-8 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎 |authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター) |date=2015-11-25 |title=国道者 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-339731-1 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=津之郷町史編纂委員会 |year=2012 |title=福山市津之郷町史 |ref=harv}} * {{Cite journal |和書 |author=松波成行<!--|author2=渡辺郁麻 |author3=金町ゴールデン |author4=大山顕 |author5=dark-RX|author6=古澤誠一郎--> |title=国道2号 |date=2008-03-20 |publisher=[[イカロス出版]] |journal=酷道をゆく |pages=86 |isbn=978-4-86320-025-8 |ref=酷道をゆく}} * {{Cite book |和書 |author=社団法人中国建設弘済会 |year=2007 |title=中国地方 地域づくりと土木のあゆみ くらしを支えた叡智 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=岡山県史編纂委員会 |year=1987 |title=岡山県史 |volume=第十一巻 近代II |publisher=岡山県庁 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=岡山県立博物館 |year=1984 |title=昭和59年度 特別展 みち - 交通の変遷と風俗 - }} * {{Cite book |和書 |author=福山市史編纂委員会 |year=1983 |title=福山市史 |volume=下 |publisher=国書刊行会 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=建設省中国地方建設局 |year=1982 |title=中国地方 建設局 五十年のあゆみ |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=小田郡教育會 |year=1941 |title=小田郡誌 |volume=下 |ref=harv}} == 関連項目 == * [[日本の一般国道一覧]] * [[近畿地方の道路一覧]] * [[中国地方の道路一覧]] * [[九州地方の道路一覧]] * [[海上国道]] * [[路面電車]] * [[阪神国道線]] * [[阪神国道駅]] * [[阪神間モダニズム]] * [[山陽本線]] * [[阪神本線]] * 加古川市道平野西河原線:加古川市内の東行き一方通行規制区間に対する、西行き車線としての機能を持つ道路 * [[姫路市道十二所前線]]:姫路市内の東行き一方通行規制区間に対する、西行き車線としての機能を持つ道路 == 外部リンク == {{Commonscat|Route 2 (Japan)}} {{osm box|r|2064722}} * '''[https://www.kkr.mlit.go.jp/ 近畿地方整備局]''' ** [https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/ 大阪国道事務所] : 大阪府の区間を管理。 ** [https://www.kkr.mlit.go.jp/hyogo/ 兵庫国道事務所] : 尼崎市 - 明石市和坂交差点の指定区間を管理。 ** [https://www.kkr.mlit.go.jp/himeji/ 姫路河川国道事務所] : 明石市明石西IC - たつの市門前交差点 - 赤穂郡上郡町の指定区間(加古川バイパス・姫路バイパス・太子竜野バイパスを含む)を管理。 * '''[https://www.cgr.mlit.go.jp/ 中国地方整備局]''' ** [https://www.cgr.mlit.go.jp/okakoku/ 岡山国道事務所] : 岡山県の区間(玉島笠岡道路を含む)を管理。 ** [https://www.cgr.mlit.go.jp/fukuyama/ 福山河川国道事務所] : 福山市 - 三原市の指定区間(松永道路・尾道バイパス・木原道路を含む)を管理。 ** [https://www.cgr.mlit.go.jp/hirokoku/ 広島国道事務所] : 竹原市 - 大竹市の指定区間(東広島バイパス・西広島バイパスを含む)を管理。 ** [https://www.cgr.mlit.go.jp/yamaguchi/ 山口河川国道事務所] : 山口県の区間(小郡道路を含む、関門トンネルを除く)を管理。 *** [https://www.cgr.mlit.go.jp/yamaguchi/iwakuni/top/ 岩国国道維持出張所] *** [https://www.cgr.mlit.go.jp/yamaguchi/yamaguchi/ 山口国道維持出張所] *** [https://www.cgr.mlit.go.jp/yamaguchi/ubekoku/ 宇部国道維持出張所] * [https://www.w-nexco.co.jp/ 西日本高速道路] : 関門トンネルを管理。 * '''[https://www.qsr.mlit.go.jp/ 九州地方整備局]''' ** [https://www.qsr.mlit.go.jp/kitakyu/ 北九州国道事務所] : 福岡県の区間(関門トンネルを除く)を管理。 * '''[http://web.pref.hyogo.lg.jp/ 兵庫県]''' ** [http://web.pref.hyogo.jp/kakogawadoboku/ 東播磨県民局加古川土木事務所] : 明石市 - 高砂市の指定区間外を管理。 ** [http://web.pref.hyogo.jp/himejidoboku/ 中播磨県民センター姫路土木事務所] : 姫路市の指定区間外を管理。 ** [http://web.pref.hyogo.lg.jp/tatsunodoboku/ 西播磨県民局龍野土木事務所] : 揖保郡太子町の指定区間外を管理。 * '''[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/ 広島県]''' ** [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/217/ 東部建設事務所] : 福山市の指定区間外を管理。 ** [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/218/ 東部建設事務所三原支所] : 尾道市 - 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ケーブルカー
ケーブルカー(英: Cable railway)とは、山岳の急斜面などを、鋼索(ケーブル)が繋がれた車両をウインチ等で巻き上げて運転する鉄道である。鋼索鉄道(こうさくてつどう)ともいう。また、車両に動力を積まないため推進効率に優れており、近年では山岳地帯のみならず都市や空港等での輸送にも用いられる。 一部ではロープウェイやゴンドラリフトなどの「普通索道」のことをケーブルカーということもあるが、日本では「鋼索鉄道」だけをケーブルカーと称することが一般的であり、本項でも鋼索鉄道についてのみ解説を行う。以下、単に「ケーブルカー」とある場合は「鋼索鉄道」のみを指す。日本のケーブルカーの多くは鉄道事業法による鉄道事業免許を受けているが、一部のケーブルカーは遊園地の遊具扱いであったり、旅館内のエレベーター扱いの場合もある。本項では基本的に日本のケーブルカーは鉄道事業法(旧地方鉄道法)に基づくものを扱うが、鉄道事業法に基づかなくても一般人が乗車できるケーブルカーについてはできるだけ列記する。 英語で Cable car といえば、日本語と同様にケーブルカーやロープウェイを指すこともあるが、アメリカ英語では一般的にはサンフランシスコ・ケーブルカーに見られるような、軌道下で常に動いているケーブルを多数の車両が掴んだり放したりすることで動くシステムの「循環式ケーブルカー」を指し、日本で見られる二両が交互に上下する「交走式ケーブルカー」とは全くシステムが異なる。英語での交走式ケーブルカーは、イタリアヴェズヴィアナ鋼索線のフニコラーレを由来とするFunicular(フニクラー)と称することが一般的であり(関連項目:)、イギリス英語でのCable carはロープウェイを指す。 方式としては主に以下のものがある。 交走式(つるべ式)のケーブルカーの軌道には単線交走式と複線交走式がある。複線交走式(複線二両交走式)は2つの車両(または2編成)がそれぞれ別の線路を昇り降りする。単線交走式のうち、2つの車両(または2編成)で運行する単線二両交走式では中間地点を複線として車両の行き違いができるようになっている。この線路の分岐部には可動部分がない。これは、車両の片側の車輪がフランジでレールを挟む溝車輪に、もう片方の車輪がフランジがない平車輪となっており、外部から操作することなく溝車輪の案内だけで自然に互いに別の線路を進むようになっているからである。(カール・ローマン・アプトの発明でアプトスイッチと呼ばれる) なお、複線と称していても、必ずしも複線交走式ではなく、単線交走式を並べたもの(単線並列式)もある。近鉄生駒鋼索線の宝山寺線は2つの単線二両交走式のケーブルカーが並んでいる。 交走式ケーブルカーの線路は、最急勾配が山上側の終端付近に、最緩勾配が山下側の終端付近になるように建設するのが最適とされる。車両の停止も巻上装置の操作によって行われるため、停止位置に近づくにつれて抵抗が大きくなる線形であれば、停止操作をスムーズに行うことができる。これに従わない線形の場合、停止時の巻上機操作が難しくなる。 動力は多くが電力で巻上装置を動かす方式を採用しているが、車両に水タンクを積み、そこへ水を入れ水の重みで水を抜いたもう片方の車両を引き上げる方式もある。一両交走式の場合は片方は重りなので、水を抜いて重りより軽くなれば上昇、水を入れて重くなれば下降する。この水重力式は日本では鉄道事業法の適用を受けたものには例がないが、遊戯施設としては高知県安芸郡馬路村のものが存在する。 車両は外部から引っ張って運転するので動力のための電力の供給は必要ないが、車内照明や自動ドアなどのためにバッテリーや架線、第三軌条などから電力を供給している。パンタグラフがついている車両があるのはそのためである。戸閉機やブレーキの動力源として空気圧縮機や電動油圧ポンプを搭載している例もある。 車両の構造は、傾斜に対して床が水平になるよう、平行四辺形状の車両を用いて車内は階段状になっているか、客室の床と山麓側の車輪との間が大きく空いていることが多い。特殊な物では北海道札幌市・藻岩山ミニケーブルカー(もーりすカー)が、車台の左右に「∧」形の支柱を立てて間に梁を渡し、そこにゴンドラリフト搬器に似た形のキャビンを吊り下げたブランコのような構造で、これを前後方向に2基並べて車両を構成しており、どんな傾斜でもキャビン内が常に水平を保つ構造となっている。 架線を有する場合も、架線が1本のみの場合と2本の場合がある。2本の場合、1本が電源供給用で、他の1本は通信用である。 車両の点検・整備のため、両終端駅構内の線路はピット構造となっている例が多い。車両に動力はないものの、急勾配で運転されることから、ケーブルの固定装置やブレーキ装置の点検・整備には、ケーブル自体や巻上機等とともに細心の注意が払われる。 ケーブルカーの軌間は、日本では他の鉄道と直通することがないため自由に決めることもできるが、枕木などの汎用品の利用で有利なことが多いため、JRなどと同じ1,067 mm軌間を採用しているものが多い。なお、世界では他の鉄道と直通する例としてイタリアのトリエステ市のトラムがあり、急勾配区間においてケーブルカーを補機として登坂している。 交走式ケーブルカーの車両に乗務している乗務員は必ず前方に乗務している。そのうえ、乗務員がいる箇所には、一見自動車のハンドルのような円形や、クランク状のハンドルがあることも多い。このため、よく「運転士」と勘違いされるが、実際には「車掌」が前方確認のために前方に乗務しているものであり、「運転士」は山上側の駅にある運転室に詰めていて巻上装置を操作している。円形やクランク状をしたハンドルはブレーキ(留置中の転動防止用の手ブレーキで、線路内に倒木等の障害が発生した際の緊急停止用にも使用する)であり、自動車のサイドブレーキに該当する。ブレーキを空気圧、または油圧作動とした場合は、ハンドルに代えて小型の非常コックやペダルが乗務員席に配置される。ブレーキとしては他にケーブル切断または弛緩、過速度を検知して自動的に作動する非常ブレーキ機構を備えており、急斜面で暴走しても停止できるように楔状の制動子でレールをはさみ込む等の方式を取っている。乗務員席には他に運転所と連絡するための通信送受話器や照明スイッチ類、ブレーキに空気圧や油圧を用いる場合は空気圧計・油圧計、放送機器等が備えられている。 ケーブルカーの呼称は通常旅客営業を目的とする鋼索鉄道に対して用いられるが、産業用に建設された鋼索鉄道(つまり貨物用ケーブルカー)を、通常インクライン(英語: Incline、傾斜(鉄道))と称する。山岳地帯での材木の輸送、ダム工事現場での資機材の輸送などに多用される。 日本国内に現存する恒久施設としては黒部トンネル端部と黒部川第四発電所を結ぶ関西電力のインクラインや、高知県安芸郡馬路村や神奈川県愛甲郡愛川町・清川村の宮ヶ瀬ダムにある物などがある。日本国外では、アメリカ合衆国ペンシルベニア州南西部の都市ピッツバーグにある2本のインクラインが知られている。 日本国内において過去、最も知られた導入事例のひとつは1891年から1948年まで運用された琵琶湖疏水のインクライン(蹴上インクライン・伏見インクライン)で、高低差がある水路間で船を往来させるため、蹴上インクラインでは京都市の南禅寺船溜と蹴上間の傾斜区間に軌道を敷設し、ワイヤーで牽引される「船受枠」という台車に船を載せ昇降させた。 なお、上記の馬路村のケーブルカーやピッツバーグのデュケイン・インクライン(Duquesne Incline)およびモノンガヘイラ・インクライン(Monongahela Incline)のように、産業用に建設されたインクラインを旅客用に転用したり、復元したりしたケースで「インクライン」の呼称がそのまま使用されることがある。またインクラインは単線式や循環式が多いが、黒部川第四発電所のインクラインは一般的な旅客用ケーブルカーと同じ交走式で、客室キャビンが着脱式になっており、客室キャビンを取り外すと巨大な荷台が現れて大きな貨物の輸送ができるようになっている。 16世紀初頭には既にオーストリアのザルツブルクのライスツークで木製のレールを利用したケーブルカーが運行されていた記録がある。 19世紀前半にはイギリスの各地の鉱山では既に定置式蒸気機関を使用して鉱石や石炭の搬出に使用されており、1825年に開業したストックトン・アンド・ダーリントン鉄道でも路線の大部分は定置式蒸気機関でロープを巻き上げていた。 1869年7月2日にニューオーリンズでP・G・T・ボーリガードによって発明された頭上の循環するロープを掴んだり離したりすることで推進するケーブルカーが実演された。彼は1869年11月30日に特許を取得した。1880年、イタリア・ヴェスヴィオ山の登山鉄道「ヴェズヴィアナ鋼索線」が開通(1984年に廃線)。 現存する世界最古のケーブルカーは、サンフランシスコで1873年に建設されたケーブルカーである。急坂の多いサンフランシスコにおいて、技術者アンドリュー・スミス・ハレディーが馬車に代わる輸送機関として考案し、建設した。その後、急坂のある地域以外でも路面電車に相当する公共交通機関として全米、さらには米国外の主要都市に建設された。また、山岳における公共交通機関としても建設が進められていった。 日本では1918年に開業した生駒鋼索鉄道(現在の近鉄生駒鋼索線)が最初のものである。大正時代末期から昭和時代初期にかけてロープウェイとともに全国各地に建設された。しかし昭和恐慌による観光需要の激減により新規建設は途絶え、さらに第二次世界大戦末期の戦局悪化により、もともと観光を目的としたものであったケーブルカー路線は大半が不要不急線に指定され、休止に追い込まれた。生き残ったものは山上にも町があり、観光以外の需要があるものだけだった。 戦後、1950年代頃から生活水準の回復・向上に伴い、観光需要が増加してきたため、不要不急線として休止されていた路線が復活したり、新規に路線が建設されたりした。しかし1970年代以降は、どのような地形でも建設できるうえに、土地買収が少なくて済み、環境破壊も少ないロープウェイが、新しく建設される登山用交通機関の主役となり、かつ国内観光需要が頭打ちとなったこともあり、ケーブルカーの新規建設は止まった。平成に入ると、モータリゼーションの進行(多くのケーブルカー路線は並行する観光登山道路がある)や国内観光需要の低下・観光スタイルが変化してきたこと(以前多かった寺社観光が減少したため、山上の寺社参拝のための路線が影響を受けている例など)などから利用客が減少するようになった。また、ロープウェイと異なり、現在は日本ではケーブルカーの量産や新規設計は行われていないために、古い設備の更新には多大の資金が必要であることもあり、外国から設備を輸入して更新した例もあるが、逆に資金負担に耐えられずに路線が廃止されたところもある。 かつては、旅館内に敷設されたケーブルカーの一部にも地方鉄道法に基づく正式な鉄道扱いのものがあったが、現在では長大なエレベーターやエスカレーターが設置可能になったこともあり、すべて廃止されている。鉄道扱いでないものは今でも各地に現存しているが、それも次第に傾斜地用のモノレール(スロープカー)で置換される傾向にある。 1873年にサンフランシスコでアンドリュー・スミス・ハリディ(英語版)によって馬車鉄道の代替として開発され、19世紀末から20世紀初頭の都市交通機関としてアメリカ合衆国で使用された。当時はまだ路面電車に使用されるような小型高出力の電動機がまだ充分ではなかったのでパワーステーションと呼ばれる据え置き式の(蒸気機関で作動する)巻き上げ機を使用するケーブルカーが有効だったという背景がある。高性能の路面電車の普及によりそれらの都市交通としてのケーブルカーは大半が20世紀初頭に運行を終えている。 近距離輸送の分野において比較的簡略な車両や設備で自動運行できる為、近年では新交通システムの一環である水平エレベーターとしての需要が高まりつつある。 ミニメトロやケーブル・ライナーや国内でもかつて運行されていた横浜博覧会のSKシステムや広島市安芸区の懸垂式モノレールであるスカイレール、空気浮上式の成田空港第2ターミナルシャトルシステムのような例もある。 鉄道事業法に基づく日本のケーブルカー営業路線は下記の通りである。 勾配(‰)の小数点以下は四捨五入 昇降機、遊戯施設などとして扱われている、鉄道事業法によらない日本のケーブルカー路線は下記の通りである。 鉄道事業法(または旧・地方鉄道法)に基づいていた日本のケーブルカーの廃止路線は下記の通りである。休止・廃止日は最終営業日の翌日。後継会社による場合を含め後に復活したものは除く。 鉄道事業法の期間限定営業免許に基づき、期間を限定して運行された日本のケーブルカーの廃止路線は下記の通りである。休止・廃止日は最終営業日の翌日。 鉄道事業法に基づくもの 鉄道事業法に基づかないもの
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"p", "text": "日本国内において過去、最も知られた導入事例のひとつは1891年から1948年まで運用された琵琶湖疏水のインクライン(蹴上インクライン・伏見インクライン)で、高低差がある水路間で船を往来させるため、蹴上インクラインでは京都市の南禅寺船溜と蹴上間の傾斜区間に軌道を敷設し、ワイヤーで牽引される「船受枠」という台車に船を載せ昇降させた。", "title": "インクライン" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、上記の馬路村のケーブルカーやピッツバーグのデュケイン・インクライン(Duquesne Incline)およびモノンガヘイラ・インクライン(Monongahela Incline)のように、産業用に建設されたインクラインを旅客用に転用したり、復元したりしたケースで「インクライン」の呼称がそのまま使用されることがある。またインクラインは単線式や循環式が多いが、黒部川第四発電所のインクラインは一般的な旅客用ケーブルカーと同じ交走式で、客室キャビンが着脱式になっており、客室キャビンを取り外すと巨大な荷台が現れて大きな貨物の輸送ができるようになっている。", "title": "インクライン" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "16世紀初頭には既にオーストリアのザルツブルクのライスツークで木製のレールを利用したケーブルカーが運行されていた記録がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "19世紀前半にはイギリスの各地の鉱山では既に定置式蒸気機関を使用して鉱石や石炭の搬出に使用されており、1825年に開業したストックトン・アンド・ダーリントン鉄道でも路線の大部分は定置式蒸気機関でロープを巻き上げていた。 1869年7月2日にニューオーリンズでP・G・T・ボーリガードによって発明された頭上の循環するロープを掴んだり離したりすることで推進するケーブルカーが実演された。彼は1869年11月30日に特許を取得した。1880年、イタリア・ヴェスヴィオ山の登山鉄道「ヴェズヴィアナ鋼索線」が開通(1984年に廃線)。", "title": "歴史" }, { 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"戦後、1950年代頃から生活水準の回復・向上に伴い、観光需要が増加してきたため、不要不急線として休止されていた路線が復活したり、新規に路線が建設されたりした。しかし1970年代以降は、どのような地形でも建設できるうえに、土地買収が少なくて済み、環境破壊も少ないロープウェイが、新しく建設される登山用交通機関の主役となり、かつ国内観光需要が頭打ちとなったこともあり、ケーブルカーの新規建設は止まった。平成に入ると、モータリゼーションの進行(多くのケーブルカー路線は並行する観光登山道路がある)や国内観光需要の低下・観光スタイルが変化してきたこと(以前多かった寺社観光が減少したため、山上の寺社参拝のための路線が影響を受けている例など)などから利用客が減少するようになった。また、ロープウェイと異なり、現在は日本ではケーブルカーの量産や新規設計は行われていないために、古い設備の更新には多大の資金が必要であることもあり、外国から設備を輸入して更新した例もあるが、逆に資金負担に耐えられずに路線が廃止されたところもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "かつては、旅館内に敷設されたケーブルカーの一部にも地方鉄道法に基づく正式な鉄道扱いのものがあったが、現在では長大なエレベーターやエスカレーターが設置可能になったこともあり、すべて廃止されている。鉄道扱いでないものは今でも各地に現存しているが、それも次第に傾斜地用のモノレール(スロープカー)で置換される傾向にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1873年にサンフランシスコでアンドリュー・スミス・ハリディ(英語版)によって馬車鉄道の代替として開発され、19世紀末から20世紀初頭の都市交通機関としてアメリカ合衆国で使用された。当時はまだ路面電車に使用されるような小型高出力の電動機がまだ充分ではなかったのでパワーステーションと呼ばれる据え置き式の(蒸気機関で作動する)巻き上げ機を使用するケーブルカーが有効だったという背景がある。高性能の路面電車の普及によりそれらの都市交通としてのケーブルカーは大半が20世紀初頭に運行を終えている。", "title": "新交通システムとして" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "近距離輸送の分野において比較的簡略な車両や設備で自動運行できる為、近年では新交通システムの一環である水平エレベーターとしての需要が高まりつつある。 ミニメトロやケーブル・ライナーや国内でもかつて運行されていた横浜博覧会のSKシステムや広島市安芸区の懸垂式モノレールであるスカイレール、空気浮上式の成田空港第2ターミナルシャトルシステムのような例もある。", "title": "新交通システムとして" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "鉄道事業法に基づく日本のケーブルカー営業路線は下記の通りである。", "title": "日本における営業路線一覧" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "勾配(‰)の小数点以下は四捨五入", "title": "日本における営業路線一覧" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "昇降機、遊戯施設などとして扱われている、鉄道事業法によらない日本のケーブルカー路線は下記の通りである。", "title": "日本における営業路線一覧" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "鉄道事業法(または旧・地方鉄道法)に基づいていた日本のケーブルカーの廃止路線は下記の通りである。休止・廃止日は最終営業日の翌日。後継会社による場合を含め後に復活したものは除く。", "title": "日本における営業路線一覧" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "鉄道事業法の期間限定営業免許に基づき、期間を限定して運行された日本のケーブルカーの廃止路線は下記の通りである。休止・廃止日は最終営業日の翌日。", "title": "日本における営業路線一覧" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "", "title": "日本における営業路線一覧" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鉄道事業法に基づくもの", "title": "ギャラリー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "鉄道事業法に基づかないもの", "title": "ギャラリー" } ]
ケーブルカーとは、山岳の急斜面などを、鋼索(ケーブル)が繋がれた車両をウインチ等で巻き上げて運転する鉄道である。鋼索鉄道(こうさくてつどう)ともいう。また、車両に動力を積まないため推進効率に優れており、近年では山岳地帯のみならず都市や空港等での輸送にも用いられる。
{{出典の明記|date=2016年8月20日 (土) 08:48 (UTC)}} {{混同|索道|redirect=鋼索鉄道|x1=リフト・ゴンドラ等を指す}} [[ファイル:Inori01a.jpg|thumb|240px|right|日本最初の営業用ケーブルカー[[近鉄生駒鋼索線|生駒ケーブル]]コ1形]] '''ケーブルカー'''({{Lang-en-short|Cable railway}})とは、[[山|山岳]]の急斜面などを、[[鋼索]](ケーブル)が繋がれた[[車両]]を[[ウインチ]]等で巻き上げて[[運転]]する[[鉄道]]である。'''鋼索鉄道'''(こうさくてつどう)ともいう。また、車両に動力を積まないため推進効率に優れており、近年では[[山岳地帯]]のみならず[[都市]]や[[空港]]等での[[旅客輸送|輸送]]にも用いられる<ref name="et-history1" />。 == 定義 == 一部では[[ロープウェイ]]や[[ゴンドラリフト]]などの「普通[[索道]]」のことをケーブルカーということもあるが、[[日本]]では「'''鋼索鉄道'''」だけをケーブルカーと称することが一般的であり、本項でも鋼索鉄道についてのみ解説を行う。以下、単に「ケーブルカー」とある場合は「鋼索鉄道」のみを指す。日本のケーブルカーの多くは[[鉄道事業法]]による鉄道事業免許を受けているが、一部のケーブルカーは[[遊園地]]の[[遊具]]扱いであったり、[[旅館]]内の[[エレベーター]]扱いの場合もある。本項では基本的に日本のケーブルカーは鉄道事業法(旧[[地方鉄道法]])に基づくものを扱うが、鉄道事業法に基づかなくても一般人が乗車できるケーブルカーについてはできるだけ列記する。 [[File:San Francisco Cable Car Power House.jpg|thumb|right|200 px|サンフランシスコ・ケーブルカー全路線のケーブルが集まる動力室。同所はケーブルカー博物館にもなっている。]] [[英語]]で [[:en:Cable car (railway)|Cable car]] といえば、日本語と同様にケーブルカーやロープウェイを指すこともあるが、[[アメリカ英語]]では一般的には[[サンフランシスコ・ケーブルカー]]に見られるような、[[軌道 (鉄道)|軌道]]下で常に動いているケーブルを多数の車両が掴んだり放したりすることで動くシステムの「循環式ケーブルカー」を指し<ref name="ohga28-29">大賀寿郎 『戎光祥レイルウェイリブレット1 路面電車発達史 ―世界を制覇したPCCカーとタトラカー』 P.28-29、戎光祥出版、2016年3月、ISBN 978-4-86403-196-7</ref>、日本で見られる二両が交互に上下する「交走式ケーブルカー」とは全くシステムが異なる。英語での交走式ケーブルカーは、[[イタリア]][[ヴェズヴィアナ鋼索線]]の[[フニクリ・フニクラ|フニコラーレ]]を由来とする[[:en:Funicular|Funicular]](フニクラー)と称することが一般的であり<ref name="ohga28-29" />(関連項目:)、[[イギリス英語]]での[[:en:Aerial tramway|Cable car]]はロープウェイを指す。 {{-}} == 方式 == {{Vertical_images_list |幅= 200px |枠幅= 200px | 1=Funicular Wheels 01.svg | 2=単線交走式ケーブルカーの車輪模式図 | 3=ケーブルカーの車輪.jpg | 4=単線交走式ケーブルカーの車輪<br>(東信貴ケーブル) | 5=2-rail Funicular Railway 01.svg | 6=単線交走式ケーブルカー分岐部の模式図<br>黄:溝車輪専用線、青:平車輪専用線、緑:共用線 | 7=Rakutenchi cable-car 2.jpg | 8=行き違い地点の線路<br>(別府ラクテンチケーブル線) }} 方式としては主に以下のものがある。 ; 交走式(つるべ式) : 1本の長い鋼索(ケーブル)の両端に車両を繋ぎ、[[井戸]]の[[釣瓶]]のように一方の車両を電動機・変速機・巻上げ輪・制動装置で構成された巻上装置の操作により引き上げると、もう一方の車両が降りてくる方式。片方を[[重し|カウンターウェイト]](ダミーの重り)にして1両で運行しているものもある(例:[[鞍馬山鋼索鉄道]])。日本のケーブルカーは、カウンターウェイトを含む交走設備のない[[青函トンネル竜飛斜坑線]]等を除いて現在はほとんどがこの方式である。 ; 循環式 : 環状にした鋼索を車両から掴ませ、鋼索を循環させて車両を動かす方式。停止するときは鋼索を放す。複数の列車の運転や平坦地での運転もできる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[サンフランシスコ]]にある[[サンフランシスコ・ケーブルカー]]はこの方式である。日本には現存しないが、[[1989年]]の[[横浜博覧会]]で登場した横浜エスケイの「動くベンチ」が循環式の鋼索鉄道として期間限定の鉄道事業法による鉄道事業免許を受けていたことがある。 ; 複式単線式 : 交走装置の無い単線1線のみの線路の両側に鋼索を張り、単純な上下巻き上げのみを行って、1線1編成のみの車両を動かして運行する方式。[[北海道]][[札幌市]]の[[藻岩山]]にあるミニケーブルカー「もーりすカー」に採用例がある。 交走式(つるべ式)のケーブルカーの軌道には[[単線]]交走式と[[複線]]交走式がある。複線交走式(複線二両交走式)は2つの車両(または2編成)がそれぞれ別の線路を昇り降りする。単線交走式のうち、2つの車両(または2編成)で運行する単線二両交走式では中間地点を複線として[[列車交換|車両の行き違い]]ができるようになっている。この線路の[[分岐器|分岐部]]には可動部分がない。これは、車両の片側の車輪が[[フランジ]]でレールを挟む溝車輪に、もう片方の車輪がフランジがない平車輪となっており、外部から操作することなく溝車輪の案内だけで自然に互いに別の線路を進むようになっているからである。([[カール・ローマン・アプト]]の発明でアプトスイッチと呼ばれる) なお、複線と称していても、必ずしも複線交走式ではなく、単線交走式を並べたもの([[単線並列]]式)もある。[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]の宝山寺線は2つの単線二両交走式のケーブルカーが並んでいる。 交走式ケーブルカーの線路は、最急勾配が山上側の終端付近に、最緩勾配が山下側の終端付近になるように建設するのが最適とされる。車両の停止も巻上装置の操作によって行われるため、停止位置に近づくにつれて抵抗が大きくなる線形であれば、停止操作をスムーズに行うことができる。これに従わない線形の場合、停止時の巻上機操作が難しくなる。 動力は多くが[[電力]]で巻上装置を動かす方式を採用しているが、車両に水タンクを積み、そこへ水を入れ水の重みで水を抜いたもう片方の車両を引き上げる方式もある。一両交走式の場合は片方は重りなので、水を抜いて重りより軽くなれば上昇、水を入れて重くなれば下降する。この水重力式は日本では鉄道事業法の適用を受けたものには例がないが、遊戯施設としては[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[馬路村]]のものが存在する。 車両は外部から引っ張って運転するので動力のための電力の供給は必要ないが、車内照明や自動ドアなどのために[[二次電池|バッテリー]]や[[架線]]、[[第三軌条方式|第三軌条]]などから電力を供給している。[[集電装置|パンタグラフ]]がついている車両があるのはそのためである。戸閉機やブレーキの動力源として[[空気圧縮機]]や電動油圧ポンプを搭載している例もある。 車両の構造は、傾斜に対して床が水平になるよう、[[平行四辺形]]状の車両を用いて車内は[[階段]]状になっているか、客室の床と山麓側の車輪との間が大きく空いていることが多い。特殊な物では[[北海道]][[札幌市]]・[[藻岩山]]ミニケーブルカー(もーりすカー)が、車台の左右に「∧」形の支柱を立てて間に梁を渡し、そこに[[索道|ゴンドラリフト]]搬器に似た形のキャビンを吊り下げた[[ブランコ]]のような構造で、これを前後方向に2基並べて車両を構成しており、どんな傾斜でもキャビン内が常に水平を保つ構造となっている。 架線を有する場合も、架線が1本のみの場合と2本の場合がある。2本の場合、1本が電源供給用で、他の1本は通信用である。 車両の点検・整備のため、両終端駅構内の線路はピット構造となっている例が多い。車両に動力はないものの、急勾配で運転されることから、ケーブルの固定装置やブレーキ装置の点検・整備には、ケーブル自体や巻上機等とともに細心の注意が払われる。 ケーブルカーの[[軌間]]は、日本では他の鉄道と直通することがないため自由に決めることもできるが、枕木などの汎用品の利用で有利なことが多いため、[[JR]]などと同じ[[3フィート6インチ軌間|1,067 mm軌間]]を採用しているものが多い。なお、世界では他の鉄道と直通する例として[[イタリア]]の[[トリエステ |トリエステ市]]の[[トリエステ=オピチナ・トラム|トラム]]があり、急勾配区間においてケーブルカーを補機として登坂している。 === 乗務員 === 交走式ケーブルカーの車両に乗務している乗務員は必ず前方に乗務している。そのうえ、乗務員がいる箇所には、一見自動車の[[ステアリング|ハンドル]]のような円形や、クランク状のハンドルがあることも多い。このため、よく「[[運転士]]」と勘違いされるが、実際には「[[車掌]]」が前方確認のために前方に乗務しているものであり、「運転士」は山上側の駅にある運転室に詰めていて巻上装置を操作している。円形やクランク状をしたハンドルは[[ブレーキ]](留置中の転動防止用の[[手ブレーキ]]で、線路内に倒木等の障害が発生した際の緊急停止用にも使用する)であり、自動車のサイドブレーキに該当する。ブレーキを空気圧、または[[油圧]]作動とした場合は、ハンドルに代えて小型の非常コックやペダルが乗務員席に配置される。ブレーキとしては他にケーブル切断または弛緩、過速度を検知して自動的に作動する非常ブレーキ機構を備えており、急斜面で暴走しても停止できるように楔状の制動子でレールをはさみ込む等の方式を取っている。乗務員席には他に運転所と連絡するための通信送受話器や照明スイッチ類、ブレーキに空気圧や油圧を用いる場合は空気圧計・油圧計、放送機器等が備えられている。 == インクライン == {{Double image aside|right|Lake Biwa Canal Keage Incline.jpg|200|Umaji incline02.JPG|120|1940年(昭和15年)頃の蹴上インクライン|馬路村のインクライン(2014年)}} ケーブルカーの呼称は通常旅客営業を目的とする鋼索鉄道に対して用いられるが、産業用に建設された鋼索鉄道(つまり貨物用ケーブルカー)を、通常インクライン({{lang-en|Incline}}、傾斜(鉄道))と称する。山岳地帯での材木の輸送、ダム工事現場での資機材の輸送などに多用される。 日本国内に現存する恒久施設としては黒部トンネル端部と[[黒部川第四発電所]]を結ぶ[[関西電力]]のインクラインや、高知県安芸郡馬路村や[[神奈川県]][[愛甲郡]][[愛川町]]・[[清川村]]の[[宮ヶ瀬ダム]]にある物などがある。日本国外では、[[アメリカ合衆国]][[ペンシルベニア州]]南西部の都市[[ピッツバーグ]]にある2本のインクラインが知られている。 日本国内において過去、最も知られた導入事例のひとつは[[1891年]]から[[1948年]]まで運用された[[琵琶湖疏水]]のインクライン([[蹴上インクライン]]・伏見インクライン)で、高低差がある水路間で船を往来させるため、蹴上インクラインでは[[京都市]]の南禅寺船溜と蹴上間の傾斜区間に軌道を敷設し、ワイヤーで牽引される「船受枠」という台車に船を載せ昇降させた。 なお、上記の馬路村のケーブルカーやピッツバーグのデュケイン・インクライン([[:en:Duquesne Incline|Duquesne Incline]])およびモノンガヘイラ・インクライン([[:en:Monongahela Incline|Monongahela Incline]])のように、産業用に建設されたインクラインを旅客用に転用したり、復元したりしたケースで「インクライン」の呼称がそのまま使用されることがある。またインクラインは単線式や循環式が多いが、黒部川第四発電所のインクラインは一般的な旅客用ケーブルカーと同じ交走式で、客室キャビンが着脱式になっており、客室キャビンを取り外すと巨大な荷台が現れて大きな貨物の輸送ができるようになっている。 == 歴史 == {{main|ライスツーク}} 16世紀初頭には既に[[オーストリア]]の[[ザルツブルク]]の[[ライスツーク]]で木製のレールを利用したケーブルカーが運行されていた記録がある<ref name=fm1>{{cite web | url = http://www.funimag.com/funimag10/RESZUG01.HTM | title = Der Reiszug - Part 1 - Presentation | publisher = Funimag | accessdate = 2009-04-22}}</ref><ref name=funnet>{{cite web | url = http://www.funiculars.net/line.php?id=350 | title = Der Reiszug | publisher = Funiculars.net | accessdate = 2009-04-22}}</ref><ref name=dtdgr>{{cite news | first = Reinhard | last = Kriechbaum | url = http://www.die-tagespost.de/Archiv/titel_anzeige.asp?ID=8916 | title = Die große Reise auf den Berg | work = der Tagespost | date = 2004-05-15 | accessdate = 2009-04-22 | language = German}}</ref>。 19世紀前半にはイギリスの各地の鉱山では既に[[定置式蒸気機関]]を使用して鉱石や石炭の搬出に使用されており、1825年に開業した[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]でも路線の大部分は[[定置式蒸気機関]]でロープを巻き上げていた<ref>{{Cite book |title=The Transportation Experience: Policy, Planning, and Deployment |author=William L. Garrison |author2=David M. Levinson |date = 2014 |issue = |volume = |publisher =OUP USA |page =33 |isbn=9780199862719}}</ref>。 1869年7月2日に[[ニューオーリンズ]]で[[P・G・T・ボーリガード]]によって発明された頭上の循環するロープを掴んだり離したりすることで推進するケーブルカーが実演された<ref name="St. Charles Streetcar">{{Cite book |title=St. Charles Streetcar, The: Or, the New Orleans & Carrollton Railroad |author=James Guilbeau |author2= |date =2011 |issue = |volume = |publisher =Pelican Publishing Company |isbn=9781879714021 |page =48-49 }}</ref>。彼は1869年11月30日に特許を取得した<ref>{{US patent|97343}}</ref>。[[1880年]]、イタリア・ヴェスヴィオ山の登山鉄道「[[ヴェズヴィアナ鋼索線]]」が開通(1984年に廃線)。 現存する世界最古のケーブルカーは、サンフランシスコで[[1873年]]に建設されたケーブルカーである<ref name="et-history1" />。急坂の多いサンフランシスコにおいて、技術者アンドリュー・スミス・ハレディーが[[馬車]]に代わる輸送機関として考案し、建設した<ref name="et-history1">[http://www.usrail.jp/et-history1.htm 電気鉄道以前]</ref>。その後、急坂のある地域以外でも[[路面電車]]に相当する公共交通機関として全米、さらには米国外の主要都市に建設された<ref name="et-history1" />。また、山岳における公共交通機関としても建設が進められていった。 === 日本 === [[File:Tobu Nikko Steel Railway Line 1966.jpg|thumb|right|250px|[[東武日光鋼索鉄道線]]馬返駅(1966年)]] 日本では[[1918年]]に開業した生駒鋼索鉄道(現在の[[近鉄生駒鋼索線]])が最初のものである{{Refnest|group="注釈"|但し、自家用ケーブルカーも含めると[[西本願寺]]別邸の[[二楽荘]]に設置されていたものが日本初とされている<ref>{{Cite journal|和書 |title=絵葉書に描かれた鉄道―ステーション(5) |author=[[白土貞夫]] |journal = RAIL FAN |date = 2002年9月号 |issue = 9 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 17 }}</ref><ref>{{Cite news |title=影響残した幻の建物 阪神間モダニズムの記憶(2) | url = http://www.nikkei.com/article/DGXLASHD03H0F_T01C14A2960E00/ | accessdate = 2016-02-23 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2014/12/10 |publisher=日本経済新聞社 | archiveurl = https://megalodon.jp/2016-0223-2357-05/www.nikkei.com/article/DGXLASHD03H0F_T01C14A2960E00/ | archivedate =2016-02-23 }}</ref>。}}。[[大正|大正時代]]末期から[[昭和|昭和時代]]初期にかけて[[索道|ロープウェイ]]とともに全国各地に建設された。しかし[[昭和恐慌]]による観光需要の激減により新規建設は途絶え、さらに[[第二次世界大戦]]末期の戦局悪化により、もともと観光を目的としたものであったケーブルカー路線は大半が[[不要不急線]]に指定され、休止に追い込まれた。生き残ったものは山上にも町があり、観光以外の需要があるものだけだった。 戦後、1950年代頃から生活水準の回復・向上に伴い、観光需要が増加してきたため、不要不急線として休止されていた路線が復活したり、新規に路線が建設されたりした。しかし1970年代以降は、どのような地形でも建設できるうえに、土地買収が少なくて済み、環境破壊も少ない[[ロープウェイ]]が、新しく建設される登山用交通機関の主役となり、かつ国内観光需要が頭打ちとなったこともあり、ケーブルカーの新規建設は止まった。[[平成]]に入ると、[[モータリゼーション]]の進行(多くのケーブルカー路線は並行する観光登山道路がある)や国内観光需要の低下・観光スタイルが変化してきたこと(以前多かった寺社観光が減少したため、山上の寺社参拝のための路線が影響を受けている例など)などから利用客が減少するようになった。また、ロープウェイと異なり、現在は日本ではケーブルカーの量産や新規設計は行われていないために、古い設備の更新には多大の資金が必要であることもあり、外国から設備を輸入して更新した例もあるが、逆に資金負担に耐えられずに路線が廃止されたところもある。 かつては、旅館内に敷設されたケーブルカーの一部にも地方鉄道法に基づく正式な鉄道扱いのものがあったが、現在では長大な[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]が設置可能になったこともあり、すべて廃止されている。鉄道扱いでないものは今でも各地に現存しているが、それも次第に傾斜地用の[[モノレール]]([[スロープカー]])で置換される傾向にある。 == 新交通システムとして == {{Vertical_images_list |幅= 200px |枠幅= 200px | 1=OTIS-Narita.jpeg | 2=成田空港第2ターミナルシャトルシステム([[水平エレベーター]]) | 3=Bham3.jpg | 4=バーミンガム空港連絡線[[エアレール・リンク]] | 5=Skyrail-car.jpg | 6=[[スカイレールサービス|スカイレール]] }} 1873年に[[サンフランシスコ]]で{{仮リンク|アンドリュー・スミス・ハリディ|en|Andrew Smith Hallidie|label=アンドリュー・スミス・ハリディ}}によって[[馬車鉄道]]の代替として開発され<ref name="et-history1" />、19世紀末から20世紀初頭の都市交通機関としてアメリカ合衆国で使用された。当時はまだ路面電車に使用されるような小型高出力の[[電動機]]がまだ充分ではなかったのでパワーステーションと呼ばれる据え置き式の([[蒸気機関]]で作動する)巻き上げ機を使用するケーブルカーが有効だったという背景がある<ref name="et-history1" /><ref>{{Cite journal |title=Street Railways Construction Operation and Maintenance |author= |journal = |date = 1892 |issue = |volume = |publisher = Street Railway Publishing Company |page =111 }}</ref>。高性能の[[路面電車]]の普及によりそれらの都市交通としてのケーブルカーは大半が20世紀初頭に運行を終えている<ref name="et-history1" />。 近距離輸送の分野において比較的簡略な車両や設備で自動運行できる為、近年では[[新交通システム]]の一環である[[水平エレベーター]]としての需要が高まりつつある<ref>[[ドッペルマイヤー・ケーブル・カー|ドッペルマイヤー・ケーブル・カー (DCC)]]</ref>。 [[ミニメトロ]]や[[ケーブル・ライナー]]や国内でもかつて運行されていた[[横浜博覧会]]の[[SK (ピープル・ムーバー)|SKシステム]]<ref name="sk">{{Cite book |title=新交通システム |author= |date = 1990 |issue = |volume = |publisher =保育社 |isbn=9784586508037 |page =88 }}</ref>や[[広島市]][[安芸区]]の[[懸垂式モノレール]]である[[スカイレールサービス|スカイレール]]、[[空気浮上式鉄道|空気浮上式]]の[[成田空港第2ターミナルシャトルシステム]]のような例もある。 === 利点 === * 車両に動力を搭載しない為、車両が簡略、軽量化できる。 * 車両が自走しない為、車輪の磨耗が動力車両と比較して抑えられる。 * 従来のケーブルカー同様、構造上、無人運転に適する。 === 欠点 === * 構造上追い越しが困難 * 地上設備が複雑 * 短距離かつ利用客が多い場合、混雑や待ち時間が生じる<ref>{{Cite web|和書| title=成田空港に新連絡通路が完成 | author=日本経済新聞、共同 | url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2004H_Q3A920C1CC1000/ | accessdate=2015/1/19}}</ref> {{-}} == 日本における営業路線一覧 == {{内容過剰|date=2022年1月|section=1}} === 鉄道事業法に基づくもの === [[鉄道事業法]]に基づく日本のケーブルカー営業路線は下記の通りである。 * 休廃止年・再開年については、設備更新工事や災害による1年未満の短期間の運休を含まない。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !山名等!!事業者名!!路線名!!旅客案内上の名称!!軌間<br>([[ミリメートル|mm]])!!全長<br>([[メートル|m]])!!最大勾配!!最小勾配!!高低差<br>([[メートル|m]])!!開業年!!備考 |- |[[青函トンネル]]体験坑道 |[[道の駅みんまや|青函トンネル記念館]]||[[青函トンネル竜飛斜坑線]]||竜飛斜坑線 |style="text-align:right;"|914 |style="text-align:right;"|778 |style="text-align:right;"|250‰ |style="text-align:right;"|250‰ |style="text-align:right;"| |[[1988年]] |交走設備なし、全線地下路線<br>施設内路線 |- |[[筑波山]] |[[筑波観光鉄道]]||[[筑波観光鉄道筑波山鋼索鉄道線|筑波山鋼索鉄道線]]||筑波山ケーブルカー |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,634 |style="text-align:right;"|358‰ |style="text-align:right;"|207‰ |style="text-align:right;"|495 |[[1925年]] |[[1944年]]廃止<ref group="注釈" name="ww2">[[第二次世界大戦]]中の[[不要不急線]]指定</ref>、[[1954年]]再開 |- |[[高尾山]] |[[高尾登山電鉄]]||[[高尾登山電鉄#ケーブルカー|高尾鋼索線]]||高尾山ケーブルカー |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,020 |style="text-align:right;"|608‰ |style="text-align:right;"|105‰ |style="text-align:right;"|271 |[[1927年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1949年]]再開 |- |[[御岳山 (東京都)|御岳山]] |[[御岳登山鉄道]]||(路線名称なし)||[[御岳登山鉄道#ケーブルカー|御岳山ケーブルカー]] |style="text-align:right;"|1,049 |style="text-align:right;"|1,107 |style="text-align:right;"|470‰ |style="text-align:right;"|250‰ |style="text-align:right;"|424 |[[1934年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1951年]]再開 |- |[[箱根山]] |[[箱根登山鉄道]]||[[箱根登山鉄道鋼索線|鋼索線]]||箱根登山ケーブルカー |style="text-align:right;"|983 |style="text-align:right;"|1,240 |style="text-align:right;"|200‰ |style="text-align:right;"|126‰ |style="text-align:right;"|214 |[[1921年]] |中間駅4駅あり<br>[[1923年]]休止<ref group="注釈">[[関東大震災]]による被災</ref>、[[1925年]]再開<br>[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1950年]]再開 |- |[[大山 (神奈川県)|大山]] |[[大山観光電鉄]]||[[大山観光電鉄大山鋼索線|大山鋼索線]]||大山ケーブルカー |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|786 |style="text-align:right;"|477‰ |style="text-align:right;"|258‰ |style="text-align:right;"|278 |[[1931年]] |中間駅1駅あり<br>[[1944年]]廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1965年]]再開 |- |十国峠 |[[十国峠 (企業)|十国峠]]||[[十国峠十国鋼索線|十国鋼索線]]||十国峠ケーブルカー |style="text-align:right;"|1,435 |style="text-align:right;"|317 |style="text-align:right;"|408‰ |style="text-align:right;"|233‰ |style="text-align:right;"|101 |[[1956年]] |[[2021年]]11月までは[[伊豆箱根鉄道]]が運営 |- |[[立山]](黒部平) |rowspan="2"|[[立山黒部貫光]]||鋼索線||[[立山黒部貫光黒部ケーブルカー|黒部ケーブルカー]] |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|828 |style="text-align:right;"|587‰ |style="text-align:right;"|407‰ |style="text-align:right;"|373 |[[1969年]] |全線地下路線 |- |[[立山]](美女平) |鋼索線||[[立山黒部貫光立山ケーブルカー|立山ケーブルカー]] |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,366 |style="text-align:right;"|560‰ |style="text-align:right;"|334‰ |style="text-align:right;"|487 |[[1954年]] | |- |rowspan="2"|[[比叡山]]([[延暦寺]]) |[[比叡山鉄道]]||[[比叡山鉄道線]]||坂本ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|2,025 |style="text-align:right;"|333‰ |style="text-align:right;"|170‰ |style="text-align:right;"|484 |[[1927年]] |中間駅2駅あり<br>[[1945年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1946年]]再開 |- |[[京福電気鉄道]]||[[京福電気鉄道鋼索線|鋼索線]]||叡山ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,458 |style="text-align:right;"|530‰ |style="text-align:right;"|215‰ |style="text-align:right;"|561 |[[1925年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1946年]]再開 |- |[[鞍馬山]] |[[鞍馬寺]]||[[鞍馬山鋼索鉄道]]||鞍馬寺ケーブル |style="text-align:right;"|800 |style="text-align:right;"|207 |style="text-align:right;"|499‰ |style="text-align:right;"|499‰ |style="text-align:right;"|89 |[[1957年]] |軌道下にカウンターウェイト設置<br>施設内路線 |- |男山([[石清水八幡宮]]) |[[京阪電気鉄道]]||[[京阪鋼索線|鋼索線]]||石清水八幡宮参道ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|411 |style="text-align:right;"|206‰ |style="text-align:right;"|203‰ |style="text-align:right;"|82 |[[1926年]] |[[1944年]]廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1955年]]再開 |- |[[傘松公園|傘松展望台]] |[[丹後海陸交通]]||[[天橋立鋼索鉄道]]||天橋立ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|391 |style="text-align:right;"|461‰ |style="text-align:right;"|78‰ |style="text-align:right;"|115 |[[1927年]] |[[1944年]]廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1951年]]再開 |- |rowspan="2"|[[生駒山]] |rowspan="3"|[[近畿日本鉄道]]||rowspan="2"|[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]||生駒ケーブル 宝山寺線 |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|948 |style="text-align:right;"|227‰ |style="text-align:right;"|83‰ |style="text-align:right;"|146 |[[1918年]] |単線並列による2系統からなる<br>[[1944年]]単線化<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1953年]]再複線化 |- |生駒ケーブル 山上線 |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,124 |style="text-align:right;"|333‰ |style="text-align:right;"|256‰ |style="text-align:right;"|322 |[[1929年]] |中間駅2駅あり<br>[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1945年]]再開 |- |[[高安山]] |[[近鉄西信貴鋼索線|西信貴鋼索線]]||西信貴ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,263 |style="text-align:right;"|480‰ |style="text-align:right;"|170‰ |style="text-align:right;"|354 |[[1930年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1957年]]再開 |- |[[六甲山]] |[[六甲山観光]]||[[六甲山観光六甲ケーブル線|六甲ケーブル線]]||六甲ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,764 |style="text-align:right;"|498‰ |style="text-align:right;"|238‰ |style="text-align:right;"|493 |[[1932年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1945年]]再開 |- |[[摩耶山]] |[[こうべ未来都市機構]]||[[こうべ未来都市機構摩耶ケーブル線|摩耶ケーブル線]]||摩耶ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|964 |style="text-align:right;"|547‰ |style="text-align:right;"|208‰ |style="text-align:right;"|312 |[[1925年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1955年]]再開<br>[[1995年]]休止<ref group="注釈">[[阪神・淡路大震災]]による被災</ref>、[[2001年]]再開 |- |[[高野山]]([[金剛峯寺]]) |[[南海電気鉄道]]||[[南海鋼索線|鋼索線]]||高野山ケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|864 |style="text-align:right;"|563‰ |style="text-align:right;"|274‰ |style="text-align:right;"|329 |[[1930年]] | |- |[[五剣山 (高松市の山)|五剣山]] |[[四国ケーブル]]||(路線名称なし)||[[八栗ケーブル]] |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|684 |style="text-align:right;"|288‰ |style="text-align:right;"|181‰ |style="text-align:right;"|167 |[[1931年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1964年]]再開 |- |[[皿倉山]] |[[皿倉登山鉄道]]||[[皿倉山ケーブルカー|帆柱ケーブル線]]||皿倉山ケーブルカー |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|1,191 |style="text-align:right;"|528‰ |style="text-align:right;"|206‰ |style="text-align:right;"|441 |[[1957年]] | |- |[[ラクテンチ|別府ラクテンチ]] |[[ラクテンチ]]||[[別府ラクテンチケーブル線]]||ラクテンチケーブル |style="text-align:right;"|1,067 |style="text-align:right;"|253 |style="text-align:right;"|558‰ |style="text-align:right;"|480‰ |style="text-align:right;"|122 |[[1929年]] |[[1944年]]休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、[[1950年]]再開 |} 勾配(‰)の小数点以下は四捨五入 === 鉄道事業法に基づかないもの === 昇降機、遊戯施設などとして扱われている、鉄道事業法によらない日本のケーブルカー路線は下記の通りである。 * 一般に乗車可能な機会があるものを記載している。 * 「リフトカー」や「エレベーター」等と自ら称しているものは除く。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !路線!!所在地!!事業者!!方式!!軌間<br>([[ミリメートル|mm]])!!全長<br>([[メートル|m]])!!最大勾配!!最小勾配!!高低差<br>([[メートル|m]])!!備考 |- |[[藻岩山]]ミニケーブルカー||北海道札幌市中央区伏見5丁目||株式会社札幌振興公社||鉄輪式(複式単線式) |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|224 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|73 |[[索道|ゴンドラリフト]]搬器に似た形状の定員30人キャビン2基を支柱上部から吊り下げて常に水平を保つタイプのケーブルカー。山頂 - 山麓停留場間を1編成・1線のみで単純往復するタイプで、世界初の駆動形式を持つミニケーブルカーと称されている<ref name="Sapporo-Mt..Moiwayama-01">[http://moiwa.sapporo-dc.co.jp/guide/moriss.html 札幌もいわ山ロープウェイウェブサイト]より、2018年10月6日閲覧。</ref><ref name="Sapporo-Mt..Moiwayama-02">[http://www.cablecar.jp/etc/moiwa/moiwa.html もーりすカー(ケーブルカーに乗ろう!)「藻岩(もいわ)山 ミニケーブルカー」]より、2018年10月6日閲覧。</ref>。通称「もーりすカー」 |- |景風流の宿かのうや||群馬県渋川市伊香保町伊香保||合資会社叶屋旅館|| rowspan="2" |ゴムタイヤ式 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |37 | colspan="2" style="text-align:right;" |40度<br />(840‰) | style="text-align:right;" | |宿泊者・日帰り入浴利用者が利用可能 |- |宮ヶ瀬インクライン||神奈川県愛甲郡愛川町半原||(財)宮ヶ瀬ダム周辺振興財団 | style="text-align:right;" |1,600 | style="text-align:right;" |216 | style="text-align:right;" |35度<br />(700‰) | style="text-align:right;" |31度<br />(600‰) | style="text-align:right;" |121 |月曜運休・完全複線 |- |黒部インクライン||[[黒部川第四発電所]]||[[関西電力]]株式会社||鉄輪式 |style="text-align:right;"|2,000mm |style="text-align:right;"|815m |style="text-align:right;"|34度(675&permil;) |style="text-align:right;"|34度(675&permil;) |style="text-align:right;"|456m |style="text-align:right;"|2024年から旅行商品化される「黒部宇奈月キャニオンルート」に参加すれば乗車可能。2023年までは[[黒部ルート]]見学会に当選すれば無料で乗車可能だった |- |[[三方五湖レインボーライン|レインボーライン]]山頂公園ケーブル |福井県三方上中郡若狭町気山 |株式会社レインボーライン | rowspan="3" |鉄輪式 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | |山頂公園入場料を支払えば乗車可能 |- |菱野温泉 常盤館 |長野県小諸市菱平 |菱野温泉 常盤館 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |130 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |50 |宿泊者・日帰り入浴利用者が利用可能 |- |伊東温泉 陽気館 |静岡県伊東市末広町 |株式会社陽気館 | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |30 | style="text-align:right;" |45 | style="text-align:right;" | |宿泊者・日帰り入浴利用者が利用可能 |- |大滝鍾乳洞 |岐阜県郡上市八幡町安久田 |郡上観光株式会社 |鉄輪式 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | |鍾乳洞入坑用・帰路の利用は不可 |- |湯の山温泉 希望荘 |三重県三重郡菰野町千種 |株式会社希望荘 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | |宿泊者・日帰り入浴利用者が利用可能 |- |[[紀三井寺]] |和歌山県和歌山市紀三井寺 |宗教法人護国院 |鉄輪式 | style="text-align:right;" |1,600 | style="text-align:right;" |87 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |31 |上り:紀三井寺参拝料及びケーブルカー料金を支払えば乗車可能<br />下り:ケーブルカー料金を支払えば乗車可能 |- |ホテル祖谷温泉||徳島県三好市池田町松尾松本||祖谷渓温泉観光株式会社 | rowspan="3" |ゴムタイヤ式 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |250 | colspan="2" style="text-align:right;" |42度<br />(900‰) | style="text-align:right;" |170 |宿泊者・日帰り入浴利用者が利用可能 |- |新祖谷温泉 ホテルかずら橋||徳島県三好市西祖谷山村善徳||株式会社谷口兄弟商会 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" | |宿泊者・日帰り入浴利用者が利用可能・和風車両 |- |馬路村森林鉄道インクライン||高知県安芸郡馬路村馬路||馬路森林鉄道を走らす会 | style="text-align:right;" | | style="text-align:right;" |92 | colspan="2" style="text-align:right;" |34度<br />(675‰) | style="text-align:right;" |50 |夏期を除き週末のみ運行・水力式・ブレーキはリッゲンバッハ式[[ラックレール]]利用 |} === 廃止 === 鉄道事業法(または旧・地方鉄道法)に基づいていた日本のケーブルカーの廃止路線は下記の通りである。休止・廃止日は最終営業日の翌日。後継会社による場合を含め後に復活したものは除く。 * [[三重交通]] [[三重交通神都線|鋼索線]](旧・朝熊登山鉄道)- 1925年8月26日開業。1944年1月11日休止(当時神都交通)<ref group="注釈" name="ww2"></ref>。1962年7月15日廃止。 ** 最大斜度652‰。営業していた当時は東洋一の急勾配だった。現在でも鉄道事業法によるものとしては史上最急勾配である。 * [[愛宕山鉄道]] [[愛宕山鉄道鋼索線|鋼索線]] - 1929年7月25日開業。1944年2月11日廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>。 ** 全長{{Nowrap|2.13 [[キロメートル|km]]}}で日本国内では史上最長だった。 * [[能勢電鉄妙見の森ケーブル|妙見鋼索鉄道]] [[妙見の森リフト|上部線]] - 1925年8月1日開業。1944年2月11日廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>。 ** 廃線跡は妙見の森リフトに転用。主な機器は[[十国峠十国鋼索線]]に流用。 * [[箸蔵登山鉄道]] - 1930年6月18日開業。1944年2月11日廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>。 ** 廃線跡は[[箸蔵山ロープウェイ]]に転用されたが、1998年のリニューアルでルートが一部変わった。 * [[中国稲荷山鋼索鉄道]] - 1929年2月9日開業。1944年6月1日廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>。 * [[伊香保ケーブル鉄道]] - 1929年9月6日開業。1944年2月11日休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、1961年8月13日再開。1966年7月10日休止<ref group="注釈" name="passenger">利用客の減少のため</ref>、1966年12月19日廃止。 * [[赤城登山鉄道]] - 1957年7月21日開業。 1967年11月5日休止<ref group="注釈" name="passenger"></ref>、1968年6月1日廃止。 * [[東武鉄道]] [[東武日光鋼索鉄道線|日光鋼索鉄道線]] - 1932年8月28日開業。1970年4月1日廃止<ref group="注釈" name="passenger"></ref>。 * [[なかや旅館]]〔現在の玄妙庵〕(玄妙遊園ロマンスカー) - 京都府宮津市([[天橋立]]) ** 旅館玄妙庵の施設内路線(浦島 - 乙姫間 {{Nowrap|0.1 km}})。 ** 1950年頃までに運行開始<!--(1948年との説もあり)-->、なかや旅館により1952年5月16日地方鉄道免許取得、書類上は1960年2月5日開業。道路整備に伴い1968年度休止、1971年12月31日廃止<ref>{{Cite journal|和書 |title=日本三景天橋立の最高の展望を追い求めた“観光デザイナー”石間金造 |author=小川功 |journal=跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 |date = 2014年7月25日 |issue = 18 |publisher = 跡見学園女子大学 |page = 1-22 }}</ref><ref name="kinkiinncable"></ref>。 * [[浦島観光]]〔現在のホテル浦島〕(狼煙山ケーブルカー) - 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町([[南紀勝浦温泉]]) ** 狼煙半島にあるホテル浦島の施設内路線(赤島 - 狼煙山間 {{Nowrap|0.1 km}})。 ** ホテルの経営主体である浦島温泉より1961年8月開業<ref>[http://www.hotelurashima.co.jp/sanjokan/ ホテル浦島山上館ウェブサイト]より、2020年10月26日閲覧。</ref>。同区間を結ぶエレベーターの完成により、1976年4月1日廃止。 ** 廃線跡にはエスカレーターが設置された<ref name="kinkiinncable"></ref>。 * [[兵衛向陽閣|兵衛旅館]]〔現在の兵衛向陽閣〕(兵衛旅館鋼索鉄道) - 兵庫県神戸市([[有馬温泉]]) ** 有馬温泉の温泉旅館である兵衛向陽閣の施設内路線(萬年 - 蓬莱 - 向陽間 {{Nowrap|0.1 km}})。 ** 旅館の経営主体である兵衛旅館により1960年3月開業<!-- (1957年開業説もあり) -->。施設の全面改修工事に伴い、1980年3月21日廃止。 ** 廃線跡の一部は旅館の緊急避難路に転用された<ref name="kinkiinncable"></ref>。 * [[和歌山観光]]〔旅館二の丸(廃業)〕(新宮観光リフトカー) - 和歌山県新宮市([[新宮城|新宮城跡]]) ** 新宮城跡にあった旅館二の丸の施設内路線(丹鶴 - 二の丸間 {{Nowrap|0.1 km}})。 ** 旅館の経営主体であった新宮観光により1954年8月開業。1964年に近鉄観光に吸収合併の後、1976年に和歌山観光に譲渡。1980年に旅館二の丸が閉鎖されたことに伴い、以降は実質的に運休状態となる。1981年10月に正式に休止路線となり<!--(1981年、1983年、1989年説あり)-->、1994年1月25日廃止<ref name="kinkiinncable">{{Cite book |和書 |author=宮脇俊三 |year=2001 |title=鉄道廃線跡を歩くVIII |publisher=JTB |page=160-164 |isbn=9784533039072}}</ref>。 * [[近畿日本鉄道]] [[近鉄東信貴鋼索線|東信貴鋼索線]](東信貴ケーブル) - 1922年5月16日開業。1983年9月1日廃止<ref group="注釈">周辺の宅地化に伴う道路整備の支障化のため</ref>。 * [[箕面温泉|大阪観光]] [[箕面温泉#箕面鋼索鉄道線(ケーブルカー)|箕面鋼索鉄道]](箕面温泉ケーブルカー) - 大阪府箕面市([[箕面温泉]]) ** 箕面温泉スパーガーデンの施設内路線(山下 - 山上間 {{Nowrap|0.1 km}})。 ** 施設の経営主体である大阪観光により1965年10月1日開業。老朽化および展望エレベーターへの移行のため、1993年4月4日休止、1993年7月30日廃止。 ** 他の旅館内の施設内路線が定員10名程度の車両で運行されたのに対し、本路線は定員が31名であり旅館内の施設内路線としては比較的大型の車両で運行された<ref name="kinkiinncable"></ref>。 * [[屋島登山鉄道]] [[屋島ケーブル]] - 1929年4月21日開業。1944年2月11日休止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>、1950年4月16日再開。2004年10月16日休止<ref group="注釈" name="passenger"></ref>、2005年8月31日廃止。 * [[伊豆箱根鉄道]] [[伊豆箱根鉄道駒ヶ岳鋼索線|駒ヶ岳鋼索線]](駒ヶ岳ケーブルカー) - 1957年11月16日開業。2005年9月1日廃止<ref group="注釈" name="passenger"></ref>。 * [[能勢電鉄]] [[能勢電鉄妙見の森ケーブル|鋼索線]](妙見の森ケーブル) - 1925年8月1日開業。1944年2月11日廃止<ref group="注釈" name="ww2"></ref>。1960年4月22日再開。2023年12月4日廃止<ref name="noseden230922">{{PDFlink|[https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/newsrelease202309221.pdf 妙見山で展開する「妙見の森関連事業」の営業終了の繰上げ および 鋼索線(ケーブル)の廃止繰上届の提出について]}} - 能勢電鉄 2023年9月22日</ref><ref group="注釈" name="passenger"></ref>。 ** [[能勢妙見山 (日蓮宗)|能勢妙見堂]]のある[[妙見山 (大阪府・兵庫県)|妙見山]]への路線([[黒川駅 (兵庫県)|黒川]] - [[ケーブル山上駅 (兵庫県)|ケーブル山上]]間 {{Nowrap|0.6 km}}({{Nowrap|666 m}}))。 ** 鋼索鉄道としては珍しい軌間1,435 mmの標準軌の路線であった。最大勾配424‰、最小勾配151‰で、高低差は229 m。 === 期間限定で運行 === 鉄道事業法の期間限定営業免許に基づき、期間を限定して運行された日本のケーブルカーの廃止路線は下記の通りである。休止・廃止日は最終営業日の翌日。 * [[SK (ピープル・ムーバー)|横浜エスケイ]]<ref group="注釈">[[東京急行電鉄]]・[[京浜急行電鉄]]・[[相模鉄道]]・[[日揮]]の共同出資で設立。1988年2月、第一種鉄道事業免許取得。</ref> 「動くベンチ」 - 神奈川県横浜市([[横浜みなとみらい21]]地区) 1989年3月25日開業、同年10月2日廃止。 ** 1989年に開催された[[横浜博覧会]]会期中のみの期間限定運行であり、鉄道事業法の期間限定営業免許に基づく鋼索鉄道路線(桜木町ゲート - フェスティバル広場間 {{Nowrap|0.7 km}}({{Nowrap|651 [[メートル|m]]}}))。勾配のある路線を走行する一般的なケーブルカーではなく、平面上の路線。詳細は[[SK (ピープル・ムーバー)|SKシステム]]および[[横浜博覧会#会場内]]を参照のこと<ref name="sk"></ref><ref>{{Cite book |title=横浜博覧会・会場計画と建設の記録 |author= |date = 1990年3月 |issue = |volume = |publisher =横浜博覧会協会 |isbn= |page =276-280 }}</ref>。 === 未成 === <!-- 未成となったケーブルカーは(廃止線以上に)知られていないものも多く、また資料が少ないものもあり、事典利用者の利便や計画の実在の確認のため、簡単にご存知の範囲で結構ですから建設予定地などの説明を書き添えてください。--> * [[札幌温泉電気軌道|札幌鋼索鉄道]] - 北海道 [[円山 (札幌市)]] 1935年却下 * 中宮祠電力 - 栃木県 1922年4月免許<ref>[{{NDLDC|2955030/11}} 「鉄道免許状下付」『官報』1922年4月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1926年5月起業廃止許可<ref>[{{NDLDC|2956274/11}} 「起業廃止許可」『官報』1926年5月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 社長の植竹龍三郎はかわりに日光登山鉄道株式会社を設立した。詳細は[[東武日光鋼索鉄道線#歴史]]を参照のこと。 * [[金山鋼索鉄道]] - 群馬県新田郡太田町 [[新田金山|金山(かなやま)]] 山下 - 山上間 1927年6月免許<ref>[{{NDLDC|2956602/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年6月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1929年6月失効<ref>[{{NDLDC|2957195/6}} 「鉄道免許失効」『官報』1929年6月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[秩父鉄道]] [[秩父鉄道大滝鋼索線|大滝鋼索線]] - 埼玉県秩父郡大滝村 1927年12月免許<ref>[{{NDLDC|2956743/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』年月日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1930年12月失効<ref>[{{NDLDC|2957666/12}} 「鉄道免許失効」『官報』1930年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[三原山登山鉄道]] - 東京府([[伊豆大島]]) 1933年12月免許<ref>[{{NDLDC|2958569/8}} 「鉄道免許状下付」『官報』1933年12月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1935年7月失効<ref>[{{NDLDC|2959045/8}} 「鉄道免許失効」『官報』1935年7月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[道了鋼索鉄道]] - 神奈川県 1928年8月免許(大雄鋼索鉄道)<ref>[{{NDLDC|2956949/26}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年8月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1931年11月失効<ref>[{{NDLDC|2957934/5}} 「鉄道免許失効」『官報』1931年11月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[金華山登山鉄道]] -岐阜県 [[金華山 (岐阜県)|金華山]] 1912年11月免許 1914年9月失効 ** 「金華登山鉄道」とは別計画 * [[金華登山鉄道]] - 岐阜県 金華山 1928年1月免許 1930年9月失効 ** 「金華山登山鉄道」とは別計画 * [[夢香山鋼索鉄道]] - 石川県 [[卯辰山]] 1931年却下 * [[柳谷登山鉄道]] - 京都府 [[楊谷寺]] 1922年12月免許 1935年5月失効 * [[神鶴電気鉄道|有馬電気鉄道]] - 兵庫県 [[布引の滝 (兵庫県)|布引]]山嶺 1901年7月免状申請取消 * [[中国稲荷山鋼索鉄道|稲荷山観光ケーブル]] - 岡山県岡山市 [[最上稲荷]] 1961年7月免許 1966年11月失効<!--中国稲荷山ケーブルの復活構想--> * [[眉山登山鉄道]] - 徳島県徳島市 1934年2月免許<ref>[{{NDLDC|2958621/11}} 「鉄道免許状下付」『官報』1934年3月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1935年7月失効<ref>[{{NDLDC|2959040/7}} 「鉄道免許失効」『官報』1935年7月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[中津峰登山鉄道]] - 徳島県勝浦郡多良村 1933年8月免許<ref>[{{NDLDC|2958452/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1933年8月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1935年9月失効<ref>[{{NDLDC|2959092/4}} 「鉄道免許失効」『官報』193年9月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[松山城鉄道]] - 愛媛県松山市 1927年12月免許<ref>[{{NDLDC|2956761/13}} 「鉄道免許状下付」『官報』1927年12月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1930年9月失効<ref>[{{NDLDC|2957588/7}} 「鉄道免許失効」『官報』1930年9月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[高良登山鉄道]] - 福岡県三井郡柳井町 [[高良山]] 山下-山上間 1928年10月免許<ref>[{{NDLDC|2956997/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年10月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1930年8月失効<ref>[{{NDLDC|2957565/5}} 「鉄道免許失効」『官報』1930年8月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[別府ケーブル鉄道]] - 大分県別府市-大分郡八幡村間 1926年2月18日免許<ref>[{{NDLDC|2956196/6}} 「鉄道免許状下付」『官報』1926年2月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 1928年失効<ref>[{{NDLDC|2956966/5}} 「鉄道免許失効」『官報』1928年8月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** 本社は東京市赤坂区青山南町。発起人筆頭は半田貢。 <!-- == 世界での導入事例 == {{雑多|section=1|date=2022年1月}} {{Vertical_images_list |幅= 200px |枠幅= 200px | 1=UBC010015.JPG | 2=[[サンフランシスコ]] | 3=CH020030.JPG | 4=[[ローザンヌ]] | 5=Cars of the Vladivostok funicular.jpg | 6=[[ウラジオストク]] }} 日本以外の国では、坂の多い街で路面電車の代わりに導入された例もある。 === アジア === * [[中華人民共和国]] ** [[香港]] - [[ピークトラム]] *** 車両が平行四辺形状でなく、一般の鉄道車両と同様の形状になっている。 ** 香港 - [[香港海洋公園]]「オーシャンエクスプレス(Ocean express)」[http://www.oceanpark.com.hk/html/en/park-experience/attraction-show/ocean-express.html] *** 漢字表記は「海洋列車」。ウォーターフロント駅(海濱站)と、サミット駅(高峰站)の2つのテーマエリアを約3分で結ぶ。輸送能力が限界だったケーブルカー(循環式ロープウェイ)の混雑緩和のため、2009年8月に開業。[[潜水艦]]をモチーフにした車両は2両編成。駅以外はトンネルで、車内は走行中、海底をイメージした映像を上映する。 * [[マレーシア]] ** [[ペナン州]][[ペナン島]] - [[ペナン・ヒル鉄道]] * [[イスラエル]] ** [[ハイファ]] - [[カルメリット]] * [[アゼルバイジャン]] ** [[バクー]] - [[バクー・フニクラ]] === ヨーロッパ === * [[スイス]] ** [[インターラーケン]] ** [[ラウターブルンネン]] ** [[サンモリッツ]] ** [[チューリッヒ]](チューリッヒ工科大学) ** [[ツェルマット]](スネガ:地下ケーブルカー) ** [[フリブール]](水力式) ** [[モントルー]] ** [[ルガーノ]](モンテ・ブレ、モンテ・サン・サルヴァトーレ) ** [[ルツェルン]] ** [[ローザンヌ]](ウーシー:スイス最古) * [[オーストリア]] ** [[ザルツブルク]] - [[ライスツーク]]、[[フェストゥングスバーン (ザルツブルク)|フェストゥングスバーン]] *** どちらも[[ホーエンザルツブルク城]]にあるケーブルカーであり、ライスツークは世界最古の鉄道と言われている。 ** [[インスブルック]] - [[フンガーブルクバーン]] *** 片道の中に、上り坂と下り坂の両方が存在する。この為車両は、台車付きの枠の中に5つの立方体型の客室が吊られる様な構造になっており、傾きに応じて枠は傾くものの、客室部分は常に水平に保たれている。 ** [[グラーツ]] - [[:en:Schlossbergbahn (Graz)|シュロスベルクバーン]] ** [[ハルシュタット (オーストリア)|ハルシュタット]] ** [[セアファウス]] - [[ドルフバーン・セアファウス]](地下ケーブルカー) * [[ドイツ]] ** [[ネロベルク]](水力式) - [[ネロベルク登山鉄道]] ** [[ドレスデン]] - [[ドレスデン鋼索鉄道]] * [[フランス]] ** [[パリ]]([[モンマルトル]]) *** 丘の上にある[[サクレ・クール寺院]]へ登る階段に沿って設置されている複線交走式のケーブルカー。[[パリ交通公団]] (RATP) の経営であり、地下鉄の1日乗車券・カルネ(回数券)で利用可能。カルネでの利用は使い切りになるので、市バスやメトロへは乗り継げないことに注意。 ** [[リヨン]] *** 丘の上にあるヴューリヨン(Vieux Lyon 旧リヨン)地区への足として、麓の地下鉄ヴューリヨン駅を始発とするFourvière線とSt.Just線の2路線がある。どちらも単線交走式であるが、Fourvière線は途中駅がなく車両も単車、St.Just線は交換部分に途中駅(Minime駅)があり車両は2両連結と違いがある。始発駅のVieux Lyon駅と、Minime駅以外は山上側駅も含めて全線トンネルの中である。Fourvière線は教会、St.Just線沿線はローマ劇場と観光地へのアクセスの役割もあるが、丘の上への住宅地へのアクセスが主要な目的である。メトロやLRT・市バスの運営会社・TCL(リヨン都市交通会社)が、地下鉄路線網の一部として運営しているため、乗車券も共通であり、地下鉄の切符でそのまま乗り継ぎができる(リヨン市の片道券は、1時間以内ならば乗継可能)。なお、リヨン市北側の丘陵地にも都市ケーブルカーが存在したが、こちらは1970年代後半にラックレール式の地下鉄に変更された(現在のメトロC線)。 ** [[ラン (フランス)|ラン]] *** 無人運転のケーブルカーがある。[[ポマ2000|POMA]]と呼ばれる、ケーブル駆動方式の[[自動案内軌条式旅客輸送システム|新交通システム]]の一種である。 ** [[シャモニー]] * [[イタリア]] ** [[オルヴィエート]] - [[:it:Funicolare di Orvieto|オルヴィエート鋼索鉄道]] ** [[カタンザーロ]] - [[カタンザーロ鋼索線]] ** [[カプリ]] ** [[コモ]]=[[ブルナーテ]] - [[:it:Funicolare Como-Brunate|コモ=ブルナーテ鋼索鉄道]] ** [[ジェノヴァ]] - [[サンタンナ鋼索線]]、[[ゼッカ=リーギ鋼索線]] ** [[チェルタルド]] ** [[ナポリ]] - [[中央鋼索線]]、[[キアイア鋼索線]]、[[メルジェッリーナ鋼索線]]、[[モンテサント鋼索線]] *** 急傾斜地に市街があるため、日常の交通機関として4本の路線が運用されている。中間駅もあり、全16駅ある。そのうち最大のものは、定員450人3両編成。ラッシュ時には中間駅を通過する直通運転もされている。最も古いものは1889年10月15日開業。最大傾斜は46%。3路線は経路ほとんどが[[トンネル]]よりなる。現在はいずれも中間地点のみ複線のワイヤケーブルによる交走式。 ** [[ベルガモ]] - [[:it:Funicolare di Bergamo|ベルガモ鋼索線]] ** [[メルコリアーノ]] ** [[モンドヴィ]] ** [[トリエステ]] - [[トリエステ=オピチナ・トラム]] *** 路面電車の急勾配区間で、ケーブルカーが補機として後押しするという珍しい仕組みを採用している。 ** [[ヴェネツィア]] - [[ヴェネツィア・ピープル・ムーバー]] * [[ポルトガル]] ** [[リスボン]] *** 路面式のケーブルカーが3路線存在している。坂が多い町であり、路面電車の支線として建設されている。2路線の車両は車体を水平にしており、麓側の正面は極端に縦に長い馬面になっている(通常のケーブルカーとは異なり、五角形の車体になっている)。路線は複線交走式で、行き違い箇所以外は上下線の線路を若干ずらして線路敷きを共有する[[単複線|ガントレット]]ポイントを採用している。下町の住宅地の中の坂道の路面をレトロなケーブルカーが行き来する風情から、リスボンの観光資源の一つとなっている。なお、リスボンには坂道の移動補助として、有料のエレベーターも存在する。 * [[スペイン]] ** [[バルセロナ]] *** バルセロナ北部の丘陵地帯は住宅地となっており、ケーブルカーの路線がある。カタルーニャ公営鉄道の近郊線に接続する。 ** [[ビルバオ]] - [[アルチャンダ・ケーブルカー]] * [[チェコ]] ** [[プラハ]] *** 中間駅があるが、交走式ケーブルカーの特性上、片方の車両が中間駅に停車中はもう片方の車両は駅ではない場所に一時停車する。 * [[クロアチア]] ** [[ザグレブ]] * [[ロシア]] ** [[ウラジオストク]] * [[ウクライナ]] ** [[キエフ]] - [[キエフ鋼索鉄道]] *** 坂の多い港町であり、海沿いのパリ広場駅からカルメル修道院の間を結ぶ。全線が地下となっている。 * [[トルコ]] ** [[イスタンブール]] - [[テュネル]] === 北アメリカ === * [[アメリカ合衆国]] ** [[サンフランシスコ]] - [[サンフランシスコ市営鉄道]] - [[サンフランシスコ・ケーブルカー]] ** [[ロサンゼルス]] - {{仮リンク|エンジェルス・フライト|en|Angels Flight}} ※2016年現在運休中 ** [[ピッツバーグ]] - インクライン({{仮リンク|デュケイン・インクライン|en|Duquesne Incline}}、{{仮リンク|モノンガヘラ・インクライン|en|Monongahela Incline}}) * [[カナダ]] ** [[ケベック・シティー]]([[ケベック歴史地区|旧市街]]) - [[フニクレール・デュ・ヴュー=ケベック|フニクレール]] === オセアニア === * [[ニュージーランド]] ** [[ウェリントン]] --> == ギャラリー == '''鉄道事業法に基づくもの''' <gallery> Seikan Tunnel Kinenkan Station with Mogura-ho.jpg|[[青函トンネル記念館]]駅の「もぐら号」 Funicular in Mount Tsukuba.jpg|[[筑波観光鉄道筑波山鋼索鉄道線|筑波山ケーブルカー]] 「武蔵」号.jpg|[[御岳登山鉄道]]「武蔵」号 Takao Mountain Railroad-2.jpg|[[高尾登山電鉄|高尾山ケーブルカー]]{{Small|(2008年12月23日撮影)}} Hakone_cablecar_2020.jpg|[[箱根登山鉄道鋼索線]] Kurobe cable car 01.jpg|[[立山黒部貫光黒部ケーブルカー|黒部ケーブルカー]] Tateyama cable car 01.jpg|[[立山黒部貫光立山ケーブルカー|立山ケーブルカー]] Jukkokutoge Cable Car 2010.JPG|[[十国峠十国鋼索線|十国峠ケーブルカー]] Sakamoto Cable.jpg|[[比叡山鉄道線|比叡山坂本ケーブル]] Ushiwaka3.jpg|[[鞍馬山鋼索鉄道|鞍馬寺ケーブル]] Cable-Car YASE 201125d.jpg|[[京福電気鉄道鋼索線|叡山ケーブル]] Otokoyama Cable.jpg|[[京阪鋼索線|男山ケーブル]] Amanohashidate Cable Car6.JPG|[[天橋立鋼索鉄道|天橋立ケーブルカー]]<br>{{Small|(2015年9月10日撮影)}} Zuiun.jpg|[[近鉄西信貴鋼索線|西信貴ケーブル]] 山上線「スイート」.jpg|[[近鉄生駒鋼索線]]山上線「スイート」 Rokko cablecar02 2816.jpg|[[六甲山観光六甲ケーブル線|六甲ケーブル線]] Kobe maya cablecar03 2816.jpg|[[こうべ未来都市機構摩耶ケーブル線|摩耶ケーブル線]] Nankai Koyasan Cable.jpg|[[南海鋼索線|高野山ケーブル]] Yakuri Cable Railway.JPG|[[八栗ケーブル]] Train of Sarakurayama Cable Car at Sanroku Station 2.jpg|[[皿倉山ケーブルカー]] </gallery> '''鉄道事業法に基づかないもの''' <gallery> Moiwayama Morris Car.JPG|[[藻岩山]]のミニケーブルカー「もーりすカー」([[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]) Kanouya cable car.jpg|[[伊香保温泉]]「景風流の宿かのうや」所有のケーブルカー([[渋川市]][[伊香保町]]) Hishino onsen tokiwakan funicular.jpg|菱野温泉「常盤館」所有のケーブルカー([[小諸市]]) Youkikan funicular.jpg|[[伊東温泉]]「陽気館」所有のケーブルカー([[伊東市]]) Iyaonsen cablecar.jpg|[[祖谷温泉]]「ホテル祖谷温泉」所有のケーブルカー([[三好市]]) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons&cat}} {{Commonscat|Funiculars in Japan|日本のケーブルカー}} * [[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線]] - ロープ駆動とリニアモーターを併用した懸垂式[[モノレール]]による小規模交通システム。 * [[カーレーター]] * [[斜行エレベーター]] * [[スロープカー]] * [[ジェットコースター]] - 多くの物は、最初に循環式ケーブルカー類似の機構(ただしケーブルでなく[[ローラーチェーン]])で坂を高所に登り、発進する。 {{公共交通}} {{日本のケーブルカー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けえふるかあ}} [[Category:鋼索式鉄道|*]] [[Category:公共交通]] [[Category:登山鉄道]] [[Category:陸上交通]] [[Category:鉄道]]
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三賞
三賞(さんしょう)とは、一般には各業界における三種類の賞の総称を指す。 本記事で記述する三賞は、大相撲の本場所において、成績優秀な関脇以下の幕内力士に送られる三種類の賞の総称である。 戦後の混乱期に直面した相撲の発展を促進するため、1947年(昭和22年)秋場所前、記者倶楽部会合の席上で、東京新聞の原三郎が提案したものが協会幹部に認められ導入となった。 殊勲賞(しゅくんしょう)・敢闘賞(かんとうしょう)・技能賞(ぎのうしょう)の3つが当初から制定された。1947年(昭和22年)11月場所から実施され、第1号の受賞者は殊勲・出羽錦忠雄、敢闘・輝昇勝彦、技能・増位山大志郎である。 当初は、各賞1名ずつが原則であったが、1949年10月場所に鏡里が殊勲・敢闘の両賞を受賞、1957年10月場所には初めて技能賞に該当者なしが出現、さらに1971年11月場所には敢闘賞が輪島・富士櫻の2人受賞、1973年7月場所には大受が全賞受賞、1996年1月場所には敢闘賞が貴闘力・剣晃・玉春日の3人受賞、一方2018年9月場所では三賞いずれも該当者なしと、受賞の様態は時代に沿って変化を見せている。 かつては巡業においても稽古報奨金としての三賞制度が存在しており、実際に1995年春巡業から「巡業三賞」が設けられた。関脇以下の力士を対象に最優秀賞(30万円)精勤賞(20万円)努力賞(10万円)が規定されていたが、1997年夏巡業からは優秀賞のみに改定され、1999年春巡業からは企業がスポンサーとなり、2001年冬巡業を最後に廃止された。 なお、これから派生して他の大会でも殊勲・敢闘・技能の三賞を設けることがある。 三賞受賞力士の表彰式は優勝力士の表彰後に行われる。 協会の定める三賞選考委員会内規第8項により定められる。 横綱・大関から白星を挙げた力士や優勝に関わる白星を挙げた力士に与えられる。仮に優勝した力士が14勝1敗の成績だったとすると、優勝力士に唯一の土を付けた力士が評価されて受賞対象となることもある。例として、2008年5月場所で大関・琴欧洲が14勝1敗で初優勝を果たしたが、その琴欧洲に唯一の黒星を付けた安美錦が殊勲賞を受賞している。2009年から2013年頃にかけては朝青龍・白鵬と強い横綱の活躍が続いていたことから金星を獲得できる力士が少ないこと、金星を得ることができても勝ち越しを収められるまでには至らないこと、横綱と大関との力の差が開いて大関に勝った星の価値が下がっていることなどから、該当者なしの場所が多くなっていた。2009年は史上初めて年6場所通じて該当者が出なかった。また、関脇以下の力士が優勝した場合にも受賞することがある。 1992年5月場所の曙の場合は大関・横綱戦未勝利での受賞となったが、これはまだ三賞の該当基準が確立されていなかった1947年11月場所の出羽錦以来となる珍事であった。 敢闘精神旺盛な力士に与えられる。「敢闘精神」の定義は広く解釈されていて、殊勲賞にも、技能賞にも該当させにくい好成績を挙げた力士(例えば関脇以下での優勝や優勝同点、そうでなくても最終盤まで優勝争いに絡んだ場合)、新進力士やベテラン力士に対する奨励の意味で与えられることもある。三賞の中でも最も幅広く受賞者が出ている。作家の喜多哲士は自身のウェブサイトの1コーナー「大相撲小言場所」で2020年1月場所の感想として「霧馬山の敢闘賞に異論はないけれど、新入幕で二桁勝てば自動的に敢闘賞というような選び方はいかがなものか」と意見していた。 2023年7月場所は、6人の候補者が挙げられ、2人が無条件、4人が千秋楽の勝利が条件とされていたが4人とも勝利したことにより、史上初となる1場所で6人同時受賞となった。 技能が特に優秀な力士に与えられる。決まり手の数が豊富な力士や奇手を繰り出す力士が受賞する傾向が強く、この賞を与えられることは、幕内で個性派として認められる証だとされる。そのため同じ力士が何度も受賞する場合が多い。一方で、寄り、押し、立合いなどの基本の型に忠実である力士に与えられることもあり、がぶり一辺倒の取り口で知られた荒勢はただ1回とはいえ「がぶりも技術の一つである」と一芸が認められる形で1977年9月場所に技能賞を獲得している。その一方で、「潜航艇」と呼ばれた岩風や、サーカス相撲で知られた栃赤城は、三役に定着する実力を持ち充分個性派として土俵を湧かせた力士でありながら一度も受賞していない。2013年1月場所から2016年3月場所にかけて受賞が極端に少なくなっており、この間の20場所でわずか5度(4人)のみであった。2021年1月場所は、3人の候補者が挙げられ、いずれも千秋楽の勝利が条件とされていたが3人とも勝利したことにより、史上初となる1場所で3人同時受賞となった。。 三賞選考委員会は千秋楽の幕内取組前に(通例午後1時から)記者クラブで行われる。 委員は日本相撲協会の審判委員と維持員、記者の中から理事長が委嘱し、任期は1年、定員は45人以内である(三賞選考委員会内規第1~3項)。各出席者が三賞にふさわしい力士を推薦し、討議の末、出席者の過半数の賛成を得られれば受賞が決定する(三賞選考委員会内規第6項)。また、選考の結果各賞に該当者が見当たらない場合は賞を選出しないことができる(三賞選考委員会内規第9項)。1989年5月場所までは、三賞選考委員会に先立って14日目の取組前に「三賞選考予備会」が行われ、三賞候補をあらかじめ挙げたうえで千秋楽に選考委員会を開いていた。 受賞には勝ち越しが前提条件であり、その上で何より相撲内容が審査される。勝星数の優劣は副次的な評価に留まるため、8勝7敗で受賞した力士も多数存在する。一方、近年は10勝しても受賞できないケースが多い。 選考に際し、「千秋楽の取組に勝った場合」などの条件付きになることもある。特に前述の「勝ち越しが絶対条件」により、三賞受賞候補者の千秋楽の取組前の成績が7勝7敗の場合は必ず「勝てば受賞」という条件付となる。また、三賞受賞候補者同士の対戦が千秋楽に組まれている場合には両者とも勝てば受賞という条件付として実質的な三賞決定戦という形となったこともある。 なお皆勤は要件として規定されていないが、途中休場力士の受賞例は長らくなかった。2015年3月場所では勝ち越し後の11日目より休場し8勝3敗4休の安美錦が技能賞の候補にあがったが、投票の末見送られ、この場所は技能賞なしとなった。2019年1月場所では8勝4敗3休(安美錦の例とは異なり、再出場して勝ち越し)の御嶽海が殊勲賞を獲得した。 黒姫山は、白星数を評価しない三賞選考基準を見直すべきだと協会定年退職後に意見しており、三賞に見合うだけの活躍力士3人を先に決定してからその後に殊勲賞、敢闘賞、技能賞のそれぞれの賞に当てはめるやり方にすべきではと話していた。二桁勝利を挙げた新入幕力士は1975年11月場所の青葉山以降必ず三賞を受賞してきたが、2007年から2011年にかけては10勝では受賞できず、11勝以上が条件とされることが多くなっていた。 2019年1月場所現在の賞金額は、各賞それぞれ200万円である。1人が複数の賞を受賞(後述)した場合は、ダブル受賞であれば400万円、トリプル受賞であれば600万円が支給される。また、1つの賞に複数の力士が選ばれることもあるが、この場合も各力士それぞれに200万円が支給される。 2023年11月場所終了現在 1場所で殊勲賞・敢闘賞・技能賞の全てを受賞した力士はこれまでに5人いる。このうち、貴花田と出島は同時に幕内最高優勝も果たしている。琴光喜はトリプル受賞の翌年の2001年9月場所に幕内最高優勝を経験しているが、この時は殊勲賞と技能賞のダブル受賞にとどまった。 三賞トリプル受賞は、その場所に三賞を受賞した力士が1人だけとなった場合は「三賞独占」とも言われる。 選考の傾向としては、一つの賞ごとに独立して力士を選ぶ、というより他の受賞力士との兼ね合いから決まることも多い。例えば最も活躍したAと次点のBがいた場合、一賞ごとに選ぶと全部Aが受賞してしまう可能性が濃いが、全体のバランスを考慮して敢闘賞だけはBを選ぶということである。このため、よほどの大活躍をしない限りトリプル受賞は難しい。 1969年7月場所に「大関の地位で2場所連続で負け越した場合、関脇へ降格する。しかし降格した直後場所で、関脇の地位で10勝以上の勝ち星を挙げれば、特例として大関に復帰できる」という現行の制度ができて以降、大関を陥落した力士が三賞を受賞した記録は以下の通りである。なお、降格直後場所に関脇で三賞を受賞した力士は、10勝以上して大関特例復帰に成功した7例(三重ノ海・貴ノ浪・武双山・栃ノ心・貴景勝と、栃東は2度復帰)も含めてまだ出ていない。ただし、2019年9月場所において貴景勝が関脇に降格し10勝を挙げ、さらに12勝で優勝をした御嶽海と優勝決定戦に臨んだことから技能賞の候補にあがったが、先場所は大関の地位にいたことで受賞は見送られている。 2018年9月場所において、三賞制度制定以来初めて、三賞“全て該当者なし”の事例となった。敢闘賞候補に竜電・貴景勝、技能賞候補には嘉風の名前が挙がったものの、選考委員の過半数の賛成が得られなかったことによる。この場所は3横綱3大関が全員皆勤し9勝以上、関脇・小結も玉鷲を除いた全員が勝ち越しのハイレベルな成績で、関脇以下の最高成績は嘉風の11勝にとどまっている。 また、それ以前にも以下の事例であわや全三賞該当者なしになりかけていた。いずれも候補力士が千秋楽の取組で勝利し全三賞該当者無しは免れている。 1994年11月場所は、千秋楽の幕内取組前の時点で三賞受賞が決定した力士が一人もいない事態となり、この場所再入幕の浪乃花が千秋楽の取組で勝利し10勝すれば、敢闘賞という条件付きだった。 また、2013年3月場所は、千秋楽の幕内取組前の時点で三賞受賞が決定した力士が一人もいない事態となり、この場所白鵬の優勝が決定する13日目まで優勝争いに絡んだ隠岐の海が千秋楽の取組で勝利し11勝すれば敢闘賞、横綱・日馬富士を破った金星のほかに2大関を破った銀星が評価された豊ノ島が千秋楽の取組で勝利し勝ち越せば殊勲賞という条件付きだった。結果隠岐の海は勝って受賞し、豊ノ島は負けて逃した。 1996年1月場所千秋楽の三賞選考会で、当該力士以外の力士の結果も加えて受賞条件とするという事例が起こった。剣晃は優勝を争っている大関の貴ノ浪に勝利していたが、7勝7敗で千秋楽を迎えていた。選考会でこの剣晃について、九重親方が「優勝力士に土をつけた力士に何もあげないのはおかしい」と唱え、次の条件付きで剣晃に敢闘賞を授与すると決定した。まず剣晃が千秋楽に勝って勝ち越すこと。そして、貴ノ浪が優勝した場合に限って敢闘賞を剣晃に授与するとなった。結果、剣晃は千秋楽に勝ち越しを決め、貴ノ浪も貴乃花との優勝決定戦を制して優勝し、剣晃は敢闘賞を受賞した。このような他力条件付きの受賞は史上初めてであった。その後長らくこのような条件での受賞は無かったが、2019年7月場所で当時大関から陥落していた琴奨菊がこの場所優勝争いをしていた白鵬に勝利しており、7勝7敗で迎えた千秋楽で琴奨菊が勝利して勝ち越し、なおかつ白鵬が優勝した場合殊勲賞を受賞という前例の剣晃と全く同じ条件となった。しかし琴奨菊は対戦相手の阿炎の立ち会い変化で敗れてしまい受賞を逃す結果となった。(ちなみに白鵬もその後結びで鶴竜に敗れた) 2019年1月場所で、2横綱(稀勢の里・鶴竜)および同場所を制する関脇・玉鷲を下した後に途中休場し、再出場後に残りの横綱・白鵬を下したうえ勝ち越した小結・御嶽海が、皆勤できなかった力士としては初めて受賞(殊勲賞)した。 2022年7月場所で、錦富士に「千秋楽に北勝富士に勝って10勝を達成すれば敢闘賞受賞」という条件が付けられたが、千秋楽に北勝富士は新型コロナウイルス感染により休場したため不戦勝。千秋楽不戦勝で受賞条件を達成した事例は異例中の異例。 2019年9月場所では、千秋楽まで優勝の可能性を残した関脇・御嶽海に対して「優勝すれば殊勲賞受賞、優勝できなければ敢闘賞受賞」と、三賞1つということは変わらないが、授与される賞が成績によって変わる決定がなされた。この場所は14日目が終わった時点で御嶽海含む11勝3敗の3人に優勝の可能性が残り、このうち関脇・貴景勝(三賞なし)と平幕・隠岐の海(敢闘賞は無条件、殊勲賞は優勝すれば受賞)が3敗同士の直接対決のため、御嶽海が優勝できるのは本割、優勝決定戦を連勝する場合に限られ、どちらかで敗れた場合は優勝できないため、敢闘賞受賞は千秋楽に敗れることが事実上の条件となった。結果、御嶽海は優勝したため殊勲賞受賞となった。 2023年7月場所においては、錦木の殊勲賞、伯桜鵬の敢闘賞と技能賞の二冠と北勝富士の敢闘賞は無条件で確定。さらに千秋楽の取り組みに勝てばという前提で、豊昇龍、琴ノ若、豪ノ山、湘南乃海の最大4人(合計6人)を敢闘賞に追加するとしたが、千秋楽で当該4人全員が勝利を収めたため、7人(伯桜鵬は二冠)が三賞を受賞した。それまでの最多は5人(1998年5月場所、2020年1月場所)である
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"また、それ以前にも以下の事例であわや全三賞該当者なしになりかけていた。いずれも候補力士が千秋楽の取組で勝利し全三賞該当者無しは免れている。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1994年11月場所は、千秋楽の幕内取組前の時点で三賞受賞が決定した力士が一人もいない事態となり、この場所再入幕の浪乃花が千秋楽の取組で勝利し10勝すれば、敢闘賞という条件付きだった。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、2013年3月場所は、千秋楽の幕内取組前の時点で三賞受賞が決定した力士が一人もいない事態となり、この場所白鵬の優勝が決定する13日目まで優勝争いに絡んだ隠岐の海が千秋楽の取組で勝利し11勝すれば敢闘賞、横綱・日馬富士を破った金星のほかに2大関を破った銀星が評価された豊ノ島が千秋楽の取組で勝利し勝ち越せば殊勲賞という条件付きだった。結果隠岐の海は勝って受賞し、豊ノ島は負けて逃した。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1996年1月場所千秋楽の三賞選考会で、当該力士以外の力士の結果も加えて受賞条件とするという事例が起こった。剣晃は優勝を争っている大関の貴ノ浪に勝利していたが、7勝7敗で千秋楽を迎えていた。選考会でこの剣晃について、九重親方が「優勝力士に土をつけた力士に何もあげないのはおかしい」と唱え、次の条件付きで剣晃に敢闘賞を授与すると決定した。まず剣晃が千秋楽に勝って勝ち越すこと。そして、貴ノ浪が優勝した場合に限って敢闘賞を剣晃に授与するとなった。結果、剣晃は千秋楽に勝ち越しを決め、貴ノ浪も貴乃花との優勝決定戦を制して優勝し、剣晃は敢闘賞を受賞した。このような他力条件付きの受賞は史上初めてであった。その後長らくこのような条件での受賞は無かったが、2019年7月場所で当時大関から陥落していた琴奨菊がこの場所優勝争いをしていた白鵬に勝利しており、7勝7敗で迎えた千秋楽で琴奨菊が勝利して勝ち越し、なおかつ白鵬が優勝した場合殊勲賞を受賞という前例の剣晃と全く同じ条件となった。しかし琴奨菊は対戦相手の阿炎の立ち会い変化で敗れてしまい受賞を逃す結果となった。(ちなみに白鵬もその後結びで鶴竜に敗れた)", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2019年1月場所で、2横綱(稀勢の里・鶴竜)および同場所を制する関脇・玉鷲を下した後に途中休場し、再出場後に残りの横綱・白鵬を下したうえ勝ち越した小結・御嶽海が、皆勤できなかった力士としては初めて受賞(殊勲賞)した。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2022年7月場所で、錦富士に「千秋楽に北勝富士に勝って10勝を達成すれば敢闘賞受賞」という条件が付けられたが、千秋楽に北勝富士は新型コロナウイルス感染により休場したため不戦勝。千秋楽不戦勝で受賞条件を達成した事例は異例中の異例。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2019年9月場所では、千秋楽まで優勝の可能性を残した関脇・御嶽海に対して「優勝すれば殊勲賞受賞、優勝できなければ敢闘賞受賞」と、三賞1つということは変わらないが、授与される賞が成績によって変わる決定がなされた。この場所は14日目が終わった時点で御嶽海含む11勝3敗の3人に優勝の可能性が残り、このうち関脇・貴景勝(三賞なし)と平幕・隠岐の海(敢闘賞は無条件、殊勲賞は優勝すれば受賞)が3敗同士の直接対決のため、御嶽海が優勝できるのは本割、優勝決定戦を連勝する場合に限られ、どちらかで敗れた場合は優勝できないため、敢闘賞受賞は千秋楽に敗れることが事実上の条件となった。結果、御嶽海は優勝したため殊勲賞受賞となった。", "title": "主な記録" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2023年7月場所においては、錦木の殊勲賞、伯桜鵬の敢闘賞と技能賞の二冠と北勝富士の敢闘賞は無条件で確定。さらに千秋楽の取り組みに勝てばという前提で、豊昇龍、琴ノ若、豪ノ山、湘南乃海の最大4人(合計6人)を敢闘賞に追加するとしたが、千秋楽で当該4人全員が勝利を収めたため、7人(伯桜鵬は二冠)が三賞を受賞した。それまでの最多は5人(1998年5月場所、2020年1月場所)である", "title": "主な記録" } ]
三賞(さんしょう)とは、一般には各業界における三種類の賞の総称を指す。 本記事で記述する三賞は、大相撲の本場所において、成績優秀な関脇以下の幕内力士に送られる三種類の賞の総称である。
[[File:Ryogoku Kokugikan5.jpg|thumb|280px|三賞(殊勲賞、敢闘賞、技能賞)(2009年4月29日撮影)]] '''三賞'''(さんしょう)とは、一般には各業界における三種類の賞の総称を指す。 本記事で記述する三賞は、[[大相撲]]の[[本場所]]において、成績優秀な[[関脇]]以下の[[幕内]][[力士]]に送られる三種類の賞の総称である。 == 概要 == 戦後の混乱期に直面した相撲の発展を促進するため、[[1947年]](昭和22年)秋場所前、記者倶楽部会合の席上で、[[東京新聞]]の原三郎が提案したものが協会幹部に認められ導入となった。 '''殊勲賞'''(しゅくんしょう)・'''敢闘賞'''(かんとうしょう)・'''技能賞'''(ぎのうしょう)の3つが当初から制定された。[[1947年]](昭和22年)11月場所から実施され、第1号の受賞者は殊勲・[[出羽錦忠雄]]、敢闘・[[輝昇勝彦]]、技能・[[増位山大志郎]]である<ref>高永・原田、123~124頁。ここでは「今日の三賞選考なら新入幕の出羽錦が敢闘賞で、殊勲賞は[[千代の山雅信|千代ノ山]]が最有力となり、輝昇と増位山が技能賞をせり合うことになったろう」「当初は各賞の該当規定が、いまのように判然としていなかった」としている。</ref>。 当初は、各賞1名ずつが原則であったが、[[1949年]]10月場所に[[鏡里喜代治|鏡里]]が殊勲・敢闘の両賞を受賞、[[1957年]]10月場所には初めて技能賞に該当者なしが出現、さらに[[1971年]]11月場所には敢闘賞が[[輪島大士|輪島]]・[[富士櫻栄守|富士櫻]]の2人受賞、[[1973年]]7月場所には[[大受久晃|大受]]が[[#三賞トリプル受賞|全賞受賞]]、[[1996年]]1月場所には敢闘賞が[[貴闘力忠茂|貴闘力]]・[[剣晃敏志|剣晃]]・[[玉春日良二|玉春日]]の3人受賞、一方[[2018年]]9月場所では[[#全三賞該当者無しの場所|三賞いずれも該当者なし]]と、受賞の様態は時代に沿って変化を見せている。 かつては巡業においても稽古報奨金としての三賞制度が存在しており、実際に1995年春巡業から「巡業三賞」が設けられた。関脇以下の力士を対象に最優秀賞(30万円)精勤賞(20万円)努力賞(10万円)が規定されていたが、1997年夏巡業からは優秀賞のみに改定され、1999年春巡業からは企業がスポンサーとなり、2001年冬巡業を最後に廃止された<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20130801-1166261.html 力士会長白鵬、巡業三賞復活を提案] nikkansports.com 2013年8月1日9時22分 紙面から</ref>。 なお、これから派生して他の大会でも殊勲・敢闘・技能の三賞を設けることがある<ref group="注釈">たとえば[[東京スポーツ新聞社]]主催「[[プロレス大賞]]」、[[日刊スポーツ新聞社]]制定「競輪年間三賞」など。</ref>。 三賞受賞力士の表彰式は優勝力士の表彰後に行われる。 == 三賞の内容 == 協会の定める三賞選考委員会内規第8項により定められる。 === 殊勲賞 === [[横綱]]・[[大関]]から白星を挙げた力士や[[賜杯|優勝]]に関わる白星を挙げた力士に与えられる。仮に優勝した力士が14勝1敗の成績だったとすると、優勝力士に唯一の土を付けた力士が評価されて受賞対象となることもある。例として、2008年5月場所で大関・[[琴欧洲勝紀|琴欧洲]]が14勝1敗で初優勝を果たしたが、その琴欧洲に唯一の黒星を付けた[[安美錦竜児|安美錦]]が殊勲賞を受賞している。2009年から2013年頃にかけては[[朝青龍明徳|朝青龍]]・[[白鵬翔|白鵬]]と強い横綱の活躍が続いていたことから[[金星 (相撲)|金星]]を獲得できる力士が少ないこと、金星を得ることができても勝ち越しを収められるまでには至らないこと、横綱と大関との力の差が開いて大関に勝った星の価値が下がっていることなどから、該当者なしの場所が多くなっていた。[[2009年]]は史上初めて年6場所通じて該当者が出なかった<ref group="注釈">『相撲』2014年2月号128頁には「平成21年度以降では、殊勲賞が目立って少ない。現在では『横綱に勝っての勝ち越し』が半ば暗黙の了解になっている。」という内容の投書が紹介された。</ref>。また、関脇以下の力士が優勝した場合にも受賞することがある。 1992年5月場所の[[曙太郎|曙]]の場合は大関・横綱戦未勝利での受賞となったが、これはまだ三賞の該当基準が確立されていなかった1947年11月場所の[[出羽錦忠雄|出羽錦]]以来となる珍事であった<ref>[https://www.bbm-japan.com/sumo/17196753 大相撲クイズ⑪曙の殊勲賞、何が珍しいの?] ベースボールマガジン社 2018-08-13(分冊百科大相撲名力士風雲録第11号「曙・3代若乃花」掲載、2020年1月7日閲覧)</ref>。 === 敢闘賞 === 敢闘精神旺盛な力士に与えられる。「敢闘精神」の定義は広く解釈されていて、殊勲賞にも、技能賞にも該当させにくい好成績を挙げた力士(例えば[[関脇]]以下での優勝や優勝同点、そうでなくても最終盤まで優勝争いに絡んだ場合)、新進力士や[[ベテラン]]力士に対する奨励の意味で与えられることもある。三賞の中でも最も幅広く受賞者が出ている。作家の[[喜多哲士]]は自身のウェブサイトの1コーナー「大相撲小言場所」で2020年1月場所の感想として「[[霧島鐵力|霧馬山]]の敢闘賞に異論はないけれど、新入幕で二桁勝てば自動的に敢闘賞というような選び方はいかがなものか」と意見していた<ref>[http://www014.upp.so-net.ne.jp/t-kita/sumo0276.html 初場所をふりかえって~德勝龍、幕尻で初優勝~] ぼやいたるねん:大相撲小言場所 (2020年2月2日閲覧)</ref>。 2023年7月場所は、6人の候補者が挙げられ、2人が無条件、4人が千秋楽の勝利が条件とされていたが4人とも勝利したことにより、史上初となる1場所で6人同時受賞となった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202307230000443.html 殊勲賞に錦木、敢闘賞に伯桜鵬と北勝富士、技能賞も伯桜鵬 名古屋場所の三賞決まる] 日刊スポーツ 2023年7月23日19時18分 (2023年7月23日閲覧)</ref>。 === 技能賞 === 技能が特に優秀な力士に与えられる。[[決まり手]]の数が豊富な力士や奇手を繰り出す力士が受賞する傾向が強く、この賞を与えられることは、幕内で個性派として認められる証だとされる。そのため同じ力士が何度も受賞する場合が多い。一方で、寄り、押し、[[立合い]]などの基本の型に忠実である力士に与えられることもあり、がぶり一辺倒の取り口で知られた[[荒勢永英|荒勢]]はただ1回とはいえ「がぶりも技術の一つである」と一芸が認められる形で1977年9月場所に技能賞を獲得している。その一方で、「潜航艇」と呼ばれた[[岩風角太郎|岩風]]や、サーカス相撲で知られた[[栃赤城雅男|栃赤城]]は、三役に定着する実力を持ち充分個性派として土俵を湧かせた力士でありながら一度も受賞していない。2013年1月場所から2016年3月場所にかけて受賞が極端に少なくなっており、この間の20場所でわずか5度(4人)のみであった。2021年1月場所は、3人の候補者が挙げられ、いずれも千秋楽の勝利が条件とされていたが3人とも勝利したことにより、史上初となる1場所で3人同時受賞となった。<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202101240000283.html 大栄翔Vに花添えた…役力士総なめで殊勲賞と技能賞] 日刊スポーツ 2021年1月24日17時34分 (2021年1月25日閲覧)</ref>。 == 三賞選考委員会 == 三賞選考委員会は[[千秋楽]]の幕内[[取組]]前に(通例午後1時から)[[記者クラブ]]で行われる。 委員は[[日本相撲協会]]の[[勝負審判|審判委員]]と維持員、記者の中から理事長が委嘱し、任期は1年、定員は45人以内である(三賞選考委員会内規第1~3項)。各出席者が三賞にふさわしい力士を推薦し、討議の末、出席者の過半数の賛成を得られれば受賞が決定する(三賞選考委員会内規第6項)。<!--<ref>2014年1月場所14日目の『どすこいFM』の中継では二子山(元大関・雅山)が、14日目までに西前頭10枚目の地位で11勝を挙げて敢闘賞が確定しており千秋楽に勝てば技能賞も追加される状況であった[[遠藤聖大|遠藤]]について「マスコミは遠藤に敢闘・技能の二つと言うだろうが、私は一つで十分と考える。三賞は相撲協会の表彰なので(マスコミが金を出しているのではないので)、マスコミではなく協会が決めるべき、少なくとも親方に投票権があってしかるべき。」と意見した。この時の遠藤の三賞選考に関する主導権がマスコミ関係者に握られていたという趣旨の批判と言える。</ref>-->また、選考の結果各賞に該当者が見当たらない場合は賞を選出しないことができる(三賞選考委員会内規第9項)。1989年5月場所までは、三賞選考委員会に先立って14日目の取組前に「三賞選考予備会」が行われ、三賞候補をあらかじめ挙げたうえで千秋楽に選考委員会を開いていた。 受賞には[[勝ち越し]]が前提条件であり、その上で何より相撲内容が審査される。勝星数の優劣は副次的な評価に留まるため、8勝7敗で受賞した力士も多数存在する。一方、近年は10勝しても受賞できない<ref name="ref1">『相撲』2014年2月号128頁</ref><ref group="注釈">[[2017年]]5月場所を例にとると、小結で8勝の[[御嶽海久司|御嶽海]](殊勲賞)、[[嘉風雅継|嘉風]](技能賞)が受賞した一方、平幕で10勝以上しながら受賞できなかった力士が5人いた([[栃ノ心剛史|栃ノ心]]12勝、[[貴景勝貴信|貴景勝]]11勝、[[宇良和輝|宇良]]11勝、[[正代直也|正代]]10勝、[[北勝富士大輝|北勝富士]]10勝)。</ref>ケースが多い。 選考に際し、「千秋楽の取組に勝った場合」などの条件付きになることもある。特に前述の「勝ち越しが絶対条件」により、三賞受賞候補者の千秋楽の取組前の成績が7勝7敗の場合は必ず「勝てば受賞」という条件付となる。また、三賞受賞候補者同士の対戦が千秋楽に組まれている場合には両者とも勝てば受賞という条件付として実質的な三賞決定戦という形となったこともある。 なお皆勤は要件として規定されていないが、[[#途中休場がある力士の受賞|途中休場力士の受賞]]例は長らくなかった。[[2015年]]3月場所では勝ち越し後の11日目より休場し8勝3敗4休の[[安美錦竜児|安美錦]]が技能賞の候補にあがったが、投票の末見送られ、この場所は技能賞なしとなった。[[2019年]]1月場所では8勝4敗3休(安美錦の例とは異なり、再出場して勝ち越し)の[[御嶽海久司|御嶽海]]が殊勲賞を獲得した。 [[黒姫山秀男|黒姫山]]は、白星数を評価しない三賞選考基準を見直すべきだと協会[[定年]]退職後に意見しており<ref>『大相撲中継』2017年8月12日号 p102</ref>、三賞に見合うだけの活躍力士3人を先に決定してからその後に殊勲賞、敢闘賞、技能賞のそれぞれの賞に当てはめるやり方にすべきではと話していた<ref>『大相撲中継』2017年9月16日号 p73</ref>。二桁勝利を挙げた新入幕力士は[[1975年]]11月場所の[[青葉山弘年|青葉山]]以降必ず三賞を受賞してきたが、2007年から2011年にかけては10勝では受賞できず、11勝以上が条件とされることが多くなっていた<ref group="注釈">この間に10勝5敗で三賞を受賞したのは2011年5月[[技量審査場所]]の魁聖のみ。2007年5月場所の[[龍皇昇|龍皇]](千秋楽に勝てば敢闘賞を受賞していた)、同11月場所の[[鈴川真一|若麒麟]]、2008年7月場所の[[将司昂親|将司]]、2011年7月場所の[[富士東和佳|富士東]]、同11月場所の妙義龍(千秋楽勝って11勝でも受賞できず)・松鳳山は受賞できなかった。妙義龍と松鳳山以外はその後三賞受賞の経験がない。</ref>。 == 賞金 == 2019年1月場所現在の賞金額は、各賞それぞれ200万円である。1人が複数の賞を受賞([[#三賞トリプル受賞|後述]])した場合は、ダブル受賞であれば400万円、トリプル受賞であれば600万円が支給される。また、1つの賞に複数の力士が選ばれることもあるが、この場合も各力士それぞれに200万円が支給される。 == 主な記録 == * 最多三賞受賞数 [[安芸乃島勝巳]] 19回(殊勲賞7回、敢闘賞8回、技能賞4回) * 三賞最年少受賞 [[貴乃花光司]] 18歳3か月(平成3年3月場所) * 三賞最年長受賞 [[旭天鵬勝]] 40歳2か月(平成26年11月場所) * 初三賞受賞最速場所数 [[伯桜鵬哲也]] 4場所(令和5年7月場所) * 初三賞受賞スロー場所数 [[錦木徹也]] 103場所(令和5年7月場所) * 最多三賞受賞人数 7人(延べ8人)(殊勲賞1人、敢闘賞6人、技能賞1人)(令和5年7月場所) * 殊勲賞最多受賞 [[朝潮太郎 (4代)|朝潮太郎]]、[[魁皇博之]] 10回 * 敢闘賞最多受賞 [[貴闘力忠茂]] 10回 * 技能賞最多受賞 [[鶴ヶ嶺昭男]] 10回 ===平成の受賞=== {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !年!!場所!!殊勲賞!!敢闘賞!!技能賞 |- |rowspan="6"|[[1989年]]<br />(平成元年) |1月(初)||[[寺尾常史]]||[[旭道山和泰]]||[[逆鉾昭廣]] |- |3月(春)||[[板井圭介]]||[[安芸乃島勝巳|安芸ノ島勝巳]]<br/>[[益荒雄広生|益荒雄宏夫]]||板井圭介 |- |5月(夏)||[[霧島一博]]||[[恵那櫻徹]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[琴ヶ梅剛史]]<br/>[[太寿山忠明]]||寺尾常史 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||寺尾常史||琴ヶ梅剛史 |- |11月(九州)||[[両国梶之助]]||[[水戸泉政人]]||霧島一博 |- |rowspan="6"|[[1990年]]<br />(平成2年) |1月(初)||霧島一博||[[栃乃和歌清隆]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||霧島一博<br/>安芸ノ島勝巳||両国梶之助||霧島一博 |- |5月(夏)||安芸ノ島勝巳||[[琴錦功宗]]<br/>[[安田忠夫|孝乃富士忠雄]]||安芸ノ島勝巳 |- |7月(名古屋)||琴錦功宗||安芸ノ島勝巳<br/>[[春日富士晃大]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||琴錦功宗||[[貴闘力忠茂]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||琴錦功宗<br/>安芸ノ島勝巳||[[曙太郎]]||琴錦功宗 |- |rowspan="6"|[[1991年]]<br />(平成3年) |1月(初)||曙太郎||[[巴富士俊英]]||琴錦功宗 |- |3月(春)||曙太郎<br/>貴闘力忠茂||[[貴乃花光司|貴花田光司]]||貴花田光司 |- |5月(夏)||貴花田光司||貴闘力忠茂<br/>安芸ノ島勝巳||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||貴花田光司||貴闘力忠茂<br/>[[琴富士孝也]]||貴花田光司 |- |9月(秋)||[[花田虎上|若花田勝]]||栃乃和歌清隆<br/>琴錦功宗||若花田勝<br/>[[舞の海秀平]] |- |11月(九州)||琴錦功宗||[[武蔵丸光洋]]||舞の海秀平 |- |rowspan="6"|[[1992年]]<br />(平成4年) |1月(初)||曙太郎<br/>貴花田光司||曙太郎<br/>貴花田光司||若花田勝<br/>貴花田光司 |- |3月(春)||栃乃和歌清隆<br/>安芸ノ島勝巳||安芸ノ島勝巳||栃乃和歌清隆 |- |5月(夏)||曙太郎||[[三杉里公似]]||若花田勝 |- |7月(名古屋)||[[旭道山和泰]]||[[水戸泉政人]]||武蔵丸光洋 |- |9月(秋)||貴花田光司||旭道山和泰<br/>[[大翔鳳昌巳]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[琴別府要平]]||琴錦功宗 |- |rowspan="6"|[[1993年]]<br />(平成5年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[馬場口洋一|若翔洋俊一]]<br/>[[大翔山直樹]]||若花田勝 |- |3月(春)||若花田勝<br/>旭道山和泰||若翔洋俊一||若花田勝 |- |5月(夏)||若ノ花勝||[[貴ノ浪貞博]]||貴闘力忠茂 |- |7月(名古屋)||安芸ノ島勝巳||琴錦功宗||若ノ花勝 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[久島海啓太]]||[[智ノ花伸哉]]<br/>舞の海秀平 |- |11月(九州)||武蔵丸光洋||[[小城錦康年]]||智ノ花伸哉 |- |rowspan="6"|[[1994年]]<br />(平成6年) |1月(初)||[[武双山正士]]||貴ノ浪貞博||武蔵丸光洋 |- |3月(春)||[[魁皇博之]]||寺尾常史<br>貴闘力忠茂||琴錦功宗<br>小城錦康年 |- |5月(夏)||寺尾常史||貴闘力忠茂||舞の海秀平 |- |7月(名古屋)||[[濱ノ嶋啓志]]||貴闘力忠茂||舞の海秀平 |- |9月(秋)||武双山正士<br/>[[琴稲妻佳弘]]||武双山正士||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[浪乃花教天]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="6"|[[1995年]]<br />(平成7年) |1月(初)||魁皇博之||安芸乃島勝巳<br>大翔鳳昌巳||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||寺尾常史||安芸乃島勝巳||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||武双山正士||武双山正士||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||琴錦玄教<br>[[剣晃敏志]]||[[琴ノ若晴將|琴の若實哉]]||武双山正士 |- |9月(秋)||魁皇博之||琴稲妻佳弘<br>[[土佐ノ海敏生]]||琴錦玄教 |- |11月(九州)||土佐ノ海敏生||魁皇博之<br>[[湊富士孝行]]||土佐ノ海敏生 |- |rowspan="6"|[[1996年]]<br />(平成8年) |1月(初)||魁皇博之||貴闘力忠茂<br>剣晃敏志<br>[[玉春日良二]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||[[旭豊勝照]]||琴の若實哉||武双山正士 |- |5月(夏)||魁皇博之||style="background-color:gray"|該当力士なし||玉春日良二 |- |7月(名古屋)||魁皇博之<br>琴の若實哉||貴闘力忠茂||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし ||貴闘力忠茂<br>旭豊勝照||琴錦功宗 |- |11月(九州)||土佐ノ海敏生||魁皇博之<br>[[栃東大裕]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="6"|[[1997年]]<br />(平成9年) |1月(初)||土佐ノ海敏生||[[琴龍宏央]]||[[旭鷲山昇]] |- |3月(春)||魁皇博之||玉春日良二<br>[[出島武春]]||出島武春 |- |5月(夏)||玉春日良二||土佐ノ海敏生<br>栃東大裕||小城錦康年 |- |7月(名古屋)||貴闘力忠茂||[[栃乃洋泰一]]||栃東大裕 |- |9月(秋)||出島武春||栃乃洋泰一||栃東大裕<br>出島武春 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||武双山正士||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="6"|[[1998年]]<br />(平成10年) |1月(初)||栃東大裕||武双山正士||琴錦功宗 |- |3月(春)||魁皇博之||土佐ノ海敏生<br>[[蒼樹山秀樹]]||[[千代大海龍二]] |- |5月(夏)||琴錦功宗<br>小城錦康年||出島武春<br>[[若の里忍]]||安芸乃島勝巳 |- |7月(名古屋)||出島武春||琴の若實哉||千代大海龍二 |- |9月(秋)||琴ノ若將勝||style="background-color:gray"|該当力士なし||千代大海龍二 |- |11月(九州)||琴錦功宗||土佐ノ海敏生||琴錦功宗<br>栃東大裕 |- |rowspan="6"|[[1999年]]<br />(平成11年) |1月(初)||千代大海龍二<br>武双山正士||千代大海龍二<br>[[千代天山大八郎]]||安芸乃島勝巳 |- |3月(春)||安芸乃島勝巳||[[雅山哲士]]<br>千代天山大八郎||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||土佐ノ海敏生<br>千代天山大八郎||魁皇博之||若の里忍 |- |7月(名古屋)||出島武春||出島武春<br>土佐ノ海敏生||出島武春 |- |9月(秋)||栃東大裕||安芸乃島勝巳||安芸乃島勝巳 |- |11月(九州)||土佐ノ海敏生||魁皇博之||栃東大裕 |- |rowspan="6"|[[2000年]]<br />(平成12年) |1月(初)||武双山正士<br>雅山哲士||[[尾崎勇気|隆乃若勇紀]]<br>[[旭天鵬勝]]||武双山正士 |- |3月(春)||貴闘力忠茂||貴闘力忠茂<br>雅山哲士||武双山正士 |- |5月(夏)||魁皇博之||魁皇博之<br>[[栃乃花仁]]<br>雅山哲士||栃乃花仁 |- |7月(名古屋)||魁皇博之||[[高見盛精彦]]<br>[[安美錦竜児]]||栃東大裕 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||若の里忍||[[追風海直飛人]]<br>栃乃花仁 |- |11月(九州)||[[琴光喜啓司]]<br>若の里忍||琴光喜啓司||琴光喜啓司 |- |rowspan="6"|[[2001年]]<br />(平成13年) |1月(初)||若の里忍||[[和歌乃山洋]]||栃乃洋泰一 |- |3月(春)||栃乃洋泰一<br>栃東大裕||[[玉乃島新]]||琴光喜啓司 |- |5月(夏)||[[朝青龍明徳]]||style="background-color:gray"|該当力士なし||琴光喜啓司 |- |7月(名古屋)||若の里忍||玉乃島新||[[時津海正博]]<br>栃東大裕 |- |9月(秋)||琴光喜啓司||朝青龍明徳||琴光喜啓司<br>[[海鵬涼至]] |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||朝青龍明徳<br>若の里忍<br>[[武雄山喬義]]||栃東大裕 |- |rowspan="6"|[[2002年]]<br />(平成14年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||武雄山喬義||時津海正博<br>琴光喜啓司 |- |3月(春)||朝青龍明徳||隆乃若勇紀||安美錦竜児 |- |5月(夏)||朝青龍明徳||[[北勝力英樹]]||旭鷲山昇 |- |7月(名古屋)||朝青龍明徳<br>土佐ノ海敏生||[[霜鳥典雄]]||高見盛精彦 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||琴光喜啓司||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||隆乃若勇紀<br>貴ノ浪貞博<br>[[岩木山竜太]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="6"|[[2003年]]<br />(平成15年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||若の里忍<br>[[春日王克昌]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||旭天鵬勝||高見盛精彦 |- |5月(夏)||旭鷲山昇||旭天鵬勝||安美錦竜児 |- |7月(名古屋)||高見盛精彦||style="background-color:gray"|該当力士なし||時津海正博 |- |9月(秋)||若の里忍||高見盛精彦<br>旭天鵬勝||岩木山竜太 |- |11月(九州)||栃乃洋泰一<br>土佐ノ海敏生||玉乃島新||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="6"|[[2004年]]<br />(平成16年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||琴光喜啓司||[[垣添徹]] |- |3月(春)||[[朝赤龍太郎]]||琴ノ若晴將||朝赤龍太郎 |- |5月(夏)||北勝力英樹||北勝力英樹<br>[[白鵬翔]]||玉乃島新 |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[豊桜俊昭|豊桜保勝]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||栃乃洋泰一||琴ノ若晴將<br>[[露鵬幸生]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||白鵬翔||[[琴欧洲勝紀|琴欧州勝紀]]||若の里忍 |- |rowspan="6"|[[2005年]]<br />(平成17年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし||白鵬翔 |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||玉乃島新||海鵬涼至<br>[[日馬富士公平|安馬公平]] |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[普天王水]]<br>旭鷲山昇||琴光喜啓司 |- |7月(名古屋)||琴欧州勝紀||[[黒海太]]||普天王水 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[稀勢の里寛]]<br>琴欧州勝紀||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||琴欧州勝紀||琴欧州勝紀<br>雅山哲士<br>栃乃花仁||[[時天空慶晃]] |- |rowspan="6"|[[2006年]]<br />(平成18年) |1月(初)||白鵬翔||北勝力英樹||時津海正博 |- |3月(春)||白鵬翔||旭鷲山昇||白鵬翔<br>安馬公平 |- |5月(夏)||雅山哲士||朝赤龍太郎<br>[[把瑠都凱斗]]||雅山哲士 |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||玉乃島新||玉春日良二 |- |9月(秋)||稀勢の里寛||安馬公平||安美錦竜児 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[豊真将紀行]]||豊真将紀行<br>[[琴奨菊和弘]] |- |rowspan="6"|[[2007年]]<br />(平成19年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[豊ノ島大樹]]||豊ノ島大樹 |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[栃煌山雄一郎]]||豊真将紀行 |- |5月(夏)||安美錦竜児||出島武春||朝赤龍太郎 |- |7月(名古屋)||安美錦竜児||琴光喜啓司<br>[[豊響隆太]]||琴光喜啓司 |- |9月(秋)||安馬公平<br>豊ノ島大樹||[[豪栄道豪太郎]]<br>旭天鵬勝||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||安馬公平||把瑠都凱斗||琴奨菊和弘 |- |rowspan="6"|[[2008年]]<br />(平成20年) |1月(初)||稀勢の里寛<br>安馬公平||[[豪風旭]]||[[鶴竜力三郎]] |- |3月(春)||琴奨菊和弘||把瑠都凱斗<br>黒海太||栃煌山雄一郎 |- |5月(夏)||安美錦竜児||稀勢の里寛<br>豊ノ島大樹||安馬公平 |- |7月(名古屋)||豊ノ島大樹||豊響隆太||安馬公平 |- |9月(秋)||安馬公平||豪栄道豪太郎||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||安美錦竜児||[[嘉風雅継]]||安馬公平 |- |rowspan="6"|[[2009年]]<br />(平成21年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||豊真将紀行||豪栄道豪太郎 |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||豊真将紀行||鶴竜力三郎 |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||稀勢の里寛||鶴竜力三郎 |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[翔天狼大士]]||安美錦竜児 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||把瑠都凱斗||鶴竜力三郎 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||雅山哲士<br>[[栃ノ心剛史|栃ノ心剛]]||豊ノ島大樹 |- |rowspan="6"|[[2010年]]<br />(平成22年) |1月(初)||把瑠都凱斗||豊響隆太||安美錦竜児 |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||把瑠都凱斗||把瑠都凱斗 |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||栃ノ心剛<br>[[阿覧欧虎]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||阿覧欧虎<br>豊真将紀行||鶴竜力三郎 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||嘉風雅継<br/>豪風旭||栃煌山雄一郎 |- |11月(九州)||稀勢の里寛||豊ノ島大樹||豊ノ島大樹 |- |rowspan="6"|[[2011年]]<br />(平成23年) |1月(初)||稀勢の里寛||[[隠岐の海歩]]||琴奨菊和弘 |- |3月(春)||colspan="3" style="background-color:gray"|開催中止 |- |5月技量審査||style="background-color:gray"|該当力士なし||栃ノ心剛<br/>[[魁聖一郎]]||鶴竜力三郎<br/>豪栄道豪太郎 |- |7月(名古屋)||琴奨菊和弘||豊真将紀行||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||琴奨菊和弘<br/>稀勢の里寛||[[臥牙丸勝]]||琴奨菊和弘 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[若荒雄匡也]]<br/>[[碧山亘右]]||稀勢の里寛 |- |rowspan="6"|[[2012年]]<br />(平成24年) |1月(初)||鶴竜力三郎||臥牙丸勝||[[妙義龍泰成]] |- |3月(春)||鶴竜力三郎||豪栄道豪太郎||鶴竜力三郎<br/>豊ノ島大樹 |- |5月(夏)||豪栄道豪太郎||栃煌山雄一郎<br/>旭天鵬勝||妙義龍泰成 |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||魁聖一郎<br/>[[舛ノ山大晴]]||妙義龍泰成 |- |9月(秋)||栃煌山雄一郎||style="background-color:gray"|該当力士なし||妙義龍泰成 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[松鳳山裕也]]||豪栄道豪太郎 |- |rowspan="6"|[[2013年]]<br />(平成25年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[髙安晃]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||隠岐の海歩||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし||妙義龍泰成 |- |7月(名古屋)||髙安晃||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||豪栄道豪太郎||松鳳山裕也||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[勢翔太]]||[[千代大龍秀政]] |- |rowspan="6"|[[2014年]]<br />(平成26年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[遠藤聖大]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||豪栄道豪太郎||嘉風雅継||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||豪栄道豪太郎||勢翔太<br/>[[佐田の海貴士]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||豪栄道豪太郎||髙安晃||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||[[逸ノ城駿]]||逸ノ城駿||安美錦竜児 |- |11月(九州)||髙安晃||栃ノ心剛<br/>旭天鵬勝||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="6"|[[2015年]]<br />(平成27年) |1月(初)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[照ノ富士春雄]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||照ノ富士春雄||照ノ富士春雄||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||照ノ富士春雄||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||栃煌山雄一郎||嘉風雅継||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||嘉風雅継||栃ノ心剛<br/>勢翔太||嘉風雅継 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||勢翔太<br/>松鳳山裕也||嘉風雅継 |- |rowspan="6"|[[2016年]]<br />(平成28年) |1月(初)||豊ノ島大樹||[[正代直也]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |3月(春)||[[琴勇輝一巖]]||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[御嶽海久司]]||栃ノ心剛 |- |7月(名古屋)||嘉風雅継||[[宝富士大輔]]<br/>[[貴ノ岩義司]]||髙安晃 |- |9月(秋)||隠岐の海歩||髙安晃||遠藤聖大 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||正代直也<br/>[[石浦鹿介|石浦将勝]]||[[玉鷲一朗]] |- |rowspan="6"|[[2017年]]<br />(平成29年) |1月(初)||貴ノ岩義司||髙安晃||御嶽海久司<br/>[[蒼国来栄吉]] |- |3月(春)||髙安晃||[[貴景勝貴信|貴景勝光信]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |5月(夏)||御嶽海久司||[[阿武咲奎也]]||髙安晃<br/>嘉風雅継 |- |7月(名古屋)||御嶽海久司||碧山亘右||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||貴景勝光信||阿武咲奎也<br/>[[朝乃山広暉|朝乃山英樹]]||嘉風雅継 |- |11月(九州)||貴景勝光信||隠岐の海歩<br/>安美錦竜児||[[北勝富士大輝]] |- |rowspan="6"|[[2018年]]<br />(平成30年) |1月(初)||栃ノ心剛史||[[阿炎政虎]]<br/>[[竜電剛至]]||栃ノ心剛史 |- |3月(春)||栃ノ心剛史||魁聖一郎||遠藤聖大 |- |5月(夏)||松鳳山裕也||栃ノ心剛史<br/>[[千代の国憲輝]]<br/>[[旭大星託也]]||栃ノ心剛史 |- |7月(名古屋)||御嶽海久司||[[豊山亮太]]<br/>朝乃山英樹||御嶽海久司 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||貴景勝光信||貴景勝光信<br>阿武咲奎也||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |rowspan="2"|[[2019年]]<br />(平成31年) |1月(初)||玉鷲一朗<br/>御嶽海久司||玉鷲一朗||貴景勝光信 |- |3月(春)||逸ノ城駿||碧山亘右||貴景勝光信 |- |} ===令和の受賞=== {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !年!!場所!!殊勲賞!!敢闘賞!!技能賞 |- |rowspan="4"|[[2019年]]<br />(令和元年) |5月(夏)||朝乃山英樹||阿炎政虎<br />朝乃山英樹<br />[[志摩ノ海航洋]]||竜電剛至 |- |7月(名古屋)||[[友風勇太]]||[[照強翔輝]]||遠藤聖大<br />[[炎鵬晃]] |- |9月(秋)||御嶽海久司<br />朝乃山英樹||隠岐の海歩<br />[[剣翔桃太郎]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||[[大栄翔勇人]]||正代直也||朝乃山英樹 |- |rowspan="6"|[[2020年]]<br />(令和2年) |1月(初)||遠藤聖大<br/>[[德勝龍誠]]||正代直也<br/>[[霧島鐵力|霧馬山鐵雄]]<br/>德勝龍誠||北勝富士大輝 |- |3月(春)||阿武咲奎也||[[隆の勝伸明]]||碧山亘右 |- |5月(夏)||colspan="3" style="background-color:gray"|開催中止 |- |7月<ref group="注釈" name="tokyo">2020年7月場所・11月場所・2021年3月場所は、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響により、東京で開催された</ref>||御嶽海久司<br/>大栄翔勇人<br/>照ノ富士春雄||正代直也||照ノ富士春雄 |- |9月(秋)||正代直也||正代直也<br/>[[翔猿正也]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月<ref group="注釈" name="tokyo" />||style="background-color:gray"|該当力士なし||千代の国憲輝<br/>志摩ノ海航洋||照ノ富士春雄 |- | rowspan="6" |[[2021年]]<br />(令和3年) |1月(初)||大栄翔勇人||style="background-color:gray"|該当力士なし||照ノ富士春雄<br/>大栄翔勇人<br/>[[翠富士一成]] |- |3月(春)<ref group="注釈" name="tokyo" /> |照ノ富士春雄 ||[[明生力]]<br />碧山亘右||[[若隆景渥]] |- |5月(夏)||style="background-color:gray"|該当力士なし||style="background-color:gray"|該当力士なし||若隆景渥<br/>遠藤聖大 |- |7月(名古屋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[琴ノ若傑太]]||[[豊昇龍智勝]] |- |9月(秋)|| 大栄翔勇人 ||style="background-color:gray"|該当力士なし|| 妙義龍泰成 |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||隆の勝伸明<br/>阿炎政虎||[[宇良和輝]] |- | rowspan="6" |[[2022年]]<br />(令和4年) |1月(初)||阿炎政虎||琴ノ若傑太||御嶽海久司 |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||琴ノ若傑太<br/>髙安晃||若隆景渥 |- |5月(夏)||大栄翔勇人<br />隆の勝伸明||佐田の海貴士||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |7月(名古屋)||逸ノ城駿||[[錦富士隆聖]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |9月(秋)||翔猿正也<br/>玉鷲一朗||髙安晃||若隆景渥 |- |11月(九州)||髙安晃||阿炎政虎||豊昇龍智勝 |- | rowspan="6" |[[2023年]]<br />(令和5年) |1月(初)|| style="background-color:gray"|該当力士なし ||[[琴勝峰吉成]]||霧馬山鐵雄 |- |3月(春)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[金峰山晴樹]]||大栄翔勇人<br/>霧馬山鐵雄 |- |5月(夏)||明生力||style="background-color:gray"|該当力士なし||霧馬山鐵雄<br/>[[若元春港]] |- |7月(名古屋)||[[錦木徹也]]||豊昇龍智勝<br>琴ノ若傑太<br>北勝富士大輝<br/>[[豪ノ山登輝]]<br/>[[湘南乃海桃太郎]]<br/>[[伯桜鵬哲也]]||伯桜鵬哲也 |- |9月(秋)||style="background-color:gray"|該当力士なし||[[熱海富士朔太郎]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |- |11月(九州)||style="background-color:gray"|該当力士なし||琴ノ若傑太<br/>熱海富士朔太郎<br/>[[一山本大生]]||style="background-color:gray"|該当力士なし |} === 三賞受賞回数 === [[2023年]]11月場所終了現在 {| class="wikitable" |- !順位!!四股名!!最高位!!三賞受賞回数!!殊勲賞!!敢闘賞!!技能賞 |- |1位||[[安芸乃島勝巳]]||関脇||19||7||8||4 |- |2位||[[琴錦功宗]]||関脇||18||7||3||8 |- |3位||[[魁皇博之]]||大関||15||10||5||0 |- |rowspan="3"|4位||[[鶴ヶ嶺昭男]]||関脇||rowspan="3"|14||2||2||10 |- |[[朝潮太郎 (4代)]]||大関||10||3||1 |- |[[貴闘力忠茂]]||関脇||3||10||1 |- |rowspan="3"|7位||[[武双山正士]]||大関||rowspan="3"|13||5||4||4 |- |[[土佐ノ海敏生]]||関脇||7||5||1 |- |[[琴光喜啓司]]||大関||2||4||7 |- |rowspan="3"|10位||[[栃東大裕]]||大関||rowspan="3"|12||3||2||7 |- ||[[安美錦竜児]]||関脇||4||2||6 |- ||[[髙安晃]]||大関||4||6||2 |} * 三賞は大関以上の力士は受賞できないため、最高位が関脇の実力者や大関に昇進するのに時間のかかってしまった力士は三賞受賞回数が多くなっている。同様の理由でスピード出世で大関になった力士は受賞が少なく、[[大鵬幸喜|大鵬]]と[[北の湖敏満|北の湖]]は三賞合計で各3回である。逆に横綱昇進者で最も受賞回数が多いのは[[北勝海信芳|北勝海]]の11回である。 === 三賞トリプル受賞 === 1場所で殊勲賞・敢闘賞・技能賞の全てを受賞した力士はこれまでに5人いる。このうち、貴花田と出島は同時に幕内最高優勝も果たしている。琴光喜はトリプル受賞の翌年の[[2001年]]9月場所に幕内最高優勝を経験しているが、この時は殊勲賞と技能賞のダブル受賞にとどまった。 三賞トリプル受賞は、その場所に三賞を受賞した力士が1人だけとなった場合は「三賞独占」とも言われる。 選考の傾向としては、一つの賞ごとに独立して力士を選ぶ、というより他の受賞力士との兼ね合いから決まることも多い。例えば最も活躍したAと次点のBがいた場合、一賞ごとに選ぶと全部Aが受賞してしまう可能性が濃いが、全体のバランスを考慮して敢闘賞だけはBを選ぶということである。このため、よほどの大活躍をしない限りトリプル受賞は難しい。 {| class="wikitable" |- !場所!!地位!!四股名!!成績 |- |[[1973年]]7月場所||東関脇||[[大受久晃]]||13勝2敗 |- |1973年9月場所||西[[前頭]]11枚目||[[大錦一徹|大錦充周]]||11勝4敗 |- |[[1992年]]1月場所||東前頭2枚目||[[貴乃花光司|貴花田光司]]||14勝1敗◎ |- |[[1999年]]7月場所||西関脇||[[出島武春]]||13勝2敗◎ |- |[[2000年]]11月場所||西前頭9枚目||[[琴光喜啓司]]||13勝2敗 |} * ◎は優勝。 === 大関陥落力士の三賞受賞 === [[1969年]]7月場所に「大関の地位で2場所連続で負け越した場合、関脇へ降格する。しかし降格した直後場所で、関脇の地位で10勝以上の勝ち星を挙げれば、特例として大関に復帰できる」という現行の制度ができて以降、大関を陥落した力士が三賞を受賞した記録は以下の通りである。なお、降格直後場所に関脇で三賞を受賞した力士は、10勝以上して大関特例復帰に成功した7例([[三重ノ海剛司|三重ノ海]]・貴ノ浪・武双山・栃ノ心・貴景勝と、栃東は2度復帰)も含めてまだ出ていない。ただし、[[2019年]]9月場所において貴景勝が関脇に降格し10勝を挙げ、さらに12勝で優勝をした御嶽海と優勝決定戦に臨んだことから技能賞の候補にあがったが、先場所は大関の地位にいたことで受賞は見送られている<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201909220000467.html 殊勲賞は朝乃山、敢闘賞は剣翔と隠岐の海 相撲三賞]日刊スポーツ 2019年9月22日16時59分(2019年9月22日閲覧)</ref>。 {| class="wikitable" |- !場所!!地位!!四股名!!成績!!三賞 |- |[[1976年]]5月場所||西前頭6枚目||[[魁傑將晃]]||10勝5敗||敢闘賞 |- |1976年9月場所||西前頭4枚目||魁傑將晃||14勝1敗◎||敢闘賞 |- |1976年11月場所||西関脇||魁傑將晃||11勝4敗||敢闘賞 |- |[[1977年]]1月場所||西関脇||魁傑將晃||11勝4敗||敢闘賞 |- |[[2002年]]11月場所||東前頭筆頭||[[貴ノ浪貞博]]||10勝5敗||敢闘賞 |- |[[2005年]]11月場所||東前頭4枚目||[[雅山哲士]]||10勝5敗||敢闘賞 |- |[[2006年]]5月場所||西関脇||雅山哲士||14勝1敗○||殊勲賞・技能賞 |- |[[2007年]]5月場所||東前頭10枚目||[[出島武春]]||12勝3敗||敢闘賞 |- |[[2009年]]11月場所||西前頭9枚目||雅山哲士||12勝3敗||敢闘賞 |- |[[2020年]]7月場所||東前頭17枚目||[[照ノ富士春雄]]||13勝2敗◎||殊勲賞・技能賞 |- |2020年11月場所||東小結||照ノ富士春雄||13勝2敗○||技能賞 |- |[[2021年]]1月場所||東関脇||照ノ富士春雄||11勝4敗||技能賞 |- |2021年3月場所||東関脇||照ノ富士春雄||12勝3敗◎||殊勲賞 |- |[[2022年]]3月場所||東前頭7枚目||[[髙安晃]]||12勝3敗○||敢闘賞 |- |2022年9月場所||西前頭4枚目||髙安晃||11勝4敗||敢闘賞 |- |2022年11月場所||東前頭筆頭||髙安晃||12勝3敗○||殊勲賞 |} * ◎は優勝。○は優勝同点。 * 魁傑は1977年3月場所で大関へ復帰。 * 照ノ富士は2021年5月場所で大関へ復帰。 === 全三賞該当者無しの場所 === [[2018年]]9月場所において、三賞制度制定以来初めて、三賞“'''全て該当者なし'''”の事例となった。敢闘賞候補に[[竜電剛至|竜電]]・[[貴景勝光信|貴景勝]]、技能賞候補には[[嘉風雅継|嘉風]]の名前が挙がったものの、選考委員の過半数の賛成が得られなかったことによる<ref>{{Cite news|title=大相撲秋場所、三賞該当者無しは史上初|date=2018-09-23|url=https://hochi.news/articles/20180923-OHT1T50107.html|accessdate=2018-09-23|language=ja-JP|work=スポーツ報知}}</ref><ref>{{Cite news|title=71年の歴史で史上初 大相撲三賞該当者なし…藤島審判部副部長「厳しめにやっている」|date=2018-09-23|url=https://www.daily.co.jp/general/2018/09/23/0011666555.shtml|language=ja-JP|newspaper=デイリースポーツ|agency=神戸新聞社|accessdate=2018-09-23}}</ref>。この場所は3横綱3大関が全員皆勤し9勝以上、関脇・小結も玉鷲を除いた全員が勝ち越しのハイレベルな成績で、関脇以下の最高成績は嘉風の11勝にとどまっている。 また、それ以前にも以下の事例であわや全三賞該当者なしになりかけていた。いずれも候補力士が千秋楽の取組で勝利し全三賞該当者無しは免れている。 [[1994年]]11月場所は、千秋楽の幕内取組前の時点で三賞受賞が決定した力士が一人もいない事態となり、この場所再入幕の[[浪乃花教天|浪乃花]]が千秋楽の取組で勝利し10勝すれば、敢闘賞という条件付きだった。 また、[[2013年]]3月場所は、千秋楽の幕内取組前の時点で三賞受賞が決定した力士が一人もいない事態となり、この場所白鵬の優勝が決定する13日目まで優勝争いに絡んだ[[隠岐の海歩|隠岐の海]]が千秋楽の取組で勝利し11勝すれば敢闘賞、横綱・日馬富士を破った金星のほかに2大関を破った銀星が評価された[[豊ノ島大樹|豊ノ島]]が千秋楽の取組で勝利し勝ち越せば殊勲賞という条件付きだった。結果隠岐の海は勝って受賞し、豊ノ島は負けて逃した。 === 他力条件付きの受賞 === [[1996年]]1月場所千秋楽の三賞選考会で、当該力士以外の力士の結果も加えて受賞条件とするという事例が起こった。[[剣晃敏志|剣晃]]は優勝を争っている大関の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]に勝利していたが、7勝7敗で千秋楽を迎えていた。選考会でこの剣晃について、[[千代の富士貢|九重親方]]が「優勝力士に土をつけた力士に何もあげないのはおかしい」と唱え、次の条件付きで剣晃に敢闘賞を授与すると決定した。まず剣晃が千秋楽に勝って勝ち越すこと。そして、貴ノ浪が優勝した場合に限って敢闘賞を剣晃に授与するとなった。結果、剣晃は千秋楽に勝ち越しを決め、貴ノ浪も[[貴乃花光司|貴乃花]]との優勝決定戦を制して優勝し、剣晃は敢闘賞を受賞した。このような他力条件付きの受賞は史上初めてであった。その後長らくこのような条件での受賞は無かったが、2019年7月場所で当時大関から陥落していた[[琴奨菊]]がこの場所優勝争いをしていた白鵬に勝利しており、7勝7敗で迎えた千秋楽で琴奨菊が勝利して勝ち越し、なおかつ白鵬が優勝した場合殊勲賞を受賞という前例の剣晃と全く同じ条件となった。しかし琴奨菊は対戦相手の[[阿炎]]の立ち会い変化で敗れてしまい受賞を逃す結果となった。(ちなみに白鵬もその後結びで[[鶴竜]]に敗れた)<ref>{{Cite news|title=名古屋場所三賞で炎鵬が初受賞 技能賞に選ばれる|date=2019-7-21}}</ref> === 途中休場がある力士の受賞 === [[2019年]]1月場所で、2横綱(稀勢の里・鶴竜)および同場所を制する関脇・玉鷲を下した後に途中休場し、再出場後に残りの横綱・白鵬を下したうえ勝ち越した小結・御嶽海が、皆勤できなかった力士としては初めて受賞(殊勲賞)した。 === 千秋楽不戦勝で条件を達成した力士の受賞 === 2022年7月場所で、錦富士に「千秋楽に北勝富士に勝って10勝を達成すれば敢闘賞受賞」という条件が付けられたが、千秋楽に北勝富士は新型コロナウイルス感染により休場したため不戦勝。千秋楽不戦勝で受賞条件を達成した事例は異例中の異例<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2022/07/24/kiji/20220724s00005000435000c.html 八角部屋・北勝富士がコロナ感染 千秋楽に八角理事長が表彰式欠席の異常事態に] Sponichi Annex 2022年7月24日 16:23 (2022年7月24日閲覧)</ref>。 === 成績によって授与される賞が確定 === 2019年9月場所では、千秋楽まで優勝の可能性を残した関脇・御嶽海に対して「優勝すれば殊勲賞受賞、優勝できなければ敢闘賞受賞」と、三賞1つということは変わらないが、授与される賞が成績によって変わる決定がなされた<ref>{{Cite news |和書|title=大相撲の三賞、御嶽海は優勝か、V逸かで賞決定 朝乃山に殊勲賞、剣翔に敢闘賞 |newspaper=デイリースポーツonline |date=2019-09-22 |url=https://www.daily.co.jp/general/2019/09/22/0012723452.shtml |accessdate=2019-09-22}}</ref>。この場所は14日目が終わった時点で御嶽海含む11勝3敗の3人に優勝の可能性が残り、このうち関脇・[[貴景勝光信|貴景勝]](三賞なし)と平幕・隠岐の海(敢闘賞は無条件、殊勲賞は優勝すれば受賞)が3敗同士の直接対決のため、御嶽海が優勝できるのは本割、優勝決定戦を連勝する場合に限られ、どちらかで敗れた場合は優勝できないため<ref>{{Cite news |和書|title=千秋楽で貴景勝-隠岐の海、4敗力士の優勝消える |newspaper=日刊スポーツ |date=2019-09-21 |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201909210000991.html |accessdate=2019-09-22}}</ref>、敢闘賞受賞は千秋楽に敗れることが事実上の条件となった。結果、御嶽海は優勝したため<ref>{{Cite news |和書|title=御嶽海が2回目の優勝 |newspaper=毎日新聞 |date=2019-09-22 |url=https://mainichi.jp/articles/20190922/k00/00m/050/100000c |accessdate=2019-09-22}}</ref>殊勲賞受賞となった。 ===最多受賞人数記録=== [[2023年]]7月場所においては、錦木の殊勲賞、伯桜鵬の敢闘賞と技能賞の二冠と北勝富士の敢闘賞は無条件で確定。さらに千秋楽の取り組みに勝てばという前提で、豊昇龍、琴ノ若、豪ノ山、湘南乃海の最大4人(合計6人)を敢闘賞に追加するとしたが、千秋楽で当該4人全員が勝利を収めたため、7人(伯桜鵬は二冠)が三賞を受賞した。それまでの最多は5人(1998年5月場所、2020年1月場所)である<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/bd0801ace8e48d089c5a02db0a58d5c5bda9880c 三賞史上最多7人が受賞…伯桜鵬は敢闘&技能のダブル受賞、敢闘賞は6人【大相撲名古屋場所】](中日スポーツ)</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <references/> == 参考文献 == * 高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、1990年2月25日発行 {{相撲}} {{DEFAULTSORT:さんしよう}} [[Category:大相撲の賞]] [[Category:日本の名数3|しよう]] [[Category:スポーツの名数3|しよう]]
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18,110
330年
330年(330 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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330年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|330}} {{year-definition|330}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚寅]] * [[日本]] ** [[仁徳天皇]]18年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]990年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[東晋]] : [[咸和 (東晋)|咸和]]5年 ** [[後趙]] : [[太和 (後趙)|太和]]3年、[[建平 (後趙)|建平]]元年 ** [[成漢]] : [[玉衡]]20年 ** [[前涼]] : [[建興 (晋)|建興]]18年([[西晋]]の[[元号]]を継続して使用) ** [[代 (五胡十六国)|代]] : 烈皇帝([[拓跋翳槐]])2年 * [[朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[美川王]]31年 ** [[百済]] : [[比流王]]27年 ** [[新羅]] : [[訖解尼師今|訖解王]]21年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2663年 * [[仏滅紀元]] : 873年 * [[ユダヤ暦]] : 4090年 - 4091年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=330|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[5月11日]] - [[コンスタンティノポリス]]の落成式が執り行われる<ref>{{Cite book|和書|author=尚樹啓太郎|authorlink=尚樹啓太郎|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[東海大学出版会]]|year=1999|isbn=9784486014317|page=27}}</ref>{{Refnest|group="注"|しばしば「コンスタンティノポリスへの遷都」あるいは「コンスタンティノポリスが新首都となる」などの表現が用いられることもあるが、今日の歴史学においては、そうした物語は後世に偽造された伝説に過ぎないと考えられている<ref>{{Cite book|和書|author=根津由喜夫|authorlink=根津由喜夫|title=ビザンツの国家と社会|publisher=[[山川出版社]]|year=2008|page=7}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|title=生き残った帝国ビザンティン|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|year=1990|isbn=4-06-149032-X|pages=62-73}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=南川高志|authorlink=南川高志|title=ユリアヌス 逸脱のローマ皇帝|publisher=山川出版社|year=2015|pages=15-6}}</ref>。詳しくは[[コンスタンティノープル]]を参照。}}。 == 誕生 == {{see also|Category:330年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:330年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|330}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=4|年代=300}} {{デフォルトソート:330ねん}} [[Category:330年|*]]
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18,112
瀧川資言
瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(1865年12月29日) - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の漢学者。戸籍名は龜太郎(かめたろう)、字は資言、号は君山。『史記会注考証』(『史記』の注釈書)を編纂したことで知られる。 1865年(慶応元年)11月12日に出雲国島根郡(現・松江市中原町)にて士族であった杢之丞の長男として生を受けた。1882年(明治15年)旧制松江中学を中退し上京。島田篁村の双桂精舎で学んだ後、1887年(明治20年)、東京帝国大学古典講習科漢書課卒業。 1897年(明治30年)に第二高等学校教授、1926年(大正15年)に大東文化学院教授となる。1931年(昭和6年)、東北帝国大学より文学博士の学位を授与される。1946年(昭和21年)2月23日、逝去。戒名は龜鏡院君山自秀居士。 東京および仙台に居住することが多かったが、最晩年の1945年(昭和20年)3月31日からは戦火を逃れるため郷里の松江市に疎開した。同市北堀町に彼が晩年を過ごした武家屋敷の旧宅(伝、塩見小兵衛邸)が現存している。博覧強記で、取材に訪れた新聞記者を驚かせ、著作の『史記会注考証』の署名は「日本出雲瀧川資言」である。 「瀧川氏系図」によれば、戦国時代の武将滝川一益の兄であった瀧川範勝(瀧城主)は、松平出雲守大番四番組瀧川資信の四世前の祖とされ、その瀧川資信を瀧川氏元祖として、資言は十世にあたるとされる。
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瀧川 資言は、日本の漢学者。戸籍名は龜太郎(かめたろう)、字は資言、号は君山。『史記会注考証』(『史記』の注釈書)を編纂したことで知られる。
{{Infobox 学者 |生年月日=<!--{{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}}-->| name = 瀧川 資言 | image = | image_size = | caption = | birth_date ={{birth date|1865|12|29}} | birth_place = [[出雲国]][[島根郡]](現・[[松江市]]中原町) | death_date = {{death date and age|1946|02|23|1865|12|29}} | death_place = 松江市中原町 | othername = '''滝川資言'''、'''瀧川龜太郎'''、'''滝川亀太郎''' | main_interests = [[文献学]]・[[中国文学]]・[[東洋史]] | alma_mater = [[東京帝国大学]] | workplaces = [[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]・[[大東文化学院]] | degree = [[文学博士]] | URL = | yearsactive = | spouse = | children = }} '''瀧川 資言'''(たきがわ すけのぶ、[[慶応]]元年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]([[1865年]][[12月29日]]) - [[1946年]]([[昭和]]21年)[[2月23日]])は、日本の[[漢学]]者。戸籍名は龜太郎(かめたろう<ref>{{Cite web|和書|title=デジタルで発見!瀧川亀太郎の筆跡~「台湾華文電子書庫」のリリースを祝して~ |url=https://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/japanese/blog39-column30 |website=U-PARL |date=2016-11-14 |access-date=2023-06-17 |language=ja}}</ref>)、字は資言、号は君山。『[[史記会注考証]]』(『[[史記]]』の[[注釈書]])を編纂したことで知られる。 == 生涯 == 1865年([[慶応]]元年)11月12日に[[出雲国]][[島根郡]](現・[[松江市]]中原町<ref>[http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/matsueshishi/kouza30.data/adachi_shiryo1.pdf 松江市史講座] 松江市 2019年12月28日閲覧。</ref>)にて士族であった杢之丞の長男として生を受けた。1882年(明治15年)[[島根県立松江北高等学校|旧制松江中学]]を中退し上京{{Sfn|池田|2023|p=74}}。[[島田篁村]]の双桂精舎で学んだ後、[[1887年]]([[明治]]20年)、[[東京帝国大学]]古典講習科漢書課卒業{{Sfn|池田|2023|p=74}}。 [[1897年]](明治30年)に[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]教授、[[1926年]]([[大正]]15年)に[[大東文化学院]]教授となる。[[1931年]]([[昭和]]6年)、[[東北帝国大学]]より文学博士の学位を授与される。1946年(昭和21年)2月23日、逝去。戒名は龜鏡院君山自秀居士。 [[ファイル:Shiominawate Matsue04s4592.jpg|サムネイル|[[武家屋敷 (塩見縄手)]]]] [[東京]]および[[仙台市|仙台]]に居住することが多かったが、最晩年の[[1945年]](昭和20年)3月31日からは戦火を逃れるため郷里の[[松江市]]に疎開した。同市北堀町に彼が晩年を過ごした[[武家屋敷 (塩見縄手)|武家屋敷の旧宅(伝、塩見小兵衛邸)]]が現存している。博覧強記で、取材に訪れた新聞記者を驚かせ、著作の『史記会注考証』の署名は「日本出雲瀧川資言」である。 「瀧川氏系図」によれば、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将[[滝川一益]]の兄であった瀧川範勝(瀧城主)は、松平出雲守大番四番組瀧川資信の四世前の祖とされ、その瀧川資信を瀧川氏元祖として、資言は十世にあたるとされる。 ==著書== *『支那史』[[市村瓚次郎]]共纂著 [[吉川弘文館|吉川半七]] 1891-92 *『高等漢文標註近古文鈔』編 [[金港堂]] 1913 *『纂評[[論語]]集註』編 金港堂 1913 *『審定[[十八史略]]鈔』編 金港堂書籍 1928 *『審定[[日本外史]]鈔』編 金港堂書籍 1928 *『審定[[孟子 (書物)|孟子]]鈔』編 金港堂書籍 1928 *『審定論語鈔』編 金港堂書籍 1928 * [[司馬遷]]『[[史記会注考証]]』[[裴駰]][[史記集解|集解]] [[司馬貞]][[史記索隠|索隠]] [[張守節]][[史記正義|正義]] [[東方文化学院]]東京研究所 1934 *『史記会注考証 孔子世家』東方文化学院東京研究所 1935 *『史記会注考証 仲尼弟子列伝』東方文化学院東京研究所 1935 *『史記会注考証 伯夷列伝・管晏列伝・老荘申韓列伝』東方文化学院東京研究所 1935 *[[黄堅]]『纂標[[古文真宝]]前集』松雲堂書店 1937 *『史記会注考証 太史公自序』東方文化学院東京研究所 1937 *『史記会注考証 孟子荀卿列伝・孟嘗君列伝』東方文化学院東京研究所 1937 *『史記会注考証 項羽本紀・留侯世家・伯夷列伝・魏公子列伝・淮陰侯列伝』東方文化学院 1939 *『[[御注孝経|孝経]] 附・古文孝経』[[玄宗 (唐)|玄宗皇帝]]注 纂標 松雲堂書店 1940 *『纂標唐宋八家文読本鈔』編 東京開成館 1941 *『史記会注考証』史記会注考証校補刊行会 1956 *『[[大学 (書物)|大學]][[中庸]]章句 纂標』松雲堂書店 *『訓注・史記會注考證』考證 [[石川梅次郎]]・[[原田種成 (漢文学者)|原田種成]]訓注 松雲書院 1977 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *[[水沢利忠]]『史記会注考証校補』巻九所載「瀧川氏系図」および「瀧川龜太郎博士年譜」(183-197頁. 史記会注考証校補刊行会 昭和45年) *{{Citation|和書|title=瀧川資言と西村天囚─西村家資料を用いた一考察―|last=池田|first=光子|year=2023|url=https://www.chugoku-kenkyu-shukan.org/%E3%80%8E%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%9B%86%E5%88%8A%E3%80%8F%E7%AC%AC69%E5%8F%B7/|journal=中国研究集刊|publisher=大阪大学中国学会|number=69}} == 関連項目 == *[[史記会注考証]] *[[武家屋敷 (塩見縄手)]] - [[松江市]]の[[塩見縄手]]にある博物館。瀧川資言の旧邸。 *[[桐岳寺]] - 松江市奥谷町にある曹洞宗の寺。瀧川資言の墓がある。 {{Normdaten}} {{japanese-history-stub}} {{Writer-stub}} {{DEFAULTSORT:たきかわ すけのふ}} [[Category:日本の東洋学者]] [[Category:東北大学の教員]]<!-- 前身の第二高等学校 --> [[Category:大東文化大学の教員]]<!-- 前身の大東文化学院 --> [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:出雲国の人物]] [[Category:島根県出身の人物]] [[Category:滝川氏|すけのふ]] [[Category:1865年生]] [[Category:1946年没]]
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東雲駅
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== 日本 == * [[東雲駅 (東京都)]](しののめえき)- [[東京都]][[江東区]]にある[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]の駅。 * [[東雲駅 (京都府)]](しののめえき)- [[京都府]][[舞鶴市]]にある[[京都丹後鉄道宮舞線]]の駅。 * [[東雲駅 (北海道)]](とううんえき)- [[北海道]]上川郡[[上川町]]にあった[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[石北本線]]の駅。 == 韓国 == * [[東雲駅 (全羅南道)]](トンウンえき)- 大韓民国全羅南道にある韓国鉄道公社[[全羅線]]の駅。 {{Aimai}} [[Category:同名の鉄道駅]]
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大宮駅
大宮駅(おおみやえき) 廃駅・旧駅名 その他
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大宮駅(おおみやえき) 大宮駅 (埼玉県) - 埼玉県さいたま市大宮区にある東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道・埼玉新都市交通の駅。 大宮駅 (京都府) - 京都府京都市中京区にある阪急京都本線の駅。 廃駅・旧駅名 大宮駅 (鉄道院) - 京都府京都市下京区にあった、鉄道院京都線の駅。1911年廃止。 → 京都鉄道、山陰本線を参照。 大宮駅 (西武) - 埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)にあった西武大宮線の電停。 大宮駅 (和歌山県) - 和歌山県岩出市にある西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線岩出駅の旧称。 その他 新大宮駅 - 奈良県奈良市にある近鉄奈良線の駅。 常陸大宮駅 - 茨城県常陸大宮市にあるJR東日本水郡線の駅。 越前大宮駅 - 福井県福井市にあるJR西日本越美北線の駅。 四条大宮駅 - 京都府京都市下京区にある京福電気鉄道嵐山本線の駅。 京丹後大宮駅 - 京都府京丹後市にあるWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮津線の駅。 千林大宮駅 - 大阪府大阪市旭区にあるOsaka Metro谷町線の駅。 和泉大宮駅 - 大阪府岸和田市にある南海本線の駅。 阿波大宮駅 - 徳島県板野郡板野町にある四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の駅。 大宮通仮停車場 - 京都駅開設前の約5ヶ月間、京都駅の西40チェーンの位置(現在の京都貨物駅付近)に置かれた仮駅。
'''大宮駅'''(おおみやえき) * [[大宮駅 (埼玉県)]] - [[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東武鉄道]]・[[埼玉新都市交通]]の駅。 * [[大宮駅 (京都府)]] - [[京都府]][[京都市]][[中京区]]にある[[阪急京都本線]]の駅。 廃駅・旧駅名 * 大宮駅 (鉄道院) - 京都府京都市[[下京区]]にあった、鉄道院京都線の駅。[[1911年]]廃止。 → [[京都鉄道]]、[[山陰本線]]を参照。 * [[大宮駅 (西武)]] - 埼玉県[[大宮市]](現在のさいたま市大宮区)にあった[[西武大宮線]]の電停。 * 大宮駅 (和歌山県) - [[和歌山県]][[岩出市]]にある[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[和歌山線]][[岩出駅]]の旧称。 その他 * [[新大宮駅]] - [[奈良県]][[奈良市]]にある[[近鉄奈良線]]の駅。 * [[常陸大宮駅]] - [[茨城県]][[常陸大宮市]]にあるJR東日本[[水郡線]]の駅。 * [[越前大宮駅]] - [[福井県]][[福井市]]にあるJR西日本[[越美北線]]の駅。 * [[四条大宮駅]] - 京都府京都市下京区にある[[京福電気鉄道嵐山本線]]の駅。 * [[京丹後大宮駅]] - 京都府[[京丹後市]]にあるWILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮津線の駅。 * [[千林大宮駅]] - [[大阪府]][[旭区 (大阪市)|大阪市旭区]]にある[[Osaka Metro谷町線]]の駅。 * [[和泉大宮駅]] - 大阪府[[岸和田市]]にある[[南海本線]]の駅。 * [[阿波大宮駅]] - [[徳島県]][[板野郡]][[板野町]]にある[[四国旅客鉄道]](JR四国)[[高徳線]]の駅。 * 大宮通仮停車場 - [[京都駅]]開設前の約5ヶ月間、京都駅の西40チェーンの位置(現在の[[京都貨物駅]]付近)に置かれた仮駅。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:おおみやえき}} [[Category:同名の鉄道駅]]
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アセトアミノフェン
アセトアミノフェン(英: Acetaminophen、USAN、JAN)またはパラセタモール(英: Paracetamol、INN)は、解熱・鎮痛薬の一つである。 主に発熱、悪寒、頭痛などの症状改善に用いられ、一般用医薬品の感冒薬にも広く含有されるが、過剰服用に陥る事例も少なくない。 1877年に発見され、米国と欧州で最も利用される鎮痛薬・総合感冒薬である 。WHO必須医薬品モデル・リストに収録されている。 アセトアミノフェンはアスピリンやイブプロフェンなどの非ステロイド性抗炎症薬 (NSAIDs) と異なり、抗炎症作用はほぼ有していない。正常な服用量では、血液凝固、腎臓あるいは胎児の動脈管収縮などの影響が少ない。オピオイド系鎮痛剤と異なり、興奮、眠気などの副作用と薬物依存、耐性、離脱症状は観察されない。 鎮痛剤として多く頓服処方されている。関節炎、痛風、腎結石、尿路結石、片頭痛、疼痛、歯痛、外傷、生理痛、腰痛、筋肉痛、神経痛、小規模から中規模な手術後などの鎮痛目的で使用される。解熱鎮痛薬の中では副作用が最も少ない部類に入る(副作用がないわけではない)ため、多くの疾患で第一選択薬として使用されている。 デング熱では解熱鎮痛剤として、アセトアミノフェンが推奨されている(サリチル酸系統のものは、出血傾向やアシドーシスを助長することから禁忌)。 日本では承認審査体制の整備前より使用されており、先発品は存在しない。第2類医薬品として、タイレノールやノーシンが販売される。処方箋医薬品としてはアセトアミノフェン単剤として「カロナール」をあゆみ製薬が販売している。また、イソプロピルアンチピリン、アリルイソプロピルアセチル尿素、無水カフェイン合剤の「SG配合顆粒 1g」を塩野義製薬が販売している。 水溶性が極めて低いため、消化器疾患で内服不可能な患者には投与が難しかったが、2013年11月、テルモが静脈注射製剤として「アセリオ」(ガラスバイアル製剤)を発売、2017年2月には「アセリオバッグ」(プラスチック製のソフトバッグ製剤)を発売した。しかし前述の通り水溶性が極めて低いため、析出を防ぐためには単独投与にしなければならないこと、重篤な肝障害が発現するおそれがあるため15分かけて静注すること、1回の投与量は剤型に関わらず体重当たりで決まること(全ての患者に1000 mg/100 mL全量投与しない)、などの注意が必要である。 グアム島で生態系へ悪影響を及ぼしている、外来種のミナミオオガシラを駆除するのに用いられる。 重篤な肝機能障害ないしは本剤に対して過敏症既往のある場合。2023年10月に、添付文書が改訂され、重篤な血液異常、重篤な腎機能障害、重篤な心機能不全、アスピリン喘息既往は禁忌指定解除となった。アセトアミノフェンはアスピリン喘息の発症に関与していると考えられているプロスタグランジン合成酵素阻害作用をほぼ持たない。このため、臨床現場ではアスピリン喘息罹患者に対しても一般的に使用されてきた。しかし、2023年9月までは添付文書にはアスピリン喘息患者には禁忌と記載されていた。米FDAによるアセトアミノフェン禁忌・注意事項には、アスピリン喘息に対しての注意自体がない。 アセトアミノフェンは高血圧を悪化させる可能性があるとされる。 アセトアミノフェンはシクロオキシゲナーゼ (COX) 活性阻害が弱くNSAIDsに見られるような胃障害の副作用が発生する頻度は低いが、肝障害の発症頻度が高まる恐れから、アセトアミノフェンを325mg以上含有する医薬品の処方中止を、2014年にアメリカ食品医薬品局が勧告した。米国ではアルコールに次いで2番目に多い肝硬変の原因物質である。特に小児がアセトアミノフェン製剤の糖衣錠やシロップ薬を誤って過量内服する例が目立つ。大量服用だけでなく少量の服用でも急性肝炎を発症する事がある。 また重篤な肝障害を有する患者には禁忌で、アセトアミノフェン4.8gを酒と一緒に服用し、急性肝不全で死亡した事例が1989年に報告されるなど、アルコール多量常飲者への投与は注意を要する。 犬や猫(特に猫)はグルクロン酸抱合能が低く、アセトアミノフェンを少量摂取しても中毒するため、アセトアミノフェン含有の解熱鎮痛剤を、犬や猫に投与してはならない。 ただし、一般的な風邪やインフルエンザのような短期使用の場合、投与量、投与期間は限られているため、副作用としての肝機能障害が問題になることはほとんどない。 過量服用時の治療には、独特のノモグラムを参照してアセチルシステインの投与量を決定する。服用量に対応して肝細胞内のグルクロン酸の枯渇はある程度予測でき、それを補充することで肝障害をある程度予防することができるからである。 アスピリンと同様にCOX活性を阻害することでプロスタグランジンの産生を抑制するが、その効果は弱い。解熱・鎮痛作用はCOX阻害以外の作用によると考えられているが、詳細は不明である。 2002年に脳内で痛みの知覚に関与するシクロオキシゲナーゼ3 (COX3) が発見され、アセトアミノフェンがこのCOX3を特異的に阻害することで鎮痛効果を発現すると考えられた時期もあったが、アセトアミノフェンの鎮痛効果発現メカニズムとCOX3阻害効果を結びつけることは非常に困難であることが明らかになってきた。 2005年にZygmuntらにより、アセトアミノフェンの代謝物であるp-アミノフェノールが肝臓主体で産生された後に、大部分が脳内に、また、ごく一部は脊髄に移行しアラキドン酸と結合することで、N-アシルフェノールアミンを合成することを見いだした。このN-アシルフェノールアミンが鎮痛作用を示す源となる可能性を報告している。 2011年の日本薬局方解説書には、アセトアミノフェンはシクロオキシゲナーゼ系の阻害効果はほとんど持たず、視床下部の体温調節中枢に作用して表在毛細血管を拡張させることにより解熱作用を発揮するとされている。鎮痛作用は、視床および大脳に作用し、痛覚閾値を上昇させる経路によると推定するとされる。 経口投与では内服後30-60分で血中濃度が最高となる。5%はそのまま尿中に排泄されるが、残りの大部分は肝臓でグルクロン酸抱合あるいは硫酸抱合され、無毒化されたのちに尿中に排泄される。一部は肝臓のシトクロムP450によってNAPQI(N-acetyl-p-benzoquinone imine または N-acetylimidoquinoneとも呼ばれる)に転換される。NAPQIは毒性が高いが直ちにグルタチオン抱合を受けて無毒のメルカプツール酸(英語版)とされ尿中に排泄される。しかし、アセトアミノフェンが大量に摂取され、肝細胞内のグルタチオンが払底してしまうとNAPQIが肝細胞内の蛋白質や核酸と結合、特にミトコンドリア蛋白と共有結合、呼吸鎖抑制や酸化ストレスを惹起することで肝細胞が障害される。そのため、アセトアミノフェンを多量に摂取すると肝臓毒性が現れる。例えば、常習の飲酒のためにシトクロムP450の活性が上昇している場合には、アセトアミノフェンの摂取量が少なくても中毒になりやすくなる。 アセトアミノフェン中毒に対してはグルタチオンの前駆物質であるアセチルシステインを使用する。グルタチオンを直接投与しても肝細胞には取り込まれないためである。アセチルシステインはアセトアミノフェン服用後8時間以内に投与する必要があるが、24時間以内の投与でも肝障害は抑制できないものの肝性昏睡を回復させ生命予後を改善する効果がある。 アセトアミノフェンは以下の手順で合成される。 フェノールに希硫酸酸性条件下で硝酸ナトリウムを作用させてニトロ化し、2-ニトロフェノールと4-ニトロフェノールの混合物を得る。この混合物を分離して4-ニトロフェノールを精製する。精製した4-ニトロフェノールを水素化ホウ素ナトリウムで還元し、4-アミノフェノールを得る。この4-アミノフェノールに無水酢酸を作用させてアセチル化し、アセトアミノフェンを得る。 本反応でフェノールは反応を強力に促進させるため、穏やかな条件が必要となる。工業的なアセトアミノフェンの合成は、ニトロベンゼンから行われることが多い。 アニリン誘導体の一種であるアセトアニリドに解熱鎮痛作用があることが偶然発見されると、1886年にはCahn & Heppがアンチヘブリン(Antifebrin)の名前で商品化した。しかし、アセトアニリドにはメトヘモグロビン血症を引き起こすという副作用があるため、より毒性の低いアニリン誘導体が模索された。 1877年、ジョンズ・ホプキンス大学のハーモン・ノースロップ・モース(英語版)が、4-ニトロフェノールを錫と氷酢酸で還元することによりアセトアミノフェンを初めて合成した。なお、それ以前の1852年にCahn & Heppやフランスのシャルル・ジェラールがアセトアミノフェンを合成していたという報告もある。当初はアゾ色素の中間体として利用されていた。1893年にドイツ人医師ヨセフ・フォン・メリング(英語版)が初めて医薬品として使用した。1893年、メリングはアセトアミノフェンと、同じアニリン誘導体であるフェナセチンの臨床結果を報告する論文を発表し、フェナセチンとは違い、アセトアミノフェンにはメトヘモグロビン血症を引き起こす可能性がわずかにあると主張した。これにより、フェナセチンが鎮痛剤として広く使われるようになり、その販売により、ドイツの製薬会社バイエルは世界有数の製薬会社となった。 メリングの主張は半世紀に渡り学会に受け入れられてきた。1940年代後半、アメリカの2つの研究チームがアセトアニリドとフェナセチンの代謝を分析した。1947年、デイヴィッド・レスター(英語版)とレオン・グリーンバーグは、アセトアニリドを摂取したヒトの血液中にアセトアミノフェンが含まれており、それがアセトアニリドの主要代謝物であるという強い証拠を発見した。その後の研究で、ラットにアセトアミノフェンを大量に投与してもメトヘモグロビン血症を引き起こさなかったことを報告した。1948年、バーナード・ベリル・ブロディ(英語版)、ジュリアス・アクセルロッド、フレデリック・フリンは、アセトアミノフェンがアセトアニリドの主要代謝物であることを確認し、アセトアミノフェンにもアセトアニリドと同様の鎮痛作用があることを証明した。この研究グループは、メトヘモグロビン血症はアセトアニリドの別の代謝物であるフェニルヒドロキシルアミンによって引き起こされることを示唆した。ブロディとアクセルロッドの1949年の論文では、フェナセチンもアセトアミノフェンに代謝されることが明らかにされた。これらの研究によりアセトアミノフェンが見直され、解熱鎮痛剤として広く用いられるようになった。 1999年に埼玉県で、市販の風邪薬と酒を大量に摂取させて殺される事件が発生した。埼玉県警察は容疑者を絞り込んでいたものの、被害者の体内から毒物の物的証拠を確認できなかったため逮捕に至らなかったが、風邪薬に含まれるアセトアミノフェンと酒を同時に大量摂取することで、死亡に至る危険性があるという調査結果を得て、容疑者の逮捕に踏み切った。 アメリカ合衆国では、アセトアミノフェンの大量摂取による中毒死が発生しており、日本でも前述の殺人事件の発生をきっかけに、日本薬剤師会から販売体制の徹底が薬局に通知された。 2022年には新型コロナウイルス感染症の第7波による影響で、国内での需要が急速に増加し、あゆみ製薬が販売する「カロナール」で通常出荷へ向けて限定出荷を余儀なくされている。
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アセトアミノフェンまたはパラセタモールは、解熱・鎮痛薬の一つである。 主に発熱、悪寒、頭痛などの症状改善に用いられ、一般用医薬品の感冒薬にも広く含有されるが、過剰服用に陥る事例も少なくない。 1877年に発見され、米国と欧州で最も利用される鎮痛薬・総合感冒薬である。WHO必須医薬品モデル・リストに収録されている。
{{Redirect|カロナール|タレント|小沼綺音}} {{Drugbox| |IUPAC_name = ''N-(4-hydroxyphenyl)acetamide'' | synonyms = 4-ヒドロキシアセトアニリド、 ''p''-ヒドロキシアセトアニリド、''p''-アセトアミノフェノール('''''para'''''-A'''cetam'''inophen'''ol'''、Paracetamolの語源)とも呼ばれる。 |image = N-Acetyl-p-aminophenol.svg |image2 = Paracetamol-from-xtal-3D-balls.png |CAS_number = 103-90-2 |ChemSpiderID = 1906 |ATC_prefix = N02 |ATC_suffix = BE01 |PubChem = 1983 |DrugBank = APRD00252 |KEGG = D00217 |日化辞番号 = J4.025H |smiles = CC(=O)Nc1ccc(cc1)O |C=8 | H=9 | N=1 | O=2 |rational_formula =C{{sub|6}}H{{sub|4}}(OH)NHCOCH{{sub|3}} |molecular_weight = 151.169 |density = 1.263 |melting_point = 169 |solubility = 14 mg/mL @ 25 {{℃}} <ref>[http://www.drugbank.ca/drugs/DB00316 DrugBank : Showing Acetaminophen (DB00316)]</ref> |bioavailability = ほぼ100% |metabolism = 90-95% ([[肝臓]]) |elimination_half-life = 1–4 時間 |excretion = [[腎臓]] |pregnancy_AU = A |pregnancy_US = B |pregnancy_category = 安全 |legal_AU = unscheduled |legal_UK = GSL |legal_US = OTC |legal_JP = OTC |routes_of_administration= 経口、座剤、点滴静注 |licence_US = ACETAMINOPHEN |tradename = {{KEGG MEDICUS|med|D00217}}<br>{{KEGG MEDICUS|otc|D00217}} }} [[画像:Paracetamol-3D-vdW.png|thumb|250px|アセトアミノフェン分子]] '''アセトアミノフェン'''({{lang-en-short|Acetaminophen}}、[[米国一般名|USAN]]、[[日本医薬品一般的名称|JAN]])または'''パラセタモール'''({{lang-en-short|Paracetamol}}、[[国際一般名|INN]])は、[[解熱薬|解熱]]・[[鎮痛薬]]の一つである。 主に[[発熱]]、[[悪寒]]、[[頭痛]]などの症状改善に用いられ、[[一般用医薬品]]の[[総合感冒薬|感冒薬]]にも広く含有されるが、過剰服用に陥る事例も少なくない。 [[1877年]]に発見され<ref>{{cite book|last1=Mangus|first1=Brent C. |first2=Michael G. |last2=Miller |title=Pharmacology application in athletic training|date=2005|publisher=F.A. Davis|location=Philadelphia, Pennsylvania |isbn=9780803620278|page=39|url=https://books.google.co.jp/books?id=tV72AAAAQBAJ&pg=PA39 }}</ref>、[[アメリカ合衆国|米国]]と[[ヨーロッパ|欧州]]で最も利用される[[鎮痛薬]]・[[総合感冒薬]]である<ref>{{cite book|last=Aghababian|first=Richard V. |title=Essentials of emergency medicine|url=https://books.google.com/books?id=HnbKaRQAXOIC&pg=PA814|date=22 October 2010|publisher=Jones & Bartlett Publishers|isbn=978-1-4496-1846-9|page=814}}</ref> 。[[WHO必須医薬品モデル・リスト]]に収録されている<ref name="WHO19th">{{cite web|title=WHO Model List of Essential Medicines (19th List)|url=http://www.who.int/medicines/publications/essentialmedicines/EML_2015_FINAL_amended_NOV2015.pdf?ua=1|work=World Health Organization|accessdate=8 December 2011|date=April 2015}}</ref>。<!---WP:宣伝ではない 後発薬も利用可能である。[[あゆみ製薬]]がカロナール、[[マイランEPD]]がアンヒバとして販売している。---> == 特徴 == アセトアミノフェンは[[アスピリン]]や[[イブプロフェン]]などの[[非ステロイド性抗炎症薬]] (NSAIDs) と異なり、抗炎症作用はほぼ有していない。正常な服用量では、血液凝固、[[腎臓]]あるいは[[胎児]]の[[動脈管]]収縮などの影響が少ない。[[オピオイド系鎮痛剤]]と異なり、興奮、眠気などの副作用と[[薬物依存]]、[[耐性 (薬理学)|耐性]]、[[離脱症状]]は観察されない。 == 用途 == === 医療用 === [[鎮痛剤]]として多く頓服処方されている。[[関節炎]]、[[痛風]]、[[腎結石]]、[[尿路結石]]、[[片頭痛]]、[[疼痛]]、[[歯痛]]、[[外傷]]、[[生理痛]]、[[腰痛]]、[[筋肉痛]]、[[神経痛]]、小規模から中規模な手術後などの鎮痛目的で使用される。解熱鎮痛薬の中では副作用が最も少ない部類に入る(副作用がないわけではない)ため、多くの疾患で第一選択薬として使用されている。 [[デング熱]]では解熱鎮痛剤として、アセトアミノフェンが推奨されている([[サリチル酸]]系統のものは、出血傾向や[[アシドーシス]]を助長することから[[禁忌]])。 日本では[[薬事法の歴史|承認審査体制]]の整備前より使用されており、先発品は存在しない。[[一般用医薬品#第二類医薬品(指定第二類医薬品を含む)|第2類医薬品]]として、[[タイレノール]]や[[ノーシン]]が販売される。[[処方箋医薬品]]としてはアセトアミノフェン単剤として「カロナール」を[[あゆみ製薬]]が販売している。また、[[イソプロピルアンチピリン]]、[[アリルイソプロピルアセチル尿素]]、無水[[カフェイン]]合剤の「SG配合顆粒 1g」を[[塩野義製薬]]が、[[トラマドール]]合剤の「[[トラムセット]]配合錠」を[[持田製薬]]が販売<ref>{{Cite web|url=https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=54666    |title=ヤンセン、持田 疼痛治療薬トラムセット 共同販売から共同販促に変更 17年1月に|publisher=ミクスOnline|date=2016-10-03|accessdate=2023-12-18}}</ref>している。 水溶性が極めて低いため、消化器疾患で内服不可能な患者には投与が難しかったが、2013年11月、[[テルモ]]が静脈注射製剤として「アセリオ」(ガラスバイアル製剤)を発売、2017年2月には「アセリオバッグ」(プラスチック製のソフトバッグ製剤)を発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.terumo.co.jp/pressrelease/detail/20170224/675/index.html |title=テルモ、解熱鎮痛剤「アセリオ静注液1000mgバッグ」を発売 |date=2017-02-24 |accessdate=2020-04-24 |publisher=テルモ}}</ref>。しかし前述の通り水溶性が極めて低いため、[[析出]]を防ぐためには単独投与にしなければならないこと、重篤な肝障害が発現するおそれがあるため15分かけて静注すること、1回の投与量は剤型に関わらず体重当たりで決まること(全ての患者に1000 mg/100 mL全量投与しない)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.min-iren.gr.jp/?p=38722 |title=副作用モニター情報〈525〉 アセリオ静注液の投与量に注意 ~薬剤性肝障害~ |date=2019-09-17|accessdate=2020-04-24 |publisher=全日本民医連}}</ref>、などの注意が必要である。 === その他の用途 === [[グアム島]]で生態系へ悪影響を及ぼしている、[[外来種]]の[[ミナミオオガシラ]]を駆除するのに用いられる。 == 禁忌 == 重篤な肝機能障害ないしは本剤に対して過敏症既往のある場合<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.viatris-e-channel.com/viatris-products/di/info/pdf/%E3%82%A2%E3%82%BB%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E5%90%AB%E6%9C%89%E8%A3%BD%E5%89%A4_%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B%E6%96%87%E6%9B%B8_20231013.pdf |title=アセトアミノフェン含有製剤 添付文書改訂のお知らせ |access-date=2023-11-10 |publisher=ヴィアトリス製薬}}</ref>。2023年10月に、添付文書が改訂され、重篤な血液異常、重篤な腎機能障害、重篤な心機能不全、アスピリン喘息既往は禁忌指定解除となった<ref name=":0" />。アセトアミノフェンはアスピリン喘息の発症に関与していると考えられている[[プロスタグランジン]]合成酵素阻害作用をほぼ持たない<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sagamihara.hosp.go.jp/rinken/crc/nsaids/index.html |title=アスピリン喘息:NSAIDs解熱鎮痛薬不耐症・過敏症 |access-date=2022.12.12 |publisher=独立行政法人国立病院機構相模原病院 臨床研究センター}}</ref>。このため、臨床現場ではアスピリン喘息罹患者に対しても一般的に使用されてきた。しかし、2023年9月までは添付文書にはアスピリン喘息患者には禁忌と記載されていた<ref name=":0" />。米[[アメリカ食品医薬品局|FDA]]によるアセトアミノフェン禁忌・注意事項には、アスピリン喘息に対しての注意自体がない<ref>{{Cite web |url=https://www.accessdata.fda.gov/drugsatfda_docs/label/2015/204767s000lbl.pdf |title=HIGHLIGHTS OF PRESCRIBING INFORMATION |access-date=2022.12.12 |publisher=FDA}}</ref>。 == 副作用 == === 高血圧 === アセトアミノフェンは[[高血圧]]を悪化させる可能性があるとされる<ref>{{Cite web |title=Acetaminophen might worsen high blood pressure |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/acetaminophen-might-worsen-high-blood-pressure |website=Harvard Health |date=2022-06-01 |access-date=2022-05-19 |language=en |first=Matthew |last=Solan}}</ref>。 === 肝障害 === :[[パラセタモール中毒]]も参照 アセトアミノフェンは[[シクロオキシゲナーゼ]] (COX) 活性阻害が弱くNSAIDsに見られるような胃障害の副作用が発生する頻度は低いが、[[肝障害]]の発症頻度が高まる恐れから、アセトアミノフェンを325[[ミリグラム|mg]]以上含有する医薬品の処方中止を、2014年に[[アメリカ食品医薬品局]]が[[勧告]]した。米国ではアルコールに次いで2番目に多い肝硬変の原因物質である<ref>Pocket Medicine 7th ed. ISBN 1496349482</ref>。特に小児がアセトアミノフェン製剤の糖衣錠やシロップ薬を誤って過量内服する例が目立つ。大量服用だけでなく少量の服用でも急性肝炎を発症する事がある<ref>安永満、松田彰史、村田誠 ほか、[https://doi.org/10.2957/kanzo.26.493 少量のアセトアミノフェン服用による急性肝障害の2例] 肝臓 1985年 26巻 4号 p.493-499, {{doi|10.2957/kanzo.26.493}}</ref>。 また重篤な肝障害を有する患者には禁忌で、アセトアミノフェン4.8[[グラム|g]]を[[酒]]と一緒に服用し、急性肝不全で死亡した事例が1989年に報告される<ref>{{Cite journal|和書|author=清水勝 ほか|date=1989|title=アルコール常用者にみられたアセトアミノフェンによる急性肝不全の1例|url=https://doi.org/10.2957/kanzo.30.690|volume=30|issue=6|pages=690-694|doi=10.2957/kanzo.30.690|journal=肝臓}}</ref>など、アルコール多量常飲者への投与は注意を要する。 犬や猫(特に猫)は[[グルクロン酸抱合]]能が低く、アセトアミノフェンを少量摂取しても中毒するため、アセトアミノフェン含有の解熱鎮痛剤を、犬や猫に投与してはならない。 ただし、一般的な風邪やインフルエンザのような短期使用の場合、投与量、投与期間は限られているため、副作用としての肝機能障害が問題になることはほとんどない。 過量服用時の治療には、独特の[[ノモグラム]]<ref>{{Cite web|和書|title=アセトアミノフェン中毒|url=https://www.msdmanuals.com/ja-jp/プロフェッショナル/22-外傷と中毒/中毒/アセトアミノフェン中毒|website=MSDマニュアル プロフェッショナル版|accessdate=2020-03-06|language=ja-JP}}</ref>を参照してアセチルシステインの投与量を決定する。服用量に対応して肝細胞内のグルクロン酸の枯渇はある程度予測でき、それを補充することで肝障害をある程度予防することができるからである。 === その他の副作用 === * [[ショック]]<ref name="msd">[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/25-外傷と中毒/中毒/アセトアミノフェン中毒 アセトアミノフェン中毒] MSDマニュアル家庭版</ref> * [[中毒性表皮壊死融解症]]、[[スティーブンス・ジョンソン症候群]]<ref name=msd /> * 顆粒球減少、血小板減少<ref name=msd /> * 悪心、嘔吐<ref name=msd /> * 喘息発作<ref name=msd /> * [[間質性肺炎]]、間質性腎炎、膵炎<ref name=msd /> * 発疹<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/medical/20230120-OYT1T50138/ 解熱鎮痛成分「アセトアミノフェン」で発疹、厚労省「重大な副作用」追記を指示(読売新聞2023年1月20日記事)]</ref> == 作用機序 == アスピリンと同様にCOX活性を阻害することで[[プロスタグランジン]]の産生を抑制するが、その効果は弱い。解熱・鎮痛作用はCOX阻害以外の作用によると考えられているが、詳細は不明である。 {{要出典範囲|2002年に脳内で痛みの知覚に関与するシクロオキシゲナーゼ3 (COX3) が発見され、アセトアミノフェンがこのCOX3を特異的に阻害することで鎮痛効果を発現すると考えられた時期もあったが、アセトアミノフェンの鎮痛効果発現メカニズムとCOX3阻害効果を結びつけることは非常に困難であることが明らかになってきた|date=2017年6月}}。 [[2005年アメリカグランプリ|2005年]]にZygmuntらにより、アセトアミノフェンの代謝物であるp-アミノフェノールが肝臓主体で産生された後に、大部分が脳内に、また、ごく一部は脊髄に移行し[[アラキドン酸]]と結合することで、N-アシルフェノールアミンを合成することを見いだした<ref name="Zygmunt">{{cite journal |author=Högestätt ED, Jönsson BA, Ermund A, Andersson DA, Björk H, Alexander JP, Cravatt BF, Basbaum AI, Zygmunt PM |title=Conversion of acetaminophen to the bioactive N-acylphenolamine AM404 via fatty acid amide hydrolase-dependent arachidonic acid conjugation in the nervous system |journal=J. Biol. Chem. |volume=280 |issue=36 |pages=31405–12 |year=2005 |pmid=15987694 |doi=10.1074/jbc.M501489200 |url=}}</ref>。このN-アシルフェノールアミンが鎮痛作用を示す源となる可能性を報告している<ref name="Zygmunt"/>。 2011年の日本薬局方解説書には、アセトアミノフェンは[[シクロオキシゲナーゼ]]系の阻害効果はほとんど持たず、[[視床下部]]の体温調節中枢に作用して表在毛細血管を拡張させることにより解熱作用を発揮するとされている<ref name="no16">)第十六改正日本薬局方解説書(廣川書店):C-116~120(2011)</ref><ref name="ookubo"/>。鎮痛作用は、[[視床]]および[[大脳]]に作用し、痛覚閾値を上昇させる経路によると推定するとされる<ref name="no16"/><ref name="ookubo"/>。 == 代謝経路と解毒 == 経口投与では内服後30-60分で血中濃度が最高となる。5%はそのまま尿中に排泄されるが、残りの大部分は肝臓でグルクロン酸抱合あるいは硫酸抱合され、無毒化されたのちに尿中に排泄される。一部は肝臓の[[シトクロムP450]]によってNAPQI(''N''-acetyl-''p''-benzoquinone imine または ''N''-acetylimidoquinoneとも呼ばれる)に転換される。NAPQIは毒性が高いが直ちに[[グルタチオン抱合]]を受けて無毒の{{仮リンク|メルカプツール酸|en|Mercapturic acid}}とされ尿中に排泄される<ref name="ookubo"/>。しかし、アセトアミノフェンが大量に摂取され、肝細胞内のグルタチオンが払底してしまうとNAPQIが肝細胞内の蛋白質や核酸と結合、特にミトコンドリア蛋白と共有結合、呼吸鎖抑制や酸化ストレスを惹起することで肝細胞が障害される<ref name="ookubo"/>。そのため、アセトアミノフェンを多量に摂取すると肝臓毒性が現れる<ref name="ookubo"/>。例えば、常習の飲酒のためにシトクロムP450の活性が上昇している場合には、アセトアミノフェンの摂取量が少なくても中毒になりやすくなる<ref name="ookubo">{{Cite journal|和書|author=大久保昭行 |title=医学講座 かぜ薬とアセトアミノフェン中毒 |journal=日本医師会雑誌 |ISSN=00214493 |publisher=日本医師会 |year=2001 |month=jan |volume=125 |issue=2 |page=193 |naid=40002820645}}</ref>。 アセトアミノフェン中毒に対してはグルタチオンの前駆物質である[[アセチルシステイン]]を使用する<ref name="ookubo"/>。グルタチオンを直接投与しても肝細胞には取り込まれないためである<ref name="ookubo"/>。アセチルシステインはアセトアミノフェン服用後8時間以内に投与する必要があるが<ref name="ookubo"/>、24時間以内の投与でも肝障害は抑制できないものの肝性昏睡を回復させ生命予後を改善する効果がある<ref name="ookubo"/>。 == 合成法 == [[画像:Synthesis of paracetamol from phenol.svg|thumb|360px|アセトアミノフェンの合成]] アセトアミノフェンは以下の手順で合成される。 [[フェノール]]に[[硫酸|希硫酸]][[酸性]]条件下で[[硝酸ナトリウム]]を作用させて[[ニトロ化合物|ニトロ化]]し、2-ニトロフェノールと[[4-ニトロフェノール]]の混合物を得る。この混合物を分離して4-ニトロフェノールを精製する。精製した4-ニトロフェノールを[[水素化ホウ素ナトリウム]]で還元し、4-アミノフェノールを得る。この4-アミノフェノールに[[無水酢酸]]を作用させて[[アセチル化]]し、アセトアミノフェンを得る<ref>{{cite book |author = Ellis, Frank |title = Paracetamol: a curriculum resource |publisher = Royal Society of Chemistry |location = Cambridge |date = 2002 |isbn = 0-85404-375-6 }}</ref>。 本反応でフェノールは反応を強力に促進させるため、穏やかな条件が必要となる。工業的なアセトアミノフェンの合成は、[[ニトロベンゼン]]から行われることが多い<ref>{{cite book |author = Anthony S. Travis |date = 2007 |chapter = Manufacture and uses of the anilines: A vast array of processes and products |editor = Zvi Rappoport |title = The chemistry of Anilines Part 1 |publisher = Wiley |isbn = 978-0-470-87171-3 |page = 764 }}</ref>。 ==歴史== [[Image:Axelrod.jpg|thumb|[[ジュリアス・アクセルロッド]](写真の人物)と{{仮リンク|バーナード・ベリル・ブロディ|en|Bernard Beryl Brodie}}は、[[アセトアニリド]]と[[フェナセチン]]がいずれも、より耐性が高い鎮痛剤であるアセトアミノフェンに代謝されることを証明した。]] [[アニリン]]誘導体の一種である[[アセトアニリド]]に解熱鎮痛作用があることが偶然発見されると、1886年にはCahn & Heppがアンチヘブリン(Antifebrin)の名前で商品化した<ref>{{cite journal |author=Cahn A, Hepp P |title=Das Antifebrin, ein neues Fiebermittel |trans-title=Antifebrin, a new antipyretic |journal=Centralblatt für klinische Medizin |year=1886 |volume=7 |pages=561–4 |url=https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?num=561&u=1&seq=5&view=image&size=100&id=mdp.39015009239362 |language=de |access-date=21 February 2019 |archive-date=1 September 2020 |archive-url= https://web.archive.org/web/20200901204651/https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?num=561&u=1&seq=5&view=image&size=100&id=mdp.39015009239362 |url-status=live }}</ref>。しかし、アセトアニリドには[[メトヘモグロビン血症]]を引き起こすという副作用があるため、より毒性の低いアニリン誘導体が模索された<ref name=Bertolini2006rev>{{cite journal |author=Bertolini A, Ferrari A, Ottani A, Guerzoni S, Tacchi R, Leone S |title=Paracetamol: New vistas of an old drug |journal= CNS Drug Reviews |volume=12 |issue=3–4 |pages=250–75 |year=2006 |pmid=17227290 |doi =10.1111/j.1527-3458.2006.00250.x|pmc=6506194 }}</ref>。 1877年、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の{{仮リンク|ハーモン・ノースロップ・モース|en|Harmon Northrop Morse}}が、[[4-ニトロフェノール]]を[[錫]]と氷[[酢酸]]で還元することによりアセトアミノフェンを初めて合成した<ref>{{cite journal |title=Ueber eine neue Darstellungsmethode der Acetylamidophenole |trans-title=On a new method of preparing acetylamidophenol |pages=232–233 | author = Morse HN |year=1878 |doi=10.1002/cber.18780110151 |journal=[[Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft]] |volume=11 |issue=1 |url= http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.cl1hz4;view=1up;seq=250 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181106192330/https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.cl1hz4;view=1up;seq=250 |url-status=dead |archive-date=6 November 2018 |language=de}}</ref><ref name=badmed>{{cite book|title=Bad Medicine: The Prescription Drug Industry in the Third World | author = Silverman M, Lydecker M, Lee PR |publisher= Stanford University Press |year=1992 |isbn=978-0804716697 |pages=[https://archive.org/details/badmedicinepresc0000silv/page/88 88]–90 |url= https://archive.org/details/badmedicinepresc0000silv |url-access=registration}}</ref>。なお、それ以前の1852年にCahn & Heppやフランスの[[シャルル・ジェラール]]がアセトアミノフェンを合成していたという報告もある<ref name="ourarchive.otago.ac.nz">{{cite thesis | author = Eyers SJ | date = 2012 | title = The effect of regular paracetamol on bronchial responsiveness and asthma control in mild to moderate asthma | degree = Ph.D. | publisher = University of Otago | url = https://hdl.handle.net/10523/2454 | access-date=2022-12-07}}</ref><ref name = "Roy_2011">{{cite book | author = Roy J | chapter = Paracetamol - the best selling antipyretic analgesic in the world | chapter-url = https://books.google.com/books?id=0IdmAgAAQBAJ&pg=PA270 | page = 270 | title = An introduction to pharmaceutical sciences: production, chemistry, techniques and technology | date = 2011 | publisher = Biohealthcare | location = Oxford | isbn = 978-1-908818-04-1 | access-date = 24 August 2021 | archive-date = 24 August 2021 | archive-url = https://web.archive.org/web/20210824194752/https://books.google.com/books?id=0IdmAgAAQBAJ&pg=PA270 | url-status = live }}</ref>。当初は[[アゾ色素]]の中間体として利用されていた。[[1893年]]にドイツ人医師{{仮リンク|ヨセフ・フォン・メリング|en|Joseph von Mering}}が初めて医薬品として使用した<ref name=Bertolini2006rev/>。1893年、メリングはアセトアミノフェンと、同じアニリン誘導体である[[フェナセチン]]の臨床結果を報告する論文を発表し、フェナセチンとは違い、アセトアミノフェンにはメトヘモグロビン血症を引き起こす可能性がわずかにあると主張した<ref>{{cite journal | author = von Mering J |year=1893 |title=Beitrage zur Kenntniss der Antipyretica |journal=Ther Monatsch |volume=7 |pages=577–587 }}</ref>。これにより、フェナセチンが鎮痛剤として広く使われるようになり、その販売により、ドイツの製薬会社[[バイエル (企業)|バイエル]]は世界有数の製薬会社となった<ref name=drugdiscov>{{cite book |title=Drug Discovery: A History | author = Sneader W |publisher=Wiley |year=2005 |isbn=978-0471899808 |page=439 |location=Hoboken, NJ |url=https://books.google.com/books?id=jglFsz5EJR8C&pg=PA439 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20160818021904/https://books.google.com/books?id=jglFsz5EJR8C&pg=PA439 |archive-date=18 August 2016 }}</ref>。 メリングの主張は半世紀に渡り学会に受け入れられてきた。1940年代後半、アメリカの2つの研究チームがアセトアニリドとフェナセチンの代謝を分析した<ref name=drugdiscov/>。1947年、{{仮リンク|デイヴィッド・レスター (生化学者)|label=デイヴィッド・レスター|en|David Lester (biochemist)}}とレオン・グリーンバーグは、アセトアニリドを摂取したヒトの血液中にアセトアミノフェンが含まれており、それがアセトアニリドの主要代謝物であるという強い証拠を発見した。その後の研究で、ラットにアセトアミノフェンを大量に投与してもメトヘモグロビン血症を引き起こさなかったことを報告した<ref>{{cite journal|author = Lester D, Greenberg LA, Carroll RP|title = The metabolic fate of acetanilid and other aniline derivatives: II. Major metabolites of acetanilid appearing in the blood|journal = J. Pharmacol. Exp. Ther.|year = 1947|volume = 90|pages = 68–75|url = http://jpet.aspetjournals.org/cgi/reprint/90/1/68|pmid = 20241897|issue = 1|url-status=live|archive-url = https://web.archive.org/web/20081202161015/http://jpet.aspetjournals.org/cgi/reprint/90/1/68|archive-date = 2 December 2008}}</ref>。1948年、{{仮リンク|バーナード・ベリル・ブロディ|en|Bernard Beryl Brodie}}、[[ジュリアス・アクセルロッド]]、フレデリック・フリンは、アセトアミノフェンがアセトアニリドの主要代謝物であることを確認し、アセトアミノフェンにもアセトアニリドと同様の鎮痛作用があることを証明した<ref>{{cite journal| author=Brodie BB, Axelrod J |author-link2=Julius Axelrod |title = The estimation of acetanilide and its metabolic products, aniline, ''N''-acetyl ''p''-aminophenol and ''p''-aminophenol (free and total conjugated) in biological fluids and tissues|journal = J. Pharmacol. Exp. 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Ther.|year = 1948|volume = 94|issue = 1|pages = 76–77|pmid = 18885618}}</ref>。この研究グループは、メトヘモグロビン血症はアセトアニリドの別の代謝物である[[フェニルヒドロキシルアミン]]によって引き起こされることを示唆した。ブロディとアクセルロッドの1949年の論文では、フェナセチンもアセトアミノフェンに代謝されることが明らかにされた<ref>{{cite journal|author=Brodie BB, Axelrod J |title=The fate of acetophenetidin (phenacetin) in man and methods for the estimation of acetophenitidin and its metabolites in biological material| journal=J Pharmacol Exp Ther|year=1949|pages=58–67|volume=94|issue=1}}</ref>。これらの研究によりアセトアミノフェンが見直され<ref name=Bertolini2006rev/>、解熱鎮痛剤として広く用いられるようになった<ref>{{Cite journal|和書|author=郡司敦子, 郡司明彦, 田村幸彦, 平尾功治, 町田光, 秋田季子, 小林奈緒美, 藤井彰 |title=古くて新しい鎮痛薬アセトアミノフェン |journal=歯科薬物療法 |ISSN=02881012 |publisher=日本歯科薬物療法学会 |year=2009 |month=dec |volume=28 |issue=3 |pages=109-116 |naid=10026132483 |doi=10.11263/jsotp.28.109 |url=https://doi.org/10.11263/jsotp.28.109}}</ref>。 == 事件 == {{main|本庄保険金殺人事件}} [[1999年の日本|1999年]]に[[埼玉県]]で、市販の風邪薬と酒を大量に摂取させて殺される事件が発生した。[[埼玉県警察]]は容疑者を絞り込んでいたものの、被害者の体内から毒物の物的証拠を確認できなかったため逮捕に至らなかったが、風邪薬に含まれるアセトアミノフェンと[[酒]]を同時に大量摂取することで、[[死亡]]に至る危険性があるという調査結果を得て、容疑者の[[逮捕]]に踏み切った。 [[アメリカ合衆国]]では、アセトアミノフェンの大量摂取による中毒死が発生しており、日本でも前述の殺人事件の発生をきっかけに、[[日本薬剤師会]]から販売体制の徹底が薬局に通知された。 == 限定出荷 == [[2022年]]には[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症]]の第7波による影響で、国内での需要が急速に増加し、あゆみ製薬が販売する「カロナール」で通常出荷へ向けて限定出荷を余儀なくされている。 {{脚注ヘルプ}} ==出典== {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Paracetamol|パラセタモール}} * [[アセトアニリド]] * [[トラマドール・アセトアミノフェン]] * [[バイコディン]] * [[化合物一覧]] ==外部リンク== * [https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/iyakuDetail/ResultDataSetPDF/400813_1141007F1217_1_03 添付文書 アセトアミノフェン錠200mg「武田デバ」] pmda * [https://scienceportal.jst.go.jp/newsflash/20230705_n01/index.html ミトコンドリアに直接コエンザイムを届けて肝障害克服 北大がカプセル開発(サイエンスポータル、2023年7月5日)] * [https://www.hokudai.ac.jp/news/2023/05/q10.html ミトコンドリアに薬を運ぶナノカプセルで病気を撃退~ミトコンドリアにコエンザイムQ10を運ぶ抗酸化療法の開発に成功~(北海道大学2023年5月11日)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あせとあみのふえん}} [[Category:鎮痛剤]] [[Category:解熱剤]] [[Category:アセトアニリド]] [[Category:フェノール]] [[Category:WHOエッセンシャルドラッグ]]
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新富士駅
新富士駅(しんふじえき)
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新富士駅(しんふじえき) 新富士駅 (北海道) - 北海道釧路市にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線の駅。 新富士駅 (静岡県) - 静岡県富士市にある東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線の駅。
'''新富士駅'''(しんふじえき) * [[新富士駅 (北海道)]] - 北海道釧路市にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線の駅。 * [[新富士駅 (静岡県)]] - 静岡県富士市にある東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線の駅。 {{aimai}} [[Category:同名の鉄道駅]] {{DEFAULTSORT:しんふしえき}}
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総選挙
総選挙(そうせんきょ)とは、立法府の議員を一度に改選する選挙をいう。この用語で改選する範囲は立法府の議員全員や下院のみなど国により異なる。 特に議院内閣制を採用する国において、政権を選択する議会選挙に対して用いられる。 総選挙は議員全員がその資格を喪失する場合に実施され、議員全員が議員資格を喪失する事由として任期満了と議会の解散とがある。両院制の場合、下院については解散制度によって議員全員が議員資格を喪失する制度がとられることが多く、総選挙も下院のみに制度化されている場合が多い。しかし、すべての国において総選挙は下院のみで行われているというのではなく、イタリア、オーストラリアのように上下両院に解散制度があり上院にも総選挙が行われる制度もある。イタリアではイタリア共和国憲法第88条により、大統領は両議院又は一議院を解散できる。実際は、慣例で両院同時解散される。オーストラリアでは、下院の解散は任意にできるが、上院の解散は、法案について上下両院の意見が不一致になった場合のみ、上下両院を同時解散できる。 議会の解散が存在する国においては、任期満了まで選挙を待つかどうかは国によってまちまちである。一般的には、解散に制約が少ない場合は、解散権を実質的に有する者(首相)が政権党にとって有利なタイミングを見計らって下院議会を解散することで総選挙が実施されることが多い。日本、カナダ等も、このタイプの総選挙を行う国のカテゴリーに属する。イギリスはそのモデルケースであったが、2000年代以降の憲法改革の流れのなか、2011年の固定任期議会法(または、議会任期固定法、Fixed-term Parliaments Act 2011)により、首相の解散権は議会が内閣不信任決議をした場合に限られ、その他の解散(任期満了を待たない総選挙)の可能性は、議会が三分の二以上の議決を以て行う自主解散のみとなった(但し特例法を制定することで、議会任期固定法の制限にとらわれず解散することも可能である)。ドイツは、連邦議会(下院)に解散制度があるが要件が厳しいため、現在のドイツ基本法(憲法)のもとでの総選挙のうち3回(1972年、1983年、2005年)のみ解散・総選挙となっている。 日本では衆議院解散および任期満了に伴う衆議院議員総選挙を指して用いられるのが通例であり、公職選挙法31条も「総選挙」を任期満了あるいは衆議院解散による衆議院議員選挙を指す概念として用いている。ただし、国会議員の選挙の公示について定めた日本国憲法第7条第4号の「総選挙」については、同条が「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、衆議院・参議院を問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を天皇の国事行為として定めた趣旨であると解されることから、憲法第7条第4号の「総選挙」には参議院議員通常選挙が含まれると解するのが通説である。 総選挙の英語訳はGeneral electionであり、また英連邦王国におけるGeneral electionは下院の総員改選を意味し、総選挙と訳される。 一方、アメリカ合衆国で2年ごとに行われるGeneral electionは一般選挙と訳されることが通常である。一般選挙は予備選挙(Primary election)に対置されるニュアンスの言葉として用いられる。一般選挙では、下院の総員改選の他に、3回のうち2回は上院議員選挙、2回のうち1回は大統領選挙人選挙が併せて行われる。また、州知事や州議会議員の選挙、判事・地区教育長・検事長・地区シェリフの選出や多くの法案の住民投票も同時に行われる事が多くマークシート型用紙で投票される。 なお、日本の地方公共団体議会議員の任期満了もしくは解散に伴う選挙(総員改選)も一般選挙と呼ばれる(公職選挙法第33条)。 総選挙後、議会(二院制では下院)が首相候補の承認に反対した場合には議会は解散(再選挙)となる制度を採用する国もある。 なお、このような制度化が行われていない場合でも、新政権が単独過半数にとどかなかった場合や新政権の樹立に失敗した場合に改めて解散総選挙(再選挙)が行われる例がある(1974年2月イギリス総選挙後の1974年10月イギリス総選挙、2012年5月ギリシャ議会総選挙後の2012年6月ギリシャ議会総選挙など)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "総選挙(そうせんきょ)とは、立法府の議員を一度に改選する選挙をいう。この用語で改選する範囲は立法府の議員全員や下院のみなど国により異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "特に議院内閣制を採用する国において、政権を選択する議会選挙に対して用いられる。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "総選挙は議員全員がその資格を喪失する場合に実施され、議員全員が議員資格を喪失する事由として任期満了と議会の解散とがある。両院制の場合、下院については解散制度によって議員全員が議員資格を喪失する制度がとられることが多く、総選挙も下院のみに制度化されている場合が多い。しかし、すべての国において総選挙は下院のみで行われているというのではなく、イタリア、オーストラリアのように上下両院に解散制度があり上院にも総選挙が行われる制度もある。イタリアではイタリア共和国憲法第88条により、大統領は両議院又は一議院を解散できる。実際は、慣例で両院同時解散される。オーストラリアでは、下院の解散は任意にできるが、上院の解散は、法案について上下両院の意見が不一致になった場合のみ、上下両院を同時解散できる。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "議会の解散が存在する国においては、任期満了まで選挙を待つかどうかは国によってまちまちである。一般的には、解散に制約が少ない場合は、解散権を実質的に有する者(首相)が政権党にとって有利なタイミングを見計らって下院議会を解散することで総選挙が実施されることが多い。日本、カナダ等も、このタイプの総選挙を行う国のカテゴリーに属する。イギリスはそのモデルケースであったが、2000年代以降の憲法改革の流れのなか、2011年の固定任期議会法(または、議会任期固定法、Fixed-term Parliaments Act 2011)により、首相の解散権は議会が内閣不信任決議をした場合に限られ、その他の解散(任期満了を待たない総選挙)の可能性は、議会が三分の二以上の議決を以て行う自主解散のみとなった(但し特例法を制定することで、議会任期固定法の制限にとらわれず解散することも可能である)。ドイツは、連邦議会(下院)に解散制度があるが要件が厳しいため、現在のドイツ基本法(憲法)のもとでの総選挙のうち3回(1972年、1983年、2005年)のみ解散・総選挙となっている。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本では衆議院解散および任期満了に伴う衆議院議員総選挙を指して用いられるのが通例であり、公職選挙法31条も「総選挙」を任期満了あるいは衆議院解散による衆議院議員選挙を指す概念として用いている。ただし、国会議員の選挙の公示について定めた日本国憲法第7条第4号の「総選挙」については、同条が「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、衆議院・参議院を問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を天皇の国事行為として定めた趣旨であると解されることから、憲法第7条第4号の「総選挙」には参議院議員通常選挙が含まれると解するのが通説である。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "総選挙の英語訳はGeneral electionであり、また英連邦王国におけるGeneral electionは下院の総員改選を意味し、総選挙と訳される。", "title": "総選挙と一般選挙" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ合衆国で2年ごとに行われるGeneral electionは一般選挙と訳されることが通常である。一般選挙は予備選挙(Primary election)に対置されるニュアンスの言葉として用いられる。一般選挙では、下院の総員改選の他に、3回のうち2回は上院議員選挙、2回のうち1回は大統領選挙人選挙が併せて行われる。また、州知事や州議会議員の選挙、判事・地区教育長・検事長・地区シェリフの選出や多くの法案の住民投票も同時に行われる事が多くマークシート型用紙で投票される。", "title": "総選挙と一般選挙" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、日本の地方公共団体議会議員の任期満了もしくは解散に伴う選挙(総員改選)も一般選挙と呼ばれる(公職選挙法第33条)。", "title": "総選挙と一般選挙" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "総選挙後、議会(二院制では下院)が首相候補の承認に反対した場合には議会は解散(再選挙)となる制度を採用する国もある。", "title": "総選挙と政権成立過程" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、このような制度化が行われていない場合でも、新政権が単独過半数にとどかなかった場合や新政権の樹立に失敗した場合に改めて解散総選挙(再選挙)が行われる例がある(1974年2月イギリス総選挙後の1974年10月イギリス総選挙、2012年5月ギリシャ議会総選挙後の2012年6月ギリシャ議会総選挙など)。", "title": "総選挙と政権成立過程" } ]
総選挙(そうせんきょ)とは、立法府の議員を一度に改選する選挙をいう。この用語で改選する範囲は立法府の議員全員や下院のみなど国により異なる。
{{Otheruses|国政選挙}} {{選挙}} '''総選挙'''(そうせんきょ)とは、[[立法府]]の[[議員]]を一度に改選する[[選挙]]をいう。この用語で改選する範囲は立法府の議員全員や下院のみなど国により異なる。 == 意義 == 特に[[議院内閣制]]を採用する国において、[[政権]]を選択する[[議会]]選挙に対して用いられる。 総選挙は議員全員がその資格を喪失する場合に実施され、議員全員が議員資格を喪失する事由として任期満了と議会の解散とがある。[[両院制]]の場合、[[下院]]については解散制度によって議員全員が議員資格を喪失する制度がとられることが多く、総選挙も下院のみに制度化されている場合が多い。しかし、すべての国において総選挙は下院のみで行われているというのではなく、[[イタリア]]、オーストラリアのように上下両院に解散制度があり上院にも総選挙が行われる制度もある。イタリアではイタリア共和国憲法第88条により、大統領は両議院又は一議院を解散できる。実際は、慣例で両院同時解散される。オーストラリアでは、下院の解散は任意にできるが、上院の解散は、法案について上下両院の意見が不一致になった場合のみ、上下両院を同時解散できる。 [[解散 (議会)|議会の解散]]が存在する国においては、任期満了まで選挙を待つかどうかは国によってまちまちである。一般的には、解散に制約が少ない場合は、解散権を実質的に有する<ref group="注釈">形式的には、解散権は国王(あるいはその代理人としての総督)又は大統領にあるのが通常であり、首相の助言により行使されるとなっている場合に実質的に有するのは首相となる。</ref>者([[首相]])が政権党にとって有利なタイミングを見計らって下院議会を解散することで総選挙が実施されることが多い。日本、[[カナダ]]等も、このタイプの総選挙を行う国のカテゴリーに属する。[[イギリス]]はそのモデルケースであったが、2000年代以降の[[イギリスの憲法|憲法]]改革の流れのなか、2011年の固定任期議会法(または、議会任期固定法、Fixed-term Parliaments Act 2011)により、首相の解散権は議会が内閣不信任決議をした場合に限られ、その他の解散(任期満了を待たない総選挙)の可能性は、議会が三分の二以上の議決を以て行う自主解散のみとなった(但し特例法を制定することで、議会任期固定法の制限にとらわれず解散することも可能である)。ドイツは、[[ドイツ連邦議会|連邦議会(下院)]]に解散制度があるが要件<ref group="注釈">連邦政府信任決議の否決時及び連邦議会による連邦首相の指名が3回に及んでも統一見解を得ない場合。なお、連邦政府不信任案の可決は、後継の連邦首相の指名とセットであるため、この方法で連邦議会を解散することはできない。</ref>が厳しいため、現在のドイツ基本法(憲法)のもとでの総選挙のうち3回(1972年、1983年、2005年)のみ解散・総選挙となっている。 日本では[[衆議院解散]]および任期満了に伴う[[衆議院議員総選挙]]を指して用いられるのが通例であり、[[公職選挙法]]31条も「総選挙」を任期満了あるいは衆議院解散による衆議院議員選挙を指す概念として用いている。ただし、[[国会議員]]の選挙の公示について定めた[[日本国憲法第7条]]第4号の「総選挙」については、同条が「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、[[衆議院]]・[[参議院]]を問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を[[国事行為|天皇の国事行為]]として定めた趣旨であると解されることから、憲法第7条第4号の「総選挙」には[[参議院議員通常選挙]]が含まれると解するのが通説である<ref>[[宮沢俊義]]・[[芦部信喜]]『全訂日本国憲法』125頁 - 126頁、日本評論社、1978年</ref>。 == 総選挙と一般選挙 == <div style="float:right">{{Anchors|California2012}}[[file:generalelectionguide.jpg|right|thumb|215px|カリフォルニア州一般選挙の告知と案内(2012年)]]</div> <div style="float:right">{{Anchors|Californiaballot2012}}[[file:generalelectionballot.jpg|right|thumb|200px|カリフォルニア州一般選挙の投票用紙(2012年)]]</div> 総選挙の[[英語]]訳は[[:en:General election|General election]]であり、また[[英連邦王国]]におけるGeneral electionは下院の総員改選を意味し、総選挙と訳される。 一方、[[アメリカ合衆国]]で2年ごとに行われるGeneral electionは一般選挙と訳されることが通常である<ref group="注釈">カリフォルニア州が発行するGeneral Election Guideの日本語版は『総選挙』と訳されている([[#California2012|上掲画像参照]])。ただしこの訳が日本でも一般に使われる訳かどうかは日本国内での使われ方による</ref>。一般選挙は[[予備選挙]]([[:en:Primary election|Primary election]])に対置されるニュアンスの言葉として用いられる。一般選挙では、[[アメリカ合衆国下院|下院]]の総員改選の他に、3回のうち2回は[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員選挙、2回のうち1回は[[アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙人選挙]]が併せて行われる。また、州知事や州議会議員の選挙、判事・地区教育長・検事長・地区シェリフの選出や多くの法案の住民投票も同時に行われる事が多くマークシート型用紙で投票される。 なお、日本の[[地方公共団体]]議会議員の任期満了もしくは解散に伴う選挙(総員改選)も一般選挙と呼ばれる(公職選挙法第33条)。 == 総選挙と政権成立過程 == ; イギリス : 総選挙の結果に従い王が首相を任命する<ref name="narita">{{Cite journal|和書|author=成田憲彦 |title=日本の連立政権形成における国会の論理と選挙制度の論理|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaes1986/16/0/16_0_18/_pdf/-char/ja |journal= |publisher=日本選挙学会 |year=2001 |volume=16 |pages=18-27}}</ref>。 ; ドイツ : 大統領が[[ドイツ連邦議会]]に首相を提案してそこで首相の選挙が行われる<ref name="narita" />。実際には連立政権となることが多く、政党間の連立政権合意が先行し、首相とされる者を大統領が提案する<ref name="narita" />。 総選挙後、議会(二院制では下院)が首相候補の承認に反対した場合には議会は解散(再選挙)となる制度を採用する国もある<ref name="narita" />。 ; スウェーデン : 議会の議長が各会派の代表及び副議長と協議して議会に首相候補を提案する<ref name="narita" />。ただし、議会が首相候補の案を4度否決すると議会は解散される<ref name="narita" />。 ; ロシア : 大統領が首相候補を指名し、下院の同意を得て任命する<ref name="narita" />。ただし、下院が首相候補を3度続けて拒否すると議会は解散される<ref name="narita" />。 なお、このような制度化が行われていない場合でも、新政権が単独過半数にとどかなかった場合や新政権の樹立に失敗した場合に改めて解散総選挙(再選挙)が行われる例がある([[1974年2月イギリス総選挙]]後の[[1974年10月イギリス総選挙]]、[[2012年5月ギリシャ議会総選挙]]後の[[2012年6月ギリシャ議会総選挙]]など)。 == 各国の総選挙一覧 == {| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%; margin-right:0px;" |-style="white-space:nowrap;" !国名!!議会・議院の名称!!任期!!直近の総選挙実施日!!備考 |- |{{JPN}} |下院([[衆議院]]) |4年 |[[2021年]]{{Display none|10/31}}[[10月31日]] |[[第49回衆議院議員総選挙]] |- |{{GBR}} |下院([[庶民院 (イギリス)|庶民院]]) |5年 |[[2019年]]{{Display none|12/12}}[[12月12日]] |[[2019年イギリス総選挙]] |- |{{FRA}} |下院([[国民議会 (フランス)|国民議会]]) |5年 |2017年{{Display none|06/11}}[[6月11日]](第1回投票)<br />2017年[[6月18日]](第2回投票)<ref group="注釈">フランス下院の選挙制度は、第1回投票で有効投票総数の過半数を得た候補者がいない選挙区があった場合、1週間後に[[決選投票]]が行なわれる[[2回投票制]]を採用している。</ref> |[[2017年フランス議会総選挙]] |- |{{AUS}} |下院([[代議院 (オーストラリア)|代議院]]) |3年 |2019年{{Display none|05/18}}[[5月18日]] |[[2019年オーストラリア総選挙]] |- | style="white-space:nowrap;" |{{NZL}} |議会([[一院制]]) |3年 |[[2020年]]{{Display none|10/17}}[[10月17日]] |[[2020年ニュージーランド総選挙]] |- |{{ITA}} |下院([[代議院 (イタリア)|代議院]]) |5年 |[[2022年]]{{Display none|09/25}}[[9月25日]] |[[2022年イタリア総選挙]] |- |{{ESP}} |下院([[スペイン下院]]) |4年 |2019年{{Display none|12/20}}[[11月10日]] |[[2019年11月スペイン議会総選挙]] |- |{{POR}} |[[共和国議会 (ポルトガル)|共和国議会]](一院制) |4年 |2022年{{Display none|01/30}}[[1月30日]] | |- |{{NED}} |下院([[第二院 (オランダ)|第二院]]) |4年 |2021年{{Display none|03/17}}[[3月15日]]~[[3月17日]] |[[2021年オランダ総選挙]] |- |{{GRC}} |[[ギリシャ議会|議会]](一院制) |4年<!--http://www.ipu.org/parline-e/reports/2125_A.htm--> |2019年{{Display none|07/07}}[[7月7日]] | |- |{{IND}} | style="white-space:nowrap;" |下院([[ローク・サバー]]) |5年 |[[2019年]]{{Display none|04/07}}[[4月11日]]~[[5月19日]]<ref group="注釈">地域により選挙の日程が異なる。</ref> |[[2019年インド総選挙]] |- |{{AUT}} |下院([[国民議会 (オーストリア)|国民議会]]) |5年 |[[2019年]]{{Display none|09/29}}[[9月29日]] | |- |{{GER}} |[[ドイツ連邦議会]] |4年 |2021年{{Display none|09/26}}[[9月26日]] |[[2021年ドイツ連邦議会選挙]] |- |{{CAN}} |下院([[庶民院 (カナダ)|庶民院]]) |5年 |2021年{{Display none|09/20}}[[9月20日]] |[[2021年カナダ総選挙]] |- |{{KOR}} |[[国会 (大韓民国)|国会]](一院制) |4年 |[[2020年]]{{Display none|04/13}}[[4月15日]] |[[第21代総選挙 (大韓民国)|第21代総選挙]] |- |{{RUS}} |下院([[ドゥーマ]]) |4年 |2021年{{Display none|09/18}}[[9月17日]]~[[9月19日]] |[[2021年ロシア下院選挙]] |- |{{CAM}} |下院([[国民議会 (カンボジア)|国民議会]]) |5年 |2018年{{Display none|07/28}}[[7月29日]] | style="white-space:nowrap;" |[[2018年カンボジア国民議会選挙]] |- |{{VIE}} |[[国会 (ベトナム)|国会]](一院制) |5年 |2021年{{Display none|05/23}}[[5月23日]] | |- |{{PHL}} |下院([[代議院 (フィリピン)|代議院]]) |3年 |2022年{{Display none|05/09}}[[5月9日]] | |- |{{IDN}} |国民議会 |5年 |2019年{{Display none|04/17}}[[4月17日]] |[[2019年インドネシア総選挙]] |- |{{THA}} |下院([[人民代表院]]) |4年 |2019年{{Display none|03/24}}[[3月24日]] |[[2019年タイ総選挙]] |- |{{LAO}} |[[国民議会 (ラオス)|国民議会]](一院制) |5年 |2021年{{Display none|02/21}}[[2月21日]] | |- |{{ISR}} |[[クネセト]](一院制) |4年 |2021年{{Display none|03/23}}[[3月23日]] |[[第24回イスラエル議会総選挙]] |} :出典:[https://data.ipu.org/elections IPU PARLINE datebase on Parliamentary elections](2022年5月15日閲覧)。 {{節スタブ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[日本の選挙]] ** [[衆議院議員総選挙]] * [[イギリス総選挙|イギリス庶民院総選挙]] * [[投票日]] {{DEFAULTSORT:そうせんきよ}} [[Category:総選挙|*]]
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ルーシエン
ルーシエン・ティヌーヴィエル(Lúthien Tinúviel)は、J・R・R・トールキンの中つ国を舞台とした小説、『シルマリルの物語』の登場人物。 イルーヴァタールの子らのうち、もっとも美しいといわれるエルフの乙女。 人間であるベレンとの恋の成就のため、かれとともに冥王モルゴスの居城アングバンドに入り込み、シルマリルをひとつ持ち帰った。 別名のティヌーヴィエル(Tinúviel)は、シンダール語で「小夜啼鳥」、「薄暮の娘」を意味する。 父はシンダールの王シンゴル、母はマイアのメリアン。夫はバラヒアの息子ベレン。息子にディオルがいる。 『指輪物語』にも言及があり、「ルシエン・ティヌヴィエル」「ルシアン・ティヌヴィエル」と表記されている。 ルーシエンはエルフの王シンゴルとマイアのメリアンとの結びつきから生まれた、宵闇のような黒髪と灰色の目をもつ美しい姫だった。世界の創造にたずさわったアイヌアのうち、イルーヴァタールの子らと結ばれたのはメリアンだけであり、またどんな結びつきからであれ、アイヌアのうちで子をなしたのもかの女だけである。ルーシエンは母メリアンが持つ神秘の力を受け継ぎ、その歌によってモルゴスの副官サウロンとも渡り合い、冥王モルゴス自身にさえ術をかけることができた。 メリアンの魔法帯を潜り抜けたベレンは、森で踊るルーシエンと出会い一目ぼれし、二人の間には愛が芽生えた。しかし父シンゴルはベレンとの結婚を認めず、ベレンをシルマリルの一つを入手するという無謀な探索に送り出し亡き者にしようとし、後を追わぬようルーシエンを木の上の家に監禁した。 ルーシエンは伸ばした髪で編んだ網を使って脱出し、自身の魔法とヴァリノールの猟犬フアンの力に助けられ、道を阻むフェアノールの息子ケレゴルムとクルフィン、モルゴスの召使サウロン、モルゴス子飼いの巨狼カルハロス、はてはアングバンドの玉座のモルゴス自身と対決しそれらを退け、ベレンと二人で鉄の王冠からシルマリルの一つを取ることに成功した。しかし逃げる最中にシルマリルはベレンの片手ごとカルハロスに呑み込まれてしまう。 シンゴルはその功業を認め二人の結婚を許したが、シルマリルを呑み込んで暴れ続けていたカルハロスとの戦闘によってベレンは深手を負い、命を落とした。ルーシエンはベレンを追ってアマンのマンドスの館に到り、マンドスを説得し、イルーヴァタールに問うたマンウェよりベレンを忘れエルフとして世界が終るまで生き続けるか、ベレンとともに歩み人間として死ぬかの選択を与えられた。 ルーシエンは後者を選び、二人は再び現世によみがえり、そしてルーシエンはエルフでただ一人本当に死んだものとなってベレンとともに世界を去った。 ルーシエンはベレンと結ばれて、息子ディオルをなした。ディオルとニムロスの娘がエルウィングであり、かの女とエアレンディルの息子がエルロンドとエルロスである。エルロスは半エルフとして人間の運命を選び、ヌーメノールの王となった。かれからドゥーネダインの王家にマイアールとエルフの血が流れることとなった。『指輪物語』の登場人物、アラゴルンもその一人である。
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ルーシエン・ティヌーヴィエルは、J・R・R・トールキンの中つ国を舞台とした小説、『シルマリルの物語』の登場人物。 イルーヴァタールの子らのうち、もっとも美しいといわれるエルフの乙女。 人間であるベレンとの恋の成就のため、かれとともに冥王モルゴスの居城アングバンドに入り込み、シルマリルをひとつ持ち帰った。 別名のティヌーヴィエル(Tinúviel)は、シンダール語で「小夜啼鳥」、「薄暮の娘」を意味する。 父はシンダールの王シンゴル、母はマイアのメリアン。夫はバラヒアの息子ベレン。息子にディオルがいる。 『指輪物語』にも言及があり、「ルシエン・ティヌヴィエル」「ルシアン・ティヌヴィエル」と表記されている。
'''ルーシエン・ティヌーヴィエル'''('''{{ラテン翻字|sjn|Lúthien Tinúviel}}''')は、[[J・R・R・トールキン]]の[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]を舞台とした[[小説]]、『[[シルマリルの物語]]』の登場人物。 [[イルーヴァタールの子ら]]のうち、もっとも美しいといわれる[[エルフ (トールキン)|エルフ]]の乙女。 [[人間 (トールキン)|人間]]である[[ベレン (トールキン)|ベレン]]との恋の成就のため、かれとともに冥王[[モルゴス]]の居城[[アングバンド]]に入り込み、[[シルマリル]]をひとつ持ち帰った。 別名の'''ティヌーヴィエル'''('''{{ラテン翻字|sjn|Tinúviel}}''')は、[[シンダール語]]で「[[サヨナキドリ|小夜啼鳥]]」、「薄暮の娘」を意味する。 父は[[シンダール]]の王[[エルウェ|シンゴル]]、母は[[マイアール|マイア]]の[[メリアン (トールキン)|メリアン]]。夫は[[バラヒア]]の息子ベレン。息子に[[ディオル]]がいる。 『[[指輪物語]]』にも言及があり、「ルシエン・ティヌヴィエル」「ルシアン・ティヌヴィエル」と表記されている。 == マイアの娘 == ルーシエンはエルフの王シンゴルとマイアのメリアンとの結びつきから生まれた、宵闇のような黒髪と灰色の目をもつ美しい姫だった。世界の創造にたずさわった[[アイヌア]]のうち、イルーヴァタールの子らと結ばれたのはメリアンだけであり、またどんな結びつきからであれ、アイヌアのうちで子をなしたのもかの女だけである。ルーシエンは母メリアンが持つ神秘の力を受け継ぎ、その歌によってモルゴスの副官[[サウロン]]とも渡り合い、冥王モルゴス自身にさえ術をかけることができた。 == ただ一人死んだエルフ == [[メリアンの魔法帯]]を潜り抜けたベレンは、森で踊るルーシエンと出会い一目ぼれし、二人の間には愛が芽生えた。しかし父シンゴルはベレンとの結婚を認めず、ベレンを[[シルマリル]]の一つを入手するという無謀な探索に送り出し亡き者にしようとし、後を追わぬようルーシエンを木の上の家に監禁した。 ルーシエンは伸ばした髪で編んだ網を使って脱出し、自身の魔法とヴァリノールの猟犬フアンの力に助けられ、道を阻む[[フェアノールの息子たち|フェアノールの息子]][[ケレゴルム]]と[[クルフィン]]、モルゴスの召使サウロン、モルゴス子飼いの[[巨狼]]カルハロス、はては[[アングバンド]]の玉座のモルゴス自身と対決しそれらを退け、ベレンと二人で鉄の王冠からシルマリルの一つを取ることに成功した。しかし逃げる最中にシルマリルはベレンの片手ごとカルハロスに呑み込まれてしまう。 シンゴルはその功業を認め二人の結婚を許したが、シルマリルを呑み込んで暴れ続けていたカルハロスとの戦闘によってベレンは深手を負い、命を落とした。ルーシエンはベレンを追って[[アマン]]の[[マンドス]]の館に到り、マンドスを説得し、[[エル・イルーヴァタール|イルーヴァタール]]に問うた[[マンウェ]]よりベレンを忘れエルフとして世界が終るまで生き続けるか、ベレンとともに歩み人間として死ぬかの選択を与えられた。 ルーシエンは後者を選び、二人は再び現世によみがえり、そしてルーシエンはエルフでただ一人本当に死んだものとなってベレンとともに世界を去った。 === ルーシエンの子孫 === ルーシエンはベレンと結ばれて、息子ディオルをなした。ディオルと[[ニムロス]]の娘が[[エルウィング]]であり、かの女と[[エアレンディル]]の息子が[[エルロンド]]と[[エルロス]]である。エルロスは[[半エルフ]]として人間の運命を選び、[[ヌーメノール]]の王となった。かれから[[ドゥーネダイン]]の王家にマイアールとエルフの血が流れることとなった。『[[指輪物語]]』の登場人物、[[アラゴルン]]もその一人である。 == 家系図 == {{Elwe}} {{tolkienstub}} {{デフォルトソート:るうしえん}} [[Category:上のエルフの子供たち]] [[Category:灰色エルフ]] [[Category:シルマリルの物語]] [[de:Figuren in Tolkiens Welt#Lúthien Tinúviel]]
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イベリア半島
イベリア半島(イベリアはんとう、スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。 古代ギリシャ人が半島の先住民をイベレスと呼んだことがイベリア半島の名称の由来である。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域をイベリアと呼んだ。一方、イベリア半島を属州としたローマ人はこの地をヒスパニアと呼称したが、このラテン語に由来して現在の「スペイン」は「イスパニア」とも「エスパーニャ」とも呼ばれるようになった。 ヨーロッパの同緯度地域(南ヨーロッパ)にはイベリア半島、イタリア半島、バルカン半島という3つの大きな半島があり、この中でもっとも西にあるのがイベリア半島である。半島としての特徴は他の2つよりも強く、他の半島よりも標高が高く、海岸線は直線的である。アフリカ大陸とはわずかな距離で隔てられているのみであり、大西洋に面している点でも他の2つとは異なっている。イベリア半島はヨーロッパ大陸の南西端にあり、西側は大西洋に、東側は地中海に面している。さらに細かく見ると、北部は大西洋の一部であるビスケー湾に、東部は地中海の一部であるバレアレス海に面している。 南端はタリファ岬(北緯36度00分15秒 西経5度36分37秒 / 北緯36.00417度 西経5.61028度 / 36.00417; -5.61028)、北端はエスタカ・デ・バレス岬(北緯43度47分38秒 西経7度41分17秒 / 北緯43.79389度 西経7.68806度 / 43.79389; -7.68806)、西端はロカ岬 (北緯38度46分51秒 西経9度29分54秒 / 北緯38.78083度 西経9.49833度 / 38.78083; -9.49833)、東端はクレウス岬である。北緯44度線と北緯36度線、西経9度線と東経3度線の間に位置し、日本でいえば北端は札幌市、南端は東京都とほぼ同緯度である。東西は約1,100km、南北は約1,000kmである。ざっくりと言えばイベリア半島は八角形の形状を持ち、その形状は「雄牛の皮」に例えられる。これは古代ギリシアの地理学者であるストラボンが半島の形状を「球状の四角形」であるとして牛皮と比較したことに遡る。 半島の付け根には長さ435kmのピレネー山脈が広がり、3,000m級の峰々がイベリア半島とフランスを分けている。南西端はジブラルタル海峡がイベリア半島とアフリカ大陸を隔てており、海峡のもっとも狭い部分はわずか14kmである。17世紀にはフランス王ルイ14世が「ヨーロッパはピレネーで終わる」という言葉を残した。類似する表現に「ピレネーの向こうはアフリカである」「アフリカはピレネーに始まる」などがあり、いずれもヨーロッパ人がイベリア半島に対して抱いてきた異国趣味や優越感を表しているが、これらの言葉を初めて残したのが誰かは定かでない。イベリア半島はしばしば「文明の十字路」と呼ばれる。スペインの歴史学者ペドロ・ラインはイベリア半島を「辺縁ヨーロッパ」であるとした。 イベリア半島の面積は58万1,353kmであり、うち約21万kmは標高610-760mに広がるメセタと呼ばれる広大な台地である。メセタはセントラル山系によって北メセタと南メセタに分けられており、北メセタは平均標高700-800m、南メセタは平均標高600-700mである。 スペインがイベリア半島の総面積の84.7%を、ポルトガルが総面積の15.2%を占めており、残りのごくわずかな比率をアンドラ公国とイギリス領ジブラルタルが占めている。メセタは東から西に向かうにつれて緩やかに標高が低下し、ポルトガルのアレンテージョ地方では標高約200mである。周囲を標高2,000-3,000mの山脈に囲まれたメセタの存在によって、イベリア半島はイタリア半島やバルカン半島とは異なる大陸的特徴を有する。従来から半島の中心はマドリード都市圏南部のヘタフェであるとされている。半島の主要河川の大半はメセタに水源があり、山地にある標高の低い部分を突いて大西洋や地中海に向かって流れている。 イベリア半島の周囲全体の7/8は大西洋か地中海に面しており、海岸線長は4,118km(スペインが3,144km、ポルトガルが974km)であるとされる。最終氷期の最寒冷期(最盛期、LGM)には現在よりも115-120m水位が低く、この時期を最低値として現在まで約4,000年かけて徐々に水位を上昇させた。その際に沈降によって形成された大陸棚は今日でも海面下に残っている。大西洋側の大陸棚は決して広大ではなく、海底は大陸棚から急激に深度を深める。南北長が700kmに及ぶ大西洋の大陸棚は、沖合からわずか10-65kmまでの範囲と推定されている。500mの等深線が大陸棚の縁であり、大陸棚から離れると水深1,000mに落ち込む。イベリア半島の沿岸海域の海底地形は、石油掘削の過程で広く研究されている。ビスケー湾やイベリア半島西側の沖合には、水深4,800mのイベリア深海平原がある。 半島を取り巻く長い海岸線、地中海と大西洋の海流(カナリア海流・メキシコ湾流)によって、外部から他者を受け入れることが容易であり、またイベリア半島から他地域に移民するのにも都合がよかった。さらには、イベリア半島の沖合に存在するバレアレス諸島とカナリア諸島は、半島と他地域を繋ぐ中継地となった。海岸線の長さやピレネー山脈の存在から、イベリア半島は「ほとんど島国に等しい存在」とされることもある。 イベリア半島を流れる主要河川には、ミーニョ川、ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川、グアダルキビール川、セグラ川、フカル川、エブロ川などがある。ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川、グアダルキビール川、エブロ川はイベリア半島の5大河川と呼ばれ、地中海に注ぐエブロ川を除く4河川は大西洋に注いでいる。 イベリア半島でもっとも長い河川はタホ川/テージョ川である。大西洋に注ぐミーニョ川、ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川などは一部でスペインとポルトガルの自然的国境となっている。ビスケー湾に注ぐビダソア川は下流部でスペインとフランスの自然的国境となっている。ピレネー山中のフランス領土であるセルダーニュ・フランセーズ(英語版)を流れるセグラ川は、アンドラ公国の大部分を流域とするバリラ川(英語版)を集めた後にスペインでエブロ川に合流する、イベリア半島で唯一3か国を流れる河川である。 イベリア半島を流れる河川は激しい流れ・流量の少なさ・流量の不規則さなどを特徴としている。エスパーニャ・ベルデをビスケー湾に向かって流れる河川は相対的に季節的流量変動が少ないが、乾燥する地域を流れて地中海に注ぐ河川は相対的に流量変動が大きい。ガリシア地方を流れるミーニョ川は春季と夏季の流量差が3倍程度であるものの、大西洋に注ぐグアダルキビール川は15倍にのぼり、地中海に注ぐ河川はさらに大きな流量差となる。 流量の乏しさは降水量の少なさに起因するものであり、内陸部のメセタと海岸部を結ぶ航行可能な河川は存在しない。イギリスやフランスのように運河を建設して物資を輸送することもできず、モータリゼーションが進行した現代まで海岸部と内陸部の交流は乏しかった。近世まで、マドリードから北東岸のバルセロナまで約2週間、マドリードから南部のセビリアまで約10日間を要した。イベリア半島の主要河川に橋を架けることは困難であり、歴史的に諸地域の自然境界となった。タホ川/テージョ川のトレドからスペイン=ポルトガル国境まで(中下流域)の範囲には、近代まで4つの橋しか架けられなかった。グアダルキビール川のみは早くから河口から約85km地点に位置するセビリアまでの航行が可能であり、スペイン帝国はセビリアを大西洋貿易の独占港とした。コルドバも河川交通の要所として機能し、近代以前にはセビリアからコルドバまでの間に1つの橋も存在しなかった。1717年に新大陸との交易拠点が大西洋岸のカディスに移されると、グアダルキビール川沿岸都市の重要性は低下した。 メセタは西部を除いて高い山脈に囲まれており、北はカンタブリア山脈、南はシエラ・モレナ山脈に阻まれている。メセタ中央部にはセントラル山系があり、メセタ北部(旧カスティーリャ)とメセタ南部(新カスティーリャ)を隔てている。ポルトガルを除けば小規模な海岸平野しかないが、エブロ川流域にはエブロ平原が、グアダルキビール川流域にはグアダルキビール平原(アンダルシア平原)が、いずれも内陸にむかって長く伸びている。いずれも上流部を頂点とする楔形をしており、ほぼ同規模の低地であるが、カタルーニャ海岸山脈の存在によってエブロ平原は内陸性を有する。広大なメセタと小規模な海岸平野という地形的な特徴により、イベリア半島はしばしば「カスティーリャの広間と、それをとりまくいくつかの小部屋」に例えられる。 イベリア半島はとても山がちな地形であり、数多くの山系、山脈、山地、山塊、ピークが存在する。ピレネー山脈はヨーロッパ大陸とイベリア半島を隔てている。ピレネー山脈は西側より東側の標高が高く、最高峰はアネト山(3404m)である。ピレネー山脈中にはアンドラ公国やフランス領のセルダーニュ・フランセーズ(英語版)などがあり、これらの地域は学術的にイベリア半島に分類される。3,000m級の山々を擁するピレネー山脈は険しい山地であるものの、その両端部は歴史を通じて数多くの民族が行き来しており、山脈の西端にあるバスク地方と東端にあるカタルーニャ地方は山脈を挟んで広がりを見せている。中世にはカタルーニャ伯領が山脈の北側まで広がり、また近世にはナポレオン・ボナパルトなどが山脈の南側まで領土を拡大することを目指した。このため、古くからピレネー山脈がスペインとフランスの自然国境として認知されていたわけではなかった。 イベリア半島北部のビスケー湾岸には東西にカンタブリア山脈が連なり、ピコス・デ・エウロパ山塊のトーレ・セレード(2648m)を最高峰とする。カンタブリア山脈の北側と南側では気候が大きく異なり、ガリシア地方からバスク地方にかけての湿潤な北側はエスパーニャ・ベルデと呼ばれる。半島北西部にはガリシア山塊(英語版)があり、とても古い上に侵食の激しい岩石からなる。ガリシア山塊の最高峰は2127mのペナ・トレビンカである。 半島の中央部から東部にはイベリコ山系が伸びており、メセタとエブロ川流域の平原を隔てている。イベリコ山系はモンカヨ山塊やアルバラシン山地など多くの山脈で構成されており、標高2313mのモンカヨが最高峰である。大西洋に向かって流れるタホ川/テージョ川やドゥエロ川/ドウロ川、地中海に向かって流れるエブロ川の源流はイベリコ山系にある。 半島の中央部から西部には、東西に長く伸びるセントラル山系があり、東端部でイベリコ山系と接続している。グアダラマ山脈やグレドス山脈など数多くの山脈で構成されるセントラル山系はメセタの北部と南部を隔てており、西端部はスペイン=ポルトガル国境を超えてポルトガルに至っている。ポルトガルの最高峰はアゾレス諸島のピコ山だが、ポルトガルのイベリア半島部分の最高峰であるトーレ(1993m)はセントラル山系のエストレーラ山地に所在する。セントラル山系の最高峰はグレドス山脈にある標高2592mのアルマンソール峰である。イギリスの小説家ローリー・リーはセントラル山系について、「東西に伸びる城砦はスペインを横断し、住民を別々の人種に分けている」と書いた。 トレド山地は半島中央部から中西部にかけて国境を超えて伸びており、1603mのラ・ビリュエルカが山地の最高峰である。半島南西部にあるシエラ・モレナ山脈はグアディアナ川とグアダルキビール川の流域を隔てている。シエラ・モレナ山脈の最高峰は1332mのバニュエラである。ベティコ山系はイベリア半島の最南端部を西端とし、地中海岸のアリカンテ県まで東西に長く伸びている。ベティコ山系はプレベティコ山系、スブベィコ山系、ペニベティコ山系という3つの支山系に区分される。ペニベティコ山系はシエラネバダ山脈などを内包しており、シエラネバダ山脈にはイベリア半島最高峰、スペインのイベリア半島部分最高峰のムラセン山(3478m)がある。 イベリア半島の2/3以上は古生代に形成され、この時期にイベリア中央山塊、エブロ山塊、カタルーニャ=バレアレス山塊、ベティカ=リフ山塊などが生まれた。もっとも頑強な構造であるイベリア山塊(英語版)はヘルシニア造山運動によって形成されている。北東部はピレネー山脈の褶曲帯と結合しており、南東部ではベティコ山系と結合している。これらふたつのチェーンはいずれもアルプス・ベルト(英語版)の一部である。半島の西側はマグマに乏しい大西洋の開口部によって形成された大陸境界によって区切られている。ヘルシニア造山期の褶曲帯はほとんど中生代と第三期の岩石に埋もれているものの、東部のイベリコ山系とカタルーニャ海岸山脈を通じて露頭している。 地質は珪土層、石灰層、粘土層という三層からなる。珪土層は主に半島西部に広がり、ガリシア地方、ポルトガル北部、メセタなどに分布している。石灰層は主に半島東部に広がり、ピレネー山脈、カンタブリア山脈東部(バスク山脈)、イベリア山系、ベティコ山系などに分布している。粘土層は北メセタや南メセタの一部、エブロ川・グアダルキビール川・タホ川の各河川流域に分布している。 なおイベリア半島は古生物学的にも重要なポイントで、新旧の恐竜たちが混在する特異な環境だった。 イベリア半島の気候は地域によって大きく変化するが、カンタブリア山脈を境にして乾燥イベリアと湿潤イベリアの二つの地域にわけることができる。カンタブリア山脈以北の北西岸はエスパーニャ・ベルデと呼ばれる、年降水量は800-1,500mmの西岸海洋性気候であり、夏季は涼しく冬季は穏やかである。エスパーニャ・ベルデでもっとも降水量が多い季節は秋季であり、山岳地帯では年降水量が3,000mmに達する場所もある。 カンタブリア山脈以南の地域は乾燥イベリアと呼ばれ、年降水量は800mmに満たない地中海性気候である。夏季は乾燥し、特に内陸部では冬季は寒さが厳しい。乾燥イベリアで降水量が多い季節は春季と秋季であるが、山間部を除けば300-600mmの場所が多い。ラ・マンチャ(La Mancha)地方はアラビア語の「乾いた土地」(al mancha)に由来する。乾燥イベリアでは短期間に豪雨となって降ることが多く、河川の流量に大きな影響を与えることなく蒸発するため、南メセタには砂漠状の地形景観が見られる。乾燥イベリアの中でも地中海岸や大西洋沿岸では海洋の影響を受け、夏季の暑さは比較的酷くなく冬季は暖かい。しかし、ポルトガルの内陸部やスペインのメセタは大陸性の気候であり、夏季は暑く冬季は厳しい寒さとなる。ポルトガル南部やスペイン南部は極度に乾燥する。年降水量約200mmのアルメリア地方はイベリア半島でもっとも乾燥した場所であり、極度に乾燥するのはアフリカ大陸のサハラ砂漠からの季節風の影響を受けるためである。 スペインの内陸部にはヨーロッパでもっとも気温が高い場所があり、コルドバでは7月の日中の平均気温が摂氏約37度となる。スペインの地中海岸では夏季の日中の平均気温が摂氏約30度となるのが一般的である。これらの地域とは対照的に、半島北西部にあるガリシア地方のア・コルーニャでは、夏季の日中の平均気温は摂氏23度をわずかに下回る。涼しく湿度の高い夏季の気候は、半島北岸の大部分の地域に共通している。冬季の気温は夏季の気温より場所による差異が少ない。スペイン内陸部では冬季の降霜が一般的であるものの、日中の最高気温は摂氏0度を上回ることが多い。イベリア半島の最低気温記録はメセタ西部で記録した摂氏マイナス24度、最高気温記録はアンダルシア地方のセビリア県北東部で記録した摂氏45度である。 イベリア半島北部の山間部にはブナ、オーク、クリなどの森林が広がり、また草原や牧場が多く、トウモロコシやリンゴが栽培される。散居集落と零細土地所有制度が一般的である。地中海岸では斜面を開墾して段々畑が築かれることが多く、灌漑農業によって柑橘類が生産されている。柑橘類やオリーブ栽培の北限は地中海性気候の影響する北限と重なる。内陸部のメセタには小麦やブドウが生産されるものの生産性は低く、半島南部はオリーブや穀物が生産される。南部は大土地所有制度による粗放的農業が卓越しており、大半は集住集落となる。アンダルシア地方東部の沿岸部は亜熱帯性気候であり、サトウキビやバナナも栽培される。 現代のイベリア半島は政治的に以下の地域に区分される。主に政治的な要因によってスペインとポルトガルが分かれ、13世紀から二か国の国境はほとんど変わっていない。北端部ではドゥエロ川/ドウロ川が、南端部ではグアディアナ川が二か国の国境となっており、深い峡谷で両国が分断されている場所もある。両国の国境付近は人口希薄地帯であり、ポルトガルはイベリア半島の内陸部から切り離されている。スペイン北西部で話されているガリシア語とポルトガル語は中世まで同一言語であり、その後主に発音面で多少の差が生じたが、現在でも非常に似通っており、相互意思疎通が可能である。 1973年時点での土地利用を見ると、スペインは耕地40%、牧草地・森林・未利用地50%、その他10%であり、ポルトガルは耕地38%である。同時期には日本の耕地率が16%、デンマークが62%、イタリアが50%だった。スペインの農業収益性は低く、1973年時点ではフランスの1/3に過ぎなかった。 主要な農作物は小麦、大麦、ライ麦、トウモロコシ、コメ、ジャガイモ、ブドウ、オリーブ、オレンジ、イチジク、コルクガシなどである。イベリア半島は世界最大のコルク産地であり、概して小麦は半島南部で、トウモロコシは半島北部で、コメは半島中部で栽培されている。スペインは世界有数の柑橘類輸出国であり、オレンジ、マンダリン、レモンなどを生産している。1971-72年度には185万トンのオレンジ、38万トンのマンダリン、12万トンのレモン、7000トンのグレープフルーツを生産し、オレンジ生産量の60-65%、マンダリン生産量の80-90%が、特に欧州経済共同体(EEC)諸国に輸出した。特にバレンシア州の3県が柑橘類の主要な産地であり、競合相手はイスラエルとモロッコである。 1970年のスペインのコメの作付面積は6.5万ヘクタール(同年の日本は292万ヘクタール)、コメ生産量は40万トンであり、作付面積や生産量は少ないものの、面積あたりの収量は世界第3位だった。バレンシア県、セビリア県、タラゴナ県がスペインにおけるコメの三大産地であり、アルブフェーラ潟やエブロ川・デルタなどで栽培されている。 孤立した言語のバスク語を除いて、今日のイベリア半島で話されている言語の大半は俗ラテン語に起源を持つ。その歴史を通じて、イベリア半島では同時代に多くの言語が話されていたが、その多くは消滅したか使用されなくなった。バスク語はイベリア半島と西ヨーロッパに生き残っている唯一の非インド・ヨーロッパ語族の言語である。現代のイベリア半島では、約3,000-4,000万人がスペイン語を、約1,000万人がポルトガル語を、約900万人がカタルーニャ語(バレンシア州ではバレンシア語と呼ばれる)を、約300万人がガリシア語を、約100万人がバスク語を話す。この数字にはバイリンガルやトリリンガルの数字も含まれており、この5言語がイベリア半島で広く話されている言語である。スペイン語とポルトガル語はイベリア半島という枠を超えて世界中に拡大しており、世界言語となっている。 イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50-40万年前に溯る。これら最古の住人は原人類で、火を使い、石斧・石刃をはじめとする石器をつくり、洞窟に住んでいた。 1848年には半島南端のジブラルタル付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれもネアンデルタール人に属する。約20万年前頃にはすでにネアンデルタール人が活動しており、最終氷期までその活動は続いた。現生人類のホモ・サピエンスの活動は、この最終氷期に始まった。クロマニョン人がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。彼らが残した文化は、マドレーヌ文化と呼ばれる。日常の道具は、狩猟漁労の石刃・鑿・鏃・弓矢・石の銛・石槍などと釣り針などの骨角器が発明された。洞窟に住み、壁面や岩に牛や山羊などの動物を描いた。これらの遺跡はピレネー山脈を間に挟んで、南フランスのドルドーニュ地方と、北スペインのカンタブリア地方に分布する。これらは紀元前2万5000年から紀元前1万年までの間に描かれたと見られている。このうち代表的なものは約1万5,000年前のアルタミラ洞窟で、1879年に発見された。狩猟の成果を祈る呪術的な理由で壁画を描いたとされている。 なおこの頃のクロマニョン人はハプログループI2a (Y染色体)に属していたと考えられる。 約1万年前にウルム氷期が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。北部のピレネー山中で絵を描いた石を特徴とするアジル文化、カンタブリアから大西洋岸に貝塚を残したアストゥリアス文化、洞窟壁画などの遺跡が残っている。ちょうどその時期には、地中海東端のメソポタミアで農耕が始まっており、紀元前5000年から紀元前4000年紀にイベリア半島に伝播した。当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は新石器時代に入っていった。この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。とりわけ半島南部のアルメリアが農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。代表的な遺物に籠目(かごめ)模様の土器があり、アルメリア近辺、セビーリャからコルドバ付近、東部地中海沿岸、西はポルトガルのタホ川/テージョ川周辺、北はバスク地方にまで幅広く分布している。土器以外にはドルメン(支石墓)があり、この巨石文化は今もなお謎に包まれているが、一般に太陽崇拝や死者崇拝などの宗教的な遺物であると考えられている。南部のアンダルシア、北部のガリシア、ピレネー地方、南部のポルトガルに広がる。 イベリア半島に農耕と巨石文化をもたらしたのはハプログループG2a (Y染色体)と考えられ、先住のクロマニョン系ハプログループI2a (Y染色体)と共存していたようである。 新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝播してきたが、半島には鉱山資源が豊富にあるためやがて自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。アルメリア文化と呼ぶ。集団埋葬の墳墓から推定して、氏族社会であったと考えられている。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。代表的な遺跡名からエル・アルガール文化(英語版)(青銅器文化)と呼ぶ。この頃から籠や壺形の甕棺を用い、個人別に家屋の地下に埋葬された。この文化は半島全域に広がり、錫を産出する西部のガリシア地方とアルメリアの二大中心地が形成され、東部地中海地方や南部都市との交易も盛んになった。さらに大西洋を越えたブルターニュやアイルランドなどとの交易も盛んに行われた。紀元前1000年頃を境に、半島の青銅器文化は沈滞していった。しかし、青銅器時代に培った地中海文化圏やヨーロッパ先史文化圏との強い結びつきが、これ以後も引き続き諸民族と交流していく。 青銅器時代には、イベリア半島にインド・ヨーロッパ語族を話すハプログループR1b (Y染色体)に属す人々が到達した。 イベリア半島に最初に定住したのはイベリア人であり、その後断続的にケルト人がやってきて、次にフェニキア人やギリシア人などの地中海民族が植民市を建設した。紀元前3世紀にはローマ人が半島を征服し、約700年間の支配下でラテン語化が進行した。古代イベリア人が先住民を「イベレス」と呼んだのがイベリアの語源であるが、もともとはピレネー山脈南側の地域を漠然と指す単語だった。 ローマ人は(現在のポルトガルも含む)半島全土をヒスパニアと呼び、このラテン語名がスペイン(エスパーニャ)の由来となった。 ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが、550年代から約数十年間、南部が東ローマ帝国の支配下に置かれたことがある。東ローマ帝国は南部にスパニア属州を設置して支配し、ローマ帝国再建の足がかりにしようとしたが、最終的には西ゴート王国に征服され、その試みは失敗に終わっている。征服年に関しては624年、625年、628年、629年、634年以降の5つの説があり、確定していない。711年のウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードにより西ゴート王国は滅亡、イスラーム史上最初の世襲王朝であるウマイヤ朝が西ゴート王国に代わって半島を支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡し、後ウマイヤ朝を建てる。 イベリア半島北部においては、アラゴン王国やレオン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。一方、南部においては、1031年に後ウマイヤ朝が自滅し、多数のイスラーム系小王国(タイファ)が割拠する状態となった。後に、アフリカ大陸のイスラーム王朝であるムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれた。 次第に力をつけていったキリスト教国は、イスラーム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、1492年にはイベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラーム王朝は完全に駆逐された。 以降はスペイン王国とポルトガル王国がイベリア半島を支配することになった。スペイン王国はイスラーム教徒やユダヤ教徒に改宗を強要し、異端尋問をよりどころにして国家統合を進めた。ポルトガルもユダヤ教徒を弾圧してカトリックへの統合を進めており、半島の両国は対抗宗教改革の牙城となった。20世紀後半の両国に登場した独裁者であるサラザールとフランシスコ・フランコもまた、カトリックを国家理念とした統治を行っている。スペイン・ポルトガル両国による大航海時代の到来には、大西洋と北アフリカに近いイベリア半島の地理的位置が大きく影響しており、またレコンキスタを推し進めたエネルギーが半島外部に向かったとも言われている。中世の半島は様々な言語が話される他言語状況が生まれ、今日のスペインでも言語問題が残っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イベリア半島(イベリアはんとう、スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代ギリシャ人が半島の先住民をイベレスと呼んだことがイベリア半島の名称の由来である。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域をイベリアと呼んだ。一方、イベリア半島を属州としたローマ人はこの地をヒスパニアと呼称したが、このラテン語に由来して現在の「スペイン」は「イスパニア」とも「エスパーニャ」とも呼ばれるようになった。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの同緯度地域(南ヨーロッパ)にはイベリア半島、イタリア半島、バルカン半島という3つの大きな半島があり、この中でもっとも西にあるのがイベリア半島である。半島としての特徴は他の2つよりも強く、他の半島よりも標高が高く、海岸線は直線的である。アフリカ大陸とはわずかな距離で隔てられているのみであり、大西洋に面している点でも他の2つとは異なっている。イベリア半島はヨーロッパ大陸の南西端にあり、西側は大西洋に、東側は地中海に面している。さらに細かく見ると、北部は大西洋の一部であるビスケー湾に、東部は地中海の一部であるバレアレス海に面している。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "南端はタリファ岬(北緯36度00分15秒 西経5度36分37秒 / 北緯36.00417度 西経5.61028度 / 36.00417; -5.61028)、北端はエスタカ・デ・バレス岬(北緯43度47分38秒 西経7度41分17秒 / 北緯43.79389度 西経7.68806度 / 43.79389; -7.68806)、西端はロカ岬 (北緯38度46分51秒 西経9度29分54秒 / 北緯38.78083度 西経9.49833度 / 38.78083; -9.49833)、東端はクレウス岬である。北緯44度線と北緯36度線、西経9度線と東経3度線の間に位置し、日本でいえば北端は札幌市、南端は東京都とほぼ同緯度である。東西は約1,100km、南北は約1,000kmである。ざっくりと言えばイベリア半島は八角形の形状を持ち、その形状は「雄牛の皮」に例えられる。これは古代ギリシアの地理学者であるストラボンが半島の形状を「球状の四角形」であるとして牛皮と比較したことに遡る。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "半島の付け根には長さ435kmのピレネー山脈が広がり、3,000m級の峰々がイベリア半島とフランスを分けている。南西端はジブラルタル海峡がイベリア半島とアフリカ大陸を隔てており、海峡のもっとも狭い部分はわずか14kmである。17世紀にはフランス王ルイ14世が「ヨーロッパはピレネーで終わる」という言葉を残した。類似する表現に「ピレネーの向こうはアフリカである」「アフリカはピレネーに始まる」などがあり、いずれもヨーロッパ人がイベリア半島に対して抱いてきた異国趣味や優越感を表しているが、これらの言葉を初めて残したのが誰かは定かでない。イベリア半島はしばしば「文明の十字路」と呼ばれる。スペインの歴史学者ペドロ・ラインはイベリア半島を「辺縁ヨーロッパ」であるとした。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イベリア半島の面積は58万1,353kmであり、うち約21万kmは標高610-760mに広がるメセタと呼ばれる広大な台地である。メセタはセントラル山系によって北メセタと南メセタに分けられており、北メセタは平均標高700-800m、南メセタは平均標高600-700mである。 スペインがイベリア半島の総面積の84.7%を、ポルトガルが総面積の15.2%を占めており、残りのごくわずかな比率をアンドラ公国とイギリス領ジブラルタルが占めている。メセタは東から西に向かうにつれて緩やかに標高が低下し、ポルトガルのアレンテージョ地方では標高約200mである。周囲を標高2,000-3,000mの山脈に囲まれたメセタの存在によって、イベリア半島はイタリア半島やバルカン半島とは異なる大陸的特徴を有する。従来から半島の中心はマドリード都市圏南部のヘタフェであるとされている。半島の主要河川の大半はメセタに水源があり、山地にある標高の低い部分を突いて大西洋や地中海に向かって流れている。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イベリア半島の周囲全体の7/8は大西洋か地中海に面しており、海岸線長は4,118km(スペインが3,144km、ポルトガルが974km)であるとされる。最終氷期の最寒冷期(最盛期、LGM)には現在よりも115-120m水位が低く、この時期を最低値として現在まで約4,000年かけて徐々に水位を上昇させた。その際に沈降によって形成された大陸棚は今日でも海面下に残っている。大西洋側の大陸棚は決して広大ではなく、海底は大陸棚から急激に深度を深める。南北長が700kmに及ぶ大西洋の大陸棚は、沖合からわずか10-65kmまでの範囲と推定されている。500mの等深線が大陸棚の縁であり、大陸棚から離れると水深1,000mに落ち込む。イベリア半島の沿岸海域の海底地形は、石油掘削の過程で広く研究されている。ビスケー湾やイベリア半島西側の沖合には、水深4,800mのイベリア深海平原がある。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "半島を取り巻く長い海岸線、地中海と大西洋の海流(カナリア海流・メキシコ湾流)によって、外部から他者を受け入れることが容易であり、またイベリア半島から他地域に移民するのにも都合がよかった。さらには、イベリア半島の沖合に存在するバレアレス諸島とカナリア諸島は、半島と他地域を繋ぐ中継地となった。海岸線の長さやピレネー山脈の存在から、イベリア半島は「ほとんど島国に等しい存在」とされることもある。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "イベリア半島を流れる主要河川には、ミーニョ川、ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川、グアダルキビール川、セグラ川、フカル川、エブロ川などがある。ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川、グアダルキビール川、エブロ川はイベリア半島の5大河川と呼ばれ、地中海に注ぐエブロ川を除く4河川は大西洋に注いでいる。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イベリア半島でもっとも長い河川はタホ川/テージョ川である。大西洋に注ぐミーニョ川、ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川などは一部でスペインとポルトガルの自然的国境となっている。ビスケー湾に注ぐビダソア川は下流部でスペインとフランスの自然的国境となっている。ピレネー山中のフランス領土であるセルダーニュ・フランセーズ(英語版)を流れるセグラ川は、アンドラ公国の大部分を流域とするバリラ川(英語版)を集めた後にスペインでエブロ川に合流する、イベリア半島で唯一3か国を流れる河川である。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イベリア半島を流れる河川は激しい流れ・流量の少なさ・流量の不規則さなどを特徴としている。エスパーニャ・ベルデをビスケー湾に向かって流れる河川は相対的に季節的流量変動が少ないが、乾燥する地域を流れて地中海に注ぐ河川は相対的に流量変動が大きい。ガリシア地方を流れるミーニョ川は春季と夏季の流量差が3倍程度であるものの、大西洋に注ぐグアダルキビール川は15倍にのぼり、地中海に注ぐ河川はさらに大きな流量差となる。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "流量の乏しさは降水量の少なさに起因するものであり、内陸部のメセタと海岸部を結ぶ航行可能な河川は存在しない。イギリスやフランスのように運河を建設して物資を輸送することもできず、モータリゼーションが進行した現代まで海岸部と内陸部の交流は乏しかった。近世まで、マドリードから北東岸のバルセロナまで約2週間、マドリードから南部のセビリアまで約10日間を要した。イベリア半島の主要河川に橋を架けることは困難であり、歴史的に諸地域の自然境界となった。タホ川/テージョ川のトレドからスペイン=ポルトガル国境まで(中下流域)の範囲には、近代まで4つの橋しか架けられなかった。グアダルキビール川のみは早くから河口から約85km地点に位置するセビリアまでの航行が可能であり、スペイン帝国はセビリアを大西洋貿易の独占港とした。コルドバも河川交通の要所として機能し、近代以前にはセビリアからコルドバまでの間に1つの橋も存在しなかった。1717年に新大陸との交易拠点が大西洋岸のカディスに移されると、グアダルキビール川沿岸都市の重要性は低下した。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "メセタは西部を除いて高い山脈に囲まれており、北はカンタブリア山脈、南はシエラ・モレナ山脈に阻まれている。メセタ中央部にはセントラル山系があり、メセタ北部(旧カスティーリャ)とメセタ南部(新カスティーリャ)を隔てている。ポルトガルを除けば小規模な海岸平野しかないが、エブロ川流域にはエブロ平原が、グアダルキビール川流域にはグアダルキビール平原(アンダルシア平原)が、いずれも内陸にむかって長く伸びている。いずれも上流部を頂点とする楔形をしており、ほぼ同規模の低地であるが、カタルーニャ海岸山脈の存在によってエブロ平原は内陸性を有する。広大なメセタと小規模な海岸平野という地形的な特徴により、イベリア半島はしばしば「カスティーリャの広間と、それをとりまくいくつかの小部屋」に例えられる。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "イベリア半島はとても山がちな地形であり、数多くの山系、山脈、山地、山塊、ピークが存在する。ピレネー山脈はヨーロッパ大陸とイベリア半島を隔てている。ピレネー山脈は西側より東側の標高が高く、最高峰はアネト山(3404m)である。ピレネー山脈中にはアンドラ公国やフランス領のセルダーニュ・フランセーズ(英語版)などがあり、これらの地域は学術的にイベリア半島に分類される。3,000m級の山々を擁するピレネー山脈は険しい山地であるものの、その両端部は歴史を通じて数多くの民族が行き来しており、山脈の西端にあるバスク地方と東端にあるカタルーニャ地方は山脈を挟んで広がりを見せている。中世にはカタルーニャ伯領が山脈の北側まで広がり、また近世にはナポレオン・ボナパルトなどが山脈の南側まで領土を拡大することを目指した。このため、古くからピレネー山脈がスペインとフランスの自然国境として認知されていたわけではなかった。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イベリア半島北部のビスケー湾岸には東西にカンタブリア山脈が連なり、ピコス・デ・エウロパ山塊のトーレ・セレード(2648m)を最高峰とする。カンタブリア山脈の北側と南側では気候が大きく異なり、ガリシア地方からバスク地方にかけての湿潤な北側はエスパーニャ・ベルデと呼ばれる。半島北西部にはガリシア山塊(英語版)があり、とても古い上に侵食の激しい岩石からなる。ガリシア山塊の最高峰は2127mのペナ・トレビンカである。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "半島の中央部から東部にはイベリコ山系が伸びており、メセタとエブロ川流域の平原を隔てている。イベリコ山系はモンカヨ山塊やアルバラシン山地など多くの山脈で構成されており、標高2313mのモンカヨが最高峰である。大西洋に向かって流れるタホ川/テージョ川やドゥエロ川/ドウロ川、地中海に向かって流れるエブロ川の源流はイベリコ山系にある。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "半島の中央部から西部には、東西に長く伸びるセントラル山系があり、東端部でイベリコ山系と接続している。グアダラマ山脈やグレドス山脈など数多くの山脈で構成されるセントラル山系はメセタの北部と南部を隔てており、西端部はスペイン=ポルトガル国境を超えてポルトガルに至っている。ポルトガルの最高峰はアゾレス諸島のピコ山だが、ポルトガルのイベリア半島部分の最高峰であるトーレ(1993m)はセントラル山系のエストレーラ山地に所在する。セントラル山系の最高峰はグレドス山脈にある標高2592mのアルマンソール峰である。イギリスの小説家ローリー・リーはセントラル山系について、「東西に伸びる城砦はスペインを横断し、住民を別々の人種に分けている」と書いた。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "トレド山地は半島中央部から中西部にかけて国境を超えて伸びており、1603mのラ・ビリュエルカが山地の最高峰である。半島南西部にあるシエラ・モレナ山脈はグアディアナ川とグアダルキビール川の流域を隔てている。シエラ・モレナ山脈の最高峰は1332mのバニュエラである。ベティコ山系はイベリア半島の最南端部を西端とし、地中海岸のアリカンテ県まで東西に長く伸びている。ベティコ山系はプレベティコ山系、スブベィコ山系、ペニベティコ山系という3つの支山系に区分される。ペニベティコ山系はシエラネバダ山脈などを内包しており、シエラネバダ山脈にはイベリア半島最高峰、スペインのイベリア半島部分最高峰のムラセン山(3478m)がある。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イベリア半島の2/3以上は古生代に形成され、この時期にイベリア中央山塊、エブロ山塊、カタルーニャ=バレアレス山塊、ベティカ=リフ山塊などが生まれた。もっとも頑強な構造であるイベリア山塊(英語版)はヘルシニア造山運動によって形成されている。北東部はピレネー山脈の褶曲帯と結合しており、南東部ではベティコ山系と結合している。これらふたつのチェーンはいずれもアルプス・ベルト(英語版)の一部である。半島の西側はマグマに乏しい大西洋の開口部によって形成された大陸境界によって区切られている。ヘルシニア造山期の褶曲帯はほとんど中生代と第三期の岩石に埋もれているものの、東部のイベリコ山系とカタルーニャ海岸山脈を通じて露頭している。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "地質は珪土層、石灰層、粘土層という三層からなる。珪土層は主に半島西部に広がり、ガリシア地方、ポルトガル北部、メセタなどに分布している。石灰層は主に半島東部に広がり、ピレネー山脈、カンタブリア山脈東部(バスク山脈)、イベリア山系、ベティコ山系などに分布している。粘土層は北メセタや南メセタの一部、エブロ川・グアダルキビール川・タホ川の各河川流域に分布している。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なおイベリア半島は古生物学的にも重要なポイントで、新旧の恐竜たちが混在する特異な環境だった。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イベリア半島の気候は地域によって大きく変化するが、カンタブリア山脈を境にして乾燥イベリアと湿潤イベリアの二つの地域にわけることができる。カンタブリア山脈以北の北西岸はエスパーニャ・ベルデと呼ばれる、年降水量は800-1,500mmの西岸海洋性気候であり、夏季は涼しく冬季は穏やかである。エスパーニャ・ベルデでもっとも降水量が多い季節は秋季であり、山岳地帯では年降水量が3,000mmに達する場所もある。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "カンタブリア山脈以南の地域は乾燥イベリアと呼ばれ、年降水量は800mmに満たない地中海性気候である。夏季は乾燥し、特に内陸部では冬季は寒さが厳しい。乾燥イベリアで降水量が多い季節は春季と秋季であるが、山間部を除けば300-600mmの場所が多い。ラ・マンチャ(La Mancha)地方はアラビア語の「乾いた土地」(al mancha)に由来する。乾燥イベリアでは短期間に豪雨となって降ることが多く、河川の流量に大きな影響を与えることなく蒸発するため、南メセタには砂漠状の地形景観が見られる。乾燥イベリアの中でも地中海岸や大西洋沿岸では海洋の影響を受け、夏季の暑さは比較的酷くなく冬季は暖かい。しかし、ポルトガルの内陸部やスペインのメセタは大陸性の気候であり、夏季は暑く冬季は厳しい寒さとなる。ポルトガル南部やスペイン南部は極度に乾燥する。年降水量約200mmのアルメリア地方はイベリア半島でもっとも乾燥した場所であり、極度に乾燥するのはアフリカ大陸のサハラ砂漠からの季節風の影響を受けるためである。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スペインの内陸部にはヨーロッパでもっとも気温が高い場所があり、コルドバでは7月の日中の平均気温が摂氏約37度となる。スペインの地中海岸では夏季の日中の平均気温が摂氏約30度となるのが一般的である。これらの地域とは対照的に、半島北西部にあるガリシア地方のア・コルーニャでは、夏季の日中の平均気温は摂氏23度をわずかに下回る。涼しく湿度の高い夏季の気候は、半島北岸の大部分の地域に共通している。冬季の気温は夏季の気温より場所による差異が少ない。スペイン内陸部では冬季の降霜が一般的であるものの、日中の最高気温は摂氏0度を上回ることが多い。イベリア半島の最低気温記録はメセタ西部で記録した摂氏マイナス24度、最高気温記録はアンダルシア地方のセビリア県北東部で記録した摂氏45度である。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "イベリア半島北部の山間部にはブナ、オーク、クリなどの森林が広がり、また草原や牧場が多く、トウモロコシやリンゴが栽培される。散居集落と零細土地所有制度が一般的である。地中海岸では斜面を開墾して段々畑が築かれることが多く、灌漑農業によって柑橘類が生産されている。柑橘類やオリーブ栽培の北限は地中海性気候の影響する北限と重なる。内陸部のメセタには小麦やブドウが生産されるものの生産性は低く、半島南部はオリーブや穀物が生産される。南部は大土地所有制度による粗放的農業が卓越しており、大半は集住集落となる。アンダルシア地方東部の沿岸部は亜熱帯性気候であり、サトウキビやバナナも栽培される。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "現代のイベリア半島は政治的に以下の地域に区分される。主に政治的な要因によってスペインとポルトガルが分かれ、13世紀から二か国の国境はほとんど変わっていない。北端部ではドゥエロ川/ドウロ川が、南端部ではグアディアナ川が二か国の国境となっており、深い峡谷で両国が分断されている場所もある。両国の国境付近は人口希薄地帯であり、ポルトガルはイベリア半島の内陸部から切り離されている。スペイン北西部で話されているガリシア語とポルトガル語は中世まで同一言語であり、その後主に発音面で多少の差が生じたが、現在でも非常に似通っており、相互意思疎通が可能である。", "title": "人文地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1973年時点での土地利用を見ると、スペインは耕地40%、牧草地・森林・未利用地50%、その他10%であり、ポルトガルは耕地38%である。同時期には日本の耕地率が16%、デンマークが62%、イタリアが50%だった。スペインの農業収益性は低く、1973年時点ではフランスの1/3に過ぎなかった。", "title": "人文地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "主要な農作物は小麦、大麦、ライ麦、トウモロコシ、コメ、ジャガイモ、ブドウ、オリーブ、オレンジ、イチジク、コルクガシなどである。イベリア半島は世界最大のコルク産地であり、概して小麦は半島南部で、トウモロコシは半島北部で、コメは半島中部で栽培されている。スペインは世界有数の柑橘類輸出国であり、オレンジ、マンダリン、レモンなどを生産している。1971-72年度には185万トンのオレンジ、38万トンのマンダリン、12万トンのレモン、7000トンのグレープフルーツを生産し、オレンジ生産量の60-65%、マンダリン生産量の80-90%が、特に欧州経済共同体(EEC)諸国に輸出した。特にバレンシア州の3県が柑橘類の主要な産地であり、競合相手はイスラエルとモロッコである。", "title": "人文地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1970年のスペインのコメの作付面積は6.5万ヘクタール(同年の日本は292万ヘクタール)、コメ生産量は40万トンであり、作付面積や生産量は少ないものの、面積あたりの収量は世界第3位だった。バレンシア県、セビリア県、タラゴナ県がスペインにおけるコメの三大産地であり、アルブフェーラ潟やエブロ川・デルタなどで栽培されている。", "title": "人文地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "孤立した言語のバスク語を除いて、今日のイベリア半島で話されている言語の大半は俗ラテン語に起源を持つ。その歴史を通じて、イベリア半島では同時代に多くの言語が話されていたが、その多くは消滅したか使用されなくなった。バスク語はイベリア半島と西ヨーロッパに生き残っている唯一の非インド・ヨーロッパ語族の言語である。現代のイベリア半島では、約3,000-4,000万人がスペイン語を、約1,000万人がポルトガル語を、約900万人がカタルーニャ語(バレンシア州ではバレンシア語と呼ばれる)を、約300万人がガリシア語を、約100万人がバスク語を話す。この数字にはバイリンガルやトリリンガルの数字も含まれており、この5言語がイベリア半島で広く話されている言語である。スペイン語とポルトガル語はイベリア半島という枠を超えて世界中に拡大しており、世界言語となっている。", "title": "人文地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50-40万年前に溯る。これら最古の住人は原人類で、火を使い、石斧・石刃をはじめとする石器をつくり、洞窟に住んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1848年には半島南端のジブラルタル付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれもネアンデルタール人に属する。約20万年前頃にはすでにネアンデルタール人が活動しており、最終氷期までその活動は続いた。現生人類のホモ・サピエンスの活動は、この最終氷期に始まった。クロマニョン人がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。彼らが残した文化は、マドレーヌ文化と呼ばれる。日常の道具は、狩猟漁労の石刃・鑿・鏃・弓矢・石の銛・石槍などと釣り針などの骨角器が発明された。洞窟に住み、壁面や岩に牛や山羊などの動物を描いた。これらの遺跡はピレネー山脈を間に挟んで、南フランスのドルドーニュ地方と、北スペインのカンタブリア地方に分布する。これらは紀元前2万5000年から紀元前1万年までの間に描かれたと見られている。このうち代表的なものは約1万5,000年前のアルタミラ洞窟で、1879年に発見された。狩猟の成果を祈る呪術的な理由で壁画を描いたとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なおこの頃のクロマニョン人はハプログループI2a (Y染色体)に属していたと考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "約1万年前にウルム氷期が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。北部のピレネー山中で絵を描いた石を特徴とするアジル文化、カンタブリアから大西洋岸に貝塚を残したアストゥリアス文化、洞窟壁画などの遺跡が残っている。ちょうどその時期には、地中海東端のメソポタミアで農耕が始まっており、紀元前5000年から紀元前4000年紀にイベリア半島に伝播した。当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は新石器時代に入っていった。この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。とりわけ半島南部のアルメリアが農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。代表的な遺物に籠目(かごめ)模様の土器があり、アルメリア近辺、セビーリャからコルドバ付近、東部地中海沿岸、西はポルトガルのタホ川/テージョ川周辺、北はバスク地方にまで幅広く分布している。土器以外にはドルメン(支石墓)があり、この巨石文化は今もなお謎に包まれているが、一般に太陽崇拝や死者崇拝などの宗教的な遺物であると考えられている。南部のアンダルシア、北部のガリシア、ピレネー地方、南部のポルトガルに広がる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イベリア半島に農耕と巨石文化をもたらしたのはハプログループG2a (Y染色体)と考えられ、先住のクロマニョン系ハプログループI2a (Y染色体)と共存していたようである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝播してきたが、半島には鉱山資源が豊富にあるためやがて自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。アルメリア文化と呼ぶ。集団埋葬の墳墓から推定して、氏族社会であったと考えられている。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。代表的な遺跡名からエル・アルガール文化(英語版)(青銅器文化)と呼ぶ。この頃から籠や壺形の甕棺を用い、個人別に家屋の地下に埋葬された。この文化は半島全域に広がり、錫を産出する西部のガリシア地方とアルメリアの二大中心地が形成され、東部地中海地方や南部都市との交易も盛んになった。さらに大西洋を越えたブルターニュやアイルランドなどとの交易も盛んに行われた。紀元前1000年頃を境に、半島の青銅器文化は沈滞していった。しかし、青銅器時代に培った地中海文化圏やヨーロッパ先史文化圏との強い結びつきが、これ以後も引き続き諸民族と交流していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "青銅器時代には、イベリア半島にインド・ヨーロッパ語族を話すハプログループR1b (Y染色体)に属す人々が到達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イベリア半島に最初に定住したのはイベリア人であり、その後断続的にケルト人がやってきて、次にフェニキア人やギリシア人などの地中海民族が植民市を建設した。紀元前3世紀にはローマ人が半島を征服し、約700年間の支配下でラテン語化が進行した。古代イベリア人が先住民を「イベレス」と呼んだのがイベリアの語源であるが、もともとはピレネー山脈南側の地域を漠然と指す単語だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ローマ人は(現在のポルトガルも含む)半島全土をヒスパニアと呼び、このラテン語名がスペイン(エスパーニャ)の由来となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが、550年代から約数十年間、南部が東ローマ帝国の支配下に置かれたことがある。東ローマ帝国は南部にスパニア属州を設置して支配し、ローマ帝国再建の足がかりにしようとしたが、最終的には西ゴート王国に征服され、その試みは失敗に終わっている。征服年に関しては624年、625年、628年、629年、634年以降の5つの説があり、確定していない。711年のウマイヤ朝のターリク・イブン=ズィヤードにより西ゴート王国は滅亡、イスラーム史上最初の世襲王朝であるウマイヤ朝が西ゴート王国に代わって半島を支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡し、後ウマイヤ朝を建てる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イベリア半島北部においては、アラゴン王国やレオン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。一方、南部においては、1031年に後ウマイヤ朝が自滅し、多数のイスラーム系小王国(タイファ)が割拠する状態となった。後に、アフリカ大陸のイスラーム王朝であるムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "次第に力をつけていったキリスト教国は、イスラーム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、1492年にはイベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラーム王朝は完全に駆逐された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以降はスペイン王国とポルトガル王国がイベリア半島を支配することになった。スペイン王国はイスラーム教徒やユダヤ教徒に改宗を強要し、異端尋問をよりどころにして国家統合を進めた。ポルトガルもユダヤ教徒を弾圧してカトリックへの統合を進めており、半島の両国は対抗宗教改革の牙城となった。20世紀後半の両国に登場した独裁者であるサラザールとフランシスコ・フランコもまた、カトリックを国家理念とした統治を行っている。スペイン・ポルトガル両国による大航海時代の到来には、大西洋と北アフリカに近いイベリア半島の地理的位置が大きく影響しており、またレコンキスタを推し進めたエネルギーが半島外部に向かったとも言われている。中世の半島は様々な言語が話される他言語状況が生まれ、今日のスペインでも言語問題が残っている。", "title": "歴史" } ]
イベリア半島は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。
<!--This is a BC article--> {{Infobox peninsulas |name = イベリア半島 |local name = {{Collapsible list|framestyle=border:none; padding:0 |liststyle=text-align:center; |titlestyle=background:transparent; font-size:9pt; |title = {{resize|9pt|現地名}} |1 = {{native name|an|Peninsula Iberica}} |2 = {{native name|ast|Península Ibérica}} |3 = {{native name|eu|Iberiar penintsula}} |4 = {{native name|ca|Península Ibèrica}} |6 = {{native name|en|Iberian Peninsula}}<!-- official in Gibraltar --> |7 = {{native name|fr|Péninsule Ibérique}} |8 = {{native name|gl|Península Ibérica}} |9 = {{native name|mwl|Península Eibérica}} |10 = {{native name|oc|Peninsula Iberica}} |11 = {{native name|pt|Península Ibérica}} |12 = {{native name|es|Península ibérica}}}} |image name = España y Portugal.jpg |image caption = イベリア半島の衛星写真 |image size = 255px |image alt = |locator map = Iberia (orthographic projection).svg |location = 南西ヨーロッパ |coordinates = {{Coord|40|N|4|W|scale:10000000|display=inline,title}} |area_km2 = 581353 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{{Location map~|Spain|lat_deg=38|lat_min=46|lat_sec=49|lat_dir=N|lon_deg=09|lon_min=29|lon_sec=56|lon_dir=W|mark=Montanya.svg |label=[[ロカ岬]]}}}} === 範囲 === ヨーロッパの同緯度地域(南ヨーロッパ)にはイベリア半島、[[イタリア半島]]、[[バルカン半島]]という3つの大きな半島があり、この中でもっとも西にあるのがイベリア半島である{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}。半島としての特徴は他の2つよりも強く、他の半島よりも標高が高く、海岸線は直線的である{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}。アフリカ大陸とはわずかな距離で隔てられているのみであり、大西洋に面している点でも他の2つとは異なっている{{sfn|石田|1958|pp=286-287}}。イベリア半島はヨーロッパ大陸の南西端にあり、西側は[[大西洋]]に、東側は[[地中海]]に面している{{sfn|立石|2000|p=3}}{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}。さらに細かく見ると、北部は大西洋の一部である[[ビスケー湾]]に、東部は地中海の一部である[[バレアレス海]]に面している。 南端は[[タリファ岬]]({{Coord|36|00|15|N|5|36|37|W|display=inline}})、北端は[[エスタカ・デ・バレス岬]]({{Coord|43|47|38|N|7|41|17|W|display=inline}})、西端は[[ロカ岬]] ({{Coord|38|46|51|N|9|29|54|W|display=inline}})、東端は[[クレウス岬]]である。北緯44度線と北緯36度線、西経9度線と東経3度線の間に位置し、日本でいえば北端は[[札幌市]]、南端は[[東京都]]とほぼ同緯度である{{sfn|立石|2000|p=3}}。東西は約1,100km、南北は約1,000kmである{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}。ざっくりと言えばイベリア半島は[[八角形]]の形状を持ち、その形状は「雄牛の皮」に例えられる{{sfn|立石|2000|p=3}}。これは古代ギリシアの地理学者である[[ストラボン]]が半島の形状を「球状の四角形」であるとして牛皮と比較したことに遡る。 半島の付け根には長さ435kmの[[ピレネー山脈]]が広がり{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}、3,000m級の峰々がイベリア半島と[[フランス]]を分けている{{sfn|立石|2000|p=3}}。南西端は[[ジブラルタル海峡]]がイベリア半島と[[アフリカ大陸]]を隔てており、海峡のもっとも狭い部分はわずか14kmである{{sfn|立石|2000|p=3}}{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}。17世紀にはフランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が「ヨーロッパはピレネーで終わる」という言葉を残した{{sfn|木内|1979|p=212}}。類似する表現に「ピレネーの向こうはアフリカである」「アフリカはピレネーに始まる」などがあり、いずれもヨーロッパ人がイベリア半島に対して抱いてきた異国趣味や優越感を表しているが、これらの言葉を初めて残したのが誰かは定かでない{{sfn|立石|2000|p=4}}。イベリア半島はしばしば「文明の十字路」と呼ばれる{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}。スペインの歴史学者ペドロ・ラインはイベリア半島を「辺縁ヨーロッパ」であるとした{{sfn|木内|1979|p=212}}。 イベリア半島の面積は58万1,353km<sup>2</sup>であり{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}、うち約21万km<sup>2</sup>は{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}標高610-760mに広がる[[メセタ]]と呼ばれる広大な台地である<ref>{{Cite book|last=Fischer|first=T|year=1920|contribution=The Iberian Peninsula: Spain|editor-last=Mill|editor-first=Hugh Robert|title=The International Geography|publication-place=New York and London|publisher=D. Appleton and Company|pages=368–377|url=https://books.google.com/books?id=wyUbAAAAYAAJ&pg=PA368}}</ref>。メセタは[[セントラル山系]]によって北メセタと南メセタに分けられており、北メセタは平均標高700-800m、南メセタは平均標高600-700mである{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。 [[スペイン]]がイベリア半島の総面積の84.7%を、[[ポルトガル]]が総面積の15.2%を占めており、残りのごくわずかな比率を[[アンドラ|アンドラ公国]]とイギリス領[[ジブラルタル]]が占めている{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}}。メセタは東から西に向かうにつれて緩やかに標高が低下し、ポルトガルのアレンテージョ地方では標高約200mである{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。周囲を標高2,000-3,000mの山脈に囲まれたメセタの存在によって、イベリア半島はイタリア半島やバルカン半島とは異なる大陸的特徴を有する{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。従来から半島の中心はマドリード都市圏南部の[[ヘタフェ]]であるとされている。半島の主要河川の大半はメセタに水源があり、山地にある標高の低い部分を突いて大西洋や地中海に向かって流れている。 {{Quotation|イベリア半島は、アフリカとヨーロッパの、大西洋と地中海のあいだに位置する四つ辻、出会いの場である。たしかに、へんに起伏のある四つ辻であり、ほとんど障壁ともいえるものだ。だが、出会いの場であることには変わりはなかった。そこには、はるか昔から、さまざまな人間と文明が入りこみ、対立し合い、その痕跡を残している。|[[ピエール・ヴィラール]]{{sfn|立石|2000|pp=5-6}}}} === 海岸線 === イベリア半島の周囲全体の7/8は大西洋か地中海に面しており{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=12}}、海岸線長は4,118km{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}(スペインが3,144km、ポルトガルが974km{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=15}})であるとされる。[[最終氷期]]の[[最終氷期最寒冷期|最寒冷期]](最盛期、LGM)には現在よりも115-120m水位が低く、この時期を最低値として現在まで約4,000年かけて徐々に水位を上昇させた<ref>{{cite book|page=305|contribution=Evolution of groundwater systems at the European coastline|first=WM|last=Edmunds|author2=K Hinsby |author3=C Marlin |author4=MT Condesso de Melo |author5=M Manyano |author6=R Vaikmae |author7= Y Travi |title=Palaeowaters in Coastal Europe: Evolution of Groundwater Since the Late Pleistocene|editor1-first=W. M.|editor1-last=Edmunds|editor2-first=C. J.|editor2-last=Milne|publisher=Geological Society|year=2001|location=London|isbn=1-86239-086-X}}</ref>。その際に沈降によって形成された[[大陸棚]]は今日でも海面下に残っている。大西洋側の大陸棚は決して広大ではなく、海底は大陸棚から急激に深度を深める。南北長が700kmに及ぶ大西洋の大陸棚は、沖合からわずか10-65kmまでの範囲と推定されている。500mの等深線が大陸棚の縁であり、大陸棚から離れると水深1,000mに落ち込む<ref>{{Cite book| contribution=Iberian Peninsula – Atlantic Coast|title=An Atlas of Oceanic Internal Solitary Waves| date=February 2004|publisher=Global Ocean Associates|url=http://www.internalwaveatlas.com/Atlas2_PDF/IWAtlas2_Pg087_IberianPeninsula.pdf|format=pdf|accessdate=9 December 2008}}</ref>。イベリア半島の沿岸海域の海底地形は、石油掘削の過程で広く研究されている。ビスケー湾やイベリア半島西側の沖合には、水深4,800mのイベリア深海平原がある。 半島を取り巻く長い海岸線、地中海と大西洋の海流(カナリア海流・メキシコ湾流)によって、外部から他者を受け入れることが容易であり、またイベリア半島から他地域に移民するのにも都合がよかった{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}{{sfn|立石|2000|p=4}}。さらには、イベリア半島の沖合に存在する[[バレアレス諸島]]と[[カナリア諸島]]は、半島と他地域を繋ぐ中継地となった{{sfn|立石|2000|p=4}}。海岸線の長さやピレネー山脈の存在から、イベリア半島は「ほとんど島国に等しい存在」とされることもある{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=12}}。 === 河川 === {{see also|スペインの河川の一覧|:en:List_of_rivers_of_Portugal}} [[File:Iberian Peninsula w river names in JA.png|thumb|250px|イベリア半島の主要河川]] イベリア半島を流れる主要河川には、[[ミーニョ川]]、[[ドウロ川|ドゥエロ川/ドウロ川]]、[[タホ川|タホ川/テージョ川]]、[[グアディアナ川]]、[[グアダルキビール川]]、[[セグラ川]]、[[フカル川]]、[[エブロ川]]などがある。ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川、グアダルキビール川、エブロ川はイベリア半島の5大河川と呼ばれ{{sfn|立石|2000|p=6}}、地中海に注ぐエブロ川を除く4河川は大西洋に注いでいる{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=15}}。 イベリア半島でもっとも長い河川はタホ川/テージョ川である。大西洋に注ぐミーニョ川、ドゥエロ川/ドウロ川、タホ川/テージョ川、グアディアナ川などは一部でスペインとポルトガルの自然的国境となっている。ビスケー湾に注ぐ[[ビダソア川]]は下流部でスペインとフランスの自然的国境となっている。ピレネー山中のフランス領土である{{仮リンク|セルダーニュ・フランセーズ|en|French Cerdagne}}を流れるセグラ川は、アンドラ公国の大部分を流域とする{{仮リンク|バリラ川|en|Gran Valira}}を集めた後にスペインでエブロ川に合流する、イベリア半島で唯一3か国を流れる河川である。 イベリア半島を流れる河川は激しい流れ・流量の少なさ・流量の不規則さなどを特徴としている{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=8-10}}。[[エスパーニャ・ベルデ]]をビスケー湾に向かって流れる河川は相対的に季節的流量変動が少ないが、乾燥する地域を流れて地中海に注ぐ河川は相対的に流量変動が大きい{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=40-41}}。ガリシア地方を流れる[[ミーニョ川]]は春季と夏季の流量差が3倍程度であるものの、大西洋に注ぐグアダルキビール川は15倍にのぼり、地中海に注ぐ河川はさらに大きな流量差となる{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=40-41}}。 流量の乏しさは降水量の少なさに起因するものであり{{sfn|碇|2008|p=14}}、内陸部のメセタと海岸部を結ぶ航行可能な河川は存在しない{{sfn|立石|2000|p=6}}。イギリスやフランスのように運河を建設して物資を輸送することもできず{{sfn|碇|2008|p=14}}、モータリゼーションが進行した現代まで海岸部と内陸部の交流は乏しかった{{sfn|立石|2000|p=6}}。近世まで、マドリードから北東岸のバルセロナまで約2週間、マドリードから南部の[[セビリア]]まで約10日間を要した{{sfn|立石|2000|p=7}}。イベリア半島の主要河川に橋を架けることは困難であり、歴史的に諸地域の自然境界となった{{sfn|立石|2000|p=6}}。タホ川/テージョ川の[[トレド]]からスペイン=ポルトガル国境まで(中下流域)の範囲には、近代まで4つの橋しか架けられなかった{{sfn|立石|2000|p=6}}。グアダルキビール川のみは早くから河口から約85km地点に位置するセビリアまでの航行が可能であり、スペイン帝国はセビリアを大西洋貿易の独占港とした{{sfn|立石|2000|p=6}}。[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]も河川交通の要所として機能し、近代以前にはセビリアからコルドバまでの間に1つの橋も存在しなかった{{sfn|立石|2000|p=6}}。1717年に新大陸との交易拠点が大西洋岸の[[カディス]]に移されると、グアダルキビール川沿岸都市の重要性は低下した{{sfn|木内|1979|pp=214-216}}。 メセタは西部を除いて高い山脈に囲まれており、北はカンタブリア山脈、南はシエラ・モレナ山脈に阻まれている{{sfn|立石|2000|p=7}}。メセタ中央部にはセントラル山系があり、メセタ北部(旧カスティーリャ)とメセタ南部(新カスティーリャ)を隔てている{{sfn|立石|2000|p=7}}。ポルトガルを除けば小規模な海岸平野しかないが、エブロ川流域にはエブロ平原が、グアダルキビール川流域にはグアダルキビール平原(アンダルシア平原)が、いずれも内陸にむかって長く伸びている{{sfn|立石|2000|p=7}}。いずれも上流部を頂点とする楔形をしており、ほぼ同規模の低地であるが、カタルーニャ海岸山脈の存在によってエブロ平原は内陸性を有する{{sfn|石田|1958|pp=287-290}}。広大なメセタと小規模な海岸平野という地形的な特徴により、イベリア半島はしばしば「カスティーリャの広間と、それをとりまくいくつかの小部屋」に例えられる{{sfn|石田|1958|pp=287-290}}。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! colspan=4| イベリア半島の主要河川 |- ! 河川名 !! 全長<br>(km) !! 流域面積<br>(km<sup>2</sup>) !! 国 |- | [[エブロ川]] || align="right"|910 || align="right"|86,100 || スペイン、フランス(支流)、アンドラ(支流) |- | [[タホ川|タホ川/テージョ川]] || align="right"|1,007 || align="right"|80,600 || スペイン、ポルトガル |- | [[ドウロ川|ドゥエロ川/ドウロ川]] || align="right"|895 || align="right"|78,952 || スペイン、ポルトガル |- | [[グアディアナ川]] || align="right"|818 || align="right"|67,733 || スペイン、ポルトガル |- | [[グアダルキビール川]] || align="right"|657 || align="right"|57,101 || スペイン |- | [[フカル川]] || align="right"|498 || align="right"|21,578 || スペイン |- | [[セグラ川]] || align="right"|325 || align="right"|18,870 || スペイン |- | [[ミーニョ川]] || align="right"|315 || align="right"|16,275 || スペイン、ポルトガル |- |} === 山地 === {{Location map+|Spain|width=250|float=left|relief=yes|caption=イベリア半島の山|places= {{Location map~|Spain|lat_deg=42|lat_min=37|lat_sec=56|lat_dir=N|lon_deg=00|lon_min=39|lon_sec=28|lon_dir=E|mark=Montanya.svg|label=アネト|position=right}} {{Location map~|Spain|lat_deg=42|lat_min=40|lat_sec=26|lat_dir=N|lon_deg=00|lon_min=02|lon_sec=00|lon_dir=E|mark=Montanya.svg|label=モン・ペルデュ|position=top}} {{Location map~|Spain|lat_deg=43|lat_min=11|lat_sec=53|lat_dir=N|lon_deg=04|lon_min=51|lon_sec=04|lon_dir=W|mark=Montanya.svg |label=セレード|position=top}} {{Location map~|Spain|lat_deg=37|lat_min=03|lat_sec=12|lat_dir=N|lon_deg=03|lon_min=18|lon_sec=41|lon_dir=W|mark=Montanya.svg |label=ムラセン}} {{Location map~|Spain|lat_deg=40|lat_min=14|lat_sec=48|lat_dir=N|lon_deg=05|lon_min=17|lon_sec=52|lon_dir=W|mark=Montanya.svg |label=アルマンソール}} {{Location map~|Spain|lat_deg=41|lat_min=35|lat_sec=30|lat_dir=N|lon_deg=01|lon_min=50|lon_sec=16|lon_dir=E|mark=Montanya.svg |label=ムンサラット|position=bottom}} {{Location map~|Spain|lat_deg=41|lat_min=47|lat_sec=17|lat_dir=N|lon_deg=01|lon_min=50|lon_sec=18|lon_dir=W|mark=Montanya.svg |label=モンカヨ|position=left}} {{Location map~|Spain|lat_deg=40|lat_min=19|lat_sec=19|lat_dir=N|lon_deg=07|lon_min=36|lon_sec=46|lon_dir=W|mark=Montanya.svg |label=トーレ|position=bottom}}}} イベリア半島はとても山がちな地形であり、数多くの山系、山脈、山地、山塊、ピークが存在する。[[ピレネー山脈]]はヨーロッパ大陸とイベリア半島を隔てている。ピレネー山脈は西側より東側の標高が高く、最高峰は[[アネト山]](3404m)である。ピレネー山脈中にはアンドラ公国やフランス領の{{仮リンク|セルダーニュ・フランセーズ|en|French Cerdagne}}などがあり、これらの地域は学術的にイベリア半島に分類される。3,000m級の山々を擁するピレネー山脈は険しい山地であるものの、その両端部は歴史を通じて数多くの民族が行き来しており、山脈の西端にある[[バスク地方]]と東端にある[[カタルーニャ地方]]は山脈を挟んで広がりを見せている{{sfn|立石|2000|p=4}}。中世にはカタルーニャ伯領が山脈の北側まで広がり、また近世には[[ナポレオン・ボナパルト]]などが山脈の南側まで領土を拡大することを目指した{{sfn|立石|2000|p=4}}。このため、古くからピレネー山脈がスペインとフランスの自然国境として認知されていたわけではなかった{{sfn|立石|2000|p=4}}。 イベリア半島北部のビスケー湾岸には東西に[[カンタブリア山脈]]が連なり、[[ピコス・デ・エウロパ]]山塊の[[トーレ・セレード]](2648m)を最高峰とする。カンタブリア山脈の北側と南側では気候が大きく異なり、ガリシア地方からバスク地方にかけての湿潤な北側は[[エスパーニャ・ベルデ]]と呼ばれる。半島北西部には{{仮リンク|ガリシア山塊|en|Galician Massif}}があり、とても古い上に侵食の激しい岩石からなる<ref>{{cite web |url=http://digital.csic.es/handle/10261/30737 |title=Silurian graptolite biostratigraphy of the Galicia - Tras-os-Montes Zone (Spain and Portugal) |publisher=CSIC |accessdate=2016-01-12}}</ref>。ガリシア山塊の最高峰は2127mのペナ・トレビンカである。 半島の中央部から東部には[[イベリコ山系]]が伸びており、[[メセタ]]とエブロ川流域の平原を隔てている。イベリコ山系は[[モンカヨ|モンカヨ山塊]]やアルバラシン山地など多くの山脈で構成されており、標高2313mの[[モンカヨ]]が最高峰である。大西洋に向かって流れるタホ川/テージョ川やドゥエロ川/ドウロ川、地中海に向かって流れるエブロ川の源流はイベリコ山系にある。 半島の中央部から西部には、東西に長く伸びる[[セントラル山系]]があり、東端部でイベリコ山系と接続している{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|pp=13-15}}。[[グアダラマ山脈]]や[[グレドス山脈]]など数多くの山脈で構成されるセントラル山系はメセタの北部と南部を隔てており、西端部はスペイン=ポルトガル国境を超えてポルトガルに至っている。ポルトガルの最高峰は[[アゾレス諸島]]の[[ピコ山]]だが、ポルトガルのイベリア半島部分の最高峰であるトーレ(1993m)はセントラル山系のエストレーラ山地に所在する。セントラル山系の最高峰はグレドス山脈にある標高2592mのアルマンソール峰である。イギリスの小説家[[ローリー・リー]]はセントラル山系について、「東西に伸びる城砦はスペインを横断し、住民を別々の人種に分けている」と書いた{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|pp=13-15}}。 [[トレド山地]]は半島中央部から中西部にかけて国境を超えて伸びており、1603mのラ・ビリュエルカが山地の最高峰である。半島南西部にある[[シエラ・モレナ山脈]]はグアディアナ川とグアダルキビール川の流域を隔てている。シエラ・モレナ山脈の最高峰は1332mのバニュエラである。[[ベティコ山系]]はイベリア半島の最南端部を西端とし、地中海岸のアリカンテ県まで東西に長く伸びている。ベティコ山系はプレベティコ山系、スブベィコ山系、ペニベティコ山系という3つの支山系に区分される。ペニベティコ山系は[[シエラネバダ山脈 (スペイン)|シエラネバダ山脈]]などを内包しており、シエラネバダ山脈にはイベリア半島最高峰、スペインのイベリア半島部分最高峰の[[ムラセン山]](3478m)がある<ref>{{cite web |url=http://www.spanishnature.com/birds/63-general-information/12-introduction-to-the-birds-of-spain.html?ml=5&mlt=system&tmpl=component |title=Introduction to the Birds of Spain |publisher=Spanish Culture |accessdate=2016-01-12}}</ref>。 === 地質 === [[File:Geological units of the Iberian Peninsula EN.svg|thumb|250px|イベリア半島の主要な地質]] イベリア半島の2/3以上は[[古生代]]に形成され、この時期にイベリア中央山塊、エブロ山塊、カタルーニャ=バレアレス山塊、ベティカ=リフ山塊などが生まれた{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=14-15}}。もっとも頑強な構造である{{仮リンク|イベリア山塊|en|Iberian Massif}}は[[ヘルシニア造山運動]]によって形成されている{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=14-15}}。北東部はピレネー山脈の褶曲帯と結合しており、南東部では[[ベティコ山系]]と結合している。これらふたつのチェーンはいずれも{{仮リンク|アルプス・ベルト|en|Geology of the Alps}}の一部である。半島の西側はマグマに乏しい大西洋の開口部によって形成された大陸境界によって区切られている。ヘルシニア造山期の褶曲帯はほとんど中生代と第三期の岩石に埋もれているものの、東部の[[イベリコ山系]]と[[カタルーニャ海岸山脈]]を通じて露頭している。 地質は珪土層、石灰層、粘土層という三層からなる。珪土層は主に半島西部に広がり、ガリシア地方、ポルトガル北部、メセタなどに分布している{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=14-15}}。石灰層は主に半島東部に広がり、ピレネー山脈、カンタブリア山脈東部([[バスク山脈]])、イベリア山系、ベティコ山系などに分布している{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=14-15}}。粘土層は北メセタや南メセタの一部、エブロ川・グアダルキビール川・タホ川の各河川流域に分布している{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}{{sfn|サンチェス・スルロ|マニェロ|1980|pp=14-15}}。 なおイベリア半島は[[古生物学]]的にも重要なポイントで、新旧の[[恐竜]]たちが混在する特異な環境だった<ref>Dinosaurios de la Península Ibérica(Francisco Ortega:2006)</ref>。 === 気候 === [[File:Spain map of Köppen climate classification.svg|thumb|left|スペインにおけるケッペンの気候区分]] イベリア半島の気候は地域によって大きく変化するが{{sfn|立石|2000|p=8}}、[[カンタブリア山脈]]を境にして乾燥イベリアと湿潤イベリアの二つの地域にわけることができる{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。カンタブリア山脈以北の北西岸は[[エスパーニャ・ベルデ]]と呼ばれる、年降水量は800-1,500mmの[[西岸海洋性気候]]であり、夏季は涼しく冬季は穏やかである{{sfn|立石|2000|p=8}}。エスパーニャ・ベルデでもっとも降水量が多い季節は秋季であり、山岳地帯では年降水量が3,000mmに達する場所もある{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。 カンタブリア山脈以南の地域は乾燥イベリアと呼ばれ、年降水量は800mmに満たない[[地中海性気候]]である{{sfn|立石|2000|p=8}}。夏季は乾燥し、特に内陸部では冬季は寒さが厳しい{{sfn|立石|2000|p=8}}。乾燥イベリアで降水量が多い季節は春季と秋季であるが、山間部を除けば300-600mmの場所が多い{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。ラ・マンチャ(La Mancha)地方はアラビア語の「乾いた土地」(al mancha)に由来する{{sfn|木内|1979|pp=214-216}}。乾燥イベリアでは短期間に豪雨となって降ることが多く、河川の流量に大きな影響を与えることなく蒸発するため、南メセタには砂漠状の地形景観が見られる{{sfn|木内|1979|pp=214-216}}。乾燥イベリアの中でも地中海岸や大西洋沿岸では海洋の影響を受け、夏季の暑さは比較的酷くなく冬季は暖かい{{sfn|立石|2000|p=8}}。しかし、ポルトガルの内陸部やスペインのメセタは大陸性の気候であり、夏季は暑く冬季は厳しい寒さとなる{{sfn|立石|2000|p=8}}。ポルトガル南部やスペイン南部は極度に乾燥する{{sfn|立石|2000|p=8}}。年降水量約200mmのアルメリア地方はイベリア半島でもっとも乾燥した場所であり、極度に乾燥するのはアフリカ大陸の[[サハラ砂漠]]からの季節風の影響を受けるためである{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。 スペインの内陸部にはヨーロッパでもっとも気温が高い場所があり、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]では7月の日中の平均気温が摂氏約37度となる<ref>{{cite web |url=http://www.aemet.es/en/serviciosclimaticos/datosclimatologicos/valoresclimatologicos?l=5402&k=and |title=Standard climate values for Córdoba |publisher=スペイン気象庁(Aemet) |accessdate=7 March 2015}}</ref>。スペインの地中海岸では夏季の日中の平均気温が摂氏約30度となるのが一般的である。これらの地域とは対照的に、半島北西部にあるガリシア地方の[[ア・コルーニャ]]では、夏季の日中の平均気温は摂氏23度をわずかに下回る<ref>{{cite web |url=http://www.aemet.es/en/serviciosclimaticos/datosclimatologicos/valoresclimatologicos?l=1387&k=gal |title=Standard climate values for A Coruña |publisher=スペイン気象庁(Aemet) |accessdate=7 March 2015}}</ref>。涼しく湿度の高い夏季の気候は、半島北岸の大部分の地域に共通している。冬季の気温は夏季の気温より場所による差異が少ない。スペイン内陸部では冬季の降霜が一般的であるものの、日中の最高気温は摂氏0度を上回ることが多い。イベリア半島の最低気温記録はメセタ西部で記録した摂氏マイナス24度、最高気温記録はアンダルシア地方のセビリア県北東部で記録した摂氏45度である{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。 イベリア半島北部の山間部にはブナ、オーク、クリなどの森林が広がり、また草原や牧場が多く、トウモロコシやリンゴが栽培される{{sfn|立石|2000|p=8}}。散居集落と零細土地所有制度が一般的である{{sfn|立石|2000|p=8}}。地中海岸では斜面を開墾して段々畑が築かれることが多く、灌漑農業によって柑橘類が生産されている{{sfn|立石|2000|p=8}}。柑橘類やオリーブ栽培の北限は地中海性気候の影響する北限と重なる{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。内陸部のメセタには小麦やブドウが生産されるものの生産性は低く、半島南部はオリーブや穀物が生産される{{sfn|立石|2000|p=8}}。南部は大土地所有制度による粗放的農業が卓越しており、大半は集住集落となる{{sfn|立石|2000|p=9}}。アンダルシア地方東部の沿岸部は亜熱帯性気候であり、サトウキビやバナナも栽培される{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=42}}。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" ! colspan=7| イベリア半島主要地域の平均気温<ref name="Spanish Climate Normals or Averages">{{cite web |url=http://www.aemet.es/en/serviciosclimaticos/datosclimatologicos/valoresclimatologicos |title=Standard Climate Values, Spain |publisher=スペイン気象庁(Aemet) |accessdate=7 March 2015}}</ref><ref name="Portuguese Climate Averages">{{cite web |url=http://www.ipma.pt/en/oclima/normais.clima/ |title=IPMA Climate Normals |publisher=ポルトガル気象庁(IPMA) |accessdate=7 March 2015}}</ref> |- ! 都市 !! 分類 !! width=50| 最冷月 !! width=50| 4月 !! width=50| 最暖月 !! width=50| 10月 !! 気候帯 |- | rowspan=2| {{Flagicon|ESP}} [[ア・コルーニャ]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|13.5 || align="right"|16.2 || align="right"|22.8 || align="right"|19.1 || rowspan=2| [[西岸海洋性気候]](Cfb) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|8.0 || align="right"|9.9 || align="right"|16.4 || align="right"|13.0 |- | rowspan=2| {{Flagicon|ESP}} [[ビルバオ]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|13.2 || align="right"|16.8 || align="right"|25.5 || align="right"|20.8 || rowspan=2| [[西岸海洋性気候]](Cfb) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|4.7 || align="right"|7.1 || align="right"|15.2 || align="right"|10.8 |- | rowspan=2| {{Flagicon|POR}} [[ポルト]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|13.8 || align="right"|18.1 || align="right"|25.7 || align="right"|20.7 || rowspan=2| [[地中海性気候]](Csb) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|5.2 || align="right"|9.1 || align="right"|15.9 || align="right"|12.2 |- | rowspan=2| {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|13.6 || align="right"|18.0 ||align="right"| 28.5 || align="right"|22.1 || rowspan=2| [[地中海性気候]](Csa) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|4.7 || align="right"|9.4 || align="right"|20.2 || align="right"|13.5 |- | rowspan=2| {{Flagicon|ESP}} [[マドリード]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|9.8 || align="right"|18.2 || align="right"|32.1 || align="right"|19.4 || rowspan=2| [[地中海性気候]](Csa) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|2.7 || align="right"|7.7 || align="right"|19.0 || align="right"|10.7 |- | rowspan=2| {{Flagicon|POR}} [[リスボン]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|14.8 || align="right"|19.8 || align="right"|28.3 || align="right"|22.5 || rowspan=2| [[地中海性気候]](Csa) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|8.3 || align="right"|11.9 || align="right"|18.6 || align="right"|15.1 |- |rowspan=2| {{Flagicon|ESP}} [[セビリア]] || style="background-color:#FCC" | 最高気温 || align="right"|16.0 || align="right"|23.4 ||align="right"| 36.0 || align="right"|26.0 || rowspan=2| [[地中海性気候]](Csa) |- | style="background-color:#CFF" | 最低気温 || align="right"|5.7 || align="right"|11.1 || align="right"|20.3 || align="right"|14.4 |} == 人文地理 == === 国・領域 === {{Location map many | Spain | width = 250 | caption = イベリア半島における国・領域の位置 | lat1_deg = 40.40 | lon1_deg = -3.68 | label1 = スペイン | lat2_deg = 38.71 | lon2_deg = -9.14 | label2 = ポルトガル | lat3_deg = 42.50 | lon3_deg = 1.97 | label3 = フランス | pos3 = right | lat4_deg = 42.50 | lon4_deg = 1.52 | label4 = アンドラ公国 | lat5_deg = 36.14 | lon5_deg = -5.35 | label5 = ジブラルタル }} 現代のイベリア半島は政治的に以下の地域に区分される。主に政治的な要因によってスペインとポルトガルが分かれ、13世紀から二か国の国境はほとんど変わっていない{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=12}}。北端部では[[ドゥエロ川|ドゥエロ川/ドウロ川]]が、南端部では[[グアディアナ川]]が二か国の国境となっており、深い峡谷で両国が分断されている場所もある{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=12}}。両国の国境付近は人口希薄地帯であり、ポルトガルはイベリア半島の内陸部から切り離されている{{sfn|ヴィンセント|ストラドリング|1999|p=12}}。スペイン北西部で話されているガリシア語とポルトガル語は中世まで同一言語であり、その後主に発音面で多少の差が生じたが、現在でも非常に似通っており、相互意思疎通が可能である。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! colspan=5| イベリア半島の国・領域 |- ! 国(領域) !! 人口(人) !! 面積(km<sup>2</sup>) !! 面積比率 !! 備考 |- | {{Flagicon|ESP}} [[スペイン]] || align="right"|約4300万 || align="right"|493,519 || align="right"|84.7%{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}} || 人口はスペインの総人口から[[カナリア諸島]]や[[バレアレス諸島]]などの島嶼部を除外した人口。出典は[http://www.ine.es/prensa/np884.pdf スペイン国立統計局(INE)]。 |- | {{Flagicon|POR}} [[ポルトガル]] || align="right"|約1000万 || align="right"|89,261 || align="right"|15.2%{{sfn|池上|牛島|神吉|金七|2001|p=41}} || 人口はポルトガルの総人口から[[マデイラ諸島]]や[[アゾレス諸島]]などの島嶼部を除外した人口。出典は[http://www.ine.pt/xportal/xmain?xpid=INE&xpgid=ine_destaques&DESTAQUESdest_boui=211394338&DESTAQUESmodo=2 Census data] スペイン国立統計局(INE)]。 |- | {{Flagicon|FRA}} [[フランス]] || align="right"|12,035 || align="right"|540 || align="right"|約0.1% || ピレネー山中にある{{仮リンク|セルダーニュ・フランセーズ|en|French Cerdagne}}の人口。学術的にこの地域はイベリア半島に含まれる。 |- | {{Flagicon|AND}} [[アンドラ|アンドラ公国]] || align="right"|84,082 || align="right"|468 || align="right"|約0.1% || 学術的にピレネー山中にあるアンドラ公国はイベリア半島に含まれる。1993年に[[国際連合]]に加盟。 |- | {{Flagicon|Gibraltar}} 英領[[ジブラルタル]] || align="right"|29,431 || align="right"|7 || align="right"|約0.001% || イベリア半島南端部にある[[イギリスの海外領土]]。1713年からイギリス領。 |} === 主要都市圏 === {{Location map+|Spain|width=250|float=right|caption=イベリア半島の主要都市圏|places= {{Location map~|Spain|lat_deg=40|lat_min=25|lat_sec=08|lat_dir=N|lon_deg=03|lon_min=41|lon_sec=31|lon_dir=W|label=マドリード(1)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=41|lat_min=22|lat_sec=57|lat_dir=N|lon_deg=02|lon_min=10|lon_sec=37|lon_dir=E|label=バルセロナ(2)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=38|lat_min=42|lat_sec=50|lat_dir=N|lon_deg=09|lon_min=08|lon_sec=22|lon_dir=W|label=リスボン(3)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=39|lat_min=28|lat_sec=12|lat_dir=N|lon_deg=00|lon_min=22|lon_sec=36|lon_dir=W|label=バレンシア(4)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=41|lat_min=09|lat_sec=44|lat_dir=N|lon_deg=08|lon_min=37|lon_sec=19|lon_dir=W|label=ポルト(5)}}}} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! colspan=5| イベリア半島の都市圏人口(2015年)<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia World Urban Areas & Population Projections] 第11版(2015年版)</ref> |- ! colspan=2| 順位 !! rowspan=2| 都市圏 !! rowspan=2| 地域 !! rowspan=2| 都市圏人口 |- ! width=30| 半島 !! width=30| 世界 |- | align="center"|1 || align="center"|56 || {{Flagicon|ESP}} [[マドリード]]首都圏 || [[マドリード州]] || align="right"|6,171,000 |- | align="center"|2 || align="center"|83 || {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]都市圏 || [[カタルーニャ州]] || align="right"|4,693,000 |- | align="center"|3 || align="center"|166 || {{Flagicon|POR}} [[リスボン]]首都圏 || [[リスボン|リスボン地方]] || align="right"|2,666,000 |- | align="center"|4 || align="center"|315 || {{Flagicon|ESP}} [[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]都市圏 || [[バレンシア州]] || align="right"|1,561,000 |- | align="center"|5 || align="center"|333 || {{Flagicon|POR}} [[ポルト]]都市圏 || [[ノルテ (ポルトガル)|ノルテ地方]] || align="right"|1,474,000 |- | align="center"|6 || align="center"|444 || {{Flagicon|ESP}} [[セビリア]]都市圏 || [[アンダルシア州]] || align="right"|1,107,000 |- | align="center"|7 || align="center"|648 || {{Flagicon|ESP}} [[ビルバオ都市圏]] || [[バスク州]] || align="right"|756,000 |- | align="center"|8 || align="center"|679 || {{Flagicon|ESP}} [[サラゴサ]]都市圏 || [[アラゴン州]] || align="right"|723,000 |- | align="center"|9 || align="center"|685 || {{Flagicon|ESP}} [[マラガ]]都市圏 || [[アンダルシア州]] || align="right"|716,000 |} === 主要都市 === {{Location map+|Spain|width=250|float=right|caption=イベリア半島の主要都市|places= {{Location map~|Spain|lat_deg=40|lat_min=25|lat_sec=08|lat_dir=N|lon_deg=03|lon_min=41|lon_sec=31|lon_dir=W|label=マドリード(1)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=41|lat_min=22|lat_sec=57|lat_dir=N|lon_deg=02|lon_min=10|lon_sec=37|lon_dir=E|label=バルセロナ(2)|position=top}} {{Location map~|Spain|lat_deg=39|lat_min=28|lat_sec=12|lat_dir=N|lon_deg=00|lon_min=22|lon_sec=36|lon_dir=W|label=バレンシア(3)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=41|lat_min=39|lat_sec=00|lat_dir=N|lon_deg=00|lon_min=53|lon_sec=00|lon_dir=W|label=サラゴサ(4)|position=left}} {{Location map~|Spain|lat_deg=37|lat_min=22|lat_sec=38|lat_dir=N|lon_deg=05|lon_min=59|lon_sec=13|lon_dir=W|label=セビリア(5)|position=left}} {{Location map~|Spain|lat_deg=36|lat_min=43|lat_sec=10|lat_dir=N|lon_deg=04|lon_min=25|lon_sec=12|lon_dir=W|label=マラガ(6)|position=bottom}} {{Location map~|Spain|lat_deg=38|lat_min=42|lat_sec=50|lat_dir=N|lon_deg=09|lon_min=08|lon_sec=22|lon_dir=W|label=リスボン(7)}} {{Location map~|Spain|lat_deg=37|lat_min=59|lat_sec=10|lat_dir=N|lon_deg=01|lon_min=07|lon_sec=49|lon_dir=W|label=ムルシア(8)|position=bottom}} {{Location map~|Spain|lat_deg=43|lat_min=15|lat_sec=25|lat_dir=N|lon_deg=02|lon_min=55|lon_sec=25|lon_dir=W|label=ビルバオ(9)|position=top}} {{Location map~|Spain|lat_deg=38|lat_min=20|lat_sec=43|lat_dir=N|lon_deg=00|lon_min=28|lon_sec=59|lon_dir=W|label=アリカンテ(10)}}}} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- ! colspan=4| イベリア半島の都市人口(2011-12年) |- ! width=30| 順位 !!都市 !! 地域 !! 都市人口 |- | align="center"|1 || {{Flagicon|ESP}} [[マドリード]] || [[マドリード州]] || align="right"|3,233,527 |- | align="center"|2 || {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]] || [[カタルーニャ州]] || align="right"|1,620,943 |- | align="center"|3 || {{Flagicon|ESP}} [[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]||[[バレンシア州]] || align="right"|797,028 |- | align="center"|4 || {{Flagicon|ESP}} [[セビリア]] || [[アンダルシア州]] || align="right"|702,355 |- | align="center"|5 || {{Flagicon|ESP}} [[サラゴサ]] || [[アラゴン州]] || align="right"|679,624 |- | align="center"|6 || {{Flagicon|ESP}} [[マラガ]] || [[アンダルシア州]] || align="right"|567,433 |- | align="center"|7 || {{Flagicon|POR}} [[リスボン]] || [[リスボン|リスボン地域]] || align="right"|547,631 |- | align="center"|8 || {{Flagicon|ESP}} [[ムルシア]] || [[ムルシア州]] || align="right"|441,354 |- | align="center"|9 || {{Flagicon|ESP}} [[ビルバオ]] || [[バスク州]] || align="right"|351,629 |- | align="center"|10 || {{Flagicon|ESP}} [[アリカンテ]] || [[バレンシア州]] || align="right"|334,678 |- | align="center"|11 || {{Flagicon|ESP}} [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]] || [[アンダルシア州]] || align="right"|328,841 |- | align="center"|12 || {{Flagicon|ESP}} [[バリャドリッド]] || [[カスティーリャ・イ・レオン州]] || align="right"|311,501 |- | align="center"|13 || {{Flagicon|ESP}} [[ビーゴ]] || [[ガリシア州]] || align="right"|297,733 |- | align="center"|14 || {{Flagicon|POR}} [[ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア]] || [[ノルテ (ポルトガル)|ノルテ地方]] || align="right"|288,749 |- | align="center"|15 || {{Flagicon|ESP}} [[ヒホン]] || [[アストゥリアス州]] || align="right"|277,554 |- | align="center"|16 || {{Flagicon|ESP}} [[ルスピタレート・ダ・リュブラガート]] || [[カタルーニャ州]] || align="right"|257,057 |- | align="center"|17 || {{Flagicon|ESP}} [[ア・コルーニャ]] || [[ガリシア州]] || align="right"|246,146 |- | align="center"|18 || {{Flagicon|ESP}} [[ビトリア=ガステイス]] || [[バスク州]] || align="right"|242,223 |- | align="center"|19 || {{Flagicon|POR}} [[ポルト]] || [[ノルテ (ポルトガル)|ノルテ地方]] || align="right"|237,559 |- | align="center"|20 || {{Flagicon|ESP}} [[グラナダ]] || [[アンダルシア州]] || align="right"|239,017 |- |} === 土地利用 === 1973年時点での土地利用を見ると、スペインは耕地40%、牧草地・森林・未利用地50%、その他10%であり、ポルトガルは耕地38%である{{sfn|藤岡|1973|211-212}}。同時期には日本の耕地率が16%、デンマークが62%、イタリアが50%だった{{sfn|藤岡|1973|211-212}}。スペインの農業収益性は低く、1973年時点ではフランスの1/3に過ぎなかった{{sfn|藤岡|1973|211-212}}。 ==== 農業 ==== [[File:NASA photo of plasticulture, Campo de Dalías, Spain.jpg|thumb|left|アルメリア県のビニールハウス群「プラスティックの海」]] 主要な農作物は小麦、大麦、ライ麦、トウモロコシ、コメ、ジャガイモ、ブドウ、オリーブ、オレンジ、イチジク、[[コルクガシ]]などである{{sfn|藤岡|1973|211-212}}。イベリア半島は世界最大のコルク産地であり、概して小麦は半島南部で、トウモロコシは半島北部で、コメは半島中部で栽培されている{{sfn|藤岡|1973|211-212}}。スペインは世界有数の柑橘類輸出国であり、オレンジ、マンダリン、レモンなどを生産している{{sfn|藤岡|1973|212-214}}。1971-72年度には185万トンのオレンジ、38万トンのマンダリン、12万トンのレモン、7000トンのグレープフルーツを生産し、オレンジ生産量の60-65%、マンダリン生産量の80-90%が、特に[[欧州経済共同体]](EEC)諸国に輸出した{{sfn|藤岡|1973|212-214}}。特にバレンシア州の3県が柑橘類の主要な産地であり、競合相手はイスラエルとモロッコである{{sfn|藤岡|1973|212-214}}。 1970年のスペインのコメの作付面積は6.5万ヘクタール(同年の日本は292万ヘクタール)、コメ生産量は40万トンであり、作付面積や生産量は少ないものの、面積あたりの収量は世界第3位だった{{sfn|藤岡|1973|218-222}}。バレンシア県、セビリア県、タラゴナ県がスペインにおけるコメの三大産地であり、[[アルブフェーラ自然公園|アルブフェーラ潟]]や[[エブロ川]]・デルタなどで栽培されている{{sfn|藤岡|1973|218-222}}。 === 言語 === [[File:Linguistic map Southwestern Europe-en.gif|thumb|right|イベリア半島の言語の変遷]] [[孤立した言語]]の[[バスク語]]を除いて、今日のイベリア半島で話されている言語の大半は[[俗ラテン語]]に起源を持つ。その歴史を通じて、イベリア半島では同時代に多くの言語が話されていたが、その多くは消滅したか使用されなくなった。バスク語はイベリア半島と[[西ヨーロッパ]]に生き残っている唯一の非[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語である。現代のイベリア半島では、約3,000-4,000万人が[[スペイン語]]を、約1,000万人が[[ポルトガル語]]を、約900万人が[[カタルーニャ語]]([[バレンシア州]]では[[バレンシア語]]と呼ばれる)を、約300万人が[[ガリシア語]]を、約100万人がバスク語を話す<ref>[http://www.euskara.euskadi.eus/r59-738/es/contenidos/noticia/inkesta_soziol_2012/es_berria/berria.html El Gobierno Vasco ha presentado los resultados más destacados de la V. Encuesta Sociolingüística de la CAV, Navarra e Iparralde] Euskara, 2012年7月18日</ref>。この数字にはバイリンガルやトリリンガルの数字も含まれており、この5言語がイベリア半島で広く話されている言語である。スペイン語とポルトガル語はイベリア半島という枠を超えて世界中に拡大しており、[[世界言語]]となっている。 == 歴史 == === 先史時代 === ==== 旧石器時代 ==== イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50-40万年前に溯る。これら最古の住人は[[原人|原人類]]で、火を使い、石斧・石刃をはじめとする[[石器]]をつくり、洞窟に住んでいた。 1848年には半島南端の[[ジブラルタル]]付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれも[[ネアンデルタール人]]に属する。約20万年前頃にはすでにネアンデルタール人が活動しており、[[最終氷期]]までその活動は続いた。現生人類の[[ホモ・サピエンス]]の活動は、この[[最終氷期]]に始まった。[[クロマニョン人]]がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。彼らが残した文化は、[[マドレーヌ文化]]と呼ばれる。日常の道具は、狩猟漁労の石刃・鑿・鏃・弓矢・石の銛・石槍などと釣り針などの骨角器が発明された。洞窟に住み、壁面や岩に牛や山羊などの動物を描いた。これらの遺跡はピレネー山脈を間に挟んで、南フランスのドルドーニュ地方と、北スペインのカンタブリア地方に分布する。これらは紀元前2万5000年から紀元前1万年までの間に描かれたと見られている。このうち代表的なものは約1万5,000年前の[[アルタミラ洞窟]]で、1879年に発見された。狩猟の成果を祈る呪術的な理由で壁画を描いたとされている。 なおこの頃のクロマニョン人は[[ハプログループI (Y染色体)|ハプログループI2a (Y染色体)]]に属していたと考えられる<ref>Eppie R. Jones, Gloria Gonzalez-Fortes, Sarah Connell, Veronika Siska, Anders Eriksson, Rui Martiniano, Russell L. McLaughlin, Marcos Gallego Llorente, Lara M. Cassidy, Cristina Gamba, Tengiz Meshveliani, Ofer Bar-Yosef, Werner Müller, Anna Belfer-Cohen, Zinovi Matskevich, Nino Jakeli, Thomas F. G. Higham, Mathias Currat, David Lordkipanidze, Michael Hofreiter et al.(2015) [http://www.nature.com/ncomms/2015/151116/ncomms9912/full/ncomms9912.html Upper Palaeolithic genomes reveal deep roots of modern Eurasians] Nature Communications 6, Article number: 8912 doi:10.1038/ncomms9912</ref>。 ==== 新石器時代 ==== 約1万年前にウルム氷期が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。北部のピレネー山中で絵を描いた石を特徴とするアジル文化、カンタブリアから大西洋岸に貝塚を残したアストゥリアス文化、洞窟壁画などの遺跡が残っている。ちょうどその時期には、地中海東端の[[メソポタミア]]で[[農耕]]が始まっており、紀元前5000年から紀元前4000年紀にイベリア半島に伝播した。当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は[[新石器時代]]に入っていった。この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。とりわけ半島南部の[[アルメリア]]が農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。代表的な遺物に籠目(かごめ)模様の[[土器]]があり、アルメリア近辺、セビーリャからコルドバ付近、東部地中海沿岸、西はポルトガルのタホ川/テージョ川周辺、北は[[バスク地方]]にまで幅広く分布している。土器以外には[[ドルメン]](支石墓)があり、この[[巨石文化]]は今もなお謎に包まれているが、一般に太陽崇拝や死者崇拝などの宗教的な遺物であると考えられている。南部のアンダルシア、北部のガリシア、ピレネー地方、南部のポルトガルに広がる。 イベリア半島に農耕と巨石文化をもたらしたのは[[ハプログループG (Y染色体)|ハプログループG2a (Y染色体)]]と考えられ<ref>[http://www.eupedia.com/europe/ancient_european_dna.shtml#Neolithic Eupedia1]</ref><ref>[http://www.eupedia.com/genetics/britain_ireland_dna.shtml Eupedia2]</ref>、先住のクロマニョン系[[ハプログループI (Y染色体)|ハプログループI2a (Y染色体)]]と共存していたようである<ref name=A>View ORCID ProfileRui Martiniano, Lara M. Cassidy, Ros O'Maolduin, Russell McLaughlin, Nuno M. Silva, Licinio Manco, Daniel Fidalgo, Tania Pereira, Maria J. Coelho, Miguel Serra, Joachim Burger, Rui Parreira, Elena Moran, Antonio Valera, Eduardo Porfirio, Rui Boaventura, Ana M. Silva, Daniel G. Bradley(2017);[http://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2017/05/10/134254.full.pdf The Population Genomics Of Archaeological Transition In West Iberia];bioRxiv</ref>。 ==== 青銅器時代 ==== 新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝播してきたが、半島には鉱山資源が豊富にあるためやがて自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。アルメリア文化と呼ぶ。集団埋葬の墳墓から推定して、[[氏族|氏族社会]]であったと考えられている。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。代表的な遺跡名から{{仮リンク|エル・アルガール文化|en|El Argar}}([[青銅器文化]])と呼ぶ。この頃から籠や壺形の[[甕棺]]を用い、個人別に家屋の地下に埋葬された。この文化は半島全域に広がり、錫を産出する西部のガリシア地方とアルメリアの二大中心地が形成され、東部地中海地方や南部都市との交易も盛んになった。さらに大西洋を越えたブルターニュやアイルランドなどとの交易も盛んに行われた。紀元前1000年頃を境に、半島の青銅器文化は沈滞していった。しかし、青銅器時代に培った地中海文化圏やヨーロッパ先史文化圏との強い結びつきが、これ以後も引き続き諸民族と交流していく。 青銅器時代には、イベリア半島にインド・ヨーロッパ語族を話す[[ハプログループR1b (Y染色体)]]に属す人々が到達した<ref name=A/>。 === 古代 === イベリア半島に最初に定住したのはイベリア人であり、その後断続的にケルト人がやってきて、次にフェニキア人やギリシア人などの地中海民族が植民市を建設した{{sfn|立石|2000|p=9}}。紀元前3世紀にはローマ人が半島を征服し、約700年間の支配下でラテン語化が進行した{{sfn|立石|2000|p=9}}。古代イベリア人が先住民を「イベレス」と呼んだのがイベリアの語源であるが、もともとはピレネー山脈南側の地域を漠然と指す単語だった{{sfn|立石|2000|p=9}}。 === ローマ帝国支配下 === ローマ人は(現在のポルトガルも含む)半島全土をヒスパニアと呼び、このラテン語名がスペイン(エスパーニャ)の由来となった{{sfn|立石|2000|p=10}}。 === イスラーム支配下 === {{main|アンダルス}} ローマ帝国滅亡後は[[ゲルマン]]系の[[西ゴート王国]]の支配下に置かれるが、[[550年]]代<ref group="注釈">早くて[[551年]]、遅くとも[[554年]]という説が唱えられている。</ref>から約数十年間、南部が[[東ローマ帝国]]の支配下に置かれたことがある。東ローマ帝国は南部にスパニア属州を設置して支配し、ローマ帝国再建の足がかりにしようとしたが、最終的には西ゴート王国に征服され、その試みは失敗に終わっている。征服年に関しては[[624年]]、[[625年]]、[[628年]]、[[629年]]、[[634年]]以降の5つの説があり、確定していない。711年の[[ウマイヤ朝]]の[[ターリク・イブン=ズィヤード]]により西ゴート王国は滅亡、イスラーム史上最初の世襲王朝であるウマイヤ朝が西ゴート王国に代わって半島を支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡し、[[後ウマイヤ朝]]を建てる。 === レコンキスタから現代まで === イベリア半島北部においては、[[アラゴン王国]]や[[レオン王国]]、[[カスティーリャ王国]]、[[ポルトガル王国]]などのキリスト教国が建国され、[[レコンキスタ]]を推し進めていった。一方、南部においては、1031年に後ウマイヤ朝が自滅し、多数のイスラーム系小王国([[タイファ]])が割拠する状態となった。後に、アフリカ大陸のイスラーム王朝である[[ムラービト朝]]、その後[[ムワッヒド朝]]の支配下に置かれた。 次第に力をつけていったキリスト教国は、イスラーム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年には[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]と[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]の結婚により[[スペイン|スペイン王国]]が成立、レコンキスタに拍車がかかり、1492年にはイベリア半島最後のイスラーム王朝である[[ナスル朝]]が滅ぼされ、イベリア半島からイスラーム王朝は完全に駆逐された。 以降はスペイン王国と[[ポルトガル王国]]がイベリア半島を支配することになった。スペイン王国はイスラーム教徒やユダヤ教徒に改宗を強要し、異端尋問をよりどころにして国家統合を進めた{{sfn|立石|2000|pp=14-15}}。ポルトガルもユダヤ教徒を弾圧してカトリックへの統合を進めており、半島の両国は対抗宗教改革の牙城となった{{sfn|立石|2000|pp=14-15}}。20世紀後半の両国に登場した独裁者である[[アントニオ・サラザール|サラザール]]と[[フランシスコ・フランコ]]もまた、カトリックを国家理念とした統治を行っている{{sfn|立石|2000|p=15}}。スペイン・ポルトガル両国による大航海時代の到来には、大西洋と北アフリカに近いイベリア半島の地理的位置が大きく影響しており、またレコンキスタを推し進めたエネルギーが半島外部に向かったとも言われている{{sfn|立石|2000|p=15}}。中世の半島は様々な言語が話される他言語状況が生まれ、今日のスペインでも言語問題が残っている{{sfn|立石|2000|p=13}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |last=碇 |first=順治 |title=スペイン |publisher=河出書房新社 |series=ヨーロッパ読本 |year=2008 |others= |isbn= |ref=harv }} <!--* {{cite book|和書 |last=石田 |first=龍次郎 |title=南歐・東歐 |publisher=河出書房 |series=世界地理 |year=1940 |others= |isbn= |ref=harv }}--> <!--* {{cite book|和書 |last=石田 |first=龍次郎 |last2=渡邊 |first2=光 |title=南歐圏 |publisher=河出書房 |series=世界地理大系 |year=1952 |others= |isbn= |ref=harv }}--> * {{cite book|和書 |last=石田 |first=龍次郎 |title=ヨーロッパ(1) |publisher=古今書院 |series=現代地理学体系 |year=1958 |others= |isbn= |ref=harv }} * {{cite book|和書 |last=池上 |first=岑夫 |last2=牛島 |first2=信明 |last3=神吉 |first3=敬三 |last4=金七 |first4=紀男 |title=新版増補 スペイン・ポルトガルを知る事典 |publisher=平凡社 |year=2001 |others=その他の編者は小林一宏、フアン・ソペーニャ、浜田滋郎、渡部哲郎 |isbn= |ref=harv }} * {{cite book|和書 |last=ヴィンセント |first=メアリ |last2=ストラドリング |first2=ロバート・A |title=スペイン・ポルトガル |publisher=朝倉書店 |series=図説 世界文化地理大百科 |year=1999 |others=小林一宏(監修)、瀧本佳容子(訳) |isbn= |ref=harv }} * {{cite book|和書 |last=木内 |first=信蔵 |title=ヨーロッパⅠ |publisher=朝倉書店 |series=世界地理 |year=1979 |others= |isbn= |ref=harv }} <!--* {{cite book|和書 |last=後藤 |first=茂樹 |title=イタリア及地中海地方 |publisher=河出書房 |series=世界写真地理全集 |year=1955 |others= |isbn= |ref=harv }}--> * {{cite book|和書 |last=サンチェス・スルロ |first=ドミンゴ・J |last2=マニェロ |first2=マリアーノ |title=スペイン その国土と人々 |publisher=帝国書院 |series=全訳 世界の地理教科書シリーズ |year=1980 |others=[[岡津守彦]]、[[榊原康男]]、[[佐藤久]]、[[西川治]](監修)、[[福井嗣子]](訳) |isbn= |ref=harv }} * {{cite book|和書 |last=立石 |first=博高 |title=スペイン・ポルトガル史 |publisher=山川出版社 |series=新版 世界各国史 |year=2000 |others= |isbn=4-634-41460-0 |ref=harv }} * {{cite book|和書 |last=藤岡 |first=謙二郎 |title=ヨーロッパ |publisher=大明堂 |series=世界地誌ゼミナール |year=1973 |others= |isbn= |ref=harv }} == 関連項目 == {{Commonscat|Iberian Peninsula}} *[[イベリスモ]] : スペインとポルトガルの統合思想 *[[イベロアメリカ]] {{authority control}} {{DEFAULTSORT:いへりあはんとう}} [[Category:イベリア半島|*]] [[Category:ヨーロッパの半島]] [[Category:スペインの地形]] [[Category:ポルトガルの地形]] [[Category:ヨーロッパの地域]]
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1123年
1123年(1123 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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