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RAW画像
RAW画像(ローがぞう、英: Raw image format)は、デジタルカメラなどにおける完成状態にされていない画像データのことである。英語でRawは「生」「未加工」を意味するものの、未加工ではない画像データをRAW画像と称していることもあり注意を要する。 かつてはいわゆるベタ画像のことを指すこともあったが、2000年代に入ってからはデジタルカメラやイメージスキャナ等における「未現像」データのことを指す場合が多い。 デジタル一眼レフカメラやミラーレス一眼カメラ、コンパクトデジタルカメラ、一部のスマートフォンなどのデジタルカメラで記録可能な画像形式。デジタルカメラでは一般的に「写真」としてJPEG画像を生成するが、RAW画像はJPEG画像を生成する元となる「生」の画像データである。ある程度の写真知識がある(プロフェッショナル、ハイアマチュアなど)ユーザーが、露出、コントラスト、ホワイトバランス、カラーバランス、明度、彩度などの補正や加工、ノイズや歪曲など除去をパソコン上で思い通りに行ないたいという要望に応え、カメラメーカーが用意している機能のひとつ。加工と鑑賞にはRAW対応のソフトウェアが必要になる。近年はRAWに対応するソフトウェアが増えている。カメラメーカーによって記録データの内部形式がまちまちである事、およびデータ量が多くなることから、そのままでは印刷データや、不特定多数に向けた配布、鑑賞には適さない。 デジタルカメラ登場時には、本体の処理能力が劣っていたためカメラ独自のRAW画像で記録され、パソコン側でカメラ付属ソフトウェアを使いJPEGやTIFFなどのオープンな形式に変換していた。 RAW画像は原則的にカメラの撮像素子から得られた無加工のセンサデータを保持する。撮像素子のピクセルは一般的な画像フォーマットのピクセルとは異なる配列になっている。例えば、下記のベイヤ配列が典型的である。多くのデジタルカメラで採用されている単板式カラーCCD・CMOSイメージセンサでは各画素が単色の色情報しか持たない。したがって、デジタルカメラは撮影時に各画素に対してその周辺画素から足りない色情報を集め与えることで色情報を補完し、フルカラー画像を作り出す「デモザイク」 (de-mosaic) 処理を行っている。多くのデジタルカメラではデモザイクに並行して色や明るさのトーン等を自動レタッチする画像加工を行い、完成した画像をJPEGやTIFFなどの汎用画像フォーマットで保存する。 しかし、デモザイクや自動レタッチ処理の精度は完成画像の画質に大きな影響を及ぼすほか、現像後(後述)はホワイトバランス(色温度)などが固定されてしまうため容易に修正ができない。また、最終保存に使われるJPEGフォーマットは通常非可逆圧縮であり、水平方向の色情報の間引きも行っているため元データと比較すると原理的に画質劣化が避けられない。さらに、これらフォーマットの色深度は通常各色8ビット(合計24ビット)しかないため、通常12ビット~14ビットの精度があるイメージセンサから受け取った情報を大幅に切り捨てるほかなく、撮影後の露出(画像の明暗や輝度)調整が困難になる。 このような事情から、通常の画像フォーマットで保存されたデータでは大胆なレタッチをしようとすればするほど画質低下が際立ち、作品作りの自由度がそがれているとしてプロ写真家などからは大きな不満の声が上がっていた。このため、デジタル一眼レフカメラなど高機能カメラを中心に、デモザイク前の生データ、すなわちRAWデータをそのままファイル保存する機能を持つものが増え始め、2015年現在ではほぼ全てのレンズ交換式カメラやコンパクトデジタルカメラ、一部のスマートフォンにも搭載されている。RAWデータは一部のメーカーを除き、無圧縮か可逆圧縮であるためJPEGと比較すると非常に大きなファイルサイズになるが、各画素に1つの色情報しか持たない特性上、TIFF(各色8ビット)と比較するとその半分以下で済む。 RAW画像は専用に設計された現像ソフト(RAW現像ソフトウェア、英: RAW converter)によって自由に調整・出力が可能で、この処理をフィルムになぞらえて「現像」と呼ぶが、実質的にはデジタルデータの加工であり、本来の現像とは異なる。RAW画像のデータフォーマットは各メーカー・各機種によって違うため、現像にはそれぞれの対応ソフトウェアを用意する必要がある。通常はカメラメーカーが自社製の現像ソフトウェアを添付したり、カメラ本体で再処理する機能(カメラ内現像)を用意しているほか、いくつかのソフトウェア・メーカーからも数多くの機種に対応した現像ソフトウェアが発売・頒布されている。またオープンソースソフトウェアの中にもRAW画像に対応するものがある。現像ソフトウェアの採用するアルゴリズムによって現像された画像の画質傾向が大きく変化する。 上記の通り、A/D変換直後の信号情報を保存するのがRAW画像の原則であるから、撮影時のカメラの画質パラメータ(スタンダード、ビビッドといったスタイル、及びホワイトバランス)は数値上の影響をいっさい及ぼさない。 2005年にはRAWフォーマットの互換性向上を目的としてアドビシステムズ(現アドビ)がDigital Negative (DNG) フォーマットを提唱したが、カメラメーカー側の採用は進んでいない。 一方、マイクロソフトは「Windows Vista」以上のバージョン用に主要カメラメーカーのRAW現像アルゴリズムを組み込むための、カメラコーデックパックを別途インストールすることによりOS標準で利用できるようになる。 また、マイクロソフトは2006年にJPEGの代替を目的としたHD Photoフォーマットを発表(後にJPEG XRとして規格化)しており、このフォーマットが普及すればJPEG保存における問題点の数多くが解決されるため、RAWとJPEGの間に横たわる隙間を埋めるフォーマットとしても注目されている。 また、OpenRAWプロジェクトは、互換性のないRAWフォーマット画像の標準化のため、カメラメーカーに自社フォーマットの仕様を完全公開するように働きかけている。 ほぼ全てのデジタルカメラは、写真を撮影する前に設定したホワイトバランス、彩度、コントラスト、シャープネスなどを用いてJPEGファイルに変換される。RAW画像を撮影できるカメラは、それらの設定をRAW画像に出力するが、実際の計算はパソコンで行われる。このため、RAW画像はカメラで行われる処理に追加して、さらに処理を行うために使われることを意図されている。しかしながら、RAW画像はJPEGに対して以下のような多くの利点がある。 RAW画像は撮像素子の出力をそのまま記録しているため、RAW画像の色空間は、カメラの撮像素子の分光感度曲線やレンズ特性、撮影時の光源のスペクトルによって異なるものとなっている。色空間を表したものとしてカラープロファイルが存在し、RAW画像用のカラープロファイルとして、以下の形式が使われている。 dcpからiccへの変換には、コマンドラインツールのdcp2iccが存在する。dcp2iccは、./dcp2icc <ファイル>.dcp <標準光源の色温度> と指定することで、DCPの中の一つのカラープロファイルからICCプロファイルを生成する。 カラープロファイルの作成には、実世界のスペクトル反射特性を反映したカラーチャート (X-RiteのColorCheckerなど)とプロファイル作成ソフトウェア(アドビのDNG Profile Editor、X-RiteのColorChecker Camera Calibration、DatacolorのSpyderCheckr、オープンソースのCoCaなど)が使われている。これらのソフトウェアを使うことでカラーチャートを撮影した画像からカラープロファイルを作成することができる。 またカラーチャートよりも正確なカメラのスペクトラル感度曲線を使ったシステムも登場している: 多くのソフトウェアは、デモザイク前に、レンズキャスト・ゴミ・周辺減光を除去するためのフラットフィールド補正 (レンズキャスト補正、シェーディング補正)を行うことが可能 (RawTherapee、CaptureOne、Adobe DNG Flat Field plug-inなど)。一部のソフトウェアでは、暗電流ノイズを除去するためのダーク補正(Dark-frame subtraction) にも対応している(RawTherapeeなど)。 また、現代的なRAW現像ソフトウェアでは、デモザイクの前に色収差補正を行うことができる (Photo Ninja、RawTherapeeなど)。 デモザイクの前のノイズ除去方式として、ウェーブレットデノイズ、FBDD、機械学習ベースの手法などが存在する。 デモザイク前にHDR合成を行うことができるソフトウェアも存在する (HDRMergeなど)。 RAW画像はカメラによって異なるRGB配列の画素を持っている (BGGRベイヤー配列、RGGBベイヤー配列、GBRGベイヤー配列、GRBGベイヤー配列、FujifilmのX-Trans、RGBW配列など)。デモザイクが不要なRAW画像もある (シグマのFoveon、多板方式のCCDカメラなど)。またカメラによって、RAW画像は原色 (RGB) の画素ではなく、補色 (CMYG) の画素を持っていることもある (補色CCD)。 特殊な配列の画像はそのままでは画像処理しにくいため、解像度を保ち偽色を防ぎながら一般的なRGB配列に変換する必要がある。デモザイクには、モアレに強い方式(AMaZEなど)や、ノイズに強い方式(IGVやLMMSEなど)、機械学習を用いたデモザイク法 (Adobe Lightroom/Adobe Camera Rawのディテールの強化、demosaicnetなど) が存在する。また、デモザイクと超解像度を同時に行う機械学習ベースの方法も開発されている。 使用するRAW現像ソフトウェアとカメラのRGB配列の組み合わせによって、使用できるデモザイクの方式が異なっている。 なおベイヤー配列のカメラにおいても撮影時に手ブレ補正機構によるピクセルシフト撮影を行うことで、動かない部分のデモザイクが現像時に不要となる(オリンパスのHi-Res Shot、PENTAXのPixel Shift Resolution、ソニーのピクセルシフトマルチ撮影 (*.ARQ) など)。RAW画像内に動きが含まれている場合は、その部分だけデモザイク等の処理を行うこととなる。 ノイズには、ポアソン分布のフォトンショットノイズ (ショット雑音)と、ガウス分布の暗電流ノイズや読み出しノイズ、一様分布に近い量子化ノイズ (量子化誤差)が存在する。ノイズの特性はカメラ及びISO感度ごとに異なるため、それぞれのノイズプロファイルの用意されているソフトウェアが存在する (Darktableなど)。 暗電流ノイズはダークフレーム減算によっても補正することができる。 ハイライト復元 (ハイライト再構築) を使うことで、クリップ(頭打ち)していないチャンネルの情報のみを使って、クリップ(頭打ち)したチャンネルの情報を越えて、輝度を復元できる。また、クリップ(頭打ち)したチャンネルの色を復元することも可能 (RawTherapeeのColor Propagationなど)。 モニターへの表示(モニター色空間を持つ)や、共通の表示色空間(sRGBやAdobe RGBなど)での保存のために、画像の色変換が行われている。色変換では、変換元の色空間プロファイルと変換先の色空間プロファイルを、プロファイル接続空間(PCS)により接続する必要がある。プロファイル接続空間には主に、ISO 3664 P2観視条件(ホワイトポイントD50、照度500lx、サラウンド反射率20%)の、CIE XYZ色空間とCIELAB色空間(LUT用)が使われている。ただしCIELAB色空間には色相の非線形性が存在するため、新たにJzazbz色空間がハイダイナミックレンジ (HDR) 画像向けプロファイル接続空間として提案されている。 色空間の変換には、マトリクス、1D-LUT (一次元ルックアップテーブル)、3D-LUTなどの方式が存在し、それぞれ特性が異なっている。 マトリクス方式では、ホワイトポイントの変換方法として、単純なXYZスケーリング方式の他に、LMS色空間を考慮した単純な変換方式と、それに加えて複雑な色順応も考慮した変換方式が存在する。LMS色空間を考慮した単純な変換方式には、古くから使われるBradford変換や、CIELABに最適化したCAT02変換が存在する。また、複雑な色順応を考慮した変換方式には、Bradford変換を利用したCIECAM97や、CAT02変換を利用したCIECAM02が存在する。しかしながらCIECAM02方式でも色と光源に制限が存在しており、2019年には光のスペクトルを考慮した変換方式が提案されている。 LUTでは、メモリ使用量の関係から実データよりも荒いテーブルが使われているため、様々な方法により補間が行われている。 LUTでは、PCSを仲介しないで直接変換することも行われている。 使用するRAW現像ソフトウェアと使用するカラープロファイルの対応具合によって、使用できる色変換方式が異なっている。 なお画像圧縮では表示色空間からYUV/YCbCrやICtCpなどの圧縮に向く色空間へと変換される。 一部のカメラは、二つの異なる露光量を含むRAW画像(Dual ISO RAW)の撮影が可能であり、それによって更に広いダイナミックレンジの撮影が可能となっている (Canon製カメラ+Magic lanternファームウェアなど)。また、一部のカメラは、RAW画像の露光ブラケット撮影(英語版) (露光量を変えながらの連続撮影) に対応している。 複数の露光量のRAW画像を一枚へと合成するために、狭いダイナミックレンジで合成処理を行う露光融合(英語版) という手法 (Enfuse、Darktable、Photomatix Proなどが対応) と、広いダイナミックレンジで合成処理を行うHDR結合 (HDR merge)という手法 (Lightroom/Lightroom mobile、Nik Collection by DxOのHDR Efex Pro、Photomatix Pro、Aurora HDR、Magic lantern用のcr2hdrなどが対応) が存在する。 HDR結合を行った場合は出力がHDR画像となるため、LDR画像へと変換する際にトーンマッピングが必要となる。ただし最近はHDRディスプレイが登場し、知覚的なHDRに対応するHEIF形式やAVIF形式、JPEG XL形式などの画像形式も登場している。また、HDR結合した画像を3DCGの画像ベースライティング (IBL)で使用する場合には、画像を光源として扱うために太陽光の強さなどを保存する必要があり、HDR画像のまま出力することが行われている。IBLにおけるHDR画像形式では、OpenEXR形式が望ましいものの、Radiance(英語版) HDR形式も互換性目的で使われている。 最近のOSは標準で多くのRAW画像形式の簡易現像ソフトウェアを搭載している (macOS/OS X 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(IBL)で使用する場合には、画像を光源として扱うために太陽光の強さなどを保存する必要があり、HDR画像のまま出力することが行われている。IBLにおけるHDR画像形式では、OpenEXR形式が望ましいものの、Radiance(英語版) HDR形式も互換性目的で使われている。", "title": "RAW現像プロセス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "最近のOSは標準で多くのRAW画像形式の簡易現像ソフトウェアを搭載している (macOS/OS X Yosemite以降のPhotos、Windows 10以降の「フォト」など)。", "title": "主なRAW現像ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "最近のOSは標準で多くのRAW画像形式のサムネイル表示に対応している (macOS及びiOS、Windows 10以降など)。", "title": "主なRAW画像プレビュー表示/管理ソフトウェア" } ]
RAW画像は、デジタルカメラなどにおける完成状態にされていない画像データのことである。英語でRawは「生」「未加工」を意味するものの、未加工ではない画像データをRAW画像と称していることもあり注意を要する。 かつてはいわゆるベタ画像のことを指すこともあったが、2000年代に入ってからはデジタルカメラやイメージスキャナ等における「未現像」データのことを指す場合が多い。
{{出典の明記|date=2020年12月}}{{Infobox file format|name=Raw画像ファイル|icon=|extension=.3fr,<br /> .ari, [[Α_(カメラ)|.arw]]<!-- also some Sony Cyber-shot and Hasselblad Lunar, Stellar, HV -->,<br /> .bay,<br /> .braw, {{ill|Camera Image File Format|en|Camera Image File Format|label=.crw}}, .cr2, .cr3,<br /> .cap,<br />.data, .dcs, .dcr, [[Digital Negative|.dng]],<br /> .drf,<br /> .eip, .erf,<br /> .fff,<br /> .gpr,<br /> .iiq,<br /> .k25, .kdc,<br /> {{ill|Minolta RD-175|en|Minolta RD-175|.mdc}}<!-- also Agfa ActionCam -->, .mef, .mos, {{ill|Minolta_A-mount_system#Digital_SLR_bodies|en|Minolta_A-mount_system#Digital_SLR_bodies|label=.mrw}}<!-- also Minolta/KM Dimage -->,<br /> .nef, .nrw,<br /> .obm, {{ill|ORFフォーマット|en|ORF format|label=.orf}},<br /> .pef, .ptx, .pxn,<br /> {{ill|Red Digital Cinema|en|Red Digital Cinema|label=.r3d}}, .raf, .raw, .rwl, .rw2, .rwz,<br /> {{ill|Sony Cyber-shot DSC-R1|en|Sony Cyber-shot DSC-R1|label=.sr2}}, [[サイバーショット|.srf]]<!-- DSC-V3, DSC-F828 -->, .srw<!-- Canon EOS-1Ds -->,<br /> .tif,<br /> .x3f|mime=|owner=|creatorcode=|genre=[[画像ファイル形式]]|url=|containerfor=|containedby=|extendedfrom=|extendedto=}}'''RAW画像'''(ローがぞう、{{lang-en-short|[[w:Raw image format|Raw image format]]}})は、[[デジタルカメラ]]などにおける完成状態にされていない[[画像データ]]のことである。[[英語]]で'''Raw'''は「生」「未加工」を意味するものの、未加工ではない画像データをRAW画像と称していることもあり注意を要する。 かつてはいわゆる[[ベタ画像]]のことを指すこともあったが、[[2000年代]]に入ってからは[[デジタルカメラ]]や[[イメージスキャナ]]等における「未[[現像]]」データのことを指す場合が多い。 == 概要 == [[デジタル一眼レフカメラ]]や[[ミラーレス一眼カメラ]]、[[コンパクトカメラ#デジタルカメラにおけるコンパクトカメラ|コンパクトデジタルカメラ]]、一部の[[スマートフォン]]などの[[デジタルカメラ]]で記録可能な画像形式。デジタルカメラでは一般的に「写真」として[[JPEG]]画像を生成するが、RAW画像はJPEG画像を生成する元となる「生」の画像データである。ある程度の写真知識がある([[プロフェッショナル]]、ハイアマチュアなど)ユーザーが、[[露出 (写真)|露出]]、[[コントラスト]]、[[ホワイトバランス]]、カラーバランス、[[明度]]、[[彩度]]などの補正や加工、[[ノイズ]]や[[歪曲]]など除去を[[パソコン]]上で思い通りに行ないたいという要望に応え、カメラメーカーが用意している機能のひとつ。加工と鑑賞にはRAW対応の[[ソフトウェア]]が必要になる。近年はRAWに対応するソフトウェアが増えている。カメラメーカーによって記録データの内部形式がまちまちである事、およびデータ量が多くなることから、そのままでは[[印刷]]データや、不特定多数に向けた配布、鑑賞には適さない。 デジタルカメラ登場時には、本体の処理能力が劣っていたためカメラ独自のRAW画像で記録され、パソコン側でカメラ付属ソフトウェアを使いJPEGやTIFFなどのオープンな形式に変換していた。 == 解説 == [[ファイル:CCD Bayer layout.png|thumb|一般的な原色フィルターである[[ベイヤーフィルター]]を適用したCCDの画素配置]] RAW画像は原則的にカメラの撮像素子から得られた無加工のセンサデータを保持する。撮像素子のピクセルは一般的な画像フォーマットのピクセルとは異なる配列になっている。例えば、下記の[[ベイヤーフィルター|ベイヤ配列]]が典型的である。多くのデジタルカメラで採用されている単板式カラー[[CCDイメージセンサ|CCD]]・[[CMOSイメージセンサ|CMOS]][[イメージセンサ]]では各画素が単色の色情報しか持たない。したがって、デジタルカメラは撮影時に各画素に対してその周辺画素から足りない色情報を集め与えることで色情報を補完し、フルカラー画像を作り出す「'''デモザイク'''」 (de-mosaic) 処理を行っている。多くのデジタルカメラではデモザイクに並行して色や明るさのトーン等を自動レタッチする画像加工を行い、完成した画像を[[JPEG]]や[[Tagged Image File Format|TIFF]]などの汎用画像フォーマットで保存する。 しかし、デモザイクや自動レタッチ処理の精度は完成画像の画質に大きな影響を及ぼすほか、現像後(後述)は[[ホワイトバランス]]([[色温度]])などが固定されてしまうため容易に修正ができない。また、最終保存に使われるJPEGフォーマットは通常[[非可逆圧縮]]であり、水平方向の色情報の間引きも行っているため元データと比較すると原理的に画質劣化が避けられない。さらに、これらフォーマットの[[色深度]]は通常各色8ビット(合計24ビット)しかないため、通常12ビット~14ビットの精度があるイメージセンサから受け取った情報を大幅に切り捨てるほかなく、撮影後の[[露出 (写真)|露出]](画像の明暗や輝度)調整が困難になる。 このような事情から、通常の画像フォーマットで保存されたデータでは大胆な[[レタッチ]]をしようとすればするほど画質低下が際立ち、作品作りの自由度がそがれているとしてプロ写真家などからは大きな不満の声が上がっていた。このため、[[デジタル一眼レフカメラ]]など高機能カメラを中心に、デモザイク前の生データ、すなわちRAWデータをそのままファイル保存する機能を持つものが増え始め、2015年現在ではほぼ全てのレンズ交換式カメラやコンパクトデジタルカメラ、一部のスマートフォンにも搭載されている。RAWデータは一部のメーカーを除き、無圧縮か可逆圧縮であるためJPEGと比較すると非常に大きなファイルサイズになるが、各画素に1つの色情報しか持たない特性上、TIFF(各色8ビット)と比較するとその半分以下で済む。 RAW画像は専用に設計された[[現像ソフト]](RAW現像ソフトウェア、{{lang-en-short|RAW converter}})によって自由に調整・出力が可能で、この処理を[[フィルム]]になぞらえて「'''[[現像]]'''」と呼ぶが、実質的にはデジタルデータの加工であり、本来の現像とは異なる。RAW画像のデータフォーマットは各メーカー・各機種によって違うため、現像にはそれぞれの対応ソフトウェアを用意する必要がある。通常はカメラメーカーが自社製の現像ソフトウェアを添付したり、カメラ本体で再処理する機能([[カメラ内現像]])を用意しているほか、いくつかの[[ソフトウェア]]・メーカーからも数多くの機種に対応した現像ソフトウェアが発売・頒布されている。また[[オープンソースソフトウェア]]の中にもRAW画像に対応するものがある。現像ソフトウェアの採用する[[アルゴリズム]]によって現像された画像の画質傾向が大きく変化する。 上記の通り、[[アナログ-デジタル変換回路|A/D変換]]直後の信号情報を保存するのがRAW画像の原則であるから、撮影時のカメラの画質パラメータ(スタンダード、ビビッドといったスタイル、及びホワイトバランス)は数値上の影響をいっさい及ぼさない。 [[2005年]]にはRAWフォーマットの互換性向上を目的としてアドビシステムズ(現[[アドビ]])が[[Digital Negative]] (DNG) フォーマットを提唱したが、カメラメーカー側の採用は進んでいない。 一方、マイクロソフトは「[[Windows Vista]]」以上のバージョン用に主要カメラメーカーのRAW現像アルゴリズムを組み込むための、カメラコーデックパックを別途インストールすることによりOS標準で利用できるようになる。<ref>http://www.microsoft.com/ja-jp/download/details.aspx?id=26829</ref> また、マイクロソフトは[[2006年]]にJPEGの代替を目的とした[[HD Photo]]フォーマットを発表(後に[[JPEG XR]]として規格化)しており、このフォーマットが普及すればJPEG保存における問題点の数多くが解決されるため、RAWとJPEGの間に横たわる隙間を埋めるフォーマットとしても注目されている。 また、OpenRAWプロジェクトは、互換性のないRAWフォーマット画像の標準化のため、カメラメーカーに自社フォーマットの仕様を完全公開するように働きかけている。 === 利点 === ほぼ全てのデジタルカメラは、写真を撮影する前に設定した[[ホワイトバランス]]、[[彩度]]、[[コントラスト]]、シャープネスなどを用いてJPEGファイルに変換される。RAW画像を撮影できるカメラは、それらの設定をRAW画像に出力するが、実際の計算はパソコンで行われる。このため、RAW画像はカメラで行われる処理に追加して、さらに処理を行うために使われることを意図されている。しかしながら、RAW画像はJPEGに対して以下のような多くの利点がある。 * JPEGよりもより多くの階調を持つ - RAW画像は12または14[[ビット]](4096&ndash;16384階調)の光の強度情報を各チャンネルごとに持つ。対してJPEGは[[ガンマ補正]] (非線型化) された8ビットである(256階調)。256階調だけでは{{仮リンク|カラーバンディング|en|Colour banding}}が起こるため、それを誤魔化すためにディザリング処理が行われているものの、ディザリング処理されている画像は[[画像編集|編集]]や[[画像解析|解析]]がしにくくなる。 * 任意の色空間で出力ができる - 多くのカメラでは古いディスプレイ向けの[[sRGB]]と印刷向けの[[Adobe RGB]]しか選択できないが、映画では[[DCI-P3]]が、[[UHDTV]]では{{仮リンク|Rec.2020|en|Rec.2020}}が使われている。 * 通常のJPEGよりも広いダイナミックレンジを持つ - カメラではダイナミックレンジが約15段のものも登場している<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/1108153.html ソニー、α9・α7R IIIの最新仕様を取り入れたベーシックモデル「α7 III」] Impress 2018年2月27日</ref>が、RAW画像では広いダイナミックレンジを保持することができる。一方JPEGは色空間によって制限が存在する。例えばsRGBの基準ではホワイトポイント輝度が80{{nbsp}}nit ([[カンデラ毎平方メートル|cd/m<sup>2</sup>]])、ブラックポイント輝度が0.2{{nbsp}}nit (cd/m<sup>2</sup>)となっており<ref>[http://www.color.org/chardata/rgb/srgb.xalter sRGB] [[インターナショナル・カラー・コンソーシアム]]</ref>、表示のダイナミックレンジは約8.6段となっている<ref group="note">(log2(80)+3)-(log2(0.2)+3)=8.643856… ([[:en:Exposure value#EV as a measure of luminance and illuminance]]の式を使用)</ref>。Adobe RGBの基準では前者が160{{nbsp}}nit、後者が0.5557{{nbsp}}nitとなっており<ref>[http://www.color.org/chardata/rgb/adobergb.xalter Adobe RGB (1998)] インターナショナル・カラー・コンソーシアム</ref>、表示のダイナミックレンジは約8.2段となっている<ref group="note">(log2(160)+3)-(log2(0.5557)+3)=8.1695… ([[:en:Exposure value#EV as a measure of luminance and illuminance]]の式を使用)</ref>。{{仮リンク|トーンマッピング|en|Tone mapping}}等により広いダイナミックレンジをJPEGへと詰め込むことも行われているが、元の明るさが再現できるとは限らず編集などで問題となる。JPEGを拡張してHDRに対応させた新規格の{{仮リンク|JPEG XT|en|JPEG XT}} Part 2 (JPEG-HDR) やJPEG XT Part 7も登場しているが、普及しているとは言い難い。 * より高画質に出力できる - 現像時の全ての計算(ガンマ補正、デモザイク、ホワイトバランス、階調補正、コントラストなど)を元のデータから一度に行うため、色調補正([[カラーコレクション]])しても出力の画素値が正確になり、[[ポスタリゼーション|粗階調化]]を引き起こしづらくなる。 * カメラ内の不要な処理を迂回できる - シャープ化やノイズ除去などの画像処理を避けることができ、意図通りの出力を得ることができる。 * 高画質で保存できる - JPEGは多くの場合、色度情報が間引き (クロマサブサンプリング) され、[[非可逆圧縮]]で保存される。含まれる圧縮ノイズは[[画像編集]]や[[画像解析]]などで問題を引き起こす。RAW画像はほとんどの場合、データを損なわず保存される。 * 緻密な画像制御ができる - RAW現像ソフトウェアでは、カメラよりも多くのパラメーターを変更することができる。例えば、[[ホワイトバランス]]では、カメラ内にプリセットされた「太陽光」や「曇天」だけではなく、どんな値にでも設定できる。また、カメラでは設定できないデモザイクアルゴリズムなどを選ぶことができる現像ソフトもある。 * 一枚の写真から複数の画像を出力できる - 現像時のパラメーターを変更して現像しても、元のRAW画像のデータは変化しないため、様々な変化をつけた画像を出力することができる。 === 欠点 === * ファイルサイズが大きい - RAW画像のファイルサイズはJPEGの2ないし6倍程度である。このため、[[メモリーカード]]に保存できる枚数が減る。また、連写が遅くなったり、短くなったりするカメラもある。 * メーカーにより品質が低いものがある - ほとんどのRAW画像は画質を損なわないために[[非圧縮]]か[[可逆圧縮]]で保存されている。しかし、一部のものは、[[量子化]]の際に[[非可逆圧縮]]が行われていたり<ref name=":0" />、フィルタがかかっている<ref>[https://majid.info/blog/is-the-nikon-d70-nef-raw-format-truly-lossless/ Is the Nikon D70 NEF (RAW) format truly lossless?] </ref>。例えば、ソニーのRAW画像は、14ビット出力と明記されているものであっても、実際には11ビット(2048階調)の階調数であり、ほとんどの画素は7ビット(128階調)の差分で保存されているため、現像時の設定によって大きな粗階調化を引き起こす<ref name=":0">[http://www.rawdigger.com/howtouse/sony-craw-arw2-posterization-detection RawDigger: detecting posterization in SONY cRAW/ARW2 files | RawDigger]</ref>。 * 多くのファイルは標準化されていない形式である - 標準化されたRAW画像フォーマット(ISO 12234-2, [[Tagged Image File Format|TIFF/EP]]や[[Digital Negative|DNG]])はあまり使われておらず、ベンダー独自のRAW画像形式が使われている。ベンダー独自の形式でも処理可能な画像編集ソフトウェアは増えており、また{{仮リンク|LibRaw|en|LibRaw}}などのオープンソースのRAW画像処理ライブラリや{{仮リンク|OpenImageIO|en|OpenImageIO}}などのLibRawをバックエンドとしてRAW画像読み込みに対応するライブラリも登場しているものの、新機種への対応に時間がかかったり、RAW画像を表示できないソフトが残っていたりなどがある。 [[Image:Raw vs jpg.jpg|center|thumb|1000px|<!-- Sample before/after where highlights and shadow detail was recovered using the levels tool, left (raw file), right (jpg final result) -->RAW画像をそのままJPEGに現像したもの(左)と、ハイライトとシャドウを補正して現像したもの(右)。RAWファイルからは、元の画像を変更せずに、調子を補正したJPEG画像を現像できる。|代替文=]] == カラープロファイル == RAW画像は撮像素子の出力をそのまま記録しているため、RAW画像の色空間は、カメラの撮像素子の[[分光感度曲線]]やレンズ特性<ref>[http://xritephoto.com/ph_product_overview.aspx?ID=1192&Action=Support&SupportID=5067 カメラのキャリブレーションおよび DNG プロファイル] X-Rite 2009年12月1日</ref>、撮影時の光源のスペクトルによって異なるものとなっている。色空間を表したものとしてカラープロファイルが存在し、RAW画像用のカラープロファイルとして、以下の形式が使われている。 * DNGカラープロファイル (*.dcp) - アドビ製ソフトウェアで使われている形式<ref>[http://www.colourphil.co.uk/photoshop-colour-management-raw.shtml Adobe Camera Raw Colour Management] Graphic Quality Consultancy</ref>。複数の[[標準光源]] (A光源(2850Kタングステン電球)、D50常用光源、D65常用光源など) で調べた色空間データを含むことができる。多くの機種のDCPプロファイルがAdobe DNG Converterと共に無料頒布されている。アドビ以外のソフトウェアでは、オープンソースのRawTherapeeがDCPプロファイルに対応している<ref>[http://www.photoreview.com.au/reviews/software/rawtherapee-4.0.11 RawTherapee 4.0.11] Photo Review 2013年6月</ref>。 * [[ICCプロファイル]] (*.icc, *.icm) - カラープロファイルの標準形式。v2とv4が存在する。様々な機種のICCプロファイルがAdobe DNG Converterと共に無料頒布されている。 dcpからiccへの変換には、コマンドラインツールのdcp2iccが存在する。dcp2iccは、''./dcp2icc <ファイル>.dcp <標準光源の色温度>'' と指定することで、DCPの中の一つのカラープロファイルからICCプロファイルを生成する。 カラープロファイルの作成には、実世界のスペクトル反射特性を反映したカラーチャート (X-RiteのColorChecker<ref>{{Cite web| url = http://www.computer-darkroom.com/incamera/incamera.htm| title = Review of Pictographics InCamera Page 1| author = Ian Lyons | publisher = Computer Darkroom |accessdate=2015-11-21}}</ref><ref>[http://xritephoto.com/ph_product_overview.aspx?ID=1192&Action=Support&SupportID=5005 ColorChecker クラシックに関する情報] X-Rite 2009年11月16日</ref>など)とプロファイル作成ソフトウェア(アドビのDNG Profile Editor、X-RiteのColorChecker Camera Calibration、DatacolorのSpyderCheckr、オープンソースのCoCaなど)が使われている。これらのソフトウェアを使うことでカラーチャートを撮影した画像からカラープロファイルを作成することができる。 またカラーチャートよりも正確なカメラのスペクトラル感度曲線を使ったシステムも登場している: * camSPECS (カラープロファイルの作成にも対応) * [[WETAデジタル]]のPhysLight[https://github.com/wetadigital/physlight] ([[VFX]]向け<ref>[https://www.fxguide.com/fxfeatured/physlight-innovation-at-weta-digital/ PhysLight innovation at Weta Digital] fxguide 2018年2月18日</ref>、JSON形式のスペクトラル感度曲線データあり) == レンズプロファイル == {{節スタブ}} * Adobe Lens Profile (*.lcp) - アドビ製ソフトウェアで使われている形式。オープンソースのRawTherapeeもLCP形式に対応している。 * Lensfunのレンズデータベース形式 (*.xml) - オープンソースライブラリのLensfunで使われているレンズデータベース形式。多くのRAW現像ソフトウェアがLensfunライブラリを使用している。 == RAW現像プロセス == {{節スタブ}} === デモザイク前の補正 === 多くのソフトウェアは、デモザイク前に、レンズキャスト・ゴミ・周辺減光を除去するためのフラットフィールド補正 (レンズキャスト補正、シェーディング補正)を行うことが可能 (RawTherapee<ref name="rawtherapee-4.0.10"/>、CaptureOne、Adobe DNG Flat Field plug-inなど)。一部のソフトウェアでは、暗電流ノイズを除去するための[[ダーク補正]](Dark-frame subtraction) にも対応している(RawTherapee<ref name="rawtherapee-4.0.10"/>など)。 また、現代的なRAW現像ソフトウェアでは、デモザイクの前に[[色収差]]補正を行うことができる (Photo Ninja<ref>[http://www.picturecode.com/showcase/ca.php Photo Ninja Showcase: Chromatic aberration correction] PictureCode LLC</ref>、RawTherapee<ref name="rawtherapee-4.0.10">[http://rawtherapee.com/shared/obsolete/RawTherapeeManual_en.pdf RawTherapee 4.0.10 User Manual] P.8 「Raw Pre-Demosaicing Features」 Emil Martinec et al.</ref>など)。 デモザイクの前のノイズ除去方式として、ウェーブレットデノイズ<ref name="noise-and-forensics">『Digital-Forensics and Watermarking: 14th International Workshop, IWDW 2015, Tokyo, Japan, October 7-10, 2015, Revised Selected Papers』内「Image Noise and Digital Image Forensics」 Thibaut Julliand et al. 2016年 ISBN 978-3319319599</ref>、FBDD<ref name="noise-and-forensics"/><ref>[https://web.archive.org/web/20170830020804/http://www.linuxphoto.org/html/fbdd.html FBDD NOISE REDUCTION] Jacek Góźdź</ref>、機械学習ベースの手法<ref>[https://arxiv.org/pdf/1811.11127v1.pdf Unprocessing Images for Learned Raw Denoising] Tim Brooks et al. 2018年</ref>などが存在する。 デモザイク前にHDR合成を行うことができるソフトウェアも存在する (HDRMerge<ref>[http://jcelaya.github.io/hdrmerge/ HDRMerge] Javier Celaya</ref>など)。 === デモザイク === {{See also|en:Demosaicing}} RAW画像はカメラによって異なるRGB配列の画素を持っている (BGGR[[ベイヤーフィルター|ベイヤー配列]]、RGGBベイヤー配列、GBRGベイヤー配列、GRBGベイヤー配列、FujifilmのX-Trans、RGBW配列など)。デモザイクが不要なRAW画像もある (シグマのFoveon、多板方式のCCDカメラなど)。またカメラによって、RAW画像は原色 (RGB) の画素ではなく、[[補色]] (CMYG) の画素を持っていることもある ([[補色CCD]])。 特殊な配列の画像はそのままでは画像処理しにくいため、解像度を保ち偽色を防ぎながら一般的なRGB配列に変換する必要がある。デモザイクには、モアレに強い方式(AMaZE<ref name="bayer-moire">[http://www.libraw.org/articles/bayer-moire.html Bayer moire] LibRaw LLC 2010年12月1日</ref>など)や、ノイズに強い方式(IGVやLMMSEなど)、機械学習を用いたデモザイク法 (Adobe Lightroom/Adobe Camera Rawのディテールの強化<ref>[https://www.theverge.com/2019/2/12/18221732/adobe-zoom-enhance-details-ai-feature-lightroom-cc-apps-availability Adobe adds AI-powered ‘zoom and enhance’ feature to Lightroom CC] The Verge 2019年2月12日</ref>、demosaicnet[https://github.com/mgharbi/demosaicnet]など) が存在する。また、デモザイクと超解像度を同時に行う機械学習ベースの方法も開発されている<ref>[https://infoscience.epfl.ch/record/258119 Deep Residual Network for Joint Demosaicing and Super-Resolution] 2018年</ref>。 使用するRAW現像ソフトウェアとカメラのRGB配列の組み合わせによって、使用できるデモザイクの方式が異なっている。 なおベイヤー配列のカメラにおいても撮影時に[[手ブレ補正機構]]によるピクセルシフト撮影を行うことで、動かない部分のデモザイクが現像時に不要となる([[オリンパス]]のHi-Res Shot、[[PENTAX]]のPixel Shift Resolution、[[ソニー]]のピクセルシフトマルチ撮影 (*.ARQ) など)。RAW画像内に動きが含まれている場合は、その部分だけデモザイク等の処理を行うこととなる。 === ノイズ削減 (NR) === ノイズには、[[ポアソン分布]]のフォトンショットノイズ ([[ショット雑音]])と、[[正規分布|ガウス分布]]の暗電流ノイズや読み出しノイズ、[[一様分布]]に近い量子化ノイズ ([[量子化誤差]])が存在する<ref>{{Cite journal|和書 |url=https://doi.org/10.15083/00004097 |title=画像・映像理解のためのノイズ特性推定とその応用 |author=小林理弘 |issue=東京大学 博士論文 (情報理工学)、 甲第26451号 |year=2010 |naid=500000550352}}</ref>。ノイズの特性はカメラ及びISO感度ごとに異なるため、それぞれのノイズプロファイルの用意されているソフトウェアが存在する (Darktable<ref>[https://www.darktable.org/usermanual/ch03s04s04.html.php#denoise_profiled 3.4.4.3. Denoise – profiled] darktable</ref>など)。 暗電流ノイズは[[ダーク補正|ダークフレーム減算]]によっても補正することができる。 === ハイライト復元 === ハイライト復元 (ハイライト再構築) を使うことで、クリップ(頭打ち)していないチャンネルの情報のみを使って、クリップ(頭打ち)したチャンネルの情報を越えて、輝度を復元できる<ref>[http://www.adobe.com/digitalimag/pdfs/highlight_recovery.pdf Highlight Recovery in Camera RAW] Adobe Systems</ref>。また、クリップ(頭打ち)したチャンネルの色を復元することも可能 (RawTherapeeのColor Propagation<ref>[http://rawtherapee.com/shared/obsolete/RawTherapeeManual_en.pdf RawTherapee 4.0.10 User Manual] P.34 「Highlight Reconstruction」 Emil Martinec et al.</ref>など)。 === 色空間の変換 === モニターへの表示(モニター色空間を持つ)や、共通の表示色空間(sRGBやAdobe RGBなど)での保存のために、画像の色変換が行われている。色変換では、変換元の色空間プロファイルと変換先の色空間プロファイルを、プロファイル接続空間(PCS)により接続する必要がある<ref name="gamut-mapping">『Color Gamut Mapping』 P.85-86 Ján Morovič 2008年7月28日 ISBN 978-0470030325</ref><ref name="color-engineering">『Colour Engineering: Achieving Device Independent Colour』 P.249-250 Phil Green、Lindsay MacDonald 2002年11月1日 ISBN 978-0471486886</ref>。プロファイル接続空間には主に、ISO 3664 P2観視条件(ホワイトポイントD50、照度500lx、サラウンド反射率20%)の、CIE XYZ色空間とCIELAB色空間(LUT用)が使われている<ref name="gamut-mapping"/><ref name="color-engineering"/>。ただしCIELAB色空間には色相の非線形性が存在するため、新たにJzazbz色空間が[[ハイダイナミックレンジイメージ|ハイダイナミックレンジ (HDR) 画像]]向けプロファイル接続空間として提案されている<ref>[http://www.color.org/groups/hdr/HDRWG-Summer2020.pdf High Dynamic Range Working Group meeting - Online meeting - June 20 2020] p.28 International Color Consortium 2020年6月20日</ref>。<!--TODO: Jzczhz--> 色空間の変換には、マトリクス、1D-LUT (一次元[[ルックアップテーブル]])、3D-LUTなどの方式が存在し、それぞれ特性が異なっている。 マトリクス方式では、ホワイトポイントの変換方法として、単純なXYZスケーリング方式の他に、[[LMS色空間]]を考慮した単純な変換方式と、それに加えて複雑な色順応も考慮した変換方式が存在する。LMS色空間を考慮した単純な変換方式には、古くから使われるBradford変換や、CIELABに最適化したCAT02変換が存在する。また、複雑な色順応を考慮した変換方式には、Bradford変換を利用したCIECAM97や、CAT02変換を利用したCIECAM02が存在する。しかしながらCIECAM02方式でも色と光源に制限が存在しており<ref name="cam-by-sr">[https://arxiv.org/pdf/1902.10160.pdf Chromatic Adaptation Transform by Spectral Reconstruction] Scott A. Burns 2019年2月28日</ref>、2019年には光のスペクトルを考慮した変換方式が提案されている<ref name="cam-by-sr"/>。<!--modified von Kries??--> LUTでは、メモリ使用量の関係から実データよりも荒いテーブルが使われているため、様々な方法により補間が行われている。 LUTでは、PCSを仲介しないで直接変換することも行われている。 使用するRAW現像ソフトウェアと使用するカラープロファイルの対応具合によって、使用できる色変換方式が異なっている。 なお画像圧縮では表示色空間から[[YUV|YUV/YCbCr]]や[[ICtCp]]などの圧縮に向く色空間へと変換される。 === 露光融合とHDR結合 === 一部のカメラは、二つの異なる露光量を含むRAW画像(Dual ISO RAW)の撮影が可能であり、それによって更に広いダイナミックレンジの撮影が可能となっている (Canon製カメラ+Magic lanternファームウェアなど)。また、一部のカメラは、RAW画像の{{仮リンク|ブラケット撮影|en|Bracketing#Exposure bracketing|label=露光ブラケット撮影}} (露光量を変えながらの連続撮影) に対応している。 複数の露光量のRAW画像を一枚へと合成するために、狭いダイナミックレンジで合成処理を行う{{仮リンク|露光融合|en|Exposure Fusion}} という手法<ref>[http://digital-photography-school.com/exposure-fusion-what-is-it-how-does-it-compare-to-hdr-how-do-i-do-it/ Exposure Fusion: What is it? How does it Compare to HDR? How Do I Do It?] Digital Photography School 2009年3月</ref> (Enfuse、Darktable<ref>[https://www.darktable.org/2016/08/compressing-dynamic-range-with-exposure-fusion/ compressing dynamic range with exposure fusion] darktable team 2016年8月</ref>、Photomatix Pro<ref name="pp-comparison">[https://www.hdrsoft.com/order/features_compare.html Comparison Chart] HDRsoft</ref>などが対応) と、広いダイナミックレンジで合成処理を行うHDR結合 (HDR merge)という手法 (Lightroom<ref>[https://helpx.adobe.com/jp/lightroom/help/hdr-photo-merge.html HDR 写真の結合] Adobe Systems</ref>/Lightroom mobile<ref name="lm-raw-hdr">[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1703/07/news044.html 「Lightroom Mobile」がRAW HDR撮影機能に対応 iOS/Android版ともに提供開始] ITmedia 2017年3月7日</ref>、Nik Collection by DxOのHDR Efex Pro、Photomatix Pro<ref name="pp-comparison"/>、Aurora HDR、Magic lantern用のcr2hdrなどが対応) が存在する。複数枚の画像の合成は動きによってゴーストが発生する可能性があるため、機械学習による高度な合成アルゴリズムが開発されている (HDR-Transformer<ref>[https://arxiv.org/pdf/2208.05114.pdf Ghost-free High Dynamic Range Imaging with Context-aware Transformer] Zhen Liu et al. 2022年8月10日</ref>など)。 HDR結合を行った場合は出力が[[ハイダイナミックレンジイメージ|HDR画像]]となるため、LDR画像へと変換する際にトーンマッピングが必要となる。ただし最近はHDRディスプレイが登場し、知覚的なHDRに対応する[[High Efficiency Image File Format|HEIF]]形式<ref>[https://www.phonearena.com/news/Apple-and-iOS-11-could-revolutionize-smartphone-photography-with-next-generation-image-file-format_id98159 Apple and iOS 11 could revolutionize smartphone photography with a next-generation image file format] PhoneArena 2017年9月19日</ref>や[[AOMedia_Video_1#AV1 Still Image File Format(AVIF)|AVIF]]形式、[[JPEG XL]]形式などの画像形式も登場している<!--TODO: パナソニックのHSP形式?-->。また、HDR結合した画像を3DCGの画像ベースライティング (IBL)で使用する場合には、画像を光源として扱うために太陽光の強さなどを保存する必要があり、HDR画像のまま出力することが行われている。IBLにおけるHDR画像形式では、[[OpenEXR]]形式が望ましい<ref name="hdri-hb-p73"/>ものの、{{仮リンク|Radiance (ソフトウェア)|en|Radiance (software)|label=Radiance}} HDR形式も互換性目的で使われている<ref name="hdri-hb-p73">『The HDRI Handbook 2.0: High Dynamic Range Imaging for Photographers and CG Artists』 P.73 Christian Bloch 2013年1月14日 ISBN 978-1937538163</ref>。 <!-- ==== ホワイトバランス ==== TODO: カラープロファイルとホワイトバランスの関係 --> <!-- ==歪み補正== {{節スタブ}} === ポストプロセス === {{節スタブ}} シャープとかデノイズとか --> == 主なRAW現像ソフトウェア == 最近のOSは標準で多くのRAW画像形式の簡易現像ソフトウェアを搭載している (macOS/[[OS X Yosemite]]以降のPhotos、Windows 10以降の「フォト」<ref name="windows10-and-raw"/>など)。 === カメラメーカー純正ソフトウェア === * [[Digital Photo Professional]]([[キヤノン]]) *[[NX Studio]]([[ニコン]]) * [[FUJIFILM X RAW STUDIO]]([[富士フイルム]]) - USBケーブルでカメラを接続し、カメラ本体の画像処理エンジンで現像を行うのが特徴。一部に非対応の機種がある。 * [[Imaging Edge Desktop]]([[ソニー]]) - Image Data Converterの後継。 * [[ViewNX-i]]([[ニコン]]) * [[Capture NX-D]](ニコン) * [[OLYMPUS Workspace]]([[オリンパス]]) - OLYMPUS Viewerの後継。 * [[Digital Camera Utility]]([[リコーイメージング]]、[[PENTAX]]) * [[SIGMA Photo Pro]]([[シグマ (カメラ)|シグマ]]) * [[PHOTOfunSTUDIO]]([[パナソニック]]) * [[Capture One]]([[フェーズワン|Phase One]]、日本語対応) - [[デジタルバック]]「Phase One」シリーズ用現像ソフト<ref group="note">フェーズワン社のデジタルバックはJPEG撮影・現像機能を持っていないため、JPEG画像にするには必ず当ソフトで現像しなければならない。</ref>。現在のバージョンでは他社製デジタルカメラのRAW画像も現像できるなど汎用ソフトとしての性格も併せ持つ。 * [[Phocus]]([[Hasselblad]]) - アップルコンピュータOSのみ ==== 更新停止中 ==== * [[Capture NX 2]](ニコン) - 別売 * [[DiMAGE Master]]([[コニカミノルタ]]) - 別売 * [[Mamiya Digital PhotoStudio]]([[マミヤ]])([[フェーズワン|Phase One]]、日本語版発売元:[[DNPフォトイメージングジャパン]]) - [[2007年]]に[[フェーズワン]]と業務提携を締結し、デジタル分野における業務を全てフェーズワン社へ移管した。2015年にPhase Oneがマミヤ・デジタル・イメージングを買収した<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/733509.html Phase One Japan株式会社が発足。マミヤ光学事業を継承] Impress Corporation 2015年12月3日</ref>。 * [[KODAK EASYSHARE Software]]([[コダック]]) * [[PENTAX PHOTO Laboratory]]([[リコーイメージング]]、[[PENTAX]]) - バージョン3では[[SILKYPIX]] (後述) のエンジンを使用していた<ref>[http://www.ricoh-imaging.co.jp/japan/products/digital/k200d/feature_11.html デジタル一眼レフカメラ/K200D] RICOH IMAGING COMPANY</ref>。 * [[OLYMPUS Viewer]]([[オリンパス]]) * [[Image Data Converter]]([[ソニー]]) === サードパーティー製汎用ソフトウェア === * [[Adobe Photoshop]]([[アドビ]]) * [[Adobe Photoshop Lightroom|Adobe Lightroom/Adobe Lightroom Classic]](アドビ)- RAW画像同士のHDR結合にも対応している。 * [[Adobe Camera Raw]](アドビ) * [[Capture One]]([[フェーズワン]]、日本語対応) - デジタルバック「Phase One」シリーズ用現像ソフト。 * [[Paint Shop Pro|Corel Paint Shop Pro]]([[コーレル]]) * [[SILKYPIX]]([[市川ソフトラボラトリー]]) - [[記憶色]]志向の派手な絵作りが特徴的。 * [[DxO PhotoLab]]([[:en:DxO Labs|DxO Labs]]、日本語版発売元:[[ソフトウェア・トゥー]]) - 旧DxO Optics Pro。 * [[ACDSee|ACDSee Photo Studio]]([[:en:ACD Systems|ACD Systems]]、日本語版発売元:[[イーフロンティア]]) - 旧ACDSee。 * [[Zoner Photo Studio]]([[ゾナー]]) * [[PhotoDirector]] ([[CyberLink]]) * Luminar/Photolemur (Skylum (旧MacPhun)←Photolemur<ref>[https://pdnonline.com/gear/software/skylum-acquires-photolemur-opens-up-ai-lab/ Skylum Acquires Photolemur, Opens Up AI Lab] Emerald Expositions 2018年5月23日</ref>) * [[Affinity Photo]] ({{仮リンク|Serif (Europe)|en|Serif Europe}}) - RAW画像編集にも対応する画像編集ソフトウェア。 * Imerge Pro (FXホーム) - RAW画像に対応する画像合成ソフトウェア ==== モバイル向け ==== * [[Snapseed]] (Google) - Android用。2.1でRAW画像の編集に対応した。 * Adobe Lightroom mobile(アドビ)- iPhone、iPad及びAndroid用。RAW画像の撮影・現像に対応している<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/745071.html RAW撮影と編集が可能に、アドビのAndroid向け「Lightroom」最新版] Impress 2016年2月23日</ref>。2017年には、露光ブラケットおよびHDR結合によるRAW画像でのHDR撮影にも対応した<ref name="lm-raw-hdr"/>。 * [[RawDroid]] (RcketScientist) - Android用。 * [[Raw Decoder]] (TS Systems) - Android用。 ==== 開発停止中 ==== * [[Pixmantec RawShooter]]([[Pixmantec]]) - [[2006年]]にアドビが買収し、Lightroomへ機能統合する計画を発表している。 * [[ArcSoft Digital Darkroom]]([[:en:ArcSoft|ArcSoft]]、日本語版発売元:[[ジャングル (ソフトウェア)|ジャングル]]) - 過去にはArcSoft MediaImpressionやArcSoft PhotoImpression、ArcSoft PhotoStudioなども存在した。 * [[Aperture]]([[Apple]])- [[macOS|OS X]]専用。開発終了<ref name="iphoto-and-aperture">[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/624/2624023/?r=1 AppleがiPhotoとApertureの開発を中止!その超前向きな理由とは] ASCII 2014年6月28日</ref>。 * [[iPhoto]](アップル)- Mac OS X専用。Ver.5より対応。開発終了<ref name="iphoto-and-aperture"/>。 * [[Picasa]] ([[Google]]) - 2016年、開発停止を発表<ref>[http://www.theverge.com/2016/2/12/10980882/google-picasa-photo-app-shut-down-may-2016 Google will shut down Picasa this spring] The Verge 2016年2月12日</ref>。 === オープンソースソフトウェア === ==== GUI ==== * {{仮リンク|RawTherapee|en|RawTherapee}}(Gábor Horváth及び開発チーム) - オープンソース。無償で利用でき日本語にも対応している。Windows、macOS、Linuxに対応。[[ICCプロファイル]]だけでなく、DNGカラープロファイル (DCP) にも対応している。 * [[LightZone]] ([[Light Crafts]]) - オープンソース。[[ゾーンシステム]]を現像・画像処理に応用。JavaベースであるためWindowsとmacOS以外にLinuxにも対応。 * [[Darktable]] - オープンソース。Linux、macOSに対応。非公式のWindows版もある。カメラの対応状況はまちまちだが、プリセットの追加方法が用意されている<ref>[https://www.darktable.org/resources/camera-support/ camera support] darktable Team</ref>。 ==== コマンドライン ==== * {{仮リンク|dcraw|en|dcraw}} (Dave Coffin) - フリーのコマンドライン式ソフトウェア。これをベースにした[[GIMP]]用プラグイン「[[:en:UFRaw|UFRaw]]」がある。 * [[ImageMagick]] - フリーのコマンドライン式ソフトウェア。RAW形式の読み込みにも対応している。 == 主なRAW画像プレビュー表示/管理ソフトウェア == 最近のOSは標準で多くのRAW画像形式のサムネイル表示に対応している (macOS及びiOS<ref>[https://support.apple.com/ja-jp/HT207972 iOS 11 および macOS High Sierra でサポートされているデジタルカメラの RAW 形式] Apple</ref>、Windows 10以降<ref name="windows10-and-raw">[http://ascii.jp/elem/000/001/115/1115637/ Windows 10でデジカメのRAW画像を閲覧・編集する方法] ASCII 2016年2月8日</ref><ref group="note">Windows 7及びVistaではMicrosoftカメラコーデックパックが、Windows XPではMicrosoft RAW Image Thumbnailer and Viewer for Windows XPが必要となっていた。</ref>など)。 * gnome-raw-thumbnailer - GNOME用。 * [[XnView]] - RAW画像の表示に対応している。 * [[digiKam]] - RAW画像の表示に対応している。 * [[Adobe Bridge]] == 主なRAW対応の画像保管サービス == * Adobe Revel - アドビの月額払いで容量無制限な画像保管サービス。RAW画像に対応していた。2016年サービス終了。 * Amazon Cloud Drive - Amazonのファイル保管サービス。RAW画像の容量無制限な保管に対応している<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/review/item/740700.html 無制限でRAWも保存できるオンラインストレージ] デジカメWatch 2016年1月26日</ref>。 == 出典 == {{reflist|2}} == 脚注 == {{reflist|group="note"}} == 関連項目 == * [[Digital Negative]] (DNG) * [[デジタルカメラ]] * [[RAW動画]] ==外部リンク== *[http://www.openraw.org/ OpenRAW] - OpenRAWプロジェクト *[https://support.apple.com/en-us/HT207049 Digital camera RAW formats supported by iOS 10 and macOS Sierra] Apple {{Computer-stub}} {{写真}} {{Graphics file formats}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ろうかそう}} [[Category:画像ファイルフォーマット]] [[Category:デジタル写真]]
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17,710
ベタ画像
ベタ画像(ベタがぞう)は画像の高さ、横幅、色の数などのヘッダ情報を持たず、ピクセル情報のみを持った画像データ。通常はラスターイメージの座標原点である画面左上から順に、Red、Green、Blueの順に1バイト(0〜255)の値を記録する。例えば640×480画素の画像の場合、データサイズは640×480×3=921,600バイトとなる。 コンピュータグラフィックスの黎明期において、複雑なエンコードを必要としないベタ画像データは、リアルな3次元コンピュータグラフィックス、レイトレーシング画像の生成など、主に先進的なCG研究者間の交換フォーマットとして普及した時期がある。 極めて単純なこの形式で保存されたデータを、縦横比正しく画像に展開する場合には追加情報が必要となる。データサイズから推定できることもあるが、不便なので、次第にこの形式は使われなくなった。MS-DOS時代は拡張ファイル名を「.RAW」として流通したことがあるが、現在デジタルカメラで使われているRAW画像形式とはフォーマットが異なる。 PC-9800シリーズのVRAMのビットマッププレーンをそのまま保存したデータ形式も「ベタ画像」と呼ばれたことがある。これはRGBEの1プレーン32,000バイトをそれぞれ4個のファイルに分けて保存する方法だった。
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ベタ画像(ベタがぞう)は画像の高さ、横幅、色の数などのヘッダ情報を持たず、ピクセル情報のみを持った画像データ。通常はラスターイメージの座標原点である画面左上から順に、Red、Green、Blueの順に1バイト(0〜255)の値を記録する。例えば640×480画素の画像の場合、データサイズは640×480×3=921,600バイトとなる。
{{出典の明記|date=2011年3月}} '''ベタ画像'''(ベタがぞう)は[[画像]]の高さ、横幅、色の数などの[[ヘッダ (コンピュータ)|ヘッダ]][[情報]]を持たず、[[ピクセル]]情報のみを持った画像[[データ]]。通常は[[ラスタ形式|ラスターイメージ]]の座標原点である画面左上から順に、[[赤|Red]]、[[緑|Green]]、[[青|Blue]]の順に1バイト(0〜255)の値を記録する。例えば640×480画素の画像の場合、データサイズは640×480×3=921,600バイトとなる。 == 歴史 == [[コンピュータグラフィックス]]の黎明期において、複雑な[[エンコード]]を必要としないベタ画像データは、リアルな[[3次元コンピュータグラフィックス]]、[[レイトレーシング]]画像の生成など、主に先進的なCG研究者間の交換フォーマットとして普及した時期がある。 極めて単純なこの形式で保存されたデータを、縦横比正しく画像に展開する場合には追加情報が必要となる。データサイズから推定できることもあるが、不便なので、次第にこの形式は使われなくなった。[[MS-DOS]]時代は拡張ファイル名を「.RAW」として流通したことがあるが、現在[[デジタルカメラ]]で使われている[[RAW画像]]形式とはフォーマットが異なる。 [[PC-9800シリーズ]]の[[VRAM]]のビットマッププレーンをそのまま保存したデータ形式も「ベタ画像」と呼ばれたことがある。これはRGBEの1プレーン32,000バイトをそれぞれ4個のファイルに分けて保存する方法だった。 {{DEFAULTSORT:へたかそう}} [[Category:画像ファイルフォーマット]]
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Quark, Inc.
Quark (クォーク)とは、DTP業界においてデファクトスタンダードとなっているレイアウトソフトウェアQuark XPressを開発・販売している企業。本社はアメリカ合衆国、コロラド州デンバー市に所在する。 他にも主力製品としては、Quark XPressの多言語版であるQuark XPress Passport、Quark XPressドキュメントをXMLフォーマットに変換する avenue.quark や、多人数協同作業ワークフローのためのツールQuarkDMS(Digital Media System)などを開発・販売している。
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Quark (クォーク)とは、DTP業界においてデファクトスタンダードとなっているレイアウトソフトウェアQuark XPressを開発・販売している企業。本社はアメリカ合衆国、コロラド州デンバー市に所在する。 他にも主力製品としては、Quark XPressの多言語版であるQuark XPress Passport、Quark XPressドキュメントをXMLフォーマットに変換する avenue.quark や、多人数協同作業ワークフローのためのツールQuarkDMSなどを開発・販売している。
'''Quark''' ('''クォーク''')とは、[[DTP]]業界において[[デファクトスタンダード]]となっているレイアウトソフトウェア[[Quark XPress]]を開発・販売している企業。本社は[[アメリカ合衆国]]、[[コロラド州]][[デンバー (コロラド州)|デンバー市]]に所在する。 他にも主力製品としては、Quark XPressの多言語版である'''Quark XPress Passport'''、Quark XPressドキュメントを[[Extensible Markup Language|XML]]フォーマットに変換する '''avenue.quark''' や、多人数協同作業[[ワークフロー]]のためのツール'''QuarkDMS'''(Digital Media System)などを開発・販売している。 == 沿革 == *[[1981年]]、ティム・ギル(彼自身がソフトウェア開発者)によって設立される。当時の資本金は2000ドル。当時より株式非公開の私企業という体裁を保っている。 *[[1986年]]、フレッド・イブラヒムが10万ドルを出資して経営に参加。ギルが開発を担当し、イブラヒムが経営面を見るという体制で、全盛時代を築いた。 *[[1996年]]、日本法人クォークジャパン株式会社を設立(現住所[[東京都]][[渋谷区]])。 *[[1998年]]、[[アドビ|アドビシステムズ]]に対して買収提案を行うが、同年計画撤回<ref>{{Cite web|和書|title=Quark、Adobe Systemsに買収を申し入れ |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980827/quark.htm |website=pc.watch.impress.co.jp |accessdate=2022-02-24}}</ref>。 *[[2000年]]、ティム・ギル会長が、自らの保有していた同社の50%の株式を売却して退社。その株式はイブラヒムが購入したものと推測されている。 *[[2003年]]、米国と[[インド]]で開発チームを率いてきたKamar Aulakh副社長が社長に就任。 *[[2004年]]、Kamar Aulakh社長がCEOに就任。 *[[2005年]]、6月9日、Kamar Aulakh CEOを辞任退社。 *[[2011年]]、8月9日、Platinum Equityにより買収される。 *[[2015年]]、日本法人クォークジャパン株式会社閉鎖<ref>{{Cite web|和書|title=クォークジャパン株式会社(東京都港区)の企業情報詳細 |url=https://houjin.j-bdb.com/80100011415376699 |website=全国法人データバンク |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref>。 == 関連記事 == *[[DTP]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == *[http://www.quark.com/ Quark(米国本社)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くおおく}} [[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]] [[Category:コロラド州の企業]]
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交流整流子電動機
交流整流子電動機(こうりゅうせいりゅうしでんどうき)とは、交流を入力とする整流子電動機である。
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交流整流子電動機(こうりゅうせいりゅうしでんどうき)とは、交流を入力とする整流子電動機である。
'''交流整流子電動機'''(こうりゅうせいりゅうしでんどうき)とは、[[交流]]を入力とする[[整流子電動機]]である。 == 特徴 == === 長所 === * 始動[[トルク]]が大きい。 * 高速回転させやすい。 * 電源の極性にかかわらず回転方向が一定である。 === 短所 === * 整流子があるため[[電気]]的・[[機械]]的雑音が多く保守が煩雑である。 * 無負荷回転数が高い。 == 分類 == === 単相整流子電動機 === ; 単相直巻整流子電動機 : [[回転子]]と[[固定子]]の[[巻線]]が直列に接続されている、[[交流]]でも[[直流]]でも使用できるため'''ユニバーサルモーター'''とも呼ばれる物である。[[電気ドリル]]・[[電気掃除機]]・[[ミキサー (調理器具)|ミキサー]]・[[コーヒーミル]]などに用いられる。構造が同一の直流電動機については[[直巻整流子電動機]]を参照。 === 反発電動機 === * トムソン形 (Tomson) * デリー形 (Deri) * アトキンソン形 (Atokinson) === 三相整流子電動機 === * 三相直巻整流子電動機 ** 単対ブラシ形 ** 複対ブラシ形 * 三相分巻整流子電動機 ** 固定子給電 *** A.E.G.形 *** シュラーゲ形 (Schrage) ** 回転子給電 ** ウインタ・アインベルヒ形 (Winter-Eichberg) ** ラ・クール形 (La Cour) ** 双子誘導電圧調整器使用の物 === 補償誘導電動機 === * 固定子給電 ** ハイランド形 (Heyland) * 回転子給電 ** オスノス形 (Osnos) ** ザクセン・ウエルケ形 (Sachsen-Werke) <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> {{節スタブ}} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|}} --> * [[整流子電動機]] == 外部リンク == <!-- {{Cite web}} --> {{節スタブ}} {{Tech-stub}} {{電動機}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうりゆうせいりゆうしてんとうき}} [[Category:電動機]] <!-- [[en:]] -->
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イラストレーション
イラストレーション(英: 仏: 独: illustration,中: 挿画,朝: 揷畵)とは、図像によって物語、小説、詩などを描写もしくは装飾し、また科学・報道などの文字情報を補助する、形式よりも題材に主眼を置いた図形的もしくは絵画的な視覚化表現である。 イラストレーションは情報を伝達する媒体の1つであり、目的に沿って作成される絵や図像であり、情報の図解という性格を持つ。マスメディアを通じて社会の中で機能することを大前提としており、グラフィックデザインの中の分野でもある。そのため、作家自身の世界を一貫して追求する芸術・美術とは性質が異なっている。 イラストレーションを描くことを職業にしている人をイラストレーターという。 英語のillustration, illustrate及び西洋諸言語の同系の言葉の語源は「照らす」「明るくする」を意味するラテン語lustrare(さらにはlux「光」に遡り、英語illuminate「照らす」と同一語源)であり、明るくすることから転じて「分かりやすくする(もの)」という意味となった。従って、西洋でのillustrationの元々の意味は図解や挿絵など印刷物の中に扱われ理解を助ける「図版」のことであったが、現在はさらに拡大した解釈で用いられている。 イラストレーションは、日本では略してイラストと呼ばれ一般化しているが、この略称は日本で作られたもので、海外では通じない。現代の日本におけるイラストレーションは単に絵を示すことも多いが、西洋のillustrationは基本的にはその意味がなく、また必ずしも絵だけには限らない。芸術としての絵画(ファインアート)に対し、イラストレーターが制作するような、分かりやすい「ポピュラー美術」に相当するのが現在の広義のイラストレーションであるとも言える。 挿絵はイラストレーションそのものであり、絵本や漫画もイラストレーションに含まれ、もしくはイラストレーションを構成要素として持つが、これらはイラストレーションという呼称が普及した1960年代以前から存在していたため固有の呼称が用いられている。建築物の完成予想図(建築パース)もイラストレーションの一種である。 デザイナー=イラストレーター・芸術家・版画家・写真家などによって制作されるイラストレーションは非常に幅広い領域に亘る―― ...... このリストは領域を限定するものではなく、こうしたさまざまな領域の境界線は不明瞭なもので揺れがある。例外はあるが、何らかのメッセージを持つテクストに付随するということと、印刷や版画といった手段により大量に複製されるということでイラストレーションは定義される。 イラストレーションは図解であるが、これは必ずしもイラストレーションがテクストに従属することを意味しない。ジョセフ・ヒリス・ミラーはホルバインを例に取りつつ、イラストレーションと文章は対話的関係にあり相互干渉し意味を二重化するのであって同一のものを表すことは決してないと表現している。 作家チャールズ・ディケンズの出世作『オリバー・ツイスト』にはジョージ・クルックシャンクによるイラストレーションが添えられているが、これはディケンズの小説を基にクルックシャンクが挿絵を描いたのではなく、ロンドンの下層社会を描いた版画連作のためのスケッチをディケンズが見て『オリバー・ツイスト』のキャラクターを着想したものであった(と少なくともクルックシャンクは主張した)。イラストレーターによるキャラクターが小説に先行したのであり、この構図は今日の日本のライトノベルやアニメ・マンガなどのキャラクタービジネスではより鮮明となっている。 イラストレーションはメディアで複製され機能する、メッセージを伴う図版表現として芸術作品から区別されるが、これは機能からの分類であり、機能と切り離してみれば「絵」の一種以外の何物でもない。独創的な芸術作品もまたしばしば書籍のカバーや挿絵などのイラストレーションとして利用される。逆にイラストレーションの原本がその制作時の文脈に関係なく芸術作品として取り扱われ画廊などで販売されたりすることも少なくない。 美術においては画家という「個」から出発して1つの普遍性を目指すが、イラストレーションにおいては即座に人を捉える分かりやすい「個性」が求められる。このため美術では常に人とも過去の自分とも異なる表現が求められるが、イラストレーションではそうした桎梏から自由な反面、一度タッチなどの作風が定着するとその作風を反復し続けることを要求される側面もある。 イラストレーションにはさまざまな環境において大衆に訴求する分かりやすさが求められると同時に、大量に複製されることによって大衆が身近に触れることのできる絵画的表現物ともなっており、即時的な「消費される絵画」 であると同時に絵画(タブロー)にはない共有性や同時代性も持つ。他方で消費社会の高度化に伴い商業領域でも「個」に訴求する表現が受け入れられるようになり表現者が美術とイラストレーションを往還し、またメディアも紙のみならずデジタルや環境などへと拡散していったため、美術との境界のみならずイラストレーションそのものの定義も揺らぎつつある。 イラストレーションはさまざまなテーマを表現することができ、以下のような幅広い目的に用いられる―― イラストレーションに関わる職業はイラストレーター・写真家・その他の「クリエイター」だけではなく、作家や作品と最終的な顧客との関係を確保する重要な役割を担う仲介者も含まれる――アートディレクターや制作ディレクターはイラストレーションの様式やアーティストをプロジェクトに最も適するように選択し、関係を確立し、仕様書を渡し、仕事の進行を管理し、必要な訂正を行わせる。図版担当の編集者は写真・文献・版画・絵画など、既に存在するありとあらゆる形態のイラストレーションから必要なものを探し出し、個人・各種組織・図書館・美術館などの著作権所持者との交渉を行う。 今日では以上のような用途の少なからぬ部分は写真で代用可能となっているが、それゆえに独自の表現を求めてイラストレーションは多様化し、またイラストレーターの目と手を通じた抽象化や説明性は対象を写真よりも理解しやすいものとするので、図鑑などのサイエンティフィック・イラストレーションや技術分野でのテクニカルイラストレーションとして生き続けている。 イラストレーションの起源は定め難いが、文字では表すことのできないものを絵によって表すことから始まり、印刷技術の発明により、活字の他に絵による図版が登場し、大量生産によって大衆化することで本格化した。新聞、図鑑、解剖図などで挿絵が活躍する。 19世紀後半には数多の文学作品に芸術的な挿絵が添えられ、西洋のイラストレーションは黄金時代を迎える。印刷技術の大型化に伴い、ポスターが登場し、メディアとしての広がりを見せる。ヨーロッパでは、アール・ヌーヴォーの画家やデザイナーが華を咲かせた。ラファエル前派、アーツ・アンド・クラフツ、ナビ派、アール・デコなどの美術潮流と相互に影響を及ぼし合う。やや遅れ、19世紀末から20世紀初頭にはアメリカ合衆国がイラストレーションの黄金時代を迎え、現代に至るまでのイラストレーションの原型がほぼ出揃う。 日本においても、1950年代後半にはイラストレーションという呼称が用いられるようになり、1960年代にはグラフィックデザインから独立したジャンルを築く。写真使用の一般化に伴い新聞雑誌などでの使用は減少したが、媒体自体の増加に伴い空間、環境、舞台、衣装、ウェブデザイン、コンピュータゲームなど、表現領域を大きく広げている。 イラストレーションの起源は初期の図像表現と分かち難く、先史時代の洞窟壁画がその最初の形であろう。印刷機が発明されるまでは、本には手描きで絵を入れていた。極東、とりわけ中国・朝鮮・日本では、8世紀から伝統的に版画により文章にイラストレーションを添えていたが、より一般的にはこれらの国々の絵画芸術では19世紀に至るまで絵画の方に短い詩文(賛)が添えられるのが常であった。 西洋や中近東での始まりは中世やルネサンスの彩色装飾であったとも考えられる。注目に値する数々の彩色装飾の中でも際立つのが『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』のそれである。イスラーム圏では絵画(タブロー)が宗教的理由で抑圧されたため写本芸術が発達を見た。 15世紀には印刷術が発明され、書物には木版術(板目木版)で挿絵が施されるようになった。16世紀には製版術が進歩し、木版から銅版(凹版、エッチング)へ、そして18世紀末にはリトグラフへと発展していった。 17世紀のコメニウスの『世界図絵』は文字と絵を併置したはじめての視覚的教科書であった。この時代の特筆すべきイラストレーターに、凸版エッチングを用いて自著に自らの手で挿画したウィリアム・ブレイクがいる。ディドロとダランベールの百科全書は啓蒙思想に基づき大量のイラストレーションを使用し、今日のテクニカルイラストレーションの先駆けとなった。 19世紀初頭には、大衆的な新聞や暦(en:almanac. 当時の暦は一種のメディアであった)が飛躍的に普及しマスメディアが形成され、そこに掲載された短篇小説や連載小説が人気を博したこともありジャーナリズムのイラストレーションが発達した。識字率の低かった当時、図像の訴求力は大きかったのである。この頃の注目に値する人物としてはジョン・リーチ(英語版)、ジョージ・クルックシャンク、チャールズ・ディケンズの挿絵画家ハブロット・K・ブラウン、フランスのオノレ・ドーミエがいる。同じイラストレーターたちが風刺雑誌と一般のフィクション雑誌の双方に寄稿する場合が多かったが、どちらの場合も需要は社会的な類型や階層を要約しまたは風刺するキャラクター画にあった。 先行するクルックシャンクの『コミック・アルマナック』(1827年 - 1840年)の成功を受けて1841年に創刊されたイギリスのユーモア雑誌『パンチ』は、ジョン・テニエル、ディエル兄弟(英語版)、ジョージ・デュ・モーリアを含む高水準な漫画(カートゥーン)イラストレーターたちを20世紀まで途切れなく採用し続けた。パンチ誌は大衆的イラストレーションが風刺への依存から時事問題の洗練された観察へと徐々に移行してゆくさまを映し出している。これらのアーティストたちは皆、伝統的なファインアートの芸術家としての教育を受けていたが、主にイラストレーターとしてその名声を獲得している。パンチ誌や、『ル・ヴォルール』誌(仏: Le Voleur、『泥棒』)などのこうした雑誌は、優れたイラストレーションは文字のコンテンツと同等に売れるものであると世に示した。1842年には『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』紙が創刊され、以降相次いでイラストレーション入りの新聞が発行されるようになる。 19世紀後半はヨーロッパとアメリカ合衆国における「イラストレーションの黄金時代」と考えられている。一般大衆向け出版の発達と雑誌の出現がイラストレーションの流布を増大させた。木口木版術は、熟練した製版家の力と相俟って、デザイナーの仕事を極めて細かいディテールまで再現することを可能にした。新しい印刷技術の発明(とりわけ写真製版)は挿絵画家たちにカラーや新しい表現技法を実験する自由を与えた。 フランスではポール・ガヴァルニ、J・J・グランヴィル、そしてとりわけギュスターヴ・ドレによってこの分野は芸術の域にまで到達した。ドレの『ラ・フォンテーヌ寓話集』『シャルル・ペローの童話』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』などの挿絵は一時代を画するものであった。1860年代ロンドンの貧困の陰鬱さを反映したこれらの挿絵は、社会問題の芸術分野での現れの注目すべき例でもあった。熟練した製版家によって実践される木口木版術の恩恵で、出版社は大量のイラストレーションを使用した。熟練製版家の存在がなければ、どんな単純なイラストレーターの仕事も出版されることはなかったであろう。最も代表的な例はおそらく、ジュール・ヴェルヌの小説を出版したエッツェル社である。本文とは別に印刷して、別丁にしなければならない他の技法(凹版やリトグラフ)とは対照的に、この技法は挿絵を本文と同時に、多くの部数に印刷することが出来た。デザイナーの制作した原本を再生産する仕事をするこれら製版家の大部分は、彼ら自身もまたイラストレーターであった。フランソワ・パンヌマケ(フランス語版)、エドゥアール・リウー、レオン・ベネットなどがそうである。エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、やや後のピエール・ボナールといった偉大な画家たちも、エドガー・アラン・ポーの詩やギ・ド・モーパッサンの小説の挿絵を描いてみたりしていた。 イギリスでは、ジョン・テニエルによる挿絵がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の幻想世界を読者たちに表現してみせた。ドレやテニエルがモノクロームの版画で幻想的な作品を作り続けた一方で、他のイラストレーターたちは色彩の可能性を発見していった。彼らは特にラファエル前派の画家たちの影響を受け、ウィリアム・モリスが興したアーツ・アンド・クラフツのデザイン志向の手刷りによる技術を模倣した。エドマンド・デュラック、アーサー・ラッカム、ウォルター・クレイン、カイ・ニールセンなどがこのスタイルの代表例で、新中世趣味(英語版)の風潮を持ち、神話や説話を題材にすることが多かった。それとは対照的に、ビアトリクス・ポターは彼女自身の短い物語に、ヴィクトリア朝様式に着飾った動物たちを自然観察に基づき描いたイラストレーションを添えた『ピーターラビット』で大衆的な人気を獲得しイラストレーションの領域を広げた。黄金時代のイラストレーターたちの豊饒さと調和は、1890年代にはジャポニスムや板目木版と影絵に影響され密度の薄い白黒のスタイルに回帰しアール・ヌーヴォーやナビ派を先取りしたオーブリー・ビアズリーなどのイラストレーターによってさらに際立った。 19世紀末にはリトグラフの技法によりカラーの広告ポスターが一般化し、アール・ヌーヴォーの開花と共にジュール・シェレ、ウジェーヌ・グラッセ、アルフォンス・ミュシャ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックらが近代的なポスターを作り出した。 合衆国での黄金時代は1880-1914年であった。アーサー・バーデット・フロストやハワード・パイルは子供向けの本のイラストレーションで名声を得、ブランデーワイン派と呼ばれる、パイルの開いた美術学校の生徒たち、N・C・ワイエス、マックスフィールド・パリッシュ、ジェシー・ウィルコックス・スミス、フランク・スクーノヴァーらが時代を支え、後のノーマン・ロックウェルにも影響を与えた。またパイルらは1902年にイラストレーターの職業団体であるソサエティ・オブ・イラストレーターズ(英語版)を設立し、イラストレーターの地位を向上させた。 20世紀は「デザインの世紀」とも呼ばれ、大量生産と社会の大衆化に伴い商品の差別化のためのデザインが重要となり、デザインの絵画的要素としてのイラストレーションも発達を見た。アール・ヌーヴォー、アール・デコ、あるいはキュビスムなどの美術潮流や、バウハウスのようなデザイン潮流などがイラストレーションに流入し混ざり合い、近代的なイラストレーションが成立してゆく。また両大戦を通じ政治的なプロパガンダにイラストレーションが用いらるようになったのもこの時代であった。 シカゴの美術学生であったサンティアゴ・マルティネス・デルガド(英語版)によってラテンアメリカに一つの運動が引き起こされた。デルガドは1930年代に『エスクァイア』誌で、その後コロンビアにて『ヴィダ』誌で活動した。フランク・ロイド・ライトの弟子である彼のイラストレーションはアール・デコ様式の影響を受けていた。 同じく1930年代には表現主義の影響がイギリスのフリーイラストレーターであったアーサー・ラッグ(英語版)の仕事に見出される。ラッグはステンシルの技法で得られたプロパガンダのポスターで用いられるようなフォルムを様式化した。ラッグの様式化されたモノトーンな輪郭は政治的なポスターに使われるような木版印刷を彷彿とさせるものであったが、この時代の写真的な手段で原画を印刷版に転写する技術はラッグに全ての作品をペンとインクで制作することを可能にする域に達していた。 合衆国ではサタデー・イブニング・ポスト誌の表紙イラストで中流アメリカ人の生活を騒がせたJ・C・ライエンデッカー、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ、ノーマン・ロックウェルらの名前を雑誌出版界が強く印象付けた。 印刷技術がさらに発達し、グラビア印刷により写真が容易に印刷できるようになった20世紀後半になるとメディアは徐々に手描きのイラストレーションを見捨てるようになり、イラストレーションは写真を補完する形で個性化が進んでいった。イラストレーターたちは広告、児童書、科学書、ディスクジャケット、それから政治や社会の「風刺画」を主とした新聞雑誌の図版といった領域で活動を続けている。ラルフ・ステッドマン(英語版)、トミー・アンゲラー、ダニエル・マジャ(フランス語版)、ローラン・トポール(英語版)などなど、数多くの個性が新聞雑誌、文学の挿絵、児童文学などのさまざまな領域で頭角を現している。美術出版社はアンリ・マティス、レイモン・モレッティ(フランス語版)、パブロ・ピカソといった高名な画家に頼るようになった。一例としてピカソはスキラ社が出版するオウィディウスの『変身譚』のために挿絵を描いた。 第二次世界大戦で本土に被害を受けなかった合衆国の1950年代はノーマン・ロックウェル、ハリー・アンダーソン(英語版)、ボリス・アルツィバーシェフ(英語版)、チャールズ・ケリンズ(英語版)らによる第2の黄金時代を迎え、1960年代前半までは雑誌広告や漫画などを中心にメディアでのイラストレーションの活躍が見られた。イラストレーションは主に出版とコミュニケーションの領域で、絵画の潮流に追随する形で存続したが、時にはアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン(両者とも商業イラストレーターとして働いていた)のポップアート作品のように絵画の潮流を先取りし導いたこともあった。この時代には、広告が巨大産業となってゆくのに伴いグラフィックデザインの分業化が進み、イラストレーターも独立した職業となっていった一方で、商業の中の部品への後退も見られた。 フランス1970年代の出版界で、グループ「バズーカ」の若いグラフィックデザイナーたちがロシア構成主義や漫画の影響を受け、写真やタイポグラフィと戯れるコラージュからなる大胆で革新的なスタイルを打ち出した。1980年代にはノーマン・ロックウェルの再発見を通じて、写真モンタージュの模写・演出を主に利用し、(コンピュータに取って代わられるまでは)エアブラシを多用した「ハイパーリアリズム」の傾向が見られた。 1980-1990年代には、テレビジョンのような視聴覚メディアがタブレットを使用して生で番組の主題を戯画化したり図解したりといった形で時折イラストレーターの助けを借りるのが見られた。このタイプの高度な即興と早描きの能力を要求するイラストレーションはシンポジウムや会議やセミナーやその他のイベントなどでも用いられることがあった。 20世紀末以降も、イラストレーションの伝統的な技法は教えられ利用され続けている(美術学校、応用美術、グラフィック・アート......)。イラストレーションの添えられた出版物(児童書、雑誌、教育書、百科事典......)は増加を続けている。手描きのイラストレーションは専門誌(コンピュータ誌や女性誌など)で人気を取り戻しており、若年層向けの雑誌や書籍でも急速に数を増やしている。今日では、書籍・雑誌・ポスターなどで使用されたイラストレーションの原画を蒐集し眺めることへの関心が高まりつつあり、数多くの美術館・美術雑誌・画廊が、昔のイラストレーターたちのためにスペースを割いている。アートブックやイラスト集などとしてイラストレーションそのものが商品となることも多い。 媒体の選択肢が広がり、ビジュアルデザインやインフォグラフィックなどの概念も発達し、空間・環境などの領域への進出も見られる。情報機器の発達によって可能になったコンピュータゲームやウェブサイトなどのようなマルチメディアやコンピュータグラフィックスのイラストレーションもまたますます存在感を増しつつある。浩瀚な紙の百科事典も今日ではマルチメディア版(CD-ROMやDVDとインターネットのハイパーリンク)が出ており、画像・図案・写真のコピーだけでなく、音声・合成映像・アニメーション・ビデオなどをも主題の図解に使用している。 王朝時代の絵巻物から西洋美術にもジャポニスムとして大きな影響を与えた江戸時代の浮世絵のような版画メディアまで、日本は独自の図説文化を有していた。明治以降、挿絵は基本的に画家が担っていた。この時期の重要な挿絵画家には木村荘八や小村雪岱などがいる。 日露戦争以降の商工業の成長と石版印刷の技術向上により広告ポスターが隆盛し、西洋イラストレーションの影響を受け変容が進んでいった。 分野としての「イラストレーション」という呼び名が日本に定着したのは戦後になってからである。 1951年に発足した日本宣伝美術会(日宣美)の公募展がデザイナーの登竜門となり、出品作のほとんどにはイラストレーションが用いられた。この時期に早川良雄、粟津潔、灘本唯人らがイラストレーションの土壌を作った。また福音館書店を始めとする児童書の出版社により今日のような絵本が成立したのも1950年代半ばであった。 1960年代にはグラフィックデザイナーとイラストレーターの分業化が始まり、 1964年には日宣美の会員たちが東京イラストレーターズ・クラブを結成する。同クラブは「現代をイメージによって証言し そのコスモスの拡大を意識の根底として 創造的形象化をめざす イラストレーターの集団」とのマニフェストを掲げイラストレーションとイラストレーターの存在を世に広めた。宇野亜喜良、和田誠、横尾忠則(横尾は後に「画家宣言」をすることになる)らが活躍して一大ブームを形成し、イラストレーションの市民権を獲得することに成功した。 「挿絵」という言葉より後に出来たことや、紙媒体での挿絵の需要が写真に置き換えられて行く時期であったこともあり、そこには文章に従属した挿絵というニュアンスを超えて、独立した美術表現としてのイラストレーションという分野の確立が打ち出されていた。当時グラフィックデザイナーもしくは漫画家などを兼任していたイラストレーターが独立した職業となるのは1970年代以降であり、分業化されて拡大した日本のデザイン業界と、高度経済成長などの経済力に支えられたマスメディアがその背景にある。 1980年代には美術の抽象化や非絵画化が進行したこともあり、湯村輝彦のヘタうまが社会現象化するなど、手近に触れられる楽しい絵画的表現としてイラストレーションが広く受け入れられ、才能が流入し多様化した。一方で、1982年には横尾忠則が「画家宣言」を行うなど、濫造されポップに消費されるイラストレーションに飽き足らず逆に美術の側へと越境する動きも見られ、イラストレーションという概念の曖昧化が進行した。 1990年代にはこうした状況に加え、成長を続けていた日本経済の転換や、メディアの多様化なども手伝い、1992年には長らく権威的存在であった『年鑑日本のイラストレーション』が刊行を停止し、登竜門も『イラストレーション』誌のコンペティション「ザ・チョイス」を残すのみになるなど、活動領域の拡大の一方で表現としてのイラストレーション像は拡散と流動化が進んでいる。 1990年代から、伝統的な媒体・画材に並んでコンピュータのグラフィックソフトウェアやコンピュータに直接描画するタブレットがイラストレーションに用いられ始めた。 イラストレーターたちはデジタルツールを、発表する作品を手っ取り早く調整・編集・送付する手段として用いるようになってきている。編集者の求めに応じ、人物を取り替えたり、建物を右から左に動かしたりといったことが、元々の作品に実際の変更を一切行うことなく可能である。スピードが重要となる業種ではコンピュータは不可欠なものとなっていることも多い一方で、無個性な仕上がりになりやすく個性を活かすのは難しいとも言われる。 表現としては、当初は3Dなどの新奇なものとして使用されたが、技術の発展に伴い自然な表現も可能となり、アナログで描いてデジタルで仕上げ、もしくはデジタルで下絵を作成・出力しアナログで仕上げるなど画材の1つとして使われるようになってきている。 テクニカルイラストレーションは技術的性質の情報を視覚的に伝達するイラストレーションの用法である。部品の図面やダイアグラムといったものも含む。 テクニカルイラストレーションの目的は視覚的な経路を通じて人間の観察者に何らかの情報を効率的に伝達できる表現力のあるイメージを作成することであり、大なり小なり非専門の閲覧者に向けてこうした事項を記述・説明することが主目的となる。視覚イメージは、閲覧者の興味と理解を引き出すために大きさや比率に関しては正確でなくてはならず、対象物が何であるか・何をしているかの全体的な印象を提供するものである必要がある。 メディカルイラストレーションとは、手術・手技や、病態を図や模式図などで表した医療のための絵画ないし模型などのこと。学問領域を示す「○○学」のような用語がまだ存在しない。 メディカルイラストレーションを手がける専門の画家は「メディカルイラストレーター」と呼ばれ、厳密には20世紀初頭のアメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学で生まれた。 関連団体として「日本メディカルイラストレーション学会」が存在する。
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"今日では以上のような用途の少なからぬ部分は写真で代用可能となっているが、それゆえに独自の表現を求めてイラストレーションは多様化し、またイラストレーターの目と手を通じた抽象化や説明性は対象を写真よりも理解しやすいものとするので、図鑑などのサイエンティフィック・イラストレーションや技術分野でのテクニカルイラストレーションとして生き続けている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イラストレーションの起源は定め難いが、文字では表すことのできないものを絵によって表すことから始まり、印刷技術の発明により、活字の他に絵による図版が登場し、大量生産によって大衆化することで本格化した。新聞、図鑑、解剖図などで挿絵が活躍する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "19世紀後半には数多の文学作品に芸術的な挿絵が添えられ、西洋のイラストレーションは黄金時代を迎える。印刷技術の大型化に伴い、ポスターが登場し、メディアとしての広がりを見せる。ヨーロッパでは、アール・ヌーヴォーの画家やデザイナーが華を咲かせた。ラファエル前派、アーツ・アンド・クラフツ、ナビ派、アール・デコなどの美術潮流と相互に影響を及ぼし合う。やや遅れ、19世紀末から20世紀初頭にはアメリカ合衆国がイラストレーションの黄金時代を迎え、現代に至るまでのイラストレーションの原型がほぼ出揃う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本においても、1950年代後半にはイラストレーションという呼称が用いられるようになり、1960年代にはグラフィックデザインから独立したジャンルを築く。写真使用の一般化に伴い新聞雑誌などでの使用は減少したが、媒体自体の増加に伴い空間、環境、舞台、衣装、ウェブデザイン、コンピュータゲームなど、表現領域を大きく広げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イラストレーションの起源は初期の図像表現と分かち難く、先史時代の洞窟壁画がその最初の形であろう。印刷機が発明されるまでは、本には手描きで絵を入れていた。極東、とりわけ中国・朝鮮・日本では、8世紀から伝統的に版画により文章にイラストレーションを添えていたが、より一般的にはこれらの国々の絵画芸術では19世紀に至るまで絵画の方に短い詩文(賛)が添えられるのが常であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "西洋や中近東での始まりは中世やルネサンスの彩色装飾であったとも考えられる。注目に値する数々の彩色装飾の中でも際立つのが『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』のそれである。イスラーム圏では絵画(タブロー)が宗教的理由で抑圧されたため写本芸術が発達を見た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "15世紀には印刷術が発明され、書物には木版術(板目木版)で挿絵が施されるようになった。16世紀には製版術が進歩し、木版から銅版(凹版、エッチング)へ、そして18世紀末にはリトグラフへと発展していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "17世紀のコメニウスの『世界図絵』は文字と絵を併置したはじめての視覚的教科書であった。この時代の特筆すべきイラストレーターに、凸版エッチングを用いて自著に自らの手で挿画したウィリアム・ブレイクがいる。ディドロとダランベールの百科全書は啓蒙思想に基づき大量のイラストレーションを使用し、今日のテクニカルイラストレーションの先駆けとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "19世紀初頭には、大衆的な新聞や暦(en:almanac. 当時の暦は一種のメディアであった)が飛躍的に普及しマスメディアが形成され、そこに掲載された短篇小説や連載小説が人気を博したこともありジャーナリズムのイラストレーションが発達した。識字率の低かった当時、図像の訴求力は大きかったのである。この頃の注目に値する人物としてはジョン・リーチ(英語版)、ジョージ・クルックシャンク、チャールズ・ディケンズの挿絵画家ハブロット・K・ブラウン、フランスのオノレ・ドーミエがいる。同じイラストレーターたちが風刺雑誌と一般のフィクション雑誌の双方に寄稿する場合が多かったが、どちらの場合も需要は社会的な類型や階層を要約しまたは風刺するキャラクター画にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "先行するクルックシャンクの『コミック・アルマナック』(1827年 - 1840年)の成功を受けて1841年に創刊されたイギリスのユーモア雑誌『パンチ』は、ジョン・テニエル、ディエル兄弟(英語版)、ジョージ・デュ・モーリアを含む高水準な漫画(カートゥーン)イラストレーターたちを20世紀まで途切れなく採用し続けた。パンチ誌は大衆的イラストレーションが風刺への依存から時事問題の洗練された観察へと徐々に移行してゆくさまを映し出している。これらのアーティストたちは皆、伝統的なファインアートの芸術家としての教育を受けていたが、主にイラストレーターとしてその名声を獲得している。パンチ誌や、『ル・ヴォルール』誌(仏: Le Voleur、『泥棒』)などのこうした雑誌は、優れたイラストレーションは文字のコンテンツと同等に売れるものであると世に示した。1842年には『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』紙が創刊され、以降相次いでイラストレーション入りの新聞が発行されるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "19世紀後半はヨーロッパとアメリカ合衆国における「イラストレーションの黄金時代」と考えられている。一般大衆向け出版の発達と雑誌の出現がイラストレーションの流布を増大させた。木口木版術は、熟練した製版家の力と相俟って、デザイナーの仕事を極めて細かいディテールまで再現することを可能にした。新しい印刷技術の発明(とりわけ写真製版)は挿絵画家たちにカラーや新しい表現技法を実験する自由を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "フランスではポール・ガヴァルニ、J・J・グランヴィル、そしてとりわけギュスターヴ・ドレによってこの分野は芸術の域にまで到達した。ドレの『ラ・フォンテーヌ寓話集』『シャルル・ペローの童話』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』などの挿絵は一時代を画するものであった。1860年代ロンドンの貧困の陰鬱さを反映したこれらの挿絵は、社会問題の芸術分野での現れの注目すべき例でもあった。熟練した製版家によって実践される木口木版術の恩恵で、出版社は大量のイラストレーションを使用した。熟練製版家の存在がなければ、どんな単純なイラストレーターの仕事も出版されることはなかったであろう。最も代表的な例はおそらく、ジュール・ヴェルヌの小説を出版したエッツェル社である。本文とは別に印刷して、別丁にしなければならない他の技法(凹版やリトグラフ)とは対照的に、この技法は挿絵を本文と同時に、多くの部数に印刷することが出来た。デザイナーの制作した原本を再生産する仕事をするこれら製版家の大部分は、彼ら自身もまたイラストレーターであった。フランソワ・パンヌマケ(フランス語版)、エドゥアール・リウー、レオン・ベネットなどがそうである。エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、やや後のピエール・ボナールといった偉大な画家たちも、エドガー・アラン・ポーの詩やギ・ド・モーパッサンの小説の挿絵を描いてみたりしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イギリスでは、ジョン・テニエルによる挿絵がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の幻想世界を読者たちに表現してみせた。ドレやテニエルがモノクロームの版画で幻想的な作品を作り続けた一方で、他のイラストレーターたちは色彩の可能性を発見していった。彼らは特にラファエル前派の画家たちの影響を受け、ウィリアム・モリスが興したアーツ・アンド・クラフツのデザイン志向の手刷りによる技術を模倣した。エドマンド・デュラック、アーサー・ラッカム、ウォルター・クレイン、カイ・ニールセンなどがこのスタイルの代表例で、新中世趣味(英語版)の風潮を持ち、神話や説話を題材にすることが多かった。それとは対照的に、ビアトリクス・ポターは彼女自身の短い物語に、ヴィクトリア朝様式に着飾った動物たちを自然観察に基づき描いたイラストレーションを添えた『ピーターラビット』で大衆的な人気を獲得しイラストレーションの領域を広げた。黄金時代のイラストレーターたちの豊饒さと調和は、1890年代にはジャポニスムや板目木版と影絵に影響され密度の薄い白黒のスタイルに回帰しアール・ヌーヴォーやナビ派を先取りしたオーブリー・ビアズリーなどのイラストレーターによってさらに際立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "19世紀末にはリトグラフの技法によりカラーの広告ポスターが一般化し、アール・ヌーヴォーの開花と共にジュール・シェレ、ウジェーヌ・グラッセ、アルフォンス・ミュシャ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックらが近代的なポスターを作り出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "合衆国での黄金時代は1880-1914年であった。アーサー・バーデット・フロストやハワード・パイルは子供向けの本のイラストレーションで名声を得、ブランデーワイン派と呼ばれる、パイルの開いた美術学校の生徒たち、N・C・ワイエス、マックスフィールド・パリッシュ、ジェシー・ウィルコックス・スミス、フランク・スクーノヴァーらが時代を支え、後のノーマン・ロックウェルにも影響を与えた。またパイルらは1902年にイラストレーターの職業団体であるソサエティ・オブ・イラストレーターズ(英語版)を設立し、イラストレーターの地位を向上させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "20世紀は「デザインの世紀」とも呼ばれ、大量生産と社会の大衆化に伴い商品の差別化のためのデザインが重要となり、デザインの絵画的要素としてのイラストレーションも発達を見た。アール・ヌーヴォー、アール・デコ、あるいはキュビスムなどの美術潮流や、バウハウスのようなデザイン潮流などがイラストレーションに流入し混ざり合い、近代的なイラストレーションが成立してゆく。また両大戦を通じ政治的なプロパガンダにイラストレーションが用いらるようになったのもこの時代であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シカゴの美術学生であったサンティアゴ・マルティネス・デルガド(英語版)によってラテンアメリカに一つの運動が引き起こされた。デルガドは1930年代に『エスクァイア』誌で、その後コロンビアにて『ヴィダ』誌で活動した。フランク・ロイド・ライトの弟子である彼のイラストレーションはアール・デコ様式の影響を受けていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同じく1930年代には表現主義の影響がイギリスのフリーイラストレーターであったアーサー・ラッグ(英語版)の仕事に見出される。ラッグはステンシルの技法で得られたプロパガンダのポスターで用いられるようなフォルムを様式化した。ラッグの様式化されたモノトーンな輪郭は政治的なポスターに使われるような木版印刷を彷彿とさせるものであったが、この時代の写真的な手段で原画を印刷版に転写する技術はラッグに全ての作品をペンとインクで制作することを可能にする域に達していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "合衆国ではサタデー・イブニング・ポスト誌の表紙イラストで中流アメリカ人の生活を騒がせたJ・C・ライエンデッカー、ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ、ノーマン・ロックウェルらの名前を雑誌出版界が強く印象付けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "印刷技術がさらに発達し、グラビア印刷により写真が容易に印刷できるようになった20世紀後半になるとメディアは徐々に手描きのイラストレーションを見捨てるようになり、イラストレーションは写真を補完する形で個性化が進んでいった。イラストレーターたちは広告、児童書、科学書、ディスクジャケット、それから政治や社会の「風刺画」を主とした新聞雑誌の図版といった領域で活動を続けている。ラルフ・ステッドマン(英語版)、トミー・アンゲラー、ダニエル・マジャ(フランス語版)、ローラン・トポール(英語版)などなど、数多くの個性が新聞雑誌、文学の挿絵、児童文学などのさまざまな領域で頭角を現している。美術出版社はアンリ・マティス、レイモン・モレッティ(フランス語版)、パブロ・ピカソといった高名な画家に頼るようになった。一例としてピカソはスキラ社が出版するオウィディウスの『変身譚』のために挿絵を描いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦で本土に被害を受けなかった合衆国の1950年代はノーマン・ロックウェル、ハリー・アンダーソン(英語版)、ボリス・アルツィバーシェフ(英語版)、チャールズ・ケリンズ(英語版)らによる第2の黄金時代を迎え、1960年代前半までは雑誌広告や漫画などを中心にメディアでのイラストレーションの活躍が見られた。イラストレーションは主に出版とコミュニケーションの領域で、絵画の潮流に追随する形で存続したが、時にはアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン(両者とも商業イラストレーターとして働いていた)のポップアート作品のように絵画の潮流を先取りし導いたこともあった。この時代には、広告が巨大産業となってゆくのに伴いグラフィックデザインの分業化が進み、イラストレーターも独立した職業となっていった一方で、商業の中の部品への後退も見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "フランス1970年代の出版界で、グループ「バズーカ」の若いグラフィックデザイナーたちがロシア構成主義や漫画の影響を受け、写真やタイポグラフィと戯れるコラージュからなる大胆で革新的なスタイルを打ち出した。1980年代にはノーマン・ロックウェルの再発見を通じて、写真モンタージュの模写・演出を主に利用し、(コンピュータに取って代わられるまでは)エアブラシを多用した「ハイパーリアリズム」の傾向が見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1980-1990年代には、テレビジョンのような視聴覚メディアがタブレットを使用して生で番組の主題を戯画化したり図解したりといった形で時折イラストレーターの助けを借りるのが見られた。このタイプの高度な即興と早描きの能力を要求するイラストレーションはシンポジウムや会議やセミナーやその他のイベントなどでも用いられることがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "20世紀末以降も、イラストレーションの伝統的な技法は教えられ利用され続けている(美術学校、応用美術、グラフィック・アート......)。イラストレーションの添えられた出版物(児童書、雑誌、教育書、百科事典......)は増加を続けている。手描きのイラストレーションは専門誌(コンピュータ誌や女性誌など)で人気を取り戻しており、若年層向けの雑誌や書籍でも急速に数を増やしている。今日では、書籍・雑誌・ポスターなどで使用されたイラストレーションの原画を蒐集し眺めることへの関心が高まりつつあり、数多くの美術館・美術雑誌・画廊が、昔のイラストレーターたちのためにスペースを割いている。アートブックやイラスト集などとしてイラストレーションそのものが商品となることも多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "媒体の選択肢が広がり、ビジュアルデザインやインフォグラフィックなどの概念も発達し、空間・環境などの領域への進出も見られる。情報機器の発達によって可能になったコンピュータゲームやウェブサイトなどのようなマルチメディアやコンピュータグラフィックスのイラストレーションもまたますます存在感を増しつつある。浩瀚な紙の百科事典も今日ではマルチメディア版(CD-ROMやDVDとインターネットのハイパーリンク)が出ており、画像・図案・写真のコピーだけでなく、音声・合成映像・アニメーション・ビデオなどをも主題の図解に使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "王朝時代の絵巻物から西洋美術にもジャポニスムとして大きな影響を与えた江戸時代の浮世絵のような版画メディアまで、日本は独自の図説文化を有していた。明治以降、挿絵は基本的に画家が担っていた。この時期の重要な挿絵画家には木村荘八や小村雪岱などがいる。 日露戦争以降の商工業の成長と石版印刷の技術向上により広告ポスターが隆盛し、西洋イラストレーションの影響を受け変容が進んでいった。", "title": "日本のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "分野としての「イラストレーション」という呼び名が日本に定着したのは戦後になってからである。 1951年に発足した日本宣伝美術会(日宣美)の公募展がデザイナーの登竜門となり、出品作のほとんどにはイラストレーションが用いられた。この時期に早川良雄、粟津潔、灘本唯人らがイラストレーションの土壌を作った。また福音館書店を始めとする児童書の出版社により今日のような絵本が成立したのも1950年代半ばであった。", "title": "日本のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1960年代にはグラフィックデザイナーとイラストレーターの分業化が始まり、 1964年には日宣美の会員たちが東京イラストレーターズ・クラブを結成する。同クラブは「現代をイメージによって証言し そのコスモスの拡大を意識の根底として 創造的形象化をめざす イラストレーターの集団」とのマニフェストを掲げイラストレーションとイラストレーターの存在を世に広めた。宇野亜喜良、和田誠、横尾忠則(横尾は後に「画家宣言」をすることになる)らが活躍して一大ブームを形成し、イラストレーションの市民権を獲得することに成功した。", "title": "日本のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「挿絵」という言葉より後に出来たことや、紙媒体での挿絵の需要が写真に置き換えられて行く時期であったこともあり、そこには文章に従属した挿絵というニュアンスを超えて、独立した美術表現としてのイラストレーションという分野の確立が打ち出されていた。当時グラフィックデザイナーもしくは漫画家などを兼任していたイラストレーターが独立した職業となるのは1970年代以降であり、分業化されて拡大した日本のデザイン業界と、高度経済成長などの経済力に支えられたマスメディアがその背景にある。", "title": "日本のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1980年代には美術の抽象化や非絵画化が進行したこともあり、湯村輝彦のヘタうまが社会現象化するなど、手近に触れられる楽しい絵画的表現としてイラストレーションが広く受け入れられ、才能が流入し多様化した。一方で、1982年には横尾忠則が「画家宣言」を行うなど、濫造されポップに消費されるイラストレーションに飽き足らず逆に美術の側へと越境する動きも見られ、イラストレーションという概念の曖昧化が進行した。", "title": "日本のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1990年代にはこうした状況に加え、成長を続けていた日本経済の転換や、メディアの多様化なども手伝い、1992年には長らく権威的存在であった『年鑑日本のイラストレーション』が刊行を停止し、登竜門も『イラストレーション』誌のコンペティション「ザ・チョイス」を残すのみになるなど、活動領域の拡大の一方で表現としてのイラストレーション像は拡散と流動化が進んでいる。", "title": "日本のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1990年代から、伝統的な媒体・画材に並んでコンピュータのグラフィックソフトウェアやコンピュータに直接描画するタブレットがイラストレーションに用いられ始めた。 イラストレーターたちはデジタルツールを、発表する作品を手っ取り早く調整・編集・送付する手段として用いるようになってきている。編集者の求めに応じ、人物を取り替えたり、建物を右から左に動かしたりといったことが、元々の作品に実際の変更を一切行うことなく可能である。スピードが重要となる業種ではコンピュータは不可欠なものとなっていることも多い一方で、無個性な仕上がりになりやすく個性を活かすのは難しいとも言われる。", "title": "デジタル時代のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "表現としては、当初は3Dなどの新奇なものとして使用されたが、技術の発展に伴い自然な表現も可能となり、アナログで描いてデジタルで仕上げ、もしくはデジタルで下絵を作成・出力しアナログで仕上げるなど画材の1つとして使われるようになってきている。", "title": "デジタル時代のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "", "title": "デジタル時代のイラストレーション" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "テクニカルイラストレーションは技術的性質の情報を視覚的に伝達するイラストレーションの用法である。部品の図面やダイアグラムといったものも含む。", "title": "テクニカルイラストレーション" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "テクニカルイラストレーションの目的は視覚的な経路を通じて人間の観察者に何らかの情報を効率的に伝達できる表現力のあるイメージを作成することであり、大なり小なり非専門の閲覧者に向けてこうした事項を記述・説明することが主目的となる。視覚イメージは、閲覧者の興味と理解を引き出すために大きさや比率に関しては正確でなくてはならず、対象物が何であるか・何をしているかの全体的な印象を提供するものである必要がある。", "title": "テクニカルイラストレーション" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "メディカルイラストレーションとは、手術・手技や、病態を図や模式図などで表した医療のための絵画ないし模型などのこと。学問領域を示す「○○学」のような用語がまだ存在しない。", "title": "メディカルイラストレーション" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "メディカルイラストレーションを手がける専門の画家は「メディカルイラストレーター」と呼ばれ、厳密には20世紀初頭のアメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学で生まれた。", "title": "メディカルイラストレーション" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "関連団体として「日本メディカルイラストレーション学会」が存在する。", "title": "メディカルイラストレーション" } ]
イラストレーションとは、図像によって物語、小説、詩などを描写もしくは装飾し、また科学・報道などの文字情報を補助する、形式よりも題材に主眼を置いた図形的もしくは絵画的な視覚化表現である。 イラストレーションは情報を伝達する媒体の1つであり、目的に沿って作成される絵や図像であり、情報の図解という性格を持つ。マスメディアを通じて社会の中で機能することを大前提としており、グラフィックデザインの中の分野でもある。そのため、作家自身の世界を一貫して追求する芸術・美術とは性質が異なっている。 イラストレーションを描くことを職業にしている人をイラストレーターという。
<!-- メモ: * 世界のイラストレーションの歴史と広がりをしっかりと視野に入れた日本語の本を発見できておらず、記述の見通しが立てにくい記事となってしまっています。いずれまた改稿が必要そうです。 * 20世紀後半の歴史で紹介しているイラストレーターの選択には難があるように思われます。 * マンガ・アニメ系とアート系で反目関係があるとする記述が随所にありましたが(そういうのもあるだろうとも思うのですが)、明確な出典なしに記述すべき内容ではないと思われるのでコメントアウトしています。 * グラフィックデザイン、絵画/アート、イラストレーション、キャラクターの関係をもっと見通しやすくしたい。そもそもどこまでがグラフィックデザインなのかetcが難しい。 * 「絵本」「ファッションイラストレーション」「社会派」あたりにもう少し触れてもいいかも。 * ギャラリーを分解して文脈に合わせ4-8枚ずつ各セクションに織り込んだ方が質が上がる? --> {{Otheruses||雑誌|イラストレーション (雑誌)}} [[ファイル:Wilcox.jpg|thumb|right|200px|[[ジェシー・ウィルコックス・スミス]]による[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン|R・L・スティーヴンソン]]『[[子供の詩の園|子どもの詩の園]]』のイラストレーション(1905年)]] [[ファイル:Kate Greenaway - May day.jpg|thumb|300px|[[ケイト・グリーナウェイ]]『[[メーデー]]』]] '''イラストレーション'''({{lang-en-short|}}{{lang-fr-short|}}{{lang-de-short|''illustration''}},{{Lang-zh-short|挿画}},{{Lang-ko-short|揷畵}})とは、図像によって[[物語]]、[[小説]]、[[詩]]などを描写もしくは装飾し、また科学・報道などの文字情報を補助する、形式よりも題材に主眼を置いた図形的もしくは絵画的な[[可視化|視覚化]]表現である。 イラストレーションは情報を伝達する[[メディア (媒体)|媒体]]の1つであり、目的に沿って作成される[[絵画|絵]]や図像であり、情報の[[図解]]という性格を持つ。[[マスメディア]]を通じて社会の中で機能することを大前提としており、[[グラフィックデザイン]]の中の分野でもある。そのため、作家自身の世界を一貫して追求する[[芸術]]・[[美術]]とは性質が異なっている<ref name="toha">{{Harvnb|須長|2003|pp=62-65}}</ref>。 イラストレーションを描くことを職業にしている人を[[イラストレーター]]という。 == 語源と日本語での「イラストレーション」 == <!--[[ファイル:Monde_Illustr%C3%A9.jpg|thumb|[[ドレフュス事件]]を伝える新聞「le Monde Illustré」(1898年)。19世紀の[[報道|ジャーナリズム]]は競ってイラストレーションを導入した。]]--> [[ファイル:Illustrated London News - front page - first edition.jpg|thumb|「[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース]]」創刊号(1842年)。19世紀の[[報道|ジャーナリズム]]は競ってイラストレーションを導入した。]] [[英語]]の''illustration'', ''illustrate''及び西洋諸言語の同系の言葉の[[語源]]は「照らす」「明るくする」を意味する[[ラテン語]]''lustrare''(さらには''lux''「[[光]]」に遡り、英語''illuminate''「照らす」と同一語源)であり、明るくすることから転じて「分かりやすくする(もの)」<!--1611-->という意味となった。従って、西洋での''illustration''の元々の意味は図解や[[挿絵]]など印刷物の中に扱われ理解を助ける「図版」のことであった<!--1825-->が、現在はさらに拡大した解釈で用いられている<ref name="VD-joron">{{Harvnb|日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会|2000|pp=6-9}}; 執筆者は[[粟津潔]]。</ref><ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=5}}</ref>。 イラストレーションは、[[日本]]では略して'''イラスト'''と呼ばれ一般化しているが、この略称は日本で作られたもので、海外では通じない<ref name="VD-joron" />。<!-- 情報源の提示をお願いします。: そのため、日本イラストレーション界の大御所というべき人達{{誰|date=2011年2月}}が'''イラスト'''という呼称を使わず、「イラストレーション」という呼び方に改めるべきだと唱え、若いイラストレーターに呼びかけている。一方で、漫画・アニメ系の絵柄を描く人達での間では'''イラスト'''という呼称がよく使われている。-->[[現代 (時代区分)|現代]]の日本におけるイラストレーションは単に[[絵画|絵]]を示すことも多いが、西洋の''illustration''は基本的にはその意味がなく、また必ずしも絵だけには限らない。芸術としての絵画([[ファインアート]])に対し、イラストレーターが制作するような、分かりやすい「[[大衆文化|ポピュラー美術]]」に相当するのが現在の広義のイラストレーションであるとも言える。 [[挿絵]]はイラストレーションそのものであり、[[絵本]]や[[漫画]]もイラストレーションに含まれ、もしくはイラストレーションを構成要素として持つが、これらはイラストレーションという呼称が普及した[[1960年代]]以前から存在していたため固有の呼称が用いられている。[[建築物]]の[[完成予想図]]([[遠近法#建築パース|建築パース]])もイラストレーションの一種である。 == 形態・領域 == [[ファイル:Twist serialcover.jpg|thumb|left|upright|[[ジョージ・クルックシャンク]]による『[[オリバー・ツイスト]]』表紙(1846年)]] [[デザイナー]]=イラストレーター・[[芸術家]]・[[版画家]]・[[写真家]]などによって制作されるイラストレーションは非常に幅広い領域に亘る<ref>{{Harvnb|須長|2003|pp=66-78}}</ref>―― * [[文学]]:[[小説]]、[[物語]]、[[本]]の[[表紙]]、[[児童文学|児童書]]([[絵本]])…… * 資料、技術領域:[[辞典|辞書]]、[[百科事典]]、概説書や入門書、[[マニュアル|取扱説明書]]…… * [[報道|ジャーナリズム]]:[[記事]]の図解、[[戯画|風刺画]]…… * [[宣伝]]・[[広告]]:[[新聞広告]]、[[雑誌]]表紙、[[ポスター]]、[[パッケージデザイン|パッケージ]](箱や梱包)、[[はがき|ポストカード]]、[[ネオンサイン]]、[[ショーウィンドー]]<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=24-29}}</ref> …… * その他:[[CDジャケット]]、[[キャラクターデザイン]]…… このリストは領域を限定するものではなく、こうしたさまざまな領域の境界線は不明瞭なもので揺れがある。例外はあるが、何らかのメッセージを持つテクストに付随するということと、印刷や版画といった手段により大量に複製されるということでイラストレーションは定義される。 イラストレーションは図解であるが、これは必ずしもイラストレーションがテクストに従属することを意味しない。[[ジョセフ・ヒリス・ミラー]]は[[ハンス・ホルバイン|ホルバイン]]を例に取りつつ、イラストレーションと文章は対話的関係にあり相互干渉し意味を二重化するのであって同一のものを表すことは決してないと表現している<ref>{{Harvnb|ミラー|1996|pp=132-133}}</ref>。 作家[[チャールズ・ディケンズ]]の出世作『[[オリバー・ツイスト]]』には[[ジョージ・クルックシャンク]]によるイラストレーションが添えられているが、これはディケンズの小説を基にクルックシャンクが挿絵を描いたのではなく、ロンドンの下層社会を描いた版画連作のためのスケッチをディケンズが見て『オリバー・ツイスト』の[[キャラクター]]を着想したものであった(と少なくともクルックシャンクは主張した)。イラストレーターによるキャラクターが小説に先行したのであり、この構図は今日の日本の[[ライトノベル]]や[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[マンガ]]などのキャラクタービジネスではより鮮明となっている<ref>{{Harvnb|小田切|2010|pp=111-115}}</ref>。 == 美術とイラストレーション == イラストレーションはメディアで複製され機能する、メッセージを伴う図版表現として[[芸術|芸術作品]]から区別されるが、これは機能からの分類であり、機能と切り離してみれば「絵」の一種以外の何物でもない<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|p=123-124}}</ref>。独創的な芸術作品もまたしばしば書籍のカバーや挿絵などのイラストレーションとして利用される。逆にイラストレーションの原本がその制作時の文脈に関係なく芸術作品として取り扱われ画廊などで販売されたりすることも少なくない<ref name="toha" />。 美術においては画家という「個」から出発して1つの普遍性を目指すが、イラストレーションにおいては即座に人を捉える分かりやすい「個性」が求められる。このため美術では常に人とも過去の自分とも異なる表現が求められるが、イラストレーションではそうした桎梏から自由な反面、一度タッチなどの作風が定着するとその作風を反復し続けることを要求される側面もある<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=46-47}}: 伊藤桂司「イラストレーションの問題点」</ref><ref>{{Harvnb|吉田|東野|多木|1979|pp=134-139}}</ref>。 イラストレーションにはさまざまな環境において[[大衆]]に訴求する分かりやすさが求められると同時に、大量に複製されることによって大衆が身近に触れることのできる絵画的表現物ともなっており、即時的な「消費される絵画」<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=9}}</ref> であると同時に絵画(タブロー)にはない共有性や同時代性も持つ<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=24-25}}</ref>。他方で[[消費社会]]の高度化に伴い商業領域でも「個」に訴求する表現が受け入れられるようになり表現者が美術とイラストレーションを往還し、またメディアも紙のみならずデジタルや環境などへと拡散していったため、美術との境界のみならずイラストレーションそのものの定義も揺らぎつつある<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|p=81, 88-90}}</ref>。 == 用途 == [[ファイル:Segelboot.jpg|thumb|[[ヨット]]の[[図解]]イラストレーション]] イラストレーションはさまざまなテーマを表現することができ、以下のような幅広い目的に用いられる―― * 物語のニュアンスを浮き彫りにする。 * 読者に感情を吹き込む。 * 登場人物に人格や顔を与える。 * 教育・科学的な記事などを[[可視化|視覚化]]する。 * 利用ガイドや取扱説明書などの説明を図式化する。 * 商品が売れるようにする。 イラストレーションに関わる職業はイラストレーター・写真家・その他の「クリエイター」だけではなく、作家や作品と最終的な顧客との関係を確保する重要な役割を担う仲介者も含まれる<ref name="toha" /><!-- フルにはカバーせず-->――アートディレクターや制作ディレクター<!--日本だと「編集者」がしっくり来る?-->はイラストレーションの様式やアーティストをプロジェクトに最も適するように選択し、関係を確立し、仕様書を渡し、仕事の進行を管理し、必要な訂正を行わせる。図版担当の編集者は写真・文献・版画・絵画など、既に存在するありとあらゆる形態のイラストレーションから必要なものを探し出し、個人・各種組織・[[図書館]]・[[美術館]]などの[[著作権]]所持者との交渉を行う。 今日では以上のような用途の少なからぬ部分は[[写真]]で代用可能となっているが、それゆえに独自の表現を求めてイラストレーションは多様化し<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=14-15}}</ref>、またイラストレーターの目と手を通じた抽象化や説明性は対象を写真よりも理解しやすいものとするので、図鑑などのサイエンティフィック・イラストレーションや技術分野での[[テクニカルイラストレーション]]として生き続けている<ref>{{Harvnb|吉田|東野|多木|1979|pp=139-143}}</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:Les_Tr%C3%A8s_Riches_Heures_du_duc_de_Berry_juin.jpg|thumb|left|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』より6月]] === 概略 === イラストレーションの起源は定め難いが、文字では表すことのできないものを絵によって表すことから始まり、[[印刷]]技術の発明により、[[活字]]の他に絵による図版が登場し、[[大量生産]]によって[[大衆|大衆化]]することで本格化した。新聞、図鑑、解剖図などで挿絵が活躍する。 [[19世紀]]後半には数多の文学作品に芸術的な挿絵が添えられ、西洋のイラストレーションは黄金時代を迎える。印刷技術の大型化に伴い、[[ポスター]]が登場し、メディアとしての広がりを見せる。[[ヨーロッパ]]では、[[アール・ヌーヴォー]]の[[画家]]や[[デザイナー]]が華を咲かせた。[[ラファエル前派]]、[[アーツ・アンド・クラフツ]]、[[ナビ派]]、[[アール・デコ]]などの美術潮流と相互に影響を及ぼし合う。やや遅れ、19世紀末から20世紀初頭には[[アメリカ合衆国]]がイラストレーションの黄金時代を迎え、現代に至るまでのイラストレーションの原型がほぼ出揃う。 日本においても、[[1950年代]]後半にはイラストレーションという呼称が用いられるようになり、[[1960年代]]にはグラフィックデザインから独立したジャンルを築く。[[写真]]使用の一般化に伴い新聞雑誌などでの使用は減少したが、媒体自体の増加に伴い空間、環境、舞台、衣装、[[ウェブデザイン]]、[[コンピュータゲーム]]など、表現領域を大きく広げている<ref name="VD-joron" /><ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=28}}</ref>。 <!--現在では現代美術の一端を担っている。WP:APT--> === 起源 === イラストレーションの起源は初期の図像表現と分かち難く、先史時代の[[洞窟壁画]]がその最初の形であろう<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=6}}</ref>。[[印刷機]]が発明されるまでは、[[本]]には手描きで絵を入れていた。[[極東]]、とりわけ[[中国]]・[[朝鮮]]・[[日本]]では、[[8世紀]]から伝統的に[[版画]]により文章にイラストレーションを添えていたが、より一般的にはこれらの国々の絵画芸術では[[19世紀]]に至るまで絵画の方に短い詩文([[画賛|賛]])が添えられるのが常であった。 西洋や中近東での始まりは[[中世]]や[[ルネサンス]]の[[ミニアチュール|彩色装飾]]であったとも考えられる。注目に値する数々の彩色装飾の中でも際立つのが『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』のそれである。イスラーム圏では絵画(タブロー)が宗教的理由で抑圧されたため[[イスラーム美術#写本芸術|写本芸術]]が発達を見た<ref>{{Citation|last=桝屋|first=友子|author=桝屋友子|year=2009|date=2009-10-20|title=すぐわかるイスラームの美術 建築・写本芸術・工芸|place=東京|publisher=[[東京美術]]|isbn=978-4-8087-0835-1|pages=p. 68}}</ref>。 === 15-18世紀 === [[15世紀]]には[[印刷|印刷術]]が発明され、書物には木版術([[木版画|板目木版]])で挿絵が施されるようになった。16世紀には製版術が進歩し、木版から銅版([[凹版印刷|凹版]]、[[エッチング]])へ<ref name="名前なし-2"/>、そして18世紀末には[[リトグラフ]]へと発展していった<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=30}}</ref>。 17世紀の[[コメニウス]]の『[[世界図絵]]』は文字と絵を併置したはじめての視覚的教科書であった<ref name="VD-what">{{Harvnb|日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会|2000|pp=10-11}}</ref>。この時代の特筆すべきイラストレーターに、凸版エッチングを用いて自著に自らの手で挿画した[[ウィリアム・ブレイク]]がいる。[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]と[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]の[[百科全書]]は[[啓蒙思想]]に基づき大量のイラストレーションを使用し、今日の[[テクニカルイラストレーション]]の先駆けとなった<ref name="VD-what" />。 === 19世紀初頭 === <!--[[ファイル:SubstanceandShadow.jpg|thumb| [[パンチ (雑誌)|パンチ誌]]に1843年に掲載された[[ジョン・リーチ]]の[[カートゥーン]]。[[戯画|風刺画]]を[[カートゥーン]]と呼んだ最初の例。]]--> [[ファイル:Cruikshank - Snuffing out Boney.png|thumb|[[ジョージ・クルックシャンク]]『ボニーの火を消しちまえ!』(1814年)。[[ナポレオン・ボナパルト]]の追放を[[風刺]]。]] 19世紀初頭には、[[大衆]]的な新聞や[[暦]]([[:en:almanac<!-- [[:ja:生活暦]] とリンク -->]]. 当時の暦は一種のメディアであった)が飛躍的に普及しマスメディアが形成され、そこに掲載された短篇小説や連載小説が人気を博したこともあり[[報道|ジャーナリズム]]のイラストレーションが発達した。[[識字|識字率]]の低かった当時、図像の訴求力は大きかったのである。この頃の注目に値する人物としては{{仮リンク|ジョン・リーチ|en|John Leech (caricaturist)}}、[[ジョージ・クルックシャンク]]、[[チャールズ・ディケンズ]]の挿絵画家{{仮リンク|ハブロット・K・ブラウン|en|Hablot Knight Browne}}、フランスの[[オノレ・ドーミエ]]がいる。同じイラストレーターたちが風刺雑誌と一般のフィクション雑誌の双方に寄稿する場合が多かったが、どちらの場合も需要は社会的な類型や階層を要約しまたは風刺するキャラクター画にあった。 先行するクルックシャンクの『コミック・アルマナック』(1827年 - 1840年)の成功を受けて1841年に創刊されたイギリスのユーモア雑誌『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』は、[[ジョン・テニエル]]、{{仮リンク|ディエル兄弟|en|Dalziel Brothers}}、[[ジョージ・デュ・モーリア]]<!-- ou ジョルジュ・デュ・モーリエ -->を含む高水準な漫画([[カートゥーン]])イラストレーターたちを20世紀まで途切れなく採用し続けた。パンチ誌は大衆的イラストレーションが風刺への依存から時事問題の洗練された観察へと徐々に移行してゆくさまを映し出している。これらのアーティストたちは皆、伝統的な[[ファインアート]]の芸術家としての教育を受けていたが、主にイラストレーターとしてその名声を獲得している。パンチ誌や、『ル・ヴォルール』誌({{lang-fr-short|Le Voleur}}、『泥棒』)などのこうした雑誌は、優れたイラストレーションは文字のコンテンツと同等に売れるものであると世に示した。1842年には『[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース]]』紙が創刊され、以降相次いでイラストレーション入りの新聞が発行されるようになる。 === イラストレーションの黄金時代 === [[ファイル:Lechatbotte1.jpg|thumb|[[ギュスターヴ・ドレ]]による『[[マ・メール・ロワ]]のおはなし』収録の「[[長靴をはいた猫]]」の挿絵]] 19世紀後半は[[ヨーロッパ]]と[[アメリカ合衆国]]における「[[挿絵の黄金時代|イラストレーションの黄金時代]]」と考えられている。一般大衆向け出版の発達と[[雑誌]]の出現がイラストレーションの流布を増大させた。[[木口木版]]術は、熟練した製版家の力と相俟って、デザイナーの仕事を極めて細かいディテールまで再現することを可能にした。新しい印刷技術の発明(とりわけ写真製版)は挿絵画家たちにカラーや新しい表現技法を実験する自由を与えた。 [[ファイル:Mucha-Maud Adams as Joan of Arc-1909.jpg|thumb|left|[[アルフォンス・ミュシャ]]による[[演劇]]『[[ジャンヌ・ダルク]]』ポスター(1909年)]]<!--ミュシャ目立ちすぎかな?--> [[フランス]]では[[ポール・ガヴァルニ]]、[[J・J・グランヴィル]]、そしてとりわけ[[ギュスターヴ・ドレ]]によってこの分野は芸術の域にまで到達した。ドレの『[[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ|ラ・フォンテーヌ]]寓話集』『[[シャルル・ペロー]]の童話』、[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]の『[[ドン・キホーテ]]』などの挿絵は一時代を画するものであった。1860年代[[ロンドン]]の貧困の陰鬱さを反映したこれらの挿絵は、[[社会学|社会]]問題の芸術分野での現れの注目すべき例でもあった。熟練した製版家によって実践される木口木版術の恩恵で、出版社は大量のイラストレーションを使用した。熟練製版家の存在がなければ、どんな単純なイラストレーターの仕事も出版されることはなかったであろう。最も代表的な例はおそらく、[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説を出版したエッツェル社である。本文とは別に印刷して、別丁にしなければならない他の技法([[凹版印刷|凹版]]や[[リトグラフ]])とは対照的に、この技法は挿絵を本文と同時に、多くの部数に印刷することが出来た。デザイナーの制作した原本を再生産する仕事をするこれら製版家の大部分は、彼ら自身もまたイラストレーターであった。{{仮リンク|フランソワ・パンヌマケ|fr|François Pannemaker}}、[[エドゥアール・リウー]]、[[レオン・ベネット]]などがそうである。[[エドゥアール・マネ]]、[[エドガー・ドガ]]、やや後の[[ピエール・ボナール]]といった偉大な画家たちも、[[エドガー・アラン・ポー]]の詩や[[ギ・ド・モーパッサン]]の小説の挿絵を描いてみたりしていた。 [[ファイル:Crane beauty5.jpg|thumb|[[ウォルター・クレイン]]による『[[美女と野獣]]』の挿絵(1874年)]] [[イギリス]]では、[[ジョン・テニエル]]による挿絵が[[ルイス・キャロル]]の『[[不思議の国のアリス]]』の幻想世界を読者たちに表現してみせた<ref name="VJ-world">{{Harvnb|日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会|2000|pp=102-105}}</ref>。ドレやテニエルが[[モノクローム]]の版画で幻想的な作品を作り続けた一方で、他のイラストレーターたちは[[色|色彩]]の可能性を発見していった。彼らは特に[[ラファエル前派]]の画家たちの影響を受け、[[ウィリアム・モリス]]が興した[[アーツ・アンド・クラフツ]]の[[デザイン]]志向の手刷りによる技術を模倣した。[[エドマンド・デュラック]]、[[アーサー・ラッカム]]、[[ウォルター・クレイン]]、[[カイ・ニールセン]]などがこのスタイルの代表例で、{{仮リンク|新中世趣味|en|neo-medievalism}}の風潮を持ち、[[神話]]や[[御伽話|説話]]を題材にすることが多かった。それとは対照的に、[[ビアトリクス・ポター]]は彼女自身の短い物語に、[[ヴィクトリア朝]]様式に着飾った動物たちを自然観察に基づき描いたイラストレーションを添えた『[[ピーターラビット]]』で大衆的な人気を獲得しイラストレーションの領域を広げた<ref name="VJ-world" />。黄金時代のイラストレーターたちの豊饒さと調和は、1890年代には[[ジャポニスム]]や板目木版と影絵に影響され密度の薄い白黒のスタイルに回帰し[[アール・ヌーヴォー]]や[[ナビ派]]を先取りした[[オーブリー・ビアズリー]]などのイラストレーターによってさらに際立った。 19世紀末には[[リトグラフ]]の技法によりカラーの広告[[ポスター]]が一般化し、[[アール・ヌーヴォー]]の開花と共に[[ジュール・シェレ]]、[[ウジェーヌ・グラッセ]]、[[アルフォンス・ミュシャ]]、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]らが近代的なポスターを作り出した<ref name="VJ-world" /><ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=8}}</ref>。<!--この時期「モダンデザイン」という言葉が生まれた。:アール・ヌーヴォーとは相反する動きです--> 合衆国での黄金時代は1880-1914年であった。[[アーサー・バーデット・フロスト]]や[[ハワード・パイル]]は子供向けの本のイラストレーションで名声を得、[[ブランデーワイン派]]と呼ばれる、パイルの開いた美術学校の生徒たち、[[N・C・ワイエス]]、[[マックスフィールド・パリッシュ]]、[[ジェシー・ウィルコックス・スミス]]、[[フランク・スクーノヴァー]]らが時代を支え、後の[[ノーマン・ロックウェル]]にも影響を与えた。またパイルらは1902年<!-- 脚注の文献には1901年とありますが、公式サイトが1902年としているのでそちらに従います -->にイラストレーターの職業団体である{{仮リンク|ソサエティ・オブ・イラストレーターズ|en|Society of Illustrators}}を設立し、イラストレーターの地位を向上させた<ref name="VJ-world" />。 === 1914-1945年 === [[ファイル:J. M. Flagg, I Want You for U.S. Army poster (1917).jpg|thumb|[[ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ]]「I Want You」、1917年アメリカの兵士募集ポスター]] 20世紀は「[[デザイン]]の世紀」とも呼ばれ、[[大量生産]]と社会の大衆化に伴い商品の差別化のためのデザインが重要となり、デザインの絵画的要素としてのイラストレーションも発達を見た。[[アール・ヌーヴォー]]、[[アール・デコ]]、あるいは[[キュビスム]]などの美術潮流や、[[バウハウス]]のようなデザイン潮流などがイラストレーションに流入し混ざり合い、近代的なイラストレーションが成立してゆく。また両大戦を通じ政治的な[[プロパガンダ]]にイラストレーションが用いらるようになったのもこの時代であった<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=12-13}}</ref>。 <!-- デルガドやラッグは日本の文献では出て来ない… --> [[シカゴ]]の美術学生であった{{仮リンク|サンティアゴ・マルティネス・デルガド|en|Santiago Martinez Delgado}}によって[[ラテンアメリカ]]に一つの運動が引き起こされた。デルガドは1930年代に『エスクァイア』誌で、その後[[コロンビア]]にて『ヴィダ』誌で活動した。[[フランク・ロイド・ライト]]の弟子である彼のイラストレーションは[[アール・デコ]]様式の影響を受けていた。 同じく1930年代には[[表現主義]]の影響がイギリスのフリーイラストレーターであった{{仮リンク|アーサー・ラッグ|en|Arthur Wragg}}<!-- Wragg: ラック?ラッグ? -->の仕事に見出される。ラッグは[[ステンシルテンプレート|ステンシル]]の技法で得られた[[プロパガンダ]]のポスターで用いられるようなフォルムを様式化した。ラッグの様式化されたモノトーンな輪郭は政治的なポスターに使われるような木版印刷を彷彿とさせるものであったが、この時代の写真的な手段で原画を印刷版に転写する技術はラッグに全ての作品を[[ペン]]と[[インク]]で制作することを可能にする域に達していた。 合衆国では[[サタデー・イブニング・ポスト]]誌の表紙イラストで中流アメリカ人の生活を騒がせた[[J・C・ライエンデッカー]]、[[ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ]]、[[ノーマン・ロックウェル]]らの名前を雑誌出版界が強く印象付けた。<!-- XXX 「有名になった」ぐらいに意訳でもいい? --> === 1945年から今日まで === <!-- 新しい世代の図版が欲しいところですが、著作権の壁があります。 --> 印刷技術がさらに発達し、[[グラビア印刷]]により[[写真]]が容易に印刷できるようになった20世紀後半になるとメディアは徐々に手描きのイラストレーションを見捨てるようになり、イラストレーションは写真を補完する形で個性化が進んでいった<ref>{{Harvnb|日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会|2000|p=42}}</ref><ref name="名前なし-3">{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=15}}</ref>。イラストレーターたちは広告、児童書、科学書、[[ディスクジャケット]]、それから政治や社会の「[[戯画|風刺画]]」を主とした新聞雑誌の図版<!--([[カナール・アンシェネ]]、[[チャーリー・エブド]]、[[シネ・エブド]]) フランス固有なので割愛-->といった領域で活動を続けている。{{仮リンク|ラルフ・ステッドマン|en|Ralph Steadman}}、[[トミー・ウンゲラー|トミー・アンゲラー]]、{{仮リンク|ダニエル・マジャ|fr|Daniel Maja}}、{{仮リンク|ローラン・トポール|en|Roland Topor}}などなど、数多くの個性が新聞雑誌、文学の挿絵、[[児童文学]]などのさまざまな領域で頭角を現している。美術出版社は[[アンリ・マティス]]、{{仮リンク|レイモン・モレッティ|fr|Raymond Moretti}}、[[パブロ・ピカソ]]といった高名な画家に頼るようになった。一例としてピカソはスキラ社が出版する[[オウィディウス]]の『[[変身物語|変身譚]]』のために挿絵を描いた。 [[第二次世界大戦]]で本土に被害を受けなかった合衆国の1950年代は[[ノーマン・ロックウェル]]、{{仮リンク|ハリー・アンダーソン|en|Harry Anderson (artist)}}、{{仮リンク|ボリス・アルツィバーシェフ|en|Boris Artzybasheff}}、{{仮リンク|チャールズ・ケリンズ|en|Charles Kerins}}らによる第2の黄金時代を迎え、1960年代前半までは雑誌広告や漫画などを中心にメディアでのイラストレーションの活躍が見られた。イラストレーションは主に出版と[[コミュニケーション]]の領域で、絵画の潮流に追随する形で存続したが、時には[[アンディ・ウォーホル]]や[[ロイ・リキテンスタイン]](両者とも商業イラストレーターとして働いていた)の[[ポップアート]]作品のように絵画の潮流を先取りし導いたこともあった。この時代には、広告が巨大産業となってゆくのに伴い[[グラフィックデザイン]]の分業化が進み、イラストレーターも独立した職業となっていった一方で、商業の中の部品への後退も見られた<ref name="名前なし-3"/>。 フランス1970年代の出版界で、グループ「バズーカ」の若いグラフィックデザイナーたちが[[ロシア構成主義]]や[[漫画]]の影響を受け、写真や[[タイポグラフィ]]と戯れる[[コラージュ]]からなる大胆で革新的なスタイルを打ち出した<!-- 仏語版由来ですが、歴史節に組み入れるほど重要かはチェックが必要? -->。1980年代にはノーマン・ロックウェルの再発見を通じて、写真[[モンタージュ]]の[[模写]]・演出を主に利用し、(コンピュータに取って代わられるまでは)[[エアブラシ]]を多用した「ハイパーリアリズム」の傾向が見られた<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|pp=58-59}}</ref>。 [[ファイル:Osaka Kaiyukan04s3000.jpg|thumb|240px|[[アイヴァン・チャマイエフ]]、大阪「[[海遊館]]」壁画(一部。1991年)<!--。イラストレーションは領域を広げている。-->]] 1980-1990年代には、[[テレビ|テレビジョン]]のような視聴覚メディアが[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]を使用して生で番組の主題を戯画化したり図解したりといった形で時折イラストレーターの助けを借りるのが見られた。<!--今みたいなペンタブではなくて、テレビ画面に直接インポーズでイラストを描いて見せたのか-->このタイプの高度な即興と早描きの能力を要求するイラストレーションは[[シンポジウム]]や会議やセミナーやその他のイベントなどでも用いられることがあった。 <!--[[ファイル:Pyle pirates approaching ship.jpg|thumb|[[ハワード・パイル]]の海賊イラストと遺稿を集めた『カリブ海の海賊』は没後10年の1921年に編纂・出版。]]--> 20世紀末以降も、イラストレーションの伝統的な技法は教えられ利用され続けている([[美術学校]]、[[応用美術]]、[[グラフィック・アート]]……)。イラストレーションの添えられた出版物(児童書、雑誌、教育書、百科事典……)は増加を続けている。手描きのイラストレーションは専門誌(<!--『Hebdogiciel』のような:日本人には無縁なので割愛。日本の例があると良い-->コンピュータ誌や女性誌など)で人気を取り戻しており、若年層向けの雑誌や書籍でも急速に数を増やしている<!-- 日本のラノベなんかですね。後日加筆? -->。今日では、書籍・[[雑誌]]・[[ポスター]]などで使用されたイラストレーションの原画を蒐集し眺めることへの関心が高まりつつあり、数多くの美術館・美術雑誌・[[ギャラリー (美術)|画廊]]が、昔のイラストレーターたちのためにスペースを割いている。アートブックやイラスト集などとしてイラストレーションそのものが商品となることも多い<ref name="toha" />。 <!-- 今日のホビーとしてのイラストについて触れてもいいかもしれません。 --> 媒体の選択肢が広がり、[[ビジュアルデザイン]]や[[インフォグラフィック]]などの概念も発達し、空間・環境などの領域への進出も見られる<ref name="toha" />。[[情報機器]]の発達によって可能になった[[コンピュータゲーム]]や[[ウェブサイト]]などのような[[マルチメディア]]や[[コンピュータグラフィックス]]のイラストレーションもまたますます存在感を増しつつある<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=25-26}}</ref>。浩瀚な紙の百科事典も今日ではマルチメディア版([[CD-ROM]]や[[DVD]]と[[インターネット]]の[[ハイパーリンク]])が出ており、画像・図案・写真のコピーだけでなく、音声・合成映像・アニメーション・ビデオなどをも主題の図解に使用している<!-- 音声や動画も「イラストレーション」だということ -->。 == 日本のイラストレーション == [[ファイル:Kuniyoshi Utagawa, Stingrays.jpg|thumb|イラストレーション的側面をもつ浮世絵([[歌川国芳]] 江戸時代後期)]] [[王朝時代]]の[[絵巻物]]から西洋美術にも[[ジャポニスム]]として大きな影響を与えた[[江戸時代]]の[[浮世絵]]のような版画メディアまで、日本は独自の図説文化を有していた。明治以降、[[挿絵]]は基本的に画家が担っていた<ref name="名前なし-1"/>。この時期の重要な挿絵画家には[[木村荘八]]や[[小村雪岱]]などがいる<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|p=100}}</ref>。 [[日露戦争]]以降の商工業の成長と石版印刷の技術向上により広告ポスターが隆盛し、西洋イラストレーションの影響を受け変容が進んでいった<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=13-14}}</ref>。 <!--[[明治]]期の[[文明開化]]により一時断絶する。洋式の出版が行われるようになったのに伴い[[挿絵]]や[[表紙]]の需要も生まれ、また[[漫画]]が独自の発達を始めたが、--> 分野としての「イラストレーション」という呼び名が日本に定着したのは[[戦後]]になってからである。 1951年に発足した[[日本宣伝美術会]](日宣美)の公募展がデザイナーの登竜門となり、出品作のほとんどにはイラストレーションが用いられた。この時期に[[早川良雄]]、[[粟津潔]]、[[灘本唯人]]らがイラストレーションの土壌を作った<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|pp=12-13}}</ref>。また[[福音館書店]]を始めとする[[児童文学|児童書]]の出版社により今日のような[[絵本]]が成立したのも1950年代半ばであった<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|p=110}}</ref>。 1960年代には[[グラフィックデザイナー]]とイラストレーターの分業化が始まり、 1964年には日宣美の会員たちが[[東京イラストレーターズ・クラブ]]を結成する<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|p=13}}</ref>。同クラブは「現代をイメージによって証言し そのコスモスの拡大を意識の根底として 創造的形象化をめざす イラストレーターの集団」とのマニフェストを掲げイラストレーションとイラストレーターの存在を世に広めた<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|pp=16-18}}</ref>。[[宇野亜喜良]]、[[和田誠]]、[[横尾忠則]](横尾は後に「画家宣言」をすることになる)らが活躍して一大ブームを形成し、イラストレーションの市民権を獲得することに成功した<ref name="VD-joron" />。 「[[挿絵]]」という言葉より後に出来たことや、紙媒体での挿絵の需要が写真に置き換えられて行く時期であったこともあり<ref>{{Harvnb|日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会|2000|pp=40-42}}</ref>、そこには文章に従属した挿絵というニュアンスを超えて、独立した美術表現としてのイラストレーションという分野の確立が打ち出されていた。当時[[グラフィックデザイナー]]もしくは[[漫画家]]などを兼任していたイラストレーターが独立した職業となるのは[[1970年代]]以降であり<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|p=20}}</ref>、分業化されて拡大した日本の[[デザイン]]業界と、[[高度経済成長]]などの経済力に支えられたマスメディアがその背景にある。 <!--ただし、挿絵などを専門にする者と、[[アニメーター]]や漫画家とを分ける向きこの頃から有る。後者は単に「アニメ」「マンガ」と呼ばれ、挿絵画家からは分けられることを望む者が多い。:「望む」かどうかは主観の域で、「多い」に根拠がありません。そういう向きもありそうだとは思うのですが、これを記述するためにはある程度信頼できる情報源が必要です。--> 1980年代には美術の抽象化や非絵画化が進行したこともあり、[[湯村輝彦]]の[[ヘタうま]]が社会現象化する<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|p=42}}</ref>など、手近に触れられる楽しい絵画的表現としてイラストレーションが広く受け入れられ、才能が流入し多様化した。一方で、1982年には[[横尾忠則]]が「画家宣言」を行うなど、濫造されポップに消費されるイラストレーションに飽き足らず逆に美術の側へと越境する動きも見られ、イラストレーションという概念の曖昧化が進行した<ref>{{Harvnb|京都造形芸術大学|1998|pp=22-23, 30-31}}</ref>。 1990年代にはこうした状況に加え、成長を続けていた日本経済の転換や、メディアの多様化なども手伝い、1992年には長らく権威的存在であった『年鑑日本のイラストレーション』が刊行を停止し、登竜門も『[[イラストレーション (雑誌)|イラストレーション]]』誌のコンペティション「ザ・チョイス」を残すのみになるなど、活動領域の拡大の一方で表現としてのイラストレーション像は拡散と流動化が進んでいる<ref>{{Harvnb|美術手帖|2010|pp=121-127}}</ref>。 == デジタル時代のイラストレーション == <!--[[ファイル:Intuos4m.jpg|thumb|left|[[ワコム]]社製の[[ペンタブレット]]]]--> 1990年代から、伝統的な媒体・画材に並んでコンピュータの[[グラフィックソフトウェア]]やコンピュータに直接描画する[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]がイラストレーションに用いられ始めた。 イラストレーターたちはデジタルツールを、発表する作品を手っ取り早く調整・編集・送付する手段として用いるようになってきている<ref name="名前なし-4">{{Harvnb|日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会|2000|pp=36-37}}</ref>。編集者の求めに応じ、人物を取り替えたり、建物を右から左に動かしたりといったことが、元々の作品に実際の変更を一切行うことなく可能である。スピードが重要となる業種ではコンピュータは不可欠なものとなっていることも多い一方で、無個性な仕上がりになりやすく個性を活かすのは難しいとも言われる<ref>{{Harvnb|須長|2003|pp=84-85}}</ref>。 表現としては、当初は3Dなどの新奇なものとして使用されたが<ref name="名前なし-4"/>、技術の発展に伴い自然な表現も可能となり、アナログで描いてデジタルで仕上げ、もしくはデジタルで下絵を作成・出力しアナログで仕上げるなど画材の1つとして使われるようになってきている<ref>{{Harvnb|イラストノート編集部|2009|p=98}}</ref>。 <!-- イラストレーションは<!-従来クリエイティブ産業や娯楽産業の小さな部分に過ぎないと考えられていたが、->[[テレビゲーム]]・[[映画]]・[[アニメーション]]・[[広告]]・[[出版]]・[[ウェブサイト]]といった業界で新たに重要な要素となりつつある。これらのうち最初の3つでは、試作段階で[[コンセプトアート]]を使用し、[[キャラクターデザイン]]にもイラストレーターの力を借りることが多い。 --> {{-}} == テクニカルイラストレーション == <!-- [[ファイル:Drum set.svg|thumb|[[ドラムセット]]のイラストレーション]] --> [[ファイル:Interface lg.jpg|thumb|[[拡張カード]]の接続法を図解したテクニカルイラストレーション]] {{main|テクニカルイラストレーション}} [[テクニカルイラストレーション]]は技術的性質の情報を視覚的に伝達するイラストレーションの用法である。部品の[[図面]]や[[ダイアグラム]]といったものも含む。 テクニカルイラストレーションの目的は視覚的な経路を通じて人間の観察者に何らかの[[情報]]を効率的に伝達できる表現力のあるイメージを作成することであり<ref name="ViGr05"> Ivan Viola and Meister E. Gröller(2005). "Smart Visibility in Visualization". In: ''Computational Aesthetics in Graphics, Visualization and Imaging''. L. Neumann et al. (Ed.)</ref>、大なり小なり非専門の閲覧者に向けてこうした事項を記述・説明することが主目的となる。視覚イメージは、閲覧者の興味と理解を引き出すために大きさや比率に関しては正確でなくてはならず、対象物が何であるか・何をしているかの全体的な印象を提供するものである必要がある<ref>[http://www.industriegrafik.com/TIE1.htm www.industriegrafik.com] website, Last modified: Sep 13 2009 09:50:53.</ref>。 == メディカルイラストレーション == '''メディカルイラストレーション'''とは、手術・手技や、病態を図や模式図などで表した医療のための絵画ないし模型などのこと。学問領域を示す「○○学」のような用語がまだ存在しない。<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=美術解剖学とは何か |date=2020年7月30日 |publisher=株式会社トランスビュー |page=16}}</ref> メディカルイラストレーションを手がける専門の画家は「メディカルイラストレーター」と呼ばれ、厳密には20世紀初頭のアメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学で生まれた。<ref name=":0" /> 関連団体として「日本メディカルイラストレーション学会」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.medical-illustration.jp/ |title=日本メディカルイラストレーション学会 |access-date=2023年2月24日}}</ref>が存在する。 {{-}} == イラストレーションの歴史ギャラリー == {{Notice|サムネイルをクリックすると拡大画像を表示します。各キャプション末の<!--[[ウィキメディア・コモンズ]]関連カテゴリへの-->リンクからさらに多くの図版を閲覧できます。|section=1}} <gallery widths="190" heights="160" style="font-size:small;"> ファイル:Lascaux2.jpg|[[ラスコー洞窟]]の[[洞窟壁画]](後期[[旧石器時代]])。人類最初期の広義でのイラストレーション([[:commons:Category:Lascaux|カテゴリ]]) ファイル:LibroMuertosMetropolitan.jpg|[[古代エジプト]]の[[パピルス]]『[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]』(BC14世紀)は最初期の[[挿絵]]の例([[:commons:Category:Book_of_the_Dead|カテゴリ]]) ファイル:Gu Kaizhi 003.jpg|[[顧愷之]](344年? - 405年?)『女史箴図』。宮廷の9つの物語を図解している([[:commons:Category:Gu_Kaizhi|カテゴリ]]) ファイル:Illustrated Sutra of Cause and Effect.jpg|日本の『[[絵因果経]]』(8世紀)。経文とその図説。[[絵巻物]]の起源([[:commons:Category:Art_of_the_Nara_period|カテゴリ]]) ファイル:Songhuizong4.jpg|[[徽宗]]『芙蓉錦鶏図』(12世紀)。[[花鳥画|花鳥]]を描いた[[院体画]]で、[[漢詩]]が添えられている([[:commons:Category:Paintings_of_the_Song_Dynasty|カテゴリ]]) ファイル:Genji emaki Yadorigi.JPG|『[[源氏物語絵巻]]』より宿木(12世紀)。見渡しやすい[[ビュー|クオータービュー]]を採用し表現性と説明性を両立([[:commons:Category:Illustrated_Handscroll_of_The_Tale_of_Genji_(Tokugawa_Art_Museum)|カテゴリ]]) ファイル:Chouju sumou.jpg|『[[鳥獣人物戯画|鳥獣戯画]]』(12-13世紀)。[[漫画]]の始祖ともされる風刺イラスト絵巻([[:commons:Category:Emakimono|カテゴリ]]) ファイル:Al-Jazari Automata Elephant-Clock 1315.jpg|[[シリア]]の[[からくり]]時計の図解(1315年)。イスラームでは科学を出発点に[[イスラーム美術#写本芸術|写本芸術]]が発展した ファイル:Da Vinci Vitruve Luc Viatour.jpg|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]『[[ウィトルウィウス的人体図]]』(1485年 - 1490年頃)。手描きの[[解剖学]]的挿絵。[[ルネサンス]]期の芸術と科学の融合([[:commons:Category:Vitruvian_Man|カテゴリ]]) ファイル:Folio 157v - Psalm LVI.jpg|[[ミニアチュール|彩色装飾]]写本『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』(15世紀末)。祈りの言葉を図説。一冊単位で制作される極めて高価なものであった([[:commons:Category:Tr%C3%A8s_Riches_Heures_du_Duc_de_Berry|カテゴリ]]) ファイル:A Young Hare, Albrect Durer.jpg|[[アルブレヒト・デューラー]]『子兎』(1502年)。自然物を克明に描いた[[博物画]]は[[博物学]]で重要な役割を担った([[:commons:Category:Natural_history|カテゴリ]]) ファイル:Herstellung-eines-Kupferstichs.png|『[[百科全書]]』(1751年 - 1772年)は[[印刷|印刷術]]の発達と、知識を広める[[啓蒙思想]]から大量の挿絵を採用した。啓蒙思想は仏語でLumières「光」であり、illustrationと同語源([[:commons:Category:Encyclop%C3%A9die,_ou_Dictionnaire_raisonn%C3%A9_des_sciences,_des_arts_et_des_m%C3%A9tiers|カテゴリ]]) ファイル:Blake shepherd.jpg|[[ウィリアム・ブレイク]]『[[無垢と経験のうた]]』(1789年)。詩人ブレイクは銅版画職人でもあり、[[エッチング]]により自著を自作のイラストレーションで彩った([[:commons:Category:William_Blake|カテゴリ]]) <!--ファイル:Cruikshank - Snuffing out Boney.png|[[ジョージ・クルックシャンク]]『ボニーの火を消しちまえ!』(1814年)。[[ナポレオン・ボナパルト]]の追放を[[風刺]]。今日まで続く[[カートゥーン]]の伝統に繋がる。--> <!--ファイル:Hiroshige_nuit_de_neige_%C3%A0_Kambara.JPG|[[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』より蒲原(1834年)。観光名所の図解イラストレーション。[[浮世絵]]は[[ジャポニスム]]として西洋イラストレーションにも影響。--> ファイル:Hiroshige03 kawasaki.jpg|[[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』より川崎(1834年)。版画イラストによる観光名所案内。[[浮世絵]]は[[ジャポニスム]]として西洋イラストレーションにも影響([[:commons:Category:The_Fifty-three_Stations_of_the_T%C5%8Dkaid%C5%8D|カテゴリ]]) ファイル:Rue Transnonain, le 15 Avril 1834.tif|[[オノレ・ドーミエ]]『トランスノナン街、1834年4月15日』。殺人現場の報道。[[報道|ジャーナリズム]]の普及にイラストレーションは大きく寄与した([[:commons:Category:Honor%C3%A9_Daumier|カテゴリ]]) ファイル:SubstanceandShadow.jpg|[[雑誌]]『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』に1843年に掲載された[[ジョン・リーチ]]の[[カートゥーン]]。[[戯画|風刺画]]を[[カートゥーン]]と呼んだ最初の例([[:commons:Category:John_Leech|カテゴリ]]) ファイル:Don Quixote 6.jpg|[[ギュスターヴ・ドレ]]による『[[ドン・キホーテ]]』の挿絵(1863年)。ドレは1万枚以上の作品を遺し、イラストレーションは黄金期を迎える([[:commons:Category:Gustave_Dor%C3%A9|カテゴリ]]) ファイル:De Alice's Abenteuer im Wunderland Carroll pic 15.jpg|[[ジョン・テニエル]]による『[[不思議の国のアリス]]』の挿絵(1865年)。物語本文と同等かそれ以上の影響を今日の読者にまで与えた([[:commons:Category:Alice_in_Wonderland|カテゴリ]]) <!--Alice par John Tenniel 15.png--> ファイル:'Around the Moon' by Bayard and Neuville 36.jpg|アンリ・ド・モントー画、[[フランソワ・パンヌマケ]]製版による[[ジュール・ヴェルヌ]]『[[月世界旅行]]』挿絵(1868年)。[[サイエンス・フィクション|SF]]イラストの嚆矢([[:commons:Category:Henri_de_Montaut|カテゴリ]]) ファイル:Edouard Manet - Le Corbeau.jpeg|[[エドゥアール・マネ]]による[[エドガー・アラン・ポー]]『[[大鴉]]』挿絵(1875年)。高名な画家もイラストレーションを手がけた([[:commons:Category:%C3%89douard_Manet|カテゴリ]]) ファイル:Lautrec moulin rouge, la goulue (poster) 1891.jpg|[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]による[[ムーラン・ルージュ]]の宣伝[[ポスター]](1891)。イラストレーションが広告に進出すると共に[[美術]]にも影響を与え始める([[:commons:Category:Henri_de_Toulouse-Lautrec|カテゴリ]]) ファイル:Aubrey Beardsley - The Dancer's Reward.jpg|[[オーブリー・ビアズリー]]による[[オスカー・ワイルド]]『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』挿絵(1894年)。[[世紀末]]を代表する[[デカダンス|頽廃性]]と鋭い白黒([[:commons:Category:Aubrey_Beardsley|カテゴリ]]) ファイル:Exposition_Eug%C3%A8ne_Grasset_au_Salon_des_Cent.jpg|[[ウジェーヌ・グラッセ]]によるポスター(1898年?)。[[アール・ヌーヴォー]]の先駆者として知られる[[グラフィックデザイナー]]([[:commons:Category:Eug%C3%A8ne_Grasset|カテゴリ]]) ファイル:Pyle pirates approaching ship.jpg|[[ハワード・パイル]](1853年 - 1911年)の海賊イラスト。ブランデーワイン学校を設立し合衆国でのイラストレーション黄金期を築いた([[:commons:Category:Howard_Pyle|カテゴリ]]) <!--Pyle pirates treasfight.jpg--> ファイル:Tale_of_peter_rabbit_12.jpg|[[ビアトリクス・ポター]]の[[絵本]]『[[ピーターラビットのおはなし]]』(1902年)。動物の忠実な観察に基づき独自の優しいイラストレーションの世界を拓いた。 ファイル:Dinky Bird by Maxfield Parrish, 1904.jpg|[[マックスフィールド・パリッシュ]]による『子どもを想う歌』挿絵(1904年)。特徴ある青は「パリッシュ・ブルー」と呼ばれる([[:commons:Category:Maxfield_Parrish|カテゴリ]]) ファイル:Correa-Martians vs. Thunder Child.jpg|[[H.G.ウェルズ]]『[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]』のイラストレーション。[[エンリケ・アルヴィン・コレア]]画(1906年)。 ファイル:Martin_van_Maele_-_Trilogie_%C3%A9rotique_03.jpg|[[マルティン・ファン・メーレ]]による[[ポール・ヴェルレーヌ]]『エロティックな3部作』挿絵(1907)。好色文学に欠かせぬ存在であった([[:commons:Category:Martin_Van_Maele|カテゴリ]]) <!--ファイル:Mucha-Maud Adams as Joan of Arc-1909.jpg|[[アール・ヌーヴォー]]の[[グラフィックデザイナー]]、[[アルフォンス・ミュシャ]]による演劇『[[ジャンヌ・ダルク]]』ポスター(1909年)([[:commons:Category:Alfons_Mucha|カテゴリ]])--> ファイル:Princess of Mars large.jpg|[[フランク・スクーノヴァ]]による『[[火星のプリンセス]]』表紙(1917年)。空想世界である[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[ファンタジー]]にイラストレーションが占める位置は大きい([[:commons:Category:Book_covers|カテゴリ]]) ファイル:Jack and the Beanstalk Giant - Project Gutenberg eText 17034.jpg|[[アーサー・ラッカム]]による『[[ジャックと豆の木]]』の挿絵(1918年)。[[ラファエル前派]]、[[アーツ・アンド・クラフツ]]の影響。[[児童文学]]とイラストは縁が深い([[:commons:Category:Arthur_Rackham|カテゴリ]]) ファイル:Akai-Tori first issue.jpg|[[清水良雄]]による『[[赤い鳥]]』創刊号表紙(1918)。いわゆる[[童画]]。イラストレーションの概念はなかったが役割の大きさは変わらなかった([[:commons:Category:Children%27s_literature|カテゴリ]]) <!--ファイル:The Three Bears - Project Gutenberg eText 17034.jpg--> ファイル:Perpetual Motion by Norman Rockwell.jpg|[[ノーマン・ロックウェル]]による雑誌表紙(1920年)。リアルでいてユーモラスなタッチは後のハイパーリアリズムにも影響([[:commons:Category:Norman_Rockwell|カテゴリ]]) ファイル:Boys King Arthur - N. C. Wyeth - p16.jpg|ブランデーワイン派の[[N・C・ワイエス]]による『[[アーサー王物語|アーサー王と円卓の騎士]]』挿絵(1922年)。新中世趣味は現在の[[ファンタジー]]イラストの源流となった([[:commons:Category:N._C._Wyeth|カテゴリ]]) ファイル:Martinez Delgado 8.jpg|[[アール・デコ]]の影響を受けた[[サンティアゴ・マルティネス・デルガド]]のイラストレーション(1940年)([[:commons:Category:Santiago_Martinez_Delgado|カテゴリ]]) ファイル:LIFE 06191944 Eisenhower cover.jpg|[[写真週刊誌]]『[[ライフ (雑誌)|LIFE]]』(1936年創刊)。イラストレーションはメディアの主役の座を[[写真]]に明け渡す。写真もまた映像に座を譲り『LIFE』は1972年に休刊([[:commons:Category:Photojournalism|カテゴリ]]) <!--ファイル:Red copyright.svg|([[著作権]]保持期間の関係で20世紀後半のイラストレーション画像はありません。)--> ファイル:Disney-infinite-copyright.svg|([[著作権]]保持期間の関係で20世紀後半の画像は限定的なものになっています。画像は[[:en:User:AnonMoos|AnonMoos]]画、[[著作権延長法]]に抗議した[[ピクトグラム]]イラスト([[:commons:Category:Symbols of Copyright-Copyleft|カテゴリ]])) ファイル:Rayleigh-Taylor instability.jpg|[[レイリーテイラー不安定性]]。[[アメリカ合衆国エネルギー省|米エネルギー省]]作成。[[コンピュータグラフィックス]]による科学情報の[[可視化|視覚化]]([[:commons:Category:Scientific_visualization|カテゴリ]]) ファイル:Don't abbreviate as Wiki.png|[[User:Kasuga~jawiki|Kasuga~jawiki]]『[[Wikipedia:ウィキペたん|ウィキペたん]]』(2007年)。現代日本の高度に様式化された[[萌え絵|萌えイラスト]]。[[キッチナーの募兵ポスター]]の[[パロディ]]でもある([[:commons:Category:Wikipe-tan|カテゴリ]]) ファイル:Campus-SKOLKOVO.jpg|[[モスクワ]]のビジネススクール「SKOLKOVO」の[[遠近法#建築パース|建築パース]]図(2008年)。[[3次元コンピュータグラフィックス]]の利用が進んでいる([[:commons:Category:Architectural_visualisation_drawings|カテゴリ]]) ファイル:Swine_influenza_symptoms_on_swine-en.svg|米国立アレルギー感染症研究所による[[豚インフルエンザ]]の解説図(2009年)。情報の理解を助ける実用的なイラストの価値は今日もなお高い([[:commons:Category:Swine_flu|カテゴリ]]) </gallery> <!-- 残念ながら、20世紀中葉以降は著作権の壁のため掲載できる図版が限られています。 可能なら以下のものを追加してください: * 朝鮮の文人画などから1枚 * アフリカなどから1枚 * イスラム圏、インドから各1枚 * 戦後から数枚、特にピカソ・ウォーホル・リキテンスタイン。(日本のWikipediaではフェアユースの法理を盾に出来ないのが残念) * 「日本のイラストレーション」節で挙げられている戦後のイラストレーターから1枚 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 数は多いわりに、記述の中心とできるような日本語の文献がありませんでした。『世界イラストレーション史』のような本は出ないものか……グラフィックデザイン関係ならあるのですが。 --> * Émile Bayard, ''L'Illustration et les illustrateurs'', Librairie Ch. delagrave, Paris,1898, 384 p. * Michel Melot, ''L'Illustration; histoire d'un art'', éd. Skira, Genève, 1984. ISBN 2-605-00033-8 *: 以上2冊は仏語版の翻訳による部分の出典。 * {{Citation |editor=京都造形芸術大学 |year=1998 |date=1998-05-20 |title=イラストレーションの展開とタイポグラフィの領域 |series=情報デザインシリーズ |volume=Vol.1 |place=東京 |language= |publisher=[[角川書店]] |isbn=4-04-651401-9 }} *:227ページ。第1-2章(pp.5-65)がイラストレーション。榎本了壱による第1章はイラストレーション全体を見通し良く俯瞰。第2章は多数の執筆者が見開き2ページずつを担当したエッセイ的内容。巻末に用語集、参考図書一覧、索引を備える。 <!-- * [[粟津潔]]他『VISUALDESIGN3 イラストレーション』 [[六耀社]]、1993年、ISBN 4-89737-374-3 --> * {{Citation |editor=日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会 |year=1993 |date=1993-07-01 |title=VISUAL DESIGN3 イラストレーション |place=東京 |language= |publisher=[[六耀社]] |isbn=4-89737-167-8 }} ** {{Citation |editor=日本グラフィックデザイナー協会 教育委員会 |year=2000 |date=2000-04-10 |title=VISUAL DESIGN3 イラストレーション 改訂新版 |place=東京 |language= |publisher=[[六耀社]] |isbn=4-89737-374-3 }} *:119ページ、フルカラー。 デザイン志望者向け入門書シリーズの1冊。大量のカラー図版を含む。多数の執筆者が見開き2ページずつを担当。日本中心の内容となっている。改訂新版はCGの進出を反映しているほか、「世界のイラストレーション」の項目が追補されている。 * {{Citation |editor=美術手帖 |year=2010 |date=2010-10-22 |title=日本イラストレーション史 |place=東京 |language= |publisher=[[美術出版社]] |isbn=978-4-568-43069-1 }} *:152ページ、フルカラー。1950年代以降の日本のイラストレーションの歴史を、主要なイラストレーターのインタビューも交え綴る。SF、ファンタジー、ゲームなどの分野は対象外。『[[美術手帖]]』2010年1月号の特集の単行本化。 * {{Citation |last1 = 吉田 |first1= 光邦 |last2 = 東野 |first2= 芳明 |last3 = 多木 |first3= 浩二 |year = 1979 |month = 9 |title = [鼎談]図示表現の意味=認識と伝達機能の位相 |journal = [[美術手帖]] |volume = |issue = 454 |pages = pp. 120-145 |publisher = [[美術出版社]] |issn = |quote = }} *: 特集「イラストレーション=文化の図解」の一環。 * {{Citation |last=須長 |first=千夏 |year=2003 |date=2003-11-25 |title=イラストレーターになるには |place=東京 |language= |publisher=[[ぺりかん社]] |isbn=4-8315-1052-1 }} *: 158ページ。進路を考える若い人向けのシリーズの1冊。全体の約半分をイラストレーターのインタビュー、残りの半分を志望者向けの職業解説とアドバイスが占める。 * {{Citation |editor=イラストノート編集部 |year=2009 |date=2009-05-31 |title=プロとして知っておきたいノウハウ イラストレーターの仕事 |place=東京 |language= |publisher=[[誠文堂新光社]] |isbn=978-4-416-80960-0 }} *:125ページ。打ち合わせの実際やギャランティの相場などにまで踏み込んだ、より実践的なハウツー。 * {{Citation |last=ミラー |first=J・ヒリス |year=1996 |date= |title=イラストレーション |place= |language= |publisher=[[法政大学出版局]] |isbn=978-4-588-42005-4 }} *: 尾崎彰宏、加藤雅之訳。235ページ。原書は1992年。[[ハンス・ホルバイン|ホルバイン]]や[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]などを例に引きつつイラストレーションと言葉の関係を読み解いてゆく。いわゆるイラストレーションの美術史的解説ではない。 * {{Citation |last=小田切 |first=博 |year=2010 |date=2010-01-10 |title=キャラクターとは何か |place=東京 |language= |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4-480-06531-5 }} *: ちくま新書、202ページ。[[キャラクター]]をコンテンツでなくビジネスとして捉え解説。 == 関連項目 == {{Commonscat|Illustrations}} {{wiktionary|illustration}} * [[イラストレーター]]、[[イラストレーター一覧]] * [[グラフィックデザイン]]、[[ビジュアルデザイン]] - 視覚的に[[情報]]を伝達する[[デザイン]]分野。 * [[インフォグラフィック]] - 洗練された[[抽象化]]により情報を表現するイラストレーション形式。 * [[テクニカルイラストレーション]] - 技術情報に特化したイラストレーション。 * [[コンセプトアート]] - 実作する前にアイデアやデザインを先行して[[可視化]]するイラストレーション。 * [[クリップアート]] - 使い回して概念の説明に用いる記号的なイラストレーション。 * [[図解]]、[[挿絵]]、[[口絵]]、[[似顔絵]]、[[戯画|風刺画]]、[[絵本]]、[[漫画]]、[[カートゥーン]] - イラストレーションの一種もしくは密接な関係にある表現。 * [[デッサン]]、[[スケッチ]]、[[クロッキー]]、[[絵コンテ|画コンテ]] - タッチとして[[絵画]]よりイラストレーションに近い。<!-- ? --> * [[複製技術時代の芸術]] - イラストレーションは大量に複製されることを前提にした表現形式。<!-- 本文に織り込みたいのですが、ベンヤミンとイラストレーションの関係を明確に論じた文献が意外とない --> * [[ファッションイラストレーション]] - [[w:Fashion illustration|Fashion illustration]] * [[メディカルイラストレーション]] {{イラストレーション|state=uncollapsed}} {{美術|state=uncollapsed}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いらすとれえしよん}} [[Category:イラストレーション|*]] [[Category:美術のジャンル]] [[Category:絵画技術]]
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国民主権
国民主権(こくみんしゅけん、英語: popular sovereignty)は、主権者は国民であるという思想であり、国民が政治権力の責任主体であり、政府は国民の負託により運営される機関であるとする思想。 ここで言う「主権」とは、国政、即ち国の政治のあり方を最終的に決定することを意味する。 「国民主権」は、歴史的で多義的な概念であり、その時代、論者によって内容が異なる概念である。「主権在民」または「人民主権」ともいう。 「人民主権ないし国民主権」は、17~18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。「人民」と「国民」は、peuple プープルとnation ナシオン(フランス語の表記。英語ではpeopleとnation)という対立的な概念として図式化されることもある また「人民主権ないし国民主権」は、フランス、ドイツのほか、アメリカ合衆国、日本(日本国憲法は「国民主権」を明記している) 他、多くの国家の現行憲法で採用されている。ただし、その内容は必ずしも同一ではない。 これらの国に対し、英国では「国会主権」がとられているが政治的な主権は市民が有するとされている。 「人民主権」の原型は、古代ギリシアの民主政(democracy)に求めることができる。democracyは、古典ギリシア語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせたデモクラティア(democratia)が語源であり、直訳すれば「民権」ないし「民衆支配」である。中世的な身分社会を前提とした古典的な意味での民権論は、アーブロース宣言にまで遡ることができる。 他方、「主権」の概念の原型は、ローマ法の法学者ウルピアヌスの「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)に遡ることができるが、ジャン・ボーダンによって近代的な意味を与えられて確立された概念とされている。 主権概念と結びついた近代的な意味での「人民主権ないし国民主権」の概念は、17 - 18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。ロックとルソーの人民主権は相当に内容が異なり、ロック流の人民主権論は、アメリカ合衆国憲法に、ルソー流の人民主権論は、フランス革命に影響を与えたとされているが、当時は、民主政の概念とは区別され、必ずしも民主政と結びつく概念ではなく、逆に、君主政、貴族政とも結びつき得る概念であるとされていた。 1776年のバージニア憲法が人民主権を採用した初めての憲法とされ、他の州の憲法や、アメリカ合衆国憲法もこれを引き継いだ。 フランス革命の際、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは、プープル主権論(souveraineté du peuple)を採用しつつも直接民主制を肯定するルソーのプープル主権論を批判して、主権と国家の統治組織を創設する憲法制定権力(制憲権)を区別した上で、主権は人民のみが有し、制憲権を有するのは主権者のみであるが、制憲権によって創設された組織上の権力を行使する者は必ずしも人民ではないとして、代表民主制を直接民主制よりも優れた制度であるとした。1791年憲法は、シェイエスの理論に忠実に、代表制と制限選挙制を採用したが、主権はナシオンに属するとした。このようにナシオン主権論(souveraineté nationale)は歴史的には君主主権とプープル主権論の双方を否定するために、発展した概念であった。ナシオン主権論とプープル主権論の二者の図式的に対立させたのは、第三共和制下におけるレイモン・カレ・ド・マルベールであり、初めてナシオンとプープルの違いを意識的に区別して、プープル主権を体現したのが1793年憲法であるとした。ナシオン主権論によれば、主権者たる「国民」の意思は抽象的にしか存在しえず、これは自由委任に基づく代表者による討論の中で再現されるので、純粋代表制が要請される。また、制限選挙制と結び付くのは、抽象的な国民の意思を再現すべき自由委任に基づく代表者の選出には、一定の能力が必要とされると考えられるからである。プープル主権論によれば、主権者たる「人民」の意思は、現に存在する人々の具体的な意思であり、直接民主制によって具体的に表される。また、プープル主権は普通選挙制と密接に結びつくが、それは全国民からあまねく意思を吸い上げることで、具体的な国民の意思が表れると考えられるからである。 後進資本主義国であったドイツでは、1848年になって、主権者である人民が皇帝を選挙によって選ぶという人民主権に基づく自由主義的なフランクフルト憲法が制定されたが、選挙によって選ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝になることを拒否し、1850年、自らが王権神授説・君主主権に基づく欽定憲法であるプロイセン憲法を制定した。その後、プロイセンは、1871年、他の君主制国と合して一つの連邦を作り、ビスマルク憲法を制定して君主主権をとっていたが、1919年制定されたワイマール憲法で「国民主権」がとられることになった。 同じく日本では、1874年から始まる自由民権運動が広がりを見せ主権在民が唱えられたことがあるが、明治十四年の政変によって、1889年、プロイセン憲法を参考にした明治憲法を制定し主権という記述は取り入れられなかった。その後、主権の所在問題を回避する民本主義や国家権力の源泉としての主権を国家に帰属させた天皇機関説が唱えられ、そのことを誤解或いは批判した天皇機関説事件が起きたが、1946年に公布された日本国憲法によって「国民主権」がとられることになった。 アメリカ合衆国憲法自体には、国民主権という文字はない。しかし、州憲法に国民が権力の源泉である旨が記載されており、あるいは合衆国最高裁判所の判決によってしばしば言及されており、非明示的に認識されている。以下の記述は合衆国政府の解説による。 米国は民主主義の国家として分類されることが多いが、より正確に言えば、立憲連邦共和国と定義することができる。これはどのような意味だろうか。「立憲」とは、米国の政府が、国の最高法規である憲法に基づいていることを指す。憲法は、連邦政府と州政府の機構の枠組みを提供するだけでなく、政府の権限に大幅な制限を課している。「連邦」とは、中央の政府と50 州の政府から成ることを意味する。「共和国」は、主権は国民が持つが、選出された代表者がその権力を行使する政体である。 「国民自身以外に、社会の最高権力の安全な預託先を私は知らない」 -トマス・ジェファーソン、1820年 合衆国最高裁における初期の判決Chisholm v. Georgia, 事件においてジョン・ジェイ最高裁長官は、以下のように述べた。 国または国家の主権とは、統治する権利である。国民または国家の主権とは、一人の人または、住んでいる人たちである。欧州においては、主権は国王に与えられている。ここ(合衆国)では、人民(the people)に存する。欧州では、主権は実際に政府を運営させている。ここでは、決して単一の人またはものに存在しない。我々の州知事たちは、人民の代理人であるし、人民と州知事たちとの関係は、国王と摂政の関係に代わるものでしかない。 別の最高裁判例である、Yick Wo v. Hopkins,事件において、最高裁長官Matthewsは以下のように記述している。 我々が政府の機関の理論と性質や、よって立つことになっている原理を考えて、これらの発展の歴史を眺めるときに、私有的かつ恣意的な力の振る舞う余地を残すことを意味することはないと結論せざるを得ない。主権それ自体は、もちろんのことであるが、法に従わない。主権は法の著者であり、源である。しかしながら、われわれのシステムにおいては、権力としての主権(sovereign powers)は政府の官吏たちに与えられているが、主権それ自体(sovereign itself)は、人民に存する。そして、政府の存在意義は、主権それ自体にあるのであり、政府の行動は、主権それ自体によって立つものである。そして法は、権力を定義して制限する。実際には、権力が最終決定の権限である何者かの手を通して行使されることは正しいのである。そして、単に多くの行政の場合においては、責任は、純然たる政治的なものであり、(中略)、参政権の手段や、世論の圧力によってその責任は問われるだけである。しかしながら、個人が保有しているとみなされる、基本的な生命、自由、幸福追求の権利には、憲法的な法の格言によって保護されている。そして、この憲法格言は、人間に正当かつ平等な法の統治の下における市民的恵みを保障するための争いにおける勝利的な進歩の記念碑なのである。 これらの判決では、主権を意味する単語"sovereignty, sovereign"が、現在の解釈と異なることなく用いられている。 日本では、日本国憲法前文と日本国憲法第1条が国民主権を定めている。日本の学説においては平和主義、基本的人権の尊重とともに三大原則の一つとされている。この憲法における国民主権は、個人主義と人権思想の原理に立脚する、とされている。 国民主権の下では、主権は国民に由来し、国民は選挙を通じて代表機関である議会、もしくは国民投票などを通じて主権を行使する。その責任もまた国民に帰趨する。 歴史的にはかつて「必ずしも君主主権と相反するものではない」などともされていたが、日本国憲法下の学説では君主主権を否定する原理であるとするものが多い。 日本国憲法の制定後、まもなく生じた尾高・宮沢論争を経て、国民主権とは、全国民が国家権力を究極的に根拠づけ正当化する権威を有すること(正当性の契機)に尽きるとの宮沢説が伝統的見解となった。この見解は、国民主権を君主主権ないし天皇主権を否定する概念とする一方で、正当性の契機における「国民」は、国家権力を正当化し権威付ける根拠であるから、有権者に限定されず、抽象的な全国民を意味するとする。そして、その権威は国民に由来するが、権力は代表民主制に基づき、「国権の最高機関」である国会が行使すると解した上で、憲法上、要請される代表制は、選挙民の意思に拘束されない自由委任を前提とした「政治学的代表」を意味するとする。 以上のような伝統的な見解に対しては、現状、隠蔽的機能ないし体制イデオロギー的機能を有しており、科学的認識に基づき克服されるべきものと批判して、フランスの学説を参考に、「国民」を「現に存在する人の集団(能動的市民からなる有権者団)」と考えるプープル(peuple。英語で言うpeople)主権論を主張する見解が現われた。 杉原泰雄は、プープル主権論によれば、伝統的な見解は、「国民」を「過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団」と考え、純粋代表制、制限選挙制と密接に結びつくナシオン(nation)主権と同視してよく、普通選挙制を採用する日本国憲法に合致しない非民主的な主張と批判されることになる。もっとも、日本国憲法は、明確に代表制を採用しており、プープル主権によっても、直接民主制を採ることはできないので、実在する民意との合致の要請を含む半代表制を要請するものとする。 杉原は、エスマン流の半代表制をとりつつ、それを更にルソー流に徹底させて、法律で命令的委任、国会議員のリコール制等の直接民主的制度を定めることも憲法上許容されるとする。 このように、プープル主権論によれば、主権は、単なる法的政治的な理念ではなく、国民に国家の意思力そのものが帰属している状態が確保されるように憲法組織が構成されるべきという原理を含んだものと解されるのである。 また、樋口陽一は、事実と規範の問題を峻別した上で、科学的な事実認識に立つのであれば、日本国憲法が採用するのはプープル主権であり、普通選挙制度はその要請であるとする点については、杉原に賛成しつつも、規範の問題としてはプープル主権の名の下に、命令的委任等の直接民主制的制度の導入を合憲とするのに反対する。プープルの有する制憲権は、一度発動した以上は制度の中に永久凍結されてしまい、過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団である国民が主権を有するという建前に変化したとみて、伝統的見解と結論を同じくする。 他方で、代表制については、単なる政治学的代表であるという伝統的見解のイデオロギー性を批判して、半代表制であると解しつつも、なお自由委任の有する重要性は減じていないとしてマルベール流の半代表制をとる。樋口によれば、杉原流のプープル主権論は、かえってその時々の政治権力の行使を正当化する反憲法・人権侵害的なイデオロギー的機能を有することになる。 さらに芦部信喜は、そもそも上記のような特殊フランス的な議論の建て方をする必要はないとする一方で、国民主権は正当性の契機に尽きるとの伝統的見解を前提としつつも、プープル主権論の問題提起を受け止めて理論的に再構築した。それが国民主権は、正当性の契機につきるものではなく、国家の最終的な意思決定を行う権力を行使する権力的契機の二つを含むという見解であり、これはボン基本法におけるドイツの通説と基本的立場を同じくする。 この見解は、権力的契機の面における「国民」は有権者団を意味するものと解した上で、権力的契機は国家の最終的な意思決定権力の行使であるから、具体的には国家の最高規範の定立、すなわち、憲法制定権力の行使として表れるが、制憲権の行使を自由に認めることは憲法秩序の不安定化を招くため、制憲権の行使たる憲法制定時に、制憲権自身がその権力を、制度化された制憲権としての憲法改正権として憲法中に封じ込めたと解し、日本国憲法の代表制は、単なる政治学的代表ではなく、国会の意思と実在する民意との事実上の合致の要請を含む「社会学的代表」であるとする。 樋口流のプープル主権論に一定の理解を示して半代表と極めて類似した概念をとりつつも、命令委任等の法的拘束力を有する直接民主制的制度の導入は憲法上禁止されていると解する。 日本国憲法については43条に規定があり、明文上は自由委任を原則として代表制をとり、例外的に、憲法改正の国民投票(96条)、最高裁判所裁判官の国民審査(79条)などについて、国民投票制度を採用しているが、これら明文に定める以外に国民投票制度を法律で制定することができるかについては解釈上で争いがある。 「国会は唯一の立法機関である」(41条)とされていることから、投票の結果に国会が拘束されるという国民投票制度は違憲であるという点にはほぼ異論はないが、その結果を国会が参照にするだけの諮問的な国民投票制度は憲法に反しないかが問題とされる。 ナシオン主権論によれば、自由委任・代表制に反することから、このような制度を制定することは、憲法に反するとされるが、プープル主権論によれば、許容されるのみならず、半代表制の要請であると解釈されている。 イギリスは立憲君主国であり、主権は「議会における国王または女王」(King/Queen in Parlament)にあるとされ「議会主権ないし国会主権」(Parliamentary Sovereignty)と呼ばれている。これは法学者アルバート・ヴェン・ダイシーの著作(『憲法序説』1885年)にちなみダイシー伝統と呼ばれる。ダイシーはイギリスの政治体系は「議会における国王主権」「法の支配」「憲法習律」にあるとし、国王は尊厳を代表し、実際の作用は貴族院・庶民院両院が行う。行政権は下院に融合されているが、最高裁は上院に属している。君主は法の擁護者であるが、それゆえ「法の支配」に従う。ただし、欧州人権裁判所による強制力を有する欧州人権条約に加盟しているため、EUを脱退しない限りにおいては、この条約に定められている人権は、議会主権に優越している。つまり、この条約を国内法に組み込むために制定されたHuman Rights Act 1998(英語版)との不適合性Declaration of incompatibility(英語版)の判定を連合王国最高裁判所を含む司法機関の判定によって判断できることにより、アメリカでいう付随審査的な違憲審査権を実装している。 このように、イギリスは、「人民主権ないし国民主権」をとるものではないが、「憲法習律」を介して「政治的主権」は市民にあるとされることがある。「憲法習律」は、裁判規範ではないが、単なる政治慣例や慣行とは異なり、政治家にゆだねられた行動規範であり、君主と政治家を拘束する。憲法習律違反があったときは、市民は下院議員の選挙を通じて政治的な実権を行使するのである。
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"杉原泰雄は、プープル主権論によれば、伝統的な見解は、「国民」を「過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団」と考え、純粋代表制、制限選挙制と密接に結びつくナシオン(nation)主権と同視してよく、普通選挙制を採用する日本国憲法に合致しない非民主的な主張と批判されることになる。もっとも、日本国憲法は、明確に代表制を採用しており、プープル主権によっても、直接民主制を採ることはできないので、実在する民意との合致の要請を含む半代表制を要請するものとする。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "杉原は、エスマン流の半代表制をとりつつ、それを更にルソー流に徹底させて、法律で命令的委任、国会議員のリコール制等の直接民主的制度を定めることも憲法上許容されるとする。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このように、プープル主権論によれば、主権は、単なる法的政治的な理念ではなく、国民に国家の意思力そのものが帰属している状態が確保されるように憲法組織が構成されるべきという原理を含んだものと解されるのである。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、樋口陽一は、事実と規範の問題を峻別した上で、科学的な事実認識に立つのであれば、日本国憲法が採用するのはプープル主権であり、普通選挙制度はその要請であるとする点については、杉原に賛成しつつも、規範の問題としてはプープル主権の名の下に、命令的委任等の直接民主制的制度の導入を合憲とするのに反対する。プープルの有する制憲権は、一度発動した以上は制度の中に永久凍結されてしまい、過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団である国民が主権を有するという建前に変化したとみて、伝統的見解と結論を同じくする。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "他方で、代表制については、単なる政治学的代表であるという伝統的見解のイデオロギー性を批判して、半代表制であると解しつつも、なお自由委任の有する重要性は減じていないとしてマルベール流の半代表制をとる。樋口によれば、杉原流のプープル主権論は、かえってその時々の政治権力の行使を正当化する反憲法・人権侵害的なイデオロギー的機能を有することになる。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さらに芦部信喜は、そもそも上記のような特殊フランス的な議論の建て方をする必要はないとする一方で、国民主権は正当性の契機に尽きるとの伝統的見解を前提としつつも、プープル主権論の問題提起を受け止めて理論的に再構築した。それが国民主権は、正当性の契機につきるものではなく、国家の最終的な意思決定を行う権力を行使する権力的契機の二つを含むという見解であり、これはボン基本法におけるドイツの通説と基本的立場を同じくする。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この見解は、権力的契機の面における「国民」は有権者団を意味するものと解した上で、権力的契機は国家の最終的な意思決定権力の行使であるから、具体的には国家の最高規範の定立、すなわち、憲法制定権力の行使として表れるが、制憲権の行使を自由に認めることは憲法秩序の不安定化を招くため、制憲権の行使たる憲法制定時に、制憲権自身がその権力を、制度化された制憲権としての憲法改正権として憲法中に封じ込めたと解し、日本国憲法の代表制は、単なる政治学的代表ではなく、国会の意思と実在する民意との事実上の合致の要請を含む「社会学的代表」であるとする。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "樋口流のプープル主権論に一定の理解を示して半代表と極めて類似した概念をとりつつも、命令委任等の法的拘束力を有する直接民主制的制度の導入は憲法上禁止されていると解する。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本国憲法については43条に規定があり、明文上は自由委任を原則として代表制をとり、例外的に、憲法改正の国民投票(96条)、最高裁判所裁判官の国民審査(79条)などについて、国民投票制度を採用しているが、これら明文に定める以外に国民投票制度を法律で制定することができるかについては解釈上で争いがある。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「国会は唯一の立法機関である」(41条)とされていることから、投票の結果に国会が拘束されるという国民投票制度は違憲であるという点にはほぼ異論はないが、その結果を国会が参照にするだけの諮問的な国民投票制度は憲法に反しないかが問題とされる。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ナシオン主権論によれば、自由委任・代表制に反することから、このような制度を制定することは、憲法に反するとされるが、プープル主権論によれば、許容されるのみならず、半代表制の要請であると解釈されている。", "title": "日本における国民主権" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "イギリスは立憲君主国であり、主権は「議会における国王または女王」(King/Queen in Parlament)にあるとされ「議会主権ないし国会主権」(Parliamentary Sovereignty)と呼ばれている。これは法学者アルバート・ヴェン・ダイシーの著作(『憲法序説』1885年)にちなみダイシー伝統と呼ばれる。ダイシーはイギリスの政治体系は「議会における国王主権」「法の支配」「憲法習律」にあるとし、国王は尊厳を代表し、実際の作用は貴族院・庶民院両院が行う。行政権は下院に融合されているが、最高裁は上院に属している。君主は法の擁護者であるが、それゆえ「法の支配」に従う。ただし、欧州人権裁判所による強制力を有する欧州人権条約に加盟しているため、EUを脱退しない限りにおいては、この条約に定められている人権は、議会主権に優越している。つまり、この条約を国内法に組み込むために制定されたHuman Rights Act 1998(英語版)との不適合性Declaration of incompatibility(英語版)の判定を連合王国最高裁判所を含む司法機関の判定によって判断できることにより、アメリカでいう付随審査的な違憲審査権を実装している。", "title": "イギリスの議会主権" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このように、イギリスは、「人民主権ないし国民主権」をとるものではないが、「憲法習律」を介して「政治的主権」は市民にあるとされることがある。「憲法習律」は、裁判規範ではないが、単なる政治慣例や慣行とは異なり、政治家にゆだねられた行動規範であり、君主と政治家を拘束する。憲法習律違反があったときは、市民は下院議員の選挙を通じて政治的な実権を行使するのである。", "title": "イギリスの議会主権" } ]
国民主権は、主権者は国民であるという思想であり、国民が政治権力の責任主体であり、政府は国民の負託により運営される機関であるとする思想。
{{民主主義}} '''国民主権'''(こくみんしゅけん、{{lang-en|popular sovereignty}})は、[[主権者]]は国民であるという思想であり、[[国民]]が[[政治]]権力の責任主体であり、政府は国民の負託により運営される機関であるとする思想。 == 国民主権とは == ここで言う「[[主権]]」とは、国政、即ち国の政治の[[あり方]]を最終的に決定することを意味する。 「国民主権」は、歴史的で多義的な概念であり、その時代、論者によって内容が異なる概念である。「主権在民」または「人民主権」ともいう。 「人民主権ないし国民主権」は、17~18世紀にかけて、[[社会契約説]]の概念を背景に、[[ジョン・ロック|ロック]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]によって発展させられた概念である。「[[人民]]」と「[[国民]]」は、peuple プープルとnation ナシオン(フランス語の表記。英語ではpeopleとnation)という対立的な概念として図式化されることもある また「人民主権ないし国民主権」は、[[フランス]]、[[ドイツ]]のほか、[[アメリカ合衆国]]<ref group="注">ただしアメリカ合衆国憲法には「国民主権」と明記した条文は存在しない</ref>、[[日本]]([[日本国憲法]]は「国民主権」を明記している) 他、多くの[[国家]]の現行[[憲法]]で採用されている。ただし、その内容は必ずしも同一ではない。 これらの国に対し、[[英国]]では「国会主権」がとられているが政治的な主権は市民が有するとされている。 == 歴史 == 「[[人民主権]]」の原型は、[[古代ギリシア]]の[[民主政]](democracy)に求めることができる。democracyは、古典ギリシア語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせたデモクラティア(democratia)が語源であり、直訳すれば「民権」ないし「民衆支配」である。中世的な身分社会を前提とした古典的な意味での民権論は、[[アーブロース宣言]]にまで遡ることができる。 他方、「主権」の概念の原型は、[[ローマ法]]の法学者[[ウルピアヌス]]の「[[プリンケプス|元首]]は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)に遡ることができるが、[[ジャン・ボーダン]]によって近代的な意味を与えられて確立された概念とされている。 主権概念と結びついた近代的な意味での「人民主権ないし国民主権」の概念は、17 - 18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。ロックとルソーの人民主権は相当に内容が異なり、ロック流の人民主権論は、[[アメリカ合衆国憲法]]に、ルソー流の人民主権論は、[[フランス革命]]に影響を与えたとされているが、当時は、[[民主政]]の概念とは区別され、必ずしも民主政と結びつく概念ではなく、逆に、[[君主政]]、[[貴族政]]とも結びつき得る概念であるとされていた。 [[1776年]]の[[バージニア憲法]]が人民主権を採用した初めての[[憲法]]とされ、他の州の憲法や、アメリカ合衆国憲法もこれを引き継いだ<ref group="注">アメリカ合衆国では、[[奴隷制]]の採否という特殊な文脈で人民主権論が議論されたことがある。そこでは、その領土またはその州の主権を有する人民が奴隷制の採否を自由に決めることができ、連邦政府や他州の政府の干渉を受けないと[[スティーブン・ダグラス]]によって主張され、[[1850年協定]]や[[カンザス・ネブラスカ法]]で採用されることになった。</ref>。 フランス革命の際、[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]は、プープル主権論(souveraineté du peuple)を採用しつつも直接民主制を肯定するルソーのプープル主権論を批判して、主権と国家の統治組織を創設する[[憲法制定権力]](制憲権)を区別した上で、主権は人民のみが有し、制憲権を有するのは主権者のみであるが、制憲権によって創設された組織上の権力を行使する者は必ずしも人民ではないとして、[[代表民主制]]を直接民主制よりも優れた制度であるとした<ref>[[高野敏樹]]『社会契約と主権(1)-憲法制定権力論の視点からみたシェイエス理論とルソー理論の位相-』(Sophia Junior College Faculty Journal Vol.28, 2008, 27-39)</ref>。[[1791年憲法]]は、シェイエスの理論に忠実に、代表制と制限選挙制を採用したが、主権はナシオンに属するとした。このようにナシオン主権論(souveraineté nationale)は歴史的には君主主権とプープル主権論の双方を否定するために、発展した概念であった。ナシオン主権論とプープル主権論の二者の図式的に対立させたのは、[[フランス第三共和政|第三共和制]]下における[[レイモン・カレ・ド・マルベール]]であり、初めてナシオンとプープルの違いを意識的に区別して、プープル主権を体現したのが[[1793年憲法]]であるとした。ナシオン主権論によれば、主権者たる「国民」の意思は抽象的にしか存在しえず、これは[[自由委任]]に基づく代表者による討論の中で再現されるので、[[純粋代表制]]が要請される。また、制限選挙制と結び付くのは、抽象的な国民の意思を再現すべき自由委任に基づく代表者の選出には、一定の能力が必要とされると考えられるからである。プープル主権論によれば、主権者たる「人民」の意思は、現に存在する人々の具体的な意思であり、直接民主制によって具体的に表される。また、プープル主権は[[普通選挙|普通選挙制]]と密接に結びつくが、それは全国民からあまねく意思を吸い上げることで、具体的な国民の意思が表れると考えられるからである。 後進資本主義国であったドイツでは、[[1848年]]になって、主権者である人民が[[皇帝]]を選挙によって選ぶという人民主権に基づく自由主義的な[[パウロ教会憲法|フランクフルト憲法]]が制定されたが、選挙によって選ばれた[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]が皇帝になることを拒否し、[[1850年]]、自らが王権神授説・君主主権に基づく欽定憲法である[[プロイセン憲法]]を制定した。その後、プロイセンは、[[1871年]]、他の君主制国と合して一つの連邦を作り、[[ビスマルク憲法]]を制定して君主主権をとっていたが、[[1919年]]制定された[[ワイマール憲法]]で「国民主権」がとられることになった。 同じく[[日本]]では、[[1874年]]から始まる[[自由民権運動]]が広がりを見せ主権在民が唱えられたことがあるが、[[明治十四年の政変]]によって、[[1889年]]、プロイセン憲法を参考にした[[明治憲法]]を制定し主権という記述は取り入れられなかった。その後、主権の所在問題を回避する[[民本主義]]や国家権力の源泉としての主権を国家に帰属させた[[天皇機関説]]が唱えられ、そのことを誤解或いは批判した[[天皇機関説事件]]が起きたが、[[1946年]]に公布された[[日本国憲法]]によって「国民主権」がとられることになった。 ==アメリカの国民主権== [[アメリカ合衆国憲法]]自体には、国民主権という文字はない。しかし、州憲法に国民が権力の源泉である旨が記載されており、あるいは[[合衆国最高裁判所]]の判決によってしばしば言及されており、非明示的に認識されている。以下の記述は合衆国政府<ref>http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-ejournals-usgovernment1.html </ref>の解説による。 <blockquote> 米国は民主主義の国家として分類されることが多いが、より正確に言えば、立憲連邦共和国と定義することができる。これはどのような意味だろうか。「[[立憲]]」とは、米国の政府が、国の最高法規である憲法に基づいていることを指す。[[憲法]]は、連邦政府と州政府の機構の枠組みを提供するだけでなく、政府の権限に大幅な制限を課している。「[[連邦]]」とは、中央の政府と50 州の政府から成ることを意味する。「[[共和国]]」は、主権は国民が持つが、選出された代表者がその権力を行使する政体である。 「国民自身以外に、社会の最高権力の安全な預託先を私は知らない」 -トマス・ジェファーソン、1820年 </blockquote> [[合衆国最高裁]]における初期の判決Chisholm v. Georgia, 事件において[[ジョン・ジェイ]]最高裁長官は、以下のように述べた。<ref>http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=2&invol=419</ref> <blockquote>国または国家の主権とは、統治する権利である。国民または国家の主権とは、一人の人または、住んでいる人たちである。[[欧州]]においては、主権は[[国王]]に与えられている。ここ(合衆国)では、人民(the people)に存する。欧州では、主権は実際に政府を運営させている。ここでは、決して単一の人またはものに存在しない。我々の州知事たちは、人民の代理人であるし、人民と[[州知事]]たちとの関係は、[[国王]]と[[摂政]]の関係に代わるものでしかない。</blockquote> 別の最高裁判例である、Yick Wo v. Hopkins,事件において、最高裁長官Matthewsは以下のように記述している。<ref>http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=118&invol=356</ref> <blockquote> 我々が政府の機関の理論と性質や、よって立つことになっている原理を考えて、これらの発展の歴史を眺めるときに、私有的かつ恣意的な力の振る舞う余地を残すことを意味することはないと結論せざるを得ない。主権それ自体は、もちろんのことであるが、法に従わない。主権は法の著者であり、源である。しかしながら、われわれのシステムにおいては、権力としての主権(sovereign powers)は政府の官吏たちに与えられているが、主権それ自体(sovereign itself)は、人民に存する。そして、政府の存在意義は、主権それ自体にあるのであり、政府の行動は、主権それ自体によって立つものである。そして法は、権力を定義して制限する。実際には、権力が最終決定の権限である何者かの手を通して行使されることは正しいのである。そして、単に多くの行政の場合においては、責任は、純然たる政治的なものであり、(中略)、参政権の手段や、[[世論]]の圧力によってその責任は問われるだけである。しかしながら、個人が保有しているとみなされる、基本的な生命、自由、幸福追求の権利には、憲法的な法の格言によって保護されている。そして、この憲法格言は、人間に正当かつ平等な法の統治の下における市民的恵みを保障するための争いにおける勝利的な進歩の記念碑なのである。</blockquote> これらの判決では、主権を意味する単語"sovereignty, sovereign"が、現在の解釈と異なることなく用いられている。 <!-- <blockquote> But the fundamental rights to life, liberty, and the pursuit of happiness, considered as individual possessions, are secured by those maxims of constitutional law which are the monuments showing the victorious progress of the race in securing to men the blessings of civilization under the reign of just and equal laws, so that, in the famous language of the Massachusetts Bill of Rights, the government of the commonwealth "may be a government of laws, and not of men." For the very idea that one man may be compelled to hold his life, or the means of living, or any material right essential to the enjoyment of life at the mere will of another seems to be intolerable in any country where freedom prevails, as being the essence of slavery itself.<ref>Yick Wo v. Hopkins, 118 U.S. 356 (1886) - in part</ref></blockquote>When we consider the nature and the theory of our institutions of government, the principles upon which they are supposed to rest, and review the history of their development, we are constrained to conclude that they do not mean to leave room for the play and action of purely personal and arbitrary power. Sovereignty itself is, of course, not subject to law, for it is the author and source of law; but, in our system, while sovereign powers are delegated to the agencies of government, sovereignty itself remains with the people, by whom and for whom all government exists and acts. And the law is the definition and limitation of power. It is, indeed, quite true that there must always be lodged somewhere, and in some person or body, the authority of final decision, and in many cases of mere administration, the responsibility is purely political, no appeal lying except to the ultimate tribunal of the public judgment, exercised either in the pressure of opinion or by means of the suffrage. これらの判決では、主権を意味する(soverignty)が、現在の解釈と異なることなく用いられている。--> == 日本における国民主権 == ===概略=== 日本では、[[日本国憲法前文]]と[[日本国憲法第1条]]が国民主権を定めている。日本の学説においては[[平和主義]]、基本的[[人権]]の尊重とともに三大原則の一つとされている。この憲法における国民主権は、[[個人主義]]と人権思想の原理に立脚する、とされている。 国民主権の下では、[[主権]]は[[国民]]に由来し、国民は[[選挙]]を通じて代表機関である[[議会]]、もしくは[[国民投票]]などを通じて主権を行使する。その責任もまた国民に{{ruby|帰趨|きすう}}する。 歴史的にはかつて「必ずしも[[君主主権]]と相反するものではない」などともされていたが、日本国憲法下の学説では君主主権を否定する原理であるとするものが多い。 === 伝統的見解 === 日本国憲法の制定後、まもなく生じた[[尾高・宮沢論争]]を経て、国民主権とは、全国民が[[国家権力]]を究極的に根拠づけ正当化する[[権威]]を有すること('''正当性の契機''')に尽きるとの宮沢説が伝統的見解となった<ref>『全訂日本国憲法』</ref>。この見解は、国民主権を君主主権ないし天皇主権を否定する概念とする一方で、正当性の契機における「国民」は、国家権力を正当化し権威付ける根拠であるから、有権者に限定されず、抽象的な全国民を意味するとする。そして、その権威は国民に由来するが、権力は[[代表民主制]]に基づき、「[[国権]]の最高機関」である[[国会]]が行使すると解した上で、憲法上、要請される代表制は、選挙民の意思に拘束されない自由委任を前提とした「政治学的代表」を意味するとする。 === プープル主権論の復権 === 以上のような伝統的な見解に対しては、現状、隠蔽的機能ないし体制[[イデオロギー]]的機能を有しており、[[科学]]的認識に基づき克服されるべきものと批判して、フランスの学説を参考に、「国民」を「現に存在する人の集団(能動的市民からなる有権者団)」と考えるプープル(peuple。英語で言うpeople)主権論を主張する見解が現われた。 [[杉原泰雄]]は、プープル主権論によれば、伝統的な見解は、「国民」を「過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団」と考え、純粋代表制、制限選挙制と密接に結びつくナシオン(nation)主権と同視してよく、普通選挙制を採用する日本国憲法に合致しない非民主的な主張と批判されることになる。もっとも、日本国憲法は、明確に代表制を採用しており、プープル主権によっても、直接民主制を採ることはできないので、実在する民意との合致の要請を含む[[半代表]]制を要請するものとする<ref group="注">半代表制とは、フランスの公法学者[[アデマール・エスマン]]がイギリスの代表制を参考に現在はフランスに存在しない制度としてアイデアを提示した概念で、「議会の意思が実在する民意をできる限り忠実に反映するため、(1)代表者たる議員が普通選挙・比例代表制によって選ばれ、(2)命令的委任を認め、(3)人民投票によって補完される」、[[直接民主制]]と半分ミックスされた代表制である。</ref>。 杉原は、エスマン流の半代表制をとりつつ、それを更にルソー流に徹底させて、法律で命令的委任、国会議員の[[リコール]]制等の直接民主的制度を定めることも憲法上許容されるとする<ref group="注">欧州の現行憲法では、命令的委任と解することを明示的に禁止するものがある。第五共和制フランス憲法27条1項は、「命令的委任はすべて無効である」と規定し、ドイツ連邦共和国基本法38条「・・・議員は、国民全体の代表者であって、委任及び指示に拘束されず、かつ自己の良心にのみ従う」と規定している[http://homepage3.nifty.com/constitution/resume/07-gov-5.pdf]。</ref>。 このように、プープル主権論によれば、主権は、単なる法的政治的な理念ではなく、国民に国家の意思力そのものが帰属している状態が確保されるように憲法組織が構成されるべきという原理を含んだものと解されるのである。 === 展開 === また、[[樋口陽一]]は、事実と規範の問題を{{ruby|峻別|しゅんべつ}}した上で、科学的な事実認識に立つのであれば、日本国憲法が採用するのは[[プープル主権]]であり、[[普通選挙制度]]はその要請であるとする点については、杉原に賛成しつつも、規範の問題としてはプープル主権の名の下に、命令的委任等の直接民主制的制度の導入を[[合憲]]とするのに反対する。プープルの有する制憲権は、一度発動した以上は制度の中に永久凍結されてしまい、過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団である国民が主権を有するという建前に変化したとみて、伝統的見解と結論を同じくする。 他方で、代表制については、単なる政治学的代表であるという伝統的見解のイデオロギー性を批判して、半代表制であると解しつつも、なお自由委任の有する重要性は減じていないとしてマルベール流の半代表制をとる。樋口によれば、杉原流のプープル主権論は、かえってその時々の政治権力の行使を正当化する反憲法・人権侵害的なイデオロギー的機能を有することになる。 さらに[[芦部信喜]]は、そもそも上記のような特殊フランス的な議論の建て方をする必要はないとする一方で、国民主権は正当性の契機に尽きるとの伝統的見解を前提としつつも、プープル主権論の問題提起を受け止めて理論的に再構築した。それが国民主権は、正当性の契機につきるものではなく、国家の最終的な意思決定を行う権力を行使する'''権力的契機'''の二つを含むという見解であり、これはボン基本法におけるドイツの通説と基本的立場を同じくする。 この見解は、権力的契機の面における「国民」は有権者団を意味するものと解した上で、権力的契機は国家の最終的な意思決定権力の行使であるから、具体的には国家の最高規範の定立、すなわち、憲法制定権力の行使として表れるが、制憲権の行使を自由に認めることは憲法秩序の不安定化を招くため、制憲権の行使たる憲法制定時に、制憲権自身がその権力を、制度化された制憲権としての[[憲法改正権]]として憲法中に封じ込めたと解し、日本国憲法の代表制は、単なる政治学的代表ではなく、国会の意思と実在する民意との事実上の合致の要請を含む「社会学的代表」であるとする。 樋口流のプープル主権論に一定の理解を示して半代表と極めて類似した概念をとりつつも、命令委任等の法的拘束力を有する直接民主制的制度の導入は憲法上禁止されていると解する。 === 代表制及び国民投票制度との関係 === 日本国憲法については[[日本国憲法第43条|43条]]に規定があり<ref group="注">「(両議院は、)全国民を代表する(選挙された議員でこれを組織する)」</ref>、明文上は自由委任を原則として代表制をとり、例外的に、[[憲法改正]]の[[国民投票]](96条)、[[最高裁判所裁判官]]の[[国民審査]](79条)などについて、国民投票制度を採用しているが、これら明文に定める以外に国民投票制度を法律で制定することができるかについては解釈上で争いがある。 「国会は唯一の立法機関である」(41条)とされていることから、投票の結果に国会が拘束されるという国民投票制度は違憲であるという点にはほぼ異論はないが、その結果を国会が参照にするだけの諮問的な国民投票制度は憲法に反しないかが問題とされる。 ナシオン主権論によれば、自由委任・代表制に反することから、このような制度を制定することは、憲法に反するとされるが、プープル主権論によれば、許容されるのみならず、半代表制の要請であると解釈されている<ref>辻村みよ子「レフェレンダムと議会の役割」ジュリスト1022号126頁</ref>。 ==イギリスの議会主権== {{See also|法の支配#解説}} イギリスは[[立憲君主国]]であり、主権は「議会における国王または女王」(King/Queen in Parlament)にあるとされ「[[議会主権]]ないし国会主権」(Parliamentary Sovereignty)と呼ばれている。これは法学者[[アルバート・ヴェン・ダイシー]]の著作(『憲法序説』1885年)にちなみダイシー伝統と呼ばれる。ダイシーはイギリスの政治体系は「議会における国王主権」「法の支配」「憲法習律」にあるとし、国王は尊厳を代表し、実際の作用は貴族院・庶民院両院が行う。行政権は下院に融合されているが、最高裁は上院に属している<ref group="注">2009年10月1日をもって[[連合王国最高裁判所]]に改組された。裁判官となる法官貴族は引き続き上院の構成である。</ref>。{{要出典範囲|date=2013年8月 |君主は法の擁護者であるが、}}それゆえ「法の支配」に従う。ただし、[[欧州人権裁判所]]による強制力を有する[[欧州人権条約]]に加盟しているため、[[欧州連合|EU]]を脱退しない限りにおいては、この条約に定められている人権は、議会主権に優越している。つまり、この条約を国内法に組み込むために制定された{{仮リンク|Human Rights Act 1998|en|Human Rights Act 1998}}との不適合性{{仮リンク|Declaration of incompatibility|en|Declaration of incompatibility}}の判定を[[連合王国最高裁判所]]を含む司法機関の判定によって判断できることにより、アメリカでいう付随審査的な[[違憲審査権]]を実装している。 このように、イギリスは、「人民主権ないし国民主権」をとるものではないが、「憲法習律」を介して「政治的主権」は市民にあるとされることがある。「憲法習律」は、裁判規範ではないが、単なる政治慣例や慣行とは異なり、政治家にゆだねられた行動規範であり、君主と政治家を拘束する。憲法習律違反があったときは、市民は下院議員の[[選挙]]を通じて政治的な実権を行使するのである。<ref>この項は『象徴天皇制への誤解と立憲君主制の本質』倉山満(国士舘大学非常勤講師2006.05.08)[http://www.japancm.com/sekitei/note/2006/note01.html]から起筆</ref> == 文献情報 == * [[宮沢俊義]]著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』日本評論社 * [[樋口陽一]]『比較憲法』(第3版)、青林書院、[[1992年]] * [[芦部信喜]]著・高橋和之補訂『憲法』(第4版)岩波書店 * 元山健、「[https://hdl.handle.net/2065/6322 議会主権論の検討 : その意味と限界]」『早稲田法学会誌』 1975年 25巻 p.309-343, {{hdl|2065/6322}}, 早稲田大学法学会 * 『イギリス議会主権-その法的思考-』坂東行和(敬文堂) 2000/5 ISBN 978-4767000800 * 小松浩、〔{{PDFlink|[http://www.law.kobegakuin.ac.jp/~jura/law/files/34-1-04.pdf 「マニフェスト」・「マンデイト」論考]}}〕『神戸学院法学』 2004年4月 34巻 1号 p.125-141, 神戸学院大学 * 渡辺良二、「[https://hdl.handle.net/10441/2550 「国民主権」論の検討(1)]」『彦根論叢』 1975年 第175・176号 p.113-131, {{hdl|10441/2550}}, 滋賀大学経済学会 * 森村進、「[https://doi.org/10.15057/13610 「大地の用益権は生きている人々に属する」 : 財産権と世代間正義についてのジェファーソンの見解]」『一橋法学』 2006年 5巻 3号 p.715-762, {{doi|10.15057/13610}}, 一橋大学大学院法学研究科 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== * [[主権]] * [[民主政]] * [[外国人参政権]] * [[マニフェスト]] {{Poli-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくみんしゆけん}} [[Category:憲法]] [[Category:国民]] [[Category:政治学の理論]] [[Category:日本国憲法]]
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京王動物園線
動物園線(どうぶつえんせん)は、高幡不動駅から多摩動物公園駅までを結ぶ京王電鉄の鉄道路線。全線が東京都日野市内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。 1964年4月29日開業。1960年に開設された東京都立多摩動物公園へのアクセス路線である。また1961年には多摩動物公園駅に近い丘陵地に、本田技研工業の子会社である株式会社モータースポーツランド(閉園時の社名はモビリティランド)が開設したモータースポーツセンター兼遊園地「多摩テック」が開業しており、当路線は開業時から観光・レジャー輸送が主体となった。さらに多摩動物公園駅近くには、動物園線が開業した1964年に明星大学日野キャンパスが開設、1977年には同大学隣接地に中央大学が多摩キャンパスを設置して駿河台キャンパスから機能を徐々に全面移転することに踏み切った。これにより、動物園線は両大学への主要通学手段ともなり、特に中央大学多摩キャンパスへの大学機能移転が進んだ1970年代後半には大幅に利用者が増えた。 しかし、2000年に多摩都市モノレール線が多摩センター駅まで延伸開業。動物園線と並行する上に、多摩動物公園駅の南側に両大学の最寄駅として中央大学・明星大学駅が開業して以来、利用客が激減した。さらに2009年には多摩テックが閉園したことで、レジャー需要も下落。そのため、2010年代からは京王電鉄が自ら沿線での観光開発を進めており、多摩動物公園駅前にて観光施設を運営している。同駅構内の展示施設として2000年3月24日に開業した「京王れーるランド」を、2013年10月10日に「京王の電車・バス100周年記念事業」の一環として全面リニューアルオープンした。2018年3月18日には子供向け遊戯施設「京王あそびの森 HUGHUG(ハグハグ)」。これに合わせて同施設と「京王れーるランド」、都立多摩動物公園を合わせた駅周辺エリアの名称を「キッズパークたまどう」に決定した。また同年10月11日には「京王れーるランド アネックス」がオープンした(施設の詳細は「京王れーるランド」を参照)。 なお、高幡不動 - 多摩動物公園間の運行本数はモノレールの方が多いが、運賃は京王電鉄の方が安い。また京王線沿線から多摩動物公園へ行く場合は、動物園線の方が運賃・所要時間の点で有利である。一方、多摩動物公園駅では連絡運輸が設定されていないため、モノレールとの連絡定期券を用いる場合は高幡不動駅が接続駅となる。 現在は単線で1区間の運行だが、開業当初から動物園の多客対応のため複線分の用地が確保されている。過去には多摩ニュータウン新線(現在の京王相模原線)建設計画に際し、京王多摩川駅からの延伸案、聖蹟桜ヶ丘駅からの延伸案とともに、多摩動物公園駅からの延伸案が検討された。しかし高幡不動駅でスイッチバックになり、急曲線・急勾配の連続になることから必要な輸送力の確保が困難なこと、また多摩ニュータウンの東側をカバーできないことから、早い時期に選択肢から外れた(「京王相模原線#多摩ニュータウンへの延伸」も参照)。 基本的に平日・土休日を含め全列車が4両編成で運転される。平日日中はワンマン運転列車が1時間に3本運転され、土休日日中は1時間に5本、ワンマン運転列車と車掌が乗務するツーマン運転列車が交互に運転される。2021年3月13日以降、車両はワンマン改造された7000系(4両編成 7801Fと7802F)が使用される。土休日の一部列車は7802Fや、ワンマン改造されていない他の7000系がツーマン運転で多摩動物公園駅の1番線に入線する。ごく稀に7801Fもツーマン運転を行うことがある。 2022年以降は10両編成である5000系がゴールデンウィークに限り、多客対応のため増発した臨時列車として線内折返しで運転される。10両編成と8両編成についてはホームの有効長の関係で高幡不動駅では2番線、多摩動物公園駅では1番線に入線する。現行のダイヤでは平日に多摩動物公園駅1番線に入線する定期営業列車が無いため、10両編成あるいは8両編成が平日の日中にレール磨きのために入線する。2021年3月13日のダイヤ改正までは平日の朝の1本で8両編成が、土曜日・休日の朝・日中の一部の列車で7000系・8000系・9000系・5000系の10両編成が高幡不動 - 多摩動物公園間をツーマン運転で往復していた。 2019年2月22日改正のダイヤでは通年で土曜日・休日に京王線新宿発多摩動物公園行きの急行が1本、2020年2月22日改正のダイヤではこれに代わって土曜日・休日に都営新宿線本八幡発の急行(全区間急行)が運転されていたが、2021年3月13日改正のダイヤで廃止され、京王線と直通する定期列車の運行は休止された(ただし停車駅表ではこれ以降も急行の設定が残っている)。かつては、平日にも新宿発の急行が1本設定されていたほか、土曜日・休日には都営新宿線本八幡発の急行(新宿線内各駅停車)が1本、新宿行きの急行が3本設定されていた。 2019年の令和元年東日本台風(台風19号)の影響で同年10月12日から運休となり、土砂流入が発生したため、運転再開は16日となったが、再開後も対策工事のため、11月7日までは早朝の一部と22時から終電までの運転を休止していた。 2002年から動物のイラストを車体にあしらい、中吊り広告も多摩動物公園関連のみの専用編成が運行されている。
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動物園線(どうぶつえんせん)は、高幡不動駅から多摩動物公園駅までを結ぶ京王電鉄の鉄道路線。全線が東京都日野市内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:KeioRailway logo.svg|38px|京王電鉄|link=京王電鉄]] 動物園線 |路線色=#dd0077 |ロゴ=File:Number prefix Keio-line.svg |ロゴサイズ=40px |画像=Keio7000 7801F Tama-zoo.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=側面に動物のイラストが描かれた専用車[[京王7000系電車|7000系]]7801F<br />(2011年4月3日、高幡不動-多摩動物公園間) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]][[日野市]] |起点=[[高幡不動駅]] |終点=[[多摩動物公園駅]] |駅数=2駅 |路線記号=KO |開業=[[1964年]][[4月29日]]<ref name="jtoa1964-6">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1964年6月号「京王帝都電鉄多摩動物公園線開通」p.13。</ref> |休止= |廃止= |所有者=[[京王電鉄]] |運営者=京王電鉄 |車両基地=[[高幡不動検車区]],[[若葉台検車区]] |使用車両=[[#運転|運転]]の節を参照 |路線距離=2.0 [[キロメートル|km]] |軌間=1,372 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[単線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配=33 [[パーミル|‰]]<ref name="jtoa1964-6"/> |最小曲線半径=162 m<ref name="jtoa1964-6"/> |閉塞方式=速度制御式 |保安装置=京王[[自動列車制御装置|ATC]] |最高速度=70 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> |路線図= }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#dd0077|white}} {{BS-table}} {{BS4||KHSTa|||||[[新宿駅]]|}} {{BS4||LSTR|||||[[京王線]]|}} {{BS4|BHFq|O1=HUBaq|ABZqr|O2=HUBq|hKRZ|O3=HUBlg|STR+r|0.0|KO29 [[高幡不動駅]]|←京王線|}} {{BS4|||hBHF|O3=HUBe|STR|O4=POINTERg@fq||動物園線}} {{BS4|||hKRZW|WBRÜCKE1|||[[程久保川]]|}} {{BS4|||hHST|STR|||[[程久保駅]]|}} {{BS4|||hBHF|O3=HUBaq|KBHFe|O4=HUBeq|2.0|KO47 [[多摩動物公園駅]]|}} {{BS4|||hSTR|||([[京王れーるランド]])||}} {{BS4|||hSTR|O3=POINTERg@fq||||[[多摩都市モノレール]]:|}} {{BS4|||||||[[多摩都市モノレール線]]|}} |} |} [[File:Keio-Dobutsuen-Line-6722.jpg|thumb|right|動物園線専用車<br />初代「TAMA ZOO TRAIN」6000系6022F(2011年2月)]] [[File:Takahatafudou zooline 0km post.JPG|thumb|right|高幡不動駅1番線にある0[[距離標|キロポスト]](2009年11月、高幡不動駅にて)]] '''動物園線'''(どうぶつえんせん)は、[[高幡不動駅]]から[[多摩動物公園駅]]までを結ぶ[[京王電鉄]]の[[鉄道路線]]。全線が[[東京都]][[日野市]]内を走行する。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KO'''。 == 概要 == [[1964年]][[4月29日]]開業。[[1960年]]に開設された東京都立[[多摩動物公園]]へのアクセス路線である。また[[1961年]]には多摩動物公園駅に近い丘陵地に、[[本田技研工業]]の[[子会社]]である株式会社モータースポーツランド(閉園時の社名は[[モビリティランド]])が開設した[[モータースポーツ]]センター兼[[遊園地]]「[[多摩テック]]」が開業しており、当路線は開業時から観光・レジャー輸送が主体となった。さらに多摩動物公園駅近くには、動物園線が開業した1964年に[[明星大学]]日野キャンパスが開設、[[1977年]]には同大学隣接地に[[中央大学]]が[[中央大学多摩キャンパス|多摩キャンパス]]を設置して[[中央大学#旧:駿河台校舎|駿河台キャンパス]]から機能を徐々に全面移転することに踏み切った。これにより、動物園線は両大学への主要通学手段ともなり、特に中央大学多摩キャンパスへの大学機能移転が進んだ[[1970年代]]後半には大幅に利用者が増えた。 しかし、[[2000年]]に[[多摩都市モノレール線]]が[[多摩センター駅]]まで延伸開業。動物園線と並行する上に、多摩動物公園駅の南側に両大学の最寄駅として[[中央大学・明星大学駅]]が開業して以来、利用客が激減した。さらに[[2009年]]には多摩テックが閉園したことで<ref>[http://www.tamatech.jp/ 多摩テック 48年間のご愛顧ありがとうございました] - 多摩テック、2021年10月11日閲覧</ref>、レジャー需要も下落。そのため、[[2010年代]]からは京王電鉄が自ら沿線での観光開発を進めており、多摩動物公園駅前にて観光施設を運営している<ref>{{Cite web|和書|title=駅・再開発 - 京王「あそびの森」で狙う子育て最強路線の座|url=https://toyokeizai.net/articles/-/222282|website=[[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン|date=2018-05-27|accessdate=2021-02-17|language=ja|publisher=[[東洋経済新報社]]}}</ref>。同駅構内の展示施設として[[2000年]][[3月24日]]に開業した「[[京王れーるランド]]」を、[[2013年]][[10月10日]]に「京王の電車・バス100周年記念事業」の一環として<ref name="Keio20130530">{{Cite web|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130530_railland.pdf|format=pdf|title=京王の電車・バス開業 100 周年を記念して 京王れーるランドを一新! 10 月にオープンします。|publisher=京王電鉄|accessdate=2013-06-11}}</ref>全面リニューアルオープンした<ref name="Keio20130912">{{Cite web|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2013/nr130912_railland.pdf|format=pdf|title=京王の電車・バス開業 100 周年を記念して 新しい京王れーるランド 10 月 10 日(木)オープン!|publisher=京王電鉄|accessdate=2013-09-14}}</ref>。[[2018年]][[3月18日]]には子供向け遊戯施設「京王あそびの森 HUGHUG(ハグハグ)」<ref name="nr180214">[https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2017/nr180214_hughug.pdf 「京王あそびの森 HUGHUG<ハグハグ>」開業記念イベントを実施します! 多摩動物公園エリアの名称が「キッズパークたまどう」に決定!] 京王電鉄ニュースリリース、2018年2月14日、2021年10月11日閲覧。</ref>。これに合わせて同施設と「京王れーるランド」、都立多摩動物公園を合わせた駅周辺エリアの名称を「キッズパークたまどう」に決定した<ref name="nr180214" />。また同年[[10月11日]]には「京王れーるランド アネックス」がオープンした<ref>{{Cite press release|和書|title=開業5周年企画として「京王れーるランドアネックス」をオープンします|publisher=京王電鉄株式会社|date=2018-08-28|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2018/nr180828_keiorailland.pdf|accessdate=2021-01-20}}</ref><ref >{{Cite news |title=京王れーるランド「アネックス」開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2018-10-25 |page=4 }}</ref>(施設の詳細は「[[京王れーるランド]]」を参照)。 なお、高幡不動 - 多摩動物公園間の運行本数はモノレールの方が多いが、運賃は京王電鉄の方が安い。また京王線沿線から多摩動物公園へ行く場合は、動物園線の方が運賃・所要時間の点で有利である。一方、多摩動物公園駅では[[連絡運輸]]が設定されていないため、モノレールとの連絡[[定期乗車券|定期券]]を用いる場合は高幡不動駅が接続駅となる。 現在は[[単線]]で1区間の運行だが、開業当初から動物園の多客対応のため[[複線]]分の用地が確保されている<ref name="jtoa1964-6"/>。過去には[[多摩ニュータウン]]新線(現在の[[京王相模原線]])建設計画に際し、[[京王多摩川駅]]からの延伸案、[[聖蹟桜ヶ丘駅]]からの延伸案とともに、多摩動物公園駅からの延伸案が検討された。しかし高幡不動駅で[[スイッチバック]]になり、急曲線・急勾配の連続になることから必要な輸送力の確保が困難なこと、また多摩ニュータウンの東側をカバーできないことから、早い時期に選択肢から外れた<ref>『京王帝都電鉄25年史』</ref>(「[[京王相模原線#多摩ニュータウンへの延伸]]」も参照)。 === 路線データ === * 路線距離:2.0 km * [[軌間]]:[[4フィート6インチ軌間|1372 mm]] * 駅数:2駅(起終点駅含む。途中駅なし) * 複線区間:なし(全線単線) * 電化区間:全線(直流1500 V) * 保安装置:京王[[自動列車制御装置|ATC]]、速度制御式 * 最高速度:70 km/h<ref name="terada" /> * 建設費用:約2億6,400万円<ref name="jtoa1964-6"/>(用地費は除く) == 歴史 == * [[1963年]]([[昭和]]38年)10月 - 建設工事着工<ref name="jtoa1964-6"/>。翌年の[[ゴールデンウィーク]]休日に間に合わせるため、突貫工事が行われた<ref name="jtoa1964-6"/>。 * [[1964年]](昭和39年)[[4月29日]] - 開業<ref name="100th-hist">[http://www.keio.co.jp/100th/historytimeline.html 京王の電車・バス開業100周年年表] - 京王電鉄、2015年3月8日閲覧</ref>。 * [[1969年]](昭和44年)[[9月28日]] - 当線と[[京王競馬場線|競馬場線]]で使用されていた[[京王220系電車|220系]]が、ATS導入により運用終了。 * [[1996年]]([[平成]]8年)[[12月1日]] - 動物園線で使用されていた[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]が「[[さよなら運転]]」を行う。これにより初代5000系は営業運転を終了。以降は[[京王6000系電車|6000系]]での運行となる。 * [[2000年]](平成12年)[[10月20日]] - [[ワンマン運転]]を開始。 * [[2002年]](平成14年)[[3月23日]] - 6000系6722Fに動物イラストのラッピングを施した「TAMA ZOO TRAIN」が運行開始<ref name="100th-hist" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/newsr/index2301.htm|title=3月23日(土)多摩動物公園駅に「TAMAZOO TRAIN」登場|publisher=京王電鉄|date=2002-02-27|accessdate=2015-03-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021020202336/http://www.keio.co.jp/news/newsr/nr2301.htm|archivedate=2002年10月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |journal = RAIL FAN |date = 2002-05-01 |issue = 5 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 20 }}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[10月9日]] - [[臨時列車]]「[[鉄道フェスティバル]]トレイン号」が、多摩動物公園駅から[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[大島駅 (東京都)|大島駅]]まで([[神保町駅]]で[[都営地下鉄三田線|三田線]]の臨時列車に接続)運転される予定だったが、[[平成16年台風第22号|台風22号]]の影響で中止となる。 * [[2006年]](平成18年)[[9月1日]] - ダイヤ改正。[[京王線]]経由で都営新宿線との直通運転が開始。 * [[2008年]](平成20年)[[8月9日]] - 大島駅から多摩動物公園駅までの臨時列車が運行される。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月13日]] - この日をもって6000系が営業運転を終了<ref name="HB2021-P118">[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2021/2021_p106_p124.pdf データ集 - 年表] 2021年京王ハンドブック、p.118、京王電鉄、2021年8月発行。</ref>。以降は[[京王7000系電車|7000系]]での運行となる。都営新宿線との直通運転を休止。 ** [[3月28日]] - 7000系7801Fが2代目「Tama zoo Train」に就役<ref name="railf110401">[http://railf.jp/news/2011/04/01/204600.html 京王7000系7801編成が「TAMA ZOO TRAIN」に] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2011年4月1日</ref>。 ** [[6月30日]] - [[東日本大震災]]による節電ダイヤ実施で、この日をもって京王線との直通運転を休止。 ** [[9月23日]] - 休日ダイヤに限り京王線との直通運転を再開。 ** [[10月2日]] - ATCの使用を開始。 * [[2013年]](平成25年) ** [[2月22日]] - ダイヤ改定により、土曜・休日ダイヤの多摩動物公園駅発の急行新宿行が廃止(新宿発の急行多摩動物公園行は従来通り残存)。 ** [[10月10日]] - [[京王れーるランド]]のリニューアルオープンと多摩動物公園駅の改装工事竣工に伴い、多摩動物公園駅に「京王れーるランド」の副駅名を導入。 * [[2015年]](平成27年)[[3月22日]] - 2代目「Tama zoo Train」の内装を更新し「新Tama zoo Train」として運行開始<ref name="nr150224">{{Cite web|和書|date=2015-02-24 |url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150224_tamazootrain.pdf |title=リニューアルした「新Tama zoo Train」が運行開始します。 |publisher=京王電鉄 |accessdate=2015-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150317110053/http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2014/nr150224_tamazootrain.pdf|archivedate=2015-03-17}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)3月7日 - 多摩動物公園駅隣接地に「京王あそびの森 HUGHUG(ハグハグ)」がオープン(13日)することに伴い、「Tama zoo Train」の外装ラッピングを更新して運行開始<ref name="nr180214" />。 * [[2020年]]([[令和]]2年)2月22日 - ダイヤ改正により、都営新宿線との直通運転を再開。土曜・休日ダイヤの急行新宿発多摩動物公園行を廃止、都営車による急行本八幡発多摩動物公園行(都営地下鉄線内も急行)を新設。 * [[2021年]](令和3年)[[3月13日]] - ダイヤ改正により、定期列車としての京王線直通列車、都営新宿線直通列車の設定が無くなる。また、定期列車としての車両が原則として7000系の4両編成に統一される。 * [[2022年]](令和4年)[[12月11日]] - [[東京都道41号稲城日野線|川崎街道]]を跨ぐ三沢架道橋の架け替え工事のため終日運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2022/nr20221024_dobutsuensenunkyu.pdf|title=2022年12月11日(日)、動物園線 三沢架道橋架け替え工事に伴い動物園線は列車を終日運休します|date=2022-10-24|accessdate=2022-12-11|publisher=京王電鉄株式会社|format=PDF}}</ref>。 == 運転 == 基本的に平日・土休日を含め全列車が4両編成で運転される。平日日中は[[ワンマン運転]]列車が1時間に3本運転され、土休日日中は1時間に5本、ワンマン運転列車と[[車掌]]が乗務するツーマン運転列車が交互に運転される。2021年3月13日以降、車両はワンマン改造された[[京王7000系電車|7000系]](4両編成 7801Fと7802F)が使用される。土休日の一部列車は7802Fや、ワンマン改造されていない他の7000系がツーマン運転で多摩動物公園駅の1番線に入線する。ごく稀に7801Fもツーマン運転を行うことがある。 2022年以降は10両編成である[[京王5000系電車 (2代)|5000系]]が[[ゴールデンウィーク]]に限り、多客対応のため増発した臨時列車として線内折返しで運転される。10両編成と8両編成についてはホームの[[有効長]]の関係で高幡不動駅では2番線、多摩動物公園駅では1番線に入線する。現行のダイヤでは平日に多摩動物公園駅1番線に入線する定期営業列車が無いため、10両編成あるいは8両編成が平日の日中に[[錆取り列車|レール磨き]]のために入線する。2021年3月13日のダイヤ改正までは平日の朝の1本で8両編成が、土曜日・休日の朝・日中の一部の列車で7000系・[[京王8000系電車|8000系]]・[[京王9000系電車|9000系]]・5000系の10両編成が高幡不動 - 多摩動物公園間をツーマン運転で往復していた。 2019年2月22日改正のダイヤでは通年で土曜日・休日に京王線新宿発多摩動物公園行きの[[急行列車|急行]]が1本、2020年2月22日改正のダイヤではこれに代わって土曜日・休日に[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[本八幡駅|本八幡]]発の急行(全区間急行)が運転されていたが、2021年3月13日改正のダイヤで廃止され、京王線と直通する定期列車の運行は休止された(ただし停車駅表ではこれ以降も急行の設定が残っている)。かつては、平日にも新宿発の急行が1本設定されていたほか、土曜日・休日には[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[本八幡駅|本八幡]]発の急行(新宿線内各駅停車)が1本、新宿行きの急行が3本設定されていた。 [[2019年]]の[[令和元年東日本台風]](台風19号)の影響で同年10月12日から運休となり、土砂流入が発生したため<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001312707.pdf#page=75 |title=令和元年台風第19号による被害状況等について(第11報)|format=PDF | work=国土交通省 災害情報 |date=2019-10-16 6:00 |accessdate=2019-11-18}}</ref>、運転再開は16日となったが<ref name="response20191023">{{Cite web|和書|date=2019-10-23 |url=https://response.jp/article/2019/10/23/327904.html |title=東武は10月24日に全線再開…京王動物園線は早朝深夜に運休、しなの鉄道はバス代行 台風19号 |website=レスポンス |publisher=イード |accessdate=2019-11-18}}</ref>、再開後も対策工事のため<ref name="response20191023" />、[[11月7日]]までは早朝の一部と22時から終電までの運転を休止していた<ref name="response20191023" /><ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-08 |url=https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr191108v1912/index.html |title=動物園線の通常ダイヤ再開について |work=お知らせ |publisher=京王電鉄 |accessdate=2019-11-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191117190006/https://www.keio.co.jp/news/update/announce/nr191108v1912/index.html|archivedate=2019-11-17}}</ref>。 == 車両 == * 現行車両 ** [[京王7000系電車|7000系]] - 動物園線の定期営業列車はこの形式のみで運行される。原則としてワンマン改造された4両編成(7801F及び7802F)のみが使用される。土休日は7803Fをはじめワンマン改造されていない他の4両編成の他、ごく稀に2両編成同士を2本繋げた4両編成が使用されることもある。かつては土休日の朝・日中の一部列車に10両固定編成または4両編成と6両編成や2両編成と8両編成を繋げた10両編成が充当されていたこともあった。 ** [[京王5000系電車 (2代)|2代目5000系]] - 2022年以降は[[ゴールデンウィーク]]に限り、多客対応のため増発した時の臨時列車として入線している。2021年3月11日までは土休日の朝・日中の一部列車に充当され、臨時座席指定列車「[[京王ライナー|キッズパークたまどう号]]」でも運行された。 * 過去の車両 ** [[京王220系電車|220系]] - 1500V昇圧改造を行なった14m中型車2両編成。1969年9月28日まで。 ** [[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]] - 1996年12月1日まで。 ** [[京王6000系電車|6000系]] - 2011年3月13日まで。 ** [[京王8000系電車|8000系]] - 2021年3月11日まで土休日の朝・日中の一部列車に10両編成が、平日朝の一部列車に8両編成が充当されていた。現在もレール磨きのため定期的に入線することがある。 ** [[京王9000系電車|9000系]] - 2021年3月11日まで土休日の朝・日中の一部列車に10両編成が、平日朝の一部列車に8両編成が充当されていた。現在もレール磨きのため定期的に入線することがある。 ** [[東京都交通局10-300形電車|10-300形]] - 2021年3月11日まで土休日朝の[[本八幡駅|本八幡]]発急行多摩動物公園行き1本とその折り返しの多摩動物公園発各駅停車高幡不動行き1本に10両編成が充当されていた。8両編成は、臨時営業列車での入線実績がある。 === 専用編成 === [[2002年]]から動物のイラストを車体にあしらい、[[中吊り広告]]も多摩動物公園関連のみの専用編成が運行されている。 ; 初代 : 初代「'''TAMA ZOO TRAIN'''」として、[[京王6000系電車#5扉車|6000系6722F(5扉車)]]が使用されていた。[[2011年]][[3月13日]]をもって営業運転を終了<ref name="HB2021-P118">[https://www.keio.co.jp/company/corporate/summary/corporate_manual/pdf/2021/2021_p106_p124.pdf データ集 - 年表] 2021年京王ハンドブック、p.118、京王電鉄、2021年8月発行。</ref>、これにより6000系は全車旅客運転を終了した。6000系では「さよなら運転」は行わなかった。同年[[2月27日]]に多摩動物公園駅で「6000系ありがとうフェスタ」を開催し、初代「TAMA ZOO TRAIN」の展示、撮影会や写真集・記念乗車券・グッズの販売などが行われた<ref name="鉄道コム110211">[https://www.tetsudo.com/event/3583/ イベント - 京王 6000系ありがとうフェスタ] [[鉄道コム]]、2011年2月1日、2021年10月11日閲覧。</ref>。 ; 2代目 : 後継の[[京王7000系電車|7000系]]は、しばらく専用装飾を施さない状態で運行されていたが、2011年[[3月28日]]より7000系7801Fが2代目専用車両に就役<ref name="railf110401" />。7801Fにも車体側面に動物のイラストがラッピングされたが、イラストは初代「TAMA ZOO TRAIN」の6722Fとは異なっていた。表記が[[大文字]]から[[小文字]]に変更され「'''Tama zoo Train'''」となる。当初は車内装飾はなかったが、[[2015年]]の車両更新の際に内装にも装飾を施し、動物や「けい太くん」のイラストを追加して、同年3月22日より運行開始した<ref name="nr150224" />。 : [[2018年]]3月13日の「京王あそびの森 HUGHUG」開業に合わせ、7801Fの専用装飾を「キッズパークたまどう」ラッピングに更新<ref name="nr180214" />。「キッズパークたまどうとれいん」[[ヘッドマーク]]も装着された。 <gallery> File:Keio-Dobutsuen-Line-6772.jpg|初代「TAMA ZOO TRAIN」<br />「ありがとう6000系」ヘッドマークを装着する<br />6000系6722F(2011年2月) File:Keio 7801 Tama Zoo.JPG|2代目「Tama zoo Train」<br />7000系7801F(2013年、高幡不動駅にて) File:Inside Keio 7251.JPG|2代目「Tama zoo Train」に追加された車内装飾(トラ)<br />7000系7801F(2015年、高幡不動駅にて) File:Inside Keio 7851.JPG|2代目「Tama zoo Train」に追加された車内装飾(ゾウ)<br />7000系7801F(2015年、高幡不動駅にて) File:7000系ラッピング2.png|「キッズパークたまどうとれいん」ラッピング(右)<br />ヘッドマークを装着する<br />7000系7801F(2019年、高幡不動駅にて) </gallery> == 駅一覧 == * 設定種別による停車駅の違いがないため、停車駅は省略している。 * 全駅[[東京都]][[日野市]]内に所在。 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は2013年2月22日から順次導入<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr130118_numbering.pdf|title=京王線・井の頭線全駅で「駅ナンバリング」を導入します。|publisher=京王電鉄|date=2013-01-18|accessdate=2013-01-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130123201223/http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr130118_numbering.pdf|archivedate=2013-01-23}}</ref>。 * 全区間単線。両駅ともに[[列車交換]]は可能。 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:4em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|駅番号 !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #dd0077;"|駅名 !colspan="2"|累計キロ !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #dd0077;"|接続路線 |- !style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|高幡不動から !style="width:2.5em;border-bottom:3px solid #dd0077;"|[[新宿駅|新宿]]から |- !KO29 |[[高幡不動駅]] |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|29.7 |[[京王電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王線]]<br />[[多摩都市モノレール]]:[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|18px|TT]] [[多摩都市モノレール線]] (TT07) |- !KO47 |[[多摩動物公園駅]]<br />(京王れーるランド) |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|31.7 |多摩都市モノレール:[[File:Tama Monorail Line symbol.svg|18px|TT]] 多摩都市モノレール線 (TT05) |- |} * 多摩動物公園駅における[[連絡運輸]]の取り扱いはない。 * 全区間で多摩都市モノレール線と並走している。なお、同線には途中に[[程久保駅]]があるが、当路線には設置されていない。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[日本鉄道運転協会]]『運転協会誌』1964年6月号「京王帝都電鉄多摩動物公園線開通」(京王帝都電鉄・運転課長 川妻庸二) == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{京王電鉄の路線}} {{デフォルトソート:けいおうとうふつえんせん}} [[Category:京王電鉄の鉄道路線|とうふつえん]] [[Category:関東地方の鉄道路線|とうふつえんせん]] [[Category:東京都の交通]]
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直流整流子電動機
直流整流子電動機(ちょくりゅうせいりゅうしでんどうき、英語:brushed DC electric motor)は、代表的な直流電動機である。直流を入力とする整流子電動機である。
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直流整流子電動機は、代表的な直流電動機である。直流を入力とする整流子電動機である。
{{出典の明記|date=2012年10月}} {{Pathnav|電動機|直流電動機|frame=1}} [[File:Vibrator_motor.jpg|thumb|携帯電話のバイブレータ用小型モーター。軸に半月形の重りが取り付けてある。]] [[File:DC_motor.JPG|thumb|[[東京高速鉄道100形電車|営団地下鉄(現東京メトロ)100形]]に使用されていた直流整流子電動機]] '''直流整流子電動機'''(ちょくりゅうせいりゅうしでんどうき、[[英語]]:brushed DC electric motor)は、代表的な[[直流電動機]]である。[[直流]]を入力とする[[整流子電動機]]である。 == 直流整流子電動機の分類 == * 永久磁石界磁形整流子電動機 ** 鉄心電動機:玩具などに使われる。 ** 無鉄心電動機([[コアレスモータ]]):携帯電話の振動モータなどに使われる。 * 電磁石界磁形整流子電動機 ** [[直巻整流子電動機]]:電気鉄道に使われる。 ** [[分巻整流子電動機]]:ディーゼル機関車やエレベータに使われる。 ** [[複巻整流子電動機]]:私鉄によく使われる。 == 関連項目 == * [[交流整流子電動機]] * [[整流子機の電機子反作用]] {{電動機}} {{Tech-stub}} {{DEFAULTSORT:ちよくりゆうせいりゆうしてんとうき}} [[Category:電動機]]
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シティ・オブ・ロンドン
シティ・オブ・ロンドン(英: City of London)は、イングランドのロンドン中心部に位置する地区である。周辺地域とコナベーションを形成し、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域で、範囲は中世以降ほとんど変わっていない。単にシティ(The City)、またはスクエア・マイル(Square Mile)とも呼ばれる。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行している。この自治体の首班はロンドン市長(Lord Mayor of London)である。2000年に再設置された大ロンドン庁のロンドン市長(Mayor of London)と異なる。 シティは英国のGNPの2.5パーセントに貢献しており、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社等が置かれる金融センターとしてニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導し、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している。 1990年代初期に、IRA暫定派がシティ内に複数の爆弾を仕掛けて爆発させる事件が発生した。居住する人口はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6700人の昼間人口がある。 シティは面積と人口の点でイングランドの典礼カウンティにて最小であり、人口密度は4番目に高い。シティの境界には、市の紋章が描かれた黒いボラードと、ドラゴン境界標(英語版)の像が設置されている。 現在のドラゴン像はロンドン市周辺に14体存在しており、オリジナルのままの像は2体で、石炭取引所と。テンプルバー付近に設置されている。 ローマ人によるブリテン島進出は、紀元前から行われていたが、紀元43年頃に、既にあったローマ人居住地間の行き来を便利にするためにテムズ川に木造の橋が掛けられた(現在のロンドン橋)。橋の位置はイングランド南部の比較的海に近い所で、幅・深さも海船が乗り入れるのに十分であり、国内外の物資輸送に好都合であった。そこで紀元50年頃に川の北岸に居住地を作り、ロンディニウム(Londinium)と名付けた。町の周囲には城壁が築かれ、ローマ軍が駐屯した。3世紀末にローマ軍内部で反乱がおき(Carausian Revolt)、4世紀後半には北方のハドリアヌスの長城がケルト人によって破られた。ブリテン島に軍隊を駐留させる費用は年々大きくなり、410年に皇帝ホノリウスは諸都市に自衛を命じてブリテン島から軍を撤収する決断をした。 6世紀に大陸から渡ってきたアングロ・サクソン人の部族国家が生まれ、七王国時代の幕開けとなった。紛争が絶えなかったため、シティの市街地は長きにわたってローマ人の残した城壁の外側に広がることはなかった。シティにおけるキリスト教団の拠点となるセント・ポール大聖堂が607年頃に建てられた。当時のシティの建物は木造建築が主体で、しばしば火災が発生した。アゼルスタンがデーンロウの奪還に成功し、イングランドの基礎を築いた。1078年、ウィリアム征服王は、城壁の南東角地に要塞の建設を命じた。これが後のロンドン塔の中核部分となり、イングランドの政治の中心地としての地位が固まった。 12世紀ヨーロッパ人、特に北イタリアのロンバルディア人が移住してきた(ロンバード・ストリート)。このころシティ議会の原型が生まれた。1215年のマグナ・カルタはシティが国際市場化するきっかけとなった。シティは、1203年までに24区に分けられていたが、1394年にファリントン区(Farrington Ward)が二分され25区となった。シティ参事会は各区長で構成され、そこから毎年の長を選んだ。区長は各区の市議会と行政を担った。参事会と市議会の双方に、同業者ギルドが多くの代表を出した。 1550年、シティに新しく一区が設けられ、全部で26区となった。5年後にモスクワ会社の前身が勅許を得た(Company of Merchant Adventurers to New Lands)。1570年、トーマス・グレシャムと彼の国際人脈がシティに王立取引所を設けた。これは欧州アントウェルペンのそれを模したものであった。銘柄と郵便の国際化により、王立取引所の利便性は向上した。1592年レバント会社が設立され(Levant Company)、その運営が東方問題を国際経済面で惹起した。1616年ジョン・リーマン(John Leman)がシティの長となった。1636年、チャールズ1世の御用金融家(Philip Burlamachi)が政府の手形交換所として中央銀行を構想した。清教徒革命でシティは、軍事費を徴収されたり、娯楽を規制されたりした。1666年ロンドン大火でフリート・ストリートが燃えた。1672年ホア銀行(C. Hoare & Co)が設立された。1712年、創業者がシティの長となった。 1720年、南海泡沫事件が起こる。1725年、減債基金を流用していたロバート・ウォルポールのシティ選挙法が、民主的な市議会の決定を富裕な参事会が拒否できる権限を与え非難を浴びた。1734年イングランド銀行が現住所のスレッドニードルへ移転してきた。1750年にウェストミンスター橋ができたので、ロンドン橋がテムズ川唯一の橋でなくなった。それから十数年、モスクワ会社のアンガースタイン(John Julius Angerstein)がシティで青年期をすごした。1760年、ジョージ3世の即位式に810人のマーチャント・バンカーが参加した。そのうち、少なくとも250人は外国人だったといわれる。2年後ベアリングス銀行が設立された。1773年にロンドン証券取引所が誕生した。翌年ジョン・ウィルクスがシティの長となった。このころイーストエンドのスラム化が社会問題であった。シティの人口は1700年時点で20万人超であったが、1801年は13万人であった。19世紀初頭の大陸封鎖令に政府が対抗措置をとった。これが疲弊したイギリス経済に追い討ちをかけた。1810年マーチャント・バンカーのアブラハム・ゴールドスミッド(Abraham Goldsmid)が自殺した。ベアリングと並ぶ英国債引受者であった。米英戦争が終わるとシティは世界一の国際金融市場となっていた。 1822年10月、ヴェローナ会議で東方問題をめぐる交渉が決裂してイギリスは五国同盟を脱退した。1823年、シティのブローカー兼ジョバーであったデヴィッド・リカードが死んだ。1825年の恐慌(Panic of 1825)で、イングランド銀行総裁(Cornelius Buller)と姻戚であったポール・ソーントン銀行(Pole, Thornton & Co.)が中央銀行から支援を得たが倒産、ウィリアムズ・ディーコンズ・バンクとなった。1837年恐慌では「3W(the three W's)」と呼ばれた三人のアメリカ人がイングランド銀行の資金注入を受けた。彼らは合衆国銘柄を株式公開したり、対米貿易金融のパートナーを募ったりして、非常な人気を博していた。この1830年代にはスミスフィールドの市に対する課税額が引き上げられた。1851年、海底ケーブルがドーバー海峡で開通した。1854年、株式会社銀行がシティの手形交換所(LCH)へ加入することが認められた。以降、20世紀末まで人口減少が止まらなかった。 保険と小口株式が広く資金をよびこみ、その資金が長期投資へ向かった。シティの経済構造は、クリミア戦争の戦後不況からベアリングス銀行の救済劇までの19世紀後半に周期的な恐慌をもたらした。シティを周辺地区と合併しようとする議論がおこり、1894年に王立委員会(Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London)が開かれたが、ウェストミンスターの意見変更により合併は行われなかった。 19世紀後半の経済構造は、ドーバー向かいのフランスをはじめとする欧州各国と関係しながら形成された。シティのマーチャント・バンク事務員は徒歩で混雑に耐えながら通勤し、薄給から各種保険料を払いながら生活していた。語学力のある通信士は高給取りであったが、しかし彼らの多くは外国人であった。両者の差は生涯賃金だけでなかった。およそ10年ごとに襲い来る恐慌から逃れる術を分かるかどうかは、語学力や職場環境によったのである。この経済格差を生じた期間には、スミスフィールドの市とシティの教区墓地が閉鎖となり、乗合馬車と鉄道が順に整備され、昼間人口が増えていった。 ロイズは、泡沫法が1824年に廃止されたことで海上保険業の独占を切り崩されていた(ロスチャイルド#ウィーン体制下)。1902年、ロイズの家系で主要な引受メンバーでもあったパーシー・バーナンド(Percy George Calvert Burnand)が財政危機に陥った。イギリスの造船業が19世紀後半にトップシェアを記録しつづけたので、海上保険市場は拡大していた。建艦競争がドイツ帝国との間に起こることもあった。その陰で、ロイズは静かに凋落し変化していった。 1912年、金融スキャンダルが2件あった。一つは昨年来ロンドン貴金属市場に参加していたサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu & Co.)というマーチャント・バンクが、イングランド銀行や政府と組んでインドの銀価格を操作して下げたという、タイムズの連載記事となったインディア・シルバー・スキャンダル。もう一つはグリエルモ・マルコーニを優遇し大英帝国の無線網を構築させ、あまつさえ政府がマルコーニ社の米子会社へ資本参加していたというものであった(Marconi scandal)。 第一次世界大戦のシティは敵国との経済関係に打撃をうけた。戦後モンタギュー・ノーマンが復旧に活躍した。彼は「シティの法王」とよばれ、また国際決済銀行の一員として金本位制を支持していた。1924年6月、ノーマンはイギリスを金本位制に復帰させる委員会をつくり、翌月までに9回召集した。参加者は、オースティン・チェンバレン委員長、アーサー・セシル・ピグーやジョン・メイナード・ケインズといった経済学者、元財務大臣ロバート・ホーン(Robert Horne)、レジナルド・マッケナミッドランド銀行(現HSBC)会長、ロンドン手形交換所加盟銀行の代表者各位、商工会議所の代表団、そして経団連(Federation of British Industries)である。ここまでして金解禁した結果、イギリスは世界恐慌で未曾有の金流出に見舞われた。1931年9月21日イングランド銀行が金本位制を離脱すると発表した。1933年ソシエテ・ジェネラルのジョージ・ボルトン(George Bolton)がイングランド銀行の理事となった。1932年6月イギリスは為替平衡勘定を創設して、過激にポンドを売り、正金とフランス・フランとアメリカ・ドルを買った。後二者はすぐ兌換した。これに耐えかねて1933年3月には連邦準備制度も金本位制をやめた。まるで1月にドイツ首相となったヒトラーから逃れるように、フランス銀行から金が流れ出ていった。1936年9月25日フランスも金本位制を放棄した。 この同日に英米仏三国通貨協定が締結された。これのためにボルトンやフランス銀行為替取引担当(Charles Cariguel)などの国際金融家が連携をとりあってきた。この協定は、英仏が自国通貨の対ドル相場を安定させることを条件にアメリカが兌換を継続するというものであり、それまで行われてきた自国通貨の切り下げ競争にピリオドを打ってブレトンウッズ協定の礎となった。1937年4月、英仏両政府がベルギーのパウル・ファン・ゼーラント首相に協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。 第二次世界大戦中の1940年、シティは火災に遭った(Second Great Fire of London)。ほとんど全ての教会が損壊、そのうち11の教会は再建されなかった。N・M・ロスチャイルド&サンズは戦中から組織改革をすすめ、1947年、節税を目的に新たな持株会社をつくった上で形式的な株式会社となった。1950年、シティがウェストミンスターと国政選挙区を統合した(Cities of London and Westminster)。戦中のLLC(London County Council)権限拡大が統合の背景をなした。 1946年、イギリスはケインズの交渉で37.5億ドルの借款を得た(Anglo-American loan)ことと引き換えに、ブロック経済を放棄した。それまでイギリスは貿易収支の赤字を貿易外収支の黒字で補っていたが、補填できなくなると金・ドル準備が減っていき、借款は世界的なドル不足によりわずか1年9ヶ月で費消された。ポンドは1958年にドルとの交換性を回復したが、1968年にシャルル・ド・ゴールの圧力で金の二重価格制が実現するまで値崩れしていった。そもそもの原因は、1943年に37億ポンドに達したイギリスの対外債務である。国際協定により対外債務はイングランド銀行に封鎖預金として累積された。1945年35.67億ポンドに減った。このあとリバウンドして1964年54.76億ポンドに激増した。1964年から1965年までに国際通貨基金から合計24億ドルを引き出し、また1964年には国際決済銀行と先進諸国から30億ドルの借款を得た。英国病で保護しきれなくなったフォレスタルは1969年に解体された。 このような時代の1960年に、ボルトンはシティをユーロカレンシー取引市場として再興しようと言い出した。交換性回復以前からシティにはユーロダラーが出回っていた。ファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドが営業のため世界を飛び回っていた。 シティの就業人口(昼間人口の大部分)は1961年に39.5万人であったが、1986年には28万人に減少した。家賃の高騰が店舗やその他施設を市外へ移動させた。1961年から1986年という期間はグレーター・ロンドン・カウンシル(大ロンドン議会)のあった期間と重なっている。初代議長のビル・フィスケ(Bill Fiske)は、イングランド銀行とLLCで活躍した政治家であった。1966年末にポンド十進法化委員会の議長となり、翌年9月に男爵となった。この大ロンドン議会が廃止されてシティをふくむロンドン特別区が権限を回復すると、ビッグバンがスタートしてマーチャント・バンクとストックジョバー(Stockjobber)が次々と買収されていった。 ポンド十進法の採用は、完全な交換性を回復するためのステップであった。1958年の交換性は、イギリス人と国内企業に保障されなかった。ブローカーとジョバーがそれぞれにカルテルを形成している伝統的な証券市場が生き延びることとなった。しかしボルトンが育てたユーロカレンシー市場が情報革命という追い風を受けて、シティのジェントルマンに襲いかかった。1971年ニクソン・ショックがおこり、8年後マーガレット・サッチャーが首相となってすぐポンドの取引規制を全面撤廃したのである。 1986年10月のビッグバンという規制撤廃もジェントルマンの古い聖域に踏み込んだものであった。しかしブローカーとジョバーの兼業解禁は19世紀に逆戻りする考え方であって、利益相反を既成事実化するところは投信と癒着した米国大資本の手口にそっくりだった。シティに投下された外資は弱い産業を育てることなく目先の利益を追求したから、経済効果もそれなりだった。 三大金融市場の一つロンドン金融市場を抱える世界金融の中心地として、ロンドン証券取引所、世界的保険市場かつ法人名たるロイズ、イングランド銀行、2004年までゴールドの値決めをしていた"ニューコート (New Court)"と呼称されるロスチャイルド&カンパニー、スタンダード・チャータード銀行、"イギリス四大銀行"とされるロイズ銀行 (Lloyds Bank) を抱えるロイズ・バンキング・グループが本社機能を置く。日本法人では野村證券、みずほフィナンシャルグループ、三井住友フィナンシャルグループ、三菱UFJアセットマネジメントなど三菱UFJフィナンシャルグループ等がEMEAの拠点機能を置いている。 2019年に入るとフィナンシャル・タイムズ本社が、テムズ川対岸のサザーク区内から、1980年代まで入居していたシティのブラッケン・ハウス (Bracken House) に戻った。ブラッケン・ハウスには上記みずほも入居している。また、ブラッケン・ハウスがあるキャノン・ストリート (Cannon Street) より西側を東西に走るフリート・ストリート (Fleet Street) には、かつて国内新聞各紙が集まっていたため、"フリート街"は国内新聞各紙を指す代名詞ないし換喩になっていた。そのフリート街に"Daily Telegraph Building"があるが、ルパート・マードック率いるニューズ・コープ傘下ニューズ・インターナショナル(現News UK)で、オフセット印刷普及に反対する旧来型のライノタイプ印刷工が1986年に労働争議「ワッピング争議」(The Wapping dispute ) を起こしてから、デイリー・テレグラフ・グループ本社は西隣ウェストミンスター区ヴィクトリアに移転。その後、カタール王族の投資会社が所有し、ゴールドマン・サックスが入居した。 テムズ川に沿ってシティの東側には再開発事業で造成された新興金融センターの「カナリー・ワーフ」が拡がる。 しかし、2020年のイギリスの欧州連合離脱により、金融拠点をフランクフルト、パリ、アムステルダム、ダブリンなどに移転する動きが加速している。 その他、BTグループ (BT Group) 本社はシティ (81 Newgate St) にある。GAFAを見ると、シティの北東側至近、ショーディッチのPrincipal Placeには、2017年からAmazon.com UK本社が入居した。Facebookはシティ西側カムデン区との境界界隈ウェストミンスター区のOne Rathbone SquareにUK本社があり、Google UK本社はカムデン区のキングス・クロス界隈にある。対してApple UKは、2021年にテムズ川南岸ワンズワース区バタシー発電所跡に主要本社機能を集約・移転予定。 シティはグレーター・ロンドンのその他の地域を管轄するロンドン警視庁とは別に、独自の警察組織であるロンドン市警察 (City of London Police) を組織している。ロンドン市警察は、スノーヒル、ウッドストリート、ビショップスゲートの3ヶ所に警察署を有し、813人の警察官と85人の特別巡査、および48人の補助警察官が職務にあたっている。管轄区域はシティ・オブ・ロンドン全域のみで、イングランドとウェールズにある警察組織としては、管轄範囲と警察官の人員数の点で、共に最も小さい。 イギリスの大多数の警察官は銀色のバッジを着用するが、市警察のバッジは市の紋章を基調とした黒と金の意匠が施されている。他にも、赤白のチェック柄のキャップバンドや、巡査や巡査部長の制服の上着の袖に着ける赤白のストライプ状の職務用腕章など、イギリスの多くの警察では白黒の配色であるところを、市警察の色である赤白の配色で作られているものがある。市警察の巡査と巡査部長は、徒歩によるパトロールの際、羽飾りのついたカストディアンヘルメットをかぶる。このヘルメットには、イングランドやウェールズの多くの警察用ヘルメットで使用されるブランズウィックスターは付いていない。 シティではセント・ポール大聖堂、オールド・ベイリー(英語版)、マンションハウス、スミスフィールド・マーケット、ギルドホール、その他多くの高層建築を含む、あらゆる建物や場所で火災の危険性がある。しかし、シティ内にはダウゲートにロンドン消防庁の消防車が一台配備されているのみである。そのため、シティは周辺の区にある消防署に依存して、火災発生の際は消火活動等の支援を受けている。統計によれば、シティ内で発生した火災に対応する1台目の消防車は平均で約5分以内に現場へ到着し、要請に応じて派遣される2台目は通報後約5分台後半で到着する。2006年度にシティで発生した火災案件は1,814件でロンドン32区の中では最小だった。2007年までの4年間は、シティで発生した火災による死者はゼロだった。 初等学校(小学校)・中等学校・特別学校(特別支援学校)については、居住人口や学校が少ないため、近隣のイズリントン区、タワーハムレッツ区、シティ・オブ・ウェストミンスター、サザーク区などの学校に通わせている家庭が多い。 また2000年代以降、特に2010年代以降のイギリスの教育政策において、国公立の私立化の過程で「アカデミー」(en)が設けられた。各アカデミーが基金を募る、インデペンデント・スクールの一種になる。2022年1月現在、国公立の初等学校の39%、中等学校の80%、特別支援学校の43%がアカデミーに転換している。 火災、爆撃、そして第二次世界大戦後のロンドンの再開発はシティにも影響を及ぼしたが、著名な歴史的建造物の多くはこれらの災禍から無傷あるいは軽微な損傷にて免れたため、他の都市に比べて再開発の規模は比較的小さかった。 今日まで残存している建築は、以下の通り。 また、以下はテンプル地区への激しい爆撃に耐えた著名な建築である。ただし、これらは大規模な改修を受けている。 ホルボーンのハイウェイ(Holborn Circus)西部にアルバート公子の乗馬像がある。デビアスのチャールズ・オッペンハイムが贈呈した。その他の著名な現代的高層建築や歴史的名所の数々を以下に示す。 また、多くの高層建築物や超高層建築物がシティ内に存在し、主に金融ビジネス部門に利用されている。これらのほとんど全てはシティの中でも金融の中心である、スクエア・マイルの東側に集中している。それに比べてシティの北部にはバービカン・エステートの3つの居住用タワーと商業用のシティポイント・タワーが立つ小規模なビル群があるのみである。 シティ・オブ・ロンドン内で最も高い建築物の年表を以下に示す。 現在シティ以内に立地している高さ100 m以上の建築物は以下の通り。 シティ内で100 mを超える建築物または構築物のうち建設中あるいは建設が予定されているものを以下に挙げる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "シティ・オブ・ロンドン(英: City of London)は、イングランドのロンドン中心部に位置する地区である。周辺地域とコナベーションを形成し、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域で、範囲は中世以降ほとんど変わっていない。単にシティ(The City)、またはスクエア・マイル(Square Mile)とも呼ばれる。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行している。この自治体の首班はロンドン市長(Lord Mayor of London)である。2000年に再設置された大ロンドン庁のロンドン市長(Mayor of London)と異なる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シティは英国のGNPの2.5パーセントに貢献しており、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社等が置かれる金融センターとしてニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導し、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年代初期に、IRA暫定派がシティ内に複数の爆弾を仕掛けて爆発させる事件が発生した。居住する人口はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6700人の昼間人口がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シティは面積と人口の点でイングランドの典礼カウンティにて最小であり、人口密度は4番目に高い。シティの境界には、市の紋章が描かれた黒いボラードと、ドラゴン境界標(英語版)の像が設置されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在のドラゴン像はロンドン市周辺に14体存在しており、オリジナルのままの像は2体で、石炭取引所と。テンプルバー付近に設置されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ローマ人によるブリテン島進出は、紀元前から行われていたが、紀元43年頃に、既にあったローマ人居住地間の行き来を便利にするためにテムズ川に木造の橋が掛けられた(現在のロンドン橋)。橋の位置はイングランド南部の比較的海に近い所で、幅・深さも海船が乗り入れるのに十分であり、国内外の物資輸送に好都合であった。そこで紀元50年頃に川の北岸に居住地を作り、ロンディニウム(Londinium)と名付けた。町の周囲には城壁が築かれ、ローマ軍が駐屯した。3世紀末にローマ軍内部で反乱がおき(Carausian Revolt)、4世紀後半には北方のハドリアヌスの長城がケルト人によって破られた。ブリテン島に軍隊を駐留させる費用は年々大きくなり、410年に皇帝ホノリウスは諸都市に自衛を命じてブリテン島から軍を撤収する決断をした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "6世紀に大陸から渡ってきたアングロ・サクソン人の部族国家が生まれ、七王国時代の幕開けとなった。紛争が絶えなかったため、シティの市街地は長きにわたってローマ人の残した城壁の外側に広がることはなかった。シティにおけるキリスト教団の拠点となるセント・ポール大聖堂が607年頃に建てられた。当時のシティの建物は木造建築が主体で、しばしば火災が発生した。アゼルスタンがデーンロウの奪還に成功し、イングランドの基礎を築いた。1078年、ウィリアム征服王は、城壁の南東角地に要塞の建設を命じた。これが後のロンドン塔の中核部分となり、イングランドの政治の中心地としての地位が固まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "12世紀ヨーロッパ人、特に北イタリアのロンバルディア人が移住してきた(ロンバード・ストリート)。このころシティ議会の原型が生まれた。1215年のマグナ・カルタはシティが国際市場化するきっかけとなった。シティは、1203年までに24区に分けられていたが、1394年にファリントン区(Farrington Ward)が二分され25区となった。シティ参事会は各区長で構成され、そこから毎年の長を選んだ。区長は各区の市議会と行政を担った。参事会と市議会の双方に、同業者ギルドが多くの代表を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1550年、シティに新しく一区が設けられ、全部で26区となった。5年後にモスクワ会社の前身が勅許を得た(Company of Merchant Adventurers to New Lands)。1570年、トーマス・グレシャムと彼の国際人脈がシティに王立取引所を設けた。これは欧州アントウェルペンのそれを模したものであった。銘柄と郵便の国際化により、王立取引所の利便性は向上した。1592年レバント会社が設立され(Levant Company)、その運営が東方問題を国際経済面で惹起した。1616年ジョン・リーマン(John Leman)がシティの長となった。1636年、チャールズ1世の御用金融家(Philip Burlamachi)が政府の手形交換所として中央銀行を構想した。清教徒革命でシティは、軍事費を徴収されたり、娯楽を規制されたりした。1666年ロンドン大火でフリート・ストリートが燃えた。1672年ホア銀行(C. Hoare & Co)が設立された。1712年、創業者がシティの長となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1720年、南海泡沫事件が起こる。1725年、減債基金を流用していたロバート・ウォルポールのシティ選挙法が、民主的な市議会の決定を富裕な参事会が拒否できる権限を与え非難を浴びた。1734年イングランド銀行が現住所のスレッドニードルへ移転してきた。1750年にウェストミンスター橋ができたので、ロンドン橋がテムズ川唯一の橋でなくなった。それから十数年、モスクワ会社のアンガースタイン(John Julius Angerstein)がシティで青年期をすごした。1760年、ジョージ3世の即位式に810人のマーチャント・バンカーが参加した。そのうち、少なくとも250人は外国人だったといわれる。2年後ベアリングス銀行が設立された。1773年にロンドン証券取引所が誕生した。翌年ジョン・ウィルクスがシティの長となった。このころイーストエンドのスラム化が社会問題であった。シティの人口は1700年時点で20万人超であったが、1801年は13万人であった。19世紀初頭の大陸封鎖令に政府が対抗措置をとった。これが疲弊したイギリス経済に追い討ちをかけた。1810年マーチャント・バンカーのアブラハム・ゴールドスミッド(Abraham Goldsmid)が自殺した。ベアリングと並ぶ英国債引受者であった。米英戦争が終わるとシティは世界一の国際金融市場となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1822年10月、ヴェローナ会議で東方問題をめぐる交渉が決裂してイギリスは五国同盟を脱退した。1823年、シティのブローカー兼ジョバーであったデヴィッド・リカードが死んだ。1825年の恐慌(Panic of 1825)で、イングランド銀行総裁(Cornelius Buller)と姻戚であったポール・ソーントン銀行(Pole, Thornton & Co.)が中央銀行から支援を得たが倒産、ウィリアムズ・ディーコンズ・バンクとなった。1837年恐慌では「3W(the three W's)」と呼ばれた三人のアメリカ人がイングランド銀行の資金注入を受けた。彼らは合衆国銘柄を株式公開したり、対米貿易金融のパートナーを募ったりして、非常な人気を博していた。この1830年代にはスミスフィールドの市に対する課税額が引き上げられた。1851年、海底ケーブルがドーバー海峡で開通した。1854年、株式会社銀行がシティの手形交換所(LCH)へ加入することが認められた。以降、20世紀末まで人口減少が止まらなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "保険と小口株式が広く資金をよびこみ、その資金が長期投資へ向かった。シティの経済構造は、クリミア戦争の戦後不況からベアリングス銀行の救済劇までの19世紀後半に周期的な恐慌をもたらした。シティを周辺地区と合併しようとする議論がおこり、1894年に王立委員会(Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London)が開かれたが、ウェストミンスターの意見変更により合併は行われなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "19世紀後半の経済構造は、ドーバー向かいのフランスをはじめとする欧州各国と関係しながら形成された。シティのマーチャント・バンク事務員は徒歩で混雑に耐えながら通勤し、薄給から各種保険料を払いながら生活していた。語学力のある通信士は高給取りであったが、しかし彼らの多くは外国人であった。両者の差は生涯賃金だけでなかった。およそ10年ごとに襲い来る恐慌から逃れる術を分かるかどうかは、語学力や職場環境によったのである。この経済格差を生じた期間には、スミスフィールドの市とシティの教区墓地が閉鎖となり、乗合馬車と鉄道が順に整備され、昼間人口が増えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ロイズは、泡沫法が1824年に廃止されたことで海上保険業の独占を切り崩されていた(ロスチャイルド#ウィーン体制下)。1902年、ロイズの家系で主要な引受メンバーでもあったパーシー・バーナンド(Percy George Calvert Burnand)が財政危機に陥った。イギリスの造船業が19世紀後半にトップシェアを記録しつづけたので、海上保険市場は拡大していた。建艦競争がドイツ帝国との間に起こることもあった。その陰で、ロイズは静かに凋落し変化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1912年、金融スキャンダルが2件あった。一つは昨年来ロンドン貴金属市場に参加していたサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu & Co.)というマーチャント・バンクが、イングランド銀行や政府と組んでインドの銀価格を操作して下げたという、タイムズの連載記事となったインディア・シルバー・スキャンダル。もう一つはグリエルモ・マルコーニを優遇し大英帝国の無線網を構築させ、あまつさえ政府がマルコーニ社の米子会社へ資本参加していたというものであった(Marconi scandal)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦のシティは敵国との経済関係に打撃をうけた。戦後モンタギュー・ノーマンが復旧に活躍した。彼は「シティの法王」とよばれ、また国際決済銀行の一員として金本位制を支持していた。1924年6月、ノーマンはイギリスを金本位制に復帰させる委員会をつくり、翌月までに9回召集した。参加者は、オースティン・チェンバレン委員長、アーサー・セシル・ピグーやジョン・メイナード・ケインズといった経済学者、元財務大臣ロバート・ホーン(Robert Horne)、レジナルド・マッケナミッドランド銀行(現HSBC)会長、ロンドン手形交換所加盟銀行の代表者各位、商工会議所の代表団、そして経団連(Federation of British Industries)である。ここまでして金解禁した結果、イギリスは世界恐慌で未曾有の金流出に見舞われた。1931年9月21日イングランド銀行が金本位制を離脱すると発表した。1933年ソシエテ・ジェネラルのジョージ・ボルトン(George Bolton)がイングランド銀行の理事となった。1932年6月イギリスは為替平衡勘定を創設して、過激にポンドを売り、正金とフランス・フランとアメリカ・ドルを買った。後二者はすぐ兌換した。これに耐えかねて1933年3月には連邦準備制度も金本位制をやめた。まるで1月にドイツ首相となったヒトラーから逃れるように、フランス銀行から金が流れ出ていった。1936年9月25日フランスも金本位制を放棄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この同日に英米仏三国通貨協定が締結された。これのためにボルトンやフランス銀行為替取引担当(Charles Cariguel)などの国際金融家が連携をとりあってきた。この協定は、英仏が自国通貨の対ドル相場を安定させることを条件にアメリカが兌換を継続するというものであり、それまで行われてきた自国通貨の切り下げ競争にピリオドを打ってブレトンウッズ協定の礎となった。1937年4月、英仏両政府がベルギーのパウル・ファン・ゼーラント首相に協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中の1940年、シティは火災に遭った(Second Great Fire of London)。ほとんど全ての教会が損壊、そのうち11の教会は再建されなかった。N・M・ロスチャイルド&サンズは戦中から組織改革をすすめ、1947年、節税を目的に新たな持株会社をつくった上で形式的な株式会社となった。1950年、シティがウェストミンスターと国政選挙区を統合した(Cities of London and Westminster)。戦中のLLC(London County Council)権限拡大が統合の背景をなした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1946年、イギリスはケインズの交渉で37.5億ドルの借款を得た(Anglo-American loan)ことと引き換えに、ブロック経済を放棄した。それまでイギリスは貿易収支の赤字を貿易外収支の黒字で補っていたが、補填できなくなると金・ドル準備が減っていき、借款は世界的なドル不足によりわずか1年9ヶ月で費消された。ポンドは1958年にドルとの交換性を回復したが、1968年にシャルル・ド・ゴールの圧力で金の二重価格制が実現するまで値崩れしていった。そもそもの原因は、1943年に37億ポンドに達したイギリスの対外債務である。国際協定により対外債務はイングランド銀行に封鎖預金として累積された。1945年35.67億ポンドに減った。このあとリバウンドして1964年54.76億ポンドに激増した。1964年から1965年までに国際通貨基金から合計24億ドルを引き出し、また1964年には国際決済銀行と先進諸国から30億ドルの借款を得た。英国病で保護しきれなくなったフォレスタルは1969年に解体された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このような時代の1960年に、ボルトンはシティをユーロカレンシー取引市場として再興しようと言い出した。交換性回復以前からシティにはユーロダラーが出回っていた。ファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドが営業のため世界を飛び回っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "シティの就業人口(昼間人口の大部分)は1961年に39.5万人であったが、1986年には28万人に減少した。家賃の高騰が店舗やその他施設を市外へ移動させた。1961年から1986年という期間はグレーター・ロンドン・カウンシル(大ロンドン議会)のあった期間と重なっている。初代議長のビル・フィスケ(Bill Fiske)は、イングランド銀行とLLCで活躍した政治家であった。1966年末にポンド十進法化委員会の議長となり、翌年9月に男爵となった。この大ロンドン議会が廃止されてシティをふくむロンドン特別区が権限を回復すると、ビッグバンがスタートしてマーチャント・バンクとストックジョバー(Stockjobber)が次々と買収されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ポンド十進法の採用は、完全な交換性を回復するためのステップであった。1958年の交換性は、イギリス人と国内企業に保障されなかった。ブローカーとジョバーがそれぞれにカルテルを形成している伝統的な証券市場が生き延びることとなった。しかしボルトンが育てたユーロカレンシー市場が情報革命という追い風を受けて、シティのジェントルマンに襲いかかった。1971年ニクソン・ショックがおこり、8年後マーガレット・サッチャーが首相となってすぐポンドの取引規制を全面撤廃したのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1986年10月のビッグバンという規制撤廃もジェントルマンの古い聖域に踏み込んだものであった。しかしブローカーとジョバーの兼業解禁は19世紀に逆戻りする考え方であって、利益相反を既成事実化するところは投信と癒着した米国大資本の手口にそっくりだった。シティに投下された外資は弱い産業を育てることなく目先の利益を追求したから、経済効果もそれなりだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "三大金融市場の一つロンドン金融市場を抱える世界金融の中心地として、ロンドン証券取引所、世界的保険市場かつ法人名たるロイズ、イングランド銀行、2004年までゴールドの値決めをしていた\"ニューコート (New Court)\"と呼称されるロスチャイルド&カンパニー、スタンダード・チャータード銀行、\"イギリス四大銀行\"とされるロイズ銀行 (Lloyds Bank) を抱えるロイズ・バンキング・グループが本社機能を置く。日本法人では野村證券、みずほフィナンシャルグループ、三井住友フィナンシャルグループ、三菱UFJアセットマネジメントなど三菱UFJフィナンシャルグループ等がEMEAの拠点機能を置いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2019年に入るとフィナンシャル・タイムズ本社が、テムズ川対岸のサザーク区内から、1980年代まで入居していたシティのブラッケン・ハウス (Bracken House) に戻った。ブラッケン・ハウスには上記みずほも入居している。また、ブラッケン・ハウスがあるキャノン・ストリート (Cannon Street) より西側を東西に走るフリート・ストリート (Fleet Street) には、かつて国内新聞各紙が集まっていたため、\"フリート街\"は国内新聞各紙を指す代名詞ないし換喩になっていた。そのフリート街に\"Daily Telegraph Building\"があるが、ルパート・マードック率いるニューズ・コープ傘下ニューズ・インターナショナル(現News UK)で、オフセット印刷普及に反対する旧来型のライノタイプ印刷工が1986年に労働争議「ワッピング争議」(The Wapping dispute ) を起こしてから、デイリー・テレグラフ・グループ本社は西隣ウェストミンスター区ヴィクトリアに移転。その後、カタール王族の投資会社が所有し、ゴールドマン・サックスが入居した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "テムズ川に沿ってシティの東側には再開発事業で造成された新興金融センターの「カナリー・ワーフ」が拡がる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "しかし、2020年のイギリスの欧州連合離脱により、金融拠点をフランクフルト、パリ、アムステルダム、ダブリンなどに移転する動きが加速している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その他、BTグループ (BT Group) 本社はシティ (81 Newgate St) にある。GAFAを見ると、シティの北東側至近、ショーディッチのPrincipal Placeには、2017年からAmazon.com UK本社が入居した。Facebookはシティ西側カムデン区との境界界隈ウェストミンスター区のOne Rathbone SquareにUK本社があり、Google UK本社はカムデン区のキングス・クロス界隈にある。対してApple UKは、2021年にテムズ川南岸ワンズワース区バタシー発電所跡に主要本社機能を集約・移転予定。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "シティはグレーター・ロンドンのその他の地域を管轄するロンドン警視庁とは別に、独自の警察組織であるロンドン市警察 (City of London Police) を組織している。ロンドン市警察は、スノーヒル、ウッドストリート、ビショップスゲートの3ヶ所に警察署を有し、813人の警察官と85人の特別巡査、および48人の補助警察官が職務にあたっている。管轄区域はシティ・オブ・ロンドン全域のみで、イングランドとウェールズにある警察組織としては、管轄範囲と警察官の人員数の点で、共に最も小さい。", "title": "公共サービス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イギリスの大多数の警察官は銀色のバッジを着用するが、市警察のバッジは市の紋章を基調とした黒と金の意匠が施されている。他にも、赤白のチェック柄のキャップバンドや、巡査や巡査部長の制服の上着の袖に着ける赤白のストライプ状の職務用腕章など、イギリスの多くの警察では白黒の配色であるところを、市警察の色である赤白の配色で作られているものがある。市警察の巡査と巡査部長は、徒歩によるパトロールの際、羽飾りのついたカストディアンヘルメットをかぶる。このヘルメットには、イングランドやウェールズの多くの警察用ヘルメットで使用されるブランズウィックスターは付いていない。", "title": "公共サービス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "シティではセント・ポール大聖堂、オールド・ベイリー(英語版)、マンションハウス、スミスフィールド・マーケット、ギルドホール、その他多くの高層建築を含む、あらゆる建物や場所で火災の危険性がある。しかし、シティ内にはダウゲートにロンドン消防庁の消防車が一台配備されているのみである。そのため、シティは周辺の区にある消防署に依存して、火災発生の際は消火活動等の支援を受けている。統計によれば、シティ内で発生した火災に対応する1台目の消防車は平均で約5分以内に現場へ到着し、要請に応じて派遣される2台目は通報後約5分台後半で到着する。2006年度にシティで発生した火災案件は1,814件でロンドン32区の中では最小だった。2007年までの4年間は、シティで発生した火災による死者はゼロだった。", "title": "公共サービス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "初等学校(小学校)・中等学校・特別学校(特別支援学校)については、居住人口や学校が少ないため、近隣のイズリントン区、タワーハムレッツ区、シティ・オブ・ウェストミンスター、サザーク区などの学校に通わせている家庭が多い。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また2000年代以降、特に2010年代以降のイギリスの教育政策において、国公立の私立化の過程で「アカデミー」(en)が設けられた。各アカデミーが基金を募る、インデペンデント・スクールの一種になる。2022年1月現在、国公立の初等学校の39%、中等学校の80%、特別支援学校の43%がアカデミーに転換している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "火災、爆撃、そして第二次世界大戦後のロンドンの再開発はシティにも影響を及ぼしたが、著名な歴史的建造物の多くはこれらの災禍から無傷あるいは軽微な損傷にて免れたため、他の都市に比べて再開発の規模は比較的小さかった。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "今日まで残存している建築は、以下の通り。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、以下はテンプル地区への激しい爆撃に耐えた著名な建築である。ただし、これらは大規模な改修を受けている。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ホルボーンのハイウェイ(Holborn Circus)西部にアルバート公子の乗馬像がある。デビアスのチャールズ・オッペンハイムが贈呈した。その他の著名な現代的高層建築や歴史的名所の数々を以下に示す。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、多くの高層建築物や超高層建築物がシティ内に存在し、主に金融ビジネス部門に利用されている。これらのほとんど全てはシティの中でも金融の中心である、スクエア・マイルの東側に集中している。それに比べてシティの北部にはバービカン・エステートの3つの居住用タワーと商業用のシティポイント・タワーが立つ小規模なビル群があるのみである。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "シティ・オブ・ロンドン内で最も高い建築物の年表を以下に示す。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "現在シティ以内に立地している高さ100 m以上の建築物は以下の通り。", "title": "名所" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "シティ内で100 mを超える建築物または構築物のうち建設中あるいは建設が予定されているものを以下に挙げる。", "title": "名所" } ]
シティ・オブ・ロンドンは、イングランドのロンドン中心部に位置する地区である。周辺地域とコナベーションを形成し、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域で、範囲は中世以降ほとんど変わっていない。単にシティ、またはスクエア・マイルとも呼ばれる。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体が執行している。この自治体の首班はロンドン市長である。2000年に再設置された大ロンドン庁のロンドン市長と異なる。 シティは英国のGNPの2.5パーセントに貢献しており、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社等が置かれる金融センターとしてニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導し、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している。 1990年代初期に、IRA暫定派がシティ内に複数の爆弾を仕掛けて爆発させる事件が発生した。居住する人口はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6700人の昼間人口がある。
{{Infobox settlement |official_name = シティ・オブ・ロンドン |native_name = City of London |settlement_type = [[シティ・ステータス (イギリス)|シティ]]および[[イングランドのカウンティ|カウンティ]] |motto = ''Domine Dirige Nos''<br><small>("主よ我らを導き給え")</small> |image_skyline =City of London skyline 27.12.2019.jpg |imagesize = 275px |image_caption = <small>シティ・オブ・ロンドン(2019年12月)</small> |image_flag = Flag of the City of London.svg |flag_size = 125px |image_shield = Coat of Arms of The City of London.svg |shield_size = 100px |image_map = City of London in Greater London.svg |mapsize = 275px |map_caption = [[グレーター・ロンドン]]内におけるシティ・オブ・ロンドン |nickname = the Square Mile, the City |subdivision_type = 地位 |subdivision_name = ''[[w:Sui generis|スイ・ジェネリス]]''; [[シティ・ステータス (イギリス)|シティ]]および[[イングランドのカウンティ|カウンティ]] |subdivision_type1 = [[国の一覧|主権国家]] |subdivision_name1 = {{GBR}} |subdivision_type2 = [[イギリスのカントリー|構成国]] |subdivision_name2 = {{ENG}} |subdivision_type3 = [[リージョン (イングランド)|リージョン]] |subdivision_name3 = [[グレーター・ロンドン|ロンドン]] |established_title = [[ローマ帝国|ローマ人]]の入植 |established_date = 紀元後47年頃<br />(''[[ロンディニウム]]'') |established_title2 = [[ウェセックス]]再植民 |established_date2 = 紀元後886年 |parts_type = [[w:Wards and electoral divisions of the United Kingdom|区 (Wards)]] |parts_style = coll |parts = {{nobold|[[w:Wards of the City of London|25区]]}} |p1 = {{仮リンク|アルダーズゲート|en|Aldersgate}} |p2 = {{仮リンク|オルドゲート|en|Aldgate}} |p3 = {{仮リンク|バッシショウ|en|Bassishaw}} |p4 = {{仮リンク|ビリングズゲート|en|Billingsgate}} |p5 = {{仮リンク|ビショップスゲート|en|Bishopsgate}} |p6 = {{仮リンク|ブレッド・ストリート|en|Bread Street}} |p7 = {{仮リンク|ブリッジ (区)|en|Bridge (ward)|label=ブリッジ}} |p8 = {{仮リンク|ブロード・ストリート (区)|en|Broad Street (ward)|label=ブロード・ストリート}} |p9 = {{仮リンク|キャンドルウィック|en|Candlewick}} |p10 = {{仮リンク|キャッスルベイナード|en|Castle Baynard}} |p11 = {{仮リンク|チープ (区)|en|Cheap (ward)|label=チープ}} |p12 = {{仮リンク|コールマン・ストリート|en|Coleman Street}} |p13 = {{仮リンク|コールドウェイナー (区)|en|Cordwainer (ward)|label=コールドウェイナー}} |p14 = {{仮リンク|コーンヒル (ロンドン)|en|Cornhill, London|label=コーンヒル}} |p15 = {{仮リンク|クリップルゲート|en|Cripplegate}} |p16 = {{仮リンク|ダウゲート|en|Dowgate}} |p17 = {{仮リンク|ファリンドン・ウィズイン|en|Farringdon Within}} |p18 = {{仮リンク|ファリンドン・ウィズアウト|en|Farringdon Without}} |p19 = {{仮リンク|ラングボーン|en|Langbourn}} |p20 = {{仮リンク|ライム・ストリート (区)|en|Lime Street (ward)|label=ライム・ストリート}} |p21 = {{仮リンク|ポートソケン|en|Portsoken}} |p22 = {{仮リンク|クイーンハイス|en|Queenhithe}} |p23 = {{仮リンク|タワー (区)|en|Tower (ward)|label=タワー}} |p24 = {{仮リンク|ヴィントリー|en|Vintry}} |p25 = {{仮リンク|ウォルブルック|en|Walbrook}} |governing_body = [[w:City of London Corporation|シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション]] |leader_title = [[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]] |leader_name = [[w:Andrew Parmley|Andrew Parmley]] |leader_title1 = [[w:Town Clerk of London|市書記]] |leader_name1 = John Barradell |leader_title2 = 行政府所在地 |leader_name2 = [[ギルドホール (ロンドン)|ギルドホール]] |leader_title3 = [[ロンドン議会]]議員 |leader_name3 = [[w:Unmesh Desai|Unmesh Desai]] ([[労働党 (イギリス)|Lab]]) ([[w:City and East (London Assembly constituency)|City and East]]区選出) |leader_title4 = [[w:MPs elected in the United Kingdom general election, 2015|英国議会議員]] |leader_name4 = [[w:Mark Field|Mark Field]] ([[保守党 (イギリス)|Con]]) ([[w:Cities of London and Westminster (UK Parliament constituency)|Cities of London and Westminster]]区選出) |area_magnitude = |unit_pref = Metric<!--Enter: Imperial, if Imperial (metric) is desired--> |area_total_km2 = 2.90 |population_as_of = [[w:United Kingdom Census 2011|2011]] |population_footnotes = |population_total = 8072 |population_rank = [[w:List of English districts by population|325]]位(全326地区中) |population_density_km2 = auto |demographics_type1 = 民族構成 {{nobold|(2011)}} |demographics1_footnotes = <ref name=LBEthnicPercentages>''[http://www.ons.gov.uk/ons/rel/census/2011-census/key-statistics-for-local-authorities-in-england-and-wales/rft-table-ks201ew.xls 2011 Census: Ethnic group, local authorities in England and Wales]'', Office for National Statistics (2012). See [[w:Classification of ethnicity in the United Kingdom|Classification of ethnicity in the United Kingdom]] for the full descriptions used in the 2011 Census.</ref> |demographics1_title1 = 百分率 |demographics1_info1 = {{ubl|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|WB}}% [[w:White British|イギリス系白人]]|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|WI}}% [[w:Irish Briton|アイルランド系白人]]|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|WG}}% ジプシー系白人または[[アイリッシュ・トラヴェラー|アイリッシュ・トラベラー]]|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|OW}}% [[w:White Other (United Kingdom Census)|その他の白人]]|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|MWBC}}% 白人とカリブ系黒人の混血|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|MWBA}}% 白人とアフリカ系黒人の混血|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|MWA}}% 白人とアジア系の混血|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|OM}}% その他の混血|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of London|I}}% [[w:British Indian|インド系]]|{{Infobox London Borough/ethnicity|City of 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|elevation_min_m = 0 |elevation_max_m = 21 |postal_code_type = [[w:Postcodes in the United Kingdom|郵便コード]] |postal_code = [[w:EC postcode area|EC]], [[w:WC postcode area|WC]], [[w:E postcode area|E]] |postal2_code_type = [[w:ONS coding system|ONSコード]] |postal2_code = 00AA |area_code = 020 |blank_name_sec1 = [[守護聖人]] |blank_info_sec1 = [[パウロ|聖パウロ]] |blank_name_sec2 = [[w:List of law enforcement agencies in the United Kingdom|警察機関]] |blank_info_sec2 = [[ロンドン市警察]] |blank1_name_sec2 = [[ロンドン交通局]]ゾーン |blank1_info_sec2 = [[w:List of stations in London fare zone 1|ゾーン1]]; [[コンジェスチョン・チャージ|コンジェスチョン・チャージ・ゾーン]] |website = [http://www.cityoflondon.gov.uk cityoflondon.gov.uk] |footnotes = }} '''シティ・オブ・ロンドン'''({{lang-en-short|City of London}})は、[[イングランド]]の[[ロンドン]]中心部に位置する地区{{Refnest|group=注釈|現在、「ロンドン」の名はシティ・オブ・ロンドンに留まらず、より広範な地域を指して用いられており、もとの区域はしばしば単に「シティ」として知られるようになった。この用法は16世紀の記録にまで遡ることができる。その記録には、「シティ(“The City”)は通商と金融のコミュニティの象徴でもある」と記載されている。この前後には、シティが口語的にスクエア・マイルとして知られていたことも著述されている<ref name="Mills">{{cite book | title = Dictionary of London Place Names|year=2001|last=Mills|first= AD |publisher=Oxford}}</ref>。現代における「ロンドン」は、シティ・オブ・ロンドンと同様に[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]など32の[[ロンドンの特別区|区]]を抱える、おおよそ[[グレーター・ロンドン]]の範囲に相当する広範囲のコナベーション地域を指す単語となっている。}}である。周辺地域と[[コナベーション]]を形成し<ref name="beckett">{{cite book | title= City status in the British Isles, 1830–2002 | series= Historical urban studies | author= Beckett, J V | year= 2005 | publisher= Ashgate | location= Aldershot | isbn= 0-7546-5067-7 |page=12}}</ref>、現代の[[メトロポリス]]・[[ロンドン]]の起源となる地域で、範囲は[[中世]]以降ほとんど変わっていない<ref group=注釈>約1マイル四方(厳密には{{Convert|1.12|sqmi|km2|2|abbr=on}})</ref>。単に'''シティ'''(The City)、または'''スクエア・マイル'''(Square Mile)とも呼ばれる<ref>{{cite web | url=http://www.cityoflondon.gov.uk/nr/rdonlyres/10feeb0b-3ded-4c2d-93d1-8534fcb28cc5/0/Census%202001.pdf |format=PDF| accessdate=2009-04-10 | title=City of London Resident Population Census 2001 | publisher = ''Corporation of London'' | month=July | year=2005|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110612220841/www.cityoflondon.gov.uk/nr/rdonlyres/10feeb0b-3ded-4c2d-93d1-8534fcb28cc5/0/Census%202001.pdf|archivedate=2011-06-12}}</ref><ref group=注釈>これらの語は[[金融街]]としての安定したシティの長い歴史とも相まって、しばしば[[イギリス]]の金融業界を指す。</ref>。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体([[:en:City of London Corporation|City of London Corporation]])が執行している<ref group=注釈>これは英国内でも独特の制度であり、シティの区画境界を越えて権限や所有権を有する事項もあるなど、イギリスの地方自治制度としては一般的でない部分も少なからず含まれる。</ref>。この自治体の首班は[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]](Lord Mayor of London)である{{Refnest|group=注釈|シティ・オブ・ロンドンの市長は、任期が1年であり、毎年9月29日のミカエル祭に選挙が行われる。自治都市の伝統から、英国国王がシティー内に立ち入る際には市長の許可を必要とするほどの格式を誇るが、実際は名誉職にすぎない。シティの市庁舎はギルド・ホールと呼ばれる。}}。[[2000年]]に再設置された[[グレーター・ロンドン・オーソリティー|大ロンドン庁]]の[[ロンドン市長]](Mayor of London)と異なる。 シティは英国の[[国民総生産|GNP]]の2.5[[パーセント]]に貢献しており<ref>{{cite web|url=http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/media_centre/keyfacts.htm |title=Key facts |publisher=Cityoflondon.gov.uk |date= |accessdate=2011-10-30|archiveurl=https://archive.is/9vR8|archivedate=2012-06-04}}</ref>、[[ロンドン証券取引所]]や[[イングランド銀行]]、[[ロイズ]]本社等が置かれる[[金融センター]]として<ref group=注釈>他に、シティから東に{{convert|4.0|km|mi|abbr=on}}離れた[[カナリー・ワーフ]]もロンドンの主要な金融地区である。</ref>[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]と共に世界経済を先導し<ref>{{cite web|url=http://www.zyen.com/PDF/GFC%207.pdf#page=30 |title=Global Financial Centres 7 |publisher=[[Z/Yen]] |year=2010 |accessdate=2010-04-21}}</ref>、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している<ref name="world and its people">{{cite book|last = Dunton |first = Larkin |authorlink = |title = The World and Its People |publisher = Silver, Burdett |series = |year = 1896 |page = 24}}</ref>{{Refnest|group=注釈|シティは国際的な原料[[カルテル]]の化石である。[[銅]]や[[錫]]などの国際相場もここで決められる([[:en:London Metal Exchange|London Metal Exchange]])<ref>地理用語研究会 編(2004):157ページ</ref>。}}。 1990年代初期に、[[IRA暫定派]]がシティ内に複数の[[爆弾]]を仕掛けて爆発させる事件が発生した<ref group="注釈">[[リング・オブ・スチール (ロンドン)|リング・オブ・スチール]]はIRAによる爆撃などテロリストの脅威への対抗策として開発された特に有名な方法である。</ref><ref group="注釈">2004年5月に[[BBC]]のニュース番組「[[Panorama (テレビ番組)|Panorama]]」において、[[アメリカ同時多発テロ事件|2001年の米同時多発テロ]]に匹敵する規模のテロ攻撃に対するイギリスの警察や消防などの緊急時対応機関の準備体制を調査したところ、シティ東部のビショップスゲートで化学薬品による爆破事件が発生するとのシミュレート結果が出された。</ref>。[[夜間人口|居住する人口]]はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6700人の[[昼間人口]]がある<ref name="citylondon">{{cite web|url=http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/LGNL_Services/Business/Business_support_and_advice/Economic_information_and_analysis/Research+and+statistics+FAQ.htm|title=Research and statistics FAQ|publisher=The City of London|accessdate=2012-02-23|archiveurl=https://archive.is/bQqKn|archivedate=2011-09-26}}</ref>。 == 地理 == シティは面積と人口の点で[[イングランドの典礼カウンティ]]にて最小であり、人口密度は4番目に高い。シティの境界には、市の紋章が描かれた黒いボラードと、{{仮リンク|ドラゴン境界標|en|Dragon_boundary_mark}}の像が設置されている<ref>{{Commonscat-inline|City of London Dragon boundary marks}}</ref>。 [[File:City of London UK labelled ward map 2003.svg|thumb|450px|none|シティの区割り(2003年以降)]] <gallery widths=200px heights=220px> File:Dragon detail, Temple Bar Memorial.jpg|テンプルバーの1849年オリジナルのドラゴン像 File:England Dragon statue.jpg|石炭取引所の1849年オリジナルのドラゴン像 File:Aldersgate City of London Boundary Dragon.jpg|Aldersgateの境界ボラード File:The Aldgate City of London Boundary Dragon (207-158).jpg|ドラゴン像の拡大部 </gallery> 現在のドラゴン像はロンドン市周辺に14体存在しており、オリジナルのままの像は2体で、石炭取引所と。テンプルバー付近に設置されている<ref>{{Cite web|url=http://www.seiryu.org.uk/ppp/city-dragon.html|title=City of London Boundary Dragons|website=www.seiryu.org.uk|access-date=2020-04-23}}</ref><ref group="注釈">設置場所マップは https://wikimap.toolforge.org/?cat=City_of_London_Dragon_boundary_marks&subcats=true&subcatdepth=1 参照</ref>。 == 歴史 == === マグナカルタまで === ローマ人による[[ブリテン島]]進出は、紀元前から行われていたが、紀元43年頃に、既にあったローマ人居住地間<ref group=注釈>コルチェスターやセント・アルバンズ、リンカーンなど</ref>の行き来を便利にするために[[テムズ川]]に木造の橋が掛けられた(現在の[[ロンドン橋]])。橋の位置はイングランド南部の比較的海に近い所で、幅・深さも海船が乗り入れるのに十分であり、国内外の物資輸送に好都合であった。そこで紀元50年頃に川の北岸に居住地を作り、[[ロンディニウム]](Londinium)と名付けた。町の周囲には[[城壁]]が築かれ、[[ローマ軍]]が駐屯した。3世紀末にローマ軍内部で反乱がおき([[:en:Carausian Revolt|Carausian Revolt]])、4世紀後半には北方の[[ハドリアヌスの長城]]が[[ケルト人]]によって破られた。ブリテン島に軍隊を駐留させる費用は年々大きくなり、410年に皇帝[[ホノリウス]]は諸都市に自衛を命じてブリテン島から軍を撤収する決断をした。 6世紀に大陸から渡ってきた[[アングロ・サクソン人]]の部族国家が生まれ、[[七王国]]時代の幕開けとなった。紛争が絶えなかったため、シティの市街地は長きにわたってローマ人の残した城壁の外側に広がることはなかった。シティにおけるキリスト教団の拠点となる[[セント・ポール大聖堂]]が607年頃に建てられた。当時のシティの建物は木造建築が主体で、しばしば火災が発生した。[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]がデーンロウの奪還に成功し、[[イングランド]]の基礎を築いた。1078年、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム征服王]]は、城壁の南東角地に要塞の建設を命じた。これが後の[[ロンドン塔]]の中核部分となり、イングランドの政治の中心地としての地位が固まった。 12世紀ヨーロッパ人、特に北イタリアのロンバルディア人が移住してきた([[ロンバード・ストリート (ロンドン)|ロンバード・ストリート]])。このころシティ議会の原型が生まれた<ref group=注釈>12世紀末にヘンリー・フィッツ・エイルウェン([[:en:Henry fitz Ailwin|Henry fitz Ailwin]])がシティの長となった。</ref>。1215年の[[マグナ・カルタ]]はシティが国際市場化するきっかけとなった。シティは、1203年までに24区に分けられていたが、1394年にファリントン区(Farrington Ward)が二分され25区となった<ref group=注釈>1348年の[[ペスト]]流行でシティの人口は1/3に減った。</ref>。シティ参事会は各区長で構成され、そこから毎年の長を選んだ<ref>14世紀後半から15世紀初頭にかけてはリチャード・ウィッティントン([[:en:Richard Whittington|Richard Whittington]])がしばしば長となったが、なんと[[カレー (フランス)|カレー]]のそれも兼ねることがあった。</ref>。区長は各区の市議会と行政を担った。参事会と市議会の双方に、同業者[[ギルド]]が多くの代表を出した。 === 国際金融市場の形成 === 1550年、シティに新しく一区が設けられ、全部で26区となった<ref group=注釈>このとき新設された区は1978年に廃止された。</ref>。5年後にモスクワ会社の前身が勅許を得た([[:en:Company of Merchant Adventurers to New Lands|Company of Merchant Adventurers to New Lands]])。1570年、[[トーマス・グレシャム]]と彼の国際人脈がシティに[[王立取引所]]を設けた。これは欧州[[アントウェルペン]]のそれを模したものであった。銘柄と[[郵便]]の国際化により、王立取引所の利便性は向上した。1592年レバント会社が設立され([[:en:Levant Company|Levant Company]])、その運営が[[東方問題]]を国際経済面で惹起した。1616年ジョン・リーマン([[:en:John Leman|John Leman]])がシティの長となった。1636年、[[チャールズ1世]]の御用金融家([[:en:Philip Burlamachi|Philip Burlamachi]])が政府の[[手形交換所]]として中央銀行を構想した。[[清教徒革命]]でシティは、軍事費を徴収されたり、娯楽を規制されたりした。1666年[[ロンドン大火]]で[[フリート・ストリート]]が燃えた<ref group=注釈>[[クリストファー・レン]]がシティ52教会の再建を指揮した。政府の都市計画は衛生面での実行が不十分であったが、美観を追及した建築規制だけは敷かれた。</ref>。1672年ホア銀行([[:en:C. Hoare & Co|C. Hoare & Co]])が設立された。1712年、創業者がシティの長となった。 1720年、[[南海泡沫事件]]が起こる。1725年、減債基金を流用していた[[ロバート・ウォルポール]]のシティ選挙法が、民主的な市議会の決定を富裕な参事会が拒否できる権限を与え非難を浴びた。1734年イングランド銀行が現住所のスレッドニードルへ移転してきた。1750年に[[ウェストミンスター橋]]ができたので、ロンドン橋がテムズ川唯一の橋でなくなった。それから十数年、[[モスクワ会社]]のアンガースタイン([[:en:John Julius Angerstein|John Julius Angerstein]])がシティで青年期をすごした<ref>David Kynaston, ''City of London: The History'', Random House, 2011, p.3.</ref>。1760年、[[ジョージ3世]]の即位式に810人のマーチャント・バンカーが参加した。そのうち、少なくとも250人は外国人だったといわれる。2年後[[ベアリングス銀行]]が設立された。1773年にロンドン証券取引所が誕生した。翌年[[ジョン・ウィルクス]]がシティの長となった。このころ[[イーストエンド・オブ・ロンドン|イーストエンド]]のスラム化が社会問題であった。シティの人口は1700年時点で20万人超であったが、1801年は13万人であった<ref group=注釈>いわゆる土地貴族が[[ラッセル・スクウェア]]や[[レスター・スクウェア]]といった、[[ウェストミンスター]]を中心とする街区を開発した。</ref>。19世紀初頭の[[大陸封鎖令]]に政府が対抗措置をとった。これが疲弊したイギリス経済に追い討ちをかけた。1810年マーチャント・バンカーのアブラハム・ゴールドスミッド([[:en:Goldsmid family|Abraham Goldsmid]])が自殺した。ベアリングと並ぶ[[英国債]]引受者であった。[[米英戦争]]が終わるとシティは世界一の[[国際金融市場]]となっていた<ref group=注釈>19世紀初頭にドックが次々と建設され([[:en:West India Docks|West India Docks]], [[:en:East India Docks|East India Docks]], etc.)、1801年にはロンドン証券取引所がシティ内のカペルコート(Capel Court)に移転した。</ref>。 === 経済格差と人口流出 === 1822年10月、ヴェローナ会議で東方問題をめぐる交渉が決裂してイギリスは[[五国同盟]]を脱退した。1823年、シティのブローカー兼ジョバーであった[[デヴィッド・リカード]]が死んだ。1825年の恐慌([[:en:Panic of 1825|Panic of 1825]])で、イングランド銀行総裁([[:en:Cornelius Buller|Cornelius Buller]])と姻戚であったポール・ソーントン銀行([[:en:Henry Thornton (reformer)|Pole, Thornton & Co.]])が中央銀行から支援を得たが倒産<ref>Murray Newton Rothbard, ''An Austrian Perspective on the History of Economic Thought'', vol.1, "Economic Thought Before Adam Smith", Ludwig von Mises Institute, 2006, p.227.</ref>、[[イングランド銀行#機能|ウィリアムズ・ディーコンズ・バンク]]となった。[[1837年恐慌]]では「3W(the three W's)」と呼ばれた三人のアメリカ人がイングランド銀行の資金注入を受けた<ref group=注釈>3Wの一人はトーマス・ウィルソン([[:en:Thomas Wilson (shipping magnate)|Thomas Wilson]])。後に[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]と姻戚関係となる。他の二人を英名で示す(Timothy Wiggin, George Wildes)。</ref>。彼らは合衆国銘柄を株式公開したり、対米貿易金融のパートナーを募ったりして、非常な人気を博していた。この1830年代には[[スミスフィールド]]の市に対する課税額が引き上げられた。1851年、[[海底ケーブル]]が[[ドーバー海峡]]で開通した。1854年、株式会社銀行がシティの手形交換所([[:en:LCH (clearing house)|LCH]])へ加入することが認められた。以降、20世紀末まで人口減少が止まらなかった<ref>ウィキペディア・コモンズにグラフがある。右上の検索欄に斜体字をコピーアンドペーストすれば飛べる。''File:Population of the City of London over time.png''</ref>。 保険と小口株式が広く資金をよびこみ、その資金が長期投資へ向かった。シティの経済構造は、[[クリミア戦争]]の戦後不況からベアリングス銀行の救済劇までの19世紀後半に周期的な恐慌をもたらした。シティを周辺地区と合併しようとする議論がおこり、1894年に王立委員会([[:en:Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London|Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London]])が開かれたが、[[ウェストミンスター]]の意見変更により合併は行われなかった。 19世紀後半の経済構造は、ドーバー向かいの[[フランス]]をはじめとする欧州各国と関係しながら形成された。シティのマーチャント・バンク事務員は徒歩で混雑に耐えながら通勤し、薄給から各種保険料を払いながら生活していた。語学力のある通信士は高給取りであったが、しかし彼らの多くは外国人であった。両者の差は生涯賃金だけでなかった。およそ10年ごとに襲い来る恐慌から逃れる術を分かるかどうかは、語学力や職場環境によったのである。この経済格差を生じた期間には、スミスフィールドの市とシティの教区墓地が閉鎖となり、乗合馬車と鉄道が順に整備され、昼間人口が増えていった。 [[ロイズ]]は、泡沫法が1824年に廃止されたことで海上保険業の独占を切り崩されていた([[ロスチャイルド#ウィーン体制下]])。1902年、ロイズの家系で主要な引受メンバーでもあったパーシー・バーナンド(Percy George Calvert Burnand)が財政危機に陥った。イギリスの造船業が19世紀後半にトップシェアを記録しつづけたので、海上保険市場は拡大していた。建艦競争が[[ドイツ帝国]]との間に起こることもあった。その陰で、ロイズは静かに凋落し変化していった。 === 金本位制を離脱するまで === 1912年、金融スキャンダルが2件あった。一つは昨年来ロンドン貴金属市場に参加していたサミュエル・モンタギュー([[:en:Samuel Montagu & Co.|Samuel Montagu & Co.]])というマーチャント・バンクが、イングランド銀行や政府と組んで[[インド]]の銀価格を操作して下げたという、[[タイムズ]]の連載記事となったインディア・シルバー・スキャンダル。もう一つは[[グリエルモ・マルコーニ]]を優遇し大英帝国の無線網を構築させ、あまつさえ政府がマルコーニ社の米子会社へ資本参加していたというものであった([[:en:Marconi scandal|Marconi scandal]])。 [[第一次世界大戦]]のシティは敵国との経済関係に打撃をうけた。戦後[[モンタギュー・ノーマン]]が復旧に活躍した。彼は「シティの法王」とよばれ、また[[国際決済銀行]]の一員として[[金本位制]]を支持していた。1924年6月、ノーマンはイギリスを金本位制に復帰させる委員会をつくり、翌月までに9回召集した。参加者は、[[オースティン・チェンバレン]]委員長、[[アーサー・セシル・ピグー]]や[[ジョン・メイナード・ケインズ]]といった経済学者、元財務大臣ロバート・ホーン([[:en:Robert Horne, 1st Viscount Horne of Slamannan|Robert Horne]])、[[レジナルド・マッケナ]]ミッドランド銀行(現[[HSBC]])会長、ロンドン手形交換所加盟銀行の代表者各位、商工会議所の代表団、そして経団連([[:en:Federation of British Industries|Federation of British Industries]])である<ref>Nahid Aslanbeigui, Guy Oakes, ''Arthur Cecil Pigou'', Springer, 2015, p.120.</ref>。ここまでして金解禁した結果、イギリスは[[世界恐慌]]で未曾有の金流出に見舞われた。1931年9月21日イングランド銀行が金本位制を離脱すると発表した。1933年[[ソシエテ・ジェネラル]]のジョージ・ボルトン([[:en:George Bolton (banker)|George Bolton]])がイングランド銀行の理事となった。1932年6月イギリスは為替平衡勘定を創設して、過激にポンドを売り、正金とフランス・フランとアメリカ・ドルを買った。後二者はすぐ兌換した。これに耐えかねて1933年3月には[[連邦準備制度]]も金本位制をやめた。まるで1月にドイツ首相となった[[ヒトラー]]から逃れるように、[[フランス銀行]]から金が流れ出ていった。1936年9月25日フランスも金本位制を放棄した。 この同日に英米仏三国通貨協定が締結された。これのためにボルトンやフランス銀行為替取引担当(Charles Cariguel)などの国際金融家が連携をとりあってきた。この協定は、英仏が自国通貨の対ドル相場を安定させることを条件にアメリカが兌換を継続するというものであり、それまで行われてきた自国通貨の切り下げ競争にピリオドを打って[[ブレトンウッズ協定]]の礎となった。1937年4月、英仏両政府がベルギーの[[パウル・ファン・ゼーラント]]首相に協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。 === 英国病の発見まで === [[第二次世界大戦]]中の1940年、シティは火災に遭った([[:en:Second Great Fire of London|Second Great Fire of London]])。ほとんど全ての教会が損壊、そのうち11の教会は再建されなかった。[[N・M・ロスチャイルド&サンズ]]は戦中から組織改革をすすめ、1947年、節税を目的に新たな持株会社をつくった上で形式的な株式会社となった。1950年、シティがウェストミンスターと国政選挙区を統合した([[:en:Cities of London and Westminster (UK Parliament constituency)|Cities of London and Westminster]])。戦中のLLC([[:en:London County Council|London County Council]])権限拡大が統合の背景をなした。 1946年、イギリスはケインズの交渉で37.5億ドルの借款を得た([[:en:Anglo-American loan|Anglo-American loan]])ことと引き換えに、ブロック経済を放棄した。それまでイギリスは貿易収支の赤字を貿易外収支の黒字で補っていたが、補填できなくなると金・ドル準備が減っていき、借款は世界的なドル不足によりわずか1年9ヶ月で費消された。ポンドは1958年にドルとの交換性を回復したが<ref group=注釈>ただし外国人・外国企業が対象。</ref>、1968年に[[シャルル・ド・ゴール]]の圧力で金の二重価格制が実現するまで値崩れしていった。そもそもの原因は、1943年に37億ポンドに達したイギリスの[[対外債務]]である。国際協定により対外債務はイングランド銀行に封鎖預金として累積された。1945年35.67億ポンドに減った。このあとリバウンドして1964年54.76億ポンドに激増した。1964年から1965年までに[[国際通貨基金]]から合計24億ドルを引き出し、また1964年には[[国際決済銀行]]と先進諸国から30億ドルの借款を得た。[[英国病]]で保護しきれなくなった[[フォレスタル (企業)|フォレスタル]]は1969年に解体された。 このような時代の1960年に、ボルトンはシティを[[ユーロカレンシー]]取引市場として再興しようと言い出した。交換性回復以前からシティにはユーロダラーが出回っていた。[[ファンド・オブ・ファンズ]]のバーニー・コーンフェルドが営業のため世界を飛び回っていた。 === ロンドン特別区として === シティの就業人口(昼間人口の大部分)は1961年に39.5万人であったが、1986年には28万人に減少した。家賃の高騰が店舗やその他施設を市外へ移動させた<ref group=注釈>シティ内のバービカンでは再開発が進んだ。</ref>。1961年から1986年という期間は[[グレーター・ロンドン・カウンシル]](大ロンドン議会)のあった期間と重なっている。初代議長のビル・フィスケ([[:en:Bill Fiske, Baron Fiske|Bill Fiske]])は、イングランド銀行とLLCで活躍した政治家であった。1966年末にポンド十進法化委員会の議長となり、翌年9月に男爵となった。この大ロンドン議会が廃止されてシティをふくむ[[ロンドン特別区]]が権限を回復すると、[[ビッグバン (金融市場)|ビッグバン]]がスタートしてマーチャント・バンクとストックジョバー([[:en:Stockjobber|Stockjobber]])が次々と買収されていった。 ポンド十進法の採用は、完全な交換性を回復するためのステップであった。1958年の交換性は、イギリス人と国内企業に保障されなかった。ブローカーとジョバーがそれぞれに[[カルテル]]を形成している伝統的な証券市場が生き延びることとなった。しかしボルトンが育てたユーロカレンシー市場が[[情報革命]]という追い風を受けて、シティのジェントルマンに襲いかかった。1971年[[ニクソン・ショック]]がおこり、8年後[[マーガレット・サッチャー]]が首相となってすぐポンドの取引規制を全面撤廃したのである。 1986年10月のビッグバンという規制撤廃も[[ジェントルマン]]の古い聖域に踏み込んだものであった。しかしブローカーとジョバーの兼業解禁は19世紀に逆戻りする考え方であって、[[利益相反]]を既成事実化するところは[[投信]]と癒着した米国大資本の手口にそっくりだった。シティに投下された外資は弱い産業を育てることなく目先の利益を追求したから、経済効果もそれなりだった。 == 経済 == <gallery mode="packed" caption="" heights="160"> File:St Mary Woolnoth, Lombard Street, London EC3 - geograph.org.uk - 1202998.jpg|バンク交差点 ([[:en:Bank Junction|Bank Junction]]) から[[ロンドン金融市場]]の中心街[[ロンバード・ストリート]]を見る。左手に続く。しばしばNY[[ウォール街]]と比較される。 File:Londres - Fleet Street.JPG|[[フリート・ストリート]]、2008年。[[シティ・オブ・ウェストミンスター|ウェストミンスター区]][[チャリング・クロス]]([[トラファルガー広場]])から東に走るストランド ([[:en:Strand, London|Strand]]) と西側区境で接続する。 File:120 Fleet Street and Bus - geograph.org.uk - 2852929.jpg|[[:en:Daily Express Building, London|Daily Express Building, 120 Fleet St, London]]([[アールデコ]]調の[[デイリー・エクスプレス]]旧本社ビル、1932年築。フリート・ストリート <ref group=注釈>現在の本社は、同じシティ内南東端、テムズ川沿い[[ロンドン橋]]界隈のビリングスゲート (10 Lower Thames Street, [[:en:Billingsgate|Billingsgate]])にある。ビリングスゲートは、大型[[魚市場]]や、1964年映画[[メリー・ポピンズ#収録曲|『メリー・ポピンズ』収録曲「古い鎖を断ち切って」(Sister Suffragette) ]]({{YouTube|Ds8cKgPdE6M|英語}})で知られている地区。</ref>) File:213 Strand st, London.jpg|213 [[:en:Strand, London|Strand]], London. Date 21 August 2009([[ストランド]]が走る区境界隈は厳密にはシティの[[テンプル (ロンドン)|テンプル]]地区 ([[:en:Temple, London|Temple]] <ref group=注釈>テンプル地区界隈は、[[王立裁判所]]<!--ウェストミンスター区内オルドウィッチにある-->、[[インナー・テンプル]]と[[ミドル・テンプル]]の2つの[[法曹院]]などがある[[法曹]]街になる。北側至近は[[キングスウェイ]]で接続する[[カムデン区]][[ホルボーン]]界隈になり、残り2つの法曹院や[[大英博物館]]、[[ロンドン大学]]本部などがある。</ref>) と接するウェストミンスター区[[オールドウィッチ]]になる。界隈には[[イギリス指定建造物#イングランド|歴史的建造物 GradeⅡ]]指定の[[:en:Shell Mex House|Shell Mex House]], 通称"80 Strand"がテムズ河畔に建つ) </gallery> {{message galerie}} 三大金融市場の一つ[[ロンドン金融市場]]を抱える[[国際金融|世界金融]]の中心地として、[[ロンドン証券取引所]]、世界的保険市場かつ法人名たる[[ロイズ]]、[[イングランド銀行]]、2004年まで[[金|ゴールド]]の値決めをしていた"ニューコート ([[:en:New Court|New Court]])"と呼称される[[ロスチャイルド&カンパニー]]、[[スタンダードチャータード銀行|スタンダード・チャータード銀行]]、"[[四大銀行#イギリス|イギリス四大銀行]]"とされるロイズ銀行 ([[:en:Lloyds Bank|Lloyds Bank]]) を抱える[[ロイズ・バンキング・グループ]]が本社機能を置く。日本法人では[[野村證券]]、[[みずほフィナンシャルグループ]]、[[三井住友フィナンシャルグループ]]、[[三菱UFJ国際投信|三菱UFJアセットマネジメント]]など[[三菱UFJフィナンシャルグループ]]等が[[EMEA]]の拠点機能を置いている。 2019年に入ると[[フィナンシャル・タイムズ]]本社が、[[テムズ川]]対岸の[[サザーク区]]内から、[[1980年代]]まで入居していたシティのブラッケン・ハウス ([[:en:Bracken House, London|Bracken House]]) に戻った。ブラッケン・ハウスには上記みずほも入居している<!--https://financefeeds.com/identity-of-mizuho-banker-who-fell-to-his-death-whilst-at-work-revealed-had-money-worries/-->。また、ブラッケン・ハウスがあるキャノン・ストリート ([[:en:Cannon Street|Cannon Street]]) より西側を東西に走る[[フリート・ストリート]] ([[:en:Fleet Street|Fleet Street]]) には、かつて国内新聞各紙が集まっていたため、"フリート街"は国内新聞各紙を指す代名詞ないし[[換喩]]になっていた。そのフリート街に"[[:en:Daily Telegraph Building|Daily Telegraph Building]]"があるが、[[ルパート・マードック]]率いる[[ニューズ・コープ]]傘下ニューズ・インターナショナル(現[[:en:News UK|News UK]])で、[[オフセット印刷]]普及に反対する旧来型の[[ライノタイプ]]印刷工が1986年に[[労働争議]]「ワッピング争議」([[:en:Wapping dispute|The Wapping dispute]] <ref group=注釈>「[[ニューズ・コーポレーション (1979-2013)#歴史]]」「[[インデペンデント#歴史]]」なども参照。</ref>) を起こしてから、[[デイリー・テレグラフ]]・グループ本社は西隣[[シティ・オブ・ウェストミンスター|ウェストミンスター区]]ヴィクトリアに移転。その後、[[カタール]]王族の投資会社が所有し、[[ゴールドマン・サックス]]が入居した<ref>{{Cite news|url= https://www.standard.co.uk/business/wework-eyes-goldman-sachs-fleet-street-hq-for-next-site-a4160071.html|title= Wework eyes Goldman Sachs Fleet street HQ for next site {{!}} Evening Standard|publisher=Standard.co.uk|access-date=31 March 2021}}</ref>。 テムズ川に沿ってシティの東側には再開発事業で造成された新興[[金融センター]]の「[[カナリー・ワーフ]]」が拡がる。 しかし、2020年の[[イギリスの欧州連合離脱]]により、金融拠点を[[フランクフルト]]、[[パリ]]、[[アムステルダム]]、[[ダブリン]]などに移転する動きが加速している<ref>[https://premium.toyokeizai.net/articles/-/20189 混乱やリスク回避へ対応急ぐ 英国のEU離脱、日系企業への影響は?金融機関は拠点をEU内へ。製造業もリスク回避の動き。] [[週刊東洋経済]]「第2特集 誤算に次ぐ誤算のブレグジット騒動」2019年3月23日号、藤原宏成(東洋経済記者)</ref>。 その他、[[BTグループ]] ([[:en:BT Group|BT Group]]) 本社はシティ (81 Newgate St) にある。[[GAFA]]を見ると、シティの北東側至近、[[ショーディッチ]]の[[:en:Principal Place|Principal Place]]には、2017年から[[Amazon.com]] UK本社が入居した。[[Facebook]]はシティ西側[[カムデン区]]との境界界隈[[シティ・オブ・ウェストミンスター|ウェストミンスター区]]の[[:en:One Rathbone Square|One Rathbone Square]]にUK本社があり、[[Google]] UK本社はカムデン区のキングス・クロス界隈にある。対して[[Apple]] UKは、2021年にテムズ川南岸[[ワンズワース区]][[バタシー発電所]]跡に主要本社機能を集約・移転予定。 ==公共サービス== === 警察 === シティはグレーター・ロンドンのその他の地域を管轄する[[ロンドン警視庁]]とは別に、独自の[[警察]]組織である[[ロンドン市警察]] (City of London Police) を組織している。ロンドン市警察は、スノーヒル、ウッドストリート、ビショップスゲートの3ヶ所に[[警察署]]を有し、813人の[[警察官]]と85人の特別巡査、および48人の補助警察官が職務にあたっている。管轄区域はシティ・オブ・ロンドン全域のみで、イングランドとウェールズにある警察組織としては、管轄範囲と警察官の人員数の点で、共に最も小さい。 イギリスの大多数の警察官は銀色のバッジを着用するが、市警察のバッジは市の紋章を基調とした黒と金の意匠が施されている。他にも、赤白のチェック柄のキャップバンドや、巡査や巡査部長の制服の上着の袖に着ける赤白のストライプ状の職務用腕章など、イギリスの多くの警察では白黒の配色であるところを、市警察の色である赤白の配色で作られているものがある。市警察の巡査と巡査部長は、徒歩によるパトロールの際、羽飾りのついたカストディアンヘルメットをかぶる。このヘルメットには、イングランドやウェールズの多くの警察用ヘルメットで使用されるブランズウィックスター<ref>一つの使用例として、[[ロンドン警視庁]]の旗が挙げられる。</ref>は付いていない。 === 消防 === シティでは[[セント・ポール大聖堂]]、{{仮リンク|オールド・ベイリー (裁判所)|en|Old Bailey|label=オールド・ベイリー}}、[[マンションハウス (ロンドン)|マンションハウス]]、[[スミスフィールド|スミスフィールド・マーケット]]、ギルドホール、その他多くの高層建築を含む、あらゆる建物や場所で火災の危険性がある。しかし、シティ内には[[ダウゲート (ロンドン)|ダウゲート]]に[[ロンドン消防庁]]の[[消防車]]が一台配備されているのみである<ref name = "zlqtbi">{{cite web|url=http://www.london-fire.gov.uk/about_us/media/City_of_London.pdf |title=London Fire Brigade - City of London Profile |publisher=London-fire.gov.uk |date= |accessdate=2011-10-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071005231358/www.london-fire.gov.uk/about_us/media/City_of_London.pdf|archivedate=2007-10-05}}</ref>。そのため、シティは周辺の区にある消防署に依存して、火災発生の際は消火活動等の支援を受けている。統計によれば、シティ内で発生した火災に対応する1台目の消防車は平均で約5分以内に現場へ到着し、要請に応じて派遣される2台目は通報後約5分台後半で到着する。<ref name = "zlqtbi"/>2006年度にシティで発生した火災案件は1,814件でロンドン32区の中では最小だった。2007年までの4年間は、シティで発生した火災による死者はゼロだった<ref name = "zlqtbi"/>。 == 教育 == {{See|:en:List of schools in the City of London}} 初等学校(小学校)・中等学校・特別学校(特別支援学校)については、居住人口や学校が少ないため、近隣の[[イズリントン区]]、[[タワーハムレッツ区]]、[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]、[[サザーク区]]などの学校に通わせている家庭が多い。<!--en:City of London Revision as of 08:47, 16 February 2023 の版を参照。--> また2000年代以降、特に2010年代以降のイギリスの教育政策において、国公立の私立化の過程で「アカデミー」([[:en:Academy (English school)|en]])が設けられた。各アカデミーが基金を募る<ref>{{Cite web |title=Academy and free school funding agreements |url=https://www.gov.uk/government/publications/academy-and-free-school-funding-agreements |date=1 December 2020| |accessdate=March 2023 | publisher=Department of Education, UK Government}}</ref>、[[インデペンデント・スクール]]の一種になる。2022年1月現在、国公立の初等学校の39%、中等学校の80%、特別支援学校の43%がアカデミーに転換している<ref>{{cite web |last=Department for Education |date=January 2022 |title=Schools, pupils, and their characteristics (Official Statistics) |url=https://www.gov.uk/government/statistics/schools-pupils-and-their-characteristics-january-2022 |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20220609084206/https://www.gov.uk/government/statistics/schools-pupils-and-their-characteristics-january-2022 |archive-date=9 June 2022 |accessdate=March 2023 |website=Schools, Pupils and their Characteristics |df=dmy-all}}</ref>。 == 名所 == [[File:Coats of arms of the City of London Corporation, London, England, IMG 5208 edit.jpg|thumb|right|250px|シティの紋章]] === 歴史的建造物 === 火災、爆撃、そして[[第二次世界大戦]]後のロンドンの再開発はシティにも影響を及ぼしたが、著名な歴史的建造物の多くはこれらの災禍から無傷あるいは軽微な損傷にて免れたため、他の都市に比べて再開発の規模は比較的小さかった。 今日まで残存している建築は、以下の通り。 *[[ロンドン大火記念塔]](モニュメント) *[[セント・ポール大聖堂]] *[[ギルドホール (ロンドン)|ギルドホール]] *[[王立取引所]] *[[ジョンソン博士の家]]([[サミュエル・ジョンソン]]の旧居) *[[マンションハウス (ロンドン)|マンションハウス]] *シティに点在する教会群{{仮リンク|:Category:シティ・オブ・ロンドンの教会|en|Category:Churches in the City of London|label=多くの教会}}<ref group=注釈>その多くはセント・ポール大聖堂の設計でも知られる[[クリストファー・レン|サー・クリストファー・レン]]の作</ref> *[[ジ・オールド・チェシャー・チーズ]] また、以下は[[テンプル (ロンドン)|テンプル地区]]への激しい爆撃に耐えた著名な建築である。ただし、これらは大規模な改修を受けている。 *{{仮リンク|2キングズ・ベンチ・ウォーク|en|2 King's Bench Walk}} *[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー王太子]]の部屋(<small>[[:en:Prince Henry's Room|英語版]]</small>) [[ホルボーン]]のハイウェイ([[:en:Holborn Circus|Holborn Circus]])西部に[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]の乗馬像がある。[[デビアス]]のチャールズ・オッペンハイムが贈呈した。その他の著名な現代的高層建築や歴史的名所の数々を以下に示す。 {{col| * [[ロンドン塔]]<ref group=注釈>ロンドン塔の位置は正確にはシティ内ではないが、シティの南東部に多くの観光客を呼び込む名所の一つとなっている。</ref> *[[イングランド銀行]] *{{仮リンク|オールド・ベイリー (裁判所)|en|Old Bailey|label=オールド・ベイリー}} *[[スミスフィールド|スミスフィールド・マーケット]] *{{仮リンク|バービカン・エステート|en|Barbican Estate}} **[[バービカン・アート・センター]] *[[セント・ジャイルズ=ウィズアウト=クリップルゲート]] *{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン・スクール|en|City of London School}} *{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン女子学校|en|City of London School for Girls}} *[[法曹院]]<ref group=注釈>シティ内にあるが[[リバティ (行政区画)|リバティ]]と呼ばれる独立した自治体の地位を有する。シティの西部、特に[[テンプル (ロンドン)|テンプル地区]]と[[チャンスリーレーン地区]]では[[法曹|法曹界]]が主体となっている。</ref> | *[[ロンドン・ストーン]] *[[ロンドン・ウォール]] *{{仮リンク|ロンドン博物館|en|London Museum}} *[[ロンドン橋]] *[[ニューゲート監獄]] *[[プール・オブ・ロンドン|ロンドン波止場]] *[[聖バーソロミュー病院|セント・バーソロミュー病院]] *[[セント・バーソロミュー・ザ・グレート|セント・バーソロミュー・ザ・グレート教会]] *{{仮リンク|テンプル・バー (ロンドン)|en|Temple Bar, London|label=テンプル・バー}} *{{仮リンク|テンプル・オブ・ミトラス|en|London Mithraeum}} *[[テンプル教会]] }} === 超高層建築物 === <!--[[File:30 St Mary Axe, 'Gherkin'.JPG|thumb|upright|"ガーキン"の愛称をもつ[[30セント・メリー・アクス]]。手前の黒いビルはセント・ヘレンズ(アビバタワー)。]]--> また、多くの[[高層建築物]]や[[超高層建築物]]がシティ内に存在し、主に金融ビジネス部門に利用されている。これらのほとんど全てはシティの中でも金融の中心である、スクエア・マイルの東側に集中している。それに比べてシティの北部には[[バービカン・エステート]]の3つの居住用タワーと商業用のシティポイント・タワーが立つ小規模なビル群があるのみである。 シティ・オブ・ロンドン内で最も高い建築物の年表を以下に示す<ref group=注釈>ホワイトタワーとサザーク大聖堂は厳密にはシティの公式な境界の外にある。</ref>。 {| class="wikitable" |- !名称<br /> !最高の高さを誇った期間<br /> !高さ(メートル)<br /> !class="unsortable"|高さ(フィート)<br /> !階数<br /> |- | ザ・リーデンホール・ビルディング || 2014- || 225 || 737 || 48 |- | ヘロンタワー || 2010-2014 || 202 || 663 || 46 |- | [[タワー42]] || 1980–2010 || 183 || 600 || 47 |- | シティポイント || 1967–1980 || 122 || 400 || 35 |- | [[セント・ポール大聖堂]] || 1710–1962 || 111 || 365 || n/a |- | セント・メアリー・ラ・ボウ教会 || 1683–1710 || 72 || 236 || n/a |- | ロンドン大火記念塔 || 1677–1683 || 62 || 202 || n/a |- | ''サザーク大聖堂'' || ''1666-1677'' || ''50'' || ''163'' || ''n/a'' |- | [[セント・ポール大聖堂|旧セント・ポール大聖堂]] || 1310-1666 || 150 || 493 || n/a |- | ''[[ロンドン塔|ホワイトタワー]]'' || ''1098-1310'' || ''27'' || ''90'' || ''n/a'' |} 現在シティ以内に立地している高さ100 m以上の建築物は以下の通り。 {{-}} {| class="wikitable" style="border:#999; background:#fff;" |- style="background:#bdbbd7;" | rowspan=2 | <span style="color:navy;">'''順位'''</span> || rowspan="2" style="text-align:center;"| <span style="color:navy;">'''名称'''</span> || rowspan="2" style="text-align:center; width:100px;"| <span style="color:navy;">'''竣工'''</span> || rowspan="2" style="text-align:center;"| <span style="color:navy;">'''用途'''</span> || colspan="2" style="text-align:center;"| <span style="color:navy;">'''高さ'''</span> || rowspan="2" style="width:50px; text-align:center;"| <span style="color:navy;">'''階数'''</span> || rowspan="2" style="text-align:center;"| <span style="color:navy;">'''住所'''</span> |- style="background:#bdbbd7; text-align:center;" | style="width:50px; "| <span style="color:navy;">'''メートル'''</span> || style="width:50px; text-align:center;"| <span style="color:navy;">'''フィート'''</span> |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| 1 ||リーデンホール・ビルディング ("チーズグレイター")|| 2014年 || オフィス || 225 || 737 || 48 || リーデンホール・ストリート122番地 |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 2 || ヘロンタワー || 2010年 || オフィス || 202 || 663 || 46 || 110 ビショップスゲート |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| 3 || [[タワー42]] || 1980年 || オフィス || 183 || 600 || 47 || オールド・ブロード・ストリート25番地 |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 4 || [[30セント・メリー・アクス]]("ガーキン")|| 2003年 || オフィス || 180 || 590 || 40 || セント・メリー・アクス30番地 |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| 5 || ブロードゲート・タワー || 2008年 || オフィス || 164 || 538 || 35 || ビショップスゲート201番地 |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 6 || 20フェンチャーチ・ストリート ("ウォーキー・トーキー")|| 2014年 || オフィス || 160 || 525 || 37 || フェンチャーチ・ストリート20番地 |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| 7 || シティポイント || 1967年 || オフィス || 127 || 417 || 36 || ロープメーカー・ストリート |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 8 || ウィリス・ビルディング || 2007年 || オフィス || 125 || 410 || 26 || ライム・ストリート51番地 |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| =9 || クロムウェル・タワー || 1973年 || 居住用 || 123 || 404 || 42 || バービカン・エステート |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| =9 || ローダーデール・タワー || 1974年 || 居住用 || 123 || 404 || 42 || バービカン・エステート |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| =9 || シェークスピア・タワー || 1976年 || 居住用 || 123 || 404 || 42 || バービカン・エステート |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 12 || セント・ヘレンズ ("アビバ・タワー") || 1969年 || オフィス || 118 || 387 || 28 || セント・メアリー・アクス、アンダーシャフト |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| 13 || "ザ・ヘロン"<ref>[http://www.skyscrapernews.com/buildings.php?id=5356 Skyscrapernews.com] Milton Court</ref>|| 2013年 || 居住用 || 112 || 367 || 35 || バービカン、ミルトン・コート |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 14 || [[セント・ポール大聖堂]] || 1710年 || 教会 || 111 || 365 || n/a || ルドゲート・ヒル |- style="background:#efefef;" | style="text-align:center; background:#edecff;"| 15 || 99ビショップスゲート || 1976年 || オフィス || 104 || 340 || 26 || ビショップスゲート99番地 |- | style="text-align:center; background:#edecff;"| 16 || ストック・エクスチェンジ・タワー || 1970年 (2009年再建) || オフィス || 100 || 328 || 27 || オールド・ブロード・ストリート125番地 |} シティ内で100 mを超える建築物または構築物のうち建設中あるいは建設が予定されているものを以下に挙げる。 {| class="wikitable" style="border:#999; background:#fff;" |- style="background:#bdbbd7; text-align:center;" | rowspan="2"| <span style="color:navy;">'''名称'''</span> || style="text-align:center;" colspan="2"| <span style="color:navy;">'''高さ'''</span> || style="text-align:center;" rowspan="2"| <span style="color:navy;">'''階数'''</span> || style="text-align:center;" rowspan="2"| <span style="color:navy;">'''住所'''</span> || style="text-align:center;" rowspan="2"| <span style="color:navy;">'''用途'''</span> || style="text-align:center;" rowspan="2"| <span style="color:navy;">'''状況'''</span> |- style="background:#bdbbd7; text-align:center;" | style="width:50px;"| <span style="color:navy;">'''メートル'''</span> || style="text-align:center; width:50px;"| <span style="color:navy;">'''フィート'''</span> |- style="background:#efefef;" | ザ・ピナクル ("ヘルター・スケルター")|| 288 || 945 || 63 || ビショップスゲート22-24番地 || オフィス || 建設中 |- style="background:#efefef;" || 100ビショップスゲート|| 172 || 564 || 40 || ビショップスゲート100番地 || オフィス || 建設地検討中<ref>[http://www.leytonstonia.com/2010/11/great-portland-estates-aims-for-100.html Leytonstonia] Great Portland Estates aims for 100 Bishopsgate construction start in 2011</ref> |- style="background:#efefef;" | ヘロン・プラザ || 135 || 443 || 44 || ビショップスゲート128-140番地 || ホテル/居住用 || 建設地検討中<ref>[http://www.skyscrapernews.com/news.php?ref=2743 Skyscrapernews.com] City of London Approves Heron Plaza</ref> |} == 関係者 == ; 居住その他ゆかりある人物 {{See|フリート・ストリート#著名な住人}} *[[ウィリアム・ハーヴェイ]](解剖学者、医師。[[血液循環説]]) - 1604-1639年の期間、ラドゲイト・ヒル ([[:en:Ludgate Hill|Ludgate Hill]]) 界隈の St Martin's Church 境内に居住。<!--:en:Ludgate Hill Revision as of 09:39, 17 March 2023 の版を参照一部引用。--> *{{仮リンク|サミュエル・バーチ|en|Samuel Birch (military officer)}}(軍人) - ラドゲイト・ヒル (Ludgate Hill) 界隈に居住。[[アメリカ独立戦争]]時の大陸派遣[[イギリス軍]]唯一の[[竜騎兵]]連隊の連隊長。のち陸軍少将。<!--:en:Ludgate Hill Revision as of 09:39, 17 March 2023 の版を参照一部引用。--> *[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]](ロンドン・[[ロスチャイルド家]]の祖) - 1809年、一族の金融事業を商うため、ニューコート(2 [[:en:New Court|New Court]] Street)、及びセイント・スウィジンズ・レーン(St Swithin's Lane)を賃借し、現在の[[ロスチャイルド&カンパニー]]の基となる。1824年、ネイサンは保険会社 Royal & Sun Alliance (現 [[RSA Insurance Group]]) を設立した。<!--:en:New Court Revision as of 16:08, 19 March 2023 の版を参照一部引用。--> ; 出身者 == 脚注 == ===注釈=== {{Reflist|group=注釈}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 地理用語研究会 編『地理用語集』[[山川出版社]]、2004年3月30日、337pp. ISBN 4-634-05790-5 == 外部リンク == {{Commons|Category:City of London}} ;公式サイト :*[http://www.cityoflondon.gov.uk/ Corporation of London], シティの行政機関 :*[http://www.museumoflondon.org.uk/ Museum of London] :*[http://www.visitthecity.co.uk/ Visit the City], シティの観光案内 ;その他 :*[http://citymayors.com/government/london_corp.html CityMayors.com profile of Corporation] :*[http://london.visittown.com/ London, VisitTown.com] ;地図 :*[http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/about_us/voting/wards/ward_boundaries_map.htm Ward boundaries map], Corporation of London :*[http://www.streetmap.co.uk/newmap.srf?x=532750&y=180750&z=2&sv=532750,180750&st=4&ar=N&mapp=newmap.srf&searchp=newsearch.srf Street map] {{London}} {{イギリスのシティの一覧}} {{イングランドのカウンティ}} {{証券取引所}} {{authority control}} {{デフォルトソート:していおふろんとん}} [[Category:シティ・オブ・ロンドン| していおふろんとん]] [[Category:グレーター・ロンドン]] [[Category:ロンドンのシティ|ろんとん]] [[Category:ロンドンの地区]] [[Category:金融街]] [[Category:ロンドンの経済]] [[Category:ロンドンの地方自治]] [[Category:中心業務地区]] [[Category:イングランドの都市]] [[Category:イングランドの州]] [[Category:典礼カウンティ]] [[Category:イングランドのディストリクト]] [[Category:イギリスの経済史]]
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印刷会社
印刷会社(いんさつがいしゃ)とは、印刷を業務とする会社。製本などの業務を併せて行う会社もある。 ヨーロッパでは12世紀に製紙術が伝わり、1445年頃にはドイツのヨハネス・グーテンベルクによって金属合金活版印刷術とプレス機が発明された。中世までヨーロッパでは書物は羊皮紙などに写本によって複製されたもので非常に高価なものだった。しかし、グーテンベルクの発明から約50年間でヨーロッパ各地に活版印刷工房がつくられ印刷技術は急速に発展普及した。 印刷事業を手掛ける者は江戸時代にはおり、元禄期の浮世絵や、文政期の洒落本など木版による版画や書物が刊行された。 日本の近代活版印刷は1849年にオランダからスタンホープ印刷機と欧文活字一式が将軍に寄贈されたことにはじまる。1857年にはオランダの印刷技師インデルマウルが出島で印刷所を開設している(出島版)。 近代日本印刷の父といわれる本木昌造が興した印刷事業の流れを汲む東京築地活版製造所は、黎明期の代表的な印刷会社として語られることが多い。本木は1869年にアメリカ人宣教師ウィリアム・ギャンブルから電胎法活字鋳造技術を学び、長崎に新町活版所を開き、これが後に築地活版所となった。 日本では新聞の場合、新聞社が取材・編集・組版・印刷・配送(各家庭までではないが)のシステムを持っていることが多いが、その他の分野の印刷物では、印刷は専業の会社の仕事となっている。日本の印刷会社は中小企業の比率が大きいが、大日本印刷と凸版印刷の2強の存在感が群を抜いており、両社は印刷に関わるあらゆる商材を手がけている。 日本では1990年代のバブル崩壊を境に拡大が止まり、1999年以降縮小の一途をたどり、出版不況という言葉も生まれた。インターネットの普及や若者の活字離れなどを背景に販売不振が続いており、2015年の出版物の販売額は1兆5220億円(前年比5.3%減、出版科学研究所調べ)と11年連続で前年を割り込み、倒産件数は減少しない。 大日本印刷・凸版印刷の大手2社(とNISSHA)においては紙への印刷への比重は減少しつつあり、印刷技術を生かした包装材(パッケージ製品)などの各種加飾製品、液晶ディスプレイ部品材料やカラーフィルター、半導体用フォトマスクといった電子デバイスなどの商材の比重を増やすというように、産業構造の変化に合わせてポジショニングを変えている。
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印刷会社(いんさつがいしゃ)とは、印刷を業務とする会社。製本などの業務を併せて行う会社もある。
[[File:Chodowiecki_Basedow_Tafel_21_c_Z.jpg|thumb|right|18世紀の印刷所]] '''印刷会社'''(いんさつがいしゃ)とは、[[印刷]]を業務とする[[会社]]。製本などの業務を併せて行う会社もある。 == 欧米の印刷会社 == ヨーロッパでは12世紀に製紙術が伝わり、1445年頃にはドイツの[[ヨハネス・グーテンベルク]]によって金属合金活版印刷術とプレス機が発明された<ref name="munemura">{{Cite journal |和書|author=宗村泉 |url=https://doi.org/10.4139/sfj.61.790 |title=わが国の印刷の過去,現在,未来 -活字からデジタルへの変革期を迎えて- |date=2010 |volume=61 |issue=12 |pages=790 |publisher=表面技術協会 |accessdate=2020-03-31}}</ref>。中世までヨーロッパでは書物は羊皮紙などに写本によって複製されたもので非常に高価なものだった<ref name="munemura" />。しかし、グーテンベルクの発明から約50年間でヨーロッパ各地に活版印刷工房がつくられ印刷技術は急速に発展普及した<ref name="munemura" />。 == 日本の印刷会社 == === 歴史 === 印刷事業を手掛ける者は江戸時代にはおり、[[元禄文化|元禄]]期の[[浮世絵]]や、[[化政文化|文政]]期の洒落本など木版による版画や書物が刊行された<ref name="munemura" />。 日本の近代活版印刷は[[1849年]]に[[オランダ]]からスタンホープ印刷機と欧文活字一式が将軍に寄贈されたことにはじまる<ref name="munemura" />。1857年にはオランダの印刷技師インデルマウルが出島で印刷所を開設している(出島版)<ref name="munemura" />。 近代日本印刷の父といわれる[[本木昌造]]が興した印刷事業の流れを汲む[[東京築地活版製造所]]は、黎明期の代表的な印刷会社として語られることが多い。本木は1869年にアメリカ人宣教師[[ウィリアム・ギャンブル]]から電胎法活字鋳造技術を学び、長崎に新町活版所を開き、これが後に築地活版所となった<ref name="munemura" />。 日本では[[新聞]]の場合、新聞社が取材・[[編集]]・[[組版]]・印刷・配送(各家庭までではないが)のシステムを持っていることが多いが、その他の分野の印刷物では、印刷は専業の会社の仕事となっている。日本の印刷会社は[[中小企業]]の比率が大きいが、[[大日本印刷]]と[[TOPPANホールディングス]](旧・凸版印刷)の2強の存在感が群を抜いており、両社は印刷に関わるあらゆる商材を手がけている。 日本では[[1990年代]]の[[バブル崩壊]]を境に拡大が止まり、[[1999年]]以降縮小の一途をたどり、出版不況という言葉も生まれた。[[インターネット]]の普及や若者の[[活字離れ]]などを背景に販売不振が続いており、2015年の出版物の販売額は1兆5220億円(前年比5.3%減、出版科学研究所調べ)と11年連続で前年を割り込み、倒産件数は減少しない<ref>http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20160302_01.html</ref>。 大日本印刷・TOPPANの大手2社(と[[NISSHA]])においては[[紙]]への印刷への比重は減少しつつあり、印刷技術を生かした[[包装材]](パッケージ製品)などの各種加飾製品、[[液晶ディスプレイ]]部品材料やカラーフィルター、[[半導体]]用[[フォトマスク]]といった[[電子部品|電子デバイス]]などの商材の比重を増やすというように、[[産業構造]]の変化に合わせて[[ポジショニング]]を変えている<ref>http://toyokeizai.net/articles/-/68254?page=2</ref>。 === 代表的な印刷会社 === ; 大手 * [[TOPPANホールディングス]] - 東証プライム上場 * [[大日本印刷]] - 東証プライム上場 ; 準大手 * [[NISSHA]] - 東証プライム上場 * [[共同印刷]] - 東証プライム上場 * [[図書印刷]] - TOPPANグループ * [[TOPPANエッジ]] - TOPPANグループ * [[共立印刷]] - 東証スタンダード上場 * [[竹田印刷]] - 東証スタンダード、名証メイン上場 * [[光村印刷]] - 東証スタンダード上場 ; 国営 * [[国立印刷局]] ; その他 {{Div col}} * [[ITP (企業)]] * [[あかつき印刷 (魚沼市)]] * [[あかつき広告]] * [[あかつき印刷 (渋谷区)]] * [[アサガミプレスセンター]] * [[朝日印刷 (福井県)]] * [[アサヒコミュニケーションズ]] * [[朝日プリンテック]] * [[アドプレックス]] * [[雨宮印刷]] * [[石川特殊特急製本]] * [[石田製本]] * [[ウイルコホールディングス]] * [[永昌堂印刷]] * [[エトワール (印刷)]] * [[大阪シーリング印刷]] * [[大鹿印刷所]] * [[大村印刷]] * [[岡田紙業]] * [[笠間製本印刷]] * [[柏村印刷]] * [[カワセコンピュータサプライ]] * [[協進印刷]] * [[共立アイコム]] * [[杏林舍]] * [[近代美術 (企業)]] * [[金羊社]] * [[グラフィック (企業)]] * [[くりえい社]] * [[クレアール (印刷通販会社)]] * [[研究社印刷]] * [[広済堂ホールディングス]] * [[高速オフセット]] * [[弘文社 (名古屋)]] * [[興和紡]] * [[国策共栄]] * [[五色 (企業)]] * [[コスモグラフィック]] * [[コスモプリンツ]] * [[小林クリエイト]] * [[小松印刷]] * [[佐川印刷]] * [[山愛]] * [[サンケイ総合印刷 (大阪)]] * [[サンコー (北海道)]] * [[三秀舎]] * [[三省堂印刷]] * [[サンニチ印刷]] * [[サンメッセ]] * [[SANYO-CYP]] * [[サンライズパブリケーション]] * [[シー・アール・エム]] * [[ジェイアール東海ウェル]] * [[シグマ紙業]] * [[シナノ (印刷業)]] * [[昌栄印刷]] * [[ショセキ]] * [[スキット (企業)]] * [[精興社]] * [[双陽社]] * [[第一印刷]] * [[第一印刷 (長崎県)]] * [[第一紙行]] * [[タイヘイ]] * [[大陽出版]] * [[宝印刷]] * [[竹笹堂]] * [[中日高速オフセット印刷]] * [[中日三重サービスセンター]] * [[千代田グラビヤ]] * [[デイリースポーツプレスセンター]] * [[天理時報社]] * [[東亜紙巧業]] * [[東京スガキ印刷]] * [[東京リスマチック]] * [[とうざわ印刷工芸]] * [[同人誌印刷所]] * [[トータルパッケージ]] * [[東電ハミングワーク]] * [[東日印刷]] * [[東日オフセット]] * [[銅版印刷]] * [[東洋化成]] * [[図書印刷同朋舎]] * [[友野印刷]] * [[富山スガキ]] * [[内外プロセス]] * [[西川コミュニケーションズ]] * [[日刊スポーツPRESS]] * [[ニューズプランニング]] * [[ねこのしっぽ (中原区)]] * [[野崎印刷紙業]] * [[ハラプレックス]] * [[日立ドキュメントソリューションズ]] * [[福島印刷]] * [[フジコピアン]] * [[ブラザー印刷]] * [[プリントネット]] * [[プリントパック]] * [[プロネクサス]] * [[平和堂印刷]] * [[便利堂]] * [[毎日新聞北関東コア]] * [[毎日新聞首都圏センター]] * [[毎日新聞北海道センター]] * [[牧製本印刷]] * [[マツモト (福岡県)]] * [[丸進工業]] * [[丸山印刷]] * [[丸吉日新堂印刷]] * [[マンローランドゴスウェブシステムズジャパン]] * [[和多田印刷]] {{Div col end}} == 関連項目 == * [[版元]] * [[組版]] * [[印刷]] * [[出版]] * [[本木昌造]] * [[ウィリアム・ギャンブル]] ==脚注== {{Reflist}} {{Company-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いんさつかいしや}} [[Category:印刷業者]]
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編集者
編集者(へんしゅうしゃ)は、本(書籍・雑誌)や新聞などの刊行物や論文などの内容を編集する者である。歴史書や教科書を発行する出版社(例えば三省堂)では、「編集」ではなく「編修」と表記する場合もある。 実際は、「編集者」と呼ばれる役職は2つある。1つは、著作的な編集を行う人である。著者表示で「著」などと並んで「編」「edited by」「ed.」などとなっている人物である。編纂者・編者(編著者)に同じ。 もう一つは、出版社や編集プロダクションなどの職場あるいはフリーなどの職業形態における編集実務担当者である。 書籍の編集者の場合、著者が本の「あとがき」などで謝意を表するような場合を除いて、一般的に自分が編集した本に自身の名前が記されることはなく(ただし、徳間書店のように編集者名を必ず記載する方針の出版社も、少数ながら存在する)、例え著者からの謝意を表す文章で編集者の姓名が「あとがき」等に記載されていたとしても、本の書誌事項として登録される公的なものではない。いわば匿名性の中で仕事を進めていくのが、編集者の仕事の特質の一つである。しかし、編集者のなかには、「スーパーエディター」を標榜した安原顕のように、書籍の奥付に自身の名前をクレジットする者もいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "編集者(へんしゅうしゃ)は、本(書籍・雑誌)や新聞などの刊行物や論文などの内容を編集する者である。歴史書や教科書を発行する出版社(例えば三省堂)では、「編集」ではなく「編修」と表記する場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "実際は、「編集者」と呼ばれる役職は2つある。1つは、著作的な編集を行う人である。著者表示で「著」などと並んで「編」「edited by」「ed.」などとなっている人物である。編纂者・編者(編著者)に同じ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "もう一つは、出版社や編集プロダクションなどの職場あるいはフリーなどの職業形態における編集実務担当者である。", "title": "編集実務の担当者" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "書籍の編集者の場合、著者が本の「あとがき」などで謝意を表するような場合を除いて、一般的に自分が編集した本に自身の名前が記されることはなく(ただし、徳間書店のように編集者名を必ず記載する方針の出版社も、少数ながら存在する)、例え著者からの謝意を表す文章で編集者の姓名が「あとがき」等に記載されていたとしても、本の書誌事項として登録される公的なものではない。いわば匿名性の中で仕事を進めていくのが、編集者の仕事の特質の一つである。しかし、編集者のなかには、「スーパーエディター」を標榜した安原顕のように、書籍の奥付に自身の名前をクレジットする者もいる。", "title": "編集実務の担当者" } ]
編集者(へんしゅうしゃ)は、本(書籍・雑誌)や新聞などの刊行物や論文などの内容を編集する者である。歴史書や教科書を発行する出版社(例えば三省堂)では、「編集」ではなく「編修」と表記する場合もある。 実際は、「編集者」と呼ばれる役職は2つある。1つは、著作的な編集を行う人である。著者表示で「著」などと並んで「編」「edited by」「ed.」などとなっている人物である。編纂者・編者(編著者)に同じ。
{{WikipediaPage|ウィキペディアの編集者については、[[Wikipedia:利用者]]をご覧ください。}} {{Otheruses|出版の編集者|映像の編集者|映像編集}}<!--映画・テレビ等の映像作品において、既に撮影された素材から取捨選択・並べなおしを行い、(音声を除いて)最終的な作品に完成させる行為である「[[編集]]」を行う者。監督自身が編集作業を行う場合も多いが、「編集」作業のみを行う役割の人物を「編集者」と呼ぶ。--> {{出典の明記|date=2013年3月}} '''編集者'''(へんしゅうしゃ)は、[[本]]([[書籍]]・[[雑誌]])や[[新聞]]などの[[刊行物]]や[[論文]]などの内容を[[編集]]する者である。[[歴史書]]や[[教科書]]を発行する[[出版社]](例えば[[三省堂]])では、「編集」ではなく「編修」と表記する場合もある。 実際は、「編集者」と呼ばれる役職は2つある。1つは、[[著作]]的な編集を行う人である。[[著作者|著者]]表示で「著」などと並んで「'''編'''」「edited by」「ed.」などとなっている人物である。編纂者・編者(編著者)に同じ。 == 編集実務の担当者 == {{独自研究|date=2015年3月26日 (木) 19:34 (UTC)|section=1}} もう一つは、[[出版社]]や[[編集プロダクション]]などの職場あるいはフリーなどの職業形態における[[編集#編集実務|編集実務]]担当者である。 [[本|書籍]]の編集者の場合、著者が本の「あとがき」などで謝意を表するような場合を除いて、一般的に自分が編集した本に自身の名前が記されることはなく(ただし、[[徳間書店]]のように編集者名を必ず記載する方針の出版社も、少数ながら存在する<ref group="注釈">ただし、大森望は徳間文庫は2009年から、徳間書店の文芸書は2010年から「奥付の編集者名表記がなくなった」とツイッターで発言している。https://twitter.com/nzm/status/11762651630 </ref>)、例え著者からの謝意を表す文章で編集者の姓名が「あとがき」等に記載されていたとしても、本の[[書誌]]事項として登録される公的なものではない。いわば匿名性の中で仕事を進めていくのが、編集者の仕事の特質の一つである。しかし、編集者のなかには、「'''スーパーエディター'''」を標榜した[[安原顕]]のように、書籍の[[奥付]]に自身の名前をクレジットする者もいる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} <!--=== 出典 === {{Reflist|2}}--> == 関連項目 == * [[編集長]] * [[主筆]] * [[出版]] * [[出版人]] * [[学術出版]] * [[漫画編集者]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へんしゆうしや}} [[Category:編集者|*]]
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大改造!!劇的ビフォーアフター
『大改造!!劇的ビフォーアフター』(だいかいぞう!!げきてきビフォーアフター、英: That'S a DRAMATIC CHANGE!)は、朝日放送テレビ(ABCテレビ)・社員・ジャンプコーポレーションの共同制作により、テレビ朝日系列で2002年4月28日から2016年11月27日までレギュラー放送されており、以後不定期特番として放送されている自宅リフォーム番組。 2002年4月28日にレギュラー放送を開始し、4年間放映された。2006年から約3年間のレギュラー放送休止期(この間は特別番組として不定期放送)を挟み、2009年4月26日からレギュラー放送再開。7年7か月後の2016年11月27日放送分を以て二度目のレギュラー放送が終了となり、再び特別番組として不定期放送に戻る。 以下、本文においては、公式サイト上で2009年以降のレギュラー放送を「大改造!!劇的ビフォーアフター SEASON II」(シーズン・ツー、以下、「SEASON II」と表記)と説明しており、正式番組名もそうであることを踏まえ、2002年から2006年までのレギュラー放送についても便宜上「SEASON I」と表記することとする。 SEASON I時代から、ステレオ放送、字幕放送で、2007年9月30日のスペシャル(通算第134回)以降よりハイビジョン放送を開始。 「家族の問題を『リフォーム』で解決しませんか?」をコンセプトに、さまざまな物件の大改造を通して、再び“家族の絆&やすらぎ”を取り戻すことを目的とする番組。応募のあった一般視聴者の実際の物件を題材としており、ドキュメンタリー的要素を持つが、番組公式サイトでは「笑いあり、感動ありの家族応援バラエティ」と謳っているほか番組制作を手がける朝日放送も本番組のジャンルをバラエティ番組に位置づけており所謂リアリティ番組の要素を内包していることが示唆されている。 番組の基本的なフォーマットは、一般募集による「依頼主」の家族の悩み(その多くが家屋・住宅の構造が生活実態と合致していないこと)を解決すべく、『匠』(たくみ)と呼ばれる建築士や大工などが問題解決のための家屋・住居のリフォームの設計を手がけ、その施工(改築)の状況を建築技術を織り交ぜながら紹介し、最後に「依頼主」一家にリフォーム後の状況をお披露目するというものである。リフォームに要する費用は基本的に「依頼主」が全額支払うことになり、番組内で予算と実際の工事費が呈示されるが、この工事費には匠の設計費・デザイン料(通常は設計監理料として、建築費の10〜15%が請求される)が含まれていないことに加え、現場労務費を抑えるために番組スタッフ(時には「依頼主」自身も)が現場施工の補助を行うほか、古い家具のリメイクや廃材の利用(このことが「昔の家の思い出」として演出に生かされることになる)を積極的に行うことなどによるコストダウンによって、相場より低廉な価格に抑えており、通常は同等のリフォームを番組内で呈示された費用で行うことは困難である。なお、「依頼主」はリフォーム開始前に一時的に引越しをし、基本的にお披露目まではリフォーム内容が明かされない演出となっている。 番組は殆どの時間がリフォームのドキュメンタリーであり章分けされて構成したものであった。一つの章が終わるとスタジオのトークがありクイズ形式で匠の技を推理しゲストに答えさせていた。 番組タイトルの「ビフォーアフター (Before-After)」は、もともと美容用語であったが、この番組の成功によってさまざまな番組・CM、美容・建築以外の業種などで用いられるようになった。番組タイトルの「ビフォーアフター」は2003年の新語・流行語大賞トップテンにも選ばれたが、選考理由としては、「ビフォーアフター」の他、声優・加藤みどりによるナレーションでの台詞「なんということでしょう!」〈毎回リフォーム完成後の家屋お披露目映像で加藤が用いる〉、「匠」を含めたものとして取り上げられている。 番組ではリフォームを依頼したい視聴者を常時募集しているため、依頼人は基本的に一般の視聴者であるが、稀に有名人がリフォームを依頼することがある(詳細後述)。なお、朝日放送や当番組を装って「リフォーム工事をさせてほしい」とする詐欺電話による被害が相次いでいることから、番組では「悪質なリフォーム詐欺にご注意ください!!朝日放送テレビから、工事の勧誘をご連絡することはございません」との注意書きを記述している。一部地域とBS朝日では現在も再放送が行われている。 【凡例】特 = 特別編AA = アフターアフタースペシャル大賞20xx = 匠が選ぶビフォーアフター大賞 リフォームの対象は個人が所有する家屋(住宅等)が大半だが、家屋でない庭や法人等が所有する物件を取り上げる回もある。 上記に掲載あり。なお、法人等が所有する物件を取り上げた事例は、下表の8件がある(物件=物件番号)。 2019年4月末までで、157人の匠によって312軒の家がリフォームされ、2016年6月19日放送分で300軒目に到達した。なお、2,000万円台程度の予算であれば、住宅購入やリフォームの枠を超えた改築もできるが、3,000万円以上のリフォーム予算が付いた物件も過去に9件(2022年7月時点。下記の表を参照)ある。また、諸事情により“未完結”状態となっている物件が4件(こちらも2022年7月時点)ある。 一方、番組内のリフォームで史上最低額を記録したのは、2015年9月13日放送の回で58万4,000円で実現した。 ワイドショーで好評だったリフォームコーナーを元に企画され、2002年4月28日から放送開始。放送時間は19:56 - 20:54。放送開始初期は家のリフォームのみならず、服飾のリフォーム(リメイク)を扱ったこともあった。 2002年10月20日から、直前の19時台番組『決定!これが日本のベスト100』(テレビ朝日制作)の2分拡大に伴い、放送枠は19:58 - 20:54に縮小された。 2005年3月6日には、リフォームされた家が100軒に達したことを記念して2時間の特別番組を放送した。 放送開始から約4年を経た2006年3月19日の放送をもってSEASON Iは終了となった。終了の要因として、同時期に発覚した「アスベスト問題や2005年に発覚し世間を震撼させた一級建築士らによる耐震強度偽装事件の影響などで解体及びリフォームに際しての事前調査等の作業時間が長期化し、週1回の番組として成り立たなくなった」ことがあると報じられている。 2006年10月からは特別番組形態に移行し、不定期に放送された。詳細は後述。 2009年1月、朝日放送の『ビフォーアフター』ホームページ及び各報道にて、同年春からレギュラー放送を約3年ぶりに“SEASON II”と称して復活すると発表された。放送開始(再開)日は4月26日で、放送日時も第1次と同じく日曜の夜(19時58分から)となっている。 SEASON I、およびSEASON IIの途中までは基本的に毎週の放送で物件一つずつを扱っていたが、2012年秋以降はほとんどすべての放送が2時間となった。19時台の番組と交互に2時間特番が編成され、またスポーツ特番などにより放送休止も多く、月に1回しか放送されないことも多々ある。1時間の回は年に数回程度しかなく、2012年12月2日から2015年5月31日までの実に約2年半の間、「1時間で家1軒リフォーム」する回(以下「通常回」と称す)は一度も放送されなかった。2015年6月14日放送回も「通常回」となったが、その後は再び隔週2時間体制に戻っている。 2010年9月末に所・江口以外のレギュラー出演者が降板し、2010年10月以降は週替わりのゲスト2人(男女各1人ずつ、場合によっては3人の回もある)になっている。 地上アナログ放送では長らく4:3(ハイビジョン化後はサイドカット)映像だったが、2010年7月18日放送分より16:9レターボックス映像に移行した。しかし現在でも固定カメラ映像は4:3が使われている。 東日本大震災の復興支援や2020年東京オリンピック・パラリンピックによる建設需要増大と、それに伴う工期の遅れを理由として、2016年11月27日放送分をもってSEASON IIは最終回となった。 終了後、この枠では同一スタッフによる姉妹番組『ポツンと一軒家』が放送中。 SEASON II終了発表の際、「今後は特別番組として不定期に放送する」と告知されており、以降は改編期を中心に年1 - 2回、特別番組として不定期に放送されている。 その後も加藤は引き続きナレーションを務めていたが、2020年3月29日放送分をもって卒業。同年11月15日放送分から、キムラ緑子が2代目としてナレーションを務める。 2021年は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響によりロケが困難となったため、1回も放送されなかった。 司会の所とアテンダントの江口に加え、レギュラーパネリストとゲスト(2010年以降はゲスト2組)が出演するというスタイルで放送される。出演者紹介の際には「Before」と称して出演者の昔の写真と現在の年齢が表示される(年齢が表示されないこともある)。 2016年2月7日に放送された番組内で本来、電気工事士でなければできないケーブル配線のステップル固定する電気工事を無資格者が行うシーンが放映された。これについて経済産業省が朝日放送と監督した電気工事士に対して厳重注意を行った。 2014年7月に放送された岐阜市の住宅リフォームにおいて、同住宅のリフォームを手掛けた愛知県東海市の企業が、朝日放送と番組製作会社に対し追加発生した公費2900万円の支払いを求める裁判を起こした。 2009年11月に放送された、築48年の家のトラブル。匠と面談したのは2回のみで、リフォーム後の自宅の外観は要望していたものとは違う色となり、全体的に暗く寒くなってしまったという。最大の問題となっていた段差も子供向けスペースとして残ったままとなっており、依頼者もリフォーム後の内覧で激怒した。 オープニング・テーマ曲は松谷卓作曲の「Inscrutable Battle」。 当楽曲は、テレビ朝日で過去に放送された報道番組『スクープ21』テーマ曲を流用したもの。本番組のサウンド・トラック(後述)はオリコンチャート最高48位にランクインするなど、InstrumentalのCDとして異例の売上を弾き出している。 エンディング曲はMC、所ジョージの楽曲が使用される。 リフォーム完成後の家屋お披露目映像で流れる「TAKUMI/匠」は本番組を象徴する楽曲であり、他のリフォーム系番組でもパロディとして流される他、CDアルバム「image」や音楽ゲーム「ノスタルジア」にも収録されるなど、最も有名な楽曲となっている。 その他、下記のクラシック音楽がアレンジして使用されている。 2010年4月から2016年12月までは、その後は、所ジョージと江口ともみが「劇的ビフォーアフターのあとはこの番組です!」とは紹介せず、『日曜洋画劇場』・『日曜エンターテインメント』の生クロスプログラムを流すようになった。 2007年12月21日に以下の4枚が同時に発売となった。SEASON Iの各エピソードから1枚あたり3話を収録したもの。スタジオ部分はカットされ、ロケVTRのみでの構成となっており、それぞれ担当した匠へのインタビュー(発言内容などから、インタビュー部分は2007年に収録されたものとみられる)が特典映像となっている。Vol.1と2、Vol.3と4のセットにブックレットが付属したDVD BOXもある。発売元は朝日放送・東宝。 2枚のサウンドトラックが発売されている。いずれも松谷卓名義で、発売元はエピックレコードジャパン。 放映された内容を元に、以下の書籍が刊行されている。 放映された番組を題材にしたソーシャルゲームが提供されている。
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『大改造!!劇的ビフォーアフター』は、朝日放送テレビ(ABCテレビ)・社員・ジャンプコーポレーションの共同制作により、テレビ朝日系列で2002年4月28日から2016年11月27日までレギュラー放送されており、以後不定期特番として放送されている自宅リフォーム番組。
{{出典の明記|date=2020年2月}} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=大改造&#33;&#33;劇的ビフォーアフター<br/><small>That'S a DRAMATIC CHANGE!</small> |画像= |画像説明= |ジャンル=[[バラエティ番組]] |放送時間= |放送分= |放送枠= |放送期間= |放送回数=316<!-- 313 --> |放送国={{JPN}} |制作局=[[朝日放送テレビ]](ABCテレビ)<br />[[社員 (テレビ制作会社)|社員]]<br />[[ジャンプコーポレーション]] |企画=[[岩田潤]](朝日放送テレビ) |製作総指揮= |監督= |演出=[[高橋章良]](総合[[演出]]) |プロデューサー=大橋洋平(朝日放送テレビ)<br />桒山哲治(CP、朝日放送テレビ) |出演者=[[所ジョージ]]<br />[[江口ともみ]]<br />他ゲスト2組 |ナレーター= [[加藤みどり]]→[[キムラ緑子]] |音声=[[ステレオ放送]] |映像形式=[[文字多重放送]] |データ放送= |OPテーマ=[[松谷卓]] 「Inscrutable Battle」 |EDテーマ=同上 |外部リンク=https://www.asahi.co.jp/beforeafter/ |外部リンク名=公式サイト |番組名1=SEASON I(第1期レギュラー放送) |放送時間1=[[日曜日]] 19:56 - 20:54<br /> → 19:58 - 20:54 |放送分1=58分 → 56 |放送期間1=[[2002年]][[4月28日]] - [[2006年]][[3月19日]] |放送回数1=130 |EDテーマ1=トコブクロ「のこぎりの唄」 |番組名2=特別番組 |放送時間2=[[#特別番組|特別番組]]を参照 |放送分2= |放送枠2= |放送期間2=2006年[[10月8日]]<br />[[2007年]][[1月14日]]・[[4月14日]]・[[9月30日]]<br />[[2008年]][[1月13日]]・[[3月30日]]・[[9月28日]]<br />[[2009年]][[3月22日]]<br />[[2017年]][[4月2日]]・[[10月1日]]<br />[[2018年]][[4月15日]]・[[9月23日]]<br />[[2019年]][[4月28日]]<br />[[2020年]][[3月29日]]・[[11月15日]]<br />[[2022年]][[2月20日]]<br />[[2023年]][[3月19日]] |放送回数2=8+9<!-- 7 --> |番組名3=SEASON II(第2期レギュラー放送) |放送時間3=日曜日 19:58 - 20:54 |放送分3=56 |放送期間3=[[2009年]][[4月26日]] - [[2016年]][[11月27日]] |EDテーマ3=所ジョージ「アイスクリーム買いに行きましょうか」 |放送回数3=169 |特記事項=放送回数は特別編・総集編・アフターアフタースペシャル・前後編の後編などを除いた回数。 }} 『'''大改造!!劇的ビフォーアフター'''』(だいかいぞう!!げきてきビフォーアフター、{{Lang-en-short|That'S a DRAMATIC CHANGE!}}<ref group="注">番組[[ロゴ]]に併記された表記に基づく。なお、日本語のロゴ表記も、正確には「ビフォー」の横棒([[音引き]])が長い右向き矢印で表記されている(「ビフォ→アフター」)。なお、SEASON IとSEASON IIのロゴデザインは同じだが、色遣いが異なっている。</ref>)は、[[朝日放送テレビ]](ABCテレビ)<ref group="注">2018年3月31日までは、[[放送持株会社|認定放送持株会社]]移行に伴う商号変更ならびに分社化前のため、[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]。</ref>・[[社員 (テレビ制作会社)|社員]]・[[ジャンプコーポレーション]]の共同制作により、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]で[[2002年]][[4月28日]]から[[2016年]][[11月27日]]までレギュラー放送されており、以後不定期特番として放送されている[[自宅リフォーム番組]]。 == 番組概要 == {{出典の明記|section=1|date=2014-08}} [[2002年]]4月28日にレギュラー放送を開始し、4年間放映された。[[2006年]]から約3年間のレギュラー放送休止期(この間は[[特別番組]]として不定期放送)を挟み、[[2009年]][[4月26日]]からレギュラー放送再開。7年7か月後の[[2016年]][[11月27日]]放送分を以て二度目のレギュラー放送が終了となり、再び特別番組として不定期放送に戻る。 以下、本文においては、公式サイト上で2009年以降のレギュラー放送を「''大改造!!劇的ビフォーアフター [[シーズン (テレビ)|SEASON]] II''」(シーズン・ツー、以下、「SEASON II」と表記)と説明しており、正式番組名もそうであることを踏まえ、2002年から2006年までのレギュラー放送についても便宜上「SEASON I」と表記することとする。 SEASON I時代から、[[ステレオ放送]]、[[文字多重放送|字幕放送]]で、[[2007年]][[9月30日]]のスペシャル(通算第134回)以降より[[ハイビジョン制作|ハイビジョン放送]]を開始。 「家族の問題を『[[リフォーム]]』で解決しませんか?」を[[概念|コンセプト]]に<ref name="about">[http://www.asahi.co.jp/beforeafter/about/ 大改造!!劇的ビフォーアフター SEASON IIとは?] - 番組公式サイト内</ref>、さまざまな物件の大改造を通して、再び“家族の絆&やすらぎ”を取り戻すこと<ref name="about"/>を目的とする番組。[[視聴者参加型番組|応募のあった一般視聴者]]の実際の物件を題材としており、[[ドキュメンタリー]]的要素を持つが、番組公式サイトでは「笑いあり、感動ありの[[家族]]応援[[バラエティ番組|バラエティ]]」と謳っているほか<ref name="about"/>番組制作を手がける朝日放送も本番組のジャンルを[[バラエティ番組]]に位置づけており所謂[[リアリティ番組]]の要素を内包していることが示唆されている。 番組の基本的なフォーマットは、一般募集による「依頼主」の家族の悩み(その多くが[[家屋]]・[[住宅]]の構造が生活実態と合致していないこと)を解決すべく、『匠』(たくみ)と呼ばれる[[建築士]]や[[大工]]などが問題解決のための家屋・住居のリフォームの[[設計]]を手がけ、その[[施工]]([[建築行為#改築|改築]])の状況を建築技術を織り交ぜながら紹介し、最後に「依頼主」一家にリフォーム後の状況をお披露目するというものである。リフォームに要する[[費用]]は基本的に「依頼主」が全額支払うことになり、番組内で予算と実際の工事費が呈示されるが、この工事費には匠の[[設計]]費・[[デザイン]]料(通常は設計監理料として、建築費の10〜15%が請求される)が含まれていないことに加え、現場労務費を抑えるために番組スタッフ(時には「依頼主」自身も)が現場施工の補助を行うほか、古い家具の[[リメイク]]や[[廃棄物|廃材]]の利用(このことが「昔の家の思い出」として演出に生かされることになる)を積極的に行うことなどによるコストダウンによって、相場より低廉な価格に抑えており<ref>[http://www.asahi.co.jp/beforeafter/faq/ よくあるご質問] - 番組公式サイト内</ref>、通常は同等のリフォームを番組内で呈示された費用で行うことは困難である。なお、「依頼主」はリフォーム開始前に一時的に[[引越し]]をし<ref>引越しの業務は番組スポンサーの[[アート引越センター]]が行う。</ref>、基本的にお披露目まではリフォーム内容が明かされない演出となっている<ref>事前に平面図の提示と大まかな内容の説明は行われているようである。また、例外的に依頼主家族の一部が工事に参加する場合もある。</ref>。 番組は殆どの時間がリフォームのドキュメンタリーであり章分けされて構成したものであった。一つの章が終わるとスタジオのトークがありクイズ形式で匠の技を推理しゲストに答えさせていた。 番組タイトルの「'''ビフォーアフター''' (Before-After)」は、もともと[[美容]]用語であったが、この番組の成功によってさまざまな番組・[[コマーシャルメッセージ|CM]]、美容・建築以外の業種などで用いられるようになった。番組タイトルの「ビフォーアフター」は[[2003年]]の[[新語・流行語大賞]]トップテンにも選ばれたが、選考理由としては、「ビフォーアフター」の他、[[声優]]・[[加藤みどり]]による[[語り手|ナレーション]]での台詞「なんということでしょう!」〈毎回リフォーム完成後の家屋お披露目映像で加藤が用いる〉、「匠」を含めたものとして取り上げられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://singo.jiyu.co.jp/nendo/2003.html|title=新語・流行語大賞2003|publisher=[[自由国民社]]|accessdate=2013-05-18}}授賞式には加藤みどりが出席。</ref>。 番組ではリフォームを依頼したい[[視聴者参加型番組|視聴者を常時募集]]しているため、依頼人は基本的に一般の[[視聴者]]であるが、稀に有名人がリフォームを依頼することがある([[#有名人の実家リフォーム相談スペシャル|詳細後述]])。なお、朝日放送や当番組を装って「リフォーム工事をさせてほしい」とする詐欺電話による被害が相次いでいることから、番組では'''「悪質なリフォーム詐欺にご注意ください!!朝日放送テレビから、工事の勧誘をご連絡することはございません」'''<ref>[http://asahi.co.jp/beforeafter/faq/ よくあるご質問]</ref>との注意書きを記述している。一部地域と[[BS朝日]]では現在も[[再放送]]が行われている<ref group="注">日曜日16:55 - 17:55(JST)に再放送、過去には、2004年10月から2005年3月までは土曜日の20:00 - 21:00(JST)および月曜日の23:00 - 翌0:00(JST)、2005年4月から2007年9月までは土曜日の 19:00 - 20:00(JST)2007年10月から2008年3月までは木曜日18:30 - 19:30(JST)にそれぞれ放送されていた。2006年3月まではリフォームの資料請求ができる双方向データ放送も行っていた。2009年4月のSEASON II開始後も2010年4月25日まで引き続きSEASON Iの再放送をしていた。</ref>。 == 放送リスト == <!-- ※ソースは新聞記事による出典のためコメントアウト 出典:2002年4月28日から2020年2月2日までの間の朝日新聞テレビ欄ほか --> 【凡例】<br />特 = 特別編<br />AA = アフターアフタースペシャル<br />大賞20xx = 匠が選ぶビフォーアフター大賞 {| class="wikitable mw-collapsible" style="font-size: 90%;" !放送回 !放送日 !備考(サブタイトル) |- !1 |2002年4月28日||築40年の古家を天才建築家が奇跡のリフォーム▽衝撃!壁をブチ抜き巨大リビング誕生▽究極のキッチンに妻が感涙 |- !2 |2002年5月5日||リビングに子供部屋が突然誕生!今夜も奇跡のリフォーム▽収納の魔術師がキッチンを大変身!!家族はあ然 |- !3 |2002年5月12日||狭い!!3畳寝室にあふれる家具・孝行リフォームで祖父が感動の涙▽物置小屋がおしゃれウッドデッキに |- !4 |2002年5月19日||築160年・江戸時代の蔵を米国人建築家がリフォーム!!お宝続出で工事中断▽亡き父の形見復元で娘感涙 |- !5 |2002年5月26日||衝撃の超過激リフォーム!!天井破壊に悲鳴!!▽幅90センチの縁側が素敵な寝室に▽南欧カフェ風キッチン出現▽光る廊下 |- !6 |2002年6月2日||狭い家!!4畳にグランドピアノと親子6人が…革命!!空間魔術リフォーム▽動く個室に子供たち大喜び |- !特一 |2002年6月9日||リフォーム裏側5連発<br />奇跡のリフォーム5連発!!裏話SP▽親子が大ゲンカ工事中断の危機▽革命快適キッチン&収納の魔術 |- !7 |2002年6月23日||父母が食堂で眠る家!!奇跡の孝行リフォームで感涙▽物置が料亭風玄関に変身▽快適キッチン収納術 |- !特二 |2002年6月30日||洋服リメイク<br />和服が記念日ドレスに▽結婚衣装がおしゃれ変身 |- !8 |2002年7月7日||危ない!!屋根の上で洗濯する母2世帯住宅リフォーム▽奇跡の収納!!動く壁▽大ハプニング!!妻が出産 |- !9 |2002年7月14日||足に負担のかかる家▽3畳物置がリフォームで…快適空が見える浴室に変身▽廃材でおしゃれダイニング▽身体を癒やす寝室 |- !10 |2002年7月21日||長男がベランダで寝る家▽150足の靴と8匹のネコが占領▽雨漏り!!シロアリ続々発覚…リフォーム中止 |- !11 |2002年7月28日||寝るだけの家▽6畳ワンルームマンションが…2LDKに衝撃変身▽床も壁も動く!?奇跡の収納▽世界最小のリビング |- !12 |2002年8月11日||方角に惑わされた家▽えっ玄関になぜ風呂が!?方角に惑わされた奇妙な家▽畳が動く!!快適リビング▽レンガで南欧風の庭園 |- !特三 |2002年8月18日||洋服リメイク(2)<br />妻が悲鳴80万円毛皮がバラバラに!!洋服リフォームで大変身▽祖母の着物が世界で一着のお出掛け服に |- !13 |2002年9月1日||優しく介護ができない家▽壁が消えた!!介護に優しい快適マンションリフォーム▽白木の癒やしダイニング▽移動式おしゃれ収納 |- !14 |2002年9月8日||広くて狭い家▽超過激!!天井・壁・屋根すべて完全破壊リフォーム!!ビル谷間の築40年12坪一戸建てが新築に奇跡変身 |- !特四 |2002年9月15日||地上波本放送はこの回まで19:56開始の58分枠。<br />廃材再生スペシャル▽粗大ゴミで超豪華リビング完成奇跡の家具再生33連発!ガラス戸がテーブルに変身▽床材でおしゃれ照明 |- !15 |2002年9月22日||2時間スペシャル<br />後年、第24回および第25回およびアフターアフタースペシャル1およびアフターアフタースペシャル5にて再取材。<br />大家族7男4女ペット21匹の感動リフォーム!定員オーバーの家▽子供達みんなが工事に大活躍!!父母は感激で涙涙▽巨大ダイニング完成!!家族皆そろって初めての夕食▽まるで高級旅館!!紅葉を望むヒノキ風呂に大騒ぎ▽空中に浮く奇跡の子供部屋 |- !16 |2002年10月20日||地上波本放送はこの回より19:58開始の56分枠。<br />夫が立ち上がれない家▽狭い家にボウ然!!南アフリカ人193センチの夫は帰国寸前!奇跡リフォームで巨大空間▽花が広がる展望風呂 |- !17 |2002年10月27日||後年、アフターアフタースペシャル3にて再取材。<br />引き裂かれた家▽家の中でどしゃ降りが…築50年天井のない奇妙な家!?▽工事開始で父が突然の大号泣!!リフォーム中止? |- !18 |2002年11月3日||後年、アフターアフタースペシャル2にて再取材。<br />かつて銭湯だった家▽築70年!!オンボロ銭湯が老夫婦夢の家に変身▽大浴場が吹き抜けリビングに▽番台でおしゃれキッチン |- !19 |2002年11月10日||2007年12月21日DVD発売(第二巻Aパートに収録)<br />三角形の家▽今夜の家は三角形!!しかも9坪最悪空間▽風呂は外!?家族は窓から入浴▽奇跡!!小さな家が豪邸に変身!! |- !20 |2002年11月17日||突然目に難病が…床も柱も危険なワナ▽音・光・風を感じる奇跡の空間▽夫感動!!光の道標と屋上庭園 |- !21 |2002年11月24日||狭すぎる家の幅は歩いて3歩!!220歳高齢トリオの家▽暗い長屋に太陽のリビング▽階段に(秘)仕掛けが |- !22 |2002年12月1日||後年、アフターアフタースペシャル3にて再取材。<br />2007年12月21日DVD発売(第二巻Bパートに収録)<br />今夜の家はたった8畳…家族は台所で入浴!!身動きできない最悪空間▽収納マジックで10坪の豪邸誕生 |- !23 |2002年12月8日||今夜の家は全長50メートル!!あまりにも細長い家▽遠くて疲れる…トイレは外に!!▽亡き夫の思い出復活号泣 |- !24 |2002年12月15日||後年、第25回およびアフターアフタースペシャル1およびアフターアフタースペシャル5にて再取材。<br />6男3女大家族!!感動リフォーム第2弾▽小さな裏庭が欧風庭園に!!廃材利用格安▽四男が活躍…母感涙 |- !25 |2003年1月12日||後年、アフターアフタースペシャル1およびアフターアフタースペシャル5にて再取材。<br />6男3女大家族!!感動リフォーム完結編▽予算100万廃材で格安変身▽庭に子供達の楽園誕生…父号泣 |- !26 |2003年1月19日||後年、第195回にて再取材。<br />2007年12月21日DVD発売(第二巻Cパートに収録)<br />今夜の家は9坪!!なんと玄関がトイレ…最悪の空間!!▽真っ暗な家に光の壁▽動く床で奇跡の収納誕生 |- !27 |2003年1月26日||台所から食堂へ…料理を持って空を飛ぶ母!!築100年奇妙な家▽10年開かず納戸▽空中に浮く奇跡照明 |- !特五 |2003年2月2日||未公開!!完全保存版!匠の技スペシャル!!▽奇跡の収納&再生術&裏技▽家族の思い出が復活…号泣 |- !28 |2003年2月9日||2階から家族が落ちる家…傾斜60度!!恐怖の急階段▽なぜ!?9坪に玄関3つ▽妻号泣…節約リフォーム |- !29 |2003年2月16日||今夜の家はなんと4畳半…毎日雨漏りする最悪空間!!▽真っ暗なリビングに太陽の庭▽奇跡の巨大収納 |- !30 |2003年2月23日||築160年江戸末期の家…天井に謎の部屋が次々出現!!▽五右衛門ぶろが奇跡の変身▽光の2世帯住宅誕生 |- !31 |2003年3月2日||家族15人が2畳で食事!?居間が狭すぎる家▽幅30センチ!!母が横歩きする台所▽奇跡の動く寝室…父が感激 |- !32 |2003年3月9日||風呂まで歩いて15分!!トイレは長さ3メートル…8坪の奇妙な家▽障子が消える…奇跡リビング▽太陽の風呂 |- !33 |2003年3月16日||2007年12月21日DVD発売(第四巻Aパートに収録)<br />1階6畳、2階6畳!!極狭な一戸建て…布団もひけない最悪空間▽奇跡のベランダ&ロフト誕生!!妻感涙 |- !34・35 |2003年4月13日||2本連続放送<br />2時間スペシャル<br />(南北リフォームスペシャル)北海道&沖縄…南北の2軒を奇跡リフォーム▽積雪3メートル!!倒壊寸前雪に埋まった10坪の家vs窓の外はすべて壁!?南国なのに太陽が入らない家▽歩いて3分!!遠すぎる2階に挑む▽涙の北欧風バスルーム壁が光る!!史上最大の収納 |- !36 |2003年4月27日||後年、アフターアフタースペシャル4にて再取材。<br />片づけが絶対不可能な家…8坪しかも収納ゼロ▽奇跡!消える子供部屋▽空中に巨大キッチン収納が誕生 |- !37 |2003年5月4日||トイレと風呂が食堂にある家!!わずか4畳の最悪空間▽光の床でリビング収納▽奇跡!!仕掛け天井出現 |- !38 |2003年5月11日||43歳高齢出産…生まれる子供に危険な家▽母が落ちる急階段▽柱が動く奇跡リビング▽初出産に父の涙 |- !39 |2003年5月25日||幅30センチの動けない台所!!天井に木が生えた最悪風呂…孫を呼べない10坪の家▽床が延びる奇跡リビング |- !40 |2003年6月1日||歩くと揺れる床!!スキ間だらけの壁…大正時代のレトロすぎる家▽奇跡の収納からくり扉▽癒やしの庭園 |- !特六 |2003年6月8日||未公開!!リフォームウラ技SP▽奇跡のキッチン…妻涙▽床が動く超巨大収納▽160年前の秘蔵品を再生 |- !41 |2003年6月22日||廃屋寸前京の町家を…嫁ぐ娘の家に奇跡リフォーム▽動くキッチン…消える和室▽癒やし空間!!光の庭 |- !42 |2003年6月29日||アトピーに安心な庭を!!奇跡の庭園リフォーム▽四季のテラス&家庭菜園▽超快適ウッドデッキに母涙 |- !43 |2003年7月6日||娘が落ちる階段…命がけの台所元アパートの危険な家▽奇跡!!空中に浮かぶ子供部屋▽収納式キッチン |- !特七 |2003年7月13日||匠の技スペシャル、過去に紹介した匠の技を一挙公開! |- !44 |2003年7月20日||極狭12坪家族が廊下で眠る家!?タンスは家の外、洗濯は屋根の上…最悪空間▽史上最小の3LDK誕生 |- !45 |2003年7月27日||今夜の家はデコボコ六角形!!柱乱立…床は段差だらけ、収納ゼロの極狭12坪▽奇跡!!疲れた母を癒やす家 |- !46 |2003年8月3日||9畳一間に家族5人!!トイレは外、台所が寝室…超狭な家▽壁が回る奇跡のリビング▽消える子供部屋 |- !47 |2003年8月10日||食事も寝るのも4畳半…天井に頭がつく極狭な台所!?築100年の最悪12坪▽夜には消える奇跡キッチン |- !48 |2003年8月17日||倒壊寸前!母の思い出の9坪長屋!!屋根から雨漏り!!床に謎の洞穴を発見▽婚礼タンスが大収納キッチンに |- !49 |2003年9月7日||巨大物置が窓を占領!!家族は台所の床で食事!?間取りがチグハグな家▽展望360度!?絶景リビング誕生 |- !50 |2003年9月14日||後年、アフターアフタースペシャル2にて再取材。<br />史上最悪ジャングルと化した家、荒れ果てた草木!!転落する川▽水辺リゾート&快適屋外キッチンが誕生 |- !51 |2003年10月5日||2時間スペシャル<br />史上最大のリフォーム築300年の古民家再生▽屋根にキノコ、便所に竹が生える最悪空間▽タクミに衝撃!!入るとおぼれる五右衛門風呂▽光の魔術…日だまりのリビング&キッチン▽癒やしのヒノキ風呂▽モダン和風の豪邸に母涙 |- !52 |2003年10月19日||3畳台所で食事も入浴も!?傾斜60度の急階段…妻73歳夫62歳…新婚夫婦の家▽超快適リゾートキッチン |- !53 |2003年11月2日<ref>当初は同年10月26日に放送される予定だったが、同日は、[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|プロ野球日本シリーズ]]の中継が急遽編成されたため、翌週のこの日に改めて放送された。</ref>|| |- !54 |2003年11月16日|| |- !55 |2003年11月23日|| |- !56 |2003年11月30日|| |- !57 |2003年12月7日||2007年12月21日DVD発売(第三巻Aパートに収録) |- !58 |2003年12月14日<ref>放送中にフセイン大統領逮捕の一報が入り、途中、ニュース速報テロップが流されたが、途中で中断することはなく最後まで放送された。</ref>|| |- !59 |2004年1月11日|| |- !60 |2004年1月18日||後年、アフターアフタースペシャル4にて再取材。<br />2007年12月21日DVD発売(第一巻Aパートに収録) |- !61 |2004年1月25日|| |- !62 |2004年2月1日|| |- !63・64 |2004年2月15日||2本連続放送<br />心機一転!豪華2本立て2時間スペシャル |- !65 |2004年2月22日|| |- !66 |2004年2月29日|| |- !67 |2004年3月7日|| |- !68 |2004年4月4日||2時間スペシャル<br />後年、アフターアフタースペシャル1にて再取材。<br />下宿屋再生 |- !69 |2004年4月18日|| |- !70 |2004年5月2日|| |- !71 |2004年5月16日|| |- !72 |2004年5月30日|| |- !73 |2004年6月6日|| |- !74 |2004年6月13日|| |- !75 |2004年6月20日|| |- !76 |2004年6月27日|| |- !77 |2004年7月18日|| |- !78 |2004年8月8日|| |- !79 |2004年8月15日||2時間スペシャル<br />再婚大家族リフォーム |- !80 |2004年8月29日|| |- !81 |2004年9月5日<ref>同日の放送直前の19:07ごろに[[紀伊半島南東沖地震]]の前震が発生したが、休止せず、通常通り放送した(同日の放送終了直後に関連ニュースを放送)。</ref>||2007年12月21日DVD発売(第三巻Bパートに収録) |- !82 |2004年9月12日||2007年12月21日DVD発売(第一巻Bパートに収録) |- !83 |2004年9月19日||2007年12月21日DVD発売(第四巻Bパートに収録) |- !84 |2004年10月17日||2時間スペシャル<br />離島の家リフォーム |- !85 |2004年10月31日|| |- !86 |2004年11月7日|| |- !87 |2004年11月14日|| |- !88 |2004年11月21日|| |- !89 |2004年11月28日|| |- !90 |2004年12月5日|| |- !91 |2004年12月12日|| |- !92・93 |2005年1月9日||2本連続放送<br />冬の2時間スペシャル |- !94 |2005年1月16日|| |- !95 |2005年1月23日||2007年12月21日DVD発売(第一巻Cパートに収録) |- !96 |2005年1月30日|| |- !97 |2005年2月6日|| |- !98 |2005年2月20日|| |- !99 |2005年2月27日|| |- !100 |2005年3月6日||放送100回記念特別番組<br />リフォーム100軒達成2時間スペシャル |- !101 |2005年3月13日|| |- !102 |2005年4月10日|| |- !103 |2005年4月24日|| |- !104 |2005年5月1日|| |- !105 |2005年5月22日|| |- !106 |2005年5月29日||後年、アフターアフタースペシャル2にて再取材。 |- !107 |2005年6月5日|| |- !108 |2005年6月12日||2007年12月21日DVD発売(第四巻Cパートに収録) |- !特八 |2005年6月19日|| |- !109 |2005年7月10日||2時間スペシャル<br />後年、アフターアフタースペシャル3にて再取材。<br />倒壊寸前!長屋再生 |- !110 |2005年7月17日|| |- !111 |2005年7月24日|| |- !112 |2005年8月14日|| |- !113 |2005年8月21日|| |- !114 |2005年9月4日|| |- !115 |2005年9月18日||後年、アフターアフタースペシャル1にて再取材。 |- !116 |2005年10月2日||2時間スペシャル |- !117 |2005年11月6日|| |- !118 |2005年11月13日|| |- !119 |2005年11月20日|| |- !120 |2005年12月4日|| |- !121 |2005年12月11日|| |- !122 |2006年1月15日|| |- !123 |2006年1月22日|| |- !124 |2006年1月29日|| |- !125 |2006年2月5日|| |- !126 |2006年2月12日|| |- !127 |2006年2月19日|| |- !128 |2006年2月26日||2007年12月21日DVD発売(第三巻Cパートに収録) |- !129 |2006年3月12日|| |- !130 |2006年3月19日||第一期レギュラー放送時代最終回<br />2時間スペシャル<br />超狭小の家 |- !131 |2006年10月8日<ref name="名前なし-9">18:56 - 20:54</ref>||第一期単発特番時代第一弾<br />2時間スペシャル |- !132 |2007年1月14日<ref name="名前なし-9"/>||第一期単発特番時代第二弾<br />新春2時間スペシャル |- !133 |2007年4月14日<ref>土曜19:00 - 20:54<br />同年3月末に終了した『[[ドスペ!]]』枠での放送。</ref>||第一期単発特番時代第三弾<br />2時間スペシャル<br />後年、アフターアフタースペシャル4にて再取材。 |- !134 |2007年9月30日<ref name="名前なし-9"/>||第一期単発特番時代第四弾<br />2時間スペシャル<br />この回から[[ハイビジョン制作]]となる。<ref>当初は、スタジオパートのみ。通算第136回(制作局にて2008年3月30日放送分)からは、ロケパートもハイビジョン制作となる。なお、地上アナログテレビ放送では、通算第174回(制作局にて2010年7月4日放送分)まで[[NTSC|画角4:3]]にサイドカットしていた。</ref> |- !135 |2008年1月13日<ref name="名前なし-9"/>||第一期単発特番時代第五弾<br />新春2時間スペシャル |- !136 |2008年3月30日<ref name="名前なし-9"/>||第一期単発特番時代第六弾<br />2時間スペシャル |- !137 |2008年9月28日<ref name="名前なし-9"/>||第一期単発特番時代第七弾<br />2時間スペシャル |- !138 |2009年3月22日<ref>19:00 - 20:54</ref>||第一期単発特番時代第八弾<ref>なお、実質的には約1か月後に始まったレギュラー第二期のプレ放送にもなった。</ref><br />2時間スペシャル<br />後年、アフターアフターアフター8にて再取材。 |- !139 |2009年4月26日||第二期レギュラー放送時代初回 |- !140 |2009年5月10日|| |- !141 |2009年5月17日|| |- !142 |2009年5月24日||後年、アフターアフタースペシャル6(アフターアフター探訪・真夏の京都探訪スペシャル)およびアフターアフタースペシャル8にて再取材。 |- !AA一 |2009年5月31日||第15回の登場物件・第24回の登場物件・第25回の登場物件・第68回の登場物件・第115回の登場物件をそれぞれ再取材。 |- !143 |2009年6月7日||後年、アフターアフタースペシャル8にて再取材。 |- !144 |2009年6月21日||物件144 扉に悩まされる家 |- !145 |2009年6月28日|| |- !146 |2009年7月5日|| |- !147 |2009年7月19日|| |- !148 |2009年7月26日|| |- !149 |2009年8月2日||後年、第150回にて再取材。 |- !150 |2009年8月9日||第149回の登場物件の再取材。 |- !151 |2009年8月16日|| |- !AA二 |2009年8月23日||第18回の登場物件・第50回の登場物件・第106回の登場物件をそれぞれ再取材。 |- !152 |2009年9月6日|| |- !153 |2009年9月13日|| |- !154 |2009年10月11日||2時間スペシャル |- !155 |2009年11月1日||2時間スペシャル |- !156 |2009年11月8日|| |- !AA三 |2009年11月15日||第17回・第109回・第22回の登場物件をそれぞれ再取材。 |- !157 |2009年11月29日|| |- !158 |2009年12月13日|| |- !159 |2010年1月17日||2時間スペシャル |- !160 |2010年1月24日|| |- !161 |2010年1月31日|| |- !162 |2010年2月7日||2時間スペシャル |- !163 |2010年2月21日|| |- !164 |2010年2月28日<ref>同日の放送ではチリ地震の発生に伴い津波情報のプリンクスーパーが画面右下に常時表示された。</ref>||スペシャルゲスト:[[渡辺篤史]]<br />2時間スペシャル |- !165・166・167(前編) |2010年3月7日||3本連続放送<br />依頼人ゲスト:[[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]・[[狩野英孝]]・[[小島よしお]]<br />有名人の実家 リフォーム相談スペシャル |- !168 |2010年3月14日|| |- !169 |2010年4月18日|| |- !167(後編) |2010年4月25日||依頼人ゲスト:小島よしお |- !170 |2010年5月9日||2時間スペシャル |- !171 |2010年5月16日||後年、アフターアフタースペシャル6(アフターアフター探訪・真夏の京都探訪スペシャル)にて再取材。<br />物件171 縁側が脱衣所の家 |- !172 |2010年5月23日|| |- !173 |2010年6月27日||2時間スペシャル<br />物件173 外国人をもてなせない家 |- !174 |2010年7月4日||地上アナログテレビ放送では、この回の本放送まで[[NTSC|画角4:3]]にサイドカットして放送。<br />物件174 90歳の母を玄関で介護する家 |- !175 |2010年7月18日||地上アナログテレビ放送では、この回から画角16:9レターボックスサイズでの放送となる。<br />物件175 タイムスリップする家 |- !176 |2010年7月25日||後年、アフターアフタースペシャル6(アフターアフター探訪・真夏の京都探訪スペシャル)にて再取材。<br />物件176 裸で庭を駆け抜ける家 |- !177 |2010年8月1日<ref>19:00 - 19:20ごろ</ref>||未完結リフォーム<br />依頼人ゲスト:[[高橋ジョージ]]・[[三船美佳]]夫妻<br />物件177 祖母の帰宅を阻む家 |- !178 |2010年8月1日<ref>19:20ごろ - 20:54</ref>||1時間40分スペシャル<br />物件178 台所が勝手口の外にある家 |- !179 |2010年8月15日||物件179 自転車に閉じ込められた家 |- !180 |2010年8月22日||物件180 玄関がお風呂の家 |- !181 |2010年8月29日||物件181 代替りできない家 |- !182 |2010年9月5日||物件182 階段でご飯を食べる家 |- !183・184(その1) |2010年9月12日||依頼人ゲスト:[[Wエンジン]](お笑いコンビ)<br />物件183 洗濯物が干せない家/物件184 バケツのお風呂に入る家 |- !185 |2010年9月19日||物件185 八方ふさがりの家 |- !186 |2010年10月3日||この回をもって長年続いたレギュラーパネラー制度を廃止。物件186 孫が泊まれない家 |- !187(前編) |2010年10月24日||この回以降、スタジオパート出演者は司会の二人(所ジョージおよび江口ともみ)と週替わりのゲスト2組の体制となる。<br />物件187 つっかい棒で戸締りする家 |- !187(後編) |2010年10月31日||物件187 つっかい棒で戸締りする家 |- !188・189 |2010年11月7日||2本連続放送<br />依頼人ゲスト:[[ハライチ|澤部佑]](ハライチ)ほか<br />物件188 つかみどころのない家/物件189 憧れが落胆に変わった家 |- !190 |2010年11月14日||物件190 おひさまが遠い家 |- !AA四 |2010年11月21日||第36回の登場物件・第60回の登場物件・第133回の登場物件をそれぞれ再取材。<br />ビフォーアフターのその後を訪ねる アフターアフタースペシャル |- !191 |2010年12月5日||物件191 潮漬けされた家 |- !192 |2011年1月16日||新春2時間スペシャル<br />[[神奈川県]][[箱根町]]の[[芸妓]]置屋の組合事務所(見番)を取材。<br />物件192 抜け落ちそうな見番 |- !184(その2) |2011年1月23日||依頼人ゲスト:[[えとう窓口]]([[Wエンジン]])<br />物件184 バケツのお風呂に入る家 |- !184(その3) |2011年1月30日||依頼人ゲスト:[[えとう窓口]]([[Wエンジン]])<br />物件184 バケツのお風呂に入る家 |- !193 |2011年2月13日||2時間スペシャル<br />物件193 4軒立て並びの家 |- !194 |2011年2月20日||物件194 肉球に優しくない庭 |- !195 |2011年2月27日||第26回の登場物件の再取材。<br />物件195 隣の部屋に行けない家 |- !196 |2011年3月6日|| |- !197 |2011年3月20日||制作局での本放送9日前に発生した[[東日本大震災]]の影響で、[[岩手朝日テレビ]]・[[東日本放送]]・[[福島放送]]の3局では、それぞれ自社制作のライフライン情報に差し替えたため、後日、振替放送が行われた。<br />2時間スペシャル<br />後年、アフターアフタースペシャル7にて再取材。<br />物件197 6畳に孫7人が寝る家 |- !184(その4・完結編) |2011年4月3日||2時間スペシャル<br />依頼人ゲスト:[[えとう窓口]]([[Wエンジン]])<br />バケツのお風呂に入る家 Wエンジン親孝行リフォーム最終章 予算80万円 最後は屋根と外壁を |- !198(前編) |2011年4月24日||物件198 台所が4つ並ぶ家 |- !198(後編) |2011年5月15日||物件198 台所が4つ並ぶ家 |- !199 |2011年5月22日<ref>当初事前発表では同年3月13日に(第197回として)放送される予定だったが、東日本大震災関連の[[オールニッポン・ニュースネットワーク#特別番組|ANN報道特別番組]]を編成した影響で休止となり、その後、幾度かの順延を経て、この日に改めて放送された。</ref>||物件199 トイレで裸になる家 |- !200(前編) |2011年5月29日||依頼人ゲスト:[[ユージ]]<br />ユージのガーデニングリフォーム(前編)<br />物件200 ギックリ腰になる庭 |- !200(後編) |2011年6月5日||依頼人ゲスト:[[ユージ]]<br />ユージのガーデニングリフォーム(後編)<br />物件200 ギックリ腰になる庭 |- !201 |2011年6月12日||2時間スペシャル<br />物件201 台所がお風呂の家 |- !AA五 |2011年6月26日||第15回の登場物件・第24回の登場物件・第25回の登場物件をそれぞれ再取材。<br />定員オーバーの家 |- !202 |2011年7月3日||物件202 雨に濡れながら冷蔵庫を開ける家 |- !203 |2011年7月10日||2時間スペシャル<br />この回の本放送が東日本大震災の影響で終了が延期となった被災地の3県([[岩手県]]・[[宮城県]]・[[福島県]])を除き、地上アナログテレビ放送としての最後の回となった。<br />物件203 家を支える擁壁に13mの亀裂が 無理な増築を繰り返し倒壊寸前 |- !204 |2011年8月7日||物件204 子供が泣き止まない家 |- !205 |2011年8月14日||2時間スペシャル<br />この回の登場物件は[[仙台市]][[宮城野区]]にあり、リフォーム中に東日本大震災があり、リフォームが一時中断したものの、その後、完成にこぎつけた。<br />物件205 風呂場が冷蔵庫の家 |- !AA六 |2011年8月21日||渡辺篤史のアフターアフター探訪・真夏の京都探訪スペシャル<br />スペシャルゲスト:[[渡辺篤史]]<br />第142回の登場物件・第171回の登場物件・第176回の登場物件をそれぞれ再取材。 |- !206 |2011年8月28日||物件206 裏庭が台所の家 |- !207(前編) |2011年9月4日||[[神奈川県]][[箱根町]]の『箱根マイセン美術館』を取材。<br />敷地千坪の庭 |- !207(後編) |2011年9月11日||神奈川県箱根町の『箱根マイセン美術館』を取材。<br />敷地千坪の庭 |- !208 |2011年9月18日||物件208 7坪にタンス22棹の家 |- !209 |2011年9月25日||2時間スペシャル<br />物件209 廊下で必ず転ぶ家 |- !210 |2011年10月23日||物件210 命がけで庭いじりする家 |- !211(前編) |2011年10月30日||後年、アフターアフタースペシャル8にて再取材。<br />物件211 冬が怖い家 |- !211(後編) |2011年11月6日||後年、アフターアフタースペシャル8にて再取材。<br />物件211 冬が怖い家 |- !212 |2011年11月13日||物件212 階段を後ろ向きで下りる家 |- !213 |2011年11月20日||物件213 冷蔵庫の扉を閉めて入る家 |- !大賞2011 |2011年12月4日||2011年の総集編<br />2011匠が選ぶビフォーアフター大賞 |- !214 |2011年12月25日||年末2時間スペシャル<br />[[岩手県]][[滝沢市|滝沢村(現・滝沢市)]]にある保育園の庭をリフォーム。<br />後年、アフターアフタースペシャル7にて再取材。<br />物件214 泥まみれの庭 |- !215 |2012年1月22日||この回の登場物件は[[仙台市]][[泉区 (仙台市)|泉区]]にあり、リフォーム中に東日本大震災があり、リフォームが一時中断したものの、その後、完成にこぎつけた。<br />物件215 想定外の家 |- !216 |2012年1月29日||物件216 兄が帰れない家 |- !211(事後報告)・217 |2012年2月5日||2時間スペシャル<br />後年、アフターアフタースペシャル8にて再取材。<br />物件217 押入れの奥に両親が寝る家 |- !218 |2012年2月19日||物件218 お風呂からトイレに入る家 |- !219 |2012年2月26日||物件219 裸でトイレの扉に挟まれる家 |- !220(前編) |2012年3月4日||依頼人ゲスト:[[木本武宏]]([[TKO (お笑いコンビ)|TKO]])<br />この回の本放送が東日本大震災の影響で終了時期が延期となっていた被災地3県([[岩手県]]・[[宮城県]]・[[福島県]])における地上アナログテレビ放送としての最後の回となった。<br />物件220 お風呂が廊下の家 |- !221 |2012年4月1日||2時間スペシャル<br />物件221 かつて牛舎だった家 |- !222 |2012年5月13日||2時間スペシャル<br />物件222 ベランダがお風呂の家 |- !223 |2012年5月20日||物件222 窓の向こうに叔父さんがいる家 |- !224 |2012年5月27日||物件224 心まで暗くなる家 |- !225(前編) |2012年6月10日||物件225 気の抜けない家 |- !225(後編) |2012年6月17日||物件225 気の抜けない家 |- !220(後編) |2012年6月24日||2時間スペシャル<br />依頼人ゲスト:[[木本武宏]]([[TKO (お笑いコンビ)|TKO]])<br />TKO木本 92歳の祖母孝行 第2章 消えた思い出の庭をベランダに再生 |- !226 |2012年7月8日||天井から雨が降る家 |- !AA七 |2012年7月15日||第197回の登場物件・第214回の登場物件をそれぞれ再取材。<br />ビフォーアフターのその後を訪ねるアフターアフタースペシャル |- !227 |2012年7月22日<ref>18:56 - 21:24</ref>||[[八丈島]]2時間半スペシャル<br />物件227 窓を開けてはならない家 |- !228 |2012年8月12日||物件228 花も涙もかれた庭 |- !229 |2012年8月19日||物件229 お湯がもったいない家 |- !230(前編) |2012年9月2日||物件230 思い出を置いてきた家 |- !230(後編) |2012年9月9日||物件230 思い出を置いてきた家 |- !231 |2012年9月16日||物件231 女子マネ泣かせの部室 |- !232 |2012年9月30日||2時間スペシャル<br />物件232 頭の痛い家 |- !233・234 |2012年10月21日||2本連続放送<br />[[京都市|京都]]3時間スペシャル<br />物件233 とんでもなく傾いた長屋 |- !235 |2012年11月4日||2時間スペシャル<br />物件235 屋根が腐った家 |- !236 |2012年11月25日||物件236 光を閉ざした家 |- !237 |2012年12月2日||物件237 老後の楽しみが奪われる家 |- !大賞2012 |2013年1月6日<ref>当初は2012年12月16日に放送される予定だったが同日に行われた[[第46回衆議院議員総選挙|衆院選]]の[[選挙ステーション|開票特番]]が組まれた関係で年が明けた後のこの日に改めて放送された。</ref>||2012年の総集編<br />2時間スペシャル<br />2012匠が選ぶビフォーアフター大賞 |- !238 |2013年1月20日||2時間スペシャル<br />物件238 お風呂が後回しになった家 |- !239 |2013年1月27日||2時間スペシャル<br />物件239 行く手が険しい家 |- !240 |2013年2月10日||2時間スペシャル<br />物件240 命がけで風呂を沸かす家 |- !241 |2013年3月10日||2時間スペシャル<br />物件241 居間より廊下が広い家 |- !242 |2013年3月24日||2時間スペシャル<br />物件242 孫がおびえる家 |- !243 |2013年4月28日||2時間スペシャル<br />物件243 雨水に浮かぶ家 |- !244 |2013年5月12日||物件244 目をそむけてきた庭 |- !245(前編) |2013年5月25日<ref>土曜16:28 - 17:25(後述参照)</ref>|| |- !245(後編) |2013年5月26日|| |- !246 |2013年6月2日||2時間スペシャル<br />物件246 闘魂燃え尽きそうな寮 |- !247(序章編) |2013年6月9日||{{FRA}}[[パリ]]を取材。<br />物件247 台所でシャワーを浴びる家 |- !248 |2013年6月23日||2時間スペシャル<br />物件248 布団を投げ合う家 |- !249 |2013年7月7日||2時間スペシャル<br />物件249 隣家で食事する家 |- !250 |2013年7月28日||2時間スペシャル<br />物件250 宴会場で寝る家 |- !251 |2013年8月4日||2時間スペシャル<br />物件251 空回りする家 |- !252 |2013年8月18日||2時間スペシャル<br />物件252 外出すると寝込む家 |- !253 |2013年9月15日||2時間スペシャル<br />物件253 屋根裏が一番落ち着く家 |- !254 |2013年10月6日||2時間スペシャル<br />物件254 孫が玄関で寝る家 |- !255 |2013年11月17日||2時間スペシャル<br />物件255 光が届かない学食 |- !大賞2013 |2013年12月15日||2013年の総集編<br />2時間スペシャル<br />匠が選ぶ2013ビフォーアフター大賞 |- !247(前編) |2014年1月19日||2時間スペシャル<br />{{FRA}}[[パリ]]を取材。<br />物件247 台所でシャワーを浴びる家 |- !247(後編) |2014年1月26日||2時間スペシャル<br />{{FRA}}[[パリ]]を取材。 |- !特九 |2014年2月9日||ビフォーアフター特別編 世界のリフォーム 匠視察団<br />[[File:flag of Sweden.svg|30px]][[スウェーデン]]および[[File:flag of Portugal.svg|30px]][[ポルトガル]]を取材。 |- !256 |2014年3月9日||2時間スペシャル |- !257 |2014年3月23日||2時間スペシャル |- !258 |2014年4月20日||2時間スペシャル<br />物件258 玄関まで40メートルもある家 |- !259 |2014年5月4日||2時間スペシャル<br />物件259 孫娘が泊まりたくない家 |- !260 |2014年5月11日||2時間スペシャル<br />物件260 体当りして勝手口を開ける家 |- !261(前編) |2014年6月8日||物件261 階段が邪魔な家 |- !261(後編) |2014年6月15日||物件261 階段が邪魔な家 |- !262 |2014年6月22日||2時間スペシャル<br />物件262 日に日に傾く家 |- !263 |2014年7月13日||2時間スペシャル<br />103歳の母と同居できない家<br />物件263 母親と同居できない家 |- !264 |2014年7月27日||2時間スペシャル<br />物件264 孫がハイハイできない家 |- !265 |2014年8月10日||2時間スペシャル<br />物件265 白鳥が見えない家 |- !266 |2014年9月14日||2時間スペシャル<br />倒壊寸前!風呂無し昭和アパートを大変身<br />物件266 誰にも貸せないアパート |- !267 |2014年9月28日||2時間スペシャル<br />番組初依頼!自宅を保育ハウスに!築80年平屋……<br />物件267 安心して子供を預かれない家 |- !268 |2014年10月12日||2時間スペシャル<br />密林150坪“庭がジャングル"廃材使って大変吹c…<br />物件268 夢が打ち砕かれた庭 |- !269 |2014年11月2日||2時間スペシャル<br />天草諸島を望む海辺の廃業旅館を大変身 |- !270(前編) |2014年11月30日||![[立川談志]]が愛した旧邸を大変身 |- !271(前編) |2014年12月7日||崩れた石垣に押し出される寸前 水も出ない山奥の家を100万円で |- !271(後編) |2014年12月21日||2時間スペシャル |- !270(後編) |2015年1月11日||2時間スペシャル<br />立川談志が愛した旧邸-完結編- |- !272 |2015年2月1日||2時間スペシャル<br />依頼人ゲスト:[[古坂大魔王]]<br />芸能人親孝行リフォーム |- !273 |2015年2月15日||2時間スペシャル<br />極細狭小リフォーム |- !274 |2015年2月22日||2時間スペシャル<br />震災で娘を亡くした匠…命を守る防災リフォーム |- !275 |2015年3月8日<ref name="名前なし-18">18:57 - 19:58ごろ</ref>||{{USA}}[[サンフランシスコ]]を取材。<br />未完結リフォーム<br />豪華!海外リフォーム2軒!匠ア然の物件検証 |- !276(前編) |2015年3月8日<ref name="名前なし-19">19:58ごろ - 20:54</ref>||{{GER}}[[カッセル]]を取材。 |- !277(前編) |2015年3月15日||2時間スペシャル<br />ゲスト依頼人:[[小島よしお]]<br />小島よしお家を買う!緊急芸能人親孝行リフォーム |- !278 |2015年4月12日||2時間スペシャル<br />倒壊寸前!大騒音!腐食アパート大変身 |- !279 |2015年5月3日||2時間スペシャル<br />憧れの鎌倉!築52年12坪!昭和の家が大変身 |- !280 |2015年5月31日||物件280 床下に川が流れる家 |- !281 |2015年6月7日||2時間スペシャル<br />狭小8坪!!命がけで生活する長屋「命がけで背伸びする家」 |- !282 |2015年6月14日||物件282 膝が泣く家 |- !276(後編) |2015年6月28日||2時間スペシャル<br />{{GER}}[[カッセル]]を取材。<br />番組初!海外リフォームSPドイツ完結編 「物件276 ご近所から注意される庭」 |- !283 |2015年7月26日||2時間スペシャル<br />“台所がお風呂の家"深夜シャワー水浸し |- !284 |2015年8月2日||2時間スペシャル<br />築135年の古民家を最新バリアフリー住宅に大変身 |- !277(後編) |2015年8月16日||依頼人ゲスト:[[小島よしお]]<br />芸能人親孝行リフォーム |- !285 |2015年9月13日||2時間スペシャル |- !286(前編) |style="white-space:nowrap"|2015年9月20日<ref name="名前なし-18"/><ref>当初は同年9月6日の通常枠(19:58 - 20:54)にて放送する予定だったが『U-18野球ワールドカップ 決勝』が急遽編成されたためこの日の19時台に改めて放送された。</ref>|| |- !287・288 |2015年9月20日<ref name="名前なし-19"/>||2本連続放送<br />2本ともに未完結リフォーム<br />番組初!匠も驚くリフォーム依頼が3物件 |- !289 |2015年10月11日<ref>当初は同年9月13日に放送される予定だったが諸事情によりこの日に改めて放送された。</ref>||2時間スペシャル<br />床下に欠陥!雨で玄関に靴が浮かぶ家! |- !290 |2015年11月15日||2時間スペシャル<br />狭過ぎ9坪!高校娘が嘆く!物干しでシャワーの家 |- !291 |2015年11月22日||2時間スペシャル<br />強豪!高校女子バスケ部員が監督宅で窮屈下宿 |- !292 |2016年1月10日||新春2時間スペシャル<br />エンディングで番組からの重大発表があった。<br />築56年元アパートを温泉旅館風の家に |- !286(後編) |2016年1月24日||2時間スペシャル<br />番組初“動物園リフォーム"遂に完成スペシャル |- !293(前編) |2016年1月31日||低予算!400万で廃屋を新装!!匠のDIYリ…… |- !293(後編) |2016年2月7日||2時間スペシャル<br />低予算!400万円で廃屋リフォーム完結編 |- !294 |2016年3月6日||2時間スペシャル<br />日本最南端の有人島!匠上陸も工務店も資材もない |- !295 |2016年3月20日||雪かきしながらトイレに行く家!2時間スペシャル |- !296 |2016年4月17日||米国人夫が日本建築職人見習い!2時間スペシャル |- !AA八 |2016年5月1日||2時間スペシャル<br />第138回の登場物件・第142回の登場物件・第143回の登場物件・第211回の登場物件をそれぞれ再取材。<br />匠ごめんなさい!格安!感動4軒リフォーム |- !297 |2016年5月15日||2時間スペシャル<br />[[鹿児島県]][[姶良市]]の保育園の園庭をリフォーム。<br />保育園の何もない庭をアスレチックランドに! |- !298 |2016年5月29日||2時間スペシャル |- !299 |2016年6月12日||ゲスト依頼人:[[田中要次]]<br />俳優田中要次の実家!崩壊寸前の倉を400万で…… |- !300(前編) |2016年6月19日||依頼人ゲスト:[[えとう窓口]]([[Wエンジン]]) |- !300(中編)・301 |2016年6月26日||2本連続放送<br />2時間スペシャル<br />300軒スペシャル…大ピンチ編 |- !302 |2016年8月7日||都心のマンションを200万円で京町家にリフォーム |- !303 |2016年8月21日||密集地に埋もれる家 |- !304・300(後編) |2016年9月11日||2本連続放送<br />2時間スペシャル<br />150万で一戸建てをDIY完成編 |- !305 |2016年11月6日||隣家のお風呂に入る家 |- !306 |2016年11月20日|| |- !307 |2016年11月27日||第二期レギュラー放送最終回 |- !308 |2017年4月2日<ref name="名前なし-20">18:57 - 20:54</ref>||第二期単発特番時代第一弾<br />ゲスト依頼人:[[さだまさし]]<br />さだまさし所有の無人島“詩島"リフォーム2時間スペシャル |- !309 |2017年10月1日<ref name="名前なし-20"/>||第二期単発特番時代第二弾<br />ビフォーアフター工務店2時間スペシャル |- !310 |2018年4月15日<ref name="名前なし-20"/>||第二期単発特番時代第三弾<br />1男7女の10人大家族リフォーム2時間スペシャル |- !311 |2018年9月23日<ref name="名前なし-20"/>||第二期単発特番時代第四弾<br />番組初となる団地リフォーム2時間スペシャル |- !312 |2019年4月28日<ref name="名前なし-9"/>||第二期単発特番時代第五弾<br />ほぼ外で寝る家をリフォーム2時間スペシャル |- !313 |2020年3月29日<ref>18:57 - 20:56、18:30 - 18:57にはリフォームに至るまでの事柄を描いたポツンと一軒家の再編集版を放送。</ref>||第二期単発特番時代第六弾<br />ポツンと一軒家を匠がリフォームSP「物置になった家」 |- !特十 |2020年7月12日<ref>18:57 - 20:56 </ref>||過去に全3回<ref>うち2回は2時間SP</ref>にわたり放送された、{{FRA}}[[パリ]]の物件のリフォームを再編集して放送<ref>スタジオ部は未放送。所、江口も出演しなかった。</ref>。<br />特別編 フランス・パリで初の海外リフォーム 物件247 台所でシャワーを浴びる家 |- !314 |2020年11月15日<ref>18:30 - 20:56</ref>||第二期単発特番時代第七弾<br />築80年…祖父母から受け継ぐ「脱衣所がない家」 |- !315 |2022年2月20日||第二期単発特番時代第八弾<br />築60年…「20年空き家だった家」 |- !316 |2023年3月19日||第二期単発特番時代第九弾<br />築57年…「2階が傾いた家」 |} リフォームの対象は個人が所有する家屋([[住宅]]等)が大半だが、家屋でない[[庭園|庭]]や法人等が所有する物件を取り上げる回もある。 上記に掲載あり。なお、法人等が所有する物件を取り上げた事例は、下表の8件がある(物件=物件番号)。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- !放送日 !物件 !サブタイトル !物件概要 !物件所在地 !依頼者 |- !2011年1月16日 |192||抜け落ちそうな見番||[[箱根温泉|箱根湯本温泉]]の[[芸妓]]置屋の組合事務所(見番)||[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]||[http://www.geisha.co.jp/ 箱根湯本芸能組合] |- !2011年9月4日(前編)・11日(後編) |207||敷地1000坪の庭||美術館の庭||神奈川県足柄下郡箱根町||[http://www.hakone-meissen.com/ 箱根マイセン美術館] |- !2011年12月25日 |214||泥まみれの庭||[[保育所|保育園]]の園庭||[[岩手県]][[滝沢市|岩手郡滝沢村]]||保育園([[社会福祉法人]]) |- !2012年9月16日 |231||女子マネ泣かせの部室||[[高等専門学校|高専]]の部活動の部室||[[長崎県]][[佐世保市]]||[[佐世保工業高等専門学校]][[ラグビーフットボール|ラグビー]]部 |- !2013年5月12日 |244||目をそむけてきた庭||[[介護老人福祉施設|特別養護老人ホーム]]の中庭||[[栃木県]][[足利市]]||特別養護老人ホーム(社会福祉法人) |- !2013年6月2日 |246||闘魂燃え尽きそうな寮||[[新日本プロレス]]の選手寮||[[東京都]][[世田谷区]]||新日本プロレス([[獣神サンダー・ライガー]]) |- !2013年11月17日 |255||光が届かない学食||学校の[[学生食堂|学食]]||[[大阪府]][[大阪市]][[城東区]]||[[大阪信愛女学院]] |- !2016年1月24日 |286||首を長くして花嫁を待つキリン小屋||[[動物園]]の飼育施設||[[長崎県]][[西海市]][[西彼町]]||[[長崎バイオパーク]] |} [[2019年]]4月末までで、157人の匠によって312軒の家がリフォームされ、[[2016年]][[6月19日]]放送分で300軒目に到達した。なお、2,000万円台程度の予算であれば、住宅購入やリフォームの枠を超えた改築もできるが、3,000万円以上のリフォーム予算が付いた物件も過去に9件(2022年7月時点。下記の表を参照)ある。また、諸事情により'''“未完結”状態'''となっている物件が4件(こちらも2022年7月時点)ある<ref group="注">事前の下見しか行われておらず、その後何の音沙汰が無い物件がある。</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- !放送日||物件||サブタイトル||場所||依頼者||予算<br />実行工事費等||補足 |- !2014年11月30日(前編)<br/>2015年1月11日(後編) |270||床下から[[潜望鏡]]が覗く家||東京都[[練馬区]]||[[松岡ゆみこ]]([[落語家]][[立川談志]]の長女)||4,000万円<br />4,198万円 ||'''番組最高のリフォーム予算かつ施工額''' |- !2013年6月2日 |246||闘魂燃え尽きそうな寮||東京都世田谷区||新日本プロレス<br />(獣神サンダー・ライガー)||4,000万円<br />3,997万円|| |- !2011年1月16日 |192||抜け落ちそうな見番||神奈川県足柄下郡箱根町||箱根湯本芸能組合||4,000万円<br />3,995万6,000円|| |- !2012年5月13日 |222||ベランダがお風呂の家||[[岐阜県]][[下呂市]]||(個人)||3,700万円<br />3,674万1,000円||一般個人宅の番組最高額 |- !2014年7月13日 |263||母親と同居できない家||[[山梨県]][[甲府市]]||(個人)||3,300万円<br />3,298万5,000円|| |- !2014年9月14日 |266||誰にも貸せない[[アパート]]||東京都[[葛飾区]]||(個人)||3,000万円<br/ >2,999万8,700円|| |- !2013年11月17日 |255||光が届かない学食||大阪府大阪市城東区||大阪信愛女学院||3,000万円<br />2,998万円|| |- !2014年6月22日 |262||日に日に傾く家||東京都[[武蔵野市]]||(個人)||3,000万円<br />2,998万円|| |- !2014年4月20日 |258||[[玄関]]まで40メートルもある家||[[和歌山県]][[橋本市]](旧[[高野口町]])||(個人)||3,000万円<br />2,990万3,000円|| |- |} 一方、番組内のリフォームで史上最低額を記録したのは、[[2015年]][[9月13日]]放送の回で58万4,000円で実現した。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- |- !style="width:10.3em;"|放送日 !style="width:2.2em;"|物件 !style="width:11.5em;"|サブタイトル     !style="width:13em;"|場所 !style="width:16em;"|依頼者 !style="width:6.2em;"|予算<br />実行工事費等  !rowspan="1"|補足 |- !2015年9月13日 |285||孫が遊びに行けない家||[[福岡県]][[福岡市]]||[[大溝清人]]([[バッドボーイズ (お笑いコンビ)|バッドボーイズ]])<ref>本来の芸名は「清人」だが、当番組には、本名名義でリフォームを依頼し、VTR出演をした。</ref>||50万円<br />58万4,000円||'''番組最低のリフォーム予算かつ施工額'''<ref>これより低い予算では[[Wエンジン]]の二人が、各々の実家で「30万円」のリフォーム予算を提示したが、チャンカワイの実家はベランダ部分のみ、えとう窓口の実家は風呂場のみの予算だった。現在、庭を含めた家全体では、清人の50万円が最低リフォーム予算である。</ref> |- |} == 番組略史 == === SEASON I(2002年4月 - 2006年3月) === [[ワイドショー]]で好評だったリフォームコーナーを元に企画され、[[2002年]][[4月28日]]から放送開始。放送時間は19:56 - 20:54。放送開始初期は家のリフォームのみならず、[[服飾]]のリフォーム(リメイク)を扱ったこともあった。 2002年[[10月20日]]から、直前の19時台番組『[[決定!これが日本のベスト100全国一斉○○テスト|決定!これが日本のベスト100]]』(テレビ朝日制作)の2分拡大に伴い、放送枠は19:58 - 20:54に縮小された。 [[2005年]][[3月6日]]には、リフォームされた家が100軒に達したことを記念して2時間の特別番組を放送した。 放送開始から約4年を経た[[2006年]][[3月19日]]の放送をもってSEASON Iは終了となった。終了の要因として、同時期に発覚した「[[アスベスト問題]]や2005年に発覚し世間を震撼させた一級建築士らによる[[構造計算書偽造問題|耐震強度偽装事件]]の影響などで解体及びリフォームに際しての事前調査等の作業時間が長期化し、週1回の番組として成り立たなくなった」こと<ref>[「ビフォーアフター」アスベストで終止符] - 日刊スポーツ2006年1月28日付</ref>があると報じられている。 === 特別番組時代(2006年10月 - 2009年3月) === 2006年10月からは[[特別番組]]形態に移行し、不定期に放送された。詳細は[[#特別番組|後述]]。 === SEASON II(2009年4月 - 2016年11月) === [[2009年]]1月、朝日放送の『ビフォーアフター』ホームページ及び各報道<ref name="season2">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20090115-450189.html テレ朝「劇的ビフォーアフター」が復活!] - 日刊スポーツ2009年1月15日。放送時間は日曜夜7時58分からと報道している。</ref>にて、同年春からレギュラー放送を約3年ぶりに“SEASON II”と称して復活すると発表された。放送開始(再開)日は[[4月26日]]で、放送日時も第1次と同じく日曜の夜(19時58分から)となっている。 SEASON I、およびSEASON IIの途中までは基本的に毎週の放送で物件一つずつを扱っていたが、2012年秋以降はほとんどすべての放送が2時間となった。19時台の番組<ref group="注">『[[シルシルミシルさんデー]]』( - 2014年9月)→『[[オドロキ見たいテレビ びっくりぃむ]]』(2014年10月 - 2015年3月)→『[[日本人の3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館]]』(2015年4月 - 2016年9月末)『日曜もアメトーーク』(2016年10月 - )</ref>と交互に2時間特番が編成され、またスポーツ特番などにより放送休止も多く、月に1回しか放送されないことも多々ある。1時間の回は年に数回程度しかなく、2012年12月2日から2015年5月31日までの実に約2年半の間、「1時間で家1軒リフォーム」する回(以下「通常回」と称す)は一度も放送されなかった。2015年6月14日放送回も「通常回」となったが、その後は再び隔週2時間体制に戻っている。<!--下記の項を参照。--> 2010年9月末に所・江口以外のレギュラー出演者が降板し、2010年10月以降は週替わりのゲスト2人(男女各1人ずつ、場合によっては3人の回もある)になっている。 地上アナログ放送では長らく4:3(ハイビジョン化後はサイドカット)映像だったが、2010年7月18日放送分より16:9レターボックス映像に移行した。しかし現在でも固定カメラ映像は4:3が使われている。 [[東日本大震災]]の復興支援や[[2020年東京オリンピック・パラリンピック]]による建設需要増大と、それに伴う工期の遅れを理由として、2016年11月27日放送分をもってSEASON IIは最終回となった。 終了後、この枠では同一スタッフによる姉妹番組『[[ポツンと一軒家]]』が放送中。 === 第二期特別番組時代(2017年4月 - )=== SEASON II終了発表の際、「今後は特別番組として不定期に放送する」と告知されており、以降は[[改編期]]を中心に年1 - 2回、特別番組として不定期に放送されている。 その後も加藤は引き続きナレーションを務めていたが、2020年3月29日放送分<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210808221552/https://kakaku.com/tv/channel=10/programID=8956/episodeID=1351315/|title=「大改造!!劇的ビフォーアフター」 2020年3月29日(日)放送内容|publisher=価格.com|accessdate=2020-11-07}}</ref>をもって卒業。同年11月15日放送分から、[[キムラ緑子]]が2代目としてナレーションを務める<ref name="sponichi20201107">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/11/07/kiji/20201107s00041000153000c.html|title=加藤みどり「劇的ビフォーアフター」語り卒業!名台詞「なんということでしょう」生む 後任はキムラ緑子|publisher=スポニチアネックス|date=2020-11-07|accessdate=2020-11-07}}</ref>。 2021年は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響によりロケが困難となったため、1回も放送されなかった。 == 出演者 == 司会の所とアテンダントの江口に加え、レギュラーパネリストとゲスト(2010年以降はゲスト2組)が出演するというスタイルで放送される。出演者紹介の際には「Before」と称して出演者の昔の写真と現在の年齢が表示される(年齢が表示されないこともある)。 === 司会 === * [[所ジョージ]] === アテンダント(進行) === * [[江口ともみ]]<ref group="注">2011年3月20日・5月22日放送分では[[八塚彩美]](当時[[朝日放送テレビのアナウンサー一覧|朝日放送アナウンサー]])が江口の代わりにアテンダントを担当。</ref> === ナレーション === * [[加藤みどり]](2002年4月28日 - 2020年3月29日) * [[キムラ緑子]](2020年11月15日 - )<ref name="sponichi20201107" /> === 過去のレギュラーパネリスト === ; SEASON I * [[戸田恵子]] * [[木村了]] * [[藤田弓子]](途中まで) * [[宮崎美子]](同上) * [[はしのえみ]](同上) * [[ユンソナ]](同上) * [[浜口順子]](同上) * [[北村悠]]([[FLAME]]・同上) * [[金子恭平]](当時FLAME・同上) * [[乙葉]]([[2005年]][[12月]]まで) ; SEASON II * [[堀ちえみ]](2010年9月まで) * [[細田善彦|細田よしひこ]](同上) <!-- 上記に掲載しているため == 有名人の実家リフォーム相談スペシャル == 前述のとおり、芸能人がゲストではなく依頼人としてVTR出演するケースがある。いずれも本人(あるいは夫人)の実家のリフォームで、一般視聴者として応募した[[内藤大助]]と、[[松岡ゆみこ]]の回以外は、SeasonIIで「有名人の実家リフォーム相談スペシャル」として放送されたもので、リフォームが実現しなかった、あるいは簡易なリフォームで終了したケースもある。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- !style="width:6.5em;"|氏名 !style="width:7.5em;"|放送日 !style="width:2.3em;"|物件  !style="width:12.5em;"|サブタイトル     !rowspan="1"|リフォーム内容 |- |[[内藤大助]]||2009年10月11日||154||カニ歩きで入る家||夫人の実家(惣菜店)を訪ねる際、家族全員身体を横向きにして歩いて、住居部分の入口に行かなければならなかった建物の脇の極めて細い通路を、1階店舗部分を一部縮小して、専用通路を確保。2階は住居用のダイニングを設け、居間には畳で被せられる大容量の床下収納が造られた。 |- |[[はなわ]]・[[ナイツ (お笑い)|塙宣之(ナイツ)]]兄弟||rowspan="2"|2010年3月7日||165||はりぼての家||外構だけリフォーム済みで内装が全く手つかずの実家のリフォームの相談。リフォームに到らず。 |- |[[狩野英孝]]||166||すべってケガする家||実家である[[櫻田山神社]]の押入れ上にある屋根裏部屋へ通じる穴の存在。新たに階段を設置して1日で終了。 |- |[[小島よしお]]||2010年3月7日<br/>2010年4月25日||167||人前で服を脱ぐ店||実家のある[[久米島]]で、築44年のホテルの1階にある、小島の母が経営する元スナックで始めたカフェ&ブティックの使い勝手の悪さを改善。小島の実家にあった[[イヌマキ|チャーギ]]や、近所で使われなくなった赤瓦を譲り受け、[[琉球建築|雨端]](あまはじ)風の座席と、「ゆんたく」(井戸端会議場)を店内に設けた。 |- |[[高橋ジョージ]]・<br />[[三船美佳]]夫妻||2010年8月1日||177||祖母の帰宅を阻む家||検証だけが行われ、実際のリフォームは放送されなかった。番組ホームページでも、この回の放送内容へのリンクが消えている(ページ自体は存在する)。 |- |[[Wエンジン|チャンカワイ]]<br />(Wエンジン)||rowspan="2"|2010年9月12日||183||洗濯物が干せない家||重度の[[花粉症]]を持つ母のために、実家の2階にあるベランダの1階部分の空洞を花粉を遮断するサンルームに改造。リフォーム予算は30万円。<br />設計変更で不要になり、廃棄寸前だったアルミサッシを再加工して組み立て、さらに生い茂った庭の雑草を相方のえとうと二人で除去し、費用を抑えた。 |- |[[Wエンジン|えとう窓口]]<br />(Wエンジン)||184||バケツのお風呂に入る家||排水が不十分なため浴槽が使えず、ポリバケツで代用していた実家の浴室。排水を改善し、浴室もタイル貼りにリフォーム。<br />カワイと同じくリフォーム予算は30万円だったが、予算オーバーのため5万円プラスされた。 |- |[[ハライチ|澤部祐]]<br />(ハライチ)||rowspan="2"|2010年11月7日||188||つかみどころのない家||実家に住む祖母の動線確保ため、玄関先をはじめ、寝室や浴室、トイレへの廊下に手すりを増設して[[バリアフリー]]化。<br />介護を目的としたリフォームのため、費用の一部は地元の自治体から補助を受けていた。 |- |[[あべこうじ]]||189||憧れが落胆に変わった家||母の友人からもらったカウンターテーブルが仇になった実家の台所をアイランドキッチンに改造。さらに両親の寝室など2階のレイアウトも全面改装。 |- |えとう窓口<br />(Wエンジン)||2011年1月23日<br/>2011年1月30日||184||バケツのお風呂に入る家<br />-第2章-||この回の予算は70万円。換気扇が無いため、煙が充満した狭い実家の台所。間仕切りを撤去してダイニングキッチンに改装。<br />中古の業務用厨房機器を家庭向けに転用改造して費用を抑え、69万2000円で完了した。前後編の2週にわたって放送。 |- |えとう窓口<br />(Wエンジン)||2011年4月3日||184||バケツのお風呂に入る家<br />-最終章-||雨漏りする屋根を葺き替え。道路から玄関までの地面を底上げし、バリアフリー化と雨天時に水が溜まらないようにする。<br />サビだらけのトタン外壁を塗装。予算80万円。えとうの学生時代の友人たちに協力を要請し、作業を効率良く行うことができた。 |- |[[ユージ]]||2011年5月29日<br/>2011年6月5日||200||ギックリ腰になる庭||母が住む実家にある50坪の家庭菜園を兼ねた広い庭をガーデンリフォーム。前後編の2週にわたって放送。予算50万円。<br />元・大工見習いだったユージと、現在も建築・土木業に就く昔の友人たちと共に作業を手伝った。 |- |[[木本武宏]]<br />([[TKO (お笑いコンビ)|TKO]])||2012年3月4日||220||お風呂が廊下の家||実家で暮らす祖母のため、10年前にリフォームできず、非常に使いにくくて寒い風呂場と洗濯場を入れ替える改造を行う。<br/>物干しを行うためのサンルーフへの通路(ウッドデッキ)も確保。 |- |木本武宏<br />(TKO)||2012年6月24日||220||雨漏りする庭||亡き祖父が愛した日本庭園をガーデンリフォーム。予算400万円。匠と師弟関係があるユージが、サプライズで木本の実家を訪ね、工事に参加。断熱材を使った[[灯篭]]や、廃材で組み立てた擬石を作った。相方の[[木下隆行]]や二人の同級生も、木本が本業で途中離れている間に、放置された物置をバーベキュー用の厨房に改造した。 |- |[[松岡ゆみこ]]<br />||2014年11月30日<br/>2015年1月11日||270||床下から潜望鏡が覗く家||亡き父[[立川談志]]が住んでいた家をリフォーム。予算4,000万円。元々住居ではなく、平屋の店舗か倉庫だった建物を、無理矢理二階建ての住居に増改築したことが判明。バラバラだった基礎をやり直す作業などが加わり、予算オーバーで198万円追加した。リフォーム後は弟子の[[立川志らく]]一家が住居兼稽古場として譲り受ける。 |- |[[古坂大魔王]]<br />||2015年2月1日||272||屋根から父親が落ちそうな家||豪雪地帯である[[青森市]]の実家をリフォーム。予算2,800万円。雪だけでなく、地震による[[液状化現象]]が起きやすい砂地のため、隣家の空地を借りて[[曳家]]を行い、基礎部分を剥し、防水防湿加工に加え、地熱によるヒートポンプで融雪出来る工事を施工する。屋根も[[北海道]]で多く見られる[[無落雪建築|無落雪屋根]]を採用。雪下ろしを省けるようにした。 |- |小島よしお<br />||2015年3月15日||277||立ち退きを迫られた店<br />(営業再開を急ぐ店)||前回、小島の母が経営していた飲食店兼ブティックが、建物の老朽化による取り壊しで立ち退きを余儀なくされ、2015年1月7日で閉店。イーフビーチ地区の店舗兼住宅を1500万円で小島が購入(土地のみ借地)。偶然沖縄本島に仕事に来ていたリフォーム当時の匠が、再び依頼を快諾。500万円の低予算で当時の店内の装飾や収納棚、厨房機器などを全て移設して費用を極力抑え、小島本人も改装作業を手伝い、2ヶ月の短期間リフォームを完成させた。 |- |小島よしお<br />||2015年8月16日||277||繁盛しすぎて困る店<br />-シリーズ完結編-||3ヶ月前に新装開店した小島の母が経営する飲食店兼ブティック。ところが、イーフビーチの海水浴客が連日訪れ、二つのテーブルしかない屋外の席の順番待ちを解消すべく、再度匠に依頼。予算250万円。防災用の貯水塔だけだった屋上に、大型のテーブル三つを備えたテラス席と、そこへ通じる螺旋階段を設置した。 |- |大溝清人<br />([[バッドボーイズ (お笑いコンビ)|バッドボーイズ]])<br />||2015年9月13日||285||孫が遊びに行けない家||[[福岡市|福岡]]・[[海の中道]]近くにある、かつて米軍所有だった旧アメリカンハウスを全面改造。現在は清人の父が一人で暮らしている。予算50万円。砂地の上に建つ実家の風呂場兼トイレの床下は、溢れた風呂の湯や洗濯機などの生活排水が浸み込んで、空洞化していたのを基礎からやり直した。[[DIY]]が得意な相方の佐田正樹や、建設関係に従事している二人の暴走族時代の仲間が手伝ったり、資材の低価格化や無償提供<ref>浴室のタイルはビルの外壁タイルなどで、業者が多めに製作して余った製品を格安で譲り受け、庭に通じる[[サッシ|アルミサッシ]]はサッシ店に勤める友人が、設計変更で廃棄予定だった商品を無償で現場へ運び込んだ。</ref>など、人件費・材料費を抑えるも、予算オーバーで8万4,000円追加した。 |- |} === 匠のアシスタントとして同行した有名人 === {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- !style="width:6.5em;"|氏名 !style="width:7.5em;"|放送日 !style="width:2.3em;"|物件  !style="width:12.5em;"|サブタイトル     !rowspan="1"|リフォーム内容 |- |ユージ<br />||2011年9月4日<br/>2011年9月11日||207||敷地千坪の庭||[[箱根町]][[仙石原]]にある箱根マイセン美術館の館長から、同町の強羅に移転にする際、匠とユージと友人たちに、譲り受けた古い邸宅の玄関や、樹木が増え過ぎてしまった庭を整備してほしいと指名される。玄関部分を大きく広げ、庭の部分には温泉を引いて[[足湯]]を設け、車で来る来館者のために駐車場も整備した。 |- |ユージ<br />||2011年12月25日||214||泥まみれの保育園||[[岩手県]]にある保育園から、子供たちに安全な園庭を造ってほしいと依頼。水はけの悪かった固い地盤に導水管を設け、子供たちが転倒してもケガをしないよう洋芝をふんだんに植え、古タイヤを粉砕したゴムチップの丘や、テント素材の幕を使った木製の滑り台を設置。裏庭には交通安全を学ぶことが出来る[[自動車教習所]]風の自転車練習コースを造った。遊び道具の物置や園舎裏側には、ユージが虹や動物のカラースプレーアートを施す。このリフォームにも、ユージの友人たちが協力した。 |- |ユージ<br />木本武宏||2014年10月12日||268||夢が打ち砕かれた庭||[[鹿児島県]]の個人宅から、愛娘たちに安全で広い庭を造ってほしいと依頼。ユージは主にウッドデッキの補修と駐車場の整備を、木本はガーデンキッチンの周りを煉瓦で装飾する作業を手伝う。最後は二人で匠をサポートし、古い物置に土を盛って、展望台に改造する作業を担った。 |- |えとう窓口||2014年12月7日<br/>2014年12月21日||271||薪で支える家||[[高知県]]の個人宅からの依頼。えとうが匠にアシスタントを懇願し実現。廃校となった近所の小学校の家庭科室で使われていた調理実習台をキッチンに改造したり、防湿効果がある竹炭を徹夜で作る作業を手伝う。えとうは現場を訪ねる前、予め[[油圧ショベル]]などを操縦できる資格を取得していた。 |- |ユージ<br />木本武宏||2015年3月8日<br/>2015年6月28日||276||ご近所から注意される庭||[[ドイツ]]・[[ヘッセン州]][[カッセル]]の個人宅から、[[高松市]]出身の妻に[[日本庭園]]を見せてあげたいと依頼。匠とユージ二人で現地に飛び、近年の造園事情の調査と廃材の確保を入念に行い、約240坪のガーデンリフォームを施工する。ユージが日本での仕事で一時帰国中に、木本が単身アポなしで渡独。前回同様、ガーデンキッチンを煉瓦で造る作業や、急斜面を有効に活用した小川の製作を手伝った。 |- |ユージ<br />木本武宏||2015年9月20日<br/>2016年1月24日||286||首を長くして花嫁を待つキリン小屋||[[長崎バイオパーク]]の築34年の[[キリン]]小屋に、[[周南市徳山動物園|徳山動物園]]から雌のキリンが嫁入りするのを機に、老朽化した小屋と広場を整備して欲しいと依頼。番組史上初の[[動物園]]からの依頼である。岩盤層の敷地の環境と、作業の勘をつかむため、ユージは[[シバヤギ]]の広場を、木本は[[クロキツネザル]]の小屋の整備を手伝う。その後、キリン広場の全面改修に二人も協力。しかし、警戒心の強い雄のキリンの行動を重視し、数日間作業を中断したため、完成したのは花嫁が来る前日の夕方だった。 |- |えとう窓口||2016年1月31日<br/>2016年2月7日||293||もったいない家||[[群馬県]]の個人宅から、400万円の低予算で妻の実家にある、築68年の祖父母の家の改装を依頼。主人は[[オーストラリア]]出身の[[英会話学校|英会話講師]]で、来日前に故郷の実家の改装を父と施工した経験を持ち、一緒に作業するのを条件に実施。[[住宅展示場]]の築7年のモデルハウスを解体する際、風呂やトイレ、サッシ、[[断熱材]]などの備品を、匠たちが持ち帰ることを前提に無償で譲渡してもらう。えとうは事前に[[アーク溶接]]などの作業ができる資格を取得。中古[[コンテナ]]を[[アトリエ]]に改造する作業を行った。 |- |ユージ<br />[[JOY (ファッションモデル)|JOY]]||2016年5月15日||297||四角四面の保育園||[[鹿児島県]]の保育園から依頼。建築計画の手違いで、園舎と系列の高校の男子寮に囲まれ、遊具を設置するための重機が入れられず、殺風景な姿だった園庭に、匠の奇抜なアイデアで廃材を有効活用して再生。ユージが仕事で東京に戻っている間、それまで番組に出ていると誤解され続けていたJOYが、ユージを通じて匠に弟子入りを志願。「本気で行う仕事に付いていける覚悟があるなら」と確認した上で参戦。ツリーハウスと園舎を結ぶロープ橋のロープを網状にする作業などを手伝った。 |} === 実家以外の物件のリフォームを依頼した有名人 === {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- !style="width:6.5em;"|氏名 !style="width:7.5em;"|放送日 !style="width:2.3em;"|物件  !style="width:12.5em;"|サブタイトル     !rowspan="1"|リフォーム内容 |- |[[獣神サンダー・ライガー]]||2013年6月2日||246||闘魂燃え尽きそうな寮||[[アントニオ猪木]]が、[[日本プロレス]]時代に建てた自宅を改築した[[新日本プロレス]]選手寮(築50年)と、隣接する道場の一部を改装。ライガー自身も単身赴任で同寮で暮らす。予算4000万円。選手や練習生がタオル一枚で一旦屋外へ出て、離れの風呂場へ移動する光景を解消。若手選手の相部屋も、一人一室の個室に改装された。 |} === 渡辺篤史のアフターアフター探訪 === [[渡辺篤史の建もの探訪|建もの探訪]]でお馴染みの[[渡辺篤史]]がビフォーアフター後の住宅をレポート。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" |- !style="width:8em;"|サブタイトル !rowspan="1"|放送日 |- |夏の京都編||2011年8月21日 |} --> == 不祥事 == === 無資格者による電気工事 === 2016年2月7日に放送された番組内で本来、[[電気工事士]]でなければできないケーブル配線のステップル固定する電気工事を無資格者が行うシーンが放映された。これについて[[経済産業省]]が朝日放送と監督した電気工事士に対して厳重注意を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/policy/safety_security/industrial_safety/oshirase/2016/03/280331-1.html |title=電気工事士法違反の電気工事のテレビ放映について |access-date=2022-10-27 |publisher=経済産業省}}</ref>。 === リフォーム費用を巡る追加公費裁判 === 2014年7月に放送された[[岐阜市]]の住宅リフォームにおいて、同住宅のリフォームを手掛けた愛知県[[東海市]]の企業が、朝日放送と番組製作会社に対し追加発生した公費2900万円の支払いを求める裁判を起こした。{{要出典|date=2023年11月}} === リフォームを巡るトラブル === 2009年11月に放送された、築48年の家のトラブル。匠と面談したのは2回のみで、リフォーム後の自宅の外観は要望していたものとは違う色となり、全体的に暗く寒くなってしまったという。最大の問題となっていた段差も子供向けスペースとして残ったままとなっており、依頼者もリフォーム後の内覧で激怒した。{{要出典|date=2023年11月}} == テーマ曲 == オープニング・テーマ曲は[[松谷卓]]作曲の「Inscrutable Battle」。 当楽曲は、テレビ朝日で過去に放送された[[報道番組]]『[[ザ・スクープ]]』において、2000年10月から1年間『スクープ21』と改題していた時期に使われたテーマ曲を流用したもの。同番組に関してはその後『ザ・スクープ』にタイトルを戻す際に従来のテーマ曲([[アンダーソン・ブルーフォード・ウェイクマン・ハウ|Anderson Bruford Wakeman Howe]]『Order Of The Universe』)へ戻している。本番組の[[サウンドトラック|サウンド・トラック]](後述)は[[オリコンチャート]]最高48位にランクインするなど、[[器楽曲|Instrumental]]の[[コンパクトディスク|CD]]として異例の売上を弾き出している。 エンディング曲はMC、所ジョージの楽曲が使用される。 * SEASON I開始時エンディング曲…所ジョージ『全員で王様』(アルバム「本物」収録) * SEASON I終了時エンディング曲…トコブクロ(所ジョージと[[コブクロ]]のユニット)『のこぎりの唄』(未CD化)。スペシャル時代でも使用された。 * SEASON II開始時エンディング曲…所ジョージ『素敵な言葉は愛にうまる』(アルバム「コケコッコゥ〜七色の声色〜」収録) リフォーム完成後の家屋お披露目映像で流れる「TAKUMI/匠」は本番組を象徴する楽曲であり、他のリフォーム系番組でもパロディとして流される他、CDアルバム「[[image (アルバムのシリーズ)|image]]」や音楽ゲーム「[[ノスタルジア (音楽ゲーム)|ノスタルジア]]」にも収録されるなど、最も有名な楽曲となっている。 その他、下記の[[クラシック音楽]]がアレンジして使用されている。 * [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]『[[くるみ割り人形]]』より『金平糖の精と王子のパ・ド・ドゥ』 * [[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]『[[ルーマニア民俗舞曲]]』より 第5曲『ルーマニア風ポルカ』、第6曲『マヌンツェル舞曲』 : 日本でバルトークの[[著作権]]が切れたのは2007年。 ==番組後のクロスプログラム== ===21・22時台の番組とのクロスプログラム=== 2010年4月から2016年12月までは、その後は、[[所ジョージ]]と[[江口ともみ]]が「劇的ビフォーアフターのあとはこの番組です!」とは紹介せず、『[[日曜洋画劇場]]』・『[[日曜エンターテインメント]]』の生クロスプログラムを流すようになった。 == スタッフ == === SEASON I(最終回時点) === {{節スタブ}} * ナレーション:[[加藤みどり]] * 総合構成:[[伊藤正宏]]、[[中野俊成]] * 構成:むらこし豪昭 / 増山実、工藤ひろこ、川野将一、政宗史子、内藤高淑 * 技術: ** TP(テクニカルプロデューサー):別府忠久(以前は、TD(テクニカルディレクター)) ** CAM(カメラマン):山田洋和(以前は、TD(テクニカルディレクター)) ** MIX(ミキサーオーディオ):平川圭史(以前は、AUD(オーディオ)) ** VE(ビデオエンジニア):徳永一馬 ** LD(ライディングディレクター):岩下征二 * ロケ技術:[[池田屋 (テレビ技術会社)|池田屋]]、[[写楽]] ** CAM(カメラマン):山田洋和、斑目重友、安達良、杉山紀行、三好哲也(池田屋)、橋本俊令(ヒートワン)、西村功二、奥村一彦([[MABU|mabu]]) ** VE(ビデオエンジニア):善方光一、横田満洋、楠部達也、中村寿昌(池田屋)、海渡敬介(ヒートワン)、松岡奈央子、樫山典寿(mabu) * 音効:長内勇治 * TK(タイムキーパー):伊藤梓見 * 編集:前田純和、伊藤和幸 * MA(マルチオーディオ):赤川淳、前島真一 * 技術協力:[[池田屋 (テレビ技術会社)|池田屋]]、[[タムコ|TAMCO]]、DOME、[[東京メディアシティ|砧スタジオ]]、[[ザ・チューブ]] * 美術: ** 美術プロデュース:[[木村文洋]] ** デザイン:石森慎司 ** 美術進行:小山千香子 ** 大道具操作:日向雄一、山本和成 ** 装飾:横山公一 ** アクリル装飾:木村敏和 ** 特殊装置:赤岩ひとみ ** 模型制作:木部隆 ** ヘアメイク:柳井愛理 ** マルチ:丸山明道 ** 美術デスク:高橋亜紀 ** 美術協力:[[フジアール]] ** タイトルCG:[[ケネックジャパン]] 岩下みどり、大隈良太郎 ** CG制作:エーデルジャパン 藤原成海、西村博英 * リサーチ:エフバックス、Mauve * 番組宣伝:高内三恵子(朝日放送)、岡崎由記(朝日放送) * 番組デスク:松原幹(朝日放送)、松本あゆみ * 制作進行:水島ひろみ * 演出補:大矢啓太(以前は、FD)、坂井直之 * 制作担当:黒崎則子(社員、以前は、AP)、松本光司(プロジェクト ドーン)、神成欣哉、久野真照(久野→以前は、FD►演出►AP)、一丸拓之(JUMP)、上園田宏司 * 演出:古賀謙一、古原幸一(JUMP)、管沼誠(管沼→以前は、演出補)、青山速己、藤極忠晴 * 総合演出:[[高橋章良]](CHAPTER、#1は、演出) * プロデューサー:吉川知仁(朝日放送)<ref name="YOSHIKAWA">吉川→2003.5.25〜2006.3.19・SEASON Iプロデューサー、2009.4.26〜2013.6.22・SEASON IIチーフプロデューサー。</ref><ref name="BA">演出の回あり。</ref>、[[奈良井正巳]](朝日放送)<ref>奈良井→2004.12.12〜2006.3.19</ref>、寺本俊司・古殿香織(社員)、石津多恵子(石津→以前は、AP►制作担当) * チーフプロデューサー:[[岩田潤]](朝日放送)<ref>岩田→2003.1.12〜2006.3.19、2002.4.28〜12.15までプロデューサー。</ref> * 制作協力:TV CLUB、[http://www.chapter.co.jp/ CHAPTER]、オフィス・ハイウェイ、[[プロジェクト ドーン|DAWN ドーン]]、[[東通企画]] * 制作:[[朝日放送テレビ|朝日放送]]、[[社員 (テレビ制作会社)|社員]]、[[ジャンプコーポレーション|JUMP]] === 過去のスタッフ(SEASON I) === * 構成:[[福田雄一]]、張眞英、[[北本かつら]]、柳田光司、荒木三太郎、石丸裕一、川野孝弘、櫻井昭宏 * ブレーン:[[関秀章]](JUMP) * 技術: ** TP(テクニカルプロデューサー):檜山忠 ** CAM(カメラマン):吉田剛、杉山紀行、斑目重友、今宮健太 ** VE(ビデオエンジニア):福重伸隆、船山道夫、楠部達也 ** LD(ライディングディレクター):後藤謙一 ** 音響効果:堺慶史郎 ** 編集:佐々木正知 ** 技術協力:佳夢音 * ロケ技術:大阪共同テレビ、マイシャ、[[オムニバス・ジャパン]]、スタッフシルエット、M'S PRO、ノアプロダクツ、TRY、札幌テレビハウス、沖縄映像センター、[[東通]]、[[共同テレビジョン]]、ジェイウエルカム、フロムゼロ、SOW、[[HBCメディアクリエート]]、[[ニユーテレス]]、光学堂、東通テクノサービス、[[クリエイティブ・ジョーズ|JAWS]]、クロステレビ東日本 ** CAM(カメラマン):坂本将俊、内海康広(大阪共同テレビ)、野澤慎二(マイシャ)、土岐泰也(オムニバス・ジャパン)、田上良一(スタッフシルエット)、松岡周錫(M'S PRO)、竹島哲也(ノアプロダクツ)、宮川典彦(TRY)、天坂恵一(札幌テレビハウス)、浦崎永真(沖縄映像センター)、池田英孝(池田屋)、伊藤優二、広江健志、井上勇人、小出直義(東通)、柿内孝文、山田康一(共同テレビジョン)、西脇龍也(ジェイウエルカム)、椛島秀夫(フロムゼロ)、那波雄大、中島広城(SOW)、田端優一(HBCメディアクリエート)、小池悟志(ニューテレス)、溝尻明(東洋放映)、西村幸時(光学堂→mabu)、小杉智美(池田屋)、青木一弘(東通テクノサービス)、水谷奨(JAWS)、高橋直樹、遠藤隆憲(クロステレビ東日本) ** VE(ビデオエンジニア):小倉由香子、世良由浩(大阪共同テレビ)、森田順(マイシャ)、小出秀久、平野裕城、徳永一馬、福重伸隆、船山道夫(池田屋)、藁谷達仁(オムニバス・ジャパン)、長沢篤(スタッフシルエット)、宮崎晋哉(M'S PRO)、吉岡辰沖、寺田拓司、坂井久美(ノアプロダクツ)、緒方健二、戸谷三紀(アークジャパン)、野口浩幸(札幌テレビハウス)、津波古学(沖縄映像センター)、室内健太郎、永田哲也、伊奈一樹(東通)、児玉昌之、高垣康一、安藤広敏(共同テレビジョン)、神余浩、杉浦貞治(ジェイウエルカム)、黒髪貴俊(フロムゼロ)、池田龍太郎(SOW)、浅野拓道(HBCメディアクリエート)、赤林千恵子(ニューテレス)、小倉正己(ヒートワン)、丸山淳(東洋放映)、奥村彦(光学堂)、藤原尉智、福田弘樹(東通テクノサービス)、西川真(JAWS)、鈴木茂人、松田寛光(クロステレビ東日本) * 美術: ** 美術進行:内藤佳奈子 ** 大道具製作:高橋博之 ** 大道具操作:下地樹 ** アクリル装飾:岡村正樹、岩切盛浩 ** 特殊装置:福田隆正、栢本大輔、後藤佑介 ** ヘアメイク:小島百合子、對馬晶子 ** 美術デスク:野村聡子 * HP制作:川崎拓哉 * リサーチ:Ohana company、スコープ * 広報→番組宣伝:梅村陽子(朝日放送)、中村茂樹(朝日放送)、渡邉亜希子(朝日放送) * ロケ制作:酒巻正幸(東通企画) * FD(フロアディレクター):遠藤玲王 * AP(アシスタントプロデューサー):飯沼麻希子 * 演出補:酒井譲之、澤田嘉門、筌場香穂里、小野仁、石原久嗣、小野超、高橋竜平、高畑忠司、長尾健太郎、上西孝志、八木勝樹、伊場健一郎、齊藤雅浩、本村栄理子、南大輔、鈴木俊行、堀内直樹、筒井和喜、大武拓郎、安黒道晃、川崎亮輔、佐久間隆太、髙土浩二、中村拓史、岡田和幸、浅川晃一、藪原涼介、浦谷淳史、厚川大輔、森岡康人、古賀将之、深谷俊輔、黒川和樹 * ディレクター:飯野修一、佐藤三生、岩村明美、福島和弘、佐々木宗彦、小村幸司、小西慎一郎、新井明徳、村田義彦、堀江剛、甲斐浩文、[[ウエマツヨシキ|植松義貴]]、吉川修、作山浩(作山→以前は、演出補)、齋藤吉彦 * 演出:澤田親宏、三澤隆之、玉村良(玉村→以前は、FD)、福田裕士、藤本良雄、小峰智、鈴木道正、本岡豊基、高瀬聖吾、畔柳吉彦<ref>畔柳→現在は、[[テレビ朝日]]総合編成局制作1部・ゼネラルプロデューサー。</ref>、内田拓志、北澤豊、竹谷和樹、荒木靖、清藤せいじ、國澤恵介、小林潤子、西山裕之、岩崎伸昭、小高徹、外川知宏、山口博之、椎葉宏治(椎葉→#1は、FD)、大城哲也(東通企画)、大浦剛、近藤祐治郎、山口一也、[[元村次宏]](東通企画)、長谷川一男、柴田貴幸、大池典和、目黒隆志(Fact)、鈴木正彦、松本洋平(松本→以前は、演出補)、秋山義康、奥田隆英(Ripple)、加藤貴光(東通企画)、松永清史、井村泰二郎、早川多祐、荒木哲也、岩澤康雄、四戸美穂(四戸→以前は、演出補)、米田哲【毎週1人担当、その他はディレクター】 * プロデューサー:[[井口毅]](朝日放送)<ref name="BA"></ref>、清水雄一郎(朝日放送)<ref>清水→2004.5.2〜11.28</ref><ref name="BA"></ref>、堀敏郎、遠藤典行 * 制作:石原康男(朝日放送)<ref>石原→2003.1.12〜5.25、2002.4.28〜12.15までチーフプロデューサー。</ref> === SEASON II === {{節スタブ}} * ナレーション:加藤みどり * 総合構成:伊藤正宏、中野俊成 * 構成:工藤ひろこ、むらこし豪昭 *〈技術〉 ** TP:別府忠久 ** TD:山田洋和 ** CAM:杉山紀行 ** MIX:斉藤宏司 ** VE:楠部達也 ** LD:稗田晋一 *〈ロケ技術〉池田屋、ヒートワン、東通、東洋放映、mabu、[[プロカム|Procam]]、写楽、アークジャパン、SOW、[[ジェイ・クルー|J-crew]]、[[クロステレビ|クロステレビジョン]]、ENDLESS、GRIP、Condar、[[ジーピーエー|GPA]](週替り) ** CAM:安達良、杉山紀行、山田洋和、今宮健太、古城正智、青木俊、三好哲也、吉田剛、斑目重友、山田啓史(池田屋)、橋本俊令、柳ヶ瀬善男(ヒートワン)、藤原祐司(東通)、城尾真治(東洋放映)、西村幸時、奥村一彦(mabu)、西雄一(Procam→[[TBSテックス|T-TEX]])、川上庸介(Procam)、古川亮太(クロステレビジョン、以前は、ロケTP)、岡田栄、高野清隆(写楽)、永澤英人(アークジャパン)、那波雄大(SOW)、大塚孝輔(J-crew)、福元憲之(ENDLESS)、岸直隆(Condar)、石井恵美子(GPA)(週替り) ** VE:楠部達也、中村寿昌、平野裕樹、横田満洋、熊倉智大、善方光一、大貫晶、小出秀久(池田屋)、海渡敬介、小倉正己(ヒートワン)、廣谷潤平(東通)、宮村哲夫(東洋放映)、松岡奈央子、樫山典寿、菅野龍弥、照井慎也、篠原佑典、三上祐司、戸谷三紀、磯一貴、小松裕太、齋藤将光、園田清隆、高橋裕也(mabu)、河内淳(Procam→T-TEX)、阿久津一夫(Procam)、斉藤弘一、松本智、岩崎伸哉、藤田長宏(藤田→照明の回あり)、中塩屋知広、田籠邦之(写楽)、高橋勉(アークジャパン)、吉田淳(企作工舎)、田邊寛朗、石川徹(SOW)、岩瀬靖生(J-crew)、松田寛光、石塚貴広(クロステレビジョン)、中田孝春、佐藤孝(総合企画新和)、根元聡(ENDLESS)、小林大介(GRIP)、春本一大(Condar)、伊藤正彦(アイ・ティ・ビー)、佐藤大輔(GPA)、佐藤毅(プライド・トゥ)(週替り) ** 照明:冨山龍平(SOW)、足立洋幸、町田真佑(池田屋)、東岡允(ライズ・アップ、以前は、CAM) ** 特機:岩間亘(照明の回あり)、木下久男、栗原慶之、滝沢健太(サークル)(不定期) * 編集:伊藤和幸、鈴木大知 * MA:伊藤慎吾 * 音効:久坂惠紹 * TK:伊藤梓見 * 技術協力:池田屋、DOME、TAMCO、ザ・チューブ、砧スタジオ、[[戯音工房]](戯音→2011.5.15〜) *〈美術〉 ** プロデューサー:木村文洋 ** デザイン:石森慎司 ** 美術進行:小山千香子 ** 大道具:卜部徹夫 ** 大道具操作:大坪信昭 ** 装飾:横山公一 ** アクリル装飾:松本健、中山麻粧美、萬田光菜、松浦由佳(週替り) ** 特殊装置:福田隆正、田地絵里香、熊田裕衣子(週替り) ** ヘアメイク:武部千里、小山暁代(週替り) ** マルチ:伊藤拓也 ** 模型製作:木部隆 ** 美術デスク:横山みのり ** 美術協力:フジアール * タイトルCG:ILCA * CG制作:FUJIWARA CG OFFICE(以前は、毎週)、ぴーたん、ティップス(TIPS)(週替り) * 制作協力:TV CLUB、CHAPTER(毎週)、[[TBSビジョン|映像未来]]、[[レジスタエックスワン|レジスタX1]]、Mawberries(週替り) * リサーチ:ワイズプロジェクト * 編成(2016.1.10〜):佐々木真司(朝日放送) * 番組宣伝:多田香奈子(朝日放送)、田中彰(朝日放送) * 番組デスク:松原幹(朝日放送) * 制作デスク:水島ひろみ * 制作担当:松本光司(Project DAWN)、神成欣哉、山崎薫、薗田美有紀、岩井隆昌(岩井→以前は、演出補►ディレクター)(毎週)、小林昌生、村上誠一郎(村上→以前は、演出補)(週替り) * 演出補:石田尚也、上野浩幸、羽鳥恭史、豊後翼、魚谷一樹、上坂和也、川角光、松岡大起、玉城航士、福田友輝、柳下明大、古川大晃、宮本峻明、櫻井将平、橋本悠希、権智勝、松原諒、上田智也、牧岡修史、井原遼、中島健登(週替り) * ディレクター(2012.1.22〜):小原隆史、藤極忠晴、坂井直之、岡島友孝、小原斎、福田翔吾、吉村鉄平、黒河内隼仁、赤羽怜、加藤翔輝、鈴木彦太郎(小原隆・小原斎・福田・吉村・赤羽・加藤・鈴木彦→以前は、演出補、黒河内→以前は、演出補►FD、小原隆・赤羽・加藤・鈴木彦以外→2011年12月まで週替り演出) * 演出:古賀謙一、管沼誠(管沼→以前は、週替り演出)、大矢啓太(以前は、週替り演出►ディレクター) * 総合演出:髙橋章良 * プロデューサー:植田貴之(朝日放送)<ref>植田→2012.5.13〜</ref>、田村雄一(朝日放送)<ref>田村→2013.7.27〜、ディレクターの回あり。</ref>、寺本俊司、古殿香織、古原幸一<ref name="BA"></ref>、一丸拓之 * チーフプロデューサー:井口毅(朝日放送)<ref>井口→2013 7.13〜、2013.4.28〜6.22までプロデューサー。</ref> * 制作:朝日放送、社員、JUMP === 過去のスタッフ(SEASON II) === * 構成:西野直樹、山下直美、松田敬三、政宗史子 *〈技術〉 ** CAM:吉田剛、斑目重友、今宮健太 ** MIX:平川圭史、西崎智美 ** VE:船山道夫、徳永一馬 ** LD:岩下征二 *〈ロケ技術〉 ** TP:藤井節男 ** CA:小野寺英之、高橋尚平 * 編集:今井純 * MA:赤川淳 * 音効:長内勇治 *〈美術〉 ** 美術進行:横山勇 ** 大道具:高橋千鶴 ** 大道具操作:山本和成 ** アクリル装飾:大竹由里子 ** 特殊装置:釜田慶一、樋口真樹 ** 美術デスク:渡邊美保、丸山知美 * スタイリスト:松本知夏(2009.11.1のみ) * タイトルCG:ケネックジャパン、岩下みどり * CG制作:エーデルジャパン(毎週)、キムラケイサク * リサーチ:岡田洋之(2016.6.19のみ)、[[フルタイム]] (2016.9.11のみ) * 番組宣伝:荒木拓人、荒川美幸、岡崎由記、秋枝千絵、阪本美鈴、岸本拓磨、高内三恵子、佐藤有、遠山雄大、[[田野和彦]](全員朝日放送) * FD:四戸美穂、齋藤みゆき * 制作担当:黒崎則子、玉村良、柏真子、谷中友保、谷内愛、久野真照、難波裕介(毎週)、本岡豊基(以前は、毎週)、片山聡子(週替り)、片岡靖幸(以前は、演出補) * 演出補:安達正和、内藤環、泉勇人、堀内直樹、新宮原敦、神林直人、鈴木浩平、鈴木健士、木下洋道、山田愛子、今井貴公、筧友秀、金井洋人、北田浩平、杣俊輔、多田洋一郎、山田修平、櫻田満、高雄洋、大野諭、高橋智宏、佐藤要介、伊達広哉、竹川透、安藤貴彰、杲恵順、中之薗翼、山本宗一郎、島田英紀、高尾周作、倉田健史、田村賢治、岩川淳一、沖津一洋、高橋裕也、小田島健太、末安将、岩尾将平、古賀総一、髙橋史也、宮崎拓也、尾野優樹、竹腰基輝、佐合浩明、大城英晃、津留亮、京地伸宏(週替り) * ディレクター:坂本篤、早川多祐、横尾初喜、菊地弘文、北村武嗣、石本靖二郎、高木大輔、仁茂田哲郎、黒川和樹、大池典和、杠雅之(菊地・北村・高木・黒川・杠以外→2011年12月まで週替り演出) * 演出:外川知宏、大浦剛、青山速己(毎週)、飯野修一、藤岡秀万、米嶋悟志、吉川修、秋山義康、荒木靖、広江孝吉、染谷昌彦、今井貴志、森田知明、日置圭信、柴田貴幸、長井貴仁、長岡均、大喜多高志、遊佐豊、江夏治樹(週替り) * プロデューサー:小川隆弘(朝日放送)<ref>小川→2009.4.26〜2010.7頃まで。</ref>、竹島和彦(朝日放送)<ref>竹島→2009.4.26〜2011.5頃まで。</ref>、西尾理志(朝日放送)<ref>西尾→2009.4.26〜2013.3.24</ref><ref name="BA"></ref> * チーフプロデューサー:吉川知仁(朝日放送)<ref name="YOSHIKAWA"></ref> === 復活特番(2017年以降)=== {{節スタブ}} ;第9回(2023年3月19日放送分) * ナレーション:[[キムラ緑子]](第7回-) * 総合構成:伊藤正宏、中野俊成 * 構成:むらこし豪昭 *〈技術〉 ** TP/TD:山田洋和(第5回からTP兼務、第1期は、SW(スイッチャー)→TD(テクニカルディレクター)) ** CAM:三好哲也(第6,7,9回、第2,4,5,9回はロケ CAM)、千葉明律(第9回) ** VE:楠部達也(第1-7,9回) ** MIX:斉藤宏司【第1・2期】(第5回までと第9回) ** LD:稗田晋一 ** VTR:徳永一馬(第3-7,9回、第1期は、VE(ビデオエンジニア)、第2期・第8回はVE) *〈ロケ技術〉 ** CAM:山田洋和、三好哲也、安達良、千葉弦毅(安達・千葉→第9回) ** 照明:高橋昌之、石川芳雄(共に第9回) ** VE:楠部達也、善方光一(善方→第9回、第2回はVTR)、横田満洋、熊倉智大(横田・熊倉→第9回) * 編集:滝嶋秀臣(第3,4,6回-)、江原英生(第5回-) * MA:浦辺裕太(第3回-) * 音効:久坂惠昭 * 技術協力:池田屋、夢玄、blue box studio、戯音工房、[[TBSアクト|TACT]]、[[レモンスタジオ]](池田・戯音→第1回-、夢玄→第2-7,9回、blue→第3回-、TACT・レモン→第9回) *〈美術〉 ** プロデューサー:木村文洋 ** デザイン:石森慎司 ** 美術進行:小山千香子 ** 大道具:木村敬(第7,9回) ** 大道具操作:菅原英一(第7,9回) ** 装飾:横山公一 ** アクリル装飾:松浦由佳(第7,9回、第8回は特殊装置) ** 特殊装置:熊田裕衣子(第7,9回) ** メイク:武部千里(第1,2,5回-) ** マルチ:伊藤拓也(第1,2,5回-) ** 模型製作(第2回以来):志田湧一(第9回) ** 美術協力:フジアール、[[東宝舞台]]、千葉洋行、[[テルミック]]、マルチバックス、[[ヤマモリ (アクリル装飾)|ヤマモリ]](フジ・東宝・テルミ・ヤマ・マルチ→第1回、その他→第4回-) * タイトルCG:PDIC(第3回-) * CG:ぴーたん(第1,7回-) * 制作協力:TV CLUB、AO,inc.(AO,→第3回-) * 編成:鈴鹿相哉(第6回-、朝日放送テレビ) * 営業:田嶋康次郎(第9回、朝日放送テレビ) * 番組宣伝:高橋寿英(第3-7,9回、朝日放送テレビ)、中田陽子(第9回、朝日放送テレビ) * 番組デスク:中村美恵(第9回、朝日放送テレビ) * FD:伊藤泰周(第5回-) * 制作補:大本昌徳(第8回-) * ディレクター:酒井謙之(AO,inc.、第5,7回-、第3,4回はFD)、柳下明大(第9回) * 演出:古賀謙一(AO,inc.、第2回-) * 総合演出:髙橋章良(CHAPTER) * プロデューサー:大橋洋平(朝日放送テレビ、第8回-)、青山速己・武川和美(AO,inc.、共に第3回-) * チーフプロデューサー:桒山哲治(朝日放送テレビ、第8回-、第7回はプロデューサー) * 制作:朝日放送テレビ(第3回-、以前は朝日放送)、CHAPTER(CHAP→第1,2回は制作協力) === 過去のスタッフ(復活特番) === ;【第1期】=2006年10月8日放送〜2009年3月22日放送、【第2期】=2017年4月2日放送〜現在 * ナレーション:加藤みどり【第1・2期】(第6回まで) * 構成:工藤ひろこ【第1・2期】(第5回まで) *〈技術〉 ** TP(テクニカルプロデューサー):檜山忠【第1期】、別府忠久(第4回まで、第1期は、TM(テクニカルマネージャー)→TD(テクニカルディレクター))【第2期】 ** CAM(カメラマン):小杉智美、佐藤文【第1期】、安達良(第5回)、杉山紀行、斑目重友(斑目→第8回)【第2期】 ** MIX:伊藤璃子(第6-8回)【第2期】 ** VE(ビデオエンジニア):船山道夫【第1期】 ** AUD(オーディオ):平川圭史【第1期】 ** LD(ライディングディレクター):岩下征二【第1期】 ** VTR:福重伸隆(第8回、第2期・第4,5回はロケVE)【第2期】 *〈ロケ技術〉 ** CAM:山田洋和(池田屋)、那波雄大(SOW)【第1期】、岡田栄(第1,3,6-8回)、高野清隆(第2,3,6-8回)、杉村正視(第5回)、上村健一郎、隈光輝、首藤拓人(上村・隈・首藤→第8回)【第2期】 ** VE:楠部達也(池田屋)、田邊寛朗(SOW)【第1期】、斉藤弘一(第1-3,6,7回)、大貫晶(第2,8回)【第2期】 ** 照明:東岡允(第1回)、足立洋幸(第2回)、藤井克則(第6,8回)、中本智大(第6-8回)、浦川純暉(第7回)【第2期】 ** ドローン(第1回以来):桑野師一、矢尾板亨(共に第1回)、吉田剛(第5回)河村優人(第8回)【第2期】 * 編集:伊藤和幸(第1期も)、鈴木大知(共に第1,2回)【第2期】 * MA:赤川淳【第1期】、伊藤慎吾(第1,2回)【第2期】 * 音効:長内勇治【第1期】 * TK:伊藤梓見(第1,2回)【第2期】 * 美術: ** 大道具:葛西剛太【第1期】、卜部徹夫(第1-6,8回)【第2期】 ** 大道具操作:山本和成【第1期】、大坪信昭(第1-6,8回)【第2期】 ** アクリル装飾:木村敏和【第1期】、松本健(第1,2,5,6,8回)【第2期】 ** 特殊装置:赤岩ひとみ【第1期】、福田隆正(第1,2,5,6回)【第2期】 ** 模型製作(第2回以来):木部隆(第2,5-8回) ** マルチ:丸山明道【第1期】 ** ヘアーメイク:佐藤恭子、柳井愛理、對馬晶子【第1期】 ** 美術デスク:渡邊美保、高橋亜紀【第1期】 * 技術協力:ザ・チューブ(共に第1,2回)、ライス・アップ、スカイフィーダ(共に第1回)、DOME、TAMCO、砧スタジオ(共に第1-8回)、[[写楽]](第1-3,6-8回)、BIG BEN、CORNER(共に第8回)【第2期】 * インテリアコーディネート:尾田恵(第1,2回)【第2期】 * 美術協力:緑屋家具(第1回)、菜インテリアスタイリング(第1,2回)、木部工房(第1-8回)、ティップス(第4-8回)【第2期】 * タイトルCG:ケネックジャパン 岩下みどり、大隈良太郎【第1期】 * CG制作:エーデルジャパン 藤原成海、西村博英、三浦進、小林亜喜【第1期】、FUJIWARA CG OFFICE(第1,2回)【第2期】 * CG:キムラケイサク(第1,2,4-7回、第3回はCG制作) * リサーチ:Mauve【第1期】 * 編成:幾野美穂(朝日放送)【第1期】、石橋義史(第4,5回、朝日放送テレビ)、髙妻蔵馬(第7回、朝日放送テレビ)、松田えみり(第8回、朝日放送テレビ)【第2期】 * 営業:伊地智厚太(第4回、朝日放送テレビ)、長嶋亮(第6回、朝日放送テレビ)、多喜澪(第4-7回、朝日放送テレビ)、武田行剛(第7,8回、朝日放送テレビ)【第2期】 * 番組宣伝:高内三恵子、渡邉亜希子、岡崎由記、荒川美幸、荒木拓人(共に朝日放送)【第1期】、田中彰(第1,2回)・多田香奈子(第1回)(共に朝日放送)、市川貴裕(第2,8回、朝日放送テレビ)、朝比奈紀子(第3回、朝日放送テレビ)、松下友美子(第4,5回、朝日放送テレビ)、川元寛之(第6,7回、朝日放送テレビ)【第2期】 * 番組デスク:松原幹(第1-8回、朝日放送テレビ)【第2期】 * 制作デスク:沢口恵美(第1,2回)、水島ひろみ(第1回、第1期は、制作進行)【第2期】 * AP(アシスタントプロデューサー):久野真照、黒崎則子【第1期】 * 制作補(第2回):磯田今日子(第2回)、沖津一洋(第3-7回)、伊達和輝(第8回)【第2期】 * 担当制作:松本香織【第1期】 * FD(フロアディレクター):四戸美穂【第1期】 * 演出補:青柳幸嗣、國分道徳、大矢啓太(大矢→演出の回あり)【第1期】、中島健登、櫻井将平、宮本峻明(共に第1回)、上坂和也、長谷川侑也、中川咲歩、市川頌子(共に第2回)、畏岩慧(第3回)、山橋紗英、瀧川雅士(共に第4回)、早川裕次郎(第3-5回)、年静(第5回)、伊林雄一郎(第6回)、菅原由輝(第7回)、小田切李緒(第8回)【第2期】 * FD:黒川和樹、古賀将之(古賀→以前は、演出補)【第1期】、藤極忠晴(第1回はディレクター)【第2期】 * ディレクター:小原斎(第1回、第1期は、演出補)、黒河内隼仁(第1,2回)、加藤翔輝(第2,6回)、岡島友孝(第3,4回)【第2期】 * 演出:内田拓志、作山浩、管沼誠、古原幸一、藤極忠晴【第1期】 * プロデューサー:小川隆弘(朝日放送)、竹島和彦(朝日放送)、西尾理志(朝日放送)【第1期】、田村雄一(朝日放送→第3回は朝日放送テレビ)、山下浩司(朝日放送テレビ、第5回)、平田翔子(朝日放送テレビ、第8回)、一丸拓之(共に第1,2回)、寺本俊司、古殿香織(共に第1回、第1期も)、岩田うらら、古原幸一(古原→第1回は演出、第1期も)(共に第2回)【第2期】 * チーフプロデューサー:岩田潤(朝日放送)、吉川知仁(朝日放送、以前は、プロデューサー)【第1期】、井口毅(朝日放送→第3回は朝日放送テレビ、第1期はプロデューサー)、植田貴之(朝日放送テレビ、第4-7回-、第3回まではプロデューサー)【第2期】 * 制作:朝日放送、社員、JUMP【第1期】 == ネット局と放送時間 == {|class="wikitable" style="text-align:center" !放送対象地域!!放送局!!系列!!放送時間!!ネット状況 |- |[[近畿地方|近畿]][[広域放送|広域圏]]||[[朝日放送テレビ]] (ABC TV)|| rowspan="24" |[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||rowspan=24|日曜 19:58 - 20:54||【'''制作局'''】 |- |[[北海道]]||[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]](HTB) | rowspan="23" |同時ネット |- |[[青森県]]||[[青森朝日放送]](ABA) |- |[[岩手県]]||[[岩手朝日テレビ]](IAT) |- |[[宮城県]]||[[東日本放送]](khb) |- |[[秋田県]]||[[秋田朝日放送]](AAB) |- |[[山形県]]||[[山形テレビ]](YTS) |- |[[福島県]]||[[福島放送]](KFB) |- |[[関東地方|関東広域圏]]||[[テレビ朝日]](EX) |- |[[新潟県]]||[[新潟テレビ21]](UX) |- |[[長野県]]||[[長野朝日放送]](abn) |- |[[静岡県]]||[[静岡朝日テレビ]](SATV) |- |[[石川県]]||[[北陸朝日放送]](HAB) |- |[[東海3県|中京広域圏]]||[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]](メ〜テレ/NBN) |- |[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]](HOME) |- |[[山口県]]||[[山口朝日放送]](yab) |- |[[岡山県・香川県の放送|香川県・岡山県]]||[[瀬戸内海放送]](KSB) |- |[[愛媛県]]||[[愛媛朝日テレビ]](eat) |- |[[福岡県]]||[[九州朝日放送]](KBC) |- |[[長崎県]]||[[長崎文化放送]](ncc) |- |[[熊本県]]||[[熊本朝日放送]](KAB) |- |[[大分県]]||[[大分朝日放送]](OAB) |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島放送]](KKB) |- |[[沖縄県]]||[[琉球朝日放送]](QAB) |- |[[富山県]]||[[富山テレビ放送|富山テレビ]](BBT) |rowspan=2|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]] |土曜 13:55 - 14:55|| rowspan="4" |遅れネット |- |[[島根県]]・[[鳥取県]]||[[山陰中央テレビジョン放送|さんいん中央テレビ]](TSK) |土曜 15:55 - 16:50 |- |[[高知県]]||[[高知放送]](RKC) |[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]] |日曜 15:00 - 15:55<ref>以前は日曜 12:00 - 12:55。 </ref> |- |[[全国放送|日本全域]]||[[BS朝日]] ||[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BS放送]] |日曜 16:00 - 16:55<ref>2時間特番の回を放送する場合は日曜 15:00から放送。 </ref> |} * 日本国外の放送局 ** [[:Category:台湾のテレビ局|台湾]]の[[:zh:國興衛視|國興衛視]]でも『'''超級全能住宅改造王'''』のタイトルで2005年7月から放送されていた(SEASON IIの放映開始は2010年2月から)。 ** 東南アジアの有料テレビ局 [[:en:Li (TV channel)|Life Inspired]]でも「Before and After」のタイトルで放送されていた。 * 過去のネット局 ** [[山梨放送]](YBS)(日本テレビ系列) ** [[福井放送]](FBC)(日本テレビ系列・テレビ朝日系列) ** [[四国放送]](JRT)(日本テレビ系列) ** [[テレビ宮崎]](UMK)(フジテレビ系列・[[日本ニュースネットワーク|日本テレビ系列]]・テレビ朝日系列) * テレビ朝日などでの再放送では、スタジオトークがカットされた再編集版が放送されている。一方、BS朝日ではスタジオトークがカットされない放送となっている(ただし、エンディングを一部加工、リフォーム依頼の宛先が朝日放送本社あてになっている)。2010年5月から、BS朝日でもSEASON IIが再放送されるようになった。朝日放送での再放送はスタジオトークがカットされる場合とされない場合があるが、2011年度以降に土曜日にレギュラーで再放送されている番組ではスタジオトークがカットされていない。 * 朝日放送が[[阪神タイガース|阪神]]主催(主に対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦)の[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|プロ野球中継]]を[[関西ローカル]]で放送する場合、週末午後など後日への臨時枠移動での放送となったが、系列局へは[[裏送り]]で[[先行ネット]]としていた。 * [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]がYOSAKOIソーラン祭り最終日を中継する場合は土曜日午後の遅れネットとなった。 * [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の関連報道に伴う[[報道特別番組]]編成のため、2011年3月13日放送分は放送休止となった。 * 2013年5月19日は通常の放送時間帯にテレビ朝日・北海道テレビが『[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]・[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]×[[読売ジャイアンツ|巨人]]』(両局の[[共同制作]])を放送したが、本番組は休止とはならず、左記の2局以外では通常通り放送し、テレビ朝日では同年5月25日(土)16:28 - 17:25の『スペシャルサタデー・第3部2』枠で遅れネット、北海道テレビでもテレビ朝日と同日異時に遅れネット<ref>番組公式 Web ページの次回予告欄の告知より。</ref><ref>この回の放送は2週に分けた回の前半であったため、エンディングにある次回予告で「来週よる7:58放送」を「あすよる7:58放送」といった旨のテロップに差し替えたものを事前に朝日放送テレビからテレビ朝日・北海道テレビの両局に向けて[[裏送り]]を受けた。</ref>。 * 「ビフォーアフター大賞2014」は放送予定日の2014年12月14日に急遽、[[第47回衆議院議員総選挙]]の[[選挙ステーション|開票特番]]が組まれたため放送枠を確保できず、12月31日(水)に[[関西ローカル]]で放送された。 * 2015年9月6日は、当初は通常枠での放送を予定していたが、急遽『[[2015 WBSC U-18ワールドカップ|U18野球ワールドカップ2015]] 決勝 日本vsアメリカ』の中継が決まったため、休止となった。 <!-- == 特別番組 == 第1シリーズから第2シリーズまでの間と、第二シリーズ終了後は、[[特別番組|スペシャル番組]]として不定期に放送された。 * 第1回 - 2006年[[10月8日]]放送(18:56 - 20:54)。「玄関から入れない家」と題し、車庫の中に浴室を設置したため自転車が玄関前にしか置けなくなり、勝手口から出入りしなければならなくなった家をリフォーム。 * 第2回 - [[2007年]][[1月14日]]放送(18:56 - 20:54)。「お腹がつっかえる家」と題し、外の風呂場の入り口の幅が30cmしかない戦前から建つ9坪の2軒長屋をリフォーム。ゲストパネラーは戸田恵子、乙葉、[[吉田秀彦]]、[[金子貴俊]]。 * 第3回 - 2007年[[4月14日]]放送(19:00 - 20:54)。「犬が占領する家」と題し、リビングをペット専用部屋としたために窮屈になった二世帯七人家族の家をリフォーム。レギュラー[[戸田恵子]]、[[ユンソナ]]、ゲスト[[津川雅彦]]、[[的場浩司]]。(2007年3月で終了した『[[ドスペ!]]』枠での放送) * 第4回 - 2007年[[9月30日]]放送(18:56 - 20:54)。「ジャングルジムの家」。この枠は2007年9月時点で、『[[旅の香り]]』の2時間スペシャルと[[単発特別番組枠]]の『[[サンデーデラックス]]』の2時間スペシャルをそれぞれ交互に放送していたが、『サンデーデラックス』枠外で放送された。この回では依頼者の家族がリフォームに携わっている。また、この放送回から[[ハイビジョン制作]]になった(スタジオ部分のみ) * 第5回 - [[2008年]][[1月13日]]放送(18:56 - 20:54)。「パッチワークの家」。ゲストパネラーは[[松居一代]]、[[石田衣良]]、[[山口もえ]]、[[永井大]]。 * 第6回 - 2008年[[3月30日]]放送(18:56 - 20:54)。「家族で食卓を囲めない家」と題し、段差が多く部屋が細切れの家をリフォーム。ゲストパネラーは[[グッチ裕三]]、[[堀ちえみ]]、[[須藤元気]]、[[新山千春]]。この回よりロケ部分もハイビジョン制作となる。 * 第7回 - 2008年[[9月28日]]放送 (18:56 - 20:54)。「子供が100人いる家」と題し、学習塾を経営し、平屋に2階部分となる別の家を増築したという家をリフォーム。ゲストパネラーは[[草野満代]]、[[佐々木蔵之介]]、[[山崎静代]]([[南海キャンディーズ]])、[[五十嵐隼士]]。なお、草野、佐々木、山崎、そしてアテンダントの江口は4人とも[[2月4日]]生まれであることが番組内で明かされた。 * 第8回 - [[2009年]][[3月22日]]放送(19:00 - 20:54)。「裸で玄関を出る家」。ゲストパネラーは[[徳光和夫]]、[[内藤大助]]、[[香坂みゆき]]、[[上原美優]]。解体の過程で家に外壁がないことがわかったため、初めてリフォーム費用が予算を超えた。 * 第9回 - [[2017年]][[4月2日]]放送(18:57 - 20:54)。「借金で塩漬けされた島」。依頼人は[[さだまさし]]。 * 第10回 - 2017年[[10月1日]]放送(18:57 - 20:54)。「穴だらけの家」。この回までは朝日放送が制作局であった。ゲストパネラーは、[[草刈正雄]]・[[黒木メイサ]] * 第11回 - [[2018年]][[4月15日]]放送(18:57 - 20:54)。「洗濯機を3台回す家」。この回から朝日放送テレビが制作局となる。ゲストパネラーは、[[菊池桃子]]ほか * 第12回 - 2018年[[9月23日]]放送(18:57 - 20:54)。「何かも古い家」。ゲストパネラーは、[[名取裕子]]ほか * 第13回 - [[2019年]][[4月28日]]放送(18:56 - 20:54)。「ほぼ外で寝る家」。ゲストパネラーは、[[高橋真麻]]ほか --> == 関連商品 == === DVD === 2007年[[12月21日]]に以下の4枚が同時に発売となった。SEASON Iの各エピソードから1枚あたり3話を収録したもの。スタジオ部分はカットされ、ロケVTRのみでの構成となっており、それぞれ担当した匠へのインタビュー(発言内容などから、インタビュー部分は2007年に収録されたものとみられる)が特典映像となっている。Vol.1と2、Vol.3と4のセットにブックレットが付属したDVD BOXもある。発売元は朝日放送・[[東宝]]。 * Vol.1 未来をおびやかす台所編(TDV17362D) * Vol.2 超狭小住宅編 1(TDV17363D) * Vol.3 やすらぎが何処にもないお風呂編(TDV17364D) * Vol.4 超狭小住宅編 2(TDV17365D) === CD === 2枚のサウンドトラックが発売されている。いずれも[[松谷卓]]名義で、発売元は[[エピックレコードジャパン]]。 * ビフォー・アフター(ESCL-2429、2003年8月6日発売) *: テーマ曲「Inscrutable Battle」や、新しい住居を見せるときの「TAKUMI/匠」、VTRの冒頭・エンディングに使用される「出会い」、リフォーム初日の家財道具の運び出しのときの「[[ルーマニア民俗舞曲]]」([[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]作曲)など12曲を収録したアルバム。 * ビフォー・アフター コンプリート(ESCL-2576、2004年9月23日発売) *: SEASON Iの挿入曲全30曲を収録した2枚組アルバム。 === 書籍 === 放映された内容を元に、以下の書籍が刊行されている。 * 大改造!!劇的ビフォーアフター - リフォームで家族の問題を解決します ISBN 4-87-465641-2 [[芸文社]]刊 [[2003年]]7月発行 ** 番組でのリフォームから、18軒の家族を取材。番組では放映されなかった内容を紹介するムック。 * あなたの家のビフォーアフター - 100軒から学ぶリフォーム術 ISBN 4-83-561521-2 [[ぴあ]]刊 [[2005年]]3月発行 ** リフォーム100軒達成記念で刊行。 * 匠百軒―番組登場の建築家はこんな人 ISBN 4-83-560717-1 ぴあ刊 2005年3月発行 ** 番組で行われたリフォームから約20軒と、匠の紹介、インタビューで構成したムック。 === モバイル === 放映された番組を題材にしたソーシャルゲームが提供されている。 * 大改造!!劇的ビフォーアフター - 朝日放送とスマイキーによって[[フィーチャーフォン]]版「[[GREE]]」にてアプリケーションが提供されている。 == 脚注 == === 注記 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ベストタイム]](必殺リフォーム計画) * [[住宅バラエティー 我が家・大作戦!]] * [[渡辺篤史の建もの探訪]] * [[今田ハウジング]] * [[完成!ドリームハウス]] * [[住人十色]] * [[たけし・所のWA風がきた!]] - 直接の前身番組。 * [[新日本プロレス]] - 第246回で選手寮のリフォームを行った。 * [[アフター6ジャンクション]] - 2023年2月から「新概念提唱型投稿コーナー」の月曜分「ひらがな味」の中で、当番組のテーマ曲と「なんということでしょう!」というナレーションを流用している。 === 似たコンセプトの番組 === * [[愛の貧乏脱出大作戦]] - 1998年4月 - 2002年9月末まで[[テレビ東京]][[TXNネットワーク|系列]]にてレギュラー放送されていた「商業施設(主に[[飲食店]]や[[旅館]])専用ビフォーアフター」とも言えた番組。店舗[[内装]]の[[リフォーム]]だけではなく、[[調理人]]の再[[修業]]や店内[[メニュー (料理)|メニュー]]見直し・新メニュー考案まで番組でサポートし、最終的に[[経営]]が傾いていた店の繁盛化を目指すのがテーマだった。 * [[Pimp My Ride]] - [[視聴者]]のボロ[[乗用車|車]]を隅々まで[[カスタム]]するという内容から、時に「ビフォーアフターのクルマ版」と表現される。 * [[アメリカン・ビンテージ大修復!ビフォー&アフター]] [https://www.historychannel.co.jp/detail.php?p_id=00359]([[:en:American Restoration|American Restoration]]) - [[専門チャンネル]]の一つ「[[ヒストリーチャンネル]]」で放送されている[[アメリカ]]TV番組。[[古物]]再生専用職人の手により、数々の[[骨董品]]やお宝品が[[修復]]・[[修理]]される。 * [[感涙!よみがえりマイスター]] [http://www4.nhk.or.jp/yomigaeri/] - [[日本放送協会|NHK]]で放送されているTV番組。先述の「アメリカン・ビンテージ大修復!ビフォー&アフター」と同じく、骨董品やお宝品が修復・修理される。 == 外部リンク == * [https://www.asahi.co.jp/beforeafter/ ABC「大改造!!劇的ビフォーアフター」公式サイト] * [http://asahi.co.jp/beforeafter/old/index.html ABC「大改造!!劇的ビフォーアフター」公式サイト(SEASON II・2015年11月15日放送分までの物件リスト)] * [http://asahi.co.jp/beforeafter/season1/ ABC「大改造!!劇的ビフォーアフター」(SEASON I)公式サイト] * {{Wayback|url=http://www.tvco.tv/interview/index.php?action=detail&id=39 |title=テレビコ「大改造!!劇的ビフォーアフター」制作者インタビュー |date=20160304185659}} * [https://web.archive.org/web/20160417232440/https://thetvdb.com/?tab=seasonall&id=186461&lid=25 「大改造!!劇的ビフォーアフター」放送リスト TheTVDB.com](2013年2月17日放送分まで) * [https://dgba.ehoh.net/DGBA_OAList.htm 大改造!!劇的ビフォーアフター 番組全放送リスト【全345回放送】] * [http://beforeafter.seesaa.net/ 大評価!!劇的ビフォーアフター] {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]] |放送枠=[[日曜日|日曜]]19:56 - 19:58枠 |番組名=大改造!!劇的ビフォーアフター<br />(第1期<small>・Season I</small>)<br />【2分縮小して継続】<br />【この番組まで朝日放送制作】 |前番組=[[弾丸!ヒーローズ]]<br />※19:56 - 20:54 |次番組=[[決定!これが日本のベスト100全国一斉○○テスト|決定!これが日本のベスト100]]<br />※18:56 - 19:58<br />【2分拡大して継続】<br />【この番組からテレビ朝日制作】 |2放送局=[[朝日放送テレビ]]制作・テレビ朝日系列 |2放送枠=日曜19:58 - 20:54 |2番組名=大改造!!劇的ビフォーアフター<br />(第1期<small>・Season I</small>) |2前番組=[[弾丸!ヒーローズ]] |2次番組=[[笑いの金メダル]]<br />【金曜21時台より移動】 |3番組名=大改造!!劇的ビフォーアフター<br />SEASON II(第2期) |3前番組=[[近未来×予測テレビ ジキル&ハイド]] |3次番組=[[人生で大事なことは○○から学んだ]] }} {{所ジョージ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect1=ビフォーアフター|1-1=流行語}} {{DEFAULTSORT:たいかいそうけきてきひふおおあふたあ}} [[Category:朝日放送テレビのドキュメンタリー番組]] [[Category:テレビ朝日のドキュメンタリー番組]] [[Category:BS朝日のドキュメンタリー番組]] [[Category:朝日放送テレビの情報・ワイドショー番組]] [[Category:テレビ朝日の情報・ワイドショー番組]] [[Category:BS朝日の情報・ワイドショー番組]] [[Category:朝日放送テレビのバラエティ番組]] [[Category:テレビ朝日のバラエティ番組]] [[Category:BS朝日のバラエティ番組]] [[Category:日本のリアリティ番組]] [[Category:2002年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:2009年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:視聴者参加型番組]] [[Category:住宅を題材とした番組]] [[Category:日本の建築|番組]] [[Category:所ジョージ]] [[Category:継続中の作品]]
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装幀
装幀 (そうてい、装丁)とは、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。 広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は箱のデザイン、材料の選択を含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。 また、装幀を担当する専門家のことを装幀家、装丁家と呼ぶ。本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを、「図書設計家」と括る場合もある。 「そうてい」「装幀」は、正しくは装(よそお)い訂(さだ)める意味の「装訂」である。書画の表具を意味する「幀」(読み:トウ)が好まれ、装訂の略用表記「装丁」とともに定着している。「装釘」は職人の間での同音による誤用である。 日本において、明治までは、造本作業は単に「製本」と呼ばれた。明治末年頃からの出版文化の発展とともに、装い釘(てい)じるという意味の「装釘」が使われ始めた。「装釘」は「装い釘うつ」を意味する熟語として、中国古代より存在した。1920年代後半からは、釘との連想を避けて「装幀」と表記することが多くなった。1946年(昭和21年)に発表された当用漢字表には幀・釘ともに入っていなかったため、1956年(昭和31年)の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」では、装幀・装釘には「装丁」が置き換えられることとされたが、装幀や装釘も一般に用いられている。 大正から昭和初期に、民族学、民俗学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄は、壊れない本造りにこだわり、「装釘」の表記を好んで用いた。ついには「装釘同好会」の創設に参加。機関誌『書物と装釘』(1930年刊)が刊行された。岡はでき上がった本を床に叩きつけ、堅牢に仕上がっているかを試したという。 岩波書店の創業者の岩波茂雄も、社長室で、でき上がったばかりの本を床に叩きつけ、試したという話が伝わっている。 「装幀」と「ブックデザイン」という言葉は、同じ意味で使われることも、そうでない場合もある。 たとえば、書籍そのもので、 と分けて表記されている場合もある。このような場合には、「ブックデザイン」はカバーを除いた部分、すなわち、書籍本体のデザインのみを意味する。 ブック・デザイナーの桂川潤によれば、 とのことである。 「13歳のハローワーク公式サイト」には、以下のような記述がある。 ブックデザインを中心に活躍するグラフィックデザイナーの鈴木一誌は、以下のように、装丁よりもブックデザインを広いものと考えている。 多数印刷される本のブックデザインとは別に、ヨーロッパでは簡易製本で購入した本を、自分好みに職人に装幀してもらう「ルリユール」(reliure、「製本」を意味するフランス語)という伝統がある。頑丈に装幀されることが多いため、中世ヨーロッパの書籍が後世へ残ることに貢献した面があるほか、その技術は古書の修復にも用いられる。現代ヨーロッパにも工房があり、日本にも10人程度の職人がいるほか、一般の読書家向けに技術を教える講座が開かれている。 グラフィックデザイナーなどと兼業している場合が多い。
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装幀 (そうてい、装丁)とは、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。 広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は箱のデザイン、材料の選択を含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。 また、装幀を担当する専門家のことを装幀家、装丁家と呼ぶ。本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを、「図書設計家」と括る場合もある。
'''装幀'''(そうてい、装丁)とは、一般的には[[本]]を綴じて[[表紙]]などをつける作業を指す。 広義には、[[ブックカバー|カバー]]、表紙、見返し、扉、[[帯 (出版)|帯]]、外箱のある本は箱の[[デザイン]]、材料の選択を含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。 [[File:Shibata Renzaburou Short Story Collection "Koken" First edition book cover.jpg |right|200px|thumb|[[和風]]装幀の一例([[1962年]]出版)]] また、装幀を担当する専門家のことを'''装幀家'''、'''装丁家'''と呼ぶ。本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを、「[[日本図書設計家協会|図書設計家]]」と括る場合もある。 ==漢字表記について== 「そうてい」「'''装幀'''」は、正しくは装(よそお)い訂(さだ)める意味の「'''装訂'''」である<ref name="st001">[[長澤規矩也]]『図解書誌学入門』(汲古書院,1976.11)p.3</ref>。書画の表具を意味する「幀」(読み:トウ)<ref name="t001">[http://www.kangxizidian.com/kangxi/0334.gif 康熙字典網上版]334頁</ref>が好まれ、装訂の略用表記「'''装丁'''」とともに定着している。「'''装釘'''」は職人の間での同音による誤用である<ref name="st001" />。 [[日本]]において、[[明治]]までは、造本作業は単に「製本」と呼ばれた。明治末年頃からの出版文化の発展とともに、装い釘(てい)じるという意味の「装釘」が使われ始めた<ref>裝釘同好會編『書物と裝釘』創刊号、1930年。</ref>。「装釘」は「装い釘うつ」を意味する[[熟語]]として、[[中国]]古代より存在した<ref name="司馬、1992年">[[司馬遼太郎]]「三人の茂雄」『本所深川散歩・神田界隈』[[街道をゆく]]36、司馬遼太郎、朝日新聞社、1992年、427〜437頁。</ref>。[[1920年代]]後半からは、釘との連想を避けて「装幀」と表記することが多くなった。[[1946年]]([[昭和]]21年)に発表された[[当用漢字|当用漢字表]]には幀・釘ともに入っていなかったため、[[1956年]](昭和31年)の[[国語審議会]]報告「[[同音の漢字による書きかえ]]」では、装幀・装釘には「'''装丁'''」が置き換えられることとされたが、装幀や装釘も一般に用いられている。 ==“そうてい”逸話== [[大正]]から昭和初期に、[[民族学]]、[[民俗学]]や[[考古学]]の名著を多数世に送り出した岡書院店主の[[岡茂雄]]は、壊れない本造りにこだわり、「装釘」の表記を好んで用いた。ついには「装釘同好会」の創設に参加。機関誌『書物と装釘』(1930年刊)が刊行された。岡はでき上がった本を床に叩きつけ、堅牢に仕上がっているかを試したという<ref>岡茂雄「落第本屋の手記」『本屋風情』、平凡社、1974年、264〜288頁。</ref>。 [[岩波書店]]の創業者の[[岩波茂雄]]も、社長室で、でき上がったばかりの本を床に叩きつけ、試したという話が伝わっている<ref name="司馬、1992年" />。 == 装幀とブックデザイン == 「装幀」と「ブックデザイン<ref>[[講談社出版文化賞]] では「[[講談社出版文化賞#ブックデザイン賞|'''ブックデザイン'''賞]]」を設けている</ref>」という言葉は、同じ意味で使われることも、そうでない場合もある。 たとえば、書籍そのもので、 *ブックデザイン *カバーデザイン *カバー[[イラストレーション]](カバー絵、装画) と分けて表記されている場合もある。このような場合には、「ブックデザイン」はカバーを除いた部分、すなわち、書籍本体のデザインのみを意味する。 ブック・デザイナーの桂川潤によれば<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~pd4j-ktrg/bookindx.html]、[http://www.asahi-net.or.jp/~pd4j-ktrg/profile.html]</ref>、 {{Quotation|*装丁:たいていは「本のジャケット、表紙、本扉、帯」といった外まわりのデザイン(+装丁資材の指定) *ブック・デザイン:これら外まわりのデザインに加え、判型、版面、見出しや本文の書体、本文用紙の指定など編集的要素を含めた「本のトータル・デザイン」という語感が加わる}} とのことである。 「13歳のハローワーク公式サイト」<ref>[http://www.13hw.com/job/02_02_17-a.html 13歳のハローワーク公式サイト]</ref>には、以下のような記述がある。 {{Quotation|ブックデザインには、表紙やブックカバーなど本の外観をデザインする装丁と、本文までを全てデザインする造本がある。ブックデザイナーには両方手がける人もいれば、装丁のみ手がける人もおり、装丁を専門とする人を装丁家とも言う。}} ブックデザインを中心に活躍するグラフィックデザイナーの鈴木一誌は<ref>[http://www.pot.co.jp/zu-bon/zu-05/zu-05_130]</ref>、以下のように、装丁よりもブックデザインを広いものと考えている。 {{Quotation|ブックデザインには、装丁だけやるブックデザインと、造本といって本文まで全部やるブックデザインがあるわけです。}} == 1冊単位での「ルリユール」 == 多数印刷される本のブックデザインとは別に、[[ヨーロッパ]]では簡易製本で購入した本を、自分好みに[[職人]]に装幀してもらう「[[ルリユール]]」(reliure、「製本」を意味する[[フランス語]])という伝統がある<ref>[https://letterpresslabo.com/2017/05/15/kulpcws-column-reliure/ 京都大学図書館資料保存ワークショップ[図書館に修復室をツクろう!]⑥ルリユールという仕事]活版印刷研究所ウェブマガジン(2018年12月27日閲覧)。</ref>。頑丈に装幀されることが多いため、[[中世ヨーロッパ]]の書籍が後世へ残ることに貢献した面があるほか、その技術は古書の修復にも用いられる。現代ヨーロッパにも工房があり、日本にも10人程度の職人がいるほか、一般の読書家向けに技術を教える講座が開かれている<ref>「ルリユール 本を着飾る」『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年10月14日(NIKKEI he TYLE)。</ref>。 == 主要な装幀家 == [[グラフィックデザイナー]]などと兼業している場合が多い。 ===世界=== {{節スタブ}} *[[ヤン・チヒョルト]] *[[d:Q2026837|マーガレット・ネルソン・アームストロング]] (アメリカ) ===日本=== <!--姓の50音順。--> *[[安西水丸]] *[[いしかわこうじ]] *[[岩郷重力]] - 『配達あかずきん』([[大崎梢]])、『叫びと祈り』([[梓崎優]])、『ヴェサリウスの柩』([[麻見和史]])など *[[宇野亜喜良]] *[[海野一雄]]([[ベイブリッジ・スタジオ]]) *[[大久保明子]] *[[大橋歩]] *[[奥村靫正]] *[[葛西薫]] *[[菊地信義]] - 『呉越春秋 湖底の城』([[宮城谷昌光]])など *[[クラフト・エヴィング商會]] *[[蔵前仁一]] *[[古賀鈴鳴]] *[[高麗隆彦]] *[[小村雪岱]] *[[近藤一弥]] *[[坂野公一]] *[[杉浦康平]] *[[鈴木成一]] - 『スカイ・クロラ』『女王の百年密室』([[森博嗣]])など *[[祖父江慎]] *[[辰巳四郎]] - 『十角館の殺人』([[綾辻行人]])、『姑獲鳥の夏』([[京極夏彦]])、『すべてがFになる』([[森博嗣]])など *[[多田和博]] - 『永遠の仔』([[天童荒太]])、『半落ち』([[横山秀夫]])など *[[多田進]] *[[田村義也]] *[[塚本やすし]] *[[戸田ツトム]] *[[栃折久美子]] *[[中垣信夫]] *[[永田千秋]](詠田千秋) *[[名久井直子]] - 『夢みごこち』([[フジモトマサル]])、『私の家では何も起こらない』([[恩田陸]])、『おはなしして子ちゃん』([[藤野可織]])、『京都怪談 おじゃみ』([[神狛しず]])など *[[西口司郎]] *[[橋口五葉]] *[[原弘]] *[[羽良多平吉]] *[[平野甲賀]] *[[ペドロ山下]] *[[松昭教]] 『陽気なギャングが地球を回す』([[伊坂幸太郎]]) など *[[ミウラ ティニ]] - [[川端康成]]の[[ノーベル文学賞]]表彰状<ref>ミウラ ティニ、三浦永年、金丸 裕子「ティニ・ミウラ、三浦永年夫妻のアトリエ訪問--手作り豪華製本装幀の世界」 (小特集 私流 本の楽しみ方)『東京人』第18巻第3号、東京都歴史文化財団、2003年3月、114-117頁。ISSN 0912-0173。</ref> *[[水戸部功]] *[[南伸坊]] *[[柳川貴代]] *[[山藤章二]] *[[吉岡実]] *[[和田誠]] == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[本]] *[[出版]] *[[製本]] *[[表紙]] *[[ブックカバー]] *[[標題紙|扉・標題紙・タイトルページ]] *[[エディトリアルデザイン]] *[[造本装幀コンクール展]] *[[人皮装丁本]] *[[ジャケ買い]] *[[ペーパーバック]] *[[帯 (出版)|帯]] *[[金付け]] ==外部リンク== *[http://www.tosho-sekkei.gr.jp/ 日本図書設計家協会] *{{コトバンク |word=装丁}} {{イラストレーション}} {{西洋の芸術運動}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:そうてい}} [[Category:装幀|*]]
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窓の杜
窓の杜(まどのもり、WINDOWS FOREST)は、株式会社インプレスが運営するMicrosoft Windows用のオンラインソフトウェアを紹介するウェブサイトだ。Impress Watchの一角をなす。 オンラインソフトウェア紹介のほか、様々な特集が組まれている。ベクター社が運営する同様のサイトVectorとの違いは、ソフトの数を少数に絞り込み、詳しく解説している点だ。また2002年より2017年までほぼ毎年、エイプリルフール企画として窓の社(まどのやしろ)を更新した。 「窓」は、Microsoft WindowsのWindowsを日本語に直訳したものだ。「杜」は、良質のオンラインソフトが集まることを「森」に見立てられたことからだ。 前身となるサイト秋保窓(あきうまど)を立ち上げた当時、製作者のひぐちたかしが宮城県仙台市に住んでおり、仙台の雅称「杜の都」にちなんで「森」ではなく「杜」の字が充てられた。 1996年と1997年の窓の杜大賞では編集部側の票がユーザ側の票よりも遥かに大きく重み付けされており、これにより結果がかなり左右された。例えば1997年では、一般票で二位だった Mule がスタッフ票により五位になり、Mule よりも一般票の少なかった Internet Explorer が二位になった。このようなことが投票したユーザの多くから中立性に欠けるとして非難された。1998年は特別賞以外の賞を一般票のみで決めるというルールに変更された。 1997年頃、「ボツの杜」というコーナーがあった。掲載するに至らなかったソフトウェアを「ボツソフト」として紹介するコーナーだったが、ソフトウェア作家たちの反発を招く結果となった。「杜の若葉」へと名称が変更されたのち、最終的には企画そのものを廃止している。 まず始めに、2005年2月の特集記事の中で「拡張機能」と「プラグイン」の違いを解説した上で、「拡張機能」についても「プラグイン」という名称を用いるとした。Mozilla Firefoxでは「拡張機能」と「プラグイン」は明確に区別され、同一視すべきではないことから、Firefoxユーザたちから反感を呼んだ。その後の別特集記事における、2006年3月の最終回で「今後は拡張機能と呼ぶ」としており、以降の記事では「拡張機能」の表現が用いられている。なおこの間の記事について訂正はない。
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窓の杜は、株式会社インプレスが運営するMicrosoft Windows用のオンラインソフトウェアを紹介するウェブサイトだ。Impress Watchの一角をなす。
{{Infobox Website |サイト名=窓の杜 |ロゴ= |スクリーンショット= |スクリーンショットの説明= |URL=https://forest.watch.impress.co.jp/ |スローガン= |営利性=[[営利]] |タイプ=ソフトウエア紹介 |登録=なし |使用言語=日本語 |運営者=株式会社[[インプレス]] |設立者=ひぐちたかし |設立日=[[1994年]] |収益= |現状= |ライセンス= }} '''窓の杜'''(まどのもり、WINDOWS FOREST)は、株式会社[[インプレス]]が運営する[[Microsoft Windows]]用の[[オンラインソフトウェア]]を紹介する[[ウェブサイト]]だ。[[Impress Watch]]の一角をなす。 ==概要== オンラインソフトウェア紹介のほか、様々な特集が組まれている。ベクター社が運営する同様のサイト[[ベクター (企業)|Vector]]との違いは、ソフトの数を少数に絞り込み、詳しく解説している点だ。また2002年より2017年までほぼ毎年、[[エイプリルフール]]企画として'''窓の社'''(まどのやしろ)を更新した。 ==名前の由来== 「[[窓]]」は、[[Microsoft Windows]]の''Windows''を日本語に直訳したものだ。「[[杜]]」は、良質のオンラインソフトが集まることを「[[森林|森]]」に見立てられたことからだ。 前身となるサイト'''[[秋保町|秋保]]窓'''(あきうまど)を立ち上げた当時、製作者の[[ひぐちたかし]]が[[宮城県]][[仙台市]]に住んでおり、仙台の[[雅称]]「[[杜の都]]」にちなんで「森」ではなく「杜」の字が充てられた。 ==歴史== *[[1994年]] - ひぐちたかし個人が、[[東北大学]]内の[[サーバ]]で前身となる'''秋保窓'''を開設する。これは当時使用していたサーバの名前が「'''Akiu'''」であったことに由来する(秋保は、仙台市と合併する前の[[秋保町]]、あるいは、現仙台市太白区にある[[秋保温泉]]より)。開設された当時、まだ[[Google]]どころか[[Yahoo!]]もなく[[Microsoft Windows 95]]さえもなかった時代に密かな人気となった。このことより、日本最古のオンラインソフト紹介サイトだとされることがある。 *[[1996年]][[5月]] - 学外からの'''秋保窓'''の利用が多くなるにつれ、回線速度の面で本来の目的である学術利用に支障を来たすようになった。また[[日本経済新聞社]]との[[成功報酬型広告|アフィリエイト]]関係が築かれたこと{{要出典|date=2010年1月}}もあり、国立大学の関係者にふさわしくない行為としても問題視された{{誰2|date=2012年3月}}ため、一旦閉鎖に追い込まれる。以降その代替としてDTIなどの商用サーバへ移転したものの、あまりにもアクセス数が多く耐え切れない状態が続いた。 *[[1996年]][[10月14日]] - [[インプレス]]社(当時)の協力の下でサイトを移転し、'''窓の杜'''と改名した。これによって同サイトはひぐちたかし個人の単独名義ではなく、[[インプレス]]社(当時)とひぐちたかしとの共同名義となった。なお公式には窓の杜の誕生日はこの日とされている。 *[[1996年]][[10月15日]] - '''窓の杜'''の正式運用が始まる。 *[[1996年]] - [[Yahoo! JAPAN]]主催の''[[Web of the Year]]''でコンピュータ部門1位を獲得する。以降同イベントが廃止されるまで、全ての年で同部門1位を獲得している。 *[[1998年]][[2月2日]] - フレームによるものではあるが、サイトのレイアウトが現在のレイアウトにかなり近い物へ変更される。このレイアウト思想は以降長年継承されることとなる。またこの頃、サイトの名義が[[インプレス]]社(当時)単独へと変更された。 *[[1998年]][[6月2日]] - 経営危機から大幅に運営方針を転換。 *[[2000年]][[4月1日]] - 初めてのエイプリルフール企画として「[https://forest.watch.impress.co.jp/article/2000/04/01/korean.html 窓の杜韓国語版]」「[https://forest.watch.impress.co.jp/article/2000/04/01/chinese.html 同中国語版]」が掲載される。 *[[2000年]][[11月14日]] - 姉妹サイトとして[[Macintosh]]用のソフトウェアを紹介する[[林檎の杜]]が開設される(しかし不調に終わり、また提携していた[[MACLIFE]]誌の休刊もあったため、[[2002年]][[3月29日]]に閉鎖された)。 *[[2001年]][[3月14日]] - バナー画像が窓を意識したものから杜を意識したものへと変更される。 *[[2001年]][[4月1日]] - エイプリルフール企画として女性向けオンラインソフト情報サイト「[https://forest.watch.impress.co.jp/article/2001/04/01/elle.html 窓の杜elle]」が掲載される。 *[[2001年]][[12月17日]] - ひぐちたかしが自身の担当コーナーを終了、編集部の一線から身を退く。 *[[2002年]][[10月1日]] - レイアウトの変更(特に過去のアップデート情報)およびサイドメニューの動的化がなされる。 *[[2004年]][[4月2日]] - リニューアル準備のため、一時記事の更新が中止となる。 *[[2004年]][[4月12日]] - レイアウトやデザイン周りの変更がなされる。 *[[2005年]][[10月3日]] - 旧インプレス社が事業分割されたことに伴い、[[Impress Watch]]社名義となる。 *[[2016年]][[6月1日]] - 創刊20周年を記念してレイアウトをフルリニューアル。 === 窓の社 === *[[2002年]][[4月1日]] - エイプリルフール企画、オンラインソフト捏造サイト「窓の社(まどのやしろ)」が初めて掲載される。以降、ほぼ毎年エイプリルフール企画を実施。 *[[2006年]][[4月3日]] - 窓の社が「日本インターネット エイプリル・フール協会」主催の『2006年ばかオブザイヤー』でdotBar賞を受賞。 *[[2011年]][[3月31日]] - エイプリルフール企画を2012年に延期<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/yashiro/2011/|title=エイプリルフール延期のお知らせ|publisher=[[インプレス]]|date=2011-03-31|accessdate=2021-04-01}}</ref>。 *[[2017年]][[4月1日]] - エイプリルフール企画記事へのアクセスをツイッター経由に変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1052612.html|title=捏造サイト“窓の社(まどのやしろ)”が公開、ついにトップページが消失か?|publisher=[[インプレス]]|date=2017-04-01|accessdate=2021-04-01}}</ref>。以降は更新されず。 ==トラブル== ===窓の杜大賞の偏向票問題=== 1996年と1997年の窓の杜大賞では編集部側の票がユーザ側の票よりも遥かに大きく重み付けされており、これにより結果がかなり左右された。例えば1997年では、一般票で二位だった Mule がスタッフ票により五位になり、Mule よりも一般票の少なかった Internet Explorer が二位になった<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/prize/1997/result.html 1997年 窓の杜大賞]</ref>。このようなことが投票したユーザの多くから中立性に欠けるとして非難された。1998年は特別賞以外の賞を一般票のみで決めるというルールに変更された<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/prize/1998/ 1998年 窓の杜大賞]</ref>。 === ボツの杜問題 === 1997年頃、「'''ボツの杜'''」というコーナーがあった。掲載するに至らなかったソフトウェアを「ボツソフト」として紹介するコーナーだったが、ソフトウェア作家たち{{誰|date=2012-01}}の反発を招く結果となった<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~FV6N-tnsk/gates/forest.html 窓の杜のその裏側]</ref>。「'''杜の若葉'''」へと名称が変更されたのち、最終的には企画そのものを廃止している。 === Firefox拡張機能問題 === まず始めに、2005年2月の特集記事の中で「[[拡張機能 (Mozilla)|拡張機能]]」と「[[プラグイン]]」の違いを解説した上で、「[[拡張機能 (Mozilla)|拡張機能]]」についても「[[プラグイン]]」という名称を用いるとした<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/article/2005/02/17/firefoxplugins.html 「Firefox」プラグイン特集 第1回]</ref>。[[Mozilla Firefox]]では「拡張機能」と「プラグイン」は明確に区別され、同一視すべきではないことから、Firefoxユーザたち{{誰|date=2012-01}}から反感を呼んだ。その後の別特集記事における、2006年3月の最終回で「今後は拡張機能と呼ぶ」としており<ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/article/2006/03/23/ffplugins15_5.html 「Firefox」プラグイン特集 v1.5対応版 第5回]</ref>、以降の記事では「拡張機能」の表現が用いられている。なおこの間の記事について訂正はない。 == 出典 == <references /> ==外部リンク== *[https://forest.watch.impress.co.jp/ 窓の杜] *{{Twitter|madonomori}} *{{Facebook|impress.madonomori}} *[https://forest.watch.impress.co.jp/yashiro/ 窓の社(まどのやしろ)] {{DEFAULTSORT:まとのもり}} [[Category:インプレス]] [[Category:技術のウェブサイト]] [[Category:日本のニュースサイト]] [[Category:ソフトウェア]] [[Category:ITニュースサイト]]
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林檎の杜
林檎の杜(りんごのもり)はインプレス社が運営していたMacintosh用のオンラインソフトウェアを紹介するウェブサイト。同じくインプレスが運営していたMicrosoft Windows用のソフトウェアを扱うサイト窓の杜の姉妹サイトとして2000年11月に開設された。 コンテンツ制作はMACLIFE誌編集部が行っていたが、同誌が2002年1月に廃刊となったため、同2002年3月29日をもって閉鎖されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "林檎の杜(りんごのもり)はインプレス社が運営していたMacintosh用のオンラインソフトウェアを紹介するウェブサイト。同じくインプレスが運営していたMicrosoft Windows用のソフトウェアを扱うサイト窓の杜の姉妹サイトとして2000年11月に開設された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コンテンツ制作はMACLIFE誌編集部が行っていたが、同誌が2002年1月に廃刊となったため、同2002年3月29日をもって閉鎖されている。", "title": null } ]
林檎の杜(りんごのもり)はインプレス社が運営していたMacintosh用のオンラインソフトウェアを紹介するウェブサイト。同じくインプレスが運営していたMicrosoft Windows用のソフトウェアを扱うサイト窓の杜の姉妹サイトとして2000年11月に開設された。 コンテンツ制作はMACLIFE誌編集部が行っていたが、同誌が2002年1月に廃刊となったため、同2002年3月29日をもって閉鎖されている。
'''林檎の杜'''('''りんごのもり''')は[[インプレス]]社が運営していた[[Macintosh]]用の[[オンラインソフトウェア]]を紹介する[[ウェブサイト]]。同じくインプレスが運営していた[[Microsoft Windows]]用のソフトウェアを扱うサイト[[窓の杜]]の姉妹サイトとして[[2000年]]11月に開設された。 コンテンツ制作は[[MACLIFE]]誌編集部が行っていたが、同誌が[[2002年]]1月に廃刊となったため、同2002年3月29日をもって閉鎖されている。 == 外部リンク == *[https://forest.watch.impress.co.jp/ringo/ 林檎の杜] - 現在は閉鎖 *[https://web.archive.org/web/20010413163148/http://www.forest.impress.co.jp/ringo/ 林檎の杜] - 2001年4月時点のインターネットアーカイブ {{デフォルトソート:りんこのもり}} [[Category:技術のウェブサイト]] [[Category:2000年開設のウェブサイト]] [[Category:2002年廃止のウェブサイト]]
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マック
マック(MAC、Mac、MUC、Mc、Mack、Mak)
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マック(MAC、Mac、MUC、Mc、Mack、Mak)
'''マック'''(MAC、Mac、MUC、Mc、Mack、Mak) == 企業、企業の商標 == * [[マクドナルド]]([[アメリカ合衆国|米国]]の[[ハンバーガー]]ショップ([[ファーストフード]][[チェーンストア|チェーン]]))の略称・通称・愛称の1つ。 ** [[日本マクドナルド]] - 日本におけるマクドナルドの運営法人。 ** [[日本マクドナルドホールディングス]] - 上記の日本マクドナルドの[[持株会社]]。 * [[Mac (コンピュータ)]] - 米[[Apple]]の[[パーソナルコンピュータ]]。 * M・A・C - [[:en:MAC Cosmetics|MAC Cosmetics社]]([[カナダ]]の[[化粧品]]メーカー)、またはそのブランド名。 * [[マック・トラックス]](米国の[[貨物自動車|トラック]]メーカー)の[[商標]]または通称。 * [[上島珈琲貿易株式会社]](MUC)。 * [[パナソニック|松下電器産業(現:パナソニック)]]がかつて製造販売していた[[ラジオカセットレコーダー|ラジカセ]]の[[日本の商標制度|登録商標]]。 * 松下電器産業がかつて製造販売していた[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]である[[マックロード]]の略称。 * ドラッグストアmac - [[大屋]]が展開するドラッグストア。 * マックバーガー - [[マルシンフーズ]]の子会社が展開していた[[自動販売機]]ハンバーガーのブランド名。上記の「マクドナルド」との[[民事訴訟]]に[[敗訴|敗れた]]ため、「[[グーテンバーガー]]」に改称していた。 == 人名 == * [[マック (ゲール語)]] - [[姓]]の一部に使われる[[単語|語]]または[[接頭辞]] (Mc-, Mac-) で、[[ゲール語]]で「[[息子]]」という意味。 * [[ベトナム]]の姓 ({{lang|vi|Mạc}}) 。[[莫]]を参照。 ** [[莫朝]] - 16-17世紀のベトナムの王朝。 * [[漢姓]]「'''麦'''」の[[広東語]]発音。[[アラン・マック]](映画監督)など。 * [[マック赤坂]] - 日本の政治運動家・実業家。本名は'''戸並誠'''。 * [[マック鈴木]] - 日本の野球選手。本名は'''鈴木誠'''。 * [[カリル・マック]] - アメリカのアメリカンフットボール選手。 * [[コニー・マック]] - アメリカの野球選手。 * [[シェーン・マック]] - アメリカの野球選手。 * [[シェルビン・マック]] - アメリカのバスケットボール選手。 * [[ジョヴァンニ・デ・マック]] - [[イタリア]]の[[作曲家]]。 * [[ラインハルト・マック]] - [[クイーン (バンド)|クイーン]]のプロデューサー。 * [[マック・クリハラ]] - 日系アメリカ人のボクシングトレーナー。 * [[マック・ヘロン]] - アメリカのアメリカンフットボール選手。 ; 愛称 * 野球選手・[[金子誠]]の愛称。 * 野球選手・[[佐藤政夫]]の愛称。 * アメリカの軍人・[[ダグラス・マッカーサー]]の愛称。 *イギリスの政治家・[[ハロルド・マクミラン]]の愛称。 * [[ボーンズ・ブリゲート]]のメンバー・[[マイク・マクギル]]の愛称。 == その他 == * [[マック (映画)]] (MAC and Me) 。[[1988年]]にマクドナルドと[[コカ・コーラ]]の全面タイアップで、[[火星]]をテーマにしてつくられた[[映画]]。[[スチュワート・ラフィル]]監督、[[ジェイド・カレゴリー]]主演。 * [[メジロマックイーン]]の略称。日本の[[競走馬]]・[[種牡馬]]。 * [[マック・トラック]] ([[w:en:Mack Trucks|Mack Trucks]]) 。アメリカ合衆国のトラック専門メーカーで[[ボルボ・グループ|ボルボ]]グループの一員 * [[マック (ハアブ暦)]]。[[マヤ文明|マヤ]]の365日暦([[ハアブ]]暦)の月の1つ。 * [[イングラムM10#イングラムM11|Ingram Mac11]] - 小型のサブマシンガン。 * [[MACシップ]] - [[第二次世界大戦]]前半に[[イギリス軍]]が運用した商船に飛行甲板を設置した簡易[[空母]]、商船空母。 * [[マック (船)]] - [[マスト]]と[[煙突]]を一体化させた、船の上部構造物。 * [[ウルトラマンレオ#MAC|MAC]] - 『[[ウルトラマンレオ]]』に登場する防衛チームの名称。正式名称は、「'''Monster Attacking Crew'''」。 * [[マック (象)]] - [[神戸市立王子動物園]]で飼育されているオスの[[アジアゾウ]]。 == 関連項目 == * [[MAC]]、[[MUC]]、[[MC]]、[[MAK]] {{aimai}} {{デフォルトソート:まつく}} [[Category:英語の姓]] [[Category:中国語の姓]] [[Category:ベトナムの姓]] [[Category:英語の男性名]] [[Category:人物の愛称]]
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肥後国
肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。 元来は肥前国と合わせて火国・肥国(ひのくに)であった。「肥後国」として初めて文献に現れるのは持統天皇10年(696年)頃であり、7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。 明治維新直前の領域は、現在の熊本県全域に宮崎県の一部(下記)を加えた区域に相当する。ただし、宮崎県内の区域は1872年(明治5年)に日向国に移管されている。 室町時代の後期まで長島・伊唐島・諸浦島・獅子島(現在の鹿児島県出水郡長島町)は、肥後国天草郡に属していたが、1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。 国府所在地を記した文献は次の通り。 国府は託麻郡、益城郡、飽田郡と変遷したとされる。それぞれ託麻国府は熊本市中央区国府(北緯32度47分14.25秒 東経130度43分22.66秒 / 北緯32.7872917度 東経130.7229611度 / 32.7872917; 130.7229611 (第一次肥後国府(託麻国府)))、益城国府は未詳(諸説)、熊本市西区二本木の二本木遺跡と推定されている。 延喜式内社 総社・一宮以下 以上のほか、郡浦神社(宇城市三角町郡浦)が三宮を称する。 ※日付=旧暦
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肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、熊本県に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 肥後国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|肥後国}} |別称 = 肥州(ひしゅう)<ref group="注釈">別称「肥州」は、[[肥前国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref> |所属 = [[西海道]] |領域 = [[熊本県]] |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 14郡99郷 |国府 = 1.(推定)熊本県[[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]]<br/>2.熊本県熊本市[[中央区 (熊本市)|中央区]]<br/>3.(推定)熊本県熊本市[[西区 (熊本市)|西区]] |国分寺 = 熊本県熊本市 |国分尼寺 = 熊本県熊本市 |一宮 = [[阿蘇神社]](熊本県[[阿蘇市]]) }} '''肥後国'''(ひごのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属し、[[熊本県]]に属する。 == 沿革 == 元来は[[肥前国]]と合わせて[[火国|火国・肥国]](ひのくに)であった。「肥後国」として初めて文献に現れるのは[[持統天皇]]10年([[696年]])頃であり、7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,908村・851,099石7斗5升)。'''太字'''は当該郡内に藩庁が所在。[[天領|幕府領]]は[[長崎奉行]]が管轄。下記のほか天草郡に[[寺社領]]が所在。 ** [[飽田郡]](177村・72,420石余) - '''[[熊本藩]]''' ** [[託麻郡]](59村・32,141石余) - 熊本藩 ** [[上益城郡]](201村・98,284石余) - 熊本藩 ** [[下益城郡]](191村・95,568石余) - 熊本藩 ** [[宇土郡]](64村・35,794石余) - 熊本藩 ** [[八代郡]](96村・62,985石余) - 幕府領、熊本藩 ** [[葦北郡]](204村・21,023石余) - 熊本藩 ** [[玉名郡]](257村・125,441石余) - 熊本藩 ** [[山本郡 (熊本県)|山本郡]](62村・26,654石余) - 熊本藩 ** [[菊池郡]](81村・29,572石余) - 熊本藩 ** [[合志郡]](104村・51,839石余) - 熊本藩 ** [[山鹿郡]](67村・36,150石余) - 熊本藩 ** [[阿蘇郡]](214村・72,800石余) - 熊本藩 ** [[球磨郡]](40村・64,760石余) - '''[[人吉藩]]''' ** [[天草郡]](91村・25,661石余) - 幕府領 * [[慶応]]4年 ** [[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1868年]][[6月15日]]) - 幕府領が'''[[富岡県]]'''の管轄となる。 ** [[6月10日 (旧暦)|6月10日]](1868年[[7月29日]]) - 富岡県の管轄区域が'''[[天草県]]'''の管轄となる。 ** [[8月29日 (旧暦)|8月29日]](1868年[[10月14日]]) - 天草県の管轄区域が'''[[長崎府]]'''の管轄となる。 * 明治2年6月20日([[1869年]][[7月28日]]) - 長崎府の管轄区域が'''[[長崎県]]'''の管轄となる。 * 明治3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1871年]][[2月13日]]) - 長崎県の管轄区域のうち八代郡の一部([[五家荘]])が熊本藩領となる。 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[熊本県]]'''(第1次)、'''[[人吉県]]'''の管轄となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、下益城郡・宇土郡・球磨郡・葦北郡・八代郡・天草郡が'''[[八代県]]'''の管轄となる。 * 明治6年([[1873年]])[[1月15日]] - 全域が'''[[白川県]]'''の管轄となる。 * 明治8年([[1875年]])[[12月10日]] - '''熊本県'''(第2次)の管轄となる。 == 領域 == [[明治維新]]直前の領域は、現在の[[熊本県]]全域に[[宮崎県]]の一部(下記)を加えた区域に相当する。ただし、宮崎県内の区域は[[1872年]]([[明治]]5年)に[[日向国]]に移管されている。 * [[西都市]]の一部(上揚・銀鏡・八重・中尾・尾八重・寒川) * [[児湯郡]][[木城町]]の一部(中之又) * 児湯郡[[西米良村]]の全域 === 肥後国から薩摩国へ移った地域 === [[室町時代]]の後期まで[[長島 (鹿児島県)|長島]]・[[伊唐島]]・[[諸浦島]]・[[獅子島]](現在の[[鹿児島県]][[出水郡]][[長島町]])は、肥後国[[天草郡]]に属していたが、[[1565年]]([[永禄]]8年)から[[1581年]]([[天正]]9年)にかけて[[島津氏]]から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、[[薩摩国]]出水郡の所属となった。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === 国府所在地を記した文献は次の通り。 * 『[[和名類聚抄|和名抄]]』([[平安時代]]中期成立)では「[[益城郡]]」<ref>[{{NDLDC|2544218/29}} 『和名類聚抄 20巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)29コマ参照。</ref> * 『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]中期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]成立)では「益城郡」「[[飽田郡]]」(両方に府と記載)<ref>[{{NDLDC|2543900/59}} 『拾芥抄 3巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)59コマ参照。</ref> * 『[[節用集]]』([[室町時代]]中期成立)では「[[飽田郡]]」<ref>[{{NDLDC|1112421/144}} 『節用集 易林本』](国立国会図書館デジタルコレクション)144コマ。</ref> 国府は託麻郡、益城郡、飽田郡と変遷したとされる{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|p=621}}。それぞれ託麻国府は[[熊本市]][[中央区 (熊本市)|中央区]]国府({{Coord|32|47|14.25|N|130|43|22.66|E|region:JP-43_type:landmark|name=第一次肥後国府(託麻国府)}})、益城国府は未詳(諸説)、熊本市[[西区 (熊本市)|西区]][[二本木 (熊本市)|二本木]]の二本木遺跡と推定されている{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|p=621}}。 === 国分寺・国分尼寺 === [[File:Higo Kokubunji tower cornerstone.jpg|thumb|200px|国分寺七重塔心礎]] * 肥後国分寺跡 (熊本市中央区出水一丁目・神水本町、{{Coord|32|47|19.32|N|130|43|55.30|E|region:JP-43_type:landmark|name=肥後国分寺(講堂跡、後継寺院)}}) ** 寺域は2町四方で、託麻国府に近接。[[法起寺]]式[[伽藍配置]]と推定される。法燈を伝承する医王山国分寺の本堂が講堂西南隅に当たる。講堂の北側には僧坊と小房子、南側には塔・回廊と南大門が検出されており、塔心礎は原位置から東方30m程の熊野神社境内に現存する。塔の東側にあったと推定される金堂は未調査。出土した[[瓦]]は北東約8kmの楳谷寺瓦窯跡(同市東区小山町)で焼かれたもので、その様式から[[平安時代]]末期まで存続していたことが分かる。文字瓦や[[墨書土器]]も出土した。 * 肥後国分尼寺跡(熊本市中央区水前寺公園、{{Coord|32|47|20.4|N|130|44|11.6|E|region:JP-43_type:landmark|name=肥後国分尼寺跡}}) ** [[水前寺成趣園|水前寺公園]]南東にある陣山廃寺が国分尼寺跡と推定されている。南北170m、東西115mの規模で、講堂・金堂・中門・回廊・南門などの遺構が確認されている。瓦は国分寺と同笵である。廃絶は国分寺より早く、10世紀頃に焼亡したらしい。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、次に示す大社1座1社・小社3座3社の計4座4社が記載されている([[肥後国の式内社一覧]]参照)。大社1社は次に示すもので、[[名神大社]]である。 * [[阿蘇郡]] 健磐竜命神社 ** 比定社:[[阿蘇神社]]([[阿蘇市]]一の宮町宮地) '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく総社・一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 618-621。</ref>。 * 総社:総社神社 ({{Coord|32|47|35.33|N|130|41|31.02|E|region:JP-43_type:landmark|name=肥後国総社:総社神社(北岡神社境内社)}}) - [[北岡神社]]([[熊本市]]西区春日)境内社。 * 一宮:[[阿蘇神社]] ([[阿蘇市]]一の宮町宮地、{{Coord|32|56|52.75|N|131|6|57.18|E|region:JP-43_type:landmark|name=肥後国一宮、名神大社:阿蘇神社}}) * 二宮:[[甲佐神社]] ([[上益城郡]][[甲佐町]]上揚、{{Coord|32|38|36.13|N|130|50|3.64|E|region:JP-43_type:landmark|name=肥後国二宮:甲佐神社}}) - [[保延]]3年([[1137年]])までには阿蘇神社の末社化{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|p=620}}。 * 三宮:[[藤崎八旛宮]] ([[熊本市]]中央区井川淵町、{{Coord|32|48|31.27|N|130|43|5.20|E|region:JP-43_type:landmark|name=肥後国三宮:藤崎八旛宮}}) - [[嘉禎]]4年([[1238年]])の文書に「当州第三之宗廟」{{Sfn|中世諸国一宮制|2000年|p=620}}。 以上のほか、[[郡浦神社]]([[宇城市]]三角町郡浦)が三宮を称する<ref>三角町史編纂委員会編纂 『三角町史』 三角町役場、1987年。</ref>。 === 安国寺利生塔 === * 安国寺 - 熊本県熊本市西区横手。 * 安國寺 - 熊本県宇土市花園町佐野。 * 安国寺 - 熊本県菊池市豊水。 * 利生塔 - [[如来寺 (宇土市)|如来寺]](熊本県宇土市岩古曽町)内に設置。 == 地域 == === 郡 === * [[玉名郡]] * [[山鹿郡]] * [[菊池郡]] * [[阿蘇郡]] * [[合志郡]] * [[山本郡 (熊本県)|山本郡]] * [[飽田郡]] * [[託麻郡]] * [[下益城郡]]…[[江戸時代]]に[[益城郡]]を分割 * [[上益城郡]]…江戸時代に益城郡を分割 * [[宇土郡]] * [[八代郡]] * [[天草郡]] * [[葦北郡]] * [[球磨郡|球麻郡]] === 江戸時代の藩 === * [[熊本藩]](肥後藩)、[[加藤氏#清正系加藤氏|加藤家]](52万石)→[[細川氏#肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)|細川家]](54万石) * [[熊本藩#支藩|高瀬藩]](熊本藩支藩、3.5万石) * [[宇土藩]](熊本藩支藩、3万石) * [[人吉藩]]、[[相良氏|相良家]](2.2万石) * [[富岡藩]](天草藩)、[[山崎家治|山崎家]](4.2万石)→[[天領]](4.2万石→2.1万石)→[[戸田忠昌|戸田家]](2.1万石)→天領 == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ※日付=旧暦 ==== 肥後守 ==== * [[道首名|道君首名]]([[712年]]([[和銅]]5年) - [[718年]]([[養老]]2年)) * [[高倉殿継]]([[806年]]([[大同 (日本)|大同]]元年)1月28日 - )従五位上 * [[大枝永山]]([[812年]]([[弘仁]]3年)1月12日 -9月27日 )従五位上 * [[紀咋麻呂]](812年(弘仁3年)9月27日 - [[813年]](弘仁4年)2月21日)従五位上 * 大枝永山(813年(弘仁4年)2月21日 - )従五位上 * [[藤原村田]]([[827年]]([[天長]]4年)3月9日 - )従五位上 * [[粟田飽田麻呂]]([[834年]]([[承和 (日本)|承和]]元年)頃)従五位下 * [[藤原高総]]([[836年]](承和3年)以前) * [[大和吉直]](846年(承和13年)1月13日 - 847年(承和14年)2月11日)従五位下 * [[藤原正世]](849年([[嘉祥]]2年)1月13日 - 2月27日)従五位下 * [[清原有雄|有雄王]](849年(嘉祥2年)2月27日 - )従四位下 * [[清原有雄]](854年([[斉衡]]元年)11月27日 - )従四位上 ※[[850年]](嘉祥3年)に有雄王が[[清原氏|清原真人]]姓を賜わり[[臣籍降下]] * [[高階峯緒]]([[855年]](斉衡2年)1月15日 - 855年(斉衡2年)8月23日)正五位下 * [[藤原冬緒]](855年(斉衡2年)8月23日 - [[859年]]([[貞観 (日本)|貞観]]元年)12月21日)従五位上 * (権守)[[紀有常]]([[858年]]([[天安 (日本)|天安]]2年)2月5日 - )従五位上 * [[小野貞樹]]([[860年]](貞観2年)1月16日 - )従五位上 * [[藤原真数]](860年(貞観2年)11月27日 - [[864年]](貞観6年))従五位上 * [[紀夏井]]([[865年]](貞観7年)1月27日 - [[866年]](貞観8年)9月22日)従五位上 * [[在原安貞]](866年(貞観8年)11月29日 - )従五位上 * (権守)[[藤原山蔭]]([[879年]]([[元慶]]3年)8月17日 - [[880年]](元慶4年)1月)従四位上 * [[藤原房雄 (藤原南家)|藤原房雄]](880年(元慶4年)5月13日 - 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[[1272年]](文永9年) - [[北条時章]] * 1272年(文永9年) - [[少弐資能]] * [[1276年]](建治2年) - [[1285年]](弘安8年) - [[安達泰盛]] * 1285年(弘安8年) - [[1292年]](正応5年) - 北条氏 * [[1310年]](延慶3年) - ? - [[北条政顕]] * [[1327年]](嘉暦2年) - [[1333年]](元弘3年、正慶2年) - [[北条高政]] ==== 室町幕府 ==== * [[1335年]](建武2年) - [[大友氏泰]] * 1335年(建武2年) - [[1348年]](南朝:正平3年、北朝:貞和4年) - [[少弐頼尚]] * 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年) - [[1353年]](南朝:正平8年、北朝:文和2年) - [[一色直氏]] * [[1357年]](南朝:正平12年、北朝:延文2年) - [[1359年]](南朝:正平14年、北朝:延文4年) - [[菊池武光]] * 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年) - [[1361年]](南朝:正平16年、北朝:康安元年) - [[大友氏時]] * 1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年) - [[阿蘇惟澄]] * [[1362年]](南朝:正平17年、北朝:貞治元年) - [[阿蘇惟村]] * [[1373年]](南朝:文中2年、北朝:応安6年) - [[1379年]](南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - [[今川貞世]] * 1379年(南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - 阿蘇惟村 * [[1380年]](南朝:天授6年、北朝:康暦2年) - [[1395年]](応永2年) - 今川貞世 * [[1404年]](応永11年) - 阿蘇惟村 * - ? - [[1431年]](永享3年) - [[菊池兼朝]] * [[1431年]](永享3年) - [[1446年]](文安3年) - [[菊池持朝]] * 1446年(文安3年) - [[1466年]](文正元年) - [[菊池為邦]] * 1466年(文正元年) - [[1493年]](明応2年) - [[菊池重朝]] * 1493年(明応2年) - [[1504年]](永正元年) - [[菊池能運]] * 1504年(永正元年) - [[1505年]](永正2年) - [[菊池政隆]] * 1505年(永正2年) - [[1511年]](永正7年) - [[菊池武経]] * 1511年(永正7年) - ? - [[菊池武包]] * ? - [[1515年]](永正11年) - [[大友義長]] * 1515年(永正11年) - [[1550年]](天文19年) - [[大友義鑑]] * 1550年(天文19年) - [[1576年]](天正4年)- [[大友義鎮]] === 戦国時代 === ==== 戦国大名 ==== * [[菊池氏]]:肥後国守護。1504年、22代[[菊池能運]]が没すると、急速に没落 * [[阿蘇氏]]:阿蘇神社大宮司家で鎌倉以来の名門だが、1585年島津氏に降伏 * [[相良氏]]:最盛期には球磨・八代・葦北を領するが、1581年島津氏に降伏。後に豊臣政権の小大名として復活 ==== 豊臣政権の大名 ==== * [[佐々成政]]:肥後一国、1587年 - 1588年(肥後国人一揆の鎮圧に失敗し、改易・死罪) * [[加藤清正]]:肥後北半国19万5千石([[熊本城]])、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、肥後一国52万石の[[熊本藩]]に) * [[小西行長]]:肥後南半国20万石([[宇土城]])、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易・死罪) * [[相良頼房]]:人吉2万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、[[人吉藩]]に) === 武家官位としての肥後守 === ==== 江戸時代以前 ==== * [[菊池氏]] ** 17代[[菊池武朝]]の時に南北朝が統一され国司ではなくなったが(その後菊池氏は守護に転じる)、24代[[菊池武包]]まで代々の当主は肥後守を名乗った。 * [[笠井満秀]](? - [[1575年]](天正3年)5月21日)長篠設楽原合戦の武田方敗走時に討死 * [[朝比奈元智]] * [[木下家定]] * [[戸川秀安]] * [[野村直隆]] ==== 江戸時代 ==== * 肥後[[熊本藩]]主 ** [[加藤清正]] ([[慶長]]10年([[1605年]])、従五位上・侍従兼肥後守)、熊本藩[[加藤氏|加藤家]]初代藩主 ** [[加藤忠広]]、熊本藩加藤家第2代藩主 ** [[細川光尚]]、熊本藩[[細川氏|細川家]]2第代藩主 * [[陸奥国|陸奥]][[会津藩]][[会津松平家|松平家]] ** [[保科正之]]:初代藩主 ** [[松平正容]]:第3代藩主 ** [[松平容貞]]:第4代藩主 ** [[松平容頌]]:第5代藩主 ** [[松平容住]]:第6代藩主 ** [[松平容衆]]:第7代藩主 ** [[松平容敬]]:第8代藩主 ** [[松平容保]]:第9代藩主 * [[播磨国|播磨]][[山崎藩]][[本多氏|本多家]] ** [[本多忠英]]:初代藩主 ** [[本多忠方]]:第2代藩主 ** [[本多忠辰]]:第3代藩主 ** [[本多忠可]]:第5代藩主 ** [[本多忠敬 (山崎藩主)|本多忠敬]]:第7代藩主 ** [[本多忠鄰]]:第8代藩主 * その他 ** [[戸川達安]]:[[備中国|備中]][[庭瀬藩]]初代藩主 ** [[石川康勝]]:[[信濃国|信濃]][[奥仁科藩]]主 ** [[大関増裕]]:[[下野国|下野]][[黒羽藩]]第15代藩主 ** [[岩瀬忠震]] == 肥後国の合戦 == * [[893年]] - : [[新羅の入寇#寛平の韓寇|寛平の韓寇]] * [[1581年]] : [[相良義陽#響野原の戦い|響野原の戦い]] * [[1584年]] : [[阿蘇合戦]] * [[1587年]] : [[肥後国人一揆]] * [[1637年]] - [[1638年]] : [[島原の乱|島原・天草の乱]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=中世諸国一宮制研究会編|author=|year=2000|chapter=|title=中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher=岩田書院|isbn=978-4872941708|ref={{Harvid|中世諸国一宮制|2000年}}}} * [[角川日本地名大辞典]] 43 熊本県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Higo Province}} * [[令制国一覧]] * [[肥州]] * [[多氏]] * [[肥後もっこす]] * [[肥後守]](ナイフ) * [[肥後ずいき]] * [[あんたがたどこさ]] {{令制国一覧}} {{火国二国の郡}} {{DEFAULTSORT:ひこのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:西海道|国ひこ]] [[Category:熊本県の歴史]] [[Category:肥後国|*]]
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公傷制度
公傷制度(こうしょうせいど)は、大相撲にかつて存在した、負傷休場した横綱以外の力士に対する救済措置である。 横綱以外の力士が、本場所の取組において発生した怪我による休場については、通常の休場(休みの日数によっては負け越し扱い)とはしないようにする制度であった。公傷が認められた場合、その場所は休みを負けに換算して番付を編成するが、次の場所は休場しても、その次の場所は同じ地位に留まれる。公傷は1回の怪我につき、1場所までの全休が認められた。 昭和32年(1957年)に11月場所(九州場所)が行われるようになるまで、大相撲の本場所は年2~4場所制だったため、制度の必要性は皆無に等しかった。 例えば1年休んだ場合、現在では6場所もの長期休場となるが、昭和20年代までの休場期間は長くても2~4場所でしかなかったため、番付的にはよほどの重症でもない限り挽回可能だった。その後昭和33年(1958年)に7月場所(名古屋場所)も始まって年6場所制となったことで、負傷による休場の影響が大きく出るようになっていった。 昭和46年(1971年)になると、7月場所で、藤ノ川と増位山が相次いで負傷し、回復不十分のまま翌9月場所に強行出場、同年10月11日、横綱玉の海が急病により現役のまま死去、11月場所で、元小結でその場所前頭4枚目の龍虎が左アキレス腱断裂で長期休場を余儀なくされ、休んでいる間に幕下42枚目まで番付を下げた。 昭和46年12月1日には八百長問題、暴力団とのかかわり、力士の健康問題等、協会の抱える諸々の問題点が国会で追及された。 こうした出来事をきっかけに、昭和46年12月20日~22日の理事会で公傷制度の導入が決定し、翌昭和47年(1972年)1月場所から施行された。最初の適用者は同年5月場所の、幕下の宍戸であった。宍戸は同年3月場所の対朝ノ花(のち若三杉、横綱2代若乃花)戦で右膝関節を脱臼し、初めて公傷が認められた。十両では同年7月場所の鷲羽山、幕内で公傷が初適用された力士は昭和48年(1973年)5月場所の丸山である。公傷の適用は、取組に立ち会った審判委員5人が同意して作成する「現認証明書」と、医師からの診断書を加え、公傷認定委員が協議して公傷の適用の有無を決める。 しかし、昭和47年(1972年)3月場所9日目から「不眠症」を理由に休場した横綱北の富士は、ハワイでサーフィンを楽しむ姿を観光客に撮影され、写真が地元新聞に掲載された。相撲協会は北の富士に厳重注意をしている。 当時、大相撲以外のプロスポーツには公傷制度がなかったことから適用基準も厳しく、「土俵で立ち上がれたら公傷にはしない」「古傷の再発は公傷にしない」と言われていた。昭和54年(1979年)5月場所、前場所を肩の脱臼で休場した十両・千代の富士が、公傷の認定がされなかったために場所途中(3日目)から出場した(一説には手続きの不手際とも言われている)。しかしこれをきっかけに、千代の富士は相撲ぶりを出足を重視するものに変え、それがのちに大関及び横綱への昇進につながったと言われている。 また、当初は2場所連続負け越さないと陥落しない大関については公傷制度の適用対象外であったが、徐々に適用範囲が広がり、昭和58年(1983年)5月場所からは大関も公傷制度の適用対象となった。なお大関力士の公傷適用第1号は、同年9月場所8日目の隆の里戦で負傷した朝潮であり、大関で最後に公傷適用されたのは、平成15年(2003年)1月場所5日目の出島戦で負傷した栃東であった。 平成時代に入ってからは「全治2ヶ月以上の診断書が提出されたら公傷認定」と言われるまでになり(「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったとされた。明らかに仮病と思われる休場まで増えたという。このきっかけは、平成4年(1992年)11月場所7日目、東張出大関でこの場所角番の霧島が西張出関脇・水戸泉との取組で右足首靱帯断裂の大怪我を負い翌日から休場、関脇への降下が決定的になったときの事である。この日の取組後に霧島は病院で「全治3か月」と診断され入院したが、この取組の審判長だった佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)は「霧島は歩いて帰った。公傷は骨が折れるか、筋が切れるかだ」と述べ、現認証明書を作成せず一旦は公傷が認められなかった。しかし後日、提出された診断書で霧島が重傷であることを知った日本相撲協会は、11月19日の理事会において、当日限りとしていた現認証明書の作成を当日を含めた3日以内に規定を改め、11月場所初日にさかのぼって適用することを決めた。これにより霧島は公傷が認定され、西張出関脇に降下した平成5年(1993年)1月場所を全休するものの、翌3月場所も同じ西張出関脇の地位に留まった。しかしこれが結果的に、公傷認定による全休力士が急増する要因にもなった。 平成15年(2003年)9月場所後の理事会において、翌年1月場所より公傷制度を廃止することを決定した。当時の理事長北の湖は「原点に返るということ。力士は一層厳しく自己管理に努めてほしい」と述べた。前年7月場所において公傷の7人を含む関取16人が休場したことを協会は重く見ていた。 この廃止前に、公傷制度を維持したまま、運用の改善で凌ぐことも検討されていた。しかし、大関・武双山が平成15年(2003年)3月場所6日目、肩の脱臼による怪我で全治2か月の診断書を提出した上で途中休場(1勝6敗8休)をしたが、審判部委員は公傷適用を認めなかった。その武双山は大関角番になった翌5月場所で初日から強行出場しながらも、同場所の千秋楽で8勝7敗と勝ち越してカド番を脱出した。またその際、武双山の師匠でもある武蔵川理事(元横綱・三重ノ海)が「なぜ武双山の公傷全休を認めなかったのか」と理事会で審判部を追及したが、「必要のない公傷を申請している力士が多数いる」「認めたり認めなかったりしたら、それぞれの力士の師匠に突っ込まれてどうにもならない」という認識が出来る事となる。更に2003年9月場所も武双山が、左肘骨折の負傷による全治2か月の診察で途中休場(1勝5敗9休)するものの、再び公傷認定を却下した。それでも翌11月場所の武双山は9勝6敗と勝越して、又もや角番を回避。こうした事情を背景として、結局公傷制度の廃止決定に至った。 なお公傷撤廃の際に、救済措置として2004年1月場所より幕内の定員が40人から42人に、十両の定員が26人から28人に、それぞれ増やすことも決定した。北の湖は大関についてこのとき「公傷なし、3場所連続負け越しで降下、翌場所11勝以上で再昇進」案を出したが、一部理事からの反発が強く、実現しなかった。 最後に適用された力士は2003年11月場所を途中休場し翌1月場所を全休した琴ノ若。公傷廃止後、制度不適用の第1号となった力士は平成16年(2004年)1月場所で途中休場した当時十両の若天狼で、若天狼は幕下に陥落した翌場所も全休、番付を大きく下げた。 しかし公傷制度廃止後も休場者数が目に見えて減ることはなく、そればかりか少しでも番付を落とさないために怪我が治りきらないまま強行出場した結果、さらに怪我を悪化させ逆に長期休場に追い込まれるケースが増加した。 大相撲八百長問題を受け、大相撲新生委員会(委員長=島村宜伸元農相)が平成23年(2011年)4月15日に相撲協会に提言した8項目の防止案として新たな公傷制度の創設がその1つに含まれていた。 しかしこの日協会幹部と面会した島村委員長は「公傷制度には抵抗があるみたいだ。先送りかな」と述べ、実際の創設には至っていない。 令和時代になってからは貴景勝、栃ノ心がいずれも在位2場所で怪我により大関陥落を喫したことから、ファンの間で公傷制度の復活の必要性が取り沙汰された。 公傷制度を復活させたいとの声は協会にも届いているが、関係者によると現状では困難であるという。所属部屋に近い関係にある医師に頼んで虚偽の診断書を提出して休場した力士がおり、「今後は統一して協会側が指定の医師のみにチェックさせればいいのではないか」との意見については、古傷を傷めたり、元々の持病を患った場合、主治医・専門医でないと診断時に見落としてしまうリスクが存在するため、採用が出来ないという事情が存在する。 2019年12月25日、力士会は相撲協会に公傷制度復活を要望した。要望を受けた協会の尾車事業部長も検討する意向を示した。 新型コロナウイルス感染により番付の下がらない形での休場が認められたケースを「公傷」と呼ぶ場合もある。また、部屋ごと休場の措置が取られた力士は番付が据え置き、または他の力士との兼ね合いで1枚降下となるのがほとんどのケースであり、事実上「みなし公傷」である。2022年7月場所では場所途中での新型コロナウイルス感染による休場が多数見られ、途中休場した時点で勝ち越し・負け越しが確定していなかった力士は据え置き、勝ち越し・負け越ししていた力士は皆勤力士の昇降を鑑みてそれぞれ上昇・下降する方針が取られた。不戦敗で8敗目となった力士は他の皆勤力士の番付昇降との兼ね合いで据え置きないし1枚下降となった。
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公傷制度(こうしょうせいど)は、大相撲にかつて存在した、負傷休場した横綱以外の力士に対する救済措置である。 横綱以外の力士が、本場所の取組において発生した怪我による休場については、通常の休場(休みの日数によっては負け越し扱い)とはしないようにする制度であった。公傷が認められた場合、その場所は休みを負けに換算して番付を編成するが、次の場所は休場しても、その次の場所は同じ地位に留まれる。公傷は1回の怪我につき、1場所までの全休が認められた。
'''公傷制度'''(こうしょうせいど)は、[[大相撲]]にかつて存在した、負傷休場した[[横綱]]以外の力士に対する救済措置である。 [[横綱]]以外の力士が、[[本場所]]の取組において発生した怪我による休場については、通常の休場(休みの日数によっては[[負け越し]]扱い)とはしないようにする制度であった。公傷が認められた場合、その場所は休みを負けに換算して[[番付]]を編成するが、次の場所は休場しても、その次の場所は同じ地位に留まれる<ref group="注">[[1984年|昭和59年(1984年)]]3月場所までは同じ地位に[[張出|張り出される]]形で番付を編成した。3月場所後の理事会において公傷力士の張り出しを廃止することを決定した。</ref>。公傷は1回の怪我につき、1場所までの全休が認められた。 == 概説 == === 制度発足以前 === [[1957年|昭和32年(1957年)]]に11月場所(九州場所)が行われるようになるまで、大相撲の本場所は年2~4場所制だったため、制度の必要性は皆無に等しかった。 例えば1年休んだ場合、現在では6場所もの長期休場となるが、昭和20年代までの休場期間は長くても2~4場所でしかなかったため、番付的にはよほどの重症でもない限り挽回可能だった。その後[[1958年|昭和33年(1958年)]]に7月場所(名古屋場所)も始まって年6場所制となったことで、負傷による[[休場]]の影響が大きく出るようになっていった。 [[1971年|昭和46年(1971年)]]になると、7月場所で、[[藤ノ川武雄|藤ノ川]]と[[増位山太志郎|増位山]]が相次いで負傷し、回復不十分のまま翌9月場所に強行出場、同年[[10月11日]]、[[横綱]][[玉の海正洋|玉の海]]が急病により現役のまま死去、11月場所で、元[[小結]]でその場所[[前頭]]4枚目の[[龍虎勢朋|龍虎]]が左[[アキレス腱]]断裂で長期休場を余儀なくされ、休んでいる間に[[幕下]]42枚目まで番付を下げた。 昭和46年12月1日には[[八百長]]問題、[[暴力団]]とのかかわり、力士の健康問題等、協会の抱える諸々の問題点が[[国会 (日本)|国会]]で追及された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106705077X00319711201&current=1 第67回国会衆議院文教委員会第3号 昭和46年12月1日]における[[鈴木一 (政治家)|鈴木一]]衆議院議員の発言</ref><ref>朝日新聞1971年12月2日付朝刊スポーツ面</ref>。 === 制度発足 === こうした出来事をきっかけに、昭和46年12月20日~22日の理事会で公傷制度の導入が決定し<ref>朝日新聞1971年12月23日付朝刊スポーツ面</ref>、翌[[1972年|昭和47年(1972年)]]1月場所から施行された。最初の適用者は同年5月場所の、幕下の[[宍戸清志|宍戸]]であった。宍戸は同年3月場所の対[[若乃花幹士 (2代)|朝ノ花]](のち若三杉、横綱2代若乃花)戦で右膝関節を[[脱臼]]し、初めて公傷が認められた。十両では同年7月場所の[[鷲羽山佳和|鷲羽山]]、幕内で公傷が初適用された力士は[[1973年|昭和48年(1973年)]]5月場所の[[丸山孝彦|丸山]]である。公傷の適用は、取組に立ち会った[[勝負審判|審判委員]]5人が同意して作成する「現認証明書」と、[[医師]]からの[[診断書]]を加え、公傷認定委員が協議して公傷の適用の有無を決める。 しかし、[[1972年|昭和47年(1972年)]]3月場所9日目から「[[不眠症]]」を理由に休場した横綱[[北の富士勝昭|北の富士]]は、ハワイでサーフィンを楽しむ姿を観光客に撮影され、写真が地元新聞に掲載された。相撲協会は北の富士に厳重注意をしている<ref>{{Cite web|和書|title=休場中サーフィンでお叱り/過去の横綱トラブル一覧 - 大相撲 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201711220000097.html|website=nikkansports.com(2017年11月22日)|accessdate=2021-06-14|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=貴乃花親方は左遷された? 日馬富士報道Q&A:時事ドットコム|url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=sumo-haruma-qa201712110003|website=時事ドットコム(2017年12月11日)|accessdate=2021-06-14|language=ja}}</ref>。 当時、大相撲以外のプロスポーツには公傷制度がなかったことから適用基準も厳しく、「土俵で立ち上がれたら公傷にはしない」「古傷の再発は公傷にしない」と言われていた。[[1979年|昭和54年(1979年)]]5月場所、前場所を肩の[[脱臼]]で休場した[[十両]]・[[千代の富士貢|千代の富士]]が、公傷の認定がされなかったために場所途中(3日目)から出場した(一説には手続きの不手際とも言われている)。しかしこれをきっかけに、千代の富士は相撲ぶりを出足を重視するものに変え、それがのちに大関及び横綱への昇進につながったと言われている。 また、当初は2場所連続負け越さないと陥落しない[[大関]]については公傷制度の適用対象外であったが、徐々に適用範囲が広がり、[[1983年|昭和58年(1983年)]]5月場所からは大関も公傷制度の適用対象となった。なお大関力士の公傷適用第1号は、同年9月場所8日目の[[隆の里俊英|隆の里]]戦で負傷した[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]であり、大関で最後に公傷適用されたのは、[[2003年|平成15年(2003年)]]1月場所5日目の[[出島武春|出島]]戦で負傷した[[栃東大裕|栃東]]であった。 === 平成時代 === [[平成]]時代に入ってからは「全治2ヶ月以上の診断書が提出されたら公傷認定」と言われるまでになり('''「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」'''ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったとされた。明らかに仮病と思われる休場まで増えたという<ref name="ウェッジ2">[https://wedge.ismedia.jp/articles/-/16797?page=2 「クンロク大関」続出でも大相撲に公傷制度が復活しない理由(2/3ページ)] WEDGE Infinity 2019年7月15日(2020年1月6日閲覧)</ref>。このきっかけは、[[1992年|平成4年(1992年)]]11月場所7日目、東張出大関でこの場所[[角番]]の[[霧島一博|霧島]]が西張出[[関脇]]・[[水戸泉政人|水戸泉]]との[[取組]]で右足首靱帯断裂の大怪我を負い翌日から休場、関脇への降下が決定的になったときの事である。この日の取組後に霧島は病院で「全治3か月」と診断され入院したが<ref>朝日新聞1992年11月15日付朝刊スポーツ面</ref>、この取組の審判長だった[[佐渡ヶ嶽]]親方(元横綱・[[琴櫻傑將|琴櫻]])は「霧島は歩いて帰った。公傷は骨が折れるか、筋が切れるかだ」<ref>朝日新聞1992年11月16日付夕刊スポーツ面</ref>と述べ、現認証明書を作成せず一旦は公傷が認められなかった。しかし後日、提出された診断書で霧島が重傷であることを知った日本相撲協会は、11月19日の理事会において、当日限りとしていた現認証明書の作成を当日を含めた3日以内に規定を改め、11月場所初日にさかのぼって適用することを決めた<ref>朝日新聞1992年11月20日付朝刊スポーツ面</ref>。これにより霧島は公傷が認定され、西張出関脇に降下した[[1993年|平成5年(1993年)]]1月場所を全休するものの、翌3月場所も同じ西張出関脇の地位に留まった<ref group="注">この背景として、「霧島は協会に残るための年寄株を持っておらず、株を手に入れようにも今のところ空きがない。いまやめれば廃業しかない。だが、優勝経験がある大関を廃業させる訳にはいくまい。」(朝日新聞1992年11月15日付朝刊スポーツ面)と指摘されていて、何とか3月場所で大関に復帰できる成績を霧島に挙げてほしいとする協会の事情が見える。3月場所で霧島は10勝以上すれば大関特例復帰を果たせたが、結局5勝10敗の負け越しに終わり、大関復帰は果たせなかった。</ref>。しかしこれが結果的に、公傷認定による全休力士が急増する要因にもなった。 === 制度廃止 === 平成15年(2003年)9月場所後の理事会において、翌年1月場所より公傷制度を廃止することを決定した。当時の理事長[[北の湖敏満|北の湖]]は「原点に返るということ。力士は一層厳しく自己管理に努めてほしい」<ref name="mai0726">毎日新聞2003年9月26日付朝刊スポーツ面</ref>と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=公傷制度撤廃当時の北の湖理事長、安美錦に「申し訳ない」|url=https://www.sanspo.com/article/20190717-YCIDFQC4Q5OFLH37BPVS22NTSI/|website=サンスポ|date=2021-06-14|accessdate=2021-06-14|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。前年7月場所において公傷の7人を含む関取16人が休場したことを協会は重く見ていた<ref name="mai0726"/>。 この廃止前に、公傷制度を維持したまま、運用の改善で凌ぐことも検討されていた。しかし、大関・[[武双山正士|武双山]]が平成15年(2003年)3月場所6日目、肩の脱臼による怪我で全治2か月の診断書を提出した上で途中休場(1勝6敗8休)をしたが、審判部委員は公傷適用を認めなかった。その武双山は大関角番になった翌5月場所で初日から強行出場しながらも、同場所の[[千秋楽]]で8勝7敗と[[勝ち越し]]てカド番を脱出した<ref>{{Cite web|和書|title=公傷制度廃止も視野に/日本相撲協会が検討|url=https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20030529000324|website=四国新聞社(2003年5月29日)|accessdate=2021-06-14}}</ref>。またその際、武双山の師匠でもある[[武蔵川]][[理事]](元横綱・[[三重ノ海剛司|三重ノ海]])が「なぜ武双山の公傷全休を認めなかったのか」と理事会で審判部を追及したが、「必要のない公傷を申請している力士が多数いる」「認めたり認めなかったりしたら、それぞれの力士の師匠に突っ込まれてどうにもならない」という認識が出来る事となる。更に2003年9月場所も武双山が、左肘骨折の負傷による全治2か月の診察で途中休場(1勝5敗9休)するものの、再び公傷認定を却下した。それでも翌11月場所の武双山は9勝6敗と勝越して、又もや角番を回避。こうした事情を背景として、結局公傷制度の廃止決定に至った。 なお公傷撤廃の際に、救済措置として2004年1月場所より幕内の定員が40人から42人に、十両の定員が26人から28人に、それぞれ増やすことも決定した<ref name="mai0726"/>。北の湖は大関についてこのとき「公傷なし、3場所連続負け越しで降下、翌場所11勝以上で再昇進」案を出したが、一部理事からの反発が強く、実現しなかった<ref name="mai0726"/>。 最後に適用された力士は2003年11月場所を途中休場し翌1月場所を全休した[[琴ノ若晴將|琴ノ若]]。公傷廃止後、制度不適用の第1号となった力士は[[2004年|平成16年(2004年)]]1月場所で途中休場した当時十両の[[若天狼啓介|若天狼]]で、若天狼は幕下に陥落した翌場所も全休、番付を大きく下げた。 === 制度廃止以降 === しかし公傷制度廃止後も休場者数が目に見えて減ることはなく、そればかりか少しでも番付を落とさないために怪我が治りきらないまま強行出場した結果、さらに怪我を悪化させ逆に長期休場に追い込まれるケースが増加した。 大相撲八百長問題を受け、大相撲新生委員会(委員長=[[島村宜伸]]元農相)が[[2011年|平成23年(2011年)]]4月15日に相撲協会に提言した8項目の防止案として新たな公傷制度の創設がその1つに含まれていた。 しかしこの日協会幹部と面会した島村委員長は「公傷制度には抵抗があるみたいだ。先送りかな」と述べ、実際の創設には至っていない<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/05/03/kiji/K20110503000745580.html 慎重な議論必要…“公傷制度復活”は当面見送り] Sponichi Annex 2011年5月3日 06:00 </ref>。 [[令和]]時代になってからは[[貴景勝光信|貴景勝]]、[[栃ノ心剛史|栃ノ心]]がいずれも在位2場所で怪我により大関陥落を喫したことから、ファンの間で公傷制度の復活の必要性が取り沙汰された<ref name="ウェッジ1">[https://wedge.ismedia.jp/articles/-/16797 「クンロク大関」続出でも大相撲に公傷制度が復活しない理由(1/3ページ)] WEDGE Infinity 2019年7月15日(2020年1月6日閲覧)</ref>。 公傷制度を復活させたいとの声は協会にも届いているが、関係者によると現状では困難であるという。所属部屋に近い関係にある医師に頼んで虚偽の診断書を提出して休場した力士がおり、「今後は統一して協会側が指定の医師のみにチェックさせればいいのではないか」との意見については、古傷を傷めたり、元々の持病を患った場合、主治医・専門医でないと診断時に見落としてしまうリスクが存在するため、採用が出来ないという事情が存在する<ref>{{Cite web|和書|title=「クンロク大関」続出でも大相撲に公傷制度が復活しない理由|url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/16797|website=WEDGE Infinity(ウェッジ)|date=2019-07-15|accessdate=2021-06-14}}</ref>。 2019年12月25日、[[力士会]]は相撲協会に公傷制度復活を要望した。要望を受けた協会の[[琴風豪規|尾車]]事業部長も検討する意向を示した<ref>{{Cite web|和書|title=大相撲力士会、公傷制度の復活を要望 インフル予防接種は冬巡業前に前倒しも/デイリースポーツ online|url=https://www.daily.co.jp/general/2019/12/26/0012989897.shtml|website=デイリースポーツ online(2019年12月26日)|accessdate=2019-12-26|language=ja|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=公傷制度復活を 大相撲力士会が要望|url=https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/sumo/news/CK2019122502100055.html|website=中日スポーツ・東京中日スポーツ(2019年12月25日)|accessdate=2019-12-26|language=ja|publisher=}}</ref>。 === 新型コロナウイルス感染による休場について === [[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染により番付の下がらない形での休場が認められたケースを「公傷」と呼ぶ場合もある。また、部屋ごと休場の措置が取られた力士は番付が据え置き、または他の力士との兼ね合いで1枚降下となるのがほとんどのケースであり、事実上「みなし公傷」である<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/187974 貴景勝が休場「もう相撲取れない」左足関節靱帯損傷…関取休場者は戦後最多“17人”【大相撲】] 東京中日スポーツ 2021年1月19日 19時34分 (2021年1月25日閲覧)</ref>。2022年7月場所では場所途中での新型コロナウイルス感染による休場が多数見られ、途中休場した時点で勝ち越し・負け越しが確定していなかった力士は据え置き、勝ち越し・負け越ししていた力士は皆勤力士の昇降を鑑みてそれぞれ上昇・下降する方針が取られた。不戦敗で8敗目となった力士は他の皆勤力士の番付昇降との兼ね合いで据え置きないし1枚下降となった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202208280001620.html 【秋場所新番付】コロナで場所中の途中休場相次いだ先場所の成績どう反映 審判部の意図を探る] 日刊スポーツ 2022年8月29日6時0分 (2022年8月29日閲覧)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[故障者リスト]] *[[特別保障制度]] *[[プロテクトランキング]] *[[休養王座]] {{相撲}} {{Sumo-stub}} {{デフォルトソート:こうしようせいと}} [[category:大相撲]]
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藤原町
藤原町
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藤原町
'''藤原町''' ==自治体== *[[藤原町 (栃木県)]] - [[栃木県]] [[塩谷郡]] 藤原町(ふじはらまち) **[[2006年]][[3月20日]]に合併して[[日光市]]となった。 *[[藤原町 (三重県)]] - [[三重県]] [[員弁郡]] 藤原町(ふじわらちょう) **[[2003年]][[12月1日]]に合併して[[いなべ市]]となった。 ==町丁・字名== *[[藤原町 (佐世保市)]] - [[長崎県]] [[佐世保市]] 藤原町 (ふじわらちょう) *[[藤原町 (川越市)]] - [[埼玉県]] [[川越市]] 藤原町 (ふじわらちょう) *[[藤原町 (行田市)]] - [[埼玉県]] [[行田市]] 藤原町 (ふじわらちょう) *[[藤原町 (松山市)]] - [[愛媛県]] [[松山市]] 藤原町 (ふじわらまち) {{地名の曖昧さ回避}}
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日本国との平和条約
日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。 この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認。国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。そのソ連に与する東側陣営のチェコスロバキアとポーランドは出席を拒否し、旧イギリス領のインドとビルマは欠席した。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。その後、日本はインドネシア、中華民国(台湾)、インドとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承したロシア連邦)との平和条約は締結されていない。 本条約はアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約ともいう。1951年(昭和26年)9月8日に署名され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。11月18日、第12回国会で承認された後、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布・発効された。 この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている。日本語が加えられているのは当事国であるためである。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得た上で条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。 1945年10月24日に発足した国際連合の公用語は英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語であったが、ソビエト連邦と中国がこの条約には加わらなかったことから、ロシア語と中国語での条約認証謄本の作成は行われていない。 ポツダム宣言の8項(カイロ宣言は履行されるべきこと)を受けて規定された条項である。日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとイアン・ブラウンリーは解釈している。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している。 竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている。 この条約においては、沖ノ鳥島の存在、取り扱いについて明記されている。 第二章第二条(c)において日本が放棄した千島列島の範囲について、特に南千島(択捉島、国後島)を含むかどうかに解釈上の争いがある。 樺太はサハリン(Sakhalin)、千島列島はクリル(Kurile)、台湾はフォルモサ、澎湖諸島はペスカドレス(Pescadores)、新南群島はスプラトリー(Spratly)、西沙群島はパラセル(Paracel)、小笠原諸島をボニン(Bonin)、南鳥島をマーカス(Marcus)と西之島はロサリオ(Rosario)と英文ではなっている。 条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。1961年(昭和36年)の最高裁判所判決でも同旨の解釈を採用した。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている。 戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例(戦時加算)が設けられている。 第二次世界大戦終結後、「エルベの誓い」で握手を交わしたはずのソ連とアメリカは対立するようになり、東西の冷戦構造が戦後の国際社会で形成されてゆく。中国大陸では国民党政権と共産党政権が対立し、内戦に発展した(国共内戦)。内戦中、ソ連は中国共産党政権を支援した。1949年9月末の時点で、共産党政権は、中華民国(国民党政権)が主張する領域のうち、チベットと新疆省を除く大陸部を占領した。1949年10月に北平(今の北京)において共産党政権は中華人民共和国の建国を宣言し、12月に国民党政権は台湾に移った。 その後、連合軍軍政期を経て米ソ両国により南北に分断された朝鮮半島において1950年に朝鮮戦争が勃発した。ソ連と中国共産党政権は北朝鮮を支援し、アメリカ、イギリスなどは大韓民国を支援した。こうした背景があり、ソ連とアメリカの関係は悪化し、連合国構成国間の講和条約締結にむけた交渉は混迷した。最終的にソ連の代表は講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。中華民国(国民党政権)および共産党政権の代表は招待されなかった。 こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカ・イギリスなど西側諸国との単独講和論と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国(国民党政権)も締結すべきとする全面講和論とが対立した。 単独講和とは自由主義(資本主義)国家陣営に属し、連合軍による占領終了後もまたアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場であった。ただ、実際には52ヶ国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる。この他、片方の陣営とのみ講和を締結するという立場から片面講和という言い方もある。 全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造の中で中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている。 内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。また日本共産党、労働者農民党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンD.C.での米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題談話会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。『世界』1951年10月号は、山川均「非武装憲法の擁護」などを掲載した「特集 講和問題」を組み、大きな反響をよんだ。 こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田は「永世中立とか全面講和などということは、云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世の徒に他ならない」と批判した。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した。当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔(象牙の塔)にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた。また小泉信三は、単独講和を米軍による占領継続よりも優るとして「米ソ対立という厳しい国際情勢下において、真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」であり、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した。他に津田左右吉は、平和を脅かす本源はソ連であると述べており、田中美知太郎は、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」と述べている。 『世界』=平和問題談話会は、「講和問題についての平和問題談話会声明」で、単独講和に反対、全面講和を主張したが、『朝日新聞』が1950年9月下旬におこなった世論調査(「講和と日本再武装」、1950年11月15日掲載)は、 単独講和支持が、全面講和支持の2倍以上であり、社会党支持者でも全面講和支持が32%に対して、単独講和支持が53%もいる。全面講和は一般世論はもちろん社会党支持者でも少数派だった。 1950年6月21日から27日にかけて国務長官顧問のジョン・フォスター・ダレスが来日し、6月22日吉田首相と会談した。また1951年1月25日、米講和特使ダレスが来日した。1月29日には吉田・ダレス会談が行われている。1月31日、第2次会談、2月7日、第3次会談がおこなわれた。2月11日、ダレスは、日本政府は米軍駐留を歓迎と声明し、フィリピンにむけて離日した。吉田首相は米国との安全保障取決めを歓迎し自衛の責任を認識すると声明した。3月27日、日本政府は、米政府よりダレス特使の構想にもとづいて米政府が作成した対日講和条約草案の交付を受ける。4月16日、ダレス特使が来日し、4月18日、連合国最高司令官マシュー・リッジウェイ、吉田首相と3者会談し、対日講和・安全保障に関する米国の基本的態度不変を確認した。 吉田は朝鮮戦争勃発を講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。更に表向きは経済交渉という触れ込みで池田勇人を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官に内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている。 1951年(昭和26年)7月20日、米英共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送し、また日本政府は米政府から講和会議への招請状を受理した。8月22日、フランスの要求を容れインドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)にも招請状が発送された。連合国構成国の中華民国(中国国民党政権)、それと対立する中国共産党政権の両代表は招請されなかった(後述)。 インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請に応じず、講和会議に参加しなかった。インド首相のジャワハルラール・ネルーは、条約に外国軍の駐留事項を除外すること、日本が千島列島や樺太の一部をソ連に、澎湖諸島や台湾を中華民国に譲渡する必要があること、沖縄や小笠原諸島の占領継続などを理由に、日本に他の国と等しく名誉と自由が与えられていないとして、不参加を決めたとされる。 蔣介石率いる中華民国は第二次世界大戦中連合国の一員として日本と戦い勝利に貢献した。しかし条約締結当時、中華民国と中国共産党政権は内戦状態にあった。 講和会議直前の1951年8月15日に、中国共産党政権の周恩来外相はサンフランシスコ平和会議開催に対し批判する声明を発表した。対日平和条約の内容が連合国共同宣言、カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言、降伏後の対日基本政策などの国際協定にいちじるしく違反しているとし、同条約がソ連を抜きにして米英側で決められたこと、中国共産党政権も講和会議に参加する権利があることを主張した。 大韓民国は、「署名国」としての参加を度々表明し、一時は署名国リストにも掲載されていたが、当時の大韓帝国は日本に併合され、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、また他の亡命政府のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しておらず、日本と交戦していなかったため招請されなかった。 韓国が「講和条約署名国としての資格がある」とアメリカ側へ訴え、これを受けて1949年(昭和24年)12月3日、駐韓アメリカ大使ジョン・ジョセフ・ムチオは、中国国民党軍の朝鮮人部隊、大韓民国臨時政府の存在、「韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること」等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。これを受けて1949年(昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに一旦加えられた。 日本政府としては、「在日朝鮮人を連合国民として扱わないことが保証されるならば、韓国の条約の署名への反対に固執しない」とジョン・フォスター・ダレス国務長官補に述べた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し英米も参戦するなか、1951年(昭和26年)5月の米英協議等において、第二次世界大戦において韓国が存在せず、ひいては日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが韓国の条約署名に反対した。イギリスの方針表明を受けて、アメリカも大戦中に韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。 1951年(昭和26年)7月9日、ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理由に、韓国は講和条約署名国となれないことを再度正式に通知した。この会談で、韓国側は日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および米軍政庁への移管、竹島・波浪島の韓国領編入、マッカーサー・ラインの継続などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、日本を国際社会に復帰させようとする対日講和条約締結に反対した。しかしアメリカは8月10日にラスク書簡で最終回答を行い、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国のほかの要求を拒否した。しかしこの通知後も韓国は「署名国」としての地位の要求を継続した。 これに対してダレスは、8月22日に韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。ただし、「非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」と回答した。 8月16日、日本政府は、8月15日にGHQより受けとった講和条約最終草案全文を発表した。 9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス(ウォーメモリアル・オペラ・ハウス)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。 日本の全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど妥協の末、委員参加を取りつけた。また日本社会党に対しても全権委員参加を要請したが、党内左派を中心に「全面講和」を主張していたため随員として片山哲(元首相)と浜井信三(広島市長)が参加するのにとどまった。 9月7日、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な巻物式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパーとも言われた。 セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。 ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ社会主義国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。 9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。 ※は、調印はしたが批准はしていない国。なお上記の国名はいずれも調印時におけるものである。 平和条約は第23条1の規定により、日本及びアメリカ合衆国が批准書を寄託し、かつ、主たる占領国の過半数が批准書を寄託した時に、その時に批准書を寄託しているすべての国に関して効力を生ずるとなっている。従って条約の発効の告示(昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号)においても「1952年4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した」と時間まで入れて告示している。なお内閣告示は条約の発効の旨のみであるが、外務省告示は、発効までに批准書を寄託した国及びその批准書を寄託した日も告示している。 セイロンは、アメリカ合衆国の批准書を寄託したと同じ日の1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した。条約が発効後に批准書を寄託した国については、批准書の寄託の日に効力を生ずるとなっているが、セイロンについて4月28日のどの時点で発効したかは不明である。 以後の外務省告示は批准書を寄託した日のみを告示していたが、フィリピン、イラン、ボリビアについての告示は、批准書を寄託した日及びその日に効力が生じた旨を告示している。 パナマが批准書を寄託した旨の告示(1953年5月21日付け外務省告示第34号)以後の告示においては、批准についての通報(アメリカ合衆国国務省回章)がその日付と併せて告示されている。ただしフィリピン、イランの告示にはない。 同9月8日、講和条約に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地内にある下士官集会所に移動、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に調印した。 日米安全保障条約には首席全権代表・吉田茂が単独で署名した。吉田は無理に同行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言い、署名の場に同席することは許さなかった。 1951年(昭和26年)10月26日、衆議院が締結を承認(講和は307対47、安保は289対71)。11月18日には参議院が締結を承認(講和は174対45、安保は147対76)、内閣が条約を批准した。11月19日、奈良において昭和天皇が批准書を認証。11月28日にはアメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。 条約第23条第1項のの規定により、アメリカ合衆国が批准書を寄託した1952年(昭和27年)4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した。 日本国との平和条約、および(旧)日米安全保障条約の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、共産主義陣営のソ連と中華人民共和国、北朝鮮との間では軋轢が続いた。 日本は同平和条約締結後、インド、中華民国と個別に講和条約を締結した。ソ連との間は1956年に共同宣言に合意し国交回復したが、依然として現在まで講和条約は結ばれていない。中華人民共和国との間は1972年に共同宣言に合意し国交を結び、1978年に日中平和友好条約を締結し共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えた。 他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする全面講和論はその後も展開され、山川均らの非武装中立論は社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる安全保障および日米同盟に関する議論を形成していった。なお条約の発効をもってレッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。 非武装中立論を批判する永井陽之助は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中三国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として安保闘争が繰り広げられた。 また在日米軍の問題は、沖縄の在日米軍基地問題に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。沖縄県では、条約が発効した1952年4月28日を、引き続き1972年までアメリカの占領統治下に置かれることになった「屈辱の日」とし、2013年4月28日に日本政府主催の主権回復の日の記念式典について、沖縄から批判的な意見が出た。この問題には、昭和天皇が御用掛・寺崎英成を通じてGHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド宛てに伝達した、“天皇は租借条約によって沖縄が引き続き―最低でも100年―アメリカ占領下に置かれる事を希望している”旨の、いわゆる「沖縄メッセージ」も深く関係している。 全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に朝日新聞紙上で坂本義和は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争やベトナム戦争の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば、ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こらなかったかもしれないと述べた。これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した。また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの冷戦的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが共産主義諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた。 日本国郵政省(現在の日本郵便)は、調印翌日の9月9日に事前に用意していた記念切手3種を発行した。2円切手と24円切手にはキクが描かれ、8円切手には国旗が描かれている。1996年4月8日に発行の戦後50年メモリアルシリーズの第1集中1枚は吉田が署名する場面が切手の意匠に採用された。2001年9月7日に調印50年を記念して、会場となったオペラハウスと秋草を描く記念切手を発行した。 2001年(平成13年)9月8日(日本時間では9月9日)、講和会議の会場であったオペラハウスにて、北カリフォルニア日本協会(the Japan Society of Northern California)の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは田中眞紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席しそれぞれ演説を行い、日米の同盟関係の更なる強化の必要性を確認し合った。この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において、サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典も行われた。 2011年(平成23年)2月25日、自民党議員が「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」を設立。講和条約発効日である4月28日を主権回復記念日(主権回復の日)と定め、政府主催の記念行事を毎年開催するよう働きかけをおこなっていくとしている。 2013年には第2次安倍内閣下で、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が行なわれた。 太平洋戦争における対日本の公式な宣戦布告国家ではなく、且つ条約調印に招聘されなかった周辺国による条約否認・改定への動きもある。尖閣諸島問題で日中関係が悪化する中、2012年11月14日に中華人民共和国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議が開かれた。席上、中華人民共和国外交部直属の中国国際問題研究所副所長郭憲綱は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中華人民共和国、ロシア、韓国による統一共同戦線を組んでアメリカの協力を得たうえで、サンフランシスコ平和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。 モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中華人民共和国外交部の公式機関の幹部で外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中華人民共和国指導部の意向を反映していると述べている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認。国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。そのソ連に与する東側陣営のチェコスロバキアとポーランドは出席を拒否し、旧イギリス領のインドとビルマは欠席した。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。その後、日本はインドネシア、中華民国(台湾)、インドとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承したロシア連邦)との平和条約は締結されていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本条約はアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約ともいう。1951年(昭和26年)9月8日に署名され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。11月18日、第12回国会で承認された後、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布・発効された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語及びスペイン語により、並びに日本語により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている。日本語が加えられているのは当事国であるためである。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得た上で条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。", "title": "正文" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1945年10月24日に発足した国際連合の公用語は英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5カ国語であったが、ソビエト連邦と中国がこの条約には加わらなかったことから、ロシア語と中国語での条約認証謄本の作成は行われていない。", "title": "正文" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ポツダム宣言の8項(カイロ宣言は履行されるべきこと)を受けて規定された条項である。日本には領土の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であるとイアン・ブラウンリーは解釈している。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "竹島の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この条約においては、沖ノ鳥島の存在、取り扱いについて明記されている。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第二章第二条(c)において日本が放棄した千島列島の範囲について、特に南千島(択捉島、国後島)を含むかどうかに解釈上の争いがある。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "樺太はサハリン(Sakhalin)、千島列島はクリル(Kurile)、台湾はフォルモサ、澎湖諸島はペスカドレス(Pescadores)、新南群島はスプラトリー(Spratly)、西沙群島はパラセル(Paracel)、小笠原諸島をボニン(Bonin)、南鳥島をマーカス(Marcus)と西之島はロサリオ(Rosario)と英文ではなっている。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした1952年(昭和27年)4月19日法務府民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。1961年(昭和36年)の最高裁判所判決でも同旨の解釈を採用した。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東京裁判(極東国際軍事裁判)の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例(戦時加算)が設けられている。", "title": "条約解釈と諸問題" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦終結後、「エルベの誓い」で握手を交わしたはずのソ連とアメリカは対立するようになり、東西の冷戦構造が戦後の国際社会で形成されてゆく。中国大陸では国民党政権と共産党政権が対立し、内戦に発展した(国共内戦)。内戦中、ソ連は中国共産党政権を支援した。1949年9月末の時点で、共産党政権は、中華民国(国民党政権)が主張する領域のうち、チベットと新疆省を除く大陸部を占領した。1949年10月に北平(今の北京)において共産党政権は中華人民共和国の建国を宣言し、12月に国民党政権は台湾に移った。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、連合軍軍政期を経て米ソ両国により南北に分断された朝鮮半島において1950年に朝鮮戦争が勃発した。ソ連と中国共産党政権は北朝鮮を支援し、アメリカ、イギリスなどは大韓民国を支援した。こうした背景があり、ソ連とアメリカの関係は悪化し、連合国構成国間の講和条約締結にむけた交渉は混迷した。最終的にソ連の代表は講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。中華民国(国民党政権)および共産党政権の代表は招待されなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカ・イギリスなど西側諸国との単独講和論と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国(国民党政権)も締結すべきとする全面講和論とが対立した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "単独講和とは自由主義(資本主義)国家陣営に属し、連合軍による占領終了後もまたアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場であった。ただ、実際には52ヶ国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる。この他、片方の陣営とのみ講和を締結するという立場から片面講和という言い方もある。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造の中で中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。また日本共産党、労働者農民党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンD.C.での米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題談話会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。『世界』1951年10月号は、山川均「非武装憲法の擁護」などを掲載した「特集 講和問題」を組み、大きな反響をよんだ。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田は「永世中立とか全面講和などということは、云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世の徒に他ならない」と批判した。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した。当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔(象牙の塔)にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた。また小泉信三は、単独講和を米軍による占領継続よりも優るとして「米ソ対立という厳しい国際情勢下において、真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」であり、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した。他に津田左右吉は、平和を脅かす本源はソ連であると述べており、田中美知太郎は、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」と述べている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『世界』=平和問題談話会は、「講和問題についての平和問題談話会声明」で、単独講和に反対、全面講和を主張したが、『朝日新聞』が1950年9月下旬におこなった世論調査(「講和と日本再武装」、1950年11月15日掲載)は、", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "単独講和支持が、全面講和支持の2倍以上であり、社会党支持者でも全面講和支持が32%に対して、単独講和支持が53%もいる。全面講和は一般世論はもちろん社会党支持者でも少数派だった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1950年6月21日から27日にかけて国務長官顧問のジョン・フォスター・ダレスが来日し、6月22日吉田首相と会談した。また1951年1月25日、米講和特使ダレスが来日した。1月29日には吉田・ダレス会談が行われている。1月31日、第2次会談、2月7日、第3次会談がおこなわれた。2月11日、ダレスは、日本政府は米軍駐留を歓迎と声明し、フィリピンにむけて離日した。吉田首相は米国との安全保障取決めを歓迎し自衛の責任を認識すると声明した。3月27日、日本政府は、米政府よりダレス特使の構想にもとづいて米政府が作成した対日講和条約草案の交付を受ける。4月16日、ダレス特使が来日し、4月18日、連合国最高司令官マシュー・リッジウェイ、吉田首相と3者会談し、対日講和・安全保障に関する米国の基本的態度不変を確認した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "吉田は朝鮮戦争勃発を講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。更に表向きは経済交渉という触れ込みで池田勇人を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官に内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)7月20日、米英共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送し、また日本政府は米政府から講和会議への招請状を受理した。8月22日、フランスの要求を容れインドシナ三国(ベトナム、ラオス、カンボジア)にも招請状が発送された。連合国構成国の中華民国(中国国民党政権)、それと対立する中国共産党政権の両代表は招請されなかった(後述)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招請に応じず、講和会議に参加しなかった。インド首相のジャワハルラール・ネルーは、条約に外国軍の駐留事項を除外すること、日本が千島列島や樺太の一部をソ連に、澎湖諸島や台湾を中華民国に譲渡する必要があること、沖縄や小笠原諸島の占領継続などを理由に、日本に他の国と等しく名誉と自由が与えられていないとして、不参加を決めたとされる。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "蔣介石率いる中華民国は第二次世界大戦中連合国の一員として日本と戦い勝利に貢献した。しかし条約締結当時、中華民国と中国共産党政権は内戦状態にあった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "講和会議直前の1951年8月15日に、中国共産党政権の周恩来外相はサンフランシスコ平和会議開催に対し批判する声明を発表した。対日平和条約の内容が連合国共同宣言、カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言、降伏後の対日基本政策などの国際協定にいちじるしく違反しているとし、同条約がソ連を抜きにして米英側で決められたこと、中国共産党政権も講和会議に参加する権利があることを主張した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "大韓民国は、「署名国」としての参加を度々表明し、一時は署名国リストにも掲載されていたが、当時の大韓帝国は日本に併合され、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、また他の亡命政府のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しておらず、日本と交戦していなかったため招請されなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "韓国が「講和条約署名国としての資格がある」とアメリカ側へ訴え、これを受けて1949年(昭和24年)12月3日、駐韓アメリカ大使ジョン・ジョセフ・ムチオは、中国国民党軍の朝鮮人部隊、大韓民国臨時政府の存在、「韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること」等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。これを受けて1949年(昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに一旦加えられた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本政府としては、「在日朝鮮人を連合国民として扱わないことが保証されるならば、韓国の条約の署名への反対に固執しない」とジョン・フォスター・ダレス国務長官補に述べた。1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し英米も参戦するなか、1951年(昭和26年)5月の米英協議等において、第二次世界大戦において韓国が存在せず、ひいては日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが韓国の条約署名に反対した。イギリスの方針表明を受けて、アメリカも大戦中に韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)7月9日、ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理由に、韓国は講和条約署名国となれないことを再度正式に通知した。この会談で、韓国側は日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および米軍政庁への移管、竹島・波浪島の韓国領編入、マッカーサー・ラインの継続などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、日本を国際社会に復帰させようとする対日講和条約締結に反対した。しかしアメリカは8月10日にラスク書簡で最終回答を行い、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国のほかの要求を拒否した。しかしこの通知後も韓国は「署名国」としての地位の要求を継続した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これに対してダレスは、8月22日に韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。ただし、「非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」と回答した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "8月16日、日本政府は、8月15日にGHQより受けとった講和条約最終草案全文を発表した。 9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス(ウォーメモリアル・オペラ・ハウス)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本の全権団は首席全権の吉田茂(首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三(国民民主党最高委員長)・星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登(日銀総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど妥協の末、委員参加を取りつけた。また日本社会党に対しても全権委員参加を要請したが、党内左派を中心に「全面講和」を主張していたため随員として片山哲(元首相)と浜井信三(広島市長)が参加するのにとどまった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "9月7日、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な巻物式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパーとも言われた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ社会主義国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "9月8日、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "※は、調印はしたが批准はしていない国。なお上記の国名はいずれも調印時におけるものである。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "平和条約は第23条1の規定により、日本及びアメリカ合衆国が批准書を寄託し、かつ、主たる占領国の過半数が批准書を寄託した時に、その時に批准書を寄託しているすべての国に関して効力を生ずるとなっている。従って条約の発効の告示(昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号)においても「1952年4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した」と時間まで入れて告示している。なお内閣告示は条約の発効の旨のみであるが、外務省告示は、発効までに批准書を寄託した国及びその批准書を寄託した日も告示している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "セイロンは、アメリカ合衆国の批准書を寄託したと同じ日の1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した。条約が発効後に批准書を寄託した国については、批准書の寄託の日に効力を生ずるとなっているが、セイロンについて4月28日のどの時点で発効したかは不明である。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以後の外務省告示は批准書を寄託した日のみを告示していたが、フィリピン、イラン、ボリビアについての告示は、批准書を寄託した日及びその日に効力が生じた旨を告示している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "パナマが批准書を寄託した旨の告示(1953年5月21日付け外務省告示第34号)以後の告示においては、批准についての通報(アメリカ合衆国国務省回章)がその日付と併せて告示されている。ただしフィリピン、イランの告示にはない。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "同9月8日、講和条約に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地内にある下士官集会所に移動、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に調印した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日米安全保障条約には首席全権代表・吉田茂が単独で署名した。吉田は無理に同行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言い、署名の場に同席することは許さなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)10月26日、衆議院が締結を承認(講和は307対47、安保は289対71)。11月18日には参議院が締結を承認(講和は174対45、安保は147対76)、内閣が条約を批准した。11月19日、奈良において昭和天皇が批准書を認証。11月28日にはアメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "条約第23条第1項のの規定により、アメリカ合衆国が批准書を寄託した1952年(昭和27年)4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本国との平和条約、および(旧)日米安全保障条約の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、共産主義陣営のソ連と中華人民共和国、北朝鮮との間では軋轢が続いた。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本は同平和条約締結後、インド、中華民国と個別に講和条約を締結した。ソ連との間は1956年に共同宣言に合意し国交回復したが、依然として現在まで講和条約は結ばれていない。中華人民共和国との間は1972年に共同宣言に合意し国交を結び、1978年に日中平和友好条約を締結し共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えた。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする全面講和論はその後も展開され、山川均らの非武装中立論は社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる安全保障および日米同盟に関する議論を形成していった。なお条約の発効をもってレッドパージの一環として占領軍により発行を禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "非武装中立論を批判する永井陽之助は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中三国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として安保闘争が繰り広げられた。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また在日米軍の問題は、沖縄の在日米軍基地問題に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。沖縄県では、条約が発効した1952年4月28日を、引き続き1972年までアメリカの占領統治下に置かれることになった「屈辱の日」とし、2013年4月28日に日本政府主催の主権回復の日の記念式典について、沖縄から批判的な意見が出た。この問題には、昭和天皇が御用掛・寺崎英成を通じてGHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド宛てに伝達した、“天皇は租借条約によって沖縄が引き続き―最低でも100年―アメリカ占領下に置かれる事を希望している”旨の、いわゆる「沖縄メッセージ」も深く関係している。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に朝日新聞紙上で坂本義和は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争やベトナム戦争の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば、ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こらなかったかもしれないと述べた。これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した。また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの冷戦的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが共産主義諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた。", "title": "条約締結後" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本国郵政省(現在の日本郵便)は、調印翌日の9月9日に事前に用意していた記念切手3種を発行した。2円切手と24円切手にはキクが描かれ、8円切手には国旗が描かれている。1996年4月8日に発行の戦後50年メモリアルシリーズの第1集中1枚は吉田が署名する場面が切手の意匠に採用された。2001年9月7日に調印50年を記念して、会場となったオペラハウスと秋草を描く記念切手を発行した。", "title": "記念事業" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)9月8日(日本時間では9月9日)、講和会議の会場であったオペラハウスにて、北カリフォルニア日本協会(the Japan Society of Northern California)の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは田中眞紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席しそれぞれ演説を行い、日米の同盟関係の更なる強化の必要性を確認し合った。この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において、サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典も行われた。", "title": "記念事業" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)2月25日、自民党議員が「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」を設立。講和条約発効日である4月28日を主権回復記念日(主権回復の日)と定め、政府主催の記念行事を毎年開催するよう働きかけをおこなっていくとしている。", "title": "記念事業" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2013年には第2次安倍内閣下で、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が行なわれた。", "title": "記念事業" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "太平洋戦争における対日本の公式な宣戦布告国家ではなく、且つ条約調印に招聘されなかった周辺国による条約否認・改定への動きもある。尖閣諸島問題で日中関係が悪化する中、2012年11月14日に中華人民共和国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議が開かれた。席上、中華人民共和国外交部直属の中国国際問題研究所副所長郭憲綱は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中華人民共和国、ロシア、韓国による統一共同戦線を組んでアメリカの協力を得たうえで、サンフランシスコ平和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。", "title": "現在" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中華人民共和国外交部の公式機関の幹部で外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中華人民共和国指導部の意向を反映していると述べている。", "title": "現在" } ]
日本国との平和条約は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字を取ってSF条約とも呼ばれる)。
{{Pathnav|第二次世界大戦|frame=1}} {{条約 |題名 =日本国との平和条約 |画像 =Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg |画像サイズ =380px |画像キャプション =日本国との平和条約に署名する[[吉田茂]]首席全権と全権委員<ref group="注釈">写真上から順に[[一万田尚登]]([[日本銀行]]総裁)、[[徳川宗敬]](参議院[[緑風会]])、[[星島二郎]]([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]])、[[苫米地義三]]([[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]])、[[池田勇人]]([[蔵相]])。一番手前側にいる背広の人物は不明(全権委員ではない)。 </ref> |通称 =「サンフランシスコ平和条約」など |起草 = |署名 = [[1951年]]([[昭和]]26年)[[9月8日]] |署名場所= {{USA1912}} [[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ|サンフランシスコ市]]<br/>[[ウォーメモリアル・オペラ・ハウス]] |捺印 = |効力発生 = [[1952年]](昭和27年)[[4月28日]] |現況 = |失効 = |締約国 = |当事国 = |寄託者 =[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]] |文献情報 =昭和27年條約第5号(『官報』号外(第50号)「條約」) |言語 =[[英語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]<ref>正文の項参照</ref> |内容 =[[第二次世界大戦]]における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と[[日本]]の間の平和条約 |関連 =[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|(旧)日米安保条約]] |ウィキソース =日本国との平和条約 |リンク =[{{NDLDC|2964144}} 『官報』号外「日本国との平和条約」 - 国立国会図書館] }} '''日本国との平和条約'''(にっぽんこくとのへいわじょうやく、{{Lang-en|Treaty of Peace with Japan}}、昭和27年条約第5号)は、[[1951年]][[9月8日]]に[[第二次世界大戦]]・[[太平洋戦争]]後に関連して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]諸国と[[日本]]との間に締結された[[平和条約]]。通称は'''サンフランシスコ平和条約'''。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取って'''SF条約'''とも呼ばれる)。 ==概要== この条約を[[批准]]した連合国は日本国の[[主権]]を承認<ref group="注釈">第1条(b)</ref>。[[国際法]]上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、[[ソビエト連邦]]は会議に出席したが、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍による占領]]終了後における[[アメリカ軍]]の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。そのソ連に与する[[東側諸国|東側陣営]]の[[チェコスロバキア]]と[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]は出席を拒否し、旧[[イギリス]]領の[[インド]]と[[ビルマ連邦|ビルマ]]は欠席した。旧[[オランダ]]領の[[インドネシア]]は条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。その後、日本はインドネシア、[[中華民国]]([[台湾]])、インドとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承した[[ロシア|ロシア連邦]])との平和条約は締結されていない。 本条約はアメリカ合衆国の[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ|サンフランシスコ市]]において署名されたことから、'''サンフランシスコ平和条約'''、'''サンフランシスコ講和条約'''ともいう。[[1951年]]([[昭和]]26年)[[9月8日]]に署名され、同日に[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]も署名された。11月18日、[[第12回国会]]で承認された後<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?lawId=0000044681 日本国との平和条約及び関係文書] (日本法令索引)</ref>、翌年の[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に[[公布]]・発効された。 == 正文 == この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく[[正文]]である[[英語]]、[[フランス語]]及び[[スペイン語]]により、並びに[[日本語]]により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている<ref group="注釈">日本語では「及び」と「並びに」の違いがわかりにくいが、英文では明解で“{{lang|en|DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, '''all being equally authentic''', and in the Japanese language}}”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後に来ることになる。</ref>。日本語が加えられているのは当事国であるためである。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得た上で条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。 1945年10月24日に発足した[[国際連合]]の[[公用語]]は英語・フランス語・スペイン語・[[ロシア語]]・[[中国語]]の5カ国語<ref group="注釈">アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。</ref>であったが、[[ソビエト連邦]]と[[中国]]<ref group="注釈">中国を代表する政府として[[中華人民共和国]]と[[中華民国]]のいずれを招へいするか連合国内で意見が一致しなかったため、いずれも招へいされなかった。</ref>がこの条約には加わらなかったことから、ロシア語と中国語での条約認証謄本の作成は行われていない。 == 内容 == [[ファイル:Kowa sakurano hi.jpg|thumb|230px|講和桜之碑([[東京都]][[大田区]][[下丸子]])]] * 日本と連合国との[[戦争]]状態の終了(第1条(a)) * 日本国民の主権の回復(第1条(b)) === 領土の放棄または信託統治への移管 === {{See also|カイロ宣言}} * [[台湾]](フォルモサ)・[[澎湖諸島]](ペスカドレス)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(b)) * [[朝鮮]]の独立を承認。[[済洲島]]、[[巨文島]]及び[[欝陵島]]を含む朝鮮に対する全ての[[権利]]、[[権原]]及び[[請求権]]の放棄(第2条(a)) * [[千島列島]]・[[樺太|南樺太]](南サハリン)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(c)) * [[国際連盟]]からの[[委任統治]]領であった[[南洋諸島]]の権利、権限及び請求権の放棄。同諸島を[[国際連合]]の[[信託統治]]領とする[[1947年]][[4月2日]]の[[国際連合安全保障理事会]]決議を承認(第2条(d)) * [[南極]]([[大和雪原]]など)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(e)) * [[南沙諸島|新南群島]](スプラトリー諸島)・[[西沙諸島|西沙群島]](パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(f)) * [[南西諸島]](北緯29度以南。[[琉球諸島]]・[[大東諸島]]など)・南方諸島([[孀婦岩]]より南。[[小笠原諸島]](ボニン諸島)・[[西之島]](ロサリオ島)・[[火山列島]])・[[沖ノ鳥島]]・[[南鳥島]](マーカス島)をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意(第3条) === 戦前の国際協定に基づく権利等の放棄 === * [[サンジェルマン条約]]、[[ローザンヌ条約]]及び[[モントルー条約]]に基づく[[ボスポラス海峡]]・[[マルマラ海]]・[[ダーダネルス海峡]]に関する権利及び利益の放棄(第8条(a)) * [[ヤング案]]に基づく諸協定や[[国際決済銀行]]条約など、[[第一次世界大戦]]の[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として有していた対[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]賠償に関わる権利、権原及び利益の放棄(第8条) * [[北京議定書]](付属書、書簡、文書含む)の廃棄。同議定書に由来する利得及び特権を含む中国における全の特殊の権利及び利益を放棄(第10条) === 国際協定の受諾 === * [[世界人権宣言]]の実現に向けた努力(前文) * [[国際連合憲章]]第2条に掲げる義務を受諾(第5条(a)) :「主権平等」「国際紛争の平和的解決」「領土問題と独立問題の平和的解決」「国連の強制行動への支援、強制行動対象国への支援の自粛」「非加盟国が原則に従って行動することの保証」「憲章が負わせる義務の履行」「加盟国の国内問題への不干渉(但し[[枢軸国]]へのそれを除く)」の7大原則に従うことを指す * [[第二次世界大戦]]([[ポーランド侵攻]]を受けてイギリスとフランスが[[ドイツ国]]に宣戦した[[1939年]][[9月1日]]を勃発日と本条約では定義する<ref group="注釈">これによればそれ以前に始まっていた[[日中戦争]]([[支那事変]])は含まれない</ref>)を終了させるために現に締結されもしくは将来締結される条約、連合国が平和の回復またはこれに関連して行う取極の完全な効力を承認(第8条(a)) * [[国際連盟]]及び[[常設国際司法裁判所]]を廃止するための取極を受諾(第8条(a)) * [[極東国際軍事裁判|極東国際軍事裁判所]]並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例として南京軍事法廷、[[ニュルンベルク裁判]])の判決を受諾(第11条) === 賠償 === * 日本が行うべき賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など) * 日本の[[商標]]・文学的及び美術的[[著作権]]は連合国各国の一般的事情が許す限り日本に有利に取り扱う(第14条(a)2-III-v) * 連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄(第14条(b)) === 安全保障 === * 連合国は、日本が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的自衛権または[[集団的自衛権]]を有すること、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できることを承認(第5条(c)) === その他 === * 連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。'''ただし日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯する場合はこの限りではない'''<ref group="注釈">アメリカはこれにより[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]](旧)、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]](現行)を締結して[[在日米軍]]を駐留させ現在に至る。「[[吉田・アチソン交換公文]]」で[[朝鮮国連軍]]も対象。</ref>(第6条(a)、[[#単独講和と全面講和論]]) * 連合国は、本条約効力発生後1年以内に、戦前に日本と結んだ二国間条約・協約を引き続いて有効としまたは復活させることを希望するかを日本に通告。通告された条約・協約は、通告日の3ヶ月後に、本条約に適合させるための必要な修正を受け、国際連合事務局に登録された上で有効または復活する。通告がなされなかった対日条約・協約は廃棄される(第7条(a)) * 日本は、占領期間中に、占領当局の指令に基き、もしくはその結果として行われ、または当時の日本の法律によって許可された全ての作為または不作為の効力を承認。前述の作為又は不作為を理由として連合国民を民事責任または刑事責任に問わない(第19条(d)) * 日本は、連合国による在日[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]財産処分のために必要な措置を取り、財産の最終的処分が行われるまでその保存・管理に責任を負う(第20条) == 条約解釈と諸問題 == === 領土 === [[ポツダム宣言]]の8項([[カイロ宣言]]は履行されるべきこと)を受けて規定された条項である。日本には[[領域 (国家)|領土]]の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する[[法 (法学)|法規範]]の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であると[[イアン・ブラウンリー]]は解釈している<ref>[[#ブラウンリー1992|ブラウンリー 1992]], p. 121</ref>。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している<ref>[[#ブラウンリー1992|ブラウンリー 1992]], p. 100</ref>。 ==== 竹島問題 ==== [[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている<ref>[http://en.wikisource.org/wiki/Draft_Treaty_of_Peace_With_Japan Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)]参照。</ref>。 * '''1947年3月19日版以降''':日本は[[済州島]]、[[巨文島]]、[[鬱陵島]]、竹島の4島を放棄すること。 ** 1949年11月14日、アメリカ駐日政治顧問[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]による竹島再考の勧告。「これらの島についての日本の主張は古く、正当なものと思われる。そして多分ここにアメリカの気象観測所とレーダー基地を設置することもできるようだから安保的に望ましいことだ。」<ref>{{Cite book|author=United States Department of State|title=Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts)|url=http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1949v07p2.p0314&id=FRUS.FRUS1949v07p2&isize=M|year=1976|volume=Volume VII, Part 2|pages=pp. 898-900|language=英語}}([[アメリカ合衆国国務省]]『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)</ref> * '''1949年12月29日版以降''':日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。日本の保有領土の項に竹島を明記。 * '''1951年6月14日版以降''':日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。(日本の保有領土の項は無くなる) ** 1951年7月19日、韓国政府、日本が済州島、巨文島、鬱陵島、竹島(韓国名:独島)、及び、[[波浪島]]を放棄することを条約に盛り込むことを求める<ref group="注釈">独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("{{lang|en|tried all resources in Washington}}")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。</ref>。 * '''1951年9月8日版(最終版)''':日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。 ==== 沖ノ鳥島に関する記述 ==== この条約においては、沖ノ鳥島の存在、取り扱いについて明記されている。 ==== 北方領土問題 ==== {{See|北方領土問題}} 第二章第二条(c)において日本が放棄した[[千島列島]]の範囲について、特に[[南千島]]([[択捉島]]、[[国後島]])を含むかどうかに解釈上の争いがある。 ==== 地名表記の英名 ==== 樺太はサハリン(Sakhalin)、千島列島はクリル(Kurile)、台湾はフォルモサ、澎湖諸島はペスカドレス(Pescadores)、新南群島はスプラトリー(Spratly)、西沙群島はパラセル(Paracel)、小笠原諸島をボニン(Bonin)、南鳥島をマーカス(Marcus)と西之島はロサリオ(Rosario)と英文ではなっている。 === 「外地人」の日本国籍喪失 === {{Main|在日韓国・朝鮮人|平和条約国籍離脱者}} 条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に[[国籍]]の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や[[戸籍]]の処理に関する指針を明らかにした[[1952年]](昭和27年)[[4月19日]][[法務府]]民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。1961年(昭和36年)の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]判決でも同旨の解釈を採用した<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53529 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁]</ref>。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく[[日本国と中華民国との間の平和条約|日華平和条約]]の発効時とするのが最高裁判例である<ref>[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56979 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁]</ref>。 === 東京裁判の受諾問題 === {{See|日本国との平和条約第11条の解釈|東京裁判}} [[極東国際軍事裁判|東京裁判]](極東国際軍事裁判)の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている<ref>日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年</ref>。 === 著作権保護期間の戦時加算 === 戦時中は連合国・連合国民の有する[[著作権]]の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき[[連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律]]が制定され、[[著作権法]]に規定されている保護期間に関する特例([[戦時加算 (著作権法)|戦時加算]])が設けられている。 == 経緯 == === 冷戦と朝鮮戦争 === [[第二次世界大戦]]終結後、「[[エルベの誓い]]」で握手を交わしたはずのソ連とアメリカは対立するようになり、東西の[[冷戦]]構造が戦後の国際社会で形成されてゆく。中国大陸では[[中国国民党|国民党]]政権と[[中国共産党|共産党]]政権が対立し、[[内戦]]に発展した([[国共内戦]])。内戦中、ソ連は中国共産党政権を支援した。1949年9月末の時点で、共産党政権は、中華民国(国民党政権)が主張する領域のうち、[[チベット]]と[[新疆省]]を除く大陸部を占領した。1949年10月に北平(今の[[北京市|北京]])において共産党政権は[[中華人民共和国]]の建国を宣言し、12月に国民党政権は台湾に移った。 その後、[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]]を経て米ソ両国により南北に分断された朝鮮半島において[[1950年]]に[[朝鮮戦争]]が勃発した。ソ連と中国共産党政権は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を支援し、アメリカ、イギリスなどは[[大韓民国]]を支援した。こうした背景があり、ソ連とアメリカの関係は悪化し、連合国構成国間の講和条約締結にむけた交渉は混迷した。最終的にソ連の代表は講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。中華民国(国民党政権)および共産党政権の代表は招待されなかった。 === 単独講和と全面講和論 === こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカ・イギリスなど[[西側諸国]]との'''単独講和'''論と、[[第二次世界大戦]]当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国(国民党政権)も締結すべきとする'''全面講和'''論とが対立した<ref name="ito">伊藤祐子「[http://www.asia-u.ac.jp/kokusai/Kiyou.files/pdf.files/11-1/11-1-5.pdf 日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容]」[[亜細亜大学]]国際関係紀要第11巻第1号,2001年</ref>。 単独講和とは[[自由主義]]([[資本主義]])国家陣営に属し、連合軍による占領終了後もまたアメリカとの二国間軍事同盟を締結して[[アメリカ軍]]部隊のみ「[[在日米軍]]」とし駐留を引き続き維持させる立場であった。ただ、実際には52ヶ国が講和条約に参加しており、そのため'''多数講和'''または'''部分講和'''ともいわれる<ref name="iwabun"/>。この他、片方の陣営とのみ講和を締結するという立場から'''片面講和'''という言い方もある<ref>[http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1951.html 1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印](法学館憲法研究所)</ref>。 全面講和論は自由主義と[[共産主義]]国家の[[冷戦]]構造の中で中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった<ref name="turu">都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号</ref>。全面講和論者の[[都留重人]]は、単独講和とは、共産主義陣営を[[仮想敵国]]とした日米軍事協定にほかならないとしている<ref name="turu"/>。 [[内閣総理大臣]][[吉田茂]]は'''単独講和'''を主張していたが、これに対して[[1946年]]3月に[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となっていた[[南原繁]]([[東京大学|東京帝国大学]]教授)がソビエト連邦などを含む'''全面講和論'''を掲げ、論争となった。また[[日本共産党]]、[[労働者農民党]]らは[[全面講和愛国運動協議会]]を結成、[[日本社会党|社会党]]も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカの[[ワシントンD.C.]]での米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した<ref name="iwabun"/>。1950年4月15日には南原繁、[[出隆]]、[[末川博]]、[[上原専禄]]、[[大内兵衛]]、[[戒能通孝]]、[[丸山真男]]、[[清水幾太郎]]、[[都留重人]]らが[[平和問題談話会]]を結成し、雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』([[岩波書店]])1950年3月号<ref name="ito"/>などで全面講和論の論陣を組んだ<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%85%A8%E9%9D%A2%E8%AC%9B%E5%92%8C%E6%84%9B%E5%9B%BD%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A KOTOBANK全面講和愛国運動協議会]([[世界大百科事典]])、[[日立ソリューションズ]]。</ref><ref>『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.</ref>。『世界』1951年10月号は、山川均「非武装憲法の擁護」などを掲載した「特集 講和問題」を組み、大きな反響をよんだ。 こうした全面講和論に対して1950年5月3日の[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]両院議員秘密総会において吉田は「[[永世中立国|永世中立]]とか全面講和などということは、云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世<ref group="注釈">[[訓読]]文では「学を曲げ世に阿る」、つまり「世間に迎合するため、学問的真理を曲げる」という意味</ref>の徒に他ならない」と批判した<ref name="yosida">[http://www.c20.jp/1950/05yosid.html クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」] 2013年1月27日閲覧。[[信夫清三郎]]『戦後日本政治史Ⅳ』[[勁草書房]],p.1112</ref><ref name="iwabun">『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p64-68</ref>。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ<ref name="iwabun"/>、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した<ref name="yosida"/>。当時、自由党幹事長だった[[佐藤栄作]]は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔([[象牙の塔]])にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた<ref name="yosida"/>。また[[小泉信三]]は、単独講和を米軍による占領継続よりも優るとして「米ソ対立という厳しい国際情勢下において、真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」であり、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した<ref name="ito"/><ref>『[[文藝春秋]]』1952年1月号</ref>。他に[[津田左右吉]]は、平和を脅かす本源はソ連であると述べており、[[田中美知太郎]]は、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」と述べている<ref>{{Cite |和書 |author=[[竹内洋]]|title=革新幻想の戦後史 |date=2011 |publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784120043000|ref={{Harvid|竹内洋|2011}}}}p86</ref>。 『[[世界 (雑誌)|世界]]』=平和問題談話会は、「講和問題についての平和問題談話会声明」で、単独講和に反対、全面講和を主張したが、『[[朝日新聞]]』が1950年9月下旬におこなった世論調査(「講和と日本再武装」、1950年11月15日掲載)は、 * 単独講和=45.6% * 全面講和=21.4% * わからない=33.0% 単独講和支持が、全面講和支持の2倍以上であり、社会党支持者でも全面講和支持が32%に対して、単独講和支持が53%もいる。全面講和は一般世論はもちろん社会党支持者でも少数派だった<ref>{{Cite |和書 |author=[[竹内洋]]|title=革新幻想の戦後史 |date=2011 |publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784120043000|ref={{Harvid|竹内洋|2011}}}}p100</ref>。 === アメリカとの事前交渉 === [[1950年]][[6月21日]]から27日にかけて国務長官顧問の[[ジョン・フォスター・ダレス]]が来日し<ref name="yosida"/>、6月22日吉田首相と会談した。また[[1951年]]1月25日、米講和特使ダレスが来日した。[[1月29日]]には吉田・ダレス会談が行われている<ref>「[https://worldjpn.net/ 講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録]」東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、[[外交史料館]]所蔵。</ref>。1月31日、第2次会談、2月7日、第3次会談がおこなわれた。2月11日、ダレスは、日本政府は米軍駐留を歓迎と声明し、[[フィリピン]]にむけて離日した。吉田首相は米国との安全保障取決めを歓迎し自衛の責任を認識すると声明した。3月27日、日本政府は、米政府よりダレス特使の構想にもとづいて米政府が作成した対日講和条約草案の交付を受ける<ref>朝日新聞1951年8月17日</ref>。4月16日、ダレス特使が来日し、4月18日、連合国最高司令官[[マシュー・リッジウェイ]]、吉田首相と3者会談し、対日講和・安全保障に関する米国の基本的態度不変を確認した。 吉田は[[朝鮮戦争]]勃発を講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。更に表向きは経済交渉という触れ込みで[[池田勇人]]を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官に内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている<ref group="注釈">この時の池田訪米に秘書官として同行した[[宮澤喜一]]の述懐による。</ref>。 === 講和会議への招請 === [[1951年]](昭和26年)[[7月20日]]、[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]]共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送し、また日本政府は米政府から講和会議への招請状を受理した。[[8月22日]]、[[フランス]]の要求を容れ[[インドシナ]]三国([[ベトナム国|ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]])にも招請状が発送された。連合国構成国の中華民国(中国国民党政権)、それと対立する中国共産党政権の両代表は招請されなかった(後述)。 ==== 非参加国 ==== インド、[[ビルマ]]、[[ユーゴスラビア]]は招請に応じず、講和会議に参加しなかった。[[インド]]首相の[[ジャワハルラール・ネルー]]は、条約に外国軍の駐留事項を除外すること、日本が千島列島や[[樺太]]の一部をソ連に、[[澎湖諸島]]や台湾を中華民国に譲渡する必要があること、沖縄や小笠原諸島の占領継続などを理由に、日本に他の国と等しく名誉と自由が与えられていないとして、不参加を決めたとされる<ref name="ner">{{Cite journal|和書|author=[[中村麗衣]]|title=日印平和条約とインド外交|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006607658|format=PDF|journal=史論|publisher=東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室|year=2003|issue=56|naid=110007411152|pages=pp.56-73}}</ref>。 ==== 中華民国および中国共産党政権 ==== [[蔣介石]]率いる[[中華民国]]は[[第二次世界大戦]]中[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一員として日本と戦い勝利に貢献した。しかし条約締結当時、中華民国と[[中華人民共和国|中国共産党政権]]は内戦状態にあった。 講和会議直前の[[1951年]][[8月15日]]に、中国共産党政権の[[周恩来]]外相はサンフランシスコ平和会議開催に対し批判する声明を発表した。対日平和条約の内容が[[連合国共同宣言]]、[[カイロ宣言]]、[[ヤルタ協定]]、[[ポツダム宣言]]、降伏後の対日基本政策などの国際協定にいちじるしく違反しているとし、同条約がソ連を抜きにして米英側で決められたこと、中国共産党政権も講和会議に参加する権利があることを主張した<ref>[https://worldjpn.net/ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」] 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.</ref>。 ==== 韓国と北朝鮮の参加要求と拒否 ==== [[大韓民国]]は、「署名国」としての参加を度々表明し、一時は署名国リストにも掲載されていたが、当時の[[大韓帝国]]は日本に併合され、[[大韓民国臨時政府]]を承認した国も存在せず、また他の[[亡命政府]]のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しておらず、日本と交戦していなかったため招請されなかった。 韓国が「講和条約署名国としての資格がある」とアメリカ側へ訴え、これを受けて[[1949年]](昭和24年)[[12月3日]]、駐韓アメリカ大使[[ジョン・ジョセフ・ムチオ]]は、中国国民党軍の朝鮮人部隊、[[大韓民国臨時政府]]の存在、「韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること」等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。これを受けて[[1949年]](昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに一旦加えられた。 日本政府としては、「在日朝鮮人を連合国民として扱わないことが保証されるならば、韓国の条約の署名への反対に固執しない」と[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官補に述べた<ref>[[:s:韓国政府の要求に対する1951年5月9日付米国側検討意見書]], 4. 在日韓国人は連合国国民の地位を与えられるべき.</ref>。[[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発し英米も参戦するなか、[[1951年]](昭和26年)5月の米英協議等において、第二次世界大戦において韓国が存在せず、ひいては日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが韓国の条約署名に反対した。イギリスの方針表明を受けて、アメリカも大戦中に韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。 [[1951年]](昭和26年)7月9日、ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、[[連合国共同宣言]]にも署名していない」ことを理由に、韓国は講和条約署名国となれないことを再度正式に通知した。この会談で、韓国側は日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|米軍政庁]]への移管、[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]・[[波浪島]]の韓国領編入、[[マッカーサー・ライン]]の継続などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、日本を国際社会に復帰させようとする対日講和条約締結に反対した<ref>[[wikisource:ja:1951年7月19日付エモンズによる会談覚書|エモンズによる会談覚書]]、および[[竹島問題]]参照。</ref>。しかしアメリカは[[8月10日]]に[[ラスク書簡]]で最終回答を行い、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国のほかの要求を拒否した。しかしこの通知後も韓国は「署名国」としての地位の要求を継続した。 これに対してダレスは、[[8月22日]]に韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。ただし、「非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」と回答した<ref>{{Cite book |author=United States Department of State |title=United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts) |year=1951 |volume=VI, Part 1 |pages=p. 1296 |url=http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=塚本孝|authorlink=塚本孝 |title=レファレンス |year=1992 |month=3 |publisher=国立国会図書館調査立法考査局 |volume=494 |pages= 95-101 |chapter=韓国の対日平和条約署名問題 }}</ref>。 === 講和会議と条約調印 === 8月16日、日本政府は、8月15日にGHQより受けとった講和条約最終草案全文を発表した。 [[9月4日]]から[[9月8日|8日]]にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス([[ウォーメモリアル・オペラ・ハウス]]<ref group="注釈">なお「{{lang|en|War Memorial}}」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「[[第一次世界大戦]]従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」。</ref>)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。 日本の全権団は首席全権の[[吉田茂]]([[内閣総理大臣|首相]])、全権委員の[[池田勇人]](蔵相)・[[苫米地義三]]([[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]最高委員長)・[[星島二郎]]([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]常任総務)・[[徳川宗敬]](参議院[[緑風会]]議員総会議長)・[[一万田尚登]]([[日本銀行|日銀]]総裁)の6人<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=kbToau_a9SU&t=2395s アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション] NPO法人科学映像館</ref>。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど妥協の末、委員参加を取りつけた。また[[日本社会党]]に対しても全権委員参加を要請したが、党内左派を中心に「[[全面講和]]」を主張していたため随員として[[片山哲]](元首相)と[[浜井信三]]([[広島市|広島市長]])が参加するのにとどまった。 [[9月7日]]、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な[[巻物]]式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパー<ref>[[吉田茂]]参照</ref>とも言われた<ref>([https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sengo_03.html 外務省 外交史料 Q&amp;A 昭和戦後期])。原稿は、[[#mofa1970|外務省(1970年]]118~122ページ)、[[#tanakand|田中(刊日不明)]]で閲覧可。</ref>。 セイロン代表[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]]は、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という[[仏陀]]の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。 [[ソビエト連邦|ソ連]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]の共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ[[社会主義]]国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。 [[9月8日]]、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。 ==== 署名国及び批准状況 ==== {| class="wikitable" style="font-size:100%;" |- !style="white-space: nowrap;"|国名!!批准日!!style="white-space:nowrap" |批准の外務省告示日!!style="white-space:nowrap"|告示番号!! 国務省回章 |- || {{ARG}} || 1952年4月9日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{AUS}}([[イギリス連邦]]) || 1952年4月10日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{BEL}} || 1952年8月22日 || style="white-space:nowrap"|1952年10月13日 || 第59号 || |- || {{BOL}} || 1977年8月11日 || 1980年9月25日 || 第330号 || 1980年2月12日 |- || {{BRA1889}} || 1952年5月20日 || 1952年7月14日 || 第28号 || |- || {{KHM}}([[フランス連合]]) || 1952年6月2日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{CAN1921}}(イギリス連邦) || 1952年4月17日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{DOC}}(イギリス連邦) || 1952年4月28日 || 1952年5月10日 || 第14号 || |- || {{CHL}} || 1954年4月28日 || 1954年6月7日 || 第61号 || 1954年5月7日 |- || {{COL}} ※ || || || || |- || {{CRI}} || 1952年9月17日 || 1952年10月27日 || 第64号 || |- || {{CUB}} || 1952年8月12日 || 1952年10月13日 || 第59号 || |- || {{DOM}} || 1952年6月6日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{ECU}} || 1955年12月20日 || 1956年2月11日 || 第18号 || 1956年1月16日 |- || {{EGY1922}}王国 || style="white-space:nowrap"|1952年12月30日 || 1953年3月7日 || 第11号 || |- || {{SLV}} || 1952年5月6日 || 1952年7月23日 || 第31号 || |- || {{ETH1897}} || 1952年6月12日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{FRA1946}} || 1952年4月18日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{GRC1828}} || 1953年5月19日 || 1953年7月6日 || 第54号 || 1953年6月4日 |- || {{GTM}} || 1954年9月20日 || 1954年11月6日 || 第131号 || style="white-space:nowrap" |1954年10月11日 |- || {{HTI}} || 1953年5月1日 || 1953年7月6日 || 第54号 || 1953年6月4日 |- || {{HND}} || 1953年9月4日 || 1953年11月24日 || 第130号 || |- || {{IDN}} ※ || || || || |- || {{IRN1933}}帝国 || 1956年8月29日 || 1956年9月17日 || 第103号 || |- || {{IRQ1924}}王国 || 1955年8月18日 || 1955年9月16日 || 第105号 || 1955年8月23日 |- || {{LAO1949}}(フランス連合) || 1952年6月20日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{LBN}} || 1954年1月7日 || 1954年2月22日 || 第23号 || 1954年4月5日 |- || {{LBR}} || 1952年12月29日 || 1953年3月7日 || 第11号 || |- || {{LUX}}大公国 ※ || || || || |- || {{MEX1934}} || 1952年3月3日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{NLD}} || 1952年6月17日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{NZL}}(イギリス連邦) || 1952年4月10日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{NIC}} || 1952年11月4日 || 1952年12月13日 || 第77号 || |- || {{NOR}} || 1952年6月19日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{Flagicon|PAK}} [[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]](イギリス連邦) || 1952年4月17日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{PAN}} || 1953年4月10日 || 1953年5月21日 || 第34号 || 1953年4月29日 |- || {{PRY}} || 1953年1月15日 || 1953年3月7日 || 第11号 || |- || {{PER}} || 1952年6月17日 || 1952年7月14日 || 第29号 || |- || {{PHL}} || 1956年7月23日 || 1956年7月25日 || 第79号 || |- || {{SAU}} || 1954年3月13日 || 1954年4月24日 || 第42号 || 1954年4月5日 |- || {{SYR1932}} || 1952年12月29日 || 1953年3月7日 || 第11号 || |- || {{TUR}} || 1952年7月24日 || 1952年9月10日 || 第48号 || |- || {{ZAF1928}}(イギリス連邦王国) || 1952年9月10日 || 1952年10月13日 || 第59号 || |- || {{Flagicon|GBR}} [[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]](イギリス、英国) || 1952年1月3日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{USA1912}}(米国) || 1952年4月28日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- || {{URY}} || 1952年12月2日 || 1952年12月22日 || 第79号 || |- || {{VEN1930}} || 1952年6月20日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{QVI}} || 1952年6月18日 || 1952年8月26日 || 第41号 || |- || {{JPN1947}} || 1951年11月28日 || 1952年4月28日 || 第10号 || |- |} ※は、調印はしたが批准はしていない国。なお上記の国名はいずれも調印時におけるものである。 平和条約は第23条1の規定により、日本及びアメリカ合衆国が批准書を寄託し、かつ、主たる占領国{{efn|オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国。}}の過半数が批准書を寄託した時に、その時に批准書を寄託しているすべての国に関して効力を生ずるとなっている。従って条約の発効の告示(昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号)においても「1952年4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した」と時間まで入れて告示している。なお内閣告示は条約の発効の旨のみであるが、外務省告示は、発効までに批准書を寄託した国及びその批准書を寄託した日も告示している。 セイロンは、アメリカ合衆国の批准書を寄託したと同じ日の1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した。条約が発効後に批准書を寄託した国については、批准書の寄託の日に効力を生ずるとなっているが、セイロンについて4月28日のどの時点で発効したかは不明である{{efn|セイロンが批准書を寄託した旨の1952年5月10日付け外務省告示第14号は、セイロンが1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した旨を告示するのみで発効日については言及していない。}}。 以後の外務省告示は批准書を寄託した日のみを告示していたが、フィリピン、イラン、ボリビアについての告示は、批准書を寄託した日及びその日に効力が生じた旨を告示している。 パナマが批准書を寄託した旨の告示(1953年5月21日付け外務省告示第34号)以後の告示においては、批准についての通報(アメリカ合衆国国務省回章)がその日付と併せて告示されている。ただしフィリピン、イランの告示にはない。 === (旧)日米安保条約締結 === 同[[9月8日]]、講和条約に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地<ref group="注釈">1989年に廃止・閉鎖。跡地はゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部になっている</ref>内にある下士官集会所に移動、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]に調印した。 日米安全保障条約には首席全権代表・[[吉田茂]]が単独で署名した。吉田は無理に同行した[[池田勇人]]蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言い、署名の場に同席することは許さなかった。 == 条約締結後 == [[1951年]](昭和26年)[[10月26日]]、[[衆議院]]が締結を承認(講和は307対47、安保は289対71)。[[11月18日]]には[[参議院]]が締結を承認(講和は174対45、安保は147対76)、内閣が条約を批准した。[[11月19日]]、奈良において[[昭和天皇]]が批准書を認証。[[11月28日]]にはアメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。 条約第23条第1項の{{efn|この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。}}の規定により、アメリカ合衆国が批准書を寄託した[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]] [[日本標準時]]で22時30分([[東部標準時|アメリカ合衆国東部標準時]]で8時30分)に条約が発効した<ref>昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号</ref>。 === 講和条約批准国以外との国際関係 === 日本国との平和条約、および[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|(旧)日米安全保障条約]]の2条約の締結を以って日本は[[自由主義]]陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、[[共産主義]]陣営の[[ソビエト連邦|ソ連]]と中華人民共和国、北朝鮮との間では軋轢が続いた。 日本は同平和条約締結後、インド、中華民国と個別に[[平和条約|講和条約]]を締結した。ソ連との間は1956年に[[日ソ共同宣言|共同宣言]]に合意し[[国交]]回復したが、依然として現在まで講和条約は結ばれていない。中華人民共和国との間は1972年に[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|共同宣言]]に合意し国交を結び、1978年に[[日中平和友好条約]]を締結し共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えた。 *ユーゴスラビアとの間では1952年1月23日に書簡が交わされ、平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって両国間の戦争状態が終了することが合意された<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-284.pdf 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について] - 外務省</ref>。 *中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ[[1952年]][[4月28日]]に[[日華平和条約]]を調印<ref>[[1952年]](昭和27年)[[8月5日]]発効。</ref>。 *[[ビルマ連邦]]は[[1952年]]4月30日に日本との戦争状態を終結する声明を出している<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(1)-033.pdf 日本国とビルマ連邦との間の平和条約] - 外務省</ref>。 *[[1952年]](昭和27年)[[6月9日]]にインドは全ての賠償請求権を放棄するとともに日本は対印投資を約する[[日印平和条約]]が東京で締結された<ref name="ner"/><ref name="Singhspeech20050429">[http://pmindia.nic.in/speech/content.asp?id=114 Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20051212010734/http://pmindia.nic.in/speech/content.asp?id=114 |date=2005年12月12日 }} National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005</ref>。[[2005年]]の演説でインドの[[マンモハン・シン]]首相は講和条約に関する日印関係を思い出されるべき重要なことと語った<ref name="Singhspeech20050429"/>。 *ルクセンブルクは、条約に署名したが批准せず1953年3月10日に公文の交換により国交を回復した<ref name="名前なし-1">1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版</ref>。 *コロンビアは、条約に署名したが批准せず1954年5月28日に公文の交換により国交を回復した<ref name="名前なし-1"/>。なお、1957年7月22日付け官報第9172号付録資料版によるとコロンビアは1941年12月8日に日本との国交を断絶したが最後まで日本に宣戦を布告せず、戦争状態にはなかった。 *[[1956年]][[10月19日]]、ソ連と日本は講和について合意を行い、[[日ソ共同宣言]]を発した。共同宣言が発効した同年12月12日より国交が正常化し、法的にも両国間の戦争状態が終了した。宣言の第9項では「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ[[歯舞群島]]と[[色丹島]]を引き渡す」と明記されたが、[[択捉島]]および[[国後島]]の返還をも求める日本との間で平和条約交渉は停滞しており、また、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]に対する日本の制裁への対抗策としてロシア側が平和条約交渉の中断を発表したこともあって、[[北方領土問題]]は現在も未解決のままである。 *インドネシアは条約に署名したが批准せず、1957年1月20日に署名された[[日本国とインドネシア共和国との間の平和条約]]において正式に講和することになった。同条約は1957年4月15日に発効している<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(2)-107.pdf 日本国とインドネシア共和国との間の平和条約] - 外務省</ref>。 *チェコスロバキアとの間では1957年2月13日に国交回復に関する議定書が締結され、戦争状態終結が合意された。この議定書は1957年5月8日に発効している<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(1)-057.pdf 日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書] - 外務省</ref>。 *ポーランドとの間では1957年2月8日に国交回復に関する協定が締結され、戦争状態終結が合意された。この協定は1957年5月18日に発効している<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(2)-184.pdf 日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定] - 外務省</ref>。 *中華人民共和国との間では、[[1972年]]2月の[[ニクソン大統領の中国訪問]]や国際連合での[[アルバニア決議]]案可決を受けて、日本は[[1972年]](昭和47年)[[9月29日]]、[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]に合意し[[国交]]を結んだ。この声明で日本は中華人民共和国を「中国を代表する唯一の政府」と承認したため、中華民国は日本との関係を断交した。 *条約発効直前の1952年[[1月18日]]、会議に招へいすらされなかった韓国政府は突如として[[マッカーサー・ライン]]<ref group="注釈">サンフランシスコ講和条約では[[マッカーサー・ライン]]も廃止される予定であった。</ref>に代わる[[李承晩ライン]]の宣言を行い、[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]に[[大韓民国国軍|韓国軍]]が侵略した。李承晩ラインの宣言に対し一方的だとして日米両政府は非難した。その後、険悪になった日韓両国は[[1965年]](昭和40年)の[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]の締結において国交を結んだが、[[竹島問題]]は現在も日韓での外交問題となっている。 === 批准前の国交回復 === *チリは、1954年4月28日に批准しているが、それ以前の1952年10月17日に公文の交換により国交を回復した<ref>1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版</ref>。 *ボリビアは、条約署名から26年後の1977年8月11日に批准しているが、それ以前の1952年12月20日に公文の交換により国交を回復した<ref>1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版</ref>。 *イランは、1956年8月29日に批准しているが、それ以前の1953年11月に公文の交換により国交を回復した<ref>1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版</ref>。 === 全面講和論のその後 === 他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする'''全面講和論'''はその後も展開され、[[山川均]]らの[[非武装中立]]論は社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる[[安全保障]]および日米同盟に関する議論を形成していった<ref name="yone">[http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~yonehara/dp/dp-2002-j-012.pdf 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」] 大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002</ref>。なお条約の発効をもって[[レッドパージ]]の一環として占領軍により発行を禁止されていた[[しんぶん赤旗]]が再刊された。 非武装中立論を批判する[[永井陽之助]]は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中三国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた<ref name="yone"/>。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として[[安保闘争]]が繰り広げられた。 また[[在日米軍]]の問題は、[[沖縄の米軍基地|沖縄の在日米軍基地問題]]に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。[[沖縄県]]では、条約が発効した1952年4月28日を、引き続き1972年までアメリカの[[占領統治]]下に置かれることになった「屈辱の日」とし<ref>{{Cite news | url = http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190560-storytopic-11.html | title = 対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留 | newspaper = [[琉球新報]] | date = 2012-04-28 | accessdate = 2012-11-25 }}</ref><ref>{{Cite news | url = http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000111205010001 | title = 沖縄の40年<屈辱の日> | newspaper = [[朝日新聞デジタル]] | publisher = [[朝日新聞社]] | date = 2012-05-01 | accessdate = 2012-11-25 }}</ref>、2013年4月28日に日本政府主催の[[主権回復の日]]の記念式典について、沖縄から批判的な意見が出た。{{要出典範囲|この問題には、[[昭和天皇]]が御用掛・[[寺崎英成]]を通じてGHQの[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]宛てに伝達した、“天皇は租借条約によって沖縄が引き続き―最低でも100年―アメリカ占領下に置かれる事を希望している”旨の、いわゆる「沖縄メッセージ」も深く関係している|date=2023年6月}}。{{See|アメリカ合衆国による沖縄統治}} 全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に[[朝日新聞]]紙上で[[坂本義和]]は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争や[[ベトナム戦争]]の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば、ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こらなかったかもしれないと述べた<ref>「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日</ref>。これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した<ref name="ito"/>。また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの[[冷戦]]的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが[[共産主義]]諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた<ref name="ito"/>。 == 記念事業 == [[画像:Signing of the Peace Treaty 2Yen stamp.JPG|thumb|150px|平和条約調印[[記念切手]]2円 アンダーライン付きの00は[[銭]]]] [[File:Signing of the Peace Treaty 8Yen stamp.jpg|thumb|150px|平和条約調印[[記念切手]]8円 アンダーライン付きの00は[[銭]]]] ;記念切手 日本国郵政省(現在の[[郵便事業|日本郵便]])は、調印翌日の[[9月9日]]に事前に用意していた[[記念切手]]3種を発行した。2円切手と24円切手には[[キク]]が描かれ、8円切手には国旗が描かれている。1996年4月8日に発行の戦後50年メモリアルシリーズの第1集中1枚は吉田が署名する場面が切手の意匠に採用された<ref>{{Cite web|和書 |url=http://yushu.or.jp/s_data/96jpn/96kine/960405c1.html |title=戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手 |publisher=[[日本郵趣協会]] |accessdate=2012-06-05 }}</ref>。2001年9月7日に調印50年を記念して、会場となったオペラハウスと秋草を描く記念切手を発行した<ref>[https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2001/0907/index.html サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手]</ref>。 ;署名50周年 [[2001年]](平成13年)9月8日(日本時間では[[9月9日]])、講和会議の会場であったオペラハウスにて、北カリフォルニア日本協会({{lang|en|the Japan Society of Northern California}})の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは[[田中眞紀子]]外務大臣が、米国からは[[コリン・パウエル]]国務長官が出席しそれぞれ演説を行い、日米の同盟関係の更なる強化の必要性を確認し合った。この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において、サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典も行われた。 ;署名60周年 [[2011年]](平成23年)[[2月25日]]、[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員が「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」を設立。講和条約発効日である[[4月28日]]を主権回復記念日([[主権回復の日]])と定め、政府主催の記念行事を毎年開催するよう働きかけをおこなっていくとしている<ref>{{Cite news |url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110225/stt11022511520005-n1.htm |title = 自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効 |publisher = MSN産経ニュース([[産経新聞]]) |date = 2011-02-25 |accessdate = 2011-03-06 }}</ref>。 [[2013年]]には[[第2次安倍内閣]]下で、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が行なわれた。{{-}} == 現在 == {{複数の問題|NPOV=2015年10月|独自研究=2015年10月|section=1}} {{See also|中国人による沖縄県への認識}} 太平洋戦争における対日本の公式な宣戦布告国家ではなく、且つ条約調印に招聘されなかった周辺国による条約否認・改定への動きもある。[[尖閣諸島問題]]で日中関係が悪化する中、[[2012年]][[11月14日]]に中華人民共和国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議が開かれた。席上、[[中華人民共和国外交部]]直属の中国国際問題研究所副所長郭憲綱は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中華人民共和国、ロシア、韓国による統一共同戦線を組んでアメリカの協力を得たうえで、サンフランシスコ平和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した<ref name="china"/>。 [[モスクワ国際関係大学]]国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中華人民共和国外交部の公式機関の幹部で外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中華人民共和国指導部の意向を反映していると述べている<ref name="china">{{Cite news |title=反日統一共同戦線を呼びかける中国 |date=2012-11-15 |author=イリナ・イワノワ |url=http://japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/ |accessdate=2012-11-25 |publisher=[[ロシアの声]] |language=日本語}}[https://megalodon.jp/2013-0128-2057-01/japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/]{{404|date=2020-11}}</ref>。 == 関連文献 == *{{Cite book|和書|author=入江啓四郎|authorlink=入江啓四郎|year=1951|title=日本講和条約の研究|publisher=板垣書店|ref=入江1951}} *{{Cite book|和書|editor=外務省編纂|year=2006|month=1|title=日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 準備対策|volume=195|publisher=外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001056.html|ref=外務省2006}} *{{Cite book|和書|editor=外務省編纂|year=2007|month=3|title=日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉|volume=198|publisher=外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001057.html|ref=外務省2007}} *{{Cite book|和書|editor=外務省編纂|year=2009|month=1|title=日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効|volume=|publisher=外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001058.html|ref=外務省2009}} *{{Cite book|和書|editor=鹿島平和研究所|editor-link=鹿島守之助|others=[[鈴木九萬]]監修|year=1973|title=日本外交史 26 終戦から講和まで|publisher=[[鹿島出版会|鹿島研究所出版会]]|url=http://www.kiip.or.jp/book/nihongaiko.htm|ref=鹿島平和研究所1973}} *{{Cite book|和書|author=西村熊雄|authorlink=西村熊雄|editor=鹿島平和研究所|year=1971|title=日本外交史 27 サンフランシスコ平和条約|publisher=鹿島研究所出版会|url=http://www.kiip.or.jp/book/nihongaiko.htm|ref=鹿島平和研究所1971}} *{{Cite book|和書|author=西村熊雄|authorlink=西村熊雄|date=1999-07|title=サンフランシスコ平和条約・日米安保条約|series=[[中公文庫]] シリーズ戦後史の証言 占領と講和7|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-203466-3|url=http://www.chuko.co.jp/bunko/1999/07/203466.html|ref=西村1999}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Anchors|tanakand}}{{Cite web|和書|author=外務省条約局法規課|date=1951-09-07|url=https://worldjpn.net/documents/texts/JPUS/19510907.S1J.html|title=平和条約の締結に関する調書VII|work=サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説|pages=118-122|publisher=東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室|accessdate=2011-03-20}} * {{Anchors|mofa1970}}{{Cite web|和書|author=西村熊雄|date=1970-07|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/heiwa.html|title=平和条約の締結に関する調書|work=VII 昭和26年9月 サン・フランシスコ平和会議|publisher=外務省|accessdate=2012-04-28}} *{{Cite book|和書|author=ブラウンリー|authorlink=イアン・ブラウンリー|others=[[島田征夫]]ほか訳|year=1992|month=11|title=国際法学|chapter=第三部 領域主権|edition=補正版|publisher=[[成文堂]]|isbn=4-7923-3106-4|url=http://www.seibundoh.co.jp/pub/search/000902.html|ref=ブラウンリー1992}} == 関連項目 == {{Wikisource|日本国との平和条約}} {{Wikisource|日本国との平和条約の説明書}} {{Wikibooks|サンフランシスコ平和条約}} {{Commonscat|Treaty of San Francisco}} * [[終戦の日]] * [[日本の降伏文書]] * [[主権回復の日]] * [[条約の一覧]] * [[戦後混乱期]] * [[戦後復興期]] * [[ドイツ最終規定条約]] * [[日本の戦後補償条約一覧]] * [[パリ条約 (1947年)]] * [[イタリアとの平和条約]] * [[平和条約国籍離脱者]] * [[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]] * [[ジャワハルラール・ネルー]] * [[連合国軍占領下の日本]] * [[沖縄返還]] == 外部リンク == * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/mokuji.html 日本国外務省>日本外交文書デジタルコレクション] **[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001056.html サンフランシスコ平和条約 準備対策] **[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001057.html サンフランシスコ平和条約 対米交渉] **[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001058.html サンフランシスコ平和条約 調印・発効] * {{NHK放送史|D0009060093_00000|サンフランシスコ平和条約調印式}} * {{NHK for School clip|D0005403096_00000|サンフランシスコ平和条約}} * {{NHK for School clip|D0005402223_00000|サンフランシスコ平和条約の調印}} * [https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012044958SA000/ NHK特集 日本の戦後 第10回 オペラハウスの日章旗 サンフランシスコ講和会議] - [[NHKオンデマンド]] * {{Kotobank|対日講和条約}} {{日本の条約}} {{日本の経済史}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんこくとのへいわしようやく}} [[Category:日本の講和条約]] 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本場所
本場所(ほんばしょ)は、公益財団法人日本相撲協会によって定期的に行われる大相撲の興行。力士にとっては技量審査の性質があり、本場所での結果に基づき番付の昇降や力士褒賞金の加算が行われる。本場所における取組は公式戦とされ、通算の成績などは本場所のものを採用している。 1958年(昭和33年)以降は年6回の興行で固定されている(下表)。開催地の命名権名称は2018年(平成30年)時点のもの。 三月場所(大阪)と七月場所(名古屋)の会場では施設命名権が売却されており、主催者である日本相撲協会では上記のように施設命名権に基づく名称と正式名称を併記して使用している。施設名の扱いに関してはメディアごとに対応が分かれている。本場所のテレビ・ラジオ中継を行うNHK(日本放送協会) は本場所の会場名について正式名称のみを使用している。一方、新聞報道などでは報道機関により施設命名権による名称を使用する場合、正式名称を使用する場合、両名称を併記する場合に分かれている。近年の番付表では「エディオンアリーナ大阪」「ドルフィンズアリーナ」と記されている。 七月場所については愛知県体育館の老朽化に伴い、2025年からは愛知国際アリーナに会場を移転する予定。 江戸時代には本場所は各地で個別に行われており、力士は場所を主催する勧進元と自身の抱え大名の都合がついた本場所に個別に参加していた。その中でも三都(江戸・京都・大坂)の相撲がとくに盛んで、江戸で年2回、京都と大坂で年1回ずつ行われることが多かったが、天災や天候不順、不入りによる中止や打ち切りも頻発していた。江戸時代の川柳に「一年を二十日で暮らすいい男」というものがあるように、その当時は江戸の本場所が年に2回それぞれ10日のあわせて20日しかなかった。 明治時代になると各地の相撲集団は法人化して個別の力士を抱えるようになり、大正時代には相撲集団は東京と大阪に収斂し、それぞれ常設の国技館で年2回興行、さらに合同でも興行するようになる。昭和時代になると東西協会が合同して日本相撲協会となり、戦後には大阪・名古屋・福岡でそれぞれ興行を行うようになって現在に至る。 1場所は江戸時代は晴天10日間興行だったが徐々に延ばされ、現在は15日間連続で行われる。1日目は「初日(しょにち)」、8日目は「中日(なかび)」、最終日にあたる15日目は「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ばれる。初日は1場所15日制になって以降、昭和天皇崩御に伴い1日延期された1989年一月場所を除き、日曜日に設定されている。原則として初日は第2日曜日だが、3月・5月・9月・11月場所では日曜日が5週ある時は第3週から始まることもある。7月場所は夏巡業の期間確保のため6月から行われていたこともあり、現在も第1週から始まることがある。 番付は各場所初日の約半月前に日本相撲協会より発表される。1970年頃に、年末年始を挟む一月場所を除いては初日の13日前の月曜日と定められた。ほかのスポーツ行事の少ない曜日を選んだということである。例外として一月場所の番付発表については、直前が年末年始の期間に当たるため近年は前年12月下旬頃に行われている。 本場所の土俵進行(土俵入りや力士呼び出しの順序)は奇数日目が東方から、偶数日目が西方からとなっている。 本場所は毎日8:00頃、呼出が会場前に設営された高櫓から打ち出す寄せ太鼓で始まる。この後序ノ口から順番に取組が始まるが、3日目(新弟子が多い3月場所は2日目から)から中盤にかけては、その前に前相撲が行われる。 序ノ口、序二段、三段目、幕下と取組が進み、幕下の相撲が残り5番(幕下上位五番)になった時点で、十両力士の土俵入りが行われる。かつては幕下取組終了後に行われていたが、昭和40年代末のオイルショックの際に光熱費節減のため、土俵入り後の休憩時間省略を目的に時間が変更された。この時点で14:20頃になる。その後十両の取組に入るが、初日と千秋楽は十両残り3番を残して日本相撲協会理事長からの挨拶(協会御挨拶)が入る。 十両取組終了後の概ね15:50頃に幕内力士の土俵入り・横綱土俵入りが行われる。千秋楽では十両以下各段の優勝決定戦および優勝力士の表彰が行われる。土俵入り後は中入の休憩時間に入り、初日は賜杯・優勝旗返還式が行われる。また、1・5・9月場所初日では優勝額除幕式、1月場所初日では年間最優秀力士の表彰式も行われる。2日目から13日目まで(以前は14日目にも行われていたが、千秋楽の取組編成が14日目の打ち出し後に行われるようになったため、時間的に不可能になっている)は、時間に余裕がある時は翌日の幕内取組を紹介する「顔触れ言上」が行われる。幕内取組が半分消化したところで、時間調節のための小休止がある(17:00頃)。 幕内取組終了後に弓取式が行われ打出となり、1日の興行はすべて終了となる。時刻はこの時点で大相撲中継終了の18:00になるように調節されている。千秋楽は弓取式後に幕内最高優勝の表彰式(11月場所は年間最多勝表彰も、場所によっては先立って優勝決定戦)が行われるため、全日程が30分ほど繰り上がる。 大相撲の本場所における電光掲示板は、上下2段に四股名が入る欄があり、その上下に赤いランプがある。四股名等の文字は行司が手書きで書く。奇数日には上段に東方力士、下段に西方力士が、偶数日には逆に上段に西方力士、下段に東方力士が書かれる。電光掲示板には十両と幕内(中入後)の取組が書かれ、最も左側には十両以上の休場力士の四股名が表示される。また近年では右側に決まり手も表示されるようになった。 本場所の進行に伴う電光掲示板の表示の変化としては、十両最初の一番から赤いランプの点灯が始まり、これから取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。勝負が決まると、行司が勝ち名乗りの声を上げると共に、この取組の勝者の赤いランプが点灯したまま残り、敗者の赤いランプが消灯し、次の取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。十両最後の一番の終了時は敗者の赤いランプが消灯するだけとなり、ここから幕内土俵入り・横綱土俵入り・中入りを挟んで、幕内最初の取組を行う両力士が土俵に上がるときにその両力士の赤いランプが同時に点灯する。そして結びの一番の終了時も、敗者の赤いランプが消灯するだけとなる。 電光掲示板を操作するのは世話人の仕事である。 1909年6月場所以前は回向院での晴天時興行の形を取っており、雨天中止となった場合その後2日続けて晴天とならなければ開始できない規則となっていた。 戦前は戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、1927年から1932年までの地方本場所は大阪市・京都市・名古屋市・福岡市・広島市で開催の実績がある。第二次世界大戦中には軍による接収、空襲による被災、そして戦後アメリカ軍による接収で国技館が使用できずに後楽園球場(番付上の表記は「小石川後樂園球場」)や神宮外苑相撲場等で晴天時限定で開催、その後仮設国技館(当時の表記は「假設國技館」)時代を経て蔵前仮設国技館へと本場所開催地を移した。 年6場所制が定着する前には、本場所の間の時期を利用して、本場所が開催されない土地で興行をすることがあった。 その頃は、巡業も一門ごとに別の土地を回るのが普通だったので、全力士が集合して行われる興行は、準場所と呼ばれ、1959年10月大阪準場所までは持ち給金の加算も行われた(番付の昇降には関係しない)。 15日間興行が多く、北海道では8日興行となっていた。1940年代には、満洲で、3箇所5日間ずつ開催で15日興行としたこともあった。 一般に、大相撲の本場所観戦では、集団で一方の力士の名をコールすること、力士の体に触れること、出待ち力士にサインや握手を求めること、取組中にみだりに席を離れること、座布団はもちろん物を投げること、他の観客の観戦の邪魔になるものを身に着けることが禁止されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "本場所(ほんばしょ)は、公益財団法人日本相撲協会によって定期的に行われる大相撲の興行。力士にとっては技量審査の性質があり、本場所での結果に基づき番付の昇降や力士褒賞金の加算が行われる。本場所における取組は公式戦とされ、通算の成績などは本場所のものを採用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)以降は年6回の興行で固定されている(下表)。開催地の命名権名称は2018年(平成30年)時点のもの。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "三月場所(大阪)と七月場所(名古屋)の会場では施設命名権が売却されており、主催者である日本相撲協会では上記のように施設命名権に基づく名称と正式名称を併記して使用している。施設名の扱いに関してはメディアごとに対応が分かれている。本場所のテレビ・ラジオ中継を行うNHK(日本放送協会) は本場所の会場名について正式名称のみを使用している。一方、新聞報道などでは報道機関により施設命名権による名称を使用する場合、正式名称を使用する場合、両名称を併記する場合に分かれている。近年の番付表では「エディオンアリーナ大阪」「ドルフィンズアリーナ」と記されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "七月場所については愛知県体育館の老朽化に伴い、2025年からは愛知国際アリーナに会場を移転する予定。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "江戸時代には本場所は各地で個別に行われており、力士は場所を主催する勧進元と自身の抱え大名の都合がついた本場所に個別に参加していた。その中でも三都(江戸・京都・大坂)の相撲がとくに盛んで、江戸で年2回、京都と大坂で年1回ずつ行われることが多かったが、天災や天候不順、不入りによる中止や打ち切りも頻発していた。江戸時代の川柳に「一年を二十日で暮らすいい男」というものがあるように、その当時は江戸の本場所が年に2回それぞれ10日のあわせて20日しかなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明治時代になると各地の相撲集団は法人化して個別の力士を抱えるようになり、大正時代には相撲集団は東京と大阪に収斂し、それぞれ常設の国技館で年2回興行、さらに合同でも興行するようになる。昭和時代になると東西協会が合同して日本相撲協会となり、戦後には大阪・名古屋・福岡でそれぞれ興行を行うようになって現在に至る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1場所は江戸時代は晴天10日間興行だったが徐々に延ばされ、現在は15日間連続で行われる。1日目は「初日(しょにち)」、8日目は「中日(なかび)」、最終日にあたる15日目は「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ばれる。初日は1場所15日制になって以降、昭和天皇崩御に伴い1日延期された1989年一月場所を除き、日曜日に設定されている。原則として初日は第2日曜日だが、3月・5月・9月・11月場所では日曜日が5週ある時は第3週から始まることもある。7月場所は夏巡業の期間確保のため6月から行われていたこともあり、現在も第1週から始まることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "番付は各場所初日の約半月前に日本相撲協会より発表される。1970年頃に、年末年始を挟む一月場所を除いては初日の13日前の月曜日と定められた。ほかのスポーツ行事の少ない曜日を選んだということである。例外として一月場所の番付発表については、直前が年末年始の期間に当たるため近年は前年12月下旬頃に行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本場所の土俵進行(土俵入りや力士呼び出しの順序)は奇数日目が東方から、偶数日目が西方からとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本場所は毎日8:00頃、呼出が会場前に設営された高櫓から打ち出す寄せ太鼓で始まる。この後序ノ口から順番に取組が始まるが、3日目(新弟子が多い3月場所は2日目から)から中盤にかけては、その前に前相撲が行われる。", "title": "本場所の進行" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "序ノ口、序二段、三段目、幕下と取組が進み、幕下の相撲が残り5番(幕下上位五番)になった時点で、十両力士の土俵入りが行われる。かつては幕下取組終了後に行われていたが、昭和40年代末のオイルショックの際に光熱費節減のため、土俵入り後の休憩時間省略を目的に時間が変更された。この時点で14:20頃になる。その後十両の取組に入るが、初日と千秋楽は十両残り3番を残して日本相撲協会理事長からの挨拶(協会御挨拶)が入る。", "title": "本場所の進行" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "十両取組終了後の概ね15:50頃に幕内力士の土俵入り・横綱土俵入りが行われる。千秋楽では十両以下各段の優勝決定戦および優勝力士の表彰が行われる。土俵入り後は中入の休憩時間に入り、初日は賜杯・優勝旗返還式が行われる。また、1・5・9月場所初日では優勝額除幕式、1月場所初日では年間最優秀力士の表彰式も行われる。2日目から13日目まで(以前は14日目にも行われていたが、千秋楽の取組編成が14日目の打ち出し後に行われるようになったため、時間的に不可能になっている)は、時間に余裕がある時は翌日の幕内取組を紹介する「顔触れ言上」が行われる。幕内取組が半分消化したところで、時間調節のための小休止がある(17:00頃)。", "title": "本場所の進行" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "幕内取組終了後に弓取式が行われ打出となり、1日の興行はすべて終了となる。時刻はこの時点で大相撲中継終了の18:00になるように調節されている。千秋楽は弓取式後に幕内最高優勝の表彰式(11月場所は年間最多勝表彰も、場所によっては先立って優勝決定戦)が行われるため、全日程が30分ほど繰り上がる。", "title": "本場所の進行" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大相撲の本場所における電光掲示板は、上下2段に四股名が入る欄があり、その上下に赤いランプがある。四股名等の文字は行司が手書きで書く。奇数日には上段に東方力士、下段に西方力士が、偶数日には逆に上段に西方力士、下段に東方力士が書かれる。電光掲示板には十両と幕内(中入後)の取組が書かれ、最も左側には十両以上の休場力士の四股名が表示される。また近年では右側に決まり手も表示されるようになった。", "title": "電光掲示板について" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "本場所の進行に伴う電光掲示板の表示の変化としては、十両最初の一番から赤いランプの点灯が始まり、これから取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。勝負が決まると、行司が勝ち名乗りの声を上げると共に、この取組の勝者の赤いランプが点灯したまま残り、敗者の赤いランプが消灯し、次の取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。十両最後の一番の終了時は敗者の赤いランプが消灯するだけとなり、ここから幕内土俵入り・横綱土俵入り・中入りを挟んで、幕内最初の取組を行う両力士が土俵に上がるときにその両力士の赤いランプが同時に点灯する。そして結びの一番の終了時も、敗者の赤いランプが消灯するだけとなる。", "title": "電光掲示板について" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "電光掲示板を操作するのは世話人の仕事である。", "title": "電光掲示板について" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1909年6月場所以前は回向院での晴天時興行の形を取っており、雨天中止となった場合その後2日続けて晴天とならなければ開始できない規則となっていた。 戦前は戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、1927年から1932年までの地方本場所は大阪市・京都市・名古屋市・福岡市・広島市で開催の実績がある。第二次世界大戦中には軍による接収、空襲による被災、そして戦後アメリカ軍による接収で国技館が使用できずに後楽園球場(番付上の表記は「小石川後樂園球場」)や神宮外苑相撲場等で晴天時限定で開催、その後仮設国技館(当時の表記は「假設國技館」)時代を経て蔵前仮設国技館へと本場所開催地を移した。", "title": "かつて使われていた会場" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "年6場所制が定着する前には、本場所の間の時期を利用して、本場所が開催されない土地で興行をすることがあった。", "title": "準場所" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その頃は、巡業も一門ごとに別の土地を回るのが普通だったので、全力士が集合して行われる興行は、準場所と呼ばれ、1959年10月大阪準場所までは持ち給金の加算も行われた(番付の昇降には関係しない)。", "title": "準場所" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "15日間興行が多く、北海道では8日興行となっていた。1940年代には、満洲で、3箇所5日間ずつ開催で15日興行としたこともあった。", "title": "準場所" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一般に、大相撲の本場所観戦では、集団で一方の力士の名をコールすること、力士の体に触れること、出待ち力士にサインや握手を求めること、取組中にみだりに席を離れること、座布団はもちろん物を投げること、他の観客の観戦の邪魔になるものを身に着けることが禁止されている。", "title": "観戦マナーについて" } ]
本場所(ほんばしょ)は、公益財団法人日本相撲協会によって定期的に行われる大相撲の興行。力士にとっては技量審査の性質があり、本場所での結果に基づき番付の昇降や力士褒賞金の加算が行われる。本場所における取組は公式戦とされ、通算の成績などは本場所のものを採用している。
'''本場所'''(ほんばしょ)は、[[公益財団法人]][[日本相撲協会]]によって定期的に行われる[[大相撲]]の興行。力士にとっては技量審査の性質があり、本場所での結果に基づき[[番付]]の昇降や[[力士褒賞金]]の加算が行われる。本場所における[[取組]]は公式戦とされ、通算の成績などは本場所のものを採用している。 == 概要 == [[1958年]](昭和33年)以降は年6回の興行で固定されている(下表)。開催地の[[命名権]]名称は[[2018年]](平成30年)時点のもの。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 開催月 ! 正式名称{{efn|[[1958年]](昭和33年)に制定された内規によると、大相撲の本場所の名称は、それぞれの場所が開催される月の名で表したものを正式名称としている。これに[[元号]]による開催年を冠して、例えば「[[1981年|昭和五十六年]]一月場所」「[[2008年|平成二十年]]七月場所」などのようにする(数字も正式には漢字表記)。実際に、協会が発行する番付や・取組表・星取表などはすべてこの「<!-- ○ ← フォント機種依存の記号です-->〜月場所」という表記方で書かれている。 [[新聞]]や[[テレビ]]などの媒体では、近年[[民間放送|民放]]を中心に内規通りの名称を用いているところがあるが、「春場所」「夏場所」など四季名や、「名古屋場所」「九州場所」など開催地名での[[通称]]が広く用いられており、NHKの[[大相撲中継]]では、「大相撲夏場所三日目」「大相撲九州場所千秋楽」などとタイトルテロップが用いられている。}} ! 通称 ! 会場 ! 開催地 ! 初日 ! 定員 |- | {{0}}1月 | 一月場所{{Anchors|1月場所}} | 初場所 | [[両国国技館]] | [[東京都]][[墨田区]] | 第1もしくは<br>第2日曜日 | 10816人(2016年) |- | {{0}}3月 | 三月場所{{Anchors|3月場所}} | 春場所<br />大阪場所 | [[大阪府立体育会館|エディオンアリーナ大阪<br />(大阪府立体育会館)]] | [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]] | 第2もしくは<br>第3日曜日 | 7414人(2018年) |- | {{0}}5月 | 五月場所{{Anchors|5月場所}} | 夏場所 | 両国国技館 | 東京都墨田区 | 第1もしくは<br>第2日曜日 |- | {{0}}7月 | 七月場所{{Anchors|7月場所}} | 名古屋場所 | [[愛知県体育館|ドルフィンズアリーナ<br />(愛知県体育館)]] | [[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]] | 第1もしくは<br>第2日曜日 | 7448人(2022年) |- | {{0}}9月 | 九月場所{{Anchors|9月場所}} | 秋場所 | 両国国技館 | 東京都墨田区 | 第1もしくは<br>第2日曜日 | |- | 11月 | 十一月場所 | 九州場所{{Anchors|11月場所}} | [[福岡国際センター]] | [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]] | 第1もしくは<br>第2日曜日 | 6976人(2022年) |} 三月場所(大阪)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sumo.or.jp/Kansen/osaka/|title=大阪場所 観戦案内|publisher=日本相撲協会|accessdate=2018-07-25}}</ref>と七月場所(名古屋)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sumo.or.jp/Kansen/nagoya/|title=名古屋場所 観戦案内|publisher=日本相撲協会|accessdate=2018-07-25}}</ref>の会場では[[命名権|施設命名権]]が売却されており、主催者である日本相撲協会では上記のように施設命名権に基づく名称と正式名称を併記して使用している。施設名の扱いに関してはメディアごとに対応が分かれている。[[大相撲中継|本場所のテレビ・ラジオ中継]]を行う[[日本放送協会|NHK(日本放送協会)]] は本場所の会場名について正式名称のみを使用している。一方、新聞報道などでは報道機関により施設命名権による名称を使用する場合<ref>例として、{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00296_S8A720C1000000/|title=優勝の御嶽海が2敗目 名古屋場所千秋楽|newspaper=日本経済新聞|date=2018-07-22|accessdate=2018-07-25}}、{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018072200270&g=spo|title=優勝の御嶽海が2敗目 名古屋場所千秋楽|newspaper=時事通信|date=2018-07-22|accessdate=2018-07-25}}</ref>、正式名称を使用する場合<ref>例として、{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20180722-OYT1T50067.html|title=初優勝の御嶽海、豊山に敗れ2敗…豪栄道10勝|newspaper=読売新聞|date=2018-07-22|accessdate=2018-07-25}}。なお、読売新聞は紙面ではウェブサイトと異なり両名称を併記する場合がある。</ref>、両名称を併記する場合<ref>例として、{{Cite news|url=https://www.sankei.com/sports/news/180722/spo1807220020-n1.html|title=【大相撲名古屋場所】優勝の御嶽海は13勝2敗 来場所、大関へ挑戦|newspaper=産経新聞|date=2018-07-22|accessdate=2018-07-25}}</ref>に分かれている。近年の[[番付表]]では「エディオンアリーナ大阪」「ドルフィンズアリーナ」と記されている。 七月場所については[[愛知県体育館]]の老朽化に伴い、2025年からは[[愛知国際アリーナ]]に会場を移転する予定<ref>{{Cite web|和書|title=◎25年本場所日程を発表=大相撲 |url=https://sp.m.jiji.com/article/show/2955469 |website=時事通信ニュース |access-date=2023-08-30 |language=ja}}</ref>。 <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> File:Ryogoku Great Sumo Hall.jpg|両国国技館 File:Osaka Prefectural Gymnasium 20191129.jpg|エディオンアリーナ大阪<br />(大阪府立体育会館) File:Dolphins Arena 20180923-01.jpg|ドルフィンズアリーナ<br />(愛知県体育館) File:Fukuoka International Center.jpg|福岡国際センター </gallery> [[江戸時代]]には本場所は各地で個別に行われており、力士は場所を主催する勧進元と自身の[[抱え (相撲)|抱え大名]]の都合がついた本場所に個別に参加していた。その中でも三都(江戸・京都・大坂)の相撲がとくに盛んで、江戸で年2回、京都と大坂で年1回ずつ行われることが多かったが、天災や天候不順、不入りによる中止や打ち切りも頻発していた。江戸時代の川柳に「一年を二十日で暮らすいい男」というものがあるように、その当時は江戸の本場所が年に2回それぞれ10日のあわせて20日しかなかった<ref>[https://nikkan-spa.jp/1715448/3 白鵬、鶴竜は休みすぎ? 歴代横綱の休場率を調べてみた(3/3ページ)] 日刊SPA! 2020年11月20日 (2021年1月8日閲覧)</ref>。 [[明治時代]]になると各地の相撲集団は法人化して個別の力士を抱えるようになり、[[大正時代]]には相撲集団は東京と大阪に収斂し、それぞれ常設の国技館で年2回興行、さらに合同でも興行するようになる。[[昭和時代]]になると東西協会が合同して日本相撲協会となり、戦後には大阪・名古屋・福岡でそれぞれ興行を行うようになって現在に至る。 1場所は江戸時代は晴天10日間興行だったが徐々に延ばされ、現在は15日間連続で行われる。1日目は「初日(しょにち)」、8日目は「中日(なかび)」、最終日にあたる15日目は「[[千秋楽]](せんしゅうらく)」と呼ばれる。初日は1場所15日制になって以降、[[昭和天皇]]崩御に伴い1日延期された[[1989年]]一月場所を除き、[[日曜日]]に設定されている。原則として初日は第2日曜日だが、3月・5月・9月・11月場所では日曜日が5週ある時は第3週から始まることもある。7月場所は夏巡業の期間確保のため6月から行われていたこともあり、現在も第1週から始まることがある。 番付は各場所初日の約半月前に日本相撲協会より発表される。[[1970年]]頃に、年末年始を挟む一月場所を除いては初日の13日前の月曜日と定められた。ほかのスポーツ行事の少ない[[曜日]]を選んだということである。例外として一月場所の番付発表については、直前が年末年始の期間に当たるため近年は前年[[12月]]下旬頃に行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sumo.or.jp/Kansen/year_schedule |title=本場所の年間日程表 |publisher=財団法人日本相撲協会 |accessdate=2017-03-03}}</ref>。 {{See|本場所の一覧}} 本場所の土俵進行([[土俵入り]]や力士呼び出しの順序)は[[奇数]]日目が東方から、[[偶数]]日目が西方からとなっている。 == 本場所の進行 == 本場所は毎日8:00頃、呼出が会場前に設営された高櫓から打ち出す寄せ太鼓で始まる。この後[[序ノ口]]から順番に取組が始まるが、3日目(新弟子が多い3月場所は2日目から)から中盤にかけては、その前に[[前相撲]]が行われる。 序ノ口、[[序二段]]、[[三段目]]、[[幕下]]と取組が進み、幕下の相撲が残り5番(幕下上位五番)になった時点で、[[十両]]力士の[[土俵入り]]が行われる。かつては幕下取組終了後に行われていたが、[[昭和]]40年代末の[[第一次オイルショック|オイルショック]]の際に光熱費節減のため、土俵入り後の休憩時間省略を目的に時間が変更された。この時点で14:20頃になる。その後十両の取組に入るが、初日と千秋楽は十両残り3番を残して日本相撲協会理事長からの挨拶(協会御挨拶)が入る。 十両取組終了後の概ね15:50頃に[[幕内]]力士の土俵入り・[[横綱土俵入り]]が行われる。千秋楽では十両以下各段の優勝決定戦および優勝力士の表彰が行われる。土俵入り後は中入の休憩時間に入り、初日は[[賜杯]]・[[優勝旗]]返還式が行われる。また、1・5・9月場所初日では[[優勝額]]除幕式、1月場所初日では[[年間最優秀力士賞|年間最優秀力士]]の表彰式も行われる。2日目から13日目まで(以前は14日目にも行われていたが、千秋楽の取組編成が14日目の打ち出し後に行われるようになったため、時間的に不可能になっている)は、時間に余裕がある時は翌日の幕内取組を紹介する「顔触れ言上」が行われる。幕内取組が半分消化したところで、時間調節のための小休止がある(17:00頃)。 幕内取組終了後に[[弓取式]]が行われ打出となり、1日の興行はすべて終了となる。時刻はこの時点で[[大相撲中継]]終了の18:00になるように調節されている。千秋楽は弓取式後に[[幕内最高優勝]]の表彰式(11月場所は[[年間最多勝]]表彰も、場所によっては先立って優勝決定戦)が行われるため、全日程が30分ほど繰り上がる。 == 電光掲示板について == 大相撲の本場所における電光掲示板は、上下2段に四股名が入る欄があり、その上下に赤いランプがある。四股名等の文字は行司が手書きで書く。奇数日には上段に東方力士、下段に西方力士が、偶数日には逆に上段に西方力士、下段に東方力士が書かれる。電光掲示板には十両と幕内(中入後)の取組が書かれ、最も左側には十両以上の休場力士の四股名が表示される。また近年では右側に決まり手も表示されるようになった。 本場所の進行に伴う電光掲示板の表示の変化としては、十両最初の一番から赤いランプの点灯が始まり、これから取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。勝負が決まると、行司が勝ち名乗りの声を上げると共に、この取組の勝者の赤いランプが点灯したまま残り、敗者の赤いランプが消灯し、次の取組を行う両力士の赤いランプが同時に点灯する。十両最後の一番の終了時は敗者の赤いランプが消灯するだけとなり、ここから幕内土俵入り・横綱土俵入り・中入りを挟んで、幕内最初の取組を行う両力士が土俵に上がるときにその両力士の赤いランプが同時に点灯する。そして結びの一番の終了時も、敗者の赤いランプが消灯するだけとなる。 電光掲示板を操作するのは[[世話人]]の仕事である。 == かつて使われていた会場 == * 東京 - [[蔵前国技館]]([[1950年]]~[[1984年]] [[1954年]]落成するまでは仮設国技館だった) * 大阪 - [[大阪国技館]]、(旧)[[大阪市中央体育館]]([[1986年]]に、大阪府立体育会館の全面改修工事のために1度だけ開催された) * 名古屋 - [[名古屋市金山体育館]]([[1958年]]~[[1964年]] 「会場は[[飛行機]]の格納庫を改造して建設されたが、[[空気調和設備|空調]]がなかったため、室内でも[[猛暑]]の中で開かれ、支度部屋には氷柱が置かれ、中入りの時には場内に酸素の放出が行われた」と記録にある) * 福岡 - [[福岡スポーツセンター]]([[1957年]]~[[1973年]])、[[福岡市九電記念体育館|九州電力記念体育館]]([[1974年]]~[[1980年]])<ref name="center">『大相撲ジャーナル』2017年12月号p40</ref> 1909年6月場所以前は[[回向院]]での晴天時興行の形を取っており、雨天中止となった場合その後2日続けて晴天とならなければ開始できない規則となっていた。 戦前は戦時戦後の一時期を除き旧両国国技館が使われ、[[1927年]]から[[1932年]]までの地方本場所は[[大阪市]]・[[京都市]]・[[名古屋市]]・[[福岡市]]・[[広島市]]で開催の実績がある。[[第二次世界大戦]]中には軍による接収、空襲による被災、そして戦後[[アメリカ軍]]による接収で国技館が使用できずに[[後楽園球場]](番付上の表記は「小石川後樂園球場」)や神宮外苑相撲場等で晴天時限定で開催、その後仮設国技館(当時の表記は「假設國技館」)時代を経て蔵前仮設国技館へと本場所開催地を移した。 == 場所ごとの逸話など == === 1月場所(初場所) === * 古くは1月場所は「春場所」と呼ばれた。[[1953年]]に大阪場所が出来て年4場所制となった時には1月場所は「初場所」か「春場所」かで協会発表に混乱があり、騒動になった。後で当時責任者だった[[年寄]][[楯山 (相撲)|楯山]](元[[幡瀬川邦七郎|幡瀬川]])の明かしたところでは、マスコミを利用した話題づくりだった。 * この場所で[[大関]]や[[横綱]]への昇進を果たした力士は多く、「祝儀場所」の異名もある。 * 中日8日目は[[天覧相撲]]になることが多い。特に[[大相撲平成31年1月場所|平成31年初場所]]8日目における平成最後の天覧相撲において[[明仁|明仁天皇]]、[[上皇后美智子|美智子皇后]](いずれも当時)が退席するときに、自然発生的に観衆による[[万歳]]が行われた。 * [[1989年]]の初場所(=平成最初の場所)は[[1月8日]]([[日曜日]])に初日の予定であったが、[[昭和天皇]]の崩御の関係で翌日の[[1月9日]]('''[[月曜日]]''')に変更。初日が日曜日以外の曜日に行われたのは戦後の15日制復活後、初めてのことであった。 * [[マーガレットコミックス]]『[[ベルサイユのばら]]第13巻』([[集英社]])が2017年初場所の懸賞として掲出し、話題となった。 * [[2016年]]の[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]から[[2021年]]の[[大栄翔勇人|大栄翔]]まで6年連続で初優勝が続いていた。[[2022年]]は優勝経験のある[[御嶽海久司|御嶽海]]が優勝し、初優勝が続いたのは6年で止まった。 ; 名勝負 * [[1933年]]8日目 関脇[[沖ツ海福雄|沖ツ海]] - 別席[[男女ノ川登三|男女ノ川]] : 前年の[[春秋園事件]]で協会を脱退した力士の多くがこの場所に帰参してきたため、協会は通常の番付とは別に帰参力士のために「別席」の枠を設けたが、そのうちの一人である男女ノ川が横綱[[玉錦三右エ門|玉錦]]や大関[[武蔵山武|武蔵山]]を破りただ一人全勝の快進撃。8日目に対戦した沖ツ海は付け人に「今日は戸板を持って迎えに来い」と命じるなど相当の覚悟で臨んだが、男女ノ川はそれを退け、そのまま11戦全勝で初優勝。 * [[1939年]]4日目 横綱[[双葉山定次|双葉山]] - 前頭4枚目[[安藝ノ海節男|安藝ノ海]] : 入幕2場所目の新鋭安藝ノ海が双葉山を外掛けで下し、双葉山の連勝が69で止まった。 * [[1960年]]12日目 小結[[柏戸剛|柏戸]] - 前頭13枚目[[大鵬幸喜|大鵬]] :新入幕で連勝する大鵬に、小結柏戸が「止め男」として当てられた柏鵬初顔合わせ。後の柏鵬戦とは逆に攻めまくる大鵬を、柏戸が逆転の出し投げで下した。 * [[1964年]]千秋楽 関脇[[若三杉彰晃|大豪]] - 前頭13枚目[[清國勝雄|清國]] : 入幕2場所目の清國が14日目を終えて大鵬と共に14戦全勝の快進撃。同期の大鵬との優勝決定戦の期待がかかる中で千秋楽に大豪と対戦するも敗れ、結びで大鵬が柏戸に勝ったため優勝はならなかった。この場所綱取りがかかった大関[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]は13勝2敗で優勝次点にもならなかったが、場所後に49代横綱に推挙された。 * [[1965年]]初日 横綱大鵬 - 小結[[玉の海正洋|玉乃島]] : この場所から「部屋別総当たり制」が導入され、その初日の結びに同じ一門の大鵬と新小結玉乃島が初めて対戦し、玉乃島が内掛けで大鵬を破る波乱の幕開けとなった。 * [[1971年]]千秋楽 横綱[[玉の海正洋|玉の海]] - 横綱大鵬(優勝決定戦) : 3場所連続で全勝で千秋楽を迎え、この場所こそ全勝優勝を目指した玉の海を大鵬が寄り切りで破り1敗で並ぶと、優勝決定戦では水入りの熱戦の末、再び大鵬が寄り切り、最後となる32回目の優勝。一方全勝どころか優勝を逃した玉の海は、その日の深夜に神宮外苑でランニングしているところを、部屋の打ち上げから帰宅途中の小結[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]が目撃し、横綱の姿を見て自身の不甲斐なさを反省した。 * [[1972年]]8日目 横綱[[北の富士勝昭|北の富士]] - 関脇貴ノ花 : 北の富士の外掛けを貴ノ花が爪先立ちで弓なりの体勢でうっちゃりを狙い、北の富士の右手が先についた。行司軍配は貴ノ花に上がったが、物言いの結果北の富士の右手は「かばい手」とみなされ、軍配差し違えで北の富士の勝ちとなった。貴ノ花の勝ちを主張した[[木村庄之助 (25代)|25代木村庄之助]]は責任を取り退職。 * 1972年千秋楽 前頭5枚目[[栃東知頼|栃東]] - 大関清國 : この場所絶対本命と目された北の富士が不振で14日目に休場。14日目を終え3人が4敗でトップに並ぶ混戦で千秋楽を迎えるも、4敗だった[[福の花孝一|福の花]]と[[琴櫻傑將|琴櫻]]が相次いで敗れ、結びで栃東が敗れると8人が5敗で並ぶ異常事態だったが、栃東は上手出し投げで清國を破り、15日制になってから最低となる11勝4敗の成績で幕内優勝を飾った。 * [[1981年]]千秋楽 横綱[[北の湖敏満|北の湖]] - 関脇[[千代の富士貢|千代の富士]](優勝決定戦) :ウルフフィーバーの巻き起こった場所。14連勝の千代の富士を1敗で追う北の湖が吊り出しに破って決定戦に持ち込んだが、この時北の湖の左足首が悪いのを見破った千代の富士が[[上手出し投げ]]で決定戦を制し初優勝。大関昇進も果たす。 * [[2015年]]13日目 横綱[[白鵬翔|白鵬]] - 大関[[稀勢の里寛|稀勢の里]] :この前の取り組みで、[[日馬富士公平|日馬富士]]が敗れ、白鵬がこの取り組みに勝てば、大相撲の日本新記録となる33回の優勝が決まる一番だったが、本割では両者同体となり、物言い・協議の上取り直し。その取り直しで白鵬が勝ち、日本新記録の33回優勝が決定した。白鵬はこの場所を15連勝の全勝で、新記録達成に花を添えた。 === 3月場所(春場所) === * 呼称については1月場所も参照。 ** 地元大阪を中心にほかの地方場所と同じく「大阪場所」の名称を使用することもあり、中継を行うメディアにおいては[[AbemaTV]]が「大阪場所」を主に名称に使っている。 * [[1973年]]に中学生力士が禁止されて以降、中学卒業見込みの入門者が多い関係で6場所の中で最も[[初土俵]]を踏む新弟子が多く、「就職場所」の異名がある<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.8</ref>。平成以降では[[1992年]]の151人が最多、[[2000年代]]に入ってからは100人を超えない年が続いている。 * 「荒れる春場所」と呼ばれ<ref>[http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/001/058.html 「荒れる大阪場所」のルーツ] 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - [[goo]] 大相撲</ref>、番付上位が負けるいわゆる波乱の結果が多いとされる。 * もともと大阪には[[大坂相撲]]の歴史があって相撲人気の根強い土地であり、毎年大いに盛り上がる場所である。 * [[朝潮太郎 (3代)|3代目朝潮]]がこの場所で強く[[1956年]]から3連覇するなど通算5回の優勝のうち4回を大阪で達成、「大阪太郎」と呼ばれた。他に[[北勝海信芳|北勝海]]が通算8回優勝のうち4回が大阪での優勝。 * 初の女性[[大阪府知事一覧|大阪府知事]]となった[[太田房江]]が在任中に幾度となく「大阪府知事賞の贈呈を自らの手で贈りたい」と土俵上は女人禁制と決めている協会と悶着を起こし、ファンや国民の間で議論を呼んだ。 * [[2011年]]の開催は、[[大相撲八百長問題|力士の八百長メール問題]]の外部委員会調査に時間がかかることと、世論動向から不祥事による初の開催中止となった。<!--当時、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が開催予定日直前に起こり、その影響(各種被害の甚大さ)から、「相撲どころではなかった」とも言われている。--> * 2014年は場所期間中に、[[2014年大阪市長選挙|大阪市長選挙]]が執行された(告示が初日、投票日が千秋楽と同じ)ため、「もう一つの春場所」とも言われ、(優勝力士に贈られる)市長賞が職務代行者によって贈られた。 * [[2020年]]の開催は、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルスの感染拡大]]防止のため無観客で開催。本場所が一般公開されないのは戦時中に傷病軍人を招待して開かれた1945年6月の夏場所以来75年ぶりで、観客を一切入れない興業は初(テレビ中継があったので「完全非公開」ではない)。 * [[2021年]]の開催は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大人数での移動を避けるため、大阪での開催を取りやめ、特別に東京の両国国技館での開催となった。 ; 名勝負 * 1960年千秋楽 横綱[[栃錦清隆|栃錦]] - 横綱[[若乃花幹士_(初代)|若乃花]] :史上初めて、全勝力士同士が千秋楽結びの一番で優勝を争う形になった。栃錦が無理にまわしをきりにいったところを若乃花が一気に寄り、自身初の全勝優勝。栃若最後の一番にもなった。 * [[1967年]]14日目 大関北の冨士 - 横綱[[佐田の山晋松|佐田の山]] : [[千代の山雅信|九重親方]]が北の冨士らを連れて[[出羽ノ花國市|出羽海]]部屋から独立し、出羽一門を破門されて迎えた最初の場所で、ここまで1敗の北の冨士が部屋の先輩だった佐田の山と初対戦。取り直しの末勝利した北の冨士は千秋楽も柏戸を破り初優勝、大鵬の7連覇を阻止した。 * 1968年4日目 横綱佐田の山 - 前頭4枚目[[高見山大五郎|高見山]] : ハワイ出身で入幕2場所目の高見山がここまで2連覇中の佐田の山を突き出しで破り初金星。佐田の山はこの2日後に突然現役を引退。 * 1969年2日目 横綱大鵬 - 前頭筆頭[[羽黒岩智一|戸田]] : 45連勝中だった大鵬を新鋭戸田が破り大金星を挙げるが、実際は戸田の右足が先に土俵を割っていた。この一番は「世紀の大誤審」と呼ばれ、のちに勝負判定にビデオを導入するきっかけとなった。 * [[1975年]]千秋楽 横綱北の湖 - 大関貴ノ花(優勝決定戦) :本割で北の湖に敗れた貴ノ花が、決定戦では寄り切りで北の湖を破り初優勝。この時期の北の湖は優勝決定戦に弱く、同年の秋場所でも貴ノ花に敗れ、決定戦4連敗となった、 * [[1978年]]7日目 大関[[旭國斗雄|旭國]] - 前頭4枚目[[魁傑将晃|魁傑]] : 水入り10分後、結びの一番の後に取り直しを行い、計11分に渡る熱戦の末魁傑が掬い投げで勝利。打ち出しは18時20分。魁傑は前日にも大関[[若乃花幹士 (2代)|若三杉]]と水入りの一番を取っている。 * 2017年千秋楽 横綱稀勢の里 - 大関照ノ富士 : 稀勢の里が新横綱として迎えたこの場所。13日目に日馬富士戦に敗れて初黒星を喫した際に肩を負傷し、傷めながらも本割と優勝決定戦で照ノ富士に連勝し、逆転で連覇を果たした。 === 5月場所(夏場所) === * [[1946年]]の夏場所は[[太平洋戦争|戦争]]によって被災した国技館の修理が工事の遅延によって完了しなかったため、戦後初の開催中止となった(番付は発表されなかった)。 * [[2001年]]、[[内閣総理大臣|首相]]就任直後の[[小泉純一郎]]が[[内閣総理大臣杯]]の授与を行い前日の負傷を押して出場し22回目の幕内最高優勝を勝ち取った横綱[[貴乃花光司|貴乃花]]に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。小泉の「感動したっ!」は[[流行語]]ともなった。なおこの負傷が原因となり、貴乃花はこの優勝を最後として[[2003年]]に現役を引退し、貴乃花親方を経て[[2018年]]に日本相撲協会を退職した。 * 2011年は前場所の開催中止に引き続き八百長問題の影響で、通常の興行としてではなく[[技量審査場所]]として開催された(成績は正式記録として残る)。この場所は無料公開され、NHKはこの場所の生中継を行わず、総合テレビと衛星放送でのダイジェスト放送も行わない(ニュースでの報道は行う)。優勝額もなし。一方で[[ニコニコ生放送]]・[[ひかりTV]]等のネット配信で、前相撲から結びの一番まで完全生放送が行われた(詳しくは[[技量審査場所]]を参照)。 * [[2012年]]は、関脇[[鶴竜力三郎|鶴竜]]の大関昇進で1横綱6大関時代と話題になったが、[[前頭]]7枚目の[[旭天鵬勝|旭天鵬]]が同4枚目[[栃煌山雄一郎|栃煌山]]との史上初の[[平幕]]同士の[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を制すると同時に初優勝の最年長記録を更新した。 *[[令和]]最初の大相撲開催となった[[2019年]]は千秋楽に[[要人|国賓]]として来日していた[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ドナルド・トランプ]]が国技館に来場し、[[メラニア・トランプ]]夫人や[[安倍晋三]][[内閣総理大臣]]、[[安倍昭恵]]夫人と共に相撲を観戦。幕内優勝力士となった[[朝乃山英樹|朝乃山]]に特別杯「アメリカ合衆国大統領杯」を贈呈した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019052600260&g=pol|title=日米首脳、大相撲を観戦=トランプ氏が大統領杯授与|accessdate=2019年6月2日|publisher=時事通信(2019年5月26日作成)}}</ref>。なお、この大統領杯は来年以降も夏場所の幕内最高優勝力士に贈呈する予定となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2019/05/27/kiji/20190526s00005000538000c.html|title=来年以降の夏場所も米大統領杯授与へ 力士に大きな励み|accessdate=2019年6月2日|publisher=スポーツニッポン(2019年5月27日作成)}}</ref>。 * 2020年は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため当初は日程を2週間遅らせることとして、その日程で番付も発表されたが、その後緊急事態宣言の延長を受けて開催中止を決定<ref name="release20200504">{{Cite press release|和書|url=http://www.sumo.or.jp/IrohaKyokaiInformation/detail?id=364|title=理事会発表事項|publisher=公益財団法人日本相撲協会|date=2020-05-04|accessdate=2020-05-04}}</ref>。本場所の中止は1946年(昭和21年)夏場所、2011年(平成23年)春場所に続き3回目<ref name="sankei20200504">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20200504-YJFPIWN6DFJ3DHM7FGDRIC5OMU/|title=夏場所中止、7月の名古屋場所は東京で無観客開催へ 日本相撲協会|newspaper=産経新聞|date=2020-05-04|accessdate=2020-05-04}}</ref>。 ; 名勝負 * [[1936年]]9日目 横綱[[玉錦三右衛門|玉錦]] - 関脇双葉山 : ともに全勝で迎えたこの一番で双葉山は寄り倒しで玉錦に初勝利。双葉山はこの場所を11戦全勝で初優勝しその後5連覇を達成、この一番は覇者交代の一番と言われた。 * [[1938年]]千秋楽 横綱双葉山 - 横綱玉錦 : ここまで65連勝中の双葉山に対し玉錦が執念を見せ水入りの熱戦となるが、最後は双葉山が寄り倒した。玉錦はこの年の12月に急逝し、これが現役最後の一番となった。 * [[1941年]]千秋楽 大関[[五ツ嶋名良男|五ツ嶋]] - 関脇[[照國萬藏|照國]] : 新大関で迎えた前場所を両膝の故障で途中休場し、いきなり角番を迎えた五ツ嶋は9日目まで2敗も10日目から5連敗で7勝7敗となり、千秋楽に照國と対戦。寄り切りで勝った照國が入幕5場所で当時の最年少記録となる大関昇進を決めたのに対し、五ツ嶋は史上最短となる在位2場所で大関から陥落すると、翌場所も全休し、そのまま廃業してしまった。 * [[1942年]]14日目 横綱双葉山 - 大関照國 : 当時[[東西制|東西対抗戦]]が行われていた中、前の場所に出羽一門中心の陣営の総帥・横綱男女ノ川が引退し、戦力の均衡を図るためもう片方の方屋である双葉山中心の陣営から照國が移籍。初顔合わせとなったこの日の対戦で照國は下手投げで双葉山を破り、優勝は逃したものの13勝を挙げた照國は双葉山からの1勝が決め手となり、大関在位2場所で場所後横綱に昇進。 * [[1947年]]千秋楽 横綱[[羽黒山政司|羽黒山]] - 大関[[前田山英五郎|前田山]](優勝決定戦) : 接収中の両国国技館が使えなくなり、[[明治神宮外苑]]での晴天10日間興行は4人が9勝1敗で並び、人気回復策として[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]が初めて実施された。トーナメントで行われた決定戦は[[力道山]]を下した羽黒山と[[東富士欽壹|東富士]]を破った前田山が決勝で対戦し、羽黒山が勝って3連覇を達成した。 * [[1961年]]4日目 十両筆頭[[清ノ森政夫|清ノ森]] - 前頭13枚目佐田の山 : 入幕3場所目で初優勝を飾った佐田の山だが、4日目にこの場所十両優勝の清ノ森に敗れており、十両に負けた力士が幕内優勝という珍しい例となった。 * [[1971年]]5日目 小結貴ノ花 - 横綱大鵬 : 貴ノ花に寄り倒された大鵬はこの一番を最後に現役を引退した。 * [[1975年]]8日目 小結[[麒麟児和春|麒麟児]] - 前頭筆頭[[富士櫻栄守|富士櫻]] : 天覧相撲に組まれたこの一番で、両者は27秒に渡り計54発の突っ張り合いを展開した。 * [[1988年]]初日 前頭7枚目[[霧島一博|霧島]] - 前頭8枚目[[水戸泉政人|水戸泉]] : いずれもうっちゃりで3度も取り直しとなり、最後は水戸泉がまたもうっちゃりを狙う霧島を寄り倒し、4回目で決着が付いた。 * [[1991年]]初日 前頭筆頭貴花田 - 横綱千代の富士 : [[1980年代]]、昭和最後の大横綱・千代の富士と後に貴乃花として平成の名横綱になる貴花田の初顔合わせの一番。この一番で、千代の富士は寄り切られて完敗。貴花田は初[[金星 (相撲)|金星]]を獲得。一方、千代の富士は2日後に現役引退。力士の世代交代の時を世間に知らしめた一番となった。 * 2001年千秋楽 横綱貴乃花 - 横綱武蔵丸(優勝決定戦) : 上述のとおり、強行出場して22回目の優勝をもぎ取った一番。本割では武蔵丸にあっけなく敗れたものの、決定戦では最後の力を振り絞って右四つからの上手投げで武蔵丸を投げ飛ばした。 === 7月場所(名古屋場所) === [[画像:Oozumo_nagoya01.jpg|thumb|200px|right|平成21年大相撲名古屋場所開催中の模様。画面右上に中日新聞社社旗が見える。午前中の撮影につき観客はまばらである。(撮影日2009.07.14) ]] * 本場所となったのは[[1958年]]で、6場所の中では一番後である。 * [[日本相撲協会]]と[[中日新聞社]]の共催となっている。九州場所が相撲協会の完全自主興行に移行した1974年以降(後述)、相撲協会以外の団体が本場所の主催元になっているのは名古屋場所だけである。中日新聞社関連では以下の特記事項がある。 ** 場所中、会場の[[愛知県体育館]]の館内には中日新聞社の社旗が掲げられる。 ** 毎年3月中旬頃から中日新聞社([[中日新聞北陸本社|北陸本社]]([[北陸中日新聞]])・[[中日新聞東京本社|東京本社]]([[東京新聞]])・[[中日新聞東海本社|東海本社]]・[[中日新聞福井支社|福井支社]]([[日刊県民福井]]・編集自体は北陸本社で行っている)を含む)で桝席の販売が行われている。 ** 場所中、毎日必ず1本は中日新聞社が懸賞を出す。懸賞を出した取組は当日の[[中日新聞]](北陸中日新聞・日刊県民福井・東京新聞を含む)のスポーツ欄及び[[中日スポーツ]]([[東京中日スポーツ]]を含む)の大相撲欄で「本日の好取組」として展開予想が掲載される。 ** 本場所を共催している縁もあってか、[[1987年]]以降、加藤巳一郎、大島宏彦、大島寅夫と歴代の中日新聞社社長が[[横綱審議委員会]]の委員を務めている。 ** 関係会社の[[中部日本放送]]→CBCテレビで直前に「'''大相撲名古屋場所前夜祭'''」を開催している。但し、九州場所前夜祭(後述)と違い、自局の施設であるCBCホールで行っている。 ** 関係会社でもある[[中日ドラゴンズ]]は球団創設80周年にあたる[[2016年]]にプロ野球チームとしては初となる懸賞を提供した。「80」に因み中入り後の8番目の取組に懸賞が掛けられている。 * 「荒れる名古屋」で知られる。夏場の開催となって、とりわけ気温が高いことで知られる名古屋ということもあり、「熱帯場所」、「南国場所」の異名をとるほどの暑さのため(金山体育館時代は場内に冷房がなく、環境が劣悪だった)体調管理が難しいことから調子を落とす上位力士も多いのが、その要因と言われている<ref name="amai">『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p41</ref>。生涯ただ一度の優勝をこの場所で果たした力士も多い。 * かつては場所後の夏巡業の日程を確保するために6月下旬から始まったこともあった。 ** また、同様の理由で、1960年代後半から1990年代までは第2日曜日になることのない7月1日~7日(即ち、必ず第1日曜日)から始まっていた。2000年代以降は概ね他の場所と同じ第2日曜日から始まっている<ref>例外として、2002年〜2004年、2013年、2019年は第1日曜日から始まっている。また、2020年も東京オリンピックに配慮して第1日曜日から始める予定であった。</ref>。 * 夏巡業を控えていることも有って、かつては名古屋場所では夏巡業の目玉となる新横綱を確保するために、やや甘い基準で名古屋場所で横綱昇進を果たす力士が少なからず存在した。しかし[[北尾光司|双羽黒]]が廃業騒動を起こすと横綱昇進の基準が厳格化。1993年7月場所の貴乃花、1994年7月場所の[[武蔵丸光洋|武蔵丸]]、2006年7月場所の白鵬などは、双羽黒廃業騒動以前の基準なら、場所後に横綱昇進を果たしていた可能性がある<ref name="amai"/>。 * [[1923年]]の[[関東大震災]]による東京の国技館焼失のため、翌年の1月場所が名古屋市内の仮設国技館で行われた。また、昭和初年の年4場所時代にも名古屋での本場所興行が行われた。 * [[1972年]]に[[高見山大五郎]]が外国人力士として初めての優勝を遂げた。 * 2010年は[[大相撲野球賭博問題]]の為[[日本放送協会|NHK]]の生中継が中止となり(ダイジェスト版のみ放送)、協会が外部からの表彰を辞退した為表彰式は優勝旗と賞状のみとなった。 * 2020年は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、大人数での移動を避けるため、名古屋での開催を取りやめ、特別に東京の両国国技館での開催となった{{R|release20200504}}{{R|sankei20200504}}。初日は従来より2週間遅い[[7月19日]]で、千秋楽は[[8月2日]]となり、1965年7月場所以来に本場所が月をまたぐこととなった。当初無観客での開催を予定していたものの、観客を入れてのイベント制限が緩和されたことで2500人程度の観客を入れて開催が行われている。主催については、通常通り中日新聞社との共催で行われ<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/91216 19日に大相撲7月場所初日 名古屋から離れても…] - 中日新聞、2020年7月19日 5時00分配信、5時01分更新。</ref>、報道などでも正式名の「七月場所」が使用された。 *[[2021年]]は[[2020年東京オリンピック|五輪]]開催に伴い第1日曜日([[7月4日]])が初日となった。 *[[2022年]]は新型コロナウイルスの影響により休場者が相次ぎ、千秋楽までに全力士の3割が休場(同じ部屋の力士が陽性認定されたことに伴う者も含む)し、幕内42名中16名が休場(怪我人1名を含む)した<ref>[https://web.archive.org/web/20220801015514/https://nordot.app/926615722008739840 大相撲コロナ休場続出の異常事態 番付に影響、運営に課題も] - 共同通信、2022年8月1日 8時22分配信、10時26分更新。</ref>。 *2025年からは会場を[[愛知国際アリーナ]]に移す予定。 ; 名勝負 * [[1971年]]千秋楽 横綱北の富士 - 横綱玉の海 : これまで3度、全勝で千秋楽を迎えながら敗れ、全勝を果たせないでいた玉の海が、ライバル北の富士を4分近い熱戦の末破って、6回目にして初の念願の全勝優勝を果たすも、これが最後の優勝となってしまった。 * [[1974年]]千秋楽 横綱[[輪島大士|輪島]] - 大関北の湖 : 連続優勝と横綱昇進を目指す北の湖を星一つの差で追う輪島の対戦は、本割で輪島が下手投げで勝ち2敗で並ぶと、優勝決定戦でも勝ちを急ぐ北の湖をまたも下手投げで破り逆転優勝。優勝を逃した北の湖だが場所後横綱に昇進。 * [[1975年]]千秋楽 前頭12枚目[[鷲羽山佳和|鷲羽山]] - 前頭筆頭[[金剛正裕|金剛]] : 輪島全休、貴ノ花途中休場、北の湖と魁傑も不振と、横綱大関総崩れの場所を引っ張ったのが金剛。7日目に北の湖を破ったあと「もうちょっと汗をかきたかった」と発言するなど「ホラ吹き金剛」の取組後の談話は日を追うごとにエスカレート。そして千秋楽、苦手の鷲羽山を破り平幕優勝を決めたあとの金剛の談話は「真実とは勝つことにある」であった。 * [[1978年]]14日目 横綱北の湖 - 横綱輪島 : 3連覇中の北の湖と輪島がともに全勝で14日目に対戦。水入りの熱戦となった一番は体力に勝る北の湖が勝ち、これを境に輪湖時代から北の湖一強の時代へ変わっていった。 * [[1989年]]千秋楽 横綱北勝海 - 横綱千代の富士(優勝決定戦) : 史上2度目、横綱同士では初となる同部屋相星決戦。場所前に娘を亡くし、この場所は数珠を首にかけながら場所入りしていた千代の富士が、右上手投げで先輩横綱の意地を見せ28度目の優勝を果たす。 * [[1993年]]千秋楽 横綱[[曙太郎|曙]] - 大関貴ノ花 - 関脇[[花田虎上|若ノ花]](優勝決定戦) : [[1988年]]春場所が初土俵の同期生3人による巴戦。横綱昇進のかかる大関・貴ノ花が結びの一番に勝って決定戦に持ち込んだが曙が連勝、横綱初優勝を決めた。場所後若ノ花は大関昇進。優勝 - 優勝同点の貴ノ花の昇進は見送られた。 * 2020年13日目 大関朝乃山 - 前頭17枚目[[照ノ富士春雄|照ノ富士]] : 上述の通り特別に両国国技館で開催された。元大関で序二段まで陥落し、幕内に戻ってきた照ノ富士と新大関の朝乃山が対戦した一番。結果は照ノ富士が撃破し、千秋楽にも御嶽海を破って幕尻優勝を果たした。 * 2021年千秋楽 横綱白鵬 - 大関照ノ富士 : 前場所も優勝して完全に復活し、綱取りに挑む照ノ富士と休場明けの白鵬が全勝同士で対決した一番。結果は白鵬が勝って全勝優勝。照ノ富士は敗れて優勝を逃したが、翌9月場所に横綱昇進を果たした。結果的にこれが白鵬の現役最後の一番となった。 === 9月場所(秋場所) === * 長期に及ぶ[[相撲|夏巡業]]の後の本場所であるため、ここで大きく「化ける」力士も多い。 * 同様に夏巡業を経て再起を目指す、連続休場明けの横綱がよく登場する。 * 大阪で10月に開催された[[1949年]]秋場所、6日目まで1勝5敗と不振の横綱[[前田山英五郎|前田山]]は7日目に休場届を提出するとその日のうちに帰京し、[[後楽園球場]]で行われた[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[サンフランシスコ・シールズ|シールズ]]の[[日米野球]]を観戦。後日これが発覚し、前田山は引退に追い込まれた。 * [[1955年]]は勤務で本場所を観戦できないビジネスマンにも会社帰りに大相撲を楽しんでもらおうとの配慮から、午前10時30分から取組開始、午後5時30分に中入り、午後8時に打ち出しという「ナイター興行」で行われた。ナイター興行はビジネスマンには好評だったが、力士にとってはコンディション作りが難しく、体調を崩す力士が続出、また遠隔地向けの版に間に合わないという理由で新聞社からクレーム<ref group=注釈>当時は遠隔地向けの新聞は、現在のような[[通信衛星]]や[[インターネット]]中継の技術がなく、地方の印刷工場も皆無であり、大抵は翌朝に家庭に届けるには、貨物列車での輸送の関係上夕方の早い段階で締め切りとなるため、その結果は翌日の夕刊、または翌々日の朝刊で伝えざるを得なかった。</ref>が入り、1場所限りで取りやめとなり、2015年1月現在では、現状唯一のナイター本場所である<ref name="ナイター場所">[https://web.archive.org/web/20120321120327/http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/001/013.html 1場所限りのナイター興行] 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - goo 大相撲</ref>。 ** しかも、このナイター本場所の11日目において、横綱[[千代の山雅信|千代の山]]対関脇[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]の取り組みが、史上最長となる合計17分15秒の「大相撲」となる珍事があった。本割で2回にわたり水入りの中断があり、更に力士の疲労を考えて、次の2番を先に消化してから[[取り直し#水入り後の取り直し|取り直し]]となり、結果[[引き分け]]となった。このため、打ち出しは夜8時15分と最も遅いものとなった<ref name="ナイター場所"/>。 * [[2000年シドニーオリンピック]]開催に伴い第1日曜日([[9月3日]])が初日となった。 * [[俳句]]では'''相撲'''は[[秋]]の季語。 ; 名勝負 * [[1955年]]11日目 横綱千代の山 - 関脇若乃花(上述) * [[1958年]]初日 前頭7枚目[[北の洋昇|北の洋]] - 横綱栃錦 : 黒房下に寄り立てる北の洋を栃錦が土俵際で突き落とし、行司の[[式守伊之助 (19代)|19代伊之助]]は栃錦に軍配を上げた。物言いが付き、北の洋有利の情勢の中で伊之助は栃錦の勝ちを主張し、土俵を叩いて猛抗議するも実らず、北の洋の勝ちとなった。伊之助は翌日から出場停止となり、この事件は「ヒゲの伊之助涙の抗議」と呼ばれた。 * [[1963年]]千秋楽 横綱大鵬 - 横綱柏戸 : この年の夏場所に史上初の6連覇を達成した大鵬と、初場所から怪我や病気で4場所連続休場の柏戸が共に14戦全勝で、1960年春場所の栃若以来となる全勝同士で対戦し、寄り切りで勝った柏戸が2年8ヶ月ぶりとなる涙の復活優勝を果たした。 * [[1970年]]6日目 十両9枚目[[豊山広光|長浜]] - 十両6枚目輪島<ref>{{Cite news |title=【伝説の8番】昭和の名勝負、輪島と長浜(後の豊山)…1970年秋場所から≪その1≫ |newspaper=スポーツ報知 |date=2023-09-07 |url=https://hochi.news/articles/20230906-OHT1T51006.html |access-date=2023-09-07}}</ref> : 学生相撲時代からのライバル同士の初対戦に、十両では異例となる懸賞金が付いた。寄り切りで勝った輪島はこの場所十両優勝。 * [[1972年]]千秋楽 関脇貴ノ花 - 関脇輪島 : ともに大関昇進を目指す両者の対戦は水入りを挟み約4分の熱戦の末輪島の勝ち。場所後両者は揃って大関に昇進。 * [[1973年]]14日目 横綱[[琴櫻傑將|琴櫻]] - 前頭11枚目[[大錦一徹|大錦]] : 新入幕で快進撃を続ける大錦が14日目に横綱琴櫻と対戦。寄り切りで初金星を挙げた大錦はこの場所、前場所の[[大受久晃|大受]]に続き三賞を独占。 * [[1979年]]7日目 横綱[[三重ノ海剛司|三重ノ海]] - 大関旭國 : 新横綱の三重ノ海はここまで3勝3敗と不振で、負ければ途中休場も視野に入ったこの一番で、旭國に十分に組まれながら土俵際で下手投げが決まり逆転勝ち。三重ノ海はその後立ち直り11勝を挙げたが、この一番で右上腕部を痛めた旭國は、回復が遅れると分かるや10日目に引退を決断した。 * [[1980年]]7日目 大関貴ノ花 - 前頭5枚目高見山 : 東土俵際で投げの打ち合いとなり、軍配は貴ノ花に上がるも、物言いの末貴ノ花のマゲが先に土俵についたとして高見山の勝ちとなった。両者の対戦はこの45回目を以て最後となった。 * [[1983年]]千秋楽 横綱千代の富士 - 横綱[[隆の里俊英|隆の里]] : 史上4度目となる全勝同士での楽日決戦は隆の里が吊り出しで勝利し、隆の里は双葉山以来となる新横綱での全勝優勝を達成した。 * [[1984年]]11日目 前頭6枚目[[小錦八十吉 (6代)|小錦]] - 横綱隆の里 * 1984年12日目 大関[[若嶋津六夫|若嶋津]] - 前頭6枚目小錦 * 1984年13日目 前頭6枚目小錦 - 関脇[[大乃国康|大乃国]] * 1984年14日目 横綱千代の富士 - 前頭6枚目小錦 * 1984年千秋楽 前頭6枚目小錦 - 大関[[琴風豪規|琴風]] : 入幕2場所目ながら得意の「プッシュ」で10日目まで8勝2敗と好調の小錦に対し、編成部は11日目に横綱隆の里と当てるが、右差しから押し出しで破り対横綱初対戦で初金星。翌12日目にはこの場所に綱取りをかける1敗の若嶋津と対戦。小錦は突っ張りをかわされ両差しに組まれるが、若嶋津が不用意に投げを打ったところを体を預けて寄り切り、この時点で前頭12枚目[[多賀竜昇司|多賀竜]]がただ1人1敗でトップ。13日目は当時日本人最重量の大乃国と対戦し、右四つがっぷりから青房下に寄って出る大乃国を上手投げで逆転し2敗を死守。14日目、多賀竜が若嶋津を熱戦の末破り1敗を守ると、小錦も千代の富士を突っ張り数発で突き出し、この時点で優勝争いは多賀竜と小錦の平幕2人に絞られる。そして千秋楽、横綱大関を次々と撃破した「小錦旋風」に対する上位陣最後の砦として登場した琴風は小錦を左四つに組み止めるも攻めきれず2分を超える大相撲となるが、小錦が出るところを琴風が左からの掬い投げで破り、[[蔵前国技館]]最後の優勝は多賀竜に決まった。 === 11月場所(九州場所) === * 東西合併以降1930年に九州地方初の本場所が行われており、以降太平洋戦争が激化するまで九州場所は行われていた。[[1955年]]から2年間は準場所として施行され、[[1957年]]から本場所に昇格した<ref name="journalgen39">『大相撲ジャーナル』2017年12月号p39</ref>。昇格した年から4年連続で大関以下が優勝、「横綱が優勝できない場所」と言われたが[[1961年]]に大鵬が優勝してようやくそのジンクスが破られた。その大鵬は32回の優勝の内7回を九州場所で果たしており、大鵬にとって九州場所が最も験の良い場所となった<ref name="journalgen39"/>。 * [[福岡スポーツセンター]]で開催されていた1973年までは同名の運営会社([[西鉄グループ]])との共催だったが、1974年から日本相撲協会単独主催の自主興行となり、同時に[[福岡市九電記念体育館|九電記念体育館]]に移った。 * 1970年代前半に九州場所は存亡の危機に立たされたが、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]の身売り騒動に危機感を覚えた[[田口一幸]]の国民的なスポーツを九州に残したいという気持ちからなる奔走によって、九州場所は継続に至った<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.130</ref>。 * 千代の富士の[[1981年]]から1988年までの8連覇は同一場所連続優勝の最多記録。 * 地方で行われる本場所の中でも、最も地元出身力士への声援が大きい。毎年初日の数日前に、相撲協会と[[NHK福岡放送局]]の共催で'''[[花相撲#前夜祭|前夜祭]]'''が開かれ九州出身力士が紹介される。とりわけ[[魁皇博之|魁皇]]が現役力士だった頃には[[福岡県]][[直方市]]出身ということもあって大きな声援が飛び、相撲の観客からは珍しい「魁皇コール」が場内から起こるほどであった。これは相手力士には相当なプレッシャーであり、魁皇はこの場所だと好調ではあったが、遂に九州場所で幕内最高優勝を果たすことなく[[引退]]した。その後は福岡県[[柳川市]]出身の[[琴奨菊和弘|琴奨菊]]が大関に昇進、魁皇人気を引き継いだ。 * [[2008年]]からは観客の座布団投げ([[座布団の舞]]。主に横綱が平幕に敗れた(金星)場合に観覧席から土俵に向けて座布団が飛ばされていた)を、危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団はこれまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更しさらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降、座布団投げが確認された場合は[[福岡県警察本部|警察]]へ110番通報するという非常に厳しい措置(警察沙汰)がとられた。 * [[なるほど・ザ・ワールド]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])が2005年九州場所の懸賞として提出され、同年12月28日放送の『年末の祭典スペシャル』で視聴者プレゼントした<ref>九州場所ではネット局である[[テレビ西日本]]との共同で懸賞幕を製作した。</ref>。 * コンサートで来日した元[[ビートルズ]]の[[ポール・マッカートニー]]が2013年九州場所を観戦した。この場所に登場したポールの懸賞が話題になった。 * [[週刊少年ジャンプ]](集英社)が2014年九州場所の懸賞として掲出され、話題となった。 * 九州場所が開催される「福岡国際センター」は、地方3本場所の中でもチケットが売れ残る状態が長く続いていたが、2017年(平成29年)の場所で久しぶりに前売りが完売。 * 集客が悪い状態が長年続いており、「不入の場所」とよく言われており満員御礼の連続記録が途切れるのも九州場所が多い。主な原因として九州には[[相撲茶屋]]が無く、チケット手配は「大相撲売店」と呼ばれる商店とプレイガイド委託による販売が主でありそれに伴う大手の顧客、贔屓筋が無いのも要因である。時期的にも一年の締めくくりであるがゆえにこの一年の相撲人気、または優勝争いの行方が売上に直接影響する場所でもある。<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/291893 不入りが続く九州場所。その打開策はあるのか?~販売力改善と、土俵内の充実を~]-2015年1月14日閲覧。</ref> * 2020年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大人数での移動を避けるため、福岡での開催を取りやめ、特別に東京の両国国技館での開催となり、マスコミ報道などでの通称も正式名称と同じ「十一月場所」が使用された。 <!--*近年<!--2014年以降-->は[[福岡マラソン]]<!--国際マラソンとは違う方-->の開催日を同場所の初日にするなど、福岡市内全体で(相撲・マラソン両方の)盛り上げに躍起である。--> ; 名勝負 * [[1945年]]千秋楽 前頭10枚目[[千代の山雅信|千代ノ山]] - 前頭17枚目[[大ノ海久光|大ノ海]] : 終戦後、GHQによって接収されていた両国国技館にて晴天10日間興行で行われたこの場所で、新入幕の千代ノ山は9日目を終えて横綱[[羽黒山政司|羽黒山]]と共に全勝。千秋楽、千代ノ山は大ノ海を破り10戦全勝としたが、当時は優勝決定戦がなく、最高成績者が2名以上出た場合は番付上位の力士が優勝という制度だったため、結びで安藝ノ海を下した羽黒山が優勝となった。 * [[1959年]]千秋楽 大関[[若羽黒朋明|若羽黒]] - 大関[[琴ヶ濱貞雄|琴ヶ濱]] : この場所で引退する「[[式守伊之助 (19代)|ひげの伊之助]]」がスカウトした若羽黒が新大関のこの場所で初優勝を果たし、優勝を決めたこの一番で伊之助は震える手で若羽黒に勝ち名乗りを挙げた。 * 1959年千秋楽 横綱[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]] - 横綱[[栃錦清隆|栃錦]] * [[1969年]]千秋楽 大関[[玉の海正洋|玉乃島]] - 大関[[北の富士勝昭|北の富士]] : 一年納めの九州場所千秋楽結びの一番が、[[年間最優秀力士賞|年間最多勝]]の決定戦となった例。それぞれ栃錦77勝、北の富士63勝で最多勝を獲得。なお、どちらも同場所の優勝に直接かかわる相撲ではなかった。 : 他に九州場所千秋楽まで年間最多勝を争った例として[[1967年]]の横綱柏戸がおり、横綱大鵬が同年九州場所終盤を3休したためもあるが千秋楽に前頭5枚目[[福の花孝一|福の花]]に勝って70勝20敗、70勝6敗14休の大鵬と年6場所以降はじめての最多勝同点となった。なお柏戸は12日目にこの場所優勝の横綱佐田の山にも勝っており、この勝敗が逆であったら佐田の山(この年69勝)が大鵬と同点になっているところだった。 * [[1981年]]千秋楽 小結[[朝潮太郎 (4代)|朝汐]] - 横綱千代の富士(優勝決定戦) : 新横綱で迎えた前場所を途中休場した千代の富士はこの決定戦で朝汐を下し涙の横綱初優勝。千代の富士が同じ年に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝という快挙を達成した一方、朝汐はその後も優勝決定戦に勝てず、3戦全敗に終わった。 * [[1988年]]千秋楽 横綱千代の富士 - 横綱[[大乃国康|大乃国]] : 千代の富士の53連勝を、久しく脇役に甘んじていた大乃国が止めた一番。千代の富士はこれに勝っていれば54連勝、翌初場所で双葉山の成した69連勝への挑戦権を得られるはずだった。大乃国はこの一番のために千代の富士の相撲をビデオで研究し尽くしたという。結果的にこれが昭和最後の一番にもなった。 * [[1995年]]千秋楽(優勝決定戦) 横綱貴乃花 - 大関若乃花 : 当時一大ブームを起こしていた、元大関・貴ノ花の長男・若乃花と次男・貴乃花の花田兄弟による最初で最後の対決。同門([[二子山部屋]])のため本割での取り組みは組まれないため優勝決定戦ではあるが、唯一本場所の土俵での2人の対戦が実現した。取り組みは若乃花が貴乃花を下し、2度目の優勝を飾った。ちなみに貴乃花はのちに同門の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]]との2度の優勝決定戦にも敗れ、同門の優勝決定戦には勝利していない。 * [[1998年]]13日目 横綱貴乃花 - 前頭12枚目[[琴錦功宗|琴錦]] : 前日に横綱若乃花に敗れたもののこの場所の初日から11連勝と好調の琴錦と貴乃花の対戦。結果は琴錦の完勝で金星獲得。この大金星がきっかけとなり琴錦は自身2度目の平幕優勝を果たした。 * [[2010年]]2日目 横綱白鵬 - 前頭筆頭[[稀勢の里寛|稀勢の里]] : 白鵬の63連勝を稀勢の里が止めた一番。白鵬はこれに勝っていれば64連勝、この場所の7日目で双葉山の成した69連勝への挑戦権を得られるはずだった。前場所まで4場所連続で全勝優勝をしていた白鵬が敗れるといった大一番であるが、上述の理由で座布団は1枚も飛ばなかった。 == 準場所 == 年6場所制が定着する前には、本場所の間の時期を利用して、本場所が開催されない土地で興行をすることがあった。 その頃は、巡業も[[一門 (相撲)|一門]]ごとに別の土地を回るのが普通だったので、全力士が集合して行われる興行は、'''準場所'''と呼ばれ、1959年10月大阪準場所までは[[力士褒賞金|持ち給金]]の加算も行われた(番付の昇降には関係しない)<ref name=":0">{{Cite web|title=大相撲準本場所|url=https://sumohima.web.fc2.com/junbasho.html|website=sumohima.web.fc2.com|accessdate=2021-02-04}}</ref>。 15日間興行が多く、[[北海道]]では8日興行となっていた<ref name=":0" />。1940年代には、[[満洲]]で、3箇所5日間ずつ開催で15日興行としたこともあった。 == 観戦マナーについて == 一般に、大相撲の本場所観戦では、集団で一方の力士の名をコールすること、力士の体に触れること、出待ち力士にサインや握手を求めること、取組中にみだりに席を離れること、座布団はもちろん物を投げること、他の観客の観戦の邪魔になるものを身に着けることが禁止されている<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)p.18</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [http://www.sumo.or.jp/ 日本相撲協会公式サイト] {{相撲}} {{大正の大相撲}} {{昭和の大相撲}} {{平成の大相撲}} {{令和の大相撲}} {{中日新聞社}} {{Sumo-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect1=初場所|1-1=新春の季語|redirect2=春場所|2-1=春の季語|redirect3=夏場所|3-1=夏の季語|redirect4=秋場所|4-1=秋の季語}} {{デフォルトソート:ほんはしよ}} [[Category:本場所|*]] [[Category:大相撲の興行]] [[Category:天皇杯|すもう]] [[Category:東京のスポーツ競技大会]] [[Category:両国国技館開催のスポーツイベント]] [[Category:大阪市のスポーツ競技大会]] [[Category:大阪府立体育会館開催のスポーツイベント]] [[Category:名古屋市のスポーツ競技大会]] [[Category:中区 (名古屋市)]] [[Category:福岡市のスポーツ競技大会]] [[Category:博多区]]
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電子商店街
電子商店街(でんししょうてんがい)は、インターネット上において、実際の商店街/ショッピングモールのように複数の商店による商材情報を1つのサイトにまとめて、様々な商品やサービスの販売機会を提供するウェブサイトのこと。日本語においては「ネット商店街」、「ECショッピングモール」、「オンライン・ショッピングモール」、「オンライン・マーケットプレイス」「eマーケットプレイス」などさまざまな呼称がある。 電子商店街の運営事業者は、商店街の運営に特化した事業者と、自ら商店運営を行ないながら商店街の運営を行なう事業者がある。 電子商店街では一般に、売買取引や支払回収は運営事業者が仲介し、物流配送と接続するフルフィルメント業務を小売店や卸売業の替わりに行ない手数料を徴収する。運営事業者は個々の取引を行なった消費者を登録させることにより、他の商品の販売に結び付ける機能を果たす。一般的に、電子商店街は様々な商品・サービスを取り扱うことが多く、そのため小売事業者単独のECサイトに比べ品揃えが幅広い。2014年頃からはアメリカでも急速に拡大している。消費者向けの幅広いカテゴリーを持つ電子商店街や、専門カテゴリーに特化した電子商店街がある。電子商店街サービスを利用する「商店主」は、個人から大手小売業、製造業まで様々である。また、消費者向けではなく、幅広い事務用品、部品、工具類などを取り扱う業務用や製造業向けの電子商店街も拡大している。現在では国境を越えて電子商取引を行なう前提の越境ECによる電子商店街もある。
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電子商店街(でんししょうてんがい)は、インターネット上において、実際の商店街/ショッピングモールのように複数の商店による商材情報を1つのサイトにまとめて、様々な商品やサービスの販売機会を提供するウェブサイトのこと。日本語においては「ネット商店街」、「ECショッピングモール」、「オンライン・ショッピングモール」、「オンライン・マーケットプレイス」「eマーケットプレイス」などさまざまな呼称がある。
{{Redirect3|オンラインショッピング'''、'''通販サイト|複数出店([[ショッピングモール|モール]])形式の[[通信販売]](通販)[[ウェブサイト|サイト]]|販売業者独自の運営|ECサイト|[[インターネット]]における[[商取引]]全体|電子商取引}} '''電子商店街'''(でんししょうてんがい)は、[[インターネット]]上において、実際の[[商店街]]/[[ショッピングモール]]のように複数の[[商店]]による[[商材]]情報を1つの[[ウェブサイト|サイト]]にまとめて、様々な商品やサービスの販売機会を提供する[[ウェブサイト]]のこと。日本語においては「ネット商店街」、「ECショッピングモール」、「オンライン・ショッピングモール」、「オンライン・マーケットプレイス」「[[eマーケットプレイス]]」などさまざまな呼称がある。 ==概要== 電子[[商店街]]の運営事業者は、商店街の運営に特化した事業者と、自ら商店運営を行ないながら商店街の運営を行なう事業者がある<ref>オンラインモール([[e-words]]) [https://e-words.jp/w/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB.html]</ref>。 電子商店街では一般に、売買取引や支払回収は運営事業者が仲介し、物流配送と接続する[[フルフィルメント]]業務を小売店や卸売業の替わりに行ない[[手数料]]を徴収する。運営事業者は個々の取引を行なった消費者を登録させることにより、他の商品の販売に結び付ける機能を果たす。一般的に、電子商店街は様々な商品・サービスを取り扱うことが多く、そのため小売事業者単独の[[ECサイト]]に比べ品揃えが幅広い<ref>[https://www.bloomberg.com/bw/stories/2008-11-07/determining-where-to-sell-onlinebusinessweek-business-news-stock-market-and-financial-advice Determining where to sell online] November 7, 2008</ref>。2014年頃からはアメリカでも急速に拡大している<ref>[https://www.forbes.com/sites/groupthink/2014/08/20/why-online-marketplaces-are-booming/2/ Why online marketplaces are booming] August 20, 2014.</ref>。消費者向けの幅広いカテゴリーを持つ電子商店街や、専門カテゴリーに特化した電子商店街がある。電子商店街サービスを利用する「商店主」は、個人から大手[[小売業]]、[[製造業]]まで様々である。また、消費者向けではなく、幅広い[[文房具|事務用品]]、[[部品]]、[[工具]]類などを取り扱う[[業務用]]や製造業向けの電子商店街も拡大している。現在では国境を越えて[[電子商取引]]を行なう前提の[[越境EC]]による電子商店街もある。 == 関連項目 == *[[ECサイト]] * [[越境EC]] *[[インターネットオークション]] *[[電子商取引]] *[[通信販売]] ==脚注== <references/> == 外部リンク == *{{PDFlink|[https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286894/www.jftc.go.jp/pressrelease/06.december/06122702.html 電子商店街等の消費者向けeコマースにおける取引実態に関する調査報告書(概要)]}} - 公正取引委員会 {{Normdaten}} {{economy-stub}} {{Internet-stub}} {{DEFAULTSORT:てんししようてんかい}} [[Category:電子商取引サイト|*しようてんかい]] [[Category:通信販売]] [[Category:商店街]] [[Category:小売業]]
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音部記号
音部記号(おんぶきごう)は西洋音楽の五線記譜法による楽譜に用いられる音楽記号の一種。五線の左端に記し、五線上の位置と音の高さとの関係を指定する。 音部記号の名称には、その音部記号自体の名称と音部記号の置かれた場所による名称とがある。 音部記号自体の名称にはト音記号(高音部記号)、ヘ音記号(低音部記号)、ハ音記号(中音部記号)がある。 音部記号の置かれた場所による名称には次のものがある。 次の楽譜で、黒い全音符は中央ハ音、緑は中央ハ音のすぐ上のト音、赤は中央ハ音のすぐ下のヘ音である。 これらのうち現在最も一般的に使用されているのは、ヴァイオリン記号、バス記号の2種類であり、それぞれ記号自体の名称でト音記号、ヘ音記号と呼ばれている。そのほかアルト記号、テノール記号が補助的に使われている。この内アルト記号は記号自体の名称でハ音記号と呼ばれることも多い。 楽譜を印刷する技術が未発達であった時代には、加線をなるべく用いずに記譜できるように各種音部記号が活用されたが、現在では、上記4種以外はあまり用いられない。 ト音記号は、中央ハ音のすぐ上のト (G)の音の位置を示す音部記号。中央部の渦のような部分の中心がト音である。Gの文字を図案化したものである。一般的には、高音部を記すために使われるが、低音部でもこの記号を使う場合がある。この場合、トレブル記号の下に小さく「8」と書き、中央ハのすぐ下のト(G)の音を示すものとすることが多い。 ト音記号を五線の第1線に置く。すべての音部記号の中で最も高い音を示すのに適した記号であるが、滅多に使われることはない。バロック時代にはアルト・リコーダーを実音で記譜する際に用いられる場合があった。バッハのブランデンブルク協奏曲の自筆総譜などにその実例が見られる。 ト音記号を五線の第2線に置く。今日において一般にト音記号と言えば、この記号を指す。文字通りヴァイオリンの楽譜に使われる記号であるが、その他にもフルートや女声の声楽など、西洋音楽の高音域を記す場合に使われる標準的な記号である。また、移調楽器のほとんどは、低い音域であってもこの記号を用いることが多い。大譜表の2段のうちの一方(まれに両方)はこの記号が用いられる。 ヘ音記号は、中央ハ音のすぐ下のヘ (F)の音の位置を示す音部記号。2つの点の間がヘ音である。Fの文字を図案化したものである。一般的には、低音部を記すために使われる。 ヘ音記号を五線の第3線に置く。古くバリトンパートを表すのに使われたが、現代ではあまり見られない。 ヘ音記号を五線の第4線に置く。古くからバスパートを表すのに使われた。一般にヘ音記号と言えば、この記号を指す。現在においてはヴァイオリン記号の次によく使われる記号で、低音域を記すために使う。またドラムセットの記譜や、合唱や重唱における男声のパートを示すのにも使われる。大譜表の2段のうちの一方に用いられる記号でもある。 ヘ音記号を五線の第5線に置く。すべての音部記号の中で最も低い音を示すのに適した記号であるが、滅多に使われることはない。 ハ音記号は、中央ハ(C)の音の位置を示す音部記号。2つのCを左右逆にしたような部分の間、すなわち記号の真ん中がハ音である。Cの文字を図案化したものである。中音域の音を記すのに適している。古典派以前では、ソプラノ、アルト、テノールなどの声域のためにはハ音記号を使うのが正規のものとされていたが、近代その慣習の大部分は廃れている。 ハ音記号を五線の第1線に置く。古典派以前の楽譜で、ソプラノパートを示すのに使われる他、今でも音楽理論の学習やスコア・リーディングに使われる。バロック時代の鍵盤楽器音楽の楽譜の高音部はしばしばこれを用いて書かれる。 ハ音記号を五線の第2線に置く。古典派以前の楽譜で、女声のパートを示すのに使われる。 ハ音記号を五線の第3線に置く。古くアルトパートを表すのに使われたが、現代では多くはトレブル記号に取って代わられている。しかしオーケストラではヴィオラやアルト・トロンボーンの楽譜は主としてこの記号を用いるほか、ロシアの作曲家の間にはテナー・トロンボーンの楽譜もアルト記号で書くという慣習も見られる。イングリュッシュ・ホルンやホルンのための楽譜を実音で書く作曲家が、その音域によってはアルト記号を使用することがある。 ハ音記号を五線の第4線に置く。古くテノールパートを表すのに使われたが、現代ではその多くはアマチュアの吹奏楽スコアのようにバス記号または低音用のトレブル記号に取って代わられている。ただし現代の楽譜でも、オーケストラではテナー・トロンボーンの楽譜に主としてこの記号を用いるほか、ファゴットやチェロの高音域を書き表すのに使われる。ワーグナーのオペラのテノール・パートの自筆譜はこれで書かれている。 ハ音記号を五線の第5線に置く。古くバリトンパートを表すのに使われたが、現代ではあまり見られない。 ※利用環境によっては表示できない場合がある。
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音部記号(おんぶきごう)は西洋音楽の五線記譜法による楽譜に用いられる音楽記号の一種。五線の左端に記し、五線上の位置と音の高さとの関係を指定する。
'''音部記号'''(おんぶきごう)は[[西洋音楽]]の[[五線記譜法]]による[[楽譜]]に用いられる[[音楽記号]]の一種。[[五線]]の左端に記し、五線上の位置と音の高さとの関係を指定する。 == 音部記号の種類 == 音部記号の名称には、その音部記号自体の名称と音部記号の置かれた場所による名称とがある。 音部記号自体の名称には'''[[#ト音記号|ト音記号]]'''(高音部記号)、'''[[#ヘ音記号|ヘ音記号]]'''(低音部記号)、'''[[#ハ音記号|ハ音記号]]'''(中音部記号)がある。 音部記号の置かれた場所による名称には次のものがある。 次の楽譜で、黒い全音符は中央ハ音、緑は中央ハ音のすぐ上のト音、赤は中央ハ音のすぐ下のヘ音である。 [[File:onbukigo001.png|音部記号の一覧]] これらのうち現在最も一般的に使用されているのは、ヴァイオリン記号、バス記号の2種類であり、それぞれ記号自体の名称でト音記号、ヘ音記号と呼ばれている。そのほかアルト記号、テノール記号が補助的に使われている。この内アルト記号は記号自体の名称でハ音記号と呼ばれることも多い。 楽譜を印刷する技術が未発達であった時代には、[[加線]]をなるべく用いずに記譜できるように各種音部記号が活用されたが、現在では、上記4種以外はあまり用いられない。 == ト音記号 == [[File:Music-GClef.svg|thumb|100px|ト音記号を用いたトレブル(ヴァイオリン)記号]] ト音記号は、[[中央ハ]]音のすぐ上の[[ト (音名)|ト (G)]]の音の位置を示す音部記号。中央部の渦のような部分の中心がト音である。[[G]]の文字を図案化したものである。一般的には、高音部を記すために使われるが、低音部でもこの記号を使う場合がある。この場合、トレブル記号の下に小さく「8」と書き、中央ハのすぐ下のト(G)の音を示すものとすることが多い。 === 小ヴァイオリン(フレンチヴァイオリン)記号 === <score>{ \clef french { g'1-\markup "小ヴァイオリン記号" } }</score> ト音記号を[[五線]]の第1線に置く。すべての音部記号の中で最も高い音を示すのに適した記号であるが、滅多に使われることはない。[[バロック音楽|バロック時代]]にはアルト・[[リコーダー]]を実音で記譜する際に用いられる場合があった。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[ブランデンブルク協奏曲]]の自筆総譜などにその実例が見られる。 === ヴァイオリン(トレブル)記号 === <score>{ \clef violin { g'1-\markup "ヴァイオリン記号" } }</score> ト音記号を五線の第2線に置く。今日において一般にト音記号と言えば、この記号を指す。文字通り[[ヴァイオリン]]の楽譜に使われる記号であるが、その他にも[[フルート]]や女声の[[声楽]]など、西洋音楽の高音域を記す場合に使われる標準的な記号である。また、[[移調楽器]]のほとんどは、低い音域であってもこの記号を用いることが多い。[[大譜表]]の2段のうちの一方(まれに両方)はこの記号が用いられる。 <score>{ \clef "treble_8" { g'1-\markup "トレブル記号(低音部)" } }</score> == ヘ音記号 == [[File:Music-Fclef.svg|100px|thumb|ヘ音記号を用いたバス記号]] ヘ音記号は、中央ハ音のすぐ下の[[ヘ (音名)|ヘ (F)]]の音の位置を示す音部記号。2つの点の間がヘ音である。[[F]]の文字を図案化したものである。一般的には、低音部を記すために使われる。 === バリトン記号 === <score>{ \clef varbaritone { f1-\markup "バリトン記号" } }</score> ヘ音記号を五線の第3線に置く。古く[[バリトン]]パートを表すのに使われたが、現代ではあまり見られない。 === バス記号 === <score>{ \clef F { f1-\markup "バス記号" } }</score> ヘ音記号を五線の第4線に置く。古くから[[バス (声域)|バス]]パートを表すのに使われた。一般にヘ音記号と言えば、この記号を指す。現在においてはヴァイオリン記号の次によく使われる記号で、低音域を記すために使う。また[[ドラムセット]]の記譜や、合唱や重唱における男声のパートを示すのにも使われる。[[大譜表]]の2段のうちの一方に用いられる記号でもある。 === 低バス記号 === <score>{ \clef subbass { f1-\markup "低バス記号" } }</score> ヘ音記号を五線の第5線に置く。すべての音部記号の中で最も低い音を示すのに適した記号であるが、滅多に使われることはない。 == ハ音記号 == [[File:Music-Cclef.svg|thumb|100px|ハ音記号を用いたアルト記号(五線に収まっている)]] [[File:Music-Cclef4.png|thumb|100px|ハ音記号を用いたテノール記号(アルト記号と比べて1間(1線)分上にずれている)]] ハ音記号は、[[中央ハ]](C)の音の位置を示す音部記号。2つのCを左右逆にしたような部分の間、すなわち記号の真ん中がハ音である。[[C]]の文字を図案化したものである。中音域の音を記すのに適している。古典派以前では、ソプラノ、アルト、テノールなどの[[声域]]のためにはハ音記号を使うのが正規のものとされていたが、近代その慣習の大部分は廃れている。 === ソプラノ記号 === <score>{ \clef soprano { c'1-\markup "ソプラノ記号" } }</score> ハ音記号を五線の第1線に置く。古典派以前の楽譜で、[[ソプラノ]]パートを示すのに使われる他、今でも音楽理論の学習やスコア・リーディングに使われる。[[バロック音楽|バロック時代]]の鍵盤楽器音楽の楽譜の高音部はしばしばこれを用いて書かれる。 === メゾソプラノ記号 === <score>{ \clef mezzosoprano { c'1-\markup "メゾソプラノ記号" } }</score> ハ音記号を五線の第2線に置く。古典派以前の楽譜で、女声のパートを示すのに使われる。 === アルト記号 === <score>{ \clef alto { c'1-\markup "アルト記号" } }</score> ハ音記号を五線の第3線に置く。古く[[アルト]]パートを表すのに使われたが、現代では多くはトレブル記号に取って代わられている。しかしオーケストラでは[[ヴィオラ]]や[[アルトトロンボーン|アルト・トロンボーン]]の楽譜は主としてこの記号を用いるほか、ロシアの作曲家の間には[[トロンボーン|テナー・トロンボーン]]の楽譜もアルト記号で書くという慣習も見られる。[[イングリュッシュ・ホルン]]や[[ホルン]]のための楽譜を実音で書く作曲家が、その音域によってはアルト記号を使用することがある。 === テノール記号 === <score>{ \clef tenor { c'1-\markup "テノール記号" } }</score> ハ音記号を五線の第4線に置く。古く[[テノール]]パートを表すのに使われたが、現代ではその多くは[[アマチュア]]の[[吹奏楽]][[スコア]]のようにバス記号または低音用のトレブル記号に取って代わられている。ただし現代の楽譜でも、オーケストラでは[[トロンボーン|テナー・トロンボーン]]の楽譜に主としてこの記号を用いるほか、[[ファゴット]]や[[チェロ]]の高音域を書き表すのに使われる。[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[オペラ]]のテノール・パートの自筆譜はこれで書かれている。 === バリトン記号 === <score>{ \clef baritone { c'1-\markup "バリトン記号" } }</score> ハ音記号を五線の第5線に置く。古く[[バリトン]]パートを表すのに使われたが、現代ではあまり見られない。 == 文字コード == ※利用環境によっては表示できない場合がある。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|119070|1D11E|-|{{smallcaps|musical symbol g clef}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} {{CharCode|119071|1D11F|-|{{smallcaps|musical symbol g clef ottava alta}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} {{CharCode|119072|1D120|-|{{smallcaps|musical symbol g clef ottava bassa}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} {{CharCode|119074|1D122|-|{{smallcaps|musical symbol f clef}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} {{CharCode|119075|1D123|-|{{smallcaps|musical symbol f clef ottava alta}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} {{CharCode|119076|1D124|-|{{smallcaps|musical symbol f clef ottava bassa}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} {{CharCode|119073|1D121|-|{{smallcaps|musical symbol c clef}}|font=個別|family=Musica,Symbola,Quivira,'Nishiki-teki'}} |} == 関連項目 == {{commons cat|Clefs (music)}} {{wikibooks|五線と音部記号}} * [[楽譜]] * [[譜表]] * [[記譜法]] {{Musical notation}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんふきこう}} [[Category:記譜法]]
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ベルセルク
ベルセルク(ノルウェー語: berserk)とは、北欧神話・伝承に登場する、異能の戦士たちである。古ノルド語やアイスランド語ではベルセルクル (berserkr)、英語ではバーサーカー (berserker) と言い、日本語ではしばしば狂戦士と訳される。 バーサーカーは、漫画・アニメ・ゲーム・小説などでも頻繁に登場するキャラクターである。圧倒的に強大な力を持つと同時に、コントロール不能な怪物のような存在として描かれることが多い。 語源は2説ある。 軍神オーディンの神通力をうけた戦士で、危急の際には自分自身が熊や狼といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦うが、その後虚脱状態になるという。この忘我状態のベルセルクは動く物ならたとえ肉親にも襲い掛かったので、戦闘ではベルセルクと他の兵士は出来るだけ離して配備し、王達もベルセルクを護衛にはしなかったという。 ウールヴヘジンと常に並び称され、また同一の存在であるとも言う。ただ単に勇敢な戦士に対する称号であるとする場合もある。 一部の研究者は、ハンティングマジック(英語版)で北方戦士の伝統を由来とするとしている。それらは、3種の動物宗教、熊・いのしし・狼で見られるようになった。 トラヤヌスの記念柱には、西暦101–106年のトラヤヌスによるダキア征服を描いたScene 36レリーフに動物の皮を身にまとった戦士が見られる。その後、西暦872年に書かれたノルウェースカルド詩Þorbjörn Hornklofi にハーラル1世と共に戦ったと記載されるまで歴史上書かれることはなかった。 13世紀の史家スノッリ・ストゥルルソンは、「美髪王ハーラル1世の親衛隊の一部はベルセルクであり、武器をもってしてもこれを傷つけられない」と述べている。 後に、この伝承がイギリスに伝わって英語の go berserk (我を忘れて怒り狂う)という表現の語源となった。 また後の北欧語ではベルセルクという言葉は、しばしば単なる無法者、乱暴者の意味で使われる。これは、北欧では豪族や農民が武器をとって戦うことが多く、人殺しのみを生業とする職業軍人が、異常者として蔑視されていたためである。 11、12世紀以降、北欧が完全にキリスト教化されると、異教の価値観の産物であるベルセルクは異端者や犯罪者とされ消えていった。 特に降霊術で戦う神官戦士と言う位置付けは、悪魔憑きとして忌避されたようである。 ベルセルクの狂乱は、berserkergang (Berserk Fit/Frenzy or The Berserk movement) と呼ばれていた。その状態は以下のように記述されている。 一部の学者は、ベルセルクの状態は精神高揚させる毒キノコであるベニテングタケや大量の酒などの薬物によって引き起こされたと指摘してる。この精神高揚される毒物について議論されてこなかったが、1977年のデンマーク、フュアカト(英語版)におけるバイキングの墓で向精神作用を持つ植物ヒヨスが発掘され、ベニテングタケの効果より記録された症状に近い毒性からヒヨスを使用したという示唆がなされた。その他の原因として、自己誘発性ヒステリー、てんかん、精神疾患、または遺伝病が言及されている 。 盾を噛み、動物のように咆哮などを行う effektnummer と呼ばれる儀式で自己誘発的なヒステリーを起こさせたと示唆されている 。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ベルセルク(ノルウェー語: berserk)とは、北欧神話・伝承に登場する、異能の戦士たちである。古ノルド語やアイスランド語ではベルセルクル (berserkr)、英語ではバーサーカー (berserker) と言い、日本語ではしばしば狂戦士と訳される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "バーサーカーは、漫画・アニメ・ゲーム・小説などでも頻繁に登場するキャラクターである。圧倒的に強大な力を持つと同時に、コントロール不能な怪物のような存在として描かれることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "語源は2説ある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "軍神オーディンの神通力をうけた戦士で、危急の際には自分自身が熊や狼といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦うが、その後虚脱状態になるという。この忘我状態のベルセルクは動く物ならたとえ肉親にも襲い掛かったので、戦闘ではベルセルクと他の兵士は出来るだけ離して配備し、王達もベルセルクを護衛にはしなかったという。", "title": "神話での描写" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ウールヴヘジンと常に並び称され、また同一の存在であるとも言う。ただ単に勇敢な戦士に対する称号であるとする場合もある。", "title": "神話での描写" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一部の研究者は、ハンティングマジック(英語版)で北方戦士の伝統を由来とするとしている。それらは、3種の動物宗教、熊・いのしし・狼で見られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "トラヤヌスの記念柱には、西暦101–106年のトラヤヌスによるダキア征服を描いたScene 36レリーフに動物の皮を身にまとった戦士が見られる。その後、西暦872年に書かれたノルウェースカルド詩Þorbjörn Hornklofi にハーラル1世と共に戦ったと記載されるまで歴史上書かれることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "13世紀の史家スノッリ・ストゥルルソンは、「美髪王ハーラル1世の親衛隊の一部はベルセルクであり、武器をもってしてもこれを傷つけられない」と述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後に、この伝承がイギリスに伝わって英語の go berserk (我を忘れて怒り狂う)という表現の語源となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また後の北欧語ではベルセルクという言葉は、しばしば単なる無法者、乱暴者の意味で使われる。これは、北欧では豪族や農民が武器をとって戦うことが多く、人殺しのみを生業とする職業軍人が、異常者として蔑視されていたためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "11、12世紀以降、北欧が完全にキリスト教化されると、異教の価値観の産物であるベルセルクは異端者や犯罪者とされ消えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "特に降霊術で戦う神官戦士と言う位置付けは、悪魔憑きとして忌避されたようである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ベルセルクの狂乱は、berserkergang (Berserk Fit/Frenzy or The Berserk movement) と呼ばれていた。その状態は以下のように記述されている。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一部の学者は、ベルセルクの状態は精神高揚させる毒キノコであるベニテングタケや大量の酒などの薬物によって引き起こされたと指摘してる。この精神高揚される毒物について議論されてこなかったが、1977年のデンマーク、フュアカト(英語版)におけるバイキングの墓で向精神作用を持つ植物ヒヨスが発掘され、ベニテングタケの効果より記録された症状に近い毒性からヒヨスを使用したという示唆がなされた。その他の原因として、自己誘発性ヒステリー、てんかん、精神疾患、または遺伝病が言及されている 。", "title": "科学" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "盾を噛み、動物のように咆哮などを行う effektnummer と呼ばれる儀式で自己誘発的なヒステリーを起こさせたと示唆されている 。", "title": "科学" } ]
ベルセルクとは、北欧神話・伝承に登場する、異能の戦士たちである。古ノルド語やアイスランド語ではベルセルクル (berserkr)、英語ではバーサーカー (berserker) と言い、日本語ではしばしば狂戦士と訳される。 バーサーカーは、漫画・アニメ・ゲーム・小説などでも頻繁に登場するキャラクターである。圧倒的に強大な力を持つと同時に、コントロール不能な怪物のような存在として描かれることが多い。
{{Otheruses|北欧神話の戦士|その他}} '''ベルセルク'''({{Lang-no|berserk}})とは、[[北欧神話]]・[[伝承]]に登場する、異能の[[戦士]]たちである。[[古ノルド語]]や[[アイスランド語]]では'''ベルセルクル''' ({{lang|is|berserkr}})、[[英語]]では'''バーサーカー''' ({{lang|en|berserker}}) と言い、[[日本語]]ではしばしば'''狂戦士'''と訳される。 バーサーカーは、漫画・アニメ・ゲーム・小説などでも頻繁に登場するキャラクターである。圧倒的に強大な力を持つと同時に、コントロール不能な怪物のような存在として描かれることが多い。 ==語源== 語源は2説ある。 *[[古ノルド語]]で熊 ({{lang|is|ber}}) の毛で作った上着 ({{lang|is|serkr}}) を着た者<ref>[http://runeberg.org/svetym/0166.html 78 (Svensk etymologisk ordbok)]</ref> *古ノルド語で[[鎧]]の類を着ない者。 ==神話での描写== 軍神[[オーディン]]の神通力をうけた戦士で、危急の際には自分自身が[[クマ|熊]]や[[オオカミ|狼]]といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦うが、その後虚脱状態になるという。この忘我状態のベルセルクは動く物ならたとえ肉親にも襲い掛かったので、戦闘ではベルセルクと他の兵士は出来るだけ離して配備し、王達もベルセルクを護衛にはしなかったという。 [[ウールヴヘジン]]と常に並び称され、また同一の存在であるとも言う<ref>『サガ選集』日本アイスランド学会編訳、[[東海大学出版会]]、1991年、267頁。</ref>。ただ単に勇敢な戦士に対する称号であるとする場合もある。 ==歴史== ===起源=== 一部の研究者は、{{ill2|ハンティングマジック|en|Hunting magic}}で北方戦士の伝統を由来とするとしている<ref name=jones1997>{{cite book|author=Prudence Jones|author2=Nigel Pennick|last-author-amp=yes|title=A History of Pagan Europe|year=1997|publisher=Routledge; Revised edition|chapter=Late Germanic Religion|pages=154–56|isbn=978-0415158046}}</ref><ref name=hallowell1925>{{cite journal|author=A. Irving Hallowell|title=Bear Ceremonialism in the Northern Hemisphere|journal=American Anthropologist|volume=28|year=1925|page=2|doi=10.1525/aa.1926.28.1.02a00020}}</ref>。それらは、3種の動物宗教、熊・いのしし・狼で見られるようになった<ref name=jones1997/>。 [[トラヤヌスの記念柱]]には、西暦101–106年の[[トラヤヌス]]による[[ダキア]]征服を描いたScene 36レリーフに動物の皮を身にまとった戦士が見られる。その後、西暦872年に書かれたノルウェースカルド詩Þorbjörn Hornklofi に[[ハーラル1世 (ノルウェー王)|ハーラル1世]]と共に戦ったと記載されるまで歴史上書かれることはなかった{{sfn|Speidel|2004|pp=3–7}}。 ===中世以降=== [[image:Bronsplåt pressbleck Öland vendeltid.jpg|200px|thumb|古代ゲルマン、トルスルンダの「狼となったベルセルク」]] [[13世紀]]の史家[[スノッリ・ストゥルルソン]]は、「美髪王[[ハーラル1世 (ノルウェー王)|ハーラル1世]]の[[親衛隊]]の一部はベルセルクであり、武器をもってしてもこれを傷つけられない」と述べている<ref>{{Cite book|和書|author=S・ストゥルルソン|authorlink=スノッリ・ストゥルルソン|year=2008|title=ヘイムスクリングラ(一)|publisher=北欧文化通信社|page=154}}</ref>。 後に、この伝承が[[イギリス]]に伝わって[[英語]]の {{lang|en|go berserk}} (我を忘れて怒り狂う)という表現の語源となった。 また後の北欧語ではベルセルクという言葉は、しばしば単なる無法者、乱暴者の意味で使われる。これは、[[北欧]]では豪族や農民が武器をとって戦うことが多く、人殺しのみを生業とする職業軍人が、異常者として蔑視されていたためである。 11、12世紀以降、北欧が完全に[[キリスト教]]化されると、[[異教]]の[[価値観]]の産物であるベルセルクは[[異端]]者や犯罪者とされ消えていった。 特に[[降霊術]]で戦う[[神官]]戦士と言う位置付けは、[[悪魔]]憑きとして忌避されたようである。 ==科学== ベルセルクの狂乱は、berserkergang (Berserk Fit/Frenzy or The Berserk movement) と呼ばれていた。その状態は以下のように記述されている。 {{quote|This fury, which was called ''berserkergang,'' occurred not only in the heat of battle, but also during laborious work. Men who were thus seized performed things which otherwise seemed impossible for human power. This condition is said to have begun with shivering, chattering of the teeth, and chill in the body, and then the face swelled and changed its colour. With this was connected a great hot-headedness, which at last gave over into a great rage, under which they howled as wild animals, bit the edge of their shields, and cut down everything they met without discriminating between friend or foe. When this condition ceased, a great dulling of the mind and feebleness followed, which could last for one or several days.<ref name=Fabing>{{cite journal|author=Fabing, Howard D.|title=On Going Berserk: A Neurochemical Inquiry|journal=Scientific Monthly|volume=83 |issue=5|year=1956|pages=232–37|bibcode=1956SciMo..83..232F|jstor=21684}}</ref>}} ;薬物 一部の学者は、ベルセルクの状態は精神高揚させる[[毒キノコ]]である[[ベニテングタケ]]<ref name=Fabing /><ref>{{cite book | last=Hoffer | first=A. | year=1967 | title=The Hallucinogens | publisher=Academic Press| pages=443–54 | isbn=978-1483256214 }}</ref><ref>{{cite journal |last=Howard |first=Fabing |date=Nov 1956 |title=On Going Berserk: A Neurochemical Inquiry |journal=Scientific Monthly |volume=113 |issue=5 |page=232 |bibcode=1956SciMo..83..232F }}</ref>や大量の酒などの薬物によって引き起こされたと指摘している<ref>Wernick, Robert (1979) ''The Vikings''. Alexandria VA: [[Time-Life Books]]. p.&nbsp;285</ref>。この精神高揚される毒物については議論されてこなかったが<ref name=":0">{{Cite book|url=https://doi.org/10.1016/j.jep.2019.112151|title=Sagas of the Solanaceae: Speculative ethnobotanical perspectives on the Norse berserkers|last=Fatur|first=Karsten|date=2019-15-11|work=Journal of Ethnopharmacology|volume=244|page=112151}}</ref>、1977年のデンマーク、{{ill2|フュアカト|en|Fyrkat}}におけるバイキングの墓で向精神作用を持つ植物[[ヒヨス]]が発掘され、ベニテングタケの効果より記録された症状に近い毒性からヒヨスを使用したという示唆がなされた<ref>{{Cite journal|last=Fatur|first=Karsten|date=2019-11-15|title=Sagas of the Solanaceae: Speculative ethnobotanical perspectives on the Norse berserkers|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0378874119322640|journal=Journal of Ethnopharmacology|volume=244|pages=112151|doi=10.1016/j.jep.2019.112151|issn=0378-8741}}</ref>。その他の原因として、自己誘発性ヒステリー、てんかん、精神疾患、または遺伝病が言及されている<ref>Foote, Peter G. and Wilson, David M. (1970) ''The Viking Achievement''. [[London]]: Sidgewick & Jackson. p.&nbsp;285.</ref> 。 ;儀式 盾を噛み、動物のように咆哮などを行う effektnummer と呼ばれる儀式で自己誘発的なヒステリーを起こさせたと示唆されている<ref>{{Cite journal|last=Liberman|first=Anatoly|date=2005-01-01|title=Berserks in History and Legend|journal=Russian History|volume=32|issue=1|pages=401–411|doi=10.1163/187633105x00213|issn=0094-288X}}</ref> 。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『サガ選集』アイスランド学会編訳、[[東海大学出版会]]、1991年 * {{citation|last=Speidel|first=Michael P|title=Ancient Germanic Warriors: Warrior Styles from Trajan's Column to Icelandic Sagas|year=2004|publisher=Routledge|location=London|isbn=978-0415486828|url=https://issuu.com/johnyodisho/docs/michael_speidel-ancient_germanic_wa|access-date=2016-11-18|archive-url=https://web.archive.org/web/20161119062744/https://issuu.com/johnyodisho/docs/michael_speidel-ancient_germanic_wa|archive-date=2016-11-19|url-status=dead}} ==関連項目== * {{ill2|熊 (童話)|en|The Bear (fairy tale)}} - クマの毛皮を着て、熊に間違われる童話 * {{ill2|ヴァラング隊|en|Varangian Guard}} - 北方地帯の[[ヴァリャーグ]]から東ローマ帝国に親衛隊として輸出された傭兵でベルセルクとの関連が指摘されている。 {{北欧神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へるせるく}} [[Category:北欧神話]] [[Category:ノルウェーの歴史]] [[Category:中世の北欧]] [[Category:軍人]] [[Category:古ノルド語の語句]] [[Category:ハーラル1世 (ノルウェー王)]]
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ロッキード事件
ロッキード事件(ロッキードじけん、英語: Lockheed bribery scandals)は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。 この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。 なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。 国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で元内閣総理大臣の田中角栄が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中以外にも政治家2名(運輸政務次官佐藤孝行と元運輸大臣橋本登美三郎)が逮捕された。 さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。 この事件は1976年(昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。 1970年(昭和45年)11月に初飛行し、1972年(昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社が、自社初のジェット旅客機として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に昇降機が設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。 ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、同社はベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。 しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争に晒されていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材ではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、ファンブレードの材質を金属製に変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めた他、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。 このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。 1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという。 選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという。 1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した。 田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年(昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった。この1970年代はニクソン、フォードの共和党政権時で、多国籍企業小委員会のチャーチは民主党議員である。 さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャン(英語版)と元東京駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年(昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(当時の日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。 2016年7月に放送されたNHKスペシャル『未解決事件』でインタビューに応じた丸紅専務の大久保利春の直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P-3C(対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。 また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。 チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、前社長の大庭哲夫、丸紅会長の檜山廣や専務大久保利春、専務伊藤宏、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが証人喚問され、この模様はテレビで全国中継された。 5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。 なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。 その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領ジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。 また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた。 三木は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日に国務長官のヘンリー・キッシンジャーと会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。同月23日、アメリカ政府は日本の検察に資料を渡すことを合意した。 捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大した。とくに時の総理の三木はバルカン政治家と呼ばれるほど駆け引き・閥務に長けていたものの、当時の自民党の四大派閥の中では最小ともいえる少数派閥の領袖であるうえ、田中元首相の金脈問題による退陣の後を受け、比較的利権と縁の薄いクリーンなイメージが買われて、本来は党イメージの立て直しが期待されての就任であった。本人も少数派閥の領袖であるがゆえ、政権基盤の維持のためには国民の支持も重要であることを十分理解していた。ところが、ロッキード事件との関連を疑われる議員を抱える大派閥の領袖・有力幹部らにとっては、自党・自派閥の勢力維持のためには従来からのスキャンダル対処の定石通り、捜査の牽制・事件化の抑制や事態の極小化によって鎮静を図ることを期待、少数派閥の長である三木はそれに従うべき存在のはずであった。しかし、三木は政治犯罪の疑惑があれば真相を解明すべきとの態度をとり、世論の支持を背景に政権の座を維持することを決意した。結局、田中派議員が主要対象となった捜査の進展につき、親田中の議員は寧ろそれを逆手にとるような形で「国策捜査」だと主張し、批判した。対して、日本国民やマスコミはこのような政界の動きを「ロッキード(事件)隠し」と批判することとなった。 まず、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件解明への積極姿勢を見せる三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなった。日本国民やマスコミの「ロッキード(事件)隠し」との声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。この頃になると、新聞の取材班が早朝の検察庁舎に侵入して書き損じの調書を窃取するなど、マスコミの取材合戦は更に加熱していた。 一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し、起訴に持ち込んだ。当初から三木は事件の真相究明を標榜していたが、田中派の議員らは、これをもともと政治的クリーンさを売りとする三木が田中を生贄の羊とするため、「逆指揮権発動」によって田中を逮捕させたものではないかとみなした。三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。 この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言えない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成された。三木は9月に内閣改造を行なったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にした。 三木は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めたうちの1人であった福田派領袖の福田赳夫が就くことになった。 在日アメリカ大使館から本国へ、「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな。」という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。 このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が1976年(昭和51年)2月14日、上記児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月10日、さらに田中の運転手である笠原政則が同年8月2日と立て続けに急死するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。 しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。 その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、警察はその後も政治家以外の民間人に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。 衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。 田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕された後、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。 田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。 田中の秘書官であった榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中の5億円収受を認定した。また、死亡後の田中の遺産相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。 児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年(昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。その後、児玉の態度に憤ったポルノ俳優の前野霜一郎が同年3月に児玉邸へのセスナ機による自爆テロを行ったが、児玉は別の部屋で寝ていて助かった。 その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に児玉は亡くなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。 2016年の『未解決事件』のインタビューで堀田力は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。 当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた日吉修二によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれた日吉は段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」 児玉の通訳の福田太郎も死の直前に、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」と供述している。 1976年(昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において小佐野は第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が偽証罪(議院証言法違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。 「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時は社長を務めていた会長の檜山廣は1976年(昭和51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年(平成7年)に最高裁判所で実刑が確定した。しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年(平成12年)に死去した。檜山はこの間、1985年(昭和60年)から1999年(平成11年)まで丸紅名誉顧問を務めていた。 榎本敏夫と共に金銭授受を実行した当事者となった専務の伊藤宏は1983年(昭和58年)10月12日に第一審判決で懲役2年の実刑判決を受けたため、実刑判決を不服として、控訴。その後、1987年(昭和62年)7月29日に控訴審判決で第一審判決を破棄し、あらためて懲役2年、執行猶予4年の判決を言い渡し、上告せず、有罪が確定。 丸紅専務の大久保利春は、他の被告とは違い、公判でも検察側の主張をほぼ全面的に認めており、第一審判決で丸紅3被告の中で唯一の執行猶予付きの有罪判決が出たが、他の被告が控訴審で大久保に不利な証言が連発されることを恐れ、控訴に踏み切った。1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却されるが、檜山が上告したため、同様に上告。1991年(平成3年)12月16日の大久保の死により、公訴棄却となった。 大久保の部下だった元航空機課長の坂篁一は、「檜山さんの首相訪問のOKが取れ許可取れたもんなら、この際政治献金しましょうと。これはロッキードに出させましょうという話をしたわけだ。5億円のお金の話というのは丸紅側から出てるの、コーチャンから言われたことじゃない。そこで大久保さんに話して、これをコーチャンに言ってOKを取ってくださいと。」「簡単な言葉で言えば(トライスターは)ダメ押しの最後の詰め。P3Cで色々力を注ぎましょうという考えの方が多かった。しかしこれはね、当時国産で、話は進んでいたわけだ。国産で進んだやつを何とかP3Cにならんだろうか、国産ではひとつも丸紅に口銭(仲介手数料)は入らないわけだ。P3Cになればね、非常に巨額の口銭は入るわけです。巨額なもんだから。P3Cってのは。」巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を魑魅魍魎と書いた。「P3Cへの対策、お化けにはお化けのお菓子。森の中のお化け対策をしながら、活動するというのは、くたびれること。(導入が)決まりそうだ万歳、万歳と言ってちゃダメ。決まりかけが一番恐ろしい。暴れだすのは決まりかけ。」と語っている。 コーチャンの尋問記録にも、大久保は「もし大きな取引をしたいのであれば、5億円は基準レートだと言った。日本は最大のマーケットで丸紅から今後の販売がダメになると言われると大変だった。P3Cの売り込みの問題もあり支払わざるを得ないと考えた。」とある。 全日空に有利な政治的・経済的取り計らいを受けるために、若狭の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として、運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は「全日空ルート」と呼ばれ、立花隆などは、「全日空だけの裏金だけで相当の疑獄の規模に渡る」として「全日空疑獄」と呼んでいる。 運輸政務次官の佐藤孝行や元運輸大臣の橋本登美三郎が、全日空による金銭の授受があったとして受託収賄罪で起訴された。佐藤には懲役2年、執行猶予3年、追徴金200万円の有罪判決が確定し、橋本には一・二審で懲役2年6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円で有罪判決で上告中に死亡し公訴棄却となった。 また、全日空は若狭社長以下6名の現役社員が、外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕、起訴された。1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対して若狭のみが控訴。上訴審を経て1992年9月に最高裁が上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した。 もともとロッキード事件の発端は、米国系の多国籍企業が、海外での活動において多額の収益を上げながら、それを米国内に還流させて納税することもなく、自社の収益のために米国の利益すら損なうことすらしているのではないかという、米国民の不信の念の高まりから、外交委員会に多国籍企業小委員会が設けられ、多国籍企業の活動を調査することになったことによるもので、世界各国での活動を調査したものであり、日本もその対象の一つでしかない。陰謀に長けるといったダーティなイメージで捉えられることも多かったニクソンのウォーターゲート事件による大統領辞任もあり、自国政権に外国政権との癒着や倫理に反する行為も多々あったのではないかとの疑惑も強まっていた。 いったん民主党議員であったチャーチによる委員会の調査活動が始まると、海外の政府要人の暗殺計画があったことが暴露される等、民主党・共和党大統領時にかかわらずの様々なスキャンダルが既に明るみに出されていた。ロッキード事件については共和党大統領時のことであり、さらにスタッフメンバーの成果を挙げたいという意気込み・功名心、なにより実際に問題があったということがあって、様々な国のむしろ親米派とされてきた数多くの政治家・有力者が米国系多国籍企業から賄賂を受け取っていたのではないかという疑惑が取沙汰される事態となっていった。日本ばかりではなく、様々な国で政治家・有力者の名前が多数あがり、それぞれの国で一大スキャンダルとなったのである。おそらくは米国政府の外交関係者らの想定・(ほどほどの所で収まって欲しいという)願望も超える形で、問題が次々と暴露されていき、米国政府にとっても、外交関係者にとっては旧来からの外国親米政権の維持という観点からは窮地に陥った事態となっている。 日本ではこの点が必ずしも十分に認識されていないため、必ずしも上記状況を理解していないものも含めて以下のようなものがある。 ロッキード事件はアメリカ当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている。田中軍団の青年将校とも呼ばれたことのある石井一(元国土庁長官・自治大臣)は、伝聞情報などを基にキッシンジャー陰謀説を『冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相』に記した。 2022年、春名幹男は講演で、陰謀説の中でキッシンジャーの陰謀によるという説がほとんど確実だと思うので『ロッキード疑惑─―角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』を著わしたと述べている。朝日新聞編集委員の奥山俊宏はその著書『秘密解除 ロッキード事件』で、日中国交正常化と日米安保条約をめぐる田中の言動について、「一線を越え、ニクソンを出汁にして中国共産党にすり寄ったのも同然」と指摘した上で、大平正芳外相や三木武夫国務相が日中国交正常化を推進したのに米政府首脳らに嫌われていない事情を前提に、「キッシンジャーは、政策ではなく、その人格の側面から田中を蛇蝎のごとく嫌っており、その意味で田中は米国の『虎の尾』を踏んでいたと言える」としている。春名は、田中が米国の思惑以上に日中国交正常化を進めたことがキッシンジャーの怒りの原因としている。 一方で、事件当時、特捜部検事として捜査にあたった堀田力は、事件誕生に国際的陰謀などなかったとしている(贈収賄事件は実際にあったのであり、陰謀によって暴露あるいはデッチ上げられたものではないという意味。)。 中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている。 国防長官のメルビン・レアードはP-3Cの輸入を中曽根に持ち掛けた時、「彼はがっかりしていた。国産化するくらいならP3Cの開発費を負担したらどうかと提案したが、同意しなかった。」と語っている。 石原慎太郎は自著『天才』の中で、資源外交で逆鱗に触れた田中角栄をアメリカがロッキード事件で葬ったと述べている。 その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表のクラッターが無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が上院多国籍企業小委員会に誤配されたと伝えられた点などを捉えて、不可解であるとして、ソビエトやアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで有力なものとして当時からもあったが、田中による中国との国交成立に反発していた右翼や福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。 三木が人気取りと内閣の延命を狙って検察を使い、田中を逮捕したという説もある。また、検察が本来はP-3Cの導入がらみを問題とすべき事件を全日空のトライスター受注をめぐる事件として矮小化あるいは捏造したとする説もある。後者については、確かにP-3Cの事件がより大規模で重要な事件であったが、絡んでいたのがフィクサーとして知られ口が堅いと見られていた児玉誉士夫であり、しかも事件発覚後まもなく病気で倒れたような形となったため、検察がトライスターの問題しか立件できなかったのだとする説がある。 アメリカの国家安全保障担当補佐官リチャード・V・アレン(英語版)によると、ニクソン大統領自らP-3Cなどの軍用機導入を迫ったアメリカの狙いを「日本が我々の軍用機を購入すれば、我々の懐を痛めることなく、日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて、私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。」と語っている。 田中の側近だった石井一は、「今でも田中が金を貰ったと信じたくないが、あるとすればトライスターではなくP3Cではないか。P3Cに疑惑が及ばないように何か巨大な圧力が働き田中1人に罪を負わせたのではないか。」と考えている。「軍用機でこういう問題が起こるとね、これは両国政府がもろに被る事になる。国家体制を基本的に揺るがす問題になりかねない。総理大臣1人の罪という様な事にはいかなくなってくる。」とインタビューに答えている。田中の逮捕後アメリカから資料の提供も受け、情報が漏れないように印刷には出さずに秘書に手書きさせ、見立てをまとめていた。 久保卓也は防衛次官時代の1976年2月9日、ロッキード事件の一因である次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化が白紙還元された事件のいきさつについて「田中の部屋に後藤田正晴官房副長官、相沢英之大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。これは田中らがロッキード社の要請を受けて国産化を白紙還元したというニュアンスを持つため、大きな波紋を呼ぶこととなった(いわゆる「久保発言」)。後日、当時の状況を確認され、久保の発言に誤りがあったことが明らかとなり、久保は坂田長官から戒告処分を受け、その後の深夜の記者会見において記憶違いを声を震わせながら謝罪することとなる。特に内務省の先輩で、1974年の参院選落選以後、浪人として国政復帰を目指していた後藤田はこの発言に激怒して、久保に事実関係を厳しく確認し、明確な謝罪を要求するに至った。久保が1976年半ばと比較的早い時期に次官を退任したのはこの「久保発言」が原因とも言われている。その後、この事件は報道されなくなった。 朝日新聞で、チャーチ委員会にロッキードの監査法人から届けられた書類の中に、児玉誉士夫名義と丸紅の役員名義の、賄賂資金のこととみられる「ピーナツ」を受領したとの領収証があったことが報じられた。これは、疑惑を追究するチャーチ委員会と顧客のロッキード社との板挟みになった監査法人アーサーヤングの弁護士があっさり投げ出すように応じたものだったという(応じなければ議会侮辱罪に問われることになる。)。以降、日本におけるロッキード事件の一大スキャンダルとして政治問題化する。 しかし、書類の中に領収書がなぜあったかについては、ロッキードに送るつもりの書類が誤配送されたとする説や内部告発だったのではないかと説などが当初からあった。ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判明するとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。また当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。 放送学園大学教授の伊東光晴は、そもそもこれらの会計事務所からの資料は既に米国証券取引委員会からプロクシマイヤー委員会(銀行・住宅・都市問題委員会)に出されていたもので、たまたまチャーチ委員会で取り上げられたときに日本にも伝えられ問題になっただけで、そこに陰謀といった特段の政治的意図があったわけではないとしている。 また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については、日本の司法制度にない司法取引であり反対尋問もできなかったという批判があるが、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行われるのに際して3名は当初証言を拒否し、当時のアメリカでは外国の公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察がアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、刑事訴訟法第248条に基づく起訴便宜主義という手法を取り、1976年7月21日に布施健検事総長が公訴不提起声明を出し、同年7月24日に最高裁が裁判官会議でアメリカ側証人の刑事免責の保証を決議することで、事実上の免責を与えたのが直接的な理由である。その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。 なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行われた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがあるが、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。 反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて伝聞証拠禁止の原則の例外を適用して、下級審では証拠採用された。また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある。コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。 前ロッキード副社長で駐日大使のジェームズ・ホッジソンのアメリカ政府あての極秘報告書には、ロッキード事件発覚5日後の2月9日、「疑惑の政府高官名や、証拠を探る情報戦の舞台は今、ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上情報が漏洩しなければ、この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくいけば、ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう」という記述がある。 この電報の9日後の2月18日、日本で第一回検察首脳会議が行われ、アメリカ側に資料の提供を求めていく方針が決まった。その2日後の2月20日、「ロッキード事件によって、これまで進めてきたP3Cの導入が全て台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点で取り得る最善の方針は、P3Cに関して極力目立たないようにしていくことだ」という報告がなされた。 同日、三木とは別ルートで「アメリカ政府には、この事件に関して慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは、名前が公表されれば日本の政界は大騒動になり、我々はその状況を制御できなくなるだろう。最善の方法はアメリカ政府が疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを、可能な限り遅らせることだ。」と要請があった。 その2か月後、三木に渡された資料にはトライスター関連のものしかなく、P-3Cに関するものはなかった。その後の報告では「ロッキード社が日本政府高官に賄賂を渡したという幹部の告白は、日米双方に試練となった。もし三木首相の求めに応じて資料を全て提供していれば、政治的な同盟さえも失っていたかもしれない。」となっている。 調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中側はロッキード社から丸紅を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、丸紅専務の伊藤宏と田中の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路に止めた車の中で、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前で、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラの駐車場で、4回目が同年3月1日8時頃に伊藤の自宅にてとなっている。 1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。 3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りと遭遇しうる場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。 田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている。 ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半(21億円)が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向かうというのは「政治主義裁判」である可能性がある。 他方で、問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。 三木と法務大臣だった稲葉修による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に権力分立の原則を危うくさせ、準司法権の特定政権への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。日本国行政の最高責任者である三木はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを外務大臣の宮沢喜一が進言したのに対して、「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けたとし、これを最初から見込み捜査の意識であったとする説がある。渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせたり、司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが一部マスコミで伝えられている。また検事総長への指揮権を持つ稲葉は、田中逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と、今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。 他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。また、そもそも三木ないし稲葉が、例えば事件性がないと主張する司法当局に対し捜査・立件するよう指示したといった類の話は出て来ていない。 「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれをなすという政治主義性という問題があるとする主張もある。 しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。 なお1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で外為法違反による逮捕に関し、外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けようとする質問が出たが、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。 各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。 事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。 ロッキード社は日本だけでなく多数の国で機種選定にからむ贈賄を行なっていた。 オランダでは、空軍における戦闘機の採用をめぐって、女王ユリアナの王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。 イタリアではC-130の採用を巡り、ジョヴァンニ・レオーネ大統領が首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。 サウジアラビアでは1970年から75年にかけてロッキード社から武器商人アドナン・カショギに1億ドル以上の「手数料」がわたっていた。 ロッキード社スカンク・ワークスの責任者であったベン・リッチの著書によると、1950年代から70年代にかけて西ドイツやイギリス領香港などの地域にもに工作が行われていた。 アメリカ合衆国では、連邦議会が、外国公務員への贈賄を刑罰で禁止する「海外腐敗行為防止法」(FCPA)を1977年12月制定、力ーター大統領は「賄賂は倫理的にあってはならず、競争上も不必要だと信ずる」との談話を出してこれを施行した。チャーチ委員会が暴いたスキャンダルは多数にのぼったが、チャーチ委員会で活動にあたったレビンソンは、田中訴追がなければ海外腐敗行為防止法制定への政治的な動きは起きなかっただろうと思うと語ったという。 (かっこ内は主な後職) 防衛庁では1968年から、海上自衛隊が使用するロッキード社製の対潜哨戒機P2V-7及びP2V-7を原型とし川崎重工業が改造開発したP-2Jの後継となる次期対潜哨戒機 (PX-L) の選定に着手、当初川崎重工業による国産機とアメリカ海軍で採用されていたロッキード社のP-3Cの2案が有力視されていたが、1972年10月に国産方針の白紙撤回が発表されP-3Cの選定が事実上決定した。しかし、ロッキード事件の発覚により政府はPX-Lを全て白紙に戻し、一から選考し直す方針をとった。そのため海上自衛隊はPX-LまでのつなぎとしてP-2Jを増産することとなった。その後再度選定が行われ、1977年には再度P-3Cに決定した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロッキード事件(ロッキードじけん、英語: Lockheed bribery scandals)は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で元内閣総理大臣の田中角栄が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中以外にも政治家2名(運輸政務次官佐藤孝行と元運輸大臣橋本登美三郎)が逮捕された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この事件は1976年(昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)11月に初飛行し、1972年(昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社が、自社初のジェット旅客機として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に昇降機が設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、同社はベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争に晒されていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材ではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、ファンブレードの材質を金属製に変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めた他、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年(昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった。この1970年代はニクソン、フォードの共和党政権時で、多国籍企業小委員会のチャーチは民主党議員である。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャン(英語版)と元東京駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年(昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(当時の日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2016年7月に放送されたNHKスペシャル『未解決事件』でインタビューに応じた丸紅専務の大久保利春の直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P-3C(対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、前社長の大庭哲夫、丸紅会長の檜山廣や専務大久保利春、専務伊藤宏、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良などが証人喚問され、この模様はテレビで全国中継された。", "title": "国会" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。", "title": "国会" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。", "title": "国会" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領ジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "三木は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日に国務長官のヘンリー・キッシンジャーと会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。同月23日、アメリカ政府は日本の検察に資料を渡すことを合意した。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大した。とくに時の総理の三木はバルカン政治家と呼ばれるほど駆け引き・閥務に長けていたものの、当時の自民党の四大派閥の中では最小ともいえる少数派閥の領袖であるうえ、田中元首相の金脈問題による退陣の後を受け、比較的利権と縁の薄いクリーンなイメージが買われて、本来は党イメージの立て直しが期待されての就任であった。本人も少数派閥の領袖であるがゆえ、政権基盤の維持のためには国民の支持も重要であることを十分理解していた。ところが、ロッキード事件との関連を疑われる議員を抱える大派閥の領袖・有力幹部らにとっては、自党・自派閥の勢力維持のためには従来からのスキャンダル対処の定石通り、捜査の牽制・事件化の抑制や事態の極小化によって鎮静を図ることを期待、少数派閥の長である三木はそれに従うべき存在のはずであった。しかし、三木は政治犯罪の疑惑があれば真相を解明すべきとの態度をとり、世論の支持を背景に政権の座を維持することを決意した。結局、田中派議員が主要対象となった捜査の進展につき、親田中の議員は寧ろそれを逆手にとるような形で「国策捜査」だと主張し、批判した。対して、日本国民やマスコミはこのような政界の動きを「ロッキード(事件)隠し」と批判することとなった。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "まず、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件解明への積極姿勢を見せる三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなった。日本国民やマスコミの「ロッキード(事件)隠し」との声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。この頃になると、新聞の取材班が早朝の検察庁舎に侵入して書き損じの調書を窃取するなど、マスコミの取材合戦は更に加熱していた。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し、起訴に持ち込んだ。当初から三木は事件の真相究明を標榜していたが、田中派の議員らは、これをもともと政治的クリーンさを売りとする三木が田中を生贄の羊とするため、「逆指揮権発動」によって田中を逮捕させたものではないかとみなした。三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言えない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成された。三木は9月に内閣改造を行なったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にした。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "三木は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めたうちの1人であった福田派領袖の福田赳夫が就くことになった。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "在日アメリカ大使館から本国へ、「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな。」という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が1976年(昭和51年)2月14日、上記児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月10日、さらに田中の運転手である笠原政則が同年8月2日と立て続けに急死するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、警察はその後も政治家以外の民間人に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。", "title": "捜査" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕された後、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "田中の秘書官であった榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中の5億円収受を認定した。また、死亡後の田中の遺産相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年(昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。その後、児玉の態度に憤ったポルノ俳優の前野霜一郎が同年3月に児玉邸へのセスナ機による自爆テロを行ったが、児玉は別の部屋で寝ていて助かった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に児玉は亡くなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2016年の『未解決事件』のインタビューで堀田力は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた日吉修二によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれた日吉は段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "児玉の通訳の福田太郎も死の直前に、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」と供述している。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1976年(昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において小佐野は第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が偽証罪(議院証言法違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時は社長を務めていた会長の檜山廣は1976年(昭和51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年(平成7年)に最高裁判所で実刑が確定した。しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年(平成12年)に死去した。檜山はこの間、1985年(昭和60年)から1999年(平成11年)まで丸紅名誉顧問を務めていた。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "榎本敏夫と共に金銭授受を実行した当事者となった専務の伊藤宏は1983年(昭和58年)10月12日に第一審判決で懲役2年の実刑判決を受けたため、実刑判決を不服として、控訴。その後、1987年(昭和62年)7月29日に控訴審判決で第一審判決を破棄し、あらためて懲役2年、執行猶予4年の判決を言い渡し、上告せず、有罪が確定。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "丸紅専務の大久保利春は、他の被告とは違い、公判でも検察側の主張をほぼ全面的に認めており、第一審判決で丸紅3被告の中で唯一の執行猶予付きの有罪判決が出たが、他の被告が控訴審で大久保に不利な証言が連発されることを恐れ、控訴に踏み切った。1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却されるが、檜山が上告したため、同様に上告。1991年(平成3年)12月16日の大久保の死により、公訴棄却となった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "大久保の部下だった元航空機課長の坂篁一は、「檜山さんの首相訪問のOKが取れ許可取れたもんなら、この際政治献金しましょうと。これはロッキードに出させましょうという話をしたわけだ。5億円のお金の話というのは丸紅側から出てるの、コーチャンから言われたことじゃない。そこで大久保さんに話して、これをコーチャンに言ってOKを取ってくださいと。」「簡単な言葉で言えば(トライスターは)ダメ押しの最後の詰め。P3Cで色々力を注ぎましょうという考えの方が多かった。しかしこれはね、当時国産で、話は進んでいたわけだ。国産で進んだやつを何とかP3Cにならんだろうか、国産ではひとつも丸紅に口銭(仲介手数料)は入らないわけだ。P3Cになればね、非常に巨額の口銭は入るわけです。巨額なもんだから。P3Cってのは。」巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を魑魅魍魎と書いた。「P3Cへの対策、お化けにはお化けのお菓子。森の中のお化け対策をしながら、活動するというのは、くたびれること。(導入が)決まりそうだ万歳、万歳と言ってちゃダメ。決まりかけが一番恐ろしい。暴れだすのは決まりかけ。」と語っている。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "コーチャンの尋問記録にも、大久保は「もし大きな取引をしたいのであれば、5億円は基準レートだと言った。日本は最大のマーケットで丸紅から今後の販売がダメになると言われると大変だった。P3Cの売り込みの問題もあり支払わざるを得ないと考えた。」とある。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "全日空に有利な政治的・経済的取り計らいを受けるために、若狭の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として、運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は「全日空ルート」と呼ばれ、立花隆などは、「全日空だけの裏金だけで相当の疑獄の規模に渡る」として「全日空疑獄」と呼んでいる。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "運輸政務次官の佐藤孝行や元運輸大臣の橋本登美三郎が、全日空による金銭の授受があったとして受託収賄罪で起訴された。佐藤には懲役2年、執行猶予3年、追徴金200万円の有罪判決が確定し、橋本には一・二審で懲役2年6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円で有罪判決で上告中に死亡し公訴棄却となった。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、全日空は若狭社長以下6名の現役社員が、外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕、起訴された。1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対して若狭のみが控訴。上訴審を経て1992年9月に最高裁が上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した。", "title": "裁判" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "もともとロッキード事件の発端は、米国系の多国籍企業が、海外での活動において多額の収益を上げながら、それを米国内に還流させて納税することもなく、自社の収益のために米国の利益すら損なうことすらしているのではないかという、米国民の不信の念の高まりから、外交委員会に多国籍企業小委員会が設けられ、多国籍企業の活動を調査することになったことによるもので、世界各国での活動を調査したものであり、日本もその対象の一つでしかない。陰謀に長けるといったダーティなイメージで捉えられることも多かったニクソンのウォーターゲート事件による大統領辞任もあり、自国政権に外国政権との癒着や倫理に反する行為も多々あったのではないかとの疑惑も強まっていた。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "いったん民主党議員であったチャーチによる委員会の調査活動が始まると、海外の政府要人の暗殺計画があったことが暴露される等、民主党・共和党大統領時にかかわらずの様々なスキャンダルが既に明るみに出されていた。ロッキード事件については共和党大統領時のことであり、さらにスタッフメンバーの成果を挙げたいという意気込み・功名心、なにより実際に問題があったということがあって、様々な国のむしろ親米派とされてきた数多くの政治家・有力者が米国系多国籍企業から賄賂を受け取っていたのではないかという疑惑が取沙汰される事態となっていった。日本ばかりではなく、様々な国で政治家・有力者の名前が多数あがり、それぞれの国で一大スキャンダルとなったのである。おそらくは米国政府の外交関係者らの想定・(ほどほどの所で収まって欲しいという)願望も超える形で、問題が次々と暴露されていき、米国政府にとっても、外交関係者にとっては旧来からの外国親米政権の維持という観点からは窮地に陥った事態となっている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本ではこの点が必ずしも十分に認識されていないため、必ずしも上記状況を理解していないものも含めて以下のようなものがある。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ロッキード事件はアメリカ当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている。田中軍団の青年将校とも呼ばれたことのある石井一(元国土庁長官・自治大臣)は、伝聞情報などを基にキッシンジャー陰謀説を『冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相』に記した。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2022年、春名幹男は講演で、陰謀説の中でキッシンジャーの陰謀によるという説がほとんど確実だと思うので『ロッキード疑惑─―角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』を著わしたと述べている。朝日新聞編集委員の奥山俊宏はその著書『秘密解除 ロッキード事件』で、日中国交正常化と日米安保条約をめぐる田中の言動について、「一線を越え、ニクソンを出汁にして中国共産党にすり寄ったのも同然」と指摘した上で、大平正芳外相や三木武夫国務相が日中国交正常化を推進したのに米政府首脳らに嫌われていない事情を前提に、「キッシンジャーは、政策ではなく、その人格の側面から田中を蛇蝎のごとく嫌っており、その意味で田中は米国の『虎の尾』を踏んでいたと言える」としている。春名は、田中が米国の思惑以上に日中国交正常化を進めたことがキッシンジャーの怒りの原因としている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一方で、事件当時、特捜部検事として捜査にあたった堀田力は、事件誕生に国際的陰謀などなかったとしている(贈収賄事件は実際にあったのであり、陰謀によって暴露あるいはデッチ上げられたものではないという意味。)。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "国防長官のメルビン・レアードはP-3Cの輸入を中曽根に持ち掛けた時、「彼はがっかりしていた。国産化するくらいならP3Cの開発費を負担したらどうかと提案したが、同意しなかった。」と語っている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "石原慎太郎は自著『天才』の中で、資源外交で逆鱗に触れた田中角栄をアメリカがロッキード事件で葬ったと述べている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表のクラッターが無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が上院多国籍企業小委員会に誤配されたと伝えられた点などを捉えて、不可解であるとして、ソビエトやアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで有力なものとして当時からもあったが、田中による中国との国交成立に反発していた右翼や福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "三木が人気取りと内閣の延命を狙って検察を使い、田中を逮捕したという説もある。また、検察が本来はP-3Cの導入がらみを問題とすべき事件を全日空のトライスター受注をめぐる事件として矮小化あるいは捏造したとする説もある。後者については、確かにP-3Cの事件がより大規模で重要な事件であったが、絡んでいたのがフィクサーとして知られ口が堅いと見られていた児玉誉士夫であり、しかも事件発覚後まもなく病気で倒れたような形となったため、検察がトライスターの問題しか立件できなかったのだとする説がある。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アメリカの国家安全保障担当補佐官リチャード・V・アレン(英語版)によると、ニクソン大統領自らP-3Cなどの軍用機導入を迫ったアメリカの狙いを「日本が我々の軍用機を購入すれば、我々の懐を痛めることなく、日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて、私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。」と語っている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "田中の側近だった石井一は、「今でも田中が金を貰ったと信じたくないが、あるとすればトライスターではなくP3Cではないか。P3Cに疑惑が及ばないように何か巨大な圧力が働き田中1人に罪を負わせたのではないか。」と考えている。「軍用機でこういう問題が起こるとね、これは両国政府がもろに被る事になる。国家体制を基本的に揺るがす問題になりかねない。総理大臣1人の罪という様な事にはいかなくなってくる。」とインタビューに答えている。田中の逮捕後アメリカから資料の提供も受け、情報が漏れないように印刷には出さずに秘書に手書きさせ、見立てをまとめていた。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "久保卓也は防衛次官時代の1976年2月9日、ロッキード事件の一因である次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化が白紙還元された事件のいきさつについて「田中の部屋に後藤田正晴官房副長官、相沢英之大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。これは田中らがロッキード社の要請を受けて国産化を白紙還元したというニュアンスを持つため、大きな波紋を呼ぶこととなった(いわゆる「久保発言」)。後日、当時の状況を確認され、久保の発言に誤りがあったことが明らかとなり、久保は坂田長官から戒告処分を受け、その後の深夜の記者会見において記憶違いを声を震わせながら謝罪することとなる。特に内務省の先輩で、1974年の参院選落選以後、浪人として国政復帰を目指していた後藤田はこの発言に激怒して、久保に事実関係を厳しく確認し、明確な謝罪を要求するに至った。久保が1976年半ばと比較的早い時期に次官を退任したのはこの「久保発言」が原因とも言われている。その後、この事件は報道されなくなった。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "朝日新聞で、チャーチ委員会にロッキードの監査法人から届けられた書類の中に、児玉誉士夫名義と丸紅の役員名義の、賄賂資金のこととみられる「ピーナツ」を受領したとの領収証があったことが報じられた。これは、疑惑を追究するチャーチ委員会と顧客のロッキード社との板挟みになった監査法人アーサーヤングの弁護士があっさり投げ出すように応じたものだったという(応じなければ議会侮辱罪に問われることになる。)。以降、日本におけるロッキード事件の一大スキャンダルとして政治問題化する。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "しかし、書類の中に領収書がなぜあったかについては、ロッキードに送るつもりの書類が誤配送されたとする説や内部告発だったのではないかと説などが当初からあった。ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判明するとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。また当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "放送学園大学教授の伊東光晴は、そもそもこれらの会計事務所からの資料は既に米国証券取引委員会からプロクシマイヤー委員会(銀行・住宅・都市問題委員会)に出されていたもので、たまたまチャーチ委員会で取り上げられたときに日本にも伝えられ問題になっただけで、そこに陰謀といった特段の政治的意図があったわけではないとしている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については、日本の司法制度にない司法取引であり反対尋問もできなかったという批判があるが、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行われるのに際して3名は当初証言を拒否し、当時のアメリカでは外国の公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察がアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、刑事訴訟法第248条に基づく起訴便宜主義という手法を取り、1976年7月21日に布施健検事総長が公訴不提起声明を出し、同年7月24日に最高裁が裁判官会議でアメリカ側証人の刑事免責の保証を決議することで、事実上の免責を与えたのが直接的な理由である。その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行われた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがあるが、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて伝聞証拠禁止の原則の例外を適用して、下級審では証拠採用された。また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある。コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "前ロッキード副社長で駐日大使のジェームズ・ホッジソンのアメリカ政府あての極秘報告書には、ロッキード事件発覚5日後の2月9日、「疑惑の政府高官名や、証拠を探る情報戦の舞台は今、ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上情報が漏洩しなければ、この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくいけば、ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう」という記述がある。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "この電報の9日後の2月18日、日本で第一回検察首脳会議が行われ、アメリカ側に資料の提供を求めていく方針が決まった。その2日後の2月20日、「ロッキード事件によって、これまで進めてきたP3Cの導入が全て台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点で取り得る最善の方針は、P3Cに関して極力目立たないようにしていくことだ」という報告がなされた。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同日、三木とは別ルートで「アメリカ政府には、この事件に関して慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは、名前が公表されれば日本の政界は大騒動になり、我々はその状況を制御できなくなるだろう。最善の方法はアメリカ政府が疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを、可能な限り遅らせることだ。」と要請があった。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "その2か月後、三木に渡された資料にはトライスター関連のものしかなく、P-3Cに関するものはなかった。その後の報告では「ロッキード社が日本政府高官に賄賂を渡したという幹部の告白は、日米双方に試練となった。もし三木首相の求めに応じて資料を全て提供していれば、政治的な同盟さえも失っていたかもしれない。」となっている。", "title": "多論" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中側はロッキード社から丸紅を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、丸紅専務の伊藤宏と田中の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路に止めた車の中で、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前で、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラの駐車場で、4回目が同年3月1日8時頃に伊藤の自宅にてとなっている。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りと遭遇しうる場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半(21億円)が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向かうというのは「政治主義裁判」である可能性がある。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "他方で、問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "三木と法務大臣だった稲葉修による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に権力分立の原則を危うくさせ、準司法権の特定政権への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。日本国行政の最高責任者である三木はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを外務大臣の宮沢喜一が進言したのに対して、「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けたとし、これを最初から見込み捜査の意識であったとする説がある。渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせたり、司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが一部マスコミで伝えられている。また検事総長への指揮権を持つ稲葉は、田中逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と、今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。また、そもそも三木ないし稲葉が、例えば事件性がないと主張する司法当局に対し捜査・立件するよう指示したといった類の話は出て来ていない。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれをなすという政治主義性という問題があるとする主張もある。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "なお1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で外為法違反による逮捕に関し、外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けようとする質問が出たが、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。", "title": "ロッキード事件にかかわる問題点" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。", "title": "流行語" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ロッキード社は日本だけでなく多数の国で機種選定にからむ贈賄を行なっていた。", "title": "日本国外における「ロッキード事件」" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "オランダでは、空軍における戦闘機の採用をめぐって、女王ユリアナの王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。", "title": "日本国外における「ロッキード事件」" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "イタリアではC-130の採用を巡り、ジョヴァンニ・レオーネ大統領が首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。", "title": "日本国外における「ロッキード事件」" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "サウジアラビアでは1970年から75年にかけてロッキード社から武器商人アドナン・カショギに1億ドル以上の「手数料」がわたっていた。", "title": "日本国外における「ロッキード事件」" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ロッキード社スカンク・ワークスの責任者であったベン・リッチの著書によると、1950年代から70年代にかけて西ドイツやイギリス領香港などの地域にもに工作が行われていた。", "title": "日本国外における「ロッキード事件」" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、連邦議会が、外国公務員への贈賄を刑罰で禁止する「海外腐敗行為防止法」(FCPA)を1977年12月制定、力ーター大統領は「賄賂は倫理的にあってはならず、競争上も不必要だと信ずる」との談話を出してこれを施行した。チャーチ委員会が暴いたスキャンダルは多数にのぼったが、チャーチ委員会で活動にあたったレビンソンは、田中訴追がなければ海外腐敗行為防止法制定への政治的な動きは起きなかっただろうと思うと語ったという。", "title": "日本国外における「ロッキード事件」" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "(かっこ内は主な後職)", "title": "検察" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "防衛庁では1968年から、海上自衛隊が使用するロッキード社製の対潜哨戒機P2V-7及びP2V-7を原型とし川崎重工業が改造開発したP-2Jの後継となる次期対潜哨戒機 (PX-L) の選定に着手、当初川崎重工業による国産機とアメリカ海軍で採用されていたロッキード社のP-3Cの2案が有力視されていたが、1972年10月に国産方針の白紙撤回が発表されP-3Cの選定が事実上決定した。しかし、ロッキード事件の発覚により政府はPX-Lを全て白紙に戻し、一から選考し直す方針をとった。そのため海上自衛隊はPX-LまでのつなぎとしてP-2Jを増産することとなった。その後再度選定が行われ、1977年には再度P-3Cに決定した。", "title": "影響" } ]
ロッキード事件は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。 この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。 なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。
{{最高裁判例 |事件名=[[外国為替及び外国貿易法|外国為替及び外国貿易管理法]]違反、[[賄賂罪|贈賄]]、[[議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律|議院証言法]]違反被告事件 |事件番号=昭和62年(あ)第1351号 |裁判年月日=1995年(平成7年)2月22日 |判例集=刑集49巻2号1頁 |裁判要旨= # 日本の刑事訴訟法上、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、アメリカ連邦法上に基づいて行われた嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきである。 # 特定機種の選定購入の勧奨は、一般的には、運輸大臣の航空運輸行政に関する行政指導として、その職務権限に属するものというべきである。 # 内閣総理大臣が行政各部に対し指揮監督権を行使するためには、閣議にかけて決定した方針が存在することを要するが、閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有する。 |法廷名=[[大法廷]] |裁判長=[[草場良八]]([[最高裁判所長官]]) |陪席裁判官=[[園部逸夫]] [[中島敏次郎]] [[可部恒雄]] [[大西勝也]] [[小野幹雄]] [[三好達]] [[大野正男]] [[千種秀夫]] [[高橋久子]] [[尾崎行信]] [[河合伸一]] |多数意見=園部逸夫 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 大野正男 千種秀夫 尾崎行信 河合伸一(以上8名全部の論点について)、1.については全員一致 |意見=草場良八 中島敏次郎 三好達 高橋久子(以上4名2.3.について) |反対意見=なし |参照法条=刑訴法1条、刑訴法146条、刑訴法226条、刑訴法248条、刑訴法317条、憲法38条1項、憲法66条、憲法68条、憲法72条、刑法<ref group="注釈" name="keihou">昭和55年法律30号による改正前のもの</ref>197条1項、刑法<ref group="注釈" name="keihou"/>198条1項、運輸省設置法<ref group="注釈" name="unyushosecchihou">昭和47年法律105号による改正前のもの</ref>3条11号、運輸省設置法<ref group="注釈" name="unyushosecchihou"/>4条1項44号の9、運輸省設置法<ref group="注釈" name="unyushosecchihou"/>28条の2第1項13号、航空法<ref group="注釈" name="koukuuhou">昭和48年法律113号による改正前のもの</ref>100条1項、航空法<ref group="注釈" name="koukuuhou"/>101条、航空法<ref group="注釈" name="koukuuhou"/>1109条、航空法施行規則<ref group="注釈" name="koukuuhoushikoukisoku">昭和48年運輸省令59号による改正前のもの</ref>210条1項、航空法施行規則<ref group="注釈" name="koukuuhoushikoukisoku"/>220条、内閣法4条、内閣法6条、内閣法8条 |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50355}} {{最高裁判例 |事件名=外国為替及び外国貿易管理法違反、議院証言法違反被告事件 |事件番号=昭和61(あ)1297 |裁判年月日=1992年(平成4年)9月18日 |判例集= 刑集第46巻6号355頁 |裁判要旨= # 議院証言法により一個の宣誓に基づき同一の証人尋問手続においてされた数個の虚偽の陳述は、同法6条一項違反の罪として、一罪を構成する。 # 議院証言法8条(昭和六三年法律第八九号による改正前のもの)による告発が、同法六条一項違反の罪として一罪を構成する数個の陳述の一部分についてされた場合、告発の効力は、他の陳述部分にも及ぶ。 |法廷名=第三[[小法廷]] |裁判長=[[可部恒雄]] |陪席裁判官=[[貞家克己]] [[園部逸夫]] [[佐藤庄市郎]] |多数意見=全員一致 |意見=なし |反対意見=なし |参照法条=議院証言法6条1項、議院証言法8条(昭和63年法律89号による改正前のもの)、刑訴法238条 |url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50337}} '''ロッキード事件'''(ロッキードじけん、{{Lang-en|Lockheed bribery scandals}})は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[航空機]]製造大手の[[ロッキード]]社による、主に同社の[[旅客機]]の受注をめぐって[[1976年]]([[昭和]]51年)2月に明るみに出た世界的な大規模[[汚職]]事件である。 この事件では日本やアメリカ、[[オランダ]]、[[ヨルダン]]、[[メキシコ]]など多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「'''総理の犯罪'''」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。 なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。 == 概要 == [[ファイル:Tanaka and Nixon 1973 (copy).png|thumb|left|220px|田中角栄(左)と[[アメリカ合衆国大統領]][[リチャード・ニクソン]]]] 国内航空大手の[[全日本空輸|全日空]]の新[[ワイドボディ機|ワイドボディ]]旅客機導入選定に絡み、[[自由民主党 (日本)|自民党]][[衆議院議員]]で元[[内閣総理大臣]]の[[田中角栄]]が、[[1976年]]([[昭和]]51年)[[7月27日]]に[[賄賂罪|受託収賄]]と[[外国為替及び外国貿易法|外国為替及び外国貿易管理法(外為法)]]違反の疑いで逮捕され、その前後に田中以外にも政治家2名(運輸政務次官[[佐藤孝行]]と元[[運輸大臣]][[橋本登美三郎]])が逮捕された。 さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長[[若狭得治]]以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の[[丸紅]]の役員と社員、行動派[[右翼]]の大物と呼ばれ、[[暴力団]]や[[アメリカ中央情報局|CIA]]とも深い関係にあった[[児玉誉士夫]]や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた[[国際興業]]社主の[[小佐野賢治]]と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、[[第二次世界大戦]]後の日本の疑獄を代表する大事件となった。 この事件は[[1976年]]([[昭和]]51年)2月に[[アメリカ合衆国上院|アメリカ議会上院]]で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会{{Refnest|group="注釈"|委員長[[フランク・チャーチ]]の名から「チャーチ委員会」。}}における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。 == 経緯 == ===トライスターの販売不振=== [[ファイル:ANA L-1011 JA8508 itm.jpg|thumb|left|220px|全日空のL-1011 トライスター]] [[1970年]]([[昭和]]45年)11月に初飛行し、[[1972年]]([[昭和]]47年)4月に運航が開始された[[ロッキード L-1011 トライスター|L-1011 トライスター]]は、大手航空機製造会社の[[ロッキード]]社が、自社初の[[ジェット旅客機]]として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に[[エレベーター|昇降機]]が設置された他、[[自動操縦装置]]については[[軍用機]]のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。 ロッキード社は[[レシプロ]]機時代には[[ロッキード コンステレーション]]シリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、同社は[[ベトナム戦争]]の終結によって[[黒字と赤字|赤字経営]]に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。 しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していた[[マクドネル・ダグラス]]の[[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10]]や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていた[[ボーイング747]]との間で激しい販売競争に晒されていた。またL-1011 トライスターに搭載する[[ロールス・ロイス]]社製[[ターボファンエンジン]]「[[ロールス・ロイス RB211|RB211]]」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材では[[バードストライク]]の衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、ファンブレードの材質を金属製に変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、[[日本]]においても既に全日空のライバルである[[日本航空]]がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めた他、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。 このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。 === 全日空の大型機選定作業 === 1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の[[全日空機雫石衝突事故]]、[[ニクソン・ショック]]により一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、[[大阪国際空港|大阪空港]]に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、[[アメリカン航空96便貨物ドア破損事故|貨物室ドア脱落事故]]などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという{{Sfn|ANA|1983|page=337}}{{Refnest|group="注釈"|そのキャンセルした全日空向けDC-10のうちの1機(量産29号機 cn 46704/29)が格安で[[ターキッシュ エアラインズ|トルコ航空]]に売却されたが、貨物ドアの重大な欠陥が是正されていなかったことから、[[1974年]]に[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]]が発生してしまった。}}。 選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという{{Sfn|ANA|1983|page=337}}。 === トライスターの発注 === [[ファイル:Heathdod.JPG|thumb|right|220px|イギリス首相[[エドワード・ヒース]]]] 1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した{{Sfnm|1a1=ANA|1y=1983|1p=339|2a1=本所次郎|2y=2002b|2p=174}}。 === チャーチ委員会 === [[ファイル:JASDF F-104J.JPG|thumb|right|220px|ロッキードF-104J]] 田中が[[田中金脈問題|金脈問題]]で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の[[1976年]]([[昭和]]51年)[[2月4日]]に、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ議会上院]]で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の[[航空会社]]にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた[[1970年代]]初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった{{Refnest|group="注釈"|全日空への工作費は約30億円だったと言われる。}}。この1970年代はニクソン、フォードの共和党政権時で、多国籍企業小委員会のチャーチは民主党議員である。 === 明らかになっていく「工作」 === [[ファイル:Yoshio-Kodama-2.png|thumb|220px|right|'''[[児玉誉士夫]]'''(前列左、1953年)。]] さらにその後公聴会において、ロッキード副会長{{仮リンク|アーチボルド・コーチャン|en|Carl Kotchian}}と元[[東京]]駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター({{Lang|en|John William Clutter}})が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し[[1972年]]([[昭和]]47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]](当時の日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の[[丸紅]]などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。 2016年7月に放送された[[NHKスペシャル]]『[[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]]』{{Refnest|group="注釈"|[[NHKスペシャル]]の大型シリーズ。ロッキード事件を'''未解明の部分や謎を残した[[未解決事件|事件]]'''として定義し、事件発覚から40年後の[[2016年]]に、再現ドラマとドキュメンタリーで事件の顛末を描いた<ref>「ロッキード献金事件 -第二次証人喚問-」 - 中日ニュース1155号(動画)・中日映画社</ref>。}}でインタビューに応じた丸紅専務の'''[[大久保利春]]'''{{Refnest|group="注釈"|[[1949年]](昭和24年)、日本海商事の代表取締役に就任した。日本海商事は[[朝鮮戦争]]の頃、東京レアメタルの輸送部門を請け負っていた。東京レアメタルは、東條英機ら7名の死刑執行(1948年12月23日)一週間前に児玉誉士夫が巣鴨プリズンから出所してすぐ設立した企業である<ref>{{Harvnb|竹森|1975|pp=70-71}}</ref>。 :東京レアメタルは[[銀座]]にできた。設立目的は[[連合国軍最高司令官総司令部|SCAP]]のためにタングステンとモリブデンを調達することだった。後に大元産業と改称された<ref>{{Harvnb|Davis|Roberts|1996|p=100}}</ref>。}}の直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた航空機課長[[坂篁一]]の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、[[P-3 (航空機)|P-3C]]([[対潜哨戒機]])導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは[[魑魅魍魎]]だ」と語っている。国産化計画の責任者だった[[海上自衛隊]]の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。 また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去に[[中央情報局|CIA]]と関係のあったといわれる[[日系アメリカ人]]の'''シグ片山'''{{Refnest|group="注釈"|本名の「シゲトモ」をアメリカ流に縮めて「シグ」とした。ロサンゼルス生まれ。大戦中は陸軍。戦後はGHQで通訳となった。その後、港区でスクラップ業ユナイテッド・スチール社の経営者となる。ベトナム戦争中、[[ホーチミン市|サイゴン]]の入札業者に指定されて暴利を得た。落札したスクラップは丸紅その他へ売り払った。問題のペーパー会社は[[ケイマン諸島]]のID社<ref>{{Harvnb|竹森|1975|pp=135-136}}</ref>。}}が経営する[[ペーパーカンパニー|ペーパー会社]]や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていた[[チャールズ・ウィロビー]]の秘書的存在でもあった'''福田太郎'''{{Refnest|group="注釈"|[[ユタ州]][[ソルトレイクシティ|ソルトレーク市]]生まれの日系二世。両親は広島県出身の移民。戦前に帰国して[[早稲田大学|早大]]国際学院に学ぶ。[[1939年]](昭和14年)に[[満洲]]に渡り、終戦まで満洲電業の国際放送を担当した。 :[[1945年]](昭和20年)に引揚げるとすぐに、占領軍の通訳となり[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に勤務。ここで児玉を担当した。[[1948年]](昭和23年)から東京銀座で出版社「ロマンス社」を経営、倒産後は湯浅電池会社の海外進出業務や同社の通訳などを手伝っていたが、1958年(昭和33年)外国通信社の仲間6人と「ジャパンPR」を設立した。この時、ロッキードの日本国内PR部門、主として英文ニュース速報を新聞各社に流したり、日本の新聞を翻訳してロッキード社に送る仕事を請け負う。 ::1955年(昭和30年)ごろには児玉の自伝『われ敗れたり』を英文に翻訳出版し、児玉とは家族ぐるみでつきあっていた<ref> {{Harvnb|竹森|1975|pp=134-13}}</ref>。}}が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。 == 国会 == チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた[[衆議院]][[予算委員会]]には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、前社長の'''[[大庭哲夫]]'''、丸紅会長の'''[[檜山廣]]'''や専務[[大久保利春]]、専務[[伊藤宏 (実業家)|伊藤宏]]、ロッキード日本支社支配人の'''鬼俊良'''{{Refnest|group="注釈"|[[1953年]](昭和28年)、叔父で川崎航空機社長だった砂野仁の紹介でロッキード本社に入社<ref>{{Harvnb|竹森|1975|p= 13}}</ref>。}}などが[[証人喚問]]され、この模様はテレビで全国中継された。 5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「[[二階堂進]]元官房長官、[[佐々木秀世]]元運輸相、[[福永一臣]]自民党航空対策特別委員長、[[加藤六月]]元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。 なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の[[内閣官房副長官]][[海部俊樹]]はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。 ==捜査== ===捜査開始=== [[ファイル:Ford OvalOffice.jpg|thumb|220px|right|ジェラルド・フォード大統領]] その後、首相[[三木武夫]]がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領[[ジェラルド・フォード]]に対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。 また、捜査開始の指示を受けて2月18日には[[最高検察庁]]、[[東京高等検察庁]]、[[東京地方検察庁]]による初の[[検察首脳会議]]が開かれ、同月24日には検察庁と[[警視庁]]、[[国税庁]]による合同捜査態勢が敷かれた。[[吉永祐介]]は警察から情報が漏れていると考えていた<ref name="nhkspm-ep5">{{cite episode |title=ロッキード事件 |url=https://www.nhk.or.jp/mikaiketsu/file005/index.html |series=NHKスペシャル 未解決事件 |serieslink=未解決事件 (NHKスペシャル) |credits= |network=[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]] |airdate=|accessdate=2016-09-17 }}<!-- DVD化されているので検証可能性〇 --></ref>。 三木は外交評論家の[[平沢和重]]を密使として送り、3月5日に国務長官の[[ヘンリー・キッシンジャー]]と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。同月23日、アメリカ政府は日本の検察に資料を渡すことを合意した<ref>{{Cite news|author=奥山俊宏|title=「自民離脱、信問う」示唆:三木元首相が米政府に密使:ロッキード事件|work=|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=|pages=|edition=13版|page=38面|date=2010-03-07|accessdate=|language=}}</ref>。 ===「ロッキード隠し」=== 捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大した。とくに時の総理の三木は[[バルカン政治家]]と呼ばれるほど駆け引き・閥務に長けていたものの、当時の自民党の四大派閥の中では最小ともいえる少数派閥の領袖であるうえ、田中元首相の金脈問題による退陣の後を受け、比較的利権と縁の薄いクリーンなイメージが買われて、本来は党イメージの立て直しが期待されての就任であった。本人も少数派閥の領袖であるがゆえ、政権基盤の維持のためには国民の支持も重要であることを十分理解していた。ところが、ロッキード事件との関連を疑われる議員を抱える大派閥の領袖・有力幹部らにとっては、自党・自派閥の勢力維持のためには従来からのスキャンダル対処の定石通り、捜査の牽制・事件化の抑制や事態の極小化によって鎮静を図ることを期待、少数派閥の長である三木はそれに従うべき存在のはずであった。しかし、三木は政治犯罪の疑惑があれば真相を解明すべきとの態度をとり、世論の支持を背景に政権の座を維持することを決意した。結局、田中派議員が主要対象となった捜査の進展につき、親田中の議員は寧ろそれを逆手にとるような形で「'''[[国策捜査]]'''」だと主張し、批判した<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.news-postseven.com/archives/20160803_434844.html/3#goog_rewarded |title=田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」【後編】|NEWSポストセブン - Part 3 |access-date=2023-12-9 |publisher=小学館 |website=NEWSポストセブン}}</ref>。対して、日本国民やマスコミはこのような政界の動きを「ロッキード(事件)隠し」と批判することとなった。 === 「三木おろし」 === まず、[[椎名悦三郎]]を中心とした自民党内の反三木派が、事件解明への積極姿勢を見せる三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「[[三木おろし]]」を進め、[[木曜クラブ|田中派]]に加えて[[宏池会|大平派]]、[[清和政策研究会|福田派]]、[[交友クラブ|椎名派]]、[[巽会|水田派]]、[[一新会 (自民党)|船田派]]が賛同し、政権主流派に与するのは[[番町政策研究所|三木派]]の他は[[政策科学研究所|中曽根派]]だけとなった。日本国民やマスコミの「ロッキード(事件)隠し」との声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。この頃になると、新聞の取材班が早朝の検察庁舎に侵入して書き損じの調書を窃取するなど、マスコミの取材合戦は更に加熱していた<ref>{{Cite web|和書|title=ロッキード事件:田中元首相逮捕|url=https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22358|website=日本記者クラブ|accessdate=2019-08-05|author=山本祐司|year=2006|month=9}}</ref>。 一方、[[吉永祐介]]検事を捜査主任検事とする[[特別捜査部#東京地方検察庁特別捜査部|東京地検特捜部]]はその後異例のスピードで田中を[[7月27日]]に逮捕し、[[起訴]]に持ち込んだ。当初から三木は事件の真相究明を標榜していたが、田中派の議員らは、これをもともと政治的クリーンさを売りとする三木が田中を生贄の羊とするため、「逆[[指揮権 (法務大臣)|指揮権]]発動」によって田中を逮捕させたものではないかとみなした<ref name=":1" />。三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の[[法務大臣]][[稲葉修]]は、田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。[[ファイル:G7 leaders 1978.jpg|thumb|220px|right|福田赳夫首相(左から2番目)]] この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言えない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの[[8月24日]]には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成された。三木は9月に[[三木内閣 (改造)|内閣改造]]を行なったが、ここで田中派からの入閣は[[科学技術庁]]長官[[前田正男|1名]]だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にした。 三木は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年[[12月5日]]に行われた[[第34回衆議院議員総選挙|第34回衆議院選挙]]では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。大平派と福田派の「[[大福密約]]」により、後継には「三木おろし」を進めたうちの1人であった福田派領袖の[[福田赳夫]]が就くことになった。 在日アメリカ大使館から本国へ、「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな。」という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。 === 相次ぐ関係者の変死 === このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた[[日本経済新聞]]記者の高松康雄が[[1976年]]([[昭和]]51年)[[2月14日]]、上記[[児玉誉士夫]]の元通訳の福田太郎が同年[[6月10日]]{{Refnest|group="注釈"|死因は[[肝硬変]]とされるが<ref>[[春名幹男]]「[http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/haruna20201114.pdf ロッキード事件とインテリジェンス]」</ref>、[[中山正暉]]は「病院で誰もいない時に酸素吸入器がはずされて死んでいた」と語っている<ref>『月刊官界』1981年6月号(行研、1981年)p.111</ref>。}}、さらに田中の運転手である笠原政則が同年[[8月2日]]{{Refnest|group="注釈"|[[埼玉県]][[比企郡]][[都幾川村]](現・[[ときがわ町]])の林道で排ガス自殺しているところを発見された<ref>『埼玉年鑑 昭和53年版 本編』(埼玉新聞社、1977年)p.34</ref>。}}と立て続けに急死するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって[[抹殺]]されたのではないか」との疑念を呼んだ。 しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた[[参議院]]内閣委員会において[[日本社会党|社会党]][[参議院]][[国会議員|議員]]の[[秦豊]]より[[警察庁]]刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。 その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、警察はその後も政治家以外の民間人に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。 == 裁判 == ===田中角栄=== 衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、[[5月14日]]に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、[[東京地方裁判所]]に[[起訴]]された。 田中は1976年(昭和51年)[[7月27日]]に[[逮捕]]された後、[[8月16日]]に東京地検特捜部に[[賄賂罪|受託収賄]]と[[外為法]]違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し[[保釈]]された。田中に対する[[公判]]は[[1977年]](昭和52年)[[1月27日]]に[[東京地方裁判所]]で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後[[1983年]](昭和58年)[[10月12日]]には[[懲役]]4年、追徴金5億円の有罪[[判決 (日本法)|判決]]が下った{{Refnest|group="注釈"|5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈。}}。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、[[衆議院解散]]のきっかけとなった([[田中判決解散]])。 田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、[[1987年]](昭和62年)[[7月29日]]に控訴棄却、上告審の最中の[[1993年]](平成5年)[[12月16日]]の田中の死により[[公訴棄却]](審理の打ち切り)となった。 田中の[[内閣総理大臣秘書官|秘書官]]であった[[榎本敏夫]]も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。[[1995年]](平成7年)[[2月22日]]に、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中の5億円収受を認定した。また、死亡後の田中の遺産相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。 ===児玉誉士夫=== [[File:Yoshio-Kodama-1.png|thumb|150px|[[児玉誉士夫]]]] {{See also|児玉誉士夫#ロッキード事件}} 児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、[[1976年]]([[昭和]]51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した[[東京女子医科大学病院]]にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。その後、児玉の態度に憤った[[ポルノ映画|ポルノ]][[俳優]]の[[前野霜一郎]]が同年3月に'''[[児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件|児玉邸へのセスナ機による自爆テロ]]'''を行ったが、児玉は別の部屋で寝ていて助かった。 その後の1976年[[3月13日]]に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で[[起訴#在宅起訴|在宅起訴]]され裁判に臨むことになったが、[[1977年]]6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後[[1980年]]9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の[[1984年]]([[昭和]]59年)1月に児玉は亡くなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。 2016年の『[[未解決事件 (NHKスペシャル)|未解決事件]]』のインタビューで[[堀田力]]は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。([[児玉誉士夫]]がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。 当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた[[日吉修二]]{{Refnest|group="注釈"|2016年7月死去。当番組向けの収録が最後のインタビューとなった。}}によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれた日吉は段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」 児玉の通訳の福田太郎も死の直前に、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」と供述している。 ===小佐野賢治=== {{See also|小佐野賢治#ロッキード事件}} [[1976年]]([[昭和]]51年)2月から行われた衆議院予算委員会において小佐野は第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が[[偽証の罪#特別法上の偽証罪|偽証罪]]([[議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律|議院証言法]]違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、[[1981年]](昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後[[1986年]]([[昭和]]61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。 ===丸紅ルート=== 「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時は社長を務めていた会長の[[檜山廣]]は[[1976年]]([[昭和]]51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、[[1995年]]([[平成]]7年)に最高裁判所で実刑が確定した。しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま[[2000年]]([[平成]]12年)に死去した。檜山はこの間、[[1985年]]([[昭和]]60年)から[[1999年]]([[平成]]11年)まで[[丸紅]]名誉顧問を務めていた。 榎本敏夫と共に金銭授受を実行した当事者となった専務の伊藤宏は1983年(昭和58年)10月12日に第一審判決で懲役2年の実刑判決を受けたため、実刑判決を不服として、控訴。その後、1987年(昭和62年)7月29日に控訴審判決で第一審判決を破棄し、あらためて懲役2年、執行猶予4年の判決を言い渡し、上告せず、有罪が確定。 丸紅専務の大久保利春は、他の被告とは違い、公判でも検察側の主張をほぼ全面的に認めており、第一審判決で丸紅3被告の中で唯一の執行猶予付きの有罪判決が出たが、他の被告が控訴審で大久保に不利な証言が連発されることを恐れ、控訴に踏み切った。1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却されるが、檜山が上告したため、同様に上告。1991年(平成3年)12月16日の大久保の死により、公訴棄却となった。 大久保の部下だった元航空機課長の坂篁一は、「檜山さんの首相訪問のOKが取れ許可取れたもんなら、この際政治献金しましょうと。これはロッキードに出させましょうという話をしたわけだ。5億円のお金の話というのは丸紅側から出てるの、コーチャンから言われたことじゃない。そこで大久保さんに話して、これをコーチャンに言ってOKを取ってくださいと。」「簡単な言葉で言えば(トライスターは)ダメ押しの最後の詰め。P3Cで色々力を注ぎましょうという考えの方が多かった。しかしこれはね、当時国産で、話は進んでいたわけだ{{Refnest|group="注釈"|[[PX-L (航空機)|PX-L]]の国内開発計画。}}。国産で進んだやつを何とかP3Cにならんだろうか、国産ではひとつも丸紅に口銭(仲介手数料)は入らないわけだ。P3Cになればね、非常に巨額の口銭は入るわけです。巨額なもんだから。P3Cってのは。」巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を[[魑魅魍魎]]と書いた。「P3Cへの対策、お化けにはお化けのお菓子。森の中のお化け対策をしながら、活動するというのは、くたびれること。(導入が)決まりそうだ万歳、万歳と言ってちゃダメ。決まりかけが一番恐ろしい。暴れだすのは決まりかけ。」と語っている<ref name="nhkspm-ep5" />。 コーチャンの尋問記録にも、大久保は「もし大きな取引をしたいのであれば、5億円は基準レートだと言った。日本は最大のマーケットで丸紅から今後の販売がダメになると言われると大変だった。P3Cの売り込みの問題もあり支払わざるを得ないと考えた。」とある。 ===全日空ルート(全日空疑獄)=== 全日空に有利な政治的・経済的取り計らいを受けるために、若狭の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として、運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は「全日空ルート」と呼ばれ、立花隆などは、「全日空だけの裏金だけで相当の疑獄の規模に渡る」として「全日空疑獄」と呼んでいる{{Sfn|立花隆|1982b|page=336}}。 運輸政務次官の佐藤孝行や元運輸大臣の橋本登美三郎が、全日空による金銭の授受があったとして受託収賄罪で起訴された。佐藤には懲役2年、執行猶予3年、追徴金200万円の有罪判決が確定し、橋本には一・二審で懲役2年6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円で有罪判決で上告中に死亡し公訴棄却となった。 また、全日空は若狭社長以下6名の現役社員が、外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕、起訴された。1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対して若狭{{Refnest|group="注釈"|その後の全日空相談役に。}}のみが控訴。上訴審を経て1992年9月に最高裁が上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した{{Sfn|ANA|2004|page=72}}。 == 多論 == もともとロッキード事件の発端は、米国系の多国籍企業が、海外での活動において多額の収益を上げながら、それを米国内に還流させて納税することもなく、自社の収益のために米国の利益すら損なうことすらしているのではないかという、米国民の不信の念の高まりから、外交委員会に多国籍企業小委員会が設けられ、多国籍企業の活動を調査することになったことによるもので、世界各国での活動を調査したものであり、日本もその対象の一つでしかない。陰謀に長けるといったダーティなイメージで捉えられることも多かったニクソンのウォーターゲート事件による大統領辞任もあり、自国政権に外国政権との癒着や倫理に反する行為も多々あったのではないかとの疑惑も強まっていた。 いったん民主党議員であったチャーチによる委員会の調査活動が始まると、海外の政府要人の暗殺計画があったことが暴露される等、民主党・共和党大統領時にかかわらずの様々なスキャンダルが既に明るみに出されていた。ロッキード事件については共和党大統領時のことであり、さらにスタッフメンバーの成果を挙げたいという意気込み・功名心、なにより実際に問題があったということがあって、様々な国のむしろ親米派とされてきた数多くの政治家・有力者が米国系多国籍企業から賄賂を受け取っていたのではないかという疑惑が取沙汰される事態となっていった。日本ばかりではなく、様々な国で政治家・有力者の名前が多数あがり、それぞれの国で一大スキャンダルとなったのである<ref>{{Cite web |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b6c5ec07e5cae7808956a116adb6550a85b6b14e |title=石原慎太郎著『天才』に書かれたロッキード事件の大ウソ |access-date=2023-12-9 |publisher=LINEヤフー株式会社 |author=田中良紹 |website=Yahoo!ニュース}}</ref>。おそらくは米国政府の外交関係者らの想定・(ほどほどの所で収まって欲しいという)願望も超える形で、問題が次々と暴露されていき、米国政府にとっても、外交関係者にとっては旧来からの外国親米政権の維持という観点からは窮地に陥った事態となっている。 日本ではこの点が必ずしも十分に認識されていないため、必ずしも上記状況を理解していないものも含めて以下のようなものがある。 === アメリカ陰謀説 === ロッキード事件はアメリカ当局が仕掛けた[[陰謀]]だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者[[ジュリー・ムーン]]([[文明子]])が[[ヘンリー・キッシンジャー]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている<ref>{{Harvnb|文明子|p={{要ページ番号|date=2019年9月}}}}</ref>。田中軍団の青年将校とも呼ばれたことのある石井一(元国土庁長官・自治大臣)は、伝聞情報などを基にキッシンジャー陰謀説を『冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相』に記した<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.fsight.jp/articles/-/47735 |title=ロッキード事件の陰謀説を解明した理由とは:日本人の知性が問われている |access-date=2023-12-7 |publisher=新潮社 |author=春名幹男 |website=新潮社 Foresight}}</ref>。 2022年、春名幹男は講演で、陰謀説の中でキッシンジャーの陰謀によるという説がほとんど確実だと思うので『ロッキード疑惑─―角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス』を著わしたと述べている<ref>{{Cite web |url=https://tokyoseinan-rc.com/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%8B/ |title=ロッキード事件の真相はなぜ解明できたか |access-date=2023-12-7 |publisher=東京西南ロータリークラブ}}</ref>。朝日新聞編集委員の奥山俊宏はその著書『秘密解除 ロッキード事件』で、日中国交正常化と日米安保条約をめぐる田中の言動について、「一線を越え、ニクソンを出汁にして中国共産党にすり寄ったのも同然」と指摘した上で、大平正芳外相や三木武夫国務相が日中国交正常化を推進したのに米政府首脳らに嫌われていない事情を前提に、「キッシンジャーは、政策ではなく、その人格の側面から田中を蛇蝎のごとく嫌っており、その意味で田中は米国の『虎の尾』を踏んでいたと言える」としている<ref name=":2" />。春名は、田中が米国の思惑以上に日中国交正常化を進めたことがキッシンジャーの怒りの原因としている<ref name=":0" />。 一方で、事件当時、特捜部検事として捜査にあたった堀田力は、事件誕生に国際的陰謀などなかったとしている(贈収賄事件は実際にあったのであり、陰謀によって暴露あるいはデッチ上げられたものではないという意味。)<ref>{{Cite web |url=https://www.chosakai.gr.jp/wp/wp-content/uploads/2020/10/20201000_706.pdf |title=メディア展望 2020.10.1 ロッキード事件のナゾを解く |access-date=2023-12-6 |publisher=新聞通信調査会 |author=春名幹男}}</ref>。 === 諸説 === [[ファイル:Ford Kissinger Rockefeller.jpg|thumb|right|220px|ヘンリー・キッシンジャー(左)とジェラルド・フォード(右)]] [[中曽根康弘]]は自著で、事件当時の[[ジェラルド・フォード]]政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている<ref>{{Harvnb|中曽根|1996|pp=271,472}}</ref>。 国防長官の[[メルヴィン・レアード|メルビン・レアード]]はP-3Cの輸入を中曽根に持ち掛けた時、「彼はがっかりしていた。国産化するくらいならP3Cの開発費を負担したらどうかと提案したが、同意しなかった。」と語っている。 [[石原慎太郎]]は自著『天才』の中で、資源外交で逆鱗に触れた田中角栄をアメリカがロッキード事件で葬ったと述べている<ref>{{Harvnb|石原|p=207}}</ref>。 その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表のクラッターが無罪どころか起訴すらされていない点{{Refnest|group="注釈"|ただし、そもそも当時の米国の法律では、外国の公務員への贈賄は犯罪ではない。}}、ロッキード社の内部資料が上院多国籍企業小委員会に誤配されたと伝えられた点{{Refnest|group="注釈"|議会の委員会の指示に背いたり無視すれば刑事罰を受ける一方で、当時は米国においても会計士事務所の力が強くなかった時代であったため、会計士事務所関係者が雇い主を裏切ったという非難を怖れて、小委員会側と打ち合わせてこのような措置をとったことが後に明らかにされている。}}などを捉えて、不可解であるとして、[[ソビエト連邦|ソビエト]]や[[アラブ諸国]]からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った[[石油メジャー]]とアメリカ政府の陰謀だったとする説、または[[中華人民共和国|中国]]と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が[[田原総一朗]]の書いた記事などで有力なものとして当時からもあったが、田中による中国との国交成立に反発していた[[右翼団体|右翼]]や[[清和政策研究会|福田派]]、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。 三木が人気取りと内閣の延命を狙って検察を使い、田中を逮捕したという説もある<ref>{{Harvnb|倉山|2012|p={{要ページ番号|date=2019年9月}}}}</ref>。また、検察が本来はP-3Cの導入がらみを問題とすべき事件を[[全日本空輸|全日空]]の[[ロッキード L-1011 トライスター|トライスター]]受注をめぐる事件として矮小化あるいは捏造したとする説もある<ref>{{Harvnb|高山|p={{要ページ番号|date=2019年9月}}}}</ref>。後者については、確かにP-3Cの事件がより大規模で重要な事件であったが、絡んでいたのがフィクサーとして知られ口が堅いと見られていた児玉誉士夫であり、しかも事件発覚後まもなく病気で倒れたような形となった<ref>{{Cite web |url=http://gekkan-nippon.com/?p=9317 |title=天野惠市 児玉誉士夫の口を封じた薬物注射 |access-date=2023-12-9 |publisher=株式会社K&Kプレス |website=月刊 日本}}</ref>ため、検察が[[ロッキード L-1011 トライスター|トライスター]]の問題しか立件できなかったのだとする説がある。 アメリカの[[国家安全保障問題担当大統領補佐官|国家安全保障担当補佐官]]{{仮リンク|リチャード・V・アレン|en|Richard V. Allen}}によると、[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]自らP-3Cなどの軍用機導入を迫ったアメリカの狙いを「日本が我々の軍用機を購入すれば、我々の懐を痛めることなく、日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて、私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。」と語っている。 田中の側近だった[[石井一]]は、「今でも田中が金を貰ったと信じたくないが、あるとすればトライスターではなくP3Cではないか。P3Cに疑惑が及ばないように何か巨大な圧力が働き田中1人に罪を負わせたのではないか。」と考えている。「軍用機でこういう問題が起こるとね、これは両国政府がもろに被る事になる。国家体制を基本的に揺るがす問題になりかねない。総理大臣1人の罪という様な事にはいかなくなってくる。」とインタビューに答えている。田中の逮捕後アメリカから資料の提供も受け、情報が漏れないように印刷には出さずに秘書に手書きさせ、見立てをまとめていた。 [[久保卓也]]は防衛次官時代の1976年2月9日、ロッキード事件の一因である次期対潜哨戒機([[PX-L (航空機)|PX-L]])の国産化が白紙還元された事件のいきさつについて「田中の部屋に[[後藤田正晴]]官房副長官、[[相沢英之]]大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。これは田中らがロッキード社の要請を受けて国産化を白紙還元したというニュアンスを持つため、大きな波紋を呼ぶこととなった(いわゆる「久保発言」)。後日、当時の状況を確認され、久保の発言に誤りがあったことが明らかとなり、久保は坂田長官から戒告処分を受け、その後の深夜の記者会見において記憶違いを声を震わせながら謝罪することとなる。特に内務省の先輩で、1974年の参院選落選以後、浪人として国政復帰を目指していた後藤田はこの発言に激怒して、久保に事実関係を厳しく確認し、明確な謝罪を要求するに至った。久保が1976年半ばと比較的早い時期に次官を退任したのはこの「久保発言」が原因とも言われている。その後、この事件は報道されなくなった。 ===誤配説について=== 朝日新聞で、チャーチ委員会にロッキードの監査法人から届けられた書類の中に、[[児玉誉士夫]]名義と丸紅の役員名義の、賄賂資金のこととみられる「ピーナツ」を受領したとの領収証があったことが報じられた<ref>{{Cite news|和書 |title=“黒い金“に動かぬ証拠 ピーナツ百個受け取りました |newspaper=朝日新聞 |date=1976-2-5 |edition=夕刊}}</ref>。これは、疑惑を追究するチャーチ委員会と顧客のロッキード社との板挟みになった監査法人アーサーヤングの弁護士があっさり投げ出すように応じたものだったという<ref>{{Cite journal|和書|author=坂出健 |date=2017-11 |url=https://doi.org/10.14989/232826 |title=<論文> ロッキード事件とトライスター旅客機計画 (1968-1981年) |journal=經濟論叢 |ISSN=0013-0273 |publisher=京都大学経済学会 |volume=191 |issue=4 |pages=1-14 |doi=10.14989/232826 |hdl=2433/232826 |CRID=1390572174798333440}}</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=検証 昭和報道:207 ロッキード事件:1 「田中」の名前 |newspaper=朝日新聞 |date=2010-2-12 |edition=夕刊}}</ref>(応じなければ議会侮辱罪に問われることになる。)。以降、日本におけるロッキード事件の一大スキャンダルとして政治問題化する。 しかし、書類の中に領収書がなぜあったかについては、ロッキードに送るつもりの書類が誤配送されたとする説や内部告発だったのではないかと説などが当初からあった。{{要出典範囲|ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の[[監査法人]]であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判明するとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。|date=2017年4月}}また当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。 放送学園大学教授の伊東光晴は、そもそもこれらの会計事務所からの資料は既に米国証券取引委員会からプロクシマイヤー委員会(銀行・住宅・都市問題委員会)に出されていたもので、たまたまチャーチ委員会で取り上げられたときに日本にも伝えられ問題になっただけで、そこに陰謀といった特段の政治的意図があったわけではないとしている<ref>{{Cite web |url=https://www.jbaudit.go.jp/koryu/study/mag/11-2.html |title=第11号 {{!}} 掲載論文(11号~20号) {{!}} 研究誌「会計検査研究」の発行 {{!}} 会計検査に関する調査研究 {{!}} 外部との交流活動 {{!}} 会計検査院 Board of Audit of Japan |access-date=2023-12-7 |publisher=会計検査院 |author=伊東 光晴}}</ref>。 ===アメリカ人関係者の不起訴と秘密工作=== {{要出典範囲|また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については、日本の司法制度にない[[司法取引]]であり反対尋問もできなかったという批判があるが|date=2017年4月}}、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行われるのに際して3名は当初証言を拒否し、当時のアメリカでは外国の公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察がアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、[[刑事訴訟法]]第248条に基づく[[起訴便宜主義]]という手法を取り、1976年[[7月21日]]に布施健検事総長が公訴不提起声明を出し、同年[[7月24日]]に最高裁が裁判官会議でアメリカ側証人の刑事免責の保証を決議することで、事実上の免責を与えたのが直接的な理由である{{Refnest|group="注釈"|[[日米犯罪人引渡し条約]]の発効は[[1980年]]、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて[[1997年]]。}}。{{要出典範囲|その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。|date=2017年4月}} なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行われた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがあるが、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。 反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて[[伝聞証拠禁止の原則]]の例外を適用して、下級審では証拠採用された。また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある{{Refnest|group="注釈"|全日空ルートの裁判では検察側がエリオットの嘱託証人尋問調書を立証している間に、弁護側が申請によってエリオットから宣誓供述書を取って実質的な反対尋問を行われた。}}。コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。 前ロッキード副社長で駐日大使の[[ジェイムズ・ホジソン|ジェームズ・ホッジソン]]のアメリカ政府あての極秘報告書には、ロッキード事件発覚5日後の2月9日、「疑惑の政府高官名や、証拠を探る情報戦の舞台は今、ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上情報が漏洩しなければ、この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくいけば、ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう」という記述がある。 この電報の9日後の2月18日、日本で第一回検察首脳会議が行われ、アメリカ側に資料の提供を求めていく方針が決まった。その2日後の2月20日、「ロッキード事件によって、これまで進めてきたP3Cの導入が全て台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点で取り得る最善の方針は、P3Cに関して極力目立たないようにしていくことだ」という報告がなされた。 同日、三木とは別ルート{{Refnest|group="注釈"|[[中曽根康弘]]がもみ消しを依頼していた疑惑がある。}}で「アメリカ政府には、この事件に関して慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは、名前が公表されれば日本の政界は大騒動になり、我々はその状況を制御できなくなるだろう。最善の方法はアメリカ政府が疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを、可能な限り遅らせることだ。」と要請があった。 その2か月後、三木に渡された資料にはトライスター関連のものしかなく、P-3Cに関するものはなかった。その後の報告では「ロッキード社が日本政府高官に賄賂を渡したという幹部の告白は、日米双方に試練となった。もし三木首相の求めに応じて資料を全て提供していれば、政治的な同盟さえも失っていたかもしれない。」となっている。 == ロッキード事件にかかわる問題点 == === 不自然な金銭の受け渡し場所 === 調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中側は[[ロッキード]]社から[[丸紅]]を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、丸紅専務の[[伊藤宏 (実業家)|伊藤宏]]と田中の秘書である[[榎本敏夫]]とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が[[1973年]][[8月10日]]14時20分頃に[[駐日英国大使館|イギリス大使館]]裏の道路に止めた車の中で、2回目が同年[[10月12日]]14時30分頃に伊藤の自宅付近の[[公衆電話]]ボックス前で、3回目が[[1974年]][[1月21日]]16時30分頃に[[ホテルオークラ]]の[[駐車場]]で、4回目が同年[[3月1日]]8時頃に伊藤の自宅にてとなっている。 1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にある[[レストラン]]「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。 3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、[[前尾繁三郎]]を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りと遭遇しうる場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。[[田原総一朗]]が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は当初[[検事]]の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。 田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という[[政治献金]]として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても[[政治資金規正法]][[違反]]だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも[[五十歩百歩]]と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が事件の捜査を担当した[[東京地検特捜部]]検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の[[堀田力]]は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている<ref>{{Harvnb|田原|田中|2007|p={{要ページ番号|date=2019年9月}}}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://doraku.asahi.com/earth/showa/090707.html |title=vol.32 昭和51年 ロッキード事件(1-3) - 振り返る昭和 |author=田原総一朗 |accessdate=2009-07-10 |deadlink=2019-09-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130622015530/http://doraku.asahi.com/earth/showa/090707.html |archivedate=2013-06-22}}</ref>。 === 金額の不一致(政治主義裁判) === ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半(21億円)が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。{{要出典範囲|この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向かうというのは「政治主義裁判」である可能性がある。|date=2017年4月}} 他方で、{{要出典範囲|問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。|date=2017年4月}}また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、{{要出典範囲|賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。|date=2017年4月}} === 公訴権の乱用の可能性 === {{要出典範囲|三木と[[法務大臣]]だった[[稲葉修]]による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。|date=2017年4月}}すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に権力分立の原則を危うくさせ、準司法権の特定政権への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。日本国行政の最高責任者である三木はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「{{Lang|en|If any}}(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[宮沢喜一]]が進言したのに対して、「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けたとし、これを最初から見込み捜査の意識であったとする説がある<ref>{{Harvnb|俵|2004|p=117}}</ref>。渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせたり、司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが一部マスコミで伝えられている<ref>{{Cite news|newspaper=産経新聞 |date=2006年7月27日}}</ref>。また検事総長への指揮権を持つ稲葉は、田中逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と、今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。 他方で、{{要出典範囲|いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。|date=2017年4月}}例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。また、そもそも三木ないし稲葉が、例えば事件性がないと主張する司法当局に対し捜査・立件するよう指示したといった類の話は出て来ていない。 === 不当逮捕の可能性 === {{要出典範囲|「外為法違反」という[[別件逮捕]]で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれをなすという政治主義性という問題があるとする主張もある。|date=2017年4月}} {{要出典範囲|しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。|date=2017年4月}} なお1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で外為法違反による逮捕に関し、外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けようとする質問が出たが、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。 === “作文”調書の可能性 === 各被告の供述証書([[検察官面前調書|検事調書]])が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、{{要出典範囲|まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。|date=2017年4月}}しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。 == 流行語 == 事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。 ;(まったく)記憶にございません :衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される[[小佐野賢治]]が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的回答をしない意味をもつこの発言を連発。これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。 :なお、小佐野の正確な答弁内容は「記憶『は』ございません」「記憶『が』ありません」である。 ;ピーナツ(ピーシズ) :賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」{{Refnest|group="注釈"|「ピーナツ100個({{=}}1億円)」と書かれた暗号領収書が存在した。}}と数えていた。「ピーシズ」は{{Lang|en|pieces}}、つまりピースの複数形{{Refnest|group="注釈"|これはアメリカにおいても有名になった。同時期に製作されたアニメ『[[トムとジェリー]]』において「どこかの国の政治家と同じでピーナツが大好き」という台詞がある。}}{{Refnest|group="注釈"|『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』154巻「おとり捜査協奏曲の巻」には金額を言えないため「1ピーナツ({{=}}1億円)出します!」というセリフがある。}}。 ;ハチの一刺し :田中の元秘書で事件で有罪となった[[榎本敏夫]]の前妻・[[榎本三恵子|三恵子]]が、前夫に不利な法廷証言を行った心境を問われたとき、権力者の怒りを買いかねない行動をとったことに対する不安を「ハチは一度刺したら死ぬ」と語ったことから、広まった言葉。 ;よっしゃよっしゃ{{Refnest|group="注釈"|[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ソフトの『[[麻雀倶楽部永田町・総裁戦]]』では、角栄をモデルにした「かくべ」がオープニングでこの言葉をしゃべっている。}} :田中が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。なお、秘書の[[佐藤昭子]]は「越後人はこのような言い方はしない」と否定している。 == 日本国外における「ロッキード事件」 == ロッキード社は日本だけでなく多数の国で機種選定にからむ贈賄を行なっていた。 {{Main|:en:Lockheed bribery scandals}} [[オランダ]]では、[[オランダ空軍|空軍]]における[[戦闘機]]{{Refnest|group="注釈"|[[F-104 (戦闘機)|F-104]]を売り込んでいた。}}の採用をめぐって、女王[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]の[[王配]][[ベルンハルト (オランダ王配)|ベルンハルト]]にロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。これは日本での汚職事件と相まって[[対外不正行為防止法]]を制定させるきっかけとなった。 [[イタリア]]では[[C-130 (航空機)|C-130]]の採用を巡り、[[ジョヴァンニ・レオーネ]][[共和国大統領 (イタリア)|大統領]]が[[イタリアの首相|首相]]在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。 [[サウジアラビア]]では1970年から75年にかけてロッキード社から武器商人'''[[アドナン・カショギ]]'''に1億ドル以上の「手数料」がわたっていた。 ロッキード社[[スカンク・ワークス]]の責任者であったベン・リッチの著書によると、1950年代から70年代にかけて[[西ドイツ]]や[[イギリス領香港]]などの地域にもに工作が行われていた。 アメリカ合衆国では、連邦議会が、外国公務員への贈賄を刑罰で禁止する「海外腐敗行為防止法」(FCPA)を1977年12月制定、力ーター大統領は「賄賂は倫理的にあってはならず、競争上も不必要だと信ずる」との談話を出してこれを施行した。チャーチ委員会が暴いたスキャンダルは多数にのぼったが、チャーチ委員会で活動にあたったレビンソンは、田中訴追がなければ海外腐敗行為防止法制定への政治的な動きは起きなかっただろうと思うと語ったという<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=秘密解除 ロッキード事件 田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか |date=2016-7-22 |publisher=岩波書店 |page= |author=奥山俊宏 |pages=32,278}}</ref>。 == 検察 == (かっこ内は主な後職) *法務省 **法務大臣 [[稲葉修]] *最高検察庁 **検事総長 [[布施健]]、次長検事 [[高橋正八]] **刑事部長 [[佐藤忠雄]] **担当検事 [[伊藤栄樹]](検事総長)、 [[江幡修三]](検事総長) *東京高等検察庁 **検事長 [[神谷尚男]](検事総長)、次席検事 [[滝川幹雄]](大阪高検検事長) *東京地方検察庁 **検事正 [[高瀬礼二]](東京高検検事長)、次席検事 [[豊島英次郎]](名古屋高検検事長) *東京地検特捜部 **部長 [[川島興]] (大阪高検検事長) **副部長・主任検事 [[吉永祐介]](検事総長)、副部長 永野義一(最高検検事)、副部長 藤本一孝(新潟地検検事正)(発覚時副部長)、副部長 石黒久晫(名古屋地検検事正)(藤本と交代) **特捜部検事    ***[[河上和雄]](最高検公判部長)、[[村田恒 (検察官)|村田恒]](名古屋高検検事長)、[[松田昇 (検察官)|松田昇]](最高検刑事部長、預金保険機構理事長)、[[東条伸一郎]](大阪高検検事長)、[[堀田力]](4月から参加、法務省官房長)、[[小林幹男]](仙台地検検事正)、[[小木曽国隆]](さいたま地検検事正)、[[佐藤勲平]](福岡地検検事正、公正取引委員)、[[浜邦久]](東京高検検事長)、友野弘(宇都宮地検検事正)、神宮寿雄(昭和58年東京地検検事辞職)、[[宮崎礼壹]](内閣法制局長官)、太田幸夫 (東京高裁部総括判事)、廣畠速登(長崎地検検事正)、村田紀元、山辺力、近藤太郎、寺田輝泰、水流正彦、清水正男、荒木久雄、安保憲治、[[松尾邦弘]](検事総長) **特捜部資料課長 田山市太郎 == 影響 == [[防衛庁]]では[[1968年]]から、[[海上自衛隊]]が使用するロッキード社製の[[対潜哨戒機]][[P-2 (航空機)|P2V-7]]及びP2V-7を原型とし[[川崎重工業]]が改造開発した<ref>{{Harvnb|航空機年鑑|1988|p=112}}</ref>[[P-2J (航空機)|P-2J]]の後継となる次期対潜哨戒機 ([[PX-L (航空機)|PX-L]]) の選定に着手、当初[[川崎重工業]]による国産機と[[アメリカ海軍]]で採用されていたロッキード社の[[P-3 (航空機)|P-3C]]の2案が有力視されていたが、[[1972年]][[10月]]に国産方針の白紙撤回が発表されP-3Cの選定が事実上決定した。しかし、ロッキード事件の発覚により政府はPX-Lを全て白紙に戻し、一から選考し直す方針をとった。そのため海上自衛隊はPX-LまでのつなぎとしてP-2Jを増産することとなった。その後再度選定が行われ、1977年には再度P-3Cに決定した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{reflist|25em}} == 参考文献 == {{脚注の不足|date=2017年4月|section=1}} * {{Cite book|和書|author=竹森久朝|title=見えざる政府 : 児玉誉士夫とその黒の人脈|publisher=白石書店|date=1976|id={{NDLJP|12230018}}|ref={{SfnRef|竹森|1975}}}} * {{Cite book|和書|author=朝日新聞社 |title=ロッキード事件疑獄と人間 |publisher=朝日新聞社 |year=1976|id={{NDLJP|12227280}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=港一平 |title=権力者たちの狂宴 : 戦後政治とロッキード・スキャンダル |publisher=人間の科学社 |year=1976|id={{NDLJP|12230690}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=ロッキード問題を徹底的に追及する会 |title=「ロッキード」とは何か |publisher=すずさわ書店 |year=1976 |isbn=9784795402102|id={{NDLJP|12227290}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=A.C.コーチャン |translator=村上吉男 |title=ロッキード売り込み作戦―東京の70日間 |publisher=朝日新聞社 |year=1976 |isbn=9784795402102|id={{NDLJP|12227266}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=立花隆|authorlink=立花隆 |title=田中角栄研究-全記録 上 |publisher=講談社 |year=1982a |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=立花隆 |title=田中角栄研究-全記録 下 |publisher=講談社 |year=1982b |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=秦野章|authorlink=秦野章 |title=何が権力か。―マスコミはリンチもする |publisher=講談社 |date=1984-07-20 |isbn=978-4062013765|id={{NDLJP|12240502}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=俵孝太郎|authorlink=俵孝太郎 |title=「田中裁判」もう一つの視点―ロッキード捜査と一審判決への疑問 |publisher=時評社 |date=1984-12-01 |isbn=978-4915503184|id={{NDLJP|12014187}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=井上正治|authorlink=井上正治 |title=田中角栄は無罪である。 |publisher=講談社 |year=1985 |isbn=978-4062020756|id={{NDLJP|12014178}} |ref=harv}} * {{Cite book|和書|last=Newhouse |first=John |translator=航空機産業研究グループ |title=スポーティーゲーム―国際ビジネス戦争の内幕 |publisher=學生社 |year=1988 |isbn=978-4311600142 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=小室直樹|authorlink=小室直樹 |title=田中角栄の遺言―官僚栄えて国滅ぶ |publisher=ザ・マサダ |year=1994 |isbn=978-4877120153 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=小室直樹 |title=田中角栄の呪い―"角栄"を殺すと、日本が死ぬ |publisher=光文社 |year=1994 |isbn=978-4334011444 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=立花隆 |title=ロッキード裁判批判を斬る 〈1〉 |publisher=朝日新聞社 |year=1994a |isbn=978-4022610294 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=立花隆 |title=ロッキード裁判批判を斬る 〈2〉 |publisher=朝日新聞社 |year=1994b |isbn=978-4022610324 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=立花隆 |title=ロッキード裁判批判を斬る 〈3〉 |publisher=朝日新聞社 |year=1994c |isbn=978-4022610348 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=中曽根康弘|authorlink=中曽根康弘 |title=大地有情 -五十年の戦後政治を語る |year=1996|ref={{SfnRef|中曽根|1996}}}} * {{Cite book|和書|author=堀田力|authorlink=堀田力 |title=壁を破って進め-私記ロッキード事件 上 |publisher=講談社 |year=1999a |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=堀田力 |title=壁を破って進め-私記ロッキード事件 下 |publisher=講談社 |year=1999b |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=木村喜助 |title=田中角栄の真実―弁護人から見たロッキード事件 |publisher=弘文堂 |year=2000 |isbn=978-4335950315 |ref=harv|quote=著者は一審から上告審まで担当した弁護士。}} * {{Cite book|和書|author=徳本栄一郎 |title=角栄失脚 歪められた真実 |publisher=光文社 |year=2004 |isbn=978-4334933494 |ref=harv|quote=著者は訴訟資料を再調査した元ロイター記者。}} * {{Cite book|和書|author=木村喜助 |title=田中角栄消された真実 |publisher=弘文堂 |year=2002 |isbn=978-4335950322 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=田原総一朗|authorlink=田原総一朗 |title=戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった |series=講談社プラスアルファ文庫 |year=2004 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取手駅
取手駅(とりでえき)は、茨城県取手市中央町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・関東鉄道の駅である。 取手市の中心駅であり、茨城県の最南端に位置する駅である。 JR東日本の常磐線と、関東鉄道常総線の接続駅となっている。 JR常磐線の駅には、当駅以南(綾瀬駅・上野駅方面)で快速線を走る中距離列車および常磐線快速と、緩行線を走る常磐線各駅停車が停車する。ただし常磐線各駅停車は平日ラッシュ時のみの運行となっている。 また、当駅以北は電化方式が異なる(詳細は後述)ため、直流電車を使用する常磐線快速電車と常磐線各駅停車は当駅を運転系統の終点としている。したがって当駅は常磐線の複々線区間の終点であり、常磐線内の電車特定区間も当駅までである。当駅以北(土浦駅方面)には交直流電車を使用する特急・中距離電車のみが乗り入れる。合わせて路線を管轄するJR東日本の支社も当駅以北では異なり、上野駅から当駅までは首都圏本部、藤代駅以北は水戸支社となる。 茨城県内で首都圏本部管轄の駅は当駅が唯一であり、北関東3県で唯一電車特定区間(E電区間)にある駅となっている。そのため、駅ナンバリングは当駅まで設定され、藤代以北では割り振られていない(駅ナンバリングの割り振りについても、北関東3県に所在するJR東日本の駅では2023年時点で当駅が唯一となっている)。 駅舎は橋上(JR西口、関東鉄道常総線)および高架(JR東口)。JRの東口・西口の出入口は構内(改札外)では行き来できない。そのため、地下連絡通路(ギャラリーロード)が駅の東西を結び、東側から関東鉄道常総線に乗る場合はここを通る。 JR西口・関鉄駅舎は駅ビル「アトレ取手」と併設されており、3階にJR、関鉄それぞれが独立した窓口と改札口を持つ。またJR線・関東鉄道常総線連絡改札口が設けられている。関東鉄道常総線には2階にも駅ビル内に直結する自動改札機のない改札口が駅ビル営業時間内のみ開設されていたが、2009年(平成21年)3月13日をもって閉鎖された。 島式ホーム3面6線を有する橋上駅・高架駅になっている。駅番号は快速と各駅停車でそれぞれ「JJ 10」「JL 32」が付与される。 直営駅。管理駅でもあるが、当駅は自駅のみの単駅管理となっている。東口改札はお客さまサポートコールシステムが導入されており、終日インターホンによる案内となる。 1階が東口改札コンコース階、2階がホーム、3階が西口コンコース階となっている。 西口側はエスカレーターやエレベーターなどが整備されているのに対し、東口は長らく階段しかなく、エスカレーター・エレベーターを使う場合は自由通路で西口側に回る必要があった。その後、2023年3月に東口と1・2番線ホームを結ぶエレベーターが供用を開始し、東口のバリアフリールートが確保された(3 - 6番線ホームへは、一旦1・2番線ホームおよび西口コンコースを経由する必要がある)。 1・2番線ホームの電車発着は平日朝夕のみであるが、東口側と西口側を構内では最短で結んでいるため、運転時間外でも通行できる。なお、同ホームと西口コンコースとの往来は長らく階段・車椅子対応エスカレーターのみだったが、2024年3月にエレベーターが供用を開始する予定である。 トイレは西口・東口とも改札内コンコースにある。西口側には緩行線ホームへの階段付近に車椅子対応トイレが別に設置されている。 快速線と緩行線の線路別複々線区間の終端駅であり、1・2番線が緩行線用、3 - 6番線が快速線用のホームとなっている。前者は当駅が終端、後者は当駅より先、土浦・水戸方面に直通可能となっている。 快速線ホームには、中ほどに待合室が設置されている。また、土浦方には留置線が1本あり、到着後ここに一旦引き上げて回送となるものや、折り返し上野行きとなる快速電車(E231系を使用する電車)がある。夜間滞泊は設定されておらず、当駅と我孫子駅・松戸駅との間で回送列車が設定されている。 2014年3月15日のダイヤ改正から当駅折り返しとなる折り返し時間の長い快速電車では、平日朝7時00分 - 9時00分に発車する列車を除き、車内保温維持を目的に一部のドア締切が実施される(ダイヤ乱れや当駅での折り返し時間が短い場合は、一部のドア締切を行わない時がある)。 6番線に停車する10両編成の普通列車(E531系を使用する電車)は、15両編成と同じ位置(上野寄り)に停車する。 東口のみどりの窓口は2017年2月に閉鎖され、代わりに指定席券売機が設置された。以前は東口の改札口横に旅行代理店「びゅうプラザ」もあったが、閉鎖された。その後、西口のみどりの窓口も2023年2月に営業終了した。 (出典:JR東日本:駅構内図) 島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホームにはエスカレーターが設置されている(一部)。ホーム上には売店、立ち食いそば・うどん店もあったが閉鎖された。 JR線との連絡改札口があるが、常総線は交通系ICカード全国相互利用サービスの対象外であるため、Suica・PASMO以外のICカードでは通過できない。 (出典:関東鉄道:駅構内図) 常磐線では当駅以南が直流電化、水戸寄りの隣駅である藤代駅以北が交流電化と電化方式が異なっている。これは茨城県石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所の観測への影響を防ぐためである。当駅 - 藤代駅間には直流区間と交流区間の境界であるデッドセクションがあり、ここで直流と交流の切り替えが行われる。 JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗車人員は22,162人である。 1999年度(平成11年度)以降の推移は以下のとおりである。 「統計とりで」のよると、2021年度(令和3年度)の1日平均乗降人員は9,190人である。 2009年度(平成21年度)以降の推移は以下のとおりである。 駅ビルであるアトレ(旧・ボックスヒル)や雑居ビル等が見られるが、少し歩けばほとんどが住宅街である。駅周辺は坂が多い。 東側はかつての取手宿であり、歴史的建造物も存在する。取手のもともとの市街地である。1973年(昭和48年)の開店当時は県下最大規模の商業施設であった「カタクラショッピングプラザ」(キーテナントはイトーヨーカドー)があったが、2001年にイトーヨーカドーが撤退。入れ替わりにマルエツやダイソーなどが入居したものの衰退に歯止めがかからず、2007年(平成19年)に閉店、解体された。 西側にも、1972年(昭和47年)に開店した西友や1985年(昭和60年)10月6日に開店した取手とうきゅうがあったが、西友は1986年(昭和61年)に、取手とうきゅうは2010年(平成22年)8月31日に閉店した。 その結果、駅周辺ではボックスヒルが唯一のショッピングビルとなっていたが、2012年(平成24年)12月6日に取手駅西口市街地再開発ビル(旧・取手とうきゅうビル)に、再出店する西友を核テナントとする「リボンとりで」が開業した。 南側は利根川堤防に近い。取手競輪場は駅北西にあり徒歩圏内である。 取手市の中心市街地を成しているが、取手市役所(本庁)・取手郵便局は常総線寺原駅が最寄である。当駅周辺にあるのは「取手駅前窓口」と「取手支所」である。 毎年8月第2土曜日に行われる「とりで利根川大花火」開催時、当駅は多くの花火観覧客で賑わう。開催当日は東口周辺で交通規制がかかる。 バスは東口と西口のロータリーから発車する。ラッシュ時は市内の住宅団地への路線が頻発するほか、周辺市街への長距離路線や企業の送迎バスも多数発着する。
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取手駅(とりでえき)は、茨城県取手市中央町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・関東鉄道の駅である。 取手市の中心駅であり、茨城県の最南端に位置する駅である。
{{複数の問題 |ソートキー = 駅とりて | 出典の明記 = 2015年2月26日 (木) 14:49 (UTC) | 独自研究 = 2015年2月26日 (木) 14:49 (UTC)}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 取手駅 |画像 = Toride-Sta-West.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 西口(2010年6月) |地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300 |marker=rail|marker2=rail |coord={{coord|35|53|46.83|N|140|3|47.77|E}}|title=JR 取手駅 |coord2={{coord|35|53|48.29|N|140|3|47.85|E}}|title2=関東鉄道 取手駅 |marker-color=008000|marker-color2=0033ff}} |よみがな = とりで |ローマ字 = Toride |所属事業者= {{Plainlist | * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[関東鉄道]]([[#関東鉄道|駅詳細]]) }} |所在地 = [[茨城県]][[取手市]][[中央町 (取手市)|中央町]] |乗換 = |備考 = |座標= {{coord|35|53|44.7|N|140|03|46.7|E|type:railwaystation_region:JP-08|display=inline,title}} }} [[ファイル:JR_Toride_sta_001.jpg|thumb|東口(2009年8月)]] '''取手駅'''(とりでえき)は、[[茨城県]][[取手市]][[中央町 (取手市)|中央町]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[関東鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 取手市の中心駅であり、茨城県の最南端に位置する駅である。 == 乗り入れ路線 == JR東日本の[[常磐線]]と、関東鉄道[[関東鉄道常総線|常総線]]の接続駅となっている。 JR常磐線の駅には、当駅以南([[綾瀬駅]]・[[上野駅]]方面)で[[急行線|快速線]]を走る[[中距離電車|中距離列車]]および[[常磐快速線|常磐線快速]]<ref group="注釈">特別快速は中距離列車に含まれる。</ref>と、[[急行線|緩行線]]を走る[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]]が停車する。ただし常磐線各駅停車は平日ラッシュ時のみの運行となっている。 また、当駅以北は電化方式が異なる([[#輸送上の特徴|詳細は後述]])ため、直流電車を使用する常磐線快速電車と常磐線各駅停車は当駅を運転系統の終点としている。したがって当駅は常磐線の[[複々線]]区間の終点であり、常磐線内の[[電車特定区間]]も当駅までである。当駅以北([[土浦駅]]方面)には交直流電車を使用する特急・中距離電車のみが乗り入れる。合わせて路線を管轄するJR東日本の支社も当駅以北では異なり、[[上野駅]]から当駅までは[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]、藤代駅以北は[[東日本旅客鉄道水戸支社|水戸支社]]となる。 茨城県内で首都圏本部管轄の駅は当駅が唯一であり、北関東3県で唯一[[電車特定区間]]([[E電]]区間)にある駅となっている。そのため、[[駅ナンバリング]]は当駅まで設定され、藤代以北では割り振られていない(駅ナンバリングの割り振りについても、北関東3県に所在するJR東日本の駅では2023年時点で当駅が唯一となっている)。 == 歴史 == * 1896年([[明治]]29年)[[12月25日]]:[[日本鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|editor=石野哲|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=427}}</ref>。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:日本鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]される{{R|停車場}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により常磐線の所属となる。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[11月1日]]:常総鉄道が開業<ref name="sone21">{{Cite book|和書|others=[[曽根悟]](監修)|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=21号 関東鉄道・真岡鐵道・首都圏新都市鉄道・流鉄|date=2011-08-07|pages=4, 9-12}}</ref>。 * [[1930年]]([[昭和]]5年)[[6月]]:駅舎の一部を改築。 * [[1945年]](昭和20年)[[3月20日]]:常総鉄道が筑波鉄道を吸収合併し、常総筑波鉄道となる<ref name="sone21"/>。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]発足。 * [[1961年]](昭和36年)2月:常総線のホームが分離される<ref name="sone21"/>。 * [[1965年]](昭和40年)6月1日:常総筑波鉄道が鹿島参宮鉄道と合併し、関東鉄道となる<ref name="sone21"/>。 * [[1972年]](昭和47年)12月:[[キリンビール]]取手工場専用線の運用を開始。 * [[1974年]](昭和49年)[[7月16日]]:常総線の貨物の取り扱いが廃止<ref name="sone21"/>。 * [[1977年]](昭和52年)[[4月7日]]:常総線の当駅から寺原駅間が複線化<ref name="sone21"/>。 * [[1979年]](昭和54年)[[9月9日]]:乗降場のホーム改番<ref>鉄道ファン昭和54年12月号内POST</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:常磐線複々線(第2期、我孫子 - 取手間)開業。常磐線急行「ときわ」のうち1往復が停車するようになる。 * [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:キリンビール取手工場専用線の運用を停止。 * [[1985年]](昭和59年)[[3月14日]]:常磐線の[[チッキ|荷物]]の取り扱いが廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1988年]](昭和63年)[[10月1日]]:駅ビル「ボックスヒル取手」が開業<ref>{{Cite book|和書 |date=1989-08-01 |title=JR気動車客車情報 89年版 |chapter=JR年表 |page=143 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-110-4}}</ref>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[6月2日]]:関東鉄道常総線の列車が駅ビルに衝突する事故が発生([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#関東鉄道常総線列車衝突事故|関東鉄道常総線列車衝突事故]])<ref name="sone21"/>。 * [[1993年]](平成5年)[[9月17日]]:JR東日本の駅に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)4月1日:関東鉄道の駅に発車メロディを導入。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月14日]]:関東鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150414235704/http://www.tokyu.co.jp/file/081222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2009年3月14日、新たに3事業者でPASMOがご利用いただけるようになります。|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2008-12-22|accessdate=2021-02-09|archivedate=2015-04-14}}</ref>。同時にSuicaとの相互利用開始<ref name="sone21"/>。 ** この年、当駅南方の快速線[[利根川橋梁 (常磐線)|利根川橋梁]]の架け替え工事開始。 * [[2013年]](平成25年)[[12月8日]]:快速線の利根川橋梁部の上り新線が供用開始。 * [[2014年]](平成26年) ** [[3月28日]]:西口と直結する歩行者デッキの供用開始<ref group="新聞" name="mainichi-np-2014-3-28">{{Cite news |和書 |title = 取手駅西口:「街の顔」様変わり 歩行者デッキ、立体駐輪場、医療ビル完成 |newspaper = [[毎日新聞]] |date = 2014-03-28 |edition=地方版/茨城 |author = 安味伸一 |publisher = 毎日新聞社 |page=27 }}</ref>。 ** 4月1日:西口の取手市営駐輪場の供用開始<ref group="新聞" name="mainichi-np-2014-3-28" />。 ** [[11月9日]]:快速線の利根川橋梁の架け替え完全供用開始。 * [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:ダイヤ改正に伴い、特急列車は全列車が通過となる。 * [[2017年]](平成29年)[[2月26日]]:東口改札が[[駅集中管理システム|駅遠隔操作システム(現・お客さまサポートコールシステム)]]の導入により無人化<ref group="新聞">{{Cite news |和書 |title=取手駅東口の改札無人化 JR東、きょうから |newspaper=[[茨城新聞]] |date=2017-02-26 |publisher=茨城新聞社 |page=18}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月26日]]:駅ビル「ボックスヒル取手」が「アトレ取手」へ改称<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/574_200206toride.pdf|title=取手駅ビル『ボックスヒル取手』が 3月26日(木)『アトレ取手』に生まれ変わります!|format=PDF|publisher=アトレ|date=2020-02-06|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522055018/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/574_200206toride.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[2月28日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1077|title=駅の情報(取手駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-02-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230201035651/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1077|archivedate=2023-02-01}}</ref><ref name="jtsu/221215">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_14378826c5fe4927ba64269a7fe48d02.pdf|title=2022年度営業関係施策(その2)について提案を受ける!|format=PDF|publisher=輸送サービス労組東京地本|date=2022-12-15|accessdate=2022-12-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221217120057/https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_14378826c5fe4927ba64269a7fe48d02.pdf|archivedate=2022-12-17}}</ref>。 * [[2024年]](令和6年)[[1月9日]]:JR東日本1・2番線(常磐線各駅停車)ホームにて、[[ホームドア#多様なホームドアの開発|スマートホームドア]]の使用を開始(予定)<ref name="toridecityBF">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/chushin-seibi/torideeki/317higashiguchi.html|title=取手駅東口バリアフリー化推進事業|publisher=取手市|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-22|archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/tokyo/20231017_to03.pdf|title=首都圏本部管内のホームドア使用開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道首都圏本部|date=2023-10-17|accessdate=2023-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231017090110/https://www.jreast.co.jp/press/2023/tokyo/20231017_to03.pdf|archivedate=2023-10-17}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230721_ho03.pdf|title=バリアフリー設備に関する整備を推進します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2023-07-21|accessdate=2023-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230721083009/https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230721_ho03.pdf|archivedate=2023-07-21}}</ref>。 == 駅構造 == 駅舎は[[橋上駅|橋上]](JR西口、関東鉄道常総線)および[[高架駅|高架]](JR東口)。JRの東口・西口の出入口は構内([[改札]]外)では行き来できない。そのため、地下連絡通路(ギャラリーロード)が駅の東西を結び、東側から関東鉄道常総線に乗る場合はここを通る。 JR西口・関鉄駅舎は[[駅ビル]]「[[アトレ]]取手」と併設されており、3階にJR、関鉄それぞれが独立した窓口と改札口を持つ。またJR線・関東鉄道常総線連絡改札口が設けられている。関東鉄道常総線には2階にも駅ビル内に直結する[[自動改札機]]のない改札口が駅ビル営業時間内のみ開設されていたが、[[2009年]]([[平成]]21年)[[3月13日]]をもって閉鎖された。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 取手駅 |画像 = JR Jōban Line Toride Station West Gates.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 西口改札(2021年12月) |よみがな = とりで |ローマ字 = Toride |電報略号 = トテ |所属事業者= [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[茨城県]][[取手市]][[中央町 (取手市)|中央町]]1-1 |座標 = {{coord|35|53|46.83|N|140|3|47.77|E|type:railwaystation_region:JP-08|name=JR 取手駅}} |開業年月日= [[1896年]]([[明治]]29年)[[12月25日]] |廃止年月日= |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]、一部[[高架駅]]) |ホーム = 3面6線<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =27 }}</ref> |乗車人員 = 22,162 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗入路線数= 3 |所属路線1 = {{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]({{color|#00b261|■}}[[常磐快速線|常磐線(快速)]]) |前の駅1 = JJ 09 [[天王台駅|天王台]] |駅間A1 = 3.4 |駅間B1 = 6.0 |次の駅1 = [[藤代駅|藤代]]{{Refnest|group="*"|この間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道水戸支社|水戸支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(当駅から天王台寄りは首都圏本部管内)。}} |駅番号1 = {{駅番号r|JJ|10|#00b261|1}} |キロ程1 = 37.4&nbsp;km([[日暮里駅|日暮里]]起点)<br />[[上野駅|上野]]から39.6 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#808080|■}}[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]{{Refnest|group="*"|平日朝夕のみ運行。}}<br />(線路名称上は常磐線) |隣の駅2 = |前の駅2 = JL 31 天王台 |駅間A2 = 3.4 |駅番号2 = {{駅番号r|JL|32|#808080|1}} |キロ程2 = 37.4&nbsp;km(日暮里起点)<br />[[綾瀬駅|綾瀬]]から29.7 |起点駅2 = |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[直営駅]]([[管理駅]]) * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|東口改札に導入<ref name="StationCd=1077_230917" />。}}<ref name="StationCd=1077_230917" />}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[島式ホーム]]3面6線を有する{{R|zeneki05}}橋上駅・高架駅になっている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は快速と各駅停車でそれぞれ「'''JJ 10'''」「'''JL 32'''」が付与される。 [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]。[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]でもあるが、当駅は自駅のみの単駅管理となっている。東口改札は[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、終日インターホンによる案内となる<ref name="StationCd=1077_230917">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1077|title=駅の情報(取手駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230917144824/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1077|archivedate=2023-09-17}}</ref>。 1階が東口改札コンコース階、2階がホーム、3階が西口コンコース階となっている。 西口側はエスカレーターやエレベーターなどが整備されているのに対し、東口は長らく階段しかなく、エスカレーター・エレベーターを使う場合は自由通路で西口側に回る必要があった<ref group="注釈">西口からは横断歩道を渡る必要はあるもののペデストリアンデッキへのエレベーターも整備されている。</ref>。その後、2023年3月に東口と1・2番線ホームを結ぶエレベーターが供用を開始し、東口のバリアフリールートが確保された<ref name="toridecityBF"/>(3 - 6番線ホームへは、一旦1・2番線ホームおよび西口コンコースを経由する必要がある)。 1・2番線ホームの電車発着は平日朝夕のみであるが、東口側と西口側を構内では最短で結んでいるため、運転時間外でも通行できる。なお、同ホームと西口コンコースとの往来は長らく階段・車椅子対応エスカレーターのみだったが、2024年3月にエレベーターが供用を開始する予定である<ref name="toridecityBF"/>。 トイレは西口・東口とも改札内コンコースにある。西口側には緩行線ホームへの階段付近に車椅子対応トイレが別に設置されている。 快速線と緩行線の[[複々線|線路別複々線]]区間の終端駅であり、1・2番線が緩行線用、3 - 6番線が快速線用のホームとなっている。前者は当駅が終端、後者は当駅より先、土浦・水戸方面に直通可能となっている。 快速線ホームには、中ほどに待合室が設置されている。また、土浦方には[[車両基地|留置線]]が1本あり、到着後ここに一旦引き上げて[[回送]]となるものや、折り返し上野行きとなる快速電車([[JR東日本E231系電車|E231系]]を使用する電車)がある。[[夜間滞泊]]は設定されておらず、当駅と[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]・[[松戸駅]]との間で回送列車が設定されている。 [[2014年]][[3月15日]]のダイヤ改正から当駅折り返しとなる折り返し時間の長い快速電車では、平日朝7時00分 - 9時00分に発車する列車を除き、車内保温維持を目的に一部のドア締切が実施される(ダイヤ乱れや当駅での折り返し時間が短い場合は、一部のドア締切を行わない時がある)。 6番線に停車する10両編成の[[普通列車]]([[JR東日本E531系電車|E531系]]を使用する電車)は、15両編成と同じ位置(上野寄り)に停車する。 東口の[[みどりの窓口]]は2017年2月に閉鎖され、代わりに[[指定席券売機]]が設置された。以前は東口の改札口横に旅行代理店「[[びゅうプラザ]]」もあったが、閉鎖された。その後、西口のみどりの窓口も2023年2月に営業終了した。 ==== のりば ==== <!--方面表記および路線表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1・2 |[[ファイル:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車) | rowspan="3" style="text-align:center;" |上り |[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[新松戸駅|新松戸]]・[[北千住駅|北千住]]・[[代々木上原駅|代々木上原]]方面 |平日朝夕のみ運転 |- !3 | rowspan="2" |[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速)<br>[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[上野東京ライン]] | rowspan="2" |[[柏駅|柏]]・[[松戸駅|松戸]]・[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]方面 |{{Color|#3333ff|■}}中距離列車<br>(一部列車は4番線) |- !4・5 |当駅始発 |- !5・6 |{{Color|#3333ff|■}}常磐線 |style="text-align:center;"|下り |[[土浦駅|土浦]]・[[石岡駅|石岡]]・[[水戸駅|水戸]]・[[高萩駅|高萩]]・[[いわき駅|いわき]]方面 |5番線は一部列車 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1077.html JR東日本:駅構内図]) * 土曜・休日の常磐線(各駅停車)は我孫子始発となるため、1・2番線ホームから発着する列車はない(前述の通り通行は可能)。 * 快速線の本線は、上りが3番線、下りが6番線である。4・5番線は、当駅始発の快速電車が使用するほか、中距離列車が特急列車の通過待ちに使用する。 * 常磐線各駅停車では、[[駆け込み乗車]]を減らす有効性の実験のため、2018年8月1日より車両備え付けの[[乗車促進音|乗降促進メロディー]]を導入した。そのため当駅1・2番線では[[発車メロディ|発車メロディー]]の使用が停止されていたが、一定の効果が得られたことから2019年3月16日のダイヤ改正に合わせて完全に使用停止となった。なお、3番線 - 6番線の発車メロディーは継続使用となっている<ref group="新聞">{{Cite news|和書|url=https://this.kiji.is/395667287140893793|title=「発車ベル」やめます JR東、駆け込み防止で実験へ|newspaper=共同通信|date=2018-07-28|accessdate=2018-07-28|archiveurl=https://archive.fo/jX8L1|archivedate=2018-07-28}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190401134340/https://www.jreast.co.jp/press/2018/tokyo/20190312_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=常磐(各駅停車)線 車外スピーカーを使用して発車メロディを流す取り組みについて|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-03-12|accessdate=2021-02-09|archivedate=2019-04-11}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> JR Jōban Line Toride Station East Gates.jpg|東口改札(2021年12月) JR Jōban Line Toride Station Platform 1・2.jpg|1・2番線ホーム(2021年12月) JR Jōban Line Toride Station Platform 3・4.jpg|3・4番線ホーム(2021年12月) JR Jōban Line Toride Station Platform 5・6.jpg|5・6番線ホーム(2021年12月) Toride-sta-door.JPG|3・4番線ホームの時刻表にあるドア一部締切の案内(2014年8月) </gallery> {{clear}} === 関東鉄道 === {{駅情報 |社色 = #0033ff |文字色 = |駅名 = 関東鉄道 取手駅 |画像 = Kanto Railway Jōsō Line Toride Station Gates.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 改札口(2021年12月) |よみがな = とりで |ローマ字 = Toride |電報略号 = |所属事業者= [[関東鉄道]] |所在地 = [[茨城県]][[取手市]][[中央町 (取手市)|中央町]]2-5 |座標 = {{coord|35|53|48.29|N|140|3|47.85|E|type:railwaystation_region:JP-08|name=関東鉄道 取手駅}} |開業年月日= [[1913年]]([[大正]]2年)[[11月1日]]<ref name="sone21"/> |廃止年月日= |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面2線 |乗車人員 = |乗降人員 = 9,190 |統計年度 = 2021年 |所属路線 = {{Color|blue|■}}[[関東鉄道常総線|常総線]] |駅間A = |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[西取手駅|西取手]] |駅番号 = |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 取手 |乗換 = |備考 = }} 島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホームには[[エスカレーター]]が設置されている(一部)。ホーム上には売店、[[立ち食いそば・うどん店]]もあったが閉鎖された。 JR線との連絡改札口があるが、常総線は[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]の対象外であるため、Suica・PASMO以外のICカードでは通過できない。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、関東鉄道の「駅構内図」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線!!路線!!行先 |- !7・8 |{{Color|blue|■}}常総線 |[[下館駅|下館]]方面 |} (出典:[https://www.kantetsu.co.jp/img/train/station/0101_toride.pdf 関東鉄道:駅構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Toride Station JR East・Kanto Railway Transfer Gates.jpg|乗換改札口(2021年12月) Toride-Sta-Kanto-Railway-Platform.JPG|ホーム(2010年6月) </gallery> {{clear}} == 輸送上の特徴 == 常磐線では当駅以南が[[直流電化]]、水戸寄りの隣駅である[[藤代駅]]以北が[[交流電化]]と電化方式が異なっている。これは茨城県[[石岡市]]柿岡にある[[気象庁地磁気観測所]]の観測への影響を防ぐためである。当駅 - 藤代駅間には直流区間と交流区間の境界である[[デッドセクション]]があり、ここで[[直流電化|直流]]と[[交流電化|交流]]の切り替えが行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.ishioka.lg.jp/sp/page/page001553.html |title=100年間見守り続けています-気象庁地磁気観測所- |work=石岡市の歴史と記憶 |publisher=石岡市 |accessdate=2023-07-01}}</ref>。 == 利用状況 == === JR東日本 === JR東日本によると、2022年度(令和4年度)の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''22,162人'''である<ref group="JR" name="passenger/2022_01" />。 1999年度(平成11年度)以降の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗車人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1999年(平成11年) |style="text-align:right;"|49,215 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html|title=各駅の乗車人員(1999年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2000年(平成12年) |style="text-align:right;"|48,126 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2001年(平成13年) |style="text-align:right;"|47,236 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2002年(平成14年) |style="text-align:right;"|45,708 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2003年(平成15年) |style="text-align:right;"|44,623 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2004年(平成16年) |style="text-align:right;"|43,788 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2005年(平成17年) |style="text-align:right;"|38,997 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_01.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2006年(平成18年) |style="text-align:right;"|34,056 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_01.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2007年(平成19年) |style="text-align:right;"|32,840 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_01.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2008年(平成20年) |style="text-align:right;"|31,886 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_01.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|30,662 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_01.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|29,563 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_01.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|28,315 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_01.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|27,768 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_01.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|27,901 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_01.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|27,410 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_01.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|28,450 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_01.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|28,068 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_01.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|27,741 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_01.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-07}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|27,613 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_01.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-07}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|27,277 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_01.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-11}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |style="text-align:right;"|20,717 |<ref group="JR" name="passenger/2020_01">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_01.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-11}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |style="text-align:right;"|21,058 |<ref group="JR" name="passenger/2021_01">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_01.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-06}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |style="text-align:right;"|22,162 |<ref group="JR" name="passenger/2022_01">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_01.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-08}}</ref> |} === 関東鉄道 === 「統計とりで」のよると、2021年度(令和3年度)の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''9,190人'''である<ref group="関東鉄道" name="toride/r4_11unyu" />。 2009年度(平成21年度)以降の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗降人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗降人員 !出典 |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|13,129 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/20110720-113156.doc|title=12.運輸・通信|page=95|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h22-toke.html 平成22年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2010-12|accessdate=2019-03-07}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|12,250 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/20120330-133434.pdf|title=12.運輸|format=PDF|page=96|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h23-toke.html 平成23年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2011-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307035907/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/20120330-133434.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|11,534 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/20130610-183006.pdf|title=12.運輸|format=PDF|page=98|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h24-toke.html 平成24年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2012-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307040215/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/20130610-183006.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|11,540 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/12unnyu_1.pdf|title=12.運輸|format=PDF|page=98|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h25-toke.html 平成25年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2013-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307040856/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/12unnyu_1.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|11,365 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/zenpen26toukeitoride.pdf|title=平成26年版「統計とりで」|format=PDF|page=94|date=2014-12|accessdate=2020-08-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200810165034/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/zenpen26toukeitoride.pdf|archivedate=2020-08-10}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|10,666 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11unnyutoukeitorideh27_2.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=94|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h27-toke.html 平成27年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2015-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307044256/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11unnyutoukeitorideh27_2.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|11,081 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11unyu.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=94|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h28-toke.html 平成28年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2016-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307041103/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11unyu.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|11,345 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/h29toukeitoride11.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=94|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h29-toke.html 平成29年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2017-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307044659/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/h29toukeitoride11.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|11,332 |<ref group="関東鉄道">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/h30toukeitoride11.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=94|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/h30-toke.html 平成30年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2018-12|accessdate=2019-03-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190307032928/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/h30toukeitoride11.pdf|archivedate=2019-03-07}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|11,506 |<ref group="関東鉄道" name="toride/r1_11unyu">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11unyu.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=94|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/r1-toke.html 令和元年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2019-12|accessdate=2020-08-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200810164434/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11unyu.pdf|archivedate=2020-08-10}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|11,465 |<ref group="関東鉄道" name="toride/r2_11unyu">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=94|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/r2-toke.html 令和2年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2020-12|accessdate=2021-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210209192634/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/11.pdf|archivedate=2021-02-09}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |style="text-align:right;"|8,477 |<ref group="関東鉄道" name="toride/r3_11unyu">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/r3-11unnyu.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=96|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/r3-toke.html 令和3年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2021-12|accessdate=2023-02-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220920172829/http://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/r3-11unnyu.pdf|archivedate=2022-09-20}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |style="text-align:right;"|9,190 |<ref group="関東鉄道" name="toride/r4_11unyu">{{Cite web|和書|url=https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/r4-11unnyu.pdf|title=11.運輸|format=PDF|page=96|work=[https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/r4-toke.html 令和4年版「統計とりで」]|publisher=取手市|date=2022-12|accessdate=2023-02-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230110071233/https://www.city.toride.ibaraki.jp/seisaku/shise/tokejoho/toketoride/documents/r4-11unnyu.pdf|archivedate=2023-01-10}}</ref> |} == 駅周辺 == [[駅ビル]]である[[アトレ]](旧・[[ボックスヒル]])や[[雑居ビル]]等が見られるが、少し歩けばほとんどが[[住宅地|住宅街]]である。駅周辺は坂が多い。 東側はかつての[[取手宿]]であり、歴史的建造物も存在する。取手のもともとの市街地である。[[1973年]](昭和48年)の開店当時は県下最大規模の商業施設であった「[[片倉工業|カタクラ]]ショッピングプラザ」(キーテナントは[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]])があったが、2001年にイトーヨーカドーが撤退。入れ替わりに[[マルエツ]]や[[大創産業|ダイソー]]などが入居したものの衰退に歯止めがかからず、[[2007年]](平成19年)に閉店、解体された。 西側にも、1972年(昭和47年)に開店した[[西友]]や<ref name="season-history-list-1991-11-1">{{Cite book |和書 |editor = セゾングループ史編纂委員会 |title = セゾンの活動 年表・資料集 |date = 1991-11-01 |publisher = [[リブロポート]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn = 978-4845706266 }}</ref>1985年(昭和60年)10月6日に開店した[[東急ストア|取手とうきゅう]]があったが<ref name="tokyu-store-history-1989">{{Cite book |和書 |editor = 東急ストア |title = 東急ストアのあゆみ |year = 1989 |publisher = [[東急ストア]] |pages = {{要ページ番号|date=2015年10月}} }}</ref>、西友は1986年(昭和61年)に<ref group="新聞" name="mainichi-np-2012-8-1">{{Cite news |和書 |title=西友:取手に出店 駅西口前、旧東急ストアのビル 年内開店予定 |newspaper=毎日新聞 |edition=地方版/茨城 |date=2012-08-01 |publisher=毎日新聞社 |page=24 }}</ref>、取手とうきゅうは2010年(平成22年)8月31日に閉店した<ref group="新聞" name="asahi-np-2012-12-5">{{Cite news |和書 |title = 取手駅前のビル、あす再オープン 西友など出店 |newspaper = [[朝日新聞]] |date = 2012-12-05 |edition=東京地方版/茨城 |publisher = 朝日新聞社 |page=30 }}</ref>。 その結果、駅周辺ではボックスヒルが唯一のショッピングビルとなっていたが、2012年(平成24年)12月6日に取手駅西口市街地再開発ビル(旧・取手とうきゅうビル)に、再出店する西友を核テナントとする「リボンとりで」が開業した<ref group="新聞" name="asahi-np-2012-12-5" />。 南側は[[利根川]][[堤防]]に近い。[[取手競輪場]]は駅北西にあり徒歩圏内である。 取手市の中心市街地を成しているが、取手市役所(本庁)・[[取手郵便局]]は常総線[[寺原駅]]が最寄である。当駅周辺にあるのは「取手駅前窓口」と「取手支所」である。 毎年8月第2土曜日に行われる「とりで利根川大花火」開催時、当駅は多くの花火観覧客で賑わう<ref group="注釈">2014年は当初8月9日開催予定だったが、悪天候により8月11日(月)の開催へ延期された。</ref>。開催当日は東口周辺で交通規制がかかる。 ; 東側 <!--以下、チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店等は際限がなくなるので記載しない--> {{columns-list|2| * [[三井住友銀行]] 取手支店 * [[常陽銀行]] 取手支店 * [[東日本銀行]] 取手支店 * [[東横INN]]取手駅東口 * セントラルホテル取手 * 旧取手宿本陣 * [[長禅寺 (取手市)|長禅寺]] * [[茨城県立取手第一高等学校]] * [[茨城県立取手第二高等学校]] * [[取手簡易裁判所]] * [[筑波銀行]] 取手支店 * 取手市立取手図書館 * 取手市福祉会館、取手市立市民会館 ** 取手市役所 取手支所、取手市文化事業団 * 利根川サイクルステーション(無料[[レンタサイクル|レンタルサイクル]]) - 冬季を除く土日祝日の9時 - 16時のみ営業。 * 取手市緑地運動公園 - 利根川河川敷 * 取手市営「[[小堀の渡し]]」取手ふれあい桟橋 - 利根川河川改修時以降の分断地区である小堀(おおほり)行きの[[渡し船]]駅側乗り場(JR橋梁下)。水曜日と12月29日 - 1月3日は休航。 * [[ミスターマックス]]取手店 * [[ヤオコー]]取手青柳店 |}} ; 西側 {{columns-list|2| * [[アトレ]]取手 - 出店店舗の詳細は公式サイト「[https://www.atre.co.jp/store/toride/floor_guide/01/F01 フロアガイド]」を参照。 * [http://ribon-toride.com/ リボンとりで] - 旧・取手とうきゅうビル。[[西友]]取手駅前店や[[ほけんの窓口]]など<ref group="新聞" name="asahi-np-2012-12-5" />。 ** 取手市役所 取手駅前窓口 - リボンとりでビル3階 * 取手ウェルネスプラザ * セレモ取手駅ホール(葬儀式場) * [[みずほ銀行]] 取手支店 * 常陽銀行 取手西支店・取手ローンプラザ * 利根パーク[[ゴルフ場]] - 利根川河川敷 * [[水戸信用金庫]] 取手支店 * [[取手競輪場]] * [[キヤノン]]取手事業所 * [[江戸川学園取手中学校・高等学校]] |}} == バス路線 == <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> バスは東口と西口のロータリーから発車する。ラッシュ時は市内の住宅団地への路線が頻発するほか、周辺市街への長距離路線や企業の送迎バスも多数発着する。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!行先 |- !colspan="3"|東口 |- !1 |style="text-align:center;"|[[関東鉄道]] |{{Unbulleted list|光風台団地|竜ヶ崎駅}} |- !2 |style="text-align:center;"|[[大利根交通自動車]] |{{Unbulleted list|北方車庫|もえぎ野台|立崎|利根ニュータウン東}} |- !3 |style="text-align:center;"|関東鉄道 |{{Unbulleted list|井野団地循環|[[JAとりで総合医療センター]]}} |- !4 |colspan="2"|[[取手市コミュニティバス]] |- !colspan="3"|西口 |- !1 |style="text-align:center;"|関東鉄道 |{{Unbulleted list|[[江戸川学園取手中学校・高等学校|江戸川学園]]|戸頭駅}} |- !2 |rowspan="2" style="text-align:center;"|関東鉄道 |JAとりで総合医療センター |- !3 |{{Unbulleted list|[[守谷駅]]東口|豊体|[[みらい平駅]]|[[関東鉄道つくば中央営業所|谷田部車庫]]}} |} == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速・中距離列車) :: {{Color|#ff0066|■}}特別快速 ::: [[柏駅]] (JJ 07) - '''取手駅 (JJ 10)''' - [[藤代駅]] :: {{Color|#33dd22|■}}快速・{{Color|#3333ff|■}}普通(当駅以南「快速」) ::: [[天王台駅]] (JJ 09) - '''取手駅 (JJ 10)''' - 藤代駅 : [[File:JR JL line symbol.svg|15px|JL]] 常磐線(各駅停車、平日朝夕時間帯のみ運転<ref group="注釈">年末年始期間中([[12月30日]] - [[1月3日]]間)を除く。</ref>) ::: 天王台駅 (JL 31) - '''取手駅 (JL 32)''' ; 関東鉄道 : {{Color|blue|■}}常総線 :: {{Color|#ee0011|■}}快速・{{Color|#2c94b6|■}}普通 ::: '''取手駅''' - [[西取手駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ==== JR東日本 ==== {{Reflist|group="JR"|3}} ==== 関東鉄道 ==== {{Reflist|group="関東鉄道"|3}} == 関連項目 == {{commonscat|Toride Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[日本の都道府県の東西南北端の駅の一覧]] * [[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#関東鉄道常総線列車衝突事故|関東鉄道常総線列車衝突事故]] * [[取手駅通り魔事件]] * {{Prefix}} * {{intitle|取手駅}} == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1077|name=取手}} * [https://www.kantetsu.co.jp/train/toride/ 取手駅 | 駅案内] - 関東鉄道 {{鉄道路線ヘッダー}} {{常磐線|mode=1}} {{常磐緩行線}} {{関東鉄道常総線}} 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クレイ数学研究所
クレイ数学研究所(クレイすうがくけんきゅうじょ、Clay Mathematics Institute、略称 CMI)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジに建設された私的・非営利な施設であり、数学の発展とそれを広めることを目的としている。この研究所は、有望な数学者たちへ様々な賞や賞金を与えている。CMI は、1998年、ハーバード大学の数学者アーサー・ジェイフ(英語版)と、建設の際に投資を行った実業家ランドン・T・クレイ(英語版)によって建設された。 この研究所は、2000年5月24日に発表したミレニアム懸賞問題でよく知られている。合計7つのこの問題は、「古典的ではあるものの、長い間証明されていない重要な問題」として、CMI がまとめたものである。この問題のどれかを最初に証明した人には、CMI から賞金100万ドルが支払われることになっている。懸賞問題を発表する際、CMI は「ヒルベルトの23の問題」を引き合いに出したが、これは1900年に提案され、20世紀の数学に深い衝撃を与えたものである。
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クレイ数学研究所は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジに建設された私的・非営利な施設であり、数学の発展とそれを広めることを目的としている。この研究所は、有望な数学者たちへ様々な賞や賞金を与えている。CMI は、1998年、ハーバード大学の数学者アーサー・ジェイフと、建設の際に投資を行った実業家ランドン・T・クレイによって建設された。
{{Infobox 研究所 |名称 = Clay Mathematics Institute |Width = 250 |画像 = |脚注 = |画像2 = |脚注2 = |正式名称 = <!--正式名称が外国語である場合に、現地の言葉で名称を記入。それ以外の場合は無記入でOK--> |英語名称 = |略称 = CMI |組織形態 = |本部名称 = <!--拠点が多数あってすぐ下の住所がどこのものか不明瞭な様な場合に記入。本部、事務局、などと記入。それ以外の場合は無記入でOK--> |所在国 = {{USA}} |所在地郵便番号 = |所在地 = |位置 = <!--経緯度を記入--> |予算 = |人数 = |代表 = |所長 = |理事長 = |代表職名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、ここにその肩書を記入--> |代表氏名 = <!--組織トップの肩書が上の三つ以外の場合、すぐ上で肩書を記入し、ここに人物の名前を記入--> |活動領域 = |設立年月日 = |前身 = |設立者 = |廃止年月日 = |後身 = |上位組織 = |所管 = |下位組織 = |関連組織 = |拠点 = |保有施設 = |保有装置 = |保有物分類1 = <!--施設でも装置でもない何かを保有している場合に、ここにその種別を記入。例えば船舶、衛星など--> |保有物名称1 = <!--すぐ上の種別に属する保有物の名称をここに記入。例えばしんかい6500、など--> |保有物分類2 = |保有物名称2 = |保有物分類3 = |保有物名称3 = |提供サービス = |プロジェクト = |参加プロジェクト = |発行雑誌 = |出版物 = |特記事項 = |ウェブサイト = http://www.claymath.org/ }} '''クレイ数学研究所'''(クレイすうがくけんきゅうじょ、Clay Mathematics Institute、略称 '''CMI''')は、[[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]に建設された私的・非営利な[[施設]]であり、[[数学]]の発展とそれを広めることを目的としている。この[[研究所]]は、有望な[[数学者]]たちへ様々な[[賞]]や[[賞金]]を与えている。CMI は、[[1998年]]、[[ハーバード大学]]の数学者{{ill2|アーサー・ジェイフ|en|Arthur Jaffe}}と、建設の際に投資を行った実業家{{ill2|ランドン・T・クレイ|en|Landon T. Clay}}によって建設された。 == ミレニアム懸賞問題 == {{Main|ミレニアム懸賞問題}} この研究所は、[[2000年]][[5月24日]]に発表した[[ミレニアム懸賞問題]]でよく知られている。合計7つのこの問題は、「古典的ではあるものの、長い間証明されていない重要な問題」として、CMI がまとめたものである。この問題のどれかを最初に証明した人には、CMI から賞金100万ドルが支払われることになっている。懸賞問題を発表する際、CMI は「[[ヒルベルトの23の問題]]」を引き合いに出したが、これは[[1900年]]に提案され、[[20世紀]]の数学に深い衝撃を与えたものである。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> {{節スタブ}} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|}} --> * [[研究所]] * [[ミレニアム懸賞問題]] * [[クレイ研究賞]] == 外部リンク == * {{Official website}} {{数学}} {{Coord|42|22|20|N|71|6|58|W|region:US_type:landmark|display=title}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くれいすうかくけんきゆうしよ}} [[Category:数学系の研究所]] [[Category:マサチューセッツ州の研究所]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ケンブリッジ (マサチューセッツ州)]]
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客車
客車(きゃくしゃ)とは、主に旅客を輸送するために用いられる鉄道車両である。座席車と寝台車を中心とするが、展望車、食堂車、荷物車、郵便車なども構造的には共通であり、旅客車と一体での運用も多いことから、これらも客車に分類される。 狭義では、機関車などにより牽引される無動力(動力集中方式)の旅客車両を指す。電車や気動車とは区別される。本稿では狭義の客車について記す。 同じく機関車に牽引される車両の中でも、貨物を運ぶ車両は貨車といい、客車とは区別される。 日本の国鉄の場合、過去には鉄道車両を(広義の)客車と貨車に大別していた。(広義の)客車には、(狭義の)客車、電車、気動車を含んでいたが、1956年(昭和31年)2月の車両称号規程改正で、広義の大分類を「旅客車」と改めた。したがってそれ以後は、客車とは自ら運転用の動力をもたない旅客車のみを指すことになった。 また、軌道や架線の検査・測定を行う職用車や、救援車、配給車などの事業用車にも客車に分類されるものがある。 いずれもプラットホームの低い線区で運転されることが多く、それに合わせたドアステップがついている車両が多い。 鉄道の黎明期においては、旅客輸送は蒸気機関車が客車を牽引する方式から始まり、その後自ら動力をもつ電車、気動車の出現後も長く旅客輸送の中心的役割を占めてきた(鉄道車両の歴史、特に初期の客車と貨車を参照)。下記のような特徴の比較により動力分散方式が有利とみなされるようになってきて、日本においては特に動力近代化計画が進んだ1960(昭和35)年以降著しく減少している。一方で他国においてはその動向は国により大きく異なる(後述)。 動力分散方式(電車・気動車・蒸気動車など)との比較では以下のようになる。動力集中方式#長所と短所も参照。 日本では1960年(昭和35年)から実施された動力近代化計画によって客車列車の淘汰が行なわれ、1975年(昭和50年)以降は組合側の反対などによって一時中断されたものの、1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正でに鉄道による郵便荷物輸送が廃止されたことなどから、残存していた定期客車列車は民営化以降に少数の寝台列車(夜行列車)を除き、電車や気動車に置き換えられて姿を消した。 JR旅客5社(国鉄分割民営化時点でもともと定期普通客車列車が存在しなかった東海旅客鉄道〈JR東海〉を除く)および私鉄での客車による定期普通列車は、車両限界などの特殊な事情をもつ大井川鐵道井川線・黒部峡谷鉄道と、蒸気機関車 (SL) および一般形(旧型)客車の動態保存のためほぼ定期運転を行っている大井川鐵道大井川鐵道大井川本線の蒸気機関車牽引列車を除いて消滅した。なお、日本国内での国鉄形車両・国鉄形近縁車両によって運行される定期普通客車列車としては、国鉄14系客車を使用して運行され、2006年(平成18年)3月に運行を終了した樽見鉄道の定期列車が最後となっている。また季節限定であるが津軽鉄道では客車を3両保有しており、ダルマストーブ特徴の「ストーブ列車」として冬季運転がある。また、他に、定期的に運行している観光用列車として平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線などのトロッコ列車や伊予鉄道の坊ちゃん列車などの例がある。 また、寝台車を始め現存する客車についても、1999年(平成11年)にJR東日本が「カシオペア」に使用するために製造したE26系客車や、2013年(平成25年)にJR九州が「ななつ星 in 九州」に使用するために製造した77系客車、寝台車以外では2017年(平成29年)にJR西日本が「SLやまぐち号」に使用するために製造した35系客車4000番台を除いては、製造後30年以上が経過しており、旅客数の低下と老朽化が進行しているため、運転本数は減少傾向にある。なお、2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正で、急行「はまなす」が廃止されたため、JR線における定期客車列車は全廃された。 2020年(令和2年)現在では上述の黒部峡谷鉄道、大井川鐵道のほかはSLの運転といったイベント時に運転する観光列車用に、ごく少数の車両が残るのみである。 一方、米国など海外では、大都市近郊の地下鉄や通勤路線以外は、ほとんど客車列車で運行されているといった地域も散見される。また、自前で機関車を保有している事業者においては車両の購入費や維持費の面で気動車よりも有利なため、人件費の比較的安価な発展途上国では通勤路線でも客車列車を使っている場合が多く、日本からも廃車になった車齢の若い車両が輸出や無償提供されている。 歴史については鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車および鉄道車両の歴史#客車の発展も参照。 欧州各国の鉄道では、客車は依然として幅広く使われているものの、21世紀に入ってから輌数を減らしている。 イギリスなどを除く大陸ヨーロッパの場合、周辺国と地続きであるため鉄道網も複数の国々に跨って構築されている。しかし、国ごとに電化方式・複線区間の通行方向(右側・左側)・車体寸法・軌間・保安装置などがまちまちであるため、長年にわたり、路線の連絡部で機関車を付け替える客車方式が主流であった。 近年では、大都市内やその近郊において通勤の利便性を高めるため、日本国内と同様に電車・気動車などの動力分散方式への移行が行われ、通勤形客車列車は少なくなりつつあり、ローカル線でも、合理化の一環として、低床式の新形気動車への置き換えが進んでいる。また、高速鉄道(ICE 3など)においても動力分散方式への移行等の理由により、客車が活躍する舞台は縮小している。例外的に複数の国をまたぐ国際長距離列車については前述の理由により、いまだに客車が主流である。 日本の客車のような「固定編成客車」は少なく、1両単位で運用することが多い。専用の電源車をもつことは少なく、ほとんどの場合、電源は機関車から供給されるか、車軸発電機による給電である。 日本ではあまり一般的ではないが、運転台付の客車(制御車)を最後尾に連結し、客車側運転台からの遠隔操作により機関車が客車を押すような運転方法(ペンデルツーク:ドイツ語: Pendelzug)も一般的である。またTGVやタリスなどの高速列車では、客車に運転台を設ける代わりに列車の前後に機関車を取り付け、運転時は前後の機関車を同調させる例もある。これらの方法により、駅での方向転換の際、機関車の付け替えを省略する。 国際列車を運転する観点から、欧州大陸の客車には、国際列車用の規格である「UIC規格(あるいは「RIC規格」)」が存在する。また、国内用ではあるが、ダブルデッカーも数多く使用されている。 欧州大陸の客車のサイズは、車体長は日本の客車よりも大型で26.4m(UIC-X、UIC-Zなど)、あるいは24.5m(UIC-Yなど)のものが多く、軌間が広いこともあり車体幅も3mを超える一方で高さは、日本の客車とそれほど変わらない。 東南アジア各国では、沢山の客車が活躍しており、電源車を含んだユニット編成の車両や気動車・電車の機関・電装品を解除した車両、1両単位で構成が可能な車両など種類は様々である。同地域へは、長い間日本から新車もしくは不要になった鉄道車両が輸出されているが、その中には多くの客車も含まれており、中古で輸出された客車には、使用先の軌間に合うように車軸を改造したうえで使われている車両も存在する。 鉄道省が国鉄に変わった当時の列車のマークは、極東地域のシンボルマーク「第7軍第七軍」を流用し、絵本に忠実に描かれていた。出版社は『キンダーブック』誌からスピンオフした絵本を刊行し、日本画家の藤沢龍雄は「のりもの絵本」と呼ばれる分野に列車や汽車の表紙画を寄せた。葉山町議会議員の安井小弥太は青年期、藤沢に弟子入りし池袋モンパルナスに住んでキンダーブックや「コドモノトモ」などのシリーズから依頼を受け、C53を描いた『汽車 ノチシキ』は人気作であった。黒岩保美は戦後1950年(昭和25年)、湘南電車の塗装の色彩設計を手がけた国鉄職員で、1975年以降(昭和50年代)、宮脇俊三が著した列車絵本(「たくさんのふしぎ」シリーズ)に挿絵を提供、また鉄道70年記念の『日本の鉄道』誌の表紙に、黒岩自身が色を決めた湘南電車を描いている。 脚注に使っていない資料。発行年順。 児童書 一般書 蒸気機関車と客車 洋書
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "客車(きゃくしゃ)とは、主に旅客を輸送するために用いられる鉄道車両である。座席車と寝台車を中心とするが、展望車、食堂車、荷物車、郵便車なども構造的には共通であり、旅客車と一体での運用も多いことから、これらも客車に分類される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "狭義では、機関車などにより牽引される無動力(動力集中方式)の旅客車両を指す。電車や気動車とは区別される。本稿では狭義の客車について記す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同じく機関車に牽引される車両の中でも、貨物を運ぶ車両は貨車といい、客車とは区別される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本の国鉄の場合、過去には鉄道車両を(広義の)客車と貨車に大別していた。(広義の)客車には、(狭義の)客車、電車、気動車を含んでいたが、1956年(昭和31年)2月の車両称号規程改正で、広義の大分類を「旅客車」と改めた。したがってそれ以後は、客車とは自ら運転用の動力をもたない旅客車のみを指すことになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、軌道や架線の検査・測定を行う職用車や、救援車、配給車などの事業用車にも客車に分類されるものがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "いずれもプラットホームの低い線区で運転されることが多く、それに合わせたドアステップがついている車両が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": 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および一般形(旧型)客車の動態保存のためほぼ定期運転を行っている大井川鐵道大井川鐵道大井川本線の蒸気機関車牽引列車を除いて消滅した。なお、日本国内での国鉄形車両・国鉄形近縁車両によって運行される定期普通客車列車としては、国鉄14系客車を使用して運行され、2006年(平成18年)3月に運行を終了した樽見鉄道の定期列車が最後となっている。また季節限定であるが津軽鉄道では客車を3両保有しており、ダルマストーブ特徴の「ストーブ列車」として冬季運転がある。また、他に、定期的に運行している観光用列車として平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線などのトロッコ列車や伊予鉄道の坊ちゃん列車などの例がある。", "title": "日本の客車" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、寝台車を始め現存する客車についても、1999年(平成11年)にJR東日本が「カシオペア」に使用するために製造したE26系客車や、2013年(平成25年)にJR九州が「ななつ星 in 九州」に使用するために製造した77系客車、寝台車以外では2017年(平成29年)にJR西日本が「SLやまぐち号」に使用するために製造した35系客車4000番台を除いては、製造後30年以上が経過しており、旅客数の低下と老朽化が進行しているため、運転本数は減少傾向にある。なお、2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正で、急行「はまなす」が廃止されたため、JR線における定期客車列車は全廃された。", "title": "日本の客車" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)現在では上述の黒部峡谷鉄道、大井川鐵道のほかはSLの運転といったイベント時に運転する観光列車用に、ごく少数の車両が残るのみである。", "title": "日本の客車" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、米国など海外では、大都市近郊の地下鉄や通勤路線以外は、ほとんど客車列車で運行されているといった地域も散見される。また、自前で機関車を保有している事業者においては車両の購入費や維持費の面で気動車よりも有利なため、人件費の比較的安価な発展途上国では通勤路線でも客車列車を使っている場合が多く、日本からも廃車になった車齢の若い車両が輸出や無償提供されている。", "title": "日本の客車" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "歴史については鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車および鉄道車両の歴史#客車の発展も参照。", "title": "ヨーロッパの客車" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "欧州各国の鉄道では、客車は依然として幅広く使われているものの、21世紀に入ってから輌数を減らしている。", "title": "ヨーロッパの客車" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "イギリスなどを除く大陸ヨーロッパの場合、周辺国と地続きであるため鉄道網も複数の国々に跨って構築されている。しかし、国ごとに電化方式・複線区間の通行方向(右側・左側)・車体寸法・軌間・保安装置などがまちまちであるため、長年にわたり、路線の連絡部で機関車を付け替える客車方式が主流であった。", "title": "ヨーロッパの客車" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "近年では、大都市内やその近郊において通勤の利便性を高めるため、日本国内と同様に電車・気動車などの動力分散方式への移行が行われ、通勤形客車列車は少なくなりつつあり、ローカル線でも、合理化の一環として、低床式の新形気動車への置き換えが進んでいる。また、高速鉄道(ICE 3など)においても動力分散方式への移行等の理由により、客車が活躍する舞台は縮小している。例外的に複数の国をまたぐ国際長距離列車については前述の理由により、いまだに客車が主流である。", "title": "ヨーロッパの客車" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": 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{ "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "鉄道省が国鉄に変わった当時の列車のマークは、極東地域のシンボルマーク「第7軍第七軍」を流用し、絵本に忠実に描かれていた。出版社は『キンダーブック』誌からスピンオフした絵本を刊行し、日本画家の藤沢龍雄は「のりもの絵本」と呼ばれる分野に列車や汽車の表紙画を寄せた。葉山町議会議員の安井小弥太は青年期、藤沢に弟子入りし池袋モンパルナスに住んでキンダーブックや「コドモノトモ」などのシリーズから依頼を受け、C53を描いた『汽車 ノチシキ』は人気作であった。黒岩保美は戦後1950年(昭和25年)、湘南電車の塗装の色彩設計を手がけた国鉄職員で、1975年以降(昭和50年代)、宮脇俊三が著した列車絵本(「たくさんのふしぎ」シリーズ)に挿絵を提供、また鉄道70年記念の『日本の鉄道』誌の表紙に、黒岩自身が色を決めた湘南電車を描いている。", "title": "絵画の中の客車" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "脚注に使っていない資料。発行年順。", "title": "関連資料" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "児童書", "title": "関連資料" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一般書", "title": "関連資料" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "蒸気機関車と客車", "title": "関連資料" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "洋書", "title": "関連資料" } ]
客車(きゃくしゃ)とは、主に旅客を輸送するために用いられる鉄道車両である。座席車と寝台車を中心とするが、展望車、食堂車、荷物車、郵便車なども構造的には共通であり、旅客車と一体での運用も多いことから、これらも客車に分類される。 狭義では、機関車などにより牽引される無動力(動力集中方式)の旅客車両を指す。電車や気動車とは区別される。本稿では狭義の客車について記す。 同じく機関車に牽引される車両の中でも、貨物を運ぶ車両は貨車といい、客車とは区別される。
{{出典の明記|date=2019-08-10}} [[File:JNR suhafu32.jpg|thumb|200px|[[日本国有鉄道|国鉄]]時代の客車[[列車]]の一例、[[宗谷本線]]の[[普通列車]]。<br />旧型客車と呼ばれ、[[荷物車]]を含む さまざまの車両で[[編成 (鉄道)|編成]]された。]] '''客車'''(きゃくしゃ)とは、主に[[旅客]]を輸送するために用いられる[[鉄道車両]]である。[[座席車]]<ref>{{harvnb|『KSK技報』|1957|page=29-32}}</ref>と[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を中心とするが、[[展望車]]、[[食堂車]]、[[荷物車]]、[[郵便車]]なども構造的には共通であり、旅客車と一体での運用も多いことから、これらも客車に分類される。 狭義では、[[機関車]]などにより牽引される無動力([[動力集中方式]])の旅客車両を指す。[[電車]]や[[気動車]]とは区別される。本稿では'''狭義の客車'''について記す。 同じく機関車に牽引される車両の中でも、[[貨物]]を運ぶ車両は[[貨車]]といい、客車とは区別される。 == 概要 == 日本の国鉄の場合、過去には鉄道車両を(広義の)客車と貨車に大別していた。(広義の)客車には、(狭義の)客車、電車、気動車を含んでいたが、[[国鉄客車の車両形式#1955年改正|1956年(昭和31年)2月の車両称号規程改正]]で、広義の大分類を「旅客車」と改めた。したがってそれ以後は、客車とは自ら運転用の動力をもたない旅客車のみを指すことになった。 また、[[軌道 (鉄道)|軌道]]や[[架線]]の検査・測定を行う[[職用車]]や、[[救援車]]、[[配給車]]などの[[事業用車]]にも客車に分類されるものがある。 いずれも[[プラットホーム]]の低い線区で運転されることが多く、それに合わせたドア[[ステップ]]がついている車両が多い。 鉄道の黎明期においては、旅客輸送は[[蒸気機関車]]が客車を牽引する方式から始まり、その後自ら動力をもつ電車、気動車の出現後も長く旅客輸送の中心的役割を占めてきた([[鉄道車両の歴史]]、特に[[鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車|初期の客車と貨車]]を参照)。下記のような特徴の比較により[[動力分散方式]]が有利とみなされるようになってきて、日本においては特に[[動力近代化計画]]が進んだ1960(昭和35)年以降著しく減少している。一方で他国においてはその動向は国により大きく異なる(後述)。 == 特徴 == 動力分散方式([[電車]]・[[気動車]]・[[蒸気動車]]など)との比較では以下のようになる。[[動力集中方式#長所と短所]]も参照。 === 長所 === [[File:JRN PC24 HTS3 20061102 001.jpg|thumb|200px|比較的最近の日本の客車列車の一例<br />サービス電源の[[ジャンパ連結器|引き通し線]]や応荷重式[[自動空気ブレーキ]]をもつ、固定編成用車両を用いた[[寝台列車|寝台]][[特急列車|特急]][[北斗星 (列車)|北斗星]]]] * 自車で動力装置をもたないため、[[電車]]や[[気動車]]に比べ製造・保守コストが低い。 ** 上記の理由により、通年運行ではない(稼動日数の少ない)[[波動輸送]]用に適する。 ** 同様に、編成が長い場合、コスト的に有利になる。[[1975年]]([[昭和]]50年)ごろの日本の研究では以下の場合に有利になると算定されたことがある<ref>{{Harvtxt|『鉄道ピクトリアル』|2007|pp=10-12|loc=785号特集『50系客車』}}</ref>。 *** 直流電化区間では12両以上の場合。 *** 交流電化区間では10両以上の場合。 *** 非電化区間では5両以上の場合。 * 機関車の付け替えだけで電化区間([[交流]]・[[直流]]、[[周波数]]、[[電圧]]などの違い)・[[非電化]]区間を直通できる。このことは旅客車と比較して機動性が求められる郵便車と荷物車では特に有利である。 * [[電動機]]や[[機関 (機械)|エンジン]]がないため、騒音、振動が少ない(サービス電源用の[[発電機|発電セット]]をもつものや[[電源車]]を除く)。このことは静粛性が特に求められる[[夜行列車]]には有利である。 * 組成時の制限が少ない。 ** <!--旧型客車(ここでは、[[国鉄20系客車|20系客車]]以前に設計・製造された客車のこと)や[[国鉄50系客車|50系客車]]であれば と言うより、緩急車1両でOKな筈だが。-->最小1両単位での客車の編成が可能。<!--ただし、外国では、昔から固定編成でしか運用しないものも多い。 --> <!--** [[日本国有鉄道]]では、原則的にすべての車両規格を統一しており、その機関車・'''客車'''の形式等にこだわることなく、多様に編成した列車を運転することができた。そのため、[[国鉄12系客車|12系客車]]と明治時代の蒸気機関車を同時に連結したり、電車を改造して客車に、客車を改造して電車・気動車にするなどのことがあったが、現在では、[[JR]]各社やその編成、機関車、用途によって固定運用しかできないものも出できている。 これは歴史では?--> *重連運転などでない限り、連結器に隙間が多少あっても動力分散式に比べ衝撃が少なく乗り心地の点で有利。 **動力車が複数あるとどうしても動力車同士で速度の誤差が起き、加減速の度に連結器の隙間の分だけ動いて次の車両に当たり乗客が衝撃を感じるので具合が悪い。<br>このため日本では国鉄や大手私鉄は当初電車に自動連結器を採用したものの、後に専用の密着式連結器に変更している<ref>{{harvnb|朝倉|1980|page=100|loc=技術随筆 汽車の今昔14「17.連結器」}}</ref>。ただし、これらの長所は電車や気動車の性能の向上などに伴い、相対的に減少しつつある。 === 短所 === * 運転時分の短縮が難しい。 ** <!--性能が著しく向上した1990年代以降の//電車はこの注釈必要なし。気動車も、キハ181系登場時点。-->急勾配や急曲線に加え、高速通過が困難な[[分岐器]]が多く、[[鉄道駅|駅]]間距離も短い日本では、[[電車]]や[[気動車]]に比べると、[[起動加速度]]や[[鉄道のブレーキ|ブレーキ性能]]、勾配での[[均衡速度]]で劣る。この事から電車、気動車で組成された[[列車]]に追い越されることが多く、また[[ラッシュ時]]の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]に組み込むにも制約がある。 * [[機回し]]が必要で、折り返し時分の短縮が難しい。 ** 常に機関車を先頭にする必要があり、終着駅や[[スイッチバック]]での付け替えを要する。特に、2列車を1列車に併合する場合は、駅構内での[[入換 (鉄道)|入換]]が必要となり、時間がかかる。ただし、海外(特に[[ヨーロッパ|欧州]]・[[北アメリカ|北米]])の近距離列車などでは、一端に機関車を固定し、他端に連結された[[付随車|付随]][[制御車]]の[[操縦席#鉄道車両の運転席・運転台|運転台]]から制御できる=機関車を最後部にした「高速」[[推進運転]]ができる=ものが多く見られる。日本でも、速度域は低いが[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]の[[トロッコ列車|ノロッコ号]]用など、一部にこの方式を採用したものがある。特に欧州の車両は、日本や北米と[[連結器]]が異なるため、推進運転に適し、乗り心地、速度とも他の動力方式と比べ遜色はない。2列車を併結することもあり、その場合は、機関車 + 客車 + 機関車 + 客車のような編成となり、乗客の通り抜けはできない。また、機関車に申し訳程度の客室(一・二等合造の場合もある)をもつものがある。また編成の両端を機関車とし、機関車 + 客車 + 機関車とした編成も欧米を中心に存在するがこの場合、性能面ではおおむね動力分散方式に準ずる。 * [[ワンマン運転]]ができない。 ** これも、海外においては上記の折返し運転の事情と共通する。 * 電気運転の場合、[[回生ブレーキ]]の効率が悪い。(客車にモーターがないため) * 重量や[[活荷重|軸重]]の不均衡が大きい。 ** 機関車の重量によっては、軌道や橋梁の強化が必要になる場合がある。(日本の場合、構築物の耐震性を考慮する必要性が高い)しかし、許容の強度を満たしている場合、電車中心の運転の方がクリアランス悪化(狂い)が速い場合もある。 * 機関車の分だけ編成長が長くなる。 ** [[鉄道駅|駅]]、[[信号場]]、[[車両基地|操車場]]の[[有効長]]の延伸工事が必要になる場合がある。ただし、駅の場合は延伸工事をせず、[[ドアカット]]([[プラットホーム]]にかからないドアを開けない操作)で対応する事がある。 ** 短編成であるほど、列車長あたりの有効客室床面積の割合が低くなる。 * 車両の冷房化が困難である。 ** 客車でサービス電源の確保に長年使用されている[[車軸発電機]]では車両用クーラーを動作させることができないため、冷房専用の発電機を別途搭載する必要があるほか、発電機の容量によって編成の増減に制限がかかるため、客車の長所が相殺されてしまう。 ** 各車両に小型の発電機を搭載した上でクーラーを稼動させる方法もあるものの、冷房用とはいえすべての車両に発電機と燃料タンクを搭載するために気動車なみの維持コストがかかる。 ** 昭和初期に製造された客車の一部に車軸駆動式の冷房装置が搭載されたものがあるが、車軸駆動式ゆえに走行時に寒くなり、停車時に暑くなるなど、動作が不安定になりがちであり、お世辞にも快適とは言えなかった。 * 当然のことではあるが、牽引する機関車を別途手配する必要がある。客車区内ではこれに加えて入れ替え用の小型機関車も必要になることがある。 == 日本の客車 == {{Sound|Kyakusha-chime.ogg|Image:Kyakusha-chime.ogg|客車で使われている「ハイケンスのセレナーデ」を用いた車内チャイム}} {{see also|日本の客車史}} 日本では[[1960年]](昭和35年)から実施された[[動力近代化計画]]によって客車列車の淘汰が行なわれ、1975年(昭和50年)以降は{{要出典範囲|date=2017年5月12日 (金) 09:33 (UTC)|組合側の反対などによって}}<ref group="注釈">動力の種類によって[[動力車操縦者]]の免許、[[整備士|整備資格]]、配置区(主に一般形と急行形の気動車は機関区に、電車は電車区に配置される)が異なる。客車列車の電車・気動車化など動力方式の切り替えや新形車の導入のたび、[[リストラ]](職場や人員の整理)を推進したい本社や各[[鉄道管理局]]と、それによって雇用が脅かされるとする[[労働組合]]が対立し、折衝に多大な時間と労力を要するようになっていた。</ref>一時中断されたものの、[[1986年]](昭和61年)[[11月]]のダイヤ改正でに鉄道による郵便荷物輸送が廃止されたことなどから、残存していた定期客車列車は民営化以降に少数の[[寝台列車]]([[夜行列車]])を除き、電車や気動車に置き換えられて姿を消した。 JR旅客5社(国鉄分割民営化時点でもともと定期普通客車列車が存在しなかった[[東海旅客鉄道]]〈JR東海〉を除く)および私鉄での客車による定期普通列車は、車両限界などの特殊な事情をもつ[[大井川鐵道井川線]]・[[黒部峡谷鉄道]]と、[[蒸気機関車]] (SL) および一般形(旧型)客車の[[動態保存]]のためほぼ定期運転を行っている大井川鐵道[[大井川鐵道大井川本線]]の[[蒸気機関車牽引列車]]を除いて消滅した。なお、日本国内での国鉄形車両・国鉄形近縁車両によって運行される定期普通客車列車としては、[[国鉄14系客車]]を使用して運行され、[[2006年]]([[平成]]18年)[[3月]]に運行を終了した[[樽見鉄道樽見線|樽見鉄道]]の定期列車が最後となっている。また季節限定であるが[[津軽鉄道]]では客車を3両保有しており、[[ダルマストーブ]]特徴の「ストーブ列車」として冬季運転がある。また、他に、定期的に運行している観光用列車として[[平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線]]、[[嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線]]などのトロッコ列車や[[伊予鉄道]]の[[坊ちゃん列車]]などの例がある。 また、[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を始め現存する客車についても、[[1999年]](平成11年)に[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」に使用するために製造した[[JR東日本E26系客車|E26系客車]]や、[[2013年]](平成25年)に[[九州旅客鉄道|JR九州]]が「[[ななつ星 in 九州]]」に使用するために製造した[[JR九州77系客車|77系客車]]、寝台車以外では[[2017年]](平成29年)に[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が「[[SLやまぐち号]]」に使用するために製造した[[JR西日本35系客車|35系客車4000番台]]を除いては、製造後30年以上が経過しており、旅客数の低下と老朽化が進行しているため、運転本数は減少傾向にある。なお、[[2016年]](平成28年)[[3月26日]]のダイヤ改正で、<!---寝台特急「カシオペア」と・「カシオペア」は臨時列車扱いのため、コメントアウト--->[[急行列車|急行]]「[[はまなす (列車)|はまなす]]」が廃止されたため、'''JR線における定期客車列車'''は全廃された。 [[2020年]]([[令和]]2年)現在では上述の黒部峡谷鉄道、大井川鐵道のほかはSLの運転といったイベント時に運転する[[観光列車]]用に、ごく少数の車両が残るのみである。<!--とりわけJR東海は保有していた[[電気機関車]]を[[2009年]](平成21年)に全車廃車したことから、{{要出典|=同年[[6月30日]]付で同社管内への客車列車乗り入れを禁止するとJR各社に通告している。|date=2013年5月}}--> 一方、米国など海外では、大都市近郊の[[地下鉄]]や通勤路線以外は、ほとんど客車列車で運行されているといった地域も散見される。また、自前で機関車を保有している事業者においては車両の購入費や維持費の面で[[気動車]]よりも有利なため、[[人件費]]の比較的安価な[[開発途上国|発展途上国]]では通勤路線でも客車列車を使っている場合が多く、日本からも[[廃車 (鉄道)|廃車]]になった車齢の若い車両が輸出や無償提供されている。 <!--イタリア国鉄のユーロスターイタリアでは車両の中央部に一等席を置き、二等車座席との間にはガラスなどの透明な仕切りを設けている。--><!--ただし夜行列車では等級により大きく設備が異なるため、等級ごとに独立の客車を使用することが多い。たとえばオーストリア国鉄とドイツ鉄道が共同運航するシティナイトラインでは、シャワー設備をもつ二人定員個室の一等寝台から、一列に二座席を置く二等座席車までさまざまな設備の客車を連結する。?--> == ヨーロッパの客車 == ''歴史については[[鉄道車両の歴史#初期の客車と貨車]]および[[鉄道車両の歴史#客車の発展]]も参照。'' [[File:Austria cityshuttle 02.jpg|thumb|200px|[[オーストリア連邦鉄道]]のプッシュプル方式客車列車。最後部が機関車であり、最前部の運転台で制御。]] [[File:Orient.Express.in.Poland.02.jpg|thumb|200px|[[オリエント急行]]の[[バー (酒場)|バーカー]]]] [[ヨーロッパ|欧州]]各国の鉄道では、客車は依然として幅広く使われているものの、21世紀に入ってから輌数を減らしている。 [[イギリス]]などを除く[[大陸ヨーロッパ]]の場合、周辺国と地続きであるため鉄道網も複数の国々に跨って構築されている。しかし、国ごとに[[鉄道の電化|電化方式]]・[[複線]]区間の通行方向(右側・左側)・車体寸法・[[軌間]]・[[信号保安|保安装置]]などがまちまちであるため、長年にわたり{{いつ|date=2023年12月}}、路線の連絡部で機関車を付け替える客車方式が主流であった。 近年{{いつ|date=2023年12月}}では、大都市内やその近郊において通勤の利便性を高めるため、日本国内と同様に[[電車]]・[[気動車]]などの動力分散方式への移行が行われ、通勤形客車列車は少なくなりつつあり、[[ローカル線]]でも、[[合理化]]の一環として、[[低床式車両|低床式]]の新形気動車への置き換えが進んでいる。また、高速鉄道(ICE 3など)においても動力分散方式への移行等の理由により、客車が活躍する舞台は縮小している。例外的に複数の国をまたぐ国際長距離列車については前述の理由により、いまだに{{いつ|date=2023年12月}}客車が主流である。 日本の客車のような「固定編成客車」は少なく、1両単位で運用することが多い。専用の[[電源車]]をもつことは少なく、ほとんどの場合、電源は機関車から供給されるか、[[車軸発電機]]による給電である。 日本ではあまり一般的ではないが、運転台付の客車([[制御車]])を最後尾に連結し、客車側運転台からの遠隔操作により機関車が客車を押すような運転方法(ペンデルツーク:{{lang-de|[[:de:Pendelzug|Pendelzug]]}})も一般的である。またTGVや[[タリス]]などの高速列車では、客車に運転台を設ける代わりに[[プッシュプル列車|列車の前後に機関車を取り付け、運転時は前後の機関車を同調させる例]]もある。これらの方法により、駅での方向転換の際、機関車の付け替えを省略する。 国際列車を運転する観点から、欧州大陸の客車には、国際列車用の規格である「[[国際鉄道連合|UIC]]規格(あるいは「RIC規格」)」が存在する。また、国内用ではあるが、[[ダブルデッカー]]も数多く使用されている。 欧州大陸の客車のサイズは、車体長は日本の客車よりも大型で26.4m([[UIC-X]]、[[UIC-Z]]など)、あるいは24.5m([[UIC-Y]]など)のものが多く、軌間が広いこともあり車体幅も3mを超える一方で高さは、日本の客車とそれほど変わらない。 == 東南アジア諸国の客車 == [[東南アジア]]各国では、沢山の客車が活躍しており、電源車を含んだユニット編成の車両や気動車・電車の機関・電装品を解除した車両、1両単位で構成が可能な車両など種類は様々である。同地域へは、長い間日本から新車もしくは不要になった鉄道車両が輸出されているが、その中には多くの客車も含まれており、中古で輸出された客車には、使用先の軌間に合うように車軸を改造したうえで使われている車両も存在する。  == 絵画の中の客車 == === 絵本 === 鉄道省が国鉄に変わった当時の列車のマークは、極東地域のシンボルマーク「第7軍第七軍」を流用し、絵本に忠実に描かれていた<ref>{{Harvnb|関田|2009|page=13}}</ref>。出版社は『[[キンダーブック]]』誌からスピンオフした絵本を刊行し、[[日本画家]]の藤沢龍雄は「のりもの絵本」と呼ばれる分野に列車や汽車の表紙画を寄せた<ref name="sekita2009" />。[[葉山町議会]]議員の安井小弥太は青年期、藤沢に弟子入りし[[池袋モンパルナス]]に住んでキンダーブックや「コドモノトモ」などのシリーズから依頼を受け、[[国鉄C53形蒸気機関車|C53]]を描いた『汽車 ノチシキ』<ref>[[奈街三郎]]『汽車 : きしゃのちしき』安井小弥太(絵)、東京:二葉書房、1947年。全12p ; 37cm、マイクロ資料、{{近代デジタルライブラリー|8345575}}、国立国会図書館内公開。原資料所蔵機関:[[メリーランド大学]]、[[プランゲ文庫]]整理番号:520-257(絵本)。</ref>は人気作であった<ref>{{Harvnb|関田|2009|page=17}}</ref>。黒岩保美は戦後1950年(昭和25年)、湘南電車の塗装の色彩設計を手がけた国鉄職員<ref>{{Harvnb|関田|2009|page=12}}</ref>で、1975年以降(昭和50年代)、宮脇俊三が著した列車絵本(「[[たくさんのふしぎ]]」シリーズ)に挿絵を提供、また鉄道70年記念の『日本の鉄道』誌の表紙に、黒岩自身が色を決めた湘南電車を描いている<ref name="sekita2009">{{Harvnb|関田|2009|pages=19-20}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 参考文献 == 脚注に使用した典拠。主な執筆者、掲載誌順。 * {{cite journal|和書|author=朝倉希一|title=技術随筆 汽車の今昔14「17.連結器」|journal=鉄道ファン|volume=20|issue=第4号(通巻228号、雑誌06459-4)|publisher=交友社|date=1980-04|year=1980|ref={{harvid|朝倉|1980}}|pages=100}} * {{cite journal|和書|journal=KSK技報|title=ビルマ鉄道納優等座席車 |ref={{Harvid|『KSK技報』|1957}}|page=29-32(コマ番号0016.jp2)|location= 東京|publisher=汽車製造|date=1957-10|year=1957|volume=6|issue=4|doi= 10.11501/2323322}}国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|2323322/1/1}}、国立国会図書館/図書館送信参加館・個人送信限定。 * {{cite book|和書|author=関田克孝 |title=講演会「乗り物絵本の歴史と魅力」|publisher=国立国会図書館国際子ども図書館、国立国会図書館|year=2009|ref={{Harvid|関田|2009}} |date=2009年(平成21年)10月4日|format=PDF |url= htps://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info:ndljp/pid/1166392&bundleNo=1&contentNo=1|accessdate=2023-12-12}} 国立国会図書館デジタルコレクション(電子書籍・電子雑誌)。 * {{cite journal|和書|journal=鉄道ピクトリアル|publisher=電気車研究会|date=2007-02|year=2007|issue=785|ref={{harvid|『鉄道ピクトリアル』|2007}}|title= 特集『50系客車』}}<!--(RP785 と略す。なお同誌はこれ以外も必要に応じ、注において略号RPと通巻、頁で指示する。)--> == 関連項目 == {{div col||15em}} * [[交通博物館]] * [[国鉄客車の車両形式]] * [[車両基地]] * [[鉄道省]] * [[鉄道旅行]] * [[日本の客車史]] 鉄道関係者 * [[岡田信次|岡田 信次]](1898年-1986年) * [[黒岩保美]] [[湘南電車]]の色設計、特急「[[こだま (列車)|こだま」や新幹線]]の室内デザインを担当。絵本画家。 * [[平井喜久松|平井 喜久松]](1885年-1971年) * [[機械工学|機械工学者]] テレビ番組 * [[ぶらり駅弁味な旅]] * [[ぶらり途中下車の旅]] {{div col end}} == 関連資料 == 脚注に使っていない資料。発行年順。 === 客車全般の解説 === '''児童書''' * 新星出版社編集部 編『徹底図解鉄道のしくみ : カラー版』新星出版社、2006年。別題『The Visual Encyclopedia of Railroad』。 **「第1章 客車」32-34頁。 ***「旅客車の室内設備」86-87頁。 ***「車両の再利用」90-91頁。 **「第4章 コラム:[[ウィーン]]の鉄道車両環境試験装置」192-194頁。 '''一般書'''{{Div col|colwidth=30em}} ;写真 *『[[平凡社|太陽]]』1巻、明治28-36)、[[ジャパンナレッジ]] ** 「山陽鉄道ボギー客車」写真4点。 ** 「山陽鉄道会社二等ボギー客車」写真2点。 ;統計と技術、基本要項 * 鉄道省 編『鉄道統計資料』第2編(昭和元年)、鉄道省、1928年(昭和3年)。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|1022002}}、インターネット公開。{{Doi|10.11501/1022002}}。 ** 「3 工作§第1章 工場第3節 工場生産額 §§客車修繕両数表(工場及庫所別)(施行月別)」260-261頁(コマ番号148) ** 「工場主要新製物件表」264頁。 * 電気協会 編『電気鉄道車輛基本要項』第1輯、電気協会、1932年。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|1212669}}、国立国会図書館/図書館送信参加館・個人送信限定。 * 平井喜久松、岡田信次『鉄道工学』常磐書房 1934年、国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|1234935}}、国立国会図書館/図書館送信参加館・個人送信限定。 * [[朝倉希一|朝倉 希一]]『鉄道交通全書』第17巻上(1883-1978)、春秋社、1936年。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|1231050}}、国立国会図書館/図書館送信参加館・個人送信限定。 * 大阪鉄道局運転部客貨車課 編『綜合検車読本』検車界刊行会、1939年。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|1245982}}、国立国会図書館/図書館送信参加館・個人送信限定。 ;配置表 * 『国鉄車両配置表』1969年版、鉄道ピクトリアル編集部 編 鉄道図書刊行会、1969年。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|12060752}}、国立国会図書館/図書館送信参加館・個人送信限定。<br /> ;その他 * 東京鉄道局水戸運輸事務所 編『新規採用傭人教材』鉄道業務研究協会、1939年。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|1030106}}、インターネット公開。 * {{cite book|和書|title=電気鉄道ハンドブックchapter=3章 電気車の性能と制御§3.1 鉄道車両の種類と変遷|editor=電気鉄道ハンドブック編集委員会 |publisher=コロナ社|year=2007}} <nowiki>ISBN 9784339007879</nowiki>。コロナ社創立80周年記念出版「創立1927年」。 **「§§3.1.3 旅客車」111-113頁。 **索引「客車」、「寝台特急用客車」、904頁。passenger car。「連接式客車」915頁。 {{Div col end}}<br /> '''蒸気機関車と[[#ヨーロッパの客車|客車]]'''{{Div col|colwidth=30em}} * 鉄道ピクトリアル編集部 編『日本蒸気機関車特集集成』上・下巻、鉄道図書刊行会、1978年5月。国立国会図書館デジタルコレクション、{{近代デジタルライブラリー|12688052}}、国立国会図書館内公開。 *『蒸気機関車』小学館 1981年。 * 高畠潔『イギリスの鉄道のはなし』続、成山堂書店、2005年。<nowiki>ISBN 4-425-96101-3</nowiki>。 * [[ジョン・ウェストウッド]]『世界の鉄道の歴史図鑑』柊風舎、2010年。<nowiki>ISBN 978-4-903530-39-0</nowiki>。 *『世界の博物館』第8巻、講談社、1980年。 *デイヴィッド・ロス 編著『世界鉄道百科図鑑』悠書館、2007年。<nowiki>ISBN 978-4-903487-03-8</nowiki>。 *荒川好夫『蒸気機関車D51大事典』戎光祥出版、2014年。<nowiki>ISBN 978-4-86403-121-9</nowiki>。 {{Div col end}} '''洋書'''<br /> :イギリスで一般に使われる客車の構造。 *John Macaulay 監修、Cyril Hall 編. "Vehicle and Wagon Design and Construction". ''Modern Railway Working; a Practical Treatise''. {{en icon}} The Gresham Publishing、1912年-14年、第5巻、{{国立国会図書館書誌ID|000006470626}}、{{NCID|BA90858121}}、LC番号:13005480//r862。鉄道全般の論文を収録(全8巻)、[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000252394 国立国会図書館レフェレンス協同データベース]による。 == 外部リンク == 国立国会図書館[[レファレンス協同データベース]]事例より。 * [https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000070878 「あじあ号」に関する資料] [[南満洲鉄道]]の客車を解説する書籍2件を紹介。『おもいでの南満洲鉄道』(客室内・展望室の図版と写真、運行距離等車両構成)、『満鉄特急あじあ号』(空調ほか装置を詳述)。 [[#電車や列車の記号|記号の説明]] * [https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000052686 電車の車体表示「モ」や「サ」などの記号の説明] [[市川市中央図書館]]の調査、2008年2月1日。書籍2件を紹介。ネコ・パブリッシング『JR全車輛ハンドブック2001』、イカロス出版『鉄道マニアの基礎知識』。 * [https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000168625 電車や列車の記号で「EF」や「キハ」など記号のわかりやすい説明] [[吹田市立中央図書館]]の調査、2014年6月より。 [[高松琴平電気鉄道]] *[http://www.kotoden.co.jp/publichtm/kotoden/event/retro2018/index.html 大正時代の市電の客車] 。毎月1度のレトロ電車特別運行。2019年3月17日まで。 *[https://www.kotoden.co.jp/publichtm/kotoden/gallery/syaryo.htm ことでん車両図鑑] {{rail-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きやくしや}} [[Category:客車|*]]
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重祚
重祚(ちょうそ)とは践祚(せんそ)を重ねること。つまり退位した君主が再び践祚して君主になること。「じゅうそ」とも言う。 重祚した天皇は2人。退位した皇極天皇が重祚して斉明天皇に・退位した孝謙天皇が重祚して称徳天皇に成っている。 皇極天皇の場合は、子の中大兄皇子(天智天皇)の政治的思惑による時間稼ぎである。孝謙天皇の場合は自身の政治的思惑から皇位を譲った皇子(淳仁天皇)を廃位して重祚している。 後醍醐天皇は元弘の乱によって隠岐に配流となり、代わって光厳天皇(現在では北朝天皇とされている)が即位したものの、後に隠岐を脱出し帰京した後醍醐天皇によって光厳天皇の在位は否定された。光厳天皇の治世を挟んでの後醍醐天皇の前後2回の治世を重祚とみるかどうかは諸説がある。北朝を正統とする立場であっても、後醍醐天皇を重祚とするかどうかは歴史書によって異なり、光厳天皇の治世をはさんだ後醍醐天皇の重祚と見てこれを2代分に数える歴史書と、重祚とみなさず前後あわせて1代と数える歴史書とが併存している。一方、南朝を正統とする立場においては、隠岐に配流となっていた期間も後醍醐天皇の在位は継続しており重祚ではなく、光厳天皇の在位は無かったことになっている。ただし光厳天皇は建武政権においても上皇として処遇されていた。 明仁が2019年4月30日に退位し皇室典範制定後初の上皇となったが、天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条により、皇位継承権を有しないので重祚できない。 中国では、7世紀末から8世紀始めの、唐における武則天登位、建国(武周)の前後において、中宗・睿宗が即位後に武則天により退けられた。晩年の武則天による譲位で中宗が皇帝に復位し、中宗の後に睿宗が復位している。 また、明の英宗が土木の変でオイラト軍に囚われると、朝廷では弟の景泰帝を帝位につけ、帰還後の英宗は幽閉していた。後に奪門の変の結果、英宗は再度即位している。明の皇帝は一世一元の制があるため、元号を冠して呼ぶのが習いであるが(永楽帝など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため廟号で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて正統帝、天順帝と呼ぶ場合もある。 清朝の宣統帝は辛亥革命で退位した後に満洲国の皇帝に即位したが、形式上も実質的にも中国の支配をしていたわけではない(表向きには「満洲民族が独立国を作った」という形)ため、これは一般には重祚とみなされない。また、満洲国以前に清朝の再興と宣統帝の復位の企てがあったが、これは張勲復辟と呼ばれる。 朝鮮では、13世紀末から14世紀半ばの高麗が元の従属国化された時期に、元の宮廷の意向によりしばしば王位を王世子に譲らされたり復位させられたりした。このため、宮中の混乱と元への依存が深まり、王朝衰退の要因となった。 ベトナムでは、16世紀の黎朝後期に東京鄭氏の傀儡の淵皇帝・黎神宗が重祚している。 通常は重祚と呼ばれることはないが、その他の国々においても類例がある。
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重祚(ちょうそ)とは践祚(せんそ)を重ねること。つまり退位した君主が再び践祚して君主になること。「じゅうそ」とも言う。
'''重祚'''(ちょうそ)とは[[践祚]](せんそ)を重ねること<ref group="注釈">「践祚(せんそ)=事実上即位」と「即位=正式即位」とは別なのだが現在では同一視されている</ref><ref>天皇家系譜総覧(歴史読本)</ref>。つまり[[退位]]した[[君主]]が再び[[践祚]]して[[君主]]になること。「じゅうそ」とも言う。 == 日本の天皇 == 重祚した[[天皇]]は2人。退位した皇極天皇が重祚して[[斉明天皇]]に、退位した[[孝謙天皇]]が重祚して称徳天皇に成っている。 皇極天皇の場合は、子の中大兄皇子([[天智天皇]])の政治的思惑による時間稼ぎである。孝謙天皇の場合は自身の政治的思惑から皇位を譲った皇子([[淳仁天皇]])を[[廃帝|廃位]]して重祚している。 [[後醍醐天皇]]は[[元弘の乱]]によって[[隠岐諸島|隠岐]]に[[流罪|配流]]となり、代わって[[光厳天皇]](現在では[[北朝 (日本)|北朝]]天皇とされている)が即位したものの、後に隠岐を脱出し帰京した後醍醐天皇によって光厳天皇の在位は否定された。光厳天皇の治世を挟んでの後醍醐天皇の前後2回の治世を重祚とみるかどうかは諸説がある。北朝を正統とする立場であっても、後醍醐天皇を重祚とするかどうかは歴史書によって異なり、光厳天皇の治世をはさんだ後醍醐天皇の重祚と見てこれを2代分に数える歴史書と、重祚とみなさず前後あわせて1代と数える歴史書とが併存している。一方、[[南朝 (日本)|南朝]]を正統とする立場においては、隠岐に配流となっていた期間も後醍醐天皇の在位は継続しており重祚ではなく、光厳天皇の在位は無かったことになっている。ただし光厳天皇は建武政権においても[[太上天皇|上皇]]として処遇されていた。 [[上皇明仁|明仁]]が2019年4月30日に退位し[[皇室典範]]制定後初の[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となったが、[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]第3条により、皇位継承権を有しないので重祚できない。 == 中国の皇帝 == [[中国]]では、[[7世紀]]末から[[8世紀]]始めの、[[唐]]における[[武則天]]登位、建国([[武周]])の前後において、[[中宗 (唐)|中宗]]・[[睿宗 (唐)|睿宗]]が即位後に武則天により退けられた。晩年の武則天による譲位で中宗が皇帝に復位し、中宗の後に睿宗が復位している。 また、[[明]]の[[英宗 (明)|英宗]]が[[土木の変]]で[[オイラト]]軍に囚われると、朝廷では弟の[[景泰帝]]を帝位につけ、帰還後の英宗は幽閉していた。後に[[奪門の変]]の結果、英宗は再度即位している。明の皇帝は[[一世一元の制]]があるため、[[元号]]を冠して呼ぶのが習いであるが([[永楽帝]]など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため[[廟号]]で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて[[正統帝]]、[[天順帝]]と呼ぶ場合もある。 [[清]]朝の[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]は[[辛亥革命]]で退位した後に[[満洲国]]の皇帝に即位したが、形式上も実質的にも中国の支配をしていたわけではない(表向きには「満洲民族が独立国を作った」という形)ため、これは一般には重祚とみなされない。また、満洲国以前に清朝の再興と宣統帝の復位の企てがあったが、これは[[張勲復辟]]と呼ばれる。 == 朝鮮の王 == 朝鮮では、[[13世紀]]末から[[14世紀]]半ばの[[高麗]]が[[元 (王朝)|元]]の[[従属国]]化された時期に、元の宮廷の意向によりしばしば王位を[[王世子]]に譲らされたり復位させられたりした。このため、宮中の混乱と元への依存が深まり、王朝衰退の要因となった。 == ベトナムの皇帝 == ベトナムでは、[[16世紀]]の[[黎朝]]後期に[[東京鄭氏]]の傀儡の淵皇帝・黎神宗が重祚している。 == その他 == 通常は重祚と呼ばれることはないが、その他の国々においても類例がある。 *[[紀元前1世紀]]ユダヤのハスモン朝の王[[ヨハネ・ヒルカノス2世]]は、紀元前67年の即位直後に兄弟の[[アリストブロス2世]]のクーデターに敗れ退位する(紀元前66年)が、家来のアンティパトロス(後のヘロデ大王の父)は、彼を担いでローマのポンペイウス将軍とアリストブロス2世を攻撃して倒し、紀元前63年にヨハネ・ヒルカノス2世はもう一度王座についた。 *[[15世紀]]の[[スウェーデン]]において、[[カール8世 (スウェーデン王)|カール8世]]は宰相から王位に登ったが、[[クリスチャン1世 (デンマーク王)|クリスチャン1世]]や反対派の貴族・教会との抗争により2度追放を受け、2度復位した。 *[[17世紀]]末から[[18世紀]]初めの[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド=リトアニア]]において、[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]と[[スタニスワフ・レシチニスキ|スタニスワフ1世]]が王位を争い、結果として交互に2度王位についた。 *[[18世紀]]の[[スペイン・ブルボン朝]]初期において、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が幼い息子[[ルイス1世 (スペイン王)|ルイス1世]]に一旦譲位した後、ルイスの夭逝により復位した。 *[[第一次世界大戦]]期の[[ギリシャ王国]]において、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]が次男の[[アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)|アレクサンドロス1世]]に譲位して自身は亡命したが、アレクサンドロスの早世後に復位が認められた。ただし、その後再び退位・亡命している。 *20世紀前半の[[ルーマニア王国]]において、王位継承者であった父の継承権放棄と国外逃亡によって[[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]が王位につくものの、父が3年後に帰国し[[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]として王位につき、ミハイは退位させられた。その10年後にカロルは退位・亡命し、ミハイが復位した。 *[[カンボジア]]の[[ノロドム・シハヌーク]]は、1941年から1955年と1993年から2004年の2度にわたり王位についた。シハヌークは他にも生涯に数多くの政治的地位についており、[[ギネス世界記録|ギネスブック]]が「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家」と認定している。 *[[ネパール]]の[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]は、祖父の[[トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ|トリブバン]]が国政の実権を握る[[ラナ家]]と対立して1950年に一族を連れて[[インド]]に亡命した際に国内に取り残され、ラナ家によって新国王に擁立されたが、翌1951年国際社会の支持を受けたトリブバンが帰国するとギャネンドラは退位させられた。ところが、その50年後の2001年に発生した[[ネパール王族殺害事件]]で兄とその子供達が死亡したためにギャネンドラがその王位を継承する形で復位した。しかし、議会や国民との対立から「[[ロクタントラ・アンドラン]]」と呼ばれる民主化運動を招き、2008年に王制廃止・ギャネンドラの退位に至った。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[譲位]] *[[即位]]([[践祚]]) *[[退位]] {{DEFAULTSORT:ちようそ}} [[Category:王位継承]] [[Category:皇位継承]] [[als:Restauration]] [[ca:Restauració]] [[de:Restauration]] [[en:Restoration]] [[eu:Errestaurazio (argipena)]] [[fr:Restauration]] [[it:Restaurazione]] [[he:רסטורציה]] [[nl:Restauratie]] [[ru:Реставрация (значения)]] [[simple:Restoration]] [[sk:Reštaurácia]]
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救世軍
救世軍(きゅうせいぐん、英: The Salvation Army)は、キリスト教プロテスタントの一派、および慈善団体。 世界133の国と地域で伝道事業(宗教活動)、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進する。軍隊を模した組織が特徴で、クリスマスを中心とした年末に行われる募金活動「社会鍋」で有名。日本では1895年(明治28年)に伝来し、日本福音同盟に加盟している。 英語の「The Salvation Army」を「救世軍」と日本語に翻訳したのは尾崎行雄である。 プロテスタント諸派の一つでありながら、「小隊」と称する分教会を各地に持つ。 救世軍は、1865年にイギリスのメソジスト教会の牧師、ウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するために設立された。設立当初は「キリスト教伝道会」(東ロンドン伝道会)と称する超教派の伝道団体だったが、当時は教会が上流・中産階級のサロン的な場所となっており、庶民を教会に導いても伝道者や会員が受け入れに熱心ではなかった。そこで、「身分階級によらず、実績のみで評価される組織」として軍隊式の組織編制、メンバーの制服・制帽・階級章類の着用、軍隊用語の使用などを採用し、1878年に「救世軍」と改称した。改称に当たってウィリアムは「義勇軍に非ず、救いの軍なり(Not volunteer army, but Salvation army.)」という天啓を受けたという。1880年代に爆発的に教勢が伸張し、ブリテン諸島から海外に拡大した。改称に伴い、教理もメソジスト・ホーリネス色が濃いものとなっていく。 現在、救世軍は国際連合経済社会理事会 (ECOSOC) において1947年以降、特別協議資格を持つ国連NGOである。米国経済専門誌『フォーブス』の1997年8月11日号ではピーター・ドラッカーから「全米で最も効率の高い組織」として評価され、1991年と2004年にはノーベル平和賞候補に挙げられた。世界福音同盟の加盟団体でもあり、世界メソジスト会議(英語版)および世界教会協議会とも非加盟の提携関係にある。 全世界で1万2千ヵ所近くの社会福祉施設、教育機関、医療施設を運営している。 救世軍の軍旗「血と火」は「救いと聖潔(きよめ)」を意味し、救世軍のモットーでもある。 ウィリアム・ブースが1890年に著した『最暗黒の英国とその出路(In Darkest England and the Way Out)』は日本でも早くから知られ、片山潜や安部磯雄がこの書を手引きとして救世軍事業を視察したほか、1891年には植村正久がロンドンの救世軍本営を訪れてブースと面会した。また、慈善事業家の石井十次は濃尾地震に際して「東洋救世軍」なる団体を組織して救護活動を行っている。 救世軍の側でも1890年ごろから日本伝道を検討し、資金面・人材面での見通しが立った1895年7月にエドワード・ライト大佐以下14名を日本に派遣した。彼らは9月4日に和服姿で横浜港に上陸し、同月22日に東京神田の基督教青年会館で宣戦式を行った。その直後に入隊した山室軍平らにより大規模な伝道活動が行われ、廃娼運動を皮切りに、現在では医療施設や社会福祉施設の運営、他国の救世軍と連携しての内外の災害発生時の支援活動なども行っている。 他に著名な信徒・元信徒としては、自由民権運動家の村松愛蔵・落合寅市、ルーテル教会牧師の川瀬徳太郎(妻は板垣退助の孫)、元組合派牧師金森通倫(政治家の石破茂の曽祖父)、婦人民主クラブ呼びかけ人山室民子(軍平の長女)、聖書神学者渡辺善太、ヤマト運輸元社長小倉昌男、日本聖書協会副理事長朝野洋(救世軍中将、元日本軍国司令官)、伊藤富士雄(廃娼運動活動家・ゲイ雑誌『薔薇族』創刊者で元編集長の伊藤文學の祖父)、軍平の長男山室武甫およびその妻で作家の阿部光子、学校法人桜美林学園初代学園長清水郁子らがいる。 1906年、救世軍は東京の芝で貧者救済の観点から無料の職業紹介所を開いた。このことがきっかけで無料の公設職業紹介所が設置されるなど、第二次世界大戦以前の日本の労働行政に大きな影響を与えた。 当時日本の勢力下にあった朝鮮半島では1908年に活動が始まり、1928年ごろに京城府明治町(現在のソウル特別市明洞)で、社会鍋による募金活動が始まった。 1940年(昭和15年)に山室軍平中将が死去すると、憲兵隊により救世軍幹部らが取調べを受け(救世軍スパイ事件)、救世軍解散を迫られた。そこで、日本救世団と組織変更をすることになった。団長に日本救世軍士官学校校長だった渡辺林太郎が選出され、1940年9月23日に結団式が挙行された。1941年6月に日本基督教団が設立されると、第11部として加入した。また、救世軍士官学校は救世学院、東光学院への改称を経て1943年(昭和18年)に日本東部神学校に統合された。 1946年9月に日本基督教団を離脱して、救世軍が再建される。ロンドン万国本営との関係を回復する。1947年2月渡辺団長が死去するが、植村益蔵少将が日本救世軍司令官に就任して再建活動を展開する。士官学校の再開、『ときのこえ』の復刊、社会鍋、連隊制度などを復活させ今日に至る。 現在の救世軍の日本での活動は、東京都千代田区神田神保町二丁目に法人本部である「日本本営」を置いている。 1891年にウィリアム・ブースは著書『最暗黒の英国とその出路』を出版し、都市植民・農業植民・海外植民の三段階からなる社会改良計画を発表。10万ポンドの事業資金を公募し、大規模な社会福祉事業に着手した。 救世軍は、世界本部である「万国本営」をイギリスのロンドンに置き、最高会議において士官の中から選出される単独の最高指導者「大将」によって統率される。大将の任期は原則5年(70歳定年)で、2022年現在の大将は21代目のブライアン・ペドル。なお、創設当初から男女同権の思想が強く、女性の士官も多い。過去にも女性の大将が3名選出されている。 救世軍の法的根拠は、イギリス議会の個別法(Private Act of Parliament)である「規約証書」 「増補規約証書」 「1980年救世軍法」に規定され、その変更にはイギリス議会の承認を必要とする。 救世軍の組織統治は、信仰面においては、十一か条の「救世軍教理」とその公式解説書である「教理便覧」に示される基準に拠り、実行面においては、「軍令および軍律」とそれらを補足する「覚書」に示される基準に拠り、監督政治を通じて行われる。信仰上および実行上の逸脱に対しては、「兵籍調査会」・「士官審査会議」・「調査委員会」が行う審査に基づいて、公務禁止・停職・除名等の規律が執行される。 「教理便覧」と各種「軍令及び軍律」は、大将の権威によって発行され、随時改定される。 現在の日本の救世軍は、法的には以下の2つ(かつては3つ)の法人格で活動している。 2012年現在の代表者は日本軍国司令官・スティーブン・モーリス大佐(在任:2021年4月1日〜)。 書記長官(軍国司令官補佐役)は西村保大佐補(在任:2019年5月1日〜)。 日本では概ね5年に1回のペースで全国大会が開かれており(2005年、2010年など、年の末尾に0と5の付く年。但し2015年は開催されず、2016年に開催された)、組織に関する議論や決定が行われるほか、万国本営より大将や参謀総長らが呼ばれ、大規模な伝道集会が開かれている。伝道集会の説教者には軍外の人も呼ばれており、過去には村岡花子やミッション・バラバメンバーらが説教をしている。 下士官、兵士、準兵士、同友者は無給のボランティア(ただし例外として、准尉は下士官だが有給の専従職員となる)。士官(士官候補生および准尉を含む)、軍属、一部の軍友が宗教法人・社会福祉法人・財団法人の専従職員となる(これもまた軍隊に倣ったもの。士官は救世軍の活動を本業とする“職業軍人”、下士官までが生業を別に持つ“志願兵”)。また、準兵士以上の救世軍人同士は戦友 (comrade) と呼び合う。 その他、まだ信仰に至っていない求道者や、他の教団に所属するクリスチャンが客員として集っている小隊もある。又、地理的な事情(例:救世軍の小隊から遠く離れた地域に仕事などの理由で在住している)等で、他のキリスト教会に集っている救世軍メンバーも存在する。 出典:八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』189-191ページより この言葉は“WWW”(While Women Weep―女性が泣いている限り)として語り継がれている。 日本の連隊および、小隊の公式リストはこちらを参照。かつては福島県郡山市、東京都江東区、静岡県静岡市葵区、大阪府大阪市西成区、熊本県熊本市などにも小隊があった。岡山県笠岡市と広島県尾道市の小隊が合流して福山小隊になったという例もある。また、日本基督教団横田相愛教会(島根県仁多郡奥出雲町、旧救世軍横田小隊)などのように、戦後は日本基督教団に留まり救世軍に復帰(合流)しなかった教会(小隊)もある。 海外では大学などを運営している地域がある。イギリスには「万国士官学校」がある。 救世軍の教理は、穏健なウェスレー派の特色を持つ11か条の信仰告白によって規定されている。礼拝にはピアノやオルガンと共に、ブラスバンドが使用される(ミュージカル「ガイズ&ドールズ」でも取り上げられた)。路傍伝道ではタンバリンが使用されることもある。「軍歌」(救世軍用語。他派での讃美歌)は独自編集の「救世軍歌集」を使用。楽曲は他の教会賛美歌と重なる(日本では中田羽後編纂・翻訳の「聖歌」と日本基督教団「讃美歌」の両賛美歌集より抜粋)が、救世軍信徒による作詞・作曲の賛美歌もある。 聖別会(礼拝)の形式は一般のキリスト教会と同じく讃美歌、祈祷、説教などにより構成。礼拝時の挨拶では右手の人差し指で天を指し「ハレルヤ!」と挨拶をするのが定番。使徒信条の代わりとして、使徒信条にホーリネス的教理を加えた救世軍教理が読まれる。必ず信徒の「証言」の時間が設けられることが特徴。洗礼や聖餐式などの聖礼典は行なわない。これは救世軍が元々超教派の伝道団体で会員は原則として全員どこかの教会で既に洗礼を受けたクリスチャンであったことや、アルコールが入っているワインを使う聖餐を忌避したことに起因するが、現在は「形式主義を排するため」と説明されている。代わりに、礼拝後に愛餐会(食事会)がしばしば行われる。 洗礼は水を使わず、軍旗の下に会衆の前で信仰告白を行なう「入隊式」で代替する。入隊式を済ませた隊員(兵士)は他の教団・教会でもクリスチャンと認められ、プロテスタント教会での聖餐式も本人が希望すれば受けられる。 説教は単純であり、神学的理論よりも聖霊体験を重視する。礼拝の中心は「恵みの座」と呼ばれる木製ベンチでの祈りに置かれる。伝道方法、管理運営、財務、意志決定については、大将の権限によって発行される各種『軍令及び軍律』によって詳細に規定されている。 神学的にはメソジストやホーリネス運動を土台とする穏健な福音派であり、リベラルとファンダメンタリズムのちょうど中間に位置する。とはいえ特定の神学理論や聖書解釈を個々の信徒に押し付けることはなく、リベラルで社会派的傾向を支持する信徒もいれば、逐語霊感説や千年王国論を支持する保守派の信徒もいる(ただし、救世軍全体の公式見解では逐語霊感説はとらず、また「キリスト教以外の宗教にも敬意を持って接し、一定の知識を得るように学ぶこと」とされている)。 活動には多くの軍隊用語が使われており、伝道開始を「開戦」、路傍伝道を「野戦」、夜の路傍伝道を「夜襲」、連隊が隷下各小隊の状況を調査することを「検閲」と呼ぶ。かつては月定献金を「弾薬金」と呼んでいた。 毎週日曜の聖別会以外には、日曜学校、救霊会(伝道集会)、聖書研究会、祈祷会、家庭団集会(女性向けの集会)、柏寿会集会(高齢者の集会)などが行われている。 信徒の生活規律は厳しく、特に禁酒・禁煙は絶対とされている(これはアルコール依存症者の回復支援をしているためと、飲酒・喫煙を近代の社会悪の象徴ととらえているためである)。また、ポルノや性風俗、開放的な性生活、人工妊娠中絶、ギャンブル、薬物・ドラッグの摂取なども忌避する傾向にある。 同性愛者などのセクシャルマイノリティーに対しても非容認的態度を示す。このため、アメリカでは同性愛者の社会的権利を保障する地方自治体の条例への対立から、救世軍が地方自治体から受けていた社会福祉事業の委託契約を打ち切られ、これに対して万国本営も同様の条例を持つ地方自治体との委託契約には一切応じてはならないという方針をアメリカの各軍国に命じるという事例が発生している。 士官は士官同士でしか結婚できない。このため既婚者が士官となるには、夫婦揃って士官学校(神学校)に入る必要がある。過去には、士官夫妻の妻には夫の階級の後に「夫人」とつけて呼ばれていた(例: 少佐の妻は「少佐夫人」)が、1996年からは階級の異なる士官が結婚した場合、本来の奉仕年限に関わらず下級者は昇進するようになった(例: 中尉と大尉が結婚した場合、夫婦両方が大尉になる)。2001年以降は、夫婦であっても階級は奉仕年限によるように制度が改訂された。例外が大将の配偶者で、中将の階級になる。 社会福祉活動には極めて熱心であり、キリスト教界随一と言われる。上意下達の軍隊式組織により高い活動効率を誇る。現在は医療福祉、老人・障害者・児童福祉、ホームレス支援の炊き出しや施設運営などが中心。そのほかでは災害救援の対応も早く、阪神・淡路大震災の際は、キリスト教系団体の中では最も早くボランティアを組織し駆けつけた。新潟県中越沖地震や、東日本大震災の際にも、ボランティアが給食活動などを行っている。また、海外では医科大学や、幼稚園の運営といった教育活動も盛んに行っている。募金活動の1つで年末に行われる社会鍋は、季語になるほど有名。バザーも頻繁に行なっており、東京などでは専用の会場で常時開催されている。収益金は全て寄付に回される。かつては職業紹介や失踪者捜索など、現在は行政や警察が主体となっている活動も行っていた。 政治との関わりを嫌い、政党の党員は士官学校に入れない。戦争などについては、兵士のメンタルケアやカウンセリングには熱心だが、戦争そのものを止めるためには動かない。また、貧困についても救援物資の調達・配布には熱心だが、行政への働きかけなど、貧困脱出への具体的な施策は行なわない、とされる。もっとも海外においては、イギリスやカナダの本営がイラク戦争反対や、核兵器廃絶を願う信仰告白を発表するなど、若干の軌道修正が見られる。 日本では、戦前に山室軍平が宗教団体法に賛成した事や、満蒙開拓移民政策に関わっていたこと、太平洋戦争を「海外伝道の良い機会である」と肯定的に捉えていた事、更には機関紙「ときのこえ」が元号表示だったり、1980年代までは皇族の誕生日のたびに、祝いの言葉を機関紙「ときのこえ」の1面に載せていたため、戦争責任を問う意見や、右翼的・保守的だという評価もある。しかし、1940年に軍平の著書『平民の福音』が発禁処分となり、イギリス人宣教師と植村益蔵ら、日本人士官がスパイ容疑で逮捕されたり、「皇軍以外で『軍』を名乗る組織が存在することは認められない」という理由で「日本救世団」に強制改称させられ、最終的には日本基督教団に吸収され、事実上の解散状態に追い込まれたなどの経験から、実際には右翼的潮流に与することは余りない。 2008年10月2日には、国際社会正義委員会が軍内に設立され、社会問題についても積極的に取り組むことが表明された。 日本本営は、かつてはリベラル派の日本キリスト教協議会 (NCC) (世界教会協議会〈WCC〉、エキュメニカル系)に加盟していたが、「活動内容が政治的過ぎる」と脱退。しばらく日本キリスト教連合会のみに加盟していたが、万国本営の勧めで福音派の日本福音同盟(JEA、世界福音同盟系)に加盟。しかしアジアキリスト教協議会への加盟や「世界祈祷日」(毎年3月第1金曜日)への協力など、NCCとの連携は現在も続いている。 かつての制服は、救世軍が発足した当時のイギリス軍の軍服を模したデザインであり、詰襟だった。 現在は、黒に近い濃紺(地域等により白・グレー・ベージュの場合もある)のシングルブレスト開襟で、男性はワイシャツにネクタイ着用、女性はブラウスの襟元に救世軍のマークのブローチ着用というブレザーに近いデザインのものとなっている(夏服として半袖または長袖のワイシャツ・ブラウスにネクタイかブローチ着用、もしくは開襟というスタイルも存在する)。 士官は原則として、制服の常時着用義務がある。下士官・兵士については、以前は士官と同じく制服の常時着用義務があったが、現在は大会や伝道集会などを除いては「推奨」にとどめ、普段着での集会参加を容認している。 制服の肩章と襟章(夏服のシャツ・ブラウスは肩章のみ)が階級章であり、士官の肩章と襟章は赤地、下士官・兵士の肩章と襟章は青地または黒地で肩章に入るマークが階級により異なる(襟章に入るマークは同じ軍国の中では全階級共通)。 なお、制帽の帽章はクレスト(救世軍の紋章)を用いており、鉢巻部分には活動地域の言語で「救世軍」の文字が入っている。 救世軍人が制服を着用することは、「神の愛に生きる誓いの証し」という意味を持つ。また、特に救世軍発足当初の女性の救世軍人の制服着用には、酒場などで伝道活動を行う際に、娼婦と間違われることを避けるという意味もあった。 制服は日本では需要の絶対数からオーダーメイドであり、一式で8万円前後だが、発祥の地であるイギリスや活動が盛んな欧米では、既製品が日本に比べて安価(日本円に換算して一式で3万円ほど)で販売されており、インターネットでの通信販売も行なわれている。 軍服調の制服・制帽の着用や軍隊調の用語の使用は、外部者には一見特異に映るが、礼拝の形式・内容は一般的なメソジスト教会と同様のものである。極一部に、「カルト宗教ではないのか」という誤解もあるが、キリスト教界において異端や、カルトとして扱われることはなく、社会的にも宗教組織というよりはキリスト教系の社会福祉団体や、NGOの一種と見なされることが多く、欧米では救世軍への寄付が控除対象となる国が多い。販促キャンペーンを利用して、膨大なマイレージサービスのポイントを獲得したデヴィッド・フィリップスは、期限内にプリンの包装からバーコードを剥がすため、救世軍やフードバンクにプリンを持ち込み、プリンを寄付する代わりに作業を手伝ってもらったことで、結果として815ドル分の控除を受けた。 一方で酒類や売春への態度から、アルコールや性産業には嫌悪する者もおり、イングランドでは骸骨団 (Skeleton Army) と呼ばれる団体が、街頭活動を行っている救世軍人に、妨害や暴力行為をしていた。実態は酒場や娼館の経営者に雇われたゴロツキであり、デモ隊を結成しての示威活動などで、警官との衝突も発生していた。日本でも過去には、廃娼運動を行っていた救世軍人(伊藤文學の祖父・富士雄など)が、遊廓経営者に雇われたヤクザに襲われ重傷を負うという事件が起きている。 日本最北の遠軽小隊(1913年設立)が置かれている北海道紋別郡遠軽町の北海道道社名淵瀬戸瀬停車場線には、救世軍にちなんで命名された「救世橋」がある。同小隊初代小隊長の田中弥三郎大尉が1915年、私財を投じて湧別川に建設したもので、北海道が建設した現在の5代目の橋にもその名が受け継がれている。
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"1946年9月に日本基督教団を離脱して、救世軍が再建される。ロンドン万国本営との関係を回復する。1947年2月渡辺団長が死去するが、植村益蔵少将が日本救世軍司令官に就任して再建活動を展開する。士官学校の再開、『ときのこえ』の復刊、社会鍋、連隊制度などを復活させ今日に至る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在の救世軍の日本での活動は、東京都千代田区神田神保町二丁目に法人本部である「日本本営」を置いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1891年にウィリアム・ブースは著書『最暗黒の英国とその出路』を出版し、都市植民・農業植民・海外植民の三段階からなる社会改良計画を発表。10万ポンドの事業資金を公募し、大規模な社会福祉事業に着手した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "救世軍は、世界本部である「万国本営」をイギリスのロンドンに置き、最高会議において士官の中から選出される単独の最高指導者「大将」によって統率される。大将の任期は原則5年(70歳定年)で、2022年現在の大将は21代目のブライアン・ペドル。なお、創設当初から男女同権の思想が強く、女性の士官も多い。過去にも女性の大将が3名選出されている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "救世軍の法的根拠は、イギリス議会の個別法(Private Act of Parliament)である「規約証書」 「増補規約証書」 「1980年救世軍法」に規定され、その変更にはイギリス議会の承認を必要とする。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "救世軍の組織統治は、信仰面においては、十一か条の「救世軍教理」とその公式解説書である「教理便覧」に示される基準に拠り、実行面においては、「軍令および軍律」とそれらを補足する「覚書」に示される基準に拠り、監督政治を通じて行われる。信仰上および実行上の逸脱に対しては、「兵籍調査会」・「士官審査会議」・「調査委員会」が行う審査に基づいて、公務禁止・停職・除名等の規律が執行される。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「教理便覧」と各種「軍令及び軍律」は、大将の権威によって発行され、随時改定される。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現在の日本の救世軍は、法的には以下の2つ(かつては3つ)の法人格で活動している。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2012年現在の代表者は日本軍国司令官・スティーブン・モーリス大佐(在任:2021年4月1日〜)。 書記長官(軍国司令官補佐役)は西村保大佐補(在任:2019年5月1日〜)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本では概ね5年に1回のペースで全国大会が開かれており(2005年、2010年など、年の末尾に0と5の付く年。但し2015年は開催されず、2016年に開催された)、組織に関する議論や決定が行われるほか、万国本営より大将や参謀総長らが呼ばれ、大規模な伝道集会が開かれている。伝道集会の説教者には軍外の人も呼ばれており、過去には村岡花子やミッション・バラバメンバーらが説教をしている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "下士官、兵士、準兵士、同友者は無給のボランティア(ただし例外として、准尉は下士官だが有給の専従職員となる)。士官(士官候補生および准尉を含む)、軍属、一部の軍友が宗教法人・社会福祉法人・財団法人の専従職員となる(これもまた軍隊に倣ったもの。士官は救世軍の活動を本業とする“職業軍人”、下士官までが生業を別に持つ“志願兵”)。また、準兵士以上の救世軍人同士は戦友 (comrade) と呼び合う。", "title": "メンバーの階級" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その他、まだ信仰に至っていない求道者や、他の教団に所属するクリスチャンが客員として集っている小隊もある。又、地理的な事情(例:救世軍の小隊から遠く離れた地域に仕事などの理由で在住している)等で、他のキリスト教会に集っている救世軍メンバーも存在する。", "title": "メンバーの階級" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "出典:八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』189-191ページより", "title": "メンバーの階級" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この言葉は“WWW”(While Women Weep―女性が泣いている限り)として語り継がれている。", "title": "創立者の言葉" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本の連隊および、小隊の公式リストはこちらを参照。かつては福島県郡山市、東京都江東区、静岡県静岡市葵区、大阪府大阪市西成区、熊本県熊本市などにも小隊があった。岡山県笠岡市と広島県尾道市の小隊が合流して福山小隊になったという例もある。また、日本基督教団横田相愛教会(島根県仁多郡奥出雲町、旧救世軍横田小隊)などのように、戦後は日本基督教団に留まり救世軍に復帰(合流)しなかった教会(小隊)もある。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "海外では大学などを運営している地域がある。イギリスには「万国士官学校」がある。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "救世軍の教理は、穏健なウェスレー派の特色を持つ11か条の信仰告白によって規定されている。礼拝にはピアノやオルガンと共に、ブラスバンドが使用される(ミュージカル「ガイズ&ドールズ」でも取り上げられた)。路傍伝道ではタンバリンが使用されることもある。「軍歌」(救世軍用語。他派での讃美歌)は独自編集の「救世軍歌集」を使用。楽曲は他の教会賛美歌と重なる(日本では中田羽後編纂・翻訳の「聖歌」と日本基督教団「讃美歌」の両賛美歌集より抜粋)が、救世軍信徒による作詞・作曲の賛美歌もある。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "聖別会(礼拝)の形式は一般のキリスト教会と同じく讃美歌、祈祷、説教などにより構成。礼拝時の挨拶では右手の人差し指で天を指し「ハレルヤ!」と挨拶をするのが定番。使徒信条の代わりとして、使徒信条にホーリネス的教理を加えた救世軍教理が読まれる。必ず信徒の「証言」の時間が設けられることが特徴。洗礼や聖餐式などの聖礼典は行なわない。これは救世軍が元々超教派の伝道団体で会員は原則として全員どこかの教会で既に洗礼を受けたクリスチャンであったことや、アルコールが入っているワインを使う聖餐を忌避したことに起因するが、現在は「形式主義を排するため」と説明されている。代わりに、礼拝後に愛餐会(食事会)がしばしば行われる。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "洗礼は水を使わず、軍旗の下に会衆の前で信仰告白を行なう「入隊式」で代替する。入隊式を済ませた隊員(兵士)は他の教団・教会でもクリスチャンと認められ、プロテスタント教会での聖餐式も本人が希望すれば受けられる。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "説教は単純であり、神学的理論よりも聖霊体験を重視する。礼拝の中心は「恵みの座」と呼ばれる木製ベンチでの祈りに置かれる。伝道方法、管理運営、財務、意志決定については、大将の権限によって発行される各種『軍令及び軍律』によって詳細に規定されている。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "神学的にはメソジストやホーリネス運動を土台とする穏健な福音派であり、リベラルとファンダメンタリズムのちょうど中間に位置する。とはいえ特定の神学理論や聖書解釈を個々の信徒に押し付けることはなく、リベラルで社会派的傾向を支持する信徒もいれば、逐語霊感説や千年王国論を支持する保守派の信徒もいる(ただし、救世軍全体の公式見解では逐語霊感説はとらず、また「キリスト教以外の宗教にも敬意を持って接し、一定の知識を得るように学ぶこと」とされている)。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "活動には多くの軍隊用語が使われており、伝道開始を「開戦」、路傍伝道を「野戦」、夜の路傍伝道を「夜襲」、連隊が隷下各小隊の状況を調査することを「検閲」と呼ぶ。かつては月定献金を「弾薬金」と呼んでいた。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "毎週日曜の聖別会以外には、日曜学校、救霊会(伝道集会)、聖書研究会、祈祷会、家庭団集会(女性向けの集会)、柏寿会集会(高齢者の集会)などが行われている。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "信徒の生活規律は厳しく、特に禁酒・禁煙は絶対とされている(これはアルコール依存症者の回復支援をしているためと、飲酒・喫煙を近代の社会悪の象徴ととらえているためである)。また、ポルノや性風俗、開放的な性生活、人工妊娠中絶、ギャンブル、薬物・ドラッグの摂取なども忌避する傾向にある。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同性愛者などのセクシャルマイノリティーに対しても非容認的態度を示す。このため、アメリカでは同性愛者の社会的権利を保障する地方自治体の条例への対立から、救世軍が地方自治体から受けていた社会福祉事業の委託契約を打ち切られ、これに対して万国本営も同様の条例を持つ地方自治体との委託契約には一切応じてはならないという方針をアメリカの各軍国に命じるという事例が発生している。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "士官は士官同士でしか結婚できない。このため既婚者が士官となるには、夫婦揃って士官学校(神学校)に入る必要がある。過去には、士官夫妻の妻には夫の階級の後に「夫人」とつけて呼ばれていた(例: 少佐の妻は「少佐夫人」)が、1996年からは階級の異なる士官が結婚した場合、本来の奉仕年限に関わらず下級者は昇進するようになった(例: 中尉と大尉が結婚した場合、夫婦両方が大尉になる)。2001年以降は、夫婦であっても階級は奉仕年限によるように制度が改訂された。例外が大将の配偶者で、中将の階級になる。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "社会福祉活動には極めて熱心であり、キリスト教界随一と言われる。上意下達の軍隊式組織により高い活動効率を誇る。現在は医療福祉、老人・障害者・児童福祉、ホームレス支援の炊き出しや施設運営などが中心。そのほかでは災害救援の対応も早く、阪神・淡路大震災の際は、キリスト教系団体の中では最も早くボランティアを組織し駆けつけた。新潟県中越沖地震や、東日本大震災の際にも、ボランティアが給食活動などを行っている。また、海外では医科大学や、幼稚園の運営といった教育活動も盛んに行っている。募金活動の1つで年末に行われる社会鍋は、季語になるほど有名。バザーも頻繁に行なっており、東京などでは専用の会場で常時開催されている。収益金は全て寄付に回される。かつては職業紹介や失踪者捜索など、現在は行政や警察が主体となっている活動も行っていた。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "政治との関わりを嫌い、政党の党員は士官学校に入れない。戦争などについては、兵士のメンタルケアやカウンセリングには熱心だが、戦争そのものを止めるためには動かない。また、貧困についても救援物資の調達・配布には熱心だが、行政への働きかけなど、貧困脱出への具体的な施策は行なわない、とされる。もっとも海外においては、イギリスやカナダの本営がイラク戦争反対や、核兵器廃絶を願う信仰告白を発表するなど、若干の軌道修正が見られる。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本では、戦前に山室軍平が宗教団体法に賛成した事や、満蒙開拓移民政策に関わっていたこと、太平洋戦争を「海外伝道の良い機会である」と肯定的に捉えていた事、更には機関紙「ときのこえ」が元号表示だったり、1980年代までは皇族の誕生日のたびに、祝いの言葉を機関紙「ときのこえ」の1面に載せていたため、戦争責任を問う意見や、右翼的・保守的だという評価もある。しかし、1940年に軍平の著書『平民の福音』が発禁処分となり、イギリス人宣教師と植村益蔵ら、日本人士官がスパイ容疑で逮捕されたり、「皇軍以外で『軍』を名乗る組織が存在することは認められない」という理由で「日本救世団」に強制改称させられ、最終的には日本基督教団に吸収され、事実上の解散状態に追い込まれたなどの経験から、実際には右翼的潮流に与することは余りない。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2008年10月2日には、国際社会正義委員会が軍内に設立され、社会問題についても積極的に取り組むことが表明された。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本本営は、かつてはリベラル派の日本キリスト教協議会 (NCC) (世界教会協議会〈WCC〉、エキュメニカル系)に加盟していたが、「活動内容が政治的過ぎる」と脱退。しばらく日本キリスト教連合会のみに加盟していたが、万国本営の勧めで福音派の日本福音同盟(JEA、世界福音同盟系)に加盟。しかしアジアキリスト教協議会への加盟や「世界祈祷日」(毎年3月第1金曜日)への協力など、NCCとの連携は現在も続いている。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "かつての制服は、救世軍が発足した当時のイギリス軍の軍服を模したデザインであり、詰襟だった。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現在は、黒に近い濃紺(地域等により白・グレー・ベージュの場合もある)のシングルブレスト開襟で、男性はワイシャツにネクタイ着用、女性はブラウスの襟元に救世軍のマークのブローチ着用というブレザーに近いデザインのものとなっている(夏服として半袖または長袖のワイシャツ・ブラウスにネクタイかブローチ着用、もしくは開襟というスタイルも存在する)。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "士官は原則として、制服の常時着用義務がある。下士官・兵士については、以前は士官と同じく制服の常時着用義務があったが、現在は大会や伝道集会などを除いては「推奨」にとどめ、普段着での集会参加を容認している。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "制服の肩章と襟章(夏服のシャツ・ブラウスは肩章のみ)が階級章であり、士官の肩章と襟章は赤地、下士官・兵士の肩章と襟章は青地または黒地で肩章に入るマークが階級により異なる(襟章に入るマークは同じ軍国の中では全階級共通)。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なお、制帽の帽章はクレスト(救世軍の紋章)を用いており、鉢巻部分には活動地域の言語で「救世軍」の文字が入っている。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "救世軍人が制服を着用することは、「神の愛に生きる誓いの証し」という意味を持つ。また、特に救世軍発足当初の女性の救世軍人の制服着用には、酒場などで伝道活動を行う際に、娼婦と間違われることを避けるという意味もあった。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "制服は日本では需要の絶対数からオーダーメイドであり、一式で8万円前後だが、発祥の地であるイギリスや活動が盛んな欧米では、既製品が日本に比べて安価(日本円に換算して一式で3万円ほど)で販売されており、インターネットでの通信販売も行なわれている。", "title": "信仰と実行" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "軍服調の制服・制帽の着用や軍隊調の用語の使用は、外部者には一見特異に映るが、礼拝の形式・内容は一般的なメソジスト教会と同様のものである。極一部に、「カルト宗教ではないのか」という誤解もあるが、キリスト教界において異端や、カルトとして扱われることはなく、社会的にも宗教組織というよりはキリスト教系の社会福祉団体や、NGOの一種と見なされることが多く、欧米では救世軍への寄付が控除対象となる国が多い。販促キャンペーンを利用して、膨大なマイレージサービスのポイントを獲得したデヴィッド・フィリップスは、期限内にプリンの包装からバーコードを剥がすため、救世軍やフードバンクにプリンを持ち込み、プリンを寄付する代わりに作業を手伝ってもらったことで、結果として815ドル分の控除を受けた。", "title": "社会的認知" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一方で酒類や売春への態度から、アルコールや性産業には嫌悪する者もおり、イングランドでは骸骨団 (Skeleton Army) と呼ばれる団体が、街頭活動を行っている救世軍人に、妨害や暴力行為をしていた。実態は酒場や娼館の経営者に雇われたゴロツキであり、デモ隊を結成しての示威活動などで、警官との衝突も発生していた。日本でも過去には、廃娼運動を行っていた救世軍人(伊藤文學の祖父・富士雄など)が、遊廓経営者に雇われたヤクザに襲われ重傷を負うという事件が起きている。", "title": "社会的認知" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本最北の遠軽小隊(1913年設立)が置かれている北海道紋別郡遠軽町の北海道道社名淵瀬戸瀬停車場線には、救世軍にちなんで命名された「救世橋」がある。同小隊初代小隊長の田中弥三郎大尉が1915年、私財を投じて湧別川に建設したもので、北海道が建設した現在の5代目の橋にもその名が受け継がれている。", "title": "社会的認知" } ]
救世軍は、キリスト教プロテスタントの一派、および慈善団体。 世界133の国と地域で伝道事業(宗教活動)、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進する。軍隊を模した組織が特徴で、クリスマスを中心とした年末に行われる募金活動「社会鍋」で有名。日本では1895年(明治28年)に伝来し、日本福音同盟に加盟している。 英語の「The Salvation Army」を「救世軍」と日本語に翻訳したのは尾崎行雄である。 プロテスタント諸派の一つでありながら、「小隊」と称する分教会を各地に持つ。
{{出典の明記|date=2017-09}} {{基礎情報 非営利団体 | 名称 = 救世軍 | ロゴ = Vexillum exercitus salvationis.png | 画像 = Salvation Army Japanese Headquarters 2023-05-18.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 救世軍日本本営 | 創立者 = [[ウィリアム・ブース]] | 団体種類 = [[宗教法人|包括宗教法人]]{{Sfn|宗教年鑑平成28年版|p=121}} | 設立 = [[1865年]] | 所在地 = 東京都千代田区神田神保町2-17{{Sfn|宗教年鑑平成28年版|p=121}} | 主要人物 = [[スティーブン・モーリス]](日本司令官)<ref name="名前なし-1">『ときのこえ』2021年1月15日号</ref> | 活動地域 = 全世界 | 活動内容 = | ボランティア人数 = | 従業員数 = 約1,650,000人 | 聖職者数 = 約30,000人 | 親団体 = | 子団体 = | 所有者 = | ウェブサイト = http://www.salvationarmy.org/ | 法人番号 = 2010005000538 | 特記事項 = }} <!--{{The Salvation Army}}--> '''救世軍'''(きゅうせいぐん、{{Lang-en-short|The Salvation Army}})は、[[キリスト教]][[プロテスタント]]の一派、および慈善団体。 世界133の国と地域<ref>{{Cite web|和書|title=救世軍のなりたち|url=https://www.salvationarmy.or.jp/about/history|website=救世軍|accessdate=2022-08-25|language=ja}}</ref>で[[伝道]]事業([[宗教]]活動)、[[福祉|社会福祉]]事業、[[教育]]事業、[[医療]]事業を推進する。[[軍隊]]を模した[[組織 (社会科学)|組織]]が特徴で、[[クリスマス]]を中心とした[[年末年始|年末]]に行われる募金活動「[[社会鍋]]」で有名。[[日本]]では[[1895年]](明治28年)に伝来し、[[日本福音同盟]]に加盟している。 英語の「The Salvation Army」を「救世軍」と日本語に[[翻訳]]したのは[[尾崎行雄]]である<ref>「ときのこえ」第2611号(2011年11月1日)1面より</ref>。 プロテスタント諸派の一つでありながら、「小隊」と称する分教会を各地に持つ。 == 概要 == [[ファイル:Williambooth.jpg|180px|thumb|創立者[[ウィリアム・ブース]]]] 救世軍は、[[1865年]]に[[イギリス]]の[[メソジスト]]教会の[[牧師]]、[[ウィリアム・ブース]]と妻キャサリンによって、[[ロンドン]]東部の貧しい[[労働者階級]]に伝道するために設立された。設立当初は「キリスト教伝道会」(東ロンドン伝道会)と称する[[超教派]]の伝道団体だったが、当時は教会が上流・中産階級のサロン的な場所となっており、庶民を教会に導いても伝道者や会員が受け入れに熱心ではなかった。そこで、「身分階級によらず、実績のみで評価される組織」として[[軍隊の編制|軍隊式の組織編制]]、メンバーの[[制服]]・[[制帽]]・[[階級章]]類の着用、[[軍隊用語]]の使用などを採用し、[[1878年]]に「救世軍」と改称した。改称に当たってウィリアムは「義勇軍に非ず、救いの軍なり(Not volunteer army, but Salvation army.)」という[[啓示|天啓]]を受けたという<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?救世軍とは 救世軍とは] 救世軍日本本営公式サイト</ref>。1880年代に爆発的に教勢が伸張し、[[ブリテン諸島]]から海外に拡大した。改称に伴い、[[教理]]もメソジスト・[[ホーリネス]]色が濃いものとなっていく。 現在、救世軍は[[国際連合経済社会理事会]] (ECOSOC) において1947年以降、特別協議資格を持つ[[非政府組織|国連NGO]]である。米国経済専門誌『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』の1997年8月11日号では[[ピーター・ドラッカー]]から「全米で最も効率の高い組織」として評価され、1991年と2004年には[[ノーベル平和賞]]候補に挙げられた。[[世界福音同盟]]の加盟団体でもあり、{{仮リンク|世界メソジスト会議|en|World Methodist Council}}および[[世界教会協議会]]とも非加盟の提携関係にある。 全世界で1万2千ヵ所近くの社会福祉施設、教育機関、医療施設を運営している。 救世軍の軍旗「血と火」は「救いと聖潔(きよめ)」を意味し、救世軍の[[モットー]]でもある。 === 日本 === {{基礎情報 会社 |社名= 救世軍 |英文社名= The Salvation Army |種類= [[宗教法人]]・[[社会福祉法人]] |略称= |郵便番号= 101-0051 |本社所在地= [[東京都]][[千代田区]][[神田神保町]]二丁目17番地<br>神田神保町ビル(日本本営) |設立= [[1912年]](明治45年)[[1月19日]](財団法人)<br>[[1895年]](明治28年)[[9月22日]](任意団体) |業種= [[宗教]]、[[福祉|社会福祉]]、[[教育]]、[[医療]] |事業内容= 宗教活動、社会福祉事業、[[教育]]事業、[[医療]]事業 |代表者= [[大佐]] スティーブン・モーリス(日本軍国司令官)<br>[[大将]] ブライアン・ペドル(万国総督) |従業員数= 654名<https://www.salvationarmy.or.jp/about-org> |関係する人物= [[山室軍平]](日本人初の士官、日本軍国司令官)<br>[[ウィリアム・ブース]](創立者) |外部リンク= http://www.salvationarmy.or.jp/ |特記事項= 軍隊を模した組織で活動を行っている }} [[ファイル:Yamamuro Gunpei in1932.jpg|thumb|155px|left|日本人初の日本軍国司令官となった[[山室軍平]]]] ウィリアム・ブースが[[1890年]]に著した『最暗黒の英国とその出路(In Darkest England and the Way Out)』は日本でも早くから知られ、[[片山潜]]や[[安部磯雄]]がこの書を手引きとして救世軍事業を視察したほか<ref>『人物叢書 山室軍平』 71頁</ref>、[[1891年]]には[[植村正久]]がロンドンの救世軍本営を訪れてブースと面会した<ref>『山室軍平―無名ノ英雄、無名ノ豪傑タルヲ勉メン哉』 55-56頁</ref>。また、慈善事業家の[[石井十次]]は[[濃尾地震]]に際して「東洋救世軍」なる団体を組織して救護活動を行っている<ref>『山室軍平―無名ノ英雄、無名ノ豪傑タルヲ勉メン哉』 34頁</ref>。 救世軍の側でも1890年ごろから日本伝道を検討し、資金面・人材面での見通しが立った[[1895年]]7月に[[エドワード・ライト]]大佐以下14名を日本に派遣した。彼らは9月4日に和服姿で横浜港に上陸し、同月22日に[[東京市|東京]][[神田区|神田]]の[[東京キリスト教青年会会館|基督教青年会館]]で宣戦式を行った<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920834/8 救世軍略史]』 1-5頁</ref>。その直後に入隊した[[山室軍平]]らにより大規模な伝道活動が行われ、[[廃娼運動]]を皮切りに、現在では医療施設や社会福祉施設の運営、他国の救世軍と連携しての内外の災害発生時の支援活動なども行っている。 他に著名な信徒・元信徒としては、[[自由民権運動]]家の[[村松愛蔵]]・[[落合寅市]]、[[ルーテル教会]][[牧師]]の[[川瀬徳太郎]](妻は[[板垣退助]]の孫<ref>{{Cite web|和書|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28040443|title=『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』 |publisher=一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 |date=2019-02-11 |accessdate=2019-08-15}}</ref>)、元[[組合派]][[牧師]][[金森通倫]](政治家の[[石破茂]]の曽祖父)、[[婦人民主クラブ]]呼びかけ人[[山室民子]](軍平の長女)、[[聖書]][[神学]]者[[渡辺善太]]、[[ヤマト運輸]]元社長[[小倉昌男]]、[[日本聖書協会]]副理事長[[朝野洋]](救世軍[[中将]]、元日本軍国司令官)、伊藤富士雄(廃娼運動活動家・[[ゲイ雑誌]]『[[薔薇族]]』創刊者で元編集長の[[伊藤文學]]の祖父<ref>http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2006/08/post_f631.html {{リンク切れ|date=2020-01-14}}</ref><ref>[http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2008/03/post_2408.html 「昭和初期救世軍廃娼運動記録」がみつかった!]</ref><ref>[http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2008/12/post-d073.html 祖父の痛々しい写真が見つかった!]</ref><ref>[http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2006/09/__0427.html 東京医大発③ 半死半生の目に合わされて]</ref>)、軍平の長男[[山室武甫]]およびその妻で作家の[[阿部光子]]、[[学校法人桜美林学園]]初代学園長[[清水郁子]]<ref>アメリカのサンノゼ救世軍士官学校卒業。</ref>らがいる。 [[1906年]]、救世軍は東京の[[芝 (東京都港区)|芝]]で貧者救済の観点から無料の[[職業紹介所]]を開いた。このことがきっかけで無料の公設職業紹介所が設置されるなど、第二次世界大戦以前の日本の労働行政に大きな影響を与えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/07-1.html |title=職業安定行政史 第7章総括 |publisher=日本食業協会 |date= |accessdate=2022-06-09}}</ref>。 当時日本の勢力下にあった[[朝鮮半島]]では[[1908年]]に活動が始まり<ref>http://www.geocities.jp/captain_makoto_yamaya/yb_korea.html {{リンク切れ|date=2020-1-14}} </ref>、[[1928年]]ごろに[[京城府]]明治町(現在の[[ソウル特別市]][[明洞]])で、社会鍋による募金活動が始まった<ref>[[NHK福岡]] 「熱烈発信!福岡NOW」</ref>。 [[1940年]](昭和15年)に山室軍平中将が死去すると、憲兵隊により救世軍幹部らが取調べを受け(救世軍スパイ事件)<ref>ただし、スパイの確証は得られなかった(『日本キリスト教歴史大事典』 373頁)。</ref>、救世軍解散を迫られた<ref>山室の主著『平民之福音』も発禁処分を受けた([[沖田行司]] 『新編 同志社の思想家たち 上』 晃洋書房、2018年、196-197頁)。</ref>。そこで、日本救世団と組織変更をすることになった。団長に日本救世軍士官学校校長だった[[渡辺林太郎]]が選出され<ref>『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]]、1988年、1546頁</ref>、1940年9月23日に結団式が挙行された。[[1941年]]6月に[[日本基督教団]]が設立されると、第11部として加入した<ref>[[中村敏]]著『日本における福音派の歴史』[[いのちのことば社]]、138-139頁</ref>。また、[[救世軍士官学校]]は救世学院、東光学院への改称を経て[[1943年]](昭和18年)に[[日本東部神学校]]に統合された<ref>中村敏 『日本プロテスタント神学校史』 [[いのちのことば社]]、2013年、162-163頁</ref>。 [[1946年]]9月に[[日本基督教団]]を離脱して、救世軍が再建される。ロンドン万国本営との関係を回復する。[[1947年]]2月渡辺団長が死去するが、[[植村益蔵]]少将が日本救世軍司令官に就任して再建活動を展開する。士官学校の再開、『ときのこえ』の復刊、社会鍋、連隊制度などを復活させ今日に至る。 現在の救世軍の日本での活動は、[[東京都]][[千代田区]][[神田神保町]]二丁目に法人本部である「日本本営」を置いている。 <gallery> ファイル:Ymcakaikan.jpg|救世軍の宣戦式が行われた[[東京キリスト教青年会会館|東京基督教青年会館]] ファイル:Edward Wright and Yamamuro Gunpei in 1896.jpg|日本救世軍初期メンバー(中列中央が[[エドワード・ライト]]、前列左から2人目が山室軍平) ファイル:人力車上のウィリアム・ブース(芝区愛宕町付近).jpg|ブース大将の来日<br/ >(1907年) ファイル:救世軍日本本営(1928年).png|救世軍日本本営<br/ >(1928年) ファイル:Salvationarmyinjapan-dec24-2007.jpg|日本の救世軍<br/ >(2007年) </gallery> ==歴史 == [[1891年]]にウィリアム・ブースは著書『最暗黒の英国とその出路』を出版し、都市植民・農業植民・海外植民の三段階からなる社会改良計画を発表。10万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の事業資金を公募し、大規模な社会福祉事業に着手した。 == 組織 == === 国際組織として === [[File:Salvation.army.hq.london.arp.jpg|thumb|救世軍万国本営(ロンドン)]] [[ファイル:Williamboothcollege.jpg|thumb|{{仮リンク|ウィリアム・ブース記念士官学校|en|William Booth Memorial Training College}}]] 救世軍は、世界本部である「万国本営」を[[イギリス]]の[[ロンドン]]に置き、最高会議において[[士官]]の中から選出される単独の最高指導者「[[大将]]」によって統率される。大将の任期は原則5年(70歳定年)で、2022年現在の大将は21代目のブライアン・ペドル。なお、創設当初から[[男女同権]]の思想が強く、女性の士官も多い。過去にも女性の大将が3名選出されている。 救世軍の法的根拠は、[[イギリスの議会|イギリス議会]]の個別法(Private Act of Parliament)である「規約証書」 「増補規約証書」 「1980年救世軍法」に規定され、その変更にはイギリス議会の承認を必要とする。 救世軍の組織統治は、信仰面においては、十一か条の「救世軍教理」とその公式解説書である「教理便覧」に示される基準に拠り、実行面においては、「[[軍令]]および[[軍律]]」とそれらを補足する「覚書」に示される基準に拠り、[[監督制|監督政治]]を通じて行われる。信仰上および実行上の逸脱に対しては、「兵籍調査会」・「士官審査会議」・「調査委員会」が行う審査に基づいて、公務禁止・停職・除名等の規律が執行される。 「教理便覧」と各種「軍令及び軍律」は、大将の権威によって発行され、随時改定される。 === 日本における救世軍組織 === [[File:救世軍日本本営.JPG|thumb|180px|救世軍日本本営]] 現在の[[日本]]の救世軍は、法的には以下の2つ(かつては3つ)の[[法人格]]で活動している。 * [[宗教法人]]としての「救世軍」 * [[社会福祉法人]]としての「社会福祉法人救世軍社会事業団」 :(以上の住所は東京都千代田区神田神保町2丁目17番地) * [[財団法人]]としての「在日本救世軍財団」は政府の公益法人制度改革を受けて2013年3月に解散し、その財産は宗教法人救世軍と社会福祉法人救世軍社会事業団に移行した。 :(住所は[[東京都]][[千代田区]][[神田神保町]]2丁目17番地1号) 2012年現在の代表者は日本軍国司令官・スティーブン・モーリス[[大佐]](在任:2021年4月1日〜)<ref name="名前なし-1"/>。 書記長官(軍国司令官補佐役)は西村保大佐補(在任:2019年5月1日〜)<ref>『ときのこえ』2019年5月15日号</ref>。 日本では概ね5年に1回のペースで全国大会が開かれており(2005年、2010年など、年の末尾に0と5の付く年。但し2015年は開催されず、2016年に開催された)、組織に関する議論や決定が行われるほか、万国本営より大将や参謀総長らが呼ばれ、大規模な伝道集会が開かれている。伝道集会の説教者には軍外の人も呼ばれており、過去には[[村岡花子]]や[[ミッション・バラバ]]メンバーらが説教をしている。 == メンバーの階級 == [[File:Georges Flandre.jpg|thumb|180px|救世軍士官の制服([[ジョルジュ・フランドル]]、1942年)]] [[ファイル:Shaw_Clifton_30_juni_2007.jpg|thumb|180px|現在の救世軍の制服・制帽(第18代大将ショー・クリフトン)]] ; 準兵士(道友者) :* [[イエス・キリスト|キリスト]]を救い主として認め、救世軍への入隊希望を表明し認められた人。他教団における[[洗礼]]準備者。入隊式までの間はキリスト教や聖書、教会、救世軍などについて詳しく学び、入隊に備える。 ; [[兵士]] :* キリストを信じて[[回心]]し、入隊式で加入宣誓書『[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/yb_article.html 軍中の約束]{{404|date=2022-02}}』に署名調印して入隊した信者。いわゆる一般信徒。[[制服]]の[[襟章]]は青地または黒地に「S」、[[肩章]]([[階級章]])は青地または黒地に太い黒縁<ref>救世軍人の制服・階級章・その他記章類の基本デザインは、万国本営が参謀総長の名のもとに発行する『参謀総長覚書』(英: Minutes of Chief of the Staff)によって定められ、また現地の実情に合わせた適合(例:地域等によっては上着とズボンまたはスカートの色が白・グレー・ベージュなど場合がある)は各国本営が司令官または書記長官の名のもとに発行する『本営覚書』(英: THQ Memorandum)によってなされる。このため、制服類の基本デザインは世界共通であるが、国や地域によって細部の差異が存在する(例えば、[[ドイツ語]]圏では襟章の文字がアルファベットの「H」、[[中華民国|台湾]]や[[香港]]では漢字の「救」になっているなど)</ref><ref name="名前なし-2">http://www.salvationarmy.org/heritage.nsf/36c107e27b0ba7a98025692e0032abaa/bbe1505d7cfa0f2d80256a1b00348fd1?OpenDocument</ref><ref>http://www.sps-shop.com/</ref>。 ; [[下士官]] :* [[小隊]](=[[教会 (キリスト教)|教会]])において特命を与えられ、無給で奉仕する信者。他教団における教会役員にあたる。階級呼称はほとんどが[[軍曹]](英: Sergeant)で、[[三役]]は[[曹長]]([[宗教法人#宗教法人の役員|役員会長]])、[[書記]](役員会事務局長)、[[会計]]。[[ブラスバンド]]メンバーや[[オルガニスト]]、[[ピアニスト]]などの奏楽担当者や唱歌隊員も下士官<ref>その他、救世軍下士官の階級呼称と役職の詳細については外部リンクの[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/yb_sawords.html 救世軍用語集]を参照</ref>。基本的に肩章・襟章とも兵士と同じだが、一部の役職者は肩章や制服の上腕部などに役職名の頭文字を記した[[バッジ]]や[[ワッペン]]を付けることもある<ref>例:曹長CSM (Corps Sergeant Major)、書記CS (Corps Secretary)、会計CT (Corps Treasurer) など</ref>。また、[[制帽]]の[[帽章]]が兵士とは異なる場合がある<ref>詳細は外部リンクの「救世軍オンラインストア」を参照・「曹長」「書記」「会計」「バンドマスター」などの帽章が存在している</ref>。なお、救世軍における「下士官」は後述の[[准尉]]および[[特務曹長]]以外は「[[階級 (公務員)|階級]](階級区分)」よりも「所属小隊における[[役職]]」という意味合いが強い<ref>『救世軍日本開戦100年記念写真集』199ページ</ref>。 ; [[士官候補生]] :* [[神#キリスト教の神|神]]から[[召命]]を受け、生涯を奉仕に捧げる士官となるために[[救世軍士官学校|士官学校]](神学校)に在学中の[[神学生]]。 :* 制服は兵士と同じ物だが、肩章に赤い線が入る(線1本が1年生、線2本が2年生)。 :* 士官学校は2年制であり、卒業時に士官に任官される。入校資格は原則として[[高等学校|高校]]卒業以上で所属小隊士官または所属教会牧師の推薦を受けた18歳から48歳までの兵士・下士官またはクリスチャン(入校時に救世軍に入隊し、士官として奉仕する意思があれば、入校前の所属教会が救世軍でなくてもよい)。  ; [[士官]] :* 神から召命を受け、生涯を奉仕に捧げるために[[救世軍士官学校|士官学校]]で専門的な教育訓練を受けた[[伝道者]]。他教団の[[牧師]]に相当。制服の襟章は赤地に「S」、肩章は赤地で階級により入るマークが異なる<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/news/news_2006/0606yoshida.html 吉田眞中将と夫人・かほる中将 救世軍日本本営公式サイト]{{リンク切れ|date=2012年3月}}</ref><ref>[http://majormak.blogspot.com/ 救世軍士官・山谷真少佐のブログ(自己紹介の画像が少佐の肩章)]</ref><ref>[http://www.kirishin.com/2011/02/2011219-1.html リンダ・ボンド大将の中将時代のバストショット]</ref>。 :* 士官の階級は、士官学校<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?救世軍士官学校 救世軍士官学校:教育内容や志願資格などの概説]</ref>入校が認められた者の入校前の呼称は準候補生、士官学校入校時および在学期間中は[[士官候補生]]で、卒業すると[[中尉]]となる([[中尉]]の階級は2001年に一旦廃止されたが、2008年に復活した<ref>八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』189ページ</ref>。現行の制度では士官学校卒業時に中尉に任官され、奉仕年数第5年目に[[大尉]]に昇任する。なお[[少尉]]の階級は過去には存在したが、現在は廃止されている<ref>[https://web.archive.org/web/20071228041233/http://members.at.infoseek.co.jp/kindoochan/sa_rank_system.htm]</ref><ref>[[:en:Officer_in_The_Salvation_Army]]</ref>)。<!--士官の中尉・大尉・准尉の呼称に関する記述を行ったのは現役の救世軍士官の人であることが履歴から名前を検索すれば確認できます。士官の階級呼称の変遷に関しては、外部リンクも参照してください。--> :* その後奉仕年数により、任官後15年で[[少佐]]・大佐補・[[大佐]]・[[中将]]と昇任していく([[准将]]と[[少将]]の階級は無い)。戦前の階級に「校」があった。校は尉官と佐官の中間で連隊長の主な階級が中校だった。(なお、台湾では今も「校」が使われており、小隊指揮官の多くの階級は少校である。)現在、ほとんどの士官は少佐の階級を退役まで保持する。これは2001年の軍律の改訂により、大佐補以上の階級の士官は軍国司令官・書記長官などの一部の役職に限定されたためである<ref name="yagi"/>(現在の日本軍国の書記長官の階級は大佐補であり、書記長官以外の本営の役員や士官学校校長、[[連隊長]]などの階級はほとんどが少佐かそれ以下である<ref>2013年[[1月]]現在、東京東海道連隊の連隊長は大佐補であり、「全員が少佐以下」ではない(『ときのこえ』2013年2月15日号より)。ただし、2013年当時の東京東海道連隊長は2016年現在は引退しており、2016年現在の東京東海道連隊長の階級は少佐である。</ref><ref>『キリスト教年鑑』2011年版の救世軍の項目参照</ref>)。 :* 過去には存在したが、現在の救世軍士官の階級には[[中佐]]が無く、代わりに一般的な[[軍隊]]の士官には存在しない階級の「大佐補」が存在する。これは旧救世軍中佐の原語である「Brigadier」が「中佐」と訳されていたが、その「Brigadier」の階級が廃止されて「Lieutenant Colonel」の階級が新たに制定されたため、「Brigadier」と「Lieutenant Colonel」を区別するために作られた新語である。 :* かつて「中尉」と訳されていた「Lieutenant」は、現在の日本の救世軍においては准尉制度の導入に伴う中尉の階級の廃止とその後の復活という紆余曲折を経て、Lieutenantを[[准尉]]と[[中尉]]に訳し分けながら併用されている。 :* 世界代表で「万国総督」とも呼ばれる現役の[[大将]]は1名のみ。 :* 万国総督の補佐役で大将に次ぐ役職として、中将が務める[[参謀総長]]が設けられている。 :* 参謀総長の下には地区別・担当任務別に複数の、やはり中将が務める「万国[[書記官]]」が設けられている。 :* 他教団の[[教会管区|管区]]に相当する「軍国」の代表者は軍国[[司令官]]である。また、軍国の本部は「本営」と呼ばれる。 :* 各軍国司令官の補佐役としては書記長官という役職が設けられている。 <!--:*軍国司令官や書記長官などの本営の役員や[[連隊長]]は原則として大佐補以上の階級の士官の中から任命されるが、士官の絶対数が少ない軍国では大佐が軍国司令官、少佐が連隊長を務めることもある。--> :** 本人の意思もしくはなんらかの事情により士官にはならない(または「なれない」、例えば年齢制限により[[救世軍士官学校|士官学校]]への入学資格を失った人、夫婦での士官学校入校ができなかった人、特定政党に所属している人など)が、下士官として一定期間(最低3年間、最高9年間)フルタイムで奉仕する人は[[准尉]](旧制度の「[[特務士官|特務大尉]]」 (Auxiliary Captain) および「[[特務曹長]]」 (envoy) にほぼ相当)に任官される<ref name="yagi"/>。准尉は下士官だが、有給の専従職員である。 :* 特殊な例としては士官学校入校の年齢制限を超えた人で特別に訓練を受けた野戦任官士官である「特務大尉」という階級も存在したが、准尉制度の実施に伴い、「特務大尉」および「特務曹長」の階級は順次的に廃止されることとなった<ref name="yagi"/><ref>「特務大尉」および「特務曹長」の詳細については外部リンクの[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/yb_sawords.html 救世軍用語集]を参照</ref>。 :*士官は65歳で定年退官となり、引退士官となる。しかし、所属の小隊で説教などの奉仕を続けることがある。 ; [[軍属]] :* 士官および准尉以外の救世軍人で社会福祉部門、医療部門、教育部門、法人本部などにおいて雇用される職員(例:法人本部の事務職員や[[病院]]の[[看護師]]など)。なお、救世軍以外の教団・教派に所属するクリスチャンや、クリスチャンではない者でも「法人としての救世軍の職員」には採用されるが、そのような者は「救世軍軍属」とは呼ばれない。 ; 軍友 :* 他教団所属で、救世軍と協力関係にあるクリスチャン<ref>[[東京都]][[杉並区]]に設置されている[http://boothhp.salvationarmy.or.jp/ 救世軍ブース記念病院]の、現在の院長は[[日本基督教団]]所属、[[チャプレン]]は[[日本バプテスト連盟]]所属であり、軍友である(救世軍人ではない)</ref>。またはクリスチャンでなくとも救世軍に協力している者。 ; 同友者 :* 諸事情により、[[軍令]]・[[軍律]]から外れ兵士としては入隊できないが、救世軍の主義や行動に賛同して救世軍を所属教会と宣言して認められ、兵士同様に[[自由献金|月定献金]]をしている[[キリスト教徒|クリスチャン]]。例えば[[酒造]]・酒販業や、[[居酒屋]]・[[スナックバー (飲食店)|スナック]]・[[バー (酒場)|バー]]など酒の提供を主とする[[飲食業]]、[[煙草]]製造・販売業の人など。同友者は「救世軍の一員」の中に含まれる。兵士と異なり、[[禁酒]][[禁煙]]を守らなくてもよい。 ; サポート会員 :* 救世軍の活動を支えるために、会員登録し定期的に献金(個人:年3000円以上、法人・団体:年10000円以上)している人。クリスチャンでなくてもなれる。 ; コミュニケーション・ケア・ミニストリーズ(CCM)会員 :* 救世軍の奉仕活動に参加の意思がある人で、小隊士官の推薦を受けた人。クリスチャンでなくてもなれる。2015年まではリーグ・オブ・マーシー(LOM)という名前だった。LOMは1994年に発足し、活動20周年を記念して名称変更された。 ; 家庭団 :*他の教会における女性部、婦人部に相当。 ; 柏寿会 :*60歳以上の高齢者の集まり。クリスチャンでなくても入会できる。 [[軍隊の階級|下士官、兵士、準兵士、同友者]]は無給の[[ボランティア]](下士官のうち[[准尉]]のみ有給の専従職員となる<ref name="yagi">八木谷(2001年)、182-194ページ参照</ref>)。士官(士官候補生および准尉を含む)、軍属、一部の軍友が宗教法人・社会福祉法人・財団法人の専従職員となる(これもまた軍隊に倣ったもの。士官は救世軍の活動を本業とする“職業軍人”、下士官までが生業を別に持つ“志願兵”)。また、準兵士以上の救世軍人同士は戦友 (comrade) と呼び合う。 その他、まだ信仰に至っていない[[求道者]]や、他の教団に所属するクリスチャンが客員として集っている小隊もある。又、地理的な事情(例:救世軍の小隊から遠く離れた地域に仕事などの理由で在住している)等で、他のキリスト教会に集っている救世軍メンバーも存在する。 === 救世軍人の役職と階級の対応一覧 === 出典:八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』189-191ページより * (役職): (階級)(階級呼称の英語表記) ** 万国総督: 大将 (General) ** 参謀総長: 中将 (Commissioner) ** 万国書記官: 中将 ** 軍国司令官: 中将、大佐 (Colonel)、大佐補 (Lieutenant Colonel) ** 書記長官: 中将、大佐、大佐補 ** 書記長官以外の軍国本営の役員、士官学校校長、連隊長等: 少佐 (Major)、大尉 (Captain)<!--「士官学校」は組織制度上は軍国本営の一部署であり、「士官学校校長=軍国本営の役員」である。--> ** 小隊長、小隊副官、小隊付士官、分隊長等: 少佐、大尉、中尉 (Lieutenant) *** ([[救世軍士官学校|士官学校]]学生): 士官候補生 (Cadet) ** 救世軍で奉仕する他教団聖職者: 特務大尉(Auxiliary Captain) ** フルタイムで奉仕する下士官: 准尉 (Lieutenant)、特務曹長 (envoy) *** (三役の小隊役員、その他小隊での役職拝命者): 下士官 (Local Officer) *** (一般信徒): 兵士 (Soldier)、同友者(Adherent) *** (洗礼準備者): 準兵士 ** (その他関係者): 軍友、軍属など == 救世軍の教理 == * われらは、旧新約聖書が神の感動によりて与えられたること、また聖書のみが、クリスチャンの信仰及び実行に関する、神の法規たることを信ず。 * われらは、無限に完全なる独一の神ありて、万物の創造者、保持者、また統治者にして唯これのみ、宗教的礼拝の真(しん)の対象たることを信ず。 * われらは、神の中(なか)に、父、子、聖霊なる三つの人格ありて、本質においては、分かつべからざるもの、権能と栄光とにおいては同等たることを信ず。 * われらは、イエス・キリストの人格の中に神性(しんせい)と人性(じんせい)とが結合していて、彼は正(まさ)しく真(しん)に神にして、また正(まさ)しく真(しん)に人たることを信ず。 * われらは、われらの最初の父母が、罪なき者として創造されたが、彼らの不従順によりてその純潔と幸福とを失い、堕落の結果、すべての人みな罪人(つみびと)となり、全く邪悪になり、またかかる者として当然神の怒りを受くべき者なることを信ず。 * われらは、主イエス・キリストが、その苦難と死とによりて、全世界のために償罪(しょうざい)をしたもうたゆえに、何人(なにびと<ref>一般には「なんびと」、また刑法では「なんぴと」だが、救世軍教理のみこう読む</ref>)でも欲する者は救われ得ることを信ず。 * われらは、神に対して悔い改めること、われらの主イエス・キリストを信ずること、また聖霊によりて新たに生まれることは、救いに必要なりと信ず。 * われらは、われらの主イエス・キリストを信ずることにより、恩恵(めぐみ)によりて義とされること、また信ずる者はそのうちに証(あかし)を有することを信ず。 * われらは、救いの状態の持続は、キリストに対する信仰と服従との持続によることを信ず。 * われらは、「全く潔く」されることはすべての信者の特権にして、「霊と心と体とを全く守」られて、「われらの主イエス・キリストの来りたもうとき責むべき所なき」に至り得ることを信ず。 * われらは、霊魂(れいこん)の不滅、身体(しんたい)の復活、世の終わりの総審判、正しき者の永遠の幸福、及び悪しき者の永遠の刑罰を信ず。 == 創立者の言葉 == {{quotation|{{cquote|今日そうであるように、女性が泣いている限り、わたしは戦う。<br />幼い子供が飢えている限り、わたしは戦う。<br />男たちが刑務所に出入りする限り、わたしは戦う。<br />酔っぱらいが残っている限り、街頭に哀れな女性がいる限り、<br />神の光を受けていない一人の魂でもある限り、わたしは戦う。<br />終わりまで戦う。}}}} この言葉は“[[WWW (曖昧さ回避)|WWW]]”(While Women Weep―女性が泣いている限り)として語り継がれている<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/news/news_2007/while_women_weep/banks.html 「ときのこえ」2006年10月15日号]より{{リンク切れ|date=2012年3月}}</ref>。 == 事業 == === 伝道事業 === ; 軍国(他教団の[[教会管区|管区]]に相当) :* 軍国本部は「本営」と呼ばれる。世界本部である「万国本営」はイギリスの[[ロンドン]]にある。管区長は[[司令官]]と呼ばれる。 ; 地区 :* 独立した軍国として活動できるほどの規模が無い地域。責任者は「地区[[指揮官]]」と呼ばれる。 ; [[連隊]](他教団の[[教区]]に相当) ; 小隊(他教団の教会に相当) :* 毎週日曜日に「聖別会」と呼ばれる[[礼拝]]と[[日曜学校]]がある。随時聖書研究会や祈祷会、伝道集会(「救霊会」)なども行なわれる。語学など各種教室を開いている小隊もある。主任牧師は小隊長、副牧師は小隊付士官もしくは小隊副官と呼ばれる。 [[File:Kyuseigun-1.jpg|thumb|救世軍 麻布小隊(2017年9月23日撮影)]] ; [[分隊]](他教団の伝道所に相当) :* 小隊の士官の兼任による、小規模の伝道所。定期もしくは不定期で集会が行なわれている。所長は[[分隊長]]と呼ばれる。 ==== 日本での伝道事業 ==== 日本の連隊および、小隊の公式リストはこちらを参照<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?各小隊所在地 全国小隊一覧] - 救世軍 - The Salvation Army Japan</ref>。かつては[[福島県]][[郡山市]]、[[東京都]][[江東区]]、[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]、[[大阪府]][[大阪市]][[西成区]]、[[熊本県]][[熊本市]]などにも小隊があった。[[岡山県]][[笠岡市]]と[[広島県]][[尾道市]]の小隊が合流して福山小隊になったという例もある。また、[[日本基督教団]]横田相愛教会([[島根県]][[仁多郡]][[奥出雲町]]、旧救世軍横田小隊)などのように、戦後は日本基督教団に留まり救世軍に復帰(合流)しなかった教会(小隊)もある。 ; 北海道連隊(4個小隊) : [[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]](連隊本部)、紋別郡[[遠軽町]]、[[函館市]]、[[釧路市]](分隊)、[[帯広市]]、[[小樽市]](分隊) ; 関東東北連隊(9個小隊) : [[宮城県]][[仙台市]][[泉区 (仙台市)|泉区]]、[[福島県]][[双葉郡]][[浪江町]]・[[会津若松市]]・、[[群馬県]][[前橋市]]・[[桐生市]]・[[高崎市]](連隊本部)、[[栃木県]][[佐野市]]、[[埼玉県]][[熊谷市]]、[[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]、[[長野県]][[長野市]](分隊)・[[下高井郡]][[山ノ内町]](分隊) ; 東京東海道連隊(17個小隊) : [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]・[[大田区]]・[[墨田区]](連隊本部)・[[渋谷区]]・[[千代田区]](日本本営)・[[杉並区]](士官学校、山室軍平記念救世軍資料館)・[[中央区 (東京都)|中央区]]・[[台東区]]・[[足立区]]・[[清瀬市]]・[[八王子市]](分隊)、[[埼玉県]][[川口市]]、[[神奈川県]][[横浜市]][[南区 (横浜市)|南区]]・[[横須賀市]](分隊)、[[千葉県]][[館山市]](分隊)、[[山梨県]][[甲府市]](分隊)、[[静岡県]][[静岡市]][[清水区]]・[[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]]、[[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]、[[岐阜県]][[岐阜市]](分隊) ; 西日本連隊(13個小隊) : [[京都府]][[京都市]][[下京区]]、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]](連隊本部)・[[大正区]]・[[生野区]](分隊)、[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]、[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]]、[[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]・[[福山市]]・[[呉市]]、[[香川県]][[高松市]]、[[高知県]][[高知市]]、[[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]・[[北九州市]][[八幡東区]]・[[大牟田市]](分隊) === 社会福祉事業 === ==== 日本での社会福祉事業 ==== ; 児童養護施設 : 愛光園(呉)、豊浜学寮(呉)、希望館(大阪)、機恵子寮(東京)、世光寮(東京) ; 保育所 : 菊水上町保育園(札幌)、桑園保育所(札幌)、呉保育所(呉)、佐野保育園(佐野) ; 女性保護施設 : 婦人寮(東京)、新生寮(東京)、大阪[[あべちか|アベノ地下街]]救世軍カウンセリング・ルーム(大阪、[[2020年]][[3月]]閉館) ; ホームレス宿泊施設 : 自助館(東京)、新光館(東京) ; アルコール依存症総合専門施設(救護施設) : 自省館(東京) ; 特別養護老人ホーム : 恵泉ホーム(東京) ; ケアハウス : ケアハウスいずみ、ホームヘルパーステーションいずみ(東京) ; 老人保健施設 : ブース記念老人保健施設グレイス、在宅介護支援センター、訪問看護ステーション、訪問介護ステーション(東京) ; リサイクル施設 : 男子社会奉仕センター、バザー場(東京) === 医療事業 === [[File:Salvation Army Booth Memorial Hospital (Japan).JPG|thumb|救世軍ブース記念病院(東京都杉並区和田)]] ==== 日本での医療事業 ==== : [[救世軍清瀬病院]](東京)、[[救世軍ブース記念病院]](東京) === 教育事業 === *救世軍士官学校(救世軍の士官を養成する神学校) 海外では大学などを運営している地域がある。イギリスには「万国士官学校」がある。 === その他の事業 === * 救世軍総合[[保険会社]](火災保険、自動車保険、損害保険) * リライアンス[[銀行]](救世軍の資金運用および一般銀行業務) * 救世軍住宅協会(救世軍の居住型の社会福祉施設の管理) * [[従軍聖職者|従軍牧師]] ([[イギリス軍]]と[[オーストラリア軍]]の従軍牧師は救世軍士官が務めている場合がある) * [[難民]]支援事業(戦時難民救済事業等) * 緊急災害支援事業(都市災害、[[震災]]、山火事、洪水、竜巻、噴火、鉄道事故、航空機事故等の被災者・被害者への救援) * 海外開発プログラム(発展途上国における飲料水、保健衛生、栄養指導、雇用創出、小額資金貸付制度、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]/AIDS対策等のプログラム) * 救世軍出版供給部([[機関紙]]「ときのこえ」「はあもに(女性部発行の機関誌)」などの定期刊行物、書籍、楽譜、制服、バッジ、音楽CD、ビデオ、DVD等の製作・販売・供給) == 信仰と実行 == === 全般 === [[File:Salvation Army, Newtown, 15 March 1942, by Sam Hood (6054085993).jpg|thumb|200px|街頭での布教活動。後方にバンドが見える。(1942年、[[オーストラリア]]・[[ニューサウスウェールズ州]])]] [http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?%E6%95%99%E7%90%86 救世軍の教理]は、穏健な[[メソジスト|ウェスレー派]]の特色を持つ11か条の信仰告白によって規定されている。礼拝には[[ピアノ]]や[[オルガン]]と共に、[[英国式ブラスバンド|ブラスバンド]]が使用される([[ミュージカル]]「[[ガイズ&ドールズ]]」でも取り上げられた)<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?JSB 参考:救世軍ジャパン・スタッフ・バンド (JSB) のウェブサイト]</ref>。[[路傍伝道]]では[[タンバリン]]が使用されることもある。「軍歌」(救世軍用語。他派での[[讃美歌]])は独自編集の「救世軍歌集」を使用。楽曲は他の教会賛美歌と重なる(日本では[[中田羽後]]編纂・翻訳の「聖歌」と[[日本基督教団]]「讃美歌」の両賛美歌集より抜粋)が、救世軍信徒による作詞・作曲の賛美歌もある。 聖別会(礼拝)の形式は一般のキリスト教会と同じく讃美歌、祈祷、説教などにより構成。礼拝時の挨拶では右手の人差し指で天を指し「[[ハレルヤ]]!」と挨拶をするのが定番。[[使徒信条]]の代わりとして、使徒信条にホーリネス的教理を加えた救世軍教理が読まれる。必ず[[信徒]]の「[[証 (キリスト教)|証言]]」の時間が設けられることが特徴。[[洗礼]]や[[聖餐式]]などの[[聖礼典]]は行なわない。これは救世軍が元々[[超教派]]の伝道団体で会員は原則として全員どこかの教会で既に洗礼を受けたクリスチャンであったことや、[[アルコール]]が入っている[[ワイン]]を使う[[聖餐]]を忌避したことに起因するが、現在は「形式主義を排するため」と説明されている。代わりに、礼拝後に愛餐会(食事会)がしばしば行われる。 洗礼は水を使わず、[[軍旗]]の下に会衆の前で信仰告白を行なう「入隊式」で代替する。入隊式を済ませた隊員(兵士)は他の教団・教会でも[[クリスチャン]]と認められ、プロテスタント教会での聖餐式も本人が希望すれば受けられる。 [[説教]]は単純であり、[[神学]]的理論よりも[[聖霊]]体験を重視する。礼拝の中心は「[[恵みの座]]」と呼ばれる木製ベンチでの祈りに置かれる。伝道方法、管理運営、財務、意志決定については、大将の権限によって発行される各種『[[軍令]]及び[[軍律]]』によって詳細に規定されている。 [[神学]]的には[[メソジスト]]や[[ホーリネス運動]]を土台とする穏健な[[福音派]]であり、[[自由主義神学|リベラル]]と[[キリスト教根本主義|ファンダメンタリズム]]のちょうど中間に位置する。とはいえ特定の神学理論や聖書解釈を個々の信徒に押し付けることはなく、リベラルで[[社会派]]的傾向を支持する信徒もいれば、[[逐語霊感説]]や[[千年王国論]]を支持する保守派の信徒もいる(ただし、救世軍全体の公式見解では逐語霊感説はとらず<ref>『救世軍教理便覧』第二章第四節参照</ref>、また「キリスト教以外の宗教にも敬意を持って接し、一定の知識を得るように学ぶこと」<ref>『軍令及び軍律 士官の巻』第二巻第九篇参照</ref>とされている)。 活動には多くの軍隊用語が使われており、伝道開始を「開戦」、路傍伝道を「野戦」、夜の路傍伝道を「夜襲」、連隊が隷下各小隊の状況を調査することを「検閲」と呼ぶ。かつては月定献金を「弾薬金」と呼んでいた。 毎週日曜の聖別会以外には、[[教会学校|日曜学校]]、救霊会(伝道集会)、聖書研究会、祈祷会、家庭団集会(女性向けの集会)、柏寿会集会(高齢者の集会)などが行われている。 === 生活 === 信徒の生活規律は厳しく、特に[[禁酒]]・[[禁煙]]は絶対とされている(これは[[アルコール依存症]]者の回復支援をしているためと、[[飲酒]]・[[喫煙]]を近代の社会悪の象徴ととらえているためである<ref name="yagi"/><ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?よくある質問 救世軍 - よくある質問]</ref><ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?お酒を飲まない生き方 お酒を飲まないという生き方]</ref>)。また、[[ポルノグラフィ|ポルノ]]や[[性風俗関連特殊営業|性風俗]]、開放的な性生活、[[人工妊娠中絶]]、[[ギャンブル]]、[[薬物]]・[[薬物乱用|ドラッグ]]の摂取なども[[忌避]]する傾向にある<ref>『[http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2431/yb_article.html 軍中の約束]』参照</ref><ref>これは救世軍という組織全体での絶対的指針であり、個々の活動地域での違法・合法は問わない</ref>。 === セクシャルマイノリティ === [[同性愛者]]などの[[セクシャルマイノリティー]]に対しても非容認的態度を示す<ref>『救世軍 軍令及び軍律(兵士の巻)』70ページ</ref><ref>『そして、神は性を創造された!』98-108ページ</ref><ref>八木谷(2001年)、277-279ページ参照</ref><ref>「[[キリスト教と同性愛]]」の項目も併せて参照のこと</ref>。このため、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では同性愛者の社会的権利を保障する地方自治体の条例への対立から、救世軍が地方自治体から受けていた社会福祉事業の委託契約を打ち切られ、これに対して万国本営も同様の条例を持つ地方自治体との委託契約には一切応じてはならないという方針をアメリカの各軍国に命じるという事例が発生している<ref>柏木宏「同性愛者に平等を求める条例に救世軍が公然と反旗」・[[解放出版社]]『部落解放』2002年4月号 52-55頁</ref>。 === 結婚 === 士官は士官同士でしか[[結婚]]できない。このため既婚者が士官となるには、夫婦揃って士官学校([[神学校]])に入る必要がある。過去には、士官夫妻の妻には夫の階級の後に「夫人」とつけて呼ばれていた(例: 少佐の妻は「少佐夫人」)が、1996年からは階級の異なる士官が結婚した場合、本来の奉仕年限に関わらず下級者は昇進するようになった(例: 中尉と大尉が結婚した場合、夫婦両方が大尉になる)。2001年以降は、夫婦であっても階級は奉仕年限によるように制度が改訂された。例外が大将の配偶者で、中将の階級になる。 === 社会福祉活動 === [[ファイル:Armee-de-salut-Negative0-06-4A(1).jpg|right|thumb|250px|スイス・[[ローザンヌ]]街頭での[[募金]]活動([[社会鍋]])]] 社会福祉活動には極めて熱心であり、キリスト教界随一と言われる。[[上意下達]]の軍隊式組織により高い活動効率を誇る。現在は医療福祉、老人・障害者・児童福祉、ホームレス支援の[[炊き出し]]や施設運営などが中心。そのほかでは災害救援の対応も早く、[[阪神・淡路大震災]]の際は、キリスト教系団体の中では最も早く[[ボランティア]]を組織し駆けつけた。[[新潟県中越沖地震]]や、[[東日本大震災]]の際にも、[[ボランティア]]が給食活動などを行っている。また、海外では[[医科大学]]や、[[幼稚園]]の運営といった教育活動も盛んに行っている。募金活動の1つで年末に行われる[[社会鍋]]は、[[季語]]になるほど有名。[[バザー]]も頻繁に行なっており、東京などでは専用の会場で常時開催されている。収益金は全て寄付に回される。かつては職業紹介や失踪者捜索など、現在は[[行政]]や[[警察]]が主体となっている活動も行っていた。 === 政治・社会問題との関わり === [[政治]]との関わりを嫌い、[[政党]]の[[党員]]は士官学校に入れない。戦争などについては、兵士の[[メンタルケア]]や[[カウンセリング]]には熱心だが、戦争そのものを止めるためには動かない。また、貧困についても救援物資の調達・配布には熱心だが、行政への働きかけなど、貧困脱出への具体的な施策は行なわない、とされる。もっとも海外においては、イギリスやカナダの本営が[[イラク戦争]]反対や、[[核兵器]]廃絶を願う信仰告白を発表するなど、若干の軌道修正が見られる。 日本では、戦前に山室軍平が[[宗教団体法]]に賛成した事や、[[満蒙開拓移民]]政策に関わっていたこと<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-08-06/2008080614_01_0.html 東京満蒙開拓団農民訓練所あった 失業者ら中国に送り出す実像の一端判明]</ref>、{{要検証|[[太平洋戦争]]を「海外伝道の良い機会である」と肯定的に捉えていた事|date=2022年8月}}、更には[[機関紙]]「ときのこえ」が[[元号]]表示だったり、1980年代までは[[皇族]]の誕生日のたびに、祝いの言葉を[[機関紙]]「ときのこえ」の1面に載せていたため、[[戦争責任]]を問う意見や、[[右翼]]的・[[保守]]的だという評価もある。しかし、1940年に軍平の著書『平民の福音』が発禁処分となり、イギリス人宣教師と[[植村益蔵]]ら、日本人士官が[[スパイ]]容疑で逮捕されたり<ref>http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani5.htm</ref>、「[[皇軍]]以外で『[[軍隊|軍]]』を名乗る組織が存在することは認められない」という理由で「[[日本基督教団|日本救世団]]」に強制改称させられ、最終的には[[日本基督教団]]に吸収され、事実上の解散状態に追い込まれたなどの経験から、実際には[[右翼]]的潮流に与することは余りない。 2008年10月2日には、国際社会正義委員会が軍内に設立され、社会問題についても積極的に取り組むことが表明された。 === 日本本営の所属 === 日本本営は、かつては[[自由主義神学|リベラル派]]の[[日本キリスト教協議会]] (NCC) ([[世界教会協議会]]〈WCC〉、[[エキュメニズム|エキュメニカル]]系)に加盟していたが、「活動内容が政治的過ぎる」と脱退。しばらく[[日本キリスト教連合会]]のみに加盟していたが、万国本営の勧めで福音派の[[日本福音同盟]]([[日本福音同盟|JEA]]、[[世界福音同盟]]系)に加盟。しかし[[アジアキリスト教協議会]]への加盟や「[[世界祈祷日]]」(毎年3月第1金曜日)への協力など、NCCとの連携は現在も続いている。 === 制服と階級章 === かつての制服は、救世軍が発足した当時の[[軍服_(イギリス)|イギリス軍の軍服]]を模したデザインであり、[[詰襟]]だった<ref>http://blogs.yahoo.co.jp/pandradra/20653973.html</ref>。 現在は、黒に近い濃紺(地域等により白・グレー・ベージュの場合もある<ref name="名前なし-2"/>)のシングルブレスト[[開襟]]で、男性は[[ワイシャツ]]に[[ネクタイ]]着用、女性は[[ブラウス]]の襟元に救世軍のマークの[[ブローチ (装身具)|ブローチ]]着用という[[ブレザー]]に近いデザインのものとなっている<ref>http://photozou.jp/photo/show/424602/57597134</ref>(夏服として半袖または長袖の[[ワイシャツ]]・[[ブラウス]]にネクタイかブローチ着用、もしくは開襟というスタイルも存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sps-shop.com/UKT/SPnSShop.nsf/vw_product/81EF7D2A647EC15D8025701F004968C5?opendocument |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2011年3月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160309022725/http://sps-shop.com/ukt/spnsshop.nsf/vw_product/81ef7d2a647ec15d8025701f004968c5?opendocument |archivedate=2016年3月9日 |deadlinkdate=2017年10月 }} </ref><ref>http://www.salvationarmy.org.au/supplies/product.asp?pID=907&cID=6</ref>)。 士官は原則として、制服の常時着用義務がある。下士官・兵士については、以前は士官と同じく制服の常時着用義務があったが、現在は大会や伝道集会などを除いては「推奨」にとどめ、普段着での集会参加を容認している。 制服の[[肩章]]と[[襟章]](夏服のシャツ・ブラウスは肩章のみ)が[[階級章]]であり、士官の肩章と襟章は赤地、下士官・兵士の肩章と襟章は青地または黒地で肩章に入るマークが[[階級 (公務員)|階級]]により異なる(襟章に入るマークは同じ軍国の中では全階級共通)。 なお、[[制帽]]の[[帽章]]はクレスト(救世軍の[[紋章]])を用いており、鉢巻部分には活動地域の言語で「救世軍」の文字が入っている。 救世軍人が制服を着用することは、「神の愛に生きる誓いの証し」という意味を持つ<ref name="yagi"/>。また、特に救世軍発足当初の女性の救世軍人の制服着用には、[[酒場]]などで伝道活動を行う際に、[[娼婦]]と間違われることを避けるという意味もあった<ref>八木谷(2001年)、260ページ参照</ref>。 制服は日本では需要の絶対数から[[オーダーメイド]]であり、一式で8万円前後だが、発祥の地であるイギリスや活動が盛んな欧米では、既製品が日本に比べて安価(日本円に換算して一式で3万円ほど)で販売されており、インターネットでの[[通信販売]]も行なわれている<ref>[http://www.sps-shop.com/ Salvation Army publishing & Supplies]</ref>。 ==社会的認知== [[file:Kyusei bridge, Engaru town, Hokkaido, Japan.jpg|thumb|250px|1915年に初代の道路橋を架設した、救世軍の名が受け継がれている[[湧別川]]の「救世橋」([[北海道]][[遠軽町]])]] [[軍服]]調の制服・制帽の着用や[[軍隊]]調の用語の使用は、外部者には一見特異に映るが、礼拝の形式・内容は一般的なメソジスト教会と同様のものである。極一部に、「[[カルト]][[宗教]]ではないのか」という誤解もあるが、キリスト教界において[[異端]]や、カルトとして扱われることはなく、社会的にも宗教組織というよりはキリスト教系の[[社会福祉]]団体や、[[非政府組織|NGO]]の一種と見なされることが多く<ref name="yagi"/>、欧米では救世軍への寄付が控除対象となる国が多い。販促キャンペーンを利用して、膨大な[[マイレージサービス]]のポイントを獲得した[[デヴィッド・フィリップス (プリン男)|デヴィッド・フィリップス]]は、期限内にプリンの包装からバーコードを剥がすため、救世軍や[[フードバンク]]にプリンを持ち込み、プリンを寄付する代わりに作業を手伝ってもらったことで、結果として815ドル分の控除を受けた。 一方で酒類や売春への態度から、アルコールや性産業には嫌悪する者もおり、イングランドでは[[:en:Skeleton Army|骸骨団]] (Skeleton Army) と呼ばれる団体が、街頭活動を行っている救世軍人に、妨害や暴力行為をしていた。実態は酒場や娼館の経営者に雇われたゴロツキであり、デモ隊を結成しての示威活動などで、警官との衝突も発生していた。日本でも過去には、[[廃娼運動]]を行っていた救世軍人([[伊藤文學]]の祖父・富士雄など)が、[[遊廓]]経営者に雇われた[[ヤクザ]]に襲われ重傷を負うという事件が起きている<ref>[http://celeb.cocolog-nifty.com/interview/2006/08/post_f631.html]</ref><ref>[http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2008/03/post_2408.html]</ref><ref>[http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2008/12/post-d073.html]</ref><ref>[http://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2006/09/__0427.html]</ref>。 日本最北の遠軽小隊(1913年設立)が置かれている[[北海道]][[紋別郡]][[遠軽町]]の[[北海道道711号社名淵瀬戸瀬停車場線|北海道道社名淵瀬戸瀬停車場線]]には、救世軍にちなんで命名された「'''救世橋'''」がある。同小隊初代小隊長の田中弥三郎大尉が1915年、私財を投じて[[湧別川]]に建設したもので、[[北海道]]が建設した現在の5代目の橋にもその名が受け継がれている<ref>[http://www.salvationarmy.or.jp/index.php?%E4%BA%88%E5%AE%9A%2F2015-07-12 救世橋架橋100周年記念を祝うコンサート] 救世軍 - The Salvation Army Japan</ref>。 == 芸術作品の中の救世軍 == * [[オリバー・ツイスト]]: 序盤で救世軍の給食の様子を描写している。 * [[ベルトルト・ブレヒト]]の[[戯曲]]「屠殺場の聖ヨハンナ」「ハッピーエンド」など: 救世軍は抑圧者・[[偽善]]者として、極めて批判的に描かれている。ブレヒトに影響を与えた[[フリードリヒ・エンゲルス]]は、「[[空想から科学へ]]」で救世軍を「原始キリスト教の伝道を復活し、選民として貧民に訴え、宗教的なやり方で資本主義とたたかい、こうして原始キリスト教的階級対立の一要素を育てている」と指摘している。 * [[ジョージ・バーナード・ショー]]の戯曲「[[:en:Major Barbara (play)|バーバラ少佐]]」: タイトルロールは、救世軍の奉仕活動に没頭する弾薬会社の社長令嬢。これもキリスト教と、救世軍の[[偽善]]を批判する作品である。 * 映画「[[吉原炎上]]」: [[廃娼運動]]の一環で、[[吉原遊廓]]内を練り歩く救世軍の一団が登場する。 * 映画「[[昭和侠客伝]]」:昭和初期の浅草・吉原界隈において、廃娼運動に従事する救世軍の士官が登場する。 * 映画「[[骨までしゃぶる]]」:主人公の[[遊女]]は救世軍の助力により[[遊郭]]より脱出する。 * 映画「[[過去のない男]]」([[アキ・カウリスマキ]]): 記憶を失った男と、彼を助ける救世軍下士官の恋愛を描いた物語。 *ミュージカル「[[ガイズ&ドールズ]]」: 賭博師と、身持ちの堅い救世軍下士官との恋愛を描く。 *「メリークリスマス・[[Mr.ビーン]]」: 「社会鍋」を行なっている救世軍ブラスバンドと、ビーンの滑稽なやり取りが見られる。 * 映画「[[オースティン・パワーズ]]」: [[世界征服]]を企む敵組織として、救世軍の架空派閥「救世軍武闘派」が登場する。 * 「[[冬の散歩道]]」([[サイモン&ガーファンクル]]): 冬の情景を象徴するものとして、「hear the salvation army band」という歌詞と、救世軍の[[ブラスバンド]]をイメージした音が入っている。 * 「ライフ・イン・ア・ノーザン・タウン」([[ドリーム・アカデミー]]): 冒頭に「A Salvation Army band played」という歌詞がある。 * [[シェエラザード (浅田次郎)|シェエラザード]]([[浅田次郎]]): 救世軍の活動が物語の重要な部分に関わっている。 * 映画「[[地の塩 山室軍平]]」:日本人として初めて救世軍士官、のちに日本司令官となった[[山室軍平]]の生涯を描く。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|25em}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2013年2月19日 (火) 19:14 (UTC)}} * ヘンリー・ブラード 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824184 救世軍とは何か]』(救世軍日本本営、1903年) * [[山室軍平]] 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/825108 ブース大将伝]』(救世軍日本本営、1906年) * 山室軍平 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963236 救世軍二十五年戦記]』(救世軍本営、1920年) * 西川光次郎 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906078 救世軍]』(日月社、1914年) * 山室軍平 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018845 救世軍略史]』(救世軍出版及供給部、1926年) * 救世軍出版及供給部 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111980 救世軍写真帖]』(1928年) * 救世軍出版及供給部 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1108042 救世軍歌集]』(1937年) * [[八木谷涼子]]『知って役立つキリスト教大研究』182-194ページおよび257-270ページ(新潮OH!文庫、2001年、ISBN 4102901337) * 八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』185-197ページおよび251ページ、295ページ(朝日文庫、2012年、ISBN 9784022617217) * 「救世軍紹介パンフレット」(救世軍日本本営)<!--本営および各小隊で無償配布されている。--> * 『ときのこえ』各号(救世軍日本本営)<!--一般でも購読可能。場所によっては無償配布されていることもある。--> * 『救世軍 軍令及び軍律(兵士の巻)』(救世軍出版供給部、2001年)<!--ここから『救世軍歌集』まで、救世軍人でなくても日本本営の売店で購入可能。--> * チック・ユイル『バトル・オーダーズ』(救世軍出版供給部、2002年) * チック・ユイル『聖徒募集中!』(救世軍出版供給部、2005年) * チック・ユイル『そして、神は性を創造された!』(救世軍出版供給部、2006年) * ジョン・ラーソン『成長する小隊』(救世軍出版供給部、2004年) * 『救世軍のルーツ探訪』(救世軍出版供給部、1993年) * 『救世軍歌集』(救世軍出版供給部、1997年) * 『救世軍 軍令及び軍律(下士官の巻)』(救世軍日本本営)<!--ここから『准尉ガイドライン』までは非売品。ただし、杉並小隊に併設の救世軍資料館において、一般でも閲覧可能。--> * 『救世軍 軍令及び軍律(准尉の巻)』(救世軍日本本営) * 『救世軍 軍令及び軍律(士官の巻)』(救世軍日本本営) * 『救世軍 下士官の心得』(救世軍日本本営) * 『救世軍 准尉ガイドライン』(救世軍日本本営) * 『救世軍教理便覧』(救世軍日本本営、1977年)<!--一般でも購入可能だったが、現在は[[絶版]]。ただし、救世軍資料館において閲覧可能。--> * 『救世軍日本開戦100年記念写真集』(救世軍日本本営、1997年) * 『キリスト教年鑑』各号([[キリスト新聞社]]) * 三吉明著、[[日本歴史学会]]編集 『人物叢書 山室軍平』([[吉川弘文館]]、1986年]、ISBN 4642050507) * [[室田保夫]] 『山室軍平―無名ノ英雄、無名ノ豪傑タルヲ勉メン哉』 [[ミネルヴァ書房]]、2020年 <!--* [http://www.salvationarmy.org.au/supplies/categories.asp?cID=50 救世軍オーストラリア南部軍国(Australia Southern Territory)オンラインショップ]-掲載品はオーストラリア国内の救世軍人にしか販売しないが、肩章や襟章の写真があり画像参考サイトとして有用。--> == 関連項目 == {{Commonscat|Salvation Army}} {{Commonscat|Salvation Army in Japan|日本における救世軍}} * [[:en:Officer_in_The_Salvation_Army|Officer_in_The_Salvation_Army]] - 英語版ウィキペディアの「救世軍士官」の項目。階級制度・階級呼称などの変遷や、階級章のデザイン等について詳説している。 * [[:en:Soldier in The Salvation Army|Soldier in The Salvation Army]] - 英語版ウィキペディアの「救世軍兵士」の項目。 * [[:en:Generals of The Salvation Army|Generals of The Salvation Army]] - 英語版ウィキペディアの「救世軍大将」の項目。歴代の氏名と在任期間のリスト他。 * [[:en:Chief of the Staff of The Salvation Army|Chief of the Staff of The Salvation Army]] - 英語版ウィキペディアの「救世軍参謀総長」の項目。歴代の氏名と在任期間のリスト他。 * [[社会鍋]] * [[ドーナツの日]] * [[ヴィクトリア朝]] * [[赤十字社]]/[[国境なき医師団]]/[[世界の医療団]] * [[イングランド国教会]] - 救世軍に類似した社会奉仕団体「チャーチ・アーミー」(教会軍)を組織し、運用している。 * [[川瀬徳太郎]] - [[ルーテル教会]][[牧師]]・廃娼運動家。一時期救世軍士官として活動した。 * [[石井十次]] - 社会事業家。軍平に救世軍入隊を薦め、自らも「東洋救世軍」と称して伝道活動を行なった。 * [[天理教]] - 「災害救援ひのきしん隊」という自己完結した救援部隊を各教区ごとに持っており、[[災害]]時には[[地方公共団体|自治体]]や他の[[ボランティア]]団体などと協力して救援活動や支援活動を行っている。 * [[真田増丸]](さなだ ますまる) - [[浄土真宗]][[本願寺派]]の[[僧侶]]。[[明治]]から[[大正]]にかけて「[[仏教済軍]]」という組織を作り、救世軍と同じような理念を掲げて活動していた。[http://www.city.buzen.lg.jp/kanko/miru/jinbutsu/sanada.html][https://kotobank.jp/word/%e7%9c%9f%e7%94%b0%e5%a2%97%e4%b8%b8-1078964] * [[仏教救世軍]] - 救世軍の[[仏教]]版を目指して作られ、[[大正]]期に活動していた[[日蓮宗]]系の団体。 * [[慈善活動]]/[[ボランティア]] * [[救急医療]] * [[日本の救助隊]] * [[軍隊の編制]]/[[軍隊の階級]] == 外部リンク == * [http://www.salvationarmy.or.jp/ 救世軍日本本営] * [http://boothhp.salvationarmy.or.jp/ 救世軍ブース記念病院] * [http://kiyosehp.salvationarmy.or.jp/ 救世軍清瀬病院] * [http://grace.salvationarmy.or.jp/ ブース記念 老人保健施設グレイス] * [http://meguminoie.salvationarmy.or.jp/ 特別養護老人ホーム 救世軍恵みの家] * [http://www.salvationarmy.org/ 救世軍万国本営]{{en icon}} * [http://www.sawiki.net/ SAWiki]{{en icon}} 救世軍ウィキ * [http://www.sps-shop.com/ 救世軍オンラインストア]{{en icon}} - 書籍、制服、バッジ、音楽CD、DVD等の通信販売サイト([[イギリス]]) * [http://store.salvationarmy.ca/ 救世軍オンラインストア]{{en icon}} - 同上([[カナダ]]) * [http://commerce.salvationarmy.org.au/ 救世軍オンラインストア]{{en icon}} - 同上([[オーストラリア]]) * [http://www1.salvationarmy.org.uk/uki/www_uki.nsf/vw-sublinks/A4E872A1A4B5FA8C8025704300378202?openDocument The Salvation Army: William Booth College(救世軍万国士官学校)]{{en icon}} * {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/yagitani/note_ja4.htm |title=資料:英国の軍隊階級/内閣役職対照表 |date=20061211134232}} {{きよめ派}} {{日本基督教団を離脱した団体}} {{日本福音同盟}} {{救急医学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きゆうせいくん}} [[Category:救世軍|*]] [[Category:ホーリネスの教派]] [[Category:メソジスト]] [[Category:慈善団体]] [[Category:プロテスタントの組織]] [[Category:プロテスタント教派の下位区分]] [[Category:日本福音同盟]] [[Category:非政府組織]] [[Category:日本の社会運動]] [[Category:社会運動団体]] [[Category:禁酒]] [[Category:たばこ対策関連団体]] [[Category:貧困関連の組織]] [[Category:ホームレス関連の組織]] [[Category:廃娼運動]] [[Category:防災組織]] [[Category:国際NGO]] [[Category:国際援助]] [[Category:1865年設立の組織]]
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関東鉄道常総線
常総線(じょうそうせん)は、茨城県取手市の取手駅から同県筑西市の下館駅までを結ぶ関東鉄道の鉄道路線である。路線名は、沿線が旧常陸国と旧下総国にまたがることに由来する。 関東平野のほぼ中央、利根川水系の鬼怒川にほぼ並行して南北に走る、東京圏の通勤路線としては珍しい全線非電化の路線。水海道駅を境に複線化されている南側は他社線との乗り換えにより東京方面への通勤を担う路線としての性格を持ち、北側の単線区間は田園地帯を走って鬼怒川沿いの集落を結ぶローカル線の性格が強い。 かつては各市街地を除いて沿線のほとんどが田園地帯であったが、1960年代に東洋観光興業造成の住宅街(新取手)が開発されて以降、1970年代 - 1980年代にかけ、常総ニュータウン(戸頭、南守谷、新守谷)やパークシティ守谷(戸頭、南守谷)など大規模開発によりベッドタウン化が進んだ。急増した人口に対応すべく、日本住宅公団などから資金分担を得て、全線単線であった路線のうち取手 - 水海道間を1980年代までに複線化している。その結果、非電化私鉄でありながら、17.5 kmに及ぶ複線区間が存在する全国的に見ても珍しい路線となっている。 常総線が全線非電化である理由は、茨城県石岡市に所在する気象庁地磁気観測所との兼ね合いの結果で、かつては地磁気観測に影響を与えない直直デッドセクション方式による直流電化を目指し実験を行ったものの(詳細は「交流電化」を参照)、変電所が多く必要になり費用負担が大きくなることが判明、当面非電化での営業を続けるとしたためである。1990年代以降は高出力の新型気動車を相次いで新造・投入しスピードアップを図っている。2005年にはつくばエクスプレスが開業し、途中の守谷駅も東京方面への乗換駅になるなど環境が変化している。 「サイクルトレイン」を実施しており、水海道駅 - 大田郷駅間で9時30分 - 14時30分に乗車する場合に限って、1人1台まで自転車を無料で列車内に積み込むことができる。 ICカード「PASMO」「Suica」が利用できる。ただし竜ヶ崎線を含め、交通系ICカード全国相互利用サービスは対象外であり、関東地方以外で発売されている「ICOCA」や「SUGOCA」などは使用不可である。 鉄道むすめの「寺原ゆめみ」をキャラクターに起用している。名前の由来は寺原駅・ゆめみ野駅から。 1911年(明治44年)、常総鉄道線の敷設に際し「下館 - 水海道 - 佐貫」の計画案と「下館 - 水海道 - 取手」の計画案がほぼ同時期に申請され、両者の話し合いの結果、佐貫計画案の事業者が申請を取り下げたため現在の路線が建設された。 普通列車と快速列車が運行されている。おおむね取手駅 - 水海道駅間の複線区間と水海道駅 - 下館駅間の単線区間で運転系統が分離されており、取手側は運行密度の高い通勤路線、下館側は少ない運行本数に快速運転を織り交ぜたローカル路線となっている。もともとは全列車が各駅停車で運行されていたが、つくばエクスプレス開業に伴い、守谷 - 下館間にて快速列車の運行を開始している。 全区間でワンマン運転を行う。複線区間では運賃収受を駅で行い、単線区間では運賃収受を列車内で行う。下館駅のみホーム上にある改札で精算できる。 複線・単線両区間を直通する列車もあるが、行先表示に「水海道乗換下館」「水海道乗換取手」などと、実際にはその列車自体は直通しない行先が並列で表記されている場合がある。それらの列車は水海道駅にて乗り換えのしやすい接続列車が出ることを示しており、一部の時刻表サイト等においてはこの「水海道乗換○○」表記の列車とそれに接続する列車の2本を直通の1本の列車として扱っているところもある。乗換列車が守谷駅発着の場合は「守谷乗換」のような表記はされない。駅掲出の時刻表や関東鉄道が配布している路線時刻表では、水海道乗換の列車はあくまで下館(下妻)行きであり、水海道での乗り換えを要する旨が記載されているほか、守谷駅からの接続列車がある場合についても記載がある。 つくばエクスプレス開業に合わせて行われたダイヤ改正で、取手駅 - 水海道駅間の列車が原則として2両編成となった時には水海道駅を越えて下妻・下館方面へ直通する列車が約半数となったが、2005年12月のダイヤ改正以降、日中の直通運転は再び減少していた。2017年3月4日より、一部を除く日中の列車が全線直通運転となった。これにより、取手駅 - 水海道駅間の日中の運行が1両編成となった。 2005年8月24日から運行を開始した。運転開始当初は朝に上り3本、夕に下り3本の計3往復。2005年12月10日のダイヤ改正で1日6往復に増発され、運行時間帯が日中にも拡大した。平日朝・夕のみ取手 - 下館間を直通運転し、それ以外の時間帯および土休日は守谷 - 下館間で運行されるほか、早朝に下妻発下館行が1日1便運行されている。全線を直通する列車も含め取手 - 守谷間は各駅に停車する。守谷 - 下館の最短所要時間は44分で、守谷でつくばエクスプレスに乗り換えることができるため、守谷以北では常総線経由で東京へ向かう時間が大幅に短縮された。ただ単線区間からの旅客増加には成功したが、大幅な収益増につながる数値ではない。 快速といえど、先行する普通列車を途中駅で待避させての追い抜きは行わない。ただし守谷駅は追い抜き対応に改良されているほか、石下駅にも待避線を設置するスペースが準備されている。通過駅を通過する際にポイントの速度制限があり、その都度減速をしている。これを改善するため、2007年度に大宝駅へ行き違い設備の新設を行ったほか、2009年度には単線区間各駅の同時進入改良工事が実施されているが、さらなる高速化と多頻度化を求める声は多い。2011年度以降、新車投入や設備改良を行い、終日概ね毎時上下どちらか1本の1日10往復を目標に増発する計画がある。 つくばエクスプレス開業以前、常総線内各駅から東京方面へ向かう際は、取手駅でJR常磐線に乗り継ぐのが一般的なルートであり、取手駅の乗降客数は線内最多で、最盛期には3万人近くであった。現在は1万6千人ほどとなっている。輸送密度が最も高い区間も取手 - 西取手間であり、上り列車は取手駅に近づくにつれて車内が混雑し、下り列車は取手駅から遠ざかるほど車内が閑散としていくピラミッド型の通勤路線であった。 つくばエクスプレス開業後、取手駅一辺倒だった利用者は、つくばエクスプレス線との接続駅である守谷駅との間で分散したが、都心への所要時間が短く(つくばエクスプレス快速=秋葉原 - 守谷間約30分、JR常磐線快速=上野 - 取手間約40分)、ターミナルもより都心部に近いつくばエクスプレス線を利用する流れが強まっている。現在の乗降客数トップは守谷駅となっている。 この結果、従来守谷駅付近から常総線と常磐線で都心に向かっていた利用者をつくばエクスプレスに奪われたほか、守谷 - 取手間だけ常総線の乗車距離が短くなった分、トータルで減収となるため、ワンマン化・運賃値上げや、快速の設定で水海道以北からの利用者の掘り起こしをはかるなどの対応策を打ち出している。 常総線の近年の輸送実績を下表に記す。 表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 常総線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 2020年度の最混雑区間は西取手駅→取手駅(7:20-8:20)で、混雑率は50%である。 料金箱や整理券発券機などは設置されていないものの、運用される車両はすべてワンマンおよび快速運転に対応している。2005年8月24日のダイヤ改正で水海道以北への直通運用が増加し、水海道 - 下館間においては車掌が乗務している。ただし水海道・石下・下妻・下館の駅員配置駅しか停車しない快速列車についてはワンマン運転となっている。その後同年12月10日のダイヤ改正では利用実態に応じ2両編成の水海道以北への直通が減少し、1両編成列車主体に戻されている。2017年3月4日より、日中の取手 - 水海道間は1両編成での運行となった。 すべて両運転台のワンマン車両で、車内に料金箱や整理券発券機などを有する。かつては水海道 - 下館間の限定運用だったが、つくばエクスプレス開業後に複線区間の守谷駅まで乗り入れるようになり、ダイヤ改正毎に運行本数が増加している。 関東鉄道グループのロッド式ディーゼル機関車として、他に筑波鉄道にセンターキャブのDD501形(新三菱重工製)、鹿島鉄道にセンターキャブのDD901形(日本車輌製)があった。 常総筑波鉄道の時代の1950年代から気動車導入を本格推進し、関東鉄道成立後に至るまで、自社発注車・国鉄払下げ車・客車や電車の改造など様々な手段で気動車を調達。特に常総線は東京に最も至近な路線であることから、輸送力増強策として総括制御の大型気動車投入が積極推進され、小田急電鉄や南海電気鉄道からは、平坦線では持て余されることの多い長距離用の2エンジン気動車まで調達して無動力トレーラをけん引できる通勤仕様に改造した。1950年代-1960年代の気動車導入の旺盛さでは関西・滋賀県の江若鉄道と並び称される存在で、中古車の払下げ調達ではしばしば競合したという。1969年の江若鉄道線廃止時には同社からも中古車を大量購入している。 キハ42002形からキハ900形はすべて常総筑波鉄道時代に日本車輌製造東京支店で新製された車両である。いずれも「バス窓」で製造された。キハ500・800・900形は製造時からステップは取付けられていなかった。 全駅茨城県に所在。 モバイルSuicaでの窓口精算はできない。 パーク&ライド駐車場として、石下駅以北にある下記の8駅で利用者が無料で駐車できる駐車場がある。この駐車場を利用するには、駐車したい旨を駅係員または乗務員に申し出る必要がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "常総線(じょうそうせん)は、茨城県取手市の取手駅から同県筑西市の下館駅までを結ぶ関東鉄道の鉄道路線である。路線名は、沿線が旧常陸国と旧下総国にまたがることに由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "関東平野のほぼ中央、利根川水系の鬼怒川にほぼ並行して南北に走る、東京圏の通勤路線としては珍しい全線非電化の路線。水海道駅を境に複線化されている南側は他社線との乗り換えにより東京方面への通勤を担う路線としての性格を持ち、北側の単線区間は田園地帯を走って鬼怒川沿いの集落を結ぶローカル線の性格が強い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつては各市街地を除いて沿線のほとんどが田園地帯であったが、1960年代に東洋観光興業造成の住宅街(新取手)が開発されて以降、1970年代 - 1980年代にかけ、常総ニュータウン(戸頭、南守谷、新守谷)やパークシティ守谷(戸頭、南守谷)など大規模開発によりベッドタウン化が進んだ。急増した人口に対応すべく、日本住宅公団などから資金分担を得て、全線単線であった路線のうち取手 - 水海道間を1980年代までに複線化している。その結果、非電化私鉄でありながら、17.5 kmに及ぶ複線区間が存在する全国的に見ても珍しい路線となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "常総線が全線非電化である理由は、茨城県石岡市に所在する気象庁地磁気観測所との兼ね合いの結果で、かつては地磁気観測に影響を与えない直直デッドセクション方式による直流電化を目指し実験を行ったものの(詳細は「交流電化」を参照)、変電所が多く必要になり費用負担が大きくなることが判明、当面非電化での営業を続けるとしたためである。1990年代以降は高出力の新型気動車を相次いで新造・投入しスピードアップを図っている。2005年にはつくばエクスプレスが開業し、途中の守谷駅も東京方面への乗換駅になるなど環境が変化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「サイクルトレイン」を実施しており、水海道駅 - 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水海道駅間の列車が原則として2両編成となった時には水海道駅を越えて下妻・下館方面へ直通する列車が約半数となったが、2005年12月のダイヤ改正以降、日中の直通運転は再び減少していた。2017年3月4日より、一部を除く日中の列車が全線直通運転となった。これにより、取手駅 - 水海道駅間の日中の運行が1両編成となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2005年8月24日から運行を開始した。運転開始当初は朝に上り3本、夕に下り3本の計3往復。2005年12月10日のダイヤ改正で1日6往復に増発され、運行時間帯が日中にも拡大した。平日朝・夕のみ取手 - 下館間を直通運転し、それ以外の時間帯および土休日は守谷 - 下館間で運行されるほか、早朝に下妻発下館行が1日1便運行されている。全線を直通する列車も含め取手 - 守谷間は各駅に停車する。守谷 - 下館の最短所要時間は44分で、守谷でつくばエクスプレスに乗り換えることができるため、守谷以北では常総線経由で東京へ向かう時間が大幅に短縮された。ただ単線区間からの旅客増加には成功したが、大幅な収益増につながる数値ではない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "快速といえど、先行する普通列車を途中駅で待避させての追い抜きは行わない。ただし守谷駅は追い抜き対応に改良されているほか、石下駅にも待避線を設置するスペースが準備されている。通過駅を通過する際にポイントの速度制限があり、その都度減速をしている。これを改善するため、2007年度に大宝駅へ行き違い設備の新設を行ったほか、2009年度には単線区間各駅の同時進入改良工事が実施されているが、さらなる高速化と多頻度化を求める声は多い。2011年度以降、新車投入や設備改良を行い、終日概ね毎時上下どちらか1本の1日10往復を目標に増発する計画がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "つくばエクスプレス開業以前、常総線内各駅から東京方面へ向かう際は、取手駅でJR常磐線に乗り継ぐのが一般的なルートであり、取手駅の乗降客数は線内最多で、最盛期には3万人近くであった。現在は1万6千人ほどとなっている。輸送密度が最も高い区間も取手 - 西取手間であり、上り列車は取手駅に近づくにつれて車内が混雑し、下り列車は取手駅から遠ざかるほど車内が閑散としていくピラミッド型の通勤路線であった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "つくばエクスプレス開業後、取手駅一辺倒だった利用者は、つくばエクスプレス線との接続駅である守谷駅との間で分散したが、都心への所要時間が短く(つくばエクスプレス快速=秋葉原 - 守谷間約30分、JR常磐線快速=上野 - 取手間約40分)、ターミナルもより都心部に近いつくばエクスプレス線を利用する流れが強まっている。現在の乗降客数トップは守谷駅となっている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この結果、従来守谷駅付近から常総線と常磐線で都心に向かっていた利用者をつくばエクスプレスに奪われたほか、守谷 - 取手間だけ常総線の乗車距離が短くなった分、トータルで減収となるため、ワンマン化・運賃値上げや、快速の設定で水海道以北からの利用者の掘り起こしをはかるなどの対応策を打ち出している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "常総線の近年の輸送実績を下表に記す。 表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "常総線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2020年度の最混雑区間は西取手駅→取手駅(7:20-8:20)で、混雑率は50%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "料金箱や整理券発券機などは設置されていないものの、運用される車両はすべてワンマンおよび快速運転に対応している。2005年8月24日のダイヤ改正で水海道以北への直通運用が増加し、水海道 - 下館間においては車掌が乗務している。ただし水海道・石下・下妻・下館の駅員配置駅しか停車しない快速列車についてはワンマン運転となっている。その後同年12月10日のダイヤ改正では利用実態に応じ2両編成の水海道以北への直通が減少し、1両編成列車主体に戻されている。2017年3月4日より、日中の取手 - 水海道間は1両編成での運行となった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "すべて両運転台のワンマン車両で、車内に料金箱や整理券発券機などを有する。かつては水海道 - 下館間の限定運用だったが、つくばエクスプレス開業後に複線区間の守谷駅まで乗り入れるようになり、ダイヤ改正毎に運行本数が増加している。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "関東鉄道グループのロッド式ディーゼル機関車として、他に筑波鉄道にセンターキャブのDD501形(新三菱重工製)、鹿島鉄道にセンターキャブのDD901形(日本車輌製)があった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "常総筑波鉄道の時代の1950年代から気動車導入を本格推進し、関東鉄道成立後に至るまで、自社発注車・国鉄払下げ車・客車や電車の改造など様々な手段で気動車を調達。特に常総線は東京に最も至近な路線であることから、輸送力増強策として総括制御の大型気動車投入が積極推進され、小田急電鉄や南海電気鉄道からは、平坦線では持て余されることの多い長距離用の2エンジン気動車まで調達して無動力トレーラをけん引できる通勤仕様に改造した。1950年代-1960年代の気動車導入の旺盛さでは関西・滋賀県の江若鉄道と並び称される存在で、中古車の払下げ調達ではしばしば競合したという。1969年の江若鉄道線廃止時には同社からも中古車を大量購入している。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "キハ42002形からキハ900形はすべて常総筑波鉄道時代に日本車輌製造東京支店で新製された車両である。いずれも「バス窓」で製造された。キハ500・800・900形は製造時からステップは取付けられていなかった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "全駅茨城県に所在。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "モバイルSuicaでの窓口精算はできない。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "パーク&ライド駐車場として、石下駅以北にある下記の8駅で利用者が無料で駐車できる駐車場がある。この駐車場を利用するには、駐車したい旨を駅係員または乗務員に申し出る必要がある。", "title": "駅一覧" } ]
常総線(じょうそうせん)は、茨城県取手市の取手駅から同県筑西市の下館駅までを結ぶ関東鉄道の鉄道路線である。路線名は、沿線が旧常陸国と旧下総国にまたがることに由来する。
{{Infobox rail line | box_width = 300px | name = [[File:Kantetsu Logo B.svg|20px|関東鉄道]] 常総線 | color = 0000ff | other_name = | image = Kanto Railway 2304 Moriya Station 20080713.jpg | image_width = 300px | image_alt = 常総線を走行するキハ2300形 | caption = 常総線を走行するキハ2300形<br>(2008年7月 [[守谷駅]]付近) | type = | status = | start = 起点:[[取手駅]]<ref name="sone21 3">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』21号 3頁]]</ref> | end = 終点:[[下館駅]]<ref name="sone21 3"/> | stations = 25駅<ref name="sone21 3"/> | open = {{start date and age|1913|11|01|df=y}} | close = | owner = [[常総鉄道]]→[[常総筑波鉄道]]→<br />[[関東鉄道]] | operator = | depot = | stock = [[#車両|車両]]の節を参照 | linelength_km = 51.1 | linelength = | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}}<ref name="sone21 3"/> | minradius = | linenumber = | el = 全線[[非電化]] | speed = 90km/h<ref name="speed">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2017-3-4.pdf 鉄道事故調査報告書]}} - 運輸安全委員会</ref> | maxincline = | map = [[File:Kanto Railway Linemap.svg|300px]] | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|blue}} {{BS-table}} {{BS4|STR|STR|||||[[常磐線]]([[常磐緩行線|各駅停車]]・[[常磐快速線|快速]])|}} {{BS4|KBHFe|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|KBHFa|O3=HUBeq||0.0|[[取手駅]]||}} {{BS4||STRr|BHF||1.6|[[西取手駅]]|}} {{BS2||BHF|2.1|[[寺原駅]]||}} {{BS2||BHF|3.4|[[新取手駅]]||}} {{BS2||BHF|4.2|[[ゆめみ野駅]]||}} {{BS2||BHF|5.4|[[稲戸井駅]]||}} {{BS2||BHF|6.3|[[戸頭駅]]||}} {{BS2||BHF|7.4|[[南守谷駅]]||}} {{BS4||STRq|TBHFu|STRq|9.6|[[守谷駅]]||}} {{BS2||STR|||[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]|}}<!-- 路線名のみで理解可能 --> {{BS2||BHF|11.4|[[新守谷駅]]||}} {{BS2||SKRZ-Au|||[[常磐自動車道]]|}} {{BS2||BHF|13.0|[[小絹駅]]||}} {{BS4||STR+l|ABZgr|||||}} {{BS4||DST|DST|||[[南水海道信号所]]||}} {{BS4||STRl|ABZg+r|||[[水海道車両基地]]||}} {{BS2||BHF|17.5|[[水海道駅]]|↑[[複線]]/[[単線]]↓|}} {{BS2||BHF|19.3|[[北水海道駅]]||}} {{BS2||BHF|20.9|[[中妻駅]]||}} {{BS2||BHF|23.9|[[三妻駅]]||}} {{BS2||SKRZ-Au|||[[首都圏中央連絡自動車道]]|}} {{BS2||BHF|27.2|[[南石下駅]]||}} {{BS2||BHF|28.8|[[石下駅]]||}} {{BS2||BHF|31.0|[[玉村駅]]||}} {{BS2||BHF|33.0|[[宗道駅]]||}} {{BS2||BHF|36.1|[[下妻駅]]||}} {{BS2||BHF|38.7|[[大宝駅]]||}} {{BS2||BHF|41.0|[[騰波ノ江駅]]||}} {{BS2||BHF|43.6|[[黒子駅]]||}} {{BS2||eBHF||''[[野殿駅]]''|-1950年頃|}} {{BS4|||eABZg+l|exSTRq|||''[[常総筑波鉄道鬼怒川線|鬼怒川線]]''|}} {{BS2||BHF|47.3|[[大田郷駅]]||}} {{BS4|SHI4+rq|BHFq|O2=HUBa|STRr||51.1|[[下館駅]]||}} {{BS4|SHI4glq|BHFq|O2=HUB|SHI4g+rq||||[[水戸線]]|}} {{BS4||KBHFaq|O2=HUBe|SHI4lq|O3=STR+r||||[[真岡鐵道]][[真岡鐵道真岡線|真岡線]]|}} |} |} '''常総線'''(じょうそうせん)は、[[茨城県]][[取手市]]の[[取手駅]]から同県[[筑西市]]の[[下館駅]]までを結ぶ[[関東鉄道]]の[[鉄道路線]]である。路線名は、沿線が旧[[常陸国]]と旧[[下総国]]にまたがることに由来する。 [[ファイル:Joso line train near Minami Moriya 2916 06 24.ogv|thumb|南守谷駅に到着する常総線の列車(2016年)]] == 概要 == [[関東平野]]のほぼ中央、[[利根川]]水系の[[鬼怒川]]にほぼ並行して南北に走る、東京圏の通勤路線としては珍しい全線[[非電化]]の路線。[[水海道駅]]を境に[[複線]]化されている南側は他社線との乗り換えにより[[東京]]方面への通勤を担う路線としての性格を持ち、北側の[[単線]]区間は田園地帯を走って鬼怒川沿いの集落を結ぶローカル線の性格が強い。 かつては各市街地を除いて沿線のほとんどが田園地帯であったが、1960年代に[[ジェネラスコーポレーション|東洋観光興業]]造成の住宅街(新取手)が開発されて以降、1970年代 - 1980年代にかけ、[[常総ニュータウン]]([[戸頭 (取手市)|戸頭]]、南守谷、新守谷)や[[みずき野 (守谷市)|パークシティ守谷]](戸頭、南守谷)など大規模開発により[[ベッドタウン]]化が進んだ。急増した人口に対応すべく、[[日本住宅公団]]などから資金分担を得て、全線単線であった路線のうち取手 - 水海道間を1980年代までに複線化している<ref>谷和原の歴史 通史編(谷和原村史編さん委員会)</ref>。その結果、非電化私鉄でありながら、17.5&nbsp;kmに及ぶ複線区間が存在する全国的に見ても珍しい路線となっている。 常総線が全線非電化である理由は、茨城県[[石岡市]]に所在する[[気象庁地磁気観測所]]との兼ね合いの結果で、かつては[[地磁気]]観測に影響を与えない直直デッドセクション方式<!-- 直流区間同士なので「直直」で正当。-->による直流電化を目指し実験を行ったものの(詳細は「[[交流電化#茨城県内の電化と地磁気観測所|交流電化]]」を参照)、[[変電所]]が多く必要になり費用負担が大きくなることが判明、当面非電化での営業を続けるとしたためである。1990年代以降は高出力の新型[[気動車]]を相次いで新造・投入しスピードアップを図っている。2005年には[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]が開業し、途中の[[守谷駅]]も東京方面への乗換駅になるなど環境が変化している。 「[[サイクルトレイン]]」を実施しており、水海道駅 - [[大田郷駅]]間で9時30分 - 14時30分に乗車する場合に限って、1人1台まで自転車を無料で列車内に積み込むことができる<ref>[http://kantetsu.co.jp/train/cycle.html サイクルトレイン] - 関東鉄道(2017年9月24日閲覧)</ref>。 [[ICカード]]「[[PASMO]]」「[[Suica]]」が利用できる。ただし[[関東鉄道竜ヶ崎線|竜ヶ崎線]]を含め、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]は対象外であり、関東地方以外で発売されている「[[ICOCA]]」や「[[SUGOCA]]」などは使用不可である{{Refnest|グループの[[路線バス]]は2018年3月16日よりPASMOと相互利用可能な全ICカードが利用できるようになった<ref>{{PDFlink|[http://kantetsu.co.jp/img/bus/pasmo/info_20180316.pdf 3月16日(金) 関鉄グループ全路線交通系ICカード導入のお知らせ]}} - 関東鉄道</ref>。}}。 [[鉄道むすめ]]の「寺原ゆめみ」をキャラクターに起用している。名前の由来は[[寺原駅]]・[[ゆめみ野駅]]から。 === 路線データ === [[ファイル:関東鉄道常総線 停車駅案内図.svg|thumb|none|500px|停車駅]] * 管轄(事業種別):関東鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):51.1 km<ref name="sone21 3"/> * [[軌間]]:1067 mm<ref name="sone21 3"/> * 駅数:25駅(起終点を含む)<ref name="sone21 3"/> * 電化区間:なし(全線[[非電化]]) * 複線区間:取手 - 水海道間17.5&nbsp;km * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 保安装置:[[自動列車停止装置|速度照査式ATS]] * 最高速度:90km/h<ref name="speed" /> * [[車両基地]]所在駅:[[南水海道信号所]](水海道 - 小絹間) →[[水海道車両基地]] == 歴史 == [[1911年]]([[明治]]44年)、常総鉄道線の敷設に際し「下館 - 水海道 - 佐貫」の計画案と「下館 - 水海道 - 取手」の計画案がほぼ同時期に申請され、両者の話し合いの結果、佐貫計画案の事業者が申請を取り下げたため現在の路線が建設された。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[11月1日]] - '''[[常総鉄道]]''' 取手 - 下館間開業<ref name="sone21 9">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』21号 9頁]]</ref>。 * [[1917年]](大正6年) - 下妻 - 大宝間に(臨)大宝八幡駅開業。 * [[1920年]](大正9年)[[2月1日]] - 中妻駅開業<ref name="sone21 9"/>。 * [[1926年]](大正15年)[[8月15日]] - 騰波ノ江駅開業<ref>[{{NDLDC|2956349/6}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1926年8月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[9月7日]] - 内燃動力(ガソリンカー)併用開始<ref name="sone21 9"/>。 * [[1931年]](昭和6年)[[11月15日]] - 南石下駅、玉村駅開業<ref name="sone21 9"/>。 * [[1935年]](昭和10年) - (臨)大宝八幡駅廃止、大宝駅移転。 * [[1938年]](昭和13年)[[12月1日]] - 野殿駅開業<ref> {{Cite | author = 関東鉄道株式会社社史編集室 | title = 関東鉄道株式会社70年史 | publisher = 関東鉄道株式会社 | date = 1993.03 | page = 83 }}</ref>。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[3月20日]] - '''[[筑波鉄道 (初代)|筑波鉄道]]'''(初代)と合併して'''[[常総筑波鉄道]]'''に改称<ref name="sone21 9"/>。 ** [[8月13日]] - 13時30分頃、現在の新守谷駅付近においてアメリカ軍の機銃掃射に遭い、死傷者が出る<ref>守谷町史(守谷町史編さん委員会/守谷町)</ref>。 * [[1948年]](昭和23年) ** 2月1日 - 下館駅から取手を経由して、常磐線上野駅までの直通運転を開始<ref name="sone21 10">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』21号 10頁]]</ref>。 ** [[5月1日]] - 常磐線直通列車を下妻駅始終着に短縮<ref name="sone21 10"/>。 * [[1949年]](昭和24年)6月 - 常磐線電化に伴い、直通列車の運行取り止め<ref name="sone21 10"/>。 * [[1950年]](昭和25年) ** この頃、野殿駅が廃止される。 ** [[10月28日]] - 走行中の[[混合列車]]内の[[貨車]]を占拠して移動[[賭博場]]を開き、[[常習賭博]]を行っていたヤミ米ブローカーら35人が検挙<ref>「走る列車で大捕物 常習トバク團三五名検挙」『日本経済新聞』昭和25年10月29日2面</ref>。 * [[1960年]](昭和35年)11月15日 - 南守谷駅開業<ref name="sone21 10"/>。 * [[1965年]](昭和40年)[[6月1日]] - [[鹿島参宮鉄道]]と合併して'''関東鉄道'''となる。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[4月1日]] - 新取手駅開業<ref name="sone21 10"/>。 ** [[10月1日]] - 水海道 - 下妻間自動閉塞化<ref name="sone21 10"/>。 ** 12月1日 - 下妻 - 下館間自動閉塞化<ref name="sone21 10"/>。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月15日]] 北水海道駅開業<ref name="sone21 10"/>。 ** [[11月25日]] 取手 - 水海道間自動閉塞化<ref name="sone21 10"/>。 * [[1974年]](昭和49年)[[7月16日]] - 貨物営業廃止<ref name="sone21 10"/>。 * [[1975年]](昭和50年)[[3月26日]] - 戸頭駅開業<ref name="sone21 10"/>。 * [[1977年]](昭和52年)[[4月7日]] - 取手 - 寺原間複線化<ref name="sone21 10"/>。[[ファイル:Kantou01.jpg|thumb|250px|right|複線化直後の寺原駅付近。(1978年3月撮影)]] * [[1978年]](昭和53年)[[1月20日]] - 水海道 - 下妻間CTC化<ref name="sone21 10"/>。 * [[1979年]](昭和54年)12月1日 - 下妻 - 下館間CTC化<ref name="sone21 11">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』21号 11頁]]</ref>。西取手駅開業<ref name="sone21 11"/>。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[3月27日]] - 新守谷駅開業<ref name="sone21 11"/>。 ** [[12月8日]] - 寺原 - 南守谷間複線化<ref name="sone21 11"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[5月31日]] - 南守谷 - 新守谷間複線化<ref name="sone21 11"/>。 * [[1984年]](昭和59年)11月15日 - 新守谷 - 水海道間が複線化され、取手 - 水海道間の複線化が完成<ref name="sone21 11"/>。 * [[1992年]]([[平成]]4年) ** [[3月6日]] - 水海道車両基地が完成し使用開始<ref name="sone21 11"/>。小絹 - 水海道間に南水海道信号所開設<ref name="sone21 11"/>。 ** [[6月2日]] - 取手駅で列車が駅ビルに衝突する事故 ([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#関東鉄道常総線列車衝突事故|常総線列車衝突事故]])<ref name="sone21 11"/>。 * [[1993年]](平成5年) ** [[3月8日]] - ATS使用開始<ref name="joso100">{{Cite web|和書|url=http://www.kantetsu.co.jp/joso100/history/history.html|title=常総線開業1000周年記念サイト|accessdate=2021-10-16|publisher=関東鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131203035756/http://www.kantetsu.co.jp/joso100/history/history.html|archivedate=2013-12-03}}</ref>。 ** [[4月15日]] - [[列車無線]]使用開始<ref name="sone21 11" />。 * [[1997年]](平成9年)[[5月10日]] - 水海道 - 下館間で[[ワンマン運転]]を実施<ref name="sone21 11"/>。 * [[2003年]](平成15年)8月 - 全列車に[[列車防護無線装置|防護無線]]を設置、使用開始<ref name="sone21 11"/>。 * [[2004年]](平成16年) ** [[3月13日]] - 取手 - 水海道間で平日の朝夕を除く時間帯でワンマン運転を実施<ref name="sone21 11"/>。ワンマン列車には新形式車両(キハ2100・2300形)のみが使用されるため、水海道 - 取手間が3 - 4分短縮された。 ** [[10月16日]] - 南水海道信号所での[[運転停車]]を廃止。列車の増解結時以外は通過となった。 * [[2005年]](平成17年) ** [[3月28日]] - [[守谷駅]]新駅舎使用開始<ref name="sone21 11"/>。茨城県内では初のオープンカウンター改札が設置された<ref name="sone21 11"/>。 ** [[4月18日]] - 新型車両によるラッピングトレイン運行開始。 ** [[7月9日]] - つくばエクスプレス開業を控えてのJR常磐線ダイヤ改正に合わせ、快速列車[[習熟運転|訓練運転]]開始によるダイヤ改正。[[自動列車停止装置|速度照査式ATS]]使用開始<ref name="sone21 11"/>。新守谷駅ポイント改良工事に伴い同駅発列車廃止。 ** [[8月24日]] - [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]開業に伴うダイヤ改正。'''快速列車新設'''<ref name="sone21 11"/> を含む増発及び全列車1 - 2両のワンマン運転化。その後、取手口の混雑対応のため、平日朝の5往復が4両編成(車掌乗務)に戻された。 ** [[12月10日]] - ダイヤ改正。増発及び再び全列車1 - 2両のワンマン運転化<ref name="sone21 11"/>。ただし、平日朝の1往復のみ3両編成(車掌乗務)が残された<ref name="sone21 11"/>。 ** [[12月19日]] - 水海道駅を最後に、取手 - 水海道の複線区間全駅に自動改札機設置完了<ref name="sone21 11"/>。 * [[2008年]](平成20年) ** 3月6日 - 大宝駅列車交換設備使用開始<ref name="sone21 11"/>。 ** 3月15日 - ダイヤ改正<ref name="sone21 11"/>。増発<ref name="sone21 11"/> 並びに大宝駅交換設備使用開始に伴う一部列車のスピードアップが図られ、最大7分短縮となった。3両編成の運行終了<ref name="sone21 11"/>。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月14日]] - 「[[PASMO]]」導入<ref name="sone21 11"/>。取手 - 水海道の全駅にPASMO対応自動改札機、北水海道 - 下館の全駅に簡易改札機を導入<ref name="sone21 11"/>。 *** 同時期より、無人駅における防犯カメラの運用も始まった。 ** 10月1日 - 取手 - 水海道間で1両編成の運行開始(平日5往復、土休日6往復)。 ** 11月1日 - ダイヤ改正。下り快速はすべて守谷始発となる。 * [[2010年]](平成22年) ** [[1月1日]] - 取手 - 水海道間の1両編成が平日・土休日とも各2往復増加。 ** [[2月16日]] - [[駅集中管理システム]]を導入、西取手駅・稲戸井駅・南守谷駅・小絹駅が10 - 16時の間、駅員無配置となる<ref name="release20100204">{{PDFlink|[http://www.kantetsu.co.jp/news/100205_camera/press.pdf 常総線駅窓口営業時間の一部変更について]}} - 関東鉄道(2010年2月4日付)</ref>。 ** 3月13日 - ダイヤ改正。新運行管理システム([[自動進路制御装置]])を導入<ref>{{PDFlink|[http://www.city.joso.lg.jp/joso/www/documents/01661.pdf 関東鉄道常総線再生計画の見直しについて]}} - 常総市(2010年3月12日閲覧)</ref>、水海道 - 下館の行き違い対応駅で同時進入可能になる。日中の取手 - 守谷間が15分間隔のパターンダイヤに<ref>[http://www.kantetsu.co.jp/news/100226_traindia/100226_traindia.html 常総線ダイヤ改正のお知らせ] - 関東鉄道(2010年2月27日閲覧)</ref>。 ** 9月1日 - 寺原駅・新取手駅・新守谷駅・石下駅が10 - 16時の間、駅員無配置となる<ref>{{PDFlink|[http://www.kantetsu.co.jp/news/100805_camera/press.pdf 常総線駅窓口営業時間の一部変更について]}}- 関東鉄道(2010年8月5日付)</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月12日]] - 新取手 - 稲戸井間に[[ゆめみ野駅]]が開業<ref>[http://www.kantetsu.co.jp/news/backnumber/old/2010/101221_yumemino/101221_yumemino.html 新駅「ゆめみ野駅」開業概要について] - 関東鉄道(2010年12月21日付)</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** 2月16日 - 寺原駅・ゆめみ野駅・南守谷駅・小絹駅が終日、駅員無配置となる<ref name="info_unmanned">{{PDFlink|[http://www.kantetsu.co.jp/news/130216_train/info_unmanned.pdf 常総線4駅の駅係員不在時間の拡大について]}} - 関東鉄道(2013年1月25日付)</ref>。 ** [[5月16日]] - 西取手駅・新取手駅・稲戸井駅が終日、駅員無配置となる<ref name="info">{{PDFlink|[http://www.kantetsu.co.jp/news/130516_train/info.pdf 常総線3駅の無人化について]}}- 関東鉄道(2013年5月2日付)</ref>。石下駅の駅員配置が7 - 11時のみとなる<ref name="info_ishige">{{PDFlink|[http://www.kantetsu.co.jp/news/130516_train/info_ishige.pdf 有人改札・窓口営業時間の短縮について]}}- 関東鉄道(2013年5月13日付)</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[9月10日]] - [[平成27年台風第18号|台風18号]]に伴う雨雲が前日までに降らせた大雨([[平成27年9月関東・東北豪雨|関東・東北豪雨]])によって常総市内の鬼怒川の堤防が決壊したため、線路冠水・石下駅水没<ref>[http://www.47news.jp/localnews/ibaraki/2015/09/post_20150911145015.html 石下駅水没] - 茨城新聞(共同通信47NEWS)、2015年9月11日</ref>・南石下 - 三妻間の線路道床流失等の被害を受け、全線運転見合わせとなる<ref>[http://response.jp/article/2015/09/11/259831.html 関東・東北で鉄道各線の運休続く…東武は橋りょう流出] - レスポンス、2015年9月11日</ref><ref name="milt20150911">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001103735.pdf#page=26|title=台風第18号及び第17号による大雨等に係る被害状況等について(第8報) (2015/09/11 12:00現在)|publisher=国土交通省|date=2015-09-11|accessdate=2015-09-13}}</ref>。 ** 9月12日 - 取手 - 守谷間で列車[[代行バス]]運転開始<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/720881.html 9月9日~10日の関東地方大雨による影響で長期運休が予想される鉄道路線一覧] - トラベルWatch、2015年9月12日</ref>。 ** 9月14日 - 下妻 - 下館間で運行本数を3割ほどに減らして運行を再開<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001103798.pdf#page=30|title=台風第18号及び第17号による大雨等に係る被害状況等について(第13報)(2015/09/14 6:00現在) |publisher=国土交通省|date=2015-09-14|accessdate=2015-09-17}}</ref><ref>[http://response.jp/article/2015/09/14/259957.html 関東鉄道常総線など一部再開…関東・東北豪雨] - レスポンス、2015年9月14日</ref>。 ** 9月16日 - 取手 - 守谷間で運行本数を5割ほどに減らして運行を再開<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001104152.pdf#page=29|title=台風第18号及び第17号による大雨等に係る被害状況等について(第17報) |publisher=国土交通省|date=2015-09-16|accessdate=2015-09-17}}</ref><ref>[http://response.jp/article/2015/09/15/260101.html 関鉄常総線、9月16日から取手〜守谷間再開…小湊鉄道線も運休区間縮小] - レスポンス、2015年9月15日</ref><ref>[http://kantetsu.co.jp/train_detail 常総線運行情報のお知らせ 9月16日(水)より取手駅〜守谷駅間で運行再開] - 関東鉄道、2015年9月17日閲覧</ref>。 ** 9月18日 - 守谷 - 水海道間で運行再開<ref>[https://www.sankei.com/article/20150918-OEK3ECWX25PXJJ5DPMWJJLSLAE/ 【東日本豪雨】茨城・常総市で鉄道が一部再開 にぎわい取り戻す] - 産経ニュース、2015年9月18日</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001104368.pdf#page=37|title=台風第18号及び第17号による大雨等に係る被害状況等について(第19報) |publisher=国土交通省|date=2015-09-18|accessdate=2015-09-19}}</ref><ref>[http://kantetsu.co.jp/train_detail 常総線運行情報のお知らせ 9月18日(金)より取手駅〜水海道駅間で運行再開] - 関東鉄道、2015年9月19日閲覧</ref>。 ** 9月28日 - 水海道 - 下妻間で列車代行バス運転開始<ref>[http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14431738999537&sai=1 常総線下妻駅-水海道駅間で代行バス 関東鉄道、28日から] - 茨城新聞、2015年9月25日</ref>。 ** 10月10日 - 水海道 - 下妻間で運行本数を3割ほどに減らして運行を再開<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20151010k0000e040199000c.html 関東・東北豪雨:関東鉄道常総線 1カ月ぶりの全線開通] - 毎日新聞、2015年10月10日</ref>。これにより、全線で運行再開(ただし一部で運行本数に限りがあり、快速運転は取り止めを継続)。 ** 10月15日 - 水海道 - 下妻間で、運行システムの復旧工事が完了し、運行本数を8割ほどに増加<ref>[http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14447447971378&sai=1 水海道-下館駅、運行本数8割に 常総線、15日から] - 茨城新聞、2015年10月15日</ref>(ただし、一部区間速度制限あり、快速運転は取り止めを継続)。 ** 11月16日 - 全線で通常運行に戻り、快速運転も再開となる<ref>[http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14474396128459&sai=1 16日に全線復旧 常総線快速運行] - 茨城新聞、2015年11月16日</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** 5月1日 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行]]による乗客減の影響で、平日ダイヤから2割ほど減便させた特別ダイヤでの運行を開始<ref>{{Cite news|和書|url=https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15879861301070|title=常総線2割減便 コロナ拡大、利用客減少|newspaper=茨城新聞|date=2020-04-28|accessdate=2020-09-07}}</ref>。6月8日から通常ダイヤでの運行を再開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantetsu.co.jp/img/news/2020/20060101_train/info.pdf|title=特別ダイヤでの運行終了について|publisher=関東鉄道|accessdate=2020-09-07}}</ref>。 ** [[10月31日]] - ダイヤ改正。朝夕の5本(上り2本・下り3本)を日中時間帯に移動し、快速列車として新設。日中から夜間時間帯の運行本数を変更し、日中時間帯の取手駅 - 水海道駅間の運行本数が毎時4本から3本に減便。 * [[2021年]](令和3年) ** 9月11日 - 石下駅窓口無人化。 ** 9月16日 - 宗道駅窓口無人化。同日をもって委託駅消滅(駅員配置駅は取手駅、戸頭駅、守谷駅、新守谷駅、水海道駅、下妻駅、下館駅のみに)。 == 運行形態 == [[#普通列車|普通]]列車と[[#快速列車|快速]]列車が運行されている。おおむね取手駅 - 水海道駅間の複線区間と水海道駅 - 下館駅間の単線区間で運転系統が分離されており、取手側は運行密度の高い通勤路線、下館側は少ない運行本数に快速運転を織り交ぜたローカル路線となっている。もともとは全列車が各駅停車で運行されていたが、つくばエクスプレス開業に伴い、守谷 - 下館間にて快速列車の運行を開始している。 全区間で[[ワンマン運転]]を行う。複線区間では運賃収受を駅で行い、単線区間では運賃収受を列車内で行う。下館駅のみホーム上にある改札で精算できる。 複線・単線両区間を直通する列車もあるが、行先表示に「'''水海道乗換'''下館」「'''水海道乗換'''取手」などと、実際にはその列車自体は直通しない行先が並列で表記されている場合がある<ref>LED式の方向幕で「水海道乗換○○(接続列車の行先)」の表示が出ているのは、停車の直前と停車中だけで、発車すると単なる「○○(接続列車の行先)」の表示に切り替わる。あくまで「水海道」という行先表示にはならない</ref>。それらの列車は水海道駅にて乗り換えのしやすい接続列車が出ることを示しており、一部の時刻表サイト等においてはこの「水海道乗換○○」表記の列車とそれに接続する列車の2本を直通の1本の列車として扱っているところもある<ref>交通新聞社刊・MY LINE東京時刻表によれば「水海道乗換○○」となる列車は列車番号の下3桁が同数であるものの、千の位の数は異なる。</ref>。乗換列車が守谷駅発着の場合は「守谷乗換」のような表記はされない。駅掲出の時刻表や関東鉄道が配布している路線時刻表では、水海道乗換の列車はあくまで下館(下妻)行きであり、水海道での乗り換えを要する旨が記載されているほか、守谷駅からの接続列車がある場合についても記載がある。 つくばエクスプレス開業に合わせて行われたダイヤ改正で、取手駅 - 水海道駅間の列車が原則として2両編成となった時には水海道駅を越えて下妻・下館方面へ直通する列車が約半数となったが、2005年12月のダイヤ改正以降、日中の直通運転は再び減少していた。2017年3月4日より、一部を除く日中の列車が全線直通運転となった。これにより、取手駅 - 水海道駅間の日中の運行が1両編成となった。 * 最高運転速度:90&nbsp;km/h (※つくばエクスプレス開業に併せて行われたダイヤ改正でスピードアップ)。 * 表定速度:守谷 - 下館間 (41.5&nbsp;km) ** 快速 46分 - 54.1&nbsp;km/h ** 普通 63分 - 39.5&nbsp;km/h === 普通列車 === ==== 取手駅 - 水海道駅間(複線区間) ==== * 日中は1時間に3本の運行であるが、ラッシュ時は運行本数が多くなる。運行本数は平日・土休日ダイヤともに取手駅で接続するJR常磐線の土浦・水戸方面を上回り、ラッシュ時には守谷駅で接続するつくばエクスプレスのつくば方面をも上回っており、東京方面との接続が意識されている。 * 各駅のホーム有効長は5両(ゆめみ野駅のみ4両)だが、増発に伴って現在は朝夕のラッシュ時が2両編成、日中は1両編成での運転が主である。イベント時は最長で4両編成で運転され、その際は車掌が乗務する。 * 一部は取手駅 - 守谷駅間・守谷駅 - 水海道駅間の区間列車となっているが、下妻・下館方面の単線区間から1両編成のワンマン列車が守谷駅まで乗り入れることもあり、運行本数としては取手駅 - 守谷駅間より守谷駅 - 水海道駅間の方が多い。2009年10月以降は取手駅への乗り入れも行われている。 * [[車両基地]]のある[[南水海道信号所]]では、かつて乗務員交代の有無にかかわらず全列車が[[運転停車]]していたが、2004年10月16日より列車の[[増解結]]時以外は通過している。 ==== 水海道駅 - 下館駅間(単線区間) ==== * おおむね1時間に2本(1 - 4本程度)運行される。1両ワンマンを基本とし、最大でも2両(イベント時4両)編成。朝晩の一部列車は水海道駅 - 下妻駅間・下妻駅 - 下館駅間の区間列車になっており、下妻駅では[[夜間滞泊]]が行われている。 * 下館駅に乗り入れる路線の中で、常総線の運行本数が最も多い。 * 2006年10月1日のダイヤ改正で水海道発下館行きの最終列車が1時間遅くなり(21時台→22時台)、折り返し下館発の最終も22時台から23時台に繰り下がった。これによって水戸線の水戸・小山方面両方向から下館駅に到着する最終電車から下妻行きの最終列車に乗り換え可能になった。 === 快速列車 === [[2005年]][[8月24日]]から運行を開始した。運転開始当初は朝に上り3本、夕に下り3本の計3往復。2005年[[12月10日]]のダイヤ改正で1日6往復に増発され、運行時間帯が日中にも拡大した。平日朝・夕のみ取手 - 下館間を直通運転し、それ以外の時間帯および土休日は守谷 - 下館間で運行されるほか、早朝に下妻発下館行が1日1便運行されている。全線を直通する列車も含め取手 - 守谷間は各駅に停車する。守谷 - 下館の最短所要時間は44分<ref>{{Cite news |title=常総、龍ケ崎線一部ダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2017-10-17 |page=1 }}</ref>で、守谷でつくばエクスプレスに乗り換えることができるため、守谷以北では常総線経由で東京へ向かう時間が大幅に短縮された。ただ単線区間からの旅客増加には成功したが、大幅な収益増につながる数値ではない。 快速といえど、先行する普通列車を途中駅で待避させての追い抜きは行わない。ただし守谷駅は追い抜き対応に改良されているほか、石下駅にも待避線を設置するスペースが準備されている。通過駅を通過する際にポイントの速度制限があり、その都度減速をしている。これを改善するため、2007年度に大宝駅へ行き違い設備の新設を行ったほか、2009年度には単線区間各駅の同時進入改良工事が実施されているが、さらなる高速化と多頻度化を求める声は多い。2011年度以降、新車投入や設備改良を行い、終日概ね毎時上下どちらか1本の1日10往復を目標に増発する計画がある<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120118024213/http://www.city.joso.lg.jp/joso/www/documents/01661.pdf 関東鉄道常総線再生計画の見直しについて]}} - 常総市([[インターネットアーカイブ]]の2012年1月18日時点のアーカイブ)</ref>。 * 停車駅:取手 - 《この間各駅停車》 - 守谷 - 水海道 - 石下 - 下妻 - 下館 * 運行本数:上り6本、下り6本(このほか早朝に下妻発下館行の区間列車が1本<ref>2012年10月15日のダイヤ改正で設定。回送列車としていたものを快速列車に変更する形。</ref>) * 使用車両:[[関東鉄道キハ2100形気動車|キハ2100形]]、[[関東鉄道キハ2200形気動車|キハ2200形]]、[[関東鉄道キハ2300形気動車|キハ2300形]]、[[関東鉄道キハ2400形気動車|キハ2400形]]、[[関東鉄道キハ5000形気動車|キハ5000形]]、[[関東鉄道キハ5010形気動車|キハ5010形]] * 設定目的 *# 下館 - 小山経由で東京に出ていた利用者を常総線からつくばエクスプレスや[[東日本旅客鉄道|JR]][[常磐線]]利用で下館 - 守谷 - [[秋葉原駅|秋葉原]]及び下館 - 取手 - [[上野駅|上野]]のルートに集客させること。 *# スピードアップによりマイカー通勤から列車通勤への移行を促すこと。 == 利用状況 == === つくばエクスプレス開業後の旅客動向 === {{独自研究|section=1|date=2009年10月}} つくばエクスプレス開業以前、常総線内各駅から東京方面へ向かう際は、取手駅でJR常磐線に乗り継ぐのが一般的なルートであり、取手駅の乗降客数は線内最多で、最盛期には3万人近くであった。現在は1万6千人ほどとなっている。輸送密度が最も高い区間も取手 - 西取手間であり、上り列車は取手駅に近づくにつれて車内が混雑し、下り列車は取手駅から遠ざかるほど車内が閑散としていくピラミッド型の通勤路線であった。 つくばエクスプレス開業後、取手駅一辺倒だった利用者は、つくばエクスプレス線との接続駅である守谷駅との間で分散したが、都心への所要時間が短く(つくばエクスプレス快速=[[秋葉原駅|秋葉原]] - 守谷間約30分、JR常磐線快速=[[上野駅|上野]] - 取手間約40分)、ターミナルもより都心部に近いつくばエクスプレス線を利用する流れが強まっている。現在の乗降客数トップは守谷駅となっている。 この結果、従来守谷駅付近から常総線と常磐線で都心に向かっていた利用者をつくばエクスプレスに奪われたほか、守谷 - 取手間だけ常総線の乗車距離が短くなった分、トータルで減収となるため、ワンマン化・運賃値上げや、快速の設定で水海道以北からの利用者の掘り起こしをはかるなどの対応策を打ち出している。 === 輸送実績 === 常総線の近年の輸送実績を下表に記す。 表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" ! colspan="7"|年度別輸送実績 |- ! rowspan="2"|年 度 ! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人/年度 ! rowspan="2"|輸送密度<br />人/1日 ! rowspan="2"|特 記 事 項 |- |通勤定期 |通学定期 |定 期 外 |合 計 |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) | style="background-color: #ccffcc;"|398.6 |226.2 |337.2 |'''962.0''' |5,151 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |411.3 |207.0 | style="background-color: #ccffcc;"|328.3 | style="background-color: #ccffcc;"|'''946.6''' |4,931 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |413.9 |198.4 |345.7 |'''958.1''' |4,866 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |422.7 |192.7 |336.3 |'''951.8''' |4,734 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |429.1 |179.9 |347.4 |'''956.5''' |4,676 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |445.8 |181.9 |357.4 |'''985.1''' |4,714 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |453.2 |183.4 |346.8 |'''983.5''' |4,641 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |467.9 |177.5 |351.4 |'''996.8''' |4,707 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |479.7 |172.8 |350.3 |'''1002.8''' |4,702 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |465.3 | style="background-color: #ccffcc;"|171.5 |339.1 |'''976.0''' | style="background-color: #ccffcc;"|4,518 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |459.6 |173.5 |357.0 |'''990.1''' |4,563 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |460.6 |194.7 |342.1 |'''997.4''' |4,600 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |469.1 |204.8 |332.8 |'''1006.7''' |4,607 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |499.5 |214.5 |355.5 |'''1069.5''' |4,806 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |529.2 |230.5 |378.3 |'''1138.0''' |5,107 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |555.6 |262.7 |402.8 |'''1221.1''' |5,467 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |594.9 |286.6 |441.0 |'''1322.5''' |5,915 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) | style="background-color: #ffcccc;"|624.5 |295.3 |453.6 |'''1373.5''' |6,178 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |623.4 |304.4 |470.0 |'''1397.8''' |6,299 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |622.3 |313.9 |470.1 |'''1406.3''' |6,398 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |621.8 | style="background-color: #ffcccc;"|315.9 | style="background-color: #ffcccc;"|477.8 | style="background-color: #ffcccc;"|'''1415.5''' | style="background-color: #ffcccc;"|6,425 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |616.0 |306.5 |473.5 |'''1396.0''' |6,353 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |610.0 |296.9 |464.2 |'''1371.1''' |6,246 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |606.6 |293.9 |447.6 |'''1348.1''' |6,085 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |580.9 |286.9 |411.7 |'''1279.5''' |5,686 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |573.2 |274.2 |403.7 |'''1251.1''' |5,537 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |559.7 |260.0 |400.6 |'''1220.3''' |5,389 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |533.3 |243.5 |395.7 |'''1172.5''' |5,188 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |509.8 |241.1 |399.6 |'''1150.5''' |5,125 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |500.6 |239.0 |405.5 |'''1145.1''' |5,186 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''1094.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''1043.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''1051.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''1039.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) |425.4 |184.0 |379.2 |'''988.6''' |3,680 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''945.8''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''916.3''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年) |393.2 |184.5 |371.6 |'''949.3''' |3,592 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年) |400.9 |186.6 |374.9 |'''962.4''' |3,625 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年) |427.1 |195.2 |368.3 |'''990.6''' |3,708 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年) |424.2 |199.3 |365.7 |'''989.2''' |3,586 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年) |418.0 |200.3 |373.6 |'''991.9''' |3,759 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年) |423.2 |199.7 |377.6 |'''1000.5''' |3,841 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年) |428.2 |205.7 |386.6 |'''1020.4''' |3,897 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年) |446.6 |211.7 |377.5 |'''1035.8''' |3,883 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年) | style="background-color: #ccffff;"|377.4 | style="background-color: #ccffff;"|141.4 | style="background-color: #ccffff;"|250.8 |style="background-color: #ccffff;"|'''769.5''' | style="background-color: #ccffff;"|2,770 |&nbsp; |} === 収入実績 === 常総線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" ! colspan="8"|年度別収入実績 |- ! rowspan="2"|年  度 ! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度 ! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度 ! rowspan="2"|総合計<br />千円/年度 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) |540,062 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|599,708 | style="background-color: #ccffcc;"|''8,461'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''1,148,231''' |47,622 | style="background-color: #ccffcc;"|'''1,195,853''' |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |662,640 |←←←← |723,645 |''9,524'' |'''1,395,759''' | style="background-color: #ccffcc;"|46,406 |'''1,442,215''' |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |670,711 |←←←← |746,877 | style="background-color: #ffcccc;"|''10,919'' |'''1,428,508''' |54,848 |'''1,483,357''' |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |782,668 |←←←← |867,746 |''8,547'' |'''1,658,962''' |56,118 |'''1,715,081''' |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |809,526 |←←←← |886,973 |''9,578'' |'''1,706,077''' |54,430 |'''1,760,507''' |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |817,927 |←←←← |879,388 |''7,485'' |'''1,704,801''' |58,643 |'''1,763,445''' |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |910,061 |←←←← |963,676 |''4,111'' |'''1,877,848''' |66,597 |'''1,944,446''' |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |968,233 |←←←← |985,993 |''2,352'' |'''1,956,578''' |64,759 |'''2,021,336''' |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |1,033,447 |←←←← |1,047,359 |''2,157'' |'''2,082,963''' |68,984 |'''2,151,946''' |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |1,047,155 |←←←← |1,059,265 | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |'''2,106,420''' |67,661 |'''2,174,080''' |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |1,029,243 |←←←← |1,122,603 |''0'' |'''2,151,846''' |70,832 |'''2,222,678''' |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |1,102,092 |←←←← |1,101,391 |''0'' |'''2,203,483''' |70,945 |'''2,274,428''' |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) | style="background-color: #ccffcc;"|838,327 | style="background-color: #ccffcc;"|332,689 |1,101,016 |''0'' |'''2,272,367''' |113,888 |'''2,386,255''' |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |876,393 |357,710 |1,143,715 |''0'' |'''2,377,818''' |113,324 |'''2,491,142''' |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |935,994 |382,267 |1,212,517 |''0'' |'''2,530,778''' |113,202 |'''2,643,980''' |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |989,151 |422,836 |1,296,960 |''0'' |'''2,708,947''' |122,323 |'''2,831,270''' |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |1,074,057 |456,092 |1,421,827 |''0'' |'''2,951,976''' |131,904 |'''3,083,880''' |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) | style="background-color: #ffcccc;"|1,130,253 |478,368 |1,465,059 |''0'' |'''3,073,680''' |128,838 |'''3,202,518''' |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |1,126,374 |505,306 |1,493,693 |''0'' |'''3,125,373''' |133,877 |'''3,259,250''' |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |1,127,897 |530,836 | style="background-color: #ffcccc;"|1,658,733 |''0'' |'''3,158,867''' |138,459 |'''3,297,326''' |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |1,124,677 | style="background-color: #ffcccc;"|542,215 |1,511,556 |''0'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''3,178,448''' |143,248 | style="background-color: #ffcccc;"|'''3,321,696''' |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |1,112,099 |524,251 |1,506,540 |''0'' |'''3,142,890''' | style="background-color: #ffcccc;"|150,927 |'''3,293,817''' |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |1,102,850 |513,359 |1,473,753 |''0'' |'''3,089,962''' |150,611 |'''3,240,573''' |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |1,102,455 |502,545 |1,402,277 |''0'' |'''3,007,277''' |150,234 |'''3,157,511''' |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |1,042,551 |491,190 |1,269,213 |''0'' |'''2,802,954''' |129,523 |'''2,932,477''' |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |1,026,265 |474,849 |1,232,171 |''0'' |'''2,733,285''' |133,794 |'''2,867,079''' |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |998,374 |452,741 |1,220,060 |''0'' |'''2,671,175''' |122,032 |'''2,793,207''' |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |954,639 | style="background-color: #ccffff;"|428,706 |1,205,559 |''0'' |'''2,588,904''' | style="background-color: #ccffff;"|115,774 |'''2,704,678''' |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |925,046 |430,384 | style="background-color: #ccffff;"|1,205,067 |''0'' |'''2,560,497''' |117,646 | style="background-color: #ccffff;"|'''2,678,143''' |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) | style="background-color: #ccffff;"|922,177 |429,008 |1,228,856 |''0'' | style="background-color: #ccffff;"|'''2,580,041''' |120,864 |'''2,700,905''' |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} === 混雑率・集中率 === 2020年度の最混雑区間は[[西取手駅]]→[[取手駅]](7:20-8:20)で、混雑率は50%である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=5|format=PDF}}</ref>。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="6"|最混雑区間輸送実績<ref>草思社『東京圏通勤電車 どの路線が速くて便利か』</ref> !rowspan="2"|特記事項 <!-- 統計は「年度」なので3月までのトピックは前年度のことになります。--> |- !時間帯!!運転本数!!輸送力(1両当り):人!!輸送量:人!!混雑率!!集中率 |- |1989年(平成元年) |7時-||4両×5本<br/>3両×2本||3510(135)||4779||136%||41% | |- |1996年(平成8年) |7:14-||4両×8本||4544(138)||5600||123%||36% | |- |2002年(平成14年) |7:10-||4両×8本||4480(140)||4332||97%||32% | |- |2005年(平成17年) | || |||||||| |[[首都圏新都市鉄道]]開業 |} == 車両 == * 常総線で運用される車両はすべてステップレスとなっている。キハ2100形シリーズは床が完全なフラットになっている。キハ0・310形は緩やかなスロープが付いている。元国鉄キハ30系シリーズのキハ100・300・350形については入線時にステップを鋼板で塞ぎ、緩やかなスロープを付けている。 * 片側3ドア車を基本としている。 * 2両編成は車番が下館方に奇数番号、取手方に偶数番号となるように組成されている。番号は原則として連番となっているが、検査の関係で組み合わせが崩れることもある。 *: (例)←下館 キハ2101+キハ2102 取手→ * ワンマン車両には、LEDの車内駅名案内表示装置と自動音声合成装置(音声案内)を装備している。 * 2100形シリーズは新型車両でデザインはすべて同じである([[関東鉄道キハ2100形気動車|2100形]]・[[関東鉄道キハ2200形気動車|2200形]]・[[関東鉄道キハ2300形気動車|2300形]]・[[関東鉄道キハ2400形気動車|2400形]]・[[関東鉄道キハ5000形気動車|5000形]]・[[関東鉄道キハ5010形気動車|5010形]])。 * キハ300・350形の一部は機関更新 (DMF13HZ) を受けておらず、新型車両の導入やダイヤ改正による運用の見直しに伴い、順次廃車される予定である。 === 2両編成 === 料金箱や整理券発券機などは設置されていないものの、運用される車両はすべてワンマンおよび快速運転に対応している。2005年8月24日のダイヤ改正で水海道以北への直通運用が増加し、水海道 - 下館間においては車掌が乗務している。ただし水海道・石下・下妻・下館の駅員配置駅しか停車しない快速列車についてはワンマン運転となっている。その後同年12月10日のダイヤ改正では利用実態に応じ2両編成の水海道以北への直通が減少し、1両編成列車主体に戻されている。2017年3月4日より、日中の取手 - 水海道間は1両編成での運行となった。 <gallery widths="160" style="font-size:90%"> ファイル:kantetsu2300-wiki.jpg|キハ2300形 ファイル:Kantetsu2100n-wiki.jpg|キハ2100形新塗装車 ファイル:Kanto Railway DC2100.jpg|キハ2100形 ファイル:Kantorailway-series0-008-moriyastation.jpg|キハ0形 ファイル:Kanto Railway DC300.jpg|キハ310形 </gallery> ; キハ0形 : {{Main|関東鉄道キハ0形気動車}} : 元[[国鉄キハ20系気動車]]の車体新製車。新潟鐵工所製の001 - 008の8両が在籍。履歴上は新製扱い。後述のキハ310形と形態的に似ているが、側ドアがステンレス化されて窓が大きくなったほか、乗務員室ドア脇の雨樋が埋め込まれ、貫通路に幌が付くなどの違いがあった。前頭部の貫通路は在来車と同じく手摺のみだった。キハ900形以来久しぶりに行先表示器が前面に取り付けられている。取手駅列車衝突事故後に貫通路脇の手摺の使用をやめ、その代わりとして幌による連結に改造されたため、前面の印象が変わった。さらにワンマン運転に向けてワンマン化改造が施され、各ドア上部にLEDの駅名案内表示器が新設された。新製時から001+002といった固定編成で組成され、半永久連結器での連結を基本とするが、3両編成に組成される場合は非運転台側の連結器を密着自動連結器に交換の上、組成される。 : ; キハ310形 : {{Main|関東鉄道キハ310形気動車}} : 元[[国鉄キハ10系気動車|国鉄キハ16・17形気動車]]の車体新製車。全8両のうち新潟鐵工所にて車体更新を受けた313 - 318の6両が在籍。履歴上は改造扱い。大栄車両で更新された311と312は既に廃車となっている。客室ドアは新製当初は鋼製の小窓だったが、後にステンレス製の大窓に変更されている。前面上部には当初は行先表示器が設置されておらず、シールドビーム2灯が設置されていたが、後にキハ0形と同様の形態に改造された。当初は貫通幌による連結を行っていなかったが、キハ0形と同様に幌付きに改造されている。ワンマン化改造に伴い、各ドア上部にLEDの駅名案内表示器が新設された。 : ; キハ2100形 : {{Main|関東鉄道キハ2100形気動車}} : 新潟鉄工所製の自社発注車([[1993年]]、[[1995年]] - [[1996年]])。2101 - 2112の12両。自動空気ブレーキを使用しているため、在来車と併結可。2次車(2105 - 2108)以降はLED式方向幕を装備、側ドアのドアエンジンもコンパクト化されたほか、冷房の吹き出し口の増設や乗務員室扉下にルーバー新設など細部が変更されている。常総線で初めて車いすスペースが設けられた。その後、ワンマン化改造に伴い、各ドア上部にLEDの駅名案内表示器が新設された。 : ; キハ2300形 : {{Main|関東鉄道キハ2300形気動車}} : 新潟鉄工所製の自社発注車([[2000年]] - [[2002年]])。2301 - 2310の10両。基本仕様は2100形に準ずるが、電気指令式ブレーキを装備しているため、在来の他形式とは併結できない。外観上は運転席側面の小窓の有無で区別できる。その後、ワンマン化改造に伴い、各ドア上部にLEDの駅名案内表示器が新設された。ただし、3次車(2309・2310)は新製時よりワンマン運転対応である。 === 1両編成 === すべて両運転台のワンマン車両で、車内に料金箱や整理券発券機などを有する。かつては水海道 - 下館間の限定運用だったが、つくばエクスプレス開業後に複線区間の守谷駅まで乗り入れるようになり、ダイヤ改正毎に運行本数が増加している。 <gallery widths="160" style="font-size:90%"> ファイル:kantetsu5020-wiki.jpg|キハ5020形 ファイル:Kantetsu5010wiki.jpg|キハ5010形 ファイル:kantetsu5000n-wiki.jpg|キハ5000形 ファイル:Kantetsu2400n-wiki.jpg|キハ2400形 ファイル:kantetsu2200n-wiki.jpg|キハ2200形 </gallery> ; キハ2200形 : {{Main|関東鉄道キハ2200形気動車}} : [[新潟鐵工所]]製の自社発注車。2201 - 2204の4両。単線区間の無人駅では前ドア1か所が乗降口となるため、運賃収受をしやすくするため車端部の扉を片開きとし、乗務員室側に寄せている。快速運転対応。 : ; キハ2400形 : {{Main|関東鉄道キハ2400形気動車}} : [[新潟トランシス]]製の自社発注車(2004年 - )。2401 - 2406の6両。キハ2200形をベースに、電気指令式ブレーキ化や、保安ブレーキの二重化のほか、新製時より各ドア上部に駅名案内装置を設置した両運転台の車両。快速運転対応。 : ; キハ5000形 : {{Main|関東鉄道キハ5000形気動車}} : 新潟トランシス製の自社発注車(2009年 - )。5001 - 5004の4両が在籍。キハ2400形をベースに、新型エンジンや台車、塗装の変更など、従来車と差別化を図った。快速運転対応。 : ; キハ5010形 : {{Main|関東鉄道キハ5010形気動車}} : [[2016年]]度に2両を導入。新潟トランシスにて製造の両運転台車。[[2017年]][[2月25日]]より営業運転を開始<ref>{{Cite web|和書|title=常総線に新型車両デビュー!2月25日(土)に乗車&撮影会を開催!!|url=http://kantetsu.co.jp/news/17012601_train.html |publisher=関東鉄道 |date=2017-02-07 |accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「キハ5010形!乗車&撮影会」を開催 告知ポスター |url=http://kantetsu.co.jp/img/news/2017/17012601_train/info.pdf |publisher=関東鉄道 |date=2017-02-07 |format=PDF |accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2017/02/19/200000.html|title=関東鉄道5010形2両が甲種輸送される|work=鉄道ファン 鉄道ニュース|date=2017-02-19|accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2017/02/26/193500.html|title=関東鉄道で『キハ5010形!乗車&撮影会』開催|work=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース|date=2017-02-26|accessdate=2017-02-27}}</ref>。 : ; キハ5020形 : [[2018年]]度に2両を導入。新潟トランシスにて製造の両運転台車。[[2019年]][[3月3日]]より営業運転を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/03/03/195500.html|title=関東鉄道常総線でキハ5020形が営業運転を開始|work=鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース|date=2019-03-03|accessdate=2019-03-25}}</ref>。[[鹿島臨海鉄道8000形気動車]]と同様、前部標識灯が上部になった。 === 機関車 === ; DD502形 : {{Main|関東鉄道DD502形ディーゼル機関車}} : [[日本車輌製造|日本車輌]]製の自社発注車。DD502の1両。セミセンターキャブのロッド式ディーゼル機関車。昭和49年の貨物営業廃止後は、取手 - 水海道間の複線化工事に伴う貨車の牽引、下館 - 水海道車両基地間の譲渡車両・新製車両の回送に用いられており、稼働することは少なくなっている。このほか、臨時のイベント列車を牽引するほか、水海道車両基地内での体験乗車などにも用いられている。 関東鉄道グループのロッド式ディーゼル機関車として、他に筑波鉄道にセンターキャブのDD501形(新三菱重工製)、鹿島鉄道にセンターキャブの[[国鉄DD42形ディーゼル機関車|DD901形]](日本車輌製)があった。 === 過去の車両 === 常総筑波鉄道の時代の1950年代から気動車導入を本格推進し、関東鉄道成立後に至るまで、自社発注車・国鉄払下げ車・客車や電車の改造など様々な手段で気動車を調達。特に常総線は東京に最も至近な路線であることから、輸送力増強策として総括制御の大型気動車投入が積極推進され、[[小田急電鉄]]や[[南海電気鉄道]]からは、平坦線では持て余されることの多い長距離用の2エンジン気動車まで調達して無動力トレーラをけん引できる通勤仕様に改造した。1950年代-1960年代の気動車導入の旺盛さでは[[関西]]・[[滋賀県]]の[[江若鉄道]]と並び称される存在で、中古車の払下げ調達ではしばしば競合したという。1969年の江若鉄道線廃止時には同社からも中古車を大量購入している。 ==== 自社発注車 ==== キハ42002形からキハ900形はすべて'''常総筑波鉄道'''時代に[[日本車輌製造]]東京支店で新製された車両である。いずれも「[[バス窓]]」で製造された。キハ500・800・900形は製造時からステップは取付けられていなかった。 * キハ42002形(42002):[[1955年]]に1両のみ製造された正面2枚窓・両運転台車。バス窓3扉の軽快な車体と、オールコイルばねの新型台車を持つが、駆動系は国鉄キハ42500形類似。当初は機械式であったが[[1965年]]に総括制御・片運転台化されキハ703形(703)に改番。元国鉄キハ42000形であるキハ704形(やはり片運転台化、703から切断した運転台前面を装着する珍しい改造を受けた)と編成を組んでいた。晩年はステップを撤去し、車体中央のドアを両開きに改造した上で使用されていた。 * [[常総筑波鉄道キハ48000形気動車|キハ48000形]](48001・48002):[[1957年]]製造の両運転台車で、常総筑波で初の液体変速機搭載車になったが総括制御ができず、総括制御仕様になったのは1961年。新製当初はクロスシートで、同年7月から新設の常総筑波[[特別急行列車|特急]]「しもだて」に投入。当時の路線最高速度は75km/hに過ぎなかったが、下妻のみ停車のダイヤで常総線全線を60分で走破した(この速度は1960年代初頭には停車駅増加でダウン、以後の常総線規格向上を経てもこの列車を上回る速度の全線直通列車は現れていない)。のち1963年にロングシート化、キハ700形(701・702)に改番された。晩年はステップを撤去し、車体中央に両開ドアが増設されて3ドア車となっていた。 * [[常総筑波鉄道キハ500形気動車|キハ500形]](501 - 502):常総筑波鉄道近代化のため、[[1959年]]に5両が製造された<ref name="sone21 10"/>。両運転台の18m級気動車。乗降性を高めるため、ホーム打ち上げ工事を伴った低床化とステップ廃止を打ち出し、水平シリンダエンジンを採用、5両中2両には空気バネ台車を採用したことでも画期的であった。当初すべて筑波線に配置されたが、501・502がロングシート化して常総線に転入した。エンジンは当初バス用の日野DS-40Cであったが、後にDMH17Hに換装した。 * キハ800形(801 - 805):[[1961年]]製造の両運転台の20m級気動車<ref name="sone21 10"/>。全車空気バネ台車を装備。1965年、全車ロングシート化して常総線に転入した。同型車として[[小坂製錬小坂線|同和鉱業小坂鉄道]](1994年旅客営業廃止)[[同和鉱業キハ2100形気動車|キハ2100形]]がある。 * [[常総筑波鉄道キハ900形気動車|キハ900形]](901・902):[[1963年]]製造の片運転台車<ref name="sone21 10"/>。前面形状が[[国鉄キハ35系気動車]]に類似する片開き3扉車。台車は空気バネ式。901+902の組み合わせで運用されることが多かったが、中間にキサハを入れて運用されることもあった。 ---- * キホハ51形(51・52):1932年製。常総鉄道初のボギー式ガソリンカーである。 ** キホハ51→キハ51→キハ313(初代)→キサハ52 ** キホハ52→キハ52→キサハ51 * キホハ60形(61・62):日本車両製のボギー式ガソリンカー。キホハ61は1935年製で、1段窓である。後にキハ305となり、戦後まもなく筑波線へ移り廃車時は竜ヶ崎線に所属していた。1936年製のキホハ62はのちに付随車キサハ54となる。 * キホハ100形(101・102):1937年に日本車輌で新製。しかし、すぐにキホハ301・302に改番された。その後キホハ81・82に改番され、ディーゼル化と同時にキハ81・82となった。キハ82は1958年に事故に遭い、車体を更新し、窓が広くなったり、正面の窓がHゴムになったりした。 * キハ41020形(41021):国鉄キハ41000とほぼ同形。[[買収気動車]]払下げ車の[[北九州鉄道]]ジハ20の台車を使って、1952年に日本車輌で製造された。キハ41000と違い、ステップがないのが特徴。名義上はジハ20の譲受となっている。後に台車をTR26に交換した。 * キサハ53形(53):1957年日本車輌製。当初はホハ1001だったが、「ホハ」は客車の記号なので、すぐにキサハ53に改番された。後にエンジンを積んで両運転台のキハ511(初代)となり、1970年に再びエンジンをおろして両運転台のままキクハ11となった。最初から気動車型の形態を備えていたにも関わらず、同年同メーカー製造のキハ48000と違って[[ウィンドウ・シル/ヘッダー|ウインドシル・ウインドヘッダー]]を残す古臭い形態で、窓も旧型気動車風の二段窓であった。 ==== 転入車 ==== * キハ42000形(42001):元国鉄キハ42004。[[1965年]]に総括制御・片運転台化されキハ704形(704)に改番。改造の際にキハ42002から撤去された運転台を接合している。後に車体中央扉が両開きに改造され、既設ドアのステップも撤去された。 * キクハ1形(1 - 4):元[[小田急電鉄|小田急]][[小田急1600形電車|1600形電車]](クハ1650形)。制御車であるため、2エンジン車のキハ751・753・755形と編成を組むことが多かった。 * キサハ60形(61):1950年に国鉄キハ41124の払下げを受け、キハ41002として竣工、1962年に貫通・切妻の中間車改造を行ったもの。台車はかつてキハ41021が履いていたもの。 * キサハ65形(65 - 67):元小田急クハ1650。最後の3両はサハとして竣工した。66のみ乗務員扉が残っていた。 * キハ551形(551):元[[加越能バス|加越能鉄道]]キハ162。元を正せば[[国鉄キハ07形気動車]]である。入線に際して車体中央扉が両開きに改造され、既設ドアのステップも撤去された。 * [[関東鉄道キハ610形気動車|キハ610形]](611 - 615):元国鉄キハ07形気動車で、卵形の前面は切妻3枚窓貫通扉付きに改められている。鹿島鉄道のキハ600形とは異なり、後に車体中央扉が両開きに改造され、既設ドアのステップも撤去された。キハ611 - 614形が西武所沢工場での改造だったのに対し、キハ615形のみ大栄車両にて改造されている。 * キハ720形(721):1964年[[富士重工業]]製の元加越能鉄道キハ187。入線に際して車体中央扉が両開きに改造され、既設ドアのステップも撤去された。 * キハ751形(751・752):元[[小田急キハ5000形気動車]]。入線に際してロングシート化されたほか、片開き1か所だった車体に片開きの外吊りドアを2か所増設された点が特徴。なぜかキハ751形のみ取手方の貫通扉が小窓だった。 * キハ753形(753・754):元[[小田急キハ5000形気動車|小田急キハ5100形気動車]]。キハ751形と同様の改造が施されたが、クロスシートの間隔が広かったため、窓配置が異なる。 * [[国鉄キハ55系気動車#関東鉄道キハ755形|キハ755形]](755):元[[南海電気鉄道|南海]][[国鉄キハ55系気動車#南海電気鉄道キハ5501形・キハ5551形|キハ5501形気動車]](5505)。紀勢本線乗り入れ用として製造されたが、踏切事故で廃車となり、1973年に関東鉄道に入線した。入線に際してロングシート化されたほか、両開きドアを2か所増設し、既設の2か所の片開きドアと合わせて、日本の私鉄気動車では前例のない4ドア車となった。入線時の改造工事は[[西武所沢車両工場]]が担当した<ref>{{cite book|和書|title=所沢車輌工場ものがたり(下)|author=西尾恵介|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|page=20|date=2002年2月1日|ISBN 4-87366-266-4}}</ref>。 * キハ813形(813):元[[雄別鉄道]]キハ106。キハ104・105が両運転台車だったため筑波線(筑波鉄道、現・廃止)にキハ811・812として入線したのに対し、キハ106形は片運転台車だったことから、常総線に配置された。入線に際してロングシート化、便所・車掌室の撤去などの改造が施されたものの、何故かステップは撤去されず、常総線で唯一のステップ付車両となっていた。晩年はキハ350形のように車内側からステップを埋める改造が施された。現在の常総線はすべてがステップレス車両であり、これが常総線最後のステップ付き車両といえる。 * キホハ63(63):[[新宮鉄道]]の国鉄買収車である。キハ312(初代)となった後、エンジンを下ろしてキサハ50となり、晩年は筑波線に転出した。 * キハ64(64):[[加古川線|播丹鉄道]]の国鉄買収車である。キハ304(初代)となった後、エンジンを下ろしてキサハ55となった。 * キハ83(83):元北九州鉄道ジハ50。[[大分交通]]キハ50ちどり号(元北九州鉄道ジハ51)と同型だが、こちらは正面2枚窓になっている。1935年日本車輌にてジハ50として製造された。北九州鉄道が国鉄に買収され、キハ40652となった。関東鉄道に入線して、キハ83となった。当初は常総線に配属されたが、後に鉾田線に転属した。 * キハ40084(40084・40085):元[[南武線|南武鉄道]][[南武鉄道の電車#クハ213|クハ213・214]]。南海の特殊な台車を流用していたことが仇となって、南武鉄道の買収後、買収車の中では早いうちに除籍され、関東鉄道に転入し、ホハフ201(初代)・202となった。その後機械式のエンジンを取り付けてキハ40084・40085となった。 * [[関東鉄道キハ300形気動車|キハ300形]]:元[[国鉄キハ35系気動車|国鉄キハ30形気動車]]。非ワンマン車のため、2005年12月10日のダイヤ改正以降運用から外れ、休車となっていたが、キハ300形は最後まで在籍した2両(306・3016)が2007年3月31日に廃車され、廃形式となった。 * [[関東鉄道キハ300形気動車|キハ350形]]:元[[国鉄キハ35系気動車|国鉄キハ35・36形気動車]]。23両が導入された。便所は撤去されている。一部車両はワンマン化改造が実施されている。353と354は常総線開業90周年を記念した関東鉄道旧配色<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2004-01-01 |title = 鉄道記録帳2003年10月 |journal = RAIL FAN |issue = 1 |volume = 51 |publisher = 鉄道友の会 |page = 19 }}</ref>となり、358・3511・3518・3519は[[2006年]]11月に塗装を映画『[[パッチギ! LOVE&PEACE]]』の撮影のため、[[京浜東北線]]の[[国鉄103系電車|103系電車]]に見立てたスカイブルーとなった。その後、358・3511は新標準色に戻されている。非ワンマン車は2005年12月10日のダイヤ改正で運用から外れ、休車となっている。2011年10月10日をもって定期運用から外れることとなった<ref>[http://www.kantetsu.co.jp/news/110830_train_kiha_350/110830_train_kiha350.html ありがとう!キハ350形最後の定期運用について【更新】] - 関東鉄道ニュースリリース(2011年8月30日)</ref>。 * [[関東鉄道キハ300形気動車|キハ100形]]:前述のキハ300形のうち、4両(305・306・3013・3016)を1997年にワンマン改造した車両。翌1998年に103・104はワンマン設備を撤去し、キハ300形に再編入された。登場時は関東鉄道新標準色だったが、後に車体と社章は'''常総筑波鉄道'''時代を再現したものに変更された。快速運転には非対応。101は[[2007年]]9月に常総線ディスカバートレイン運転に伴い、国鉄キハ30系を再現した「首都圏色」([[朱色5号]])に変更された。2013年12月15日以降は休車となり、2017年1月8日に行われた撮影会を最後に廃車となった。この2両は[[筑西市]]の「ヒロサワシティ」で保存されることになった<ref>{{Cite web|和書|title=車両案内|鉄道情報|関東鉄道|地域のふれあいパートナー|url=http://kantetsu.co.jp/train/vehicle.html |publisher=関東鉄道 |date=2017-01-16 |accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-09 |url=http://response.jp/article/2016/12/09/286743.html |title=キハ100形「さらば!」…関東鉄道が撮影会イベント 1月8日 |publisher=レスポンス |accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=関東鉄道で『キハ100形撮影会』開催 |url=http://railf.jp/news/2017/01/09/203000.html |publisher=鉄道ファン 鉄道ニュース |date=2017-01-09 |accessdate=2017-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2017/01/16/160000.html|title=関東鉄道キハ100形2両が保存先へ陸送される|work=鉄道ファン 鉄道ニュース|date=2017-01-16|accessdate=2017-02-21}}</ref>。 <gallery> ファイル:Kanto Railway Kiha358.JPG|キハ350形 ファイル:Kiha100 102.JPG|キハ100形 </gallery> ==== 廃車一覧 ==== {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:reft; width:70%;" |- !年 !記号番号 |- |1969||キサハ54、(キハ83鉾田線へ) |- |1970||キサハ51、キサハ52、キサハ55、(キサハ50廃車時筑波線) |- |1972||キハ81、キハ40084・40085 |- |1974||キハ82 |- |1976||キハ41021 |- |1977||キサハ61 |- |1978||(キクハ11筑波線へ) |- |1983||キサハ65・67 |- |1984||キクハ2-4、キサハ66 |- |1985||キクハ1、キハ615 |- |1987||キハ754 |- |1988||キハ551、キハ611-614、キハ703、キハ704、キハ751・752、キハ753 |- |1989||キハ701・702、キハ721、キハ755、キハ813 |- |1991||キハ501・502 |- |1993||キハ801-805 |- |1995||キハ901・902 |- |} == 駅一覧 == 全駅[[茨城県]]に所在。 ; 快速停車駅 : ●:停車、|:通過 ; 駅員 : ◎:終日配置、○:一部時間帯配置、×:[[無人駅|終日無配置]] ; 線路 : ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:これより下は単線、∧:終点(交換可能) {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:6em; border-bottom:solid 3px #f00;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f00;"|駅間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f00;"|累計<br />キロ !style="background:#ffccff; border-bottom:solid 3px #f00; width:1em;"|快速 !style="border-bottom:solid 3px #f00; width:1em;"|駅員 !style="border-bottom:solid 3px #f00;"|接続路線 !style="border-bottom:solid 3px #f00; width:1em;"|線路 !style="border-bottom:solid 3px #f00;"|所在地 |- !colspan="9" style="border-bottom:solid 3px #00f; height:0px; padding:0;"| |- |[[取手駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|◎ |[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]([[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐快速線|快速]]〈[[上野東京ライン]]〉(JJ 10)・[[ファイル:JR JL line symbol.svg|18px|JL]] [[常磐緩行線|各駅停車]] (JL 32)) |style="text-align:center;"|∥ |rowspan="7"|[[取手市]] |- |[[西取手駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|1.6 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[寺原駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|2.1 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[新取手駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|3.4 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[ゆめみ野駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|4.2 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[稲戸井駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|5.4 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[戸頭駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|6.3 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|○ |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[南守谷駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|7.4 |style="background:#ffccff; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |rowspan="3"|[[守谷市]] |- |[[守谷駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|9.6 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|◎ |[[首都圏新都市鉄道]]:[[ファイル:Tsukuba_Express_symbol.svg|18px|TX]] [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]] (TX15) |style="text-align:center;"|∥ |- |[[新守谷駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|11.4 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|○ |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[小絹駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|13.0 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |[[つくばみらい市]] |- |[[水海道駅]] |style="text-align:right;"|4.5 |style="text-align:right;"|17.5 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|◎ |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |rowspan="7"|[[常総市]] |- |[[北水海道駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|19.3 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[中妻駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|20.9 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[三妻駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|23.9 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[南石下駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|27.2 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[石下駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|28.8 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[玉村駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|31.0 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[宗道駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|33.0 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="4"|[[下妻市]] |- |[[下妻駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|36.1 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|◎ |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[大宝駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|38.7 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[騰波ノ江駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|41.0 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[黒子駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|43.6 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="3"|[[筑西市]] |- |[[大田郷駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|47.3 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|× |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[下館駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|51.1 |style="background:#ff99cc; text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|◎ |東日本旅客鉄道:[[水戸線]]<br />[[真岡鐵道]]:[[真岡鐵道真岡線|真岡線]] |style="text-align:center;"|∧ |} * 快速列車の取手 - 守谷間は、平日朝上り2本と土休日朝上り1本は直通運転。それ以外は、すべて下妻発もしくは守谷発着となる。 * 小絹 - 水海道間には、[[南水海道信号所]]([[水海道車両基地]])がある。2004年10月16日からそれまで行われていた同信号所への[[運転停車]]が廃止された。 * 1950年頃まで、黒子 - 大田郷間に[[野殿駅]]があった。 ===駅設備 === [[ファイル:Kantetsu-Sekkin.JPG|thumb|180px|right|接近表示機。(2005年7月 - [[南石下駅]]で撮影)]] * 発車案内表示機(LED):[[取手駅]]、[[守谷駅]] * [[発車メロディ]]:取手駅、守谷駅、[[水海道駅]]、[[下妻駅]]、[[下館駅]] * 接近表示機:取手駅、[[西取手駅]]、[[新取手駅]]、[[ゆめみ野駅]]、[[南守谷駅]]、[[新守谷駅]]、[[小絹駅]]、[[北水海道駅]] - [[大田郷駅]]間の各駅 * [[自動改札機]]:取手駅 - 水海道駅間の各駅(オートチャージ対応) * 簡易PASMO改札機:北水海道駅 - 下館駅の各駅(オートチャージ対応) * ICカード入金(チャージ)機 取手駅 - 水海道駅間の各駅、中妻駅、三妻駅、石下駅、宗道駅、下妻駅、大田郷駅、下館駅 * [[改札|オープンカウンター改札]]:守谷駅 * 売店:戸頭駅、守谷駅<ref>[https://www.kantetsu.co.jp/create/business/shop/ 駅売店] -株式会社関鉄クリエイト</ref> [[モバイルSuica]]での窓口精算はできない。 === パーク&ライド無料駐車場 === [[パークアンドライド|パーク&ライド]]駐車場として、石下駅以北にある下記の8駅で利用者が無料で駐車できる駐車場がある。この駐車場を利用するには、駐車したい旨を駅係員または乗務員に申し出る必要がある。 * 石下駅 62台 * 宗道駅 7台 * 下妻駅 87台 * 大宝駅 12台 * 騰波ノ江駅 20台 * 黒子駅 10台 * 大田郷駅 11台 * 下館駅 10台 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈・出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 寺田裕一「<small>関東鉄道常総線 開業90周年</small> 『気動車王国』を築いた車両たち」前、後編 : [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2004年5月号 - 6月号 No.517 - No.518 * 寺田裕一『ローカル私鉄車輌20年 東日本編』JTB、2001年 * 飯島巌、森本富夫『私鉄の車両8 関東鉄道・筑波鉄道・鹿島鉄道』[[保育社]]、1985年。 * 『世界の鉄道 '75』[[朝日新聞社]]、1974年。 * 『守谷町史』(守谷町史編さん委員会/守谷町)1985年3月。 * 臼井茂信・小石川多助・中川浩一「常総筑波鉄道」『私鉄車両めぐり特輯』3、鉄道図書刊行会、1982年 * 白土貞夫・小石川多助「関東鉄道(補遺)」『鉄道ピクトリアル』No.254 * 白土貞夫『鹿島鉄道』ネコパブリッシング、2008年 * 白土貞夫『関東鉄道竜ヶ崎線』(下)ネコパブリッシング、2013年 * {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=21号 関東鉄道・真岡鐵道・首都圏新都市鉄道・流鉄|date=2011-08-07|ref=sone21}} == 関連項目 == {{commonscat|Kanto Railway Joso Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[国道294号]] - 並行する国道 == 外部リンク == * [https://www.kantetsu.co.jp/ 関東鉄道] {{DEFAULTSORT:かんとうてつとうしようそうせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|しようそうせん]] [[Category:関東鉄道|路しようそうせん]] [[Category:茨城県の交通]]
2003-09-21T15:11:55Z
2023-12-11T13:45:02Z
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17,761
譲位
譲位(じょうい、旧字体: 讓位)は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。 本項では、主に日本の天皇の譲位について記述する。 譲位は通常、バチカン市国におけるローマ教皇やマレーシアにおける国王等のいわゆる選挙君主制の事例を除き、終身制が慣例ともされる君主制(対義概念:共和制)において、世襲を原則とした地位の継承を指し、地位の継承先に関わらず君主がその地位を手放すことを退位(たいい)、地位継承の規定や慣例に沿わない者に対して地位を譲ることを禅譲(ぜんじょう)、譲位によって地位を譲り受けて即位することを受禅(じゅぜん)という。 2016年(平成28年)7月13日以降の天皇明仁(第125代天皇)の譲位の叡慮(天皇の意思)を示す報道で、NHKを筆頭に、ほぼ全てのメディアで『生前退位』(せいぜんたいい)との表現が用いられたが、同年10月20日の誕生日の談話で皇后美智子は「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感があったことを明らかにした。それ以降、天皇が叡慮を関係者に示すときに実際に使った言葉は「譲位」であることが明らかになっている。その後、譲位や「譲位・退位」という表現での報道がみられるようになった。 譲位は、後継者を明確にしてその当事者への教育・管理ができるという利点を含んだシステムであり、このシステムは「隠居」という形で日本社会全体に定着している。 日本において最初の譲位は645年に行われた皇極天皇(第35代)から孝徳天皇(第36代)への譲位とされており、神武天皇(初代)から徳仁(126代)まで過去125回の皇位継承のうち、59人57代が譲位によって行われている。 過去、譲位した天皇は太上天皇(読み:だじょうてんのう)、略称:上皇(読み:じょうこう)の尊号を受けており、太上天皇(上皇)の尊号を授けられた最初の事例は持統天皇(第41代)となる。また、上皇となった天皇が再即位(重祚)した例もある。 譲位は皇位継承の争いを封じ込めるだけではなく、仏教伝来以降、死を穢れとする考え方が強まり、天皇が在位中に崩御することはタブー視されるようになったためでもある。 江戸時代の後水尾天皇(第108代)は、紫衣事件など、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかね、幼少の女性皇族であった興子内親王(読み:おきこ、後水尾天皇第二皇女子、後の明正天皇/第109代)へ譲位を行った。この譲位は、「幕府に対する天皇の抗議」という意味で捉えられている。 ただし、譲位がたとえ君主の意思表示であったとしても、それだけでは不可能である。譲位の儀式(譲国の儀)および譲位後の上皇の住居である御所造営には莫大な費用がかかり、朝廷がそれを負担できなければ譲位は行えなかった。実際、室町時代下室町幕府の財政支援で儀式を行った後花園天皇(第102代)と安土桃山時代の豊臣秀吉政権の支援で儀式を行った正親町天皇(第106代)の間の戦国時代に在位した3代(第103 - 105代)の天皇(後土御門・後柏原・後奈良天皇)は全て在位したまま崩御した。 1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法及び旧皇室典範第10条にて、「天皇の崩御によって皇位の継承が行われること」が規定され、「天皇の譲位を認めないこと」が明文化された 。当初、宮内省図書頭の井上毅が策定した旧皇室典範原案では譲位に関する規定が盛り込まれていたが、高輪会議と呼ばれる会議にて当時内閣総理大臣であった伊藤博文が異を唱え典範から削除された。 1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法に基づく現行皇室典範においても第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。 」と定めており、天皇の譲位は認められていない。これらの制度や法律について、2016年(平成28年)8月8日に、当時の天皇明仁が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を表明した。 こうして、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)」が2017年(平成29年)に制定された。同特例法に基づき、2019年(平成31年)4月30日を以て明仁が退位したと同時に、翌(令和元年)5月1日に徳仁が第126代天皇として即位。退位した天皇は上皇となり、光格天皇以来約200年ぶりの譲位が実現した。ただし、同特例法は第125代天皇明仁一代限りの退位のみに適用される為、皇室典範本則の改正又は退位を可能にする新たな特例の法律を制定しない限り、次代天皇である徳仁以後は終身在位となる。 譲位及び践祚の儀式に先立って、左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の将佐が諸司を警固する「警固」と、三関を封鎖する「固関」が行われる。 当日、天皇が紫宸殿に出御し、皇太子は殿上の座に着席する。この際、御簾は垂らしたままである。内弁の大臣は定刻になると「刀禰召せ(とねめせ)」と命令し、親王以下の文武百官が位ごとに整列する。次に、内弁が譲位宣命を読み上げる宣命使(中納言か参議が務める)を召す。宣命使は列から離れて階を昇り、内弁から宣命を受け取ると、内弁とともに再度列に戻り、版位につくと譲位宣命を二度読み上げる(宣制二段)。大臣以下は、一段ごとに称唯再拝(いしょうさいはい)し、その後舞踏する。 こうして譲位宣命の読み上げが終わると、剣璽渡御の儀に移る。近衛次将両人が剣璽を捧持し、先帝の御所から新帝の御所に神器を移動させる。この際は、関白以下が扈従し、行幸のように行う。新帝の御所で次将が内侍に剣璽を渡すと、内侍は夜御殿に安置する。 数日後、解陣・開関をして警固・固関を解くと、譲位と践祚が完了する。 光格天皇の譲位の儀式は次のように行われた。譲位の前日に警固・固関を行い、当日の卯の刻(午前5時から午前7時)に装束に着替え、清涼殿を退出する。光格天皇は仙洞御所となる桜町殿に行幸し(辰の半刻〈午前8時〉到着)、皇太子(仁孝天皇)は東宮御在所より清涼殿に行啓する(皇太子は譲位の儀式には参列しない)。光格天皇は桜町殿弘御所御帳内に出御し、宣命使が巳の半刻(午前10時)に宣制二段を行う(群臣は称唯再拝(「おお」と声を出す)・舞踏(拝舞)する)。未の刻(午後1時頃)に光格天皇は弘御所昼御座に出御し、剣璽渡御を行う。この際、関白は御前に伺候し、公卿は南庭に整列する。内侍二人が剣璽を受け取って南庇に出ると、中将二人が受け取り、南庇から筵道を進んで内裏清涼殿に運ぶ(公卿らは供奉)。未の半刻(午後2時)に剣璽が清涼殿東階前に到着すると、供奉の公卿は弓場付近に西面して整列する。仁孝天皇が清涼殿昼御座に出御すると、中将二人が東階を昇って内侍に剣璽を渡す。関白も東階を昇り、広廂にて控え、公卿らは退出する。未の後刻(午後3時)、内侍二人が剣璽を夜御殿に奉安し、剣璽渡御は終了する。 「帝室制度史 第3巻」より 天皇の譲位(退位)は現皇室典範においては規定がなく、想定がされていなかった。これに対し、2016年(平成28年)5月半ばから風岡典之宮内庁長官や河相周夫侍従長らの会合で検討はされていたが、明仁は、2016年(平成28年)8月8日に「おことば」として叡慮を表明し、内閣では、2016年(平成28年)10月17日より「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を開催している。 2017年(平成29年)6月9日の参議院本会議で、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(以下「退位特例法」)が可決・成立。退位時期は法案成立から3年以内に政令で定めることになった。さらに同年12月1日に開かれた皇室会議において、天皇明仁の退位日が正式に決定し、退位特例法の施行日を定めた政令が公布された。そして退位特例法に基づき、2019年(平成31年)4月30日24時を以って明仁が退位したと同時に令和元年5月1日午前0時に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、憲政史上初めての譲位が実現された。なお譲位後の明仁は上皇となった。 譲位(退位)を容認する場合の制度に対する議論も行われた。譲位を容認する上で、退位した天皇の称号、居所、生活費などの法整備を行う必要が生じた。
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譲位は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。 本項では、主に日本の天皇の譲位について記述する。
{{Otheruses|[[日本の歴史]]上(主に[[日本]]の[[天皇]])における譲位|他国の[[君主]]|退位}} [[File:Emperor Kōkaku.jpg|thumb|200px|[[1817年]]に譲位した[[光格天皇|光格上皇]]]] [[File:Emperor Akihito (2016).jpg|thumb|200px|[[2019年]]に譲位した[[明仁]]<br>[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]に基づいて、譲位後は[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となる。天皇譲位の直近の例]] '''譲位'''(じょうい、{{旧字体|'''讓位'''}})は、[[君主]]が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。 本項では、主に'''[[日本]]の[[天皇]]の譲位'''について記述する。 == 概説 == '''譲位'''は通常、[[バチカン|バチカン市国]]における[[教皇|ローマ教皇]]や[[マレーシア]]における[[マレーシアの国王|国王]]等のいわゆる[[選挙君主制]]の事例を除き、'''終身制が慣例'''ともされる'''[[君主制]]'''(対義概念:[[共和制]])において、'''[[世襲]]を原則'''とした地位の継承を指し、地位の継承先に関わらず君主がその地位を手放すことを'''[[退位]]'''(たいい)、地位継承の規定や慣例に沿わない者に対して地位を譲ることを'''[[禅譲]]'''(ぜんじょう)、譲位によって地位を譲り受けて[[即位]]することを'''[[受禅]]'''(じゅぜん)という。 [[2016年]]([[平成]]28年)[[7月13日]]以降の[[明仁|天皇明仁]](第125代[[天皇]])の譲位の{{ruby|叡慮|えいりょ}}(天皇の意思)を示す報道で、[[日本放送協会|NHK]]を筆頭に、ほぼ全てのメディアで『生前退位』(せいぜんたいい)との表現が用いられたが、同年10月20日の誕生日の談話で[[上皇后美智子|皇后美智子]]は「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感があったことを明らかにした。それ以降、天皇が叡慮を関係者に示すときに実際に使った言葉は「譲位」であることが明らかになっている。その後、譲位や「譲位・退位」という表現での報道がみられるようになった<ref name=":3">[http://www.asahi.com/articles/ASJBX6V6ZJBXUTIL073.html 「退位」と「譲位」の使い分けは? 天皇陛下めぐる報道]</ref><ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/yanaihitofumi/20161028-00063800 産経「譲位」に用語変更 朝日も「生前退位」不使用 他社は表記の混乱も]</ref>。 譲位は、後継者を明確にしてその当事者への[[教育]]・[[管理]]ができるという利点を含んだシステムであり、このシステムは「[[隠居]]」という形で日本社会全体に定着している<ref name=":02">『週刊ダイヤモンド 2016 9/17 第104巻36号』ダイヤモンド社 61ページ</ref>。 == 天皇の譲位 == {{see also|皇位継承}} 日本において最初の譲位は[[645年]]に行われた[[斉明天皇|皇極天皇]](第35代)から[[孝徳天皇]](第36代)への譲位とされており、[[神武天皇]](初代)から[[徳仁]](126代)まで過去125回の皇位継承のうち、59人57代が譲位によって行われている<ref name=":02" /><ref>『[[日本書紀]]』によれば最初の譲位は[[継体天皇]](第26代)から[[安閑天皇]](第27代)であるが、継体天皇は即日に崩御したとされるため、譲位例に数えない場合もある。</ref>。 過去、譲位した天皇は'''[[太上天皇]]'''(読み:だじょうてんのう)、略称:'''上皇'''(読み:じょうこう)の尊号を受けており、太上天皇(上皇)の尊号を授けられた最初の事例は[[持統天皇]](第41代)となる<ref>最初の譲位をした皇極天皇は、譲位後に'''皇祖母尊'''(すめみおやのみこと)という特別な尊号が定められている</ref>。また、上皇となった天皇が再即位([[重祚]])した例もある。 譲位は[[皇位継承]]の争いを封じ込めるだけではなく、[[仏教]]伝来以降、死を穢れとする考え方が強まり、天皇が在位中に[[崩御]]することは[[タブー]]視されるようになったためでもある<ref name=":02" />。 [[江戸時代]]の[[後水尾天皇]](第108代)は、[[紫衣事件]]など、天皇の権威を失墜させる[[江戸幕府]]の行いに耐えかね、幼少の女性[[皇族]]であった興子[[内親王]](読み:おきこ、後水尾天皇第二皇女子、後の[[明正天皇]]/第109代)へ譲位を行った。この譲位は、「幕府に対する天皇の抗議」という意味で捉えられている。 ただし、譲位がたとえ君主の意思表示であったとしても、それだけでは不可能である。譲位の儀式(譲国の儀)および譲位後の上皇の住居である御所造営には莫大な費用がかかり、[[朝廷 (日本)|朝廷]]がそれを負担できなければ譲位は行えなかった。実際、[[室町時代]]下[[室町幕府]]の財政支援で儀式を行った[[後花園天皇]](第102代)と[[安土桃山時代]]の[[豊臣秀吉]]政権の支援で儀式を行った[[正親町天皇]](第106代)の間の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に在位した3代(第103 - 105代)の天皇([[後土御門天皇|後土御門]]・[[後柏原天皇|後柏原]]・[[後奈良天皇]])は全て在位したまま崩御した<ref>ただし、この時代には天皇の在位中の崩御は禁忌とされていたため、新天皇への譲位・践祚の儀式が終わった後に、旧主(上皇)としての葬儀が行われている({{Cite book|和書|author=井原今朝男 |title=中世の国家と天皇・儀礼 |publisher=校倉書房 |year=2012 |series=歴史科学叢書 |NCID=BB11267692 |ISBN=9784751744307 |id={{全国書誌番号|22265921}} |page=168}}</ref>。 [[1889年]]([[明治]]22年)に制定された[[大日本帝国憲法]]及び[[旧皇室典範]]第10条にて、「天皇の崩御によって皇位の継承が行われること」が規定され、「天皇の譲位を認めないこと」が明文化された<ref>[[伊藤博文]] 著 『[[憲法義解|皇室典範義解]]』 第十条</ref><ref>[[坂本一登]] 著 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』:180頁(文庫版&#x3A;248頁) 「しかし、[[伊藤博文|伊藤]]は[[井上毅]]の意見を無視し、君位を君主の個人的な意思に委ねないという見地から、天皇の譲位それ自体を明白に否定したのである。」 ({{Cite web|和書|author=大久保啓次郎|url=http://hsaeki13.sakura.ne.jp/ookubo20150222.pdf|title=明治国家形成期における井上毅の事績~福澤諭吉の時代から井上毅の時代へ~|format=PDF|accessdate=2014-07-16}})</ref><ref>「高輪会議」における『皇室典範再稿([[柳原前光]]内案)』逐条審議、[[伊藤博文|伊藤]]決裁[第十二条(譲位)、第十五条([[太上天皇]])] : 皇室典範、皇族令、草案談話要録 ([[内閣総理大臣秘書官|秘書官]][[伊東巳代治]]、明治20年3月20日) は、[[小林宏 (法学者)|小林宏]]・[[島善高]]編著『[http://www.shinzansha.co.jp/book/b189808.html 明治皇室典範〔明治22年〕上 : 日本立法資料全集本巻 16]』(1996年5月26日発行、[[信山社出版]])、梧印文庫研究会編著『[https://www.taisei-shuppan.co.jp/search/detail.html?code=9720 梧陰文庫影印−明治皇室典範制定本史-]』(1986年8月1日発行、[[國學院大學]])、[[国立国会図書館憲政資料室]]所蔵「[http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/kenseimoku/list/kss281.html 憲政史編纂会収集文書]」に所収。</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[島善高]] |date=1991-10 |title=五味均平旧蔵「日本帝国皇室典範」について |url=https://hdl.handle.net/2065/9816 |journal=早稲田社會科學研究 |ISSN=0286-1283 |publisher=早稲田大学社会科学部学会 |volume=43 |pages=383-405 |naid=120000792979}}</ref><ref name="niigatau6752">自発的退位(譲位)の問題については、&#x20;[{{Cite journal|和書|author=兵藤守男 |date=2007-12 |title=皇位の継承 |url=https://hdl.handle.net/10191/6752 |journal=法政理論 |ISSN=02861577 |publisher=新潟大学法学会 |volume=40 |issue=2 |pages=125-160 |naid=110009004834}}]&#x20;が詳しい。[[日本国憲法]]下において、譲位を認めるべきであるという意見は、[[皇室典範]]制定当初から現在に至るまで、様々な観点や理由から出されている。制定審議の代表例としては、[[帝国議会|第91回帝国議会]]貴族院[[本会議]](昭和21年12月16日)での[[南原繁]]による[http://rsbyon39.seesaa.net/article/426891198.html 質問演説](2016年7月18日閲覧)が挙げられる。</ref> 。当初、[[宮内省]][[図書頭]]の[[井上毅]]が策定した[[旧皇室典範]]原案では譲位に関する規定が盛り込まれていたが、高輪会議と呼ばれる会議にて当時[[内閣総理大臣]]であった[[伊藤博文]]が異を唱え典範から削除された<ref name=":4">[https://www.sankei.com/article/20161010-23YHWA4TAFJT3MPWGGHQRM326A/ 明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」 産経ニュース]</ref>。 [[1947年]]([[昭和]]22年)に施行された[[日本国憲法]]に基づく現行[[皇室典範]]においても第4条で「天皇が[[崩御|崩じたとき]]は、[[皇嗣]]が、直ちに即位する。 <ref>[[皇室典範]] 第四條</ref>」と定めており、天皇の譲位は認められていない<ref>[[幣原喜重郎|幣原]]復員庁総裁・国務大臣答弁&#x5B;[[貴族院 (日本)|貴族院]]&#x5D;、[[金森徳次郎|金森]]国務大臣(憲法担当)答弁&#x5B;[[衆議院]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]&#x5D;、[[田中耕太郎|田中]]文部大臣答弁&#x5B;[[貴族院 (日本)|貴族院]]&#x5D;。[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?billId=009112001 皇室典範案会議録一覧] - [[国立国会図書館]]、日本法令索引。</ref><ref>[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000001367109.html 皇室典範に規定する事項に関する試案(金森国務大臣)] - [[国立公文書館]] デジタルアーカイブ</ref><ref>[[林修三|林(修)]] [[内閣法制局長官|法制局長官]]答弁 「これは一言で申しまして、天皇には私なく、すべて公事であるという考え方も一部にあるわけであります。やはり公けの御地位でございますので、それを自発的な御意思でどうこうするということは、やはり非常に考うべきことである。そういうような結論から、[[皇室典範]]のときに、退位制は認めなかったのであるということを、当時の[[金森徳次郎|金森]]国務大臣(註&#65294;[[帝国議会|第91回帝国議会]]衆議院[[本会議]]/昭和21年12月5日)はるるとして述べておられます。この問題は、実は皇室典範の審議されたときの[[帝国議会]]においては、皇室典範の論議の半分ぐらいを占めております。」 {{Cite web|和書|url= https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103104889X00519590206|title=衆議院会議録情報 第31回国会 内閣委員会 第5号&ensp;昭和34年2月6日|publisher= 国立国会図書館「国会会議録検索システム」|accessdate=2016-07-16}}</ref><ref name="niigatau6752" />。これらの制度や法律について、[[2016年]]([[平成]]28年)[[8月8日]]に、当時の天皇[[明仁]]が「[[象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば]]」を表明した<ref name="okotoba">[https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)]</ref>。 こうして、「[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]](平成29年法律第63号)」が[[2017年]](平成29年)に制定された。同特例法に基づき、[[2019年]](平成31年)[[4月30日]]を以て明仁が退位したと同時に、翌([[令和]]元年)[[5月1日]]に徳仁が第126代天皇として即位。退位した天皇は'''[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]'''となり、光格天皇以来約200年ぶりの譲位が実現した。ただし、同特例法は第125代天皇明仁一代限りの退位のみに適用される為、皇室典範本則の改正又は退位を可能にする新たな特例の法律を制定しない限り、次代天皇である徳仁以後は終身在位となる。 == 譲位の儀式(前近代) == 譲位及び践祚の儀式に先立って、左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の将佐が諸司を警固する「[[警固]]」と、[[三関]]を封鎖する「[[固関]]」が行われる。 {{wikisource|後光厳天皇譲位宣命}} 当日、天皇が[[紫宸殿]]に出御し、皇太子は[[殿上]]の座に着席する。この際、御簾は垂らしたままである。[[内弁]]の大臣は定刻になると「刀禰召せ(とねめせ)」と命令し、親王以下の文武百官が位ごとに整列する。次に、内弁が譲位宣命を読み上げる宣命使(中納言か参議が務める)を召す。宣命使は列から離れて階を昇り、内弁から宣命を受け取ると、内弁とともに再度列に戻り、版位につくと譲位宣命を二度読み上げる([[宣制二段]])。大臣以下は、一段ごとに称唯再拝(いしょうさいはい)し、その後舞踏する。 こうして譲位宣命の読み上げが終わると、剣璽渡御の儀に移る。近衛次将両人が剣璽を捧持し、先帝の御所から新帝の御所に神器を移動させる。この際は、関白以下が扈従し、行幸のように行う。新帝の御所で次将が内侍に剣璽を渡すと、内侍は夜御殿に安置する。 数日後、解陣・開関をして警固・固関を解くと、譲位と践祚が完了する<ref>以上、石村貞吉『有職故実(上)』1987年。</ref>。 光格天皇の譲位の儀式は次のように行われた。譲位の前日に警固・固関を行い、当日の[[卯の刻]](午前5時から午前7時)に装束に着替え、清涼殿を退出する。光格天皇は仙洞御所となる[[京都仙洞御所|桜町殿]]に行幸し([[辰]]の半刻〈午前8時〉到着)、皇太子([[仁孝天皇]])は東宮御在所より清涼殿に行啓する(皇太子は譲位の儀式には参列しない)。光格天皇は桜町殿弘御所御帳内に出御し、宣命使が[[巳]]の半刻(午前10時)に宣制二段を行う(群臣は称唯再拝(「おお」と声を出す)・舞踏(拝舞)する)。[[未の刻]](午後1時頃)に光格天皇は弘御所昼御座に出御し、剣璽渡御を行う。この際、[[関白]]は御前に伺候し、公卿は南庭に整列する。内侍二人が剣璽を受け取って南庇に出ると、中将二人が受け取り、南庇から筵道を進んで内裏清涼殿に運ぶ(公卿らは供奉)。未の半刻(午後2時)に剣璽が清涼殿東階前に到着すると、供奉の公卿は[[弓場]]付近に西面して整列する。仁孝天皇が清涼殿[[昼御座]]に出御すると、中将二人が東階を昇って内侍に剣璽を渡す。関白も東階を昇り、広廂にて控え、公卿らは退出する。未の後刻(午後3時)、内侍二人が剣璽を夜御殿に奉安し、剣璽渡御は終了する<ref> 「[https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/pdf/shikitenjyunbi-2-shiryo1.pdf 歴史上の実例]」 宮内庁。</ref>。 == 譲位した天皇の一覧 == {{see also|天皇の一覧}} {{see also|皇位継承#皇位継承一覧}} {| style="background-color: transparent; width:100%;" | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {| class="wikitable" !- !代 !名 !譲位時<br>年齢 |- | {{0}}1||{{0}}35||[[斉明天皇|皇極天皇]]<ref>重祚して[[斉明天皇]]として再即位した際は崩御まで在位した。</ref>||{{0}}51歳 |- | {{0}}2||{{0}}41||[[持統天皇]]||{{0}}52歳 |- | {{0}}3||{{0}}43||[[元明天皇]]||{{0}}54歳 |- | {{0}}4||{{0}}44||[[元正天皇]]||{{0}}44歳 |- | {{0}}5||{{0}}45||[[聖武天皇]]||{{0}}48歳 |- | {{0}}6||{{0}}46||[[孝謙天皇]]<ref>重祚して[[孝謙天皇|称徳天皇]]として再即位した際は崩御まで在位した。</ref>||{{0}}40歳 |- | {{0}}7||{{0}}47||[[淳仁天皇]]||{{0}}31歳<ref>実際は[[廃位]]。</ref> |- | {{0}}8||{{0}}49||[[光仁天皇]]||{{0}}71歳 |- | {{0}}9||{{0}}51||[[平城天皇]]||{{0}}35歳 |- | 10||{{0}}52||[[嵯峨天皇]]||{{0}}38歳 |- | 11||{{0}}53||[[淳和天皇]]||{{0}}47歳 |- | -||{{0}}54||([[仁明天皇]])||{{0}}40歳 |- | 12||{{0}}56||[[清和天皇]]||{{0}}27歳 |- | 13||{{0}}57||[[陽成天皇]]||{{0}}15歳 |- | 14||{{0}}59||[[宇多天皇]]||{{0}}30歳 |- | 15||{{0}}60||[[醍醐天皇]]||{{0}}46歳 |- | 16||{{0}}61||[[朱雀天皇]]||{{0}}23歳 |- | 17||{{0}}63||[[冷泉天皇]]||{{0}}19歳 |- | 18||{{0}}64||[[円融天皇]]||{{0}}25歳 |- | 19|| {{0}}65||[[花山天皇]]||{{0}}18歳 |- | 20||{{0}}66||[[一条天皇]]||{{0}}31歳 |- | 21||{{0}}67||[[三条天皇]]||{{0}}40歳 |- | 22||{{0}}69||[[後朱雀天皇]]||{{0}}35歳 |- | 23||{{0}}71||[[後三条天皇]]||{{0}}38歳 |- | 24||{{0}}72||[[白河天皇]]||{{0}}33歳 |- | 25||{{0}}74||[[鳥羽天皇]]||{{0}}20歳 |- | 26||{{0}}75||[[崇徳天皇]]||{{0}}22歳 |- | 27||{{0}}77||[[後白河天皇]]||{{0}}31歳 |- | 28||{{0}}78||[[二条天皇]]||{{0}}23歳 |- | 29||{{0}}79||[[六条天皇]]||{{0}}{{0}}3歳 |- | 30||{{0}}80||[[高倉天皇]]||{{0}}18歳 |- | 31||{{0}}82||[[後鳥羽天皇]]||{{0}}18歳 |} | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {|class="wikitable" style="font-size:100%; margin-right:1em;" !- !代 !名 !譲位時<br>年齢 |- | 32||{{0}}83||[[土御門天皇]]||{{0}}15歳 |- | 33||{{0}}84||[[順徳天皇]]||{{0}}24歳 |- | 34||{{0}}85||[[仲恭天皇]]||{{0}}{{0}}3歳<ref name="名前なし-20231105131159">実際は廃位。</ref> |- | 35||{{0}}86||[[後堀河天皇]]||{{0}}21歳 |- | 36||{{0}}88||[[後嵯峨天皇]]||{{0}}26歳 |- | 37||{{0}}89||[[後深草天皇]]||{{0}}17歳 |- | 38||{{0}}90||[[亀山天皇]]||{{0}}25歳 |- | 39||{{0}}91||[[後宇多天皇]]||{{0}}20歳 |- | 40||{{0}}92||[[伏見天皇]]||{{0}}33歳 |- | 41||{{0}}93||[[後伏見天皇]]||{{0}}13歳 |- | 42||{{0}}95||[[花園天皇]]||{{0}}21歳 |- | 43||{{0}}96||[[後醍醐天皇]]||{{0}}44/49/51歳 |- | 44||{{0}}98||[[長慶天皇]]||{{0}}40歳 |- | 45||{{0}}99||[[後亀山天皇]]||{{0}}42歳 |- | -||北1||[[光厳天皇]]||{{0}}21歳<ref name="名前なし-20231105131159"/> |- | -||北2||[[光明天皇]]||{{0}}27歳 |- | -||北3||[[崇光天皇]]||{{0}}18歳<ref name="名前なし-20231105131159"/> |- | -||北4||[[後光厳天皇]]||{{0}}34歳 |- | -||北5||[[後円融天皇]]||{{0}}24歳 |- | 46||100||[[後小松天皇]]||{{0}}35歳 |- | 47||102||[[後花園天皇]]||{{0}}45歳 |- | 48||106||[[正親町天皇]]||{{0}}69歳 |- | 49||107||[[後陽成天皇]]||{{0}}39歳 |- | 50||108||[[後水尾天皇]]||{{0}}33歳 |- | 51||109||[[明正天皇]]||{{0}}20歳 |- | 52||111||[[後西天皇]]||{{0}}25歳 |- | 53||112||[[霊元天皇]]||{{0}}33歳 |- | 54||113||[[東山天皇]]||{{0}}34歳 |- | 55||114||[[中御門天皇]]||{{0}}33歳 |- | 56||115||[[桜町天皇]]||{{0}}27歳 |- | 57||117||[[後桜町天皇]]||{{0}}30歳 |- | 58||119||[[光格天皇]]||{{0}}46歳 |- | 59||125||[[明仁|上皇明仁]]||{{0}}85歳 |} |} == 譲位の主な理由 == * 病気:[[持統天皇|持統]]・[[光仁天皇|光仁]]・[[平城天皇|平城]]・[[嵯峨天皇|嵯峨]]・[[淳和天皇|淳和]]・[[清和天皇|清和]]・[[醍醐天皇|醍醐]]・[[冷泉天皇|冷泉]]・[[円融天皇|円融]]・[[一条天皇|一条]]・[[後朱雀天皇|後朱雀]]・[[後三条天皇|後三条]]・[[後醍醐天皇|後醍醐]]・[[桜町天皇|桜町]] * 高齢:[[元明天皇|元明]]・光仁・[[正親町天皇|正親町]]・'''[[明仁]]''' * [[皇嗣|後継者]]の成長:[[元正天皇|元正]]・[[光格天皇|光格]] * [[仏教]]に[[帰依]]:[[聖武天皇|聖武]]・[[宇多天皇|宇多]] * [[政務]]の負担:[[孝謙天皇|孝謙]]・[[陽成天皇|陽成]] * [[院政]]:[[後鳥羽天皇|後鳥羽]]・[[後嵯峨天皇|後嵯峨]] * 災害:[[清和天皇|清和]] * [[天変地異|天地地異]]:[[土御門天皇|土御門]] * 地震、火災:[[亀山天皇|亀山]] * [[彗星]]出現:[[後堀河天皇|後堀河]] * [[飢饉]]:後堀河 * [[実仁親王 (平安時代)|皇太子]]の薨御:[[白河天皇|白河]] * 時勢への嘆き:[[後花園天皇|後花園]] * [[藤原穏子|母]]の内意:[[朱雀天皇|朱雀]] * [[藤原兼家]]の意向:[[花山天皇|花山]] * [[藤原道長]]の要請:[[三条天皇|三条]] * [[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の意向:[[崇徳天皇|崇徳]] * [[後白河天皇|後白河上皇]]の叡慮:[[六条天皇|六条]] * [[平清盛]]の要請:[[高倉天皇|高倉]] * [[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]の命:[[後深草天皇|後深草]] * [[北条氏]]の要請:[[後宇多天皇|後宇多]]・[[後伏見天皇|後伏見]]・[[花園天皇|花園]] * [[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の諭し:[[土御門天皇|土御門]] * [[大化の改新]]:[[斉明天皇|皇極]] * [[藤原仲麻呂の乱]]・[[孝謙天皇|孝謙上皇]]による:[[淳仁天皇|淳仁]] * [[討幕]]:[[順徳天皇|順徳]] * [[承久の乱]]:[[仲恭天皇|仲恭]] * [[南北朝合一]]:[[後亀山天皇|後亀山]] * [[江戸幕府|幕府]]との不和:[[後水尾天皇|後水尾]] 「帝室制度史 第3巻」より<ref>読売新聞朝刊2016年8月9日特別面p12</ref> == 天皇の譲位に関する議論 == === 明仁の譲位の経緯 === {{main|明仁から徳仁への皇位継承}} {{Double image aside|right|Emperor_Akihito_199011_1.jpg|188|Príncipe Naruhito no Brasil em 2018.jpg|179|(左)2019年(平成31年)4月30日を以て退位した明仁<br>(右)2019年(令和元年)5月1日に践祚・即位した[[徳仁|今上天皇(徳仁)]]}} 天皇の譲位(退位)は現皇室典範においては規定がなく、想定がされていなかった。これに対し、2016年(平成28年)5月半ばから[[風岡典之]]宮内庁長官や[[河相周夫]][[侍従長]]らの会合で検討はされていたが<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160714/k00/00e/040/220000c 「5月から検討加速 宮内庁幹部ら5人」]毎日新聞2016年7月14日 15時00分</ref>、明仁は、2016年(平成28年)8月8日に「おことば」として叡慮を表明<ref name="okotoba" />し、内閣では、2016年(平成28年)[[10月17日]]より「[[天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議]]」を開催している<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/index.html 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議]</ref><ref>読売新聞 2016年12月1日</ref>。 [[2017年]](平成29年)[[6月9日]]の参議院本会議で、[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]](以下「退位特例法」)が可決・成立。退位時期は法案成立から3年以内に政令で定めることになった<ref>[http://www.bbc.com/japanese/40217362 天皇退位の特例法が成立 200年ぶりの生前退位へ] - BBC 2017年6月9日</ref>。さらに同年[[12月1日]]に開かれた[[皇室会議]]において、天皇明仁の退位日が正式に決定し、退位特例法の施行日を定めた政令が公布された。そして退位特例法に基づき、[[2019年]](平成31年)[[4月30日]]24時を以って明仁が退位したと同時に[[令和]]元年[[5月1日]]午前0時に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位し、憲政史上初めての譲位が実現された。なお譲位後の明仁は[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となった。 ==== 譲位賛成・容認側の意見 ==== *[[摂政]]は天皇の形式化を招きかねず、「象徴」としての役割を果たせない<ref name=":0">[http://mainichi.jp/articles/20161121/ddm/005/070/002000c 「天皇」有識者会議 摂政論には無理がある 毎日新聞2016年11月21日 東京朝刊]</ref>。 *天皇は皇居の奥に引き下がり、高齢化に伴う限界は摂政を置いて切り抜けようというのは、天皇が積み上げ、国民が支持する象徴像を否定することにつながりかねない<ref name=":0" />。 *摂政制度はあくまで緊急時に起動するシステムである<ref name=":0" />。 *摂政は「天皇の政務を奪った」という自責の念を感じてしまう<ref name=":1">[https://www.sankei.com/article/20161108-FK53SR3PVNI7FPOXESNNNZ7OTU/2/ 陛下はなぜ「摂政」を望まれないのか 過去64例、設置理由「幼少」が最多]</ref>。 *摂政を設置すると、国民から見て、「天皇とどちらが象徴か」という危惧が起きる<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161124/k10010782571000.html 天皇陛下退位ヒアリング 2回目の議事録公表]</ref>。 *[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]宮内庁長官(当時)は、昭和39年(1964年)の国会答弁で「摂政の場合は、天皇の意思能力がむしろほとんどおありにならないような場合を想定している」と説明している<ref name=":1" />。 *「象徴的行為」は、天皇に一身専属するもので、摂政には代行できない<ref>石川健治「人間七十年」『法学教室』2016年10月号巻頭言参照</ref>。 *公的行為の範囲が法的に定義されておらず、委任という考え方になじまない。 ==== 譲位反対・慎重側の意見 ==== *次代の即位拒否と短時間での譲位を容認することになり、皇位の安定性を揺るがす{{要出典|date=2017年2月}}。 *[[皇位継承]](原則として終身制、高齢化に関わらず存命の限り在位し続けること)は法的義務。 *歴史上、皇位継承をめぐる争い([[保元の乱]]など)など弊害が見られた{{要出典|date=2017年2月}}。 *論理的に譲位を認めるならば相対的に不就位の自由も認めなければ首尾一貫しない<ref>[http://www.excite.co.jp/News/society_g/20161201/Postseven_470288.html?_p=3 天皇の生前退位 反対論者に共通するのは政治混乱への危惧]</ref>。 *譲位は国家の制度の問題であり、叡慮に左右されるものではない{{要出典|date=2017年2月}}。 *公的行為も象徴の務めになれば、それができない天皇は地位にとどまれないという能力主義が持ち込まれる{{要出典|date=2017年2月}}。 *叡慮により政府が新しい譲位の制度を作ることは、[[日本国憲法第4条|憲法4条]]が禁止する天皇の政治的行為を容認することになる{{要出典|date=2017年2月}}。 *天皇{{ruby|親|みずか}}らが皇位を退きたい時に退くことができるという権限を与えることや、叡慮と関係なく譲位させる制度を作ることは憲法上問題がある{{要出典|date=2017年2月}}。 === 譲位制度に関する議論 === 譲位(退位)を容認する場合の制度に対する議論も行われた。譲位を容認する上で、退位した天皇の称号、居所、生活費などの法整備を行う必要が生じた。 ==== 皇室典範改正側の意見 ==== *恒久的な制度にすべき{{要出典|date=2017年2月}}。 *年齢制限を設ける改正{{要出典|date=2017年2月}}。 *特例法は憲法違反に近く、不適当な先例となる{{要出典|date=2017年2月}}。 *特別法(特例法)設置は皇室典範の権威を損なう{{要出典|date=2017年2月}}。 *高齢を理由とした執務不能の自体は今後も十分に起こり得るためその都度特例を設けるのは妥当ではない<ref>「[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/pdf/sankousiryou.pdf 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議最終報告 参考資料]」23ページ。</ref>。 *[[日本国憲法第2条|憲法第2条]]は、皇位継承について「皇室典範」で定めよと指定している<ref name=":2">[http://blogos.com/article/200236/?p=2 皇室典範どこまで変えるべきか - 木村草太(首都大学東京教授)]</ref>。 *皇位継承が政治利用される危険を回避するために、そのルールは一般法の形で明確に規定しておくべきであり、特定の皇位継承にしか適用されない特別法の制定は好ましくない<ref name=":2" />。 ==== 特例法(特別措置法)制定側の意見 ==== {{also|措置法}} *退位を認める要件や恣意的な退位を防ぐ規定などを議論する必要があり、時間がかかる{{要出典|date=2017年2月}}。 *現天皇の事を考え迅速な対応が必要{{要出典|date=2017年2月}}。 *皇室典範改正を前提とした法律にする{{要出典|date=2017年2月}}。 *皇室典範の一条項や附則として制定する{{要出典|date=2017年2月}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈・出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[太上天皇]] * [[太上皇]] * [[大御所]] * [[即位]] * [[重祚]] * [[退位]] * [[象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば]] * [[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]] * [[上皇 (天皇退位特例法)]] * [[上皇后]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/index.html |title=天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 |date=20161203124631}} {{DEFAULTSORT:しようい}} [[Category:王位継承]] [[Category:皇位継承]] [[Category:退位|!]]
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篠ノ井線
篠ノ井線(しののいせん)は、長野県長野市の篠ノ井駅から長野県塩尻市の塩尻駅までを結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。 事業基本計画および国土交通省監修『鉄道要覧』では篠ノ井駅を起点としているが、国鉄時代の国有鉄道線路名称公告やJR発足後のJR線路名称公告では塩尻駅を起点としており、また列車運行上は塩尻駅から篠ノ井駅へ向かう列車が下り、逆が上りとなっている。 東京、名古屋の両都市圏からの特急列車(東京駅、新宿駅とは「あずさ」、名古屋駅とは「しなの」)が中央本線から当路線に直通しており、長野県中部の塩尻市・松本市・安曇野市と同県の県庁所在地長野市とを連絡する役割も担う。日本貨物鉄道(JR貨物)による貨物列車も運行されている。 途中、急峻な山間部を走るため一部にスイッチバック区間がある(姨捨駅付近と2か所ある信号場のうち1か所。ただし特急は引き上げ線に入らず姨捨駅を素通りする)。 ラインカラーはダークオレンジ。ただし、路線図などでは松本駅以北がダークオレンジで、以南は中央本線と同じ青色で案内されている。 松本駅 - 塩尻駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」に含まれ、同区間でIC乗車カード「Suica」が利用可能である。2025年春には全線全駅で利用可能となる予定。 全線が東日本旅客鉄道長野支社の管轄となっている。 関東と近畿を連絡する鉄道としては当初、平時には海路の便があり、戦時に敵の攻撃を受けやすい海岸を走る東海道本線ではなく、中山道を経由する路線が検討されていた。実際にこの路線は着工されたが、建設費が嵩むことや開通後の輸送力が制約されることなどから、工事がほとんど進まないうちに中止となった。この路線のための資材輸送線として建設が始まった直江津から長野を経由し上田へ至る路線はそのまま建設が続行され、さらに延長されて碓氷峠を越えて、高崎まで1893年(明治26年)4月に完成した。 一方、1892年(明治25年)6月には鉄道敷設法が制定され、後の中央本線にあたる路線の建設が決定した。これを受けて、長野県会では同年12月に中央本線と信越本線を連絡する「長野若シクハ篠ノ井ヨリ松本ヲ經テ塩尻又ハ洗馬ニ至ル線路」を第一期線に追加するように帝国議会へ要請する決議を採択した。これを中央連絡線と称した。 1893年(明治26年)3月から鉄道庁の技師が派遣されて路線の調査を行った。この結果6つの路線が候補として上がった。東側から現在の国道254号に沿って松本と上田を結ぶ三才山線、長野県道181号下奈良本豊科線に沿って松本と上田を結ぶ保福寺線、国道143号に沿って松本と上田を結ぶ二線路線、国道19号・国道403号に沿って松本と篠ノ井を結ぶ篠ノ井線、国道19号や犀川に沿って松本と長野を結ぶ犀川線、国道147号・長野県道31号長野大町線・国道19号に沿って大町経由で松本と長野を結ぶ大町線である。どのルートを選んでも険しい峠を長大トンネルで克服したり、地質の悪い区間を通過したりしなければならなかったが、距離が最も短い篠ノ井線が建設費や開業後の運営の点で有利と判断された。この報告を受けて1894年(明治27年)6月23日に帝国議会で「長野県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続スル鉄道」が第一期線に格上げされ、また同時に提出された法案により起点は篠ノ井と確定された。1896年(明治29年)予算で建設費は359万7470円とされ、明治28年度から31年度までの予定で施工されることになった。しかしその後、工期の変更と予算の増額があり、明治35年度まで掛かって予算767万7751円で施工された。 全線を11の工区に分けて、1896年(明治29年)10月に着工され、1900年から篠ノ井方より順次延伸され、1902年に塩尻駅まで全通した。1906年には八王子駅から伸びてきた鉄道が接続して、東京駅 - 長野駅を結ぶ第2のルートが完成した。1909年の線路名称設定の際には、中央東線に含まれたが、中央東線が塩尻駅以西へ延伸されるに及び1911年に篠ノ井線として分離された。 開業後は、急勾配の続く運転上の難所であり、また線路容量も限られることになった。そのため、昭和に入ると順次中間に行き違いの可能な駅や信号場を新設して線路容量の拡大が図られた。第二次世界大戦後も引き続き信号場の追加が行われ、このうち1961年(昭和36年)と1966年(昭和41年)の2回にわたって新設された潮沢・桑ノ原・羽尾の3つの信号場はスイッチバック式を採用した。これにより、元から存在した姨捨駅のスイッチバックと合わせて、1駅3信号場にスイッチバックを有する路線となった。 1970年(昭和45年)2月、篠ノ井線用にDD51形ディーゼル機関車30両が配置され、これによって無煙化が完了し、蒸気機関車のさよなら運転としてD51形蒸気機関車重連による「さよなら篠ノ井線の蒸気機関車」が運転された。1973年(昭和48年)3月28日に全線で電化が完成した。本来は同年7月10日のダイヤ改正で中央西線の電化とともに開業するものであったが、6年に1度の善光寺御開帳に間に合わせるために篠ノ井線のみ先行して電化開業し、4月1日から暫定的な電車化が実施された。中央西線の電化開業時には、381系振り子式車両により特急「しなの」の一部が電車化された。 西条駅 - 明科駅間の、潮沢川に沿う地すべり地帯を通過していた旧線に代わる新線の建設工事は1974年(昭和49年)に開始 され、1988年(昭和63年)9月10日に完成した。この際に建設されたトンネルや橋梁はいずれも複線対応であるが、単線での開業となっている。この際、潮沢信号場が廃止され、またその後に羽尾信号場が使用停止されたことから、2009年時点では1駅1信号場にスイッチバックのある路線となっている。 基本的に、途中の松本駅を起点・終着として中央本線新宿・東京方面、名古屋方面および信越本線長野方面と直通する列車を主体に運転されている。 中央東線方面からは、特急「あずさ」が乗り入れ、ほとんどの列車は松本駅を起・終点としている。一部に大糸線方面への直通列車が設定されている。 中央西線方面からは、東海旅客鉄道(JR東海)の特急「しなの」が乗り入れ、全ての列車が長野駅に直通するが、臨時の「しなの」の中には大糸線乗り入れ列車や松本駅を起・終点とする列車も存在する。 2023年3月ダイヤ改正から、平日運転の臨時特急「信州」が1日1往復運転されている。 松本駅が運用上の基点となっている。松本駅を始発・終着としている中央本線方面の列車は、上下線とも中央東線方面の列車のほうが多く、東京都内の高尾駅や立川駅まで運行される列車もある。また、中央西線方面の列車は多くが岐阜県内の中津川駅まで運行されている。これらの関係で、松本駅 - 塩尻駅間は特急も含めて比較的多くの列車本数(毎時2 -3本程度)が設定されている。一方、篠ノ井駅を起点・終着としている列車はなく、全て信越本線の長野駅まで(から)乗り入れる。長野駅を起点・終着としている列車も大半は中央東線方面と直通運転している。一部は松本駅までのものもある。篠ノ井線のみを走行する列車は2021年3月13日のダイヤ改正時点で塩尻駅発松本駅行きが2本、塩尻駅発明科駅行きが1本、松本駅発塩尻駅行きと聖高原駅発松本駅行きがそれぞれ1本となっている。なお、松本駅以北の普通列車は毎時1本(一部時間帯で2時間前後開く場合あり)となっている。 快速列車には長野駅または松本駅 - 飯田線飯田駅を結ぶ「みすず」(篠ノ井線内で快速扱いとなるのは松本発の1本のみであるが各駅に停車)や、中央本線上諏訪駅発長野駅行き下り1本、大糸線信濃大町駅発上諏訪駅行き上り1本(篠ノ井線内は各駅に停車)、長野駅発松本駅行き上り2本(2本とも安茂里駅・今井駅を通過するが、うち1本は姨捨駅・冠着駅も通過)、松本駅発長野駅行き下り1本(冠着駅・姨捨駅・今井駅・安茂里駅は通過)、塩尻駅発長野駅行き下り1本(途中で村井駅・松本駅・田沢駅・明科駅に停車、篠ノ井駅は通過。平日のみ運転)がある。これらは基本的に211系・E127系(長野総合車両センター所属)が使用されている。 313系(JR東海神領車両区所属)も、松本駅発着の中央西線方面の列車において2両または4両で使用されるほか、飯田線直通(岡谷駅経由)の普通列車にも1往復に3両で使用されている。このため、松本駅 - 塩尻駅間はJR東日本の路線としては珍しく、転換クロスシート車両の普通列車が多く乗り入れる区間となっている。 2013年3月16日のダイヤ改正より、一部の普通列車でワンマン運転が開始された。ワンマン運転の際に使用されるのはE127系のみである。 全線で貨物列車が運行されている。コンテナ輸送も行われているが、寒冷山間地の長野県への石油(灯油・重油・ガソリンなど)輸送が盛んである。石油は、京葉地区や京浜地区、中京地区にある製油所から内陸の油槽所へ送られている。輸送の高速化のために、タキ1000形貨車で編成された高速貨物列車も設定されている。 牽引機は、EF64形電気機関車やEH200形電気機関車である。また、篠ノ井線で列車の発着がある駅は南松本駅のみである。 過去の列車は以下の項目を参照 以下は全て電車で、特記なき限りJR東日本の車両。 「キハ」とあるのは気動車、客車など車種が記されていない車両は全て電車である。 篠ノ井線は、塩尻市から安曇野市明科地区にかけての松本盆地と、長野市周辺の長野盆地を結ぶ路線で、線路は、同じく両盆地を結んで流れる犀川の川筋ではなく、冠着峠越えのルートに敷設されている。これは、両盆地の間が最近数十万年の間に激しく隆起・褶曲した結果、犀川が蛇行しつつ深い渓谷を形成して、川沿いに線路を引ける地形ではなかったためであった。姨捨付近の高所から見晴らす長野盆地は佳景で、日本三大車窓の一つに選ばれている。蒸気機関車時代は難所と呼ばれた冠着トンネルも技術革新のために苦もなく列車が通るようになった。 篠ノ井側から見ると、まず稲荷山駅から冠着トンネルへ向かって40分の1(25‰)の上り勾配がずっと続く。山腹に沿って曲線を繰り返しながら次第に高度を稼ぐ。千曲川(信濃川)の支流雄沢川と、同じ千曲川の支流犀川の支流麻績川の間の標高955mの尾根の下を全長2,656mの冠着トンネルで潜り抜けると、この路線最高の標高676m地点にある冠着駅へ到達する。 冠着駅から坂北駅まではおおむね麻績川に沿って下る。そこで麻績川の支流の東条川の川筋に入って再び登り、西条駅へ到達する。 西条駅から明科駅までは、潮沢川に沿う区間が地すべり多発地帯であったことや、線路容量が限界に達していたことなどから1988年に新線に切り替えられた区間である。明治時代に建設された当初は、全長365mの御仁熊トンネルを抜けてサミット(山頂部)を通り、全長2,084mの第二白坂トンネルを通って半径300mのカーブを繰り返し25‰で潮沢川に沿って明科駅まで下っていく線形となっていた。1988年に切り替えられた新線では、新しく掘り直された第一白坂トンネルが1,292m、第二白坂トンネルが1,777m、そして第三白坂トンネルが4,261mとなり、最大勾配は23‰とわずかながら改善された。また、この区間はトンネルや橋梁について複線化の準備がなされた設計で建設されたが、単線のままで開通している。 明科駅からは松本盆地に出て、おおむね犀川の右岸に沿って通っている。途中田沢駅 - 松本駅間は山と川に挟まれた狭隘な区間を通過する。松本からは、市街化・工業化の進む平坦な田園地帯を南下し、やがて松本盆地の南端に位置する塩尻駅に達する。 便宜上、篠ノ井側の全列車が直通する信越本線長野駅 - 篠ノ井駅間も合わせて記述する。 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計から除外される駅(完全な無人駅)は、姨捨駅のみである。 各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。
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長野駅を結ぶ第2のルートが完成した。1909年の線路名称設定の際には、中央東線に含まれたが、中央東線が塩尻駅以西へ延伸されるに及び1911年に篠ノ井線として分離された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開業後は、急勾配の続く運転上の難所であり、また線路容量も限られることになった。そのため、昭和に入ると順次中間に行き違いの可能な駅や信号場を新設して線路容量の拡大が図られた。第二次世界大戦後も引き続き信号場の追加が行われ、このうち1961年(昭和36年)と1966年(昭和41年)の2回にわたって新設された潮沢・桑ノ原・羽尾の3つの信号場はスイッチバック式を採用した。これにより、元から存在した姨捨駅のスイッチバックと合わせて、1駅3信号場にスイッチバックを有する路線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)2月、篠ノ井線用にDD51形ディーゼル機関車30両が配置され、これによって無煙化が完了し、蒸気機関車のさよなら運転としてD51形蒸気機関車重連による「さよなら篠ノ井線の蒸気機関車」が運転された。1973年(昭和48年)3月28日に全線で電化が完成した。本来は同年7月10日のダイヤ改正で中央西線の電化とともに開業するものであったが、6年に1度の善光寺御開帳に間に合わせるために篠ノ井線のみ先行して電化開業し、4月1日から暫定的な電車化が実施された。中央西線の電化開業時には、381系振り子式車両により特急「しなの」の一部が電車化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "西条駅 - 明科駅間の、潮沢川に沿う地すべり地帯を通過していた旧線に代わる新線の建設工事は1974年(昭和49年)に開始 され、1988年(昭和63年)9月10日に完成した。この際に建設されたトンネルや橋梁はいずれも複線対応であるが、単線での開業となっている。この際、潮沢信号場が廃止され、またその後に羽尾信号場が使用停止されたことから、2009年時点では1駅1信号場にスイッチバックのある路線となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "基本的に、途中の松本駅を起点・終着として中央本線新宿・東京方面、名古屋方面および信越本線長野方面と直通する列車を主体に運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中央東線方面からは、特急「あずさ」が乗り入れ、ほとんどの列車は松本駅を起・終点としている。一部に大糸線方面への直通列車が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中央西線方面からは、東海旅客鉄道(JR東海)の特急「しなの」が乗り入れ、全ての列車が長野駅に直通するが、臨時の「しなの」の中には大糸線乗り入れ列車や松本駅を起・終点とする列車も存在する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2023年3月ダイヤ改正から、平日運転の臨時特急「信州」が1日1往復運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "松本駅が運用上の基点となっている。松本駅を始発・終着としている中央本線方面の列車は、上下線とも中央東線方面の列車のほうが多く、東京都内の高尾駅や立川駅まで運行される列車もある。また、中央西線方面の列車は多くが岐阜県内の中津川駅まで運行されている。これらの関係で、松本駅 - 塩尻駅間は特急も含めて比較的多くの列車本数(毎時2 -3本程度)が設定されている。一方、篠ノ井駅を起点・終着としている列車はなく、全て信越本線の長野駅まで(から)乗り入れる。長野駅を起点・終着としている列車も大半は中央東線方面と直通運転している。一部は松本駅までのものもある。篠ノ井線のみを走行する列車は2021年3月13日のダイヤ改正時点で塩尻駅発松本駅行きが2本、塩尻駅発明科駅行きが1本、松本駅発塩尻駅行きと聖高原駅発松本駅行きがそれぞれ1本となっている。なお、松本駅以北の普通列車は毎時1本(一部時間帯で2時間前後開く場合あり)となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "快速列車には長野駅または松本駅 - 飯田線飯田駅を結ぶ「みすず」(篠ノ井線内で快速扱いとなるのは松本発の1本のみであるが各駅に停車)や、中央本線上諏訪駅発長野駅行き下り1本、大糸線信濃大町駅発上諏訪駅行き上り1本(篠ノ井線内は各駅に停車)、長野駅発松本駅行き上り2本(2本とも安茂里駅・今井駅を通過するが、うち1本は姨捨駅・冠着駅も通過)、松本駅発長野駅行き下り1本(冠着駅・姨捨駅・今井駅・安茂里駅は通過)、塩尻駅発長野駅行き下り1本(途中で村井駅・松本駅・田沢駅・明科駅に停車、篠ノ井駅は通過。平日のみ運転)がある。これらは基本的に211系・E127系(長野総合車両センター所属)が使用されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "313系(JR東海神領車両区所属)も、松本駅発着の中央西線方面の列車において2両または4両で使用されるほか、飯田線直通(岡谷駅経由)の普通列車にも1往復に3両で使用されている。このため、松本駅 - 塩尻駅間はJR東日本の路線としては珍しく、転換クロスシート車両の普通列車が多く乗り入れる区間となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2013年3月16日のダイヤ改正より、一部の普通列車でワンマン運転が開始された。ワンマン運転の際に使用されるのはE127系のみである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "全線で貨物列車が運行されている。コンテナ輸送も行われているが、寒冷山間地の長野県への石油(灯油・重油・ガソリンなど)輸送が盛んである。石油は、京葉地区や京浜地区、中京地区にある製油所から内陸の油槽所へ送られている。輸送の高速化のために、タキ1000形貨車で編成された高速貨物列車も設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "牽引機は、EF64形電気機関車やEH200形電気機関車である。また、篠ノ井線で列車の発着がある駅は南松本駅のみである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "過去の列車は以下の項目を参照", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下は全て電車で、特記なき限りJR東日本の車両。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「キハ」とあるのは気動車、客車など車種が記されていない車両は全て電車である。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "篠ノ井線は、塩尻市から安曇野市明科地区にかけての松本盆地と、長野市周辺の長野盆地を結ぶ路線で、線路は、同じく両盆地を結んで流れる犀川の川筋ではなく、冠着峠越えのルートに敷設されている。これは、両盆地の間が最近数十万年の間に激しく隆起・褶曲した結果、犀川が蛇行しつつ深い渓谷を形成して、川沿いに線路を引ける地形ではなかったためであった。姨捨付近の高所から見晴らす長野盆地は佳景で、日本三大車窓の一つに選ばれている。蒸気機関車時代は難所と呼ばれた冠着トンネルも技術革新のために苦もなく列車が通るようになった。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "篠ノ井側から見ると、まず稲荷山駅から冠着トンネルへ向かって40分の1(25‰)の上り勾配がずっと続く。山腹に沿って曲線を繰り返しながら次第に高度を稼ぐ。千曲川(信濃川)の支流雄沢川と、同じ千曲川の支流犀川の支流麻績川の間の標高955mの尾根の下を全長2,656mの冠着トンネルで潜り抜けると、この路線最高の標高676m地点にある冠着駅へ到達する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "冠着駅から坂北駅まではおおむね麻績川に沿って下る。そこで麻績川の支流の東条川の川筋に入って再び登り、西条駅へ到達する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "西条駅から明科駅までは、潮沢川に沿う区間が地すべり多発地帯であったことや、線路容量が限界に達していたことなどから1988年に新線に切り替えられた区間である。明治時代に建設された当初は、全長365mの御仁熊トンネルを抜けてサミット(山頂部)を通り、全長2,084mの第二白坂トンネルを通って半径300mのカーブを繰り返し25‰で潮沢川に沿って明科駅まで下っていく線形となっていた。1988年に切り替えられた新線では、新しく掘り直された第一白坂トンネルが1,292m、第二白坂トンネルが1,777m、そして第三白坂トンネルが4,261mとなり、最大勾配は23‰とわずかながら改善された。また、この区間はトンネルや橋梁について複線化の準備がなされた設計で建設されたが、単線のままで開通している。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "明科駅からは松本盆地に出て、おおむね犀川の右岸に沿って通っている。途中田沢駅 - 松本駅間は山と川に挟まれた狭隘な区間を通過する。松本からは、市街化・工業化の進む平坦な田園地帯を南下し、やがて松本盆地の南端に位置する塩尻駅に達する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "便宜上、篠ノ井側の全列車が直通する信越本線長野駅 - 篠ノ井駅間も合わせて記述する。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計から除外される駅(完全な無人駅)は、姨捨駅のみである。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。", "title": "平均通過人員" } ]
篠ノ井線(しののいせん)は、長野県長野市の篠ノ井駅から長野県塩尻市の塩尻駅までを結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。 事業基本計画および国土交通省監修『鉄道要覧』では篠ノ井駅を起点としているが、国鉄時代の国有鉄道線路名称公告やJR発足後のJR線路名称公告では塩尻駅を起点としており、また列車運行上は塩尻駅から篠ノ井駅へ向かう列車が下り、逆が上りとなっている。
{{出典の明記|date=2021年9月}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 篠ノ井線 |路線色=#d56a29 |画像=JR-Shinonoi-Line Series383.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[姨捨駅]]付近を走行する特急「[[しなの (列車)|しなの]]」 |国={{JPN}} |所在地=[[長野県]] |起点=[[篠ノ井駅]] |終点=[[塩尻駅]] |駅数=15駅 |電報略号 = シノセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p21">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=21}}</ref> |開業={{start date and age|1900|11|1}} |全通={{start date and age|1902|12|15}} |休止= |廃止= |所有者=[[東日本旅客鉄道]] |運営者=東日本旅客鉄道<br />[[日本貨物鉄道]] |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照 |路線構造= |路線距離=66.7 [[キロメートル|km]] |営業キロ= |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[単線]]、[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配=25[[パーミル|‰]] |最小曲線半径=300 [[メートル|m]] |高低差= |閉塞方式= |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]([[姨捨駅]]・[[桑ノ原信号場]]構内は[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]) |最高速度=130 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図=[[File:JR Shinonoi Line linemap.svg|250px]] }} '''篠ノ井線'''(しののいせん)は、[[長野県]][[長野市]]の[[篠ノ井駅]]から長野県[[塩尻市]]の[[塩尻駅]]までを結ぶ、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。 事業基本計画および[[国土交通省]]監修『[[鉄道要覧]]』では篠ノ井駅を起点としているが、国鉄時代の[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称公告]]<ref name="1911kokuji17" />やJR発足後のJR線路名称公告では塩尻駅を起点としており、また列車運行上は塩尻駅から篠ノ井駅へ向かう列車が[[ダイヤグラム#上りと下り|下り]]、逆が[[ダイヤグラム#上りと下り|上り]]となっている。 == 概要 == [[東京都|東京]]、[[名古屋市|名古屋]]の両都市圏からの[[特別急行列車|特急列車]]([[東京駅]]、[[新宿駅]]とは「[[あずさ (列車)|あずさ]]」、[[名古屋駅]]とは「[[しなの (列車)|しなの]]」)が[[中央本線]]から当路線に直通しており、長野県中部の[[塩尻市]]・[[松本市]]・[[安曇野市]]と同県の県庁所在地[[長野市]]とを連絡する役割も担う。[[日本貨物鉄道]](JR貨物)による[[貨物列車]]も運行されている。 途中、急峻な山間部を走るため一部に[[スイッチバック]]区間がある([[姨捨駅]]付近<ref name="朝日20211023">[[原武史]]:[https://www.asahi.com/articles/DA3S15084153.html 【歴史のダイヤグラム】姨捨のスイッチバックの価値][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2021年10月23日4面(2021年11月6日閲覧)</ref>と2か所ある[[信号場]]のうち1か所。ただし特急は[[引き上げ線]]に入らず姨捨駅を素通りする<ref name="朝日20211023"/>)。 [[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]はダークオレンジ。ただし、路線図などでは[[松本駅]]以北がダークオレンジで、以南は中央本線と同じ青色で案内されている。 松本駅 - 塩尻駅間は[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」に含まれ、同区間で[[乗車カード|IC乗車カード]]「[[Suica]]」が利用可能である<ref name="jreast20131129">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131114.pdf Suicaの一部サービスをご利用いただける駅が増えます]}} 東日本旅客鉄道(2013年11月29日)2021年11月6日閲覧</ref><ref name="response20161205" /><ref name="jreast20161202" />。2025年春には全線全駅で利用可能となる予定<ref name="jreast20230620">{{Cite press release|和書|title=長野県におけるSuicaご利用駅の拡大について|publisher=東日本旅客鉄道長野支社|date=2023-06-20|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/nagano/20230620_na01.pdf|format=PDF|access-date=2023-06-21}}</ref>。 === 路線データ === * 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])、[[日本貨物鉄道]](第二種鉄道事業者) * 区間([[営業キロ]]):篠ノ井駅 - 塩尻駅 66.7 km(線路名称公告では起終点が逆転) * [[軌間]]:1067 mm * 駅数:15駅(起終点駅含む) ** 篠ノ井線所属駅に限定した場合、起終点駅(篠ノ井駅は[[信越本線]]、塩尻駅は中央本線の所属<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年</ref>)が除外され、13駅となる。 * [[複線]]区間:[[明科駅]] - [[田沢駅]]・松本駅 - 塩尻駅間([[西条駅 (長野県)|西条駅]] - 明科駅間も路盤自体は複線対応だが現在は[[単線]]となっている<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.shinmai.co.jp/feature/bookweb/chizukarashinshu/2021/06/300000-1.html| title = 【第12回】篠ノ井線の路線改良は「未完成」 明科―西条| publisher = 信毎 本のweb| date = 2021-06-30| accessdate = 2021-09-14 }}</ref>) * 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500 [[ボルト (単位)|V]]) * 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](姨捨駅・[[桑ノ原信号場]]構内は[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]) * [[運転指令所]]:長野総合指令室 ([[列車集中制御装置|CTC]]) * 最高速度: ** 篠ノ井駅 - 松本駅間 110 km/h ** 松本駅 - 塩尻駅間 [[優等列車]] 130 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref group="注釈">優等列車であっても、JR東海の車両を使う特急「しなの」は120 km/h制限で運用されている。</ref>、[[普通列車]] 110 km/h 全線が[[東日本旅客鉄道長野支社]]の管轄となっている。 == 歴史 == [[関東地方|関東]]と[[近畿地方|近畿]]を連絡する鉄道としては当初、平時には海路の便があり、戦時に敵の攻撃を受けやすい海岸を走る[[東海道本線]]ではなく、[[中山道]]を経由する路線が検討されていた。実際にこの路線は着工されたが、建設費が嵩むことや開通後の輸送力が制約されることなどから、工事がほとんど進まないうちに中止となった。この路線のための資材輸送線として建設が始まった[[直江津駅|直江津]]から[[長野駅|長野]]を経由し[[上田駅|上田]]へ至る路線はそのまま建設が続行され、さらに延長されて[[碓氷峠]]を越えて、[[高崎駅|高崎]]まで1893年(明治26年)4月に完成した。 一方、1892年([[明治]]25年)6月には[[鉄道敷設法]]が制定され、後の[[中央本線]]にあたる路線の建設が決定した。これを受けて、長野県会では同年12月に中央本線と信越本線を連絡する「長野若シクハ篠ノ井ヨリ松本ヲ經テ[[塩尻宿|塩尻]]又ハ[[洗馬宿|洗馬]]ニ至ル線路」を第一期線に追加するように[[帝国議会]]へ要請する決議を採択した。これを中央連絡線と称した。 1893年(明治26年)3月から[[鉄道庁]]の技師が派遣されて路線の調査を行った。この結果6つの路線が候補として上がった。東側から現在の[[国道254号]]に沿って松本と[[上田市|上田]]を結ぶ[[三才山]]線、[[長野県道181号下奈良本豊科線]]に沿って松本と上田を結ぶ[[保福寺 (松本市)|保福寺]]線、[[国道143号]]に沿って松本と上田を結ぶ[[二線路#長野県内の事例|二線路]]線、[[国道19号]]・[[国道403号]]に沿って松本と篠ノ井を結ぶ篠ノ井線、国道19号や[[犀川 (長野県)|犀川]]に沿って松本と長野を結ぶ犀川線、[[国道147号]]・[[長野県道31号長野大町線]]・国道19号に沿って[[大町 (長野県)|大町]]経由で松本と長野を結ぶ大町線である。どのルートを選んでも険しい峠を長大トンネルで克服したり、地質の悪い区間を通過したりしなければならなかったが、距離が最も短い篠ノ井線が建設費や開業後の運営の点で有利と判断された。この報告を受けて1894年(明治27年)6月23日に帝国議会で「長野県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続スル鉄道」が第一期線に格上げされ、また同時に提出された法案により起点は篠ノ井と確定された。1896年(明治29年)予算で建設費は359万7470円とされ、明治28年度から31年度までの予定で施工されることになった。しかしその後、工期の変更と予算の増額があり、明治35年度まで掛かって予算767万7751円で施工された。 全線を11の工区に分けて、1896年(明治29年)10月に着工され、1900年から篠ノ井方より順次延伸され、1902年に塩尻駅まで全通した。1906年には[[八王子駅]]から伸びてきた鉄道が接続して、[[東京駅]] - 長野駅を結ぶ第2のルートが完成した。1909年の線路名称設定の際には、'''中央東線'''に含まれたが、中央東線が塩尻駅以西へ延伸されるに及び1911年に'''篠ノ井線'''として分離された。 開業後は、急勾配の続く運転上の難所であり、また線路容量も限られることになった。そのため、[[昭和]]に入ると順次中間に[[列車交換|行き違い]]の可能な駅や[[信号場]]を新設して線路容量の拡大が図られた。[[第二次世界大戦]]後も引き続き信号場の追加が行われ、このうち1961年(昭和36年)と1966年(昭和41年)の2回にわたって新設された[[潮沢信号場|潮沢]]・[[桑ノ原信号場|桑ノ原]]・[[羽尾信号場|羽尾]]の3つの信号場は[[スイッチバック]]式を採用した。これにより、元から存在した姨捨駅のスイッチバックと合わせて、1駅3信号場にスイッチバックを有する路線となった。 1970年(昭和45年)2月、篠ノ井線用に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]30両が配置され、これによって[[動力近代化計画|無煙化]]が完了し、[[蒸気機関車]]の[[さよなら運転]]として[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形蒸気機関車]][[重連運転|重連]]による「さよなら篠ノ井線の蒸気機関車」が運転された。1973年(昭和48年)3月28日に全線で[[鉄道の電化|電化]]が完成した。本来は同年7月10日の[[ダイヤ改正]]で中央西線の電化とともに開業するものであったが、6年に1度の[[善光寺]]御[[開帳]]に間に合わせるために篠ノ井線のみ先行して電化開業し、4月1日から暫定的な電車化が実施された<ref>{{Cite journal | 和書 | author = 平石大貴 | title = 47-3改正から50-3改正における急行形直流電車の転配について | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | issue = 981 | year = 2021 | month = 1 | publisher = [[電気車研究会]] | pages = 76 - 88}}</ref>。中央西線の電化開業時には、[[国鉄381系電車|381系]][[車体傾斜式車両|振り子式車両]]により特急「しなの」の一部が電車化された。 西条駅 - 明科駅間の、潮沢川に沿う[[地すべり]]地帯を通過していた旧線に代わる新線の建設工事は[[1974年]](昭和49年)に開始<ref name="篠ノ井線の歴史">{{PDFlink|[http://www.azumino-e-tabi.net/pdf/haisenmap1.pdf トレッキングガイド内「篠ノ井線の歴史」年表]}} 安曇野市商工観光部観光課/安曇野市観光協会/安曇野市観光情報センター(2021年11月6日閲覧)</ref> され、[[1988年]](昭和63年)[[9月10日]]に完成した。この際に建設されたトンネルや橋梁はいずれも[[複線]]対応であるが、[[単線]]での開業となっている。この際、潮沢信号場が廃止され、またその後に羽尾信号場が使用停止されたことから、2009年時点では1駅1信号場にスイッチバックのある路線となっている<ref group="注釈">[[JR線]]でスイッチバックが2か所以上現存する路線はほかに[[四国旅客鉄道|JR四国]]の[[土讃線]]([[坪尻駅]]と[[新改駅]])、[[九州旅客鉄道|JR九州]]の[[肥薩線]]([[大畑駅]]と[[真幸駅]])がある。</ref>。 === 年表 === [[File:Obasute Station opening.jpg|thumb|270px|開業当日の姨捨駅]] * [[1900年]]([[明治]]33年)[[11月1日]]:'''篠ノ井線'''<ref group="注釈">当時から「篠ノ井線」と呼称([{{NDLDC|805400/20}} 逓信省鉄道局『明治33年度鉄道局年報』])</ref> [[篠ノ井駅]] - [[西条駅 (長野県)|西条駅]]間(17[[マイル|M]]64[[チェーン (単位)|C]]≒28.65&nbsp;km)開業。[[稲荷山駅]]、[[姨捨駅]]、麻績駅(現・[[聖高原駅]])、西条駅新設<ref name="sone09-22">[[#sone09|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 9号]]、22頁</ref>。 * [[1902年]](明治35年) ** [[6月15日]]:西条駅 - 松本駅間(15M22C≒24.58&nbsp;km)延伸開業{{R|sone09-22}}。[[明科駅]]、[[田沢駅]]、[[松本駅]]新設{{R|sone09-22}}。 ** 11月1日:稲荷山駅 - 姨捨駅間改マイル(+32C≒0.64&nbsp;km)。 ** [[11月12日]]:営業距離をマイル・チェーン表記からマイル表記のみに簡略化(33M38C→33.5M)。 ** [[12月15日]]:松本駅 - [[塩尻駅]]間(8.6M≒13.84&nbsp;km)延伸開業{{R|sone09-22}}。[[村井駅]]、塩尻駅新設{{R|sone09-22}}。 * [[1906年]](明治39年)[[6月11日]]:[[岡谷駅]] - 塩尻駅間延伸開業により、[[八王子駅]] - 篠ノ井駅間全通{{R|sone09-22}}。 * [[1909年]](明治42年) ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定{{R|sone09-22}}。[[昌平橋駅]] - 篠ノ井駅間が'''中央東線'''となる{{R|sone09-22}}。 ** [[12月1日]]:中央東線の塩尻駅 - [[奈良井駅]]間開業により、塩尻駅 - 篠ノ井駅間は支線となる{{R|sone09-22}}。 * [[1911年]](明治44年)[[5月1日]]:中央本線全通に伴い、塩尻駅 - 篠ノ井駅間を'''篠ノ井線'''として分離<ref name="1911kokuji17">{{Cite journal |和書 |title = 鉄道院告示第17号 |journal =官報 |date =1911年4月5日 |publisher =大蔵省印刷局 |issue =8332 |pages = 97 |url={{NDLDC|2951688/3}} |quote = 「中央線{中央本線(昌平橋名古屋間) 篠ノ井線(鹽尻篠ノ井間)」ヲ追加シ…}}(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>{{R|sone09-22}}。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[11月3日]]:[[坂北駅]]新設。 * [[1930年]](昭和5年)[[4月1日]]:営業距離をマイル表記からメートル表記に変更(42.1M→67.9&nbsp;km)。 * [[1933年]](昭和8年)[[7月10日]]:[[広丘駅]]新設。 * [[1937年]](昭和12年)[[1月31日]]:麻績駅 - 姨捨駅間に冠着信号場新設。 * [[1944年]](昭和19年)[[9月1日]]:[[南松本駅]]新設。 * [[1945年]](昭和20年)4月1日:冠着信号場を駅に変更して[[冠着駅]]新設。 * [[1961年]](昭和36年) ** [[9月27日]]:明科駅 - 西条駅間に[[潮沢信号場]]、姨捨駅 - 稲荷山駅間に[[桑ノ原信号場]]新設。 ** [[9月29日]]:塩尻駅 - 広丘駅間複線化{{R|sone09-22}}。 * [[1963年]](昭和38年)[[6月12日]]:広丘駅 - 村井駅間複線化{{R|sone09-22}}。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[9月25日]]:南松本駅 - 松本駅間複線化。 ** [[10月1日]]:南松本駅 - 松本駅間電化<ref name="sone09-23">[[#sone09|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 9号]]、23頁</ref>。 * [[1965年]](昭和40年) ** [[2月1日]]:全線に[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S]]を導入<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄主要幹線のATS化進む |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1965-02-02 |page=2 }}</ref>。 ** [[4月27日]]:村井駅 - 南松本駅間複線化{{R|sone09-23}}。 ** [[5月20日]]:塩尻駅 - 南松本駅間電化{{R|sone09-23}}。 ** 9月27日:松本駅 - 田沢駅間に[[平瀬信号場]]新設。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[3月27日]]:冠着駅 - 姨捨駅間に[[羽尾信号場]]新設。 ** [[12月10日]]:田沢駅 - 明科駅間複線化{{R|sone09-23}}。 * [[1968年]](昭和43年)10月1日:[[ヨンサントオ]]のダイヤ改正で名古屋駅 - 長野駅間の「しなの」に[[国鉄キハ181系気動車|181系気動車]]が投入され、[[特別急行列車|特急列車]]化{{R|sone09-23}}。同時に同区間の[[急行列車]]を「[[しなの (列車)#きそ|きそ]]」に集約。 * [[1970年]](昭和45年)[[2月22日]]:篠ノ井線用に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]30両を配置して[[動力近代化計画|無煙化]]完了。[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]][[重連運転|重連]]による「さよなら篠ノ井線の蒸気機関車」が運転される<ref>{{Cite news |和書 |title=篠ノ井線からSL消える 長鉄 22日にお別れ記念運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1970-02-13 |page=4 }}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)2月1日:全線に[[列車集中制御装置]] (CTC) を導入<ref>{{Cite news |和書|title=篠ノ井線のCTC化完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-02-06 |page=1 }}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[3月28日]]:松本駅 - 篠ノ井駅間電化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●篠ノ井線松本・篠ノ井間の電気運転開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1975-03-28 |page=8 }}</ref>。 ** 7月10日:中央西線の電化完成によるダイヤ改正で、[[国鉄381系電車|381系]]振り子式電車による「しなの」が運転開始{{R|sone09-23}}。 * [[1976年]](昭和51年)4月1日:麻績駅を聖高原駅に改称{{R|sone09-23}}。 * [[1981年]](昭和56年)[[6月6日]]:14時56分頃、姨捨駅 - 桑ノ原信号場間で、[[新宿駅]]6時20分発長野駅行下り普通列車<!--が、欠陥ボルト使用のため、-->9両編成([[国鉄115系電車|115系]]〈[[三鷹車両センター|三鷹電車区]]所属〉8両+[[事業用車]]1両)のうち4両目から9両目の計6両が[[列車脱線事故|脱線]]。乗客5人がけが。25時間後の7日16時に復旧<ref>『[[信濃毎日新聞]]』981年6月7日朝刊、6月8日朝刊</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[5月17日]]:塩尻駅移転{{R|sone09-23}}、改キロ (-0.5&nbsp;km)。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道(JR東日本)が継承{{R|sone09-23}}。日本貨物鉄道(JR貨物)が全線の第二種鉄道事業者となる。 * [[1988年]](昭和63年)[[9月10日]]:西条駅 - 明科駅間線路付け替え<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1988年12月号 |title = TOPIC PHOTOS |journal = 鉄道ピクトリアル|volume = 38 |issue = 12 |page = 91 |publisher = 電気車研究会 }}</ref>、改キロ (-0.7&nbsp;km)<ref>{{Cite book|和書 |date=1989-08-01 |title=JR気動車客車情報 89年版 |chapter=JR年表 |page=143 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-110-4}}</ref>。潮沢信号場廃止。 * [[2007年]]([[平成]]19年)[[3月18日]]:[[平田駅 (長野県)|平田駅]]新設{{R|sone09-23}}。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:羽尾信号場使用停止。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:羽尾信号場廃止<ref name = "nagano">{{Cite journal | 和書 | author = 小西純一 | title = 長野県内のスイッチバック信号場、駅 | journal = 鉄道ピクトリアル | year = 2013 | month = 11 | issue = 882 | pages = 22 - 31 | publisher = 電気車研究会}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[7月2日]] - [[回送]]列車の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]設定ミスにより、桑ノ原信号場とその付近で上下回送列車と下り普通列車の3本が立ち往生<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120703-OYT1T00049.htm |title=列車ダイヤ作成ミス…立ち往生、単線に3本進入 |publisher=[[読売新聞]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120705191601/https://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120703-OYT1T00049.htm |archivedate=2012-07-05 |deadlinkdate= |accessdate=2020-08-27 }}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[3月16日]]:篠ノ井駅 - 塩尻駅間の一部列車で[[ワンマン運転]]開始。 * [[2014年]](平成26年)4月1日:松本駅 - 塩尻駅間が[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]に編入。同時に線内の一部駅(松本駅・塩尻駅)でICカード乗車券「[[Suica]]」サービス開始<ref name="jreast20131129" />。 * [[2017年]](平成29年)4月1日:松本駅 - 塩尻駅間のSuicaサービス開始および松本・塩尻両駅のサービス拡大<ref name="response20161205">[http://response.jp/article/2016/12/05/286471.html 「中央本線・篠ノ井線でSuica対応駅拡大 2017年4月1日」][[Response.|レスポンス]](2016年12月5日配信)2021年11月6日閲覧</ref><ref name="jreast20161202">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161203.pdf Suicaをご利用いただける駅が増えます]}} 東日本旅客鉄道(2016年12月2日)2021年11月6日閲覧</ref>。 * [[2025年]](令和7年)春:篠ノ井駅 - 松本駅間でSuicaサービス開始予定<ref name="jreast20230620" />。全駅で利用可能になる。 == 運行形態 == {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#d56a29}} {{BS-table}} {{BS|STR|||↑[[しなの鉄道]]:[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]|}} {{BS3|tSTR+r|STR|STR|||←[[長野電鉄]]:[[長野電鉄長野線|長野線]]|}} {{BS3|tKHSTe|HST|HST|||[[長野駅]]|}} {{BS3||HST|STR|||[[安茂里駅]] ↓[[信越本線]]|}} {{BS3||hKRZWae|hKRZWae|||[[犀川 (長野県)|犀川]]|}} {{BS3||HST|STR|||[[川中島駅]]|}} {{BS3||HST|STR|||[[今井駅]] ↑信越本線|}} {{BS3||BHF|STRl|0.0|[[篠ノ井駅]]|[[北陸新幹線]]→|}} {{BS|ABZgl|||[[しなの鉄道線]]|}} {{BS|BHF|3.8|[[稲荷山駅]]||}} {{BS|TUNNEL1||[[城山トンネル (篠ノ井線)|城山トンネル]]||}} {{BS|DST|8.3|[[桑ノ原信号場]]||}} {{BS|TUNNEL1||[[芝山トンネル]]||}} {{BS3|KBHFaq|ABZg+r||12.5|[[姨捨駅]]}} {{BS|eDST|14.7|''[[羽尾信号場]]''||}} {{BS|TUNNEL1||[[冠着トンネル]]|2,656m|}} {{BS|BHF|18.4|[[冠着駅]]||}} {{BS|BHF|21.7|[[聖高原駅]]||}} {{BS|TUNNEL1||[[十二支トンネル]]||}} {{BS|BHF|25.8|[[坂北駅]]||}} {{BS|BHF|29.5|[[西条駅 (長野県)|西条駅]]||}} {{BS3|exSTR+l|eABZgr|||||}} {{BS3|exTUNNEL1|TUNNEL1|||第三白坂トンネル|4,261m|}} {{BS3|exSTR|TUNNEL1|||第二白坂トンネル|1,777m|}} {{BS3|exDST|STR|||''[[潮沢信号場]]''|-1988|}} {{BS3|exTUNNEL2|TUNNEL1|||第一白坂トンネル|1,292m|}} {{BS3|exSTRl|eABZg+r|||||}} {{BS|BHF|38.5|[[明科駅]]||}} {{BS|BHF|45.1|[[田沢駅]]||}} {{BS|DST|49.2|[[平瀬信号場]]||}} {{BS3|STR+r|STR||||[[大糸線]]|}} {{BS3|HST|STR||||[[北松本駅]]|}} {{BS3|STRl|ABZg+r||||''松本電気鉄道:[[松本電気鉄道浅間線|浅間線]]''→|}} {{BS3|KBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|uexKBHFaq|O3=HUBeq|53.4|[[松本駅]]||}} {{BS3|STRr+l|ABZgr||||[[アルピコ交通]]:[[アルピコ交通上高地線|上高地線]]|}} {{BS3|KDSTe|STR|||[[松本車両センター]]||}} {{BS|BHF|55.8|[[南松本駅]]||}} {{BS3|STR+l|ABZglr|STR+r||||}} {{BS3|STR|STR|KBSTe|||[[住友大阪セメント]] [[専用鉄道|専用線]]|}} {{BS3|KBSTe|STR||||[[日本オイルターミナル]] 専用線|}} {{BS|BHF|57.9|[[平田駅 (長野県)|平田駅]]||}} {{BS3||ABZgl|KBSTeq|||[[新日本石油]] 専用線|}} {{BS|BHF|59.9|[[村井駅]]||}} {{BS|BHF|62.9|[[広丘駅]]||}} {{BS|BHF|66.7|[[塩尻駅]]|(II) 1982-|}} {{BS3|STRc2|ABZ23|STRc3||||}} {{BS3|STR+r|O1=STRr+1|STRc14|STR+4|O3=STRc4|||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[中央本線]](名古屋方面)}} {{BS3|STR2|KDSTa|O2=STRc23|STR3||[[塩尻機関区]]|(JR貨物)}} {{BS3|STRc1|ABZg+14|STRc4||||}} {{BS|eBHF||''塩尻駅''|(I) -1982|}} {{BS|ABZgr|||中央本線(辰野支線)|}} {{BS|STR|||中央本線(新宿方面)|}} |} |} 基本的に、途中の[[松本駅]]を起点・終着として[[中央本線]][[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面、[[名古屋駅|名古屋]]方面および[[信越本線]][[長野駅|長野]]方面と直通する列車を主体に運転されている。 === 優等列車 === 中央東線方面からは、特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」が乗り入れ、ほとんどの列車は松本駅を起・終点としている。一部に[[大糸線]]方面への直通列車が設定されている。 中央西線方面からは、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の特急「[[しなの (列車)|しなの]]」が乗り入れ、全ての列車が[[長野駅]]に直通するが、臨時の「しなの」の中には大糸線乗り入れ列車や松本駅を起・終点とする列車も存在する。 [[2020年代のJRダイヤ改正#3月18日|2023年3月ダイヤ改正]]から、平日運転の臨時特急「[[おはようライナー (長野)#信州|信州]]」が1日1往復運転されている。 === 普通列車 === 松本駅が運用上の基点となっている。松本駅を始発・終着としている中央本線方面の列車は、上下線とも中央東線方面の列車のほうが多く、東京都内の[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]や[[立川駅]]まで運行される列車もある。また、中央西線方面の列車は多くが[[岐阜県]]内の[[中津川駅]]まで運行されている。これらの関係で、松本駅 - 塩尻駅間は特急も含めて比較的多くの列車本数(毎時2 -3本程度)が設定されている。一方、[[篠ノ井駅]]を起点・終着としている列車はなく、全て信越本線の[[長野駅]]まで(から)乗り入れる。長野駅を起点・終着としている列車も大半は中央東線方面と直通運転している。一部は松本駅までのものもある。篠ノ井線のみを走行する列車は[[2021年]]3月13日のダイヤ改正時点で塩尻駅発松本駅行きが2本、塩尻駅発明科駅行きが1本、松本駅発塩尻駅行きと聖高原駅発松本駅行きがそれぞれ1本となっている。なお、松本駅以北の普通列車は毎時1本(一部時間帯で2時間前後開く場合あり)となっている。 [[快速列車]]には長野駅または松本駅 - [[飯田線]][[飯田駅]]を結ぶ「[[みすず (列車)|みすず]]」(篠ノ井線内で快速扱いとなるのは松本発の1本のみであるが各駅に停車)や、中央本線[[上諏訪駅]]発長野駅行き下り1本、大糸線[[信濃大町駅]]発上諏訪駅行き上り1本(篠ノ井線内は各駅に停車)、長野駅発松本駅行き上り2本(2本とも[[安茂里駅]]・[[今井駅]]を通過するが、うち1本は姨捨駅・冠着駅も通過)、松本駅発長野駅行き下り1本(冠着駅・姨捨駅・今井駅・安茂里駅は通過)、塩尻駅発長野駅行き下り1本(途中で村井駅・松本駅・田沢駅・明科駅に停車、篠ノ井駅は通過。平日のみ運転)がある。これらは基本的に[[国鉄211系電車|211系]]・[[JR東日本E127系電車|E127系]]([[長野総合車両センター]]所属)が使用されている。 [[JR東海313系電車|313系]](JR東海[[神領車両区]]所属)も、松本駅発着の中央西線方面の列車において2両または4両で使用されるほか、飯田線直通(岡谷駅経由)の普通列車にも1往復に3両で使用されている。このため、松本駅 - 塩尻駅間はJR東日本の路線としては珍しく、[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|転換クロスシート]]車両の普通列車が多く乗り入れる区間となっている。 [[2013年]]3月16日のダイヤ改正より、一部の普通列車で[[ワンマン運転]]が開始された。ワンマン運転の際に使用されるのはE127系のみである。 === 貨物列車 === 全線で[[貨物列車]]が運行されている。[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]輸送も行われているが、寒冷山間地の[[長野県]]への[[石油]]([[灯油]]・[[重油]]・[[ガソリン]]など)輸送が盛んである。石油は、[[京葉工業地域|京葉地区]]や[[京浜工業地帯|京浜地区]]、[[中京工業地帯|中京地区]]にある[[製油所]]から内陸の[[油槽所]]へ送られている。輸送の高速化のために、[[JR貨物タキ1000形貨車|タキ1000形貨車]]で編成された[[高速貨物列車]]も設定されている。 牽引機は、[[国鉄EF64形電気機関車|EF64形電気機関車]]や[[JR貨物EH200形電気機関車|EH200形電気機関車]]である。また、篠ノ井線で列車の発着がある駅は[[南松本駅]]のみである<ref name="tt_freight2014">{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=[[貨物時刻表]] 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 === 過去の列車 === 過去の列車は以下の項目を参照 * 「[[あずさ (列車)#中央東線優等列車沿革|あずさ]]」「[[かいじ (列車)|はまかいじ]]」 - 中央東線直通の昼行優等列車について * 「[[ムーンライト信州]]」 - 中央東線直通の[[夜行列車]]について * 「[[みすず (列車)#沿革|みすず]]」 - 急行「天竜」・快速「かもしか」などの飯田線直通列車について * 「[[しなの (列車)#中央西線優等列車|しなの]]」- 中央西線直通の昼行優等列車について * 「[[ちくま (列車)|ちくま]]」 - 中央西線直通の夜行列車について * 「[[おはようライナー (長野)|おはようライナー]]」 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === 以下は全て[[電車]]で、特記なき限りJR東日本の車両。 * 優等列車用 ** [[JR東日本E353系電車|E353系]] - [[松本車両センター]]所属 *** 特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」として塩尻駅 - 松本駅間で、「[[おはようライナー (長野) |信州]]」として全線で運行。 ** [[JR東海383系電車|383系]] - JR東海[[神領車両区]]所属 *** 特急「[[しなの (列車)|しなの]]」として全線で運行。 * 普通列車・快速列車(「[[みすず (列車)|みすず]]」を含む) ** [[国鉄211系電車|211系]] - [[長野総合車両センター]]所属 ** [[JR東日本E127系電車|E127系]] - 松本車両センター所属 ** [[JR東海313系電車|313系]] - JR東海神領車両区・[[大垣車両区]]所属 *** 塩尻駅 - 松本駅間で運行。 <gallery> ファイル:Series-E353 S110.jpg|E353系 ファイル:JRC 383 Shinano 201200913.jpg|383系 ファイル:Series211 N307.jpg|211系 ファイル:Series-E127-100.jpg|E127系100番台 ファイル:JRC EC313-3000 20070812 001.jpg|313系 </gallery> === 過去の使用車両 === 「キハ」とあるのは[[気動車]]、[[客車]]など車種が記されていない車両は全て電車である。 * 優等列車 ** [[国鉄181系電車|181系]] - 特急「あずさ」 ** [[国鉄183系電車|183系・189系]] - 特急「あずさ」、急行 ** [[JR東日本E257系電車|E257系]] - 特急「あずさ」(臨時列車では現在も使用) ** [[JR東日本E351系電車|E351系]] - 特急「スーパーあずさ」 ** [[国鉄381系電車|381系]] - 特急「しなの」 ** [[国鉄キハ181系気動車|キハ181系]] - 特急「しなの」 ** [[国鉄153系電車|153系]] - 急行 ** [[国鉄165系電車|165系・169系]] - 急行 ** [[国鉄80系電車|80系]] - 急行 ** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]] - 急行 ** [[国鉄12系客車|12系]]客車 - 急行 ** [[国鉄14系客車|14系]]客車 - 急行 * 普通列車 ** [[国鉄32系電車|32系]] ** [[国鉄40系電車|40系]] ** [[国鉄42系電車|42系]] ** [[国鉄51系電車|51系]] ** [[国鉄70系電車|70系]] ** [[国鉄80系電車|80系]] ** [[JR東日本E257系電車|E257系]] ** [[国鉄165系電車|165系・169系]] ** [[国鉄123系電車|123系]] ** [[国鉄115系電車|115系]] <gallery> ファイル:Series-E257-RapidService.jpg|E257系 ファイル:123-1.jpg|123系 </gallery> == 沿線概況 == 篠ノ井線は、塩尻市から安曇野市明科地区にかけての[[松本盆地]]と、長野市周辺の[[長野盆地]]を結ぶ路線で、線路は、同じく両盆地を結んで流れる[[犀川 (長野県)|犀川]]の川筋ではなく、[[姨捨山|冠着峠]]越えのルートに敷設されている。これは、両盆地の間が最近数十万年の間に激しく[[隆起と沈降|隆起]]・[[褶曲]]した結果、犀川が蛇行しつつ深い渓谷を形成して、川沿いに線路を引ける地形ではなかったためであった。姨捨付近の高所から見晴らす長野盆地は佳景で、[[日本三大一覧#交通|日本三大車窓]]の一つに選ばれている。蒸気機関車時代は難所と呼ばれた[[冠着トンネル]]も技術革新のために苦もなく列車が通るようになった。 篠ノ井側から見ると、まず稲荷山駅から冠着トンネルへ向かって40分の1(25[[パーミル|‰]])の上り勾配がずっと続く。山腹に沿って曲線を繰り返しながら次第に高度を稼ぐ。千曲川([[信濃川]])の支流雄沢川と、同じ千曲川の支流犀川の支流麻績川の間の[[標高]]955mの[[尾根]]の下を全長2,656mの冠着トンネルで潜り抜けると、この路線最高の標高676m地点にある冠着駅へ到達する。 冠着駅から坂北駅まではおおむね麻績川に沿って下る。そこで麻績川の支流の東条川の川筋に入って再び登り、西条駅へ到達する。 西条駅から明科駅までは、潮沢川に沿う区間が[[地すべり]]多発地帯であったことや、[[線路容量]]が限界に達していたことなどから1988年に新線に切り替えられた区間である。明治時代に建設された当初は、全長365mの御仁熊トンネルを抜けてサミット(山頂部)を通り、全長2,084mの第二白坂トンネルを通って半径300mのカーブを繰り返し25‰で潮沢川に沿って明科駅まで下っていく[[線形 (路線)|線形]]となっていた。1988年に切り替えられた新線では、新しく掘り直された第一白坂トンネルが1,292m、第二白坂トンネルが1,777m、そして第三白坂トンネルが4,261mとなり、最大勾配は23‰とわずかながら改善された。また、この区間はトンネルや橋梁について複線化の準備がなされた設計で建設されたが、単線のままで開通している。 明科駅からは松本盆地に出て、おおむね犀川の右岸に沿って通っている。途中田沢駅 - 松本駅間は山と川に挟まれた狭隘な区間を通過する。松本からは、市街化・工業化の進む平坦な田園地帯を南下し、やがて松本盆地の南端に位置する塩尻駅に達する。 == 駅一覧 == 便宜上、篠ノ井側の全列車が直通する[[信越本線]]長野駅 - 篠ノ井駅間も合わせて記述する。 * 駅名 … ◆・◇:貨物取扱駅(◇は定期貨物列車の発着なし) * 累計営業キロは篠ノ井駅からのもの。 * 停車駅 ** 普通、普通「[[みすず (列車)|みすず]]」、快速「みすず」…篠ノ井線内は全ての駅に停車 ** 快速…●印の駅は全列車停車、▲印の駅は一部の列車が停車、△印の駅は上りの一部の列車のみが停車、|印の駅は通過 ** 特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[しなの (列車)|しなの]]」、臨時快速「[[リゾートビューふるさと]]」…各列車記事参照 * 線路 … ∥:複線区間、∧:これより下は複線、∨:これより下は単線、◇・◆:単線区間(◇は[[列車交換]]可能、◆は[[スイッチバック]]駅/信号場) * 全駅[[長野県]]内に所在。 {|class="wikitable" rules="all" ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |{{縦書き|正式路線名|height=6em}} ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |駅名 ! colspan="2" |営業キロ ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |{{縦書き|快速|height=3em}} ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |接続路線・備考 ! rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |{{縦書き|線路|height=3em}} ! colspan="2" rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |所在地 |- ! style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |駅間 ! style="border-bottom:solid 3px #d56a29" |累計 |- | rowspan="5" |{{縦書き|信越本線}} |[[長野駅]]◇ | style="text-align:center;" |- | style="text-align:right;" |9.3 |● |[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|18px|■]] [[北陸新幹線]]・{{Color|#7BC24B|■}}[[飯山線]]<ref group="*">飯山線の正式な起点は[[豊野駅]]だが、運転系統上は長野駅発着となっている。</ref><br>[[しなの鉄道]]:{{Color|#999966|■}}[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]<br>[[長野電鉄]]:{{Color|#ff0000|■}}[[長野電鉄長野線|長野線]] (N1) |∥ | colspan="2" rowspan="7" |[[長野市]] |- |[[安茂里駅]] | style="text-align:right;" |2.9 | style="text-align:right;" |6.4 | style="text-align:center;" || |&nbsp; | style="text-align:center;" |∥ |- |[[川中島駅]]◇ | style="text-align:right;" |2.1 | style="text-align:right;" |4.3 |▲ |&nbsp; |∥ |- |[[今井駅]] | style="text-align:right;" |2.2 | style="text-align:right;" |2.1 || |&nbsp; |∥ |-style="height:1em;" | rowspan="2" |[[篠ノ井駅]] | rowspan="2" style="text-align:right;" |2.1 | rowspan="2" style="text-align:right;" |0.0 | rowspan="2" |▲ | rowspan="2" |しなの鉄道:{{Color|#f0a401|■}}[[しなの鉄道線]]<ref group="*">[[運転系統]]上は長野駅発着となっている。</ref> | rowspan="2" |∨ |- | rowspan="17" |{{縦書き|'''篠ノ井線'''}} |- |[[稲荷山駅]] | style="text-align:right;" |3.3 | style="text-align:right;" |3.3 |▲ |&nbsp; |◇ |- |[[桑ノ原信号場]] | style="text-align:center;" | - | style="text-align:right;" |8.3 | style="text-align:center;" || |&nbsp; | style="text-align:center;" |◆ | colspan="2" rowspan="2" |[[千曲市]] |- |[[姨捨駅]] | style="text-align:right;" |9.2 | style="text-align:right;" |12.5 | style="text-align:center;" || |&nbsp; | style="text-align:center;" |◆ |- |[[冠着駅]] | style="text-align:right;" |5.9 | style="text-align:right;" |18.4 | style="text-align:center;" || |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ | rowspan="4" |{{縦書き|[[東筑摩郡]]|height=5em}} |[[筑北村]] |- |[[聖高原駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|21.7 |style="text-align:center;"|▲ |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |[[麻績村]] |- |[[坂北駅]] | style="text-align:right;" |4.1 | style="text-align:right;" |25.8 | style="text-align:center;" |▲ |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ | rowspan="2" |筑北村 |- |[[西条駅 (長野県)|西条駅]] | style="text-align:right;" |3.7 | style="text-align:right;" |29.5 | style="text-align:center;" |▲ |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ |- |[[明科駅]] | style="text-align:right;" |9.0 | style="text-align:right;" |38.5 | style="text-align:center;" |● |&nbsp; | style="text-align:center;" |∧ | colspan="2" rowspan="2" |[[安曇野市]] |- |[[田沢駅]] | style="text-align:right;" |6.6 | style="text-align:right;" |45.1 | style="text-align:center;" |● |&nbsp; | style="text-align:center;" |∨ |- |[[平瀬信号場]] | style="text-align:center;" | - | style="text-align:right;" |49.2 | style="text-align:center;" || |&nbsp; | style="text-align:center;" |◇ | colspan="2" rowspan="5" |[[松本市]] |- |[[松本駅]] | style="text-align:right;" |8.3 | style="text-align:right;" |53.4 | style="text-align:center;" |● |東日本旅客鉄道:{{Color|#9370db|■}}[[大糸線]](塩尻方面との直通運転あり)<br />[[アルピコ交通]]:{{Color|#465daa|■}}[[アルピコ交通上高地線|上高地線]](AK-01) | style="text-align:center;" |∧ |- |[[南松本駅]]◆ | style="text-align:right;" |2.4 | style="text-align:right;" |55.8 | style="text-align:center;" |▲ |&nbsp; | style="text-align:center;" |∥ |- |[[平田駅 (長野県)|平田駅]] | style="text-align:right;" |2.1 | style="text-align:right;" |57.9 | style="text-align:center;" |▲ |&nbsp; | style="text-align:center;" |∥ |- |[[村井駅]]◇ | style="text-align:right;" |2.0 | style="text-align:right;" |59.9 | style="text-align:center;" |● |&nbsp; | style="text-align:center;" |∥ |- |[[広丘駅]] | style="text-align:right;" |3.0 | style="text-align:right;" |62.9 | style="text-align:center;" |▲ |&nbsp; | style="text-align:center;" |∥ | colspan="2" rowspan="2" |[[塩尻市]] |- |[[塩尻駅]]◇ | style="text-align:center;" | 3.8 | style="text-align:right;" |66.7 | style="text-align:center;" |● |東日本旅客鉄道:{{Color|#0074be|■}}[[中央本線]]([[岡谷駅|岡谷]]方面)・中央本線支線([[辰野駅|辰野]]方面)<br />[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_Central_Chuo_Line.svg|18x18ピクセル|CF]] 中央本線([[木曽福島駅|木曽福島]]方面)<br />(全方面と直通運転あり) | style="text-align:center;" |∥ |} {{Reflist|group="*"}} 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>から除外される駅(完全な無人駅)は、姨捨駅のみである。 === 廃止信号場 === * [[潮沢信号場]] : 1988年廃止、明科駅 - 西条駅間・旧線上(篠ノ井駅起点34.4&nbsp;km) * [[羽尾信号場]] : 2008年使用停止、2009年廃止<ref name = "nagano" />、冠着駅 - 姨捨駅間(篠ノ井駅起点14.7&nbsp;km) === 過去の接続路線 === * 松本駅:[[松本電気鉄道浅間線]] ([[松本駅前駅]])- 1964年4月1日廃止 == 平均通過人員 == 各年度の[[輸送密度|平均通過人員]](人/日)は以下の通り<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2013-2017.pdf 路線別ご利用状況(2013〜2017年度)]}} 東日本旅客鉄道(2021年11月6日閲覧)</ref>。 * 塩尻駅 - 松本駅間 ** 2013年度:24,097人/日 ** 2014年度:23,344人/日 ** 2015年度:24,699人/日 ** 2016年度:24,861人/日 ** 2017年度:25,474人/日 * 松本駅 - 篠ノ井駅間 ** 2013年度:8,843人/日 ** 2014年度:8,510人/日 ** 2015年度:9,296人/日 ** 2016年度:9,163人/日 ** 2017年度:9,173人/日 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 小西純一「篠ノ井線の歴史と技術」『[[鉄道ピクトリアル]]』2009年1月 No.813、[[電気車研究会]]、pp.&nbsp;35 – 40。 * [[川島令三]]編著『中部ライン - 全線・全駅・全配線』3 八王子駅 - 松本エリア、[[講談社]]、2010年。ISBN 978-4-06-270063-4。 * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=9 |title=大糸線・飯山線・篠ノ井線・越後線・弥彦線 |date=2009-09-06 |ref=sone09 }} == 関連項目 == {{Commonscat|Shinonoi Line}} * [[しなの鉄道#篠ノ井 - 長野間の譲渡問題]] * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[長野自動車道]] * [[国道19号]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=31=1=%8e%c2%83m%88%e4%90%fc 検索結果(篠ノ井線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}} {{東日本旅客鉄道の鉄道路線}} {{東日本旅客鉄道長野支社}} {{デフォルトソート:しののい}} [[Category:篠ノ井線|*]] [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:長野県の交通]]
2003-09-21T16:11:23Z
2023-11-30T12:12:04Z
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法皇 (曖昧さ回避)
法皇(ほうおう)
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法皇(ほうおう)
'''法皇'''(ほうおう) ==一覧== *かつて混用して使用されていた[[カトリック教会]]の最高指導者である[[教皇]]のこと。日本ではカトリック教徒の総本山であり「教皇の国」のバチカンの元首として正式には「教皇」とする。 *[[日本]]において[[出家]]し[[仏教|仏門]]に入った[[太上天皇|上皇(太上天皇)]]を指す。'''[[太上法皇]]'''ともいう。一般に、[[天皇]]が皇位を譲ると上皇(太上天皇)となり、上皇が出家すると法皇(太上法皇)と称される<ref>[[NHK高校講座]] 日本史 第9回 院政と荘園 [[2017年]][[6月9日]]放送</ref>。(ちなみに、上皇(太上天皇)は「院」とも呼ばれたので上皇による政治を「[[院政]]」という。) *[[オウム真理教]]の[[教祖]]である[[麻原彰晃]]が、尊師の他に称した称号を神聖法皇(しんせいほうこう)という。 * 地名 **[[愛媛県]]の地名。[[法皇山脈]]。 **[[福井県]]にある山名。[[法皇岳]]という。 ==脚注== {{Reflist}} ==関連項目== *{{Prefix|法皇}} *{{intitle|法皇}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ほうおう}} [[Category:宗教の称号・役職]] [[Category:尊号]]
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桜井線
桜井線(さくらいせん)は、奈良県奈良市の奈良駅から奈良県大和高田市の高田駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。2010年3月13日から「万葉まほろば線」(まんようまほろばせん)の愛称が使用されており、「桜井線」と案内されることはほとんどない。 桜井線(万葉まほろば線)は全線が奈良県内にあり、起点の奈良駅で関西本線(大和路線)、終点の高田駅で和歌山線に接続している。 開業時は、大阪市・京都市などから橿原市・桜井市・天理市方面へ向かう重要な交通機関として位置づけられていたが、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道および奈良電気鉄道によって現在の近鉄大阪線・京都線・橿原線・天理線などが建設された(天理線は天理軽便鉄道が建設したものを買収)ことにより、利用客の多くはそれらの路線に流れた。そのため、当線はローカル線の趣きが強くなっている。特に、近鉄大阪線とほぼ並行する桜井駅 - 高田駅間は利便性の面で近鉄に劣ることもあって、利用者が少ない。しかし、2004年に金橋駅近くにイオンモール橿原が立地したことにより利用客が再び増えている。 近畿統括本部が管轄する奈良駅をのぞき、全線が大阪支社の王寺鉄道部の管轄であり、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」、およびIC乗車カード「ICOCA」エリアに含まれている。 2014年度から導入された路線記号はU。 2009年11月時点では路線愛称はなく、旅客案内上でも正式路線名がそのまま使用されていたが、2010年に「平城遷都1300年祭」や、「奈良デスティネーションキャンペーン」といったイベントが開催されることから、より親しみをもってもらえるように愛称名を公募していた。 選考の結果、沿線に日本最古の歌集である「万葉集」に多く詠まれた名所・旧跡が点在していること、「まほろば」は奈良を連想させる言葉として全国的に広く浸透しており、沿線のイメージと重なることから「万葉まほろば線」に決定した。愛称は2010年3月13日のダイヤ改正から使用されている。なお、富山県高岡市にある路面電車「万葉線」とは、由来は同じであるが資本・人材等の関係は一切ない。 沿線には、万葉集に詠まれた名所や史跡が多く、車窓からは三輪山や大和三山を望むことができ、奈良駅から桜井駅までは山辺の道(山の辺の道)に沿っている。 高架駅の奈良駅を出て関西本線(大和路線)と分かれ大きく左にカーブし、奈良県道754号を渡ると地上へ降りる。右にカーブする曲線部に京終駅があり、南下をはじめる。長い下りこう配を降りると帯解駅、そこからほぼ真っ直ぐに進むと櫟本駅である。 櫟本駅を出てすぐに西名阪自動車道を潜り、右手に広い留置線が見え、天理市の中心部、高架駅の天理駅に着く。近鉄天理線との接続駅で、近鉄天理線とは直角方向に位置している。日本で唯一宗教団体の名称が自治体名となっており、駅周辺にも天理教の施設が多くある。駅構造は島式ホーム2面4線であるが、通常は東側の1面2線しか使用されておらず、西側の1面2線は団体列車または留置線の入出区に使用されている。 天理駅を出て高架を降りてしばらく南下すると長柄駅・柳本駅・巻向駅と続く。巻向駅は左カーブの曲線部にあり、駅の目の前は邪馬台国の宮殿であった可能性のある纒向遺跡がある。現地説明会が行われた際には、多くの考古学ファンが詰めかけた。巻向駅から緩やかな下り勾配を進み、右手に大きな鳥居が見えてくると三輪駅に至る。大神神社の参道が駅前まで続いており、特に年末年始は多くの初詣客が訪れる。 大和川を渡り、中和幹線を潜ると、やがて右にカーブして近鉄大阪線と鋭角に交差すると桜井駅に着く。近鉄大阪線との接続駅で、かつては近鉄との共同使用駅であったが1995年に改札が分離されている。日中の奈良方面からの列車の半数はこの駅で折り返している。 桜井駅で南下を終えて、ここから先は近鉄大阪線と並走して西進する。右手に近鉄大阪線が見えるが、住宅によりその景色が遮られると香久山駅である。駅のホームからは大和三山の一つの天香具山が見える。その先で国道165号と交差して左手に広大な空き地があるが、これが日本史上最初で最大の都城である藤原京跡で、当線はその北端を走る。右手には耳成山が見え、国道165号を高架で越えると、相対式2面2線の畝傍駅につく。畝傍駅は橿原市の市街地にあり、橿原神宮や神武天皇陵の最寄り駅であったため、参拝する皇族のために駅舎内には貴賓室が設けられている(現在は閉鎖され、公開もされていない)。かつて畝傍駅からは近鉄吉野線の旧線でもある小房線が分岐していた。 畝傍駅を出てすぐに近鉄橿原線を越えると、西進を続けると左手に畝傍山が見えはじめ、奈良県を南北に貫く国道24号(橿原バイパス)を高架で越えるとイオンモール橿原の最寄り駅金橋駅、そして右にカーブしながら進路を北に変えると、左手から和歌山線から合流してきて終点の高田駅に着く。なお朝と夕方以降の殆どの列車は高田駅から和歌山線王寺方面に直通する。 2022年3月12日改正時点の日中の運転本数は、平日が奈良駅 - 高田駅間の全線で1時間に1本、土休日が奈良駅 - 桜井駅間で1時間に2本(約30分間隔)、桜井駅 - 高田駅間で1時間に1本である。 奈良駅 - 桜井駅の区間運転のほかは、奈良駅 - 高田駅間の運転で、朝と夕方以降の時間帯には高田駅から和歌山線の王寺方面へ直通する。朝ラッシュ時には、奈良駅から桜井線(万葉まほろば線)経由でJR難波駅へ直通する快速が運行されている。かつては定期列車として奈良線からの直通列車が運転されていたが、現在は運転されていない。2022年3月11日まで日中は高田駅で折り返して和歌山線に乗り入れ奈良駅 - 和歌山駅間を直通運転していた。 基本的にはワンマン運転だが、朝ラッシュ時(大和路線直通の快速を含む)や、大神神社の月次祭など、沿線で催し物が行われる場合には、車掌乗務で運転される列車もある。近年、運賃箱があるものの、一般的なワンマン運転とは違い、運転士による運賃収受の確認は行われない。その後2020年に新型コロナウイルス感染症の世界的流行がもたらされたことにより、運転士の感染防止対策として運賃箱を使用停止にして仕切り扉を閉め、各駅の集札箱またはICカード読み取り機で精算する形に変更された。さらに、2023年のダイヤ改正より、全駅ですべてのドアが開くようになった。 天理駅構内北側に留置線群があり、後述の「天理臨」といった団体列車の留置などで使用されていたが、団体列車の設定が減少したため、かつ2008年のおおさか東線開業に伴い奈良電車区(現:吹田総合車両所奈良支所)での夜間留置車両が増加したため、非電化であったこの留置線群を電化して夜間留置している。このため、早朝・深夜に入出区のために天理駅発着の回送列車が設定されている。 天理教の祭礼があるときは、天王寺方面からの臨時列車が運転される。主に大和路快速や快速の延長運転の形で設定される。以前は、奈良駅で車両の切り離し・連結を行い、当線内は2両編成から4両編成で運転されていたが、現在では車両の切り離し・連結作業は行っていない。天理行きの列車のダイヤは祭典の開始に間に合わないため利用者が少ない。また帰りの列車は祭典が終わった後に設定されているため一定の利用者がいるが、定期列車にも分散するため混雑するには至っていない。 天理教の祭礼にあわせて、天王寺方面からの臨時列車のほか、日本全国各地から天理駅へ向けて「天理臨」と呼ばれる団体列車が運転され、この時に限り普段地元では見ることのできない車両を見ることができる。しかし、これらの設定は減少傾向にあり、関東からの天理臨は天理発2011年1月26日を最後に運転終了となった。 また、沿線でラジオウォークなどのイベントや、遺跡などが発掘されると、駅員を派遣したり、臨時列車を運転することもある。 普段は物静かな駅が突如として現地説明会に向かう乗客で溢れかえることもあり、1998年1月に柳本駅近くの黒塚古墳で33枚の三角縁神獣鏡が発見されたときは、臨時快速(停車駅:奈良・天理・柳本・三輪・桜井・高田)が13往復運転され、2日間で2万人が押し寄せ、駅や列車はラッシュ並みに混雑したという。また、2009年11月に桜井市の纒向遺跡で、邪馬台国の宮殿だった可能性のある大型建物跡が見つかった時にも臨時列車の運転が行われた。 2010年秋までの春・秋行楽時の土曜・休日に「奈良万葉レジャー号」が、大阪駅から奈良駅・桜井線経由で高田駅まで運転されていた。大阪環状線・大和路線内は大和路快速または快速に併結して奈良駅で分割を行い、桜井線内は臨時列車として運転されていた。 大阪側の発駅は年度やシーズンにより、大阪発もしくはJR難波発または両駅発と異なっていたが、2009年3月以降は大阪発のみが運転されていた。2006年3月のダイヤ改正でJR難波発のみとなったが、2007年3月のダイヤ改正では、数本ではあるが大阪発の列車も設定されていた。以前は、大阪駅 - 奈良駅間は定期の大和路快速、奈良駅 - 高田駅間は臨時普通として1往復の運転を行っていた。2010年度は再び大阪発とJR難波発が設定され、さらに桜井発奈良経由JR難波行も設定されている。 2009年度までは「山の辺の道レジャー号」として運転されていた。 大晦日から元旦にかけて、終夜運転が奈良駅 - 桜井駅間で約30 - 60分間間隔で行われる。多客に対応するため全列車に車掌が乗務している。 なお、桜井線からの直通で行われていた和歌山線高田駅 - 王寺駅間の終夜運転は2017年の大晦日を以て中止となり、2018年度は奈良駅 - 桜井駅間で約30分間隔、桜井駅 - 高田駅間で約60分間隔での終夜運転に縮小され、2019年度は更に縮小され桜井駅 - 高田駅間での運転が取り止めになった。2020年度は大晦日の終電後から元日午前3時頃にかけ、奈良駅 - 桜井駅間で約30分間隔での臨時列車を運行する予定であったが、新型コロナウイルス感染症拡大の状況を鑑み、臨時列車の運行は取り止めとなった。 また正月三が日の日中には、奈良駅 - 高田駅間に臨時列車が1時間あたり1本運転され、1時間あたりの運転本数は、奈良駅 - 桜井駅では3本、奈良駅 - 高田駅間では2本となっていた。なお臨時列車運転のため概ね9時から17時30分の間は列車の時刻が変更され、多客対応のために4両または6両編成で運転して車掌が乗務しているほか、通常ダイヤでは高田駅から和歌山線に直通する2両編成の列車は、桜井線内の混雑に対応できないため高田駅で系統分割を行い、和歌山線に直通せずに高田駅で折り返す運用を行っていた。2018年度まではかつて使用されていた105系のほか、103系・201系・221系が運用されていた。2019年度は227系1000番台のほか221系が使用された。 すべて電車が使用されている。 奈良駅 - 桜井駅間は、京都駅 - 奈良駅間を営業していた奈良鉄道によって、桜井駅 - 高田駅間は湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間などと共に(初代)大阪鉄道によって開業した。両社の路線は関西鉄道に譲渡された後国有化され、のちに現在のJR西日本の路線となっている。 有人駅は奈良駅・天理駅・桜井駅・高田駅(桜井駅のみJR西日本交通サービスによる業務委託駅、それ以外はJR西日本直営駅)のみで、そのほかは無人駅である。無人駅ではICカード専用の簡易型自動改札機および、ICカード対応の自動券売機が設置されている。
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桜井駅間は、京都駅 - 奈良駅間を営業していた奈良鉄道によって、桜井駅 - 高田駅間は湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間などと共に(初代)大阪鉄道によって開業した。両社の路線は関西鉄道に譲渡された後国有化され、のちに現在のJR西日本の路線となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "有人駅は奈良駅・天理駅・桜井駅・高田駅(桜井駅のみJR西日本交通サービスによる業務委託駅、それ以外はJR西日本直営駅)のみで、そのほかは無人駅である。無人駅ではICカード専用の簡易型自動改札機および、ICカード対応の自動券売機が設置されている。", "title": "駅一覧" } ]
桜井線(さくらいせん)は、奈良県奈良市の奈良駅から奈良県大和高田市の高田駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。2010年3月13日から「万葉まほろば線」(まんようまほろばせん)の愛称が使用されており、「桜井線」と案内されることはほとんどない。
{{Otheruses|国鉄・JR西日本保有路線の「桜井線」|[[大阪電気軌道]]時代の「桜井線」|近鉄大阪線}} {{混同|万葉線|redirect=万葉まほろば線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 桜井線 |ロゴ = JRW kinki-U.svg |ロゴサイズ = 40px |路線色 = #b31c31 |画像 = Kumoha 227-1018 Nara station.jpg |画像サイズ = |画像説明 = [[奈良駅]]に停車中の[[JR西日本227系電車|227系]]による普通列車 |通称 = 万葉まほろば線 |国 = {{JPN}} |所在地 = [[奈良県]] |種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]]) |起点 = [[奈良駅]]<ref name="sone 15">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 15頁]]</ref> |終点 = [[高田駅 (奈良県)|高田駅]]<ref name="sone 15"/> |駅数 = 14駅<ref name="sone 15"/> |電報略号 = サラセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref> |路線記号 = {{JR西路線記号|K|U}} |開業 = [[1893年]][[5月23日]] |全通 = [[1899年]][[10月14日]]<ref name="sone 15"/> |廃止 = |所有者 = [[西日本旅客鉄道]] |運営者 = 西日本旅客鉄道 |車両基地 = [[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]新在家派出所ほか |使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離 = 29.4 [[キロメートル|km]]<ref name="sone 15"/> |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]]) |線路数 = 全線[[単線]] |閉塞方式 = 自動閉塞式(特殊) |保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最高速度 = 85 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図 = }} '''桜井線'''(さくらいせん)は、[[奈良県]][[奈良市]]の[[奈良駅]]から奈良県[[大和高田市]]の[[高田駅 (奈良県)|高田駅]]までを結ぶ[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である<ref name="sone 15"/>。[[2010年]][[3月13日]]から「'''万葉まほろば線'''」(まんようまほろばせん)の[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が使用されており<ref name="sone 15"/><ref name="jrw_20091224">[https://web.archive.org/web/20100101120818/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174622_799.html 桜井線の愛称名「万葉まほろば線」に決定!]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年12月24日</ref>、「桜井線」と案内されることはほとんどない。 == 概要 == 桜井線(万葉まほろば線)は全線が奈良県内にあり、起点の奈良駅で[[関西本線]]([[大和路線]])、終点の高田駅で[[和歌山線]]に接続している。 開業時は、[[大阪市]]・[[京都市]]などから[[橿原市]]・[[桜井市]]・[[天理市]]方面へ向かう重要な交通機関として位置づけられていたが、[[近畿日本鉄道]](近鉄)の前身である[[大阪電気軌道]]および[[奈良電気鉄道]]によって現在の近鉄[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄京都線|京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]・[[近鉄天理線|天理線]]などが建設された(天理線は[[天理軽便鉄道]]が建設したものを買収)ことにより、利用客の多くはそれらの路線に流れた。そのため、当線は[[ローカル線]]の趣きが強くなっている。特に、近鉄大阪線とほぼ並行する桜井駅 - 高田駅間は利便性の面で近鉄に劣ることもあって、利用者が少ない。しかし、2004年に金橋駅近くに[[イオンモール橿原]]が立地したことにより利用客が再び増えている。 [[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が管轄する奈良駅をのぞき、全線が[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]]の[[王寺鉄道部]]の管轄であり<ref>[http://www.westjr.co.jp/company/issue/data/ データで見るJR西日本] - 西日本旅客鉄道</ref>、[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」エリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。 2014年度から導入された[[駅ナンバリング|路線記号]]は'''U'''<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。 === 愛称の制定 === 2009年11月時点では路線愛称はなく、旅客案内上でも正式路線名がそのまま使用されていたが、2010年に「[[平城遷都1300年記念事業|平城遷都1300年祭]]」や、「奈良[[デスティネーションキャンペーン]]」といったイベントが開催されることから、より親しみをもってもらえるように愛称名を公募していた<ref>[https://web.archive.org/web/20091213032224/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174594_799.html 桜井線の愛称名を募集します!](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年11月27日</ref>。 選考の結果、沿線に日本最古の歌集である「[[万葉集]]」に多く詠まれた名所・旧跡が点在していること、「[[まほろば]]」は奈良を連想させる言葉として全国的に広く浸透しており、沿線のイメージと重なることから「'''万葉まほろば線'''」に決定した。愛称は2010年3月13日のダイヤ改正から使用されている<ref name="jrw_20091224" />。なお、[[富山県]][[高岡市]]にある路面電車「[[万葉線]]」とは、由来は同じであるが資本・人材等の関係は一切ない。 === 路線データ === * 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):29.4 km<ref name="sone 15"/> * [[軌間]]:1067mm * 駅数:14(起終点駅含む)<ref name="sone 15"/> ** 桜井線所属駅に限定した場合、関西本線所属の奈良駅と和歌山線所属の高田駅が除外され<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref>、12駅となる。 * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:全線電化(直流1,500 V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式(特殊) * [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]] * 最高速度:85 km/h * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間: ** [[ICOCA]]エリア:全線([[JR西日本227系電車|227系1000番台]]の場合は、車載型IC改札機での対応、また全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間でもある。) == 沿線概況 == {{桜井線路線図}} 沿線には、万葉集に詠まれた名所や史跡が多く、車窓からは[[三輪山]]や[[大和三山]]を望むことができ、奈良駅から桜井駅までは[[山辺の道]](山の辺の道)に沿っている<ref name="sone 22">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 22頁]]</ref>。 高架駅の奈良駅を出て関西本線(大和路線)と分かれ大きく左にカーブし、[[京都府道・奈良県道754号木津横田線|奈良県道754号]]を渡ると地上へ降りる。右にカーブする曲線部に[[京終駅]]があり、南下をはじめる。長い下りこう配を降りると[[帯解駅]]、そこからほぼ真っ直ぐに進むと[[櫟本駅]]である。 櫟本駅を出てすぐに[[西名阪自動車道]]を潜り、右手に広い留置線が見え、[[天理市]]の中心部、高架駅の[[天理駅]]に着く。[[近鉄天理線]]との接続駅で、近鉄天理線とは直角方向に位置している。日本で唯一宗教団体の名称が自治体名となっており、駅周辺にも[[天理教]]の施設が多くある。駅構造は[[島式ホーム]]2面4線であるが、通常は東側の1面2線しか使用されておらず、西側の1面2線は団体列車または留置線の入出区に使用されている。 天理駅を出て高架を降りてしばらく南下すると[[長柄駅]]・[[柳本駅]]・[[巻向駅]]と続く。巻向駅は左カーブの曲線部にあり、駅の目の前は[[邪馬台国]]の宮殿であった可能性のある[[纒向遺跡]]がある。現地説明会が行われた際には、多くの[[考古学]]ファンが詰めかけた。巻向駅から緩やかな下り勾配を進み、右手に大きな[[鳥居]]が見えてくると[[三輪駅]]に至る。[[大神神社]]の参道が駅前まで続いており、特に[[年末年始]]は多くの初詣客が訪れる。 [[大和川]]を渡り、[[中和幹線]]を潜ると、やがて右にカーブして近鉄大阪線と鋭角に交差すると[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]に着く。近鉄大阪線との接続駅で、かつては近鉄との[[共同使用駅]]であったが[[1995年]]に改札が分離されている。日中の奈良方面からの列車の半数はこの駅で折り返している。 桜井駅で南下を終えて、ここから先は近鉄大阪線と並走して西進する<ref name="sone 22"/>。右手に近鉄大阪線が見えるが、住宅によりその景色が遮られると[[香久山駅]]である。駅のホームからは大和三山の一つの[[天香具山]]が見える。その先で[[国道165号]]と交差して左手に広大な空き地があるが、これが日本史上最初で最大の都城である[[藤原京]]跡で、当線はその北端を走る。右手には[[耳成山]]が見え、国道165号を高架で越えると、相対式2面2線の[[畝傍駅]]につく。畝傍駅は[[橿原市]]の市街地にあり、[[橿原神宮]]や神武天皇陵の最寄り駅であったため、参拝する[[皇族]]のために駅舎内には[[貴賓室]]が設けられている<ref name="sone 22"/>(現在は閉鎖され、公開もされていない<ref>[http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/jr_unebi.html 橿原市/JR畝傍駅] - [[橿原市]]</ref>)。かつて畝傍駅からは[[近鉄吉野線]]の旧線でもある小房線が分岐していた。 畝傍駅を出てすぐに[[近鉄橿原線]]を越えると、西進を続けると左手に[[畝傍山]]が見えはじめ、奈良県を南北に貫く[[国道24号]]([[橿原バイパス]])を高架で越えると[[イオンモール橿原]]の最寄り駅[[金橋駅]]、そして右にカーブしながら進路を北に変えると、左手から[[和歌山線]]から合流してきて終点の[[高田駅 (奈良県)|高田駅]]に着く。なお朝と夕方以降の殆どの列車は高田駅から和歌山線[[王寺駅|王寺]]方面に直通する。 <gallery> ファイル:JRW Manyo-Mahoroba Line view-02.jpg|三輪駅の奈良寄りでは大神神社の鳥居が田畑の奥に見える。 ファイル:参道と直交する桜井線.jpg|大神神社参道と直交し独特の景観を生みだしている。 </gallery> == 運行形態 == 2022年3月12日改正時点の日中の運転本数は、平日が奈良駅 - 高田駅間の全線で1時間に1本、土休日が奈良駅 - 桜井駅間で1時間に2本(約30分間隔)、桜井駅 - 高田駅間で1時間に1本である<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、[[JTBパブリッシング]]。pp.302-307</ref>。 奈良駅 - 桜井駅の区間運転のほかは、奈良駅 - 高田駅間の運転で、朝と夕方以降の時間帯には高田駅から[[和歌山線]]の[[王寺駅|王寺]]方面へ直通する。朝ラッシュ時には、奈良駅から桜井線(万葉まほろば線)経由で[[JR難波駅]]へ直通する快速が運行されている。かつては定期列車として[[奈良線]]からの直通列車が運転されていたが、現在は運転されていない。2022年3月11日まで日中は高田駅で折り返して和歌山線に乗り入れ奈良駅 - 和歌山駅間を直通運転していた<ref>『JTB時刻表』2021年10月号、JTBパブリッシング。pp.304-307</ref>。 基本的には[[ワンマン運転]]だが、朝ラッシュ時(大和路線直通の快速を含む)や、大神神社の月次祭など、沿線で催し物が行われる場合には、車掌乗務で運転される列車もある。近年、[[運賃箱]]があるものの、一般的なワンマン運転とは違い、運転士による運賃収受の確認は行われない。その後2020年に[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]がもたらされたことにより、運転士の感染防止対策として運賃箱を使用停止にして仕切り扉を閉め、各駅の集札箱またはICカード読み取り機で精算する形に変更された。さらに、2023年のダイヤ改正より、全駅ですべてのドアが開くようになった。 天理駅構内北側に留置線群があり、後述の「天理臨」といった団体列車の留置などで使用されていたが、団体列車の設定が減少したため、かつ2008年の[[おおさか東線]]開業に伴い[[奈良電車区]](現:[[吹田総合車両所]]奈良支所)での夜間留置車両が増加したため、非電化であったこの留置線群を電化して夜間留置している。このため、早朝・深夜に入出区のために天理駅発着の回送列車が設定されている。 === 臨時列車 === [[天理教]]の祭礼があるときは、天王寺方面からの臨時列車が運転される。主に大和路快速や快速の延長運転の形で設定される。以前は、奈良駅で車両の切り離し・連結を行い、当線内は2両編成から4両編成で運転されていたが、現在では車両の切り離し・連結作業は行っていない。天理行きの列車のダイヤは祭典の開始に間に合わないため利用者が少ない。また帰りの列車は祭典が終わった後に設定されているため一定の利用者がいるが、定期列車にも分散するため混雑するには至っていない。 天理教の祭礼にあわせて、天王寺方面からの臨時列車のほか、日本全国各地から天理駅へ向けて「天理臨」と呼ばれる[[団体専用列車|団体列車]]が運転され、この時に限り普段地元では見ることのできない車両を見ることができる<ref>[http://railf.jp/news/2010/07/29/210600.html キハ65形「シュプール&リゾート」が天理へ] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2010年7月29日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2010/07/29/210800.html 24系使用の天理臨運転] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2010年7月29日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2010/07/30/092100.html 381系が桜井線に入線] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2010年7月30日</ref>。しかし、これらの設定は減少傾向にあり、関東からの天理臨は天理発2011年1月26日を最後に運転終了となった<ref>[http://railf.jp/news/2011/01/27/190000.html 「東京おぢば号」が運転中止へ] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年1月27日</ref>。 また、沿線で[[毎日カルチャースペシャル ラジオウォーク|ラジオウォーク]]などのイベントや、[[遺跡]]などが発掘されると、駅員を派遣したり、臨時列車を運転することもある。 普段は物静かな駅が突如として現地説明会に向かう乗客で溢れかえることもあり、1998年1月に柳本駅近くの[[黒塚古墳]]で33枚の[[三角縁神獣鏡]]が発見されたときは、臨時快速(停車駅:奈良・天理・柳本・三輪・桜井・高田)が13往復運転され<ref>[https://web.archive.org/web/19980205212232/www.westjr.co.jp/new/2press/n980114a.html 「黒塚古墳現地説明会」に伴う臨時快速列車の運転について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1998年1月14日</ref>、2日間で2万人が押し寄せ、駅や列車はラッシュ並みに混雑したという。また、2009年11月に[[桜井市]]の纒向遺跡で、邪馬台国の宮殿だった可能性のある大型建物跡が見つかった時にも臨時列車の運転が行われた<ref>[http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200911130100.html 纒向遺跡、説明会に1万人以上? JRも臨時電車 奈良]{{リンク切れ|date=2010年9月}} - [[朝日新聞]] 2009年11月13日</ref>。 ==== 奈良万葉レジャー号 ==== 2010年秋までの春・秋行楽時の土曜・休日に「奈良万葉レジャー号」が、[[大阪駅]]から奈良駅・桜井線経由で高田駅まで運転されていた。[[大阪環状線]]・大和路線内は[[大和路快速]]または快速に併結して奈良駅で分割を行い、桜井線内は[[臨時列車]]として運転されていた。 大阪側の発駅は年度やシーズンにより、大阪発もしくはJR難波発または両駅発と異なっていたが、2009年3月以降は大阪発のみが運転されていた。2006年3月のダイヤ改正でJR難波発のみとなったが、2007年3月のダイヤ改正では、数本ではあるが大阪発の列車も設定されていた。以前は、大阪駅 - 奈良駅間は定期の大和路快速、奈良駅 - 高田駅間は臨時普通として1往復の運転を行っていた。2010年度は再び大阪発とJR難波発が設定され、さらに桜井発奈良経由JR難波行も設定されている。 2009年度までは「山の辺の道レジャー号」として運転されていた。 ==== 年末年始の運行形態 ==== [[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけて、[[終夜運転]]が奈良駅 - 桜井駅間で約30 - 60分間間隔で行われる<ref name="westjr20191212">{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019-12-12 |accessdate=2019-12-16 }}</ref>。多客に対応するため全列車に車掌が乗務している。 なお、桜井線からの直通で行われていた和歌山線高田駅 - 王寺駅間の終夜運転は2017年の大晦日を以て中止となり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2017/11/page_11531.html |title=大みそかの終夜運転のお知らせ |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2017-11-27 |accessdate=2019-12-31 }}</ref>、2018年度は奈良駅 - 桜井駅間で約30分間隔、桜井駅 - 高田駅間で約60分間隔での終夜運転に縮小され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>、2019年度は更に縮小され桜井駅 - 高田駅間での運転が取り止めになった<ref name="westjr20191212" />。2020年度は大晦日の終電後から[[元日]]午前3時頃にかけ、奈良駅 - 桜井駅間で約30分間隔での臨時列車を運行する予定であったが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大の状況を鑑み、臨時列車の運行は取り止めとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201204_00_oomisokarinji.pdf|title=大晦日の臨時列車 運転時刻のお知らせ|accessdate=2020-12-18|publisher=西日本旅客鉄道}}</ref>。 また[[正月三が日]]の日中には、奈良駅 - 高田駅間に臨時列車が1時間あたり1本運転され、1時間あたりの運転本数は、奈良駅 - 桜井駅では3本、奈良駅 - 高田駅間では2本となっていた<ref>{{PDFlink|[http://www.jr-odekake.net/mydia/pdf/2010-nara-nenshi.pdf お正月ダイヤ時刻表]}} - 西日本旅客鉄道</ref>。なお臨時列車運転のため概ね9時から17時30分の間は列車の時刻が変更され、多客対応のために4両または6両編成で運転して車掌が乗務しているほか、通常ダイヤでは高田駅から和歌山線に直通する2両編成の列車は、桜井線内の混雑に対応できないため高田駅で系統分割を行い、和歌山線に直通せずに高田駅で折り返す運用を行っていた。2018年度まではかつて使用されていた[[国鉄105系電車|105系]]のほか、103系・201系・221系が運用されていた。2019年度は[[JR西日本227系電車|227系1000番台]]のほか[[JR西日本221系電車|221系]]が使用された。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === すべて[[電車]]が使用されている。 * [[JR西日本227系電車|227系1000番台]] ** 老朽化した105系を置換えるため、2019年3月16日のダイヤ改正から運行を開始した<ref name="mynavi20190317" /><ref>{{Cite press release |和書 |title=和歌山線・桜井線への新型車両導入と車載型IC改札機を使用したICOCAエリア拡大について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2018年3月7日 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/03/page_12012.html |accessdate=2018-03-07}}</ref>。2019年9月30日には105系からの置き換えが完了した<ref>{{Cite press release |和書 |title=227系の投入完了と奈良中南部エリアの活性化 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019年8月22日 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/08/page_14730.html |accessdate=2019-10-01}}</ref>。 * [[国鉄201系電車|201系]] ** 吹田総合車両所[[奈良電車区|奈良支所]]に所属する車両が使用されている。かつては朝ラッシュ時に定期運用があったが、2023年時点では桜井線内の定期運用は存在せず、臨時列車で運転されることがあるのみ。 * [[JR西日本221系電車|221系]] ** 吹田総合車両所奈良支所所属の4両編成と6両編成が朝ラッシュ時に運用されているほか、毎月26日の奈良 - 天理間の臨時列車、正月三が日などの多客時に運行されている。 * [[国鉄205系電車|205系]] ** 朝晩に天理駅留置線の入出庫列車として、回送で運転される。 <gallery> Kumoha227-1016F-2019-7-15.jpg|227系1000番台 </gallery> === 過去の使用車両 === ; 電車 :* [[国鉄113系電車|113系]] :* [[国鉄103系電車|103系]] :* [[国鉄105系電車|105系]] :** [[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]新在家派出所に所属しており、桜井線(万葉まほろば線)の主力車両となっていた。ワンマン運転に対応し、基本的に2両編成で運転されていたが、平日の王寺発桜井線経由奈良行1本は4両編成で運転しており、車掌が乗務していた。 :** 105系は国鉄が[[1981年]]に[[山陽地方]]向けに製造した3扉車の0番台と、[[1970年]]に[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現在の[[東京地下鉄]])[[東京メトロ千代田線|千代田線]]へ乗り入れる[[常磐緩行線]]用に製造された103系1000番台を国鉄末期の[[1984年]]に改造した4扉車の500番台があるが、桜井線を走る105系は500番台のみであった。 :** 桜井線(万葉まほろば線)・和歌山線の利用促進と観光振興のため、105系電車の4編成に[[ラッピング広告|ラッピング]]を施した観光列車を[[2009年]]11月29日から運転を開始<ref group="注釈">ただし11月29日は事前公募による団体列車として運転し、一般向けでは11月30日から運転を開始。</ref>し、和歌山線・桜井線全線と[[紀勢本線]][[和歌山駅]] - [[和歌山市駅]]間で運転を行っていた。1編成目の「旅万葉」に続き、同年12月6日から「万葉の四季」(W2編成)、2010年3月13日から「万葉の四季」(W7編成)、同年4月1日から「万葉の四季彩」が運転された<ref>[http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-15119.htm JR桜井線・和歌山線の万葉トレインについて] - 奈良県</ref><ref>[https://www.nara-np.co.jp/news/20091130113020.html 万葉ロマン乗せ出発 - JR桜井駅で観光列車見学会] - [[奈良新聞]] 2009年11月30日</ref>。 ; 気動車 :* [[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]]<!-- キハ17含む--> :* [[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]] :* [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]] :* [[国鉄キハ45系気動車|キハ45系]] :* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]<!-- キハ28含む--> :* [[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]] <gallery> JNR Sakurai Line at Takada Station 19870103.jpg|113系 JRwest105Tabimanyo.jpg|105系ラッピング車「旅万葉」 JRW series105 Wakayama-W2.jpg|105系ラッピング車「万葉の四季」(W2編成バージョン) JRW series105 Wakayama-W7.jpg|105系ラッピング車「万葉の四季」(W7編成バージョン) JRW series105 Wakayama-W.jpg|105系ラッピング車「万葉の四季彩」 </gallery> == 歴史 == 奈良駅 - 桜井駅間は、[[京都駅]] - 奈良駅間を営業していた[[奈良鉄道]]によって、桜井駅 - 高田駅間は湊町駅(現在のJR難波駅) - 奈良駅間などと共に(初代)[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]によって開業した。両社の路線は[[関西鉄道]]に譲渡された後国有化され、のちに現在のJR西日本の路線となっている。 * [[1893年]]([[明治]]26年)[[5月23日]]:[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]] の王寺駅 - 高田駅間を延伸する形で、高田駅 - 桜井駅間(6[[マイル|M]]≒9.66 km)が開業<ref name="sone 23">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 23頁]]</ref>。[[畝傍駅]]・桜井駅が開業。 * [[1898年]](明治31年)[[5月11日]]:[[奈良鉄道]]により京終駅 - 桜井駅間(10M10[[チェーン (単位)|C]]≒16.29 km)が開業<ref name="sone 23"/>。京終駅・帯解駅・櫟本駅・丹波市駅(現在の天理駅)・柳本駅・三輪駅が開業。 * [[1899年]](明治32年) ** [[2月11日]]:奈良駅 - 京終駅間の貨物用仮連絡線が開業<ref name="sone 23"/>。 ** [[10月14日]]:奈良駅 - 京終駅間(1M5C ≒ 1.71 km)が正式に開業し全通<ref name="sone 23"/>。 * [[1900年]](明治33年)[[6月6日]]:大阪鉄道が[[関西鉄道]]に路線を譲渡<ref name="sone 23"/>。 * [[1901年]](明治34年)[[1月25日]]:高田駅 - 桜井駅間の営業距離が2C(≒0.04 km)延長。 * [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:営業距離の単位がマイル・チェーンからマイルのみに簡略化(高田駅 - 桜井駅間 6M2C→6.0M、奈良駅 - 桜井駅間 12M15C→12.2M)。 * [[1905年]](明治38年)[[2月7日]]:奈良鉄道が関西鉄道に路線を譲渡<ref name="sone 23"/>。 * [[1907年]](明治40年)[[10月1日]]:関西鉄道が[[鉄道国有法|国有化]]<ref name="sone 23"/>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称制定]]により、奈良駅 - 高田駅間が'''桜井線'''になる<ref name="sone 23"/>。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月21日]]:香久山駅・金橋駅が開業。 * [[1914年]](大正3年) ** 5月1日:[[蒸気動車]]運転開始(桜井-奈良間)<ref>[{{NDLDC|974222/25}} 『鉄道院年報. 大正3年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[8月20日]]:長柄駅が開業。 * [[1905年]]([[昭和]]5年)[[4月1日]]:営業距離の単位がマイルからメートルに変更(18.2M → 29.4 km)。 * [[1955年]](昭和30年)[[2月15日]]:全列車が気動車に統一<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 - 大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.361。</ref><ref>{{Cite news |和書|title=奈良櫻井両線を全面気動車化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1955-02-10 |page=1 }}</ref>。 * [[1955年]](昭和30年)[[8月1日]]:巻向駅が開業。 * [[1963年]](昭和38年)[[5月25日]]:丹波市駅が天理市駅に改称<ref name="sone 23"/>。 * [[1965年]](昭和40年)[[9月1日]]:天理市駅が移転・高架化され天理駅に改称<ref name="sone 23"/>。 * [[1966年]](昭和41年)[[10月1日]]:京都駅・名古屋駅 - 白浜駅間(奈良線・関西本線・和歌山線・紀勢本線経由)の急行「はまゆう」1往復および新宮駅→名古屋駅間(紀勢本線・和歌山線・関西本線経由)の急行「はやたま」片道1本が桜井線経由に変更<ref name="sone 23"/>。 * [[1968年]](昭和43年)10月1日:急行「はまゆう」「はやたま」が「しらはま」に改称<ref name="sone 23"/>。 * [[1976年]](昭和51年)1月12日:奈良駅 - 天理駅間が自動信号化<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 - 大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.376。</ref>。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[2月1日]]:天理駅 - 高田駅間が自動信号化<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 - 大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.377。</ref>。 ** [[12月14日]]:[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入される<ref>『近畿地方の日本国有鉄道 - 大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年、p.378。</ref>。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[3月3日]]:奈良駅 - 高田駅間が電化<ref name="sone 23"/>。 ** [[10月1日]]:京都駅 - 白浜駅間<ref group="注釈">急行「しらはま」の白浜駅発着列車の名古屋駅発着編成は1972年廃止。</ref>および新宮駅→名古屋駅間の急行「しらはま」が廃止<ref name="sone 23"/>。京都駅 - 和歌山駅間に奈良線・桜井線・和歌山線経由で急行「紀ノ川」が1往復運転開始<ref name="sone 23"/>。 * [[1983年]](昭和58年)[[4月1日]]:貨物営業廃止<ref name="sone 23"/>。 * [[1984年]](昭和59年)[[10月1日]]:急行「紀ノ川」廃止<ref name="sone 23"/>。奈良線が電化され、京都駅 - 桜井駅間で昼間時間帯に普通列車の直通運転開始。 * [[1986年]](昭和61年)8月1日 - 7日:「あなたとなら大和路」キャンペーンの一環として、[[国鉄C56形蒸気機関車|C56]] 160による「SL大和路号」が奈良駅 - 王寺駅間で1日1往復運転<ref name="sone 23"/>。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道に承継<ref name="sone 23"/>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)12月3日:一部の列車でワンマン運転開始<ref>ジェー・アール・アール編『JR気動車客車編成表 2010』[[交通新聞社]]、2010年。{{ISBN2|978-4-330-14710-9}}。</ref>(全列車58本のうち27本)<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=184 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)9月4日:ダイヤ改正で奈良線への直通運転が廃止。 * [[2003年]](平成15年)10月1日:コンコースの喫煙コーナーが廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[3月1日]]:全線で「ICOCA」「[[Jスルーカード]]」の利用エリアになる<ref>[https://web.archive.org/web/20050308124851/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/041222a.html ICOCAをご利用いただけるエリアが桜井線へ広がります](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年12月22日</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[11月11日]]:[[天王寺指令所]]から新大阪総合指令所に移管。[[自動進路制御装置|小規模線区自動進路制御装置]] (SRC) が導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/company/info/history/ 沿革:JR西日本] - 西日本旅客鉄道</ref>。 * [[2009年]](平成21年) ** [[11月29日]]:奈良旅万葉ラッピング列車の運転開始。 ** 3月1日:Jスルーカードの利用が終了<ref>[https://web.archive.org/web/20090328093038/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174010_799.html Jスルーカードの利用終了について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月2日</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月13日]]:'''万葉まほろば線'''の愛称の使用が開始<ref name="jrw_20091224" />。 ** [[6月28日]]:無人駅への簡易券売機設置に伴い、ワンマン列車の乗車整理券を廃止。 * [[2019年]](平成31年) ** [[3月16日]]:この日のダイヤ改正から227系電車営業運転開始<ref name="mynavi20190317">[https://news.mynavi.jp/article/20190317-2271000/ JR西日本227系1000番台 - 和歌山線・桜井線の新型車両がデビュー] - マイナビニュース、2019年3月17日</ref>(ただし万葉まほろば線での運用は6月1日から)。 == 駅一覧 == * 定期列車は快速も含めて全列車がすべての駅に停車。ただし、臨時列車の快速は停車しない駅がある * 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可 * 全駅[[奈良県]]内に所在。 {| class="wikitable" rules="all" |-style="border-bottom:solid 3px #B31C31;" !style="width:5em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|駅間<br />営業キロ !style="width:2.5em;"|累計<br />営業キロ !接続路線 !style="width:1em;"|{{縦書き|線路}} !所在地 |- |[[奈良駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-Q.svg|17px|Q]] [[関西本線]]([[大和路線]]) (JR-Q36)・[[ファイル:JRW kinki-D.svg|17px|D]] [[奈良線]]<ref group="*">奈良線の正式な起終点は関西本線[[木津駅 (京都府)|木津駅]]だが、運転系統上は全列車が奈良駅に乗り入れる。</ref> (JR-D21) |◇ |rowspan="3"|[[奈良市]] |- |[[京終駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|1.9 |&nbsp; |◇ |- |[[帯解駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|4.8 |&nbsp; |◇ |- |[[櫟本駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|7.3 |&nbsp; |◇ |rowspan="4"|[[天理市]] |- |[[天理駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|9.6 |[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|H}} [[近鉄天理線|天理線]] (H35) |◇ |- |[[長柄駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|12.6 |&nbsp; || |- |[[柳本駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|14.3 |&nbsp; |◇ |- |[[巻向駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|15.9 |&nbsp; || |rowspan="3"|[[桜井市]] |- |[[三輪駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|18.0 |&nbsp; |◇ |- |[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|19.7 |近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] (D42) |◇ |- |[[香久山駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|21.7 |&nbsp; || |rowspan="3"|[[橿原市]] |- |[[畝傍駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|24.7 |&nbsp; |◇ |- |[[金橋駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|27.3 |&nbsp; || |- |[[高田駅 (奈良県)|高田駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|29.4 |西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-T.svg|17px|T]] [[和歌山線]] |◇ |style="white-space:nowrap;"|[[大和高田市]] |} {{Reflist|group="*"}} 有人駅は奈良駅・天理駅・桜井駅・高田駅(桜井駅のみ[[JR西日本交通サービス]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]、それ以外はJR西日本[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]])のみで、そのほかは[[無人駅]]である。無人駅ではICカード専用の簡易型自動改札機および、ICカード対応の自動券売機が設置されている。 === 過去の接続路線 === * 桜井駅: ** [[大阪電気軌道]][[大阪電気軌道長谷線|長谷線]] - 1938年2月1日廃止 ** [[大和鉄道]] - 1944年1月11日休止、1958年12月27日廃止 * 畝傍駅:[[近畿日本鉄道]][[近鉄吉野線|小房線]] - 1945年6月1日旅客営業休止、1950年7月1日休止、1952年9月1日廃止 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * 『JR時刻表』各号、交通新聞社。 * [[川島令三]]編著『東海道ライン - 全線・全駅・全配線』(9) 奈良・東大阪、[[講談社]]、2009年。{{ISBN2|978-4-06-270019-1}}。 * {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=42号 阪和線・和歌山線・桜井線・湖西線・関西空港線|date=2010-05-16|ref=sone42}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Sakurai Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * [https://www.train-guide.westjr.co.jp/manyomahoroba.html 万葉まほろば線:JR西日本 列車走行位置] {{アーバンネットワーク}} {{西日本旅客鉄道近畿エリア}} {{西日本旅客鉄道近畿統括本部}} {{DEFAULTSORT:さくらい}} [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:関西鉄道|路さくらい]] [[Category:大阪鉄道(初代)|路]] [[Category:奈良鉄道|路]] [[Category:奈良県の交通]] [[Category:山辺の道]]
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音楽史
音楽史(おんがくし)では、音楽の歴史について解説する。 音楽史は複数にわたる研究対象と方法がある、音楽学および歴史学の領域の一つである。研究対象として、歴史学的な時代区分に基づいたもの、また特定の地域における音楽史を扱ったもの、さらに特定のジャンルに限定したもの、演奏慣習や音楽理論など音楽学的な主題を扱ったものなどが挙げられる。また記述の方法については音楽の形式、音楽の基盤にある音楽文化などが試みられている。このような音楽史を扱う学問は音楽史学であり、これは一般的な歴史学と同様に資料批判を踏まえて史実を叙述する学問でありながらも、音楽という芸術を扱うために美的な価値判断を伴う特徴がある。 古代を別として音楽史学の最も古い研究の一つはガルヴィジウスによる『音楽の起源の進歩について』(1600年)である。ガルヴィジウスの後の音楽史学における業績にはマルティーニ神父による『音楽史』(1757-81)、ゲルベルトとクスマケールの中世音楽史の研究、ヤーン、ヴェストファール、ヘーヴァールトなどによる古代ギリシア音楽史の研究、ヴィンターフェルトによる『ガブリエーリ時代の研究』などがあり、これらが音楽史学の学問的伝統を形成している。 全世界の音楽作品の系譜を音楽史として統一的に叙述することは極めて困難な作業である。音楽史の起点とするべき音楽の起源にもいくつかの学説があるほか、多種多様な音楽が並存しており、それぞれの歴史体系も異なるからである。ただし、その中から共通するものを見出そうとする試みはつづけられている。 なお、レコードなどにおける「音楽史」というジャンルは、バロック音楽以前の西洋音楽(いわゆる古楽)を示す。 音楽の歴史は有史以前まで遡ることが出来る。 音楽の起源に対しては、「言語起源説」「労働起源説」「模倣起源説」「呪術起源説」などがある。 音楽学者のクルト・ザックスは、自然民族における音楽現象を研究し、最も原初的な音楽様式として、以下の二つを挙げた。 あるいは手拍子を伴ったかもしれない。原初の楽器は打楽器であったと推測できる。リズムが生まれたが、ハーモニーと呼べるものを生みだすのは困難であっただろう。 確実に最古の管楽器と考えられているものは約36000年前のものであり、ドイツウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛を現生人類が使用したと考えられている。また古い笛としては、およそ3000年前の地層から出土した骨を利用した笛があり、現代のリコーダーのような形をしている。 古代人にとって、猛獣や猛禽類や蜂を始めとする害虫、また天災から身を守ることが毎日の生活の大きな課題であり、古代の音楽は、その課題を解決するために考案されてきたと考えられている。巨大動物の威嚇音を模した法螺貝は猛獣を追い払い、錫杖は地を鳴らして蛇を驚かせ、また原初の鐘とされる武は何個も同時に打ち鳴らすことで猛獣を退散させたと伝えられる。このように生活の安全を守ってくれる音楽は、後に、祈りや祝祭、あるいは狩猟や儀式などに用途を代えていった。 音楽は人類共通のものであり、あらゆる文化において存在する。さらには、生まれたばかりの赤ん坊であっても、音楽に対する関心を示すことから、ヒトという種は、音楽に対して何らかの遺伝的基盤を備えていると思われる。 一方、ヒト以外の動物には音楽がほとんど存在しない。鳥類や海獣類のなかには、発声を応用した「歌う」種がわずかにあるばかりである。また、これらのヒト以外の動物種による「歌う」行動は、音楽の一形態と解釈するよりは、別の機構から発現した類似の一形態と考える方が、多くの場合妥当である。特に霊長類には、「歌う」種すら乏しく、ヒトの音楽の起源に関しては、独自の進化により獲得したものだと考えられる。 人類の音楽的能力が高いことに関しては、これまで幾つかの説が誕生している。ダーウィンは、性的衝動の表現として動物の鳴き声があり、音楽の上手い個体が異性に好まれるため、音楽的資質の高い遺伝子が選択されたという「性選択説」を提唱している。ただし、音楽の起源に関する遺伝的研究は未発展であり、全ての説がデータとして裏づけのない推察の上に成り立っており、仮説の域を出ていない。またルソーやスペンサー、ヘルダーなどは人間の言語に注目し、言語がもっている音韻から派生して初期の音楽である歌が生まれたと見ている。この他にも音楽の起源をリズムとするヴァラシェク、労働という活動に起源を見出すビューヒャー、信号的要素を起源とするシュトゥンプフなどが主張を展開している。最近では、人類の言語に対する認知能力が進化するにともない、それが副産物的な能力として人類の音楽的能力も高めたという「帰無仮説(null hypothsis)」も有力とされている。 エドワード・サピアは『言語』で言語の起源の一つに音楽をあげているが、言語の起源と同様に証明することは不可能である。オリバー・サックスは対談で『レナードの朝』で出てきた嗜眠性脳炎の患者は音楽が鳴っている間は、ダンスをすることも歌うこともできるが、音楽が消えるととたんにその力も消えるという。嗜好があるが、リズムとテンポという音楽のビート(拍子)の部分が重要で、ビートに反応する他の霊長類はないという。 ここでは、主にはヨーロッパを起源とする西洋音楽、特にクラシック音楽の歴史を解説する。楽譜の歴史については「楽譜」を、年表については「西洋音楽年表」を参照のこと。 古代西洋音楽は6世紀以前の西洋音楽である。記録が乏しく実態は推測の域を出ない。しかし古代ギリシアの音楽理論や用語が現在まで残っており、特にピタゴラスが考案したとされるピタゴラス音律は、その後の西洋音楽の音階の基本となった。 シタールのための二つの前奏曲と「セイキロスの墓碑銘」 クレタ島、メソメデの「太陽への賛歌」「ネメシスへの賛歌」 「三位一体に捧ぐヒムヌス」 聖ヒラリオの「ヒムヌス」 聖アウグスティヌスの「エンナラティオーネ・イン・プラス(詩編集)」 カッシオドルス・セナトル(Cassiodorus Senator, 485年頃 - 585年頃)の「聖学ならびに世俗的諸学綱要」 中世西洋音楽は、6世紀頃から15世紀にかけての音楽の総称である。9世紀頃にグレゴリオ聖歌がネウマ譜で記録されるようになった。1200年前後にノートルダム楽派によってポリフォニーが開拓された。14世紀にはイソリズムなどの高度なリズム技法によるフランスのアルス・ノーヴァの音楽、優美な旋律を特徴とするイタリアのトレチェント音楽が栄えた。また、ジョングルール(大道芸人)、トルバドゥール・トルヴェール・ミンネジンガー(吟遊詩人、宮廷歌人)などの世俗音楽も記録に残り始める。和声は5度を基本としており、3度や6度は不協和音という扱いであった。 ザンクト・ガレン修道院が設立される。ネウム(ネウマ譜)で記譜されたトロプス、プローズ、セクエンツィア コンスタンティノス5世(ギリシア語:Κωνσταντίνος Εʹ ὁ Κοπρώνυμος, Kōnstantinos V ho Koprōnymos)による教会オルガンの導入。 レアム、アウレリアヌスの「音楽論」 フランス、フルリーでの復活祭で「クエム・クエリティス」 アレッツォ、グイドの「ミクロログス」 ルカスがタラゴーナ大聖堂でポリフォニー(オルガヌス)を組織して活動。 ケルンのフランコによる「計量音楽論」 ギヨーム・ド・マショーのミサ曲「ダヴィデのホケトゥス」(Hoquetus David)、モテット「幸福なる乙女」 ルネサンス音楽は、ヨーロッパにおける15世紀から16世紀のルネサンス期の音楽の総称である。イギリスのジョン・ダンスタブルがヨーロッパ大陸にイギリス独特の3度・6度の和音を伝え、それが中世後期のアルス・ノーヴァの音楽やトレチェント音楽と統合されることによって始まった。宗教音楽では3度和声によるポリフォニーが発展し、ドイツ語圏ではコラールが生まれた。世俗音楽では宮廷音楽が見られ始める。また舞曲が流行した。 バロック音楽は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。ルネサンスの静的なポリフォニー音楽に対し、16世紀末のフィレンツェのカメラータで感情の劇的な表現のためにモノディが考案され、オペラが誕生した。宮廷音楽が発展し、多くの器楽作品が書かれた。教会旋法は長短の調に整理され、また舞曲に起源のある拍子が明確になった。またバロック時代を通じ、通奏低音による伴奏が行われた。 バロック音楽は1750年代以後に古典派音楽の潮流に取って代わられる。この古典派の時代に活動していた音楽家には交響曲の父として知られるハイドン、『フィガロの結婚』などを作曲したモーツァルト、『運命』や『第九』などを作曲したベートーヴェンなどがいる。均整・調和を理想とする古典主義に基づき、調和の取れた構成の形式美を追求したため、一本の旋律に和声で伴奏づけする単純・明快・論理的な様式が好まれ、対位法はあまり使われなくなった。 ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽。古典主義が重視しなかった感情・感覚・直感などを重視するロマン主義に基づく。技法的には古典派の調性や和声を引き継ぎつつも、半音階や遠隔調への転調を多用し、より表情豊かな表現が追求された。長大な作品も多いが、性格的な小品も多い。多くのヴィルトゥオーソが生まれた。表現の基礎としての詩情や、文学と音楽の混交も重視された。音楽以外の芸術でのロマン主義運動は1780年代から1840年代までとされるが、ロマン派音楽は19世紀を通じて続いたとされる。 1850年代以降になると、ヨーロッパ各国でそれぞれの民族音楽や固有の言語と結びついた音楽様式がはっきりしてくる。特にドイツ・オーストリアの、拡大・拡張路線を推し進めた音楽はヨーロッパ全土に広く影響を与え、「後期ロマン派」と呼ばれる。その他、ロシア・チェコ・北欧諸国などでも、各国の民族主義と結びついた形で各国の音楽様式が生み出され、「国民楽派」と呼ばれる。 19世紀当時のナショナリズムの高まりから、ロマン派音楽の一潮流としてロシアの五人組、北欧のグリーグ、チェコのドヴォルザークなどが活躍するようになる。一般的にはこれらを国民楽派と呼ぶが、少し遅れてスペイン、さらに遅れて中南米・ハンガリー・ルーマニア・アメリカでも同様の民族主義的傾向の音楽が見られる。 フランスでは国民楽派と同時期に国民音楽協会が組織され、民族主義的な音楽が追求され、印象主義音楽の土壌となっており、またブラームスは民謡への関心を示し、同様に民族主義的傾向を見せている。ドイツ・イタリア・フランスは音楽の中心地と見なされ、周辺部の現象とされる国民楽派の呼称は使われないが、同時代現象と見なすのは容易であろう。 20世紀以降の音楽のうち、西洋クラシック音楽の流れをくむものを指す。実験的・前衛的な音楽としての形式を指す場合もある。20世紀初頭から第一次世界大戦開始まではロマン派の最終段階と考え、近代音楽の開始を第一次世界大戦の初めとする例も多い。また「近代音楽」と「現代音楽」の境界に関しても、第二次世界大戦・1950年・境界なしなど様々な考え方があり、この時代の音楽史の扱いに関して定説はないが、概ねどの考え方に従っても二度の大戦を基準に分けて考える場合が多い。 マーラーやリヒャルト・シュトラウス、シベリウスらが後期ロマン派音楽を継続する一方で、後期ロマン派音楽が表現の拡張を進めた結果、調性・機能和声・規則的リズムなどのそれ以前の西洋芸術音楽の語法の限界がより若い世代の作曲家達に意識され、様々な実験が始められた時代である。印象主義音楽は全音音階や平行和音や教会旋法の復活や非西欧要素を導入し、新ヴィーン楽派は無調音楽による表現主義へと進み、ストラヴィンスキーは原始的リズムの音楽的価値を見なおし、バルトークは民族音楽に可能性を見出した。またこの時代を通じて打楽器の種類が大幅に増え雑音(非楽音)を音楽の材料にする可能性を開いた。 第一次世界大戦後、作曲家たちはよりラディカルにロマン派音楽の否定にかかった。オリジナリティの否定は型の復活や過去の作品の引用・パッチワークとなり、ロマン的な感情の否定は機械的リズムの多用を生み、また演奏スタイルも変化した。こうした傾向は新即物主義や新古典主義と呼ばれる。一方、新ウィーン楽派は無調音楽の組織化のために十二音音楽へと進んだ。反面、部分的に近代的な語法や感覚を取り入れつつもロマン派音楽の延長線上にある音楽を書き続けた作曲家達も存在した。1930年代に入ると、ナチス・ドイツは前衛的芸術全般を「退廃芸術」と呼び弾圧し、ソ連ではスターリン体制が「社会主義リアリズム」を推進するなど、新しい音楽を追究する動きは苦境に立たされた。 第二次世界大戦は第一次世界大戦以上にヨーロッパに甚大な被害をもたらし、社会的・文化的な基盤を広範に破壊し、数多くのヨーロッパの音楽家がアメリカに亡命し、聴衆も作曲家も演奏家もそれまでになかったような物質的・精神的困難を抱え込んだ。 戦後の復興と共に、現代音楽・前衛音楽の闘志たちが活躍を始め、1950年代からブーレーズ、シュトックハウゼンらによるセリー音楽、電子音楽や直観音楽、ケージによる偶然性の音楽、シェフェールによる具体音楽、1960年代からライヒらによるミニマル・ミュージックなど、様々な実験、探求が行われたが、一般大衆の関心は既に第一次大戦後の頃から難解になったクラシック音楽の近現代新作よりもポピュラー音楽に移りはじめており、またクラシック音楽を愛聴してきた裕福市民層も現代音楽・前衛音楽よりも古典派、ロマン派音楽の再演奏や録音を愛聴するようになった。 これらの実験が一通り終了した1970年代からの音楽は「ポスト・フェストゥム」「新ロマン主義音楽」「新しい単純性」など様々な名称で呼ばれ、これらを音楽史としてどのように把握するのかは未だ定説があるわけではない。現代音楽の代表的な作曲家にはメシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージ、リゲティ、クセナキスなどがいる。 「ポピュラー音楽」および「アメリカ合衆国の音楽」も参照のこと。 世界の多くの民族は宗教音楽・宮廷音楽・古典芸能の音楽などエリート文化としての音楽と共に、大衆音楽・民俗音楽のような一般大衆の楽しみのための音楽を持っている。音楽全体をクラシック(シリアス)とポピュラーに二分したり、クラシックとポピュラーと民俗音楽に三分したりするのは広く行われている。ここでは、三分する際の考え方に従い、アメリカを中心に世界的な広がりを見せている近代的な商業音楽をポピュラー音楽とし、その歴史に関しての概要を記載する。 アメリカは「人種のるつぼ」「人種のサラダ」などといわれるほどの移民の国である。クリストファー・コロンブスのアメリカ上陸を発端とした移民は17世紀ごろより盛んとなり、ヨーロッパ各国から多くの移民が流入した。主に奴隷として、カリブ海地域から北米に連れて来られた黒人もおり、時代が新しくなると中南米からの移民も増えてくる。数は少ないがアジア系の移民もおり、アメリカではこうした異なるルーツを持つ人々がそれぞれ固有の文化を持ち込んで暮らしていた。 ヨーロッパでは資本主義の興隆とともに多量の労働者が都市に流入し、19世紀後半には余暇に音楽を楽しむようになっていた。パーラー・ミュージック(応接間の音楽)と呼ばれる平易な伴奏による歌がホームパーティなどで中産階級女性によってピアノやギターで伴奏されて歌われ、現在では各国民謡として知られる。ミュージックホール(酒色を伴う男の憩いの場で行われる演劇)での歌や酒場・カフェで歌われるシャンソンも人気を集めていた。コミック・オペラやオペレッタなども、この頃に名作が数多く書かれ、人々の話題の種となっていた。社交ダンスも盛んで、そのための音楽も良く演奏されていたようである。こうしたヨーロッパの大衆音楽は、そのままアメリカの都市部に持ち込まれ、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つとなっている。 アメリカの農村部では、ヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。アメリカへの移民は、イギリス・ドイツ・アイルランド・イタリア・ポーランド・ロシア・ユダヤなど多くの民族にまたがっているが、当初は持ち込んだ自民族の音楽をそのまま行っていたようである。こうしたヨーロッパ各国民謡も、アメリカポピュラー音楽のルーツとなっている。 北米の黒人奴隷の多くは、カリブ海地域から連れて来られており、アフリカを離れて100年ほど経っている。彼らのルーツは西アフリカにあり、ポリリズムを多用したホットなリズムの感覚は西アフリカに端を発するが、環境の厳しいカリブ海地域で白人と協力しながら厳しい労働をするうち、白人と黒人の音楽は混交し、ハバネラなどカリブ海地域の魅力的なジャンルを生み出した。南米でも同様に白人・黒人の音楽の混交が見られ、サンバやタンゴが生まれている。このような、黒人と白人の混交音楽も、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つである。 こうした、バラバラに持ち込まれた様々な音楽が、アメリカと言う地で様々な混交と変化を遂げ、アメリカ音楽を形成し始める。 当初はヨーロッパの音楽をそのまま行っていたアメリカだったが、1750年頃にアメリカ東海岸の讃美歌の世界でアマチュア作曲家がオリジナルのものを作る動きが出てくる。この動きは一時下火になるが、やがてアメリカ南部へ伝わり、ゴスペルに良く似た覚えやすいリフレインを持つ賛美歌が誕生した。有名な「アメージング・グレース」は1800年代初めのこの頃作られたものと言われている。 都市部ではヨーロッパの大衆音楽がそのまま持ち込まれていたが、そのうちミュージックホールはミンストレル・ショー(ミンステロールとも表記、白人が黒人を演じる差別的な喜劇)に姿を変え、旅周りの芸能グループが馬車を仕立てて村から村へ、町から町へ巡業を行って人気を集めた。貧しい白人新移民が、解放奴隷の黒人たちに対して持った不満が背景にあるとされる。こうした中からフォスターが出て、魅力的なメロディと「フック」(印象的なサビ)が後の多くの作曲家に参考にされ、後にアメリカ音楽の父と呼ばれる。 農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でイギリスやアイルランドの民謡や舞曲がアメリカの音楽の下地となっていった。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触からブルースの感覚やバンジョーというアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカの要素を取り入れたりして、オールドタイムやブルーグラス、ヒルビリー、カントリーなどと呼ばれるジャンルのもとになっていく。 黒人たちには18世紀後半あたりからキリスト教が普及し、黒人たちも讃美歌で礼拝をおこなうようになったが、彼ら固有の音楽的な伝続からか、活気あるリズム・交互唱(コールアンドレスポンス)・叫ぶような唱法など、相当荒々しい形で礼拝をおこなっていたようである。1863年の奴隷解放以後には、そこから黒人霊歌と呼ばれるジャンルが生まれるが、これは白人がリーダーになってヨーロッパの讃美歌風の和音をつけ、楽譜として売り出したものであり、多くの曲が知られているが純粋に黒人のものとは言えない。それに対して黒人のリズム感や叫ぶような唱法を特徴とする歌はゴスペルと呼ばれるようになる。同じく奴隷解放後には、南部農業地帯の黒人たちが抑圧の中で味わった個人的感情を呟くように吐き出す歌としてブルースが発生し、ギターの伴奏を伴う中でヨーロッパの和声構造を身につけていった。 ニューヨークには楽譜出版会社が集まり、パーラーミュージックを背景に利益を得ていたが、1880~90年代に音楽を商品化するノウハウを確立する。この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントであった。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラpayola〉と呼んだ。こうした手口によって1880~90年代に商業活動の基盤を確立したアメリカの楽譜出版業界を〈ティン・パン・アレーTin Pan Alley〉と言う。直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社でプラッガーと呼ばれる人が実演を伴って販売を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前である。後に有名になった歌手もプラッガーをやっていた人も居る。 曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせた。このようなティン・パン・アレーとポピュラー・ソングの誕生を持って、今日言われるポピュラー音楽が誕生したと言うことができる。 ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのように国民の大多数に共通の文化基盤が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画してはやらせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。時にはハワイや中南米から植民地型の混交音楽を輸入し、大衆に飽きられないように活力を得るなどのことも行われた。実際、アルゼンチンタンゴの最盛期は1920~30年で、ティン・パン・アレーの最盛期と同じ時期である。 その頃、ミンストレルショーに代わってヴォードヴィルという小さな劇場が都会にできた。ヴォードヴィルは日本語で「寄席」と訳されているが、日本の寄席とは少し違い、音楽はもちろん、サーカスに似た曲芸が行われたり、有名な元野球選手などが出演していたこともあり、日本の樽回し(横になって足で樽を回す曲芸)も出演していた。ドアープライズ(入場のときもらえるおまけ)には、婦人服の型紙や驚くことに石炭一年分などがあった。こうしたヴォードヴィルではティン・パン・アレーがつくったポピュラー・ソングが全米で巡業され、メイン・ストリームの音楽を大いにアメリカ中に流行らせた。これらの家族で楽しめる娯楽場をアメリカで提供した一人に、トニー・パスター(en:Tony Pastor。ジャズバンドのトニー・バスターとは別人。トニー・パスタとも表記。)がいる。 ティン・パン・アレーは、1920~30年代に全盛期を迎えた。当時のヒット曲はほとんどすべてニューヨークを本拠地とする一握りの作曲家と作詞家がつくりだしていた。ジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウイン、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン、同じくロジャースとロレンス・ハートなど、作曲家と作詞家は多くの場合コンビを組んで活動した。ヴォードヴィルにかわって大衆芸能の王座についたブロードウェー・ミュージカルのほか、ダンス・オーケストラの専属歌手も、ティン・パン・アレーの歌の普及に貢献した。先に挙げたロジャースやガーシュウィンも当然多くのミュージカルをのこしている。 20世紀初めの10年ほど、黒人音楽の二つのスタイルであるラグタイムとブルースが商業的にヒットしていた。ラグタイムはシンコペーションを大量に含む音楽であり、ミンストレル・ショーの歌を母体に発展してきた。1900年前後に活躍していたスコット・ジョプリンという黒人ピアニストが、1899年に「メイプル・リーフ・ラグ」を発表し、1902年には「ジ・エンターテイナー」を発表している。彼はラグタイムの王様と呼ばれるようになり、このラグタイムが一世を風靡した。アービング・バーリン(Irving Berlin)のアレキサンダーズ・ラグタイムバンドという曲は(1911)ラグタイムではないが、ラグタイムを有名にしたといわれている。 19世紀末にアメリカで一番有名だった音楽家は、「行進曲王」の名で世界に知られたジョン・フィリップ・スーザだった。アメリカの吹奏楽は南北戦争の頃に盛んになり、19世紀後半には博覧会場や公園などで演奏する商業バンドが発達した。世界的に見ても19世紀末は吹奏楽熱が最高潮に達した時期である。スーザはそうした中から現れて人気を博した。アメリカの吹奏楽はアマチュアにまで流行を見せ、20世紀初頭にはダンス・バンドも大流行している。 1900年代には、ニューオーリンズの元奴隷の黒人たちが始めたブラスバンドが不思議とスウィングするリズムがあるとして評判になり、白人のバンドに真似されたり、そのままのスタイルでダンスホールに雇われたりするようになった。これがジャズの誕生である。ブルースとラグタイムの要素を含んでいるというのが良く言われるところである。 1910年代から1920年代にかけて、産業構造の変化により南部から北部への人口移動が起こり、ジャズメンの多くはシカゴに移住した。こうした中から天才トランペット奏者のルイ・アームストロングが台頭し、全てのジャズプレイヤーとアレンジャーに絶大な影響を与えた。この期間をジャズ・エイジと呼んでいる。 ジャズはやがて白人に真似られるようになり、白人だけの楽団なども出てきたが、これはスウィング・ミュージックと別な名称で呼ばれた。ビッグバンドスタイルが確立され、ティン・パン・アレーもジャズの取り込みにかかり、多くのレコードが人気を集め、ジャズとスウィング・ミュージックは第二次世界大戦前のメインのジャンルのひとつとなった。 1920年代、レコード会社が「ヒルビリー」と言うレーベルで、南部の白人大衆向けにアメリカのフィドル音楽と民謡の音楽を売りだした。アメリカ民謡に起源を持つメロディと、孤独、貧困、望郷など同時代のメイン・ストリームが取り上げないテーマを含んだ歌詞が共感を呼んだ。映画の誕生後は西部劇でカウボーイ姿で歌って人気を得る者が多く出て、西部開拓時代への懐古と田舎の生活への郷愁がこのジャンルの特徴となり、第二次世界大戦前後の愛国心の高揚期にこの種の音楽は最盛期を迎えた。ヒルビリーと言う語はもともと南東部山岳地帯出身者に対する蔑称だったため、後にカントリー・アンド・ウエスタンとレーベル名を変えることになる。 楽譜中心だった音楽を伝える媒体が、1877年にエジソンがレコードを発明したことで変化した。当時はレコードは平面の円盤ではなく、シリンダー(トイレットペーパーの芯のような形態)であった。当時の吹き込みは電気的なものでなく、大きなメガホーンに向かって音を吹き込むことによってなされた。ミキサーもなかったため、音のバランスをとるために隣の部屋から演奏する楽器もあったようである。エジソンはレコード会社を設立し、多くの歌手がヴォードヴィルで流行った昔の曲を吹き込んだ。 音楽媒体の次の大きな変化は、ラジオの誕生である。レジナルド・フェッセンデンは1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送。この日、レコードでヘンデル作曲の「クセルクセスのラルゴ」を、そして自身のバイオリンと歌で“O Holy Night”をそれぞれ流し、聖書を朗読した。この放送はあらかじめ無線電信によって予告されたもので「世界初のラジオ放送」だっただけでなく「最初のクリスマス特別番組」でもある。また、フェッセンデンは「史上初のラジオアナウンサー・プロデューサー」とも言える。それ以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになるが、最初の正式な公共放送(かつ商業放送)は、それから14年経った1920年11月2日にアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグで放送開始されたKDKA局であった。 当時のラジオの出演はノーギャラだったが、歌手はラジオで歌えれば有名になるチャンスが与えられるので競って出演を望んだ。またラジオの出現でパーラーコンサートにも微妙な変化が起こった。ラジオから流れるビッグバンドの演奏で、家庭でもダンスを楽しむことができるようになったのである。 映画は19世紀末に発明され、サイレント映画の時期から生演奏をつけての上演は行われていたが、1927年のトーキー映画の登場により、映画に音楽をつけることが急に不可欠になり、映画音楽が探求され始めた。アメリカのハリウッドでは当時音楽界の主流だった後期ロマン派音楽を映画音楽の中心に据え、シンフォニック・スコアが生まれた。と同時に、ミュージカル映画も誕生し、不況や戦争で暗い庶民生活に夢を与えた。 また、マイクロフォンの登場が、後のアメリカンポピュラーソングに大きな変化をもたらせた。マイクの出現で、吐息までが聴衆に聞こえるようになったことにより、それまでの、マイクなしでオペラのように朗々と歌い上げる方法以外に、聴衆一人一人にささやきかける歌も歌われるようになった。このような歌唱法をクルーニング唱法と呼び、ビング・クロスビーがその草分けである。しかし当時、クルーナーという言葉は必ずしもそれを良しとしなかった向きもあり、ちゃんと歌えない歌手を軽蔑的にも使われた言葉でもあった。 第2次世界大戦後、ティン・パン・アレーは流行を先導することができなくなり、自発的な流行の後追いとなる。戦時統制でビッグバンド編成が組めなくなったジャズは技巧的なソロを聴かせるビバップに変化して行ったが、以前のような広がりを失っていった。こうした中、ブルースにエレキ・ギターを導入してビートを強調しつつジャズとゴスペルの要素を取り入れたリズム・アンド・ブルースが黒人の間で生まれると、黒人のみならず白人の若者もこれを熱狂的に受け入れる現象が見られた。こうしたリズム・アンド・ブルースをベースに、カントリー・ミュージックの要素、ポピュラー音楽の要素が融合された音楽が1950年代半ばに白人の間に生まれ、ロックンロールと呼ばれた。後に短縮形であるロックも使われた。最初期のロックの巨人としてエルヴィス・プレスリーがいる。 ロックは熱狂的に若者に受け入れられたが、人気ディスクジョッキーとレコード会社の癒着が明るみに出たことで、「結局は商売か」という失望を生み、1960年代に入ると急速に失速し、アメリカ民謡やカントリー・ミュージックに起源のあるフォーク・ソングの流行を見た。しかしこうした中、イギリスのビートルズやローリング・ストーンズが自作曲を武器に絶大な支持を得て、ロックは再び息を吹き返す。 ロックの流行の原動力は、アメリカ社会の持つ白人と黒人の対立構造、そして戦争後に訪れる対立解消への衝動だった。白人の若者の欲求不満を解消できる文化要素は白人の文化の中にはすでになく、黒人底辺文化の価値観を白人若年層が大幅に取り入れたという、前例を見ない先鋭的な現象がロックの流行だった。60年代は世界的に「怒れる若者」の時代であり、反戦と大人や社会への反抗が吹き荒れた時代であり、ロックの流行は、その先取りとも言えるものだった。 1960年代後半には、ロックは二度目の全盛期を迎え、様々なジャンルと融合の試みが行われた。サイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロック、フォーク・ロック、ブルース・ロック、ハード・ロックなどはこの頃生まれたものである。初めは白人貧困層の音楽だったロックはこの頃には知的な色合いも帯び、より広い社会的影響力を獲得していた。ピンク・フロイド、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなど、現在でも楽曲が良く使われる「ロックの古典」のようなグループはこの頃のものである。 こうしたロックは、世界中のポピュラー音楽に影響を与え、英米以外の各国でもロックの後追いのようなジャンルが生まれるに至った。目立つものだと、フランスではそれまでのシャンソンとは明らかに異なるイェイェ(英語版、フランス語版)が生まれ、日本でもグループサウンズやニュー・ミュージックが生まれている。ただし東側諸国の多くはロックを西側の退廃音楽として弾圧したため、ロックの影響は地下化した。 しかし1970年代に入ると、オイルショックによる不況・アメリカの音楽産業の集中化・売れる歌手だけを売ろうとする方針などが組み合わさり、再度商業主義路線に回帰することとなる。ディスコはその代表例。商業主義に飽き足らなかった若者はパンク・ロックを支持したが、セックス・ピストルズの解散に伴いパンクも終焉を迎えた。ハード・ロックからはヘヴィ・メタル、パンク・ロックからはニューウェーブが生まれ、それなりの支持を得てはいたが、レコード会社の意図通りに売れる曲を作るロックの路線は「産業ロック」と揶揄され、全体として音楽産業が大きく衰退する結果となった。 こうした中、1980年代には、「カリスマになれる能力のある歌手だけをプロモーション・ビデオを駆使して全面的に売り出す」と言う方針が確立され、マイケル・ジャクソン、マドンナ、プリンスなどのカリスマが現れ、音楽産業は再び息を吹き返した。ヘヴィ・メタルもミュージック・テレビジョンの後押しを受けて幅広い社会階層から人気を集め、またCDの登場は音楽全般の需要を後押しした。この傾向は90年代まで変わらず、80年代初めのワールド・ミュージックの流行・80年代半ば以降のラップの台頭など、非白人文化の刺激は見られたものの、それ以降は新たなジャンルは見られず、ポピュラー音楽全体が統合・成熟の時期に入ったと言える。80年代半ば以降は、東欧での民主化運動や冷戦崩壊・ソ連崩壊に伴い、東側陣営の音楽も聞かれるようになり、統合の対象が東側世界まで拡大した。 1990年代は空前のCDバブルから始まるが、95年のウインドウズ95発売に伴うインターネットの爆発的な普及やその後の携帯電話の普及は、それまでの音楽受容のあり方を激変させた。音楽はインターネットや携帯電話と消費において競合するようになり、2000年代以降はCDの売り上げが世界的に激減した。 2008年にスウェーデンの企業・スポティファイ・テクノロジーが、音楽ストリーミングサービス『Spotify』を開始した。背景には、海賊版や違法音楽データの横行があり、その問題を解決することが目的であった。2011年にはアメリカ進出を果たし、2017年に全世界での有料会員数が5000万人、2019年には1億人を突破している。 2010年代以降は、ヒップホップやR&Bがチャートを席巻し、2017年にはアメリカの音楽売上でロックを超え、最大の音楽ジャンルとなった。 江戸時代まで総検校塙保己一らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の葛天氏の氏族が歌舞や楽器、楽譜を発明したとされる。葛天氏の氏族の歌は千人で合唱して万人を和し、山を震動させて川を沸き立たせたと『史記』に記されている。塙保己一は、撚糸である縄や結縄の発祥を、日本列島から出土する土器や房総半島飯岡の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を群書類従に編纂した。 歌舞、弦楽器、管楽器の発生については、『呂氏春秋』‐古楽や『詩経』、他、中国の古文書に記されている。 音律は、『呂氏春秋』によると、黄帝の臣下で楽官を司ったとされる伶倫(中国語版)が、黄帝の命令で大夏の西へ行き、嶰谿之谷の竹を取り、節を断ち落として三寸九分の管を吹き、鳳凰の鳴き声を聞いて12の音律を定めたことが起源とされる。 日本音楽(邦楽)は多くの種類の音楽が混在しており、多岐にわたる音楽の歴史を通史としてまとめることが難しい一面もある。その中においても、それぞれの音楽のつながりや、通史としての日本音楽史の研究が進められている。 先史・古代における日本列島の楽器・音楽については『古事記』『日本書紀』などの文書のほか、考古学的な考察によっても研究されている。縄文時代には、楽器として使用されたとみられる土製品や土鈴などが存在したと考えられ、これらは装飾的な縄文土器とともに祭祀に用いられていたとみられている。弥生時代には、青銅製の銅鐸が存在し、埋納され祭祀の中心であったと考えられているほか、同時代のものとして和琴などの楽器も出土している。 5世紀ごろから8世紀ごろにかけては、朝鮮半島・中国などの外国から音楽が輸入された。701年の大宝律令にて雅楽寮が設立されたが、その人員配置は、設立当時の和楽(日本古来からあった音楽)中心から、徐々に唐楽・三韓楽といった外来音楽中心へと変化しており、外来音楽が浸透していった一面を表している。 平安時代初期には朝鮮半島の国家制度が変わり、また遣唐使が停止されたことにより、外国からの音楽輸入がほぼ途絶えた。これと、平安朝に入って約50年ごろに行われた楽制改革などにより、外来音楽も日本古来の音楽とともに、当時の日本に合う形へと整理されていった。日本式の雅楽が成立するのはこの時期である。 一方、鎌倉時代・室町時代には古来からの日本音楽の流れを汲んだ音楽が主流になった。この時代に大成したものの中に、猿楽、そしてそこから発展した能・狂言などがある。以降、キリシタンによるオラショなどの形で西洋音楽が一部入り込んだものの、基本的には江戸時代の鎖国政策もあいまって、日本独自の音楽、いわゆる「邦楽」が進化を遂げた。俗楽とも呼ばれる浄瑠璃、地歌、長唄、筝曲などが発展する。 明治時代以降、学制頒布の後に音楽取調掛が設立されるなど、国策として西洋音楽輸入がなされた。この動きが始まった当時は、庶民を含めて邦楽が根付いていたが、徐々に、西洋音楽をたしなむ国民が多数を占めるようになった。明治後期には瀧廉太郎により日本語の歌曲やピアノ曲が作曲され、日本人による西洋音楽の作曲が行われるようになった。日本のポピュラー音楽・大衆歌曲である流行歌・歌謡曲もつくられいく。 大正、昭和期にかけて、山田耕筰、信時潔などの手で日本の民族性や近代音楽の語法なども取り入れつつ、より本格的な西洋音楽が作曲されるようになった。 戦後には松平頼則や柴田南雄らが音列技法をはじめとして現代音楽を取り入れたほか、欧米のポップミュージックを導入しながら、民謡の音階なども取り入れられた演歌なども一世を博した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "音楽史(おんがくし)では、音楽の歴史について解説する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "音楽史は複数にわたる研究対象と方法がある、音楽学および歴史学の領域の一つである。研究対象として、歴史学的な時代区分に基づいたもの、また特定の地域における音楽史を扱ったもの、さらに特定のジャンルに限定したもの、演奏慣習や音楽理論など音楽学的な主題を扱ったものなどが挙げられる。また記述の方法については音楽の形式、音楽の基盤にある音楽文化などが試みられている。このような音楽史を扱う学問は音楽史学であり、これは一般的な歴史学と同様に資料批判を踏まえて史実を叙述する学問でありながらも、音楽という芸術を扱うために美的な価値判断を伴う特徴がある。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古代を別として音楽史学の最も古い研究の一つはガルヴィジウスによる『音楽の起源の進歩について』(1600年)である。ガルヴィジウスの後の音楽史学における業績にはマルティーニ神父による『音楽史』(1757-81)、ゲルベルトとクスマケールの中世音楽史の研究、ヤーン、ヴェストファール、ヘーヴァールトなどによる古代ギリシア音楽史の研究、ヴィンターフェルトによる『ガブリエーリ時代の研究』などがあり、これらが音楽史学の学問的伝統を形成している。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "全世界の音楽作品の系譜を音楽史として統一的に叙述することは極めて困難な作業である。音楽史の起点とするべき音楽の起源にもいくつかの学説があるほか、多種多様な音楽が並存しており、それぞれの歴史体系も異なるからである。ただし、その中から共通するものを見出そうとする試みはつづけられている。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、レコードなどにおける「音楽史」というジャンルは、バロック音楽以前の西洋音楽(いわゆる古楽)を示す。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "音楽の歴史は有史以前まで遡ることが出来る。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "音楽の起源に対しては、「言語起源説」「労働起源説」「模倣起源説」「呪術起源説」などがある。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "音楽学者のクルト・ザックスは、自然民族における音楽現象を研究し、最も原初的な音楽様式として、以下の二つを挙げた。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "あるいは手拍子を伴ったかもしれない。原初の楽器は打楽器であったと推測できる。リズムが生まれたが、ハーモニーと呼べるものを生みだすのは困難であっただろう。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "確実に最古の管楽器と考えられているものは約36000年前のものであり、ドイツウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛を現生人類が使用したと考えられている。また古い笛としては、およそ3000年前の地層から出土した骨を利用した笛があり、現代のリコーダーのような形をしている。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古代人にとって、猛獣や猛禽類や蜂を始めとする害虫、また天災から身を守ることが毎日の生活の大きな課題であり、古代の音楽は、その課題を解決するために考案されてきたと考えられている。巨大動物の威嚇音を模した法螺貝は猛獣を追い払い、錫杖は地を鳴らして蛇を驚かせ、また原初の鐘とされる武は何個も同時に打ち鳴らすことで猛獣を退散させたと伝えられる。このように生活の安全を守ってくれる音楽は、後に、祈りや祝祭、あるいは狩猟や儀式などに用途を代えていった。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "音楽は人類共通のものであり、あらゆる文化において存在する。さらには、生まれたばかりの赤ん坊であっても、音楽に対する関心を示すことから、ヒトという種は、音楽に対して何らかの遺伝的基盤を備えていると思われる。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、ヒト以外の動物には音楽がほとんど存在しない。鳥類や海獣類のなかには、発声を応用した「歌う」種がわずかにあるばかりである。また、これらのヒト以外の動物種による「歌う」行動は、音楽の一形態と解釈するよりは、別の機構から発現した類似の一形態と考える方が、多くの場合妥当である。特に霊長類には、「歌う」種すら乏しく、ヒトの音楽の起源に関しては、独自の進化により獲得したものだと考えられる。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "人類の音楽的能力が高いことに関しては、これまで幾つかの説が誕生している。ダーウィンは、性的衝動の表現として動物の鳴き声があり、音楽の上手い個体が異性に好まれるため、音楽的資質の高い遺伝子が選択されたという「性選択説」を提唱している。ただし、音楽の起源に関する遺伝的研究は未発展であり、全ての説がデータとして裏づけのない推察の上に成り立っており、仮説の域を出ていない。またルソーやスペンサー、ヘルダーなどは人間の言語に注目し、言語がもっている音韻から派生して初期の音楽である歌が生まれたと見ている。この他にも音楽の起源をリズムとするヴァラシェク、労働という活動に起源を見出すビューヒャー、信号的要素を起源とするシュトゥンプフなどが主張を展開している。最近では、人類の言語に対する認知能力が進化するにともない、それが副産物的な能力として人類の音楽的能力も高めたという「帰無仮説(null hypothsis)」も有力とされている。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "エドワード・サピアは『言語』で言語の起源の一つに音楽をあげているが、言語の起源と同様に証明することは不可能である。オリバー・サックスは対談で『レナードの朝』で出てきた嗜眠性脳炎の患者は音楽が鳴っている間は、ダンスをすることも歌うこともできるが、音楽が消えるととたんにその力も消えるという。嗜好があるが、リズムとテンポという音楽のビート(拍子)の部分が重要で、ビートに反応する他の霊長類はないという。", "title": "音楽の起源" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ここでは、主にはヨーロッパを起源とする西洋音楽、特にクラシック音楽の歴史を解説する。楽譜の歴史については「楽譜」を、年表については「西洋音楽年表」を参照のこと。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "古代西洋音楽は6世紀以前の西洋音楽である。記録が乏しく実態は推測の域を出ない。しかし古代ギリシアの音楽理論や用語が現在まで残っており、特にピタゴラスが考案したとされるピタゴラス音律は、その後の西洋音楽の音階の基本となった。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "シタールのための二つの前奏曲と「セイキロスの墓碑銘」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "クレタ島、メソメデの「太陽への賛歌」「ネメシスへの賛歌」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「三位一体に捧ぐヒムヌス」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "聖ヒラリオの「ヒムヌス」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "聖アウグスティヌスの「エンナラティオーネ・イン・プラス(詩編集)」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "カッシオドルス・セナトル(Cassiodorus Senator, 485年頃 - 585年頃)の「聖学ならびに世俗的諸学綱要」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中世西洋音楽は、6世紀頃から15世紀にかけての音楽の総称である。9世紀頃にグレゴリオ聖歌がネウマ譜で記録されるようになった。1200年前後にノートルダム楽派によってポリフォニーが開拓された。14世紀にはイソリズムなどの高度なリズム技法によるフランスのアルス・ノーヴァの音楽、優美な旋律を特徴とするイタリアのトレチェント音楽が栄えた。また、ジョングルール(大道芸人)、トルバドゥール・トルヴェール・ミンネジンガー(吟遊詩人、宮廷歌人)などの世俗音楽も記録に残り始める。和声は5度を基本としており、3度や6度は不協和音という扱いであった。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ザンクト・ガレン修道院が設立される。ネウム(ネウマ譜)で記譜されたトロプス、プローズ、セクエンツィア", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "コンスタンティノス5世(ギリシア語:Κωνσταντίνος Εʹ ὁ Κοπρώνυμος, Kōnstantinos V ho Koprōnymos)による教会オルガンの導入。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "レアム、アウレリアヌスの「音楽論」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "フランス、フルリーでの復活祭で「クエム・クエリティス」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アレッツォ、グイドの「ミクロログス」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ルカスがタラゴーナ大聖堂でポリフォニー(オルガヌス)を組織して活動。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ケルンのフランコによる「計量音楽論」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ギヨーム・ド・マショーのミサ曲「ダヴィデのホケトゥス」(Hoquetus David)、モテット「幸福なる乙女」", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ルネサンス音楽は、ヨーロッパにおける15世紀から16世紀のルネサンス期の音楽の総称である。イギリスのジョン・ダンスタブルがヨーロッパ大陸にイギリス独特の3度・6度の和音を伝え、それが中世後期のアルス・ノーヴァの音楽やトレチェント音楽と統合されることによって始まった。宗教音楽では3度和声によるポリフォニーが発展し、ドイツ語圏ではコラールが生まれた。世俗音楽では宮廷音楽が見られ始める。また舞曲が流行した。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "バロック音楽は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。ルネサンスの静的なポリフォニー音楽に対し、16世紀末のフィレンツェのカメラータで感情の劇的な表現のためにモノディが考案され、オペラが誕生した。宮廷音楽が発展し、多くの器楽作品が書かれた。教会旋法は長短の調に整理され、また舞曲に起源のある拍子が明確になった。またバロック時代を通じ、通奏低音による伴奏が行われた。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "バロック音楽は1750年代以後に古典派音楽の潮流に取って代わられる。この古典派の時代に活動していた音楽家には交響曲の父として知られるハイドン、『フィガロの結婚』などを作曲したモーツァルト、『運命』や『第九』などを作曲したベートーヴェンなどがいる。均整・調和を理想とする古典主義に基づき、調和の取れた構成の形式美を追求したため、一本の旋律に和声で伴奏づけする単純・明快・論理的な様式が好まれ、対位法はあまり使われなくなった。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽。古典主義が重視しなかった感情・感覚・直感などを重視するロマン主義に基づく。技法的には古典派の調性や和声を引き継ぎつつも、半音階や遠隔調への転調を多用し、より表情豊かな表現が追求された。長大な作品も多いが、性格的な小品も多い。多くのヴィルトゥオーソが生まれた。表現の基礎としての詩情や、文学と音楽の混交も重視された。音楽以外の芸術でのロマン主義運動は1780年代から1840年代までとされるが、ロマン派音楽は19世紀を通じて続いたとされる。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1850年代以降になると、ヨーロッパ各国でそれぞれの民族音楽や固有の言語と結びついた音楽様式がはっきりしてくる。特にドイツ・オーストリアの、拡大・拡張路線を推し進めた音楽はヨーロッパ全土に広く影響を与え、「後期ロマン派」と呼ばれる。その他、ロシア・チェコ・北欧諸国などでも、各国の民族主義と結びついた形で各国の音楽様式が生み出され、「国民楽派」と呼ばれる。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "19世紀当時のナショナリズムの高まりから、ロマン派音楽の一潮流としてロシアの五人組、北欧のグリーグ、チェコのドヴォルザークなどが活躍するようになる。一般的にはこれらを国民楽派と呼ぶが、少し遅れてスペイン、さらに遅れて中南米・ハンガリー・ルーマニア・アメリカでも同様の民族主義的傾向の音楽が見られる。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "フランスでは国民楽派と同時期に国民音楽協会が組織され、民族主義的な音楽が追求され、印象主義音楽の土壌となっており、またブラームスは民謡への関心を示し、同様に民族主義的傾向を見せている。ドイツ・イタリア・フランスは音楽の中心地と見なされ、周辺部の現象とされる国民楽派の呼称は使われないが、同時代現象と見なすのは容易であろう。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "20世紀以降の音楽のうち、西洋クラシック音楽の流れをくむものを指す。実験的・前衛的な音楽としての形式を指す場合もある。20世紀初頭から第一次世界大戦開始まではロマン派の最終段階と考え、近代音楽の開始を第一次世界大戦の初めとする例も多い。また「近代音楽」と「現代音楽」の境界に関しても、第二次世界大戦・1950年・境界なしなど様々な考え方があり、この時代の音楽史の扱いに関して定説はないが、概ねどの考え方に従っても二度の大戦を基準に分けて考える場合が多い。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "マーラーやリヒャルト・シュトラウス、シベリウスらが後期ロマン派音楽を継続する一方で、後期ロマン派音楽が表現の拡張を進めた結果、調性・機能和声・規則的リズムなどのそれ以前の西洋芸術音楽の語法の限界がより若い世代の作曲家達に意識され、様々な実験が始められた時代である。印象主義音楽は全音音階や平行和音や教会旋法の復活や非西欧要素を導入し、新ヴィーン楽派は無調音楽による表現主義へと進み、ストラヴィンスキーは原始的リズムの音楽的価値を見なおし、バルトークは民族音楽に可能性を見出した。またこの時代を通じて打楽器の種類が大幅に増え雑音(非楽音)を音楽の材料にする可能性を開いた。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、作曲家たちはよりラディカルにロマン派音楽の否定にかかった。オリジナリティの否定は型の復活や過去の作品の引用・パッチワークとなり、ロマン的な感情の否定は機械的リズムの多用を生み、また演奏スタイルも変化した。こうした傾向は新即物主義や新古典主義と呼ばれる。一方、新ウィーン楽派は無調音楽の組織化のために十二音音楽へと進んだ。反面、部分的に近代的な語法や感覚を取り入れつつもロマン派音楽の延長線上にある音楽を書き続けた作曲家達も存在した。1930年代に入ると、ナチス・ドイツは前衛的芸術全般を「退廃芸術」と呼び弾圧し、ソ連ではスターリン体制が「社会主義リアリズム」を推進するなど、新しい音楽を追究する動きは苦境に立たされた。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦は第一次世界大戦以上にヨーロッパに甚大な被害をもたらし、社会的・文化的な基盤を広範に破壊し、数多くのヨーロッパの音楽家がアメリカに亡命し、聴衆も作曲家も演奏家もそれまでになかったような物質的・精神的困難を抱え込んだ。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "戦後の復興と共に、現代音楽・前衛音楽の闘志たちが活躍を始め、1950年代からブーレーズ、シュトックハウゼンらによるセリー音楽、電子音楽や直観音楽、ケージによる偶然性の音楽、シェフェールによる具体音楽、1960年代からライヒらによるミニマル・ミュージックなど、様々な実験、探求が行われたが、一般大衆の関心は既に第一次大戦後の頃から難解になったクラシック音楽の近現代新作よりもポピュラー音楽に移りはじめており、またクラシック音楽を愛聴してきた裕福市民層も現代音楽・前衛音楽よりも古典派、ロマン派音楽の再演奏や録音を愛聴するようになった。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "これらの実験が一通り終了した1970年代からの音楽は「ポスト・フェストゥム」「新ロマン主義音楽」「新しい単純性」など様々な名称で呼ばれ、これらを音楽史としてどのように把握するのかは未だ定説があるわけではない。現代音楽の代表的な作曲家にはメシアン、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージ、リゲティ、クセナキスなどがいる。", "title": "西洋音楽史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「ポピュラー音楽」および「アメリカ合衆国の音楽」も参照のこと。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "世界の多くの民族は宗教音楽・宮廷音楽・古典芸能の音楽などエリート文化としての音楽と共に、大衆音楽・民俗音楽のような一般大衆の楽しみのための音楽を持っている。音楽全体をクラシック(シリアス)とポピュラーに二分したり、クラシックとポピュラーと民俗音楽に三分したりするのは広く行われている。ここでは、三分する際の考え方に従い、アメリカを中心に世界的な広がりを見せている近代的な商業音楽をポピュラー音楽とし、その歴史に関しての概要を記載する。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アメリカは「人種のるつぼ」「人種のサラダ」などといわれるほどの移民の国である。クリストファー・コロンブスのアメリカ上陸を発端とした移民は17世紀ごろより盛んとなり、ヨーロッパ各国から多くの移民が流入した。主に奴隷として、カリブ海地域から北米に連れて来られた黒人もおり、時代が新しくなると中南米からの移民も増えてくる。数は少ないがアジア系の移民もおり、アメリカではこうした異なるルーツを持つ人々がそれぞれ固有の文化を持ち込んで暮らしていた。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは資本主義の興隆とともに多量の労働者が都市に流入し、19世紀後半には余暇に音楽を楽しむようになっていた。パーラー・ミュージック(応接間の音楽)と呼ばれる平易な伴奏による歌がホームパーティなどで中産階級女性によってピアノやギターで伴奏されて歌われ、現在では各国民謡として知られる。ミュージックホール(酒色を伴う男の憩いの場で行われる演劇)での歌や酒場・カフェで歌われるシャンソンも人気を集めていた。コミック・オペラやオペレッタなども、この頃に名作が数多く書かれ、人々の話題の種となっていた。社交ダンスも盛んで、そのための音楽も良く演奏されていたようである。こうしたヨーロッパの大衆音楽は、そのままアメリカの都市部に持ち込まれ、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つとなっている。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アメリカの農村部では、ヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。アメリカへの移民は、イギリス・ドイツ・アイルランド・イタリア・ポーランド・ロシア・ユダヤなど多くの民族にまたがっているが、当初は持ち込んだ自民族の音楽をそのまま行っていたようである。こうしたヨーロッパ各国民謡も、アメリカポピュラー音楽のルーツとなっている。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "北米の黒人奴隷の多くは、カリブ海地域から連れて来られており、アフリカを離れて100年ほど経っている。彼らのルーツは西アフリカにあり、ポリリズムを多用したホットなリズムの感覚は西アフリカに端を発するが、環境の厳しいカリブ海地域で白人と協力しながら厳しい労働をするうち、白人と黒人の音楽は混交し、ハバネラなどカリブ海地域の魅力的なジャンルを生み出した。南米でも同様に白人・黒人の音楽の混交が見られ、サンバやタンゴが生まれている。このような、黒人と白人の混交音楽も、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つである。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "こうした、バラバラに持ち込まれた様々な音楽が、アメリカと言う地で様々な混交と変化を遂げ、アメリカ音楽を形成し始める。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "当初はヨーロッパの音楽をそのまま行っていたアメリカだったが、1750年頃にアメリカ東海岸の讃美歌の世界でアマチュア作曲家がオリジナルのものを作る動きが出てくる。この動きは一時下火になるが、やがてアメリカ南部へ伝わり、ゴスペルに良く似た覚えやすいリフレインを持つ賛美歌が誕生した。有名な「アメージング・グレース」は1800年代初めのこの頃作られたものと言われている。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "都市部ではヨーロッパの大衆音楽がそのまま持ち込まれていたが、そのうちミュージックホールはミンストレル・ショー(ミンステロールとも表記、白人が黒人を演じる差別的な喜劇)に姿を変え、旅周りの芸能グループが馬車を仕立てて村から村へ、町から町へ巡業を行って人気を集めた。貧しい白人新移民が、解放奴隷の黒人たちに対して持った不満が背景にあるとされる。こうした中からフォスターが出て、魅力的なメロディと「フック」(印象的なサビ)が後の多くの作曲家に参考にされ、後にアメリカ音楽の父と呼ばれる。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でイギリスやアイルランドの民謡や舞曲がアメリカの音楽の下地となっていった。これらはフィドル(ヴァイオリン)やギターで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触からブルースの感覚やバンジョーというアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスのヨーデルやチェコのポルカの要素を取り入れたりして、オールドタイムやブルーグラス、ヒルビリー、カントリーなどと呼ばれるジャンルのもとになっていく。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "黒人たちには18世紀後半あたりからキリスト教が普及し、黒人たちも讃美歌で礼拝をおこなうようになったが、彼ら固有の音楽的な伝続からか、活気あるリズム・交互唱(コールアンドレスポンス)・叫ぶような唱法など、相当荒々しい形で礼拝をおこなっていたようである。1863年の奴隷解放以後には、そこから黒人霊歌と呼ばれるジャンルが生まれるが、これは白人がリーダーになってヨーロッパの讃美歌風の和音をつけ、楽譜として売り出したものであり、多くの曲が知られているが純粋に黒人のものとは言えない。それに対して黒人のリズム感や叫ぶような唱法を特徴とする歌はゴスペルと呼ばれるようになる。同じく奴隷解放後には、南部農業地帯の黒人たちが抑圧の中で味わった個人的感情を呟くように吐き出す歌としてブルースが発生し、ギターの伴奏を伴う中でヨーロッパの和声構造を身につけていった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ニューヨークには楽譜出版会社が集まり、パーラーミュージックを背景に利益を得ていたが、1880~90年代に音楽を商品化するノウハウを確立する。この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントであった。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラpayola〉と呼んだ。こうした手口によって1880~90年代に商業活動の基盤を確立したアメリカの楽譜出版業界を〈ティン・パン・アレーTin Pan Alley〉と言う。直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社でプラッガーと呼ばれる人が実演を伴って販売を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前である。後に有名になった歌手もプラッガーをやっていた人も居る。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせた。このようなティン・パン・アレーとポピュラー・ソングの誕生を持って、今日言われるポピュラー音楽が誕生したと言うことができる。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのように国民の大多数に共通の文化基盤が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画してはやらせる音楽がメインという状況が続いていく。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。時にはハワイや中南米から植民地型の混交音楽を輸入し、大衆に飽きられないように活力を得るなどのことも行われた。実際、アルゼンチンタンゴの最盛期は1920~30年で、ティン・パン・アレーの最盛期と同じ時期である。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "その頃、ミンストレルショーに代わってヴォードヴィルという小さな劇場が都会にできた。ヴォードヴィルは日本語で「寄席」と訳されているが、日本の寄席とは少し違い、音楽はもちろん、サーカスに似た曲芸が行われたり、有名な元野球選手などが出演していたこともあり、日本の樽回し(横になって足で樽を回す曲芸)も出演していた。ドアープライズ(入場のときもらえるおまけ)には、婦人服の型紙や驚くことに石炭一年分などがあった。こうしたヴォードヴィルではティン・パン・アレーがつくったポピュラー・ソングが全米で巡業され、メイン・ストリームの音楽を大いにアメリカ中に流行らせた。これらの家族で楽しめる娯楽場をアメリカで提供した一人に、トニー・パスター(en:Tony Pastor。ジャズバンドのトニー・バスターとは別人。トニー・パスタとも表記。)がいる。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ティン・パン・アレーは、1920~30年代に全盛期を迎えた。当時のヒット曲はほとんどすべてニューヨークを本拠地とする一握りの作曲家と作詞家がつくりだしていた。ジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウイン、リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン、同じくロジャースとロレンス・ハートなど、作曲家と作詞家は多くの場合コンビを組んで活動した。ヴォードヴィルにかわって大衆芸能の王座についたブロードウェー・ミュージカルのほか、ダンス・オーケストラの専属歌手も、ティン・パン・アレーの歌の普及に貢献した。先に挙げたロジャースやガーシュウィンも当然多くのミュージカルをのこしている。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "20世紀初めの10年ほど、黒人音楽の二つのスタイルであるラグタイムとブルースが商業的にヒットしていた。ラグタイムはシンコペーションを大量に含む音楽であり、ミンストレル・ショーの歌を母体に発展してきた。1900年前後に活躍していたスコット・ジョプリンという黒人ピアニストが、1899年に「メイプル・リーフ・ラグ」を発表し、1902年には「ジ・エンターテイナー」を発表している。彼はラグタイムの王様と呼ばれるようになり、このラグタイムが一世を風靡した。アービング・バーリン(Irving Berlin)のアレキサンダーズ・ラグタイムバンドという曲は(1911)ラグタイムではないが、ラグタイムを有名にしたといわれている。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "19世紀末にアメリカで一番有名だった音楽家は、「行進曲王」の名で世界に知られたジョン・フィリップ・スーザだった。アメリカの吹奏楽は南北戦争の頃に盛んになり、19世紀後半には博覧会場や公園などで演奏する商業バンドが発達した。世界的に見ても19世紀末は吹奏楽熱が最高潮に達した時期である。スーザはそうした中から現れて人気を博した。アメリカの吹奏楽はアマチュアにまで流行を見せ、20世紀初頭にはダンス・バンドも大流行している。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1900年代には、ニューオーリンズの元奴隷の黒人たちが始めたブラスバンドが不思議とスウィングするリズムがあるとして評判になり、白人のバンドに真似されたり、そのままのスタイルでダンスホールに雇われたりするようになった。これがジャズの誕生である。ブルースとラグタイムの要素を含んでいるというのが良く言われるところである。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1910年代から1920年代にかけて、産業構造の変化により南部から北部への人口移動が起こり、ジャズメンの多くはシカゴに移住した。こうした中から天才トランペット奏者のルイ・アームストロングが台頭し、全てのジャズプレイヤーとアレンジャーに絶大な影響を与えた。この期間をジャズ・エイジと呼んでいる。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ジャズはやがて白人に真似られるようになり、白人だけの楽団なども出てきたが、これはスウィング・ミュージックと別な名称で呼ばれた。ビッグバンドスタイルが確立され、ティン・パン・アレーもジャズの取り込みにかかり、多くのレコードが人気を集め、ジャズとスウィング・ミュージックは第二次世界大戦前のメインのジャンルのひとつとなった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1920年代、レコード会社が「ヒルビリー」と言うレーベルで、南部の白人大衆向けにアメリカのフィドル音楽と民謡の音楽を売りだした。アメリカ民謡に起源を持つメロディと、孤独、貧困、望郷など同時代のメイン・ストリームが取り上げないテーマを含んだ歌詞が共感を呼んだ。映画の誕生後は西部劇でカウボーイ姿で歌って人気を得る者が多く出て、西部開拓時代への懐古と田舎の生活への郷愁がこのジャンルの特徴となり、第二次世界大戦前後の愛国心の高揚期にこの種の音楽は最盛期を迎えた。ヒルビリーと言う語はもともと南東部山岳地帯出身者に対する蔑称だったため、後にカントリー・アンド・ウエスタンとレーベル名を変えることになる。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "楽譜中心だった音楽を伝える媒体が、1877年にエジソンがレコードを発明したことで変化した。当時はレコードは平面の円盤ではなく、シリンダー(トイレットペーパーの芯のような形態)であった。当時の吹き込みは電気的なものでなく、大きなメガホーンに向かって音を吹き込むことによってなされた。ミキサーもなかったため、音のバランスをとるために隣の部屋から演奏する楽器もあったようである。エジソンはレコード会社を設立し、多くの歌手がヴォードヴィルで流行った昔の曲を吹き込んだ。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "音楽媒体の次の大きな変化は、ラジオの誕生である。レジナルド・フェッセンデンは1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送。この日、レコードでヘンデル作曲の「クセルクセスのラルゴ」を、そして自身のバイオリンと歌で“O Holy Night”をそれぞれ流し、聖書を朗読した。この放送はあらかじめ無線電信によって予告されたもので「世界初のラジオ放送」だっただけでなく「最初のクリスマス特別番組」でもある。また、フェッセンデンは「史上初のラジオアナウンサー・プロデューサー」とも言える。それ以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになるが、最初の正式な公共放送(かつ商業放送)は、それから14年経った1920年11月2日にアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグで放送開始されたKDKA局であった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "当時のラジオの出演はノーギャラだったが、歌手はラジオで歌えれば有名になるチャンスが与えられるので競って出演を望んだ。またラジオの出現でパーラーコンサートにも微妙な変化が起こった。ラジオから流れるビッグバンドの演奏で、家庭でもダンスを楽しむことができるようになったのである。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "映画は19世紀末に発明され、サイレント映画の時期から生演奏をつけての上演は行われていたが、1927年のトーキー映画の登場により、映画に音楽をつけることが急に不可欠になり、映画音楽が探求され始めた。アメリカのハリウッドでは当時音楽界の主流だった後期ロマン派音楽を映画音楽の中心に据え、シンフォニック・スコアが生まれた。と同時に、ミュージカル映画も誕生し、不況や戦争で暗い庶民生活に夢を与えた。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また、マイクロフォンの登場が、後のアメリカンポピュラーソングに大きな変化をもたらせた。マイクの出現で、吐息までが聴衆に聞こえるようになったことにより、それまでの、マイクなしでオペラのように朗々と歌い上げる方法以外に、聴衆一人一人にささやきかける歌も歌われるようになった。このような歌唱法をクルーニング唱法と呼び、ビング・クロスビーがその草分けである。しかし当時、クルーナーという言葉は必ずしもそれを良しとしなかった向きもあり、ちゃんと歌えない歌手を軽蔑的にも使われた言葉でもあった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "第2次世界大戦後、ティン・パン・アレーは流行を先導することができなくなり、自発的な流行の後追いとなる。戦時統制でビッグバンド編成が組めなくなったジャズは技巧的なソロを聴かせるビバップに変化して行ったが、以前のような広がりを失っていった。こうした中、ブルースにエレキ・ギターを導入してビートを強調しつつジャズとゴスペルの要素を取り入れたリズム・アンド・ブルースが黒人の間で生まれると、黒人のみならず白人の若者もこれを熱狂的に受け入れる現象が見られた。こうしたリズム・アンド・ブルースをベースに、カントリー・ミュージックの要素、ポピュラー音楽の要素が融合された音楽が1950年代半ばに白人の間に生まれ、ロックンロールと呼ばれた。後に短縮形であるロックも使われた。最初期のロックの巨人としてエルヴィス・プレスリーがいる。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ロックは熱狂的に若者に受け入れられたが、人気ディスクジョッキーとレコード会社の癒着が明るみに出たことで、「結局は商売か」という失望を生み、1960年代に入ると急速に失速し、アメリカ民謡やカントリー・ミュージックに起源のあるフォーク・ソングの流行を見た。しかしこうした中、イギリスのビートルズやローリング・ストーンズが自作曲を武器に絶大な支持を得て、ロックは再び息を吹き返す。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ロックの流行の原動力は、アメリカ社会の持つ白人と黒人の対立構造、そして戦争後に訪れる対立解消への衝動だった。白人の若者の欲求不満を解消できる文化要素は白人の文化の中にはすでになく、黒人底辺文化の価値観を白人若年層が大幅に取り入れたという、前例を見ない先鋭的な現象がロックの流行だった。60年代は世界的に「怒れる若者」の時代であり、反戦と大人や社会への反抗が吹き荒れた時代であり、ロックの流行は、その先取りとも言えるものだった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1960年代後半には、ロックは二度目の全盛期を迎え、様々なジャンルと融合の試みが行われた。サイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロック、フォーク・ロック、ブルース・ロック、ハード・ロックなどはこの頃生まれたものである。初めは白人貧困層の音楽だったロックはこの頃には知的な色合いも帯び、より広い社会的影響力を獲得していた。ピンク・フロイド、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなど、現在でも楽曲が良く使われる「ロックの古典」のようなグループはこの頃のものである。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "こうしたロックは、世界中のポピュラー音楽に影響を与え、英米以外の各国でもロックの後追いのようなジャンルが生まれるに至った。目立つものだと、フランスではそれまでのシャンソンとは明らかに異なるイェイェ(英語版、フランス語版)が生まれ、日本でもグループサウンズやニュー・ミュージックが生まれている。ただし東側諸国の多くはロックを西側の退廃音楽として弾圧したため、ロックの影響は地下化した。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "しかし1970年代に入ると、オイルショックによる不況・アメリカの音楽産業の集中化・売れる歌手だけを売ろうとする方針などが組み合わさり、再度商業主義路線に回帰することとなる。ディスコはその代表例。商業主義に飽き足らなかった若者はパンク・ロックを支持したが、セックス・ピストルズの解散に伴いパンクも終焉を迎えた。ハード・ロックからはヘヴィ・メタル、パンク・ロックからはニューウェーブが生まれ、それなりの支持を得てはいたが、レコード会社の意図通りに売れる曲を作るロックの路線は「産業ロック」と揶揄され、全体として音楽産業が大きく衰退する結果となった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "こうした中、1980年代には、「カリスマになれる能力のある歌手だけをプロモーション・ビデオを駆使して全面的に売り出す」と言う方針が確立され、マイケル・ジャクソン、マドンナ、プリンスなどのカリスマが現れ、音楽産業は再び息を吹き返した。ヘヴィ・メタルもミュージック・テレビジョンの後押しを受けて幅広い社会階層から人気を集め、またCDの登場は音楽全般の需要を後押しした。この傾向は90年代まで変わらず、80年代初めのワールド・ミュージックの流行・80年代半ば以降のラップの台頭など、非白人文化の刺激は見られたものの、それ以降は新たなジャンルは見られず、ポピュラー音楽全体が統合・成熟の時期に入ったと言える。80年代半ば以降は、東欧での民主化運動や冷戦崩壊・ソ連崩壊に伴い、東側陣営の音楽も聞かれるようになり、統合の対象が東側世界まで拡大した。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1990年代は空前のCDバブルから始まるが、95年のウインドウズ95発売に伴うインターネットの爆発的な普及やその後の携帯電話の普及は、それまでの音楽受容のあり方を激変させた。音楽はインターネットや携帯電話と消費において競合するようになり、2000年代以降はCDの売り上げが世界的に激減した。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2008年にスウェーデンの企業・スポティファイ・テクノロジーが、音楽ストリーミングサービス『Spotify』を開始した。背景には、海賊版や違法音楽データの横行があり、その問題を解決することが目的であった。2011年にはアメリカ進出を果たし、2017年に全世界での有料会員数が5000万人、2019年には1億人を突破している。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2010年代以降は、ヒップホップやR&Bがチャートを席巻し、2017年にはアメリカの音楽売上でロックを超え、最大の音楽ジャンルとなった。", "title": "ポピュラー音楽史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "江戸時代まで総検校塙保己一らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の葛天氏の氏族が歌舞や楽器、楽譜を発明したとされる。葛天氏の氏族の歌は千人で合唱して万人を和し、山を震動させて川を沸き立たせたと『史記』に記されている。塙保己一は、撚糸である縄や結縄の発祥を、日本列島から出土する土器や房総半島飯岡の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を群書類従に編纂した。 歌舞、弦楽器、管楽器の発生については、『呂氏春秋』‐古楽や『詩経』、他、中国の古文書に記されている。 音律は、『呂氏春秋』によると、黄帝の臣下で楽官を司ったとされる伶倫(中国語版)が、黄帝の命令で大夏の西へ行き、嶰谿之谷の竹を取り、節を断ち落として三寸九分の管を吹き、鳳凰の鳴き声を聞いて12の音律を定めたことが起源とされる。", "title": "東洋音楽史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "日本音楽(邦楽)は多くの種類の音楽が混在しており、多岐にわたる音楽の歴史を通史としてまとめることが難しい一面もある。その中においても、それぞれの音楽のつながりや、通史としての日本音楽史の研究が進められている。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "先史・古代における日本列島の楽器・音楽については『古事記』『日本書紀』などの文書のほか、考古学的な考察によっても研究されている。縄文時代には、楽器として使用されたとみられる土製品や土鈴などが存在したと考えられ、これらは装飾的な縄文土器とともに祭祀に用いられていたとみられている。弥生時代には、青銅製の銅鐸が存在し、埋納され祭祀の中心であったと考えられているほか、同時代のものとして和琴などの楽器も出土している。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "5世紀ごろから8世紀ごろにかけては、朝鮮半島・中国などの外国から音楽が輸入された。701年の大宝律令にて雅楽寮が設立されたが、その人員配置は、設立当時の和楽(日本古来からあった音楽)中心から、徐々に唐楽・三韓楽といった外来音楽中心へと変化しており、外来音楽が浸透していった一面を表している。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "平安時代初期には朝鮮半島の国家制度が変わり、また遣唐使が停止されたことにより、外国からの音楽輸入がほぼ途絶えた。これと、平安朝に入って約50年ごろに行われた楽制改革などにより、外来音楽も日本古来の音楽とともに、当時の日本に合う形へと整理されていった。日本式の雅楽が成立するのはこの時期である。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "一方、鎌倉時代・室町時代には古来からの日本音楽の流れを汲んだ音楽が主流になった。この時代に大成したものの中に、猿楽、そしてそこから発展した能・狂言などがある。以降、キリシタンによるオラショなどの形で西洋音楽が一部入り込んだものの、基本的には江戸時代の鎖国政策もあいまって、日本独自の音楽、いわゆる「邦楽」が進化を遂げた。俗楽とも呼ばれる浄瑠璃、地歌、長唄、筝曲などが発展する。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "明治時代以降、学制頒布の後に音楽取調掛が設立されるなど、国策として西洋音楽輸入がなされた。この動きが始まった当時は、庶民を含めて邦楽が根付いていたが、徐々に、西洋音楽をたしなむ国民が多数を占めるようになった。明治後期には瀧廉太郎により日本語の歌曲やピアノ曲が作曲され、日本人による西洋音楽の作曲が行われるようになった。日本のポピュラー音楽・大衆歌曲である流行歌・歌謡曲もつくられいく。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "大正、昭和期にかけて、山田耕筰、信時潔などの手で日本の民族性や近代音楽の語法なども取り入れつつ、より本格的な西洋音楽が作曲されるようになった。", "title": "日本音楽史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "戦後には松平頼則や柴田南雄らが音列技法をはじめとして現代音楽を取り入れたほか、欧米のポップミュージックを導入しながら、民謡の音階なども取り入れられた演歌なども一世を博した。", "title": "日本音楽史" } ]
音楽史(おんがくし)では、音楽の歴史について解説する。
'''音楽史'''(おんがくし)では、[[音楽]]の[[歴史]]について解説する。 == 研究 == 音楽史は複数にわたる研究対象と方法がある、[[音楽学]]および[[歴史学]]の領域の一つである。研究対象として、歴史学的な時代区分に基づいたもの、また特定の地域における音楽史を扱ったもの、さらに特定のジャンルに限定したもの、演奏慣習や音楽理論など音楽学的な主題を扱ったものなどが挙げられる。また記述の方法については音楽の形式、音楽の基盤にある音楽文化などが試みられている。このような音楽史を扱う学問は音楽史学であり、これは一般的な歴史学と同様に資料批判を踏まえて史実を叙述する[[学問]]でありながらも、音楽という[[芸術]]を扱うために美的な価値判断を伴う特徴がある。 [[古代]]を別として音楽史学の最も古い研究の一つはガルヴィジウスによる『音楽の起源の進歩について』(1600年)である。ガルヴィジウスの後の音楽史学における業績にはマルティーニ神父による『音楽史』(1757-81)、ゲルベルトとクスマケールの中世音楽史の研究、ヤーン、ヴェストファール、ヘーヴァールトなどによる[[古代ギリシア]]音楽史の研究、ヴィンターフェルトによる『ガブリエーリ時代の研究』などがあり、これらが音楽史学の学問的伝統を形成している。 全世界の音楽作品の系譜を音楽史として統一的に叙述することは極めて困難な作業である。音楽史の起点とするべき音楽の起源にもいくつかの学説があるほか、多種多様な音楽が並存しており、それぞれの歴史体系も異なるからである。ただし、その中から共通するものを見出そうとする試みはつづけられている<ref>久保田慶一 他『はじめての音楽史』音楽の友社,1996年,p7</ref>。 なお、レコードなどにおける「音楽史」というジャンルは、[[バロック音楽]]以前の[[西洋音楽]](いわゆる[[古楽]])を示す。 == 音楽の起源 == {{Main|古代の音楽}} 音楽の歴史は有史以前まで遡ることが出来る。 音楽の起源に対しては、「言語起源説」「労働起源説」「模倣起源説」「呪術起源説」などがある<ref>平凡社『世界大百科事典』の「楽器」の項。</ref>。 音楽学者の[[クルト・ザックス]]は、自然民族における音楽現象を研究し、最も原初的な音楽様式として、以下の二つを挙げた。 # 「言語起源的」な様式(抑揚をつけて言葉を唱えることから始まった) # 「感情起源的」な様式(形にとらわれず感情をほとばしらせることから始まった) #: やがてこの二つは混ざり合い、 # 「旋律起源的」な様式に発展したと言う。 あるいは手拍子を伴ったかもしれない。原初の[[楽器]]は[[打楽器]]であったと推測できる。[[リズム]]が生まれたが、[[ハーモニー]]と呼べるものを生みだすのは困難であっただろう。 確実に最古の[[管楽器]]と考えられているものは約36000年前のものであり、ドイツ[[ウルム]]近郊の洞窟から出てきた骨の笛を[[ヒト|現生人類]]が使用したと考えられている<ref>[http://www.mus.cam.ac.uk/~ic108/lithoacoustics/BAR2002/BARpreprint.pdf Musical behaviours and the archaeological record: a preliminary study] by Ian Cross, Ezra Zubrow and Frank Cowan</ref>。また古い笛としては、およそ3000年前の地層から出土した骨を利用した笛があり、現代の[[リコーダー]]のような形をしている。 古代人にとって、[[猛獣]]や[[猛禽類]]や蜂を始めとする[[害虫]]、また天災から身を守ることが毎日の生活の大きな課題であり、古代の音楽は、その課題を解決するために考案されてきたと考えられている。巨大動物の威嚇音を模した[[法螺貝]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%9E%BA%E8%B2%9D-134186 デジタル大辞泉の解説-法螺貝。]</ref>は猛獣を追い払い、[[錫杖]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%8C%AB%E6%9D%96-75791 世界百科事典第二版の解説-錫杖。]</ref>は地を鳴らして蛇を驚かせ、また原初の鐘とされる[[武]]<ref>角川書店『新字源』‐[[武]]‐[[周]]の[[武王 (周)|武王]]の音楽の名。/金属製の楽器。[[鐘]]の類。</ref>は何個も同時に打ち鳴らすことで猛獣を退散させたと伝えられる。このように生活の安全を守ってくれる音楽は、後に、[[祈り]]や[[祝祭]]、あるいは[[狩猟]]や[[儀式]]などに用途を代えていった。 === 生物学的な音楽の起源 === 音楽は[[人類]]共通のものであり、あらゆる文化において存在する。さらには、生まれたばかりの赤ん坊であっても、音楽に対する関心を示すことから、[[ヒト]]という種は、音楽に対して何らかの[[遺伝]]的基盤を備えていると思われる。 一方、ヒト以外の動物には音楽がほとんど存在しない。[[鳥類]]や海獣類のなかには、発声を応用した「歌う」種がわずかにあるばかりである。また、これらのヒト以外の動物種による「歌う」行動は、音楽の一形態と解釈するよりは、別の機構から発現した類似の一形態と考える方が、多くの場合妥当である<ref group="注">たとえば[[クジラ]]の場合、他の個体との情報交換の手段として「歌う」が、これを音楽としての認知能力を持っていると解釈できるわけではない。</ref>。特に[[霊長類]]には、「歌う」種すら乏しく、ヒトの音楽の起源に関しては、独自の進化により獲得したものだと考えられる<ref group="注">ただし、動物における音楽の研究はほとんど進んでいない。「歌う」ことや、さらに汎用的と考えられる音楽的素養である「リズム」を、種別でどう認知されているかは不明であり、音楽が動物としてより普遍的な素質であるのかどうかも不明である。</ref>。 人類の音楽的能力が高いことに関しては、これまで幾つかの説が誕生している。[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]は、性的衝動の表現として動物の鳴き声があり、音楽の上手い個体が異性に好まれるため、音楽的資質の高い遺伝子が選択されたという「性選択説」を提唱している。<!--これは、現在も一定の支持がある。-->ただし、音楽の起源に関する遺伝的研究は未発展であり、全ての説がデータとして裏づけのない推察の上に成り立っており、仮説の域を出ていない<ref>Josh McDermott, ''Nature'', '''453''', 287-288, 2008</ref>。また[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]や[[ハーバート・スペンサー|スペンサー]]、[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]などは人間の言語に注目し、言語がもっている音韻から派生して初期の音楽である歌が生まれたと見ている。この他にも音楽の起源をリズムとするヴァラシェク、労働という活動に起源を見出すビューヒャー、信号的要素を起源とするシュトゥンプフなどが主張を展開している。最近では、人類の言語に対する認知能力が進化するにともない、それが副産物的な能力として人類の音楽的能力も高めたという「帰無仮説(null hypothsis)」も有力とされている。 <!--(旧「概要」にあった音楽の起源の記述。しばらくコメントアウトして残しておきます。2011/5/4 9b-kitsune) [[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]は性的衝動の表現として動物の鳴き声があることから、人間の音楽はそれを模倣したものと考えた。また[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]や[[ハーバート・スペンサー|スペンサー]]、[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]などは人間の言語に注目し、言語がもっている音韻から派生して初期の音楽である歌が生まれたと見ている。この他にも音楽の起源をリズムとするヴァラシェク、労働という活動に起源を見出すビューヒャー、信号的要素を起源とするシュトゥンプフなどが主張を展開している。ただし、これらは歴史学的な音楽の起源についての叙述とは言えない。 --> [[エドワード・サピア]]は『言語』で言語の起源の一つに音楽をあげているが、言語の起源と同様に証明することは不可能である。[[オリバー・サックス]]は対談で『[[レナードの朝]]』で出てきた[[嗜眠性脳炎]]の患者は音楽が鳴っている間は、ダンスをすることも歌うこともできるが、音楽が消えるととたんにその力も消えるという。嗜好があるが、リズムとテンポという音楽のビート(拍子)の部分が重要で、ビートに反応する他の霊長類はないという<ref>『知の逆転』([[NHK出版新書]] [[2012年]])。</ref>。 == 西洋音楽史 == ここでは、主には[[ヨーロッパ]]を起源とする[[西洋音楽]]、特に[[クラシック音楽]]の歴史を解説する。楽譜の歴史については「[[楽譜]]」を、年表については「[[西洋音楽年表]]」を参照のこと。 === 古代西洋音楽 === {{Main|古代西洋音楽|古代ギリシアの音楽}} 古代西洋音楽は[[6世紀]]以前の[[西洋音楽]]である。記録が乏しく実態は推測の域を出ない。しかし古代ギリシアの音楽理論や用語が現在まで残っており、特に[[ピタゴラス]]が考案したとされる[[ピタゴラス音律]]は、その後の西洋音楽の音階の基本となった。 ==== 1世紀まで ==== シタールのための二つの前奏曲と「[[セイキロスの墓碑銘]]」<ref group="注">墓石はエフェソスの近隣にあるトルコの都市アイドゥン(Aydın)近郊で発掘された。</ref> ==== 2世紀 ==== [[クレタ島]]、メソメデの「太陽への賛歌」「ネメシスへの賛歌」 ==== 3世紀 ==== 「三位一体に捧ぐヒムヌス」<ref group="注">オクシリンコス(エジプト)では発掘されたパピルスから発見</ref> ==== 4世紀 ==== 聖ヒラリオの「ヒムヌス」 ==== 5世紀 ==== [[アウグスティヌス|聖アウグスティヌス]]の「エンナラティオーネ・イン・プラス(詩編集)」 ==== 6世紀 ==== [[カッシオドルス|カッシオドルス・セナトル]](Cassiodorus Senator, 485年頃 - 585年頃)<ref group="注">セナトル(Senator)は名前の一部であり、役職ではない。</ref>の「聖学ならびに世俗的諸学綱要」<ref group="注">第二巻第五章が音楽の記述。</ref> === 中世西洋音楽 === {{Main|中世西洋音楽}} 中世西洋音楽は、[[6世紀]]頃から[[15世紀]]にかけての音楽の総称である。9世紀頃に[[グレゴリオ聖歌]]が[[ネウマ譜]]で記録されるようになった。1200年前後に[[ノートルダム楽派]]によって[[ポリフォニー]]が開拓された。14世紀には[[イソリズム]]などの高度なリズム技法による[[フランス]]の[[アルス・ノーヴァ]]の音楽、優美な旋律を特徴とする[[イタリア]]の[[トレチェント音楽]]が栄えた。また、[[ジョングルール]](大道芸人)、[[トルバドゥール]]・[[トルヴェール]]・[[ミンネジンガー]]([[吟遊詩人]]、宮廷歌人)などの世俗音楽も記録に残り始める。和声は5度を基本としており、3度や6度は不協和音という扱いであった。 ==== 7世紀 ==== [[ザンクト・ガレン修道院]]が設立される。ネウム(ネウマ譜)で記譜されたトロプス、プローズ、セクエンツィア ==== 8世紀 ==== [[コンスタンティノス5世]](<small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|el|'''Κωνσταντίνος Εʹ ὁ Κοπρώνυμος''', Kōnstantinos V ho Koprōnymos}})による教会[[オルガン]]の導入。 ==== 9世紀 ==== レアム、アウレリアヌスの「音楽論」<ref group="注">ポエティウス(524年以前)の「音楽教程」に次ぐ音楽理論書とされる。</ref> ==== 10世紀 ==== フランス、フルリーでの[[復活祭]]で「クエム・クエリティス」<ref group="注">「最初の典礼劇」とされる。</ref> ==== 11世紀 ==== アレッツォ、グイドの「ミクロログス」<ref group="注">彩色線を使用した記譜法、微分律的な旋法の排除、グイドによるソルミゼーションなどの変革がみられる。</ref> ==== 12世紀 ==== ルカス<ref group="注">当時、「大作曲家」の通称で知られる。</ref>が[[タラゴナ|タラゴーナ大聖堂]]でポリフォニー(オルガヌス)を組織して活動。 ==== 13世紀 ==== ケルンのフランコによる「計量音楽論」 ==== 14世紀 ==== [[ギヨーム・ド・マショー]]のミサ曲「ダヴィデのホケトゥス」(Hoquetus David)<ref group="注">「ホケトゥス」は、各声部が旋律内で交互に歌う技巧的な声楽曲。</ref>、モテット「幸福なる乙女」 === ルネサンス期の音楽 === {{Main|ルネサンス音楽}} ルネサンス音楽は、[[ヨーロッパ]]における[[15世紀]]から[[16世紀]]の[[ルネサンス]]期の音楽の総称である。イギリスの[[ジョン・ダンスタブル]]がヨーロッパ大陸にイギリス独特の3度・6度の和音を伝え、それが中世後期の[[アルス・ノーヴァ]]の音楽や[[トレチェント音楽]]と統合されることによって始まった。宗教音楽では3度和声による[[ポリフォニー]]が発展し、ドイツ語圏では[[コラール]]が生まれた。世俗音楽では宮廷音楽が見られ始める。また[[舞曲]]が流行した。 === バロック音楽 === {{Main|バロック音楽}} [[バロック]]音楽は、[[ヨーロッパ]]における[[17世紀]]初頭から[[18世紀]]半ばまでの音楽の総称である。ルネサンスの静的なポリフォニー音楽に対し、16世紀末の[[フィレンツェ]]の[[カメラータ]]で感情の劇的な表現のために[[モノディ]]が考案され、[[オペラ]]が誕生した。宮廷音楽が発展し、多くの器楽作品が書かれた。[[教会旋法]]は長短の[[調]]に整理され、また舞曲に起源のある[[拍子]]が明確になった。またバロック時代を通じ、[[通奏低音]]による伴奏が行われた。 === 古典派音楽 === {{Main|古典派音楽}} バロック音楽は1750年代以後に古典派音楽の潮流に取って代わられる。この古典派の時代に活動していた音楽家には[[交響曲]]の父として知られる[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、『[[フィガロの結婚]]』などを作曲した[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、『[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命]]』や『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]』などを作曲した[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]などがいる。均整・調和を理想とする[[古典主義]]に基づき、調和の取れた構成の形式美を追求したため、一本の旋律に和声で伴奏づけする単純・明快・論理的な様式が好まれ、[[対位法]]はあまり使われなくなった。 === ロマン派音楽 === {{Main|ロマン派音楽}} ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽。古典主義が重視しなかった感情・感覚・直感などを重視する[[ロマン主義]]に基づく。技法的には古典派の調性や和声を引き継ぎつつも、半音階や遠隔調への転調を多用し、より表情豊かな表現が追求された。長大な作品も多いが、性格的な小品も多い。多くの[[ヴィルトゥオーソ]]が生まれた。表現の基礎としての詩情や、文学と音楽の混交も重視された。音楽以外の芸術でのロマン主義運動は1780年代から1840年代までとされるが、ロマン派音楽は19世紀を通じて続いたとされる。 1850年代以降になると、ヨーロッパ各国でそれぞれの民族音楽や固有の言語と結びついた音楽様式がはっきりしてくる。特にドイツ・オーストリアの、拡大・拡張路線を推し進めた音楽はヨーロッパ全土に広く影響を与え、「[[後期ロマン派]]」と呼ばれる。その他、ロシア・チェコ・北欧諸国などでも、各国の民族主義と結びついた形で各国の音楽様式が生み出され、「[[国民楽派]]」と呼ばれる。 ==== 国民楽派 ==== {{Main|国民楽派}} 19世紀当時の[[ナショナリズム]]の高まりから、ロマン派音楽の一潮流としてロシアの[[ロシア五人組|五人組]]、北欧の[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]、[[チェコ]]の[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]などが活躍するようになる。一般的にはこれらを国民楽派と呼ぶが、少し遅れてスペイン、さらに遅れて中南米・ハンガリー・ルーマニア・アメリカでも同様の民族主義的傾向の音楽が見られる。 フランスでは国民楽派と同時期に[[国民音楽協会]]が組織され、民族主義的な音楽が追求され、[[印象主義音楽]]の土壌となっており、また[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]は民謡への関心を示し、同様に民族主義的傾向を見せている。ドイツ・イタリア・フランスは音楽の中心地と見なされ、周辺部の現象とされる国民楽派の呼称は使われないが、同時代現象と見なすのは容易であろう。 === 近代・現代音楽 === {{Main|近代音楽|現代音楽|20世紀のクラシック音楽}} 20世紀以降の音楽のうち、西洋[[クラシック音楽]]の流れをくむものを指す。実験的・前衛的な音楽としての形式を指す場合もある。20世紀初頭から[[第一次世界大戦]]開始まではロマン派の最終段階と考え、近代音楽の開始を[[第一次世界大戦]]の初めとする例も多い<ref group="注">ウルリヒ・ミシェルス編『図解音楽事典』[[角倉一朗]] 日本語版監修、[[白水社]]、1989年、ISBN 4-560-03686-1 の401頁では、1890年から1914年の[[第一次世界大戦]]勃発までを「世紀末」とし、ロマン派の最終段階としている。</ref>。また「近代音楽」と「現代音楽」の境界に関しても、[[第二次世界大戦]]・1950年・境界なしなど様々な考え方があり、この時代の音楽史の扱いに関して定説はないが、概ねどの考え方に従っても二度の大戦を基準に分けて考える場合が多い。 ==== 第一次世界大戦まで ==== [[グスタフ・マーラー|マーラー]]や[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]らが後期ロマン派音楽を継続する一方で、後期ロマン派音楽が表現の拡張を進めた結果、[[調性音楽|調性]]・[[機能和声]]・規則的リズムなどのそれ以前の西洋芸術音楽の語法の限界がより若い世代の作曲家達に意識され、様々な実験が始められた時代である。[[印象主義音楽]]は[[全音音階]]や平行和音や[[教会旋法]]の復活や非西欧要素を導入し、[[新ヴィーン楽派]]は[[無調音楽]]による[[表現主義]]へと進み、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]は原始的リズムの音楽的価値を見なおし、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]は民族音楽に可能性を見出した。またこの時代を通じて打楽器の種類が大幅に増え雑音(非楽音)を音楽の材料にする可能性を開いた<ref>[[岡田暁生]]『西洋音楽史「クラシック」の黄昏』中央公論新社、199、200頁。</ref>。 ==== 両大戦間 ==== 第一次世界大戦後、作曲家たちはよりラディカルにロマン派音楽の否定にかかった。オリジナリティの否定は型の復活や過去の作品の引用・パッチワークとなり、ロマン的な感情の否定は機械的リズムの多用を生み、また演奏スタイルも変化した。こうした傾向は[[新即物主義]]や[[新古典主義音楽|新古典主義]]と呼ばれる。一方、新ウィーン楽派は無調音楽の組織化のために[[十二音音楽]]へと進んだ。反面、部分的に近代的な語法や感覚を取り入れつつもロマン派音楽の延長線上にある音楽を書き続けた作曲家達も存在した。1930年代に入ると、[[ナチス・ドイツ]]は前衛的芸術全般を「[[退廃芸術]]」と呼び弾圧し、[[ソ連]]では[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]体制が「[[社会主義リアリズム]]」を推進するなど、新しい音楽を追究する動きは苦境に立たされた。 ==== 第二次世界大戦後 ==== [[第二次世界大戦]]は第一次世界大戦以上にヨーロッパに甚大な被害をもたらし、社会的・文化的な基盤を広範に破壊し、数多くのヨーロッパの音楽家が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命し、聴衆も作曲家も演奏家もそれまでになかったような物質的・精神的困難を抱え込んだ。 戦後の復興と共に、[[現代音楽]]・[[前衛音楽]]の闘志たちが活躍を始め、1950年代から[[ピエール・ブーレーズ|ブーレーズ]]、[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]らによる[[トータル・セリエリズム|セリー音楽]]、[[電子音楽]]や直観音楽、[[ジョン・ケージ|ケージ]]による[[偶然性の音楽]]、[[ピエール・シェフェール|シェフェール]]による[[具体音楽]]、1960年代から[[スティーヴ・ライヒ|ライヒ]]らによる[[ミニマル・ミュージック]]など、様々な実験、探求が行われたが、一般大衆の関心は既に第一次大戦後の頃から難解になったクラシック音楽の近現代新作よりも[[ポピュラー音楽]]に移りはじめており、またクラシック音楽を愛聴してきた裕福市民層も現代音楽・前衛音楽よりも古典派、ロマン派音楽の再演奏や録音を愛聴するようになった。 これらの実験が一通り終了した1970年代からの音楽は「[[ポスト・フェストゥム]]」「[[新ロマン主義音楽]]」「[[新しい単純性]]」など様々な名称で呼ばれ、これらを音楽史としてどのように把握するのかは未だ定説があるわけではない。現代音楽の代表的な作曲家には[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージ、リゲティ、クセナキスなどがいる。 == ポピュラー音楽史 == 「[[ポピュラー音楽]]」および「[[アメリカ合衆国の音楽]]」も参照のこと。 === ポピュラー音楽とは === 世界の多くの民族は宗教音楽・宮廷音楽・古典芸能の音楽などエリート文化としての音楽と共に、大衆音楽・民俗音楽のような一般大衆の楽しみのための音楽を持っている。音楽全体をクラシック(シリアス)とポピュラーに二分したり、クラシックとポピュラーと民俗音楽に三分したりするのは広く行われている<ref name="名前なし-1">『世界大百科事典』の「ポピュラー音楽」の項。</ref>。ここでは、三分する際の考え方に従い、アメリカを中心に世界的な広がりを見せている近代的な商業音楽をポピュラー音楽とし、その歴史に関しての概要を記載する。 === 初期アメリカ音楽の状況 === アメリカは「人種のるつぼ」「人種のサラダ」などといわれるほどの移民の国である。[[クリストファー・コロンブス]]のアメリカ上陸を発端とした移民は17世紀ごろより盛んとなり、ヨーロッパ各国から多くの移民が流入した。主に奴隷として、カリブ海地域から北米に連れて来られた黒人もおり、時代が新しくなると中南米からの移民も増えてくる。数は少ないがアジア系の移民もおり、アメリカではこうした異なるルーツを持つ人々がそれぞれ固有の文化を持ち込んで暮らしていた。 ヨーロッパでは資本主義の興隆とともに多量の労働者が都市に流入し、19世紀後半には余暇に音楽を楽しむようになっていた<ref name="名前なし-1"/>。パーラー・ミュージック(応接間の音楽)と呼ばれる平易な伴奏による歌がホームパーティなどで中産階級女性によってピアノやギターで伴奏されて歌われ、現在では各国民謡として知られる<ref name="名前なし-2">『ポピュラー音楽の世紀』から。</ref>。[[ミュージックホール]](酒色を伴う男の憩いの場で行われる演劇)での歌や酒場・カフェで歌われるシャンソンも人気を集めていた。コミック・オペラや[[オペレッタ]]なども、この頃に名作が数多く書かれ、人々の話題の種となっていた。社交ダンスも盛んで、そのための音楽も良く演奏されていたようである。こうしたヨーロッパの大衆音楽は、そのままアメリカの都市部に持ち込まれ、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つとなっている<ref name="名前なし-1"/>。 アメリカの農村部では、ヨーロッパの民俗音楽がそのまま持ち込まれていた。アメリカへの移民は、イギリス・ドイツ・アイルランド・イタリア・ポーランド・ロシア・ユダヤなど多くの民族にまたがっているが、当初は持ち込んだ自民族の音楽をそのまま行っていたようである。こうしたヨーロッパ各国民謡も、アメリカポピュラー音楽のルーツとなっている。 北米の黒人奴隷の多くは、カリブ海地域から連れて来られており、アフリカを離れて100年ほど経っている<ref name="名前なし-3">『世界大百科事典』の「ジャズ」の項。</ref>。彼らのルーツは西アフリカにあり、ポリリズムを多用したホットなリズムの感覚は西アフリカに端を発するが、環境の厳しいカリブ海地域で白人と協力しながら厳しい労働をするうち、白人と黒人の音楽は混交し、[[ハバネラ]]などカリブ海地域の魅力的なジャンルを生み出した<ref name="名前なし-2"/>。南米でも同様に白人・黒人の音楽の混交が見られ、[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]や[[タンゴ]]が生まれている。このような、黒人と白人の混交音楽も、アメリカポピュラー音楽のルーツの一つである。 === ポピュラー音楽以前 === こうした、バラバラに持ち込まれた様々な音楽が、アメリカと言う地で様々な混交と変化を遂げ、アメリカ音楽を形成し始める。 ==== 初期のアメリカオリジナル音楽 ==== 当初はヨーロッパの音楽をそのまま行っていたアメリカだったが、1750年頃にアメリカ東海岸の讃美歌の世界でアマチュア作曲家がオリジナルのものを作る動きが出てくる。この動きは一時下火になるが、やがてアメリカ南部へ伝わり、ゴスペルに良く似た覚えやすいリフレインを持つ賛美歌が誕生した。有名な「[[アメイジング・グレイス|アメージング・グレース]]」は1800年代初めのこの頃作られたものと言われている<ref name="名前なし-4">『Encarta2005』の「アメリカ音楽」の項。</ref>。 ==== 劇場音楽とミュージカル ==== 都市部ではヨーロッパの大衆音楽がそのまま持ち込まれていたが、そのうちミュージックホールは[[ミンストレル・ショー]](ミンステロールとも表記、白人が黒人を演じる差別的な喜劇)に姿を変え、旅周りの芸能グループが[[馬車]]を仕立てて村から村へ、町から町へ巡業を行って人気を集めた。貧しい白人新移民が、解放奴隷の黒人たちに対して持った不満が背景にあるとされる。こうした中から[[スティーブン・フォスター|フォスター]]が出て、魅力的なメロディと「フック」(印象的なサビ)が後の多くの作曲家に参考にされ、後にアメリカ音楽の父と呼ばれる<ref>『ポピュラー音楽の世紀』および『Encarta2005』の「ポピュラー音楽」の項。</ref>。 ==== 民族を超えた混交の始まり ==== 農村部では、アメリカ南東部のアパラチア山脈周辺でイギリスやアイルランドの民謡や舞曲がアメリカの音楽の下地となっていった。これらは[[フィドル]](ヴァイオリン)やギターで伴奏されていたが、やがて黒人音楽との接触から[[ブルース]]の感覚や[[バンジョー]]というアフリカ起源の楽器を取り入れたり、スイスの[[ヨーデル]]やチェコの[[ポルカ]]の要素を取り入れたりして、オールドタイムや[[ブルーグラス]]、ヒルビリー、[[カントリー・ミュージック|カントリー]]などと呼ばれるジャンルのもとになっていく<ref>『世界大百科事典』の「カントリー・ミュージック」の項、『Encarta2005』より「カントリー・アンド・ウエスタン」の項。</ref>。 黒人たちには18世紀後半あたりからキリスト教が普及し、黒人たちも讃美歌で礼拝をおこなうようになったが、彼ら固有の音楽的な伝続からか、活気あるリズム・交互唱([[コールアンドレスポンス]])・叫ぶような唱法など、相当荒々しい形で礼拝をおこなっていたようである<ref>『世界大百科事典』の「黒人霊歌」の項。</ref>。1863年の奴隷解放以後には、そこから[[霊歌|黒人霊歌]]と呼ばれるジャンルが生まれるが、これは白人がリーダーになってヨーロッパの讃美歌風の和音をつけ、楽譜として売り出したものであり、多くの曲が知られているが純粋に黒人のものとは言えない。それに対して黒人のリズム感や叫ぶような唱法を特徴とする歌は[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]と呼ばれるようになる<ref>『世界大百科事典』より「ゴスペル・ソング」の項。</ref>。同じく奴隷解放後には、南部農業地帯の黒人たちが抑圧の中で味わった個人的感情を呟くように吐き出す歌としてブルースが発生し、ギターの伴奏を伴う中でヨーロッパの和声構造を身につけていった<ref>『世界大百科事典』の「ブルース」の項。</ref>。 === ポピュラー音楽の誕生 === <ref group="注">この項は全般に『世界大百科事典』と『Encarta2005』の「ポピュラー音楽」の項による。</ref> {{See also|ティン・パン・アレー}} [[ニューヨーク]]には楽譜出版会社が集まり、パーラーミュージックを背景に利益を得ていたが、1880~90年代に音楽を商品化するノウハウを確立する。この商品化のシステムでは、最初から流行しそうな曲を作詞家作曲家に書かせるための〈プロデュース〉と、それを多くの人に覚えてもらい流行させるための〈プロモーション〉という二つの作業が重要なポイントであった。プロモーションがうまく行くよう、その曲を人気芸人に歌ってもらい、それに対して謝礼を支払うのを〈ペイオーラpayola〉と呼んだ。こうした手口によって1880~90年代に商業活動の基盤を確立したアメリカの楽譜出版業界を〈[[ティン・パン・アレー]]Tin Pan Alley〉と言う。直訳すれば「錫鍋小路」となり、それぞれの会社で{{要出典|date=2018年6月3日 (日) 04:30 (UTC)|プラッガー}}と呼ばれる人が実演を伴って販売を行っていたため大変にぎやかだったことからついた名前である。後に有名になった歌手もプラッガーをやっていた人も居る。 曲は8小節×4行の32小節が標準で、ティン・パン・アレーの出版社が楽譜を売り、レコード会社はオーケストラ伴奏で録音し、片面1曲ずつのシングル盤として売り出すのが当時の典型的な発表方法だった。このような形の音楽がポピュラー・ソングと呼ばれ、このティン・パン・アレーによって生産される音楽が「メイン・ストリーム」(主流)音楽として幅を利かせた。このようなティン・パン・アレーとポピュラー・ソングの誕生を持って、今日言われるポピュラー音楽が誕生したと言うことができる。 ティン・パン・アレー流の商業主義路線はアメリカのポピュラー音楽の特徴で、ヨーロッパのように国民の大多数に共通の文化基盤が存在しないアメリカでは、自然発生的に何かの音楽が大流行と言うことは大変起こりにくく、楽譜会社・のちにはレコード会社が企画してはやらせる音楽がメインという状況が続いていく<ref>『ポピュラー音楽の世紀』より。</ref>。もちろん意図しないところから意図しない曲が大流行することはあり、またティン・パン・アレー側の企画も大外れする場合も多く、常にうまく行っているわけではなかったが、ニューヨークの音楽会社が商業的に流通させるのがアメリカのポピュラー音楽だ、と言う流れはこの頃に確立した。時にはハワイや中南米から植民地型の混交音楽を輸入し、大衆に飽きられないように活力を得るなどのことも行われた。実際、アルゼンチンタンゴの最盛期は1920~30年で、ティン・パン・アレーの最盛期と同じ時期である。 その頃、ミンストレルショーに代わって[[ヴォードヴィル]]という小さな劇場が都会にできた。{{要出典|date=2018年6月3日 (日) 04:30 (UTC)|ヴォードヴィルは日本語で「寄席」と訳されているが、日本の寄席とは少し違い、音楽はもちろん、[[サーカス]]に似た曲芸が行われたり、有名な元野球選手などが出演していたこともあり、日本の樽回し(横になって足で樽を回す曲芸)も出演していた。ドアープライズ(入場のときもらえるおまけ)には、婦人服の型紙や驚くことに石炭一年分などがあった}}。こうしたヴォードヴィルではティン・パン・アレーがつくったポピュラー・ソングが全米で巡業され、メイン・ストリームの音楽を大いにアメリカ中に流行らせた。これらの家族で楽しめる娯楽場をアメリカで提供した一人に、トニー・パスター([[:en:Tony Pastor]]。ジャズバンドのトニー・バスターとは別人。トニー・パスタとも表記。)がいる<ref>『Encarta2005』の「ボードビル」の項。</ref>。 ティン・パン・アレーは、1920~30年代に全盛期を迎えた。当時のヒット曲はほとんどすべてニューヨークを本拠地とする一握りの作曲家と作詞家がつくりだしていた。[[ジョージ・ガーシュウィン]]と[[アイラ・ガーシュウィン|アイラ・ガーシュウイン]]、[[リチャード・ロジャース (作曲家)|リチャード・ロジャース]]と[[オスカー・ハマースタイン2世|オスカー・ハマースタイン]]、同じくロジャースとロレンス・ハートなど、作曲家と作詞家は多くの場合コンビを組んで活動した。ヴォードヴィルにかわって大衆芸能の王座についた[[ブロードウェイ・シアター|ブロードウェー・ミュージカル]]のほか、ダンス・オーケストラの専属歌手も、ティン・パン・アレーの歌の普及に貢献した。先に挙げたロジャースやガーシュウィンも当然多くのミュージカルをのこしている。 === ジャズの起こり === <ref group="注">この項はその多くを『世界大百科事典』と『Encarta2005』の「ジャズ」の項に負っている。そうでない記載について出典を示す。</ref> {{See also|ジャズ}} 20世紀初めの10年ほど、黒人音楽の二つのスタイルであるラグタイムとブルースが商業的にヒットしていた。ラグタイムはシンコペーションを大量に含む音楽であり、ミンストレル・ショーの歌を母体に発展してきた<ref name="名前なし-4"/>。1900年前後に活躍していた[[スコット・ジョプリン]]という黒人ピアニストが、1899年に「メイプル・リーフ・ラグ」を発表し、1902年には「[[ジ・エンターテイナー]]」を発表している。彼は[[ラグタイム]]の王様と呼ばれるようになり、このラグタイムが一世を風靡した。[[アービング・バーリン]](Irving Berlin)のアレキサンダーズ・ラグタイムバンドという曲は(1911)ラグタイムではないが、ラグタイムを有名にしたといわれている。 19世紀末にアメリカで一番有名だった音楽家は、「行進曲王」の名で世界に知られた[[ジョン・フィリップ・スーザ]]だった<ref name="名前なし-4"/>。アメリカの吹奏楽は南北戦争の頃に盛んになり、19世紀後半には博覧会場や公園などで演奏する商業バンドが発達した<ref>『Encarta2005』の「吹奏楽」の項。</ref>。世界的に見ても19世紀末は吹奏楽熱が最高潮に達した時期である<ref name="名前なし-5">『世界大百科事典』の「吹奏楽」の項。</ref>。スーザはそうした中から現れて人気を博した。アメリカの吹奏楽はアマチュアにまで流行を見せ、20世紀初頭にはダンス・バンドも大流行している<ref name="名前なし-5"/>。 1900年代には、ニューオーリンズの元奴隷の黒人たちが始めたブラスバンドが不思議とスウィングするリズムがあるとして評判になり、白人のバンドに真似されたり、そのままのスタイルでダンスホールに雇われたりするようになった。これがジャズの誕生である。ブルースとラグタイムの要素を含んでいるというのが良く言われるところである。 1910年代から1920年代にかけて、産業構造の変化により南部から北部への人口移動が起こり、ジャズメンの多くはシカゴに移住した。こうした中から天才トランペット奏者の[[ルイ・アームストロング]]が台頭し、全てのジャズプレイヤーとアレンジャーに絶大な影響を与えた。この期間を[[ジャズ・エイジ]]と呼んでいる。 ジャズはやがて白人に真似られるようになり、白人だけの楽団なども出てきたが、これはスウィング・ミュージックと別な名称で呼ばれた。ビッグバンドスタイルが確立され、ティン・パン・アレーもジャズの取り込みにかかり、多くのレコードが人気を集め、ジャズとスウィング・ミュージックは第二次世界大戦前のメインのジャンルのひとつとなった。 === ヒルビリー登場 === <ref>『世界大百科事典』の「カントリー・ミュージック」、『Encarta2005』の「カントリー・アンド・ウエスタン」の項より</ref>1920年代、レコード会社が「ヒルビリー」と言うレーベルで、南部の白人大衆向けにアメリカのフィドル音楽と民謡の音楽を売りだした。アメリカ民謡に起源を持つメロディと、孤独、貧困、望郷など同時代のメイン・ストリームが取り上げないテーマを含んだ歌詞が共感を呼んだ。映画の誕生後は西部劇でカウボーイ姿で歌って人気を得る者が多く出て、西部開拓時代への懐古と田舎の生活への郷愁がこのジャンルの特徴となり、第二次世界大戦前後の愛国心の高揚期にこの種の音楽は最盛期を迎えた。ヒルビリーと言う語はもともと南東部山岳地帯出身者に対する蔑称だった<ref>『世界大百科事典』の「ヒルビリー」の項</ref>ため、後にカントリー・アンド・ウエスタンとレーベル名を変えることになる。 === 新技術とポピュラー音楽 === ==== レコード ==== <ref>『世界大百科事典』の「レコード」の項。</ref> 楽譜中心だった音楽を伝える媒体が、1877年に[[トーマス・エジソン|エジソン]]が[[レコード]]を発明したことで変化した。当時はレコードは平面の円盤ではなく、[[シリンダー]](トイレットペーパーの芯のような形態)であった。当時の吹き込みは電気的なものでなく、大きなメガホーンに向かって音を吹き込むことによってなされた。ミキサーもなかったため、音のバランスをとるために隣の部屋から演奏する楽器もあったようである。エジソンはレコード会社を設立し、多くの歌手がヴォードヴィルで流行った昔の曲を吹き込んだ。 ==== ラジオ ==== 音楽媒体の次の大きな変化は、[[ラジオ]]の誕生である。{{要出典|date=2018年6月3日 (日) 04:30 (UTC)|[[レジナルド・フェッセンデン]]は1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶をラジオ放送。この日、レコードで[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]作曲の「クセルクセスのラルゴ」を、そして自身のバイオリンと歌で“O Holy Night”をそれぞれ流し、聖書を朗読した。この放送はあらかじめ無線電信によって予告されたもので「世界初のラジオ放送」だっただけでなく「最初のクリスマス特別番組」でもある。また、フェッセンデンは「史上初のラジオアナウンサー・プロデューサー」とも言える}}。それ以後、実験・試験的なラジオ放送が世界各地で行われるようになるが、最初の正式な公共放送(かつ商業放送)は、それから14年経った1920年11月2日にアメリカ・[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]で放送開始されたKDKA局であった<ref group="注">AM放送によるもの。最初のニュースは大統領選挙の情報で、ハーディングの当選を伝えた。</ref>。 {{要出典|date=2018年6月3日 (日) 04:30 (UTC)|当時のラジオの出演はノーギャラだったが、歌手はラジオで歌えれば有名になるチャンスが与えられるので競って出演を望んだ。またラジオの出現でパーラーコンサートにも微妙な変化が起こった。ラジオから流れるビッグバンドの演奏で、家庭でもダンスを楽しむことができるようになったのである}}。 ==== 映画 ==== <ref>『世界大百科事典』の「映画音楽」「ミュージカル映画」、『Encarta2005』の「映画音楽」の項より</ref>映画は19世紀末に発明され、サイレント映画の時期から生演奏をつけての上演は行われていたが、1927年のトーキー映画の登場により、映画に音楽をつけることが急に不可欠になり、映画音楽が探求され始めた。アメリカのハリウッドでは当時音楽界の主流だった後期ロマン派音楽を映画音楽の中心に据え、シンフォニック・スコアが生まれた。と同時に、[[ミュージカル映画]]も誕生し、不況や戦争で暗い庶民生活に夢を与えた。 ==== パブリック・アドレス ==== {{See also|Public Address}} また、[[マイクロフォン]]の登場が、後のアメリカンポピュラーソングに大きな変化をもたらせた。マイクの出現で、吐息までが聴衆に聞こえるようになったことにより、それまでの、マイクなしでオペラのように朗々と歌い上げる方法以外に、聴衆一人一人にささやきかける歌も歌われるようになった。このような歌唱法をクルーニング唱法と呼び、[[ビング・クロスビー]]がその草分けである<ref>『Encarta2005』の「ポピュラー音楽」の項、『大百科事典』の「クルーナー」の項。</ref>。{{要出典範囲|date=2018年6月3日 (日) 04:30 (UTC)|しかし当時、クルーナーという言葉は必ずしもそれを良しとしなかった向きもあり、ちゃんと歌えない歌手を軽蔑的にも使われた言葉でもあった。}} === ロック音楽から現在まで === <ref group="注">この項の多くを『世界大百科事典』『Encarta2005』の「ロック」の項に負う。</ref> {{See|ロック (音楽)}}第2次世界大戦後、ティン・パン・アレーは流行を先導することができなくなり、自発的な流行の後追いとなる<ref name="名前なし-1"/>。戦時統制でビッグバンド編成が組めなくなったジャズは技巧的なソロを聴かせる[[ビバップ]]に変化して行ったが、以前のような広がりを失っていった<ref name="名前なし-3"/>。こうした中、ブルースにエレキ・ギターを導入してビートを強調しつつジャズとゴスペルの要素を取り入れた[[リズム・アンド・ブルース]]が黒人の間で生まれると、黒人のみならず白人の若者もこれを熱狂的に受け入れる現象が見られた。こうしたリズム・アンド・ブルースをベースに、カントリー・ミュージックの要素、ポピュラー音楽の要素が融合された音楽が1950年代半ばに白人の間に生まれ、[[ロックンロール]]と呼ばれた。後に短縮形である[[ロック (音楽)|ロック]]も使われた。最初期のロックの巨人として[[エルヴィス・プレスリー]]がいる。 ロックは熱狂的に若者に受け入れられたが、人気ディスクジョッキーとレコード会社の癒着が明るみに出たことで、「結局は商売か」という失望を生み、1960年代に入ると急速に失速し、アメリカ民謡やカントリー・ミュージックに起源のある[[フォークソング|フォーク・ソング]]の流行を見た。しかしこうした中、イギリスの[[ビートルズ]]や[[ローリング・ストーンズ]]が自作曲を武器に絶大な支持を得て、ロックは再び息を吹き返す。 ロックの流行の原動力は、アメリカ社会の持つ白人と黒人の対立構造、そして戦争後に訪れる対立解消への衝動だった。白人の若者の欲求不満を解消できる文化要素は白人の文化の中にはすでになく、黒人底辺文化の価値観を白人若年層が大幅に取り入れたという、前例を見ない先鋭的な現象がロックの流行だった。60年代は世界的に「怒れる若者」の時代であり、反戦と大人や社会への反抗が吹き荒れた時代であり、ロックの流行は、その先取りとも言えるものだった。 1960年代後半には、ロックは二度目の全盛期を迎え、様々なジャンルと融合の試みが行われた。[[サイケデリック・ロック]]、[[プログレッシブ・ロック]]、[[フォークロック|フォーク・ロック]]、[[ブルースロック|ブルース・ロック]]、[[ハードロック|ハード・ロック]]などはこの頃生まれたものである。初めは白人貧困層の音楽だったロックはこの頃には知的な色合いも帯び、より広い社会的影響力を獲得していた。[[ピンク・フロイド]]、[[エリック・クラプトン]]、[[レッド・ツェッペリン]]、[[ディープ・パープル]]など、現在でも楽曲が良く使われる「ロックの古典」のようなグループはこの頃のものである。 こうしたロックは、世界中のポピュラー音楽に影響を与え、英米以外の各国でもロックの後追いのようなジャンルが生まれるに至った。目立つものだと、フランスではそれまでのシャンソンとは明らかに異なる{{仮リンク|イェイェ|en|Yé-yé|fr|Yéyé}}が生まれ<ref name="名前なし-6">『Encarta2005』の「ユーロ・ポップ」の項。</ref>、日本でも[[グループ・サウンズ|グループサウンズ]]や[[ニューミュージック|ニュー・ミュージック]]が生まれている<ref>『Encarta2005』の「日本の流行歌」の項。</ref>。ただし東側諸国の多くはロックを西側の退廃音楽として弾圧したため、ロックの影響は地下化した<ref>History of Rock Music in Russia http://www.russia-ic.com/culture_art/music/380/<nowiki/>、Beat and Rock Music in Hungary http://www.ce-review.org/00/12/bladerunner12.html<nowiki/>など</ref>。 しかし1970年代に入ると、オイルショックによる不況・アメリカの音楽産業の集中化・売れる歌手だけを売ろうとする方針などが組み合わさり、再度商業主義路線に回帰することとなる。ディスコはその代表例。商業主義に飽き足らなかった若者は[[パンク・ロック]]を支持したが、[[セックス・ピストルズ]]の解散に伴いパンクも終焉を迎えた。ハード・ロックからは[[ヘヴィメタル|ヘヴィ・メタル]]、パンク・ロックからはニューウェーブが生まれ、それなりの支持を得てはいたが、レコード会社の意図通りに売れる曲を作るロックの路線は「産業ロック」と揶揄され、全体として音楽産業が大きく衰退する結果となった。 こうした中、1980年代には、「カリスマになれる能力のある歌手だけを[[ミュージック・ビデオ|プロモーション・ビデオ]]を駆使して全面的に売り出す」と言う方針が確立され、[[マイケル・ジャクソン]]、[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]などのカリスマが現れ、音楽産業は再び息を吹き返した。[[ヘヴィメタル|ヘヴィ・メタル]]もミュージック・テレビジョンの後押しを受けて幅広い社会階層から人気を集め、また[[コンパクトディスク|CD]]の登場は音楽全般の需要を後押しした。この傾向は90年代まで変わらず、80年代初めの[[ワールドミュージック|ワールド・ミュージック]]の流行・80年代半ば以降の[[ラップ]]の台頭など、非白人文化の刺激は見られたものの、それ以降は新たなジャンルは見られず、ポピュラー音楽全体が統合・成熟の時期に入ったと言える。80年代半ば以降は、東欧での民主化運動や冷戦崩壊・ソ連崩壊に伴い、東側陣営の音楽も聞かれるようになり、統合の対象が東側世界まで拡大した<ref name="名前なし-6"/>。 1990年代は空前のCDバブルから始まるが、95年のウインドウズ95発売に伴うインターネットの爆発的な普及やその後の携帯電話の普及は、それまでの音楽受容のあり方を激変させた。音楽はインターネットや携帯電話と消費において競合するようになり、2000年代以降はCDの売り上げが世界的に激減した。 2008年にスウェーデンの企業・スポティファイ・テクノロジーが、音楽[[ストリーミング]]サービス『[[Spotify]]』を開始した。背景には、海賊版や違法音楽データの横行があり、その問題を解決することが目的であった。2011年にはアメリカ進出を果たし、2017年に全世界での有料会員数が5000万人、2019年には1億人を突破している。 2010年代以降は、ヒップホップやR&Bがチャートを席巻し、2017年にはアメリカの音楽売上でロックを超え、最大の音楽ジャンルとなった。 == 東洋音楽史 == === 漢字古典籍に遺る音楽神話 === *[[歌舞]]の発明者―『[[葛天氏]]』治めずして治まった時代の帝王。縄、衣、名の発明者でもある。 *[[琴]]瑟の発明者―『[[伏羲]]』[[三皇]]の初代皇帝。魚釣り、結縄、魚網、鳥網、八卦の発明者でもある。 *[[笙]][[簧]]の発明者―『[[女媧]]』天を補修し人類を創造したと女性。 [[江戸時代]]まで[[総検校]][[塙保己一]]らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の葛天氏の氏族が歌舞や楽器、楽譜を発明したとされる。葛天氏の氏族の歌は千人で合唱して万人を和し、山を震動させて川を沸き立たせたと『[[史記]]』に記されている<ref>[[史記]]「聴葛天氏之歌、千人唱、万人和、山峰為之震動、川洛為之蕩波」</ref>。[[塙保己一]]は、撚糸である縄や結縄の発祥を、日本列島から出土する土器や[[房総半島]][[飯岡]]の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を[[群書類従]]に編纂した。 歌舞、弦楽器、管楽器の発生については、『[[呂氏春秋]]』‐古楽や『[[詩経]]』、他、中国の古文書に記されている。 [[音律]]は、『[[呂氏春秋]]』によると、[[黄帝]]の臣下で楽官を司ったとされる{{仮リンク|伶倫|zh|伶倫}}が、[[黄帝]]の命令で大夏の西へ行き、嶰谿之谷の竹を取り、節を断ち落として三寸九分の管を吹き、[[鳳凰]]の鳴き声を聞いて12の音律を定めたことが起源とされる。 == 日本音楽史 == 日本音楽([[邦楽]])は多くの種類の音楽が混在しており、多岐にわたる音楽の歴史を通史としてまとめることが難しい一面もある。その中においても、それぞれの音楽のつながりや、通史としての日本音楽史の研究が進められている。 === 概略史 === {{節スタブ}} 先史・古代における日本列島の楽器・音楽については『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』などの文書のほか、[[考古学]]的な考察によっても研究されている。[[縄文時代]]には、楽器として使用されたとみられる土製品や[[土鈴]]などが存在したと考えられ、これらは装飾的な[[縄文土器]]とともに祭祀に用いられていたとみられている。[[弥生時代]]には、青銅製の[[銅鐸]]が存在し、埋納され祭祀の中心であったと考えられているほか、同時代のものとして[[和琴]]などの楽器も出土している。 5世紀ごろから8世紀ごろにかけては、[[朝鮮半島]]・[[中国]]などの外国から音楽が輸入された。701年の[[大宝律令]]にて[[雅楽寮]]が設立されたが、その人員配置は、設立当時の和楽(日本古来からあった音楽)中心から、徐々に[[唐楽]]・[[三韓楽]]といった外来音楽中心へと変化しており、外来音楽が浸透していった一面を表している。 [[平安時代]]初期には朝鮮半島の国家制度が変わり、また[[遣唐使]]が停止されたことにより、外国からの音楽輸入がほぼ途絶えた。これと、平安朝に入って約50年ごろに行われた楽制改革などにより、外来音楽も日本古来の音楽とともに、当時の日本に合う形へと整理されていった。日本式の[[雅楽]]が成立するのはこの時期である。 一方、[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]には古来からの日本音楽の流れを汲んだ音楽が主流になった。この時代に大成したものの中に、[[猿楽]]、そしてそこから発展した[[能]]・[[狂言]]などがある。以降、[[キリシタン]]による[[オラショ]]などの形で[[西洋音楽]]が一部入り込んだものの、基本的には[[江戸時代]]の[[鎖国]]政策もあいまって、日本独自の音楽、いわゆる「[[邦楽]]」が進化を遂げた。[[俗楽]]とも呼ばれる[[浄瑠璃]]、[[地歌]]、[[長唄]]、[[筝曲]]などが発展する。 [[明治時代]]以降、[[学制]]頒布の後に[[音楽取調掛]]が設立されるなど、国策として西洋音楽輸入がなされた。この動きが始まった当時は、庶民を含めて邦楽が根付いていたが、徐々に、西洋音楽をたしなむ国民が多数を占めるようになった。明治後期には[[瀧廉太郎]]により日本語の[[歌曲]]やピアノ曲が作曲され、日本人による西洋音楽の作曲が行われるようになった。日本のポピュラー音楽・[[大衆]]歌曲である[[流行歌]]・[[歌謡曲]]もつくられいく。 大正、昭和期にかけて、[[山田耕筰]]、[[信時潔]]などの手で日本の民族性や[[近代音楽]]の語法なども取り入れつつ、より本格的な西洋音楽が作曲されるようになった。 戦後には[[松平頼則]]や[[柴田南雄]]らが[[十二音技法|音列技法]]をはじめとして[[現代音楽]]を取り入れたほか、欧米のポップミュージックを導入しながら、[[民謡]]の音階なども取り入れられた[[演歌]]なども一世を博した。 === 日本の音楽史家 === * [[瀧廉太郎]] * [[山田耕筰]] * [[團伊玖磨]] * [[田辺尚雄]] - [[吉川英史]] - [[小泉文夫]] == その他の地域の音楽史 == {{節スタブ}} {{See|民族音楽|音楽民族学|音楽のジャンル一覧}} === 主なその他の地域の音楽史家 === *[[岸辺成雄]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == === 全般 === * [[久保田慶一]] 他『はじめての音楽史』音楽之友社(初版1996年、増補改訂版2009年)。ISBN 978-4-276-11016-8 * 『世界大百科事典 第2版』日立デジタル平凡社、1998年 * 『Encarta2005 総合大百科』Microsoft, 2005年 === 西洋音楽史 === * グラウト/パリスカ『新 西洋音楽史(上・中・下)』音楽之友社、1998年。ISBN 4276112125 * [[岡田暁生]]『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』中公新書、2005年。ISBN 4121018168 === ポピュラー音楽史 === * [[中村とうよう]]『ポピュラー音楽の世紀』岩波新書、1999年。ISBN 4004306361 * [[鈴木道子 (音楽評論家)|鈴木道子]]『アメリカン・ミュージック・ヒーローズ ~米国ポピュラー音楽の歴史~』ショパン、2005年。ISBN 4-88364-201-1 * 奥和弘『アメリカン・ルーツ・ミュージック』音楽の友社、2004年。ISBN 4-276-23657-6 === 日本音楽史 === * [[吉川英史]]『日本音楽の歴史』1965年、創元社。ISBN 4-422-70003-0 == 関連項目 == * [[音楽学]] == 外部リンク == * [http://musiquest.la.coocan.jp/2009historywestmusic.pdf 西洋音楽史概説AB] * {{Wayback|url=http://www2m.biglobe.ne.jp/~m-souda/mysouda/music/music.htm |title=音楽史 |date=20040506072816}} * [http://sound.jp/az1/music_history.html 音楽の歴史] * {{Wayback|url=http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/1960-1999.htm |title=ロック世紀の年代記 |date=20010627192147}} {{Music-stub}} {{音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おんかくし}} [[Category:音楽史|*おんかくし]] [[Category:音楽理論]] [[Category:音楽学]] <!--[[Category:文化史]]--> [[de:Epoche (Musik)]]
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東京三菱銀行
株式会社東京三菱銀行(とうきょうみつびしぎんこう、英語: The Bank of Tokyo-Mitsubishi, Ltd.、略称:BTM)は、かつて存在した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)傘下の都市銀行。2006年にUFJ銀行と合併して三菱東京UFJ銀行となり、2018年に行名を三菱UFJ銀行に改称した。 1996年4月1日に、三菱グループ(旧三菱財閥)の三菱銀行と、外国為替専門銀行の東京銀行が合併して誕生。SWIFTコードは東京銀行を承継した。 本店は東京都千代田区丸の内にあった。三菱グループを中心とする安定した国内取引先と、旧東京銀行(東銀)の海外拠点を持ち合わせ、融資に厳格であったことから不良債権比率は都市銀行のなかで最小であった。金融システム危機の際も大蔵省の経営関与に攻防し、その際に注入された公的資金を金融再生プログラム真っ只中の2003年1月に完済した。みずほFG・三井住友銀行などがメガバンク化によって膨れ上がった不良債権処理に追われる中、もっとも強い都市銀行であるという評価がなされることが多かった。その一方で、前身行の大口取引先である兼松や三菱自動車に対しては役員を送り込み、経営再建を支援している。 300余りの国内店舗のほとんどは、三菱銀行時代から東京都・神奈川県を中心とした首都圏に偏重していた(MTFG2001年ディスクロージャー誌)。リテール部門では1999年8月に開始した「東京三菱ダイレクト」による24時間対応の外貨預金・投資信託取引や、残高段階型スーパー普通預金をベースにした「メインバンク総合サービス」、当初からセブン銀行(アイワイバンク銀行)とイーネット両陣営への参入、7大疾病保障付き住宅ローン(ビッグ&セブン)、スーパーICカード発行など先見の明を見せたり、個人向けローン金利を他の都市銀行より低く設定していた。その一方でUFJ銀行との合併まで東京都心以外の多くのATMは平日19時・土休日17時までの稼働であったり、ジェイデビットやフラット35を扱わない(三菱東京UFJ銀行より取扱開始)など、やや旧態化した一面もあった。 2005年10月1日に三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)とUFJホールディングス(UFJHD)が合併して誕生した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)の傘下となった。当初、MTFGとUFJHDの合併に合わせてUFJ銀行と合併する予定であったが、みずほ銀行のシステムトラブルの実例から勘定系システム統合の体制を整える準備期間が必要と判断され延期となり、2006年1月1日付でUFJ銀行と合併し、三菱東京UFJ銀行(現在の三菱UFJ銀行)となった。 旧三菱銀行と地理的に重複していた東京銀行(以下、東銀)の国内店舗・海外拠点は段階的に2004年頃までに旧三菱銀行側に吸収された(札幌は、旧東銀側が存続)一方、重複しない単独拠点(主に海外)についてはそのまま存続する形となっている。 旧東京銀行の本店営業部は「東京営業部」となり2004年11月に旧三菱銀行の本店あるいは日本橋支店に統合された。しかし、統合時に日本橋支店が元の東京営業部の建物に移転、MTFGプラザ(現:MUFGプラザ)として営業していた。なお、日本橋支店には、のちに旧UFJ銀行の室町支店及び日本橋中央支店が転入しブランチ・イン・ブランチとなっている。 現存する三菱UFJ銀行東京営業部は旧UFJ銀行東京営業部であるが、2013年に新丸の内支店(旧:東京銀行丸ノ内支店)とブランチ・イン・ブランチ化し、丸の内永楽ビルディングへ移転している。 東銀の国内店舗(場所)が三菱UFJ銀行にそのまま継承された例としては他に、札幌支店、成田空港支店、成田国際空港出張所、成田空港第2ビル出張所、新橋支店、渋谷明治通支店、新宿中央支店、横浜支店、関西空港出張所がある。現・三菱UFJ銀行大阪中央支店は旧三菱銀行大阪支店であるが、三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)発足直後の2006年2月20日までは、東京銀行大阪支店(のちの大阪淀屋橋営業部)の場所で営業していた。その名残で2018年8月に大阪営業部が現在地に移転(建て替えのため、現在地から旧三菱銀行大阪支店所在地に仮移転していた)するまで、大阪淀屋橋営業部跡地にATMコーナーが設置されていた。また、山口県内では東銀の下関支店がシーモール内に存在していたが、地理的な関係から三菱店の徳山支店(周南市)ではなく隣接県の北九州支店(北九州市)へ統合されている。また、成田空港第2ビル出張所、渋谷明治通支店、新宿中央支店については、後年近隣支店へのブランチ・イン・ブランチ化が行われている。。 外国為替銀行として金融債を発行することが許された旧東京銀行の流れを引き継ぎ、合併より6年間特例として金融債の発行が認められ、「東京三菱銀行債券取扱店舗」(主に東京銀行店の承継店舗)で扱っていたが、2002年3月28日以降、新規の売出しを停止している。 三菱UFJ銀行となった現在も未換金の現物保有者が存在するため償還業務は継続している。
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株式会社東京三菱銀行は、かつて存在した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)傘下の都市銀行。2006年にUFJ銀行と合併して三菱東京UFJ銀行となり、2018年に行名を三菱UFJ銀行に改称した。
{{Pathnav|三菱UFJフィナンシャル・グループ|三菱UFJ銀行|frame=1}} {{出典の明記|date=2023年12月}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社東京三菱銀行 |英文社名 = The Bank of Tokyo-Mitsubishi, Ltd. |ロゴ = [[File:Bank of Tokyo-Mitsubishi logo.svg|250px]] |画像 = [[File:Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ 2018.jpg|300px]] |画像説明 = [[三菱銀行本店 (建築物)|東京三菱銀行本店ビル]]<br />(現:[[三菱UFJ銀行]]本店ビル) |種類 = [[株式会社]] |市場情報 = {{上場情報|東証1部|8315|1949年5月16日|2001年3月27日}}{{上場情報|札証|8315|1950年4月1日|2001年3月27日}} |略称 = 東京三菱、BTM |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 100-0005 |本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]二丁目7番1号 |設立 = [[1919年]]([[大正]]8年)[[8月15日]]<br />(株式会社[[三菱銀行]]) |業種 = 7050 |統一金融機関コード = 0005 |SWIFTコード = BOTKJPJT |事業内容 = [[普通銀行]]業務・[[外国為替]]業務 |代表者 = [[代表取締役]][[頭取]] [[畔柳信雄]] |外部リンク = [https://web.archive.org/web/20051231045151/http://www.btm.co.jp/ 公式サイト]<br />([[インターネットアーカイブ]]) }} {{基礎情報 銀行 |銀行 = 東京三菱銀行 |英名 = The Bank of Tokyo-Mitsubishi |統一金融機関コード='''0005''' |SWIFTコード='''BOTKJPJT''' |店舗数=国内'''267'''店<br />(2004年6月1日現在) |貸出金残高 = '''35'''兆'''957'''億'''9,000'''万円<br/>(2005年3月期) |預金残高 = '''53'''兆'''1,922'''億'''5,800'''万円<br/>(2005年3月期) |外部リンク = |特記事項 = }} [[File:Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ (Nihonbashi branch).jpg|thumb|200px|日本橋MUFGプラザ(旧:東京営業部、[[東京銀行本店 (建築物)|東京銀行本店]])<br />現:三菱UFJ銀行日本橋支店・室町支店]] '''株式会社東京三菱銀行'''(とうきょうみつびしぎんこう、{{Lang-en|The Bank of Tokyo-Mitsubishi, Ltd.}}、略称:'''BTM''')は、かつて存在した[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]](MUFG)<!-- 合併直前時点の親会社 -->傘下の[[都市銀行]]。[[2006年]]に[[UFJ銀行]]と[[合併 (企業)|合併]]して三菱東京UFJ銀行となり、[[2018年]]に行名を[[三菱UFJ銀行]]に改称した。 == 概要 == [[1996年]][[4月1日]]に[[三菱グループ]](旧[[三菱財閥]])の'''[[三菱銀行]]'''と、[[外国為替]]専門銀行の'''[[東京銀行]]'''が[[合併 (企業)|合併]]して誕生。存続会社は三菱銀行であり、[[統一金融機関コード|金融機関番号]](0005)や本店所在地([[東京都]][[千代田区]][[丸の内]])も三菱銀行と同じであるが、[[SWIFTコード]]は東京銀行を承継した。 [[三菱グループ]]を中心とする安定した国内取引先と、旧東京銀行の海外拠点を持ち合わせ、融資に厳格であったことから[[不良債権]]比率は都市銀行のなかで最小であった。[[失われた10年#金融システム危機|金融システム危機]]の際も[[大蔵省]]の経営関与に攻防し、その際に注入された[[公的資金]]を[[金融再生プログラム]]真っ只中の2003年1月に完済した。[[みずほフィナンシャルグループ|みずほFG]]・[[三井住友銀行]]などが[[メガバンク]]化によって膨れ上がった[[不良債権]]処理に追われる中、もっとも強い都市銀行であるという評価がなされることが多かった。その一方で、前身行の大口取引先である[[兼松]]や[[三菱自動車]]に対しては役員を送り込み、経営再建を支援している。<!--三菱UFJ銀行の項目に記載すべき [[2006年]][[1月1日]]に[[UFJ銀行]]との合併に伴い公的資金注入行に再転落したものの、同年[[6月9日]]に公的資金返済を完了させたと[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]のニュースリリースで発表された。--> 300余りの国内店舗のほとんどは、三菱銀行時代から[[東京都]]・[[神奈川県]]を中心とした[[首都圏 (日本)|首都圏]]に偏重していた(MTFG2001年ディスクロージャー誌)。リテール部門では1999年8月に開始した「東京三菱ダイレクト」による24時間対応の外貨預金・投資信託取引や、残高段階型スーパー普通預金をベースにした「[[メインバンク (三菱東京UFJ銀行)|メインバンク総合サービス]]」、当初から[[セブン銀行|セブン銀行(アイワイバンク銀行)]]と[[イーネット]]両陣営への参入、7大疾病保障付き[[住宅ローン]](ビッグ&セブン)、[[スーパーICカード]]発行など先見の明を見せたり、個人向けローン金利を他の都市銀行より低く設定していた。その一方でUFJ銀行との合併まで東京都心以外の多くのATMは平日19時・土休日17時までの稼働であったり、[[デビットカード|ジェイデビット]]や[[フラット35]]を扱わない(三菱東京UFJ銀行より取扱開始)など、やや旧態化した一面もあった。 [[2005年]][[10月1日]]に[[三菱東京フィナンシャル・グループ]](MTFG)と[[UFJホールディングス]](UFJHD)が合併して誕生した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)の傘下となった。当初、MTFGとUFJHDの合併に合わせて[[UFJ銀行]]と合併する予定であったが、[[みずほ銀行#2002年4月に旧みずほ銀行とみずほコーポレート銀行が引き起こしたトラブル|みずほ銀行のシステムトラブル]]の実例から[[勘定系システム]]統合の体制を整える準備期間が必要と判断され延期となり、[[2006年]][[1月1日]]付でUFJ銀行と合併し、'''三菱東京UFJ銀行'''(現在の[[三菱UFJ銀行]])となった。 == 東京銀行との合併に伴う処置 == === 拠点 === 旧三菱銀行と地理的に重複していた東京銀行(以下、東銀)の国内店舗・海外拠点は段階的に2004年頃までに旧三菱銀行側に吸収された(札幌は、旧東銀側が存続)一方、重複しない単独拠点(主に海外)についてはそのまま存続する形となっている。 旧東京銀行の本店営業部は「東京営業部」となり[[2004年]][[11月]]に旧三菱銀行の本店あるいは日本橋支店に統合された。しかし、統合時に日本橋支店が元の東京営業部の建物に移転、MTFGプラザ(現:[[MUFGプラザ]])として営業していた。なお、日本橋支店には、のちに旧UFJ銀行の室町支店及び日本橋中央支店が転入し[[ブランチインブランチ|ブランチ・イン・ブランチ]]となっている<ref group="注釈">室町支店は[[日本橋室町東地区開発]]、日本橋中央支店は日本橋一丁目中地区第一種市街地再開発事業に伴うもの。</ref>。 現存する三菱UFJ銀行東京営業部は旧UFJ銀行東京営業部であるが、2013年に新丸の内支店(旧:[[東銀ビルヂング|東京銀行丸ノ内支店]])とブランチ・イン・ブランチ化し、[[丸の内永楽ビルディング]]へ移転している。 東銀の国内店舗(場所)が三菱UFJ銀行にそのまま継承された例としては他に、札幌支店、[[成田国際空港|成田空港]]支店、成田国際空港出張所、成田空港第2ビル出張所、新橋支店、渋谷明治通支店、新宿中央支店、横浜支店、[[関西国際空港|関西空港]]出張所がある。現・三菱UFJ銀行大阪中央支店は旧三菱銀行大阪支店であるが、三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)発足直後の[[2006年]][[2月20日]]までは、東京銀行大阪支店(のちの大阪淀屋橋営業部)<ref group="注釈">東京銀行大阪支店は、東京三菱銀行発足と同時に'''大阪淀屋橋営業部'''へ改称され、90年代終盤に[[大阪三菱ビルディング]]から移転してきた東京三菱銀行大阪支店(旧:三菱銀行大阪支店)に統合された。その後、三菱東京UFJ銀行発足と同時に同支店は'''大阪中央支店'''に改称された。</ref>の場所で営業していた。その名残で2018年8月に大阪営業部が現在地に移転(建て替えのため、現在地から旧三菱銀行大阪支店所在地に仮移転していた)するまで、大阪淀屋橋営業部跡地にATMコーナーが設置されていた。また、山口県内では東銀の下関支店が[[シーモール下関|シーモール]]内に存在していたが、地理的な関係から三菱店の徳山支店(周南市)ではなく隣接県の北九州支店(北九州市)へ統合されている。また、成田空港第2ビル出張所、渋谷明治通支店、新宿中央支店については、後年近隣支店へのブランチ・イン・ブランチ化が行われている。<!-- https://map.bk.mufg.jp/b/bk_mufg/?t=itentogo -->。 === 金融債 === [[外国為替]]銀行として[[金融債]]を発行することが許された旧東京銀行の流れを引き継ぎ、合併より6年間特例として金融債の発行が認められ、「東京三菱銀行債券取扱店舗」(主に東京銀行店の承継店舗)で扱っていたが、[[2002年]][[3月28日]]以降、新規の売出しを停止している。 *割引東京三菱銀行債券「ワリトー」 *利付東京三菱銀行債券「リットー」 *利付東京三菱銀行債券「ハイジャンプ([[利子]]一括払)」 三菱UFJ銀行となった現在も未換金の現物保有者が存在するため償還業務は継続している。 == 沿革 == {{See also|三菱銀行|東京銀行}} [[File:History of MUFG Bank.jpg|thumb|銀行合併の沿革]] * [[1996年]](平成8年) **4月1日 - 三菱銀行が東京銀行を吸収合併し、'''株式会社東京三菱銀行'''に商号変更。 **12月27日 - ホームページ開設。 * [[1998年]](平成10年) - [[KICS (企業)|きょうと情報カードシステム]]加盟店でのKISC[[デビットカード]]サービス開始(現在は[[デビットカード#J-Debit|ジェイデビット]]へ移行済)。 * [[1999年]](平成11年)8月 - 東京三菱ダイレクト(現:三菱UFJダイレクト)開始。 * [[2001年]](平成13年) **1月 - スーパー普通預金([[メインバンク (三菱東京UFJ銀行)|メインバンク総合サービス]])発売。 **4月 - [[日本信託銀行]]・[[三菱信託銀行]]との[[株式移転]]により [[三菱東京フィナンシャル・グループ]] (MTFG) を設立し、その完全子会社となる。 * [[2001年]](平成13年) **8月 - [[アコム]]、三菱信託銀行、[[ディーシーカード]]及び[[ジャックス (信販)|ジャックス]]と共同出資で[[キャッシュワン|東京三菱キャッシュワン]]を設立。 **9月 - [[中部地方]]の親密地銀である[[十六銀行]]・[[百五銀行]]・[[愛知銀行]]と平日日中時間帯のATM利用手数料の無料化を開始。 * [[2004年]](平成13年)10月 - [[スーパーICカード|スーパーICカード 東京三菱VISA]]発売。 * [[2005年]] (平成17年) 10月1日 - 親会社が[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]](MUFG)へ商号変更。 * [[2006年]](平成18年)1月1日 - [[UFJ銀行]]を吸収合併し、'''株式会社三菱東京UFJ銀行'''に商号変更。 == 関係が親密な地方銀行 == {{Col| ;[[火曜会]]加盟行 * [[常陽銀行]] * [[足利銀行]] * [[千葉銀行]] * [[八十二銀行]] * [[山梨中央銀行]] * [[静岡銀行]] * [[南都銀行]] * [[百五銀行]] | ;好日会加盟行 {{main|好日会}} }} == 関係が親密な大口融資先 == {| |- | valign="top" | * 旧 [[三菱財閥]]系列 ** [[三菱グループ|三菱広報委員会メンバー]] ** 富士紡績 ** [[小岩井農場|小岩井農牧]] ** [[キリンホールディングス]] ** 新東亜交易 ** 丸の内よろず ** 千歳興産 ** [[新日本石油]](現:[[JXTGホールディングス]]) * 旧 [[島津製作所|島津財閥]]系列 ** [[島津製作所]] ** [[日本電池]] ** [[三菱ロジスネクスト|日本輸送機]] * 旧 [[森村財閥]]系列<ref group="注釈">[[三菱銀行]]が森村財閥の金融部門であった森村銀行を吸収した関係から親密である。</ref> ** [[ノリタケカンパニーリミテド]](Noritake) ** [[日本碍子]](日本ガイシ) ** [[日本特殊陶業]] ** [[TOTO (企業)|TOTO]] ** [[INAX]](現:[[住生活グループ]] 子会社の [[LIXIL]]) | valign="top" | * その他親密先 **[[伊勢丹]] ** [[丸井グループ]] ** [[ライフコーポレーション]] ** [[ジャックス (信販)|ジャックス]](2008年にMUFGの持分法適用会社化) ** [[ローソン]] ** [[岡村製作所]] ** [[戸田建設]] ** [[勝村建設]] ** [[竹中工務店]] ** [[兼松]] ** [[アディダス#アディダスジャパン株式会社|アディダスジャパン]] ** [[グンゼ]] ** [[テルモ]] ** [[ツムラ]] ** [[田辺三菱製薬|田辺製薬]](後に[[三菱ケミカルグループ|三菱ケミカルHD]]入り) ** [[信越化学工業]] ** [[小田急電鉄]] ** [[東京急行電鉄]] ** [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]([[みずほグループ]]に次ぐ融資先) ** [[近畿日本鉄道]] ** [[日本航空]]([[みずほグループ]]に次ぐ融資先) ** [[オスカープロモーション]] ** 旧 [[SMBC日興証券|日興證券]] ** [[本田技研工業]] ** [[パイオニア]] **[[浜松ホトニクス]] **[[メモリーテック]] **[[東京ガス]]([[みずほグループ]]に次ぐ融資先) **[[ジャレコ]] **[[毎日新聞社]](旧[[三和銀行]]とも親密) **[[創価学会]]<ref>「学会マネー」研究会『創価学会財務部の内幕』 小学館〈小学館文庫〉、2000年7月1日;ISBN 978-4-0940-4571-0</ref> |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[香港上海銀行]] {{三菱UFJフィナンシャル・グループ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とうきようみつひしきんこう}} [[Category:三菱UFJ銀行の前身行|*とうきようみつひしきんこう]] [[Category:かつて存在した都市銀行]] [[Category:三菱東京フィナンシャル・グループ|きんこう]] [[Category:丸の内の歴史]] [[Category:2005年廃止の企業]]
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重戦車
重戦車(じゅうせんしゃ)は、第二次世界大戦前から冷戦までの時期に作られた戦車のうち、大きな車体、重装甲、大型砲搭載など様々な条件により同時期の自軍戦車の中で相対的に重量の大きい戦車を指す。 特に第二次世界大戦中は大砲の威力と装甲強化のシーソーゲームが激しく、開戦時には40t程度もあれば重戦車のランクだったが、1944年には70t近くの重戦車が実戦で使用され、188tの“超重戦車”(ドイツ国のマウス)まで試作されるに至った。 戦後になると、エンジン技術の発達、装甲材質の強度向上と軽量化技術の発達で、重戦車としての攻撃力、防御力を持ちつつも中戦車並みの機動力を併せ持つことが可能となり、主力戦車(MBT)として、かつての中・重戦車を統合する存在として汎用的に使われるようになった。さらに戦後の主力戦車も第3世代にいたると、重量は50-60tもしくはそれ以上に達するようになり、車体規模においても大戦期の重戦車にほぼ匹敵するようになった(ドイツ連邦軍が運用するレオパルト2A6/A7、ロシア連邦軍のT-90AとT-14、アメリカ軍のM1エイブラムスA2/A2C、イギリス軍のチャレンジャー2などはそれらの国が大戦中及び大戦後の冷戦初期に製造した重戦車と同等か上回る重量である)。 アメリカ合衆国 イギリス フランス ソビエト連邦 ドイツ国 日本
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重戦車(じゅうせんしゃ)は、第二次世界大戦前から冷戦までの時期に作られた戦車のうち、大きな車体、重装甲、大型砲搭載など様々な条件により同時期の自軍戦車の中で相対的に重量の大きい戦車を指す。 特に第二次世界大戦中は大砲の威力と装甲強化のシーソーゲームが激しく、開戦時には40t程度もあれば重戦車のランクだったが、1944年には70t近くの重戦車が実戦で使用され、188tの“超重戦車”(ドイツ国のマウス)まで試作されるに至った。 戦後になると、エンジン技術の発達、装甲材質の強度向上と軽量化技術の発達で、重戦車としての攻撃力、防御力を持ちつつも中戦車並みの機動力を併せ持つことが可能となり、主力戦車(MBT)として、かつての中・重戦車を統合する存在として汎用的に使われるようになった。さらに戦後の主力戦車も第3世代にいたると、重量は50-60tもしくはそれ以上に達するようになり、車体規模においても大戦期の重戦車にほぼ匹敵するようになった(ドイツ連邦軍が運用するレオパルト2A6/A7、ロシア連邦軍のT-90AとT-14、アメリカ軍のM1エイブラムスA2/A2C、イギリス軍のチャレンジャー2などはそれらの国が大戦中及び大戦後の冷戦初期に製造した重戦車と同等か上回る重量である)。
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猪瀬直樹
猪瀬 直樹(いのせ なおき、1946年〈昭和21年〉11月20日 - )は、日本の作家、政治家。日本維新の会所属の参議院議員(1期)。日本維新の会国会議員団参議院幹事長。血液型はAB型。妻は女優、画家、映像作家の蜷川有紀。長野県出身。 『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。道路公団民営化推進委員会委員、地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長。東京都副知事、東京都知事(第18代、1期)、大阪府市特別顧問、東京工業大学世界文明センター特任教授、東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、国際日本文化研究センター客員教授を歴任。 長野県下水内郡飯山町(現:飯山市)生まれ。2歳半から長野市に移る。 父が飯山出身で母は松本の出身、両親共に小学校教師。諏訪市の諏訪市立高島小学校で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。育ったのは長野市。往生寺のすぐ下に住んでいた。1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した。 信州大学教育学部附属長野小学校、信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校を経て(ジャーナリストで産経新聞論説副委員長だった花岡信昭とは幼稚園から高校まで同級生。)信州大学人文学部経済学科卒業。在学中は社会主義運動理論家の清水慎三ゼミに所属し、新左翼学生運動の指導者として通称「白ヘル」(中核派)に属した。1967年の羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエルの10.21国際反戦デー闘争や佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。 大学卒業後、上京し結婚。出版社勤務などを経て、1972年、明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。ナショナリズム研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという。 その後、アルバイトを経て、作家活動に転じる。1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。1996年、財政投融資が役人の天下り先を支える構造を告発し、道路公団民営化の端緒となった『日本国の研究』により、文藝春秋読者賞を受賞。 2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。2007年、地方分権改革推進委員会委員に就任。 2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授、2006年から2010年まで東京工業大学世界文明センター特任教授。 2012年3月26日、マラソン初挑戦にして東京マラソンを完走。走破タイムは6時間40分。 2007年6月、石原慎太郎東京都知事の要請を受け東京都副知事に就任。2012年石原知事の退任に伴い後継指名を受け、同年12月16日の東京都知事選挙に立候補の届出。そして選挙で433万8936票を獲得し、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選した。青島幸男、石原慎太郎に続き、東京都知事は3人連続で作家出身となった。また、初の戦後生まれの都知事となった。猪瀬は石原前知事の五輪招致方針を引き継ぎ、2020年オリンピックの東京招致を成功させた。その後徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した。なお五輪招致活動中の2013年7月に、妻・ゆり子が病気のため逝去(享年65歳)。 なお徳洲会資金問題ではメディアが収賄と報道したが、実際には司法には選挙資金収支報告書帳簿記載漏れと判断され、公職選挙法違反として罰金刑が確定し5年間の公民権停止となった。 2016年10月には画家・女優の蜷川有紀との交際が明らかとなり、2018年4月には婚約を発表、12月下旬に結婚(再婚)。 2022年に行われた第26回参議院議員通常選挙に日本維新の会の候補として比例区から出馬し、7月10日の投開票の結果、当選した。得票数は、 44,212票。 戦後の日本を「ディズニーランド国家」と表現する。「日本人が長らく過ごしてきた戦後社会とは、『想定外』が許された社会だった。アメリカに防衛を委ねることで、戦争を国家の想定外としてきたのだ。沖縄をはじめ全国に米軍基地を置き、東京の空域も米軍によって使用が制限されている。アメリカまかせの現実を多くの日本人が知りながら、そのことに知らんぷりをしてきた。(中略)戦後の日本は一転して防衛を放棄し、いわば半主権国家となった。日本の戦後66年間は、アメリカという門番に守られた、歴史上特異な『ディズニーランド国家』だったと言える。ディズニーランドは永遠なれ、と日本人は信じた。一抹の不安は抱きつつも、そう信じようとしてきた。『戦後』から『災後』への歴史的転換は、あらゆるリスクを「想定外」とする社会から、起こり得るリスクを『想定』する社会への転換点を意味する。福島第一原発事故を経た我われは、もはや『想定外』という言葉で言い逃れができないことに気づいている。東京電力は戦後社会の象徴だ。福島第一原発事故に際して、東電が口にした言い訳も『想定外』だった」。 日本道路公団民営化(2004年6月道路関係四公団民営化関係四法成立、2005年10月1日分割民営化)の中心人物の一人として知られている。 1996年に『文芸春秋』誌上に連載された「日本国の研究」にて、虎ノ門周辺に集結する特殊法人を巡る天下りや税金の還流の実態を描いた。政界での特殊法人改革の萌芽ともなったが、この著書が当時の小泉純一郎首相の眼にとまり、その後猪瀬自らも日本道路公団の道路公団民営化問題などに携わることになった。 2002年、小泉純一郎首相の要請により道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。委員7人中5人が利害関係者に切り崩されて委員を去る中で、民営化案の閣議決定を達成した。自民党道路族や国交省の官僚など、利害関係者との熾烈な闘いの日々を著書『道路の権力 道路公団民営化の攻防1000日』(文藝春秋)、『道路の決着』(小学館)に克明に記している。 猪瀬は著名な愛煙家である。猪瀬は、『税収に貢献する喫煙者のどこが悪い!』というコラムで、禁煙運動をヒステリックな禁煙ファシズムとして批判した。また、猪瀬は2000年頃に大学の禁煙の教室で喫煙しながら教鞭を取ることもあった。ある学生が諫めたところ、猪瀬は「私の講義ではこの教室は分煙だ。君らの席は禁煙でも教壇は喫煙席。文句があるなら受講していただかなくて結構」とはね付けた。 また、2017年に『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』に出演した際には、禁煙の会議室でIQOSを吸いながらペーパーテストを受けていたことで番組スタッフから注意を受けたが、猪瀬は「この煙は水蒸気なんだよ」と言い返し、その後も喫煙をやめることはなかった。このとき同席していたカズレーザーは、「めちゃめちゃかっけぇな」「文豪だなやっぱ。一本通ってる。関係ねぇんだ」と猪瀬の言動に感服していた。 2022年に当該エピソードがニュースサイトに掲載されると、猪瀬は記事を引用したうえで「煙を撒き散らす紙巻きタバコとわずかな水蒸気だけの加熱式タバコを同等に扱わないほうがいい」と持論を展開し、自身の行為を正当化した。 2010年3月、コラム「眼からウロコ」にて『全面禁煙化は中小企業や飲食店には厳しい。たばこ税は国と地方をあわせ2兆円規模で安定した財源でもある』と著した。 2010年9月、喫煙について「安易な全面禁煙には賛成しない」「黒煙を上げて走るディーゼル車の方がよっぽど問題」「文化の問題に介入されると社会にストレスがたまる」と産経新聞に語った。 2012年11月、前神奈川県知事の松沢成文が、11月8日の2012年東京都知事選挙立候補表明で、「公的施設では吸わない人の健康を守る。禁煙か完全分煙」と神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例を持ち出し、喫煙規制強化を述べたことに、猪瀬は、神奈川県は神奈川県議会では吸えていることを指摘し、受動喫煙の防止を問題視した。これに対して、松沢は、県議会は分煙しているとし、さらに猪瀬がパーティ会場で分煙せずに喫煙することを問題視した。 猪瀬は、政府によるマスク着用の推奨が続いていることに反対し、コロナ禍が落ち着いたタイミングでの「脱マスク」を主張している。また、マスクの感染予防効果にも疑問を呈している。 2022年10月20日、参議院予算委員会の質疑に立ち「日本人のマスクは令和のちょんまげ、顔パンツ」と発言してマスクを外したが、委員長から注意され、鼻出しマスクで質疑を行った。 2023年1月に出版した『太陽の男 石原慎太郎伝』のあとがきに、「日本人はマスクが好きである。外を歩く際には外していいとの指針があるにもかかわらず、風が吹いていても自転車に乗っていても車を運転していてもマスクをしている。コロナ禍におけるマスクは後ろ向きの民主主義のひとつの象徴的な事例で、日本国を覆っている同調圧力がこの数十年の停滞を招いていることは確かなようだ」と綴っている。 2023年2月8日に厚生労働省の「アドバイザリーボード」が入学式・卒業式でのマスク着用に対して示した考え方に対し、「この感染症専門家たちのエラそうな言い方。卒業式には条件付きで少しだけマスク外させてやるだと。国民がここまで指図される謂れはない。それよりコロナ関連予算を95兆円まで膨らませた責任、少なくともその痛みぐらいは感じてもらいたい」とツイートした。 東日本大震災の際、気仙沼市中央公民館で孤立した446人を、東京消防庁に命じて救出させた。きっかけは気仙沼市社会福祉協議会マザーズホーム園長から「火の海 ダメかも がんばる」という携帯電話からの電子メールを受け取った息子(イギリス在住)が、地上からの接近は難しいと言って空からの救出を求めることを、Twitterにてツイートをしたことから。それが猪瀬宛にメンションで届き、救助が必要と判断すると直ちに東京消防庁の防災部長を呼び出し、直接ヘリ出動を命じた。防災部長も即座に出動を決断した。ヘリコプターが到着して現場を確認するまで、公民館に取り残されたのは十数名と見られていた。地元からの出動要請がない中でのヘリ出動は極めて異例。この時の様子のほか、東日本大震災後、東京都副知事としてどのような陣頭指揮を取ったかを、翌2012年3月に刊行した『決断する力』(PHP新書)にまとめている。さらに『救出-3.11気仙沼公民館に取り残された446人』(河出書房新社、後に小学館文庫)で詳細なドキュメンタリー作品に仕上げている。 2011年5月、「川崎天然ガス発電所」を視察し、比較的狭い敷地で建設できることや同発電所が採用する、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせて発電効率を高めた「コンバインドサイクル方式」を高く評価した。2011年8月、「東京天然ガス発電所プロジェクトチーム (PT)」を発足。「東京モデル」を打ち出すべく、建設候補地や事業スキーム、国への規制緩和提案について検討している。同PTには環境局、交通局、下水道局など都庁の縦割りを超えて9局が横断的に加わった。原発1基分に相当する100万キロワット規模の発電所建設を目指して、9月には5箇所の適地を発表、電力市場の改革。さらに2012年5月には、葛西水再生センター用地(江戸川区)、砂町水再生センター用地(江東区)、中央防波堤外側埋立地(帰属区未定)の3カ所に絞り込み、電力の卸供給事業者 (IPP) としての東電への長期契約による売電と新電力・特定規模電気事業者 (PPS) としての事業の組み合わせれば、採算性があると確認した報告書を公表している。東京都は3カ所についてアセスメントの手続きを2012年6月に開始した。 福島第一原発以降の電力不足を補うとともに需要家が東京電力以外の選択肢を選べるような弾力的な市場に改革していくため、2012年5月16日、経済産業省に枝野幸男大臣と面会した。東京電力の老朽火力のリプレースを進める際に新規参入を促すように規制を緩和したり新電力への資金面での支援策をもうけ、「(現在は3.5%に過ぎない)新電力のシェアを30%にまで伸ばすような政策展開をすべきだ」と提案した。 さらに7月18日には古川元久国家戦略大臣と面会して要望書を提出、老朽化した火力発電所の更新期間を短縮するために環境アセスメントの手続きの簡素化を求めた。 福島第一原発事故で経営難に陥った東京電力は2011年12月、社長の西沢俊夫が会見して企業向け大口料金の値上げ方針を発表。翌2012年1月17日に一律2.6円値上げが明らかにされた。大口需要家であり、中小企業を所管する行政主体であり、筆頭株主である東京都を代表して、猪瀬直樹は1月26日に会見、東電、原子力損害賠償支援機構、経済産業相に対し、「燃料費等負担増、経営合理化の具体的内容について明確な情報開示を求める」と石原慎太郎の知事名での緊急アピールを明らかにし「待った」をかけた。アピールのなかで、都内の東電ファミリー企業の本社を整理するだけで1年で100億円を捻出できるとの独自分析を発表。値上げの根拠にしている燃料費増加の内訳を示さなければ値上げに応じられない、と指摘した。中小企業に対しても「愛がない」と配慮を求めた。 これを受け東電は3月、値上げ緩和策を発表した。3月には経済産業大臣の枝野幸男を訪ね、東京電力のさらなる合理化策としてファミリー企業などとの随意契約の割合を3割削減することを提案。11年11月に公表されていた緊急特別事業計画では10年間で2.6兆円とされていたリストラ額をさらに5000億円上乗せできると述べた。枝野はこれを受け入れ、総合特別事業計画に反映させるように原子力損害賠償支援機構と東京電力に指示すると明言。5月に公表された総合特別事業計画では合理化額は3.3兆円に増額されることに繋がった。 東京電力に対しては2012年4月27日に東京都としての5つの株主提案を発表。法人株主に呼びかけ文を送付したほか、個人株主にも賛同を呼びかけた。この第一項目として社外取締役に公認会計士の樫谷隆夫を推薦、東京電力は5月14日に発表した新役員体制のなかで7人の社外取締役のうちの一人として樫谷を内定した。また東電は「顧客サービス第一を使命とする」という経営理念を定款に書き込むよう求めるなどした東京都の他の株主提案について、「定款になじまない」としたものの、内容的にはほぼこれを経営方針の中で受容することを明らかにしている。 2010年4月、プロジェクトチームを立ち上げ、多重行政の象徴である「東京の地下鉄一元化」の検討を開始。6月29日、東京メトロ(旧帝都高速度交通営団)の株主総会に東京都代表として出席し、東京メトロの株をほぼ半分ずつ保有する日本国政府と東京都に同社を加えた3者での協議機関の設置を提案し、合意を得た。 その結果、8月3日、国土交通省にて「第1回東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」が開かれ、続く第2回は9月8日に東京都庁舎にて開催。東京メトロの子会社12社の役員報酬などの実体を明らかにした。さらに並行して交通政策や会社経営の専門家らによる有識者会議「東京の地下鉄を考える懇談会」を開催している。 2011年2月3日に行われた第4回「東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」では、東京地下鉄と都営地下鉄の「一元化」こそ見送られたものの、東京都の承諾のない東京地下鉄の株式売却を阻止し、乗継割引額の引き上げや、両者間の連絡駅の拡充などの実施を定めた合意文書を取りまとめた。 協議の結果として、一元化を阻む「壁の象徴」とされてきた、九段下駅の東京メトロ半蔵門線と都営新宿線のホームを隔てている、いわゆる『バカの壁』撤去工事が始まり、2012年6月の東京地下鉄の株主総会を前に、その壁撤去の模様が報道陣に対して公開された。 「一元化は都営地下鉄の借金をメトロに押し付ける」という批判については、「都営も2006年に黒字化しており、経常利益の上昇トレンドもメトロと同じ水準にある」として一蹴している。ただし、経常利益(営業キャッシュフローの一部)だけでは設備投資(投資キャッシュフロー)や債務返済(財務キャッシュフロー)の関係性が説明できず、また都営地下鉄の借金の返済に直接補助金が投入されている事象などを考えると、東京地下鉄に借金を押し付けないという根拠としては不十分との指摘もある。 このような民間企業としての会計や、大手私鉄のビジネスモデルで理解しようとする見解に対し、猪瀬は「東京の地下鉄は私鉄のビジネスモデルではなく、公的な性格を帯びている」と反論する。理由の一つとして、1970年代以降、日本国政府と東京都は営団地下鉄(東京地下鉄の前身)に対し、5400億円の補助金を折半して支出、また都営地下鉄に対しても両者が折半して8600億円を支出していることを挙げる。 沿線開発をしながら資産形成するビジネスモデルの大手私鉄とは異なり、山手線内にある東京の地下鉄経営は、沿線開発が出来無い代わりに公的資金が投下され、一方で金城湯池での営業を続けることで、巨額の借金を返済するモデルである、と述べている。なお、地下鉄一元化については、審議会等における計画呼称をはじめとして、東京都心部の地下鉄建設当初から想定は成されていた(例:九段下駅の構造・設計)。 2010年4月、「海外事業調査研究会」を立ち上げ、東京都水道局の海外展開を目指している。海外事業調査研究会は商社など60社におよぶヒアリングを経て、6月、東京水道国際貢献ミッション団の派遣国をインド、インドネシア、ベトナム、マレーシア、モルディブの5ヶ国に決めた。8月、その第一弾としてマレーシアを訪問。政府要人に東京水道のシステムの優位性をPRした。9月には来日したマレーシアのピーター・チン大臣と共に東京都水道局水運用センターを視察した。 2010年4月、若者の活字離れの問題を解決するために、横断的なプロジェクトチーム「『言葉の力』再生プロジェクト」を立ち上げた。「日本人に足りないのは論理的に考え、議論する『言語技術』」として、三森ゆりか・つくば言語技術教育研究所長など「言語」の専門家を招いて若手職員向けの講演会を開催したほか、新規採用職員を対象に言葉の表現力を高める研修を行った。今後は職員の研修を継続すると共に、東京都民を対象に11月3日には「読書」と「言葉」をテーマにしたイベント「すてきな言葉と出会う祭典-『言葉の力』を東京から-」(於:東京国際フォーラム)を開催した。さらに2011年に『言葉の力-「作家の視点で国をつくる」』(中公新書ラクレ)としてまとめた。 副知事に就任してすぐに、清水谷公園(東京都千代田区紀尾井町)に隣接した緑地(東京都の風致地区)に建設が予定されていた参議院議員宿舎の建設中止を提案し、石原慎太郎知事を現地に案内した。石原はその場で「私は(森を潰して宿舎を建設することには)反対」と語った。猪瀬は建設予定地の周辺住民による反対運動について、日経BPの自身のコラムにて、「新議員宿舎の建設予定地は、紀州徳川藩邸跡であり、1500坪の美しい自然林が残る。そのなかには、樹齢100年以上の樹木も含まれている。衆議院は豪華な赤坂議員宿舎で国民の厳しい批判を浴びたばかり。地上16階建て(高さ56m)。総戸数80戸はすべて3LDK(79平方メートル)の豪華な新議員宿舎を造ることよりも、環境を保全すべきという声があがるのは当然だ」と述べた。これがのちに、自民党都連幹事長(当時)内田茂(千代田区選出都議)との対立の原因となる。これについては。2016年『東京の敵』(角川新書)に詳しく書かれている。 2008年11月、都内で重症妊婦の受け入れ拒否が相次いだことを受けて、「医師や行政ではなく患者側の視点で問題を検証する必要がある」として、「周産期医療体制整備プロジェクトチーム (PT)」を発足。墨東病院など4回の現場視察を行うとともに、NICU(新生児集中治療室)1床あたりの収支分析を行い、運営コスト(約4000万)が診療報酬と補助金の合計(約3300万)を上回っている現状では、病院が NICU を増やすことが難しいと分析した。そのため、2009年3月、猪瀬は舛添要一厚生労働大臣のもとを訪れ、NICU(新生児集中治療室)の整備促進についての緊急要望書を提出。さらに4月には、セミオープンシステムのさらなる普及など10項目の提言を含めた周産期医療体制整備PT報告書をとりまとめた。 「東京都の職員が夕張に行き、財政破綻がどういうものなのか体で感じることが必要。また、東京の持っているノウハウ、高い水準を首都政府として他の自治体に役立てたい」として、夕張市に2008年1月より都職員2名を2年間の予定で派遣した。また、タイムリー研修と銘打ち、短期の職員派遣も行っている。10月に廃校の備品清掃、整理などの手伝いとして6名を派遣、さらに2009年1月には「雪かき隊」としてさらに都職員10名を派遣し、福祉施設の除雪を行った。なお、「雪かき隊」には猪瀬の呼びかけに応じ、大阪府、広島市からも2名ずつ職員が派遣された。他にも、2009年6月にメロン農家での収穫手伝いのため6名を派遣した。なお、当初派遣した都職員の一人に後の夕張市長、北海道知事、鈴木直道がいた。2010年12月に、東京都青少年の健全な育成に関する条例の反対派に対し、Twitterで「夕張市に行って雪かきすればインタビューに応じる」旨のジョーク発言を行い、その発言に乗っかったアダルト漫画家の浦嶋嶺至は、2011年1月に夕張市を訪れ、実際に雪かきを行った。その後、猪瀬副知事と浦嶋の面会、対談が実現し、その模様はニコニコ動画で生放送され、メル友にもなったという。 2009年6月、東京都の高齢者人口の増加、高齢者施設やバリアフリー住宅の不足に対応した、「少子高齢化時代にふさわしい新たな『すまい』PT」を立ち上げ、座長に就任した。発足にあたり、猪瀬は「首都政府、首都公務員として霞が関の縦割りを東京から直していく、東京都が内閣府の役割を担うくらいの気概をもってほしい」と述べている。 都の『すまい』PTは住宅施策を所管する都市整備局と高齢者福祉を担当する福祉保健局などからメンバーが部局横断的に集められている。このとき提起されたケア付き住宅がその後国策であるサービス付き住宅へと発展するきっかけとなった。 2012年12月16日執行の東京都知事選挙で史上最多の433万8936票を獲得し、当選。同月18日に公職選挙法第101条の3第2項に基づき当選人告示が行われ、同日に第18代東京都知事に就任、初登庁し公務を開始した(任期の起算日は選挙の日の16日)。 しかし、後述の資金提供問題について都議会などから厳しい追及を受け、2013年12月19日に辞意を表明。12月24日に就任からわずか1年で都知事を辞職した。 2013年4月27日付けニューヨーク・タイムズ(NYT)に Ken Belson 及び Hiroko Tabuchi 記者の猪瀬知事へのインタビューが載り、その中で彼らは「イスタンブールは若い人が多いが、東京は高齢化している」として、イスタンブールとの比較で東京を揶揄するかのような質問を浴びせた。それを受け同知事は、「イスラム国家が共有するのはアラー(神)だけで、互いに喧嘩しており、階級がある」と発言したと、五輪誘致に批判的な朝日新聞を含む国内メディアに大きく報じられた。その報道に対して、4月29日に猪瀬知事は「五輪の誘致全体について発言したが、インタビューの一部だけが抜き取られて見出しにされた。真意が伝わってない」との趣旨の発言をした。翌4月30日には、東京都庁で「イスラム圏の方に誤解を招く表現で申し訳なかった。甘かったと言えば甘かった」「不適切な発言があったことはお詫びしたい」などと謝罪・釈明した。国際オリンピック委員会の五輪招致にまつわる行動規範は14項「都市間の関係」で、「それぞれの都市は、いつ、いかなる状況のもとでも、IOC委員やIOCそれ自体に対するのと同じ敬意を、他都市に払うべきものとする」 と定めており、これは招致レース最大のタブーとされている。その後、2013年5月9日に、猪瀬自ら駐日本国トルコ共和国大使館を訪問し、セルダル・クルチ駐日本国特命全権大使と約1時間にわたって会談し、「不快の念を与えたことをお詫びする」と述べた。 2013年11月に明らかになった報道によれば、2012年の都知事選前の2012年11月に、医療法人徳洲会創設者の徳田虎雄に「都知事選に出ます」と挨拶し、徳田毅衆院議員を通じて「余ったら返すのでまずは1億円をお願いしたい」と電話し、1億円の資金提供を要求していた。徳田虎雄は「5000万円で対応しろ」「足がつかないよう議員会館で渡せ」と徳田毅議員に指示し、議員会館の事務所で猪瀬に直接、現金で5000万円を手渡し、選挙運動費用収支報告書、都知事資産報告書、政治資金報告書に記載していなかった(徳洲会事件)。 猪瀬知事は受け取った資金について、「借入金」であると説明し、「徳洲会側から申し出があり、厚意を断るのは失礼だと考えて借りた。5000万円という額になった理由は分からない」と説明している。その後、11月26日に緊急会見を開き、借用書をマスコミに提示し、「そもそも猪瀬が徳洲会からお金を借りたのは、都知事選挙に際して自民党都連は協力しないと通告されたため、ポスター貼りなどを誰かにお願いしたらいいかわからないことだらけの状態だったんです。結局、連合が協力してくれたので、5000万円は使わなくて済んだ。それが収賄だと追及されたのですから全くの冤罪です。」と語った。この時、報道陣に見せた借用書は、A4サイズの紙1枚に押印や収入印紙もなく、猪瀬の署名だけが入った簡素なもので、ネット上では猪瀬が掲げる借用書のコラージュ画像が出回った。 医療法人徳洲会グループは東京都内にも病院、保険施設を抱えており、グループの老人保健施設に都が約7億5千万円の補助金を支出していた。また徳洲会は都知事の認可で老人保健施設を開設し、武蔵野徳洲苑の工期は2010年〜2011年度の2年間で、沖縄徳洲会が西東京市に設立を申請し、都が近隣に所在する施設数などを考慮して150床を認可した。150床規模の施設の場合、都は最大で9億6千万円の工事費を補助しているため、今回の5000万円はその見返りではないか、と各新聞社が報じた。 選挙運動費用収支報告書に記載されておらず、公職選挙法違反の疑いで東京都民に告発された。また市民団体は、5000万円が政治活動のための借入金と認定された場合、政治資金規正法に基づいて政治資金収支報告書への記載が必要となるため政治資金規正法違反にも該当すると指摘した。 さらに徳洲会が東京都の許認可が必要な事業も行っていることから、5000万円の授受が当時の副知事の職務や将来、知事になったときの職務と関連しているとみなされると収賄となる。 2013年11月29日の定例都議会で、医療法人徳洲会から5000万円を受け取った経緯などを説明したのに対し、各会派や傍聴席から「不十分」「納得できない」と批判の声が相次いだ。猪瀬知事には、「職員なら懲戒免職なんだよ」などと、野次が浴びせられ傍聴者の1人が守衛によって議場の外に出された。 2013年12月16日、都議会総務委員会は、猪瀬が「現金は普段使っているカバンに入れた」との証言を裏付けようと、現金を運んだカバンを都議会に提出させた。そして公明党の都議から、5000万円分の札束に見立てた発泡スチロールのブロックを入れるように要請された。このことは猪瀬には事前に知らされておらず、その場でかばんに押し込んだが、ファスナーが閉まらなかった。発泡スチロールの塊は実際の札束とは別物であり、それがカバンに入っても入らなくても真相の究明とは無関係である。ところがメディアはカバンに入らないサイズの発泡スチロールの塊を故意に用意した都議会側の悪意には気付かず、無責任に面白がった。このやり取りは、ネット上の人気コンテンツになり、松本人志にも「今年の面白かったベスト10に入る」と評価された。猪瀬は、3日後の2013年12月19日に辞意を表明し、同月24日付で都知事を辞任した。 この点について猪瀬はのちに著作のなかで「(実際に借り受けた際は5000万円が入った)紙袋を折り曲げて持参した鞄に入れた。(略、都議が用意した)発泡スチロールのブロックは折ることも曲げることも分割することもできない。それでは鞄に入るはずがない」と述べている。この総務委員会について猪瀬は「人民裁判」と呼び「あれは完全なつるし上げです」「僕のときは10時間も立ちっぱなしで答弁させられた。血祭りにあげて、都議がポイント稼ぐことだけが目的なので真相解明は二の次。当時、僕の額から汗が流れる様子まで放送されましたが、あれは追い詰められて冷や汗をかいていたのではなく、単に体力の限界だったからです」と証言している。その後、汗の部分のみの切り取り動画が繰り返し拡散された。 また徳洲会からの収賄疑惑の報道について、猪瀬は都知事辞任後に出版した回顧録の中で、以下のように記している。 猪瀬知事は「賄賂」ではなく「借入金」である証明として「借用証」を公表し借用証は郵送で返却されてきたものと説明していた。しかし折り目がなく、押印などもない不自然な体裁だったため、この借用証をメディアはニセモノではないかと決めつけるように報道し、借入金ではなく賄賂だとする印象の流れがつくられてしまう。封筒の公開を求める声が上がり、2013年12月6日の東京都議会一般質問で、提示した郵送されてきたとされる借用証について「封筒は保管していない」と答弁した。借用証ニセモノ説一色のメディアは記録の残る宅配便や書留郵便、特定記録ではなく配達記録は無かったと問題にし、封筒があれば切手の消印から、問題発覚前から借用書が存在し郵送されたことを証明できるが不可能になったなどと報じた。 このように後付けで作られたのではないか、という借用証に関する疑念が、猪瀬辞任の大きな流れを作った。徳田毅議員は問題が発覚して以降沈黙を守っていたが、衆議院議員辞職願を提出した直後の2014年2月24日の記者会見で「私の事務所で作成し、目の前で署名もしてもらった」と述べ、本物であることを明らかにした。 2014年3月28日、東京地検特捜部は公職選挙法違反の罪で猪瀬を略式起訴した。資金の性質について特捜部は、5000万円が選挙費用として使われた形跡がないこと、知事選後の2013年2月の時点で返却に向けた動きがあった事実が認められ、また実際に同年9月に返済されていることなどから借入金と認定し、借入金が選挙資金収支報告書に記載されていない公職選挙法違反とした。東京簡易裁判所は罰金50万円の略式命令を出した。猪瀬は即日納付し、罰金刑が確定したことにより、政治資金規正法の規定に基づき、5年間公民権が停止されることになった。これにより、猪瀬に対する捜査は終結した。 猪瀬はこの一連の騒動を「副知事になったときに清水谷公園横に建設予定だった参議院議員宿舎を白紙撤回したことで、千代田区選出の”都議会自民党のドン”都連幹事長(当時)の内田茂に恨まれていた。そのため、総務委員会が復讐の舞台になったのです」と述べている。猪瀬は内田に対して「東京のガン」と述べている。 2022年6月12日、第26回参議院議員通常選挙に向けて吉祥寺駅前で街頭演説をしていた猪瀬が、東京都選挙区から出馬する海老沢由紀を紹介する際、海老沢の肩や襷越しの胸に複数回にわたって触れる様子の動画がSNS上で出回った。動画を見た視聴者からは「気持ち悪い」「セクハラだ」との批判が相次ぎ、SNSで大炎上した。猪瀬は同月17日にツイッターを更新し、「軽率な面がありました。十分に認識を改め、注意をして行動していきたい」と反省の弁を述べたものの、同日の別の投稿では「切り取り報道です」「意図的に拡散する人がいるのです」とツイートし、セクハラ行為に対して指摘をするユーザを次々とブロックした。党代表の松井一郎は投開票日に出演したラジオで、「(猪瀬さんは)チームですから親しく肩を抱いて紹介しているんですけどね。ですからちょっと誤解があるのかなと思います」と発言した。 猪瀬は9月6日、この動画をみて「間違いなくセクハラではないでしょうか」と述べた上智大学の三浦まり教授、及びそのコメントを掲載した朝日新聞社に対して名誉を毀損されたとして1100万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。 訴状で猪瀬は「演説会は公道上で、しかも多数の聴衆の前で行われたものであるから、そこで演説する政治家が、同席した他の政治家にセクハラをすることなどおよそ考えられない状況である。原告は、海老沢氏の胸(乳房)付近に手を当てたことはなく、肩に手をやったのは紹介の際に親愛の情を示したものであって、その直前に音喜多議員の肩に手をかけ、音喜多議員が原告の腰に触れたと全く同じである」などとセクハラ行為を否定した。 騒動を巡っては、海老沢も騒動直後のブログで、猪瀬が主張する事実経過を述べた上で、「胸を触っていないし、仮に当たっていたとしても、それはたすきをたたいた結果であり、変に触る意図は全くないことは明白なのです。猪瀬さんは、名前を間違えたことを気にしています。肩を何度もたたいたのは、スマンという意味もあったでしょう。それを感じ取っていたから、わたしは不快に思わず、全く覚えていなかったのだと思います。」と綴り、全面的に否定した。この件について朝日新聞社が出資する『ハフポスト』は、「ハラスメントが権力関係があって抵抗できない被害者に行われやすいという構造を軽視して、『ハラスメントではない』という言葉を鵜呑みにして否定することは非常に危険」「動画を見た人は、『自分よりも権力のある人にハラスメントを受けても、政治の場では笑って受け流さないとやっていけない』と認識してしまう」「他人の体に不用意に触ることは人権を侵害する行為だという認識のアップデートが必要」などと指摘している。 2023年12月、「意図的に女性の胸に触れたのは真実と認められる」、記事も「前提とする事実が重要部分で真実であるとの証明がある」として請求棄却。 2023年4月12日、参議院憲法審査会での審議中、維新所属の浅田均議員が憲法改正について発言している隣でガムをかみ続けた。14日に石井準一参議院議院運営委員長は同委員会理事会で、各会派に対し緊張感を持って臨むよう注意を促した。理事会で維新の東徹議員は猪瀬を厳重注意したと報告した。猪瀬の事務所は取材に対し「飲食禁止とは知っていたが、ガムまで禁止とは知らなかった。今後は気を付ける」と説明した。 2023年6月5日、参議院の地方デジタル委員会で、猪瀬は大きなあくびをした。そのあと、立憲民主党の小沼巧議員が発言している最中に、猪瀬のスマホの音が響いた。委員会室では、携帯電話の使用が禁止されている。小沼からの注意に対し、猪瀬は「ごめんごめん」と謝罪した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "猪瀬 直樹(いのせ なおき、1946年〈昭和21年〉11月20日 - )は、日本の作家、政治家。日本維新の会所属の参議院議員(1期)。日本維新の会国会議員団参議院幹事長。血液型はAB型。妻は女優、画家、映像作家の蜷川有紀。長野県出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。道路公団民営化推進委員会委員、地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長。東京都副知事、東京都知事(第18代、1期)、大阪府市特別顧問、東京工業大学世界文明センター特任教授、東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、国際日本文化研究センター客員教授を歴任。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "長野県下水内郡飯山町(現:飯山市)生まれ。2歳半から長野市に移る。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "父が飯山出身で母は松本の出身、両親共に小学校教師。諏訪市の諏訪市立高島小学校で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。育ったのは長野市。往生寺のすぐ下に住んでいた。1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "信州大学教育学部附属長野小学校、信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校を経て(ジャーナリストで産経新聞論説副委員長だった花岡信昭とは幼稚園から高校まで同級生。)信州大学人文学部経済学科卒業。在学中は社会主義運動理論家の清水慎三ゼミに所属し、新左翼学生運動の指導者として通称「白ヘル」(中核派)に属した。1967年の羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエルの10.21国際反戦デー闘争や佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大学卒業後、上京し結婚。出版社勤務などを経て、1972年、明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。ナショナリズム研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、アルバイトを経て、作家活動に転じる。1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。1996年、財政投融資が役人の天下り先を支える構造を告発し、道路公団民営化の端緒となった『日本国の研究』により、文藝春秋読者賞を受賞。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。2007年、地方分権改革推進委員会委員に就任。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授、2006年から2010年まで東京工業大学世界文明センター特任教授。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2012年3月26日、マラソン初挑戦にして東京マラソンを完走。走破タイムは6時間40分。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2007年6月、石原慎太郎東京都知事の要請を受け東京都副知事に就任。2012年石原知事の退任に伴い後継指名を受け、同年12月16日の東京都知事選挙に立候補の届出。そして選挙で433万8936票を獲得し、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選した。青島幸男、石原慎太郎に続き、東京都知事は3人連続で作家出身となった。また、初の戦後生まれの都知事となった。猪瀬は石原前知事の五輪招致方針を引き継ぎ、2020年オリンピックの東京招致を成功させた。その後徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した。なお五輪招致活動中の2013年7月に、妻・ゆり子が病気のため逝去(享年65歳)。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお徳洲会資金問題ではメディアが収賄と報道したが、実際には司法には選挙資金収支報告書帳簿記載漏れと判断され、公職選挙法違反として罰金刑が確定し5年間の公民権停止となった。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2016年10月には画家・女優の蜷川有紀との交際が明らかとなり、2018年4月には婚約を発表、12月下旬に結婚(再婚)。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2022年に行われた第26回参議院議員通常選挙に日本維新の会の候補として比例区から出馬し、7月10日の投開票の結果、当選した。得票数は、 44,212票。", "title": "経歴・人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦後の日本を「ディズニーランド国家」と表現する。「日本人が長らく過ごしてきた戦後社会とは、『想定外』が許された社会だった。アメリカに防衛を委ねることで、戦争を国家の想定外としてきたのだ。沖縄をはじめ全国に米軍基地を置き、東京の空域も米軍によって使用が制限されている。アメリカまかせの現実を多くの日本人が知りながら、そのことに知らんぷりをしてきた。(中略)戦後の日本は一転して防衛を放棄し、いわば半主権国家となった。日本の戦後66年間は、アメリカという門番に守られた、歴史上特異な『ディズニーランド国家』だったと言える。ディズニーランドは永遠なれ、と日本人は信じた。一抹の不安は抱きつつも、そう信じようとしてきた。『戦後』から『災後』への歴史的転換は、あらゆるリスクを「想定外」とする社会から、起こり得るリスクを『想定』する社会への転換点を意味する。福島第一原発事故を経た我われは、もはや『想定外』という言葉で言い逃れができないことに気づいている。東京電力は戦後社会の象徴だ。福島第一原発事故に際して、東電が口にした言い訳も『想定外』だった」。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本道路公団民営化(2004年6月道路関係四公団民営化関係四法成立、2005年10月1日分割民営化)の中心人物の一人として知られている。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1996年に『文芸春秋』誌上に連載された「日本国の研究」にて、虎ノ門周辺に集結する特殊法人を巡る天下りや税金の還流の実態を描いた。政界での特殊法人改革の萌芽ともなったが、この著書が当時の小泉純一郎首相の眼にとまり、その後猪瀬自らも日本道路公団の道路公団民営化問題などに携わることになった。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2002年、小泉純一郎首相の要請により道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。委員7人中5人が利害関係者に切り崩されて委員を去る中で、民営化案の閣議決定を達成した。自民党道路族や国交省の官僚など、利害関係者との熾烈な闘いの日々を著書『道路の権力 道路公団民営化の攻防1000日』(文藝春秋)、『道路の決着』(小学館)に克明に記している。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "猪瀬は著名な愛煙家である。猪瀬は、『税収に貢献する喫煙者のどこが悪い!』というコラムで、禁煙運動をヒステリックな禁煙ファシズムとして批判した。また、猪瀬は2000年頃に大学の禁煙の教室で喫煙しながら教鞭を取ることもあった。ある学生が諫めたところ、猪瀬は「私の講義ではこの教室は分煙だ。君らの席は禁煙でも教壇は喫煙席。文句があるなら受講していただかなくて結構」とはね付けた。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、2017年に『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』に出演した際には、禁煙の会議室でIQOSを吸いながらペーパーテストを受けていたことで番組スタッフから注意を受けたが、猪瀬は「この煙は水蒸気なんだよ」と言い返し、その後も喫煙をやめることはなかった。このとき同席していたカズレーザーは、「めちゃめちゃかっけぇな」「文豪だなやっぱ。一本通ってる。関係ねぇんだ」と猪瀬の言動に感服していた。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2022年に当該エピソードがニュースサイトに掲載されると、猪瀬は記事を引用したうえで「煙を撒き散らす紙巻きタバコとわずかな水蒸気だけの加熱式タバコを同等に扱わないほうがいい」と持論を展開し、自身の行為を正当化した。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2010年3月、コラム「眼からウロコ」にて『全面禁煙化は中小企業や飲食店には厳しい。たばこ税は国と地方をあわせ2兆円規模で安定した財源でもある』と著した。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2010年9月、喫煙について「安易な全面禁煙には賛成しない」「黒煙を上げて走るディーゼル車の方がよっぽど問題」「文化の問題に介入されると社会にストレスがたまる」と産経新聞に語った。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2012年11月、前神奈川県知事の松沢成文が、11月8日の2012年東京都知事選挙立候補表明で、「公的施設では吸わない人の健康を守る。禁煙か完全分煙」と神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例を持ち出し、喫煙規制強化を述べたことに、猪瀬は、神奈川県は神奈川県議会では吸えていることを指摘し、受動喫煙の防止を問題視した。これに対して、松沢は、県議会は分煙しているとし、さらに猪瀬がパーティ会場で分煙せずに喫煙することを問題視した。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "猪瀬は、政府によるマスク着用の推奨が続いていることに反対し、コロナ禍が落ち着いたタイミングでの「脱マスク」を主張している。また、マスクの感染予防効果にも疑問を呈している。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2022年10月20日、参議院予算委員会の質疑に立ち「日本人のマスクは令和のちょんまげ、顔パンツ」と発言してマスクを外したが、委員長から注意され、鼻出しマスクで質疑を行った。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2023年1月に出版した『太陽の男 石原慎太郎伝』のあとがきに、「日本人はマスクが好きである。外を歩く際には外していいとの指針があるにもかかわらず、風が吹いていても自転車に乗っていても車を運転していてもマスクをしている。コロナ禍におけるマスクは後ろ向きの民主主義のひとつの象徴的な事例で、日本国を覆っている同調圧力がこの数十年の停滞を招いていることは確かなようだ」と綴っている。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2023年2月8日に厚生労働省の「アドバイザリーボード」が入学式・卒業式でのマスク着用に対して示した考え方に対し、「この感染症専門家たちのエラそうな言い方。卒業式には条件付きで少しだけマスク外させてやるだと。国民がここまで指図される謂れはない。それよりコロナ関連予算を95兆円まで膨らませた責任、少なくともその痛みぐらいは感じてもらいたい」とツイートした。", "title": "活動・主張" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "東日本大震災の際、気仙沼市中央公民館で孤立した446人を、東京消防庁に命じて救出させた。きっかけは気仙沼市社会福祉協議会マザーズホーム園長から「火の海 ダメかも がんばる」という携帯電話からの電子メールを受け取った息子(イギリス在住)が、地上からの接近は難しいと言って空からの救出を求めることを、Twitterにてツイートをしたことから。それが猪瀬宛にメンションで届き、救助が必要と判断すると直ちに東京消防庁の防災部長を呼び出し、直接ヘリ出動を命じた。防災部長も即座に出動を決断した。ヘリコプターが到着して現場を確認するまで、公民館に取り残されたのは十数名と見られていた。地元からの出動要請がない中でのヘリ出動は極めて異例。この時の様子のほか、東日本大震災後、東京都副知事としてどのような陣頭指揮を取ったかを、翌2012年3月に刊行した『決断する力』(PHP新書)にまとめている。さらに『救出-3.11気仙沼公民館に取り残された446人』(河出書房新社、後に小学館文庫)で詳細なドキュメンタリー作品に仕上げている。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2011年5月、「川崎天然ガス発電所」を視察し、比較的狭い敷地で建設できることや同発電所が採用する、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせて発電効率を高めた「コンバインドサイクル方式」を高く評価した。2011年8月、「東京天然ガス発電所プロジェクトチーム (PT)」を発足。「東京モデル」を打ち出すべく、建設候補地や事業スキーム、国への規制緩和提案について検討している。同PTには環境局、交通局、下水道局など都庁の縦割りを超えて9局が横断的に加わった。原発1基分に相当する100万キロワット規模の発電所建設を目指して、9月には5箇所の適地を発表、電力市場の改革。さらに2012年5月には、葛西水再生センター用地(江戸川区)、砂町水再生センター用地(江東区)、中央防波堤外側埋立地(帰属区未定)の3カ所に絞り込み、電力の卸供給事業者 (IPP) としての東電への長期契約による売電と新電力・特定規模電気事業者 (PPS) としての事業の組み合わせれば、採算性があると確認した報告書を公表している。東京都は3カ所についてアセスメントの手続きを2012年6月に開始した。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "福島第一原発以降の電力不足を補うとともに需要家が東京電力以外の選択肢を選べるような弾力的な市場に改革していくため、2012年5月16日、経済産業省に枝野幸男大臣と面会した。東京電力の老朽火力のリプレースを進める際に新規参入を促すように規制を緩和したり新電力への資金面での支援策をもうけ、「(現在は3.5%に過ぎない)新電力のシェアを30%にまで伸ばすような政策展開をすべきだ」と提案した。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さらに7月18日には古川元久国家戦略大臣と面会して要望書を提出、老朽化した火力発電所の更新期間を短縮するために環境アセスメントの手続きの簡素化を求めた。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "福島第一原発事故で経営難に陥った東京電力は2011年12月、社長の西沢俊夫が会見して企業向け大口料金の値上げ方針を発表。翌2012年1月17日に一律2.6円値上げが明らかにされた。大口需要家であり、中小企業を所管する行政主体であり、筆頭株主である東京都を代表して、猪瀬直樹は1月26日に会見、東電、原子力損害賠償支援機構、経済産業相に対し、「燃料費等負担増、経営合理化の具体的内容について明確な情報開示を求める」と石原慎太郎の知事名での緊急アピールを明らかにし「待った」をかけた。アピールのなかで、都内の東電ファミリー企業の本社を整理するだけで1年で100億円を捻出できるとの独自分析を発表。値上げの根拠にしている燃料費増加の内訳を示さなければ値上げに応じられない、と指摘した。中小企業に対しても「愛がない」と配慮を求めた。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これを受け東電は3月、値上げ緩和策を発表した。3月には経済産業大臣の枝野幸男を訪ね、東京電力のさらなる合理化策としてファミリー企業などとの随意契約の割合を3割削減することを提案。11年11月に公表されていた緊急特別事業計画では10年間で2.6兆円とされていたリストラ額をさらに5000億円上乗せできると述べた。枝野はこれを受け入れ、総合特別事業計画に反映させるように原子力損害賠償支援機構と東京電力に指示すると明言。5月に公表された総合特別事業計画では合理化額は3.3兆円に増額されることに繋がった。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "東京電力に対しては2012年4月27日に東京都としての5つの株主提案を発表。法人株主に呼びかけ文を送付したほか、個人株主にも賛同を呼びかけた。この第一項目として社外取締役に公認会計士の樫谷隆夫を推薦、東京電力は5月14日に発表した新役員体制のなかで7人の社外取締役のうちの一人として樫谷を内定した。また東電は「顧客サービス第一を使命とする」という経営理念を定款に書き込むよう求めるなどした東京都の他の株主提案について、「定款になじまない」としたものの、内容的にはほぼこれを経営方針の中で受容することを明らかにしている。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2010年4月、プロジェクトチームを立ち上げ、多重行政の象徴である「東京の地下鉄一元化」の検討を開始。6月29日、東京メトロ(旧帝都高速度交通営団)の株主総会に東京都代表として出席し、東京メトロの株をほぼ半分ずつ保有する日本国政府と東京都に同社を加えた3者での協議機関の設置を提案し、合意を得た。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その結果、8月3日、国土交通省にて「第1回東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」が開かれ、続く第2回は9月8日に東京都庁舎にて開催。東京メトロの子会社12社の役員報酬などの実体を明らかにした。さらに並行して交通政策や会社経営の専門家らによる有識者会議「東京の地下鉄を考える懇談会」を開催している。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2011年2月3日に行われた第4回「東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」では、東京地下鉄と都営地下鉄の「一元化」こそ見送られたものの、東京都の承諾のない東京地下鉄の株式売却を阻止し、乗継割引額の引き上げや、両者間の連絡駅の拡充などの実施を定めた合意文書を取りまとめた。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "協議の結果として、一元化を阻む「壁の象徴」とされてきた、九段下駅の東京メトロ半蔵門線と都営新宿線のホームを隔てている、いわゆる『バカの壁』撤去工事が始まり、2012年6月の東京地下鉄の株主総会を前に、その壁撤去の模様が報道陣に対して公開された。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "「一元化は都営地下鉄の借金をメトロに押し付ける」という批判については、「都営も2006年に黒字化しており、経常利益の上昇トレンドもメトロと同じ水準にある」として一蹴している。ただし、経常利益(営業キャッシュフローの一部)だけでは設備投資(投資キャッシュフロー)や債務返済(財務キャッシュフロー)の関係性が説明できず、また都営地下鉄の借金の返済に直接補助金が投入されている事象などを考えると、東京地下鉄に借金を押し付けないという根拠としては不十分との指摘もある。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "このような民間企業としての会計や、大手私鉄のビジネスモデルで理解しようとする見解に対し、猪瀬は「東京の地下鉄は私鉄のビジネスモデルではなく、公的な性格を帯びている」と反論する。理由の一つとして、1970年代以降、日本国政府と東京都は営団地下鉄(東京地下鉄の前身)に対し、5400億円の補助金を折半して支出、また都営地下鉄に対しても両者が折半して8600億円を支出していることを挙げる。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "沿線開発をしながら資産形成するビジネスモデルの大手私鉄とは異なり、山手線内にある東京の地下鉄経営は、沿線開発が出来無い代わりに公的資金が投下され、一方で金城湯池での営業を続けることで、巨額の借金を返済するモデルである、と述べている。なお、地下鉄一元化については、審議会等における計画呼称をはじめとして、東京都心部の地下鉄建設当初から想定は成されていた(例:九段下駅の構造・設計)。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2010年4月、「海外事業調査研究会」を立ち上げ、東京都水道局の海外展開を目指している。海外事業調査研究会は商社など60社におよぶヒアリングを経て、6月、東京水道国際貢献ミッション団の派遣国をインド、インドネシア、ベトナム、マレーシア、モルディブの5ヶ国に決めた。8月、その第一弾としてマレーシアを訪問。政府要人に東京水道のシステムの優位性をPRした。9月には来日したマレーシアのピーター・チン大臣と共に東京都水道局水運用センターを視察した。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2010年4月、若者の活字離れの問題を解決するために、横断的なプロジェクトチーム「『言葉の力』再生プロジェクト」を立ち上げた。「日本人に足りないのは論理的に考え、議論する『言語技術』」として、三森ゆりか・つくば言語技術教育研究所長など「言語」の専門家を招いて若手職員向けの講演会を開催したほか、新規採用職員を対象に言葉の表現力を高める研修を行った。今後は職員の研修を継続すると共に、東京都民を対象に11月3日には「読書」と「言葉」をテーマにしたイベント「すてきな言葉と出会う祭典-『言葉の力』を東京から-」(於:東京国際フォーラム)を開催した。さらに2011年に『言葉の力-「作家の視点で国をつくる」』(中公新書ラクレ)としてまとめた。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "副知事に就任してすぐに、清水谷公園(東京都千代田区紀尾井町)に隣接した緑地(東京都の風致地区)に建設が予定されていた参議院議員宿舎の建設中止を提案し、石原慎太郎知事を現地に案内した。石原はその場で「私は(森を潰して宿舎を建設することには)反対」と語った。猪瀬は建設予定地の周辺住民による反対運動について、日経BPの自身のコラムにて、「新議員宿舎の建設予定地は、紀州徳川藩邸跡であり、1500坪の美しい自然林が残る。そのなかには、樹齢100年以上の樹木も含まれている。衆議院は豪華な赤坂議員宿舎で国民の厳しい批判を浴びたばかり。地上16階建て(高さ56m)。総戸数80戸はすべて3LDK(79平方メートル)の豪華な新議員宿舎を造ることよりも、環境を保全すべきという声があがるのは当然だ」と述べた。これがのちに、自民党都連幹事長(当時)内田茂(千代田区選出都議)との対立の原因となる。これについては。2016年『東京の敵』(角川新書)に詳しく書かれている。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2008年11月、都内で重症妊婦の受け入れ拒否が相次いだことを受けて、「医師や行政ではなく患者側の視点で問題を検証する必要がある」として、「周産期医療体制整備プロジェクトチーム (PT)」を発足。墨東病院など4回の現場視察を行うとともに、NICU(新生児集中治療室)1床あたりの収支分析を行い、運営コスト(約4000万)が診療報酬と補助金の合計(約3300万)を上回っている現状では、病院が NICU を増やすことが難しいと分析した。そのため、2009年3月、猪瀬は舛添要一厚生労働大臣のもとを訪れ、NICU(新生児集中治療室)の整備促進についての緊急要望書を提出。さらに4月には、セミオープンシステムのさらなる普及など10項目の提言を含めた周産期医療体制整備PT報告書をとりまとめた。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "「東京都の職員が夕張に行き、財政破綻がどういうものなのか体で感じることが必要。また、東京の持っているノウハウ、高い水準を首都政府として他の自治体に役立てたい」として、夕張市に2008年1月より都職員2名を2年間の予定で派遣した。また、タイムリー研修と銘打ち、短期の職員派遣も行っている。10月に廃校の備品清掃、整理などの手伝いとして6名を派遣、さらに2009年1月には「雪かき隊」としてさらに都職員10名を派遣し、福祉施設の除雪を行った。なお、「雪かき隊」には猪瀬の呼びかけに応じ、大阪府、広島市からも2名ずつ職員が派遣された。他にも、2009年6月にメロン農家での収穫手伝いのため6名を派遣した。なお、当初派遣した都職員の一人に後の夕張市長、北海道知事、鈴木直道がいた。2010年12月に、東京都青少年の健全な育成に関する条例の反対派に対し、Twitterで「夕張市に行って雪かきすればインタビューに応じる」旨のジョーク発言を行い、その発言に乗っかったアダルト漫画家の浦嶋嶺至は、2011年1月に夕張市を訪れ、実際に雪かきを行った。その後、猪瀬副知事と浦嶋の面会、対談が実現し、その模様はニコニコ動画で生放送され、メル友にもなったという。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2009年6月、東京都の高齢者人口の増加、高齢者施設やバリアフリー住宅の不足に対応した、「少子高齢化時代にふさわしい新たな『すまい』PT」を立ち上げ、座長に就任した。発足にあたり、猪瀬は「首都政府、首都公務員として霞が関の縦割りを東京から直していく、東京都が内閣府の役割を担うくらいの気概をもってほしい」と述べている。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "都の『すまい』PTは住宅施策を所管する都市整備局と高齢者福祉を担当する福祉保健局などからメンバーが部局横断的に集められている。このとき提起されたケア付き住宅がその後国策であるサービス付き住宅へと発展するきっかけとなった。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2012年12月16日執行の東京都知事選挙で史上最多の433万8936票を獲得し、当選。同月18日に公職選挙法第101条の3第2項に基づき当選人告示が行われ、同日に第18代東京都知事に就任、初登庁し公務を開始した(任期の起算日は選挙の日の16日)。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、後述の資金提供問題について都議会などから厳しい追及を受け、2013年12月19日に辞意を表明。12月24日に就任からわずか1年で都知事を辞職した。", "title": "東京都政への参画" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2013年4月27日付けニューヨーク・タイムズ(NYT)に Ken Belson 及び Hiroko Tabuchi 記者の猪瀬知事へのインタビューが載り、その中で彼らは「イスタンブールは若い人が多いが、東京は高齢化している」として、イスタンブールとの比較で東京を揶揄するかのような質問を浴びせた。それを受け同知事は、「イスラム国家が共有するのはアラー(神)だけで、互いに喧嘩しており、階級がある」と発言したと、五輪誘致に批判的な朝日新聞を含む国内メディアに大きく報じられた。その報道に対して、4月29日に猪瀬知事は「五輪の誘致全体について発言したが、インタビューの一部だけが抜き取られて見出しにされた。真意が伝わってない」との趣旨の発言をした。翌4月30日には、東京都庁で「イスラム圏の方に誤解を招く表現で申し訳なかった。甘かったと言えば甘かった」「不適切な発言があったことはお詫びしたい」などと謝罪・釈明した。国際オリンピック委員会の五輪招致にまつわる行動規範は14項「都市間の関係」で、「それぞれの都市は、いつ、いかなる状況のもとでも、IOC委員やIOCそれ自体に対するのと同じ敬意を、他都市に払うべきものとする」 と定めており、これは招致レース最大のタブーとされている。その後、2013年5月9日に、猪瀬自ら駐日本国トルコ共和国大使館を訪問し、セルダル・クルチ駐日本国特命全権大使と約1時間にわたって会談し、「不快の念を与えたことをお詫びする」と述べた。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2013年11月に明らかになった報道によれば、2012年の都知事選前の2012年11月に、医療法人徳洲会創設者の徳田虎雄に「都知事選に出ます」と挨拶し、徳田毅衆院議員を通じて「余ったら返すのでまずは1億円をお願いしたい」と電話し、1億円の資金提供を要求していた。徳田虎雄は「5000万円で対応しろ」「足がつかないよう議員会館で渡せ」と徳田毅議員に指示し、議員会館の事務所で猪瀬に直接、現金で5000万円を手渡し、選挙運動費用収支報告書、都知事資産報告書、政治資金報告書に記載していなかった(徳洲会事件)。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "猪瀬知事は受け取った資金について、「借入金」であると説明し、「徳洲会側から申し出があり、厚意を断るのは失礼だと考えて借りた。5000万円という額になった理由は分からない」と説明している。その後、11月26日に緊急会見を開き、借用書をマスコミに提示し、「そもそも猪瀬が徳洲会からお金を借りたのは、都知事選挙に際して自民党都連は協力しないと通告されたため、ポスター貼りなどを誰かにお願いしたらいいかわからないことだらけの状態だったんです。結局、連合が協力してくれたので、5000万円は使わなくて済んだ。それが収賄だと追及されたのですから全くの冤罪です。」と語った。この時、報道陣に見せた借用書は、A4サイズの紙1枚に押印や収入印紙もなく、猪瀬の署名だけが入った簡素なもので、ネット上では猪瀬が掲げる借用書のコラージュ画像が出回った。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "医療法人徳洲会グループは東京都内にも病院、保険施設を抱えており、グループの老人保健施設に都が約7億5千万円の補助金を支出していた。また徳洲会は都知事の認可で老人保健施設を開設し、武蔵野徳洲苑の工期は2010年〜2011年度の2年間で、沖縄徳洲会が西東京市に設立を申請し、都が近隣に所在する施設数などを考慮して150床を認可した。150床規模の施設の場合、都は最大で9億6千万円の工事費を補助しているため、今回の5000万円はその見返りではないか、と各新聞社が報じた。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "選挙運動費用収支報告書に記載されておらず、公職選挙法違反の疑いで東京都民に告発された。また市民団体は、5000万円が政治活動のための借入金と認定された場合、政治資金規正法に基づいて政治資金収支報告書への記載が必要となるため政治資金規正法違反にも該当すると指摘した。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "さらに徳洲会が東京都の許認可が必要な事業も行っていることから、5000万円の授受が当時の副知事の職務や将来、知事になったときの職務と関連しているとみなされると収賄となる。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2013年11月29日の定例都議会で、医療法人徳洲会から5000万円を受け取った経緯などを説明したのに対し、各会派や傍聴席から「不十分」「納得できない」と批判の声が相次いだ。猪瀬知事には、「職員なら懲戒免職なんだよ」などと、野次が浴びせられ傍聴者の1人が守衛によって議場の外に出された。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2013年12月16日、都議会総務委員会は、猪瀬が「現金は普段使っているカバンに入れた」との証言を裏付けようと、現金を運んだカバンを都議会に提出させた。そして公明党の都議から、5000万円分の札束に見立てた発泡スチロールのブロックを入れるように要請された。このことは猪瀬には事前に知らされておらず、その場でかばんに押し込んだが、ファスナーが閉まらなかった。発泡スチロールの塊は実際の札束とは別物であり、それがカバンに入っても入らなくても真相の究明とは無関係である。ところがメディアはカバンに入らないサイズの発泡スチロールの塊を故意に用意した都議会側の悪意には気付かず、無責任に面白がった。このやり取りは、ネット上の人気コンテンツになり、松本人志にも「今年の面白かったベスト10に入る」と評価された。猪瀬は、3日後の2013年12月19日に辞意を表明し、同月24日付で都知事を辞任した。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "この点について猪瀬はのちに著作のなかで「(実際に借り受けた際は5000万円が入った)紙袋を折り曲げて持参した鞄に入れた。(略、都議が用意した)発泡スチロールのブロックは折ることも曲げることも分割することもできない。それでは鞄に入るはずがない」と述べている。この総務委員会について猪瀬は「人民裁判」と呼び「あれは完全なつるし上げです」「僕のときは10時間も立ちっぱなしで答弁させられた。血祭りにあげて、都議がポイント稼ぐことだけが目的なので真相解明は二の次。当時、僕の額から汗が流れる様子まで放送されましたが、あれは追い詰められて冷や汗をかいていたのではなく、単に体力の限界だったからです」と証言している。その後、汗の部分のみの切り取り動画が繰り返し拡散された。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また徳洲会からの収賄疑惑の報道について、猪瀬は都知事辞任後に出版した回顧録の中で、以下のように記している。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "猪瀬知事は「賄賂」ではなく「借入金」である証明として「借用証」を公表し借用証は郵送で返却されてきたものと説明していた。しかし折り目がなく、押印などもない不自然な体裁だったため、この借用証をメディアはニセモノではないかと決めつけるように報道し、借入金ではなく賄賂だとする印象の流れがつくられてしまう。封筒の公開を求める声が上がり、2013年12月6日の東京都議会一般質問で、提示した郵送されてきたとされる借用証について「封筒は保管していない」と答弁した。借用証ニセモノ説一色のメディアは記録の残る宅配便や書留郵便、特定記録ではなく配達記録は無かったと問題にし、封筒があれば切手の消印から、問題発覚前から借用書が存在し郵送されたことを証明できるが不可能になったなどと報じた。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "このように後付けで作られたのではないか、という借用証に関する疑念が、猪瀬辞任の大きな流れを作った。徳田毅議員は問題が発覚して以降沈黙を守っていたが、衆議院議員辞職願を提出した直後の2014年2月24日の記者会見で「私の事務所で作成し、目の前で署名もしてもらった」と述べ、本物であることを明らかにした。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2014年3月28日、東京地検特捜部は公職選挙法違反の罪で猪瀬を略式起訴した。資金の性質について特捜部は、5000万円が選挙費用として使われた形跡がないこと、知事選後の2013年2月の時点で返却に向けた動きがあった事実が認められ、また実際に同年9月に返済されていることなどから借入金と認定し、借入金が選挙資金収支報告書に記載されていない公職選挙法違反とした。東京簡易裁判所は罰金50万円の略式命令を出した。猪瀬は即日納付し、罰金刑が確定したことにより、政治資金規正法の規定に基づき、5年間公民権が停止されることになった。これにより、猪瀬に対する捜査は終結した。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "猪瀬はこの一連の騒動を「副知事になったときに清水谷公園横に建設予定だった参議院議員宿舎を白紙撤回したことで、千代田区選出の”都議会自民党のドン”都連幹事長(当時)の内田茂に恨まれていた。そのため、総務委員会が復讐の舞台になったのです」と述べている。猪瀬は内田に対して「東京のガン」と述べている。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2022年6月12日、第26回参議院議員通常選挙に向けて吉祥寺駅前で街頭演説をしていた猪瀬が、東京都選挙区から出馬する海老沢由紀を紹介する際、海老沢の肩や襷越しの胸に複数回にわたって触れる様子の動画がSNS上で出回った。動画を見た視聴者からは「気持ち悪い」「セクハラだ」との批判が相次ぎ、SNSで大炎上した。猪瀬は同月17日にツイッターを更新し、「軽率な面がありました。十分に認識を改め、注意をして行動していきたい」と反省の弁を述べたものの、同日の別の投稿では「切り取り報道です」「意図的に拡散する人がいるのです」とツイートし、セクハラ行為に対して指摘をするユーザを次々とブロックした。党代表の松井一郎は投開票日に出演したラジオで、「(猪瀬さんは)チームですから親しく肩を抱いて紹介しているんですけどね。ですからちょっと誤解があるのかなと思います」と発言した。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "猪瀬は9月6日、この動画をみて「間違いなくセクハラではないでしょうか」と述べた上智大学の三浦まり教授、及びそのコメントを掲載した朝日新聞社に対して名誉を毀損されたとして1100万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "訴状で猪瀬は「演説会は公道上で、しかも多数の聴衆の前で行われたものであるから、そこで演説する政治家が、同席した他の政治家にセクハラをすることなどおよそ考えられない状況である。原告は、海老沢氏の胸(乳房)付近に手を当てたことはなく、肩に手をやったのは紹介の際に親愛の情を示したものであって、その直前に音喜多議員の肩に手をかけ、音喜多議員が原告の腰に触れたと全く同じである」などとセクハラ行為を否定した。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "騒動を巡っては、海老沢も騒動直後のブログで、猪瀬が主張する事実経過を述べた上で、「胸を触っていないし、仮に当たっていたとしても、それはたすきをたたいた結果であり、変に触る意図は全くないことは明白なのです。猪瀬さんは、名前を間違えたことを気にしています。肩を何度もたたいたのは、スマンという意味もあったでしょう。それを感じ取っていたから、わたしは不快に思わず、全く覚えていなかったのだと思います。」と綴り、全面的に否定した。この件について朝日新聞社が出資する『ハフポスト』は、「ハラスメントが権力関係があって抵抗できない被害者に行われやすいという構造を軽視して、『ハラスメントではない』という言葉を鵜呑みにして否定することは非常に危険」「動画を見た人は、『自分よりも権力のある人にハラスメントを受けても、政治の場では笑って受け流さないとやっていけない』と認識してしまう」「他人の体に不用意に触ることは人権を侵害する行為だという認識のアップデートが必要」などと指摘している。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2023年12月、「意図的に女性の胸に触れたのは真実と認められる」、記事も「前提とする事実が重要部分で真実であるとの証明がある」として請求棄却。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2023年4月12日、参議院憲法審査会での審議中、維新所属の浅田均議員が憲法改正について発言している隣でガムをかみ続けた。14日に石井準一参議院議院運営委員長は同委員会理事会で、各会派に対し緊張感を持って臨むよう注意を促した。理事会で維新の東徹議員は猪瀬を厳重注意したと報告した。猪瀬の事務所は取材に対し「飲食禁止とは知っていたが、ガムまで禁止とは知らなかった。今後は気を付ける」と説明した。", "title": "不祥事・騒動" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2023年6月5日、参議院の地方デジタル委員会で、猪瀬は大きなあくびをした。そのあと、立憲民主党の小沼巧議員が発言している最中に、猪瀬のスマホの音が響いた。委員会室では、携帯電話の使用が禁止されている。小沼からの注意に対し、猪瀬は「ごめんごめん」と謝罪した。", "title": "不祥事・騒動" } ]
猪瀬 直樹は、日本の作家、政治家。日本維新の会所属の参議院議員(1期)。日本維新の会国会議員団参議院幹事長。血液型はAB型。妻は女優、画家、映像作家の蜷川有紀。長野県出身。 『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。道路公団民営化推進委員会委員、地方分権改革推進委員会委員、日本文明研究所所長。東京都副知事、東京都知事(第18代、1期)、大阪府市特別顧問、東京工業大学世界文明センター特任教授、東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、国際日本文化研究センター客員教授を歴任。
{{政治家 | 人名 = 猪瀬 直樹 | 各国語表記 = いのせ なおき | 画像 = Naoki Inose 2022-6-26(cropped).jpg | 画像説明 = [[2022年]][[6月26日]]、銀座三越前にて | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1946|11|20}} | 出生地 = {{JPN}} [[長野県]][[下水内郡]][[飯山町 (長野県)|飯山町]]<br />(現・[[飯山市]]) | 没年月日 = | 死没地 = | 前職 = | 出身校 = [[信州大学]][[人文学部]][[経済学部|経済学科]]<br />[[明治大学大学院政治経済学研究科・政治経済学部|明治大学大学院政治経済学研究科]] [[政治学]]専攻 [[大学院#修士課程・博士前期課程|博士前期課程]] | 所属政党 = ([[無所属]]→)<br />[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] | 学位・勲章 = [[修士(政治学)|政治学修士]](明治大学) | 配偶者 = 猪瀬ゆり子(1970年 - 2013年,死別) <br />[[蜷川有紀]](2018年 - ) | ウェブサイト = https://www.inose.gr.jp/ | サイトタイトル = 公式サイト | 国旗 = 日本 | 職名 = [[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]] | 選挙区 = [[参議院比例区|比例区]] | 当選回数 = 1回 | 就任日 = [[2022年]][[7月26日]] | 退任日 = 現職 | 国旗2 = 東京都 | 職名2 = 第18代 [[東京都知事]] | 当選回数2 = 1回 | 就任日2 = [[2012年]][[12月18日]]<ref name="tokyoto20121218"/> | 退任日2 = [[2013年]][[12月24日]] }} {{Infobox 作家 | period = 1983年 - | genre = [[文芸]]<br />[[ノンフィクション]]<br />[[批評]] | subject = [[天皇]]・[[文学]]・[[政治]]・[[社会]] | notable_works = 『ミカドの肖像』(1986年)<br />『日本国の研究』(1997年) | influences = [[清水慎三]]・[[橋川文三]] | awards = [[大宅壮一ノンフィクション賞]](1987年)<br />[[ジャポニスム|ジャポニスム学会]]特別賞(1987年)<br />[[文藝春秋読者賞]](1996年) | debut_works = 『天皇の影法師』<br />(1983年)<br />『[[昭和16年夏の敗戦]]』<br />(1983年)<br />『日本凡人伝』<br />(1983年) }} '''猪瀬 直樹'''(いのせ なおき、[[1946年]]〈昭和21年〉[[11月20日]] - )は、[[日本]]の[[作家]]、[[政治家]]。[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]所属の[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]](1期)。日本維新の会国会議員団[[参議院議員団|参議院幹事長]]。血液型は[[ABO式血液型|AB型]]<ref>[https://www.facebook.com/inosenaoki/about?lst=100009285082520%3A100001939402093%3A1509066143&section=contact-info&pnref=about 基本データ] Facebook</ref>。妻は[[俳優|女優]]、[[画家]]、[[映像作家]]の[[蜷川有紀]]<ref>{{Cite web|和書|title=元東京都知事・猪瀬直樹氏が女優・蜷川有紀と結婚…すでに同居、ともに再婚|url=https://hochi.news/articles/20181231-OHT1T50292.html|website=スポーツ報知|date=2019-01-01|accessdate=2020-12-15|language=ja}}</ref>。[[長野県]]出身。 『ミカドの肖像』で[[大宅壮一]]ノンフィクション賞受賞。[[道路公団]]民営化推進委員会委員、[[地方分権改革推進委員会]]委員、日本文明研究所所長。[[東京都副知事]]、[[東京都知事]](第18代、1期)、[[大阪市特別顧問|大阪府市特別顧問]]、[[東京工業大学]]世界文明センター特任[[教授]]、[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学大学院人文社会系研究科]][[客員教授]]、[[国際日本文化研究センター]]客員教授を歴任。 == 経歴・人物 == 長野県[[下水内郡]][[飯山町 (長野県)|飯山町]](現:[[飯山市]])生まれ。2歳半から[[長野市]]に移る。 父が飯山出身で母は[[松本市|松本]]の出身、両親共に小学校教師。[[諏訪市]]の[[諏訪市立高島小学校]]で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。育ったのは長野市。[[往生寺 (長野市)|往生寺]]のすぐ下に住んでいた。[[1950年]]5月、3歳半のとき父親が[[狭心症]]で急死した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=略年譜 1946年〜|url=https://www.inose.gr.jp/profile1946/|website=猪瀬直樹 公式サイト|date=2012-08-22|accessdate=2020-12-15|language=ja-JP}}</ref>。 [[信州大学教育学部附属長野小学校]]、[[信州大学教育学部附属長野中学校]]、[[長野県長野高等学校]]を経て([[ジャーナリスト]]で[[産経新聞]]論説副委員長だった[[花岡信昭]]とは幼稚園から高校まで同級生<ref name=":0" />。)[[信州大学]][[人文学部]][[経済学部|経済学科]]卒業。在学中は[[社会主義|社会主義運動]][[理論家]]の[[清水慎三]]ゼミに所属し、[[日本の新左翼|新左翼]][[日本の学生運動|学生運動]]の指導者として通称「白ヘル」([[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]])に属した<ref>『情況』2012年11月・12月合併号(情況出版)253頁。</ref>。[[1967年]]の[[羽田闘争|羽田事件]]を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、[[1969年]]に信州大学[[全学共闘会議|全共闘]]議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、[[反米]]・反[[イスラエル]]の[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|10.21国際反戦デー闘争]]や[[佐藤首相訪米阻止闘争]]に参加したりした<ref name="usui">臼井敏男 『叛逆の時を生きて』(2010年、朝日新聞出版)144〜146頁</ref>。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。 大学卒業後、上京し結婚。出版社勤務などを経て、[[1972年]]、[[明治大学大学院政治経済学研究科・政治経済学部|明治大学大学院政治経済学研究科]][[政治学]]専攻[[大学院#修士課程・博士前期課程|博士前期課程]]にて[[政治学者]]の[[橋川文三]]に師事し、日本[[政治哲学|政治思想史]]を研究。[[ナショナリズム]]研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという<ref name="usui"/>。 その後、アルバイトを経て<ref>「ひと:『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞の猪瀬直樹さん」(『朝日新聞』1987年10月21日、3頁)に「ビル清掃、国労書記などからノンフィクション作家」と記されているが、誤記である。猪瀬本人は「大学院時代2カ月ほど『国労東京地方本部20年史』の編纂で生き証人から聴き取り調査する[[アルバイト]]をした。記者がそそっかしかったのだろう」と述べている(文責・猪瀬直樹事務所)</ref>、作家活動に転じる。[[1987年]]、[[西武グループ]]と[[堤義明]]について[[皇族]]との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回[[大宅壮一ノンフィクション賞]]、[[ジャポニスム|ジャポニスム学会]]特別賞受賞。[[1996年]]、財政投融資が役人の天下り先を支える構造を告発し、道路公団民営化の端緒となった『日本国の研究』により、[[文藝春秋読者賞]]を受賞。 [[2001年]]、小泉内閣の行革断行評議会([[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行政改革担当大臣]]の諮問機関)に名を連ねる。[[2002年]]、[[道路関係四公団民営化推進委員会]]委員に就任。2007年、地方分権改革推進委員会委員に就任。 2001年から[[2009年]]まで[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学大学院人文社会系研究科]]客員教授、2001年から[[2003年]]まで[[国際日本文化研究センター]]客員教授、[[2006年]]から2010年まで[[東京工業大学]]世界文明センター特任[[教授]]。 [[2012年]]3月26日、マラソン初挑戦にして[[東京マラソン]]を完走。走破タイムは6時間40分。 2007年6月、[[石原慎太郎]]東京都知事の要請を受け[[東京都副知事]]に就任。2012年石原知事の退任に伴い後継指名を受け、同年[[12月16日]]の[[2012年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に立候補の届出<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121129/elc12112909500036-n1.htm 新人8人が届け出石原都政の継承か刷新か、猪瀬氏軸に選挙戦展開]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 産経新聞 2012年11月29日閲覧</ref>。そして選挙で433万8936票を獲得し、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121217/elc12121702110054-n1.htm 猪瀬直樹氏、当選あいさつ「毎日楽しく、選挙を戦った」「ぜひ被災地に出かけ、できること考えて」]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 産経新聞 2012年12月17日閲覧</ref>。[[青島幸男]]、石原慎太郎に続き、東京都知事は3人連続で作家出身となった。また、初の[[戦後]]生まれの都知事となった。猪瀬は石原前知事の五輪招致方針を引き継ぎ、[[2020年東京オリンピック|2020年オリンピック]]の東京招致を成功させた。その後[[徳洲会]]グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した。なお五輪招致活動中の2013年7月に、妻・ゆり子が病気のため逝去(享年65歳<ref>{{Cite web|和書|title=猪瀬直樹・東京都知事の妻、ゆり子さん死去|url=https://www.sankei.com/article/20130722-RQOQ5ES755NNFEIUJ3JW2BLJTU/|website=産経ニュース|accessdate=2020-12-15|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>)。 なお徳洲会資金問題ではメディアが収賄と報道したが、実際には司法には選挙資金収支報告書帳簿記載漏れと判断され、公職選挙法違反として[[罰金]]刑が確定し5年間の[[公民権]]停止となった<ref name="gendai305079">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/305079 |title=“カバン芸”揶揄された猪瀬直樹氏が参院選出馬へ 「最後のご奉公」精神に透ける石原慎太郎氏への憧れ |publisher=日刊ゲンダイ |date=2022-05-12 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。 2016年10月には画家・女優の[[蜷川有紀]]との交際が明らかとなり<ref>[http://www.sankei.com/politics/news/161020/plt1610200011-n1.html 69歳猪瀬直樹・元東京都知事が女優と「週末婚」 お相手は… 週刊新潮が報じる] 産経ニュース 2016年10月20日</ref>、2018年4月には婚約を発表<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2110017/full/ 猪瀬直樹氏と蜷川有紀が結婚へ] ORICON NEWS 2018年4月21日</ref>、12月下旬に結婚(再婚)<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201901010000436.html 猪瀬直樹元東京都知事が女優で画家の蜷川有紀と再婚] 日刊スポーツ、2019年1月1日</ref>。 2022年に行われた[[第26回参議院議員通常選挙]]に[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]の候補として[[参議院比例区|比例区]]から出馬し<ref>{{Cite web|和書|title=猪瀬直樹元東京都知事が日本維新の会公認で出馬へ、夏の参院選比例代表 14年に公選法違反 - 社会 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202205250000530.html |website=nikkansports.com |access-date=2022-07-11 |language=ja |date=2022年5月25日}}</ref>、7月10日の投開票の結果、当選した<ref>{{Cite web|和書|title=参議院選挙:比例選で日本維新の会の猪瀬直樹氏が初当選 |url=https://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/20220711-OYT1T50142/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-07-11 |access-date=2022-07-11 |language=ja}}</ref>。得票数は、 44,212票<ref>[https://go2senkyo.com/sangiin/20368/hirei_party/19/candidates 選挙ドットコム]</ref>。 == 活動・主張 == 戦後の日本を「[[ディズニーランド]]国家」と表現する。「[[日本人]]が長らく過ごしてきた戦後社会とは、『想定外』が許された社会だった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に防衛を委ねることで、[[戦争]]を国家の想定外としてきたのだ。沖縄をはじめ全国に米軍基地を置き、東京の空域も[[アメリカ軍|米軍]]によって使用が制限されている。アメリカまかせの現実を多くの[[日本人]]が知りながら、そのことに知らんぷりをしてきた。(中略)戦後の日本は一転して防衛を放棄し、いわば半主権国家となった。日本の戦後66年間は、アメリカという門番に守られた、歴史上特異な『ディズニーランド国家』だったと言える。ディズニーランドは永遠なれ、と日本人は信じた。一抹の不安は抱きつつも、そう信じようとしてきた。『戦後』から『災後』への歴史的転換は、あらゆるリスクを「想定外」とする社会から、起こり得るリスクを『想定』する社会への転換点を意味する。[[福島第一原子力発電所事故|福島第一原発事故]]を経た我われは、もはや『想定外』という言葉で言い逃れができないことに気づいている。[[東京電力ホールディングス|東京電力]]は戦後社会の象徴だ。福島第一原発事故に際して、東電が口にした言い訳も『想定外』だった」<ref>猪瀬直樹『決断する力』(PHP新書){{要ページ番号|date=2012年6月}}</ref>。 === 道路公団民営化について === [[日本道路公団]]民営化(2004年6月道路関係四公団民営化関係四法成立、2005年10月1日分割民営化)の中心人物の一人として知られている。 1996年に『文芸春秋』誌上に連載された「日本国の研究」にて、虎ノ門周辺に集結する特殊法人を巡る天下りや税金の還流の実態を描いた。政界での特殊法人改革の萌芽ともなったが、この著書が当時の小泉純一郎首相の眼にとまり、その後猪瀬自らも日本道路公団の道路公団民営化問題などに携わることになった。 2002年、小泉純一郎首相の要請により道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。委員7人中5人が利害関係者に切り崩されて委員を去る中で、民営化案の閣議決定を達成した。自民党道路族や国交省の官僚など、利害関係者との熾烈な闘いの日々を著書『道路の権力 道路公団民営化の攻防1000日』(文藝春秋)、『道路の決着』(小学館)に克明に記している。 <!-- 2010年2月3日より公式ブログ、同年3月にはTwitterをスタートした。 --> === 喫煙について === 猪瀬は著名な愛煙家である<ref name="sankei20100924">{{ウェブアーカイブ |deadlink = yes |title = 【金曜討論】たばこの値上げ 作田学氏、猪瀬直樹氏 |url = http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100924/trd1009241405008-n3.htm {{リンク切れ|date = 2022-06-26 |archiveurl = 1 }} |archiveurl = https://web.archive.org/web/20101116081920/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100924/trd1009241405008-n3.htm |archiveservice = [[ウェイバックマシン]] |archivedate = 2010-11-16 |accessdate = 2022-06-26}}</ref><ref>[http://uen2003ehime.com/topics2010.10.24.pdf 猪瀬-産経20100924の全文]NPO法人「禁煙推進の会えひめ」</ref>。猪瀬は、『税収に貢献する喫煙者のどこが悪い!』というコラムで、禁煙運動をヒステリックな[[禁煙ファシズム]]として批判した<ref>[http://aienka.jp/articles/014/ 禁煙ファシズムにもの申す 税収に貢献する喫煙者のどこが悪い! 愛煙家通信 Web版 喫煙文化研究会]</ref>。また、猪瀬は2000年頃に大学の[[禁煙]]の教室で[[喫煙]]しながら教鞭を取ることもあった。ある学生が諫めたところ、猪瀬は「私の講義ではこの教室は[[分煙]]だ。君らの席は禁煙でも教壇は喫煙席。文句があるなら受講していただかなくて結構」とはね付けた<ref>猪瀬直樹副都知事と橋下徹大阪市長の電力改革連携はタバコがネックで亀裂も!?[https://www.cyzo.com/2012/04/post_10341_entry.html 1/2][https://www.cyzo.com/2012/04/post_10341_entry_2.html 2/2] [[サイゾー]]</ref>。 また、[[2017年]]に『[[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!]]』に出演した際には、禁煙の会議室で[[IQOS]]を吸いながらペーパーテストを受けていたことで番組スタッフから注意を受けたが、猪瀬は「この煙は[[水蒸気]]なんだよ」と言い返し、その後も喫煙をやめることはなかった<ref name=":1">{{Cite news |url = https://fumumu.net/348572/ |title = カズレーザー、禁煙室で喫煙をやめない元都知事の言動に感服 「一本通ってる」 |newspaper = fumumu |publisher = 株式会社NEWSY |date = 2022-08-20 |accessdate = 2022-08-22 }}</ref>。このとき同席していたカズレーザーは、「めちゃめちゃかっけぇな」「文豪だなやっぱ。一本通ってる。関係ねぇんだ」と猪瀬の言動に感服していた。<ref name=":1" /> [[2022年]]に当該エピソードがニュースサイトに掲載されると、猪瀬は記事を引用したうえで「煙を撒き散らす[[紙巻きたばこ|紙巻きタバコ]]とわずかな水蒸気だけの[[加熱式たばこ|加熱式タバコ]]を同等に扱わないほうがいい」と持論を展開し、自身の行為を正当化した<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/inosenaoki/status/1561387934766743553 |title=2022年8月22日 午前1:21 のツイート |access-date=2022年8月22日閲覧}}</ref>。 === 分煙について === 2010年3月、コラム「眼からウロコ」にて『全面禁煙化は[[中小企業]]や[[飲食店]]には厳しい。[[たばこ税]]は国と地方をあわせ2兆円規模で安定した財源でもある』と著した<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100323/217044/?rt=nocnt 猪瀬直樹の「眼からウロコ」全面禁煙化は中小企業や飲食店には厳しい たばこ税は国と地方をあわせ2兆円規模で安定した財源でもある 2010年03月24日 nikkei BPnet]</ref>。 2010年9月、[[喫煙]]について「安易な全面[[禁煙]]には賛成しない」<ref name="sankei20100924"/>「黒煙を上げて走る[[ディーゼル自動車|ディーゼル車]]の方がよっぽど問題」「[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の問題に介入されると社会に[[ストレス (生体)|ストレス]]がたまる」と[[産経新聞]]に語った<ref>{{ウェブアーカイブ |deadlink = yes |title = 【金曜討論】たばこの値上げ 作田学氏、猪瀬直樹氏 |url = http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100924/trd1009241405008-n4.htm {{リンク切れ|date = 2022-06-26 |archiveurl = 1 }} |archiveurl = https://web.archive.org/web/20101116081909/http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100924/trd1009241405008-n4.htm |archiveservice = [[ウェイバックマシン]] |archivedate = 2010-11-16 |accessdate = 2022-06-26}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://uen2003ehime.com/topics2010.10.24.pdf 猪瀬-産経20100924の全文]}}NPO法人「禁煙推進の会えひめ」</ref>。 2012年11月、前神奈川県知事の[[松沢成文]]が、[[11月8日]]の[[2012年東京都知事選挙]]立候補表明で、「公的施設では吸わない人の健康を守る。禁煙か完全分煙」と[[神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例]]を持ち出し、喫煙規制強化を述べたことに、猪瀬は、[[神奈川県]]は[[神奈川県議会]]では吸えていることを指摘し、[[受動喫煙]]の防止を問題視した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121109/elc12110922160000-n1.htm たばこめぐりさや当て 松沢氏と猪瀬氏 2012年11月9日 産経MSN]</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20121110/dms1211101108000-n1.htm たばこめぐりさや当て 松沢氏と猪瀬氏 都知事選 2012年11月10日 ZAKZAK]</ref>。これに対して、松沢は、県議会は分煙しているとし、さらに猪瀬がパーティ会場で分煙せずに喫煙することを問題視した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121112/elc12111223510001-n1.htm 「あの人はパーティーでもスパスパ」松沢氏が猪瀬氏に“反撃” 2012年11月12日 東京都知事選 MSN産経]</ref>。 === マスクについて === 猪瀬は、政府によるマスク着用の推奨が続いていることに反対し、コロナ禍が落ち着いたタイミングでの「脱マスク」を主張している<ref name="nikkan20221021" />。また、マスクの感染予防効果にも疑問を呈している。 2022年10月20日、参議院予算委員会の質疑に立ち「日本人のマスクは令和のちょんまげ、顔パンツ」と発言してマスクを外したが、委員長から注意され、[[鼻出しマスク]]で質疑を行った<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/politics/20221020-OYT1T50205/ 猪瀬直樹氏がマスク外して質問「日本人のマスクは令和のちょんまげ」…参院予算委で] - 読売新聞オンライン 2022年10月20日</ref><ref name="nikkan20221021">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/313238 |title=猪瀬直樹議員「脱マスク」に漂う“今じゃないでしょ”感…国会質問デビューで熱弁も不発 |publisher =日刊ゲンダイ |date=2022-10-21 |accessdate=2023-02-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://archive.md/VwpFi |title=マスク依存症の劣化日本人の特徴 |publisher =猪瀬直樹 - Twitter |date=2023-02-16 |accessdate=2023-02-17}}</ref>。 2023年1月に出版した『太陽の男 石原慎太郎伝』のあとがきに、「日本人はマスクが好きである。外を歩く際には外していいとの指針があるにもかかわらず、風が吹いていても自転車に乗っていても車を運転していてもマスクをしている。コロナ禍におけるマスクは後ろ向きの民主主義のひとつの象徴的な事例で、日本国を覆っている同調圧力がこの数十年の停滞を招いていることは確かなようだ」と綴っている。<ref>{{Cite book|和書 |title=猪瀬直樹『太陽の男 石原慎太郎伝』 |date= |year=2023 |publisher=中央公論新社 |page=259}}</ref> 2023年2月8日に厚生労働省の「アドバイザリーボード」が入学式・卒業式でのマスク着用に対して示した考え方に対し、「この感染症専門家たちのエラそうな言い方。卒業式には条件付きで少しだけマスク外させてやるだと。国民がここまで指図される謂れはない。それよりコロナ関連予算を95兆円まで膨らませた責任、少なくともその痛みぐらいは感じてもらいたい」とツイートした。<ref>{{Cite web|和書|title=コロナ「5類」移行後の「5つの基本」専門家の見解に批判殺到「まだ言ってんのか」「口出しする必要ある?」 |url=https://smart-flash.jp/sociopolitics/225313/ |website=Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌] |date=2023-03-09 |access-date=2023-08-16 |language=ja |last=nagatomo}}</ref> == 東京都政への参画 == === 副知事時代 === ==== 東日本大震災について ==== [[東日本大震災]]の際、[[気仙沼市]]中央公民館で孤立した446人を、[[東京消防庁]]に命じて救出させた。きっかけは気仙沼市[[社会福祉協議会]]マザーズホーム園長から「火の海 ダメかも がんばる」という[[日本の携帯電話|携帯電話]]からの電子メールを受け取った息子([[イギリス]]在住)が、地上からの接近は難しいと言って空からの救出を求めることを、[[Twitter]]にてツイートをしたことから。それが猪瀬宛にメンションで届き、救助が必要と判断すると直ちに東京消防庁の防災部長を呼び出し、直接ヘリ出動を命じた。防災部長も即座に出動を決断した。ヘリコプターが到着して現場を確認するまで、公民館に取り残されたのは十数名と見られていた<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120319/302831/?ST=business&P=1 気仙沼の奇跡の救出劇、発信元はロンドン] [[日経BP|日経BPネット]]、2012年3月20日、1-4頁。</ref>。地元からの出動要請がない中でのヘリ出動は極めて異例。この時の様子のほか、東日本大震災後、東京都副知事としてどのような陣頭指揮を取ったかを、翌2012年3月に刊行した『決断する力』(PHP新書)にまとめている。さらに『救出-3.11気仙沼公民館に取り残された446人』(河出書房新社、後に小学館文庫)で詳細なドキュメンタリー作品に仕上げている。 ==== 東京天然ガス発電所プロジェクトについて ==== 2011年5月、「川崎天然ガス発電所」を視察し、比較的狭い敷地で建設できることや同発電所が採用する、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせて発電効率を高めた「コンバインドサイクル方式」を高く評価した。2011年8月、「[http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/policy_others/energy/index.html 東京天然ガス発電所プロジェクトチーム] (PT)」を発足。「東京モデル」を打ち出すべく、建設候補地や事業スキーム、国への規制緩和提案について検討している。同PTには[[東京都環境局|環境局]]、[[東京都交通局|交通局]]、[[東京都下水道局|下水道局]]など都庁の縦割りを超えて9局が横断的に加わった。原発1基分に相当する100万キロワット規模の発電所建設を目指して、9月には5箇所の適地を発表、電力市場の改革。さらに2012年5月には、葛西水再生センター用地([[江戸川区]])、砂町水再生センター用地([[江東区]])、中央防波堤外側埋立地(帰属区未定)の3カ所に絞り込み、電力の卸供給事業者 (IPP) としての東電への長期契約による売電と新電力・特定規模電気事業者 (PPS) としての事業の組み合わせれば、採算性があると確認した報告書を公表している。東京都は3カ所についてアセスメントの手続きを2012年6月に開始した。 福島第一原発以降の電力不足を補うとともに需要家が東京電力以外の選択肢を選べるような弾力的な市場に改革していくため、2012年5月16日、[[経済産業省]]に[[枝野幸男]][[経済産業大臣|大臣]]と面会した。東京電力の老朽火力のリプレースを進める際に新規参入を促すように規制を緩和したり新電力への資金面での支援策をもうけ、「(現在は3.5%に過ぎない)新電力のシェアを30%にまで伸ばすような政策展開をすべきだ」と提案した。 さらに7月18日には[[古川元久]][[国家戦略局|国家戦略大臣]]と面会して要望書を提出、老朽化した火力発電所の更新期間を短縮するために環境アセスメントの手続きの簡素化を求めた。 ==== 東京電力改革について ==== 福島第一原発事故で経営難に陥った東京電力は2011年12月、社長の[[西沢俊夫]]が会見して企業向け大口料金の値上げ方針を発表。翌2012年1月17日に一律2.6円値上げが明らかにされた。大口需要家であり、中小企業を所管する行政主体であり、筆頭株主である東京都を代表して、猪瀬直樹は1月26日に会見、東電、[[原子力損害賠償支援機構]]、経済産業相に対し、「燃料費等負担増、経営合理化の具体的内容について明確な情報開示を求める」と石原慎太郎の知事名での緊急アピールを明らかにし「待った」をかけた。アピールのなかで、都内の東電ファミリー企業の本社を整理するだけで1年で100億円を捻出できるとの独自分析を発表。値上げの根拠にしている燃料費増加の内訳を示さなければ値上げに応じられない、と指摘した。中小企業に対しても「愛がない」と配慮を求めた。 これを受け東電は3月、[http://www.tepco.co.jp/e-rates/corporate/charge/sap/index-j.html 値上げ緩和策]を発表した。3月には経済産業大臣の枝野幸男を訪ね、東京電力のさらなる合理化策としてファミリー企業などとの随意契約の割合を3割削減することを提案。11年11月に公表されていた緊急特別事業計画では10年間で2.6兆円とされていたリストラ額をさらに5000億円上乗せできると述べた。枝野はこれを受け入れ、総合特別事業計画に反映させるように原子力損害賠償支援機構と東京電力に指示すると明言。5月に公表された総合特別事業計画では合理化額は3.3兆円に増額されることに繋がった。 東京電力に対しては2012年4月27日に東京都としての[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/05/20m51800.htm 5つの株主提案]を[http://www.youtube.com/watch?v=b2F8wTFWfso 発表]。法人株主に呼びかけ文を送付したほか、個人株主にも[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2012/06/20m67700.htm 賛同を呼びかけた]。この第一項目として社外取締役に公認会計士の樫谷隆夫を推薦、東京電力は5月14日に発表した新役員体制のなかで7人の社外取締役のうちの一人として樫谷を内定した。また東電は「顧客サービス第一を使命とする」という経営理念を定款に書き込むよう求めるなどした東京都の他の株主提案について、「定款になじまない」としたものの、内容的にはほぼこれを経営方針の中で受容することを明らかにしている。 ==== 東京地下鉄、都営地下鉄一元化について ==== 2010年4月、プロジェクトチームを立ち上げ、[[多重行政]]の象徴である「[[東京の地下鉄]]一元化」の検討を開始。6月29日、[[東京地下鉄|東京メトロ]](旧[[帝都高速度交通営団]])の[[株主総会]]に東京都代表として出席し、東京メトロの株をほぼ半分ずつ保有する[[日本国政府]]と東京都に同社を加えた3者での協議機関の設置を提案し、合意を得た。 その結果、8月3日、[[国土交通省]]にて「第1回東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」が開かれ、続く第2回は9月8日に[[東京都庁舎]]にて開催。東京メトロの子会社12社の役員報酬などの実体を明らかにした。さらに並行して交通政策や会社経営の専門家らによる有識者会議「東京の地下鉄を考える懇談会」を開催している。 2011年2月3日に行われた第4回「東京の地下鉄の一元化等に関する協議会」では、東京地下鉄と都営地下鉄の「一元化」こそ見送られたものの、東京都の承諾のない東京地下鉄の株式売却を阻止し、乗継割引額の引き上げや、両者間の連絡駅の拡充などの実施を定めた合意文書を取りまとめた<ref>[https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/topics/h22/topi033-5.pdf 東京の地下鉄の一元化等に関する協議について]</ref><ref>[http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20110204ddlk13020267000c.html 都営地下鉄・東京メトロ:一元化問題 サービス向上先行 乗り継ぎ割引駅も/東京] - 2011年2月4日 毎日新聞都内版</ref>。 協議の結果として、一元化を阻む「[[壁]]の象徴」とされてきた、[[九段下駅]]の[[東京メトロ半蔵門線]]と[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]のホームを隔てている、いわゆる『[[バカの壁]]』撤去工事が始まり、2012年6月の東京地下鉄の株主総会を前に、その壁撤去の模様が報道陣に対して公開された。 「一元化は[[都営地下鉄]]の借金をメトロに押し付ける」という批判については、「都営も2006年に黒字化しており、経常利益の上昇トレンドもメトロと同じ水準にある」として一蹴している。ただし、経常利益(営業キャッシュフローの一部)だけでは設備投資(投資キャッシュフロー)や債務返済(財務キャッシュフロー)の関係性が説明できず、また都営地下鉄の借金の返済に直接補助金が投入されている事象などを考えると<ref group="注釈">例えば平成19年度東京都高速電車事業会計決算書P15によると元本返済に56億円、利息返済に122億円の補助金が投入されている。</ref>、東京地下鉄に借金を押し付けないという根拠としては不十分との指摘もある。 このような民間企業としての会計や、[[大手私鉄]]のビジネスモデルで理解しようとする見解に対し、猪瀬は「東京の地下鉄は私鉄のビジネスモデルではなく、公的な性格を帯びている」と反論する。理由の一つとして、[[1970年代]]以降、日本国政府と東京都は営団地下鉄(東京地下鉄の前身)に対し、5400億円の補助金を折半して支出、また都営地下鉄に対しても両者が折半して8600億円を支出していることを挙げる。 沿線開発をしながら資産形成するビジネスモデルの大手私鉄とは異なり、[[山手線]]内にある東京の地下鉄経営は、沿線開発が出来無い代わりに公的資金が投下され、一方で金城湯池での営業を続けることで、巨額の借金を返済するモデルである、と述べている<ref>『地下鉄は誰のものか』(ちくま新書、2011年){{要ページ番号|date=2012年6月}}</ref>。なお、地下鉄一元化については、審議会等における計画呼称をはじめとして、東京都心部の地下鉄建設当初から想定は成されていた(例:[[九段下駅]]の構造・設計)。 ==== 東京水道の海外進出について ==== 2010年4月、「海外事業調査研究会」を立ち上げ、[[東京都水道局]]の海外展開を目指している。海外事業調査研究会は商社など60社におよぶヒアリングを経て、6月、東京水道国際貢献ミッション団の派遣国を[[インド]]、[[インドネシア]]、[[ベトナム]]、[[マレーシア]]、[[モルディブ]]の5ヶ国に決めた。8月、その第一弾としてマレーシアを訪問。政府要人に東京水道のシステムの優位性をPRした。9月には来日したマレーシアのピーター・チン大臣と共に[[東京都水道局]]水運用センターを視察した<ref>猪瀬直樹『東京の副知事になってみたら』{{要ページ番号|date=2012年6月}}</ref>。 ==== 言葉の力『再生』プロジェクトについて ==== 2010年4月、若者の活字離れの問題を解決するために、横断的なプロジェクトチーム「『言葉の力』再生プロジェクト」を立ち上げた。「日本人に足りないのは論理的に考え、議論する『言語技術』」として、三森ゆりか・つくば言語技術教育研究所長など「言語」の専門家を招いて若手職員向けの講演会を開催したほか、新規採用職員を対象に言葉の表現力を高める研修を行った。今後は職員の研修を継続すると共に、東京都民を対象に11月3日には「読書」と「言葉」をテーマにしたイベント「すてきな言葉と出会う祭典-『言葉の力』を東京から-」(於:[[東京国際フォーラム]])を開催した。さらに2011年に『言葉の力-「作家の視点で国をつくる」』(中公新書ラクレ)としてまとめた。 ==== 参議院議員宿舎建設への反対について ==== 副知事に就任してすぐに、[[清水谷公園]](東京都[[千代田区]][[紀尾井町]])に隣接した緑地(東京都の[[風致地区]])に建設が予定されていた[[参議院]][[議員宿舎]]の建設中止を提案し、[[石原慎太郎]]知事を現地に案内した。石原はその場で「私は(森を潰して宿舎を建設することには)反対」と語った。猪瀬は建設予定地の周辺住民による反対運動について、日経BPの自身のコラムにて、「新議員宿舎の建設予定地は、[[紀州藩|紀州徳川]][[江戸藩邸|藩邸]]跡であり、1500坪の美しい自然林が残る。そのなかには、樹齢100年以上の樹木も含まれている。[[衆議院]]は豪華な[[議員宿舎#衆議院議員宿舎|赤坂議員宿舎]]で国民の厳しい批判を浴びたばかり。地上16階建て(高さ56m)。総戸数80戸はすべて3LDK(79平方メートル)の豪華な新議員宿舎を造ることよりも、環境を保全すべきという声があがるのは当然だ」と述べた<ref>{{Cite web|和書| author = 猪瀬直樹 | url = http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/inose/080805_52nd/index.html | work = 猪瀬直樹の「眼からウロコ」 | title = 第52回 参院宿舎に6000人の反対署名 | publisher = [[日経BP]] | date= 2008-08-05 | accessdate = 2016-07-23 }}</ref>。これがのちに、自民党都連幹事長(当時)内田茂(千代田区選出都議)との対立の原因となる。これについては。2016年『東京の敵』(角川新書)に詳しく書かれている。 ==== 「周産期医療体制整備プロジェクトチーム (PT)」について ==== 2008年11月、都内で重症[[妊婦]]の受け入れ拒否が相次いだことを受けて、「医師や行政ではなく患者側の視点で問題を検証する必要がある」として、「周産期医療体制整備プロジェクトチーム (PT)」を発足。[[東京都立墨東病院|墨東病院]]など4回の現場視察を行うとともに、NICU([[新生児集中治療室]])1床あたりの収支分析を行い、運営コスト(約4000万)が診療報酬と補助金の合計(約3300万)を上回っている現状では、病院が NICU を増やすことが難しいと分析した。そのため、2009年3月、猪瀬は[[舛添要一]][[厚生労働大臣]]のもとを訪れ、NICU(新生児集中治療室)の整備促進についての緊急要望書を提出。さらに4月には、セミオープンシステムのさらなる普及など10項目の提言を含めた周産期医療体制整備PT報告書をとりまとめた。 ==== 北海道夕張市への都職員派遣について ==== 「東京都の職員が夕張に行き、[[財政破綻]]がどういうものなのか体で感じることが必要。また、東京の持っているノウハウ、高い水準を[[首都]]政府として他の自治体に役立てたい」として、[[夕張市]]に2008年1月より都職員2名を2年間の予定で派遣した。また、タイムリー研修と銘打ち、短期の職員派遣も行っている。10月に廃校の備品清掃、整理などの手伝いとして6名を派遣、さらに2009年1月には「雪かき隊」としてさらに都職員10名を派遣し、福祉施設の除雪を行った。なお、「雪かき隊」には猪瀬の呼びかけに応じ、[[大阪府]]、[[広島市]]からも2名ずつ職員が派遣された。他にも、2009年6月に[[メロン]]農家での収穫手伝いのため6名を派遣した。なお、当初派遣した都職員の一人に後の夕張市長、北海道知事、[[鈴木直道]]がいた。2010年12月に、[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]の反対派に対し、[[Twitter]]で「[[夕張市]]に行って[[雪かき]]すれば[[インタビュー]]に応じる」旨の[[ジョーク]]発言を行い<ref>[http://twitter.com/inosenaoki/status/11137612278398976 猪瀬直樹のTwitter]</ref>、その発言に乗っかったアダルト漫画家の[[浦嶋嶺至]]は、2011年1月に夕張市を訪れ、実際に雪かきを行った<ref>[http://getnews.jp/archives/94883 都条例反対の漫画家、夕張で「雪かき」猪瀬副知事との「対談条件」はたす] - ガジェット通信 2011年1月21日</ref>。その後、猪瀬副知事と浦嶋の面会、対談が実現し、その模様は[[ニコニコ動画]]で生放送され、[[メル友]]にもなったという<ref>[http://getnews.jp/archives/97283 都条例反対で“雪かき”したエロ漫画家 猪瀬副知事と面会し「メル友になった」] - ガジェット通信 2011年2月6日</ref>。 ==== 少子高齢化対策について ==== 2009年6月、東京都の[[高齢者]]人口の増加、高齢者施設や[[バリアフリー]]住宅の不足に対応した、「少子高齢化時代にふさわしい新たな『すまい』PT」を立ち上げ、座長に就任した。発足にあたり、猪瀬は「首都政府、首都公務員として[[霞が関]]の[[縦割り行政|縦割り]]を東京から直していく、東京都が[[内閣府]]の役割を担うくらいの気概をもってほしい」と述べている。 都の『すまい』PTは住宅施策を所管する[[東京都都市整備局|都市整備局]]と高齢者福祉を担当する[[東京都福祉保健局|福祉保健局]]などからメンバーが部局横断的に集められている。このとき提起されたケア付き住宅がその後国策であるサービス付き住宅へと発展するきっかけとなった。 === 東京都知事就任後 === [[ファイル:平成25年9月11日猪瀬東京都知事表敬1.jpg|thumb|2013年9月11日、猪瀬と[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]]の面会]] [[2012年]][[12月16日]]執行の[[2012年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]で史上最多の433万8936票を獲得し、当選。同月18日に公職選挙法第101条の3第2項に基づき当選人告示が行われ<ref name="tokyoto20121218">[http://www.tokyoto-koho.metro.tokyo.jp/file/koho/id/2595/f/9874/2012_67.pdf 東京都公報 増刊67号] - 2012年12月18日</ref>、同日に第18代[[東京都知事]]に就任、初登庁し公務を開始した<ref name="FNN20121217">[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00237242.html 18日、正式に東京都知事に就任する猪瀬直樹氏に話を聞きました。] - FNN 2012年12月17日{{リンク切れ|date=2012年12月}}</ref><ref name="NHK20121218">[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121218/k10014261101000.html 猪瀬直樹新都知事が初登庁] - NHK 2012年12月18日{{リンク切れ|date=2012年12月}}</ref>(任期の起算日は選挙の日の16日)<ref>{{Cite web|和書|title=公職選挙法(昭和25年法律第100号)第259条|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325AC1000000100#2367|website=e-Gov法令検索|date=2019-05-31|accessdate=2020-01-27|publisher=総務省行政管理局}}「(地方公共団体の長の任期の起算)第二百五十九条 地方公共団体の長の任期は、選挙の日から起算する。(以下、但し書きの事例に該当しないため引用略)」</ref>。 しかし、後述の資金提供問題について都議会などから厳しい追及を受け、[[2013年]][[12月19日]]に辞意を表明<ref>{{Cite news |url = https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1805K_Y3A211C1MM8000/ |title = 猪瀬都知事、19日辞意表明へ 徳洲会5000万円問題 |newspaper = [[日本経済新聞]] |publisher = [[日本経済新聞社]] |date = 2013-12-18 |accessdate = 2022-08-23 }}</ref>。[[12月24日]]に就任からわずか1年で都知事を辞職した<ref>{{Cite news |url = https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG24068_U3A221C1000000/ |title = 猪瀬氏、都庁去る 自民はあいさつ拒否 |newspaper = [[日本経済新聞]] |publisher = [[日本経済新聞社]] |date = 2013-12-24 |accessdate = 2022-08-23 }}</ref>。 == 不祥事・騒動 == === 脚本家への名誉棄損 === * 副知事時代の2012年10月、猪瀬は過去に原作を手がけた漫画『[[ラストニュース]]』について「アホ脚本家が日テレで換骨奪胎し安っぽい報道ドラマにした」などとツイートした<ref name="murakawa">{{Cite web|和書|author = [[村川康敏]] |date = 2013-03-28 |url = http://www.highlightsfactory.com/seimei_2013_3_28.pdf |title = 猪瀬直樹氏が盗作嫌疑をかけた問題についての声明 |work = 声明文 |publisher = 村川康敏 |accessdate = 2015-09-02 }}</ref>。この記述から批判されたドラマが『[[ストレートニュース (テレビドラマ)|ストレートニュース]]』(2000年、日本テレビ)であると推測され、担当脚本家の[[伴一彦]]は、「[[盗作]]」であるかのような汚名を着せられたとして、[[2013年]]3月28日に[[東京地方裁判所]]に本件について550万円の[[損害賠償]]と謝罪ツイートを求める[[訴訟]]を起こした<ref>{{Cite web|和書 |date = 2013-03-28 |url = http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130328/trl13032818160003-n1.htm |title = 「『盗作』の汚名着せられた」猪瀬都知事を提訴 ドラマ脚本家 |work = [[産経新聞|msn産経ニュース]] |publisher = [[産経新聞社]] |accessdate = 2014-03-27 }}</ref>。この訴訟は[[2014年]]3月26日、猪瀬が伴に対し100万円の賠償金を支払うことと、謝罪ツイートを掲載することで和解が成立した<ref>{{Cite news|title = 猪瀬前知事、脚本家に謝罪…名誉毀損訴訟で和解 |newspaper = [[読売新聞]] |date = 2014-03-26 |url = http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140326-OYT1T00389.htm |accessdate = 2014-03-27 }}</ref>。 === 2020年オリンピック招致活動における不適切発言 === 2013年4月27日付け[[ニューヨーク・タイムズ]](NYT)に Ken Belson 及び Hiroko Tabuchi 記者の猪瀬知事へのインタビューが載り、その中で彼らは「イスタンブールは若い人が多いが、東京は高齢化している」として、[[イスタンブール]]との比較で東京を揶揄するかのような質問を浴びせた。それを受け同知事は、「[[イスラム国家]]が共有するのは[[アラー]](神)だけで、互いに[[喧嘩]]しており、[[階級]]がある」と発言したと、五輪誘致に批判的な[[朝日新聞]]<ref>産経新聞「反対意見ばかり掲載 東京に五輪を呼びたいか」(2013年5月21日)によると、2013年の朝日新聞「声」([[阿部俊幸]]東京本社「声」編集長)に載った五輪招致関連の投書は、「すべては招致に反対か、悲観する内容だった」として、「7割の賛同者はどこにいったのか」と書いた([[阿部俊幸#2020年東京五輪招致]]も参照)。</ref>を含む国内メディアに大きく報じられた。その報道に対して、4月29日に猪瀬知事は「五輪の誘致全体について発言したが、インタビューの一部だけが抜き取られて見出しにされた。真意が伝わってない」との趣旨の発言をした。翌4月30日には、東京都庁で「[[イスラム世界|イスラム圏]]の方に誤解を招く表現で申し訳なかった。甘かったと言えば甘かった」「不適切な発言があったことはお詫びしたい」などと謝罪・釈明した<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20130430-OHT1T00159.htm 猪瀬都知事「甘かった」反論一転謝罪…イスタンブールへの「不適切発言」] [[スポーツ報知]](2013年5月1日)</ref>。[[国際オリンピック委員会]]の五輪招致にまつわる行動規範は14項「都市間の関係」で、「それぞれの都市は、いつ、いかなる状況のもとでも、IOC委員やIOCそれ自体に対するのと同じ敬意を、他都市に払うべきものとする」 と定めており、これは招致レース最大の[[タブー]]とされている。その後、2013年5月9日に、猪瀬自ら[[駐日トルコ共和国大使館|駐日本国トルコ共和国大使館]]を訪問し、セルダル・クルチ駐日本国[[特命全権大使]]と約1時間にわたって会談し、「不快の念を与えたことをお詫びする」と述べた<ref>『[[読売新聞]]』(2013年5月10日)「[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130510-00001173-yom-spo 「不快の念与えた」猪瀬知事、トルコ大使に謝罪]」</ref>。 === 徳洲会グループからの資金提供問題 === [[2013年]]11月に明らかになった報道によれば、[[2012年]]の都知事選前の2012年11月に、[[徳洲会|医療法人徳洲会]]創設者の[[徳田虎雄]]に「都知事選に出ます」と挨拶し、[[徳田毅]]衆院議員を通じて「余ったら返すのでまずは1億円をお願いしたい」と電話し、1億円の資金提供を要求していた。徳田虎雄は「5000万円で対応しろ」「足がつかないよう[[議員会館]]で渡せ」と[[徳田毅]]議員に指示し、議員会館の事務所で猪瀬に直接、現金で5000万円を手渡し、選挙運動費用収支報告書、都知事資産報告書、政治資金報告書に記載していなかった<ref name="名前なし-2">[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131123/t10013280511000.html 徳洲会側「猪瀬知事が1億円お願い」]NHK NEWSWEB 11月23日 4時50分</ref>([[徳洲会事件]])。 猪瀬知事は受け取った資金について、「[[借入金]]」であると説明し、「徳洲会側から申し出があり、厚意を断るのは失礼だと考えて借りた。5000万円という額になった理由は分からない」と説明している<ref name="名前なし-2"/>。その後、11月26日に緊急会見を開き、[[金銭消費貸借契約#契約の締結と契約書等|借用書]]をマスコミに提示し、「そもそも猪瀬が徳洲会からお金を借りたのは、都知事選挙に際して自民党都連は協力しないと通告されたため、ポスター貼りなどを誰かにお願いしたらいいかわからないことだらけの状態だったんです。結局、連合が協力してくれたので、5000万円は使わなくて済んだ。それが収賄だと追及されたのですから全くの冤罪です。」<ref>週刊SPA第65巻第22号5p</ref>と語った。この時、報道陣に見せた借用書は、A4サイズの紙1枚に押印や収入印紙もなく、猪瀬の署名だけが入った簡素なもので、ネット上では猪瀬が掲げる借用書の[[コラージュ]]画像が出回った<ref name="jcast20131217" />。 医療法人徳洲会グループは東京都内にも病院、保険施設を抱えており、グループの老人保健施設に都が約7億5千万円の補助金を支出していた。また徳洲会は都知事の認可で老人保健施設を開設し、武蔵野徳洲苑の工期は[[2010年]]〜[[2011年]]度の2年間で、沖縄徳洲会が西東京市に設立を申請し、都が近隣に所在する施設数などを考慮して150床を認可した。150床規模の施設の場合、都は最大で9億6千万円の工事費を補助しているため、今回の5000万円はその見返りではないか、と各新聞社が報じた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131123/crm13112308590005-n1.htm 徳洲会施設に補助金7億5000万円 猪瀬氏]産経新聞</ref>。 選挙運動費用収支報告書に記載されておらず、公職選挙法違反の疑いで東京都民に告発された。また市民団体は、5000万円が政治活動のための借入金と認定された場合、政治資金規正法に基づいて政治資金収支報告書への記載が必要となるため政治資金規正法違反にも該当すると指摘した。 さらに徳洲会が東京都の許認可が必要な事業も行っていることから、5000万円の授受が当時の副知事の職務や将来、知事になったときの職務と関連しているとみなされると[[賄賂|収賄]]となる<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131125/k10013321111000.html 市民団体が猪瀬知事の告発状を提出]NHK</ref>。 [[2013年]]11月29日の定例都議会で、医療法人徳洲会から5000万円を受け取った経緯などを説明したのに対し、各会派や傍聴席から「不十分」「納得できない」と批判の声が相次いだ。猪瀬知事には、「職員なら[[免職|懲戒免職]]なんだよ」などと、野次が浴びせられ傍聴者の1人が[[守衛]]によって議場の外に出された。 [[2013年]]12月16日、都議会総務委員会は、猪瀬が「現金は普段使っているカバンに入れた」との証言を裏付けようと、現金を運んだカバンを都議会に提出させた<ref name="jcast20131217">{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2013/12/17191949.html?p=all |title=コント?「エスパー猪瀬」に大笑い 都知事は「カバン芸人」になったのか |publisher =J-CASTニュース |date=2013-12-17 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。そして[[公明党]]の都議から、5000万円分の札束に見立てた発泡スチロールのブロックを入れるように要請された。このことは猪瀬には事前に知らされておらず、その場でかばんに押し込んだが、ファスナーが閉まらなかった。発泡スチロールの塊は実際の札束とは別物であり、それがカバンに入っても入らなくても真相の究明とは無関係である。ところがメディアはカバンに入らないサイズの発泡スチロールの塊を故意に用意した都議会側の悪意には気付かず、無責任に面白がった<ref name="jcast20131217" /><ref name="tv-asahi20131217">{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000018068.html |title=猪瀬都知事、5000万円運んだかばんを公開 |publisher =テレビ朝日 |date=2013-12-17 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。このやり取りは、ネット上の人気コンテンツになり、松本人志にも「今年の面白かったベスト10に入る」と評価された<ref name="jcast20131217" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20131226/dms1312261532021-n1.htm |title=猪瀬氏に吉本が熱視線?! 松本人志もバカ受けの“カバン芸” (1/2ページ) |publisher =zakzak |date=2013-12-26 |accessdate=2023-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2013/12/19192142.html |title=松本人志、猪瀬都知事「カバン芸」を評価 「今年の面白かったベスト10に入る」 |publisher =J-CASTニュース |date=2013-12-19 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。猪瀬は、3日後の2013年12月19日に辞意を表明し、同月24日付で都知事を辞任した<ref name="nikkan20220526">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202205260000986.html |title=カバン閉まらず都知事辞任から9年 猪瀬直樹氏が政界復帰へ維新から参院選出馬「最後のご奉公」 |publisher=日刊スポーツ |date=2022-05-26 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。 この点について猪瀬はのちに著作のなかで「(実際に借り受けた際は5000万円が入った)紙袋を折り曲げて持参した鞄に入れた。(略、都議が用意した)発泡スチロールのブロックは折ることも曲げることも分割することもできない。それでは鞄に入るはずがない」と述べている<ref>猪瀬直樹『さようならと言ってなかった』(マガジンハウス)P181</ref>。この総務委員会について猪瀬は「人民裁判」と呼び「あれは完全なつるし上げです」「僕のときは10時間も立ちっぱなしで答弁させられた。血祭りにあげて、都議がポイント稼ぐことだけが目的なので真相解明は二の次。当時、僕の額から汗が流れる様子まで放送されましたが、あれは追い詰められて冷や汗をかいていたのではなく、単に体力の限界だったからです」と証言している<ref>週刊SPA第65巻第22号4~5ページ</ref>。その後、汗の部分のみの切り取り動画が繰り返し拡散された。 また徳洲会からの収賄疑惑の報道について、猪瀬は都知事辞任後に出版した[[回顧録]]の中で、以下のように記している。 {{Quotation|徳田虎雄理事長や徳田毅議員からも、何らの依頼を受けた事実もなく便宜をはかった事実も、いっさいない、とメディアでも都議会でも答えた通りである。特捜部も現金を借りた以降の行動記録を洗いざらいチェックしていたが、徳洲会側と僕がまったく連絡を取り合っていない事実を確認しているはずだ。アマチュアの僕はお金を借りた人に便宜をはからなければいけないという発想もなかった。永田町のプロフェッショナルな政治家では常識なのかもしれないが、僕にはこの感覚が欠落していた。借りたものは返す、という意識しかなかった。そもそもこんな誤解を招く5千万円を借りるべきではなかった。|猪瀬直樹|『さようならと言ってなかった』(マガジンハウス)P188}} 猪瀬知事は「賄賂」ではなく「借入金」である証明として「借用証」を公表し借用証は郵送で返却されてきたものと説明していた。しかし折り目がなく、押印などもない不自然な体裁だったため、この借用証をメディアはニセモノではないかと決めつけるように報道し、借入金ではなく賄賂だとする印象の流れがつくられてしまう。封筒の公開を求める声が上がり、[[2013年]]12月6日の[[東京都議会]]一般質問で、提示した郵送されてきたとされる借用証について「封筒は保管していない」と答弁した。借用証ニセモノ説一色のメディアは記録の残る[[宅配便]]や[[書留郵便]]、特定記録ではなく配達記録は無かったと問題にし、封筒があれば[[日本切手|切手]]の[[消印]]から、問題発覚前から借用書が存在し郵送されたことを証明できるが不可能になったなどと報じた<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20131207k0000m040059000c.html 猪瀬知事:「借用証の封筒は保管せず。スタッフが処分」]毎日新聞</ref>。 このように後付けで作られたのではないか、という借用証に関する疑念が、猪瀬辞任の大きな流れを作った。徳田毅議員は問題が発覚して以降沈黙を守っていたが、衆議院議員辞職願を提出した直後の2014年2月24日の記者会見で「私の事務所で作成し、目の前で署名もしてもらった」と述べ、本物であることを明らかにした<ref>[http://senkyo.mainichi.jp/news/20140225ddr041010006000c.html 徳洲会公選法違反:徳田議員が辞職願 猪瀬氏への5000万円「使い道聞かず」] 毎日新聞</ref>。 2014年3月28日、東京地検特捜部は公職選挙法違反の罪で猪瀬を略式起訴した。資金の性質について特捜部は、5000万円が選挙費用として使われた形跡がないこと、知事選後の2013年2月の時点で返却に向けた動きがあった事実が認められ、また実際に同年9月に返済されていることなどから借入金と認定し、借入金が選挙資金収支報告書に記載されていない[[公職選挙法]]違反とした。東京簡易裁判所は罰金50万円の略式命令を出した<ref name="gendai305079" />。猪瀬は即日納付し、罰金刑が確定したことにより、[[政治資金規正法]]の規定に基づき、5年間[[公民権]]が停止されることになった<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO69070670Z20C14A3CC1000/ 猪瀬前知事「5000万円は選挙資金」 罰金50万円納付し謝罪]日本経済新聞</ref><ref name="gendai305079" />。これにより、猪瀬に対する捜査は終結した。 猪瀬はこの一連の騒動を「副知事になったときに清水谷公園横に建設予定だった参議院議員宿舎を白紙撤回したことで、[[千代田区]]選出の”都議会[[自由民主党 (日本)|自民党]]のドン”都連幹事長(当時)の[[内田茂]]に恨まれていた。そのため、総務委員会が復讐の舞台になったのです」と述べている<ref>週刊SPA第65巻第22号4p</ref>。猪瀬は内田に対して「東京のガン」と述べている<ref>[[週刊文春]]2016年8月4日号、P22</ref>。 === 女性候補者へのセクハラ疑惑報道と名誉毀損訴訟 === [[2022年]]6月12日、[[第26回参議院議員通常選挙]]に向けて[[吉祥寺駅]]前で街頭演説をしていた猪瀬が、[[東京都選挙区]]から出馬する海老沢由紀を紹介する際、海老沢の肩や襷越しの胸に複数回にわたって触れる様子の動画がSNS上で出回った<ref name="jpr24275">{{Cite web|和書|url=https://www.jprime.jp/articles/-/24275 |title=猪瀬直樹、『維新の会』街頭演説で女性候補者の胸を触る“セクハラ”行為に「気持ち悪い」 |publisher =[[週刊女性]] |date=2022-06-17 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。動画を見た視聴者からは「気持ち悪い」「[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]だ」との批判が相次ぎ、SNSで大炎上した<ref>{{Cite news |url = https://www.tokyo-np.co.jp/article/184015 |title = 維新の猪瀬氏に「セクハラ」批判相次ぐ 女性立候補予定者の胸元付近に触れ演説 |newspaper = [[東京新聞]] |publisher = [[東京新聞社]] |date = 2022-06-17 |accessdate = 2022-08-23 }}</ref><ref name="jpr24275" />。猪瀬は同月17日にツイッターを更新し、「軽率な面がありました。十分に認識を改め、注意をして行動していきたい」と反省の弁を述べたものの<ref>{{Cite news |url = https://www.j-cast.com/2022/06/17439623.html |title = 猪瀬直樹氏、維新女性候補の体触りセクハラ批判 「認識改める」と反省...相手「気にしてなかった」 |newspaper = [[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]] |publisher = [[ジェイ・キャスト]] |date = 2022-06-17 |accessdate = 2022-08-23 }}</ref>、同日の別の投稿では「切り取り報道です」「意図的に拡散する人がいるのです」とツイートし<ref>{{Cite web|和書|url = https://twitter.com/inosenaoki/status/1537753429019242498 |title = 2022年6月17日 午後8時6分 のツイート |date = 2022-06-17 |accessdate = 2022-08-24 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20220617110646/https://twitter.com/inosenaoki/status/1537753429019242498 |archivedate = 2022-06-17 }}</ref><ref name="gendai307204">{{Cite news |url = https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/307204 |title = 【猪瀬直樹】(1)目玉候補から一転 不人気の猪瀬直樹氏に「公然セクハラ騒動」勃発! |newspaper = [[日刊ゲンダイ]] |publisher = 株式会社日刊現代 |date = 2022-06-24 |accessdate = 2022-08-23 }}</ref>、セクハラ行為に対して指摘をするユーザを次々とブロックした<ref>{{Cite news |url = https://jisin.jp/domestic/2109652/ |title = 猪瀬直樹氏 女性候補へのセクハラ批判を反省も…指摘した人を次々“ブロック”の呆れた矛盾 |newspaper = [[女性自身]] |publisher = [[光文社]] |date = 2022-06-17 |accessdate = 2022-08-24 }}</ref>。党代表の[[松井一郎]]は投開票日に出演したラジオで、「(猪瀬さんは)チームですから親しく肩を抱いて紹介しているんですけどね。ですからちょっと誤解があるのかなと思います」と発言した<ref name="huff20220712">{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_62cd0d37e4b0d7401987d57d |title=ハラスメントは「笑って受け流すもの」とのメッセージに...女性当選者は「過去最多」でも露呈したジェンダー問題【参院選2022】 |publisher=huffingtonpost |date=2022-07-12 |accessdate=2023-03-25}}</ref>。 猪瀬は9月6日、この動画をみて「間違いなくセクハラではないでしょうか」と述べた[[上智大学]]の[[三浦まり]]教授、及びそのコメントを掲載した朝日新聞社に対して名誉を毀損されたとして1100万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした<ref>{{Cite news |url = https://news.yahoo.co.jp/articles/23835a2a1f09558d6c25a9f92da97708bc19645b |title = 猪瀬直樹議員、朝日新聞を提訴 セクハラ指摘「名誉毀損」 |newspaper = 共同通信 |publisher = YAHOO!ニュース |date = 2022-09-06 |accessdate = 2023-01-29}}{{404|date=2023-12}}</ref>。 訴状で猪瀬は「演説会は公道上で、しかも多数の聴衆の前で行われたものであるから、そこで演説する政治家が、同席した他の政治家にセクハラをすることなどおよそ考えられない状況である。原告は、海老沢氏の胸(乳房)付近に手を当てたことはなく、肩に手をやったのは紹介の際に親愛の情を示したものであって、その直前に音喜多議員の肩に手をかけ、音喜多議員が原告の腰に触れたと全く同じである」などとセクハラ行為を否定した。 騒動を巡っては、海老沢も騒動直後のブログで、猪瀬が主張する事実経過を述べた上で、「胸を触っていないし、仮に当たっていたとしても、それはたすきをたたいた結果であり、変に触る意図は全くないことは明白なのです。猪瀬さんは、名前を間違えたことを気にしています。肩を何度もたたいたのは、スマンという意味もあったでしょう。それを感じ取っていたから、わたしは不快に思わず、全く覚えていなかったのだと思います。」と綴り、全面的に否定した<ref>{{Cite web|和書|title=「公道上のセクハラ考えられない」猪瀬直樹氏、朝日新聞と三浦まり氏を名誉毀損で提訴 |url=https://sakisiru.jp/35635 |website=SAKISIRU(サキシル){{!}} 先を知る、新しい大人のメディア |date=2022-09-06 |access-date=2023-08-16 |language=ja}}</ref>。この件について朝日新聞社が出資する『[[ハフポスト]]』は、「ハラスメントが権力関係があって抵抗できない被害者に行われやすいという構造を軽視して、『ハラスメントではない』という言葉を鵜呑みにして否定することは非常に危険」「動画を見た人は、『自分よりも権力のある人にハラスメントを受けても、政治の場では笑って受け流さないとやっていけない』と認識してしまう」「他人の体に不用意に触ることは人権を侵害する行為だという認識のアップデートが必要」などと指摘している<ref name="huff20220712" />。 2023年12月、「意図的に女性の胸に触れたのは真実と認められる」、記事も「前提とする事実が重要部分で真実であるとの証明がある」として請求棄却<ref>[https://nordot.app/1108324916582924638 セクハラ記事、猪瀬直樹氏が敗訴 「意図的に胸に触れたのは真実」]共同通信</ref><ref>[https://sakisiru.jp/47637 「不当判決」猪瀬直樹氏、朝日新聞へのセクハラ報道の名誉毀損訴訟で一審敗訴 東京地裁「論評の域 逸脱せず」]SAKISIRU</ref>。 === 国会審議中にガムをかむ === [[2023年]]4月12日、参議院憲法審査会での審議中、維新所属の[[浅田均]]議員が憲法改正について発言している隣で[[チューインガム|ガム]]をかみ続けた<ref>{{Cite news|url=https://www.fnn.jp/articles/-/514218|title=猪瀬直樹議員が国会で「ガムかみ」厳重注意!同僚発言中にずっとモグモグ…去年も “口元”絡みで注意されたことも|newspaper=FNNプライムオンライン|date=2023-04-14|accessdate=2023-04-15}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20230414-R5WB3CURTBL3LD4MRO7M7EC3SU/|title=維新、猪瀬直樹氏を厳重注意 ガムかみ憲法審に出席|newspaper=産経新聞|date=2023-04-14|accessdate=2023-04-15}}</ref><ref name="jiji20230414">{{Cite news|url=https://www.jiji.com/amp/article?k=2023041400498|title=参院、猪瀬氏「ガムかみ」で注意喚起|newspaper=時事通信|date=2023-04-14|accessdate=2023-04-15}}</ref>。14日に[[石井準一]]参議院[[議院運営委員会|議院運営委員長]]は同委員会理事会で、各会派に対し緊張感を持って臨むよう注意を促した。理事会で維新の[[東徹 (政治家)|東徹]]議員は猪瀬を厳重注意したと報告した{{R|"jiji20230414"}}。猪瀬の事務所は取材に対し「飲食禁止とは知っていたが、ガムまで禁止とは知らなかった。今後は気を付ける」と説明した<ref>{{Cite news|url=https://nordot.app/1019525420867239936|title=維新の猪瀬氏、ガムかみ厳重注意 参院憲法審「禁止知らなかった」|newspaper=共同通信|date=2023-04-14|accessdate=2023-04-15}}</ref>。 === 電子機器による国会審議妨害 === 2023年6月5日、参議院の地方デジタル委員会で、猪瀬は大きなあくびをした<ref name=":2">{{Citation|title=【厳重注意】大あくび…猪瀬議員 スマホの音で国会一時中断|url=https://www.youtube.com/watch?v=uhULrr9HyfY|language=ja-JP|access-date=2023-11-16}}</ref>。そのあと、立憲民主党の[[小沼巧]]議員が発言している最中に、猪瀬のスマホの音が響いた<ref name=":2" />。委員会室では、携帯電話の使用が禁止されている<ref name=":2" />。小沼からの注意に対し、猪瀬は「ごめんごめん」と謝罪した<ref name=":2" />。 == 著書 == *『天皇の影法師』[[朝日新聞社]](1983年)。[[新潮文庫]]、[[朝日文庫]]、[[中公文庫]](各・改訂版) *『[[昭和16年夏の敗戦]] 総力戦研究所"模擬内閣"の日米戦必敗の予測』[[世界文化社]](1983年) **『昭和16年 夏の敗戦』[[文春文庫]](1986年)・中公文庫(2010年、改版2020年) *『日本凡人伝』[[弓立社]](1983年)・新潮文庫(1985年) *{{Cite book|和書|title=死者たちの[[ロッキード事件]]|publisher=[[文藝春秋]]|date=1983-12-25|id={{NDLJP|12286822}}}} **{{Cite book|和書|title=死者たちのロッキード事件|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|date=1987-05-10|id={{NDLJP|12230201}}}} *『日本凡人伝-二度目の仕事』[[新潮社]](1985年)・新潮文庫(1988年) *『あさってのジョー』新潮社 (1985年) 「二度目の仕事 日本凡人伝」文庫 *『ミカドの肖像』[[小学館]](1986年)。同ライブラリー、新潮文庫、[[小学館文庫]] *『死を見つめる仕事』新潮社(1987年)、「死を見つめる仕事 日本凡人伝」文庫(1991年) *『土地の神話』小学館(1988年)。同ライブラリー、新潮文庫(1993年) *『ノンフィクション宣言』インタビュー・編 文藝春秋(1988年)・文春文庫(1992年) *『ニューズの冒険』文藝春秋(1989年)「ニュースの冒険」文庫(1993年) *『今をつかむ仕事」新潮社(1989年)「今をつかむ仕事 日本凡人伝」文庫(1993年) *『ふるさとを創った男』[[日本放送出版協会]] (1990年) 『唱歌誕生』文春文庫(1994年) *『欲望のメディア』小学館(1990年)・新潮文庫(1994年) *『ミカドの国の記号論』小学館(1991年)・河出文庫(1996年) *『ニュースの考古学』文藝春秋(1992年) *『迷路の達人 猪瀬直樹エッセイ全集成』文藝春秋 1993 『僕の青春放浪』文春文庫(1998年) *『禁忌の領域 ニュースの考古学2』文藝春秋 (1993年) *『黒船の世紀 ミカドの国の未来戦記』小学館(1993年) ::文春文庫、中公文庫(上下)、角川ソフィア文庫(各・改訂版) *『交通事故鑑定人S氏の事件簿』文藝春秋 (1994年) *『ニュースの考古学 3』文藝春秋 (1994年) *『ペルソナ-[[三島由紀夫]]伝』文藝春秋(1995年)・文春文庫(1999年) **劇画原作『[[ラストニュース]]』全10巻([[弘兼憲史]]・画)小学館・小学館文庫 *『ニッポンを読み解く!』小学館 1996年 *『瀕死のジャーナリズム』文藝春秋 1996年 *『日本国の研究』文藝春秋(1997年)・文春文庫(1999年) *『マガジン青春譜 [[川端康成]]と[[大宅壮一]]』小学館(1998年)・文春文庫(1994年) *『続・日本国の研究』文藝春秋(1999年)・文春文庫(2002年) *『明日も夕焼け』朝日新聞社(2000年) *『二十世紀-日本の戦争』[[文春新書]](2000年) *『ピカレスク-[[太宰治]]伝』小学館(2000年)・文春文庫(2007年)(2002年映画化(河村隆一主演)) *『小論文の書き方』文春新書(2001年) *『ラストチャンス』[[光文社]] (2001年) *『'''日本の近代 猪瀬直樹著作集'''』全12巻(小学館)2001-02 **第1巻『構造改革とはなにか-新篇日本国の研究』 **第2巻『ペルソナ-三島由紀夫伝』 **第3巻『マガジン青春譜-川端康成と大宅壮一』 **第4巻『ピカレスク-太宰治伝』 **第5巻『ミカドの肖像』 **第6巻『土地の神話』 **第7巻『欲望のメディア』 **第8巻『日本人はなぜ戦争をしたか-昭和16年夏の敗戦』 **第9巻『唱歌誕生-ふるさとを創った男』 **第10巻『天皇の影法師』 **第11巻『日本凡人伝』 **第12巻『黒船の世紀 ガイアツと日米未来戦記』 *『日本システムの神話』(2002年) [[角川oneテーマ21]] *『日本復活のシナリオ 論客20人の結論』[[PHP研究所]] (2002年) *『道路の権力 道路公団民営化の攻防1000日』文藝春秋(2003年)・文春文庫(2006年) *『決戦・郵政民営化』PHP研究所 (2005年) *『ゼロ成長の富国論』文藝春秋 (2005年) 『[[二宮尊徳|二宮金次郎]]はなぜ薪を背負っているのか』文庫 *『[[こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生]]』文藝春秋(2004年)・文春文庫(2008年)(2008年5月映画化(タイトルは『丘を越えて』西田敏行主演)) *『道路の決着』小学館(2006年)・文春文庫(2008年) *『作家の誕生』[[朝日新書]](2007年) *『空気と戦争』文春新書(2007年) *『日本の信義 知の巨星十人と語る』小学館(2008年) *『国を変える力 ニッポン再生を探る10人の提言』[[ダイヤモンド社]](2008年) *『霞ヶ関「解体」戦争』[[草思社]](2008年)のち[[ちくま文庫]] *『ジミーの誕生日 アメリカが[[明仁|天皇明仁]]に刻んだ「死の暗号」』文藝春秋(2009年) **『[[東條英機]] 処刑の日』文春文庫(2011年)、『昭和23年 冬の暗号』中公文庫(2021年) *『東京の副知事になってみたら』[[小学館101新書]](2010年) *『猪瀬直樹の仕事力』[[潮出版社]](2011年) *『地下鉄は誰のものか』[[中公新書]](2011年) *『突破する力』[[青春新書]]インテリジェンス(2011年) *『言葉の力 「作家の視点」で国をつくる』[[中公新書ラクレ]](2011年) *『決断する力』[[PHP研究所|PHPビジネス新書]](2012年) *『解決する力』PHPビジネス新書(2012年) *『さようならと言ってなかった わが愛 わが罪』[[マガジンハウス]](2014年) *『救出: 3・11気仙沼 公民館に取り残された446人』[[河出書房新社]](2015年)のち[[小学館文庫]] *『民警』[[扶桑社]] (2016年)のち小学館文庫 *『東京の敵』角川新書(2017年) *『日本国・不安の研究 「医療・介護産業」のタブーに斬りこむ!』PHP研究所(2020年)  *『公 日本国・意思決定のマネジメントを問う』ニューズピックス(2020年) *『[[カーボンニュートラル]]革命』ビジネス社(2021年) *『太陽の男 [[石原慎太郎]]伝』中央公論新社(2023年) === 共編著 === *『ミカドと世紀末』[[平凡社]](1987年)・新潮文庫、小学館文庫 - [[山口昌男]]との対論 *『東京、ながい夢』[[河出書房新社]](1989年)『東京レクイエム』[[河出文庫]](1995年)[[北島敬三]]写真・解説 *『猪瀬直樹「戦う講座1」 この国のゆくえ』 **『―2 持続可能なニッポンへ』ダイヤモンド社(2006年)- 編著 *『東京からはじめよう 国の再生をめぐる9つの対論』ダイヤモンド社(2007年)- 編著 *『戦争・天皇・国家 近代化150年を問いなおす』[[田原総一朗]]共著 [[角川新書]](2015年) - *『正義について考えよう』[[東浩紀]]共著 [[扶桑社新書]](2015年) *『国民国家のリアリズム』[[三浦瑠麗]]共著 角川新書(2017年) *『明治維新で変わらなかった日本の核心』[[磯田道史]]共著 PHP新書 2017年 *『リーダーの教養書 11名の選者による〈保存版〉ブックガイド』幻冬舎 2017年 *:[[出口治明]],[[楠木建]],岡島悦子,[[中島聡]],[[大竹文雄]],[[長谷川眞理子]],[[森田真生]],大室正志,[[岡本裕一朗]],[[上田紀行]]共著  *『ここから始まる 人生100年時代の男と女』[[蜷川有紀]]共著(2018年) *『平成の重大事件 日本はどこで失敗したのか』 田原総一朗共著 朝日新書(2018年) *『ニッポン 2021-2050 データから構想を生み出す教養と思考法』[[落合陽一]]共著 KADOKAWA(2018年) == 出演 == * 朝まで生テレビ(テレビ朝日)随時 * [[そこまで言って委員会NP]]([[讀賣テレビ放送|ytv]]) - 2015年9月20日以降、複数回出演 * サンデージャポン(TBS)随時 === 過去の出演 === * [[ニュースバスターズ (日本のテレビ番組)|ニュースバスターズ]](1988年4月 - 1988年9月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]日曜20時) * [[THE WEEK]](1989年4月 - 1998年3月、フジテレビ土曜10時) * [[土曜一番!花やしき]](1998年4月 - 2000年3月、フジテレビ土曜5時30分) * [[情報プロジェクトS]](2001年10月 - 2002年3月、フジテレビ土曜10時) * [[ワッツ!?ニッポン]](2002年4月 - 2006年9月、フジテレビ土曜10時) * [[CNNデイウォッチ]]([[ニュースキャスター]]、[[テレビ朝日]]) * [[ワイド!スクランブル]](木曜コメンテイター、2006年10月 - 2008年3月、テレビ朝日11時25分) * [[ニュースの見張番]]([[TBSラジオ]]) * 日本のキーパーソン(キャスター) * [[ここがヘンだよ日本人]]([[TBSテレビ|TBS]]) * [[ビッグモーニング]](TBS) * 東京からはじめよう([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]] 毎月第1土曜日 21:00-22:00) * ビートたけしのTVタックル * [[ABEMA Prime]]([[AbemaTV]])- 2021年3月25日<ref>[https://web.archive.org/web/20210326100001/https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p2703 東京五輪〝開催or中止〟「日本の立場に影響も」招致した猪瀬元都知事と議論! - Abema TV](2021年3月25日)</ref> === CM === * [[バンテージ]](1989年) == 関連書籍 == * {{Cite book|和書|author=佐高 信|title=自分を売る男、猪瀬直樹―小泉純一郞に取り入り、石原慎太郎にも……|publisher=[[七つ森書館]]|date=2012-12-05|isbn=4822812669}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)]] * [[佐藤首相訪米阻止闘争]] * [[東京都知事一覧]] * [[都道府県知事]] * [[2020年東京オリンピック構想]] == 外部リンク == * [https://www.inose.gr.jp/ 猪瀬直樹 公式サイト] * {{Twitter|inosenaoki}} * {{Facebook|inosenaoki}} {{S-start}} {{s-off}} {{Succession box | title = {{Flagicon|東京都}} [[東京都知事]] | years = 公選第18代:2012年 - 2013年 | before = [[石原慎太郎]] | after = [[舛添要一]] }} {{s-ppo}} {{succession box | title = [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会参議院幹事長]] | before = [[室井邦彦]] | years = 第2代:2022年 - | after = (現職) }} {{S-end}} {{東京都知事|公選第18代:2012年 - 2013年}} {{比例区選出参議院議員(1983-)}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いのせ なおき}} [[Category:猪瀬直樹|*]] [[Category:東京都知事]] [[Category:東京都副知事]] [[Category:日本維新の会の国会議員 (2016-)]] [[Category:比例区選出の参議院議員]] [[Category:令和時代の参議院議員]] [[Category:有罪判決を受けた日本の政治家]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:20世紀日本の評論家]] 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ゲノムプロジェクト
ゲノムプロジェクトとは、DNAシークエンシングによって生物のゲノムの全塩基配列を解読し、タンパク質コード領域やその他のゲノム領域のアノテーションをつけることを目的としたプロジェクト。当初はヒトをはじめ、マウスや線虫などのモデル生物が主な対象であったが、多くの生物種に対象は拡大している。各国の公的研究機関がチームを組んでプロジェクトを進行させるケースが多いが、イネや小麦などの主要農産物については企業による解読もなされた。 塩基配列情報は重要なものではあるが、それだけでは生物の理解には不十分であり、遺伝子領域や制御領域の認識、それらの役割の解明などを進めていくことが望まれる。これらの研究をポストゲノムと総称する。 ゲノムアッセンブリングとは、大量の短いDNA断片の配列を決定し、元となった染色体のDNA配列を構築しようとする過程である。配列アセンブリングなどとも呼ばれる。ショットガン・シークエンシング法によるプロジェクトでは、サンプルから得られたDNAは断片化されている。これら一つ一つの断片はリードと呼ばれ、シーケンサーにより配列決定される。得られたリードは、バイオインフォマティクス的なアルゴリズムによりオーバーラップする部分を探索しつなぎ合わせていく。 ゲノムアッセンブリングは非常に困難な技術的問題を抱えている。それはマイクロサテライトや、SINEs、LINEsといった繰り返し配列がゲノムには大量に含まれるためである。とりわけ、ゲノムサイズの大きい動植物ではこれらのリピートは数千塩基におよんだり、大量に散在している。 結果として得られるドラフト配列は、コンティグごとにまとめられ、領域ごとの情報とリンクさせるための足場となる。 ゲノムアノテーションとは、配列に生物的な情報を注釈する過程である。 2008年10月現在、細菌では780の菌株のゲノム解読が終了している。 2008年10月現在、古細菌では53の菌株のゲノム解読が終了している。3ドメインの中では最も解読数が少ないが、発見種も少ないため解読された割合自体は最も高い。ほぼ全ての目に渡って解読種が存在する。 葉緑体やミトコンドリアもそれぞれ独自にゲノムを持っており、これらについてのゲノムプロジェクトも進行している。 ウイルスは宿主の遺伝子に依存しているためゲノムサイズが小さい。2008年10月現在、ウイルスでは2700種のゲノム解読が終了している。 メタゲノム解析は単一菌種の分離・培養過程を経ずに、微生物の集団から直接そのゲノムDNAを調製し、そのヘテロなゲノムDNAをそのままシークエンシングする。そのため、メタゲノム解析により従来の方法では困難であった難培養菌のゲノム情報が入手可能となった。
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ゲノムプロジェクトとは、DNAシークエンシングによって生物のゲノムの全塩基配列を解読し、タンパク質コード領域やその他のゲノム領域のアノテーションをつけることを目的としたプロジェクト。当初はヒトをはじめ、マウスや線虫などのモデル生物が主な対象であったが、多くの生物種に対象は拡大している。各国の公的研究機関がチームを組んでプロジェクトを進行させるケースが多いが、イネや小麦などの主要農産物については企業による解読もなされた。 塩基配列情報は重要なものではあるが、それだけでは生物の理解には不十分であり、遺伝子領域や制御領域の認識、それらの役割の解明などを進めていくことが望まれる。これらの研究をポストゲノムと総称する。
{{出典の明記|date=2018年9月}} {{Genomics}} '''ゲノムプロジェクト'''とは、'''[[DNAシークエンシング]]'''によって[[生物]]の[[ゲノム]]の全塩基配列を解読し、タンパク質コード領域やその他のゲノム領域の[[アノテーション]]をつけることを目的としたプロジェクト。当初は[[ヒト]]をはじめ、[[ハツカネズミ|マウス]]や[[線虫]]などの[[モデル生物]]が主な対象であったが、多くの生物種に対象は拡大している。各国の公的研究機関がチームを組んでプロジェクトを進行させるケースが多いが、[[イネ]]や[[コムギ|小麦]]などの主要農産物については企業による解読もなされた。 塩基配列情報は重要なものではあるが、それだけでは生物の理解には不十分であり、遺伝子領域や制御領域の認識、それらの役割の解明などを進めていくことが望まれる。これらの研究をポストゲノムと総称する。 == ゲノムアッセンブリング== ゲノムアッセンブリングとは、大量の短いDNA断片の配列を決定し、元となった染色体のDNA配列を構築しようとする過程である。[[配列アセンブリング]]などとも呼ばれる。[[ショットガン・シークエンシング法]]によるプロジェクトでは、サンプルから得られたDNAは断片化されている。これら一つ一つの断片はリードと呼ばれ、シーケンサーにより配列決定される。得られたリードは、[[バイオインフォマティクス]]的なアルゴリズムによりオーバーラップする部分を探索しつなぎ合わせていく。 ゲノムアッセンブリングは非常に困難な技術的問題を抱えている。それは[[マイクロサテライト]]や、[[SINEs]]、[[LINEs]]といった繰り返し配列がゲノムには大量に含まれるためである。とりわけ、ゲノムサイズの大きい動植物ではこれらのリピートは数千塩基におよんだり、大量に散在している。 結果として得られるドラフト配列は、コンティグごとにまとめられ、領域ごとの情報とリンクさせるための足場となる。 == ゲノムアノテーション== ゲノムアノテーションとは、配列に生物的な情報を注釈する過程である。 == ゲノムプロジェクトとモデル生物の一覧 == === 後生動物 Metazoa === * [[節足動物]] Arthropoda: ** [[ネッタイシマカ]]([[デング熱]]) ''Aedes aegypti'' ** [[ヒトスジシマカ]] ''Aedes albopictus'' ** ''Aedes triseriatus'' ** [[マダニ]] ''Amblyomma americanum'' ** [[ハマダラカ]] ([[マラリア]]) ''Anopheles gambiae'': 2002年10月 ** [[ミツバチ]] ''Apis mellifera ligustica'' ** [[カイコ]] ''Bombyx mori'':2004年2月29日 ** [[アカイエカ]] ''Culex pipiens'' ** [[ショウジョウバエ|キイロショウジョウバエ]] ''Drosophila melanogaster'':BDGP, Celera, 2000年3月24日 ** [[ツェツェバエ]] ([[トリパノソーマ]]) ''Glossina morsitans'' ** [[キョウソヤドリコバチ]] ''Nasonia vitripennis'' * [[脊索動物]] Chordata: ** [[ウシ]] ''Bos taurus'': 進行中 ** [[イヌ]] ''Canis familiaris'' ** [[ウマ]] ''Equus caballus'': 進行中 ** [[ネコ]] ''Felis catus'': 進行中 ** [[ヒト]] ''Homo sapiens'' ** [[ハツカネズミ|マウス]] ''Mus musculus'': ** [[チンパンジー]] ''Pan troglodytes'' ** [[ラット]] ''Rattus norvegicus'':2004年4月1日 ** [[イノシシ]]、[[ブタ]] ''Sus scrofa'' ** [[ニワトリ]] ''Gallus gallus'' ** [[アフリカツメガエル]] ''Xenopus laevis'' ** [[ネッタイツメガエル]] ''Xenopus tropicalis'' ** [[メダカ]] ''Oryzias latipes'': 700 Mbp, NIG、東京大学, 2007年 ** [[ゼブラフィッシュ]] ''Danio rerio'': 進行中 ** [[トラフグ]] ''Fugu rubripes'': 365 Mbp ** [[ミドリフグ]] ''Tetraodon nigroviridis'' ** [[ホヤ|カタユウレイボヤ]] ''Ciona intestinalis'' * [[線形動物]] Nematoda: ** マレー糸状虫([[フィラリア]]) ''Brugia malayi'' ** ''Caenorhabditis briggsae'' ** ''[[C. elegans|Caenorhabditis elegans]]'': 100.274 Mbp, サンガーセンター、ワシントン大学, 1998年 * 吸虫 Trematoda: ** [[日本住血吸虫]] ''Schistosoma japonicum'' ** [[マンソン住血吸虫]] ''Schistosoma mansoni'' === 植物 Plantae === * [[シロイヌナズナ]] ''Arabidopsis thaliana'' * [[トマト]] ''Lycopersicon esculentum'' * タルウマゴヤシ ''Medicago truncatula'' * [[イネ]] ''Oryza sativa'' * [[ミヤコグサ]] ''Lotus japonicus'' * [[ポプラ]] ''Populus trichocarpa'' * [[ブドウ]] ''Vitis vinifera'': 467.5 Mbp, [[フランス]]&[[イタリア]], 2007年 === 菌類 Fungi === * 子嚢菌 Ascomycota: ** アスペルギルス([[コウジカビ]]類)''Aspergillus fumigatus'' ** [[アスペルギルス・ニデュランス]] ''Aspergillus nidulans'' ** アスペルギルス ''Aspergillus parasiticus'' ** アスペルギルス ''Aspergillus terreus'' ** [[カンジダ]] ''Candida albicans'' ** カンジダ ''Candida glabrata'' CBS138 ** ''Debaryomyces hansenii'' ** ''Fusarium sporotrichioides'' ** イネバカナエ菌病菌 ''Gibberella zeae PH-1'' ** ''Kluyveromyces lactis'' ** [[アカパンカビ]] ''Neurospora crassa'' ** [[ニューモシスチス・カリニ]]([[カリニ肺炎]]) ''Pneumocystis carinii'' ** [[出芽酵母]] ''Saccharomyces cerevisiae'' ** [[分裂酵母]] ''Schizosaccharomyces pombe'' ** ''Yarrowia lipolytica'' * 担子菌 Basidiomycota: ** [[クリプトコッカス]] ''Cryptococcus neoformans'' ** ''[[Phanerochaete chrysosporium]]'' * 微胞子虫 Microsporidia: ** ''Encephalitozoon cuniculi'' === 原生生物 === * [[アピコンプレックス門]] Apicomplexa<ref>和名は、[http://jsp.tm.nagasaki-u.ac.jp/modules/tinyd1/content/provisionalJEtable.html 日本寄生虫学会用語委員会 「暫定新寄生虫和名表」 2008年5月22日]に基づく。</ref>: ** [[牛バベシア]] ''Babesia bovis'' ** [[鶏盲腸コクシジウム]] ''Eimeria tenella'' ** [[小形クリプトスポリジウム]] ''Cryptosporidium parvum'' ** [[ヒトクリプトスポリジウム]] ''Cryptosporidium hominis'' TU502 ** [[ネズミマラリア原虫]] ''Plasmodium berghei'' ** ''Plasmodium chabaudi'' ** [[熱帯熱マラリア原虫]]([[マラリア]]) ''Plasmodium falciparum'' ** [[カニクイザルマラリア原虫]] ''Plasmodium knowlesi'' ** [[三日熱マラリア原虫]](マラリア) ''Plasmodium vivax'' ** [[ヨーエリマラリア原虫]] ''Plasmodium yoelii'' ** [[熱帯ピロプラズマ病タイレリア]] ''Theileria annulata'' ** [[東沿岸熱タイレリア]] ''Theileria parva'' ** [[トキソプラズマ]] ''Toxoplasma gondii'' * Bacillariophyta([[珪藻]]): ** ''Thalassiosira pseudonana'' * Cryptophyta([[クリプト藻]]): ** ''Guillardia theta'' * Dictyosteliida: ** ''Dictyostelium discoideum'' * Diplomonadida: ** [[ランブル鞭毛虫]] ''Giardia lamblia'' * Entamoebidae: ** [[赤痢アメーバ]] ''Entamoeba histolytica'' * Heterokontophyta([[不等毛藻]]) ** [[シオミドロ]] ''Ectocarpus siliculosus'' 2010年6月 * Rhodophyta([[紅藻]]): ** [[スサビノリ]] ''Pyropia yezoensis'' ** [[シアニディオシゾン]] ''Cyanidioschyzon merolae'' * Kinetoplastida: ** [[リーシュマニア]]([[カラアザール]]) ''Leishmania major'' ** ガンビア[[トリパノソーマ]]([[アフリカ睡眠病]]) ''Trypanosoma brucei'' ** クルーズトリパノソーマ([[シャーガス病]]) ''Trypanosoma cruzi'' === 細菌 === 2008年10月現在、[[細菌]]では780の菌株のゲノム解読が終了している。 === 古細菌 === 2008年10月現在、[[古細菌]]では53の菌株のゲノム解読が終了している。3ドメインの中では最も解読数が少ないが、発見種も少ないため解読された割合自体は最も高い。ほぼ全ての目に渡って解読種が存在する。 === 細胞内小器官 === [[葉緑体]]や[[ミトコンドリア]]もそれぞれ独自にゲノムを持っており、これらについてのゲノムプロジェクトも進行している。 === ウイルス === [[ウイルス]]は宿主の遺伝子に依存しているためゲノムサイズが小さい。2008年10月現在、ウイルスでは2700種のゲノム解読が終了している。 === メタゲノム === [[メタゲノム]]解析は単一菌種の分離・培養過程を経ずに、微生物の集団から直接そのゲノムDNAを調製し、そのヘテロなゲノムDNAをそのままシークエンシングする。そのため、メタゲノム解析により従来の方法では困難であった難培養菌のゲノム情報が入手可能となった。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[モデル生物]] * [[ヒトゲノム計画]] * [[バイオインフォマティクス]] * [[1000人ゲノムプロジェクト]] == 外部リンク == * [http://www.genomesonline.org/ ゲノムプロジェクト進行状況データベース(英語)] {{Biosci-stub}} {{DEFAULTSORT:けのむふろしえくと}} [[Category:ゲノムプロジェクト|*]] [[Category:ゲノミクス|*けのむふろしえくと]] [[Category:バイオインフォマティクス|*けのむふろしえくと]] [[Category:遺伝学]] [[Category:生物学史]]
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東京理科大学
東京理科大学(とうきょうりかだいがく、英語: Tokyo University of Science)は、東京都新宿区神楽坂一丁目3番地に本部を置く日本の私立大学。1881年創立、1949年大学設置。大学の略称は理科大(りかだい)、TUS。 東京理科大学は、1881年(明治14年)創立の東京物理学校を主な前身として1949年(昭和24年)に設立された、理学・工学・薬学・経営学をはじめとする分野を包括する理工系総合大学である。 1897年(明治30年)に京都帝国大学が創立され、同大に理工科大学(理工学部)が設置されるまでの間、自然科学の教育を施したのは東京帝国大学と、現在の東京理科大学の前身校である東京物理学校だけであった。自然科学の教育を行う高等教育機関(専門学校を含む)として国内で2番目に長い歴史を持ち、私立としては最古の歴史を持っている。夏目漱石の『坊つちやん』に登場する「物理学校」は、この東京物理学校を指す。また、石川啄木の日記や北原白秋の詩など多数の作品において当時の東京物理学校の講義の情景が描かれている。 2006年の創立125周年を機に「Con'science'(カンシャンス:英語・フランス語で「良心」の意)〜21世紀の「科学」は「良心」へ向かう〜」のコンセプトを打ち出した。 2021年の創立140周年を機に「理念を貫き、進化する。-Building a Better Future with Science-」のコンセプトを打ち出した。 教育と研究をともに重視する教育研究機関を目指している。教育面では建学時からの伝統として、実力を備えた学生のみを卒業させるという「実力主義」を受け継ぐ。研究面では、情報科学教育研究機構、総合研究院および生命医科学研究所などの整備・拡充に努めている。 8学部11研究科を擁する、日本を代表する規模の理工系総合大学である。1993年(平成5年)には、唯一の文系学部となる経営学部が設置された。 現在は一般の大学同様に入学試験が課せられているが、東京物理学校時代は入学試験は存在せず、誰でも希望すれば入学できた。しかし試験に合格できなければ進級できず、2回留年すると退学になるという厳しいルールがあった。この制度は「物理学校モデル」と呼ばれ、実力の無い者は卒業させないという方針により卒業者は入学者の10%にも満たなかった。1944年からは入学試験が行われるようになったが、これは現在の実力主義の校風に受け継がれている。 また、日本が近代化を成し遂げた明治から大正にかけて、当時のエリート養成学校である師範学校と中等学校の数学、物理学、化学の教員のうち、実に半数以上を物理学校の卒業生が占めていた。そのため物理学校は別名「教員学校」とも呼ばれた。 2023年時点、日本の私立大学として唯一、ノーベル賞受賞者(2015年ノーベル生理学・医学賞の大村智)を出した大学である。また、自然科学部門のノーベル賞受賞者を出したのは、同年時点、アジアの私立大学として唯一でもある。ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村博士の栄誉を称え、東京理科大学は2015年度、寄付されたノーベル賞の賞金を元に「東京理科大学大村賞」を創設している。 「THE世界大学ランキング2021」によると、「研究力」において、慶應義塾大学、早稲田大学に続いて、国内私立大学3位の評価を得ている。 文明開化の当時、欧米から入ってきた学問に感化され、欧米の学問に習って多くの学問所が誕生した。しかし、当時の学問所の多くは政治・経済・法律などを扱うものが多く、国家の発展の為には欧米のように理学の普及が不可欠だと考えた東京大学仏語物理学科を卒業した21名の青年理学士(櫻井房記、高野瀬宗則、千本福隆、中村精男、中村恭平、小林有也、寺尾寿、保田棟太、桐山篤三郎、信谷定爾、谷田部梅吉、加瀬代助、赤木周行、三守守、難波正、和田雄治、沢野忠基、三輪桓一郎、名村程三、鮫島晋、豊田周衛)は、1881年9月11日に「理学の普及を以って国運発展の基礎と成す」の信念の下、東京物理学講習所を麹町区飯田町四丁目1番地(現在の千代田区飯田橋二丁目1番地から九段北一丁目6番地周辺、九段下)の私立稚松(わかまつ)小学校の一部を借りて設立する。 設立当時、授業は夜間に行われていた。実験機材は創立者21名の母校である東京大学から講義の度に借り入れ、終了後に返却していた。創立者達はノブレス・オブリージュの精神で、仕事の傍ら無給で学生の指導に当たった。 1885年には財政が窮地に陥るも、創立者21名のうち16名(高野、千本、中村精男、中村恭平、寺尾、保田、桐山、信谷、谷田部、三守、難波、和田、三輪、名村、鮫島)が「維持同盟規則」(一人30円の寄付と週2回の無償講義、教師が都合で講義に出られない時は理由を問わず25銭を払うという決まり)を結び、この場を凌ぐ。 当初は移転を繰り返し、1886年11月に、神田小川町1番地の仏文会校舎へ移り、神楽坂に移るまで約20年間置かれた。夏目漱石『坊つちやん』の主人公が通ったのは、この校舎である。 夜間部として理学部第二部があり、夜学として創立した本学を象徴する学部である。 野田市南部、利根運河沿いにあるキャンパス。グラウンドや体育館、宿泊施設なども完備されている。講義棟や薬学部キャンパスなど新しい施設も多い。大学では当キャンパスをリサーチパーク型キャンパスと位置づけており、再構築に伴って様々な研究施設が建設されている。野田校舎の附近には霊波之光という宗教法人の建設物が設置してある。 1958年に国分寺校地(1942年および1943年に購入し、農業理科学科が置かれ、同学科廃止後グラウンドとなっていた)の売却益をもとに、87,491 mの土地を購入し、1959年11月に運動場の造成が完了。1966年3月に1号館(講義棟)を竣工し、同年6月までに171,652m、1977年度までに572,679 mの校地を取得した。1980年には、隣接する山林約60,000mの借地権を同窓会が取得し寄贈された(理窓会記念自然公園)。1990年までは国道16号の北東側もキャンパスの一部(自動車練習場)であったが、NHK朝の連続ドラマ『君の名は』の屋外セットロケ撮影地として利用された後、関東運輸局千葉運輸支局野田自動車検査登録事務所となった。2013年に基礎工学部(2,3,4年次)と基礎工学研究科が葛飾キャンパスに移転。 2025年4月に、薬学部及び薬学研究科を野田キャンパスから葛飾キャンパスに移転予定。 経営学部国際デザイン経営学科の1年次は全寮制(3人部屋)の北海道・長万部キャンパスで過ごす。 基礎工学部時代には長万部町の年代別人口比率では18 - 19歳の分布が飛び抜けて高くなっていた。 2020年をもって、基礎工学部の改組とともに同学科の1年次の全寮制教育を終了した(長万部キャンパスは、国際化のための教育の場として活用)。 2021年より経営学部国際デザイン経営学科の1年次が全寮制教育を行う予定であったが、新型コロナの影響により神楽坂キャンパスで授業を実施。 2023年より経営学部国際デザイン経営学科の1年次に全寮制教育を再開。 1993年に開設された。久喜駅から西に約2.7 km地点に位置し、東武鉄道と東日本旅客鉄道の久喜駅の西口から東京理科大学久喜校舎まで無料のスクール・バスが運行されていた。キャンパス付近は水田や畑が多く存在する農業地域で、敷地内にもぶどう園がある。 校舎は3階建て(一部2階建て)、A棟からE棟までが、それぞれ「凹」の字のように建てられ、各棟および図書館はシームレスに行き来できた。校舎内においては全館禁煙とされており、喫煙者は建物の外側に設置してある灰皿附近においてのみ喫煙が可能であった。 久喜校舎における経営学研究科、経営学部のみで実施されている学園祭を「久喜祭」として毎年11月頃に実施していた。 久喜市はキャンパスを誘致するために、用地取得や校舎建設のため30億円の補助金を拠出、また周辺道路を約10億円かけて整備した。2011年7月、東京理科大学側から久喜市に、久喜キャンパスから神楽坂キャンパスへの全面移転を希望していることが伝えられた。その後、両者の間で協議が行われたが、2012年6月、2016年度より経営学部2年生から4年生までを神楽坂キャンパスに移す方針であることが明らかになり、2014年(平成26年)7月には2016年(平成28年)3月末で閉鎖して経営学部と経営学研究科を神楽坂キャンパス全面的に移転する方針を固めた。 2016年3月末、経営学部の神楽坂キャンパス富士見校舎移転につき、閉鎖。現在は久喜市立学校給食センターおよびESR久喜ディストリビューションセンターとなっている。また、さいたま看護専門学校(さいたま市)の移転計画がある。 1942年(昭和17年)に大学設置を目指した学園が、大学予科校地として北多摩郡府中町字国分寺前の敷地(約6万m)を購入、しかし、これらの土地は後に農業理科学科の校舎及び学生寮、グラウンドなどの用地として使用されることになった。1958年(昭和33年)東芝へ売却し、現在の東芝府中事業所となった。 1943年(昭和18年)には八王子西中野町の織物工場と土地(約700坪)を購入した。更に、戦後の1946年に八王子郊外に農業理科学科の校地として土地(約80,900坪)を取得したが、この校地は1948年、自作農創設特別措置法に基づき強制買収された。 アインシュタインによって確立された一般相対性理論を図案化したものであり、太陽の重力によって曲げられる光の軌道を模式的に描いている。また、ロゴマークは徽章をベースに、創立125周年の際に制定されたものである。 創立125周年を記念して公式イメージ・キャラクター「坊っちゃん」と「マドンナちゃん」が制定されている。これは夏目漱石の小説『坊つちやん』に出てくる主人公及び「マドンナ」に因むものである。 組織は、以下の通りである。 アルファベットによる学科の略は、ローマ字(例・応用数学科:Ouyou Sugaku)、または英訳(例・建築学科:Architecture)の頭文字などから採られている。大学内部ではこの英字略称を使用することが多い。 理学部について、大学はその第一部と第二部をそれぞれ独立した学部として扱っており、学部長以下の教学組織を完全に分離している。本項の記述もその見解に従う。ただし、文部科学省の認可は、同一学部内の第一部と第二部として下りている。したがって政府関係の研究会や評議会・諮問会議などでは第一部と第二部の区別なく「東京理科大学理学部教授」などと表記される。 ※記載している以外の専攻については博士前期・後期課程を有する。 2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智は東京理科大学大学院理学研究科修士課程を1963年に修了し、理学博士を1970年に取得している。2021年10月時点、日本人のノーベル賞受賞者としては唯一、私立大学の学位を持つ。 21世紀COEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。 グローバルCOEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。 国際共同・連携支援(総合戦略型) 本学同窓会・校友会組織は「理窓会 」と称し、各界で活躍する21万人の卒業生と大学とを結びつけている。「東京物理学校同窓会」として1889年(明治22年)4月15日に設立され、1949年(昭和24年)7月8日に学制改革により新制大学として東京理科大学となったと同時に同窓会の名称を理窓会とした。 学園祭は「理大祭」と呼ばれており、神楽坂地区・葛飾区地区・野田地区にて11月に開催。長万部については10月に「キャンパス祭」を開催している。 また、葛飾地区理大祭は、プロジェクションマッピング・物産展などの葛飾区や企業と連携した企画や、大学の立地条件を活かした外部とのコラボレーションを積極的に実施している点を初め、体育館や講義塔の1フロア全体を使用した理系大学ならではの実験教室も子供連れで賑わっている点が評価されている。2016年学園祭グランプリでは準グランプリを獲得している。 東京理科大学は大学独自の奨学金を用意している。 研究戦略・産学連携本部を設けており、技術など大学にあるシーズを使うベンチャー企業やNPO法人の起業を支援している。2020年度時点で大学発ベンチャー企業数が111社となり、私立大学で1位(全国7位)となった。 ウィキメディア・コモンズには、東京理科大学に関するメディアがあります。
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19歳の分布が飛び抜けて高くなっていた。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2020年をもって、基礎工学部の改組とともに同学科の1年次の全寮制教育を終了した(長万部キャンパスは、国際化のための教育の場として活用)。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2021年より経営学部国際デザイン経営学科の1年次が全寮制教育を行う予定であったが、新型コロナの影響により神楽坂キャンパスで授業を実施。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2023年より経営学部国際デザイン経営学科の1年次に全寮制教育を再開。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1993年に開設された。久喜駅から西に約2.7 km地点に位置し、東武鉄道と東日本旅客鉄道の久喜駅の西口から東京理科大学久喜校舎まで無料のスクール・バスが運行されていた。キャンパス付近は水田や畑が多く存在する農業地域で、敷地内にもぶどう園がある。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "校舎は3階建て(一部2階建て)、A棟からE棟までが、それぞれ「凹」の字のように建てられ、各棟および図書館はシームレスに行き来できた。校舎内においては全館禁煙とされており、喫煙者は建物の外側に設置してある灰皿附近においてのみ喫煙が可能であった。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "久喜校舎における経営学研究科、経営学部のみで実施されている学園祭を「久喜祭」として毎年11月頃に実施していた。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "久喜市はキャンパスを誘致するために、用地取得や校舎建設のため30億円の補助金を拠出、また周辺道路を約10億円かけて整備した。2011年7月、東京理科大学側から久喜市に、久喜キャンパスから神楽坂キャンパスへの全面移転を希望していることが伝えられた。その後、両者の間で協議が行われたが、2012年6月、2016年度より経営学部2年生から4年生までを神楽坂キャンパスに移す方針であることが明らかになり、2014年(平成26年)7月には2016年(平成28年)3月末で閉鎖して経営学部と経営学研究科を神楽坂キャンパス全面的に移転する方針を固めた。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2016年3月末、経営学部の神楽坂キャンパス富士見校舎移転につき、閉鎖。現在は久喜市立学校給食センターおよびESR久喜ディストリビューションセンターとなっている。また、さいたま看護専門学校(さいたま市)の移転計画がある。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)に大学設置を目指した学園が、大学予科校地として北多摩郡府中町字国分寺前の敷地(約6万m)を購入、しかし、これらの土地は後に農業理科学科の校舎及び学生寮、グラウンドなどの用地として使用されることになった。1958年(昭和33年)東芝へ売却し、現在の東芝府中事業所となった。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)には八王子西中野町の織物工場と土地(約700坪)を購入した。更に、戦後の1946年に八王子郊外に農業理科学科の校地として土地(約80,900坪)を取得したが、この校地は1948年、自作農創設特別措置法に基づき強制買収された。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アインシュタインによって確立された一般相対性理論を図案化したものであり、太陽の重力によって曲げられる光の軌道を模式的に描いている。また、ロゴマークは徽章をベースに、創立125周年の際に制定されたものである。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "創立125周年を記念して公式イメージ・キャラクター「坊っちゃん」と「マドンナちゃん」が制定されている。これは夏目漱石の小説『坊つちやん』に出てくる主人公及び「マドンナ」に因むものである。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "組織は、以下の通りである。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アルファベットによる学科の略は、ローマ字(例・応用数学科:Ouyou Sugaku)、または英訳(例・建築学科:Architecture)の頭文字などから採られている。大学内部ではこの英字略称を使用することが多い。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "理学部について、大学はその第一部と第二部をそれぞれ独立した学部として扱っており、学部長以下の教学組織を完全に分離している。本項の記述もその見解に従う。ただし、文部科学省の認可は、同一学部内の第一部と第二部として下りている。したがって政府関係の研究会や評議会・諮問会議などでは第一部と第二部の区別なく「東京理科大学理学部教授」などと表記される。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "※記載している以外の専攻については博士前期・後期課程を有する。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智は東京理科大学大学院理学研究科修士課程を1963年に修了し、理学博士を1970年に取得している。2021年10月時点、日本人のノーベル賞受賞者としては唯一、私立大学の学位を持つ。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "21世紀COEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "グローバルCOEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "国際共同・連携支援(総合戦略型)", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "本学同窓会・校友会組織は「理窓会 」と称し、各界で活躍する21万人の卒業生と大学とを結びつけている。「東京物理学校同窓会」として1889年(明治22年)4月15日に設立され、1949年(昭和24年)7月8日に学制改革により新制大学として東京理科大学となったと同時に同窓会の名称を理窓会とした。", "title": "大学関係者と組織" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "学園祭は「理大祭」と呼ばれており、神楽坂地区・葛飾区地区・野田地区にて11月に開催。長万部については10月に「キャンパス祭」を開催している。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、葛飾地区理大祭は、プロジェクションマッピング・物産展などの葛飾区や企業と連携した企画や、大学の立地条件を活かした外部とのコラボレーションを積極的に実施している点を初め、体育館や講義塔の1フロア全体を使用した理系大学ならではの実験教室も子供連れで賑わっている点が評価されている。2016年学園祭グランプリでは準グランプリを獲得している。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東京理科大学は大学独自の奨学金を用意している。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "研究戦略・産学連携本部を設けており、技術など大学にあるシーズを使うベンチャー企業やNPO法人の起業を支援している。2020年度時点で大学発ベンチャー企業数が111社となり、私立大学で1位(全国7位)となった。", "title": "産学連携・大学発ベンチャー" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ウィキメディア・コモンズには、東京理科大学に関するメディアがあります。", "title": "Wiki関係他プロジェクトリンク" } ]
東京理科大学は、東京都新宿区神楽坂一丁目3番地に本部を置く日本の私立大学。1881年創立、1949年大学設置。大学の略称は理科大(りかだい)、TUS。
{{混同|x1=[[筑波大学]]の前身で旧制の|東京文理科大学}} {{redirect|理科大|その他の理科大学|理科大学}} {{日本の大学 |国 = 日本 |大学名 = 東京理科大学 |ふりがな = とうきょうりかだいがく |英称 = Tokyo University of Science |ロゴ=東京理科大学.svg |画像 = TUS Kagurazaka.jpg |画像説明 = 神楽坂キャンパス神楽坂校舎 |pxl = 300px |大学設置年 = 1949年 |創立年 = 1881年 |創立者 = [[櫻井房記]]、[[寺尾寿]]、[[中村精男]]、[[中村恭平 (教育者)|中村恭平]]、[[豊田周衛]]、[[加瀬代助]]、[[沢野忠基]]、[[高野瀬宗則]]、[[千本福隆]]、[[小林有也]]、[[保田棟太]]、[[桐山篤三郎]]、[[信谷定爾]]、[[谷田部梅吉]]、[[赤木周行]]、[[三守守]]、[[難波正]]、[[和田雄治]]、[[三輪桓一郎]]、[[玉名程三|名村程三]]、[[鮫島晋]] |学校種別 = 私立 |設置者 = [[学校法人東京理科大学]] |本部所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[神楽坂]]一丁目3|緯度度 =35 |緯度分 =41 |緯度秒 =57.8 |経度度 = 139 |経度分 = 44 |経度秒 = 29 |キャンパス = [[東京理科大学神楽坂キャンパス|神楽坂]]([[東京都]][[新宿区]]、[[千代田区]])<br /> [[東京理科大学葛飾キャンパス|葛飾]](東京都[[葛飾区]])<br />野田([[千葉県]][[野田市]])<br />北海道・長万部([[北海道]][[山越郡]][[長万部町]]) |学部 = [[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|理学部第一部]]<br />[[東京理科大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]<br />[[東京理科大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]<br />創域理工学部<br />先進工学部<br />[[東京理科大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]<br />[[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|理学部第二部]]<br />理学専攻科 |研究科 = [[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|理学研究科]]<br />[[東京理科大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]<br />[[東京理科大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学研究科]]<br />創域理工学研究科<br />先進工学研究科<br />[[東京理科大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学研究科]]<br />[[東京理科大学生命医科学研究所|生命科学研究科]] |ウェブサイト = https://www.tus.ac.jp/ }} '''東京理科大学'''(とうきょうりかだいがく、{{Lang-en|Tokyo University of Science}})は、[[東京都]][[新宿区]][[神楽坂]]一丁目3番地に本部を置く[[日本]]の[[私立大学]]。[[1881年]]創立、[[1949年]]大学設置。[[大学の略称]]は'''理科大'''(りかだい)、'''TUS'''。 == 概観 == === 大学全体 === [[File:TokyoUniversityOfScience-Kagurazaka.jpg|228px|thumb|神楽坂校舎1・7・9号館]] '''東京理科大学'''は、[[1881年]]([[明治]]14年)創立の'''[[東京物理学校]]'''を主な前身として[[1949年]]([[昭和]]24年)に設立された、[[理学]]・[[工学]]・[[薬学]]・[[経営学]]をはじめとする分野を包括する[[文系と理系|理工系]][[単科大学と総合大学|総合大学]]である。 [[1897年]](明治30年)に[[京都大学|京都帝国大学]]が創立され、同大に理工科大学([[理工学部]])が設置されるまでの間、[[自然科学]]の教育を施したのは[[東京大学|東京帝国大学]]と、現在の東京理科大学の前身校である東京物理学校だけであった<ref group="広報">[https://www.tus.ac.jp/info/enkaku/ 東京理科大学の沿革]</ref>。[[自然科学]]の教育を行う高等教育機関(専門学校を含む)として国内で2番目に長い歴史を持ち、私立としては最古の歴史を持っている。[[夏目漱石]]の『[[坊つちやん]]』に登場する「物理学校」は、この東京物理学校を指す。また、[[石川啄木]]の日記や[[北原白秋]]の詩など多数の作品において当時の東京物理学校の講義の情景が描かれている<ref>{{Cite book |title=石川啄木全集 (第5巻) |publisher=[[筑摩書房]] |location=東京 |year=1978 |isbn=9784480766052}}</ref><ref>{{Cite book |title=白秋全集 2 |publisher=[[岩波書店]] |location=東京 |year=1985 |isbn=9784000909426}}</ref>。 [[2006年]]の創立125周年を機に「'''Con'science''''(カンシャンス:[[英語]]・[[フランス語]]で「[[良心]]」の意)'''〜21世紀の「科学」は「良心」へ向かう〜'''」のコンセプトを打ち出した。 [[2021年]]の創立140周年を機に「'''理念を貫き、進化する。-Building a Better Future with Science-'''」のコンセプトを打ち出した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/140/|title=東京理科大学140周年記念サイト|accessdate=2021/02/12|publisher=}}</ref>。 === 建学の精神(校訓・理念・学是) === {{Quotation|「理学の普及をもって国運発展の基礎とする」}} === 教育および研究 === 教育と研究をともに重視する教育研究機関を目指している。教育面では建学時からの伝統として、実力を備えた学生のみを卒業させるという「'''実力主義'''」を受け継ぐ。研究面では、情報科学教育研究機構、[[東京理科大学総合研究院|総合研究院]]および[[東京理科大学生命医科学研究所|生命医科学研究所]]などの整備・拡充に努めている。 === 学風および特色 === 8学部11研究科を擁する、日本を代表する規模の理工系総合大学である。[[1993年]]([[平成]]5年)には、唯一の文系学部となる[[東京理科大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]が設置された。 現在は一般の大学同様に[[入学試験]]が課せられているが、[[東京物理学校]]時代は入学試験は存在せず、誰でも希望すれば入学できた。しかし試験に合格できなければ進級できず、2回留年すると退学になるという厳しいルールがあった。この制度は「物理学校モデル」と呼ばれ、実力の無い者は卒業させないという方針により卒業者は入学者の10%にも満たなかった<ref>馬場錬成『物理学校-近代史のなかの理科学生-』[[中公新書]]ラクレ</ref>。[[1944年]]からは入学試験が行われるようになったが、これは現在の実力主義の校風に受け継がれている<ref>{{Cite journal|journal=東京理科大学こうよう会報 浩洋|volume=68|page=12}}</ref>。 また、日本が[[近代化]]を成し遂げた[[明治]]から[[大正]]にかけて、当時のエリート養成学校である[[師範学校]]と[[旧制中学|中等学校]]の数学、物理学、化学の教員のうち、実に半数以上を物理学校の卒業生が占めていた<ref group="広報">『東京理科大学報』第177号、2010年4月26日</ref>。そのため物理学校は別名「教員学校」とも呼ばれた。 [[File:Satoshi Ōmura 5040-2015.jpg|228px|thumb|[[大村智]]([[2015年]][[ノーベル生理学・医学賞]]受賞者、本学出身)]] [[2023年]]時点、日本の私立大学として唯一、[[ノーベル賞]]受賞者([[2015年]][[ノーベル生理学・医学賞]]の[[大村智]])を出した大学である<ref>[https://urbanlife.tokyo/post/32158/ 目立たないけどノーベル賞輩出 実は早大より古い「東京理科大」とは] URBAN LIFE METRO 2020/3/27</ref>。また、自然科学部門のノーベル賞受賞者を出したのは、同年時点、[[アジア]]の私立大学として唯一でもある<ref>[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/facts/ Nobel Prize Facts] Nobelprize.org(英語)</ref>。ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村博士の栄誉を称え、東京理科大学は[[2015年]]度、寄付されたノーベル賞の賞金を元に「東京理科大学大村賞」を創設している<ref group="広報">{{PDFlink|[https://www.tus.ac.jp/today/201650315_0111.pdf 「東京理科大学大村賞」の創設について]}}(2016年3月18日)2018年7月7日閲覧</ref>。 「[[THE世界大学ランキング]]2021」によると、「研究力」において、[[慶應義塾大学]]、[[早稲田大学]]に続いて、国内[[私立大学]]3位の評価を得ている<ref>[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20200911_2011.html]「THE世界大学ランキング2021」で本学の研究力が高い評価を受けました</ref>。 == 沿革 == {{See also|東京物理学校}} === 略歴 === [[File:Sakurai Fusaki.jpg|300x300px|thumb|[[櫻井房記]](東京物理学講習所初代校主)]] [[File:Late Mr. Hisashi Terao, former director of the Tokyo Physics School.jpg|300x300px|thumb|[[寺尾寿]](東京物理学校初代校長)]] [[File:Tokyo University of Science Place of opening.jpg|thumb|東京都千代田区[[飯田橋]]にある「東京理科大学 発祥の地」の碑|305x305ピクセル]] 文明開化の当時、欧米から入ってきた学問に感化され、欧米の学問に習って多くの学問所が誕生した。しかし、当時の学問所の多くは政治・経済・法律などを扱うものが多く、国家の発展の為には欧米のように理学の普及が不可欠だと考えた[[東京大学]]{{Refnest|group="注釈"|当時の名称は、東京大学。後に帝国大学、東京帝国大学を経て現在は東京大学}}仏語物理学科を卒業した21名の青年[[理学]][[学士|士]]([[櫻井房記]]、[[高野瀬宗則]]、[[千本福隆]]、[[中村精男]]、[[中村恭平 (教育者)|中村恭平]]、[[小林有也]]、[[寺尾寿]]、[[保田棟太]]、[[桐山篤三郎]]、[[信谷定爾]]、[[谷田部梅吉]]、[[加瀬代助]]、[[赤木周行]]、[[三守守]]、[[難波正]]、[[和田雄治]]、[[沢野忠基]]、[[三輪桓一郎]]、[[玉名程三|名村程三]]、[[鮫島晋]]、[[豊田周衛]])は、1881年[[9月11日]]に「[[理学]]の普及を以って国運発展の基礎と成す」の信念の下、東京物理学講習所を[[麹町区]]飯田町四丁目1番地(現在の[[千代田区]][[飯田橋]]二丁目1番地から[[九段北]]一丁目6番地周辺、[[九段下]])の私立稚松(わかまつ)小学校の一部を借りて設立する。 設立当時、授業は夜間に行われていた。実験機材は創立者21名の母校である東京大学から講義の度に借り入れ、終了後に返却していた。創立者達は[[ノブレス・オブリージュ]]の精神で、仕事の傍ら無給で学生の指導に当たった。 [[1885年]]には財政が窮地に陥るも、創立者21名のうち16名(高野、千本、中村精男、中村恭平、寺尾、保田、桐山、信谷、谷田部、三守、難波、和田、三輪、名村、鮫島)が「維持同盟規則」(一人30円の寄付と週2回の無償講義、教師が都合で講義に出られない時は理由を問わず25[[銭#日本|銭]]を払うという決まり)を結び、この場を凌ぐ。 当初は移転を繰り返し、[[1886年]][[11月]]に、[[神田小川町]]1番地の仏文会校舎へ移り、[[神楽坂]]に移るまで約20年間置かれた。[[夏目漱石]]『[[坊っちゃん|坊つちやん]]』の主人公が通ったのは、この校舎である。 [[夜間学部|夜間部]]として[[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|理学部第二部]]があり、[[夜学]]として創立した本学を象徴する学部である。 === 年表 === ==== 明治 ==== *[[1881年]]([[明治]]14年) **[[6月13日]] - 「'''[[東京物理学校|東京物理学講習所]]'''」設立広告を『[[報知新聞|郵便報知新聞]]』へ掲載<ref>[http://members.jcom.home.ne.jp/riso-saitama/wakamatu-web2.jpg 設立広告]</ref>。 **[[9月11日]] - 東京物理学講習所を、私立稚松(わかまつ)小学校([[麹町区]]飯田町四丁目1番地)内に設立。 **年末 - [[大蔵省]]官吏簿記講習所([[神田区]][[神田錦町|錦町]]一丁目)へ移転。 *[[1882年]](明治15年) **進文学舎([[本郷区]]元町二丁目)へ移転。 **11月 - [[神田区]]今川小路三丁目9番地(現:[[神田神保町]]三丁目)に校舎取得し、教員一同が土地所有者となる。 *[[1883年]](明治16年)9月 - 「'''[[東京物理学校]]'''」と改称し、創立者の一人[[寺尾寿]]が初代校長に就任。 *[[1884年]](明治17年) [[9月15日]] - 台風により校舎が倒壊。まもなく、共立統計学校(九段下牛ケ淵)の校舎にて授業再開。 *[[1885年]](明治18年) - 維持同盟規則を結ぶ。 *[[1886年]](明治19年) **9月 - 成立学舎(神田区[[駿河台]][[神田淡路町|淡路町]])へ移転。指導科目に化学を追加したところ、化学は火災の危険があるとの理由で退去を迫られたため。 **11月 - [[東京仏学校]]校舎([[神田小川町]]1番地、現:[[千代田区]]神田小川町二丁目)へ移転。この校舎は、[[東京法学校]](現:[[法政大学]])が所有する[[煉瓦|レンガ]]造りの旧勧工場の建物で、これを仏学会が借り<ref name="statement">「仏学会経費収入支出表」(明治19年10月-同20年10月、明治20年11月-同21年10月)</ref>、さらに仏学会から本校が夜間のみ借りる転貸借によって<ref name="statement" />、昼間は東京仏学校が、夜間は本校が使用していた。 *[[1888年]](明治21年) **物理学用語の統一。英語、フランス語、ドイツ語三系統の訳語をまとめる。 **初の卒業式を挙行。 *[[1889年]](明治22年) **9月 - 初めて昼間部を置く(間もなく中止)。 **11月 - 仏文会校舎を2,200円で購入。 *[[1897年]](明治30年)2月 - 昼間部を設置。 *[[1906年]](明治39年)7月 - [[神楽坂]]二丁目24番地に、木造新校舎を竣工し移転。 ==== 大正 ==== *[[1915年]]([[大正]]4年)[[5月26日]] - 「財団法人東京物理学校」を設立。 *[[1916年]](大正5年) **日本医学専門学校(現:[[日本医科大学]])の学生約450名が[[学校騒動|同盟退学]]し[[東京物理学校]]内に東京医学講習所(現:[[東京医科大学]])を開設。 *[[1917年]](大正6年) **3月 - 昼間部を置き、第一部(昼間部)と第二部(夜間部)の二部制となる。 **[[3月27日]] - [[専門学校令]]による専門学校として認可される<ref>1917年(大正6年)3月27日文部省告示第60号「私立東京物理學校(東京府)設置開校認可」</ref>。 ==== 昭和 ==== *[[1928年]]([[昭和]]3年)[[10月21日]] - 寺尾文庫(図書館の前身)を敷設。 *[[1937年]](昭和12年)10月 - 旧1号館校舎を新築。 *[[1938年]](昭和13年) - 校章、制服、制帽を制定。この頃から、昼間部主体となる。 *[[1939年]](昭和14年) - 「'''[[東京物理学校]]'''」の創立記念日を制定(設立広告を掲載した'''6月13日'''とする)。 *[[1940年]](昭和15年) - 校歌を制定。 *[[1942年]](昭和17年) - 東京府[[北多摩郡]][[府中町 (東京都)|府中町]]字国分寺前に、[[大学予科]]敷地(約6万m<sup>2</sup>)の土地を購入。後にグラウンドとなる。 *[[1943年]](昭和18年) - 東京都[[八王子市]]西中野町に大学予科校舎として廃織物工場と土地(約700坪)を購入。後に農業理科学科の学生寮などとなる。 *[[1944年]](昭和19年) - [[文部省]]の指示により、無試験入学制度を廃止。 *[[1946年]](昭和21年) - 八王子市郊外に、農業理科学科の校地として、土地(約80,900坪)を取得。 *[[1948年]](昭和23年) - 八王子市郊外の校地が、[[自作農]]創設特別措置法に基づき強制買収される。 [[File:Kotaro Honda.jpg|thumb|[[本多光太郎]](東京理科大学初代学長)|247x247px]] *[[1949年]](昭和24年) **[[4月1日]] - [[学制改革]]により「'''東京理科大学」'''を設置し、[[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|'''理学部第一部''']]、[[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|'''理学部第二部''']](各数学科・物理学科・化学科)を置く<ref>{{Cite wikisource|title=大学の設置を認可した件 (昭和24年文部省告示第52号)|author=1949年(昭和24年)4月20日文部省告示第52号|wslanguage=ja}}</ref>。これにより[[1951年]]まで、大学生(東京理科大学)と、専門学校生([[東京物理学校]])が混在した。 **[[5月4日]] - 東京理科大学として初の入学式を挙行。 **7月 - 財団法人東京物理学校から、「財団法人東京物理学園」へ改称。 *[[1950年]](昭和25年)3月 - 農業理科学科を廃止。 *[[1951年]](昭和26年) **[[3月1日]] - [[私立学校法]]により組織変更し、財団法人東京物理学園から、「学校法人東京物理学園」になる<ref>1951年(昭和26年)4月18日文部省告示第11号「私立学校法附則により財団法人がその組織を変更して学校法人となる認可」</ref>。 **[[3月10日]] - 東京物理学校として最後の卒業式(第100回卒業式)を挙行。 **[[3月31日]] - 専門学校東京物理学校が廃校<ref>1951年(昭和26年)7月27日文部省告示第34号「津田塾專門学校等の廃止認可」</ref>。 *[[1957年]](昭和32年) - 「関門制度」(2年次に進級する際に特定科目(関門科目)の修得を義務づけ、4年次における卒業研究を履修する資格として卒業までの必要単位数の上限を設定)を導入。 *[[1958年]](昭和33年) **国分寺校地(グラウンド)を[[東芝]]へ売却。 **4月1日 - 神楽坂校舎に大学院理学研究科(修士課程)を設置<ref>{{Cite wikisource|title=大学院の設置を認可した件 (昭和33年文部省告示第43号)|author=1958年(昭和33年)4月14日文部省告示第423号|wslanguage=ja}}</ref>。 *[[1959年]](昭和34年)4月1日 - 理学部第一部応用化学科を新設。 *[[1960年]](昭和35年)4月1日 - '''[[東京理科大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]'''(薬学科)を設置<ref>{{Cite wikisource|title=大学の学部の増設を認可した件 (昭和35年文部省告示第25号)|author=1960年(昭和35年)2月23日文部省告示第25号|wslanguage=ja}}</ref>、理学部第一部応用物理学科を新設。 *[[1961年]](昭和36年)4月1日 - 理学部第一部応用数学科を新設。 *[[1962年]](昭和37年)4月1日 - [[東京理科大学大学院工学研究科・工学部|'''工学部''']](建築学科・工業科学科・電気工学科)を設置<ref>{{Cite wikisource|title=大学の学部の増設を認可した件 (昭和37年文部省告示第63号)|author=1962年(昭和37年)3月3日文部省告示第63号|wslanguage=ja}}</ref>。 *[[1965年]](昭和40年)4月1日 - 工学部経営工学科・機械工学科新設、薬学部薬学科を薬剤・衛生薬学科に改称。 *[[1966年]](昭和41年) - 野田校舎(現在の野田キャンパス)が竣工し、本年のみ工学部の一部を置く<ref name="genjo">東京理科大学白書編纂委員会『東京理科大学の現状と課題』(平成18年度版)、13頁、2007年3月</ref>。 *[[1967年]](昭和42年)4月1日 - 野田校舎に'''理工学部'''(数学科・物理学科・建築学科・工業科学科・電気工学科・経営工学科・機械工学科)を設置<ref>{{Cite wikisource|title=大学の学部の増設を認可した件 (昭和42年文部省告示第52号)|author=1967年(昭和42年)3月2日文部省告示第52号|wslanguage=ja}}</ref>、薬学部薬剤・衛生薬学科を薬学科に改称。 *[[1975年]](昭和50年)4月1日 - 理工学部土木工学科を新設。 *[[1976年]](昭和51年)4月1日 - 神楽坂校舎に工学部の夜間部として'''工学部第二部'''(建築学科・電気工学科・経営工学科)を設置<ref>1976年(昭和51年)1月26日文部省告示第6号「大学及び短期大学の設置並びに大学の学部及び短期大学の学科の設置を認可した件」</ref>、理工学部情報科学科・応用生物科学科を新設。 *[[1981年]](昭和52年) **神楽坂に新1号館を建設。 **東京理科大学の創立100周年記念式典を挙行。 *[[1987年]](昭和62年)4月1日 - 長万部校舎の竣工<ref>{{Cite web|和書|title=33年の歩みを未来へつなぐ 持続可能な町に向けた東京理科大学と長万部の挑戦 {{!}} プロジェクト一覧 {{!}} 長万部町 {{!}} 自治体一覧 |url=https://www.takibi-connect.jp/town/oshamambe/project/59 |website=takibi connect |date=2020-11-05 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>。長万部校舎に'''基礎工学部'''(電子応用工学科・材料工学科・生物工学科)を設置<ref>1987年(昭和62年)3月7日文部省告示第23号「大学、短期大学、大学の学部、短期大学の学科及び大学の学部の学科の設置を認可した件」</ref>。 *[[1988年]](昭和63年)4月1日 学校法人名を「学校法人東京理科大学」へ変更<ref>『[[官報]]』第18317号、29ページ「学校法人名変更のお知らせ」、1988年(昭和63年)3月14日</ref>。 ==== 平成 ==== *[[1989年]]([[平成]]元年)5月 - 野田校舎に生命科学研究所(現:[[東京理科大学生命医科学研究所|生命医科学研究所]])を設置<ref name="chibanippo1989519">{{Cite news | title = 「生命科学研」スタート 関係者多数招き開所式典 東京理科大野田キャンパス | newspaper = 『[[千葉日報]]』 | date = 1989-05-19 | publisher = 千葉日報社 | page = 朝刊 13 }}</ref> *[[1991年]](平成3年)4月1日 - 野田校舎に基礎工学研究科を設置<ref>1991年(平成3年)4月18日文部省告示第42号「大学院及び大学院の研究科の設置を認可した件」</ref>。 *[[1993年]](平成5年)4月1日 - 久喜校舎竣工。久喜校舎に'''[[東京理科大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]]'''(経営学科)を設置<ref>1993年(平成5年)3月31日文部省告示第43号「大学、短期大学、大学の学部、短期大学の学科及び大学の学部の学科の設置を認可した件」</ref>。 *[[1997年]](平成9年)4月1日 - 久喜校舎に経営学研究科を、野田校舎に生命科学研究科を設置<ref>1997年(平成9年)3月24日文部省告示第49号「大学、短期大学、大学の学部、短期大学の学科、大学の学部の学科、短期大学の学科の通信教育の開設及び大学院並びに大学院の研究科の設置を認可した件」</ref>。 *[[2001年]](平成13年) - 英語表記を''Science University of Tokyo''から''Tokyo University of Science''に変更する。 *[[2002年]](平成14年)4月1日 - 理学部第一部応用数学科を数理情報科学科に改称<ref name="data" />。 *[[2003年]](平成15年)4月1日 - 薬学部が神楽坂校舎から野田校舎に移転<ref name="chibanippo2003413">{{Cite news | title = 東京理科大薬学部 あすから野田で授業 都内からの移転完了 | newspaper = 『千葉日報』 | date = 2003-04-13 | publisher = 千葉日報社 | page = 朝刊 16 }}</ref>。 *[[2004年]](平成16年) **専門職大学院を設置。 **7月 - 九段にある旧[[都市基盤整備公団]]の土地・建物を取得(九段校舎)。[[東京理科大学神楽坂キャンパス|神楽坂キャンパス]]が2校舎体制になるため、他の「校舎」表記を「[[キャンパス]]」とする。 *[[2006年]](平成18年)4月1日 - 薬学教育6年制移行により、薬学部薬学科(6年制)・生命創薬学科新設。理工学部電気工学科を電気電子情報工学科に改称。 *[[2006年]](平成18年)6月 - 東京理科大学が創立125周年を迎える。それを記念して新たな大学ロゴマークを制定する。 *[[2009年]](平成21年) **[[3月26日]] - [[葛飾区]]と新キャンパス用地約30000m<sup>2</sup>の土地譲渡契約を締結。 **4月1日 - [http://ins.tus.ac.jp/ INS] イノベーション専攻 開設 *[[2011年]](平成23年)4月1日 - 薬学部薬学科(4年制)、製薬学科廃止。 *[[2013年]](平成25年) ** 4月1日 - 葛飾区[[新宿 (葛飾区)|新宿(にいじゅく)]]に[[東京理科大学葛飾キャンパス|葛飾キャンパス]]を開設。工学部第一部工業化学科と経営工学科を除き、神楽坂キャンパス九段校舎の工学部は[[東京理科大学葛飾キャンパス|葛飾キャンパス]]に移転。 ** 6月 - 野田キャンパスに[[光触媒]]研究センターを設置<ref name="chibanippo2013613">{{Cite news | title = 光触媒研究センター稼働 設備や機器を集約 東京理科大野田キャンパス | newspaper = 『千葉日報』 | date = 2013-06-13 | publisher = 千葉日報社 | page = 朝刊 9 }}</ref>。 *2015年(平成27年) **長万部市と東京理科大学が「長万部地方創生サミット」を開催<ref>{{Cite web|和書|title=33年の歩みを未来へつなぐ 持続可能な町に向けた東京理科大学と長万部の挑戦 {{!}} プロジェクト一覧 {{!}} 長万部町 {{!}} 自治体一覧 |url=https://www.takibi-connect.jp/town/oshamambe/project/59 |website=takibi connect |date=2020-11-05 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>。 *[[2016年]](平成28年) **3月23日 - 久喜キャンパス閉鎖。 **3月24日 - 神楽坂キャンパス富士見校舎使用開始。 **4月1日 - 工学部第一部を工学部に改称。工学部経営工学科を情報工学科へ改組。 **4月1日 - 経営学部と経営学研究科が久喜キャンパスから神楽坂キャンパス富士見校舎へ全面移転、新たに経営学部ビジネスエコノミクス学科を新設。 *[[2017年]](平成29年) **4月1日 - 理学部第一部数理情報科学科を応用数学科に改称<ref>[https://www.tus.ac.jp/news/os/ 数理情報科学科から「応用数学科」へ] 東京理科大学</ref>、理工学部工業化学科を先端化学科に改称<ref>[http://www.ca.noda.tus.ac.jp/pdf/document.pdf 工業化学科から先端化学科へ] 東京理科大学</ref>。 **4月1日 - 工学研究科工業化学専攻設置、工学部第二部の学生募集を停止。 ==== 令和 ==== *[[2020年]]([[令和]]2年) **3月12日 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]による影響で、4月8日に予定されていた2020年度入学式の中止を決定(翌年に2021年度入学式と同日に実施)。 **3月31日 - 北海道・長万部キャンパスから基礎工学部が撤退。 **4月1日 - 工学部建築学科夜間主社会人コースを新設、工学研究科情報工学専攻博士課程設置、工学研究科経営工学専攻の学生募集を停止。 *[[2021年]](令和3年) **4月1日 - 基礎工学部を'''先進工学部'''に名称変更し、電子応用工学科を電子システム工学科に、材料工学科をマテリアル創成工学科に、生物工学科を生命システム工学科に改称。また、基礎工学研究科を先進工学研究科に名称変更し、電子応用工学専攻を電子システム工学専攻に、材料工学科をマテリアル創成工学専攻に、生物工学科を生命システム工学専攻に改称。 **4月1日 - 経営学部国際デザイン経営学科を新設。北海道・長万部キャンパスにて全寮制教育を開始する予定であったが、新型コロナウイルス感染症拡大のため、神楽坂キャンパス富士見校舎での授業を実施。 **4月1日 - 教養教育研究院を設立。 *[[2022年]](令和4年) **4月1日 - 研究戦略・産学連携センターを「産学連携機構」と「研究推進センター」に再編<ref>「東京理科大、協創強化 産学連携機構設立 共同研究費3倍に」『[[日刊工業新聞]]』2022年4月7日(大学・産学連携面)</ref>。 **4月1日 - 工学部工業化学科を神楽坂キャンパスから[[東京理科大学葛飾キャンパス|葛飾キャンパス]]へ移転。 *[[2023年]](令和5年) **4月1日 - 理学部第一部応用物理学科の学生募集を前年度を最後に停止。 **4月1日 - 先進工学部に物理工学科(理学部第一部応用物理学科から改組)、機能デザイン工学科を新設。 **4月1日 - 理工学部を'''創域理工学部'''に名称変更し、数学科を数理科学科に、物理学科を先端物理学科に、情報科学科を情報計算科学科に、応用生物科学科を生命生物科学科に、経営工学科を経営システム工学科に、機械工学科を機械航空宇宙工学科に、土木工学科を社会基盤工学科に改称。 **4月1日 - 北海道・長万部キャンパスにて経営学部国際デザイン経営学科の全寮制教育を再開。 *[[2025年]](令和7年)4月1日 - 薬学部を野田キャンパスから[[東京理科大学葛飾キャンパス|葛飾キャンパス]]へ移転(予定)。 == 基礎データ == [[File:Tokyo University of Science, Kagurazaka campus Kudan.JPG|thumb|神楽坂キャンパスの旧九段校舎|231x231ピクセル]] [[File:Tokyo University of Science Noda Campus Building No.2.JPG|thumb|野田キャンパス|231x231ピクセル]] [[File:Tokyo University of Science Katsushika Campus 02.JPG|thumb|葛飾キャンパス|231x231ピクセル]] === 現在のキャンパス === ==== 神楽坂キャンパス 神楽坂校舎 ==== {{see|東京理科大学神楽坂キャンパス#神楽坂校舎}} ==== 神楽坂キャンパス 富士見校舎 ==== {{see|東京理科大学神楽坂キャンパス#富士見校舎}} ==== 葛飾キャンパス ==== {{see|東京理科大学葛飾キャンパス}} ==== 野田キャンパス ==== [[Image:Tikio Licca-Univ-05.JPG|右|213x213px|thumb|理工学部]] [[Image:Tikio Licca-Univ-07.jpg|右|234x234px|thumb|薬学部]] * '''設置組織''' ** 学部:工学部([[1966年]] のみ)<ref name="genjo" />・'''創域理工学部''' ([[1967年]] -)・基礎工学部(2年次以降・[[1987年]] - [[2012年]] )・'''薬学部''' ([[2003年]] -)、野田キャンパス教養部 ** 研究科:創域理工学研究科([[1972年]] -)・薬学研究科([[1978年]] -)・基礎工学研究科([[1991年]] - 2012年)・生命科学研究科([[1997年]] -) ** 附属施設:グラウンド([[1959年]] -)、総合体育館([[1973年]] -[[2002年]] )、セミナーハウス([[1974年]] -)、[[東京理科大学図書館#野田図書館|野田図書館]] ([[1982年]] -)、情報メディアセンター([[1995年]] -)、計算科学フロンティア研究センター([[1996年]] -)、赤外自由電子レーザー(IR-FEL)研究センター([[1999年]] -)、先端材料研究センター([[2001年]] -)、森戸記念体育館(2002年-)、ゲノム創薬研究センター(2002年-)、21世紀COE火災科学研究センター([[2005年]] -)、DDS研究センター(2005年-)、ホリスティック計算科学研究センター(2005年-)、コミュニケーション棟(2005年-)、量子生命情報研究センター([[2006年]] -)、ナノ粒子健康科学研究センター(2006年-)、ポリスケールテクノロジー研究センター(2006年-)、カナル会館(2006年-)、光触媒国際研究センター(2013年-) * '''所在地''' ** 〒278-8510[[千葉県]][[野田市]][[山崎 (野田市)|山崎]]2641(一部は[[流山市]][[西深井]]に所在) *敷地面積:430,430㎡ * ''最寄駅'' ** [[運河駅]]から徒歩5分 * '''環境''' 野田市南部、[[利根運河]]沿いにあるキャンパス。グラウンドや体育館、宿泊施設なども完備されている。講義棟や薬学部キャンパスなど新しい施設も多い。大学では当キャンパスをリサーチパーク型キャンパスと位置づけており、再構築に伴って様々な研究施設が建設されている。野田校舎の附近には[[霊波之光]]という宗教法人の建設物が設置してある。 [[1958年]]に[[国分寺市|国分寺]]校地([[1942年]]および[[1943年]]に購入し、農業理科学科が置かれ、同学科廃止後グラウンドとなっていた)の売却益をもとに、87,491 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]の土地を購入し、[[1959年]][[11月]]に運動場の造成が完了。[[1966年]][[3月]]に1号館(講義棟)を竣工し、同年[[6月]]までに171,652m<sup>2</sup>、[[1977年]]度までに572,679 m<sup>2</sup>の校地を取得した。[[1980年]]には、隣接する山林約60,000m<sup>2</sup>の[[借地権]]を同窓会が取得し寄贈された(理窓会記念自然公園)。[[1990年]]までは[[国道16号]]の北東側もキャンパスの一部(自動車練習場)であったが、[[日本放送協会|NHK]]朝の連続ドラマ『[[君の名は]]』の屋外セット[[ロケーション撮影|ロケ撮影]]地として利用された後、[[関東運輸局]][[千葉運輸支局]]野田自動車検査登録事務所となった。[[2013年]]に基礎工学部(2,3,4年次)と基礎工学研究科が葛飾キャンパスに移転。 [[2025年]]4月に、薬学部及び薬学研究科を野田キャンパスから葛飾キャンパスに移転予定<ref name="saihen">[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20180222001.html 葛飾キャンパスにおける学部学科の再編について] 東京理科大学 2018/2/22付</ref>。 ==== 北海道・長万部キャンパス ==== * '''設置組織''' ** 学部:経営学部国際デザイン経営学科(1年次、[[2021年]] - )、基礎工学部(1年次、[[1987年]] - [[2020年]])、北海道・長万部キャンパス教養部 ** 研究科:なし ** 附属施設:[[東京理科大学図書館#長万部図書館|長万部図書館]] * '''所在地''' **〒049-3514 [[北海道]][[山越郡]][[長万部町]]字富野102-1 *敷地面積:99,253㎡ * '''交通アクセス''' ** [[長万部駅]]から徒歩20分 * '''環境''' 経営学部国際デザイン経営学科の1年次は全寮制(3人部屋)の北海道・長万部キャンパスで過ごす。 基礎工学部時代には長万部町の年代別人口比率では18 - 19歳の分布が飛び抜けて高くなっていた<ref>[http://www.town.oshamambe.lg.jp/modules/politics/category0015.html 町の人口 長万部町役場] 記事内の地区別世帯人口数 富野(ウチ 理大生)</ref>。 2020年をもって、基礎工学部の改組とともに同学科の1年次の全寮制教育を終了した(長万部キャンパスは、国際化のための教育の場として活用<ref name="saihen2">[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20180726100.html 東京理科大学における学部・学科の再編について] 東京理科大学 2018/7/26付</ref>)。 2021年より経営学部国際デザイン経営学科の1年次が全寮制教育を行う予定であったが、新型コロナの影響により神楽坂キャンパスで授業を実施。 2023年より経営学部国際デザイン経営学科の1年次に全寮制教育を再開。 * '''外部リンク''' **[https://web.archive.org/web/19980207020344/http://crab.it.osha.sut.ac.jp/index-j.html 東京理科大学,長万部校舎(アーカイブサイト)] === 過去に存在したキャンパス・校地 === ==== 神楽坂キャンパス 九段校舎 ==== {{see|東京理科大学神楽坂キャンパス#九段校舎}} ==== 久喜キャンパス ==== * '''設置組織''' ** 学部:経営学部([[1993年]] - [[2015年]] ) ** 研究科:経営学研究科([[1997年]] - [[2015年]] ) ** 附属施設:なし * '''所在地''' **〒346-0033[[埼玉県]][[久喜市]]下清久500<ref name="daily-engineering-construction-np-2014-7-14">“東京理科大学/久喜キャンパス(埼玉県久喜市)を閉鎖/跡地活用案作成へ”.『[[日刊建設工業新聞]]』(日刊建設工業新聞社). (2014年7月14日)</ref> * '''交通アクセス''' ** [[久喜駅]]から[[スクールバス]] で10分・徒歩約30分 * '''環境''' **敷地面積:136,070m{{sup|2}}<ref name="daily-engineering-construction-np-2014-7-14" /> **延べ床面積:16,456m{{sup|2}}<ref name="daily-engineering-construction-np-2014-7-14" /> 1993年に開設された。久喜駅から西に約2.7 [[キロメートル|km]]地点に位置し<ref name="daily-engineering-construction-np-2014-7-14" />、東武鉄道と東日本旅客鉄道の久喜駅の西口から東京理科大学久喜校舎まで無料のスクール・バスが運行されていた。キャンパス付近は水田や畑が多く存在する農業地域で、敷地内にも[[ブドウ|ぶどう]]園がある。 校舎は3階建て(一部2階建て)、A棟からE棟までが、それぞれ「凹」の字のように建てられ、各棟および図書館はシームレスに行き来できた。校舎内においては全館禁煙とされており、喫煙者は建物の外側に設置してある灰皿附近においてのみ喫煙が可能であった。 久喜校舎における経営学研究科、経営学部のみで実施されている学園祭を「久喜祭」として毎年11月頃に実施していた。 久喜市はキャンパスを誘致するために、用地取得や校舎建設のため30億円の補助金を拠出、また周辺道路を約10億円かけて整備した<ref name="yomiuri20120619">{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120619-OYT8T00485.htm |title=東京理科大、埼玉・久喜キャンパスから大半移転 |publisher=『読売新聞』|date=2012-06-19 |accessdate=2012-06-19}}{{リンク切れ|date=2014年5月}}</ref>。2011年7月、東京理科大学側から久喜市に、久喜キャンパスから神楽坂キャンパスへの全面移転を希望していることが伝えられた。その後、両者の間で協議が行われたが、2012年6月、2016年度より経営学部2年生から4年生までを神楽坂キャンパスに移す方針であることが明らかになり<ref name="yomiuri20120619" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.saitama-np.co.jp/news06/19/02.html |title=東京理科大、久喜キャンパスを一部移転 |publisher=『[[埼玉新聞]]』 |date=2012-06-19 |accessdate=2012-06-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120619184100/http://www.saitama-np.co.jp/news06/19/02.html |archivedate=2012-06-19 |deadlinkdate=2017-10}}</ref>、2014年(平成26年)7月には2016年(平成28年)3月末で閉鎖して経営学部と経営学研究科を神楽坂キャンパス全面的に移転する方針を固めた<ref name="daily-engineering-construction-np-2014-7-14" />。 2016年3月末、経営学部の神楽坂キャンパス富士見校舎移転につき、閉鎖。現在は久喜市立学校給食センターおよび[[ESR (企業)|ESR]]久喜ディストリビューションセンターとなっている。また、さいたま看護専門学校(さいたま市)の移転計画がある<ref>{{Cite web|和書|title=学校の移転について(お知らせ)|url=http://www.saitama-kango.jp/wp/wp-content/uploads/2022/06/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E7%A7%BB%E8%BB%A2%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%EF%BC%88%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B%EF%BC%89.pdf|publisher=[[地域医療振興協会]]|date=2022-04-01|accessdate=2022-08-28}}</ref>。 ==== 国分寺校地 ==== [[1942年]](昭和17年)に大学設置を目指した学園が、大学予科校地として[[北多摩郡]][[府中町 (東京都)|府中町]]字国分寺前の敷地(約6万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]])を購入、しかし、これらの土地は後に農業理科学科の校舎及び学生寮、グラウンドなどの用地として使用されることになった。[[1958年]](昭和33年)[[東芝]]へ売却し、現在の[[東芝府中事業所]]となった。 ==== 八王子校地 ==== [[1943年]](昭和18年)には八王子西中野町の織物工場と土地(約700坪)を購入した。更に、戦後の[[1946年]]に八王子郊外に農業理科学科の校地として土地(約80,900坪)を取得したが、この校地は[[1948年]]、自作農創設特別措置法に基づき強制買収された。 === 徽章・ロゴマーク === アインシュタインによって確立された一般相対性理論を図案化したものであり、太陽の重力によって曲げられる光の軌道を模式的に描いている。また、ロゴマークは徽章をベースに、創立125周年の際に制定されたものである。 === イメージキャラクター === 創立125周年を記念して公式イメージ・キャラクター「坊っちゃん」と「マドンナちゃん」が制定されている。これは[[夏目漱石]]の小説『[[坊つちやん]]』に出てくる主人公及び「マドンナ」に因むものである<ref group="広報">[https://www.tus.ac.jp/about/university/symbol/ 大学のシンボル] | ABOUT TUS | 東京理科大学</ref>。 * <!-- === 象徴 === *校章は○○をイメージしており… *大学歌は○○が作詞しているが… *シンボルマークは… *スクールカラーは○色で… ※校歌・校章・校旗・シンボルマーク・スクールカラーなどの大学を示す象徴はこの項目にまとめる。--> == 教育および研究 == === 組織 === 組織は、以下の通りである<ref name="data">{{PDFLink|[https://www.tus.ac.jp/documents/pdf/h25/wp25_1.pdf 東京理科大学のデータ集]}} - 東京理科大学</ref>。 ==== 学部 ==== [[アルファベット]]による学科の略は、[[ローマ字]](例・応用数学科:'''O'''uyou '''S'''ugaku)、または英訳(例・建築学科:'''A'''rchitecture)の頭文字などから採られている。大学内部ではこの英字略称を使用することが多い<ref group="注釈">[http://www.unitus.tech/topics/blogs/gakkayurai]</ref>。 [[理学部]]について、大学はその第一部と第二部をそれぞれ独立した学部として扱っており、学部長以下の教学組織を完全に分離している。本項の記述もその見解に従う。ただし、[[文部科学省]]の認可は、同一学部内の第一部と第二部として下りている。したがって政府関係の研究会や評議会・諮問会議などでは第一部と第二部の区別なく「東京理科大学理学部教授」などと表記される。 * [[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|理学部第一部]] **[[数学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、代数学系、幾何学系、解析学系、確率論・統計学系、数学教育系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" >2016年入学生用の大学案内 [https://www.tus.ac.jp/demand/pdf/2016rika.pdf] による</ref>。}}(S科) **[[物理学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、地球・宇宙系、原子核・素粒子系、物理教育・生物系、物質系(理論)、物質系(実験)があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(B科) **[[化学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、有機化学系、無機化学系、物理化学系、化学教育系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(K科) **[[応用数学科]](OS科) **応用物理学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、量子物理系、数理・統計物理系、先端デバイス物理系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(OB科)(2023年4月学生募集停止) **[[応用化学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、有機化学系、無機化学系、物理化学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(OK科) *理学部第二部 ** 数学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、解析学系、代数学系、幾何学系、位相数学系、確率論・統計学系、離散数学系、教育数学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}} (ⅡS科) ** 物理学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、原子核・素粒子物理系、宇宙物理系、理論物理系、固体物理系、生物物理系、原子物理・粒子線物理系、物理教育系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}} (ⅡB科) **化学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、有機化学系、無機化学系、物理化学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(ⅡK科) * [[東京理科大学大学院工学研究科・工学部|工学部]] ** [[建築学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、計画系(第1部門)、環境系(第2部門)、構造系(第3部門)があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(A科) ** [[工業化学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、無機・分析化学系、有機化学系、物理化学系、化学工学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(C科) ** 電気工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、通信・情報系、エネルギー・制御系、材料・エレクトロニクス系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}} (E科) ** [[情報工学科]]{{Refnest|group="注釈"|コースには3年次から所属する<ref group="広報">[https://www.tus.ac.jp/fac_grad/fac/ko1/man.html]</ref>。}}(I科) ** 機械工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、熱・流体工学系、材料・構造力学系、知能機械・機械力学系、設計・製法系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}} (M科) * 工学部第二部(2016年4月学生募集停止) ** 建築学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、設計・意匠計画系、環境・防災系、構造・材料・施工系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2015大学案内">2015年入学生用の大学案内 [https://www.tus.ac.jp/demand/pdf/2015rika.pdf] による</ref>。}} (ⅡA科) ** 電気工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、材料・エレクトロニクス系、エネルギー・制御系、通信・情報系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2015大学案内" />。}} (ⅡE科) ** [[経営工学科]]{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、情報工学系、数理工学系、信頼性・質管理工学系、人間工学系、マネジメント系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2015大学案内" />。}}(Ⅱi科) * [[東京理科大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2017年6月|2004年の[[学校教育法]]および[[薬剤師法]]の改正による薬学教育6年制への移行に伴い、2006年度から薬学科(6年制)、生命創薬科学科(4年制)の2学科に改組された。2017年度までの生命創薬科学科入学者は、大学院薬学研究科の修士課程を修了し、不足科目の追加履修を一定期間内に行い厚生労働大臣の個別認定を経た後に、薬剤師国家試験の受験資格が与えられる}}。}} ** 薬学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、創薬科学系、生命薬学系、環境・衛生薬学系、医療・情報薬学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}} (YP科) ** 生命創薬科学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、創薬科学系、生命薬学系、環境・衛生薬学系、医療・情報薬学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}} (YM科) * 創域理工学部 ** 数理科学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、解析学系、幾何学系、代数学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(MA科) ** 先端物理学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、宇宙物理学(理論)、宇宙物理学(実験)、核・素粒子(理論)、核・素粒子(実験)、物性物理学(理論)、物性物理学(実験)、光物理学があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(PH科) ** 情報計算科学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、基礎数理情報系、応用数理情報系、計算機科学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(IS科) ** 生命生物科学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、細胞生物学領域、分子生物学領域、生化学領域、生物有機化学領域、生物物理学領域、環境生物科学領域がある。各研究室の担当領域は、1~4領域にまたがっている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(BS科) ** 建築学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、計画・設計系、構造系、環境系、材料・防災系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(AR科) ** 先端化学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、有機・高分子化学系、物理化学・化学工学系、無機・分析化学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(CA科) ** 電気電子情報工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、エネルギー・制御・環境系、情報・通信・コンピュータ系、エレクトロニクス・物性・材料系、電気電子情報工学コース([[日本技術者教育認定機構|JABEE]]認定コース)がある。研究室は3系に分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(EE科) ** 経営システム工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、情報システム系、生産システム系、社会システム系、経営数理系、管理システム系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(IA科) ** 機械航空宇宙工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、材料力学系、材料科学系、メカトロ系、加工学系、熱・流体系、流体力学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(ME科) ** 社会基盤工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、構造工学、コンクリート構造物・土木材料、土と地盤に関する解析・実験、大気と水に関する環境と防災、環境工学、交通施設や都市・地域の計画、広域環境/国土情報の処理と解析があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(CV科) * 先進工学部 ** 電子システム工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、電子デバイス系、情報通信系、計測・制御系、計算機システム系、学際系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(AE科) ** マテリアル創成工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、材料物性工学系、無機材料工学系、有機材料工学系、半導体材料工学系、材料プロセス工学系、複合材料工学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(AM科) ** 生物システム工学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、遺伝子工学系、植物・環境工学系、再生・発生工学系、細胞工学系、免疫工学系、構造生物学系、生物有機化学系があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(AB科) ** 物理工学科(AP科) ** 機能デザイン工学科(AD科) * [[東京理科大学大学院経営学研究科・経営学部|経営学部]] ** 経営学科{{Refnest|group="注釈"|学問体系として、経営領域、マーケティング領域、会計ファイナンス領域、情報マネジメント領域があり、研究室もそれらに分かれている<ref group="広報" name="2016大学案内" />。}}(MS科) ** ビジネスエコノミクス学科(BE科) ** 国際デザイン経営学科(IDM科) *教養教育研究院 **神楽坂キャンパス教養部 **野田キャンパス教養部 **葛飾キャンパス教養部 **北海道・長万部キャンパス教養部 ===== 学部の再編 ===== *2018年7月22日の理事会にて学部の再編をすることが決定された。「[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20180726100.html 東京理科大学における学部・学科の再編について]」 **基礎工学部の再編計画について ***基礎工学部による長万部キャンパスの利用は、2020年度までとする。2021年度からは、葛飾キャンパスにおいて新学部として4年間の一貫教育を行う。 ***基礎工学部及び基礎工学研究科は、2021年4月に学部名称の変更を行う。変更後の名称は、「先進工学部」及び「先進工学研究科」とする。 ***2023年4月に、先進工学部に「物理工学科」を設置する。理学部第一部応用物理学科は、2022年度入学者を最後に、学生募集を停止する。 **長万部キャンパスの国際教育の拠点化について ***2021年4月に、国際的な経営を学ぶためのコース(1学年約120名を予定)を経営学部に開設する。同コースの1年次教育は、長万部キャンパスで全寮制教育として行う。 ***2022年4月に、留学生を対象としたコース(1学年約80名を予定)を理工学部に開設する。同コースの1年次教育は、長万部キャンパスで全寮制教育として行う。 *2018年2月21日の理事会にて学部の再編をすることが決定された。「[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20180222001.html 葛飾キャンパスにおける学部学科の再編について]」 **[[2025年]]4月に、薬学部(薬学科及び生命創薬科学科)及び大学院薬学研究科を野田キャンパスから葛飾キャンパスに移転する。 **基礎工学部の学部名を変更し、理学部第一部応用物理学科を物理工学科に改組転換し統合する。また、[[2023年]]4月に、機能デザイン工学科を新設し5学科体制とする。 **改組後の基礎工学部は、1年次の長万部キャンパスにおける全寮制教育を解消し、葛飾キャンパスにおいて4年間の一貫教育を行う。長万部キャンパスは、国際化のための教育の場として活用するべく検討を進める。 ==== 研究科 ==== ※記載している以外の専攻については博士前期・後期課程を有する。 *理学研究科 **数学専攻{{Refnest|group="注釈"|専門分野として、代数学、幾何学、解析学、確率・統計がある<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ri_math_m.pdf|title=修士課程履修モデル|publisher=東京理科大学|language=日本語|accessdate=2018-05-29}}</ref>。「研究の中心領域」として、代数学、幾何学、解析学、確率・統計がある<ref group="広報">博士後期課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ri_math_d.pdf] による</ref>。教員も、代数学、幾何学、解析学、確率・統計という専攻部門に分かれている<ref group="広報" name="2015学生募集要項(修士博士)">2015年入学生用の学生募集要項(修士課程 [https://www.tus.ac.jp/admis/grad/master/pdf/h27master_sha_new02.pdf])による</ref><ref group="広報">博士後期課程 [https://www.tus.ac.jp/admis/grad/doctor/pdf/2015doctor.pdf])による</ref>。}} **物理学専攻{{Refnest|group="注釈"|「学ぶ分野」として、素粒子物理学、宇宙物理学、凝縮系物理学、応用物理学、地球物理学、生物物理学がある。2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員も、素粒子物理学、凝縮系物理学、応用物理学、宇宙物理学、地球物理学、生物物理学という専攻部門に分かれている<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ri_phy_m.pdf]、博士後期課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ri_phy_d.pdf] による</ref>。}} **化学専攻 **応用数学専攻 **応用物理学専攻{{Refnest|group="注釈"|「学びの中心領域」として、物質科学とその応用、光物理とその応用、知能・知覚・情報物理がある<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ri_app_phy_m.pdf])による</ref><ref group="広報">博士後期課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ri_app_phy_d.pdf] による</ref>。教員は、物性物理学、応用物理学、地球物理学、宇宙物理学という専攻部門に分かれている<ref group="広報" name="2015学生募集要項(修士博士)" />。}} **科学教育専攻 *総合化学研究科 **総合化学専攻(2018年度より学生募集停止 [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/stop/])<ref group="広報" name="2015学生募集要項(修士博士)" /> ***分子集積・分子科学コース ***合成・反応有機化学コース ***機能・生体材料化学コース ***エネルギー・環境化学コース ***工業化学コース *科学教育研究科 **科学教育専攻(2017年度より学生募集停止 [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/stop/]) ***修士課程のコース<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_kk_m.pdf]、2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程)による。</ref> ****数学コース ****理科コース *工学研究科 **建築学専攻{{Refnest|group="注釈"|建築計画学部門、建築環境学部門、建築構造学部門がある<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ko_arc.pdf] による</ref>。教員は、建築計画学部門、建築環境学部門、建築構造学部門、建築数理学という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。}} **工業化学専攻 **電気工学専攻{{Refnest|group="注釈"|通信・情報系部門、エネルギー・制御系部門、材料・エレクトロニクス系部門がある<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ko_ele.pdf] による</ref>。教員も、材料・エレクトロニクス、通信・情報、エネルギー・制御という専攻部門に分かれている<ref group="広報" name="2015学生募集要項(修士博士)" />。}} **経営工学専攻{{Refnest|group="注釈"|人間・情報工学部門、システム数理工学部門、医薬統計部門がある<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ko_man.pdf] による</ref>。教員も、人間・情報工学、システム数理工学、医薬・統計という専攻部門に分かれている<ref group="広報" name="2015学生募集要項(修士博士)" />。}} **機械工学専攻{{Refnest|group="注釈"|専門分野として、「材料力学及び材料工学」、「流体工学及び熱工学」、「機械力学及び自動制御」、設計工学があり、自分の専門分野の科目を一定数履修することが求められている<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_ko_mec.pdf] による</ref>。教員も、材料力学、「流体工学及び熱工学」、「機械力学及び自動制御」、設計工学という専攻部門に分かれている<ref group="広報" name="2015学生募集要項(修士博士)" />。}} *薬学研究科 **薬学専攻{{Refnest|group="注釈"|教員は、創薬科学、生命薬科学、医薬科学という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の薬学研究科・博士課程の学生募集要項 [https://www.tus.ac.jp/demand/pdf/2015doctor_yaku.pdf] による</ref>。}}(博士後期課程のみ) **薬科学専攻{{Refnest|group="注釈"|創薬科学分野、生命薬科学分野、医薬科学分野がある<ref group="広報">修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_yaku.pdf] による</ref>。教員も、創薬科学、生命薬科学、医薬科学という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の修士課程の大学院学生募集要項による</ref>。だが、薬学研究科・博士後期課程の学生募集要項 [https://www.tus.ac.jp/demand/pdf/2015doctor_yaku.pdf] によると、教員は、創薬科学、生命薬科学という専攻部門に分かれていることになっており、医薬科学はない。}} *創域理工学研究科 **数理科学専攻{{Refnest|group="注釈"|科目は、構造数理、空間数理、基幹解析、数理解析、「共通」(修士課程のみ)という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">理工学研究科数学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/math.html] による</ref>。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_math.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、構造数理、空間数理、基幹解析、数理解析といった下位区分は示されていない。また、履修モデルでは、理工学研究科数学専攻のページに記載されている「共通」以外の科目は、「専門分野」と「基礎科目」に分かれているが、「共通」の科目については科目区分が無記名となっている。教員も、構造数理、空間数理、基幹解析、数理解析という専攻部門に分かれている<ref group="広報">理工学研究科数学専攻のページと2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。}} **先端物理学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、核・素粒子・宇宙物理学(理論、実験)、物性物理学(理論)、物性物理学(実験)、光物理学(実験)、「共通」、博士課程の科目は、理論物理学、実験物理学という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">理工学研究科物理学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/phy.html] による</ref>。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_phy.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、核・素粒子・宇宙物理学(理論、実験)、物性物理学(理論)、物性物理学(実験)、光物理学(実験)といった下位区分は示されていない。また、履修モデルでは、理工学研究科物理学専攻のページに記載されている「共通」科目(6科目)のうちの4科目以外は、「専門分野」と「基礎科目」に分かれている。前記4科目については科目区分が無記名となっている。「共通」科目の残り2科目は「専門分野」に組み込まれている。理工学研究科物理学専攻のページと2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員は、核・素粒子・宇宙物理学、物性物理学、光物理学という専攻部門に分かれている。}} **情報計算科学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、数理解析、応用情報、統計数理、計算機数学、人工知能、ソフトウェア環境、言語処理系、生命情報学、離散数学、計算理論、応用確率統計という専門分野(部門)のほか、無記名の3科目群に分かれている<ref group="広報">理工学研究科情報科学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/info.html] による</ref>。 博士課程の科目は、基礎数理情報、応用数理情報、計算機科学という専門分野(部門)に分かれている。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/admis/grad/master/pdf/h27master_sha_new02.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、数理解析、応用情報、統計数理、計算機数学、人工知能、ソフトウェア環境、言語処理系、生命情報学、離散数学、計算理論、応用確率統計といった下位区分は示されていない。また、履修モデルでは、理工学研究科情報科学専攻のページに記載されている無記名の2科目群以外の科目は、「専門分野」と「基礎科目」に分かれているが、前記2科目群の科目については科目区分が無記名となっている。無記名の残り1科目群の科目は、「専門分野」に組み込まれている。2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員は、応用情報、数理解析、統計数理、計算機数学、ソフトウェア環境、[[人工知能]](修士課程のみ)、言語処理系、生命情報学、離散数学(修士課程のみ)、計算理論(修士課程のみ)、応用確率統計(修士課程のみ)という専攻部門に分かれている。なお、理工学研究科情報科学専攻のページにある教員一覧は修士課程と博士課程に分けて記載していないが、専攻部門は修士課程の学生募集要項のものと同じものになっている。}} **生命生物科学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、細胞生物学領域、分子生物学領域、生化学領域、生物有機化学領域、生物物理学領域、環境生物科学領域という専門分野(部門)のほか、無記名の科目群に分かれている<ref group="広報">理工学研究科応用生物科学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/app_bio.html] による</ref>。博士課程の科目は、分子細胞生物学、生命機能学に分かれている。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_app_bio.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、細胞生物学領域、分子生物学領域、生化学領域、生物有機化学領域、生物物理学領域、環境生物科学領域といった下位区分は示されていない。また、履修モデルでは、科目は、「専門分野」、「基礎科目」、無記名の科目群に分かれているが、無記名の科目群は、理工学研究科応用生物科学専攻のページのものと必ずしも一致していない。 教員は、生体物質化学、分子生物学、腫瘍生物学(博士課程のみ)、微生物分子生物学、環境情報生物学、生物物理学、分子細胞生物学、生物有機化学、酵素学、神経科学、生命動態学、微生物生態学、発生生物学、生体情報化学(修士課程のみ)、分子生化学、ウイルス生命科学、分子遺伝学、コンピテーショナルグライコミックス、食品機能生化学(修士課程のみ)、化学療法学(修士課程のみ)、時間生物学(修士課程のみ)、分子腫瘍学(博士課程のみ)という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。なお、理工学研究科応用生物科学専攻のページでは、前記のうち、分子細胞生物学、分子腫瘍学という名称は見られない一方、生物化学・生物物理学、生化学・生物物理学、医科学という名称が見られる。また、修士課程と博士課程に分けて記載していない。}} **建築学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、建築計画学、建築設計学、建築史学、都市計画学、建築構造学、建築構造力学、建築材料学、建築防災安全工学、建築環境工学という専門分野(部門)のほか、無記名の科目群に分かれている<ref group="広報" name="建築学専攻">理工学研究科建築学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/arc.html] による</ref>。博士課程の科目群は、建築・都市計画学、建築歴史意匠学という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報" name="建築学専攻" />。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_arc.pdf] では、科目区分として「基礎科目」と「専門科目」のみが記載されている。2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員は、建築計画学・建築設計学(修士課程のみ)、「建築計画学、都市計画学」(博士課程のみ)、建築史学、都市計画学(修士課程のみ)、建築環境工学、建築防災安全工学、建築構造学(修士課程のみ)、建築構造力学、建築材料学(修士課程のみ)、「建築後続学、建築材料学」(博士課程のみ)、地震工学という専攻部門に分かれている。なお、理工学研究科建築学専攻のページの教員一覧では、建築計画学・建築設計学、「建築計画学、都市計画学」、「建築後続学、建築材料学」という名称は見られない一方、建築計画学という名称が見られる。また、修士課程と博士課程に分けて記載していない。}} **先端化学専攻 **電気電子情報工学専攻{{Refnest|group="注釈"|科目は、通信工学、通信・ネットワーク工学、画像情報工学、知能制御工学、制御工学、電力工学、電子回路システム工学、電気材料物性工学、半導体工学という専門分野(部門)のほか、無記名の科目群に分かれている<ref group="広報" name="電気工学専攻">理工学研究科電気工学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/ele.html] による</ref>。博士課程の科目は、エネルギー・環境・制御工学、物性・デバイス・回路工学、情報通信工学という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報" name="電気工学専攻" />。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_ele.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、通信工学、通信・ネットワーク工学、画像情報工学、知能制御工学、制御工学、電力工学、電子回路システム工学、電気材料物性工学、半導体工学といった下位区分は示されていない。また、履修モデルでは、理工学研究科電気工学専攻のページに記載されている「共通」以外の科目は、「専門分野」と「基礎科目」に分かれているが、「共通」の科目については科目区分が無記名となっている。2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員は、通信・ネットワーク工学、通信工学、画像情報工学、電力工学、知能制御工学、制御工学(修士課程のみ)、電子回路システム工学、電気材料物性工学、半導体工学という専攻部門に分かれている。なお、理工学研究科電気工学専攻のページにある教員一覧は修士課程と博士課程に分けて記載していないが、専攻部門は修士課程の学生募集要項のものと同じになっている。}} **機械航空宇宙工学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、材料力学、材料学、流体力学、熱工学、機械力学、設計・加工学という専門分野(部門)のほか、無記名の科目群に分かれている<ref group="広報" name="機械工学">理工学研究科機械工学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/mec.html] による</ref>。博士課程は、材料力学、材料学、流体力学、熱力学、機械力学、設計・加工学という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報" name="機械工学" />。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_mec.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、材料力学、材料学、流体力学、熱工学、機械力学、設計・加工学といった下位区分は示されていない。また、履修モデルでは、理工学研究科機械工学専攻のページに記載されている無記名の科目群の科目以外は、「専門分野」と「基礎科目」に分かれているが、無記名の科目群の科目は一切記載されていない。2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員は、材料力学、材料学、流体力学、熱力学、機械力学、設計・加工学(修士課程のみ)、機械設計学(博士課程のみ)、加工学(博士課程のみ)という専攻部門に分かれている。なお、理工学研究科機械工学専攻のページの教員一覧の専攻部門では、設計・加工学、機械設計学、加工学の名称が見られない。}} **社会基盤工学専攻{{Refnest|group="注釈"|科目は、土木構造学、土木動構造学、土木材料学、水工学、地盤工学、環境工学、交通施設計画学、地球環境工学という専門分野(部門)のほか、無記名の科目群に分かれている<ref group="広報" name="土木工学専攻">理工学研究科土木工学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/riko/civ.html] による</ref>。博士課程の科目は、構造学、防災学、環境学、計画学という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報" name="土木工学専攻" />。ただ、修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_riko_civ.pdf] では、「専門分野」は科目区分の一つとされており、土木構造学、土木動構造学、土木材料学、水工学、地盤工学、環境工学、交通施設計画学、地球環境工学といった下位区分は示されていない。また、履修モデルは5つ示されており、うち4つでは、それぞれ全科目が「基礎科目」と「専門分野」に分かれている。残り1つでは、理工学研究科土木工学専攻のページに記載されている無記名の科目群の科目以外は、「基礎科目」と「専門分野」に分かれている。同時に、構造学、防災学、環境学、計画学という専門分野(部門)での区分も示されている。2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)によると、教員は、修士課程では、土木動構造学、水工学、地盤工学、環境工学、コンクリート工学、交通計画学、地球環境工学、維持管理工学、社会基盤学、鉄道計画学、博士課程では、構造学、防災学、環境学、計画学という専攻部門に分かれている。なお、理工学研究科電気工学専攻のページにある教員一覧は修士課程と博士課程に分けて記載していないが、専攻部門は修士課程の学生募集要項のものと同じになっている。}} **国際火災科学専攻 *先進工学研究科 **電子システム工学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、電子デバイス、計算機システム、情報処理、計測・制御、共通という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">電子応用工学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/kiso/ele.html] による</ref>。教員は、電子デバイス、情報処理、計測・制御、バイオ・ナノテクノロジー専攻融合分野(修士課程のみ。電子応用工学専攻の教員以外に、生物工学専攻、材料工学専攻の教員で構成)という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。なお、電子応用工学専攻のページにある教員一覧は修士課程と博士課程に分けて記載していないが、専攻部門は博士課程の学生募集要項のものと同じになっている。}} **マテリアル創成工学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、材料物性工学、半導体材料工学、無機材料工学、有機材料工学、材料プロセス工学、システム材料・複合材料工学、共通という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">材料工学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/kiso/mat.html] による</ref>。教員は、材料物性工学、半導体材料工学、有機材料工学、無機材料工学、システム材料・複合材料工学、材料プロセス工学、バイオ・ナノテクノロジー専攻融合分野(修士課程のみ。材料工学専攻の教員以外に、生物工学専攻、電子応用工学専攻の教員で構成)という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。なお、材料工学専攻のページにある教員一覧は修士課程と博士課程に分けて記載していないが、専攻部門は博士課程の学生募集要項のものと同じになっている。}} **生命システム工学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、細胞工学、免疫工学、発生・再生工学、植物生物工学、ゲノム工学、生体高分子工学、生体物質化学、共通という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">生物工学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/kiso/bio.html] による</ref>。教員は、発生・再生工学、植物生物工学、ゲノム工学、生体高分子工学、生体物質化学、免疫工学、バイオ・ナノテクノロジー専攻融合分野(修士課程のみ。生物工学専攻の教員以外に、材料工学専攻、電子応用工学専攻の教員で構成)、環境工学という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。なお、生物工学専攻のページにある教員一覧では、前記のうち、バイオ・ナノテクノロジー専攻融合分野が記載されていない一方、細胞工学、腫瘍分子生物学が記載されている。}} **物理工学専攻 *経営学研究科 **経営学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、会計学、経営管理、経営情報、共通という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">経営学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/keiei/man.html] による</ref>。修士課程履修モデル [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/pdf/model_keiei.pdf] では、会計学、経営管理、経営情報という3分野に分けてモデルを提示している。教員も、会計学、経営管理、経営情報という専攻部門に分かれている<ref group="広報">経営学専攻のページ、2015年入学生用の大学院学生募集要項による</ref>。}} **技術経営学専攻(専門職学位課程<ref>[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20171205005.html 平成30年4月 経営学研究科 経営学専攻 博士後期課程 開設] 東京理科大学 2017.12.05</ref>) *生命科学研究科 **生命科学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、分子生物学、免疫生物学、生命情報科学、分子病態学、時間生物学、免疫実験動物学、共通という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">生命科学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/seimei/seimei.html] による</ref>。教員は、分子生物学、免疫生物学、生命情報科学、分子病態学、時間生物学、免疫実験動物学、画像診断学(修士課程のみ)、腫瘍医学(修士課程のみ)、医学物理学(修士課程のみ)、動物疾病制御(修士課程のみ)、免疫システム動態(修士課程のみ)という専攻部門に分かれている<ref group="広報">2015年入学生用の大学院学生募集要項(修士課程、博士後期課程)による</ref>。なお、生命科学専攻のページにある教員一覧は修士課程と博士課程に分けて記載していないが、専攻部門は修士課程の学生募集要項のものと同じになっている。}} *イノベーション研究科(博士後期課程のみ) **イノベーション専攻{{Refnest|group="注釈"|科目は、コンセプト・プロトタイピング、イノベーション・ロジック、知的財産マネジメントという専門分野(部門)のほか、演習科目に分かれている<ref group="広報">イノベーション専攻のページ [http://most.tus.ac.jp/ins/curriculum/system/index.php] による</ref>。教員も、コンセプト・プロトタイピング領域、イノベーション・ロジック領域、知的財産マネジメント領域という専攻部門に分かれている<ref group="広報">学生募集要項 [http://most.tus.ac.jp/ins/application/pdf/entrance_doc_all.pdf] による</ref>。}}(2018年より学生募集停止 [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/stop/]) *国際火災科学研究科 **火災科学専攻{{Refnest|group="注釈"|修士課程の科目は、火災の基礎理論・実践領域、設計実務型火災安全技術領域、行政実務型火災安全技術領域、共通という専門分野(部門)に分かれている<ref group="広報">火災科学専攻のページ [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/kasai/kasai.html] による</ref>。}}(2018年度より学生募集停止 [https://www.tus.ac.jp/fac_grad/grad/stop/]) ==== 専攻科 ==== *理学専攻科 **数学専攻 ==== 附属機関 ==== *[[東京理科大学近代科学資料館]](神楽坂) *[[東京理科大学図書館]] **神楽坂図書館 ***富士見図書室 **葛飾図書館 **野田図書館 **長万部図書館 *森戸記念館(神楽坂) *セミナーハウス(野田) *学生支援機構 **学制支援センター **キャリア支援センター *秋山仁の数学体験館(神楽坂) *理科大サイエンス道場(葛飾) *なるほど科学体験館(野田) *総合教育機構 **教育開発センター **教職支援センター **理数教育研究センター **情報科学教育センター *[[東京理科大学総合研究院|総合研究院]] *:2005年11月設置の総合研究機構を前身とする研究組織。 **研究部門 ***数理モデリングと数学解析研究部門 ***再生医療とDDSの融合研究部門 ***太陽光発電技術研究部門 ***先端ECデバイス研究部門 ***アグリ・バイオ工学研究部門 ***ものこと双発研究部門 ***大気科学研究部門 ***超分散知能システム研究部門(野田) ***脳学際研究部門(野田) ***インテリジェントシステム研究部門 ***先進農業エネルギー理工学研究部門 ***現代代数学と異分野連携研究部門 ***マルチスケール界面熱流体力学研究部門 ***ナノカーボン研究部門 ***界面科学研究部門(野田) ***実践的有機合成を基盤としたケミカルバイオロジー研究部門 ***先進複合材料・構造CAE研究部門 ***アカデミック・ディテーリング・データベース部門 ***核酸創薬研究部門(野田) ***先端都市建築研究部門 ***合成生物学研究部門(野田) **研究センター ***火災科学研究所(野田) ***赤外自由電子レーザー研究センター(野田) ***光触媒国際研究センター(野田) ***ウォーターフロンティアサイエンス&テクノロジー研究センター(神楽坂) ***スペース・コロニー研究センター(野田) ***ヒト疾患モデル研究センター(野田) **研究技術部 ***研究機器センター **社会連携部 ***[[三菱ケミカル|三菱化学]][[ナトリウムイオン二次電池|ナトリウムイオン電池]]開発プロジェクト **共同利用・共同研究推進部 ***火災安全科学研究拠点 ***光触媒研究推進拠点 **研究戦略・産学連携センター ***企画管理部門 ***研究戦略部門 ***研究・[[産学連携]]支援部門 ***地域連携・事業化推進部門 **データサイエンスセンター *[[東京理科大学生命医科学研究所|生命医科学研究所]] **免疫アレルギー部門 **がん生物学部門 **生命情報システム部門 **生体運命制御部門 **分子病態学部門 **炎症・免疫難病制御部門 **実験動物学研究部門 **医療機器材料開発部門 **融合研究推進部門 *国際化推進センター *環境安全センター === 研究 === ==== ノーベル賞 ==== [[2015年]]に[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した[[大村智]]は[[東京理科大学大学院理学研究科・理学部第一部・理学部第二部|東京理科大学大学院理学研究科]][[大学院#修士課程・博士前期課程|修士課程]]を[[1963年]]に修了し、[[博士(理学)|理学博士]]を[[1970年]]に取得している。[[2021年]]10月時点、[[日本人のノーベル賞受賞者]]としては唯一、私立大学の学位を持つ。 ==== 21世紀COEプログラム ==== [[21世紀COEプログラム]]として、1件のプロジェクトが採択されている。 *[[2003年]] *;機械、土木、建築、その他工学系 *:先導的建築火災安全工学研究の推進拠点 ==== グローバルCOEプログラム ==== [[グローバルCOEプログラム]]として、1件のプロジェクトが採択されている。 *[[2008年]] *;機械、土木、建築、その他工学 *:先導的火災安全工学の東アジア教育研究拠点 ==== 私立大学学術研究高度化推進事業 ==== * [[キラリティー|キラル構造]]を中心とする先導的配向材料の開発と高機能化 ** キラルマテリアル研究センター ==== 先端技術実証・評価設備整備事業(産学官の「技術の橋渡し拠点」整備事業) ==== *光触媒国際研究センター ==== 大学教育の国際化推進プログラム ==== *先端的国際連携支援 **[[2007年]] **:グローバル時代に活躍する理工系人材の養成 ==== 産学官連携戦略展開事業 ==== ;戦略展開プログラム *国際的な[[産学官連携]]活動の推進 ==== 創造的産学連携体制整備事業補助金(創造的産学連携事業) ==== *複合領域『[[知的財産権|知財]]群』創造的活用ネットワーク構築(幹事校) ==== 大学知的財産本部整備事業 ==== *東京理科大学科学技術交流センター (RIDAI SCITEC) ==== 大学教育の国際化加速プログラム ==== '''国際共同・連携支援(総合戦略型)''' *33件の申請があり、私立大学では唯一採択された(6件採択) *総合的な国際連携に基く理工学教育拠点形成 ==== 先端研究施設共用イノベーション創出事業 ==== *赤外自由電子レーザー共用による先端計測分析技術研究拠点形成 ==== 学術フロンティア推進事業 ==== *基礎工学連携による革新的な物質・材料創出事業:アトミックテクノロジーを起点とした物質・材料研究の新展開―ポリスケールテクノロジーの創出― ==== 私立大学戦略的研究拠点形成支援事業 ==== *ナノ・バイオ界面技術の創成とその応用 *[[悪性腫瘍|がん]]医療基盤科学技術創出拠点の形成 *安全安心のための物質科学研究拠点 *薬物の患部への効率的送達と[[副作用]]の軽減を目的としたナノ[[ドラッグデリバリーシステム|DDS]]の設計と調製 *[[リボ核酸|RNA]]を中心とした生命の秩序的制御メカニズムの総合的解析 *[[ホログラフィー|ホログラフィ]]技術による次世代記録媒体作製技術および四次元流体計測技術の開発 *環境と次世代健康科学―疾患原因解明と予防に向けた先進的研究 ==== 私立大学学術研究高度化推進事業 ==== *ハイテク・リサーチ・センター整備事業 **[[量子論]]から見る情報と生命の研究 **[[マクロファージ]]をターゲットにした新規薬物送達システムの開発、特に慢性難治性[[感染症]]および[[肺癌|肺がん]]治療を目的とした経肺吸収製剤の開発、並びに低[[侵襲]]性[[乳癌|乳がん]]治療法の開発 **キラルマテリアル研究センター **有機及び無機先端材料、特に[[ケイ素]]材料、[[セラミックス|セラミック]]材料あるいはハイブリッド材料の合成・物性機能の分子レベルでの解明、材料の組織化による素子開発 **高度光利用グリーン科学技術研究センター **:光環境解析プロジェクト **:太陽光エネルギー変換プロジェクト **:光応答物質創製プロジェクト **計算機仮想空間内実験プラットフォームの構築と先端計算科学の開拓 **高機能新素材の合成と解析 *学術フロンティア推進事業 **アトミックテクノロジーを基点とした物質・材料研究の新展開 - ポリスケールテクノロジーの創出 - **ナノ粒子の健康影響の解明とその克服に関する研究 **[[アポトーシス]]制御性リード化合物の創製 **[[ホリスティック教育|ホリスティック]]アプローチによる計算科学の新展開 *社会連携研究推進事業 **[[パワードスーツ|マッスルスーツ]] (R) の実用化開発 *先端技術実証・評価設備整備事業(産学官の「技術の橋渡し拠点」整備事業 **ナノサイエンス・テクノロジープロジェクト<!-- ※私立大学で[[私立大学学術研究高度化推進事業]]の採択がある場合はこの項目を立てて以下のように記述する。採択がない場合はこの節は立てない。ただし、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために「研究」節内で「{{Nowiki|*私立大学学術研究高度化推進事業の採択はない。}}」と記述する。 *○○事業 **○○センター *○○事業 **○○センター--> === 教育 === *特色ある大学教育支援プログラム(2003年度) **全寮制に基づく全人的教養教育 *資質の高い教員養成推進プログラム(2006年度) **理数教員養成におけるSTCプログラム開発 *現代的教育ニーズ取組支援プログラム(2006年度) **全人的教養教育の新たな展開-科学者としての良心を持ち、創造的知性を備えた人材の育成- *地域医療等社会的ニーズに対応した質の高い医療人養成推進プログラム(2006年度) **全国的薬学教育グリッドの構築 *理数学生応援プロジェクト(2007年度) **スーパーサイエンティスト育成プログラム *女子中高生の理系進路選択支援(2008年度) **「科学のマドンナ」プロジェクト *専門職大学院等における[[高度専門職業人]]養成教育推進プログラム(2008年度) **コンセプト・フィールド・ダイナミクス教育 *大学教育・学生支援推進プログラム(2009年度) **今が大切 就職支援活動を中心とした創造的な人材育成プログラム *[[科学技術振興機構|JST]]「サイエンス・リーダーズ・キャンプ」(2013年度) **SSHレベルの総合指導力養成 〜体験を通して身につける授業実践力〜<!-- == 学生生活 == 学生自治会に関係する内容は、適宜下位の節に織り込む。 === 部活動・クラブ活動・サークル活動 === ○○大学では{部活動|クラブ活動|サークル活動}は… ※各大学によって、これら活動の呼称や範囲が異なっているので、学生組織の規約または大学事務局発行の資料などに基づいて適切な節名とする。全公認学生団体・部・サークルのリストを掲載しなければ大学に関して説明できないという特段の事情がある場合には、歴史的社会的にどのような価値を持つのかをふまえながらどのような事情であるのかを関係者以外でも理解できるように記述可能な場合のみ、事前にノートで合意を形成した上でこの節にまとめる。 === 学園祭 === 学園祭は「○○祭」と呼ばれ… ※学園祭の規模が大きい場合はこの項目の名称を学園祭名で立ててもよい。またキャンパスによって学園祭が別途開催されている場合にはそれぞれ節を作り説明してもよい。 === スポーツ === ○○というスポーツが強く○年連続優勝… ○○大学野球連盟に加盟している。 ○○地区大学ラグビー連盟に加盟している。 ※学生スポーツの詳細はこの節でまとめる。部活動の一環として行われているものが多い場合は、その中に織り込むことも可能である。所属連盟に関してはここで記す。--> == 大学関係者と組織 == === 大学関係者 === {{See|東京理科大学の人物一覧}} === 同窓会・校友会 === 本学同窓会・校友会組織は「[https://tus-alumni.risoukai.tus.ac.jp '''理窓会'''] 」と称し、各界で活躍する21万人の卒業生と大学とを結びつけている。「東京物理学校同窓会」として[[1889年]](明治22年)4月15日に設立され、[[1949年]](昭和24年)7月8日に学制改革により新制大学として東京理科大学となったと同時に同窓会の名称を理窓会とした。 === 関連企業 === * [https://tusim.co.jp 東京理科大学インベストメント・マネジメント株式会社] * [https://tusap.co.jp 東京理科大学アカデミックパートナーズ株式会社] * [https://tusic.co.jp 東京理科大学イノベーション・キャピタル株式会社] * [http://tus-dining.co.jp 株式会社TUSダイニング] == 学生生活 == === 学園祭 === 学園祭は「'''理大祭'''」と呼ばれており、神楽坂地区・葛飾区地区・野田地区にて11月に開催。長万部については10月に「キャンパス祭」を開催している。 また、葛飾地区理大祭は、[[プロジェクションマッピング]]・物産展などの葛飾区や企業と連携した企画や、大学の立地条件を活かした外部とのコラボレーションを積極的に実施している点を初め、体育館や講義塔の1フロア全体を使用した理系大学ならではの実験教室も子供連れで賑わっている点が評価されている。2016年学園祭グランプリでは準グランプリを獲得している<ref>[https://www.enjoytokyo.jp/feature/gakusai/grand_prix/final_judge.html 学園祭グランプリ2016] ENJOYTOKYO</ref>。 === 奨学金 === 東京理科大学は大学独自の奨学金を用意している<ref>{{Cite web|和書|title=奨学金制度|奨学金|TUS LIFE|東京理科大学 |url=https://www.tus.ac.jp/tuslife/campuslife/scholarship/index.html |website=東京理科大学 |access-date=2023-03-07 |language=ja}}</ref>。 * 「新生のいぶき奨学金」(月額40万円~80万円、対象は受験生) * 「乾坤の真理奨学金(BS)」(月額40万円~80万円、対象は受験生) * 「乾坤の真理奨学金(DS)」(月額50万円、対象は大学院生) * 「乾坤の真理奨学金(IGF)」(月額50万円、対象は大学院生) * 「東京理科大学における自然災害被災学生に対する学費等減免」(授業料の半額等、対象は学部生と大学院生) == 対外関係 == === 地方自治体との協定 === *包括連携協定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/research/cooperation/course/local/ |title=地域との連携 |access-date=2023/03/18 |publisher=東京理科大学}}</ref> **[[東京都]][[葛飾区]]([[2009年]]締結) **[[北海道]][[長万部町]]([[2015年]]締結) **[[千葉県]][[野田市]]([[2020年]]締結) **千葉県[[流山市]]([[2020年]]締結) **[[新潟県]][[村上市]]([[2022年]]締結) **東京都[[新宿区]]([[2023年]]締結) *まちづくり研究所設立協定([[2005年]]締結) **[[長野県]][[小布施町]] *夏目漱石『坊っちゃん』をゆかりとした文化交流、科学啓発等に関する協定([[2016年]]締結)<ref group="広報">[https://www.city.matsuyama.ehime.jp/hodo/201608/toukyourikadai.html 発表内容 ] 松山市</ref> **[[愛媛県]][[松山市]] *連携事業に関する協定([[2016年]]締結)<ref group="広報">[http://www.city.katsushika.lg.jp/information/kouho/1005541/1010984.html 東京理科大学と葛飾区教育委員会が協定を締結しました] 葛飾区</ref> **東京都[[葛飾区]][[教育委員会]] *パートナーシップ協定([[2016年]]締結) **千葉県野田市教育委員会<ref group="広報">[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20151104_005.html 本学と野田市教育委員会とのパートナーシップ協定に基づく連携事業「研究室訪問」を実施] 東京理科大学</ref> **埼玉県[[川口市]]教育委員会<ref group="広報">[http://www.city.kawaguchi.lg.jp/kbn/72010123/72010123.html 東京理科大学と学校インターンシップ協定を締結] 川口市</ref> === 他大学との協定 === * 姉妹校 **[[山陽小野田市立山口東京理科大学]] **[[公立諏訪東京理科大学]] *[[首都大学院コンソーシアム]]協定([[2002年]]締結) * [[私工大懇話会]](図書館の相互利用協定) * 包括連携協定 ** [[信州大学]]([[1996年]]締結) ** [[順天堂大学]]([[2002年]]締結) ** [[筑波大学]]([[2009年]]締結)<ref group="広報">[http://www.tsukuba.ac.jp/news/20090120172253.html 東京理科大学と連携協力に関する協定を締結] 筑波大学</ref> ** [[日本医科大学]]([[2009年]]締結)<ref group="広報">[http://college.nms.ac.jp/news/381.html 日本医科大学と東京理科大学との連携協力に関する協定の締結について] 日本医科大学</ref> ** [[女子美術大学]]([[2011年]]締結)<ref group="広報">[http://www.joshibi.ac.jp/outreach/coalition/1014 東京理科大学との連携協力に関する協定] 女子美術大学</ref> ** [[東京慈恵会医科大学]]([[2013年]]締結) ** [[大阪大学]]([[2016年]]締結)<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO05787080X00C16A8TJM000/ 東京理科大・阪大、実用化視野に研究連携 医療機器や新薬で] 『日本経済新聞』</ref> **[[横浜市立大学]]([[2017年]]締結)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20181210003.html|title=第2回東京理科大学-横浜市立大学合同シンポジウムを開催|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref> ** [[東京大学]]([[2018年]]締結)<ref>[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20181018100.html 東京大学と連携協力の推進に関する協定を締結] 東京理科大学 2018/10/19付</ref> ** [[福島県立医科大学]] *教員養成高度化に関する連携協定 **[[横浜国立大学]]([[2020年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20200722_0102.html|title=横浜国立大学との教員養成高度化に関する連携協定の締結について|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) * 国際学術交流協定<ref>{{Cite web|和書|title=協定校一覧 |url=https://www.tus.ac.jp/kokusai_program/partner_institutions |website=東京理科大学留学サイト |access-date=2023-11-22 |language=ja}}</ref> ** アジア *** {{CHN}} **** [[中国石油大学]]、[[上海交通大学]]、[[天津大学]]、[[新疆大学]]、[[北京科技大学]]、[[浙江大学]](部局間協定・理学部第一部、理学部第二部)、[[西安交通大学]]、[[東南大学]]、[[上海理工大学]]、[[大連理工大学]]、[[同済大学]](部局間協定)、[[曲阜師範大学]]、西北工業大学、南京理工大学、鄭州大学、昆明理工大学 *** {{IND}} **** [[インド理科大学院]]、ハイデラバード大学、チャウダリーカランシ大学 *** {{IDN}} *** [[バンドン工科大学]]、スラバヤ工科大学 *** {{KOR}} **** [[高麗大学校]]、[[ソウル大学校]](部局間協定・経営学部)、[[中央大学校]](部局間協定・火災科学研究センター)、[[成均館大学校|成均館大学]]、[[湖西大学]]、[[ソウル市立大学]]、[[仁済大学]]、[[全南大学]](部局間協定・光触媒国際研究センター)、[[弘益大学校]](部局間協定・MIP) *** {{MYS}} **** [[マラヤ大学]] **** [[マラ工科大学]] **** [[:en:International Medical University|国際医療大学]] *** {{TWN}} **** [[国立台湾科技大学]]、[[国立交通大学]]、[[国立中興大学]]、[[国立清華大学]](部局間協定)、[[国防医学院]](部局間協定・生命科学研究科) *** {{THA}} **** [[チエンマイ大学]]、[[コンケン大学]]、[[チュラーロンコーン大学]] *** {{VNM}} **** ベトナム国立建設大学(部局間協定) *** {{PHL}} **** SMEAG ** オセアニア *** {{AUS}} **** [[ニューサウスウェールズ大学]] ** 北米 *** {{CAN}} **** [[ウォータールー大学]]、[[ビクトリア大学]] *** {{USA}} **** [[メリーランド大学カレッジパーク校]]、[[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]]、[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]]、[[カリフォルニア大学デービス校]]、[[オハイオ州立大学]]、[[ポートランド州立大学]]、[[テキサス大学アーリントン校]]、[[コネチカット大学]](部局間協定) ** ラテンアメリカおよびカリブ海諸国 *** {{ARG}} **** [[パレルモ大学]] *** {{BRA}} **** リオグランデドノルテ国立大学 ** ヨーロッパ *** {{AUT}} **** [[ウィーン工科大学]]、アッパーオーストリア応用科学大学 *** {{BLR}} **** ベラルーシ工科大学 *** {{DNK}} **** オールボー大学 *** {{FIN}} **** [[ヘルシンキ大学]](部局間協定) *** {{FRA}} **** [[ストラスブール大学|ルイ・パストゥール大学]]、[[パリ第1大学]]、[[リール第1大学]]、アンジェ大学(部局間協定・先進工学部、先進工学研究科) *** {{DEU}} **** [[ロストック大学]]、[[ハノーファー大学]]、ヴィスマール専門大学、レーゲンスブルク応用科学大学、イエナ応用科学大学、オストバイエルン・レーゲンスブルク工科大学 *** {{ITA}} **** [[パドヴァ大学]]、[[モデナ・レッジョ・エミリア大学]]、ローマ・トル・ヴェルガータ大学 *** {{IRL}} **** アルスター大学 *** {{POL}} **** [[アダム・ミツキェヴィチ大学]]、ニコラス・コペルニクス大学 *** {{ROU}} **** ブカレスト工科大学、ヤシ工科大学 *** {{RUS}} **** モスクワ電力工学研究所(工科大学) *** {{SWE}} **** [[ルンド大学]] *** {{ESP}} **** ハエン大学 *** {{GBR}} **** ルネル大学、[[マンチェスター大学]](国際化推進センター間)、[[キングストン大学]](部局間協定・火災科学研究センター) ** アフリカ *** {{MAR}} **** カディ・アイヤード大学 *** {{EGY}} **** ダマンフール大学 === 他研究機関との協定 === * {{JPN}} ** [[土木研究所]]([[2017年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20170403100.html|title=本学理工学部と国立研究開発法人土木研究所が連携・協力に関する協定を締結|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) **[[産業技術総合研究所]]([[2019年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/2019032510.html|title=東京理科大学と産業技術総合研究所が教育および研究の推進に係る包括協定を締結|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) **[[理化学研究所]]([[2019年]]締結<ref>[https://www.tus.ac.jp/today/archive/20190925002.html 東京理科大学と理化学研究所が教育および研究の推進に係る包括協定を締結] 東京理科大学 2019/09/26付</ref>) **[[化学及血清療法研究所]]([[2020年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/mediarelations/archive/20200720_0911.html|title=「東京理科大学社会連携講座制度」の創設及び社会連携講座設置のお知らせ|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) **[[統計数理研究所]]([[2021年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20210507_1200.html|title=統計数理研究所と東京理科大学が 連携交流協定を締結|accessdate=2021-07-03|publisher=東京理科大学}}</ref>) * {{DEU}} ** ドイツ連邦材料試験研究所 (BAM)(部局間協定) * {{USA}} ** [[アメリカ国立標準技術研究所]](部局間協定・総合研究機構火災科学研究センター)、ミネタ交通研究所(部局間協定) * {{BRA}} ** ブラジル産業財産庁(部局間協定・イノベーション研究科) * {{ESP}} ** ICN (the Catalan Institute of Nanotechnology) * {{BGR}} ** ブルガリア科学アカデミー * {{IND}} ** インド国立化学研究所 === 企業との協定 === * 共同研究契約 ** [[アムンディ|アムンディ・ジャパン]]([[2016年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20160620001.html|title=本学とアムンディ社が共同研究契約を締結|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) * 産学連携協定 ** [[第一勧業信用組合]]([[2016年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20160118_02.html|title=本法人と第一勧業信用組合が産学連携協定を締結|東京理科大学|accessdate=2021/01/30|publisher=}}</ref>) ** [[花王]]([[2017年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20170530000.html|title=本学と花王株式会社が産学連携に関する協力協定を締結|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) * 包括連携協定 ** [[第一生命保険]]([[2019年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20190311001.html|title=東京理科大学と第一生命が包括連携協定を締結 ~産学連携によるデータサイエンティスト育成と先端テクノロジーの発掘~|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) === 独立行政法人との協定 === * 国立美術館キャンパスメンバーズ制度<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.campusmembers.jp/members.html|title=加盟校一覧|accessdate=2020-07-05|publisher=}}</ref> ** [[東京国立近代美術館]](千代田区) ** [[国立西洋美術館]](台東区) ** [[国立新美術館]](港区) ** [[国立映画アーカイブ]](中央区) *[[国立科学博物館大学パートナーシップ]] ** [[国立科学博物館]](台東区) * 東京国立博物館キャンパスメンバーズ制度 ** [[東京国立博物館]](台東区) === 高等学校との協定 === * 学校インターンシップ協定 ** [[東京都立広尾高等学校]](2016年締結<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20161221100.html|title=教育委員会及び中学・高等学校との学校インターンシップ協定締結式を開催|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) ** [[東京都立葛飾野高等学校]](2016年締結<ref name=":0" />) ** [[千葉県立船橋古和釜高等学校]](2016年締結<ref name=":0" />) ** [[かえつ有明中学校・高等学校]](2016年締結<ref name=":0" />) ** [[東京学館浦安中学校・高等学校|東京学館浦安高等学校]](2016年締結<ref name=":0" />) ** [[横浜富士見丘学園中等教育学校]](2016年締結<ref name=":0" />) ** [[千葉県立我孫子高等学校]](2017年締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/201702100001.html|title=千葉県立我孫子高等学校との学校インターンシップ協定締結式を開催|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref> ** [[千葉県立流山おおたかの森高等学校]]([[2018年]]締結<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20181001001.html|title=千葉県立流山おおたかの森高等学校との学校インターンシップ協定締結式を開催|東京理科大学|accessdate=2021-01-30|publisher=}}</ref>) * 連携協定 ** [[北海道長万部高等学校]]([[2015年]]締結、先進工学部) ** [[千葉県立東葛飾中学校・高等学校|千葉県立東葛飾高等学校]]([[2020年]]締結) ** [[富士見中学高等学校]]([[2020年]]締結、薬学部[[富士見中学高等学校|)]] == 産学連携・大学発ベンチャー == 研究戦略・産学連携本部を設けており、技術など大学にあるシーズを使う[[ベンチャー企業]]や[[特定非営利活動法人|NPO法人]]の起業を支援している<ref>[https://www.tus.ac.jp/ura/venture/index.html 大学発ベンチャー] 東京理科大学(2020年3月4日閲覧)</ref>。2020年度時点で大学発ベンチャー企業数が111社となり、私立大学で1位(全国7位)となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/policy/innovation_corp/|title=大学発ベンチャーデータベース|accessdate=2021-05-13|publisher=[[経済産業省]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tus.ac.jp/today/archive/20210513_3205.html|title=東京理科大学が大学発ベンチャーの企業数で私学1位となりました|東京理科大学|accessdate=2021-05-13|publisher=}}</ref>。<!-- == 社会との関わり == 現時点では特になし ※これまでの節で言及されず、かつ特記する事象がある場合、この節を設ける。 ※この節で取り扱う内容は、歴史的にどのような価値を持つのかがその大学をほとんど知らない人にも理解でき、かつ、学外で取り上げられた事象とする。具体的には *政治・経済・国際関係・戦争 *哲学・科学・教育・学芸文化 *文学・音楽・芸術・スポーツ *社会通念・制度・宗教・地域社会 等とその大学がどのように関わったかという事例が考えられる。 ※当該大学にとって不名誉な内容であってもそれが社会的に大きな意味を持つ場合には、その事象が大学とどのように関わり、社会的・歴史的にどのような意義を持ち、さらにWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。逆に大学にとって広報したい名誉な内容についてもその事象が大学とどのように関わり、Wikipediaで掲載しておく必要性を社会的・歴史的な意義をきちんと明示しながらWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。 xxxx年に発生した○○事件は… == 附属学校 == ※学校教育法上、それそれの学校と大学は、別々の1つの学校である。よって必要な場合は、独立した記事を立ててここでは簡便な記述に留める。 * [[○○大学附属小学校]] * [[○○大学附属中学校]] * [[○○大学附属高等学校]] * [[○○大学附属○○専門学校]]--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{colbegin|2}} {{Reflist|group="注釈"}} {{Colend}} === 出典 === {{colbegin|2}} {{Reflist}} {{colend}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{colbegin|2}} {{Reflist|group="広報"}} {{colend}} == 参考文献 == * 東京物理学校『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1457202 東京物理学校五十年小史]』1930年 * 東京理科大学『平成16年度版学園生活』 * 馬場錬成『物理学校;近代史の中の理科学生』中公新書ラクレ、[[2006年]]、ISBN 4121502078 == Wiki関係他プロジェクトリンク == {{Wikisource|大学の設置を認可した件 (昭和24年文部省告示第52号)|大学の設置を認可した件|文部省告示文}} {{Wikisource|大学院の設置を認可した件 (昭和33年文部省告示第43号)|大学院の設置を認可した件|文部省告示文}} {{Commons-inline|Category:Tokyo University of Science}} *[[b:メインページ|ウィキブックス (Wikibooks)]] **[[b:東京理科大対策|東京理科大対策]] <!-- == 関連項目 == 現時点では特になし ※大学に関する関連項目は原則として本文中にリンクする。関連項目は原則として使用しない。たとえば何かの説明をするために創立者の出身地を紹介する必要がある場合には必要とする項目へ記載する。本文では説明できないが関連項目として他の記事にリンクをする必要がある場合には事前にノートで理由とともに提案を行い、同意が得られた場合にのみ掲載できる。--> == 外部リンク == * [https://www.tus.ac.jp/ 東京理科大学] * {{twitter|tus_pr}} * {{Facebook|TUS.PR}} {{学校法人東京理科大学}} {{Navboxes|list= {{東京理科大学学長|}} {{学校法人東京理科大学理事長|}} <!--全学連携--> {{私工大懇話会}} <!--地域連携--> {{首都圏私立17大学}} {{大学コンソーシアム東葛}} {{首都大学院コンソーシアム}} <!--工学系--> {{「多能工型」研究支援人材育成コンソーシアム}} <!--医歯薬獣系--> {{日本私立薬科大学協会}} <!--教育系--> {{日本国際教育大学連合}} {{大学宇宙工学コンソーシアム}} {{オーシャンイノベーションコンソーシアム}} <!--運営形態など--> {{共同利用・共同研究拠点}} }} {{Normdaten}} {{univ-stub}} {{DEFAULTSORT:とうきようりか}} [[Category:東京理科大学|*]] [[Category:東京都の私立大学]] [[Category:千葉県の私立大学]] [[Category:北海道の私立大学]] [[Category:学校記事]] [[Category:1880年代日本の設立]]
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単相誘導電動機
単相誘導電動機(たんそうゆうどうでんどうき)は、単相交流電力を入力とする誘導電動機である。 単相交流単独では、始動トルクが得られないため、他の方法で回転トルクを与えて始動する。 始動後は、回転した回転子と交流磁界との相互作用で回転を続ける。
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単相誘導電動機(たんそうゆうどうでんどうき)は、単相交流電力を入力とする誘導電動機である。
'''単相誘導電動機'''(たんそうゆうどうでんどうき)は、[[単相交流]][[電力]]を入力とする[[誘導電動機]]である。 == 始動方式 == 単相交流単独では、始動[[トルク]]が得られないため、他の方法で回転トルクを与えて始動する。 始動後は、回転した[[回転子]]と交流[[磁界]]との相互作用で回転を続ける。 ; 分相始動: [[電気抵抗]]の大きな始動[[巻線]]の磁界の遅れを利用して起動し、回転数が同期速度の3/4程度に上昇後に[[遠心力]][[開閉器]](遠心スイッチ)で開放する。 ; コンデンサ始動: 始動用[[コンデンサ]]を[[直列]]に接続した始動巻線を利用して起動する。始動トルクが大きく、始動[[電流]]が小さい。 ; 反発始動: 反発形[[交流整流子電動機]]として起動し、回転数上昇後に[[整流子]]短絡装置で[[短絡]]し運転する。 ; くま取り巻線形: [[固定子]]の一部にくま取り巻線を巻いた凸極を設け、その部分の磁界の遅れを利用して始動トルクを得る。 == 分類 == * 分相起動型電動機 * 蓄電器(コンデンサ)起動型電動機 ** コンデンサ始動電動機 : コンデンサ始動電動機は始動時のみコンデンサが接続される構造のもの。分相始動と同様の遠心スイッチが必要。運転後はコンデンサが切り離されるため進相電流が生じないので、[[力率]]は分相始動形と同等である。 ** コンデンサ始動コンデンサ電動機 : 始動時2つのコンデンサが[[並列]]に接続され始動後片方のコンデンサを切り離す構造の物。切り離すためにはポジスタ([[サーミスタ#PTCサーミスタ|正温度特性サーミスタ]])を用い、時間の経過で発熱、抵抗値の増加により切り離されたようになる。 ** コンデンサ電動機 : 始動、運転時とも1個のコンデンサが補助巻線に接続されたままで使用する電動機。 * 反発始動型電動機 : 回転子表面に整流子巻線・内部にかご形導体を配置し、整流子を遠心力開閉器で短絡し整流子巻線もかご形と同様にして運転する。 * くま取り巻線型電動機 : {{See|隈取磁極型誘導電動機}} {| class="wikitable" |+単相誘導電動機の比較 ! width="37%" |種類 ! width="3%" |始動電流 ! width="3%" |始動トルク ! width="3%" |効率 ! width="3%" |力率 ! width="13%" |出力 ! width="3%" |価格 !用途 |- |分相始動電動機||大||小||中||中||200W以下||安||ミシン・卓上扇風機 |- |コンデンサ始動電動機||中||大||中||中||400W以下||中||rowspan="2"|空気圧縮機・ポンプ |- |コンデンサ始動コンデンサ電動機||中||大||良||良||750W以下||中 |- |コンデンサ電動機||小||小||良||良||200W以下||中||ファン・事務機器 |- |反発始動電動機||小||特大||中||中||100 - 800W||高||深井戸ポンプ・工作機械 |- |[[隈取磁極型誘導電動機|くま取り巻線形電動機]]||大||小||悪||悪||10W以下||安||ファン・小型機器 |} == 脚注 == {{reflist|2}} == 参考文献 == * [https://www.jeea.or.jp/course/contents/12132/ 音声付き電気技術解説講座 > 電気機器 > 誘導電動機の単相誘導電動機、誘導発電機 ] 日本電気技術者協会 {{DEFAULTSORT:たんそうゆうとうてんとうき}} [[Category:電動機]]
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2018-12-04T11:32:45Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E7%9B%B8%E8%AA%98%E5%B0%8E%E9%9B%BB%E5%8B%95%E6%A9%9F
17,804
秋分の日
秋分の日(しゅうぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による秋分が起こる秋分日が選定され休日とされる。通例、9月22日から9月23日ごろのいずれか1日。 しばしば昼が短くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は秋分を参照。本項では「秋分の日」と「秋分日」を区別して記述する。 「秋分の日」は、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。 休日としては、1878年(明治11年)改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年6月5日太政官布告第23号)による秋季皇霊祭から続くもので、1948年(昭和23年)に廃止される休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)までこの名称だった。 9月22日が「秋分の日」となった2012年は1896年(明治29年)以来116年ぶりとなり、さらに9月の土曜日にあたったため話題となった。 2年後以降の秋分の日は確定していない。ただし、これまでに、天文計算によって求められた秋分日の日付以外の日が秋分の日とされたことはない。 従来、秋分の日が敬老の日と近接する9月中旬頃は、春のゴールデンウィークに対応してシルバーウィークと呼ぶ向きがあった。 2003年の「国民の祝日に関する法律」の改正(いわゆるハッピーマンデー導入)により、敬老の日は9月第3月曜日に変更され、9月15日から21日までのいずれかとなった。 その結果、秋分の日が9月第4水曜日となった場合、敬老の日と秋分の日が飛び石連休となり、「国民の祝日に関する法律」第三条3項の規定により「国民の祝日」に挟まれる火曜日は、休日となる。 結果として敬老の日前日の日曜日からの4連休(週休2日制であれば土曜日も含めた5連休)となる。この大型連休が発生した場合を、「第2のゴールデンウィーク」もしくは「シルバーウィーク」と呼ばれることが多くなった。 このケースが最初に発生したのは2009年で、2回目は2015年である。次回は計算上2026年となる。 また、秋分の日が9月22日かつ火曜日となった場合には、3連休(または4連休)となる。 このケースが最初に発生したのは2020年であり、次回は計算上2048年となる。 さらには秋分の日が9月第3月曜日となって敬老の日と同日になるケースもあるが、計算上4076年まで生じない。 なお、秋分の日が9月第3日曜日(21日)となる可能性はほぼない。 (詳細はシルバーウィークを参照。) 「秋分の日」は毎年9月22日から9月23日頃の1日間に定められる。祝日法上で「秋分日」としており、日付を指定していない。 毎年国立天文台が「秋分日」を含め作成する翌年の『暦象年表』という小冊子に基づき、施行年の前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄の「暦要項」において「秋分の日」として公告される。『暦象年表』以降の将来も秋分日は天文学で計算できるが、このような手続きを経るため正式な「秋分の日」は公告でしか確定しない。なお、この暦要項は、閣議決定などはされず、閣議報告事項でもない。 従って現行制度では、具体的にどの日付が「秋分日」として「秋分の日」となるかは前年の公告まで正式には確定しない。 (国立天文台サイトより。将来の日付はあくまで計算に基づく予測であり、将来の天文学的観測により変わる事がありえる。) 日付は日本標準時に基づく。1999年と2000年の間に段差が生じないのは、2000年が400年毎の世紀末閏年のためである。 仏教各派ではこの日「秋季彼岸会」が行われ、宗派を問わず墓参りをする人も多い。
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秋分の日(しゅうぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による秋分が起こる秋分日が選定され休日とされる。通例、9月22日から9月23日ごろのいずれか1日。 しばしば昼が短くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は秋分を参照。本項では「秋分の日」と「秋分日」を区別して記述する。
[[File:Earth-lighting-equinox EN.png|thumb|[[分点]]の日は、昼と夜の長さが等しくなる。]] {{国民の祝日}} '''秋分の日'''(しゅうぶんのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つであり、[[国民の祝日に関する法律|祝日法]]により天文観測による[[秋分]]が起こる[[秋分日]]が選定され[[休日]]とされる<ref>『祝日法』第3条台1項。</ref>。通例、[[9月22日]]から[[9月23日]]ごろのいずれか1日。 しばしば昼が短くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は[[秋分]]を参照。本項では「秋分の日」と「秋分日」を区別して記述する。 == 国民の祝日の趣旨 == 「秋分の日」は、[[1948年]](昭和23年)に公布・施行された[[国民の祝日に関する法律]](「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。 === 休日の扱い === 休日としては、[[1878年]](明治11年)改正の[[s:年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム (明治十一年)|年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム]](明治11年6月5日太政官布告第23号)による[[秋季皇霊祭]]から続くもので、[[1948年]](昭和23年)に廃止される[[s:休日ニ關スル件|休日ニ關スル件]](昭和2年勅令第25号)までこの名称だった。 9月22日が「秋分の日」となった2012年は[[1896年]](明治29年)以来116年ぶりとなり、さらに9月の[[土曜日]]にあたったため話題となった<ref>{{Wayback |url=http://www.asahi.com/national/update/0201/TKY201102010137.html |title=2012年はレアな秋分の日 116年ぶりに9月22日 |date=20120115042125 }} 2011年2月1日更新</ref>。 2年後以降の秋分の日は確定していない。ただし、これまでに、天文計算によって求められた秋分日の日付以外の日が秋分の日とされたことはない。 === シルバーウィーク === 従来、秋分の日が[[敬老の日]]と近接する9月中旬頃は、春の[[ゴールデンウィーク]]に対応してシルバーウィークと呼ぶ向きがあった。 [[2003年]]の「国民の祝日に関する法律」の改正(いわゆる[[ハッピーマンデー制度|ハッピーマンデー]]導入)により、敬老の日は9月第3月曜日に変更され、9月15日から21日までのいずれかとなった。 その結果、秋分の日が9月第4水曜日となった場合、敬老の日と秋分の日が飛び石連休となり、「国民の祝日に関する法律」第三条3項<ref group="注釈">元来は、[[5月4日]](現[[みどりの日]])を休日とするために制定された条文</ref>の規定により「国民の祝日」に挟まれる火曜日は、休日となる。 結果として敬老の日前日の日曜日からの4連休([[週休2日制]]であれば土曜日も含めた5連休)となる。この大型連休が発生した場合を、「第2のゴールデンウィーク」もしくは「シルバーウィーク」と呼ばれることが多くなった。 このケースが最初に発生したのは[[2009年]]で、2回目は[[2015年]]である。次回は計算上[[2026年]]となる。 また、秋分の日が9月22日かつ火曜日となった場合には、3連休(または4連休)となる。 このケースが最初に発生したのは[[2020年]]であり、次回は計算上[[2048年]]となる。 さらには秋分の日が9月第3月曜日となって敬老の日と同日になるケースもあるが、計算上4076年まで生じない<ref>[https://qiita.com/aeha/items/e53406868ab191ea6199 敬老の日と秋分の日が重なることはあるのか?]</ref>。 なお、秋分の日が9月第3日曜日(21日)となる可能性はほぼない。 (詳細は[[シルバーウィーク]]を参照。) == 日付 == 「秋分の日」は毎年9月22日から9月23日'''頃'''の1日間に定められる。祝日法上で「[[秋分日]]」<ref group="注釈">「秋分日」とは、太陽が秋分点(黄経180度)に位置する瞬間を含む日を指す。</ref>としており、日付を指定していない。 === 「秋分の日」と「秋分日」の関係 === 毎年[[国立天文台]]が「秋分日」を含め作成する翌年の『暦象年表』という小冊子に基づき、施行年の前年の[[2月]]第1[[平日]]付の[[官報]]の公告(特殊法人等)欄の「[[暦要項]]」において「秋分の日」として公告される。『暦象年表』以降の将来も秋分日は天文学で計算できるが、このような手続きを経るため正式な「秋分の日」は公告でしか確定しない。なお、この暦要項は、閣議決定などはされず、閣議報告事項でもない<ref>閣議案件は、首相官邸HP [https://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/index.html 閣議] で公表されている。</ref>。 従って現行制度では、具体的にどの日付が「秋分日」として「秋分の日」となるかは前年の公告まで正式には確定しない。 <!-- 以下の2項は重複しているので、何れか一方で十分ですね --> === 近年の春分日と秋分日 === {{春分日と秋分日の一覧}} === 1900年から2299年までの秋分日 === 日付は[[日本標準時]]に基づく。1999年と2000年の間に段差が生じないのは、2000年が400年毎の世紀末[[閏年]]のためである。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 西暦年 !! colspan="4" | 西暦年を4で割った余り |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1919}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#a0fff0|24日||bgcolor=#a0fff0|24日||bgcolor=#a0fff0|24日 |- |{{EqJSTYRangeMark|1920|1947}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#a0fff0|24日||bgcolor=#a0fff0|24日 |- |{{EqJSTYRangeMark|1948|1979}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#a0fff0|24日 |- |{{EqJSTYRangeMark|1980|2011}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2012|2043}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2044|2075}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2076|2099}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2103}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#a0fff0|24日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2104|2139}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2140|2167}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2168|2199}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2227}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#a0fff0|24日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2228|2263}}||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2264|2291}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2292|2299}}||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#f0ffa0|22日||bgcolor=#c0ffc0|23日||bgcolor=#c0ffc0|23日 |} {{clear}} == 行事 == [[日本の仏教|仏教]]各派ではこの日「秋季[[彼岸会]]」が行われ、宗派を問わず墓参りをする人も多い。 == 関連する慣用句など == * [[暑さ寒さも彼岸まで]] 日本の慣用句。実際、秋分日を過ぎると暑さが遠退く年が多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[春分点]] * [[春分の日]] * [[夏至]] * [[冬至]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#syunbun 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{DEFAULTSORT:しゆうふんのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:日本の天文学]] [[Category:9月]] [[Category:秋の季語]] [[Category:移動祝日]]
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春分の日
春分の日(しゅんぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による春分が起こる春分日が選定され休日とされる。通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日。 しばしば昼が長くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は春分を参照。 本項では「春分の日」と「春分日」を区別して記述する。 「春分の日」は、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことを趣旨としている。 休日としては、1878年(明治11年)改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年太政官布告第23号)による春季皇霊祭から続くもので、1948年(昭和23年)に廃止される休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)までこの名称だった。 施行日は毎年3月20日から3月21日ごろのいずれか1日間に定められる。祝日法上で「春分日」としており、日付を指定していない。 ただし、これまでのところ天文計算によって求められた「春分日」以外が「春分の日」とされたことはない。2000年よりハッピーマンデー制度が導入されているが、2019年現在もその影響は受けていない。 毎年国立天文台が「春分日」を含め作成する翌年の『暦象年表』という小冊子に基づき、施行年の前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄の「暦要項」において「春分の日」として公告される。『暦象年表』以降の将来も春分日は天文学で計算できるが、このような手続きを経るため正式な「春分の日」は公告でしか確定しない。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない。 従って現行制度では、具体的にどの日付が「春分日」として「春分の日」となるかは前年の公告まで正式には確定しない。 (国立天文台サイトより。将来の日付はあくまで計算に基づく予測であり、将来の天文学的観測により変わる事がありえる。) 日付は日本標準時に基づく。 1999年と2000年の間に段差が生じないのは、2000年が400年毎の世紀末閏年のためである。 海岸法(昭和31年法律第101号)第3条第3項は、海岸保全区域の指定における満潮時・干潮時は、指定の日の属する年の春分の日の満潮時・干潮時を基準とすると定めている。 仏教各派ではこの日「春季彼岸会」が行われ、宗派問わず墓参りをする人も多い。 ノウルーズ(ペルシア語: نوروز、nowrūz)は、イラン暦の元日。太陽が春分点を通過する春分の日に当たり、農事暦上重要であることから、イランを中心に、かつてペルシア帝国の文化的影響下にあった中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。国際連合総会は、2010年2月23日にこの日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認している。 日本の例では在日クルド人が埼玉県の蕨市(2016年まで) や川口市(2017年から) でノウルーズを祝うために集まる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "春分の日(しゅんぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による春分が起こる春分日が選定され休日とされる。通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "しばしば昼が長くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は春分を参照。 本項では「春分の日」と「春分日」を区別して記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「春分の日」は、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことを趣旨としている。", "title": "国民の祝日の趣旨" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "休日としては、1878年(明治11年)改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年太政官布告第23号)による春季皇霊祭から続くもので、1948年(昭和23年)に廃止される休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)までこの名称だった。", "title": "国民の祝日の趣旨" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "施行日は毎年3月20日から3月21日ごろのいずれか1日間に定められる。祝日法上で「春分日」としており、日付を指定していない。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただし、これまでのところ天文計算によって求められた「春分日」以外が「春分の日」とされたことはない。2000年よりハッピーマンデー制度が導入されているが、2019年現在もその影響は受けていない。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "毎年国立天文台が「春分日」を含め作成する翌年の『暦象年表』という小冊子に基づき、施行年の前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄の「暦要項」において「春分の日」として公告される。『暦象年表』以降の将来も春分日は天文学で計算できるが、このような手続きを経るため正式な「春分の日」は公告でしか確定しない。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない。 従って現行制度では、具体的にどの日付が「春分日」として「春分の日」となるかは前年の公告まで正式には確定しない。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(国立天文台サイトより。将来の日付はあくまで計算に基づく予測であり、将来の天文学的観測により変わる事がありえる。)", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日付は日本標準時に基づく。 1999年と2000年の間に段差が生じないのは、2000年が400年毎の世紀末閏年のためである。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "海岸法(昭和31年法律第101号)第3条第3項は、海岸保全区域の指定における満潮時・干潮時は、指定の日の属する年の春分の日の満潮時・干潮時を基準とすると定めている。", "title": "潮位の基準" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "仏教各派ではこの日「春季彼岸会」が行われ、宗派問わず墓参りをする人も多い。", "title": "行事" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ノウルーズ(ペルシア語: نوروز、nowrūz)は、イラン暦の元日。太陽が春分点を通過する春分の日に当たり、農事暦上重要であることから、イランを中心に、かつてペルシア帝国の文化的影響下にあった中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。国際連合総会は、2010年2月23日にこの日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認している。 日本の例では在日クルド人が埼玉県の蕨市(2016年まで) や川口市(2017年から) でノウルーズを祝うために集まる。", "title": "行事" } ]
春分の日(しゅんぶんのひ)は、日本の国民の祝日の一つであり、祝日法により天文観測による春分が起こる春分日が選定され休日とされる。通例、3月20日から3月21日ごろのいずれか1日。 しばしば昼が長くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は春分を参照。 本項では「春分の日」と「春分日」を区別して記述する。
{{国民の祝日}} '''春分の日'''(しゅんぶんのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つであり、[[国民の祝日に関する法律|祝日法]]により[[天文現象|天文]]観測による[[春分]]が起こる[[春分日]]が選定され[[休日]]とされる<ref>『祝日法』第3条台1項。</ref>。通例、[[3月20日]]から[[3月21日]]ごろのいずれか1日。 しばしば昼が長くなって「昼と夜の長さが等しくなる日」といわれるが、実際は昼の方が少し長い。詳細は[[春分]]を参照。 本項では「春分の日」と「春分日」を区別して記述する。 == 国民の祝日の趣旨 == 「春分の日」は、[[1948年]](昭和23年)に公布・施行された[[国民の祝日に関する法律]](「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことを趣旨としている。 === 休日の扱い === 休日としては、[[1878年]](明治11年)改正の[[s:年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム (明治十一年)|年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム]](明治11年太政官布告第23号)による[[春季皇霊祭]]から続くもので、[[1948年]](昭和23年)に廃止される[[s:休日ニ關スル件|休日ニ關スル件]](昭和2年勅令第25号)までこの名称だった。 == 日付 == 施行日は毎年[[3月20日]]から[[3月21日]]ごろのいずれか1日間に定められる。祝日法上で「[[春分日]]」<ref group="注釈">「春分日」とは、太陽が春分点(黄経0度)に位置する瞬間を含む日を指す。</ref>としており、日付を指定していない。 ただし、これまでのところ天文計算によって求められた「春分日」以外が「春分の日」とされたことはない。[[2000年]]より[[ハッピーマンデー制度]]が導入されているが、2019年現在もその影響は受けていない。 === 「春分の日」と「春分日」の関係 === 毎年[[国立天文台]]が「春分日」を含め作成する翌年の『暦象年表』という小冊子に基づき、施行年の前年の[[2月]]第1[[平日]]付の[[官報]]の公告(特殊法人等)欄の「[[暦要項]]」において「春分の日」として公告される。『暦象年表』以降の将来も春分日は天文学で計算できるが、このような手続きを経るため正式な「春分の日」は公告でしか確定しない。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない<ref>閣議案件は、首相官邸HP [https://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/index.html 閣議] で公表されている。</ref>。 従って現行制度では、具体的にどの日付が「春分日」として「春分の日」となるかは前年の公告まで正式には確定しない。 <!-- 以下の2項は重複しているので、何れか一方で十分ですね --> === 近年の春分日と秋分日 === {{春分日と秋分日の一覧}} === 1900年から2299年までの春分日 === 日付は[[日本標準時]]に基づく。 1999年と2000年の間に段差が生じないのは、2000年が400年毎の世紀末[[閏年]]のためである。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 西暦年 !! colspan="4" | 西暦年を4で割った余り |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1923}}||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0c0fF|22日 |- |{{EqJSTYRangeMark|1924|1959}}||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|1960|1991}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|1992|2023}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2024|2055}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2056|2091}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2092|2099}}||bgcolor=#f0ffa0|19日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2123}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2124|2155}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2156|2187}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2188|2199}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2223}}||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2224|2255}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2256|2287}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日||bgcolor=#a0fff0|21日 |- |{{EqJSTYRangeMark|2288|2299}}||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#c0ffc0|20日||bgcolor=#a0fff0|21日 |} {{clear}} == 潮位の基準 == [[海岸法]](昭和31年法律第101号)第3条第3項は、海岸保全区域の指定における満潮時・干潮時は、指定の日の属する年の春分の日の満潮時・干潮時を基準とすると定めている。 == 行事 == [[日本の仏教|仏教]]各派ではこの日「春季[[彼岸]]会」が行われ、宗派問わず墓参りをする人も多い。 === ノウルーズ === [[ノウルーズ]]({{lang-fa|نوروز、nowrūz}})は、[[イラン暦]]の元日。[[太陽]]が[[春分点]]を通過する春分の日に当たり、[[農事暦]]上重要であることから、[[イラン]]を中心に、かつて[[ペルシア帝国]]の文化的影響下にあった[[中央アジア]]から[[アフリカ]]までに及ぶ広い地域で祝われる祭日である。[[国際連合総会]]は、2010年2月23日にこの日を「ノウルーズ国際デー」として正式に承認している<ref>{{Cite web |author=国際連合総会 |date=2010-02-23|url=https://press.un.org/en/2010/ga10916.doc.htm|title= {{rtl-lang|fa|General Assembly Recognizes 21 March as International Day of Nowruz}} |accessdate=2013-05-07}}</ref>。 日本の例では[[在日クルド人]]が[[埼玉県]]の[[蕨市]](2016年まで)<ref>{{YouTube|SQeEY2seZ0U|【Newroz】これがワラビスタンの新年祭だ! }}</ref><ref>{{YouTube|S6Tz3hMpX7o|Newroz at Warabi Citizen Park in 2016 (Part 1)}}</ref> や[[川口市]](2017年から)<ref>{{YouTube|zYCL6SfUnvI|Newroz 2017 at Cupola Plaza in Kawaguchi City}}</ref> でノウルーズを祝うために集まる。 == 関連する慣用句など == * [[暑さ寒さも彼岸まで]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[秋分点]] * [[秋分の日]] * [[夏至]] * [[冬至]] * [[ノウルーズ]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#shunbun 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{DEFAULTSORT:しゆんふんのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:日本の天文学]] [[Category:3月]] [[Category:春の季語]] [[Category:移動祝日]]
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17,809
フェルミ
フェルミ(Fermi)
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フェルミ(Fermi) エンリコ・フェルミ - イタリアの核物理学者。 フェルミ (小惑星) - 小惑星帯に位置する小惑星。 フェルミ (単位) - 長さの単位。 フェルミガンマ線宇宙望遠鏡 - 宇宙望遠鏡。
'''フェルミ'''(Fermi) *[[エンリコ・フェルミ]] - [[イタリア]]の核物理学者。 *[[フェルミ (小惑星)]] - 小惑星帯に位置する[[小惑星]]。 *[[フェムトメートル|フェルミ (単位)]] - 長さの単位。 *[[フェルミガンマ線宇宙望遠鏡]] - [[宇宙望遠鏡]]。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ふえるみ}} [[Category:イタリア語の姓]] [[Category:メートル法]] [[Category:長さの単位]]
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リゾット
リゾット(Risotto)は、もともとイタリアで食べられてきた麦類の料理に東洋(中東)から伝播した米が融合した料理である。イタリアでは下記の料理法で調理した米料理のみを指し、フランスではピラフの別名として用いられてきた。 イタリアは中世からポー川を利用して水稲栽培に成功した地域であり、スペインと並んで米を生産するヨーロッパで数少ない国の一つである。長い間、米料理はイタリア北部に限定され、そのほとんどは、米をバターで炒め、スープとサフランを加えて炊くという調理法で作られていた。これがリゾットの原型である。第二次世界大戦後はイタリア全土に普及し、今日のイタリアではどこのレストランのメニューにも登場する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "リゾット(Risotto)は、もともとイタリアで食べられてきた麦類の料理に東洋(中東)から伝播した米が融合した料理である。イタリアでは下記の料理法で調理した米料理のみを指し、フランスではピラフの別名として用いられてきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イタリアは中世からポー川を利用して水稲栽培に成功した地域であり、スペインと並んで米を生産するヨーロッパで数少ない国の一つである。長い間、米料理はイタリア北部に限定され、そのほとんどは、米をバターで炒め、スープとサフランを加えて炊くという調理法で作られていた。これがリゾットの原型である。第二次世界大戦後はイタリア全土に普及し、今日のイタリアではどこのレストランのメニューにも登場する。", "title": "歴史" } ]
リゾット(Risotto)は、もともとイタリアで食べられてきた麦類の料理に東洋(中東)から伝播した米が融合した料理である。イタリアでは下記の料理法で調理した米料理のみを指し、フランスではピラフの別名として用いられてきた。
{{Otheruses|[[料理]]|『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』に登場する人物・'''リゾット・ネエロ'''|黄金の風#暗殺チーム}} {{出典の明記|date=2014年1月9日 (木) 04:23 (UTC)}} [[ファイル:Steinpilzrisotto.jpg|thumb|250px|きのこのリゾット]] '''リゾット'''(Risotto)は、もともと[[イタリア]]で食べられてきた[[ムギ|麦]]類の料理に[[東洋]](中東)から伝播した[[米]]が融合した[[料理]]である。イタリアでは下記の料理法で調理した米料理のみを指し、[[フランス]]では[[ピラフ]]の別名として用いられてきた。 == 歴史 == [[イタリア]]は中世から[[ポー川]]を利用して[[稲作|水稲栽培]]に成功した地域であり、[[スペイン]]と並んで米を生産するヨーロッパで数少ない国の一つである。長い間、米料理はイタリア北部に限定され、そのほとんどは、米をバターで炒め、スープと[[サフラン]]を加えて炊くという調理法で作られていた。これがリゾットの原型である。[[第二次世界大戦]]後はイタリア全土に普及し、今日のイタリアではどこのレストランのメニューにも登場する。 == 基本 == * 米は[[カルナローリ米|カルナローリ]]、[[アルボリオ米|アルボリオ]]、{{仮リンク|ヴィアローネ・ナノ|en|Vialone Nano}}などの中粒種米のうち、大きめのものが適する。また[[ジャバニカ米]]も向いている。 * 米は研がない。 * 米は新米のように水分が多いものより[[古米]]の方が良い。基本的に芯が残る[[アルデンテ]]になるように調理する。 == 主な種類 == * [[ミラノ風リゾット]]([[:it:Risotto alla milanese]]):鶏または牛の[[ブイヨン]]、[[サフラン]]、[[骨髄]]、[[バター]]、[[パルミジャーノ・レッジャーノ]]で作ったリゾット。 == 関連項目 == {{Commonscat|Risotto}} * [[イタリア料理]] * [[おじや]] * [[粥]] {{米料理}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りそつと}} [[Category:イタリアの米料理]]
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17,812
性教育
性教育(せいきょういく、英語: Sex education)とは、性器や性交・生殖(妊娠や避妊)など人間の性行動に関する教育全般を意味する言葉。 生殖に関する教育は、広義には女性器に男性器を挿入する性交後に女性体内で起こる男性器から放出された精子が女性の卵子と結合する受胎から胎芽へ、胎芽から胎児へ、そして出産へと移り変わっていく流れを追いながら、新たな命の創造と成長を取り扱う。狭義には性感染症の概念やその予防、避妊法などの内容が、この範疇に含まれる。 学校の教育課程の中に性教育的なものが組み込まれてはいるものの、それを教えることに関して、未だ激しい議論が行われている国もある。性教育はどの段階で開始されるべきなのか、どこまで深く踏み込んで良いのだろうか、セクシュアリティや性行動に関する内容(安全な性交の実践、自慰行為、性の倫理感など)も扱うべきなのかなど、様々な論争が巻き起こっている。 また1994年にカイロで開催された国際人口・開発会議において提唱されたリプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康/権利。Sexual and Reproductive Health and Rights (SRHR))、「子どもを産む産まない、産むとすればいつ、何人産むかを、女性が自己決定する権利」は広く女性の生涯にわたる健康の確立を目指す概念として国際的にもその重要性が指摘され、厚生労働省の研究会で日本でも知識の普及をはかるべきとしている。 2018年1月に改訂されたユネスコの『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』では、性教育の開始は5歳からで、ヨーロッパの性教育スタンダードでは0歳からとなっている。現実として保育士による多数児への性虐待や、幼稚園児同士の性暴力も起こっており、子どもが自分の心と体を守るためにも適切な性教育は必要不可欠となっている。 上記のような、男女間での性に関する知識やスキルについてだけでなく、ジェンダーや性的志向の多様性、人権、幸福を学ぶ概念としての包括的性教育(comprehensive sexuality education(CSE))が普及しつつある。ユネスコが推奨する性教育の項目には、「性行為」や「避妊の方法」だけでなく、友情や恋愛などに関する「人間関係」や「ジェンダー論」まで、包括的な内容となっている。 文部科学省では「性教育」という言葉を避け、「性に関する指導」という用語を使っているが、本記事においては「性教育」という語で統一して記載する。 日本では、体育・保健体育の授業で小学校4年生で「体の発育・発達」、同5年生で「心の発達及び不安、悩みへの対処」、中学校1年生で「身の機能の発達と心の健康」として性教育を受ける。初めて学ぶ小学校4年生では、思春期初来の平均年齢の関係上、男子は思春期前に学ぶ者が多いが、女子は思春期初来(Thelarche)後に学ぶ者が多くなる。 小学校では体や心の変化を中心に取り上げ、自分と他の人では発育・発達が異なり、いじめなどの対人トラブルを起こしやすいことから、発育・発達の個人差を肯定的に受け止めることを特に取り上げる。また、発育・発達を促すための食事、運動、休養・睡眠なども取り上げる。中学校では体や心の変化に加えて生殖も取り上げられるが、受精・妊娠までは取り上げられても学校や教師によっても違うが妊娠の経過は取り上げられない事が多い。これに対し、義務教育で性交を教えないのは刑法に定める「性的同意年齢13歳」と矛盾するのではないかとの指摘がある。 性行為について取り扱わない理由は、学習指導要領に「妊娠の経過は取り扱わない」とする一文があるためである。これは通称「歯止め規定」と呼ばれている。歯止め規定に関して文部科学省は、決して教えてはならないというものではなく、全ての子供に共通に指導するべき事項ではないが、学校において必要があると判断する場合に指導したり、あるいは個々の生徒に対応して教えるということはできるものと国会で答弁している。なお「歯止め規定」が学習指導要領に初めて記載されたのは1998年と文部科学省は述べているが、NHKが行政文書の開示請求を行ったのに対し、文部科学省は「はどめ規定が記載されるまでの経緯の詳細を示す文書はございません」と回答した。 「歯止め規定」については2018年に東京都足立区立の中学校で性の正しい知識を教えるため避妊や中絶等も盛り込んだ授業を行ったところ東京都議会で紛糾し、「課題があった」と答弁があったため教育現場が委縮する状況になった。 一方で初経の授業はあっても、ブラジャーについては学ぶ機会はほとんどなく、思春期の乳房が成長中(途中で初経を挟む約4年間)にジュニアブラを着用せずにノーブラだったり、大人用のブラジャーをつけたりとした問題が起きている。 トランクス着用の小中学生が増加したことで一部の自治体では小中学生にブリーフの着用を勧める活動が組織的に行われるようになった。2000年代前半頃より東京都足立区の一部の小中学校では性教育活動に熱心に取り組んでいる女性養護教諭が性教育の一環で小中学生の下着指導を行い、その活動の輪が足立区全体で拡がったことによるものである。養護教諭は男子生徒に体育の授業でトランクスでは陰部が見えるとの理由でブリーフの着用を提唱し、男子生徒にブリーフの着用を実践させている。 一方で、「過度な性教育は子供たちに大きな影響を及ぼしかねない」という批判がある。2005年には自民党が「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を安倍晋三を座長に、事務局長は山谷えり子参議院議員で発足させた。養護学校で性教育に使われていた性教育人形を「セックス人形」と呼び批判を行った。このほか統一教会による学校現場での性教育批判も行われたとの性教育啓発活動を行う医師の証言が報道されている。また教団が作成した「新純潔宣言」と題した信者向けの冊子の冒頭には性解放思想に基づく性器・性交・避妊教育の性教育に反対することが掲げられており、その姿勢が性教育バッシングの発火点につながったと立教大学の浅井春夫は語っている。 また、児童を対象とした性犯罪や父母、兄姉による児童性的虐待が問題となっており、これらに被害児童の性に対する無知につけこんだ物が多い事から、思春期前のより早期からの性教育によって、子供に自身が性的搾取から保護されるべき権利主体である事を認識させようとする動きが見られる。子供への性虐待の研究では、加害者の中には多くの子ども達の中から拒否できない子を瞬時に見出す能力を持つ人間がいるため、アメリカ合衆国での小学校2年生女子へのレイプ事件をきっかけに生まれた子どもに対する暴力防止CAPプログラム(Child Assault Prevention)の受講や被害拡大することを防ぐために知識を得る性教育が有効としている。 2019年3月28日、東京都教育委員会は教員向けの指導書「性教育の手引」改訂版を公表し学習指導要領の範囲を超えた授業の実施を初めて容認した。手引は小中高校、特別支援学校での性教育の考え方をまとめ、コンドームやピルでの避妊や、人工妊娠中絶できる時期がかぎられていること、性交相手の過去は分からないため性感染症の危険があること、SNSで性的な画像を送ると削除できないことを伝える。性の多様性にも初めて言及し性同一性障害や性的指向などへの配慮を明記した。一方、ピルは、機能性月経困難症の痛みを放置すると将来的に子宮内膜症になるリスクが約2.6倍となり不妊症にもつながる状況を予防や治療する薬でもあるが、性に関する正しい知識が大人にも備わっていない実態がある。 2020年度より、幼稚園、小・中学校、高校、大学で「生命の安全教育」という新しい教育を始める方針があるが、引き続き性行為や避妊は取り扱わない予定とされている。 日本産科婦人科学会では、各年代の女性が正しい性と健康の知識を得るために2014年に『HUMAN+』という冊子を作成して公開している。日本産婦人科医会でも、公式サイトにて若年層の2016 年の年齢別出生・中絶統計で20再未満の半数以上が中絶を選択する現状を示し、中学校で性交や避妊を取り上げるべきではないと悠長なことを言えず、義務教育が終わる中学校卒業までに教えないと間に合わないとの危機感を表している。 2017年頃には時期尚早との意見もあるが、日本では小中学生に性的少数者の教育をするところもある。 性犯罪では、2013年に埼玉県警察が検挙した痴漢事件では、被害者では特に電車通学を始めたばかりの高校1年生が標的にされていた。2011年の警視庁の「電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について」でも被害者が高校生が36.1%と最多数を占めているが、被害者の多くが被害に遭っても声を上げることができず、「相談する場所が分からない」「啓蒙活動が足りない」などの声が寄せられている。また加害者の性的犯罪依存を治療する識者も、痴漢は99%を占める男性の問題であり痴漢撲滅の予防行為として、予防教育、性教育や啓発活動が必要だと語っている。痴漢は未成年者の被害者が多いにもかかわらず被害時の相談先など具体的に教わることがなく、また自分も相手の体も大切にする性教育が不足することで認知のゆがみが生まれているのではと問題を提起している。 2023年1月、日本弁護士連合会は、日本の学校教育における性教育について国際的標準から極めて遅れていることを憂い、成人向け性情報の氾濫による誤った認識や価値観の植付けから起こる性被害や予期せぬ妊娠などの問題対応と人権保障の観点から、国及び地方公共団体が包括的性教育を実施するとともに、SRHRを保障する包括的な法律の制定及び財政的裏付けを伴う制度の創設が必要であると提言した。 2023年には男子校の灘高等学校が、近隣の甲南女子大学生を招き女性の生理やデートDV、性的同意について学ぶ性教育授業を行った。7月に刑法改正で性的同意が盛り込まれ、不同意性交罪ができたこと、性交同意年齢は13歳から16歳に引き上げられたことを含め議論を交わし理解を深めた。この授業に対し、成人男性からのツイートでは卑猥な揶揄やからかいの発言が起こり、参加した実際に授業を受けた灘高生に反感を買っている。アメリカにおいては、高校で女生徒に対する痴漢・セクハラ発言で学校に訴えられた男子生徒は停学処分となり自殺念慮を抱え、大学推薦も得られず訴訟になった事件も起こっている現状がある。米国性教育基準の指導では少年達が性暴力を犯すリスクを抑制する目的も包括しているが2019年時点で公立校で性教育義務づけの州は全米の29州に留まる。 第二次世界大戦前の性教育学者たちの言説には、明治以前の性的卓越性という男らしさの尺度を禁じつつ、男としてのアイデンティティを保持するために「学生時代は禁欲し、立身し然るべき時期に結婚して一家を成す」という、新しい「男性としてあるべき姿」像が含まれていた。 1890年(明治23年)頃から学生間での風紀の乱れと花柳病の蔓延がメディアを通じて社会問題となり、1900年代頃から学生の性の扱いに打つ手を持たない教育界を医学界がリードする形で、医学者と教育者との議論によって性教育が形成されていった。初期の性教育の使命は、若者の自然で健全な性欲を衛生的かつ倫理的に適った方向に誘導する、というものであり、議論のポイントは「手淫の害」と「花柳病の害」の予防法だった。しかし、科学に基づいた性知識の普及が学生の性的悪行を刺激し手助けする、という批判から、花柳病の具体的な予防法は教授せずに、若年の性交や恋愛は危険であり学生の間は学業に専念し禁欲せよ、という強制禁欲主義の教育がなされるようになった。 山本宣治は大正から昭和初期にかけて性教育についての啓蒙活動を行い、1922年(大正11年)に来日した産児制限で著名なマーガレット・サンガーの講演の通訳を務めるなどした。星野鉄男は昭和初期に『性教育に就いて』(1927年)などを著し、性教育は単に性欲についての知識を与える性欲教育ではなく、「社会を構成する男と女の全部」に必要な、今で言うところの生涯教育であると主張した。羽太鋭治は大正期においてドイツの性科学を下敷きに性教育についての著書をいくつか書き、昭和初期に大衆向けのハウツー本を多数出版した。太田武夫(太田典礼)は避妊リングの考案や1936年(昭和11年)に雑誌『性科学研究』を創刊するなど、性の研究を通じて社会問題に取り組んだ。梅原北明はエログロの先駆となる雑誌『グロテスク』を1928年(昭和3年)に創刊するなどした。 日本の性教育の始まりは、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦直後から国が主導してきた「純潔教育」に遡る。風俗対策や治安対策の一環としてスタートした。性科学者で京都精華大学ポピュラーカルチャー学部教授の斎藤光によると、1947年(昭和22年)にGHQの支援を受けて婦人民主クラブが創立され、発起人の一人である救世軍士官(牧師)の山室民子は、「一夫一妻結婚の貫徹」「男女ともに婚前性交の禁止」「男性の買春への批判、女性の人格を認め、女性の性の商品化と決別する」などの主張をした。これは日本キリスト教婦人矯風会等の性 ・ 結婚思想の基軸となってきたもので、戦前から存在する思想である。 1972年(昭和47年)、日本性教育協会が設立され、純潔教育から性科学を主軸にする性教育へと転換した。 1992年(平成4年)、学習指導要領が改訂され、性に関する具体的な指導が盛り込まれたことで「性教育元年」と呼ばれた。 学習指導要領の改訂で、思春期の成長は「男子=声変わり」から「精通」と定義され、これにより男女が名目上は平等に性教育を受けられるようになり、教育現場では射精をどこまで掘り下げるかなど試行錯誤をしていた。 エイズが社会問題化し、HIV教育の重要さがフォーカスされたことで、小学校6年の理科で扱う人体の学習が3年生に前倒しされ、5年生に『人の発生と成長』が位置づけられるなど、性教育に発展の兆しが見られるようになった。 そんななか、東京都日野市の七生養護学校(現・東京都立七生特別支援学校)では、知的障害の子どもが性被害を受けても気づかなかった等の事態を受け、男性器と女性器の名称を織り込んだ歌や、性器のついている人形を使うなど独自の性教育に取り組み、校長会等でも高く評価された。 2003年7月、東京都議会議員で自民党の古賀俊昭、自民党の田代博嗣、民主党の土屋敬之ら3名の議員が、七生養護学校を始めとした学校を「行きすぎた性教育」と問題にし、『産経新聞』などのメディアで「過激な性教育」「まるでアダルトショップのよう」と扱われるなど、保護者や寮の職員から学校側に苦情や懸念が相次ぎ、社会的な批判が起きた。その後、七生養護学校は授業内容の全面変更・禁止、授業は事前に副校長の許可と当日の監視のもとで実施するよう指導され、校長他116人の教職員は処分された。 この処分について教育長(当時)の横山洋吉は「都立七生養護学校では、虚偽の学級編制あるいは勤務時間の不正な調整、それから勤務時間内の校内飲酒などの服務規律違反、その他、学習指導要領を踏まえない性教育など、不適切な学校運営の実態が明らかになったことから、教職員とともに、管理監督責任を果たさなかった校長への処分等を行ったものでございます」と都議会で説明している。 2008年2月、七生養護学校の教員や保護者、関係者が人権侵害を訴えて提訴した裁判で、東京地方裁判所は東京都教育委員会の裁量権乱用を認め、処分取り消しを命じる判決を言い渡した。また、2009年3月12日、東京地裁(矢尾渉裁判長)は、3議員および東京都教育委員会に対して210万円の損害賠償の支払いを命じた。 2013年、最高裁は「教育の自主性を阻害」するなどの「不当な支配」にあたると認定し、古賀俊昭をはじめとした都議側に、原告である教員らに賠償金を支払う判決を下した。 2019年、東京都教委『性教育の手引』から、16年前に都立七生養護学校(現七生特別支援学校)で行われていた性教育を「不適切」とする記述が削除された。 本件の原告となった教員は性教育攻撃の中心に日本会議や統一協会の関連団体「国際勝共連合」が存在し、チラシが配布されていたと語っている。 性行動の低年齢化や人工妊娠中絶、不測の事態の対応について書かれた冊子『思春期のためのラブ&ボディBOOK』が、中学校に無料で配布された。内容の一部が過激だとして批判され2002年に回収・絶版となった。2002年に国会の議論の対象になった。 2005年3月4日の参議院予算委員会では、山谷えり子参議院議員が「ペニス、ヴァギナなどの用語を使いセックスを説明するのは過激で、とても許せない」と批判し、小泉純一郎元首相も同意した。自民党の安倍晋三を座長とした「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」が設置され、性教育は余計に性を乱すと批判した。山谷えり子は「性なんて教える必要はない」「オシベとメシベの夢のある話をしているのがいい」「結婚してから知ればいい」と主張した。 これにより学習指導要領が変更され、「受精」は扱うが「受精に至るプロセス」は扱わず「性交」という言葉も削除されるなどし、元一橋大学非常勤講師の村瀬幸浩は、日本は性教育後進国となったと主張した。 2013年、中京テレビ『ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか』が放送され、のちに無料公開された。 2018年3月、東京都足立区立中学校の授業が不適切だとする東京都議会質問が波紋を広げた。性交、避妊、中絶は中学の学習指導要領で扱っていないが、3年生を対象にした授業で「産み育てられる状況になるまで性交は避けるべき」と強調し、避妊や人工妊娠中絶についても教え、考えさせる内容を行った。 また授業前のアンケートで「2人が合意すれば、高校生になればセックスをしてもよいと思うか」や、正しいと思う避妊方法などを問う項目が含まれており、「学習指導要領に記載のない性交、避妊、中絶といった言葉を使っていた」「かえって性交を助長する」と問題視され、足立区教育委員会を指導するに至った。 発端の都議会質問は、七生養護学校を非難・処分し最高裁で敗訴した古賀俊昭であり、「結婚するまで性交渉を控えるという純潔教育や自己抑制教育が必要だ」「そもそも『結婚する・しない』を自己決定するという戦後の価値観が問題だ。『結婚・出産・子育て』は社会貢献だとしっかり教育すれば、安易な性交渉にはおのずと抑制的になる」などと主張した。 Yahoo!ニュースのアンケート(2018/5/15-5/25)では、25,063票中、性教育が必要は90.5%(22,674票)、不必要は9.5%(2,389票)だった。 2019年2月26日に行われた東京都議会では、中学校での性教育について、都教育委員会の中井敬三教育長は「児童生徒が正しい知識を身に付け、適切に意思決定や行動選択ができるよう、区市町村教委などと連携して各学校を支援する」と答弁した。東京都知事小池百合子は、犯罪の被害者を支援するための犯罪被害者支援条例を制定する方針を明らかにした。 元一橋大学・津田塾大学講師の村瀬幸浩は、2014年出版の『男子の性教育』(ISBN 4469267600)に、男子高校生を対象にした「射精イメージ」の調査結果を記載した。約15%の男子が射精を「汚らわしい」と感じ、約20%が「恥ずかしい」という意識を持っている一方、女子高校生の「月経のイメージ」では「汚らわしい」と答えた人は約5%、「恥ずかしい」は約8%であった。この男女差は教育の有無によるものだとしている。 女子は妊娠・出産に備え親や学校が月経のメカニズムを教えるが、男子には「別に教える必要はない」という風潮が続いた。思春期になれば性的な欲求や関心が高まり、メディアや友達を通じ、様々な性情報にアクセスするようになるが、科学的に正しい知識ではなく、誤解や偏見によって理解や認識が歪むことも少なくない。高1男子100人に「射精や性器についての相談相手は?」をアンケートした際は、誰にも相談できないが70%、友達が20%、家族・親戚が9%だったとし、誰にも相談できず、悩んでいる子供が多い実態を指摘した。 「レイプが女性の人格を切り裂く殺人的行為だなんて考えたこともなかった。セックスのバリエーションのひとつと思っていた」などの認識や、望まない妊娠や中絶において彼氏の「他人事感」が問題となる場合、無知ゆえにリアルな想像や共感ができなかったことも原因だとし、性教育は大人が子どもに対して果たすべき責任だとしている。 アダルトビデオ=性のスタンダードになってしまうと、パートナーを心理的・肉体的に傷つけてしまうことに発展しかねず、「アダルトビデオは作り物なんだ」「あれは女の人がお金で演技している(させられている)ものなんだ」という分別がつけられるよう、性について真面目に伝えていくことが大切だとする。精液がついたパンツを「汚いから別の洗濯かごに入れてね」などと対応することで、子供がセックスは汚い、いやらしい、ひどいといったネガティブな意識を持ち、恋愛や性行為を回避するケースもあるという。 埼玉大学教育学部教授の田代美江子は、「性をいやらしいと考えている大人」や「性と真正面から向き合わない大人」は、極めて個人的な感覚に端を発するタブー意識を拠りどころに性を捉えており、大人たちが体系的な性教育を受けていないことから、「小学生には早い」「中学生に避妊なんて教えてどうするんだ」という価値観がストッパーになってしまうとしている。 男性器の包茎に羞恥心を抱き、美容整形クリニックの過剰な宣伝文句につられて意図せず高額な手術を受けてしまう被害もある。また包茎は不潔で、感染症のリスクが高いという不正確な情報が流布していると専門家は警鐘を鳴らしている。生殖については、思春期男子が気にするペニスの大きさより、精巣(睾丸)の大きさが重要であり未発達の場合、乏精子症または無精子症などで不妊の原因になる。男性器の相談は泌尿器科であると学生に性教育の講演を行う専門家もいる。 2002年から、秋田県では県の教育委員会と医師会が連携し、中高校生向けに性教育を実施している。その結果、全国平均の1.5倍だった10代の中絶が2018年には平均以下となり、2012年には10代の中絶率が約三分の一となった。性教育で性行動はより慎重になると知られている。 富山市では、10代の人工妊娠中絶率はこの5~6年、女子の人口1000人あたり1人前後の割合で推移している。対して全国平均は6人前後で、福岡県や沖縄県などは10人前後となっている。1990年代に女子高生等の性が商品化され、全国で人工妊娠中絶が急増したことに危機感を抱いた産婦人科医と富山市は協力し、1991年から性教育の出張授業を始めた結果となっている。性教育とは危機管理を学ぶことという意識で教育が行われている。 埼玉県産婦人科医会は、県内で医師や助産師が自主的に行っていた性教育講演を県内全域で行えるよう、2020年に「性教育委員会」を設立し医師10人が参加している。講演について県教育長は予算がつかないとしているが、埼玉医大病院産婦人科高橋幸子_(産婦人科医)医師は講演料は必要なく、外部講師による性教育の仕組みづくりをしたいと話している。 YouTubeで性教育動画チャンネルを配信している、助産師の大貫詩織は、国際教養大学(秋田県)の性教育トークショーで「性教育は「人権教育」で、タブーはない。いろいろな人を生きやすくするのに必要なもの」と言った。 日本性教育協会の青少年の第5回性行動全国調査によると、交際相手のいる中学生で1割、高校生では男子7割と女子5割、大学生では9割以上がセックス経験があり、初体験の相手は中学生では自分と同い年、恋人が増加している。性行動が低年齢化が日常化によって進行していると言われている。 内密出産を取り扱う「こうのとりのゆりかご」を運営する医師は小学校5年生の出産に対応した経験があり、また「慈恵病院SOS赤ちゃんとお母さんの相談窓口」に寄せられた平成19年(2007年)から平成26年(2014年)度までの相談件数9248件のうち、15歳から18歳までの相談件数は715件であった。 東京都では高校生に対する性教育は東京産婦人科医会に依頼されて、高校の所在する地域の医師が派遣されるが、約200余の都立高校のなかで2017年(平成29年)は32校にしか過ぎないと報告されている。 若年層の妊娠出産が年400件で推移する沖縄県では、医師と児童相談所所長が中学終了まで一定程度の性教育の必要性と性的同意の重要性を説いている。 文部科学省も国会の質疑等でも厚生労働省と連携して取り組んでいくとしているため、産婦人科医会も全面的に性教育、特に中高生、一般の方に対する教育には努力は惜しまないことを表明しているが性交や避妊を教えない教育について正しい性の知識が普及しない懸念を示している。 公立高校では、文部科学省調査で2015年・16年度の2年間に学校が妊娠の事実を把握した生徒数は、全日制・定時制あわせて2,098人であり、そのうち32.1%にあたる674人が、妊娠を理由に「自主退学」しており、中には実際には退学を勧奨された事案もあり女生徒の妊娠は学業で大きな損失となる。一方で妊娠させた側についての調査はない。 人工妊娠中絶や特別養子縁組といった手段を取らず、分娩費用を助成する入院助産制度を活用して出産するなど若年層で子供を産み育てる選択を取ったとしても、未婚のまま、または離婚の場合も子どもを引き取るのは2012年統計では妻側が83.9%となっており、一人親になるのは圧倒的に母親である。 日本ではひとり親の相対的貧困率が高く、無職では60%で30か国中ワースト12位と中位であり、有業のひとり親の相対的貧困率については58%で諸外国中ワースト1位という状況にある。 政府調査ではひとり親の4世帯に1世帯は、子どもの世話・家事について頼れる人が「誰もいない」うえ、金銭的援助も望めない世帯の割合は、母子世帯が 51.5%となっているため準備ができていない時の妊娠・出産は女性の人生でより困難な大きな転機となる。なお、出産費用の相談先について円ブリオ基金などのNPO団体もある。 人工妊娠中絶は昭和44年調査では200万件とも推計され、当時妊娠可能女性の42%が中絶の経験者でありその46%が家族計画避妊の失敗からという理由であるため、昭和49年当時にピルの薬局販売推進が国会答弁されている。 20歳未満の中絶率は平成30年(2018年)度衛生行政報告例で、東京都が最多の6.6‰、北海道6.4が続き、宮崎県の6.2ほか九州地方で以前から高い傾向にある。 現在は中絶件数が毎年低減しているものの、平成30年度件数は 161,741件であり、「20歳未満」について各歳でみると、「19歳」が 5,916 件と最も多く、次いで「18歳」が 3,434件となっている。一方で30代は60,368件、40代以上も15,909件となっている。 出産に関する統計はほとんどが15歳からだが、15歳未満の妊娠も年間約400件ほどある。 平成29年(2017年)度の出産数と中絶数の比率で出した中絶選択率は、全体では15%だが20歳未満で59%にも上る。また12歳未満の強制性交等の性犯罪は約1000人が被害者となっている。 佐賀県の産婦人科医の調査では、膣外射精を避妊手段として選ぶ知識のなさと、避妊なしの性交渉を断れない関係性が影響していると分析している。 望まない妊娠の相談先として「全国妊娠SOSネットワーク」がある 岡山県津山市で住宅団地の浄化槽から乳児の遺体が見つかった事件では、岡山県警はベトナム国籍の女性技能実習生について死体遺棄容疑で2020年4月16日に逮捕し処分保留で釈放したが5月に堕胎容疑で再逮捕している。実習生のため妊娠が発覚したら帰国させられると思った末の犯行だった。 しかし彼女がもしベトナムにいたとしたら中絶費用は妊娠初期で500円弱、中期でも1万円強。貧困地域や遠隔地では無料であった。今でも日本では堕胎罪、妊婦自身が行った場合には自己堕胎として罪に問われる問題がある。 韓国では2021年1月1日から堕胎罪が無効化された。 日本は平成30年(2018年)度 男女共同参画白書によると人工妊娠中絶率の国際比較において低位となっており20歳未満5.0%、20-24歳12.9%、全体6.5%であり、ドイツ20歳未満4.2%、20-24歳9.3%、全体5.7%には及ばないが、フィンランドの20歳未満8.2%、20-24歳15.3%、全体8.2%などより低い。 若年層の妊娠は分娩希望の場合でも精神不安に陥りやすいこと、また年齢に関わらず緊急避妊薬を求める女性は性被害者が多く、中絶処置をした患者についてはその後思い悩み自殺企画が多いことが読み取れる。 2005年から2014年の東京都23区の妊産婦の異状死調査では、自殺63例のうち23例が妊娠中であった。うち10件以上が妊娠2週間のうちに起こっている。 2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦調査での死亡例は全国で少なくとも102人であり、妊娠中や産後1年未満に死亡した妊産を調べたところ、自殺が死亡原因の1位となっている。妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。 産婦人科医の調査では10代の妊娠(分娩希望)の場合も妊娠中自殺願望を持った患者は全体の15.6%であり、7.2%は自殺を試みている。一般の性感染症患者、緊急避妊薬処方患者は、デートDV被害者や性虐待被害者の場合が多く、自殺願望が認められると報告されている。また中絶後の患者が人口妊娠後遺症(PAS)に悩んでいるケースは76.2%であり、48.3%が自殺願望を持ち12.2%が実際自殺を試みている状況にある。海外での研究でも中絶経験者の60%が自殺を考え、28%が実際に自殺を図り、そのうち半数が2回以上自殺を図った。特に10代の若者や離婚者などにリスクが高い。心的外傷後ストレス障害(PTSD)も見られた。 フィンランドの13年間の調査では中絶の翌年は自殺、事故及び殺人による死亡が24%増加することが女性全体を対象した調査で判明した。調査期間中自殺の73件は中絶または流産後1年内に起こっている。 この調査では、中絶した女性の死亡原因の過半数が自殺であることも判明した。若すぎる妊娠や、望まない妊娠は自殺のリスクを高め、出産後0日の嬰児殺害にもつながっている。胎児を中絶する経験は女性に大きな罪悪感を生み出す。 海外では後述の緊急避妊薬でその妊娠の多くが容易に回避できる状況にあるが、日本国内では実現しておらず結果として女性が望まない妊娠・出産の負担を負うことになり、日本国内の女性に対して日本国憲法に定める法の下の平等や生存権が中絶に関わる主な精神的影響のリスク保証されていないものとなっている。 中高生の妊娠には、避妊の正しい知識不足による失敗がある。言わゆる女性の生理周期の排卵日を避けて「安全日」を選んでする性行為も、男性が放出した精子は女性器内で最大5日生存するため、確実ではない。また月経中は妊娠しないという誤認があったり、膣外射精や炭酸飲料で膣を洗う対策は避妊ですらないということが伝わっていない場合がある。 緊急避妊薬OTC化に関する医師に対するアンケートでは、回答者の90%が処方経験がありその理由(複数回答)の95.5%がコンドームの脱落・破損だった。同意のない性交が36.1%、性暴力32.1%も含まれていた。この状況の背景には国連発表では日本の避妊の方法は男性用コンドームが75%で女性が使う経口避妊薬は6%にとどまり、経口避妊薬が31%である海外と比較し日本では男性が行う避妊方法に偏っていることが挙げられる。スウェーデンなど諸外国で普及している妊娠を防ぐホルモンが含まれたスティックを皮下に埋め込む「避妊インプラント」、腹部などに貼るシール状の「避妊パッチ」、膣内に挿入する避妊リング、避妊注射なども日本では承認されていない。 精子は射精時の精液だけでなく、前段階で分泌されるカウパー腺液中にも僅かに存在する場合があるため確率の高い避妊法とは言えず通常は避妊法としてカウントされない(PIは4-19程度)。また知識があったとしても、一般的な避妊方法に使用されるコンビニエンスストアでも購入できるコンドームによる避妊方法も万全ではなく、避妊失敗率は2%であり正しい使用方法でない場合を含めると18%とされ、一方でピルは0.3%とされる。 コンドームは「性感染症予防」、避妊のためにはより効果の高い方法を「併用する」ことが常識となっている。しかし口で性器に触れるオーラルセックスでは、双方の性器を保護しないと性感染症が防げない問題もある。 妊娠の不安については、市販されている99%の精度と言われる妊娠検査薬の存在への無知などがあり、様々な性にまつわる理解が不十分な状態が招いた問題となっている。 なお中絶可能週数は22週までで、中絶の同意書には配偶者の同意者が必要である。未婚者の場合でもパートナーの合意を求める病院があり男性も交際相手の女性の中絶同意書に署名する責任がある。しかしこの制度は性暴行の加害者にも同意を求めなくては手術を行うことができない現状に繋がっているため弁護士から批判を浴びている。 1999年(平成11年)6月、女性自身が妊娠をコントロールする低用量ピルが申請から9年の歳月を経て承認された。1965年以来、185以上の国連加盟国各国はピルを承認し、世界中で2000万人の女性が服用する中、日本はピルを承認する最後の先進国であり、国連加盟国185か国で当時唯一の未承認国であった。 1999年(平成11年)2月、衆議院予算特別委員会での国会審議において、末松義規議員より、バイアグラのスピード承認に対してピル承認が9年以上も審議にかかることについて、中央薬事審議会が社会的な価値観を持ち込んでいる疑問が呈され、同議員は「どうも何か大きな思惑があったのじゃないかと思わざるを得ない」と意見している。 臨床試験はバイアグラはしなかったことを引き合いにピル承認について尋ねると、担当部局に伝えるとだけ回答されている。 HIV感染拡大の懸念から薬事審議会が一時審議を凍結し、感染症問題を管轄する公衆衛生審議会に意見を求めるなど調整が難航し、承認時にもなお感染症対策をもっと詰めて承認を決めるべきだったとの意見(東京医科歯科大学大島博幸教授)があった。 低用量ピルが長期審議から一転解禁となった背景には、男性用性的不能治療薬「バイアグラ」を個人輸入で大量に出回り死亡例が発生したことから安全に処方されるためとの理由で、申請からわずか半年で承認された。これにより男性本位との批判が起こったことが関係しているとの見解もある。 厚労省はピル解禁について、世の中の理解が進みピルを温かく見守る環境ができた(平井俊樹審査管理課長)との講和を発表した。しかしピルが承認されない一方でバイアグラが超特急で承認されたことに対し、『ニューヨークタイムズ』紙では世界的に安全性が確立された低用量ピルが認可されていないのみならず副作用ゆえに米国では88年以降販売されなくなった「危険な」高用量ピルのみが認可され,販売され続けていることも紹介し日本の薬事行政の奇妙さを紹介した。 懸念された性感染症については、ピルが承認の1999年のHIV感染者は日本人男性379人(うち同性接触195人)、女性が45人であり、2019年では同男性741人(うち同性接触575人)、同女性29人となっている。 また先進国のなかで卵巣がんが増加しているのは日本だけといった状況にあり、この卵巣がんの発症数については、月経回数を減らす効果がある低用量ピルが日本では4%の利用と極めて少ない普及状況が影響している可能性があると医師より指摘されている。 緊急避妊薬は性交後に排卵を遅らせて妊娠を阻止する経口剤のことであり、妊娠を予防する薬である。流産を引き起こす中絶効果はない。Yuzpe(ヤッペ)法と呼ばれる中容量ピルがかつて使用されたが、日本ではレボノルゲストレル錠が2011年2月23日に緊急避妊薬として承認された。日本では医師の診察が必要な処方箋医薬品であるが、アメリカ合衆国では、大学区校内の自動販売機で緊急避妊薬が購入できる。このことと価格帯の問題のため日本では世界保健機関が2018年に勧告した、意図しない妊娠のリスクを抱えた全ての女性は緊急避妊薬にアクセスする権利があるとの声明に合致していない現状がある。コロナ禍においてオンライン診療での処方が暫定的に認められているが、処方箋なしの薬局購入(OTC化)については、市民団体が、10万7000人分の署名を厚生労働省に提出したものの、2021年現在認められていない。 厚生労働省の「医療用から用指導・一般化への転用に関する評価検討委員会議」で2017年には性教育の不十分さや薬剤師の知識不足を理由として否決されたが、再度2021年5月に処方箋なしの薬局販売についての審議が再開された。 なお2020年10月より同審議会はこれまでスイッチの可否を握ってきたが、スイッチ促進へ向けた課題解決案を話し合う場へと姿を変える見通しであり、今後の決定権は厚労省に移っている。 ところでフランスにおいて中絶法(ヴェイユ法)を作り上げたシモーヌ・ヴェイユ (政治家)はその回顧録に於いて中絶よりそれ以前に成立した避妊法の成立への国会議員の抵抗が非常に激しいものであったことを述べている。男性たちは避妊が女性の自由を認め男性の関与を許さなくなるものであることに対し、中絶は男性も感情を損なうものではあるが女性の身体に男性が影響を及ぼさないようにするわけではないことを理由として考察している。 International Consortium for Emergency Contraception及びen:Emergency contraceptive availability by countryによると諸外国では日本・韓国・台湾では処方箋が求められるが、中華人民共和国やヨーロッパ諸国では処方箋が必要なく、場合により無償で提供されている。 10月の「国際ガールズ・デー」にあわせNGOが行った調査では若い女性ほど緊急避妊薬や低用量ピルについてどのような薬かの知識が高く、20代以下の女性では48%が入手方法も知っていたが高齢になるほど知識が低減していた。 緊急避妊薬へのアクセスは人権の問題であると「緊急避妊薬を薬局でプロジェクト」の共同代表であり、産婦人科医の遠見才希子は語っている。 なお、子供を望むができない不妊症では加齢が原因の場合もあり、女性は胎生期に最大の卵子を持ち、以降減少していくため、女性の妊娠しやすさ(妊孕性)は、おおよそ32歳位までは緩徐に下降し、卵子数の減少と同じくして37歳を過ぎると急激に下降していく。また男性も年齢とともに妊孕能が低下する。女性が35歳以上の出産を高齢出産と呼び、流産の上昇や胎児の染色体異常の頻度などリスクも高くなる。 不妊については二人目不妊の問題もあり、雑誌社の調査では不妊治療経験者中で第二子のときに不妊治療を経験した人は6割を超え、その内半数が第二子で初めて不妊治療をした状態にあり、子供を望んでいて最初の妊娠で問題がなくとも加齢やセックスレスにより妊娠しづらくなる問題が起こる場合がある。このため生涯設計のため生殖可能年齢を早期に理解することも重要である。 日本産科婦人科学会によると不妊治療の体外受精によって2017年に誕生した子どもの数は、この年に生まれた子どものおよそ16人に1人の割合となっており、誰もが自然妊娠するとも限らない現状がある。 女性の胎内で胎児が育たない不育症の問題もある。2021年には厚生労働省が不妊治療費用の助成を拡大することを決定した。 2021年7月、厚生労働省は、来年度開始を目指す不妊治療の保険適用に向け、医療現場で使われている未承認の医薬品について、「公知申請」の制度を用いて承認手続きを迅速化し、体外受精に用いる排卵誘発剤や、「バイアグラ」など男性不妊に対する勃起障害の治療薬、射精障害に対する抗うつ剤に保険適用する予定と公表した。 世界保健機関(WHO)の発表によると、不妊症の方のうち、不妊症の原因が女性側のみというケースは41%、男性のみは24%、男女双方は24%、原因不明は11%となっている。 クラミジア感染症が不妊の原因となる場合もある。また不妊には肥満や喫煙が影響する場合があり、男性は70代でも生殖可能な一方で、サプリメント摂取による男性不妊も指摘されている。 胎児の出生前診断の普及により、不妊治療後に授かった子でも診断結果によって異状があった場合中絶する覚悟で検査をする実態もある。2013年から5年半の間に、6万人を超える妊婦が新型出生前診断を受けて陽性確定の9割が中絶したと報道されている。 コロナ禍において10代の妊娠相談は増加し、支援団体への相談者の1番下は小学4年生といった現実がある。 小学6年生に至っては複数人からの相談が寄せられている。 2020年現在では、コロナ禍において全国の妊娠届の件数は、感染への不安が高まった3月ごろに妊娠した人が届け出る5月以降で7月まで前年同期を1割超下回っているため、来年度は出生数が80万人を割り込む可能性がある。 ただしこれは日本人女性の産み控えだけではなく、日本に来ていた外国籍の家族滞在者などが本国に帰り日本で出産しなくなったことが影響している可能性もある。なお、同時期に「嫡出推定」制度見直が報道された。これは離婚から300日以内に生まれた子どもは前の夫の子と見做すことなどが規定されているが、離婚前に既に前の夫ではない男性と交際があった場合や早産、医学の発達により未熟児も生存可能となったことなどを背景として改定される見込みとなった。現状では前の夫の戸籍に入らないようにするため出生届がなされず無戸籍になることがある。 このほか、性にまつわる問題として現代の女性は初経が早く、妊娠・出産の回数も少ないため、生涯の月経回数が多く月経トラブルも増加している。低用量ピルによる治療が有効だが普及率は3%となっている。 ピルは子宮内膜症、機能性卵巣嚢胞、子宮体がん、不妊症になる可能性を低下させる効能も言われている。 働く女性の8割以上が生理痛やPMS(月経前症候群)による仕事への影響を感じており、その影響で野経済的損失は年間6828億円との調査結果がある。このため、福利厚生制度で生理痛やPMSをやわらげる低用量ピルの服薬の支援を始めた企業もある。 アスリートが心身を追い込むと生理が止まることがあるが、低用量ピルは2008現在で欧米で行われた調査によると82%のトップアスリートが低用量ピルを服用さしており、継続的に月経対策を行われてコンディションを整えている。月経困難症やPMS(月経前症候群)、過多月経(経血量が多い)にも処方されている。 子宮内に装着する子宮内システム(IUS)も最長5年に渡る高い避妊効果と月経困難症の緩和が効能としてある。 1980年代以降、後天性免疫不全症候群(エイズ)の存在が取り上げられるようになり、性教育もその存在を無視することはできなくなった。エイズが流行しているとまで言える状態にまで達してしまったアフリカ各国においては、研究者たちのほとんどが、性教育を公衆衛生において極めて重要と捉えている。米国家族計画連盟など、国際的な組織の中には、幅広い性教育を実践していくことは、人口爆発の危機を乗り越える/女性の権利を向上させるといった地球規模的な成果を達成することに繋がる、と考えている人々もいる。 性教育により、クラミジア、梅毒、HIVの性感染症や、ヒトパピローマウイルス(HPV)感染による子宮頸がん、中咽頭がん、肛門癌、陰茎がんなどから身を守る方法を学ぶことができる。 2019年、淋病は男性が6,467人、女性が1,738人で男性は1999年より減少、女性は同水準である。2019年、梅毒は男性4,384人、女性2,255人となり、2010年までは男性は同水準、女性は減少だったものが一転して増加傾向にある。 性器ヘルペス以外の性感染症は全て男性が多く罹患している。梅毒の増加については風俗を利用する中高年の男性や、そこに勤める20代の女性などから感染が広がっているとみられている。男女ともに年齢関係なく、正しい性知識の普及が必要とされている。 子宮頸がんはそのほとんどを性交渉によるヒトパピローマウイルス(HPV)の感染を原因とし、年間約1万人が罹患し、約2,800人が死亡している。 ヒトパピローマウイルス(HPV)の感染は20歳前後が多く、最も感染機会が多いのは性体験を始めた直後で性器の挿入の有無に関わらず性器の皮膚部分でも感染する。HPVウイルスは、性交渉を持ったことがある女性のうち、50-80%がHPVに一度は感染すると言われている。 正常な免疫状態の女性が感染から子宮頸がんに進行するには15年から20年かかるが、18歳で初体験をして21歳で死亡した急進行した事例もある。 妊娠・出産年齢や子育て世代と発症のピークが重なることから、子宮頸がんは「マザーキラー」とも呼ばれる。 また罹患した母親から新生児へのがんの移行が認められ、国立研究開発法人国立がん研究センターは出産直後の赤子が母親の子宮頸がんのがん細胞が混じった羊水を肺に吸い込むことによって、母親の子宮頸がんのがん細胞が子どもの肺に移行して小児での肺がんを発症した2事例を発表し、1組目の男児は免疫療法薬で治療できたが、2組目の男児は手術で肺がんを切除した。母親2人は出産後や出産時にがんと診断され、その後死亡したと公表した。 HPV感染を防ぐヒトパピローマウイルスワクチンを公費で打てる定期接種は小学校6年生から高校1年の女子が対象であったが、2020年時点、男子へも対象を拡大する方針となった。しかし女性のように無料でうてる定期接種化するかは厚労省審議会での議論による予定である。接種を受けて多様な症状が訴えられ、厚労省は対象者に個別に接種を呼びかける積極的勧奨を中止したが、厚生労働省は2021年11月に、2022年4月からの積極的勧奨接種再開を決定した。 私費の場合、2013年時点で1回あたり1.5万から2万円で3回接種を要する。HPV感染者がワクチンを打っても病状進行はしないが治癒効力もない。 このほか、出生児を守るために母子感染による「先天性風疹症候群」を防ぐため、ワクチンの定期予防接種制度により一度も風疹の定期予防接種を受ける機会がなかった40代と50代一部男性を対象に2019年から2021年度末までの約3年間に原則無料で抗体検査・予防接種が行われている。 性行為がなくとも唾液を交換するディープキスで罹患する病気もある。伝染性単核症(infectious mononucleosis)は乳幼児期に初感染をうけた場合は不顕性感染であるが、思春期以降に感染した場合に発症することが多く、kissing disease とも呼ばれる。罹患で多くの場合38°C以上の高熱で 1 - 2週間持続する場合が多い。 2021年にはコロナワクチンの接種が開始する見込みだが、新型コロナワクチンとその他のワクチンは、互いに、片方のワクチンを受けてから2週間後に接種できるため、接種間隔に留意し接種計画を立てる必要がある。 日本では明治時代に制定された性犯罪に関する制度の継続により、13歳の中学1年生から性行為に同意する能力があるとしている。 2020年5月には、性的同意年齢を13歳からとしていた韓国では通信アプリのチャットルームで、脅迫などにより行わせた女性の猥褻な動画や画像を提供して暴利を得た「N番部屋事件」に中学生とみられる被害者が含まれていたことをきっかけとして年齢を16歳に引き上げた。 またフランスも性犯罪事件によって15歳に引きあげられた結果、日本やアメリカ合衆国、ドイツ、イギリス、スウェーデンなど14~18歳とする各国より最も低い13歳となっている。 カナダでは性的関係を持つことができる同意年齢は16歳であるが、刑法は「年齢が近い場合」あるいは「ピアグループ(同年齢集団)」の例外規定を設けており、12歳及び13歳に対しても「年齢が近い場合」の例外がある。 イングランドとウェールズでも犯罪認定年齢は16歳だが、性犯罪法は、性的虐待の場合以外の16未満同士による性行為承諾の規制を目的としてない。ただし児童保護の視点から、法令は13未満の承諾は法的効用を持たないとし、12歳以下の児童との性的行為はもっとも重度な刑法が適応される。 日本においても、2023年の刑法改正により性交同意年齢は、13歳から16歳への引き上げが7月施行になり16歳未満への行為は処罰される。なお年齢が近い者同士の行為は罰しないが、13~15歳は5歳以上年上なら相手が処罰対象になった。 2021年2月に北海道旭川市で起こった中学2年女子の凍死事件では、被害者の少女が複数人より自慰行為を強要されその画像が拡散し、これを苦にして当初投身自殺未遂を起こしているが、わいせつ画像を送ることを強要した加害者は、児童ポルノに係る法令違反、児童ポルノ製造の法律違反に該当したが未成年で法に問えなかった。また警察が捜査終了後に加害者がパソコンのバックアップからデータ復元してチャットグループに再拡散させるなどわいせつ画像の流出が続くなどしているが、加害者が同世代であることで性行為の強要が罪に問われない事件も起こっている。 加害者は知人や親族など身近な人からのことが多い。実父に小学生時代から性虐待を受けていた女性は「家族がばらばらになる」とその被害を長期間打ち明けられなかったが、父親は避妊しない性行為すら虐待だと認識していないことが裁判で明らかにされている。 教師や塾講師など信頼する身近な大人から猥褻行為や性暴力を受ける事件もあり、被害者は自傷行為に陥ったり成長してからその意味を理解して深く傷つく場合がある。 2015年版『犯罪白書』によれば、摘発した性犯罪事件のうち、約3割は顔見知りによるものという。 特定非営利活動法人 性暴力救援センターの東京理事長の報告では、加害者の7割が顔見知りであった。性暴力では殺される恐怖で抵抗することができない被害者を見て、加害者が勝手に被害者が性交に同意したのだと思い込むことが多い。顔見知りでない場合でも地方から上京したばかりの女性が道を教えてくれと頼まれ、駐車場の車内などで被害にあうこともある。 2020年3月、北海道において特別支援学校を卒業した知的障害がある女性(31歳)は就労支援施設のトイレで出産し、乳児を便器に押し込み窒息死させた事件が起こった。女性は性教育を受ける機会もなく、また乳児の父は元施設職員の50歳男性でほとんど避妊をしない性行為を行っている一方、関係者も妊娠に気づかなかったと報道されている。 フランスではどのような相手でも体の大切な部分を触らせない教育の重要性を説いている。 また、人間における子供への性犯罪の前に加害者が子供の孤独や承認欲求につけこみ被害者との親密な関係性を築き、性犯罪に及ぶ準備の懐柔行為を示すことがある。教師などの身近な人物からや、グルーミングはツイッターやTikTokなどSNSを通じて行われることがある。2021年の性犯罪の刑法改正審議会では性交等又はわいせつな行為をする目的で若年者を懐柔する、いわゆるグルーミング行為に係る罪を新設することについての審議が明記された。 1988年におきた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件では、最終的に犯人は幼女を裸にして写真を撮影していたところをその父親に見つかり警察に通報され逮捕に至ったが、少女の父親が仏心を出して通報しなかったら事件は解決しなかったとも言われている。わいせつ行為には再犯制性が高く通報することは次の被害者を生まない意義もある。 小児への性犯罪は再犯罪率も高く、9歳の特別支援学級女児を裸にして撮影した教員は以前に別の中学で猥褻行為をした後小学校で復職し犯行に及んだことが分かっている。 しかしながら、法務省では再犯率については出所者全体(15.1%)と比べると低く、再犯率が高いとまでは言えないと述べている 内閣府が2018年3月に公表した「男女間における暴力に関する調査報告書」によると、これまで結婚したことのある女性のうち、配偶者などから、「身体的暴行」「性的強要」などの暴力を受けたことが「何度もあった」人はおよそ7人に1人であった。 2018年の内閣府男女共同参画局の「男女間における暴力に関する調査」によると、無理やりに性交等をされた被害者の女性は 7.8%、男性は1.5%であり、18歳未満のときにあった被害について、「その加害者は監護する者(例:父母等)でしたか」という質問に対して、「監護する者」が 19.4%であった。被害の相談をしなかったのは、女性で58.9%、男性で39.1%で、半数が羞恥心によると回答している。 国際政治学者の三浦瑠麗は中学3年生のとき車に連れ込まれ、集団レイプ被害を受けたことをその著作で公表している。当時は家族などにもその被害を打ち明けることができなかったと語っている。 法務省は2020年3月、性犯罪を厳罰化した2017年の改正刑法施行から3年の実態を調査した報告書を公表し、被害者や心理学の専門家、加害者臨床に携わる医師らへのヒアリングで被害者は必ずしも強い抵抗を示すわけではないこと、激しく抵抗しないと被害が認められにくいなどの指摘があった。準強制性交等罪の要件である「抗拒不能(身体的・心理的に抵抗するのが難しい状態)」の定義が曖昧だとの課題もある。 性暴力の被害者心理に詳しい精神科医の小西聖子は、抵抗しないほうが早く終わるという理由で自分から応じる場合や、加害者の機嫌を損ねてさらに危険にさらされないように笑って応じることもあると父から娘への性暴力の公判で証言している。誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者についての臨床においても、被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築きその支配下に置いて協力的になるストックホルム症候群もよく知られるところである。 報道機関の推計では、警察が被害届を受理した事件数は、推定被害者数の4.71%でしかなく、レイプ事件が裁判となる事例は1.92%としている。その被害者の多くは泣き寝入りしている実態がある。令和3年版『男女共同参画白書』によると強制性交は被害について「どこ(だれ)にも相談しなかった」者は,女性は58.4%,男性は70.6%となっている。平成26年版男女共同参画白書によると女性の異性からの強制性交経験は1回が4.1%,2回以上が3.5%で,被害経験がある女性は7.7%である。被害時期は「20歳代」が35.1%で最も多く、次いで「中学卒業から19歳まで」が20.1%、「30歳代」が14.2%、「中学生」が5.2%、「小学生以下」が13.4%を占める。 実際に被害に合った時にはフリーズ(もしくは凍りつき)反応がスウェーデンではレイプ被害者の70%で見られている。これは動物にも見られる擬死状態で、強直性不動状態になることにより捕食者の意欲をそぎ生存確率を上げる役割がある。 災害や被害にあった際に想定外のことに頭が真っ白になって反応ができなくなってしまうことを「凍り付き症候群」と呼び逃げ遅れる要因として知られている。 1994年にアメリカの神経生理学者であるステファン・W・ポージェス博士が発表したポリヴェーガル理論では、重大な生命の危機に面した場合に意図せずして背側迷走神経系が優位になり、「不動化」「仮死状態」「凍り付き」が起こり生存確率を高めるとしている。また、加害者からさらなる加害行為を受けないように、「迎合」という反応が起こる場合があることも述べている。 2017年に性犯罪を厳罰化する刑法改正案が可決成立し、第177条の強姦罪が「強制性交等罪」に改められ、被害者を女性に限っていた強姦および準強姦の罰則規定が、男性にも等しく適用となった。日本の未成年男子で何らかの性被害を受けたことがある人は高校生男子で5~10人に1人、レイプ被害率は1.5%となっているとの統計もあり、男児だから性被害に合わないというわけではなく、自身を恥じ入りトラウマとなって精神的にも被害を受けるケースもあるため男女共に性犯罪を防ぐ知識と犯罪に合ってしまった時のケアが大切となる。恐らく薬物の入った飲料を飲まされ朦朧とした後に複数の男性によってレイプされ、HIVに罹患した被害もあり、成人男性だから安全ということもない。 電車内での痴漢行為という性犯罪に日常的にさらされた被害者の女子中学が自殺念慮を抱きリストカットした事例もある。痴漢問題は性犯罪であるという前提と、人権侵害行為であるということが重要との指摘があり、99%の痴漢は男性による犯罪となっている。「犯罪白書」(平成27年・2015年)では、痴漢を行う男性で最も多いのは四年制大学卒業のサラリーマンでこのうち既婚男性は34.7%と分析されている。。被害者は公共交通機関利用ができなくなったり、うつ病を発症するなどPTSDに苦しみ、自傷行為や自殺を考えるほど追い込まれる人もいる。日本共産党東京都委員会ジェンダー平等委員会の調査では被害者は18歳以下の場合が71.5%で中学生以上の通学時だけでなく、性的知識が不十分な幼児や小学生がターゲットとなったことが明らかになった。 厚生労働省の虐待死の統計では、その被害者は半数以上が0歳であり、児童虐待死が最も多いのは「0歳0ヶ月0日」となっている。 社会福祉法人恩賜財団母子愛育会の平成26年(2014年)度調査によると、児童相談所一時保護所入所者の虐待は性的虐待年齢が13.03歳となっている。 男女交際の場においても、束縛や性行為の強要などが起こるデートDV危険性がある。現在、児童ポルノ被害の約4割は「児童が自らを撮影した画像に伴う被害」で、児童がだまされたり、脅されたりして自分の裸体を撮影させられた上、メール等で送らされる被害が増加している。 年上男性と学生層の女性との間である買春行為も含むいわゆる「パパ活」「援助交際」ではホテルで睡眠薬を盛られて強制性交被害に合い、わいせつ画像を撮影されたり強盗被害にあうこともある。 学習塾で生徒が講師から盗撮された事件では犯人は千葉県の迷惑防止条例違反で逮捕されたが、県により条例が異なっているため他県では犯罪として取り締まれない状態があり問題視されている。スマートフォン(スマホ)の普及もあり盗撮の検挙件数は10年前の2倍超に達していることから、「盗撮罪」としての刑法改正が望まれている。 2020年3月から5月にかけて、新型コロナウイルス感染症拡大予防のためにとられた全国での一斉休校において、学校や部活も無くなり自宅にいる中高校生が性行為の機会を持ち望まない妊娠に至ったり、妊娠の不安を感じてこうのとりのゆりかごを設置する熊本市の慈恵病院の妊娠相談窓口に、過去最多の中高生からの相談が寄せられている。 コロナ禍の最中に性虐待が判明した少女には、10歳での母の恋人からの性暴力の妊娠や12歳での父からの性強要による事件も含まれ、日本は他国に比較し性虐待の顕在化がされていない可能性が高い一方で自分の体を守り大切にする性教育が不足しているため自らを責めたり我慢をする少女もいる。 女性の心身を守るうえでも性教育は重要である。更にコロナ禍の中では、在宅勤務や外出自粛要請で、女性や子どもがDV被害にあうことも懸念される。国連人口基金は4月、ウイルス感染への恐れや外出制限により、女性が医療機関に行かないことが予期せぬ妊娠につながると指摘している。 性暴力を受けたときに相談できるワンストップ支援センターの大阪支部では、2010年度~18年度に来所し、受診につながった者のうち19歳以下の子どもは1285人で6割を占めている。また17、18年度、家族からの性暴力を訴えた子どもは161人となり、実父からが36%、実兄・義兄からが18%を占め、そのほか母の恋人・祖父・いとこが加害者の事例もある。 生活苦から援助交際と言われる年上男性との性行為の結果、妊娠に至った高校生もおり、親に打ち明けるにも「小さないのちのドア」などの支援者の援助を得て乗り切るケースもある。 2020年12月、産科医療機関でつくる「あんしん母と子の産婦人科連絡協議会」(本部・埼玉県)が、18歳以下の女性を対象に、無料で相談や初診を受け付ける事業を始めている。 性暴力被害の相談については「#8891」となり、2020年10月より全国共通の短縮ダイヤルが開設された。 アメリカ合衆国では1980年代半ばから、性病やエイズ感染症の予防からコンドームの使用指導をしていた。しかし1990年代初めより、キリスト教右派の「絶対禁欲性教育(英語版)」が導入された。結婚するまで絶対にセックスをしてはならず、妊娠の医学的仕組み、避妊の仕方も教えてはならないというもの。ブッシュ政権は莫大な資金援助をしたが、避妊を教えた場合は助成金を打ち切った。その結果、一部の州で未成年者の性病罹患と妊娠が急増した。 純潔教育を扱ったドキュメンタリー映画に『シェルビーの性教育〜避妊を学校でおしえて!(英語版)』がある。ピュアボール(英語版)という、父親と10代の娘が「結婚するまで処女を守る」と誓うダンスイベントも存在する。 2004年、アメリカの『ニューズウィーク』誌は、アメリカ国民の79%、キリスト教徒では87%が、聖母マリアの処女懐胎を信じていると報じた。 アメリカでは「絶対禁欲性教育(Abstinence-Only Sex Education)」「包括的性教育(comprehensive sex education)」他の複数のカリキュラムがある。この二つについてはどちらが良いかについて論争がある。特に、子どもの性的行動を取り扱っていくことを善しとするか害と見るかに関して、激しく意見が割れている。より具体的に言えば、コンドームや経口避妊薬などの産児制限、避妊具が婚外妊娠に与える影響力、若年での妊娠、性感染症の伝染などの扱うことの是非である。アメリカの性教育をめぐる論争の火種となっているものの1つとしては、保守系の人々が推奨する純潔教育や絶対禁欲性教育への支持が高まっていることを挙げることができる。性教育に対して、アメリカや英国も含めたより保守的な態度を示す国では、性感染症の蔓延や若年妊娠が高い率で生じている。 アメリカ心理学会の研究では、「包括的性教育」の有効性が示されているとした。包括的・総合的な性教育の有効性は、査読誌の記事の複数によって明白であるとする一方、「絶対禁欲性教育」は深刻な危険があるとの指摘がなされている。 高校のアメフト部などの運動部において、ブルーミングと呼ばれる上級生から下級生への伝統と化した性的暴行が行われていることがあり、性的欲求より権力の誇示の手法として、男子生徒が肛門を木製の箒の柄や懐中電灯などで貫通させ、直腸・膀胱に穴を開ける事件がしばしば発生している。睾丸ががひねり潰される被害が起こることがあったが、被害者は羞恥と仲間の圧力から親や周囲に訴えることができず、発覚してもただの行き過ぎた悪ふざけであり性暴行と認められない状況にある。被害を受けた子供は加害者になる可能性が高いことが分かっていると識者は警告している。ハーバード大学の18-25歳を対象にした「思いやりの常識化」調査では、若者の3分の1が性的同意について親と話し合ったことがない。一方、コロンビアの大学調査ではセックスの誘いを断ることを学んだ学生はレイプの被害が半数になる。小児から体のつくりを教わり触れられることの自己決定や他者尊重を学ぶ性教育は、加害者化も被害者化を防ぐことに有効であることが分かっている。しかし1990年代以降、性教育を行う際の性的自己抑制を義務づける法律が28州で成立したことで包括的性教育に取って変わられた問題がある。ポルノが非現実的なものとして理解していく「ポルノリテラシー」教育も新しい教育方法として試みられている。 イギリスでは中等学校(11歳から16歳)での性教育が1994年より義務化された。イギリスの10代少女の妊娠数は1960年代終わりから1970年初頭にかけて正式統計で年間13万件以上、実数は20万とも30万とも言われるほど多く、学業の継続困難から安定した職業に就くことも出来ず、貧困問題とも結びついて社会問題化していた。また1980年代後半におこった性感染症とエイズの問題が性教育の必要性を後押ししたとされ、その後10代の妊娠は少しずつ減っていった。 2007年のTIME誌によると、デンマークでは性教育を特定のクラスに限定せずに、必要な際には授業のあらゆるカリキュラムにおいて話し合われるとしている。スウェーデンでも同様で、性教育は1956年以降必修であり、7歳から10歳のときに始まるとしている。フィンランドでは15歳時に学校でパンフレットやコンドームなどの入ったパッケージを渡されるという。スウェーデンでは通常、17歳で処女を失うとされ、それは15年前と変わらないとしている。 オーストラリアやイギリスの一部の学校で10代の妊娠を防ぐために子育ての大変さを教えるための赤ちゃんロボットが導入されたが、オーストラリアのウエスタンオーストラリア州で行われた調査では、一般的な性教育のみのグループと、赤ちゃんロボットを貸し出したグループとでは、赤ちゃんロボットを貸し出したグループのほうが20歳までの妊娠率が高いという結果となった。 イギリスでは毎年4万人10代少女が妊娠していることが問題視され、2004年から少女達に妊娠予防のための避妊教育(Young People’s Development Programme,YPDP)に取り組んだところ、総額9億円の避妊教育は逆効果で少女たちの性への関心度が高くなり、受講した少女たちの方が妊娠率は更に上がった結果、イギリス政府は2009年までにYPDPを中止している。 カリスマAV男優として名高い加藤鷹(1988年デビュー)は、『秘戯伝授 最終章』(ISBN 4845412381)や各種メディアで、爪のケアなど衛生面の徹底、女性の反応を重視するセックステクニックを推奨している。また、加藤はパートナーと妊娠を望まない性交に及ぶ際に必ずコンドームを着用し、性感染症、望まない妊娠等を防止(避妊)するよう呼びかけている。 女性が作る女性のためのAVメーカー「シルクラボ」にて圧倒的人気を博した一徹は、加藤鷹の時代から「AVはファンタジーである」という発信は多くの人が言い続けているが、気づかないままAVに影響されてしまう者が多いとした。ネット時代において、情報リテラシーが高い者は正しい情報を手に入れており、格差も大きいとしている。2014年に『恋に効くSEXセラピー』(ISBN 4040662296)を出版。大事なのは相手の立場に立って考えるコミュニケーションだとし、女性は勇気を出して違和感を伝え、男性はそれを受け止めて、やり方や考え方を変えていくことを提案している。2017年時点で、男性向けの激しいAVはもういい、女性が嫌がっている顔を見たくないという理由で、女性向け作品を見ている男性も少しずつ増えているとした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "性教育(せいきょういく、英語: Sex education)とは、性器や性交・生殖(妊娠や避妊)など人間の性行動に関する教育全般を意味する言葉。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "生殖に関する教育は、広義には女性器に男性器を挿入する性交後に女性体内で起こる男性器から放出された精子が女性の卵子と結合する受胎から胎芽へ、胎芽から胎児へ、そして出産へと移り変わっていく流れを追いながら、新たな命の創造と成長を取り扱う。狭義には性感染症の概念やその予防、避妊法などの内容が、この範疇に含まれる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "学校の教育課程の中に性教育的なものが組み込まれてはいるものの、それを教えることに関して、未だ激しい議論が行われている国もある。性教育はどの段階で開始されるべきなのか、どこまで深く踏み込んで良いのだろうか、セクシュアリティや性行動に関する内容(安全な性交の実践、自慰行為、性の倫理感など)も扱うべきなのかなど、様々な論争が巻き起こっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また1994年にカイロで開催された国際人口・開発会議において提唱されたリプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康/権利。Sexual and Reproductive Health and Rights (SRHR))、「子どもを産む産まない、産むとすればいつ、何人産むかを、女性が自己決定する権利」は広く女性の生涯にわたる健康の確立を目指す概念として国際的にもその重要性が指摘され、厚生労働省の研究会で日本でも知識の普及をはかるべきとしている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2018年1月に改訂されたユネスコの『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』では、性教育の開始は5歳からで、ヨーロッパの性教育スタンダードでは0歳からとなっている。現実として保育士による多数児への性虐待や、幼稚園児同士の性暴力も起こっており、子どもが自分の心と体を守るためにも適切な性教育は必要不可欠となっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記のような、男女間での性に関する知識やスキルについてだけでなく、ジェンダーや性的志向の多様性、人権、幸福を学ぶ概念としての包括的性教育(comprehensive sexuality education(CSE))が普及しつつある。ユネスコが推奨する性教育の項目には、「性行為」や「避妊の方法」だけでなく、友情や恋愛などに関する「人間関係」や「ジェンダー論」まで、包括的な内容となっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "文部科学省では「性教育」という言葉を避け、「性に関する指導」という用語を使っているが、本記事においては「性教育」という語で統一して記載する。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では、体育・保健体育の授業で小学校4年生で「体の発育・発達」、同5年生で「心の発達及び不安、悩みへの対処」、中学校1年生で「身の機能の発達と心の健康」として性教育を受ける。初めて学ぶ小学校4年生では、思春期初来の平均年齢の関係上、男子は思春期前に学ぶ者が多いが、女子は思春期初来(Thelarche)後に学ぶ者が多くなる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "小学校では体や心の変化を中心に取り上げ、自分と他の人では発育・発達が異なり、いじめなどの対人トラブルを起こしやすいことから、発育・発達の個人差を肯定的に受け止めることを特に取り上げる。また、発育・発達を促すための食事、運動、休養・睡眠なども取り上げる。中学校では体や心の変化に加えて生殖も取り上げられるが、受精・妊娠までは取り上げられても学校や教師によっても違うが妊娠の経過は取り上げられない事が多い。これに対し、義務教育で性交を教えないのは刑法に定める「性的同意年齢13歳」と矛盾するのではないかとの指摘がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "性行為について取り扱わない理由は、学習指導要領に「妊娠の経過は取り扱わない」とする一文があるためである。これは通称「歯止め規定」と呼ばれている。歯止め規定に関して文部科学省は、決して教えてはならないというものではなく、全ての子供に共通に指導するべき事項ではないが、学校において必要があると判断する場合に指導したり、あるいは個々の生徒に対応して教えるということはできるものと国会で答弁している。なお「歯止め規定」が学習指導要領に初めて記載されたのは1998年と文部科学省は述べているが、NHKが行政文書の開示請求を行ったのに対し、文部科学省は「はどめ規定が記載されるまでの経緯の詳細を示す文書はございません」と回答した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「歯止め規定」については2018年に東京都足立区立の中学校で性の正しい知識を教えるため避妊や中絶等も盛り込んだ授業を行ったところ東京都議会で紛糾し、「課題があった」と答弁があったため教育現場が委縮する状況になった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方で初経の授業はあっても、ブラジャーについては学ぶ機会はほとんどなく、思春期の乳房が成長中(途中で初経を挟む約4年間)にジュニアブラを着用せずにノーブラだったり、大人用のブラジャーをつけたりとした問題が起きている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "トランクス着用の小中学生が増加したことで一部の自治体では小中学生にブリーフの着用を勧める活動が組織的に行われるようになった。2000年代前半頃より東京都足立区の一部の小中学校では性教育活動に熱心に取り組んでいる女性養護教諭が性教育の一環で小中学生の下着指導を行い、その活動の輪が足立区全体で拡がったことによるものである。養護教諭は男子生徒に体育の授業でトランクスでは陰部が見えるとの理由でブリーフの着用を提唱し、男子生徒にブリーフの着用を実践させている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方で、「過度な性教育は子供たちに大きな影響を及ぼしかねない」という批判がある。2005年には自民党が「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を安倍晋三を座長に、事務局長は山谷えり子参議院議員で発足させた。養護学校で性教育に使われていた性教育人形を「セックス人形」と呼び批判を行った。このほか統一教会による学校現場での性教育批判も行われたとの性教育啓発活動を行う医師の証言が報道されている。また教団が作成した「新純潔宣言」と題した信者向けの冊子の冒頭には性解放思想に基づく性器・性交・避妊教育の性教育に反対することが掲げられており、その姿勢が性教育バッシングの発火点につながったと立教大学の浅井春夫は語っている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また、児童を対象とした性犯罪や父母、兄姉による児童性的虐待が問題となっており、これらに被害児童の性に対する無知につけこんだ物が多い事から、思春期前のより早期からの性教育によって、子供に自身が性的搾取から保護されるべき権利主体である事を認識させようとする動きが見られる。子供への性虐待の研究では、加害者の中には多くの子ども達の中から拒否できない子を瞬時に見出す能力を持つ人間がいるため、アメリカ合衆国での小学校2年生女子へのレイプ事件をきっかけに生まれた子どもに対する暴力防止CAPプログラム(Child Assault Prevention)の受講や被害拡大することを防ぐために知識を得る性教育が有効としている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2019年3月28日、東京都教育委員会は教員向けの指導書「性教育の手引」改訂版を公表し学習指導要領の範囲を超えた授業の実施を初めて容認した。手引は小中高校、特別支援学校での性教育の考え方をまとめ、コンドームやピルでの避妊や、人工妊娠中絶できる時期がかぎられていること、性交相手の過去は分からないため性感染症の危険があること、SNSで性的な画像を送ると削除できないことを伝える。性の多様性にも初めて言及し性同一性障害や性的指向などへの配慮を明記した。一方、ピルは、機能性月経困難症の痛みを放置すると将来的に子宮内膜症になるリスクが約2.6倍となり不妊症にもつながる状況を予防や治療する薬でもあるが、性に関する正しい知識が大人にも備わっていない実態がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2020年度より、幼稚園、小・中学校、高校、大学で「生命の安全教育」という新しい教育を始める方針があるが、引き続き性行為や避妊は取り扱わない予定とされている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本産科婦人科学会では、各年代の女性が正しい性と健康の知識を得るために2014年に『HUMAN+』という冊子を作成して公開している。日本産婦人科医会でも、公式サイトにて若年層の2016 年の年齢別出生・中絶統計で20再未満の半数以上が中絶を選択する現状を示し、中学校で性交や避妊を取り上げるべきではないと悠長なことを言えず、義務教育が終わる中学校卒業までに教えないと間に合わないとの危機感を表している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2017年頃には時期尚早との意見もあるが、日本では小中学生に性的少数者の教育をするところもある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "性犯罪では、2013年に埼玉県警察が検挙した痴漢事件では、被害者では特に電車通学を始めたばかりの高校1年生が標的にされていた。2011年の警視庁の「電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について」でも被害者が高校生が36.1%と最多数を占めているが、被害者の多くが被害に遭っても声を上げることができず、「相談する場所が分からない」「啓蒙活動が足りない」などの声が寄せられている。また加害者の性的犯罪依存を治療する識者も、痴漢は99%を占める男性の問題であり痴漢撲滅の予防行為として、予防教育、性教育や啓発活動が必要だと語っている。痴漢は未成年者の被害者が多いにもかかわらず被害時の相談先など具体的に教わることがなく、また自分も相手の体も大切にする性教育が不足することで認知のゆがみが生まれているのではと問題を提起している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2023年1月、日本弁護士連合会は、日本の学校教育における性教育について国際的標準から極めて遅れていることを憂い、成人向け性情報の氾濫による誤った認識や価値観の植付けから起こる性被害や予期せぬ妊娠などの問題対応と人権保障の観点から、国及び地方公共団体が包括的性教育を実施するとともに、SRHRを保障する包括的な法律の制定及び財政的裏付けを伴う制度の創設が必要であると提言した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2023年には男子校の灘高等学校が、近隣の甲南女子大学生を招き女性の生理やデートDV、性的同意について学ぶ性教育授業を行った。7月に刑法改正で性的同意が盛り込まれ、不同意性交罪ができたこと、性交同意年齢は13歳から16歳に引き上げられたことを含め議論を交わし理解を深めた。この授業に対し、成人男性からのツイートでは卑猥な揶揄やからかいの発言が起こり、参加した実際に授業を受けた灘高生に反感を買っている。アメリカにおいては、高校で女生徒に対する痴漢・セクハラ発言で学校に訴えられた男子生徒は停学処分となり自殺念慮を抱え、大学推薦も得られず訴訟になった事件も起こっている現状がある。米国性教育基準の指導では少年達が性暴力を犯すリスクを抑制する目的も包括しているが2019年時点で公立校で性教育義務づけの州は全米の29州に留まる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前の性教育学者たちの言説には、明治以前の性的卓越性という男らしさの尺度を禁じつつ、男としてのアイデンティティを保持するために「学生時代は禁欲し、立身し然るべき時期に結婚して一家を成す」という、新しい「男性としてあるべき姿」像が含まれていた。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)頃から学生間での風紀の乱れと花柳病の蔓延がメディアを通じて社会問題となり、1900年代頃から学生の性の扱いに打つ手を持たない教育界を医学界がリードする形で、医学者と教育者との議論によって性教育が形成されていった。初期の性教育の使命は、若者の自然で健全な性欲を衛生的かつ倫理的に適った方向に誘導する、というものであり、議論のポイントは「手淫の害」と「花柳病の害」の予防法だった。しかし、科学に基づいた性知識の普及が学生の性的悪行を刺激し手助けする、という批判から、花柳病の具体的な予防法は教授せずに、若年の性交や恋愛は危険であり学生の間は学業に専念し禁欲せよ、という強制禁欲主義の教育がなされるようになった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "山本宣治は大正から昭和初期にかけて性教育についての啓蒙活動を行い、1922年(大正11年)に来日した産児制限で著名なマーガレット・サンガーの講演の通訳を務めるなどした。星野鉄男は昭和初期に『性教育に就いて』(1927年)などを著し、性教育は単に性欲についての知識を与える性欲教育ではなく、「社会を構成する男と女の全部」に必要な、今で言うところの生涯教育であると主張した。羽太鋭治は大正期においてドイツの性科学を下敷きに性教育についての著書をいくつか書き、昭和初期に大衆向けのハウツー本を多数出版した。太田武夫(太田典礼)は避妊リングの考案や1936年(昭和11年)に雑誌『性科学研究』を創刊するなど、性の研究を通じて社会問題に取り組んだ。梅原北明はエログロの先駆となる雑誌『グロテスク』を1928年(昭和3年)に創刊するなどした。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本の性教育の始まりは、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦直後から国が主導してきた「純潔教育」に遡る。風俗対策や治安対策の一環としてスタートした。性科学者で京都精華大学ポピュラーカルチャー学部教授の斎藤光によると、1947年(昭和22年)にGHQの支援を受けて婦人民主クラブが創立され、発起人の一人である救世軍士官(牧師)の山室民子は、「一夫一妻結婚の貫徹」「男女ともに婚前性交の禁止」「男性の買春への批判、女性の人格を認め、女性の性の商品化と決別する」などの主張をした。これは日本キリスト教婦人矯風会等の性 ・ 結婚思想の基軸となってきたもので、戦前から存在する思想である。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)、日本性教育協会が設立され、純潔教育から性科学を主軸にする性教育へと転換した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)、学習指導要領が改訂され、性に関する具体的な指導が盛り込まれたことで「性教育元年」と呼ばれた。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "学習指導要領の改訂で、思春期の成長は「男子=声変わり」から「精通」と定義され、これにより男女が名目上は平等に性教育を受けられるようになり、教育現場では射精をどこまで掘り下げるかなど試行錯誤をしていた。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "エイズが社会問題化し、HIV教育の重要さがフォーカスされたことで、小学校6年の理科で扱う人体の学習が3年生に前倒しされ、5年生に『人の発生と成長』が位置づけられるなど、性教育に発展の兆しが見られるようになった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "そんななか、東京都日野市の七生養護学校(現・東京都立七生特別支援学校)では、知的障害の子どもが性被害を受けても気づかなかった等の事態を受け、男性器と女性器の名称を織り込んだ歌や、性器のついている人形を使うなど独自の性教育に取り組み、校長会等でも高く評価された。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2003年7月、東京都議会議員で自民党の古賀俊昭、自民党の田代博嗣、民主党の土屋敬之ら3名の議員が、七生養護学校を始めとした学校を「行きすぎた性教育」と問題にし、『産経新聞』などのメディアで「過激な性教育」「まるでアダルトショップのよう」と扱われるなど、保護者や寮の職員から学校側に苦情や懸念が相次ぎ、社会的な批判が起きた。その後、七生養護学校は授業内容の全面変更・禁止、授業は事前に副校長の許可と当日の監視のもとで実施するよう指導され、校長他116人の教職員は処分された。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この処分について教育長(当時)の横山洋吉は「都立七生養護学校では、虚偽の学級編制あるいは勤務時間の不正な調整、それから勤務時間内の校内飲酒などの服務規律違反、その他、学習指導要領を踏まえない性教育など、不適切な学校運営の実態が明らかになったことから、教職員とともに、管理監督責任を果たさなかった校長への処分等を行ったものでございます」と都議会で説明している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年2月、七生養護学校の教員や保護者、関係者が人権侵害を訴えて提訴した裁判で、東京地方裁判所は東京都教育委員会の裁量権乱用を認め、処分取り消しを命じる判決を言い渡した。また、2009年3月12日、東京地裁(矢尾渉裁判長)は、3議員および東京都教育委員会に対して210万円の損害賠償の支払いを命じた。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2013年、最高裁は「教育の自主性を阻害」するなどの「不当な支配」にあたると認定し、古賀俊昭をはじめとした都議側に、原告である教員らに賠償金を支払う判決を下した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2019年、東京都教委『性教育の手引』から、16年前に都立七生養護学校(現七生特別支援学校)で行われていた性教育を「不適切」とする記述が削除された。 本件の原告となった教員は性教育攻撃の中心に日本会議や統一協会の関連団体「国際勝共連合」が存在し、チラシが配布されていたと語っている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "性行動の低年齢化や人工妊娠中絶、不測の事態の対応について書かれた冊子『思春期のためのラブ&ボディBOOK』が、中学校に無料で配布された。内容の一部が過激だとして批判され2002年に回収・絶版となった。2002年に国会の議論の対象になった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2005年3月4日の参議院予算委員会では、山谷えり子参議院議員が「ペニス、ヴァギナなどの用語を使いセックスを説明するのは過激で、とても許せない」と批判し、小泉純一郎元首相も同意した。自民党の安倍晋三を座長とした「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」が設置され、性教育は余計に性を乱すと批判した。山谷えり子は「性なんて教える必要はない」「オシベとメシベの夢のある話をしているのがいい」「結婚してから知ればいい」と主張した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これにより学習指導要領が変更され、「受精」は扱うが「受精に至るプロセス」は扱わず「性交」という言葉も削除されるなどし、元一橋大学非常勤講師の村瀬幸浩は、日本は性教育後進国となったと主張した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2013年、中京テレビ『ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか』が放送され、のちに無料公開された。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2018年3月、東京都足立区立中学校の授業が不適切だとする東京都議会質問が波紋を広げた。性交、避妊、中絶は中学の学習指導要領で扱っていないが、3年生を対象にした授業で「産み育てられる状況になるまで性交は避けるべき」と強調し、避妊や人工妊娠中絶についても教え、考えさせる内容を行った。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また授業前のアンケートで「2人が合意すれば、高校生になればセックスをしてもよいと思うか」や、正しいと思う避妊方法などを問う項目が含まれており、「学習指導要領に記載のない性交、避妊、中絶といった言葉を使っていた」「かえって性交を助長する」と問題視され、足立区教育委員会を指導するに至った。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "発端の都議会質問は、七生養護学校を非難・処分し最高裁で敗訴した古賀俊昭であり、「結婚するまで性交渉を控えるという純潔教育や自己抑制教育が必要だ」「そもそも『結婚する・しない』を自己決定するという戦後の価値観が問題だ。『結婚・出産・子育て』は社会貢献だとしっかり教育すれば、安易な性交渉にはおのずと抑制的になる」などと主張した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Yahoo!ニュースのアンケート(2018/5/15-5/25)では、25,063票中、性教育が必要は90.5%(22,674票)、不必要は9.5%(2,389票)だった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2019年2月26日に行われた東京都議会では、中学校での性教育について、都教育委員会の中井敬三教育長は「児童生徒が正しい知識を身に付け、適切に意思決定や行動選択ができるよう、区市町村教委などと連携して各学校を支援する」と答弁した。東京都知事小池百合子は、犯罪の被害者を支援するための犯罪被害者支援条例を制定する方針を明らかにした。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "元一橋大学・津田塾大学講師の村瀬幸浩は、2014年出版の『男子の性教育』(ISBN 4469267600)に、男子高校生を対象にした「射精イメージ」の調査結果を記載した。約15%の男子が射精を「汚らわしい」と感じ、約20%が「恥ずかしい」という意識を持っている一方、女子高校生の「月経のイメージ」では「汚らわしい」と答えた人は約5%、「恥ずかしい」は約8%であった。この男女差は教育の有無によるものだとしている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "女子は妊娠・出産に備え親や学校が月経のメカニズムを教えるが、男子には「別に教える必要はない」という風潮が続いた。思春期になれば性的な欲求や関心が高まり、メディアや友達を通じ、様々な性情報にアクセスするようになるが、科学的に正しい知識ではなく、誤解や偏見によって理解や認識が歪むことも少なくない。高1男子100人に「射精や性器についての相談相手は?」をアンケートした際は、誰にも相談できないが70%、友達が20%、家族・親戚が9%だったとし、誰にも相談できず、悩んでいる子供が多い実態を指摘した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「レイプが女性の人格を切り裂く殺人的行為だなんて考えたこともなかった。セックスのバリエーションのひとつと思っていた」などの認識や、望まない妊娠や中絶において彼氏の「他人事感」が問題となる場合、無知ゆえにリアルな想像や共感ができなかったことも原因だとし、性教育は大人が子どもに対して果たすべき責任だとしている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アダルトビデオ=性のスタンダードになってしまうと、パートナーを心理的・肉体的に傷つけてしまうことに発展しかねず、「アダルトビデオは作り物なんだ」「あれは女の人がお金で演技している(させられている)ものなんだ」という分別がつけられるよう、性について真面目に伝えていくことが大切だとする。精液がついたパンツを「汚いから別の洗濯かごに入れてね」などと対応することで、子供がセックスは汚い、いやらしい、ひどいといったネガティブな意識を持ち、恋愛や性行為を回避するケースもあるという。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "埼玉大学教育学部教授の田代美江子は、「性をいやらしいと考えている大人」や「性と真正面から向き合わない大人」は、極めて個人的な感覚に端を発するタブー意識を拠りどころに性を捉えており、大人たちが体系的な性教育を受けていないことから、「小学生には早い」「中学生に避妊なんて教えてどうするんだ」という価値観がストッパーになってしまうとしている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "男性器の包茎に羞恥心を抱き、美容整形クリニックの過剰な宣伝文句につられて意図せず高額な手術を受けてしまう被害もある。また包茎は不潔で、感染症のリスクが高いという不正確な情報が流布していると専門家は警鐘を鳴らしている。生殖については、思春期男子が気にするペニスの大きさより、精巣(睾丸)の大きさが重要であり未発達の場合、乏精子症または無精子症などで不妊の原因になる。男性器の相談は泌尿器科であると学生に性教育の講演を行う専門家もいる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2002年から、秋田県では県の教育委員会と医師会が連携し、中高校生向けに性教育を実施している。その結果、全国平均の1.5倍だった10代の中絶が2018年には平均以下となり、2012年には10代の中絶率が約三分の一となった。性教育で性行動はより慎重になると知られている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "富山市では、10代の人工妊娠中絶率はこの5~6年、女子の人口1000人あたり1人前後の割合で推移している。対して全国平均は6人前後で、福岡県や沖縄県などは10人前後となっている。1990年代に女子高生等の性が商品化され、全国で人工妊娠中絶が急増したことに危機感を抱いた産婦人科医と富山市は協力し、1991年から性教育の出張授業を始めた結果となっている。性教育とは危機管理を学ぶことという意識で教育が行われている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "埼玉県産婦人科医会は、県内で医師や助産師が自主的に行っていた性教育講演を県内全域で行えるよう、2020年に「性教育委員会」を設立し医師10人が参加している。講演について県教育長は予算がつかないとしているが、埼玉医大病院産婦人科高橋幸子_(産婦人科医)医師は講演料は必要なく、外部講師による性教育の仕組みづくりをしたいと話している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "YouTubeで性教育動画チャンネルを配信している、助産師の大貫詩織は、国際教養大学(秋田県)の性教育トークショーで「性教育は「人権教育」で、タブーはない。いろいろな人を生きやすくするのに必要なもの」と言った。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本性教育協会の青少年の第5回性行動全国調査によると、交際相手のいる中学生で1割、高校生では男子7割と女子5割、大学生では9割以上がセックス経験があり、初体験の相手は中学生では自分と同い年、恋人が増加している。性行動が低年齢化が日常化によって進行していると言われている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "内密出産を取り扱う「こうのとりのゆりかご」を運営する医師は小学校5年生の出産に対応した経験があり、また「慈恵病院SOS赤ちゃんとお母さんの相談窓口」に寄せられた平成19年(2007年)から平成26年(2014年)度までの相談件数9248件のうち、15歳から18歳までの相談件数は715件であった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "東京都では高校生に対する性教育は東京産婦人科医会に依頼されて、高校の所在する地域の医師が派遣されるが、約200余の都立高校のなかで2017年(平成29年)は32校にしか過ぎないと報告されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "若年層の妊娠出産が年400件で推移する沖縄県では、医師と児童相談所所長が中学終了まで一定程度の性教育の必要性と性的同意の重要性を説いている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "文部科学省も国会の質疑等でも厚生労働省と連携して取り組んでいくとしているため、産婦人科医会も全面的に性教育、特に中高生、一般の方に対する教育には努力は惜しまないことを表明しているが性交や避妊を教えない教育について正しい性の知識が普及しない懸念を示している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "公立高校では、文部科学省調査で2015年・16年度の2年間に学校が妊娠の事実を把握した生徒数は、全日制・定時制あわせて2,098人であり、そのうち32.1%にあたる674人が、妊娠を理由に「自主退学」しており、中には実際には退学を勧奨された事案もあり女生徒の妊娠は学業で大きな損失となる。一方で妊娠させた側についての調査はない。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "人工妊娠中絶や特別養子縁組といった手段を取らず、分娩費用を助成する入院助産制度を活用して出産するなど若年層で子供を産み育てる選択を取ったとしても、未婚のまま、または離婚の場合も子どもを引き取るのは2012年統計では妻側が83.9%となっており、一人親になるのは圧倒的に母親である。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本ではひとり親の相対的貧困率が高く、無職では60%で30か国中ワースト12位と中位であり、有業のひとり親の相対的貧困率については58%で諸外国中ワースト1位という状況にある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "政府調査ではひとり親の4世帯に1世帯は、子どもの世話・家事について頼れる人が「誰もいない」うえ、金銭的援助も望めない世帯の割合は、母子世帯が 51.5%となっているため準備ができていない時の妊娠・出産は女性の人生でより困難な大きな転機となる。なお、出産費用の相談先について円ブリオ基金などのNPO団体もある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "人工妊娠中絶は昭和44年調査では200万件とも推計され、当時妊娠可能女性の42%が中絶の経験者でありその46%が家族計画避妊の失敗からという理由であるため、昭和49年当時にピルの薬局販売推進が国会答弁されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "20歳未満の中絶率は平成30年(2018年)度衛生行政報告例で、東京都が最多の6.6‰、北海道6.4が続き、宮崎県の6.2ほか九州地方で以前から高い傾向にある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "現在は中絶件数が毎年低減しているものの、平成30年度件数は 161,741件であり、「20歳未満」について各歳でみると、「19歳」が 5,916 件と最も多く、次いで「18歳」が 3,434件となっている。一方で30代は60,368件、40代以上も15,909件となっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "出産に関する統計はほとんどが15歳からだが、15歳未満の妊娠も年間約400件ほどある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "平成29年(2017年)度の出産数と中絶数の比率で出した中絶選択率は、全体では15%だが20歳未満で59%にも上る。また12歳未満の強制性交等の性犯罪は約1000人が被害者となっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "佐賀県の産婦人科医の調査では、膣外射精を避妊手段として選ぶ知識のなさと、避妊なしの性交渉を断れない関係性が影響していると分析している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "望まない妊娠の相談先として「全国妊娠SOSネットワーク」がある", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "岡山県津山市で住宅団地の浄化槽から乳児の遺体が見つかった事件では、岡山県警はベトナム国籍の女性技能実習生について死体遺棄容疑で2020年4月16日に逮捕し処分保留で釈放したが5月に堕胎容疑で再逮捕している。実習生のため妊娠が発覚したら帰国させられると思った末の犯行だった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "しかし彼女がもしベトナムにいたとしたら中絶費用は妊娠初期で500円弱、中期でも1万円強。貧困地域や遠隔地では無料であった。今でも日本では堕胎罪、妊婦自身が行った場合には自己堕胎として罪に問われる問題がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "韓国では2021年1月1日から堕胎罪が無効化された。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "日本は平成30年(2018年)度 男女共同参画白書によると人工妊娠中絶率の国際比較において低位となっており20歳未満5.0%、20-24歳12.9%、全体6.5%であり、ドイツ20歳未満4.2%、20-24歳9.3%、全体5.7%には及ばないが、フィンランドの20歳未満8.2%、20-24歳15.3%、全体8.2%などより低い。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "若年層の妊娠は分娩希望の場合でも精神不安に陥りやすいこと、また年齢に関わらず緊急避妊薬を求める女性は性被害者が多く、中絶処置をした患者についてはその後思い悩み自殺企画が多いことが読み取れる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2005年から2014年の東京都23区の妊産婦の異状死調査では、自殺63例のうち23例が妊娠中であった。うち10件以上が妊娠2週間のうちに起こっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦調査での死亡例は全国で少なくとも102人であり、妊娠中や産後1年未満に死亡した妊産を調べたところ、自殺が死亡原因の1位となっている。妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "産婦人科医の調査では10代の妊娠(分娩希望)の場合も妊娠中自殺願望を持った患者は全体の15.6%であり、7.2%は自殺を試みている。一般の性感染症患者、緊急避妊薬処方患者は、デートDV被害者や性虐待被害者の場合が多く、自殺願望が認められると報告されている。また中絶後の患者が人口妊娠後遺症(PAS)に悩んでいるケースは76.2%であり、48.3%が自殺願望を持ち12.2%が実際自殺を試みている状況にある。海外での研究でも中絶経験者の60%が自殺を考え、28%が実際に自殺を図り、そのうち半数が2回以上自殺を図った。特に10代の若者や離婚者などにリスクが高い。心的外傷後ストレス障害(PTSD)も見られた。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "フィンランドの13年間の調査では中絶の翌年は自殺、事故及び殺人による死亡が24%増加することが女性全体を対象した調査で判明した。調査期間中自殺の73件は中絶または流産後1年内に起こっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "この調査では、中絶した女性の死亡原因の過半数が自殺であることも判明した。若すぎる妊娠や、望まない妊娠は自殺のリスクを高め、出産後0日の嬰児殺害にもつながっている。胎児を中絶する経験は女性に大きな罪悪感を生み出す。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "海外では後述の緊急避妊薬でその妊娠の多くが容易に回避できる状況にあるが、日本国内では実現しておらず結果として女性が望まない妊娠・出産の負担を負うことになり、日本国内の女性に対して日本国憲法に定める法の下の平等や生存権が中絶に関わる主な精神的影響のリスク保証されていないものとなっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "中高生の妊娠には、避妊の正しい知識不足による失敗がある。言わゆる女性の生理周期の排卵日を避けて「安全日」を選んでする性行為も、男性が放出した精子は女性器内で最大5日生存するため、確実ではない。また月経中は妊娠しないという誤認があったり、膣外射精や炭酸飲料で膣を洗う対策は避妊ですらないということが伝わっていない場合がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "緊急避妊薬OTC化に関する医師に対するアンケートでは、回答者の90%が処方経験がありその理由(複数回答)の95.5%がコンドームの脱落・破損だった。同意のない性交が36.1%、性暴力32.1%も含まれていた。この状況の背景には国連発表では日本の避妊の方法は男性用コンドームが75%で女性が使う経口避妊薬は6%にとどまり、経口避妊薬が31%である海外と比較し日本では男性が行う避妊方法に偏っていることが挙げられる。スウェーデンなど諸外国で普及している妊娠を防ぐホルモンが含まれたスティックを皮下に埋め込む「避妊インプラント」、腹部などに貼るシール状の「避妊パッチ」、膣内に挿入する避妊リング、避妊注射なども日本では承認されていない。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "精子は射精時の精液だけでなく、前段階で分泌されるカウパー腺液中にも僅かに存在する場合があるため確率の高い避妊法とは言えず通常は避妊法としてカウントされない(PIは4-19程度)。また知識があったとしても、一般的な避妊方法に使用されるコンビニエンスストアでも購入できるコンドームによる避妊方法も万全ではなく、避妊失敗率は2%であり正しい使用方法でない場合を含めると18%とされ、一方でピルは0.3%とされる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "コンドームは「性感染症予防」、避妊のためにはより効果の高い方法を「併用する」ことが常識となっている。しかし口で性器に触れるオーラルセックスでは、双方の性器を保護しないと性感染症が防げない問題もある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "妊娠の不安については、市販されている99%の精度と言われる妊娠検査薬の存在への無知などがあり、様々な性にまつわる理解が不十分な状態が招いた問題となっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "なお中絶可能週数は22週までで、中絶の同意書には配偶者の同意者が必要である。未婚者の場合でもパートナーの合意を求める病院があり男性も交際相手の女性の中絶同意書に署名する責任がある。しかしこの制度は性暴行の加害者にも同意を求めなくては手術を行うことができない現状に繋がっているため弁護士から批判を浴びている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)6月、女性自身が妊娠をコントロールする低用量ピルが申請から9年の歳月を経て承認された。1965年以来、185以上の国連加盟国各国はピルを承認し、世界中で2000万人の女性が服用する中、日本はピルを承認する最後の先進国であり、国連加盟国185か国で当時唯一の未承認国であった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)2月、衆議院予算特別委員会での国会審議において、末松義規議員より、バイアグラのスピード承認に対してピル承認が9年以上も審議にかかることについて、中央薬事審議会が社会的な価値観を持ち込んでいる疑問が呈され、同議員は「どうも何か大きな思惑があったのじゃないかと思わざるを得ない」と意見している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "臨床試験はバイアグラはしなかったことを引き合いにピル承認について尋ねると、担当部局に伝えるとだけ回答されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "HIV感染拡大の懸念から薬事審議会が一時審議を凍結し、感染症問題を管轄する公衆衛生審議会に意見を求めるなど調整が難航し、承認時にもなお感染症対策をもっと詰めて承認を決めるべきだったとの意見(東京医科歯科大学大島博幸教授)があった。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "低用量ピルが長期審議から一転解禁となった背景には、男性用性的不能治療薬「バイアグラ」を個人輸入で大量に出回り死亡例が発生したことから安全に処方されるためとの理由で、申請からわずか半年で承認された。これにより男性本位との批判が起こったことが関係しているとの見解もある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "厚労省はピル解禁について、世の中の理解が進みピルを温かく見守る環境ができた(平井俊樹審査管理課長)との講和を発表した。しかしピルが承認されない一方でバイアグラが超特急で承認されたことに対し、『ニューヨークタイムズ』紙では世界的に安全性が確立された低用量ピルが認可されていないのみならず副作用ゆえに米国では88年以降販売されなくなった「危険な」高用量ピルのみが認可され,販売され続けていることも紹介し日本の薬事行政の奇妙さを紹介した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "懸念された性感染症については、ピルが承認の1999年のHIV感染者は日本人男性379人(うち同性接触195人)、女性が45人であり、2019年では同男性741人(うち同性接触575人)、同女性29人となっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また先進国のなかで卵巣がんが増加しているのは日本だけといった状況にあり、この卵巣がんの発症数については、月経回数を減らす効果がある低用量ピルが日本では4%の利用と極めて少ない普及状況が影響している可能性があると医師より指摘されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "緊急避妊薬は性交後に排卵を遅らせて妊娠を阻止する経口剤のことであり、妊娠を予防する薬である。流産を引き起こす中絶効果はない。Yuzpe(ヤッペ)法と呼ばれる中容量ピルがかつて使用されたが、日本ではレボノルゲストレル錠が2011年2月23日に緊急避妊薬として承認された。日本では医師の診察が必要な処方箋医薬品であるが、アメリカ合衆国では、大学区校内の自動販売機で緊急避妊薬が購入できる。このことと価格帯の問題のため日本では世界保健機関が2018年に勧告した、意図しない妊娠のリスクを抱えた全ての女性は緊急避妊薬にアクセスする権利があるとの声明に合致していない現状がある。コロナ禍においてオンライン診療での処方が暫定的に認められているが、処方箋なしの薬局購入(OTC化)については、市民団体が、10万7000人分の署名を厚生労働省に提出したものの、2021年現在認められていない。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "厚生労働省の「医療用から用指導・一般化への転用に関する評価検討委員会議」で2017年には性教育の不十分さや薬剤師の知識不足を理由として否決されたが、再度2021年5月に処方箋なしの薬局販売についての審議が再開された。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "なお2020年10月より同審議会はこれまでスイッチの可否を握ってきたが、スイッチ促進へ向けた課題解決案を話し合う場へと姿を変える見通しであり、今後の決定権は厚労省に移っている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ところでフランスにおいて中絶法(ヴェイユ法)を作り上げたシモーヌ・ヴェイユ (政治家)はその回顧録に於いて中絶よりそれ以前に成立した避妊法の成立への国会議員の抵抗が非常に激しいものであったことを述べている。男性たちは避妊が女性の自由を認め男性の関与を許さなくなるものであることに対し、中絶は男性も感情を損なうものではあるが女性の身体に男性が影響を及ぼさないようにするわけではないことを理由として考察している。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "International Consortium for Emergency Contraception及びen:Emergency contraceptive availability by countryによると諸外国では日本・韓国・台湾では処方箋が求められるが、中華人民共和国やヨーロッパ諸国では処方箋が必要なく、場合により無償で提供されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "10月の「国際ガールズ・デー」にあわせNGOが行った調査では若い女性ほど緊急避妊薬や低用量ピルについてどのような薬かの知識が高く、20代以下の女性では48%が入手方法も知っていたが高齢になるほど知識が低減していた。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "緊急避妊薬へのアクセスは人権の問題であると「緊急避妊薬を薬局でプロジェクト」の共同代表であり、産婦人科医の遠見才希子は語っている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "なお、子供を望むができない不妊症では加齢が原因の場合もあり、女性は胎生期に最大の卵子を持ち、以降減少していくため、女性の妊娠しやすさ(妊孕性)は、おおよそ32歳位までは緩徐に下降し、卵子数の減少と同じくして37歳を過ぎると急激に下降していく。また男性も年齢とともに妊孕能が低下する。女性が35歳以上の出産を高齢出産と呼び、流産の上昇や胎児の染色体異常の頻度などリスクも高くなる。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "不妊については二人目不妊の問題もあり、雑誌社の調査では不妊治療経験者中で第二子のときに不妊治療を経験した人は6割を超え、その内半数が第二子で初めて不妊治療をした状態にあり、子供を望んでいて最初の妊娠で問題がなくとも加齢やセックスレスにより妊娠しづらくなる問題が起こる場合がある。このため生涯設計のため生殖可能年齢を早期に理解することも重要である。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "日本産科婦人科学会によると不妊治療の体外受精によって2017年に誕生した子どもの数は、この年に生まれた子どものおよそ16人に1人の割合となっており、誰もが自然妊娠するとも限らない現状がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "女性の胎内で胎児が育たない不育症の問題もある。2021年には厚生労働省が不妊治療費用の助成を拡大することを決定した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "2021年7月、厚生労働省は、来年度開始を目指す不妊治療の保険適用に向け、医療現場で使われている未承認の医薬品について、「公知申請」の制度を用いて承認手続きを迅速化し、体外受精に用いる排卵誘発剤や、「バイアグラ」など男性不妊に対する勃起障害の治療薬、射精障害に対する抗うつ剤に保険適用する予定と公表した。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "世界保健機関(WHO)の発表によると、不妊症の方のうち、不妊症の原因が女性側のみというケースは41%、男性のみは24%、男女双方は24%、原因不明は11%となっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "クラミジア感染症が不妊の原因となる場合もある。また不妊には肥満や喫煙が影響する場合があり、男性は70代でも生殖可能な一方で、サプリメント摂取による男性不妊も指摘されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "胎児の出生前診断の普及により、不妊治療後に授かった子でも診断結果によって異状があった場合中絶する覚悟で検査をする実態もある。2013年から5年半の間に、6万人を超える妊婦が新型出生前診断を受けて陽性確定の9割が中絶したと報道されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "コロナ禍において10代の妊娠相談は増加し、支援団体への相談者の1番下は小学4年生といった現実がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "小学6年生に至っては複数人からの相談が寄せられている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2020年現在では、コロナ禍において全国の妊娠届の件数は、感染への不安が高まった3月ごろに妊娠した人が届け出る5月以降で7月まで前年同期を1割超下回っているため、来年度は出生数が80万人を割り込む可能性がある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ただしこれは日本人女性の産み控えだけではなく、日本に来ていた外国籍の家族滞在者などが本国に帰り日本で出産しなくなったことが影響している可能性もある。なお、同時期に「嫡出推定」制度見直が報道された。これは離婚から300日以内に生まれた子どもは前の夫の子と見做すことなどが規定されているが、離婚前に既に前の夫ではない男性と交際があった場合や早産、医学の発達により未熟児も生存可能となったことなどを背景として改定される見込みとなった。現状では前の夫の戸籍に入らないようにするため出生届がなされず無戸籍になることがある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "このほか、性にまつわる問題として現代の女性は初経が早く、妊娠・出産の回数も少ないため、生涯の月経回数が多く月経トラブルも増加している。低用量ピルによる治療が有効だが普及率は3%となっている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ピルは子宮内膜症、機能性卵巣嚢胞、子宮体がん、不妊症になる可能性を低下させる効能も言われている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "働く女性の8割以上が生理痛やPMS(月経前症候群)による仕事への影響を感じており、その影響で野経済的損失は年間6828億円との調査結果がある。このため、福利厚生制度で生理痛やPMSをやわらげる低用量ピルの服薬の支援を始めた企業もある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "アスリートが心身を追い込むと生理が止まることがあるが、低用量ピルは2008現在で欧米で行われた調査によると82%のトップアスリートが低用量ピルを服用さしており、継続的に月経対策を行われてコンディションを整えている。月経困難症やPMS(月経前症候群)、過多月経(経血量が多い)にも処方されている。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "子宮内に装着する子宮内システム(IUS)も最長5年に渡る高い避妊効果と月経困難症の緩和が効能としてある。", "title": "日本の性教育" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "1980年代以降、後天性免疫不全症候群(エイズ)の存在が取り上げられるようになり、性教育もその存在を無視することはできなくなった。エイズが流行しているとまで言える状態にまで達してしまったアフリカ各国においては、研究者たちのほとんどが、性教育を公衆衛生において極めて重要と捉えている。米国家族計画連盟など、国際的な組織の中には、幅広い性教育を実践していくことは、人口爆発の危機を乗り越える/女性の権利を向上させるといった地球規模的な成果を達成することに繋がる、と考えている人々もいる。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "性教育により、クラミジア、梅毒、HIVの性感染症や、ヒトパピローマウイルス(HPV)感染による子宮頸がん、中咽頭がん、肛門癌、陰茎がんなどから身を守る方法を学ぶことができる。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2019年、淋病は男性が6,467人、女性が1,738人で男性は1999年より減少、女性は同水準である。2019年、梅毒は男性4,384人、女性2,255人となり、2010年までは男性は同水準、女性は減少だったものが一転して増加傾向にある。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "性器ヘルペス以外の性感染症は全て男性が多く罹患している。梅毒の増加については風俗を利用する中高年の男性や、そこに勤める20代の女性などから感染が広がっているとみられている。男女ともに年齢関係なく、正しい性知識の普及が必要とされている。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "子宮頸がんはそのほとんどを性交渉によるヒトパピローマウイルス(HPV)の感染を原因とし、年間約1万人が罹患し、約2,800人が死亡している。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "ヒトパピローマウイルス(HPV)の感染は20歳前後が多く、最も感染機会が多いのは性体験を始めた直後で性器の挿入の有無に関わらず性器の皮膚部分でも感染する。HPVウイルスは、性交渉を持ったことがある女性のうち、50-80%がHPVに一度は感染すると言われている。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "正常な免疫状態の女性が感染から子宮頸がんに進行するには15年から20年かかるが、18歳で初体験をして21歳で死亡した急進行した事例もある。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "妊娠・出産年齢や子育て世代と発症のピークが重なることから、子宮頸がんは「マザーキラー」とも呼ばれる。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "また罹患した母親から新生児へのがんの移行が認められ、国立研究開発法人国立がん研究センターは出産直後の赤子が母親の子宮頸がんのがん細胞が混じった羊水を肺に吸い込むことによって、母親の子宮頸がんのがん細胞が子どもの肺に移行して小児での肺がんを発症した2事例を発表し、1組目の男児は免疫療法薬で治療できたが、2組目の男児は手術で肺がんを切除した。母親2人は出産後や出産時にがんと診断され、その後死亡したと公表した。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "HPV感染を防ぐヒトパピローマウイルスワクチンを公費で打てる定期接種は小学校6年生から高校1年の女子が対象であったが、2020年時点、男子へも対象を拡大する方針となった。しかし女性のように無料でうてる定期接種化するかは厚労省審議会での議論による予定である。接種を受けて多様な症状が訴えられ、厚労省は対象者に個別に接種を呼びかける積極的勧奨を中止したが、厚生労働省は2021年11月に、2022年4月からの積極的勧奨接種再開を決定した。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "私費の場合、2013年時点で1回あたり1.5万から2万円で3回接種を要する。HPV感染者がワクチンを打っても病状進行はしないが治癒効力もない。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "このほか、出生児を守るために母子感染による「先天性風疹症候群」を防ぐため、ワクチンの定期予防接種制度により一度も風疹の定期予防接種を受ける機会がなかった40代と50代一部男性を対象に2019年から2021年度末までの約3年間に原則無料で抗体検査・予防接種が行われている。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "性行為がなくとも唾液を交換するディープキスで罹患する病気もある。伝染性単核症(infectious mononucleosis)は乳幼児期に初感染をうけた場合は不顕性感染であるが、思春期以降に感染した場合に発症することが多く、kissing disease とも呼ばれる。罹患で多くの場合38°C以上の高熱で 1 - 2週間持続する場合が多い。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2021年にはコロナワクチンの接種が開始する見込みだが、新型コロナワクチンとその他のワクチンは、互いに、片方のワクチンを受けてから2週間後に接種できるため、接種間隔に留意し接種計画を立てる必要がある。", "title": "性感染症" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "日本では明治時代に制定された性犯罪に関する制度の継続により、13歳の中学1年生から性行為に同意する能力があるとしている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2020年5月には、性的同意年齢を13歳からとしていた韓国では通信アプリのチャットルームで、脅迫などにより行わせた女性の猥褻な動画や画像を提供して暴利を得た「N番部屋事件」に中学生とみられる被害者が含まれていたことをきっかけとして年齢を16歳に引き上げた。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "またフランスも性犯罪事件によって15歳に引きあげられた結果、日本やアメリカ合衆国、ドイツ、イギリス、スウェーデンなど14~18歳とする各国より最も低い13歳となっている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "カナダでは性的関係を持つことができる同意年齢は16歳であるが、刑法は「年齢が近い場合」あるいは「ピアグループ(同年齢集団)」の例外規定を設けており、12歳及び13歳に対しても「年齢が近い場合」の例外がある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "イングランドとウェールズでも犯罪認定年齢は16歳だが、性犯罪法は、性的虐待の場合以外の16未満同士による性行為承諾の規制を目的としてない。ただし児童保護の視点から、法令は13未満の承諾は法的効用を持たないとし、12歳以下の児童との性的行為はもっとも重度な刑法が適応される。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "日本においても、2023年の刑法改正により性交同意年齢は、13歳から16歳への引き上げが7月施行になり16歳未満への行為は処罰される。なお年齢が近い者同士の行為は罰しないが、13~15歳は5歳以上年上なら相手が処罰対象になった。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2021年2月に北海道旭川市で起こった中学2年女子の凍死事件では、被害者の少女が複数人より自慰行為を強要されその画像が拡散し、これを苦にして当初投身自殺未遂を起こしているが、わいせつ画像を送ることを強要した加害者は、児童ポルノに係る法令違反、児童ポルノ製造の法律違反に該当したが未成年で法に問えなかった。また警察が捜査終了後に加害者がパソコンのバックアップからデータ復元してチャットグループに再拡散させるなどわいせつ画像の流出が続くなどしているが、加害者が同世代であることで性行為の強要が罪に問われない事件も起こっている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "加害者は知人や親族など身近な人からのことが多い。実父に小学生時代から性虐待を受けていた女性は「家族がばらばらになる」とその被害を長期間打ち明けられなかったが、父親は避妊しない性行為すら虐待だと認識していないことが裁判で明らかにされている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "教師や塾講師など信頼する身近な大人から猥褻行為や性暴力を受ける事件もあり、被害者は自傷行為に陥ったり成長してからその意味を理解して深く傷つく場合がある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "2015年版『犯罪白書』によれば、摘発した性犯罪事件のうち、約3割は顔見知りによるものという。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "特定非営利活動法人 性暴力救援センターの東京理事長の報告では、加害者の7割が顔見知りであった。性暴力では殺される恐怖で抵抗することができない被害者を見て、加害者が勝手に被害者が性交に同意したのだと思い込むことが多い。顔見知りでない場合でも地方から上京したばかりの女性が道を教えてくれと頼まれ、駐車場の車内などで被害にあうこともある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2020年3月、北海道において特別支援学校を卒業した知的障害がある女性(31歳)は就労支援施設のトイレで出産し、乳児を便器に押し込み窒息死させた事件が起こった。女性は性教育を受ける機会もなく、また乳児の父は元施設職員の50歳男性でほとんど避妊をしない性行為を行っている一方、関係者も妊娠に気づかなかったと報道されている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "フランスではどのような相手でも体の大切な部分を触らせない教育の重要性を説いている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "また、人間における子供への性犯罪の前に加害者が子供の孤独や承認欲求につけこみ被害者との親密な関係性を築き、性犯罪に及ぶ準備の懐柔行為を示すことがある。教師などの身近な人物からや、グルーミングはツイッターやTikTokなどSNSを通じて行われることがある。2021年の性犯罪の刑法改正審議会では性交等又はわいせつな行為をする目的で若年者を懐柔する、いわゆるグルーミング行為に係る罪を新設することについての審議が明記された。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "1988年におきた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件では、最終的に犯人は幼女を裸にして写真を撮影していたところをその父親に見つかり警察に通報され逮捕に至ったが、少女の父親が仏心を出して通報しなかったら事件は解決しなかったとも言われている。わいせつ行為には再犯制性が高く通報することは次の被害者を生まない意義もある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "小児への性犯罪は再犯罪率も高く、9歳の特別支援学級女児を裸にして撮影した教員は以前に別の中学で猥褻行為をした後小学校で復職し犯行に及んだことが分かっている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "しかしながら、法務省では再犯率については出所者全体(15.1%)と比べると低く、再犯率が高いとまでは言えないと述べている", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "内閣府が2018年3月に公表した「男女間における暴力に関する調査報告書」によると、これまで結婚したことのある女性のうち、配偶者などから、「身体的暴行」「性的強要」などの暴力を受けたことが「何度もあった」人はおよそ7人に1人であった。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "2018年の内閣府男女共同参画局の「男女間における暴力に関する調査」によると、無理やりに性交等をされた被害者の女性は 7.8%、男性は1.5%であり、18歳未満のときにあった被害について、「その加害者は監護する者(例:父母等)でしたか」という質問に対して、「監護する者」が 19.4%であった。被害の相談をしなかったのは、女性で58.9%、男性で39.1%で、半数が羞恥心によると回答している。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "国際政治学者の三浦瑠麗は中学3年生のとき車に連れ込まれ、集団レイプ被害を受けたことをその著作で公表している。当時は家族などにもその被害を打ち明けることができなかったと語っている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "法務省は2020年3月、性犯罪を厳罰化した2017年の改正刑法施行から3年の実態を調査した報告書を公表し、被害者や心理学の専門家、加害者臨床に携わる医師らへのヒアリングで被害者は必ずしも強い抵抗を示すわけではないこと、激しく抵抗しないと被害が認められにくいなどの指摘があった。準強制性交等罪の要件である「抗拒不能(身体的・心理的に抵抗するのが難しい状態)」の定義が曖昧だとの課題もある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "性暴力の被害者心理に詳しい精神科医の小西聖子は、抵抗しないほうが早く終わるという理由で自分から応じる場合や、加害者の機嫌を損ねてさらに危険にさらされないように笑って応じることもあると父から娘への性暴力の公判で証言している。誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者についての臨床においても、被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築きその支配下に置いて協力的になるストックホルム症候群もよく知られるところである。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "報道機関の推計では、警察が被害届を受理した事件数は、推定被害者数の4.71%でしかなく、レイプ事件が裁判となる事例は1.92%としている。その被害者の多くは泣き寝入りしている実態がある。令和3年版『男女共同参画白書』によると強制性交は被害について「どこ(だれ)にも相談しなかった」者は,女性は58.4%,男性は70.6%となっている。平成26年版男女共同参画白書によると女性の異性からの強制性交経験は1回が4.1%,2回以上が3.5%で,被害経験がある女性は7.7%である。被害時期は「20歳代」が35.1%で最も多く、次いで「中学卒業から19歳まで」が20.1%、「30歳代」が14.2%、「中学生」が5.2%、「小学生以下」が13.4%を占める。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "実際に被害に合った時にはフリーズ(もしくは凍りつき)反応がスウェーデンではレイプ被害者の70%で見られている。これは動物にも見られる擬死状態で、強直性不動状態になることにより捕食者の意欲をそぎ生存確率を上げる役割がある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "災害や被害にあった際に想定外のことに頭が真っ白になって反応ができなくなってしまうことを「凍り付き症候群」と呼び逃げ遅れる要因として知られている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "1994年にアメリカの神経生理学者であるステファン・W・ポージェス博士が発表したポリヴェーガル理論では、重大な生命の危機に面した場合に意図せずして背側迷走神経系が優位になり、「不動化」「仮死状態」「凍り付き」が起こり生存確率を高めるとしている。また、加害者からさらなる加害行為を受けないように、「迎合」という反応が起こる場合があることも述べている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "2017年に性犯罪を厳罰化する刑法改正案が可決成立し、第177条の強姦罪が「強制性交等罪」に改められ、被害者を女性に限っていた強姦および準強姦の罰則規定が、男性にも等しく適用となった。日本の未成年男子で何らかの性被害を受けたことがある人は高校生男子で5~10人に1人、レイプ被害率は1.5%となっているとの統計もあり、男児だから性被害に合わないというわけではなく、自身を恥じ入りトラウマとなって精神的にも被害を受けるケースもあるため男女共に性犯罪を防ぐ知識と犯罪に合ってしまった時のケアが大切となる。恐らく薬物の入った飲料を飲まされ朦朧とした後に複数の男性によってレイプされ、HIVに罹患した被害もあり、成人男性だから安全ということもない。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "電車内での痴漢行為という性犯罪に日常的にさらされた被害者の女子中学が自殺念慮を抱きリストカットした事例もある。痴漢問題は性犯罪であるという前提と、人権侵害行為であるということが重要との指摘があり、99%の痴漢は男性による犯罪となっている。「犯罪白書」(平成27年・2015年)では、痴漢を行う男性で最も多いのは四年制大学卒業のサラリーマンでこのうち既婚男性は34.7%と分析されている。。被害者は公共交通機関利用ができなくなったり、うつ病を発症するなどPTSDに苦しみ、自傷行為や自殺を考えるほど追い込まれる人もいる。日本共産党東京都委員会ジェンダー平等委員会の調査では被害者は18歳以下の場合が71.5%で中学生以上の通学時だけでなく、性的知識が不十分な幼児や小学生がターゲットとなったことが明らかになった。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "厚生労働省の虐待死の統計では、その被害者は半数以上が0歳であり、児童虐待死が最も多いのは「0歳0ヶ月0日」となっている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "社会福祉法人恩賜財団母子愛育会の平成26年(2014年)度調査によると、児童相談所一時保護所入所者の虐待は性的虐待年齢が13.03歳となっている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "男女交際の場においても、束縛や性行為の強要などが起こるデートDV危険性がある。現在、児童ポルノ被害の約4割は「児童が自らを撮影した画像に伴う被害」で、児童がだまされたり、脅されたりして自分の裸体を撮影させられた上、メール等で送らされる被害が増加している。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "年上男性と学生層の女性との間である買春行為も含むいわゆる「パパ活」「援助交際」ではホテルで睡眠薬を盛られて強制性交被害に合い、わいせつ画像を撮影されたり強盗被害にあうこともある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "学習塾で生徒が講師から盗撮された事件では犯人は千葉県の迷惑防止条例違反で逮捕されたが、県により条例が異なっているため他県では犯罪として取り締まれない状態があり問題視されている。スマートフォン(スマホ)の普及もあり盗撮の検挙件数は10年前の2倍超に達していることから、「盗撮罪」としての刑法改正が望まれている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "2020年3月から5月にかけて、新型コロナウイルス感染症拡大予防のためにとられた全国での一斉休校において、学校や部活も無くなり自宅にいる中高校生が性行為の機会を持ち望まない妊娠に至ったり、妊娠の不安を感じてこうのとりのゆりかごを設置する熊本市の慈恵病院の妊娠相談窓口に、過去最多の中高生からの相談が寄せられている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "コロナ禍の最中に性虐待が判明した少女には、10歳での母の恋人からの性暴力の妊娠や12歳での父からの性強要による事件も含まれ、日本は他国に比較し性虐待の顕在化がされていない可能性が高い一方で自分の体を守り大切にする性教育が不足しているため自らを責めたり我慢をする少女もいる。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "女性の心身を守るうえでも性教育は重要である。更にコロナ禍の中では、在宅勤務や外出自粛要請で、女性や子どもがDV被害にあうことも懸念される。国連人口基金は4月、ウイルス感染への恐れや外出制限により、女性が医療機関に行かないことが予期せぬ妊娠につながると指摘している。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "性暴力を受けたときに相談できるワンストップ支援センターの大阪支部では、2010年度~18年度に来所し、受診につながった者のうち19歳以下の子どもは1285人で6割を占めている。また17、18年度、家族からの性暴力を訴えた子どもは161人となり、実父からが36%、実兄・義兄からが18%を占め、そのほか母の恋人・祖父・いとこが加害者の事例もある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "生活苦から援助交際と言われる年上男性との性行為の結果、妊娠に至った高校生もおり、親に打ち明けるにも「小さないのちのドア」などの支援者の援助を得て乗り切るケースもある。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "2020年12月、産科医療機関でつくる「あんしん母と子の産婦人科連絡協議会」(本部・埼玉県)が、18歳以下の女性を対象に、無料で相談や初診を受け付ける事業を始めている。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "性暴力被害の相談については「#8891」となり、2020年10月より全国共通の短縮ダイヤルが開設された。", "title": "性犯罪" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では1980年代半ばから、性病やエイズ感染症の予防からコンドームの使用指導をしていた。しかし1990年代初めより、キリスト教右派の「絶対禁欲性教育(英語版)」が導入された。結婚するまで絶対にセックスをしてはならず、妊娠の医学的仕組み、避妊の仕方も教えてはならないというもの。ブッシュ政権は莫大な資金援助をしたが、避妊を教えた場合は助成金を打ち切った。その結果、一部の州で未成年者の性病罹患と妊娠が急増した。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "純潔教育を扱ったドキュメンタリー映画に『シェルビーの性教育〜避妊を学校でおしえて!(英語版)』がある。ピュアボール(英語版)という、父親と10代の娘が「結婚するまで処女を守る」と誓うダンスイベントも存在する。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "2004年、アメリカの『ニューズウィーク』誌は、アメリカ国民の79%、キリスト教徒では87%が、聖母マリアの処女懐胎を信じていると報じた。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "アメリカでは「絶対禁欲性教育(Abstinence-Only Sex Education)」「包括的性教育(comprehensive sex education)」他の複数のカリキュラムがある。この二つについてはどちらが良いかについて論争がある。特に、子どもの性的行動を取り扱っていくことを善しとするか害と見るかに関して、激しく意見が割れている。より具体的に言えば、コンドームや経口避妊薬などの産児制限、避妊具が婚外妊娠に与える影響力、若年での妊娠、性感染症の伝染などの扱うことの是非である。アメリカの性教育をめぐる論争の火種となっているものの1つとしては、保守系の人々が推奨する純潔教育や絶対禁欲性教育への支持が高まっていることを挙げることができる。性教育に対して、アメリカや英国も含めたより保守的な態度を示す国では、性感染症の蔓延や若年妊娠が高い率で生じている。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "アメリカ心理学会の研究では、「包括的性教育」の有効性が示されているとした。包括的・総合的な性教育の有効性は、査読誌の記事の複数によって明白であるとする一方、「絶対禁欲性教育」は深刻な危険があるとの指摘がなされている。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "高校のアメフト部などの運動部において、ブルーミングと呼ばれる上級生から下級生への伝統と化した性的暴行が行われていることがあり、性的欲求より権力の誇示の手法として、男子生徒が肛門を木製の箒の柄や懐中電灯などで貫通させ、直腸・膀胱に穴を開ける事件がしばしば発生している。睾丸ががひねり潰される被害が起こることがあったが、被害者は羞恥と仲間の圧力から親や周囲に訴えることができず、発覚してもただの行き過ぎた悪ふざけであり性暴行と認められない状況にある。被害を受けた子供は加害者になる可能性が高いことが分かっていると識者は警告している。ハーバード大学の18-25歳を対象にした「思いやりの常識化」調査では、若者の3分の1が性的同意について親と話し合ったことがない。一方、コロンビアの大学調査ではセックスの誘いを断ることを学んだ学生はレイプの被害が半数になる。小児から体のつくりを教わり触れられることの自己決定や他者尊重を学ぶ性教育は、加害者化も被害者化を防ぐことに有効であることが分かっている。しかし1990年代以降、性教育を行う際の性的自己抑制を義務づける法律が28州で成立したことで包括的性教育に取って変わられた問題がある。ポルノが非現実的なものとして理解していく「ポルノリテラシー」教育も新しい教育方法として試みられている。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "イギリスでは中等学校(11歳から16歳)での性教育が1994年より義務化された。イギリスの10代少女の妊娠数は1960年代終わりから1970年初頭にかけて正式統計で年間13万件以上、実数は20万とも30万とも言われるほど多く、学業の継続困難から安定した職業に就くことも出来ず、貧困問題とも結びついて社会問題化していた。また1980年代後半におこった性感染症とエイズの問題が性教育の必要性を後押ししたとされ、その後10代の妊娠は少しずつ減っていった。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "2007年のTIME誌によると、デンマークでは性教育を特定のクラスに限定せずに、必要な際には授業のあらゆるカリキュラムにおいて話し合われるとしている。スウェーデンでも同様で、性教育は1956年以降必修であり、7歳から10歳のときに始まるとしている。フィンランドでは15歳時に学校でパンフレットやコンドームなどの入ったパッケージを渡されるという。スウェーデンでは通常、17歳で処女を失うとされ、それは15年前と変わらないとしている。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "オーストラリアやイギリスの一部の学校で10代の妊娠を防ぐために子育ての大変さを教えるための赤ちゃんロボットが導入されたが、オーストラリアのウエスタンオーストラリア州で行われた調査では、一般的な性教育のみのグループと、赤ちゃんロボットを貸し出したグループとでは、赤ちゃんロボットを貸し出したグループのほうが20歳までの妊娠率が高いという結果となった。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "イギリスでは毎年4万人10代少女が妊娠していることが問題視され、2004年から少女達に妊娠予防のための避妊教育(Young People’s Development Programme,YPDP)に取り組んだところ、総額9億円の避妊教育は逆効果で少女たちの性への関心度が高くなり、受講した少女たちの方が妊娠率は更に上がった結果、イギリス政府は2009年までにYPDPを中止している。", "title": "世界の性教育" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "カリスマAV男優として名高い加藤鷹(1988年デビュー)は、『秘戯伝授 最終章』(ISBN 4845412381)や各種メディアで、爪のケアなど衛生面の徹底、女性の反応を重視するセックステクニックを推奨している。また、加藤はパートナーと妊娠を望まない性交に及ぶ際に必ずコンドームを着用し、性感染症、望まない妊娠等を防止(避妊)するよう呼びかけている。", "title": "アダルト業界における性教育" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "女性が作る女性のためのAVメーカー「シルクラボ」にて圧倒的人気を博した一徹は、加藤鷹の時代から「AVはファンタジーである」という発信は多くの人が言い続けているが、気づかないままAVに影響されてしまう者が多いとした。ネット時代において、情報リテラシーが高い者は正しい情報を手に入れており、格差も大きいとしている。2014年に『恋に効くSEXセラピー』(ISBN 4040662296)を出版。大事なのは相手の立場に立って考えるコミュニケーションだとし、女性は勇気を出して違和感を伝え、男性はそれを受け止めて、やり方や考え方を変えていくことを提案している。2017年時点で、男性向けの激しいAVはもういい、女性が嫌がっている顔を見たくないという理由で、女性向け作品を見ている男性も少しずつ増えているとした。", "title": "アダルト業界における性教育" } ]
性教育とは、性器や性交・生殖(妊娠や避妊)など人間の性行動に関する教育全般を意味する言葉。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2020年12月 | 更新 = 2020年12月 | 観点 = 2020年12月 }} [[Image:Condom on Obelisk, Buenos Aires.jpg|right|thumb|200px|[[世界エイズデー]]の啓発[[キャンペーン]]の一環として、{{仮リンク|ブエノスアイレスのオベリスク|en|Obelisco de Buenos Aires}}に67メートルの巨大な[[コンドーム]]が模された。(2005年12月9日、[[アルゼンチン]]の首都[[ブエノスアイレス]])]] '''性教育'''(せいきょういく、{{lang-en|Sex education}})とは、[[性器]]や[[性交]]・[[生殖]]([[妊娠]]や[[避妊]]<ref name="日経共同202205027">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF265HZ0W2A520C2000000/ ジェンダー・性の多様性…包括的性教育 漫画で伝える/埼玉大教授ら、季刊誌連載「自ら考え行動する力を」]『[[日本経済新聞]]』夕刊2022年5月27日社会面掲載の[[共同通信]]配信記事(同日閲覧)</ref>)など[[人間]]の[[性行動]]に関する[[教育]]全般を意味する言葉<ref>{{Cite web|和書|title=4.その他-健やかな体を育む教育という観点から,今後,学校教育活動全体で取り組むべき課題について-:|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1395097.htm |website=文部科学省(www.mext.go.jp) |access-date=2022-05-25}}</ref>。 == 概説 == 生殖に関する教育は、広義には[[女性器]]に[[男性器]]を挿入する性交後に女性体内で起こる男性器から放出された[[精子]]が女性の[[卵子]]と結合する[[受胎]]から[[胎芽]]へ、胎芽から[[胎児]]へ、そして[[出産]]へと移り変わっていく流れを追いながら、新たな命の創造と成長を取り扱う。狭義には[[性感染症]]の概念やその予防、避妊法などの内容が、この範疇に含まれる。 学校の[[教育課程]]の中に性教育的なものが組み込まれてはいるものの、それを教えることに関して、未だ激しい議論が行われている国もある。性教育はどの段階で開始されるべきなのか、どこまで深く踏み込んで良いのだろうか、[[人間の性|セクシュアリティ]]や性行動に関する内容(安全な性交の実践、[[自慰行為]]、性の倫理感など)も扱うべきなのかなど、様々な論争が巻き起こっている。 また1994年にカイロで開催された国際人口・開発会議において提唱された[[リプロダクティブ・ヘルス・ライツ]](性と生殖に関する健康/権利。Sexual and Reproductive Health and Rights (SRHR))、「子どもを産む産まない、産むとすればいつ、何人産むかを、女性が自己決定する権利」は広く女性の生涯にわたる健康の確立を目指す概念として国際的にもその重要性が指摘され、厚生労働省の研究会で日本でも知識の普及をはかるべきとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/1107/h0721-2_18/h0721-2.html|title=生涯を通じた女性の健康施策に関する研究会報告書について 平成11年7月21日|accessdate=2022-11-24|publisher=厚生労働省}}</ref>。 [[2018年]]1月に改訂された[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の『国際セクシュアリティ教育ガイダンス<ref>{{Cite eb|url=http://www.unaids.org/sites/default/files/media_asset/ITGSE_en.pdf|title=International technical guidanceon sexuality education|accessdate=2019-3-1|publisher=UNESCO|year=2018|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite book|author=ユネスコ|title=国際セクシュアリティ教育ガイダンス|date=2017-6-15|year=|accessdate=2019-3-1|publisher=[[明石書店]]|author2=浅井春夫|author3=艮香織|author4=田代美江子|author5=渡辺大輔|isbn=9784750344751}}</ref>』では、性教育の開始は5歳からで、[[ヨーロッパ]]の性教育スタンダードでは0歳からとなっている<ref name="dia2018" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/pilcon-sexed-changeorg?utm_term=.ookZLR4p4Q|title=「AVが性の教科書」の現状をどう変えるのか。望まぬ妊娠、中絶をした女性の願い|accessdate=2019-3-1|publisher=[[BuzzFeed]] Japan株式会社|author=伊吹早織|date=2018-4-25|website=BuzzFeed News}}</ref>。現実として保育士による多数児への性虐待<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/a08eee3503f3d0f2f09105e5d0619e579f4d6ae6|title=「卑劣極まりない犯行」1カ月間に2歳から5歳の女の子18人に対しわいせつ行為を繰り返した元保育士に実刑判決 静岡地裁沼津支部|publisher=静岡朝日テレビ|date=2023-2-3|accessdate=2023-2-5}}</ref>や、幼稚園児同士の性暴力も起こっており、子どもが自分の心と体を守るためにも適切な性教育は必要不可欠となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://joshi-spa.jp/1211369/3|title=幼稚園の同級生から性暴力を…。5歳の子ども同士の“性被害”から考える「子どもを守る方法」|publisher=女子スパ!|author=瀧戸詠未|date=2022-12-9|accessdate=2023-2-5}}</ref>。 === 包括的性教育 === 上記のような、男女間での性に関する知識やスキルについてだけでなく、[[ジェンダー]]や[[性的志向]]の多様性、[[人権]]、幸福を学ぶ概念としての'''包括的性教育'''(comprehensive sexuality education(CSE))が普及しつつある<ref name="日経共同202205027" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/shigemidaisuke/20201013-00202737|title=性に関する知識やスキルだけではない「包括的性教育」とは? 今の日本に必要な理由|accessdate=2020-12-3|publisher=yahoo news|author=重見大介|date=2020-10-13}}</ref>。ユネスコが推奨する性教育の項目には、「性行為」や「避妊の方法」だけでなく、友情や恋愛などに関する「人間関係」や「ジェンダー論」まで、包括的な内容となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20201101182633/https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2020/10/1007.html|title=おはよう日本 変わるか?日本の“性教育”|accessdate=2020-12-6|publisher=NHK|date=2020-10-7}}</ref>。 {{Quotation|'''国際セクシュアリティ教育ガイダンスにおける8つのキーコンセプト''': #人間関係 #価値観、人権、文化、セクシュアリティ #ジェンダーの理解 #暴力と安全確保 #健康とウェルビーイング(幸福)のためのスキル #人間のからだと発達 #セクシュアリティと性的行動 #性と生殖に関する健康 |[https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000374167/ 『国際セクシュアリティ教育ガイダンス【改訂版】』]}} == 日本の性教育 == === 日本の性教育の概説 === 文部科学省では「性教育」という言葉を避け、「性に関する指導」という用語を使っている<ref>{{Cite web|和書|title=性教育バッシングと今もある「純潔教育」 {{!}} {{!}} 田代美江子 |url=https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20230803/pol/00m/010/004000c |website=毎日新聞「政治プレミア」 |access-date=2023-10-28 |language=ja}}</ref>が、本記事においては「性教育」という語で統一して記載する。 日本では、[[体育]]・保健体育の授業で小学校4年生で「体の発育・発達」、同5年生で「心の発達及び不安、悩みへの対処」<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/tai.htm 小学校学習指導要綱体育]</ref>、中学校1年生で「身の機能の発達と心の健康」<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/hotai.htm 中学校学習指導要綱保健体育]</ref>として性教育を受ける。初めて学ぶ小学校4年生では、[[思春期]]初来の平均年齢{{Efn|男子は約11歳6ヶ月で小学校5・6年生頃、女子は約9歳9ヶ月で小学校3・4年生頃<ref name="思春期"/>。}}<ref name="思春期">[http://tanaka-growth-clinic.com/shishunki/shishunki.html たなか成長クリニック・思春期]</ref>の関係上、男子は思春期前に学ぶ者が多いが、女子は思春期初来(Thelarche)後に学ぶ者が多くなる。 小学校では体や心の変化を中心に取り上げ、自分と他の人では発育・発達が異なり、[[いじめ]]などの対人トラブルを起こしやすいことから、発育・発達の個人差を肯定的に受け止めることを特に取り上げる。また、発育・発達を促すための[[食事]]、[[スポーツ|運動]]、休養・睡眠なども取り上げる。中学校では体や心の変化に加えて生殖も取り上げられるが、受精・妊娠までは取り上げられても学校や教師によっても違うが妊娠の経過は取り上げられない事が多い。これに対し、義務教育で性交を教えないのは刑法に定める「性的同意年齢13歳」と矛盾するのではないかとの指摘がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20180328-00083247|title=義務教育で性交を教えないのは「性的同意年齢13歳」と矛盾しませんか(七生養護学校事件を振り返りつつ)|author=小川たまか|authorlink=小川たまか|website=yahoo news|date=2018-3-28 |accessdate=2022-9-29}}</ref>。 性行為について取り扱わない理由は、[[学習指導要領]]に「妊娠の経過は取り扱わない」とする一文があるためである<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=学校の性教育で“性交”を教えられない 「はどめ規定」ってなに? {{!}} NHK |url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20210826a.html |website=NHK首都圏ナビ |access-date=2023-10-28 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。これは通称「歯止め規定」と呼ばれている。歯止め規定に関して[[文部科学省]]は、決して教えてはならないというものではなく、全ての子供に共通に指導するべき事項ではないが、学校において必要があると判断する場合に指導したり、あるいは個々の生徒に対応して教えるということはできるものと国会で答弁している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoiku-press.com/post-series/series-224967/|title=令和2年臨時国会質疑から【第7回】|publisher=日本教育新聞|date=2021-1-3|accessdate=2021-10-16}}</ref>。なお「歯止め規定」が学習指導要領に初めて記載されたのは1998年と文部科学省は述べているが、NHKが行政文書の開示請求を行ったのに対し、文部科学省は「はどめ規定が記載されるまでの経緯の詳細を示す文書はございません」と回答した<ref name=":0" />。 「歯止め規定」については2018年に[[東京都]][[足立区]]立の中学校で性の正しい知識を教えるため避妊や中絶等も盛り込んだ授業を行ったところ[[東京都議会]]で紛糾し、「課題があった」と答弁があったため教育現場が委縮する状況になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20210826a.html|title=学校の性教育で“性交”を教られない 「はどめ規定」ってなに?|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2021年8月26日|accessdate=2022-1-12}}</ref>。 一方で[[月経|初経]]の授業はあっても、[[ブラジャー]]については学ぶ機会はほとんどなく、思春期の[[乳房#乳房の成長|乳房が成長]]中(途中で初経を挟む約4年間)に[[ブラジャー#ジュニアブラ|ジュニアブラ]]を着用せずに[[ノーブラ]]だったり、大人用のブラジャーをつけたりとした問題が起きている<ref>[http://www.wacoal.jp/top/tanoshimu_contents/tanken/junior/anx/index.html 実は…お母さんも自信がないはじめてのブラ] [[ワコール]]探検隊</ref>{{Efn|ブラジャー着用率はstep1(思春期初来(乳首の成長開始)から初経の1年以上前)で31%、step2(初経前後)で56%、step3(初経の1年以上後から成人型乳房になるまで)で90%(大人用のブラジャー57%)<ref name="成長期のバスト"/>。}}<ref name="成長期のバスト">[http://www.wacoal.jp/top/tanoshimu_contents/tanken/junior/growth/index.html ワコール探検隊|「少女」から「おとな」へ約4年間で変化する成長期のバスト]</ref>。 [[トランクス]]着用の小中学生が増加したことで一部の[[地方公共団体|自治体]]では小中学生に[[ブリーフ]]の着用を勧める活動が組織的に行われるようになった。[[2000年代]]前半頃より東京都足立区の一部の小中学校では性教育活動に熱心に取り組んでいる女性[[養護教諭]]が性教育の一環で小中学生の下着指導を行い、その活動の輪が足立区全体で拡がったことによるものである。養護教諭は男子生徒に体育の授業でトランクスでは陰部が見えるとの理由でブリーフの着用を提唱し、男子生徒にブリーフの着用を実践させている<ref>『[[朝日新聞]]』朝刊2002年2月25日家庭欄※記事名不明※</ref>。 一方で、「過度な性教育は子供たちに大きな影響を及ぼしかねない」という批判がある<ref>{{Wayback|url=http://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/gender3/main.html|title=ジェンダーフリーとの戦い―「過激な性教育」実態と克服|date=20140912213533}}</ref>。2005年には自民党が「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を[[安倍晋三]]を座長に、事務局長は[[山谷えり子]]参議院議員で発足させた。養護学校で性教育に使われていた性教育人形を「セックス人形」と呼び批判を行った。このほか[[統一教会]]による学校現場での性教育批判も行われたとの性教育啓発活動を行う医師の証言が報道されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://archives.knb.ne.jp/bangumi/news/article_detail.html?sid=8515&date=20220902|title=”統一教会”と性教育|website=北日本放送|date=2022-9-2 |accessdate=2022-9-29}}</ref>。また教団が作成した「新純潔宣言」と題した信者向けの冊子の冒頭には性解放思想に基づく性器・性交・避妊教育の性教育に反対することが掲げられており、その姿勢が性教育バッシングの発火点につながったと[[立教大学]]の[[浅井春夫]]は語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/aera/2023012600015.html?page=2|title=日本の性教育の遅れの裏に「自民党と旧統一教会」 足かせ「はどめ規定」が生まれた背景|author=古田真梨子|website=AERA|date=2023-1-27|accessdate=2023-1-29}}</ref>。 また、児童を対象とした[[性犯罪]]や父母、兄姉による[[児童性的虐待]]が問題となっており、これらに被害児童の性に対する無知につけこんだ物が多い事から、思春期前のより早期からの性教育によって、子供に自身が性的搾取から保護されるべき権利主体である事を認識させようとする動きが見られる。子供への性虐待の研究では、加害者の中には多くの子ども達の中から拒否できない子を瞬時に見出す能力を持つ人間がいるため、[[アメリカ合衆国]]での小学校2年生女子への[[レイプ]]事件をきっかけに生まれた子どもに対する暴力防止CAPプログラム(Child Assault Prevention)の受講や被害拡大することを防ぐために知識を得る性教育が有効としている<ref>吉田タカコ『子どもと性被害』[[集英社新書]] 2001年8月発行</ref>。 [[2019年]]3月28日、[[東京都教育委員会]]は教員向けの指導書「性教育の手引」改訂版を公表し[[学習指導要領]]の範囲を超えた授業の実施を初めて容認した。手引は小中高校、特別支援学校での性教育の考え方をまとめ、[[コンドーム]]や[[ピル]]での[[避妊]]や、[[人工妊娠中絶]]できる時期がかぎられていること、性交相手の過去は分からないため[[性感染症]]の危険があること、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]で性的な画像を送ると削除できないことを伝える。性の多様性にも初めて言及し[[性同一性障害]]や性的指向などへの配慮を明記した<ref>『[[中日新聞]]』朝刊2019年3月30日25面※記事名不明※</ref>。一方、ピルは、機能性月経困難症の痛みを放置すると将来的に子宮内膜症になるリスクが約2.6倍となり不妊症にもつながる状況を予防や治療する薬でもあるが、性に関する正しい知識が大人にも備わっていない実態がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sgn.tokyo.med.or.jp/hanasi/index.php?no=201202|title=病気の話 【第2回】治療薬としての低用量ピルの話|web=杉並区医師会||accessdate=2023-11-7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/674107|title=「ピルって悪魔の薬?」誤った性教育がもたらす危険と、大人が知るべき性の知識 20代「避妊したくない」コメントが多い事情は|web=東洋経済ONLINE|date=2023-6-12|accessdate=2023-11-7}}</ref>。 2020年度より、[[幼稚園]]、[[小学校|小]]・[[中学校]]、[[高等学校|高校]]、[[大学]]で「生命の安全教育」という新しい教育を始める方針があるが、引き続き性行為や避妊は取り扱わない予定とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201006/k10012648811000.html|title=変わるか 日本の“性教育”|website=NHK|date=2020年10月6日 |accessdate=2020-10-08}}</ref>。 [[日本産科婦人科学会]]では、各年代の女性が正しい性と健康の知識を得るために2014年に『HUMAN+』という冊子を作成して公開している<ref>{{Cite web|和書|url=https://saas.actibookone.com/content/detail?param=eyJjb250ZW50TnVtIjoiMjgwOTEifQ==&detailFlg=1&pNo=2|title=HUMAN+男と女のディクショナリー|website=日本産科婦人科医会|accessdate=2022-3-26}}</ref>。日本産婦人科医会でも、公式サイトにて若年層の2016 年の年齢別出生・中絶統計で20再未満の半数以上が中絶を選択する現状を示し、中学校で性交や避妊を取り上げるべきではないと悠長なことを言えず、義務教育が終わる中学校卒業までに教えないと間に合わないとの危機感を表している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jaog.or.jp/note/%EF%BC%881%EF%BC%89%E6%80%A7%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%8C%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E7%90%86%E7%94%B1/|title= 研修ノート No106 思春期のケア(1)性教育が必要な理由|website=日本産科婦人科医会|accessdate=2023-1-29}}</ref>。 2017年頃には時期尚早との意見もあるが、日本では小中学生に[[性的少数者]]の教育をするところもある<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASK586T95K58UTIL05P.html 「性的少数者の授業 小中学生には時期尚早か?」][[朝日新聞デジタル]](2017年5月15日)2021年7月13日閲覧</ref><ref>日本性教育協会[https://www.jase.faje.or.jp/jigyo/journal/seikyoiku_journal_201902.pdf 『現代性教育研究ジャーナル 』2019年 No.95(2019年2月15日発行)]2021年7月13日閲覧</ref>。 性犯罪では、2013年に[[埼玉県警察]]が検挙した痴漢事件では、被害者では特に電車通学を始めたばかりの高校1年生が標的にされていた<ref>{{Cite news|title=痴漢被害、泣き寝入りしないで 埼玉県警、対策周知へ女性会議初の一般公開|url=https://www.sankei.com/article/20150120-BTRCXRQYMVN6JNZBQ5YHW6PEN4/|newspaper=産経ニュース|publisher=産業経済新聞社|date=2015-01-20|accessdate=2017-08-26}}</ref>。2011年の[[警視庁]]の「電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について」でも被害者が高校生が36.1%と最多数を占めているが、被害者の多くが被害に遭っても声を上げることができず、「相談する場所が分からない」「啓蒙活動が足りない」などの声が寄せられている<ref>{{Cite news|title=電車内の痴漢防止に係る研究会の報告書について|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3525234_po_h22_chikankenkyukai.pdf?contentNo=1&alternativeNo=|web=国立国会図書館|publisher=警視庁|date=2011-3-10|accessdate=2022-12-6}}</ref>。また加害者の性的犯罪依存を治療する識者も、痴漢は99%を占める男性の問題であり痴漢撲滅の予防行為として、予防教育、性教育や啓発活動が必要だと語っている<ref>{{Cite news|title=データが浮き彫りに!知られざる痴漢被害の実態|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4376/index.html|web=NHK|date=2020年1月23日|accessdate=2022-12-6}}</ref>。痴漢は未成年者の被害者が多いにもかかわらず被害時の相談先など具体的に教わることがなく、また自分も相手の体も大切にする性教育が不足することで認知のゆがみが生まれているのではと問題を提起している<ref>{{Cite news|title=受験生狙う痴漢、1000人の加害者を診た精神保健福祉士「彼らには認知の歪みがある」あおちゃんぺ「被害を受けても“間違いで相手の人生を奪ったら?”と考えてしまう」|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/d34792f440beed2bad8846291044840914991ee2?page=2|web=yahoo news『ABEMA Prime』|date=2023年1月26日|accessdate=2023-1-29}}</ref>。 2023年1月、[[日本弁護士連合会]]は、日本の学校教育における性教育について国際的標準から極めて遅れていることを憂い、成人向け性情報の氾濫による誤った認識や価値観の植付けから起こる性被害や予期せぬ妊娠などの問題対応と人権保障の観点から、国及び地方公共団体が包括的性教育を実施するとともに、SRHRを保障する包括的な法律の制定及び財政的裏付けを伴う制度の創設が必要であると提言した<ref>{{Cite news|title=「包括的性教育」の実施とセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス&ライツを保障する包括的な法律の制定及び制度の創設を求める意見書|url=https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/document/opinion/2023/230120_2.pdf|web=日本弁護士連合会|date=2023年1月26日|accessdate=2023-1-29}}</ref>。 2023年には男子校の[[灘高等学校]]が、近隣の[[甲南女子大学]]生を招き女性の生理やデートDV、性的同意について学ぶ性教育授業を行った。7月に刑法改正で性的同意が盛り込まれ、不同意性交罪ができたこと、性交同意年齢は13歳から16歳に引き上げられたことを含め議論を交わし理解を深めた<ref>{{Cite news|title=「性的同意ってなに?」灘校生が甲南女子大生と学ぶ、生理の悩みとデートDV 【ルポ・男子校の性教育】「お姉さん」目線で「男子のノリ」の限界を克服|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/76883|author=おおたとしまさ|web=JBPress|date=2023-9-19|accessdate=2023-10-15}}</ref>。この授業に対し、成人男性からのツイートでは卑猥な揶揄やからかいの発言が起こり、参加した実際に授業を受けた灘高生に反感を買っている<ref>{{Cite news|title=「おっさん達がはしゃいで若者にセクハラ」灘高生と女子大生の性教育を茶化す、恥ずかしい大人たち|url=https://diamond.jp/articles/-/329893|author=鎌田和歌|web=DIAMOND ONLINE|date=2023-9-29|accessdate=2023-10-15}}</ref>。アメリカにおいては、高校で女生徒に対する痴漢・セクハラ発言で学校に訴えられた男子生徒は停学処分となり自殺念慮を抱え、大学推薦も得られず訴訟になった事件も起こっている現状がある。米国性教育基準の指導では少年達が性暴力を犯すリスクを抑制する目的も包括しているが2019年時点で公立校で性教育義務づけの州は全米の29州に留まる<ref>男子という闇 少年をいかに性暴力から守るか 2021年11月18日発行 エマ・ブラウン著 山岡希美訳 株式会社 明石書店 p187-195 P134 P158</ref>。 === 日本の性教育の歴史 === ==== 明治中期から昭和初期にかけて ==== [[第二次世界大戦]]前の性教育学者たちの言説には、[[明治]]以前の性的卓越性という[[男らしさ]]の尺度を禁じつつ、男としてのアイデンティティを保持するために「学生時代は禁欲し、立身し然るべき時期に結婚して一家を成す」という、新しい「男性としてあるべき姿」像が含まれていた{{sfn|澁谷|2008|pp=41-68}}。 [[1890年]](明治23年)頃から学生間での風紀の乱れと[[性病|花柳病]]の蔓延がメディアを通じて社会問題となり、[[1900年代]]頃から学生の性の扱いに打つ手を持たない教育界を医学界がリードする形で、医学者と教育者との議論によって性教育が形成されていった{{sfn|澁谷|2008|pp=41-68}}。初期の性教育の使命は、若者の自然で健全な性欲を[[衛生]]的かつ[[倫理]]的に適った方向に誘導する、というものであり、議論のポイントは「[[手淫]]の害」と「[[性感染症|花柳病]]の害」の予防法だった。しかし、科学に基づいた性知識の普及が学生の性的悪行を刺激し手助けする、という批判から、花柳病の具体的な予防法は教授せずに、若年の性交や恋愛は危険であり学生の間は学業に専念し禁欲せよ、という強制[[禁欲]]主義の教育がなされるようになった{{sfn|澁谷|2008|pp=41-68}}。 [[山本宣治]]は[[大正]]から[[昭和]]初期にかけて性教育についての啓蒙活動を行い、1922年(大正11年)に来日した[[産児制限]]で著名な[[マーガレット・サンガー]]の講演の通訳を務めるなどした<ref name="showa_bunka">[[南博 (社会心理学者)|南博]]・社会心理研究所著『昭和文化 1925-1945』([[勁草書房]]、1987年)pp.126-141</ref>。[[星野鉄男]]は昭和初期に『性教育に就いて』(1927年)などを著し、性教育は単に性欲についての知識を与える性欲教育ではなく、「社会を構成する男と女の全部」に必要な、今で言うところの生涯教育であると主張した<ref name="showa_bunka" />。[[羽太鋭治]]は大正期において[[ドイツ]]の性科学を下敷きに性教育についての著書をいくつか書き、昭和初期に大衆向けの[[ハウツー本]]を多数出版した<ref name="showa_bunka" />。太田武夫([[太田典礼]])は避妊リングの考案や1936年(昭和11年)に雑誌『性科学研究』を創刊するなど、性の研究を通じて社会問題に取り組んだ<ref name="showa_bunka" />。[[梅原北明]]は[[エログロ]]の先駆となる雑誌『グロテスク』を1928年(昭和3年)に創刊するなどした<ref name="showa_bunka" />。 ==== 純潔教育から性科学への変化 ==== 日本の性教育の始まりは、[[1945年]](昭和20年)の[[日本の降伏|第二次世界大戦敗戦]]直後から国が主導してきた「[[純潔教育]]」に遡る。風俗対策や治安対策の一環としてスタートした<ref name="dia2018">{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/159339|title=日本の性教育は時代遅れ、ユネスコは小学生に性交のリスク教育推奨|accessdate=2019-2-14|publisher=株式会社[[ダイヤモンド社]]|author=末吉陽子|website=ダイヤモンドオンライン|date=2018-2-12}}</ref>。[[性科学]]者で[[京都精華大学]]ポピュラーカルチャー学部教授の[[斎藤光 (性科学者)|斎藤光]]によると、[[1947年]](昭和22年)に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の支援を受けて[[婦人民主クラブ]]が創立され、発起人の一人である[[救世軍]][[士官]]([[牧師]])の[[山室民子]]は、「[[一夫一婦制|一夫一妻結婚]]の貫徹」「男女ともに婚前性交の禁止」「男性の[[買春]]への批判、女性の人格を認め、女性の性の商品化と決別する」などの主張をした。これは[[日本キリスト教婦人矯風会]]等の性 ・ 結婚思想の基軸となってきたもので、戦前から存在する思想である<ref name=":27">{{Cite web|和書|url=http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no41/saitoh_hikaru.pdf|title=「純潔教育施策」目的の微妙な拡張─純潔教育委員会開催以前の社会教育局官僚の発言から|accessdate=2019-2-19|publisher=|author=斎藤光|date=2011年3月22日}}</ref>。 [[1972年]](昭和47年)、[[日本性教育協会]]が設立され、純潔教育から性科学を主軸にする性教育へと転換した<ref name="dia2018" />。 ==== 性教育元年 ==== [[1992年]]([[平成]]4年)、[[学習指導要領]]が改訂され、性に関する具体的な指導が盛り込まれたことで「性教育元年」と呼ばれた<ref name="dia2018" />。 学習指導要領の改訂で、思春期の成長は「男子=[[変声|声変わり]]」から「[[精通]]」と定義され、これにより男女が名目上は平等に性教育を受けられるようになり、教育現場では[[射精]]をどこまで掘り下げるかなど試行錯誤をしていた<ref name="wezzy2016">{{Cite web|和書|url=https://wezz-y.com/archives/32936|title=2016.07.21 「レイプもセックスだと思ってた」…まともに教えず、男を誤解させる自民党の政治的性教育|accessdate=2019-2-14|publisher=株式会社サイゾー|website=wezzy}}</ref>。 [[後天性免疫不全症候群|エイズ]]が社会問題化し、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]教育の重要さがフォーカスされたことで、小学校6年の理科で扱う人体の学習が3年生に前倒しされ、5年生に『人の発生と成長』が位置づけられるなど、性教育に発展の兆しが見られるようになった<ref name="dia2018" />。 そんななか、東京都[[日野市]]の[[東京都立七生特別支援学校|七生養護学校]](現・[[東京都立七生特別支援学校]])では、知的障害の子どもが性被害を受けても気づかなかった等の事態を受け、男性器と女性器の名称を織り込んだ歌や、性器のついている人形を使うなど独自の性教育に取り組み、校長会等でも高く評価された<ref name="dia2018" />。 === 性教育を巡る論争 === ==== 七生養護学校事件 ==== {{further|七生養護学校事件}} [[2003年]]7月、東京都議会議員で[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[古賀俊昭]]、[[自由民主党 (日本)|自民党]]の田代博嗣、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[土屋敬之]]ら3名の議員が、[[東京都立七生特別支援学校|七生養護学校]]を始めとした学校を「行きすぎた性教育」と問題にし、『[[産経新聞]]』などのメディアで「過激な性教育」「まるでアダルトショップのよう」と扱われるなど、保護者や寮の職員から学校側に苦情や懸念が相次ぎ、社会的な批判が起きた<ref name=":222">{{Cite web|和書|url=http://kokokara.org/saiban0.html|title=こころとからだの学習裁判|accessdate=2019-2-14|publisher=「こころとからだの学習」裁判を支援する全国連絡会|website=「こころとからだの学習裁判」支援}}</ref>。その後、七生養護学校は授業内容の全面変更・禁止、授業は事前に副校長の許可と当日の監視のもとで実施するよう指導され、校長他116人の[[教職員]]は処分された<ref name="dia2018" /><ref name=":222"/>。 この処分について[[教育長]](当時)の[[横山洋吉]]は「都立七生養護学校では、虚偽の学級編制あるいは勤務時間の不正な調整、それから勤務時間内の校内[[飲酒]]などの服務規律違反、その他、学習指導要領を踏まえない性教育など、不適切な学校運営の実態が明らかになったことから、教職員とともに、管理監督責任を果たさなかった校長への処分等を行ったものでございます」と都議会で説明している<ref name="togikai">{{Cite web|和書|url=http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/yotoku/2004/d6214412.htm|title=アーカイブされたコピー|accessdate=2007年5月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080310024449/http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/yotoku/2004/d6214412.htm|archivedate=2008年3月10日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 [[2008年]]2月、七生養護学校の教員や保護者、関係者が人権侵害を訴えて提訴した裁判で、[[東京地方裁判所]]は[[東京都教育委員会]]の裁量権乱用を認め、処分取り消しを命じる判決を言い渡した。また、[[2009年]]3月12日、東京地裁(矢尾渉裁判長)は、3議員および東京都教育委員会に対して210万円の損害賠償の支払いを命じた。 [[2013年]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]は「教育の自主性を阻害」するなどの「不当な支配」にあたると認定し、[[古賀俊昭]]をはじめとした都議側に、原告である教員らに賠償金を支払う判決を下した<ref name="dia2018" /><ref name=":222"/>。 [[2019年]]、東京都教委『性教育の手引』から、16年前に都立七生養護学校(現七生特別支援学校)で行われていた性教育を「不適切」とする記述が削除された<ref>{{Cite web|和書|url=https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/birth/13618/|title=「不適切な性教育」の記述、やっと削除 元教員「ここから立て直したい」|website=[[東京新聞]]|date=2019年3月29日|accessdate=2022年1月16日}}</ref>。 本件の原告となった教員は性教育攻撃の中心に[[日本会議]]や[[統一協会]]の関連団体「国際勝共連合」が存在し、チラシが配布されていたと語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2023-02-06/2023020610_01_0.html|title=性教育バッシングは教育破壊 七生養護学校事件から20年 都内の集会で元原告が講演|website=[[しんぶん赤旗]]|date=2023年2月6日|accessdate=2023-2-27}}</ref>。 ==== 思春期のためのラブ&ボディBOOK ==== 性行動の低年齢化や人工[[妊娠中絶]]、不測の事態の対応について書かれた冊子『思春期のためのラブ&ボディBOOK』が、中学校に無料で配布された<ref name="wezzy">[https://wezz-y.com/archives/23148/ 性教育の過去20年を振り返り、これから先10年を語る Next Generation Leaders’Summit 2015] 2015.10.05</ref>。内容の一部が過激だとして批判され2002年に回収・[[絶版]]となった<ref name="wezzy" />。2002年に国会の議論の対象になった<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/009615420020529012.htm 第154回国会 文部科学委員会 第12号(平成14年5月29日(水曜日))]</ref><ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/009615520021101002.htm 第155回国会 文部科学委員会 第2号(平成14年11月1日(金曜日))]</ref>。 ==== 過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト ==== [[2005年]]3月4日の[[参議院]]予算委員会では、[[山谷えり子]]参議院議員が「[[陰茎|ペニス]]、[[膣|ヴァギナ]]などの用語を使い[[性行為|セックス]]を説明するのは過激で、とても許せない」と批判し、[[小泉純一郎]]元首相も同意した。自民党の[[安倍晋三]]を座長とした「過激な性教育・[[ジェンダーフリー]]教育実態調査プロジェクトチーム」が設置され、性教育は余計に性を乱すと批判した<ref name="dia2018" /><ref name="wezzy2016" />。山谷えり子は「性なんて教える必要はない」「[[オシベ]]と[[メシベ]]の夢のある話をしているのがいい」「結婚してから知ればいい」と主張した<ref name="wezzy2016" />。 これにより[[学習指導要領]]が変更され、「受精」は扱うが「受精に至るプロセス」は扱わず「性交」という言葉も削除されるなどし、元[[一橋大学]]非常勤講師の[[村瀬幸浩]]は、日本は性教育後進国となったと主張した<ref name="wezzy2016" />。 ==== ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか ==== [[2013年]]、[[中京テレビ放送|中京テレビ]]『ニッポンの性教育 セックスをどこまで教えるか』が放送され、のちに無料公開された<ref name=":332">{{Cite web|和書|url=https://www2.ctv.co.jp/20130525nippon/|title=ニッポンの性教育 性をどこまで教えるか|accessdate=2019-2-19|publisher=中京テレビ|date=2013-5-25}}</ref>。 ==== 東京都議会質問 ==== [[2018年]]3月、東京都足立区立中学校の授業が不適切だとする東京都議会質問が波紋を広げた。性交、避妊、中絶は中学の学習指導要領で扱っていないが、3年生を対象にした授業で「産み育てられる状況になるまで性交は避けるべき」と強調し、避妊や人工妊娠中絶についても教え、考えさせる内容を行った<ref name=":23">{{Cite web|和書|url=https://courrier.jp/news/archives/119521/|title=2018.4.20 性教育「後進国」ニッポン|「性交」「避妊」がNGワード! じゃあ何を教えているの?|accessdate=2019-2-14|publisher=[[講談社]]|website=クーリエ・ジャポン}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/168347|title=中学校の性教育で大論争、東京都議vs教育現場それぞれの言い分|date=2018-04-24 |accessdate=2019-2-14|publisher=|author=末吉陽子|website=ダイヤモンドオンライン}}</ref>。 また授業前のアンケートで「2人が合意すれば、高校生になればセックスをしてもよいと思うか」や、正しいと思う避妊方法などを問う項目が含まれており、「学習指導要領に記載のない性交、避妊、中絶といった言葉を使っていた」「かえって性交を助長する」と問題視され、足立区教育委員会を指導するに至った<ref name=":23" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180423-5CD3POGF7BIBVO6RIFXTVTAPF4/|title=2018.4.23 「高校生になればOK?」足立区立中、授業前にアンケート 都教委は問題視「助長の可能性」|accessdate=2019-2-14|publisher=[[産経新聞]]}}</ref>。 発端の都議会質問は、七生養護学校を非難・処分し最高裁で敗訴した[[古賀俊昭]]であり、「結婚するまで性交渉を控えるという[[純潔教育]]や自己抑制教育が必要だ」「そもそも『結婚する・しない』を自己決定するという戦後の価値観が問題だ。『結婚・出産・子育て』は社会貢献だとしっかり教育すれば、安易な性交渉にはおのずと抑制的になる」などと主張した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180607/ddm/005/070/040000c|title=【記者の目】東京・中学性教育への「政治介入」 身を守るには知識必要=中川聡子(統合デジタル取材センター)|accessdate=2022-05-27|publisher=『毎日新聞』|date=2018-06-07}}</ref>。 [[Yahoo!ニュース]]のアンケート(2018/5/15-5/25)では、25,063票中、性教育が必要は90.5%(22,674票)、不必要は9.5%(2,389票)だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/polls/domestic/34843/result|title=中学生に避妊などの性教育、必要だと思う?|accessdate=2019-3-1|publisher=Yahoo! JAPAN|website=Yahoo!ニュース}}</ref>。 [[2019年]]2月26日に行われた東京都議会では、中学校での性教育について、都教育委員会の中井敬三教育長は「児童生徒が正しい知識を身に付け、適切に意思決定や行動選択ができるよう、区市町村教委などと連携して各学校を支援する」と答弁した。[[東京都知事]][[小池百合子]]は、犯罪の被害者を支援するための犯罪被害者支援条例を制定する方針を明らかにした<ref>{{Wayback|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201902/CK2019022702000132.html|title=<論戦 都議会>中学校「性教育」 各校の授業支援 教育長表明|publisher=東京新聞|date=20190227231321}}</ref>。 === 男子の性教育 === 元一橋大学・[[津田塾大学]]講師の[[村瀬幸浩]]は、[[2014年]]出版の『男子の性教育』(ISBN 4469267600)に、男子高校生を対象にした「射精イメージ」の調査結果を記載した。約15%の男子が[[射精]]を「汚らわしい」と感じ、約20%が「恥ずかしい」という意識を持っている一方、女子高校生の「[[月経]]のイメージ」では「汚らわしい」と答えた人は約5%、「恥ずかしい」は約8%であった。この男女差は教育の有無によるものだとしている<ref name=":19">{{Cite web|和書|url=https://wezz-y.com/archives/32935|title=2016.07.20 「勃起と射精」に拘泥する男の“性欲”と、ニッポンの「性教育」|accessdate=2019-2-14|publisher=株式会社サイゾー|website=wezzy|author=桃山商事}}</ref>。 女子は妊娠・出産に備え親や学校が月経のメカニズムを教えるが、男子には「別に教える必要はない」という風潮が続いた。思春期になれば性的な欲求や関心が高まり、メディアや友達を通じ、様々な性情報にアクセスするようになるが、科学的に正しい知識ではなく、誤解や偏見によって理解や認識が歪むことも少なくない<ref name=":19" />。高1男子100人に「射精や性器についての相談相手は?」をアンケートした際は、誰にも相談できないが70%、友達が20%、家族・親戚が9%だったとし、誰にも相談できず、悩んでいる子供が多い実態を指摘した<ref name=":29">{{Cite web|和書|url=https://asobo-kids.net/post-770-sex-education/|title=どうする?男子の性教育。性教育研究者 村瀬幸浩氏が語る「思春期の男の子への性教育」とは。|accessdate=2019-2-19|publisher=|date=2017-03-19|website=ASOBO KIDS}}</ref>。 「レイプが女性の人格を切り裂く殺人的行為だなんて考えたこともなかった。セックスのバリエーションのひとつと思っていた」などの認識や、望まない妊娠や中絶において彼氏の「他人事感」が問題となる場合、無知ゆえにリアルな想像や共感ができなかったことも原因だとし<ref name="wezzy2016" />、性教育は大人が子どもに対して果たすべき責任だとしている<ref name=":19" />。 アダルトビデオ=性のスタンダードになってしまうと、パートナーを心理的・肉体的に傷つけてしまうことに発展しかねず、「アダルトビデオは作り物なんだ」「あれは女の人がお金で演技している(させられている)ものなんだ」という分別がつけられるよう、性について真面目に伝えていくことが大切だとする。[[精液]]がついたパンツを「汚いから別の洗濯かごに入れてね」などと対応することで、子供がセックスは汚い、いやらしい、ひどいといった[[悲観主義|ネガティブ]]な意識を持ち、恋愛や性行為を回避するケースもあるという<ref name=":29" />。 [[埼玉大学]][[教育学部]]教授の[[田代美江子]]は、「性をいやらしいと考えている大人」や「性と真正面から向き合わない大人」は、極めて個人的な感覚に端を発するタブー意識を拠りどころに性を捉えており、大人たちが体系的な性教育を受けていないことから、「小学生には早い」「中学生に避妊なんて教えてどうするんだ」という価値観がストッパーになってしまうとしている<ref name="dia2018" />。 男性器の[[包茎]]に羞恥心を抱き、美容整形クリニックの過剰な宣伝文句につられて意図せず高額な手術を受けてしまう被害もある。また包茎は不潔で、感染症のリスクが高いという不正確な情報が流布していると専門家は警鐘を鳴らしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/dcc0a1e371ddd5aa13c812ac4f11df96bda1901d?page=2|title=包茎手術する中高年男性が増加 その意外な理由と注意点〈週刊朝日〉|publisher=aera.dot|date=2021-6-6|accessdate=2021-6-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/125805?page=2|title=人に聞けない息子の「皮被り」問題 医師の回答は?|date=2018-5-26|accessdate=2021-6-16}}</ref>。生殖については、思春期男子が気にするペニスの大きさより、[[精巣]]([[睾丸]])の大きさが重要であり未発達の場合、乏精子症または無精子症などで不妊の原因になる。男性器の相談は泌尿器科であると学生に性教育の講演を行う専門家もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/121386?page=1|title=「睾丸の大きさ」? 思春期の男子が気にするべきこと|date=2014-12-25|accessdate=2021-6-16}}</ref>。 === 地方自治体ごとの性教育への取り組み === [[2002年]]から、[[秋田県]]では県の教育委員会と[[医師会]]が連携し、中高校生向けに性教育を実施している。その結果、全国平均の1.5倍だった10代の中絶が2018年には平均以下となり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL583WNBL58UTIL00Y.html|title=性教育、親「現実見て正しい知識を」 自治体が講座開催|accessdate=2019-2-19|publisher=|author=三島あずさ、山下知子、山田佳奈、塩入彩|date=2018年5月14日|website=朝日新聞}}</ref>、[[2012年]]には10代の中絶率が約三分の一となった。性教育で性行動はより慎重になると知られている<ref>{{Wayback|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2018090802000222.html|title=【考える広場】よく生きるための性教育|publisher=東京新聞|date=20180913103729}}</ref>。 [[富山市]]では、10代の人工妊娠中絶率はこの5~6年、女子の人口1000人あたり1人前後の割合で推移している。対して全国平均は6人前後で、福岡県や沖縄県などは10人前後となっている。1990年代に女子高生等の性が商品化され、全国で人工妊娠中絶が急増したことに危機感を抱いた産婦人科医と富山市は協力し、1991年から性教育の出張授業を始めた結果となっている。性教育とは危機管理を学ぶことという意識で教育が行われている<ref name="postseven">{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20200415_1555262.html?DETAIL|title=富山の10代人工妊娠中絶が激減、産婦人科医の“出張授業”の内容|publisher=[[Newsポストセブン]]|date=2020-04-15|accessdate=2020-08-02}}</ref>。 埼玉県産婦人科医会は、県内で医師や助産師が自主的に行っていた性教育講演を県内全域で行えるよう、2020年に「性教育委員会」を設立し医師10人が参加している。講演について県教育長は予算がつかないとしているが、埼玉医大病院産婦人科[[高橋幸子_(産婦人科医)]]医師は講演料は必要なく、外部講師による性教育の仕組みづくりをしたいと話している<ref name="postseven" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20200415_1555262.html?DETAIL|title=埼玉で「性教育委」設立、中高生に科学的な知識を ドラマや関連書籍も続々|publisher=毎日新聞|date=2020-12-15|accessdate=2020-12-30}}</ref>。 [[YouTube]]で性教育動画チャンネルを配信している、[[助産師]]の[[大貫詩織]]は、[[国際教養大学]](秋田県)の性教育トークショーで「性教育は「人権教育」で、タブーはない。いろいろな人を生きやすくするのに必要なもの」と言った<ref name="sakigake202003">[https://www.sakigake.jp/news/article/20200304AK0009/ 「性教育にタブーなし」助産師シオリーヌさんと語る] [[秋田魁新報]]電子版</ref>。 === 青少年の性の状況 === 日本性教育協会の青少年の第5回性行動全国調査によると、交際相手のいる中学生で1割、高校生では男子7割と女子5割、大学生では9割以上がセックス経験があり、[[初体験]]の相手は中学生では自分と同い年、恋人が増加している。性行動が低年齢化が日常化によって進行していると言われている<ref>渡辺裕子「異性関係の変容と学校集団の影響」『リーディングス日本の教育と社会第7巻子どもと性』(日本図書センター発行 2007年)pp.68-77</ref>。 内密出産を取り扱う「[[こうのとりのゆりかご]]」を運営する医師は小学校5年生の出産に対応した経験があり、また「慈恵病院SOS赤ちゃんとお母さんの相談窓口」に寄せられた平成19年(2007年)から平成26年(2014年)度までの相談件数9248件のうち、15歳から18歳までの相談件数は715件であった<ref>{{Cite journal|和書|author=蓮田太二 |title=いのちを救う「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」 |url=http://id.nii.ac.jp/1129/00000175/ |journal=日本赤十字豊田看護大学紀要 |ISSN=1349-9556 |publisher=日本赤十字豊田看護大学 |year=2016 |month=03 |volume=11 |issue=1 |pages=3-12 |naid=120005771919 |accessdate=2022-06-28}}</ref>。 東京都では高校生に対する性教育は東京産婦人科医会に依頼されて、高校の所在する地域の医師が派遣されるが、約200余の都立高校のなかで2017年(平成29年)は32校にしか過ぎないと報告されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jase.faje.or.jp/jigyo/journal/seikyoiku_journal_201806.pdf|title=わが国の性教育の現状と課題|website=現代性教育研究ジャーナル |date=2018年6月15日 |accessdate=2020-11-01}}</ref>。 若年層の妊娠出産が年400件で推移する[[沖縄県]]では、医師と[[児童相談所]]所長が中学終了まで一定程度の性教育の必要性と性的同意の重要性を説いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/511170|title=15歳以下189人が出産 839件の人工中絶 「若者守る性教育が必要」産婦人科医師と児童相談所長が報告|website=[[沖縄タイムス]]+プラス |date=2019-12-17 |accessdate=2020-10-20}}</ref>。 文部科学省も国会の質疑等でも[[厚生労働省]]と連携して取り組んでいくとしているため、産婦人科医会も全面的に性教育、特に中高生、一般の方に対する教育には努力は惜しまないことを表明しているが性交や避妊を教えない教育について正しい性の知識が普及しない懸念を示している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/content/000517419.pdf|title=第5回「オンライン診療の適切な実施に関する指針の見直しに関する検討会」|website=厚生労働省|accessdate=2021-2-4}}</ref>。 公立高校では、文部科学省調査で2015年・16年度の2年間に学校が妊娠の事実を把握した生徒数は、全日制・定時制あわせて2,098人であり、そのうち32.1%にあたる674人が、妊娠を理由に「自主退学」しており、中には実際には退学を勧奨された事案もあり女生徒の妊娠は学業で大きな損失となる。一方で妊娠させた側についての調査はない<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/__icsFiles/afieldfile/2018/11/16/1411217_001_1.pdf 公立の高等学校(全日制及び定時制)における妊娠を理由とした退学に係る実態把握結果 - 1411217_001_1.pdf]文部科学省</ref>。 === ひとり親 === 人工妊娠中絶や[[特別養子縁組]]といった手段を取らず、[[分娩]]費用を助成する入院助産制度を活用して出産するなど若年層で子供を産み育てる選択を取ったとしても、未婚のまま、または離婚の場合も子どもを引き取るのは2012年統計では妻側が83.9%となっており、一人親になるのは圧倒的に母親である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2014.asp?fname=T06-14.htm |publisher=[[国立社会保障・人口問題研究所]] |title=人口統計資料集2014|accessdate= 2015年10月31日}}</ref>。 日本ではひとり親の相対的貧困率が高く、無職では60%で30か国中ワースト12位と中位であり、有業のひとり親の相対的貧困率については58%で諸外国中ワースト1位<ref>[http://www.oecd.org/els/soc/growingunequalincomedistributionandpovertyinoecdcountries.htm] OECD Growing Unequal? Income Distribution and Poverty in OECD Countries table5.2. 2008年10月</ref>という状況にある。 政府調査ではひとり親の4世帯に1世帯は、子どもの世話・家事について頼れる人が「誰もいない」うえ、金銭的援助も望めない世帯の割合は、母子世帯が 51.5%となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jil.go.jp/press/documents/20191017.pdf|title=母子世帯の貧困率は5割超え、13%が「ディープ・プア」世帯「第5回(2018)子育て世帯全国調査」結果速報|publisher=独立行政法人労働政策研究・研修機構|date=2019-10-1|accessdate=2020-08-03}}</ref>ため準備ができていない時の妊娠・出産は女性の人生でより困難な大きな転機となる。なお、出産費用の相談先について円ブリオ基金などのNPO団体もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://embryokikin.com/|title=円ブリオ基金センターとは|publisher=円ブリオ基金センター|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 === 中絶 === {{further|妊娠中絶}} {{further|人工妊娠中絶}} 人工妊娠中絶は昭和44年調査では200万件とも推計され、当時妊娠可能女性の42%が中絶の経験者でありその46%が家族計画避妊の失敗からという理由であるため、昭和49年当時にピルの薬局販売推進が国会答弁されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/072/syuh/s072005.htm|title=第72回国会(常会)質問主意書家族計画の指導方法の改善と経口避妊薬の承認に関する質問主意書 右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する須原 昭二 昭和49年1月28日|publisher=衆議院|accessdate=2021-7-12}}</ref>。 20歳未満の中絶率は平成30年(2018年)度衛生行政報告例で、東京都が最多の6.6‰、[[北海道]]6.4が続き、[[宮崎県]]の6.2ほか九州地方で以前から高い傾向にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450027&tstat=000001031469&cycle=8&month=0&tclass1=000001132823&tclass2=000001132824&tclass3=000001134083&stat_infid=000031873763&cycle_facet=cycle&tclass4val=0|title=衛生行政報告例第9章 母体保護表7|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 現在は中絶件数が毎年低減しているものの、平成30年度件数は 161,741件であり、「20歳未満」について各歳でみると、「19歳」が 5,916 件と最も多く、次いで「18歳」が 3,434件となっている。一方で30代は60,368件、40代以上も15,909件となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/18/|title=平成30年度衛生行政報告例の概況 母体保護関係|accessdate=2020-05-10|website=厚生労働省|date=2019-10-31}}</ref>。 出産に関する統計はほとんどが15歳からだが、15歳未満の妊娠も年間約400件ほどある<ref>{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/479647/|title=小中学生の妊娠は年間約400件…産科はどう対応するか|publisher=All about|author=清水ほなみ|accessdate=2020-08-02}}</ref>。 平成29年(2017年)度の出産数と中絶数の比率で出した中絶選択率は、全体では15%だが20歳未満で59%にも上る。また12歳未満の強制性交等の性犯罪は約1000人が被害者となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jaog.or.jp/wp/wp-content/uploads/2019/06/132_20190612.pdf|title=性教育の新たなスタートに向けて|accessdate=2020-05-10|autheor=安達知子|website=日本産婦人科医会|date=2019-6-12}}</ref>。 佐賀県の産婦人科医の調査では、膣外射精を避妊手段として選ぶ知識のなさと、避妊なしの性交渉を断れない関係性が影響していると分析している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/90350/|title=【こんにちは!あかちゃん 第17部】おなかの命は… 中絶を考える<6完>正しい避妊 男性も当事者|publisher=[[西日本新聞]]|date=2014-5-24|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 望まない妊娠の相談先として「全国妊娠SOSネットワーク」がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://this.kiji.is/727068465393467392|title=10代の妊娠相談、コロナで急増“巣ごもり”影響か|publisher=47news|date=2021-1-30|accessdate=2021-1-31}}</ref> === 外国における中絶との比較 === [[岡山県]][[津山市]]で住宅[[団地]]の浄化槽から乳児の遺体が見つかった事件では、[[岡山県警]]は[[ベトナム]]国籍の女性[[技能実習生]]について死体遺棄容疑で2020年4月16日に逮捕し処分保留で釈放したが5月に堕胎容疑で再逮捕している。実習生のため妊娠が発覚したら帰国させられると思った末の犯行だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.goo.ne.jp/article/bengoshi/life/bengoshi-topics-11229.html|title=「帰国させられてしまう」乳児遺棄あいつぐ、技能実習生を追いつめる根深い課題|date=2020-05-19|accessdate=2021-2-27|publisher=弁護士ドットコムニュース}}</ref>。 しかし彼女がもしベトナムにいたとしたら中絶費用は妊娠初期で500円弱、中期でも1万円強。貧困地域や遠隔地では無料であった。今でも日本では[[堕胎罪]]、妊婦自身が行った場合には自己堕胎として罪に問われる問題がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/jcp_with_you/2020/07/1383756232cca03a1955ddc7a35223b1e9c55b52.pdf|title=日本共産党 ジェンダー平等委員会連続講座 日本におけるリプロダクティブ・ライツの現状と問題点|date=2020-6-15|accessdate=2021-2-27|publisher=[[日本共産党]] ジェンダー平等委員会}}</ref>。 [[韓国]]では2021年1月1日から堕胎罪が無効化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/01/post-95367.php|title=韓国1月1日から堕胎罪が無効に 女性と医師のみ罪に問われる社会は変わるか|date=2021年1月10日|accessdate=2021-2-27|publisher=[[Newsweek]]}}</ref>。 日本は平成30年(2018年)度 男女共同参画白書によると人工妊娠中絶率の国際比較において低位となっており20歳未満5.0%、20-24歳12.9%、全体6.5%であり、ドイツ20歳未満4.2%、20-24歳9.3%、全体5.7%には及ばないが、フィンランドの20歳未満8.2%、20-24歳15.3%、全体8.2%などより低い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h30/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-37.html|title=平成30年度 男女共同参画白書I-特-37図 人工妊娠中絶率(国際比較)|accessdate=2022-6-23|publisher=厚生労働省}}</ref>。 === 妊娠と自殺 === 若年層の妊娠は分娩希望の場合でも精神不安に陥りやすいこと、また年齢に関わらず緊急避妊薬を求める女性は性被害者が多く、中絶処置をした患者についてはその後思い悩み自殺企画が多いことが読み取れる<ref>{{Cite journal|和書|author=上村茂仁 |title=S08-3.産婦人科医による若者の自殺予防 |url=https://doi.org/10.20615/jscap.59.1_11 |journal=児童青年精神医学とその近接領域 |issn=0289-0968 |publisher=日本児童青年精神医学会 |year=2018 |volume=59 |issue=1 |pages=11-11 |naid=130007691949 |doi=10.20615/jscap.59.1_11|accessdate=2020-11-02}}</ref>。 2005年から2014年の東京都23区の妊産婦の異状死調査では、自殺63例のうち23例が妊娠中であった。うち10件以上が妊娠2週間のうちに起こっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/0000149769.pdf|title=新たな自殺総合対策大綱の在り方に関する検討会(第3回)」妊産褥婦の自殺-東京都の集計及び概略分析|publisher=厚生労働省|date=平成29年1月27日 |accessdate=2020-11-01}}</ref>。 2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦調査での死亡例は全国で少なくとも102人であり、妊娠中や産後1年未満に死亡した妊産を調べたところ、自殺が死亡原因の1位となっている。妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL9473MVL94ULBJ00Z.html|title=妊産婦の死因、自殺がトップ 産後うつでメンタル悪化か|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018年9月5日 |accessdate=2020-10-13}}</ref>。 産婦人科医の調査では10代の妊娠(分娩希望)の場合も妊娠中自殺願望を持った患者は全体の15.6%であり、7.2%は自殺を試みている。一般の性感染症患者、緊急避妊薬処方患者は、[[デートDV]]被害者や性虐待被害者の場合が多く、自殺願望が認められると報告されている。また中絶後の患者が人口妊娠後遺症(PAS)に悩んでいるケースは76.2%であり、48.3%が自殺願望を持ち12.2%が実際自殺を試みている状況にある。海外での研究でも中絶経験者の60%が自殺を考え、28%が実際に自殺を図り、そのうち半数が2回以上自殺を図った。特に10代の若者や離婚者などにリスクが高い。[[心的外傷後ストレス障害]](PTSD)も見られた<ref name="David C. Reardon">{{Cite web|和書|url=http://japan-lifeissues.net/writers/rea/rea_02psycheffect-ja.html#a13|title=中絶に関わる主な精神的影響のリスト|publisher=Japan-lifeissues.net |author=David C. Reardon|accessdate=2020-10-18}}{{リンク切れ|date=2021年3月13日}}</ref>。 [[フィンランド]]の13年間の調査では中絶の翌年は自殺、事故及び殺人による死亡が24%増加することが女性全体を対象した調査で判明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.japan-lifeissues.net/writers/rea/rea_35suicidesabortion-ja.html|title=中絶後に女性の自殺率が上昇、新たな調査結果|publisher=Japan-lifeissues.net |author=David C. Reardon|accessdate=2020-10-20}}{{リンク切れ|date=2021年3月13日}}</ref>。調査期間中自殺の73件は中絶または流産後1年内に起こっている<ref name="David C. Reardon"/>。 この調査では、中絶した女性の死亡原因の過半数が自殺であることも判明した。若すぎる妊娠や、望まない妊娠は自殺のリスクを高め、出産後0日の嬰児殺害にもつながっている。胎児を中絶する経験は女性に大きな罪悪感を生み出す<ref name="news.yahoo.co.jp">{{Wayback|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/ad5c21af0b8081103052c21e9536cd2d02a62a90|title=望まない妊娠…経験者が語る「中絶を決意した人に伝えたいこと」|date=20201018125036}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/69928|title=『透明なゆりかご』著者が語る中期中絶を選んだ妊婦たちの孤独|publisher=[[FRIDAY (雑誌)|FRYDAYdegital]]|date=2019-10-13 |accessdate=2020-10-14}}</ref>。 海外では後述の緊急避妊薬でその妊娠の多くが容易に回避できる状況にあるが、日本国内では実現しておらず結果として女性が望まない妊娠・出産の負担を負うことになり、日本国内の女性に対して[[日本国憲法]]に定める[[法の下の平等]]や[[生存権]]が中絶に関わる主な精神的影響のリスク保証されていないものとなっている<ref name="news.yahoo.co.jp"/>。 === 避妊について === 中高生の妊娠には、[[避妊]]の正しい知識不足による失敗がある。言わゆる女性の生理周期の排卵日を避けて「安全日」を選んでする性行為も、男性が放出した精子は女性器内で最大5日生存するため、確実ではない。また月経中は妊娠しないという誤認があったり、膣外射精や炭酸飲料で膣を洗う対策は避妊ですらないということが伝わっていない場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_749.html|title=避妊に失敗してしまう間違った対策方法とは?|publisher=NHK|date=2018年7月23日|accessdate=2020-08-01}}</ref>。 緊急避妊薬[[一般用医薬品|OTC化]]に関する医師に対するアンケートでは、回答者の90%が処方経験がありその理由(複数回答)の95.5%が[[コンドーム]]の脱落・破損だった。同意のない性交が36.1%、性暴力32.1%も含まれていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210925/k10013276681000.html|title=産婦人科における緊急避妊薬処方の現状~緊急避妊薬のOTC化に関する緊急アンケート調査より~ 公益社団法人 日本産婦人科医会|publisher=厚生労働省|accessdate=2021-10-4}}</ref>。この状況の背景には国連発表では日本の避妊の方法は男性用コンドームが75%で女性が使う経口避妊薬は6%にとどまり、経口避妊薬が31%である海外と比較し日本では男性が行う避妊方法に偏っていることが挙げられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/sodan/shien/higai/support/josei.html|title=「世界避妊デー」避妊方法限られる日本 普及へ新たな動き|publisher=NHK|accessdate=2021-10-4}}</ref>。[[スウェーデン]]など諸外国で普及している妊娠を防ぐ[[ホルモン]]が含まれたスティックを皮下に埋め込む「避妊インプラント」、腹部などに貼るシール状の「避妊パッチ」、膣内に挿入する避妊リング、避妊注射なども日本では承認されていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/489853/|title=避妊を考える<下>女性が主体的に取り組める方法 シールや注射、海外は多彩な選択肢|publisher=西日本新聞|date=2019-2-26|accessdate=2021-10-4}}</ref>。 精子は射精時の[[精液]]だけでなく、前段階で分泌される[[カウパー腺]]液中にも僅かに存在する場合があるため確率の高い避妊法とは言えず通常は避妊法としてカウントされない(PIは4-19程度)。また知識があったとしても、一般的な避妊方法に使用されるコンビニエンスストアでも購入できるコンドームによる避妊方法も万全ではなく、避妊失敗率は2%であり正しい使用方法でない場合を含めると18%とされ、一方でピルは0.3%とされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://medley.life/diseases/topics/57b6586f3ee3ba32008b4569/details/manner/condom/|title=避妊|publisher=[[メドレー (企業)|MEDLEY]]|accessdate=2020-08-01}}</ref>。 コンドームは「性感染症予防」、避妊のためにはより効果の高い方法を「併用する」ことが常識となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/65430?page=2|title=女性の健康世界会議で大衝撃!23歳が「日本ヤバイ」と痛感した理由|author=福田和子|publisher=現代ビジネス|date=2019-06-23|accessdate=2020-08-03}}</ref>。しかし口で性器に触れる[[オーラルセックス]]では、双方の性器を保護しないと性感染症が防げない問題もある。 妊娠の不安については、市販されている99%の精度<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.arax.co.jp/checkone/ |title=チェックインワンについて |publisher=株式会社[[アラクス]] |accessdate=2020-6-11}}</ref>と言われる[[妊娠検査薬]]の存在への無知などがあり、様々な性にまつわる理解が不十分な状態が招いた問題となっている。 なお中絶可能週数は22週までで、中絶の同意書には配偶者の同意者が必要である。未婚者の場合でもパートナーの合意を求める病院があり男性も交際相手の女性の中絶同意書に署名する責任がある。しかしこの制度は性暴行の加害者にも同意を求めなくては手術を行うことができない現状に繋がっているため弁護士から批判を浴びている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20200705-00186652|title=性暴力による妊娠中絶、なぜ「加害者の同意」が必要? 厚生省は通達で「いやしくも便乗して…」|publisher=yahoo news|author=小川たまか|date=2020-07-05|accessdate=2020-07-11}}</ref>。 === 低容量ピルの承認 === {{further|経口避妊薬}} 1999年(平成11年)6月、女性自身が妊娠をコントロールする低用量ピルが申請から9年の歳月を経て承認された。1965年以来、185以上の[[国連加盟国]]各国はピルを承認し、世界中で2000万人の女性が服用する中、日本はピルを承認する最後の先進国であり<ref>{{cite web|url=https://heinonline.org/HOL/LandingPage?handle=hein.journals/tlj35&div=38&id=&page=|format=PDF|title=Potency and Pregnancy in Japan: Did Viagra Push the Pill |author=Patricia L. Martin |publisher=the university of tulsa|accessdate=2020-12-20}}</ref>、国連加盟国185か国で当時唯一の未承認国であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://rhic.kenkyuukai.jp/special/index.asp?id=4380|title=国会からの報告|publisher=リプロ・ヘルツ情報センター|accessdate=2020-12-21}}</ref>。 1999年(平成11年)2月、衆議院予算特別委員会での国会審議において、[[末松義規]]議員より、[[バイアグラ]]のスピード承認に対してピル承認が9年以上も審議にかかることについて、[[中央薬事審議会]]が社会的な価値観を持ち込んでいる疑問が呈され、同議員は「どうも何か大きな思惑があったのじゃないかと思わざるを得ない」と意見している<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114505270X00219990218&spkNum=138&current=25|title=第145回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第2号 平成11年2月18日139.141末松義規|accessdate=2020-12-29}}</ref>。 [[臨床試験]]はバイアグラはしなかったことを引き合いにピル承認について尋ねると、担当部局に伝えるとだけ回答されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114514324X00119990203&spkNum=27&current=5|title=第145回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第1号 平成11年2月3日027 [[円より子]]|accessdate=2021-01-10}}</ref>。 HIV感染拡大の懸念から薬事審議会が一時審議を凍結し、感染症問題を管轄する公衆衛生審議会に意見を求めるなど調整が難航し、承認時にもなお感染症対策をもっと詰めて承認を決めるべきだったとの意見(東京医科歯科大学大島博幸教授)があった<ref>「低用量ピル解禁」『[[読売新聞]]』第44227号1999(平成11)年6月13日1面31面/2020年12月20日閲覧</ref>。 低用量ピルが長期審議から一転解禁となった背景には、男性用性的不能治療薬「バイアグラ」を個人輸入で大量に出回り死亡例が発生したことから安全に処方されるためとの理由で、申請からわずか半年で承認された。これにより男性本位との批判が起こったことが関係しているとの見解もある<ref>小川節子【記者の目】バイアグラのスピード承認 男性本位の「性」倫理『毎日新聞』1999年1月26日(2020年12月20日閲覧)</ref>。 厚労省はピル解禁について、世の中の理解が進みピルを温かく見守る環境ができた(平井俊樹審査管理課長)との講和を発表した。しかしピルが承認されない一方でバイアグラが超特急で承認されたことに対し、『[[ニューヨークタイムズ]]』紙では世界的に安全性が確立された低用量ピルが認可されていないのみならず副作用ゆえに米国では88年以降販売されなくなった「危険な」高用量ピルのみが認可され,販売され続けていることも紹介し日本の薬事行政の奇妙さを紹介した<ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1999/04/27/science/japan-s-tale-of-two-pills-viagra-and-birth-control.html|title=Japan's Tale of Two Pills: Viagra and Birth Control|publisher=New york times|date=1999-04-27|accessdate=2020-12-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2006dir/n2691dir/n2691_05.htm|title=〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第88回ピル(医療と性と政治)(19)「性の乱れ」を防ぐことに躍起となる権力者たちの習性|publisher=医学界新聞|author=李啓充 医師/作家(在ボストン)|accessdate=2020-12-20}}</ref>。 懸念された性感染症については、ピルが承認の1999年のHIV感染者は日本人男性379人(うち同性接触195人)、女性が45人であり、2019年では同男性741人(うち同性接触575人)、同女性29人となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://api-net.jfap.or.jp/status/japan/data/2019/nenpo/hyo_05.pdf|title=表5 HIV感染者及びAIDS患者の年次推移(国籍別、性別、感染経路別)|publisher=エイズ予防情報ネット|accessdate=2020-12-20}}</ref>。 また先進国のなかで卵巣がんが増加しているのは日本だけといった状況にあり、この卵巣がんの発症数については、月経回数を減らす効果がある低用量ピルが日本では4%の利用と極めて少ない普及状況が影響している可能性があると医師より指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/463099|title=【出産減で生理回数10倍に】“多すぎる生理”で「卵巣がん」増加 「低用量ピル」で予防可能!|publisher=FNNプライムオンライン|author=小林晶子|date=2023-1-1|accessdate=2023-1-5}}</ref>。 === 緊急避妊薬 === {{further|緊急避妊薬}} 緊急避妊薬は性交後に排卵を遅らせて妊娠を阻止する経口剤のことであり、妊娠を予防する薬である。流産を引き起こす中絶効果はない<ref>{{citeweb|url=https://hdl.handle.net/10665%2F70210|title=Fact sheet on the safety of levonorgestrel-alone emergency contraceptive pills (LNG ECPs)|author=WHO|year=2010|accessdate=2021-06-26}}</ref>。Yuzpe(ヤッペ)法と呼ばれる中容量ピルがかつて使用されたが、日本ではレボノルゲストレル錠が2011年2月23日に緊急避妊薬として承認された。日本では医師の診察が必要な[[処方箋医薬品]]である<ref name="ECP22016">{{Cite web|和書|url=http://www.jsog.or.jp/uploads/files/medical/about/kinkyuhinin_shishin_H28.pdf|title=緊急避妊法の適正使用に関する指針(平成28年度 改訂版) |accessdate=2021-06-07|publisher=日本産科婦人科学会}}</ref>が、アメリカ合衆国では、大学区校内の[[自動販売機]]で緊急避妊薬が購入できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/29212?page=4 |title=ピルを出したがらない産婦人科医の屁理屈 "人工妊娠中絶"の収入減を懸念か| author=山本佳奈 |accessdate=2020-05-02|publisher=PRESIDENT Online }}</ref>。このことと価格帯の問題のため日本では[[世界保健機関]]が2018年に勧告した、意図しない妊娠のリスクを抱えた全ての女性は緊急避妊薬にアクセスする権利があるとの声明に合致していない現状がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXKZO50604600U9A001C1TCC000/ |title=緊急避妊薬、入手の壁なお高く ネット処方解禁でも |publisher=日経電子版ヘルスUP |date=2019-10-7 |accessdate=2020-5-2}}</ref>。コロナ禍においてオンライン診療での処方が暫定的に認められているが、処方箋なしの薬局購入(OTC化)については、[[市民団体]]が、10万7000人分の署名を厚生労働省に提出した<ref>{{Wayback|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201027/k10012683251000.html|title=緊急避妊薬の薬局販売 市民グループが厚生労働省に要望|publisher=NHK|date=20201030085237}}</ref>ものの、2021年現在認められていない。 厚生労働省の「医療用から用指導・一般化への転用に関する評価検討委員会議」で2017年には性教育の不十分さや薬剤師の知識不足を理由として否決された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000176856.html|title=2017年7月26日 第2回医療用から要指導・一般用への転用に関する評価検討会議 |accessdate=2020-05-02|publisher=厚生労働省}}</ref>が、再度2021年5月に処方箋なしの薬局販売についての審議が再開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-iyaku_346305.html|title=医療用から要指導・一般用への転用に関する評価検討会議|publisher=厚生労働省|accessdate=2021-6-7}}</ref>。 なお2020年10月より同審議会はこれまでスイッチの可否を握ってきたが、スイッチ促進へ向けた課題解決案を話し合う場へと姿を変える見通しであり、<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dgs-on-line.com/articles/473 |title=【一変したスイッチOTC検討会議】今後はドラッグストアも参画か| date=2020年10月30日|accessdate=2021-2-26|publisher=ドラビズ on-line}}</ref>今後の決定権は厚労省に移っている。 ところで[[フランス]]において中絶法([[ヴェイユ法]])を作り上げた[[シモーヌ・ヴェイユ (政治家)]]はその回顧録に於いて中絶よりそれ以前に成立した避妊法の成立への国会議員の抵抗が非常に激しいものであったことを述べている。男性たちは避妊が女性の自由を認め男性の関与を許さなくなるものであることに対し、中絶は男性も感情を損なうものではあるが女性の身体に男性が影響を及ぼさないようにするわけではないことを理由として考察している<ref>シモーヌ・ヴェーユ著、石井久仁子訳『シモーヌ・ヴェーユ回想録』パド・ウィメンズオフィス発行 2011年7月</ref>。 International Consortium for Emergency Contraception<ref>{{citeweb|url=https://www.cecinfo.org/|title=Welcome to ICEC The International Consortium on Emergency Contraception|website=International Consortium for Emergency Contraception|accessdate=2021-10-16}}</ref>及び[[:en:Emergency contraceptive availability by country]]によると諸外国では日本・韓国・[[台湾]]では処方箋が求められるが、[[中華人民共和国]]やヨーロッパ諸国では処方箋が必要なく、場合により無償で提供されている。 10月の「国際ガールズ・デー」にあわせNGOが行った調査では若い女性ほど緊急避妊薬や低用量ピルについてどのような薬かの知識が高く、20代以下の女性では48%が入手方法も知っていたが高齢になるほど知識が低減していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211011/k10013301421000.html|title=緊急避妊薬や低用量ピル 若い世代ほど“知識あり” 費用に課題|publisher= NHK|date=2021年10月11日|accessdate=2021-10-16}}</ref>。 緊急避妊薬へのアクセスは人権の問題であると「緊急避妊薬を薬局でプロジェクト」の共同代表であり、産婦人科医の遠見才希子は語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://d4p.world/news/6911/|title=緊急避妊薬へのアクセスは人権の問題、それを阻んでいるものは? 「緊急避妊薬を薬局でプロジェクト」共同代表、遠見才希子さんインタビュー|publisher= Dialogue for People |date=2020-9-18|accessdate=2022-1-16}}</ref>。 === 不妊症 === なお、子供を望むができない[[不妊]]症では加齢が原因の場合もあり、女性は胎生期に最大の卵子を持ち、以降減少していくため、女性の妊娠しやすさ(妊孕性)は、おおよそ32歳位までは緩徐に下降し、卵子数の減少と同じくして37歳を過ぎると急激に下降していく。また男性も年齢とともに妊孕能が低下する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jaog.or.jp/lecture/1-妊娠適齢年令/ |title=1.妊娠適齢年令 |publisher=公益社団法人 日本産婦人科医会 |accessdate=2020-05-05}}</ref>。女性が35歳以上の出産を[[高齢出産]]と呼び、流産の上昇や胎児の[[染色体異常]]の頻度などリスクも高くなる<ref>{{Cite web|和書|title=高齢妊娠に伴う諸問題|url=https://doi.org/10.11434/kyorinmed.47.77|publisher=杏林医学会|date=2016|accessdate=2020-06-28|doi=10.11434/kyorinmed.47.77|author=古川誠志}}</ref>。 不妊については二人目不妊の問題もあり、雑誌社の調査では不妊治療経験者中で第二子のときに不妊治療を経験した人は6割を超え、その内半数が第二子で初めて不妊治療をした状態にあり、子供を望んでいて最初の妊娠で問題がなくとも加齢やセックスレスにより妊娠しづらくなる問題が起こる場合がある。このため生涯設計のため生殖可能年齢を早期に理解することも重要である<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO37969890Q8A121C1000000/|title=実は多い2人目不妊 早めに受診、子育てと仕事が壁に|publisher=woman smart DUELプレミアム|date=2018-12-6|accessdate=2020-06-20}}</ref>。 [[日本産科婦人科学会]]によると不妊治療の体外受精によって2017年に誕生した子どもの数は、この年に生まれた子どものおよそ16人に1人の割合となっており<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/304c8c94437d789ba9c51970c569c03ba0ab69be|title=16人に1人が体外受精児 17年、5万6千人誕生|publisher=yahoo news|date=2019-10-28|accessdate=2020-08-02}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>、誰もが自然妊娠するとも限らない現状がある。 女性の胎内で胎児が育たない不育症の問題もある。2021年には厚生労働省が不妊治療費用の助成を拡大することを決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/6b9abc7aa87170b50f0af79308e2a99db09d46a8|title=2021年1月1日より不妊治療の助成金が増額します!|publisher=suis woman|date=2021-1-1|accessdate=2021-1-31}}</ref>。 2021年7月、厚生労働省は、来年度開始を目指す不妊治療の保険適用に向け、医療現場で使われている未承認の医薬品について、「公知申請」の制度を用いて承認手続きを迅速化し、体外受精に用いる排卵誘発剤や、「バイアグラ」など男性不妊に対する勃起障害の治療薬、射精障害に対する抗うつ剤に保険適用する予定と公表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/medical/20210710-OYT1T50276/|title=【独自】不妊治療薬、承認手続き迅速化…保険適用へ排卵誘発剤やバイアグラなど候補に|publisher=読売新聞|date=2021-7-11|accessdate=2021-7-12}}</ref>。 世界保健機関(WHO)の発表によると、不妊症の方のうち、不妊症の原因が女性側のみというケースは41%、男性のみは24%、男女双方は24%、原因不明は11%となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://medicalnote.jp/contents/171227-002-MX|title=不妊の原因。女性・男性別の不妊要因とは|publisher=medical note|accessdate=2020-11-01}}</ref>。 [[クラミジア]]感染症が不妊の原因となる場合もある。また不妊には肥満や喫煙が影響する場合があり、男性は70代でも生殖可能な一方で、サプリメント摂取による男性不妊も指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buzzfeed.com/jp/tomchivers/this-is-what-you-need-to-know-about-fertility-1|title=すべての人に知ってほしい、生殖能力と年齢の関係についての事実|website=BUZZFeed|date=2019-2-7|accessdate=2020-08-28}}</ref>。 胎児の[[出生前診断]]の普及により、不妊治療後に授かった子でも診断結果によって異状があった場合中絶する覚悟で検査をする実態もある。2013年から5年半の間に、6万人を超える妊婦が新型出生前診断を受けて陽性確定の9割が中絶したと報道されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/22382|title=9割が「中絶」…重い決断迫られる『新型出生前診断』“無認可”も横行|website=[[関西テレビ]]|date=2019年8月4日|accessdate=2020-12-03}}</ref>。 === コロナ禍における妊娠 === コロナ禍において10代の妊娠相談は増加し、支援団体への相談者の1番下は小学4年生といった現実がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nagoyatv.com/news/?id=001889|title=10代からのSOS“コロナ禍”で増える“妊娠相談”小学4年生の相談も|publisher=[[名古屋テレビ|メーテレ]]|date=2020年7月20日 |accessdate=2021-5-30}}</ref>。 小学6年生に至っては複数人からの相談が寄せられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/society/660489|title=小学生も10代少女から妊娠相談が急増 |publisher=[[日本テレビ]]|date=2020-6-12 |accessdate=2021-5-30}}</ref>。 2020年現在では、コロナ禍において全国の妊娠届の件数は、感染への不安が高まった3月ごろに妊娠した人が届け出る5月以降で7月まで前年同期を1割超下回っているため、来年度は出生数が80万人を割り込む可能性がある<ref>{{citenews|url=https://www.yomiuri.co.jp/medical/20201021-OYT1T50272/|title=来年の出生数80万人割れも…妊娠届、コロナ禍の5月以降減少|publisher=読売新聞|date=2020-10-22|accessdate=2021-02-01}}</ref>。 ただしこれは日本人女性の産み控えだけではなく、日本に来ていた外国籍の家族滞在者などが本国に帰り日本で出産しなくなったことが影響している可能性もある。なお、同時期に「嫡出推定」制度見直が報道された。これは離婚から300日以内に生まれた子どもは前の夫の子と見做すことなどが規定されているが、離婚前に既に前の夫ではない男性と交際があった場合や早産、医学の発達により未熟児も生存可能となったことなどを背景として改定される見込みとなった。現状では前の夫の戸籍に入らないようにするため出生届がなされず無戸籍になることがある<ref>{{citenews|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210210/k10012858571000.html|title=「嫡出推定」制度見直し 来年の通常国会にも法律改正案 法務省|publisher=NHK|date=2021年2月10日|accessdate=2021-02-22}}</ref>。 === 月経をめぐるトラブル === このほか、性にまつわる問題として現代の女性は初経が早く、妊娠・出産の回数も少ないため、生涯の月経回数が多く月経トラブルも増加している。低用量ピルによる治療が有効だが普及率は3%となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://answers.ten-navi.com/pharmanews/20153/|title=月経困難症 低用量ピルの普及進まず…製薬各社 啓発に力|publisher= AnswersNews|date=2021-1-18|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 ピルは[[子宮内膜症]]、機能性[[卵巣]]嚢胞、[[子宮体がん]]、不妊症になる可能性を低下させる効能も言われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hori3541.or.jp/column/pill|title=ピルの副効用:避妊以外のメリット|publisher= 堀産婦人科|accessdate=2021-2-22}}</ref>。 働く女性の8割以上が生理痛やPMS(月経前症候群)による仕事への影響を感じており、その影響で野経済的損失は年間6828億円との調査結果がある。このため、福利厚生制度で生理痛やPMSをやわらげる低用量ピルの服薬の支援を始めた企業もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wwdjapan.com/articles/1021335|title=生理の体調不良で経済的損失が年間6828億円 フェムテック先駆け「ルナルナ」運営会社が福利厚生制度で低用量ピル服薬を支援|publisher=WWD|date=2020-1-31|accessdate=2020-12-15}}</ref>。 アスリートが心身を追い込むと[[月経|生理]]が止まることがあるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://the-ans.jp/women/143810/|title=隠れていたフィギュア選手の生理問題 鈴木明子の告白「選手時代、私は間違っていた」|publisher=THE ANSWER|date=2021-1-31|accessdate=2021-2-8}}</ref>、低用量ピルは2008現在で欧米で行われた調査によると82%のトップアスリートが低用量ピルを服用さしており、継続的に月経対策を行われてコンディションを整えている。月経困難症やPMS(月経前症候群)、過多月経(経血量が多い)にも処方されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://the-ans.jp/women/141566/|title=日本の五輪選手4人に1人が使う低用量ピル 避妊だけじゃないアスリートにとっての効果|publisher=THE ANSWER|date=2021-1-9|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 子宮内に装着する子宮内システム(IUS)も最長5年に渡る高い避妊効果と月経困難症の緩和が効能としてある<ref>{{Cite web|和書|url=https://rocketnews24.com/2021/01/18/1451884/|title=【女子必見】生理が消滅するかも? 噂の『ミレーナ』を装着して3カ月 … デカすぎるメリットと注意点|publisher=[[ロケットニュース24|ROCKET NEWS24]]|author=亀沢郁奈|date=2021-1-18|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 == 性感染症 == {{further|性感染症}} [[1980年代]]以降、[[後天性免疫不全症候群]](エイズ)の存在が取り上げられるようになり、性教育もその存在を無視することはできなくなった。エイズが流行しているとまで言える状態にまで達してしまった[[アフリカ]]各国においては、研究者たちのほとんどが、性教育を[[公衆衛生]]において極めて重要と捉えている。[[米国家族計画連盟]]など、国際的な組織の中には、幅広い性教育を実践していくことは、[[人口爆発]]の危機を乗り越える/女性の権利を向上させるといった地球規模的な成果を達成することに繋がる、と考えている人々もいる。 性教育により、[[クラミジア]]、[[梅毒]]、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]の[[性感染症]]や、[[ヒトパピローマウイルス]](HPV)感染による[[子宮頸がん]]、[[中咽頭がん]]、[[肛門癌]]、[[陰茎がん]]などから身を守る方法を学ぶことができる。 2019年、淋病は男性が6,467人、女性が1,738人で男性は1999年より減少、女性は同水準である。2019年、梅毒は男性4,384人、女性2,255人となり、2010年までは男性は同水準、女性は減少だったものが一転して増加傾向にある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/topics/2005/04/tp0411-1.html|title=性感染症報告数 |publisher=厚生労働省|accessdate=2020-12-20}}</ref>。 性器ヘルペス以外の性感染症は全て男性が多く罹患している。梅毒の増加については風俗を利用する中高年の男性や、そこに勤める20代の女性などから感染が広がっているとみられている。男女ともに年齢関係なく、正しい性知識の普及が必要とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cf73140e4b0747b8c5e1c26|title=「若い女性は知識がない」「若い女性が悪用するかも」。アフターピルのオンライン診療検討会で出た意見【検討会の経緯まとめ】 |publisher=[[ハフポスト|HuffPost News]]|date=2021-2-22|accessdate=2021-2-22}}</ref>。 === 子宮頸がん === {{further|子宮頸癌}} 子宮頸がんはそのほとんどを性交渉による[[ヒトパピローマウイルス]](HPV)の感染を原因とし、年間約1万人が罹患し、約2,800人が死亡している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsog.or.jp/modules/jsogpolicy/index.php?content_id=4|title=子宮頸がんとHPVワクチンに関する正しい理解のために|publisher=公益社団法人 日本産科婦人科学会|accessdate=2021-01-07}}</ref>。 ヒトパピローマウイルス(HPV)の感染は20歳前後が多く<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotoni-ladies.or.jp/exam/b11.html|title=Chapter 11 子宮頸がんについての最近の情報|publisher=琴似産科婦人科クリニック|accessdate=2021-2-1}}</ref>、最も感染機会が多いのは性体験を始めた直後で性器の挿入の有無に関わらず性器の皮膚部分でも感染する。HPVウイルスは、性交渉を持ったことがある女性のうち、50-80%がHPVに一度は感染すると言われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10601000-Daijinkanboukouseikagakuka-Kouseikagakuka/0000033862_1.pdf|title=厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会、第6回における厚生労働省結核感染症課による「資料12」|publisher=厚生労働省|accessdate=2022-1-10}}</ref>。 正常な[[免疫]]状態の女性が感染から子宮頸がんに進行するには15年から20年かかる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.forth.go.jp/moreinfo/topics/2014/11281518.html|title=ヒトパピローマウイルス(HPV)と子宮頸がんワクチン(ファクトシート)|publisher=厚生労働省[[検疫所]]FORTH|accessdate=2021-2-1}}</ref>が、18歳で初体験をして21歳で死亡した急進行した事例もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/80798?page=2|title=21歳、子宮頸がんで命を…HPVワクチン接種が遅れた日本で起きていること|publisher=現代ビジネス|author=及川夕子|date=2021-3-4|accessdate=2022-1-10}}</ref>。 妊娠・出産年齢や子育て世代と発症のピークが重なることから、子宮頸がんは「マザーキラー」とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/75998|title=『コウノドリ』モデルの小児科医が語る「HPVワクチン」放置の危険性|publisher=FRaU編集部|date=2020-10-1|accessdate=2020-12-06}}</ref>。 また罹患した母親から新生児へのがんの移行が認められ、国立研究開発法人[[国立がん研究センター]]は出産直後の赤子が母親の子宮頸がんのがん細胞が混じった[[羊水]]を肺に吸い込むことによって、母親の子宮頸がんのがん細胞が子どもの肺に移行して小児での肺がんを発症した2事例を発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ncc.go.jp/jp/information/pr_release/2020/20210107/index.html|title=母親の子宮頸がんが子どもに移行する現象を発見|publisher=国立研究開発法人国立がん研究センター|date=2021-01-7|accessdate=2021-01-07}}</ref>、1組目の男児は免疫療法薬で治療できたが、2組目の男児は手術で肺がんを切除した。母親2人は出産後や出産時にがんと診断され、その後死亡したと公表した<ref>{{citenews|url=https://web.archive.org/web/20210106222247/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021010700322&g=soc|title=母の子宮頸がん、子に移行 羊水に混入、肺がんに―世界初・国立がん研究センター|publisher=[[時事通信|時事ドットコムニュース]]|date=2021-01-7|accessdate=2021-01-07}}</ref>。 HPV感染を防ぐ[[ヒトパピローマウイルスワクチン]]を公費で打てる定期接種は小学校6年生から高校1年の女子が対象であったが、2020年時点、男子へも対象を拡大する方針となった。しかし女性のように無料でうてる定期接種化するかは厚労省審議会での議論による予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/5712ba01caf76a6e2531ad5cfd26e3d46598a731|title=HPVワクチン、日本でも男性に接種拡大へ 12月4日に厚労省審議会で審査|publisher=BUZZ feed japan|date=2020-11-20|accessdate=2020-12-03}}</ref>。接種を受けて多様な症状が訴えられ、厚労省は対象者に個別に接種を呼びかける積極的勧奨を中止したが、厚生労働省は2021年11月に、2022年4月からの積極的勧奨接種再開を決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/content/000858760.pdf|title=ヒトパピローマウイルス感染症に係る定期接種の今後の対応について|website=厚生労働省|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-29}}</ref>。 私費の場合、2013年時点で1回あたり1.5万から2万円で3回接種を要する。HPV感染者がワクチンを打っても病状進行はしないが治癒効力もない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.juntendo.ac.jp/hospital/clinic/cancer/patient/program/answer/kouza_11_2_1.html|title=第11回市民公開講座 質疑応答:講演1講演1:子宮頸がんは予防できる時代に|publisher=順天堂大学医学部付属順天堂医院|accessdate=2021-2-10}}</ref>。 === その他の感染症 === このほか、出生児を守るために母子感染による「[[先天性風疹症候群]]」を防ぐため、ワクチンの定期予防接種制度により一度も風疹の定期予防接種を受ける機会がなかった40代と50代一部男性を対象に2019年から2021年度末までの約3年間に原則無料で抗体検査・予防接種が行われている<ref>{{citenews|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO43282730T00C19A4000000/|title=風疹ワクチン、40~57歳男性に無料接種 なぜ必要Dr.今村の「感染症ココがポイント!」|publisher=日経goodday30+|date=2019-6-21|accessdate=2021-01-10}}</ref>。 性行為がなくとも唾液を交換するディープキスで罹患する病気もある。[[伝染性単核症]](infectious mononucleosis)は乳幼児期に初感染をうけた場合は不顕性感染であるが、思春期以降に感染した場合に発症することが多く、kissing disease とも呼ばれる。罹患で多くの場合38℃以上の高熱で 1 - 2週間持続する場合が多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.niid.go.jp/niid/ja/diseases/a/echinococcus/392-encyclopedia/444-im-intro.html|title=伝染性単核症とは|publisher=国立感染症研究所感染症情報センター|accessdate=2020-12-15}}</ref>。 2021年にはコロナワクチンの接種が開始する見込みだが、新型コロナワクチンとその他のワクチンは、互いに、片方のワクチンを受けてから2週間後に接種できるため、接種間隔に留意し接種計画を立てる必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_00222.html#025|title=新型コロナワクチンについてのQ&A|publisher=厚生労働省|accessdate=2021-2-24}}</ref>。 == 性犯罪 == {{further|性犯罪}} === 性的同意年齢 === {{further|性的同意年齢}} 日本では明治時代に制定された性犯罪に関する制度の継続により、13歳の中学1年生から性行為に同意する能力があるとしている。 2020年5月には、[[性的同意年齢]]を13歳からとしていた[[韓国]]では通信[[モバイルアプリケーション|アプリ]]の[[チャット]]ルームで、脅迫などにより行わせた女性の猥褻な動画や画像を提供して暴利を得た「[[N番部屋事件]]」に中学生とみられる被害者が含まれていたことをきっかけとして年齢を16歳に引き上げた<ref>{{Cite web|和書|title=女性に性的暴行、身体に虫を入れさせる動画を…史上最悪のデジタル性犯罪「n番ルーム事件」、“懲役42年”の意味 |url=https://bunshun.jp/articles/-/49385 |website=[[週刊文春|文春オンライン]] |access-date=2022-05-25 |first=菅野 |last=朋子}}</ref>。 またフランスも性犯罪事件によって15歳に引きあげられた結果、日本やアメリカ合衆国、ドイツ、イギリス、スウェーデンなど14~18歳とする各国より最も低い13歳となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200629/k10012487511000.html|title=「13歳」のYES、それは本物?|website=NHK|date=2020年6月29日|accessdate=2020-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ee1a0d7c5b6f0d3f408ed1e|title=性交同意年齢13→16歳に変更求め。性犯罪の刑法改正案、人権団体が叩き台を公表。|website=HUFFPOST|date=2020年06月11日|accessdate=2020-08-24}}</ref>。 [[カナダ]]では性的関係を持つことができる同意年齢は16歳であるが、刑法は「年齢が近い場合」あるいは「ピアグループ(同年齢集団)」の例外規定を設けており、12歳及び13歳に対しても「年齢が近い場合」の例外がある。 [[イングランド法|イングランドとウェールズ]]でも犯罪認定年齢は16歳だが、性犯罪法は、性的虐待の場合以外の16未満同士による性行為承諾の規制を目的としてない。ただし児童保護の視点から、法令は13未満の承諾は法的効用を持たないとし、12歳以下の児童との性的行為はもっとも重度な刑法が適応される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h26/gaikoku_html/2_2_1_1.html|title=平成26年度アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリアにおける青少年のインターネット環境整備状況等調査|publisher=[[内閣府]]|accessdate=2021-2-11}}</ref>。 日本においても、2023年の刑法改正により性交同意年齢は、13歳から16歳への引き上げが7月施行になり16歳未満への行為は処罰される。なお年齢が近い者同士の行為は罰しないが、13~15歳は5歳以上年上なら相手が処罰対象になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/idJP2023062601000961|title=「不同意性交罪」7月13日施行|website=共同通信|date=2023年6月28日|accessdate=2023-10-15}}</ref>。 2021年2月に北海道[[旭川市]]で起こった中学2年女子の凍死事件では、被害者の少女が複数人より自慰行為を強要されその画像が拡散し、これを苦にして当初投身自殺未遂を起こしているが、わいせつ画像を送ることを強要した加害者は、[[児童ポルノ]]に係る法令違反、児童ポルノ製造の法律違反に該当したが未成年で法に問えなかった。また警察が捜査終了後に加害者がパソコンのバックアップからデータ復元してチャットグループに再拡散させるなどわいせつ画像の流出が続くなどしているが、加害者が同世代であることで性行為の強要が罪に問われない事件も起こっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/44767?page=4|title=「死ぬから画像を消してください」旭川14歳女子死亡“ウッペツ川飛び込み”イジメ事件の全貌《警察が出動》旭川14歳少女イジメ凍死事件 #3|publisher=文春オンライン|date=2021-4-15|accessdate=2021-5-30}}</ref>。 === 身近な人からの性加害・性被害の多さ === 加害者は知人や親族など身近な人からのことが多い。実父に小学生時代から性虐待を受けていた女性は「家族がばらばらになる」とその被害を長期間打ち明けられなかったが、父親は避妊しない性行為すら虐待だと認識していないことが裁判で明らかにされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/133323|title=娘に性的虐待繰り返した「鬼畜父」の呆れた言い分|publisher=FRYDAYdegital|date=2020-09-10 |accessdate=2020-10-14}}</ref>。 教師や塾講師など信頼する身近な大人から猥褻行為や性暴力を受ける事件もあり、被害者は自傷行為に陥ったり成長してからその意味を理解して深く傷つく場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/261230/|title=性暴力の実相 本紙連載に反響 先生の裏切り傷深く。|publisher=西日本新聞|date=2016-7-25|accessdate=2020-8-29}}</ref>。 2015年版『[[犯罪白書]]』によれば、摘発した性犯罪事件のうち、約3割は顔見知りによるものという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/207524/|title=性暴力の実相・第2部 性犯罪「顔見知り」が3割|publisher=西日本新聞|date=2015-11-16|accessdate=2020-8-29}}</ref>。 特定非営利活動法人 性暴力救援センターの東京理事長の報告では、加害者の7割が顔見知りであった。性暴力では殺される恐怖で抵抗することができない被害者を見て、加害者が勝手に被害者が性交に同意したのだと思い込むことが多い。顔見知りでない場合でも地方から上京したばかりの女性が道を教えてくれと頼まれ、駐車場の車内などで被害にあうこともある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jase.faje.or.jp/jigyo/journal/seikyoiku_journal_201804.pdf|title=性暴力被害の実態に即した対応と今後の課題|author=特定非営利活動法人 性暴力救援センター・東京理事長 平川和子|publisher=現代性教育研究ジャーナル 日本性教育協会|date=2018年4月15日|accessdate=2020-11-01}}</ref>。 2020年3月、北海道において特別支援学校を卒業した知的障害がある女性(31歳)は就労支援施設のトイレで出産し、乳児を便器に押し込み窒息死させた事件が起こった。女性は性教育を受ける機会もなく、また乳児の父は元施設職員の50歳男性でほとんど避妊をしない性行為を行っている一方、関係者も妊娠に気づかなかったと報道されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/e60850ce3d2894ee3cc29e678cb0ff8ac79bd036?page=1|title=施設のトイレで窒息死した乳児 事件は防げなかったのか 知的障害の女性が出産、元職員「性のはけ口に」|website=[[47NEWS]]|date=2021-10-12|accessdate=2021-10-16}}</ref>。 フランスではどのような相手でも体の大切な部分を触らせない教育の重要性を説いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/29133|title=なぜ日本の性教育は"セックス中心"なのか|author=高崎順子|publisher=president online|date=2019-7-2|accessdate=2020-8-29}}</ref>。 また、人間における子供への性犯罪の前に加害者が子供の孤独や承認欲求につけこみ被害者との親密な関係性を築き、性犯罪に及ぶ準備の懐柔行為を示すことがある。教師などの身近な人物からや、グルーミングはツイッターやTikTokなどSNSを通じて行われることがある。2021年の性犯罪の刑法改正審議会では性交等又はわいせつな行為をする目的で若年者を懐柔する、いわゆる[[グルーミング#人間同士のグルーミング|グルーミング行為]]に係る罪を新設することについての審議が明記された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP7D3F59P67OIPE00M.html|title=性暴力の前に巧みにつけ込む 忍び寄る「グルーミング」|publisher=朝日新聞|date2021-7-12|accessdate=2021-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20210927-00260281|title=子どもが懐柔される「グルーミング」を知っていますか」|publisher=yahoo news|date2021-9-27|accessdate=2021-10-13}}</ref>。 === 性犯罪の再犯性の高さ === 1988年におきた[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]では、最終的に犯人は幼女を裸にして写真を撮影していたところをその父親に見つかり警察に通報され逮捕に至ったが、少女の父親が仏心を出して通報しなかったら事件は解決しなかったとも言われている。わいせつ行為には再犯制性が高く通報することは次の被害者を生まない意義もある<ref>◆埼玉・東京の幼女連続誘拐殺人 記者座談会『朝日新聞』1989年9月2日</ref>。 小児への性犯罪は再犯罪率も高く、9歳の特別支援学級女児を裸にして撮影した教員は以前に別の中学で猥褻行為をした後小学校で復職し犯行に及んだことが分かっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/127650|title=9歳女児は無人の家庭科室で…繰り返される学校での性犯罪 教職員の「無犯罪証明書」と必要な更生の機会|publisher=[[フジニュースネットワーク|FNN]]プライムオンライン |date=2021-1-10|accessdate=2021-1-10}}</ref>。 しかしながら、法務省では再犯率については出所者全体(15.1%)と比べると低く、再犯率が高いとまでは言えないと述べている <references /> === 男女間における暴力に関する調査 === {{further|家庭内暴力}} 内閣府が2018年3月に公表した「男女間における暴力に関する調査報告書」によると、これまで結婚したことのある女性のうち、配偶者などから、「身体的暴行」「性的強要」などの暴力を受けたことが「何度もあった」人はおよそ7人に1人であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201411/1.html|title=パートナーや恋人からの暴力に悩んでいませんか。一人で悩まずお近くの相談窓口に相談を。|website=政府広報オンライン|date=2020-6-2|accessdate=2020-08-28}}</ref>。 2018年の[[内閣府]][[男女共同参画]]局の「男女間における暴力に関する調査」によると、無理やりに性交等をされた被害者の女性は 7.8%、男性は1.5%であり、18歳未満のときにあった被害について、「その加害者は監護する者(例:父母等)でしたか」という質問に対して、「監護する者」が 19.4%であった。被害の相談をしなかったのは、女性で58.9%、男性で39.1%で、半数が羞恥心によると回答している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h29danjokan-gaiyo.pdf|title=男女間における暴力に関する調査|publisher=内閣府|date=平成30年3月|accessdate=2021-02-22}}</ref><ref>{{Cite news | title =避妊と妊娠中絶で取り残される日本。海の向こうから送られる経口妊娠中絶薬〈前編〉| WEb =HuffPost Japan| date =2021年02月13日 | url =https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_60220124c5b689330e322bbb| accessdate = 2021-2-22}}</ref>。 === レイプ === {{further|強姦}} {{further|強制性交等罪}} 国際政治学者の[[三浦瑠麗]]は中学3年生のとき車に連れ込まれ、集団レイプ被害を受けたことをその著作で公表している。当時は家族などにもその被害を打ち明けることができなかったと語っている<ref>[https://www.buzzfeed.com/jp/akikokobayashi/rurimiura 14歳の帰り道、車でさらわれた。あれが「魂の殺人」だと、今の私は思わない] BuzzFeedJapan2019年6月11日</ref>。 [[法務省]]は2020年3月、性犯罪を厳罰化した2017年の改正刑法施行から3年の実態を調査した報告書を公表し、被害者や心理学の専門家、加害者臨床に携わる医師らへのヒアリングで被害者は必ずしも強い抵抗を示すわけではないこと、激しく抵抗しないと被害が認められにくいなどの指摘があった。準強制性交等罪の要件である「抗拒不能(身体的・心理的に抵抗するのが難しい状態)」の定義が曖昧だとの課題もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20200331/k00/00m/040/232000c|title=強制性交等罪「暴行・脅迫」要件見直し議論へ 法務省が性犯罪実態調査 有識者検討会を設置|publisher=毎日新聞|date=2020年3月31日|accessdate=2020-12-29}}</ref>。 性暴力の被害者心理に詳しい精神科医の小西聖子は、抵抗しないほうが早く終わるという理由で自分から応じる場合や、加害者の機嫌を損ねてさらに危険にさらされないように笑って応じることもあると父から娘への性暴力の公判で証言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20191213-00154831|title=無力感を覚えて抵抗しないのは「普通」のこと 名古屋・性犯罪無罪判決、控訴審で精神科医が証言|publisher=yahoo news|author=小川たまか|date=2019-12-13|accessdate=2021-2-8}}</ref>。[[誘拐]]事件や[[監禁]]事件などの[[犯罪]][[被害者]]についての[[臨床]]においても、被害者が生存戦略として[[犯人]]との間に心理的なつながりを築きその支配下に置いて協力的になる[[ストックホルム症候群]]もよく知られるところである<ref>{{Cite journal|last=Jameson|first=Celia | name-list-format = vanc |year=2010|title=The Short Step From Love to Hypnosis: A Reconsideration of the Stockholm Syndrome|url=|journal=Journal for Cultural Research|volume=14.4|pages=337-355|publisher =Elsevior}}</ref>。 報道機関の推計では、警察が被害届を受理した事件数は、推定被害者数の4.71%でしかなく、レイプ事件が裁判となる事例は1.92%としている。その被害者の多くは泣き寝入りしている実態がある<ref>{{cite news|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/02/post-92497_2.php|title=法廷で裁かれる性犯罪はごくわずか......法治国家とは思えない日本の実態|publisher=News week|author=舞田敏彦|date=2020-2-26|accessdate=2020-12-29}}</ref>。[[令和]]3年版『男女共同参画白書』によると強制性交は被害について「どこ(だれ)にも相談しなかった」者は,女性は58.4%,男性は70.6%となっている<ref>{{cite news|url=https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r03/zentai/html/honpen/b1_s07_02.html|title= 男女共同参画白書 令和3年版 第2節 ストーカー行為,性犯罪,子供に対する性的暴力等|publisher=内閣府|accessdate=2020-12-29}}</ref>。平成26年版男女共同参画白書によると女性の異性からの強制性交経験は1回が4.1%,2回以上が3.5%で,被害経験がある女性は7.7%である。被害時期は「20歳代」が35.1%で最も多く、次いで「中学卒業から19歳まで」が20.1%、「30歳代」が14.2%、「中学生」が5.2%、「小学生以下」が13.4%を占める<ref>{{cite news|url=https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h26/zentai/html/honpen/b1_s03_02.html|title= 男女共同参画白書 平成26年版 > 第2節 性犯罪の実態|publisher=内閣府|accessdate=2021-10-2}}</ref>。 === 性的被害時のフリーズ === 実際に被害に合った時にはフリーズ(もしくは凍りつき)反応がスウェーデンではレイプ被害者の70%で見られている。これは動物にも見られる[[擬死]]状態で、強直性不動状態になることにより捕食者の意欲をそぎ生存確率を上げる役割がある<ref>{{cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20190603-00128614|title=被害者に「なぜ逃げなかったのか」と聞いてはいけない理由|publisher=yahoo news|author=小川たまか|date=2019-6-3|accessdate=2021-2-8}}</ref>。 災害や被害にあった際に想定外のことに頭が真っ白になって反応ができなくなってしまうことを「凍り付き症候群」と呼び逃げ遅れる要因として知られている<ref>{{cite news|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r01/pdf/n2400000.pdf|title=令和元年版 情報通信白書 第1部 第4節ウ なぜ避難が遅れ犠牲者が出たのか~「伝える」から「伝わる」、そして行動へ~|publisher=総務省|accessdate=2021-2-8}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=田中嘉寿子 |title=性犯罪の被害者の供述の信用性に関するあるべき経験則について ―防災心理学の知見の応用:正常性バイアスと凍り付き症候群― |journal=甲南法務研究 |issn=1880-0459 |publisher=[[甲南大学]][[法科大学院]] |year=2015 |month=mar |issue=11 |pages=57-70 |naid=120006246635 |doi=10.14990/00002313 |url=https://doi.org/10.14990/00002313}}</ref>。 1994年にアメリカの神経生理学者であるステファン・W・ポージェス博士が発表したポリヴェーガル理論では、重大な生命の危機に面した場合に意図せずして背側迷走神経系が優位になり、「不動化」「仮死状態」「凍り付き」が起こり生存確率を高めるとしている。また、加害者からさらなる加害行為を受けないように、「迎合」という反応が起こる場合があることも述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0026/topic049.html|title=神経生理学で読み解く 性暴力被害の“凍りつき”<解説>|publisher=NHK|date=2022-3-4|accessdate=2022-11-24}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=花丘 ちぐさ|title=なぜ私は凍りついたのか|publisher=春秋社|pages=280-281 }}</ref>。 === 男性への性被害 === 2017年に性犯罪を厳罰化する刑法改正案が可決成立し、第177条の強姦罪が「[[強制性交等罪]]」に改められ、被害者を女性に限っていた強姦および準強姦の罰則規定が、男性にも等しく適用となった。日本の未成年男子で何らかの性被害を受けたことがある人は高校生男子で5~10人に1人、レイプ被害率は1.5%となっているとの統計もあり、男児だから性被害に合わないというわけではなく、自身を恥じ入りトラウマとなって精神的にも被害を受けるケースもあるため<ref>[https://times.abema.tv/articles/-/8628897 「男性が性被害に遭うはずはない」「女性からの被害ならいいじゃないか」信じてもらえず、茶化され…声を上げられない男性の性暴力被害者たち]</ref>男女共に性犯罪を防ぐ知識と犯罪に合ってしまった時のケアが大切となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-157-17-10-g698|title=表面化する男性の性被害|web site=[[イミダス|imidas]]|author=山口修喜|date=2017-10-20|accessdate=2020-08-24}}</ref>。恐らく薬物の入った飲料を飲まされ朦朧とした後に複数の男性によってレイプされ、HIVに罹患した被害もあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0026/topic011.html?cid=gendaihk-tw-210611-gendai-2201|title=男性のレイプ被害 HIVに感染も「被害を認識できなかった」【vol.129】|website=NHK|date=2021-6-11|accessdate=2021-6-20}}</ref>、成人男性だから安全ということもない。 === 痴漢 === {{further|痴漢}} 電車内での痴漢行為という性犯罪に日常的にさらされた被害者の女子中学が自殺念慮を抱きリストカットした事例もある<ref>{{cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20171116-00078187|title=「真面目に通学していただけで、なぜあんな目に」 日本人女性がパリで「痴漢」本を出版|author=小川たまか|date=2017-11-16|accessdate=2021-2-8}}</ref>。痴漢問題は性犯罪であるという前提と、人権侵害行為であるということが重要との指摘があり、99%の痴漢は男性による犯罪となっている<ref>{{cite news|url=https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4376/|title=データが浮き彫りに!知られざる痴漢被害の実態|publisher=NHK|date=2020年1月23日|accessdate=2021-5-30}}</ref>。「犯罪白書」(平成27年・2015年)では、痴漢を行う男性で最も多いのは四年制大学卒業のサラリーマンでこのうち既婚男性は34.7%と分析されている。<ref>{{cite news|url=https://diamond.jp/articles/-/143957?page=2|title=痴漢の典型的加害者の「意外な人物像」とは|publisher=diamond online|date=2017-9-29|accessdate=2021-6-20}}</ref>。被害者は公共交通機関利用ができなくなったり、うつ病を発症するなどPTSDに苦しみ、自傷行為や自殺を考えるほど追い込まれる人もいる。[[日本共産党]]東京都委員会ジェンダー平等委員会の調査では被害者は18歳以下の場合が71.5%で中学生以上の通学時だけでなく、性的知識が不十分な幼児や小学生がターゲットとなったことが明らかになった<ref>{{cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/e7fb43c90d426962c22128ed68edbbc8b5a21cb8|title=スマホを使った最新手口も登場、「痴漢被害者」たちの終わらない“苦しみ”|publisher=[[週刊女性]]PRIME|date=2020年4月24日|accessdate=2021-5-30}}</ref>。 === 児童虐待 === {{further|児童虐待}} {{further|児童性的虐待}} 厚生労働省の虐待死の統計では、その被害者は半数以上が0歳であり、児童虐待死が最も多いのは「0歳0ヶ月0日」となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://bigissue-online.jp/archives/1018623517.html|title=児童虐待死が最も多いのは「0歳0ヶ月0日」。産まれてすぐ殺される新生児と、追い詰められる母親|publisher=the big issue|date=2016-10-26|accessdate=2020-08-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/481840/|title=虐待死5割以上が0歳児、望まぬ妊娠で中絶を選べない母親の選択肢|publisher=All about|author=竹内正人|accessdate=2020-08-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000533867.pdf|title=子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について(第15次報告)の概要|publisher=厚生労働省|date=2019-08-01|accessdate=2020-08-02}}</ref>。 社会福祉法人恩賜財団母子愛育会の平成26年(2014年)度調査によると、[[児童相談所一時保護所]]入所者の虐待は性的虐待年齢が13.03歳となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.boshiaiikukai.jp/img/hokoku-jido-26.pdf|title=一時保護所における支援のあり方に関する研究|publisher=社会福祉法人恩賜財団母子愛育会|accessdate=2020-07-10}}</ref>。 === 強制わいせつ === 男女交際の場においても、束縛や性行為の強要などが起こるデートDV危険性がある。現在、児童ポルノ被害の約4割は「児童が自らを撮影した画像に伴う被害」で、児童がだまされたり、脅されたりして自分の裸体を撮影させられた上、メール等で送らされる被害が増加している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201508/1.html|title=SNS利用による性被害等から子供を守るには|website=政府広報オンライン|date=2019-05-15|accessdate=2020-08-28}}</ref>。 年上男性と学生層の女性との間である買春行為も含むいわゆる「パパ活」「援助交際」ではホテルで睡眠薬を盛られて強制性交被害に合い、わいせつ画像を撮影されたり強盗被害にあうこともある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/affairs/news/200122/afr2001220011-n1.html|title=「パパ活」応募の少女に睡眠薬飲ませ乱暴、無職の男を逮捕 警視庁|publisher=産経新聞|date=2020-1-22|accessdate=2020-12-10}}</ref>。 === 盗撮・リベンジポルノ === {{further|盗撮}} {{further|リベンジポルノ}} 学習塾で生徒が講師から盗撮された事件では犯人は千葉県の迷惑防止条例違反で逮捕されたが、県により条例が異なっているため他県では犯罪として取り締まれない状態があり問題視されている。[[スマートフォン]](スマホ)の普及もあり盗撮の検挙件数は10年前の2倍超に達していることから、「盗撮罪」としての刑法改正が望まれている<ref>{{citenews|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20210102-00214842|title=埼玉や群馬なら無罪放免に…千葉の塾で教え子を盗撮した塾講師が逮捕された訳|publisher=yahoo news|author=前田恒彦|date=2021-1-2|accessdate=2021-01-03}}</ref>。 === コロナ禍での中高校生の性 === 2020年3月から5月にかけて、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]感染症拡大予防のためにとられた全国での一斉休校において、学校や部活も無くなり自宅にいる中高校生が性行為の機会を持ち望まない妊娠に至ったり、妊娠の不安を感じて[[こうのとりのゆりかご]]を設置する熊本市の慈恵病院の妊娠相談窓口に、過去最多の中高生からの相談が寄せられている<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200511/k00/00m/040/232000c |title=中高生の妊娠相談過去最多 新型コロナによる休校影響か 熊本・慈恵病院|accessdate=2020-05-17|website=毎日新聞|date=2020-5-11}}</ref>。 コロナ禍の最中に性虐待が判明した少女には、10歳での母の恋人からの性暴力の妊娠や12歳での父からの性強要による事件も含まれ、日本は他国に比較し性虐待の顕在化がされていない可能性が高い一方で自分の体を守り大切にする性教育が不足しているため自らを責めたり我慢をする少女もいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200628111457/https://news.ameba.jp/entry/20200616-260/|title=コロナ禍で家庭内の性暴力が増加…少女を性的虐待から守るには?|publisher=日刊spa!|date=2020-06-16|accessdate=2020-06-26}}</ref>。 女性の心身を守るうえでも性教育は重要である。更に[[コロナ禍]]の中では、在宅勤務や外出自粛要請で、女性や子どもがDV被害にあうことも懸念される<ref>{{Cite news | title = 在宅勤務と外出自粛によるDVや虐待の被害増。電話も避難もできない絶望 | WEb = BISINESS INSIDER |author=竹下郁子| date = 2020-3-20 | url =https://www.businessinsider.jp/post-210311 | accessdate = 2020-12-15}}</ref>。国連人口基金は4月、ウイルス感染への恐れや外出制限により、女性が医療機関に行かないことが予期せぬ妊娠につながると指摘している<ref>{{Cite news | title = 「望まない妊娠」、性被害の相談急増…外出自粛・収入減が影響? | web =読売新聞| date = 2020-9-29 | url =https://www.yomiuri.co.jp/national/20200928-OYT1T50117/ | accessdate = 2020-12-15}}</ref>。 === 性暴力への相談窓口 === 性暴力を受けたときに相談できるワンストップ支援センターの大阪支部では、2010年度~18年度に来所し、受診につながった者のうち19歳以下の子どもは1285人で6割を占めている。また17、18年度、家族からの性暴力を訴えた子どもは161人となり、実父からが36%、実兄・義兄からが18%を占め、そのほか母の恋人・祖父・いとこが加害者の事例もある<ref>{{cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASN7B62S1N7BUTIL032.html?iref=pc_extlink|title=全都道府県にワンストップセンター整備|author=山田佳奈、林幹益|publisher=朝日新聞|date=2020年7月10日|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 生活苦から援助交際と言われる年上男性との性行為の結果、妊娠に至った高校生もおり、親に打ち明けるにも「小さないのちのドア」などの支援者の援助を得て乗り切るケースもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/domestic/1874026/|title=コロナ生活苦、援交し妊娠した高校生も 助産師語る悲惨な現状|website=女性自身|date=2020-07-06|accessdate=2020-08-28}}</ref>。 2020年12月、産科医療機関でつくる「あんしん母と子の産婦人科連絡協議会」(本部・[[埼玉県]])が、18歳以下の女性を対象に、無料で相談や初診を受け付ける事業を始めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/medical/20201226-OYT1T50195/|title=18歳以下の妊娠「迷わず相談して」…匿名で無料の初診も|publisher=読売新聞|date=2020-12-26|accessdate=2020-12-29}}</ref>。 性暴力被害の相談については「#8891」となり、2020年10月より全国共通の短縮ダイヤルが開設された<ref>{{Wayback|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201003/k10012646501000.html|title=性暴力被害の相談は「#8891」 全国共通の短縮ダイヤル開設|date=20201113083910}}</ref>。 == 世界の性教育 == === アメリカの性教育 === ==== キリスト教と純潔教育 ==== {{further|キリスト教}} アメリカ合衆国では[[1980年代]]半ばから、性病やエイズ感染症の予防からコンドームの使用指導をしていた。しかし[[1990年代]]初めより、[[宗教右派|キリスト教右派]]の「{{仮リンク|絶対禁欲性教育|en|Abstinence-only_sex_education}}」が導入された。結婚するまで絶対にセックスをしてはならず、妊娠の医学的仕組み、避妊の仕方も教えてはならないというもの。[[ブッシュ政権]]は莫大な資金援助をしたが、避妊を教えた場合は助成金を打ち切った。その結果、一部の州で未成年者の性病罹患と妊娠が急増した<ref>{{Cite book|和書|author=|title=『[[論座]]』2007年3月号|date=2007-2-5|year=|accessdate=2019-2-21|publisher=朝日新聞社出版局|ASIN=B000MV8WO8}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20070206|title=北米セックス禁止令、避妊も禁止の性教育!Add Star|accessdate=2019-2-19|publisher=|month=|date=2007-02-06|website=映画評論家町山智浩アメリカ日記|author=[[町山智浩]]}}</ref>。 [[純潔教育]]を扱ったドキュメンタリー映画に『{{仮リンク|シェルビーの性教育〜避妊を学校でおしえて!|en|The Education of Shelby Knox}}』がある<ref>[https://www.moviecollection.jp/news/10060/ [未公開映画祭]女子高生が性教育の重要性を訴える『シェルビーの性教育』]MOVIE Collection.(2010年12月30日)2021年4月23日閲覧</ref>。{{仮リンク|ピュアボール|en|Purity ball}}という、父親と10代の娘が「結婚するまで処女を守る」と誓うダンスイベントも存在する。 [[2004年]]、アメリカの『[[ニューズウィーク]]』誌は、アメリカ国民の79%、キリスト教徒では87%が、[[聖母マリア]]の[[処女懐胎]]を信じていると報じた<ref>{{Wayback|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041206-00000031-kyodo-soci|title=8割が「処女懐胎本当」米国民の信仰浮き彫り|date=20050117162326}}</ref>。 アメリカでは「絶対禁欲性教育([[:en:Abstinence-only sex education|Abstinence-Only Sex Education]])」「[[包括的性教育]](comprehensive sex education)」他の複数のカリキュラムがある。この二つについてはどちらが良いかについて論争がある。特に、子どもの性的行動を取り扱っていくことを善しとするか害と見るかに関して、激しく意見が割れている。より具体的に言えば、[[コンドーム]]や[[ピル|経口避妊薬]]などの[[産児制限]]、[[避妊具]]が[[婚外妊娠]]に与える影響力、[[十代の出産|若年での妊娠]]、性感染症の伝染などの扱うことの是非である。アメリカの性教育をめぐる論争の火種となっているものの1つとしては、[[保守]]系の人々が推奨する[[純潔教育]]や絶対禁欲性教育への支持が高まっていることを挙げることができる。性教育に対して、アメリカや英国も含めたより保守的な態度を示す国では、性感染症の蔓延や若年妊娠が高い率で生じている。 [[アメリカ心理学会]]の研究では、「包括的性教育」の有効性が示されているとした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.apa.org/releases/sexeducation.html|title=アーカイブされたコピー|accessdate=2006年8月11日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060811000127/http://www.apa.org/releases/sexeducation.html|archivedate=2006年8月11日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。包括的・総合的な性教育の有効性は、[[査読]]誌の記事の複数によって明白であるとする一方、「絶対禁欲性教育」は深刻な危険があるとの指摘がなされている<ref>{{PDFlink|[http://ari.ucsf.edu/science/reports/abstinence.pdf. Abstinence Only vs. Comprehensive Sex Education: What are the arguments? What is the evidence?]}} - AIDS Research Institute University of California, San Francisco, Policy Monograph Series - March 2002.</ref>。<!--こちらもおそらく追記の必要あり。英語力他が足りないので後回しにします。abstinenceに否定よりな結果とおぼしいので問題は少ないでしょう。 http://www.bmj.com/cgi/content/full/324/7351/1426 --> 高校のアメフト部などの運動部において、ブルーミングと呼ばれる上級生から下級生への伝統と化した性的暴行が行われていることがあり、性的欲求より権力の誇示の手法として、男子生徒が肛門を木製の箒の柄や懐中電灯などで貫通させ、直腸・膀胱に穴を開ける事件がしばしば発生している。睾丸ががひねり潰される被害が起こることがあったが、被害者は羞恥と仲間の圧力から親や周囲に訴えることができず、発覚してもただの行き過ぎた悪ふざけであり性暴行と認められない状況にある。被害を受けた子供は加害者になる可能性が高いことが分かっていると識者は警告している。ハーバード大学の18-25歳を対象にした「思いやりの常識化」調査では、若者の3分の1が性的同意について親と話し合ったことがない。一方、コロンビアの大学調査ではセックスの誘いを断ることを学んだ学生はレイプの被害が半数になる。小児から体のつくりを教わり触れられることの自己決定や他者尊重を学ぶ性教育は、加害者化も被害者化を防ぐことに有効であることが分かっている。しかし1990年代以降、性教育を行う際の性的自己抑制を義務づける法律が28州で成立したことで包括的性教育に取って変わられた問題がある。ポルノが非現実的なものとして理解していく「ポルノリテラシー」教育も新しい教育方法として試みられている<ref>男子という闇 少年をいかに性暴力から守るか 2021年11月18日 エマ・ブラウン著 山岡希美訳 株式会社明石書店</ref>。 ===イギリスの性教育=== イギリスでは中等学校(11歳から16歳)での性教育が1994年より義務化された<ref>{{Cite book|和書|author=広瀬裕子|others=橋本紀子(監修)|title=こんなに違う! 世界の性教育|publisher=メディアファクトリー|series=メディアファクトリー新書|date=2011-04-30|page=78}}</ref>。イギリスの10代少女の妊娠数は1960年代終わりから1970年初頭にかけて正式統計で年間13万件以上、実数は20万とも30万とも言われるほど多く、学業の継続困難から安定した職業に就くことも出来ず、貧困問題とも結びついて社会問題化していた<ref name="広瀬p82-84">{{Cite book|和書|author=広瀬裕子|others=橋本紀子(監修)|title=こんなに違う! 世界の性教育|publisher=メディアファクトリー|series=メディアファクトリー新書|date=2011-04-30|pages=82-84}}</ref>。また1980年代後半におこった性感染症とエイズの問題が性教育の必要性を後押ししたとされ、その後10代の妊娠は少しずつ減っていった<ref name="広瀬p82-84" />。 === 北欧の性教育 === 2007年の[[タイム (雑誌)|TIME]]誌によると、[[デンマーク]]では性教育を特定のクラスに限定せずに、必要な際には授業のあらゆるカリキュラムにおいて話し合われるとしている。[[スウェーデン]]でも同様で、性教育は[[1956年]]以降必修であり、7歳から10歳のときに始まるとしている。[[フィンランド]]では15歳時に学校でパンフレットや[[コンドーム]]などの入ったパッケージを渡されるという。スウェーデンでは通常、[[17歳]]で処女を失うとされ、それは15年前と変わらないとしている。<ref>{{Cite web |title=Sex Has Many Accents - TIME |url=https://web.archive.org/web/20071012173851/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,978575-2,00.html |website=web.archive.org |date=2007-10-12 |access-date=2022-06-08}}</ref> === 逆効果となった事例 === オーストラリアやイギリスの一部の学校で10代の妊娠を防ぐために子育ての大変さを教えるための赤ちゃんロボットが導入されたが、オーストラリアのウエスタンオーストラリア州で行われた調査では、一般的な性教育のみのグループと、赤ちゃんロボットを貸し出したグループとでは、赤ちゃんロボットを貸し出したグループのほうが20歳までの妊娠率が高いという結果となった<ref>{{Cite web|和書|title=10代の妊娠を防ぐための「赤ちゃんロボット」が妊娠を促すという逆効果をもたらす |url=https://gigazine.net/news/20160829-robot-baby-pregnancy/ |website=GIGAZINE |date=2016-08-29|access-date=2022-06-08 |language=ja}}</ref>。 イギリスでは毎年4万人10代少女が妊娠している<ref name="メンズサイゾー">{{Cite web|和書|title=知っていて損はない海外「ポルノ規制」事情 |url=https://www.menscyzo.com/2009/07/post_137.html |website=メンズサイゾー |access-date=2022-05-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=赤ちゃんの父13歳・母15歳 性教育の「逆効果」なのか |url=https://www.j-cast.com/tv/2009/02/16035959.html |website=[[ジェイ・キャスト|J-CAST]] テレビウォッチ |date=2009-02-16 |access-date=2022-05-25 |language=ja}}</ref>ことが問題視され、2004年から少女達に妊娠予防のための[[避妊教育]](Young People’s Development Programme,YPDP)に取り組んだところ、総額9億円の避妊教育は[[逆効果]]で少女たちの性への関心度が高くなり、受講した少女たちの方が妊娠率は更に上がった結果、イギリス政府は2009年までにYPDPを中止している<ref name="メンズサイゾー" /><ref>{{Cite web|和書|title=英国の10代妊娠を予防する教育プログラム、逆に妊娠増招く皮肉な結果に。 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/4248829/ |website=[[ライブドアニュース]] |access-date=2022-05-25 |language=ja}}</ref>。 == アダルト業界における性教育 == カリスマ[[AV男優]]として名高い[[加藤鷹]]([[1988年]]デビュー)は、『秘戯伝授 最終章』(ISBN 4845412381)や各種メディアで、爪のケアなど衛生面の徹底、女性の反応を重視するセックステクニックを推奨している。また、加藤はパートナーと妊娠を望まない性交に及ぶ際に必ず[[コンドーム]]を着用し、[[性感染症]]、望まない妊娠等を防止([[避妊]])するよう呼びかけている。 {{See also|演技}} 女性が作る女性のためのAVメーカー「[[SILK LABO|シルクラボ]]」にて圧倒的人気を博した[[一徹 (AV男優)|一徹]]は、加藤鷹の時代から「'''AVは[[ファンタジー]]である'''」という発信は多くの人が言い続けているが、気づかないままAVに影響されてしまう者が多いとした。ネット時代において、[[情報リテラシー]]が高い者は正しい情報を手に入れており、格差も大きいとしている。[[2014年]]に『恋に効くSEXセラピー』(ISBN 4040662296)を出版。大事なのは相手の立場に立って考えるコミュニケーションだとし、女性は勇気を出して違和感を伝え、男性はそれを受け止めて、やり方や考え方を変えていくことを提案している。2017年時点で、男性向けの激しいAVはもういい、女性が嫌がっている顔を見たくないという理由で、女性向け作品を見ている男性も少しずつ増えているとした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/08/22/adult_video_n_17799470.html|title=「AVが教科書」のせいで女性は悩んでいる。"エロメン"一徹さんに聞く、男女のセックスがすれ違う理由|accessdate=2019-2-19|publisher=|date=2017年08月22日|author=波多野公美|website=ハフポスト}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp|和書|author=澁谷知美|authorlink=澁谷知美|title = 性欲の文化史 |volume = 1 |year = 2008 |chapter = 性教育はなぜ男子学生に禁欲を説いたか:1910~40年代の花柳病言説 |series = 講談社選書メチエ |publisher = 講談社 |editor=井上章一|editor-link=井上章一|isbn = 9784062584241 |ref = harv}} == 外部リンク== * [https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000374167 国際セクシュアリティ教育ガイダンス(日本語版) - UNESCO Digital Library] {{性}} {{性道徳}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいきよういく}} [[Category:性教育|*]] [[Category:性と社会]] [[Category:ハーム・リダクション]]
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JR東日本E217系電車
E217系電車(E217けいでんしゃ)は、1994年(平成6年)に運行を開始した、東日本旅客鉄道(JR東日本)の直流近郊形電車。 横須賀・総武快速線で運用されていた113系の置き換えを目的として、1994年(平成6年)8月に量産先行車(1次車)である基本編成11両 + 付属編成4両の第01・02編成が落成し、同年12月3日より営業運転を開始した。翌1995年(平成7年)11月以降は量産型の落成が始まり、以降1999年(平成11年)11月落成までに基本編成51本、付属編成46本計745両が製造された。当初は大船電車区に集中投入、1997年(平成9年)からは幕張電車区にも投入され、1999年12月4日に横須賀線・総武快速線のすべての113系を置き換えた。 本系列は国鉄・JRの近郊形車両で初めての4扉構造を採用した。車内の座席配置は混雑緩和を最優先とし、通勤形となるロングシート構造を基本としながら編成中の一部車両(基本編成11両中3両)には遠距離旅客や観光客へ配慮し、クロスシートを設けたセミクロスシート構造とした。また、基本編成のみ2階建て構造のグリーン車を組み込んでいる。 JR東日本が「新系列車両」として開発した通勤形車両209系を近郊形車両へと改良・発展させたのが本系列である。本系列のデザイン開発はGKインダストリアルデザインによるものである。 車両の製造は川崎重工業、東急車輛製造、JR東日本新津車両製作所およびJR東日本大船工場(中間車12両のみ)で行われた(グリーン車は川崎重工業・東急車輛のみで製造)。ただし、大船工場製は東急車輛製造から構体ブロックを購入し、艤装や内装組み立てを大船工場で行ったノックダウン生産車両である。 本系列の後、近郊形電車の生産は「一般形電車」として統一されたE231系近郊タイプに引き継がれたが、同系列の車体の基本構造や内装デザインに大きな相違はない。 1995年(平成7年)度通商産業省選定グッドデザイン商品、商品デザイン部門)受賞。 車体構造は209系と同じ軽量ステンレス車体であるが、車体幅が 2,950 mm(209系0番台は 2,800 mm)に拡大され、裾絞りのある車体となった。拡幅車体を採用したため、曲線走行時の車両限界超過を防ぐために台車間距離が 13,800 mm(209系は 13,300 mm)に拡げられた(拡幅車体で台車中心間距離を13,300 mmとした場合、曲線区間での車体のはみ出しが大きすぎてしまう)。全長は先頭車について併結運転も考慮して、連結面間全長を 20,000 mm に収めている。ただし、グリーン車用の2階建て車両は定員確保を目的として連結面間 20,500 mm、台車間距離 14,150 mmとした。 車体構造はメーカーの製作工法で若干異なり、東急車輛製造と新津製作所・大船工場製は従来の骨組みと外板とで構成しているが、川崎重工業製は骨組みを廃した「2シート工法」(車体外板とインターパネル2枚の板材で強度を確保)で製作している。 先頭車両は踏切が多い区間を高速運転するため、高運転台構造とされ、運転席は設計上できる限り高い床面上500 mmの位置とした。運転台は209系と同様左手操作形ワンハンドル方式を採用している。また、先頭車の正面貫通扉の右中央には右側に「E217」と表記されたロゴと「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」のロゴが、左側に帯色ロゴが刻印されている。 また、1992年(平成4年)の成田線大菅踏切事故の教訓を踏まえ、運転士の安全を確保するため先頭車両に衝撃吸収構造を採用している。前頭部は FRP 製の前面覆いを取り付ける構造であるが、衝撃吸収構造のため、前面窓ガラス下部に衝撃吸収用のアルミハニカムを装備し、さらには強固な構造で乗務員を保護する「サバイバルゾーン」と、つぶれることで衝撃を吸収する「クラッシャブルゾーン」を設けている。このため、運転台の奥行きは209系の 1,860 mm よりも広い 2,120 mm を確保している。この構造はE231系近郊タイプやE531系、E233系といった以降登場する首都圏向け一般形車両の標準仕様となった。 また品川 - 錦糸町間の長大トンネル区間(東京トンネル・総武トンネル)を走行することから、非常時脱出に配慮して前面に貫通扉を設けた構造となった。貫通路は通常は閉鎖しているが、非常時のみ通り抜けができる。この貫通扉は外開き式プラグドア構造で、本系列の併結のほか113系との併結時にも使用できる。 その後、省令改正に伴って貫通扉の設置が不要となったため、7次車からは前面デザインを変えずに非常用貫通扉は廃止された。 1次車は前面のステップが分割形となっているが、2次車からは貫通扉(プラグドア)自体の構造を簡素化するためにステップを連続形とし、扉はステップ上部をスライドする仕組み(下レール付き)とされた。これに合わせて、尾灯の取り付け方法を変更している。 車体側面の行先表示器は製造開始当初209系と同じ幕式であったが、7次車よりLED式を採用した。ただし、以降に述べるトイレ設備関連に伴う先頭車差し換えを行うため、7次車のうち落成時のクハE216形2000番台で従来の編成に組まれる5両は側面表示が幕式で新製された。また、差し換えで7次車に組まれる従来のクハE216形2000番台の5両はこの時点で側面表示のLED化を実施した。その後は幕式の車両もLED式に順次交換されている。 車内は基本的に209系の仕様を踏襲しており、白色系の内装材、床敷物は灰色を採用している。車椅子スペースは各先頭車の連結面側に設置した。 座席は一般席においては表地を背ずり部を青色の斜めストライプ柄、座面は青色の単色柄とした片持ち式バケットシート構造である。座席はロングシート車両とセミクロスシート車両があり、後者は車端部(連結面)寄り座席はロングシート(3席)、ドア間の座席は「ロング2席・ボックス式クロス4席・ロング2席」の配置となっている。ただし、先頭車両は構造上の関係(後述)で最前位のドアが後位寄りへ設置されたため、ロングシート車両・セミクロスシート車両ともに先頭側のドア間の座席はロングシート(4席)となっている。いずれの座席とも1人分の掛け幅は450 mmを確保しているほか、7人掛け座席間には定員着席を促すための縦握り棒(スタンションポール)を設置している。座席定員はセミクロスシート車両の方がドア間あたり2人分多いが、立席スペースがロングシート車よりドア間あたり2人分少ないため、乗車定員はロングシート車・セミクロスシート車とも全く同じである。 側窓は可視光透過率41 %のグレーに着色された熱線吸収ガラスを使用し、カーテンの設置は省略した(グリーン車を除く)。ドア間の大窓は全て開閉可能となり、セミクロスシート車および6次車以前のロングシート車両は、側窓を3分割し、中間部分が下降式となっている。これはクロスシート時の座席配置を考慮したものである。ロングシート車両の側窓は、7次車より車体中央部の窓が1枚ガラスの固定式となり、その他の開閉可能な窓も不均等2分割構造で車端部側の大きい方の窓が下降式となったものに変更された。 なお、これらの窓構造変更車のうち、先頭車両の車体中央部の開閉不可能な大窓は、長時間停電時の換気性能向上のために2007年(平成19年)から209系と同様の開閉可能にする工事が行われている。 ドアエンジンには209系3次車より採用が開始されたスクリュー軸式の電気式ドアエンジンを採用している。車外のドア解錠レバーは1次車では妻面に片側全扉の解錠レバーを設置していたが、2次車以降は片側側面2か所の解錠レバーからの操作に統一した(妻面のレバーは廃止)。また、ホーム長が10両弱分しかない田浦駅での一部ドア締め切りは、113系時代は両先頭車のみのドア締め切りで済んだが、本系列は先頭から2両目(2・10号車)の一番前のドアも乗降に支障をきたすため、先頭車と2両目のこのドアのみ締め切れる特別なスイッチ(通称・田浦スイッチ)が装備され、そのことを示すステッカーが該当するドアに貼り付けされている。 空調装置は一般車がAU720A形集中式 48.8 kW (42,000 kcal/h)、グリーン車用がAU721形集約分散式 23.3 kW (20,000 kcal/h) の2台搭載となっている。グリーン車用の冷房装置は使用条件の異なる2階席、1階席、平屋席それぞれの室内を個別に制御ができるものとなっている。 各客用ドア上にはLED式車内案内表示器とドアチャイムを設置している。 1次車はクロスシート部に脚台(細い脚)があったが、これを廃した(完全な片持ち式)ほか、クロスシート背面にあった手すりが省略された。床敷物では出入口部に滑り止め加工が施工された。また、車内非常通報装置が警報式から通話式に変更されている。 基本編成の両端先頭車(とグリーン車5号車)と付属編成の久里浜方先頭車にはトイレが設置されている。現在は基本編成の千葉方先頭車と付属編成では和式を設置している。ただし、当初は基本編成の久里浜方先頭車も和式トイレを設置していた。 その後、4次車からはバリアフリー対応のため基本編成久里浜方先頭車(1号車:クハE216形2000番台)に車椅子対応の大形洋式トイレの設置が開始された。そして在来3次車までの基本編成にも車椅子対応トイレを設置することになった。このため、4次車以降の付属編成久里浜方先頭車を車椅子対応のトイレ付きで新製し、これを基本編成の久里浜方先頭車と差し換える方法で全ての基本編成に車椅子対応トイレ付き車両を組み込んだ。 走行機器類、台車などの基本的な機器構成は209系車両をベースとしている。 制御装置と主電動機には、209系と同じ三菱電機製のGTOサイリスタ素子によるVVVFインバータ制御装置(1C4M2群制御)と出力 95 kW のかご形三相誘導電動機(MT68形、7次車以降及び機器更新車はMT73形)を採用しているが、運用条件である最高速度 120 km/h を達成するため、歯数比は 97:16(= 1:6.0625、209系は 99:14≒7.07)とされ、起動加速度は 2.0 km/h/s(209系は 2.5 km/h/s)に抑えられている。その後に登場したE231系は歯数比 99:14(≒ 1:7.07)とされたが、主電動機を許容最高回転数の高いMT73形へ変更することで120 km/h 運転を可能とした。2次車からは定速運転機能を付加した。 本系列では基本編成の11両 (4M7T) と付属編成4両 (2M2T) ではMT比が異なるため、加速性能を合わせるために主電動機の負担率は両者で異なる。また、15両編成を組成した際にも性能を合わせるためにVVVFインバータ装置内に設定スイッチを設けており、各ユニット間での出力を切り換えるシステムを備えている。 台車も209系とほぼ同一構造の軸梁式ボルスタレス台車のDT61/TR246系を採用している。総武快速線などで 120 km/h の高速運転を行うため、量産先行車には新製当初ヨーダンパが装備されたが、走行試験の結果、グリーン車を除き以後の車両への装備は行われず、量産先行車からも撤去されている。 補助電源装置についても209系と同じGTO素子を使用した東洋電機製造製の静止形インバータ装置(SIV)を搭載しており、最大で6両まで給電可能な 210 kVA 容量を持つ。空気圧縮機はクノールブレムゼ社製のスクリュー式コンプレッサが搭載されている。 ブレーキ装置は回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキで、直通予備ブレーキ、耐雪ブレーキを装備している。車両間の力行、ブレーキ指令等の伝送には「制御伝送装置 (MON) 」経由によるデジタル指令方式としている。また、車輪の滑走を防止するための滑走防止装置を設置している。 集電装置は209系と同じPS28A形菱形パンタグラフが採用されている。狭小トンネル対策が採られていないため、中央本線高尾駅以西への乗り入れはできない。 保安装置にはATS-PとATS-SNを採用している。そのほかに東京地下トンネル区間用としてATC-5を搭載していたが、同区間は2004年2月にATS-Pに切り換えられ、ATC装置は使用停止となっている。 なお、機器更新に伴い、2012年7月をもって落成時からのオリジナルのGTOサイリスタ素子を備える制御装置の車両は消滅した(更新後の制御装置は後述)。 グリーン車は、従来どおり基本編成の4・5号車に組み込まれ、利用者数の増加と成田空港アクセス需要(エアポート成田)への期待などから、2両とも2階建て車両とされた。車両は211系の2階建てグリーン車の設計をベースとしているが、台車やドアチャイム設置などの車内設備は新系列車両に準じている。これらの設計は後に登場する首都圏の一般形車両の2階建てグリーン車にも採用されたほか、四国旅客鉄道(JR四国)の5000系の2階建て車両(5100形)も当系列の5号車であるサロE217の設計をベースとしている。 座席には片持ち式のリクライニングシートが採用され、当初は2階席が紫色系の座席表地、1階席と平屋席が茶色系の座席表地とされた。一部車両の座席は、秋田新幹線建設工事に際して北上線経由で北上 - 秋田間で運転された「秋田リレー号」用のキハ110系300番台に使用されたものを再利用している。 横須賀線と総武快速線では、東海道線と共に2006年3月18日のダイヤ改正よりグリーン車Suicaシステムを導入した。それに先駆けて2005年度に全座席の上部にSuicaをタッチ決済するための装置(R/W(リーダ/ライタ))が設置されている。2006年8月以降、グリーン車の座席を順次E231系に準じたものに交換している。ただし、座席の台座は流用されており、設備も背面テーブルのみと従来のE217系に準じたものとなっている。また、モケットもE231系と同色系のものを用いているが、デザインが多少異なるオリジナルのものが採用された。同時に階段などの手摺りも黄色に着色されたものに取り替えられた。 5号車の久里浜側の車端部には洋式トイレと洗面所が設置されている。トイレは基本編成の普通車のトイレとは異なり、車イス非対応で扉は自動でないほか、三菱電機製の天井埋め込み形換気扇が設置されている。この換気扇は洗面所にも設置されている。4号車では千葉側の車端部に乗務員室と業務用室(グリーンアテンダントの準備室)を設置する。業務用室には車内販売に対応させるため冷蔵庫等が設置されている。 2次車では洗面所の色彩やデッキと平屋席の貫通扉のボタンの形状が変更されている。東海道線で女性グリーンアテンダントへの暴行事件が多発したため乗降口(デッキ)と4号車にある乗務員室・業務用室の前への防犯カメラの設置が進んでいる。 本系列の落成時の量産先行車の基本編成第2編成(当初の東フナF-02編成→現在の横クラY-2編成)のクハE216-2002号車(ただし、トイレ設備の先頭車差し換えで現在は付属編成Y-142編成の久里浜方先頭車に移動)には113系と連結して運転をするための異車種併結読換装置を搭載した。これは将来的に113系と本系列を連結した運転を行うことを想定して試験的に搭載したものである。 この装置は から構成するものとなっている。 さらに制御伝送装置にも制御伝送読換装置を搭載するほか、113系との併結用にKE70形ジャンパ連結器を装備している。なお、113系を併結した場合は本系列の性能から113系に合わせた性能に切り換えられる。 実際に113系との併結試運転は行われ、現在も機器は搭載されているものの使用されていない。 モハE217形:千葉(東京)方中間電動車。本形式のみパンタグラフを搭載。 モハE216形:久里浜(熱海)方中間電動車。 クハE217形:千葉(東京)方制御車。 クハE216形:久里浜(熱海)方制御車。 サハE217形:付随車。 サロE217形(0番台):付随車。千葉(東京)方グリーン車。久里浜(熱海)方に洋式トイレ設置。 サロE216形(0番台):付随車。久里浜(熱海)方グリーン車。千葉(東京)方に乗務員室設置。 本項目では製造された順番に第01・02編成......と記載をする。なお、2006年3月の鎌倉車両センター発足と一部編成の国府津車両センター転属以降における編成表記(第・・編成)は現行の編成番号(Y......編成)と一致する。下記の次車分類は本文中に用語として用いる。 ただし、後述するトイレ設備に関する先頭車の差し換えにより、基本編成と付属編成のクハE216形2000番台は次車の異なる編成に組まれているものがある。 引き続いて、国府津電車区(現・国府津車両センター)配置の東海道線の113系置き換え用として本系列の投入が検討されたが、E231系の投入計画が浮上したため、実現しなかった。ただし、後述する東海道線への転用があり、湘南色の本系列が実現した。 2007年度より制御装置などの機器類の更新と二重化、自動放送機能および客用扉の「3/4閉」スイッチを整備することが、2006年12月5日付のJR東日本のプレスリリースで発表された。 本系列も2007年時点で初期車の製造から13年が経過したため、電子機器の劣化を考慮して車体保全(走行距離 240万キロメートル以内に実施する定期検査)に合わせて主要な機器類について装置一式を更新することとなった。この更新工事は2007年度から開始した。施工は東京総合車両センターで実施され、2012年7月をもって全編成の更新が完了した。 施工内容は以下のとおりである。 その他、スカートを強化型のものに変更し、ラインカラーの青15号部分が青20号に変更され、窓上の帯が元の三段帯から二段帯に変更された。あわせて前面の「E217」ロゴを撤去し、E233系と同じスタイルのJRロゴと「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」表記に改めている(写真参照)。 この機器更新の際、鎌倉車両センターに配置されている予備編成が不足することから、E233系3000番台基本10両 + 付属5両編成1本を国府津車両センターに配置し、捻出された1本(F-02 + F-52編成)は制御装置の更新を施工した上で鎌倉車両センターに再配置した。その後F-01 + F-51編成も鎌倉車両センターへ再配置される際に機器更新が行われたが、F-03 + F-53編成は東海道線仕様のまま機器更新工事が実施された。 付属編成は2012年1月25日に更新をしたF-53(現Y-103)編成を以って完了した。基本編成はY-21編成が2012年7月31日付で更新を完了したことに伴い、本系列の機器更新工事は完了した。 全編成更新完了までの時期には暫定的な更新車も存在しており、機器やスカートが更新されていても塗装・ロゴが未更新であったり、塗装・ロゴとスカートが更新されているのに機器は未更新だったりとそれぞれの更新・未更新の組み合わせもバラバラであった。 1994年より横須賀線・総武快速線用に投入された編成は、グリーン車を含む11両の基本編成と4両の付属編成で構成される。基本編成の電動車と付随車の比率(MT比)は 4M7T、付属編成のMT比は 2M2T である。帯色は「横須賀色(スカ色)」を継承した、クリーム1号■と青20号■(機器更新前は青15号■)の組み合わせである。 横須賀線・総武快速線の編成は、113系時代より東海道本線とは異なり基本編成が東京方・付属編成が久里浜方となっている。これは分割・併結を行う逗子駅の構内配線の都合によるものである。 2022年10月1日現在、鎌倉車両センターに基本編成33本(363両)と付属編成33本(132両)の計495両が配置されている。以前は同所と幕張車両センターに分散配置されていたが、2006年3月18日改正で鎌倉に集約された。これに伴い編成番号表記も従来の「F-○○」(鎌倉)「R-○○」(幕張)から「Y-○○」に変更された。なお、幕張での車両留置は引き続き行われている。 運用区間は横須賀線・総武快速線を中心とするが、総武本線千葉 - 成東間、成田線佐倉 - 成田空港・香取間、鹿島線香取 - 鹿島神宮間、内房線蘇我 - 君津間、外房線千葉 - 上総一ノ宮間にも入線する。 1999年(平成11年)10月19日より総武快速線錦糸町 - 千葉間で、2004年(平成16年)10月16日のダイヤ改正より横須賀線西大井 - 大船間でそれぞれ最高速度 120 km/h での運転を開始した。 以前は付属編成が夜間帯に総武本線千葉 - 成東間の普通列車に間合い運用として入っていた時期もあったが、下り列車の混雑が非常に激しかったため、113系6両編成に置き換えられた。これ以降、一部の分割併合列車を除き房総各線のローカル列車に付属編成が単独では使用されなくなった。 2001年(平成13年)12月1日改正から2004年10月16日改正までは、215系とともに、湘南新宿ラインの横須賀線 - 新宿折り返し運用も存在した。前面種別幕は、新宿行き列車では「普通」と表示された。 JR東日本は2018年(平成30年)9月、2020年(令和2年)度より横須賀・総武快速線にE235系電車を導入すると発表し、2020年(令和2年)12月21日より営業運転を開始している。これに伴い本系列は順次置き換えが開始されている。 2020年4月1日時点では鎌倉車両センターに基本編成51本(561両)と付属編成46本(184両)の計745両が配置されていたが、2020年12月より運用離脱した編成の疎開が順次開始され、2021年(令和3年)1月5日にY-44編成が長野総合車両センターへ回送され、同年1月9日付で廃車となった。その後も順次廃車が進んでいる。 運用離脱した編成については先述のように順次廃車されているが、2023年3月にCNNインドネシアが報じたところによると、インドネシア・ジャカルタの鉄道会社であるPT Kereta Commuter Indonesia(PT KCI)が、老朽化した既存形式の置き換えと輸送力の増強のため本系列348両の譲渡を受けるべく、2022年9月13日付けでインドネシア政府に輸入許可を申請している。許可が得られた場合、2023年から2024年にかけて順次譲渡を受ける計画であるという。譲渡を希望する理由としては、インドネシアの車両メーカーであるインダストリ・クレタ・アピ(PT INKA)に発注している新車の生産ペースでは、計画している既存形式の置き換えと輸送力の増強が間に合わないためとしている。ただ、インドネシア政府はPT KCIによる輸入申請を拒否し、PT INKAの製造する新車だけで要求を満たせると主張しているため、実際に譲渡が実現するかどうかは不透明である。その後、同年6月22日にインドネシア政府のルフット・ビンサル・パンジャイタン海事投資担当調整大臣はPT KCIのE217系輸入申請を却下し、代わりにPT INKAによる新車が納入可能となる2025年までの間、引退する既存車両の代替となる「新製車両」の輸入を許可するとの見解を示した。 2004年10月16日のダイヤ改正で朝ラッシュ時の湘南新宿ライン増発による横須賀線運転本数の削減と湘南新宿ラインの運用がE231系へ統一されたことにより、運用数に対して余剰車が発生した。このため、鎌倉車両センター所属のE217系のうち、初期に製造された基本編成のF-01 - F-03編成と付属編成のF-51 - F-53編成の15両編成3本(45両)が東海道線と伊東線で運用されていた113系の置き換えのために国府津車両センターへ転属し、2006年3月18日のダイヤ改正より運転を開始した。 転属に際して東京総合車両センターにおいて改造が行われ、211系やE231系と同じく熱海方に基本編成10両、東京方に付属編成5両の構成に組み替えられた。当初は基本編成の7号車(ロングシート車)を付属編成に移動する予定であったが、混雑率の偏りを避けるため、セミクロスシート設置の旧10号車が付属編成へ移動した。 帯色はE231系と同じ新湘南色となった。車体側面のJRマークは横須賀線・総武快速線時代と同じ戸袋部に存置され、先頭車の正面にある「E217」ロゴも残されたが、その左にあった横須賀色の帯色ロゴは撤去された。 2006年3月改正時点では、1本が終日にわたって運用される以外はラッシュ時間帯のみの運用で、昼間の時間帯の充当列車は少なかったが、翌2007年3月改正時に運用が一部変更され、昼間の充当列車の本数が若干増加した。快速「アクティー」での運行は下り2本、上り1本が設定された。 運行区間は、半自動ドア装置などの寒冷地装備がないため湘南新宿ラインへの運用はなく、終日15両編成で運用されたため、JR東海管内(熱海駅以西および御殿場線)や伊東線への直通運用もなく、運用区間が東京 - 熱海(非営業の回送では来宮まで)間に限定され、運転室のモニタ装置筐体には『この車両は東京⇔熱海(来宮)間限定運用です』と表記されていた。また、E231系やE233系と異なり、車内自動放送は中止された。 その後、2008年にF-02 + F-52編成が鎌倉車両センター所属車両の更新工事施工による車両不足を補うため、2010年度にはF-01 + F-51編成が横須賀線武蔵小杉駅開業に伴う同線の輸送力増強のため、それぞれ鎌倉車両センターへ出戻っており、これらの穴埋めとしてE233系3000番台が国府津車両センターへ導入されている。その後、2012年11月・12月にF-02 + F-52編成が再度、鎌倉車両センターから国府津車両センターに転属した。 運用は固定されており、基本編成と付属編成を常時連結した15両編成で終日運行された。予備編成を持たないため、検査などで編成不足が生じた際にはE231系やE233系が代走する。また、付属編成が検査に入った場合は、E231系の基本編成(10両)単独の運用(平日朝1往復のみ)に入ることがあった。 行先表示器はF-52編成のみ転用改造時にLED式に変更され、それ以外の編成は従来通り字幕式となっていたが、2007年6月までに全編成がLED式となった。東海道線用として新たに作成された字幕表示の書体は、横須賀線・総武快速線用と同様のゴナではなく、漢字部分のみが113系や211系と同じ旧国鉄書体となった。また、非常用ドアコックなどの使用方法のステッカーが他編成や209系などと同じタイプのものに貼り替えられた。前面種別幕は、普通列車では黒地に白文字で「普通」(小田原・熱海方面行き)または「東海道線」(東京行き)、快速「アクティー」と通勤快速では黒地に赤文字で表示された。 2007年7月9日から同年9月30日まで、横浜 - 国府津間開業120周年記念ステッカーが先頭車の前面中央に貼付された。このステッカーは、編成ごとにデザインが異なっていた。 2009年4月中旬から2010年3月上旬まで、「東海道線全通120周年 - 新橋・神戸間 - 」記念としてE233系3000番台とともに基本編成1号車・付属編成15号車前面にヘッドマークが装着された。デザインは1種類のみであった。 2015年3月14日のダイヤ改正で、本系列の東海道線での運用は終了した。2015年3月にF-03 + F-53編成が、同年4・5月にF-02 + F-52編成が、それぞれ国府津車両センターから鎌倉車両センターへ再転属し、全車両が鎌倉車両センターに集約された。
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"車両の製造は川崎重工業、東急車輛製造、JR東日本新津車両製作所およびJR東日本大船工場(中間車12両のみ)で行われた(グリーン車は川崎重工業・東急車輛のみで製造)。ただし、大船工場製は東急車輛製造から構体ブロックを購入し、艤装や内装組み立てを大船工場で行ったノックダウン生産車両である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本系列の後、近郊形電車の生産は「一般形電車」として統一されたE231系近郊タイプに引き継がれたが、同系列の車体の基本構造や内装デザインに大きな相違はない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)度通商産業省選定グッドデザイン商品、商品デザイン部門)受賞。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "車体構造は209系と同じ軽量ステンレス車体であるが、車体幅が 2,950 mm(209系0番台は 2,800 mm)に拡大され、裾絞りのある車体となった。拡幅車体を採用したため、曲線走行時の車両限界超過を防ぐために台車間距離が 13,800 mm(209系は 13,300 mm)に拡げられた(拡幅車体で台車中心間距離を13,300 mmとした場合、曲線区間での車体のはみ出しが大きすぎてしまう)。全長は先頭車について併結運転も考慮して、連結面間全長を 20,000 mm に収めている。ただし、グリーン車用の2階建て車両は定員確保を目的として連結面間 20,500 mm、台車間距離 14,150 mmとした。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "車体構造はメーカーの製作工法で若干異なり、東急車輛製造と新津製作所・大船工場製は従来の骨組みと外板とで構成しているが、川崎重工業製は骨組みを廃した「2シート工法」(車体外板とインターパネル2枚の板材で強度を確保)で製作している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "先頭車両は踏切が多い区間を高速運転するため、高運転台構造とされ、運転席は設計上できる限り高い床面上500 mmの位置とした。運転台は209系と同様左手操作形ワンハンドル方式を採用している。また、先頭車の正面貫通扉の右中央には右側に「E217」と表記されたロゴと「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」のロゴが、左側に帯色ロゴが刻印されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、1992年(平成4年)の成田線大菅踏切事故の教訓を踏まえ、運転士の安全を確保するため先頭車両に衝撃吸収構造を採用している。前頭部は FRP 製の前面覆いを取り付ける構造であるが、衝撃吸収構造のため、前面窓ガラス下部に衝撃吸収用のアルミハニカムを装備し、さらには強固な構造で乗務員を保護する「サバイバルゾーン」と、つぶれることで衝撃を吸収する「クラッシャブルゾーン」を設けている。このため、運転台の奥行きは209系の 1,860 mm よりも広い 2,120 mm を確保している。この構造はE231系近郊タイプやE531系、E233系といった以降登場する首都圏向け一般形車両の標準仕様となった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また品川 - 錦糸町間の長大トンネル区間(東京トンネル・総武トンネル)を走行することから、非常時脱出に配慮して前面に貫通扉を設けた構造となった。貫通路は通常は閉鎖しているが、非常時のみ通り抜けができる。この貫通扉は外開き式プラグドア構造で、本系列の併結のほか113系との併結時にも使用できる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、省令改正に伴って貫通扉の設置が不要となったため、7次車からは前面デザインを変えずに非常用貫通扉は廃止された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1次車は前面のステップが分割形となっているが、2次車からは貫通扉(プラグドア)自体の構造を簡素化するためにステップを連続形とし、扉はステップ上部をスライドする仕組み(下レール付き)とされた。これに合わせて、尾灯の取り付け方法を変更している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "車体側面の行先表示器は製造開始当初209系と同じ幕式であったが、7次車よりLED式を採用した。ただし、以降に述べるトイレ設備関連に伴う先頭車差し換えを行うため、7次車のうち落成時のクハE216形2000番台で従来の編成に組まれる5両は側面表示が幕式で新製された。また、差し換えで7次車に組まれる従来のクハE216形2000番台の5両はこの時点で側面表示のLED化を実施した。その後は幕式の車両もLED式に順次交換されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "車内は基本的に209系の仕様を踏襲しており、白色系の内装材、床敷物は灰色を採用している。車椅子スペースは各先頭車の連結面側に設置した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "座席は一般席においては表地を背ずり部を青色の斜めストライプ柄、座面は青色の単色柄とした片持ち式バケットシート構造である。座席はロングシート車両とセミクロスシート車両があり、後者は車端部(連結面)寄り座席はロングシート(3席)、ドア間の座席は「ロング2席・ボックス式クロス4席・ロング2席」の配置となっている。ただし、先頭車両は構造上の関係(後述)で最前位のドアが後位寄りへ設置されたため、ロングシート車両・セミクロスシート車両ともに先頭側のドア間の座席はロングシート(4席)となっている。いずれの座席とも1人分の掛け幅は450 mmを確保しているほか、7人掛け座席間には定員着席を促すための縦握り棒(スタンションポール)を設置している。座席定員はセミクロスシート車両の方がドア間あたり2人分多いが、立席スペースがロングシート車よりドア間あたり2人分少ないため、乗車定員はロングシート車・セミクロスシート車とも全く同じである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "側窓は可視光透過率41 %のグレーに着色された熱線吸収ガラスを使用し、カーテンの設置は省略した(グリーン車を除く)。ドア間の大窓は全て開閉可能となり、セミクロスシート車および6次車以前のロングシート車両は、側窓を3分割し、中間部分が下降式となっている。これはクロスシート時の座席配置を考慮したものである。ロングシート車両の側窓は、7次車より車体中央部の窓が1枚ガラスの固定式となり、その他の開閉可能な窓も不均等2分割構造で車端部側の大きい方の窓が下降式となったものに変更された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、これらの窓構造変更車のうち、先頭車両の車体中央部の開閉不可能な大窓は、長時間停電時の換気性能向上のために2007年(平成19年)から209系と同様の開閉可能にする工事が行われている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ドアエンジンには209系3次車より採用が開始されたスクリュー軸式の電気式ドアエンジンを採用している。車外のドア解錠レバーは1次車では妻面に片側全扉の解錠レバーを設置していたが、2次車以降は片側側面2か所の解錠レバーからの操作に統一した(妻面のレバーは廃止)。また、ホーム長が10両弱分しかない田浦駅での一部ドア締め切りは、113系時代は両先頭車のみのドア締め切りで済んだが、本系列は先頭から2両目(2・10号車)の一番前のドアも乗降に支障をきたすため、先頭車と2両目のこのドアのみ締め切れる特別なスイッチ(通称・田浦スイッチ)が装備され、そのことを示すステッカーが該当するドアに貼り付けされている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "空調装置は一般車がAU720A形集中式 48.8 kW (42,000 kcal/h)、グリーン車用がAU721形集約分散式 23.3 kW (20,000 kcal/h) の2台搭載となっている。グリーン車用の冷房装置は使用条件の異なる2階席、1階席、平屋席それぞれの室内を個別に制御ができるものとなっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "各客用ドア上にはLED式車内案内表示器とドアチャイムを設置している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1次車はクロスシート部に脚台(細い脚)があったが、これを廃した(完全な片持ち式)ほか、クロスシート背面にあった手すりが省略された。床敷物では出入口部に滑り止め加工が施工された。また、車内非常通報装置が警報式から通話式に変更されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "基本編成の両端先頭車(とグリーン車5号車)と付属編成の久里浜方先頭車にはトイレが設置されている。現在は基本編成の千葉方先頭車と付属編成では和式を設置している。ただし、当初は基本編成の久里浜方先頭車も和式トイレを設置していた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後、4次車からはバリアフリー対応のため基本編成久里浜方先頭車(1号車:クハE216形2000番台)に車椅子対応の大形洋式トイレの設置が開始された。そして在来3次車までの基本編成にも車椅子対応トイレを設置することになった。このため、4次車以降の付属編成久里浜方先頭車を車椅子対応のトイレ付きで新製し、これを基本編成の久里浜方先頭車と差し換える方法で全ての基本編成に車椅子対応トイレ付き車両を組み込んだ。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "走行機器類、台車などの基本的な機器構成は209系車両をベースとしている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "制御装置と主電動機には、209系と同じ三菱電機製のGTOサイリスタ素子によるVVVFインバータ制御装置(1C4M2群制御)と出力 95 kW のかご形三相誘導電動機(MT68形、7次車以降及び機器更新車はMT73形)を採用しているが、運用条件である最高速度 120 km/h を達成するため、歯数比は 97:16(= 1:6.0625、209系は 99:14≒7.07)とされ、起動加速度は 2.0 km/h/s(209系は 2.5 km/h/s)に抑えられている。その後に登場したE231系は歯数比 99:14(≒ 1:7.07)とされたが、主電動機を許容最高回転数の高いMT73形へ変更することで120 km/h 運転を可能とした。2次車からは定速運転機能を付加した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "本系列では基本編成の11両 (4M7T) と付属編成4両 (2M2T) ではMT比が異なるため、加速性能を合わせるために主電動機の負担率は両者で異なる。また、15両編成を組成した際にも性能を合わせるためにVVVFインバータ装置内に設定スイッチを設けており、各ユニット間での出力を切り換えるシステムを備えている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "台車も209系とほぼ同一構造の軸梁式ボルスタレス台車のDT61/TR246系を採用している。総武快速線などで 120 km/h の高速運転を行うため、量産先行車には新製当初ヨーダンパが装備されたが、走行試験の結果、グリーン車を除き以後の車両への装備は行われず、量産先行車からも撤去されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "補助電源装置についても209系と同じGTO素子を使用した東洋電機製造製の静止形インバータ装置(SIV)を搭載しており、最大で6両まで給電可能な 210 kVA 容量を持つ。空気圧縮機はクノールブレムゼ社製のスクリュー式コンプレッサが搭載されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ブレーキ装置は回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキで、直通予備ブレーキ、耐雪ブレーキを装備している。車両間の力行、ブレーキ指令等の伝送には「制御伝送装置 (MON) 」経由によるデジタル指令方式としている。また、車輪の滑走を防止するための滑走防止装置を設置している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "集電装置は209系と同じPS28A形菱形パンタグラフが採用されている。狭小トンネル対策が採られていないため、中央本線高尾駅以西への乗り入れはできない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "保安装置にはATS-PとATS-SNを採用している。そのほかに東京地下トンネル区間用としてATC-5を搭載していたが、同区間は2004年2月にATS-Pに切り換えられ、ATC装置は使用停止となっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、機器更新に伴い、2012年7月をもって落成時からのオリジナルのGTOサイリスタ素子を備える制御装置の車両は消滅した(更新後の制御装置は後述)。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "グリーン車は、従来どおり基本編成の4・5号車に組み込まれ、利用者数の増加と成田空港アクセス需要(エアポート成田)への期待などから、2両とも2階建て車両とされた。車両は211系の2階建てグリーン車の設計をベースとしているが、台車やドアチャイム設置などの車内設備は新系列車両に準じている。これらの設計は後に登場する首都圏の一般形車両の2階建てグリーン車にも採用されたほか、四国旅客鉄道(JR四国)の5000系の2階建て車両(5100形)も当系列の5号車であるサロE217の設計をベースとしている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "座席には片持ち式のリクライニングシートが採用され、当初は2階席が紫色系の座席表地、1階席と平屋席が茶色系の座席表地とされた。一部車両の座席は、秋田新幹線建設工事に際して北上線経由で北上 - 秋田間で運転された「秋田リレー号」用のキハ110系300番台に使用されたものを再利用している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "横須賀線と総武快速線では、東海道線と共に2006年3月18日のダイヤ改正よりグリーン車Suicaシステムを導入した。それに先駆けて2005年度に全座席の上部にSuicaをタッチ決済するための装置(R/W(リーダ/ライタ))が設置されている。2006年8月以降、グリーン車の座席を順次E231系に準じたものに交換している。ただし、座席の台座は流用されており、設備も背面テーブルのみと従来のE217系に準じたものとなっている。また、モケットもE231系と同色系のものを用いているが、デザインが多少異なるオリジナルのものが採用された。同時に階段などの手摺りも黄色に着色されたものに取り替えられた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "5号車の久里浜側の車端部には洋式トイレと洗面所が設置されている。トイレは基本編成の普通車のトイレとは異なり、車イス非対応で扉は自動でないほか、三菱電機製の天井埋め込み形換気扇が設置されている。この換気扇は洗面所にも設置されている。4号車では千葉側の車端部に乗務員室と業務用室(グリーンアテンダントの準備室)を設置する。業務用室には車内販売に対応させるため冷蔵庫等が設置されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2次車では洗面所の色彩やデッキと平屋席の貫通扉のボタンの形状が変更されている。東海道線で女性グリーンアテンダントへの暴行事件が多発したため乗降口(デッキ)と4号車にある乗務員室・業務用室の前への防犯カメラの設置が進んでいる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "本系列の落成時の量産先行車の基本編成第2編成(当初の東フナF-02編成→現在の横クラY-2編成)のクハE216-2002号車(ただし、トイレ設備の先頭車差し換えで現在は付属編成Y-142編成の久里浜方先頭車に移動)には113系と連結して運転をするための異車種併結読換装置を搭載した。これは将来的に113系と本系列を連結した運転を行うことを想定して試験的に搭載したものである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この装置は", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "から構成するものとなっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "さらに制御伝送装置にも制御伝送読換装置を搭載するほか、113系との併結用にKE70形ジャンパ連結器を装備している。なお、113系を併結した場合は本系列の性能から113系に合わせた性能に切り換えられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "実際に113系との併結試運転は行われ、現在も機器は搭載されているものの使用されていない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "モハE217形:千葉(東京)方中間電動車。本形式のみパンタグラフを搭載。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "モハE216形:久里浜(熱海)方中間電動車。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "クハE217形:千葉(東京)方制御車。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "クハE216形:久里浜(熱海)方制御車。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "サハE217形:付随車。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "サロE217形(0番台):付随車。千葉(東京)方グリーン車。久里浜(熱海)方に洋式トイレ設置。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "サロE216形(0番台):付随車。久里浜(熱海)方グリーン車。千葉(東京)方に乗務員室設置。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "本項目では製造された順番に第01・02編成......と記載をする。なお、2006年3月の鎌倉車両センター発足と一部編成の国府津車両センター転属以降における編成表記(第・・編成)は現行の編成番号(Y......編成)と一致する。下記の次車分類は本文中に用語として用いる。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ただし、後述するトイレ設備に関する先頭車の差し換えにより、基本編成と付属編成のクハE216形2000番台は次車の異なる編成に組まれているものがある。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "引き続いて、国府津電車区(現・国府津車両センター)配置の東海道線の113系置き換え用として本系列の投入が検討されたが、E231系の投入計画が浮上したため、実現しなかった。ただし、後述する東海道線への転用があり、湘南色の本系列が実現した。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2007年度より制御装置などの機器類の更新と二重化、自動放送機能および客用扉の「3/4閉」スイッチを整備することが、2006年12月5日付のJR東日本のプレスリリースで発表された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "本系列も2007年時点で初期車の製造から13年が経過したため、電子機器の劣化を考慮して車体保全(走行距離 240万キロメートル以内に実施する定期検査)に合わせて主要な機器類について装置一式を更新することとなった。この更新工事は2007年度から開始した。施工は東京総合車両センターで実施され、2012年7月をもって全編成の更新が完了した。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "施工内容は以下のとおりである。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その他、スカートを強化型のものに変更し、ラインカラーの青15号部分が青20号に変更され、窓上の帯が元の三段帯から二段帯に変更された。あわせて前面の「E217」ロゴを撤去し、E233系と同じスタイルのJRロゴと「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」表記に改めている(写真参照)。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "この機器更新の際、鎌倉車両センターに配置されている予備編成が不足することから、E233系3000番台基本10両 + 付属5両編成1本を国府津車両センターに配置し、捻出された1本(F-02 + F-52編成)は制御装置の更新を施工した上で鎌倉車両センターに再配置した。その後F-01 + F-51編成も鎌倉車両センターへ再配置される際に機器更新が行われたが、F-03 + F-53編成は東海道線仕様のまま機器更新工事が実施された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "付属編成は2012年1月25日に更新をしたF-53(現Y-103)編成を以って完了した。基本編成はY-21編成が2012年7月31日付で更新を完了したことに伴い、本系列の機器更新工事は完了した。 全編成更新完了までの時期には暫定的な更新車も存在しており、機器やスカートが更新されていても塗装・ロゴが未更新であったり、塗装・ロゴとスカートが更新されているのに機器は未更新だったりとそれぞれの更新・未更新の組み合わせもバラバラであった。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1994年より横須賀線・総武快速線用に投入された編成は、グリーン車を含む11両の基本編成と4両の付属編成で構成される。基本編成の電動車と付随車の比率(MT比)は 4M7T、付属編成のMT比は 2M2T である。帯色は「横須賀色(スカ色)」を継承した、クリーム1号■と青20号■(機器更新前は青15号■)の組み合わせである。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "横須賀線・総武快速線の編成は、113系時代より東海道本線とは異なり基本編成が東京方・付属編成が久里浜方となっている。これは分割・併結を行う逗子駅の構内配線の都合によるものである。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2022年10月1日現在、鎌倉車両センターに基本編成33本(363両)と付属編成33本(132両)の計495両が配置されている。以前は同所と幕張車両センターに分散配置されていたが、2006年3月18日改正で鎌倉に集約された。これに伴い編成番号表記も従来の「F-○○」(鎌倉)「R-○○」(幕張)から「Y-○○」に変更された。なお、幕張での車両留置は引き続き行われている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "運用区間は横須賀線・総武快速線を中心とするが、総武本線千葉 - 成東間、成田線佐倉 - 成田空港・香取間、鹿島線香取 - 鹿島神宮間、内房線蘇我 - 君津間、外房線千葉 - 上総一ノ宮間にも入線する。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)10月19日より総武快速線錦糸町 - 千葉間で、2004年(平成16年)10月16日のダイヤ改正より横須賀線西大井 - 大船間でそれぞれ最高速度 120 km/h での運転を開始した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "以前は付属編成が夜間帯に総武本線千葉 - 成東間の普通列車に間合い運用として入っていた時期もあったが、下り列車の混雑が非常に激しかったため、113系6両編成に置き換えられた。これ以降、一部の分割併合列車を除き房総各線のローカル列車に付属編成が単独では使用されなくなった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)12月1日改正から2004年10月16日改正までは、215系とともに、湘南新宿ラインの横須賀線 - 新宿折り返し運用も存在した。前面種別幕は、新宿行き列車では「普通」と表示された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "JR東日本は2018年(平成30年)9月、2020年(令和2年)度より横須賀・総武快速線にE235系電車を導入すると発表し、2020年(令和2年)12月21日より営業運転を開始している。これに伴い本系列は順次置き換えが開始されている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2020年4月1日時点では鎌倉車両センターに基本編成51本(561両)と付属編成46本(184両)の計745両が配置されていたが、2020年12月より運用離脱した編成の疎開が順次開始され、2021年(令和3年)1月5日にY-44編成が長野総合車両センターへ回送され、同年1月9日付で廃車となった。その後も順次廃車が進んでいる。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "運用離脱した編成については先述のように順次廃車されているが、2023年3月にCNNインドネシアが報じたところによると、インドネシア・ジャカルタの鉄道会社であるPT Kereta Commuter Indonesia(PT KCI)が、老朽化した既存形式の置き換えと輸送力の増強のため本系列348両の譲渡を受けるべく、2022年9月13日付けでインドネシア政府に輸入許可を申請している。許可が得られた場合、2023年から2024年にかけて順次譲渡を受ける計画であるという。譲渡を希望する理由としては、インドネシアの車両メーカーであるインダストリ・クレタ・アピ(PT INKA)に発注している新車の生産ペースでは、計画している既存形式の置き換えと輸送力の増強が間に合わないためとしている。ただ、インドネシア政府はPT KCIによる輸入申請を拒否し、PT INKAの製造する新車だけで要求を満たせると主張しているため、実際に譲渡が実現するかどうかは不透明である。その後、同年6月22日にインドネシア政府のルフット・ビンサル・パンジャイタン海事投資担当調整大臣はPT KCIのE217系輸入申請を却下し、代わりにPT INKAによる新車が納入可能となる2025年までの間、引退する既存車両の代替となる「新製車両」の輸入を許可するとの見解を示した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2004年10月16日のダイヤ改正で朝ラッシュ時の湘南新宿ライン増発による横須賀線運転本数の削減と湘南新宿ラインの運用がE231系へ統一されたことにより、運用数に対して余剰車が発生した。このため、鎌倉車両センター所属のE217系のうち、初期に製造された基本編成のF-01 - F-03編成と付属編成のF-51 - F-53編成の15両編成3本(45両)が東海道線と伊東線で運用されていた113系の置き換えのために国府津車両センターへ転属し、2006年3月18日のダイヤ改正より運転を開始した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "転属に際して東京総合車両センターにおいて改造が行われ、211系やE231系と同じく熱海方に基本編成10両、東京方に付属編成5両の構成に組み替えられた。当初は基本編成の7号車(ロングシート車)を付属編成に移動する予定であったが、混雑率の偏りを避けるため、セミクロスシート設置の旧10号車が付属編成へ移動した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "帯色はE231系と同じ新湘南色となった。車体側面のJRマークは横須賀線・総武快速線時代と同じ戸袋部に存置され、先頭車の正面にある「E217」ロゴも残されたが、その左にあった横須賀色の帯色ロゴは撤去された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2006年3月改正時点では、1本が終日にわたって運用される以外はラッシュ時間帯のみの運用で、昼間の時間帯の充当列車は少なかったが、翌2007年3月改正時に運用が一部変更され、昼間の充当列車の本数が若干増加した。快速「アクティー」での運行は下り2本、上り1本が設定された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "運行区間は、半自動ドア装置などの寒冷地装備がないため湘南新宿ラインへの運用はなく、終日15両編成で運用されたため、JR東海管内(熱海駅以西および御殿場線)や伊東線への直通運用もなく、運用区間が東京 - 熱海(非営業の回送では来宮まで)間に限定され、運転室のモニタ装置筐体には『この車両は東京⇔熱海(来宮)間限定運用です』と表記されていた。また、E231系やE233系と異なり、車内自動放送は中止された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その後、2008年にF-02 + F-52編成が鎌倉車両センター所属車両の更新工事施工による車両不足を補うため、2010年度にはF-01 + F-51編成が横須賀線武蔵小杉駅開業に伴う同線の輸送力増強のため、それぞれ鎌倉車両センターへ出戻っており、これらの穴埋めとしてE233系3000番台が国府津車両センターへ導入されている。その後、2012年11月・12月にF-02 + F-52編成が再度、鎌倉車両センターから国府津車両センターに転属した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "運用は固定されており、基本編成と付属編成を常時連結した15両編成で終日運行された。予備編成を持たないため、検査などで編成不足が生じた際にはE231系やE233系が代走する。また、付属編成が検査に入った場合は、E231系の基本編成(10両)単独の運用(平日朝1往復のみ)に入ることがあった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "行先表示器はF-52編成のみ転用改造時にLED式に変更され、それ以外の編成は従来通り字幕式となっていたが、2007年6月までに全編成がLED式となった。東海道線用として新たに作成された字幕表示の書体は、横須賀線・総武快速線用と同様のゴナではなく、漢字部分のみが113系や211系と同じ旧国鉄書体となった。また、非常用ドアコックなどの使用方法のステッカーが他編成や209系などと同じタイプのものに貼り替えられた。前面種別幕は、普通列車では黒地に白文字で「普通」(小田原・熱海方面行き)または「東海道線」(東京行き)、快速「アクティー」と通勤快速では黒地に赤文字で表示された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2007年7月9日から同年9月30日まで、横浜 - 国府津間開業120周年記念ステッカーが先頭車の前面中央に貼付された。このステッカーは、編成ごとにデザインが異なっていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2009年4月中旬から2010年3月上旬まで、「東海道線全通120周年 - 新橋・神戸間 - 」記念としてE233系3000番台とともに基本編成1号車・付属編成15号車前面にヘッドマークが装着された。デザインは1種類のみであった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2015年3月14日のダイヤ改正で、本系列の東海道線での運用は終了した。2015年3月にF-03 + F-53編成が、同年4・5月にF-02 + F-52編成が、それぞれ国府津車両センターから鎌倉車両センターへ再転属し、全車両が鎌倉車両センターに集約された。", "title": "運用" } ]
E217系電車(E217けいでんしゃ)は、1994年(平成6年)に運行を開始した、東日本旅客鉄道(JR東日本)の直流近郊形電車。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{鉄道車両 | 車両名 = JR東日本E217系電車 | 背景色 = #008000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Series-E217 Y7.jpg | 画像説明 = 機器更新後のE217系Y-7編成<br />(2021年6月10日 [[佐倉駅]] - [[物井駅]]間) | 運用者 = [[東日本旅客鉄道]] | 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]<br />[[東日本旅客鉄道大船工場]]<ref group="*">[[ノックダウン生産]]</ref><br />[[総合車両製作所新津事業所|東日本旅客鉄道新津車両製作所]] | 製造年 = [[1994年]] - [[1999年]] | 製造数 = 745両<br />基本編成:51本、561両<br />付属編成:46本、184両 | 運用開始 = [[1994年]][[12月3日]] | 運用終了 = | 編成 = | 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] | 電気方式 = [[直流電化|直流]] 1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線]]方式) | 最高運転速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]] | 設計最高速度 = 120 km/h | 起動加速度 = 2.0 [[メートル毎秒毎秒|km/h/s]]<ref name="ikaros_2008" /> | 常用減速度 = 4.2 km/h/s<ref group="JR東" name="jreast/development/Tech-21-21-26" /> | 非常減速度 = | 編成定員 = | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = | 編成長 = | 全長 = ・連結面間距離<br />一般車 20,000 [[ミリメートル|mm]]<br />グリーン車 20,500 mm | 全幅 = 2,950 mm | 全高 = 4,070 mm<br />パンタグラフ折畳時 4,135 mm | 車体材質 = [[ステンレス鋼|ステンレス]] | 台車 = 軸梁式ボルスタレス台車<br />DT61/TR246形 | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]] | 主電動機出力 = 95 [[ワット|kW]] | 駆動方式 = [[カルダン駆動方式#カルダン駆動のバリエーション|TD継手平行カルダン駆動方式]] | 歯車比 = 16:97 (1:6.06) | 編成出力 = | 制御方式 = [[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<br/>(製造時)<br/>[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<br/>(更新後) | 制御装置 = | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-SN|ATS-S{{Smaller|N}}]]<br />[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]<br />[[自動列車制御装置#ATC-5|ATC-5]](使用停止)<!-- 略称にそれぞれアンカーがありますのでご利用ください --> | 備考 = '''脚注'''<br/><references group="*"/> }} '''E217系電車'''(E217けいでんしゃ)は、[[1994年]](平成6年)に運行を開始した、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[直流電化|直流]][[近郊形車両|近郊形電車]]<ref name="Fan1994-12-1" />。 == 概要 == [[横須賀・総武快速線]]で運用されていた[[国鉄113系電車|113系]]の置き換えを目的として、[[1994年]](平成6年)8月に量産先行車(1次車)である基本編成11両 + 付属編成4両の第01・02編成が落成し<ref name="Fan1994-12-1" />、同年[[12月3日]]より営業運転を開始した<ref name="JNL1995-2" /><ref group="新聞" name="mainichi_19940729" />。翌[[1995年]](平成7年)11月以降は量産型の落成が始まり、以降[[1999年]](平成11年)11月落成までに基本編成51本、付属編成46本計745両が製造された。当初は大船電車区に集中投入、[[1997年]](平成9年)からは幕張電車区にも投入され、1999年12月4日に横須賀線・総武快速線のすべての113系を置き換えた<ref group="新聞" name="mainichi_19991007" />。 本系列は国鉄・JRの近郊形車両で初めての4扉構造を採用した<ref name="Fan1994-12-64" />。車内の座席配置は混雑緩和を最優先とし、[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形]]となるロングシート構造を基本としながら編成中の一部車両(基本編成11両中3両)には遠距離旅客や観光客へ配慮し、クロスシートを設けたセミクロスシート構造とした。また、基本編成のみ[[2階建車両|2階建て]]構造の[[グリーン車]]を組み込んでいる<ref name="Fan1994-12-1" />。 JR東日本が「新系列車両」として開発した通勤形車両[[JR東日本209系電車|209系]]を近郊形車両へと改良・発展させたのが本系列である<ref name="JNL2007-10" />。本系列のデザイン開発は[[GKインダストリアルデザイン]]によるものである。 車両の製造は[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]、[[東急車輛製造]]、[[総合車両製作所新津事業所|JR東日本新津車両製作所]]およびJR東日本[[東日本旅客鉄道大船工場|大船工場]](中間車12両<ref group="注">現行のY-11編成の11両編成中4両とY-20編成の11両編成中4両、Y-30編成の11両編成中4両。</ref>のみ)で行われた(グリーン車は川崎重工業・東急車輛のみで製造)。ただし、大船工場製は東急車輛製造から構体ブロックを購入し<ref name="Fan2013-1" />、艤装や内装組み立てを大船工場で行った<ref name="Fan2013-1" />[[ノックダウン生産]]車両である。 本系列の後、近郊形電車の生産は「[[一般形車両 (鉄道)|一般形電車]]」として統一された[[JR東日本E231系電車|E231系]]近郊タイプに引き継がれたが、同系列の車体の基本構造や内装デザインに大きな相違はない。 [[1995年]](平成7年)度通商産業省選定グッドデザイン商品、商品デザイン部門)受賞<ref group="新聞" name="kotsu_19951016" />。 == 構造 == === 車体 === 車体構造は[[209系]]と同じ軽量[[ステンレス鋼|ステンレス]]車体であるが、車体幅が 2,950{{nbsp}}[[ミリメートル|mm]](209系0番台は 2,800{{nbsp}}mm)に拡大され、裾絞りのある車体となった<ref name="Fan1994-12-2" />。拡幅車体を採用したため、曲線走行時の[[車両限界]]超過を防ぐために台車間距離が 13,800{{nbsp}}mm(209系は 13,300{{nbsp}}mm)に拡げられた<ref name="Fan1994-12-2" />(拡幅車体で台車中心間距離を13,300{{nbsp}}mmとした場合、曲線区間での車体のはみ出しが大きすぎてしまう)。全長は先頭車について併結運転も考慮して、連結面間全長を 20,000{{nbsp}}mm に収めている<ref name="Fan1994-12-2" />。ただし、グリーン車用の2階建て車両は定員確保を目的として連結面間 20,500{{nbsp}}mm、台車間距離 14,150{{nbsp}}mmとした<ref name="Fan1994-12-2" />。 車体構造はメーカーの製作工法で若干異なり、東急車輛製造と新津製作所・大船工場製は従来の骨組みと外板とで構成しているが、川崎重工業製は骨組みを廃した「2シート工法」(車体外板とインターパネル2枚の板材で強度を確保)で製作している。 先頭車両は[[踏切]]が多い区間を高速運転するため、高[[操縦席|運転台]]構造とされ<ref name="Fan1994-12-1" />、運転席は設計上できる限り高い床面上500{{nbsp}}mmの位置とした<ref name="Fan1994-12-3" />。運転台は209系と同様左手操作形[[マスター・コントローラー|ワンハンドル]]方式を採用している。また、先頭車の正面貫通扉の右中央には右側に「E217」と表記されたロゴと「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」のロゴが、左側に帯色ロゴが刻印されている。 また、[[1992年]](平成4年)の成田線[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#成田線大菅踏切事故|大菅踏切事故]]の教訓を踏まえ、[[運転士]]の安全を確保するため先頭車両に衝撃吸収構造を採用している<ref name="Fan1994-12-1" /><ref name="Fan2002-5" />。前頭部は [[繊維強化プラスチック|FRP]] 製の前面覆いを取り付ける構造であるが、衝撃吸収構造のため、前面窓ガラス下部に衝撃吸収用のアルミハニカムを装備し、さらには強固な構造で乗務員を保護する「サバイバルゾーン」と、つぶれることで衝撃を吸収する「[[クラッシャブルゾーン]]」を設けている<ref name="Fan2002-5" /><ref name="JNL2007-10" />。このため、運転台の奥行きは209系の 1,860{{nbsp}}mm よりも広い 2,120{{nbsp}}mm を確保している<ref>交友社「鉄道ファン」1994年12月号付属のE217系形式図</ref>。この構造はE231系近郊タイプや[[JR東日本E531系電車|E531系]]、[[JR東日本E233系電車|E233系]]といった以降登場する首都圏向け一般形車両の標準仕様となった。 * 右下辺りの写真で先頭部(左の青ライン上部付近)が乗務員室サバイバルゾーン、乗務員室扉部(中央の赤ライン上部付近)がクラッシャブルゾーン、客室部(右の青ライン上部付近)が客室サバイバルゾーン また[[品川駅|品川]] - [[錦糸町駅|錦糸町]]間の長大トンネル区間(東京トンネル・総武トンネル)を走行することから、[[非常口|非常時脱出]]に配慮して前面に[[貫通扉]]を設けた構造となった<ref name="Fan1994-12-2"/><ref group="注">当該区間は、開業時の法令では、運輸省通達「電車の火災事故対策について(鉄運第81号)」の第二項の規定に該当する区間であった。すなわち'''通過車両はA基準とすること、今後新造するものについては努めてA-A基準とすること'''が求められた。このため、113系1000番台や183系はA-A基準に準拠して設計され、非常時脱出のため前面に貫通扉を有していた。</ref>。貫通路は通常は閉鎖しているが、非常時のみ通り抜けができる<ref name="Fan1994-12-2"/>。この貫通扉は外開き式[[プラグドア]]構造で、本系列の併結のほか113系との併結時にも使用できる<ref name="Fan1994-12-3"/>。 その後、省令改正に伴って貫通扉の設置が不要となったため<ref group="注">E217系が設計・投入された当時の法令(普通鉄道構造規則)では、地下区間または長大トンネルを走行する[[地下鉄等旅客車]]は、「建築限界と車両限界の基礎限界との間隔が側部において 400{{nbsp}}mm 未満の区間を走行する車両」または「[[第三軌条|サードレール]]式の電車区間を運転する車両」を除き、列車端部への貫通口設置は不要であった。</ref>、7次車からは前面デザインを変えずに非常用貫通扉は廃止された<ref name="Fan2002-5" />。 1次車は前面のステップが分割形となっている<ref group="注">分割型ステップを有する車両はY-1編成11号車のクハE217-1、Y-101編成増1号車のクハE216-1001、同編成増4号車のクハE217-2001、Y-141編成増1号車のクハE216-2001の4両。同じく1次車の先頭車両であるY-2編成11号車・Y-102編成増1・増4号車・Y-142編成増1号車は連続型のステップに改められている。</ref>が、2次車からは貫通扉([[プラグドア]])自体の構造を簡素化するためにステップを連続形とし、扉はステップ上部をスライドする仕組み(下レール付き)とされた<ref name="PIC1996-10ex" />。これに合わせて、[[尾灯]]の取り付け方法を変更している<ref name="PIC1996-10ex" />。 車体側面の[[方向幕|行先表示器]]は製造開始当初209系と同じ幕式であったが、7次車より[[発光ダイオード|LED]]式を採用した。ただし、以降に述べるトイレ設備関連に伴う先頭車差し換えを行うため、7次車のうち落成時のクハE216形2000番台で従来の編成に組まれる5両は側面表示が幕式で新製された。また、差し換えで7次車に組まれる従来のクハE216形2000番台の5両はこの時点で側面表示のLED化を実施した。その後は幕式の車両もLED式に順次交換されている。<gallery> ファイル:高運転台.jpg|運転台 </gallery> === 車内 === 車内は基本的に209系の仕様を踏襲しており、白色系の内装材、床敷物は灰色を採用している。[[車椅子スペース]]は各先頭車の連結面側に設置した<ref name="Fan1994-12-3" />。 [[鉄道車両の座席|座席]]は一般席においては表地を背ずり部を青色の斜めストライプ柄、座面は青色の単色柄とした片持ち式[[バケットシート]]構造である<ref name="Fan1994-12-3" /><ref name="Fan2002-5" />。座席は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]車両と[[鉄道車両の座席#セミクロスシート|セミクロスシート]]車両があり、後者は車端部(連結面)寄り座席はロングシート(3席)、ドア間の座席は「ロング2席・ボックス式クロス4席・ロング2席」の配置となっている<ref name="Fan1994-12-2" />。ただし、先頭車両は構造上の関係(後述)で最前位のドアが後位寄りへ設置されたため、ロングシート車両・セミクロスシート車両ともに先頭側のドア間の座席はロングシート(4席)となっている。いずれの座席とも1人分の掛け幅は450{{nbsp}}mmを確保しているほか、7人掛け座席間には定員着席を促すための縦握り棒([[スタンションポール]])を設置している<ref name="Fan1994-12-3" />。座席定員はセミクロスシート車両の方がドア間あたり2人分多いが、立席スペースがロングシート車よりドア間あたり2人分少ないため、乗車定員はロングシート車・セミクロスシート車とも全く同じである。 側窓は可視光透過率41{{nbsp}}%のグレーに着色された熱線吸収ガラスを使用し、[[カーテン]]の設置は省略した(グリーン車を除く)<ref name="Fan1994-12-2" />。ドア間の大窓は全て開閉可能となり、セミクロスシート車および6次車以前のロングシート車両は、側窓を3分割し、中間部分が下降式となっている<ref name="Fan1994-12-2" />。これはクロスシート時の座席配置を考慮したものである<ref name="Fan1994-12-2" />。ロングシート車両の側窓は、7次車より車体中央部の窓が1枚ガラスの固定式となり、その他の開閉可能な窓も不均等2分割構造で車端部側の大きい方の窓が下降式となったものに変更された<ref group="注">同時期に登場した209系500番台と同様の窓構成。</ref>。 なお、これらの窓構造変更車のうち、先頭車両の車体中央部の開閉不可能な大窓は、長時間停電時の換気性能向上のために[[2007年]](平成19年)から209系と同様の開閉可能にする工事が行われている。 ドアエンジンには209系3次車より採用が開始されたスクリュー軸式の電気式ドアエンジンを採用している<ref name="Fan1994-12-2" />。車外の[[ドアコック|ドア解錠レバー]]は1次車では妻面に片側全扉の解錠レバーを設置していたが、2次車以降は片側側面2か所の解錠レバーからの操作に統一した(妻面のレバーは廃止)。また、ホーム長が10両弱分しかない[[田浦駅]]での一部[[ドアカット|ドア締め切り]]は、113系時代は両先頭車のみのドア締め切りで済んだが、本系列は先頭から2両目(2・10号車)の一番前のドアも乗降に支障をきたすため、先頭車と2両目のこのドアのみ締め切れる特別なスイッチ(通称・田浦スイッチ)が装備され、そのことを示すステッカーが該当するドアに貼り付けされている<ref name="RP698-45" />。 [[エア・コンディショナー|空調装置]]は一般車がAU720A形[[集中式冷房装置|集中式]] 48.8{{nbsp}}[[キロワット|kW]] (42,000{{nbsp}}[[冷凍能力|kcal/h]])、グリーン車用がAU721形[[集約分散式冷房装置|集約分散式]] 23.3{{nbsp}}kW (20,000{{nbsp}}kcal/h) の2台搭載となっている<ref name="Fan1994-12-3" />。グリーン車用の冷房装置は使用条件の異なる2階席、1階席、平屋席それぞれの室内を個別に制御ができるものとなっている<ref name="Fan1994-12-3" />。 <gallery> ファイル:E217-inside-longseat.jpg|ロングシート車内 ファイル:E217-inside-semicross-seat.jpg|セミクロスシート車内 ファイル:Series-E217-inside-free space.jpg|車椅子スペース ファイル:E217_.jpg|E217系解錠レバー(E217系Y-1編成) </gallery> ;車内案内装置 各客用ドア上には[[発光ダイオード|LED]]式[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]と[[ドアチャイム]]を設置している<ref name="Fan1994-12-3"/>。 <gallery> ファイル:車内案内器.jpg|車内案内装置 </gallery> ;2次車以降の車内細部の変更 1次車はクロスシート部に脚台(細い脚)があったが、これを廃した(完全な片持ち式)ほか<ref name="PIC1996-10ex" />、クロスシート背面にあった手すりが省略された<ref name="PIC1996-10ex" />。床敷物では出入口部に滑り止め加工が施工された<ref name="PIC1996-10ex" />。また、[[車内非常通報装置]]が警報式から通話式に変更されている<ref name="PIC1996-10ex" />。 <gallery perrow="5" style="font-size:100%;"> ファイル:E217 box.jpg|量産先行車のクロスシート ファイル:E217-BoxSeat1.jpg|量産車のクロスシート </gallery> ;トイレ設備 基本編成の両端先頭車(とグリーン車5号車)と付属編成の[[久里浜駅|久里浜]]方先頭車には[[列車便所|トイレ]]が設置されている<ref name="Fan1994-12-3"/>。現在は基本編成の[[千葉駅|千葉]]方先頭車と付属編成では和式を設置している。ただし、当初は基本編成の久里浜方先頭車も和式トイレを設置していた。 その後、4次車からは[[バリアフリー]]対応のため基本編成久里浜方先頭車(1号車:クハE216形2000番台)に[[車椅子]]対応の大形[[便器#腰掛大便器(洋式・洋風大便器)|洋式]]トイレの設置が開始された。そして在来3次車までの基本編成にも車椅子対応トイレを設置することになった。このため、4次車以降の付属編成久里浜方先頭車を車椅子対応のトイレ付きで新製し、これを基本編成の久里浜方先頭車と差し換える方法で全ての基本編成に車椅子対応トイレ付き車両を組み込んだ。 === 主要機器 === {{Sound|E217Accelerate.ogg|モーターの磁励音}}<!-- {{Sound}}の引数にリンク文字は入れないでください。元の音源リンクを指せなくなります。 --> 走行機器類、台車などの基本的な機器構成は209系車両をベースとしている<ref name="Fan1994-12-2" /><ref name="Fan1994-12-3" />。 制御装置と主電動機には、209系と同じ[[三菱電機]]製の[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]]による[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]装置(1C4M2群制御)と出力 95{{nbsp}}[[キロワット|kW]] の[[かご形三相誘導電動機]](MT68形、7次車以降及び機器更新車はMT73形<ref group="注">MT68形の許容回転数は 5,332{{nbsp}}rpm だが、MT73型は 5,820{{nbsp}}rpm に引き上げられており、歯車比を加味すれば性能上E217系は140{{nbsp}}km/h運転が可能。</ref>)を採用している<ref name="Fan1994-12-1" /><ref name="Fan1994-12-3" />が、運用条件である最高速度 120{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]] を達成するため、歯数比は 97:16(= 1:6.0625、209系は 99:14≒7.07)とされ<ref name="Fan1994-12-1" />、[[起動加速度]]は 2.0{{nbsp}}[[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]](209系は 2.5{{nbsp}}km/h/s)に抑えられている。その後に登場したE231系は歯数比 99:14(≒ 1:7.07)とされたが、主電動機を許容最高回転数の高いMT73形へ変更することで120{{nbsp}}km/h 運転を可能とした。2次車からは[[定速運転]]機能を付加した<ref name="PIC1996-10ex" />。 本系列では基本編成の11両 (4M7T) と付属編成4両 (2M2T) では[[MT比]]が異なるため、加速性能を合わせるために主電動機の負担率は両者で異なる<ref name="Fan1994-12-2" />。また、15両編成を組成した際にも性能を合わせるためにVVVFインバータ装置内に設定スイッチを設けており、各ユニット間での出力を切り換えるシステムを備えている<ref name="Fan1994-12-2" />。 台車も209系とほぼ同一構造の軸梁式[[鉄道車両の台車|ボルスタレス台車]]のDT61/TR246系を採用している<ref name="Fan1994-12-3" />。総武快速線などで 120{{nbsp}}km/h の高速運転を行うため、量産先行車には新製当初[[蛇行動#ヨーダンパ|ヨーダンパ]]が装備された<ref name="Fan1994-12-3" />が、走行試験の結果、グリーン車を除き以後の車両への装備は行われず、量産先行車からも撤去されている。 補助電源装置についても209系と同じGTO素子を使用した[[東洋電機製造]]製の<ref name="TDK1995-7" />[[静止形インバータ]]装置(SIV)を搭載しており、最大で6両まで給電可能な 210{{nbsp}}[[キロボルトアンペア|kVA]] 容量を持つ<ref name="Fan1994-12-3" />。[[圧縮機|空気圧縮機]]は[[クノールブレムゼ]]社製のスクリュー式コンプレッサが搭載されている<ref name="Fan1994-12-3"/><ref name="Fan2002-5" />。 ブレーキ装置は[[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]で、[[保安ブレーキ|直通予備ブレーキ]]、耐雪ブレーキを装備している<ref name="Fan1994-12-3"/>。車両間の[[力行]]、ブレーキ指令等の伝送には「[[鉄道車両のモニタ装置|制御伝送装置]] (MON) 」経由によるデジタル指令方式としている<ref name="Fan1994-12-3"/>。また、[[車輪]]の[[滑走]]を防止するための[[フラット防止装置|滑走防止装置]]を設置している<ref name="Fan1994-12-3" />。 [[集電装置]]は209系と同じPS28A形菱形パンタグラフが採用されている<ref name="Fan1994-12-3" />。狭小トンネル対策が採られていないため、[[中央本線]][[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]以西への乗り入れはできない<ref name="Fan1994-12-2" />。 保安装置には[[自動列車停止装置#ATS-P|ATS-P]]と[[自動列車停止装置#ATS-SN|ATS-S{{Smaller|N}}]]を採用している<ref name="Fan1994-12-1" />。そのほかに東京地下トンネル区間用として[[自動列車制御装置#ATC-5|ATC-5]]を搭載していた<ref name="Fan1994-12-1" />が、同区間は[[2004年]]2月にATS-Pに切り換えられ、ATC装置は使用停止となっている。 なお、機器更新に伴い、2012年7月をもって落成時からのオリジナルのGTOサイリスタ[[半導体素子|素子]]を備える制御装置の車両は消滅した(更新後の制御装置は[[#機器更新|後述]])。<gallery> File:JR-EastE217-SC41B.jpg|SC41B形VVVFインバータ装置 File:JR-EastE217-SC37A.jpg|SC37A形静止形インバータ装置 </gallery> === グリーン車 === グリーン車は、従来どおり基本編成の4・5号車に組み込まれ、利用者数の増加と[[成田国際空港|成田空港]]アクセス需要(エアポート成田)への期待などから、2両とも2階建て車両とされた<ref group="注">新製時点で2両の両車が2階建て車両であるグリーン車を採用したのは[[JR東日本215系電車|215系]]に続く2例目であり、普通車が平屋である車両としては初の例である。</ref><ref name="Fan1994-12-2" />。車両は[[国鉄211系電車|211系]]の2階建てグリーン車の設計をベースとしているが、台車やドアチャイム設置などの車内設備は新系列車両に準じている<ref name="Fan1994-12-2" />。これらの設計は後に登場する首都圏の一般形車両の2階建てグリーン車にも採用されたほか、[[四国旅客鉄道]](JR四国)の[[JR四国5000系電車|5000系]]の2階建て車両(5100形)も当系列の5号車であるサロE217の設計をベースとしている。 座席には片持ち式のリクライニングシートが採用され、当初は2階席が紫色系の座席表地、1階席と平屋席が茶色系の座席表地とされた<ref name="Fan1994-12-2" /><ref name="Fan1994-12-3" />。一部車両の座席は、[[秋田新幹線]]建設工事に際して[[北上線]]経由で[[北上駅|北上]] - [[秋田駅|秋田]]間で運転された「[[たざわ (列車)|秋田リレー号]]」用の[[JR東日本キハ100系気動車#300番台|キハ110系300番台]]に使用されたものを再利用している。 横須賀線と総武快速線では、東海道線と共に2006年3月18日のダイヤ改正より[[Suica#グリーン車Suicaシステム|グリーン車Suicaシステム]]を導入した<ref name="JNL2006-7" />。それに先駆けて2005年度に全座席の上部に[[Suica]]をタッチ決済するための装置(R/W(リーダ/ライタ))が設置されている<ref name="JNL2006-7" />。2006年8月以降、グリーン車の座席を順次E231系に準じたものに交換している。ただし、座席の台座は流用されており、設備も背面テーブルのみと従来のE217系に準じたものとなっている。また、モケットもE231系と同色系のものを用いているが、デザインが多少異なるオリジナルのものが採用された。同時に階段などの手摺りも黄色に着色されたものに取り替えられた。 5号車の久里浜側の車端部には洋式トイレと[[洗面器#取付用洗面器|洗面所]]が設置されている<ref name="Fan1994-12-1" />。トイレは基本編成の普通車のトイレとは異なり、車イス非対応で扉は[[自動ドア|自動]]でないほか、[[三菱電機]]製の[[換気扇|天井埋め込み形換気扇]]が設置されている。この換気扇は洗面所にも設置されている。4号車では千葉側の車端部に乗務員室と業務用室([[グリーンアテンダント]]の準備室)を設置する<ref name="Fan1994-12-1" />。業務用室には[[車内販売]]に対応させるため[[冷蔵庫]]等が設置されている。 2次車では洗面所の色彩やデッキと平屋席の貫通扉のボタンの形状が変更されている<ref name="RF418-63" />。東海道線で女性グリーンアテンダントへの暴行事件が多発したため乗降口(デッキ)と4号車にある乗務員室・業務用室の前への[[監視カメラ|防犯カメラ]]の設置が進んでいる。 <gallery> ファイル:SaroE216 1.jpg|サロE216形 ファイル:SaroE217 1.jpg|サロE217形 ファイル:Series-E217 Green-car-2F.jpg|グリーン車の2階の車内 ファイル:Series-E217 Green-car-1F.jpg|グリーン車の1階の車内 ファイル:Series-E217 Green-car-End.jpg|グリーン車平屋席の車内 </gallery> === 113系との併結計画 === 本系列の落成時の量産先行車の基本編成第2編成(当初の東フナF-02編成→現在の横クラY-2編成)のクハE216-2002号車(ただし、トイレ設備の先頭車差し換えで現在は付属編成Y-142編成の久里浜方先頭車に移動)には113系と連結して運転をするための'''異車種併結読換装置'''を搭載した<ref name="Fan1994-12-1" />。これは将来的に113系と本系列を連結した運転を行うことを想定して試験的に搭載したものである<ref name="Fan1994-12-1" />。 この装置は *力行指令読み換え(VVVFインバータ - 抵抗制御間) *ブレーキ指令読み換え(電気指令ブレーキ - 電磁直通ブレーキ) *サービス関係指令読み換え(戸閉回路・連絡と放送回路・冷暖房制御・室内灯制御) から構成するものとなっている<ref name="Fan1994-12-1" />。 さらに制御伝送装置にも制御伝送読換装置を搭載するほか、113系との併結用にKE70形[[ジャンパ連結器]]を装備している<ref name="Fan1994-12-3" />。なお、113系を併結した場合は本系列の性能から113系に合わせた性能に切り換えられる<ref name="Fan1994-12-2" />。 実際に113系との併結試運転は行われ、現在も機器は搭載されているものの使用されていない<ref name="日向p69" />。 == 形式 == '''モハE217形''':千葉(東京)方中間電動車。本形式のみパンタグラフを搭載。 * 0番台:[[鉄道車両の座席#セミクロスシート|セミクロスシート]]車。基本編成の9号車(鎌倉・国府津)。 * 2000番台:[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]車。基本編成の3号車(鎌倉・国府津)、付属編成の増3号車(鎌倉)・13号車(国府津)。 '''モハE216形''':久里浜(熱海)方中間電動車。 * 1000番台:ロングシート車。基本編成の8号車(鎌倉・国府津)。モハE217形0番台とユニットを組む。 * 2000番台:ロングシート車。基本編成の2号車(鎌倉・国府津)、付属編成の増2号車(鎌倉)・12号車(国府津)。 '''クハE217形''':千葉(東京)方[[制御車]]。 * 0番台:セミクロスシート車。基本編成の11号車(鎌倉)・10号車(国府津)。国府津所属車両には[[連結器#電気連結器|電気連結器]]装備。トイレ設置(鎌倉・国府津)。 * 2000番台:ロングシート車。付属編成の増4号車(鎌倉)・15号車(国府津)。電気連結器装備。 '''クハE216形''':久里浜(熱海)方制御車。 * 1000番台:ロングシート車。一部を除く<ref group="注" name="TcE216-2022-2072">基本編成の1号車のトイレ設備の変更による組替。</ref>付属編成の増1号車(鎌倉)・11号車(国府津)。[[便器#和式大便器(和風大便器)|和式]]トイレ設置。国府津所属車両には電気連結器装備。 * 2000番台:ロングシート車。基本編成の1号車(鎌倉・国府津:車いす対応トイレ設置)、一部の付属編成<ref group="注" name="TcE216-2022-2072" />の増1号車(鎌倉:和式トイレ設置)。電気連結器装備。 '''サハE217形''':付随車。 * 0番台:セミクロスシート車。基本編成の10号車(鎌倉)、付属編成の14号車(国府津)。 * 2000番台:ロングシート車。基本編成の6・7号車(鎌倉・国府津)。 '''サロE217形'''(0番台):付随車。千葉(東京)方グリーン車。久里浜(熱海)方に洋式トイレ設置。 '''サロE216形'''(0番台):付随車。久里浜(熱海)方グリーン車。千葉(東京)方に乗務員室設置。 <gallery> ファイル:McE217.jpg|モハE217 ファイル:McE216.jpg|モハE216 ファイル:TcE217.jpg|クハE217 ファイル:TcE216.jpg|クハE216 ファイル:サハE217-.jpg|サハE217 </gallery> === 製造次車の分類について === 本項目では製造された順番に第01・02編成……と記載をする。なお、2006年3月の鎌倉車両センター発足と一部編成の国府津車両センター転属以降における編成表記(第・・編成)は現行の編成番号(Y……編成)と一致する。下記の次車分類は本文中に用語として用いる。 *例:第05編成は鎌倉車両センター基本Y-05編成と付属Y-105編成、第36編成は鎌倉車両センター基本Y-36編成と付属Y-136編成。 ただし、後述するトイレ設備に関する先頭車の差し換えにより、基本編成と付属編成のクハE216形2000番台は次車の異なる編成に組まれているものがある。 *1次車(1994年度製)基本・付属第01・02編成(30両) *:量産先行車<ref name="Fan2005-1" />。15両は1994年12月3日ダイヤ改正時の総武快速線の列車増発用、15両は113系老朽車取り替え用として製造された<ref name="Fan2005-1" />。当初は非常用[[ドアコック]]の使用方法などのステッカーが従来車と違ったものになっていた。 *2次車(1995年度製)基本・付属第03 - 12編成(150両) *:量産型 前面ステップ形状変更、車内の仕様を一部変更(前述)。床下蓄電池箱を軽量化した<ref name="PIC1996-10ex" />。 *:側面2か所の[[ドアコック|ドア解錠ハンドル]]に電気的に片側全扉の解錠機能を持たせることで、1次車では車端部妻面に設置していた一斉解錠ハンドルを廃止した<ref name="PIC1996-10ex" />。 *:第12編成以降東急車輛製普通車の側構体と屋根構体の接合方法変更、非常用ドアコックの蓋形状変更、幕板の溶接跡が目立たない工法に変更。 *3次車(1996年度製)基本・付属第13 - 21編成(135両) *:電動空気圧縮機の静音化、第18編成以降東急車輛製普通車のドアレールの水抜き穴の数を2つから1つに変更。 *4次車(1997年度製)基本・付属第22 - 25編成(60両) *:新津車両製作所製の車両が加わる(4次車すべて・2階建てグリーン車は東急車輛製造製)。基本編成のトイレ設備変更、車内案内表示器の仕様を一部変更。 *5次車(1997年度製)基本・付属第26 - 30編成(75両) *:第29編成以降川崎重工製普通車のドアレールの水抜き穴の数を2つから1つに変更。 *:4・5次車 135両のうち、90両は大船電車区に、45両が初めて幕張電車区に配置された<ref name="Fan2005-1" />。 *6次車(1998年度製前半)基本・付属第31 - 37編成(105両) *:汚物処理装置の仕様を若干変更。全編成が新津車両製作所製(2階建てグリーン車除く)。 *7次車(1998年度製後半)基本・付属第38 - 40編成(45両) *:前面貫通扉廃止・側面行先LED化、側窓構造変更、主電動機形式変更、東急車輛製普通車の冷房装置の車内側ユニットを川崎重工製と同一形状に変更。 *8次車(1999年度製)基本第41 - 51編成・付属第41 - 46編成(145両) *:クハ217-2000の[[速度計]]をATC非対応のものに変更、ドア上部の点検フタの手かけ廃止。全編成が新津車両製作所製(2階建てグリーン車除く)。 引き続いて、国府津電車区(現・[[国府津車両センター]])配置の東海道線の113系置き換え用として本系列の投入が検討されたが<ref name="Fan2005-1" />、[[JR東日本E231系電車|E231系]]の投入計画が浮上したため、実現しなかった<ref name="Fan2005-1" />。ただし、後述する東海道線への転用があり、湘南色の本系列が実現した<ref name="Fan2005-1" />。 <gallery> ファイル:JR East E217 Y-1.jpg|1次車,量産先行車。前面下部のステップの形状が異なる。 ファイル:E217-Step1.jpg|2-6次車までは貫通扉が設置されている。 ファイル:E217-Step2.jpg|7-8次車。貫通扉が廃止されたため、ステップ上のドアレールが存在しない。 </gallery> == 改造 == 2007年度より制御装置などの機器類の更新と二重化、自動放送機能および客用扉の「[[ドアカット|3/4閉]]」スイッチを整備することが、2006年[[12月5日]]付のJR東日本のプレスリリースで発表された。 === 機器更新 === {{Sound|E217 Update Accelerate.ogg|更新車のモーターの磁励音}} 本系列も[[2007年]]時点で初期車の製造から13年が経過したため、電子機器の劣化を考慮して[[日本の鉄道車両検査|車体保全]](走行距離 240万キロメートル以内に実施する定期検査)に合わせて主要な機器類について装置一式を更新することとなった。この更新工事は2007年度から開始した<ref name="RP2008-10ex" />。施工は[[東京総合車両センター]]で実施され、[[2012年]]7月をもって全編成の更新が完了した。 施工内容は以下のとおりである。 *VVVFインバータ制御装置 **従来の[[GTOサイリスタ]]を用いたSC41B形から[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子を使用したSC88形<ref name="JRR 2022s 79" />に更新。 *補助電源装置(静止形インバータ) **従来の[[GTOサイリスタ]]を用いたSC37A形から[[IGBT]]素子を使用したSC89形<ref name="JRR 2022s 79" />に更新。[[E233系]]などで採用している待機2重系のシステムである。 *ATS-P制御装置の更新 *ブレーキ制御装置の更新 *制御伝送装置のハードウェアとソフトウェアを更新し、MON8形からMON19形にバージョンアップを行った。 *電気式戸閉装置の更新 その他、スカートを強化型のものに変更し、ラインカラーの[[青15号]]部分が[[青20号]]に変更され、窓上の帯が元の三段帯から二段帯に変更された。あわせて前面の「E217」ロゴを撤去し、E233系と同じスタイルのJRロゴと「EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」表記に改めている(写真参照)。 この機器更新の際、鎌倉車両センターに配置されている予備編成が不足することから、[[JR東日本E233系電車|E233系3000番台]]基本10両 + 付属5両編成1本を国府津車両センターに配置し、捻出された1本(F-02 + F-52編成)は制御装置の更新を施工した上で鎌倉車両センターに再配置した<ref name="RJ496-105" />。その後F-01 + F-51編成も鎌倉車両センターへ再配置される際に機器更新が行われたが、F-03 + F-53編成は東海道線仕様のまま機器更新工事が実施された<ref name="railf_20120223" />。 付属編成は2012年1月25日に更新をしたF-53(現Y-103)編成を以って完了した<ref name="2013Winter" />。基本編成はY-21編成が2012年7月31日付で更新を完了したことに伴い、本系列の機器更新工事は完了した<ref name="2013Winter" />。 全編成更新完了までの時期には暫定的な更新車も存在しており、機器やスカートが更新されていても塗装・ロゴが未更新であったり、塗装・ロゴとスカートが更新されているのに機器は未更新だったりとそれぞれの更新・未更新の組み合わせもバラバラであった。 <gallery> ファイル:JR East E217-2.JPG|機器が更新されたE217系(前4両)。前面のロゴや塗装も変更されているが、スカートは未更新である。後方の11両基本編成は未更新塗装。 ファイル:JRE E217new old.JPG|機器および帯色が更新された車両(左)と未更新の車両(右)の比較。しかしこのどちらもスカートは未更新。 ファイル:転落防止幌.jpg|転落防止幌の帯色は現在も旧塗色のままである。 ファイル:E217 SC89.jpg|機器更新後のSC88形VVVFインバータ装置 ファイル:E217 CS88.jpg|機器更新後の待機2重系SC89形静止形インバータ装置 ファイル:JR-EastE217-ATS-P.jpg|使用停止中のATC装置(左)と更新後のATS-P制御装置 </gallery> === その他 === [[File:E217 doorcut.JPG|thumb|E217系の3/4閉スイッチを使用したドアカット]] *一部の編成では「3/4閉」スイッチの設置が施工されている。また、2007年末から自動放送装置の設置工事が行われている<ref name="railf_20080206" />。[[ファイル:無線連携電源部とか.jpg|サムネイル|無線連携電源部とホームドア分離出発スイッチ(赤枠線内)]]制御装置の更新と並行して、走行中の車内案内表示器の表示内容を順次変更している。 * 2009年 - 2010年内に、全先頭車の前面排障器(スカート)を強化型のものへ交換した<ref name="2013Winter" />。 * 2008年度より、グリーン車の各出入口と業務用室前への防犯カメラが取り付けられた<ref name="RP943-68" />。 *総武快速線新小岩駅への無線連携式ホームドア設置に関連して、本車両に無線連携UHF受信部・LFアンテナ・分離開扉スイッチ・分離出発スイッチ・記録部・継電器部の取り付けが行われるとともに、これら装置の取り付けに際し支障した非常はしごの取り換えが行われた<ref name="日向p69" />。 == 運用 == === 横須賀線・総武快速線 === [[ファイル:Jre E217Y.jpg|サムネイル|機器更新前のE217系]] [[File:Series-E217-Y36.jpg|thumb|総武快速線を走行するE217系]] 1994年より[[横須賀線]]・[[横須賀・総武快速線|総武快速線]]用に投入された編成は、グリーン車を含む11両の基本編成と4両の付属編成で構成される。基本編成の[[動力車|電動車]]と[[付随車]]の比率([[MT比]])は 4M7T、付属編成のMT比は 2M2T である。帯色は「'''[[横須賀線#車両の色|横須賀色]]'''('''スカ色''')」を継承した、[[クリーム1号]]{{Color|#D6BC96|■}}と[[青20号]]{{Color|#003F6C|■}}(機器更新前は[[青15号]]{{Color|#234059|■}})の組み合わせである。 横須賀線・総武快速線の編成は、113系時代より東海道本線とは異なり基本編成が東京方・付属編成が久里浜方となっている。これは分割・併結を行う[[逗子駅]]の構内配線の都合によるものである。 2022年10月1日現在<ref name="JRR 2023w 80" />、[[鎌倉車両センター]]に基本編成33本(363両)と付属編成33本(132両)の計495両が配置されている。以前は同所と幕張車両センターに分散配置されていたが、2006年[[3月18日]]改正で鎌倉に集約された。これに伴い編成番号表記も従来の「F-○○」(鎌倉)「R-○○」(幕張)から「Y-○○」に変更された。なお、幕張での車両留置は引き続き行われている。 運用区間は横須賀線・総武快速線を中心とするが、[[総武本線]][[千葉駅|千葉]] - [[成東駅|成東]]間、[[成田線]][[佐倉駅|佐倉]] - [[成田空港駅|成田空港]]・[[香取駅|香取]]間<ref group="注">ただし[[成田駅|成田]] - 香取間は付属編成のみ入線する。</ref>、[[鹿島線]]香取 - [[鹿島神宮駅|鹿島神宮]]間<ref group="注">付属編成のみ入線する。</ref>、[[内房線]][[蘇我駅|蘇我]] - [[君津駅|君津]]間<ref group="注">かつては平日に付属編成のみ[[館山駅|館山]]までの直通も存在した。詳細は[[横須賀・総武快速線#特別快速(東京駅 - 館山駅間)|こちら]]を参照。</ref>、[[外房線]]千葉 - [[上総一ノ宮駅|上総一ノ宮]]間<ref group="注">かつては[[大原駅 (千葉県)|大原]]・[[勝浦駅|勝浦]]までの直通も存在した。</ref>にも入線する。 [[1999年]](平成11年)[[10月19日]]より総武快速線[[錦糸町駅|錦糸町]] - 千葉間で、[[2004年]](平成16年)[[10月16日]]のダイヤ改正より横須賀線[[西大井駅|西大井]] - [[大船駅|大船]]間でそれぞれ最高速度 120{{nbsp}}km/h での運転を開始した。 以前は付属編成が夜間帯に総武本線千葉 - 成東間の[[普通列車]]に[[間合い運用]]として入っていた時期もあったが、下り列車の混雑が非常に激しかったため、113系6両編成に置き換えられた。これ以降、一部の分割併合列車を除き房総各線のローカル列車に付属編成が単独では使用されなくなった。 [[2001年]](平成13年)[[12月1日]]改正から2004年10月16日改正までは、[[JR東日本215系電車|215系]]とともに、[[湘南新宿ライン]]の横須賀線 - [[新宿駅|新宿]]折り返し運用も存在した。前面種別幕は、新宿行き列車では「普通」と表示された。 ==== 置き換え ==== JR東日本は2018年(平成30年)9月、2020年(令和2年)度より横須賀・総武快速線に[[JR東日本E235系電車|E235系電車]]を導入すると発表し<ref group="JR東" name="jreast/press/20180902" />、2020年(令和2年)12月21日より営業運転を開始している。これに伴い本系列は順次置き換えが開始されている。 2020年4月1日時点では鎌倉車両センターに基本編成51本(561両)と付属編成46本(184両)の計745両が配置されていた<ref name="JRR 2020s 88" />が、2020年12月より運用離脱した編成の疎開が順次開始され<ref group="注">疎開先は[[東京総合車両センター#田町派出所|東京総合車両センター田町派出所]]、横須賀線[[横須賀駅]]構内、東海道線[[湯河原駅]]構内が主に使用されている。</ref><ref name="Rail Magazin 447" />、2021年(令和3年)1月5日にY-44編成が[[長野総合車両センター]]へ回送され<ref name="Rail Magazin 447" />、同年1月9日付で廃車となった<ref name="JRR 2021s 358" />。その後も順次廃車が進んでいる<ref name="JRR 2022w 358" /><ref name="JRR 2022s 358" /><ref name="JRR 2023w 358" /><ref name="JRR 2023s 359" /><ref name="JRR 2024w 358"/>。 ===== 海外譲渡を巡る動き ===== 運用離脱した編成については先述のように順次廃車されているが、2023年3月に[[CNN]]インドネシアが報じたところによると、[[インドネシア]]・[[ジャカルタ]]の鉄道会社である[[KRLコミューターライン|PT Kereta Commuter Indonesia]](PT KCI)が、老朽化した既存形式の置き換えと輸送力の増強のため本系列348両の譲渡を受けるべく、2022年9月13日付けでインドネシア政府に輸入許可を申請している。許可が得られた場合、2023年から2024年にかけて順次譲渡を受ける計画であるという。譲渡を希望する理由としては、インドネシアの車両メーカーである[[インダストリ・クレタ・アピ]](PT INKA)に発注している新車の生産ペースでは、計画している既存形式の置き換えと輸送力の増強が間に合わないためとしている<ref>[https://www.cnnindonesia.com/ekonomi/20230303120048-92-920287/isi-surat-kci-ke-kemendag-soal-impor-krl-bekas-jepang-usia-28-tahun Isi Surat KCI ke Kemendag Soal Impor KRL Bekas Jepang Usia 28 Tahun] - CNN Indonesia(2023年3月3日)、2023年3月3日閲覧</ref>。ただ、インドネシア政府はPT KCIによる輸入申請を拒否し、PT INKAの製造する新車だけで要求を満たせると主張しているため、実際に譲渡が実現するかどうかは不透明である<ref>[https://www.cnnindonesia.com/ekonomi/20230302082911-92-919704/alasan-kemenperin-tolak-beri-rekomendasi-izin-impor-krl-bekas-jepang Alasan Kemenperin Tolak Beri Rekomendasi Izin Impor KRL Bekas Jepang] - CNN Indonesia(2023年3月2日)、2023年3月3日閲覧</ref>。その後、同年6月22日にインドネシア政府のルフット・ビンサル・パンジャイタン海事投資担当調整大臣はPT KCIのE217系輸入申請を却下し、代わりにPT INKAによる新車が納入可能となる2025年までの間、引退する既存車両の代替となる「新製車両」の輸入を許可するとの見解を示した<ref>[https://www.cnnindonesia.com/ekonomi/20230622132413-92-965260/berpotensi-langgar-3-aturan-luhut-tolak-impor-krl-bekas-dari-jepang Berpotensi Langgar 3 Aturan, Luhut Tolak Impor KRL Bekas dari Jepang] CNN Indonesia(2023年6月22日)、2023年6月23日閲覧</ref>。 === 東海道線 === [[File:Jre E217F.jpg|thumb|250px|E217系湘南色]] 2004年10月16日のダイヤ改正で朝[[ラッシュ時]]の湘南新宿ライン増発による横須賀線運転本数の削減と湘南新宿ラインの運用がE231系へ統一されたことにより、運用数に対して余剰車が発生した。このため、鎌倉車両センター所属のE217系のうち、初期に製造された基本編成のF-01 - F-03編成と付属編成のF-51 - F-53編成の15両編成3本(45両)が東海道線と[[伊東線]]で運用されていた113系の置き換えのために国府津車両センターへ転属し、2006年3月18日のダイヤ改正より運転を開始した。 転属に際して[[東京総合車両センター]]において改造が行われ、211系やE231系と同じく[[熱海駅|熱海]]方に基本編成10両、[[東京駅|東京]]方に付属編成5両の構成に組み替えられた。当初は基本編成の7号車(ロングシート車)を付属編成に移動する予定であったが、混雑率の偏りを避けるため、セミクロスシート設置の旧10号車が付属編成へ移動した。 帯色はE231系と同じ新[[湘南電車#湘南色|湘南色]]となった。車体側面のJRマークは横須賀線・総武快速線時代と同じ[[戸袋]]部に存置され、先頭車の正面にある「E217」ロゴも残されたが、その左にあった横須賀色の帯色ロゴは撤去された。 2006年3月改正時点では、1本が終日にわたって運用される以外はラッシュ時間帯のみの運用で、昼間の時間帯の充当列車は少なかったが、翌2007年3月改正時に運用が一部変更され、昼間の充当列車の本数が若干増加した。快速「アクティー」での運行は下り2本、上り1本が設定された。 運行区間は、半自動ドア装置などの寒冷地装備がないため湘南新宿ラインへの運用はなく、終日15両編成で運用されたため、[[東海旅客鉄道|JR東海]]管内(熱海駅以西および[[御殿場線]])や[[伊東線]]への直通運用もなく、運用区間が東京 - 熱海(非営業の[[回送]]では[[来宮駅|来宮]]まで)間に限定され、運転室の[[鉄道車両のモニタ装置|モニタ装置]]筐体には『この車両は東京⇔熱海(来宮)間限定運用です』と表記されていた。また、E231系やE233系と異なり、車内自動放送は中止された。 その後、2008年にF-02 + F-52編成が鎌倉車両センター所属車両の更新工事施工による車両不足を補うため、2010年度にはF-01 + F-51編成が横須賀線[[武蔵小杉駅]]開業に伴う同線の輸送力増強のため、それぞれ鎌倉車両センターへ出戻っており、これらの穴埋めとしてE233系3000番台が国府津車両センターへ導入されている。その後、2012年11月・12月にF-02 + F-52編成が再度、鎌倉車両センターから国府津車両センターに転属した<ref name="DJ2013-3" />。 運用は固定されており、基本編成と付属編成を常時連結した15両編成で終日運行された<ref group="注">運用開始から2013年3月16日のダイヤ改正までの間は、国府津車両センター生え抜きのE233系と共通運用となっていた。</ref>。予備編成を持たないため、検査などで編成不足が生じた際にはE231系やE233系が代走する。また、付属編成が検査に入った場合は、E231系の基本編成(10両)単独の運用(平日朝1往復のみ)に入ることがあった。 行先表示器はF-52編成のみ転用改造時にLED式に変更され、それ以外の編成は従来通り字幕式となっていたが、2007年6月までに全編成がLED式となった。東海道線用として新たに作成された字幕表示の書体は、横須賀線・総武快速線用と同様のゴナではなく、漢字部分のみが113系や211系と同じ旧国鉄書体となった。また、非常用ドアコックなどの使用方法のステッカーが他編成や209系などと同じタイプのものに貼り替えられた。前面種別幕は、普通列車では黒地に白文字で「普通」(小田原・熱海方面行き)または「東海道線」(東京行き)、快速「アクティー」と通勤快速では黒地に赤文字で表示された。 2007年[[7月9日]]から同年[[9月30日]]まで、横浜 - 国府津間開業120周年記念ステッカーが先頭車の前面中央に貼付された。このステッカーは、編成ごとにデザインが異なっていた。 2009年4月中旬から2010年3月上旬まで、「東海道線全通120周年 - 新橋・神戸間 - 」記念としてE233系3000番台とともに基本編成1号車・付属編成15号車前面に[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]が装着された。デザインは1種類のみであった<ref name="railf_20090419" />。 2015年3月14日のダイヤ改正で、本系列の東海道線での運用は終了した<ref name="mynavi_20150319" />。2015年3月にF-03 + F-53編成が<ref name="JRR_2015S" />、同年4・5月にF-02 + F-52編成が<ref name="JRR_2016W" />、それぞれ国府津車両センターから鎌倉車両センターへ再転属し、全車両が鎌倉車両センターに集約された。 == 編成表 == === 横須賀線・総武快速線 === * 鎌倉車両センター所属 * 基本編成と付属編成を併結し15両編成で運転する場合、久里浜方に付属編成、千葉方に基本編成を配置する。 {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;" |- |colspan="3" style="background:#ccc;"|&nbsp; |colspan="11"|{{TrainDirection|成田空港・成東・鹿島神宮・君津・上総一ノ宮・千葉|久里浜}} |-style="border-top:solid 5px #0066bb;" |colspan="15"| |-style="border-top:solid 3px #e0c37b;" !rowspan="12"|横須賀線・<br />総武快速線 !rowspan="6"|基本編成<br />(11両編成) !号車 |11||10||9◇||8||7||6||5||4||3◇||2||1 |- !車種構成 |クハE217<br />-0 |サハE217<br />-0 |モハE217<br />-0 |モハE216<br />-1000 |サハE217<br />-2000 |サハE217<br />-2000 |style="background-color:#cf9"|サロE217<br />-0 |style="background-color:#cf9"|サロE216<br />-0 |モハE217<br />-2000 |モハE216<br />-2000 |クハE216<br />-2000 |- !座席 |colspan=3|セミクロス||colspan=3|ロング||colspan=2|グリーン車||colspan=3|ロング |- !搭載機器 |||||VVVF||SIV,CP||||||||||VVVF||SIV,CP|| |- !車両重量 ([[トン|t]]) |25.9||22.6||28.9||29.0||22.1||22.1||35.4||34.5||28.4||29.0||26.8 |- !その他設備 |(電連)<ref group="備" name="電連">クハE216形2000番台は全車に落成時から装備。クハE217形0番台とクハE216形1000番台は一部車両に後付で装備。</ref><br/>和式トイレ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||洋式トイレ||乗務員室||&nbsp;||&nbsp;||電連<br>[車]トイレ |-style="border-top:solid 3px #999;" !rowspan="6"|付属編成<br />(4両編成) !号車 |増4||増3◇||増2||増1 |style="background:#ddd;" rowspan="6" colspan="7"|&nbsp; |- !車種構成 |クハE217<br />-2000 |モハE217<br />-2000 |モハE216<br />-2000 |クハE216<br />-1000<ref group="備">一部の編成では2000番台(電気連結器装備、和式トイレ設置、質量25.9t)が組み込まれている。</ref> |- !座席 |colspan=4|ロング |- !搭載機器 |||VVVF||SIV,CP|| |- !車両重量 ([[トン|t]]) |25.4||28.4||29.0||25.4<ref group="備">クハE216形1000番台の質量。</ref> |- !その他設備 |電連||&nbsp;||&nbsp;||(電連)<ref group="備" name="電連"/><br>和式トイレ |} ;備考 {{Reflist|group="備"}} <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">編成表(E217系基本編成)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成番号 !クハE217 !サハE217 !モハE217 !モハE216 !サハE217 !サハE217 !サロE217 !サロE216 !モハE217 !モハE216 !クハE216 !出典 !廃車 |- !Y-1<br />(旧:F-01) |1||1||1||1001||2001||2002||style="background-color:#cf9"|1||style="background-color:#cf9"|1||2001||2001||2061 |rowspan="51"|<ref name="RF720-38" />||2022.10.20<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-2<br />(旧:F-02) |2||2||2||1002||2003||2004||style="background-color:#cf9"|2||style="background-color:#cf9"|2||2003||2003||2063||2023.9.13<ref name="JRR 2024w 358"/> |- !Y-3<br />(旧:F-03) |3||3||3||1003||2005||2006||style="background-color:#cf9"|3||style="background-color:#cf9"|3||2005||2005||2023||2022.6.16<ref name="JRR 2023w 358" /> |- !Y-4<br />(旧:F-04) |4||4||4||1004||2007||2008||style="background-color:#cf9"|4||style="background-color:#cf9"|4||2007||2007||2025||2022.11.12<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-5<br />(旧:F-05) |5||5||5||1005||2009||2010||style="background-color:#cf9"|5||style="background-color:#cf9"|5||2009||2009||2027||2023.4.4<ref name="JRR 2024w 358"/> |- !Y-6<br />(旧:F-06) |6||6||6||1006||2011||2012||style="background-color:#cf9"|6||style="background-color:#cf9"|6||2011||2011||2029||2022.9.15<ref name="JRR 2023w 358" /> |- !Y-7<br />(旧:F-07) |7||7||7||1007||2013||2014||style="background-color:#cf9"|7||style="background-color:#cf9"|7||2013||2013||2031||2022.11.23<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-8<br />(旧:F-08) |8||8||8||1008||2015||2016||style="background-color:#cf9"|8||style="background-color:#cf9"|8||2015||2015||2033|| |- !Y-9<br />(旧:F-09) |9||9||9||1009||2017||2018||style="background-color:#cf9"|9||style="background-color:#cf9"|9||2017||2017||2035||2021.10.14<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-10<br />(旧:F-10) |10||10||10||1010||2019||2020||style="background-color:#cf9"|10||style="background-color:#cf9"|10||2019||2019||2037||2022.1.20<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-11<br />(旧:F-11) |11||11||11||1011||2021||2022||style="background-color:#cf9"|11||style="background-color:#cf9"|11||2021||2021||2039||2022.2.17<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-12<br />(旧:F-12) |12||12||12||1012||2023||2024||style="background-color:#cf9"|12||style="background-color:#cf9"|12||2023||2023||2041||2022.9.1<ref name="JRR 2023w 358" /> |- !Y-13<br />(旧:F-13) |13||13||13||1013||2025||2026||style="background-color:#cf9"|13||style="background-color:#cf9"|13||2025||2025||2043||2022.3.10<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-14<br />(旧:F-14) |14||14||14||1014||2027||2028||style="background-color:#cf9"|14||style="background-color:#cf9"|14||2027||2027||2045|| |- !Y-15<br />(旧:F-15) |15||15||15||1015||2029||2030||style="background-color:#cf9"|15||style="background-color:#cf9"|15||2029||2029||2047|| |- !Y-16<br />(旧:F-16) |16||16||16||1016||2031||2032||style="background-color:#cf9"|16||style="background-color:#cf9"|16||2031||2031||2049||2022.5.12<ref name="JRR 2023w 358" /> |- !Y-17<br />(旧:F-17) |17||17||17||1017||2033||2034||style="background-color:#cf9"|17||style="background-color:#cf9"|17||2033||2033||2051||2022.9.2<ref name="JRR 2023w 358" /> |- !Y-18<br />(旧:F-18) |18||18||18||1018||2035||2036||style="background-color:#cf9"|18||style="background-color:#cf9"|18||2035||2035||2053||2023.11.9 |- !Y-19<br />(旧:F-19) |19||19||19||1019||2037||2038||style="background-color:#cf9"|19||style="background-color:#cf9"|19||2037||2037||2055|| |- !Y-20<br />(旧:F-20) |20||20||20||1020||2039||2040||style="background-color:#cf9"|20||style="background-color:#cf9"|20||2039||2039||2057||2023.10.19 |- !Y-21<br />(旧:F-21) |21||21||21||1021||2041||2042||style="background-color:#cf9"|21||style="background-color:#cf9"|21||2041||2041||2059|| |- !Y-22<br />(旧:F-22) |22||22||22||1022||2043||2044||style="background-color:#cf9"|22||style="background-color:#cf9"|22||2043||2043||2022|| |- !Y-23<br />(旧:F-23) |23||23||23||1023||2045||2046||style="background-color:#cf9"|23||style="background-color:#cf9"|23||2045||2045||2024|| |- !Y-24<br />(旧:F-24) |24||24||24||1024||2047||2048||style="background-color:#cf9"|24||style="background-color:#cf9"|24||2047||2047||2026|| |- !Y-25<br />(旧:F-25) |25||25||25||1025||2049||2050||style="background-color:#cf9"|25||style="background-color:#cf9"|25||2049||2049||2028||2021.12.9<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-26<br />(旧:F-26) |26||26||26||1026||2051||2052||style="background-color:#cf9"|26||style="background-color:#cf9"|26||2051||2051||2030|| |- !Y-27<br />(旧:F-27) |27||27||27||1027||2053||2054||style="background-color:#cf9"|27||style="background-color:#cf9"|27||2053||2053||2032|| |- !Y-28<br />(旧:R-01) |28||28||28||1028||2055||2056||style="background-color:#cf9"|28||style="background-color:#cf9"|28||2055||2055||2034|| |- !Y-29<br />(旧:R-02) |29||29||29||1029||2057||2058||style="background-color:#cf9"|29||style="background-color:#cf9"|29||2057||2057||2036|| |- !Y-30<br />(旧:R-03) |30||30||30||1030||2059||2060||style="background-color:#cf9"|30||style="background-color:#cf9"|30||2059||2059||2038|| |- !Y-31<br />(旧:F-28) |31||31||31||1031||2061||2062||style="background-color:#cf9"|31||style="background-color:#cf9"|31||2061||2061||2040|| |- !Y-32<br />(旧:F-29) |32||32||32||1032||2063||2064||style="background-color:#cf9"|32||style="background-color:#cf9"|32||2063||2063||2042|| |- !Y-33<br />(旧:F-30) |33||33||33||1033||2065||2066||style="background-color:#cf9"|33||style="background-color:#cf9"|33||2065||2065||2044|| |- !Y-34<br />(旧:F-31) |34||34||34||1034||2067||2068||style="background-color:#cf9"|34||style="background-color:#cf9"|34||2067||2067||2046|| |- !Y-35<br />(旧:F-32) |35||35||35||1035||2069||2070||style="background-color:#cf9"|35||style="background-color:#cf9"|35||2069||2069||2048|| |- !Y-36<br />(旧:F-33) |36||36||36||1036||2071||2072||style="background-color:#cf9"|36||style="background-color:#cf9"|36||2071||2071||2050||2023.8.9<ref name="JRR 2024w 358"/> |- !Y-37<br />(旧:F-34) |37||37||37||1037||2073||2074||style="background-color:#cf9"|37||style="background-color:#cf9"|37||2073||2073||2052|| |- !Y-38<br />(旧:R-04) |38||38||38||1038||2075||2076||style="background-color:#cf9"|38||style="background-color:#cf9"|38||2075||2075||2054|| |- !Y-39<br />(旧:R-05) |39||39||39||1039||2077||2078||style="background-color:#cf9"|39||style="background-color:#cf9"|39||2077||2077||2056|| |- !Y-40<br />(旧:R-06) |40||40||40||1040||2079||2080||style="background-color:#cf9"|40||style="background-color:#cf9"|40||2079||2079||2058|| |- !Y-41<br />(旧:R-07) |41||41||41||1041||2081||2082||style="background-color:#cf9"|41||style="background-color:#cf9"|41||2081||2081||2060|| |- !Y-42<br />(旧:R-08) |42||42||42||1042||2083||2084||style="background-color:#cf9"|42||style="background-color:#cf9"|42||2083||2083||2062|| |- !Y-43<br />(旧:R-09) |43||43||43||1043||2085||2086||style="background-color:#cf9"|43||style="background-color:#cf9"|43||2085||2085||2064||2021.4.8<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-44<br />(旧:R-10) |44||44||44||1044||2087||2088||style="background-color:#cf9"|44||style="background-color:#cf9"|44||2087||2087||2065||2021.1.9<ref name="JRR 2021s 358" /> |- !Y-45<br />(旧:R-11) |45||45||45||1045||2089||2090||style="background-color:#cf9"|45||style="background-color:#cf9"|45||2089||2089||2066||2021.4.29<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-46<br />(旧:R-12) |46||46||46||1046||2091||2092||style="background-color:#cf9"|46||style="background-color:#cf9"|46||2091||2091||2067|| |- !Y-47<br />(旧:R-13) |47||47||47||1047||2093||2094||style="background-color:#cf9"|47||style="background-color:#cf9"|47||2093||2093||2068||2021.9.2<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-48<br />(旧:R-14) |48||48||48||1048||2095||2096||style="background-color:#cf9"|48||style="background-color:#cf9"|48||2094||2094||2069||2021.2.5<ref name="JRR 2021s 358" /> |- !Y-49<br />(旧:R-15) |49||49||49||1049||2097||2098||style="background-color:#cf9"|49||style="background-color:#cf9"|49||2095||2095||2070||2021.3.4<ref name="JRR 2021s 358" /> |- !Y-50<br />(旧:R-16) |50||50||50||1050||2099||2100||style="background-color:#cf9"|50||style="background-color:#cf9"|50||2096||2096||2071||2021.11.18<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-51<br />(旧:R-17) |51||51||51||1051||2101||2102||style="background-color:#cf9"|51||style="background-color:#cf9"|51||2097||2097||2072||2021.8.26<ref name="JRR 2022w 358" /> |}</div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">編成表(E217系付属編成)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成番号 !クハE217 !モハE217 !モハE216 !クハE216 !出典 !廃車 |- !Y-101<br />(旧:F-51) |2001||2002||2002||1001 |rowspan="46"|<ref name="RF720-40" />|| |- !Y-102<br />(旧:F-52) |2002||2004||2004||1002|| |- !Y-103<br />(旧:F-53) |2003||2006||2006||1003|| |- !Y-104<br />(旧:F-54) |2004||2008||2008||1004|| |- !Y-105<br />(旧:F-55) |2005||2010||2010||1005||2021.1.22<ref name="JRR 2021s 358" /> |- !Y-106<br />(旧:F-56) |2006||2012||2012||1006|| |- !Y-107<br />(旧:F-57) |2007||2014||2014||1007||2021.1.22<ref name="JRR 2021s 358" /> |- !Y-108<br />(旧:F-58) |2008||2016||2016||1008|| |- !Y-109<br />(旧:F-59) |2009||2018||2018||1009|| |- !Y-110<br />(旧:F-60) |2010||2020||2020||1010|| |- !Y-111<br />(旧:F-61) |2011||2022||2022||1011||2021.4.2<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-112<br />(旧:F-62) |2012||2024||2024||1012||2023.9.27<ref name="JRR 2024w 358"/> |- !Y-113<br />(旧:F-63) |2013||2026||2026||1013|| |- !Y-114<br />(旧:F-64) |2014||2028||2028||1014||2021.10.7<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-115<br />(旧:F-65) |2015||2030||2030||1015||2021.9.16<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-116<br />(旧:F-66) |2016||2032||2032||1016|| |- !Y-117<br />(旧:F-67) |2017||2034||2034||1017|| |- !Y-118<br />(旧:F-68) |2018||2036||2036||1018||2022.10.20<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-119<br />(旧:F-69) |2019||2038||2038||1019||2023.3.18(増1,2号車のみ)<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-120<br />(旧:F-70) |2020||2040||2040||1020|| |- !Y-121<br />(旧:F-71) |2021||2042||2042||1021||2022.2.10<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-122<br />(旧:F-72) |2022||2044||2044||2003|| |- !Y-123<br />(旧:F-73) |2023||2046||2046||2004||2021.10.7<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-124<br />(旧:F-74) |2024||2048||2048||2005||2021.11.26<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-125<br />(旧:F-75) |2025||2050||2050||2006||2021.9.16<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-126<br />(旧:F-76) |2026||2052||2052||2007||2021.5.27<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-127<br />(旧:F-77) |2027||2054||2054||2008||2021.11.26<ref name="JRR 2022s 358" /> |- !Y-128<br />(旧:R-31) |2028||2056||2056||2009|| |- !Y-129<br />(旧:R-32) |2029||2058||2058||2010|| |- !Y-130<br />(旧:R-33) |2030||2060||2060||2011|| |- !Y-131<br />(旧:F-78→R-43) |2031||2062||2062||2012|| |- !Y-132<br />(旧:F-79→R-44) |2032||2064||2064||2013|| |- !Y-133<br />(旧:F-80→R-45) |2033||2066||2066||2014|| |- !Y-134<br />(旧:F-81→R-46) |2034||2068||2068||2015|| |- !Y-135<br />(旧:F-82→F-78) |2035||2070||2070||2016||2021.4.2<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-136<br />(旧:F-83→F-79) |2036||2072||2072||2017||2023.9.27<ref name="JRR 2024w 358"/> |- !Y-137<br />(旧:F-84→F-80) |2037||2074||2074||2018||2021.5.27<ref name="JRR 2022w 358" /> |- !Y-138<br />(旧:R-34) |2038||2076||2076||2019|| |- !Y-139<br />(旧:R-35) |2039||2078||2078||2020||2023.10.14 |- !Y-140<br />(旧:R-36) |2040||2080||2080||2021|| |- !Y-141<br />(旧:R-37) |2041||2082||2082||2001|| |- !Y-142<br />(旧:R-38) |2042||2084||2084||2002||2023.10.24 |- !Y-143<br />(旧:R-39) |2043||2086||2086||1022||2023.2.9<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-144<br />(旧:R-40) |2044||2088||2088||1023||2022.12.21<ref name="JRR 2023s 359" /> |- !Y-145<br />(旧:R-41) |2045||2090||2090||1024|| |- !Y-146<br />(旧:R-42) |2046||2092||2092||1025|| |}</div></div> === 東海道線 === * 2015年3月に運用を終了している。 * 国府津車両センターに所属していた。 * 基本編成と付属編成を併結し15両編成で運転する場合、熱海方に基本編成、東京方に付属編成を配置していた。 {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;" |- |colspan="3" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="10"|{{TrainDirection|東京|熱海}} |-style="border-top:solid 3px #fc0;" |colspan="15"| |-style="border-top:solid 5px #6c0;" !rowspan="10"|東海道線 !rowspan="5"|基本編成<br />(10両編成) !号車 |10||9◇||8||7||6||5||4||3◇||2||1 |- !車種構成 |クハE217<br />-0 |モハE217<br />-0 |モハE216<br />-1000 |サハE217<br />-2000 |サハE217<br />-2000 |style="background-color:#cf9"|サロE217<br />-0 |style="background-color:#cf9"|サロE216<br />-0 |モハE217<br />-2000 |モハE216<br />-2000 |クハE216<br />-2000 |- !座席 |colspan=2|セミクロス||colspan=3|ロング||colspan=2|グリーン車||colspan=3|ロング |- !搭載機器 |||VVVF||SIV,CP||||||||||VVVF||SIV,CP|| |- !その他設備 |電連<br />和式トイレ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||洋式トイレ||乗務員室||&nbsp;||&nbsp;||電連<br />[車]トイレ |-style="border-top:solid 3px #999;" !rowspan="5"|付属編成<br />(5両編成) !号車 |15||14||13◇||12||11 |rowspan="5" colspan="5" style="background:#ddd;"|&nbsp; |- !車種構成 |クハE217<br />-2000 |サハE217<br />-0 |モハE217<br />-2000 |モハE216<br />-2000 |クハE216<br />-1000 |- !座席 |ロング||セミクロス||colspan=3|ロング |- !搭載機器 |||||VVVF||SIV,CP|| |- !その他設備 |電連||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||電連<br />和式トイレ |} <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">編成表(E217系基本編成)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成番号 !クハE217 !モハE217 !モハE216 !サハE217 !サハE217 !サロE217 !サロE216 !モハE217 !モハE216 !クハE216 !出典 |- !F-01 |1||1||1001||2001||2002||style="background-color:#cf9"|1||style="background-color:#cf9"|1||2001||2001||2061 |rowspan="3"|<ref name="RF720-41" /> |- !F-02 |2||2||1002||2003||2004||style="background-color:#cf9"|2||style="background-color:#cf9"|2||2003||2003||2063 |- !F-03 |3||3||1003||2005||2006||style="background-color:#cf9"|3||style="background-color:#cf9"|3||2005||2005||2023 |}</div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">編成表(E217系付属編成)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%; text-align:center;" !編成番号 !クハE217 !サハE217 !モハE217 !モハE216 !クハE216 !出典 |- !F-51 |2001||1||2002||2002||1001 |rowspan="3"|<ref name="RF720-41" /> |- !F-52 |2002||2||2004||2004||1002 |- !F-53 |2003||3||2006||2006||1003 |}</div></div> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|3|refs= <!--鉄道ファン(雑誌)--> <ref name="Fan1994-12-1">{{Harvnb|鉄道ファン1994Dec|1994|pp=44-47}}</ref> <ref name="Fan1994-12-2">{{Harvnb|鉄道ファン1994Dec|1994|pp=47-49}}</ref> <ref name="Fan1994-12-64">{{Cite journal |和書 |title=幻の4扉近郊形車両 |date=1994-12 |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |publisher=[[交友社]] |page=64}}</ref> <ref name="Fan1994-12-3">{{Harvnb|鉄道ファン1994Dec|1994|pp=50-51}}</ref> <ref name="RF418-63">{{Cite journal |和書 |date=1996-02 |journal=鉄道ファン<!--通巻418号--> |publisher=交友社 |page=63}}</ref> <ref name="Fan2002-5">{{Cite journal |和書 |title=JR東日本の通勤電車開発史 |date=2002-02 |journal=鉄道ファン}}</ref> <ref name="Fan2005-1">{{Harvnb|白土|2005|pp=87-111}}</ref> <ref name="Fan2013-1">{{Cite journal |和書 |title=東急車輌製造株式会社63年余の車輌製造史 |date=2013-01 |journal=鉄道ファン |publisher=交友社 |pages=124 - 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journal |和書 |title=E217系電車の現況<!--横須賀・総武快速線--> |date=2001-03 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |publisher=[[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] |page=45}}</ref> <ref name="RP2008-10ex">{{Cite journal |和書 |author=三浦一仁<!--東日本旅客鉄道 (株) 運輸車両部-->|title=JR東日本E217系機器更新工事 |date=2008-10 |journal=鉄道ピクトリアル 臨時増刊号 鉄道車両年鑑2008年版 |publisher=鉄道図書刊行会}}</ref> <ref name="RP943-68">{{Harvnb|日向|2018|p=68}}</ref> <ref name="日向p69">{{Harvnb|日向|2018|p=69}}</ref> <!--JR電車編成表--> <ref name="2013Winter">{{Cite journal |和書 |date=2012-11-09 |journal=JR電車編成表 2013冬 |publisher=交通新聞社 |pages={{要ページ番号|date=2022年2月}} |isbn=978-4-330-33112-6}}</ref> <ref name="JRR_2015S">{{Cite journal |和書 |date=2015-05-20 |journal=JR電車編成表 2015夏 |publisher=交通新聞社 |pages=359 - 360 |isbn=978-4-330-56915-4}}</ref> <ref name="JRR_2016W">{{Cite journal |和書 |date=2015-11-18 |journal=JR電車編成表 2016冬 |publisher=交通新聞社 |page=360 |isbn=978-4-330-62315-3}}</ref> <ref name="JRR 2020s 88">{{Cite journal |和書 |date=2020-05-15 |journal=JR電車編成表 2020夏 |publisher=交通新聞社 |pages=88 - 89 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鉄道ニュース|author=佐々木渉|date=2008-02-06|publisher=交友社|url=http://railf.jp/news/2008/02/06/091100.html|accessdate=2022-02-06}}</ref> <ref name="railf_20090419">{{Cite news |和書 |title=E233系とE217系に東海道線全通120周年ヘッドマーク |newspaper=railf.jp 鉄道ニュース |author=横井規和 |date=2009-04-19 |publisher=交友社 |url=http://railf.jp/news/2009/04/19/135400.html |accessdate=2022-02-06}}</ref> <ref name="railf_20120223">{{Cite news |和書 |title=E217系F-03編成が東京総合車両センターに入場 |newspaper=railf.jp 鉄道ニュース |author=石丸純也 |date=2012-02-23 |publisher=交友社 |url=http://railf.jp/news/2012/02/23/103000.html |accessdate=2022-02-06}}</ref> <!-- <ref name="railf_20220217">{{Cite web |title=E217系Y-11編成が長野へ|鉄道ニュース|2022年2月17日掲載|鉄道ファン・railf.jp |url=https://railf.jp/news/2022/02/17/111000.html |website=鉄道ファン・railf.jp |accessdate=2022-02-17 |language=ja}}</ref> --> <ref name="mynavi_20150319">{{Cite news |和書|date=2015-3-19 |url=https://news.mynavi.jp/article/20150319-a181/ |title=JR東日本、東海道線E217系の営業運転終了 - 「湘南色」の帯で活躍した車両 |newspaper=[[マイナビニュース]] 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2階建て先頭車両の設計が本系列のグリーン車であるサロE217を基本としている。 == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/local/e217.html JR東日本:車両図鑑&gt;在来線 E217系] - 東日本旅客鉄道 * {{グッドデザイン賞受賞対象リンク|22553|<nowiki>旅客車 [新型近郊電車 E217系近郊形直流電車]</nowiki>}} {{JR東日本の車両リスト}} {{デフォルトソート:しえいああるひかしにほんE217}} [[Category:東日本旅客鉄道の電車|217]] [[Category:1994年製の鉄道車両]] [[Category:2階建の鉄道車両]] [[Category:東急車輛製造製の電車]] [[Category:川崎重工業製の電車]] [[Category:東日本旅客鉄道自社工場製の鉄道車両]] [[Category:鉄道車両関連]]
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ミネストローネ
ミネストローネ (minestrone) は、イタリアの野菜スープである。 イタリアでは、使う野菜も季節や地方によって様々であり、決まったレシピはなく、田舎の家庭料理といった趣である。コロンブスによってトマトが持ち込まれるまでは、トマトを入れていなかった。材料にはタマネギ、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、セロリ、ズッキーニ、さやいんげんなどが用いられる。ベーコン、パスタ(ショートパスタやカペッリーニを短く折ったもの)や米を入れることも多い。また地域によって大きく異なる料理であり、すりおろしたパルメザンチーズが加えられたり、南米ではレンズ豆やエンドウ豆などが入ることがある。 「ミネストローネ」とは、イタリア語でスープを意味する「ミネストラ」minestra に指大辞(英語版)(程度の大きさを示す単語の変化形)である-one を付けた形の語。minestra の語源はラテン語の ministrare (給仕する、の意)。
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ミネストローネ (minestrone) は、イタリアの野菜スープである。 イタリアでは、使う野菜も季節や地方によって様々であり、決まったレシピはなく、田舎の家庭料理といった趣である。コロンブスによってトマトが持ち込まれるまでは、トマトを入れていなかった。材料にはタマネギ、ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、セロリ、ズッキーニ、さやいんげんなどが用いられる。ベーコン、パスタ(ショートパスタやカペッリーニを短く折ったもの)や米を入れることも多い。また地域によって大きく異なる料理であり、すりおろしたパルメザンチーズが加えられたり、南米ではレンズ豆やエンドウ豆などが入ることがある。 「ミネストローネ」とは、イタリア語でスープを意味する「ミネストラ」minestra に指大辞(程度の大きさを示す単語の変化形)である-one を付けた形の語。minestra の語源はラテン語の ministrare (給仕する、の意)。
{{出典の明記|date=2021年8月}} [[Image:MinestroneSoup.jpg|200px|thumb|right|ミネストローネ]] '''ミネストローネ''' {{lang|it|(minestrone)}} は、[[イタリア]]の[[野菜]][[スープ]]である。 イタリアでは、使う野菜も季節や地方によって様々であり、決まったレシピはなく、田舎の家庭料理といった趣である。コロンブスによってトマトが持ち込まれるまでは、トマトを入れていなかった。材料には[[タマネギ]]、[[ジャガイモ]]、[[ニンジン]]、[[キャベツ]]、[[セロリ]]、[[ズッキーニ]]、[[インゲンマメ|さやいんげん]]などが用いられる。[[ベーコン]]、[[パスタ]]([[フジッリ]]や[[カペッリーニ]]を短く折ったもの)や[[米]]を入れることも多い。また地域によって大きく異なる料理であり、すりおろしたパルメザンチーズが加えられたり、南米ではレンズ豆やエンドウ豆などが入ることがある。 「ミネストローネ」とは、現代の[[イタリア語]]で汁物料理(soup)を意味する「ミネストラ」{{lang|it|minestra}} に{{仮リンク|指大辞|en|Augmentative}}(程度の大きさを示す単語の変化形)である{{lang|it|-one}} を付けた形の語。{{lang|it|minestra}} の語源は[[ラテン語]]の {{lang|la|ministrare}} (給仕する、の意)<ref name="jiten2007_p663">{{Citation|和書 |last=宇田川 |first=政喜 |last2=遠藤 |first2=智子 |last3=加藤 |first3=綾子 |last4=橋村 |first4=弘美 |editor=日仏料理協会 |year=2007 |title=フランス 食の事典(普及版) |publisher=株式会社[[白水社]] |page=663 |isbn=978-4-560-09202-6}}</ref><ref>{{Citeweb |author=D.Harper |year=n.d. |title=minestrone |publisher=Online Etymology Dictionary |url=http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=minestrone&searchmode=none |accessdate=2013-10-22}}</ref>である。なお[[スープ]](soup)の語源は後期ラテン語のsuppa(浸されたパン、sopped bread)<ref>James A. H. Murray [et al.], editors (1884–1928), “Soup (sūp), v.”, in A New English Dictionary on Historical Principles (Oxford English Dictionary), volume IX, Part 1 (Si–St), London: Clarendon Press, →OCLC, page 473, column 3: “f. Soup sb.”</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[イタリア料理]] == 外部リンク == {{Commonscat|Minestrone}} [[category:スープ|みねすとろおね]] [[category:イタリアの食文化|みねすとろおね]]
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管弦楽曲
管弦楽曲(かんげんがくきょく、かんげんがっきょく)は、管楽器(木管楽器、金管楽器)、弦楽器および打楽器からなるオーケストラ(管弦楽団)によって演奏される楽曲。 管弦楽曲としては、 が主な分野であるが、これらから交響曲と協奏曲を除いたものを指して用いられることが多い。また、これらの分野の中間的な存在の作品もある。 これらの作品は、専用の音楽ホールの舞台で演奏されることが通例だが、教会の聖堂や屋外の特設ステージなどで演奏される事例もある。 オペラ、バレエ、演劇の伴奏としても管弦楽が用いられるが、これらは「管弦楽曲」とは呼ばれない。ただし、オペラやバレエの音楽を抜粋して管弦楽のみのコンサート用にまとめた組曲などは「管弦楽曲」と呼ばれる。 いずれの場合も、指揮者を用いるのが普通である。
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管弦楽曲(かんげんがくきょく、かんげんがっきょく)は、管楽器(木管楽器、金管楽器)、弦楽器および打楽器からなるオーケストラ(管弦楽団)によって演奏される楽曲。
{{出典の明記|date=2014年1月3日 (金) 16:45 (UTC)}} {{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}} '''管弦楽曲'''(かんげんがくきょく、かんげんがっきょく)は、[[管楽器]]([[木管楽器]]、[[金管楽器]])、[[弦楽器]]および[[打楽器]]からなる[[オーケストラ]](管弦楽団)によって[[演奏]]される[[楽曲]]。 == 概要 == 管弦楽曲としては、 * [[交響曲]] * [[協奏曲]] * [[序曲]]、[[演奏会用序曲]]、[[劇付随音楽]]、[[交響詩]] * [[舞曲]]、[[組曲]]、[[ウィンナ・ワルツ]] が主な分野であるが、これらから交響曲と協奏曲を除いたものを指して用いられることが多い。また、これらの分野の中間的な存在の作品もある。 これらの作品は、専用の[[コンサートホール|音楽ホール]]の[[舞台]]で演奏されることが通例だが、[[教会堂|教会]]の[[聖堂]]や屋外の特設ステージなどで演奏される事例もある。 [[オペラ]]、[[バレエ]]、[[演劇]]の[[伴奏]]としても管弦楽が用いられるが{{efn|この場合は、管弦楽団は舞台から一段下がったオーケストラピットと呼ばれる場所で演奏される。}}、これらは「管弦楽曲」とは呼ばれない。ただし、オペラやバレエの音楽を抜粋して管弦楽のみのコンサート用にまとめた組曲などは「管弦楽曲」と呼ばれる。 いずれの場合も、[[指揮者]]を用いるのが普通である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} <!--=== 出典 === {{Reflist}}--> == 関連項目 == * [[管弦楽法]] * [[管弦楽組曲]] * [[クラシック音楽]] == 外部リンク == * {{CRD|2000025483|管弦楽曲について調べる|桐朋学園大学附属図書館}} {{Classic-stub}} {{DEFAULTSORT:かんけんかつきよく}} [[Category:管弦楽曲|*]]
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トマト缶
トマト缶(トマトかん、canned tomato)とは、トマトの水煮を缶詰にしたものである。 一般的に市場に出回っているトマト缶は日本産とイタリア産、トルコ産などがある。洋食に使う場合、イタリア産などの輸入品が品種的に合う。パスタからカレーまで、幅広く使われる食材である。 種類として、単純に丸ごと水煮をしたものや、細かくカッティングしてあるものなど、いくつか種類があり、料理に応じて選択する。丸ごと水煮にしたものは特にホールトマトと呼ばれる。
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ローリエ
ローリエ(フランス語: laurier)は、ゲッケイジュの葉を乾燥させた香辛料である。煮込み料理に加えて使われる。 日本ではローレル(英語: laurel)、ローリエ(フランス語: laurier)、ベイリーフ(ベイリーブズ、英語: bay leaf, bay leaves)、ゲッケイジュ(月桂樹)、ロールベールブレッター(ドイツ語: Lorbeerblätter)などの名でも流通しているが、これらは各国語の綴りや発音の違いから来ている。生薬としては月桂葉(げっけいよう)と呼ばれるが、成分本質 (原材料) では医薬品でないものと判断されており、薬効を謳わない限りは食品である。オリンピック発祥のギリシャでは月桂冠が名誉の象徴となっているのは良く知られている。 リナロール、ミルセン、オイゲノール、シネオールなどの精油成分を多く含み、芳香のもととなっている。精油を抗菌性のある外用薬の原料とする例がある。消化を促進し、疲労回復の効果もあるとされる。 月桂樹は小アジア原産の植物であるが、ローリエはトルコ、ギリシャ、イタリア、フランスなど、地中海沿岸を中心に栽培されるようになったため、ヨーロッパでよく使用されるスパイスとなっている。市場にはドライハーブで売られている。すがすがしく、明瞭な芳香があるので、香り付けに使用される。甘い香りが調理で強く出て、肉の臭みなどを消す働きがあり、欧風カレーやポトフ、シチューなどの煮込み料理の風味付けによく使用される。出汁・ソースなどにも利用される。オランダなど、ヨーロッパ北部ではハーリングなどのマリネにも利用される。 調理に使う際には、長時間煮込むと苦味が出てくるので注意。途中で取り出しやすいように、葉を刻まずに使う。 生の葉を使用することも出来るが、青臭さと苦みが出る。好みは分かれるところだが、保存の点も含め乾燥させて使うのが一般的である。自宅で作る場合には、葉がそり返らないように重しを乗せ、日陰で2週間ほど乾燥させる。
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ローリエは、ゲッケイジュの葉を乾燥させた香辛料である。煮込み料理に加えて使われる。
{{Otheruseslist|香辛料としてのローリエ|植物としてのローリエ|ゲッケイジュ|カナダの首相|ウィルフリッド・ローリエ}} {{Redirect|ベイリーフ|インディアンベイリーフとも呼ばれる植物|タマラニッケイ|ゲームのキャラクター|ベイリーフ (ポケモン)}} {{混同|リーリエ}} [[画像:BayLeaf.jpg|thumb|ローリエ]] '''ローリエ'''({{lang-fr|laurier}})は、[[ゲッケイジュ]]の葉を乾燥させた[[香辛料]]である。煮込み料理に加えて使われる。 == 名称 == [[日本]]では'''ローレル'''({{lang-en|laurel}})、'''ローリエ'''({{lang-fr|laurier}})、'''ベイリーフ'''('''ベイリーブズ'''{{efn2|「ベイリーフ」はゲッケイジュ以外の[[クスノキ科]]の葉を香辛料として使う際にも使われる言葉である。葉の外形はよく似ているが、風味や葉脈の構造が異なるので区別がつく。}}、{{lang-en|bay leaf, bay leaves}})、'''ゲッケイジュ'''(月桂樹)、'''ロールベールブレッター'''({{lang-de|Lorbeerblätter}})などの名でも流通しているが、これらは各国語の綴りや発音の違いから来ている。[[生薬]]としては'''月桂葉'''(げっけいよう)と呼ばれるが、[[成分本質 (原材料) では医薬品でないもの]]と判断されており、薬効を謳わない限りは食品である。[[近代オリンピック|オリンピック]]発祥の[[ギリシャ]]では[[月桂冠]]が名誉の象徴となっているのは良く知られている。 == 成分 == [[リナロール]]、[[ミルセン]]、[[オイゲノール]]、[[シネオール]]などの[[精油]]成分を多く含み、芳香のもととなっている。精油を抗菌性のある外用薬の原料とする例がある<ref>江蘇新医学院編、『中薬大辞典』、上海科学技術出版社、1986年</ref>。消化を促進し、疲労回復の効果もあるとされる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=177}}。 == 利用 == 月桂樹は[[小アジア]]原産の植物であるが、ローリエは[[トルコ]]、[[ギリシャ]]、[[イタリア]]、[[フランス]]など、[[地中海]]沿岸を中心に栽培されるようになったため、[[ヨーロッパ]]でよく使用される[[香辛料|スパイス]]となっている。市場にはドライハーブで売られている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=177}}。すがすがしく、明瞭な芳香があるので、香り付けに使用される。甘い香りが調理で強く出て、[[食肉|肉]]の臭みなどを消す働きがあり、欧風[[カレー_(代表的なトピック)|カレー]]や[[ポトフ]]、[[シチュー]]などの[[煮込み料理]]の風味付けによく使用される{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=177}}。[[出汁]]・[[ソース (調味料)|ソース]]などにも利用される。[[オランダ]]など、ヨーロッパ北部では[[ハーリング (料理)|ハーリング]]などの[[マリネ]]にも利用される。 [[画像:Terrine.JPG|thumb|ローリエの生葉を用いた[[テリーヌ]]]] 調理に使う際には、長時間煮込むと苦味が出てくるので注意。途中で取り出しやすいように、葉を刻まずに使う。 生の葉を使用することも出来るが、青臭さと苦みが出る。好みは分かれるところだが、保存の点も含め乾燥させて使うのが一般的である。自宅で作る場合には、葉がそり返らないように重しを乗せ、日陰で2週間ほど乾燥させる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} {{commonscat|Laurus nobilis}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|page=177|ref=harv}} {{Herbs & spices|state=collapsed}} {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:ろりえ}} [[Category:香辛料]] [[Category:ハーブ]] [[Category:ヨーロッパの食文化]] [[pl:Wawrzyn szlachetny#Zastosowanie]]
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喫茶店
喫茶店(きっさてん)とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のこと。 日本では、フランスのカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多い。もともと日本で茶を出す店は「茶店(ちゃみせ)」や「茶屋(ちゃや)」などと呼んでいた。和風の茶房(さぼう)や茶寮(さりょう)という呼び方もある。 また、コーヒーなどを提供する風俗店や娯楽を提供する店にも「喫茶店」の名が使われる事もある。この分野の詳細は関連業種を参考のこと。 喫茶店とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のことである。 コーヒーや紅茶などの飲み物を提供したり、ケーキ、茶菓子等の菓子や、フルーツを用いた甘味や、サンドイッチ等の軽食を提供する飲食店である。 「喫茶(きっさ)」とは、元々は鎌倉時代(源実朝の時代)に中国から伝わった茶を飲用し効用を嗜む習慣や作法を指す言葉である。なお、喫茶の「喫」は「茶を喫む(のむ)」という意味である。 現在では「喫茶」は緑茶に限らない。紅茶、コーヒー、さらには果汁や清涼飲料水など、これらを飲み、菓子を食べることを「喫茶」の概念に含める。喫茶店は、俗に略して「茶店(さてん)」とも呼ばれる。近年の口語では「お茶する」などともいう。 日本では、フランスのカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多くなってきた。また、見晴らしの良いテラスにて「カフェテラス」を行っているところもある。ヨーロッパ風の店を「ヨーロピアン・カフェ」、イタリア風の店を「イタリアン・カフェ」と呼ぶ事もある。英語流に呼ぶ場合、特にコーヒーを主力商品とする場合「コーヒーショップ」、紅茶を主力商品とする場合は「ティーハウス」「ティールーム」などとも呼ばれる。中国茶を出す店は「茶館(ちゃかん)」などと、呼ばれる事が多い。 こうした豊富な語彙が使われるようになったので、「喫茶店」という言葉をあえて使う場合、フランスの「カフェ」や米国のコーヒーショップや中国風「茶館」とは少し違った、日本での大正・昭和などの歴史を踏まえたスタイルのもの、という意味を込めて使われていることがある。 コーヒーや紅茶が基本であるが、他に提供されるものは、店舗ごとに様々である。比較的一般的なものを挙げてみる。 一部店舗ではモーニングセットなどを提供している場合がある。またサラリーマンなどの昼食(ランチ)の需要が見込める立地では「ランチセット」(昼限定の)カレーライスや定食類などを提供している場合もある。 都市部では、朝の比較的早い時間帯にはサラリーマン・学生等が朝食をとるために利用している。また、昼食の時間帯になると、喫茶というよりも食事をとることを目的に軽食やランチセットや昼限定メニューを利用する人が多くなる。その昼食の時間帯を過ぎると、飲み物や菓子の売上の割合が増え、軽食は減る。 営業職のビジネスマンは、顧客先を訪問する直前の時間を調整のために利用することがある。また、パソコンやタブレットで電子メールを送受信するため、同僚との簡易な打ち合わせをするため、さほど構える必要がない商売相手とちょっとした打ち合わせをするため、等々の目的で利用されている。 また、店内に設置されていることが多い、新聞や雑誌を目当てに入る人もいる。 世界を見回せば、それぞれの国でそれぞれのスタイルの喫茶店が発展してきた。 愛知県、岐阜県では、飲食店の内でも喫茶店の占める割合が高い。1999年の総務省統計局発表データによれば、全飲食店のうち喫茶店の占める割合が、全国平均は24.3%、東京都は17.7%、喫茶店の店舗数が全国1位の大阪府でも36.1%に対し、愛知県は41.5%、岐阜県は40.4%となっている。喫茶に対する支出も愛知県は全国平均の約2倍、岐阜県は約2.5倍となっている。数が多い分だけ競争も激しく、当地域ではコーヒーを頼めば菓子やピーナッツがついてくるのが半ば常識化している。常連客が多い店ではレジの近くにコーヒーチケットと呼ばれる金券(前払いでコーヒー代を支払うもので、例えば10杯分の価格で11杯飲むことが出来るプレミアムが通常はついている。)を保管しておくポケットが壁に設置されている。また1960年頃から豊橋市、豊田市、一宮市などで「モーニングサービス」と称するサービスが始まった。これはコーヒー1杯分の値段で、朝の開店時刻から10時ごろまで、トーストやゆで卵をつけるもので、中京圏域に広まっている。誤った用法であるが、文脈上通じればモーニングサービスをモーニングと略すことが多い。 また、昨今ではスターバックスやドトールコーヒーといった全国規模展開の店も当地域に進出している。コメダ珈琲店のように、名古屋から全国展開を始めるチェーン店もある。 食品衛生法施行令第35条は、喫茶店営業を、「喫茶店、サロンその他設備を設けて酒類以外の飲み物又は茶菓を客に飲食させる営業をいう。」としている。食品衛生法施行令が定める喫茶店営業では茶菓を提供できる。 日本において喫茶店を営業するためには、食品衛生法第51条の規定に基づき、喫茶店営業としての建物や調理場、衛生設備を含む各施設の基準を満たした上で、都道府県知事の許可(同法第52条)を得る必要がある。 ただし、食品衛生法が規定する喫茶店営業は基本的には店内で飲料以外の調理や製造をしない営業と解釈されており、駅や百貨店などにあるジューススタンドやケーキ販売店に付随した喫茶コーナーがこれに当たる。しかし、酒類を提供する場合は調理を行わなくても飲食店営業の許可が必要である。 食事類を提供する喫茶店を営業する場合は飲食店営業の許可が必要である。また、カップ式の自動販売機や、近年スーパーマーケットなどに設置されている水の自動販売機も、上水道に接続されていることなどから、喫茶店営業の許可が必要となる。 さらに、食品衛生法施行令第35条によって、菓子製造業(パンもここに含まれる)、乳類販売業とは別の業種としているため、営業者は注意が必要である。また、風俗営業法に規定される風俗営業など(第1号)喫茶店(第2号)に該当する場合は警察署の許可が別に必要である。例えば、ゲーム喫茶では風俗営業の五号営業の許可を必要とする。許可を得た施設は、食品衛生法と食品衛生法施行令により、保健所の監視または指導を受けることが定められている。
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喫茶店(きっさてん)とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のこと。 日本では、フランスのカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多い。もともと日本で茶を出す店は「茶店(ちゃみせ)」や「茶屋(ちゃや)」などと呼んでいた。和風の茶房(さぼう)や茶寮(さりょう)という呼び方もある。 また、コーヒーなどを提供する風俗店や娯楽を提供する店にも「喫茶店」の名が使われる事もある。この分野の詳細は関連業種を参考のこと。
{{出典の明記|date=2013年2月}} [[File:Tomonoura05s2000.jpg|thumb|right|200px|喫茶店の外観の一例]] [[ファイル:KOMEDA Ebina Branch.jpeg|thumb|right|220px|大手チェーン店の新しい店舗の一例([[コメダ]]珈琲・海老名FC店)]] '''喫茶店'''(きっさてん)とは、[[コーヒー]]や[[紅茶]]などの飲み物、[[菓子]]・[[果物]]・[[軽食]]を客に供する[[飲食店]]のこと<ref name="koujien">広辞苑「喫茶店」</ref>。 [[日本]]では、[[フランス]]のカフェを意識した店舗などを中心に「[[カフェ]]」と呼ばれることも多い。もともと日本で[[茶]]を出す店は「茶店(ちゃみせ)」や「[[茶屋]](ちゃや)」などと呼んでいた。和風の'''茶房'''(さぼう)や'''茶寮'''(さりょう)という呼び方もある。 また、コーヒーなどを提供する[[風俗店]]や娯楽を提供する店にも「喫茶店」の名が使われる事もある。この分野の詳細は関連業種を参考のこと。 == 概要 == 喫茶店とは、コーヒーや紅茶などの飲み物、菓子・果物・軽食を客に供する飲食店のことである<ref name="koujien" />。 コーヒーや紅茶などの[[飲み物]]を提供したり、[[ケーキ]]、[[茶菓子]]等の菓子や、[[果物|フルーツ]]を用いた[[甘味]]や、[[サンドイッチ]]等の[[軽食]]を提供する飲食店である。 === 呼称=== 「[[喫茶]]{{small|(きっさ)}}」とは、元々は[[鎌倉時代]]([[源実朝]]の時代)に[[中国]]から伝わった[[茶]]を飲用し効用を嗜む習慣や作法を指す言葉である。なお、喫茶の「喫」は「茶を'''喫む'''{{small|(のむ)}}」という意味である。 現在では「喫茶」は[[緑茶]]に限らない。紅茶、コーヒー、さらには[[果汁]]や[[清涼飲料水]]など、これらを飲み、菓子を食べることを「喫茶」の概念に含める。喫茶店は、俗に略して「茶店{{small|(さてん)}}」とも呼ばれる。近年の口語では「お茶する」などともいう。 日本では、[[フランス]]のカフェを意識した店舗などを中心に「カフェ」と呼ばれることも多くなってきた。また、見晴らしの良い[[テラス]]にて「[[カフェテラス]]」を行っているところもある。[[ヨーロッパ]]風の店を「ヨーロピアン・カフェ」、[[イタリア]]風の店を「イタリアン・カフェ」と呼ぶ事もある。[[英語]]流に呼ぶ場合、特にコーヒーを主力商品とする場合「[[コーヒーショップ]]」、紅茶を主力商品とする場合は「[[ティーハウス]]」「[[ティールーム]]」などとも呼ばれる。[[中国茶]]を出す店は「[[茶館]]{{small|(ちゃかん)}}」などと、呼ばれる事が多い。 こうした豊富な[[語彙]]が使われるようになったので、「喫茶店」という言葉をあえて使う場合、フランスの「カフェ」や米国のコーヒーショップや中国風「茶館」とは少し違った、日本での大正・昭和などの歴史を踏まえたスタイルのもの、という意味を込めて使われていることがある。 === 提供されるもの=== コーヒーや紅茶が基本であるが、他に提供されるものは、店舗ごとに様々である。比較的一般的なものを挙げてみる。 * 飲み物 - コーヒー、紅茶、[[ジュース]]など * 菓子 - ケーキ、[[ホットケーキ]]、[[パフェ]]などの菓子 * 軽食 - サンドイッチ、[[スパゲティ]]など 一部店舗では[[モーニングサービス|モーニングセット]]などを提供している場合がある。また[[サラリーマン]]などの[[昼食]]{{small|(ランチ)}}の需要が見込める立地では「ランチセット」(昼限定の)[[カレーライス]]や[[定食]]類などを提供している場合もある。 === 時間帯ごとの傾向や利用目的=== 都市部では、朝の比較的早い時間帯にはサラリーマン・[[学生]]等が朝食をとるために利用している。また、昼食の時間帯になると、喫茶というよりも食事をとることを目的に軽食やランチセットや昼限定メニューを利用する人が多くなる。その昼食の時間帯を過ぎると、飲み物や菓子の売上の割合が増え、軽食は減る。 [[営業職]]のビジネスマンは、顧客先を訪問する直前の時間を調整のために利用することがある。また、[[パソコン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]で[[電子メール]]を送受信するため、同僚との簡易な打ち合わせをするため、さほど構える必要がない商売相手とちょっとした打ち合わせをするため、等々の目的で利用されている。 また、店内に設置されていることが多い、[[新聞]]や[[雑誌]]を目当てに入る人もいる。 === 喫茶以外のサービスと関連業種 === {{notice|「喫茶」を冠するものの、「喫茶」以外のサービスが主目的とされるものは、それぞれの独立項目で扱う。}} ;音楽 :[[名曲喫茶]]、[[ジャズ喫茶]]、[[歌声喫茶]]や[[カラオケ#昼カラの普及|カラオケ喫茶]]、[[ゴーゴー喫茶]] ;コンセプトカフェ :[[コスプレ系飲食店]]、[[メイド喫茶]]や[[執事喫茶]]、[[猫喫茶]]([[アニマルカフェ]])、[[サイエンスカフェ]]・[[ボードゲーム]]などの体験型カフェ<ref>{{Cite web|和書|url=https://sapporo.keizai.biz/headline/4295/ |title=札幌にボードゲームで遊べる体験型カフェ ショップスペースも併設 |access-date=2023-08-02 |website=札幌経済新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6449f430e4b0d840388ca5b1 |title=子どもに世界はこう映っている!親子で楽しめる巨大クッキーやデカ頭展示の体験型カフェオープン |access-date=2023-08-02 |date=2023-04-27 |website=ハフポスト |language=ja}}</ref>。 ;娯楽などのサービス :[[漫画喫茶]]、[[インターネットカフェ|インターネット喫茶]]、[[ノーパン喫茶]] :1970年代末では、[[アーケードゲーム機|テーブル型ゲーム筐体]]が人気となり、1980年代には会社員向けの余暇を提供した<ref>{{Cite journal |last=Kawasaki |first=Yasuo |date=2015 |title=The role of a Japanese café where video game machine was introduced: -A new form of urban entertainment in the form of Arcade video games- |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/digraj/7/2/7_1/_article/-char/ja/ |journal=Journal of Digital Games Research |volume=7 |issue=2 |pages=1–12 |language=en |doi=10.9762/digraj.7.2_1 |issn=1882-0913}}</ref>。その後もオーストラリアでゲーム会社がコラボレーションで出店した{{仮リンク|Mana Bar|en|Mana Bar}}などのように家庭用ゲーム機を置いた喫茶店などもあるが、日本では平成23年以降に[[コンピュータソフトウェア著作権協会]]が「上映権」の侵害に当たるとして家庭用ゲーム機などを置いた喫茶店・ゲームバーに対して警告を発し、著作権法違反で逮捕も行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180613-KVKVBRKFRZPFXDOVV42LBPU33U/ |title=ゲームバー経営者ら逮捕、「著作権違反」閉店相次ぐ(1/2ページ) |access-date=2023-08-02 |last=INC |first=SANKEI DIGITAL |date=2018-06-13 |website=産経ニュース |language=ja}}</ref>。 == 喫茶店の歴史 == * 喫茶店として提供し始めた時期は定かではないが、[[16世紀]]にはイスラム教国の主だった都市にコーヒー店が開かれ、政談、商談の場となっている。[[オスマン帝国]]の都イスタンブルにおいては、1550年代に最初のカフェが開かれた<ref>{{Cite web|title=KAHVEHANE - TDV İslâm Ansiklopedisi|url=https://islamansiklopedisi.org.tr/kahvehane|website=TDV İslam Ansiklopedisi|accessdate=2022-01-13|language=tr}}</ref>。その後、[[ムラト3世]](在位:1574年 - 1595年)治下のオスマン帝国ではカフェでの政府批判が問題となり、1583年<ref>{{Cite web|title=KAHVEHANE - TDV İslâm Ansiklopedisi|url=https://islamansiklopedisi.org.tr/kahvehane|website=TDV İslam Ansiklopedisi|accessdate=2022-01-13|language=tr}}</ref>にカフェ閉鎖令が出されている<ref>{{Cite |和書 |author = マグロンヌ・トゥーサン=サマ |translator = 玉村豊男 |title = 世界食物百科 |date = 1998 |publisher = 原書房 |isbn = 4562030534 |ref = harv }}pp.604-605</ref>。 * [[17世紀]]中頃 - [[ヴェネツィア]]に[[ヨーロッパ]]で初めてコーヒーを提供する店が開業。 * [[1650年]] - [[イギリス]]に[[コーヒー・ハウス]]ができる。 : コーヒーハウスは新聞を読んだり、政治を論じたりといった男社会の交流の場でもあった(ロンドン、ギャラウェイが特に有名)。 * [[1686年]] - [[パリ]]最初のカフェと言われる[[カフェ・プロコップ]]が開業(現存)。 : 単にコーヒーを飲ませる店、というだけでなく、文化人が交流する場であった。 ; 日本 {{See also|日本における喫茶店の歴史}} [[File:Edoshinden Company(丹波篠山江戸親伝)篠山市乾新町7294.jpg|thumb|240px|right|[[1990年代]] 頃より[[古民家]]を改築した和風喫茶店がブームに - 築400年の<br>古民家を[[リノベーション]]した喫茶店<br>「[[江戸親伝]]」([[兵庫県]][[丹波篠山市]])]] * [[享保]]20年([[1735年]])、[[東山 (京都府)|京都東山]]に高遊外 [[売茶翁]]が開いた茶亭・通仙亭が日本初の喫茶店といわれる<ref>[https://www.asahi.com/and/m/information/pressrelease/CATP20147226.html 佐賀市、煎茶道を通じた宇治市との文化交流第一弾「茶会」を 佐賀出身 煎茶中興の祖「売茶翁」の修業の地・宇治 萬福寺にて6月8日開催] [[朝日新聞デジタル]] 2014年6月6日</ref>。 * [[1878年]] - [[神戸市|神戸]][[元町 (神戸市)|元町]]の「[[放香堂]]」が店頭でコーヒーを提供(元町3丁目に茶商として現存)。 * [[1888年]][[4月13日]] - [[東京]]の黒門町(当時は下谷黒門町)に本格的なコーヒー店「可否茶館」が開店。 * [[1920年代]] - 日本で喫茶店ブーム。当時コーヒー一杯10[[銭 (曖昧さ回避)|銭]]。 * [[1950年代]]後半 - 日本で[[ジャズ喫茶]](JAZZ喫茶)、[[歌声喫茶]]、[[名曲喫茶]]などが流行。 * [[1952年]] - [[ムジカ (ティーハウス)|ムジカ]]が大阪市北区にオープン。日本初の本格的英国式紅茶の店となる。 * [[1959年]] - [[談話室滝沢]]が東京都内にオープン。日本の高級喫茶店のはしりとなる。 * [[1960年代]]後半から[[1970年代]] - 日本で[[純喫茶]]が流行。味に一家言持つようなオーナー店主が自らコーヒーを淹れて供するこだわりの店が増える。このような店主は[[バリスタ (コーヒー)|バリスタ]]の認定試験を受けたりする事も多い。 * 1970年代 - [[スペースインベーダー]]の登場にはじまる[[アーケードゲーム]]ブームが興り、多くの喫茶店にテーブル筐体が設置された([[ゲーム喫茶]])。ゲームが子供の教育上よくないと思われたことにより、学校の校則に喫茶店の入店を制限するものが全国各地でみられた。 * [[1980年代]] - セルフ式コーヒーチェーン店の[[ドトールコーヒー]]が誕生([[2006年]]現在、日本国内で一番店舗数の多い喫茶店でもある)。 * [[1990年代]] - [[スターバックス]]など[[シアトル]]系チェーン店が日本に進出。コーヒー1杯を300円から500円で提供する。一方、古民家を改築した和風喫茶などもブームになった。 == 世界の喫茶店 == [[File:Azadegan Teahouse, Isfahan, Iran (1266997419).jpg|thumb|right|200px|[[イスファハン]]のチャイハーネ]] 世界を見回せば、それぞれの国でそれぞれのスタイルの喫茶店が発展してきた。 ; フランスなどのカフェ({{lang|fr|café}}) : 店舗の前の路上にもテーブル席を並べ、その解放感を楽しんだり、パリなどでは通行人のファッションを見たり見られたりして楽しむ場にもなっている。 ; イタリアの[[バール (飲食店)|バール]] : イタリアの軽食喫茶。 ; [[香港]]の[[茶餐廳]](ちゃさんちょう) : 香港の軽食喫茶店。[[飲茶]](やむちゃ)も参照。 ; [[中近東]]のチャイハーネ、カーヴェハーネ、マクハなど :国によって呼称が異なる。基本的にチャイハーネは紅茶や緑茶を商う、カフヴェハーネはコーヒーを商う喫茶店であるが、どちらも出す店も多い。伝統的な店は男性客がほとんどであり、[[水タバコ]]を吸いながら他の客と[[コミュニケーション]]や[[テーブルゲーム]]などをして楽しむ。近年は男女ともに入りやすい店も多くなっている<ref>安尾 亜紀「[https://allabout.co.jp/gm/gc/383660/ イスタンブールのチャイハネ・カーヴェハネ]」All About、2015年8月24日閲覧。</ref>。 == 日本の喫茶店 == === 統計 === ; 地域ごとの店舗数・密度 : 平成18年事業所・企業統計調査結果に基づく県別の喫茶店事業所数は、[[大阪府]]が約12,000店で全国1位となっており、以下、約11,000店の[[愛知県]]、約8,000店の[[東京都]]、約6,000店の[[兵庫県]]と続く。 : 人口1万人当たりには全国平均で6.34店の喫茶店が存在し、1番多い[[高知県]]は17.7店、2番目の[[岐阜県]]は 16.0店、3番目の愛知県は14.7店、4番目は大阪府で13.5店である。なお、最も少ないのは[[秋田県]]で2.3店である。 : 面積1平方キロメートル当たり事業所数に着目すると、全国平均では0.2店で、1番多い大阪府は6.3店、2番目の東京都は3.6店、3番目の愛知県は2.1店、4番目は[[神奈川県]]で1.0店となっている。また、これについても最も少ないのは秋田県で0.02店である<ref>総務省統計局 平成18年事業所・企業統計調査のほか、それに基づく[https://www.stat.go.jp/data/e-census/2009/kouhou/quiz/index.htm なるほど!経済センサスクイズ]、及び[https://www.webmtabi.jp/201001/47ranking_coffeehouse.html Webm旅 47都道府県ランキング 人口1000人当りの喫茶店数] 2010年8月23日閲覧</ref>。 : また、市町村レベルの人口1万人あたりの店舗数では、[[大阪市]]が24.1軒で全国1位であり、以下、[[高知市]]、[[名古屋市]]、[[岐阜市]]の順となっている。 ; 各都市の住民の利用量 : 消費者(2人以上世帯)の側に着目すると、都市別の年間支出喫茶代は、[[岐阜市]](13,360円)、[[名古屋市]](13,240円)、東京区部(8,385円)、[[神戸市]](7,514円)などの都市の住民が、全国平均(5,128円)と比べて特に大きくなっている<ref>[https://www.stat.go.jp/data/kakei/5.html 平成19~21年平均の家計調査品目別データ]</ref><ref>{{cite news |title=地元喫茶店ならモーニング目当て 岐阜、愛知の利用実態 |newspaper=[[岐阜新聞]] |date=2012-05-27 |url=https://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20120527/201205270930_17141.shtml |accessdate=2012-05-31}}</ref>。 === 地域ごとの特徴 === 愛知県、岐阜県では、飲食店の内でも喫茶店の占める割合が高い。1999年の[[総務省]][[統計局]]発表データによれば、全飲食店のうち喫茶店の占める割合が、全国平均は24.3%、東京都は17.7%、喫茶店の店舗数が全国1位の大阪府でも36.1%に対し、愛知県は41.5%、岐阜県は40.4%となっている。喫茶に対する支出も愛知県は全国平均の約2倍、岐阜県は約2.5倍となっている。数が多い分だけ競争も激しく、当地域ではコーヒーを頼めば菓子や[[ピーナッツ]]がついてくるのが半ば常識化している。常連客が多い店ではレジの近くにコーヒーチケットと呼ばれる[[金券]](前払いでコーヒー代を支払うもので、例えば10杯分の価格で11杯飲むことが出来る[[プレミアム]]が通常はついている。)を保管しておくポケットが壁に設置されている。また1960年頃から[[豊橋市]]、[[豊田市]]、[[一宮市]]などで「[[モーニングサービス]]」と称するサービスが始まった。これはコーヒー1杯分の値段で、朝の開店時刻から10時ごろまで、[[トースト]]や[[ゆで卵]]をつけるもので、中京圏域に広まっている。誤った用法であるが、文脈上通じればモーニングサービスをモーニングと略すことが多い。 また、昨今では[[スターバックス]]や[[ドトールコーヒー]]といった全国規模展開の店も当地域に進出している。[[コメダ|コメダ珈琲店]]のように、名古屋から全国展開を始めるチェーン店もある。 {{Gallery |ファイル:Image-CodazziNagoyaMorning2.jpg|夕方まで行われている<br>フルタイムモーニング |ファイル:CodazziNagoyaMorning1.jpg|パンとゆで卵が食べ放題の<br>モーニングサービス |ファイル:CodazziOkazakiMorning1.jpg|トーストとゆで卵とメロンが<br>ついたモーニングサービス }} === 日本の法制度 === [[食品衛生法|食品衛生法施行令]]第35条は、喫茶店営業を、「喫茶店、サロンその他設備を設けて酒類以外の飲み物又は茶菓を客に飲食させる営業をいう。」としている。食品衛生法施行令が定める喫茶店営業では茶菓を提供できる。 日本において喫茶店を営業するためには、[[食品衛生法]]第51条の規定に基づき、喫茶店営業としての建物や調理場、衛生設備を含む各施設の基準を満たした上で、[[都道府県知事]]の許可(同法第52条)を得る必要がある。 ただし、食品衛生法が規定する喫茶店営業は基本的には店内で飲料以外の調理や製造をしない営業と解釈されており、[[鉄道駅|駅]]や[[百貨店]]などにある[[ジューススタンド]]やケーキ販売店に付随した喫茶コーナーがこれに当たる。しかし、酒類を提供する場合は調理を行わなくても[[許可#許可の例|飲食店営業]]の許可が必要である。 食事類を提供する喫茶店を営業する場合は飲食店営業の許可が必要である。また、カップ式の[[自動販売機]]や、近年[[スーパーマーケット#日本におけるスーパーマーケット|スーパーマーケット]]などに設置されている水の自動販売機も、[[上水道]]に接続されていることなどから、喫茶店営業の許可が必要となる。 さらに、食品衛生法施行令第35条によって、菓子製造業(パンもここに含まれる)、乳類販売業とは別の業種としているため、営業者は注意が必要である。また、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風俗営業法]]に規定される風俗営業など(第1号)喫茶店(第2号)に該当する場合は警察署の許可が別に必要である。例えば、[[ゲーム喫茶]]では[[風俗営業]]の[[風俗第五号営業|五号営業]]の許可を必要とする。許可を得た施設は、食品衛生法と食品衛生法施行令により、保健所の監視または指導を受けることが定められている。 == チェーン店の例 == * [[銀座ルノアール]] * [[ドトールコーヒー]] * [[シャノアール (コーヒーチェーン)|シャノアール]]、[[カフェ・ベローチェ]]、[[珈琲館]] - [[C-United|C-United株式会社]] * [[BECK'S COFFEE SHOP]] - [[JR東日本]]グループ * [[プロントコーポレーション|PRONTO]] * [[コメダ珈琲店]] * [[サンマルクホールディングス#サンマルクカフェ|サンマルクカフェ]] * [[スターバックス]] * [[タリーズコーヒー]] * [[エクセルシオール カフェ]] * [[シアトルズベストコーヒー]] * [[ブルーボトルコーヒー・カンパニー|ブルーボトルコーヒー]] * [[ラッキンコーヒー]](中華人民共和国) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === --> {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[カフェ]] * [[コーヒー・ハウス]](イギリス) * [[純喫茶]](日本) == 外部リンク == * {{wiktionary-inline|喫茶店}} * {{commonscat-inline|Cafés in Japan|日本のカフェ・喫茶店}} {{コーヒーチェーン店}} {{茶}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きつさてん}} [[Category:喫茶店|*]] [[Category:飲食店]] [[Category:喫茶文化|*]]
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中野区
中野区(なかのく)は、東京都区部の西部に位置する特別区。面積は15.59平方キロメートルで、東京23区のうち14番目。隣接している区は、北から時計回りに練馬区、豊島区、新宿区、渋谷区、杉並区である。 旧東京府東多摩郡の東半にあたる。現在は東京都区部の西部にあり、地形的には武蔵野台地の一角である。 鉄道交通では多摩地域と東京都心・副都心を結ぶ位置にあり、JR中央線および相互直通運転する東京メトロ東西線のほか、西武新宿線、東京メトロ丸ノ内線と東西に鉄道が通っている。区役所や中野ブロードウェイ、中野サンモール商店街などがある中野駅周辺は繁華街となっているほか、さらに大きな繁華街である新宿とは鉄道・路線バスの両方で、池袋や渋谷とは路線バスで結ばれており、利便性が高い。 産業は、江戸時代には畑作を中心とする近郊農業と製粉、味噌・醤油醸造など食品工業が整備され、江戸町民の旺盛な食料消費を支える立場にあった。明治中期以降、都心からの転居者などにより人口が増加する。特に1923年の関東大震災以降は浅草から新井薬師周辺へ仏教寺院の移転が始まり、近隣の落合斎場(新宿区上落合)との相乗効果もあって葬祭関連の産業もみられる。第二次世界大戦前は東中野1丁目・2丁目界隈は帝国軍人の街として知られていた。 東京の人口増加に伴い、住宅地化も急速に進んだ。1960年代までに農地はほとんど姿を消した。明治以降、工場立地もある程度進んだが、企業城下町のような工業的発展はない。その他商業、オフィス街としての発展は戦後それなりにあったが、道路網が全般的に脆弱であるため、中野駅周辺は東京の都心や新宿・池袋の副都心地域、さらには都心隣接の旧下町エリアほどの大規模な商業地区化には至らなかった。近年は、新宿に近い中野坂上地区が再開発されて超高層ビルも建ち、コンピュータ・ソフトウェア関連など会社も進出し、中野坂上は「新宿副都心」と呼ばれている。中野駅周辺でも2012年には駅北西の警察学校跡地が再開発されて「中野四季の都市(なかのしきのまち)」が街びらきした。「囲町(かこいちょう)」「なかの新都心」などと呼ばれることがある。 中央線沿線地区を中心に専門学校が数多く存在する。また1950年代以降、多くの漫画家が住んだため、現在も漫画・アニメーション制作は、隣接する杉並区や練馬区、三鷹市などと並んで盛んであり、日本有数のアニメ制作会社の集積地である。 人口密度は20,479.15人/km(2015年4月1日推計)で日本で第2位。なお、1位は東京都豊島区22,569.41人/km。市では埼玉県蕨市13,986.69人/kmが最高。 上記のように道路都市基盤が脆弱であり、2012年4月1日時点、道路率は12.8%で23区中21位。狭幅員道路率は84.0%で23区中最下位である。また、一人当たりの公園面積率は2012年4月1日時点1.33%で、東京23区中22位である。南部を神田川が東流するほかは大きな川がなく、公園を含む緑地が少ない結果として人口密度が高くなっている。 区内全域にわたり戸建住宅や集合住宅が密集して広がっている。低層建築物がほとんどを占めているが、主要道路に面した地域には中層〜高層マンションが多い。区内には木造住宅密集地域(木密地域)が多く、また賃貸住宅の比率が高いため、人口の流動性が高い。建蔽率が高く、隣家との間隔が1m未満の場合であることも珍しくない。緊急車両の進入が困難な狭隘道路が網の目のように存在する。近年では道路拡張などが行われ、耐震構造の住宅も増加しつつあるが、ほとんどが木造住宅であることから、大地震の際には火災危険度が非常に高いとされる。そういった地域は家賃が安く交通が便利なことから、20〜30歳代の若年層の居住がきわめて多く、子供が少ない。 区の中心となる中野駅周辺には複合商業施設である中野ブロードウェイと丸井中野店のほか、中野サンモール商店街などが立地する。丸井は中野駅前が創業の地であり、現在も本社がある。その他、各所に個人経営が中心の商店街が存在する。 2005年に夜間人口(居住者)は310,392人であるが、昼間人口は285,636人で昼は夜の0.920倍の人口になる。都心区では夜に比べ昼の人口が極端に増えるが、住宅地が多くオフィス街が少ない中野区では昼は人口が減少する。 上記の通り、区内全域で住居表示が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、その直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。詳細は中野区の町名。 年代別人口構成がひょうたん型であり、高齢者と若者が多く、若者は出入りが多い。来るもの拒まず、去るもの追わずという雰囲気の中、沖縄出身者やアイヌ民族の文化が融合した祭や、コスプレ・アニメ文化などのサブカルを活かしたまちの賑わい創出イベントが行われたり、ミャンマー人のコミュニティ、ゲイ・タウンなどを包含し、多様性にあふれたダイバシティ・タウンである。 中野区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。 中野区の出先機関。2011年7月19日に、従来の「地域センター」から「地域事務所」及び「区民活動センター」に再編。 区の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」的な機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。以下の5ヵ所に設置。 地域住民による地域自治の活動の拠点として、地域活動の支援や集会室の貸し出しなどを行う。運営は、自治会などを中心とした地域別の運営委員会の協議を踏まえて区が定めている。以下の15ヵ所に設置。 ※は地域事務所を併設 中野区内の図書館のうち、一般利用が可能な公立の施設は7箇所ある。 東日本旅客鉄道(JR東日本) 西武鉄道 東京地下鉄(東京メトロ) 東京都交通局 東京23区で唯一、区内に国道が通っていない。 中野通りは区内を南北に貫く骨格となる道路であるものの、幅員が15m程度となっており片側1車線の区間も多い。なお、道路そのものは計画幅員20mの都市計画道路である。 蓮華寺下交差点(新青梅街道交点)から中野五差路交差点(大久保通り交点)までは概ね4車線(片側2車線)だが、車線の幅が狭いほか駐停車の車両が多いため渋滞することも多い。また、1999年9月ごろまでは新井交差点(早稲田通り交点)に右折専用レーンが無かったが、のちに一部の交差点の拡張は行われているほか、中野駅北口周辺、中野五差路交差点、杉山公園交差点(青梅街道交点)など部分的な拡張事業が継続中である。このほか、西武新宿線では開かずの踏切問題も存在し、連続立体交差事業による解消が進められている。 出身者・居住歴・事業所のある人物を示す。 1960年代から1970年代にかけては、多くの著名人が「中野ブロードウェイマンション」に居住していた。
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中野区(なかのく)は、東京都区部の西部に位置する特別区。面積は15.59平方キロメートルで、東京23区のうち14番目。隣接している区は、北から時計回りに練馬区、豊島区、新宿区、渋谷区、杉並区である。
{{混同|中野市|x1=長野県の}} {{出典の明記|date=2014年9月8日 (月) 02:21 (UTC)}} {{東京都の特別区 | 画像 = Nakano_Sunmall_Entrance.jpg | 画像の説明 = [[中野サンモール商店街]] | 区旗 = [[ファイル:Flag of Nakano, Tokyo.svg|border|100px]] | 区旗の説明 = 中野[[市町村旗|区旗]] | 区章 = [[ファイル:Emblem of Nakano, Tokyo.svg|70px]] | 区章の説明 = 中野[[市町村章|区章]]<br />[[1940年]]制定 | 自治体名 = 中野区 | コード = 13114-8 | 隣接自治体 = [[練馬区]]、[[豊島区]]、[[新宿区]]、[[渋谷区]]、[[杉並区]]<ref name=位置と面積>[https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d003591.html 中野区の位置と面積] 中野区役所(2023年3月20日閲覧)</ref> | 木 = [[シイ|しい]] | 花 = [[ツツジ|つつじ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 164-8501 | 所在地 = 中野区[[中野 (中野区)|中野]]四丁目8番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Tokyo Nakano City Office.jpg|250px|中野区役所]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|114|image=Nakano-ku in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}} | 特記事項 = }} '''中野区'''(なかのく)は、[[東京都]][[東京都区部|区部]]の西部に位置する[[特別区]]<ref name=位置と面積/>。面積は15.59[[平方キロメートル]]で、東京23区のうち14番目<ref name=位置と面積/>。隣接している区は、北から時計回りに[[練馬区]]、[[豊島区]]、[[新宿区]]、[[渋谷区]]、[[杉並区]]である<ref name=位置と面積/>。 == 概要 == [[ファイル:Nakano Oka1.jpg|thumb|right|400px|中野区市街地を望む]] 旧[[東京府]][[東多摩郡]]の東半にあたる。現在は[[東京都区部]]の西部にあり、地形的には[[武蔵野台地]]の一角である。 [[鉄道]]交通では[[多摩地域]]と[[東京都心]]・[[都心#東京の副都心|副都心]]を結ぶ位置にあり、[[中央線快速|JR中央線]]および[[相互直通運転]]する[[東京メトロ東西線]]のほか、[[西武新宿線]]、[[東京メトロ丸ノ内線]]と東西に[[鉄道]]が通っている。区役所や[[中野ブロードウェイ]]、[[中野サンモール商店街]]などがある[[中野駅 (東京都)|中野駅]]周辺は[[繁華街]]となっているほか、さらに大きな繁華街である[[新宿]]とは鉄道・[[路線バス]]の両方で、[[池袋]]や[[渋谷]]とは路線バスで結ばれており、利便性が高い。 産業は、[[江戸時代]]には[[畑作]]を中心とする近郊農業と[[製粉]]、[[味噌]]・[[醤油]]醸造など食品工業が整備され、[[江戸]]町民の旺盛な食料消費を支える立場にあった。[[明治]]中期以降、都心からの転居者などにより人口が増加する。特に[[1923年]]の[[関東大震災]]以降は[[浅草]]から[[新井薬師]]周辺へ[[仏教]][[寺院]]の移転が始まり、近隣の[[落合斎場]](新宿区[[上落合 (新宿区)|上落合]])との相乗効果もあって[[葬祭]]関連の産業もみられる。[[第二次世界大戦]]前は[[東中野 (中野区)|東中野]]1丁目・2丁目界隈は[[日本軍|帝国軍人]]の街として知られていた。 東京の人口増加に伴い、[[住宅地]]化も急速に進んだ。1960年代までに農地はほとんど姿を消した。明治以降、工場立地もある程度進んだが、[[企業城下町]]のような工業的発展はない。その他商業、[[オフィス街]]としての発展は戦後それなりにあったが、道路網が全般的に脆弱であるため、中野駅周辺は東京の都心や新宿・池袋の副都心地域、さらには都心隣接の旧[[下町]]エリアほどの大規模な商業地区化には至らなかった。近年は、新宿に近い[[中野坂上]]地区が再開発されて[[超高層建築物|超高層ビル]]も建ち、[[コンピュータ]]・[[ソフトウェア]]関連など会社も進出し、中野坂上は「新宿副都心」と呼ばれている。中野駅周辺でも2012年には駅北西の[[警察学校]]跡地が再開発されて「[[中野四季の都市]](なかのしきのまち)」が街びらきした。「囲町(かこいちょう)」「なかの新都心」などと呼ばれることがある。 中央線沿線地区を中心に[[専門学校]]が数多く存在する。また1950年代以降、多くの[[漫画家]]が住んだため、現在も[[漫画]]・[[アニメーション]]制作は、隣接する杉並区や練馬区、[[三鷹市]]などと並んで盛んであり、日本有数の[[アニメ制作会社]]の集積地である。 [[人口密度]]は20,479.15人/[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]](2015年4月1日推計)で日本で第2位。なお、1位は東京都[[豊島区]]22,569.41人/km<sup>2</sup>。市では[[埼玉県]][[蕨市]]13,986.69人/km<sup>2</sup>が最高。 上記のように道路都市基盤が脆弱であり、2012年4月1日時点、道路率は12.8%で23区中21位。狭幅員道路率は84.0%で23区中最下位である。また、一人当たりの[[公園]]面積率は2012年4月1日時点1.33%で、東京23区中22位である。南部を[[神田川 (東京都)|神田川]]が東流するほかは大きな[[川]]がなく、公園を含む緑地が少ない結果として人口密度が高くなっている。 === 住宅地 === 区内全域にわたり戸建住宅や[[集合住宅]]が密集して広がっている。[[低層建築物]]がほとんどを占めているが、主要道路に面した地域には[[中層建築物|中層]]〜[[超高層マンション|高層マンション]]が多い。区内には[[木造住宅密集地域]](木密地域)が多く<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku/shingikai/pdf/riyou02_09.pdf|title=木造住宅密集地域の状況について|accessdate=2022/01/12|publisher=東京都}}</ref>、また賃貸住宅の比率が高いため、[[人口]]の流動性が高い。建蔽率が高く、隣家との間隔が1m未満の場合であることも珍しくない。[[緊急車両]]の進入が困難な[[狭隘道路]]が網の目のように存在する。近年では道路拡張などが行われ、[[耐震]]構造の住宅も増加しつつあるが、ほとんどが[[木造住宅]]であることから、[[巨大地震|大地震]]の際には[[火災]]危険度が非常に高い<ref>[https://web.archive.org/web/20130508064210/https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/502000/d002096_d/fil/120.pdf]</ref>とされる。そういった地域は[[家賃]]が安く[[交通]]が便利なことから、20〜30歳代の[[青年|若年層]]の居住がきわめて多く、[[子供]]が少ない。 === 商業地 === 区の中心となる中野駅周辺には[[複合商業施設]]である[[中野ブロードウェイ]]と[[丸井]]中野店のほか、中野サンモール商店街などが立地する。丸井は中野駅前が創業の地であり、現在も本社がある。その他、各所に個人経営が中心の商店街が存在する。 == 人口 == {{人口統計|code=13114|name=中野区|image=Population distribution of Nakano, Tokyo, Japan.svg}} === 人口 === 2005年に夜間人口(居住者)は310,392人であるが、[[昼間人口]]は285,636人で昼は夜の0.920倍の人口になる<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2005』(平成20年発行)pp.128-129</ref>。都心区では夜に比べ昼の人口が極端に増えるが、住宅地が多くオフィス街が少ない中野区では昼は人口が減少する。 == 地形 == === 台地 === * 沼袋台地 * 野方台地 * 中野台地 * 幡ヶ谷台地 * 落合台地 === 河川・水路 === * [[神田川 (東京都)|神田川]] * [[妙正寺川]] * [[善福寺川]] * [[江古田川]] * 旧[[桃園川]](現在、広域下水道として[[暗渠]]となり、河川法の適用除外) * [[荒玉水道]] * [[千川上水]](現在は暗渠となり、[[東京都道439号椎名町上石神井線|千川通り]]となっている) == 歴史 == ; 近世以前 [[画像:Tahōzan Jōganji Temple, Nakano City, Tokyo.jpg|thumb|250px|中野長者ゆかりの[[成願寺 (中野区)|成願寺]]]] * [[1400年]]前後「中野長者」こと[[鈴木九郎]](1371年ごろ - 1440年)が中野の地を開拓。 * [[1447年]]([[文明 (日本)|文明]]9年)[[4月14日 (旧暦)|4月14日]] [[江古田原・沼袋の戦い]]で[[太田道灌]]が[[豊島泰経]]を破る。 ; 近世 * [[1590年]]([[天正]]18年) [[後北条氏]]が[[小田原征伐]]を受けて[[豊臣政権]]に降伏し、[[武蔵国]]など[[関東]]に[[徳川家康]]が国替えとなる。 * [[1591年]](天正19年) 中野郷で[[検地]]が行われる。 * [[関ヶ原の戦い]](1600年)で勝利した家康により[[江戸幕府]]が開かれ、[[江戸時代]]を通じて江戸とその近郊は発展した。中野郷は11村に分割され(中野、本郷、雑色、江古田、片山、上高田、新井、上沼袋、下沼袋、上鷺宮、下鷺宮)、後に本郷村から本郷新田村が分村され12村となる。他に江戸時代には「大場」「新橋」の村名記録もある。 * [[1606年]]([[慶長]]11年) 成木街道(現:[[青梅街道]])が開かれ、中野村内に馬継場が置かれる。同街道は「御白土街道」とも呼ばれた。 * [[1695年]]([[元禄]]8年) [[生類憐れみの令]]に伴い、中野村内(現:中野4丁目付近)に[[野犬]]を収容する犬小屋を作る。 ; 近代 * [[1875年]](明治8年)[[4月20日]] 公立小学校として桃園学校が開校(現在の中野区内で最初の小学校)。 * [[1889年]](明治22年)[[4月11日]] [[甲武鉄道]](現在の中央線[[新宿駅]]〜[[八王子駅]])開通。[[中野駅 (東京都)|中野駅]]が設置される。 * [[1904年]](明治37年)8月 甲武鉄道[[飯田町駅]]〜中野駅で電車運転開始(日本初の電車営業運転)。 * [[1906年]](明治39年)[[6月14日]] 甲武鉄道に柏木駅(現:[[東中野駅]])開設。 * 1906年(明治39年)[[10月1日]] 甲武鉄道が国有化される。 * [[1921年]]([[大正]]10年)[[8月25日]] [[都電杉並線#前史|西武軌道荻窪線]][[淀橋]]〜[[荻窪駅|荻窪]]開通。[[中野町 (東京府)|中野町]]内の停留場は淀橋、[[三井住友銀行|住友銀行]]前、[[宝仙寺]]前、中野警察署前、[[東京中野銀行|中野銀行]]前、登記所前、[[鍋屋横丁]]、追分、西町が設置されていた。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月16日]] [[西武鉄道]]村山線(現:[[西武新宿線]][[高田馬場駅]]〜[[東村山駅]])開通。[[野方町]]内の駅は[[新井薬師前駅]]、[[沼袋駅]]、[[野方駅]]、[[鷺ノ宮駅]]が開設された。 * [[1928年]](昭和3年)5月 [[鉄道省]]中央線新宿駅〜中野駅の[[複々線化]]が完成。 * [[1937年]](昭和12年)[[12月25日]] 西武鉄道村山線に府立家政駅(現:[[都立家政駅]])開設。 * [[1944年]](昭和19年) [[太平洋戦争]]の戦局悪化に伴い中野区内の[[屎尿]]の[[汲み取り式便所|汲み取り]]、輸送が遅れて衛生状態が悪化。西武鉄道[[井荻駅]]を積み出し駅として[[鉄道による糞尿輸送]]が始まる<ref>「西武線などで深夜運転」『日本産業経済新聞』1944年6月9日(昭和ニュース編集委員会編『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p.243)</ref>。 ; 現代 * [[1946年]](昭和21年)[[8月30日]] 区内で行われた[[配給]]の[[小麦粉]]が原因で集団[[食中毒]]が発生。被害者約5000人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=65 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1951年]](昭和26年)[[5月1日]] 西武鉄道新宿軌道線(旧西武軌道荻窪線)を東京都に譲渡([[都電杉並線|東京都電14系統杉並線]])。 * [[1952年]](昭和27年)[[10月5日]] 中野区の公選教育委員選挙実施。1956年6月に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が成立し、教育委員は任命制となった。 * [[1961年]](昭和36年)[[2月8日]] [[帝都高速度交通営団]]荻窪線(現:[[東京メトロ丸ノ内線方南町支線|丸ノ内線方南町支線]])新宿駅〜[[新中野駅]]および[[中野坂上駅]]〜[[中野富士見町駅]]が開通。 * 1961年(昭和36年)[[11月1日]] 荻窪線(現:丸ノ内線)新中野駅〜[[南阿佐ケ谷駅]]が開通。 * [[1963年]](昭和38年)[[12月1日]] 東京都電14系統杉並線廃止。 * [[1966年]](昭和41年)[[3月16日]] 帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄)東西線中野駅〜高田馬場駅が開通(初の[[日本国有鉄道]]と地下鉄の相互乗り入れとなる)。 * [[1973年]](昭和48年) [[中野サンプラザ]](現サンプラザ)竣工、6月1日開業。 * [[1976年]](昭和51年)5月 [[日本電信電話]]公社中野ビル(現NTTドコモ中野ビル)竣工(中野区内初の[[超高層ビル]])。 * [[1982年]](昭和57年)[[2月24日]] [[防災行政無線]]運用開始。 * [[1997年]]([[平成]]9年)[[12月19日]] [[東京都交通局]]地下鉄12号線(現:[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])[[練馬駅]]〜新宿駅開通(区内では東中野駅を経由)。 * [[2005年]](平成17年)[[11月30日]] [[コミュニティバス]]「なかのん」運行開始。鷺宮・上鷺宮地区から区役所へのアクセス利便性向上を図る。 * [[2012年]](平成24年)3月 「[[中野四季の都市]]」が街びらき。 * [[2018年]](平成30年)8月20日:[[日本における同性結婚|パートナーシップ宣誓制度]]を導入(2022年に[[東京都におけるLGBTの権利|東京都パートナーシップ宣誓制度]]との連携協定を締結)<ref>[https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/101500/d026072.html 中野区パートナーシップ宣誓について] 中野区役所(2023年3月20日閲覧)</ref>。 * [[2023年]]([[令和]]5年)3月19日:中野区初の[[文学賞]]「東京中野物語2022文学賞」の授賞式を開催<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/239068 中野区初の文学賞 授賞式/大賞は原浩一郎さんの「悔いの華」]『[[東京新聞]]』朝刊2023年3月20日(都心面)同日閲覧</ref>。 ; 区の沿革 * [[1868年]]([[慶応]]4年)[[6月29日 (旧暦)|6月29日]] [[版籍奉還]]により武蔵国[[多摩郡]]内の、現在の中野区にほぼ相当する12村は[[武蔵知県事]]の管理下に属する。 * 『[[旧高旧領取調帳]]』に記載されている明治初年時点での、多摩郡のうち後の[[東多摩郡]]域(現在の中野区・杉並区にあたる地域)の支配は以下の通り。幕府領は代官・松村忠四郎支配所が管轄。●は村内に[[寺社領]]が存在。(32村) {| class="wikitable" |- ! style="width:25%;" colspan="2" | [[知行]] ! style="width:5%;" | 村数 ! 村名 |- | rowspan="4" | [[天領|幕府領]] | 幕府領 | 12村 | ●中野村、[[高円寺村]]、馬橋村、久我山村、[[高井戸宿|上高井戸村、下高井戸村]]、中高井戸村、田端村、成宗村、本郷新田、和泉新田(和泉村のうち)、大宮前新田、松庵村 |- | [[地方知行|旗本領]] | 7村 | ●上鷺之宮村、和泉村、上高田村、片山村、●和田村、●上井草村、●下井草村 |- | 幕府領、旗本領 | 8村 | 江古田村、雑色村、●永福寺村、●上荻窪村、新井村、下鷺之宮村、上沼袋村、下沼袋村 |- | 鉄砲玉薬組[[同心]]給地 | 1村 | ●本郷村 |- | その他 | 寺社領 | 4村 | 下荻窪村、天沼村、阿佐ヶ谷村、堀之内村 |} * [[1868年]](慶応4年) ** [[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[8月27日]]) 旧江戸幕府代官の松村長為(忠四郎)が[[武蔵知県事]]に就任。現中野区にあたる地域を管轄。 ** [[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[9月23日]]) 松村長為知県事が[[古賀定雄]](一平)に交代。 * [[1869年]] ** 明治2年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[3月21日]]) [[太政官布告・太政官達|太政官布達]]により古賀知県事の管轄区域に'''[[品川県]]'''を設置、現中野区にあたる地域は品川県に属す。 * [[1870年]] ** 明治2年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[1月19日]]) [[文政の改革|寄場組合]]を廃止し24の番組を設置。現在の中野区・杉並区にあたる地域は6・18・21・22・23番組のそれぞれ一部に相当<ref>{{cite|和書|editor=東京都品川区|year=1970|title=品川県史料|series=品川区史|ncid=BN05722063}}</ref>。 * [[1871年]](明治4年)[[11月14日 (旧暦)|11月14日]]([[12月25日]]) 府県統合により品川県を廃止し'''[[東京府]]'''(第2次)が発足<ref>[{{NDLDC|787951/232}} 明治4年太政官布告第594号] [[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー</ref>。 * [[1872年]] ** 明治4年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1月14日]]) 現中野区にあたる地域の[[東京府]]への編入成る。 ** 明治5年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]([[3月1日]]) 多摩郡全域が[[神奈川県]]に移管される<ref>{{cite book|和書|editor=中野区民生活史編集委員会|title=中野区民生活史|volume=1|publisher=中野区|year=1982|page=79|id={{全国書誌番号|83003326}}}}</ref>。後の東多摩郡(現中野区・杉並区)に相当する地域32村が東京府に戻る運動を展開。 ** [[8月19日 (旧暦)|8月19日]]([[9月21日]]) 現中野区域12村(中野村・江古田村・上鷺之宮村・雑色村・本郷村・本郷新田・新井村・上高田村・片山村・下鷺之宮村・上沼袋村・下沼袋村)が東京府の管轄に戻される<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000847077|神奈川県管地ヲ東京府ニ分属}}</ref>。9月10日(10月12日)に編入。 * [[1878年]](明治11年)[[11月2日]] 郡区町村編制法により多摩郡は4郡に分割される。12村は[[東多摩郡]]に属する。 * [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] 町村制施行により本郷・本郷新田・雑色の各村は'''中野村'''に吸収合併され、江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮の各村は対等合併して'''野方村'''となる。 * [[1896年]](明治29年)[[4月1日]] 東多摩郡が[[南豊島郡]]と合併し、[[豊多摩郡]]となる。 * [[1897年]](明治30年)[[2月1日]] 中野村に町制施行。'''[[中野町 (東京府)|中野町]]'''となる。 * [[1924年]](大正13年)[[4月1日]] 野方村に町制施行。'''[[野方町]]'''となる。 * [[1931年]](昭和6年)1月 中野町において字名改正実施。3つの[[大字]]および43あった[[小字]]を60町(大字)に再編。 * [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]] 豊多摩郡を含む周辺5郡が[[東京15区|東京市(15区)]]に[[編入合併|編入]]されて[[東京市]]域が拡大、35区が成立。この際、中野町と野方町の区域をもって'''中野区'''となる。名称は「中野」の中と「野方」の野を1文字ずつ取ったという説と、「中野町」からそのまま取ったという説の両方がある。 * [[1936年]](昭和11年)11月 それまで宝仙寺[[境内]]にあった中野区役所を宮園通4丁目(現在、[[中野郵便局]]がある場所)に移転。 * [[1943年]](昭和18年)7月1日 [[東京都制]]施行により東京市は廃止され、東京都中野区となる。 * [[1947年]](昭和22年)5月3日 - 地方自治法の施行により中野区は特別区となる。 * [[1950年]](昭和25年)8月 初代「[[中野区歌]]」(作詞・吉田啓文、補作/作曲・[[堀内敬三]])を制定。 * [[1953年]](昭和28年)[[8月15日]] 地方自治法改正施行により区長公選制廃止。ただし、当時公選されていた中野区長は、その後の区議会でも選任され、1963年まで在任した。 * [[1960年]](昭和35年)[[3月26日]] 杉並区との境界を変更<ref>[[s:特別区の境界変更 (昭和35年総理府告示第116号)|昭和35年4月2日、総理府告示第116号]]</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)[[6月1日]] [[住居表示に関する法律]]による[[住居表示]]の実施が完了(1931年から1934年までに成立した町名の多くが変更さ町内会の範囲と町名とのずれが固定化する) * [[1968年]](昭和43年)10月 中野区役所を中野4丁目(警察大学敷地東部分だった場所)に移転。 * [[1975年]](昭和50年)[[4月27日]] 地方自治法改正により区長選挙実施(中野区区長準公選条例は廃止) * [[2015年]](平成27年)[[3月13日]] 初代「中野区歌」を廃止し、2代目[[区歌]]「未来カレンダー Forever Nakano」(作詞・[[阿木燿子]]、補作/作曲・[[宇崎竜童]])を制定。 == 町名 == 上記の通り、区内全域で住居表示が実施されている。以下は住居表示実施後の町名と、その直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。詳細は[[中野区の町名]]。 {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |-中野区役所管内(85町丁) ! style="width:15%"|町名 ! style="width:15%"|住居表示実施年月日 ! style="width:40%"|住居表示実施直前町名 ! style="width:25%"|備考 |- |{{ruby|'''[[新井 (中野区)|新井]]'''|あらい}}'''一丁目''' |1966年2月1日 |新井町、昭和通3 | |- |'''新井二丁目''' |1966年2月1日 |新井町、野方町2 | |- |'''新井三丁目''' |1966年2月1日 |新井町、野方町2 | |- |'''新井四丁目''' |1966年2月1日 |新井町 | |- |'''新井五丁目''' |1966年2月1日 |新井町 | |- |{{ruby|'''[[江古田]]'''|えごた}}'''一丁目''' |1963年10月1日 |江古田1、江古田2・3 | |- |'''江古田二丁目''' |1963年10月1日 |江古田3、江古田4 | |- |'''江古田三丁目''' |1963年10月1日 |江古田3、江古田1 | |- |'''江古田四丁目''' |1964年12月1日 |江古田4 | |- |{{ruby|'''[[江原町 (中野区)|江原町]]'''|えはらちょう}}'''一丁目''' |1963年10月1日 |江古田2、江古田1 | |- |'''江原町二丁目''' |1963年10月1日 |江古田2、江古田3 | |- |'''江原町三丁目''' |1963年10月1日 |江古田2 | |- |{{ruby|'''[[上鷺宮]]'''|かみさぎのみや}}'''一丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮5 | |- |'''上鷺宮二丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮5 | |- |'''上鷺宮三丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮5 | |- |'''上鷺宮四丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮6 | |- |'''上鷺宮五丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮6、鷺宮5 | |- |{{ruby|'''[[上高田]]'''|かみたかだ}}'''一丁目''' |1966年2月1日 |上高田1、昭和通1・2 | |- |'''上高田二丁目''' |1966年2月1日 |上高田1、昭和通3、新井町 | |- |'''上高田三丁目''' |1966年2月1日 |上高田1、上高田2 | |- |'''上高田四丁目''' |1966年2月1日 |上高田2 | |- |'''上高田五丁目''' |1966年2月1日 |上高田2、上高田1、江古田1 | |- |{{ruby|'''[[鷺宮]]'''|さぎのみや}}'''一丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮1・3 | |- |'''鷺宮二丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮3 | |- |'''鷺宮三丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮3 | |- |'''鷺宮四丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮4 | |- |'''鷺宮五丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮5、鷺宮6 | |- |'''鷺宮六丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮6、鷺宮5 | |- |{{ruby|'''[[白鷺 (中野区)|白鷺]]'''|しらさぎ}}'''一丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮2、鷺宮1 | |- |'''白鷺二丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮2、鷺宮4 | |- |'''白鷺三丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮4 | |- |{{ruby|'''[[中央 (中野区)|中央]]'''|ちゅうおう}}'''一丁目''' |1967年6月1日 |小淀町(全)、塔ノ山町、本町通1、宮園通1、川添町 | |- |'''中央二丁目''' |1967年6月1日 |宮前町(全)、塔ノ山町、本町通2・3、宮園通1・2 | |- |'''中央三丁目''' |1967年6月1日 |仲町(全)、上町、本町通3、宮園通3 | |- |'''中央四丁目''' |1967年6月1日 |上町、橋場町、本町通4・5、宮園通3・4 | |- |'''中央五丁目''' |1967年6月1日 |橋場町、本町通5・6、宮園通5 | |- |{{ruby|'''[[中野 (中野区)|中野]]'''|なかの}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |城山町(全)、宮園通2・3 | |- |'''中野二丁目''' |1966年10月1日 |千光前町(全)、中野駅前、宮園通3・4 | |- |'''中野三丁目''' |1966年10月1日 |桃園町(全)、中野駅前、宮園通4・5 | |- |'''中野四丁目''' |1966年10月1日 |囲町(全)、野方町2、新井町 | |- |'''中野五丁目''' |1966年10月1日 |打越町(全)、天神町(全)、昭和通3、新井町 | |- |'''中野六丁目''' |1966年10月1日 |文園町(全)、昭和通2 | |- |{{ruby|'''[[沼袋]]'''|ぬまぶくろ}}'''一丁目''' |1964年12月1日 |沼袋町、江古田4 | |- |'''沼袋二丁目''' |1964年12月1日 |沼袋町、江古田4 | |- |'''沼袋三丁目''' |1964年12月1日 |沼袋町 | |- |'''沼袋四丁目''' |1964年12月1日 |沼袋町、江古田4 | |- |{{ruby|'''[[野方 (中野区)|野方]]'''|のがた}}'''一丁目''' |1964年12月1日 |野方町2 | |- |'''野方二丁目''' |1964年12月1日 |野方町2、 | |- |'''野方三丁目''' |1964年12月1日 |野方町1 | |- |'''野方四丁目''' |1964年12月1日 |野方町1、江古田4 | |- |'''野方五丁目''' |1964年12月1日 |野方町1、大和町 | |- |'''野方六丁目''' |1964年12月1日 |野方町1、鷺宮3 | |- |{{ruby|'''[[東中野 (中野区)|東中野]]'''|ひがしなかの}}'''一丁目''' |1966年10月1日 |氷川町(全)、川添町、宮園通1 | |- |'''東中野二丁目''' |1966年10月1日 |上ノ原町(全)、高根町(全)、宮園通1 | |- |'''東中野三丁目''' |1966年10月1日 |桜山町、昭和通1 | |- |'''東中野四丁目''' |1966年10月1日 |住吉町(全)、桜山町、小滝町 | |- |'''東中野五丁目''' |1966年10月1日 |小滝町 | |- |{{ruby|'''[[本町 (中野区)|本町]]'''|ほんちょう}}'''一丁目''' |1967年6月1日 |相生町(全)、本町通1 | |- |'''本町二丁目''' |1967年6月1日 |朝日ケ丘、東郷町、本町通2 | |- |'''本町三丁目''' |1967年6月1日 |朝日ケ丘、東郷町、道玄町、本町通3 | |- |'''本町四丁目''' |1967年6月1日 |道玄町、宮里町、西町、本町通3・4・5 | |- |'''本町五丁目''' |1967年6月1日 |千代田町(全)、宮里町 | |- |'''本町六丁目''' |1967年6月1日 |西町、本町通5・6 | |- |{{ruby|'''[[松が丘 (中野区)|松が丘]]'''|まつがおか}}'''一丁目''' |1963年10月1日 |江古田1、新井町 | |- |'''松が丘二丁目''' |1963年10月1日 |江古田1、新井町 | |- |{{ruby|'''[[丸山 (中野区)|丸山]]'''|まるやま}}'''一丁目''' |1964年12月1日 |江古田4 | |- |'''丸山二丁目''' |1964年12月1日 |江古田4、鷺宮3 | |- |{{ruby|'''[[南台 (中野区)|南台]]'''|みなみだい}}'''一丁目''' |1967年6月1日 |新山通1、栄町通1 | |- |'''南台二丁目''' |1967年6月1日 |前原町(全)、新山通1、栄町通2 | |- |'''南台三丁目''' |1967年6月1日 |多田町(全)、栄町通2・3 | |- |'''南台四丁目''' |1967年6月1日 |新山通2・3(全)、八島町、新山通1 | |- |'''南台五丁目''' |1967年6月1日 |雑色町(全)、八島町、栄町通3 | |- |{{ruby|'''[[大和町 (中野区)|大和町]]'''|やまとちょう}}'''一丁目''' |1965年7月1日 |大和町、野方町2 | |- |'''大和町二丁目''' |1965年7月1日 |大和町、野方町2 | |- |'''大和町三丁目''' |1965年7月1日 |大和町 | |- |'''大和町四丁目''' |1965年7月1日 |大和町、鷺宮1 | |- |{{ruby|'''[[弥生町 (中野区)|弥生町]]'''|やよいちょう}}'''一丁目''' |1967年6月1日 |本郷通1(全)、向台町(全)、栄町通1 | |- |'''弥生町二丁目''' |1967年6月1日 |本郷通2(全)、本郷通3 | |- |'''弥生町三丁目''' |1967年6月1日 |川島町(全)、栄町通1 | |- |'''弥生町四丁目''' |1967年6月1日 |新明町(全)、栄町通2 | |- |'''弥生町五丁目''' |1967年6月1日 |富士見町(全)、本郷通3、栄町通2・3 | |- |'''弥生町六丁目''' |1967年6月1日 |広町(全)、栄町通3 | |- |{{ruby|'''[[若宮 (中野区)|若宮]]'''|わかみや}}'''一丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮1、野方町1、大和町 | |- |'''若宮二丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮1、大和町 | |- |'''若宮三丁目''' |1965年7月1日 |鷺宮1・3 | |- |} == 文化 == 年代別人口構成がひょうたん型であり、[[高齢者]]と若者が多く、若者は出入りが多い。来るもの拒まず、去るもの追わずという雰囲気の中、[[沖縄県|沖縄]]出身者や[[アイヌ]]民族の文化が融合した祭や、コスプレ・アニメ文化などのサブカルを活かしたまちの賑わい創出イベントが行われたり、ミャンマー人のコミュニティ、[[ゲイ・タウン]]などを包含し、多様性にあふれたダイバシティ・タウンである。 == 地域 == === 祭事・催事 === {{columns-list|colwidth=16em| * 江古田[[獅子舞]] * 鷺宮囃子 * チャランケ祭 * 中野通り桜まつり(4月上旬) * 中野区伝統工芸展(6月上旬) * 中野チャンプルーフェスタ(7月中旬) * 起創展街 [[中野にぎわいフェスタ]](10月中旬) * 東北復興大祭典(10月上旬) * なかのまちめぐり博覧会(11月上旬〜下旬) }} === ナンバープレート === 中野区は、練馬ナンバー([[東京運輸支局]])を割り当てられている<ref>練馬ナンバー割り当て地域は他に新宿区、[[文京区]]、豊島区、[[北区 (東京都)|北区]]、練馬区がある。[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/s_tokyo/map_riku.html 東京運輸支局管轄区域] 国土交通省関東運輸局( 2021年7月16日閲覧)。</ref>。 === メディア === * [[ジェイコム中野]] == 行政 == === 区長 === * 区長:[[酒井直人]] (2期目) ** 任期:2018年(平成30年)6月15日 - 2026年(令和8年)6月14日<ref name="任期満了日">[http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/schedule/schedule04.html 東京都選挙管理委員会 | 都内選挙スケジュール | 任期満了日(定数)一覧] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20151119222128/http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/schedule/schedule04.html |date=2015年11月19日 }}</ref> * 副区長:横山克人<ref>[http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d025937.html 2018年7月14日新しく副区長が任命されました | 中野区公式ホームページ]</ref> * 副区長:白戸純<ref>{{Cite web|和書|title=2018年10月17日 新しく副区長が任命されました {{!}} 中野区公式ホームページ|url=https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d026344.html|website=www.city.tokyo-nakano.lg.jp|accessdate=2021-05-24}}</ref> * 教育長: 欠員 ; 歴代区長 # 杉椙三(1932年10月-1933年11月) # 野中富三郎(1933年11月-1936年10月) # [[加藤守道]](1936年10月-1937年12月) # 福島正守(1937年12月-1938年12月) # 斎藤助昇(1938年12月-1942年9月) # 沖塩正夫(1942年9月-1943年7月) # 富田繁昭(1943年7月-1944年6月) # 山口喬蔵(1944年6月-1945年10月) # [[皆川五郎]](1945年10月29日-1963年1月31日) 1947年の公選制開始から1955年の公選制廃止までは2期 # [[上山輝一]](1963年3月22日-1971年3月27日) # [[大内正二]](1971年10月8日-1979年4月26日) 1975年の公選制再開後は1期 # [[青山良道]](1979年4月27日-1986年4月23日)2期 # [[神山好市]](1986年6月15日-2002年6月14日)4期 # [[田中大輔 (政治家)|田中大輔]](2002年6月15日-2018年6月14日)4期<ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201806/CK2018061202000126.html |title=中野区民 刷新を支持 新区長に酒井直人さん |newspaper=東京新聞 |date=2018-06-12 |accessdate=2018-06-17}}</ref> === 環境への取組み === * 第6回[[持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテスト]]に参加。 === 地域事務所・区民活動センター === 中野区の出先機関。2011年7月19日に、従来の「地域センター」から「地域事務所」及び「区民活動センター」に再編<ref>[http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/172000/d011932.html 地域センターは、平成23年7月19日に、「区民活動センター」と「地域事務所」に再編しました] 中野区役所(2011年3月17日更新)2021年7月16日閲覧</ref>。 ==== 地域事務所 ==== 区の行政機構の一部を分担し、「地域の区役所」的な機能を果たす。住民異動届の受付や証明書の発行、福祉サービスなどの受付、各種公金の収納などの窓口サービスを行う。以下の5ヵ所に設置。 ; 南中野地域 : 南中野地域事務所 所在地:南台三丁目6番17号 ; 東部地域 : 東部地域事務所 所在地:中央二丁目18番21号 ; [[江古田|江古田地域]] : 江古田地域事務所 所在地:江原町二丁目3番15号 ; [[野方 (中野区)|野方地域]] : 野方地域事務所 所在地:野方五丁目3番1号 ; [[鷺宮|鷺宮地域]] : 鷺宮地域事務所 所在地:鷺宮三丁目22番5号 === 区民活動センター === 地域住民による地域自治の活動の拠点として、地域活動の支援や集会室の貸し出しなどを行う。運営は、[[町内会|自治会]]などを中心とした地域別の運営委員会の協議を踏まえて区が定めている。以下の15ヵ所に設置。 ※は地域事務所を併設 {{columns-list|colwidth=7em| * 南中野※ * 弥生 * 鍋横 * 東部※ * 桃園 * 昭和 * 東中野 * 上高田 * 新井 * 江古田※ * 沼袋 * 野方※ * 大和 * 鷺宮※ * 上鷺宮}} === 姉妹・提携都市 === * {{Flagicon|JPN}} [[福島県]][[田村市]](旧[[常葉町]])姉妹都市:[[1982年]][[10月1日]]締結 * {{Flagicon|CHN}} [[北京市]][[西城区]] 友好区:[[1986年]][[9月5日]]締結 * {{Flagicon|KOR}} [[ソウル特別市]][[陽川区]] 姉妹都市:[[2010年]][[11月8日]]締結 * {{Flagicon|JPN}}[[群馬県]][[みなかみ町]] 里・まち連携:[[2012年]][[9月18日]]締結 * {{Flagicon|JPN}}[[青森県]][[青森市]] 交流連携都市:[[2014年]][[4月9日]]締結 == 議会 == === 中野区議会 === {{main|中野区議会}} * 定数:42人 現員:41人 * 任期:2019年(令和元年)5月1日 - 2023年(令和5年)4月30日<ref>[http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/711000/d004577_d/fil/sennkyo.pdf 2015年4月26日執行中野区議会議員選挙の記録 | 中野区公式ホームページ]</ref> * 議長:いでい良輔(自由民主党議員団) * 副議長:南かつひこ(公明党議員団) {| class="wikitable" | |+ 会派別名簿(2018年7月9日現在)<ref>[http://kugikai-nakano.jp/giin_list.html?kaiha_id=1 会派等の構成(第22期)、中野区議会]</ref> !style="width:9em;" | 会派名 !! 議席数 !! 議員名(◎は代表者) |- | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]議員団 || align="right" | 12 ||◎伊東しんじ、 加藤たくま、若林しげお、いでい良輔、高橋かずちか、内川和久、佐野れいじ、北原ともあき、大内しんご、高橋ちあき、伊藤正信、篠国昭 |- | [[公明党]]議員団 || align="right" | 9 || ◎平山英明、日野たかし、木村広一、甲田ゆり子、小林ぜんいち、白井ひでふみ、南かつひこ、小林秀明、久保りか |- | [[日本共産党]]議員団 || align="right" |6 || ◎長沢和彦、羽鳥だいすけ、広川まさのり、いさ哲郎、小杉一男、来住和行 |- | [[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主]]議員団 || align="right" | 6 || ◎中村延子、ひやま隆、山本たかし、森たかゆき、酒井たくや、杉山司 |- |style="font-size:70%;"| [[都民ファーストの会|都民ファースト]]‣無所属の会 || align="right" | 3 || ◎内野大三郎、渡辺たけし、いながきじゅん子 |- | [[無所属]] || align="right" | 5 || 細野かよこ、小宮山たかし、[[石坂わたる]]、近藤さえ子、むとう有子 |- | align="center" | 計 || align="right" | 41 || |} === 東京都議会 === ; 2021年東京都議会議員選挙 * 選挙区:中野区選挙区 * 定数:3人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月2日 * 当日有権者数:279,101人 * 投票率:43.56% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | [[西沢圭太]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 41 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 35,749票 |- | [[荒木千陽]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 39 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 32,743票 |- | 高倉良生 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 64 || 公明党 || style="text-align:center" | 現 || 24,364票 |- | 出井良輔 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 48|| 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 22,527票 |- | 沢口祐司 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 66 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 3,826票 |} ; 2017年東京都議会議員選挙 * 選挙区:中野区選挙区 * 定数:3人(※2017年の選挙から4人→3人に変更) * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:273,400人 * 投票率:50.72% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 荒木千陽 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 35 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 44,104票 |- | 高倉良生 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 60 || [[公明党]] || style="text-align:center" | 現 || 24,647票 |- | 西沢圭太 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 37 || [[民進党]] || style="text-align:center" | 現 || 23,874票 |- | [[川井重勇]] || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 69 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 22,535票 |- | 浦野智美 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 36 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 20,106票 |- | 白柏貴子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 33 || [[幸福実現党]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align:right" | 1,118票 |} === 衆議院 === ; 東京都第7区 * 選挙区:[[東京都第7区|東京7区]]([[渋谷区]]、中野区の一部、杉並区[[方南]]、[[品川区]]の一部、[[目黒区]]の一部) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:459,575人 * 投票率:56.47% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[長妻昭]] || align="center" | 61 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 124,541票 || align="center" | ○ |- | || [[松本文明]] || align="center" | 72 || 自由民主党 || align="center" | 前 || align="right" | 81,087票 || align="center" | ○ |- | || 辻健太郎 || align="center" | 35 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 37,781票 || align="center" | ○ |- | || 込山洋 || align="center" | 47 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 5,665票 || |- | || 猪野恵司 || align="center" | 38 || <small>[[NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || align="center" | 新 || align="right" | 3,822票 || |} ; 東京都第10区 * 選挙区:[[東京都第10区|東京10区]](新宿区の一部、中野区の一部、豊島区の一部、練馬区の一部) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:479,088人 * 投票率:56.50% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[鈴木隼人 (政治家)|鈴木隼人]] || align="center" | 44 || 自由民主党 || align="center" | 前 || 115,122.<small>887</small>票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd" | 比当 || [[鈴木庸介]] || align="center" | 45 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 107,920.<small>109</small>票 || align="center" | ○ |- | || 藤川隆史 || align="center" | 65 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || align="center" | 新 || align="right" | 30,574票 || align="center" | ○ |- | || 小山徹 || align="center" | 46 || 無所属 || align="center" | 新 || align="right" | 4,684票 || |- | || 沢口祐司 || align="center" | 67 || 新党日本のこころ || align="center" | 新 || align="right" | 4,552票 || |} == 商業ランドマーク == * [[ハーモニースクエア]] * [[中野坂上サンブライトビル]] * [[中野坂上セントラルビル]] * [[住友中野坂上ビル]]:以上4つのビルは中野坂上交差点にある[[高層ビル]]。1990年代後半の再開発で建てられた。 * 中野セントラルパークサウス(南棟) * 中野セントラルパークイースト(東棟):以上2つのビルは警察学校跡地([[中野四季の都市]])の再開発で建てられた。2012年に竣工。 * [[中野ブロードウェイ]] * [[ユニゾンスクエア]]:東中野駅そばにある結婚式場「日本閣」の用地を再開発した。 == 文化施設・名所・旧跡 == === 資料館 === * 中野区立歴史民俗資料館 === 図書館 === 中野区内の図書館のうち、一般利用が可能な公立の施設は7箇所ある。 {{columns-list|colwidth=12em| * [[中野区立図書館|中野区立中央図書館]] * 中野区立野方図書館 * 中野区立南台図書館 * 中野区立鷺宮図書館 * 中野区立江古田図書館 * 中野区立上高田図書館 * 中野区立中野東図書館 }} === 体育館 === * [[中野区立総合体育館]]:平和の森公園内。[[ネーミングライツ]]契約に基づく名称は「キリンレモンスポーツセンター」<ref>[https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d029310.html キリンビバレッジ株式会社と中野区立総合体育館にかかるネーミングライツ契約を締結します] 中野区役所(2020年8月27日最終更新)2023年3月20日閲覧</ref>。 * [[鷺宮スポーツ・コミュニティプラザ]]:旧鷺宮体育館 * [[中野区スポーツ・コミュニティプラザ]]:中部スポーツ・コミュニティプラザ(中野区立仲町小学校跡地)、南部スポーツ・コミュニティプラザ(中野区立中野富士見中学校跡地)。 === ホール === [[ファイル:Nakano Zero.jpg|thumb|200px|もみじ山文化センター(なかのZERO)]] * [[もみじ山文化センター]] :複合文化施設。愛称は「'''なかのZERO'''」。[[ホール]]では、各種コンサートなども開かれている。[[プラネタリウム]]あり。 === 公園 === [[ファイル:Tetsugakudoukouen Shiseidou.jpg|thumb|200px|[[哲学堂公園]](写真は四聖堂)]] * [[哲学堂公園]]:[[井上円了]]によって造られた。東京都指定名勝。<!--その名の通り哲学的な公園。-->松が丘にある。最寄り駅は新井薬師前駅。 * [[みずのとう公園]]:[[野方配水塔]](国登録有形文化財)がある。 * [[平和の森公園 (中野区)|平和の森公園]]:元中野刑務所。 * [[江古田の森公園]]:江古田の[[国立国際医療センター#国立療養所中野病院|国立療養所中野病院]]の跡地にできた公園。2007年4月に開園。 * [[中野四季の森公園]]:警察学校跡地の再開発によって街びらきした'''[[中野四季の都市]]'''内にできた公園。2012年4月に開園。 * [[新井薬師公園]]:新井薬師([[梅照院]])に隣接する公園。桜の季節はお花見客で賑わう。 * [[杉山公園]]:青梅街道と中野通りの交差点に位置するためドライバーには知名度が高い公園。 === 神社 === {{columns-list|colwidth=15em| * [[氷川神社 (中野区沼袋)|沼袋氷川神社]] * [[氷川神社 (中野区東中野)|中野氷川神社]] * [[氷川神社 (中野区本町)|本郷氷川神社]] * [[北野神社 (中野区新井)]] * [[北野神社 (中野区中野)]] * [[鷺宮八幡神社 (中野区)|鷺宮八幡神社]] * [[氷川神社 (中野区江古田)|江古田氷川神社]] * [[神明氷川神社]] - 弥生町にある。 * [[多田神社 (中野区)]] * [[大和町八幡神社]] * [[氷川神社 (中野区上高田)|上高田氷川神社]] }} === 仏教寺院 === [[ファイル:Arai yakushi baisyoin nakan tokyo 2015.jpg|thumb|200px|梅照院(新井薬師)]] [[ファイル:Hosen-ji (Nio-mon).jpg|thumb|200px|宝仙寺]] {{columns-list|colwidth=15em| * [[梅照院]](新井薬師) * 善成寺 * [[龍昌寺 (中野区)|龍昌寺]] * [[願正寺 (中野区)|願正寺]] * [[境妙寺 (中野区)|境妙寺]] * [[源通寺 (中野区)|源通寺]] * 光徳院 * [[高徳寺 (中野区)|高徳寺]]:[[新井白石]]の墓がある。東京都指定旧跡。 * [[金剛寺 (中野区)|金剛寺]] * [[正見寺 (中野区)|正見寺]] * [[松源寺 (中野区)|松源寺]](通称「さる寺」) * [[神足寺]] * [[青原寺 (中野区)|青原寺]] * [[宗清寺 (中野区)|宗清寺]] * [[天徳院 (中野区)|天徳院]] * [[東光寺 (中野区)|東光寺]] * [[萬昌院功運寺]]:[[吉良義央]]の墓などがある。 * [[宝泉寺 (中野区)|宝泉寺]] * [[宝福寺 (中野区)|宝福寺]] * [[保善寺]] * [[龍興寺 (中野区)|竜興寺]] * 徳蔵寺 * [[高歩院]] * [[正行寺 (中野区)|正行寺]] * [[慈眼寺 (中野区)|慈眼寺]] * [[宝仙寺]]:中野坂上にあり、名人の葬儀が行われることがある。[[宝仙学園]]も運営している。 * [[成願寺 (中野区)|成願寺]]:[[中野長者]]の寺。東京都指定旧跡。 * [[福寿院 (中野区)|福寿院]] * [[霊妙寺 (中野区)|霊妙寺]] * [[正蔵院 (中野区)|正蔵院]] * 本妙寺 * 清隆寺 * 不動院 * [[蓮華寺 (中野区大和町)]] * [[蓮華寺 (中野区江古田)]] * [[東福寺 (中野区)|東福寺]] ** 江原観音堂:東福寺の境外仏堂。江古田不動尊と併設。 * [[了然寺]] * [[実相院 (中野区)|実相院]] * [[明治寺]] - 百観音。 * [[密蔵院 (中野区)|密蔵院]] * [[久成寺 (中野区)|久成寺]] * [[貞源寺 (中野区)|貞源寺]] * [[正法寺 (中野区)|正法寺]] * [[禅定院 (中野区)|禅定院]] * [[清谷寺 (中野区)|清谷寺]] * 浄円寺 * [[仙蔵院]] * 満願寺 * [[福蔵院 (中野区)|福蔵院]] }} == 交通 == === 鉄道路線 === '''[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)''' :* [[ファイル:JR JC line symbol.svg|15px]] [[ファイル:JR JB line symbol.svg|15px]] [[中央本線]]([[中央線快速]]・[[中央・総武緩行線]]) :** [[東中野駅]] - [[中野駅 (東京都)|中野駅]] '''[[西武鉄道]]''' :* [[ファイル:SeibuShinjuku.svg|15px]] [[西武新宿線|新宿線]] :** [[新井薬師前駅]] - [[沼袋駅]] - [[野方駅]] - [[都立家政駅]] - [[鷺ノ宮駅]] '''[[東京地下鉄]](東京メトロ)''' :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px]] [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi branch Line.svg|15px]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] :** [[新中野駅]] - [[中野坂上駅]] :** [[中野富士見町駅]] - [[中野新橋駅]] - 中野坂上駅 :* [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|15px]] [[東京メトロ東西線|東西線]] :** [[中野駅 (東京都)|中野駅]] - [[落合駅 (東京都)|落合駅]](落合駅は登記上新宿区になるが出入口は中野区側にもある) '''[[東京都交通局]]''' :* [[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|15px]] [[都営地下鉄大江戸線|都営大江戸線]] :** [[中野坂上駅]] - [[東中野駅]] - (新宿区) - [[新江古田駅]] === バス === * [[関東バス]] ** 本社が区内東中野に、[[関東バス丸山営業所|丸山営業所]]が区内江古田にある。 * [[京王電鉄バス|京王バス]] ** [[京王バス中野営業所|中野営業所]]が区内弥生町にある。 * [[都営バス]] ** [[都営バス小滝橋営業所|小滝橋自動車営業所]]が区内東中野にある。 * [[国際興業バス]] ** 関東バスとの共同運行路線が乗入れ。 * [[西武バス]] ** 青梅街道と山手通りを通る路線及び、富士見台駅近辺千川通りを通る路線が区内を経由。 === 道路 === * [[首都高速道路]] ** [[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign C2.svg|20px]] C2 [[首都高速中央環状線|高速中央環状線]] * 都道 :: 放射道路 ::: 北から [[File:A road sign showing border of NAKANO City Tokyo 2021.jpg|thumb|青梅街道で新宿区から中野区に入る境界を示す道路標識。]] [[File:Tokyo Metropolitan Road Route 420 Pass the Nakano Station.jpg|thumb|中野通り]] :::* [[東京都道8号千代田練馬田無線]](目白通り、旧称「十三間通り」) :::* [[東京都道439号椎名町上石神井線]](千川通り) :::* [[東京都道440号落合井草線]](新青梅街道) :::* [[東京都道25号飯田橋石神井新座線]](早稲田通り、旧称「昭和通り」) :::* [[東京都道433号神楽坂高円寺線]](大久保通り、旧称「宮園通り」) :::* [[東京都道4号東京所沢線]](青梅街道) :::* [[東京都道14号新宿国立線]](方南通り、旧称「弥生町通り」) :: 環状道路 ::: 都心側から :::* [[東京都道317号環状六号線]](山手通り、旧称「環六通り」) :::* [[東京都道420号鮫洲大山線]](中野通り) :::* [[東京都道318号環状七号線]](環七通り) :::* [[東京都道427号瀬田貫井線]](中杉通り) 東京23区で唯一、区内に国道が通っていない。 === 交通渋滞問題 === {{出典の明記|section=1|date=2011年6月}}<!--渋滞状況および個別事業について、行政機関のリリースまたは新聞・雑誌・議会議事録などソースを提示ください。--> [[東京都道420号鮫洲大山線|中野通り]]は区内を南北に貫く骨格となる道路であるものの、幅員が15m程度となっており片側1車線の区間も多い。なお、道路そのものは計画幅員20mの都市計画道路である。 蓮華寺下交差点([[新青梅街道]]交点)から中野五差路交差点([[大久保通り]]交点)までは概ね4[[車線]](片側2車線)だが、車線の幅が狭いほか駐停車の車両が多いため渋滞することも多い。また、1999年9月ごろまでは新井交差点([[早稲田通り]]交点)に右折専用レーンが無かったが、のちに一部の[[交差点]]の拡張は行われているほか、中野駅北口周辺、中野五差路交差点、杉山公園交差点([[青梅街道]]交点)など部分的な拡張事業が継続中である。このほか、西武新宿線では[[開かずの踏切]]問題も存在し、[[連続立体交差事業]]による解消が進められている<ref>[https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00110/00280/ [東京大改造]桜の名所で進む「開かずの踏切」解消工事、西武新宿線の連続立体交差事業]日経XTECH(2022年3月18日)2023年3月20日閲覧</ref>。 == 公共機関 == === 警察・消防 === {{Col-begin}} {{Col-break}} [[警視庁]] * [[中野警察署 (東京都)|中野警察署]](中央2-47-2)[[交番]]9・[[駐在所]]1 * [[野方警察署]](中野4-12-1)交番12・駐在所2 [[東京消防庁]] [[東京消防庁第四消防方面本部|第四消防方面本部]] * [[中野消防署 (中野区)|中野消防署]](中央3-25-3)指揮隊、[[ポンプ隊]]2、はしご隊、[[救急隊]]1(補給車1:第1小隊乗換運用) ** 南中野出張所(南台2-47-8)ポンプ隊1 ** 宮園出張所(中央2-18-24)ポンプ隊2、救急隊2 ** 東中野出張所(上高田1-1-7)ポンプ隊2、救急隊1([[特別消火中隊]]) * [[野方消防署]](丸山2-21-1)指揮隊、ポンプ隊1、化学隊1、はしご隊、救急隊2 ** 大和出張所(大和町2-2-15)ポンプ隊2(資材搬送車1:第1小隊乗換運用) ** 鷺宮出張所(鷺宮5-24-25)ポンプ隊2、救急隊1 ** 江古田出張所(江古田2-2-7)ポンプ隊2(特別消火中隊) ※上記の内、中野消防署中野第1小隊、宮園第1小隊、東中野第1小隊は[[東京DMAT]]([[東京医科大学病院]]チーム)連携指定隊 {{Col-end}} === 医療 === * [[東京警察病院]](中野4-22-1) * [[東京医療生活協同組合中野総合病院|新渡戸記念中野総合病院]](中央4-59-16) * [[総合東京病院]](江古田3-15-2) * [[中野江古田病院]](江古田4-19-9) * [[横畠病院]](新井1-38-6) * [[中野共立病院]](中野5-44-7) * [[武蔵野療園病院]](江古田2-24-11) * [[小原病院]](本町3-28-16) === 動物病院 === * [[野村獣医科Vセンター]](〒165-0024 東京都中野区松ヶ丘2-5-1) == 教育 == === 大学・短期大学 === ; 国立 * [[東京大学]] 中野キャンパス ; 私立 * [[東京工芸大学]] 中野キャンパス * [[こども教育宝仙大学]] * [[国際短期大学]] * [[新渡戸文化短期大学]] 東高円寺キャンパス・中野臨検キャンパス * [[明治大学]] 中野キャンパス * [[帝京平成大学]] 中野キャンパス * [[早稲田大学]] 中野国際コミュニティプラザ === 高等学校 === ; 都立 {{columns-list|colwidth=15em| * [[東京都立富士高等学校・附属中学校]] * [[東京都立鷺宮高等学校]] * [[東京都立武蔵丘高等学校]] * [[東京都立稔ヶ丘高等学校]] * [[東京都立中野工科高等学校]] }} ; 私立 {{columns-list|colwidth=15em| * [[堀越高等学校]] * [[東亜学園高等学校]] * [[実践学園中学校・高等学校]] * [[宝仙学園中学校・高等学校]] * [[大妻中野中学校・高等学校]] * [[新渡戸文化中学校・高等学校]] * [[日本ウェルネス高等学校]] 中野キャンパス * [[明治大学付属中野中学校・高等学校]] * [[明聖高等学校]] 中野キャンパス }} === 中等教育学校 === ; 国立 * [[東京大学教育学部附属中等教育学校]] === 中学校 === ; 都立 * 高等学校が併設されているものは高等学校の項に記す。 ; 区立 {{columns-list|colwidth=15em| * 中野区立第二中学校 * 中野区立第四中学校 * 中野区立第五中学校 * [[中野区立第七中学校]] * [[中野区立第八中学校]] * [[中野区立北中野中学校]] * [[中野区立中野中学校]]([[中野区立中央中学校]]と[[中野区立第九中学校]]が統合して新設された。) * [[中野区立中野東中学校]]([[中野区立第三中学校]]と中野区立第十中学校が統合して新設された。) * 中野区立緑野中学校([[中野区立第六中学校]]と中野区立第第十一中学校が統合して新設された。) * [[中野区立南中野中学校]](中野区立第一中学校と中野区立中野富士見中学校が統合して新設された。) }} ; 私立 * 高等学校が併設されているものは高等学校の項に記す。 === 小学校 === ; 区立 {{columns-list|colwidth=15em| * [[中野区立桃園第二小学校]] * [[中野区立塔山小学校]] * [[中野区立谷戸小学校]] * [[中野区立中野本郷小学校]] * [[中野区立平和の森小学校]] * [[中野区立江古田小学校]] * [[中野区立鷺宮小学校]] * [[中野区立令和小学校]]{{Refnest|group="注釈"|2020年3月末に閉校した中野区立新井小学校と中野区立上高田小学校との統合により4月に旧上高田小学校の位置にて開校<ref name="new-es-name">{{Cite web|和書|url=https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/651500/d024501_d/fil/news11.pdf|format=PDF|title=上高田小学校・新井小学校統合統合委員会ニュース第11号|work=上高田小学校・新井小学校統合委員会|publisher=中野区|date=2019-04-23|accessdate=2019-09-23}}</ref>。統合新校の新校舎については、これまでの新井小学校を解体の上、2022年度の供用開始に向けて整備する<ref name="es-integ">{{Cite web|和書|url=https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/655000/d025253.html|title=上高田小学校・新井小学校統合新校校舎等の整備について|publisher=中野区|date=2019-01-31|accessdate=2019-09-23}}</ref>。}} * [[中野区立啓明小学校]] * [[中野区立北原小学校]] * [[中野区立江原小学校]] * [[中野区立緑野小学校]] * [[中野区立武蔵台小学校]] * [[中野区立西中野小学校]] * [[中野区立上鷺宮小学校]] * [[中野区立桃花小学校]] * [[中野区立白桜小学校]] * [[中野区立南台小学校]] * [[中野区立美鳩小学校]] * [[中野区立みなみの小学校]] * [[中野区立中野第一小学校]] }} ; 私立 * [[宝仙学園小学校]] * [[新渡戸文化小学校]] === 小規模保育園 === ; 認可 {{columns-list|colwidth=15em| * [[子ごころ園都立家政]] * [[子ごころ園沼袋]] * [[子ごころ園大和町]] * [[おうち保育園なかの大和]] * [[おうち保育園なかの新橋]] }} === その他 === ; フリースクール * [[特定非営利活動法人]][[東京コミュニティスクール]] == 住宅団地 == {{columns-list|colwidth=25em| * 東京都住宅供給公社江古田団地 - 昭和41年 : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設) * 東京都住宅供給公社鷺宮西団地 - 昭和37年 : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設) * 中野坂上サンブライトツインビル * 中野新井町団地(松ヶ丘 市街地住宅 賃貸24 1962年 現存現松ヶ丘二丁目アパート。譲渡返還) * 中野桃園町団地(中野 市街地住宅 賃貸40 1962年 現存 譲渡返還) * 東中野団地(東中野、分譲60 1957年) * 鷺宮団地(白鷺、分譲20 1957年) * 鍋屋横町団地(本町 市街地住宅 賃貸45 1962年 現存 譲渡返還) * 都営丸山二丁目アパート(丸山 2-24、1969年) * 都営江古田アパート(江古田 3-1、1954年) * 都営江古田一丁目第2アパート(江古田 1-25、1996年) * 都営江古田三丁目アパート(江古田 3-8、1998年) * 都営江古田四丁目第2アパート(江古田 4-14、1990年) * 都営鷺の宮アパート(白鷺 1-4、1959 - 1964年 : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設) * 都営鷺ノ宮三丁目団地 : 東京都市計画事業(一団地の住宅施設) * 都営若宮三丁目アパート(若宮 3-57、1997年 - 2000年) * 都営若宮二丁目アパート(若宮 2-56、1995年) * 都営上高田四丁目アパート(上高田 4-27、2001年 - 2005年) * 都営上鷺宮四丁目アパート(上鷺宮 4-12、1996年 : 東京都市計画事業〈一団地の住宅施設〉) * 都営上鷺宮四丁目第2アパート(上鷺宮 4-14、1998年) * 都営上鷺宮二丁目アパート(上鷺宮 2-4、1993年) * 都営大和町四丁目アパート(大和町 4-51、1995年 - 1998年) * 都営第2鷺の宮アパート(白鷺 1-12、1964年) * 都営第3江古田アパート(江古田 4-14、1960年) * 都営中野中央二丁目アパート(中央 2-22、1968年) * 都営中野本町五丁目アパート(本町 5-8、1971年) * 都営南台五丁目アパート(南台 5-7、1977年) * 都営南台四丁目アパート(南台 4-41、1975年) * 都営南台二丁目アパート(南台 2-29、1969年) * 都営白鷺一丁目アパート(白鷺 1-7、1993年) * 都営白鷺一丁目第2アパート(白鷺 1-14、2000年) * 都営弥生町三丁目アパート(弥生町 3-35、1973年) * 都営弥生町二丁目アパート(弥生町 2-50、2003年 - 2005年) * 野方団地(野方、賃貸92 1959年 現存 全面建替) }} == 企業 == {{columns-list|colwidth=15em| * [[エイムクリエイツ]] * [[河合製薬]] * [[関東バス]] * [[キリンホールディングス]](キリングループ各社) ** [[キリン (企業)|キリン]] ** [[麒麟麦酒]] ** [[キリンビバレッジ]] ** [[メルシャン]] ** [[キリングループロジスティクス]] * [[金吾堂製菓]] * [[銀座ルノアール]] * [[栗田工業]] * [[鷺宮製作所]] * [[西武信用金庫]] * [[ソフト・オン・デマンド]] * [[ソフィアホールディングス]] * [[チューリッヒ保険]] * [[DINOS CORPORATION]] * [[セシール]] * [[中野サンプラザ]] * [[ブシロード]] ** [[ブシロードメディア]] ** [[ブシロードミュージック]] * [[丸井グループ]]本社 ** [[丸井]](OIOI) * [[マルマン (文具)|マルマン]] * [[まんだらけ]]- 漫画出版。 *[[南日本運輸倉庫]] * [[吉田製薬]] * [[ライオン事務器]] * [[レオパレス21]] * [[ワールドフォトプレス]] * [[東映アニメーション]] * [[ファーマライズホールディングス]] }} === アニメ制作 === {{columns-list|colwidth=15em| * [[スタジオエル]] * [[マッドハウス]] * [[トムス・エンタテインメント]] }} == 中野区が舞台の作品 == [[画像:Benza English ポスター.jpg|thumb|upright=.9 |Benza Englishポスター]] * [[The Benza]]:2019年[[Amazonプライムビデオ]])<ref>https://en.tokyo-cowboys.com/thebenza-cast-inko</ref>。作品の舞台は東中野をモデルにしており、撮影も東中野で行われている。 * [[Benza English]] (2020年[[Amazonプライムビデオ]]) <ref>https://www.tokyo-cowboys.com/benzaenglishcast</ref>作中の舞台であり、東中野タレント事務所など固有名詞としても使われている。 * [[The Benza RPG]]<ref>https://en.tokyo-cowboys.com/%E8%A4%87%E8%A3%BD-the-benza-rpg-inforef</ref>:スマホ冒険のフィールドは東中野をモデルに細部にわたって作成されている。 * [[恋の都]]:[[三島由紀夫]]の小説。主人公の戦前住んでいた実家が中野区。 * [[たきび]]:[[巽聖歌]]作詞、渡辺茂作曲の[[童謡]]。モデルは、現在の[[新井薬師前駅]]のそば。歌詞冒頭の「垣根」も健在する。 [[ファイル:Takibi birthplace kamitakada nakano tokyo-2.JPG|thumb|200px|上高田にある『たきび』の歌発祥の地。歌詞冒頭の垣根の風情を現在も見ることができる。]] * [[陸軍中野学校 (映画)|陸軍中野学校]] * [[りびんぐゲーム]]:[[星里もちる]]原作の[[漫画]]。 * [[リング0 バースデイ]]:[[鈴木光司]]原作の[[ホラー映画]]、[[リング (1998年の映画)|リング]]シリーズの完結編。主人公の[[山村貞子]]の住所が中野区。[[鶴田法男]]監督。 * こんにちは、中野さん!:時任忍志原作の[[ホラー漫画]]。 * [[夕凪の街 桜の国]]:[[こうの史代]]原作の漫画。 * [[海辺のカフカ]]:[[村上春樹]]の小説。 * [[UG☆アルティメットガール]]:2005年の[[テレビアニメ]]([[UHFアニメ]])。主人公の女子高生3人は[[中野坂上]]にある二子山学園高校(架空の高校)に在籍。[[中野駅 (東京都)|中野駅]]北口での怪獣との対決あり。[[中野ブロードウェイ]]も舞台になった。 * [[円卓生徒会]]:[[本田透]]の[[ライトノベル]]。作中では架空の「東中野区」となっている。 * [[仮面ライダー555]]:[[特撮]]。主人公の住所であるクリーニング屋の所在地が中野区東中野と設定されている。 * [[仮面ライダー電王]]:特撮。主人公の住所である喫茶店の所在地が中野区中野と設定されている。 * [[愛と死を見つめて]]:映画。[[浜田光夫]]が演じた河野実の住んでいた東京信濃寮が当時中野5丁目にあった。その後、寮は東京都[[小金井市]]に移り、跡地は打越保育園になっている。 * [[臨場 (テレビドラマ)|臨場]]:[[横山秀夫]]原作の[[警察小説]]および[[テレビドラマ]]。ドラマ第一章、第1話「鉢植えの女」の冒頭で起きた事件現場マンションが「中野区[[本町 (中野区)|本町]]9丁目」という設定。なお、実際は本町は6丁目までであり“9丁目”は存在しない。撮影には[[練馬区]][[春日町 (練馬区)|春日町]]6丁目のマンションの外観を使用した。 * [[仁義の墓場]]:実在したヤクザ、[[石川力夫]]の伝記映画。[[深作欣二]]監督。 == ゆかりのある人物 == 出身者・居住歴・事業所のある人物を示す。 === 実業家 === * [[鈴木九郎]]:[[室町時代]]の商人。商売などで成功し「中野長者」と呼ばれていた。現在の中野坂上に邸宅を構えていた(現在の成願寺付近)。首都高速道路中央環状線の出入口「中野長者橋」も、これにゆかりがある。 * [[青木湯之助]]:実業家。「[[紅花 (飲食業)|紅花]]」創業者。かつては「郷宏之」の芸名で俳優、タップダンサーをしていた。 * [[青木廣彰]] - 実業家。冒険家。「[[:en:Benihana|BENIHANA]]」オーナーだった。通称「ロッキー青木」。[[モデル (職業)|モデル]]、女優としてアメリカで活躍する[[デヴォン青木]]の父。 * [[田中綾華]]:[[田中綾華#ROSE_LABO|ROSE LABO]]創業者。 === 諸分野の学者・文化人 === * [[河上肇]]:1933年、中野区住吉町三〇番地(現在の東中野4-17)にあった画家・椎名剛美方に潜伏していたところを[[特別高等警察]](特高)に逮捕され、中野署に拘留され、後に[[豊多摩刑務所]](現・[[平和の森公園 (中野区)|平和の森公園]])に移る。 * [[北一輝]]:中野区桃園町四〇番地(現在の中野三丁目一六番)に千数百[[坪]]の豪邸を構えていた。 * [[周恩来]]:東京留学中、華洲園付近(現在の東中野五丁目一四・五番)に下宿していた。 * [[星島二郎]]:弁護士、衆議院議員。[[衆議院議長]]を務めた経歴もある。 * [[青島幸男]]:作家、作詞家、タレント、俳優、放送作家、映画監督、政治家。参議院議員(通算5期)、[[東京都知事]](第13代)を歴任。中野ブロードウェイに知事時代まで住んでいた。 * [[木村博史]]:[[ビジネス]]書作家・[[放送作家]] * [[高橋浩]]:[[テレビ朝日]]元編成局編成部長、[[東映アニメーション]]元社長(2003年~2011年)。広島県[[福山市]]生まれ。一時期中野区で幼少期を過ごす。 * [[林武]]:画家。昭和10年、[[新井 (中野区)|新井]]に転居。昭和26年から[[東京芸術大学]]教授。昭和38年に渋谷区へ転居。昭和42年に[[文化勲章]]受章。 * [[升田幸三]]:[[将棋棋士]]。実力制第4代名人。 * [[伊東豊雄]]:[[建築家]]。自邸の[[シルバーハット]]がある。かつて「[[中野本町の家]]」もあった。生まれは[[京城]]。 * [[みつはしちかこ]]:漫画家。鷺宮に居住歴あり。 * [[さいとう・たかを]]:漫画家。さいとう・プロダクションが中野区中野にある。 * [[東畑精一]]:[[農業経済学|農業経済学者]]。現在の[[中野 (中野区)|中野]]2丁目に居住。 * [[飯塚幸三]]<ref>{{Cite journal |和書|url=https://doi.org/10.2493/jjspe.73.1131|author =飯塚幸三|title= 硬さ標準の研究三昧の時代 第1回|journal=精密工学会誌|doi=10.2493/jjspe.73.1131|accessdate=2019-04-21|publisher=}}</ref>:[[工学者]]。[[博士(工学)|工学博士]](東京大学)。[[産業技術総合研究所|工業技術院]]長、国際計測連合会長、[[日本計量振興協会]]会長、[[計測自動制御学会]]会長、[[クボタ]]常務取締役などを務めた。 * [[米長邦雄]]:将棋棋士。日本将棋連盟会長。1998年より「永世棋聖」を名乗る。生まれは山梨県。中学から中野区に転居。都立鷺宮高校・[[中央大学]]出身。白鷺在住。 * [[北条司]] :漫画家。『[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]』の連載が決定し、上京するにあたって編集部が用意したアパートが鷺宮にあった。 * [[萩原一至]]:漫画家。白鷺出身。 * [[西又葵]]:イラストレーター。 * [[本田透]]:[[著作家]]、[[作家]]。 * [[松岡象一郎]]:[[特殊メイク|特殊メイクアップアーティスト]]。 * [[伊東章夫]]:漫画家。鷺宮在住。 * [[唐沢なをき]] - 漫画家。在住。 * [[大松達知]]:[[歌人]]。在住。 * [[本橋成一]]:[[写真家]]、[[映画監督]]。 * [[長島有里枝]]:写真家。 * [[パンク町田]]:作家、動物研究家。 * [[田中研之輔]]:[[社会学者]]。 * [[落合恵子]]:作家、元[[アナウンサー]]。生まれは[[宇都宮市]]で小学一年から中野区で育った。 * [[茂木健一郎]]:[[脳科学|脳科学者]]。生後間もなくして[[春日部市]]に転居し中学時代まで育った。 * [[平松礼二]]:[[日本画家]]。[[名古屋市]]育ち。 * [[遠藤彰子]]:[[洋画家]]。 * [[堀田佳男]]:[[ジャーナリスト]]。 * [[末岡志保美]]:[[居合道]]家。 * [[清水哲男]]:詩人。 * [[中園ミホ]]:脚本家。 * [[小池真理子]]:小説家。 * [[多和田葉子]]:小説家。 * [[不破哲三]]:政治家、共産主義者。 * [[高橋岩太郎]]:ヤクザ、右翼活動家。 * [[清水英雄]]:講演家、詩人。 * [[大久保寛]]:英米文学翻訳家。 === 芸能 === {{columns-list|colwidth=25em| * [[哀川翔]]:俳優 * [[池田秀一]]:声優・俳優 * [[市川由衣]]:タレント、グラビアアイドル。 * [[五輪真弓]]:歌手。 * [[稲川淳二]]:タレント・工業デザイナー。 * [[伊武雅刀]]:俳優、声優、ナレーター。 * [[忌野清志郎]]:歌手。中野区生まれ、東京都[[国分寺市]]育ち。 * [[イルカ (歌手)|イルカ]]:[[シンガーソングライター]]。 * [[江頭2:50]]:お笑い芸人、タレント。 * [[江原真二郎]]:俳優。40年以上前に練馬区に転居。 * [[遠藤章造]]:お笑い芸人、タレント。 * [[大槻ケンヂ]]:歌手、作家、俳優。 * [[岡村隆史]]:お笑い芸人、タレント・俳優。 * [[小沢仁志]]:俳優、映画監督、[[プロデューサー]] * [[小谷美裕]]:女優 * [[小野早稀]]:声優 * [[叶順子 (女優)|叶順子]]:元俳優 * [[狩野英孝]]:お笑い芸人、タレント。 * [[河合雪之丞]]:俳優 * [[川島章良]]:お笑い芸人。お笑いコンビ「[[はんにゃ.]]」のツッコミ。中野区育ち。 * [[神田陽子]]:[[講談師]] * [[ブラザー・コーン|KORN]]([[ブラザー・コーン]]):歌手・タレント。 * [[沙央くらま]]:元宝塚歌劇団専科男役 * [[坂本龍一]]:音楽家、俳優。 * [[佐藤恭子]]:[[1977年]][[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]] * [[佐分利信]]:役者。住居跡は中野区に寄付をされ現在は東山高齢者会館が建っている。 * [[沢田研二]]:歌手、俳優。 * [[沢田聖子]]:シンガーソングライター。 * [[スギちゃん]]:お笑い芸人・タレント。 * [[関口誠人]]:シンガーソングライター(元[[C-C-B]])。 * せんちゃん:お笑い芸人。お笑いコンビ「[[クールポコ。]]」のツッコミ。 * [[DAIGO]]:ミュージシャン。中野区生まれ * [[太地喜和子]]:女優 * [[竹内太郎 (俳優)|竹内太郎]]:俳優。 * [[竹山隆範]]:お笑い芸人、タレント。 * [[立川清登]]:オペラ歌手。東中野に住んでいた。 * [[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]]:お笑いタレント。 * [[鳥肌実]]:お笑い芸人・演説家。中野にことり事務所がある。 * [[中川翔子]]:タレント、歌手、声優。 * [[中原ひとみ]]:女優。夫の江原真二郎とともに転居。 * [[名古屋章]]:俳優。 * [[難波章浩]]:ミュージシャン。[[新潟市]]育ち。 * [[西島三重子]]:シンガーソングライター・作曲家 * [[野辺剛正]]:シンガーソングライター、ミュージシャン。 * [[野村義男]]:ミュージシャン、ギタリスト。 * [[橋幸夫]]:歌手。 * [[長谷部徹 (作曲家)|長谷部徹]] :作曲家、編曲家。 * [[華形ひかる]]:元[[宝塚歌劇団]][[専科 (宝塚歌劇)|専科]]男役 * [[はねだえりか]](旧・羽田惠理香):タレント(元[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]])。 * [[浜田麻里]]:ミュージシャン。 * [[范文雀]]:女優。中野区生まれ、[[広島市]]育ち。 * [[久本雅美]]:お笑い芸人、タレント。 * [[ひし美ゆり子]]:女優。中野区生まれ。 * [[松村邦洋]]:お笑い芸人、タレント。 * [[松本まりか]]:女優、声優。 * [[三浦理恵子]] - タレント・女優(元CoCo)。 * [[ミスタースイム]](池屋瑛):[[YouTuber]]、エンターテイナー。 * [[三波春夫]]:中野区江古田に広大な「御殿」を構え、その脇の道路は通称「ちゃんちき通り」と呼ばれた。 * [[三波豊和]]:タレント。 * [[宮川賢]]:俳優、[[ラジオパーソナリティ]]、脚本家、演出家、放送作家。 * [[六平直政]]:俳優 * [[柳原可奈子]]:[[お笑い芸人]]。 * [[YOSHIKI]]:ミュージシャン。中野区中野のコーポに住んでいたと『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』で放送。 * [[吉俣良]]:[[音楽プロデューサー]]、[[作曲家]]。 * [[山里亮太]]:[[南海キャンディーズ]]。お笑い芸人・タレント。東中野在住。 * [[山本陽子]]:女優。中野区生まれ。 }} === 芸能事務所 === * [[北島音楽事務所]] === スポーツ === {{columns-list|colwidth=25em| * [[貴ノ花利彰]](本名・花田満):元大相撲力士(大関)。中野新橋に[[貴乃花部屋|藤島部屋→二子山部屋]]を構え、師匠並びに日本相撲協会理事を務めた * [[貴乃花光司]](本名・花田光司):元大相撲力士、第65代横綱・貴乃花光司。元[[貴乃花部屋]]師匠及び日本相撲協会理事。 * [[花田虎上]]:元大相撲力士、第66代横綱・若乃花勝。[[事業家]]でもあり、[[タレント]]でもある。 * [[榎本喜八]]:元プロ野球選手。 * [[山口貴弘]]:元[[サッカー選手]]。 * [[前田和明]]:元サッカー選手。 * [[重松健太郎]]:サッカー選手。 * [[岡田博喜]]:プロボクサー。 * [[ガッツ石松]]:元WBC世界ライト級王者、タレント * [[山中慎介]]:元WBC世界バンタム級王者。2016年11月に名誉区民となる。 * [[エル・リンダマン]]:プロレスラー。 * [[矢崎拓也]]:プロ野球選手・[[広島東洋カープ]] * [[加藤収二]]:プロボクサー。 * [[塩崎優衣]]:女子[[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手。 * [[笹川大五]]:[[ラグビーフットボール|ラグビー]]選手。 * [[佐藤道郎]]:元プロ野球選手。 * [[川尻哲郎]]:元プロ野球選手。 * [[若林晃弘]]:プロ野球選手。 * [[松本健吾]]:野球選手。 * [[中嶋千尋]]:プロゴルファー。 }} === 放送 === {{columns-list|colwidth=25em| * [[中田有紀 (アナウンサー)|中田有紀]]:[[フリーアナウンサー]]。元[[青森放送]]アナウンサー。 * [[梨元勝]]:芸能レポーター。 * [[藤井暁]]:[[テレビ朝日]]アナウンサー。 * [[吉村功]]:元[[東海テレビ放送|東海テレビ]]アナウンサー。 * [[中村理恵]]:[[テレビ神奈川|tvk]]アナウンサー。 * [[会田幸恵]]:フリーアナウンサー。株式会社KEE'S[[取締役]]副社長<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seiwabl.co.jp/wp/wp-content/uploads/2017/06/キーズ-話し方&コミュニケーション研修170501.pdf |title=キーズ-話し方&コミュニケーション研修170501|format=PDF|publisher=星和ビジネスリンク|page=4|date=2017-04-27|accessdate=2022-05-03}}ダウンロード元ページ:[https://www.seiwabl.co.jp/wp/service/human/【話し方&コミュニケーション】-現役アナウンサ 【話し方&コミュニケーション】現役アナウンサーによる「話し方&コミュニケーション研修」]</ref>、同社運営アナウンススクール室長<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032846005&Action_id=121&Sza_id=C0 |title=女子力就活! 内定率100%の就活スクールの最強メソッド/野村絵理奈/著 会田幸恵/著 本・コミック |publisher=[[トーハン]](出典:トーハンほか3社[[「BOOK」データベース]])|accessdate=2022-05-02}}</ref>。元[[愛媛朝日テレビ]]アナウンサー。元[[圭三プロダクション]]所属。 * [[小林まどか]]:元[[FM福島]]アナウンサー。 * [[竹内由恵]]:[[フリーアナウンサー]]。元テレビ朝日アナウンサー<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tv-asahi.co.jp/announcer/personal/women/takeuchi_y/index.html|title=竹内 由恵|アナウンサーズ|テレビ朝日|accessdate=2020-09-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190412035724/https://www.tv-asahi.co.jp/announcer/personal/women/takeuchi_y/index.html|archivedate=2019-04-12|deadlink=2020-09-16}}</ref>。 * [[相馬知実]]:元[[静岡放送]]アナウンサー。 * [[土井敏之]]:[[TBSテレビ]]アナウンサー。 * [[森本毅郎]]:元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー。 * [[榎並大二郎]]:[[フジテレビ]]アナウンサー。 * [[木幡美子]]:元フジテレビアナウンサー。 }} 1960年代から1970年代にかけては、多くの著名人が「[[中野ブロードウェイ]]マンション」に居住していた。 == 大きな事件・事故など == *[[東中野駅列車追突事故]]:1988年(昭和63年)12月5日に発生し、2名が死亡。 * 特別区区長公選制 * 教育委員準公選制([[中野区教育委員候補者選定に関する区民投票条例]]) * [[中野富士見中学いじめ自殺事件]]:学級担任がいじめに加担するなど、いじめ自殺事件として社会的に注目された。 * [[少年誘拐ホルマリン漬け事件]] * [[東京都中野区暴力団組員殺害事件]] * [[東京中野放火事件]]([[未解決事件|未解決]]) * [[富士高校放火事件]] * [[元厚生事務次官宅連続襲撃事件]] === 新型コロナウイルス感染 === {{Seealso|日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況#院内感染(病院)}} * 2020年4月14日、中野江古田病院で、入院患者や医師ら計92人が新型コロナウイルスに感染した。都は、「大規模なクラスター(感染集団)」として、中野区の保健所を支援する。医師や看護師の約100人の入院患者の検査を進め、87人の感染が確認された。患者は70歳代以上の高齢者だという<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-14|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20200414-OYT1T50095/|title=中野の病院「大規模クラスター」|publisher=[[読売新聞]]|accessdate=2020-04-14}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|name=中野区}} * [https://archive.nakano-library.jp/ 中野区立図書館デジタルアーカイブ] - 中野区の歴史書などの公開 {{中野}} {{中野区の町名}} {{東京都の自治体}} {{東京35区}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかのく}} [[Category:中野区|* なかのく]] [[Category:東京都の特別区]] [[Category:東京市の区]] [[Category:合成地名]]
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ペンネ
ペンネ (伊: penne) は、ペン先状、筒状のパスタの総称。イタリアのカンパニア州やシチリア州でよく食べられる。中でもペンネ・リガーテ (penne rigate) は表面には細かい溝があり(rigate は、"溝が入った" の意味)、ソースが絡みやすくなっているため、よく使われる。日本での分類では、ショート・パスタやマカロニとなる。2〜3cmのまっすぐの筒の両端を並行に斜めに切り落とした形。小型のペンネッテ (pennette) などもある。 ペンネとはイタリア語で羽根やペンを表すpennaの複数形で、形状がペン先に似ていることからそう呼ばれる。 ペンネは、ソースが管の内部に入るためアラビアータをはじめとするトマトソースや、クリームソースと合わせることが多い。
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ペンネ は、ペン先状、筒状のパスタの総称。イタリアのカンパニア州やシチリア州でよく食べられる。中でもペンネ・リガーテ は表面には細かい溝があり、ソースが絡みやすくなっているため、よく使われる。日本での分類では、ショート・パスタやマカロニとなる。2〜3cmのまっすぐの筒の両端を並行に斜めに切り落とした形。小型のペンネッテ (pennette) などもある。
{{Otheruses|食用パスタ|[[イタリア]]の[[コムーネ]]|ペンネ (イタリア)|アニメの登場キャラクター|アイカツフレンズ!#友希家}} {{出典の明記|date=2014年1月9日 (木) 04:07 (UTC)}} [[File:Penne rigate.jpg|thumb|300px|調理前]] [[ファイル:Penne Lisce Con Sugo.jpg|thumb|300px|調理したペンネ]] '''ペンネ''' ({{lang-it-short|penne}}) は、ペン先状、筒状の[[パスタ]]の総称。[[イタリア]]の[[カンパニア州]]や[[シチリア州]]でよく食べられる。中でもペンネ・リガーテ (penne rigate) は表面には細かい溝があり(rigate は、"溝が入った" の意味)、[[ソース (調味料)|ソース]]が絡みやすくなっているため、よく使われる。日本での分類では、[[ショート・パスタ]]や[[マカロニ]]となる。2〜3cmのまっすぐの筒の両端を並行に斜めに切り落とした形。小型のペンネッテ (pennette) などもある。 == 語源 == ペンネとは[[イタリア語]]で羽根やペンを表すpennaの複数形で、形状がペン先に似ていることからそう呼ばれる。 == 調理法 == [[File:ペンネ.jpg|thumb|200px|ミートソースの乗ったペンネ]] ペンネは、ソースが管の内部に入るため[[アラビアータ]]をはじめとする[[トマトソース]]や、[[クリームソース]]と合わせることが多い。 == 類似品 == * [[ベトナム]]では[[小麦粉]]ではなく、[[コメ]]を使ってペンネと同じ形に成形した[[ライスヌードル]]が作られている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Penne}} * [[スパゲッティ]] * [[パスタ]] {{麺}} {{DEFAULTSORT:へんね}} [[Category:パスタ]] [[Category:イタリア語の語句]]
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クラシック音楽の曲名一覧
クラシック音楽の曲名一覧。 クラシック音楽の曲を五十音順に並べた一覧。 現時点では、記事になっている曲、他言語版や知名度からして将来的に記事化される可能性が高い曲などをリストにしている。
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クラシック音楽の曲名一覧。 クラシック音楽の曲を五十音順に並べた一覧。 現時点では、記事になっている曲、他言語版や知名度からして将来的に記事化される可能性が高い曲などをリストにしている。
{{Portal クラシック音楽}} '''クラシック音楽の曲名一覧'''。 [[クラシック音楽]]の曲を五十音順に並べた一覧。 ''現時点では、記事になっている曲、他言語版や知名度からして将来的に記事化される可能性が高い曲などをリストにしている。'' <table border=0 cellpadding=3 cellspacing=0 style="border: 1px solid #8888aa; background-color: #f7f8ff; padding: 5px;font-size: 95%;"> <tr><td> <table> <tr><td>[[#あ|あ]]<td>[[#い|い]]<td>[[#う|う]]<td>[[#え|え]]<td>[[#お|お]]</tr> <tr><td>[[#か|か]]<td>[[#き|き]]<td>[[#く|く]]<td>[[#け|け]]<td>[[#こ|こ]]</tr> <tr><td>[[#さ|さ]]<td>[[#し|し]]<td>[[#す|す]]<td>[[#せ|せ]]<td>[[#そ|そ]]</tr> <tr><td>[[#た|た]]<td>[[#ち|ち]]<td>[[#つ|つ]]<td>[[#て|て]]<td>[[#と|と]]</tr> <tr><td>[[#な|な]]<td>[[#に|に]]<td>[[#ぬ|ぬ]]<td>[[#ね|ね]]<td>[[#の|の]]</tr> </table><td>&nbsp;<td> <table> <tr><td>[[#は|は]]<td>[[#ひ|ひ]]<td>[[#ふ|ふ]]<td>[[#へ|へ]]<td>[[#ほ|ほ]]</tr> <tr><td>[[#ま|ま]]<td>[[#み|み]]<td>[[#む|む]]<td>[[#め|め]]<td>[[#も|も]]</tr> <tr><td>[[#や|や]]<td>&nbsp;<td>[[#ゆ|ゆ]]<td>&nbsp;<td>[[#よ|よ]]</tr> <tr><td>[[#ら|ら]]<td>[[#り|り]]<td>[[#る|る]]<td>[[#れ|れ]]<td>[[#ろ|ろ]]</tr> <tr><td>[[#わ|わ]]<td>[[#を|を]]<td>[[#ん|ん]]<td colspan="2" 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(ガーシュウィン)|3つの前奏曲]] (ガーシュウィン) *[[3つの断章 (桑原洋明)]] *[[3つのドイツ舞曲 (シューベルト)]] *[[3つのドイツ舞曲]] (モーツァルト) *[[3つの日本の抒情詩]](ストラヴィンスキー) *[[3つのバイエルン舞曲]] (エルガー) *[[3つのピアノ曲]]【曖昧さ回避】 *[[3つのピアノ曲 (シューベルト)]] *[[3つの無窮動]] (プーランク) *[[3つのロシアの歌]] (ラフマニノフ) *[[3つのロシアの主題による序曲第1番]] (バラキレフ) *[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハの4声コラール集|4声コラール集]] (J.S.バッハ) *[[4つの歌 (ストラヴィンスキー)]] *[[4つの厳粛な歌]] (ブラームス) *[[4つの最後の歌 (リヒャルト・シュトラウス)]] *[[4つの最後の歌 (ヴォーン・ウィリアムズ)]] *[[4つの小品]]【曖昧さ回避】 *[[4つの小品 (ブラームス)]] *[[4つの小品 (ベルク)]] *[[4つの新聞記事]] (モソロフ) *[[4つの即興曲D899]] (シューベルト) *[[4つの即興曲D935]] (シューベルト) *[[4つのデュエット]] (J.S.バッハ) *4つの伝説曲 → [[レンミンカイネン組曲]] (シベリウス) *[[4つの挽歌]] (バルトーク) *[[4つのリズム・エチュード]] (メシアン) *[[4つのロシア農民の歌]] (ストラヴィンスキー) *[[4年間の歩哨兵勤務]] (シューベルト) *[[4手のためのピアノソナタ (プーランク)]] *[[4台のティンパニのための8つの小品]] (カーター) *[[4分33秒]] (ケージ) *[[4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック]] (シューマン) *[[5つの管弦楽曲 (シェーンベルク)]] *[[5つの小品]]【曖昧さ回避】 *[[5つの前奏曲]]【曖昧さ回避】 *[[5つの断章]]【曖昧さ回避】 *[[5つの断章 (ヴェーベルン)]] *[[5つの断章 (ショスタコーヴィチ)]] *[[五つのモノローグ|5つのモノローグ]] (信長貴富) *[[5つの夜想曲]] (サティ) *[[5つのルシャン]](メシアン) *[[5声の協奏曲集 作品9 (アルビノーニ)]] *[[5昼夜]] (ショスタコーヴィチ) *[[6つの弦楽のためのソナタ (ロッシーニ)]] *[[6つの古代碑銘]] → [[ビリティスの歌#6つの古代碑銘]] (ドビュッシー) *[[6つの小品]]【曖昧さ回避】 *[[6つの小品 (ヴェーベルン)]] *[[6つの小品 (ブラームス)]] *[[6つのトリオ・ソナタ]] (J.S.バッハ) *[[6つのバガテル (ベートーヴェン)]] *[[6つのメヌエット (ベートーヴェン)]] *[[6つのレントラー舞曲]] (モーツァルト) *[[6人組のアルバム]] (オネゲル、オーリック、タイユフェール、デュレ、プーランク、ミヨー共作) *[[7月14日 (劇音楽)|7月14日]] (イベール、オーリック、ミヨー、ルーセル、ケクラン、オネゲル、ラザリュス共作) *[[7つの幻想曲]] (ブラームス) *[[7つの初期の歌曲]] (ベルク) *[[7つのスペイン民謡]] (ファリャ) *[[7つの俳諧]] (メシアン) *[[7つのバガテル]] (ベートーヴェン) *[[7つの封印の書]] (フランツ・シュミット) *[[8つの小品 (ブラームス)]] *[[8つの小品 (ブルッフ)]] *[[8つのノヴェレッテ]] (シューマン) *[[8つのロシア民謡]] (リャードフ) *[[10の格言集]] (ショスタコーヴィチ) *[[11楽器のためのラグタイム]] (ストラヴィンスキー) *[[12のインヴェンション]] (間宮芳生) *[[12のスペイン舞曲]] (グラナドス) *[[12の二重奏曲]] (モーツァルト) *[[13管楽器のための組曲]] (リヒャルト・シュトラウス) *[[13管楽器のためのセレナード (リヒャルト・シュトラウス)]] *13管楽器のためのセレナード → [[グラン・パルティータ]] (モーツァルト) *[[15の即興曲 (プーランク)]] *[[15のハンガリーの農民の歌]] (バルトーク) *[[18人の音楽家のための音楽]] (ライヒ) *[[24の奇想曲]] (パガニーニ) *[[24の前奏曲 (カバレフスキー)]] *[[24の前奏曲 (ショスタコーヴィチ)]] *[[24の前奏曲とフーガ]] (ショスタコーヴィチ) *[[42の奇想曲もしくは練習曲]] (クレゼール (クロイツェル)) *[[44のヴァイオリン二重奏曲]] (バルトーク) *[[48のモチーフ集―エスキス]] (アルカン) *[[60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト]] (アノン) *[[76本のトロンボーン]] (メレディス・ウィルソン) *[[1984年 (オペラ)|1984年]] (マゼール) *[[F.A.E.ソナタ]] (ディートリヒ、ブラームス、シューマン) *[[Alas de Hierro 〜虚空に散った若き戦士たちへの鎮魂歌〜]] (天野正道) *[[G線上のアリア]] → [[管弦楽組曲]] (J.S.バッハ) *[[N.ドゼードの「リゾンは森で眠っていた」による9つの変奏曲]] (モーツァルト) *[[SF交響ファンタジー]] (伊福部昭) *[[Tボーン協奏曲]] (デ・メイ) *[[V.R.のポルカ]] (ラフマニノフ) *[[WTC 9/11]] (ライヒ) == あ行 == === あ === *[[ああ愛する人の]] → [[古典様式による36のアリア]] (ドナウディ) *[[ああ、不実なる人よ]] (ベートーヴェン) *[[アイオリスの人々]] (フランク) *[[アイ・ガット・リズム変奏曲]] (ガーシュウィン) *[[愛国歌 (ロシア連邦)|愛国歌]] (グリンカ) *[[アイーダ]] (ヴェルディ) *哀悼行事 → [[神の時こそいと良き時]] (J.S.バッハ) *[[愛と暴力のレッスン]] (ジョージ・ベンジャミン) *[[愛に満ちた処女よ]] (ドゥランテ) *[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]] または 小夜曲 (モーツァルト) *[[愛の挨拶]] (エルガー) *[[愛の悲しみ]] (クライスラー) *[[愛の真珠]] (ヨーゼフ・シュトラウス) *[[愛の手紙]] (カール・ミヒャエル・ツィーラー) *[[愛の伝説]] (メリコフ) *[[愛の妙薬]] (ドニゼッティ) *[[愛の夢]] (リスト) *[[愛の喜び (クライスラー)]] *[[愛の喜びは]] (マルティーニ) *[[アイノラ抒情曲集]] (吉松隆) *[[アイルランド交響曲]] (ハーティ) *[[アヴェ・ヴェルム・コルプス]] (モーツァルト) *アヴェ・マリア → [[エレンの歌第3番]] (シューベルト) *[[アヴェ・マリア (グノー)]] *[[あおい (リヒャルト・シュトラウス)]] *[[青い水平線]] (チェザリーニ) *[[青ひげ公の城]] (バルトーク) *[[青列車 (バレエ)|青列車]] (ミヨー) *[[赤いけしの花]] (グリエール) *[[赤い陣羽織]] (大栗裕) *[[赤ずきん (オペラ)|赤ずきん]] (キュイ) *[[暁の歌 (シューマン)]] *[[暁は光と闇とを分かつ]] → [[アマランタの4つの歌]] (トスティ) *[[赤とんぼ (童謡)|赤とんぼ]] (山田耕筰) *[[明るい小川]] (ショスタコーヴィチ) *[[秋 (シューベルト)]] *[[秋 (プロコフィエフ)]] *[[秋空に]] (上岡洋一) *[[秋に (グリーグ)]] *[[悪魔とカーチャ]] (ドヴォルザーク) *[[悪魔の壁]](スメタナ) *[[悪魔のスケルツォ]] (アルカン) *[[悪魔のロベール]] (マイアベーア) *[[アグリッピナ (ヘンデル)]] *[[揚げひばり]] (ヴォーン・ウィリアムズ) *[[アゴン (ストラヴィンスキー)]] *[[朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された「さまよえるオランダ人」序曲]] (ヒンデミット) *[[朝の歌 (エルガー)]] *[[朝の新聞]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[悪しき世よ、われは汝に頼まじ]] (バッハ) *[[蘆屋乙女]] (尾高尚忠) *[[アステリズム (武満徹)]] *[[アストゥリアス(伝説)]] (アルベニス) *[[ア・ストリング・アラウンド・オータム]] (武満徹) *[[あずまや (ワルツ)|あずまや]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[アスラエル交響曲]] (スク) *[[アーセナル (行進曲)|アーセナル]] (ヴァン・デル・ロースト) *[[あたかも風のように]] (アルカン) *[[アダージョとアレグロ (シューマン)]] *[[アッシジの聖フランチェスコ (メシアン)]] *[[アッシャー家の崩壊 (ドビュッシー)]] *[[アッティカ (ジェフスキー)]] *[[アッティラ (ヴェルディ)]] *[[アテネの廃墟]] (ベートーヴェン) *[[アデライード協奏曲]] (モーツァルト偽作、マリウス・カサドシュ) *[[アトム・ハーツ・クラブ・カルテット]] (吉松隆) *[[アトランティーダ (ファリャ)]] *[[アドリアーナ・ルクヴルール]] (チレア) *[[アナクラシス]] (ペンデレツキ) *あなたが欲しい → [[ジュ・トゥ・ヴー]] (サティ) *[[あなたは今忠実ね]] (モーツァルト) *[[アパッショナート (ネリベル)]] *[[アパラチアの春]] (コープランド) *[[アブラハムとイサク (ストラヴィンスキー)]] *[[アブ・ハッサン]] (ウェーバー) *[[アフリカ (サン=サーンス)]] *[[アフリカの女]] (マイアベーア) *[[アベッグ変奏曲]] (シューマン) *[[アポロとヒュアキントゥス]] (モーツァルト) *雨だれ → [[前奏曲 (ショパン)]] *[[アマランタの4つの歌]] (トスティ) *[[アマリッリ]] (カッチーニ) *[[アマールと夜の訪問者]] (メノッティ) *[[雨 (多田武彦)]] *[[アメリカ (ヴァレーズ)]] *[[アメリカ組曲]] (ドヴォルザーク) *[[アメリカ祝典序曲]] (ウィリアム・シューマン) *[[雨を描く14の方法]] (アイスラー) *[[アーメンの幻影]] (メシアン) *[[アラジン (ニールセン)]] *[[アラベスク (シューマン)]] *アラベスク → [[2つのアラベスク]] (ドビュッシー) *[[アラベラ (オペラ)|アラベラ]] (リヒャルト・シュトラウス) *[[あらゆる意味にでっちあげられた数章]] (サティ) *[[アランの名による前奏曲とフーガ]] (デュリュフレ) *[[アランフエス協奏曲]] (ロドリーゴ) *[[アリアーヌと青ひげ]] (デュカス) *[[アリオダンテ]] (ヘンデル) *[[アルヴァマー序曲]] (バーンズ) *[[ある貴紳のための幻想曲]] (ロドリーゴ) *[[アルザスの風景]] (マスネ) *[[アルジェのイタリア女]] (ロッシーニ) *[[アルジェリア組曲]] (サン=サーンス) *[[ある生涯]] (ジェフスキー) *[[主人は冷たい土の中に]] (フォスター) *[[アルチーナ]] (ヘンデル) *[[アルテュス王]] (ショーソン) *ある伝説 → [[エン・サガ]] (シベリウス) 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*[[アンダンテと変奏曲ヘ短調]] (ハイドン) *[[アンドレア・シェニエ]] (ジョルダーノ) *[[アントワープ讃歌]] (ヴァン・デル・ロースト) *[[アンナ・ボレーナ]] (ドニゼッティ) *[[アンネン・ポルカ (ヨハン・シュトラウス1世)]] *[[アンネン・ポルカ (ヨハン・シュトラウス2世)]] === い === *[[イヴェリア (イッポリトフ=イワノフ)]] *[[イエス十二弟子を召寄せて]] (J.S.バッハ) *[[イエスよ、汝わが魂を]] (J.S.バッハ) *[[イェヌーファ]] (ヤナーチェク) *[[イオランタ]] (チャイコフスキー) *[[錨を上げて]] (チャールズ・ツィマーマン) *イギリス → [[交響曲第8番 (ドヴォルザーク)]] *[[イギリス組曲 (バッハ)]] *[[イギリス民謡組曲]] (ヴォーン・ウィリアムズ) *[[行け、怒りにかられて]] (モーツァルト) *[[異国の鳥たち]] (メシアン) *[[イーゴリ公]] (ボロディン) *[[いざ来ませ、異邦人の救い主よ (BWV61)]] (J.S.バッハ) *[[石の花 (プロコフィエフ)]] *[[石の客]] (ダルゴムイシスキー) *[[イシュタル (ダンディ)]] *[[衣装をつけろ]] → [[道化師 (オペラ)|道化師]] (レオンカヴァッロ) *[[イスの王様]] (ラロ) *[[泉 (バレエ)|泉]] (ドリーブ、ミンクス) *[[イスラメイ]] (バラキレフ) *[[イソップの饗宴]] (アルカン) *[[イタリア歌曲集 (ヴォルフ)]] *[[イタリアから]] (リヒャルト・シュトラウス) *[[イタリア奇想曲]] (チャイコフスキー) *[[イタリア協奏曲]] (J.S.バッハ) *[[イタリアの印象]] (G.シャルパンティエ) *[[イタリアのトルコ人]] (ロッシーニ) *[[イタリアのハロルド]] (ベルリオーズ) *[[イタリア風序曲 (シューベルト)]] *[[イタリア風セレナーデ]] (ヴォルフ) *[[イ調のセレナーデ]] (ストラヴィンスキー) *[[いつくしみ深き]](星の世界)(チャールズ・コンヴァース) *[[五つの童画]] (三善晃) *[[糸杉と月桂樹]] (サン=サーンス) *[[いと尊きわがイエスは見失われぬ]] (J.S.バッハ) *[[イドメネオ]] (モーツァルト) *[[糸をつむぐグレートヒェン]] (シューベルト) *[[犬のためのぶよぶよとした前奏曲]] (サティ) *[[犬のためのぶよぶよとした本当の前奏曲]] (サティ) *[[祈り (トスティ)]] *[[威風堂々 (行進曲)|威風堂々]] (エルガー) *[[イベリア (アルベニス)]] *イベリア → [[映像 (ドビュッシー)]] *[[いやいやながらの王様]] (シャブリエ) *[[イリス (オペラ)|イリス]] (マスカーニ) *[[イル・トロヴァトーレ]] (ヴェルディ) *[[イルメリン]] (ディーリアス) *[[岩 (ラフマニノフ)]] *[[イワン雷帝 (プロコフィエフ)]] *[[インヴィクタ序曲]] (スウェアリンジェン) *[[インヴェンションとシンフォニア]] (J.S.バッハ) *[[イングランドの女王エリザベッタ]] (ロッシーニ) *[[隠棲 (歌曲)|隠棲]] (ヴォルフ) *[[インディゴと40人の盗賊]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[印度 (交響組曲)|印度]] (山田一雄) === う === *[[ヴァイオリン協奏曲]] → [[ヴァイオリン協奏曲の一覧]]参照 *[[ヴァイオリンソナタ]] → [[ヴァイオリンソナタの一覧]]参照 *[[ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 (モーツァルト)]] *[[ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 (モーツァルト)]] *ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ → [[ヴァイオリン協奏曲第5番 (モーツァルト)]] *[[ヴァイオリンとチェロのためのソナタ (ラヴェル)]] *[[ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 (ブラームス)]] *[[ヴァイオリンとピアノのための協奏曲 (モーツァルト)]] *[[ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 (シューベルト)]] *[[ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ (シューベルト)]] *[[ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ (ドヴォルザーク)]] *[[ヴァイオリンのためのロマンス (エルガー)]] *[[ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲]] (ショーソン) *[[ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲 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*[[勇敢な飛行]] (スウェアリンジェン) *[[遊戯 (ドビュッシー)]] *[[友人フリッツ]] (マスカーニ) *[[夕鶴 (オペラ)|夕鶴]] (團伊玖磨) *[[夕映えに]] (シューベルト) *[[愉快な戦争]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[ユーカラ (交響組曲)|ユーカラ]] (早坂文雄) *[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]] (マイアベーア) *[[行け、怒りにかられて]] (モーツァルト) *[[ユース・シンフォニー]] (ラフマニノフ) *[[ユダス・マカベウス]] (ヘンデル) *[[ユダヤの女]] (アレヴィ) *指輪物語 → [[交響曲第1番 (デ・メイ)]] *[[夢 (トスティ)]] *[[夢とカプリッチョ]] (ベルリオーズ) *[[夢のあとに (フォーレ)]] *[[夢の形]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[夢の樹 (デュティユー)]] *[[夢の子供たち]] (エルガー) *[[夢の姿]] (モーツァルト) *[[夢の時]] (武満徹) *[[夢見るゲールゲ]] (ツェムリンスキー) *[[夢見る人]] (フォスター) *[[ユーモレスク (ドヴォルザーク)]] *[[ゆりかごから墓場まで (リスト)]] === よ === *[[宵の明星の軌道]] (ヨーゼフ・シュトラウス) *[[妖精 (ワーグナー)]] *[[妖精ヴィッリ]] (プッチーニ) *[[妖精のエアと死のワルツ]] (スタンプ) *[[妖精の丘に]] (バックス) *[[妖精の踊り (バッジーニ)]] *妖精の踊り (ベルリオーズ) → [[ファウストの劫罰]] *[[妖精の接吻]] (ストラヴィンスキー) *[[幼年連祷]] (新実徳英) *[[預言者 (オペラ)|預言者]] (マイアベーア) *予言の鳥 →[[森の情景]] (シューマン) *[[ヨゼフ伝説]] (リヒャルト・シュトラウス) *四つの気質 → [[交響曲第2番 (ニールセン)]] *[[夜鳴きうぐいす (ストラヴィンスキー)]] *[[ヨーネ]] (ペトレッラ) *[[ヨハネ受難曲]] (J.S.バッハ) *[[世の終わりへの行進]] (ネリベル) *[[世の終わりのための四重奏曲]] (メシアン) *[[ヨハネの黙示録より]] (リャードフ) *[[夜 (フルート協奏曲)]] (ヴィヴァルディ) *[[夜 (ムソルグスキー)]] *[[夜 (ルビンシテイン)]] *[[夜と夢]] (シューベルト) *[[夜の歌 (エルガー)]] *[[夜のガスパール (ラヴェル)]] *[[夜の騎行と日の出]] (シベリウス) *[[夜の女王のアリア]] (モーツァルト) *:→ [[復讐の炎は地獄のように我が心に燃え]] *[[喜びの島]] (ドビュッシー) *[[四手のためのピアノソナタ (モーツァルト)]] == ら行 == === ら === *[[雷雨 (チャイコフスキー)]] *[[ライツアウトマーチ]] (マッコイ) *[[ライムント時代の調べ]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[雷鳴と稲妻]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[ライモンダ]] (グラズノフ) *ライン → [[交響曲第3番 (シューマン)]] *[[ラインの黄金]] (ワーグナー) *[[ラ・ヴィヴァンディエール]] (プーニ) *[[ラ・エスメラルダ (ベルタン)]] *[[ヴァイオリン協奏曲第2番 (パガニーニ)|ラ・カンパネッラ (パガニーニ)]] *[[ラ・カンパネッラ]] (リスト) *[[楽園とペリ]] (シューマン) *[[ラクセンブルク・ポルカ]] (ヨーゼフ・シュトラウス) *[[ラグビー (オネゲル)]] *[[ラグタイム・ダンス]] (ジョプリン) *[[ラクメ]] (ドリーブ) *[[落葉 (吹奏楽曲)|落葉]] (ベンソン) *[[ラクリメ―ダウランドの歌曲の投影]](ブリテン) *[[ラーコーツィ行進曲]] (ハンガリー民謡) *ラーコーツィ行進曲 → [[ファウストの劫罰]] (ベルリオーズ) *[[ラ・ゴロンドリーナ(つばめ)|ラ・ゴロンドリーナ]] (セラデル) *[[ラシーヌの雅歌]] (フォーレ) *[[ラシュスコ舞曲]] (ヤナーチェク) *[[ラ・ジョコンダ]] (ポンキエッリ) *[[ラ・ストラヴァガンツァ]] (ヴィヴァルディ) *[[ラ・チェトラ (ヴィヴァルディ)]] *[[ラ・チ・ダレム変奏曲]] (ショパン) *[[ラッパ吹きの休日]] (アンダーソン) *[[ラデツキー行進曲]] (ヨハン・シュトラウス1世) *[[ラ・バヤデール]] (ミンクス) *[[ラプソディ・イン・ブルー]] 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*[[ル・マルトー・サン・メートル]] (ブーレーズ) *[[ルル (オペラ)|ルル]] (ベルク) *[[ルール・ブリタニア]] (トーマス・アーン) *[[流浪の民]] (シューマン) === れ === *[[レオノーレ序曲第1番]] (ベートーヴェン) *[[レオノーレ序曲第2番]] (ベートーヴェン) *[[レオノーレ序曲第3番]] (ベートーヴェン) *[[レクイエム (ヴェルディ)]] *[[レクイエム (コルネリウス)]] *[[レクイエム (サン=サーンス)]] *[[レクイエム (シューマン)]] *[[レクイエム (ディーリアス)]] *[[レクイエム (デュリュフレ)]] *[[レクイエム (ドヴォルザーク)]] *[[レクイエム (ミヒャエル・ハイドン)]] *[[レクイエム変ロ長調 (ミヒャエル・ハイドン)]] *[[レクイエム (ピツェッティ)]] *[[レクイエム (フォーレ)]] *[[レクイエム (ベルリオーズ)]] *[[レクイエム (ポガニー)]] *[[レクイエム (モーツァルト)]] *[[レクイエム (レーガー)]] *[[レクイエム (ロッティ)]] *[[レクイエム・カンティクルズ]] (ストラヴィンスキー) *[[レチタティーヴォとアリア K.316]] (モーツァルト) *[[レーナウの「ファウスト」による2つのエピソード]] (リスト) *[[レニャーノの戦い (ヴェルディ)]] *[[レ・バンダール・ログ (音楽)|レ・バンダール・ログ]] (ケクラン) *[[レモンの花咲くところ]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[レリオ、あるいは生への復帰]] (ベルリオーズ) *[[恋愛禁制]] (ワーグナー) *[[練習曲 (カイザー)]] *[[練習曲 (サン=サーンス)]] *[[練習曲作品4 (シマノフスキ)]] *[[練習曲 (ショパン)]] *[[練習曲 (スクリャービン)]] *[[練習曲 (ドビュッシー)]] *[[練習曲 (リゲティ)]] *[[連隊の娘]] (ドニゼッティ) *[[レンダリング (ベリオ)]] *[[連祷 (アラン)]] *[[レントより遅く]] (ドビュッシー) *[[レンミンカイネン組曲]] (シベリウス) === ろ === *[[ローエングリン]] (ワーグナー) *[[六重奏曲 (トゥイレ)]] *[[六重奏曲 (プーランク)]] *[[六重奏曲 (ベートーヴェン)]] *[[ロココの主題による変奏曲]] (チャイコフスキー) *[[ロシアのクリスマス音楽]] (リード) *[[ロシアの皇太子]] (レハール) *[[ロシアの復活祭]] (リムスキー=コルサコフ) *[[ロシア風スケルツォ]] (ストラヴィンスキー) *[[ロジェ王]] (シマノフスキ) *[[ロスコ・チャペル (フェルドマン)]] *[[ロスティスラフ公]] (ラフマニノフ) *[[ロッキー・ポイント・ホリデー]] (ネルソン) *[[ロッシニアーナ]] (レスピーギ) *[[ロデオ (コープランド)]] *[[ロデリンダ]] (ヘンデル) *[[ローマの謝肉祭 (序曲)|ローマの謝肉祭]] (ベルリオーズ) *{{仮リンク|ローマの謝肉祭 (オペレッタ)|label=ローマの謝肉祭|de|Karneval in Rom}}(ヨハン・シュトラウス2世) *[[ローマの噴水]] (レスピーギ) *[[ローマの松]] (レスピーギ) *[[ローマの祭り]] (レスピーギ) *[[ロマンティックな組曲 (レーガー)]] *[[ロマンティックな小品 (ドヴォルザーク)]] *[[ロマンティックな人びと]] (ヨーゼフ・ランナー) *[[ロマンス第1番 (ベートーヴェン)]] *[[ロマンス第2番 (ベートーヴェン)]] *[[ロメオとジュリエット (グノー)]] *[[ロメオとジュリエット (チャイコフスキー)]] *[[ロメオとジュリエット (プロコフィエフ)]] *[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)]] *[[ローレライ=ラインの調べ]] (ヨハン・シュトラウス1世) *[[ロンド ハ短調 (ショパン)]] *[[ロンド ハ長調 (ショパン)]] *[[ロンド 変ホ長調 (ショパン)]] *[[ロンドン交響曲 (ヴォーン・ウィリアムズ)]] == わ行 == === わ === *[[若き日の歌]] (マーラー) *[[わが人生は愛と喜び]] (ヨーゼフ・シュトラウス) *[[わが祖国 (スメタナ)]] *[[我が母の教えたまいし歌]] (ドヴォルザーク) *[[ワカヒメ]] (三木稔) *[[わが家で]] (ヨハン・シュトラウス2世) *別れの曲 → [[練習曲Op.10-3 (ショパン)]] *[[惑星 (組曲)]] (ホルスト) *[[わしらの新しいご領主に]] (J.S.バッハ) *[[ワシントン・ポスト (行進曲)|ワシントン・ポスト]] (スーザ) *[[忘れられた捧げもの]] (メシアン) *[[忘れられた者 (ムソルグスキー)]] *[[忘れられたワルツ]] (リスト) *[[私の命も奪ってください]] (A.スカルラッティ) *[[私の侯爵様]] → [[こうもり (オペレッタ)|こうもり]] (ヨハン・シュトラウス2世) *[[私の両眼を閉じてください]] (ベルク) *[[私は心に感じる]] (A.スカルラッティ) *[[私は鳥刺し]] → [[魔笛]] (モーツァルト) *[[私はペンナに一人恋人を持っている]] (ヴォルフ) *[[私を傷つけるのをやめるか]] (A.スカルラッティ) *[[私を死なせて]] (モンテヴェルディ) *[[私を泣かせてください]] → [[リナルド (オペラ)|リナルド]] (ヘンデル) *[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]] (ワーグナー) *[[ワルシャワの生き残り]] (シェーンベルク) *[[ワルソー・コンチェルト]] (アディンセル) *[[ワルツイ短調 (ショパン)]] *[[ワルツ集]]【曖昧さ回避】 *ワルツ第1番 (ショパン) → [[華麗なる大円舞曲 (ショパン)]] *ワルツ第2番 (ショパン) → [[華麗なる円舞曲 (ショパン)]] *ワルツ第3番 (ショパン) → [[華麗なる円舞曲 (ショパン)]] *ワルツ第4番 (ショパン) → [[華麗なる円舞曲 (ショパン)]] *[[ワルツ第5番 (ショパン)]] *ワルツ第6番 (ショパン) → [[子犬のワルツ]] *[[ワルツ第7番 (ショパン)]] *[[ワルツ第8番 (ショパン)]] *[[ワルツ第9番 (ショパン)]] *[[ワルツ第10番 (ショパン)]] *[[ワルツ第11番 (ショパン)]] *[[ワルツ第12番 (ショパン)]] *[[ワルツ第13番 (ショパン)]] *[[ワルツ第14番 (ショパン)]] *[[ワルツ第15番 (ショパン)]] *[[ワルツ集 (ブラームス)]] *[[ワルツ・スケルツォ (チャイコフスキー)]] *[[ワルツの夢]] (オスカー・シュトラウス) *[[悪口学校 (バーバー)]] *ワルトシュタイン → [[ピアノソナタ第21番 (ベートーヴェン)]] *[[われ死者の復活を待ち望む]] (メシアン) *[[われは喜びて十字架を負わん]] (J.S.バッハ) *[[われらが神は堅き砦]] (J.S.バッハ) *[[我らが時代の子]] (ティペット) *[[我らの主イエス・キリストの変容]] (メシアン) *[[我らの父 (デュリュフレ)]] *[[我らの旗が翻るところ]] (ヨハン・シュトラウス2世) ==脚注== {{reflist}} == 関連項目 == *[[音楽]] - [[クラシック音楽]] *[[オペラ作品一覧]] *[[交響曲の一覧]] *[[ピアノ協奏曲の一覧]] *[[ピアノソナタの一覧]] *[[ヴァイオリン協奏曲の一覧]] *[[ヴァイオリンソナタの一覧]] *[[チェロ協奏曲の一覧]] *[[フルート協奏曲の一覧]] *[[弦楽四重奏曲の一覧]] === 作曲家別作品リスト === ;バロック [[ブクステフーデの楽曲一覧|ブクステフーデ]] ([[:en:List of compositions by Dieterich Buxtehude|en]]) - [[ヴィヴァルディの楽曲一覧|ヴィヴァルディ]] - [[ドメニコ・スカルラッティの楽曲一覧|ドメニコ・スカルラッティ]] - [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品一覧|J.S.バッハ]] - [[ヘンデルの楽曲一覧|ヘンデル]] ;古典派 ハイドン( [[ハイドンの交響曲一覧|交響曲]] - [[ハイドンの舞台作品一覧|舞台作品]] - [[ハイドンの管弦楽曲一覧|管弦楽曲]] - [[ハイドンの協奏曲一覧|協奏曲]] - [[ハイドンの弦楽四重奏曲一覧|弦楽四重奏曲]] - [[ハイドンのピアノ三重奏曲一覧|三重奏曲]] - [[ハイドンのバリトン作品一覧|バリトン]] - [[ハイドンのカノン作品一覧|カノン]] - [[ハイドンのピアノソナタ一覧|ピアノソナタ]] - [[ハイドンのピアノ曲一覧|ピアノ曲]] - [[ハイドンの歌曲一覧|歌曲]]) - [[モーツァルトの楽曲一覧|モーツァルト]]( [[モーツァルトの交響曲|交響曲]] - [[モーツァルトの管弦楽曲|管弦楽曲]] - 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ナポリタン
ナポリタンは、パスタ料理の一種で、茹でたスパゲッティをタマネギ、ピーマン、ベーコンなどの具材と共に炒めトマトケチャップで調味したもの。日本発祥のパスタ料理であり、類似の名を持つイタリア料理のスパゲッティ・アッラ・ナポレターナとは異なる。 ナポリタンに類似した名で呼ばれるパスタ料理は幅広く存在するが、本稿では、第二次世界大戦後に日本の喫茶店や洋食店で広く提供されていた、軟質小麦を原料としたコシのない麺をケチャップで着色したものを中心に解説する。その周辺の類似したパスタ料理についても適宜解説する。 日本パスタ協会のおすすめレシピによると、オリーブ油を熱したフライパンでベーコン、タマネギ、ピーマンなどの具材を炒めたうえで、トマトやケチャップを加えてさらに炒め、茹でたスパゲッティを混ぜて塩コショウで味を調えて作る。ベーコンはハム、ソーセージなどに置き換わることがある。好みでタバスコペッパーソースや粉チーズをかける。 喫茶店や洋食店などのナポリタンには、茹でた麺を一定時間寝かせる工程や、再加熱時に麺を炒める工程が加わる。 麺を芯がなくなるまで茹でてサラダ油で和え、冷蔵庫で一晩置く。客の注文が入ってからケチャップ、具とともにフライパンで炒めつつ再加熱する。麺を余計に茹でるのも、油で和えるのも、冷蔵保存と再加熱時に水分が飛んで麺が乾燥するのを防ぐためとされる。 日本経済新聞のコラム「食べ物新日本奇行」で、編集委員の野瀬泰申は、麺を茹で置いて客の注文が入ってから再加熱する調理法が立ち食いそばと同じであると述べたうえで、同様のパスタの茹で置きがベルギーの街のカフェでも行われている話を紹介し、「冷凍麺がなかった時代に生まれた調理時間の短縮技と思われる」と述べている。 小説家の浅田次郎は、エッセイの中でナポリタンを次のように描写している。 また、大衆食を題材にしたエッセイ「『丸かじり』シリーズ」で知られる漫画家の東海林さだおは、ナポリタンを次のように描写している。 ナポリタンはトマトケチャップを用いて作られる料理であるが、トマトが新大陸からスペイン経由でナポリに伝わったのは1554年とされる。 当時のナポリは良港として名高く、またシチリアとともにスペイン・ハプスブルク朝に支配されていたため、スペインを通じて新大陸の食材が手に入りやすい環境にあった。トマトソースのパスタは17-18世紀ごろにはナポリに存在していたとされる。 歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えたイタリア人シェフ、アントニオ・ラティーニ(英: Antonio Latini)が著し1696年に発行された Lo Scalco alla Moderna(『近代的家令』あるいは『現代の給仕長』など)である。同書にはトマトを使った「Salsa di pomadoro alla spagnola(スペイン風トマトソース)」が記されている。 このソースは、皮をむいて刻んだトマトに、みじん切りのタマネギとピーマン、イブキジャコウソウ、塩、オイル、酢などを混ぜたもので、ラティーニ自身は茹でた肉にかけることを奨めていた。 1773年には、ナポリ在住のヴィンチェンツォ・コラード(伊: Vincenzo Corrado)が、著書Il Cuoco Galante(『粋な料理人』)の中でトマトソースの汎用性を賞賛し、トマトソースと組み合わせるものの例として、肉、魚、卵や野菜とともにパスタも挙げている。 1790年には、ローマ出身の料理人フランチェスコ・レオナルディ(英: Francesco Leonardi (chef))も、著書L'Apicio moderno(『現代のアピキウス』)で、トマトソースとパスタとの組み合わせを紹介している。 トマトとパスタを組みあわせた料理のレシピが文献に登場するのは、1839年にナポリのヴォンヴィチーノ公爵であるイッポリート・カヴァルカンティ(伊: Ippolito Cavalcanti)が著した Cucina Teorico-Practica(『料理の理論と実践』)に記載された「ヴェルミチェッリのトマト添え」が最初だとされる。 18世紀ごろのナポリでは、貧しい庶民の間でトマトソースのパスタ料理「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」が食べられていた。 当時ナポリの路上にはパスタを売る屋台があり、茹でたヴェルミチェッリにチーズをかけた「ドゥエ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」(「ドゥエ・チェンテジミ」は2チェンテジモの意。「チェンテジモ」はリラの100分の1の貨幣単位)が売られていた。さらに1チェンテジモ追加で支払えばトマトソースをかけることができた。そこからトマトソースをかけたこのパスタを「トゥレ・チェンテジミ(3チェンテジモ)のヴェルミチェッリ」あるいは「ア・トリーエ(三つ)のヴェルミチェッリ」と呼ぶようになったという。このトマトソースは水も油も入れずトマトだけを煮詰めたものだった。 ナポリでは17-18世紀ごろにトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及したが、他の地方ではこの食べ方は知られておらず、ナポリとその近郊以外では食べられていなかったという。 このナポリのトマトソースを使用した調理法がフランスに伝わり、フランス料理に取り入れられるようになった。フランスでは「スパゲッティ・ナポリテーヌ(Spaghetti Napolitaine)」あるいは「スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」と呼ばれた。 明治期の日本ではロングパスタよりマカロニが主流であった。また当時の日本で西洋料理と言えばフランス料理であったことから、パスタ料理は当初マカロニやラビオリをベシャメルソースで仕上げるフランス料理として調理されていたという。ただし、日本では第二次世界大戦後までパスタの入手をほとんど輸入品に頼っていたため、ホテルや高級レストランでのみ扱われる料理であった。明治30年ごろから日本では洋食店が増加し、一部の西洋料理は日本独自の「洋食」へと変化していったが、パスタ料理は戦前の段階では「洋食」化することはなかった。 1903年にフランス料理の大家エスコフィエが著したLe Guide culinaire(『エスコフィエ フランス料理』)には、「Garniture à la Napolitaine(ガルニチュール・ア・ラ・ナポリテーヌ)」という名のパスタ料理が収録されている。そのレシピは、「スパゲティ500gをゆでて、グリュイエール・チーズ50g、パルメザンチーズ50gをおろしたもの、トマト・ピュレ1dlを合わせてつないだもの、バター100gを加えて仕上げる。ソース 主料理の肉のフォン」というものである。これは単品の料理ではなくautre garnitures(その他の付け合わせ)として収録されている。 また、築地精養軒の料理長を務めた鈴本敏雄が1920年(大正9年)に著した『仏蘭西料理献立書及調理法解説』でも、「Garniture à la Napolitaine(ガランチン・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「Parmesan乾酪を加へたるTomato sauceにて調理したる"Spaghetti"」と、「Macaroni(又は)Spaghetti à la Napolitaine(マカロニ又はスパゲイチ・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「ざつと茹でたるものを、赤茄子の原漿及び乾酪を加へ、充分にハムの風味を有たしたる羹汁にて煮込む」パスタ料理が収録されている。 東京・銀座の煉瓦亭には、1921年(大正10年)の時点で「イタリアン」というメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。同店の4代目店主によれば、当時の「イタリアン」にはトマトピューレを用いていたが、関東大震災後から戦時中に食料配給制になるまではケチャップを使用していたという話もあるという。 横浜市教育委員会が発行した『横浜の食文化』p.79には、1934年(昭和9年)1月の横浜ホテルニューグランドのメニューが掲載されており、そこには「Spaghetti Napolitaine」の記載がある。また、同ホテルの支店である東京ニューグランドの1935年(昭和10年)のメニューには、カタカナで「スパゲチ ナポリテーイン」と書かれている。この「スパゲチ ナポリテーイン」は、裏ごししたトマトとチーズで作ったソースをかけたものだったと推定されている。当時のホテルニューグランドの総料理長はドリアの考案やアラカルトの導入などで知られるサリー・ワイルであり、戦前に同ホテルで修業経験のある小野正吉は、「スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ」と発言している。 古川ロッパの『古川ロッパ昭和日記』には、1934年(昭和9年)12月22日に「三越の特別食堂」で「ナポリタン」というスパゲッティを食したことが書かれている。ただし、ロッパの記述には「少し水気が切れない感じ」とあるため、茹でたパスタにソースを絡めた料理だったと推測される。 『vesta』編集部によれば、1905年(明治38年)に西洋酒食料品雑貨を輸入していた「亀屋」が発行した非売品の本『佛国料理 家庭の洋食』に、トマトソースを用いた「スパゲット・アラ・イタリアン」という料理が紹介されている。これはマカロニの代わりにスパゲッティを用いた、トマトソースのグラタン風の料理である。 1927年(昭和2年)の若林ぐん子『欧米の菓子と料理』には、「ナポリ式スパゲッチ」という料理が紹介されている。これはベーコン、タマネギ、トマト缶、トマトペーストを煮込んでソースを作り、茹でたスパゲッティにかけるものだった。 また、『婦人之友』1937年(昭和12年)12月号には、スパゲティの代わりにうどんを代用して作る「スパケテナポリタン」という料理が紹介されている。これは肉と脂とニンニクを炒めてから汁だけを残し、トマトを入れて炒め、トマトケチャップ、月桂樹の葉とシェリー酒を加えて湯で伸ばし、塩と胡椒で味付けしてソースとするレシピである。 以上のように、戦前にも「ナポリタン」や類似した名前のパスタ料理は存在した。 古川ロッパは、『ロッパ食談』において、戦後のイタリア料理店で供されるスパゲッティやマカロニについて「イタリー料理といへば、われらは、戦争前に、ニューグランドやホテルのグリルで、もっと欧風化した奴を食っている」と記し、戦前のヨーロッパ風のパスタ料理が戦後のパスタ料理とは異なっていたことを証言している。しかし、戦前のこれらのパスタ料理は太平洋戦争によっていったん忘れ去られることになる。大矢は、太平洋戦争によって日本人のそれまでの食文化がいったん完全に破壊されたのだと述べている。 太平洋戦争終結後、日本はGHQの占領下に置かれた。日本国内にはアメリカ軍を中心とした連合軍が進駐軍として駐留し、日本人とアメリカ兵たちとの間には交流も生まれた。そんな中で日本人はアメリカの食文化に接することになった。 イタリアからアメリカへの移民は、ナポリ近傍のカンパニア地方、およびシチリア出身者が多かった。彼らは母国から輸入したパスタを食べていたが、その食文化は他のアメリカ人には広まらなかった。というのは、先に移住していた豚肉食文化のドイツ系移民による同化政策があったためである。イタリア系移民の家庭にはケースワーカーが送り込まれて肉食が奨励され、具なしパスタのようなエスニックな食文化は修正されていった。 パスタはイタリアでは富裕層にとってコース料理の中の一品、貧困層にとって単品ですべてを満たす手軽な食事という二面性を持っていたが、アメリカでは後者の側面が強まった。パスタはアメリカ人の嗜好に合わせて大衆化し、その結果として生まれたのが、スパゲッティにトマトソースとミートボールとパルメザンチーズを合わせた「スパゲッティ・ウィズ・ミートボール」であった。この料理は世界恐慌の折に安価な料理としてイタリア系以外のアメリカ人にも広まったという。 ボアルディ(英: Ettore Boiardi)兄弟は、スパゲッティの缶詰を製造し、第二次世界大戦ではアメリカ陸軍へ供給する契約を取りつけることに成功した。アメリカ人は、兵隊食(Cレーション)の缶詰スパゲッティでいっそうスパゲッティに親しむことになった。この缶詰のスパゲッティにはケチャップに近いソースが使われていて、やわらかく、ぎっとりして甘いものだった。 缶詰スパゲッティに慣れたアメリカ人はコシのないやわらかい麺に慣れ親しみ、その嗜好に合わせる形で、現地で生産されるスパゲッティも硬質小麦ではなく軟質小麦を用いたやわらかいものになった。 こうしてアメリカ人は“ケチャップあえのスパゲッティ”を好むようになり、この嗜好がGHQと共に日本に伝わることになる。 上野は、アメリカのスパゲッティ・ウィズ・ミートボールがナポリタンのルーツであり、戦後に進駐軍を通じて伝わったものと推定している。池上も進駐軍が食べていたピザやスパゲッティの影響と見ている。 大矢は、1907年に発行されてベストセラーになったペレグリーノ・アルトゥーシ(英: Pellegrino Artusi)の主婦向けレシピ集『料理の科学と美食の技法』の「ナポリ風マッケローニ」がナポリタンのルーツであり、戦後都心にできた新興のイタリア料理店が米兵の好みに合わせて提供していた料理が広まった可能性を挙げている。 ホテルニューグランド第4代総料理長の高橋清一は、ナポリタンは第2代総料理長の入江茂忠が戦後に考案したと述べている。 ホテルニューグランドは、1945年(昭和20年)8月30日のダグラス・マッカーサーの来日直後から7年間GHQに接収されていた。入江は進駐軍の兵士がケチャップで和えただけの具なしスパゲッティを食べているのを見て、ケチャップだけでは味気ないと考え、生トマト、タマネギ、ニンニク、トマトペースト、オリーブオイルでトマトソースを作り、炒めたハム、ピーマン、マッシュルームを加えてソースで和えたスパゲッティを考案したという。このスパゲッティは「スパゲッティーナポリタン」と呼ばれた。高橋によると、「ナポリタン」という命名は、中世のころナポリの屋台で庶民向けにトマトソースをかけたスパゲティが売られていたことをヒントにしたものだという。 入江の「スパゲティーナポリタン」はケチャップを使ってはいないが、7割がた茹でたパスタを冷まし、5-6時間放置したうえで湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、というひと手間を加える工夫は入江の功績と見なされる。 高橋は中世ナポリ風であることが「ナポリタン」という名前の直接の由来であるとしているが、澁川は、入江は師のサリー・ワイルを通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたのではないかと考察している(なお、入江は「スパゲチ ナポリテーイン」の提供されていた東京ニューグランドに1936年(昭和11年)ごろから勤めている)。上野は、戦時中に陸軍の厨房兵として従軍していた入江に、旧海軍の「マカロニナポリタン」という料理名の記憶があったのではないかと考察している。 また、横浜市野毛の洋食レストラン「センターグリル」では、1946年(昭和21年)の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていたとされる。高価で加工に手間もかかるトマトを使わずケチャップを用いるのは町の洋食店ならではの工夫だとして、センターグリルが「ケチャップナポリタン」の発祥であると見る向きもある。ただし、同店の創業者の石橋豊吉は、ワイルの経営していたセンターホテルで修業をしていて入江とも親交があり、開業後にも入江からアドバイスを受けていたという。 太平洋戦争の終結後、深刻な食糧難に陥っていた日本では、米不足を補うために主食として粉食の普及が推進された。これによって日本の製粉業も急発展する。1952年(昭和27年)に麦の政府統制が間接統制に移行したのを契機に、小麦の加工も買取加工制度に変更され、自由競争が行われるようになった。製粉会社は自由に原料を買い取って製粉できるようになった一方で、大幅に淘汰された。 1954年(昭和29年)3月、日本は日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(Mutual Security Act、MSA)に調印した。MSAは本来軍事援助のためのものであるが、その中にはアメリカの余剰農産物を購入する余剰農産物購入協定も含まれていた。日本はアメリカ産の小麦50万トンを受け入れることになった。 この「MSA小麦」は政府から製粉業者に払い下げられることになったが、日本で需要のあった硬質小麦ではなく軟質小麦だったうえに他の輸入小麦に比べて割高であり、質もあまり良くないものだったという。 余剰農産物の輸出と軍事援助を組み合わせたMSAには批判も多く、余剰農産物の処理は農業貿易開発援助法(The agricultural trade development and assistance act)、通称PL480(Public Law 480、公法480号)に引き継がれることになる。日本はこのPL480にも調印し、1955年(昭和30年)5月、アメリカ産の小麦約34万トンを受け入れた。 このときアメリカから輸入された小麦は薄力粉となる軟質小麦であった。もともとオレゴン州で獲れる小麦はウェスタンホワイト種という軟質小麦であったためである。アメリカにもデュラム小麦がないわけではなかったが、その産地はロッキー山脈より東側の中西部諸州に限られており、日本向けに太平洋側へ輸送するのはコスト面で無理だった。従来の日本産の小麦も軟質のものであり、必然的に日本のパスタは薄力粉で打ったコシのないものになった。 1956年(昭和31年)、日本食生活協会は、厚生省との連携のもと、栄養指導車(キッチンカー)を使った栄養指導「キッチンカー事業」を開始した。この事業には、アメリカ合衆国農務省の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟が資金を提供していた。日本人の栄養改善のために粉食を奨励していた厚生省と、海外市場の開拓を図る米国農務省の思惑が一致した形だった。 キッチンカーは全国各地を巡り、主婦層に直接、粉食推進、油摂取拡大による栄養改善を指導した。キッチンカーの献立に最低一品は小麦を使うことが米国側からの条件であった(のちに大豆の使用も条件に加わった)ので、パンはもちろんのこと、スパゲッティ、パンケーキ、ドーナツなど、小麦粉と油を使う料理が実演とともに無料でふるまわれた。 このキッチンカーによる料理指導のほか、フライパンでの油物調理を奨める「フライパン運動」やたんぱく質の摂取を呼びかけるコマーシャルなどによって、日本の食生活の洋風化と栄養重視嗜好が進んでいった。 小麦の大量輸入と前後する1954年(昭和29年)、イタリアからパスタの自動製造機が輸入され、1955年(昭和30年)にはマ・マーマカロニの前身となる日本マカロニ株式会社と日本製粉(現・ニップン)のオーマイブランドがそれぞれ国産スパゲッティの販売を開始した。日本国内でパスタの大量生産が始まったこの年は「パスタ元年」とも呼ばれる。 このとき、販売促進のデモンストレーション用にナポリタンの原型ともいえるケチャップを混ぜて炒める「ケチャップパスタ」が登場し、調理が簡単なメニューとして喫茶店や家庭に広まっていったという。 ただし、上野によれば、昭和30年代の時点ではこの「ケチャップパスタ」はナポリタンという料理名では呼ばれていなかった。上野は、1967年(昭和42年)に高森興産が販売したパスタが「ナポリタン」の製品化の嚆矢と推測する一方で、流通販路が限られていたためその名称が全国的に広まったとは考えにくいと述べている。1970年代に入り学校給食にナポリタンという名前でケチャップソースの現在の昔風ナポリタンと同様の物が提供されていた。 前川健一によると、1970年(昭和45年)発行の『日清製粉株式会社七十年史』に、「マカロニ類はめん類の中では特異な存在であって、業務用が主体となっている高級品である」とあり、1960年代にはまだ家庭ではスパゲッティはあまり食べられていなかった。イタリア料理店もそれほど多くなかったため、スパゲッティといえば喫茶店や洋食店で食べるもので、家庭でさかんに食べられるようになったのは1970年代か1980年代かもしれないという。 池上は、パスタ料理が庶民に普及した理由として、1970年代からのファミリーレストランの興隆を大きな要因として挙げている。ファミリーレストランの先駆けとされるすかいらーくの開業時のメニューには「スパゲティナポリタン」も記載されている。 1991年発行の『調味料・香辛料の事典』では、東京地区と大阪地区で実施された「家庭内におけるケチャップメニューの出現頻度」のアンケートにおいて、「ナポリタン」は「スパゲティ・パスタ」とは別項目に分けられたうえで、出現頻度の高いメニューとして東京地区の5位につけている(「スパゲティ・パスタ」は東京・大阪ともに3位)。 1980年代半ばごろまでは、飲食店におけるスパゲッティはミートソースかナポリタンの2種類(関東、東北ではイタリアンを加えて3種類)しかないことがほとんどであった。この2種のスパゲッティは、喫茶店、学校給食、食堂などでも広く親しまれるようになった。 1970年代から1980年代にかけて、スパゲッティの味付けや種類は多様化していく。また、1990年代の「イタめし」ブームによって、日本でも様々な本格的パスタが食べられるようになった。 その一方で、ナポリタンを供食する飲食店は以前より減少することになった。小説家の浅田次郎は、ナポリタンを見かけなくなった原因について、「主たる提供場所であった喫茶店が少なくなってしまったからである」と記し、自身の生家の喫茶店もバブルの影響で閉店したことを明かしている。 21世紀に入ると、懐かしさや目新しさを求め、単体料理としてのナポリタンの人気がある。 一方で、片岡義男は、ナポリタンが復興したのではなく、バブル崩壊に伴う経済的縮小により本格イタリアンが衰退したのだという説を紹介している。 ナポリにはケチャップ炒めスパゲッティはない。米国生まれのトマトケチャップを味付けの主役に使用することはまずなく、ピーマンやハムが入ることはない。トウガラシ加工品であるタバスコペッパーソースが入ることもない。 漫画家ヤマザキマリは自身のイタリア留学時代の体験を綴った漫画エッセイ『それではさっそくBuonappetito!』で、ナポリ出身のルームメイトと「ナポリタン」を巡る顛末を描いている。そこでも、トマトケチャップを用いる「ナポリタン」は「ナポリ料理ではない」と否定されている。ルームメイトが作った一見ナポリタンらしきものはスパゲッティ・アッラ・アマトリチャーナ(オリーブオイルで刻みタマネギとベーコンを炒め、白ワインとトマト水煮を入れて煮込むソースのパスタ)であった。イタリア出身者にとってはフライパンでスパゲッティを炒めることはありえず、パスタは茹でたらそのままソースに和えるだけという。 食物史研究で知られるボローニャ大学のマッシモ・モンタナリ(英語: Massimo Montanari)教授の1991年時点の談話によると、イタリアでは近年までスパゲッティやマカロニの需要はおもに南イタリアに限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるようになったのは約40年前(1951年前後)からのことだという。この点について前川は、第二次世界大戦後、日本と同じような形でアメリカの小麦やパスタ文化がイタリアへ流入したのではないかと考察している。伊丹十三はコラム集『女たちよ!』の中で、日本のナポリタンを強く非難した上で「本格的なイタリアのトマトソース」なるものを紹介しているが、そのレシピにはアメリカの食文化であるはずのタバスコペッパーソースを入れると書いている。
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"paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このソースは、皮をむいて刻んだトマトに、みじん切りのタマネギとピーマン、イブキジャコウソウ、塩、オイル、酢などを混ぜたもので、ラティーニ自身は茹でた肉にかけることを奨めていた。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1773年には、ナポリ在住のヴィンチェンツォ・コラード(伊: Vincenzo Corrado)が、著書Il Cuoco Galante(『粋な料理人』)の中でトマトソースの汎用性を賞賛し、トマトソースと組み合わせるものの例として、肉、魚、卵や野菜とともにパスタも挙げている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1790年には、ローマ出身の料理人フランチェスコ・レオナルディ(英: Francesco Leonardi (chef))も、著書L'Apicio moderno(『現代のアピキウス』)で、トマトソースとパスタとの組み合わせを紹介している。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "トマトとパスタを組みあわせた料理のレシピが文献に登場するのは、1839年にナポリのヴォンヴィチーノ公爵であるイッポリート・カヴァルカンティ(伊: Ippolito Cavalcanti)が著した Cucina Teorico-Practica(『料理の理論と実践』)に記載された「ヴェルミチェッリのトマト添え」が最初だとされる。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "18世紀ごろのナポリでは、貧しい庶民の間でトマトソースのパスタ料理「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」が食べられていた。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当時ナポリの路上にはパスタを売る屋台があり、茹でたヴェルミチェッリにチーズをかけた「ドゥエ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」(「ドゥエ・チェンテジミ」は2チェンテジモの意。「チェンテジモ」はリラの100分の1の貨幣単位)が売られていた。さらに1チェンテジモ追加で支払えばトマトソースをかけることができた。そこからトマトソースをかけたこのパスタを「トゥレ・チェンテジミ(3チェンテジモ)のヴェルミチェッリ」あるいは「ア・トリーエ(三つ)のヴェルミチェッリ」と呼ぶようになったという。このトマトソースは水も油も入れずトマトだけを煮詰めたものだった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ナポリでは17-18世紀ごろにトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及したが、他の地方ではこの食べ方は知られておらず、ナポリとその近郊以外では食べられていなかったという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このナポリのトマトソースを使用した調理法がフランスに伝わり、フランス料理に取り入れられるようになった。フランスでは「スパゲッティ・ナポリテーヌ(Spaghetti Napolitaine)」あるいは「スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」と呼ばれた。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "明治期の日本ではロングパスタよりマカロニが主流であった。また当時の日本で西洋料理と言えばフランス料理であったことから、パスタ料理は当初マカロニやラビオリをベシャメルソースで仕上げるフランス料理として調理されていたという。ただし、日本では第二次世界大戦後までパスタの入手をほとんど輸入品に頼っていたため、ホテルや高級レストランでのみ扱われる料理であった。明治30年ごろから日本では洋食店が増加し、一部の西洋料理は日本独自の「洋食」へと変化していったが、パスタ料理は戦前の段階では「洋食」化することはなかった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1903年にフランス料理の大家エスコフィエが著したLe Guide culinaire(『エスコフィエ フランス料理』)には、「Garniture à la Napolitaine(ガルニチュール・ア・ラ・ナポリテーヌ)」という名のパスタ料理が収録されている。そのレシピは、「スパゲティ500gをゆでて、グリュイエール・チーズ50g、パルメザンチーズ50gをおろしたもの、トマト・ピュレ1dlを合わせてつないだもの、バター100gを加えて仕上げる。ソース 主料理の肉のフォン」というものである。これは単品の料理ではなくautre garnitures(その他の付け合わせ)として収録されている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、築地精養軒の料理長を務めた鈴本敏雄が1920年(大正9年)に著した『仏蘭西料理献立書及調理法解説』でも、「Garniture à la Napolitaine(ガランチン・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「Parmesan乾酪を加へたるTomato sauceにて調理したる\"Spaghetti\"」と、「Macaroni(又は)Spaghetti à la Napolitaine(マカロニ又はスパゲイチ・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「ざつと茹でたるものを、赤茄子の原漿及び乾酪を加へ、充分にハムの風味を有たしたる羹汁にて煮込む」パスタ料理が収録されている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東京・銀座の煉瓦亭には、1921年(大正10年)の時点で「イタリアン」というメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。同店の4代目店主によれば、当時の「イタリアン」にはトマトピューレを用いていたが、関東大震災後から戦時中に食料配給制になるまではケチャップを使用していたという話もあるという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "横浜市教育委員会が発行した『横浜の食文化』p.79には、1934年(昭和9年)1月の横浜ホテルニューグランドのメニューが掲載されており、そこには「Spaghetti Napolitaine」の記載がある。また、同ホテルの支店である東京ニューグランドの1935年(昭和10年)のメニューには、カタカナで「スパゲチ ナポリテーイン」と書かれている。この「スパゲチ ナポリテーイン」は、裏ごししたトマトとチーズで作ったソースをかけたものだったと推定されている。当時のホテルニューグランドの総料理長はドリアの考案やアラカルトの導入などで知られるサリー・ワイルであり、戦前に同ホテルで修業経験のある小野正吉は、「スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ」と発言している。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "古川ロッパの『古川ロッパ昭和日記』には、1934年(昭和9年)12月22日に「三越の特別食堂」で「ナポリタン」というスパゲッティを食したことが書かれている。ただし、ロッパの記述には「少し水気が切れない感じ」とあるため、茹でたパスタにソースを絡めた料理だったと推測される。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『vesta』編集部によれば、1905年(明治38年)に西洋酒食料品雑貨を輸入していた「亀屋」が発行した非売品の本『佛国料理 家庭の洋食』に、トマトソースを用いた「スパゲット・アラ・イタリアン」という料理が紹介されている。これはマカロニの代わりにスパゲッティを用いた、トマトソースのグラタン風の料理である。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)の若林ぐん子『欧米の菓子と料理』には、「ナポリ式スパゲッチ」という料理が紹介されている。これはベーコン、タマネギ、トマト缶、トマトペーストを煮込んでソースを作り、茹でたスパゲッティにかけるものだった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、『婦人之友』1937年(昭和12年)12月号には、スパゲティの代わりにうどんを代用して作る「スパケテナポリタン」という料理が紹介されている。これは肉と脂とニンニクを炒めてから汁だけを残し、トマトを入れて炒め、トマトケチャップ、月桂樹の葉とシェリー酒を加えて湯で伸ばし、塩と胡椒で味付けしてソースとするレシピである。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以上のように、戦前にも「ナポリタン」や類似した名前のパスタ料理は存在した。 古川ロッパは、『ロッパ食談』において、戦後のイタリア料理店で供されるスパゲッティやマカロニについて「イタリー料理といへば、われらは、戦争前に、ニューグランドやホテルのグリルで、もっと欧風化した奴を食っている」と記し、戦前のヨーロッパ風のパスタ料理が戦後のパスタ料理とは異なっていたことを証言している。しかし、戦前のこれらのパスタ料理は太平洋戦争によっていったん忘れ去られることになる。大矢は、太平洋戦争によって日本人のそれまでの食文化がいったん完全に破壊されたのだと述べている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "太平洋戦争終結後、日本はGHQの占領下に置かれた。日本国内にはアメリカ軍を中心とした連合軍が進駐軍として駐留し、日本人とアメリカ兵たちとの間には交流も生まれた。そんな中で日本人はアメリカの食文化に接することになった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イタリアからアメリカへの移民は、ナポリ近傍のカンパニア地方、およびシチリア出身者が多かった。彼らは母国から輸入したパスタを食べていたが、その食文化は他のアメリカ人には広まらなかった。というのは、先に移住していた豚肉食文化のドイツ系移民による同化政策があったためである。イタリア系移民の家庭にはケースワーカーが送り込まれて肉食が奨励され、具なしパスタのようなエスニックな食文化は修正されていった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "パスタはイタリアでは富裕層にとってコース料理の中の一品、貧困層にとって単品ですべてを満たす手軽な食事という二面性を持っていたが、アメリカでは後者の側面が強まった。パスタはアメリカ人の嗜好に合わせて大衆化し、その結果として生まれたのが、スパゲッティにトマトソースとミートボールとパルメザンチーズを合わせた「スパゲッティ・ウィズ・ミートボール」であった。この料理は世界恐慌の折に安価な料理としてイタリア系以外のアメリカ人にも広まったという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ボアルディ(英: Ettore Boiardi)兄弟は、スパゲッティの缶詰を製造し、第二次世界大戦ではアメリカ陸軍へ供給する契約を取りつけることに成功した。アメリカ人は、兵隊食(Cレーション)の缶詰スパゲッティでいっそうスパゲッティに親しむことになった。この缶詰のスパゲッティにはケチャップに近いソースが使われていて、やわらかく、ぎっとりして甘いものだった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "缶詰スパゲッティに慣れたアメリカ人はコシのないやわらかい麺に慣れ親しみ、その嗜好に合わせる形で、現地で生産されるスパゲッティも硬質小麦ではなく軟質小麦を用いたやわらかいものになった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "こうしてアメリカ人は“ケチャップあえのスパゲッティ”を好むようになり、この嗜好がGHQと共に日本に伝わることになる。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上野は、アメリカのスパゲッティ・ウィズ・ミートボールがナポリタンのルーツであり、戦後に進駐軍を通じて伝わったものと推定している。池上も進駐軍が食べていたピザやスパゲッティの影響と見ている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大矢は、1907年に発行されてベストセラーになったペレグリーノ・アルトゥーシ(英: Pellegrino Artusi)の主婦向けレシピ集『料理の科学と美食の技法』の「ナポリ風マッケローニ」がナポリタンのルーツであり、戦後都心にできた新興のイタリア料理店が米兵の好みに合わせて提供していた料理が広まった可能性を挙げている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ホテルニューグランド第4代総料理長の高橋清一は、ナポリタンは第2代総料理長の入江茂忠が戦後に考案したと述べている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ホテルニューグランドは、1945年(昭和20年)8月30日のダグラス・マッカーサーの来日直後から7年間GHQに接収されていた。入江は進駐軍の兵士がケチャップで和えただけの具なしスパゲッティを食べているのを見て、ケチャップだけでは味気ないと考え、生トマト、タマネギ、ニンニク、トマトペースト、オリーブオイルでトマトソースを作り、炒めたハム、ピーマン、マッシュルームを加えてソースで和えたスパゲッティを考案したという。このスパゲッティは「スパゲッティーナポリタン」と呼ばれた。高橋によると、「ナポリタン」という命名は、中世のころナポリの屋台で庶民向けにトマトソースをかけたスパゲティが売られていたことをヒントにしたものだという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "入江の「スパゲティーナポリタン」はケチャップを使ってはいないが、7割がた茹でたパスタを冷まし、5-6時間放置したうえで湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、というひと手間を加える工夫は入江の功績と見なされる。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "高橋は中世ナポリ風であることが「ナポリタン」という名前の直接の由来であるとしているが、澁川は、入江は師のサリー・ワイルを通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたのではないかと考察している(なお、入江は「スパゲチ ナポリテーイン」の提供されていた東京ニューグランドに1936年(昭和11年)ごろから勤めている)。上野は、戦時中に陸軍の厨房兵として従軍していた入江に、旧海軍の「マカロニナポリタン」という料理名の記憶があったのではないかと考察している。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、横浜市野毛の洋食レストラン「センターグリル」では、1946年(昭和21年)の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていたとされる。高価で加工に手間もかかるトマトを使わずケチャップを用いるのは町の洋食店ならではの工夫だとして、センターグリルが「ケチャップナポリタン」の発祥であると見る向きもある。ただし、同店の創業者の石橋豊吉は、ワイルの経営していたセンターホテルで修業をしていて入江とも親交があり、開業後にも入江からアドバイスを受けていたという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "太平洋戦争の終結後、深刻な食糧難に陥っていた日本では、米不足を補うために主食として粉食の普及が推進された。これによって日本の製粉業も急発展する。1952年(昭和27年)に麦の政府統制が間接統制に移行したのを契機に、小麦の加工も買取加工制度に変更され、自由競争が行われるようになった。製粉会社は自由に原料を買い取って製粉できるようになった一方で、大幅に淘汰された。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1954年(昭和29年)3月、日本は日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(Mutual Security Act、MSA)に調印した。MSAは本来軍事援助のためのものであるが、その中にはアメリカの余剰農産物を購入する余剰農産物購入協定も含まれていた。日本はアメリカ産の小麦50万トンを受け入れることになった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この「MSA小麦」は政府から製粉業者に払い下げられることになったが、日本で需要のあった硬質小麦ではなく軟質小麦だったうえに他の輸入小麦に比べて割高であり、質もあまり良くないものだったという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "余剰農産物の輸出と軍事援助を組み合わせたMSAには批判も多く、余剰農産物の処理は農業貿易開発援助法(The agricultural trade development and assistance act)、通称PL480(Public Law 480、公法480号)に引き継がれることになる。日本はこのPL480にも調印し、1955年(昭和30年)5月、アメリカ産の小麦約34万トンを受け入れた。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "このときアメリカから輸入された小麦は薄力粉となる軟質小麦であった。もともとオレゴン州で獲れる小麦はウェスタンホワイト種という軟質小麦であったためである。アメリカにもデュラム小麦がないわけではなかったが、その産地はロッキー山脈より東側の中西部諸州に限られており、日本向けに太平洋側へ輸送するのはコスト面で無理だった。従来の日本産の小麦も軟質のものであり、必然的に日本のパスタは薄力粉で打ったコシのないものになった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)、日本食生活協会は、厚生省との連携のもと、栄養指導車(キッチンカー)を使った栄養指導「キッチンカー事業」を開始した。この事業には、アメリカ合衆国農務省の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟が資金を提供していた。日本人の栄養改善のために粉食を奨励していた厚生省と、海外市場の開拓を図る米国農務省の思惑が一致した形だった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "キッチンカーは全国各地を巡り、主婦層に直接、粉食推進、油摂取拡大による栄養改善を指導した。キッチンカーの献立に最低一品は小麦を使うことが米国側からの条件であった(のちに大豆の使用も条件に加わった)ので、パンはもちろんのこと、スパゲッティ、パンケーキ、ドーナツなど、小麦粉と油を使う料理が実演とともに無料でふるまわれた。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "このキッチンカーによる料理指導のほか、フライパンでの油物調理を奨める「フライパン運動」やたんぱく質の摂取を呼びかけるコマーシャルなどによって、日本の食生活の洋風化と栄養重視嗜好が進んでいった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "小麦の大量輸入と前後する1954年(昭和29年)、イタリアからパスタの自動製造機が輸入され、1955年(昭和30年)にはマ・マーマカロニの前身となる日本マカロニ株式会社と日本製粉(現・ニップン)のオーマイブランドがそれぞれ国産スパゲッティの販売を開始した。日本国内でパスタの大量生産が始まったこの年は「パスタ元年」とも呼ばれる。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "このとき、販売促進のデモンストレーション用にナポリタンの原型ともいえるケチャップを混ぜて炒める「ケチャップパスタ」が登場し、調理が簡単なメニューとして喫茶店や家庭に広まっていったという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ただし、上野によれば、昭和30年代の時点ではこの「ケチャップパスタ」はナポリタンという料理名では呼ばれていなかった。上野は、1967年(昭和42年)に高森興産が販売したパスタが「ナポリタン」の製品化の嚆矢と推測する一方で、流通販路が限られていたためその名称が全国的に広まったとは考えにくいと述べている。1970年代に入り学校給食にナポリタンという名前でケチャップソースの現在の昔風ナポリタンと同様の物が提供されていた。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "前川健一によると、1970年(昭和45年)発行の『日清製粉株式会社七十年史』に、「マカロニ類はめん類の中では特異な存在であって、業務用が主体となっている高級品である」とあり、1960年代にはまだ家庭ではスパゲッティはあまり食べられていなかった。イタリア料理店もそれほど多くなかったため、スパゲッティといえば喫茶店や洋食店で食べるもので、家庭でさかんに食べられるようになったのは1970年代か1980年代かもしれないという。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "池上は、パスタ料理が庶民に普及した理由として、1970年代からのファミリーレストランの興隆を大きな要因として挙げている。ファミリーレストランの先駆けとされるすかいらーくの開業時のメニューには「スパゲティナポリタン」も記載されている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1991年発行の『調味料・香辛料の事典』では、東京地区と大阪地区で実施された「家庭内におけるケチャップメニューの出現頻度」のアンケートにおいて、「ナポリタン」は「スパゲティ・パスタ」とは別項目に分けられたうえで、出現頻度の高いメニューとして東京地区の5位につけている(「スパゲティ・パスタ」は東京・大阪ともに3位)。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1980年代半ばごろまでは、飲食店におけるスパゲッティはミートソースかナポリタンの2種類(関東、東北ではイタリアンを加えて3種類)しかないことがほとんどであった。この2種のスパゲッティは、喫茶店、学校給食、食堂などでも広く親しまれるようになった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代にかけて、スパゲッティの味付けや種類は多様化していく。また、1990年代の「イタめし」ブームによって、日本でも様々な本格的パスタが食べられるようになった。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その一方で、ナポリタンを供食する飲食店は以前より減少することになった。小説家の浅田次郎は、ナポリタンを見かけなくなった原因について、「主たる提供場所であった喫茶店が少なくなってしまったからである」と記し、自身の生家の喫茶店もバブルの影響で閉店したことを明かしている。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "21世紀に入ると、懐かしさや目新しさを求め、単体料理としてのナポリタンの人気がある。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一方で、片岡義男は、ナポリタンが復興したのではなく、バブル崩壊に伴う経済的縮小により本格イタリアンが衰退したのだという説を紹介している。", "title": "起源と歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ナポリにはケチャップ炒めスパゲッティはない。米国生まれのトマトケチャップを味付けの主役に使用することはまずなく、ピーマンやハムが入ることはない。トウガラシ加工品であるタバスコペッパーソースが入ることもない。", "title": "諸外国事情" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "漫画家ヤマザキマリは自身のイタリア留学時代の体験を綴った漫画エッセイ『それではさっそくBuonappetito!』で、ナポリ出身のルームメイトと「ナポリタン」を巡る顛末を描いている。そこでも、トマトケチャップを用いる「ナポリタン」は「ナポリ料理ではない」と否定されている。ルームメイトが作った一見ナポリタンらしきものはスパゲッティ・アッラ・アマトリチャーナ(オリーブオイルで刻みタマネギとベーコンを炒め、白ワインとトマト水煮を入れて煮込むソースのパスタ)であった。イタリア出身者にとってはフライパンでスパゲッティを炒めることはありえず、パスタは茹でたらそのままソースに和えるだけという。", "title": "諸外国事情" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "食物史研究で知られるボローニャ大学のマッシモ・モンタナリ(英語: Massimo Montanari)教授の1991年時点の談話によると、イタリアでは近年までスパゲッティやマカロニの需要はおもに南イタリアに限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるようになったのは約40年前(1951年前後)からのことだという。この点について前川は、第二次世界大戦後、日本と同じような形でアメリカの小麦やパスタ文化がイタリアへ流入したのではないかと考察している。伊丹十三はコラム集『女たちよ!』の中で、日本のナポリタンを強く非難した上で「本格的なイタリアのトマトソース」なるものを紹介しているが、そのレシピにはアメリカの食文化であるはずのタバスコペッパーソースを入れると書いている。", "title": "諸外国事情" } ]
ナポリタンは、パスタ料理の一種で、茹でたスパゲッティをタマネギ、ピーマン、ベーコンなどの具材と共に炒めトマトケチャップで調味したもの。日本発祥のパスタ料理であり、類似の名を持つイタリア料理のスパゲッティ・アッラ・ナポレターナとは異なる。 ナポリタンに類似した名で呼ばれるパスタ料理は幅広く存在するが、本稿では、第二次世界大戦後に日本の喫茶店や洋食店で広く提供されていた、軟質小麦を原料としたコシのない麺をケチャップで着色したものを中心に解説する。その周辺の類似したパスタ料理についても適宜解説する。
{{Otheruses}} {{Infobox prepared food | name = ナポリタン | image = Spaghetti Naporitan 002.jpg | caption = ナポリタンの一例 | alternate_name = | country = {{JPN}} | region = | national_cuisine = [[洋食]] | creator = | year = | mintime = | maxtime = | type = | course = メインディッシュ | served = 温製 | main_ingredient = [[スパゲッティ]]、[[トマトケチャップ]] | minor_ingredient = [[タマネギ]]、[[ピーマン]]、[[ソーセージ|ウィンナー]]、[[マッシュルーム]] | variations = 鉄板ナポリタン | serving_size = 300 g | calories = | protein = | fat = | carbohydrate = | glycemic_index = | similar_dish = | other = | complexity = }} '''ナポリタン'''は、[[パスタ]][[料理]]の一種で、茹でた[[スパゲッティ]]を[[タマネギ]]、[[ピーマン]]、[[ベーコン]]などの[[具材]]と共に炒め[[ケチャップ|トマトケチャップ]]で調味したもの<ref>上野、p.1</ref><ref name="21c108">『食の世界地図』、pp.108-109</ref><ref name="shibukawa">澁川、pp.38-45</ref>。[[日本]]発祥のパスタ料理であり<ref name="shibukawa" />、類似の名を持つ[[イタリア料理]]の[[スパゲッティ・アッラ・ナポレターナ]]とは異なる。 ナポリタンに類似した名で呼ばれるパスタ料理は幅広く存在するが、本稿では、[[第二次世界大戦]]後に日本の喫茶店や洋食店で広く提供されていた、[[小麦粉#薄力粉|軟質小麦]]を原料としたコシのない麺をケチャップで着色したものを中心に解説する。その周辺の類似したパスタ料理についても適宜解説する。 == 調理方法 == [[ファイル:Naporitan by yamauchi.jpg|thumb|260px|ナポリタンの一例。後方右側に粉チーズ、中央はタバスコペッパーソース。この品ではベーコン、タマネギ、ピーマンは見られない。]] [[日本パスタ協会]]のおすすめレシピによると、[[オリーブ油]]を熱したフライパンで[[ベーコン]]、[[タマネギ]]、[[ピーマン]]などの具材を炒めたうえで、[[トマト]]や[[ケチャップ]]を加えてさらに炒め、茹でた[[スパゲッティ]]を混ぜて塩コショウで味を調えて作る<ref>[http://www.pasta.or.jp/recipe/recipe.php?recipe_id=151 協会おすすめパスタレシピ ナポリタン] 日本パスタ協会、2018年10月4日閲覧。</ref>。ベーコンは[[ハム]]、[[ソーセージ]]などに置き換わることがある<ref name="higashi">東理夫「アメリカ―心のスパゲティ」『vesta』86号、2012年、pp.41-43。</ref>。好みで[[タバスコ]]ペッパーソースや[[パルメザンチーズ|粉チーズ]]をかける。 === 麺の「茹で置き」と「炒め」 === 喫茶店や洋食店などのナポリタンには、茹でた麺を一定時間寝かせる工程や、再加熱時に麺を炒める工程が加わる<ref name=shibukawa /><ref>[https://www.syokuraku-web.com/bar-restaurant/12734/ 横浜『センターグリル』で元祖ナポリタンのレシピを教えてもらった!](2018年2月22日)食楽web、2018年10月20日閲覧。</ref>。 麺を芯がなくなるまで茹でて[[サラダ油]]で和え、[[冷蔵庫]]で一晩置く。客の注文が入ってからケチャップ、具とともにフライパンで炒めつつ再加熱する。麺を余計に茹でるのも、油で和えるのも、冷蔵保存と再加熱時に水分が飛んで麺が乾燥するのを防ぐためとされる<ref name="kiko">{{Cite web|和書 | url = http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAj2002026022009 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20150518100449/http://waga.nikkei.co.jp/play/kiko.aspx?i=MMWAj2002026022009 | publisher = [[日本経済新聞社]] | title = パスタあるいはスパゲティ(その2) ナポリタンとイタリアンの違いは? | work =「食べ物新日本奇行」シーズン4第10回 |accessdate= 2015-4-29 | archivedate = 2015-5-18 | deadlinkdate = 2018年9月28日 }}</ref>。 [[日本経済新聞]]のコラム「食べ物新日本奇行」で、編集委員の[[野瀬泰申]]は、麺を茹で置いて客の注文が入ってから再加熱する調理法が[[立ち食いそば・うどん店|立ち食いそば]]と同じであると述べたうえで、同様のパスタの茹で置きが[[ベルギー]]の街のカフェでも行われている話を紹介し、「冷凍麺がなかった時代に生まれた調理時間の短縮技と思われる」と述べている<ref name="kiko" />。 小説家の[[浅田次郎]]は、エッセイの中でナポリタンを次のように描写している。 {{Quotation|正統のナポリタンは、[[アルデンテ]]などであってはならぬ。きのう茹で上げて冷蔵庫に眠っていたような、ブヨブヨのスパゲッティが好もしい。それを少々の玉葱とウインナソーセージの薄っぺらな輪切りと、真赤なトマトケチャップで炒める。実に素朴な、変えようも変わりようもない、完成された味であった。|浅田次郎|『パリわずらい 江戸わずらい』小学館、2014年、p.148}} また、大衆食を題材にしたエッセイ「『丸かじり』シリーズ」で知られる漫画家の[[東海林さだお]]は、ナポリタンを次のように描写している。 {{Quotation|ケチャップで味付けされていて、具はウインナソーセージを薄く輪切りにしたものとか、ハムとか缶詰のマッシュルーム、玉ねぎといったところ。(中略)ナポリタンは茹でたてであってはならず、茹でおきでなければならなかった。大量に茹でておいて、客の注文があると、フライパンで具といっしょにケチャップで炒めて出す。|東海林さだお|『ホットドッグの丸かじり』朝日新聞社〈丸かじりシリーズ〉23、2005年、pp.154-155}} == 起源と歴史 == === トマトソースのパスタの誕生 === ナポリタンはトマトケチャップを用いて作られる料理であるが<ref name="21c108"/>、トマトが新大陸から[[スペイン]]経由で[[ナポリ]]に伝わったのは[[1554年]]とされる<ref>池上、p.69</ref>。 当時のナポリは良港として名高く<ref>橘、p.38</ref>、また[[シチリア]]とともに[[スペイン・ハプスブルク朝]]に支配されていたため、スペインを通じて新大陸の食材が手に入りやすい環境にあった<ref name="21c37">『食の世界地図』pp.37-38</ref><ref>池上、p.65</ref>。トマトソースのパスタは17-18世紀ごろにはナポリに存在していたとされる<ref name="shibukawa" /><ref name="21c37" />。 歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えた<ref name ="foodtimeline">[http://www.foodtimeline.org/foodsauces.html#tomato ''Origins of Italian tomato sauce''] Foodtimeline.org. Retrieved 23 April 2011</ref>[[イタリア人]]シェフ、{{日本語版にない記事リンク|アントニオ・ラティーニ|en|Antonio Latini|short=on}}が著し[[1696年]]に発行された ''Lo Scalco alla Moderna''(『近代的家令』あるいは『現代の給仕長』など)である<ref name="ookuma">大隈、pp.153-154</ref>。同書にはトマトを使った「Salsa di pomadoro alla spagnola(スペイン風トマトソース)」が記されている<ref name="ookuma" />。 このソースは、皮をむいて刻んだトマトに、みじん切りのタマネギとピーマン、イブキジャコウソウ、塩、オイル、酢などを混ぜたもので<ref name="ookuma" /><!--同レシピに言及しているナイハード、Foodtimeline、大矢、池上、大隈の中で、ピーマンを材料に挙げているのは池上と大隈のみ。"peparolo"の翻訳時のユレか。大隈氏が"peparolo"が当時使用され始めたピーマンである旨を詳述していたのでピーマンの方にしました-->、ラティーニ自身は茹でた肉にかけることを奨めていた<ref>ナイハード、p.189</ref>。 [[1773年]]には、ナポリ在住の{{日本語版にない記事リンク|ヴィンチェンツォ・コラード|it|Vincenzo Corrado|short=on}}が、著書''Il Cuoco Galante''(『粋な料理人』)の中でトマトソースの汎用性を賞賛し、トマトソースと組み合わせるものの例として、肉、魚、卵や野菜とともにパスタも挙げている<ref>大隈、pp.156-157</ref><ref>橘、p.140</ref>。 [[1790年]]には、ローマ出身の料理人{{日本語版にない記事リンク|フランチェスコ・レオナルディ|en|Francesco Leonardi (chef)|short=on}}も、著書''L'Apicio moderno''(『現代のアピキウス』)で、トマトソースとパスタとの組み合わせを紹介している<ref name ="foodtimeline" /><ref>大隈、p.161</ref>。 トマトとパスタを組みあわせた料理のレシピが文献に登場するのは、[[1839年]]にナポリのヴォンヴィチーノ公爵である{{日本語版にない記事リンク|イッポリート・カヴァルカンティ|it|Ippolito Cavalcanti|short=on}}が著した ''Cucina Teorico-Practica''(『料理の理論と実践』)に記載された「ヴェルミチェッリのトマト添え」が最初だとされる<ref>大隈、p.165</ref><ref>橘、pp.143-146</ref>。 ==== ナポリの「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」 ==== 18世紀ごろのナポリでは、貧しい庶民の間でトマトソースのパスタ料理「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」が食べられていた。 当時ナポリの路上にはパスタを売る屋台があり、茹でた[[ヴェルミチェッリ]]にチーズをかけた「ドゥエ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」(「ドゥエ・チェンテジミ」は2チェンテジモの意。「チェンテジモ」は[[リラ (通貨)|リラ]]の100分の1の貨幣単位)が売られていた。さらに1チェンテジモ追加で支払えばトマトソースをかけることができた。そこからトマトソースをかけたこのパスタを「トゥレ・チェンテジミ(3チェンテジモ)のヴェルミチェッリ」あるいは「ア・トリーエ(三つ)のヴェルミチェッリ」と呼ぶようになったという。このトマトソースは水も油も入れずトマトだけを煮詰めたものだった<ref>西村暢夫『イタリア食文化の起源と流れ』株式会社文流、2006年、p.72</ref><ref>ヴィンチェンツオ・ブオナッシージ『決定版 新パスタ宝典』西村暢夫訳、読売新聞社、1998年、p.165</ref>。 ナポリでは17-18世紀ごろにトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及したが、他の地方ではこの食べ方は知られておらず、ナポリとその近郊以外では食べられていなかったという{{sfn|片岡義男|2008|p=152}}。 このナポリのトマトソースを使用した調理法がフランスに伝わり、フランス料理に取り入れられるようになった<ref>石毛、p.248-249</ref>。フランスでは「スパゲッティ・ナポリテーヌ(Spaghetti Napolitaine)」<ref name="shibukawa" />あるいは「スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」{{sfn|片岡義男|2008|p=41}}と呼ばれた。 === 日本への伝来 === ==== 高級フランス料理のトマトソーススパゲッティ ==== [[明治]]期の日本では[[パスタ#ロングパスタ|ロングパスタ]]より[[マカロニ]]が主流であった<ref name="shibukawa" />。また当時の日本で[[西洋料理]]と言えば[[フランス料理]]であったことから、パスタ料理は当初マカロニや[[ラビオリ]]を[[ベシャメルソース]]で仕上げるフランス料理として調理されていたという<ref>{{cite journal|和書|title=日本のイタリアン草創期|journal=料理王国|page=39|year=2012|publisher=料理王国新社|issue=219}}</ref>。ただし、日本では第二次世界大戦後までパスタの入手をほとんど輸入品に頼っていたため、ホテルや高級レストランでのみ扱われる料理であった<ref name="ikegami" />{{Efn|本稿で登場する[[三越百貨店]]や[[ホテルニューグランド]]も、[[戦前]]は[[正装]]していく場所であって、いずれも申し分なく高級料理店である<ref>三宅艶子『ハイカラ食いしんぼう記』じゃこめてい出版、1980年、p.214</ref>。}}。明治30年ごろから日本では洋食店が増加し、一部の西洋料理は日本独自の「洋食」へと変化していったが、パスタ料理は戦前の段階では「洋食」化することはなかった<ref>大矢、p.158-159,169-172</ref>。 [[1903年]]にフランス料理の大家[[オーギュスト・エスコフィエ|エスコフィエ]]が著した''Le Guide culinaire''(『エスコフィエ フランス料理』)には、「Garniture à la Napolitaine(ガルニチュール・ア・ラ・ナポリテーヌ)」という名のパスタ料理が収録されている。そのレシピは、「スパゲティ500[[グラム|g]]をゆでて、[[グリュイエールチーズ|グリュイエール・チーズ]]50g、[[パルミジャーノ・レッジャーノ|パルメザンチーズ]]50gをおろしたもの、トマト・ピュレ1[[デシリットル|dl]]を合わせてつないだもの、バター100gを加えて仕上げる。ソース 主料理の肉の[[フォン (料理)|フォン]]」というものである。これは単品の料理ではなくautre garnitures(その他の付け合わせ)として収録されている。<ref>オーギュスト・エスコフィエ『エスコフィエ フランス料理』角田明訳、柴田出版、1969年、p129。</ref> また、[[築地精養軒]]の料理長を務めた鈴本敏雄が[[1920年]]([[大正]]9年)に著した『仏蘭西料理献立書及調理法解説』でも、「Garniture à la Napolitaine(ガランチン・ア・ラ・ナポリテーイン{{Efn|同書巻末の「佛単語篇」に基づく。}})」という料理名で「Parmesan乾酪を加へたるTomato sauceにて調理したる"Spaghetti"」と、「Macaroni(又は)Spaghetti à la Napolitaine(マカロニ又はスパゲイチ・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「ざつと茹でたるものを、赤茄子の原漿及び乾酪を加へ、充分にハムの風味を有たしたる羹汁にて煮込む」パスタ料理が収録されている<ref>鈴本敏雄{{国立国会図書館のデジタル化資料|964512|仏蘭西料理献立書及調理法解説}}、奎文社出版部、1920年、p76</ref>。 ==== 戦前の料理店のトマトソーススパゲッティ ==== 東京・[[銀座]]の[[煉瓦亭]]には、[[1921年]](大正10年)の時点で「イタリアン」というメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。同店の4代目店主によれば、当時の「イタリアン」には[[トマトピューレ]]を用いていたが、[[関東大震災]]後から戦時中に食料配給制になるまではケチャップを使用していたという話もあるという<ref>上野、pp.18-19</ref>。 [[横浜市]]教育委員会が発行した『横浜の食文化』p.79には、[[1934年]](昭和9年)1月の横浜[[ホテルニューグランド]]のメニューが掲載されており、そこには「Spaghetti Napolitaine」の記載がある。また、同ホテルの支店である東京ニューグランドの[[1935年]](昭和10年)のメニューには、カタカナで「スパゲチ ナポリテーイン」と書かれている<ref name="nikkei">[https://style.nikkei.com/article/DGXKZO17599580T10C17A6NZ1P01 横浜生まれ「ナポリタン」 懐かしの味 進化は続く](日本経済新聞夕刊2017年6月13日)、NIKKEI STYLE、2018年10月4日閲覧。</ref>。この「スパゲチ ナポリテーイン」は、裏ごししたトマトとチーズで作ったソースをかけたものだったと推定されている<ref name="nikkei" />。当時のホテルニューグランドの総料理長は[[ドリア]]の考案や[[アラカルト]]の導入などで知られる[[サリー・ワイル]]であり<ref>高橋、pp.40-41</ref>、戦前に同ホテルで修業経験のある[[小野正吉]]は、「スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ」と発言している<ref>平田嵯樹子『食の味、人生の味・辻嘉一・小野正吉』柴田書店、1982年。</ref>。 [[古川ロッパ]]の『[[古川ロッパ昭和日記]]』には、[[1934年]](昭和9年)12月22日に「三越の特別食堂」で「ナポリタン」というスパゲッティを食したことが書かれている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001558/card52689.html 『古川ロッパ昭和日記01 昭和九年』:新字旧仮名]([[青空文庫]])</ref>。ただし、ロッパの記述には「少し水気が切れない感じ」とあるため、茹でたパスタにソースを絡めた料理だったと推測される<ref name="shibukawa" />。 ==== 戦前の料理書に見えるトマトソーススパゲッティ ==== 『vesta』編集部によれば、[[1905年]](明治38年)に西洋酒食料品雑貨を輸入していた「亀屋」が発行した非売品の本『佛国料理 家庭の洋食』に、トマトソースを用いた「スパゲット・アラ・イタリアン」という料理が紹介されている。これはマカロニの代わりにスパゲッティを用いた、トマトソースのグラタン風の料理である<ref name="vesta">「日本スパゲティー事始め」『vesta』 86号、pp.6-7</ref>。 [[1927年]](昭和2年)の若林ぐん子『欧米の菓子と料理』には、「ナポリ式スパゲッチ」という料理が紹介されている。これはベーコン、タマネギ、トマト缶、トマトペーストを煮込んでソースを作り、茹でたスパゲッティにかけるものだった<ref name="vesta" />。 また、『婦人之友』[[1937年]](昭和12年)12月号には、スパゲティの代わりにうどんを代用して作る「スパケテナポリタン」という料理が紹介されている<ref>[http://www.shibatashoten.co.jp/dayori/cat107/ 柴田書店 編集部だより 料理本のソムリエ【vol. 60】「ナポリたん」ってお子ちゃまキャラだと思ってたのに、いったいどんな過去が…](2013年9月26日)、柴田書店、2018年10月4日閲覧。</ref>。これは肉と脂と[[ニンニク]]を炒めてから汁だけを残し、トマト{{Efn|name="トマト"|材料欄には、トマトは「なくてもよい」としている。ただしトマトがないときは「トマトケチャップを少し沢山入れる」とある。}}を入れて炒め、トマトケチャップ{{Efn|name="トマト"}}、[[月桂樹]]の葉と[[シェリー酒]]を加えて湯で伸ばし、塩と胡椒で味付けしてソースとするレシピである<ref>{{cite journal|author=野口菊枝|date=1937-12|title=暖かいうどん料理 11スパケテナポリタン|journal=婦人之友|volume=31|issue=12|pages=184-185|ref=""}}</ref>。 以上のように、戦前にも「ナポリタン」や類似した名前のパスタ料理は存在した。 古川ロッパは、『ロッパ食談』において、戦後のイタリア料理店で供されるスパゲッティやマカロニについて「イタリー料理といへば、われらは、戦争前に、ニューグランドやホテルのグリルで、もっと欧風化した奴を食っている」と記し、戦前のヨーロッパ風のパスタ料理が戦後のパスタ料理とは異なっていたことを証言している<ref>大矢、p.178</ref>。しかし、戦前のこれらのパスタ料理は太平洋戦争によっていったん忘れ去られることになる<ref>大矢、p.169-171</ref>。大矢は、[[太平洋戦争]]によって日本人のそれまでの食文化がいったん完全に破壊されたのだと述べている<ref>大矢、pp.173-174</ref>。 === 占領下の日本とアメリカ風スパゲッティ=== 太平洋戦争終結後、日本は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領下に置かれた。日本国内にはアメリカ軍を中心とした連合軍が進駐軍として駐留し、日本人とアメリカ兵たちとの間には交流も生まれた<ref>服部一馬・斉藤秀夫『占領の傷跡―第二次大戦と横浜』有隣堂<有隣新書>1976年、pp.55-56</ref>。そんな中で日本人はアメリカの食文化に接することになった。 ==== アメリカのパスタ文化 ==== イタリアからアメリカへの移民は、ナポリ近傍の[[カンパニア州|カンパニア]]地方、および[[シチリア]]出身者が多かった<ref name="ishige250">石毛、pp.250-251</ref>。彼らは母国から輸入したパスタを食べていたが、その食文化は他のアメリカ人には広まらなかった。というのは、先に移住していた豚肉食文化のドイツ系移民による同化政策があったためである。イタリア系移民の家庭にはケースワーカーが送り込まれて肉食が奨励され、具なしパスタのようなエスニックな食文化は修正されていった<ref>大矢、pp.151-153</ref><ref>池上、pp.190-192</ref>。 パスタはイタリアでは富裕層にとってコース料理の中の一品、貧困層にとって単品ですべてを満たす手軽な食事という二面性を持っていたが、アメリカでは後者の側面が強まった。パスタはアメリカ人の嗜好に合わせて[[大衆化]]し、その結果として生まれたのが、スパゲッティにトマトソースと[[ミートボール]]と[[パルメザンチーズ]]を合わせた「[[スパゲッティ・ウィズ・ミートボール]]」であった<ref>シェルク、pp.93-95</ref>。この料理は[[世界恐慌]]の折に安価な料理としてイタリア系以外のアメリカ人にも広まったという<ref name="maekawa" />。 {{日本語版にない記事リンク|ボアルディ|en|Ettore Boiardi|short=on}}兄弟は、スパゲッティの缶詰を製造し、第二次世界大戦では[[アメリカ陸軍]]へ供給する契約を取りつけることに成功した<ref name="gabaccia" />。アメリカ人は、兵隊食([[Cレーション]])の缶詰スパゲッティでいっそうスパゲッティに親しむことになった<ref name="kiko" /><ref name="gabaccia">ダナ・R・ガバッチア『アメリカ食文化』伊藤茂訳、青土社、2003年、pp.251-252</ref><ref name="ishige250" />。この缶詰のスパゲッティにはケチャップに近いソースが使われていて、やわらかく、ぎっとりして甘いものだった<ref>ナイハード、p.119</ref>。 缶詰スパゲッティに慣れたアメリカ人はコシのないやわらかい麺に慣れ親しみ、その嗜好に合わせる形で、現地で生産されるスパゲッティも硬質小麦ではなく軟質小麦を用いたやわらかいものになった<ref name="ishige250" />。 こうしてアメリカ人は“ケチャップあえのスパゲッティ”を好むようになり、この嗜好がGHQと共に日本に伝わることになる<ref>服部幸應監修、FM NACKS5編『服部幸應の「食のはじめて物語」』講談社、2009年。</ref>。 ==== 「ナポリタン」のルーツ ==== [[上野玲]]は、アメリカの[[スパゲッティ・ウィズ・ミートボール]]がナポリタンのルーツであり、戦後に進駐軍を通じて伝わったものと推定している<ref>上野、pp.12-15</ref>。池上も進駐軍が食べていたピザやスパゲッティの影響と見ている<ref name="ikegami">池上、pp.3-6</ref>。 [[大矢復]]は、[[1907年]]に発行されてベストセラーになった{{日本語版にない記事リンク|ペレグリーノ・アルトゥーシ|en|Pellegrino Artusi|short=on}}の主婦向けレシピ集『料理の科学と美食の技法』の「ナポリ風マッケローニ」がナポリタンのルーツであり、戦後都心にできた新興のイタリア料理店が米兵の好みに合わせて提供していた料理が広まった可能性を挙げている<ref>大矢、pp.194-195</ref>。 ==== 入江茂忠の「スパゲティーナポリタン」 ==== ホテルニューグランド第4代総料理長の高橋清一は、ナポリタンは第2代総料理長の[[入江茂忠]]が戦後に考案したと述べている<ref name="takahashi">高橋、pp.52-53 </ref><ref name="ueno28">上野、pp.28-30</ref>。 ホテルニューグランドは、[[1945年]](昭和20年)8月30日の[[ダグラス・マッカーサー]]の来日直後から7年間GHQに接収されていた<ref name="kikuchi">菊地武顕『あのメニューが生まれた店』平凡社<コロナ・ブックス>、2013年、p.83</ref><ref>[https://www.hotel-newgrand.co.jp/origin/ ホテルニューグランド発祥 スパゲッティ ナポリタン]ホテルニューグランド、2018年10月20日閲覧。</ref>。入江は進駐軍の兵士がケチャップで和えただけの具なしスパゲッティを食べているのを見て、ケチャップだけでは味気ないと考え、生トマト、タマネギ、ニンニク、トマトペースト、オリーブオイルでトマトソースを作り、炒めたハム、ピーマン、マッシュルームを加えてソースで和えたスパゲッティを考案したという<ref name="kikuchi" />。このスパゲッティは「スパゲッティーナポリタン」と呼ばれた<ref name="takahashi" />。高橋によると、「ナポリタン」という命名は、中世のころナポリの屋台で庶民向けにトマトソースをかけたスパゲティが売られていたことをヒントにしたものだという<ref name="takahashi" />。 入江の「スパゲティーナポリタン」はケチャップを使ってはいないが、7割がた茹でたパスタを冷まし、5-6時間放置したうえで湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、というひと手間を加える工夫は入江の功績と見なされる<ref name="shibukawa" /><ref name="kikuchi" />。 高橋は中世ナポリ風であることが「ナポリタン」という名前の直接の由来であるとしているが、澁川は、入江は師の[[サリー・ワイル]]を通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたのではないかと考察している<ref name="shibukawa" />(なお、入江は「スパゲチ ナポリテーイン」の提供されていた東京ニューグランドに[[1936年]](昭和11年)ごろから勤めている<ref>木沢武男『ぼくはコック長』ポプラ社、1987年、pp.23-26</ref>)。上野は、戦時中に陸軍の厨房兵として従軍していた入江に、旧海軍の「マカロニナポリタン」という料理名の記憶があったのではないかと考察している<ref name="ueno28" />{{Efn|ただし、『海軍研究調理献立集』に記載されている「マカロニナポリタン」は、炒めた鮭とタマネギに生クリームを加えて[[ペンネ]]と混ぜ合わせたもので<ref>高森直史『海軍食グルメ物語』光人社、2003年、pp.85-91</ref>、トマトは使われていない。}}。 また、横浜市野毛の洋食レストラン「センターグリル」では、[[1946年]](昭和21年)の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていたとされる<ref>『横浜ウォーカー』2013年6月号</ref>。高価で加工に手間もかかるトマトを使わずケチャップを用いるのは町の洋食店ならではの工夫だとして、センターグリルが「ケチャップナポリタン」の発祥であると見る向きもある<ref name="nikkei" />。ただし、同店の創業者の石橋豊吉は、ワイルの経営していたセンターホテルで修業をしていて<ref>[http://www.center-grill.com/menu.html 米国風洋食センターグリル メニューのご紹介] 2018年10月4日閲覧。</ref>入江とも親交があり、開業後にも入江からアドバイスを受けていたという<ref name="nikkei" />。 === パスタの国産化と普及 === 太平洋戦争の終結後、深刻な食糧難に陥っていた日本では、米不足を補うために主食として粉食の普及が推進された。これによって日本の製粉業も急発展する。[[1952年]](昭和27年)に麦の政府統制が間接統制に移行したのを契機に、小麦の加工も買取加工制度に変更され、自由競争が行われるようになった。製粉会社は自由に原料を買い取って[[製粉]]できるようになった一方で、大幅に淘汰された<ref>長尾、p.62</ref>。 ==== MSA小麦の受け入れ ==== [[1954年]](昭和29年)3月、日本は[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定]](Mutual Security Act、MSA)に調印した。MSAは本来軍事援助のためのものであるが、その中にはアメリカの余剰農産物を購入する余剰農産物購入協定も含まれていた<ref name="kishi">岸、pp.90-98</ref>。日本はアメリカ産の小麦50万トンを受け入れることになった<ref name="ishii">{{Cite journal|和書 |author=石井晋 |title=MSA協定と日本--戦後型経済システムの形成(2) |journal=学習院大学経済論集 |issn=00163953 |publisher=学習院大学 |year=2004 |month=jan |volume=40 |issue=4 |pages=295-313 |naid=110000982329 |url=https://hdl.handle.net/10959/570}}</ref>。 この「MSA小麦」は政府から製粉業者に払い下げられることになったが<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101903968X05319540521 衆議院会議録情報 第019回国会 外務委員会 第53号]、2018年10月20日閲覧。</ref>、日本で需要のあった硬質小麦ではなく軟質小麦だったうえに他の輸入小麦に比べて割高であり<ref name="ishii" />、質もあまり良くないものだったという<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101904992X00119540702 衆議院会議録情報 第019回国会 農林委員会食糧に関する小委員会]、2018年10月20日閲覧。</ref>。 余剰農産物の輸出と軍事援助を組み合わせたMSAには批判も多く、余剰農産物の処理は農業貿易開発援助法(The agricultural trade development and assistance act)、通称PL480(Public Law 480、公法480号)に引き継がれることになる。日本はこのPL480にも調印し、[[1955年]](昭和30年)5月、アメリカ産の小麦約34万トンを受け入れた<ref name="kishi" />。 ==== アメリカ産小麦の特徴 ==== このときアメリカから輸入された小麦は[[薄力粉]]となる軟質小麦であった。もともと[[オレゴン州]]で獲れる小麦はウェスタンホワイト種という軟質小麦であったためである。アメリカにも[[デュラム小麦]]がないわけではなかったが、その産地はロッキー山脈より東側の中西部諸州に限られており、日本向けに太平洋側へ輸送するのはコスト面で無理だった<ref>高嶋光雪『アメリカ小麦戦略』家の光協会、p.128-129</ref>。従来の日本産の小麦も軟質のものであり、必然的に日本のパスタは薄力粉で打ったコシのないものになった<ref name="shibukawa" />。 ==== キッチンカー事業の開始 ==== [[1956年]](昭和31年)、[[日本食生活協会]]は、厚生省との連携のもと、栄養指導車([[キッチンカー]])を使った栄養指導「キッチンカー事業」を開始した。この事業には、[[アメリカ合衆国農務省]]の代行機関であるオレゴン小麦栽培者連盟が資金を提供していた。日本人の栄養改善のために[[粉食]]を奨励していた厚生省と、海外市場の開拓を図る米国農務省の思惑が一致した形だった<ref name="kishi" />。 キッチンカーは全国各地を巡り、主婦層に直接、粉食推進、油摂取拡大による栄養改善を指導した<ref name="kishi" /><ref name="takashima">高嶋光雪『アメリカ小麦戦略』家の光協会p.174</ref>。キッチンカーの献立に最低一品は小麦を使うことが米国側からの条件であった(のちに大豆の使用も条件に加わった)ので<ref name="kishi"/>、[[パン]]はもちろんのこと、スパゲッティ、[[ホットケーキ|パンケーキ]]、[[ドーナツ (菓子)|ドーナツ]]など、小麦粉と油を使う料理が実演とともに無料でふるまわれた<ref>鈴木、pp.57-61</ref>。 このキッチンカーによる料理指導のほか、[[フライパン]]での油物調理を奨める「フライパン運動」やたんぱく質の摂取を呼びかけるコマーシャルなどによって、日本の食生活の洋風化と栄養重視嗜好が進んでいった<ref>江原絢子・石川尚子・東四柳祥子『日本食物史』吉川弘文館、2009年、p.309</ref>。 ==== パスタ元年 ==== 小麦の大量輸入と前後する[[1954年]](昭和29年)、イタリアからパスタの自動製造機が輸入され<ref>長尾、p.73</ref>、[[1955年]](昭和30年)には[[マ・マー]]マカロニの前身となる日本マカロニ株式会社と日本製粉(現・[[ニップン]])のオーマイブランドがそれぞれ国産スパゲッティの販売を開始した<ref name="ikegami" /><ref>大矢、pp.175-176</ref>。日本国内でパスタの大量生産が始まったこの年は「パスタ元年」とも呼ばれる<ref>[https://www.pasta.or.jp/content/basic/history.html パスタの歴史|パスタとは] 日本パスタ協会、2018年10月20日閲覧。</ref>。 このとき、販売促進のデモンストレーション用にナポリタンの原型ともいえる'''ケチャップを混ぜて炒める「ケチャップパスタ」が登場'''し、調理が簡単なメニューとして喫茶店や家庭に広まっていったという<ref name="shibukawa" /><ref name="ueno50">上野、pp.50-52</ref>。 ただし、上野によれば、昭和30年代の時点ではこの「ケチャップパスタ」はナポリタンという料理名では呼ばれていなかった。上野は、[[1967年]](昭和42年)に高森興産が販売したパスタが「ナポリタン」の製品化の嚆矢と推測する一方で、流通販路が限られていたためその名称が全国的に広まったとは考えにくいと述べている。1970年代に入り学校給食にナポリタンという名前でケチャップソースの現在の昔風ナポリタンと同様の物が提供されていた。 [[前川健一]]によると、[[1970年]](昭和45年)発行の『日清製粉株式会社七十年史』に、「マカロニ類はめん類の中では特異な存在であって、業務用が主体となっている高級品である」とあり、1960年代にはまだ家庭ではスパゲッティはあまり食べられていなかった。イタリア料理店もそれほど多くなかったため、スパゲッティといえば喫茶店や洋食店で食べるもので、家庭でさかんに食べられるようになったのは[[1970年代]]か[[1980年代]]かもしれないという<ref name="maekawa">前川健一「アルデンテなんて知らないよ」『vesta』86号、2012年、pp.8-17。</ref>。 池上は、パスタ料理が庶民に普及した理由として、[[1970年代]]からの[[ファミリーレストラン]]の興隆を大きな要因として挙げている<ref name="ikegami7">池上、pp.7-8</ref>。ファミリーレストランの先駆けとされる[[すかいらーく#すかいらーく開店|すかいらーく]]の開業時のメニューには「スパゲティナポリタン」も記載されている<ref>[https://www.houdoukyoku.jp/posts/14587 スカイラークから「すかいらーく」へ 巨大外食チェーン、成長の歴史](2017年7月5日)ホウドウキョク、2018年10月20日閲覧。</ref>。 [[1991年]]発行の『調味料・香辛料の事典』では、[[東京都|東京地区]]と[[大阪府|大阪地区]]で実施された「家庭内におけるケチャップメニューの出現頻度」のアンケートにおいて、「ナポリタン」は「スパゲティ・パスタ」とは別項目に分けられたうえで、出現頻度の高いメニューとして東京地区の5位につけている(「スパゲティ・パスタ」は東京・大阪ともに3位)。<ref>福場博保、小林彰夫編『調味料・香辛料の事典』朝倉書店、1991年、p.272</ref> === パスタ料理の多様化 === 1980年代半ばごろまでは、飲食店におけるスパゲッティは[[ミートソース]]かナポリタンの2種類(関東、東北では[[イタリアンスパゲッティ|イタリアン]]を加えて3種類)しかないことがほとんどであった<ref>『食の世界地図』p.108 </ref>。この2種のスパゲッティは、喫茶店、学校給食、食堂などでも広く親しまれるようになった<ref name="ikegami7"/>。 1970年代から1980年代にかけて、スパゲッティの味付けや種類は多様化していく。また、1990年代の「イタめし」ブームによって、日本でも様々な本格的パスタが食べられるようになった<ref name="ikegami7"/>。 その一方で、ナポリタンを供食する飲食店は以前より減少することになった。小説家の浅田次郎は、ナポリタンを見かけなくなった原因について、「主たる提供場所であった喫茶店が少なくなってしまったからである」と記し、自身の生家の喫茶店もバブルの影響で閉店したことを明かしている<ref>浅田次郎『パリわずらい 江戸わずらい』小学館、2014年、p.149</ref>。 === 懐かしのメニューとして === 21世紀に入ると、懐かしさや目新しさを求め、単体料理としてのナポリタンの人気がある<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/news/cooking/20130413-OYT8T00288.htm |title=ナポリタン、人気は鉄板…懐かしさと目新しさ |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2013-04-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130520152438/http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/news/cooking/20130413-OYT8T00288.htm |archivedate=2013年5月20日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。 一方で、片岡義男は、ナポリタンが復興したのではなく、[[バブル崩壊]]に伴う経済的縮小により本格イタリアンが衰退したのだという説を紹介している{{sfn|片岡義男|2008|pp=101-102}}。 === 地域バリエーション === * 中部・関西圏ではナポリタンをイタリアンと呼ぶことが多く、関西以西では店によって混合している<ref>上野、pp.58-61</ref>。上野がマ・マーマカロニから聞いた情報によると、同社のパスタ商品「イタリアン」が[[大阪都市圏|関西圏]]で多く出回ったことから、喫茶店などでも「イタリアン」という名称が定着したのだという。上野は、これが関東と関西で呼び名の違いが生まれた理由ではないかと考察している<ref name="ueno50" />。 <!--** ただし、[[新潟県]]では、[[焼きそば]]にトマトソースをかけたものを「[[イタリアン (新潟)|イタリアン]]」と称している地域がある<ref>上野、pp.68-71</ref>。--> * [[名古屋市|名古屋]]にはナポリタンを鉄板の上に載せ、卵を敷いた「[[イタリアンスパゲッティ#中京|イタリアンスパゲッティ]]」と呼ばれる派生料理がある<ref>上野、pp.62-67</ref>。焼いた鉄板に別のフライパンで仕上げたナポリタンスパゲティを載せ、最後に上から溶き卵を流しかけて完成となる。先に卵を鉄板に流すわけではない。 * [[静岡県]][[富士市]]には麺をトマトソースベースの[[ダブルスープ]]につけて食べる[[つけナポリタン]]という[[ご当地料理]]がある。 * [[東京都]][[八王子市]]には、[[八王子ラーメン]]のようにタマネギのみじん切りをトッピングにした「八王子ナポリタン」がある<ref>[http://8napo.com/ 八王子ナポリタン はちナポ]</ref>。 * 出雲ナポリタン:[[島根県]][[出雲市]]の食品会社3社が2018年に売り出した[[ご当地グルメ]]<ref>[http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1524274930316/index.html 出雲ナポリタン誕生「そば」に続く新名物に]『[[山陰中央新報]]』2018年4月21日(2018年5月30日閲覧)。</ref>。 == 諸外国事情 == === イタリア=== ナポリにはケチャップ炒めスパゲッティはない<ref>吉川敏明『ホントは知らないイタリア料理の常識・非常識』柴田書店、2010年、pp.76-77</ref>。米国生まれの[[トマトケチャップ]]を味付けの主役に使用することはまずなく、ピーマンやハムが入ることはない。トウガラシ加工品であるタバスコペッパーソースが入ることもない。 漫画家[[ヤマザキマリ]]は自身のイタリア留学時代の体験を綴った漫画エッセイ『それではさっそくBuonappetito!』で、ナポリ出身のルームメイトと「ナポリタン」を巡る顛末を描いている。そこでも、トマトケチャップを用いる「ナポリタン」は「ナポリ料理ではない」と否定されている。ルームメイトが作った一見ナポリタンらしきものはスパゲッティ・アッラ・[[アマトリチャーナ]](オリーブオイルで刻みタマネギとベーコンを炒め、白ワインとトマト水煮を入れて煮込むソースのパスタ)であった。イタリア出身者にとってはフライパンでスパゲッティを炒めることはありえず、パスタは茹でたらそのままソースに和えるだけという<ref>ヤマザキマリ『それではさっそくBuonappetito!』講談社、2008年、p.6</ref>。 食物史研究で知られるボローニャ大学の{{日本語版にない記事リンク|マッシモ・モンタナリ|en|Massimo Montanari}}教授の[[1991年]]時点の談話によると、イタリアでは近年までスパゲッティやマカロニの需要はおもに南イタリアに限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるようになったのは約40年前([[1951年]]前後)からのことだという<ref>石毛、p.250</ref>。この点について前川は、第二次世界大戦後、日本と同じような形でアメリカの小麦やパスタ文化がイタリアへ流入したのではないかと考察している<ref name="maekawa" />。[[伊丹十三]]はコラム集『女たちよ!』の中で、日本のナポリタンを強く非難した上で「本格的なイタリアのトマトソース」なるものを紹介しているが、そのレシピにはアメリカの食文化であるはずのタバスコペッパーソースを入れると書いている<ref>伊丹十三『女たちよ!』文春文庫、1975年、p.25</ref>。 === それ以外 === * [[ロシア]]には「海軍風スパゲッティ」makaroniy po flotskiという料理がある。意図的に茹ですぎにしたスパゲッティと、刻みタマネギ、ほぐしたコンビーフを一緒にフライパンに入れて炒めるというもの。ケチャップを欠いていることを除けばナポリタンと同じものである<ref>[http://jp.rbth.com/multimedia/video/2015/03/03/52185 美味しいテレビ:ロシアの海軍風マカロニ]</ref>。 * [[ペルー]]にはタリャリンという小麦麺がある。トマト、牛肉、タマネギを炒めたソースをタリャリンにかけて食べる「タリャリン・デ・ロモ・サルタード」という料理がある。[[ロモ・サルタード]]風の麺という意味。麺も合わせて炒める場合もある<ref>vesta 86号、p.38-39</ref>。 * [[スウェーデン]]では、シェルマカロニをケチャップで炒めたパスタ料理が[[コンビニエンスストア]]の惣菜コーナーで売られていたという<ref>上野、pp.111-119</ref>。スウェーデンはケチャップ好きの人が多いため、老若男女問わずパスタやマカロニにケチャップを掛けて食べる人が多い{{要出典|date= 2023年11月}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <ref name="21c108">『食の世界地図』、pp.108-109</ref> <ref name="shibukawa">澁川、pp.38-45</ref> }} == 参考文献 == * 『vesta』86号(2012年春号)、財団法人味の素 食の文化センター、2012年。 * 21世紀研究会編『食の世界地図』文芸春秋〈文春新書〉378、2004年。 * 池上俊一『パスタでたどるイタリア史』岩波書店〈岩波ジュニア新書〉699、2011年。 * 石毛直道『文化麺類学ことはじめ』フーディアム・コミュニケーション株式会社、1991年。 * 上野玲『ナポリタン! I'm crazy in Naporitan spaghetti!』扶桑社、2004年。 * 大隈裕子『イタリア・トマトのすべて』中央公論新社、2010年。 * 大矢復『パスタの迷宮』洋泉社〈新書y〉055、2002年。 * 岸康彦『食と農の戦後史』日本経済新聞社、1996年。 * 澁川祐子『ニッポン定番メニュー事始め 身近な食べもののルーツを探る。』彩流社、2013年。 * 鈴木猛夫『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』藤原書店、2003年。 * 高嶋光雪『アメリカ小麦戦略―日本侵攻』家の光協会、1979年。 * 高橋清一『横浜流 すべてはここから始まった』東京新聞出版局、2005年。 * 橘みのり『トマトが野菜になった日』草思社、1999年12月、ISBN 4-7942-0938-X * 服部幸應『世界の六大料理基本事典』東京堂出版、2015年。 * カンタ・シェルク『パスタと麺の歴史』龍和子訳、原書房、2017年1月 * ダナ・R・ガバッチア『アメリカ食文化』伊藤茂訳、青土社、2003年2月 * クリストフ・ナイハード著『ヌードルの文化史』シドラ房子訳、柏書房、2011年7月 * {{Cite book|和書|title=ナポリへの道|author=[[片岡義男]]|publisher=[[東京書籍]]|date=2008-09-01|edition=第1刷|isbn=978-4-487-80283-8|ref = {{sfnref|片岡義男|2008}} }} == 関連項目 == <!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク --> {{commonscat|Naporitan}} * [[トマトソース]] * [[スパゲッティ・ウィズ・ミートボール]] * [[炒麺]] * [[イタリアンスパゲッティ]] * [[愛しのナポリタン]] == 外部リンク == * [https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/14149 ナポリではなく横浜生まれ、「ナポリタン」こそ日本の正統派スパゲティだ] (2011年7月8日) JBPress、2018年10月4日閲覧。(注 澁川祐子『ニッポン定番メニュー事始め』の連載時の記事。) * [http://naporitan.org/ 日本ナポリタン学会] 2018年10月4日閲覧。(注 「[[日本ナポリタン学会]]」は公的学会ではなく、横浜の有志市民が結成した趣旨賛同店舗の認定団体。) {{Good article}} {{パスタ料理}} {{DEFAULTSORT:なほりたん}} [[Category:日本のパスタ料理]] [[Category:洋食]] [[Category:横浜市の食文化]] [[Category:昭和時代戦後の文化]] [[Category:ケチャップ]]
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ジロ・デ・イタリア
ジロ・デ・イタリア(伊: Giro d'Italia)は、毎年5月にイタリア全土を舞台にして行われるプロ自転車ロードレース。1909年から開催されている。主催はイタリアのスポーツ紙『ガゼッタ・デロ・スポルト』等を発行するメディアグループ・RCSの関連会社であるRCSスポルト社。 Giro d'Italia のイタリア語での発音は「ジーロ・ディターリア」である。 「ジロ・デ・イタリア」という表記は日本独特なものだが、最近は日本でもイタリア語が知られるようになったため、イタリア語の発音を基にした「ジーロ・ディターリア」や、「ジロ・ディ・イタリア」という表記も見られるようになってきた。通称は「ジロ」。 毎年5月に約3週間かけて行われるステージレースで、コースは毎年新たに設定される。「イタリアを一周する」という表現がされることもあるが各ステージは地理的には連続していないことも多く、サルデーニャ島やシチリア島など島でのステージもある。ステージ数は通常21。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされている。 総合成績1位の選手にはピンク色のジャージ「マリア・ローザ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。 賞金総額は年によって上下するが、2004年の場合で約133万ユーロ。配分は各ステージ25位までの勝者に支払われる金額が合計47万4000ユーロ。総合優勝者15万ユーロやインテルジロ賞13万ユーロなど各賞の合計が62万3000ユーロ。チームへの賞金が合計23万3000ユーロとなっている。 ツール・ド・フランスに比べ勾配の厳しい坂を登る山岳ステージが多いため、上りを得意とするクライマーが活躍する機会が多い。1990年のクラウディオ・キアプッチや1995年のトニー・ロミンゲル、1998年のマリアーノ・ピッコリ、2003年のジルベルト・シモーニ、2009年のダニーロ・ディルーカ、2010年のカデル・エヴァンスのように厳しい山岳コースが設定された年は山岳賞はおろかポイント賞すらクライマーやオールラウンダーが獲得してしまうこともあるが、これは2013年まではツール・ド・フランスとは異なり山岳ステージも平坦なステージも同じポイントが設定されていたためでもある。また平坦ステージであってもゴール直前だけ上り坂であったり、ゴールまで1kmを切ったところに急カーブが登場するなど危険かつ癖のあるコースレイアウトがしばしば採用される。 また5月はドロミーティを始めとしたアルプス山脈及びアペニン山脈にはまだ雪の残っている場所もあり、選手は坂だけでなく厳しい寒さや悪天候とも戦うことになる。そのためイタリア人からは「ツール・ド・フランスが世界最大のレースなら、ジロ・デ・イタリアは世界最高のレース」と評される。 イタリア人選手の多くがこのレースをシーズン中の最大目標としており、歴代優勝者に占めるイタリア人の割合も圧倒的に多い。イタリア以外の選手が初めて優勝したのが1950年で、2017年現在31回しかない。近年は1997年以降、2007年までの総合優勝者はすべてイタリア人で、国際化が著しく優勝者の国籍も多様になる傾向があるロードレースの世界において、これは非常に珍しいケースである。 第1回大会は1909年に行われミラノから出発し、合計走行距離は2,408kmだった。8区間で争われ、優勝選手の平均走行時速27.26kmだった。1915年から1918年までは第一次世界大戦により中断されている。 1933年は17ステージ・合計3,343kmで行われ、この時はアルフレッド・ビンダが通算5回目となる優勝を飾っている。 1941年から1945年までは第二次世界大戦により再び中断。1947年は19ステージ・合計3,843kmで行われ、この時はファウスト・コッピが2回目の優勝を果たした。以後もコッピの活躍は続き、1953年には史上2人めの5回目の優勝を達成している。 1970年代前半はエディ・メルクスの独擅場となり、1972年から1974年には3連覇を達成。1974年は史上3人目となる5回目の優勝に加えてツール・ド・フランスと世界自転車選手権プロロードレースも制覇しており、史上初のトリプルクラウン達成を遂げた。 1980年代前半はベルナール・イノーが3回の優勝を遂げている。また1987年の優勝者ステファン・ロッシュは史上2人目のトリプルクラウン達成者となった。 1990年代に活躍した選手としてはミゲル・インドゥラインとマルコ・パンターニがあげられインドゥラインは1992年と1993年、パンターニは1998年にツール・ド・フランスでも優勝してダブルツールを達成している。 2004年は合計走行距離3,423.9 km、20区間で行われ参加選手169名のうち140名が完走した。総合優勝は22歳の新人ダミアーノ・クネゴ。ジルベルト・シモーニのアシストとして働く予定だった彼がステージ4勝をあげて総合優勝するとは誰も予想しておらず、大きなニュースとなった。 2005年はパオロ・サヴォルデッリとシモーニの争いとなり、終盤シモーニが猛追するも結局サヴォルデッリが2002年以来2度目の優勝を飾った。 2006年はイヴァン・バッソが他を寄せ付けない強さで、2007年はダニーロ・ディルーカが堅実なレース運びで総合優勝を遂げている。 2008年は前年度のツール・ド・フランスを制したアルベルト・コンタドールがイタリア人以外では12年ぶりの総合優勝者となった。 2009年はデニス・メンショフがディルーカとの熾烈な争いを制して優勝した。 2010年は相次ぐ大波乱の展開の末、バッソが2回目の総合優勝を飾った。 2011年は第3ステージでワウテル・ウェイラントが落車により死亡する事故が発生し、第4ステージがノーコンテストステージとなる波乱があった。総合優勝は当初アルベルト・コンタドールが獲得したが、後にスポーツ仲裁裁判所(CAS)により2010年のツール・ド・フランスでのクレンブテロール陽性を認定されて2年間の出場停止処分が下され、2011年の大会は出場停止期間中に該当するため成績無効となり、ミケーレ・スカルポーニが繰り上がって総合優勝者に認定された。 2012年は最終日の個人タイムトライアルでの逆転という劇的な形でライダー・ヘシェダルがカナダ人初となるグランツール優勝を成し遂げた。 2013年はヴィンチェンツォ・ニバリが圧勝を収め、2014年はナイロ・キンタナが同胞のリゴベルト・ウランとの激戦を制しコロンビア人選手として初のジロ総合優勝を飾る。 2015年は区間優勝がないながらも堅実なレース運びでアルベルト・コンタドールが2度目の総合優勝を果たす。 2016年はステーフェン・クラウスヴァイクの肋骨骨折による失速で混沌とした総合争いをヴィンチェンツォ・ニバリが制した。 2017年は2012年と同様、最終日の個人TTでの再逆転でトム・デュムランがオランダ人初のジロ総合優勝を果たした。 2018年はイスラエルのエルサレムからスタート。ヨーロッパ外からのスタートは初となる。クリス・フルームが激戦を制しグランツールで三連勝を達成した。 2020年は当初5月9日からハンガリーでの開幕を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により延期され、10月3日から、開幕地をイタリアのシチリア島に移して開催された。 第20ステージのスタート時点で、総合2位であったテイオ・ゲイガンハートがステージ優勝しボーナスタイムを得た結果、総合1位であったジェイ・ヒンドレーと総合タイムが並ぶ事になった。よって翌日の21ステージではグランツール史上初の最終ステージで総合1、2位が同タイムでスタートすることになった。 また、最終ステージの個人TTでヒンドレーにタイム差を付けフィニッシュし、総合優勝したゲイガンハートは、全ステージでマリアローザを着用することなく、最終ステージ終了後に初めてマリアローザに袖を通した。 数種の賞が設定されており、リーダージャージと呼ばれる各賞に応じた色別のジャージがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手がそのジャージを着用する権利(と義務)を手にいれる。 ピンク色のジャージ「マリア・ローザ (Maglia Rosa)」は総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少ない選手が「マリア・ローザ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マリア・ローザ」着用の権利をもっている選手がジロの総合優勝者となる。色の由来はレース主催者のガゼッタ・デッロ・スポルトの紙面がピンクであるため。 紫色のジャージ「マリア・チクラミーノ (Maglia Ciclamino)」(シクラメン)は「ポイント賞」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算されスプリントポイント1位の選手が「マリア・チクラミーノ」着用の権利を得る。以前はツール・ド・フランスと異なり平地ステージも山岳ステージもゴール地点で与えられるポイントは同じであった上に前述の通りスプリンターが活躍しづらいコース設定がされることも多く、山岳ステージを上位でゴールする総合成績上位のクライマーやオールラウンダーがこのジャージを獲得してしまうことも珍しくない。ただし2014年以降はツール・ド・フランスと同様、平地ステージで高ポイントを与える加点設定が行われている。1966年に初登場。2010年からは「マリア・ロッソ」と呼ばれる赤色のジャージが使われ、非公式に「情熱の赤」を意味する「マリア・ロッソ・パッショーネ」とも呼ばれていた。2017年よりスポンサーがセガフレード・ザネッティに変わり、元のマリア・チクラミーノに戻った。 青色のジャージ「マリア・アッズーラ (Maglia Azzurra)」は「山岳賞」に対して与えられる。登り坂の勾配と長さに応じて点数が設定された 山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マリア・アッズーラ」着用の権利を得る。1933年から2011年までの山岳賞は緑色のジャージ「マリア・ヴェルデ」であったが、2012年から「マリア・アッズーラ」となった。かつて1989年から2005年までは「マリア・アッズーラ」は「インテル・ジロ賞」(後述)のジャージとして用いられていた。2015年のジャージスポンサーは「メディオラヌム銀行」。 白のジャージ「マリア・ビアンカ (Maglia Bianca)」は「新人賞」に対して与えられる。開催年中に25歳以下 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ちなみに中間スプリント賞と同様なものとしてかつては「インテルジロ賞」が存在し、こちらは順位によるポイントではなくその地点の通過時間の合計で争われていた。レース前半の展開を活性化させるために1989年から設けられ、序盤からの逃げを得意とするスピードマンなどが狙ってくることが多かった。トップの選手は「マリア・アッズーラ」と呼ばれる青いジャージを着用していたが、2005年を最後に廃止された。スプリント賞としての格はマリア・チクラミーノより上で、両方でトップに立った選手はマリア・アッズーラの着用を優先されていた。2006年は複合賞に「マリア・ブル」という青いジャージが与えられたが、この年のみで姿を消している。
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ジロ・デ・イタリアは、毎年5月にイタリア全土を舞台にして行われるプロ自転車ロードレース。1909年から開催されている。主催はイタリアのスポーツ紙『ガゼッタ・デロ・スポルト』等を発行するメディアグループ・RCSの関連会社であるRCSスポルト社。 Giro d'Italia のイタリア語での発音は「ジーロ・ディターリア」である。 「ジロ・デ・イタリア」という表記は日本独特なものだが、最近は日本でもイタリア語が知られるようになったため、イタリア語の発音を基にした「ジーロ・ディターリア」や、「ジロ・ディ・イタリア」という表記も見られるようになってきた。通称は「ジロ」。
{{Main2|2023年大会については[[ジロ・デ・イタリア2023]]を}} {{Main2|1970年代の自動車レースについては{{ill|ジーロ・アウトモビリスティコ・ディターリア|it|Giro automobilistico d'Italia|en|Giro d'Italia automobilistico}}を}} {{自転車レース | レース名 = ジロ・デ・イタリア | 画像 = | 開催時期 = 5月上旬-5月下旬<br />(23日間、年によって6月にまたがる) | 開催地域 = {{ITA}} | 英語名 = | 地域名 = Giro d'Italia {{it icon}} | 愛称 = ジロ | 分野 = [[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]] | カテゴリー = [[UCIワールドツアー]]<br />([[グランツール]]) | 形態 = ステージレース | 主催者 = RCSスポルト | 責任者 = | 初回開催年 = 1909年 | 開催回数 = 106回(2023年) | 最終開催年 = | 初代優勝者 = {{Flagicon|ITA}} [[ルイジ・ガンナ]] | 最多優勝者 = 5回:<br />{{Flagicon|ITA}} [[アルフレッド・ビンダ]]<br />{{Flagicon|ITA}} [[ファウスト・コッピ]]<br />{{Flagicon|BEL}} [[エディ・メルクス]] | 直近優勝者 = {{Flagicon|SLO}} [[プリモシュ・ログリッチ]](2023年) }} '''ジロ・デ・イタリア'''({{lang-it-short|Giro d'Italia}})は、毎年5月に[[イタリア]]全土を舞台にして行われるプロ[[ロードレース (自転車競技)|自転車ロードレース]]。[[1909年]]から開催されている。主催はイタリアの[[スポーツ紙]]『[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]』等を発行するメディアグループ・RCSの関連会社であるRCSスポルト社。 Giro d'Italia の[[イタリア語]]での発音は「'''ジーロ・ディターリア'''」である。 「ジロ・デ・イタリア」という表記は日本独特なものだが、最近は日本でもイタリア語が知られるようになったため、イタリア語の発音を基にした「ジーロ・ディターリア」や、「'''ジロ・ディ・イタリア'''」という表記も見られるようになってきた<ref>「d'Italia は di Italia が縮まったもの。発音上「イタリア」を分離する場合、diの代わりに方言/古語であるde(デ)をわざわざ用いるのは無理がある。「ディ」が日本語になかった音であるために「デ」に改めた可能性は考えられるだろう。なお、[[スペイン語]]ではGiro de Italiaだが、発音は「ヒーロ・デ・イタリア」である。</ref>。通称は「ジロ」。 == 概要 == [[Image:Giro d Italia 2008.png|thumb|2008年のコース]] 毎年5月に約3週間かけて行われるステージレースで、コースは毎年新たに設定される。「イタリアを一周する」という表現がされることもあるが各ステージは地理的には連続していないことも多く、[[サルデーニャ島]]や[[シチリア島]]など島でのステージもある。ステージ数は通常21。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ(個人、チーム)と多彩なステージ設定がされている。 総合成績1位の選手にはピンク色のジャージ「[[マリア・ローザ]]」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。 賞金総額は年によって上下するが、[[2004年]]の場合で約133万[[ユーロ]]。配分は各ステージ25位までの勝者に支払われる金額が合計47万4000ユーロ。総合優勝者15万ユーロやインテルジロ賞13万ユーロなど各賞の合計が62万3000ユーロ。チームへの賞金が合計23万3000ユーロとなっている。 == 特徴 == [[Image:Stelvio.jpg|thumb|厳しい坂が続くステルビオ峠]] [[ツール・ド・フランス]]に比べ勾配の厳しい坂を登る山岳ステージが多いため<ref>[[2007年]]は第17ステージで距離10km、平均斜度11.9%、最大斜度22%というゾンコラン山への登り坂が設定された。これは[[ツール・ド・フランス]]で有名な[[ラルプ・デュエズ]]と比較して距離こそやや短いものの平均斜度は1.5倍、最大斜度は約2倍となっている。</ref>、上りを得意とするクライマーが活躍する機会が多い。[[1990年]]の[[クラウディオ・キアプッチ]]や[[1995年]]の[[トニー・ロミンゲル]]、[[1998年]]の[[マリアーノ・ピッコリ]]、[[2003年]]の[[ジルベルト・シモーニ]]、[[2009年]]の[[ダニーロ・ディルーカ]]、[[2010年]]の[[カデル・エヴァンス]]のように厳しい山岳コースが設定された年は山岳賞はおろか[[ポイント賞 (グランツール)|ポイント賞]]すらクライマーやオールラウンダーが獲得してしまうこともあるが、これは2013年までは[[ツール・ド・フランス]]とは異なり山岳ステージも平坦なステージも同じポイントが設定されていたためでもある。また平坦ステージであってもゴール直前だけ上り坂であったり、ゴールまで1kmを切ったところに急カーブが登場するなど危険かつ癖のあるコースレイアウトがしばしば採用される。 また5月は[[ドロミーティ]]を始めとした[[アルプス山脈]]及び[[アペニン山脈]]にはまだ雪の残っている場所もあり、選手は坂だけでなく厳しい寒さや悪天候とも戦うことになる<ref>[[1956年]]にはモンテ・ボンドーネで猛吹雪が発生し40人以上がリタイア。[[1988年]]にはガビア峠で吹雪となり、ゴールした選手が次々に倒れる事態となった。また[[1995年]]にはアグネロ峠で雪崩が発生、先行するキャラバン隊が巻き込まれコースが短縮になるなどの事件が発生している。</ref>。そのためイタリア人からは「ツール・ド・フランスが世界最大のレースなら、ジロ・デ・イタリアは世界最高のレース」と評される。 イタリア人選手の多くがこのレースをシーズン中の最大目標としており、歴代優勝者に占めるイタリア人の割合も圧倒的に多い。イタリア以外の選手が初めて優勝したのが[[1950年]]で、2017年現在31回しかない。近年は[[1997年]]以降、[[2007年]]までの総合優勝者はすべてイタリア人で、国際化が著しく優勝者の国籍も多様になる傾向があるロードレースの世界において、これは非常に珍しいケースである。 == 歴史 == 第1回大会は[[1909年]]に行われ[[ミラノ]]から出発し、合計走行距離は2,408kmだった。8区間で争われ、優勝選手の平均走行時速27.26kmだった。[[1915年]]から[[1918年]]までは[[第一次世界大戦]]により中断されている。 [[1933年]]は17ステージ・合計3,343kmで行われ、この時は[[アルフレッド・ビンダ]]が通算5回目となる優勝を飾っている。 [[1941年]]から[[1945年]]までは[[第二次世界大戦]]により再び中断。[[1947年]]は19ステージ・合計3,843kmで行われ、この時は[[ファウスト・コッピ]]が2回目の優勝を果たした。以後もコッピの活躍は続き、[[1953年]]には史上2人めの5回目の優勝を達成している。 [[1970年代]]前半は[[エディ・メルクス]]の独擅場となり、[[1972年]]から[[1974年]]には3連覇を達成。1974年は史上3人目となる5回目の優勝に加えてツール・ド・フランスと[[世界自転車選手権競技大会男子ロードレース歴代優勝者|世界自転車選手権プロロードレース]]も制覇しており、史上初の[[グランツール#「トリプルクラウン」に関連する記録|トリプルクラウン]]達成を遂げた。 [[1980年代]]前半は[[ベルナール・イノー]]が3回の優勝を遂げている。また[[1987年]]の優勝者[[ステファン・ロッシュ]]は史上2人目のトリプルクラウン達成者となった。 [[1990年代]]に活躍した選手としては[[ミゲル・インドゥライン]]と[[マルコ・パンターニ]]があげられインドゥラインは[[1992年]]と[[1993年]]、パンターニは[[1998年]]にツール・ド・フランスでも優勝してダブルツールを達成している。 [[2004年]]は合計走行距離3,423.9&nbsp;km、20区間で行われ参加選手169名のうち140名が完走した。総合優勝は22歳の新人[[ダミアーノ・クネゴ]]。[[ジルベルト・シモーニ]]のアシストとして働く予定だった彼がステージ4勝をあげて総合優勝するとは誰も予想しておらず、大きなニュースとなった。 [[2005年]]は[[パオロ・サヴォルデッリ]]とシモーニの争いとなり、終盤シモーニが猛追するも結局サヴォルデッリが[[2002年]]以来2度目の優勝を飾った。 [[2006年]]は[[イヴァン・バッソ]]が他を寄せ付けない強さで、[[2007年]]は[[ダニーロ・ディルーカ]]が堅実なレース運びで総合優勝を遂げている。 [[2008年]]は前年度のツール・ド・フランスを制した[[アルベルト・コンタドール]]がイタリア人以外では12年ぶりの総合優勝者となった。 [[2009年]]は[[デニス・メンショフ]]がディルーカとの熾烈な争いを制して優勝した。 [[2010年]]は相次ぐ大波乱の展開の末、バッソが2回目の総合優勝を飾った。 [[2011年]]は第3ステージで[[ワウテル・ウェイラント]]が落車により死亡する事故が発生し、第4ステージがノーコンテストステージとなる波乱があった。総合優勝は当初[[アルベルト・コンタドール]]が獲得したが、後にスポーツ仲裁裁判所(CAS)により2010年の[[ツール・ド・フランス2010|ツール・ド・フランス]]での[[クレンブテロール]]陽性を認定されて2年間の出場停止処分が下され、2011年の大会は出場停止期間中に該当するため成績無効となり、[[ミケーレ・スカルポーニ]]が繰り上がって総合優勝者に認定された。 [[2012年]]は最終日の個人タイムトライアルでの逆転という劇的な形で[[ライダー・ヘシェダル]]が[[カナダ]]人初となるグランツール優勝を成し遂げた。 [[2013年]]は[[ヴィンチェンツォ・ニバリ]]が圧勝を収め、[[2014年]]は[[ナイロ・キンタナ]]が同胞の[[リゴベルト・ウラン]]との激戦を制し[[コロンビア人]]選手として初のジロ総合優勝を飾る。 [[2015年]]は区間優勝がないながらも堅実なレース運びでアルベルト・コンタドールが2度目の総合優勝を果たす。 [[2016年]]は[[ステーフェン・クラウスヴァイク]]の肋骨骨折による失速で混沌とした総合争いをヴィンチェンツォ・ニバリが制した。 [[2017年]]は2012年と同様、最終日の個人TTでの再逆転で[[トム・デュムラン]]が[[オランダ]]人初のジロ総合優勝を果たした。 [[2018年]]は[[イスラエル]]の[[エルサレム]]からスタート。[[ヨーロッパ]]外からのスタートは初となる<ref>[http://www.cyclingnews.com/news/2018-giro-ditalia-confirmed-for-jerusalem-start-vatican-finish/] - CyclingNews.com {{en icon}}</ref>。[[クリス・フルーム]]が激戦を制し[[グランツール]]で三連勝を達成した。 [[2020年]]は当初5月9日から[[ハンガリー]]での開幕を予定していたが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響により延期され、10月3日から、開幕地をイタリアのシチリア島に移して開催された。<ref>[https://pressports.com/2020/07/31/giro2020-revised/ 延期開催の2020ジロ・デ・イタリアが修正コースを発表] Cycle Sports 2020年7月31日。</ref> <br/> 第20ステージのスタート時点で、総合2位であった[[テイオ・ゲイガンハート]]がステージ優勝しボーナスタイムを得た結果、総合1位であったジェイ・ヒンドレーと総合タイムが並ぶ事になった。よって翌日の21ステージではグランツール史上初の最終ステージで総合1、2位が同タイムでスタートすることになった。 <br/> また、最終ステージの個人TTでヒンドレーにタイム差を付けフィニッシュし、総合優勝したゲイガンハートは、全ステージでマリアローザを着用することなく、最終ステージ終了後に初めてマリアローザに袖を通した。 == 各賞とリーダージャージ == 数種の賞が設定されており、リーダージャージと呼ばれる各賞に応じた色別のジャージがある。前日のステージ終了時点で各賞の成績第1位の選手がそのジャージを着用する権利(と義務)を手にいれる。 === マリア・ローザ(個人総合時間賞) === [[Image:Jersey pink.svg|50px|left]] [[File:2012 Giro di italia cup.jpg|250px|thumb|総合優勝者に贈られるトロフェオ・センツァ・フィーネ|right]] ピンク色のジャージ「[[マリア・ローザ]] (Maglia Rosa)」は総合成績1位の選手に与えられる。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少ない選手が「マリア・ローザ」着用の権利を得る。最終ステージの終了時点で「マリア・ローザ」着用の権利をもっている選手がジロの総合優勝者となる。色の由来はレース主催者のガゼッタ・デッロ・スポルトの紙面がピンクであるため。 === マリア・チクラミーノ(ポイント賞) === [[Image:Jersey violet.svg|50px|left]] 紫色のジャージ「マリア・チクラミーノ (Maglia Ciclamino)」(シクラメン)は「[[ポイント賞 (グランツール)|ポイント賞]]」に対して与えられる。各ステージのゴール、およびステージ途中の中間スプリント地点の通過順位に応じてスプリントポイントが加算されスプリントポイント1位の選手が「マリア・チクラミーノ」着用の権利を得る。以前はツール・ド・フランスと異なり平地ステージも山岳ステージもゴール地点で与えられるポイントは同じであった上に前述の通りスプリンターが活躍しづらいコース設定がされることも多く、山岳ステージを上位でゴールする総合成績上位のクライマーやオールラウンダーがこのジャージを獲得してしまうことも珍しくない<ref>インテルジロ賞が行われていた頃は中間スプリント地点が存在せず、ゴール地点のポイントのみでスプリント賞が争われた為この傾向がさらに強かった。</ref><ref>[[2009年]]に至っては、ポイント賞の上位3人の顔ぶれがマリア・ローザ争いの上位3人と全く同じだった。さらに4位の[[ステファノ・ガルゼッリ]]もマリア・ヴェルデを獲得しており、純粋なスプリンターといえる選手でトップ10に入ったのは5位の[[アレッサンドロ・ペタッキ]]と8位の[[アラン・デイヴィス]]くらいだった。更に2010年ではトップ10の内容がパンチャー2人、オールラウンダー6人、クライマー2人であり、スプリンターらしいスプリンターはゴール地にすらほとんどたどり着かなかった。</ref>。ただし[[2014年]]以降はツール・ド・フランスと同様、平地ステージで高ポイントを与える加点設定が行われている<ref>[http://www.cyclowired.jp/news/node/134248 ジロ・デ・イタリア2014注目選手:各賞ジャージ マリアロッサ、アッズーラ、ビアンカ ジロを彩る特別賞ジャージ候補] - シクロワイアード 2014/05/08 - 20:28</ref>。[[1966年]]に初登場。2010年からは「マリア・ロッソ」と呼ばれる赤色のジャージが使われ、非公式に「情熱の赤」を意味する「マリア・ロッソ・パッショーネ」とも呼ばれていた。2017年よりスポンサーが[[セガフレード・ザネッティ]]に変わり、元のマリア・チクラミーノに戻った。 === マリア・アッズーラ(山岳賞) === [[Image:Jersey blue.svg|50px|left]] 青色のジャージ「[[マリア・アッズーラ]] (Maglia Azzurra)」は「[[山岳賞]]」に対して与えられる。登り坂の勾配と長さに応じて点数が設定された<ref>かつては同一カテゴリーの山には同じポイントが配分されていたが、純粋なクライマーでないにもかかわらず序盤から飛び出してコース前半の山岳ポイントを狙う逃げ屋対策として近年ではコースの最後に置かれた山岳ポイントに限り倍の点数が与えられるなどの補正が行われることがある。</ref> 山岳ポイント地点の通過順位に応じて山岳ポイントが加算され、山岳ポイント1位の選手が「マリア・アッズーラ」着用の権利を得る。[[1933年]]から[[2011年]]までの[[山岳賞]]は緑色のジャージ「[[マリア・ヴェルデ]]」であったが、[[2012年]]から「マリア・アッズーラ」となった。かつて[[1989年]]から[[2005年]]までは「マリア・アッズーラ」は「インテル・ジロ賞」(後述)のジャージとして用いられていた。2015年のジャージスポンサーは「メディオラヌム銀行」。 === マリア・ビアンカ(新人賞) === [[Image:Jersey white.svg|50px|left]] 白のジャージ「[[マリア・ビアンカ]] (Maglia Bianca)」は「新人賞」に対して与えられる。開催年中に25歳以下<ref>開催年から25を引いた年以降に生まれた選手が対象。開催時に25歳であっても、開催年中に26歳になる選手は対象外。</ref> になる選手が対象となり各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手が「マリア・ビアンカ」着用の権利を得る。2015年のジャージスポンサーはスーパーマーケットの「ユーロスピン」。 [[1976年]]に初登場。[[1994年]]以来消滅していたが、[[2007年]]に復活した。 === マリア・ネラ === [[Image:Jersey black.svg|50px|left]] 黒のジャージ「[[マリア・ネラ]]」はかつて総合成績最下位の選手に与えられた。[[1946年]]に初登場し悪趣味、屈辱的などの理由で[[1952年]]には廃止されたが[[1993年]]にはレース中盤でダリオ・マリウッツォがジョークで着用して登場、[[2008年]]にジャージではなく黒いゼッケン「ヌーメロ・ネロ」という形で復活した。同様のものに、ツール・ド・フランスにおける「[[ツール・ド・フランス#そのほか|ランタンルージュ]]」がある。ちなみに[[1951年]]にマリア・ネラを獲得した[[ジョヴァンニ・ピナレッロ]]の興したバイクメーカー[[ピナレロ]]から、同名の黒いジャージが発売されている。2019年に果敢な逃げなどで大会を盛り上げ、最下位完走を果たした[[初山翔]]に主催者側からマリア・ネラが送られた。 === そのほかの賞 === 特別なジャージはないが、コース中間に設定された地点の通過順位によるポイントを加算し、合計所要ポイントの最も多い選手には「個人総合中間スプリント賞」が与えられる(2008年の名称は、エキスポミラノ2015賞)。長距離をこなした後のスプリントや山岳コースでは勝ち目の無いトラックレース出身のスプリンターが狙ってくることが多い。 他にも総合成績・山岳・スプリントなどすべての賞で上位にいる選手に与えられる「敢闘賞(複合賞)」、ファウスト・コッピの名を冠した賞でその年の最大標高の山岳を1位で通過した選手に与えられる「チマ・コッピ賞」などその年ごとにさまざまな賞が設定される。また獲得ポイントの総合トップのチームに与えられる「スーパーチーム賞」、進路妨害や危険行為、ドーピングなどの不正行為がもっとも少ないチームに与えられる「フェアプレー賞」などチームを対象にした賞も設定される。 ちなみに中間スプリント賞と同様なものとしてかつては「インテルジロ賞」が存在し、こちらは順位によるポイントではなくその地点の通過時間の合計で争われていた。レース前半の展開を活性化させるために[[1989年]]から設けられ、序盤からの逃げを得意とするスピードマンなどが狙ってくることが多かった。トップの選手は「[[マリア・アッズーラ]]」と呼ばれる青いジャージを着用していたが、[[2005年]]を最後に廃止された。スプリント賞としての格はマリア・チクラミーノより上で、両方でトップに立った選手はマリア・アッズーラの着用を優先されていた<ref>『2001ジロ・デ・イタリアのすべて』52P [[マッシーモ・ストラッツェール]]のインタビューより</ref>。[[2006年]]は複合賞に「マリア・ブル」という青いジャージが与えられたが、この年のみで姿を消している。 == 歴代総合優勝者 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !style="background-color:#C0C0C0"|回 !style="background-color:#C0C0C0"|開催期間 !style="background-color:#C0C0C0"|総合優勝者 !style="background-color:#C0C0C0"|国籍 !style="background-color:#C0C0C0"|チーム !style="background-color:#C0C0C0"|区間数 !style="background-color:#C0C0C0"|距離<br />(km) !style="background-color:#C0C0C0"|平均速度<br />(km/h) |- |style="text-align:center"|1 |[[1909年]][[5月13日]]~[[5月30日|30日]] |[[ルイジ・ガンナ]] |style="text-align:left"|{{ITA1861}} |アタラ・ダンロップ |8 |2,445 |27.260 |- |2 |[[1910年]][[5月18日]]~[[6月5日]] |[[カルロ・ガレッティ]] |style="text-align:left"|{{ITA1861}} |アタラ・コンチネンタル |10 |2,984 |26.113 |- |style="text-align:center"|3 |[[1911年]][[5月15日]]~[[6月6日]] |カルロ・ガレッティ(2) |style="text-align:left"|{{ITA1861}} |ビアンキ |12 |3,526 |26.216 |- |style="text-align:center"|4 |[[1912年]][[5月19日]]~[[6月2日]] | -''<br />(カルロ・ガレッティ)<br />([[ジョヴァンニ・ミケレット]])<br />([[エベラルド・パヴェージ]])'' |style="text-align:left"|{{ITA1861}} |アタラ・ダンロップ |9 |2,443 |27.323 |- |style="text-align:center"|5 |[[1913年]][[5月6日]]~[[5月22日|22日]] |[[カルロ・オリアーニ]] |style="text-align:left"|{{ITA1861}} |マイノ |9 |2,932 |26.379 |- |style="text-align:center"|6 |[[1914年]][[5月24日]]~[[6月7日]] |[[アルフォンソ・カルツォラーリ]] |style="text-align:left"|{{ITA1861}} |ストゥッキ・ダンロップ |8 |3,162 |23.374 |- | colspan="8" |第一次世界大戦のため中断 |- | style="text-align:center" |7 |[[1919年]][[5月21日]]~[[6月8日]] |[[コスタンテ・ジラルデンゴ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |ストゥッキ・ダンロップ |10 |2,984 |26.440 |- | style="text-align:center" |8 |[[1920年]][[5月23日]]~6月6日 |[[ガエターノ・ベローニ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |ビアンキ |10 |2,632 |25.640 |- | style="text-align:center" |9 |[[1921年]][[5月25日]]~[[6月12日]] |[[ジョバンニ・ブルネーロ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |10 |3,107 |25.592 |- | style="text-align:center" |10 |[[1922年]][[5月24日]]~[[6月11日]] |ジョバンニ・ブルネーロ(2) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |10 |3,095 |25.856 |- | style="text-align:center" |11 |[[1923年]]5月23日~[[6月10日]] |コスタンテ・ジラルデンゴ(2) |{{Flagicon|ITA1861}} |マイノ |10 |3,202 |25.895 |- | style="text-align:center" |12 |[[1924年]][[5月10日]]~[[6月1日]] |[[ジュゼッペ・エンリーチ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |- |12 |3,613 |25.138 |- | style="text-align:center" |13 |[[1925年]][[5月16日]]~6月7日 |[[アルフレッド・ビンダ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |12 |3,520 |25.600 |- | style="text-align:center" |14 |[[1926年]][[5月15日]]~6月6日 |ジョバンニ・ブルネーロ(3) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |12 |3,430 |25.113 |- | style="text-align:center" |15 |[[1927年]]5月15日~6月6日 |アルフレッド・ビンダ(2) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |15 |3,756 |25.850 |- | style="text-align:center" |16 |[[1928年]][[5月12日]]~[[6月3日]] |アルフレッド・ビンダ(3) |{{Flagicon|ITA1861}} |ウォルシット・ピレリ |12 |3,044 |26.750 |- | style="text-align:center" |17 |[[1929年]]5月19日~[[6月9日]] |アルフレッド・ビンダ(4) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・トーピード |14 |2,920 |27.290 |- | style="text-align:center" |18 |[[1930年]][[5月17日]]~6月8日 |[[ルイジ・マルキジオ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |15 |3,095 |26.880 |- | style="text-align:center" |19 |[[1931年]]5月10日~[[5月31日|31日]] |[[フランチェスコ・カムッソ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |グローリア・ウッチンソン |12 |3,012 |29.330 |- | style="text-align:center" |20 |[[1932年]][[5月14日]]~[[6月5日]] |[[アントニオ・ペゼンティ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |ウォルシット・ウッチンソン |13 |3,235 |30.594 |- | style="text-align:center" |21||[[1933年]]6月6日~[[6月28日|28日]]||アルフレッド・ビンダ(5) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・クレメント |17 |3,343 | |- | style="text-align:center" |22||[[1934年]]5月19日~6月10日||[[レアルコ・グエラ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |マイノ・クレメント |17 |3712.7 | |- | style="text-align:center" |23||[[1935年]]5月18日~6月9日||[[ヴァスコ・ベルガマスキ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |マイノ・ジラルデンゴ |18 |3,577 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |24||[[1936年]]5月16日~6月7日||[[ジーノ・バルタリ]] |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ウォルシット |19 |3,766 | |- | style="text-align:center" |25||[[1937年]][[5月8日]]~30日||ジーノ・バルタリ(2) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ |19 |3,840 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |26||[[1938年]][[5月7日]]~[[6月2日]]||[[ジョヴァンニ・ヴァレッティ]] | {{Flagicon|ITA1861}} |フレジュス |18 |3,645.8 | |- | style="text-align:center" |27||[[1939年]][[4月28日]]~5月18日||ジョヴァンニ・ヴァレッティ(2) | {{Flagicon|ITA1861}} |フレジュス |17 |3,011.4 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |28||[[1940年]]5月17日~6月9日||[[ファウスト・コッピ]] | {{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ |20 |3,574 |- | colspan="8" |第二次世界大戦のため中断 |- | style="text-align:center" |29||[[1946年]][[6月15日]]~[[7月7日]]||ジーノ・バルタリ(3) |{{Flagicon|ITA1861}} |レニャーノ・ピレリ |16 |3,039.5 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |30||[[1947年]]5月24日~[[6月15日]]||ファウスト・コッピ(2) | {{Flagicon|ITA}} |ビアンキ |20 |3,843 | |- | style="text-align:center" |31||[[1948年]]5月15日~6月6日||[[フィオレンツォ・マーニ]] | {{Flagicon|ITA}} |ウィリエール・トリエスティーナ |19 |4,164 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |32||[[1949年]]5月21日~6月12日||ファウスト・コッピ(3) | {{Flagicon|ITA}} |ビアンキ・ウルサス |19 |4,088 | |- | style="text-align:center" |33||[[1950年]]5月24日~[[6月13日]]||[[ユーゴ・コブレ]] |{{Flagicon|SUI}} |ゲラ・ウルサス |18 |3,981 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |34||[[1951年]]5月19日~6月10日||フィオレンツォ・マーニ |{{Flagicon|ITA}} |ゲラ・ウルサス |20 |4,153 | |- | style="text-align:center" |35||[[1952年]]5月17日~6月8日||ファウスト・コッピ(4) | {{Flagicon|ITA}} |ビアンキ・ピレリ |20 |3,964 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |36||[[1953年]]5月12日~6月2日||ファウスト・コッピ(5) |{{Flagicon|ITA}} |ビアンキ・ピレリ |21 |4,035.5 | |- | style="text-align:center" |37||[[1954年]]5月21日~6月13日||[[カルロ・クレリーチ]] | {{Flagicon|SUI}} |ゲラ・ウルサス |22 |4,337 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |38||[[1955年]]5月14日~6月15日||フィオレンツォ・マーニ(2) | {{Flagicon|ITA}} |グレマン・フックス |21 |3,871 | |- | style="text-align:center" |39||[[1956年]]5月19日~6月10日||[[シャルリー・ゴール]] |{{Flagicon|LUX}} |ファエマ・ゲラ |22 |3,523.45 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |40||[[1957年]]5月18日~6月9日||[[ガストネ・ネンチーニ]] |{{Flagicon|ITA}} |レオ・クロロドン |21 |3,926.7 | |- | style="text-align:center" |41||[[1958年]]5月18日~6月8日||[[エルコーレ・バルディーニ]] | {{Flagicon|ITA}} |レニャーノ |20 |3,341.1 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |42||[[1959年]]5月16日~6月7日||シャルリー・ゴール(2) |{{Flagicon|LUX}} |EMI |22 |3,657 | |- | style="text-align:center" |43||[[1960年]]5月19日~6月9日||[[ジャック・アンクティル]] |{{Flagicon|FRA}} |ファインセック・ヘリエット |21 |3,481.2 | |- | style="text-align:center" |44||[[1961年]][[5月20日]]~6月11日||[[アルナルド・パンビアンコ]] |{{Flagicon|ITA}} |フィデス |21 |4,004 | |- | style="text-align:center" |45||[[1962年]]5月19日~6月9日||[[フランコ・バルマミオン]] | {{Flagicon|ITA}} |カルパノ |21 |4,180 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |46||[[1963年]]5月19日~6月9日||フランコ・バルマミオン(2) | {{Flagicon|ITA}} |カルパノ |21 |4,063 | |- | style="text-align:center" |47||[[1964年]]5月16日~6月7日||ジャック・アンクティル(2) | {{Flagicon|FRA}} |サンラファエル・ジタン・ダンロップ |22 |4,119 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |48||[[1965年]]5月15日~6月6日||[[ビットリオ・アドルニ]] |{{Flagicon|ITA}} |サルバラーニ |22 |4,051 | |- | style="text-align:center" |49||[[1966年]]5月16日~6月9日||[[ジャンニ・モッタ]] |{{Flagicon|ITA}} |モルテーニ |22 |3,976 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |50||[[1967年]]5月20日~6月11日||[[フェリーチェ・ジモンディ]] |{{Flagicon|ITA}} |サルバラーニ |22 |3,572 | |- | style="text-align:center" |51||[[1968年]]5月20日~6月12日||[[エディ・メルクス]] |{{Flagicon|BEL}} |ファエマ |22+P |3,917.3 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |52||[[1969年]]5月16日~6月8日||フェリーチェ・ジモンディ(2) | {{Flagicon|ITA}} |サルバラーニ |23 |3,851 | |- | style="text-align:center" |53||[[1970年]]5月18日~6月7日||エディ・メルクス(2) | {{Flagicon|BEL}} |ファエミノ・ファエマ |20 |3,292 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |54||[[1971年]]5月20日~6月10日||[[イェスタ・ペーテルソン]] |{{Flagicon|SWE}} |フェレッティ |20+P |3,567 | |- | style="text-align:center" |55||[[1972年]]5月21日~6月11日||エディ・メルクス(3) | {{Flagicon|BEL}} |モルテーニ |20 |3,725 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |56||[[1973年]]5月18日~6月9日||エディ・メルクス(4) | {{Flagicon|BEL}} |モルテーニ |20+P |3,801 | |- | style="text-align:center" |57||[[1974年]]5月16日~6月9日||エディ・メルクス(5) |{{Flagicon|BEL}} |モルテーニ |22 |4,001 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |58||[[1975年]]5月17日~6月7日||[[ファウスト・ベルトリオ]] |{{Flagicon|ITA}} |ヨルジュ・セラミカ |21 |3,963 | |- | style="text-align:center" |59||[[1976年]]5月21日~6月9日||フェリーチェ・ジモンディ(3) |{{Flagicon|ITA}} |ビアンキ・カンパニョーロ |22 |4,161 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |60||[[1977年]]5月20日~6月12日||[[ミシェル・ポランティエール]] | {{Flagicon|BEL}} |フランドリア・ヴェレダ・ラティーナ アッシクラツィオーニ |22+P |3,884 | |- | style="text-align:center" |61||[[1978年]]5月7日~[[5月28日|28日]]||[[ヨハン・デミュインク]] | {{Flagicon|BEL}} |ビアンキ・ファエマ |20+P |3,610.5 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |62||[[1979年]]5月17日~6月6日||[[ジュゼッペ・サローニ]] |{{Flagicon|ITA}} |サイクリック・ボッテキア |19+P |3,301 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1980|63]]||[[1980年]]5月15日~6月7日||[[ベルナール・イノー]] |{{Flagicon|FRA}} |ルノー・ジタン |22+P |4,025 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1981|64]]||[[1981年]][[5月13日]]~6月7日||[[ジョバンニ・バッタリン]] |{{Flagicon|ITA}} |イノックスプレン |22+P |3,895.6 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1982|65]]||[[1982年]]5月13日~6月6日||ベルナール・イノー(2) | {{Flagicon|FRA}} |ルノー・エルフ・ジタン |22+P |4,010.5 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1983|66]]||[[1983年]]5月12日~6月5日||[[ジュゼッペ・サローニ]](2) |{{Flagicon|ITA}} |デル・トンゴ=コルナゴ |22+P |3,922 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1984|67]]||[[1984年]]5月17日~6月10日||[[フランチェスコ・モゼール]] | {{Flagicon|ITA}}|| [[GIS GELATI]]||22+P |3,808 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1985|68]]||[[1985年]]5月16日~6月9日||ベルナール・イノー(3) | {{Flagicon|FRA}}||[[ラ・ヴィ・クレール]]||22+P |3,998.6 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1986|69]]||[[1986年]]5月12日~6月2日||[[ロベルト・ヴィセンティーニ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[カレラ]]||22+P |3,858.6 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1987|70]]||[[1987年]]5月21日~6月13日||[[ステファン・ロッシュ]] | {{Flagicon|IRL}}|| [[カレラ]]||22+P |3,915 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1988|71]]||[[1988年]]5月23日~6月12日||[[アンドリュー・ハンプステン]] | {{Flagicon|USA}}|| [[セブンイレブン]]||21 |3,579 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |72||[[1989年]]5月21日~6月11日||[[ローラン・フィニョン]] |{{Flagicon|FRA}}|| [[スーパーU]]||22 |3,418 | |- | style="text-align:center" |73||[[1990年]]5月21日~6月11日||[[ジャンニ・ブーニョ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[CHATEAU D'AX]]||19+P |3,450 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |74||[[1991年]][[5月26日]]~[[6月16日]]||[[フランコ・キオッチョーリ]] | {{Flagicon|ITA}}|| [[デル・トンゴ]]||21 |3,715 | |- | style="text-align:center" |75||[[1992年]]5月24日~[[6月14日]]||[[ミゲル・インドゥライン]] |{{Flagicon|ESP}}|| [[モビスター・チーム|バネスト]]||22 |3,843 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |76||[[1993年]]5月23日~6月13日||ミゲル・インドゥライン(2) | {{Flagicon|ESP}}||[[モビスター・チーム|バネスト]]||21 |3,702 | |- | style="text-align:center" |77||[[1994年]][[5月22日]]~6月12日||[[エフゲニー・ベルツィン]] |{{Flagicon|RUS}}|| [[GEWISS-BALLAN]]||22 |3,730 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |78||[[1995年]]5月13日~[[6月4日]]||[[トニー・ロミンゲル]] |{{Flagicon|SUI}}|| [[マペイ-GB ラテキスコ]]||22 |3,736 | |- | style="text-align:center" |79||[[1996年]]5月18日~6月9日||[[パヴェル・トンコフ]] |{{Flagicon|RUS}}|| [[パナリア]]||22 |3,990 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |80||[[1997年]]5月17日~6月8日||[[イヴァン・ゴッティ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[サエコ・エストロ]]||22 |3,912 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1998|81]]||[[1998年]]5月17日~6月7日||[[マルコ・パンターニ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[メルカトーネ・ウノ]]||22+P |3,868 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 1999|82]]||[[1999年]]5月15日~6月6日||イヴァン・ゴッティ(2) |{{Flagicon|ITA}}||[[チーム・ポルティ]]||22 |3,757 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2000|83]]||[[2000年]]5月13日~6月4日||[[ステファーノ・ガルゼッリ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[メルカトーネ・ウノ]]||21+P |3,676 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2001|84]]||[[2001年]]5月19日~6月10日||[[ジルベルト・シモーニ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[UAEチーム・エミレーツ|ランプレ]]||21+P |3,356 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2002|85]]||[[2002年]][[5月11日]]~6月2日||[[パオロ・サヴォルデッリ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[インデックス]]||20+P |3,354.5 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2003|86]]||[[2003年]]5月10日~6月1日||ジルベルト・シモーニ(2) |{{Flagicon|ITA}}||[[サエコ (企業)|サエコ]]||21 |3,476.5 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2004|87]]||[[2004年]][[5月8日]]~30日||[[ダミアーノ・クネゴ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[サエコ (企業)|サエコ]]||20+P |3,423.9 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2005|88]]||[[2005年]]5月7日~[[5月29日|29日]]||パオロ・サヴォルデッリ(2) |{{Flagicon|ITA}}||[[ディスカバリー・チャンネル プロ・サイクリングチーム]]||20+P |3,447.15 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2006|89]]||[[2006年]][[5月6日]]~28日||[[イヴァン・バッソ]] |{{Flagicon|ITA}}||[[ティンコフ|チーム・CSC]]|| 21 ||3,526.2 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2007|90]]||[[2007年]]5月12日~6月3日||[[ダニーロ・ディルーカ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[キャノンデール・プロサイクリング|リクイガス]]|| 21 ||3,486 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2008|91]]||[[2008年]][[5月10日]]~[[6月1日]]||[[アルベルト・コンタドール]] |{{Flagicon|ESP}}|| [[アスタナ・プロチーム|アスタナ]]|| 21 ||3,407 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2009|92]]||[[2009年]][[5月9日]]~31日||[[デニス・メンショフ]] |{{Flagicon|RUS}}|| [[チーム・ロットNL・ユンボ|ラボバンク]]|| 21 ||3,456.5 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2010|93]]||[[2010年]][[5月8日]]~30日||イヴァン・バッソ(2) |{{Flagicon|ITA}}|| [[キャノンデール・プロサイクリング|リクイガス・ドイモ]]|| 21 ||3,485 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2011|94]]||[[2011年]][[5月7日]]~29日||[[ミケーレ・スカルポーニ]]<ref>上述の理由により[[アルベルト・コンタドール]]の総合優勝は無効とされたためスカルポーニが繰り上がって総合優勝者に認定された。</ref> |{{Flagicon|ITA}}|| [[UAEチーム・エミレーツ|ランプレ・ISD]]|| 21 ||3,434 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2012|95]]||[[2012年]][[5月5日]]~27日||[[ライダー・ヘシェダル]] |{{Flagicon|CAN}}|| [[キャノンデール・ドラパック|ガーミン・バラクーダ]]|| 21 ||3,502.1 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2013|96]]||[[2013年]][[5月4日]]~26日||[[ヴィンチェンツォ・ニバリ]] |{{Flagicon|ITA}}|| [[アスタナ・プロチーム]]|| 21 ||3,405 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2014|97]]||[[2014年]][[5月9日]]~[[6月1日]]||[[ナイロ・キンタナ]] | {{Flagicon|COL}}|| [[モビスター・チーム]]|| 21 ||3,445.5 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2015|98]]||[[2015年]][[5月9日]]~31日||[[アルベルト・コンタドール]](2) |{{Flagicon|ESP}}||[[ティンコフ|ティンコフ・サクソ]]|| 21 ||3,481.8 |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア 2016|99]]||[[2016年]][[5月6日]]〜29日||ヴィンチェンツォ・ニバリ(2) | {{flagicon|ITA}}||[[アスタナ・プロチーム]]|| 21 ||3,463.15 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2017|100]]||[[2017年]][[5月5日]]〜28日||[[トム・デュムラン]] | {{flagicon|NED}}|| [[チーム・サンウェブ]]|| 21 ||3,609.1 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2018|101]]||[[2018年]][[5月4日]]〜27日||[[クリス・フルーム]] |{{flagicon|UK}}|| [[チーム・スカイ]]|| 21 ||3,572.4 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2019|102]]||[[2019年]][[5月11日]]〜[[6月2日]]||[[リチャル・カラパス]] | {{flagicon|ECU}}|| [[モビスター・チーム]]|| 21 ||3,546.8 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2020|103]]||[[2020年]][[10月3日]]〜[[10月25日]]||[[テイオ・ゲイガンハート]] | {{flagicon|UK}}||[[イネオス・グレナディアス]]||21||3,361.4 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2021|104]]||[[2021年]][[5月8日]]〜[[5月30日]]||[[エガン・ベルナル]] | {{flagicon|COL}}||[[イネオス・グレナディアス]]||21||3,410.9 | |- | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2022|105]]||[[2022年]][[5月6日]]〜[[5月29日]]||{{ill|ジャイ・ヒンドリー|en|Jai Hindley}} | {{flagicon|AUS}}||[[ボーラ=ハンスグローエ]]||21||3,445.6 | |- style="background-color:#EFEFEF" | style="text-align:center" |[[ジロ・デ・イタリア2023|106]]||[[2023年]][[5月6日]]〜[[5月28日]]||[[プリモシュ・ログリッチ]] | {{flagicon|SLO}}||[[チーム・ユンボ・ヴィスマ]]||21||3,489.2 | |} *第4回のみ総合優勝はチームに与えられた。 *区間数に「+P」を記載の回次は、ステージに数えないプロローグステージを実施。 == 区間優勝回数 == *通算 : [[マリオ・チポリーニ]] 42勝(1989年~2004年) *一大会 : [[アルフレッド・ビンダ]] 12勝(1927年) == 日本人選手 == *[[市川雅敏]] [[ジロ・デ・イタリア 1990|1990年]]完走(最終成績個人総合50位) [[ジロ・デ・イタリア 1993|1993年]]第15ステージでリタイア(肺炎によるドクターストップ) *[[今中大介]] [[ジロ・デ・イタリア 1995|1995年]]第14ステージでリタイア *[[野寺秀徳]] [[ジロ・デ・イタリア 2001|2001年]]第13ステージでリタイア(発熱によるドクターストップ) [[ジロ・デ・イタリア 2002|2002年]]完走(最終成績個人総合139位) *[[新城幸也]] [[ジロ・デ・イタリア2010|2010年]]、[[ジロ・デ・イタリア 2014|2014年]]、[[ジロ・デ・イタリア2020|2020年]]、[[ジロ・デ・イタリア2021|2021年]]、[[ジロ・デ・イタリア2023|2023年]]完走。(最終成績2011年個人総合93位、2014年総合127位、2020年総合89位、2021年総合77位、2023年総合123位)2010年第5ステージ3位 フーガ賞(逃げ賞)獲得 *[[別府史之]] [[ジロ・デ・イタリア 2011|2011年]]、[[ジロ・デ・イタリア 2012|2012年]]、[[ジロ・デ・イタリア 2014|2014年]]、[[ジロ・デ・イタリア 2015|2015年]]完走(最終成績2011年個人総合67位、2012年総合121位、2014年総合82位、2015年総合117位)2011年第1ステージ総合8位(チームタイムトライアル)・第10ステージ フーガ賞(逃げ賞)獲得、2012年第3ステージ9位 *[[石橋学]] [[ジロ・デ・イタリア 2015|2015年]]第9ステージでリタイア *[[山本元喜]] [[ジロ・デ・イタリア 2016|2016年]]完走(最終成績個人総合151位) *[[西村大輝]] [[ジロ・デ・イタリア2019|2019年]]第1ステージでタイムオーバーによりリタイア。 *[[初山翔]] [[ジロ・デ・イタリア2019|2019年]]完走。第3ステージ フーガ賞(逃げ賞)獲得。 == 日本での放送 == *以前は[[2002年]]より有料放送の[[J SPORTS]]にて全ステージの録画中継が行われ、[[2006年]]から[[2016年]]までは生中継が行われていた。 *[[2011年]]は[[Japan News Network|TBS系列]]の『[[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]』にて「風になれ! ジロ・デ・イタリア 自転車紀行」のタイトルにて特集され、同大会に出場していた[[別府史之]]の活躍も取り上げられた。またスタジオゲストとして[[今中大介]]が出演した。 *[[2017年]]から[[2019年]]までは、[[DAZN]]にてインターネット動画配信による生中継と見逃し配信が行われていた。しかし、[[2020年]]にDAZNは自転車ロードレースの配信から撤退した<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1230031.html DAZN、'20年は自転車ロードレースのUCIワールド/ヨーロッパツアー配信せず] AV Watch 2020年1月20日。</ref>。 *[[2020年]]は[[:en:Global Cycling Network|グローバル・サイクリング・ネットワーク 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三郷市
三郷市(みさとし)は、埼玉県の南東部に位置する市。 人口は約14万人で、戸田市に次ぐ県内17位。1972年(昭和47年)市制施行。 埼玉県の南部最東端に位置する。東京都心からは約20kmの距離で、市の東境を江戸川が、西の境を中川が、中央部に大場川が流れる。そのほかにも市内を南北に河川が幾筋か流れている。市制施行前は北葛飾郡に所属。 関東平野に位置し土地は全体的に平坦であり、最高点で海抜約8m(盛土上の新三郷ららシティ地区)、最低点は海抜約1.4mの低地地形である。2007年1月1日のデータでは、高床3.092m(岩野木110)及び低床1.392m(谷中52)。東京都に隣接する市南部では高度経済成長期以降に宅地化が進み、市北部のJR武蔵野線沿線では、同じく高度経済成長期に計画された大規模団地(みさと団地、三郷早稲田団地、さつき平団地)などの区画された住宅地が多い。市中央部は住宅地のほか市街化区域もあり、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの開通に伴い開発が進んでいる。また、それに伴い東部も急激に発展している。 高度経済成長期に大規模団地が造成され人口が急速に増加、「村」の成立から僅か16年で市制施行を果たしている。 以上から、三郷と名づけられた。 三郷市には町・大字が存在する。住居表示実施地区は新三郷ららシティ一 - 三丁目とさつき平一・二丁目、彦成三丁目の一部、彦成四丁目のみで、その他の町では地番整理を実施している。 市立中学校は学校選択制(自由選択方式)を採用している。なお、小学校は学区制である。 郵便番号は市内全域が「341-00xx」である。 木津雅晟(2006年11月14日就任、5期目、元市長木津三郎の子) 2013年、さいたま地方裁判所は生活保護申請を拒否、受理されてからも打ち切るなどした生活ふくし課を相手取った女性市民からの国家賠償訴訟について、申請権を侵害したと認定し、生活保護費約540万円の支払を市に命じ、判決が確定した。 定数と任期 定数:24 任期:2021年(令和3年)8月11日‐2025年(令和5年)8月10日 議長と副議長 会派の構成 選挙区と定数 選挙区:埼玉県第14区(三郷市)、定数:2 任期 2019年(平成31年)4月30日~2023年4月29日 選出議員 市北部に武蔵野線が通っており、2005年(平成17年)8月24日に市の中央を貫くようにつくばエクスプレスが開通した。 市の中心駅:三郷中央駅(JTB時刻表では、つくばエクスプレス開業前、三郷駅を代表駅としていた) 市の中北部に鉄道駅がある一方、市の南部は鉄道空白地帯になっており、最寄りの鉄道駅までは路線バスでのアクセスが基本となる。市南部は、つくばエクスプレス八潮駅からJR常磐線・新京成線松戸駅までを結ぶバスと、三郷駅から三郷中央駅を経由し、金町駅までを結ぶバスの通り道となっており、この2本が市内でも運行本数が比較的多い主要な路線である。そのほか、吉川駅、吉川美南駅、獨協大学前駅発着の路線、三郷市役所、ピアラシティ発着やみさと団地、早稲田地区内の路線もある。 三郷市ではコミュニティバスを運行しておらず、行政が主導して立案した『三郷市地域公共交通網形成計画』により市内の路線バス網を整備し、市内の民間バス事業者6社により路線バスが運行されている。2005年のつくばエクスプレス開業などをふまえて「三郷方式」といえる独自の方式によりバス路線の再編が行われた。バス事業の規制緩和による貸切バス事業者の参入や新規事業者の設立により、既存事業者に加えて規制緩和後に参入した新規事業者も含め、各社で分担して計画的に市内の路線網が形成された結果、市内ほぼ全域に路線バスが運行されるに至った。 かつては同時期に乗合バス事業に参入したグローバル交通もこの中に含まれていたが、グローバル交通が三郷線から撤退したことにより枠組みから外れ、代わって乗合バス事業に参入した埼玉観光株式会社(2016年6月1日設立、本社:越谷市)が含まれることとなった。 (平日=休日を除く月曜日~金曜日) タクシーの営業区域は県南東部交通圏で、春日部市・草加市・越谷市・久喜市・八潮市などと同じエリアとなっている。 首都高速道路三郷線と東京外環自動車道、常磐自動車道の3つを結ぶ三郷IC・三郷JCTがあり、非常に交通量が多い。 2009年(平成21年)2月1日に、市の鳥であるカイツブリをモチーフにしたマスコットキャラクター「かいちゃん」と「つぶちゃん」がデビュー。埼玉県の自治体のゆるキャラで構成されるゆる玉応援団にも参加している。(子どもの「つぶちゃん」は着ぐるみ未作成という理由でメンバー入りならず。) 三郷市の神社の灯籠には、火袋に三つの穴が開いているものが多い。 三郷市神社鳥居等調査報告書(三郷市文化財調査報告第15集)三郷市教育委員会発行で 確認できるものは 墨田区の三囲神社にも、同様の三つ穴灯籠がある。 市外局番は市内全域が「048」。市内局番が「9XX」の地域との通話は市内通話料金で利用可能(草加MA)。収容局は埼玉三郷局、三郷小谷堀局、三郷鷹野局。
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三郷市(みさとし)は、埼玉県の南東部に位置する市。 人口は約14万人で、戸田市に次ぐ県内17位。1972年(昭和47年)市制施行。
{{出典の明記|date=2021年4月4日 (日) 16:55 (UTC)}} {{統合文字|葛|[[ファイル:Katsushika-Katsu.png]]}} {{日本の市 |画像 =Misato-koen Misato City, Saitama Pref.jpg |画像の説明 =[[みさと公園]] |市旗 = [[ファイル:Flag of Misato, Saitama.svg|border|100px]] |市旗の説明 = 三郷[[市町村旗|市旗]]<br />[[1985年]][[1月1日]]制定 |市章 = [[ファイル:Emblem of Misato, Saitama.svg|75px]] |市章の説明 = 三郷[[市町村章|市章]]<br />[[1960年]][[12月10日]]制定 |自治体名 = 三郷市 |都道府県 = 埼玉県 |コード = 11237-2 |隣接自治体 = [[吉川市]]、[[草加市]]、[[八潮市]]<br />[[東京都]][[葛飾区]]<br />[[千葉県]]:[[流山市]]、[[松戸市]] |木 = [[シイノキ]] |花 = [[サツキ]] |シンボル名 = 市の鳥 |鳥など = [[カイツブリ]] |郵便番号 = 341-8501 |所在地 = 三郷市花和田648番地1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-11|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Misato_city_office,_Saitama,_Japan.jpg|250px|center]]<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|text=市庁舎位置}} |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|11|237|image=Misato in Saitama Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} |特記事項 = [[市外局番]]:048<ref>{{Cite web|和書|title=固定電話 市外局番「048」の市内局番一覧 -「電話番号サーチ」|url=https://tel-search.net/landline/048/number_1.html|website=tel-search.net|accessdate=2021-10-31|language=ja}}</ref>(市内全域・草加MA) }} '''三郷市'''(みさとし)は、[[埼玉県]]の南東部に位置する[[市]]。 人口は約14万人で、[[戸田市]]に次ぐ県内17位。1972年(昭和47年)[[市制]]施行。 == 地理 == 埼玉県の南部最東端に位置する。[[都心#東京の都心部|東京都心]]からは約20kmの距離で、市の東境を[[江戸川]]が、西の境を[[中川]]が、中央部に[[大場川 (埼玉県)|大場川]]が流れる。そのほかにも市内を南北に河川が幾筋か流れている。市制施行前は[[北葛飾郡]]に所属。 === 地勢 === [[関東平野]]に位置し土地は全体的に平坦であり、最高点で海抜約8m(盛土上の[[新三郷ららシティ]]地区)、最低点は海抜約1.4mの低地地形である。2007年1月1日のデータでは、高床3.092m(岩野木110)及び低床1.392m(谷中52)<ref>三郷市HP 沿革等より(出典先:資料:埼玉県地盤沈下報告書(環境保全課))</ref>。[[東京都]]に隣接する市南部では高度経済成長期以降に宅地化が進み、市北部の[[東日本旅客鉄道|JR]][[武蔵野線]]沿線では、同じく高度経済成長期に計画された大規模団地([[みさと団地]]、[[三郷早稲田団地]]、[[さつき平団地]])などの区画された住宅地が多い。市中央部は住宅地のほか[[市街化区域]]もあり、[[首都圏新都市鉄道]][[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]の開通に伴い開発が進んでいる。また、それに伴い東部も急激に発展している。 === 河川等 === * [[江戸川]] * [[中川]] * [[大場川 (埼玉県)|大場川]] * [[第二大場川]] * [[二郷半領用水]](二郷半用水路) * [[三郷放水路]] * [[小合溜井]] == 歴史 == * [[弥生時代]]後期([[2世紀]]から[[3世紀]])に人の定住が始まる<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/secure/10785/01%20%E4%B8%89%E9%83%B7%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81%201%EF%BD%9E2%EF%BC%88H29%EF%BC%89.pdf 三郷市の概要]</ref>。 * [[古墳時代]]([[5世紀]]から[[6世紀]])には河川による[[水運]]の拠点となる。 * [[古代]]、市内は全域が[[下総国]][[葛飾郡]]となった。 * [[1683年]]([[貞享]]3年)もしくは寛永年間(1622年-1643年)に[[武蔵国]]に編入され、武蔵国葛飾郡となる。 * [[1871年]]([[明治]]4年) - [[廃藩置県]]により[[埼玉県]][[葛飾郡]]となる。 * [[1878年]](明治11年) - 郡区町村編制法の施行に伴い、葛飾郡が分離、三郷市内は全域が埼玉県[[北葛飾郡]]となる。 * [[1889年]](明治22年) - [[町村制]]施行に伴う合併により以下の4村が成立。 ** 彦成村・番匠免村・上口村・彦倉村・彦糸村・彦野村・下彦川戸村・上彦川戸村・上彦名村・彦音村・彦沢村・彦江村・花和田村・谷口村・采女新田村 → [[彦成村]] ** 丹後村・谷中村・後谷村・小谷堀村・前間村・駒形村・南蓮沼村・笹塚村・岩野木村・幸房村・茂田井村・大広戸村・仁蔵村・半田村・田中新田村 → [[早稲田村]] ** 戸ケ崎村(戸ケ崎一丁目付近)・境木村・三九村・酒井村・長沼村・寄巻村(鷹野五丁目付近)・前川村・鎌倉村(鷹野五丁目付近)・前谷村 → [[戸ケ崎村]] ** 長戸呂村(鷹野一丁目付近)・下新田村(高洲一丁目付近)・徳島村(鷹野一丁目付近)・樋野口村(鷹野一丁目付近)・久兵衛村(高洲二丁目付近)・高須村(高州三丁目付近)・小向村(高州四丁目付近)・八町掘村・壱本木村・大膳村・横堀村・市助村 → [[八木郷村]] * [[1933年]]([[昭和]]18年) [[7月1日]] - [[戸ケ崎村]]と[[八木郷村]]が合併し、[[東和村]]が成立。 * [[1956年]](昭和31年)[[9月30日]] - [[東和村]]、[[彦成村]]、[[早稲田村]]が合併し'''三郷村'''が成立。 * [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]] - 三郷村が町制施行し'''三郷町'''となる。 * [[1967年]](昭和42年)[[12月1日]] - 三郷町大字前間と吉川町大字三輪野江の境界を変更。 * [[1972年]](昭和47年)[[5月3日]] - 三郷町が市制施行し'''三郷市'''となる。 * [[1973年]](昭和48年)[[4月1日]] - 武蔵野線開業と同時に、市初の鉄道駅である三郷駅開業。 * [[1983年]](昭和63年)[[7月4日]] - 村制以来、[[谷口 (三郷市)|谷口]](現在の[[三郷市図書館]]の地)にあった三郷市役所が現在地に移転し、業務開始される<ref>[https://www.city.misato.lg.jp/10665.htm 市役所庁舎の移り変わり/三郷市公式HP]</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[1月24日]] - 首都高速と常磐自動車道の三郷JCT開通。 * 1985年(昭和60年)[[3月14日]] - 武蔵野線新三郷駅開業。 * [[1992年]](平成04年)[[11月27日]] - 東京外環自動車道 外環三郷西IC開通。 * [[2005年]](平成17年)[[7月23日]] - [[千葉県北西部地震 (2005年)|千葉県北西部地震]]で、三郷市幸房で震度5弱を観測。 * 2005年(平成17年)[[8月24日]] - つくばエクスプレス三郷中央駅開業。 * 2005年(平成17年)[[11月27日]] - 東京外環自動車道 三郷JCT~三郷南IC間開通。 * [[2008年]](平成20年)[[10月1日]] - 武蔵野操車場跡地開発地区の新しい町の区域及び名称施行(新三郷ららシティ1丁目~3丁目)<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/dd.aspx?itemid=4892#itemid4892 町の区域及び名称変更の告示について]三郷市公式HPより{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。 * 2008年(平成20年)[[12月19日]] - 三郷料金所スマートIC社会化実験開始<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/secure/5525/081105記者発表最終.pdf 記者発表資料(PDF)]三郷市公式HP</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[4月1日]] - 三郷料金所スマートIC本格運用開始<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/secure/5525/090327.pdf 記者発表資料(PDF)]三郷市公式HP</ref>。 * 2009年(平成21年)[[9月17日]] - ららほっとみさとOPEN<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/secure/7070/ららほっとPRちらし.pdf ららほっとみさとオープン(PDF)]三郷市公式HPより</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]発生。市内幸房で震度5強を観測。 * 2011年(平成23年)[[3月17日]] - [[福島県]][[広野町]]の被災者約230人を災害時における相互応援に関する協定に基づき、瑞沼市民センターの[[避難所]]に受入れ<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/dd.aspx?menuid=4378 東日本大震災での市の対応について]三郷市公式HPより</ref>。 * 2011年(平成23年)[[5月1日]] - [[全国瞬時警報システム]]を運用開始<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/dd.aspx?menuid=4352 5/1から全国瞬時警報システムを運用開始]三郷市公式HPより</ref>。 * 2011年(平成23年)[[5月7日]] - [[皇太子]]ご夫婦が避難所の瑞沼市民センターをお見舞い<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110507-OYT1T00674.htm 皇太子ご夫妻、埼玉・三郷市の避難所をお見舞い]2011年5月7日21時26分 読売新聞{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[2月4日]] - 高層マンションの[[ザ・ライオンズ三郷中央]]が竣工。 * [[2013年]](平成25年)[[3月18日]] - 「日本一の読書のまち」を宣言する<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/5888.htm 日本一の読書のまち三郷/三郷市公式サイト]</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[5月9日]] - [[日本創成会議]]が、三郷市を『消滅可能性都市』(54.9%)と公表する。 * [[2018年]](平成30年)[[6月2日]] - 東京外環自動車道 三郷南IC - 高谷JCT間開通。 [[高度経済成長]]期に大規模団地が造成され人口が急速に増加、「[[村]]」の成立から僅か16年で[[単独市制|市制施行]]を果たしている。 : 1956年 17,313人(三郷村) : 1964年 21,766人(三郷町) : 1967年 30,849人 : 1972年 49,618人(三郷市) === 市名の由来 === * 東和村・彦成村・早稲田村の三つの村が合併した。・・・「三」の字 * この地域は昔から[[二郷半領]]と呼ばれていた。・・・「郷」の字 以上から、三郷と名づけられた。 == 地域 == [[File:Satuki001.JPG|thumb|[[さつき平団地]]]] === 地名 === 三郷市には町・大字が存在する。住居表示実施地区は新三郷ららシティ一 - 三丁目とさつき平一・二丁目、彦成三丁目の一部、彦成四丁目のみで、その他の町では地番整理を実施している<ref>[https://www.city.misato.lg.jp/3559.htm 住居表示事務]三郷市公式HPより</ref>。<!-- 大字では実施していない --> ; 早稲田地区<!-- 50音順番に --> : 1956年の3村合併までは早稲田村。同村を構成していた15の大字(1889年の町村制施行以前の旧村)は現地名に引き継がれている。 * 田中新田 * 前間(ぜんま) * 小谷堀 * 後谷(うしろや) * 丹後 * 半田(はんた) * 仁蔵 * 駒形 * 南蓮沼 * 笹塚 * 大広戸 * 岩野木 * 茂田井 * 幸房(こうぼう) * 谷中 * 三郷一 - 三丁目 * 早稲田一 - 八丁目 * 新三郷ららシティ一 - 三丁目 ; 彦成地区 : 1956年の3村合併までは彦成村。同村を構成していた15の大字(1889年の町村制施行以前の旧村)は現地名に引き継がれている。 * 采女新田 * 采女一丁目 * 彦糸一 - 三丁目 * 彦音一・二丁目 * 彦成一 - 五丁目 * 彦成 * 上彦名 * 彦川戸一・二丁目 * 上彦川戸 * 下彦川戸 * 天神一・二丁目 * 泉 * 彦野一・二丁目 * 彦野 * 彦倉一・二丁目 * 彦倉 * 上口一 - 三丁目 * 上口 * 番匠免一 - 三丁目 * 番匠免 * 彦沢一 - 三丁目 * 彦沢 * 彦江一 - 三丁目 * 彦江 * 花和田 * 谷口(やぐち) * さつき平一・二丁目 * ピアラシティ一・二丁目 : 上記のうち、「丁目」のない「彦成」は、「彦成1 - 5丁目」成立後、町名地番整理未実施のまま残った狭小地区。「丁目」のない彦野、彦倉、上口、番匠免、彦沢、彦江についても同様。彦糸3丁目と彦音3丁目は形式的には存在するが、みさと団地敷地の一部であるため、実際の住所表示は同団地の住所である「彦成3丁目」が使用されている<ref>『角川日本地名大辞典 埼玉県』地名編の「三郷市」の項を参照。</ref>。ただし、三郷ひかり幼稚園の住所表示は「彦糸3丁目」となっている。 ; 東和地区 : 旧・東和村に属していた地区。1943年、それまでの戸ヶ崎村と八木郷村が合併して東和村となり、1956年に東和村・彦成村・早稲田村が合併して三郷村となった。 * 市助 * 新和一 - 五丁目 * 栄一 - 五丁目 * 鷹野一 - 五丁目 * 高州一 - 四丁目 * 東町(あずまちょう) * 戸ヶ崎一 - 五丁目 * 戸ヶ崎 * 寄巻(よまき) * 鎌倉 : 旧戸ヶ崎村には戸ヶ崎、境木、酒井、三九、長沼、前川、前谷(まえや)、寄巻、鎌倉の9つの大字があった。このうち戸ヶ崎、寄巻、鎌倉が現存し、他は1982年の町名地番整理により廃止された(現:栄一 - 五丁目など)。なお、大字鎌倉は大字寄巻地内の旧飛地が残るのみである。 : 旧八木郷村には市助、八町堀、下新田、小向、樋野口、長戸呂、徳島、壱本木、久兵衛、横堀、高須、大膳の12の大字があった。このうち市助が現存し、他は1982年の町名地番整理により廃止された(現・鷹野一 - 五丁目など)。 {{三郷市の町・字}} === 教育 === 市立中学校は学校選択制(自由選択方式)を採用している。なお、小学校は学区制である。 ; 小学校 : 市立小学校(全19校) :* 早稲田小学校(1884年(明治17年)7月開校、1889年(明治22年)4月早稲田小学校と称する) :* 八木郷小学校(1893年(明治26年)1月8日 八木郷尋常小学校創立) :* [[三郷市立戸ヶ崎小学校|戸ヶ崎小学校]](1873年(明治6年)2月15日 開智小学校と称し戸ヶ崎村常楽寺に創設され、1875年(明治8年)4月6日現に改称) :* [[三郷市立彦成小学校|彦成小学校]](1873年(明治6年)7月設立) :* 高州小学校(1969年(昭和44年)4月1日 三郷町立第五小学校として開校) :* [[三郷市立吹上小学校|吹上小学校]](1972年(昭和47年)4月1日 三郷市立第六小学校と称し設立、1975年(昭和49年)4月1日現に改称) :* 桜小学校(1973年(昭和48年)4月2日 三郷市立第七小学校と称し設立、1975年(昭和49年)4月1日現に改称) :* 鷹野小学校(1974年(昭和49年)4月1日設立) :* [[三郷市立新和小学校|新和小学校]](1974年(昭和49年)4月1日設立) :* 幸房小学校(1974年(昭和49年)4月1日設立) :* [[三郷市立立花小学校|立花小学校]](1974年(昭和49年)12月1日三郷市立桜小学校より分離し開校) :* 彦糸小学校(1975年(昭和50年)4月1日設立、5月2日開校) :* 前谷小学校(1978年(昭和53年)4月1日創立) :* 高州東小学校(1980年(昭和55年)4月1日創立) :* [[三郷市立彦郷小学校|彦郷小学校]](1980年(昭和55年)4月1日創立) :* 丹後小学校(1981(昭和56年)4月1日設立) :* [[三郷市立前間小学校|前間小学校]](1984年(昭和59年4月1日創立) :* 後谷小学校(1992年(平成4年)4月開校) :* [[三郷市立瑞木小学校|瑞木小学校]](旧さつき小学校(1991年(平成3年)4月開校)と旧瑞沼小学校の統合、2005年(平成17年)4月1日開校) : ; 中学校 : 市立中学校(全8校) :* [[三郷市立南中学校|南中学校]](1947年(昭和22年)4月1日東和村立東和中学校として創立1962年(昭和37年)4月1日改称) :* [[三郷市立北中学校|北中学校]](1962年(昭和37年)4月1日創立) :* 栄中学校(1974年(昭和49年)4月1日開校) :* [[三郷市立彦成中学校|彦成中学校]](1975年(昭和50年)4月1日開校) :* 彦糸中学校(1981年(昭和56年)4月1日創設、5月1日開校) :* 前川中学校(1982年(昭和57年)4月1日開校) :* [[三郷市立早稲田中学校|早稲田中学校]](1984年(昭和59年)4月1日開校) :* 瑞穂中学校(1990年(平成2年)4月1日開校) : ; 高等学校 : 公立高等学校 :* [[埼玉県立三郷高等学校]] :* [[埼玉県立三郷北高等学校]] :* [[埼玉県立三郷工業技術高等学校]] : ; 専門学校 :* [[獨協医科大学]]附属看護専門学校三郷校 : ; 特別支援学校 :* [[埼玉県立三郷特別支援学校]](旧埼玉県立三郷養護学校 1979年(昭和54年)4月開校) : ; 廃校となった学校 :* 瑞沼小学校(1984年(昭和59年)4月1日開校、2005年(平成17年)3月31日閉校。現、瑞沼市民センターとして利用) :* さつき小学校(1991年(平成3年)4月1日開校、2005年(平成17年)3月31日閉校。現、瑞木小学校として利用) :* 北郷小学校(1979年(昭和54年)4月1日開校、2012年(平成24年)3月31日閉校。現、獨協大学関連施設として利用) === 文化施設 === * 総合体育館 * 高州地区体育館 * 勤労者体育館 * 三郷市文化会館 * 鷹野文化センター * 高州地区文化センター * 東和東地区文化センター * 彦成地区文化センター * 世代交流館ふれあいパーク * 郷土資料館 * [[三郷市図書館]](市立図書館・早稲田図書館・北部図書館) * 早稲田公園プール * しいのみ学園 * ワークセンターしいの木 * さつき学園 * コミュティーセンター * 南児童センター * 早稲田児童センター * 瑞沼市民センター(旧瑞沼小学校) === 消防 === [[ファイル:Misatocity Fire Department1.jpg|thumb|消防本部・消防署]] * [[三郷市消防本部]]・消防署 ** 北分署 ** 南分署 * [[消防団|三郷市消防団]] === 警察 === [[ファイル:East Nippon Expressway Company Limited Kanto Branch Misato management office.JPG|thumb|東日本高速道路三郷管理事務所内に置かれている高速道路交通警察隊三郷分駐隊]] * [[吉川警察署]](所在地は三郷市上彦名) ** 三郷駅前交番 ** 三郷中央駅前交番 ** 新三郷駅前交番(みさと団地交番が移転) ** 戸ヶ崎交番 ** 高州交番 * [[高速道路交通警察隊]]三郷分駐隊 === 民間交番 === * 三郷早稲田民間交番<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/dd.aspx?itemid=3882#itemid3882 民間交番が開所しました。]三郷市HPより{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref> * みさと団地防犯ステーション<ref>[http://www.tobuyomiuri.co.jp/area/misato/090616bouhan.9.html みさと団地防犯ST開所]東武よみうりWEB版{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20100223-OYT8T01328.htm 民間交番 事件摘発に一役]YOMIURI ONLINEより{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref> === 郵政 === [[日本の郵便番号|郵便番号]]は市内全域が「341-00xx」である。 * [[三郷郵便局]] - 三郷市全域の集配を担当 * 三郷一郵便局 * 三郷さつき郵便局 * 三郷高州郵便局 * 三郷丹後郵便局 * みさと団地内郵便局 * 三郷天王橋通郵便局 * 三郷戸ヶ崎郵便局 * 三郷彦成郵便局 === 病院 === * 三愛会総合病院 * [[みさと協立病院]] * [[みさと健和病院]] * [[三郷中央総合病院]] * 仁心内科クリニック * 埼玉みさと総合リハビリテーション病院 === その他施設 === [[File:Ministry of Land, Infrastructure and Transport Edogawa River Office Misato Drainage Station 1.jpg|thumb|江戸川河川事務所三郷出張所が置かれている三郷排水機場]] [[File:Saitama Prefecture Nakagawa Water Cycle Center 2.JPG|thumb|中川下水道事務所、中川水循環センター]] ; 国の施設 * [[国土交通省]][[江戸川河川事務所]]三郷出張所 ; 県の施設 * [[埼玉県企業局]][[新三郷浄水場]] * [[埼玉県下水道局]]中川下水道事務所 ** [[埼玉県下水道公社]]中川支社[[中川水循環センター]] * 埼玉県大場川下流排水機場 ; 東京都の施設 * [[東京都水道局]][[三郷浄水場]] === 住宅団地 === * [[埼玉県住宅供給公社]] 三郷鷹野住宅 (鷹野) * 埼玉県住宅供給公社 三郷彦成住宅 (彦成) * [[さつき平団地]](パークフィールドみさと) * [[都市再生機構|UR]][[みさと団地]] * UR[[早稲田団地 (埼玉県)|早稲田団地]] == 人口 == {{人口統計|code=11237|name=三郷市|image=Population distribution of Misato, Saitama, Japan.svg}} == 行政 == === 市長 === [[木津雅晟]]([[2006年]][[11月14日]]就任、5期目、元市長木津三郎の子) * 前市長:[[美田長彦]] * 前々市長:[[木津三郎]] * 前々々市長:[[白石敏夫]] === 市の出先機関 === * みさと団地出張所 * 鷹野連絡所 * 戸ヶ崎連絡所 * 彦成連絡所 * 早稲田連絡所 * ららほっとみさと(ららぽーと新三郷1F) === 不祥事 === ; 生活保護申請拒否・打切訴訟 2013年、[[さいたま地方裁判所]]は生活保護申請を拒否、受理されてからも打ち切るなどした生活ふくし課を相手取った女性市民からの[[国家賠償法|国家賠償訴訟]]について、申請権を侵害したと認定し、生活保護費約540万円の支払を市に命じ、判決が確定した。 === 広域行政 === ;[[一部事務組合]] * [[江戸川水防事務組合]]:吉川市、春日部市、松伏町とともに構成自治体の市町域内江戸川右岸における[[水防]]事務を行っている。事務所は三郷市役所内に設置。 * [[東埼玉資源環境組合]]:越谷市、草加市、吉川市、八潮市、松伏町とともに可燃[[ごみ]]と[[屎尿|し尿]]処理を行っている。 ;協議会 * [[埼玉県東南部都市連絡調整会議]]:越谷市、草加市、八潮市、吉川市、松伏町とともに[[公共施設]]の相互利用、[[図書館]]の広域利用、[[重症心身障害児]]施設中川の郷療育センターの共同設置、埼玉県東南部地域公共施設予約案内システム(まんまるよやく)の運営を行っている。また、[[政令指定都市]]移行を目標とした合併に関する会議を開催や構成する自治体の住民が参加できる事業を開催している。 == 議会 == === 市議会 === '''定数と任期''' 定数:24 任期:[[2021年]]([[令和]]3年)8月11日‐[[2025年]](令和5年)8月10日 '''議長と副議長''' {| class="wikitable" !役職 !氏名 !所属会派 |- |議長 |武居弘治 |政志会 |- |副議長 |佐藤睦郎 |公明党 |} '''会派の構成''' {| class="wikitable" !会派名 !議席数 !所属議員 |- |21世紀クラブ |5 |渡邉雅人 柳瀬勝彦 加藤英泉 菊名裕 岡庭明 |- |[[公明党]] |5 |酒巻宗一 鈴木深太郎 佐藤睦郎 鳴海和美 西村寿美枝 |- |政志会 |8 |寺沢美紗 齊藤幹郎 篠田隆彦 宇治由紀子 田上広子 佐々木修 佐藤裕之 篠田正巳 |- |[[日本共産党]] |3 |深川智加 佐藤智仁 工藤智加子 |- |ネットワークみらい |1 |市川文雄 |- |無所属 |1 |一色雄生 |- |} === 県議会 === '''選挙区と定数''' [[選挙区]]:埼玉県第14区(三郷市)、定数:2 '''任期''' [[2019年]](平成31年)4月30日~[[2023年]]4月29日 '''選出議員''' {| class="wikitable" !氏名 !所属会派 |- |逢澤圭一郎 |[[埼玉県議会]][[自由民主党 (日本)|自由民主党]]議員団 |- |美田宗亮 |埼玉県議会自由民主党議員団 |} == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === * [[安曇野市]]([[長野県]]) *: [[1984年]](昭和59年)[[9月22日]]旧[[三郷村 (長野県)|三郷村]]と友好都市提携 * [[三郷町]]([[奈良県]]) *: [[1986年]](昭和61年)[[10月18日]]友好都市提携 * [[広野町]]([[福島県]]) *: [[2008年]](平成20年)[[7月29日]]災害時応援協定 == 経済 == <!--=== 産業 === * 主な産業 * 産業人口--> === 主な商業施設 === [[ファイル:Lalaport shin misato front.jpg|right|250px|thumb|[[ららぽーと新三郷]]]] *MEGAドン・キホーテ三郷店 * [[ららぽーと新三郷]] * [[ピアラシティ]] ** [[イトーヨーカドー]]三郷店 ** [[ビバホーム]] * [[イケア]]新三郷 * [[コストコ]]新三郷倉庫店 === 市内に事業所を置く主な企業 === * マパール * [[ダスキン]] * [[前田道路]] * [[キヤノンファインテックニスカ]](本社) * [[JFE条鋼]] * [[第一屋製パン]] * 白興 == 交通 == === 鉄道路線 === [[File:Misato-Chuo-sta.JPG|right|250px|thumb|[[三郷中央駅]]]] 市北部に[[武蔵野線]]が通っており、2005年(平成17年)8月24日に市の中央を貫くように[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]が開通した。 ;[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) * [[ファイル:JR JM line symbol.svg|20x20ピクセル]]武蔵野線 **[[新三郷駅]] - [[三郷駅 (埼玉県)|三郷駅]] :※[[吉川美南駅]]([[吉川市]])が近接している。 ;  ;[[首都圏新都市鉄道]] * [[ファイル:Tsukuba Express symbol.svg|20x20ピクセル]]つくばエクスプレス **[[三郷中央駅]] 市の中心駅:三郷中央駅(JTB時刻表では、つくばエクスプレス開業前、三郷駅を代表駅としていた) === 路線バス === 市の中北部に鉄道駅がある一方、市の南部は鉄道空白地帯になっており、最寄りの鉄道駅までは路線バスでのアクセスが基本となる。市南部は、つくばエクスプレス[[八潮駅]]からJR[[常磐線]]・[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]松戸駅までを結ぶバスと、三郷駅から三郷中央駅を経由し、[[金町駅]]までを結ぶバスの通り道となっており、この2本が市内でも運行本数が比較的多い主要な路線である。そのほか、[[吉川駅]]、[[吉川美南駅]]、[[獨協大学前駅]]発着の路線、三郷市役所、[[ピアラシティ]]発着やみさと団地、早稲田地区内の路線もある。 三郷市では[[コミュニティバス]]を運行しておらず<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/soukou/chiebukuro/PDF/jirei_misato.pdf|title=バス交通の再編によるバランスの取れた地域交通の実現に向けた取組 [埼玉県三郷市]|accessdate=2021-01-19|publisher=[[国土交通省]]|website=地域のモビリティ確保の知恵袋~モビリティは地域の元気の源~|date=2009年3月}}</ref>、行政が主導して立案した『三郷市地域公共交通網形成計画』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.misato.lg.jp/secure/28889/%E4%B8%89%E9%83%B7%E5%B8%82%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%85%AC%E5%85%B1%E4%BA%A4%E9%80%9A%E7%B6%B2%E5%BD%A2%E6%88%90%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%80%90%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%89%88%E3%80%91.pdf|title=三郷市地域公共交通網形成計画(最終版)平成30年3月|accessdate=2021-01-19|publisher=三郷市}}</ref>により市内の路線バス網を整備し、市内の民間バス事業者6社により路線バスが運行されている<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=バス路線図|url=http://www.city.misato.lg.jp/6715.htm|website=三郷市公式サイト|accessdate=2021-01-20|publisher=}}</ref>。[[2005年]]の[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]開業などをふまえて「'''三郷方式'''」といえる独自の方式によりバス路線の再編が行われた<ref name=":2" /><ref name=":4">{{Cite web|和書|title=「高齢者・障害者向け地域福祉交通サービスの整備方策に関する調査」報告書(2)バス路線の再編及び新設の取り組み(埼玉県三郷市)|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00047/contents/0020.htm|website=日本財団図書館(電子図書館)|accessdate=2021-01-20|publisher=[[日本財団]]}}</ref>。バス事業の[[規制緩和]]による貸切バス事業者の参入や新規事業者の設立により、既存事業者に加えて規制緩和後に参入した新規事業者も含め、各社で分担して計画的に市内の路線網が形成された結果<ref name=":4" />、市内ほぼ全域に路線バスが運行されるに至った<ref name=":3" /><ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://www.city.misato.lg.jp/secure/19034/%E4%B8%89%E9%83%B7%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89A1%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E9%9D%A2.pdf|title=みさとバスガイドマップ(令和元年版)|accessdate=2021-01-19|publisher=三郷市}}</ref>。 かつては同時期に乗合バス事業に参入した[[グローバル交通]]もこの中に含まれていたが、グローバル交通が三郷線から撤退したことにより枠組みから外れ、代わって乗合バス事業に参入した[[埼玉観光|埼玉観光株式会社]](2016年6月1日設立、本社:[[越谷市]]<ref>[http://www.saitama-kanko.co.jp/company/ 会社案内] 埼玉観光株式会社</ref>)が含まれることとなった<ref name=":5" />。 ; 既存事業者 * [[東武バス|東武バスセントラル]] ** [[東武バスセントラル三郷営業所]] ** [[東武バスセントラル吉川営業所]](市北部、早稲田地区) * [[京成バス]] * [[京成タウンバス]] ; 新規事業者 * [[マイスカイ交通]] * [[メートー観光]] * [[埼玉観光|埼玉観光株式会社]] * [[グローバル交通]] - 本社は吉川市。三郷市からは路線撤退した。 === 高速バス === * [[ジェイアールバス関東|JRバス関東]] *: 東京駅八重洲南口を平日の22時30分発「[[常磐高速バス#吉川・松伏号|吉川・松伏号]]」の片道1本と、平日[[深夜バス]]24時発の「[[ミッドナイト吉川・松伏号]]」が1本三郷団地を経由する。※運休中 * [[東武バス|東武バスセントラル]] *: [[有楽町]][[マリオン]]を平日25時発(上野駅経由)の[[深夜バス]]「ミッドナイトアロー柏・我孫子」号が三郷団地を経由する。  (平日=休日を除く月曜日~金曜日) === タクシー === [[タクシーの営業区域]]は'''県南東部交通圏'''で、[[春日部市]]・[[草加市]]・[[越谷市]]・[[久喜市]]・[[八潮市]]などと同じエリアとなっている。 === 道路 === [[首都高速道路]][[首都高速6号三郷線|三郷線]]と[[東京外環自動車道]]、[[常磐自動車道]]の3つを結ぶ[[三郷インターチェンジ|三郷IC]]・[[三郷ジャンクション|三郷JCT]]があり、非常に交通量が多い。<br /> 2023年11月26日には三郷市と千葉県流山市を結ぶ[[三郷流山橋有料道路]]が開通した。 ;[[高速自動車国道|高速道路]] * [[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign 6-Misato.svg|20x20ピクセル]]首都高速6号三郷線 ** [[三郷インターチェンジ|三郷出入口]] * {{Ja Exp Route Sign|E6}}常磐自動車道 ** [[三郷IC]] ** [[三郷料金所#三郷料金所スマートIC|三郷料金所スマートIC]] * {{Ja Exp Route Sign|C3}}東京外環自動車道 ** [[外環三郷西インターチェンジ|外環三郷西IC]] ** [[三郷中央インターチェンジ|三郷中央IC]] ** [[三郷南インターチェンジ|三郷南IC]] ; [[一般国道]] * {{Ja Route Sign|298|width=24}}[[国道298号]] ;[[県道]] * [[主要地方道]] ** [[埼玉県道21号三郷松伏線]] ** [[埼玉県道・千葉県道29号草加流山線]] ** [[埼玉県道・千葉県道52号越谷流山線]] ** [[千葉県道・東京都道・埼玉県道54号松戸草加線]] ** [[東京都道・埼玉県道67号葛飾吉川松伏線]] * 一般県道 ** [[埼玉県道156号三郷幸手自転車道線]] ** [[埼玉県道116号八潮三郷線]] ** [[埼玉県道376号上笹塚谷口線]] ** [[千葉県道・埼玉県道295号松戸三郷線]](旧・松戸三郷有料道路) == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == * [[丹後神社]](三郷市早稲田8-17-8)「万葉遺跡 葛飾早稲 発祥地」の石碑がある。 * 戸ヶ崎[[香取神社]] - [[三匹獅子舞|三匹の獅子舞]]([[7月]]の第1金、土、日曜日) * [[みさと公園|埼玉県立みさと公園]] * 番匠免運動公園 * 三郷スカイパーク == マスコット == [[2009年]](平成21年)[[2月1日]]に、市の鳥である[[カイツブリ]]をモチーフにした[[官公庁のマスコットキャラクター一覧|マスコットキャラクター]]「かいちゃん」と「つぶちゃん」がデビュー<ref>[http://www.city.misato.lg.jp/kankoukyoukai/chara.html 三郷市観光協会公式サイトより「かいちゃん&つぶちゃん 誕生!」]{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。[[埼玉県]]の自治体の[[ゆるキャラ]]で構成される[[ゆる玉応援団]]にも参加している。(子どもの「つぶちゃん」は着ぐるみ未作成という理由でメンバー入りならず。) == 神社 == [[ファイル:Tango tourou099.jpg|thumb|[[丹後神社]](埼玉県三郷市)三つの穴がある灯籠]] 三郷市の神社の[[灯籠]]には、火袋に三つの穴が開いているものが多い。 三郷市神社鳥居等調査報告書(三郷市文化財調査報告第15集)三郷市教育委員会発行で 確認できるものは * 稲荷神社 ** 三郷市半田430番地 ** 三郷市前間171番地 ** 三郷市栄三丁目86番地 ** 三郷市谷口35番地 ** 三郷市高州一丁目289番地 * [[香取神社]] ** 三郷市三郷三丁目14番地4 ** 三郷市上口一丁目74番地 ** 三郷市彦川戸一丁目250番地 ** 三郷市高州三丁目108番地 * 子之神社 ** 三郷市彦倉一丁目60番地 * 三輪神社 ** 三郷市高州四丁目137番地 * 水神社 ** 三郷市鷹野五丁目513番地1 * 天神社 ** 三郷市戸ケ崎四丁目216番地 * 天豊受神社 ** 三郷市鷹野一丁目34番地1 墨田区の[[三囲神社]]にも、同様の三つ穴灯籠がある。 == 著名な出身者 == * [[浅野真澄]] - 声優(10歳から過ごす) * [[宇佐美友紀]] - 女性タレント、[[AKB48]]元メンバー * [[内田夕夜]] - 俳優、声優 * [[うちやえゆか]] - 女性歌手 * [[遠藤久美子]] - 女性タレント ※[[葛飾区]]生まれ * [[加藤綾子]] - 元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー、フリーアナウンサー * [[三遊亭遊之介]]-落語家。[[三遊亭小遊三]]門下。 * [[菊地美香]] - 女優(代表作は[[特捜戦隊デカレンジャー]]・デカピンク役)、声優、歌手 * [[吉田達磨]] - Jリーグ[[ヴァンフォーレ甲府]]監督 * [[小原沢重頼]] - 元プロ野球選手、[[城西大学]]野球部監督 * [[酒井忠晴]] - 元プロ野球選手([[中日ドラゴンズ]]・[[千葉ロッテマリーンズ]]・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]に在籍) * [[酒井友之]] - サッカー選手(元日本代表) * [[佐々木勇気]] - [[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * [[ビスケッティ|佐竹正史]]([[ビスケッティ]]) - お笑い芸人([[吉本興業]])、[[吉本坂46]]二期メンバー * [[篠田昇]] - 映画撮影監督 * [[駿傑悠志]] - 元大相撲力士([[放駒部屋]]) * [[鈴木直道]] - [[北海道知事]]、元[[夕張市]]長(全国最年少) * [[高橋萌木子]] - 陸上競技選手<ref>"ライバルストーリー 年女二人 高みへ疾走" 2012年3月7日付[[朝日新聞]]朝刊(大阪本社13版)16面</ref>前間小-早稲田中-埼玉栄高校-平成国際大学 * [[出羽の郷秀之]] - 元大相撲力士([[出羽海部屋]]) * [[TOMMY]] - ジムカーナドライバー * [[なりたのぶや]] - 同人ゲーム作家([[フランスパン (同人サークル)|フランスパン]]([[渡辺製作所]])) * [[福田俊介]] - サッカー選手([[ギラヴァンツ北九州]])つつみFC(前間小)-早稲田中-西武台高校-法政大-大宮アルディージャ-カターレ富山 * [[松田悦典]] - 元サッカー選手 * [[嶺井美穂]] - 柔道選手 * [[山崎正登]] - サッカー選手([[横浜スポーツ&カルチャークラブ]])彦成FC-柏レイソルジュニア-柏レイソルユース-柏レイソル * [[RYOTA]] - 男性マジシャン(TV出演多数) * [[小柳達司]] - サッカー選手([[ヴァンフォーレ甲府]])つつみFC(前間小)-早稲田中-専修大松戸高校-日本体育大学-ザスパクサツ群馬-ツエーゲン金沢-ザスパクサツ群馬 * [[阪野豊史]] - サッカー選手([[松本山雅FC]])三郷FCジュニア-三郷ジュニアユース-浦和レッズユース-明治大学-浦和レッズ-栃木SC-愛媛FC-モンテディオ山形 * [[福田健太]] - ラグビー選手(2018年度[[明治大学ラグビー部]]主将) * [[Mika+Rika]]- フリー素材アイドル、女優 * SORA - ミュージシャン([[DEZERT]]) * [[吉野樹]] - [[ハンドボール]]選手(日本代表) * [[じぐざぐ (お笑いコンビ)|ジャンプ]] - お笑いコンビ([[じぐざぐ (お笑いコンビ)|じぐざぐ]]) == 三郷市に関係する人物 == * [[小林孝至]] - 元[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手、[[ソウルオリンピック]]、[[金メダル]]、(早稲田の柔道接骨院「元気堂整骨院」オーナー) * [[中澤佑二]] - [[サッカー選手]]、([[埼玉県立三郷工業技術高等学校]]出身) * [[丸山和也]] - [[弁護士]]、[[参議院議員]]、[[タレント]](現在、三郷市在住) * [[村田雄浩]] - [[タレント]]、[[俳優]]、([[埼玉県立三郷高等学校]]出身、第1期卒業生、初代生徒会長) * [[佐々木勇気]] - [[将棋棋士]]、三郷市立鷹野小学校出身 == その他 == [[日本の市外局番|市外局番]]は市内全域が「048」。市内局番が「9XX」の地域との通話は市内通話料金で利用可能(草加[[単位料金区域|MA]])。収容局は埼玉三郷局、三郷小谷堀局、三郷鷹野局。 == 関連項目 == * [[全国市町村一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Wikivoyage|ja:三郷市}} ; 行政 :* {{Official website}} : ; 観光 :* [https://misato-city.com/ 三郷市観光協会] {{Geographic Location |Centre = 三郷市 |North = [[吉川市]] |Northeast = [[流山市]] |East = [[松戸市]] |Southeast = |South = [[東京都]] [[葛飾区]] |Southwest = |West = [[八潮市]] |Northwest = [[草加市]] |image = }} <!-- {{三郷市の地名}} --> {{埼玉県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みさとし}} [[Category:埼玉県の市町村]] [[Category:北葛飾郡]]<!--三郷村・三郷町のカテゴリ--> [[Category:三郷市|*]]
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17,839
1295年
1295年(1295 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1295年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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昭和通り
昭和通り(しょうわどおり)は、日本国内で見られる道路の通称。
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軽油
軽油(けいゆ、英: diesel fuel)は、原油から製造される石油製品の一種。主としてディーゼルエンジンの燃料として使用される。ディーゼル燃料ともいう。 軽油は、原油を蒸留(石油精製)することによって得られる炭化水素混合物である。沸点範囲は180 - 350 °C 程度。主成分は炭素数10 - 20程度のアルカンである。精製直後は無色だが、出荷前にエメラルドグリーンなどに着色される(精製会社により異なる)。 消防法において第4類危険物(引火性液体)の第2石油類に灯油とともに属する。消防法での指定数量はガソリンの200リットルに対して5倍の1000リットルだが、これは貯蔵方法についての基準を示すもので、ガソリンの5倍安全という意味ではない。軽油の引火点は45 °Cであり、ガソリンの引火点(−40 °C)よりも高いことから比較的安全とされているが、炎天下などでは液温が引火点を超える可能性があるほか、何らかの事情で霧状になると常温でも引火するため取り扱いには注意が必要である。 軽油の名は重油に対応して付けられたものだが、「軽自動車用の燃料」と誤解されることがある。軽自動車にディーゼルエンジンが搭載されることはまずないため、日本のガソリンスタンドでは、軽自動車への誤給油を防ぐため、「軽油」の代わりに「ディーゼル」と表記されている場合がある。 中国語では「柴油」といい、「軽油」は別物の「軽質ナフサ」あるいは「軽質コールタール」を指す。 主にディーゼルエンジンの燃料として用いられる。 自動車(特に大型車)・鉄道車両・船舶用のディーゼル燃料が日本の軽油の消費量の95%を占めるが、建設機械・農業機械の燃料、窯業・鉄鋼用の燃料、電力用内燃力発電における発電機燃料としても使用されている。高出力で熱効率(燃費)が良いため、負荷の大きいバスやトラックに向いており、またガソリンよりも税金(軽油引取税等)が安い利点もある。 西ヨーロッパでは日本に比べると、ガソリンに対する価格的な優位性が無く、軽油の方が高値で販売されている国もある。車両価格においてもガソリン車のそれを上回るにもかかわらず、自家用車でのディーゼルエンジン搭載車両の割合が非常に高い(→ディーゼル自動車)。北米では、軽油の方がガソリンよりも高いので、自家用車用途ではほとんど普及していない。全て商用貨物車(トラック)である。 フォルクスワーゲンが、一時期環境に良いことを宣伝してディーゼルエンジン車を売り出したが、ディフィートデバイス排気ガス不正事件により頓挫してしまった。日本は、生成される軽油の量に対して使用量が下回っているので、軽油は輸出されている。そのため、近年のディーゼル車の普及は、売らざるを得ない軽油を自ら消費できるという点において、日本の経済にとっても有益となっている。 ディーゼルエンジンを用いる軍用車輌にも使われているが、アメリカ陸軍では、1988年から「単一燃料コンセプト(SFC)」として、ジェット燃料のJP-8へと使用燃料を統一するテストを開始しており、戦車・装甲車・貨物自動車・ヘリコプターから偵察用バイクまで、事実上の灯油であるJP-8を使用するようになっている。 ディーゼル用軽油としての要求性状は などである。 これらをふまえた上で、軽油の規格は次のとおりとされる。 (*1)動粘度 (30 °C) が4.7 mm/s以下の場合には、350 °Cとする。 (*2)セタン指数は、セタン価を用いることもできる。 環境規制に対応するため、自動車の触媒やディーゼルパティキュレートフィルター(DPF)に悪影響を及ぼす硫黄分を減らす、低硫黄(サルファーフリー)化が1992年(平成4年)に5,000 ppmから2,000 ppmへ、1997年(平成9年)からは500 ppmへと段階的に進められ、日本国政府の規制においては2005年(平成17年)から50 ppmへ、東京大気汚染訴訟後の2007年(平成19年)から10 ppmへと、さらなる低硫黄化が進められた。 日本では2004年(平成16年)末、自動車排出ガス規制に関連する「自動車燃料品質規制値」の変更に伴い、軽油に含まれる硫黄の許容限界は、従来の0.01 %質量以下から0.005 %質量(50 ppm)以下へと改められ、2007年(平成19年)からは10 ppm 以下へと改められた。 なお、石油連盟に加盟する元売りにおける、50 ppmおよび10 ppmの供給は、日本国政府の規制より早く、50 ppmは1年9か月早い2003年(平成15年)4月より、10 ppmは2年前倒しで2005年(平成17年)1月から自主的に供給する形となった。 これらは世界的にも早く、欧州連合やアメリカ合衆国では広範囲な地域に供給が及ぶため単純な比較は出来ないものの、EUやアメリカよりも早く、統一したサルファーフリー軽油の供給が成されたことになる。なおEUの規制では50 ppmが2005年から、10 ppmが2009年から、アメリカでは2006年6月1日より15 ppm(ノンロード用除く)となっている。 燃料内の硫黄分は、噴射ポンプと噴射ノズルの潤滑のためには必要な要素であったため、脱硫した軽油には潤滑剤(材)が添加されている。 軽油やガソリンは、特約店を通じてガソリンスタンド等で販売されるのが一般的であるが、同じ自動車燃料として使用されるガソリンと異なる点として、軽油は需要の多くがバスやトラック業者などの大口需要家で占められることから、大口需要家に対しては、元売や特約店による需要家の所有する地下タンクへの直接納入(インタンク)が行われる。また軽油に特化した広域販売店(フリート)での販売も行われている。 一般的な軽油(1号軽油あるいは特1号軽油)は、冬場(おおむね11月 - 3月。場合によっては4月まで)に低温で放置すると、凍結してしまう。このため、ガソリンスタンドにおいて冬場の軽油(おおむね11月 - 3月。場合によっては4月まで)は、1号軽油から2号軽油、ないしは3号軽油もしくは特3号軽油に差し替えて販売されている。 三菱・デリカスターワゴンの取扱説明書によれば、寒冷地(特に北海道)にフェリーで渡航する際には、普段の軽油を渡航前(乗船前)までに半分程度以下になるように調整し、渡航後(乗船後)に給油所で寒冷地に対応した軽油(3号軽油もしくは特3号軽油)をガソリンスタンドで満タンにすることが推奨されている。 寒冷地の冬期用の軽油として、3号ないしは特3号の規格の軽油がある。石油連盟によれば、3号軽油は中部の山岳部、東北地方(関東北部と北陸の各一部地域を含む)と北海道の一部地域において12月 - 3月の期間に適用され、特3号軽油は道南地域を除いた北海道の全域において1 - 3月の期間に適用される。 SUVなどのRVブームが続いていた1990年代、合併して日石三菱となる前の日本石油と三菱石油、コスモ石油、三井石油が「プレミアムガソリン」に対抗して、一般的な軽油(ノーマル軽油)より付加価値の高い軽油としてプレミアム軽油を発売した。このプレミアム軽油は一般的な軽油(ノーマル軽油)に対し、燃料噴射系の汚れを落とす「清浄剤」、自己着火(発火)性を向上し、低温始動時の白煙や高負荷時の黒煙を減少させるセタン価向上剤(セタン価+3程度)、防錆剤が添加されている。ただし、バスなどの中・大型自動車については、これらに対応できるガソリンスタンドで販売できるところが存在しないか、もしくは少なかったことや、コスト上の問題で全てのディーゼル車への普及には至らなかったが、黒煙を多少なりとも減らすことにとっては役立つものであった。日本石油はプレミアム軽油用の地下タンクとポンプを別に設け、消費者が両者を選択できるようにしていたのに対し、三菱石油はそれぞれを扱う店舗を分け、専売とする方針であった。日石三菱のガソリンスタンドのブランド(トレード)がENEOSに変更され、社名が新日本石油(現在のENEOS)に変更された後もプレミアム軽油の販売が継続されていたが、前記の理由で全てのENEOSのサービスステーションで取り扱われていたわけではない(特に高速道路のサービスエリアやパーキングエリアに設置されているガソリンスタンドにおいては、プレミアム軽油を取り扱っていなかった)。 なお、三井石油は2002年、ENEOSは2011年3月31日、コスモ石油は2012年3月31日をもってプレミアム軽油の販売を終了した。ENEOSではプレミアム軽油販売終了後、ノーマル軽油に軽油添加剤「ENEOSエコフォースD」を、コスモ石油では「エコディー・ファイン」を入れることでプレミアム軽油とほぼ同等の性能が得られると知らせている。 しかし、最近になってENEOSが再びプレミアム軽油の販売を始めたが全てのSSで取り扱いがあるわけではなく、一部のSSのみである。 ディーゼル車用燃料として使われる軽油の取引には、軽油引取税という都道府県税(地方税)がかかる。ちなみに、ガソリンには、国税(中央税)のガソリン税(地方道路税および消費税(二重課税)を含む)がかかる。 以前は軽油引取税を脱税するために、重油や灯油を混合してディーゼル車で使えるようにした不正軽油が製造・販売・消費されており、その排出ガスに多く含まれる煤煙や硫黄酸化物の増加によって、大気汚染も含めて社会問題化した。 軽油引取税の一般財源化(総合財源化)が審議されているが、一般財源化されるのであれば道路建設目的の財源ではなくなるため、仮に軽油のみに課税することになれば、課税の公平性を保つ上での大きな争点になりうる。ただし現実にはその逆で、ガソリン税に対して、軽油税ははるかに税率が低い。軽油とガソリンが同じ税率である欧州とは異なり、日本では運輸業界への配慮から軽油が大幅に優遇されている。これは逆の意味で、課税の公平性を保つ上での大きな争点になりうる。なお、運輸業界は自民党議員へ長年にわたり政治資金を提供している。そしてその資金は事実上優遇された軽油税によって捻出されているといえる。 灯油をディーゼル車に給油する場合や、軽油と混ぜて(混和)販売・消費するには、事前に各都道府県税事務所の許可が必要である。実際にディーゼル車に灯油を給油する際には燃料タンク内を空にし、空であることを都道府県税事務所所員立会いの下、目視で確認してもらってから給油が可能となる。神奈川県税事務所で確認した限りでは、混和してよい灯油は「製油所内で製造される灯油識別剤の入ってない灯油に限る。」とされているため、製油所から出荷される前に識別剤が投入されている現状ではそれを入手することは事実上不可能で、軽油引取税もタンクに入れた量をそのまま直ちに申告すればよいものではなく、購入した量、消費した量、残存量を所定の書類に記入した上で、月二回事務所に直接報告しなければならず、個人で灯油をディーゼル車に給油するメリットは全く無い。また、軽油に硫黄分が 500 ppm 含まれていた頃、灯油は 80 ppm 程度であったため、灯油を燃料にすれば硫黄酸化物(や黒煙)を減らせると信じられていたが、現行の軽油が 10 ppm まで硫黄分が減っている事と、灯油にはディーゼルエンジンに使用した場合に噴射ポンプや噴射ノズルを潤滑する成分が含まれていないため、却ってそれらを壊すこととなる。ただし、列型噴射ポンプを採用しているディーゼルエンジンの場合、燃料圧縮用カムはエンジンオイルで潤滑されるため、耐性には幾分かの余裕がある。 また、寒冷地において冬季に非常に外気温が低下し目詰まり点を大きく下回ると、軽油中のパラフィン分が析出し燃料フィルター閉塞などのトラブルが発生する場合があり、季節・地域に合わせた号数(3号、特3号)を使用する必要があるので、ディーゼル車で冬季に非寒冷地から寒冷地に移動する場合や高地を通過する場合その点に留意する必要がある。JIS K 2204(解説)には、低温特性の観点からみた軽油のガイドラインが示されている。大抵はその地域のガソリンスタンドではその地域の気温に合わせた号数の軽油で販売されているので、温暖地から寒冷地に行く場合は少なめの燃料で出発して現地で改めて給油すべきであろう(エンジンが長時間止まり燃料が冷えた時のみ問題となるため)。 軽油はディーゼルエンジン車用の燃料であり、ガソリン車に軽油を入れてエンジンを稼働した場合は、走行中にエンジンが停止するなど事故の原因になる。ディーゼル車にガソリンを入れてエンジンを稼働した場合は、噴射ポンプや噴射ノズルに損傷を与える。 軽油は揮発性が低く、ポリタンクでの保管が認められているが、その際のタンクの色は消防法により軽油と同じ緑色であり、かつ内容物が軽油と記載することを義務付けられている。したがって灯油用の青色、その他の色のタンクに保管した場合や、緑色のタンクであっても内容物の記載がない場合消防法違反に該当する可能性がある。
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3月。場合によっては4月まで)に低温で放置すると、凍結してしまう。このため、ガソリンスタンドにおいて冬場の軽油(おおむね11月 - 3月。場合によっては4月まで)は、1号軽油から2号軽油、ないしは3号軽油もしくは特3号軽油に差し替えて販売されている。", "title": "販売" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "三菱・デリカスターワゴンの取扱説明書によれば、寒冷地(特に北海道)にフェリーで渡航する際には、普段の軽油を渡航前(乗船前)までに半分程度以下になるように調整し、渡航後(乗船後)に給油所で寒冷地に対応した軽油(3号軽油もしくは特3号軽油)をガソリンスタンドで満タンにすることが推奨されている。", "title": "販売" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "寒冷地の冬期用の軽油として、3号ないしは特3号の規格の軽油がある。石油連盟によれば、3号軽油は中部の山岳部、東北地方(関東北部と北陸の各一部地域を含む)と北海道の一部地域において12月 - 3月の期間に適用され、特3号軽油は道南地域を除いた北海道の全域において1 - 3月の期間に適用される。", "title": "販売" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "SUVなどのRVブームが続いていた1990年代、合併して日石三菱となる前の日本石油と三菱石油、コスモ石油、三井石油が「プレミアムガソリン」に対抗して、一般的な軽油(ノーマル軽油)より付加価値の高い軽油としてプレミアム軽油を発売した。このプレミアム軽油は一般的な軽油(ノーマル軽油)に対し、燃料噴射系の汚れを落とす「清浄剤」、自己着火(発火)性を向上し、低温始動時の白煙や高負荷時の黒煙を減少させるセタン価向上剤(セタン価+3程度)、防錆剤が添加されている。ただし、バスなどの中・大型自動車については、これらに対応できるガソリンスタンドで販売できるところが存在しないか、もしくは少なかったことや、コスト上の問題で全てのディーゼル車への普及には至らなかったが、黒煙を多少なりとも減らすことにとっては役立つものであった。日本石油はプレミアム軽油用の地下タンクとポンプを別に設け、消費者が両者を選択できるようにしていたのに対し、三菱石油はそれぞれを扱う店舗を分け、専売とする方針であった。日石三菱のガソリンスタンドのブランド(トレード)がENEOSに変更され、社名が新日本石油(現在のENEOS)に変更された後もプレミアム軽油の販売が継続されていたが、前記の理由で全てのENEOSのサービスステーションで取り扱われていたわけではない(特に高速道路のサービスエリアやパーキングエリアに設置されているガソリンスタンドにおいては、プレミアム軽油を取り扱っていなかった)。", "title": "プレミアム軽油" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、三井石油は2002年、ENEOSは2011年3月31日、コスモ石油は2012年3月31日をもってプレミアム軽油の販売を終了した。ENEOSではプレミアム軽油販売終了後、ノーマル軽油に軽油添加剤「ENEOSエコフォースD」を、コスモ石油では「エコディー・ファイン」を入れることでプレミアム軽油とほぼ同等の性能が得られると知らせている。 しかし、最近になってENEOSが再びプレミアム軽油の販売を始めたが全てのSSで取り扱いがあるわけではなく、一部のSSのみである。", "title": "プレミアム軽油" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ディーゼル車用燃料として使われる軽油の取引には、軽油引取税という都道府県税(地方税)がかかる。ちなみに、ガソリンには、国税(中央税)のガソリン税(地方道路税および消費税(二重課税)を含む)がかかる。", "title": "軽油引取税" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以前は軽油引取税を脱税するために、重油や灯油を混合してディーゼル車で使えるようにした不正軽油が製造・販売・消費されており、その排出ガスに多く含まれる煤煙や硫黄酸化物の増加によって、大気汚染も含めて社会問題化した。", "title": "軽油引取税" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "軽油引取税の一般財源化(総合財源化)が審議されているが、一般財源化されるのであれば道路建設目的の財源ではなくなるため、仮に軽油のみに課税することになれば、課税の公平性を保つ上での大きな争点になりうる。ただし現実にはその逆で、ガソリン税に対して、軽油税ははるかに税率が低い。軽油とガソリンが同じ税率である欧州とは異なり、日本では運輸業界への配慮から軽油が大幅に優遇されている。これは逆の意味で、課税の公平性を保つ上での大きな争点になりうる。なお、運輸業界は自民党議員へ長年にわたり政治資金を提供している。そしてその資金は事実上優遇された軽油税によって捻出されているといえる。", "title": "軽油引取税" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "灯油をディーゼル車に給油する場合や、軽油と混ぜて(混和)販売・消費するには、事前に各都道府県税事務所の許可が必要である。実際にディーゼル車に灯油を給油する際には燃料タンク内を空にし、空であることを都道府県税事務所所員立会いの下、目視で確認してもらってから給油が可能となる。神奈川県税事務所で確認した限りでは、混和してよい灯油は「製油所内で製造される灯油識別剤の入ってない灯油に限る。」とされているため、製油所から出荷される前に識別剤が投入されている現状ではそれを入手することは事実上不可能で、軽油引取税もタンクに入れた量をそのまま直ちに申告すればよいものではなく、購入した量、消費した量、残存量を所定の書類に記入した上で、月二回事務所に直接報告しなければならず、個人で灯油をディーゼル車に給油するメリットは全く無い。また、軽油に硫黄分が 500 ppm 含まれていた頃、灯油は 80 ppm 程度であったため、灯油を燃料にすれば硫黄酸化物(や黒煙)を減らせると信じられていたが、現行の軽油が 10 ppm まで硫黄分が減っている事と、灯油にはディーゼルエンジンに使用した場合に噴射ポンプや噴射ノズルを潤滑する成分が含まれていないため、却ってそれらを壊すこととなる。ただし、列型噴射ポンプを採用しているディーゼルエンジンの場合、燃料圧縮用カムはエンジンオイルで潤滑されるため、耐性には幾分かの余裕がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、寒冷地において冬季に非常に外気温が低下し目詰まり点を大きく下回ると、軽油中のパラフィン分が析出し燃料フィルター閉塞などのトラブルが発生する場合があり、季節・地域に合わせた号数(3号、特3号)を使用する必要があるので、ディーゼル車で冬季に非寒冷地から寒冷地に移動する場合や高地を通過する場合その点に留意する必要がある。JIS K 2204(解説)には、低温特性の観点からみた軽油のガイドラインが示されている。大抵はその地域のガソリンスタンドではその地域の気温に合わせた号数の軽油で販売されているので、温暖地から寒冷地に行く場合は少なめの燃料で出発して現地で改めて給油すべきであろう(エンジンが長時間止まり燃料が冷えた時のみ問題となるため)。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "軽油はディーゼルエンジン車用の燃料であり、ガソリン車に軽油を入れてエンジンを稼働した場合は、走行中にエンジンが停止するなど事故の原因になる。ディーゼル車にガソリンを入れてエンジンを稼働した場合は、噴射ポンプや噴射ノズルに損傷を与える。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "軽油は揮発性が低く、ポリタンクでの保管が認められているが、その際のタンクの色は消防法により軽油と同じ緑色であり、かつ内容物が軽油と記載することを義務付けられている。したがって灯油用の青色、その他の色のタンクに保管した場合や、緑色のタンクであっても内容物の記載がない場合消防法違反に該当する可能性がある。", "title": "その他" } ]
軽油は、原油から製造される石油製品の一種。主としてディーゼルエンジンの燃料として使用される。ディーゼル燃料ともいう。
[[File:Diesel fuel 20141012 112329.jpg|thumb|240px|軽油のドラム缶]] '''軽油'''(けいゆ、{{Lang-en-short|diesel fuel}})は、[[原油]]から製造される[[石油製品]]の一種。主として[[ディーゼルエンジン]]の[[燃料]]として使用される。'''ディーゼル燃料'''ともいう。 == 概要 == 軽油は、原油を[[蒸留]]([[石油精製]])することによって得られる[[炭化水素]]混合物である。[[沸点]]範囲は180 - 350 [[セルシウス度|℃]] 程度。主成分は[[炭素]]数10 - 20程度の[[アルカン]]である。精製直後は無色だが、出荷前にエメラルドグリーンなどに着色される(精製会社により異なる)。 消防法において第4類[[危険物]](引火性液体)の第2石油類に[[灯油]]とともに属する。消防法での指定数量は[[ガソリン]]の200リットルに対して5倍の1000リットルだが、これは貯蔵方法についての基準を示すもので、ガソリンの5倍安全という意味ではない。軽油の引火点は45{{nbsp}}℃であり、ガソリンの引火点(−40{{nbsp}}℃)よりも高いことから比較的安全とされているが、炎天下などでは液温が引火点を超える可能性があるほか、何らかの事情で霧状になると常温でも引火するため取り扱いには注意が必要である。 軽油の名は[[重油]]に対応して付けられたものだが、「[[軽自動車]]用の燃料」と誤解されることがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jaf.or.jp/profile/news/file/2010_04.htm|title=「軽自動車に軽油」―減らない燃料の給油ミス|publisher=[[日本自動車連盟]]|accessdate=2019-12-01|date=2010-02-22|author=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100227083328/http://www.jaf.or.jp/profile/news/file/2010_04.htm|archivedate=2010-02-27|deadlink=2019-12-01}}</ref>。軽自動車にディーゼルエンジンが搭載されることはまずないため、日本の[[ガソリンスタンド]]では、軽自動車への誤給油を防ぐため、「軽油」の代わりに「ディーゼル」と表記されている場合がある。 [[中国語]]では「'''柴油'''」<ref group="注">同様に、ディーゼルエンジンは「'''柴油引擎'''」、ディーゼル機関車は「'''柴油機車'''」、[[気動車]]は「'''柴聯車'''」(台湾)、などと軽油燃料を使用するディーゼルエンジンを搭載したものに「'''柴'''」の字が入ることが多い。例外としてディーゼル機関車は「内燃机車」の表記になることもある。</ref>といい、「軽油」は別物の「[[軽質ナフサ]]」あるいは「[[コールタール|軽質コールタール]]」を指す。 == 用途 == 主にディーゼルエンジンの燃料として用いられる。 [[自動車]](特に[[大型自動車|大型車]])・[[鉄道車両]]・[[船舶]]用のディーゼル燃料が日本の軽油の消費量の95%を占めるが、[[建設機械]]・[[農業機械]]の燃料、[[窯業]]・[[鉄鋼]]用の燃料、[[電力]]用[[内燃力発電]]における[[発電機]]燃料としても使用されている。高出力で[[熱効率]]([[燃費]])が良いため、負荷の大きい[[バス (交通機関)|バス]]や[[貨物自動車|トラック]]に向いており、また[[ガソリン]]よりも[[税金]]([[軽油引取税]]等)が安い利点もある。 [[西ヨーロッパ]]では日本に比べると、ガソリンに対する価格的な優位性が無く、軽油の方が高値で販売されている国もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2022/03/post-144.php |title=プーチンに戦争を決断させた「原油価格のロジック」と、その酷すぎる「計算違い」 |publisher=Newsweek |date=2022-03-19 |accessdate=2022-03-31}}</ref>。車両価格においてもガソリン車のそれを上回るにもかかわらず、[[自家用自動車|自家用車]]でのディーゼルエンジン搭載車両の割合が非常に高い(→[[ディーゼル自動車]])。[[北アメリカ|北米]]では、軽油の方がガソリンよりも高いので、自家用車用途ではほとんど普及していない。全て商用貨物車(トラック)である。 [[フォルクスワーゲン]]が、一時期環境に良いことを宣伝してディーゼルエンジン車を売り出したが、[[ディフィートデバイス]]排気ガス不正事件により頓挫してしまった。日本は、生成される軽油の量に対して使用量が下回っているので、軽油は輸出されている。そのため、{{疑問点範囲|近年のディーゼル車の普及は、売らざるを得ない軽油を自ら消費できるという点において、日本の経済にとっても有益となっている。|date=2021-10-18}} ディーゼルエンジンを用いる[[軍用車輌]]にも使われているが、[[アメリカ陸軍]]では、1988年から「単一燃料コンセプト(SFC)」として、[[ジェット燃料]]の[[JP-8]]へと使用燃料を統一するテストを開始しており、戦車・装甲車・貨物自動車・ヘリコプターから偵察用バイクまで、事実上の[[灯油]]であるJP-8を使用するようになっている。 == 品質 == ディーゼル用軽油としての要求性状は # 始動・燃焼を順調に行うため[[着火]]性の良いこと。すなわち[[セタン価]]が高いこと。 # 燃焼を均一に行うために噴霧状態を良くすることが必要である。そのため、燃料中に[[不純物]]を含まず、かつ、[[粘度]]が適当であること。 # [[不完全燃焼]]による[[炭素]]([[煤|すす]])の生成を防止するため、[[アスファルト]]などの高沸点留分が少ないこと。 などである。 これらをふまえた上で、軽油の規格は次のとおりとされる。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center" |+ [[日本産業規格|JIS]] K 2204規格による軽油の分類・性状 |- ! rowspan="2" | 試験項目 ! rowspan="2" | 試験方法 ! colspan="5" | 種類 |- ! 特1号 ! 1号 ! 2号 ! 3号 ! 特3号 |- | 引火点 (℃) | JIS K 2265 | colspan="3" | 50以上 | colspan="2" | 45以上 |- | 蒸留性状 90%留出<br />温度 (℃) | JIS K 2254 | colspan="2" | 360以下 | 350以下 | 330以下<sup>(*1)</sup> | 330以下 |- | 流動点 (℃) | JIS K 2269 | +5以下 | -2.5以下 | -7.5以下 | -20以下 | -30以下 |- | 目詰まり点 (℃) | JIS K 2288 | - | -1以下 | -5以下 | -12以下 | -19以下 |- | 10%残油の残留<br />炭素分質量% | JIS K 2270 | colspan="5" | 0.1以下 |- | セタン指数<sup>(*2)</sup> | JIS K 2280 | colspan="2" | 50以上 | colspan="3" | 45以上 |- | 動粘度 (30 ℃) mm<sup>2</sup>/s | JIS K 2283 | colspan="2" | 2.7以上 | 2.5以上 | 2.0以上 | 1.7以上 |- | 硫黄分(質量%) | JIS K 2541-1,<br />JIS K 2541-2,<br />JIS K 2541-6<br />又は<br />JIS K 2541-7 | colspan="5" | 0.0010以下 |- | 密度 (15 ℃) g/cm<sup>3</sup> | JIS K 2249 | colspan="5" | 0.86以下 |- | colspan="2" style="letter-spacing:1em" | 備考 | colspan="2" | 夏季用 | 冬季用 | colspan="2" | 寒冷地用 |} (*1)動粘度 (30 ℃) が4.7 mm<sup>2</sup>/s以下の場合には、350 ℃とする。<br/> (*2)セタン指数は、セタン価を用いることもできる。 * [[地方税法]]上の軽油の[[規格]] ** [[比重]]:温度15度において、0.8017を超え0.8762まで ** 分留性状90%留出温度:267度を超え400度まで ** 残留炭素分:90%を留出した後の残油に含まれている炭素分の重量が残油総重量の0.2%以下 ** 引火点:130度以下 * [[関税定率法]]上の軽油の規格 ** 比重:温度摂氏15度において、0.8757以下 ** 分留性状90%留出温度:310度を超え400度まで * [[揮発油等の品質の確保等に関する法律]]上の軽油の規格 ** [[硫黄]]分:0.005質量%(50 [[ppm]])以下 → [[2007年]]からは、10 ppm 以下<ref name="idemitsu">{{Cite web|和書 | url = http://www.idemitsu.co.jp/factory/hokkaido/hinshitsu/index.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090420231944/http://www.idemitsu.co.jp/factory/hokkaido/hinshitsu/index.html | title = 品質への取り組み - 北海道製油所 - 出光興産 | publisher = [[出光興産]] | accessdate = 2009-3-29 | archivedate = 2009-4-20 | deadlinkdate = 2012年12月 }}</ref>。 ** セタン指数:45以上 ** 90%留出温度:360度以下 === 低硫黄化(脱硫) === [[環境問題|環境規制]]に対応するため、自動車の[[触媒]]や[[ディーゼル微粒子捕集フィルター|ディーゼルパティキュレートフィルター(DPF)]]に悪影響を及ぼす[[硫黄]]分を減らす、低硫黄(サルファーフリー)化が[[1992年]](平成4年)に5,000 [[ppm]]から2,000 ppmへ、[[1997年]](平成9年)からは500 ppmへと段階的に進められ、[[日本国政府]]の規制においては[[2005年]](平成17年)から50 ppmへ、[[東京大気汚染訴訟]]後の[[2007年]](平成19年)から10 ppmへと、さらなる低硫黄化が進められた{{R|idemitsu}}。 日本では[[2004年]](平成16年)末、[[自動車排出ガス規制]]に関連する「自動車燃料品質規制値」の変更に伴い、軽油に含まれる硫黄の許容限界は、従来の0.01 %質量以下から0.005 %質量(50 ppm)以下へと改められ<ref>{{PDFlink|[https://www.env.go.jp/air/car/nenryou/kisei.pdf 自動車燃料品質規制値]}}(環境省)</ref>、2007年(平成19年)からは10 ppm 以下へと改められた{{R|idemitsu}}。 なお、[[石油連盟]]に加盟する元売りにおける、50 ppmおよび10 ppmの供給は、日本国政府の規制より早く、50 ppmは1年9か月早い[[2003年]](平成15年)4月より、10 ppmは2年前倒しで[[2005年]](平成17年)1月から自主的に供給する形となった<ref>[http://www.paj.gr.jp/eco/sulphur_free/ サルファーフリーについて] - 石油連盟(2004年9月)2018年6月21日閲覧</ref>。 これらは[[世界]]的にも早く、[[欧州連合]]や[[アメリカ合衆国]]では広範囲な地域に供給が及ぶため単純な比較は出来ないものの、EUやアメリカよりも早く、統一したサルファーフリー軽油の供給が成されたことになる。なおEUの規制では50 ppmが2005年から、10 ppmが[[2009年]]から、アメリカでは[[2006年]]6月1日より15 ppm(ノンロード用除く)となっている<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/part01/chapter06/section02.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20141130222727/http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/part01/chapter06/section02.html | title = 1編6章2節 環境規制と燃料品質動向 {{!}} 石油便覧 - JX日鉱日石エネルギー | accessdate = 2014-11-28 | archivedate = 2014-11-30 | deadlinkdate = 2018年9月11日 }}</ref>。 燃料内の硫黄分は、[[噴射ポンプ]]と噴射ノズルの[[潤滑]]のためには必要な要素であったため、脱硫した軽油には[[潤滑剤]](材)が添加されている。 == 販売 == 軽油やガソリンは、特約店を通じてガソリンスタンド等で販売されるのが一般的であるが、同じ自動車燃料として使用されるガソリンと異なる点として、軽油は需要の多くがバスやトラック業者などの大口需要家で占められることから、大口需要家に対しては、元売や特約店による需要家の所有する地下タンクへの直接納入(インタンク)が行われる。また軽油に特化した広域販売店([[フリート]])での販売も行われている。 === 冬季用の軽油 === 一般的な軽油(1号軽油あるいは特1号軽油)は、冬場(おおむね11月 - 3月。場合によっては4月まで)に低温で放置すると、凍結してしまう。このため、ガソリンスタンドにおいて冬場の軽油(おおむね11月 - 3月。場合によっては4月まで)は、1号軽油から2号軽油、ないしは3号軽油もしくは特3号軽油に差し替えて販売されている<ref>[http://www.noe.jxtg-group.co.jp/binran/part03/chapter01/section05.html 第3編第1章第5節 軽油|石油便覧 JXTGエネルギー]</ref>。 [[三菱・デリカスターワゴン]]の[[取扱説明書]]によれば、寒冷地(特に[[北海道]])に[[フェリー]]で渡航する際には、普段の軽油を渡航前([[フェリー|乗船前]])までに半分程度以下になるように調整し、渡航後([[フェリー|乗船後]])に給油所で寒冷地に対応した軽油(3号軽油もしくは特3号軽油)を[[ガソリンスタンド]]で満タンにすることが推奨されている。 === 寒冷地軽油 === [[寒冷地仕様|寒冷地]]の冬期用の軽油として、3号ないしは特3号の規格の軽油がある。[[石油連盟]]によれば、3号軽油は中部の山岳部、東北地方([[北関東|関東北部]]と[[北陸地方|北陸]]の各一部地域を含む)と北海道の[[道南|一部地域]]において12月 - 3月の期間に適用され、特3号軽油は[[道南|道南地域]]を除いた北海道の全域において1 - 3月の期間に適用される。 == プレミアム軽油 == [[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]などの[[レクリエーショナル・ビークル|RV]]ブームが続いていた[[1990年代]]、合併して[[新日本石油|日石三菱]]となる前の[[日本石油]]と[[三菱石油]]、[[コスモ石油]]、[[三井石油]]が「[[プレミアムガソリン]]」に対抗して、一般的な軽油(ノーマル軽油)より[[付加価値]]の高い軽油として'''プレミアム軽油'''を発売した{{efn2|日石:[[1991年]]、コスモ:[[1997年]]発売。}}。このプレミアム軽油は一般的な軽油(ノーマル軽油)に対し、燃料噴射系の汚れを落とす「清浄剤」、自己着火(発火)性を向上し、低温始動時の白煙や高[[負荷]]時の黒煙を減少させるセタン価向上剤(セタン価+3程度)、[[防錆剤]]が添加されている。ただし、バスなどの[[中型自動車|中]]・[[大型自動車]]については、これらに対応できる[[ガソリンスタンド]]で販売できるところが存在しないか、もしくは少なかったことや、コスト上の問題で全てのディーゼル車への普及には至らなかったが、黒煙を多少なりとも減らすことにとっては役立つものであった。日本石油はプレミアム軽油用の地下タンクとポンプを別に設け、[[消費者]]が両者を選択できるようにしていたのに対し、三菱石油はそれぞれを扱う店舗を分け、専売とする方針であった。日石三菱のガソリンスタンドのブランド(トレード)が[[ENEOS]]に変更され、社名が新日本石油(現在のENEOS)に変更された後もプレミアム軽油の販売が継続されていたが、前記の理由で全てのENEOSのサービスステーションで取り扱われていたわけではない(特に[[高規格幹線道路|高速道路]]の[[サービスエリア]]や[[パーキングエリア]]に設置されているガソリンスタンドにおいては、プレミアム軽油を取り扱っていなかった)。 なお、三井石油は[[2002年]]、[[ENEOS]]は[[2011年]]3月31日、コスモ石油は[[2012年]]3月31日をもってプレミアム軽油の販売を終了した。ENEOSではプレミアム軽油販売終了後、ノーマル軽油に軽油添加剤「ENEOSエコフォースD」<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/2010/20101126_01_1050061.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20110910042534/http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/2010/20101126_01_1050061.html | title = プレミアム軽油の販売終了について | publisher = [[JX日鉱日石エネルギー]] | date = 2010-11-26 | accessdate = 2010-12-25 | archivedate = 2011-9-10 | deadlinkdate = 2018年9月11日 }}</ref>を、コスモ石油では「エコディー・ファイン」<ref>[http://www.cosmo-oil.co.jp/press/p_120307/index.html プレミアム軽油販売終了のお知らせ](コスモ石油)</ref>を入れることでプレミアム軽油とほぼ同等の性能が得られると知らせている。<!--今後、新規にプレミアム軽油を発売する石油元売り[[ガソリンスタンド#事業者|(石油メーカー)]]は不明であると思われる。--> しかし、最近になってENEOSが再びプレミアム軽油の販売を始めたが全てのSSで取り扱いがあるわけではなく、一部のSSのみである。 == 軽油引取税 == ディーゼル車用燃料として使われる軽油の取引には、[[軽油引取税]]<ref group="注">[[消費税]]課税の対象外。</ref>という[[地方税|都道府県税(地方税)]]がかかる。ちなみに、[[ガソリン]]には、[[国税|国税(中央税)]]の[[揮発油税|ガソリン税]]([[地方道路税]]および消費税(二重課税)を含む)がかかる。 以前は軽油引取税を[[脱税]]するために、[[重油]]や[[灯油]]を混合してディーゼル車で使えるようにした[[不正軽油]]が製造・販売・消費されており、その排出ガスに多く含まれる[[煤煙]]や[[硫黄酸化物]]の増加によって、[[大気汚染]]も含めて[[社会問題]]化した。 軽油引取税の一般財源化('''総合財源化''')が審議されているが、一般財源化されるのであれば道路建設目的の財源ではなくなるため、仮に軽油のみに課税することになれば、課税の公平性を保つ上での大きな争点になりうる。ただし現実にはその逆で、ガソリン税に対して、軽油税ははるかに税率が低い。軽油とガソリンが同じ税率である[[ヨーロッパ|欧州]]とは異なり、日本では運輸業界への配慮から軽油が大幅に優遇されている。これは逆の意味で、課税の公平性を保つ上での大きな争点になりうる。なお、運輸業界は自民党議員へ長年にわたり[[政治資金]]を提供している。そしてその資金は事実上優遇された軽油税によって捻出されているといえる。 == 環境対応 == {{see|ディーゼル自動車#問題点}} == その他 == 灯油をディーゼル車に給油する場合や、軽油と混ぜて(混和)販売・消費するには、事前に各[[都道府県]][[税務署|税事務所]]の許可が必要である。実際にディーゼル車に灯油を給油する際には[[自動車用燃料タンク|燃料タンク]]内を空にし、空であることを都道府県税事務所所員立会いの下、目視で確認してもらってから給油が可能となる。神奈川県税事務所で確認した限りでは、混和してよい灯油は「[[石油精製#製油所|製油所]]内で製造される灯油識別剤の入ってない灯油に限る。」とされているため、製油所から出荷される前に識別剤が投入されている現状ではそれを入手することは事実上不可能で<!--であるので、軽油と混ぜるには、混ぜることを認めないために識別剤が混和されている灯油と混ぜることになる為に燃料タンクを空にして、税事務所所員立会いの下、給油することとなり、-->、軽油引取税もタンクに入れた量をそのまま直ちに申告すればよいものではなく、購入した量、消費した量、残存量を所定の書類に記入した上で、月二回事務所に直接報告しなければならず、個人で灯油をディーゼル車に給油するメリットは全く無い。また、軽油に硫黄分が 500 ppm 含まれていた頃、灯油は 80 ppm 程度であったため、灯油を燃料にすれば[[硫黄酸化物]](や黒煙)を減らせると信じられていたが、現行の軽油が 10 ppm まで硫黄分が減っている事と、灯油にはディーゼルエンジンに使用した場合に噴射ポンプや噴射ノズルを潤滑する成分が含まれていないため、却ってそれらを壊すこととなる。ただし、列型噴射ポンプを採用しているディーゼルエンジンの場合、燃料圧縮用カムは[[エンジンオイル]]で潤滑されるため、<!--灯油を使用しても、エンジンが直ちに壊れることは無い-->耐性には幾分かの余裕がある。 また、寒冷地において冬季に非常に外気温が低下し目詰まり点を大きく下回ると、軽油中の[[パラフィン]]分が析出し燃料フィルター閉塞などのトラブルが発生する場合があり、季節・地域に合わせた号数(3号、特3号)を使用する必要があるので、ディーゼル車で冬季に非寒冷地から寒冷地に移動する場合や高地を通過する場合その点に留意する必要がある。JIS K 2204(解説)には、低温特性の観点からみた軽油のガイドラインが示されている<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/part05/chapter01/section05.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20150218130841/http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/part05/chapter01/section05.html | title = 5編1章5節 軽油 {{!}} 石油便覧 - JX日鉱日石エネルギー | accessdate = 2015-2-18 | archivedate = 2015-2-18 | deadlinkdate = 2018年9月11日 }}</ref>。大抵はその地域のガソリンスタンドではその地域の気温に合わせた号数の軽油で販売されているので、温暖地から寒冷地に行く場合は少なめの燃料で出発して現地で改めて給油すべきであろう<ref>[http://www.jaf.or.jp/qa/ecosafety/snowdrive/16.htm 寒冷地ではバッテリー、冷却液、軽油はどんな影響を受けますか?]</ref>(エンジンが長時間止まり燃料が冷えた時のみ問題となるため)。 === 混油 === 軽油はディーゼルエンジン車用の燃料であり、ガソリン車に軽油を入れてエンジンを稼働した場合は、走行中にエンジンが停止するなど事故の原因になる。ディーゼル車にガソリンを入れてエンジンを稼働した場合は、噴射ポンプや噴射ノズルに損傷を与える。 ===保管=== 軽油は揮発性が低く、ポリタンクでの保管が認められているが、その際のタンクの色は消防法により軽油と同じ'''緑色'''であり、かつ内容物が軽油と記載することを義務付けられている。したがって灯油用の青色、その他の色のタンクに保管した場合や、緑色のタンクであっても内容物の記載がない場合消防法違反に該当する可能性がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ジメチルエーテル]] * [[バイオディーゼル]] ** [[ナンヨウアブラギリ]] * [[ディーゼルエンジン]] * [[硫酸ピッチ]] - [[不正軽油]] * [[低公害車]] * [[燃油サーチャージ]] * [[テクノスーパーライナー]] {{自動車用燃料}} {{自動車}} {{発電の種類}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けいゆ}} [[Category:石油製品]] [[Category:第2石油類]] [[Category:自動車用燃料]]
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スパイス
スパイス(英: spice)
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スパイス
{{Wiktionary|スパイス|spice}} '''スパイス'''({{lang-en-short|spice}}) == 一覧 == * [[香辛料]] - 香り付け、辛味付け、色付け、臭み消しなどのための調味料の総称。 * [[SPICE]] - 曖昧さ回避ページ == メディア == * [[スパイス (出版社)]] - 出版社。 * [[スパイス (琉球朝日放送のテレビ番組)]] - かつて[[琉球朝日放送]]で放送された[[情報番組]]。 * [[スパイス!!]] - [[日本海テレビジョン放送]]制作の情報番組。 * [[情報ラヂオ・スパイス!]] - かつて[[MBSラジオ]]で放送された番組。 == 芸術作品 == * [[スパイス (アルバム)]](スパイス・ガールズ) * [[spice (花*花のアルバム)]] * [[スパイス (Perfumeの曲)]] * [[スパイス (ナオト・インティライミの曲)]] * [[スパイス (ポルノグラフィティの曲)]] * [[スパイス (スター・ウォーズ)]] == 姓 == * {{仮リンク|ゴードン・スパイス|en|Gordon Spice}} (1940 - 2021) - イギリスのレーシングドライバー * {{仮リンク|リッチー・スパイス|en|Richie Spice}} (1971 - ) - ジャマイカの[[レゲエ]]アーティスト == その他 == * スパイス (脱法ハーブ) - [[脱法ハーブ]]の製品のひとつ。 == 関連項目 == * [[和田豊]] - [[プロ野球]]・[[阪神タイガース]]の監督就任会見で「スパイス」という単語を度々用いた。 * [[スパイシー]] (spicy) * [[スパイサー]] (spicer) * {{prefix}} * {{prefix|spice}} * {{intitle}} * [[Wikipedia:索引 すはい]] * [[:en:Special:PrefixIndex/spice]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:すはいす}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]] [[Category:同名の作品]]
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香辛料
香辛料(こうしんりょう、英: spice)は、調味料の一種で、植物から採取され、調理の際に風味(香り・辛味など)や色を出したり、臭みを消したりするものの総称である。食事をおいしくしたり、食欲を増進させたりする。香料として食品に添加されるものも多数ある。 日本スパイス協会は、食材に香り、辛み、色調を出す植物全般を「香辛料」として扱い、その茎・葉・花を「ハーブ」、それ以外の部位を「スパイス」と呼んでいるが、世界的に統一された定義はなく、日本料理に使われる薬味もスパイスと言える。 料理に香辛料を加えることにより、味に変化が生まれ、おいしく感じさせたり食欲を増進させたりする効果がある。独特の臭みを持つ食材に対しては、臭み消しとして利用される。ひき肉に対するナツメグや、魚に対するショウガなどがその典型的な例である。臭みが感じられなくなるおかげで、素材の旨味が引き立つ。似たような使い方をする食材にハーブがある。ハーブは生のままか乾燥させた植物の葉や茎といった緑色部分を利用するが、ほとんどの香辛料は植物の実や種子、地下茎そのものや、それらを乾燥させたもの、乾燥の後に細かくしたり粉にしたものである。たいてい少量で強い効果を持つので、家庭用には10センチメートル程度の大きさの小ビンに入れられて売られていることが多い。 また香辛料は、匂いの強い食品や保存による腐敗臭を抑える効果がある。このため、胡椒などは大航海時代の保存食に必要な素材として珍重され、同時に輸入や生産地の確保が航海の主要な目的の一つとなった。香辛料は一般に防腐、殺菌作用が強い、病気の回復作用があると信じている人は多いが、必ずしもそのような効果を持つとは言えない。 そのほか、料理に色を付ける目的でも使われる。たとえば、パエリアで使われるサフランや、カレー、沢庵に使われるターメリックなどがその典型的な例である。 香辛料の味や効能を特徴づける成分には、テルペン類、フェニルプロパノイド、アルカロイドなどがある。多様なアルカロイドのうちには生物活性が強いものが多く、ナツメグのように使い方によっては毒物になるものもある。 香辛料(スパイス)が料理の味に特徴を加えることから転じて、物事にちょっとした特徴を加えて目立つようにしたり気の利いたものにしたりすることやアクセントを加えることを、「スパイスを利かせる」と表現することがある。 インドにおいては紀元前3000年頃から既に黒胡椒やクローブ等の多くの香辛料が使われていた。紀元前1200年頃の古代エジプトにスリランカ産のシナモンが献上された記録が残っている。紀元前5世紀に著されたというヘロドトスの『歴史』にはオリエントの産品としてKinnamomonという植物産品が記されている。研究者の間では、インドもしくはマレー半島からもたらされた香辛料だと言われている。やがて、ヨーロッパに知られる香辛料の種類も増え、紀元1世紀頃には海、陸のシルクロードを経てヨーロッパに香辛料が流入し始めた。 ローマ帝国の滅亡、イスラム勢力の勃興、十字軍など東西交流を難しくさせる要素が重なり、中世ヨーロッパでは香辛料は大変珍貴なものとなった。貴重な香辛料をふんだんに使えることがステータスを誇示することとなり、王侯貴族の会食料理は過剰なまでに香辛料を使った料理へと発展し、香辛料が貴金属のように献上品としてやり取りされた。 ヨーロッパの人々の多くは、古くから肉や魚を多く食べていたが、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするために肉や魚を長期保存する必要があった。中世においては、その食味から、クローブや胡椒などには高い防腐作用があると信じられていたため、食材の保存において欠かせない防腐剤として扱われた(実際には胡椒自体に防腐効果はほとんどなく。肉の表面にたっぷりとまぶすことにより直に触れる分が減ったり、香りを損ねないためにやや乾燥状態にして保存するといった側面が大きい)。また、その香りが病魔を退治すると信じられており、香として焚く用途も多かった。さらに、水がそれほど豊富でない地域では、体の洗浄不足と肉食が相まって体臭が問題になり、香辛料に関する大きな需要が発生した。 中世にはムスリム商人がインド洋における香辛料貿易を独占し、ルネサンス期にはヴェネツィア共和国がエジプトのマムルーク朝やオスマン帝国からの輸入を独占した。ポルトガルはヴェネツィアの香辛料貿易独占を打破するために喜望峰経由のインド航路を開拓した(「ポルトガル海上帝国」参照)。 クローブ、ナツメグなど一部の香辛料はインドネシアのモルッカ諸島でのみ産出した。また胡椒はインド東海岸やスマトラ島で多く生産された。このため、これらの地域と交易を行なって香辛料を手に入れることが、国を保つために重大な関心事となった。すなわち、香辛料がヨーロッパの人々を世界進出に駆り立てた。造船技術や天文学などの科学技術の発達によって長期の航海が可能となったとき、大航海時代の幕が開けた。ヨーロッパ人は大挙して新大陸やアジアに進出し、植民地化や、現地住民に対する略奪、虐殺、強制を伴ったキリスト教への改宗を実行していった。 このように、当初は東側に向けて香辛料を求める進出が続いたが、貿易の主導権の争いは熾烈なものとなっていったため、一部の人たちは西側にも目を向けるようになった。クリストファー・コロンブスもその一人で、1492年にスペインから西に出帆した。結局のところ、彼は香辛料の主産地であるインドやインドネシアには到達できなかったが、アメリカ大陸に到達し、その存在をヨーロッパ人に知らしめた。彼の目的地がインドであったことは、当初アメリカ大陸をインドと勘違いし、そこに住む先住民を「インディオ」と呼んだことに色濃く残っている。この呼称は現在に至るまで残っている。新大陸には期待された香辛料は無かったが、新しいタイプのトウガラシやバニラはすぐにヨーロッパに受け入れられた。 17世紀に入ると、オランダがアジアに進出してポルトガルと争い、モルッカ諸島やスマトラ島を直接支配下に置いた。近代になると香辛料は各地で栽培されるようになり、貿易における重要性は薄れる。香辛料の使われ方も近代になるにつれて洗練されていき、ヨーロッパでの需要は減少に向かっていった。しかし、20世紀に入るとアジアやラテンアメリカ各地の料理が世界的に普及し、香辛料の需要は急速に拡大している。 古くは『古事記』中に「はじかみ」(波士加美、波之加美)に関する記述が見られる。これは当時の日本に知られていた香辛料類、すなわちショウガやサンショウを指す総称であった。 奈良の正倉院には、天平勝宝8年(756年)、光明皇后が60種の薬物を東大寺大仏に献納した際の目録(通称『種々薬帳』)が残されている。この目録には舶来生薬類の名が多く記載され、中には「胡椒」「畢撥(ヒハツ)」「桂心(=桂皮)」などの名も見られる。 目録の名からもわかるとおりこうした香辛料類はまず薬品として日本にもたらされ、種類によってはその後長期にわたって漢方薬の材料などに使われたのであったが、一方で、ヨーロッパのようにこれらを料理に用い、さかんに輸入・消費していくような気運は、結局日本では生まれなかった。その背景には日本人が肉食をほとんど行わなかったこと、また発酵調味料を積極的に利用したことなどから、香辛料への潜在的需要が本来低かったということが大きい。食物の味を引き立てることが日本の香辛料の唯一の役割であり、人工の香りを発し素材の香りを殺すといった自己主張はあってはならないとされたのである。 とはいえ中世期になると、より身近な地産の草菜類を利用して、「薬味」「加薬(かやく)」などの概念が発展しはじめる。 江戸時代には日本料理でも薬味の使用が発達し始め、当時の料理書『素人包丁』には、「鯛飯」の項に「加益(カヤク)はおろし大根、ネギ、のり、とうがらし」と記されている。大根、葱、紫蘇、芥子、生姜、山葵といった香辛料が特に薬味として好まれ、多用された(特にネギは日本料理に欠かせない存在となり、ダイコンは大根おろしなどの形で大量に用いられた)。そのほか、料理書には山椒、ゆず、肉桂(シナモン)などを使った例がいくつかみられた。胡椒も一時期、うどんの薬味として使われたことがあるが、唐辛子の普及により廃れた(近畿地方などでは現在でも胡椒が用いられている)。その唐辛子はかなり普及し、日本独自のブレンド香辛料である七味唐辛子も登場したが、これらはいずれも風味付け程度の少量の利用にとどまった。 大正時代の頃になるとカレーライスを食べさせる店などが少しずつ創業するようになり、刺激の強いカレーの味覚も少しずつ日本人の知るものとなっていった。また、カレー粉はいち早く家庭に普及したブレンド香辛料である。 第二次世界大戦後は生活の洋風化が進み、様々な香辛料の輸入量も増加の一途をたどった。高度経済成長を経て社会が豊かになると、本格的な欧風料理やいわゆるエスニック料理などを広く楽しむようになり、現在では様々な香辛料類が家庭内にも常備されるようになっている。 幾つかの香辛料には医薬品の作用を強くしたり、逆に作用を弱めたりするものがあることが知られている。食品の例では「納豆と抗凝固薬」の組合せはビタミンKとワルファリンの相互作用として、「グレープフルーツ果汁とカルシウム拮抗剤」の組合せは薬物代謝酵素シトクロムP450(CYP)の阻害の相互作用として知られている。香辛料では黒胡椒、白胡椒、シナモン、メース、ナツメグなどはシトクロムP450(CYP3A4)またはCYP2C9を阻害する成分を含むが、医学的な研究は不十分である。 香辛料の独特の臭気(香り)の多くは、加熱により揮発あるいは変質してしまう。従って、多くの場合、生産から流通の各段階において加熱殺菌(滅菌)は行われない。そのため、食中毒の原因となりうる微生物が混入している場合がある。日本では認可されていないが、アメリカ合衆国、カナダ、欧州連合(EU)全加盟国、オーストラリアなどでは放射線などの食品照射処理により殺菌処理した香辛料が流通している。
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香辛料は、調味料の一種で、植物から採取され、調理の際に風味(香り・辛味など)や色を出したり、臭みを消したりするものの総称である。食事をおいしくしたり、食欲を増進させたりする。香料として食品に添加されるものも多数ある。 日本スパイス協会は、食材に香り、辛み、色調を出す植物全般を「香辛料」として扱い、その茎・葉・花を「ハーブ」、それ以外の部位を「スパイス」と呼んでいるが、世界的に統一された定義はなく、日本料理に使われる薬味もスパイスと言える。
{{脚注の不足|date=2019年10月}} [[画像:インド食材輸入会社の倉庫・スパイス類IMG 1006.jpg|thumbnail|280px|インド食材輸入会社の倉庫の香辛料類]] '''香辛料'''(こうしんりょう、{{lang-en-short|spice}})は、[[調味料]]の一種で、[[植物]]から採取され、[[調理]]の際に[[風味]]([[臭い|香り]]・[[辛味]]など)や[[色]]を出したり、[[臭み]]を消したりするものの総称である。食事をおいしくしたり、食欲を増進させたりする。[[香料]]として[[食品]]に添加されるものも多数ある。 日本スパイス協会は、食材に香り、辛み、色調を出す植物全般を「香辛料」として扱い、その[[茎]]・[[葉]]・[[花]]を「[[ハーブ]]」、それ以外の部位を「スパイス」と呼んでいるが、世界的に統一された定義はなく、[[日本料理]]に使われる[[薬味]]もスパイスと言える<ref>「スパイス再考」『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年3月8日(9-11面)</ref>。 == 概説 == [[ファイル:Sacs of spices.JPG|thumbnail|230px|展示され売られる香辛料(エジプトにて)]] 料理に香辛料を加えることにより、味に変化が生まれ、おいしく感じさせたり食欲を増進させたりする効果がある。独特の臭みを持つ[[食材]]に対しては、臭み消しとして利用される。ひき肉に対する[[ナツメグ]]や、魚に対する[[ショウガ]]などがその典型的な例である。臭みが感じられなくなるおかげで、素材の旨味が引き立つ。似たような使い方をする食材に[[ハーブ]]がある。ハーブは生のままか乾燥させた植物の葉や茎といった緑色部分を利用するが、ほとんどの香辛料は植物の実や[[種子]]、[[地下茎]]そのものや、それらを乾燥させたもの、乾燥の後に細かくしたり粉にしたものである。たいてい少量で強い効果を持つので、家庭用には10センチメートル程度の大きさの小ビンに入れられて売られていることが多い。 また香辛料は、匂いの強い食品や保存による[[腐敗]]臭を抑える効果がある。このため、[[コショウ|胡椒]]などは[[大航海時代]]の[[保存食]]に必要な素材として珍重され、同時に輸入や生産地の確保が航海の主要な目的の一つとなった。香辛料は一般に[[防腐剤|防腐]]、[[殺菌]]作用が強い、病気の回復作用があると信じている人は多いが、必ずしもそのような効果を持つとは言えない<!--実証した出典が無い 防腐、殺菌作用が強いものが多い。[https://ci.nii.ac.jp/naid/110003167860/ 調理食品中の香辛料の抗菌性(第2報) : 市販粉末シナモン中の生菌数]-->。 そのほか、[[着色料|料理に色を付ける]]目的でも使われる。たとえば、[[パエリア]]で使われる[[サフラン]]や、[[カレー_(代表的なトピック)|カレー]]、[[沢庵]]に使われる[[ターメリック]]などがその典型的な例である。 香辛料の味や効能を特徴づける成分には、[[テルペン]]類、[[フェニルプロパノイド]]、[[アルカロイド]]などがある。多様なアルカロイドのうちには[[生物活性]]が強いものが多く、[[ナツメグ]]のように使い方によっては毒物になるものもある。 香辛料(スパイス)が料理の味に特徴を加えることから転じて、物事にちょっとした特徴を加えて目立つようにしたり気の利いたものにしたりすることやアクセントを加えることを、「スパイスを利かせる」と表現することがある。 == 歴史 == === 世界における歴史 === [[インド]]においては紀元前3000年頃から既に黒胡椒やクローブ等の多くの香辛料が使われていた。紀元前1200年頃の[[古代エジプト]]に[[スリランカ]]産のシナモンが献上された記録が残っている。紀元前5世紀に著されたという[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』には[[オリエント]]の産品としてKinnamomonという植物産品が記されている。研究者の間では、インドもしくは[[マレー半島]]からもたらされた香辛料だと言われている{{sfn|ギュイヨ |1987|pp=8-10}}。やがて、[[ヨーロッパ]]に知られる香辛料の種類も増え、紀元1世紀頃には海、陸の[[シルクロード]]を経てヨーロッパに香辛料が流入し始めた。 [[ローマ帝国]]の滅亡、[[イスラム教|イスラム]]勢力の勃興、[[十字軍]]など東西交流を難しくさせる要素が重なり、[[中世ヨーロッパ]]では香辛料は大変珍貴なものとなった。貴重な香辛料をふんだんに使えることがステータスを誇示することとなり、王侯貴族の会食料理は過剰なまでに香辛料を使った料理へと発展し、香辛料が貴金属のように献上品としてやり取りされた{{sfn|ギュイヨ |1987|pp=11-25}}。 ヨーロッパの人々の多くは、古くから肉や魚を多く食べていたが、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするために肉や魚を長期保存する必要があった。中世においては、その食味から、クローブや胡椒などには高い防腐作用があると信じられていたため、食材の保存において欠かせない防腐剤として扱われた(実際には胡椒自体に防腐効果はほとんどなく。肉の表面にたっぷりとまぶすことにより直に触れる分が減ったり、香りを損ねないためにやや乾燥状態にして保存するといった側面が大きい)。また、その香りが病魔を退治すると信じられており、[[香]]として焚く用途も多かった。さらに、水がそれほど豊富でない地域では、体の洗浄不足と肉食が相まって[[体臭]]が問題になり、香辛料に関する大きな需要が発生した。 中世には[[ムスリム]]商人が[[インド洋]]における香辛料貿易を独占し、[[ルネサンス]]期には[[ヴェネツィア共和国]]がエジプトの[[マムルーク朝]]や[[オスマン帝国]]からの輸入を独占した。[[ポルトガル]]はヴェネツィアの香辛料貿易独占を打破するために[[喜望峰]]経由の[[大航海時代#アフリカ・アジア大陸進出|インド航路]]を開拓した(「[[ポルトガル海上帝国]]」参照)。 クローブ、ナツメグなど一部の香辛料は[[インドネシア]]の[[モルッカ諸島]]でのみ産出した。また胡椒はインド東海岸や[[スマトラ島]]で多く生産された。このため、これらの地域と交易を行なって香辛料を手に入れることが、国を保つために重大な関心事となった。すなわち、香辛料がヨーロッパの人々を世界進出に駆り立てた。造船技術や[[天文学]]などの科学技術の発達によって長期の航海が可能となったとき、大航海時代の幕が開けた。ヨーロッパ人は大挙して[[新世界|新大陸]]やアジアに進出し、[[植民地]]化や、現地住民に対する略奪、虐殺、強制を伴った[[キリスト教]]への[[改宗]]を実行していった。 このように、当初は東側に向けて香辛料を求める進出が続いたが、貿易の主導権の争いは熾烈なものとなっていったため、一部の人たちは西側にも目を向けるようになった。[[クリストファー・コロンブス]]もその一人で、[[1492年]]に[[スペイン]]から西に出帆した。結局のところ、彼は香辛料の主産地であるインドやインドネシアには到達できなかったが、[[アメリカ大陸]]に到達し、その存在をヨーロッパ人に知らしめた。彼の目的地がインドであったことは、当初アメリカ大陸をインドと勘違いし、そこに住む先住民を「[[インディオ]]」と呼んだことに色濃く残っている。この呼称は現在に至るまで残っている。新大陸には期待された香辛料は無かったが、新しいタイプの[[トウガラシ]]や[[バニラ]]はすぐにヨーロッパに受け入れられた。 17世紀に入ると、[[オランダ]]がアジアに進出してポルトガルと争い、モルッカ諸島やスマトラ島を直接支配下に置いた。近代になると香辛料は各地で栽培されるようになり、貿易における重要性は薄れる。香辛料の使われ方も近代になるにつれて洗練されていき、ヨーロッパでの需要は減少に向かっていった。しかし、20世紀に入るとアジアや[[ラテンアメリカ]]各地の料理が世界的に普及し、香辛料の需要は急速に拡大している。 === 日本における歴史 === 古くは『[[古事記]]』中に「'''はじかみ'''」(波士加美、波之加美)に関する記述が見られる。これは当時の日本に知られていた香辛料類、すなわち[[ショウガ]]や[[サンショウ]]を指す総称であった。 [[平城京|奈良]]の[[正倉院]]には、[[天平勝宝]]8年(756年)、[[光明皇后]]が60種の薬物を[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]に献納した際の目録(通称『種々薬帳』)が残されている。この目録には[[舶来品|舶来]]生薬類の名が多く記載され、中には「[[胡椒]]」「畢撥([[ヒハツ]])<ref group="注">長胡椒。[[コショウ]]や[[ヒハツモドキ]](ピパーチ)の近縁種で、古代インド発祥の香辛料。なお、「ヒハツ」(漢語[[中古音]]: *pipat)の名は{{lang-en|pepper}} と同じく[[サンスクリット]]: pippali に由来するものである。</ref>」「桂心(=[[桂皮]])」などの名も見られる<ref>米田雄介ほか編『正倉院への道 天平の至宝』([[雄山閣出版]]、1999)、pp.2, 48</ref>。 目録の名からもわかるとおりこうした香辛料類はまず薬品として日本にもたらされ、種類によってはその後長期にわたって[[漢方薬]]の材料などに使われたのであったが、一方で、ヨーロッパのようにこれらを料理に用い、さかんに輸入・消費していくような気運は、結局日本では生まれなかった。その背景には日本人が肉食をほとんど行わなかったこと、また[[発酵調味料]]を積極的に利用したことなどから、香辛料への潜在的需要が本来低かったということが大きい。食物の味を引き立てることが日本の香辛料の唯一の役割であり、人工の香りを発し素材の香りを殺すといった自己主張はあってはならないとされたのである<ref>石毛直道『世界の食べもの 食の文化地理』([[講談社学術文庫]])p172</ref>。 とはいえ中世期になると、より身近な地産の草菜類を利用して、「'''[[薬味]]'''」「'''[[加薬]]'''(かやく)」などの概念が発展しはじめる。 [[江戸時代]]には日本料理でも薬味の使用が発達し始め、当時の料理書『素人包丁』には、「鯛飯」の項に「加益(カヤク)は[[大根おろし|おろし大根]]、[[ネギ]]、[[海苔|のり]]、[[唐辛子|とうがらし]]」と記されている。[[ダイコン|大根]]、[[ネギ|葱]]、[[シソ|紫蘇]]、[[からし|芥子]]、[[ショウガ|生姜]]、[[ワサビ|山葵]]といった香辛料が特に薬味として好まれ、多用された(特にネギは日本料理に欠かせない存在となり、ダイコンは[[大根おろし]]などの形で大量に用いられた)。そのほか、料理書には[[山椒]]、[[ゆず]]、[[シナモン|肉桂]](シナモン)などを使った例がいくつかみられた。[[コショウ|胡椒]]も一時期、[[うどん]]の薬味として使われたことがあるが、[[唐辛子]]の普及により廃れた([[近畿地方]]などでは現在でも胡椒が用いられている)。その唐辛子はかなり普及し、日本独自のブレンド香辛料である[[七味唐辛子]]も登場したが、これらはいずれも風味付け程度の少量の利用にとどまった。 [[大正|大正時代]]の頃になると[[カレーライス]]を食べさせる店などが少しずつ創業するようになり、刺激の強い[[カレー]]の味覚も少しずつ日本人の知るものとなっていった。また、[[カレー粉]]はいち早く家庭に普及したブレンド香辛料である。 [[第二次世界大戦]]後は生活の洋風化が進み、様々な香辛料の輸入量も増加の一途をたどった。[[高度経済成長]]を経て社会が豊かになると、本格的な欧風料理やいわゆるエスニック料理などを広く楽しむようになり、現在では様々な香辛料類が家庭内にも常備されるようになっている。 == 安全性 == === 医薬品との相互作用 === 幾つかの香辛料には医薬品の作用を強くしたり、逆に作用を弱めたりするものがあることが知られている。食品の例では「[[納豆]]と[[抗凝固薬]]」の組合せは[[ビタミンK]]と[[ワルファリン]]の相互作用として、「[[グレープフルーツ]]果汁と[[カルシウム拮抗剤]]」の組合せは薬物代謝酵素[[シトクロム]]P450(CYP)の阻害の相互作用として知られている。香辛料では黒胡椒、白胡椒、シナモン、[[メース]]、ナツメグなどはシトクロムP450(CYP3A4)またはCYP2C9を阻害する成分を含む<ref name="urakami">{{PDFlink|[http://www.urakamizaidan.or.jp/winner.files/vol16urakamif-19ito.pdf 香辛料食品と医薬品との相互作用に関する基礎研究] 浦上食品・食文化振興財団}}</ref>が、医学的な研究は不十分である。 === 微生物による汚染 === 香辛料の独特の臭気(香り)の多くは、加熱により[[揮発]]あるいは変質してしまう。従って、多くの場合、生産から流通の各段階において加熱殺菌(滅菌)は行われない。そのため、[[食中毒]]の原因となりうる微生物が混入している場合がある<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110003167860/ 調理食品中の香辛料の抗菌性(第2報) : 市販粉末シナモン中の生菌数]『日本家政学会誌 』45(8) pp.713-717 19940815</ref>。日本では認可されていないが、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、[[欧州連合]](EU)全加盟国、[[オーストラリア]]などでは[[放射線]]などの[[食品照射#国際的な利用状況|食品照射]]処理により殺菌処理した香辛料が流通している。 == 代表的な香辛料 == === 単一の素材のもの === * [[アサフェティダ]](ヒング) * [[アジョワン]] * [[アニス]] * [[オールスパイス]](百味胡椒、三香子) * [[タマネギ|オニオン]](玉葱) * [[オレガノ]](花薄荷) * [[カホクザンショウ]](華北山椒、花椒) * [[カルダモン]](イライチ) * [[カレーリーフ]](南洋山椒、カリ・パッタ) * [[キャラウェイ]](姫茴香) * [[クミン]](ジーラ、キュマン) * [[グリーンペッパー]](緑胡椒) * [[クローブ]](丁子、ローング) * [[コショウ]](ペッパー、カリ・ミルチ、サフェダ・ミルチ) * [[ゴマ]](セサミ) * [[コリアンダー]](ダニヤ、香菜、パクチー、コエンドロ) * [[サフラン]](ケサル、番紅花) * [[サンショウ]](山椒) * [[シソ]](紫蘇) * [[シナモン]](肉桂、ダルチニ) * [[ショウガ]](生姜、ジンジャー) * [[トウシキミ|スターアニス]](八角、大茴香) * [[セージ]] * [[セロリ]] * [[タイム (植物)|タイム]] * [[ターメリック]](鬱金、ハルディ) * [[タデ]](蓼、water pepper) * [[タラゴン]](エストラゴン) * [[チャービル]](セルフィーユ) * [[陳皮]](シトラスピール) * [[ディル]](イノンド) * [[唐辛子]]、[[一味唐辛子]](チリ、レッドペッパー、カイエンペッパー、ラル・ミルチ) * [[ナツメグ]](肉荳蔲、メース、ジャイファル、ジャビトゥリ) * [[ニンニク]](大蒜、ガーリック) * [[コブミカン]]の葉(バイマックルー) * [[ハッカ]](薄荷、ミント) * [[パセリ]] * [[バニラ]] * [[ハラペーニョ]] * [[ニラ]] * [[ネギ]] * [[パプリカ]](甘唐辛子) * [[ヒハツ]] * [[フェヌグリーク]](メティ) * [[フェンネル]](フェネル、茴香、ソーンフ) * [[ブラッククミン]](カロジレ) * [[ホースラディッシュ]](セイヨウワサビ) * [[ミント]] * [[ケシ|ポピー・シード]](けしの実、カスカス) * [[マージョラム]](マヨラナ、スイートマージョラム、ハナハッカ) * [[マスタード]]([[からし|辛子]]、ライ、洋芥子) * [[ミョウガ]](茗荷) * [[ラッキョウ]] * [[ダイコン|ラディッシュ]](大根) * [[ローズマリー]] * [[ローリエ]](月桂樹の葉、ベイリーフ、テジ・パッタ) * [[ワサビ]](山葵) === ブレンドしたもの === * [[五香粉]] * [[ガラムマサラ]] * [[カレー粉]] * [[七味唐辛子]] * [[チリパウダー]] * [[花椒塩]] * [[柚子胡椒]](柚子唐辛子) * [[唐辛子味噌]] * [[ハリッサ]] == 関連項目 == * [[ハーブ]] * [[薬味]][[調味料]] - [[加薬]] * [[スパイス・ミル]] * [[生薬]] * [[香料]] * [[大航海時代]] * [[和田豊]] - プロ野球・[[阪神タイガース]]元監督。監督就任会見で「現有戦力に少しのスパイスを加えれば…」と発言、その後の騒動により一躍有名となった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite |和書 |author = Harold McGee |translator = 香西みどり |title = マギー キッチンサイエンス |date = 2008 |publisher = 共立出版 |isbn = 9784320061606 |ref = harv }} * {{Cite |和書 |author = リュシアン・ギュイヨ |translator = 池崎一郎,平山弓月,八木尚子 |title = 香辛料の世界史 |date = 1987 |publisher = [[白水社]] |isbn = 4-560-05682-X |ref = harv }} {{料理}} {{Herbs & spices}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうしんりよう}} [[Category:調味料]] [[Category:香辛料|*]] [[Category:食文化関連の一覧]] [[Category:交易の歴史]]
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プレイバイメール
プレイバイメール (英:Play-by-mail game、PBM) は、郵便やインターネットなど通信媒体を用いて遠隔地のプレイヤー同士が遊ぶゲームの総称。 狭義にはメールゲームと呼ばれる、文章(テキスト)によるプレイを主とする多人数同時参加型ゲームを指すことがある。この場合のメールは電子メールではなく通常の手紙のこと。インターネット上の電子メールを使用するゲームはPBeM(play by e-mail) 、或いはインターネット上で文章によるプレイを主としたゲームを総称としてプレイバイウェブ(play by web) ということが多い。通信手段の変化により遊び方にも変化が生じた為、PBWはPBMとは異なるゲームジャンルに転じたと考えるユーザーも存在する。 日本でPBM運営を行っていた企業の一つ遊演体は、郵便によるRPG形式のPBMのことをネットゲームと称したが、現在のオンラインゲームやMMO等の意とは異なる。 通信手段を用いて遠隔の人間同士が同じゲームを遊ぶという手法は、チェスの愛好者達が郵便で駒を遣り取りしたのが始まりとされる(通信チェス)。この通信チェスをPBMの起源とすれば、数世紀前から存在する事になる。 現代的な意味でのPBMは1960年代にニューヨーク市立大学ブルックリン校のジョン・ボードマン教授が、アラン・B・カラマーが1954年に発表したボードゲーム「ディプロマシー」で行ったと言われる。ディプロマシーの愛好者だったボードマンは自ら主催の会報で有志を集め、ゲームを行ったという。ゲームシステムは非常にシンプルで、ユーザーの意見交換に長時間を割く「ディプロマシー」は通信チェスの手法を援用しやすかったと考えられる。 ボードマンの成功によって、より複雑なルールのゲームについても可能性が探られた。こうしたゲームのルール処理の手間はコンピューターの力を借りる事で解決が図られている。1970年にフライング・バッファロー社は複雑なゲームの通信対戦を実現した。 ボードゲーム主催の際の一番の難点は「参加者を募る」点にあったが、これを改善した通信対戦の手法はボードゲーム市場の成長を促した。同時にゲーム運営を代行する会社も次々と設立され、更に運営会社自体が自社用のボードゲームを商品開発するようになった。またゲームの大規模化も進み、ユーザー数の増加も相まって多くの企業はコンピューターサーバをユーザー管理に導入した。 コンピューター技術の発展が続き、通信面でもパソコン通信や電子メールが一般化するとこれらを取り込む動きが始まった。1989年、エレクトロニック・アーツ社のプログラマードン・ダグロウがストーム・フロント・スタジオ社を設立、電子メールを活用した初のRPG「クアンタム・スペース」をAOL上で提供した。 日本においては、文章による行動宣言と結果通知の手段として郵便が使われる、「メールゲーム」「メールRPG」として知られる多人数同時参加型のロールプレイングゲームが、このジャンルの中心となった。これらの郵便を利用したゲームを総称して「プレイバイメール」(略してPBM)という。なお、この項目では注釈がない限りは「多人数同時参加型のロールプレイングゲーム」としてのプレイバイメールについて述する。 インターネットの発展に伴い、上記タイプのゲームを同様に遊ぶ場合の多くは、電子メール・WWW・各種専用クライアントなど、インターネットのリソースを手段として使うようになった(オンラインゲームの項も参照)。 それらのうち、プレイヤーと主催者の間で、文章による行動宣言をやりとりする昔ながらのタイプのものを、プレイバイメール時代にならって「プレイバイeメール」「プレイバイウェブ」(各々PBeM,PBW)「定期更新型オンラインゲーム」などとも呼ぶ。 インターネット、そしてADSLなどの定額高速通信設備の急激な普及に伴い、ネットワークRPGなどを手軽に楽しめるようになった今日では、郵送事務の手間や高額な料金を必要とするPBMの立場は危うくなりつつある。しかし、本質的なゲーム性はまったく別のものであり、住み分けが進んでいるとも言える。
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プレイバイメール は、郵便やインターネットなど通信媒体を用いて遠隔地のプレイヤー同士が遊ぶゲームの総称。 狭義にはメールゲームと呼ばれる、文章(テキスト)によるプレイを主とする多人数同時参加型ゲームを指すことがある。この場合のメールは電子メールではなく通常の手紙のこと。インターネット上の電子メールを使用するゲームはPBeM(play by e-mail) 、或いはインターネット上で文章によるプレイを主としたゲームを総称としてプレイバイウェブ(play by web) ということが多い。通信手段の変化により遊び方にも変化が生じた為、PBWはPBMとは異なるゲームジャンルに転じたと考えるユーザーも存在する。 日本でPBM運営を行っていた企業の一つ遊演体は、郵便によるRPG形式のPBMのことをネットゲームと称したが、現在のオンラインゲームやMMO等の意とは異なる。
[[Image:Postcard-for-correspondence-chess.jpg|thumb|320px|right|[[郵便]]を用いた[[チェス]]を行う際の対戦用紙。]] '''プレイバイメール''' (英:'''Play-by-mail game'''、'''PBM''') は、[[郵便]]や[[インターネット]]など[[通信]]媒体を用いて遠隔地のプレイヤー同士が遊ぶ[[ゲーム]]の総称。 狭義にはメールゲームと呼ばれる、文章(テキスト)によるプレイを主とする多人数同時参加型ゲームを指すことがある。この場合の[[メール]]は[[電子メール]]ではなく通常の[[手紙]]のこと。インターネット上の電子メールを使用するゲームは'''PBeM'''(play by e-mail) 、或いはインターネット上で文章によるプレイを主としたゲームを総称として[[プレイバイウェブ]](play by web) ということが多い。通信手段の変化により遊び方にも変化が生じた為、PBWはPBMとは異なるゲームジャンルに転じたと考えるユーザーも存在する。 日本でPBM運営を行っていた企業の一つ[[遊演体]]は、郵便によるRPG形式のPBMのことを'''ネットゲーム'''と称したが、現在の[[オンラインゲーム]]や[[MMO]]等の意とは異なる。 == 歴史 == [[File:Diplomacy.svg|thumb|350px|right|ディプロマシー]] ===始まりから発展まで=== 通信手段を用いて遠隔の人間同士が同じゲームを遊ぶという手法は、[[チェス]]の愛好者達が郵便で駒を遣り取りしたのが始まりとされる([[通信チェス]])。この通信チェスをPBMの起源とすれば、数世紀前から存在する事になる。 現代的な意味でのPBMは1960年代に[[ニューヨーク市立大学ブルックリン校]]の[[:en:John Boardman|ジョン・ボードマン]]教授が、[[アラン・B・カラマー]]が1954年に発表したボードゲーム「[[ディプロマシー]]」で行ったと言われる<ref>Reynolds, Harold (2008-12-02). "B Entries". Diplomacy A-Z, Version 6.0. http://www.badpets.net/Diplomacy/AtoZ/B.html. Retrieved 2008-12-22.</ref>。ディプロマシーの愛好者だったボードマンは自ら主催の会報で有志を集め、ゲームを行ったという。ゲームシステムは非常にシンプルで、ユーザーの意見交換に長時間を割く「ディプロマシー」は通信チェスの手法を援用しやすかったと考えられる。 ボードマンの成功によって、より複雑なルールのゲームについても可能性が探られた。こうしたゲームのルール処理の手間はコンピューターの力を借りる事で解決が図られている。1970年に[[:en:Flying Buffalo|フライング・バッファロー]]社は複雑なゲームの通信対戦を実現した。 ===急速な成長と合理化=== [[ボードゲーム]]主催の際の一番の難点は「参加者を募る」点にあったが、これを改善した通信対戦の手法はボードゲーム市場の成長を促した。同時にゲーム運営を代行する会社も次々と設立され、更に運営会社自体が自社用のボードゲームを商品開発するようになった。またゲームの大規模化も進み、ユーザー数の増加も相まって多くの企業は[[コンピューター]][[サーバ]]をユーザー管理に導入した。 コンピューター技術の発展が続き、通信面でも[[パソコン通信]]や[[電子メール]]が一般化するとこれらを取り込む動きが始まった。1989年、エレクトロニック・アーツ社のプログラマー[[:en:Don Daglow|ドン・ダグロウ]]が[[:en:Stormfront Studios|ストーム・フロント・スタジオ]]社を設立、[[電子メール]]を活用した初の[[ロールプレイングゲーム|RPG]]「[[:en:Quantum Space|クアンタム・スペース]]」を[[AOL]]上で提供した。 ===日本における展開=== 日本においては、文章による行動宣言と結果通知の手段として郵便が使われる、「メールゲーム」「メールRPG」として知られる多人数同時参加型の[[ロールプレイングゲーム]]が、このジャンルの中心となった。これらの郵便を利用したゲームを総称して「プレイバイメール」(略してPBM)という。なお、この項目では注釈がない限りは「多人数同時参加型のロールプレイングゲーム」としてのプレイバイメールについて述する。 インターネットの発展に伴い、上記タイプのゲームを同様に遊ぶ場合の多くは、[[電子メール]]・[[World Wide Web|WWW]]・各種専用クライアントなど、[[インターネット]]のリソースを手段として使うようになった([[オンラインゲーム]]の項も参照)。 それらのうち、プレイヤーと主催者の間で、文章による行動宣言をやりとりする昔ながらのタイプのものを、プレイバイメール時代にならって「プレイバイ'''e'''メール」「'''[[プレイバイウェブ]]'''」(各々PBeM,PBW)「'''[[定期更新型オンラインゲーム]]'''」などとも呼ぶ。 インターネット、そして[[ADSL]]などの定額高速通信設備の急激な普及に伴い、ネットワークRPGなどを手軽に楽しめるようになった今日では、郵送事務の手間や高額な料金を必要とするPBMの立場は危うくなりつつある。しかし、本質的なゲーム性はまったく別のものであり、住み分けが進んでいるとも言える。 ==引用== <references/> == 参考書籍 == * 『ネットゲームがよくわかる本』 ゆうせぶん(遊演体)/角川スニーカー・G文庫 ISBN 4-04-480801-5 == 関連事項 == *[[プレイバイメールのタイトル一覧]] *[[TRPG]] *[[蓬萊学園]] *[[読者参加型ゲーム]] *[[プレイバイウェブ]] *[[通信チェス]] *[[郵便将棋]] {{DEFAULTSORT:ふれいはいめえる}} [[Category:ゲーム]] [[Category:郵便]]
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宍戸留美
宍戸 留美(ししど るみ、1973年〈昭和48年〉11月6日 - )は、日本の女性歌手、声優、女優、ラジオパーソナリティ、キャラクターデザイナー、アイドル。広島県出身。 母子家庭育ち。一人っ子として育った。中学高校時代は高校1年生の2学期まで比治山女子中学校・高等学校で学び、その後日本女子体育大学付属二階堂高等学校へ転校して卒業している。学生時代はバトントワリング部に所属していた。子供の頃は、色々な役になってみたいと願い、市原悦子に憧れていた。 1989年、前年に続いて2回目のエントリーとなった『ロッテ CMアイドルはキミだ!』にて4代目グランプリを受賞。翌1990年に同社CM出演およびシングル『コズミック★ランデブー』で歌手デビュー。当時のキャッチフレーズは「ルンルンはミニが好き」「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・シ・シ・ド・ル・ミ」。当時顔が小さく手足が長いという体型だったことから宇宙人っぽいイメージで売り出されたこともあった。最初はいわゆる正統派アイドルとして活躍するも、後にリリースする個性的な楽曲により、同時期のアイドルとは一線を画すと共にコアなファン層を獲得。アイドルユニット「七つ星」のメンバーとしての活動にも参加した。 1992年、当時の所属事務所リバティーハウスを退所し、フリーランスとなる。リリー・フランキーと共に歌謡曲専門レーベルを立ち上げ、広報、マネージメント、経理などタレント業における諸業務すべてを自らこなす業界初の「インディーズ・アイドル」となる。事務所やレコード会社各社がまだまだアイドルを乱発していた当時としては、事務所に所属せず、アイドルが自分で自分をプロデュースするという選択は大きな冒険でもあった。この経歴は、サエキけんぞうに「宍戸こそ現在のLIVEアイドルの源流」と論じられている。 1992年、OVA『KO世紀ビースト三獣士』のユーニ・チャーム・パスワード役で声優デビュー。1995年のテレビアニメ『ご近所物語』で、主人公・幸田実果子の声と主題歌を担当し、『おジャ魔女どれみ』の瀬川おんぷ役で声優としての人気を獲得。主に10代の少女や、人以外のキャラクターを演じる。1998年頃、アニメ『夢のクレヨン王国』に出演時など櫻田 実果子(さくらだ みかこ)の名前で活動していた。これは『ご近所物語』で声を担当した、主人公の「幸田実果子」(物語終盤では櫻田実果子)からとったものである。 2010年5月9日、デビュー20周年記念ライブを実施。Ustreamでの中継は、中継時間内の瞬間最大視聴率が世界1位を記録した。2010年12月からJUNSTVが提供するインターネット配信音楽番組「宍戸留美×津田大介 Oil in Life」の制作、キャスティング、司会などを務め、2010年5月からは、日刊サイゾーの連載記事「宍戸留美×小明×Voice Artist【声優 on FINDER!】」でカメラマンを担当するなど、活動の場をイラストレーター、写真家、映画、舞台役者、番組制作などに広げている。 フリーになる以前、シングル7枚・アルバム2枚をソニーレコードからリリース。うちセカンドシングル(正確にはc/wだった「恋のロケットパンチ」)以降の楽曲の多くは福田裕彦(作曲)・石嶋由美子(作詞)のコンビが手掛けた。テクノポップ調の曲と、ある種サイケデリックかつキュートな歌詞を特徴とし、この時期の宍戸は「テクノ・アイドル」として一部から絶賛された。1990年代に於いて、デビューから一貫してテクノを続けた点も評価が高く、「元祖テクノアイドル」とも称される。2000年代にPerfumeを支援した人物の一人として知られる掟ポルシェは、宍戸の追っかけ(のようなこと)をしていた。 フリー以後は方向性を一変させ、声優活動と連動してアニメ主題歌などのシングルをリリース。フリー後初のアルバム「Set me Free」は『ニューヨーク・タイムズ』紙上で“CDを探し求める価値のある日本人アーティスト”として評された。 2010年、フランス語で歌った『faire l'amour』は同年公開の「死刑台のエレベーター」挿入歌。フランス、ドイツでコンサートもおこなった。プロデューサーでギタリストの鴫原浩平との出会い以降は、ボサノバやジャズなどの要素を取り入れるようになった。 2011年から2013年にかけて、30代三部作として「CHERBOURG→BRIGHTON」、「女」、「Ruminescence」をリリースした。 太字はメインキャラクター。
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宍戸 留美は、日本の女性歌手、声優、女優、ラジオパーソナリティ、キャラクターデザイナー、アイドル。広島県出身。
{{存命人物の出典明記|date=2017年9月24日 (日) (UTC)}} {{声優 | 名前 = 宍戸 留美 | ふりがな = ししど るみ | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = 宍戸 留美{{R|talent}} | 愛称 = ルンルン<ref name="CDジャーナル">{{Cite web|和書|url=https://artist.cdjournal.com/a/shishido-rumi/112711|title=宍戸 留美 - CDJournal |work=CDジャーナル |publisher=[[音楽出版社 (企業)|音楽出版社]] |accessdate=2020-01-30}}</ref><ref name="tower">{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/artist/285377|title= 宍戸 留美|publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2020-01-30}}</ref> | 性別 = [[女性]] | 出生地 = {{JPN}}・[[福岡県]]<ref name="twitter">{{Twitter status2|RumiShishido|327089303962386433|2013年4月25日|accessdate=2020-01-30}}</ref> | 出身地 = {{JPN}}・[[広島県]]{{R|twitter}} | 死没地 = | 生年 = 1973 | 生月 = 11 | 生日 = 6 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = [[ABO式血液型|B型]]<ref>{{Cite web |date= |url=https://rumi-shishido.com/profile.html |title=profile|publisher=Rumi Shishido |accessdate=2020-01-30}}</ref> | 身長 = | 職業 = [[歌手]]、[[声優]]、[[俳優|女優]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[デザイナー]]、[[アイドル]] | 事務所 = [[フリーランス|フリー]] | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = 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現代日本女性人名録|page=916|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4-8169-1681-6}}</ref>、2017年の公式ブログ等でも出身地は広島県としている<ref>[https://profile.ameba.jp/ameba/rumi-shishido/ 宍戸留美のプロフィール|Ameba (アメーバ)]</ref><ref name="hiroshima">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=1363|title=宍戸留美|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ|work=[[アニメイトタイムズ]]|publisher=[[アニメイト]]|date=|accessdate=2022-02-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190331230758/https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=1363|archivedate=2019年3月31日}}{{Cite web|和書|url=http://hfm.jp/blog/maru/m/e/post_15.php|title=今日のゲストは、西島大介さんと宍戸留美さん。|work=皆実町マルシェ|publisher=[[広島エフエム放送]]|date=2015-05-01|accessdate=2022-02-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220214131032/http://hfm.jp/blog/maru/m/e/post_15.php|archivedate=2022年2月14日}}{{Cite web|和書|url=http://yokogawacinema.com/archives/2619|title=宍戸留美×西島大介×清水浩司トークショー:『世界の終わりのいずこねこ』ミイケ先生presents神イベ∞特別編|work=|publisher=[[横川シネマ!!]]|date=2015-04-24|accessdate=2022-02-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220214131312/http://yokogawacinema.com/archives/2619|archivedate=2022年2月14日}}{{Twitter status2|RumiShishido|425540172122296321|2014年1月21日|accessdate=2022-02-24}}</ref>。但し、2013年4月24日に宍戸自身が「生まれは福岡」とツイートしたことがある{{R|twitter}}。}}。 == 経歴 == [[母子家庭]]育ち<ref name="showa50">[[昭和40年男|昭和50年男]](クレタパブリッシング)2020年3月(vol.003)号 p.36-39「ライブアイドルのパイオニアとなった ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド宍戸留美」</ref>。一人っ子として育った。中学高校時代は高校1年生の2学期まで[[比治山女子中学校・高等学校]]で学び<ref name="sundaliru200908">{{Cite web|和書|url = https://ameblo.jp/sundaliru/entry-10332093211.html |title = 充電とはよくいったもの? |work = 宍戸留美公式ブログ |date = 2009-08-30 |accessdate = 2013-09-06}}</ref>、その後[[日本女子体育大学付属二階堂高等学校]]へ転校して卒業している。学生時代は[[バトントワリング]]部に所属していた<ref name="sundaliru200908"/>。子供の頃は、色々な役になってみたいと願い、[[市原悦子]]に憧れていた<ref>『元アイドル!』 p209</ref>。 [[1989年]]、前年に続いて2回目のエントリーとなった『[[ロッテ CMアイドルはキミだ!]]』にて4代目グランプリを受賞<ref name="showa50"/><ref name="indies">{{Cite web|和書| title = インディ大衆食堂 - 宍戸留美さん | publisher = NEXUS | date = 2012-07-27 | url = http://www.nexus-web.net/column/indies/2012/07/27/41/ | accessdate = 2019-01-02| archiveurl = https://web.archive.org/web/20140713082545/http://www.nexus-web.net/column/indies/2012/07/27/41/ | archivedate = 2014年7月13日 | deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>。翌1990年に同社CM出演およびシングル『コズミック★ランデブー』で歌手デビュー。当時の[[キャッチフレーズ]]は「'''ルンルンはミニが好き'''」「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・シ・シ・ド・ル・ミ」。当時顔が小さく手足が長いという体型だったことから宇宙人っぽいイメージで売り出されたこともあった<ref>月刊[[ラジオパラダイス]]([[三才ブックス]])1990年6月号 70頁「R・P NEWSパレット アイドルプログラム・ニュース」</ref>。最初はいわゆる正統派[[アイドル]]として活躍するも、後にリリースする個性的な楽曲により、同時期のアイドルとは一線を画すと共にコアなファン層を獲得。アイドルユニット「[[七つ星 (アイドルグループ)|七つ星]]」のメンバーとしての活動にも参加した。 [[1992年]]、当時の所属事務所[[リバティーハウス]]を退所し、[[フリーランス]]となる<ref name="beeast">{{cite interview |和書|subject=宍戸留美 |interviewer=鈴木亮介 |title=BEEAST ROCK ATTENTION 15 |url=http://www.beeast69.com/feature/20820 |date=2012-5-14 |work=ビースト |accessdate=2013-9-6}}</ref><ref name="サエキけんぞう">{{Cite web|和書|url = http://journal.ocn.ne.jp/people/vol45/people01.html |title = サエキけんぞうの次世代アイドル論 |accessdate = 2013-09-06 |author = サエキけんぞう |date = 2012-05-14 |publisher = OCN TODAY |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110611221654/http://www.ocn.ne.jp/game/og/44-idol/interview.html |archivedate = 2011年6月11日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref><ref name="W100_LIVEIDOL">{{Cite |和書 |author = サエキけんぞう(監修) |title = W100 LIVEアイドル |date = 2010-11-30 |publisher = シンコーミュージック・エンタテイメント |isbn = 978-4401770298 |series = シンコー・ミュージックMOOK}}</ref>。[[リリー・フランキー]]と共に歌謡曲専門レーベルを立ち上げ、広報、マネージメント、経理などタレント業における諸業務すべてを自らこなす業界初の「インディーズ・アイドル」となる<ref name="cdjournal"/><ref name="hiroshima"/><ref name="indies"/><ref name="サエキけんぞう"/>。事務所やレコード会社各社がまだまだアイドルを乱発していた当時としては、事務所に所属せず、アイドルが自分で自分をプロデュースするという選択は大きな冒険でもあった<ref name="サエキけんぞう"/>。この経歴は、[[サエキけんぞう]]に「宍戸こそ現在の[[ライブアイドル|LIVEアイドル]]の源流」と論じられている<ref name="indies"/>。 1992年、[[OVA]]『[[KO世紀ビースト三獣士]]』のユーニ・チャーム・パスワード役で声優デビュー。1995年の[[テレビアニメ]]『[[ご近所物語]]』で、主人公・幸田実果子の声と主題歌を担当し、『[[おジャ魔女どれみ]]』の[[瀬川おんぷ]]役で声優としての人気を獲得。主に10代の少女や、人以外のキャラクターを演じる。1998年頃、アニメ『[[夢のクレヨン王国]]』に出演時など'''櫻田 実果子'''(さくらだ みかこ)の名前で活動していた。これは『ご近所物語』で声を担当した、主人公の「幸田実果子」(物語終盤では櫻田実果子)からとったものである。 [[2010年]][[5月9日]]、デビュー20周年記念ライブを実施。Ustreamでの中継は、中継時間内の瞬間最大視聴率が世界1位を記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.narinari.com/Nd/20100513519.html |title= 宍戸留美が「(36歳)成人式」開催、Twitter&Ustreamで世界1位に。 |publisher= ナリナリドットコム |date=2010-05-10 |accessdate=2013-09-06}}</ref>。2010年12月から[[JUNS]]TVが提供するインターネット配信音楽番組「宍戸留美×津田大介 [[Oil in Life]]」の制作、キャスティング、司会などを務め<ref>{{Cite web|和書| title = 宍戸留美×津田大介の Oil in Life - About OIL | publisher = JUNSTV | url = http://www.o-i-l.jp/about | accessdate = 2015-04-05}}</ref>、2010年5月からは、[[サイゾー|日刊サイゾー]]の連載記事「宍戸留美×小明×Voice Artist【声優 on FINDER!】」でカメラマンを担当<ref>{{Cite web|和書| title = 宍戸留美×小明×Voice Artist【声優 on FINDER!】 | publisher = 日刊サイゾー | url = http://www.cyzo.com/cat8/voice/ | accessdate = 2015-04-05}}</ref>するなど、活動の場を[[イラストレーター]]、[[写真家]]、[[映画]]、舞台役者、番組制作などに広げている。 === 歌手活動 === フリーになる以前、シングル7枚・アルバム2枚を[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニーレコード]]からリリース。うちセカンドシングル(正確にはc/wだった「恋のロケットパンチ」)以降の楽曲の多くは[[福田裕彦]](作曲)・[[パパイヤパラノイア|石嶋由美子]](作詞)のコンビが手掛けた。[[テクノポップ]]調の曲と、ある種[[サイケデリック]]かつ[[キュート]]な歌詞を特徴とし、この時期の宍戸は「[[テクノポップ|テクノ]]・アイドル」として一部から絶賛された<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/205808/3/ 3/3 真性テクノアイドル(ソロ編) [テクノポップ<nowiki>]</nowiki> All About]</ref>。[[1990年代]]に於いて、デビューから一貫してテクノを続けた点も評価が高く<ref>[http://blog.yomiuri.co.jp/popstyle/2007/10/post_2b84.html 宇多丸×掟ポルシェ対談 完全版完成!【第7章 サウンド】]</ref>、「元祖テクノアイドル」とも称される<ref>[http://recochoku.jp/artist/30210447/album/ bibi アルバム一覧へ - レコチョク]</ref>。[[2000年代]]に[[Perfume]]を支援した人物の一人として知られる[[掟ポルシェ]]は、宍戸の追っかけ(のようなこと)をしていた<ref>[http://blog.excite.co.jp/porsche/m2007-02-01/ 掟ポルシェの赤黒い日記帳 2007年02月]</ref>。 フリー以後は方向性を一変させ、声優活動と連動してアニメ主題歌などのシングルをリリース。フリー後初のアルバム「Set me Free」は『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙上で“CDを探し求める価値のある日本人アーティスト”として評された<ref>{{Cite web |url=http://www.nytimes.com/1995/09/21/arts/the-pop-life-014995.html |title=The Pop Life |publisher=The New York Times |date=1995-9-21 |accessdate=2015-4-16}}</ref>。 2010年、フランス語で歌った『faire l'amour』は同年公開の「死刑台のエレベーター」挿入歌。フランス、ドイツでコンサートもおこなった。プロデューサーでギタリストの鴫原浩平との出会い以降は、ボサノバやジャズなどの要素を取り入れるようになった<ref name="natalie20110426">{{Cite news | url = https://natalie.mu/music/news/48542 | title = 宍戸留美、ボサノバ&ジャズな7年ぶりアルバムがCD発売 | work = 音楽ナタリー | publisher = [[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] | date = 2011-04-26 | accessdate = 2015-01-03 }}</ref>。 2011年から2013年にかけて、30代三部作として「CHERBOURG→BRIGHTON」<ref name="natalie20110426"/>、「女」<ref>{{Cite news | url = https://natalie.mu/music/news/66219 | title = 宍戸留美、ニューアルバムで熟れた「女」の魅力歌う | work = 音楽ナタリー | publisher = [[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] | date = 2012-03-16 | accessdate = 2015-01-03 }}</ref>、「Ruminescence」<ref>{{Cite news | url = https://natalie.mu/music/news/99160 | title = 宍戸留美、30代最後のアルバムはウエケン全面プロデュース | work = 音楽ナタリー | publisher = [[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] | date = 2013-09-11 | accessdate = 2015-01-03 }}</ref>をリリースした。 === 逸話 === * デビュー直後は、当時の所属レコード会社だった[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー]]の寮で生活。当時の同居人に[[河田純子]]、[[米光美保]](当時[[東京パフォーマンスドール]])、[[Lip's]]らがいた。しかし学校が別々だったこともあって、お互い仲良くなる暇も無かったという<ref name="showa50"/>。 * 18歳の時にデビュー当初からの所属事務所を退所した理由について、「事務所がやらせようとしていた[[バラドル]]にはなりたくなかったから」と述べている<ref name="サエキけんぞう"/>。 * 芸能活動が少なかった時期、とある雑誌に「宍戸留美、死亡説」と書かれていたことがある。宍戸は「まだ生きています」との年賀状をその雑誌に自ら送りアピールし、これを見た[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のプロデューサーが『[[ウゴウゴルーガ|ウゴウゴルーガ2号]]』に出演させた。そのプロデューサーは「事務所の干渉には屈しない」と胸を張ったという<ref name="beeast"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nexus-web.net/column/indies/2012/07/27/41/|title=宍戸留美さん|work=インディ大衆食堂|publisher=[[日本音楽制作者連盟]]|date=2012-7-27|accessdate=2013-9-6|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121028093551/http://www.nexus-web.net/column/indies/2012/07/27/41/|archivedate=2012年10月28日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 * 『[[KO世紀ビースト三獣士]]』に声をあてていた頃、[[山寺宏一]]に気に入られていることを山寺の当時の妻である[[かないみか]]から聞いた<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1992 |publisher=[[学研パブリッシング]] |journal=[[BOMB]] |issue=1992年6月号 |page= }}</ref>。かないとは現在でも親交があるという。 * 出演作品には[[矢沢あい]]原作のものが多い。まず『[[ご近所物語]]』の幸田実果子に始まり『[[Paradise Kiss]]』の幸田実果子・山口アリス、映画版『[[NANA]]』の坂上、ゲーム版『NANA』の小松奈々などがある。『ご近所物語』の主題歌、声優出演がきっかけで矢沢と対談した。『ご近所物語』のコミックにその時のエッセイ漫画が載っている。そこには2人は意気投合して仲良くなったとある。 * デビュー20周年を迎える2010年4月、女子大生、ネット関係者、ブロガーなど熱狂的なファンが「宍戸留美 応援プロジェクト」を発足させた。「ルンルンの紅白出場」「妹募集」などのプロジェクトを実施している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.narinari.com/Nd/20100513519.html |title=「宍戸留美を紅白へ」有志が集結、“妹分”オーディションも開催へ。 |publisher=ナリナリドットコム |date=2010-4-8 |accessdate=2013-9-6}}</ref>。 * 『2010年☆宍戸留美☆妹オーディション』でグランプリを受賞した、東京都出身20歳短大生「蝦名恵(えびなめぐみ)」のプロデュース業もしている。 * カメラマン増田賢一との25年分の写真をまとめた「東京幻想写真集」とアルバム「東京幻想曲集」をクラウドファンディングを利用して制作するプロジェクトが始動。目標金額350万円を超え、約430万円が集まった。(MotionGallery) https://motion-gallery.net/projects/runrun25 * 介護職員初任者、子育て支援員の資格を取得<ref name="showa50"/>。 == ディスコグラフィ == === シングル === {|class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 最高位 |- ! 1st | 1990年5月21日 | '''コズミック・ランデブー''' | CSDL-3093 | 61位 |- ! 2nd | 1990年9月21日 | '''ナクヨアイドル平成2年''' | CSDL-3167 | 60位 |- ! 3rd | 1991年1月1日 | '''Panic in my room''' | CSDL-3215 | |- ! 4th | 1991年5月22日 | '''地球の危機''' | SRDL-3279 | 75位 |- ! 5th | 1991年7月25日 | '''おとこのこ''' | SRDL-3328 | |- ! 6th | 1991年10月25日 | '''男のコが泣いちゃうなんて(La-Da-Dee)''' | SRDL-3380 | |- ! 7th | 1992年3月25日 | '''恋はマケテラレネーション''' | SRDL-3450 | 93位 |- ! 8th | 1995年10月21日 | '''ヒ・ロ・イ・ン''' | APDM-5038 | |- ! 9th | 1995年10月21日 | '''DON'T YOU KNOW?!''' | APDM-5039 | |- ! 10th | 1996年3月1日 | '''素直になって''' | APDM-5040 | |- ! 11tn | 1996年4月22日 | '''NG!''' | AYDM-107 | |- ! 12th | 1997年2月21日 | '''深夜徘徊''' | AYCM-556 | |} === アルバム === ==== オリジナルアルバム ==== {|class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 最高位 |- ! 1st | 1990年10月21日 | '''ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・シ・シ・ド・ル・ミ''' | CSCL-1557 | 82位 |- ! 2nd | 1992年7月22日 | '''プンスカ''' | SRCL-2450 | |- ! 3rd | 1995年8月25日 | '''Set me Free''' | CDCD-001 | |- ! 4th | 1997年2月21日 | '''深夜徘徊''' | AYCM-556 | |- ! 5th | 2003年10月8日 | '''Rumi Roll''' | CDCD-003 | |- |- ! ※ | 2005年11月30日 | '''[[アイドル・ミラクルバイブルシリーズ]] 宍戸留美''' | MHCL-686 | |- ! 6th | 2011年5月11日 | '''CHERBOURG→BRIGHTON''' | SNDL-0001 | |- ! 7th | 2012年8月15日 | '''女''' | SNDL-0002 | |- ! 8th | 2013年11月13日 | '''Ruminescence''' | SNDL-0003 | |- ! 9th | 2016年9月7日 | '''東京幻想曲集''' | SNDL-0004 | |- ! 10th | 2018年4月25日 | '''8=∞(エイト)''' | SNDL-0005 | |- ! 11th | 2018年4月25日 | '''DO THE HUBBLE! with RUMI SHISHIDO''' | SNDL-0006 | |- ! 12th | 2019年5月22日 | '''LOVE YOU LIVE''' | SNDL-0007 | |} ==== ミニアルバム ==== {|class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 最高位 |- ! 1st | 1999年7月23日 | '''bambi garden''' | CDCD-002 | |} === ビデオクリップ === * ロックの神様(1991年2月21日)VSD仕様 === タイアップ === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! style="width:13em;"|楽曲 !! タイアップ!!時期 |- | 恋はマケテラレネーション | OVA「[[KO世紀ビースト三獣士]]」オープニングテーマ | rowspan="2"| 1992年 |- | なかよしお泊り倶楽部 | OVA「[[KO世紀ビースト三獣士]]」エンディングテーマ |- | ヒ・ロ・イ・ン | テレビアニメ「[[ご近所物語]]」オープニングテーマ | rowspan="3"| 1995年 |- | DON'T YOU KNOW? | rowspan="2"| テレビアニメ「[[ご近所物語]]」エンディングテーマ |- | NG! |- | 素直になって | 劇場版「[[ご近所物語]]」エンディングテーマ | 1996年 |} === キャラクターソング === {{VOICE Notice Hidden| ◆ 「キャラクター(声優名)」で統一すること。 ◆ 当記事の声優のみ「キャラクター('''声優名''')」とすること。 ◆ ユニットの場合は{{Vau}}を用いる。使い方は[[Template:Vau]]を参照。}} {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! style="width:4.5em;"|発売日 !! 商品名 !! style="width:30%;"|歌 !! 楽曲 !! 備考 |- ! colspan="5" | 1995年 |- | 時期不明 | おやじハンターマージャン | | 「おやじハンターのテーマ」 | ゲームソフト初回特典シングル |- ! colspan="5" | 2000年 |- | rowspan="2" | 3月24日 | rowspan="2" | おジャ魔女はココにいる | rowspan="2" | {{Vau|MAHO堂|2}} | 「おジャ魔女はココにいる」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ♯]]」のオープニングテーマ |- | 「声をきかせて」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ♯]]」のエンディングテーマ |- | 11月2日 | 「おジャ魔女どれみ#」MAHO堂CDコレクション ソロ 瀬川おんぷ | 瀬川おんぷ('''宍戸留美''') | 「half point」<br />「ルピナスの子守唄」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ#]]」挿入歌 |- ! colspan="5" | 2001年 |- | 1月24日 | 「おジャ魔女どれみ 」MAHO堂CDコレクション その3 そんぐ ふぇすてぃばる | {{Vau|MAHO堂|2}} | 「ルピナスの子守唄」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ#]]」挿入歌 |- | 2月21日 | おジャ魔女でBAN2 | {{Vau|MAHO堂|3}} | 「おジャ魔女でBAN2」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|も〜っと! おジャ魔女どれみ]]」のオープニングテーマ |- | 5月23日 | おジャ魔女BAN2 CDくらぶ その2 も〜っと! おジャ魔女すい〜とソングコレクション!! | {{Vau|MAHO堂|3}} | 「おジャ魔女でBAN[↑]2」<br /> 「すいーとそんぐABC」 | rowspan="2" | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|も〜っと! おジャ魔女どれみ]]」関連曲 |- | 6月21日 | おジャ魔女BAN2 CDくらぶ その3 おジャ魔女ミュージカル ヴォーカルコレクション!! | {{Vau|MAHO堂|3}} | 「おジャ魔女カーニバル!!(+2 Version)」<br />「ピリカピリ❤ラッキー!(MAHO堂 Version)」<br />「おジャ魔女はココにいる(+1 Version)」<br />「ルピナスの子守唄(+1 Version)」 |- | rowspan="2" | 7月4日 | rowspan="2" | 2001夏・東映アニメフェア も〜っと! おジャ魔女どれみ カエル石の秘密 | {{Vau|MAHO堂|3}} | 「夏のまほう」 | 劇場版「も〜っと!おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ」エンディングテーマ |- | {{Vau|MAHO堂|3}} with [[五條真由美]] | 「カエルが一つなきゃ」 | 劇場版「も〜っと!おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ」挿入歌 |- | 9月21日 | おジャ魔女キャラクターミニアルバムシリーズ(2)瀬川おんぷ | 瀬川おんぷ('''宍戸留美''') | 「WE CAN DO!」<br />「北極星(ぽーらーすたー)」<br />「おんぷのすい〜とそんぐABC」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|も〜っと! おジャ魔女どれみ]]」挿入歌 |- | 10月3日 | デジモンアドベンチャー02 夏への扉 | | 「Only lonely」 | |- ! colspan="5" | 2002年 |- | 2月21日 | DANCE!おジャ魔女 | {{Vau|MAHO堂|4}} | 「DANCE!おジャ魔女」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみドッカーン!]]」オープニングテーマ |- | 3月20日 | キッズステーション おジャ魔女どれみドッカ〜ン!MAHO堂えいごフェスティバル | | 「ABCのうた」<br />「きらきらぼし」<br />「メリーさんのひつじ」<br />「もりのくまさん」<br />「ヘッド・ショルダーズ・ニーズ・アンド・トゥズ」<br />「おおきなくりのきのしたで」<br />「ゆかいなまきば」<br />「しあわせならてをたたこう」 | |- | 6月12日 | おジャ魔女音頭でハッピッピ! | {{Vau|MAHO堂|4}} | 「おジャ魔女音頭でハッピッピ!!」<br />「MAHOでチャチャチャ」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみドッカーン!]]」関連曲 |- ! colspan="5" | 2003年 |- | 1月22日 | おジャ魔女ドッカ〜ン! CDくらぶ その8 FRIENDS -フレンズ- *MAHO堂ソロヴォーカルアルバム* | 瀬川おんぷ('''宍戸留美''') | 「Cherry Bomb!」 | テレビアニメ「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみドッカーン!]]」キャラクターソング |- | 8月27日 | イエスタデイをうたって オリジナルサウンドストーリー | 野中晴('''宍戸留美''') | 「[[ぼくたちの失敗]]」<br />「ぼくが君の思い出になってあげよう」 | 漫画『[[イエスタデイをうたって]]』関連曲 |- | {{nobr|12月21日}} | 明日のナージャ 音的挿話シリーズその2『明後日のナージャ』 | ローズマリー('''宍戸留美''') | 「野性のDiamond」 | テレビアニメ「[[明日のナージャ]]」関連曲 |- ! colspan="5" | 2004年 |- | 1月21日 | 明日のナージャ 音的挿話シリーズその3『明後日のナージャ』2 | ローズマリー('''宍戸留美''') | 「野性のDiamond(Rosy Dub ver.)」 | テレビアニメ「[[明日のナージャ]]」関連曲 |- | 8月25日 | 金色のガッシュベル!!「キャラクターソングシリーズ ガールズサイド」 | レイラ('''宍戸留美''') | 「伝えて」 | テレビアニメ「[[金色のガッシュベル!!]]」関連曲 |- | 9月24日 | ナ・イ・ショ・YO! おジャ魔女 | {{Vau|MAHO堂|4}} | 「ナ・イ・ショ・YO! おジャ魔女」<br />「ステキ∞」 | OVA「[[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみナ・イ・ショ]]」の主題歌 |- ! colspan="5" | 2005年 |- | 12月21日 | 飛んでもNothing〜どき☆どきアニマル横町のうたの巻〜 | あみ([[江里夏]]) with イヨ('''宍戸留美''')・ケンタ([[永澤菜教]])・イッサ([[佐藤ゆうこ (声優)|佐藤ゆうこ]]) | 「飛んでもNothing〜どき☆どき アニマル横町のうたの巻〜」 | テレビアニメ「[[アニマル横町]]」オープニングテーマ |- ! colspan="5" | 2006年 |- | 2月23日 | 甲虫王者ムシキング〜森の民の伝説〜 サウンドトラック ベストセレクション | パム('''宍戸留美''') |「森の夢」 | テレビアニメ「[[甲虫王者ムシキング 森の民の伝説]]」挿入歌 |- | rowspan="2" | 5月25日 | rowspan="2" | アニマル横町バラエティアルバム2 どき☆どき無人島の巻 | イヨ('''宍戸留美''') | 「ハエジゴクのLove letter」 | rowspan="3" | テレビアニメ「[[アニマル横町]]」関連曲 |- | イヨ('''宍戸留美''')・ケンタ([[永澤菜教]])・イッサ([[佐藤ゆうこ (声優)|佐藤ゆうこ]]) | 「みんなでアニ横音頭」 |- | 7月21日 | アニマル横町 バラエティCD3 〜どき☆どきDJの巻〜 | アニヨコーズ<ref group="メンバー">あみ([[江里夏]])・くみこ([[福原香織]])・イヨ('''宍戸留美''')</ref> | 「ビミョーなPOSITION」 |- | 11月22日 | テレビアニメーション「N・H・Kにようこそ!」サウンドコレクション サニーサイドにようこそ! | プルリン('''宍戸留美''') | 「ふしぎ・プルプル・プルリン・リン!」 | テレビアニメ「[[N・H・Kにようこそ!]]」挿入歌 |- ! colspan="5" | 2008年 |- | 12月17日 | キャラクターソングアルバム THE VARIA SONGS | マーモン('''宍戸留美''') | 「幻のアルコバレーノ」 | テレビアニメ「[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]」関連曲 |- ! colspan="5" | 2010年 |- | 2月24日 | [[WHITE ALBUM サウンドステージ02]] | rowspan="2" |松山めのう('''宍戸留美''') | 「ルック・オブ・ダーティ・ラブ」 | テレビアニメ「[[WHITE ALBUM]]」関連曲 |- | 3月24日 | [[WHITE ALBUM Character Song Best & Sound Track]] | 「シークレットカオス」 | テレビアニメ「[[WHITE ALBUM]]」挿入歌 |- | 4月21日 | TV ジュエルペット はっぴぃ♪ミュージック | ペリドット([[甲斐田ゆき]])、ルナ('''宍戸留美''')、ミルキィ([[内海慶子]]) | 「ストロベリータイム」 | テレビアニメ「[[ジュエルペット (アニメ)|ジュエルペット]]」挿入歌 |- ! colspan="5" | 2011年 |- | rowspan="2" | 7月6日 | rowspan="2" | Dororonえん魔くんメ〜ラめら 昭和ヒットスタジオ | rowspan="2" | 艶靡ちゃん('''宍戸留美''') |「青い果実」 | rowspan="2" | テレビアニメ『[[Dororonえん魔くん メ〜ラめら]]』挿入歌 |- |「ハチのムサシは死んだのさ」 |- ! colspan="5" | 2014年 |- | rowspan="2" | 4月30日 | rowspan="2" | プリティーリズム・レインボーライブ プリズム☆ミュージックコレクションDX | 天羽ジュネ('''宍戸留美''') |「nth color」 | rowspan="2"|テレビアニメ『[[プリティーリズム・レインボーライブ]]』挿入歌 |- | 天羽ジュネ('''宍戸留美''')、りんね([[佐倉綾音]]) | 「Sevendays Love, Sevendays Friend」 |- ! colspan="5" | 2020年 |- | rowspan="2" | 12月23日 | rowspan="2" | 映画「魔女見習いをさがして」ミュージック・コレクション | {{Vau|MAHO堂|3}} |「おジャ魔女カーニバル!!(魔女見習いをさがして Version)」 | 映画『[[魔女見習いをさがして]]』オープニングテーマ |- | 瀬川おんぷ('''宍戸留美''') | 「終わらない物語(魔女見習いをさがして Version)」 | 映画『[[魔女見習いをさがして]]』エンディングテーマ |} === その他 === * 素敵な歌たち([[2009年]][[1月22日]]) ** 『[[bibi]]〜留美美保〜』名義で発売。これは、上京した頃から親交のあった元[[東京パフォーマンスドール]]の[[米光美保]]とのユニットである。 == 出演 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビ番組=== <!--単発ゲストは記述不要--> * [[ウゴウゴルーガ|ウゴウゴルーガ2号]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[恐怖夜話]]([[京都放送|KBS京都]]・[[テレビ神奈川]]・[[サンテレビジョン|サンテレビ]]共同制作) * [[渋谷でチュッ]]([[テレビ東京]]) * [[聖PCハイスクール]](テレビ東京) * [[大竹まことのただいま!PCランド]](テレビ東京) * [[東京イエローページ]] 二代目Page7として出演(1990年4月 - 1990年9月 [[TBSテレビ]]) * マージナルマン(TBS) * 声友ヒャッカテン([[Music Japan TV]] Plus) * 鶴ちゃんのプッツン5([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * おつむのオムツ([[テレビ神奈川|TVK]]) * [[星期六我家的電視・三宅裕司の天下御免ね!]](TBS) * [[ソリトン (テレビ番組)|ソリトン]]「[[インディーズ]]特集」([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) === ラジオ === * [[ソード・ワールドRPG|ソード・ワールド うるわしの我が家亭]]([[TBSラジオ]]) * [[超学生ハビタ となりのハチャメちゃん]]([[文化放送]]) * [[宍戸留美 全人類が愛しい夜]]([[ニッポン放送]]) * [[伊集院光のOh!デカナイト|伊集院光のOh!デカナイトフライデースペシャル]](ニッポン放送) * [[古田新太のオールナイトニッポン]](ニッポン放送) * [[桑原茂一|桑原茂→]]の×××(ピー)ラジオ([[TOKYO FM]]) * ルンルンはミニがスキ!([[全国FM放送協議会|JFN]]) * [[FMヤングスタジオ]](1990年4月 - 1990年7月、JFNラジオ) - 水曜日レギュラーパーソナリティとして出演 * 浩一・ルンルンの気ままにクロストーク!(JFNラジオ) - [[衛藤浩一]]とパーソナリティとして出演 * 宍戸留美と[[里咲りさ]]のせーゆーラジオ(2022年3月5日 - 、stand.fm)<ref>{{Cite web|和書|url=https://ototoy.jp/news/105636|title=里咲りさ、宍戸留美と新ラジオ番組スタート!初回ゲストは山口勝平|publisher=OTOTOY|date=2022年2月22日|accessdate=2022-03-05}}</ref> === 映画 === * [[はいすくーる仁義]](1991年) - あゆみ 役 * [[Colors of Life]](2003年) * [[NANA]](2005年) - 坂上 役 * [[NANA|NANA2]](2006年) - 坂上 役 * [[砂の童話]](2007年) * [[雨女 (映画)|雨女]](2007年) * 宮田宗吉監督「何であたし」(2012年)[[ハンブルク日本映画祭]]上映主題歌「昼下がりのうた」 * [[世界の終わりのいずこねこ]](2015年) - イツ子のママ 役 *今関あきよし監督作品「カリーナの林檎 チェルノブイリの森」ママ役(吹き替え) *河合健監督作品「ひつじものがたり」遠野ゆきえ役 === ビデオ映画 === * [[離婚ゲーム]](1992年) * [[校内写生]]・制服密売香港事情 ZOKKONなの!!(1993年) === 舞台 === * 優曇華の花待ち得たる心地(ヤルッツェ、ブラッキン、2002年1月23日 - 27日、於・[[シアターサンモール]]) * [[信号戦隊 シグナルレンジャー]](50cc、2004年6月3日 - 6日、於・ウエストエンドスタジオ) * 夢芝居(リーゼント、2004年7月31日 - 8月1日、於・THEATER BRATS) * [[オズの魔法使い]] === 写真集 === * ホット・スケッチ([[ファンハウス]] / 1992年)ISBN 4-8470-2266-1 *東京幻想写真集 撮影:増田賢一 SNDL-0004(sundaliru/2016年) === テレビアニメ === {{dl2 | 1995年 | * [[ご近所物語]](1995年 - 1996年、'''幸田実果子'''{{R|ご近所物語}}) | 1997年 | * [[花より男子]]('''三条桜子''') * [[夢のクレヨン王国]](ゴマータ) | 1999年 | * [[おジャ魔女どれみ]](1999年 - 2003年、'''[[瀬川おんぷ]]'''、ロロ) - 4シリーズ{{Ras|第1期(1999年-2000年)、第2期『♯』(2000年-2001年)、第3期『も〜っと!』(2001年-2002年)、第4期『ドッカ〜ン!』(2002年-2003年)}} * [[ワイルドアームズ トワイライトヴェノム]](マリエル) | 2001年 | * [[遊☆戯☆王デュエルモンスターズ]](御伽ガールズ2) | 2002年 | * [[真・女神転生Dチルドレン ライト&ダーク]]('''レナ''') * [[デジモンフロンティア]](ロップモン) * [[満月をさがして]](七海) | 2003年 | * [[明日のナージャ]](2003年 - 2004年、ローズマリー・アップルフィールド<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20170902093524/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/8273| title = 明日のナージャ| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-05}}</ref>) * [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]](ヨッペ) * [[ぽぽたん]](雫) * [[ポポロクロイス (アニメ)|ポポロクロイス]](プンプン王女) * [[無限戦記ポトリス]](ララ) | 2004年 | * [[金色のガッシュベル!!]](2004年 - 2005年、レイラ) | 2005年 | * [[Xenosaga THE ANIMATION]]('''M.O.M.O.'''<ref>{{Cite web | url = http://www.toei-anim.co.jp/tv/xenosaga/charactor/chara/momo.html| title = CHARACTOR&CAST| publisher = 公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref>) * [[甲虫王者ムシキング 森の民の伝説]](2005年 - 2006年、'''パム'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/mushiking/| title = キャスト| publisher = 公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref>) * [[これが私の御主人様]](沢渡かりん) * [[冒険王ビィト]](2005年 - 2006年、'''ミルファ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/beet/character/| title = 冒険王ビィト|キャラクター/キャスト| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2023-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/beet_ex/character/| title = 冒険王ビィト エクセリオン|キャラクター/キャスト| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2023-01-14}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2005年)、第2期『エクセリオン』(2005年-2006年)}} * [[まじめにふまじめ かいけつゾロリ]](不動産屋、ディアリー) * [[アニマル横町]](2005年 - 2006年、'''イヨ'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/aniyoko/| title = キャスト| publisher = 公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref>) * [[Paradise Kiss]](幸田実果子<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.fujitv.co.jp/b_hp/parakiss/| title = 出演者| publisher = 公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref>、山口アリス) * [[おねがいマイメロディ]](宮前貴子) * [[ふしぎ星の☆ふたご姫]](パール) | 2006年 | * [[銀河鉄道物語 〜永遠への分岐点〜]](ハロルド) * [[シュガシュガルーン]](モカ、アンブル) * [[人造昆虫カブトボーグ V×V]](板里網子 / ベネチアン) * [[出ましたっ!パワパフガールズZ]](2006年 - 2007年、金時桜子 / セデューサ) * [[N・H・Kにようこそ!]](プルリン、緑川七菜子、トロトロ、レイ、記者、女の子、メイド、アナウンス、マウス、女子職員、メッセージの声、町娘、女子アナ、ラーメン屋店員) * [[働きマン]](野川由実) * [[吉宗 (パチスロ)|吉宗]](チビ姫) * [[エア・ギア]](蓮花) | 2007年 | * [[Saint October]](ソフィア<ref>{{Cite web | url = http://www.konami.jp/visual/saintoctober/staff_cast/index.html| title = CAST| publisher = 公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref>) * [[家庭教師ヒットマンREBORN!]](2007年 - 2010年、'''マーモン''') * [[彩雲国物語 (アニメ)|彩雲国物語]](茶春姫) * [[はぴはぴクローバー]]('''ひらりさん''') | 2008年 | * [[はたらキッズ マイハム組]](マリリン) | 2009年 | * [[ジュエルペット (アニメ)|ジュエルペット]](2009年 - 2014年、ダイアナ、ルナ)<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.tv-osaka.co.jp/jewelpet/chara/dbase.php#daiana| title = ジュエルペット キャラクター紹介| publisher = テレビアニメ「ジュエルペット」公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref> - 5シリーズ{{Ras|第1シリーズ(2009年 - 2010年)、第2シリーズ『てぃんくる☆』(2010年 - 2011年)、第3シリーズ『サンシャイン』(2011年 - 2012年)、第4シリーズ『きら☆デコッ!』(2012年 - 2013年)、第5シリーズ『ハッピネス』(2013年 - 2014年)}} * [[WHITE ALBUM]](松山めのう) | 2010年 | * [[B型H系]](山田のエロ神様、森先生) * [[はなかっぱ]](2010年 - 、'''ももかっぱ''') * [[学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD]](直美) | 2011年 | * [[Dororonえん魔くん メ〜ラめら]]('''艶靡ちゃん'''、ツトム)<ref>{{Cite web|和書| url = http://king-cr.jp/special/dororon-enmakun/staff/| title = キャスト| publisher = 公式サイト |accessdate = 2017-12-19}}</ref> * [[毎日かあさん]](黒野くん) | 2013年 | * [[プリティーリズム・レインボーライブ]](2013年 - 2014年、天羽ジュネ、氷室マリア) | 2015年 | * [[VENUS PROJECT|VENUS PROJECT -CLIMAX-]](黒城星<ref>{{Cite web|和書|work=TVアニメ『VENUS PROJECT VENUS PROJECT -CLIMAX-』公式サイト|url=http://vproject.jp/anime/character/|title=キャラクター|accessdate=2015-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150616185748/http://vproject.jp/anime/character/|archivedate=2015年6月16日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>) | 2018年 | * [[キラッとプリ☆チャン]](2018年 - 2020年、緑川かの子〈さら母〉、緑川太郎)<!-- 2018-11-18 --> | 2019年 | * [[臨死!!江古田ちゃん]]('''江古田ちゃん'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://ekodachan.com/|title=TVアニメ「臨死‼ 江古田ちゃん」|accessdate=2018-12-14}}</ref>〈第5話〉)<!-- 2019-02-06 --> * [[KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-]](天羽ジュネ)<!-- 2019-06-18 --> | 2022年 | * [[その着せ替え人形は恋をする]](二階堂シオン)<!-- 2022-02-13 --> }} === 劇場アニメ === * [[ご近所物語]](1996年、'''幸田実果子''') * [[映画 おジャ魔女どれみ♯]](2000年、'''瀬川おんぷ''') * も〜っと!おジャ魔女どれみ カエル石のひみつ(2001年、'''瀬川おんぷ''') * [[はなかっぱ#劇場アニメ|はなかっぱ 花さけ!パッカ〜ん♪ 蝶の国の大冒険]](2013年、'''ももかっぱちゃん''') * [[劇場版 プリティーリズム・オールスターセレクション プリズムショー☆ベストテン]](2014年、天羽ジュネ) * [[プリパラ (アニメ)|劇場版プリパラ み〜んなあつまれ!プリズム☆ツアーズ]](2015年、天羽ジュネ) * [[KING OF PRISM -PRIDE the HERO-]](2017年、天羽ジュネ)<!-- 2017-06-10 --> * [[劇場版 プリパラ&キラッとプリ☆チャン 〜きらきらメモリアルライブ〜]](2018年、天羽ジュネ)<!-- 2018-05-05 --> * [[魔女見習いをさがして]](2020年、瀬川おんぷ<ref>{{Cite web|work=映画「魔女見習いをさがして」公式サイト|url=https://www.lookingfor-magical-doremi.com/character/|title=CHARACTER/CAST|accessdate=2020-08-18}}</ref>、お好み焼き屋女性客)<!-- 2020-11-13 --> === OVA === * [[KO世紀ビースト三獣士]](1992年、'''ユーニ・チャーム・パスワード''') * [[時空異邦人KYOKO|時空異邦人KYOKO ちょこらにおまかせ!]](2001年、ちょこら) * [[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみナ・イ・ショ]](2004年、'''瀬川おんぷ''') * [[ねとらん者 THE MOVIE]](2004年、'''[[ビスケたん]]''') * [[君のいる町]](2012年、菊川琴音) === Web === {{dl2 | 2008年 | * [[ペンギン娘|ペンギン娘♥はぁと]](アクア) * ドラマ「鬼の人美に涙」神戸朱梨役 | 2010年〜 | * [[インターネット放送|インターネット]][[音楽番組]]『'''[[Oil in Life]]'''』(オイルインライフ) | 2019年 | * [[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ お笑い劇場]]('''瀬川おんぷ'''<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1553388755 『おジャ魔女どれみ』20周年記念〜マジカルステージ〜【AJ2019】],アニメイトタイムズ,2019年3月24日</ref>)<!--2019-03-23--> }} === ドラマCD === <!--アニメ出演作品については省略--> * [[うたたねひろゆき|うたたねひろゆき 音楽詩歌集 誘惑]](朗読とミニドラマ) * [[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ シリーズ]](1999年 - 2013年、'''瀬川おんぷ''') * [[デジモンアドベンチャー02|デジモンアドベンチャー02 夏への扉]](2001年、なっちゃん) * [[ゼノサーガシリーズ|ゼノサーガOUTER FILE]](2002年、'''M.O.M.O.''') * [[NHKにようこそ!|N・H・Kにようこそ!ドラマアルバム 第20.5話 フルボイスにようこそ!]](2006年、緑川七菜子、プルリン) * めぐる季節のなかで 春冬編(2015年、'''坂口香澄''') === 朗読 === * Audible『ムゲンのi : 上』 『ムゲンのi : 下』 === ゲーム === {{dl2 | 1994年 | * [[KO世紀ビースト三獣士|KO世紀ビースト三獣士 〜ガイア復活 完結編〜]]('''ユーニ・チャーム・パスワード''') | 1995年 | * おやじハンターマージャン(主題歌) | 1997年 | * [[恐怖新聞]] * スパークリング・フェザー * ボイスアイドルマニアックス〜プールバーストーリー(宍戸留美〈本人役〉) | 2002年 | * [[おジャ魔女どれみドッカ〜ン!にじいろパラダイス]]('''瀬川おんぷ''') * [[ゼノサーガシリーズ]](2002年 - 2006年、'''M.O.M.O.''') - 5作品 | 2003年 | * [[ワイルドアームズ アルターコード:エフ]]('''マリエル''') | 2004年 | * [[おジャ魔女あどべんちゃ〜ないしょのまほう]]('''瀬川おんぷ''') * [[金色のガッシュベル!! 激闘!最強の魔物達]](レイラ) ** [[金色のガッシュベル!! うなれ!友情の電撃2]](レイラ) | 2005年 | * [[金色のガッシュベル!! 友情タッグバトル2]](レイラ) ** [[金色のガッシュベル!! うなれ!友情の電撃 ドリームタッグトーナメント]](レイラ) * 金色のガッシュベル!! ゴー!ゴー!魔物ファイト!!(レイラ) * [[新世紀勇者大戦]]('''[[量子跳躍レイゼルバー|那由多せつな]]'''、那由多せつな’) * [[太鼓の達人|太鼓の達人 とびっきり!アニメスペシャル]](「L・O・V・E」歌唱) * [[NANA]]('''小松奈々''') * [[NAMCO x CAPCOM]](M.O.M.O.) * [[空色の風琴 Remix]]('''メナム''') | 2006年 | * アニマル横町 どき☆どき進級試験! の巻('''イヨ''') * 太鼓の達人8(「L・O・V・E」歌唱) | 2007年 | * [[アガレスト戦記]](フューリア) * [[テイルズ オブ イノセンス]](チトセ・チャルマ / サクヤ) * [[みんなのGOLF 5]](ソフィ) | 2008年 | * [[ミブリー&テブリー]]('''ミブリー''') | 2009年 | * [[サンデーVSマガジン 集結!頂上大決戦]] * [[桃色大戦ぱいろん]](永名刹那、フューリア) | 2010年 | * [[無限のフロンティアEXCEED スーパーロボット大戦OGサーガ]](M.O.M.O.、ヘラ・ガンド) | 2012年 | * [[タイムトラベラーズ]](山吹千里子) * テイルズ オブ イノセンス R(チトセ・チャルマ / サクヤ) | 2013年 | * [[プリティーリズム]](ジュネ)<!-- 2013-11-23 --> | 2014年 | * [[リング☆ドリーム]](ウィッシュ新妻) | 2019年 | * [[金色のガッシュベル!! Golden Memories]](レイラ<ref>{{Twitter status2|gbgm_official|1134347012156022784|4=金色のガッシュベル!! Golden Memoriesの2019年5月31日のツイート|5=2019-05-31}}</ref>)<!-- 2019-05-31 --> * [[ぷよぷよ!!クエスト]](瀬川おんぷ<ref>{{Cite web|和書|publisher=セガ|work=ぷよぷよ!!クエスト(ぷよクエ)公式サイト|url=https://puyopuyoquest.sega-net.com/news/191102_74132.html|title=『おジャ魔女どれみ』コラボイベント開催決定!|date=2019-11-02|accessdate=2020-09-05}}</ref>)<!-- 2019-11-15 --> | 2021年 | * [https://www.over-eclipse.com/ オーバーエクリプス](ポラリス) }} === 吹き替え === *[[エリアス ちいさなレスキューせん]](お姫様) *[[ヘラクレス (TVシリーズ)|ヘラクレス]](女の子) *マイ・フェア・マドレーヌ('''マドレーヌ''') *ラグラッツ === コマーシャル === * インフォスフィア「オツムのおつむ」(ナレーション / 歌) * [[OPA]](ナレーション / 歌 / クマ役) * [[六本木ヒルズ]](スピカ役) * [[電車でGO!]](ナレーション) * [[おかやまフォレストパーク ドイツの森|ドイツの森]](ナレーション / 歌 / 赤ずきんちゃん) * [[Nikon×PORTER]]( ルンルンベイビー名義 / 歌) * [[岩塚のベビーせんべい×はなかっぱ]](ももかっぱ役)wab CM * [[アサヒビール]](ナレーション)wab CM2019年 * ピノ 森永製菓 ストロベリームーン(月の声)web CM2019年 === 人形劇 === * [[こどもにんぎょう劇場]]「海底二万里2 〜ふしぎな海底探検〜」([[日本放送協会|NHK]]、マリアム) === その他 === * はだかん帽([[日本放送協会|NHK]][[みんなのうた]] 2004年8・9月度O.A.) * ぶたまんごころ(NHKみんなのうた、キャラクターデザイン) * スナメリくん(フォトアルバムCD)([[コダック|日本コダック]]) * ビスケたん目覚まし時計(ビスケたん) * [[DRIVE TO 2000]] * 『4』[[バンバンバザール]](「こんな気持ち」にゲストボーカル、1999年) * HONDALADYとのデュエットソング「timecode」(HONDADLYアルバム「TBTV」所収) * 大和証券WEBドラマ「ロクアナ」ヒロイン(製作 TFMインタラクティブ、制作 フォックス・21) * [[毎日放送]]深夜バラエティ枠「[[パノラマ電波横丁]]」オープニングアニメ「ケナゲちゃん」キャラクターデザイン(2001年4月 - 2002年3月) * 世田谷区制80周年記念イベント式典総合司会(2012年) * KONICA MINOLTA プラネタリウム はなかっぱ 花さけ!パッカ〜ん 宇宙旅行(2018年) * 宍戸留美presents〜ひとりひとりにクリスマス〜(2021年、下北沢ニュー風知空知) == 関連項目 == * [[矢沢あい]] * [[チャパリータASARI]] - 二階堂高校時代の同級生 * [[宍戸氏]] - 宍戸は安芸宍戸氏の末裔で、祖父は寂定寺([[安芸高田市]][[甲田町]])住職。 * [[橋口いくよ]] * [[及川光博]] - 櫻田実果子の名義で、コーラスなどで楽曲に参加している。 * [[小明]] * [[森下純菜]] - アイドルタレント・歌手。宍戸と共にユニット「'''RunJun'''」を組み、ライブ活動を行っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Vau|h=3}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} {{Ras}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="ご近所物語">{{Cite web|和書| accessdate=2023-02-01 | publisher=東映アニメーション| title=キャラクター/キャスト | url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/gokinjyo/character/ | website=東映アニメーション作品ラインナップ | work=ご近所物語}}</ref> }} == 参考文献 == * 吉田豪 『元アイドル!』 <新潮文庫> 新潮社 2008年6月1日 207-224頁 ISBN 978-4898297926 == 外部リンク == * {{Official website|rumi-shishido.com/}} * {{Wayback|date=19980513224223|url=http://rumi.arena.ne.jp/|title=WebARENA 旧公式ホームページ}} * {{URL|https://sundaliru.stores.jp/|sundaliru's STORE}} * {{Official blog|http://sundaliru.exblog.jp/|宍戸留美公式ブログ}} - [[エキサイト]] (2005年4月16日 - 2007年6月9日) * {{Ameba blog|rumi-shishido|宍戸留美 Rumi LOUVRE}} (2007年6月6日 - 2008年11月29日) * {{Ameba blog|sundaliru}} (2009年2月22日 - ) * {{Wayback|date=20120629065949|url=http://gree.jp/shishido_rumi|title=宍戸留美 公式ブログ}} - [[GREE]] (2010年8月20日 - 2012年6月9日) * {{Note.com|id=rumishishido}} (2014年7月30日 - ) * {{Twitter|RumiShishido}} * {{threads|rumishishido}} * {{Instagram|rumishishido}} * {{Facebook|sundaliru}} * {{TikTok|rumishishido}} * {{YouTube|user=sundaliru|Rumi Shishido}} * {{MySpace|id=rumishishido}} * {{Stand.fm|id=62910a9df5aec42d87b7185b|name=ルンルンの時間旅行ラジオ}} * {{URL|http://www.o-i-l.jp|宍戸留美×津田大介 Oil in Life-JUNSTV}} * {{Allcinema name|id=272253|name=宍戸留美}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ししと るみ}} [[Category:日本の女性ポップ歌手]] [[Category:日本の女性アイドル]] [[Category:日本の女性声優]] [[Category:20世紀日本の女優]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:日本のキャラクターデザイナー]] [[Category:みんなのうたの映像制作者]] [[Category:広島市出身の人物]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
2003-09-22T07:19:32Z
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蒲鉾
蒲鉾(かまぼこ)は、魚肉のすり身を成形して加熱した魚肉練り製品の一種。広義の蒲鉾には、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、ちくわ、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ(はんぺんや鳴門巻きなど)、揚げかまぼこ(薩摩揚げなど)がある。狭義には蒸板蒲鉾のことをいう(蒸しかまぼこの一種)。狭義には蒸板蒲鉾のことをいうが、広義にはちくわや薩摩揚げも含む。 代表的な蒲鉾製品は、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、ちくわ、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ(はんぺんや鳴門巻きなど)、揚げかまぼこに分類される。沖縄などでは単に蒲鉾と言えば揚げ蒲鉾を指す場合が多い。製法により、杉などの小板に半円筒形に、いわゆる蒲鉾型に盛り付けた「板蒲鉾」、麦わらなどに巻き付けた「(簀)巻蒲鉾」、薄く削った蒲鉾を乾燥させた「削り蒲鉾」などがある。 原料魚は主にスケトウダラ(スケソウダラ)、イワシ、イトヨリダイ、イシモチ(グチ)、タチウオ、ハモ、エソ、ヨシキリザメなどで蒲鉾の種類により原料魚も多少異なる。蒲鉾表面に現れる微小な黒い点は魚皮で、食用に問題はない。地域性のある食材で各地で地魚の特性を利用した蒲鉾製品が作られてきた。 日本の蒲鉾製造会社は、大手企業では紀文食品、一正蒲鉾、スギヨ、堀川、その他地域限定会社として、かま栄などが挙げられる 魚肉は食塩とともにすり潰すとタンパク質が溶け出して網目状に結び付き、加熱するとさらに網目構造が強固になって独特の食感を出す。蒲鉾の歯応えは「足(あし)」と呼ばれ、蒲鉾の商品価値を左右する。この「足」は、魚肉の筋原繊維を構成するミオシンのS-S結合(ジスルフィド結合)が関与している。また歯ごたえを出すために、多くの蒲鉾では澱粉などの添加も行われる。 かまぼこの種類やパッケージ(包装)の種類にもよるが、一般に、魚肉練り製品は細菌、カビなどで腐敗しやすい。たいてい冷蔵保存が指定されていて、表示されている保存期間は1~2週間程度のものが多く、長くてもせいぜい3週間で、一旦パッケージを開けたら1~2日のうちに食べきることが勧められていることが多く、ベストは(つまり美味しく安全に食べる最善の方法は)24時間以内に食べきること、とも言われている。真空パックや脱酸素剤などが添えられているものなどは、比較的長期に保存できるものもある。保存期間は商品に表示されている。いずれにせよ一旦開封したら腐敗が始まるので1~2日で食べきるものとされている。 平安時代にはあったことが知られているが、その形状は現在のちくわである。 古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作った。その形が蒲(がま)の穂に似ていることから、「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされる。この最初期の蒲鉾は現在のような海水魚ではなく、主に淡水魚のナマズを原料としていた。竹を抜き去ると現在の竹輪の形になる。後に板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、元祖の方は「蒲鉾」が脱落して単に「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は逆に板が外れて「蒲鉾」になった。平安時代の『類聚雑要抄』には、藤原忠実が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時の串を刺した蒲鉾が載っている。これを確認できる最古の文献上の蒲鉾であるとして、業界団体がその数字をとって11月15日を蒲鉾の日としている。 白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走と考えられた。時に贈答品として用いられ、御節料理にも利用される。豊臣秀頼の大好物であったと伝えられ、本能寺での織田信長の最後の晩餐にも供された。なお、蒲鉾が商品として販売されるようになったのは江戸時代以降、食品工業的な生産が行われるのは明治以降とされる。 江戸時代の『守貞漫稿』二十八では、蒲鉾について「今製は図の如く三都ともに杉板面に魚肉を推し蒸す蓋し京坂には蒸したるままをしらいたと云ふ板の焦ざる故也多くは蒸して後焼きて売る江戸にては焼きて売ること無レ[返り点]之皆蒸したるのみを売る」「江戸は百文百四十八文二百文二百四十八文を常とす蓋し二百文以上多くは櫛形の未レ[返り点]焼物也」「三都とも精製は鯛ひらめ等を専らとすまた京坂は鱧製を良とす江戸は虎きすを良とす凡製のものは三都とも鮫の類を専らとす鮫の頭数種あり名を略す」といい、『東海道中膝栗毛』で北八は「ときにさかなはははアかまぼこも白板ださめじやアあんめへ」と喜んでいる。 日本農林規格及び品質表示基準ではかまぼこ類を、蒸しかまぼこ類、焼抜きかまぼこ類、ゆでかまぼこ類、揚げかまぼこ類に分類する。なお、日本農林規格には「特殊包装かまぼこ類」(1974年(昭和49年)10月〜2005年(平成17年)5月)と「風味かまぼこ」(1990年(平成2年)5月〜2005年(平成17年)5月)の規格もあったが、これらの日本農林規格は廃止されており、その後品質表示基準についても見直しが行われた。 一般的には、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、ちくわ、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ、揚げかまぼこ、特殊包装かまぼこ、細工かまぼこに分類されている。 いずれの水産練り製品も「魚肉を塩とともにすり潰して成形し加熱する」という基本工程は、ほぼ同じである。 蒲鉾も、採肉(さいにく)、水晒し(みずさらし)、脱水(だっすい)、擂潰(らいかい、「すり身」づくり)まではほぼ同じで、その先は種類により成形と加熱方法が異なっている。 練りつぶし魚肉を細断して繊維状にした物。又はこれを棒状等に成形し、加熱してたんぱくを凝固させた物。その形状・香味及び食感がかに肉、ほたて貝柱等に類似した物を言う。 練りつぶし魚肉またはこれに種ものを加えたものをケーシングに充填し、またはフィルムで包装した後、加熱してたんぱくを凝固させた製品を言う。 鯛や水引などの形に蒲鉾を整形した物で蒲鉾細工とも言う。富山県などで作られている食紅などで色付けしたすり身を絞り袋を使って成形する絞出しかまぼこ、福岡県などで作られている色ごとに絵柄を重ねる刷出しかまぼこ、神奈川県などで作られている色のすり身を金太郎飴のように重ねて同じ絵柄を切り出す切出しかまぼこがある。 結婚式の引出物など冠婚葬祭の引出物として作られている。本格的な製品は、鯛型で実物大程度の大きさがある。また、松竹梅の形にし、縁起物としても作られている。島根県の大社地方を中心に古くから作り伝えられてきた細工蒲鉾は、婚礼(披露宴)の引出物として有名である。他に富山県や京都府舞鶴市の細工蒲鉾が知られる。中国の影響を受けた飾りなので、長崎県などでは鯛ではなく、鯉をかたどったとされる。富山の細工蒲鉾は多様で、大きい製品では体長60 cmほどの尾頭付きのタイや鶴、亀、富士山や松、宝船、末広、巾着などが描かれた製品もある。 蒲鉾は加熱済み食品であるため、そのまま食べることができる。なかでも、おろしわさびを添えて一緒に食べることを板わさという。そば屋でしばしば提供されているが、家庭でも食されている。居酒屋で「酒の肴」として提供されており家庭でも晩酌の「酒の肴」にする人もいる。板わさは味もよいが、わさびには殺菌効果がありその意味でも評価されている。 薄く切って、うどんや蕎麦のトッピング、雑煮など汁の実とすることも一般的である。煮物の具材や、玉子丼の具にも用いる。茶碗蒸しに入れることも多い。 また、生を避けて、焼いたり、炙ったりして食べることを好む人もいる。 ほかにも炒めたり、素揚げやてんぷら、フライなど、様々な調理を行うことも可能である。 福井県敦賀市周辺の食堂には、蒲鉾をメインのおかずとした「かまぼこ定食」というメニューがある。 紅白の蒲鉾を「紅白は縁起が良い」とか「見栄えがする」としておせちに入れることも多い。ただし、おせちに入れる食品というのは一般に味を濃くしたり酢を加えるなどして「日もち」のする状態にしたもの(保存性が良いもの)が選ばれ、数日に分けて食べられることがしばしばなので、そこに蒲鉾を開封して切ってしまった状態で入れると、例外的にとびぬけて「日もちのしないもの」になってしまうので、他の食品と同じように見なすのではなく、蒲鉾だけは別扱いして、1日目(元日)に食べきることが勧められる。
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蒲鉾(かまぼこ)は、魚肉のすり身を成形して加熱した魚肉練り製品の一種。広義の蒲鉾には、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、ちくわ、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ(はんぺんや鳴門巻きなど)、揚げかまぼこ(薩摩揚げなど)がある。狭義には蒸板蒲鉾のことをいう(蒸しかまぼこの一種)。狭義には蒸板蒲鉾のことをいうが、広義にはちくわや薩摩揚げも含む。
[[File:Kamaboko.jpg|thumb|280px|蒸板蒲鉾。狭義の蒲鉾。]] [[File:sasakamaboko.jpg|thumb|280px|笹蒲鉾]] [[File:Banshu deep-fried Kamaboko.JPG|thumb|280px|揚げ蒲鉾]] [[File:Kamaboko shop by macglee in Nishiki Ichiba, Kyoto.jpg|thumb|200px|蒲鉾専門店に並ぶさまざまな蒲鉾]] {{Infobox prepared food | name = 蒲鉾 | alternate_name = | country = | region = | national_cuisine = | creator = | year = [[平安時代]] | mintime = | maxtime = | type = [[魚肉練り製品]] | course = | served = | main_ingredient = [[白身魚]]、卵白、塩 | minor_ingredient = | variations = | serving_size = 100 g | calories = | protein = | fat = | carbohydrate = | glycemic_index = | similar_dish = | other = | complexity = }} '''蒲鉾'''(かまぼこ)は、[[魚肉]]の[[すり身]]を成形して加熱した[[魚肉練り製品]]の一種<ref>{{Cite web|和書|title=かまぼこの豆知識 |url=https://www.e-sutokama.com/kamaboko/mame.html |website=www.e-sutokama.com |access-date=2022-11-05}}</ref>。広義の蒲鉾には、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、[[竹輪|ちくわ]]、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ([[半片|はんぺん]]や[[鳴門巻き]]など)、[[揚げかまぼこ]]([[薩摩揚げ]]など)がある<ref name="kamaboko-J" />。狭義には蒸板蒲鉾のことをいう<ref name="rwmc" />(蒸しかまぼこの一種)。狭義には蒸板蒲鉾のことをいうが、広義にはちくわや[[薩摩揚げ]]も含む<ref name="rwmc">{{Cite web|和書|url=https://www.rwmc.or.jp/library/other/file/RWMC-TRJ-13001-2_zyokyoritu_honpen.pdf|title=食品の調理・加工による放射性核種の除去率|website=公益財団法人 原子力環境整備促進・資金管理センター|accessdate=2021-10-17}}</ref>。 == 概説 == 代表的な蒲鉾製品は、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、ちくわ、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ([[半片|はんぺん]]や[[鳴門巻き]]など)、[[揚げかまぼこ]]に分類される<ref name="kamaboko-J" />。沖縄などでは単に蒲鉾と言えば揚げ蒲鉾を指す場合が多い<ref>[http://www.kibun.co.jp/product/vol09/iroha.html 紀文蒲鉾シリーズ『蒲鉾ができるまで』]</ref>。製法により、[[スギ|杉]]などの小板に半円筒形に、いわゆる蒲鉾型に盛り付けた「板蒲鉾」、[[藁|麦わら]]などに巻き付けた「(簀)巻蒲鉾」、薄く削った蒲鉾を乾燥させた「削り蒲鉾」などがある<ref>住江金之監修「原色食品図鑑」[[建帛社|KENPAKUSYA]] p.88 (かまぼこの項)</ref>。 原料魚は主に[[スケトウダラ|スケトウダラ(スケソウダラ)]]、[[イワシ]]、[[イトヨリダイ]]、[[シログチ|イシモチ(グチ)]]、[[タチウオ]]、[[ハモ]]、[[エソ]]、[[ヨシキリザメ]]などで蒲鉾の種類により原料魚も多少異なる<ref name="kamaboko-J" />。蒲鉾表面に現れる微小な黒い点は魚皮で、食用に問題はない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kibun.co.jp/contact/faq/feature/faq303.html |title=蒲鉾の表面に、時々、小さな黒っぽいものがついているのは何ですか。 |publisher=[[紀文食品]] |accessdate=2020-08-13 }}</ref>。地域性のある食材で各地で地魚の特性を利用した蒲鉾製品が作られてきた<ref name="kamaboko-J" />。 日本の蒲鉾製造会社は、大手企業では[[紀文食品]]、[[一正蒲鉾]]、[[スギヨ]]、[[株式会社堀川|堀川]]、その他地域限定会社として、[[かま栄]]などが挙げられる ;特徴 魚肉は食塩とともにすり潰すと[[タンパク質]]が溶け出して網目状に結び付き、加熱するとさらに網目構造が強固になって独特の食感を出す<ref name="kamaboko-J">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkama.jp/wp-content/uploads/kamaboko-J.pdf|title=蒲鉾 kamaboko|website=日本かまぼこ協会|accessdate=2021-10-17}}</ref>。蒲鉾の歯応えは「足(あし)」と呼ばれ、蒲鉾の商品価値を左右する。この「足」は、魚肉の[[筋肉#筋原繊維(筋原線維)|筋原繊維]]を構成する[[ミオシン]]のS-S結合([[ジスルフィド結合]])が関与している。また歯ごたえを出すために、多くの蒲鉾では[[デンプン|澱粉]]などの添加も行われる。 かまぼこの種類やパッケージ(包装)の種類にもよるが、一般に、魚肉練り製品は[[細菌]]、[[カビ]]などで腐敗しやすい<ref>住江金之監修「原色食品図鑑」KENPAKUSYA p.88 </ref>。たいてい冷蔵保存が指定されていて、表示されている保存期間は1~2週間程度のものが多く<ref name="erecipe">[https://erecipe.woman.excite.co.jp/article/E1595369180400/]</ref>、長くてもせいぜい3週間で<ref name="erecipe" />、一旦パッケージを開けたら1~2日のうちに食べきることが勧められていることが多く<ref name="erecipe" />、ベストは(つまり美味しく安全に食べる最善の方法は)24時間以内に食べきること、とも言われている<ref name="erecipe" />。[[真空パック]]や脱酸素剤などが添えられているものなどは、比較的長期に保存できるものもある。保存期間は商品に表示されている。いずれにせよ一旦開封したら腐敗が始まるので1~2日で食べきるものとされている。 == 歴史 == [[平安時代]]にはあったことが知られているが、その形状は現在のちくわである。 古くは材料を[[竹]]の棒に筒状に巻いて作った。その形が[[ガマ|蒲]](がま)の穂に似ていることから、「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされる<ref>清水亘、「[https://doi.org/10.11402/cookeryscience1968.15.4_196 かまぼこ今昔]」 『調理科学』 1982年 15巻 4号 p.196-199, {{doi|10.11402/cookeryscience1968.15.4_196}}</ref>。この最初期の蒲鉾は現在のような[[海水魚]]ではなく、主に[[淡水魚]]の[[ナマズ]]を原料としていた。竹を抜き去ると現在の[[竹輪]]の形になる。後に板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、元祖の方は「蒲鉾」が脱落して単に「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は逆に板が外れて「蒲鉾」になった<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会|authorlink=フジテレビジョン |year=2003 |title=[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]〜へぇの本〜 1 |publisher=[[講談社]]}}</ref>。[[平安時代]]の『[[類聚雑要抄]]』には、[[藤原忠実]]が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時の串を刺した蒲鉾が載っている<ref name=cookeryscience1968.16.3_168>岡田稔、「[https://doi.org/10.11402/cookeryscience1968.16.3_168 かまぼこのピンからキリまで]」 『調理科学』 1983年 16巻 3号 p.168-172, {{doi|10.11402/cookeryscience1968.16.3_168}}</ref>。これを確認できる最古の文献上の蒲鉾であるとして、業界団体がその数字をとって[[11月15日]]を蒲鉾の日としている<ref name="odawara">{{Cite web|和書|url=http://www.kamaboko.or.jp/saijiki.html|title=かまぼこ歳時記 11月15日は『かまぼこの日』|publisher=小田原蒲鉾協同組合|accessdate=2013-06-11}}</ref>。 白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走と考えられた。時に[[贈り物|贈答品]]として用いられ、[[御節料理]]にも利用される。[[豊臣秀頼]]の大好物であったと伝えられ、[[本能寺]]での[[織田信長]]の最後の晩餐にも供された。なお、蒲鉾が商品として販売されるようになったのは[[江戸時代]]以降、[[食品工業]]的な生産が行われるのは明治以降とされる<ref name=cookeryscience1968.16.3_168 />。 江戸時代の『[[守貞漫稿]]』二十八では、蒲鉾について「今製は図の如く三都ともに杉板面に魚肉を推し蒸す蓋し京坂には蒸したるままをしらいたと云ふ板の焦ざる故也多くは蒸して後焼きて売る江戸にては焼きて売ること無レ&#91;[[漢文訓読#返り点|返り点]]&#93;之皆蒸したるのみを売る」「江戸は百文百四十八文二百文二百四十八文を常とす蓋し二百文以上多くは櫛形の未レ[返り点]焼物也」「三都とも精製は鯛ひらめ等を専らとすまた京坂は鱧製を良とす江戸は虎きすを良とす凡製のものは三都とも鮫の類を専らとす鮫の頭数種あり名を略す」といい、『[[東海道中膝栗毛]]』で北八は「ときにさかなはははアかまぼこも白板ださめじやアあんめへ」と喜んでいる。 == 分類 == 日本農林規格及び品質表示基準ではかまぼこ類を、蒸しかまぼこ類、焼抜きかまぼこ類、ゆでかまぼこ類、揚げかまぼこ類に分類する<ref name="maff7">{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/jas/kaigi/pdf/090828_sokai_j.pdf|title=品質表示基準の見直しについて「特殊包装かまぼこ類」|website=農林水産省|accessdate=2021-10-17}}</ref>。なお、日本農林規格には「特殊包装かまぼこ類」(1974年(昭和49年)10月〜2005年(平成17年)5月)と「風味かまぼこ」(1990年(平成2年)5月〜2005年(平成17年)5月)の規格もあったが、これらの日本農林規格は廃止されており、その後品質表示基準についても見直しが行われた<ref name="maff7" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/jas/kaigi/pdf/090828_sokai_k.pdf|title=品質表示基準の見直しについて「風味かまぼこ」|website=農林水産省|accessdate=2021-10-17}}</ref>。 # '''蒸しかまぼこ'''類:練りつぶし魚肉又はこれに種ものを加えた物を成形し、蒸煮して[[タンパク質|たんぱく]]を凝固させた製品を言う。さらに蒸しかまぼこ、板付きかまぼこ(小田原かまぼこなど)、蒸焼きかまぼこ(焼板かまぼこなど)、蒸しちくわに分類される<ref name="maff7" />。 # '''焼抜きかまぼこ'''類:練りつぶし魚肉又はこれに種ものを加えた物を成形し、焙焼して、たんぱくを凝固させた製品を言う。さらに焼抜きかまぼこ(笹蒲鉾など)、板付焼抜きかまぼこ(白焼蒲鉾など)、卵黄焼きかまぼこ([[伊達巻]]など)、焼きちくわに分類される<ref name="maff7" />。 # '''ゆでかまぼこ'''類:ゆでかまぼこ([[鳴門巻き|なると]]や[[つみれ]]など)と[[半片|はんぺん]]に分類される<ref name="maff7" />。 # '''揚げかまぼこ'''類:[[薩摩揚げ]]などである<ref name="maff7" />。 一般的には、蒸しかまぼこ、焼抜きかまぼこ、ちくわ、風味かまぼこ、ゆでかまぼこ、揚げかまぼこ、特殊包装かまぼこ、細工かまぼこに分類されている<ref name="bible">{{Cite web|和書|url=https://www.ichimasa.co.jp/enjoy/pdf/kamaboko_bible.pdf|author=全国蒲鉾水産加工業協同連合会、全国水産煉製品協会|title=かまぼこなんでもバイブル kamaboko|website=一正蒲鉾|accessdate=2021-10-17}}</ref>。 == 製法 == いずれの水産練り製品も「魚肉を塩とともにすり潰して成形し加熱する」という基本工程は、ほぼ同じである<ref name="rwmc" />。 蒲鉾も、採肉(さいにく)、水晒し(みずさらし)、脱水(だっすい)、擂潰(らいかい、「すり身」づくり)まではほぼ同じで、その先は種類により成形と加熱方法が異なっている。 === 基本行程 === # 原料魚の洗浄処理・採肉 - スケトウダラ、グチ、エソなどの原料から頭や内臓などを除去して洗浄し、専用の機械(採肉機)か手作業で肉の部分(落とし身)のみを取り出す<ref name="rwmc" />。 # 水晒し - 落とし身を水で洗浄する<ref name="rwmc" />。 # 脱水 - ふるいなどで水を切りスクリュープレス機や油圧式プレス機で脱水する<ref name="rwmc" />。裏ごしして砂糖などの凍結変性防止剤を添加し凍結したものが冷凍すり身で、冷凍すり身を仕入れてかまぼこを製造する工場の方が多い<ref name="rwmc" />。 # 擂潰(らいかい) - 冷凍すり身に塩を加えながらすり潰して(塩ずり)調味料を加える<ref name="rwmc" />。 # 成形・加熱 - 製品ごとの形態に合わせて成形し(つまり形をととのえたり袋状の容器に入れるなどし)、加熱する(蒸す、焼く、揚げる、茹でる)<ref name="rwmc" />。 {{Gallery|width=250px |File:TubOfSurimi.jpg|擂潰(らいかい)して出来た「すり身」 |File:鈴廣 実演 (24855317970).jpg|成形の実演。「すり身」を木の板や竹の棒などにつけて形をととのえている例。 |File:Korean_snack-Eomukbar-01.jpg|参考画像。韓国の蒲鉾の成形の実演。本質的には、日本でも韓国でも同じ作業。 }} === 蒸しかまぼこ === ; 蒸板蒲鉾 : 関東地方をはじめ全国にみられる一般的な蒲鉾で調味すり身を板に盛り付け蒸したもの<ref name="bible" />。練り合わせた身を「手付包丁(附庖丁、つけぼうちょう)」と言う[[へら]]状の特殊な[[包丁]]を用い、「蒲鉾板」に半円状に盛り付けてゆく。機械で盛り付けたり、型抜きで成形されることもある。 ; 焼板蒲鉾 : 関西地方の蒲鉾で蒸板蒲鉾の表面にみりんなどを塗り焼き目を付けたもの<ref name="bible" />。 ; 昆布巻蒲鉾(巻蒲鉾) : 富山県の蒲鉾で板状にしたすり身を昆布とともに巻いた板無しの蒲鉾<ref name="bible" />。断面に[[鳴門巻き]]のような模様ができるのが特徴。もともと[[コンブ|昆布]]を巻き込んだ「[[昆布巻き]](こぶまき)」を作るための製法で、昆布の代わりに焼き締めた蒲鉾で巻く「赤巻」「青巻」「白巻」などもある。同県や隣県の石川県では定番の食材で、両県で店舗で供される[[うどん]]・[[蕎麦|そば]]等には入っている事が多く、他地域からの旅行者からは[[ラーメン]]同様の鳴門巻きと誤解される事がある<ref>[[鉄道ジャーナル|鉄道ジャーナル社]]「[[旅と鉄道]]」2002年春の号No.136の「タビテツ探検隊」では、[[金沢駅]]の「白山そば」で供された天ぷらそばに乗っていた赤巻を記者がナルトと誤解して記述している。</ref>。 ; 簀巻き蒲鉾<!--麦わら蒲鉾とはあまり呼ばない--> : [[中国・四国地方]]に多く見られる、すり身を[[藁|麦わら]]で巻き付けて蒸して作った板無しの蒲鉾<ref name="bible" />。プラスチックの[[ストロー]]を巻いている製品もある。「つと巻」とも呼ばれる<ref name="bible" />。 === 焼抜かまぼこ === ; 焼き通し蒲鉾 : 京阪神地方で作られるハモなどのすり身を原料とする板付焼抜蒲鉾の一種<ref name="bible" />。蒸し蒲鉾とは異なり板面から焼いて火を通しているため板に焼き目があるのが特徴<ref name="bible" />。関東地方では単に「焼き抜き蒲鉾」ともいう<ref name="bible" />。 ; 白焼蒲鉾 : [[山口県]]で作られるエソや小鯛などのすり身を原料とする板付焼抜蒲鉾の一種<ref name="bible" />。「焼き通し蒲鉾」と同様の板付きの焼き抜き蒲鉾であるが、すり身の面をほとんど加熱しない(基本的に板の下から間接的に加熱する)ため表面に焼き目は付かない。焼き上げ後に常温で冷却するため表面に縮緬状のしわが出来ることが特徴である<ref name="bible" />。 ; 笹蒲鉾 : [[File:Sasakamaboko on the burning charcoal by nyaa birdies perch.jpg|thumb|180px|笹蒲鉾を炭火であぶっているところ]] : [[File:Take ni Suzume.svg|thumb|[[伊達氏#家紋|伊達家の家紋]]「竹に雀」]] : 宮城県特産の笹の葉の形に成形した焼抜かまぼこである<ref name="bible" />。製法は、笹形の木枠あるいは鉄製枠にすり身を入れておおよそを成型し、贈答品などではその後手で細かな成形をする工程を入れて、竹串に刺して焼いて作られる。 : 明治初期に[[仙台市|仙台]]で[[ヒラメ]]の大漁が続いた際、保存するためすり身にして蒲鉾を作りさらに焼いたが、その時に[[ササ|笹]]の葉の形にしたのが始まりとされる<ref name=kanezaki>[http://kanezaki.co.jp/shiritai/meibutsu_sasakama.html 笹かまぼこと仙台] - [[鐘崎 (企業)|鐘崎]]</ref>。それ以後仙台の魚屋では自家製の笹蒲鉾を売るようになったという<ref name=abe>[http://www.abekama.co.jp/?p=910 【 笹かまぼこの由来と、阿部蒲鉾店 】] - 阿部蒲鉾</ref>。 : 当初は「木の葉かまぼこ」「手のひらかまぼこ」「平かまぼこ」「[[舌|ベロ]]かまぼこ」などと呼ばれていたが、[[仙台市]][[一番町 (仙台市)|一番町]]に1935年([[昭和]]10年)創業した[[阿部蒲鉾店]]において、旧[[仙台藩]]主[[伊達氏|伊達家]]の[[家紋]]「竹に雀」の笹にちなんで「笹かまぼこ」と呼ぶようになってから、旧仙台藩地域で次第に名称が統一されていった<ref name=abe></ref>。 : [[支店経済都市]]である仙台市の[[仙台駅]]で土産品としての地位を確立したため、全国的には「'''[[仙台市]]'''の特産品」との認識もあるが、名称の由来からも「'''旧[[仙台藩]]地域'''の特産品」であり(→[[仙台市|仙台]]参照)、[[特定第3種漁港]](全国的重要漁港)を擁する[[気仙沼市]]・[[石巻市]]・[[塩竈市]]を始め、[[宮城県]]は[[高政]]や[[鐘崎 (企業)|鐘崎]]など笹蒲鉾を主力とする水産物加工会社が軒を連ねており、蒲鉾の消費量・生産量共に日本一となっている<ref name=kanezaki></ref>。 === 風味かまぼこ === 練りつぶし魚肉を細断して繊維状にした物。又はこれを棒状等に成形し、加熱してたんぱくを凝固させた物。その形状・香味及び食感がかに肉、ほたて貝柱等に類似した物を言う。 === 特殊包装かまぼこ === 練りつぶし魚肉またはこれに種ものを加えたものをケーシングに充填し、またはフィルムで包装した後、加熱してたんぱくを凝固させた製品を言う。 * ケーシング詰かまぼこ - 練りつぶし魚肉をケーシング(肉をつめる袋)に充填し、密封した後、加熱した製品<ref name="maff7" />。 * リテーナ成形かまぼこ - 練りつぶし魚肉をフィルム包装した後、型枠に入れて加熱した製品<ref name="maff7" />。 === 細工かまぼこ === [[File:umekama1.jpg|thumb|細工蒲鉾(鯛蒲鉾)]] [[鯛]]や[[水引]]などの形に蒲鉾を整形した物で'''蒲鉾細工'''とも言う。富山県などで作られている食紅などで色付けしたすり身を[[絞り袋]]を使って成形する'''絞出しかまぼこ'''、福岡県などで作られている色ごとに絵柄を重ねる'''刷出しかまぼこ'''、神奈川県などで作られている色のすり身を[[金太郎飴]]のように重ねて同じ絵柄を切り出す'''切出しかまぼこ'''がある<ref name="bible" />。 [[結婚式]]の引出物など冠婚葬祭の引出物として作られている。本格的な製品は、鯛型で実物大程度の大きさがある。また、[[松竹梅]]の形にし、縁起物としても作られている。[[島根県]]の[[大社]]地方を中心に古くから作り伝えられてきた細工蒲鉾は、婚礼(披露宴)の引出物として有名である。他に[[富山県]]や[[京都府]][[舞鶴市]]の細工蒲鉾が知られる。[[中国]]の影響を受けた飾りなので、長崎県などでは鯛ではなく、[[コイ|鯉]]をかたどったとされる。富山の細工蒲鉾は多様で、大きい製品では体長60 cmほどの尾頭付きのタイや[[ツル|鶴]]、[[カメ|亀]]、[[富士山]]や[[マツ|松]]、[[宝船]]、[[中啓|末広]]、[[巾着]]などが描かれた製品もある。 == 食べ方 == 蒲鉾は加熱済み食品であるため、そのまま食べることができる。なかでも、おろし[[わさび]]を添えて一緒に食べることを[[板わさ]]という。そば屋でしばしば提供されているが、家庭でも食されている。居酒屋で「酒の肴」として提供されており家庭でも晩酌の「酒の肴」にする人もいる。板わさは味もよいが、わさびには殺菌効果がありその意味でも評価されている。 薄く切って、[[うどん]]や[[蕎麦]]のトッピング、[[雑煮]]など汁の実とすることも一般的である。[[煮物]]の具材や、[[玉子丼]]の具にも用いる。[[茶碗蒸し]]に入れることも多い。 また、生を避けて、焼いたり、炙ったりして食べることを好む人もいる。 ほかにも炒めたり、[[素揚げ]]や[[天ぷら|てんぷら]]、[[フライ (料理)|フライ]]など、様々な調理を行うことも可能である。 福井県[[敦賀市]]周辺の食堂には、蒲鉾をメインのおかずとした「かまぼこ定食」というメニューがある<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXZZO89923340Q5A730C1000000/ 福井県編(その1) 「かまぼこ定食」あります 記事:2015/7/31] NIKKEI STYLE</ref>。 紅白の蒲鉾を「紅白は縁起が良い」とか「見栄えがする」として[[おせち]]に入れることも多い。ただし、おせちに入れる食品というのは一般に味を濃くしたり酢を加えるなどして「日もち」のする状態にしたもの(保存性が良いもの)が選ばれ、数日に分けて食べられることがしばしばなので、そこに蒲鉾を開封して切ってしまった状態で入れると、例外的にとびぬけて「日もちのしないもの」になってしまうので、他の食品と同じように見なすのではなく、蒲鉾だけは別扱いして、1日目(元日)に食べきることが勧められる。 {{Gallery|width=280px |File:Itawasa by jetalone in Tsukiji, Tokyo.jpg|[[板わさ]]の例 |File:雑煮(すまし).jpg|[[雑煮]](すまし汁)に蒲鉾を入れた例 |File:肉うどン.jpg|肉うどんに蒲鉾をいれた例 |File:Chawanmushi by cathykid in Tokyo.jpg|茶碗蒸しに蒲鉾を入れた例 |File:Osechi 001.jpg|[[おせち]]に入れた例 }} == 各地の蒲鉾 == * 北海道 ** [[たつのかまぼこ]](たちのかまぼこ) - [[タラ]]の[[白子 (精巣)|白子]]を使用した蒲鉾 * 福島県 - 県内では[[いわき市]]が蒲鉾の生産量が盛ん<ref>[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000049360 レファレンス事例詳細(Detail of reference example) いわき市立いわき総合図書館 (2310140)]</ref><!--日本一の出典見当たらず。--> * 神奈川県 **[[小田原蒲鉾]]<ref name="bible" /> * 富山県 - 巻蒲鉾、やわらか<!-- <ref>[http://www.alic.go.jp/starch/japan/user/200810-01.html 畜産産業振興機構「各地域における名産蒲鉾一覧」]より</ref> -->、祝儀用細工蒲鉾 * 福井県 ** 味醂焼き蒲鉾<ref name="bible" /> * 和歌山県 ** 南蛮焼(なんば焼)<ref name="bible" /> ** ごぼう巻<ref name="bible" /> * 広島県 ** かに風味蒲鉾<ref name="bible" /> * 鳥取県 ** とうふ竹輪<ref name="bible" /> * 島根県 ** [[トビウオ|あご]]野焼ちくわ<ref name="bible" /> * 愛媛県 ** 削り蒲鉾<ref name="bible" /> - [[愛媛県]][[八幡浜市]]周辺など[[南予地方]]で食べられている。第二次世界大戦前に、日持ちの悪かった蒲鉾を乾燥させ日持ちさせて作った保存食を削り食したことに由来する。 ** [[じゃこ天]]<ref name="bible" /> * 徳島県 ** [[フィッシュカツ]]<ref name="bible" /> * 長崎県 ** いわし蒲鉾<ref name="bible" /> * 鹿児島県 ** さつま揚げ<ref name="bible" /> * 沖縄県 ** チキアーギ<ref name="bible" /> ** カステラ蒲鉾<ref name="bible" /> == 蒲鉾に由来する名称 == {{複数の問題|正確性=2022年1月|雑多=2022年1月}} * 一般に、板蒲鉾をその長手方向と直交する方向に切断した際の断面形状(両端が低く、中央が盛り上がった形状。[[アーチ]]形に類似)を「蒲鉾型」と呼ぶ。また、蒲鉾型をしたものそのものの俗称として「カマボコ」とも称する。 ** [[線路 (鉄道)|線路]]が周囲より高い場所または低い場所に設けられた[[踏切]]は、極端に盛り上がったり窪んだ形状になるため、「蒲鉾型踏切」と呼ばれる。また、線路と周囲の高さがほぼ同一でも、カーブの途中に設けられた踏切は[[カント (路線)|線路のカント]]を乗り越える必要があることから盛り上がるため、同様に「蒲鉾型踏切」と呼ばれる。 ** [[ボウリング]]でレーンオイルの乗り方が、レーン中央が厚め(滑りやすい)で左右が薄め(滑りにくい)の状態のことを「カマボコ型」と呼ぶ。 ** [[将棋]]の[[将棋の戦法一覧#対抗型振り飛車の戦法一覧|振り飛車戦法]]に対する[[将棋の戦法一覧#対抗型居飛車の戦法一覧|居飛車]]側の[[将棋の戦法#戦法の分類|囲い]]の1種である[[ミレニアム囲い]]も「蒲鉾」と称されることがある。 ** オーディオにおいて、低音域と高音域が小さく、中音域が強調された音作り(いわゆる[[ドンシャリ]]の反対)を指して、[[周波数特性]]のグラフ形状から「カマボコ型」と言う。 ** かつて存在した[[西日本車体工業]]が製造していた[[バス (交通機関)|バス車体]]で、[[1966年]]から[[1978年]]にかけて製造された車体(42MCまたは66MCと呼称)は前後窓上の方向幕部分がカマボコの断面に似ていたことから、「カマボコ」と通称された<ref>{{cite book |和書|title=西工の軌跡 [[バスラマ・インターナショナル]]SPECIAL10 |page=058,076-077 |publisher=[[ぽると出版]] |year=2010 |month=9 |ISBN= 978-4-89980-017-0}}</ref>。 * [[大相撲]]の[[隠語]]における「蒲鉾」とは、稽古をさぼること、1件の相撲部屋に原則1つしかない土俵での稽古に名乗り出ることを積極的にしないことを意味する。[[土俵]]に上がらず稽古場の板塀にもたれたまま休んでいる様子を、「背中が板に張り付いている」蒲鉾に例えている<ref>田中亮『全部わかる大相撲』(2019年11月20日発行、成美堂出版)pp.105</ref>。 * 俗に言う「かまとと(カマトト)」または「かまとと振り」とは「蒲鉾のことを『これは魚(とと)か』と聞く」ということから、無知・世間知らずを装ってかわいらしく見せる人(特に女性)を指す。[[江戸時代]]に[[遊女]]が世間知らずを装うため、蒲鉾を指して「これが魚なのか」と問うたことに由来するとされる。 == 参考画像 == <gallery> File:Kamaboko 001.jpg|市松模様上に組んだ紅白蒲鉾 File:鈴廣 体験 (24454647886).jpg|かまぼこ博物館での、かまぼこづくり体験 File:飾りかまぼこ.jpg|飾りかまぼこ </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{commonscat|Kamaboko}} {{wiktionary|かまぼこ}} * [[日本料理]] * [[魚肉練り製品|練り物]] * [[カニカマ|カニ蒲鉾]](カニカマ) * [[薩摩揚げ]] * [[じゃこ天]] * [[鳴門巻き]](なると) * [[筋蒲鉾]](すじ) * [[伊達巻]] - 蒲鉾を作る際に余る黄身の活用から生まれた。 * [[半片|はんぺん]] * [[真薯|しんじょ]] * [[魚そうめん]] * [[ごぼう巻き]] - 元々は蒲鉾の副産物の再利用。 * [[石原良純]](細工かまぼこ大使) * [[がんす]](ガンス) *[[木の葉丼]] == 外部リンク == * [https://www.nikkama.jp/ 日本かまぼこ協会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かまほこ}} [[Category:蒲鉾|*]]
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紅茶
紅茶(こうちゃ)とは、摘み取った茶の葉と芽を萎凋(乾燥)させ、もみ込んで完全発酵させ、乾燥させた茶葉。もしくはそれをポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出した飲料のこと。なお、ここでいう発酵とは微生物による発酵ではなく、茶の葉に最初から含まれている酸化酵素による酸化である。 日本語の紅茶の語源はその抽出液の水色(すいしょく)に由来する。以下では、水色を青みのカラーを表す「水色(みずいろ)」と区別するため、語を「茶湯の水色」と統一して表記する。 紅茶は伝統的に中国で栽培されていたチャノキ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze 基本変種)の葉から作られていたが、1823年にインドのアッサム地方で高木になる変種のアッサムチャ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze var. assamica (J.W.Mast.) Kitam.)が発見され、以後はインドやスリランカなどではアッサムの生産が盛んになった。ただし、ダージリン等では基本変種の栽培も各地で行われており、また両者の交配も進んでいるため、産地のみでいずれの種類かを特定することはできない。アッサムチャは基本変種より渋みを示す成分が非常に多いといわれており、一般に、アッサムチャまたは交配種の方が安価である。 なお「クローナル」と呼ばれるものもあるが、これは株ごとに遺伝子が変化する実生栽培に対する、遺伝子の変化しない栄養繁殖によるクローン株を指す。これは現代の主流な栽培法となっており、クローン株にはふつう栽培に適した特性を持つ株が選抜して用いられ、いくつかの株は育成茶園にちなんだ名称で品種登録されている。よく知られたクローナル品種としてはダージリンのAV2(Ambari Vegetative 2)、B157(Bannockburn 157)、P312(Phoobsering 312)がある。 紅茶の最大の生産国はインドで、次いでスリランカ、さらにケニア、トルコ、インドネシアと続く。中国は茶の生産全体ではインドとスリランカの間に入るが、緑茶と区別した統計がないため、詳細は不明である。 一般に、標高の高い冷涼な環境で栽培されるものには、香りの優れたものが多い。対して、強い日射の低地で栽培されたものは、味に優れ(ただし、比較的アクの強いものとなる)茶湯の水色の濃いものが多いとされる。ダージリン、ウバ、キーマンなどは前者に、ルフナ、アッサムは後者に入る。一般に前者のものが高価である。近年では強い渋味を好む中近東地域で低地産紅茶の消費が増えている。 スリランカでは製茶工場の標高により、1,219m (4,000ft) 以上のものをハイ・グロウン、610m (2,000ft) 以下のものをロウ・グロウン、その間のものをミディアム・グロウンと区別している。 収穫期によっても品質は変化する。 ダージリンティーの場合、一番茶の採れる3・4月には、香りの優れた緑がかったもの、続く5・6月には味・香りともに優れたものが採れる。7・8月の雨期には香りのない低品質のものとなる。9・10月に採れる秋茶は主にブレンド用とされる。 セイロンティーの場合、産地により最高品質の茶が採れる季節が異なる。例えば、ウバは7・8月、ディンブラは1・2月となる。 次の条件を満たす地域が茶樹の栽培に適するとされる。 収穫期に、乾燥した日内寒暖差の激しい日が続くと香気に優れた茶葉が得られるともといわれる。また、茶樹の栽培から茶葉の収穫にかけて人手がかかるため、安くて良質な労働力が求められることも重要である。 茶樹は、病虫害や気候の変動に比較的良く耐える植物であるが、良質な茶葉を生産するためには専門の管理士の指導の下、比較的人手のかかる作業を含む管理が必要である。 茶の収穫(茶摘みと呼ぶ)は、通常人手で行なう。通常鋏などは使用しない。枝の先端の芽(「芯」と呼ぶ)と、その下二枚の葉までを摘む方法(一芯二葉摘みと呼ぶ)が理想とされるが、実際はもう一枚下の葉まで含めて摘む方法(一芯三葉摘み)が一般的になっている。高級茶葉の中には一芯一葉摘みもあり、チップを多く含んでいる。 紅茶の製造は以下の工程からなる。 生産(栽培、収穫) ⇒ 萎凋 ⇒ 揉捻 ⇒ 玉解 ⇒ 篩分 ⇒ 揉捻 ⇒ 発酵 ⇒ 乾燥(⇒ 抽出) 簡単に言ってしまうと、収穫した茶葉を放置し、しおれさせた後に揉み潰してまた放置、茶葉が褐色に変化したところで乾燥させる。という工程の並びになる。しおれさせる工程を萎凋、揉み潰す工程を揉捻、茶葉が褐色に変化するのを待つ工程を発酵と呼ぶ。 従来は、茶葉の形状を残し、針状にまとめたもの(リーフタイプと呼ぶ)が一般的であったが、近年では、揉捻の際茶葉を磨砕し細かくしたもの(ブロークンタイプと呼ぶ)が増えている。萎凋を浅くしたブロークンタイプのもの(CTCタイプと呼ぶ)や、萎凋前の茶葉を裁断して作るもの(レッグカットと呼ぶ)もある。 茶の生産については「紅茶の生産」節を参照。 次の工程での加工のため、茶葉に含まれる水分量を調節する工程を萎凋(いちょう)と呼ぶ。実際には、萎凋棚に生茶葉を広げ、通風環境下で18時間程度静置する。通常茶葉の重量が元の茶葉の55%に減少するまで行なう。この操作により、茶葉は柔軟になる。また、この際萎凋香(いちじく様の香りといわれる)を生じる。 香りの強いダージリン紅茶の場合は、この萎凋を強くし、茶葉の重量が元の40%になるまで行なう。一方、茶湯の水色に重きをおくCTC紅茶では萎凋を弱くし、茶葉の重量が元の70%になったところで次の工程に入る。 揉捻(じゅうねん)とは、萎凋の終った茶葉を40分程度かけて揉み潰し、細胞膜を破壊することで紅茶の成分を抽出しやすくすると同時に、茶葉中の酵素やカテキンを浸出させ、酸素を供給して次工程の発酵を開始させること。一回の揉捻で全ての茶葉を揉み潰すのは困難なため、以下の2工程が追加される。 揉捻により塊状となった茶葉を解きほぐし(玉解)、細かくなった茶葉をふるい分け(篩分)する工程。通常機械を用いて同時に行なう。細かくなった茶葉は次の工程を飛ばし、発酵の段階で元の茶葉とあわせる。 30分程度かけて再び揉捻を行ない、茶葉の形状を整えるとともに、揉捻を完全にさせる。 茶葉中に含まれる酸化酵素の作用を利用してカテキン類を酸化発酵させる。実際には、気温25°C、湿度95%の部屋に2時間程度静置する。この際、茶葉は褐色に変化する。 十分に発酵した茶葉を加熱し、茶葉中の酵素を失活させることで発酵を終了させるとともに、60%近くある茶葉の水分量を3%程度にまで減少させる。 紅茶の香り、色、味が最も充実する旬にあたる時期をクオリティ・シーズンという。 茶葉の仕上げの茶葉形状で分類したものが等級である。一般に紅茶の等級区分というが、それは茶葉の「大きさ」と「外観」を表すだけで、品質の良し悪しを表したものではない。したがって味や香りを保証するものではない。茶葉の大きさや揉捻に差があると、抽出時間にばらつきが出て味に影響が出るため、揃えているものである。国際的に統一された規格ではないため、同じ等級でも産地によって形状に違いがある。 その他、通常より茶葉が大きかったり芯芽や若葉が多く含まれていたりする場合、他と差別化するために「OP1」など、等級名に1を付けるなどする場合がある。元々は茶摘みにおいて枝の芯芽とそのすぐ下の若葉2枚を摘む1芯2葉摘みという手法を取っており、1葉と2葉をそれぞれ摘んで製茶されていた。そのため1葉をオレンジペコ、2葉をペコと呼んでいたが、現在ではこの摘み取ったものを一部(特殊な製茶をする場合)を除いて一緒に加工されているため茶葉の区別がなくなり、茶葉の部位ではなく仕上がり時の形状を示す言葉となっている。 なお、特に高品質の茶葉として以下のものが出回っている。これらの等級に関しては、おおむねインド政府紅茶局が認定(TGFOPまで)はしているが、元々は茶園やディーラー、さらにはバイヤーが茶葉の細分化を図る目的、及び品質の良さをアピールするために独自に付けたもので、基本的にチップの種類や含まれる量によって決められる感がある。したがって、本来のリーフ形状による等級付けの範疇をいささか逸脱した感もある。 チップを自然乾燥させたものをシルバーチップ、揉捻の際に出る、発酵成分を含んだ液に染まることで、乾燥後に金色に光るものをゴールデンチップという。ゴールデンチップを多く含むと茶湯の水色も濃くなる傾向がある。 さらにTGFOP1やSFTGFOP1など最後に'1'を付けた物もあり、これはナンバーワンというような意味である。 また、チップのみを集めたものがシルバーチップやシルバーニードルの名称で高額に取引きされる。一般の紅茶とはかけ離れた味、風味、茶湯の水色を持つものでありマニア向けである。味も香りもほとんどなく茶湯の水色も淡いと誤解されることが多いが、これは一般の紅茶と同じ抽出時間しかかけていないためである。十分に味や香りを引き出すためには15分から30分あるいはそれ以上の抽出時間が必要である。 消費者の嗜好に合わせて異なる原茶を配合し一定の品質と価格を保つように製品化することをブレンドと呼ぶ。なお、一般家庭で複数の茶葉を混合することはミックスと呼ぶ。 ブレンドには大きく分けると2通りあり、異なる産地のものを合わせる場合と、同じ産地で違う茶園や違う日にちに採取した茶葉を合わせる場合がある。また香料やその他の方法で茶葉に香りを定着させたりハーブやドライフルーツなどを混合したものは、着香茶(フレーバーティー)と呼ばれる。大手メーカー(パッカー)の商品にブレンドが多いのは、安価で安定した茶葉を広く流通させるためである。 以下に良く知られるブレンド名を示す。 着香茶(フレーバーティー)には香料を茶葉に吹き付けたものや、ハーブやドライフルーツなどを茶葉に混ぜ込んで着香したもの、香りの強い物質から茶葉に香りを吸着させたものなどがある。品質の良くない茶葉に商品価値をつけるために着香することが少なくない。前述の産地名のついたブレンドの中には、紅茶の香りを人工的につけた粗悪なものもある。 インドでは、基本変種、アッサムチャの両方が栽培される。代表的な産地としてアッサム、ダージリン、ニルギリが知られる。 『セイロンティー』の名前で知られる。ウバ、ヌワラエリヤ、ディンブラ、キャンディ、ルフナの5地域をまとめて「セイロン・ファイブ・カインズ」と呼ぶ。 セイロンティーは茶園・工場の標高位置によって の3つに分類される。 基本変種の紅茶として有名なものには、祁門(キームン)、雲南(ユンナン)などがある。これらはインドやスリランカのものと比べ茶葉が細かく砕かれていないものが多い。渋味が出にくいものが多い。燻したような香りのするものもある。またアールグレイなどの着香紅茶に利用される場合もある。(→中国茶) アフリカでは、ケニア、タンザニア、マラウイ、モザンビークなどで生産されているが、その多くがブレンド用である。ケニア産のものは比較的良質といわれる。 1876年(明治9年)に紅茶用茶樹の種子が導入され、鹿児島県、福岡県、静岡県、東京に紅茶伝習所が設けられ、紅茶に適するアッサムチャと基本変種を交配して国産紅茶品種を作り、紅茶の製造が始まった。昭和30年代半ばまでは1,500t以上生産されていた。1971年の紅茶輸入自由化以降、国内の紅茶生産は壊滅状態となったが、現在では静岡県および長野県、岐阜県、三重県、奈良県、滋賀県、山陰地方、九州地方(福岡県や屋久島など)といった地域で生産された国産紅茶が若干量流通している。これら国産品を「和紅茶」と呼称している事業者もある。「紅ほまれ」「はつもみじ」「紅かおり」といった紅茶向け品種もある(後述)。 生産者により品質のばらつきが多い傾向がある。やぶきた等の緑茶用品種から作られるものは渋みや苦みが少なく口当たりが柔らかい反面、香も淡いものが多い。べにふうき等の紅茶用品種から作られるもにのはインドやスリランカの紅茶に匹敵する強い味と風味を持っているものもある。 一方、沖縄県では紅茶生産に適する原料となるアッサムチャの生産に適する位置から、1958年にアッサムチャの生産を試みた記録がある。定着はしなかったが、2000年より再度生産を開始。「琉球紅茶」のブランド名にて有機・無農薬栽培などの付加価値を付け、苗木から選定したブランド化をスタート。自治体と取り組み本格的な生産に乗り出し、「金武町琉球紅茶産地化事業」が2008年JAPANブランドに認定。同年、中小企業庁地域資源育成事業にも認定され、国外の販路も視野に入れた高品質な国産紅茶の本格的な生産を開始している。 静岡市では静岡市ブランドとして丸子(まりこ)紅茶を登録し、研究機関をおいて発酵茶の普及にも尽くしている。 紅茶の会は2002年から毎年、地紅茶サミット(全国地紅茶サミット)を開催している。「地紅茶」とは国産紅茶のことで、紅茶の会の藤原一輝により提唱された。ここで、「国産」とは「日本産」だけを指すものではない。 また杉の葉を加工して「紅茶」の名称で販売されている商品もある。 茶葉を熱湯で抽出し、その抽出液を飲用する。抽出の方法にはいくつかの種類があり、「淹れる人ごとに各々の決まりがある」と言われている。 好みにより、砂糖、ミルク、レモン、ジャムなどを入れて飲むが、後述するようにこれは茶湯の水色の呈色に影響する。ティーバッグを使えば、手軽に紅茶を楽しむことができる。さらに、シナモンなど入れて飲んだりすることがあり、独特の風味や味を楽しむことができる。これは、シナモンティーという。 紅茶とミルクを合わせたもの、いわゆるミルクティーをいれる際に、ミルクを先に入れるか、紅茶の中にミルクを落とすかが、紅茶好きの間では常に議論の種になる。イギリス王立化学会が2003年6月24日にレポート『How to make a Perfect Cup of Tea(完璧な紅茶の入れ方)』で「冷たいミルクを先に入れたほうが良い」と発表したが、これは熱い紅茶の中にミルクを注ぐとミルクのタンパク質が変質し風味を損ねてしまうことが化学分析の結果明らかになった、というものである。しかしイギリスでミルクといえば低温殺菌牛乳が主流であるため、おそらく低温殺菌牛乳のミルクを使った場合の話と考えられる。 また、「ミルクを先に入れるべき」との根拠として熱い紅茶を上質な薄手の茶器に注いだ場合、熱によりひびが入る可能性があるため冷たいミルクで緩和するというものがある。しかしこれも予め茶器を温めておくことにより回避は可能である。他にはミルクを先に入れた方が入れたミルクの量が判りやすいという根拠もある。 紅茶の入れ方には大きく分けて、淹茶式、煮出し式、煮込み式、濾過式の四つが知られている。 ポットなどの容器に茶葉を入れ、熱湯を注いで蒸らし、茶葉を濾別して抽出する方法。家庭における一般的かつ本格的な方法といわれる。ティーバッグを用いる場合もこれに分類される。 19世紀にビートン夫人の著した家政書『The Book of Household Management』によって、英国式ゴールデンルール(The Five Golden Rules)といわれる紅茶の淹れ方のスタンダードが確立され、改訂されつつも現代に至るまで受け継がれている。おいしく紅茶を淹れるコツは、良質の茶葉を用い、新鮮な汲みたての水を用意し、予めよく温めておいたティーポットに茶葉を入れて、緑茶の場合と違い、十分に沸騰(ただし、沸騰したてのもの)させた湯をすぐに注ぐことである。ポットが冷めていては沸騰した湯も冷めてしまい、茶葉の旨みが抽出されにくいので、冬場は特に手を抜かないでおきたい。茶葉を充分に蒸らし、葉が開ききってからティーカップに注ぐ。ポットは蓋付きのものを用い、ティーカップも予め温めておくと良い。 抽出時間はBOPなどの粉末状の茶葉なら2分以内、OP以上の茶葉の形が残っているものなら3 - 5分がよいとされる。あくまで目安なので好みで調整するとよい。 鍋や釜に湯を沸かし、茶葉を入れてそのまま煮出した後、茶葉を濾別する方法。煮出す時間は普通30秒程度。煮出している最中は蓋をすること。鍋一つでもできる、比較的簡便な方法ではあるが、一度に多量に抽出できる上、抽出時に変化が与え易く、応用の利く方法である。 また、ロシアやトルコなどでは紅茶を入れる際の湯沸かし器としてサモワールが伝統的に使用されてきた。サモワール上部にはティーポットが据えられる構造となっており、ポットが加熱され続けることにより茶液が濃縮される。 煮出し式に似ているが、水の代わりにミルクを用い、抽出に比較的長い時間をかけるもの。インド・チャイがこれに当るが、ハッキリとした定型がなく、煮出し式との区別はむずかしい。多くの場合、多量の砂糖とスパイスが入る。またミルクを使った煮出し式と比較すると、煮出し式は茶葉の香りを飛ばさぬようミルクが完全に沸騰する前に(俗にいう「吹かさないように」)火を止めるが、煮込み式の場合はあえて何度も煮返して水分を飛ばし、茶葉の香りよりはミルクの濃厚さとスパイスの香りを重視して作る場合が多い。店頭では常時沸かしっぱなしになっていることが多い。 茶漉しやネル袋に茶葉を入れ、上から熱湯を注ぐ方法。このときにネル袋を抽出液に浸漬したり、茶葉を搾るなどの操作が加わる。上から熱湯を注ぐだけでは「色つきのお湯」程度にしかならず、逆に揉んだり絞ったりすれば非常に濃い紅茶となるが、いずれにせよ良い方法とはいえない。多量の砂糖とミルクを添えて味を誤魔化さねば飲みにくい代物である。 世界各地には様々な紅茶の楽しみ方がある。 喫茶店やカフェにおいては、コーヒー、ココアと並ぶ飲料メニューとして存在している。また飲む直前に家庭や店舗で入れるもののほかに、工場で大量生産される缶・ペットボトル入り紅茶(紅茶飲料)も増えてきており、手軽に飲めるようになっている。ホテル等では英国式のアフタヌーンティも提供される。日本のティーバッグは紐付きで茶葉の量が少ないティーカップ用が一般的であるが、最近はイギリスで一般的な大型マグカップ用の円形で紐がついていないタイプも輸入食材店等で販売されるようになってきている。 季節によって多少のばらつきはあるものの、ストレート、ミルク、レモンの3種類の飲み方が一般的であり、砂糖が別に添えられ飲む人の好みによって加えられる。ハーブティーや、果物のピールなどを加えて香りを楽しむフレーバードティー、リンゴや桃などの果汁や香りを加えて味を楽しむフルーツティー、好みのジャムを加えたロシアン・ティー、インド風にスパイス等を加え煮出したチャイなども飲まれている。また、寒暖の差がはっきりしている気候のため、冬はホット、夏はアイスで飲まれることが多い。 喫茶店やカフェなどで、エスプレッソコーヒーと同様に茶葉を高圧で抽出した紅茶(ティープレッソ)にミルクでアレンジを加えたティーラテ等のメニューも登場している。 アメリカ合衆国では圧倒的にコーヒーが飲まれるが、コーヒーはホットで飲まれることがほとんどで、冷たい飲み物としてはコーヒーよりもアイスティーがよく飲まれる。今日飲まれているアイスティーの発祥は1904年のセントルイス万国博覧会で販売していたホットティーが猛暑のためなかなか売れず、試しに氷を入れて販売したら大盛況になったのが始まりとされている。また、レストランなどでホットティーを注文した場合、茶葉ではなく、ティーバッグとお湯の入ったポットが供されることがほとんどである。 紅茶はイギリス文化を代表する飲料とされ多くの国民が日常的に飲む。通常はミルクティーで、砂糖を入れる人もいる。英国の家庭では来客にまず紅茶を勧める事がよいマナーとされている。紅茶はイギリスでは家庭やカフェで主に飲まれる。客はティーのおかわりを勧められた場合断ってはならない風習があると言われ、1日に5-6杯以上飲むことも多いとされる。 イギリスといえばアフタヌーン・ティーなどが有名であるが、アフタヌーン・ティーなどをしているゆとりのない階級の人々は、午前中には「イレヴンシス」と呼ばれる休憩時間に紅茶を飲んでリフレッシュしている。但し、現在では移民の増加に伴って現在はそのスタイルも多様化している。 一般の家庭やパブ等ではティーバッグをマグカップに入れる場合がほとんどである。もちろんティールーム等の専門店やホテルなどにおいてはティーポットに茶葉で淹れ、ソーサー付きの茶器で供されることもある。なお、イギリスで一般的なティーバッグは丸型で紐がついていない。四角形やピラミッド型のティーバッグもある。抽出後はスプーン等で取り出す人もいるが、取り出さない人も多い。 UK Tea Council によると、イギリスでは一日に1億6500万杯の紅茶が消費され、コーヒー消費量7000万杯/日の2倍以上となっている。また、イギリスで飲まれる紅茶の96%はティーバッグで淹れられ、98%がミルクティーとして飲まれている。 産業革命時代に労働者の空腹を紛らわす目的で労働者階級にまで普及したため、濃いミルクティーに砂糖を入れて飲まれることもあるが、全体としては少数派となっており、砂糖無しで飲むのが一般的である。またイギリス軍のレーションにはティーバッグが付属している。 フランスではコーヒーがよく飲まれ、実際国民一人あたりの紅茶消費量はイギリスの十分の一程度でしかない。が、イギリスの紅茶が労働者階級にまで行き届いた日常性の高いものとすれば、フランスでの紅茶は普及が進まなかったため、逆にブルジョワジーの文化として定着した。 基本的にコーヒー文化圏ではあるが、北ドイツを中心に紅茶も一般化しておりよく飲まれている。ドイツとオランダにまたがるフリースラント地方の紅茶が有名で、オランダ東インド会社が西暦17世紀初頭にもたらした紅茶が端緒であった。ドイツ茶業同盟(Deutscher Teeverband e.V.) の調査によると、オストフリースラント(東フリースラント)では2016年の紅茶消費量が一人当たり300リットルであったが、これはドイツ全土の平均値の十一倍に相当する。ドイツでの飲まれ方は、ホットのミルクティーが主流で、ビールのようにグラスに注がれて出されることがある。カフェインの取り過ぎを忌避する健康志向から、ハーブティーも普及している。トルコ移民が多い関係からトルコ紅茶も市販されている。レストラン、また宿泊施設の朝食ビュッフェではティーバッグが用意され、家庭では茶葉で楽しまれることも少なくない。 レモンティーがよく飲まれる。ミルクティーは子供の飲み物と思われており、カフェなどのメニューにミルクティーは載っていない。 植民地時代にイギリスの影響を受けて独自の喫茶文化を発達させた。チャイと呼ばれる非常に甘い煮出し式ミルクティーを飲む習慣がある。 中国では茶に何も加えずに飲む「清飲法」が好まれるため、紅茶を飲む場合も基本的に何も加えずに飲む。また、紅茶は五行説では「熱気」の飲み物とされているため、人によっては暑い時期を避け寒い時期だけ飲む。 香港ではイギリス流のアフタヌーン・ティーも盛んであるが、庶民はエバミルクと砂糖をたっぷり入れた香港式ミルクティーや、レモンを1/3個分ほど使った、レモンティーを特にアイスで楽しんでいる。また鴛鴦茶というコーヒーと合わせた香港独特の飲み物もある。 有名なブレンド「アールグレイ」は、グレイ伯爵が気に入った香港の紅茶の味を、ベルガモットのフレーバーを用いて再現したものである。 中国の茶に対する価値観では、茶葉のでき具合や仕上げの技術で茶の良し悪しを評価するため、茶葉をブロークンやダストに刻んでしまう紅茶は、あまり評価されない傾向がある。 中国雲南省などで作られる磚茶(たんちゃ。茶葉と茎を蒸して固形化した黒茶の一種)を煮出したものに、バターと岩塩、プンドを、ドンモやチャイドンと呼ばれる筒形の容器に入れ、攪拌して作る。バター茶とも呼ばれ、チベットでの重要なビタミンC摂取源である。どちらかというと味はスープに近く、主食のツァンパを練るのにも使う。モンゴルやブータン、ネパールなどでも同様の習慣がある。 17世紀以来、中国方面から緑茶や磚茶を輸入していたロシアの紅茶の淹れ方は、煮出し式の項で触れたようにサモワールの上にかけたヤカンで濃く煮出した紅茶をグラスの四分の一程度入れ、お湯で薄める方法を取る。そのため、使われる茶葉は色が濃く出て、苦味、渋みが少なく伸びの良さが重視される。反面、煮詰める段階で香りは飛んでしまうので、英国式と違い香りは重視されない。 一人分ずつ供されたジャムをスプーンですくって舐めながら紅茶を飲むのが作法とされている。これは寒い地方で紅茶にジャムを入れると茶の温度が下がり、体を温めるのに適さなくなってしまう事が理由の一つだと言われている。日本において一般に「ロシアンティー」と言えば、紅茶に直接ジャムを加えた物とされているが、これはロシアと比べて比較的温暖なウクライナやポーランドの習慣である。 カレリア地方などの辺境地域では、故意に紅茶の受け皿に紅茶をこぼし、口に予め角砂糖等を含んだ上で、受け皿から紅茶を飲み干す習慣がある。砂糖を溶かさずに齧るのは、ロシアでの伝統的な砂糖が固く溶けにくいテンサイ糖の塊だからといわれる。 「トルココーヒー」と冠される様に一般にはコーヒーのイメージが強いが、コーヒーは高級品であり紅茶が身近な飲み物になっている。真ん中がくびれた細身のガラスコップが紅茶用の器とされており、飲食店で頻繁に見ることが出来、商店や企業などでの接客でも用いられる。過去にアップルティーが流行ったりハーブティーなども売られているが、現在一般に飲まれているチャイは普通の紅茶である。上記のように二段式のヤカンが用いられ、下段で湯を沸かし、上段で紅茶を抽出する。下段は上段を保温する役目も果たす。もし紅茶が濃くなり過ぎたら、湯を適宜注ぎ足して濃さを調節する。トルコで出されるチャイは渋みが強いため、角砂糖を多量に入れて飲む事が多い。 1679年、イギリス東インド会社がロンドンで初めてティー・オークションを開催し、3樽の中国産のボヘア茶(ボビー)が競売にかけられた。ボヘア茶は中国では粗悪な茶として扱われていたが、イギリスではこれが珍しい茶として扱われ、後世の紅茶につながったといわれている。 1712年頃にはイギリス東インド会社が中国茶のヨーロッパへの輸入を独占するようになった。1717年にはトーマス・トワイニングが紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」を開業して成功を収めている。また、1765年にはいわゆる砂糖革命が起き、中産階級への普及が進んだ(砂糖法も参照)。 1773年にはイギリスがフランスとの戦費調達のために重税を課したのに反発した英領アメリカのボストンの住民がイギリス船の茶箱を海に投棄するボストン茶会事件が発生している。 1823年、イギリスはインド北部のアッサム地方へのビルマ支配に対抗してイギリス東インド会社の軍隊を送って制圧(第一次英緬戦争)。この戦いにイギリス軍の少佐として従軍したロバート・ブルースが後にアッサム種として知られる茶を発見し、中国から茶師を招いて茶の生産を始めた。 ヨーロッパで多く飲用される。世界で最も頻繁に紅茶を飲むと言われるイギリスでは、朝昼晩の食事だけでなく、起床時、午前午後の休憩にもお茶を楽しむ習慣がある。このため、茶器、洋菓子なども発達し、洗練された。なお、紅茶の文化は18世紀にアイルランドに伝わり、2008年時点で国民一人当たりの消費量ではアイルランドがイギリスを抜いて世界一となっている。 1日に数回のティータイムなど、紅茶はイギリス人の生活と深く結びついている。例えば核戦争が真剣に議論された1950年代には、「もし核戦争が起こった場合、紅茶が不足するという深刻な事態が起こる」「パンや肉と並び、紅茶の備蓄の必要性がある」といった議論が政府内で行われていた。 紅茶の入れ方は、ISO 3103によって国際標準規格として制定されている。この規格の元になったBS 6008:1980を1980年に定めた英国標準協会は、1999年度のイグノーベル賞文学賞を受賞した。 1972年にセイロンは国名をスリランカ共和国に変更したが、同年に茶園の国有化を行った。スリランカの茶園が民営化されたのは1990年のことである。 日本では1927年に国産の三井紅茶が発売された。1939年には日本紅茶協会が設立されている。 外国産紅茶の輸入が自由化されたのは1971年である。 現代では喫茶店や家庭で淹れる紅茶以外に、ペットボトル入り(午後の紅茶など)が市販されている。カフェ・ラッテ(カフェラテ)のコーヒー代わり(紅茶ラテ)や菓子・スイーツの風味付けにも用いられており、抹茶の製法を応用して粉末にした紅茶も商品化されている。 紅茶に関連する資格としては日本創芸学院が認定する紅茶コーディネーター、日本紅茶協会が認定するティーインストラクターがある。 紅茶に含まれる紅茶ポリフェノールに風邪やインフルエンザに対する有効性があるとして注目されている。日常的に飲用することに加え、紅茶を用いてうがいを行うことも予防に有効とされている。また、虫歯予防(フッ素)、食中毒予防(エピガロカテキンガレート)、コレステロール・血圧降下(紅茶フラボノイド、タンニン)、肌の老化防止(カテキン)等の作用もあると報告されている。 紅茶茶葉中には、重量にして3%程度カフェインが含まれる。この量はコーヒーの3倍の量に当る。しかし、1杯当りに使用する茶葉・豆の量(抽出の効率も)が異なるため、飲用時のカフェイン濃度はコーヒーの方が高くなる。紅茶の飲用時のカフェイン濃度はコーヒーに比べ半分程度とされるが、品種や抽出条件(加えてコーヒーでは焙煎状態)により大きく変化するため、厳密に評価するのは難しい。なお、紅茶に含まれるカフェインはタンニンと結びつくためにその効果が抑制されることから、コーヒーのような覚醒的作用は弱く緩やかに作用する。 紅茶におけるタンニンは、エピカテキンやエピガロカテキンなどのカテキン類とその没食子酸エステル誘導体が主となっている。一般に、カテキン類は苦味を、その没食子酸エステル誘導体は渋味を持つといわれる。生茶葉中にも多量に存在する。紅茶製造においては、発酵過程において生成されるテアフラビンなどの赤色色素の前駆体となっており、その抽出液の茶湯の水色に大きな影響を与える。なお、タンニンはポリフェノール化合物の一種でもある。紅茶には、茶葉重量の11%程度タンニンが含まれている。生茶葉中に、乾燥重量に換算して20 - 25%含まれる。生産量の面で主力となる変種のアッサムチャはタンニンの含量が基本変種に対し1.2 - 1.5倍程度多い。 紅茶の茶湯の水色は主に紅茶フラボノイドによって決まる。紅茶特有の呈色成分として知られるテアフラビンとテアルビジンが良く知られており、これらの茶湯の水色に与える影響は大きい。この二つの成分が多いほど、茶湯の水色は鮮やかな濃い赤色となり、良品とされる。 紅茶の香気はリナロール(レモン様)やゲラニオール(花のような)といったテルペン類による影響が強いが、その他にも青葉アルコール(ヘキセノールのこと。青臭い若葉)などのアルコール類、青葉アルデヒド(ヘキセナールのこと。青臭い若葉)のようなアルデヒド類、ネロリドール(ウッディな)、サリチル酸メチル(湿布薬)をはじめ多くの物質が関与している。 なお、リナロールやゲラニオールなどのテルペン類は、生茶葉中では配糖体など不揮発性の前駆体として存在しており、これが萎凋や発酵の過程で遊離すると考えられている。 萎凋の際、生茶葉に含まれる青葉アルコールや青葉アルデヒドは蒸散し、次第に減少して行く。一方、細胞内の酵素の作用によりテルペン系の香気成分が集積してくる。 茶葉に含まれるポリフェノールオキシダーゼ(ラッカーゼとも言うEC 1.10.3.2)の作用により、カテキン類(タンニンと考えても良い)が酸化重合し、テアフラビン(橙赤色)やテアルビジン(赤色)などの赤色色素が生成する。これらの物質は茶葉に元々含まれる紅茶フラボノイドとともに茶湯の水色を決定する。また、この際、いくつかの香気成分も生成される。 乾燥における熱風処理でかなりの香気成分が散逸する。また、糖のカラメル化も起こる。また、水分量が激減するため、製品の品質は安定する。 紅茶の茶湯の水色は、抽出に用いた水の硬度により大きく変化する。硬水(ミネラル成分が多く、いわゆる硬度が高い水)はミネラルがタンニンなどと結合して沈殿を生じ、茶湯の水色は呈色成分と併せて濃く暗い色調となる。炭酸カルシウム沈殿物とフェノール凝集体が浮いてくる場合もある。蜂蜜を入れた場合も蜂蜜中の鉄分がタンニン鉄を生じてやはり色が濃くなる。 逆に、紅茶にレモンを入れると茶湯の水色は薄くなる。これはレモンに含まれるクエン酸が、呈色成分のテアフラビンに働き、残ったテアルビジンの色のみになるためである。この変化は酸性によって働くため、レモン以外の柑橘類、酢酸などでも同様になる。このテアフラビンはアルカリ性で逆に色が濃くなるが、これはさきほどのミネラル成分との結合とは反応が異なる。 茶葉に含まれるタンニンは、革なめしにも使用されている程、タンパク質と結合して変性しやすい成分である。紅茶では、口の中の粘膜に含まれるタンパク質と反応し、これが「渋み」の原因になる。タンニンは軟水に抽出されやすく、硬水では反応により口に入るタンニンが減るため軟水よりも渋くならない。このため、飲料水の硬度が比較的高い欧州では、緑茶よりも紅茶が好まれている。ただし、茶湯に茶葉を浸している時間が長ければ、茶葉からタンニンが大量に抽出されるため硬水といえども味は渋くなる。茶葉からタンニンが出てくるまでには時間がかかるため、なるべく熱水で紅茶の茶葉を蒸らす時間を加減して、茶葉を早めに引き上げることで、タンニンの抽出が抑えられる。タンニンはミネラルとも反応して沈殿を生じるため、特にタンニンのある紅茶を含む茶類の飲み過ぎは貧血の原因になると指摘されることがある。既に赤血球中にヘム鉄として取り込まれた鉄には影響せず、疾病を伴うものでない限りバランスよく摂れば影響はない。しかし、タンニンなどのポリフェノール類は、体内での働きや他の物質との相関作用はまだ研究途上であり、程度を超えた過剰摂取は体によくない。 風味には好みがあるが、理想的にはほどほどの無機物を含んだ中性に近い水がよいとされる。完成した紅茶はPh5前後のやや酸性の液体となり、風味のバランスが良くなる。蒸留水で紅茶を淹れると深みのない平坦な味になる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "紅茶(こうちゃ)とは、摘み取った茶の葉と芽を萎凋(乾燥)させ、もみ込んで完全発酵させ、乾燥させた茶葉。もしくはそれをポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出した飲料のこと。なお、ここでいう発酵とは微生物による発酵ではなく、茶の葉に最初から含まれている酸化酵素による酸化である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本語の紅茶の語源はその抽出液の水色(すいしょく)に由来する。以下では、水色を青みのカラーを表す「水色(みずいろ)」と区別するため、語を「茶湯の水色」と統一して表記する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "紅茶は伝統的に中国で栽培されていたチャノキ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze 基本変種)の葉から作られていたが、1823年にインドのアッサム地方で高木になる変種のアッサムチャ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze var. assamica (J.W.Mast.) Kitam.)が発見され、以後はインドやスリランカなどではアッサムの生産が盛んになった。ただし、ダージリン等では基本変種の栽培も各地で行われており、また両者の交配も進んでいるため、産地のみでいずれの種類かを特定することはできない。アッサムチャは基本変種より渋みを示す成分が非常に多いといわれており、一般に、アッサムチャまたは交配種の方が安価である。", "title": "紅茶の茶葉" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお「クローナル」と呼ばれるものもあるが、これは株ごとに遺伝子が変化する実生栽培に対する、遺伝子の変化しない栄養繁殖によるクローン株を指す。これは現代の主流な栽培法となっており、クローン株にはふつう栽培に適した特性を持つ株が選抜して用いられ、いくつかの株は育成茶園にちなんだ名称で品種登録されている。よく知られたクローナル品種としてはダージリンのAV2(Ambari Vegetative 2)、B157(Bannockburn 157)、P312(Phoobsering 312)がある。", "title": "紅茶の茶葉" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "紅茶の最大の生産国はインドで、次いでスリランカ、さらにケニア、トルコ、インドネシアと続く。中国は茶の生産全体ではインドとスリランカの間に入るが、緑茶と区別した統計がないため、詳細は不明である。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一般に、標高の高い冷涼な環境で栽培されるものには、香りの優れたものが多い。対して、強い日射の低地で栽培されたものは、味に優れ(ただし、比較的アクの強いものとなる)茶湯の水色の濃いものが多いとされる。ダージリン、ウバ、キーマンなどは前者に、ルフナ、アッサムは後者に入る。一般に前者のものが高価である。近年では強い渋味を好む中近東地域で低地産紅茶の消費が増えている。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "スリランカでは製茶工場の標高により、1,219m (4,000ft) 以上のものをハイ・グロウン、610m (2,000ft) 以下のものをロウ・グロウン、その間のものをミディアム・グロウンと区別している。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "収穫期によっても品質は変化する。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ダージリンティーの場合、一番茶の採れる3・4月には、香りの優れた緑がかったもの、続く5・6月には味・香りともに優れたものが採れる。7・8月の雨期には香りのない低品質のものとなる。9・10月に採れる秋茶は主にブレンド用とされる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "セイロンティーの場合、産地により最高品質の茶が採れる季節が異なる。例えば、ウバは7・8月、ディンブラは1・2月となる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "次の条件を満たす地域が茶樹の栽培に適するとされる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "収穫期に、乾燥した日内寒暖差の激しい日が続くと香気に優れた茶葉が得られるともといわれる。また、茶樹の栽培から茶葉の収穫にかけて人手がかかるため、安くて良質な労働力が求められることも重要である。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "茶樹は、病虫害や気候の変動に比較的良く耐える植物であるが、良質な茶葉を生産するためには専門の管理士の指導の下、比較的人手のかかる作業を含む管理が必要である。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "茶の収穫(茶摘みと呼ぶ)は、通常人手で行なう。通常鋏などは使用しない。枝の先端の芽(「芯」と呼ぶ)と、その下二枚の葉までを摘む方法(一芯二葉摘みと呼ぶ)が理想とされるが、実際はもう一枚下の葉まで含めて摘む方法(一芯三葉摘み)が一般的になっている。高級茶葉の中には一芯一葉摘みもあり、チップを多く含んでいる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "紅茶の製造は以下の工程からなる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "生産(栽培、収穫) ⇒ 萎凋 ⇒ 揉捻 ⇒ 玉解 ⇒ 篩分 ⇒ 揉捻 ⇒ 発酵 ⇒ 乾燥(⇒ 抽出)", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "簡単に言ってしまうと、収穫した茶葉を放置し、しおれさせた後に揉み潰してまた放置、茶葉が褐色に変化したところで乾燥させる。という工程の並びになる。しおれさせる工程を萎凋、揉み潰す工程を揉捻、茶葉が褐色に変化するのを待つ工程を発酵と呼ぶ。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "従来は、茶葉の形状を残し、針状にまとめたもの(リーフタイプと呼ぶ)が一般的であったが、近年では、揉捻の際茶葉を磨砕し細かくしたもの(ブロークンタイプと呼ぶ)が増えている。萎凋を浅くしたブロークンタイプのもの(CTCタイプと呼ぶ)や、萎凋前の茶葉を裁断して作るもの(レッグカットと呼ぶ)もある。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "茶の生産については「紅茶の生産」節を参照。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "次の工程での加工のため、茶葉に含まれる水分量を調節する工程を萎凋(いちょう)と呼ぶ。実際には、萎凋棚に生茶葉を広げ、通風環境下で18時間程度静置する。通常茶葉の重量が元の茶葉の55%に減少するまで行なう。この操作により、茶葉は柔軟になる。また、この際萎凋香(いちじく様の香りといわれる)を生じる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "香りの強いダージリン紅茶の場合は、この萎凋を強くし、茶葉の重量が元の40%になるまで行なう。一方、茶湯の水色に重きをおくCTC紅茶では萎凋を弱くし、茶葉の重量が元の70%になったところで次の工程に入る。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "揉捻(じゅうねん)とは、萎凋の終った茶葉を40分程度かけて揉み潰し、細胞膜を破壊することで紅茶の成分を抽出しやすくすると同時に、茶葉中の酵素やカテキンを浸出させ、酸素を供給して次工程の発酵を開始させること。一回の揉捻で全ての茶葉を揉み潰すのは困難なため、以下の2工程が追加される。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "揉捻により塊状となった茶葉を解きほぐし(玉解)、細かくなった茶葉をふるい分け(篩分)する工程。通常機械を用いて同時に行なう。細かくなった茶葉は次の工程を飛ばし、発酵の段階で元の茶葉とあわせる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "30分程度かけて再び揉捻を行ない、茶葉の形状を整えるとともに、揉捻を完全にさせる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "茶葉中に含まれる酸化酵素の作用を利用してカテキン類を酸化発酵させる。実際には、気温25°C、湿度95%の部屋に2時間程度静置する。この際、茶葉は褐色に変化する。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "十分に発酵した茶葉を加熱し、茶葉中の酵素を失活させることで発酵を終了させるとともに、60%近くある茶葉の水分量を3%程度にまで減少させる。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "紅茶の香り、色、味が最も充実する旬にあたる時期をクオリティ・シーズンという。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "茶葉の仕上げの茶葉形状で分類したものが等級である。一般に紅茶の等級区分というが、それは茶葉の「大きさ」と「外観」を表すだけで、品質の良し悪しを表したものではない。したがって味や香りを保証するものではない。茶葉の大きさや揉捻に差があると、抽出時間にばらつきが出て味に影響が出るため、揃えているものである。国際的に統一された規格ではないため、同じ等級でも産地によって形状に違いがある。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その他、通常より茶葉が大きかったり芯芽や若葉が多く含まれていたりする場合、他と差別化するために「OP1」など、等級名に1を付けるなどする場合がある。元々は茶摘みにおいて枝の芯芽とそのすぐ下の若葉2枚を摘む1芯2葉摘みという手法を取っており、1葉と2葉をそれぞれ摘んで製茶されていた。そのため1葉をオレンジペコ、2葉をペコと呼んでいたが、現在ではこの摘み取ったものを一部(特殊な製茶をする場合)を除いて一緒に加工されているため茶葉の区別がなくなり、茶葉の部位ではなく仕上がり時の形状を示す言葉となっている。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、特に高品質の茶葉として以下のものが出回っている。これらの等級に関しては、おおむねインド政府紅茶局が認定(TGFOPまで)はしているが、元々は茶園やディーラー、さらにはバイヤーが茶葉の細分化を図る目的、及び品質の良さをアピールするために独自に付けたもので、基本的にチップの種類や含まれる量によって決められる感がある。したがって、本来のリーフ形状による等級付けの範疇をいささか逸脱した感もある。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "チップを自然乾燥させたものをシルバーチップ、揉捻の際に出る、発酵成分を含んだ液に染まることで、乾燥後に金色に光るものをゴールデンチップという。ゴールデンチップを多く含むと茶湯の水色も濃くなる傾向がある。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さらにTGFOP1やSFTGFOP1など最後に'1'を付けた物もあり、これはナンバーワンというような意味である。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、チップのみを集めたものがシルバーチップやシルバーニードルの名称で高額に取引きされる。一般の紅茶とはかけ離れた味、風味、茶湯の水色を持つものでありマニア向けである。味も香りもほとんどなく茶湯の水色も淡いと誤解されることが多いが、これは一般の紅茶と同じ抽出時間しかかけていないためである。十分に味や香りを引き出すためには15分から30分あるいはそれ以上の抽出時間が必要である。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "消費者の嗜好に合わせて異なる原茶を配合し一定の品質と価格を保つように製品化することをブレンドと呼ぶ。なお、一般家庭で複数の茶葉を混合することはミックスと呼ぶ。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ブレンドには大きく分けると2通りあり、異なる産地のものを合わせる場合と、同じ産地で違う茶園や違う日にちに採取した茶葉を合わせる場合がある。また香料やその他の方法で茶葉に香りを定着させたりハーブやドライフルーツなどを混合したものは、着香茶(フレーバーティー)と呼ばれる。大手メーカー(パッカー)の商品にブレンドが多いのは、安価で安定した茶葉を広く流通させるためである。 以下に良く知られるブレンド名を示す。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "着香茶(フレーバーティー)には香料を茶葉に吹き付けたものや、ハーブやドライフルーツなどを茶葉に混ぜ込んで着香したもの、香りの強い物質から茶葉に香りを吸着させたものなどがある。品質の良くない茶葉に商品価値をつけるために着香することが少なくない。前述の産地名のついたブレンドの中には、紅茶の香りを人工的につけた粗悪なものもある。", "title": "紅茶の生産" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "インドでは、基本変種、アッサムチャの両方が栽培される。代表的な産地としてアッサム、ダージリン、ニルギリが知られる。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『セイロンティー』の名前で知られる。ウバ、ヌワラエリヤ、ディンブラ、キャンディ、ルフナの5地域をまとめて「セイロン・ファイブ・カインズ」と呼ぶ。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "セイロンティーは茶園・工場の標高位置によって", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "の3つに分類される。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "基本変種の紅茶として有名なものには、祁門(キームン)、雲南(ユンナン)などがある。これらはインドやスリランカのものと比べ茶葉が細かく砕かれていないものが多い。渋味が出にくいものが多い。燻したような香りのするものもある。またアールグレイなどの着香紅茶に利用される場合もある。(→中国茶)", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アフリカでは、ケニア、タンザニア、マラウイ、モザンビークなどで生産されているが、その多くがブレンド用である。ケニア産のものは比較的良質といわれる。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1876年(明治9年)に紅茶用茶樹の種子が導入され、鹿児島県、福岡県、静岡県、東京に紅茶伝習所が設けられ、紅茶に適するアッサムチャと基本変種を交配して国産紅茶品種を作り、紅茶の製造が始まった。昭和30年代半ばまでは1,500t以上生産されていた。1971年の紅茶輸入自由化以降、国内の紅茶生産は壊滅状態となったが、現在では静岡県および長野県、岐阜県、三重県、奈良県、滋賀県、山陰地方、九州地方(福岡県や屋久島など)といった地域で生産された国産紅茶が若干量流通している。これら国産品を「和紅茶」と呼称している事業者もある。「紅ほまれ」「はつもみじ」「紅かおり」といった紅茶向け品種もある(後述)。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "生産者により品質のばらつきが多い傾向がある。やぶきた等の緑茶用品種から作られるものは渋みや苦みが少なく口当たりが柔らかい反面、香も淡いものが多い。べにふうき等の紅茶用品種から作られるもにのはインドやスリランカの紅茶に匹敵する強い味と風味を持っているものもある。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方、沖縄県では紅茶生産に適する原料となるアッサムチャの生産に適する位置から、1958年にアッサムチャの生産を試みた記録がある。定着はしなかったが、2000年より再度生産を開始。「琉球紅茶」のブランド名にて有機・無農薬栽培などの付加価値を付け、苗木から選定したブランド化をスタート。自治体と取り組み本格的な生産に乗り出し、「金武町琉球紅茶産地化事業」が2008年JAPANブランドに認定。同年、中小企業庁地域資源育成事業にも認定され、国外の販路も視野に入れた高品質な国産紅茶の本格的な生産を開始している。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "静岡市では静岡市ブランドとして丸子(まりこ)紅茶を登録し、研究機関をおいて発酵茶の普及にも尽くしている。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "紅茶の会は2002年から毎年、地紅茶サミット(全国地紅茶サミット)を開催している。「地紅茶」とは国産紅茶のことで、紅茶の会の藤原一輝により提唱された。ここで、「国産」とは「日本産」だけを指すものではない。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また杉の葉を加工して「紅茶」の名称で販売されている商品もある。", "title": "紅茶の産地" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "茶葉を熱湯で抽出し、その抽出液を飲用する。抽出の方法にはいくつかの種類があり、「淹れる人ごとに各々の決まりがある」と言われている。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "好みにより、砂糖、ミルク、レモン、ジャムなどを入れて飲むが、後述するようにこれは茶湯の水色の呈色に影響する。ティーバッグを使えば、手軽に紅茶を楽しむことができる。さらに、シナモンなど入れて飲んだりすることがあり、独特の風味や味を楽しむことができる。これは、シナモンティーという。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "紅茶とミルクを合わせたもの、いわゆるミルクティーをいれる際に、ミルクを先に入れるか、紅茶の中にミルクを落とすかが、紅茶好きの間では常に議論の種になる。イギリス王立化学会が2003年6月24日にレポート『How to make a Perfect Cup of Tea(完璧な紅茶の入れ方)』で「冷たいミルクを先に入れたほうが良い」と発表したが、これは熱い紅茶の中にミルクを注ぐとミルクのタンパク質が変質し風味を損ねてしまうことが化学分析の結果明らかになった、というものである。しかしイギリスでミルクといえば低温殺菌牛乳が主流であるため、おそらく低温殺菌牛乳のミルクを使った場合の話と考えられる。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、「ミルクを先に入れるべき」との根拠として熱い紅茶を上質な薄手の茶器に注いだ場合、熱によりひびが入る可能性があるため冷たいミルクで緩和するというものがある。しかしこれも予め茶器を温めておくことにより回避は可能である。他にはミルクを先に入れた方が入れたミルクの量が判りやすいという根拠もある。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "紅茶の入れ方には大きく分けて、淹茶式、煮出し式、煮込み式、濾過式の四つが知られている。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ポットなどの容器に茶葉を入れ、熱湯を注いで蒸らし、茶葉を濾別して抽出する方法。家庭における一般的かつ本格的な方法といわれる。ティーバッグを用いる場合もこれに分類される。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "19世紀にビートン夫人の著した家政書『The Book of Household Management』によって、英国式ゴールデンルール(The Five Golden Rules)といわれる紅茶の淹れ方のスタンダードが確立され、改訂されつつも現代に至るまで受け継がれている。おいしく紅茶を淹れるコツは、良質の茶葉を用い、新鮮な汲みたての水を用意し、予めよく温めておいたティーポットに茶葉を入れて、緑茶の場合と違い、十分に沸騰(ただし、沸騰したてのもの)させた湯をすぐに注ぐことである。ポットが冷めていては沸騰した湯も冷めてしまい、茶葉の旨みが抽出されにくいので、冬場は特に手を抜かないでおきたい。茶葉を充分に蒸らし、葉が開ききってからティーカップに注ぐ。ポットは蓋付きのものを用い、ティーカップも予め温めておくと良い。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "抽出時間はBOPなどの粉末状の茶葉なら2分以内、OP以上の茶葉の形が残っているものなら3 - 5分がよいとされる。あくまで目安なので好みで調整するとよい。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "鍋や釜に湯を沸かし、茶葉を入れてそのまま煮出した後、茶葉を濾別する方法。煮出す時間は普通30秒程度。煮出している最中は蓋をすること。鍋一つでもできる、比較的簡便な方法ではあるが、一度に多量に抽出できる上、抽出時に変化が与え易く、応用の利く方法である。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、ロシアやトルコなどでは紅茶を入れる際の湯沸かし器としてサモワールが伝統的に使用されてきた。サモワール上部にはティーポットが据えられる構造となっており、ポットが加熱され続けることにより茶液が濃縮される。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "煮出し式に似ているが、水の代わりにミルクを用い、抽出に比較的長い時間をかけるもの。インド・チャイがこれに当るが、ハッキリとした定型がなく、煮出し式との区別はむずかしい。多くの場合、多量の砂糖とスパイスが入る。またミルクを使った煮出し式と比較すると、煮出し式は茶葉の香りを飛ばさぬようミルクが完全に沸騰する前に(俗にいう「吹かさないように」)火を止めるが、煮込み式の場合はあえて何度も煮返して水分を飛ばし、茶葉の香りよりはミルクの濃厚さとスパイスの香りを重視して作る場合が多い。店頭では常時沸かしっぱなしになっていることが多い。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "茶漉しやネル袋に茶葉を入れ、上から熱湯を注ぐ方法。このときにネル袋を抽出液に浸漬したり、茶葉を搾るなどの操作が加わる。上から熱湯を注ぐだけでは「色つきのお湯」程度にしかならず、逆に揉んだり絞ったりすれば非常に濃い紅茶となるが、いずれにせよ良い方法とはいえない。多量の砂糖とミルクを添えて味を誤魔化さねば飲みにくい代物である。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "世界各地には様々な紅茶の楽しみ方がある。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "喫茶店やカフェにおいては、コーヒー、ココアと並ぶ飲料メニューとして存在している。また飲む直前に家庭や店舗で入れるもののほかに、工場で大量生産される缶・ペットボトル入り紅茶(紅茶飲料)も増えてきており、手軽に飲めるようになっている。ホテル等では英国式のアフタヌーンティも提供される。日本のティーバッグは紐付きで茶葉の量が少ないティーカップ用が一般的であるが、最近はイギリスで一般的な大型マグカップ用の円形で紐がついていないタイプも輸入食材店等で販売されるようになってきている。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "季節によって多少のばらつきはあるものの、ストレート、ミルク、レモンの3種類の飲み方が一般的であり、砂糖が別に添えられ飲む人の好みによって加えられる。ハーブティーや、果物のピールなどを加えて香りを楽しむフレーバードティー、リンゴや桃などの果汁や香りを加えて味を楽しむフルーツティー、好みのジャムを加えたロシアン・ティー、インド風にスパイス等を加え煮出したチャイなども飲まれている。また、寒暖の差がはっきりしている気候のため、冬はホット、夏はアイスで飲まれることが多い。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "喫茶店やカフェなどで、エスプレッソコーヒーと同様に茶葉を高圧で抽出した紅茶(ティープレッソ)にミルクでアレンジを加えたティーラテ等のメニューも登場している。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では圧倒的にコーヒーが飲まれるが、コーヒーはホットで飲まれることがほとんどで、冷たい飲み物としてはコーヒーよりもアイスティーがよく飲まれる。今日飲まれているアイスティーの発祥は1904年のセントルイス万国博覧会で販売していたホットティーが猛暑のためなかなか売れず、試しに氷を入れて販売したら大盛況になったのが始まりとされている。また、レストランなどでホットティーを注文した場合、茶葉ではなく、ティーバッグとお湯の入ったポットが供されることがほとんどである。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "紅茶はイギリス文化を代表する飲料とされ多くの国民が日常的に飲む。通常はミルクティーで、砂糖を入れる人もいる。英国の家庭では来客にまず紅茶を勧める事がよいマナーとされている。紅茶はイギリスでは家庭やカフェで主に飲まれる。客はティーのおかわりを勧められた場合断ってはならない風習があると言われ、1日に5-6杯以上飲むことも多いとされる。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イギリスといえばアフタヌーン・ティーなどが有名であるが、アフタヌーン・ティーなどをしているゆとりのない階級の人々は、午前中には「イレヴンシス」と呼ばれる休憩時間に紅茶を飲んでリフレッシュしている。但し、現在では移民の増加に伴って現在はそのスタイルも多様化している。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一般の家庭やパブ等ではティーバッグをマグカップに入れる場合がほとんどである。もちろんティールーム等の専門店やホテルなどにおいてはティーポットに茶葉で淹れ、ソーサー付きの茶器で供されることもある。なお、イギリスで一般的なティーバッグは丸型で紐がついていない。四角形やピラミッド型のティーバッグもある。抽出後はスプーン等で取り出す人もいるが、取り出さない人も多い。 UK Tea Council によると、イギリスでは一日に1億6500万杯の紅茶が消費され、コーヒー消費量7000万杯/日の2倍以上となっている。また、イギリスで飲まれる紅茶の96%はティーバッグで淹れられ、98%がミルクティーとして飲まれている。 産業革命時代に労働者の空腹を紛らわす目的で労働者階級にまで普及したため、濃いミルクティーに砂糖を入れて飲まれることもあるが、全体としては少数派となっており、砂糖無しで飲むのが一般的である。またイギリス軍のレーションにはティーバッグが付属している。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "フランスではコーヒーがよく飲まれ、実際国民一人あたりの紅茶消費量はイギリスの十分の一程度でしかない。が、イギリスの紅茶が労働者階級にまで行き届いた日常性の高いものとすれば、フランスでの紅茶は普及が進まなかったため、逆にブルジョワジーの文化として定着した。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "基本的にコーヒー文化圏ではあるが、北ドイツを中心に紅茶も一般化しておりよく飲まれている。ドイツとオランダにまたがるフリースラント地方の紅茶が有名で、オランダ東インド会社が西暦17世紀初頭にもたらした紅茶が端緒であった。ドイツ茶業同盟(Deutscher Teeverband e.V.) の調査によると、オストフリースラント(東フリースラント)では2016年の紅茶消費量が一人当たり300リットルであったが、これはドイツ全土の平均値の十一倍に相当する。ドイツでの飲まれ方は、ホットのミルクティーが主流で、ビールのようにグラスに注がれて出されることがある。カフェインの取り過ぎを忌避する健康志向から、ハーブティーも普及している。トルコ移民が多い関係からトルコ紅茶も市販されている。レストラン、また宿泊施設の朝食ビュッフェではティーバッグが用意され、家庭では茶葉で楽しまれることも少なくない。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "レモンティーがよく飲まれる。ミルクティーは子供の飲み物と思われており、カフェなどのメニューにミルクティーは載っていない。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "植民地時代にイギリスの影響を受けて独自の喫茶文化を発達させた。チャイと呼ばれる非常に甘い煮出し式ミルクティーを飲む習慣がある。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "中国では茶に何も加えずに飲む「清飲法」が好まれるため、紅茶を飲む場合も基本的に何も加えずに飲む。また、紅茶は五行説では「熱気」の飲み物とされているため、人によっては暑い時期を避け寒い時期だけ飲む。 香港ではイギリス流のアフタヌーン・ティーも盛んであるが、庶民はエバミルクと砂糖をたっぷり入れた香港式ミルクティーや、レモンを1/3個分ほど使った、レモンティーを特にアイスで楽しんでいる。また鴛鴦茶というコーヒーと合わせた香港独特の飲み物もある。 有名なブレンド「アールグレイ」は、グレイ伯爵が気に入った香港の紅茶の味を、ベルガモットのフレーバーを用いて再現したものである。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "中国の茶に対する価値観では、茶葉のでき具合や仕上げの技術で茶の良し悪しを評価するため、茶葉をブロークンやダストに刻んでしまう紅茶は、あまり評価されない傾向がある。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "中国雲南省などで作られる磚茶(たんちゃ。茶葉と茎を蒸して固形化した黒茶の一種)を煮出したものに、バターと岩塩、プンドを、ドンモやチャイドンと呼ばれる筒形の容器に入れ、攪拌して作る。バター茶とも呼ばれ、チベットでの重要なビタミンC摂取源である。どちらかというと味はスープに近く、主食のツァンパを練るのにも使う。モンゴルやブータン、ネパールなどでも同様の習慣がある。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "17世紀以来、中国方面から緑茶や磚茶を輸入していたロシアの紅茶の淹れ方は、煮出し式の項で触れたようにサモワールの上にかけたヤカンで濃く煮出した紅茶をグラスの四分の一程度入れ、お湯で薄める方法を取る。そのため、使われる茶葉は色が濃く出て、苦味、渋みが少なく伸びの良さが重視される。反面、煮詰める段階で香りは飛んでしまうので、英国式と違い香りは重視されない。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一人分ずつ供されたジャムをスプーンですくって舐めながら紅茶を飲むのが作法とされている。これは寒い地方で紅茶にジャムを入れると茶の温度が下がり、体を温めるのに適さなくなってしまう事が理由の一つだと言われている。日本において一般に「ロシアンティー」と言えば、紅茶に直接ジャムを加えた物とされているが、これはロシアと比べて比較的温暖なウクライナやポーランドの習慣である。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "カレリア地方などの辺境地域では、故意に紅茶の受け皿に紅茶をこぼし、口に予め角砂糖等を含んだ上で、受け皿から紅茶を飲み干す習慣がある。砂糖を溶かさずに齧るのは、ロシアでの伝統的な砂糖が固く溶けにくいテンサイ糖の塊だからといわれる。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "「トルココーヒー」と冠される様に一般にはコーヒーのイメージが強いが、コーヒーは高級品であり紅茶が身近な飲み物になっている。真ん中がくびれた細身のガラスコップが紅茶用の器とされており、飲食店で頻繁に見ることが出来、商店や企業などでの接客でも用いられる。過去にアップルティーが流行ったりハーブティーなども売られているが、現在一般に飲まれているチャイは普通の紅茶である。上記のように二段式のヤカンが用いられ、下段で湯を沸かし、上段で紅茶を抽出する。下段は上段を保温する役目も果たす。もし紅茶が濃くなり過ぎたら、湯を適宜注ぎ足して濃さを調節する。トルコで出されるチャイは渋みが強いため、角砂糖を多量に入れて飲む事が多い。", "title": "飲み物としての紅茶" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1679年、イギリス東インド会社がロンドンで初めてティー・オークションを開催し、3樽の中国産のボヘア茶(ボビー)が競売にかけられた。ボヘア茶は中国では粗悪な茶として扱われていたが、イギリスではこれが珍しい茶として扱われ、後世の紅茶につながったといわれている。", "title": "紅茶の歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1712年頃にはイギリス東インド会社が中国茶のヨーロッパへの輸入を独占するようになった。1717年にはトーマス・トワイニングが紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」を開業して成功を収めている。また、1765年にはいわゆる砂糖革命が起き、中産階級への普及が進んだ(砂糖法も参照)。", "title": "紅茶の歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1773年にはイギリスがフランスとの戦費調達のために重税を課したのに反発した英領アメリカのボストンの住民がイギリス船の茶箱を海に投棄するボストン茶会事件が発生している。", "title": "紅茶の歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1823年、イギリスはインド北部のアッサム地方へのビルマ支配に対抗してイギリス東インド会社の軍隊を送って制圧(第一次英緬戦争)。この戦いにイギリス軍の少佐として従軍したロバート・ブルースが後にアッサム種として知られる茶を発見し、中国から茶師を招いて茶の生産を始めた。", "title": "紅茶の歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ヨーロッパで多く飲用される。世界で最も頻繁に紅茶を飲むと言われるイギリスでは、朝昼晩の食事だけでなく、起床時、午前午後の休憩にもお茶を楽しむ習慣がある。このため、茶器、洋菓子なども発達し、洗練された。なお、紅茶の文化は18世紀にアイルランドに伝わり、2008年時点で国民一人当たりの消費量ではアイルランドがイギリスを抜いて世界一となっている。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "1日に数回のティータイムなど、紅茶はイギリス人の生活と深く結びついている。例えば核戦争が真剣に議論された1950年代には、「もし核戦争が起こった場合、紅茶が不足するという深刻な事態が起こる」「パンや肉と並び、紅茶の備蓄の必要性がある」といった議論が政府内で行われていた。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "紅茶の入れ方は、ISO 3103によって国際標準規格として制定されている。この規格の元になったBS 6008:1980を1980年に定めた英国標準協会は、1999年度のイグノーベル賞文学賞を受賞した。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1972年にセイロンは国名をスリランカ共和国に変更したが、同年に茶園の国有化を行った。スリランカの茶園が民営化されたのは1990年のことである。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "日本では1927年に国産の三井紅茶が発売された。1939年には日本紅茶協会が設立されている。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "外国産紅茶の輸入が自由化されたのは1971年である。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "現代では喫茶店や家庭で淹れる紅茶以外に、ペットボトル入り(午後の紅茶など)が市販されている。カフェ・ラッテ(カフェラテ)のコーヒー代わり(紅茶ラテ)や菓子・スイーツの風味付けにも用いられており、抹茶の製法を応用して粉末にした紅茶も商品化されている。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "紅茶に関連する資格としては日本創芸学院が認定する紅茶コーディネーター、日本紅茶協会が認定するティーインストラクターがある。", "title": "紅茶の文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "紅茶に含まれる紅茶ポリフェノールに風邪やインフルエンザに対する有効性があるとして注目されている。日常的に飲用することに加え、紅茶を用いてうがいを行うことも予防に有効とされている。また、虫歯予防(フッ素)、食中毒予防(エピガロカテキンガレート)、コレステロール・血圧降下(紅茶フラボノイド、タンニン)、肌の老化防止(カテキン)等の作用もあると報告されている。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "紅茶茶葉中には、重量にして3%程度カフェインが含まれる。この量はコーヒーの3倍の量に当る。しかし、1杯当りに使用する茶葉・豆の量(抽出の効率も)が異なるため、飲用時のカフェイン濃度はコーヒーの方が高くなる。紅茶の飲用時のカフェイン濃度はコーヒーに比べ半分程度とされるが、品種や抽出条件(加えてコーヒーでは焙煎状態)により大きく変化するため、厳密に評価するのは難しい。なお、紅茶に含まれるカフェインはタンニンと結びつくためにその効果が抑制されることから、コーヒーのような覚醒的作用は弱く緩やかに作用する。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "紅茶におけるタンニンは、エピカテキンやエピガロカテキンなどのカテキン類とその没食子酸エステル誘導体が主となっている。一般に、カテキン類は苦味を、その没食子酸エステル誘導体は渋味を持つといわれる。生茶葉中にも多量に存在する。紅茶製造においては、発酵過程において生成されるテアフラビンなどの赤色色素の前駆体となっており、その抽出液の茶湯の水色に大きな影響を与える。なお、タンニンはポリフェノール化合物の一種でもある。紅茶には、茶葉重量の11%程度タンニンが含まれている。生茶葉中に、乾燥重量に換算して20 - 25%含まれる。生産量の面で主力となる変種のアッサムチャはタンニンの含量が基本変種に対し1.2 - 1.5倍程度多い。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "紅茶の茶湯の水色は主に紅茶フラボノイドによって決まる。紅茶特有の呈色成分として知られるテアフラビンとテアルビジンが良く知られており、これらの茶湯の水色に与える影響は大きい。この二つの成分が多いほど、茶湯の水色は鮮やかな濃い赤色となり、良品とされる。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "紅茶の香気はリナロール(レモン様)やゲラニオール(花のような)といったテルペン類による影響が強いが、その他にも青葉アルコール(ヘキセノールのこと。青臭い若葉)などのアルコール類、青葉アルデヒド(ヘキセナールのこと。青臭い若葉)のようなアルデヒド類、ネロリドール(ウッディな)、サリチル酸メチル(湿布薬)をはじめ多くの物質が関与している。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "なお、リナロールやゲラニオールなどのテルペン類は、生茶葉中では配糖体など不揮発性の前駆体として存在しており、これが萎凋や発酵の過程で遊離すると考えられている。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "萎凋の際、生茶葉に含まれる青葉アルコールや青葉アルデヒドは蒸散し、次第に減少して行く。一方、細胞内の酵素の作用によりテルペン系の香気成分が集積してくる。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "茶葉に含まれるポリフェノールオキシダーゼ(ラッカーゼとも言うEC 1.10.3.2)の作用により、カテキン類(タンニンと考えても良い)が酸化重合し、テアフラビン(橙赤色)やテアルビジン(赤色)などの赤色色素が生成する。これらの物質は茶葉に元々含まれる紅茶フラボノイドとともに茶湯の水色を決定する。また、この際、いくつかの香気成分も生成される。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "乾燥における熱風処理でかなりの香気成分が散逸する。また、糖のカラメル化も起こる。また、水分量が激減するため、製品の品質は安定する。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "紅茶の茶湯の水色は、抽出に用いた水の硬度により大きく変化する。硬水(ミネラル成分が多く、いわゆる硬度が高い水)はミネラルがタンニンなどと結合して沈殿を生じ、茶湯の水色は呈色成分と併せて濃く暗い色調となる。炭酸カルシウム沈殿物とフェノール凝集体が浮いてくる場合もある。蜂蜜を入れた場合も蜂蜜中の鉄分がタンニン鉄を生じてやはり色が濃くなる。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "逆に、紅茶にレモンを入れると茶湯の水色は薄くなる。これはレモンに含まれるクエン酸が、呈色成分のテアフラビンに働き、残ったテアルビジンの色のみになるためである。この変化は酸性によって働くため、レモン以外の柑橘類、酢酸などでも同様になる。このテアフラビンはアルカリ性で逆に色が濃くなるが、これはさきほどのミネラル成分との結合とは反応が異なる。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "茶葉に含まれるタンニンは、革なめしにも使用されている程、タンパク質と結合して変性しやすい成分である。紅茶では、口の中の粘膜に含まれるタンパク質と反応し、これが「渋み」の原因になる。タンニンは軟水に抽出されやすく、硬水では反応により口に入るタンニンが減るため軟水よりも渋くならない。このため、飲料水の硬度が比較的高い欧州では、緑茶よりも紅茶が好まれている。ただし、茶湯に茶葉を浸している時間が長ければ、茶葉からタンニンが大量に抽出されるため硬水といえども味は渋くなる。茶葉からタンニンが出てくるまでには時間がかかるため、なるべく熱水で紅茶の茶葉を蒸らす時間を加減して、茶葉を早めに引き上げることで、タンニンの抽出が抑えられる。タンニンはミネラルとも反応して沈殿を生じるため、特にタンニンのある紅茶を含む茶類の飲み過ぎは貧血の原因になると指摘されることがある。既に赤血球中にヘム鉄として取り込まれた鉄には影響せず、疾病を伴うものでない限りバランスよく摂れば影響はない。しかし、タンニンなどのポリフェノール類は、体内での働きや他の物質との相関作用はまだ研究途上であり、程度を超えた過剰摂取は体によくない。", "title": "紅茶の化学" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "風味には好みがあるが、理想的にはほどほどの無機物を含んだ中性に近い水がよいとされる。完成した紅茶はPh5前後のやや酸性の液体となり、風味のバランスが良くなる。蒸留水で紅茶を淹れると深みのない平坦な味になる。", "title": "紅茶の化学" } ]
紅茶(こうちゃ)とは、摘み取った茶の葉と芽を萎凋(乾燥)させ、もみ込んで完全発酵させ、乾燥させた茶葉。もしくはそれをポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出した飲料のこと。なお、ここでいう発酵とは微生物による発酵ではなく、茶の葉に最初から含まれている酸化酵素による酸化である。 日本語の紅茶の語源はその抽出液の水色(すいしょく)に由来する。以下では、水色を青みのカラーを表す「水色(みずいろ)」と区別するため、語を「茶湯の水色」と統一して表記する。
{{Redirectlist|アイスティー|同名の[[ヒップホップ]][[ミュージシャン]]|Ice T|[[フリーソフトウェア]]による[[Java]]実装|IcedTea}} [[ファイル:Black-tea.jpg|200px|right|thumb|一杯の紅茶]] {{栄養価 | name=紅茶(浸出液)<ref name="mext7">[[文部科学省]]『[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]』</ref>| kJ =4| water=99.7 g| protein=0.1 g| carbs=0.1 g| sodium_mg=1| potassium_mg=8| calcium_mg=1| magnesium_mg=1| phosphorus_mg=2| copper_mg=0.01| Manganese_mg=0.22| vitK_ug=6| riboflavin_mg=0.01| niacin_mg=0.1| vitB6_mg=0.01| folate_ug=3| opt1n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt1v=0.2 µg| opt2n=[[カフェイン]]| opt2v=0.03 g| opt3n=[[タンニン]]| opt3v=0.10 g| note =浸出法: 茶 5 g/熱湯 360 mL、1.5分~4分  | right=1 }} '''紅茶'''(こうちゃ)とは、摘み取った[[茶]]の[[葉]]と[[芽]]を萎凋([[乾燥]])させ、もみ込んで完全[[発酵]]させ、乾燥させた[[茶葉]]。もしくはそれを[[ポット]]に入れ、[[沸騰]]した[[湯]]をその上に注いで抽出した[[飲料]]のこと。なお、ここでいう発酵とは[[微生物]]による発酵ではなく、茶の葉に最初から含まれている[[酸化]][[酵素]]による酸化である。 [[日本語]]の紅茶の[[語源]]はその抽出液の'''水色'''(すいしょく)に由来する。以下では、水色を青みの[[色|カラー]]を表す「[[水色|水色(みずいろ)]]」と区別するため、語を「茶湯の水色」と統一して表記する。 == 紅茶の茶葉 == 紅茶は伝統的に[[中国]]で栽培されていた[[チャノキ]](学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze 基本変種)の葉から作られていたが、[[1823年]]に[[インド]]の[[アッサム州|アッサム地方]]で高木になる変種のアッサムチャ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze var. assamica (J.W.Mast.) Kitam.)が発見され、以後はインドや[[スリランカ]]などでは[[アッサム]]の生産が盛んになった。ただし、[[ダージリン・ティー|ダージリン]]等では基本変種の栽培も各地で行われており、また両者の[[交配]]も進んでいるため、産地のみでいずれの種類かを特定することはできない。アッサムチャは基本変種より渋みを示す成分が非常に多いといわれており、一般に、アッサムチャまたは交配種の方が安価である。<!--中国産以外で目にする紅茶の多くはこれらである。--> なお「クローナル」と呼ばれるものもあるが、これは株ごとに遺伝子が変化する[[実生]]栽培に対する、遺伝子の変化しない[[栄養繁殖]]による[[クローン]]株を指す<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lupicia.com/magazine/2016/05/special.html|title=世界最高の紅茶産地 ダージリン|work=ルピシアだより No.244|publisher=ルピシア|date=2016-5|accessdate=2023-1-23}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://blog.teabox.com/clonals-tea-future|author=Peter G. W. Keen|title=Clonals - the tea of the future|work=Still Steeping|publisher=Teabox|date=2016-3-15|accessdate=2023-1-23}}</ref>。これは現代の主流な栽培法となっており、クローン株にはふつう栽培に適した特性を持つ株が選抜して用いられ、いくつかの株は育成茶園にちなんだ名称で品種登録されている。よく知られたクローナル品種としてはダージリンのAV2(Ambari Vegetative 2)、B157(Bannockburn 157)、P312(Phoobsering 312)がある。 == 紅茶の生産 == [[ファイル:Sri Lanka Teeplantage.jpg|thumb|スリランカ高地の紅茶[[プランテーション]]]] 紅茶の最大の[[生産国]]はインドで、次いでスリランカ、さらに[[ケニア]]、[[トルコ]]、[[インドネシア]]と続く。中国は茶の生産全体ではインドとスリランカの間に入るが、[[緑茶]]と区別した統計がないため、詳細は不明である。 一般に、[[標高]]の高い冷涼な環境で栽培されるものには、香りの優れたものが多い。対して、強い日射の低地で栽培されたものは、味に優れ(ただし、比較的アクの強いものとなる)茶湯の水色の濃いものが多いとされる。ダージリン、ウバ、キーマンなどは前者に、ルフナ、アッサムは後者に入る。一般に前者のものが高価である。近年では強い渋味を好む[[中近東]]地域で低地産紅茶の消費が増えている。 スリランカでは製茶工場の標高により、1,219[[メートル|m]] (4,000[[フィート|ft]]) 以上のものをハイ・グロウン、610m (2,000ft) 以下のものをロウ・グロウン、その間のものをミディアム・グロウンと区別している。 収穫期によっても品質は変化する。 [[ダージリンティー]]の場合、一番茶の採れる3・4月には、香りの優れた緑がかったもの、続く5・6月には味・香りともに優れたものが採れる。7・8月の雨期には香りのない低品質のものとなる。9・10月に採れる秋茶は主にブレンド用とされる。 [[セイロンティー]]の場合、産地により最高品質の茶が採れる季節が異なる。例えば、ウバは7・8月、ディンブラは1・2月となる。 === 栽培と収穫 === ==== 栽培 ==== 次の条件を満たす地域が茶樹の栽培に適するとされる。 * [[熱帯]]あるいは[[亜熱帯]]に属する。 * 年平均気温13℃以上、年降水量1500ミリ以上である。 * [[弱酸性]]土壌である。 * 土壌の排水性が良い。 収穫期に、乾燥した日内寒暖差の激しい日が続くと香気に優れた茶葉が得られるともといわれる。また、茶樹の栽培から茶葉の収穫にかけて人手がかかるため、安くて良質な労働力が求められることも重要である。 [[チャノキ|茶樹]]は、病虫害や気候の変動に比較的良く耐える植物であるが、良質な茶葉を生産するためには専門の管理士の指導の下、比較的人手のかかる作業を含む管理が必要である。 ==== 収穫 ==== 茶の収穫(茶摘みと呼ぶ)は、通常人手で行なう。通常[[はさみ|鋏]]などは使用しない。枝の先端の芽(「芯」と呼ぶ)と、その下二枚の葉までを摘む方法(一芯二葉摘みと呼ぶ)が理想とされるが、実際はもう一枚下の葉まで含めて摘む方法(一芯三葉摘み)が一般的になっている。高級茶葉の中には一芯一葉摘みもあり、チップを多く含んでいる。 === 加工 === 紅茶の製造は以下の工程からなる。 '''生産'''(栽培、収穫) ⇒ '''萎凋''' ⇒ '''揉捻''' ⇒ '''玉解''' ⇒ '''篩分''' ⇒ '''揉捻''' ⇒ '''発酵''' ⇒ '''乾燥'''(⇒ '''抽出''') 簡単に言ってしまうと、収穫した茶葉を放置し、しおれさせた後に揉み潰してまた放置、茶葉が褐色に変化したところで乾燥させる。という工程の並びになる。しおれさせる工程を萎凋、揉み潰す工程を揉捻、茶葉が褐色に変化するのを待つ工程を発酵と呼ぶ。 従来は、茶葉の形状を残し、針状にまとめたもの('''リーフタイプ'''と呼ぶ)が一般的であったが、近年では、揉捻の際茶葉を磨砕し細かくしたもの('''ブロークンタイプ'''と呼ぶ)が増えている。萎凋を浅くしたブロークンタイプのもの('''[[Crush, Tear and Curl|CTC]]タイプ'''と呼ぶ)や、萎凋前の茶葉を裁断して作るもの('''レッグカット'''と呼ぶ)もある。 ==== 生産 ==== 茶の生産については「[[#紅茶の生産|紅茶の生産]]」節を参照。 ==== 萎凋 ==== 次の工程での加工のため、茶葉に含まれる水分量を調節する工程を萎凋(いちょう)と呼ぶ。実際には、萎凋棚に生茶葉を広げ、通風環境下で18時間程度静置する。通常茶葉の重量が元の茶葉の55%に減少するまで行なう。この操作により、茶葉は柔軟になる。また、この際萎凋香([[イチジク|いちじく]]様の香りといわれる)を生じる。 香りの強いダージリン紅茶の場合は、この萎凋を強くし、茶葉の重量が元の40%になるまで行なう。一方、茶湯の水色に重きをおく[[Crush, Tear and Curl|CTC]]紅茶では萎凋を弱くし、茶葉の重量が元の70%になったところで次の工程に入る。 ==== 揉捻 ==== 揉捻(じゅうねん)とは、萎凋の終った茶葉を40分程度かけて揉み潰し、細胞膜を破壊することで紅茶の成分を抽出しやすくすると同時に、茶葉中の酵素や[[カテキン]]を浸出させ、酸素を供給して次工程の発酵を開始させること。一回の揉捻で全ての茶葉を揉み潰すのは困難なため、以下の2工程が追加される。 ===== 玉解と篩分 ===== 揉捻により塊状となった茶葉を解きほぐし(玉解)、細かくなった茶葉をふるい分け([[篩]]分)する工程。通常機械を用いて同時に行なう。細かくなった茶葉は次の工程を飛ばし、発酵の段階で元の茶葉とあわせる。 ===== 再揉捻 ===== 30分程度かけて再び揉捻を行ない、茶葉の形状を整えるとともに、揉捻を完全にさせる。 ==== 発酵 ==== 茶葉中に含まれる酸化[[酵素]]の作用を利用して[[カテキン]]類を酸化発酵させる。実際には、気温25[[セルシウス度|℃]]、[[湿度]]95%の部屋に2時間程度静置する。この際、茶葉は褐色に変化する。 ==== 乾燥 ==== 十分に発酵した茶葉を加熱し、茶葉中の酵素を失活させることで発酵を終了させるとともに、60%近くある茶葉の水分量を3%程度にまで減少させる。 === 旬 === 紅茶の香り、色、味が最も充実する[[旬]]にあたる時期をクオリティ・シーズンという<ref name="dai263">{{Cite book |和書 |author=日本紅茶協会 |title=紅茶の大事典 |page=263 |publisher=成美堂出版 |year=2013}}</ref>。 ; 早摘み茶 : ファーストフラッシュのうち、特に早い時期に摘んだもの。初売りのファーストフラッシュとして競って店頭に並べられる。 ; ファーストフラッシュ : 春摘みといわれる紅茶。低温期に生産を行なわない地域での新茶となる。香りが強く、発酵の浅いものが多いため、茶湯の水色も緑色を帯びるものが多い。 ; インビトウィーン : 中間摘みといわれる紅茶。あまり出回らない。 ; セカンドフラッシュ : 夏摘み、もしくは2番摘みといわれる紅茶。味、香気ともにバランスがとれ、茶湯の水色に優れた非常に高品質な紅茶が得られる時期。 ; オータムナル : 秋茶とも呼ぶ。秋摘みという意味の紅茶。品質はセカンドフラッシュに比べ劣る。茶葉のツヤもなく、荒れた品質となる。香気は弱いがしっかりとした味の紅茶となる。 === 等級 === {{Main|紅茶の等級区分|オレンジペコー}} 茶葉の仕上げの茶葉形状で分類したものが等級である。一般に紅茶の等級区分というが、それは茶葉の「大きさ」と「外観」を表すだけで、品質の良し悪しを表したものではない。したがって味や香りを保証するものではない。茶葉の大きさや揉捻に差があると、抽出時間にばらつきが出て味に影響が出るため、揃えているものである。国際的に統一された規格ではないため、同じ等級でも産地によって形状に違いがある。 ; オレンジペコ (Orange Pekoe, OP) : 茶葉の形状としては一番大きい茶葉を指す。 ; フラワリー・オレンジペコ(Flowery Orange Pekoe, FOP) : オレンジペコ等級並の大きさの茶葉で芯芽や若葉が多く含まれるものを指す。 [[ファイル:Tea bags.jpg|thumb|right|200px|ティーバッグ]] ; ブロークン・オレンジペコ(Broken Orange Pekoe, BOP) : オレンジペコと同じ茶葉を細かく砕いたものを指す。 ; ペコ(Pekoe, P) : BOPよりやや大きく、OPやFOPより小さい茶葉を指す。 ; フラワリー・ペコ(Flowery Pekoe, FP) : Pで芯芽を多く含むものを指す。 ; ブロークン・オレンジペコ・ファニングス(Broken Orange Pekoe Fannings, BOPF) : BOPよりさらに細かくなった茶葉を指す。 ; ダスト(Dust, D) : 一番細かく粉状になった茶葉を指す。上質なものから低質なものまで様々である。主にティーバッグに使われる。 ;ファニングス(Fannings, F) :BOPFをふるいにかけたもの。Dより大きい。 ;ブロークン・ペコー(Broken Pekoe, BP) :Pをカットしたもので、BOPより大きいサイズ。 ;ペコースーチョン(Pekoe Souchong, PS) :Pよりも堅い葉からなる。香りも茶湯の水色もPより弱い。 ;スーチョン(Souchong, S) :PSよりも丸みがあり、大きくて葉は固い。 ;ブロークン・ペコー・スーチョン(Broken Pekoe Souchong, BPS) :PSの茶葉をカットし、ふるいにかけたもの。BPより大きい。 その他、通常より茶葉が大きかったり芯芽や若葉が多く含まれていたりする場合、他と差別化するために「OP1」など、等級名に1を付けるなどする場合がある。元々は茶摘みにおいて枝の芯芽とそのすぐ下の若葉2枚を摘む1芯2葉摘みという手法を取っており、1葉と2葉をそれぞれ摘んで製茶されていた。そのため1葉をオレンジペコ、2葉をペコと呼んでいたが、現在ではこの摘み取ったものを一部(特殊な製茶をする場合)を除いて一緒に加工されているため茶葉の区別がなくなり、茶葉の部位ではなく仕上がり時の形状を示す言葉となっている。 なお、特に高品質の茶葉として以下のものが出回っている。これらの等級に関しては、おおむねインド政府紅茶局が認定(TGFOPまで)はしているが、元々は茶園やディーラー、さらにはバイヤーが茶葉の細分化を図る目的、及び品質の良さをアピールするために独自に付けたもので、基本的にチップの種類や含まれる量によって決められる感がある。したがって、本来のリーフ形状による等級付けの範疇をいささか逸脱した感もある。 チップを自然乾燥させたものをシルバーチップ、揉捻の際に出る、発酵成分を含んだ液に染まることで、乾燥後に金色に光るものをゴールデンチップという。ゴールデンチップを多く含むと茶湯の水色も濃くなる傾向がある。 ; ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ (Golden Flowery Orange Pekoe, GFOP) : FOPのうち、チップを含み茶湯の水色が美しい黄金色を呈すもの。goldenはチップの色と茶湯の水色双方を意味する。 ; ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ (Tippy Golden Flowery Orange Pekoe, TGFOP) : GFOPのうち、チップの量がとても多いもの。 ; ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ (Fine Tippy Golden Flowery Orange Pekoe, FTGFOP) : TGFOPのうち、ほとんどがゴールデンチップから成るもの。 ; シルバー・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ (Silver Tippy Golden Flowery Orange Pekoe, STGFOP) : TGFOPのうち、ほとんどがシルバーチップから成るもの。STGFOPもスペシャル・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコと表示される場合がある。 ; シルバー・ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ (Silver Fine Tippy Golden Flowery Orange Pekoe, SFTGFOP) : この等級は従来のカテゴリにはなく、後にディーラーが追加で作ったものと推測されるが、チップの量・質ともに優れているものに付けられている。ゴールドチップ、シルバーチップ共に多く含む最上級茶葉である。 さらにTGFOP1やSFTGFOP1など最後に'1'を付けた物もあり、これはナンバーワンというような意味である。 また、チップのみを集めたものがシルバーチップやシルバーニードルの名称で高額に取引きされる。一般の紅茶とはかけ離れた味、風味、茶湯の水色を持つものでありマニア向けである。味も香りもほとんどなく茶湯の水色も淡いと誤解されることが多いが、これは一般の紅茶と同じ抽出時間しかかけていないためである。十分に味や香りを引き出すためには15分から30分あるいはそれ以上の抽出時間が必要である。 === 製品化 === ==== ブレンド ==== 消費者の嗜好に合わせて異なる原茶を配合し一定の品質と価格を保つように製品化することをブレンドと呼ぶ<ref name="dai267">{{Cite book |和書 |author=日本紅茶協会 |title=紅茶の大事典 |page=267 |publisher=成美堂出版 |year=2013}}</ref>。なお、一般家庭で複数の茶葉を混合することはミックスと呼ぶ<ref name="dai267" />。 ブレンドには大きく分けると2通りあり、異なる産地のものを合わせる場合と、同じ産地で違う茶園や違う日にちに採取した茶葉を合わせる場合がある。また[[香料]]やその他の方法で茶葉に香りを定着させたり[[ハーブ]]や[[ドライフルーツ]]などを混合したものは、着香茶([[フレーバーティー]])と呼ばれる。大手メーカー(パッカー)の商品にブレンドが多いのは、安価で安定した茶葉を広く流通させるためである。 以下に良く知られるブレンド名を示す。 ; ブレックファスト<ref name="Richardson2022">{{Cite web|url=https://www.teatimemagazine.com/understanding-tea-blends/|title=Understanding Tea Blends|author=Bruce Richardson|work=Tea Time Magazine|publisher=Hoffman Media|date=2022-4-14|accessdate=2022-9-27}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.thekitchn.com/whats-the-difference-between-english-irish-and-scottish-breakfast-teas-202067|title=What's the Difference Between English, Irish and Scottish Breakfast Teas?|author=Emily Han|work=kitchn|publisher=Apartment Therapy|date=2022-8-3|accessdate=2022-9-27}}</ref> : 朝食に合わせた強い風味の濃いブレンド。茶葉にはモルティーな風味のアッサム、セイロン(スリランカ)、ケニア、またキームンがよく用いられ、ミルクとの相性が良く作られる。[[イングリッシュ・ブレックファスト・ティー|イングリッシュ]]、[[アイリッシュ・ブレックファスト・ティー|アイリッシュ]]、[[スコティッシュ・ブレックファスト・ティー|スコティッシュ]]の3種があり、後に挙げたものほど一般に風味が強い。 ; アフタヌーン<ref name="Richardson2022"/> : [[アフタヌーン・ティー]]の軽食に合わせた軽い風味のブレンド。多くはセイロン(スリランカ)またはインドの茶葉が用いられる。 ; HMB (Her Majesty's Blend) : 通常、リッジウェイの物を指す。渋味の抜けたスッキリとした味わい。 ; [[プリンス・オブ・ウェールズ (紅茶)|プリンス・オブ・ウェールズ]] : キーマンをベースにした特徴のある香。名称の由来は英国・皇太子時代の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]の称号(「[[プリンス・オブ・ウェールズ]]」参照)。 ==== 着香茶(フレーバーティー) ==== 着香茶([[フレーバーティー]])には香料を茶葉に吹き付けたものや、[[ハーブ]]や[[ドライフルーツ]]などを茶葉に混ぜ込んで着香したもの、香りの強い物質から茶葉に香りを吸着させたものなどがある。品質の良くない茶葉に商品価値をつけるために着香することが少なくない。前述の産地名のついたブレンドの中には、紅茶の香りを人工的につけた粗悪なものもある。 ; [[アールグレイ]] : 比較的渋みの少ないブレンドした茶葉に[[ベルガモット]]で香りを付けた着香茶のこと。名前は19世紀の英国首相グレイ伯爵を由来としており、キーマンに着香したものがスタンダードとされる。独特の香りが好まれ、高温に加熱しても香りが飛ばないことから、クッキー、ケーキ、ゼリーなどの菓子にアールグレイがよく使われる。ただ、厳密に言えばこれらは紅茶風味の菓子というより、ベルガモットの香りの菓子である。 ; [[レディグレイ]] : [[アールグレイ]]をベースに、柑橘類の果皮と[[ヤグルマギク]]の花を加えた[[トワイニング]]社のブレンドティ。フルーティーで爽やかな風味。 ; [[正山小種]](ラプサン・スーチョン) : 欧米への輸出用のものは茶葉を松葉で燻して着香した着香茶で[[正露丸]]にもたとえられる強い燻香がある。中国国内向けのものは燻香が淡いものが多く中にはまったく燻香を含まないものもある。ミルクティーを淹れるときに、この茶葉を一摘み加える使い方もある。 == 紅茶の産地 == === インド === [[ファイル:Assam black tea.jpg|thumb|[[アッサム]]の茶葉]] インドでは、基本変種、アッサムチャの両方が栽培される。代表的な産地としてアッサム、ダージリン、ニルギリが知られる。 ; [[アッサム]] (Assam) : [[インド北部]]産。茶湯の水色は澄んだ濃い目の深い紅色でミルクティーに適する。甘い芳醇な香気を持ち、こくのある濃厚な味。 ; [[ダージリン・ティー|ダージリン]] (Darjeeling) : インド北部産。茶湯の水色は透明度の高い琥珀色でストレートティー向き。世界最高と称される特徴的な香気(マスカットフレーバー、あるいはマスカテルと呼ばれる)と、好ましい刺激的な渋味(一般にパンジェンシーと表現される)を持つ。特に硬度の低い水を用いると良く香りが出るといわれる。ダージリンには、100以上の茶園が存在している。 ; [[ニルギリ]] (Nilgiri) : [[インド南部]]産。スリランカに近く、特長もスリランカのハイ・グロウンに似る。茶湯の水色は濃い橙色でミルクティーや特にスパイスを用いるバリエーションティーに適する。フレッシュですっきりとした香気としっかりとした風味を持つ。 ; ドアーズ (Dooard) : インド北部産。茶湯の水色は濃橙色。ミルクティー向き。強い渋みはなく、こくのある味だが、香気に劣る。 ; [[シッキム]] (Sikkim) : インド北部産。ダージリンに似るが、渋味が弱めでこくがあるといわれる。 === インドネシア === ; [[スマトラ (紅茶)|スマトラ]] ; [[ジャワ (紅茶)|ジャワ]] (Java) : [[ジャワ島]]産。基本変種とアッサムチャの両方が栽培されている。 === [[マレーシア]] === ; [[マレー半島]]南部の[[キャメロンハイランド]]、茶園名はBoh === バングラデシュ === ; [[シレット (紅茶)|シレット]] (Sylhet) === スリランカ === 『[[セイロンティー]]』の名前で知られる。ウバ、ヌワラエリヤ、ディンブラ、キャンディ、ルフナの5地域をまとめて「セイロン・ファイブ・カインズ」と呼ぶ。 セイロンティーは茶園・工場の標高位置によって *ハイ・グロウンティー(高地産茶) - 標高4,000フィート(約1,300m)以上で生産されたもの *ミディアム・グロウンティー(中地産茶) - 標高2,000〜4,000フィート(670〜1,300m)の中地で生産されたもの *ロー・グロウンティー(低地産茶) - 標高2,000フィート(670m)以下の低地で生産されたもの の3つに分類される<ref>お茶百科「[http://www.ocha.tv/growing_regions/blacktea_producers/srilanka/ 紅茶の主要産地 スリランカ]」伊藤園、2015年7月20日閲覧</ref>。 ; [[ウバ (紅茶)|ウバ]] (Uva) : セイロン島南東部。茶湯の水色は明るい鮮紅色で優れ、ティーカップに注いだときに見られる、内側の縁に浮かびあがる金色の輪は「ゴールデンカップ」あるいは「ゴールデンリング」と呼ばれている。好ましい刺激的な渋味(一般にブリスクと表現される)を伴う芳醇な風味と、一般に薄荷に似た、ときに甘い花のような香気(茶葉により様々に変化する)を持つ。飲んだとき[[サリチル酸メチル]]香を感じられるものが高品質とされる。濃い目のミルクティーに適する。ダージリン、キーマンと並ぶ三大銘茶のひとつ。 ; [[キャンディ (紅茶)|キャンディ]] (Kandy) : セイロン島中央部。茶湯の水色は輝きのある紅色で冷めても濁り(「クリームダウン」と呼ぶ)を生じにくい。バリエーションティーやアイスティーに最適。香りは控えめで、渋みが少なく、軽く柔らかだがこくのある味。 ; [[ディンブラ]] (Dimbula) : 中央山岳地帯の西側に広がる高地。茶湯の水色は明るく鮮やかな紅色。マイルドで優雅な香りと適度な渋みを伴うバランスのとれた味わいが特徴<ref>日東紅茶[http://www.nittoh-tea.com/enjoy/knowledge/knowledge03.html 「紅茶のマメ知識 紅茶の産地」]</ref>。 ; [[ヌワラ・エリヤ]] (Nuwara Eliya) : セイロン島中央部。茶湯の水色は淡い橙赤色。ストレートティー向き。'草いきれのする'と称されるさわやかな香気を持ち、優しく穏やかな、しかししっかりとした味。 ; [[ウダプッセラワ]] (Udapussellawa) : ヌワラエリヤ地方とウヴァ地方に挟まれた地域で生産されるハイグロウンティー。以前はヌワラ・エリヤとウバに分かれて出荷されていたが、2000年頃から独立した産地として出荷されている。 ; [[ルフナ]] (Ruhuna) / [[サバラガムワ]] (Sabaragamuwa) : セイロン島南部。茶湯の水色は深紅色。ミルクティー向き。独特の強いスモーキーな香気を持っている。重い風味と濃厚な渋みを持つ。主に[[アラブ世界|アラブ諸国]]で好まれている。 ; [[ゴール (スリランカ)|ゴール]] (Galle) : セイロン島南部。茶湯の水色は明るいオレンジ色。アイスティー・ストレートティー向きだが、ミルクティーにも向いている。ロウグロウン(low grown) ; [[ラトゥナプラ]] (Ratnapura) : 茶湯の水色は澄んだ濃い紅色。ストレートティー向き。[[チョコレート]]のような風味、[[チャイ]]によく使われる。ロウグロウン(low grown) === 中国 === 基本変種の紅茶として有名なものには、[[祁門紅茶|祁門]](キームン)、[[雲南紅茶|雲南]](ユンナン)などがある。これらはインドやスリランカのものと比べ茶葉が細かく砕かれていないものが多い。渋味が出にくいものが多い。燻したような香りのするものもある。また[[アールグレイ]]などの着香紅茶に利用される場合もある。(→[[中国茶]]) *[[祁門紅茶]](キームン、キーマン、キーモン、祁紅):[[安徽省]][[祁門県]]産。 : 三大銘茶の一つ。独特の甘い香りと微かなスモーキーさを漂わせ、味わいは渋みが少なく甘さを持っている。イギリス女王の誕生日茶会に饗されることでも知られている。 *[[雲南紅茶]]({{lang|zh|[[滇紅]]}}):[[雲南省]][[鳳慶県]]・[[昌寧県]]近辺産。 *英徳紅茶(英紅):[[広東省]][[英徳市]]産。 *宜紅:[[湖北省]][[宜昌市]]近辺産。 *四川紅茶(川紅):[[四川省]]産。 *[[正山小種]]([[ラプサンスーチョン]]):[[福建省]][[武夷山]]地域産。 === アフリカ === アフリカでは、[[ケニア]]、[[タンザニア]]、[[マラウイ]]、[[モザンビーク]]などで生産されているが、その多くがブレンド用である。ケニア産のものは比較的良質といわれる。 ; [[ケニア (紅茶)|ケニア]] : 標高2000メートルの高地で作られ、セイロンに似た特徴を持つ。ケニアの他にも、[[タンザニア]]、[[マラウイ]]でも生産されている。 ; [[ルクリリ]](Rukuriri) : ケニア原産で、[[Crush, Tear and Curl|CTC]]で茶葉が粒状になっているのが特徴。 ; [[アフリカンプライド]] === ジョージア === : [[ジョージア (国)|ジョージア]]の紅茶は深橙色。ストレートティー向き。甘い味を持つといわれる。 === トルコ === ; [[リゼ・ティー|リゼ]] (Rize) : [[チャイ (トルコ)|チャイ]]の代表的産地がリゼ。チャイダンルックと呼ばれる二段式の[[やかん|ヤカン]]を用いる。紅茶をいったん濃く淹れ、湯で好みの濃さに調節し、沢山の[[砂糖]]を入れて飲まれる。 === 日本 === [[1876年]]([[明治]]9年)に紅茶用茶樹の種子が導入され、[[鹿児島県]]、[[福岡県]]、[[静岡県]]、[[東京都|東京]]に紅茶伝習所が設けられ、紅茶に適するアッサムチャと基本変種を交配して国産紅茶品種を作り、紅茶の製造が始まった。[[昭和30年代]]半ばまでは1,500t以上生産されていた。[[1971年]]の紅茶輸入自由化以降、国内の紅茶生産は壊滅状態となったが、現在では静岡県および[[長野県]]、[[岐阜県]]、[[三重県]]、[[奈良県]]、[[滋賀県]]、[[山陰地方]]、[[九州]]地方(福岡県や[[屋久島]]など)といった地域で生産された国産紅茶が若干量流通している。これら国産品を「和紅茶」と呼称している事業者もある。「紅ほまれ」「はつもみじ」「紅かおり」といった紅茶向け[[品種]]もある<ref name="農業新聞20200506">「鵜方紅茶」復活へ着々 三重・JA伊勢 専用品種、新たに作付け『[[日本農業新聞]]』2020年5月6日(2面</ref>(後述)。 生産者により品質のばらつきが多い傾向がある。[[やぶきた]]等の緑茶用品種から作られるものは渋みや苦みが少なく口当たりが柔らかい反面、香も淡いものが多い。[[べにふうき]]等の紅茶用品種から作られるもにのはインドやスリランカの紅茶に匹敵する強い味と風味を持っているものもある。 一方、[[沖縄県]]では紅茶生産に適する原料となるアッサムチャの生産に適する位置から、[[1958年]]にアッサムチャの生産を試みた記録がある。定着はしなかったが、[[2000年]]より再度生産を開始。「[[琉球]]紅茶」のブランド名にて[[有機農業|有機]]・[[無農薬栽培]]などの付加価値を付け、苗木から選定したブランド化をスタート。自治体と取り組み本格的な生産に乗り出し、「金武町琉球紅茶産地化事業」が2008年JAPANブランドに認定。同年、[[中小企業庁]]地域資源育成事業にも認定され、国外の販路も視野に入れた高品質な国産紅茶の本格的な生産を開始している。 [[静岡市]]では静岡市ブランドとして丸子(まりこ)紅茶を登録し、研究機関をおいて発酵茶の普及にも尽くしている<ref>[http://www.shizuoka-citypromotion.jp/aoipremium/2011aoipremium/product/003.html 丸子紅茶 | しずおか葵プレミアム]</ref><ref>[http://www.pref.shizuoka.jp/sangyou/sa-130a/otyarabotoha.html 静岡県/発酵茶ラボとは?]</ref>。 [[紅茶の会]]は2002年から毎年、地紅茶サミット(全国地紅茶サミット)を開催している<ref name=":0">[http://kouchanokai.jimdo.com/ 紅茶の会]</ref>。「地紅茶」とは国産紅茶のことで、紅茶の会の藤原一輝により提唱された<ref name=":0" />。ここで、「国産」とは「日本産」だけを指すものではない。 * 主なブランド **[[静岡県]]:静岡紅茶、丸子紅茶 **[[新潟県]]:雪国紅茶 **[[長野県]]:[[うまいんだに]] **[[三重県]]:[[伊勢紅茶]]、鵜方紅茶([[志摩市]][[阿児町鵜方|鵜方地区]])<ref name="農業新聞20200506"/> **[[奈良県]]:月ヶ瀬紅茶 **[[滋賀県]]:[[朝宮紅茶]] **[[島根県]]:[[出雲紅茶]] **[[鳥取県]]:鳥取紅茶 **[[岡山県]]:高梁紅茶 **[[広島県]]:世羅紅茶 **[[高知県]]:土佐茶、沢渡茶 **[[福岡県]]:八女紅茶 **[[熊本県]]:天の紅茶([[水俣市]]) **[[佐賀県]]:嬉野紅茶 **[[大分県]]:杵築紅茶 **[[宮崎県]]:みやざき紅茶 **[[鹿児島県]]:鹿児島紅茶、枕崎紅茶、阿久根紅茶 **[[沖縄県]]:[[琉球紅茶]]、ラフィアンティー、山城紅茶、やんばる紅茶 * 主な国産紅茶用品種(農林登録年度)※紅茶向け品種には「べに」「もみじ」など赤色を連想する言葉が使われている ** べにほまれ([[昭和]]28年) ** はつもみじ(昭和28年) ** べにかおり(昭和29年) ** べにふじ(昭和35年) ** べにひかり(昭和44年) ** べにふうき([[平成]]5年):[[メチル化]]カテキン利用により[[機能性食品]]原料として注目品種 また[[スギ|杉]]の葉を加工して「紅茶」の名称で販売されている商品もある<ref>【食のフロンティア】「和紅茶」クセ少なく人気/杉の葉使った商品も登場『[[日経MJ]]』2018年3月5日(フード面)</ref>。 == 飲み物としての紅茶 == [[ファイル:NCI iced tea.jpg|thumb|レモンの輪切りを添えたアイスティー]] 茶葉を熱湯で抽出し、その抽出液を飲用する。抽出の方法にはいくつかの種類があり、「淹れる人ごとに各々の決まりがある」と言われている。 好みにより、砂糖、[[牛乳|ミルク]]、[[レモン]]、[[ジャム]]などを入れて飲むが、後述するようにこれは茶湯の水色の呈色に影響する。[[ティーバッグ]]を使えば、手軽に紅茶を楽しむことができる。さらに、[[シナモン]]など入れて飲んだりすることがあり、独特の風味や味を楽しむことができる。これは、シナモンティーという。<!--[[砂糖]]は[[グラニュー糖]]を固めた[[角砂糖]]を使うことが多い。--> 紅茶とミルクを合わせたもの、いわゆる[[ミルクティー]]をいれる際に、ミルクを先に入れるか、紅茶の中にミルクを落とすかが、紅茶好きの間では常に議論の種になる。イギリス[[王立化学会]]が[[2003年]][[6月24日]]にレポート『[http://www.rsc.org/pdf/pressoffice/2003/tea.pdf How to make a Perfect Cup of Tea(完璧な紅茶の入れ方)]』で「冷たいミルクを先に入れたほうが良い」と発表したが、これは熱い紅茶の中にミルクを注ぐとミルクの[[タンパク質]]が変質し風味を損ねてしまうことが[[化学分析]]の結果明らかになった、というものである。しかしイギリスでミルクといえば'''[[低温殺菌牛乳]]'''が主流であるため、おそらく低温殺菌牛乳のミルクを使った場合の話と考えられる<ref group=注>レポート本文には、「UHT(超高温殺菌)は熱変性しており、味もよくない。」と記されている。</ref>。<!--日本のミルクは'''120℃から135℃で殺菌し{{独自研究範囲|すでに熱変性した超高温殺菌牛乳'''が主流であるため、どんなに熱くても100℃以下の紅茶にどんな順番で注いだところで、ミルクの風味が変わるとは考えにくい。低温殺菌牛乳が好きな人は入れる順番を考えればよいし、普段から超高温殺菌牛乳に飲みなれている人にとってはそれほど気にしなくてよい話である|title=考えにくい、よい話である、など、明らかに記述者の意見を陳述する表現形になっています|date=2011年2月5日 (土) 04:47 (UTC)}}。 --> また、「ミルクを先に入れるべき」との根拠として熱い紅茶を上質な薄手の茶器に注いだ場合、熱によりひびが入る可能性があるため冷たいミルクで緩和するというものがある。しかしこれも予め茶器を温めておくことにより回避は可能である。他にはミルクを先に入れた方が入れたミルクの量が判りやすいという根拠もある。 === 紅茶の淹れ方 === [[ファイル:Meissen-teacup pinkrose01.jpg|right|thumb|淹茶式でいれた紅茶]] 紅茶の入れ方には大きく分けて、淹茶式、煮出し式、煮込み式、濾過式の四つが知られている。 ==== 淹茶式(えんちゃしき) ==== ポットなどの容器に茶葉を入れ、熱湯を注いで蒸らし、茶葉を濾別して抽出する方法。家庭における一般的かつ本格的な方法といわれる。[[ティーバッグ]]を用いる場合もこれに分類される。 [[19世紀]]にビートン夫人の著した[[家政学|家政]]書『The Book of Household Management』によって、英国式ゴールデンルール(The Five Golden Rules)といわれる紅茶の淹れ方のスタンダードが確立され、改訂されつつも現代に至るまで受け継がれている<ref>桑原 珠玉「[https://allabout.co.jp/gm/gc/218224/ 19世紀カリスマ主婦が説く紅茶の入れ方]」[[All About]](2015年7月23日閲覧)</ref>。おいしく紅茶を淹れるコツは、良質の茶葉を用い、新鮮な汲みたての水を用意し、予めよく温めておいたティーポットに茶葉を入れて、緑茶の場合と違い、十分に沸騰(ただし、沸騰したてのもの)させた湯をすぐに注ぐことである。ポットが冷めていては沸騰した湯も冷めてしまい、茶葉の旨みが抽出されにくいので、冬場は特に手を抜かないでおきたい。茶葉を充分に蒸らし、葉が開ききってから[[ティーカップ]]に注ぐ。ポットは蓋付きのものを用い、ティーカップも予め温めておくと良い。 抽出時間はBOPなどの粉末状の茶葉なら2分以内、OP以上の茶葉の形が残っているものなら3 - 5分がよいとされる。あくまで目安なので好みで調整するとよい。 ==== 煮出し式 ==== 鍋や釜に湯を沸かし、茶葉を入れてそのまま煮出した後、茶葉を濾別する方法。煮出す時間は普通30秒程度。煮出している最中は蓋をすること。鍋一つでもできる、比較的簡便な方法ではあるが、一度に多量に抽出できる上、抽出時に変化が与え易く、応用の利く方法である。 また、[[ロシア]]やトルコなどでは紅茶を入れる際の湯沸かし器として[[サモワール]]が伝統的に使用されてきた。サモワール上部にはティーポットが据えられる構造となっており、ポットが加熱され続けることにより茶液が濃縮される。 ; [[ミルクティー|ロイヤル・ミルク・ティー]] : 牛乳で茶葉を煮出したもの。あるいは、少量の水で煮出してから牛乳を入れて沸かしたもの。クリームを加えてより濃厚に仕立てることもある。ただし、これは紅茶の本場イギリスを連想させる単語として「ロイヤル」を用いた日本独特の呼称であり、イギリスにおいてそのような表現は存在しない。日本のティールームの草分けといわれる[[リプトン]]本社直轄喫茶部[[極東]]支店(現在は(株)フクナガ)で、1965年にロイヤルシリーズの一つとして考えられ、同名の紅茶飲料が販売されるに従い次第に広まっていった<ref name="フクナガヒストリー">[http://www.fukunaga-tf.com/lipton/history.html フクナガヒストリー、食に歴史あり 洋食・和食事始め]([[産経新聞]]出版)</ref>。イギリスではこの手の紅茶は「インディアンティー」つまり後述のチャイと呼ばれており、特に区別されていない。詳しくは「'''[[ミルクティー|ロイヤル・ミルク・ティー]]'''」を参照。 ; スパイス・ティー : 水で煮出してからミルクを入れて沸かし、さらにシナモンや[[クローブ]]などの[[香辛料|スパイス]]を加えたもの。 ==== 煮込み式 ==== 煮出し式に似ているが、水の代わりにミルクを用い、抽出に比較的長い時間をかけるもの。[[チャイ|インド・チャイ]]がこれに当るが、ハッキリとした定型がなく、煮出し式との区別はむずかしい。多くの場合、多量の砂糖とスパイスが入る。またミルクを使った煮出し式と比較すると、煮出し式は茶葉の香りを飛ばさぬようミルクが完全に沸騰する前に(俗にいう「吹かさないように」)火を止めるが、煮込み式の場合はあえて何度も煮返して水分を飛ばし、茶葉の香りよりはミルクの濃厚さとスパイスの香りを重視して作る場合が多い。店頭では常時沸かしっぱなしになっていることが多い。 ==== 濾過式(ろかしき) ==== 茶漉しやネル袋に茶葉を入れ、上から熱湯を注ぐ方法。このときにネル袋を抽出液に浸漬したり、茶葉を搾るなどの操作が加わる。上から熱湯を注ぐだけでは「色つきのお湯」程度にしかならず、逆に揉んだり絞ったりすれば非常に濃い紅茶となるが、いずれにせよ良い方法とはいえない。多量の砂糖とミルクを添えて味を誤魔化さねば飲みにくい代物である。 === 紅茶の飲み方(作法) === 世界各地には様々な紅茶の楽しみ方がある。 ==== 日本(作法) ==== {{節スタブ}} <!--個人の意見や論評は不要のため削除。また他飲料の記述や他国の記述も不要--> [[喫茶店]]や[[カフェ]]においては、[[コーヒー]]、[[ココア]]と並ぶ飲料メニューとして存在している。また飲む直前に家庭や店舗で入れるもののほかに、工場で大量生産される[[缶]]・[[ペットボトル]]入り紅茶(紅茶飲料)も増えてきており、手軽に飲めるようになっている。ホテル等では英国式のアフタヌーンティも提供される。日本のティーバッグは紐付きで茶葉の量が少ないティーカップ用が一般的であるが、最近はイギリスで一般的な大型マグカップ用の円形で紐がついていないタイプも輸入食材店等で販売されるようになってきている。 季節によって多少のばらつきはあるものの、ストレート、[[ミルクティー|ミルク]]、[[レモンティー|レモン]]の3種類の飲み方が一般的であり、砂糖が別に添えられ飲む人の好みによって加えられる。[[ハーブティー]]や、[[果物]]の[[ピール (食材)|ピール]]などを加えて香りを楽しむフレーバードティー、[[リンゴ]]や[[桃]]などの果汁や香りを加えて味を楽しむフルーツティー、好みのジャムを加えたロシアン・ティー<ref group=注>この飲み方は日本式。正式な飲み方は'''ロシア(作法)'''を参照。</ref>、インド風にスパイス等を加え煮出したチャイなども飲まれている。また、寒暖の差がはっきりしている気候のため、冬はホット、夏はアイスで飲まれることが多い。 [[喫茶店]]や[[カフェ]]などで、[[エスプレッソ]]コーヒーと同様に茶葉を高圧で抽出した紅茶(ティープレッソ)にミルクでアレンジを加えた[[ミルクティー|ティーラテ]]等のメニューも登場している。 ==== アメリカ合衆国(作法) ==== {{節スタブ}} [[アメリカ合衆国]]では圧倒的にコーヒーが飲まれるが、コーヒーはホットで飲まれることがほとんどで、冷たい飲み物としてはコーヒーよりもアイスティーがよく飲まれる。今日飲まれているアイスティーの発祥は1904年の[[セントルイス万国博覧会]]で販売していたホットティーが猛暑のためなかなか売れず、試しに氷を入れて販売したら大盛況になったのが始まりとされている。また、レストランなどでホットティーを注文した場合、茶葉ではなく、ティーバッグとお湯の入ったポットが供されることがほとんどである。 ==== イギリス及びアイルランド(作法) ==== [[ファイル:Tea at the Rittenhouse Hotel.jpg|thumb|[[イギリス]]の[[アフタヌーン・ティー]]]] 紅茶はイギリス文化を代表する飲料とされ多くの国民が日常的に飲む。通常はミルクティーで、砂糖を入れる人もいる。英国の家庭では来客にまず紅茶を勧める事がよいマナーとされている。紅茶はイギリスでは家庭やカフェで主に飲まれる。客はティーのおかわりを勧められた場合断ってはならない風習があると言われ、1日に5-6杯以上飲むことも多いとされる。 イギリスといえば[[アフタヌーン・ティー]]などが有名であるが、アフタヌーン・ティーなどをしているゆとりのない[[社会階級|階級]]の人々は、午前中には「イレヴンシス」と呼ばれる休憩時間に紅茶を飲んでリフレッシュしている。但し、現在では移民の増加に伴って現在はそのスタイルも多様化している。 一般の家庭や[[パブ]]等ではティーバッグを[[マグカップ]]に入れる場合がほとんどである。もちろんティールーム等の専門店や[[ホテル]]などにおいてはティーポットに茶葉で淹れ、ソーサー付きの茶器で供されることもある。なお、イギリスで一般的なティーバッグは丸型で紐がついていない。四角形やピラミッド型のティーバッグもある。抽出後は[[スプーン]]等で取り出す人もいるが、取り出さない人も多い。 UK Tea Council によると、イギリスでは一日に1億6500万杯の紅茶が消費され、コーヒー消費量7000万杯/日の2倍以上となっている。また、イギリスで飲まれる紅茶の96%はティーバッグで淹れられ、98%がミルクティーとして飲まれている<ref>http://www.tea.co.uk/tea-faqs</ref>。 [[産業革命]]時代に[[労働者]]の空腹を紛らわす目的で労働者階級にまで普及したため、濃いミルクティーに砂糖を入れて飲まれることもあるが、全体としては少数派となっており、砂糖無しで飲むのが一般的である<ref>[http://www.dailymail.co.uk/news/article-2313266/So-YOU-like-cup-tea-Britain-divided-milk-cuppa.html FAQ About Tea]UK Tea & Infusions Association(2020年5月22日閲覧)</ref>。また[[イギリス軍]]の[[レーション]]にはティーバッグが付属している。 ==== フランス(作法) ==== フランスではコーヒーがよく飲まれ、実際国民一人あたりの紅茶消費量はイギリスの十分の一程度でしかない。が、イギリスの紅茶が労働者階級にまで行き届いた日常性の高いものとすれば、フランスでの紅茶は普及が進まなかったため、逆に[[ブルジョワジー]]の文化として定着した。 ==== ドイツ(作法) ==== 基本的にコーヒー文化圏ではあるが、北ドイツを中心に紅茶も一般化しておりよく飲まれている。[[ドイツ]]と[[オランダ]]にまたがる[[フリースラント]]地方の紅茶が有名で、[[オランダ東インド会社]]が西暦[[17世紀]]初頭にもたらした紅茶が端緒であった。ドイツ茶業同盟(Deutscher Teeverband e.V.) の調査によると、オストフリースラント(東フリースラント)では2016年の紅茶消費量が一人当たり300[[リットル]]であったが、これはドイツ全土の平均値の十一倍に相当する。<BR/>ドイツでの飲まれ方は、ホットのミルクティーが主流で、ビールのようにグラスに注がれて出されることがある。カフェインの取り過ぎを忌避する健康志向から、ハーブティーも普及している。トルコ移民が多い関係からトルコ紅茶も市販されている。レストラン、また宿泊施設の朝食ビュッフェではティーバッグが用意され、家庭では茶葉で楽しまれることも少なくない。 ==== ポーランド(作法) ==== レモンティーがよく飲まれる。ミルクティーは子供の飲み物と思われており、カフェなどのメニューにミルクティーは載っていない。 ==== インド(作法) ==== 植民地時代にイギリスの影響を受けて独自の喫茶文化を発達させた。[[チャイ]]と呼ばれる非常に甘い煮出し式ミルクティーを飲む習慣がある。 ==== 中国・香港(作法) ==== 中国では茶に何も加えずに飲む「清飲法」が好まれるため、紅茶を飲む場合も基本的に何も加えずに飲む<ref name="Simao">[[島尾伸三]]『中国茶読本』([[平凡社]] <コロナ・ブックス> 1996 ISBN 4-582-63307-2)pp.57-64.</ref>。また、紅茶は[[五行説]]では「熱気」の飲み物とされているため、人によっては暑い時期を避け寒い時期だけ飲む<ref name="Simao"/>。 香港ではイギリス流のアフタヌーン・ティーも盛んであるが、庶民は[[エバミルク]]と砂糖をたっぷり入れた[[香港式ミルクティー]]や、[[レモン]]を1/3個分ほど使った、[[レモンティー]]を特にアイスで楽しんでいる。また[[鴛鴦茶]]というコーヒーと合わせた[[香港]]独特の飲み物もある。 有名なブレンド「アールグレイ」は、グレイ[[伯爵]]が気に入った香港の紅茶の味を、[[ベルガモット]]のフレーバーを用いて再現したものである。 中国の茶に対する価値観では、茶葉のでき具合や仕上げの技術で茶の良し悪しを評価するため、茶葉をブロークンやダストに刻んでしまう紅茶は、あまり評価されない傾向がある<ref name="Simao"/>。 ==== チベット(作法) ==== 中国[[雲南省]]などで作られる磚茶(たんちゃ。茶葉と茎を蒸して固形化した[[黒茶]]の一種)を煮出したものに、[[バター]]と[[岩塩]]、プンドを、ドンモやチャイドンと呼ばれる筒形の容器に入れ、攪拌して作る。[[バター茶]]とも呼ばれ、[[チベット]]での重要な[[ビタミンC]]摂取源である。どちらかというと味は[[スープ]]に近く、[[主食]]の[[ツァンパ]]を練るのにも使う。[[モンゴル]]や[[ブータン]]、[[ネパール]]などでも同様の習慣がある。 ==== ロシア(作法) ==== {{Main|ロシアの茶文化}} 17世紀以来、中国方面から[[緑茶]]や[[緊圧茶|磚茶]]を輸入していたロシアの紅茶の淹れ方は、[[#煮出し式|煮出し式]]の項で触れたようにサモワールの上にかけたヤカンで濃く煮出した紅茶をグラスの四分の一程度入れ、お湯で薄める方法を取る。そのため、使われる茶葉は色が濃く出て、苦味、渋みが少なく伸びの良さが重視される。反面、煮詰める段階で香りは飛んでしまうので、英国式と違い香りは重視されない<ref>石毛直道『食文化 新鮮市場』([[毎日新聞社]]、1992年)pp.193-199</ref>。 一人分ずつ供されたジャムをスプーンですくって'''舐めながら'''紅茶を飲むのが作法とされている。これは寒い地方で紅茶にジャムを入れると茶の温度が下がり、体を温めるのに適さなくなってしまう事が理由の一つだと言われている。日本において一般に「ロシアンティー」と言えば、紅茶に直接ジャムを加えた物とされているが、これはロシアと比べて比較的温暖な[[ウクライナ]]や[[ポーランド]]の習慣である。 [[カレリア]]地方などの辺境地域では、故意に紅茶の受け皿に紅茶をこぼし、口に予め角砂糖等を含んだ上で、受け皿から紅茶を飲み干す習慣がある。砂糖を溶かさずに齧るのは、ロシアでの伝統的な砂糖が固く溶けにくい[[テンサイ]]糖の塊だからといわれる。 ==== トルコ(作法) ==== [[ファイル:Turkish_tea.jpg|thumb|200px|right|トルコ紅茶]] 「トルココーヒー」と冠される様に一般にはコーヒーのイメージが強いが、コーヒーは高級品であり紅茶が身近な飲み物になっている。真ん中がくびれた細身のガラスコップが紅茶用の器とされており、飲食店で頻繁に見ることが出来、商店や企業などでの接客でも用いられる。過去にアップルティーが流行ったりハーブティーなども売られているが、現在一般に飲まれているチャイは普通の紅茶である。上記のように二段式のヤカンが用いられ、下段で湯を沸かし、上段で紅茶を抽出する。下段は上段を保温する役目も果たす。もし紅茶が濃くなり過ぎたら、湯を適宜注ぎ足して濃さを調節する。トルコで出されるチャイは渋みが強いため、角砂糖を多量に入れて飲む事が多い。 ==== アラブ(作法) ==== {{See|アラブの茶文化}} == 紅茶の歴史 == === 茶の歴史 === {{Main2|紅茶及び緑茶の歴史|茶}} === 17世紀 === [[1679年]]、[[イギリス東インド会社]]が[[ロンドン]]で初めてティー・オークションを開催し、3樽の中国産のボヘア茶(ボビー)が[[競売]]にかけられた<ref name="dai257">{{Cite book |和書 |author=日本紅茶協会 |title=紅茶の大事典 |page=257 |publisher=成美堂出版 |year=2013}}</ref>。ボヘア茶は中国では粗悪な茶として扱われていたが、イギリスではこれが珍しい茶として扱われ、後世の紅茶につながったといわれている<ref name="dai257" />。 === 18世紀 === [[1712年]]頃にはイギリス東インド会社が中国茶のヨーロッパへの輸入を独占するようになった<ref name="dai258">{{Cite book |和書 |author=日本紅茶協会 |title=紅茶の大事典 |page=258 |publisher=成美堂出版 |year=2013}}</ref>。[[1717年]]にはトーマス・トワイニングが紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」を開業して成功を収めている<ref name="dai258" />。また、[[1765年]]にはいわゆる砂糖革命が起き、[[中産階級]]への普及が進んだ<ref name="dai258" />([[砂糖法]]も参照)。 [[1773年]]にはイギリスがフランスとの戦費調達のために重税を課したのに反発した[[英領アメリカ]]の[[ボストン]]の住民がイギリス船の茶箱を海に投棄する[[ボストン茶会事件]]が発生している<ref name="dai258" />。 === 19世紀 === [[1823年]]、イギリスはインド北部のアッサム地方への[[ビルマ]]支配に対抗してイギリス東インド会社の軍隊を送って制圧<ref name="dai258" />(第一次英緬戦争)。この戦いにイギリス軍の少佐として従軍したロバート・ブルースが後に[[アッサム|アッサム種]]として知られる茶を発見し、中国から茶師を招いて茶の生産を始めた<ref>{{Cite book |和書 |author=日本紅茶協会 |title=紅茶の大事典 |pages=258-259 |publisher=成美堂出版 |year=2013}}</ref>。 == 紅茶の文化 == [[ヨーロッパ]]で多く飲用される。[[世界]]で最も頻繁に紅茶を飲むと言われるイギリスでは<ref group=注>しかし、消費量が最も高いのはトルコであり、イギリスはアイルランドに次いで二位である。</ref>、朝昼晩の[[食事]]だけでなく、起床時、午前午後の休憩にもお茶を楽しむ習慣がある。このため、[[茶器]]、[[洋菓子]]なども発達し、洗練された。なお、紅茶の文化は[[18世紀]]に[[アイルランド]]に伝わり、[[2008年]]時点で国民一人当たりの消費量ではアイルランドがイギリスを抜いて世界一となっている。 === イギリス === 1日に数回のティータイムなど、紅茶はイギリス人の生活と深く結びついている。例えば[[核戦争]]が真剣に議論された1950年代には、「もし核戦争が起こった場合、紅茶が不足するという深刻な事態が起こる」「[[パン]]や[[食肉|肉]]と並び、紅茶の[[備蓄]]の必要性がある」といった議論が政府内で行われていた<ref>「核戦争の最大の懸念は放射能ではなく紅茶不足、50年代の英公文書」[[フランス通信社|AFP]](2008年05月05日付配信)</ref>。 紅茶の入れ方は、[[ISO 3103]]によって国際標準規格として制定されている。この規格の元になったBS 6008:1980を1980年に定めた英国標準協会は、[[1999年]]度の[[イグノーベル賞]]文学賞を受賞した。 === スリランカ === 1972年にセイロンは国名をスリランカ共和国に変更したが、同年に茶園の国有化を行った<ref name="dai261">{{Cite book |和書 |author=日本紅茶協会 |title=紅茶の大事典 |page=261 |publisher=成美堂出版 |year=2013}}</ref>。スリランカの茶園が民営化されたのは1990年のことである<ref name="dai261" />。 === 日本 === ==== 普及 ==== 日本では1927年に国産の三井紅茶が発売された<ref name="dai261" />。1939年には[[日本紅茶協会]]が設立されている<ref name="dai261" />。 外国産紅茶の輸入が自由化されたのは1971年である<ref name="dai261" />。 現代では[[喫茶店]]や家庭で淹れる紅茶以外に、[[ペットボトル]]入り([[午後の紅茶]]など)が市販されている。[[カフェ・ラッテ]](カフェラテ)の[[コーヒー]]代わり(紅茶ラテ)や菓子・[[スイーツ]]の風味付けにも用いられており、[[抹茶]]の製法を応用して粉末にした紅茶も商品化されている<ref>「紅茶の抹茶」加工に最適 [[宮崎県]][[都城市]]の企業が開発『日本農業新聞』2021年11月13日1面</ref>。 ==== 資格 ==== 紅茶に関連する資格としては日本創芸学院が認定する[[紅茶コーディネーター]]、日本紅茶協会が認定する[[ティーインストラクター]]がある。 == 紅茶の化学 == === 紅茶の作用 === 紅茶に含まれる'''紅茶[[ポリフェノール]]'''に[[風邪]]や[[インフルエンザ]]に対する有効性があるとして注目されている。日常的に飲用することに加え、紅茶を用いてうがいを行うことも予防に有効とされている。また、虫歯予防([[フッ素]])、[[食中毒]]予防([[没食子酸エピガロカテキン|エピガロカテキンガレート]])、[[コレステロール]]・[[血圧]]降下(紅茶[[フラボノイド]]、タンニン)、肌の[[老化]]防止(カテキン)等の作用もあると報告されている<ref>『紅茶の大辞典』日本紅茶学会編 成美堂出版 ISBN 978-4-415-31373-3</ref>。 === 紅茶の成分 === ==== カフェイン ==== 紅茶茶葉中には、重量にして3%程度[[カフェイン]]が含まれる。この量はコーヒーの3倍の量に当る。しかし、1杯当りに使用する茶葉・豆の量(抽出の効率も)が異なるため、飲用時のカフェイン濃度はコーヒーの方が高くなる。紅茶の飲用時のカフェイン濃度はコーヒーに比べ半分程度とされるが、品種や抽出条件(加えてコーヒーでは焙煎状態)により大きく変化するため、厳密に評価するのは難しい。なお、紅茶に含まれるカフェインは[[タンニン]]と結びつくためにその効果が抑制されることから、コーヒーのような覚醒的作用は弱く緩やかに作用する。 ==== タンニン ==== 紅茶におけるタンニンは、[[エピカテキン]]や[[エピガロカテキン]]などの[[カテキン]]類とその没食子酸エステル誘導体が主となっている。一般に、カテキン類は[[苦味]]を、その没食子酸エステル誘導体は[[渋み|渋味]]を持つといわれる。生茶葉中にも多量に存在する。紅茶製造においては、発酵過程において生成される[[テアフラビン]]などの赤色色素の前駆体となっており、その抽出液の茶湯の水色に大きな影響を与える。なお、[[タンニン]]は[[ポリフェノール]]化合物の一種でもある。紅茶には、茶葉重量の11%程度タンニンが含まれている。生茶葉中に、乾燥重量に換算して20 - 25%含まれる。生産量の面で主力となる変種のアッサムチャはタンニンの含量が基本変種に対し1.2 - 1.5倍程度多い。 ==== 呈色成分 ==== 紅茶の茶湯の水色は主に紅茶フラボノイドによって決まる。紅茶特有の呈色成分として知られる[[テアフラビン]]と[[テアルビジン]]が良く知られており、これらの茶湯の水色に与える影響は大きい。この二つの成分が多いほど、茶湯の水色は鮮やかな濃い赤色となり、良品とされる。 ==== 香気成分 ==== 紅茶の香気は[[リナロール]]([[レモン]]様)や[[ゲラニオール]]([[花]]のような)といった[[テルペン]]類による影響が強いが、その他にも[[青葉アルコール]](ヘキセノールのこと。青臭い若葉)などの[[アルコール]]類、青葉[[アルデヒド]](ヘキセナールのこと。[[緑の香り|青臭い若葉]])のようなアルデヒド類、[[ネロリドール]](ウッディな)、サリチル酸メチル(湿布薬)をはじめ多くの物質が関与している。 なお、リナロールやゲラニオールなどのテルペン類は、生茶葉中では[[配糖体]]など不[[相転移#物理学的性質|揮発性]]の[[前駆体]]として存在しており、これが萎凋や発酵の過程で遊離すると考えられている。 === 萎凋における香気成分の変化 === 萎凋の際、生茶葉に含まれる青葉アルコールや青葉アルデヒドは蒸散し、次第に減少して行く。一方、細胞内の酵素の作用によりテルペン系の香気成分が集積してくる。 === 発酵における赤色色素の生成 === 茶葉に含まれるポリフェノールオキシダーゼ([[ラッカーゼ]]とも言う[[EC番号 (酵素番号)|EC 1.10.3.2]])の作用により、[[カテキン]]類([[タンニン]]と考えても良い)が酸化重合し、[[テアフラビン]](橙赤色)や[[テアルビジン]](赤色)などの赤色[[色素]]が生成する。これらの物質は茶葉に元々含まれる紅茶フラボノイドとともに茶湯の水色を決定する。また、この際、いくつかの香気成分も生成される。 === 乾燥における香気成分の変化 === 乾燥における熱風処理でかなりの香気成分が散逸する。また、糖の[[カラメル化]]も起こる。また、水分量が激減するため、製品の品質は安定する。 === 淹れた紅茶の化学 === 紅茶の茶湯の水色は、抽出に用いた水の[[硬度 (水)|硬度]]により大きく変化する。[[硬水]]([[ミネラル]]成分が多く、いわゆる[[硬度]]が高い水)はミネラルがタンニンなどと結合して沈殿を生じ、茶湯の水色は呈色成分と併せて濃く暗い色調となる。[[炭酸カルシウム]]沈殿物と[[フェノール]]凝集体が浮いてくる場合もある。[[蜂蜜]]を入れた場合も蜂蜜中の[[鉄]]分がタンニン鉄を生じてやはり色が濃くなる。 逆に、紅茶にレモンを入れると茶湯の水色は薄くなる。これはレモンに含まれる[[クエン酸]]が、呈色成分のテアフラビンに働き、残ったテアルビジンの色のみになるためである。この変化は[[酸性]]によって働くため、レモン以外の[[柑橘類]]、[[酢酸]]などでも同様になる。このテアフラビンはアルカリ性で逆に色が濃くなるが、これはさきほどのミネラル成分との結合とは反応が異なる<ref>[https://www.kspub.co.jp/download/1542983.pdf 講談社サイエンティフク-紅茶に重曹を入れたらどうなる?]</ref>。 茶葉に含まれる[[タンニン]]は、[[皮革#なめし|革なめし]]にも使用されている程、[[タンパク質]]と結合して変性しやすい成分である。紅茶では、口の中の粘膜に含まれるタンパク質と反応し、これが「渋み」の原因になる。タンニンは軟水に抽出されやすく、硬水では反応により口に入るタンニンが減るため[[軟水]]よりも渋くならない。このため、飲料水の硬度が比較的高い欧州では、緑茶よりも紅茶が好まれている。ただし、茶湯に茶葉を浸している時間が長ければ、茶葉からタンニンが大量に抽出されるため硬水といえども味は渋くなる。茶葉からタンニンが出てくるまでには時間がかかるため、なるべく熱水で紅茶の茶葉を蒸らす時間を加減して、茶葉を早めに引き上げることで、タンニンの抽出が抑えられる。タンニンは[[ミネラル]]とも反応して[[沈殿]]を生じるため、特にタンニンのある紅茶を含む茶類の飲み過ぎは[[貧血]]の原因になると指摘されることがある。既に[[赤血球]]中に[[ヘム鉄]]として取り込まれた鉄には影響せず、疾病を伴うものでない限りバランスよく摂れば影響はない。しかし、タンニンなどのポリフェノール類は、体内での働きや他の物質との相関作用はまだ研究途上であり、程度を超えた過剰摂取は体によくない<ref>[https://mindembody.com/chocolate-effects/ チョコレートは危険な食品?健康効果、アレルギーや中毒症状について]ここからPRESS(2020年5月22日閲覧)</ref>。 風味には好みがあるが、理想的にはほどほどの[[無機物]]を含んだ[[中性 (酸塩基)|中性]]に近い水がよいとされる。完成した紅茶は[[水素イオン指数|Ph]]5前後のやや[[酸性]]の液体となり、風味のバランスが良くなる。[[蒸留水]]で紅茶を淹れると深みのない平坦な味になる<!--(風味、茶湯の水色の説明が具体的でなく判然としないのでCO)また、一般的な水道水は[[アルカリ性]]だが、アルカリ性の水で紅茶を淹れると風味が弱くなり、茶湯の水色は赤くなる--><ref>Harold McGee 香西みどり訳『マギー キッチンサイエンス』(2008年、共立出版)p.423,429</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『一杯の紅茶の世界史』 磯淵猛 文春新書 文藝春秋 ISBN 4-16-660456-2. * 『カルカッタのチャイ屋さん』 堀江敏樹 南船北馬舎 ISBN 4-931246-09-5. C0026 * 『紅茶の本 -増補改訂版-』 堀江敏樹 南船北馬舎 ISBN 4-931246-04-4. C0077 * 『紅茶で遊ぶ観る考える』 堀江敏樹 南船北馬舎 ISBN 4-931246-06-0. C0077 * 『紅茶をもっと楽しむ12ヵ月』 日本紅茶協会監修、日本ティーインストラクター会編、講談社刊 ISBN 4-06-212817-9 * 『紅茶の事典』 成美堂出版編集部、成美堂出版 ISBN 978-4-415-04245-9 * 『紅茶を楽しむ ゆったり贅沢なティータイム』 熊崎俊太郎監修 大泉書店 ISBN 978-4-278-03777-7 == 関連項目 == {{Commons&cat|Tea|Black tea}} * [[日本茶]] * [[中国茶]] * [[喫茶店]] - [[ティールーム]] * [[イギリス東インド会社]] - [[ボストン茶会事件]] * [[アフタヌーン・ティー]] * [[カティーサーク]] * [[ムジカ (ティーハウス)]] * [[多田元吉]] * [[痛風]] - ヨーロッパで喫茶が普及した一因となった * [[大黒屋光太夫]] - 日本人として初めてロシアにて欧式茶会に招かれたと公式記録に残る人物。 * [[午後の紅茶]](商品名) * [[茶葉のパラドックス]] - ティーカップの中で攪拌すると茶葉が周辺ではなく中央に集まる現象 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20090908194249/http://www.visitbritain.jp/things-to-see-and-do/interests/food-drink/british-food/afternoon-tea/index.aspx/ 英国政府観光庁 - アフタヌーン・ティ] ※ 現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存 * [http://www.tea-a.gr.jp/knowledge/ 紅茶を知る] - [[日本紅茶協会]]Webサイトより * [http://www.nittoh-tea.com/enjoy/knowledge/index.html 紅茶のマメ知識] - [[日東紅茶]]Webサイトより * [http://www.kirin.co.jp/products/softdrink/gogoken/ 紅茶と暮らし研究所] - [[キリン (企業)|キリン]]Webサイトより * {{Kotobank}} {{茶}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうちや}} [[Category:紅茶|*]] [[Category:中国茶]] [[Category:発酵食品]] [[Category:喫茶文化]] [[Category:イギリスの飲料]]
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ウルトラマンA
『ウルトラマンA』(ウルトラマンエース)は、円谷プロダクション・TBSが製作した特撮テレビドラマ、およびその劇中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。1972年4月7日から1973年3月30日までTBS系で毎週金曜日19:00 - 19:30に全52話が放送された。 異次元世界に君臨するヤプール人が、怪獣よりも強い生物兵器「超獣」を従えて地球侵略を開始した。 超獣第1号・ベロクロンによって地球防衛軍が全滅し、ベロクロンの襲撃から人々を守ろうとした北斗 星司()と南 夕子()の2人の若者も犠牲となる。ヤプールの野望を阻止するためにM78星雲から派遣されたウルトラ兄弟の5番目・ウルトラマンA(以後、A)は、北斗と夕子に自分の命と力を授ける。 新たな命を得た北斗と夕子は、地球防衛軍に代わって結成された超獣攻撃隊・TAC()に入隊。銀河連邦の一員の証であるウルトラリングが光る時、北斗と夕子はウルトラタッチによってAに合体変身するのである。 ウルトラシリーズ第5作目であり、昭和第2期ウルトラシリーズの第2作目。帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)が去った後の地球に現れた新たな敵・異次元人ヤプールや、そのヤプールが送り出す怪獣以上の強敵・超獣と戦うウルトラマンAと、超獣攻撃隊・TACの活躍を描く。 主人公の北斗星司と南夕子による男女合体変身など、多くの新機軸が盛り込まれた。組織的なレギュラー悪役が設定されたのはシリーズ初であり、同時期に放送されていた『仮面ライダー』のショッカーや『ミラーマン』のインベーダーをはじめ、当時の主流傾向にならった形であるが、ショッカー首領の声を演じていた納谷悟朗をヒーローの声に起用するという、捻ったキャスティングが行なわれた。 重厚な人間ドラマを強調した前作『帰ってきたウルトラマン』(以下、帰マン)とは打って変わって娯楽性が強調され、より子供向けに徹している。特に、前作でウルトラマンとウルトラセブンの客演が好評だったことを受け、『ウルトラマン』第39話(最終回)以来の登場となったゾフィーを加えたウルトラ兄弟の設定を本格的に前面に打ち出しているうえ、新キャラクター・ウルトラの父も初登場している。 その一方、人間が心の奥底に持つ醜悪なエゴイズムが現実味を帯びて演出されるエピソードは、他のウルトラシリーズ以上に頻出している。それを利用する卑劣な敵役のヤプールに関しても不気味な描写が多かったうえ、特に後半は前作同様に重厚な人間ドラマも展開され、それが最終回(第52話)のドラマに発展していく。 円谷プロの制作番組の増加に伴い、東宝映像に特撮パートの制作が委託されたことで、特撮には東宝のスタッフが動員され、撮影に東宝撮影所を使用するなど、特撮面の充実も図られた。 『帰ってきたウルトラマン』の後続番組として企画された本作品は、市川森一・上原正三・田口成光の3人の脚本家による『ウルトラハンター』『ウルトラV』『ウルトラファイター』の3つの企画の長所を整理・統合したものである。 そして、『ウルトラファイター』の名で正式な企画書が作成され、大人方向の設定の内容をさらに推敲して円谷プロとTBSの連名で『特撮超獣シリーズ ウルトラA』という企画書が作られた。 異次元人ヤプールが送り込んでくる超獣や宇宙人から地球を守るため、銀河連邦によって地球人の男女2人にウルトラマンAとしての能力が与えられ、主人公たちは危機に際して男女合体でAに変身する。男女の合体によるヒーローの誕生は、性差を越えた完全な超人の誕生という理念を元にした設定だった。これらの新設定は、『仮面ライダー』などのヒーロー番組が相次いで制作される中、他の番組との差別化を図る必要があったために試みられた。第1話でエース本人が語った銀河連邦とは、円谷プロが制作していた『ミラーマン』など他のヒーロー番組を1つの世界観でまとめるために構想されたが、明確には打ち出されなかった。 また、『仮面ライダー』との差別化が図られる一方、逆に同作品と同様のプロットが新機軸として導入されることにもなった。たとえば、ウルトラシリーズではヤプールのようなレギュラーの敵組織という試みは初めてのことだった。 当初のタイトルは『ウルトラA』と予定されていたが、玩具メーカーのマルサンから『怪傑透明ウルトラエース』というSF玩具がすでに発売されていたことから、3月初旬に商標の問題を考慮して『ウルトラマンA』に改題された。 本作品以降、ウルトラヒーローは「ウルトラマン〜」というネーミングが主体となってイメージが定着した。このため、『ウルトラセブン』の名称が誤って「ウルトラマンセブン」と呼ばれる事態にも繋がっている。 それまでのウルトラシリーズは、宇宙人以外は怪獣が主な敵役だったのに対し、本作品に登場する敵は「超獣」と呼ばれている。超獣が怪獣より強力であることを示すための演出として、第8話では超獣ドラゴリーが前作『帰ってきたウルトラマン』にも登場した怪獣ムルチ(二代目)を惨殺する展開が織り込まれている。企画時の製作メモでは、子供たちに親しみのある生物をモチーフとしていることや、他作品の怪獣・宇宙人との区別が明確になる点などがメリットとして挙げられている。 当初は、ヤプールが地球上の生物と宇宙怪獣を超獣製造機で融合させて生み出した合成生物兵器という位置付けだった。だが、第23話でヤプールが全滅して以降は、自然発生的に出現したり(例:ハンザギラン)、他の宇宙人の配下になっている(例:シグナリオン)など、ヤプールとの関係が不明な個体が登場するため、当初の定義に該当しない超獣も多くなっていった。ただ、設定上はAと戦って敗れた際に砕け散った巨大ヤプールの細胞が「復讐の怨念」となり、動物や器物、果ては霊的な存在などさまざまな対象から超獣を生み出しているとされ、劇中ではヤプールが滅亡した後も製造済みの超獣は生き残っていることを暗示する台詞がある。ヤプールの残党は第52話まで断続的に登場し、超獣は次作『ウルトラマンタロウ』の第1話にて登場する。この時は『ウルトラマンタロウ』の「怪獣より強い超獣より強い怪獣」の強さを演出するのに利用されている。 『ウルトラマンメビウス』に登場する超獣も、復活したヤプールの配下である。だが、『ウルトラマンダイナ』や映画『ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(1999年)、『電光超人グリッドマン』(1993年)に登場する「超獣」は本作品とは無関係の存在である。 本作品で設定された男女合体変身は、それまでのヒーロー番組でほとんど例のない新機軸であり、メインライターの市川森一が原案で当初から設定していたことからも、本作品のテーマの軸をなす設定だったといえる。 物語前半はこの設定が生かされたエピソードが見られたものの、いくつかの要因で南夕子の設定を生かし切ることが難しくなってきた。「男女合体変身だとヒーローとして弱々しい」や「合体変身を子供がまねることが難しい」などの番組の評判としての意見もさることながら、ストーリーを展開するうえで北斗と夕子のドラマをそれぞれ語る必要があるなど、脚本側の要求があったとも言われている。最終的に第28話で夕子は番組から降板することとなった。 オープニングの歌詞には「北斗と南」というフレーズが含まれているが、夕子の降板後もそのまま用いられた。 番組開始に際して様々に盛り込まれた新機軸は作品の自由度を制限する面も多く、十二分に生かされたとは言えなかった。 当初はメインライターを市川が担当し、彼が提起した事象を田口と上原が整理したり、広げるという方向で進み始めるという、3人でのローテーション体制であったが、人間の描写に一貫性を確保することが難しく、ドラマツルギーのキモの部分も三人三様であり、さまざまな点で不統一な設定になってしまうこともあった。また、あくまでも市川が観念として捉えていたヤプールも、なかなかそのイメージが貫徹されていなかった。そのため、市川は『シルバー仮面』で「ウルトラ」的な題材で戦い尽くした状態となり、内的終焉に至ったとして第14話を最後に第48話まで脚本を書かなくなった。 第2クール終盤でヤプールが全滅した後に夕子も地球を去り、その後は地球人の少年・梅津ダンをウルトラ6番目の弟として登場させ、北斗とダンの交流を軸に物語が展開されたが、梅津姉弟は第43話を最後に、特に説明もなく姿を消している。 また、銀河連邦もドラマに登場することはなく、『トリプルファイター』の副主題歌やいくつかの商品展開に使用されたのみで終わった。 たび重なる路線変更は裏番組だった『変身忍者 嵐』との視聴率競争によるものとされており、『嵐』でも本作品を意識したテコ入れがたびたびあった。 視聴率は平均視聴率18.6%と『帰ってきたウルトラマン』の22.7%より低下した。当時は、一般的に視聴率は15%以上が人気番組のボーダーラインであり、その意味では本作品も人気番組のボーダーライン以上の数字は維持していた。だが、『帰ってきたウルトラマン』が終盤に25%以上の視聴率を記録していたために周辺関係者の期待は大きく、本作品の視聴率はその期待に応えたとは言い難かった。ただし、個々のエピソードではシリーズ後半は20%台を多く弾き出している。 また、玩具的には『マルサン・ブルマァクの仕事』によると、ブルマァクから発売された本作品の超獣ソフトビニール人形の売上は、同社の『帰ってきたウルトラマン』の怪獣ソフトビニール人形の3分の1でかなりの不振だった。このため、ブルマァクは円谷プロとの商品化権取得の契約金7000万円を回収できなかった。本作品中盤から商品化される超獣はほとんどなくなり、この余波で『ウルトラマンタロウ』の怪獣に関する同社での商品展開はあまりされなかった。 ウルトラ戦士の中で多くの光線技と超能力を持ち、特に多様な光のカッターを使った切断技のバリエーションにかけては右に出る者はおらず、切断技のエースと呼ばれる所以である。胸にカラータイマー、額にウルトラスターの2つのエネルギー源があり、それまでのウルトラ戦士と比べて倍のエネルギーを使用できるためとされている。 戦闘能力のポテンシャルはかなり高く、敵が怪獣から超獣へ強さが数倍に強化されたのに合わせ、Aの戦闘能力も相当向上している。 また、セブンのアイスラッガーのような大きな突起を頭頂部に持つが、アイスラッガーが切れ込みが入っているのに対し、これは小さな穴があいている。ウルトラホールと呼称されるこの穴は、太陽エネルギーを吸収する、戦闘力強化(第8話、第14話など)、ウルトラサインの発生機能、他のウルトラ戦士のエネルギーを吸収するなど、ウルトラマンタロウのウルトラホーンと同様の機能を持つ。学年誌の解説においては、訓練次第でアイスラッガーのような白兵武装として使えるようになるとされており、蛭田充の漫画版では実際に第3話で頭頂部が伸びて超獣を串刺しにする「エースラッガー」という技を用い、バラバを倒している。 掛け声はウルトラマンやウルトラマンジャックからの流用(声 - 中曽根雅夫)に加え、第3話からは納谷悟朗による固有の掛け声がたびたび用いられている。 北斗星司と南夕子の片方が重病や怪我で体力が弱まると、戦闘能力や防御力が低下する。 戦闘では残虐にいたぶられるケースも多く、本放送当時におけるウルトラ兄弟の末弟として、しばしば救援を仰ぐ。両性具有的な設定もあわせ、神々しさ・力強さ・偉大さ・弱さ・未熟さ・若さといった相反する性格が混在する複雑なキャラクターでもある。また、変身能力を授ける際に北斗と夕子をお前呼ばわりするなど、他人に対して大きな態度で接することもあった。しかし、倒した超獣の死骸を墓に埋葬したり持って帰ったり、あるいは戦闘中に特に理由もなく相撲の四股を踏むなど、特異な行動も見せる。 ウルトラマンAに変身するためのエネルギーを秘めたアイテムである、アルファベットのAをあしらったデザインの指輪。Aの手から、北斗星司と南夕子それぞれに1つずつ与えられた。このリングは銀河連邦の一員の証とも言われている。 北斗と夕子はこの指輪を普段から右手中指にはめている。第28話で、夕子がルナチクスを打倒した後に自らのリングを北斗に託し、以降は北斗が両手の中指に1つずつはめている。 『大決戦!超ウルトラ8兄弟』では、別世界の北斗が自身をエースだと自覚した際に彼の両手中指に実体化した。 第1話から第28話の前半までは、北斗と夕子それぞれのリングの上部に埋め込まれている宝石が変身を促すかのように光った時に、互いの名を呼び合って駆け寄り、リングをはめた右手を合わせる、もしくは握って「ウルトラタッチ!」と叫ぶと2人の間から眩い光が溢れ、Aに変身するというものだった。 劇中、ウルトラタッチそのもののバリエーションは複数披露され、北斗と夕子が空中でタッチするパターンがオーソドックスだが、第2話では両者がそれぞれTACのオートバイを運転しながら、乗車しているオートバイごと空中でタッチする「ライダータッチ」を敢行。他にも、第3話で見せた、脱出して空中にいるパートナーのもとへ飛んでタッチする「フライングタッチ」を見せたり、空中に高く飛ばず地上でタッチしたり、遠く離れた場所でもモニター越しにタッチしたり、何らかの理由で危機に陥っているパートナーの下へ駆けつけてタッチを行う変身など、多彩な変身バリエーションが見られた。 第29話以降や、他の作品に北斗が登場した際は、彼が一定の変身ポーズをとった後に胸の前で両手中指にはめたリングを合わせることで光が溢れ出し、Aに変身するというプロセスが基本パターンとなるが、北斗自身が戦闘で危機に瀕した際にすかさずリングを合わせて変身するパターンも多い。また、リング上部の宝石が変身を促すかのように光らなくても変身可能で、北斗が単独変身するようになってからは、劇中でこの光は見られなくなった。同時に、「ウルトラタッチ」の発声も行われなくなった。 上記のほか、異次元にさらわれた子どもたちを解放した異次元開放能力、マイナス宇宙にあるゴルゴダ星へ飛ぶ高速飛行能力、過去に迷い込んだTAC隊員を現代に連れ戻した時間飛行能力、旗を巨大化させてザイゴンを翻弄した物質巨大化念力、ベロクロン二世にダメージを与えたガスタンク爆弾化能力、アプラサールを元のアプラサに戻した異次元エネルギー遮断能力など、さまざまな超能力を扱う。それゆえ、光線技と超能力の多彩さはウルトラ兄弟で一番となっている。 また、ガマスの放った吹き矢ミサイルを受け止めて投げ返したり、ファイヤー星人の炎の剣を奪って返り討ちにするなど、相手の武器を用いて攻撃する描写も多かった。 夕子の客演は#主人公を参照。『ウルトラマンメビウス』以降の作品では、ウルトラ兄弟のなかでも伝説的存在である「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている。 TAC()とは、Terrible-monster Attacking Crewの略(別名「超獣攻撃隊」)で、突如現れたベロクロンに全滅させられた地球防衛軍に代わって組織された地球防衛機構により新たに編制された地球の全世界的守備組織である。 本部はニューヨークに置かれており、その下位に南太平洋国際本部が存在する。ヨーロッパ・アフリカ・極東(日本)に支部が存在し、ウルトラマンAこと北斗星司と南夕子が入隊したのも極東支部である。 常にレーダーで超獣の動きを監視しながら、超獣撃退のための兵器や戦術を日夜研究している。開発した兵器の数は随一で、超獣・宇宙人の撃破数はウルトラ警備隊やZATに準ずる成績を誇る。また、撃破はできずとも超獣に大ダメージを与えることもあり、Aの勝利が彼らの貢献によることも少なくない。第10話ではMATファイルという資料が語られており、前作のMATとの関連を窺わせている。 極東支部基地は山梨県側の富士山麓の地上・地下、富士五湖の樹海付近にある。基地施設は地形や自然を利用して巧妙にカモフラージュされ、表向きは気象観測所を装っている。発進ゲートは牧場や崖などに偽装されている。 地下部分は、隊員たちの司令室(イベント用のレストルームも直結している)をはじめ、古代文献まで保管する資料室や各種研究室、射撃訓練場、中央原子動力室、各メカの格納庫に大型ミサイル工場まで建設され、地上部分はメインレーダーやさまざまな福利厚生施設、庶務施設、研究棟が存在する。また、襲撃してきた超獣に対する大型野砲や4連装・16連装ロケット砲といった防衛設備まで充実している。超獣や侵略宇宙人に襲撃されたり、Aと超獣の戦場となった回数も多い。 オレンジと銀色の配色のユニフォームで、耐久・耐熱・耐寒・防弾・防火機能に優れる。竜隊長の物のみ、第3話以降胸のグレーラインが濃くなる。 男女とも同じデザインだが、ブーツについては女性隊員のもののみフリンジがついており、微妙にデザインが異なる。 また、梶隊員は当初は白衣に身を包んでいたが、第7話より白を基調としたオレンジの線のユニフォームを着るようになる。 夕子のものは、彼女が冥王星へと旅立っていった直後にTACの隊員たちによって送り火として燃やされた。 ※全てノンクレジット 上記のほか、第5話の挿入歌として上原正三が台本に記した歌詞をもとに「ゾフィのバラード」(「ゾフィーのバラード」)が作曲され、BGM録音の際にレコード化を前提としたステレオでコーラス入りのカラオケが用意されたが、ボーカルは録音されなかった。同時に録音されたメロディー入りの音源のみが、第5話でゾフィーが帰還する場面や第28話で夕子が月へ帰還する場面などで使われている。また、Aの戦闘テーマも歌唱を想定して編成を変えた音源が、本篇使用曲とは別にステレオで録音されている。いずれも1992年に水木一郎の歌唱が新規に録音され、ようやく完成した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンA』(ウルトラマンエース)は、円谷プロダクション・TBSが製作した特撮テレビドラマ、およびその劇中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。1972年4月7日から1973年3月30日までTBS系で毎週金曜日19:00 - 19:30に全52話が放送された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "異次元世界に君臨するヤプール人が、怪獣よりも強い生物兵器「超獣」を従えて地球侵略を開始した。", "title": "物語" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "超獣第1号・ベロクロンによって地球防衛軍が全滅し、ベロクロンの襲撃から人々を守ろうとした北斗 星司()と南 夕子()の2人の若者も犠牲となる。ヤプールの野望を阻止するためにM78星雲から派遣されたウルトラ兄弟の5番目・ウルトラマンA(以後、A)は、北斗と夕子に自分の命と力を授ける。", "title": "物語" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新たな命を得た北斗と夕子は、地球防衛軍に代わって結成された超獣攻撃隊・TAC()に入隊。銀河連邦の一員の証であるウルトラリングが光る時、北斗と夕子はウルトラタッチによってAに合体変身するのである。", "title": "物語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ウルトラシリーズ第5作目であり、昭和第2期ウルトラシリーズの第2作目。帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)が去った後の地球に現れた新たな敵・異次元人ヤプールや、そのヤプールが送り出す怪獣以上の強敵・超獣と戦うウルトラマンAと、超獣攻撃隊・TACの活躍を描く。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": 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"tag": "p", "text": "そして、『ウルトラファイター』の名で正式な企画書が作成され、大人方向の設定の内容をさらに推敲して円谷プロとTBSの連名で『特撮超獣シリーズ ウルトラA』という企画書が作られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "異次元人ヤプールが送り込んでくる超獣や宇宙人から地球を守るため、銀河連邦によって地球人の男女2人にウルトラマンAとしての能力が与えられ、主人公たちは危機に際して男女合体でAに変身する。男女の合体によるヒーローの誕生は、性差を越えた完全な超人の誕生という理念を元にした設定だった。これらの新設定は、『仮面ライダー』などのヒーロー番組が相次いで制作される中、他の番組との差別化を図る必要があったために試みられた。第1話でエース本人が語った銀河連邦とは、円谷プロが制作していた『ミラーマン』など他のヒーロー番組を1つの世界観でまとめるために構想されたが、明確には打ち出されなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、『仮面ライダー』との差別化が図られる一方、逆に同作品と同様のプロットが新機軸として導入されることにもなった。たとえば、ウルトラシリーズではヤプールのようなレギュラーの敵組織という試みは初めてのことだった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当初のタイトルは『ウルトラA』と予定されていたが、玩具メーカーのマルサンから『怪傑透明ウルトラエース』というSF玩具がすでに発売されていたことから、3月初旬に商標の問題を考慮して『ウルトラマンA』に改題された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本作品以降、ウルトラヒーローは「ウルトラマン〜」というネーミングが主体となってイメージが定着した。このため、『ウルトラセブン』の名称が誤って「ウルトラマンセブン」と呼ばれる事態にも繋がっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "それまでのウルトラシリーズは、宇宙人以外は怪獣が主な敵役だったのに対し、本作品に登場する敵は「超獣」と呼ばれている。超獣が怪獣より強力であることを示すための演出として、第8話では超獣ドラゴリーが前作『帰ってきたウルトラマン』にも登場した怪獣ムルチ(二代目)を惨殺する展開が織り込まれている。企画時の製作メモでは、子供たちに親しみのある生物をモチーフとしていることや、他作品の怪獣・宇宙人との区別が明確になる点などがメリットとして挙げられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "当初は、ヤプールが地球上の生物と宇宙怪獣を超獣製造機で融合させて生み出した合成生物兵器という位置付けだった。だが、第23話でヤプールが全滅して以降は、自然発生的に出現したり(例:ハンザギラン)、他の宇宙人の配下になっている(例:シグナリオン)など、ヤプールとの関係が不明な個体が登場するため、当初の定義に該当しない超獣も多くなっていった。ただ、設定上はAと戦って敗れた際に砕け散った巨大ヤプールの細胞が「復讐の怨念」となり、動物や器物、果ては霊的な存在などさまざまな対象から超獣を生み出しているとされ、劇中ではヤプールが滅亡した後も製造済みの超獣は生き残っていることを暗示する台詞がある。ヤプールの残党は第52話まで断続的に登場し、超獣は次作『ウルトラマンタロウ』の第1話にて登場する。この時は『ウルトラマンタロウ』の「怪獣より強い超獣より強い怪獣」の強さを演出するのに利用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『ウルトラマンメビウス』に登場する超獣も、復活したヤプールの配下である。だが、『ウルトラマンダイナ』や映画『ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』(1999年)、『電光超人グリッドマン』(1993年)に登場する「超獣」は本作品とは無関係の存在である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "本作品で設定された男女合体変身は、それまでのヒーロー番組でほとんど例のない新機軸であり、メインライターの市川森一が原案で当初から設定していたことからも、本作品のテーマの軸をなす設定だったといえる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "物語前半はこの設定が生かされたエピソードが見られたものの、いくつかの要因で南夕子の設定を生かし切ることが難しくなってきた。「男女合体変身だとヒーローとして弱々しい」や「合体変身を子供がまねることが難しい」などの番組の評判としての意見もさることながら、ストーリーを展開するうえで北斗と夕子のドラマをそれぞれ語る必要があるなど、脚本側の要求があったとも言われている。最終的に第28話で夕子は番組から降板することとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "オープニングの歌詞には「北斗と南」というフレーズが含まれているが、夕子の降板後もそのまま用いられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "番組開始に際して様々に盛り込まれた新機軸は作品の自由度を制限する面も多く、十二分に生かされたとは言えなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "当初はメインライターを市川が担当し、彼が提起した事象を田口と上原が整理したり、広げるという方向で進み始めるという、3人でのローテーション体制であったが、人間の描写に一貫性を確保することが難しく、ドラマツルギーのキモの部分も三人三様であり、さまざまな点で不統一な設定になってしまうこともあった。また、あくまでも市川が観念として捉えていたヤプールも、なかなかそのイメージが貫徹されていなかった。そのため、市川は『シルバー仮面』で「ウルトラ」的な題材で戦い尽くした状態となり、内的終焉に至ったとして第14話を最後に第48話まで脚本を書かなくなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第2クール終盤でヤプールが全滅した後に夕子も地球を去り、その後は地球人の少年・梅津ダンをウルトラ6番目の弟として登場させ、北斗とダンの交流を軸に物語が展開されたが、梅津姉弟は第43話を最後に、特に説明もなく姿を消している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、銀河連邦もドラマに登場することはなく、『トリプルファイター』の副主題歌やいくつかの商品展開に使用されたのみで終わった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "たび重なる路線変更は裏番組だった『変身忍者 嵐』との視聴率競争によるものとされており、『嵐』でも本作品を意識したテコ入れがたびたびあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "視聴率は平均視聴率18.6%と『帰ってきたウルトラマン』の22.7%より低下した。当時は、一般的に視聴率は15%以上が人気番組のボーダーラインであり、その意味では本作品も人気番組のボーダーライン以上の数字は維持していた。だが、『帰ってきたウルトラマン』が終盤に25%以上の視聴率を記録していたために周辺関係者の期待は大きく、本作品の視聴率はその期待に応えたとは言い難かった。ただし、個々のエピソードではシリーズ後半は20%台を多く弾き出している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、玩具的には『マルサン・ブルマァクの仕事』によると、ブルマァクから発売された本作品の超獣ソフトビニール人形の売上は、同社の『帰ってきたウルトラマン』の怪獣ソフトビニール人形の3分の1でかなりの不振だった。このため、ブルマァクは円谷プロとの商品化権取得の契約金7000万円を回収できなかった。本作品中盤から商品化される超獣はほとんどなくなり、この余波で『ウルトラマンタロウ』の怪獣に関する同社での商品展開はあまりされなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ウルトラ戦士の中で多くの光線技と超能力を持ち、特に多様な光のカッターを使った切断技のバリエーションにかけては右に出る者はおらず、切断技のエースと呼ばれる所以である。胸にカラータイマー、額にウルトラスターの2つのエネルギー源があり、それまでのウルトラ戦士と比べて倍のエネルギーを使用できるためとされている。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "戦闘能力のポテンシャルはかなり高く、敵が怪獣から超獣へ強さが数倍に強化されたのに合わせ、Aの戦闘能力も相当向上している。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、セブンのアイスラッガーのような大きな突起を頭頂部に持つが、アイスラッガーが切れ込みが入っているのに対し、これは小さな穴があいている。ウルトラホールと呼称されるこの穴は、太陽エネルギーを吸収する、戦闘力強化(第8話、第14話など)、ウルトラサインの発生機能、他のウルトラ戦士のエネルギーを吸収するなど、ウルトラマンタロウのウルトラホーンと同様の機能を持つ。学年誌の解説においては、訓練次第でアイスラッガーのような白兵武装として使えるようになるとされており、蛭田充の漫画版では実際に第3話で頭頂部が伸びて超獣を串刺しにする「エースラッガー」という技を用い、バラバを倒している。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "掛け声はウルトラマンやウルトラマンジャックからの流用(声 - 中曽根雅夫)に加え、第3話からは納谷悟朗による固有の掛け声がたびたび用いられている。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "北斗星司と南夕子の片方が重病や怪我で体力が弱まると、戦闘能力や防御力が低下する。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "戦闘では残虐にいたぶられるケースも多く、本放送当時におけるウルトラ兄弟の末弟として、しばしば救援を仰ぐ。両性具有的な設定もあわせ、神々しさ・力強さ・偉大さ・弱さ・未熟さ・若さといった相反する性格が混在する複雑なキャラクターでもある。また、変身能力を授ける際に北斗と夕子をお前呼ばわりするなど、他人に対して大きな態度で接することもあった。しかし、倒した超獣の死骸を墓に埋葬したり持って帰ったり、あるいは戦闘中に特に理由もなく相撲の四股を踏むなど、特異な行動も見せる。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウルトラマンAに変身するためのエネルギーを秘めたアイテムである、アルファベットのAをあしらったデザインの指輪。Aの手から、北斗星司と南夕子それぞれに1つずつ与えられた。このリングは銀河連邦の一員の証とも言われている。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "北斗と夕子はこの指輪を普段から右手中指にはめている。第28話で、夕子がルナチクスを打倒した後に自らのリングを北斗に託し、以降は北斗が両手の中指に1つずつはめている。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『大決戦!超ウルトラ8兄弟』では、別世界の北斗が自身をエースだと自覚した際に彼の両手中指に実体化した。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "第1話から第28話の前半までは、北斗と夕子それぞれのリングの上部に埋め込まれている宝石が変身を促すかのように光った時に、互いの名を呼び合って駆け寄り、リングをはめた右手を合わせる、もしくは握って「ウルトラタッチ!」と叫ぶと2人の間から眩い光が溢れ、Aに変身するというものだった。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "劇中、ウルトラタッチそのもののバリエーションは複数披露され、北斗と夕子が空中でタッチするパターンがオーソドックスだが、第2話では両者がそれぞれTACのオートバイを運転しながら、乗車しているオートバイごと空中でタッチする「ライダータッチ」を敢行。他にも、第3話で見せた、脱出して空中にいるパートナーのもとへ飛んでタッチする「フライングタッチ」を見せたり、空中に高く飛ばず地上でタッチしたり、遠く離れた場所でもモニター越しにタッチしたり、何らかの理由で危機に陥っているパートナーの下へ駆けつけてタッチを行う変身など、多彩な変身バリエーションが見られた。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "第29話以降や、他の作品に北斗が登場した際は、彼が一定の変身ポーズをとった後に胸の前で両手中指にはめたリングを合わせることで光が溢れ出し、Aに変身するというプロセスが基本パターンとなるが、北斗自身が戦闘で危機に瀕した際にすかさずリングを合わせて変身するパターンも多い。また、リング上部の宝石が変身を促すかのように光らなくても変身可能で、北斗が単独変身するようになってからは、劇中でこの光は見られなくなった。同時に、「ウルトラタッチ」の発声も行われなくなった。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "上記のほか、異次元にさらわれた子どもたちを解放した異次元開放能力、マイナス宇宙にあるゴルゴダ星へ飛ぶ高速飛行能力、過去に迷い込んだTAC隊員を現代に連れ戻した時間飛行能力、旗を巨大化させてザイゴンを翻弄した物質巨大化念力、ベロクロン二世にダメージを与えたガスタンク爆弾化能力、アプラサールを元のアプラサに戻した異次元エネルギー遮断能力など、さまざまな超能力を扱う。それゆえ、光線技と超能力の多彩さはウルトラ兄弟で一番となっている。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、ガマスの放った吹き矢ミサイルを受け止めて投げ返したり、ファイヤー星人の炎の剣を奪って返り討ちにするなど、相手の武器を用いて攻撃する描写も多かった。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "夕子の客演は#主人公を参照。『ウルトラマンメビウス』以降の作品では、ウルトラ兄弟のなかでも伝説的存在である「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている。", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "", "title": "ウルトラマンA" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "TAC()とは、Terrible-monster Attacking Crewの略(別名「超獣攻撃隊」)で、突如現れたベロクロンに全滅させられた地球防衛軍に代わって組織された地球防衛機構により新たに編制された地球の全世界的守備組織である。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "本部はニューヨークに置かれており、その下位に南太平洋国際本部が存在する。ヨーロッパ・アフリカ・極東(日本)に支部が存在し、ウルトラマンAこと北斗星司と南夕子が入隊したのも極東支部である。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "常にレーダーで超獣の動きを監視しながら、超獣撃退のための兵器や戦術を日夜研究している。開発した兵器の数は随一で、超獣・宇宙人の撃破数はウルトラ警備隊やZATに準ずる成績を誇る。また、撃破はできずとも超獣に大ダメージを与えることもあり、Aの勝利が彼らの貢献によることも少なくない。第10話ではMATファイルという資料が語られており、前作のMATとの関連を窺わせている。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "極東支部基地は山梨県側の富士山麓の地上・地下、富士五湖の樹海付近にある。基地施設は地形や自然を利用して巧妙にカモフラージュされ、表向きは気象観測所を装っている。発進ゲートは牧場や崖などに偽装されている。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "地下部分は、隊員たちの司令室(イベント用のレストルームも直結している)をはじめ、古代文献まで保管する資料室や各種研究室、射撃訓練場、中央原子動力室、各メカの格納庫に大型ミサイル工場まで建設され、地上部分はメインレーダーやさまざまな福利厚生施設、庶務施設、研究棟が存在する。また、襲撃してきた超獣に対する大型野砲や4連装・16連装ロケット砲といった防衛設備まで充実している。超獣や侵略宇宙人に襲撃されたり、Aと超獣の戦場となった回数も多い。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "オレンジと銀色の配色のユニフォームで、耐久・耐熱・耐寒・防弾・防火機能に優れる。竜隊長の物のみ、第3話以降胸のグレーラインが濃くなる。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "男女とも同じデザインだが、ブーツについては女性隊員のもののみフリンジがついており、微妙にデザインが異なる。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、梶隊員は当初は白衣に身を包んでいたが、第7話より白を基調としたオレンジの線のユニフォームを着るようになる。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "夕子のものは、彼女が冥王星へと旅立っていった直後にTACの隊員たちによって送り火として燃やされた。", "title": "TAC" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "※全てノンクレジット", "title": "出演者" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "上記のほか、第5話の挿入歌として上原正三が台本に記した歌詞をもとに「ゾフィのバラード」(「ゾフィーのバラード」)が作曲され、BGM録音の際にレコード化を前提としたステレオでコーラス入りのカラオケが用意されたが、ボーカルは録音されなかった。同時に録音されたメロディー入りの音源のみが、第5話でゾフィーが帰還する場面や第28話で夕子が月へ帰還する場面などで使われている。また、Aの戦闘テーマも歌唱を想定して編成を変えた音源が、本篇使用曲とは別にステレオで録音されている。いずれも1992年に水木一郎の歌唱が新規に録音され、ようやく完成した。", "title": "音楽" } ]
『ウルトラマンA』(ウルトラマンエース)は、円谷プロダクション・TBSが製作した特撮テレビドラマ、およびその劇中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。1972年4月7日から1973年3月30日までTBS系で毎週金曜日19:00 - 19:30に全52話が放送された。
{{半保護}} {{移動保護}} {{Pathnav|ウルトラシリーズ|frame=1}} {{未検証|date=2017年8月}} {{昭和第2期ウルトラシリーズ}} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = ウルトラマンA | 画像 = | 画像説明 = | ジャンル = | 放送時間 = 金曜 19:00 - 19:30 | 放送分 = 30 | 放送枠 = | 放送期間 = [[1972年]][[4月7日]] - [[1973年]][[3月30日]] | 放送回数 = 52 | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[TBSテレビ|TBS]] | 企画 = | 製作総指揮 = | 監督 = [[筧正典]] ほか | 演出 = | 原作 = | 脚本 = [[市川森一]] ほか | プロデューサー = {{Plainlist| * [[熊谷健]] * 伊藤久夫 * [[橋本洋二 (プロデューサー)|橋本洋二]] }} | 出演者 = {{Plainlist| * [[高峰圭二]] * [[星光子]] * [[瑳川哲朗]] * [[沖田駿一郎|沖田駿一]] * [[山本正明]] * [[西恵子]] * [[佐野光洋]] * [[中山克己]] * [[梅津昭典]] * 宮野リエ * ほか }} | ナレーター = [[岸田森]] | 音声 = モノラル放送 | 字幕 = | データ放送 = | OPテーマ = 「ウルトラマンエース」 | EDテーマ = | 時代設定 = | 外部リンク = | 外部リンク名 = | 特記事項 = | image = }} 『'''ウルトラマンA'''』(ウルトラマンエース)は、[[円谷プロダクション]]・[[TBSテレビ|TBS]]が製作した[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、およびその劇中に登場する巨大[[変身 (ヒーロー)|変身]]ヒーローの名称である。[[1972年]][[4月7日]]から[[1973年]][[3月30日]]まで[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系]]で毎週金曜日19:00 - 19:30に全52話が放送された。 == 物語 == 異次元世界に君臨する'''[[ヤプール人]]'''が、怪獣よりも強い生物兵器「'''超獣'''」を従えて地球侵略を開始した。 超獣第1号・[[ベロクロン]]によって地球防衛軍が全滅し、ベロクロンの襲撃から人々を守ろうとした{{読み仮名|'''北斗 星司'''|ほくと せいじ}}と{{読み仮名|'''南 夕子'''|みなみ ゆうこ}}の2人の若者も犠牲となる。ヤプールの野望を阻止するために[[M78星雲]]から派遣された[[ウルトラ兄弟]]の5番目・'''ウルトラマンA'''(以後、'''A''')は、北斗と夕子に自分の命と力を授ける。 新たな命を得た北斗と夕子は、地球防衛軍に代わって結成された超獣攻撃隊・{{読み仮名|'''TAC'''|タック}}に入隊。銀河連邦の一員の証である'''ウルトラリング'''が光る時、北斗と夕子はウルトラタッチによってAに合体変身するのである。 == 概要 == === 内容 === [[ウルトラシリーズ]]第5作目であり、[[ウルトラシリーズ#昭和第2期ウルトラシリーズ|昭和第2期ウルトラシリーズ]]の第2作目。[[帰ってきたウルトラマン#帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)|帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)]]が去った後の地球に現れた新たな敵・[[ヤプール人|異次元人ヤプール]]や、そのヤプールが送り出す怪獣以上の強敵・超獣と戦うウルトラマンAと、超獣攻撃隊・TACの活躍を描く。 主人公の北斗星司と南夕子による男女合体変身{{efn|通常は「ウルトラタッチ」と呼ばれたが、オートバイに乗りながらだと「ライダータッチ」になるなど、異なった呼び名も劇中で使用されている。}}など、多くの新機軸が盛り込まれた。組織的なレギュラー悪役が設定されたのはシリーズ初であり、同時期に放送されていた『[[仮面ライダー]]』の[[ショッカー]]や『[[ミラーマン]]』のインベーダーをはじめ、当時の主流傾向にならった形であるが、[[ショッカー首領]]の声を演じていた[[納谷悟朗]]をヒーローの声に起用するという、捻ったキャスティングが行なわれた。 重厚な人間ドラマを強調した前作『[[帰ってきたウルトラマン]]』(以下、帰マン)とは打って変わって娯楽性が強調され、より子供向けに徹している。特に、前作で[[ウルトラマン#ウルトラマン|ウルトラマン]]と[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]の客演が好評だったことを受け、『ウルトラマン』第39話(最終回)以来の登場となった[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]を加えた'''[[ウルトラ兄弟]]'''の設定を本格的に前面に打ち出している{{R|白書86|特撮全史}}うえ、新キャラクター・[[ウルトラの父]]も初登場している。 その一方、人間が心の奥底に持つ醜悪な[[利己主義|エゴイズム]]が現実味を帯びて演出されるエピソードは、他のウルトラシリーズ以上に頻出している。それを利用する卑劣な敵役のヤプールに関しても不気味な描写が多かったうえ、特に後半は前作同様に重厚な人間ドラマも展開され、それが最終回(第52話)のドラマに発展していく。 円谷プロの制作番組の増加に伴い、東宝映像に特撮パートの制作が委託されたことで、特撮には[[東宝]]のスタッフが動員され、撮影に[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]を使用するなど、特撮面の充実も図られた{{R|白書88|特撮全史}}{{efn|翌年に東宝が制作した特撮テレビドラマ『[[流星人間ゾーン]]』には、本作品を経験した東宝スタッフが多く参加しており、本作品と似た作風となっている{{R|ゴジラ来襲}}。}}。 === クランクインまで === 『帰ってきたウルトラマン』の後続番組として企画された本作品は、[[市川森一]]・[[上原正三]]・[[田口成光]]の3人の脚本家による『ウルトラハンター』{{efn|地球連合軍に属する北斗星司、南七子が「ウルトラタッチ」のかけ声での男女合体変身、敵はアンドロメダ星雲から襲来する宇宙怪獣ベムを操るアンドロメダ宇宙軍団となっている。また、エネルギーが危機に陥ると目が光る設定となっている。(市川){{Refnest|group="出典"|name="制作"|{{R|僕らのA10-15|BDBOX|TVMAGA超898|UPM vol.104}}}}}}『ウルトラV』{{efn|サタン星人に滅ぼされたアンドロメダ第七十二星雲のVマンが主人公で、地球では竜五郎と名乗って特別科学部隊の隊員として働く。足からVホークという槍をキック時に放つ。レギュラー宇宙人としてサタン星人が登場し、ビッグマシーンで地球生物と宇宙生物を合体させた超獣が登場する。(田口){{R|group="出典"|制作}}}}『ウルトラファイター』{{efn|その研究を悪魔的と糾弾されて社会的地位を失い、全人類を憎むマッドサイエンティストの竹中博士が発明した怪獣コントロールマシンによる人類への攻撃に対し、ウルトラレインジャーの隊員である天野潤が変身するウルトラ5番目の兄弟であるM七十八星雲のウルトラファイターが挑む。(上原){{R|group="出典"|制作}}}}の3つの企画の長所を整理・統合したものである{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|99の謎|1993|p=28-30}}{{R|UPM vol.104|HISTORICA24}}}}{{efn|name="大仮面"|「超獣」や「四次元」などの要素は、市川が前年に手がけた『[[シルバー仮面]]』の初期プロット『大仮面』でも用いられていた<ref>DVD『[[シルバー仮面]]フォトニクル2』 2015年12月18日発売 発売元-[[デジタルウルトラシリーズ|デジタルウルトラプロジェクト]] DUPJ-137 pp.86-87 「プロット『大仮面』」</ref>。}}。 そして、『ウルトラファイター』の名で正式な企画書が作成され、大人方向の設定の内容をさらに推敲して円谷プロとTBSの連名で『特撮超獣シリーズ ウルトラA』という企画書が作られた{{R|UPM vol.104|HISTORICA24}}。 異次元人[[ヤプール人|ヤプール]]が送り込んでくる超獣や宇宙人から地球を守るため、銀河連邦によって地球人の男女2人にウルトラマンAとしての能力が与えられ、主人公たちは危機に際して男女合体でAに変身する。男女の合体によるヒーローの誕生は、性差を越えた完全な超人の誕生という理念を元にした設定だった{{R|白書86}}。これらの新設定は、『仮面ライダー』などのヒーロー番組が相次いで制作される中、他の番組との差別化を図る必要があったために試みられた。第1話でエース本人が語った'''銀河連邦'''とは、円谷プロが制作していた『[[ミラーマン]]』など他のヒーロー番組を1つの世界観でまとめるために構想されたが、明確には打ち出されなかった{{R|特撮全史}}。 また、『仮面ライダー』との差別化が図られる一方、逆に同作品と同様のプロットが新機軸として導入されることにもなった。たとえば、ウルトラシリーズではヤプールのようなレギュラーの敵組織という試みは初めてのことだった{{efn|円谷作品としては、『ミラーマン』が先行している。}}。 === タイトル === {{external media|align=right|image1=[[:en:File:Ultraace-title.jpg|タイトルロゴ|英語版Wikipedia]]}} 当初のタイトルは『'''ウルトラA'''』と予定されていた{{efn|版権物や出版物{{Full|date=2016年9月}}でもこのタイトルで発表されていた。台本も第6話までが「ウルトラA」で印刷され、主題歌まで「ウルトラA」で収録されているが、『小学四年生』の表紙や付録などの1972年2月発売の学習雑誌の予告にはまだ「ウルトラA」の名前で紹介され続けていた{{R|UPM vol.104}}。}}が、玩具メーカーの[[マルサン商店|マルサン]]から『怪傑透明ウルトラエース』というSF玩具がすでに発売されていたことから、3月初旬に[[商標]]の問題を考慮して『'''ウルトラマンA'''』に改題された{{Refnest|group="出典"|<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20080308-marusan/5 マルサン創業85周年記念企画 - マルサンとソフビ、その歩みをたどる]</ref>{{R|UPM vol.104|HISTORICA24}}}}{{efn|放送当時から2014年12月現在まで「ウルトラエース」の商標を取得しているのは広島化成株式会社である(登録番号 第946999号、履物)。そのほか、三洋工業株式会社(第1162314号、屋上用換気扇)、桜護謨株式会社(第1833236号、ゴム製品など)の計3社が商標登録している。}}。 本作品以降、ウルトラヒーローは「ウルトラマン〜」というネーミングが主体となってイメージが定着した。このため、『[[ウルトラセブン]]』の名称が誤って「ウルトラ'''マン'''セブン」と呼ばれる事態にも繋がっている{{efn|中国ではこの名前で浸透している。}}。 === 超獣の概念 === それまでのウルトラシリーズは、宇宙人以外は怪獣が主な敵役だったのに対し、本作品に登場する敵は「超獣」{{efn|英語ではTerrible monster(テリブル·モンスター)<ref>ウルトラマン大百科 (ケイブンシャの大百科 26) P.197</ref>}}と呼ばれている{{efn|name="大仮面"}}。超獣が怪獣より強力であることを示すための演出として{{efn|一部書籍<ref>『ウルトラマン ビジュアルブック』 p.84</ref><ref>僕たちの好きなウルトラマン(別冊宝島) (714)p.60</ref>には「怪獣より数倍強いという超獣への進化が最大の特徴」。}}、第8話では超獣[[ドラゴリー#『ウルトラマンA』に登場するドラゴリー|ドラゴリー]]が前作『帰ってきたウルトラマン』にも登場した怪獣[[ムルチ#『ウルトラマンA』に登場するムルチ(二代目)|ムルチ(二代目)]]を惨殺する展開が織り込まれている。企画時の製作メモでは、子供たちに親しみのある生物をモチーフとしていることや、他作品の怪獣・宇宙人との区別が明確になる点などがメリットとして挙げられている{{R|白書86}}。 当初は、ヤプールが地球上の生物と宇宙怪獣を超獣製造機で融合させて生み出した合成生物兵器という位置付けだった。だが、第23話でヤプールが全滅{{efn|ヤプールの全滅はプロデューサー側による意向ではなく、第23話の脚本と監督を務めた真船禎が発案したもので、プロデューサー側は誰も反対しなかったという。}}して以降は、自然発生的に出現したり(例:ハンザギラン)、他の宇宙人の配下になっている(例:シグナリオン)など、ヤプールとの関係が不明な個体が登場するため、当初の定義に該当しない超獣も多くなっていった。ただ、設定上はAと戦って敗れた際に砕け散った巨大ヤプールの細胞が「復讐の怨念」<ref>Blu-ray『ウルトラマンA Blu-ray BOX』(バンダイビジュアル)封入の作品解説書P.8</ref>となり、動物や器物、果ては霊的な存在などさまざまな対象から超獣を生み出しているとされ、劇中ではヤプールが滅亡した後も製造済みの超獣は生き残っていることを暗示する台詞がある。ヤプールの残党は第52話まで断続的に登場し、超獣は次作『[[ウルトラマンタロウ]]』の第1話にて登場する{{efn|登場する超獣は超獣[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#オイル超獣 オイルドリンカー|オイルドリンカー]]。}}。この時は『ウルトラマンタロウ』の「怪獣より強い超獣より強い怪獣」の強さを演出するのに利用されている。 『[[ウルトラマンメビウス]]』に登場する超獣も、復活したヤプールの配下である。だが、『[[ウルトラマンダイナ]]』や映画『[[ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦]]』([[1999年]])、『[[電光超人グリッドマン]]』([[1993年]])に登場する「超獣」は本作品とは無関係の存在である。 === 合体変身と南夕子の降板 === 本作品で設定された男女合体変身は、それまでのヒーロー番組でほとんど例のない新機軸であり、メインライターの市川森一が原案で当初から設定していたことからも、本作品のテーマの軸をなす設定だったといえる。 物語前半はこの設定が生かされたエピソードが見られたものの、いくつかの要因で南夕子の設定を生かし切ることが難しくなってきた。「男女合体変身だとヒーローとして弱々しい」や「合体変身を子供がまねることが難しい{{R|白書88}}」などの番組の評判としての意見もさることながら、ストーリーを展開するうえで北斗と夕子のドラマをそれぞれ語る必要があるなど、脚本側の要求があったとも言われている{{efn|脚本家の一人である[[上原正三]]は、男女合体変身の設定はウルトラマンと主人公の関係を考える上で複雑化しており、息切れを感じたことを理由に第22話で降板した{{R|U168}}。}}。最終的に第28話で夕子は番組から降板することとなった{{efn|演じた星光子は後年、雑誌<ref>『ウルトラマンAGE』vol14 p.84</ref>のインタビューで「どうしても『南夕子』になりきれなかった」ことを理由に降板させてもらったと述懐している。しかし、星の公式サイトでは降板する気はまったくなく、台本を渡されるまで知らされていなかったと述懐している。}}{{efn|3クール以降の企画案には、変身の描写について夕子の降板を前提としていない記述も見られる{{Sfn|99の謎|1993|p=107}}。}}{{efn|北斗役の高峰は、[[2012年]][[4月]]のイベントでTAC隊員6名がステージ出演した際、「星の降板は伝えてあると思った」や「彼女への思いやりが足らなかった」と述懐している<ref>{{YouTube|U2rE61l9Nac|TAC隊員奇跡の大集結!ウルトラマンA 40周年記念@スーフェス(円谷公式チャンネル)}}</ref>。}}。 オープニングの歌詞には「北斗と南」というフレーズが含まれているが、夕子の降板後もそのまま用いられた。 === 設定の紆余曲折 === 番組開始に際して様々に盛り込まれた新機軸は作品の自由度を制限する面も多く、十二分に生かされたとは言えなかった。 当初はメインライターを市川が担当し、彼が提起した事象を田口と上原が整理したり、広げるという方向で進み始めるという、3人でのローテーション体制であったが、人間の描写に一貫性を確保することが難しく、ドラマツルギーのキモの部分も三人三様であり、さまざまな点で不統一な設定になってしまうこともあった。また、あくまでも市川が観念として捉えていたヤプールも、なかなかそのイメージが貫徹されていなかった{{R|UPM vol.104}}。そのため、市川は『シルバー仮面』で「ウルトラ」的な題材で戦い尽くした状態となり、内的終焉に至ったとして第14話を最後に第48話まで脚本を書かなくなった{{R|UPM vol.104}}。 第2クール終盤でヤプールが全滅した後に夕子も地球を去り、その後は地球人の少年・梅津ダンを'''ウルトラ6番目の弟'''として登場させ、北斗とダンの交流を軸に物語が展開されたが、梅津姉弟は第43話を最後に、特に説明もなく姿を消している{{efn|書籍『僕らのウルトラマンA(エース)』によれば、この時点で『ウルトラマンタロウ』の企画が開始されており、「ウルトラ6番目の弟」と名乗っていたダンとは都合が悪くなったために降板されたと推測している{{Sfn|僕らのA|2000|p=161}}。}}。 また、銀河連邦もドラマに登場することはなく、『[[トリプルファイター]]』の副主題歌やいくつかの商品展開に使用されたのみで終わった{{efn|映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』のセリフの中にも「銀河連邦」の名が出ているが、その実体は不明である。ただし、ウルトラシリーズのライブステージでは[[ミラーマン]]、[[ジャンボーグA]]、[[ファイヤーマン]]がゲスト出演してウルトラ戦士と共闘している。}}。 たび重なる路線変更は裏番組だった『[[変身忍者 嵐]]』との視聴率競争によるものとされており、『嵐』でも本作品を意識したテコ入れがたびたびあった{{Refnest|group="出典"|<ref>{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン|date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |page=119 |chapter=Column ヒーロー番組世紀末バトル |id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref><ref>{{Cite book |和書|date=1995-11-30|title=[[テレビマガジン]]特別編集 変身ヒーロー大全集|publisher=[[講談社]] |pages=143、146|isbn=4-06-178419-6 }}</ref>{{R|列伝}}}}。 === 評価 === 視聴率は平均視聴率18.6%と『帰ってきたウルトラマン』の22.7%より低下した。当時は、一般的に視聴率は15%以上が人気番組のボーダーラインであり、その意味では本作品も人気番組のボーダーライン以上の数字は維持していた。だが、『帰ってきたウルトラマン』が終盤に25%以上の視聴率を記録していたために周辺関係者の期待は大きく、本作品の視聴率はその期待に応えたとは言い難かった。ただし、個々のエピソードではシリーズ後半は20%台を多く弾き出している。 また、玩具的には『マルサン・ブルマァクの仕事』によると、[[ブルマァク]]から発売された本作品の超獣ソフトビニール人形の売上は、同社の『帰ってきたウルトラマン』の怪獣ソフトビニール人形の3分の1でかなりの不振だった。このため、ブルマァクは円谷プロとの商品化権取得の契約金7000万円を回収できなかった。本作品中盤から商品化される超獣はほとんどなくなり、この余波で『ウルトラマンタロウ』の怪獣に関する同社での商品展開はあまりされなかった。 == ウルトラマンA == {{キャラスペック |名称=ウルトラマンA |身長=40{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="A"|{{Sfn|完全超百科|2004|p=28}}{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=34|loc=「ウルトラマンエース」}}{{R|怪獣大全集|UPM vol.106|Z完全超全集83}}}} |体重=4万5,000{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|A}} |年齢=1万5千歳{{R|UPM vol.106}} |飛行速度=[[マッハ数|マッハ]]20{{R|UPM vol.106|Z完全超全集83}} |走行速度={{Plainlist| * 時速1,000{{nbsp}}[[キロメートル|km]]{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|必殺大百科|2000|p=22}}<ref>ウルトラマン大百科 (ケイブンシャの大百科 26) P.187</ref><ref>ウルトラマン怪獣大決戦公式宣伝書P.27</ref>}} * 時速580{{nbsp}}km{{R|UPM vol.106|Z完全超全集83}} }} |水中速度=220{{nbsp}}[[ノット|kt]]{{R|UPM vol.106|Z完全超全集83}} |地中速度=マッハ4{{Sfn|ナンバーワン超百科|2012|p=9}}{{R|Z完全超全集83}} |ジャンプ力=900{{nbsp}}m{{R|UPM vol.106|Z完全超全集83}} |腕力=14万{{nbsp}}tタンカーを持ち上げる }} * 戦力:兵力71,000人分、艦船190隻分、航空機750機分、[[第7艦隊 (アメリカ軍)|アメリカ第7艦隊]]と同等の戦力{{R|特撮全史}}を持つ。 * 趣味:作詩<ref> 株式会社雪書房 編「ウルトラの国ひみつ百科」 『ウルトラ怪獣全百科』小学館〈コロタン文庫30〉、1978年10月10日、332頁。</ref> * 職業:宇宙警備隊員。地球からの帰還後は、[[アンドロメダ銀河|アンドロメダ星雲]]方面の任務を経て支部長になる<ref>1970 - 1980年代の児童誌設定による{{Full|date=2016年9月}}。</ref>。 * 弱点:地中に潜れないこと、水中戦{{efn|前者は第5話の時点で、第28話では克服していた。後者は第35話のナレーションで「最も苦手とする」と言及され(下半身が浸かる程度なら戦える)、[[ウルトラマンAの登場怪獣#夢幻超獣 ドリームギラス|ドリームギラス]]との水中戦で苦戦していたところをゾフィーが湖の水を一時的に蒸発させたことで、危機を脱した。}}。 * 家族構成:両親の乗った宇宙船が怪獣軍団の襲撃で爆発したため孤児となり、[[ウルトラの父]]と[[ウルトラの母]]に育てられた。そのため、2人の実子である[[ウルトラマンタロウ]]と特に仲がいい{{efn|name="3nensei"|「ウルトラファミリーひみつ大かいぼう」、『小学三年生』1979年8月号、p.71{{Sfn|学年誌|2017|p=115}}}}。 ウルトラ戦士の中で多くの光線技と超能力を持ち、特に多様な光のカッターを使った切断技のバリエーションにかけては右に出る者はおらず、'''切断技のエース'''と呼ばれる所以である。胸にカラータイマー、額にウルトラスターの2つのエネルギー源があり、それまでのウルトラ戦士と比べて倍のエネルギーを使用できるためとされている{{efn|name="3nensei"}}{{R|UPM vol.106}}。 戦闘能力のポテンシャルはかなり高く<ref>『決定版 ウルトラマンシリーズFILE』p.100</ref>、敵が怪獣から超獣へ強さが数倍に強化されたのに合わせ、Aの戦闘能力も相当向上している{{R|僕たちの57}}。 また、セブンのアイスラッガーのような大きな突起を頭頂部に持つが、アイスラッガーが切れ込みが入っているのに対し、これは小さな穴があいている。'''ウルトラホール'''と呼称されるこの穴は、太陽エネルギーを吸収する、戦闘力強化(第8話、第14話など)、ウルトラサインの発生機能{{R|UPM vol.106}}、他のウルトラ戦士のエネルギーを吸収するなど、ウルトラマンタロウの'''ウルトラホーン'''と同様の機能を持つ。学年誌の解説においては、訓練次第でアイスラッガーのような白兵武装として使えるようになるとされており{{efn|name="3nensei"}}、[[蛭田充]]の漫画版では実際に第3話で頭頂部が伸びて超獣を串刺しにする「エースラッガー」という技を用い、[[ウルトラマンAの登場怪獣#殺し屋超獣 バラバ|バラバ]]を倒している。 掛け声はウルトラマンやウルトラマンジャックからの流用(声 - [[中曽根雅夫]])に加え、第3話からは[[納谷悟朗]]による固有の掛け声がたびたび用いられている。 北斗星司と南夕子の片方が重病や怪我で体力が弱まると、戦闘能力や防御力が低下する{{R|UPM vol.106}}。 戦闘では残虐にいたぶられるケースも多く、本放送当時におけるウルトラ兄弟の末弟として、しばしば救援を仰ぐ。両性具有的な設定もあわせ、神々しさ・力強さ・偉大さ・弱さ・未熟さ・若さといった相反する性格が混在する複雑なキャラクターでもある{{efn|漫画『[[ウルトラマン超闘士激伝]]』では、短気なキャラクターとして描かれている。}}。また、変身能力を授ける際に北斗と夕子をお前呼ばわりするなど、他人に対して大きな態度で接することもあった。しかし、倒した超獣の死骸を墓に埋葬したり持って帰ったり、あるいは戦闘中に特に理由もなく相撲の四股を踏むなど、特異な行動も見せる。 * デザインを担当した[[鈴木儀雄]]は、古代[[ローマ帝国]]の兵士をイメージしたという{{R|UPM vol.104|HISTORICA24}}。 * 第1話・第2話では、脱着が容易な上下で分割できるセパレートタイプのツーピーススーツを使用していたが、撮影中にホックが外れるなどの不具合が発生したため、第3話以降は役者の変更と同時に従来と同様の一体成型のウエットスーツを使用することとなった{{Refnest|group="出典"|<ref>『ファンタスティックコレクション No.10 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPARTII』([[朝日ソノラマ]]・1978年) p.22</ref><ref>『ウルトラマンオフィシャルデータファイル』19号([[デアゴスティーニ・ジャパン|デアゴスティーニ]]社) P.32</ref>{{R|白書86|UPM vol.106|HISTORICA24}}}}。第1話・第2話で使用されたスーツはアトラクション用として使用された後、[[ウルトラマンAの登場怪獣#宇宙超人 スチール星人|スチール星人]]に改造された<ref>『別冊てれびくん(1) ウルトラマン』(小学館・1978年)p.60。</ref>。また、撮影用のスーツは[[ウルトラマンAの登場怪獣#超人ロボット エースロボット|エースロボット]]に改造された。 * 関連書籍ではAが倒した怪獣(超獣)の数は53体と数えられており、他のウルトラ戦士の倒した怪獣の数を上回る<ref>講談社の書籍『ウルトラマンひみつ大百科』P.125</ref>{{Sfn|ナンバーワン超百科|2012|p=21}}。 === ウルトラリング === ウルトラマンAに変身するためのエネルギーを秘めたアイテム{{R|UPM vol.106}}である、アルファベットのAをあしらったデザインの指輪。Aの手から、北斗星司と南夕子それぞれに1つずつ与えられた。このリングは銀河連邦の一員の証とも言われている。 北斗と夕子はこの指輪を普段から右手中指にはめている。第28話で、夕子がルナチクスを打倒した後に自らのリングを北斗に託し、以降は北斗が両手の中指に1つずつはめている。 『大決戦!超ウルトラ8兄弟』では、別世界の北斗が自身をエースだと自覚した際に彼の両手中指に実体化した。 === 変身方法 === 第1話から第28話の前半までは、北斗と夕子それぞれのリングの上部に埋め込まれている宝石が変身を促すかのように光った時に、互いの名を呼び合って駆け寄り、リングをはめた右手を合わせる、もしくは握って「ウルトラタッチ!」と叫ぶと2人の間から眩い光が溢れ、Aに変身するというものだった。 劇中、ウルトラタッチそのもののバリエーションは複数披露され、北斗と夕子が空中でタッチするパターンがオーソドックスだが、第2話では両者がそれぞれTACのオートバイを運転しながら、乗車しているオートバイごと空中でタッチする「ライダータッチ」を敢行。他にも、第3話で見せた、脱出して空中にいるパートナーのもとへ飛んでタッチする「フライングタッチ」を見せたり、空中に高く飛ばず地上でタッチしたり、遠く離れた場所でもモニター越しにタッチしたり{{efn|第14話「銀河に散った5つの星」より。}}、何らかの理由で危機に陥っているパートナーの下へ駆けつけてタッチを行う変身など、多彩な変身バリエーションが見られた。 第29話以降や、他の作品に北斗が登場した際は、彼が一定の変身ポーズをとった後に胸の前で両手中指にはめたリングを合わせることで光が溢れ出し、Aに変身するというプロセスが基本パターンとなるが、北斗自身が戦闘で危機に瀕した際にすかさずリングを合わせて変身するパターンも多い{{efn|第41話以降は変身ポーズが省略されている。}}。また、リング上部の宝石が変身を促すかのように光らなくても変身可能で、北斗が単独変身するようになってからは、劇中でこの光は見られなくなった。同時に、「ウルトラタッチ」の発声も行われなくなった{{efn|ただし、わずかながら第38話・第39話・第44話では、北斗単独で「ウルトラタッチ!」と発声しながら変身している。}}。 === 能力 === ; メタリウム光線{{R|UPM vol.108|UPM vol.4021}} : Aの最も得意とする必殺光線{{R|超技38}}。両腕をL字型に組んだ右腕から発射される。直前に両腕を伸ばしつつ上半身を大きく左後方にひねって大きく腕を振りかぶり、右腕を立ててその下に左腕を組む{{R|必殺技SG22}}{{efn|映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』では逆に右後方に上半身をひねっている。}}{{efn|この姿勢でエネルギーを蓄積し、光線の威力を強化されている<ref>『ウルトラの常識 ウルトラ六兄弟編』p.26</ref>{{R|UPM vol.108}}。}}。発射ポーズは[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]のワイドショットと同じで、威力はそれを上回るとされる<ref>『決定版 ウルトラ兄弟』p.90</ref>。決め手として多く使われていたが、避けられたり効かなかったことも何度かあった。第14話ではエースロボットも使用したが、エースキラーには通じなかった。 : 第38話・第50話では腕を下で交差させて上へ広げる動作を加えている{{efn|第38話では腕を広げる動作のみ。}}。 : 『[[ウルトラマンメビウス]]』でもルナチクスを倒しているほか、他の兄弟の光線技と協力し、[[エンペラ星人]]の力で太陽を覆い尽くしていた黒点を消滅させた。『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』でも使用され、強化型のメビウスキラーを破壊した。 : 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』でプラズマスパークを守るためにジャックや80と共にウルトラマンベリアルと戦った際、ジャックのスペシウム光線、80のサクシウム光線とを放って融合させ、ウルトラマンベリアルを攻撃した。映画『[[ウルトラマンサーガ]]』でも使用され、バット星人の作り出した怪獣兵器ベロクロンを倒した。 : 『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!#ウルトラファイトビクトリー|ウルトラファイトビクトリー]]』でもビクトリーキラーのM87光線と互角の威力を見せ、スーパーグランドキング・スペクターにはウルトラマンギンガやレオ兄弟ともに合体光線として放ち、撃破に成功している。 :* 「メタリウム」は当時の[[小学館]]学習雑誌の編集者によるネーミングで、[[変身 (ヒーロー)|変身]]を意味する「メタモルフォーゼ」を「スペシウム」「エメリウム」準拠の語感にアレンジした造語<ref>DVDフォトブック『ウルトラマンA 1972』(ジェネオンエンタテインメント、2007年1月)</ref>。『[[ゴジラ]]』シリーズなどを手がけていた東宝映像の合成技師[[宮西武史]]によって、赤、青、黄色の輝きを持つ[[光学合成]]で描かれた。 ; スペースQ{{R|UPM vol.1011}} : ウルトラ4兄弟のエネルギーを借りて頭頂部に集め、エネルギー光球と化して両手投げの要領で敵に放つ必殺技。Aが放つ光線技の中で最強の威力を誇る{{R|僕らのA94}}。第14話でメタリウム光線の効かない[[エースキラー (ウルトラ怪獣)|エースキラー]]を撃破した。 : 裏設定では、A単独での使用も可能である{{R|ENCYCLOPEDIA OF ULTRAMAN}}<ref>『ウルトラマンA』LD VOL.13解説書 P.6</ref>{{efn|『ウルトラマンA』のDVD特典「明日のエースは君だ!」の脚本(決定稿)には、ジャンボキングを倒した技は「ウルトラギロチンとスペースQの連続技」とする記述がある。}}。[[内山まもる]]の漫画版(『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』に収録)ではこちらの設定が採用されており、タロウのストリウム光線やウルトラ戦士たちが斉射したスペシウム光線すら無傷で受け止めるアサシン星人に、脳震盪を起こさせている。 : 『ウルトラ6兄弟 THE LIVE in 博品館劇場 -ゾフィー編』でも単独使用され、他のウルトラ戦士の必殺光線と一斉発射し、エンペラ星人の怪獣軍団を消滅させた。『[[ウルトラマンZ]]』第19話にて、スペースQのエネルギーをゼットに与え、バラバにスペースZという技を放った{{R|Z完全超全集83}}。 :* 「Q」は五重奏を意味する[[クインテット]](quintet)の頭文字である<ref>「DVDウルトラマンA」 VOL.4 特典 小冊子セット</ref>。脚本段階では、Aの新たなアイテムとして頭部に光の球体が装着されるイメージだったが{{R|ENCYCLOPEDIA OF ULTRAMAN}}、完成作品では一度きりの技として処理されている。 ; パンチレーザー{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技39|Z完全超全集83|UPM vol.108|UPM vol.4021}}}} : 額のウルトラスターから放射される、敵を怯ませる程度の威力があるレーザー光線。第1話では[[ベロクロン]]の口に当てて、ミサイルと火炎能力を喪失させた。断続的に発射するタイプもあり、こちらは[[ウルトラマンAの登場怪獣#黒雲超獣 レッドジャック|レッドジャック]]にダメージを与えたが、[[ウルトラマンAの登場怪獣#吹雪超獣 フブギララ|フブギララ]]には効かなかった。ウルトラセブンのエメリウム光線と同等かそれ以上の威力とされる{{Sfn|必殺大百科|2000|p=93}}。 : 『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』でも使用、宿敵ヤプールの乗り移ったメビウスキラーGにダメージを与えた。『[[ウルトラ銀河伝説外伝 ウルトラマンゼロVSダークロプスゼロ]]』ではロボット超人 ニセウルトラマンエース(SR)も使用し、ウルトラマンゼロにダメージを与えた。『ウルトラファイトビクトリー』では、超獣軍団への牽制として前者のタイプが使用された。 :; パンチレーザースペシャル{{R|超技42|UPM vol.108}} :: パンチレーザーの強化版で、両手を広げて発生させたレーザーエネルギー{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}を手先に集中し、3本の赤色光線にして放つ。DVD『ウルトラ必殺技大百科』では「威力はメタリウム光線よりも強い」と解説されている。第9話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#忍者超獣 ガマス|ガマス]]を倒した。 ; ウルトラギロチン{{R|超技44|UPM vol.108}} : 「ウルトラギロチン」と叫んでから、広げた両手の間に頭部のエネルギーホールから発生させたエネルギーをノコギリ状の刃が付いた光輪を丸めて作り出して放つ{{R|必殺技SG235}}。光輪は途中で3つに分裂して、敵を切り裂く。ウルトラスラッシュよりも数倍の威力を持つ{{R|超技44}}。エネルギーを大量消費するために使用にはウルトラの星からの許可が必要。第6話では、メタリウム光線を避けた[[ウルトラマンAの登場怪獣#変身超獣 ブロッケン|ブロッケン]]に対し{{efn|資料によっては「ブロッケンの体にはメタリウム光線では効かないだろう」と記述している{{Sfn|画报 上卷|2002|p=128}}。}}、ウルトラ4兄弟からのウルトラサイン「'''立て!撃て!斬れ!'''」{{efn|ウルトラ兄弟の光線技(ジャックはウルトラブレスレット)のポーズを取るシーンは第1話の流用。}}を受け使用し、撃破した。このエネルギーは様々な形に変形可能。 : 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』でも使用、1本1本が強力な超獣数体分の力を持つUキラーザウルス・ネオの触手を切り裂いた。『ウルトラファイトビクトリー』でも使用されビクトリーキラーにダメージを与えた。テレビ版では3発だった分裂数が近年では7 - 8発に増えており、いずれの場合も単独で使用している。 :* 名前の由来は斬首死刑の「[[ギロチン]]」から来ており、文字通り相手の首を切断する目的のカッター光線である。 :; ギロチン・ショット{{R|超技45|UPM vol.108}} :: Aが単独で放てる最強の技{{Refnest|group="出典"|<ref>『最強ウルトラ怪獣决定戦』p.71</ref><ref>『決定版 ウルトラマンA 超百科』p.15。</ref>{{R|僕らのA94}}}}。ウルトラギロチンのパワーアップ版で、別名:スペースギロチン<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』No.52 P.2</ref>。ウルトラギロチンのエネルギー{{R|超技45}}をスペースQの応用で凝縮して放つ<ref>僕たちの好きなウルトラマン ウルトラ8大戦士編(別冊宝島)p.54</ref>{{efn|書籍『ウルトラ戦士大集合!! ヒーロースペシャル(14) ケイブンシャの大百科別冊』p.175では「スペースQのエネルギーとウルトラギロチンのエネルギーを合わせた」と記述している}}最強のカッター技。通常のウルトラギロチンを大幅に超える破壊力を持つ。最終話でメタリウム光線に耐えた[[ウルトラマンAの登場怪獣#最強超獣 ジャンボキング|ジャンボキング]]の首を切断して倒した。 :: 『ウルトラマンフェスティバル2004』でも使い、メタリウム光線の通じないヒッポリト星人を倒している。 :: 漫画作品『ウルトラマンSTORY 0』では、ゾフィーの力を借りて、バルタン星人の宇宙船を破壊した<ref>『月刊マガジンZ』(2006年4月号)で掲載の『ウルトラマンSTORY 0』(第九話)の p.28 - 33</ref>。 ; バーチカルギロチン{{Refnest|group="出典"|name="guillotine"|{{R|超技44|Z完全超全集83|UPM vol.108|UPM vol.4021}}}} : 胸の前で組んだ両手を上下に素早く開いて右手刀と左手刀の間に大きな三日月型の切断力場{{R|必殺技SG235}}を形成し、敵に発射して真っ二つにする。[[メトロン星人|メトロン星人Jr.]]、[[ウルトラマンAの登場怪獣#河童超獣 キングカッパー|キングカッパー]]、[[ウルトラマンAの登場怪獣#気球船超獣 バッドバアロン|バッドバアロン]]、フブギララを倒した。第8話のメトロン星人Jr.戦のナレーションではこの技が「ウルトラギロチン」と呼称され、同時に「エネルギーの消耗が激しい」という解説もされている。第43話では青いタイプを使用した{{R|超技44}}。 : 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』でも使い、ギガキマイラのキングゴルドラスの頭の角を斬った。『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』でも[[ウルトラマンベリアル]]を攻撃する際に使ったが、この時は避けられてしまった。『ウルトラファイトビクトリー』では、ベロクロンを撃破する活躍を見せるもスーパーグランドキング・スペクターには破られてしまった。 : 『ウルトラマンSTORY 0』では、強化版の'''バーチカルギロチン・ウルティマ'''で惑星ギガントに向けて放たれた宇宙戦艦アイアンロックスのゴルドニウム砲を切り裂き、惑星を救った。 :* {{独自研究範囲|「vertical(バーチカル)」とは「縦(たて)」の意で首の切断を目的とした「ウルトラギロチン」に対し、相手を縦に真っ二つに切断するのが、この技の特徴である。|date=2022年7月}} :; ホリゾンタルギロチン{{R|超技45|UPM vol.108}} :: バーチカルギロチンの変形技{{R|超技45}}。三日月型の切断力場を垂直ではなく水平に形成したもの。第33話でバッドバアロンの首を切断した。「horizontal(ホリゾンタル)」とは「水平の、横向きの」という意。 ; サーキュラーギロチン{{R|group="出典"|guillotine}} : 別名:サーキュラーナイフ{{R|超技45}}。両手を振って十字を描き、三日月型の切断力場を2つ重ねて形成する十字型ギロチン{{R|必殺技SG235}}。第12話で使用し、[[サボテンダー (ウルトラ怪獣)|サボテンダー]]を四分割にした。 : 『ウルトラマンZ』では、バラバの攻撃からゼットを守るために使用している。 ; マルチ・ギロチン{{R|超技45|UPM vol.108}} : 別名:ギロチンナイフ{{R|超技45}}。頭部と両手先、みぞおちのあたりから小型で十字型の光のナイフを計4本放つ。第11話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#くの一超獣 ユニタング|ユニタング]]をバラバラにしたが、倒すまでには至らず再生されてしまった。 ; ウルトラスラッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技40|UPM vol.108}}}} : ウルトラマンの八つ裂き光輪と似ている切断技。設定によればメタリウムエネルギーを凝縮してフリスビー状の光刃にして敵に放つ<ref>[[講談社]]の『決定版 ウルトラマンA 超百科』p.14。</ref>{{R|超技40}}。資料によっては、ウルトラマンのものと同等の威力を持つ{{R|超技40}}<ref>CD-ROMソフト『ウルトラマン図鑑2』(講談社・1997年)『ウルトラマンA』「基本設定・光線能力」の「ウルトラスラッシュ」解説文p.1.</ref>とされ、またスペシウム光線の5 - 6倍の威力を持つと記載している<ref>僕たちの好きなウルトラマン ウルトラ8大戦士編(別冊宝島2008)・初代篇p.20</ref>。第3話で[[バキシム]]の首を切断して倒した。 : 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀]]』で初代ウルトラマンが使用したような手持ち武器の形で使用。 : 内山まもるの漫画版ではガマスを撃退しており、作中では「八つ裂き光輪」と呼称されている。 ; タイマーショット{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技38|Z完全超全集83|UPM vol.108|UPM vol.4021}}}} : 腕を胸の前で交差後、左右に開き、露わになったカラータイマーから虹色の太陽エネルギーを発射する破壊光線。第4話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#怪魚超獣 ガラン|ガラン]]の腕を焼き切った赤い光線と、第25話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#古代超獣 スフィンクス|スフィンクス]]の胴体を爆砕した虹色の光線がある{{R|超技38}}。資料によっては、虹色のほうがエネルギーの消耗が激しいと解説している{{R|僕たちの57}}。 : 『ウルトラマンZ』では、バラバの牽制として虹色のタイプが使用された。 ; アロー光線{{R|超技42|UPM vol.108}} : 前で両手を合わせて、命中とともに爆発する高熱を帯びた{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}くさび型光弾を連射する。色は赤、白、青の3種類で、主に牽制に使う。キングカッパー、[[ヒッポリト星人]]、[[ウルトラマンAの登場怪獣#騒音超獣 サウンドギラー|サウンドギラー]]、フブギララに使用。また、当たると電撃になってダメージを与える光輪タイプ{{R|超技42}}もあり、これは第34話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#虹超獣 カイテイガガン|カイテイガガン]]に使っている。 : 『ウルトラマンZ』では、バラバ戦で使用した。 ; スラッシュ光線{{Refnest|group="出典"|{{R|超技38|Z完全超全集83|UPM vol.108|UPM vol.4021}}}} : 右手先から放つ矢尻型の単発の手裏剣状のカッター光線{{R|画報上}}。第3話でバキシムの角ミサイルを破壊した。 : 『ウルトラマンZ』ではウルトラネオバリヤーと組み合わせて連射してバラバを牽制した。 ; スター光線{{R|超技39|UPM vol.108}} : 両手先の間から星型手裏剣状光弾{{R|必殺技SG235}}を連射して超獣の体に突き刺して爆発させる。別名:スターショット{{Sfn|白書|1982|pp=69}}。第37話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#鈍足超獣 マッハレス|マッハレス]]にダメージを与えた。牽制技であり、威力もあまり高くはない。 : [[NINTENDO64]]ソフト『[[PDウルトラマンバトルコレクション64]]』では、メタリウム光線以上の威力を持つ技として使用可能。 ; エネルギー光球{{R|超技39|UPM vol.108}} : 頭上に掲げた両手の間に発生させた破壊エネルギー{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}を丸め、赤い光球状にして投げつける。当たると爆発する。第10話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#犀超獣 ザイゴン|ザイゴン]]にダメージを与え、動きを止めた。 ; ダブルビーム{{R|超技41|UPM vol.108}} : 右腕を上に、左腕を前に伸ばし、両手先からそれぞれ白色光線を放ち、一点を狙う。第12話で首に巻きついたサボテンダーの舌を焼き切った。 ; ドリル光線{{R|超技41|UPM vol.108}} : 重ねた両手にドリルのように渦を巻いた光線を発射する{{R|超技41}}。第15話でAに巻きついて締め上げようとした[[ウルトラマンAの登場怪獣#大蟹超獣 キングクラブ|キングクラブ]]の尻尾をバラバラにした。 ; ストレート光線{{R|超技41|UPM vol.108}} : 両手を広げ、両手先から一点を狙って断続的に放つ強力なエネルギー光弾。第23話で[[ヤプール人#異次元超人 巨大ヤプール|巨大ヤプール]]に使用。 ; ムーン光線{{R|超技41|UPM vol.108}} : 右手から三日月型光弾を連射する。第23話で巨大ヤプールに使ったが、弾かれた。 ; ブルーレーザー{{R|超技43|UPM vol.108}} : 交差させた両腕を伸ばして放つ青色熱光線。第42話では雪山の頂に放ち、雪崩を起こして[[ウルトラマンAの登場怪獣#氷超獣 アイスロン|アイスロン]]の死体を埋めた。 ; シューティングビーム{{R|超技43|UPM vol.108}} : 両掌を合わせて連射する青い破壊エネルギー波。第38話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#雪超獣 スノーギラン|スノーギラン]]に使ったが、効かなかった。 ; ハンディシュート{{R|超技44|UPM vol.108}} : 両手先から断続的に発射する弓矢型光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}。第40話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#宇宙超人 スチール星人|スチール星人]]に使用。 ; ダイヤ光線{{R|超技46|UPM vol.108}} : 両手先を合わせて放つ菱形のエネルギー光弾。別名:カッタービーム<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』No.43 p.3</ref>。第19話では[[ウルトラマンAの登場怪獣#大鳩超獣 ブラックピジョン|ブラックピジョン]]を倒し、第37話ではマッハレスにダメージを与えた<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』No.43 p.3</ref>。 ; ハンドビーム{{R|超技39|UPM vol.108}} : ジャンプして両手をそろえて上空から放つ青い爆発光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}。第29話では[[ウルトラマンAの登場怪獣#地底超人 アングラモン|アングラモン]]の弱点の胸を撃って倒した。地上でビームを断続的に発射するタイプもあり、こちらは[[ウルトラマンAの登場怪獣#バク超獣 バクタリ|バクタリ]]にダメージを与えた。 ; グリップビーム{{R|超技40|UPM vol.108}} : 右拳から放つ破壊光線。第29話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#邪神超獣 カイマンダ|カイマンダ]]を倒した。 ; アタックビーム{{R|超技42|UPM vol.108}} : 両手先の間から放つ超高熱{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}の赤色熱光線。第15話でキングクラブを爆砕した。 ; エネルギー光線{{R|超技44|UPM vol.108}} : 両手間に発生させたエネルギーを凝縮し、断続的に放つ。第46話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#タイム超獣 ダイダラホーシ|ダイダラホーシ]]を倒した。 ; タイマーボルト{{R|超技54|UPM vol.108}} : カラータイマーから空に電撃エネルギーを放射し、敵に稲妻{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}を落とす。別名:ウルトラサンダー{{R|超技54}}。第22話では、[[ウルトラマンAの登場怪獣#凶悪超獣 ブラックサタン|ブラックサタン]]に石油を浴びせた後、この技で炎上させた。 : [[内山まもる]]の漫画『かがやけ ウルトラの星』でも使用され、空中の怪獣軍団を一網打尽にしている。 ; フラッシュハンド{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技43|UPM vol.109}}}} : 体内のエネルギーで白熱化した両腕{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}で、手刀やパンチを叩き込む。第32話の[[ウルトラマンAの登場怪獣#超獣人間 コオクス|コオクス]]戦では、指先から放たれるマヒ効果の光を退けるために両腕の高熱エネルギーをそれぞれ別の回転のこぎり状にして撃ち込むギロチン型タイプ{{R|超技43}}(ギロチンタイプ{{R|UPM vol.109}})を使用し、敵の両腕を切断した。 : また、体内の高熱エネルギーを高熱火炎に変えて放射する'''エースファイヤー'''{{R|超技43|UPM vol.108}}という技もあり、スフィンクスにダメージを与えた。 ; 透視光線{{R|超技46}}(透視能力{{R|UPM vol.109}}) : 両目から放射する光線。濃煙や隕石内、岩陰などに隠れた敵を発見する。第28話で火山の煙に隠れた[[ルナチクス]]を発見した。 ; メディカルレイ{{R|超技46|UPM vol.109}} : 両目から放つ治療光線。第44話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#鬼超獣 オニデビル|オニデビル]]の赤い豆の毒にやられた人々の体内から豆を取り出して回復させた。 ; ウルトラシャワー{{R|超技54|UPM vol.109}} : 両手を合わせて噴射する溶解液。第11話では再生能力により切断技が効かないユニタングにとどめを刺した。 ; 実体化ガス{{R|超技55|UPM vol.109}} : 両手を合わせて特殊なガスを噴射して超獣の幻影を打ち破り、実体を探す。[[ウルトラマンAの登場怪獣#天女超獣 アプラサール|アプラサール]]に使用。 ; 消火フォッグ{{R|超技55|UPM vol.109}} : 指先から強力な霧状の消火液{{R|必殺技SG235}}を噴射する。第10・15話で火災を消し止め、第41話ではカイマンダの後光輪の炎を消火した。 ; セット光線{{R|超技46|UPM vol.109}} : 第16話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#牛神超獣 カウラ|カウラ]]に鼻輪をかけ、大人しくさせた特殊な光線。 ; ボディスパーク{{R|超技54|UPM vol.109}} : 体内のエネルギーを解放して全身から発する超高熱{{R|必殺技SG235}}。第11話では体に巻きついたユニタングの糸を焼き切り、第43話ではフブギララの冷凍ガスで凍りついた体の氷塊を溶かした。 ; エースバキューム{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技52|UPM vol.109}}}} : 万歳したあと、両手を水平にして前につきだして重ね、両手から青い光線を放つ。この光線は渦巻き、そこにある毒ガスや水流をAの両掌に吸収する効果がある。ガランの吐くガスや、キングカッパーの頭の皿の水を奪った。 ; ドライスパーク{{R|超技54|UPM vol.109}} : 右腕を頭上に掲げ、2本指から高熱の光を放射する。第19話では、キングカッパーの皿の水を奪ったあとで、全身を乾燥させるのに利用した。 ; エーススパーク{{R|超技40|UPM vol.109}} : 両腕を頭上で交差させたあと、下へ振り戻してへそのあたりから矢尻型の光弾を放つ。第3話でバキシムの動きを止めた。 ; ストップフラッシュ{{R|超技40|UPM vol.109}} : 腕を胸の前で交差させて放射する活動停止光線。第11話でユニタングの動きを止めた。 ; サークルバリヤー{{R|超技53|UPM vol.109}} : 両手から防御エネルギーで発生させる円形の光の壁。第22話でブラックサタンの光線を跳ね返した。 ; ウルトラネオバリヤー{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技53|Z完全超全集83|UPM vol.109|UPM vol.4021}}}} : 大きく開いた両手で体の前面に発生させる長方形の光のバリア。バリアを構えたままの移動も可能。第3話でバキシムの火炎を防いだ。『ウルトラファイトビクトリー』でもビクトリーキラーのキングジョーランチャーを防いでいる。 ; エースバリヤー{{R|超技52|UPM vol.109}} : 高速回転するAの体から発せられるエネルギーによって大気の裂け目を作り出し、一時的に敵を封じ込める決死の技。一度に複数の敵を封印できるが、短時間でエネルギーの半分を急激に消費し、その反動で南夕子の体力に大きな負担をかける。効力は1日間。第7話でドラゴリーを、第8話ではドラゴリーとメトロン星人Jr.の2体を封印した。 ; エースバリヤー{{R|超技53|UPM vol.109}} : 上記とは別の技。両腕を体の前に突き出し、敵の光線を無効化する。巨大ヤプールの光線を防いだ。 ; エースバリヤー(太陽光遮断能力){{R|超技53|UPM vol.109}}(エースバリア{{R|必殺技SG235}}) : 太陽光線で超獣化した[[ウルトラマンAの登場怪獣#液汁超獣 ハンザギラン|ハンザギラン]]をエネルギーの膜で包み込み、太陽光線を遮断して元のサンショウウオに戻した。 ; 異次元エネルギー遮断能力{{R|超技46|UPM vol.109}} : 第21話で天女アプラサを超獣化させていた異次元エネルギーを遮断する能力{{R|超技46}}。 ; ウルトラナイフ{{R|超技49|UPM vol.109}} : 「ウルトラナイフ」と発声しながら走り寄って敵を切り裂く強力な手刀。ザイゴンの首を切断した。 ; エースブレード{{Refnest|group="出典"|{{R|超技49|Z完全超全集83|UPM vol.109|UPM vol.4021}}}} : 胸の前で腕を組み、右手から取り出すようにウルトラ念力で実体化させる鋭い刀剣状のエネルギー{{R|超技49|必殺技SG235}}。ドラゴリーとスフィンクスの首を切断した。 ; エースキック{{R|UPM vol.109}} : 敵の腹部や頭部に炸裂させる空中キック。 ; カンガルーキック{{R|UPM vol.109}} : 敵の眼前で逆立ちをし、素早く弱点にバックキックを打ち込む。 ; スピンキック{{R|UPM vol.109}} : 空中で連続回転してキック力を強化し、急降下しながら蹴りを喰らわせる。 ; ひざ蹴り{{R|UPM vol.109}} : 敵の頭部を掴んで、頑丈な膝を打ちつける。 ; 電撃キック{{Sfn|超技全書|1990|p=47|loc=「蹴り技」}}{{R|UPM vol.109}} : 左足に高電圧エネルギーを帯びさせ{{Sfn|完全超百科|2004|p=30}}、敵の頭を掴んで左足で蹴りこんで電撃を食らわす。第49話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#水瓶超獣 アクエリウス|アクエリウス]]を倒した。 ; ウルトラパンチ{{R|超技50|UPM vol.109}} : 強烈な右ストレートパンチ。ドラゴリーの体を貫通するほどの威力を持つ。 ; ウルトラアタック{{R|超技51|UPM vol.109}} : 敵の目の前でジャンプし、そのまま突進して地面へ一気に押し倒す技。 ; エースリフター{{R|超技48|UPM vol.109}} : 強力な投げ技。頭上まで敵を担ぎ上げ、上に放り投げてから落下してくるところを受け止め、回転してから再度放り投げる。[[ルナチクス]]を火山に放り込み焼死させた他、[[ウルトラマンAの登場怪獣#地底超獣 ギタギタンガ|ギタギタンガ]]とオニデビルを倒した。バクタリを宇宙に投げ飛ばした。 ; ウルトラスウィング{{R|超技48|UPM vol.109}} : 敵の足を掴んで振り回した後、空中高く投げ飛ばす技。サボテンダーやコオクスなどに使用した。 ; 空中回転落とし{{R|超技50|UPM vol.109}} : 敵を抱えたまま空中で高速回転し、一気に放り投げる技。 ; 回転足投げ{{R|超技50|UPM vol.109}} : 両脚で敵の首を挟み、体を捻った勢いで地面に引き倒す技。 ; 背負い投げ{{R|UPM vol.109}} : 肩で敵の巨体を担いで、一気に前方へ投げ落としてパワーダウンさせる。 ; えび固め{{R|UPM vol.109}} : 地面に倒れた敵の背中に馬乗りになり、背骨を怪力で折り曲げる。 ; 巴投げ{{R|UPM vol.109}} : 敵の体を掴んだ状態で体を回転させ、足で腹部を蹴り上げて投げ飛ばす。 ; 首投げ{{R|UPM vol.109}} : 敵の首を締めつけて大幅に戦闘力を低下させ、素早く投げる。 ; エースドリル{{R|超技55|UPM vol.106}} : 全身を高速スピンさせ、ドリルのように地底を掘り進む技。第28話で使用している。 ; 流れ斬り戦法{{R|超技51|UPM vol.109}} : 大木を引き抜き、ウルトラ念力で強化して剣のように使う。第46話でダイダラホーシにダメージを与えた。他にも、第39話では[[ウルトラマンAの登場怪獣#火炎人 ファイヤー星人|ファイヤー星人]]戦では、炎の剣に対して近くにあった鉄塔を折って対抗した。 ; 武器返し戦法{{R|超技55}} : 敵の武器を奪い取り、返り討ちにする戦法{{R|超技55}}。第9話でガマスのミサイルを白刃取りで受け止めて投げ返した'''ミサイル返し'''{{R|超技55|UPM vol.109}}、ガマスの短槍を奪って突き刺す'''ガマスヤリ返し'''{{R|超技55}}('''ガマス槍返し'''{{R|UPM vol.109}})、第14話でバラバの頭部の剣を奪って胸に突き立てる'''バラバ剣返し'''{{R|超技55|UPM vol.109}}、第39話でファイヤーモンスの火炎剣を奪って斬りつける'''火炎剣返し'''{{R|超技55|UPM vol.109}}などがある。 ; ダブル攻撃{{Sfn|超技全書|1990|p=95|loc=「ゾフィー 全技」}}{{R|必殺技SG235}} : アリブンタとギロン人を倒すために繰り出した、ゾフィーとの共闘技。ギロン人を抱えたAと、アリブンタを抱えたゾフィーが猛スピードで駆け寄り、敵の頭をぶつけ合うことで2体を絶命させた。 ; {{Anchors|ウルトラサイン}}ウルトラサイン<!-- 他記事からのリンク用アンカーにつき、外さないで下さい。 --> : 宇宙空間に光のサインを打ち出し、ウルトラ兄弟と連絡を取る。別名:ウルトラシグナル。M78星雲のウルトラ戦士は全員とも使えるが、ヤプールが偽のウルトラサインでウルトラ兄弟を罠にはめたこともある。『ウルトラマンタロウ』に登場した[[タイラント (ウルトラ怪獣)|タイラント]]は、これを打ち消す光線を放つ。地球人にはサイン自体が不可視ということもあり、読むことはできない。 : Aが最初に使った本作品では、ウルトラサインに使われる文字(通称:ウルトラ文字)を用いた各ウルトラ戦士の名前の表記も設定され、ゴルゴダ星で4兄弟を磔にした十字架などに登場した。本作品以後の作品でも、設定上の接点のない者を含めた大半のウルトラ戦士にウルトラ文字での名前表記が設定されているが、これは演出面よりアトラクションショーなどの営業面への配慮によるものである。 ==== 他作品への出演時に見せる能力 ==== {{Main2|超ウルトラ8兄弟での合体技|大決戦!超ウルトラ8兄弟}} ; ウルトラチャージ{{R|UPM vol.1011}} : Aにウルトラ4兄弟が自らの活動エネルギーをチャージする際に使用した技。 ; 金縛り光線{{R|超技98}} : 『ウルトラマンタロウ』にゲスト出演した際、[[テンペラー星人]]に使った技。[[ウルトラマン|初代ウルトラマン]]とAが両腕をL字型にかまえて帯状の光線を同時に放ち、テンペラー星人を縛りつけた。 ; 必殺光線一斉発射{{R|超技97}}(グランドスパーク<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILENo.87』P.1</ref>) : ウルトラ兄弟が必殺光線を同時に放つ技。 : 『ウルトラマンタロウ』第34話では、ゾフィー、ウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンジャックらの光線とともにメタリウム光線を放ち{{R|超技97}}、テンペラー星人の宇宙船に向かって、それぞれが必殺光線を一斉に発射することで大爆発させた。 : 映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』では、ゾフィー、セブン、ジャック、タロウらの光線とともにメタリウム光線を放ち{{R|超技97}}、ゴモラを攻撃した。 : 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』では、マン・ジャック・エースとの合同で使用。月面でのUキラーザウルスとの戦いでは、一点に集中することで威力を増している{{R|M兄弟超全集}}。 : 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』ではデルストの大群を倒した{{Sfn|ゼロTHE MOVIE超全集|2011|pp=46-47}}。 ; 5兄弟リフター{{R|超技98}} : 『ウルトラマンタロウ』第34話にゲスト出演した際に、ウルトラ5兄弟がテンペラー星人を空中に放り投げる際に使用する技{{R|超技98}}。5兄弟で相手を持ち上げ、回転しながら空中に放り投げる。 ; 3戦士トリプル光線{{R|超技98}} : 『[[ウルトラマンレオ]]』にゲスト出演した際に使用した技。ウルトラキーを盗んだにせアストラをババルウ星人とは知らずに庇うレオに対し、ウルトラマンやジャックとともに放った光線。全員が両腕L字型組み、右腕から発射した。 ; スペシウム光線<ref>ウルトラ怪獣大映像図解·ウルトラマン篇{{Full|date=2020年5月}}</ref> : 映画『新世紀ウルトラマン伝説』で暗黒妖鬼 天空魔に使っている。 ; ダブル光線 : 宇宙空間で逃亡するUキラーザウルスに放った合体光線。メタリウム光線と、ジャックのスペシウム光線をひとつにしたうえでUキラーザウルスに命中させ、地球へ落下させた。映画『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』で使用。 ; ファイナル・クロスシールド{{R|M兄弟超全集}} : 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』でウルトラマン、セブン、ジャックと共にUキラーザウルスを封印した大技。 ; エネルギー照射{{R|M兄弟超全集}} : ガッツ星人によって十字架に閉じ込められたウルトラマンメビウスを救出する際に使用した合体光線。A、ウルトラマン、セブン、ジャックが赤色の光線を放って十字架を破壊し、メビウスを解放した。『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』で使用。 ; ウルトラパリフィー{{R|超8超全集}} : スーパーヒッポリト星人によってブロンズ像にされたメビウスを救出する際に使用した光線。ウルトラマン、セブン、ジャックとともに、体の前方に突き出した右腕から放った光線をひとつにし、メビウスのカラータイマーに照射して復活させた。 ; 合体光線{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=35}} : 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』で使用。ジャックのスペシウム光線、80のサクシウム光線と同時にメタリウム光線を放つ。 ; 瞬間移動能力 : 『[[ウルトラマンメビウス]]』第44話にゲスト出演した際に、北斗星司がAに変身すると同時に、全身を白く発光させながら、月に移動した。 ; ストップリング{{R|Z完全超全集83|UPM vol.4021}} : 腕からリング状の光線を複数放ち、相手の体を拘束して動きを封じる。『ウルトラマンZ』客演時に初めて使用した、バラバを縛りつけた。 上記のほか、異次元にさらわれた子どもたちを解放した異次元開放能力{{R|UPM vol.109}}、マイナス宇宙にあるゴルゴダ星へ飛ぶ高速飛行能力{{R|UPM vol.106}}、過去に迷い込んだTAC隊員を現代に連れ戻した時間飛行能力{{R|UPM vol.109}}、旗を巨大化させてザイゴンを翻弄した物質巨大化念力{{R|UPM vol.109}}、[[ベロクロン|ベロクロン二世]]にダメージを与えたガスタンク爆弾化能力{{R|UPM vol.109}}、アプラサールを元の[[ウルトラマンAの登場怪獣#天女 アプラサ|アプラサ]]に戻した異次元エネルギー遮断能力など、さまざまな超能力を扱う。それゆえ、光線技と超能力の多彩さはウルトラ兄弟で一番となっている。 また、ガマスの放った吹き矢ミサイルを受け止めて投げ返したり、ファイヤー星人の炎の剣を奪って返り討ちにするなど、相手の武器を用いて攻撃する描写も多かった。 === 他作品での活躍 === 夕子の客演は[[#主人公]]を参照<!--Aが登場せずに夕子のみ登場したケースなどもあるため。-->。『ウルトラマンメビウス』以降の作品では、ウルトラ兄弟のなかでも伝説的存在である「ウルトラ6兄弟」の1人にカウントされている{{Refnest|group="出典"|<ref>「てれびくんデラックス愛蔵版 ウルトラマンメビウス超全集」(2007年・小学館))p60「ウルトラマンメビウス大辞泉 / ウルトラ6兄弟」</ref><ref>『ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース』STAGE.1封入の作品解説書<!--ページ数表記なし--></ref>{{Sfn|ウルトラ銀河伝説超全集|2009|p=34|loc=「ウルトラマンエース」}}<ref>「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE VisualFile」(2010年・角川書店)p33</ref>}}。 ; 『[[ウルトラマンタロウ]]』 : 第1話、第25話、第33・34話{{efn|name="北斗"|北斗の姿で登場}}、第40話に登場。 ; 『[[ウルトラマンレオ]]』 : 第38・39話で登場。<!--この時の声は豊川晋吾が担当。--> ; 映画『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』 : 他のウルトラ戦士とともに天空魔と戦った。 ; 映画『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』 : 他のウルトラ戦士とともに、[[ウルトラマンキング]]の誕生日を祝福する。 ; 『[[ウルトラマンボーイのウルころ]]』 : 第25話、第45話、第90話に登場。 ; 『ウルトラマンメビウス』 : 第1話{{efn|イメージのみ。}}、第44話{{efn|name="北斗"}}、第50話{{efn|name="声"|北斗役の[[高峰圭二]]がAの声を担当。}}、[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]◎、OV『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』に登場(『ゴーストリバース』でのみ声優の[[草尾毅]]が声を担当)。 : 劇場版では初代マン、セブン、ジャックとともに、Uキラーザウルスを死闘の末に封印する。封印後は北斗の姿になり、[[神戸市]]のホテル展望レストランのオーナーシェフとして生活していた設定となる。かつて自分を苦しめ、半ば刺し違えるような形で地球から離れさせたヤプールに対し、現在も激しい怒りを燃やしている。ヒビノ・ミライ(メビウス)に「自分の力を過信すればその力で敗北する」と諭した。本作品同様に白いマフラーを纏い、上着の襟にTACのエンブレムを付けている。ミライが神戸を去る時には、TAC式の敬礼で見送った。 : 第44話では、暗黒四天王最初の刺客として現れた[[ヤプール人#『ウルトラマンメビウス』に登場する巨大ヤプール|ヤプール]]の策略で分断されたメビウスとCREW GUYSのカザマ・マリナにテレパシーを送った。メビウスにヤプールを倒させる一方、ヤプールが送り込んだ[[ルナチクス#『ウルトラマンメビウス』に登場するルナチクス|ルナチクス]]を倒した。醜悪なフリージャーナリスト・ヒルカワから受けた数々の理不尽な仕打ちによって、地球人にもウルトラマンを拒絶する者や、邪な考えを抱く者がいることを身を持って学んだミライに対し、本作品の最終回(第52話)で最後の願いとして残したメッセージを変わらぬ願いとして伝えた。そして、夕子との再会を果たす。 : 第50話では件の3人やタロウ、ウルトラマンレオと[[ウルトラマンレオ#アストラ|アストラ]]、[[ウルトラマン80]]と協力し、[[エンペラ星人]]の力で太陽を覆い尽くしていた黒点を消滅させた。 : 『ゴーストリバース』ではタロウ、メビウス、ウルトラマンヒカリとともに、[[怪獣墓場]]で復活した暗黒四天王と戦い、宿敵ヤプールの乗り移ったメビウスキラーを倒した。 ; 映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』{{efn|name="北斗"}} : 北斗と夕子がパン屋の主人夫妻として登場し{{efn|name="ウルトラハッキョウ"|この作品は本作品とは別世界であり、北斗と夕子も普通の人間という設定。}}、一人娘の七海がいる。夕子はここでも看護師の免許を持っている。変身は北斗が単独で行っている。 :* スーツは『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』で制作されたものと同一{{Sfn|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009|pp=84-85|loc=「ウルトラマン再生の作業とは」}}。 ; 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』{{efn|name="声"}} : ジャックや80とともに[[ウルトラマンベリアル]]と戦って合体光線を披露するが、跳ね返されて3人まとめて倒されてしまい、光の国の氷結に巻き込まれてしまう。[[ウルトラマンゼロ]]がベリアルからプラズマスパークのエネルギーコアを取り戻したことで復活している。 ; 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』{{efn|name="声"}} : 他のウルトラ戦士とともに、アナザースペースに旅立つゼロを見送った後、光の国を襲ってきたダークロプス軍団を撃退した。 ; 映画『[[ウルトラマンサーガ]]』{{efn|name="北斗"}} : 件の3人やレオとともにゼロの身を案じた他、本編からカットされたシーンでは[[帰ってきたウルトラマンの登場怪獣#『ウルトラマンサーガ』に登場するバット星人|バット星人]]の作りだした怪獣兵器ベロクロンと闘った。また、謎の円盤によって、様々な並行宇宙が危機に陥ることを危惧していた。 ; 『[[ウルトラマンギンガS]]』 : 直接登場していないが、[[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]]のウルトラ6兄弟の力の2つにAの技(メタリウム光線とパンチレーザー)とイメージが登場。メタリウム光線で巨大ヤプールを撃破した。 : ファイブキング(SDU)戦でも使用し、[[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンビクトリー|ウルトラマンビクトリー]]のビクトリウムシュートと合わせてメルバの翼を破壊した。 ; 『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!#ウルトラファイトビクトリー|ウルトラファイトビクトリー]]』{{efn|name="声"}} : レオやアストラとともに、ヤプールの新たな野望の阻止するため、ギンガやビクトリーに加勢。 ; 『[[ウルトラマンジード]]』 : 第1話に登場。他のウルトラ兄弟やゼロ、宇宙警備隊候補生とともにベリアルと戦った。 : この他、ウルトラマンジード ロイヤルメガマスターが第17話でブラザーズシールド、第21話でバーチカルスパークを使用した際、イメージとして登場。 ; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ』|ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ]]』 : 件の3人やタロウ、ゾフィーとともに登場。ニュージェネレーションヒーローズの活躍を見守った。 ; 『[[ウルトラマンZ]]』{{efn|name="声"}} <section begin=Z /><!-- [[ウルトラマンZ]]からの呼び出し用セクションタグ --> : 第19話に登場。自身が名前を授けた<noinclude>ウルトラマン</noinclude>ゼットの危機を察知し、ウルトラメダルに導かれてゼットのいる地球へと赤い球となって飛来。ヤプールの怨念で蘇ったバラバを協力して撃破する。 <section end=Z /><!-- [[ウルトラマンZ]]からの呼び出し用セクションタグ --> ; 『[[ウルトラギャラクシーファイト#『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』|ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突]]』 : 声は[[関智一]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/471646|title=「ウルトラギャラクシーファイト」にウルトラフォース参戦、PVや声優発表|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref>。 === 本作品以降に登場する形態 === * [[大決戦!超ウルトラ8兄弟#グリッターバージョン|グリッターバージョン]] * 他のウルトラ戦士との合体 ** [[ウルトラマン物語|スーパーウルトラマン]] ** [[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟#メビウスインフィニティー|メビウスインフィニティー]] === 関連する能力を持つ戦士 === ; ウルトラマンギンガストリウム : エースの能力を使用可能。 ; [[ウルトラマンゼロ#グランセイバードゼロ|グランセイバードゼロ]] ; [[ウルトラマンオーブ#形態|ウルトラマンオーブ スラッガーエース]] ; [[ウルトラマンZ#形態|ウルトラマンゼット ベータスマッシュ]] == 主な登場人物 == === 主人公 === ; {{読み仮名|北斗 星司|ほくと せいじ}} : 本作品の主人公。年齢20歳、[[7月7日]]生まれ{{R|a|UPM vol.1013}}。血液型[[ABO式血液型|B型]](第25話より)。 : 物語開始時は[[広島県]][[福山市]]{{efn|name="b"|当初、第1話で登場する超獣・[[ベロクロン]]は[[広島市]]に出現する設定で、いったん平和の象徴たる[[原爆ドーム]]のミニチュアセットを襲撃・破壊するシーンの撮影もされたが{{R|UPM vol.104}}、被爆者・関係者に対して刺激的すぎるとの意見から本放送では削除され、同じ[[広島県]]の有力都市・[[福山市]]に出現する設定に変更されたためである。}}のパン屋で、パンの配送車のトラック運転手として働いていた。ベロクロンの侵攻から夕子や子供たちを守るべく、タンクローリーで特攻して命を落としたが、その勇気を[[ウルトラ兄弟]]に認められ、夕子と共にウルトラマンAから新たな命を与えられて復活し、Aに変身できるようになった。その後、夕子と共に故郷を後にしてTACに入隊する。 : 正義感が強く勇敢でもあるが、お調子者なところもあり、ウルトラマンとしての超感覚と正直者で血気盛んかつ短気な性格のために他の隊員からは不信扱いされ、謹慎処分を度々受けていた。 : 過去に関しては、生後まもなく父親が他界、9歳まで[[寝小便]]癖あり、中学時代には同級生や知り合いの大学生とともに冬山で遭難、少年時代はグレかかっていた時期があったことが語られている。そういった経験から、父親のいない子供、暴走族、寝小便の治らない子供と心を通わせる話も見られた。 : 第28話で月星人だった夕子が同胞の元に去っていったため、以降は単独でAに変身している。また、第29話で知り合った、ウルトラの星が見えることからウルトラ6番目の弟を自称する梅津ダンを教え導く。 : 第52話でヤプール残党の策略により、人を信じる気持ちを失いかけた子供たちの心を救うため、彼らの眼前でAに変身してジャンボキングを倒す。そして、最後のメッセージを伝えて地球を後にした。 : Aとは一体化したまま地球を去ったため、『ウルトラマンタロウ』第33話・第34話、『ウルトラマンメビウス』劇場版・第44話にもAの人間体として登場。『ウルトラマンタロウ』第33話・第34話、『ウルトラマンメビウス』劇場版では郷秀樹=ウルトラマンジャックとともに、ハヤタ=ウルトラマンやモロボシ・ダン=ウルトラセブンの制止を振り切って真っ先にタロウやメビウスを助けにいこうとする一方、勝利に驕ったタロウ=東光太郎に憤りを露わにするなど、本作品での血気盛んぶりも健在である。また、『ウルトラマンメビウス』第44話では上述のメッセージを「変わらぬ願い」としてメビウス=ヒビノ・ミライに伝えている。 :* 首に巻いている白いマフラーは『少年ジェット』の少年ジェットの影響で、北斗役の高峰のアイデアによるもの{{R|UPM vol.1018}}。 ; {{読み仮名|南 夕子|みなみ ゆうこ}}{{efn|初期名称案は「南'''七'''子」。}} : 年齢19歳、北斗と同じ7月7日生まれ{{R|a|UPM vol.1014}}。血液型[[ABO式血液型|O型]](第5話より)。身長160センチメートル、体重55キログラム{{Sfn|画報 上巻|2002|p=135}}。 : 元は広島県福山市{{efn|name="b"}}の病院で看護師として勤務していた{{R|UPM vol.1014}}。北斗共々、Aへの変身能力を与えられた後、TACに入隊する。プログラムやオペレーションを主に担当するが、積極的に実戦にも参加する{{R|UPM vol.1014}}。常に沈着冷静に物事を考え、北斗のピンチを救ったことが何度もある。 : 一方では積極性の強い面もあり、北斗とのデートでは必ず彼女の方から誘うらしく、劇中では第5話にてデートシーンが描かれている。大食いでもあり、第19話では特大ラーメンを注文している。 : 一見、真面目そうだが実は1回だけ謹慎処分を食らったことがある(第3話)。これは、実際はバキシムの襲来をTACが予測していなかったことによる誤解からだった。第14話で北斗に自爆攻撃を強要した高倉司令官を、山中隊員とともに司令室から叩き出している。 : その正体は、かつてルナチクスに滅ぼされた月星人の高度文明種族の末裔{{Sfn|画報 上巻|2002|p=135}}{{efn|月星人の設定は急遽決定したものであり、それまでの回に伏線は一切ない。}}で、ルナチクス打倒を目的に月星人を代表して地球へ派遣されていた。第28話でルナチクスを倒すと自分のウルトラリングを北斗に託し、月星人の世界を再建すべく仲間の待つ冥王星へ旅立っていった{{efn|第1話で命を落としたことや、その際にAから与えられた命がどうなったのかは劇中で一切語られていない。}}。その後、第38話と第52話や後続作品にも登場。失明した者を回復させる虹状の光線やテレパシー、空中飛行や巨大化といった月星人の特殊能力を発揮している{{R|UPM vol.1014}}。 : ウルトラの父からは一目置かれているらしく、第38話ではウルトラの父の召喚に応じて地球に飛来している。 : 永岡書店発行、監修・円谷プロダクション、構成・竹内博『ピコピコブックス13 輝け!ウルトラ戦士!!』には、夕子の生い立ちについての項目があり、以下のような記載がある。 : かつて月には、高度な文明が栄えていた。ある日、超獣ルナチクスの襲撃を予見した月星人の指導者たちは、夕子を地球に送ることを決断する。時は流れ、ある日、赤ん坊の姿の夕子が入ったカプセルを発見した南博士は、それを持ち帰り、彼女を自分の娘として育てた。成長した夕子は看護師になり、そして超獣ベロクロンによる広島県福山市襲撃の日を迎えた。 :; 『ウルトラマンタロウ』 :: 第39話に登場。月から地球に行ったモチロンを追って現れた。東光太郎(ウルトラマンタロウ)は北斗(A)から夕子のことを聞いており、夕子はタロウの戦いを月から観戦している。 :; 『ウルトラマンメビウス』 :: 第44話に登場。北斗との再会も果たしている。 :; 映画『大決戦!超ウルトラ8兄弟』 :: ごく普通の地球人として生まれ、北斗と結婚して七海という娘をもうけ、横浜市内でパン屋を経営している{{efn|name="ウルトラハッキョウ"}}。この世界でも看護師の資格を持っていることが説明されている{{efn|夕子の本職が看護師であったとの初期設定が明確に活かされた、初めての例である。ただし、本編でも被災者の脈を診て死亡を確認するなど、看護師であったことを示唆するような描写は存在した。}}。 === TAC隊員 === ; {{読み仮名|竜 五郎|りゅう ごろう}} : 35歳。TAC極東支部の隊長{{R|UPM vol.1015}}。常に冷静沈着で科学的な視点で物事を捉えようとする。 : 作戦が特に危険な場合であれば敢えて部下を充てずに自分で取りかかるほか、第14話では無茶な命令を連発する高倉司令官を殴って基地から追い出すなど、部下に対する配慮も忘れない。ただし、「鬼隊長」の異名を持つほど作戦遂行や部下のミスに対しては厳格で{{R|UPM vol.1015}}、謹慎ないし出撃停止処分を乱発する傾向にある。また、如何なる苦境に陥っても、部下や事件に関わってしまった人たちを諭し、勇気づけようとする。 : 独身でアパートに一人暮らしをしており、故郷の[[秋田県]]に姉と甥がいる。第47話では身寄りを失った少女をこの姉に養女入りさせている。 : 出撃する際に、夕子や美川など女性隊員と2人で戦闘機に乗り組むことが多く、特に「美川隊員は私と一緒に」と何度か指令している。 ; {{読み仮名|山中 一郎|やまなか いちろう}} : 25歳。TAC極東支部の副隊長格であり、隊員たちの兄貴分的存在{{R|UPM vol.1015}}。 : 射撃の名手(特に早撃ちが得意)でもあり、TACガンを常に2挺携帯している。やや短気な口うるさい性格でよく北斗を怒鳴りつけることが多いが、根は優しく仲間思いで自ら危険な任務を買って出ることもある{{R|UPM vol.1015}}。スランプに陥った北斗の特訓に協力するなど面倒見のいい面も描かれた。 : 現実主義者のため、怪現象に対しては否定的で同僚や目撃者の証言を信じないことも多いが、事実を知ると素直に認める潔さがある(普段はその後に態度を改めたりはしないが、第32話では北斗に謝罪している)。 : 通信班に勤める高階マヤという婚約者がいたが第7話でメトロン星人Jr.に殺害されている。 : 小説『[[ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント]]』では、[[ウルトラマンメビウス#GUYS / CREW GUYS|GUYS]]調査部の部員として、彼と思しき「ヤマナカ某」という人物の存在が語られている。 : ; {{読み仮名|今野 勉|こんの つとむ}} : 24歳。[[ロバート・ゴダード|ロケット工学]]のオーソリティ{{efn|ただしこの設定はほとんど活かされていない。}}で怪力{{R|UPM vol.1015}}。ひょうきんな性格で、常に場を和ませる仲間思いなムードメーカー的存在{{R|UPM vol.1015}}。山中と同じく怪現象や北斗の証言に懐疑的な態度をとることが多いが、仲間意識は強い。巨漢であることからかなりの大食漢である{{R|UPM vol.1015}}。 : [[九州]]出身で、[[岡山県]]に親戚が住んでいる。実家の父は寺の住職であり、危機に陥ると「[[南無阿弥陀仏]]」と念仏を唱え、時に念仏を唱えながら十字を切ることもある。鼻をこする癖がある。骸骨が苦手。女性に弱く、好意を寄せる女性に対してはつい気を許して純情な面を見せることもしばしばある{{R|UPM vol.1015}}。 ; {{読み仮名|美川 のり子|みかわ のりこ}} : 20歳。オペレーションと副官業務が主な任務だが、実戦に出ることもある{{R|UPM vol.1015}}。爆発物の専門家でブローチ型の小型爆弾を常に携帯する{{R|UPM vol.1015}}。 : 男運が悪いらしく、男性が絡む時はたいてい事件に繋がっている。 : 戦闘機に乗る時は竜と一緒のことが多く、{{要出典範囲|初期に書かれた市川森一による没脚本「超獣狩り大作戦」では隊長の秘書と言って半ば強引に竜についていくという一節がある。|date=2022年7月}}竜の下した謹慎処分を一時的に解除する権限を持ち{{R|UPM vol.1015}}、3話において南隊員の処分を解除するなど竜からの信頼が厚いことがわかる。第22話で銀星人に殺される憂き目に遭うが、その回のうちに蘇生した。 : 夕子が月に帰った後は、隊の中で彼女の代わりのようなポジションを務めるようになった。 : TAC隊員の中では、先輩格に当たる旧MAT隊員・郷秀樹の存在を唯一知っていた{{efn|MATとTACの関係については本編では言及されていないが、『ウルトラマンメビウス』ではTACがMATの後継組織であったらしいことが示唆されている。}}。 ; {{読み仮名|吉村 公三|よしむら こうぞう}} : 20歳。宇宙生物の権威で過去の怪獣や宇宙人に精通している他、気象や宇宙科学に対する情報の分析が得意である。 : [[ギター]]が[[趣味]]で、第2話のパーティシーンなどで腕前を披露している。 : 故郷の[[岡山県]][[牛窓町]]に母がいる。実家は化粧品店を営み、父は他界している。 ; {{読み仮名|梶 洋一|かじ よういち}} : 24歳。TACの兵器開発担当の主任技師で様々な武器を開発。一部の書籍<ref>怪獣VOWプロジェクト編「PART.2「正義の組織!滅びゆくが愛の戦士よ!!」 役に立たない善意の研究」『さらば!怪獣VOW』[[宝島社]]、1996年10月11日、{{ISBN2|4-7966-1139-8}}、77頁。</ref>では「役に立たない物ばかり作っている」と批判されることがあるが、実際には妖星破壊ミサイル・マリア2号や、異次元突入装置、別項の通りなど地球を救うための充分「役に立つ」物を開発していることが多い。 : 番組初期は一般的な白衣を、第7話以降は他の隊員とはデザインが異なる専用服を着ている。 : 第27話で自ら志願し、他のTAC隊員と共にヒッポリト星人との対決に参加したのを最後に降板したが、第31話にゲスト出演している。 : 降板後の処遇は本作品中では不明だが、派生作品などでは以下のように設定されている。 :; 『ウルトラ超兵器大図鑑』 :: 実験中の事故で殉職したとされている。 :; 『ウルトラマンメビウス』 :: 小説『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』では、GUYSの戦闘機に使用されている慣性制御翼(イナーシャルウィング)の基礎概念を考案した人物とされている。 === その他 === ; {{読み仮名|高階 マヤ|たかしな マヤ}} : 第7話・第8話に登場。TACミサイル基地の通信員にして、山中隊員の婚約者。メトロン星人Jr.に殺害されて乗り移られる。第8話では回想シーンに登場。 ; {{読み仮名|高倉|たかくら}} : 第14話に登場。TAC[[南太平洋]]国際本部司令官で竜の上官。超光速ミサイルNo.7でヤプールの拠点と思われたゴルゴダ星を爆破すべく来日した。 : ゴルゴダ星爆破作戦に反対意見を述べた北斗に憤慨し、職務権限を利用してミサイルの操縦手に強引に任命し、ミサイルの欠陥が明らかにされた後も自分の体面を守るために北斗に自爆攻撃を強要した挙句、竜に作戦の失敗を指摘されて逆上するなど、歴代の司令官の中でも特に度量が狭く自己保身の強い人物である。最後はその横暴さに激怒した竜に殴られた上、さらに夕子たちに激しく非難され、山中によって司令室から追い出された。 :* 後年発刊された円谷プロ監修の『僕らのウルトラマンA』では、、竜を始めとした彼に反抗した隊員たちが目立った懲罰も受けなかったことから、高倉が任務失敗の責任を負って更迭された可能性が高いと言及されている{{R|僕らのA69}}。 === 梅津家 === ; {{読み仮名|梅津 ダン|うめづ ダン}} : 1年前、ギタギタンガの出現による車事故で父親を失った少年。北斗と心を通わせ、彼を兄のように慕う。 : ウルトラの星が視認できたり、超獣の出現を予言することができる。自身を「ウルトラ6番目の弟」と自称する。ただし、ウルトラ兄弟との直接の接点はない。特に劇中での説明のないまま、第43話を最後に姉の香代子とともに登場しなくなる。 :* 名前の由来は、第29話の脚本を執筆した[[長坂秀佳]]の長男の名前から<ref>長坂本人が『[[ウルトラ情報局]]』のインタビューで証言{{出典無効|date=2016年9月}}。</ref>。 :* 『大決戦!超ウルトラ8兄弟』の初期プロット『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟2』では、成人して登場<ref>『大決戦!超ウルトラ8兄弟』のDVDメモリアルボックス(バンダイビジュアル・2009年1月23日発売・BCBS-3428)封入のレプリカ台本</ref>。 : [[小学二年生]]の漫画版では最終回まで登場しており、ベロクロンを倒して光の国に帰還したA=北斗から2つのウルトラリングを渡されてAの正体をTACの隊員に明かし、海辺で北斗の名を叫び続けた(そこに北斗のメッセージが映る)。 ; {{読み仮名|梅津 香代子|うめづ かよこ}} : ダンの姉。18歳。北斗の住むアパートでは隣部屋同士で、彼に愛情に近い感情を抱く{{R|UPM vol.1013}}。ダン同様、登場は第29話から第43話である。 == TAC == {{読み仮名|TAC|タック}}とは、'''T'''errible-monster '''A'''ttacking '''C'''rewの略(別名「超獣攻撃隊」)で、突如現れた[[ベロクロン]]に全滅させられた地球防衛軍に代わって組織された地球防衛機構{{Sfn|大辞典|2001|p=203}}により新たに編制された地球の全世界的守備組織である{{R|UPM vol.1012}}{{efn|既存の防衛組織の出動と全滅、後継防衛組織の結成などは、『帰ってきたウルトラマン』の企画稿『特撮怪獣シリーズ 続・ウルトラマン』から『帰ってきたウルトラマン』となるまでの間にボツとなった設定を流用している<ref>『帰ってきた 帰ってきたウルトラマン』(辰巳出版・1999年)p.14.</ref>。}}。 本部は[[ニューヨーク]]に置かれており、その下位に南太平洋国際本部が存在する{{efn|第14話に登場した高倉司令官はここの所属である。}}。ヨーロッパ・アフリカ・極東(日本)に支部が存在し、ウルトラマンAこと北斗星司と南夕子が入隊したのも極東支部である。 常にレーダーで超獣の動きを監視しながら、超獣撃退のための兵器や戦術を日夜研究している。開発した兵器の数は随一で、超獣・宇宙人の撃破数は[[ウルトラ警備隊]]や[[ウルトラマンタロウ#ZAT|ZAT]]に準ずる成績を誇る。また、撃破はできずとも超獣に大ダメージを与えることもあり、Aの勝利が彼らの貢献によることも少なくない。第10話ではMATファイルという資料が語られており、前作のMATとの関連を窺わせている。 === 極東支部基地 === 極東支部基地は[[山梨県]]側の[[富士山|富士山麓]]の地上・地下、[[富士五湖]]の樹海付近にある。基地施設は地形や自然を利用して巧妙にカモフラージュされ、表向きは気象観測所を装っている。発進ゲートは牧場や崖などに偽装されている{{R|UPM vol.1012}}。 地下部分は、隊員たちの司令室(イベント用のレストルームも直結している)をはじめ、古代文献まで保管する資料室や各種研究室、射撃訓練場、中央原子動力室、各メカの格納庫に大型ミサイル工場まで建設され、地上部分はメインレーダーやさまざまな福利厚生施設、庶務施設、研究棟が存在する。また、襲撃してきた超獣に対する大型野砲や4連装・16連装ロケット砲といった防衛設備まで充実している。超獣や侵略宇宙人に襲撃されたり、Aと超獣の戦場となった回数も多い。 * 東京映画撮影所に司令室などのレギュラーセットが組まれた{{R|特撮全史}}。司令室は前作『帰ってきたウルトラマン』のMATのセットの流用で、基本レイアウトなどが引き継がれている{{R|UPM vol.3729}}。銀によるメタリック感が強調され、本編美術を担当した鈴木儀雄の特徴である円が多用されている{{R|UPM vol.3729}}。 === 装備 === ==== 隊員服 ==== オレンジと銀色{{efn|第1・2話では薄いオレンジに銀。}}の配色のユニフォームで、耐久・耐熱・耐寒・防弾・防火機能に優れる。竜隊長の物のみ、第3話以降胸のグレーラインが濃くなる{{Refnest|group="出典"|{{R|マガジンVOL.233|UPM vol.1016|夢のかけら125}}}}{{efn|厚い布地であったために破れやすくなってしまったことから、第3話以降の変更となった{{Sfn|新大全集|1994|p=93}}{{R|UPM vol.0331}}。書籍『夢のかけら 円谷プロダクション篇』では、色を黒と表現している{{R|夢のかけら125}}。}}。 男女とも同じデザインだが、ブーツについては女性隊員のもののみフリンジがついており{{Refnest|group="出典"|{{R|マガジンVOL.233|UPM vol.0331|UPM vol.1016}}}}、微妙にデザインが異なる。 また、梶隊員は当初は白衣に身を包んでいたが、第7話より白を基調としたオレンジの線のユニフォームを着るようになる。 夕子のものは、彼女が冥王星へと旅立っていった直後にTACの隊員たちによって送り火として燃やされた。 * 衣裳は京都衣裳が担当{{R|夢のかけら54}}。デザインイメージはヒーローキャラクター的なもの{{Sfn|新大全集|1994|p=93}}。 ==== 銃器類・特殊装備 ==== ; TACヘルメット{{R|UPM vol.1016}} : 隊員服より少し赤が強いオレンジ色の地色に黒の[[モール]]、額部分にはTACエンブレムが入り、高性能通信機を内蔵している。隊長用には黒線が追加されている。昭和ウルトラシリーズに登場した防衛チームで唯一バイザーが付いていない物を採用している。 ; ゴーグル{{R|UPM vol.1016}} : 目を超獣の放つ光線から守るために開発された専用ゴーグル。スノーギラン戦で使用。 ; TAC宇宙服{{R|UPM vol.1016}} : 対重力機能が高い宇宙服で、超光速ミサイルNo.7に乗った時に北斗隊員が着用した。 ; 携帯式通信機{{R|UPM vol.1016}} : 腕時計型と小型トランシーバータイプの2種類が使用されている。 ; TACガン{{R|UPM vol.1016}} : TACの隊員全員が通常の作戦行動時に携行している銀色の火薬発火式拳銃で炸裂弾を発射する{{R|画報上}}。山中隊員のみ2挺携帯している。防水・耐熱加工が施されており、銃身先端に特殊アダプターを装着するとレーザー光線も発射可能{{R|マガジンVOL.233}}(第1・6話)。また番組後期ではアダプターの装着なしでもレーザー照射を行っている(第45・50話)。[[ウルトラマンAの登場怪獣#変身怪人 アンチラ星人|アンチラ星人]]、[[ウルトラマンAの登場怪獣#銀星人 宇宙仮面|宇宙仮面]]、[[ウルトラマンAの登場怪獣#宇宙怪人 レボール星人|レボール星人]]、[[ヤプール人#遊牧星人 サイモン星人|サイモン星人]]を倒した。 ; ビッグレーザー{{読み仮名|50|ファイブオー}}{{R|UPM vol.1016}} : 梶が開発した普通のレーザービームの50倍の威力を有する光線を発射する大型砲{{Sfn|兵器大図鑑|2006|p=38}}。第2話で[[ウルトラマンAの登場怪獣#古代超獣 カメレキング|カメレキング]]の卵を焼き払うために初めて使われたが無効で{{R|マガジンVOL.233}}、以後も使われたがレーザーより実弾を撃つ方が多かった。三脚架を付けることもでき、[[ウルトラマンAの登場怪獣#宇宙電気クラゲ ユニバーラゲス|ユニバーラゲス]]をレーザーで倒した。 ; タックバズーカ{{R|UPM vol.1016}} : 第10話でザイゴンやアンチラ星人攻撃に使用された新型バズーカ砲。軽量だが、打ち込んだ敵の体内で爆発する強力な弾頭を発射する。 ; バズーカ砲{{R|UPM vol.1016}} : 今野隊員が好んで用いていた大型兵器。ガランなどに対して使用された。 ; SP-72{{R|UPM vol.1016}} : 前作でMATが使っていたレーザーガンSP-70を改良した小型ミサイルランチャー。第12話でサボテンダーに使用。 ; ウルトラレーザー{{R|UPM vol.1016}} : にせ郷秀樹に化けたアンチラ星人が使ってザイゴンを撃退したレーザー銃で、のちにTACの管理物となり、実戦で使った(第43・47話など)。それ以前の第13話でも、竜隊長の命令でタックアローの機体から[[ウルトラマンAの登場怪獣#殺し屋超獣 バラバ|バラバ]]にウルトラレーザーが発射されている。{{要出典範囲|date=2016年6月|ウルトラシリーズ初のオーバーテクノロジー兵器である}}。 ; 超小型銃(仮称) : 宇宙仮面こと坂井青年がその正体を現して危害を加える可能性を考慮して、山中隊員が美川隊員に貸与しようとした掌サイズの小型拳銃。 ; グレネードランチャー型の銃(仮称) : 第22話で山中隊員がブラックサタンを攻撃する時と、宇宙仮面の射殺の際に美川隊員が使った銃。また、第17話では梶隊員がホタルンガを攻撃する際に使った。 ; V09拳銃{{R|UPM vol.1016}} : 気球バアロン号に隠れているバッドバアロンをあぶりだすため、ダン少年に貸与されたTACの小型拳銃。 ; 小型麻酔銃{{R|UPM vol.1016}} : バアロン号を操るヒッピー青年を眠らせた。 ; エレクトロガン{{R|UPM vol.1016}} : 大砲並みの破壊力と砲身を持つ陸戦兵器。TAC極東支部基地を襲撃してきたバキシムに梶隊員が率いる兵器開発研究員数名が担いで使い、地雷原に足止めした。 ; [[迫撃砲]]{{R|UPM vol.1016}} : 陸戦時に用いる兵器。高い爆発力を持つ砲弾を発射する。 ; [[U.S.M1カービン]] : 第3レーダー基地やTAC基地発電所の歩哨が携行している実在の半自動小銃。 ; ガス弾{{R|UPM vol.1016}} : 第19話でアンドロイド夫婦が住む春日邸に踏み込む時に使われた。 ; ブローチ爆弾{{R|UPM vol.1016}} : ダックビルのミサイル発射口が故障した時に美川隊員が使った銀色の星型ブローチ爆弾で、[[ウルトラマンAの登場怪獣#大蟻超獣 アリブンタ|アリブンタ]]に投げつけて炸裂させた。 ; ガス噴霧機能つきブローチ{{Sfn|大辞典|2001|p=86}} : 美川隊員が南隊員に渡したブローチで、中に強力なガスが詰められている。民子と共に[[ウルトラマンAの登場怪獣#大蛍超獣 ホタルンガ|ホタルンガ]]に取り込まれた時に使い、脱出した。 ; 特殊ペンダント{{Sfn|大辞典|2001|p=203}} : ブラックサタンを操る宇宙仮面こと坂井青年の正体を探るために梶隊員が製造した。細胞体や血液型、体温などを測定する機械が内蔵され、その結果を電波で送信する。 ; 分析器(仮称) : フブギララの行動分析に用いられた。第45話にも登場している。 ; [[十四年式拳銃]] : 第48話で北斗が女ヤプールの射殺に用いた。 ==== 航空機 ==== :{{機動兵器 |名称=タックファルコン |全長=210{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |全幅=103.5{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |重量=5万{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1016}} |最高速度=マッハ6.6{{R|UPM vol.1016}} |乗員=5名{{R|UPM vol.1016}}{{要出典範囲|(最大6名)|date=2023年8月}} }} ; タックファルコン{{R|UPM vol.1016}} : 事件現場での移動司令部となる大型攻撃戦闘機{{R|マガジン202042}}。別名「超大型空中母艦」{{R|兵器大図鑑36|UPM vol.1016}}。「TACの歌」の歌詞に表現されている通り、極東支部基地前の牧場の牧草地が左右に分かれて現れる滑走路を用いて発着するが、格納庫からの発進時は滑走だけではなくロケットブースターを噴射して出撃する{{R|兵器大図鑑36|UPM vol.1016}}。 : 常に機体の強化改造が行われ、各種装備や性能が向上していく{{R|UPM vol.1016}}。垂直離着陸([[垂直離着陸機|VTOL]])が可能であるが{{R|兵器大図鑑36}}、脚や車輪については不時着時も含めて劇中で明確な描写がない。 : 機内に搭載するタックアロー3機{{R|マガジン202042}}を飛行中や着陸静止時に発進させられるが、発進後の収納はできない{{efn|第25話を最後にこの場面は見られなくなる。}}。また、宇宙航行も可能。固有の武装としては機首のアンテナに固定装備されたレーザー砲があり、他に左右主翼にロケット弾、機体下部から噴射する消火液やガス中和剤{{R|UPM vol.1016}}、胴体内の爆弾倉にも各種兵器を搭載可能。機首レーザー砲で[[ウルトラマンAの登場怪獣#ガス超獣 ガスゲゴン|ガスゲゴン]]を倒した。 :{{機動兵器 |名称=タックアロー |全長=18{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016|夢のかけら125}} |全幅=14.5{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016|夢のかけら125}} |重量=20{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1016|夢のかけら125}} |最高速度=マッハ7.7{{R|UPM vol.1016|夢のかけら125}} |乗員=1名{{R|UPM vol.1016|夢のかけら125}} }} ; タックアロー{{R|UPM vol.1016}} : TACの主力小型戦闘攻撃機。単座コックピットに搭乗した隊員が、1人で攻撃と操縦を行うように設計されている{{R|UPM vol.1016}}。主翼両端のジェットエンジン2基に加えて、発進とVTOL用のロケットも胴体尾部・下方に装備し、機体の運動性能が高い反面、装甲の強度については劣るとされている{{Sfn|大辞典|2001|p=204}}。 : 鷲のくちばしのように下方向にとがった機首が外見上の特徴で{{R|夢のかけら50}}、主力作戦機のため撃墜されることも多い。固定武装として機体先端に高性能レーザー砲を装備しているが、主翼下部に追加されたロケットランチャーやミサイルによる攻撃が多い{{R|マガジン202042|UPM vol.1016}}。また、磁力吸盤や消火液も搭載しており、避難民の救助活動も行う{{R|UPM vol.1016}}。 : 発進時は基地の山腹からロケットブースターとカタパルトを併用して離陸するが、作戦によってはタックファルコンに搭載して空中発進させる場合もある{{R|夢のかけら125}}。 :* ミニチュアは大中小3種類あり、このうち中サイズは[[バルサ]]製とFRP製がある{{R|夢のかけら50}}。 :{{機動兵器 |名称=タックスペース |全長=15{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |全幅=14.5{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |重量=15{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1016}} |最高速度=マッハ8.8{{R|UPM vol.1016}} |乗員=2名{{R|UPM vol.1016}}{{efn|1名での運用も可能。}} }} ; タックスペース{{R|UPM vol.1016|マガジンVOL.322}} : 超獣との交戦を想定して開発された複座式戦闘攻撃機{{R|UPM vol.1016}}。主に北斗・吉村隊員が搭乗することが多い{{R|UPM vol.1016}}。強力なエンジンを持ち、宇宙航行を可能としている{{R|UPM vol.1016}}。番組中盤以降はアローに代わって主力戦闘機となる。 : 発進時は富士山麓の湖底から水中発進する場合{{R|UPM vol.1016}}と基地の山腹から発進する場合の2通りがある(前者が多い)。 : 大気圏離脱・突入や水中発進に加えてVTOLも可能であることから、外見上、3発装備に見える本機のエンジンはジェットとロケットの高度なハイブリッド・エンジンと推定される{{Sfn|兵器大図鑑|2006|p=32}}。固定武装としては機首にレーザー砲を装備しており、主翼下部にロケット砲も搭載する{{R|UPM vol.1016|マガジンVOL.322}}。また、普通乗用車程度の物体を機外に吊り下げて運搬飛行することも可能である{{R|UPM vol.1016}}。 : アクエリウスの宇宙船を撃墜した。第8話ではエースバリアを壊すほどの破壊力を見せる。 :* ミニチュアは、1974年に製作されたパイロットフィルム『巨獣惑星』に登場する宇宙船に改造された<ref>『メーキング・オブ・円谷ヒーロー・1』講談社(講談社X文庫)、1987年、67頁。</ref>。 ==== 車両・潜航艇 ==== :{{機動兵器 |名称=タックパンサー |全長=4.3{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |全幅=1.6{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |重量=1.2{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1016}} |最高速度=155{{nbsp}}km/h{{R|UPM vol.1016}} |乗員=5名{{R|UPM vol.1016}} }} ; タックパンサー{{R|UPM vol.1016}} : 主に地上でのパトロールや諜報活動、連絡に使われるTACの専用車両。原型は[[トヨタ・マークII]]<!--ローマ数字は機種依存文字です-->・2ドアハードトップ2000GSS(RX21){{R|マガジンVOL.233}}で、黒地に銀縁のオレンジラインが施され、ドアとルーフ部分にTACエンブレムが配されている。カラー以外は特に外観上の改造部分は見当たらず、武装はしていないが、探査機能に優れており、レーダーや高性能通信機は装備されている{{R|UPM vol.1016}}。 : 後部トランク部分に、大型の水中爆弾と、潜水装備を搭載している{{R|UPM vol.1016|マガジンVOL.233}}。 ; タックジープ{{R|UPM vol.1016}} : 主に山間部の陸戦や現場への小〜中型兵器の運搬などに用いられる。車両自体は改造されていない。 :{{機動兵器 |名称=ダックビル |全長=25{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |全幅=16{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1016}} |重量=80{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1016}} |最高速度={{Plainlist| * 960{{nbsp}}km/h(空中){{R|UPM vol.1016}} * 90{{nbsp}}km/h(地上){{R|UPM vol.1016}} * 30{{nbsp}}km/h(地中){{R|UPM vol.1016}} }} |乗員=6名{{R|UPM vol.1016}} }} ; ダックビル{{R|UPM vol.1016}} : TACの6人乗りの[[地底戦車|地底探索用戦車]]で、巨大なドリルを装備しており、武器はミサイルとレーザービーム{{R|UPM vol.1016}}。単独での短時間の無人飛行能力もあり{{R|マガジンVOL.233}}、アリブンタ撃滅に使われたが、攻撃を受けて地中で動けなくなった。 :* 名称は[[カモノハシ]]を意味する英単語から取られている。「'''タックビル'''」と誤記する資料も多い{{Full|date=2020年5月}}。 :{{Clear}} ; ドルフィン : 設定のみで、本編には未登場。TACの潜航艇で1号と2号があり、富士五湖の湖底に格納庫があるという。挿入歌「'''TACの歌'''」の2番の歌詞に2号が名前のみ登場しているが、歌詞では格納庫がある富士五湖だけでなく海にも出撃できることが示唆されている。 ==== その他の装備 ==== ; マリア1号・2号{{R|UPM vol.1016}} : 第7話・第8話で登場した妖星ゴラン爆破用の大型ミサイル。1号はメトロン星人Jr.に発射前に破壊され、設計図も焼かれてしまうが、設計者の梶隊員の記憶を基に2号が急造され、ゴランの破壊に成功した。 ; RXミサイル{{R|UPM vol.1016}} : ガマスに使用。タックファルコンの機底より発射台がスライドして発射されたが、後半ではガマスに真っ二つに切られてしまう。 ; 水蒸気蒸発ミサイル{{Sfn|大辞典|2001|p=176}}{{efn|書籍によっては「水分蒸発ミサイル」と記述している{{R|画報上}}。}} : サボテンダーに使用。梶隊員が開発した、サボテンの弱点を考慮した水分を蒸発させる薬物を含有するロケット弾。 ; 超光速ミサイルNo.7{{R|UPM vol.1016}} : 第14話でマイナス宇宙にあるゴルゴダ星爆破に使われた2段式の強力ミサイル。TAC南太平洋国際本部によって設計されたもので、[[光速|光の速さ]]を超えてマイナス宇宙に突入することができる。2段目の「第1ロケット」にパイロットが搭乗して操縦を行う有人誘導弾{{R|画報上}}であり、目標直前で操縦ロケットを分離させ、1段目のミサイルのみを目標に命中させる。北斗が操縦を行うが、大気圏離脱時に分離装置に欠陥が生じる。最終的には、ゴルゴダ星へ到達する前にAのパンチレーザーで破壊された。 ; 大型空対地ミサイル : タックスペースからキングクラブに発射されたミサイル。 ; 超獣攻撃用大型ミサイル・タックV7(ブイセブン)ミサイル{{R|UPM vol.1016}} : Aに善戦したホタルンガを戦意喪失させたほど強力な威力で、直後にメタリウム光線を当てるという連携でAに勝利を齎した。輸送専用の大型コンテナトラックの屋根を開扉してカタパルトから発射した。なお、第25話でV9の存在が確認されたが、劇中には登場せず未使用に終わった。 ; 細胞破壊ミサイル・細胞破壊銃{{R|UPM vol.1016}} : 細胞破壊ミサイルは巨大なヒッポリト星人にタックファルコンから複数投下されたが、星人が立体映像を用いて姿を現していたため効果が無かった。細胞破壊銃は細胞破壊ミサイルの携帯用で、別名「タックブラスター」。エネルギー充填が半分の状態で使われたが、ヒッポリトカプセルを破壊した。 ; アロー空対空ミサイル : 山中隊員が竜隊長にジャンボキングへの発射を進言したが、下に市街地があるために却下された。 ; 窒素爆弾 : 身体を透明化していたキングクラブに投下された。酸素を遮断されたキングクラブを苦しませ、姿を可視化させる戦果をあげた{{efn|{{独自研究範囲|書籍『ウルトラ超兵器大図鑑』での「色素爆弾」の記述は間違い。|date=2022年7月}}}}。 ; 水中爆弾 : タックアローから湖に潜む[[ウルトラマンAの登場怪獣#夢幻超獣 ドリームギラス|ドリームギラス]]に投下したが、ドリームギラスは既にテレポートして雪夫少年のおねしょのシミの姿に戻った後だったため、効果が無かった。 ; 水中時限爆弾 : 北斗がドリームギラスが潜む湖の湖底に仕掛け、爆発のショックでおねしょのシミから再びドリームギラスを実像化させた。 ; 冷凍弾 : タックスペースからガスゲゴンに投下して一時的に冷凍させたが、すぐに解凍されて失敗に終わった。 ; シルバーシャーク{{R|UPM vol.1016}} : 一度はAを倒した[[ウルトラマンAの登場怪獣#火炎超獣 ファイヤーモンス|ファイヤーモンス]]を一撃で粉砕した「対超獣用の最強兵器」{{Sfn|兵器大図鑑|2006|p=39}}とされるレーザー砲で、タックジープに搭載して使った。対ガスゲゴン戦でも投入したが未使用に終わった。 :* 『ウルトラマンメビウス』では拡大改良型の'''シルバーシャークG'''が登場した。 ; ゴールデンホーク{{R|UPM vol.1016}} : オニデビルに大ダメージを与えた赤色連射光線砲{{R|画報上}}。タックスペースに搭載して使われた。 ; スペースミサイル{{R|UPM vol.1016}} : サボテンダー戦で用いられた超兵器。敵の攻撃力を一撃で大幅に低下させる。 ; 細胞分解ミサイル{{R|UPM vol.1016}} : ジャンボキングに対して使われたが無効で、逆に破壊された。ミサイルという名とは違い、実際は巨大なビーム砲{{R|UPM vol.1016}}である。 ; ガス中和剤{{R|UPM vol.1016}} : ガスゲゴンの放つガスへの引火を防ぐため、タックファルコンとタックアローから散布した。 ; 人工太陽光線{{R|UPM vol.1016}} : バラバの周囲を守る放射能の雨を浴びて重体になった北斗と南にTAC基地内の施設で照射し、回復させた。 ; 異次元突入装置{{R|UPM vol.1016}}{{efn|書籍によっては「次元移転装置」と記述している{{R|画報上}}。}} : 異次元に突入するための装置。梶隊員によると「[[メビウスの帯|メビウスの輪]]の原理を人間に当てはめる」という。北斗はこれで異次元への突入に成功した。 ; 投げ網作戦 : タックファルコンの機底から巨大ネットをジャンボキングに射出して絡め、タックアロー2機が超獣捕獲用ワイヤーで輸送しようとしたが失敗した。 ; ダイオードSPD : 親指ほどのサイズでガラス菅に素子が詰まり、[[トランジスタ]]1万個分の働きをする。本部にも1個しか存在しない。第11話に登場。 : これらの他にも劇中では[[狙撃銃]]、[[オートバイ]]{{R|UPM vol.1016}}、[[雪上車]]{{R|UPM vol.1016}}を使ったこともあった。 ; 地球防衛軍戦闘機{{R|UPM vol.1016}} : 第1話でベロクロンを倒すために20機ほどが出撃したが、全機撃墜された。以後もTACの支援のためにたびたび登場するが、すぐ撃墜される。外観は[[F-4 (戦闘機)|F-4ファントム]]だが、複座のオリジナルに対して単座である。 ; 新星号{{R|UPM vol.1016|マガジンVOL.323}} : 第6話に登場した日本初の有人宇宙船。TACがその初飛行の管制業務を担当するが、月から地球に帰還する際にヤプールに狙われて船内の温度が急上昇し、そのまま大気圏に突入した。その後はタックアローによって救助されたものの、TACから選ばれたパイロットの小山が[[ウルトラマンAの登場怪獣#変身超獣 ブロッケン|ブロッケン]]に憑依されてしまう。 === 施設 === ; 通信中枢施設 : 東京タワー内に設けられている施設で、本部や各支部との通信の要になっていると思われる。第1話でベロクロンにタワーごと破壊された。 ; TAC第3研究所{{R|UPM vol.1012}} : TACの新型ロケットエンジンの研究を行っているビル施設で、兵器開発研究員の梶によれば、その速さは光速に迫り四次元世界も覗ける可能性がある。第6話で、同ロケットのテストへの参画を打診されていた日本初の有人宇宙船「新星号」の小山パイロットに憑依していたブロッケンに破壊された。 ; TAC第3レーダー基地 : 第11話に登場。設備にダイオードSPDを採用して性能向上を図る予定だったが、ユニタングに破壊された。 ; TAC第2レーダー基地 : 東湖の湖畔にある。第11話でユニタングに破壊された。 ; TAC第1レーダー基地 : TAC本部のメインレーダー。 ; TAC基地発電所{{R|UPM vol.1012}} : 第22話に登場。極東本部基地で消費される、多量の電気を発電する。宇宙仮面が爆弾を仕掛けた。 ; シークレット・ロードNo.3{{R|UPM vol.1012}} : TAC第3レーダー基地にダイオードSPDを輸送する際にタックパンサーで通った、各施設と極東本部を繋ぐTAC専用地下トンネルの高速道路。空路では危険だと判断されて使われた。しかしヤプールには容易に潜入されたこともある。 ; 霞峠工場{{R|UPM vol.1012}} : 第17話でV7ミサイルを開発していたTAC兵器工場。TAC本部とは、ほたるヶ原バイパスで結ばれている。「TAC SR-7 KASUMITOGE CENTER」なる名義の山間の地下トンネルから車両が出入りできる。 ; 宇宙ステーションNo.5 : 第32話の冒頭にて美川隊員のセリフの中に登場したTACの[[宇宙ステーション]]であり、外見は登場しなかった。衛星軌道上に浮かんでいたが、コオクスの宇宙船に破壊された。 ; ジュピター2号{{R|UPM vol.1012}} : TACの[[地球観測衛星|大気観測衛星]]。第45話でガス状生物にガスゲゴンの卵を植え付けられ、ガスゲゴンに同化されて消息を絶った後、ガスタンク地帯に落下した。 == 放映リスト == * 各怪獣(超獣)の詳細は「[[ウルトラマンAの登場怪獣]]」を参照。 * 視聴率はビデオリサーチ調べ(関東地区)。 {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:95%" !話数!!サブタイトル!!登場怪獣・宇宙人!!脚本!!監督!!特殊技術!!放送日!!視聴率 |- |1||輝け!ウルトラ五兄弟{{efn|準備稿では「緑の星に生まれた子よ!」{{R|TVMAGA超898}}。}} |style="left"|ベロクロン |市川森一 |rowspan="2"|{{Plainlist| * 筧正典 * 満田かずほ }} |rowspan="4"|佐川和夫 |'''1972年'''<br />4月7日||28.8% |- |2||大超獣を越えてゆけ! |style="left"|カメレキング |上原正三 |4月14日||22.6% |- |3||燃えろ!超獣地獄 |style="left"|バキシム |田口成光 |rowspan="2"|山際永三 |4月21日||17.8% |- |4||3億年超獣出現! |style="left"|ガラン |市川森一 |4月28日||16.2% |- |5||大蟻超獣対ウルトラ兄弟 |style="left"|{{Plainlist| * ギロン人 * アリブンタ }} |上原正三 |rowspan="2"|真船禎 |rowspan="2"|大平隆 |5月5日||17.6% |- |6||変身超獣の謎を追え! |style="left"|ブロッケン |田口成光 |5月12日||17.4% |- |7||怪獣対超獣対宇宙人 |style="left" rowspan="2"|{{Plainlist| * ドラゴリー * メトロン星人Jr. * ムルチ(2代目) }} |市川森一 |rowspan="2"|筧正典 |rowspan="2"|佐川和夫 |5月19日||18.3% |- |8||太陽の命 エースの命 |上原正三 |5月26日||19.9% |- |9||超獣10万匹!奇襲計画 |style="left"|ガマス |市川森一 |rowspan="2"|山際永三 |rowspan="2"|田淵吉男 |6月2日||16.8% |- |10||決戦!エース対郷秀樹 |style="left"|{{Plainlist| * ザイゴン * アンチラ星人 }} |田口成光 |6月9日||16.6% |- |11||超獣は10人の女? |style="left"|ユニタング |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="2"|平野一夫 |rowspan="4"|佐川和夫 |6月16日||17.2% |- |12||サボテン地獄の赤い花 |style="left"|サボテンダー |6月23日||14.5% |- |13||死刑!ウルトラ5兄弟 |style="left"|バラバ |田口成光 |rowspan="2"|吉野安雄 |6月30日||18.0% |- |14||銀河に散った5つの星 |style="left"|{{Plainlist| * バラバ * エースキラー * エースロボット }} |市川森一 |7月7日||17.1% |- |15||夏の怪奇シリーズ<br />黒い蟹の呪い |style="left"|キングクラブ |田口成光 |rowspan="2"|山際永三 |rowspan="2"|田淵吉男 |7月14日||18.3% |- |16||夏の怪奇シリーズ<br />怪談・牛神男 |style="left"|{{Plainlist| * カウラ * 牛神男 }} |石堂淑朗 |7月21日||18.0% |- |17||夏の怪奇シリーズ<br />怪談 ほたるヶ原の鬼女 |style="left"|{{Plainlist| * ホタルンガ * 鬼女 }} |上原正三 |rowspan="2"|真船禎 |rowspan="2"|高野宏一 |7月28日||14.7% |- |18||鳩を返せ! |style="left"|ブラックピジョン |田口成光 |8月4日||14.3% |- |19||河童屋敷の謎 |style="left"|{{Plainlist| * キングカッパー * アンドロイド }} |斎藤正夫 |rowspan="2"|筧正典 |rowspan="2"|佐川和夫 |8月11日||16.1% |- |20||青春の星 ふたりの星 |style="left"|ゼミストラー |田口成光 |8月18日||15.3% |- |21||天女の幻を見た! |style="left"|{{Plainlist| * アプラサール * 天女アプラサ }} |石堂淑朗 |rowspan="2"|山際永三 |rowspan="2"|川北紘一 |8月25日||15.6% |- |22||復讐鬼ヤプール |style="left"|{{Plainlist| * ブラックサタン * 宇宙仮面 }} |上原正三 |9月1日||16.7% |- |23||逆転!ゾフィ只今参上{{efn|準備稿では「セブンよ異次元へ飛べ!」<ref>「ウルトラマン創世記展 ーウルトラQ誕生からウルトラマン80へー」([[2012年]])p94</ref>}} |style="left"|{{Plainlist| * 巨大ヤプール * ヤプール老人 }} |真船禎 |rowspan="2"|真船禎 |rowspan="2"|高野宏一 |9月8日||19.9% |- |24||見よ!真夜中の大変身 |style="left"|{{Plainlist| * マザリュース * マザロン人 * 妖女 }} |{{Plainlist| * 平野一夫 * 真船禎 }} |9月15日||20.3% |- |25||ピラミットは超獣の巣だ!{{efn|オープニングの表記に従えば「'''ピラミット'''」。劇中のセリフでは「'''[[ピラミッド]]'''」になっている。関連書籍では「ピラミッド」と記載しているものもある{{Sfn|白書|1982|p=175|loc=ウルトラマンA作品リスト}}。}} |style="left"|{{Plainlist| * スフィンクス * オリオン星人 }} |斎藤正夫 |rowspan="3"|筧正典 |rowspan="3"|川北紘一 |9月22日||18.5% |- |26||全滅!ウルトラ5兄弟 |style="left" rowspan="2"|ヒッポリト星人 |rowspan="2"|田口成光 |9月29日||22.8% |- |27||奇跡!ウルトラの父 |10月6日||26.3% |- style="height:3.2em" |28||さようなら夕子よ、月の妹よ |style="left"|ルナチクス |石堂淑朗 |rowspan="2"|山際永三 |rowspan="2"|佐川和夫 |10月13日||22.2% |- |29||ウルトラ6番目の弟 |style="left"|{{Plainlist| * ギタギタンガ * アングラモン }} |長坂秀佳 |10月20日||23.6% |- style="height:3.2em" |30||きみにも見えるウルトラの星 |style="left"|レッドジャック |田口成光 |rowspan="2"|岡村精 |rowspan="2"|川北紘一 |10月27日||20.5% |- |31||セブンからエースの手に |style="left"|バクタリ |山田正弘 |11月3日||20.0% |- style="height:3.2em" |32||ウルトラの星に祈りを込めて |style="left"|コオクス |田口成光 |rowspan="2"|筧正典 |rowspan="2"|佐川和夫 |11月10日||22.8% |- style="height:3.2em" |33||あの気球船を撃て! |style="left"|バッドバアロン |石堂淑朗 |11月17日||20.7% |- style="height:3.2em" |34||海の虹に超獣が踊る |style="left"|カイテイガガン |長坂秀佳 |志村広 |rowspan="2"|高野宏一 |11月24日||20.3% |- |35||ゾフィからの贈りもの |style="left"|ドリームギラス |久保田圭司 |古川卓己 |12月1日||22.6% |- style="height:3.2em" |36||この超獣10,000ホーン? |style="left"|サウンドギラー |長坂秀佳 |rowspan="2"|筧正典 |rowspan="2"|川北紘一 |12月8日||19.0% |- style="height:3.2em" |37||友情の星よ永遠に |style="left"|マッハレス |石森史郎 |12月15日||18.3% |- |38||復活!ウルトラの父 |style="left"|{{Plainlist| * スノーギラン * ナマハゲ }} |石堂淑朗 |rowspan="2"|山際永三 |rowspan="2"|高野宏一 |12月22日||20.8% |- |39||セブンの命!エースの命! |style="left"|{{Plainlist| * ファイヤーモンス * ファイヤー星人 }} |rowspan="2"|田口成光 |12月29日||19.3% |- |40||パンダを返して! |style="left"|スチール星人 |rowspan="2"|鈴木俊継 |rowspan="2"|川北紘一 |'''1973年'''<br />1月5日||16.2% |- |41||冬の怪奇シリーズ<br />怪談!!獅子太鼓 |style="left"|{{Plainlist| * シシゴラン * カイマンダ * 邪神カイマ }} |石堂淑朗 |1月12日||17.1% |- |42||冬の怪奇シリーズ<br />神秘!怪獣ウーの復活 |style="left"|{{Plainlist| * アイスロン * ウー(2代目) }} |田口成光 |rowspan="2"|上野英隆 |rowspan="2"|高野宏一 |1月19日||17.3% |- |43||冬の怪奇シリーズ<br />怪談 雪男の叫び! |style="left"|フブギララ |石堂淑朗 |1月26日||16.7% |- |44||節分怪談!光る豆 |style="left"|オニデビル |石森史郎 |rowspan="2"|筧正典 |rowspan="2"|佐川和夫 |2月2日||17.3% |- style="height:3.2em" |45|||大ピンチ!エースを救え! |style="left"|ガスゲゴン |rowspan="2"|石堂淑朗 |2月9日||19.2% |- style="height:3.2em" |46||タイムマシンを乗り越えろ! |style="left"|ダイダラホーシ |rowspan="2"|古川卓己 |rowspan="4"|田淵吉男 |2月16日||17.1% |- |47||山椒魚の呪い! |style="left"|ハンザギラン |{{Plainlist| * 石堂淑朗 * 山元清多 }} |2月23日||19.4% |- |48||ベロクロンの復讐 |style="left"|{{Plainlist| * ベロクロン二世 * 女ヤプール }} |市川森一 |rowspan="2"|菊池昭康 |3月2日||18.2% |- |49||空飛ぶクラゲ |style="left"|{{Plainlist| * アクエリウス * ユニバーラゲス }} |rowspan="3"|石堂淑朗 |3月9日||14.3% |- |50||東京大混乱!狂った信号 |style="left"|{{Plainlist| * シグナリオン * レボール星人 }} |深沢清澄 |神沢信一 |3月16日||16.2% |- style="height:3.2em" |51||命を吸う音 |style="left"|ギーゴン |rowspan="2"|筧正典 |rowspan="2"|高野宏一 |3月23日||14.8% |- |52||明日のエースは君だ! |style="left"|{{Plainlist| * ジャンボキング * サイモン星人(ヤプール) }} |市川森一 |3月30日||19.1% |} == スタッフ == * 監修{{efn|name="no"}}:[[円谷一]] * プロデューサー:[[熊谷健]]、伊藤久夫(円谷プロダクション)、[[橋本洋二 (プロデューサー)|橋本洋二]](TBS) * 制作担当:関口孝、伊藤久夫、薮本和男 * 脚本:[[市川森一]]、[[上原正三]]、[[田口成光]]、[[石堂淑朗]]、斉藤正夫、[[真船禎]]、平野一夫、[[長坂秀佳]]、[[山田正弘]]、久保田圭司、[[石森史郎]]、[[山元清多]] * 監督(本編):[[筧正典]]、[[満田かずほ]]、[[山際永三]]、真船禎、平野一夫、吉野安雄、岡村精、志村広、[[古川卓巳|古川卓己]]、[[鈴木俊継]]、上野英隆、菊池昭康、深沢清澄 * 監督(特殊技術):[[高野宏一]]、[[佐川和夫]]、[[川北紘一]]、田渕吉男、大平隆、[[神沢信一|神澤信一]] * 撮影(本編):[[小泉一]]、[[逢沢譲]]、椎塚彰、中町武、長谷川元吉、内山五郎 * 撮影(特撮):[[山本武 (撮影監督)|山本武]]、[[鶴見孝夫]]、長谷川光広、向井賢哉 * 照明(本編):北沢保夫、上島忠宣 * 照明(特撮):森本正邦、広沢賢次、大口良雄、棚網恒雄、宮川清、出竹秀夫、高橋保夫 * 美術(本編):[[鈴木儀雄]] * 美術(特撮):[[井口昭彦|高橋昭彦]]、[[青木利郎]] ** オープニングでは未クレジットだが、初期のベロクロン、バキシム、ギロン人に限り[[東宝]]で[[大怪獣バラン|バラン]]などを手がけた[[村瀬継蔵]]主宰の[[ツエニー]]が着ぐるみの造形を担当{{R|村瀬267}}。それ以外は[[開米栄三]]主宰の開米プロダクションが担当している。 * 操演:[[松本光司 (操演技師)|松本光司]]、小川昭二、小川誠 * 特殊効果:[[渡辺忠昭]]、[[久米攻]]、関山和昭 * 光学撮影:[[宮西武史]]、真野田嘉一、[[土井三郎]] * タイトル:[[中野稔]] * 光学作画:川名正、[[石井義雄]]、塚田猛昭 * 編集:小倉昭夫、船沢昌介、白江隆夫、[[小川信夫]]、[[田村嘉男]]、小堀治郎 * 助監督(本編):岡村精、菊池昭康、大内健二、石黒力 * 助監督(特撮):川北紘一、田渕吉男、神沢信一、鈴木義昭 * 監督助手:大内健二、石山禎久、石山禎二、竹安正嗣{{efn|当初は別の人物がサード助監督を担当していたが、撮影開始から2、3週間経ったころに突如として失踪したため、北斗役の高峰の友人であった竹安がサード助監督として急遽就くことになったという{{R|UPM vol.1018}}。}}、石黒力 * 音楽:[[蒔田尚昊|冬木透]] * 劇画:[[林ひさお]](第4話){{efn|久里虫太郎が描く漫画を担当{{R|UPM vol.102}}。}} * 協力:東宝録音センター、[[東宝効果集団]]、[[東京現像所]] * 制作協力:[[東宝映像美術|東宝映像株式会社]]、[[東京映画]]{{efn|name="no"}} * 制作:円谷プロダクション、TBS == 出演者 == === レギュラー出演者 === * 北斗星司:[[高峰圭二]] * 南夕子:[[星光子]](第1 - 28・38・52話){{efn|元々、関かおりが南夕子を演じる予定だったが、クランクイン直後に関が個人的な劇団のバレエの練習中に足を骨折したため撮影できなくなり降板。急遽代役のオーディションを実施して星が選ばれた。番組は関の骨折前に第2話までの撮影はほとんど撮り終えており、第2話までの南隊員登場シーン部分を星の演技で改めて撮り直した{{R|UPM vol.1018}}。円谷プロには関が南を演じたAのフィルムや番宣用のスチール写真が残されている{{Refnest|group="出典"|{{R|白書86|UPM vol.104|HISTORICA24}}}}。なお、関は回復後、第7・8話(第8話は回想場面のみ)で高階マヤ役でゲスト出演している{{R|TVMAGA超898}}。そのほかでは[[林由里]]も南夕子の候補者の一人だったという{{R|白書89}}。}} * 竜隊長:[[瑳川哲朗]] * 山中一郎:[[沖田駿一郎|沖田駿一]] * 今野勉:[[山本正明]] * 美川のり子:[[西恵子]]{{efn|美川隊員が私服で登場するシーンの衣装は全て西の私服で、いずれも縫製の仕事をしていた西の父親が作ったものとのこと<ref>週刊ウルトラマン オフィシャルデータファイル 第56号 P.31</ref>。}} * 吉村公三:[[佐野光洋]]{{efn|企画の時点では佐野が北斗星司役の候補の1人として名があがっていた{{R|白書89}}。}} * 梶洋一:[[中山克己]]{{efn|企画の時点では中山が吉村隊員役の候補の1人として名があがっていた{{R|白書89}}。}}(第1 - 3・5 - 14・16 - 27・31話) * 梅津ダン:[[梅津昭典]](第29 - 43話) * 梅津香代子:宮野リエ(第29 - 43話) * ナレーター:[[岸田森]] === 主なゲスト出演者 === * 地球防衛軍隊長(第1話):[[幸田宗丸]] * TAC通信隊員(第2・7・8話):[[鹿島信哉]]{{efn|第3話にもクレジットされているが、出演していない。}}{{efn|第7・8話はノンクレジット。}} * 警官(第2話):金子富士雄、[[北川陽一郎]] * トラック運転手(第2話):田中力 * 工事現場作業員(第2話):[[畠山麦]] {{efn|name="no"}} * 中森四郎 / バキシム(第3話):[[高橋仁]] {{efn|name="no"}} * 四郎の祖父母(第3話):[[田武謙三]]、[[小峰千代子]] * 久里虫太郎(第4話):[[清水綋治]] * 小山彰(第6話):[[小林昭二]] * 小山敦(第6話):[[斎藤信也]] * 高階マヤ(第7・8話):[[関かおり]] * 鈴木医師(第8話):[[筈見純]] * 鮫島純子(第9話):[[江夏夕子]] * 早瀬(第9話):[[草野大悟]] * にせ郷秀樹 / アンチラ星人(第10話):[[団時朗|団次郎]] * 坂田次郎(第10話):[[川口英樹]] * 村野ルミ子(第10話):[[岩崎和子]] * アヤ(第11話):美波節子 * 女子大生(第11話):香川リサ、夏川圭 * 佐田刑事(第12話):[[桜木健一]]{{efn|name="第12話ゲスト"|当時、高峰圭二と同じ事務所で友人の桜木健一と近藤正臣は高峰の応援のため、特別出演という形で出演した。人気絶頂の桜木と近藤に正規のギャランティを支払うと製作費に大幅にアシが出てしまうため、事実上ノーギャランティの友情出演だった。}} * 岸田博士(第12話):[[近藤正臣]]{{efn|name="第12話ゲスト"}} * 荒谷三郎(第12話):佐藤一臣 * 三郎の父(第12話):[[高品格]] * 校長(第12話):[[天草四郎 (俳優)|天草四郎]] * 大山(第12話):[[大村千吉]] * アベック(第12話):[[赤塚真人]]、宮野リエ(特別出演){{efn|name="no"}} * 一郎(第13話):根津雅彦 * 昭二(第13・14話):染谷利貴 * 高倉司令官(第14話):[[山形勲]] * 夢二(第15話):及一元次郎 * ユミコ(第15話):宇野三都子 * 高井(第16話):[[蟹江敬三]] * 吉村タツ(第16話):[[磯村千花子]] * オリーブマノン化粧品社長(第16話):[[守田比呂也]] * 謎の僧(第16話):土方弘 * 民子(第17話):野島ちかえ * 民子の父(第17話):[[林昭夫]] * 坂上三郎(第18話):藤原規晃 * 三郎の母(第18話):[[石井トミコ|石井富子]] * 安夫(第19話):野島千照 * 安夫の姉(第19話):渡辺千鶴子 * 安夫姉弟の母(第19話):福田トヨ * 医師(第19話):[[松尾文人]] {{efn|name="no"}} * 春山夫妻(アンドロイド夫妻)(第19話):[[細川俊夫 (俳優)|細川俊夫]]、坂田純子 * 篠田一郎(第20話):[[篠田三郎]] * 天女アプラサ(第21話):[[瞳順子|三景順子]] * シンイチ(第21話):[[松坂雅治]] * 坂井次郎 / 宇宙仮面(第22話):[[富川澈夫]] * 幼稚園の先生(第22話):岸井あや子 * ヤプール老人(第23・24話):[[大木正司]] * 早川よし子(第24話):[[岩本多代]] * 早川健太(第24話):紺野英樹 * オリオン星人ミチル(第25話):田所陽子 * 医師(第25話):北川陽一郎 * タクシー運転手(ヒロシの父)(第26話):田中力 * 坂本ヒロシ(第26・27話):[[西脇政敏]] * ヒロシの姉(第26・27話):[[朝比奈順子|小早川純]] * 梅津正嗣(第29話):[[相原巨典]] {{efn|写真出演。}} * 巡査(第30話):[[大泉滉]] * ミオ(第31話):[[戸川京子]] * 貘山(バクおじさん)(第31話):[[本郷淳]] * テレビレポーター(第31話):[[辻三太郎|辻しげる]] * TAC本部司令(第31話):[[増田順司|増田順二]] * 飼育係(第31話):[[樋浦勉]] * 星野アキラ / コオクス(第32話):[[高橋仁]] * 大介(第33話):吉村景文 * 大介の母(第33話):[[小園蓉子]] * 教育ママ(第33話):[[塩沢とき]] * 浜ユウジ(第34話):[[佐藤賢司]] * 浜波子(第34話):[[丘野かおり|山田圭子]] * 浅倉雪夫(第35話):西脇政敏 * 雪夫の母(第35話):[[浅茅しのぶ]] * 俊平(第36話):[[小沢直平]] * マチコ(第36話):[[佐伯美奈子]] * 加島(第37話):[[ジャニーズ (グループ)|真家宏満]]{{efn|クレジットは、まいえ宏満。}} * 真弓(第37話):三笠すみれ * 加島の部下(第37話):三上剛 * サンタクロース / ウルトラの父(第38話):[[玉川伊佐男]] * ユカリ(第38話):[[八代順子]] * 梅津三郎 / ファイヤー星人(第39話):[[片岡五郎]] * 黒マントの男 / スチール星人(第40話):大村千吉 * パンダ堂店長(第40話):[[横山あきお|青空あきお]] * モトコ(第40話):中沢祥枝 * 新太の父(第41話):[[堺左千夫]] * 新太(第41話):神田一郎 * 小雪(第42話):雨宮由美 * 良平(第42話):北川陽一郎 * 小雪の祖父(第42話):[[小栗一也]] * 乞食仙人(第43話):[[大泉滉]] * 一郎(第44話):小池正史 * 敬愛園の先生(第44話):[[中田喜子]] * 医師(第44話):山田禅二 * ユタカ(第45話):石井秀人 * ユタカの父(第45話):小高まさる * ガス会社主任(第45話):[[石山勝巳|石山克巳]] * 春木博士(第46話):五島雅博 * 坂上サユリ(第47話):西村ひろみ * サユリの祖父(第47話):[[巖金四郎|巌金四郎]] * Q歯科医 / 女ヤプール(第48話):[[高月毬子|高毬子]] * 神の使い / アクエリウス(第49話):広瀬隆子 * 熊吉(第49話):[[高松しげお]] * 村人(第49話):[[畠山麦]]、[[春風亭梅橋|柳亭小痴楽]] * 小川ユキ(第50話):[[新山真弓|笛真弓]] {{efn|「荒巻啓子」と誤クレジット。}} * 警官(第50話):[[辻村真人]]、古川義範 * 地下作業員 / レボール星人(第50話):[[きくち英一|菊池英一]](声も担当)、[[遠矢孝信]]{{efn|name="no"}} * 北沢春男(第51話):田中秀門 * 春男の母(第51話):蔵悦子 * 内山バイオリン教室の先生(第51話):[[蒔田尚昊|冬木透]]{{efn|[[カメオ出演]]。}} * タケシ(第52話):紺野秀樹 * ススム(第52話):高橋仁 * 三郎(第52話):柳下達彦 === 声の出演 === ※全てノンクレジット * ウルトラマンA:[[納谷悟朗]] * ヤプール人:[[高田拓土彦|高田裕史]]{{Sfn|円谷画報|2013|p=216}}{{efn|第2話のみ役名なしでクレジット。}} * ギロン人:[[沢りつお]](第5話) * アンチラ星人:高田裕史(第10話) * ゾフィー:[[阪脩]](第5・35話)、[[市川治]](第13・14話)、[[山下啓介]](第23話) * ウルトラマン:辻村真人(第13・14話) * ウルトラセブン:[[池水通洋]](第13・14・39・44話)、阪脩(第31話) * ウルトラマン二世(帰ってきたウルトラマン):山下啓介(第13・14話) * 大蟹:辻村真人(第15話) * マザロン人:沢りつお(第24話) * オリオン星人:辻村真人(第25話) * ヒッポリト星人:[[谷津勲]](第26・27話) * ウルトラの父:[[梶哲也]](第26話) * アングラモン:阪脩(第29話) * ナマハゲ:沢りつお(第38話) * スチール星人:[[杉田俊也]](第40話) * 水瓶座第三星人:市川治(第49話) === スーツアクター === * ウルトラマンA:中西正(第1・2話)、武内正治(第3 - 52話) * 超獣・宇宙人:[[河合徹]](第1 - 12・25 - 39・41 - 47話){{efn|第1・2話では「河井徹」とクレジット。第41話では「阿合徹」と誤クレジット。}}、図師勲(第13 - 24話)、[[久須美欽一|久須美護]](第40・41話)、高泰司(第42話のみ)、矢島登喜男(第48 - 52話){{efn|第48 - 50話では「八島登喜夫」とクレジット。}}ほか * 初代ウルトラマン:久須美護(第1話){{R|超獣事典}} * 帰ってきたウルトラマン:[[きくち英一]](第1話){{R|超獣事典}} == 放送局 == * TBS:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"|放送当時のポスターに明記されてある局<ref>{{Cite book|和書|year=1995-09|title=不滅のヒーロー ウルトラマン白書|volume=4|page=204|publisher=[[朝日ソノラマ]]|series=宇宙船別冊|ISBN=4-257-03450-5}}</ref>}} * [[北海道放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[青森テレビ]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}{{R|k7284}} * [[IBC岩手放送|岩手放送]]:金曜 18:00 - 18:30{{R|k7284}} * [[秋田放送]]:月曜 18:00 - 18:30<ref>『河北新報』1972年8月7日 - 8月28日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山形放送]]:金曜 17:30 - 18:00{{R|k7284}} * [[東北放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}{{R|f7247}} * [[福島テレビ]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}{{R|f7247}} * [[新潟放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}<ref>『[[北國新聞]]』1972年6月9日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[信越放送]]:火曜 18:00 - 18:30<ref>『信濃毎日新聞』1973年1月16日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[静岡放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[富山テレビ放送|富山テレビ]]:月曜 - 金曜 18:00 - 18:30(1973年9月11日から11月21日まで放送)<ref>『北國新聞』1973年9月11日 - 11月21日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[北陸放送]]:水曜 18:00 - 18:30<ref>『北國新聞』1972年6月7日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福井放送]]:木曜 18:00 - 18:30<ref>『北國新聞』1972年6月8日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[CBCテレビ|中部日本放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}<ref>『[[北日本新聞]]』1972年4月7日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[朝日放送テレビ|朝日放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[RSKテレビ|山陽放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[中国放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[山陰放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[テレビ山口]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[テレビ高知]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[RKB毎日放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} * [[宮崎放送]]:木曜 18:00 - 18:30 * [[琉球放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}} == 音楽 == === 主題歌 === ; 「ウルトラマンエース」 :* 作詞:[[円谷一|東京一]] / 作曲・編曲:[[ハニー・ナイツ#メンバー|葵まさひこ]] / 歌:[[ハニー・ナイツ]]、みすず児童合唱団<ref name=e>主題歌のオリジナル原盤を制作した[[EMIミュージック・ジャパン|東芝音楽工業]]の表記による。「少年少女合唱団みずうみ」表記になるのは原盤がフリーになった1984年以降。CD「TV特撮ヒーロー・グレイテストヒッツ」解説書を参照。</ref> : 当初は「'''ウルトラエース'''」のタイトルで準備されていたが、作品タイトルが変更になったことを受けて歌詞も変更された。テレビサイズではサビが2度繰り返されるため、レコード用フルサイズにはない歌詞が含まれている。 : 当初は北斗星司と南夕子を演じる役者が歌う予定だった{{efn|高峰圭二が[[WOWOW]]の『君こそエースだ! ウルトラマンAの魅力』で証言{{出典無効|date=2020年5月}}。}}。 : 歌詞には「北斗と南」というフレーズが含まれているが、南が月へ去った第29話以降も変更されていない。 : オープニング映像には[[シルエット]]が使用されているが、登場するシルエットは一貫して本作品以前のウルトラシリーズに登場する怪獣・宇宙人であり、本作品に登場する超獣・怪獣・宇宙人は1体も登場せず、またAやTAC関連も登場していない。 : 第36話と第43話のAの戦闘シーンに主題歌が挿入歌として使用されているが、使用された音源はアサヒソノラマレコードから出されたカバー版である(ボーカルショップ、ソノラマ児童合唱団による歌唱)。 === 挿入歌 === ; 「TACの歌」 : 作詞:東京一 / 作曲・編曲:[[蒔田尚昊|冬木透]] / 歌:ハニー・ナイツ、みすず児童合唱団{{R|e}} : マーチ調。本編中ではカラオケに金管メロディーと[[ワンダバ]]コーラス(男声スキャット)を被せたものや、弦がメロディを奏でる間奏部分を編集したものが使用された{{efn|円谷一に「ワンダバみたいな曲」を作ってほしいと頼まれて作りはしたものの、当時の冬木は「二番煎じだからツーダバ」と自虐的に呼んでいた。しかし、後年になって「自分はワンダバという新ジャンルを作った」と思い直すようになったという。なお、劇中で使用された男声スキャット版(歌詞なし)はフルコーラス録音だったために歌手の声が嗄れてしまうという理由から、4人ずつの2チームが交代で歌った。また、コールゼール・[[少年少女合唱団みずうみ]]のバージョン(ワンダバスキャット版)も存在する。}}。<!--なお、歴代ワンダバコーラスの中で唯一歌詞が付いて歌になっている曲である。(『ウルトラマンダイナ』の「Take off!! スーパーGUTS」にも歌詞アリ版と歌詞ナシ版がありますが?「TACのワンダバ一週間」は歌詞アリ版しかないのでワンダバコーラスのうちに入らない?)--> : ; 「TACの一週間」(「TACのワンダバ一週間」<ref>[https://www.joysound.com/web/search/song/296633 TACのワンダバ一週間/エース・メンネン・コール] - JOYSOUND.com</ref>) : 作詞:東京一 / 作曲・編曲:冬木透 / 歌:エース・メンネン・コール : BGMと同時に録音されていたが、商品化は1979年になってからであった。 上記のほか、第5話の挿入歌として上原正三が台本に記した歌詞をもとに「'''ゾフィのバラード'''」(「'''ゾフィーのバラード'''」<ref>[https://columbia.jp/prod-info/COCX-38104-10/ 円谷プロダクション 創立50周年記念円谷プロの世界II☆ULTRA ANTHOLOGY☆1966~2013] - 日本コロムビア</ref>)が作曲され、BGM録音の際にレコード化を前提としたステレオでコーラス入りのカラオケが用意されたが、ボーカルは録音されなかった。同時に録音されたメロディー入りの音源のみが、第5話でゾフィーが帰還する場面や第28話で夕子が月へ帰還する場面などで使われている。また、Aの戦闘テーマも歌唱を想定して編成を変えた音源が、本篇使用曲とは別にステレオで録音されている。いずれも1992年に[[水木一郎]]の歌唱が新規に録音され、ようやく完成した。 * 第11話では、[[ウルトラマンAの登場怪獣#くの一超獣 ユニタング|ユニタング]]の化身である女子大生たちが、[[平田隆夫とセルスターズ]]の「[[ハチのムサシは死んだのさ]]」を歌う。 * 第23話では、[[ヤプール人#ヤプール老人|ヤプール老人]]が子供たちを洗脳する際、[[ハナ肇とクレイジーキャッツ]]の「学生節」の替え歌を歌う。 == 他媒体展開 == === 他テレビシリーズ === ; 『[[ウルトラマンタロウ]]』 : 本作品からウルトラマンA / 北斗星司や南夕子が登場。 ; 『[[ウルトラマンレオ]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 ; 『[[ウルトラマンボーイのウルころ]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 ; 『[[ウルトラマンメビウス]]』 : 本作品からウルトラマンA / 北斗星司や南夕子が登場。 ; 『[[ウルトラマンZ]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 === 映画作品 === ; 『ウルトラマンA 大蟻超獣対ウルトラ兄弟』(1989年4月28日、[[東宝]]) : 「ウルトラマン大会」にてテレビシリーズ第5話のブローアップを『[[ウルトラマンUSA]]』と『[[ウルトラマン#映画|ウルトラマン 恐怖のルート87]]』、『[[ウルトラマンキッズ]]』の併映で公開{{R|UPM vol.1035}}。 ; 『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 ; 『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 ; 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』 : 本作品からウルトラマンA / 北斗星司が登場。 ; 『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』 : 本作品からウルトラマンA / 北斗星司や南夕子が登場{{efn|name="ウルトラハッキョウ"}}。 ;『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 ; 『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 ; 『[[ウルトラマンサーガ]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 === オリジナルビデオ === ; 『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』 : 本作品からウルトラマンAが登場。 === 漫画作品 === ; [[別冊少年サンデー]] :* 1972年6月号 - 1973年3月号 [[蛭田充]] :{| class="wikitable" |- !掲載号!!サブタイトル |- ||1972年6月号 ||超獣ベロクロンの巻 |- ||1972年7月号 ||超獣ザイゴンの巻 |- ||1972年8月号 ||超獣バラバの巻 |- ||1972年9月号 ||超獣キングカッパーの巻 |- ||1972年10月号 ||対決!マザリュースの巻 |- ||1972年11月号 ||超獣ルナチクスの巻 |- ||1972年12月号 ||さようなら、南夕子隊員の巻 |- ||1973年1月号 ||迫りくる超獣の巻 |- ||1973年2月号 ||恐怖の超獣バッドバアロンの巻 |- ||1973年3月号 ||さようなら、北斗星司隊員 さようなら、ウルトラマンAの巻 |- |} : ; [[よいこ (雑誌)|よいこ]] :* 1972年5月号 - 8月号 [[久松文雄]] ; [[幼稚園]] :* 1972年5月号 - 9月号 久松文雄 ; [[小学一年生]] :* 1972年5月号 - 9月号 [[中城けんたろう]] :* 1972年10月号 - 11月号 [[馬場秀夫]] :* 1972年12月号 - 1973年3月号 [[森義一]] ; 小学二年生 :* 1972年5月号 - 1973年3月号 [[内山まもる]] :{| class="wikitable" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪獣 |- ||1972年5月号 ||輝け!ウルトラ5兄弟 ||ミサイル超獣ベロクロン、古代超獣カメレキング |- ||1972年6月号 ||変身超獣の謎を追え! ||変身超獣ブロッケン |- ||1972年7月号 ||二次元超獣の奇襲! ||忍者超獣ガマス |- ||1972年8月号 ||死刑!ウルトラ5兄弟 ||殺し屋超獣バラバ、異次元超人エースキラー |- ||1972年9月号 ||鳩を返せ! ||大鳩超獣ブラックピジョン |- ||1972年9月増刊号 ||ウルトラ5兄弟たいヤプール人 ||{{hlist-comma|殺し屋超獣バラバ、異次元超人エースキラー、ゼットン、キングジョー、ベムスター、ブラックキング}} |- ||1972年10月号 ||復讐鬼ヤプール ||凶悪超獣ブラックサタン、銀星人宇宙仮面 |- ||1972年11月号 ||全滅!ウルトラ5兄弟 ||地獄星人ヒッポリト星人 |- ||1972年12月号 ||ウルトラの星に祈りをこめて ||超獣人間コオクス |- ||1973年1月号 ||この超獣10,000ホーン ||超獣サウンドギラー |- ||1973年1月増刊号 ||怪獣はか場のけっとう ||地獄星人ヒッポリト星人、異次元超人巨大ヤプール |- ||1973年2月号 ||神秘!怪獣ウーの復活 ||{{hlist-comma|火炎超獣ファイヤーモンス、雪女怪獣スノーゴン、伝説怪獣ウー(二代目)}} |- ||1973年3月号 ||大超獣最後の逆襲! ||ミサイル超獣ベロクロン |- |} : ; 小学三年生 :* 1972年5月号 - 1973年3月号 [[林ひさお]] ; 小学四年生 :* 1972年5月号 - 1973年3月号 [[ダイナマイト鉄|斉藤ゆずる]] ; 小学五年生 :* 1972年5月号 - 1973年3月号 [[森藤よしひろ]] ; 小学六年生 :* 1972年5月号 - 1973年3月号 森藤よしひろ ; 小学館BOOK :* 1972年5月号 - 1973年3月号 林ひさお ; [[COMIC'S★ウルトラ大全集]] :* ウルトラマンA Vol.1 迷宮世界からの脱出 脚本:親道義親、作画:[[松久由宇|松久壽仁]]{{efn|作品執筆時は松久由宇名義。}} :** リム出版社の倒産により全集では未刊行、後に[[双葉社]]アクションコミックスで刊行。 === 映像ソフト化 === * DVDは[[デジタルウルトラシリーズ]](発売元:デジタルウルトラプロジェクト、販売元:[[ビクターエンタテインメント]])として、2004年7月23日から同年11月26日に発売。全13巻で各巻4話収録。1 - 4巻、5以降は3巻ずつ同時発売。 ** その後、ウルトラ1800シリーズ(発売元:円谷プロダクション、販売元:[[バンダイビジュアル]])として、2010年12月22日にはコンプリートDVD-BOX(本編ディスク13枚+特典ディスク1枚)が発売、同じウルトラ1800シリーズで前出のDVDのスペシャルプライス版が2010年12月から2011年4月にかけて発売された<ref>[http://m-78.jp/ultra1800/ ウルトラ1800] 円谷プロダクション公式WEBサイト。ただし、本来Vol.10 - 13は2011年3月に発売される予定だったが、東日本大震災の影響で4月にずれ込んだ</ref>。 * 2016年9月27日に[[HDリマスター]]仕様の[[Blu-ray Disc|Blu-ray]] BOXが発売{{R|U153}}。 == 備考 == * ヤプールの声は、エコー処理されていない本来の声が第52話で聞けるが、『ウルトラマンタロウ』で[[メフィラス星人#『ウルトラマンタロウ』に登場するメフィラス星人|メフィラス星人(二代目)]]の声などを演じた[[西川幾雄]]とは異なる別人が担当。『僕らのウルトラマンA』127頁の「声の出演者に関する考察」には、[[アフレコ]]の第1回録音時に高峰圭二がヤプール役の声優を目撃しており、「当時25歳ぐらいのハンサムな男性」という証言が掲載されていた。その後、『円谷プロ画報 (1)』([[2013年]])の216頁で、担当声優が「高田裕史」と明記された。 * 『決定! これが日本のベスト100』([[テレビ朝日]]系列)の[[2002年]][[9月8日]]放送分「あなたが選んだ日本のヒーローベスト100」の第95位にランクインした。 * [[2011年]][[3月27日]]には[[日本BS放送|BS11]]にて第15話「黒い蟹の呪い」が再放送される予定だったが、[[東北地方太平洋沖地震]]の影響([[ウルトラマンAの登場怪獣#大蟹超獣 キングクラブ|キングクラブ]]が海から出現し、街を破壊するなど)から被災者への配慮によって中止となり、第16話「怪談・牛神男」が繰り上げて放送された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist |refs= <ref name="no">ノンクレジット。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="BDBOX">Blu-ray『ウルトラマンA Blu-ray BOX 』(バンダイビジュアル)封入の作品解説書P.69</ref> <ref name="ENCYCLOPEDIA OF ULTRAMAN">ENCYCLOPEDIA OF ULTRAMAN ウルトラマン大百科P.36</ref> <ref name="a">[[ジェネオンエンタテインメント]]「ウルトラマンA 1972」P28〜P34。南夕子の年齢設定は、「TBSテレビニュース」1972年2月14日号(関かおり名義)では18歳となっていたが、その後に作成された「ウルトラA製作メモ」(星光子名義)および撮影台本で19歳に改められている。</ref> <ref name="白書86">{{Harvnb|白書|1982|pp=86 - 87}}</ref> <ref name="白書88">{{Harvnb|白書|1982|pp=88 - 89}}</ref> <ref name="白書89">{{Harvnb|白書|1982|p=89|loc=「ウルトラマンAのキャスティング」}}</ref> <ref name="怪獣大全集">{{Harvnb|ウルトラ怪獣大全集|1984|pp=46-47|loc=「ウルトラマンA」}}</ref> <ref name="超獣事典">{{Harvnb|超獣事典|1986|p=20}}</ref> <ref name="超技38">{{Harvnb|超技全書|1990|p=38}}</ref> <ref name="超技39">{{Harvnb|超技全書|1990|p=39}}</ref> <ref name="超技40">{{Harvnb|超技全書|1990|p=40}}</ref> <ref name="超技41">{{Harvnb|超技全書|1990|p=41}}</ref> <ref name="超技42">{{Harvnb|超技全書|1990|p=42}}</ref> <ref name="超技43">{{Harvnb|超技全書|1990|p=43}}</ref> <ref name="超技44">{{Harvnb|超技全書|1990|p=44}}</ref> <ref name="超技45">{{Harvnb|超技全書|1990|p=45}}</ref> <ref name="超技46">{{Harvnb|超技全書|1990|p=46}}</ref> <ref name="超技48">{{Harvnb|超技全書|1990|p=48|loc=「投げ技」}}</ref> <ref name="超技49">{{Harvnb|超技全書|1990|p=49}}</ref> <ref name="超技50">{{Harvnb|超技全書|1990|p=50}}</ref> <ref name="超技51">{{Harvnb|超技全書|1990|p=51}}</ref> <ref name="超技52">{{Harvnb|超技全書|1990|p=52}}</ref> <ref name="超技53">{{Harvnb|超技全書|1990|p=53}}</ref> <ref name="超技54">{{Harvnb|超技全書|1990|p=54}}</ref> <ref name="超技55">{{Harvnb|超技全書|1990|p=55}}</ref> <ref name="超技97">{{Harvnb|超技全書|1990|p=97}}</ref> <ref name="超技98">{{Harvnb|超技全書|1990|p=98}}</ref> <ref name="ゴジラ来襲">{{Cite book|和書|author=坂井由人|author2=秋田英夫|title=ゴジラ来襲!! 東宝特撮映画再入門|date=1998-07-25|publisher=[[KKロングセラーズ]]|series=ムックセレクト635|page=122|chapter=コラム1 TVフレームのゴジラ|isbn=4-8454-0592-X}}</ref> <ref 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name="U153">{{Cite journal |和書 |date=2016-07-01 |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.153 |issue=(SUMMER 2016.夏)|publisher=[[ホビージャパン]] |page=84 |title=ウルトラマン Blu-ray LINE UP |isbn=978-4-7986-1261-4 }}</ref> <ref name="U168">{{Cite journal|和書|date=2020-04-01|title=宇宙船Archives 追悼[[上原正三]]|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.168|issue=(SPRING 2020.春)|publisher=[[ホビージャパン]]|page=112|isbn=978-4-7986-2182-1}}</ref> <ref name="マガジン202042">{{Harvnb|マガジン2020|2020|pp=42-51|loc=「円谷特撮の要 スーパーメカニック大全 航空戦力編」}}</ref> <ref name="マガジンVOL.233">{{Harvnb|マガジンVOL.2|2021|pp=33-41|loc=「スーパーメカニック大全 地上戦力・隊員装備編」}}</ref> <ref name="マガジンVOL.322">{{Harvnb|マガジンVOL.3|2022|p=22|loc=「スーパーメカニック大全 宇宙メカニック編」}}</ref> <ref name="マガジンVOL.323">{{Harvnb|マガジンVOL.3|2022|p=23|loc=「スーパーメカニック大全 宇宙メカニック編」}}</ref> <ref name="UPM vol.0331">{{Harvnb|UPM vol.03|2020|p=31|loc=「ウルトラ特別企画vol.03 ウルトラの特徴!?ユニフォーム考 その1」}}</ref> <ref name="UPM vol.102">{{Harvnb|UPM vol.10|2020|p=2|loc=「〈ヒーローになりそこねた神〉の一年間 切通理作」}}</ref> <ref name="UPM 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vol.3729">{{Harvnb|UPM vol.37|2022|p=29|loc=「ウルトラ特別企画vol.37 本編美術セットとしての基地または作戦室」}}</ref> <ref name="UPM vol.4021">{{Harvnb|UPM vol.40|2022|p=21|loc=「ウルトラマンA、ウルトラマンゼロ、ウルトラマンタロウ」}}</ref> <ref name="Z完全超全集83">{{Harvnb|Z完全超全集|2021|p=83|loc=「ウルトラマンゼットと共に戦ったヒーローたち」}}</ref> <ref name="夢のかけら50">{{Harvnb|夢のかけら 円谷篇|2021|p=50|loc=「タックアロー」}}</ref> <ref name="夢のかけら54">{{Harvnb|夢のかけら 円谷篇|2021|p=54|loc=「TAC竜隊長の制服」}}</ref> <ref name="夢のかけら125">{{Harvnb|夢のかけら 円谷篇|2021|p=125|loc=「解説」}}</ref> <ref name="HISTORICA24">{{Harvnb|HISTORICA|2022|pp=24-25|loc=「ウルトラマンA」}}</ref> <ref name="僕たちの57">『僕たちの好きなウルトラマン』(別冊宝島714)p.57</ref> <ref name="k7284">『[[河北新報]]』1972年8月4日 - 8月25日付朝刊、テレビ欄。</ref> <ref name="f7247">『[[福島民報]]』1972年4月7日 - 1973年3月30日付朝刊、テレビ欄。</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date = 1982-12-31|title = 不滅のヒーローウルトラマン白書|series = [[ファンタスティックコレクション|ファンタスティック・コレクション・スペシャル]]|publisher = [[朝日ソノラマ]]|edition = 初版|id = 雑誌コード:67897-80|ref = {{SfnRef|白書|1982}}}} * {{Cite book|和書 |date= 1986-03-01 |isbn= 4-257-76356-6 |publisher= [[朝日ソノラマ]] | ref={{SfnRef|超獣事典|1986}} |series= [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]文庫 |title= ウルトラマンA超獣事典}} * [[てれびくん]]デラックス愛蔵版シリーズ([[小学館]]) ** {{Cite book |和書 | date = 1984-09-10 | title = ウルトラ怪獣大全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版 | isbn = 4-09-101411-9 | ref={{SfnRef|ウルトラ怪獣大全集|1984}} }} ** {{Cite book |和書 | date = 1990-09-10 |others = 監修:[[円谷プロダクション]] 構成:間宮尚彦 | title = ウルトラ戦士超技全書 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版 | isbn = 4-09-101423-2 | ref={{SfnRef|超技全書|1990}} }} ** {{Cite book |和書 |date=2006-10-10 |title=[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]][[超全集]] |series = てれびくんデラックス 愛蔵版 |publisher=小学館 |isbn=978-4-09-105110-3 |ref={{SfnRef|メビウス&兄弟超全集|2006}} }} ** {{Cite book|和書 | title = [[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]超全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 2008-10-04 | isbn = 978-4-09-105120-2 | ref = {{SfnRef|超ウルトラ8兄弟超全集|2008}} }} ** {{Cite book|和書 | title = [[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]] 超全集 | publisher = 小学館 | series = てれびくんデラックス愛蔵版| date = 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book|和書|date = 2006-06|title = ウルトラ超兵器大図鑑|series = PERFECT ARCHIVES WIDE|publisher=竹書房|isbn= 4-8124-2801-7|ref = {{SfnRef|兵器大図鑑|2006}}}} * {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集 小野浩一郎・岩畠寿明(エープロダクション)|date=2009-03-27|title=テレビマガジン特別編集 大決戦!超ウルトラ8兄弟|publisher=講談社|isbn=978-4-06-178434-5|ref={{SfnRef|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009}} }} * {{Cite book|和書|author=繁原稔弘|title=ウルトラヒーロー必殺技スーパーガイド1966-2014|date=2014-03-30|publisher=メディアックス|series=メディアックスMOOK437|isbn=978-4-86201-467-2|ref={{SfnRef|必殺技SG|2014}}}} * {{Cite book|和書|author=村瀬継蔵|authorlink=村瀬継蔵|others=監修 西村祐次/[[若狭新一]]|date=2015-09-24|title=怪獣秘蔵写真集 造形師村瀬継蔵|publisher=[[洋泉社]]|isbn=978-4-8003-0756-9|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date = 2016-01-29|title =キャラクター大全 特撮全史 1970年代 ヒーロー大全|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-219821-9|ref = {{SfnRef|特撮全史|2016}}}} *{{Cite book|和書|title=学年誌ウルトラ伝説|publisher=小学館|date=2017-07-03|isbn=978-4-09-682236-4|ref={{SfnRef|学年誌|2017}}}} * 講談社シリーズMOOK ウルトラ特撮 PERFECT MOOK(講談社) ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2020-08-06|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.03|volume-title=ウルトラマンティガ|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-519973-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.03|2020}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2020-12-10|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.11|volume-title=ウルトラマンタロウ|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-520933-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.11|2020}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2022-01-11|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.37|volume-title=ウルトラマンゼアス/ウルトラマンUSA|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-521064-2|ref = {{SfnRef|UPM vol.37|2022}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2022-02-24|title =ウルトラ特撮 PERFECT MOOK|volume=vol.40|volume-title=ウルトラマンZ|publisher = 講談社|series=講談社シリーズMOOK|isbn = 978-4-06-521067-3|ref = {{SfnRef|UPM vol.40|2022}}}} * 講談社MOOK(講談社) ** {{Cite book|和書|date = 2020-08-31|title =テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン 2020|publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-520743-7|ref = {{SfnRef|マガジン2020|2020}}}} ** {{Cite book|和書|date = 2021-05-24|title =テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン VOL.2|publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-523014-5|ref = {{SfnRef|マガジンVOL.2|2021}}}} ** {{Cite book|和書|date = 2022-03-03|title =テレビマガジン特別編集 ウルトラ特撮マガジン VOL.3|publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-525946-7|ref = {{SfnRef|マガジンVOL.3|2022}}}} ** {{Cite book|和書|date = 2022-06-28<!--奥付表記-->|title = ULTRAMAN HISTORICA ウルトラQからシン・ウルトラマンまで |publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-528129-1|ref = {{SfnRef|HISTORICA|2022}}}} * {{Cite book|和書|others=修復-[[原口智生]] 撮影-加藤文哉|title=夢のかけら 円谷プロダクション篇|publisher=[[ホビージャパン]]|date=2021-08-31|isbn=978-4-7986-2523-2|ref={{SfnRef|夢のかけら 円谷篇|2021}}}} == 関連項目 == *[[ウルトラシリーズ]] *[[ウルトラマン一覧]] *[[ウルトラマンAの登場怪獣]] {{前後番組 |放送局=[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]] |放送枠=金曜19:00 - 19:30 |番組名=ウルトラマンA |前番組=[[帰ってきたウルトラマン]] |次番組=[[ウルトラマンタロウ]] }} {{ウルトラシリーズ}} {{デフォルトソート:うるとらまんええす}} [[Category:ウルトラシリーズの特撮テレビドラマ|ええす]] [[Category:TBS金曜7時枠の連続ドラマ]] [[Category:TBSの特撮番組]] [[Category:1972年のテレビドラマ]] [[Category:1970年代の特撮作品]] [[Category:市川森一脚本のテレビドラマ]] [[Category:上原正三脚本のテレビドラマ]] [[Category:長坂秀佳脚本のテレビドラマ]] [[Category:二人組を主人公としたテレビドラマ]] [[Category:異世界を題材とした作品]] [[Category:デジタルウルトラシリーズ]] [[Category:漫画作品 う|るとらまんええす]] [[Category:1972年の漫画]] [[Category:別冊少年サンデー]] [[Category:幼稚園 (雑誌)]] [[Category:小学館の学年誌の漫画作品]]
2003-09-22T07:57:12Z
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平氏
平氏(たいらうじ、へいし、へいじ たいらし)は、日本の皇別氏族で、平(たいら)の姓を賜姓された氏族。姓(カバネ)は朝臣。 平安時代前期に創設された氏族であり、桓武平氏を含め4つの流派がある。家紋は揚羽蝶を中心に使用した。 姓の代表的なものの一つとして源氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。ただし、平氏は他の三姓と異なり、氏長者が存在した記録はない。 平姓を受けた流れは、大きく分けて桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流がある。特に著名なのが桓武平氏であり、このうち平高望の子孫は武士として、平高棟の子孫は堂上家として活躍した。 「平」という名称の由来は諸説あるが、有力な説は太田亮が唱えて藤木邦彦・佐伯有清らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武平氏の祖である桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(和訓:多比良)」と名づけたとするものである。太田亮『姓氏家系大辞典』では、「其の名称は、平安京(京都市)の本訓タヒラより起る。蓋し桓武帝、此の都を建てられしにより、其の子孫、此の氏を賜ひしならん。」と述べられている。また、林陸朗は「桓武平氏の誕生」において、「一世(親王代)、二世(孫王)の賜姓は源朝臣、三世王(曾孫)の賜姓の場合は平朝臣という区別があったように思われる」と述べている。しかし、これも確実な原則ではない。例としては平高棟は桓武天皇皇子葛原親王の子であり、平実世は桓武天皇の子仲野親王の子であり、平惟世は桓武天皇の孫、もしくは文徳天皇の孫とされるが、平姓を受けている。そのために、平姓は平安遷都後の一時期、天長年間から仁和年間(824年-889年)まで変則的に与えられたのではないかという説もある。 高望王流桓武平氏の始まりの地である東国は当然のことながら武家平氏の盤踞地でもあった。武家平氏の祖である上総介の平高望や、東国に独立政権を樹立しようとして失敗した下総の平将門、将門を倒した常陸の平貞盛などが良く知られる。坂東八平氏や北条氏も同じく坂東に土着した高望王流桓武平氏の末裔であった。 平将門の乱以降、関東では貞盛流と平良文の子孫が大きな勢力をもっていた。しかし 1028年(長元元年)の平忠常の乱で、源頼信が忠常を降伏させたことにより、河内源氏が関東における武家の棟梁的存在となり、千葉氏・三浦氏などの平姓諸流は源氏の家人として扱われるようになった。 貞盛の四男維衡は伊勢に地盤を築き、その子孫は主に西国で勢力を拡大した。特に平忠盛は主に西国で受領を歴任して勢力を拡大し、その子の平清盛も同じく肥後守・安芸守を歴任し、西国に勢力を拡大した。一方で東国においては源義朝が強固な勢力をもっており、平治の乱で義朝が討たれるまで、東国の平氏は清盛流とはほとんど関係がない存在であった。 治承三年の政変後、清盛は東国の支配権強化に乗り出したが、河内源氏の後裔である源頼朝が蜂起すると、多くの東国平氏は頼朝に臣従し、平家と戦うことになった。平家没落後には平家没官領として平家の所領は没収されるが、その数は五百箇所に及んだと言われる。 50代桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫である平氏を指す。 このうち桓武天皇第三皇子葛原親王の流れは、特に繁栄した。平安時代初期の天長2年(825年)3月5日に葛原親王が子女を臣籍降下させ平朝臣姓の賜姓を上表するがこの時は許されず、7月6日に再度上表して許されたのを始まりとする。諸系図では、葛原親王の子息で平朝臣姓となった者として後述の高棟王・善棟王・高望王がいたとされる。一方で、天長5年(830年)従五位下に叙爵した平清人、同じく承和7年(840年)に叙爵した平春香も葛原親王の子孫である可能性もある。 葛原親王長男の高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。 高棟は大納言まで進み、三男の惟範、その子の時望・伊望、時望の孫平惟仲も議政官まで栄達している。その後時望の孫親信の子孫は代々受領を務める中級貴族として存続する。親信の孫・範国の家系は平安末期には後白河法皇の寵愛を受けた建春門院平滋子が高倉天皇を産んだことで、弟の平時忠や姉の平時子(二位尼)、そして時子が嫁いだ平清盛を始めとする平家一門の繁栄を招いた。時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。江戸時代には西洞院家とその庶流平松家・長谷家・交野家・石井家が堂上家となった。さらに地下家の生島家もこの系統である。親信のもうひとりの孫行親の流れは鎌倉時代前期に平経高を輩出するも、その後は振るわなかった。この両流は歴史物語の『今鏡』に、「日記の家」と紹介されているように『平記』、『兵範記』・『平戸記』をはじめ多くの古記録を残している。 時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、能登国輪島の豪農・時国家は時忠が流刑先で儲けた子・時国の後裔を称している。江戸時代には天領大庄屋を勤め、上時国・下時国の二家に分かれている。 葛原親王三男の高見王の子・高望王の子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望はそのうちの一人と推定されている。 高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。良将の子平将門は大規模な反乱を起こし(承平天慶の乱)、追討にあたった国香の子・平貞盛の子孫は関東各地に勢力を張った。鎌倉幕府の実権を握った北条氏や御家人の熊谷氏は、貞盛の曾孫である直方の末裔と称している。 また、高望の側室の子良文は鎮守府将軍になるなど武士として活躍し、主に関東に勢力を張った。土肥氏・秩父氏などは良文の子孫を称している。しかし孫の平忠常が反乱を起こし(平忠常の乱)、源頼信の討伐を受けたことでその子孫は源氏の家人として扱われるようになった。忠常の子孫は千葉氏・上総氏などの房総平氏を輩出している。千葉氏の庶流には陸奥国宇多郡・行方郡を領した相馬氏があり、江戸時代まで大名として続いた。 特に良文流の坂東平氏の中で著名な千葉氏、上総氏、三浦氏、秩父氏、畠山氏、鎌倉氏、中村氏、大庭氏は坂東八平氏と呼ばれる。 貞盛四男の平維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。伊勢平氏の中でも特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、清盛の晩年には各地で平氏政権に対する反乱(治承・寿永の乱)が起き、最終的には平頼盛以外の正盛流は壇ノ浦の戦いの敗北により滅亡した。 しかし、平家の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして得宗被官の長崎氏、薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張の織田氏などが挙げられる。 熊本県の五家荘や富山県の五箇山などには「平家の落人」の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を「平家谷」と通称する。 伊勢平氏のうち、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ事が多い。ただし、「平家」という言葉は本来、数多い平氏の中でも特定の家もしくは集団を指す言葉に過ぎず、初めは桓武平氏の中でも伊勢平氏が属する武家の高望王流ではなく、京の都で文官として活躍していた高棟王流の人々を指していた(『江談抄』(二))。また、平氏政権時においても清盛一族のみならず、彼らに仕えている家人・郎党らを含めた軍事的・政治的集団を指す用法としても用いられ、この場合の「平家」には清盛に従った藤原氏や源氏の武士も含まれることになる。勿論、本来の「平家」である高棟王流は明治維新まで存続したのであるから、その意味では、壇ノ浦の戦い以後も「平家」は存続していたとも言える。鎌倉時代に入ると『平家物語』が成立し、今日まで広く愛される軍記物語となった。 源家という言い方は余り用いられないが、清和源氏に限らず、源氏自体を指す。 室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏は平維衡の子孫を称しており、伊勢氏は代々政所執事を世襲した。伊勢貞親は第8代将軍足利義政の養育係を務め、義政の成人後も幕政に大きな影響力を持った。第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を壟断するまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏の傍流備中伊勢氏出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。 高望の次男平良兼の子孫を称する武家には、長田氏や江戸時代に大名となった永井氏等がある。 貞盛の弟、平繁盛の子平維幹は常陸国に土着した。後裔は多気氏、大掾氏、城氏(越後平氏)、岩城氏、平姓仁科氏等がある。 葛原親王の次男善棟王は天長2年(825年)高棟王とともに賜姓を受けて平善棟となった。弟の高棟、高見らとは異なり、記録に残る子孫はいない。 桓武天皇第九皇子万多親王の流れ。 貞観4年(862年)に万多親王の七男正躬王の子住世王以下12名が平姓を賜姓されて臣籍に下り、その後次男の正行王の子3名、四男雄風王の子2名も平姓を賜姓された。 桓武天皇第十二皇子仲野親王の流れ。仲野親王の子の茂世王・利世王・惟世王などが平朝臣姓を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。 桓武天皇第十皇子 賀陽親王の流れ。 元慶2年(878年)に賀陽親王の六男利基王の子潔行王が、賜姓を受け平潔行となった。 54代仁明天皇の孫・雅望王、行忠王及び惟時王の子孫。 「仁明天皇の皇子・本康親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を仁明平氏と定義している文献もあるが、本康親王の皇子でも源兼似・源兼仁・源朝鑑・源朝憲・源保望・源由道のように源朝臣を賜姓されて仁明源氏となった者もいるため、正確には雅望王・行忠王・惟時王の子孫が仁明平氏である。 55代文徳天皇の皇子・惟彦親王の子孫。 58代光孝天皇の孫・式膽王、興我王及び忠望王の子孫。 「光孝天皇の皇子・是忠親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を光孝平氏と定義している文献もあるが、是忠親王の子孫でも源清平・源宗于(以上是忠親王の子)・源康行(英我王の子で康尚の父。英我王は是忠親王の子)のように源朝臣を賜姓されて光孝源氏となった者もいるため、正確には式膽王・興我王・忠望王の子孫が光孝平氏である。また、平高棟の孫・平中興は是忠親王の子・忠望王の養子になったため、血筋からみると高棟王流桓武平氏だが中興の子孫は光孝平氏である。従って平元規(中興の子)も光孝平氏である。
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"「仁明天皇の皇子・本康親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を仁明平氏と定義している文献もあるが、本康親王の皇子でも源兼似・源兼仁・源朝鑑・源朝憲・源保望・源由道のように源朝臣を賜姓されて仁明源氏となった者もいるため、正確には雅望王・行忠王・惟時王の子孫が仁明平氏である。", "title": "仁明平氏" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "55代文徳天皇の皇子・惟彦親王の子孫。", "title": "文徳平氏" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "58代光孝天皇の孫・式膽王、興我王及び忠望王の子孫。", "title": "光孝平氏" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "「光孝天皇の皇子・是忠親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を光孝平氏と定義している文献もあるが、是忠親王の子孫でも源清平・源宗于(以上是忠親王の子)・源康行(英我王の子で康尚の父。英我王は是忠親王の子)のように源朝臣を賜姓されて光孝源氏となった者もいるため、正確には式膽王・興我王・忠望王の子孫が光孝平氏である。また、平高棟の孫・平中興は是忠親王の子・忠望王の養子になったため、血筋からみると高棟王流桓武平氏だが中興の子孫は光孝平氏である。従って平元規(中興の子)も光孝平氏である。", "title": "光孝平氏" } ]
平氏(たいらうじ、へいし、へいじ たいらし)は、日本の皇別氏族で、平(たいら)の姓を賜姓された氏族。姓(カバネ)は朝臣。 平安時代前期に創設された氏族であり、桓武平氏を含め4つの流派がある。家紋は揚羽蝶を中心に使用した。
{{otheruses|日本の平氏|漢姓|平 (姓)}} {{日本の氏族 (古代氏族) |氏名 = 平氏 |画像 = [[ファイル:Ageha-cho.svg|150px]]<br/>揚羽蝶(代表的な[[家紋]])<br/>※ 各、平氏によって異なる。 |氏姓 = 平[[朝臣]] |始祖 = 平安時代前期の[[桓武天皇|天皇]]の皇孫 |根拠地 = [[伊勢国]]<br/>[[伊賀国]]など |氏祖 = |種別 = [[皇別]] |本貫 = |人物 = '''桓武平氏''':<br/>[[平将門]]<br/>[[平貞盛]]<br/>[[平忠盛]]<br/>[[平清盛]]<br/>[[平時忠]]<br/>傍系子孫:<br/>[[北条時政]]<br/>[[熊谷直実]]<br/>[[北条早雲|伊勢宗瑞]]<br/>[[上杉謙信]]<br/>[[織田信長]] |後裔 = [[#桓武平氏|桓武平氏]]<br/>[[#仁明平氏|仁明平氏]]<br/>[[#文徳平氏|文徳平氏]]<br/>[[#光孝平氏|光孝平氏]] }} '''平氏'''(たいらうじ、へいし、へいじ たいらし)は、[[日本]]の[[皇別]][[氏族]]で、'''平'''(たいら)の姓を[[賜姓]]された[[氏族]]。姓([[カバネ]])は'''[[朝臣]]'''。 [[平安時代]]前期に創設された氏族であり、[[桓武平氏]]を含め4つの[[流派]]がある。[[家紋]]は揚羽蝶を中心に使用した。 ==概説== [[本姓|姓]]の代表的なものの一つとして[[源氏]]・[[藤原氏]]・[[橘氏]]とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。ただし、平氏は他の三姓と異なり、[[氏長者]]が存在した記録はない<ref>{{Cite journal |和書|author=竹内理三|authorlink=竹内理三 |title=氏長者|date=1954|publisher=九州大学 |journal= 史淵|volume=63 |page=10 |ref=harv }}</ref>。 平姓を受けた流れは、大きく分けて[[桓武天皇]]から出た[[#桓武平氏|桓武平氏]]、[[仁明天皇]]から出た[[#仁明平氏|仁明平氏]]、[[文徳天皇]]から出た[[#文徳平氏|文徳平氏]]、[[光孝天皇]]から出た[[#光孝平氏|光孝平氏]]の四流がある。特に著名なのが桓武平氏であり、このうち[[平高望]]の子孫は武士として、[[平高棟]]の子孫は[[堂上家]]として活躍した。 === 起源 === 「平」という名称の由来は諸説あるが{{efn|「佐野本系図」や「平家勘文録」『続群書類従』(遊戯部所収)では「高見王の太子高望王の時、寛平元年十二月十三日に民部卿宗章の朝臣、帝皇をかたぶけんとせし時、祖王の[[宣旨]]を被りて、宗章を追罰せし故に帝王御感ありて従二位上総の介に任ず、朝敵を平らげたる故に平の姓を賜る」という中世の伝承があり「高望王の時に朝敵を討ち平らげたため「平」の姓を賜った」との説がある。しかし、高望王が朝敵を平らげる以前に平姓の賜姓が行われており、この説が事実に反し誤りであるということは言うまでも無い。}}、有力な説は[[太田亮]]が唱えて藤木邦彦・[[佐伯有清]]らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武平氏の祖である[[桓武天皇]]が建設した[[平安京]]にちなんで「平([[和訓]]:多比良)」と名づけたとするものである。太田亮『姓氏家系大辞典』では、「其の名称は、平安京(京都市)の本訓タヒラより起る。蓋し桓武帝、此の都を建てられしにより、其の子孫、此の氏を賜ひしならん。」と述べられている。また、[[林陸朗]]は「桓武平氏の誕生」<ref>{{Cite book|和書|title = 日本中世政治社会の研究 : 小川信先生古稀記念論集|editor = 小川信先生の古稀記念論集を刊行する会|publisher = 続群書類従完成会|date = 1991}}</ref>において、「一世(親王代)、二世(孫王)の賜姓は源朝臣、三世王(曾孫)の賜姓の場合は平朝臣という区別があったように思われる」と述べている。しかし、これも確実な原則ではない。例としては[[平高棟]]は桓武天皇皇子[[葛原親王]]の子であり、[[平実世]]は桓武天皇の子[[仲野親王]]の子であり<ref>{{Cite Kotobank|word=平実世|encyclopedia=デジタル版日本人名大辞典+Plus|accessdate=2022-2-13}}</ref>、[[平惟世]]は桓武天皇の孫、もしくは文徳天皇の孫とされるが、平姓を受けている<ref>{{Cite Kotobank|word=平惟世|encyclopedia=デジタル版日本人名大辞典+Plus|accessdate=2022-2-13}}</ref>。そのために、平姓は平安遷都後の一時期、[[天長]]年間から[[仁和]]年間(824年-889年)まで変則的に与えられたのではないかという説もある<ref>『天皇家と源氏』(奥富敬之)</ref>。 === 平氏の拠点 === 高望王流桓武平氏の始まりの地である[[東国]]は当然のことながら武家平氏の盤踞地でもあった。武家平氏の祖である[[上総国|上総]]介の[[平高望]]や、東国に独立政権を樹立しようとして失敗した[[下総国|下総]]の[[平将門]]、将門を倒した[[常陸国|常陸]]の[[平貞盛]]などが良く知られる。[[坂東八平氏]]や北条氏も同じく[[坂東]]に土着した高望王流桓武平氏の末裔であった{{efn|ただし、北条氏や坂東八平氏については、平氏とは無縁の氏族が後世になって仮冒したのではないかといわれている<ref>太田亮『姓氏家系大辞典 第二巻』「平」の項</ref>。}}。 [[承平天慶の乱|平将門の乱]]以降、関東では貞盛流と[[平良文]]の子孫が大きな勢力をもっていた。しかし [[1028年]]([[長元]]元年)の[[平忠常の乱]]で、[[源頼信]]が忠常を降伏させたことにより、[[河内源氏]]が関東における武家の棟梁的存在となり、[[千葉氏]]・[[三浦氏]]などの平姓諸流は源氏の[[家人]]として扱われるようになった。 貞盛の四男[[平維衡|維衡]]は[[伊勢国|伊勢]]に地盤を築き、その子孫は主に西国で勢力を拡大した。特に[[平忠盛]]は主に西国で受領を歴任して勢力を拡大し、その子の[[平清盛]]も同じく肥後守・安芸守を歴任し、西国に勢力を拡大した。一方で東国においては[[源義朝]]が強固な勢力をもっており、[[平治の乱]]で義朝が討たれるまで、東国の平氏は清盛流とはほとんど関係がない存在であった。 [[治承三年の政変]]後、清盛は東国の支配権強化に乗り出したが<ref>{{Cite journal|和書|title = 平清盛と東国武士 : 富士・鹿島社参詣計画を中心に|author = 野口実|authorlink = 野口実|issn = 02877015|journal = 立命館文學|publisher = 立命館大学人文学会|volume = 624|pages = 537-546|year = 2012|month = 01|ref=harv}}</ref>、河内源氏の後裔である源頼朝が蜂起すると、多くの東国平氏は頼朝に臣従し、平家と戦うことになった。平家没落後には[[平家没官領]]として平家の所領は没収されるが、その数は五百箇所に及んだと言われる<ref>{{Cite Kotobank|word=平家没官領|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-2-13}}</ref>。 == 桓武平氏 == 50代[[桓武天皇]]の子・[[葛原親王]]、[[万多親王]]、[[仲野親王]]及び[[賀陽親王]]の子孫である平氏を指す。 {{Anchors|葛原親王流}}このうち桓武天皇第三皇子[[葛原親王]]の流れは、特に繁栄した。[[平安時代]]初期の[[天長]]2年([[825年]])3月5日に葛原親王が子女を[[臣籍降下]]させ平朝臣姓の賜姓を[[上表]]するがこの時は許されず、7月6日に再度上表して許されたのを始まりとする<ref>『日本紀略』</ref>。諸系図では、葛原親王の子息で平朝臣姓となった者として後述の高棟王・善棟王・高望王がいたとされる。一方で、天長5年([[830年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]した平清人<ref>『日本後紀』天長7年正月7日条</ref>、同じく[[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])に叙爵した[[平春香]]<ref>『続日本後紀』承和7年正月7日条</ref>も葛原親王の子孫である可能性もある。 ===高棟流=== {{Anchors|高棟王流}} 葛原親王長男の[[平高棟|高棟王]]は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。 高棟は大納言まで進み、三男の[[平惟範|惟範]]、その子の[[平時望|時望]]・[[平伊望|伊望]]、時望の孫[[平惟仲]]も議政官まで栄達している。その後時望の孫[[平親信|親信]]の子孫は代々受領を務める中級貴族として存続する。親信の孫・[[平範国|範国]]の家系は平安末期には[[後白河天皇|後白河法皇]]の寵愛を受けた建春門院[[平滋子]]が[[高倉天皇]]を産んだことで、弟の[[平時忠]]や姉の[[平時子]](二位尼)、そして時子が嫁いだ平清盛を始めとする平家一門の繁栄を招いた。時忠の弟[[平親宗|親宗]]の子孫(唐橋家)や叔父[[平信範|信範]]の子孫([[西洞院家]]・[[安居院家]]・烏丸家)は[[鎌倉時代]]以降も公家として続いた。[[江戸時代]]には西洞院家とその庶流[[平松家]]・[[長谷家]]・[[交野家]]・[[石井家]]が[[堂上家]]となった。さらに[[地下家]]の[[生島家]]もこの系統である。親信のもうひとりの孫[[平行親|行親]]の流れは鎌倉時代前期に[[平経高]]を輩出するも、その後は振るわなかった。この両流は歴史物語の『[[今鏡]]』に、「[[日記の家]]」と紹介されているように『[[平記]]』{{efn|親信の『[[親信卿記]]』、範国の『[[範国記]]』、行親の『[[行親記]]』、行親の子[[平定家]]の『[[定家朝臣記]]』、範国の孫[[平知信]]の『[[知信朝臣記]]』、知信の子[[平時信]]の『[[時信記]]』の6つの日記の総称}}、『[[兵範記]]』・『[[平戸記]]』をはじめ多くの古記録を残している。 時忠は[[壇ノ浦の戦い]]の後、[[能登国|能登]]に流され没落したが、能登国[[輪島市|輪島]]の豪農・[[時国家]]は時忠が流刑先で儲けた子・時国の後裔を称している。[[江戸時代]]には[[天領]]大[[庄屋]]を勤め、上時国・下時国の二家に分かれている。 ===高望流=== {{Anchors|高望王流}} {{see also|坂東平氏}} 葛原親王三男の高見王の子・[[平高望|高望王]]の子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。([[wikt:望|「望」]]と[[wikt:見|「見」]]は両方とも名読みで「み」と読める。)[[寛平]]元年([[889年]])に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望はそのうちの一人と推定されている。 高望は、[[昌泰]]元年([[898年]])に上総介に任じられ[[遥任]][[国司]]が多いなか、子の[[平国香|国香]]・[[平良兼|良兼]]・[[平良将|良将]]を伴い任地に下向した。そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸[[国司|大掾]]([[大掾氏]])、良将は[[鎮守府将軍]]を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に[[武士団]]を形成し武家平氏の基盤を固めた。良将の子[[平将門]]は大規模な反乱を起こし([[承平天慶の乱]])、追討にあたった国香の子・[[平貞盛]]の子孫は関東各地に勢力を張った。[[鎌倉幕府]]の実権を握った[[北条氏]]や[[御家人]]の[[熊谷氏]]は、貞盛の曾孫である[[平直方|直方]]の末裔と称している。 また、高望の[[側室]]の子[[平良文|良文]]は[[鎮守府将軍]]になるなど武士として活躍し、主に関東に勢力を張った。[[土肥氏]]・[[秩父氏]]などは良文の子孫を称している。しかし孫の[[平忠常]]が反乱を起こし([[平忠常の乱]])、[[源頼信]]の討伐を受けたことでその子孫は源氏の家人として扱われるようになった。忠常の子孫は[[千葉氏]]・[[上総氏]]などの[[房総平氏]]を輩出している。千葉氏の庶流には[[陸奥国]][[宇多郡]]・[[行方郡 (福島県)|行方郡]]を領した[[相馬氏]]があり、[[江戸時代]]まで[[大名]]として続いた。 特に良文流の[[坂東平氏]]の中で著名な千葉氏、上総氏、[[三浦氏]]、[[秩父氏]]、[[畠山氏 (平姓)|畠山氏]]、[[鎌倉氏]]、[[中村氏 (相模国)|中村氏]]、[[大庭氏]]は[[坂東八平氏]]と呼ばれる。 === 伊勢平氏 === {{main|伊勢平氏}} 貞盛四男の[[平維衡]]よりはじまる一族が[[伊勢平氏]]である。伊勢平氏の中でも特に[[平正盛|正盛]]の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と呼ばれている。正盛の子[[平忠盛|忠盛]]が初めて[[昇殿]]を許され、忠盛の子[[平清盛|清盛]]は[[平氏政権]]を樹立し栄華を誇ったが、清盛の晩年には各地で平氏政権に対する反乱([[治承・寿永の乱]])が起き、最終的には[[平頼盛]]以外の正盛流は[[壇ノ浦の戦い]]の敗北により滅亡した。 しかし、平家の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして[[得宗被官]]の[[長崎氏]]、[[薩摩国|薩摩]]の[[種子島氏]]、[[対馬国|対馬]]の[[宗氏]]、[[尾張国|尾張]]の[[織田氏]]などが挙げられる。 [[熊本県]]の[[五家荘]]や[[富山県]]の[[五箇山]]などには「[[平家の落人]]」の隠れ里と伝えられる。これら平家の[[落武者]]およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を「平家谷」と通称する。 ==== 平家 ==== [[File:Taira-Clan-Warriors-Ukiyoe-Utagawa-Yoshitora.png|thumb|平家の武者達を描いた[[歌川芳虎]]の[[錦絵]]。清盛の一族の他、[[城長茂]]や[[難波経房]]などの家人も描かれている]] 伊勢平氏のうち、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ事が多い<ref>{{Cite Kotobank|word=平家|encyclopedia=精選版日本国語大辞典、デジタル大辞泉、百科事典マイペディア、日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-2-5}}</ref>。ただし、「平家」という言葉は本来、数多い平氏の中でも特定の家もしくは集団を指す言葉に過ぎず、初めは桓武平氏の中でも伊勢平氏が属する武家の高望王流ではなく、京の都で[[文官]]として活躍していた高棟王流の人々を指していた(『[[江談抄]]』(二))。また、平氏政権時においても清盛一族のみならず、彼らに仕えている[[家人]]・[[郎党]]らを含めた軍事的・政治的集団を指す用法としても用いられ、この場合の「平家」には清盛に従った藤原氏や源氏の[[武士]]も含まれることになる。勿論、本来の「平家」である高棟王流は[[明治維新]]まで存続したのであるから、その意味では、[[壇ノ浦の戦い]]以後も「平家」は存続していたとも言える<ref>角田文衛「平家」(角田文衛監修『平安時代史事典』 P2253-2254)</ref>。鎌倉時代に入ると『[[平家物語]]』が成立し、今日まで広く愛される[[軍記物語]]となった。 源家という言い方は余り用いられないが、清和源氏に限らず、源氏自体を指す<ref>{{Cite Kotobank|word=源家|encyclopedia=精選版日本国語大辞典、デジタル大辞泉、世界大百科事典|accessdate=2022-2-5}}</ref>。 ====伊勢氏==== {{main|伊勢氏|後北条氏}} [[室町時代]]に有力な[[幕臣]]となる[[伊勢氏]]は平維衡の子孫を称しており、伊勢氏は代々[[政所]][[執事]]を世襲した。[[伊勢貞親]]は第8代将軍[[足利義政]]の養育係を務め、義政の成人後も幕政に大きな影響力を持った。第13代将軍[[足利義輝]]の時代の[[政所]][[執事]]・[[伊勢貞孝]]は幕政を壟断するまでになったが、[[三好氏]]と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが[[江戸時代]]には[[旗本]]として続いた。また伊勢氏の傍流備中伊勢氏出身といわれる[[北条早雲|伊勢盛時]]は一代で[[伊豆国|伊豆]]・[[相模国|相模]]を平定し、[[戦国大名]]・[[後北条氏]](小田原北条氏)の祖となった。 ===良兼流=== 高望の次男平良兼の子孫を称する武家には、[[長田氏]]や[[江戸時代]]に大名となった[[永井氏]]等がある。 ===繁盛流=== {{main|常陸平氏}} 貞盛の弟、[[平繁盛]]の子[[平維幹]]は[[常陸国]]に土着した。後裔は[[多気氏]]、[[大掾氏]]、[[城氏]]([[越後平氏]])、[[岩城氏]]、[[仁科氏|平姓仁科氏]]等がある。 ===善棟流=== 葛原親王の次男[[平善棟|善棟王]]は天長2年(825年)高棟王とともに賜姓を受けて平善棟となった。弟の高棟、高見らとは異なり、記録に残る子孫はいない。 ===万多親王流=== 桓武天皇第九皇子[[万多親王]]の流れ。 [[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])に万多親王の七男[[正躬王]]の子住世王以下12名が平姓を賜姓されて臣籍に下り、その後次男の[[正行王]]の子3名、四男[[雄風王]]の子2名も平姓を賜姓された。 ===仲野親王流=== 桓武天皇第十二皇子[[仲野親王]]の流れ。仲野親王の子の[[茂世王]]・[[利世王]]・[[惟世王]]などが平朝臣姓を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。 ===賀陽親王流=== 桓武天皇第十皇子 [[賀陽親王]]の流れ。 [[元慶]]2年([[878年]])に賀陽親王の六男[[利基王]]の子潔行王が、賜姓を受け[[平潔行]]となった。 ===桓武平氏諸系図=== <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">桓武天皇皇子系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 実線は実子、点線は養子。 <div style="font-size:85%"> {{familytree/start}} {{familytree|border=1|kammu| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |kammu=[[桓武天皇]]}} {{familytree|border=1| |)|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | }} {{familytree|border=1|heize| |sagat| |junna| |kazur| |iyosh| |yosya| |manda| |nakan| | | | | |kayas| | | | |heize=[[平城天皇|安殿親王]]|sagat=[[嵯峨天皇|神野親王]]|junna=[[淳和天皇|大伴親王]]|kazur=[[葛原親王]]|iyosh=[[伊予親王]]|yosya=[[良岑安世]]|manda=[[万多親王]]|nakan=[[仲野親王]]|kayas=[[賀陽親王]]}} {{familytree|border=1| | | | | |,|-|-|-|v|-|-|-|(| | | |!| | | |!| | | |!| | | |)|-|-|-|.| | | |)|-|-|-|.| }} {{familytree|border=1| | | | |tamun| |yosmu| |takam| |takae| |hensh| |masam| |shige| |hansh| |toshi| |tadas|tamun=[[平高棟|高棟王]]|yosmu=[[平善棟|善棟王]]|takam=[[高見王]]|takae=[[高枝王]]|hensh=[[遍昭|良岑宗貞]]|masam=[[正躬王]]|shige=[[茂世王]]|hansh=[[班子女王]]|toshi=[[利基王]]|tadas=[[忠貞王]]}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | |!| | | |!| | | |!| | | | | | | |!| | | | | }} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | |tamoc| | | | | |susho| |sumiy| |yoshi| | | | | |kiyoy| | | | 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{{familytree|border=1| |!| }} {{familytree|border=1|koreh|koreh=[[惟彦親王]]}} {{familytree|border=1| |!| }} {{familytree|border=1|korey|korey=[[平惟世|惟世]]}} {{familytree/end}} </div> </div> </div> == 光孝平氏 == 58代[[光孝天皇]]の孫・[[式膽王]]、[[興我王]]及び[[忠望王]]の子孫。 「光孝天皇の皇子・[[是忠親王]]の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を光孝平氏と定義している文献もあるが、是忠親王の子孫でも[[源清平]]・[[源宗于]](以上是忠親王の子)・[[源康行]]([[英我王]]の子で[[康尚]]の父。英我王は是忠親王の子)のように源朝臣を賜姓されて[[光孝源氏]]となった者もいるため、正確には式膽王・興我王・忠望王の子孫が光孝平氏である。また、平高棟の孫・[[平中興]]は是忠親王の子・忠望王の養子になったため、血筋からみると高棟王流桓武平氏だが中興の子孫は光孝平氏である。従って[[平元規]](中興の子)も光孝平氏である。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">光孝平氏系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 実線は実子、点線は養子。 <div style="font-size:85%"> {{familytree/start}} {{familytree|border=1|kouko| | | | | | | | | | | | |kouko=[[光孝天皇]]<br>(時康親王)}} {{familytree|border=1| |!| | | | | | | | | | | | | }} {{familytree|border=1|koret| | | | | | | | | | | | |koret=[[是忠親王]]}} 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* 太田亮 『姓氏家系大辞典 第二巻』 [[角川書店]] 1963年、ISBN 4-04-030220-6 == 関連項目 == * [[全国平家会]] * [[長崎氏]] * [[酉川氏]] * [[源氏]] * {{prefix|平}} == 外部リンク == {{Wiktionary|平氏}} {{Commons|Category:Taira clan}} * [https://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/heishi_kanmumap.html 桓武平氏家系図体系] * [http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/KANMUG.HTM 古樹紀之房間 古代及び中世の氏族系譜 桓武平氏概観] - 桓武平氏を称する氏族について。 * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/okugesan_com/heishi.htm |title=公卿類別譜(公家の歴史)- 平氏 |date=20190331131140}} - 桓武平氏。 * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/okugesan_com/koukou.htm |title=公卿類別譜(公家の歴史)- 源氏 - 光孝源氏 |date=20190331131106}} - 光孝平氏の系図あり。 * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/okugesan_com/minamoto.htm |title=公卿類別譜(公家の歴史)- 源氏 - 他15流 |date=20190331131035}} - 仁明平氏及び文徳平氏の系図あり。 {{DEFAULTSORT:たいらうし}} [[Category:平安時代]] [[Category:平氏|!]] [[Category:日本の氏族|*たいらうし]] [[Category:氏]]
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事故
事故(じこ、英: accident)とは、思いがけず起こった悪いできごと。よくないことが起こること。予期せず、意図せずに発生する不幸な出来事で、典型的には損傷または傷害をもたらすもの(Oxford Lexicoの説明)。 事故とは、一般的な用法では、意図していなかったのに、また予期していなかったのに、人のからだが傷ついたり、生命が失われたり、あるいは財産に損害が発生したり環境が汚染されるような出来事のことである。 上記のように事故という言葉には、基本的には「予期していなかった / 予期していた」あるいは「意図していなかった / 意図していた」という線引きが横たわっている。よくないことのうち、予期していなかったのに、また意図していなかったのに、起きてしまった(起こしてしまった)ことが事故である。事故をなくしたいという考えは人間共通のものである。 日本の保険関係では、被保険者の被った事故が「不慮の事故」であったかどうかを「偶然性」・「急激性」・「外来性」の3つで判断している。欧米では事故を意味する言葉として「 accident 」が用いられてきたが、事故は予測可能であり、科学的分析を講じて対策すれば予防することが可能であるという考え方が一般的となり、injury(傷害、外傷)という言葉に置き換えられつつある。この動きは医学界で顕著であり、一部の医学誌ではaccidentの使用を禁止している。 なお、故意に損害を起こすことを「事件」と呼び、事故と区別する意味で用いられる場合もあるが、本来の事件というのは事故も含む広範な意味を持つ語であって、損害を起こすという意味だけで用いられる語ではない。詳細は事件の項目を参照のこと。 なお、痛ましい事故・事件の場合は、「惨事(さんじ)」とも称され、特に大きく悲惨な事故・事件の場合は「大惨事(だいさんじ)」とも称される。 学問としては、安全学、安全工学、失敗学などが事故が起きる原因やその防止策について研究している。 「事故」には「交通事故」や「海難事故」など事故の生じた場所を表す言い方、「人身事故」や「製品事故」など事故の作用先を表す言い方がある。また、事故の重大性や被害の大きさから「大事故」や「軽微な事故」などと表現することがある。 直接人間の生命を脅かしたりしない場合でも、事故と呼ばれる場合がある。主に業務において、思わぬ手違いや予期しない機械の故障などにより、正常な業務をなしえなかった場合が相当する。トラブル・障害と呼ばれる場合が多い。 事故の起因源は大きく分けて に分けられる。 事故調査とは文字通り、事故がなぜ発生したのか原因を究明する活動である。 日本においては、事故が発生すると、当事者の刑事責任を求める捜査活動ばかりが優先され、何が原因で事件や事故などが発生したのか究明する調査活動がおろそかになっているのではないかと被害者や被害者遺族などから批判があり、独立した事故調査機関のあり方について、消費者庁や国土交通省などが検討を始めた。 内閣法での「事故」とは、業務の執行の支障となるような出来事のことである。(内閣法9条) 自衛隊の組織内では、規則違反事案全般、もしくは人員の欠員を「事故」と表現することがある。 種類
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事故とは、思いがけず起こった悪いできごと。よくないことが起こること。予期せず、意図せずに発生する不幸な出来事で、典型的には損傷または傷害をもたらすもの。
{{Otheruses||松本清張の小説およびそれを原作とするテレビドラマ|事故 (松本清張)}} '''事故'''(じこ、{{lang-en-short|accident}})とは、思いがけず起こった悪いできごと<ref>[[広辞苑]]</ref>。よくないことが起こること<ref>デジタル[[大辞泉]]</ref>。予期せず、意図せずに発生する不幸な出来事で、典型的には損傷または傷害をもたらすもの(Oxford Lexicoの説明)<ref>An unfortunate incident that happens unexpectedly and unintentionally, typically resulting in damage or injury.[https://www.lexico.com/definition/accident Oxford Lexico, "Accident".]</ref>。 [[ファイル:Japanese car accident.jpg|サムネイル|[[自動車]]と自動車が衝突した様子。([[交通事故]])|290x290ピクセル]] == 概説 == {{独自研究|date=2021年12月|section=1}} 事故とは、一般的な用法では、意図していなかったのに、また予期していなかったのに、[[怪我|人のからだが傷ついたり]]、[[死|生命が失われたり]]、あるいは財産に損害が発生したり環境が汚染されるような出来事のことである{{Sfn|小松原明哲|2019|p=1}}。 上記のように事故という[[自然言語|言葉]]には、基本的には「'''予期していなかった / 予期していた'''」あるいは「'''意図していなかった / 意図していた'''」という線引きが横たわっている。よくないことのうち、予期していなかったのに、また意図していなかったのに、起きてしまった(起こしてしまった)ことが事故である。事故をなくしたいという考えは人間共通のものである{{Sfn|小松原明哲|2019|p=1}}。 [[日本]]の[[保険]]関係では、被保険者の被った事故が「'''不慮の事故'''」であったかどうかを「'''偶然性'''」・「'''急激性'''」・「'''外来性'''」の3つで判断している<ref name="Kamio">[[神尾陽子]]ほか(編) 『子どもの健康を育むために:医療と教育のギャップを克服する』 日本学術協力財団 <学術会議叢書>23 [[2017年]]([[平成]]29年) pp.130 - 131.</ref>。[[欧米]]では事故を意味する言葉として「 accident 」が用いられてきたが、事故は予測可能であり、科学的分析を講じて対策すれば予防することが可能であるという考え方が一般的となり、injury([[傷害]]、[[外傷]])という言葉に置き換えられつつある<ref name="Kamio" />。この動きは[[医学]]界で顕著であり、一部の医学誌ではaccidentの使用を禁止している。 なお、故意に損害を起こすことを「[[事件]]」と呼び、事故と区別する意味で用いられる場合もあるが、本来の事件というのは事故も含む広範な意味を持つ語であって、損害を起こすという意味だけで用いられる語ではない。'''詳細は[[事件]]の項目を[[参照 (書誌学)|参照]]のこと。''' なお、痛ましい事故・事件の場合は、「'''惨事'''(さんじ)」とも称され、特に大きく悲惨な事故・事件の場合は「'''大惨事'''(だいさんじ)」とも称される。 <!-- {{要出典範囲|単に「事故」という場合、[[交通事故]]を表す場合が多い。|date= ~~~~~}} 統計的に見ると、世界で起きている事故のうち交通事故が多い、ので事故というと交通事故を指している、という意味か? 職業・業界によって異なるだろうな。いずれにせよ出典が必要。出典があれば、それを提示しつつ中立的に記述すれば表示してよい。 --> [[学問]]としては、[[安全学]]、[[安全工学]]、[[失敗学]]などが事故が起きる原因やその防止策について研究している。 {{gallery|height=240px |File:IrvingJohnstonAground.jpg|船舶事故の一例。意図せず[[座礁]]した、座礁事故。<br /> (2005年・[[アメリカ合衆国]] [[カリフォルニア州]]) |File:Telesfro Deluna, miner, walking on crutches. He is recovering from foot injured in mine accident. He has received... - NARA - 540448.jpg|[[炭鉱事故]]で負傷した炭鉱夫(アメリカ合衆国[[コロラド州]]、1943年) |File:Netanya Train Accident2011-1.jpg|[[鉄道事故]]の一例(アメリカ合衆国、2011年) |File:Helicopter_crash_2011_zuoz.jpg|[[航空事故]]の一例。 |File:Chernobylreactor_1.jpg|[[原子力事故]]の一例。[[ロシア]]・[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の現場。(事故後に覆われた原子炉棟) }} == 種類・表現 == {{Main|事故の一覧}}「事故」には「交通事故」や「海難事故」など事故の生じた場所を表す言い方、「人身事故」や「製品事故」など事故の作用先を表す言い方がある{{Sfn|小松原明哲|2019|p=1}}。また、事故の重大性や被害の大きさから「大事故」や「軽微な事故」などと表現することがある{{Sfn|小松原明哲|2019|p=1}}。 * [[天候]]による事故 ** [[雨]]による事故 ** [[雪]]による事故 *: 山岳部での[[遭難]]、人里での雪降ろし中の落下事故や[[生き埋め]]事故、自動車や人の[[スリップ]]事故や転倒事故、[[飲酒]]と関わりが深い事故、豪雪による通信網切断、等々、多岐に及ぶ。 ** [[落雷]]事故 ** ほか、[[気流]]による事故など、多数。 * [[火災]]事故 * [[爆発]]事故 * [[水難事故]] ** [[海難事故]] ** [[潜水事故]] ** 水中洞窟での事故([[テクニカルダイビング]]の事故) * [[交通事故|自動車交通事故]] * [[鉄道事故]] * [[航空事故]] * [[医療事故]] * [[咬傷事故]] - 野生動物や[[ペット]]として飼われている[[動物]]などが人に噛みつき、負傷事故を起こすものを指す。外傷が[[狂犬病]]や[[破傷風]]などに起因する場合もある。 * [[炭鉱#炭鉱事故|炭鉱事故]] * [[原子力事故]] :[[臨界事故]]を含む。 * [[製品事故]] * [[放送事故]] * [[電気事故]] * [[家庭内事故]]([[家庭内事故|住宅内事故]]、[[家庭内事故|住宅事故]]) * [[学校内事故]] <!-- * レジャー事故|※ 分類に整合性なし。 --> === 人命に直接影響しない「事故」 === 直接人間の生命を脅かしたりしない場合でも、事故と呼ばれる場合がある。主に業務において、思わぬ手違いや予期しない機械の故障などにより、正常な業務をなしえなかった場合が相当する。[[トラブル]]・[[障害]]と呼ばれる場合が多い。 * [[民事]]における事故 - [[債務]]返済の[[債務不履行|不履行]]、[[手形]]の[[不渡り]]。「'''手形事故'''」などと呼ぶ。 * [[郵便]]や[[宅配便]] - 「郵送事故」や「配達事故」などと呼ばれる。誤配送や何かの手違いにより配達すべき[[手紙]]や荷物が不達( = とどかない状態)になってしまった場合。 * [[放送]] - [[放送事故]]と呼ばれる。設備の故障や手配・操作ミスなどで、放送すべき番組を間違えてしまったり、[[停波]]させてしまい放送が途切れてしまったりした場合。 == 事故の起因源 == 事故の起因源は大きく分けて # 自然要因:[[気象]]や[[動物]]、[[病原体]]などが自然が原因となるもの。それ自体を制御することは困難であるが、[[防災]]や衛生管理などの事前の対策が行われないと人災として扱われることがある。 # 社会要因:犯罪行為などによって意図的になされた行為が原因となるもの。セキュリティや[[防犯]]により対策していく必要がある。 # 技術要因:業務上で扱う危険因子(毒物や高電圧など)、または道具やシステムの欠陥や故障・運用変更など技術面が原因となるもの。 # 対象要因:サービスの供給能力に対して需要がオーバーすることが原因となるもの。対策として需給のバランスを考えて運用・制御する必要がある。 # 人的要因:[[ヒューマンエラー]]のこと。 に分けられる{{Sfn|小松原明哲|2019|pp=2-4}}。 == 事故調査 == [[事故調査]]とは文字通り、事故がなぜ発生したのか原因を究明する活動である。 日本においては、事故が発生すると、当事者の[[刑事責任]]を求める[[捜査]]活動ばかりが優先され、何が原因で事件や事故などが発生したのか究明する調査活動がおろそかになっているのではないかと[[被害者]]や被害者[[遺族]]などから批判があり、独立した事故調査機関のあり方について、[[消費者庁]]や[[国土交通省]]などが検討を始めた{{いつ|date= 2021年1月23日 (土) 11:50 (UTC)}}。 == 具体的な、大きな事故一覧 == {{See|事故の一覧}} == 日本の行政用語 == === 内閣法での用法 === [[内閣法]]での「事故」とは、業務の執行の支障となるような出来事のことである。([[内閣法]]9条) === 自衛隊用語 === 自衛隊の組織内では、規則違反事案全般、もしくは人員の欠員を「事故」と表現することがある。 種類 * 服務事故 * 人員事故 == その他 == * [[転倒]]、転落、[[打撲]]、[[打撃]] * [[中毒]] * [[異物]] * [[熱傷]] * [[溺水]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=ヒューマンエラー|date=2019-10-30|year=2019|publisher=丸善|ref=harv|author=小松原明哲|edition=第3版|isbn=978-4-621-30435-8}} == 関連項目 == {{Commonscat|Accidents}} {{Wiktionary|事故}} * [[安全]] - [[安全学]] * [[安全工学]]、[[信頼性工学]] * [[日本の事故一覧]] * [[災害]] * [[ヒューマンエラー]] - [[医療過誤]]、[[過労]] * [[交通]] - [[危険運転致死傷罪]] * [[運輸安全委員会]]([[2008年]]([[平成]]20年)10月に[[航空・鉄道事故調査委員会]]から[[組織変更|改組]]) * [[業務上過失致死罪]] * [[ハインリッヒの法則]] * [[フォルトツリー解析]]([[故障の木解析]]) * [[トラウマ]] - [[急性ストレス障害]]、[[PTSD]]、[[メンタルケア]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しこ}} [[Category:事故|*]] [[Category:安全|*]] [[Category:労働問題]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%95%85
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魚醤
魚醤(ぎょしょう)は、魚類または他の魚介類と塩を主な原料にした液体状の調味料。魚醤油(うおしょうゆ)、塩魚汁(しょっつる)とも呼ばれる。 魚を塩と共に漬け込み、自己消化、好気性細菌の働きで発酵させたものから出た液体成分が魚醤で、黄褐色 - 赤褐色、暗褐色の液体である。熟成すると、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性タンパク質が分解されてできたアミノ酸と魚肉に含まれる核酸を豊富に含むため、濃厚なうま味を有しており、調味料として使えば料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、ミネラル、ビタミンも含んでいる。上澄み液をすくい取り加熱殺菌して製品とする場合もあるが、独特の香りや臭いは加熱に弱いため、炒め物、焼き物、煮物の調理には未加熱の分離液を選んで用いる人もいる。 魚醤はアジア、特に東南アジアの沿岸部を中心に、東アジアの日本、中国なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特にタイを始めとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、米飯を加えてなれずしを作る伝統を残している地域・民族もある。 その起源に関しては、カンボジアのトンレサップ湖付近とみられている。 日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。主なものでは、秋田県でしょっつる(塩汁)、奥能登でいしる(魚汁)、香川県でいかなご醤油が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている(新製法の項目参照)。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であるとも考えられる。また90年代以降のタイ料理やベトナム料理の普及に伴い、後述の東南アジアの魚醤が比較的容易に入手可能になっている。 東南アジアでは、タイのナンプラー (น้ําปลา, nam pla)、ベトナムのヌクマム (nước mắm ニョクマム、ヌォクマムなどとも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス (patis)、カンボジアのトゥック・トレイ (ទឹកត្រី, tuk trey)、ラオスのナンパー (nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー (ngan-pya-ye)、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロウ)も地元で広く使われている。これらの言葉の多くはおおむね「魚の水」という意味である。しかし、福建省福州では𩸞露(キエロウ)といい、廈門のケーチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語「キエ「魚偏に奇」」と、「露」を組み合わせている。 また、魚醤と同様の製法で作られ、液体を漉した後の物をすりつぶして固めたペースト状の調味料も用いられているが、オキアミを用いることが多く、シュリンプペーストと呼ばれる。タイのカピ(กะปิ, kapi)、インドネシアのトラシ (terasi) や、マレーシア、ブルネイのブラチャン (belacan)、フィリピンのバゴオン (bagoon)、カンボジアのプラホック (ប្រហុក, prohok)、ミャンマーのンガピ (ngapi) 、中国の蝦醤(固形のものは蝦膏)などがある。 歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていたことの痕跡である。またイタリア南部アマルフィ周辺では、ガルムの流れを引くカタクチイワシの魚醤、コラトゥーラ・ディ・アリーチ(イタリア語版)(colatura di alici)が今も作られている。 ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、もともとは魚醤を含めた発酵調味料であり、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁 (kechiap)」という魚醤をさす言葉(この場合の(鮭」は塩辛を意味する方言字である)とする説が有力である。 もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を塩漬けにしたり、干物にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、オキアミなどを原料とする場合がある。基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小形の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。 魚を大量の塩と共に漬け込む。内臓に含まれるプロテアーゼや混入してきた細菌やカビが分泌する酵素で自然発酵させるものが一般的だが、しょっつるのように麹を加えたり、料理用製品のように酵素剤を投入して発酵を助長するものもある。数か月以上発酵させ、熟成が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進みチーズのような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに野菜や香草類を加えて味を調えるものもある。 一般に食卓で用いるための製品は純度の高いものであるのに対し、料理用製品では、これに塩水とグルタミン酸ナトリウムなどを添加している場合もある。 アレルギーの原因となり得る特定原材料等の25品目に含まれるエビ、カニ、サケ、イカなど原材料を含んでいるものが有るほか、発酵過程で生じるヒスタミンによるアレルギー症状を起こす場合がある。なお、発酵過程で生じるヒスタミン含有量が400mg/kg を超える物は流通できない。この発酵過程で生じるヒスタミンは、乳酸菌発酵スターターを用いることで、生成量の抑制が可能である事が報告されている。 秋田県名物、伝統的にはハタハタで作る魚醤。現在作られているしょっつるはハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。一般的にはハタハタ若しくはタラと豆腐、長ネギと一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。きりたんぽ鍋など、他の料理の味付けにも用いられ、ラーメンのスープに(特に隠し味として)使われる場合もある。創作和食の店ではドレッシングや付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。 新潟市西蒲区の角田浜・越前浜地区名物、イワシの頭と内臓を取ったあと、大量の塩と混ぜて半年以上発酵させた魚醤油。しょっからいわしで大根を漬け込み、2ヶ月間熟成させたものは「なまぐさごうこ」と言い、現地の郷土食である。 能登半島北部で古くから作られているイワシやイカの内臓や頭、骨を塩漬けして発酵させた魚醤油。イワシの身の部分で「糠鰯(ヌカイワシ)」を漬け込むときに、他の桶に骨や内臓を塩漬けにし発酵させた汁を調味料として使う。骨や内臓を無駄にしない生活の知恵から生まれた「魚汁」。独特の風味がある。 古くから「いしる」の味を活かした家庭料理として「いしる鍋」があるほか、貝焼きと呼ばれる郷土料理がある。これは、イカ、エビ、ホタテガイ、きのこ、だいこん、なすなどをホタテガイの貝殻に入れ、煮汁に「いしる」を加えて網焼きにしたもの。また、海産物系の炒め物や鍋物などへの隠し味として使用されることもある。 「いしる」の名は、「いを(魚)じる(汁)」の転訛であるとされる。能登半島の多くで「いしる」、小木、宇出津地区では「いしり」と呼ばれる場合が多いが、半島全域で呼称が混在している。 香川県の特産品。かつては「しょっつる」および「いしる」とともに日本三大魚醤と呼ばれた。1950年代に途絶えたが、近年になって少量ではあるが復活生産されるようになった。 日本では1990年代に料理用調味料として魚醤製品が注目されたことがあった。酵素や麹を用いて製造する方法が試行錯誤され、1989年に発売されたマリナージを嚆矢として様々な商品が開発された。しかし結局小売製品としての市場は拡大せず、これらの商品は2000年代以降加工食品の調味材料として生産されることが一般的になった。主なものは以下の通り。 また、2000年代以降は地域おこしの一環として、産学連携の成果として各地の特産海産物を原料とした魚醤も数多く開発された。主な取り組みを挙げる。 (朝鮮語: 액젓 (aekjeot)、韓国・北朝鮮) カタクチイワシ(朝鮮語: 멸치、ミョルチ)やイカナゴ(朝鮮語: 까나리、カナリ)などを材料にして作られる。主にキムチを漬ける際にオキアミの塩辛とともに使用されるほか、キムチチゲなど、チゲの隠し味としても使用されている。 (福州語: 𩸞露(キエロウ)、閩南語: 鮭汁(ケーチャップ、コエチアッ)、広東語: 魚露(ユーロウ)、中華人民共和国・台湾) 中国の福建省、浙江省、広東省、広西チワン族自治区や香港、マカオ、台湾などで製造、使用されている。各種の小魚が利用されるが、福建省ではカワハギ類も多用される。アミ類で作った液状のものは「蝦油」(シアヨウ、閩南語:ヘーイウ)と呼ばれる。 (ベトナム語: nước mắm(渃𩼕、ベトナム) ヌクは水、マムは魚介発酵食品一般を指す語。アンチョビ類を用いる。ナンプラーに似るが、ナンプラーよりも発酵度合いが低く、魚の香りがより強いものが多い。またナンプラーより塩味が弱いが、塩分濃度は高い。上等の品は親戚などへの贈答品として用いられることがある。「ヌオクマム」「ニョクマム」「ヌックマム」とも呼ばれる。木製の樽に魚と塩を「魚10:塩4」の割合で入れ、蓋をして4か月 - 1年程度熟成させる。フォーをはじめとする、各種ベトナム料理の味付けに欠かせないほか、ヌクマムに刻み唐辛子と刻みニンニクを漬け、ライム果汁・砂糖・水で味を整えたヌクチャムは食卓調味料として使われる。名産地はフーコック島やファンティエットなど。 また、マグロを原料にしたヌクマム「Nam Ngư(ナム・グー)」もベトナム北部を中心に人気がある。ただ、ジアゾ系合成着色料ブラウンHT (E155)」が使用されており、フランス、ドイツ、米国、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ベルギー、オーストリアなどでは健康に悪影響を及ぼす可能性があるとして輸入が禁止されている。 (タイ語: น้ําปลา (nam pla)、タイ) 近海で水揚げされるカタクチイワシ類を、7か月から1年程度熟成させて作る。namは水、plaは魚を意味する。水揚げの減少に伴い、他の魚種も混合して用いられているという。一部の高級品のために、より大型のサバ類、ニシン類も用いられるが、これは一般には流通しない。 洗って水を切った魚には食塩をまぶし、陶器の瓶に「魚2 - 3:塩1」の割合になるようにぎっしりと詰める。瓶の最下層と最上層には塩の層を作り、竹を編んだ蓋をして重石をおく。これは屋外に蓋をして置かれる。魚が液化するにつれ、蓋と重石が沈んで行く。熟成が終わると、液体成分を漉し、別の瓶に移して出荷される。 (ラーオ語: nam paa、ラオス) 魚を塩水に漬けてつくられる。伝統製法では、陶器の瓶に作られ、瓶の状態で流通する。様々な魚種が用いられるが、主に淡水魚が用いられる。現地で流通するもののうち、80%が淡水魚、20%が海水魚で作った製品。しかしダムの増加に伴い、淡水魚の供給量が減少しており、これが変わりつつあるという。ちなみにこのナンパーを濾過しないものをパデーク (padeak) といい、ラオスではこちらも多用されている。 (マレー語: budu、マレーシア) カタクチイワシ科のインドアイノコイワシ属などの魚 (ikan bilis) を材料にして作られる。主に野菜を食べるときのドレッシングとして使用される。イカの塩辛に似た色と味、香りをもつ。非常に塩分が強い。乳状のブドゥはビンで購入できる。これを小皿にすこしとり、そこにライムを絞り、好みでトウガラシを刻んだものを加えることもある。ゆで野菜や生野菜をたべるときにこれにつけながら食べる。半島部マレー人のなかでもクランタン州、トレンガヌ州およびタイ南部のパッターニー県に住むマレー人を中心に好まれ、クランタンの独特な文化のひとつとして象徴的に語られることが多い。都市部のマレー人は食べたことがない者も多く、苦手な人が多いようである。 (patis、フィリピン) 北部の島々においてよく使われる。雑魚をつぶしたものや小エビをベースに、その1/3の量の塩を加えて塩辛とし、その上澄み液をパティスとよぶ。ここでいう雑魚を例示すると、イワシ、アンチョビ、ニシン、アジ、イトヨリなどが挙げられる。1 - 2年熟成させたものは高級品として扱われる。サウサワンを作る際に他の調味料と合わせたりする。 (tuk trey、カンボジア) 湖の魚を利用して作られる。 (nganbyayei、ミャンマー) ナマズ類を発酵熟成させてつくる「ンガピガウン」や「ンガピ」という塩辛を作成する工程の副産物として得られる。なお、ンガはミャンマー語で「魚」、ピは「圧する」という意味。アンダマン海沿岸で獲れる小魚を原料として工場生産するケースが増えている。 (kecap ikan、インドネシア) 汽水域で獲れた魚や、淡水魚を原料とする。アンチョビを使うケースもある。 (ペルシア語:مهیاوه、イラン) (ラテン語: garum、古代ローマ) アンチョビの内臓などから作った魚醤。 現在では、イタリア、カンパーニャ州のチェターラという漁村でその流れを汲んだコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラ (Colatura di alici di Cetara) という魚醤が作られている。これは、頭と内臓を除いたアンチョビを塩漬けにしてできた液を集めたもの。 (英語: Worcestershire sauce、イギリス) 英国イングランドのウスターシャー原産。モルトビネガー(麦芽酢)や食酢に塩、砂糖、アンチョビと野菜、スパイス等を合せた万能調味料。魚醤の一種と誤解されることもあるが、味はいわゆる魚醤類とは全くの別物であり、基本的には野菜などのエキスをベースとし様々な素材が複雑に絡み合った複合調味料であり、アンチョビは隠し味的位置づけに過ぎない。元祖といわれるリー・アンド・ペリン社のものが有名。日本のウスターソースもこのリー・アンド・ペリン社のものから発展したもので味や見た目も非常によく似ている。日本のウスターソースも例えばブルドッグソースには煮干しエキス、オタフクソースには魚肉エキスとホタテエキスなど魚醤または何らかの魚介エキス等を含むものが多い。
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"(patis、フィリピン)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "北部の島々においてよく使われる。雑魚をつぶしたものや小エビをベースに、その1/3の量の塩を加えて塩辛とし、その上澄み液をパティスとよぶ。ここでいう雑魚を例示すると、イワシ、アンチョビ、ニシン、アジ、イトヨリなどが挙げられる。1 - 2年熟成させたものは高級品として扱われる。サウサワンを作る際に他の調味料と合わせたりする。", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "(tuk trey、カンボジア)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "湖の魚を利用して作られる。", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "(nganbyayei、ミャンマー)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ナマズ類を発酵熟成させてつくる「ンガピガウン」や「ンガピ」という塩辛を作成する工程の副産物として得られる。なお、ンガはミャンマー語で「魚」、ピは「圧する」という意味。アンダマン海沿岸で獲れる小魚を原料として工場生産するケースが増えている。", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "(kecap ikan、インドネシア)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "汽水域で獲れた魚や、淡水魚を原料とする。アンチョビを使うケースもある。", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "(ペルシア語:مهیاوه、イラン)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "(ラテン語: garum、古代ローマ)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アンチョビの内臓などから作った魚醤。 現在では、イタリア、カンパーニャ州のチェターラという漁村でその流れを汲んだコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラ (Colatura di alici di Cetara) という魚醤が作られている。これは、頭と内臓を除いたアンチョビを塩漬けにしてできた液を集めたもの。", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "(英語: Worcestershire sauce、イギリス)", "title": "各地の魚醤" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "英国イングランドのウスターシャー原産。モルトビネガー(麦芽酢)や食酢に塩、砂糖、アンチョビと野菜、スパイス等を合せた万能調味料。魚醤の一種と誤解されることもあるが、味はいわゆる魚醤類とは全くの別物であり、基本的には野菜などのエキスをベースとし様々な素材が複雑に絡み合った複合調味料であり、アンチョビは隠し味的位置づけに過ぎない。元祖といわれるリー・アンド・ペリン社のものが有名。日本のウスターソースもこのリー・アンド・ペリン社のものから発展したもので味や見た目も非常によく似ている。日本のウスターソースも例えばブルドッグソースには煮干しエキス、オタフクソースには魚肉エキスとホタテエキスなど魚醤または何らかの魚介エキス等を含むものが多い。", "title": "各地の魚醤" } ]
魚醤(ぎょしょう)は、魚類または他の魚介類と塩を主な原料にした液体状の調味料。魚醤油(うおしょうゆ)、塩魚汁(しょっつる)とも呼ばれる。
{{Otheruses|調味料「ぎょしょう」|魚料理「うおびしお」|うおびしお}} [[ファイル:Fish sauce.jpg|サムネイル|魚醤]] '''魚醤'''(ぎょしょう)は、[[魚類]]または他の[[魚介類]]と[[塩]]を主な原料にした液体状の[[調味料]]。'''魚醤油'''(うおしょうゆ)、'''塩魚汁'''(しょっつる)とも呼ばれる。 == 概要 == 魚を[[塩]]と共に漬け込み、自己消化、[[好気性細菌]]の働きで[[発酵]]させたものから出た液体成分が魚醤で、黄褐色 - 赤褐色、暗褐色の液体である。熟成すると、特有の香りまたは臭気を持つが、魚の動物性[[タンパク質]]が分解されてできた[[アミノ酸]]と魚肉に含まれる[[核酸]]を豊富に含むため、濃厚な[[うま味]]を有しており、[[調味料]]として使えば料理に塩味を加えるとともに、うま味を加える働きが強い。また、[[ミネラル]]、[[ビタミン]]も含んでいる。上澄み液をすくい取り加熱殺菌して製品とする場合もあるが、独特の香りや臭いは加熱に弱いため、[[炒め物]]、[[焼き物 (料理)|焼き物]]、[[煮物]]の調理には未加熱の分離液を選んで用いる人もいる。 魚醤は[[アジア]]、特に[[東南アジア]]の沿岸部を中心に、[[東アジア]]の[[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]なども含め、いくつかの文化圏で用いられており、特に[[タイ王国|タイ]]を始めとする東南アジアでは、塩を除けば、ほぼ唯一の塩味の調味料で、非常に多くの料理に用いられる。また、これらの文化圏の中には、米飯を加えて[[なれずし]]を作る伝統を残している地域・[[民族]]もある。 その起源に関しては、[[カンボジア]]の[[トンレサップ湖]]付近とみられている<ref>[[原田信男]]『和食とはなにか 旨みの文化をさぐる』([[角川ソフィア文庫]]、2014年) p.36.</ref>。 == 種類 == 日本では、近代的な食生活において、[[塩分濃度]]が高く風味が独特な魚醤は、[[醤油]]や[[うま味調味料]]の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、[[郷土料理]]などに利用されている。主なものでは、秋田県で'''[[しょっつる]]'''(塩汁)、[[奥能登]]で'''[[いしる]]'''(魚汁)、香川県で'''[[いかなご醤油]]'''が製造され、地元を中心に使用されている。この他[[1990年代]]後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている(新製法の項目参照)。また、[[伊豆諸島]]で[[くさや]]を製造する際に用いられる'''くさや液'''も魚醤の一種であるとも考えられる。また90年代以降の[[タイ料理]]や[[ベトナム料理]]の普及に伴い、後述の東南アジアの魚醤が比較的容易に入手可能になっている。 [[東南アジア]]では、[[タイ王国|タイ]]の'''[[ナンプラー]]''' ({{lang|th|น้ำปลา}}, nam pla)、[[ベトナム]]の'''[[ヌクマム]]''' ({{lang|vi|nước mắm}} '''ニョクマム'''、'''ヌォクマム'''などとも) が世界的に有名である。他にも、[[フィリピン]]の'''パティス''' (patis)、[[カンボジア]]の'''[[トゥック・トレイ]]''' ({{lang|km|ទឹកត្រី}}, tuk trey)、[[ラオス]]の'''ナンパー''' (nam paa)、[[ミャンマー]]の'''ンガンピャーイェー''' (ngan-pya-ye)、[[インドネシア]]の'''ケチャップ・イカン''' (kecap ikan) などがある。[[中華人民共和国|中国]]の[[広東省]]や[[マカオ]]の'''魚露'''(ユーロウ)も地元で広く使われている。これらの言葉の多くはおおむね「魚の水」という意味である。しかし、[[福建省]][[福州市|福州]]では'''{{lang|zh|𩸞露}}'''(キエロウ)といい、[[廈門市|廈門]]のケーチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく[[塩辛]]を意味する語「キエ「魚偏に奇」」と、「露」を組み合わせている。 また、魚醤と同様の製法で作られ、液体を漉した後の物をすりつぶして固めたペースト状の調味料も用いられているが、[[オキアミ]]を用いることが多く、'''[[シュリンプペースト]]'''と呼ばれる。タイの'''カピ'''({{lang|th|กะปิ}}, kapi)、[[インドネシア]]の'''[[トラシ]]''' (terasi) や、[[マレーシア]]、[[ブルネイ]]の'''ブラチャン''' (belacan)、[[フィリピン]]の'''バゴオン''' (bagoon)、[[カンボジア]]の'''[[プラホック]]''' ({{lang|km|ប្រហុក}}, prohok)、[[ミャンマー]]の'''[[ンガピ]]''' (ngapi) 、中国の'''蝦醤'''(固形のものは'''蝦膏''')などがある。 歴史的には、[[古代ローマ]]においても'''[[ガルム (調味料)|ガルム]]'''({{lang-la|garum}})と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつて[[アンチョビ]]や[[サーディン]]の魚醤油が使われていたことの痕跡である。また[[イタリア]]南部[[アマルフィ]]周辺では、ガルムの流れを引くカタクチイワシの魚醤、{{仮リンク|コラトゥーラ・ディ・アリーチ|it|Colatura di alici di Cetara|label='''コラトゥーラ・ディ・アリーチ'''}}(colatura di alici)が今も作られている。 [[ケチャップ]]は、[[トマト]]から作られるトマトケチャップが有名になっているが、もともとは魚醤を含めた発酵調味料であり、ケチャップの語源は、[[福建省]]や[[台湾]]の「鮭汁 (kechiap)」という魚醤をさす言葉(この場合の(鮭」は[[塩辛]]を意味する[[方言字]]である)とする説が有力である。{{main|ケチャップ}} == 製法 == [[画像:Fish sauce factory, Phu Quoc.jpg|250px|right|thumb|ベトナムの魚醤工場]] もともとの製法は地域によりかなり異なっており、生の魚を[[塩漬け]]にしたり、[[干物]]にして用いるもの、特定の魚種だけを使う場合や網にかかった魚をみな使う場合、[[オキアミ]]などを原料とする場合がある。基本的に、用いる魚の種類によって、大きな魚の場合には内臓、頭、ヒレなどを、アンチョビなど利用価値の低い小形の魚の場合には、丸ごとを用いる場合が多い。 魚を大量の塩と共に漬け込む。内臓に含まれる[[プロテアーゼ]]や混入してきた[[細菌]]や[[カビ]]が分泌する[[酵素]]で自然発酵させるものが一般的だが、しょっつるのように[[麹]]を加えたり、料理用製品のように酵素剤を投入して発酵を助長するものもある。数か月以上発酵させ、[[熟成]]が進むと、魚の形が崩れ、全体が液化してくる。その液化が進んだものを、漉して用いる。熟成の度合いは地域によって異なり、熟成度が少なく、魚の香りの強いものから、熟成が進み[[チーズ]]のような発酵した匂いが中心のものもある。魚と塩だけで熟成させるものの他に、これに[[野菜]]や香草類を加えて味を調えるものもある。 一般に食卓で用いるための製品は純度の高いものであるのに対し、料理用製品では、これに塩水と[[グルタミン酸ナトリウム]]などを添加している場合もある。 == アレルギー == [[食物アレルギー|アレルギー]]の原因となり得る特定原材料等の25品目に含まれるエビ、カニ、サケ、イカなど原材料を含んでいるものが有るほか、発酵過程で生じる[[ヒスタミン]]によるアレルギー症状を起こす場合がある。なお、発酵過程で生じるヒスタミン含有量が400mg/kg を超える物は流通できない<ref>[https://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/risk_analysis/priority/pdf/121205_histamine.pdf 食品安全に関するリスクプロファイルシート(検討会用)2012年12月5日] 農林水産省</ref><ref>[https://www.fsc.go.jp/fsciis/foodSafetyMaterial/show/syu03910690305 欧州連合(EU)、魚介類を発酵させて生産した魚醤に対するヒスタミンの基準値を新たに設定 2013(平成25)年10月24日] 食品安全委員会</ref>。この発酵過程で生じるヒスタミンは、乳酸菌発酵スターターを用いることで、生成量の抑制が可能である事が報告されている<ref>木村メイコ、舊谷亜由美、福井洋平 ほか「[https://doi.org/10.2331/suisan.81.97 魚醤油発酵時のヒスタミン蓄積に関わる原因菌の同定および乳酸菌発酵スターター接種によるヒスタミン蓄積抑制効果について]」(『日本水産学会誌』81巻1号、 2015年) p.97-106, {{doi|10.2331/suisan.81.97}}, 日本水産学会</ref>。 == 各地の魚醤 == === 日本の魚醤 === [[画像:Gyosyou2830.JPG|thumb|right|180px|しょっつるといしる]] {{宣伝|date=2022年5月|section=1}} ==== しょっつる ==== {{Main|しょっつる}} 秋田県名物、伝統的には[[ハタハタ]]で作る魚醤。現在作られているしょっつるはハタハタに限らず色々な魚で作られている。ハタハタ料理にも付き物。一般的にはハタハタ若しくは[[タラ]]と[[豆腐]]、[[長ネギ]]と一緒に鍋で煮る「しょっつる鍋」が有名。[[きりたんぽ]]鍋など、他の料理の味付けにも用いられ、[[ラーメン]]のスープに(特に[[隠し味]]として)使われる場合もある。創作和食の店では[[サラダドレッシング|ドレッシング]]や付けダレなどに混ぜる(いずれも隠し味として)などの工夫も見られる。 ==== しょっからいわし(しょからいわし) ==== [[新潟市]]西蒲区の[[角田浜]]・[[越前浜]]地区名物、[[イワシ]]の頭と内臓を取ったあと、大量の塩と混ぜて半年以上発酵させた魚醤油。しょっからいわしで大根を漬け込み、2ヶ月間熟成させたものは「なまぐさごうこ」と言い、現地の郷土食である<ref>NHKテレビ「夕時ネットワーク」2013年05月01日放送</ref>。 ==== いしる(いしり、よしる、よしり) ==== {{Main|いしる}} [[能登半島]]北部で古くから作られているイワシやイカの内臓や頭、骨を塩漬けして発酵させた魚醤油。イワシの身の部分で「糠鰯(ヌカイワシ)」を漬け込むときに、他の桶に骨や内臓を塩漬けにし発酵させた汁を調味料として使う。骨や内臓を無駄にしない生活の知恵から生まれた「[[魚汁]]」。独特の風味がある。 古くから「いしる」の味を活かした家庭料理として「いしる鍋」があるほか、[[かやき|貝焼き]]と呼ばれる郷土料理がある。これは、[[イカ]]、[[エビ]]、[[ホタテガイ]]、[[キノコ|きのこ]]、[[ダイコン|だいこん]]、[[ナス|なす]]などをホタテガイの貝殻に入れ、煮汁に「いしる」を加えて網焼きにしたもの。また、海産物系の炒め物や鍋物などへの[[隠し味]]として使用されることもある。 「いしる」の名は、「いを(魚)じる(汁)」の転訛であるとされる<ref>「魚」を意味する「いを」は、「うお」の古語。</ref>{{要出典|date=2010年7月}}。能登半島の多くで「いしる」、小木、宇出津地区では「いしり」と呼ばれる場合が多いが、半島全域で呼称が混在している<ref>日本海に面した外浦地区では原料にイワシやサバを使うが、富山湾に面した内浦地区の小木、宇出津では原料に[[イカ]]を使うので、イカを原料とするものを「いしり」と呼び分けるとする見解もある。</ref><ref>[[横光利一]]はイワシから魚醤を作って儲けようとして失敗した[[長山正太郎]]をモデルにした『紋章』という小説を書いている。横光は[[富山県|富山]]が[[仏教]]の盛んな地域だから、魚の醤油は受け入れられなかったとしている。</ref>。 ==== いかなご醤油 ==== [[画像:P l ikanago.jpg|thumb|right|180px|いかなご醤油]] {{Main|いかなご醤油}} 香川県の特産品。かつては「しょっつる」および「いしる」とともに日本三大魚醤と呼ばれた。[[1950年代]]に途絶えたが、近年になって少量ではあるが復活生産されるようになった。 ==== 1980年代以降の日本の主な製品 ==== 日本では[[1990年代]]に料理用調味料として魚醤製品が注目されたことがあった。酵素や[[麹]]を用いて製造する方法が試行錯誤され、1989年に発売されたマリナージを嚆矢として様々な商品が開発された。しかし結局小売製品としての市場は拡大せず、これらの商品は2000年代以降加工食品の調味材料として生産されることが一般的になった。主なものは以下の通り。 *エムジーシーマリナージ - マリナージ([[イワシ]]を[[酵素分解]]) *海択舎 - 本魚醤(サバ・イカ・[[サケ]]を酵素分解) *[[宝ホールディングス|宝酒造]] - だししるべ(アジを酵素分解) また、2000年代以降は[[地域おこし]]の一環として、[[産学連携]]の成果として各地の特産海産物を原料とした魚醤も数多く開発された。主な取り組みを挙げる。 * 北海道 - [[1999年]](平成11年)ごろから海産物を原料とした魚醤が水産会社により開発され始めた。2008年には北海道魚醤油生産組合が立ち上げられ、以後数十社が参加して商品が開発された。北海道の名産品であるサケやホタテを用いたものの外に、[[サンマ]]、[[寿都町]]名産の[[ホッケ]]、[[苫小牧市]]名物[[ウバガイ]]などを用いた製品がある。2011年には北海道の食クラスター連携協議体重点プロジェクトに採用されて補助金が投下され、北海道産魚醤の統一ブランド名「雪ひしお」や[[ゆるキャラ]]「雪ひしおくん」のPRが行われた。 * 高知県 - [[橋本大二郎]]知事(当時)の肝煎りにより1993年に設立された[[第三セクター]]「高知県商品計画機構」が、高知名産の[[カツオ]]の内臓や[[粗]]を用いた魚醤「びーみ」を開発した。しかし、同機構の運営が思わしくなく、2001年(平成13年)度を以って清算し、現在は入手不可能。 * 宮城県 - [[気仙沼漁港]]の飲食店等の有志が集まった気仙沼最高料理技術研鑽会が、漁港の名産品であるサンマ、[[イカナゴ]]、[[アミ (甲殻類)|アミ]]などを用いた魚醤「魚塩汁きがき」を開発した。 * 大分県 - 2004年に日田市の会社が[[大分県産業科学技術センター]]と共同で[[アユ]]を用いた「[[鮎魚醤]]」を開発した。淡水魚であるため通常の魚醤と臭みが異なる。 * 新潟県 - 新潟漁業協同組合と新潟県すし商生活衛生同業組合が新潟県水産海洋物研究所と共同で[[ホッコクアカエビ]]を用いた「南蛮海老醤油」を開発した。2010年にはPR団体として「新潟魚醤油食ブランド普及協議会」が設立され、新潟市内の飲食店で提供されている。 * 神奈川県 - 湘江亭が相模湾で採れる[[カタクチイワシ]]を用いた「鵠沼魚醤」を開発した。鵠沼地区地域経営会議のプロモーションにより藤沢市内の飲食店で提供されている。 * 愛知県 - 2000年に豊浜水産物加工業協同組合が愛知県産業技術研究所と共同でカタクチイワシを用いた「しこの露」を開発した。2003年には全国中小企業団体中央会から全国地場産業大賞優秀賞を受賞している。また、愛知県立三谷水産高校および地元企業が連携してウナギの頭を用いた魚醤「鰻能(ばんのう)」も商品化されている。<ref>{{Cite web|和書|title=ウナギの魚醤「鰻能(ばんのう)」の物語 {{!}} 株式会社海みらい研究所|url=https://www.marinefuture-lab.com/service1.html|website=www.marinefuture-lab.com|accessdate=2021-09-22}}</ref> *長崎県 - 2020年に麹と五島列島の椿の花から取れた「五島つばき酵母」を使用した魚醤として五島の椿株式会社と金沢鮮魚が共同で「五島の醤」を開発。<ref>{{Cite web|和書|title=魚醤|url=https://shop.gotonotsubaki.co.jp/collections/goto-hishio|website=五島の椿株式会社オンラインショップ|accessdate=2020-12-04|language=ja}}</ref>⻑崎県⽔産加⼯振興祭⽔産製品品評会において、⽔産庁⻑官賞を受賞している。<ref>{{Cite web|和書|title=五島の醤(ごとうのひしお)が水産庁長官賞を受賞しました|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000066900.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2020-12-04}}</ref> === アジア(日本以外)の魚醤 === ==== エクチョッ ==== [[ファイル:Myeolchi-aekjeot.jpg|サムネイル|カタクチイワシのエクチョッ]]({{Lang-ko|액젓}} (aekjeot)、[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]) [[カタクチイワシ]]({{Lang-ko|멸치}}、ミョルチ)や[[イカナゴ]]({{Lang-ko|까나리}}、カナリ)などを材料にして作られる。主に[[キムチ]]を漬ける際に[[オキアミ]]の塩辛とともに使用されるほか、[[キムチチゲ]]など、[[チゲ]]の隠し味としても使用されている。 ==== 魚露(ユールー) ==== [[ファイル:HK SW 上環 Sheung Wan 皇后大道中 303 Queen's Road Central 權記雲吞麵 Wonton noodle soup shop June 2020 SS2 07.jpg|サムネイル|魚露の瓶詰め]]([[福州語]]: {{lang|zh|&#x29E1E;露}}(キエロウ)、[[閩南語]]: {{lang|zh|鮭汁}}(ケーチャップ、コエチアッ)、[[広東語]]: {{lang|zh|魚露}}(ユーロウ)、[[中華人民共和国]]・[[台湾]]) [[中華人民共和国|中国]]の[[福建省]]、[[浙江省]]、[[広東省]]、[[広西チワン族自治区]]や[[香港]]、[[マカオ]]、[[台湾]]などで製造、使用されている。各種の小魚が利用されるが、[[福建省]]では[[カワハギ]]類も多用される。[[アミ (甲殻類)|アミ]]類で作った液状のものは「蝦油」(シアヨウ、閩南語:ヘーイウ)と呼ばれる。 ==== ヌクマム ==== [[画像:Ha-iu.JPG|thumb|right|150px|ヌクマム]] {{Main|ヌクマム}} ({{lang-vi|nước mắm}}({{lang|vi|&#x6E03;&#x29F15;}}<!-- [[File:Mam is for nước mắm.png|16px]]-->、[[ベトナム]]) ヌクは水、マムは魚介発酵食品一般を指す語。[[アンチョビ]]類を用いる。ナンプラーに似るが、ナンプラーよりも発酵度合いが低く、魚の香りがより強いものが多い。またナンプラーより塩味が弱いが、塩分濃度は高い。上等の品は親戚などへの贈答品として用いられることがある。「ヌオクマム」「ニョクマム」「ヌックマム」とも呼ばれる。木製の樽に魚と[[塩]]を「魚10:塩4」の割合で入れ、蓋をして4か月 - 1年程度熟成させる。[[フォー]]をはじめとする、各種ベトナム料理の味付けに欠かせないほか、ヌクマムに刻み唐辛子と刻みニンニクを漬け、ライム果汁・砂糖・水で味を整えた[[ヌクチャム]]は食卓調味料として使われる。名産地は[[フーコック島]]や[[ファンティエット]]など。 また、マグロを原料にしたヌクマム「{{lang|vi|Nam Ngư}}(ナム・グー)」もベトナム北部を中心に人気がある。ただ、[[ジアゾ]]系[[合成着色料]]ブラウンHT (E155)」が使用されており、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[アメリカ合衆国|米国]]、[[スイス]]、[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]、[[スウェーデン]]、[[ベルギー]]、[[オーストリア]]などでは健康に悪影響を及ぼす可能性があるとして輸入が禁止されている。 ==== ナンプラー ==== {{Main|ナンプラー}} ({{lang-th|น้ำปลา}} (nam pla)、[[タイ王国|タイ]]) 近海で水揚げされる[[カタクチイワシ科|カタクチイワシ類]]を、7か月から1年程度熟成させて作る。namは水、plaは魚を意味する。水揚げの減少に伴い、他の魚種も混合して用いられているという。一部の高級品のために、より大型の[[サバ]]類、[[ニシン]]類も用いられるが、これは一般には流通しない。 洗って水を切った魚には食塩をまぶし、陶器の瓶に「魚2 - 3:塩1」の割合になるようにぎっしりと詰める。瓶の最下層と最上層には塩の層を作り、[[竹]]を編んだ蓋をして重石をおく。これは屋外に蓋をして置かれる。魚が液化するにつれ、蓋と重石が沈んで行く。熟成が終わると、液体成分を漉し、別の瓶に移して出荷される。 ==== ナンパー ==== ([[ラーオ語]]: nam paa、[[ラオス]]) 魚を塩水に漬けてつくられる。伝統製法では、陶器の瓶に作られ、瓶の状態で流通する。様々な魚種が用いられるが、主に[[淡水魚]]が用いられる。現地で流通するもののうち、80%が淡水魚、20%が[[海水魚]]で作った製品。しかし[[ダム]]の増加に伴い、淡水魚の供給量が減少しており、これが変わりつつあるという。ちなみにこのナンパーを濾過しないものをパデーク (padeak) といい、ラオスではこちらも多用されている。 ==== ブドゥ ==== {{Main|ブドゥ}} ({{Lang-ms|budu}}、[[マレーシア]]) [[カタクチイワシ科]]の[[インドアイノコイワシ属]]などの魚 (ikan bilis) を材料にして作られる。主に野菜を食べるときのドレッシングとして使用される。イカの塩辛に似た色と味、香りをもつ。非常に塩分が強い。乳状のブドゥはビンで購入できる。これを小皿にすこしとり、そこに[[ライム]]を絞り、好みで[[トウガラシ]]を刻んだものを加えることもある。ゆで野菜や生野菜をたべるときにこれにつけながら食べる。半島部マレー人のなかでも[[クランタン州]]、[[トレンガヌ州]]および[[タイ王国|タイ]]南部の[[パッターニー県]]に住むマレー人を中心に好まれ、クランタンの独特な文化のひとつとして象徴的に語られることが多い。都市部のマレー人は食べたことがない者も多く、苦手な人が多いようである。 ==== パティス ==== [[ファイル:D2159Baliuag, Bulacan Town Proper 29.jpg|サムネイル|パティス]](patis、[[フィリピン]]) 北部の島々においてよく使われる<ref name="isige2018">{{Citation |和書 |last=石毛 |first=直道 |author-link=石毛直道 |title=世界の食べもの |isbn=978-4-06-292171-8 |series=講談社学術文庫 |url= |year=2018 |publisher=講談社 |pages=83-84}}</ref>。雑魚をつぶしたものや小エビをベースに、その1/3の量の塩を加えて塩辛とし、その上澄み液をパティスとよぶ<ref name="isige2018" />。ここでいう雑魚を例示すると、イワシ、アンチョビ、ニシン、アジ、イトヨリなどが挙げられる<ref name="mori_hoka">{{Citation |和書 |title=新たな魚醤製造法の開発 |author1=森哲也 |author2=角田潔和 |author3=小泉武夫 |journal=日本食生活学会誌 |volume=16 |number=3 |pages=262-265 |year=2005 |doi=10.2740/jisdh.16.262}}</ref>。1 - 2年熟成させたものは高級品として扱われる<ref name="isige2018" />。[[サウサワン]]を作る際に他の調味料と合わせたりする<ref name="isige2018" />。 ==== タク・トレイ ==== (tuk trey、[[カンボジア]]) 湖の魚を利用して作られる<ref name="mori_hoka" />。 ==== ンガピャーイェー ==== (nganbyayei、[[ミャンマー]]) ナマズ類を発酵熟成させてつくる「ンガピガウン」や「[[ンガピ]]」という塩辛を作成する工程の副産物として得られる<ref name="mofa">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/j_mekong_k/koryu_ak2.html |title=メコンの魚醤 |work= |publisher=外務省 |accessdate=2021-01-16}}</ref>。なお、ンガはミャンマー語で「魚」、ピは「圧する」という意味<ref name="mofa" />。[[アンダマン海]]沿岸で獲れる小魚を原料として工場生産するケースが増えている<ref name="mori_hoka" />。 ==== ケチャップ・イカン ==== (kecap ikan、[[インドネシア]]) [[汽水域]]で獲れた魚や、淡水魚を原料とする<ref name="mori_hoka" />。アンチョビを使うケースもある<ref name="mori_hoka" />。 ==== マヒヤーワ ==== (ペルシア語:[[:fa:مهیاوه|مهیاوه]]、[[イラン]]) === ヨーロッパの魚醤 === ==== ガルム ==== {{Main|ガルム (調味料)}} ({{lang-la|[[:en:Garum|garum]]}}、[[古代ローマ]]) アンチョビの内臓などから作った魚醤。 現在では、イタリア、カンパーニャ州の[[チェターラ]]という漁村でその流れを汲んだコラトゥーラ・ディ・アリーチ・ディ・チェターラ ([[:it:Colatura di alici di Cetara|Colatura di alici di Cetara]]) という魚醤が作られている。これは、頭と内臓を除いたアンチョビを塩漬けにしてできた液を集めたもの。 ==== ウスターソース ==== ({{lang-en|[[:en:Worcestershire sauce|Worcestershire sauce]]}}、[[イギリス]]) [[イギリス|英国]][[イングランド]]の[[ウスターシャー]]原産。[[モルトビネガー]]([[麦芽酢]])や食酢に[[アンチョビ|塩、砂糖、アンチョビ]]と野菜、スパイス等を合せた万能調味料。魚醤の一種と誤解されることもあるが、味はいわゆる魚醤類とは全くの別物であり、基本的には野菜などのエキスをベースとし様々な素材が複雑に絡み合った複合調味料であり、アンチョビは隠し味的位置づけに過ぎない。元祖といわれるリー・アンド・ペリン社のものが有名。日本の[[ウスターソース]]もこのリー・アンド・ペリン社のものから発展したもので味や見た目も非常によく似ている。{{要出典範囲|date=2021年12月|日本のウスターソースも例えばブルドッグソースには煮干しエキス、オタフクソースには魚肉エキスとホタテエキスなど魚醤または何らかの魚介エキス等を含むものが多い}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 太田静行『魚醤油の知識』(幸書房、1996年)ISBN 4782101449 * [[石毛直道]]、ケネス・ラドル『魚醤とナレズシの研究―モンスーン・アジアの食事文化』(岩波書店、1990年)ISBN 4000027212 == 関連項目 == {{Commons|Category:Fish sauce}} * [[醤油]] * [[肉醤]] * [[草醤]] * [[穀醤]] * [[シュリンプペースト]] * [[ケチャップ]] * [[味噌]] * {{ill2|バゴーン (調味料)|en|Bagoong}} ‐ フィリピンなどで作られる魚やエビなどから作られる発酵調味料。 * [[塩辛]] * [[くさや#くさや液|くさや液]]、[[しょっつる]](秋田県)、[[いしる]](石川県)、[[いかなご醤油]](香川県) == 外部リンク == {{Notice|ウィキペディアは宣伝目的のリンクを受け入れていません。ご協力をお願いします。[[Wikipedia:外部リンク]]を参照してください。|お知らせ}} * 角野猛、「[https://doi.org/10.2740/jisdh.12.2 アジアの魚醤]」 『日本食生活学会誌』 2001年 12巻 1号 p.2-8, {{doi|10.2740/jisdh.12.2}}, 日本食生活学会 {{サラダドレッシング}} {{DEFAULTSORT:きよしよう}} [[Category:魚醤|*]] [[Category:中華調味料]] [[Category:日本の調味料]] [[Category:調味料]] [[Category:日本の水産加工品]] [[Category:水産加工品]] [[Category:日本の発酵食品]] [[Category:発酵食品]] [[Category:石川県の食文化]] [[Category:タイの食文化]] [[Category:ベトナムの食文化]] [[Category:能登半島]]
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しょっつる
しょっつるは、秋田県で作られる魚醤。塩魚汁とも書く。ハタハタなどの原料魚に塩を加え、1年以上かけて熟成させて作る。タンパク質の分解によるアミノ酸やペプチドを主成分とし、うま味と特有の風味を呈する。秋田県の伝統的な調味料で、江戸時代初期から製造されている。 江戸時代初期(17世紀)から、秋田の民家ではハタハタなど近海で多量に採れる魚を利用して、しょっつるを製造してきた。一方、延長5年(927年)の『延喜式』には鯖醤、鯛醤などの具体的な魚醤が記録されている事などから、しょっつるの起源がさらに古い可能性も指摘されている。販売を目的とした商業的生産は、明治時代初期(19世紀後半)には始まっていた。一方、1894年に農商務省がまとめた『日本水産製品誌』では、各地の魚醤の記録がある一方で、なぜかしょっつるに関する記述はない。 20世紀前半までは、秋田市周辺の沿岸部で多くの家庭が自家生産していた。しかし1980年代には自家生産する家庭は極めて少なくなり、秋田市および能代市、象潟町(現・にかほ市)にある計6か所の工場が生産を行っていた。しょっつるの年間生産量は、1970年代には200kL程度、近年は100トン以下となっている。 原料魚としては、かつてはハタハタ(英語: Sailfin sandfish)を主に使っていた。秋田地方で豊富に採れて臭みが少ない事が大きな利点で、特に産卵のため海岸に近づく12月に多く漁獲され、単価の低い雄が好んで材料とされた。20世紀後半にはハタハタの資源量が激減したが、全面禁漁などを経て漁獲高が回復し、近年は再びハタハタも用いられている。 現代では漁獲量が多く安価な点や鮮度を重視して以下のような魚が使われており、5 - 6ヶ月の短期醸成ではそれぞれ次のような特徴がある。 以上のような特徴から、ハタハタやアジ、サバは長期熟成、イワシは短期熟成にそれぞれ向いているとされる。また、近年では冷凍のハタハタや、コウナゴなども用いられる。 また、塩としてかつては食塩ではなく白塩が使用されていた。塩は、脱水作用により細菌の発育を防ぎ、酸素の溶解度を減少させ、細菌に対して塩素イオンが直接作用する、などの働きによってしょっつるの保存性を高める役割を果たしている。 原料魚の頭部と内臓、尾を取り除き、魚に対して30 - 40%ほどの食塩を直接まぶし、よく混合する。内臓などを除かず魚を丸ごと用いたり、大型の魚は切断する場合もある。常温で1年以上漬けこみ、自己消化酵素によるタンパク質の分解を進める。この間、定期的に撹拌して塩分濃度の低い部分が生じて腐造する事を防ぐ。また、1970年代の調査では、漬けこみ始めてから3 - 7日経過して食塩水が赤色になったら、生臭さを除くために液相を分離して煮沸・ろ過していた。 窒素量などから熟成の終了時期を決定し、おおむね1 - 2年で終了となる。骨など分解されなかった固形物を除き、沸騰させて約10分間加熱する。加熱によってエキスの移行とタンパク質の熱凝固が促進され、この後のろ過が容易になる。加熱後の液体を冷却し、浮いた油脂分を除去してから濾布などを用いてろ過する。清澄な方が商品価値が高いとされるため、かつては複数回ろ過を行っていた。最後に60°C以上に加熱したままビン詰めし、好塩性菌を殺菌する。また、ビンではなくペットボトル入りの商品もある。 自家消費用に生産する場合は、魚肉:塩:麹が8:1:1となるように麹を準備し、塩と魚肉を交互に重ねて桶などで2 - 3年かけて熟成させていた。麹には風味を良くする効果があるとされていたが、家庭生産でも麹を加えないケースもあった。 ハタハタと白菜などの野菜、豆腐を入れた「しょっつる鍋」などの鍋物、ラーメンやうどんの汁にも使われる。また、ホタテガイの貝殻を器としたかやきにも用いられる。男鹿市ではご当地グルメとしてしょっつるを利用した男鹿しょっつる焼きそばが販売されている。
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しょっつるは、秋田県で作られる魚醤。塩魚汁とも書く。ハタハタなどの原料魚に塩を加え、1年以上かけて熟成させて作る。タンパク質の分解によるアミノ酸やペプチドを主成分とし、うま味と特有の風味を呈する。秋田県の伝統的な調味料で、江戸時代初期から製造されている。
[[image:Gyosyou2830.JPG|200px|thumb|ビン入りのしょっつる(左)。右は[[いしる]]。]] '''しょっつる'''は、[[秋田県]]で作られる[[魚醤]]。'''塩魚汁'''とも書く<ref name="ikemi_1980_898">{{Harvnb|池見元宏|小笠原泰|1980|p=898}}</ref>。[[ハタハタ]]などの原料魚に塩を加え、1年以上かけて熟成させて作る<ref name="affrc"/>。[[タンパク質]]の分解による[[アミノ酸]]や[[ペプチド]]を主成分とし、[[うま味]]と特有の風味を呈する<ref name="affrc"/>。[[秋田県]]の伝統的な[[調味料]]で、[[江戸時代]]初期から製造されている<ref name="ikemi_1980_898"/>。 == 歴史 == [[江戸時代]]初期([[17世紀]])から、秋田の民家では[[ハタハタ]]など近海で多量に採れる魚を利用して、しょっつるを製造してきた<ref name="ikemi_1980_898"/>。一方、[[延長_(元号)|延長]]5年([[927年]])の『[[延喜式]]』には鯖醤、鯛醤などの具体的な[[魚醤]]が記録されている事などから、しょっつるの起源がさらに古い可能性も指摘されている<ref name="ikemi_1980_898"/>。販売を目的とした商業的生産は、[[明治|明治時代]]初期([[19世紀]]後半)には始まっていた<ref name="ikemi_1980_898"/>。一方、[[1894年]]に[[農商務省 (日本)|農商務省]]がまとめた『日本水産製品誌』では、各地の魚醤の記録がある一方で、なぜかしょっつるに関する記述はない<ref name="ishige_1986_14">{{Harvnb|石毛直道|1986|p=14}}</ref>。 [[20世紀]]前半までは、[[秋田市]]周辺の沿岸部で多くの家庭が自家生産していた<ref name="ishige_1986_14"/>。しかし[[1980年代]]には自家生産する家庭は極めて少なくなり<ref name="ishige_1986_14"/>、秋田市および[[能代市]]、[[象潟町]](現・[[にかほ市]])にある計6か所の工場が生産を行っていた<ref name="ikemi_1980_898"/>。しょっつるの年間生産量は、[[1970年代]]には200[[立方メートル|kL]]程度<ref name="nakano_1973_89"/>、近年は100[[トン]]以下となっている<ref name="affrc"/>。 == 原料 == [[ファイル:Arctoscopus japonicus Umigatari.png|thumb|[[ハタハタ]]]] 原料魚としては、かつては[[ハタハタ]]({{lang-en|Sailfin sandfish}})を主に使っていた<ref name="nakano_1973_89">{{Harvnb|中野智夫|1973|p=89}}</ref>。秋田地方で豊富に採れて臭みが少ない事が大きな利点で、特に産卵のため海岸に近づく12月に多く漁獲され、単価の低い雄が好んで材料とされた<ref name="affrc"/>。[[20世紀]]後半にはハタハタの資源量が激減したが、全面禁漁などを経て漁獲高が回復し、近年は再びハタハタも用いられている<ref name="affrc"/>。 現代では漁獲量が多く安価な点や鮮度を重視して以下のような魚が使われており、5 - 6ヶ月の短期醸成ではそれぞれ次のような特徴がある<ref name="nakano_1973_89"/><ref name="ikemi_1980_899">{{Harvnb|池見元宏|小笠原泰|1980|p=899}}</ref>。 *ハタハタ:味が淡白。[[12月]]に採れたものが適している。 *[[アジ]]:くせはないが、味は淡白。 *[[イワシ]]:くせがなく、[[甘味]]があり美味。[[5月]]に採れたものが適している *[[サバ]]:[[うま味]]があるが、刺激臭あり。 *[[アミ (甲殻類)|コアミ]]:特有の臭いや渋味がある。 以上のような特徴から、ハタハタやアジ、サバは長期熟成、イワシは短期熟成にそれぞれ向いているとされる<ref name="ikemi_1980_899"/>。また、近年では冷凍のハタハタや、[[イカナゴ|コウナゴ]]なども用いられる<ref name="affrc">{{Cite web|和書|url= http://nrifs.fra.affrc.go.jp/kakou/souran/syottsuru/|title= 水産加工品のいろいろ しょっつる|publisher= 国立研究開発法人[[水産総合研究センター]] 中央水産研究所|accessdate= 2015-10-05}}</ref>。 また、[[塩]]としてかつては食塩ではなく白塩<ref>ウェットタイプ(非乾燥)の低価格な塩で、食塩に比べ精製度が低い。[http://www.sio.or.jp/index.html 日本塩工業会]の定義では、食塩の塩化ナトリウム含有率が99%以上であるのに対し白塩は95%以上と定める。</ref>が使用されていた<ref name="ikemi_1980_899"/>。塩は、脱水作用により[[細菌]]の発育を防ぎ、[[酸素]]の[[溶解度]]を減少させ、細菌に対して[[塩化物|塩素イオン]]が直接作用する、などの働きによってしょっつるの保存性を高める役割を果たしている<ref name="ikemi_1980_899"/>。 == 製法 == 原料魚の[[頭部]]と[[内臓]]、尾を取り除き、魚に対して30 - 40%ほどの[[塩|食塩]]を直接まぶし、よく混合する<ref name="nakano_1973_89"/><ref name="affrc"/>。内臓などを除かず魚を丸ごと用いたり、大型の魚は切断する場合もある<ref name="nakano_1973_89"/><ref name="affrc"/>。常温で1年以上漬けこみ、自己消化酵素による[[タンパク質]]の分解を進める<ref name="affrc"/>。この間、定期的に[[撹拌]]して[[塩分濃度]]の低い部分が生じて腐造する事を防ぐ<ref name="affrc"/>。また、[[1970年代]]の調査では、漬けこみ始めてから3 - 7日経過して[[食塩水]]が赤色になったら、生臭さを除くために液相を分離して煮沸・[[ろ過]]していた<ref name="nakano_1973_89"/>。 窒素量などから熟成の終了時期を決定し、おおむね1 - 2年で終了となる<ref name="affrc"/>。[[骨]]など分解されなかった固形物を除き、[[沸騰]]させて約10分間加熱する<ref name="affrc"/>。加熱によってエキスの移行とタンパク質の熱凝固が促進され、この後の[[ろ過]]が容易になる<ref name="ikemi_1980_900">{{Harvnb|池見元宏|小笠原泰|1980|p=900}}</ref>。加熱後の液体を冷却し、浮いた[[油脂|油脂分]]を除去してから濾布などを用いてろ過する<ref name="affrc"/>。清澄な方が商品価値が高いとされるため、かつては複数回ろ過を行っていた<ref name="ikemi_1980_900"/>。最後に60[[セルシウス度|°C]]以上に加熱したままビン詰めし、好塩性菌を殺菌する<ref name="affrc"/>。また、ビンではなく[[ペットボトル]]入りの商品もある<ref name="affrc"/>。 自家消費用に生産する場合は、魚肉:塩:[[麹]]が8:1:1となるように麹を準備し、塩と魚肉を交互に重ねて[[桶]]などで2 - 3年かけて熟成させていた<ref name="ikemi_1980_900"/><ref name="ishige_1986_15"/>。麹には風味を良くする効果があるとされていたが、家庭生産でも麹を加えないケースもあった<ref name="ishige_1986_15">{{Harvnb|石毛直道|1986|p=15}}</ref>。 == 利用 == [[ハタハタ]]と[[ハクサイ|白菜]]などの[[野菜]]、[[豆腐]]を入れた「しょっつる鍋」などの[[鍋物]]、[[ラーメン]]や[[うどん]]の汁にも使われる<ref name="affrc"/><ref name="affrc_nabe">{{Cite web|和書|url= http://jsnfri.fra.affrc.go.jp/kids/hatahata/kw2.html|title= しょっつる鍋|publisher= 国立研究開発法人 水産総合研究センター 日本海区水産研究所|accessdate= 2015-10-05}}</ref>。また、[[ホタテガイ]]の[[貝殻]]を器とした[[かやき]]にも用いられる<ref name="ikemi_1980_902">{{Harvnb|池見元宏|小笠原泰|1980|p=902}}</ref>。[[男鹿市]]では[[ご当地グルメ]]としてしょっつるを利用した[[男鹿のやきそば|男鹿しょっつる焼きそば]]が販売されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.oganavi.com/yakisoba/about/|title= 男鹿しょっつる焼きそばとは|publisher= 男鹿のやきそばを広める会|accessdate= 2015-10-05}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Cite journal|1 =和書|author =[[石毛直道]]|title =東アジアの魚醤 : 魚の発酵製品の研究 (1)|url =http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/2914/1/KH_011_1_001.pdf|year =1986|journal =国立民族学博物館研究報告|volume =11|issue =1|pages =1-41|publisher =[[国立民族学博物館]]|naid =110004728152|doi =|ref =harv}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }} *{{Cite journal |和書 |author = 池見元宏 |author2 = 小笠原泰 |title = しょっつるの味 |url = https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.75.898 |year = 1980 |journal = 日本釀造協會雜誌 |volume = 75 |issue = 11 |pages = 898-902 |publisher = 日本釀造協会 |naid = |doi = 10.6013/jbrewsocjapan1915.75.898 |ref = harv }} *{{Cite journal |和書 |author = 中野智夫 |title = 魚醤 : ショッツルを中心として |url = https://doi.org/10.11402/cookeryscience1968.6.2_88 |year = 1973 |journal = 調理科学 |volume = 6 |issue = 2 |pages = 88-91 |publisher = 日本調理科学会 |doi = 10.11402/cookeryscience1968.6.2_88 |ref = harv }} == 関連項目 == {{portal|食}} * {{仮リンク|魚醤の一覧|en|List of fish sauces}} * [[いしる]](石川県)、[[いかなご醤油]](香川県) - 日本三大[[魚醤]]とされる。 * [[男鹿のやきそば]] {{DEFAULTSORT:しよつつる}} [[Category:日本の調味料]] [[Category:秋田県の食文化]] [[Category:魚醤]] [[Category:日本の水産加工品]] [[Category:日本の発酵食品]]
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17,857
ナンプラー
ナンプラー(タイ語: น้ําปลา, nam pla)は、タイの魚醤。タイ語でnamは液体、plaは魚を意味する。ナムプラー表記する方が原語に近い発音になる。 タイ料理には欠かすことのできない調味料とされ、高級品から安価なものまで幅広いラインアップがある。タイでは屋台や大衆食堂、ホテルのレストランなど様々な外食店で机の上にナンプラーが常備されており、日本における醤油のような存在となっている。 なお、ナンプラーは商品として製造され、家庭で造ることはほぼない。タイランド湾に面して漁業が盛んで塩田の多い、チョンブリー県やラヨーン県に製造業者が集中している。また、マハーチャイもナンプラーの産地として有名である。 主にアンチョビやコリカ属(英語版)などの魚を原料とする。少数の業者のみ、チャオプラヤー川に生息するコイ科のOsteochilusやオスフロネムス科のTrichogasterなどの淡水魚を原料とするが、基本的には海水魚を用いる。 小型の海水魚は丸ごと使い、魚に対して重量比で30 - 50%の塩を加えてよく混合し、甕やコンクリート製のタンクに入れて蓋と重石をする。数ヶ月間で魚のタンパク質はほとんど分解するが、長期間熟成させるほど味が良くなるとされる。2年以上熟成させることは稀で、おおむね12 - 18ヶ月ほどで出荷される。最初に液体部分を取り出したものが一番搾りとされ、これに砂糖を加えてビン詰めしたものが一級品となる。 貯蔵容器に残った固形分に食塩水とアミノ酸液(グルタミン酸ナトリウムの副生成物)を加え、5 - 15日間熟成させて液体を取り出したものが二番搾りとなり、酢酸を加えてビン詰めしたものが二級品となる。ここで残った固形分に食塩水を加えて煮沸し、酢酸とアミノ酸を加えたものが三級品となり、一級品とは3倍の価格差がある。 淡水魚を用いる場合は、大型なので鱗や頭部、内臓を最初に取り除き、一番搾りまでは同様に加工する。残った魚体には煎り米粉と米ぬかを加えて混合し、プラーラーとして出荷している。また、かつては食塩水にカラメルと酢酸、安息香酸ナトリウム、グルタミン酸ナトリウムを混合し、少量の魚醤を加えたものが発酵過程を経ない人工的な魚醤として生産されていたが、タイ政府によって1980年代までに禁止されている。 一級品や二級品のナンプラーはつけ汁として使用し、三級品は主に調理に用いられる。代表的なタイ料理の料理書に掲載された2,312種の料理についての調査では、ナンプラーはこのうち1,265種に用いられており、調味料としては最も頻度が高い。塩味を加える際にも、食塩よりナンプラーを使うことが多い。 多くのタイ人はナンプラーをタイの伝統的調味料と考えているが、20世紀初頭までナンプラーは市販されていなかった。当時のイーサーン地方では自家製の塩辛の副産物であるナンパーデークが、タイ中部ではベトナムから輸入されたヌクマムが、それぞれ調味料として使用されていた。 潮州市から移住してきたタイの華人が、ヌクマムを模倣して1922年にタイ人向けの魚醤を作ったのがナンプラーの始まりで、中国と同じ魚露という名称をタイ語に直訳してnam plaとなったという。その工場の労働者たちが独立してさらにナンプラー工場を立ち上げたため、ナンプラー製造者には潮州移民の子孫が多い。 1978年の調査では、バンコクでは1世帯につき1週間に150 - 400mlのナンプラーを購入しており、金額ベースで見ると食塩やシュリンプペーストなどと比べてナンプラーが突出して多い。1982年の調査ではタイ全土に約200のナンプラー工場があったという。
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ナンプラーは、タイの魚醤。タイ語でnamは液体、plaは魚を意味する。ナムプラー表記する方が原語に近い発音になる。
[[File:Thaifishsauce0609.jpg|thumb|right|250px|タイの様々なナンプラー(魚醤)]] '''ナンプラー'''({{lang-th|น้ำปลา}}, nam pla)は、[[タイ王国|タイ]]の[[魚醤]]。タイ語でnamは[[液体]]、plaは[[魚]]を意味する<ref name="ishige_1987_268"/>。ナムプラー表記する方が原語に近い発音になる<ref>大庭英子、『料理をもっとおいしくする 調味料のきほんと使い方レシピ』、成美堂出版、2011年、48ページ</ref>。 == 概要 == [[タイ料理]]には欠かすことのできない[[調味料]]とされ、高級品から安価なものまで幅広いラインアップがある<ref name="mofa_2009"/>。[[タイ王国|タイ]]では[[屋台]]や[[大衆食堂]]、[[ホテル]]の[[レストラン]]など様々な外食店で机の上にナンプラーが常備されており<ref name="mofa_2009"/>、[[日本]]における[[醤油]]のような存在となっている<ref name="ishige_1987_268">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=268}}</ref>。 なお、ナンプラーは商品として製造され、家庭で造ることはほぼない<ref name="ishige_1987_263">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=263}}</ref>。[[タイランド湾]]に面して漁業が盛んで[[塩田]]の多い、[[チョンブリー県]]や[[ラヨーン県]]に製造業者が集中している<ref name="ishige_1987_264">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=264}}</ref>。また、[[サムットサーコーン県|マハーチャイ]]もナンプラーの産地として有名である<ref name="mofa_2009">{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/j_mekong_k/koryu_ak2.html|title= メコンの魚醤|publisher= [[外務省]]|accessdate= 2015-10-09}}</ref>。 == 製法 == 主に[[カタクチイワシ科|アンチョビ]]や{{仮リンク|コリカ属|en|Corica (fish)}}などの魚を原料とする<ref name="ishige_1987_264">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=264}}</ref>。少数の業者のみ、[[チャオプラヤー川]]に生息する[[コイ科]]の[[:en:Osteochilus|Osteochilus]]や[[オスフロネムス科]]の[[:en:Trichogaster|Trichogaster]]などの[[淡水魚]]を原料とするが、基本的には海水魚を用いる<ref name="ishige_1987_264"/>。 小型の海水魚は丸ごと使い、魚に対して重量比で30 - 50%の[[塩]]を加えてよく混合し、[[甕]]や[[コンクリート]]製のタンクに入れて蓋と重石をする<ref name="ishige_1987_264"/>。数ヶ月間で魚の[[タンパク質]]はほとんど分解するが、長期間熟成させるほど味が良くなるとされる<ref name="ishige_1987_264"/>。2年以上熟成させることは稀で、おおむね12 - 18ヶ月ほどで出荷される<ref name="ishige_1987_264"/>。最初に液体部分を取り出したものが一番搾りとされ、これに砂糖を加えてビン詰めしたものが一級品となる<ref name="ishige_1987_265">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=265}}</ref>。 貯蔵容器に残った固形分に[[食塩水]]と[[アミノ酸]]液([[グルタミン酸ナトリウム]]の副生成物)を加え、5 - 15日間熟成させて液体を取り出したものが二番搾りとなり、[[酢酸]]を加えてビン詰めしたものが二級品となる<ref name="ishige_1987_265"/>。ここで残った固形分に食塩水を加えて煮沸し、酢酸とアミノ酸を加えたものが三級品となり、一級品とは3倍の価格差がある<ref name="ishige_1987_265"/>。 淡水魚を用いる場合は、大型なので[[鱗]]や頭部、内臓を最初に取り除き、一番搾りまでは同様に加工する<ref name="ishige_1987_266">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=266}}</ref>。残った魚体には煎り米粉と[[糠|米ぬか]]を加えて混合し、[[プラーラー]]として出荷している<ref name="ishige_1987_266"/>。また、かつては食塩水に[[キャラメル#カラメル|カラメル]]と酢酸、[[安息香酸|安息香酸ナトリウム]]、グルタミン酸ナトリウムを混合し、少量の魚醤を加えたものが発酵過程を経ない人工的な魚醤として生産されていたが、タイ政府によって[[1980年代]]までに禁止されている<ref name="ishige_1987_266"/>。 == 利用 == 一級品や二級品のナンプラーはつけ汁として使用し、三級品は主に調理に用いられる<ref name="ishige_1987_266"/>。代表的な[[タイ料理]]の料理書に掲載された2,312種の料理についての調査では、ナンプラーはこのうち1,265種に用いられており、[[調味料]]としては最も頻度が高い<ref name="ishige_1987_266"/>。[[塩味]]を加える際にも、食塩よりナンプラーを使うことが多い<ref name="ishige_1987_266"/>。 == 歴史 == 多くの[[タイ人]]はナンプラーをタイの伝統的調味料と考えているが、[[20世紀]]初頭までナンプラーは市販されていなかった<ref name="ishige_1987_268">{{Harvnb|石毛直道|ラドル・ケネス|1987|p=268}}</ref>。当時の[[イーサーン|イーサーン地方]]では自家製の[[塩辛]]の副産物である[[ナンパーデーク]]が、[[タイ中部]]では[[ベトナム]]から輸入された[[ヌクマム]]が、それぞれ調味料として使用されていた<ref name="ishige_1987_268"/>。 [[潮州市]]から移住してきた[[タイの華人]]が、ヌクマムを模倣して[[1922年]]にタイ人向けの魚醤を作ったのがナンプラーの始まりで、[[中国]]と同じ[[魚露]]という名称を[[タイ語]]に直訳してnam plaとなったという<ref name="ishige_1987_268"/>。その工場の労働者たちが独立してさらにナンプラー工場を立ち上げたため、ナンプラー製造者には潮州移民の子孫が多い<ref name="ishige_1987_268"/>。 [[1978年]]の調査では、[[バンコク]]では1世帯につき1週間に150 - 400[[立方センチメートル|ml]]のナンプラーを購入しており、金額ベースで見ると食塩や[[シュリンプペースト]]などと比べてナンプラーが突出して多い<ref name="ishige_1987_266"/>。[[1982年]]の調査ではタイ全土に約200のナンプラー工場があったという<ref name="ishige_1987_263"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[ヌクマム]] == 参考文献 == * {{Cite journal |和書 |author = [[石毛直道]] |author2 = ラドル・ケネス |title = 東南アジアの魚醤 : 魚の発酵製品の研究 (5) |url = https://doi.org/10.15021/00004346 |year = 1987 |journal = 国立民族学博物館研究報告 |volume = 12 |issue = 2 |pages = 235-314 |publisher = [[国立民族学博物館]] |naid = 110004728178 |doi = 10.15021/00004346 |hdl=10502/2947 |ref = harv }} {{タイ料理}} {{DEFAULTSORT:なんふら}} [[Category:タイの食文化]] [[Category:魚醤]]
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17,861
アラビア数字
アラビア数字(アラビアすうじ、英: Arabic numerals)あるいはインド・アラビア数字は、インド数字に起源を持つ十進記数法の数字である。 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9 の10種類がある。 インド起源の数字にもかかわらず「アラビア数字」と呼ぶのは、アラビアからヨーロッパへ伝わりそこで"Arabic numerals"と命名されたことによる。日本ではその後定着したことから、一部で洋数字と呼ばれることもある。また、筆算に用いる数字であるため算用数字とも呼ぶ。日本の法令ではアラビア数字もしくはアラビヤ数字と呼んでいる。 ヨーロッパの諸言語に用いるアラビア数字は直接にはアラビアのインド数字に由来する。インド最古の数字はブラーフミー数字であるが、この時はまだ位取り記数法ではなく、0 の数字が無かった。おそらく6世紀までに 0 が発明され、デーヴァナーガリー数字(ヒンディー語版、英語版)となり、これが四方に伝わっていった。 西方ではアル=フワーリズミーの『インドの数の計算法』(Kitāb al-Jām'a wa'l-Tafrīq bi'l-Hisāb al-Hindī, 825年)とアル=キンディーの『インドの数の使用について』(Ketab fi Isti'mal al-'Adad al-Hindi, 830年頃)にすでにインド数字が紹介されている。アラビア語ではインド数字 (al-raqām al-hindīya) と呼ばれている。アラビア文字の書字方向は右から左だが、数字だけは左から右に書く。これは、元々インド系言語の書字方向が左から右だからである。このため、アラビア語のワードプロセッサやタイプライターは数字部分を逆送りにする機能を持つ。 ヨーロッパでは後ウマイヤ朝の影響下にあったヒスパニアから始まり、コデクス・ウィギラヌス(Codex Vigilanus, 976年)においてイシドールスへの注釈に初めて現れる。しかし 0 は失われている。その後、オーリヤックのジェルベールが980年頃からこのインド数字の普及を始めた。しかし本格的に広まり始めるのはレオナルド・フィボナッチの『算盤の書』(Liber abaci, 1202年)からである。その後、印刷術の導入で使用が増え、16世紀中頃にはローマ数字を置き換えて定着した。 南方および東方ではデーヴァナーガリー文字と共に数字が伝わり、各言語で文字が変化すると数字も変化していった。 中国には718年に瞿曇悉達により紹介されたが、中国ではすでに紀元前から十進法の算木が使われており、筆算より計算が速かったため、インド数字が定着することはなかった。漢数字の〇はそれより遅れて南宋の時代に現れた。漢字文化圏でヨーロッパのアラビア数字が定着するのは、欧米列強が本格的にアジア地域に進出しはじめた19世紀になってからである。 以下にデーヴァナーガリー数字に由来する数字を示す。 Unicode 未対応の数字:
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アラビア数字あるいはインド・アラビア数字は、インド数字に起源を持つ十進記数法の数字である。 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9 の10種類がある。
{{Otheruses|いわゆる算用数字|アラビアで使われる数字|インド数字}} {{出典の明記|date=2017年6月}} {{特殊文字}} '''アラビア数字'''(アラビアすうじ、{{lang-en-short|[[wikt:Arabic numerals|Arabic numerals]]}}<ref group="注">日常の英語では、アラビア数字を指して [[wikt:digit#名詞|digit]] もしくは [[wikt:figure#名詞_2|figure]] と言うことが多い。</ref>)あるいは'''インド・アラビア数字'''は、[[インド数字]]に起源を持つ[[十進法|十進記数法]]の[[数字]]である。''' 0''', '''1''', '''2''', '''3''', '''4''', '''5''', '''6''', '''7''', '''8''', '''9''' の10種類がある。 == 概説 == [[インド]]起源の数字であるにもかかわらず「アラビア数字」と呼ぶのは、[[アラビア]]からヨーロッパへ伝わりそこで"Arabic numerals"(アラビア語の数字、アラビアの数字)と命名されたことによる。日本ではその後定着したことから、一部で'''洋数字'''と呼ばれることもある。また、[[筆算]]に用いる数字であるため'''算用数字'''とも呼ぶ。日本の法令ではアラビア数字<ref>{{Cite web|和書|title=小切手振出等事務取扱規程(昭和二十六年大蔵省令第二十号)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=326M50000040020|website=e-Gov法令検索|accessdate=2019-12-17|publisher=総務省行政管理局|quote=第七条 2: 小切手の券面金額は、所定の金額記載欄に、印影を刻み込むことができる印字機を用い、アラビ'''ア'''数字により表示しなければならない。}}</ref>もしくはアラビヤ数字<ref group="注">{{Cite web|和書|title=商業登記規則(昭和三十九年法務省令第二十三号)|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=339M50000010023|website=e-Gov法令検索|accessdate=2019-12-17|publisher=総務省行政管理局|quote=第四十八条 2: 金銭その他の物の数量、年月日及び番号を記載するには、「壱、弐、参、拾」の文字を用いなければならない。ただし、横書きをするときは、アラビ'''ヤ'''数字を用いることができる。}}</ref>と呼んでいる。 == 歴史 == [[File:The Brahmi numeral system and its descendants.png|alt=|thumb|[[ブラーフミー数字]]とその子孫]] [[ファイル:Codex_Vigilanus_Primeros_Numeros_Arabigos.jpg|300px|thumb|right|コデクス・ウィギラヌスに現れるインド数字]]ヨーロッパの諸言語に用いるアラビア数字は直接には[[アラビア]]の[[インド数字]]に由来する。インド最古の数字は[[ブラーフミー数字]]であるが、この時はまだ[[位取り記数法]]ではなく、[[0]] の数字が無かった。おそらく[[6世紀]]までに 0 が発明され、{{仮リンク|デーヴァナーガリー数字|hi|देवनागरी अंक|en|Devanagari numerals}}となり、これが四方に伝わっていった。 西方では[[フワーリズミー|アル=フワーリズミー]]の『[[フワーリズミー#インドの数の計算法|インドの数の計算法]]』(Kitāb al-Jām'a wa'l-Tafrīq bi'l-Hisāb al-Hindī, [[825年]])と[[キンディー|アル=キンディー]]の『インドの数の使用について』(Ketab fi Isti'mal al-'Adad al-Hindi, [[830年]]頃)にすでにインド数字が紹介されている。[[アラビア語]]では[[インド数字]] (al-raqām al-hindīya) と呼ばれている。アラビア文字の書字方向は右から左だが、数字だけは左から右に書く。これは、元々インド系言語の書字方向が左から右だからである。このため、アラビア語の[[ワードプロセッサ]]や[[タイプライター]]は数字部分を逆送りにする機能を持つ。 ヨーロッパでは[[後ウマイヤ朝]]の影響下にあった[[ヒスパニア]]から始まり、コデクス・ウィギラヌス([[:en:Codex Vigilanus|Codex Vigilanus]], [[976年]])において[[イシドールス]]への注釈に初めて現れる。しかし 0 は失われている。その後、[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|オーリヤックのジェルベール]]が[[980年]]頃からこのインド数字の普及を始めた。しかし本格的に広まり始めるのは[[レオナルド・フィボナッチ]]の『算盤の書』(Liber abaci, [[1202年]])からである。その後、[[印刷術]]の導入で使用が増え、[[16世紀]]中頃には[[ローマ数字]]を置き換えて定着した。 南方および東方では[[デーヴァナーガリー]]文字と共に数字が伝わり、各言語で文字が変化すると数字も変化していった。 [[中国]]には[[718年]]に[[瞿曇悉達]]により紹介されたが、中国ではすでに紀元前から[[十進法]]の[[算木]]が使われており、筆算より計算が速かったため、インド数字が定着することはなかった。[[漢数字#〇|漢数字の〇]]はそれより遅れて[[南宋]]の時代に現れた。[[漢字文化圏]]でヨーロッパのアラビア数字が定着するのは、欧米[[列強]]が本格的にアジア地域に進出しはじめた[[19世紀]]になってからである。 {{-}}<!-- 回り込みの解除 --> == インド・アラビア数字の系統 == {{特殊文字}} 以下にデーヴァナーガリー数字に由来する数字を示す。{{-}} {| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:200%" |- style="font-size:50%" ! 数字 !! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 4 !! 5 !! 6 !! 7 !! 8 !! 9 !! 共に使用する文字 |- ! style="font-size:50%" | デーヴァナーガリー数字 |{{lang|sa|०}} |{{lang|sa|१}} |{{lang|sa|२}} |{{lang|sa|३}} |{{lang|sa|४}} |{{lang|sa|५}} |{{lang|sa|६}} |{{lang|sa|७}} |{{lang|sa|८}} |{{lang|sa|९}} | style="font-size:50%" | [[デーヴァナーガリー]]、[[カイティー文字]] |- ! style="font-size:50%" | ペルシア数字 |{{lang|fa|۰}} |{{lang|fa|۱}} |{{lang|fa|۲}} |{{lang|fa|۳}} |{{lang|fa|۴}} |{{lang|fa|۵}} |{{lang|fa|۶}} |{{lang|fa|۷}} |{{lang|fa|۸}} |{{lang|fa|۹}} | style="font-size:50%" | [[ペルシア文字]] |- ! style="font-size:50%" | アラビア・インド数字 |{{lang|ar|٠}} |{{lang|ar|١}} |{{lang|ar|٢}} |{{lang|ar|٣}} |{{lang|ar|٤}} |{{lang|ar|٥}} |{{lang|ar|٦}} |{{lang|ar|٧}} |{{lang|ar|٨}} |{{lang|ar|٩}} | style="font-size:50%" | [[アラビア文字]] |- ! style="font-size:50%" | アラビア数字 | 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 | style="font-size:50%" | [[ラテン文字]]、[[キリル文字]]、アラビア文字([[マグリブ]])、[[ヘブライ文字]]([[ヘブライ語|現代ヘブライ語]])など多数 |- ! style="font-size:50%" | グジャラーティー数字 |{{lang|gu|૦}} |{{lang|gu|૧}} |{{lang|gu|૨}} |{{lang|gu|૩}} |{{lang|gu|૪}} |{{lang|gu|૫}} |{{lang|gu|૬}} |{{lang|gu|૭}} |{{lang|gu|૮}} |{{lang|gu|૯}} | style="font-size:50%" | [[グジャラーティー文字]] |- ! style="font-size:50%" | グルムキー数字 |{{lang|pa|੦}} |{{lang|pa|੧}} |{{lang|pa|੨}} |{{lang|pa|੩}} |{{lang|pa|੪}} |{{lang|pa|੫}} |{{lang|pa|੬}} |{{lang|pa|੭}} |{{lang|pa|੮}} |{{lang|pa|੯}} | style="font-size:50%" | [[グルムキー文字]] |- ! style="font-size:50%" | テルグ数字 |{{lang|te|౦}} |{{lang|te|౧}} |{{lang|te|౨}} |{{lang|te|౩}} |{{lang|te|౪}} |{{lang|te|౫}} |{{lang|te|౬}} |{{lang|te|౭}} |{{lang|te|౮}} |{{lang|te|౯}} | style="font-size:50%" | [[テルグ文字]] |- ! style="font-size:50%" | カンナダ数字 |{{lang|kn|೦}} |{{lang|kn|೧}} |{{lang|kn|೨}} |{{lang|kn|೩}} |{{lang|kn|೪}} |{{lang|kn|೫}} |{{lang|kn|೬}} |{{lang|kn|೭}} |{{lang|kn|೮}} |{{lang|kn|೯}} | style="font-size:50%" | [[カンナダ文字]]、{{仮リンク|ナンディナーガリー文字|en|Nandinagari}} |- ! style="font-size:50%" | マラヤーラム数字 |{{lang|ml|൦}} |{{lang|ml|൧}} |{{lang|ml|൨}} |{{lang|ml|൩}} |{{lang|ml|൪}} |{{lang|ml|൫}} |{{lang|ml|൬}} |{{lang|ml|൭}} |{{lang|ml|൮}} |{{lang|ml|൯}} | style="font-size:50%" | [[マラヤーラム文字]] |- style="font-size:80%" <!-- フォントが少し大きいので、他に合わせる --> ! style="font-size:62.5%" | タミル数字¹ |{{lang|ta|௦}} |{{lang|ta|௧}} |{{lang|ta|௨}} |{{lang|ta|௩}} |{{lang|ta|௪}} |{{lang|ta|௫}} |{{lang|ta|௬}} |{{lang|ta|௭}} |{{lang|ta|௮}} |{{lang|ta|௯}} | style="font-size:62.5%" | [[タミル文字]] |- ! 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1011年
1011年(1011 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1011年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1011}} {{year-definition|1011}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[辛亥]] * [[日本]] ** [[寛弘]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1671年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[大中祥符]]4年 ** [[遼]] : [[統和]]29年 ** [[大理国]] : [[明啓]]2年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[順天 (李朝)|順天]]2年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1011|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[7月16日]]([[寛弘]]8年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[一条天皇]]が譲位し、第67代[[天皇]]・[[三条天皇]]が即位 == 誕生 == {{see also|Category:1011年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[オルセオロ・ペーテル]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](+ [[1046年]]) * [[邵雍]]、[[北宋]]の[[儒学者]](+ [[1077年]]) * [[成尋]]、[[平安時代]]の[[天台宗]]の[[僧]](+ [[1081年]]) * [[ロベール1世 (ブルゴーニュ公)|ロベール1世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](+ [[1076年]]) == 死去 == {{see also|Category:1011年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月25日]]([[寛弘]]8年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[一条天皇]]、第66代[[天皇]](* [[980年]]) * [[8月12日]](寛弘8年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[藤原有国]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[943年]]) * [[10月30日]](寛弘8年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[平致頼]]、平安時代の[[武将]](* 生年未詳) * [[11月21日]](寛弘8年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]])- [[冷泉天皇]]、第63代天皇(* [[950年]]) * [[源為憲]]、平安時代の[[文学者]]、[[漢詩|漢詩人]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1011}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1011ねん}} [[Category:1011年|*]]
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楽器分類別一覧
楽器分類別一覧(がっきぶんるいべついちらん)は、分類別の楽器の一覧。 派生楽器は派生元楽器と同じ種に配置。五十音順の楽器一覧はCategory:楽器を参照のこと。 弦楽器は次のように分類できる。 リード (楽器)の違いにより、管楽器は次のように分類できる。 金管楽器の一覧も参照。 次の楽器がビューグルの仲間である。 次の楽器がサクソルンの仲間である。 オルガンの仲間 バグパイプの仲間 打楽器は次のように分類できる。 [編集] 膜をたたく楽器で、すなわち太鼓である。 気鳴楽器は本来管楽器に含まれるべきであるが、打楽器奏者によって演奏されるために便宜上打楽器に分類されるものがある。 楽器として著名な物、および著名な作曲家が指示した物のみ羅列している。 鍵盤楽器は、一般的に鍵盤を手で操作して発声させると外見的特長は共通するが、発音原理から見ると打弦、撥弦、気鳴、共鳴、電子的なものまで多様である。 西洋・日本以外の民族楽器 特殊な分類が可能な楽器。
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{{複数の問題|ソートキー=楽 | 出典の明記 = 2012年3月 | 独自研究 = 2013年3月 }} {{Pathnavbox| * {{Pathnav|周波数|音|音楽|楽器|}} }} '''楽器分類別一覧'''(がっきぶんるいべついちらん)は、分類別の[[楽器]]の一覧。 派生楽器は派生元楽器と同じ種に配置。五十音順の楽器一覧は'''[[:Category:楽器]]'''を参照のこと。 ==弦楽器== [[弦楽器]]は次のように分類できる。 ===擦弦楽器=== ====ヴァイオリン属==== *[[ヴァイオリン]] **[[フィドル]]([[ケルト音楽]]に於けるヴァイオリン) *[[ヴィオラ]] *[[チェロ]] *[[コントラバス]](ヴィオール属にも分類される) =====ヴァイオリン属の古楽器===== *[[バロック・ヴァイオリン]] *[[中世フィドル]] *[[レベック]] *[[ヴィオラ・ダ・ブラッチョ]] *[[ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ]] ====ヴィオール属(古楽器)==== *[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]] *[[ヴィオラ・ダモーレ]] *[[ヴィオラ・ダ・ブラッチョ]] *[[ヴィオラ・ピッコロ]] *[[ヴィオローネ]] ====胡弓==== *[[胡弓]] (こきゅう : 内地の胡弓) **四絃胡弓 *[[胡弓]] (くーちょー : 沖縄の胡弓) *大胡弓 *玲琴 ====胡琴==== *[[ソー・ドゥアン]] *[[ソー・ウー]] *[[二胡]] *[[高胡]] *[[京胡]] *[[中胡]] *[[板胡]] *[[墜琴]] *[[提琴]] *[[四胡]] ====その他==== *[[馬頭琴]] *[[奚琴]](ヘグム) **[[小奚琴]] *[[牙箏]](アジェン) ===撥弦楽器=== ====マンドリン==== *[[マンドリン]] *[[マンドラ]] *[[マンドチェロ]] ====チター属==== *[[チャケー]] *[[和琴]] *[[箏]](こと、そう) **[[十七絃]] *[[琴]](こと) *[[チター|ツィター]] *[[オートハープ]] *[[カーヌーン]] *[[カンテレ]] *[[トンコリ]] *[[コムンゴ]] *カヤグム *[[ヤトガ]] *[[古筝]] *[[瑟]] 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*アルトサクソフォーン *cメロディーサクソフォーン *テナーサクソフォーン *バリトンサクソフォーン *バスサクソフォーン *コントラバスサクソフォーン *サブコントラバスサクソフォーン ====その他==== *[[ケーン (楽器)|ケーン]] *[[ヴェノーヴァ]] *[[笙]] *[[ザフーン]] ===複簧(ダブルリード)管楽器=== ====オーボエ==== *[[オーボエ・ミュゼット]] *[[オーボエ]] *イングリッシュホルン([[コーラングレ]]) *[[オーボエ・ダモーレ]] *[[バスオーボエ]] *[[ヘッケルフォン]] *[[コーラングレ]] ====ファゴット==== *[[ファゴット]]([[バスーン]]) *[[コントラファゴット]](ダブル・バスーン) ==== その他 ==== * [[:zh:管子 (乐器)|管子]]([[中国]]) * [[チャルメラ]] * [[ドゥドゥク]]([[アルメニア]]) * [[サリュソフォーン]] * [[:en:Balaban (instrument)|バラバン]]([[アゼルバイジャン]]、[[イラン]]) * {{読み仮名|[[篳篥]]|ひちりき}} * [[ピリ (楽器)|ピリ]]([[韓国]]) ===無簧(エアリード)管楽器=== ====side blown (edge blown) いわゆる横笛==== *[[ピッコロ]] *[[フルート]] *[[アルトフルート]] *バスフルート *コントラバスフルート *[[神楽笛]] *[[龍笛]](竜笛) *[[高麗笛]](狛笛) *[[能管]] *[[篠笛]] *[[バーンスリー]] ====end blown いわゆる縦笛==== =====ダクトのあるもの [[リコーダー]]など===== *[[クルイ]] *クライネソプラニーノ(ガークライン)・リコーダー *ソプラニーノ・リコーダー *シックス・フルート(6度フルートとも。D管ソプラノ・リコーダー) *ソプラノ・[[リコーダー]] *アルト・リコーダー *ヴォイス・フルート(D管テナー・リコーダー) *テナー・リコーダー *バス・リコーダー *グレートバス・リコーダー *コントラバス・リコーダー *サブコントラバス・リコーダー *サブサブコントラバス・リコーダー 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スコットランドの歴史
スコットランドの歴史(スコットランドのれきし、英語: The History of Scotland、スコットランド・ゲール語: Rìghrean na h-Alba)は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求める声も少なくない。 石器時代・青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国のブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェールズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、スコットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。 スコットランドの歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなどヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかでも有数の商業地域となった。第二次世界大戦後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきており、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。 ブリテン島に関する文字史料が登場する8500年前までには、スコットランドに人類が到達していた。一説によれば、最後の間氷期(13万-7万年前)にヨーロッパ全体が温暖になったときには、人類はスコットランドに到達していたという。しかし、このとき人類がいたとしても、間氷期が終わって寒冷になると人類はいなくなった。ふたたび人間が住めるほどに温暖になるのは紀元前9600年ごろである。 中石器時代、本格的にスコットランドに人類がやってきて、狩猟採集生活を送るようになった。紀元前8500年ごろのものと考えられる遺跡がエディンバラにほど近いクラモンド村で発見されている。かれらは狩猟採集生活を送っていた。ほかにも多数の遺跡・遺構が見つかっており、高い造船技術を持っていたことが判明している。 新石器時代、農耕の開始により定住生活が可能になった。オークニー諸島には紀元前3500年頃の遺跡があり、さらにスカラ・ブレイ遺跡群は紀元前3100年頃のものと推定される、きわめて保存状態のよい石造りの住居であり、世界遺産に登録されている。スコットランドの新石器時代人はメイズハウ(紀元前3500年頃)に代表される石室をもつ墳墓をつくり、紀元前3000年頃からは環状列石(ストーン・サークル)や列石(ストーン・ロウ)など巨石遺構をつくった。これらの遺構はヨーロッパ各地にみられる巨石文化で、ストーンヘンジも同じ影響下にある。考古学者たちは、当時の人々がすぐれた天文観測能力を有していたと考えている。 青銅器時代になると、こうした巨石建造物にくわえてメルローズ近郊のアイルドン・ヒル(英語版)遺跡(紀元前1000年頃)など環濠集落の遺跡も見つかるようになる。こうした環濠集落は、数百の民家を包含する規模であった。 鉄器時代を担ったのは、文化的な類似性から、従来、大陸から流入したケルト人と考えられていたが、DNA解析などから現在この説は支持されていない。青銅器文化を担った人々が大陸からの文化的影響を受けつつ、独自の文化を形成したと考えられる。紀元前700年ごろからブロッホ(英語版)(Broch)とよばれるスコットランド特有の円塔形の要塞の建設も始まった。このことから、戦乱が頻繁だったことがわかる。 文字史料のある歴史時代は、ローマ帝国のブリタニア侵攻から始まる。ローマ以前にもわずかながら書かれたものが存在するが、かれらはもっぱら口述の伝承を事とした。しかし、こうした伝承は、のちのキリスト教の伝来とともに失われた。これはキリスト教宣教師たちがドルイドを中心とする旧来の伝統を一掃したこと、飢饉や戦争によって社会の態様が大きく揺れたことなどに起因する。ローマ以前のスコットランドを伝える唯一の史料は、紀元前325年にマッサリア(現在のマルセイユ)のギリシャ人ピュテアス(Pytheas)によるブリテン島探検の手記である。 ローマ帝国の侵攻は紀元43年に始まった。ローマ軍はイングランドにあたる地域を征服したのち、将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラが79年、スコットランドに攻め入ってきた。カレドニアの先住民たちは激しい抵抗をみせたが、ローマ帝国は82年-83年に艦隊をオークニー諸島にまで及ぶスコットランド沿岸に展開して威嚇し、84年のモンス・グラウピウスの戦いでカレドニア人を破った。アグリコラの部下たちは、ブリテン島全土の平定を宣言した。 これらの変遷を知る唯一の手がかりは、タキトゥスの書『アグリコラ』である。タキトゥスはアグリコラ将軍の娘婿であった。いっぽう年輪年代学によれば、アグリコラ以前にスコットランド南部がローマの支配下に入っていたことがわかっている。いずれにせよ、その後300年にわたってローマは当地を支配しつづけた。また、ローマは防御線を建設して異民族からの防御をかためた。最古のものはパースシャーのガスク・リッジとよばれるもので、70年代から80年代にかけて建設されたと考えられている。120年代、ローマ皇帝ハドリアヌスは、タイン川からソルウェー湾河口にかけて、ハドリアヌスの長城の建設を命じた。20年後、ブリタンニア総督ルリウス・ウルビクスがアントニヌスの城壁と呼ばれる長城を、さらに北に建設した。アントニヌスの城壁はハドリアヌスの長城の半分の長さしかなく、その短さが防御に適していると考えられたが、結局その防御線を維持しえたのは20年に満たなかった。160年ごろにはローマの北端はふたたびハドリアヌスの長城まで後退し、ローマ人たちはカレドニアの直接支配を結局諦めた。この理由は、人口密度が低すぎて徴税効果が上がらないであろうこと、および気候・風土がローマ人に合わなかったことなどであったと考えられている。ローマのカレドニア支配はヴォタディニー族(英語版)(古英語: Votadini)などを通して間接支配という形をとっていた。 ローマ帝国がブリタンニアから撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループに分かれていた。 さらに、3つのグループからなる民族がスコットランドに渡ってきた。これらの民族がどこから来たかについてはわかっていない。 最初にスコットランドにキリスト教をもたらしたのは、聖ニニアンである。彼はフォース湾沿岸部を根拠地にして南部・東部スコットランドで布教活動を行った。しかし、聖パトリックやコルンバの残した記録によれば、キリスト教は聖ニニアンの死(432年)からコルンバのスコットランド布教開始(563年)の間に忘れられてしまっていた。ゲール人は、スコットランドのピクト人にふたたびキリスト教布教を行い、しだいにケルトの神話は忘れられていった。この時期もっとも有名な宣教師であるコルンバは、スコットランドのアイオナ島に辿りついてアイオナ修道院を建てた。キリスト教は、ピクト人の王ブライディ1世(英語版)のキリスト教への改宗がひとつの転換点となって広まったとも主張されているが、この点については異論もある。 スコットランドの王朝は、統一アルバ王国の成立によって始まる。しかし、その起源や変遷については信頼できる史料にとぼしく、こまかな流れまで追うことは難しいとされる。アルバ王国、すなわちスコットランド王国は、イングランドとの勢力争いおよびスコットランド独立戦争をへて、ひとつの王国としてまとまりを見せた。この時期のスコットランドは、ヨーロッパから流れ込んでくる人々の影響のもと、ヨーロッパ化が進んだ。 いまに伝わるケネス・マカルピンの伝説は、アルバ王国がどのようにして成立したかを説明している。それによれば、アイルランドから渡ってきたスコット人(英語版)のダルリアダ王国が、東のアルバ王国を征服し、ケネス・マカルピンはケネス1世としてアルバ王国の王位についたとされる。しかし、両者を比較したとき、ダルリアダ王国の劣勢はあきらかであり、この伝説の信憑性は低いとされ、婚姻によって統合されたとする説、アルバ王国がダルリアダ王国を征服して統一されたとする説などがあり、統一された見解は未だみられない。いずれにせよ両国は合併し、アルバ(アラパ)王国を名乗り、東岸地域のスクーンに首都がおかれた。また、最近の研究ではケネス1世没後、ピクト人の王があとを継いだと考えられている。 一方、スコットランド南西部は、638年ごろからアングル人のバーニシア王国ついでノーサンブリアの勢力下にあった。この地方がスコットランドに組み入れられるのは、1018年のマルカム2世の征服によってであった。このころにはオークニー諸島・ケイスネス・サザランドといった北部地域を除き、スコットランド王朝の支配下にあった。北部や島嶼地域は依然ノース人の勢力圏になっていた。 このころ確立されたタニストリーという王位相続制度によって、スコットランドは2つの家系が交互に王位を継承していた。タニストリーは王の生前から後継者を決めてあるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかった。結果、王の暗殺事件が頻発することになる。戯曲「マクベス」は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語である。 ノルマン・コンクエストに始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。 ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。エドワード1世のスコットランド侵攻とウィリアム・ウォレスの抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。 スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟」(Auld Alliance)を結んで対抗した。その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。 このとき有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(1320年)は、マグナ・カルタのごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。 マクベスをはじめスコットランドの支配者の多くがローマに巡礼したが、その後スコットランドはキリスト教世界との結びつきを強めていった。支配者層にとってキリスト教の庇護はステイタスであった。教会組織がととのえられ、各地に修道院がつくられた。またフランス・イングランド・フランドルなどから移民が流入し、その文化や社会制度が取り入れられてヨーロッパ的封建社会が形成されていった。 先進的文化をもった移民の流入は、スコットランド社会の変貌も促した。ゲール語は次第に公用語としての地位を失い、支配者層は英語・フランス語を用いた。ウィリアム・ウォレスの姓「ウォレス」もウェールズ系のものであった。 先進地域の文化が導入されるいっぽうで、古来の制度も生き残った。タニストリーがその代表的な例であるが、より民衆に直結したのは動員制度だった。中世ヨーロッパの戦争は傭兵によるもので、兵士の出身国と所属国が異なることが通常であったが、スコットランドは戦争が起きた際に、支配権にもとづきスコットランド人を動員した。これは比較的「安価」な戦力確保を実現し、また屈強で知られるハイランド人の動員も可能にした。圧倒的な国力をもったイングランドに対抗できた一因は、この動員制度であった。 ヨーロッパ文化と既存の文化の混在は、スコットランド内の分離も促す結果となった。ハイランドとローランドは文化の違いが顕在化しはじめ、氏族が統治するハイランドへの「野蛮」なイメージが形成されつつあった。 初期ステュアート朝からメアリ・ステュアートまでの時代は、しばしば謀略や暗殺の渦巻く暗い時代と描写される。これは王の権力が同時代の中世諸国家より制限されていたことから、貴族どうしの内紛という形であらわれたもので、もとよりスコットランド全体を転覆せしめる事態にはならなかった。より激しい混乱は、ルネサンスと宗教改革によってもたらされた。 ステュアート家の歴史は11世紀にまで遡れるが、14世紀には宮宰(Steward of Scotland)の地位にあり、王位にあったブルース家は縁続きの関係になっていた。1371年にデイヴィッド2世が没してブルース家の後嗣がとだえたとき、これを継承したのが甥のロバート・ステュアートであった。これによりステュアート朝は始まるが、アーブロース宣言とタニストリーによって王の力は制限され、氏族の長である貴族たちの覇権争いが表面化した。このなかで幼少の王が即位したり、時には暗殺されたりという事件も起こった。 外に目を向けると、イングランドはふたたび侵攻してきていた。「古い同盟」の維持はイングランドを敵国と認めることと同義であり、これは不可避な事態でもあった。フランスは軍を派遣し同盟国を助けたが、この駐留費はスコットランド持ちであり、財政を圧迫する同盟に不平の声が出始めていた。特にイングランド育ちのジェームズ1世が即位するころになると、対フランス戦争に忙殺されていたイングランドはスコットランドとの和解を望み、ジェームズもイングランド的改革を行った。この進展は一筋縄ではいかなかったものの、のちの「新しい同盟」につながってゆくことになる。 いっぽうで、スコットランドはその勢力範囲をゆっくりと、しかし、着実に広げつつあった。臣従しない氏族を従え、謀反を企てた貴族の領地を没収した。そして、北部や島嶼地帯のノルウェー領を割譲させ、スコットランド王国内に組み込んだ。また、ジェームズ1世の行った改革は、すぐには効果をもたらさなかったものの、スコットランドに議会政治を浸透させるきっかけを作った。 隔絶したハイランドと開かれたローランドの差は、さらに広がりつつあった。聖職者ジョン・フォーダンはハイランド人について「屈強で実直、そして野蛮な民族」としている。ハイランドはケルト系、ローランドはアングル系であり、言語も異なっていた。こうした多様性のもと、スコットランドは国王のもと緩やかな連合体をなしていた。 農村においては、農民の形態が農奴から短期借地契約による小作、そして世襲的保有に切り替わりつつあった。黒死病の流行などによって人口が減少し、領主は農民をつなぎ止めるために、農民に有利な契約を結ばざるをえなかった。こうして収入を削り取られていったのはおもに大貴族で、中小の貴族との格差は縮まっていった。この変化に、中小貴族は地位に興味を持ち始めた。地位とはすなわち、国王より下賜される爵位と、スコットランドの伝統である盟約につらなることであった。より大きな、名望のある勢力と姻戚関係・臣従関係を結ぶことによって、自らの地位を確固たるものにしていった。 ステュアート朝前期はまた、スコットランドの文化が繁栄した時代でもあった。1413年にはスコットランド初のセント・アンドルーズ大学が開設され、ゴルフの原型となるスポーツが生まれた。各地に豪華な聖堂が建てられ(宗教改革により、その多くが破壊されている)、ローマやフランスの文化を取り入れる動きが盛んになった。アーブロース宣言には、文字が書けない貴族が×印で署名していたが、このような記録はほとんど見られなくなった。これは、貴族層を中心に識字率が飛躍的に向上していたことを表している。そのいっぽうで、教会組織の腐敗が始まっており、これが過激な宗教改革をもたらすことになった。 ジェームズ4世の時代は、いくつかの点でスコットランドの新たな展開を暗示する時代であった。ひとつにはヘンリー7世 (イングランド王)の娘マーガレットとの結婚(1503年)である。これはフランスとの「古い同盟」体制からの転換を意味しただけでなく、ジェームズ4世の後嗣にイングランド王位継承権をももたらすものであった。事実、「古い同盟」の盟約によりフランスがスコットランドにイングランド派兵を要請したが、スコットランド軍は大敗してしまった。「古い同盟」は、スコットランド王国にとって重荷になりつつあった。 メアリ・ステュアートは、いまでもスコットランドで人気のある女王である。メアリにとって不運だったのは、同時代に宗教改革がおこったこと、そしてメアリ自身はフランスで育ち、敬虔なカトリックだったことである。当時のスコットランド教会は、司教など高位聖職者に莫大な富が集中し、あがりを納めねばならない地方の教会は荒廃していた。文字の読めない聖職者が説教壇に立つことも珍しくなかった。その一方で高位聖職者は、貴族の私生児を認知する費用などで富をふくらませ、民衆の怨嗟をあつめていた。 こうしたなかでやってきた宗教改革で、穏健なルター派よりも好戦的なカルヴァン派が選ばれたのは自然なことであった。スコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスの思想はたちどころに広まり、各地で暴動がおこって聖堂が破壊された。偶像崇拝は徹底的に否定され、華美は悪とされた。建てられた教会は一切の芸術性を排したつくりになっていた。スコットランドで現存する中世建築物が少ないのはこのためであり、以降しばらく、スコットランドは文化的に不毛の地となる。 スコットランドのプロテスタント化は、イングランドへの接近も意味した。メアリの亡命と刑死によってスコットランドは「古い同盟」を捨て、イングランドとの「新しい同盟」への外交転換をはかった。折しもエリザベスには後嗣がなく、スコットランド王のイングランド王位継承が現実味をおびるようになった。 1603年春、スコットランドに一大転機が訪れた。エリザベス1世の死によって、ジェームズ6世にイングランド王位を継承してほしいという急使がやってきたのである。メアリ・ステュアートが叶えられなかったイングランド征服の夢を、息子のジェームズは無血で叶えることとなった。しかし、これは、スコットランドに暗い影をおとす時代の始まりでもあった。 同君連合から合同、そしてジャコバイト反乱にいたる近世スコットランドの変遷は、しばしば暗い時代とされる。スコットランドは独自の王を失い、つぎに独自の議会を奪われ、そしてスコットランドらしさをもなくしてしまった。この時期のスコットランドは、イングランドに吸収される時代であった。 エディンバラからウェストミンスタに移ったステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしなかった。スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなった。この転機は、三王国戦争(Wars of the Three Kingdoms、清教徒革命)によってもたらされた。監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争からスコットランド内戦(英語版)、そしてクロムウェルによるスコットランド征服という事態を招いた(イングランド内戦)。このとき共和政イングランドが施行した航海条例がスコットランド経済に打撃を与えた。この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのである。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。 1688年の名誉革命は、スコットランドにとってはイングランド議会が「勝手に」王をすげかえる暴挙であった。スコットランド議会は安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。スコットランドはイングランドの軍門に降った。 合同法による両国議会の統合は、スコットランドが独立を最終的に放棄した画期であった。これは何より経済的に追いつめられたスコットランドに残された唯一の途だった。航海条例で締め出されたスコットランド経済は停滞し、さらに飢饉が追い討ちをかけた。起死回生を図ったダリエン計画はイングランドの妨害に遭い破綻し、自力の経済再建は不可能になった。スコットランド議会は1707年1月16日、自らの解散を決議した。 当然ながら、この合同に反対運動が巻き起こった。ジャコバイト運動は、これを機にスコットランドの独立を取り戻そうとする運動でもあった。1715年の反乱の手際がよければ独立は成功していたかもしれない、と今でも指摘される。しかし、この反乱は結局鎮圧され、さらにグレンコーの虐殺や氏族制度解体が行われた。イングランドへの恨みと背中合わせに、ローランドを中心にイングランド化が進んでいった。 18世紀後半から19世紀にかけて、スコットランドは著しい社会の変化・経済成長を経験した。ヨーロッパの一辺境から大西洋貿易のターミナルとなり、産業革命の中心地としての地位を確立した。これはスコットランド人の起業精神、ハイランド・クリアランス(英語版)などの大規模な囲い込み、大学改革およびイングランド航海法体制下に入ったことなどが原因とされている。 18世紀も後半になってから、合同の経済効果がようやく現れてきた。航海法体制の内側に組み込まれたことにより、アメリカ大陸との交易が活発になった。そこから製造業がひろがり、畜産物・穀物・綿織物から19世紀にいたって鉄鋼業・石炭業も活発になった。スコットランドの都市化・人口増が急速に進んだ。 この経済成長と人口増は、いくつかの原因が指摘されている。 当時、イングランドの批評家サミュエル・ジョンソンは自著『英語辞典 “A Dictionary of the English Language”』(1755年)のカラス麦の項目で右のように説明している───「カラス麦はイングランドでは馬の飼料だが、スコットランドでは人間が食べる」。それに対し、弟子に当たるスコットランド人のジェイムズ・ボズウェルは、「ゆえに、イングランドの馬は優秀で、スコットランドでは人間がすぐれている」とやり返した。 スコットランド啓蒙は、多くの起業家・知識人を輩出した。蒸気機関を改良したジェームズ・ワット、社会学の祖とされるジョン・ミラーそして作家ウォルター・スコットなど、当時の優れた人材ではイングランドを凌駕していた。知識人の多くは海外でも活躍し、日本においては工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー、同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス、そして軽井沢開発のアレクサンダー・クロフト・ショーなどが有名である。多くの技術が実用化され、イギリス産業革命はこうした人物によって支えられた。 イギリス帝国の繁栄とスコットランドは、相身互いの関係にあった。世界中の植民地を交易先とすることでスコットランド産業は成長をつづけ、スコットランドの造船業・機械工業はブリテン連合王国の経済を牽引した。しかし、20世紀初めごろから経済は失速し、しだいにスコットランドの地位は低下していった。二つの大戦はスコットランドの産業に致命的な打撃を与え、ナショナリスト勢力が広がりつつあった。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スコットランドなかんずくグラスゴーの造船業・機械工業はイギリス帝国経済にとって不可欠な存在だった。世界の工場ともよばれ、ブリテン連合王国のなかでも「発展は北にあり」といわれるほどの繁栄ぶりだった。 第一次世界大戦は、スコットランドにつらい影響をもたらした。失業と貧困のせいで、兵の募集に応じる率が高かったので、戦争による被害も大きかったのだ。英国におけるスコットランドの比率は、人口では10%だったのに、兵の数では15%となり、死者の数では20%となった。 スコットランド経済は、第一次世界大戦のころから徐々に地盤沈下していった。この理由として、以下があげられている。このようなスコットランド経済の停滞は、ブリテン連合王国内でのスコットランドの地位をも押し下げ、しだいに「お荷物」扱いされるようになった。 1930年代に世界恐慌がおとずれると、スコットランドも深刻な経済不況にみまわれた。社会不安のなかで、左右両イデオロギーの急進的勢力がひろがり始めた。とくに右派のナショナリスト政党は、のちのスコットランド国民党につながることになるが、これは連合王国の枠内にとどまりつつ(すなわち、経済的恩恵を留保しつつ)スコットランド独自の外交・国防などを実現するものであった。 第二次世界大戦では、エディンバラやグラスゴーといった主要都市がドイツ軍の爆撃にあい、スコットランドは甚大な被害をうけた。多くのスコットランド人が徴兵され(註)、特にハイランドの過疎化に拍車をかけた。大戦中にスコットランドは兵站調達面で寄与し、フランス・ベルギー戦線に参加した。さらにソビエト連邦への物資援助も行っている。 第二次世界大戦はブリテンの結束を要求したので、スコットランドの民族運動も隅に追いやられていた。福祉国家路線をとる労働党政権のなかで、経済も安定し、比較的平穏に1950年代は過ぎていった。問題が浮上してくるのは、高度経済成長下の日本など、造船業のライバルの出現によって経済の停滞がおこった1960年代であった。ナショナリスト政党が息を吹き返し、分離をもとめる声が大きくなっていった。しかし一方で、分離は経済的恩恵の放棄をも意味した。経済的にイングランドに頼っている実態に、一定以上の支持は得られなかった。 1960年に北海油田が採掘され始めたことは、ひとつの転機となった。スコットランド経済復興の追い風となると同時に、イングランドへの対抗意識が再燃する契機ともなった。すなわち、北海油田はスコットランドに近く、スコットランドのものであるはずなのに、その恩恵を被っているのはイングランドであるという言説である。この不満からスコットランド国民党は勢力を伸ばし、連合王国からしだいに距離をとり始めた。時の政権もこれを察し、スコットランド自治を実現する方向へと政策転換がはかられた。しかし一方で「独立は高くつく」といわれたように、政治的自立と経済的自立の間で、スコットランドはしばし逡巡することとなる。 マーガレット・サッチャーの保守党政権が1979年誕生して「小さな政府」政策が、公約通り地方分権政策をもたらした。スコットランド議会設立の動きが表面化し、1979年国民投票が行われた。このときは有効票数が集まらず否決された。 1997年に首相の座についたトニー・ブレアはスコットランド出身であった。このブレア政権のもと同年、再度の国民投票が行われ、スコットランド議会を創設することが可決された。スコットランドや北アイルランドで議会がつくられることが決まると、それまでの「イギリス=イングランド」観は再検討を迫られ、イングランド人の間でも動揺がひろがった。 1997年、議会開会に先立ってスクーンの石がエディンバラに返還された。1999年の総選挙で選ばれた129名の議員は「ジャコバイトの象徴である」白い薔薇を胸につけ、ホリールードハウス宮殿の隣につくられた仮議事堂に会し、以下の宣言をもって開会した。 「1707年3月25日以来、一時的に中断していたスコットランド議会を、ここに再開する」 2013年11月26日、コットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真を発表。 スコットランドにおけるガーデニングは、スコットランドの歴史において、植物やその他自然形態の展示と植物栽培を楽しむために確保された計画的空間の設計からで、スコットランドにおける中世に始まったとされる。 中世の修道院や城、邸宅周辺の庭園は、ヨーロッパの伝統である薬草園、キッチンガーデン、果樹園にならった形式的なもので、スコットランドで最初のルネサンス様式の庭園はスチュワート朝の王宮のために造られたものであった。その後、貴族や貴族階級がこれに続いた。 16世紀後半から、多くの邸宅の造園はイタリア・ルネサンス庭園の影響を受けるようになった。この時代から、貴族、貴族、領主のために作られた整形式平面幾何学式庭園の例が多く見られるようになった。オールド・アライアンスの遺産とグランドツアーの始まりにより、スコットランドの気候に合わせたとはいえ、フランス様式がスコットランドでも特に重要視されるようになったのである。 17世紀後半にはウィリアム・ブルース(William Bruce)が、スコットランドをヨーロッパの庭園設計の最前線に押しやっていく。 18世紀には、ヨーロッパ中でフランス宮廷の「絶対主義」と「教皇主義」に対する反発があり、大規模な整形式庭園の維持にかける費用から退却する動きがあった。イングランドの庭園でのケイパビリティ・ブラウンに関連する、のちの公園や不規則な植栽の群れといった形式張らない景観への移行が、スコットランドでは彼の信奉者であるロバート・ロビンソンやトーマス・ホワイトのシニアとジュニアによって支配的になっていった。 19世紀初頭には、ハンフリー・レプトンの著作など、ガーデニングに関する新しい考え方が発展した。19世紀半ばには公共事物の公園が作られるようになった。 20世紀初頭にはスコットランドの植物収集家たちが活発に活動するようになったほか、ガーデニングが労働者階級や中流階級の大きな関心事となった。そうしてイアン・ハミルトン・フィンレイのリトル・スパルタやチャールズ・ジェンクスのポストモダンな「宇宙的思索の庭」などの大規模な計画庭園も作られた。 en:History of Scotlandからの翻訳にくわえて、
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スコットランドの歴史(スコットランドのれきし、英語: The History of Scotland、スコットランド・ゲール語: Rìghrean na h-Alba)は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求める声も少なくない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "石器時代・青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国のブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェールズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、スコットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スコットランドの歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなどヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかでも有数の商業地域となった。第二次世界大戦後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきており、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ブリテン島に関する文字史料が登場する8500年前までには、スコットランドに人類が到達していた。一説によれば、最後の間氷期(13万-7万年前)にヨーロッパ全体が温暖になったときには、人類はスコットランドに到達していたという。しかし、このとき人類がいたとしても、間氷期が終わって寒冷になると人類はいなくなった。ふたたび人間が住めるほどに温暖になるのは紀元前9600年ごろである。", "title": "先史時代" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中石器時代、本格的にスコットランドに人類がやってきて、狩猟採集生活を送るようになった。紀元前8500年ごろのものと考えられる遺跡がエディンバラにほど近いクラモンド村で発見されている。かれらは狩猟採集生活を送っていた。ほかにも多数の遺跡・遺構が見つかっており、高い造船技術を持っていたことが判明している。", "title": "先史時代" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "新石器時代、農耕の開始により定住生活が可能になった。オークニー諸島には紀元前3500年頃の遺跡があり、さらにスカラ・ブレイ遺跡群は紀元前3100年頃のものと推定される、きわめて保存状態のよい石造りの住居であり、世界遺産に登録されている。スコットランドの新石器時代人はメイズハウ(紀元前3500年頃)に代表される石室をもつ墳墓をつくり、紀元前3000年頃からは環状列石(ストーン・サークル)や列石(ストーン・ロウ)など巨石遺構をつくった。これらの遺構はヨーロッパ各地にみられる巨石文化で、ストーンヘンジも同じ影響下にある。考古学者たちは、当時の人々がすぐれた天文観測能力を有していたと考えている。", "title": "先史時代" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "青銅器時代になると、こうした巨石建造物にくわえてメルローズ近郊のアイルドン・ヒル(英語版)遺跡(紀元前1000年頃)など環濠集落の遺跡も見つかるようになる。こうした環濠集落は、数百の民家を包含する規模であった。", "title": "先史時代" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "鉄器時代を担ったのは、文化的な類似性から、従来、大陸から流入したケルト人と考えられていたが、DNA解析などから現在この説は支持されていない。青銅器文化を担った人々が大陸からの文化的影響を受けつつ、独自の文化を形成したと考えられる。紀元前700年ごろからブロッホ(英語版)(Broch)とよばれるスコットランド特有の円塔形の要塞の建設も始まった。このことから、戦乱が頻繁だったことがわかる。", "title": "先史時代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "文字史料のある歴史時代は、ローマ帝国のブリタニア侵攻から始まる。ローマ以前にもわずかながら書かれたものが存在するが、かれらはもっぱら口述の伝承を事とした。しかし、こうした伝承は、のちのキリスト教の伝来とともに失われた。これはキリスト教宣教師たちがドルイドを中心とする旧来の伝統を一掃したこと、飢饉や戦争によって社会の態様が大きく揺れたことなどに起因する。ローマ以前のスコットランドを伝える唯一の史料は、紀元前325年にマッサリア(現在のマルセイユ)のギリシャ人ピュテアス(Pytheas)によるブリテン島探検の手記である。", "title": "ローマ帝国の支配" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ローマ帝国の侵攻は紀元43年に始まった。ローマ軍はイングランドにあたる地域を征服したのち、将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラが79年、スコットランドに攻め入ってきた。カレドニアの先住民たちは激しい抵抗をみせたが、ローマ帝国は82年-83年に艦隊をオークニー諸島にまで及ぶスコットランド沿岸に展開して威嚇し、84年のモンス・グラウピウスの戦いでカレドニア人を破った。アグリコラの部下たちは、ブリテン島全土の平定を宣言した。", "title": "ローマ帝国の支配" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これらの変遷を知る唯一の手がかりは、タキトゥスの書『アグリコラ』である。タキトゥスはアグリコラ将軍の娘婿であった。いっぽう年輪年代学によれば、アグリコラ以前にスコットランド南部がローマの支配下に入っていたことがわかっている。いずれにせよ、その後300年にわたってローマは当地を支配しつづけた。また、ローマは防御線を建設して異民族からの防御をかためた。最古のものはパースシャーのガスク・リッジとよばれるもので、70年代から80年代にかけて建設されたと考えられている。120年代、ローマ皇帝ハドリアヌスは、タイン川からソルウェー湾河口にかけて、ハドリアヌスの長城の建設を命じた。20年後、ブリタンニア総督ルリウス・ウルビクスがアントニヌスの城壁と呼ばれる長城を、さらに北に建設した。アントニヌスの城壁はハドリアヌスの長城の半分の長さしかなく、その短さが防御に適していると考えられたが、結局その防御線を維持しえたのは20年に満たなかった。160年ごろにはローマの北端はふたたびハドリアヌスの長城まで後退し、ローマ人たちはカレドニアの直接支配を結局諦めた。この理由は、人口密度が低すぎて徴税効果が上がらないであろうこと、および気候・風土がローマ人に合わなかったことなどであったと考えられている。ローマのカレドニア支配はヴォタディニー族(英語版)(古英語: Votadini)などを通して間接支配という形をとっていた。", "title": "ローマ帝国の支配" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ローマ帝国がブリタンニアから撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループに分かれていた。", "title": "キリスト教の伝播" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "さらに、3つのグループからなる民族がスコットランドに渡ってきた。これらの民族がどこから来たかについてはわかっていない。", "title": "キリスト教の伝播" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "最初にスコットランドにキリスト教をもたらしたのは、聖ニニアンである。彼はフォース湾沿岸部を根拠地にして南部・東部スコットランドで布教活動を行った。しかし、聖パトリックやコルンバの残した記録によれば、キリスト教は聖ニニアンの死(432年)からコルンバのスコットランド布教開始(563年)の間に忘れられてしまっていた。ゲール人は、スコットランドのピクト人にふたたびキリスト教布教を行い、しだいにケルトの神話は忘れられていった。この時期もっとも有名な宣教師であるコルンバは、スコットランドのアイオナ島に辿りついてアイオナ修道院を建てた。キリスト教は、ピクト人の王ブライディ1世(英語版)のキリスト教への改宗がひとつの転換点となって広まったとも主張されているが、この点については異論もある。", "title": "キリスト教の伝播" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スコットランドの王朝は、統一アルバ王国の成立によって始まる。しかし、その起源や変遷については信頼できる史料にとぼしく、こまかな流れまで追うことは難しいとされる。アルバ王国、すなわちスコットランド王国は、イングランドとの勢力争いおよびスコットランド独立戦争をへて、ひとつの王国としてまとまりを見せた。この時期のスコットランドは、ヨーロッパから流れ込んでくる人々の影響のもと、ヨーロッパ化が進んだ。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "いまに伝わるケネス・マカルピンの伝説は、アルバ王国がどのようにして成立したかを説明している。それによれば、アイルランドから渡ってきたスコット人(英語版)のダルリアダ王国が、東のアルバ王国を征服し、ケネス・マカルピンはケネス1世としてアルバ王国の王位についたとされる。しかし、両者を比較したとき、ダルリアダ王国の劣勢はあきらかであり、この伝説の信憑性は低いとされ、婚姻によって統合されたとする説、アルバ王国がダルリアダ王国を征服して統一されたとする説などがあり、統一された見解は未だみられない。いずれにせよ両国は合併し、アルバ(アラパ)王国を名乗り、東岸地域のスクーンに首都がおかれた。また、最近の研究ではケネス1世没後、ピクト人の王があとを継いだと考えられている。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方、スコットランド南西部は、638年ごろからアングル人のバーニシア王国ついでノーサンブリアの勢力下にあった。この地方がスコットランドに組み入れられるのは、1018年のマルカム2世の征服によってであった。このころにはオークニー諸島・ケイスネス・サザランドといった北部地域を除き、スコットランド王朝の支配下にあった。北部や島嶼地域は依然ノース人の勢力圏になっていた。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このころ確立されたタニストリーという王位相続制度によって、スコットランドは2つの家系が交互に王位を継承していた。タニストリーは王の生前から後継者を決めてあるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかった。結果、王の暗殺事件が頻発することになる。戯曲「マクベス」は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語である。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ノルマン・コンクエストに始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。エドワード1世のスコットランド侵攻とウィリアム・ウォレスの抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟」(Auld Alliance)を結んで対抗した。その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このとき有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(1320年)は、マグナ・カルタのごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マクベスをはじめスコットランドの支配者の多くがローマに巡礼したが、その後スコットランドはキリスト教世界との結びつきを強めていった。支配者層にとってキリスト教の庇護はステイタスであった。教会組織がととのえられ、各地に修道院がつくられた。またフランス・イングランド・フランドルなどから移民が流入し、その文化や社会制度が取り入れられてヨーロッパ的封建社会が形成されていった。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "先進的文化をもった移民の流入は、スコットランド社会の変貌も促した。ゲール語は次第に公用語としての地位を失い、支配者層は英語・フランス語を用いた。ウィリアム・ウォレスの姓「ウォレス」もウェールズ系のものであった。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "先進地域の文化が導入されるいっぽうで、古来の制度も生き残った。タニストリーがその代表的な例であるが、より民衆に直結したのは動員制度だった。中世ヨーロッパの戦争は傭兵によるもので、兵士の出身国と所属国が異なることが通常であったが、スコットランドは戦争が起きた際に、支配権にもとづきスコットランド人を動員した。これは比較的「安価」な戦力確保を実現し、また屈強で知られるハイランド人の動員も可能にした。圧倒的な国力をもったイングランドに対抗できた一因は、この動員制度であった。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ文化と既存の文化の混在は、スコットランド内の分離も促す結果となった。ハイランドとローランドは文化の違いが顕在化しはじめ、氏族が統治するハイランドへの「野蛮」なイメージが形成されつつあった。", "title": "中世スコットランドの形成" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "初期ステュアート朝からメアリ・ステュアートまでの時代は、しばしば謀略や暗殺の渦巻く暗い時代と描写される。これは王の権力が同時代の中世諸国家より制限されていたことから、貴族どうしの内紛という形であらわれたもので、もとよりスコットランド全体を転覆せしめる事態にはならなかった。より激しい混乱は、ルネサンスと宗教改革によってもたらされた。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ステュアート家の歴史は11世紀にまで遡れるが、14世紀には宮宰(Steward of Scotland)の地位にあり、王位にあったブルース家は縁続きの関係になっていた。1371年にデイヴィッド2世が没してブルース家の後嗣がとだえたとき、これを継承したのが甥のロバート・ステュアートであった。これによりステュアート朝は始まるが、アーブロース宣言とタニストリーによって王の力は制限され、氏族の長である貴族たちの覇権争いが表面化した。このなかで幼少の王が即位したり、時には暗殺されたりという事件も起こった。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "外に目を向けると、イングランドはふたたび侵攻してきていた。「古い同盟」の維持はイングランドを敵国と認めることと同義であり、これは不可避な事態でもあった。フランスは軍を派遣し同盟国を助けたが、この駐留費はスコットランド持ちであり、財政を圧迫する同盟に不平の声が出始めていた。特にイングランド育ちのジェームズ1世が即位するころになると、対フランス戦争に忙殺されていたイングランドはスコットランドとの和解を望み、ジェームズもイングランド的改革を行った。この進展は一筋縄ではいかなかったものの、のちの「新しい同盟」につながってゆくことになる。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "いっぽうで、スコットランドはその勢力範囲をゆっくりと、しかし、着実に広げつつあった。臣従しない氏族を従え、謀反を企てた貴族の領地を没収した。そして、北部や島嶼地帯のノルウェー領を割譲させ、スコットランド王国内に組み込んだ。また、ジェームズ1世の行った改革は、すぐには効果をもたらさなかったものの、スコットランドに議会政治を浸透させるきっかけを作った。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "隔絶したハイランドと開かれたローランドの差は、さらに広がりつつあった。聖職者ジョン・フォーダンはハイランド人について「屈強で実直、そして野蛮な民族」としている。ハイランドはケルト系、ローランドはアングル系であり、言語も異なっていた。こうした多様性のもと、スコットランドは国王のもと緩やかな連合体をなしていた。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "農村においては、農民の形態が農奴から短期借地契約による小作、そして世襲的保有に切り替わりつつあった。黒死病の流行などによって人口が減少し、領主は農民をつなぎ止めるために、農民に有利な契約を結ばざるをえなかった。こうして収入を削り取られていったのはおもに大貴族で、中小の貴族との格差は縮まっていった。この変化に、中小貴族は地位に興味を持ち始めた。地位とはすなわち、国王より下賜される爵位と、スコットランドの伝統である盟約につらなることであった。より大きな、名望のある勢力と姻戚関係・臣従関係を結ぶことによって、自らの地位を確固たるものにしていった。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ステュアート朝前期はまた、スコットランドの文化が繁栄した時代でもあった。1413年にはスコットランド初のセント・アンドルーズ大学が開設され、ゴルフの原型となるスポーツが生まれた。各地に豪華な聖堂が建てられ(宗教改革により、その多くが破壊されている)、ローマやフランスの文化を取り入れる動きが盛んになった。アーブロース宣言には、文字が書けない貴族が×印で署名していたが、このような記録はほとんど見られなくなった。これは、貴族層を中心に識字率が飛躍的に向上していたことを表している。そのいっぽうで、教会組織の腐敗が始まっており、これが過激な宗教改革をもたらすことになった。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ジェームズ4世の時代は、いくつかの点でスコットランドの新たな展開を暗示する時代であった。ひとつにはヘンリー7世 (イングランド王)の娘マーガレットとの結婚(1503年)である。これはフランスとの「古い同盟」体制からの転換を意味しただけでなく、ジェームズ4世の後嗣にイングランド王位継承権をももたらすものであった。事実、「古い同盟」の盟約によりフランスがスコットランドにイングランド派兵を要請したが、スコットランド軍は大敗してしまった。「古い同盟」は、スコットランド王国にとって重荷になりつつあった。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "メアリ・ステュアートは、いまでもスコットランドで人気のある女王である。メアリにとって不運だったのは、同時代に宗教改革がおこったこと、そしてメアリ自身はフランスで育ち、敬虔なカトリックだったことである。当時のスコットランド教会は、司教など高位聖職者に莫大な富が集中し、あがりを納めねばならない地方の教会は荒廃していた。文字の読めない聖職者が説教壇に立つことも珍しくなかった。その一方で高位聖職者は、貴族の私生児を認知する費用などで富をふくらませ、民衆の怨嗟をあつめていた。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "こうしたなかでやってきた宗教改革で、穏健なルター派よりも好戦的なカルヴァン派が選ばれたのは自然なことであった。スコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスの思想はたちどころに広まり、各地で暴動がおこって聖堂が破壊された。偶像崇拝は徹底的に否定され、華美は悪とされた。建てられた教会は一切の芸術性を排したつくりになっていた。スコットランドで現存する中世建築物が少ないのはこのためであり、以降しばらく、スコットランドは文化的に不毛の地となる。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スコットランドのプロテスタント化は、イングランドへの接近も意味した。メアリの亡命と刑死によってスコットランドは「古い同盟」を捨て、イングランドとの「新しい同盟」への外交転換をはかった。折しもエリザベスには後嗣がなく、スコットランド王のイングランド王位継承が現実味をおびるようになった。", "title": "ステュアート朝と宗教改革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1603年春、スコットランドに一大転機が訪れた。エリザベス1世の死によって、ジェームズ6世にイングランド王位を継承してほしいという急使がやってきたのである。メアリ・ステュアートが叶えられなかったイングランド征服の夢を、息子のジェームズは無血で叶えることとなった。しかし、これは、スコットランドに暗い影をおとす時代の始まりでもあった。", "title": "近世スコットランドの挫折" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同君連合から合同、そしてジャコバイト反乱にいたる近世スコットランドの変遷は、しばしば暗い時代とされる。スコットランドは独自の王を失い、つぎに独自の議会を奪われ、そしてスコットランドらしさをもなくしてしまった。この時期のスコットランドは、イングランドに吸収される時代であった。", "title": "近世スコットランドの挫折" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "エディンバラからウェストミンスタに移ったステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしなかった。スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなった。この転機は、三王国戦争(Wars of the Three Kingdoms、清教徒革命)によってもたらされた。監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争からスコットランド内戦(英語版)、そしてクロムウェルによるスコットランド征服という事態を招いた(イングランド内戦)。このとき共和政イングランドが施行した航海条例がスコットランド経済に打撃を与えた。この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのである。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。", "title": "近世スコットランドの挫折" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1688年の名誉革命は、スコットランドにとってはイングランド議会が「勝手に」王をすげかえる暴挙であった。スコットランド議会は安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。スコットランドはイングランドの軍門に降った。", "title": "近世スコットランドの挫折" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "合同法による両国議会の統合は、スコットランドが独立を最終的に放棄した画期であった。これは何より経済的に追いつめられたスコットランドに残された唯一の途だった。航海条例で締め出されたスコットランド経済は停滞し、さらに飢饉が追い討ちをかけた。起死回生を図ったダリエン計画はイングランドの妨害に遭い破綻し、自力の経済再建は不可能になった。スコットランド議会は1707年1月16日、自らの解散を決議した。", "title": "近世スコットランドの挫折" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当然ながら、この合同に反対運動が巻き起こった。ジャコバイト運動は、これを機にスコットランドの独立を取り戻そうとする運動でもあった。1715年の反乱の手際がよければ独立は成功していたかもしれない、と今でも指摘される。しかし、この反乱は結局鎮圧され、さらにグレンコーの虐殺や氏族制度解体が行われた。イングランドへの恨みと背中合わせに、ローランドを中心にイングランド化が進んでいった。", "title": "近世スコットランドの挫折" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "18世紀後半から19世紀にかけて、スコットランドは著しい社会の変化・経済成長を経験した。ヨーロッパの一辺境から大西洋貿易のターミナルとなり、産業革命の中心地としての地位を確立した。これはスコットランド人の起業精神、ハイランド・クリアランス(英語版)などの大規模な囲い込み、大学改革およびイングランド航海法体制下に入ったことなどが原因とされている。", "title": "啓蒙と産業革命" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "18世紀も後半になってから、合同の経済効果がようやく現れてきた。航海法体制の内側に組み込まれたことにより、アメリカ大陸との交易が活発になった。そこから製造業がひろがり、畜産物・穀物・綿織物から19世紀にいたって鉄鋼業・石炭業も活発になった。スコットランドの都市化・人口増が急速に進んだ。", "title": "啓蒙と産業革命" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この経済成長と人口増は、いくつかの原因が指摘されている。", "title": "啓蒙と産業革命" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "当時、イングランドの批評家サミュエル・ジョンソンは自著『英語辞典 “A Dictionary of the English Language”』(1755年)のカラス麦の項目で右のように説明している───「カラス麦はイングランドでは馬の飼料だが、スコットランドでは人間が食べる」。それに対し、弟子に当たるスコットランド人のジェイムズ・ボズウェルは、「ゆえに、イングランドの馬は優秀で、スコットランドでは人間がすぐれている」とやり返した。", "title": "啓蒙と産業革命" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "スコットランド啓蒙は、多くの起業家・知識人を輩出した。蒸気機関を改良したジェームズ・ワット、社会学の祖とされるジョン・ミラーそして作家ウォルター・スコットなど、当時の優れた人材ではイングランドを凌駕していた。知識人の多くは海外でも活躍し、日本においては工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー、同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス、そして軽井沢開発のアレクサンダー・クロフト・ショーなどが有名である。多くの技術が実用化され、イギリス産業革命はこうした人物によって支えられた。", "title": "啓蒙と産業革命" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "イギリス帝国の繁栄とスコットランドは、相身互いの関係にあった。世界中の植民地を交易先とすることでスコットランド産業は成長をつづけ、スコットランドの造船業・機械工業はブリテン連合王国の経済を牽引した。しかし、20世紀初めごろから経済は失速し、しだいにスコットランドの地位は低下していった。二つの大戦はスコットランドの産業に致命的な打撃を与え、ナショナリスト勢力が広がりつつあった。", "title": "ブリテン連合王国のなかで" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スコットランドなかんずくグラスゴーの造船業・機械工業はイギリス帝国経済にとって不可欠な存在だった。世界の工場ともよばれ、ブリテン連合王国のなかでも「発展は北にあり」といわれるほどの繁栄ぶりだった。", "title": "ブリテン連合王国のなかで" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦は、スコットランドにつらい影響をもたらした。失業と貧困のせいで、兵の募集に応じる率が高かったので、戦争による被害も大きかったのだ。英国におけるスコットランドの比率は、人口では10%だったのに、兵の数では15%となり、死者の数では20%となった。", "title": "ブリテン連合王国のなかで" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "スコットランド経済は、第一次世界大戦のころから徐々に地盤沈下していった。この理由として、以下があげられている。このようなスコットランド経済の停滞は、ブリテン連合王国内でのスコットランドの地位をも押し下げ、しだいに「お荷物」扱いされるようになった。", "title": "ブリテン連合王国のなかで" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1930年代に世界恐慌がおとずれると、スコットランドも深刻な経済不況にみまわれた。社会不安のなかで、左右両イデオロギーの急進的勢力がひろがり始めた。とくに右派のナショナリスト政党は、のちのスコットランド国民党につながることになるが、これは連合王国の枠内にとどまりつつ(すなわち、経済的恩恵を留保しつつ)スコットランド独自の外交・国防などを実現するものであった。", "title": "ブリテン連合王国のなかで" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦では、エディンバラやグラスゴーといった主要都市がドイツ軍の爆撃にあい、スコットランドは甚大な被害をうけた。多くのスコットランド人が徴兵され(註)、特にハイランドの過疎化に拍車をかけた。大戦中にスコットランドは兵站調達面で寄与し、フランス・ベルギー戦線に参加した。さらにソビエト連邦への物資援助も行っている。", "title": "ブリテン連合王国のなかで" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦はブリテンの結束を要求したので、スコットランドの民族運動も隅に追いやられていた。福祉国家路線をとる労働党政権のなかで、経済も安定し、比較的平穏に1950年代は過ぎていった。問題が浮上してくるのは、高度経済成長下の日本など、造船業のライバルの出現によって経済の停滞がおこった1960年代であった。ナショナリスト政党が息を吹き返し、分離をもとめる声が大きくなっていった。しかし一方で、分離は経済的恩恵の放棄をも意味した。経済的にイングランドに頼っている実態に、一定以上の支持は得られなかった。", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1960年に北海油田が採掘され始めたことは、ひとつの転機となった。スコットランド経済復興の追い風となると同時に、イングランドへの対抗意識が再燃する契機ともなった。すなわち、北海油田はスコットランドに近く、スコットランドのものであるはずなのに、その恩恵を被っているのはイングランドであるという言説である。この不満からスコットランド国民党は勢力を伸ばし、連合王国からしだいに距離をとり始めた。時の政権もこれを察し、スコットランド自治を実現する方向へと政策転換がはかられた。しかし一方で「独立は高くつく」といわれたように、政治的自立と経済的自立の間で、スコットランドはしばし逡巡することとなる。", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "マーガレット・サッチャーの保守党政権が1979年誕生して「小さな政府」政策が、公約通り地方分権政策をもたらした。スコットランド議会設立の動きが表面化し、1979年国民投票が行われた。このときは有効票数が集まらず否決された。", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1997年に首相の座についたトニー・ブレアはスコットランド出身であった。このブレア政権のもと同年、再度の国民投票が行われ、スコットランド議会を創設することが可決された。スコットランドや北アイルランドで議会がつくられることが決まると、それまでの「イギリス=イングランド」観は再検討を迫られ、イングランド人の間でも動揺がひろがった。", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1997年、議会開会に先立ってスクーンの石がエディンバラに返還された。1999年の総選挙で選ばれた129名の議員は「ジャコバイトの象徴である」白い薔薇を胸につけ、ホリールードハウス宮殿の隣につくられた仮議事堂に会し、以下の宣言をもって開会した。", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "「1707年3月25日以来、一時的に中断していたスコットランド議会を、ここに再開する」", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2013年11月26日、コットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真を発表。", "title": "現代のスコットランド" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "スコットランドにおけるガーデニングは、スコットランドの歴史において、植物やその他自然形態の展示と植物栽培を楽しむために確保された計画的空間の設計からで、スコットランドにおける中世に始まったとされる。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "中世の修道院や城、邸宅周辺の庭園は、ヨーロッパの伝統である薬草園、キッチンガーデン、果樹園にならった形式的なもので、スコットランドで最初のルネサンス様式の庭園はスチュワート朝の王宮のために造られたものであった。その後、貴族や貴族階級がこれに続いた。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "16世紀後半から、多くの邸宅の造園はイタリア・ルネサンス庭園の影響を受けるようになった。この時代から、貴族、貴族、領主のために作られた整形式平面幾何学式庭園の例が多く見られるようになった。オールド・アライアンスの遺産とグランドツアーの始まりにより、スコットランドの気候に合わせたとはいえ、フランス様式がスコットランドでも特に重要視されるようになったのである。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "17世紀後半にはウィリアム・ブルース(William Bruce)が、スコットランドをヨーロッパの庭園設計の最前線に押しやっていく。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "18世紀には、ヨーロッパ中でフランス宮廷の「絶対主義」と「教皇主義」に対する反発があり、大規模な整形式庭園の維持にかける費用から退却する動きがあった。イングランドの庭園でのケイパビリティ・ブラウンに関連する、のちの公園や不規則な植栽の群れといった形式張らない景観への移行が、スコットランドでは彼の信奉者であるロバート・ロビンソンやトーマス・ホワイトのシニアとジュニアによって支配的になっていった。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "19世紀初頭には、ハンフリー・レプトンの著作など、ガーデニングに関する新しい考え方が発展した。19世紀半ばには公共事物の公園が作られるようになった。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "20世紀初頭にはスコットランドの植物収集家たちが活発に活動するようになったほか、ガーデニングが労働者階級や中流階級の大きな関心事となった。そうしてイアン・ハミルトン・フィンレイのリトル・スパルタやチャールズ・ジェンクスのポストモダンな「宇宙的思索の庭」などの大規模な計画庭園も作られた。", "title": "庭園史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "en:History of Scotlandからの翻訳にくわえて、", "title": "参考文献等" } ]
スコットランドの歴史は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求める声も少なくない。 石器時代・青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国のブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェールズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、スコットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。 スコットランドの歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなどヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかでも有数の商業地域となった。第二次世界大戦後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきており、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。
{{複数の問題 |出典の明記=2015年4月 |参照方法=2015年4月 }} {{Otheruses|「[[イギリスの歴史]]」の中で[[スコットランド]]地域の歴史| その他の地域| [[アイルランドの歴史]]、[[イングランドの歴史]]、[[ウェールズの歴史]]}} '''スコットランドの歴史'''(スコットランドのれきし、{{lang-en|The History of Scotland}}、{{lang-gd|Rìghrean na h-Alba}})は、およそ10,000年前、[[デヴォンシャー氷期]]の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。[[スコットランド]]は[[ヨーロッパ]]最古の歴史をもつ王国とされるが、[[1707年]]以降[[イギリス|ブリテン連合王国]]の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求める声も少なくない。 [[石器時代]]・[[青銅器時代]]および[[鉄器時代]]に存在した[[スコットランド]]の文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は皆無である。スコットランドの[[歴史時代]](文字史料の存在する時代)はおおよそ[[ローマ帝国]]の[[ブリテン島]]侵攻の時期からである。ローマは[[イングランド]]・[[ウェールズ]]にあたる地域を[[属州]]として支配したが、[[カレドニア]]とよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアには[[ピクト人]]が勢力を張っていた。以前は、スコットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、[[地中海]]発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。 スコットランドの歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなどヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。[[合同法 (1707年)|合同法]]によるイングランドとの合同、[[啓蒙思想]]の普及や[[産業革命]]をへて、スコットランドはヨーロッパのなかでも有数の商業地域となった。[[第二次世界大戦]]後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、[[北海油田]]からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきており、[[トニー・ブレア|ブレア]]政権の[[地方分権]]政策のもと[[1998年]]、[[スコットランド議会]]がおよそ300年ぶりに復活した。 ==先史時代== {{main|ブリテンの先史時代|[[:en:Prehistoric Scotland]]}} ブリテン島に関する文字史料が登場する8500年前までには、スコットランドに人類が到達していた。一説によれば、最後の間氷期(13万-7万年前)に[[ヨーロッパ]]全体が温暖になったときには、人類はスコットランドに到達していたという。しかし、このとき人類がいたとしても、間氷期が終わって寒冷になると人類はいなくなった。ふたたび人間が住めるほどに温暖になるのは[[紀元前9600年]]ごろである。 [[中石器時代]]、本格的にスコットランドに人類がやってきて、狩猟採集生活を送るようになった。[[紀元前8500年]]ごろのものと考えられる遺跡が[[エディンバラ]]にほど近いクラモンド村で発見されている。かれらは狩猟採集生活を送っていた。ほかにも多数の遺跡・遺構が見つかっており、高い造船技術を持っていたことが判明している。 [[新石器時代]]、[[農耕]]の開始により定住生活が可能になった。[[オークニー諸島]]には[[紀元前3500年]]頃の遺跡があり、さらに[[スカラ・ブレイ]]遺跡群は[[紀元前3100年]]頃のものと推定される、きわめて保存状態のよい石造りの住居であり、[[世界遺産]]に登録されている。スコットランドの新石器時代人は[[メイズハウ]]([[紀元前3500年]]頃)に代表される石室をもつ墳墓をつくり、[[紀元前3000年]]頃からは環状列石(ストーン・サークル)や列石(ストーン・ロウ)など巨石遺構をつくった。これらの遺構はヨーロッパ各地にみられる[[巨石文化]]で、[[ストーンヘンジ]]も同じ影響下にある。考古学者たちは、当時の人々がすぐれた天文観測能力を有していたと考えている。 [[青銅器時代]]になると、こうした巨石建造物にくわえて[[メルローズ (スコティッシュ・ボーダーズ)|メルローズ]]近郊の{{仮リンク|アイルドン・ヒル|en|Eildon Hill}}遺跡([[紀元前1000年]]頃)など[[環濠集落]]の遺跡も見つかるようになる。こうした環濠集落は、数百の民家を包含する規模であった。 [[鉄器時代]]を担ったのは、文化的な類似性から、従来、大陸から流入したケルト人と考えられていたが、DNA解析などから現在この説は支持されていない。青銅器文化を担った人々が大陸からの文化的影響を受けつつ、独自の文化を形成したと考えられる。[[紀元前700年]]ごろから{{仮リンク|ブロッホ (考古学)|en|broch|label=ブロッホ}}(Broch)とよばれるスコットランド特有の円塔形の要塞の建設も始まった。このことから、戦乱が頻繁だったことがわかる。 <gallery> Image:Knapp of Howar 2.jpg|石造りの家 Image:Orkney Skara Brae.jpg|[[スカラ・ブレイ|スカラ・ブラエ遺跡群]] Image:MaesHowe.jpg|[[メイズハウ]]全景 Image:MaesHoweEntrance.jpg|メイズハウ入口 Image:Scotland Glenelg broch.jpg|{{仮リンク|ブロッホ (考古学)|en|broch|label=ブロッホ}} </gallery> ==ローマ帝国の支配== {{main|[[:en:Scotland during the Roman Empire]]}} [[Image:Hadrians_Wall_map.png|thumb|240px|<small>[[アントニヌスの城壁]](上)と<br />[[ハドリアヌスの長城]](下)</small>]] [[Image:Sycamore Gap, 2005.jpg|240px|thumb|<small>ハドリアヌスの長城([[世界遺産]]に登録)</small>]] 文字史料のある歴史時代は、[[ローマ帝国]]の[[ブリタニア]]侵攻から始まる。ローマ以前にもわずかながら書かれたものが存在するが、かれらはもっぱら口述の伝承を事とした。しかし、こうした伝承は、のちの[[キリスト教]]の伝来とともに失われた。これはキリスト教[[宣教師]]たちが[[ドルイド]]を中心とする旧来の伝統を一掃したこと、飢饉や戦争によって社会の態様が大きく揺れたことなどに起因する。ローマ以前のスコットランドを伝える唯一の史料は、[[紀元前325年]]にマッサリア(現在の[[マルセイユ]])の[[ギリシャ]]人[[ピュテアス]](Pytheas)による[[ブリテン島]]探検の手記である。 ローマ帝国の侵攻は紀元[[43年]]に始まった。ローマ軍はイングランドにあたる地域を征服したのち、将軍[[グナエウス・ユリウス・アグリコラ]]が[[79年]]、スコットランドに攻め入ってきた。カレドニアの先住民たちは激しい抵抗をみせたが、ローマ帝国は[[82年]]-[[83年]]に艦隊を[[オークニー諸島]]にまで及ぶスコットランド沿岸に展開して威嚇し、[[84年]]の[[モンス・グラウピウスの戦い]]で[[カレドニア|カレドニア人]]を破った。アグリコラの部下たちは、ブリテン島全土の平定を宣言した。 これらの変遷を知る唯一の手がかりは、[[タキトゥス]]の書『アグリコラ』である。タキトゥスはアグリコラ将軍の娘婿であった。いっぽう[[年輪年代学]]によれば、アグリコラ以前にスコットランド南部がローマの支配下に入っていたことがわかっている。いずれにせよ、その後300年にわたってローマは当地を支配しつづけた。また、ローマは防御線を建設して異民族からの防御をかためた。最古のものはパースシャーのガスク・リッジとよばれるもので、70年代から80年代にかけて建設されたと考えられている。[[120年代]]、ローマ皇帝[[ハドリアヌス]]は、[[タイン川]]から[[ソルウェー湾]]河口にかけて、[[ハドリアヌスの長城]]の建設を命じた。20年後、[[ブリタンニア]]総督ルリウス・ウルビクスが[[アントニヌスの城壁]]と呼ばれる長城を、さらに北に建設した。アントニヌスの城壁はハドリアヌスの長城の半分の長さしかなく、その短さが防御に適していると考えられたが、結局その防御線を維持しえたのは20年に満たなかった。[[160年]]ごろにはローマの北端はふたたびハドリアヌスの長城まで後退し、ローマ人たちはカレドニアの直接支配を結局諦めた。この理由は、人口密度が低すぎて徴税効果が上がらないであろうこと、および気候・風土がローマ人に合わなかったことなどであったと考えられている。ローマのカレドニア支配は{{仮リンク|ヴォタディニー族|en|Votadini}}({{lang-ang|Votadini}})などを通して間接支配という形をとっていた。 ==キリスト教の伝播== [[画像:TyIonaNunnery20030825r19f31.jpg|thumb|200px|[[アイオナ修道院]]]] {{See also|{{仮リンク|スコットランドのキリスト教の歴史|en|History of Christianity in Scotland}}}} ローマ帝国が[[ブリタンニア]]から撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループに分かれていた。 #[[ピクト人]]:[[ケルト人|ケルト]]系ともいわれるが、民族的起源はわかっていない。[[クライド川]]以北と[[フォース湾]](ピクタヴィアと呼ばれる地域)に勢力を張っていた。 #ローマの影響を受けた[[ブリトン人]]:フォース湾の南にあった{{仮リンク|ストラスクライド王国|en|Kingdom of Strathclyde}}([[5世紀]]-[[11世紀]])、[[カンブリア]]の{{仮リンク|レッジド|en|Rheged|label=レッジド王国}}({{lang-ang|Rheged}})などの国および{{仮リンク|アングロ・スコティッシュ・ボーダーズ|en|Anglo-Scottish border|label=ボーダーズ}}の{{仮リンク|セルゴヴァエ族|en|Selgovae}}({{lang-ang|Selgovae}})、{{仮リンク|ヴォタディニー族|en|Votadini}}、[[ゴドズィン王国|ゴドヅィン族]]({{lang-ang|Gododdin}})などである。 さらに、3つのグループからなる民族がスコットランドに渡ってきた。これらの民族がどこから来たかについてはわかっていない。 #古アイルランド語を使うゲール人、なかでもダルリアダ人が[[5世紀]]後半ごろ[[アイルランド]]から渡ってきた。かれらは[[ヘブリディーズ諸島|アウタ・ヘブリディーズ諸島]](Outer Hebrides)およびスコットランド西岸地域に[[ダルリアダ王国]]を建設した。 #[[イングランド]]北東部[[バーニシア|バーニシア王国]]({{lang-ang|Bernicia}})およびヨーロッパ大陸から広がってきた[[アングロ・サクソン人]]。[[7世紀]][[ゴドズィン王国|ゴドヅィン族]]を征服した民族で、[[ゲルマン語派|ゲルマン]]的な[[スコットランド語]]を話した。かれらの言語はイングリス(Inglis、中世[[英語]])とよばれているが、その[[述語]]は[[14世紀]]後半以降[[アングロ・ノルマン語]]が英語の影響を受けて変化したものである。かつてはスコティス(Scottis)とよばれた[[スコットランド・ゲール語]]がイングリスにとって替わり、アイルランドなどで使われるようになった。しかし、昨今は[[ゲール語]]が使われている。 #[[795年]]以降[[ヴァイキング]]が[[アイオナ島]]にやってきた。かれら[[スカンジナビア]]出身の[[オークニー諸島|オークニー]]貴族(Jarl)たちはアウタ・ヘブリディズ諸島、スコットランド北端の[[ケイスネス]]・[[サザランド]]を支配下におさめ、先住の民族と混血が進んだ。 最初にスコットランドに[[キリスト教]]をもたらしたのは、[[聖ニニアン]]である。彼は[[フォース湾]]沿岸部を根拠地にして南部・東部スコットランドで布教活動を行った。しかし、[[聖パトリック]]や[[コルンバ]]の残した記録によれば、キリスト教は聖ニニアンの死([[432年]])からコルンバのスコットランド布教開始([[563年]])の間に忘れられてしまっていた。ゲール人は、スコットランドのピクト人にふたたびキリスト教布教を行い、しだいに[[ケルト神話|ケルトの神話]]は忘れられていった。この時期もっとも有名な[[宣教師]]であるコルンバは、スコットランドの[[アイオナ島]]に辿りついて[[アイオナ修道院]]を建てた。キリスト教は、ピクト人の王{{仮リンク|ブライディ1世|en|Bridei I}}のキリスト教への改宗がひとつの転換点となって広まったとも主張されているが、この点については異論もある。 ==中世スコットランドの形成== [[画像:Mormaerdoms.png|thumb|230px|'''クリーム色''':王領地<br />'''黄色''':封建諸侯の領地<br />'''茶色''':[[スコットランドの氏族|氏族]]または王の支配に浴さないと考えられている地域]] スコットランドの王朝は、統一[[アルバ王国]]の成立によって始まる。しかし、その起源や変遷については信頼できる史料にとぼしく、こまかな流れまで追うことは難しいとされる。アルバ王国、すなわちスコットランド王国は、イングランドとの勢力争いおよび[[スコットランド独立戦争]]をへて、ひとつの王国としてまとまりを見せた。この時期のスコットランドは、ヨーロッパから流れ込んでくる人々の影響のもと、ヨーロッパ化が進んだ。 ===統一アルバ王国の成立=== いまに伝わる[[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス・マカルピン]]の伝説は、アルバ王国がどのようにして成立したかを説明している。それによれば、[[アイルランド]]から渡ってきた{{仮リンク|スコット人|en|Scoti}}の[[ダルリアダ王国]]が、東の[[アルバ王国]]を征服し、ケネス・マカルピンはケネス1世としてアルバ王国の王位についたとされる。しかし、両者を比較したとき、ダルリアダ王国の劣勢はあきらかであり、この伝説の信憑性は低いとされ、婚姻によって統合されたとする説、アルバ王国がダルリアダ王国を征服して統一されたとする説などがあり、統一された見解は未だみられない。いずれにせよ両国は合併し、アルバ(アラパ)王国を名乗り、東岸地域のスクーンに首都がおかれた。また、最近の研究ではケネス1世没後、ピクト人の王があとを継いだと考えられている。 一方、スコットランド南西部は、[[638年]]ごろから[[アングル人]]の[[バーニシア|バーニシア王国]]ついで[[ノーサンブリア]]の勢力下にあった。この地方がスコットランドに組み入れられるのは、[[1018年]]の[[マルカム2世 (スコットランド王)|マルカム2世]]の征服によってであった。このころには[[オークニー諸島]]・[[ケイスネス]]・[[サザランド]]といった北部地域を除き、スコットランド王朝の支配下にあった。北部や島嶼地域は依然[[ノース人]]の勢力圏になっていた。 このころ確立された[[タニストリー]]という王位相続制度によって、スコットランドは2つの家系が交互に王位を継承していた。タニストリーは王の生前から後継者を決めてあるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかった。結果、王の暗殺事件が頻発することになる。戯曲「[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]」は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語である。 ===アーブロース宣言=== [[ノルマン・コンクエスト]]に始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。 [[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]らイングランド諸王は[[ノルマン・コンクエスト]]の延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]のスコットランド侵攻と[[ウィリアム・ウォレス]]の抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。 スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「[[古い同盟]]」({{lang|sco|Auld Alliance}})を結んで対抗した。その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の征服により[[1296年]]イングランドに屈服して、王座のシンボルであった[[スクーンの石]]を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて[[1318年]]には実質的独立を達成し、[[1328年]]になってイングランドとの和約も成立した。 *参照:[[スコットランド独立戦争]] このとき有力諸侯によって採択され、[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]が承認した[[アーブロース宣言]]([[1320年]])は、[[マグナ・カルタ]]のごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、[[イングランド]]に従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。 ===中世スコットランドの社会と文化=== [[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]をはじめスコットランドの支配者の多くが[[ローマ]]に巡礼したが、その後スコットランドはキリスト教世界との結びつきを強めていった。支配者層にとってキリスト教の庇護はステイタスであった。教会組織がととのえられ、各地に修道院がつくられた。また[[フランス]]・[[イングランド]]・[[フランドル]]などから移民が流入し、その文化や社会制度が取り入れられてヨーロッパ的封建社会が形成されていった。 先進的文化をもった移民の流入は、スコットランド社会の変貌も促した。[[ゲール語]]は次第に公用語としての地位を失い、支配者層は[[英語]]・[[フランス語]]を用いた。[[ウィリアム・ウォレス]]の姓「ウォレス」も[[ウェールズ]]系のものであった。 先進地域の文化が導入されるいっぽうで、古来の制度も生き残った。[[タニストリー]]がその代表的な例であるが、より民衆に直結したのは動員制度だった。中世ヨーロッパの戦争は[[傭兵]]によるもので、兵士の出身国と所属国が異なることが通常であったが、スコットランドは戦争が起きた際に、支配権にもとづき[[スコットランド人]]を動員した。これは比較的「安価」な戦力確保を実現し、また屈強で知られる[[ハイランダー|ハイランド]]人の動員も可能にした。圧倒的な国力をもったイングランドに対抗できた一因は、この動員制度であった。 ヨーロッパ文化と既存の文化の混在は、スコットランド内の分離も促す結果となった。[[ハイランド地方|ハイランド]]と[[ローランド地方|ローランド]]は文化の違いが顕在化しはじめ、[[スコットランドの氏族|氏族]]が統治するハイランドへの「野蛮」なイメージが形成されつつあった。 ==ステュアート朝と宗教改革== 初期[[ステュアート朝]]から[[メアリー (スコットランド女王)|メアリ・ステュアート]]までの時代は、しばしば謀略や暗殺の渦巻く暗い時代と描写される。これは王の権力が同時代の中世諸国家より制限されていたことから、貴族どうしの内紛という形であらわれたもので、もとよりスコットランド全体を転覆せしめる事態にはならなかった。より激しい混乱は、ルネサンスと宗教改革によってもたらされた。 ===ステュアート朝の始まり=== ステュアート家の歴史は[[11世紀]]にまで遡れるが、[[14世紀]]には宮宰(Steward of Scotland)の地位にあり、王位にあったブルース家は縁続きの関係になっていた。[[1371年]]に[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]が没してブルース家の後嗣がとだえたとき、これを継承したのが甥の[[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート・ステュアート]]であった。これによりステュアート朝は始まるが、アーブロース宣言とタニストリーによって王の力は制限され、氏族の長である貴族たちの覇権争いが表面化した。このなかで幼少の王が即位したり、時には暗殺されたりという事件も起こった。 ===対外関係=== 外に目を向けると、イングランドはふたたび侵攻してきていた。「古い同盟」の維持はイングランドを敵国と認めることと同義であり、これは不可避な事態でもあった。フランスは軍を派遣し同盟国を助けたが、この駐留費はスコットランド持ちであり、財政を圧迫する同盟に不平の声が出始めていた。特にイングランド育ちの[[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]]が即位するころになると、対フランス戦争に忙殺されていたイングランドはスコットランドとの和解を望み、ジェームズもイングランド的改革を行った。この進展は一筋縄ではいかなかったものの、のちの「新しい同盟」につながってゆくことになる。 いっぽうで、スコットランドはその勢力範囲をゆっくりと、しかし、着実に広げつつあった。臣従しない[[スコットランドの氏族|氏族]]を従え、謀反を企てた貴族の領地を没収した。そして、北部や島嶼地帯の[[ノルウェー]]領を割譲させ、スコットランド王国内に組み込んだ。また、ジェームズ1世の行った改革は、すぐには効果をもたらさなかったものの、スコットランドに議会政治を浸透させるきっかけを作った。 ===社会の変化=== 隔絶したハイランドと開かれたローランドの差は、さらに広がりつつあった。聖職者ジョン・フォーダンはハイランド人について「屈強で実直、そして野蛮な民族」としている。ハイランドはケルト系、ローランドはアングル系であり、言語も異なっていた。こうした多様性のもと、スコットランドは国王のもと緩やかな連合体をなしていた。 [[画像:Dunkeld Cathedral.jpg|thumb|300px|ダンケルド大聖堂。[[1260年]]に建築が始まり、[[1501年]]に完成した]] 農村においては、農民の形態が[[農奴]]から短期借地契約による[[小作]]、そして世襲的保有に切り替わりつつあった。[[黒死病]]の流行などによって人口が減少し、領主は農民をつなぎ止めるために、農民に有利な契約を結ばざるをえなかった。こうして収入を削り取られていったのはおもに大貴族で、中小の貴族との格差は縮まっていった。この変化に、中小貴族は地位に興味を持ち始めた。地位とはすなわち、国王より下賜される爵位と、スコットランドの伝統である盟約につらなることであった。より大きな、名望のある勢力と姻戚関係・臣従関係を結ぶことによって、自らの地位を確固たるものにしていった。 ===キリスト教文化の繁栄=== ステュアート朝前期はまた、スコットランドの文化が繁栄した時代でもあった。[[1413年]]にはスコットランド初の[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]が開設され、[[ゴルフ]]の原型となるスポーツが生まれた。各地に豪華な聖堂が建てられ([[宗教改革]]により、その多くが破壊されている)、ローマやフランスの文化を取り入れる動きが盛んになった。[[アーブロース宣言]]には、文字が書けない貴族が×印で署名していたが、このような記録はほとんど見られなくなった。これは、貴族層を中心に識字率が飛躍的に向上していたことを表している。そのいっぽうで、教会組織の腐敗が始まっており、これが過激な宗教改革をもたらすことになった。 ===「古い同盟」からの脱却=== [[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]の時代は、いくつかの点でスコットランドの新たな展開を暗示する時代であった。ひとつには[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の娘マーガレットとの結婚([[1503年]])である。これはフランスとの「古い同盟」体制からの転換を意味しただけでなく、ジェームズ4世の後嗣にイングランド王位継承権をももたらすものであった。事実、「古い同盟」の盟約によりフランスがスコットランドにイングランド派兵を要請したが、スコットランド軍は大敗してしまった。「古い同盟」は、スコットランド王国にとって重荷になりつつあった。 ===宗教改革=== [[画像:John Knox.jpg|thumb|<small>ジョン・ノックス。[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]を卒業し、大陸に渡って[[カルヴァン]]に学んだ</small>]] [[メアリー (スコットランド女王)|メアリ・ステュアート]]は、いまでもスコットランドで人気のある女王である。メアリにとって不運だったのは、同時代に[[宗教改革]]がおこったこと、そしてメアリ自身はフランスで育ち、敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]だったことである。当時のスコットランド教会は、司教など高位聖職者に莫大な富が集中し、あがりを納めねばならない地方の教会は荒廃していた。文字の読めない聖職者が説教壇に立つことも珍しくなかった。その一方で高位聖職者は、貴族の私生児を認知する費用などで富をふくらませ、民衆の怨嗟をあつめていた。 こうしたなかでやってきた宗教改革で、穏健な[[ルター派]]よりも好戦的な[[カルヴァン派]]が選ばれたのは自然なことであった。スコットランド宗教改革の指導者[[ジョン・ノックス]]の思想はたちどころに広まり、各地で暴動がおこって聖堂が破壊された。偶像崇拝は徹底的に否定され、華美は悪とされた。建てられた教会は一切の芸術性を排したつくりになっていた。スコットランドで現存する中世建築物が少ないのはこのためであり、以降しばらく、スコットランドは文化的に不毛の地となる。 スコットランドのプロテスタント化は、イングランドへの接近も意味した。メアリの亡命と刑死によってスコットランドは「古い同盟」を捨て、イングランドとの「新しい同盟」への外交転換をはかった。折しも[[エリザベス1世|エリザベス]]には後嗣がなく、スコットランド王のイングランド王位継承が現実味をおびるようになった。 ==近世スコットランドの挫折== [[1603年]]春、スコットランドに一大転機が訪れた。[[エリザベス1世]]の死によって、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]にイングランド王位を継承してほしいという急使がやってきたのである。メアリ・ステュアートが叶えられなかったイングランド征服の夢を、息子のジェームズは無血で叶えることとなった。しかし、これは、スコットランドに暗い影をおとす時代の始まりでもあった。 同君連合から合同、そして[[ジャコバイト]]反乱にいたる近世スコットランドの変遷は、しばしば暗い時代とされる。スコットランドは独自の王を失い、つぎに独自の議会を奪われ、そしてスコットランドらしさをもなくしてしまった。この時期のスコットランドは、イングランドに吸収される時代であった。 ===同君連合から合同へ=== {{main|合同法 (1707年)}} エディンバラからウェストミンスタに移ったステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしなかった。スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなった。この転機は、[[三王国戦争]]({{lang|en|Wars of the Three Kingdoms}}、清教徒革命)によってもたらされた。監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、[[主教戦争]]から{{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}}、そして[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]によるスコットランド征服という事態を招いた([[イングランド内戦]])。このとき共和政イングランドが施行した[[航海条例]]がスコットランド経済に打撃を与えた。この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、[[ロンドン]]や植民地の港から締め出されたのである。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。 [[1688年]]の[[名誉革命]]は、スコットランドにとってはイングランド議会が「勝手に」王をすげかえる暴挙であった。スコットランド議会は安全保障法([[1704年]])によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法([[1705年]])で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。スコットランドはイングランドの軍門に降った。 ===ジャコバイトの反乱=== {{See also|{{仮リンク|ローランド・クリアランス|en|Lowland Clearances}}}} [[合同法 (1707年)|合同法]]による両国議会の統合は、スコットランドが独立を最終的に放棄した画期であった。これは何より経済的に追いつめられたスコットランドに残された唯一の途だった。航海条例で締め出されたスコットランド経済は停滞し、さらに飢饉が追い討ちをかけた。起死回生を図った[[ダリエン計画]]はイングランドの妨害に遭い破綻し、自力の経済再建は不可能になった。スコットランド議会は[[1707年]][[1月16日]]、自らの解散を決議した。 {{See also|ジャコバイト|[[1715年ジャコバイト蜂起|1715年の反乱]]|[[1745年ジャコバイト蜂起|1745年の反乱]]}} 当然ながら、この合同に反対運動が巻き起こった。[[ジャコバイト]]運動は、これを機にスコットランドの独立を取り戻そうとする運動でもあった。[[1715年]]の反乱の手際がよければ独立は成功していたかもしれない、と今でも指摘される。しかし、この反乱は結局鎮圧され、さらに[[グレンコーの虐殺]]や[[スコットランドの氏族|氏族]]制度解体が行われた。イングランドへの恨みと背中合わせに、ローランドを中心にイングランド化が進んでいった。 ==啓蒙と産業革命== {{See also|{{仮リンク|ハイランド・クリアランス|en|Highland Clearances}}}} [[18世紀]]後半から[[19世紀]]にかけて、スコットランドは著しい社会の変化・経済成長を経験した。ヨーロッパの一辺境から大西洋貿易のターミナルとなり、産業革命の中心地としての地位を確立した。これはスコットランド人の起業精神、{{仮リンク|ハイランド・クリアランス|en|Highland Clearances}}などの大規模な囲い込み、大学改革およびイングランド航海法体制下に入ったことなどが原因とされている。 ===経済の近代化=== [[18世紀]]も後半になってから、合同の経済効果がようやく現れてきた。航海法体制の内側に組み込まれたことにより、アメリカ大陸との交易が活発になった。そこから製造業がひろがり、畜産物・穀物・綿織物から19世紀にいたって鉄鋼業・石炭業も活発になった。スコットランドの都市化・人口増が急速に進んだ。 {|border="0" width="100%" |-align=center width="35%" | {|border="0" align="center" cellspacing="3" cellpadding="5" |+ '''スコットランドの都市化''' |- style="background:#ffdead;" align="center" ||都市名||[[1750年]]||[[1821年]] |-align="center" |[[グラスゴー]]|| 31,700 || 147,000 |-align="center" style="background:#efefef;" |[[ペイズリー]]||6,800||47,000 |-align="center" |[[キルマーノック]]||4,400||12,700 |-align="center" style="background:#efefef;" |[[フォルカーク]]||3,900||11,500 |} | {|border="0" align="center" cellspacing="0" cellpadding="0" |+ '''スコットランドの人口の推移'''<small>(単位:万人)</small> |- style="background:#e0e0e0;" align="center" |<timeline> Colors= id:barra value:rgb(0,0.8,0) ImageSize = width:350 height:200 PlotArea = left:50 bottom:0 top:0 right:0 DateFormat = x.y Period = from:0 till:350 TimeAxis = orientation:horizontal AlignBars = justify PlotData= bar:1650 at:100 text:100 shift:(5,0) bar:1700 at:120 text:120 shift:(5,0) bar:1755 at:127 text:127 shift:(5,0) bar:1801 at:161 text:161 shift:(5,0) bar:1811 at:181 text:181 shift:(5,0) bar:1821 at:210 text:210 shift:(5,0) bar:1831 at:236 text:236 shift:(5,0) bar:1841 at:262 text:262 shift:(5,0) bar:1851 at:289 text:289 shift:(5,0) PlotData= color:barra width:15 align:center bar:1650 from: 0 till:100 bar:1700 from: 0 till:120 bar:1755 from: 0 till:127 bar:1801 from: 0 till:161 bar:1811 from: 0 till:181 bar:1821 from: 0 till:210 bar:1831 from: 0 till:236 bar:1841 from: 0 till:262 bar:1851 from: 0 till:289 </timeline> |} |} この経済成長と人口増は、いくつかの原因が指摘されている。 #大学・図書館が整備されたこと。当時の大学は担任制(註)が主流だったが、[[セント・アンドルーズ大学 (スコットランド)|セント・アンドルーズ大学]]などは世界に先んじて教授制を取り入れた。大学は活性化され、産学提携が進んだ。またスコットランドは実学傾向が強く、産業に直結する学問が活発に研究された。 #{{仮リンク|ハイランド・クリアランス|en|Highland Clearances}}とよばれる[[囲い込み]]が大規模に行われ、仕事を失った借地農が都市に大量に流入して都市化をもたらし、都市に豊富な労働力をもたらしたこと。 #イングランドに比べて、物価・人件費が圧倒的に安かったこと。 #おもに[[アイルランド]]からの移民が大量に流入してきたこと。 :::<small>註:'''担任制'''…教官がそれぞれ担当学生をもち、すべての教科を教える方式。現代日本の小学校にみられる。'''教授制'''…講座ごとに担当教官がつく授業方式。中学校以上で実施されている。</small> ===スコットランド啓蒙=== {{See also|スコットランド啓蒙}} 当時、イングランドの批評家[[サミュエル・ジョンソン]]は自著『英語辞典 ''“A Dictionary of the English Language”''』(1755年)の[[エンバク|カラス麦]]の項目で右のように説明している───「カラス麦は[[イングランド]]では馬の飼料だが、スコットランドでは人間が食べる」。それに対し、弟子に当たるスコットランド人の[[ジェイムズ・ボズウェル]]は、「ゆえに、イングランドの馬は優秀で、スコットランドでは人間がすぐれている」とやり返した。 [[スコットランド啓蒙]]は、多くの起業家・知識人を輩出した。[[蒸気機関]]を改良した[[ジェームズ・ワット]]、[[社会学]]の祖とされる[[ジョン・ミラー]]そして作家[[ウォルター・スコット]]など、当時の優れた人材ではイングランドを凌駕していた。知識人の多くは海外でも活躍し、日本においては[[工部大学校]]([[東京大学]]工学部の前身)の初代総長となった[[ヘンリー・ダイアー|ヘンリー・ダイヤー]]、同じく東大医学部の前身[[東京医学校]]の初代校長[[ウィリアム・ウィリス]]、そして[[軽井沢]]開発の[[アレクサンダー・クロフト・ショー]]などが有名である。多くの技術が実用化され、イギリス[[産業革命]]はこうした人物によって支えられた。 ==ブリテン連合王国のなかで== [[イギリス帝国]]の繁栄とスコットランドは、相身互いの関係にあった。世界中の植民地を交易先とすることでスコットランド産業は成長をつづけ、スコットランドの造船業・機械工業はブリテン連合王国の経済を牽引した。しかし、[[20世紀]]初めごろから経済は失速し、しだいにスコットランドの地位は低下していった。二つの大戦はスコットランドの産業に致命的な打撃を与え、ナショナリスト勢力が広がりつつあった。 ===「世界の工場」=== [[画像:The British Empire.png|300px|thumb|イギリス帝国の衰退<small><br />'''赤''':連合王国と海外の領地<br />'''黒''':植民地・領地</small>]] [[19世紀]]後半から[[20世紀]]初頭にかけて、スコットランドなかんずく[[グラスゴー]]の造船業・機械工業は[[イギリス帝国]]経済にとって不可欠な存在だった。世界の工場ともよばれ、ブリテン連合王国のなかでも「発展は北にあり」といわれるほどの繁栄ぶりだった。 ===第一次世界大戦と恐慌=== [[第一次世界大戦]]は、スコットランドにつらい影響をもたらした。失業と貧困のせいで、兵の募集に応じる率が高かったので、戦争による被害も大きかったのだ。英国におけるスコットランドの比率は、人口では10%だったのに、兵の数では15%となり、死者の数では20%となった。 スコットランド経済は、第一次世界大戦のころから徐々に地盤沈下していった。この理由として、以下があげられている。このようなスコットランド経済の停滞は、ブリテン連合王国内でのスコットランドの地位をも押し下げ、しだいに「お荷物」扱いされるようになった。 #労働者と資本家の対立:貧富の格差が広がり、劣悪な生活環境に追い込まれていた労働者は不満を募らせていた。 #実学志向の弊害:スコットランドの教育機関は実学志向が強く、[[数学]]など基礎研究が軽んじられた。結果、世界の技術革新に水をあけられることとなった。 [[1930年代]]に[[世界恐慌]]がおとずれると、スコットランドも深刻な経済不況にみまわれた。社会不安のなかで、左右両イデオロギーの急進的勢力がひろがり始めた。とくに右派のナショナリスト政党は、のちの[[スコットランド国民党]]につながることになるが、これは連合王国の枠内にとどまりつつ(すなわち、経済的恩恵を留保しつつ)スコットランド独自の外交・国防などを実現するものであった。 ===第二次世界大戦と戦後の再出発=== [[第二次世界大戦]]では、エディンバラやグラスゴーといった主要都市が[[ドイツ]]軍の爆撃にあい、スコットランドは甚大な被害をうけた。多くのスコットランド人が徴兵され(註)、特にハイランドの過疎化に拍車をかけた。大戦中にスコットランドは[[兵站]]調達面で寄与し、[[フランス]]・[[ベルギー]]戦線に参加した。さらに[[ソビエト連邦]]への物資援助も行っている。 *<small>'''註''':ハイランド人は[[スイス傭兵]]とならんで、勇猛で屈強な戦士であるという評判が名高く、イギリス軍はハイランド人をこぞって徴兵した。</small> ==現代のスコットランド== ===戦後の停滞=== 第二次世界大戦はブリテンの結束を要求したので、スコットランドの民族運動も隅に追いやられていた。[[福祉国家]]路線をとる[[労働党 (イギリス)|労働党]]政権のなかで、経済も安定し、比較的平穏に[[1950年代]]は過ぎていった。問題が浮上してくるのは、[[高度経済成長]]下の[[日本]]など、造船業のライバルの出現によって経済の停滞がおこった[[1960年代]]であった。ナショナリスト政党が息を吹き返し、分離をもとめる声が大きくなっていった。しかし一方で、分離は経済的恩恵の放棄をも意味した。経済的にイングランドに頼っている実態に、一定以上の支持は得られなかった。 ===北海油田という転機=== [[1960年]]に[[北海油田]]が採掘され始めたことは、ひとつの転機となった。スコットランド経済復興の追い風となると同時に、イングランドへの対抗意識が再燃する契機ともなった。すなわち、北海油田はスコットランドに近く、スコットランドのものであるはずなのに、その恩恵を被っているのはイングランドであるという言説である。この不満から[[スコットランド国民党]]は勢力を伸ばし、連合王国からしだいに距離をとり始めた。時の政権もこれを察し、スコットランド自治を実現する方向へと政策転換がはかられた。しかし一方で「独立は高くつく」といわれたように、政治的自立と経済的自立の間で、スコットランドはしばし逡巡することとなる。 ===「イギリス」からの離陸=== [[画像:NewScottishParliament-750.jpg|thumb|400px|<small>[[2004年]]に完成した[[スコットランド議事堂]]</small>]] [[マーガレット・サッチャー]]の[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権が[[1979年]]誕生して「[[小さな政府]]」政策が、[[公約]]通り地方分権政策をもたらした。スコットランド議会設立の動きが表面化し、[[1979年]]国民投票が行われた。このときは有効票数が集まらず否決された。 [[1997年]]に[[イギリスの首相|首相]]の座についた[[トニー・ブレア]]はスコットランド出身であった。このブレア政権のもと同年、再度の国民投票が行われ、スコットランド議会を創設することが可決された。スコットランドや[[北アイルランド]]で議会がつくられることが決まると、それまでの「イギリス=イングランド」観は再検討を迫られ、[[イングランド人]]の間でも動揺がひろがった。 1997年、議会開会に先立って[[スクーンの石]]がエディンバラに返還された。[[1999年]]の総選挙で選ばれた129名の議員は「ジャコバイトの象徴である」白い[[バラ|薔薇]]を胸につけ、[[ホリールード宮殿|ホリールードハウス宮殿]]の隣につくられた仮議事堂に会し、以下の宣言をもって開会した。 「[[1707年]][[3月25日]]以来、一時的に中断していたスコットランド議会を、ここに再開する」 [[2013年]][[11月26日]]、コットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真を発表<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131127/k10013365121000.html スコットランド独立国家へ白書発表] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131129184248/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131127/k10013365121000.html |date=2013年11月29日 }}</ref>。 ==庭園史== {{Main|:en:Gardening_in_Scotland}}[[File:ReidScotsGardiner.jpg|thumb|John Reid, ''The Scots Gard'ner'', 1683, スコットランドで印刷された最初の園芸書]] スコットランドにおける[[ガーデニング]]は、スコットランドの歴史において、植物やその他[[自然]]形態の展示と植物栽培を楽しむために確保された計画的空間の設計からで、スコットランドにおける中世に始まったとされる。 中世の修道院や城、邸宅周辺の[[庭園]]は、ヨーロッパの伝統である[[薬草園]]、[[キッチンガーデン]]、[[果樹園]]にならった形式的なもので、スコットランドで最初の[[ルネサンス様式]]の庭園はスチュワート朝の王宮のために造られたものであった。その後、貴族や貴族階級がこれに続いた。 16世紀後半から、多くの邸宅の造園は[[イタリア式庭園|イタリア・ルネサンス庭園]]の影響を受けるようになった。この時代から、貴族、貴族、領主のために作られた整形式[[平面幾何学式庭園]]の例が多く見られるようになった。オールド・アライアンスの遺産と[[グランドツアー]]の始まりにより、スコットランドの気候に合わせたとはいえ、[[フランス式庭園|フランス様式]]がスコットランドでも特に重要視されるようになったのである。 17世紀後半にはウィリアム・ブルース(William Bruce)が、スコットランドをヨーロッパの庭園設計の最前線に押しやっていく。 18世紀には、ヨーロッパ中でフランス宮廷の「[[絶対主義 (ヨーロッパ史)|絶対主義]]」と「教皇主義」に対する反発があり、大規模な整形式庭園の維持にかける費用から退却する動きがあった。イングランドの庭園での[[ケイパビリティ・ブラウン]]に関連する、のちの公園や不規則な植栽の群れといった形式張らない景観への移行が、スコットランドでは彼の信奉者である[[ロバート・ロビンソン]]やトーマス・ホワイトのシニアとジュニアによって支配的になっていった。 19世紀初頭には、[[ハンフリー・レプトン]]の著作など、ガーデニングに関する新しい考え方が発展した。19世紀半ばには公共事物の[[公園]]が作られるようになった。 20世紀初頭にはスコットランドの植物収集家たちが活発に活動するようになったほか、ガーデニングが労働者階級や中流階級の大きな関心事となった。そうして[[イアン・ハミルトン・フィンレイ]]の[[リトル・スパルタ]]や[[チャールズ・ジェンクス]]の[[ポストモダン]]な「[[宇宙的思索の庭]]」などの大規模な計画庭園も作られた。 ==脚注== <references /> ==関連記事== {{commons|Scottish history}} *[[イギリス|グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国]] *[[イギリスの歴史]] *[[アイルランドの歴史]] - [[イングランドの歴史]] - [[ウェールズの歴史]] *[[中世後期のスコットランド]] *[[スコットランド独立戦争]] - [[タニストリー]] - [[アーブロース宣言]] - [[ジャコバイト]] - {{仮リンク|ハイランド・クリアランス|en|Highland Clearances}} - [[スコットランド啓蒙]] ==参考文献等== [[:en:History of Scotland]]からの翻訳にくわえて、 *[[高橋哲雄 (経済学者)|高橋哲雄]]『スコットランド 歴史を歩く』岩波書店<新書・赤895>、2004年。ISBN 400430895X *富田理恵・金井光太朗「スコットランドとアメリカ植民地の選択」近藤和彦編『長い18世紀のイギリス』所収、175-198頁、山川出版社、2002年。ISBN 4634647109 *ディヴァイン. T.M., ディクソン. D.編著、津波古充文訳『アイルランドとスコットランド 比較社会経済史』論創社、1992年。ISBN 4846001016 *村岡健次・木畑洋一編『世界歴史大系 イギリス史 3 近現代』[[山川出版社]]、1991年。ISBN 4634460300 *ミチスン. R、富田理恵・家入葉子訳『スコットランド史』未來社、1998年。ISBN 4624111680 *Donnachie. I., ''Scottish History (Collins Dictionary of)'', Collins, 2003. ISBN 0007147104 {{ブリテンの歴史}} {{イギリス関連の項目}} {{DEFAULTSORT:すこつとらんとのれきし}} [[Category:スコットランド|*れきし]] [[Category:スコットランドの歴史|*]] [[Category:ケルト]]
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ダンカン1世 (スコットランド王)
ダンカン1世(Duncan I, スコットランド語:Donnchad mac Crínáin, 1001年 - 1040年8月14日)は、スコットランド王(在位:1034年 - 1040年)。マルカム2世の長女ベソックとアサル領主でダンケルドの大修道院長クリナンの間に生まれた。 1018年、スコットランドの南側にあるブリトン人のストラスクライド王国(英語版)の王位を継承した。1034年に祖父マルカム2世の死去によりダンカン1世となったときには、ストラスクライドとあわせて、現在のスコットランドとほぼ同じ領域を手中にした。 彼は1039年のイングランド北部にあるダラムへの侵攻が失敗して重臣たちの信望を失い、1040年に従弟のマクベスに殺害された。 1030年頃にノーサンブリア伯シューアドの妹シビルと結婚し、息子を儲けた。
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ダンカン1世は、スコットランド王。マルカム2世の長女ベソックとアサル領主でダンケルドの大修道院長クリナンの間に生まれた。
{{基礎情報 君主 | 人名 = ダンカン1世 | 各国語表記 = Duncan I / Donnchad mac Crínáin | 君主号 = [[スコットランド君主一覧|スコットランド国王]] | 継承者 = | 継承形式 = | 画像 = Donnchad I.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = | 在位 = [[1034年]] - [[1040年]] | 戴冠日 = | 別号 = ストラスクライド王 | 全名 = | 出生日 = [[1001年]] | 生地 = {{SCO843}} | 死亡日 = [[1040年]][[8月14日]] | 没地 = {{SCO843}}、ストラスペファーまたはスパイニー | 埋葬日 = | 埋葬地 = {{SCO843}}、[[エルギン]]、後に[[アイオナ島|アイオナ]] | 配偶者1 = シビル・オブ・ノーサンブリア | 子女 = [[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]<br/>[[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]]<br/>メールミュア | 王家 = [[アサル朝|アサル家]] | 王朝 = [[アサル朝]] | 王室歌 = | 父親 = アサル領主クリナン | 母親 = ベソック }} '''ダンカン1世'''('''Duncan I''', [[スコットランド語]]:'''Donnchad mac Crínáin''', [[1001年]] - [[1040年]][[8月14日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(在位:[[1034年]] - 1040年)。[[マルカム2世 (スコットランド王)|マルカム2世]]の長女ベソックとアサル領主でダンケルドの大修道院長クリナンの間に生まれた。 == 生涯 == [[1018年]]、スコットランドの南側にある[[ブリトン人]]の{{仮リンク|ストラスクライド王国|en|Kingdom of Strathclyde}}の王位を継承した{{Sfnp|森護|1988|p=32}}。[[1034年]]に祖父マルカム2世の死去によりダンカン1世となったときには、ストラスクライドとあわせて、現在のスコットランドとほぼ同じ領域を手中にした。 彼は[[1039年]]の[[イングランド]]北部にある[[ダラム]]への侵攻が失敗して重臣たちの信望を失い、[[1040年]]に従弟の[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]に殺害された{{Sfnp|森護|1988|p=33}}。 == 子女 == 1030年頃に[[ノーサンブリア伯]]シューアドの妹シビルと結婚し、息子を儲けた。 * [[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]](1031年 - 1093年){{Efn2|「フォーティヴィオットの水車番の娘」との間の庶子ともいわれる{{Sfnp|ナイジェル・トランター|1997|p=43}}。}} - スコットランド王(1058年 - 1093年) * [[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]](1033年? - 1097年) - スコットランド王(1093年 - 1094年5月、1094年11月 - 1097年) * メールミュア(Melmare) - アサル伯家、オークニー伯家祖(共に断絶){{sfnp|Louda|Maclagan|1981|p=37}} == 脚注 == === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=森護 |title=スコットランド王室史話 |publisher=大修館書店 |year=1988 |ref=harv |isbn= 978-4469242560}} * {{Cite book|和書|author=ナイジェル・トランター |title=スコットランド物語 |others=杉本優(訳)|publisher=大修館書店 |year=1997 |ref=harv |isbn=978-4469244014}} * {{Cite book|first=Jiří |last=Louda |first2=Michael |last2=Maclagan |title=Lines of Succession |publisher=Little, Brown |year=1981 |isbn=978-0356203355 |ref=harv}} {{スコットランド王|16代,1034-1040}} {{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たんかん1}} [[Category:スコットランドの君主]] [[Category:アサル家]] [[Category:暗殺された王族]] [[Category:戦死した君主]] [[Category:1001年生]] [[Category:1040年没]]
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ダビデの星
ダビデの星(ダビデのほし)は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴する印。二つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)といわれる形をしておりイスラエルの国旗にも描かれている。文字コードはU+2721(Unicode、✡)。 紛らわしいが、ダビデの星と六芒星は必ずしも同じ記号ではない。正式なダビデの星は図形内部の線が必ず入っている。が、六芒星形とは突起が6つある星型をいうのだから、厳密にいえばアウトラインだけで内部の線の有無は分類上関係ないほか、イスラエル空軍の国籍マークに用いられているような形のものも六芒星に分類できる。 このしるしは、古代イスラエルのダビデ王に由来するとされるが、歴史的に実在した実際のダビデ王との関連を示す証拠は無い。その起源についても様々な説が唱えられている。 しかし、いずれの説をとるにしても、この印は欧州のユダヤ人社会に野火のように広がり、19世紀はじめにはロスチャイルド家の家紋にも取り入れられた。それまでユダヤコミュニティーにはアイデンティティーを誇示するわかりやすいシンボルが無かったため、反動としてやたらに乱用され、それ以前の古い物にも後から描き加えられたものが少なくない。 日本ではしばしば、魔術的な意味合いを持つ「ソロモンの印」や魔よけとして用いられる「籠目」と混同される。 また、サブカルチャーやアクセサリーにおける意匠として用いられることがある。この場合、作品自体はユダヤと無関係な場合も多い。 そのほか、日ユ同祖論の根拠として言及されることもある。 2004年、マイクロソフトはハーケンクロイツ(卐)とダビデの星を共に不適切な記号とし、Microsoft Office 2003に付属のフォントファイル「Bookshelf Symbol 7」からそれらの記号を削除するツールを2004年2月11日に配布した。 2018年、漫画投稿サイト「ジャンプルーキー!」において、作中に「六芒星」を描いた漫画作品が削除されていたことが判明する。当該サイトにおいては直接的な削除理由は明言されていないものの、漫画業界では「ダビデの星」が前述の第二次世界大戦期におけるユダヤ人差別を想起させるという理由でタブー視され、「六芒星」自体の使用を基本的に避ける風潮が広まっているとされる。
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ダビデの星(ダビデのほし)は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴する印。二つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)といわれる形をしておりイスラエルの国旗にも描かれている。文字コードはU+2721(Unicode、✡)。
{{Otheruses||[[佐藤まさあき]]の漫画作品|堕靡泥の星}} {{出典の明記|date=2013年12月}} [[ファイル:Star of David.svg|thumb|100px|right|イスラエルの国旗にも入っている六芒星]] [[ファイル:Roundel of Israel.svg|100px|thumb|イスラエル空軍の[[国籍マーク]]]] '''ダビデの星'''(ダビデのほし)は、[[ユダヤ教]]、あるいは[[ユダヤ人|ユダヤ民族]]を象徴する印。二つの正三角形を逆に重ねた[[六芒星]](ヘキサグラム)といわれる形をしており[[イスラエル]]の[[国旗]]にも描かれている。文字コードはU+2721([[Unicode]]、{{Unicode|✡}})。 {{Jews and Judaism sidebar}} == 六芒星形との異同 == 紛らわしいが、ダビデの星と六芒星は必ずしも同じ記号ではない。正式なダビデの星は図形内部の線が必ず入っている。が、六芒星形とは突起が6つある星型をいうのだから、厳密にいえばアウトラインだけで内部の線の有無は分類上関係ないほか、イスラエル空軍の[[国籍]]マークに用いられているような形のものも六芒星に分類できる。 == 由来・起源 == このしるしは、[[古代イスラエル]]の[[ダビデ]]王に由来するとされるが、歴史的に実在した実際のダビデ王との関連を示す証拠は無い。その起源についても様々な説が唱えられている。 ;14世紀説:[[ヘブライ百科事典]]によると、[[ユダヤ人]]が散り散りになっていたころは国の軍隊や国防が無かったため旗を持たなかったが、1354年に[[カール4世]]によって「赤字に六芒星の描かれた旗」を掲げることが許可されたという。<ref>{{Cite web |author=Reuven Kashani |url=https://www.mfa.gov.il/mfa/mfa-archive/1999/pages/reuven%20kashani%20-%20the%20national%20flag.aspx |title=The National Flag |publisher=Israel Ministry of Foreign Affairs |date=1999-01-07 |accessdate=2022-02-13}}</ref> ;17世紀説:{{仮リンク|イスラエル・シャハク|en|Israel Shahak}}はダビデの星の起源について以下のような説明をしている。<ref>{{Cite web |author=Pastor Joh.W.Matutis |url=https://gemeindezentrum.berlin/diverses/187-woher-kommt-eigentlich-der-davidstern |title=Woher kommt eigentlich der Davidstern? |publisher=Freie Nazarethkirche e.V. |accessdate=2022-02-13}}</ref>[[三十年戦争]]末期の[[1648年]]、[[神聖ローマ帝国]]の側に立って[[プラハ]]を防衛していた民兵軍がスウェーデン軍を撃退した。これを受けたハプスブルク朝の[[フェルディナント3世]]は、民兵軍の武勲を嘉して各部隊のそれぞれに旗印を下賜した。民兵の中にはユダヤ人部隊もあったが、ドイツの宮廷には、ユダヤ人の印としてどんな図柄を使えば良いか知る者がなかったどころか、[[宮廷ユダヤ人]]のオッペンハイマー家ですら何のアイディアも出せなかった。そこで、ウィーンの政府は[[イエズス会]]に何か良い知恵はないか相談したところ「ダビデ王は楯の紋所にみずからの名前の最初と最後の文字『D』を使ったに違いなく、古い[[ヘブライ文字]]でDの字は[[ギリシャ文字]]『Δ』に似た三角形だから、Davidのスペルの最初と最後の『D』の字二つを表す三角形を、互いに組み合わせた形にしてはどうだろうか」というアイディアを得た。こうして、ユダヤ民兵部隊に「ダビデの楯」をあしらった旗が下賜されることになった。 ;11世紀説:ヘブライ語聖書(旧約聖書)の最古の写本のひとつである[[レニングラード写本]]([[マソラ本文]]の書写記録によると作成は[[1008年]])にも六芒星は描かれているため、この頃まで遡ると主張する説もある。 しかし、いずれの説をとるにしても、この印は[[欧州]]のユダヤ人社会に野火のように広がり、19世紀はじめには[[ロスチャイルド]]家の家紋にも取り入れられた。それまでユダヤコミュニティーにはアイデンティティーを誇示するわかりやすいシンボルが無かったため、反動としてやたらに乱用され、それ以前の古い物にも後から描き加えられたものが少なくない。 == 各国での扱い == ; クロアチア :[[クロアチア]]の自治体の紋章にも多く描かれるが、これらの多くはダビデの星と六芒星が混在する。 ; ハンガリー :[[ブダペシュト]]・[[ドハーニ街シナゴーグ]]の窓には、なぜか八芒星が用いられている。ちなみにダビデの星と同じ模様の六芒星は使われていない。 ; ドイツ : [[第二次世界大戦]]期、[[ナチス・ドイツ]]はその占領地において、ユダヤ人を識別するための標識として、ユダヤ人に黄色で描いた星型紋様をつけることを義務づけた({{仮リンク|黄色のバッジ|en|Yellow badge}})。これは当時"Judenstern"(ユダヤの星)または"Zionstern"(シオンの星)と呼ばれており、"Davidstern"(ダビデの星)とは呼称も表記もされていなかった。ナチス・ドイツが「ダビデの星("Davidstern")」という名前を使っていないのに、戦後の文献では「Zionstern」や「Judenstern」を「ダビデの星」とわざわざ意訳したり、ドイツ語文献の場合は「Davidstern」にわざわざ言い換えをしている。 == 日本での扱い == 日本ではしばしば、魔術的な意味合いを持つ「ソロモンの印」や魔よけとして用いられる「[[籠目]]」と混同される。 また、[[サブカルチャー]]やアクセサリーにおける意匠として用いられることがある。この場合、作品自体はユダヤと無関係な場合も多い。 そのほか、[[日ユ同祖論]]の根拠として言及されることもある。 == 各国語での名称 == {| class = "wikitable" ![[言語]]!!名称!![[図形]]名 |- |[[ヘブライ語]]||&#1502;&#1490;&#1503; &#1491;&#1493;&#1491;<br />''{{en|maghen dawidh}}'' {{smaller|マーゲーン・ダーウィーズ}}|| |- |[[日本語]]||ダビデの星||[[六芒星]]、[[籠目]](かごめ) |- |[[中国語]]||{{zh|大衛星}}、{{zh|大衛之星}}||{{zh|六角星}}、{{zh|六芒星}} |- |[[イタリア語]]||stella di David|| |- |[[スペイン語]]||estrella de David|| |- |[[フランス語]]||&#233;toile de David|| |- |[[ドイツ語]]||Schankzeichen, Zoiglstern, Davidstern||hexagramm |- |[[エストニア語]]||Taaveti täht||Heksagramm |- |[[オランダ語]]||Davidster|| |- |[[英語]]||Brewer's Star, Star of David, David's Star, David's Shield||hexagram |- |[[ポーランド語]]||Gwiazda Dawida||Heksagram |- |[[ハンガリー語]]||D&#225;vid csillag|| |- |[[ペルシャ語]]||&#1587;&#1578;&#1575;&#1585;&#1607; &#1583;&#1575;&#1608;&#1608;&#1583;|| |- |[[ポルトガル語]]||Estrela de Davi|| |} == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|10017|2721|-|ダビデの星|font=Unicode}} |} == ダビデの星と表現規制 == [[2004年]]、[[マイクロソフト]]は[[ハーケンクロイツ]]({{lang|zh|卐}})とダビデの星を共に不適切な記号とし、[[Microsoft Office|Microsoft Office 2003]]に付属の[[フォント]][[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]「Bookshelf Symbol 7」からそれらの記号を削除するツールを2004年[[2月11日]]に配布した<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/article/2004/02/13/bookshelfsymbol7.html |title=マイクロソフト、「Microsoft Office 2003」からハーケンクロイツの記号を削除 |publisher=[[Impress Watch]] |accessdate=2004-02-13}}</ref>。 [[2018年]]、漫画投稿サイト「[[少年ジャンプ+#ジャンプルーキー!|ジャンプルーキー!]]」において、作中に「六芒星」を描いた漫画作品が削除されていたことが判明する。当該サイトにおいては直接的な削除理由は明言されていないものの、漫画業界では「ダビデの星」が前述の第二次世界大戦期におけるユダヤ人差別を想起させるという理由でタブー視され、「六芒星」自体の使用を基本的に避ける風潮が広まっているとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/199789 |title=六芒星を描いたwebマンガ非公開に…表現の「自主規制」どこまで? |publisher=ダイヤモンド・オンライン |accessdate=2020-01-02}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|Star of David}} * [[マーゲン・ダビド公社]] * [[レミリア・スカーレット]] - 使用するスペルカードに天罰「スターオブダビデ」というものがある。 * [[ハーケンクロイツ]] - ダビデの星と同様に、政治的・歴史的なタブーとして扱われることが多い(本来は無関係で、偶然の一致で似たものも含まれる)。 * [[ベツレヘムの星]] {{Authority control}}<br />{{Judaism-stub}} {{DEFAULTSORT:たひてのほし}} [[Category:ユダヤ教]] [[Category:宗教のシンボル]] [[Category:ダビデ]]
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機動武闘伝Gガンダム
『機動武闘伝Gガンダム』(きどうぶとうでんジーガンダム、MOBILE FIGHTER G GUNDAM)は、サンライズ製作のテレビアニメ。「ガンダムシリーズ」の一作。1994年(平成6年)4月22日から1995年(平成7年)3月31日まで全49話がテレビ朝日系で毎週金曜日17時00分 - 17時30分にて放送された。略称は「Gガン」。平均視聴率4.1%。最高視聴率7.3%(ガンダムシリーズ歴代6位)。 各国を代表する格闘家がガンダムを用いて世界の覇権を格闘技大会「ガンダムファイト」で争うという、少年漫画や当時流行していた『ストリートファイターII』などの対戦型格闘ゲーム的要素を取り入れた設定になっており、戦争を主題とした他のシリーズとは一線を画す。また、通常の軍事用兵器として使用される「モビルスーツ」(MS)や「モビルアーマー」(MA)とは別に、ガンダムファイトに使用されるロボットには「モビルファイター」(MF)という呼称が用いられ、劇中で主に活躍するのはこのMFである。また主役MFの全高は16メートル級に設定された。前番組の『機動戦士Vガンダム』に引き続き逢坂浩司がキャラクターデザインを担当しているが、デザイン協力には漫画家の島本和彦が関わっている。 タイトルの「Gガンダム」は後期主役MFゴッドガンダム(GOD GUNDAM)の略称であるが、劇中では第23話にてミカムラ博士が一度呼称したのみ。このほか、格闘するガンダム(Grapple GUNDAM)、ガンダムファイト優勝者に送られる称号である「ガンダム・ザ・ガンダム」(GUNDAM THE GUNDAM)の意味もある。なお、「ガンダム・ザ・ガンダム」については本放送の前の宣伝番組ではタイトルの由来とされているほか、ゴッドガンダムの名はこの称号にあやかって命名されたという設定となっている。 本作品では宇宙やコロニーを舞台にする話は少なく、大多数は地球が舞台である。ガンダムファイト第13回大会の舞台はネオホンコンで、現実の香港の公用語である香港語(広東語)の挿入歌が作中のBGMとして流れ、オープニングテーマ・エンディングテーマにネオホンコンの風景が描かれるなど、香港をメインの舞台として扱っていることが特徴。 アメリカ合衆国では『新機動戦記ガンダムW』に続いて、2002年8月5日よりカートゥーンネットワーク・TOONAMI枠にて『Mobile Fighter G Gundam』のタイトルで放送された。放送コードの関係上、いくつかのガンダムの名称が変更されているものの、DVDの英語字幕では日本版の名称がそのまま表示されている。 なお第48話と第49話(最終話)では、歴代ガンダム(ガンダム、Ζガンダム、ガンダムF91、ガンダム試作1号機フルバーニアン等)がワンカットずつ登場しており、このほかカラーリングは異なるものの次番組『新機動戦記ガンダムW』からウイングガンダムも登場しているが、いずれもカメオ出演扱い。さらに第49話では一瞬であるが、同サンライズ作品のザンボット3(こちらもカラーリング違い)もカメオ出演している。 川口克己は日本経済新聞への寄稿で、本作の企画立ち上げについて次のように語っている。通常春先に新シリーズを始める場合は、前年の夏頃からバンダイも交えて企画を練り、秋には内容を固めるが、本作の場合はバンダイが新シリーズに格闘ゲームの要素を入れるよう要求したため、1993年11月に企画案が根底から覆ることになった。こうした背景には、バンダイがVガンダムで商品展開に苦戦したこと、そしてその反省から子供に訴求力のある作品を求めたためである。 新シリーズ案としてほぼ固まっていた「ポルカガンダム」は火星に移住した人類が、母なる星、地球に戻ろうとすることによって起こる「地球住民」と「火星移民」との摩擦を描いた大河ドラマで、それまでのガンダムシリーズらしさを踏襲する企画だった。サンライズの南雅彦プロデューサーによると、「ポルカガンダム」の制作作業はある程度進んでいて、MSデザインについてはガンダムを大河原邦男が担当し、敵MSを出渕裕が、キャラクターデザインについては川元利浩が担当する予定だったという。河森正治が描いた目玉型の火星基地は、のちに『カウボーイビバップ』に流用された。1話の脚本作業までやっていたところ12月に中止となり、Gガンダム制作へと変更された。 南プロデューサーは当時『天空のエスカフローネ』の企画を動かしていたが、そちらを止めておいて「切り口を変えたガンダム」をやるように言われた。今川泰宏監督は企画初期から『エスカフローネ』に参加し、監督になる予定だった。南は「ガンダムの路線を変えるのであれば、あれくらいパワフルな方にやらしたほうがいいんじゃないかという事で、今川さんを『Gガンダム』のディレクターにして企画を進めて、二転三転あって、ああいうストーリーになった」と述べている。 川口克己によると放送直後の評判は散々で、「ガンダムへの侮辱」と憤ったファンもいたという。また「放映スタートから、三カ月間は商売になりませんでした」というほど、放送当初は不振に陥っていた。しかし東方不敗マスター・アジアの搭乗機マスターガンダム登場後、8月の夏休みから商品が売れるようになる。このころから初めて小学校3、4年生のユーザーが増加。『Gガンダム』を認めていなかったヘビーユーザーも作品自体の力や、東方不敗、レイン・ミカムラといったサブキャラクターにより納得していった。商品化されないメカが多いことも、逆にガレージキット化に拍車をかけた。主な支持層は小学生層と20代後半層であった。結果として、本作は作品としてもマーチャンダイジングとしても成功した。 本作を含むガンダムシリーズのメカニックデザインを担当している大河原邦男や、『機動戦士ガンダム』などのキャラクターデザインを担当した安彦良和は「今川泰宏さんがGガンダムをやってくれたおかげで、富野さんじゃなくてもオリジナルでガンダムができるようになった。新しい監督が来ても新しい視点でファンの方に発信できる存在になった」「あるポイントを超えるとエンドレスになるのかもしれない。そこを超えられない可能性だってあったんだよね。幸運にもGガンダムで乗り越えられた」と、本作のガンダムシリーズにおける存在意義を高く評価している。 川口克己は本作が与えたガンプラへの影響として、マスターグレード(MG)の誕生を上げている。本作に子供などの次世代のファンを開拓する役目を与えたことで、長年のガンプラ愛好者向けにMGを生み出すことができたと述べている。また、監督の今川については、彼の物語を作る力のおかげで序盤の不振を挽回し、本作を成功に導けたと評している。さらにガンダムのマンネリ化を防ぐカンフル剤になった本作は、ガンダムの歴史を語る上で欠かせないとも述べている。 ガンダムシリーズのファンを公言する歌手の田口淳之介は、2018年にオンラインゲーム『ガンダムヒーローズ』の発表会に登壇した際、小学生当時に初めて見た作品が本作であり、「戦隊ものっぽい決めせりふがバチッとあって、格闘技の要素が新鮮でした」と評したうえ、思い入れのあるキャラクターとしてドモンを挙げている。 時は未来世紀。人々は荒廃した地球を捨てて宇宙に活路を見出し、宇宙コロニーに生活圏の全てを移して過ごすようになっていた。しかし、コロニーに上がれた者と上がれずに地球に取り残された者との格差は広がり、地球の荒廃はより悪化の一途をたどっていた。 コロニー国家間の覇権をかけて行われる機動兵器同士による格闘大会「ガンダムファイト」は未来世紀60年の節目に13回大会を迎え、大会開催と共に各国のコロニーから五つの光が地球に向けて放たれる。それは大会会場となる地球に向かうために降下した各国代表のガンダムファイターたちであった。ネオジャパン代表のガンダムファイターであるドモン・カッシュもまた、その1人として、パートナーのレイン・ミカムラとともに地球に向かう。 しかし彼の真の目的は、祖国ネオジャパンを裏切り、科学者である父ライゾウ博士が開発していたアルティメットガンダム(デビルガンダム)を奪い失跡した実の兄、キョウジ・カッシュを捜しだすことであった。 幾つかのファイトを勝ち進むドモンであったが、その心は荒んでいた。そんな中、デビルガンダムの手掛かりを求めて来た地、東京の新宿にてデビルガンダムとその配下であるデスアーミーと遭遇。そしてかつての師である東方不敗マスター・アジアと再会する。二人は共闘しドモンの心にも一筋の光が灯るが、そこにデビルガンダムによって操られた戦友(チボデー・クロケット、サイ・サイシー、アルゴ・ガルスキー、ジョルジュ・ド・サンド)が現れ、新宿での出来事がマスターアジアの陰謀であったことが判明し、ドモンとの間に亀裂が生じる。そしてシャッフル同盟の介入と4人の救出、後継である新生シャッフル同盟の成立、マスター・アジアの激戦を経た後、ここにネオドイツのガンダムファイターを自称するシュバルツ・ブルーダーが接近。ドモンを導くとともに共闘を図る。そしてシュバルツとの修行の果てに明鏡止水の心を会得したドモンはマスター、デビルガンダムと激突し、これらを退ける。 その後、ガンダムファイトの舞台は決勝戦のネオホンコンに移る。ここでもデビルガンダムにまつわる陰謀が渦巻く中、シャッフル同盟は優勝者を決める決勝バトルロイヤルにて強豪たちを打ち破っていく。そしてドモンはこの戦いの最中にシュバルツの正体が兄キョウジの心を宿した存在である事と、そこでデビルガンダムにまつわる事件がネオジャパン上層部の陰謀によって引き起こされた真相を知る。そしてシュバルツはふたたび蘇ったデビルガンダムを倒すため、これと運命を共にする。さらにドモンは決勝にてマスターとの一騎打ちに望み、ガンダムファイトによる地球の破壊と、それによって絶望したマスターの心を知る。これを喝破し勝利をおさめたドモンは、命が尽き果てていくマスターと和解する。 ガンダムファイトの頂点に君臨したドモンであったが、ネオジャパンの上官であるウルベ大佐の策謀によってデビルガンダムにレインが取り込まれ、ふたたび復活。人類を抹殺すべく活動を再開する。さらにウルベはこれを利用し、ネオジャパンコロニーを吸収した本拠地を形成し、ガンダムファイトの撤廃とネオジャパンの世界支配を宣言する。さらにデビルガンダムの触手によって吸収され、地球は危機に陥る。ここに世界のガンダムファイターが集結し徹底抗戦を開始する。シャッフル同盟の助力もあり、ネオジャパンコロニー(コロニーデビルガンダム)に侵入してウルベの操るグランドマスターガンダムを破り、ドモンはデビルガンダムの核に到達する。そこでドモンはレインの本心を知り、また自身も内にあるレインへの心を知る。ドモンが愛を打ち明けるとレインはデビルガンダムの束縛から解放され、二人の手でデビルガンダムを葬り去る。 (オープニングクレジットより) 「プロローグ」は本編放送開始前に3週にわたって、それまでのガンダムシリーズのハイライトとGガンダムの製作の舞台裏を紹介。出演はマイケル富岡と内山信二。これは本作の製作の遅れに起因するものである。タイトルコールはドモン役の関智一が担当した。 「スーパーロボット大戦シリーズ」を筆頭に本作が登場するゲーム作品は無数にあるため、ここでは本作を題材に単独商品化された作品のみ記述する。 プラモデルやフィギュアなど商品も発売されている。特筆すべきはアクションフィギュア「MS in Action!!」シリーズで、決勝大会に登場したMFがほぼ網羅されている。これは、アメリカで放送された際の人気からアメリカ向けとして商品ラインナップが充実したためである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『機動武闘伝Gガンダム』(きどうぶとうでんジーガンダム、MOBILE FIGHTER G GUNDAM)は、サンライズ製作のテレビアニメ。「ガンダムシリーズ」の一作。1994年(平成6年)4月22日から1995年(平成7年)3月31日まで全49話がテレビ朝日系で毎週金曜日17時00分 - 17時30分にて放送された。略称は「Gガン」。平均視聴率4.1%。最高視聴率7.3%(ガンダムシリーズ歴代6位)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "各国を代表する格闘家がガンダムを用いて世界の覇権を格闘技大会「ガンダムファイト」で争うという、少年漫画や当時流行していた『ストリートファイターII』などの対戦型格闘ゲーム的要素を取り入れた設定になっており、戦争を主題とした他のシリーズとは一線を画す。また、通常の軍事用兵器として使用される「モビルスーツ」(MS)や「モビルアーマー」(MA)とは別に、ガンダムファイトに使用されるロボットには「モビルファイター」(MF)という呼称が用いられ、劇中で主に活躍するのはこのMFである。また主役MFの全高は16メートル級に設定された。前番組の『機動戦士Vガンダム』に引き続き逢坂浩司がキャラクターデザインを担当しているが、デザイン協力には漫画家の島本和彦が関わっている。", "title": "作品解説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "タイトルの「Gガンダム」は後期主役MFゴッドガンダム(GOD GUNDAM)の略称であるが、劇中では第23話にてミカムラ博士が一度呼称したのみ。このほか、格闘するガンダム(Grapple GUNDAM)、ガンダムファイト優勝者に送られる称号である「ガンダム・ザ・ガンダム」(GUNDAM THE 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"川口克己は日本経済新聞への寄稿で、本作の企画立ち上げについて次のように語っている。通常春先に新シリーズを始める場合は、前年の夏頃からバンダイも交えて企画を練り、秋には内容を固めるが、本作の場合はバンダイが新シリーズに格闘ゲームの要素を入れるよう要求したため、1993年11月に企画案が根底から覆ることになった。こうした背景には、バンダイがVガンダムで商品展開に苦戦したこと、そしてその反省から子供に訴求力のある作品を求めたためである。", "title": "企画の経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "新シリーズ案としてほぼ固まっていた「ポルカガンダム」は火星に移住した人類が、母なる星、地球に戻ろうとすることによって起こる「地球住民」と「火星移民」との摩擦を描いた大河ドラマで、それまでのガンダムシリーズらしさを踏襲する企画だった。サンライズの南雅彦プロデューサーによると、「ポルカガンダム」の制作作業はある程度進んでいて、MSデザインについてはガンダムを大河原邦男が担当し、敵MSを出渕裕が、キャラクターデザインについては川元利浩が担当する予定だったという。河森正治が描いた目玉型の火星基地は、のちに『カウボーイビバップ』に流用された。1話の脚本作業までやっていたところ12月に中止となり、Gガンダム制作へと変更された。", "title": "企画の経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "南プロデューサーは当時『天空のエスカフローネ』の企画を動かしていたが、そちらを止めておいて「切り口を変えたガンダム」をやるように言われた。今川泰宏監督は企画初期から『エスカフローネ』に参加し、監督になる予定だった。南は「ガンダムの路線を変えるのであれば、あれくらいパワフルな方にやらしたほうがいいんじゃないかという事で、今川さんを『Gガンダム』のディレクターにして企画を進めて、二転三転あって、ああいうストーリーになった」と述べている。", "title": "企画の経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "川口克己によると放送直後の評判は散々で、「ガンダムへの侮辱」と憤ったファンもいたという。また「放映スタートから、三カ月間は商売になりませんでした」というほど、放送当初は不振に陥っていた。しかし東方不敗マスター・アジアの搭乗機マスターガンダム登場後、8月の夏休みから商品が売れるようになる。このころから初めて小学校3、4年生のユーザーが増加。『Gガンダム』を認めていなかったヘビーユーザーも作品自体の力や、東方不敗、レイン・ミカムラといったサブキャラクターにより納得していった。商品化されないメカが多いことも、逆にガレージキット化に拍車をかけた。主な支持層は小学生層と20代後半層であった。結果として、本作は作品としてもマーチャンダイジングとしても成功した。", "title": "反響と商業的状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本作を含むガンダムシリーズのメカニックデザインを担当している大河原邦男や、『機動戦士ガンダム』などのキャラクターデザインを担当した安彦良和は「今川泰宏さんがGガンダムをやってくれたおかげで、富野さんじゃなくてもオリジナルでガンダムができるようになった。新しい監督が来ても新しい視点でファンの方に発信できる存在になった」「あるポイントを超えるとエンドレスになるのかもしれない。そこを超えられない可能性だってあったんだよね。幸運にもGガンダムで乗り越えられた」と、本作のガンダムシリーズにおける存在意義を高く評価している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "川口克己は本作が与えたガンプラへの影響として、マスターグレード(MG)の誕生を上げている。本作に子供などの次世代のファンを開拓する役目を与えたことで、長年のガンプラ愛好者向けにMGを生み出すことができたと述べている。また、監督の今川については、彼の物語を作る力のおかげで序盤の不振を挽回し、本作を成功に導けたと評している。さらにガンダムのマンネリ化を防ぐカンフル剤になった本作は、ガンダムの歴史を語る上で欠かせないとも述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": 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"幾つかのファイトを勝ち進むドモンであったが、その心は荒んでいた。そんな中、デビルガンダムの手掛かりを求めて来た地、東京の新宿にてデビルガンダムとその配下であるデスアーミーと遭遇。そしてかつての師である東方不敗マスター・アジアと再会する。二人は共闘しドモンの心にも一筋の光が灯るが、そこにデビルガンダムによって操られた戦友(チボデー・クロケット、サイ・サイシー、アルゴ・ガルスキー、ジョルジュ・ド・サンド)が現れ、新宿での出来事がマスターアジアの陰謀であったことが判明し、ドモンとの間に亀裂が生じる。そしてシャッフル同盟の介入と4人の救出、後継である新生シャッフル同盟の成立、マスター・アジアの激戦を経た後、ここにネオドイツのガンダムファイターを自称するシュバルツ・ブルーダーが接近。ドモンを導くとともに共闘を図る。そしてシュバルツとの修行の果てに明鏡止水の心を会得したドモンはマスター、デビルガンダムと激突し、これらを退ける。", "title": "物語" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、ガンダムファイトの舞台は決勝戦のネオホンコンに移る。ここでもデビルガンダムにまつわる陰謀が渦巻く中、シャッフル同盟は優勝者を決める決勝バトルロイヤルにて強豪たちを打ち破っていく。そしてドモンはこの戦いの最中にシュバルツの正体が兄キョウジの心を宿した存在である事と、そこでデビルガンダムにまつわる事件がネオジャパン上層部の陰謀によって引き起こされた真相を知る。そしてシュバルツはふたたび蘇ったデビルガンダムを倒すため、これと運命を共にする。さらにドモンは決勝にてマスターとの一騎打ちに望み、ガンダムファイトによる地球の破壊と、それによって絶望したマスターの心を知る。これを喝破し勝利をおさめたドモンは、命が尽き果てていくマスターと和解する。", "title": "物語" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ガンダムファイトの頂点に君臨したドモンであったが、ネオジャパンの上官であるウルベ大佐の策謀によってデビルガンダムにレインが取り込まれ、ふたたび復活。人類を抹殺すべく活動を再開する。さらにウルベはこれを利用し、ネオジャパンコロニーを吸収した本拠地を形成し、ガンダムファイトの撤廃とネオジャパンの世界支配を宣言する。さらにデビルガンダムの触手によって吸収され、地球は危機に陥る。ここに世界のガンダムファイターが集結し徹底抗戦を開始する。シャッフル同盟の助力もあり、ネオジャパンコロニー(コロニーデビルガンダム)に侵入してウルベの操るグランドマスターガンダムを破り、ドモンはデビルガンダムの核に到達する。そこでドモンはレインの本心を知り、また自身も内にあるレインへの心を知る。ドモンが愛を打ち明けるとレインはデビルガンダムの束縛から解放され、二人の手でデビルガンダムを葬り去る。", "title": "物語" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "(オープニングクレジットより)", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「プロローグ」は本編放送開始前に3週にわたって、それまでのガンダムシリーズのハイライトとGガンダムの製作の舞台裏を紹介。出演はマイケル富岡と内山信二。これは本作の製作の遅れに起因するものである。タイトルコールはドモン役の関智一が担当した。", "title": "各話リスト" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「スーパーロボット大戦シリーズ」を筆頭に本作が登場するゲーム作品は無数にあるため、ここでは本作を題材に単独商品化された作品のみ記述する。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "プラモデルやフィギュアなど商品も発売されている。特筆すべきはアクションフィギュア「MS in Action!!」シリーズで、決勝大会に登場したMFがほぼ網羅されている。これは、アメリカで放送された際の人気からアメリカ向けとして商品ラインナップが充実したためである。", "title": "関連作品" } 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『機動武闘伝Gガンダム』は、サンライズ製作のテレビアニメ。「ガンダムシリーズ」の一作。1994年(平成6年)4月22日から1995年(平成7年)3月31日まで全49話がテレビ朝日系で毎週金曜日17時00分 - 17時30分にて放送された。略称は「Gガン」。平均視聴率4.1%。最高視聴率7.3%(ガンダムシリーズ歴代6位)。
{{redirect|Gガンダム|この作品に登場する後期主役メカ|ゴッドガンダム}} {{半保護}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=機動武闘伝Gガンダム |ジャンル=[[ロボットアニメ]]、ロボットプロレス<br />[[ギャグアニメ]]、[[子供向けアニメ]] }} {{Infobox animanga/TVAnime |原作=[[矢立肇]]、[[富野由悠季]]<br />(『[[機動戦士ガンダム]]』より) |総監督=[[今川泰宏]] |シリーズ構成=[[鈴木良武|五武冬史]] |キャラクターデザイン=[[逢坂浩司]]<br />[[島本和彦]](協力) |メカニックデザイン=[[大河原邦男]]、[[カトキハジメ]]、[[山根公利]] |音楽=[[田中公平]] |アニメーション制作=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] |製作=[[テレビ朝日]]、サンライズ |放送局=テレビ朝日 |放送開始={{Flagicon|Japan}} [[1994年]][[4月22日]] |放送終了=[[1995年]][[3月31日]]<br />{{Flagicon|Hong Kong}} [[1998年]][[9月20日]] - [[1999年]][[3月7日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[2002年]][[8月5日]] - 2002年[[10月16日]] |話数=全49話 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル=[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''機動武闘伝Gガンダム'''』(きどうぶとうでんジーガンダム、''MOBILE FIGHTER G GUNDAM'')は、[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]製作の[[テレビアニメ]]。「[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]」の一作。[[1994年]](平成6年)[[4月22日]]から[[1995年]](平成7年)[[3月31日]]まで全49話が[[テレビ朝日]]系で毎週金曜日17時00分 - 17時30分にて放送された。略称は「'''Gガン'''」。{{要出典範囲|date=2023年10月|平均視聴率4.1%。最高視聴率7.3%(ガンダムシリーズ歴代6位)}}。 == 作品解説 == 各国を代表する格闘家がガンダムを用いて世界の覇権を[[格闘技]]大会「[[ガンダムファイト]]」で争うという、[[少年漫画]]や当時流行していた『[[ストリートファイターII]]』などの[[対戦型格闘ゲーム]]的要素を取り入れた設定になっており、戦争を主題とした他のシリーズとは一線を画す。また、通常の軍事用兵器として使用される「[[モビルスーツ]]」(MS)や「[[モビルアーマー]]」(MA)とは別に、ガンダムファイトに使用されるロボットには「[[モビルファイター]]」(MF)という呼称が用いられ、劇中で主に活躍するのはこのMFである。また主役MFの全高は16メートル級に設定された。前番組の『[[機動戦士Vガンダム]]』に引き続き[[逢坂浩司]]がキャラクターデザインを担当しているが、デザイン協力には漫画家の[[島本和彦]]が関わっている。 タイトルの「Gガンダム」は後期主役MF[[ゴッドガンダム]](GOD GUNDAM)の略称であるが、劇中では第23話にてミカムラ博士が一度呼称したのみ。このほか、格闘するガンダム(Grapple GUNDAM)、ガンダムファイト優勝者に送られる称号である「ガンダム・ザ・ガンダム」(GUNDAM THE GUNDAM)の意味もある。なお、「ガンダム・ザ・ガンダム」については本放送の前の宣伝番組ではタイトルの由来とされているほか、ゴッドガンダムの名はこの称号にあやかって命名されたという設定となっている。 [[File:Hong Kong Island Skyline 2009.jpg|thumb|right|200px|写真は本作のメイン舞台ネオホンコンのモデルとなった[[香港]]。]] 本作品では宇宙やコロニーを舞台にする話は少なく、大多数は地球が舞台である。ガンダムファイト第13回大会の舞台はネオホンコンで、現実の[[香港]]の公用語である香港語([[広東語]])の挿入歌が作中のBGMとして流れ、オープニングテーマ・エンディングテーマにネオホンコンの風景が描かれるなど、香港をメインの舞台として扱っていることが特徴<ref>CD『機動武闘伝Gガンダム GUNDAM FIGHT-ROUND 3 新香港的武闘戯曲』収録「戦闘男児~鍛えよ 勝つために」「香港観光歌~アジアの楽園」。</ref>。 [[アメリカ合衆国]]では『[[新機動戦記ガンダムW]]』に続いて、[[2002年]][[8月5日]]より[[カートゥーンネットワーク]]・[[TOONAMI]]枠にて『'''Mobile Fighter G Gundam'''』のタイトルで放送された<ref>http://www.icv2.com/articles/news/1857.html</ref>。放送コードの関係上、いくつかのガンダムの名称が変更されているものの、DVDの英語字幕では日本版の名称がそのまま表示されている。 なお第48話と第49話(最終話)では、歴代ガンダム([[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]、[[Ζガンダム]]、[[ガンダムF91]]、[[ガンダム開発計画#ガンダム試作1号機 フルバーニアン|ガンダム試作1号機フルバーニアン]]等)がワンカットずつ登場しており、このほかカラーリングは異なるものの次番組『[[新機動戦記ガンダムW]]』から[[ウイングガンダム]]も登場しているが、いずれも[[カメオ出演]]扱い。さらに第49話では一瞬であるが、同サンライズ作品の[[無敵超人ザンボット3|ザンボット3]](こちらもカラーリング違い)もカメオ出演している。 == 企画の経緯 == [[川口克己]]は[[日本経済新聞]]への寄稿で、本作の企画立ち上げについて次のように語っている。通常春先に新シリーズを始める場合は、前年の夏頃からバンダイも交えて企画を練り、秋には内容を固めるが、本作の場合はバンダイが新シリーズに格闘ゲームの要素を入れるよう要求したため、[[1993年]]11月に企画案が根底から覆ることになった。こうした背景には、バンダイがVガンダムで商品展開に苦戦したこと、そしてその反省から子供に訴求力のある作品を求めたためである<ref name="ReferenceA">川口克己『ガンダム 無限のリアル ◇進化重ねてプラモデル発売30年◇』、日本経済新聞2010年9月15日付。</ref>。 新シリーズ案としてほぼ固まっていた「'''ポルカガンダム'''」は火星に移住した人類が、母なる星、地球に戻ろうとすることによって起こる「地球住民」と「火星移民」との摩擦を描いた大河ドラマで、それまでのガンダムシリーズらしさを踏襲する企画だった{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=96}}。サンライズの[[南雅彦]]プロデューサーによると、「ポルカガンダム」の制作作業はある程度進んでいて、MSデザインについてはガンダムを[[大河原邦男]]が担当し、敵MSを[[出渕裕]]が、キャラクターデザインについては[[川元利浩]]が担当する予定だったという。[[河森正治]]が描いた目玉型の火星基地は、のちに『[[カウボーイビバップ]]』に流用された<ref>『河森正治 ビジョンクリエイターの視点』、キネマ旬報社、2013年、145頁。</ref>。1話の脚本作業までやっていたところ12月に中止となり、Gガンダム制作へと変更された<ref>『機動戦士ガンダム大全集〈Part2〉―テレビマガジン特別編集』 (講談社刊)</ref>。 南プロデューサーは当時『[[天空のエスカフローネ]]』の企画を動かしていたが、そちらを止めておいて「切り口を変えたガンダム」をやるように言われた<ref name=minami98>小黒祐一郎「この人に話を聞きたい 第一回 南雅彦」、アニメージュ1998年11月号、徳間書店、85頁。</ref>。[[今川泰宏]]監督は企画初期から『エスカフローネ』に参加し、監督になる予定だった<ref>『ロマンアルバム 天空のエスカフローネ メモリアルコレクション』、徳間書店、1996年、18頁。</ref>。南は「ガンダムの路線を変えるのであれば、あれくらいパワフルな方にやらしたほうがいいんじゃないかという事で、今川さんを『Gガンダム』のディレクターにして企画を進めて、二転三転あって、ああいうストーリーになった」と述べている<ref name=minami98/>。 == 反響と商業的状況 == [[川口克己]]によると放送直後の評判は散々で、「ガンダムへの侮辱」と憤ったファンもいたという<ref name="ReferenceA"/>。また「放映スタートから、三カ月間は商売になりませんでした」というほど、放送当初は不振に陥っていた{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=108}}。しかし[[東方不敗マスター・アジア]]の搭乗機[[マスターガンダム]]登場後、8月の夏休みから商品が売れるようになる{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=56}}。このころから初めて小学校3、4年生のユーザーが増加{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=56}}。『Gガンダム』を認めていなかったヘビーユーザーも作品自体の力や、東方不敗、レイン・ミカムラといったサブキャラクターにより納得していった{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=56}}。商品化されないメカが多いことも、逆に[[ガレージキット]]化に拍車をかけた{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=56}}。主な支持層は小学生層と20代後半層であった<ref>(株)ホビージャパン刊『G GUNDAM GUNDAM FIGHT THE 3D』P176</ref>。結果として、本作は作品としてもマーチャンダイジングとしても成功した{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=56}}。 == 評価 == 本作を含む[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]のメカニックデザインを担当している[[大河原邦男]]や、『[[機動戦士ガンダム]]』などのキャラクターデザインを担当した[[安彦良和]]は「[[今川泰宏]]さんがGガンダムをやってくれたおかげで、富野さんじゃなくてもオリジナルでガンダムができるようになった。新しい監督が来ても新しい視点でファンの方に発信できる存在になった」「あるポイントを超えるとエンドレスになるのかもしれない。そこを超えられない可能性だってあったんだよね。幸運にもGガンダムで乗り越えられた」と、本作のガンダムシリーズにおける存在意義を高く評価している<ref>『月刊[[ガンダムエース]]』2010年8月号ならびに『[[機動戦士ガンダム THE ORIGIN]]』第22巻 p198</ref>。 [[川口克己]]は本作が与えた[[ガンプラ]]への影響として、[[マスターグレード]](MG)の誕生を上げている。本作に子供などの次世代のファンを開拓する役目を与えたことで、長年のガンプラ愛好者向けにMGを生み出すことができたと述べている。また、監督の今川については、彼の物語を作る力のおかげで序盤の不振を挽回し、本作を成功に導けたと評している。さらにガンダムのマンネリ化を防ぐカンフル剤になった本作は、ガンダムの歴史を語る上で欠かせないとも述べている<ref name="ReferenceA"/>。 ガンダムシリーズのファンを公言する歌手の[[田口淳之介]]は、2018年にオンラインゲーム『ガンダムヒーローズ』の発表会に登壇した際、小学生当時に初めて見た作品が本作であり、「戦隊ものっぽい決めせりふがバチッとあって、格闘技の要素が新鮮でした」と評したうえ、思い入れのあるキャラクターとしてドモンを挙げている<ref>[http://mainichi.jp/articles/20180222/dyo/00m/200/010000c 田口淳之介:「ガンダム大好き」 思い入れあるのは「Gガンダムのドモン」] - 毎日新聞</ref>。 == 設定・用語 == ; ガンダムファイト : 地球をリングに各コロニー国家がコロニー国家連合の主導権を賭けて「ガンダム」と名付けられた機動兵器(巨大ロボット)で競い合う、[[ロボット競技]]による武闘大会。ガンダムファイトを行う各国の選手は'''ガンダムファイター'''と呼ばれる。世界の覇権をめぐってコロニー国家間の全面戦争が行われるのを防ぐための事実上の代理戦争的な側面を持ち、4年ごとに開催される。開催期間は1年間に渡り、11ヶ月の予選期間を戦い抜いたガンダムのみが決勝ラウンドへ参加することができる。優勝国は次回のガンダムファイト開催までの4年間、コロニー国家の主導権を手にすることができる。 : {{Main|ガンダムファイト}} ; 未来世紀 : 作中の記年法で、制定から60年が経過した未来世紀60年が本作の時代設定である。英語表記ではFutureCentury、F.C.といった表記が用いられ、これまでのシリーズで用いられていた[[宇宙世紀]]に代わり使用されている。宇宙世紀を舞台としたこれまでの作品とは世界観が大きく異なり、「コロニー<地球」という力関係であったのに対し、本作品では逆に「地球<コロニー」となっている。地球は環境汚染に加え、ガンダムファイトによって生じる周囲の建物の破壊などにより、荒廃した場所が世界中のあちこちに見られる。 : 未来世紀が制定された60年前に地球を脱出した支配階級により各国がスペースコロニーを建造、国家の中枢もコロニーへ移転しており、第1話に登場したネオイタリアのベルチーノが少年時代を回想するシーンでコロニー打ち上げの様子が描かれている。各国のコロニーは浮遊大陸のような形で宇宙に存在し、それぞれの国の一般的なイメージを誇張したものとして描かれており、主人公ドモン・カッシュの祖国ネオジャパンは日本列島の形をしているといった具合に、一目でどこの国のコロニーか判別しやすいものとなっている。 : {{Main|未来世紀}} ; モビルファイター : 本作品におけるガンダム兵器の総称。搭乗者である各国のガンダムファイターの動作を再現(=トレース)する'''モビルトレースシステム'''を搭載しており、ガンダムファイターが「ファイティングスーツ」という特殊なスーツを着用することで機能する。 : {{Main|モビルファイター}} == 物語 == 時は未来世紀。人々は荒廃した地球を捨てて宇宙に活路を見出し、宇宙コロニーに生活圏の全てを移して過ごすようになっていた。しかし、コロニーに上がれた者と上がれずに地球に取り残された者との格差は広がり、地球の荒廃はより悪化の一途をたどっていた。 コロニー国家間の覇権をかけて行われる機動兵器同士による格闘大会「'''ガンダムファイト'''」は未来世紀60年の節目に13回大会を迎え、大会開催と共に各国のコロニーから五つの光が地球に向けて放たれる。それは大会会場となる地球に向かうために降下した各国代表のガンダムファイターたちであった。ネオジャパン代表のガンダムファイターである'''[[ドモン・カッシュ]]'''もまた、その1人として、パートナーの'''[[レイン・ミカムラ]]'''とともに地球に向かう。 しかし彼の真の目的は、祖国ネオジャパンを裏切り、科学者である父ライゾウ博士が開発していた'''アルティメットガンダム([[デビルガンダム]])'''を奪い失跡した実の兄、'''[[キョウジ・カッシュ]]'''を捜しだすことであった。 幾つかのファイトを勝ち進むドモンであったが、その心は荒んでいた。そんな中、デビルガンダムの手掛かりを求めて来た地、東京の新宿にてデビルガンダムとその配下であるデスアーミーと遭遇。そしてかつての師である'''東方不敗マスター・アジア'''と再会する。二人は共闘しドモンの心にも一筋の光が灯るが、そこにデビルガンダムによって操られた戦友(チボデー・クロケット、サイ・サイシー、アルゴ・ガルスキー、ジョルジュ・ド・サンド)が現れ、新宿での出来事がマスターアジアの陰謀であったことが判明し、ドモンとの間に亀裂が生じる。そしてシャッフル同盟の介入と4人の救出、後継である新生シャッフル同盟の成立、マスター・アジアの激戦を経た後、ここにネオドイツのガンダムファイターを自称する'''シュバルツ・ブルーダー'''が接近。ドモンを導くとともに共闘を図る。そしてシュバルツとの修行の果てに明鏡止水の心を会得したドモンはマスター、デビルガンダムと激突し、これらを退ける。 その後、ガンダムファイトの舞台は決勝戦のネオホンコンに移る。ここでもデビルガンダムにまつわる陰謀が渦巻く中、シャッフル同盟は優勝者を決める決勝バトルロイヤルにて強豪たちを打ち破っていく。そしてドモンはこの戦いの最中にシュバルツの正体が兄キョウジの心を宿した存在である事と、そこでデビルガンダムにまつわる事件がネオジャパン上層部の陰謀によって引き起こされた真相を知る。そしてシュバルツはふたたび蘇ったデビルガンダムを倒すため、これと運命を共にする。さらにドモンは決勝にてマスターとの一騎打ちに望み、ガンダムファイトによる地球の破壊と、それによって絶望したマスターの心を知る。これを喝破し勝利をおさめたドモンは、命が尽き果てていくマスターと和解する。 ガンダムファイトの頂点に君臨したドモンであったが、ネオジャパンの上官であるウルベ大佐の策謀によってデビルガンダムにレインが取り込まれ、ふたたび復活。人類を抹殺すべく活動を再開する。さらにウルベはこれを利用し、ネオジャパンコロニーを吸収した本拠地を形成し、ガンダムファイトの撤廃とネオジャパンの世界支配を宣言する。さらにデビルガンダムの触手によって吸収され、地球は危機に陥る。ここに世界のガンダムファイターが集結し徹底抗戦を開始する。シャッフル同盟の助力もあり、ネオジャパンコロニー(コロニーデビルガンダム)に侵入してウルベの操るグランドマスターガンダムを破り、ドモンはデビルガンダムの核に到達する。そこでドモンはレインの本心を知り、また自身も内にあるレインへの心を知る。ドモンが愛を打ち明けるとレインはデビルガンダムの束縛から解放され、二人の手でデビルガンダムを葬り去る。 == 登場人物 == {{Main2|主要人物はそれぞれの項、それ以外は「[[機動武闘伝Gガンダムの登場人物]]」を}} * [[ドモン・カッシュ]]([[声優|声]] - [[関智一]]) * [[レイン・ミカムラ]](声 - [[天野由梨]]) * [[チボデー・クロケット]](声 - [[大塚芳忠]]) * [[サイ・サイシー]](声 - [[山口勝平]]) * [[ジョルジュ・ド・サンド]](声 - [[山崎たくみ]]) * [[アルゴ・ガルスキー]](声 - [[宇垣秀成]]) * [[東方不敗マスター・アジア]](声 - [[秋元羊介]]) * [[キョウジ・カッシュ]] / [[キョウジ・カッシュ#シュバルツ・ブルーダー|シュバルツ・ブルーダー]](声 - [[堀秀行]]) * [[アレンビー・ビアズリー]](声 - [[日高奈留美]]) * [[機動武闘伝Gガンダムの登場人物#ウルベ・イシカワ|ウルベ・イシカワ]](声 - [[飛田展男]]) * [[機動武闘伝Gガンダムの登場人物#ウォン・ユンファ|ウォン・ユンファ]](声 - [[橋本晃一]]) * [[機動武闘伝Gガンダムの登場人物#ストーカー|ストーカー]](声 - 秋元羊介) == 登場兵器 == {{Main|モビルファイター|未来世紀の兵器}} * [[シャイニングガンダム]](ドモン) * [[ゴッドガンダム]](ドモン) * [[ガンダムマックスター]](チボデー) * [[ドラゴンガンダム]](サイシー) * [[ガンダムローズ]](ジョルジュ) * [[ボルトガンダム]](アルゴ) * [[マスターガンダム]](マスターアジア) * [[ガンダムシュピーゲル]](シュバルツ) * [[ノーベルガンダム]](アレンビー) * [[デビルガンダム]](キョウジ) == スタッフ == === シリーズスタッフ === (オープニングクレジットより) * 企画 - [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] * 原作 - [[矢立肇]]、[[富野由悠季]](『[[機動戦士ガンダム]]』より) * シリーズ構成(25話まで)、チーフライター(26話から) - [[鈴木良武|五武冬史]] * [[キャラクターデザイン]] - [[逢坂浩司]] * [[メカニックデザイン|メカニカルデザイン]] - [[大河原邦男]]、[[カトキハジメ]]、[[山根公利]] * メカニックディレクター - [[佐野浩敏]] * 美術監督 - [[東潤一]] * 撮影監督 - 大神洋一 * [[音楽]] - [[田中公平]] * [[音響監督]] - [[浦上靖夫]] * 制作協力 - [[電通]]、[[創通|創通エージェンシー]] * プロデューサー - 小泉美明([[テレビ朝日]])、[[南雅彦]]、[[植田益朗]](サンライズ) * 総監督 - [[今川泰宏]] * 制作 - テレビ朝日、サンライズ === 「プロローグ」スタッフ === * カメラ - 澤田浩 * VE - 大坪裕二 * 照明 - 大場智史 * 編集 - 定野正司、坂本篤 * MA - 清田政男 * 音響効果 - 河手康良 * 美術制作 - 重岩清人 * CG制作 - 楜沢順 * 衣裳協力 - PAZZO * 演出協力 - 西森章、渡邊哲哉 * 音響制作協力 - オーディオ・プランニング・ユー * 編集協力 - 鶴渕友章 * 取材協力 - 旭プロダクション、エムアイ、APUスタジオ、スタジオ・イースター、一口坂スタジオ * 協力 - [[井上幸一 (アニメ)|井上幸一]]、中山浩太郎、バンダイ * 制作進行 - 塚田政宏、安川浩司、山口陽一郎、小野寺春佳 * 制作協力 - [[ニユーテレス|ニューテレス]] * 制作担当 - [[内田健二]]、関口哲 * 広報 - 丹羽敦子 == 主題歌・挿入歌 == ; オープニングテーマ :; 「[[FLYING IN THE SKY]]」(プロローグ、1-25話) :: 作詞・作曲・歌 - [[鵜島仁文]] / 編曲 - 鵜島仁文、[[樫原伸彦]] :: 第7話からOPアニメが新調された。 :; 「[[Trust You Forever]]」(26-49話) :: 作詞・作曲・歌 - 鵜島仁文 / 編曲 - 鵜島仁文、[[岸利至]] :: 最終話のラストでBGMに使われた。 ; エンディングテーマ : 映像は前期、後期ともに同じ場面でループするものとなっている。 :; 「海よりも深く」(プロローグ、1-25話) :: 作詞 - [[井上望]] / 作曲 - 白川明 / 編曲 - 小西真理 / 歌 - [[彩恵津子]] :; 「君の中の永遠」(26-49話) :: 作詞 - [[池永康記]] / 作曲 - 樫原伸彦 / 編曲 - [[斎藤誠|斉藤誠]] / 歌 - 井上武英 ; 挿入歌 :; 「勝利者たちの挽歌」 :: 作詞 - 安藤芳彦 / 作曲・編曲 - [[田中公平]] / 歌 - 大山修司 :: 第22話で初披露。以後35話などで一部フレーズが使われている。 :; 「星屑のレクイエム」 :: 作詞 - 安藤芳彦 / 作曲 - 田中公平 / 編曲 - [[溝口肇]] / 歌 - [[天野由梨]] :; 「魂(いのち)の扉」 :: 作詞 - 錦織貴子・[[新居昭乃]] / 作曲・編曲 - 新居昭乃 / 歌 - 天野由梨 :; 「在我的夢裡」(26話) :: 作詞 - 錦織貴子 / 訳詞 - 韋然 / 作曲 - 前田克樹 / 編曲 - 岸村正実 / 歌 - 鍾蔚霊 :; 「繁星的詩篇」 :: 作詞 - 安藤芳彦 / 訳詞 - 韋然 / 作曲 - 田中公平 / 編曲 - 溝口肇 / 歌 - 陳奕 :; 「戰鬥男孩」 :: 作詞 - 前田耕一郎 / 訳詞 - 韋然・葵少英 / 作曲 - 前田克樹 / 編曲 - 岸村正実 / 歌 - 葉富生 :: 第26話で初披露。歌詞は広東語となっている。ドモンが石破天驚拳を習得する第39話でも使用された。ドモン役の関智一が歌う日本語歌詞のバージョンも存在する。 :; 「香港觀光歌」 :: 作詞 - 前田耕一郎 / 訳詞 - 韋然 / 作曲・編曲 - 岩崎元是 / 歌 - 陳奕、黄文廣、鍾蔚霊、黎允文 :; 「夢のはざまで〜In my dream〜」(31話) :: 作詞 - 錦織貴子 / 作曲 - 前田克樹 / 編曲 - 岸村正実 / 歌 - 天野由梨 == 各話リスト == 「プロローグ」は本編放送開始前に3週にわたって、それまでのガンダムシリーズのハイライトとGガンダムの製作の舞台裏を紹介。出演は[[マイケル富岡]]と[[内山信二]]。これは本作の製作の遅れに起因するものである。タイトルコールはドモン役の[[関智一]]が担当した。 {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!width="200em"|登場メカ |- |rowspan="3" style="text-align:center"|-||'''1994年'''<br />4月1日||プロローグ・I 誕生編||rowspan="3"|[[四辻たかお]](構成)||rowspan="3" style="text-align:center"|-||rowspan="3"|四辻たかお||rowspan="3" style="text-align:center"|-||rowspan="3" style="text-align:center"|- |- |4月8日||プロローグ・II {{読み仮名|出発|たびだち}}編 |- |4月15日||プロローグ・III 飛躍編 |- |第1話||4月22日||{{読み仮名|G|ガンダム}}ファイト開始! 地球に落ちたガンダム||[[五武冬史]]||[[山口祐司 (アニメーション監督)|山口祐司]]||[[谷口悟朗]]||[[西村誠芳]]||ネロスガンダム |- |第2話||4月29日||唸れ! 夢を摑んだ必殺パンチ||[[桶谷顕]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[河本昇悟]]||[[しんぼたくろう|新保卓郎]]<br />[[大塚健 (アニメーター)|大塚健]]<br />([[中村プロダクション|中村プロ]])||[[ガンダムマックスター]]<br />マーフィー(2機) |- |第3話||5月6日||倒せ! 魔神ドラゴンガンダム||五武冬史||rowspan="2"|[[西森章]]||佐藤育郎||西村誠芳||[[ドラゴンガンダム]] |- |第4話||5月13日||いざ勝負! 真紅のバラの貴公子||[[山口亮太]]||芦沢剛史||[[吉田徹]]||[[ガンダムローズ]]<br />アラクノガンダム |- |第5話||5月20日||大脱走! 囚われのガンダムファイター||[[志茂文彦]]||忍海知加良||武井良幸||[[佐久間信一]]||[[ボルトガンダム]] |- |第6話||5月27日||闘えドモン! 地球がリングだ||五武冬史||colspan="2" style="text-align:center"|谷口悟朗||新保卓郎<br />大塚健||ファントマ<br />ブッシ |- |第7話||6月3日||来るなら来い! 必死の逃亡者||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center"|河本昇悟||西村誠芳||テキーラガンダム<br />ペスカトーレ |- |第8話||6月10日||仇は討つ! 復讐の宇宙刑事||志茂文彦||[[杉島邦久]]||佐藤育郎||[[菅野宏紀]]||ランバーガンダム |- |第9話||6月17日||強敵! 英雄チャップマンの挑戦||山口亮太||菜利戸奈亜子||芦沢剛史||佐久間信一||ジョンブルガンダム<br />カッシング |- |第10話||6月24日||恐怖! 亡霊ファイター出現||桶谷顕||西森章||武井良幸||新保卓郎<br />大塚健||ファラオガンダムIV世<br />ファラオガンダムXIII世 |- |第11話||7月1日||雨の再会…フォーリング・レイン||志茂文彦||吉永尚之||谷口悟朗||西村誠芳||ミナレットガンダム |- |第12話||7月8日||その名は東方不敗! マスター・アジア見参||山口亮太||西森章||佐藤育郎||菅野宏紀<br />[[木村貴宏]]||クーロンガンダム<br />デスビースト<br />ノブッシ |- |第13話||7月15日||大ピンチ! 敵は5大ガンダム||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center"|河本昇悟||佐久間信一||[[デスアーミー]]<br />洗脳5大ガンダム |- |第14話||7月22日||衝撃! シャイニング・フィンガー敗れたり||五武冬史||colspan="2" style="text-align:center"|芦沢剛史||西村誠芳||[[マスターガンダム]]<br />洗脳5大ガンダム |- |第15話||7月29日||戦士の称号! さらばシャッフル同盟||山口亮太||[[近藤信宏]]||武井良幸||新保卓郎<br />大塚健||[[シャッフル同盟]] |- |第16話||8月5日||最強最悪! デビルガンダム現わる||志茂文彦||colspan="2" style="text-align:center"|谷口悟朗||佐久間信一||[[デビルガンダム]] |- |第17話||8月12日||対決! 謎の覆面ファイター||五武冬史||吉永尚之||佐藤育郎||新保卓郎<br />大塚健||[[ガンダムシュピーゲル]]<br />デスマスター |- |第18話||8月19日||必殺技を盗め! 美女軍団の大作戦||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center"|河本昇悟||西村誠芳||テムジンガンダム |- |第19話||8月26日||激闘! ドラゴンガンダム対ボルトガンダム||志茂文彦||rowspan="2"|[[須永司]]||武井良幸||木村貴宏||デスドラゴン |- |第20話||9月2日||ジョルジュよ、悪夢を打ち砕け!||山口亮太||佐藤育郎||佐久間信一||ミラージュガンダム<br />ガンダムマグナート<br />バトラーベンスンマム<br />ゴダール |- |第21話||9月9日||決勝迫る! タイムリミット3日前||桶谷顕||[[西村純二|井上草二]]||[[森邦宏]]||新保卓郎<br />大塚健||マスターガンダム<br />デスアーミー<br />デスビースト<br />デスバーディ<br />デスネービー |- |第22話||9月16日||戦士の絆! デビル包囲網を突破せよ||志茂文彦||colspan="2" style="text-align:center"|谷口悟朗||西村誠芳||マスターガンダム<br />デスアーミー<br />ガンダムヘッド |- |第23話||9月23日||宿命の闘い! ドモン対デビルガンダム||五武冬史||須永司||武井良幸||木村貴宏<br />[[森下博光]]||デビルガンダム<br />マスターガンダム |- |第24話||9月30日||新たなる輝き! ゴッドガンダム誕生||山口亮太||colspan="2" style="text-align:center"|河本昇悟||佐久間信一||マスターガンダム<br />正体不明のMF |- |第25話||10月7日||決勝開幕! ガンダムファイター大集合||[[北嶋博明]]||武井良幸<br />佐藤育郎||佐藤育郎||西村誠芳||- |- |第26話||10月14日||新必殺技! 爆熱ゴッド・フィンガー!!||五武冬史||須永司||吉本毅||新保卓郎<br />大塚健||ゼウスガンダム<br />ネーデルガンダム |- |第27話||10月21日||頑張れドモン! 友に捧げた大勝利||桶谷顕||colspan="2" style="text-align:center"|谷口悟朗||佐久間信一||コブラガンダム |- |第28話||10月28日||狙われたドモン! 殺し屋ファイターの必殺剣||山口亮太||井上草二||武井良幸||木村貴宏<br />森下博光||マンダラガンダム<br />バイキングガンダム |- |第29話||11月4日||試合放棄!? 恋にドキドキ、サイ・サイシー||志茂文彦||rowspan="2"|須永司||森邦宏||西村誠芳||マーメイドガンダム<br />マタドールガンダム<br />コンシー(3体) |- |第30話||11月11日||美少女ファイター! デンジャラス・アレンビー||山口亮太||佐藤育郎||佐久間信一||[[ノーベルガンダム]] |- |第31話||11月18日||ピエロの幻惑! 怒れガンダムマックスター||桶谷顕||井上草二||吉本毅||新保卓郎<br />大塚健||ジェスターガンダム |- |第32話||11月25日||危険な罠! ネロスガンダムの大逆襲||志茂文彦||河本昇悟||武井良幸||西村誠芳||ネロスガンダム<br />正体不明ガンダム<br />ガンダムゼブラ |- |第33話||12月2日||地獄からの使者! チャップマン復活||五武冬史||[[滝沢敏文]]||佐藤育郎||佐久間信一||ジョンブルガンダム<br />正体不明ガンダム<br />バイキングガンダム |- |第34話||12月9日||立てドモン! 嵐を呼ぶタッグマッチ||山口亮太||須永司||谷口悟朗||木村貴宏<br />森下博光||アシュラガンダム<br />スカルガンダム |- |第35話||12月16日||決着の時! 豪熱マシンガンパンチ||桶谷顕||井上草二||吉本毅||西村誠芳||ガンダムマックスター |- |第36話||12月23日||騎士の誇り! 奪われたガンダムローズ||志茂文彦||滝沢敏文||森邦宏||佐久間信一||ガンダムローズ<br />ゴダール |- |第37話||'''1995年'''<br />1月6日||真・流星胡蝶剣! 燃えよドラゴンガンダム||五武冬史||須永司||武井良幸||新保卓郎<br />大塚健||ドラゴンガンダム |- |第38話||1月13日||ドモン対アルゴ! 突撃ボルトガンダム||桶谷顕||河本昇悟||佐藤育郎||西村誠芳||ボルトガンダム<br />ランバーガンダム |- |第39話||1月20日||石破天驚拳! 決闘マスター・アジア||志茂文彦||須永司||谷口悟朗||佐久間信一||- |- |第40話||1月27日||非情のデスマッチ! シュバルツ最終決戦||山口亮太||滝沢敏文||吉本毅||木村貴宏<br />森下博光||ガンダムシュピーゲル |- |第41話||2月3日||バトルロイヤル開始! 復活のデビルガンダム||五武冬史||井上草二||森邦宏||西村誠芳||デビルガンダム<br />マスターガンダム<br />ゼウスガンダム |- |第42話||2月10日||強襲四天王! ガンダムヘブンズソード||桶谷顕||須永司||武井良幸||新保卓郎<br />大塚健||天剣絶刀ガンダムヘブンズソード |- |第43話||2月17日||獅王争覇! グランドガンダム迎撃作戦||志茂文彦||滝沢敏文||佐藤育郎||佐久間信一||獅王争覇グランドガンダム |- |第44話||2月24日||シュバルツ散る! ドモン涙の必殺拳||山口亮太||rowspan="2"|須永司||谷口悟朗||西村誠芳||デビルガンダム<br />マスターガンダム<br />笑倣江湖ウォルターガンダム |- |第45話||3月3日||さらば師匠! マスター・アジア、暁に死す||五武冬史||森邦宏||木村貴宏<br />森下博光||マスターガンダム<br />笑倣江湖ウォルターガンダム |- |第46話||3月10日||レインの危機! デビルガンダムふたたび||桶谷顕||井上草二||吉本毅||佐久間信一||笑倣江湖ウォルターガンダム |- |第47話||3月17日||デビルコロニー始動! 大進撃シャッフル同盟||志茂文彦||colspan="2" style="text-align:center"|河本昇悟||西村誠芳||デビルコロニー |- |第48話||3月24日||地球SOS! 出撃ガンダム連合!!||山口亮太||滝沢敏文||佐藤育郎||新保卓郎<br />大塚健||デビルコロニー<br />合体四天王 グランドマスターガンダム |- |第49話||3月31日||{{読み仮名|G|ゴッド}}ガンダム大勝利! 希望の未来へレディ・ゴーッ!!||五武冬史||須永司<br />[[今川泰宏]]||武井良幸||逢坂浩司<br />[[佐野浩敏]]||デビルガンダム(最終形態)<br />デビルコロニー |} == 放送局 == <!--; 放送当時--> ;地上波放送 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller" |- !放送対象地域 !放送局 !系列 !ネット形態 !備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]] |[[テレビ朝日]] |rowspan="8"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] |'''制作局''' | |- |[[北海道]] |[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]] |同時ネット | |- |[[宮城県]] |[[東日本放送]] |rowspan="5"|遅れネット |{{efn2|水曜17:00 - 17:30に放送していた。}} |- |[[秋田県]] |[[秋田朝日放送]] |本放送終了後に放送 |- |[[福島県]] |[[福島放送]] |{{efn2|金曜16:25 - 17:00に放送していた。}} |- |[[新潟県]] |[[新潟テレビ21]] |本放送終了後の1998年4月頃に<br />日曜 6:30 - 7:00にて放送<ref>『UX新潟テレビ21 30年史』(2014年3月、新潟テレビ21発行)p103</ref> |- |[[長野県]] |[[長野朝日放送]] |{{efn2|木曜17:00 - 17:30に放送していた。}} |- |[[静岡県]] |[[静岡朝日テレビ]] |同時ネット | |- |[[富山県]] |[[チューリップテレビ]] |[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] |遅れネット |1994年10月2日から日曜 6:00 - 6:30にて放送<ref>『北國新聞』1994年10月2日付朝刊、テレビ欄。</ref> |- |[[石川県]] |[[北陸朝日放送]] |rowspan="11"|テレビ朝日系列 |rowspan="2"|同時ネット | |- |[[広域放送|中京広域圏]] |[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]] | |- |[[広域放送|近畿広域圏]] |[[朝日放送テレビ|朝日放送]] |先行放送 |{{efn2|テレビ朝日系列で土曜17時から放送されていた[[勇者シリーズ]]を金曜17時から先行放送していた関係で、当枠は金曜16:25からの先行放送だった。}} |- |[[広島県]] |[[広島ホームテレビ]] |同時ネット | |- |[[山口県]] |[[山口朝日放送]] |rowspan="2"|遅れネット |rowspan="2"|本放送終了後に放送{{efn2|このうち瀬戸内海放送では、[[機動戦士Vガンダム|前作]]終了時に本作の予告がされたにもかかわらず放送されなかった(代替として[[特撮|特撮ドラマ]]『[[特捜ロボ ジャンパーソン]]』を再放送)。}} |- |[[香川県]]<br />[[岡山県]] |[[瀬戸内海放送]] |- |[[愛媛県]] |[[愛媛朝日テレビ]] |rowspan="5"|同時ネット |{{efn2|放送当時サービス放送期間中だった愛媛朝日テレビでは、最終回のみが同時ネットで放送された。}} |- |[[福岡県]] |[[九州朝日放送]] | |- |[[熊本県]] |[[熊本朝日放送]] | |- |[[大分県]] |[[大分朝日放送]] | |- |[[鹿児島県]] |[[鹿児島放送]] | |- |[[沖縄県]] |[[琉球放送]] |TBS系列 |遅れネット |本放送終了後に放送 |} ;CS放送 * [[キッズステーション]](2017年6月13日より22:30~23:00『サンライズSP』後半枠として) ;インターネット配信 * [[バンダイチャンネル]](有料会員限定で視聴見放題。それ以外は個別課金) * [[Amazon Prime Video]]、[[DMM.com|DMM動画]]、[[GYAO!|GYAO!ストア]]ほか(各話、個別課金) * [[YouTube]]「ガンダムチャンネル」(期間限定配信) <!--: ; 未放送 :* 福井県 FBC [[福井放送]] :** ※[[日本ニュースネットワーク|NNN]]/[[NNS (日本テレビ系列)|NNS]]・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]の[[クロスネット|クロスネット局]](前者メイン)のため放送できず。 :* 長崎県 NCC [[長崎文化放送]] :** ※KSBと同様、『機動戦士Vガンダム』終了時に、放送が予告されたにもかかわらず、ネットされなかったばかりか、その次の番組の『[[新機動戦記ガンダムW]]』もネットされなかった。 :* 宮崎県 UMK [[テレビ宮崎]] :** ※[[フジニュースネットワーク|FNN]]/[[フジネットワーク|FNS]]・NNN・ANNの[[クロスネット|トリプルネット局]](前者メイン)のため放送できず。 --> == 関連作品 == === 漫画 === ; 機動武闘伝Gガンダム : [[講談社]]の[[漫画雑誌]]『[[コミックボンボン]]』に連載された、[[ときた洸一]]の漫画化作品。『ボンボン』の人気投票ではベスト3に入るほどの人気を得た{{sfn|ガンダム神話Zeta|p=107}}。また元々脚本の初期稿を使用していたことと、製作時期の関係上作画に難点があったことから、香港で発売された際に描き直しが行われ、日本でも2005年以降に発売されている単行本ではこちらが使用されている。 ; 機動武闘伝Gガンダム ガンダムマスクの挑戦 : バンダイの模型雑誌『[[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]』VOL.114、VOL.115で連載された、[[富士原昌幸]]の漫画。サバイバルイレブンの裏で起きた「ガンダムマスク」とドモンの戦い。 ; 機動武闘伝Gガンダム 復讐のJガンダム : [[メディアワークス]]の書籍『機動武闘伝Gガンダム ガンダムファイトハンドブック』に掲載された、富士原昌幸の漫画。漫画オリジナルストーリーでサバイバルイレブン最中の出来事で、架空の国家「ネオドードー」がストーリーの根幹に関わっている。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 硝煙の果て : バンダイ『B-CLUB』VOL.109に掲載された、[[松浦まさふみ]]の漫画。漫画オリジナルストーリーで、ネオベルギーのガンダムファイターのジョンの操る「ブローニング・ガンダム」の戦いを描いた内容。メディアコミックス版『[[機動戦士ガンダムReon]]』、電撃コミックス版『[[機動戦士ガンダム ムーンクライシス]]』にそれぞれ収載された。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 死亡の塔(タワー・オブ・デス) : 講談社『コミックボンボン1994年12月冬休みジャンボ増刊号』に掲載された、加登屋みつるの漫画。漫画オリジナルストーリーで、ヨーロッパの小国・ネオベルゲテ公国にて謎の組織に拉致されたレインを救うため、「死亡の塔」に挑むドモンを描いた内容。2006年に『ガンダム短編集』に収載され単行本化された。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 決別 : 徳間書店の書籍『ロマンアルバムエクストラ 機動武闘伝Gガンダム テクニカルマニュアルVol.2 最終奥義』に収録されている、[[上田信舟]]作画・今川泰宏脚本・浅利五郎題字の漫画。ドモンがマスター・アジアの死後、出会いと修業時代を思い出すという内容であるが、『超級!機動武闘伝Gガンダム』とは全く異なるものになっている。下記の『ドモン、出奔す』が原作脚本となっている。 ; [[がんばれ!ドモンくん ガンダムパーティ|がんばれ!ドモンくん]] : [[ときた洸一]]による機動武闘伝Gガンダムからの[[スピンオフ]]作品。登場人物を『SDガンダム』のように2頭身にデフォルメしたコメディ4コマ漫画である。 ; [[機動武闘外伝ガンダムファイト7th]] : 講談社『コミックボンボン増刊号』で連載された外伝作品。東方不敗マスター・アジアの若い頃の出来事である第7回大会ネオジャパン予選を描いた内容。プラモデル展開を想定しており、アニメ版スタッフによるキャラクターやメカニックのデザインが行われた。さらに先行して[[おとといきたろう]]による漫画作品(コミックボンボンKCより全1巻)も発表された。しかし、発表された雑誌が季刊のため露出不足で人気が伸び悩み、結局プラモデルの発売は行われなかった。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝〜翔龍伝説〜 : 講談社『デラックスボンボン』誌1994年12月号から1995年4月号にかけて連載された村上としやの漫画。サイ・サイシーを主人公とした外伝作品で、必殺技「流星胡蝶剣」を極めるまでを描いた内容となっている。コミックボンボンKCより全1巻。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 "ザ・ネクスト・ジェネレーション"(新たなる闘い) : 講談社『コミックボンボン1995年8月夏休みジャンボ増刊号』で連載されたおとといきたろうの漫画。ドモン・カッシュの弟子、ユウゴ・カガミを主人公とした外伝作品でハイパーゴッドガンダムに乗り、第14回ガンダムファイト優勝を目指して闘う内容となっている。単行本は未発売。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 暗黒のデス・ファイト : 講談社『コミックボンボン1995年12月号増刊号』で連載されたおとといきたろうの漫画作品。前作と同じくユウゴ・カガミを主人公とした外伝作品。宇宙海賊ドン・マーフィーが主催する「闇のガンダムファイト」に出場する内容となっている。単行本は未発売。 ; [[超級!機動武闘伝Gガンダム]] : [[角川書店]]の漫画雑誌『[[ガンダムエース]]』2010年9月号から2016年10月号で連載された、島本和彦作画・今川泰宏脚本の漫画化作品。 === 小説 === ; 機動武闘伝Gガンダム : 角川書店から発売された[[鈴木良武]](五武冬史)の[[ノベライズ]]作品。{{要出典範囲|date=2023年9月|『機動戦士ガンダム』の小説版がアニメ版をさらに覆した作品になっているように、この小説版も「従来の『機動武闘伝Gガンダム』の世界観を覆す」必要に迫られ、テレビ版よりも高い年齢向けの、よりリアルな世界観を持つ独特な作品となっている。}} ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 ドモン、出奔す : 大日本絵画の書籍『ガンダムウォーズIV ファイティングG』に収録されている、今川泰宏脚本・イラストのシナリオ。ドモンとマスター・アジアとの出会いを描いているが、『超級!機動武闘伝Gガンダム』とは全く異なるものになっている。上記の『決別』の脚本だが、内容はより詳細になっており、話の流れも大きく異なる。 ; 機動武闘伝Gガンダム外伝 温泉でドキドキ!?ガンダム温泉恐怖の罠 : ホビージャパンの雑誌『RPGマガジン』1996年7月号に掲載された、TRPG「熱血専用!!RPG」のプレイシナリオ。温泉リゾート国家ネオイズに招待されたドモンたちが、最終的にネオイズ首相兼ガンダムファイターの美人女将メグミの搭乗するスプリングガンダムと戦うことになる。 === ゲーム === 「[[スーパーロボット大戦シリーズ]]」を筆頭に本作が登場するゲーム作品は無数にあるため、ここでは本作を題材に単独商品化された作品のみ記述する。 ; [[機動武闘伝Gガンダム (スーパーファミコン)|機動武闘伝Gガンダム]] : 1994年12月27日にバンダイから発売された[[スーパーファミコン]]用[[対戦型格闘ゲーム]]。制作は[[パンドラボックス (ゲーム会社)|パンドラボックス]]が担当。本放送中に発売されたこともあり、登場モビルファイターのデザインが細部で異なり、主に企画段階のデザインが反映され、デビルガンダムはゲームオリジナルのデザインとなっている。また、アニメ本編より先行してライジングガンダムは登場する一方、アニメに登場済のノーベルガンダムは登場しないなど影響がみられた。なお、このゲームに登場した必殺技の名称の一部は、後にアニメ本編や関連ゲームに登場した。 ; 機動武闘伝Gガンダム THE バトル : 2002年10月10日にバンダイから発売された[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用対戦型格闘ゲーム。制作は[[ディースリー・パブリッシャー]]が担当。元は2002年7月17日に北米のみで販売された『Gundam Battle Assault 2』の改題作品であり、同作に収録されていた『新機動戦記ガンダムW』のキャラクターやメカを分割し、「[[SIMPLEシリーズ#SIMPLEキャラクター2000シリーズ|SIMPLEキャラクター2000シリーズ]]」の12作目として単独商品化された。 === ドラマCD === ; GFインタビュー : 1994年8月20日に発売されたサントラ「機動武闘伝Gガンダム GUNDAM FIGHT-ROUND1&2」に収録。ストーカーが新生シャッフル同盟の5人とレインにインタビューし、答えるという内容。 ; 世界高達骨牌拳 : 1994年12月23日に発売されたサントラ「機動武闘伝Gガンダム GUNDAM FIGHT-ROUND3 新香港的武闘戯曲」に収録。ドモンたちが謎の人物から送られてきた招待状により、第13回ガンダムファイトの開催を祝してネオホンコンが製作した映画を見に行くというストーリー。全編を通してコメディタッチの内容で描かれている。 === 模型・玩具 === プラモデルやフィギュアなど商品も発売されている。特筆すべきはアクションフィギュア「[[MOBILE SUIT IN ACTION!!|MS in Action!!]]」シリーズで、決勝大会に登場したMFがほぼ網羅されている。これは、アメリカで放送された際の人気からアメリカ向けとして商品ラインナップが充実したためである。 === その他 === ; 月刊ガンダムファイト : バンダイ『B-CLUB』に連載された特集記事。 ; 機動武闘伝外伝 : 講談社『コミックボンボン』に連載された、模型を使ったフォトストーリー。ネオジャパンのウルベ配下の機動忍軍がギアナ高地に放棄されたデビルガンダムを回収しようとしたところから物語が始まる。 ; 機動武闘伝外伝II : 講談社『コミックボンボン』に連載された、模型を使ったフォトストーリーの第二部。ギアナでのデビルガンダム回収時の戦いによって消息不明になった機動忍軍所属の「不死身のクロウザ」が地下ファイトのファイターとして活躍するところから始まる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=猪俣謙次 |title=ガンダム神話Zeta |publisher=[[ダイヤモンド社]] |date=1997年2月28日初版発行 |isbn=4-478-95021-0 |ref={{sfnref|ガンダム神話Zeta}} }} == 外部リンク == * [http://www.g-gundam.net/ 機動武闘伝Gガンダム(サンライズ)] * [https://www.sunrise-inc.co.jp/work/detail.php?cid=64 サンライズ公式Web] * [https://www.b-ch.com/titles/112/ バンダイチャンネルによる配信] * {{YouTube|1AjeWyX1dnQ|第1話|Gガンダム【ガンチャン】}} {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日]] |放送枠=金曜17:00 - 17:30枠 |番組名=機動武闘伝Gガンダム<br />(1994年4月22日 - 1995年3月31日) |前番組=[[機動戦士Vガンダム]]<br />(1993年4月2日 - 1994年3月25日) |次番組=[[新機動戦記ガンダムW]]<br />(1995年4月7日 - 1996年3月29日) }} {{未来世紀}} {{ガンダムシリーズ}} {{サンライズ}} {{デフォルトソート:きとうふとうてんしいかんたむ}} [[Category:ガンダムシリーズのテレビアニメ|G]]<!---左記カテゴリに「日本のオリジナルテレビアニメ」の上位カテゴリあり---> [[Category:未来世紀|*きとうふとうてんしいかんたむ]] [[Category:アニメ作品 き|とうふとうてんしいかんたむ]] [[Category:1994年のテレビアニメ]] [[Category:テレビ朝日系アニメ]] [[Category:架空のロボット競技を題材とした作品]] [[Category:格闘技アニメ]] [[Category:世界各地を舞台としたアニメ作品]] [[Category:新宿を舞台としたアニメ作品]] [[Category:香港を舞台とした作品]] [[Category:コミックボンボン]] [[Category:スーパーロボット大戦シリーズの参戦作品]] [[Category:電通のアニメ作品]]
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舒明天皇
舒明天皇(じょめいてんのう、593年?〈推古天皇元年?〉- 641年11月17日〈舒明天皇13年10月9日〉)は、日本の第34代天皇(在位:629年2月2日〈舒明天皇元年1月4日〉- 641年11月17日〈舒明天皇13年10月9日〉)。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。漢風諡号の「舒明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。 先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣に諮ってその意見が田村皇子と山背大兄王に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄王)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。 ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。 在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、高向玄理と僧侶の霊雲、旻、南淵請安が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。 『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明天皇よりも20年以上長く生きて天智天皇3年(664年)に没している事や、皇子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。 押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子で、母はその最初の皇后である広姫)の子で、母は糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)。 『日本書紀』が記す以上の皇子女の他、『一代要記』『帝王編年記』などに布敷皇女(母は法提郎女)・押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女 ・香櫛娘)・箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女 ・手杯娘)の名を伝えるが、所拠不明である。 ※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。 『万葉集』に御製歌あり。 舒明天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちのみささぎ、北緯34度30分27.18秒 東経135度52分32.28秒 / 北緯34.5075500度 東経135.8756333度 / 34.5075500; 135.8756333 (押坂内陵(舒明天皇陵)))に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方。遺跡名は「段ノ塚古墳」で、下方部は一辺約105メートルを測り、上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされる。 埋葬について、『日本書紀』では天皇崩御翌年の皇極天皇元年12月13日(643年1月8日)に喪を起こし、皇極天皇元年12月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたうえで、皇極天皇2年9月6日(643年10月23日)に「押坂陵」に改葬されたとする。『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では現在と同じ「押坂内陵」の名称で記載され、大和国城上郡の所在で、兆域は東西9町・南北6町で陵戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する。加えて、陵内には田村皇女(糠手姫皇女)押坂墓、陵域内には大伴皇女押坂内墓、陵域内東南には鏡女王(鏡王女)押坂墓が所在するとする。 その後、陵は所在不明となったが、元禄探陵の際に当時「段ノ塚」と呼ばれていた本古墳が舒明天皇陵に決定された。幕末の元治元年(1864年)9月には修陵が開始され、慶応元年(1865年)11月に竣工した。現在は陵内の糠手姫皇女押坂墓、近在の大伴皇女押坂内墓とともに宮内庁の管理下にある(鏡女王押坂墓は治定外)。また明治天皇陵(伏見桃山陵)以降の天皇陵が採用する上円下方の陵形は、本古墳がモデルになっている。 なお、初葬地とされる「滑谷岡」の所在は明らかでなく、諸説がある。飛鳥時代中頃の古墳のうちでは、近年発見された小山田古墳(奈良県高市郡明日香村川原、北緯34度28分20.52秒 東経135度48分34.30秒 / 北緯34.4723667度 東経135.8095278度 / 34.4723667; 135.8095278 (小山田古墳(舒明天皇初葬地の滑谷岡か)))が一辺70メートル程度を測る巨大方墳で、石舞台古墳を上回る飛鳥時代最大級の規模になることから、上記の「滑谷岡」に比定する説が挙げられている(ただし蘇我蝦夷の「大陵」に比定する説もある)。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに舒明天皇の霊が祀られている。
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舒明天皇は、日本の第34代天皇。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。漢風諡号の「舒明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。
{{基礎情報 天皇 | 名 = 舒明天皇 | 代数= 第34 | 画像= | 説明= | 在位= [[629年]][[2月2日]] - [[641年]][[11月17日]] | 和暦在位期間= 舒明天皇元年1月4日 - 舒明天皇13年10月9日 | 時代= [[飛鳥時代]] | 年号= | 漢風諡号=舒明天皇 | 和風諡号=息長足日広額天皇 | 首都= 飛鳥 | 皇居= [[岡本宮|飛鳥岡本宮]] | 諱 = 田村 | 幼称= | 別名= 高市天皇 | 印 = | 生年= [[593年]] | 生地= | 没年= [[641年]][[11月17日]] | 没地= [[百済宮]] | 陵墓= 押坂内陵 | 先代= [[推古天皇]] | 次代= [[斉明天皇|皇極天皇]] | 子 = [[古人大兄皇子]]<br>[[天智天皇]]<br>[[間人皇女]]<br>[[天武天皇]]<br>蚊屋皇子 | 皇后= 宝姫王([[斉明天皇|皇極天皇]]) | 中宮= | 女御= | 更衣= | 夫人= 法提郎女 | 夫 = | 父親= [[押坂彦人大兄皇子]]([[敏達天皇]]皇子) | 母親= [[糠手姫皇女]] | 注釈= |}} '''舒明天皇'''(じょめいてんのう、[[593年]]?〈[[推古天皇]]元年?〉- [[641年]][[11月17日]]〈舒明天皇13年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]〉)は、[[日本]]の第34代[[天皇]](在位:[[629年]][[2月2日]]〈舒明天皇元年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]〉- 641年11月17日〈舒明天皇13年10月9日〉)。 [[諱]]は'''田村'''(たむら)。 [[和風諡号]]は'''息長足日広額天皇'''(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。漢風諡号の「舒明天皇」は代々の天皇と共に[[淡海三船]]によって名付けられたとされる。 == 経歴 == 先代の[[推古天皇]]は、在位36年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]](628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 [[蘇我蝦夷]]は群臣に諮ってその意見が田村皇子と[[山背大兄王]]に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために[[蘇我氏]]の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、[[欽明天皇]]の[[嫡男]]である[[敏達天皇]]の直系(田村皇子)と、[[庶子]]である[[用明天皇]]の直系(山背大兄王)による[[皇位継承]]争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。 ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。 在位中、最初の[[遣唐使]]を送り、[[唐]]からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、[[高向玄理]]と僧侶の霊雲、[[旻]]、[[南淵請安]]が帰国した。[[百済]]と[[新羅]]からの使節も訪れた。 『[[本朝皇胤紹運録]]』や『[[一代要記]]』などでは、49歳で[[崩御]]と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である[[糠手姫皇女]](田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明天皇よりも20年以上長く生きて[[天智天皇]]3年([[664年]])に没している事や、皇子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている<ref group="注釈">仮に糠手姫皇女が推古天皇元年(593年)に15歳で舒明天皇を生んだと仮定しても、皇女が亡くなった時には86歳と当時としては高齢となるため593年以前の天皇誕生は考えにくい。一方、舒明天皇の長子とされる中大兄皇子(天智天皇)は、天皇崩御時には16歳であったことは『日本書紀』に書かれており、逆算すると天皇が36歳の時の子となるが、これもやはり最初の子を儲ける年齢としては遅すぎるため、593年以前の天皇誕生は考えにくい。従って天皇の生年は推古天皇元年(593年)もしくはそれを降ることはありえても同年を遡ることは困難である。また、舒明天皇には同母弟が存在するとされている。これによって父親の押坂彦人大兄皇子が[[用明天皇]]2年([[587年]])の[[丁未の乱]]の混乱で殺害されたとする説や崇峻天皇暗殺当時に押坂彦人大兄皇子が既に亡くなっていたために推古天皇が即位したとする説は成立困難である(薗田香融「皇祖大兄御名入部について」『日本古代財政史の研究』(塙書房、1981年)P358-359・385・388(原論文発表は1968年))。</ref>。 == 系譜 == [[画像:Emperor family tree26-37.png|thumb|right|150px|天皇系図 26~37代]] [[画像:Emperor family tree38-50.png|thumb|right|150px|天皇系図 38~50代]] [[押坂彦人大兄皇子]]([[敏達天皇]][[皇子]]で、母はその最初の[[皇后]]である[[広姫]])の子で、母は[[糠手姫皇女]](敏達天皇[[皇女]]で押坂彦人大兄皇子の異母妹)。 * 妃:[[田眼皇女]] - 敏達天皇・[[推古天皇]]皇女 * [[皇后]]:宝姫王(たからのひめみこ、後の皇極天皇・[[斉明天皇]]) - [[茅渟王]]女、もと[[高向王]]妃、[[漢皇子]]母 ** 葛城皇子(かずらきのみこ、中大兄皇子・[[天智天皇]]) ** [[間人皇女]] - [[孝徳天皇]]皇后 ** 大海人皇子(おおあまのみこ、後の[[天武天皇]]) * 夫人:[[法提郎女]](ほていのいらつめ) - [[蘇我馬子]]女 ** [[古人大兄皇子]](吉野太子) * 采女:蚊屋采女(かやのうねめ、姉子娘?) - [[賀陽氏|賀陽臣]]女? ** [[蚊屋皇子]](かやのみこ、賀陽王) - [[三島氏|三島真人]]祖 * 名不詳 ** [[磯部皇子]] - [[久下氏]]祖? 『日本書紀』が記す以上の皇子女の他、『[[一代要記]]』『[[帝王編年記]]』などに布敷皇女(母は法提郎女)・押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女 ・香櫛娘)・箭田皇女(母は[[蘇我蝦夷]]の女 ・手杯娘)の名を伝えるが、所拠不明である。 {{ahnentafel top|舒明天皇の系譜|width=100%}} {{ahnentafel-compact5 |style=font-size: 100%; line-height: 110%; |border=1 |boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0; |boxstyle_1=background-color: #fcc; |boxstyle_2=background-color: #fb9; |boxstyle_3=background-color: #ffc; |boxstyle_4=background-color: #bfc; |boxstyle_5=background-color: #9fe; |1= 1. 第34代 舒明天皇 |2= 2. [[押坂彦人大兄皇子]] |3= 3. [[糠手姫皇女]] |4= 4. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]](=6) |5= 5. [[広姫]] |6= 6. [[敏達天皇|第30代 敏達天皇]](=4) |7= 7. 伊勢大鹿首小熊女 |8= 8. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=12) |9= 9. [[石姫皇女]](=13) |10= 10. [[息長真手王]] |12= 12. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=8) |13= 13. [[石姫皇女]](=9) |16= 16. [[継体天皇|第26代 継体天皇]](=24) |17= 17. [[手白香皇女]](=25) |18= 18. [[宣化天皇|第28代 宣化天皇]](=26) |19= 19. [[橘仲皇女]](=27) |20= 20. 息長沙禰王? |24= 24. [[継体天皇|第26代 継体天皇]](=16) |25= 25. [[手白香皇女]](=17) |26= 26. [[宣化天皇|第28代 宣化天皇]](=18) |27= 27. [[橘仲皇女]](=19) }}</center> {{ahnentafel bottom}} === 系図(飛鳥時代) === {{皇室飛鳥時代}} === 系図(白鳳時代) === {{皇室白鳳奈良}} ==在位中の事績など== ※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。 * 舒明天皇元年([[629年]]) ** 1月4日 - 即位。 * 舒明天皇2年([[630年]]) ** 1月12日 - 宝女王を皇后に立てる。 ** 3月1日 - [[高句麗]](大使宴子抜・小使若徳)・[[百済]](大使恩率素子・小使徳率武徳)が各々使者を遣わして朝貢する。 ** 8月5日 - 遣唐使(大使[[犬上御田鍬]]・[[薬師恵日]]ら)を派遣。 ** 10月12日 - 飛鳥[[岡本宮]]([[明日香村]])に遷る。 * 舒明天皇3年([[631年]]) ** 3月1日 - [[百済]]の[[義慈王]]が王子の[[扶余豊璋|豊章]]を質として送る。 ** 9月 - [[有馬温泉|有間温泉]]に行幸。12月に帰る。 * 舒明天皇4年([[632年]]) ** 8月 - [[唐]]が[[高表仁]]を派遣し、犬上御田鍬らを送る。 ** 10月4日 - 唐の高表仁が[[難波津]]に到着。 * 舒明天皇5年([[633年]]) ** 1月26日 - 高表仁が唐へ戻る(「與王子爭禮 不宣朝命而還」『[[旧唐書]]』)。 ** この年 - 物部兄麻呂を[[武蔵国造]]に任じたという(『[[聖徳太子伝暦]]』)。 * 舒明天皇6年([[634年]]) ** 1月15日 - [[豊浦寺]](明日香村)塔の心柱を建てる(『聖徳太子伝暦』)。 * 舒明天皇8年([[636年]]) ** 6月 - 岡本宮が火災に遭う。[[田中宮]]([[橿原市]]田中町)に遷る。 ** この年 - [[旱魃]]・[[飢饉]]が起こる。 * 舒明天皇9年([[637年]]) ** この年 - [[蝦夷]]が反乱したため、[[上毛野形名]]を将軍として討たせる。 * 舒明天皇10年([[638年]]) ** この年 - 福亮僧正が[[法起寺]]金堂([[斑鳩町]])を建立するという(『法起寺塔露盤銘』)。 * 舒明天皇11年([[639年]]) ** 7月 - 詔して、百済川の辺に[[百済宮|大宮]]と[[百済大寺|大寺]]([[桜井市]]吉備?)を造らせる。 ** 12月 - [[道後温泉|伊予温泉]]に行幸。また、[[百済大寺]]の九重塔が建つ。 * 舒明天皇12年([[640年]]) ** 4月 - 伊予から帰り、厩坂宮(うまやさかのみや。橿原市大軽町付近)に滞在する。 ** 10月 - 百済宮に遷る。 * 舒明天皇13年(641年) ** 10月9日 - 百済宮で[[崩御]]。 ** 10月18日 - 宮の北に[[殯]]をした。 {{Wikiquote|舒明天皇}}『[[万葉集]]』に御製歌あり。 == 陵・霊廟 == [[File:Dannozuka Kofun, haisho.jpg|thumb|220px|{{center|舒明天皇 [[段ノ塚古墳|押坂内陵]]・<br/>[[糠手姫皇女]] [[段ノ塚古墳|押坂陵]]<br />([[奈良県]][[桜井市]])}}]] 舒明天皇の[[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[奈良県]][[桜井市]]大字忍阪にある'''押坂内陵'''(おさかのうちのみささぎ、{{Coord|34|30|27.18|N|135|52|32.28|E|region:JP-29_type:landmark|name=押坂内陵(舒明天皇陵)}})に治定されている<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html 天皇陵](宮内庁)。</ref><ref>宮内省諸陵寮編[{{NDLDC|1237123/12}} 『陵墓要覧』](1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ。</ref>{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。宮内庁上の形式は[[上円下方墳|上円下方]]。遺跡名は「[[段ノ塚古墳]]」で、下方部は一辺約105メートルを測り、上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされる{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。 埋葬について、『日本書紀』では天皇崩御翌年の皇極天皇元年12月13日([[643年]]1月8日)に喪を起こし、皇極天皇元年12月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたうえで、皇極天皇2年9月6日(643年10月23日)に「押坂陵」に改葬されたとする{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。『[[延喜式]]』[[諸陵寮]]([[諸陵式]])では現在と同じ「押坂内陵」の名称で記載され、[[大和国]][[式上郡|城上郡]]の所在で、兆域は東西9町・南北6町で陵戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する。加えて、陵内には田村皇女([[糠手姫皇女]])押坂墓、陵域内には[[大伴皇女]]押坂内墓、陵域内東南には鏡女王([[鏡王女]])押坂墓が所在するとする{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。 その後、陵は所在不明となったが、[[元禄]]探陵の際に当時「段ノ塚」と呼ばれていた本古墳が舒明天皇陵に決定された{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。幕末の[[元治]]元年([[1864年]])9月には修陵が開始され、[[慶応]]元年([[1865年]])11月に竣工した{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。現在は陵内の糠手姫皇女押坂墓、近在の大伴皇女押坂内墓とともに[[宮内庁]]の管理下にある(鏡女王押坂墓は治定外)。また[[明治天皇]]陵([[伏見桃山陵]])以降の天皇陵が採用する上円下方の陵形は、本古墳がモデルになっている{{Sfn|押坂内陵(国史)}}。 なお、初葬地とされる「滑谷岡」の所在は明らかでなく、諸説がある。[[飛鳥時代]]中頃の古墳のうちでは、近年発見された[[小山田古墳]]([[奈良県]][[高市郡]][[明日香村]]川原、{{Coord|34|28|20.52|N|135|48|34.30|E|region:JP-29_type:landmark|name=小山田古墳(舒明天皇初葬地の滑谷岡か)}})が一辺70メートル程度を測る巨大[[方墳]]で、[[石舞台古墳]]を上回る飛鳥時代最大級の規模になることから、上記の「滑谷岡」に比定する説が挙げられている(ただし[[蘇我蝦夷]]の「大陵」に比定する説もある)<ref>{{PDFlink|[http://www.kashikoken.jp/from-site/2014/koyamada5%EF%BD%A56.pdf 小山田遺跡第5・6次調査 現地説明会資料]}}(奈良県立橿原考古学研究所、2015年1月18日)。<br />[http://www.sankei.com/west/news/150115/wst1501150049-n1.html "石舞台古墳しのぐ規模「舒明天皇」の滑谷岡陵か 「蝦夷の墓」説の研究者も 小山田遺跡"](産経WEST、2015年1月15日記事)。<br />[https://www.nara-np.co.jp/news/20150116090450.html "舒明天皇の初葬地か - 飛鳥最大の方墳/明日香・小山田遺跡"](奈良新聞、2015年1月16日記事)。</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H6M_R00C17A3CR8000/ "奈良・小山田遺跡は「最大級の方墳」 橿原考古学研究所 "](日本経済新聞、2017年3月1日記事)。</ref>。 また[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに舒明天皇の霊が祀られている。 <gallery> File:Tomb of Kagami-no-Okimi, haisho.jpg|[[鏡王女]]忍阪墓 File:Tomb of Princess Otomo, haisho.jpg|大伴皇女押坂内墓 </gallery> == 在位年と西暦との対照表 == <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 1px solid #999; margin: 0.5em auto;"> <div class="NavHead" style="background-color: #CCCCFF; font-size: 90%; border-left: 3em soli; text-align: center; font-weight: bold;">在位年と西暦との対照表 </div> <div class="NavContent" style="padding: 1em 0 0 0; font-size: 90%; text-align: center;"> ; 太字は『日本書紀』の[[太歳]]干支の年。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !舒明天皇!!元年!!2年!!3年!!4年!!5年!!6年!!7年!!8年!!9年!!10年 |- |西暦||'''[[629年]]'''||[[630年]]||[[631年]]||[[632年]]||[[633年]]||[[634年]]||[[635年]]||[[636年]]||[[637年]]||[[638年]] |- |[[干支]]||'''[[己丑]]'''||[[庚寅]]||[[辛卯]]||[[壬辰]]||[[癸巳]]||[[甲午]]||[[乙未]]||[[丙申]]||[[丁酉]]||[[戊戌]] |- !舒明天皇!!11年!!12年!!13年 |- |西暦||[[639年]]||[[640年]]||[[641年]] |- |[[干支]]||[[己亥]]||[[庚子]]||[[辛丑]] |} </div></div> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}} ** {{Wikicite|reference=[[黛弘道]] 「舒明天皇」|ref={{Harvid|舒明天皇(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=石田茂輔 「押坂内陵(舒明天皇項目内)」|ref={{Harvid|押坂内陵(国史)}}}}。 * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=舒明天皇|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref={{Harvid|舒明天皇(古代氏族)|2010年}}}} == 外部リンク == * [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/034/index.html 押坂内陵] - 宮内庁 {{歴代天皇一覧}} {{DEFAULTSORT:しよめいてんのう}} [[Category:舒明天皇|*]] [[Category:飛鳥時代の天皇]] [[Category:7世紀日本の天皇]] [[Category:斉明天皇|+]] [[Category:万葉歌人]] [[Category:7世紀の歌人]] [[Category:593年生]] [[Category:641年没]]
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シンコペーション
シンコペーション(英語: syncopation、切分法)とは、西洋音楽において、拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらすことを言う。主に、弱拍の音符を次の小節の強拍の音符とタイで結ぶ、強拍を休止させる、弱拍にアクセントを置く、の3つの方法がある。アクセントを前にずらすシンコペーションの場合には、俗語として「食う」と表現する場合もある。 たとえば、ある小節の弱拍(裏拍)から、小節線と、次の小節の最初に置かれる強拍までタイによりひとつの音としてつながっていれば、それはシンコペーションのリズムである。このとき、後の小節の最初の強拍が、つながった音のはじめまでさかのぼって移動すると考えられることがある。 同じように、4拍子の小節の弱拍である2拍目から中強拍である3拍目にひとつの音としてつながっていれば、これもシンコペーションのリズムである。このとき、中強拍が2拍目にさかのぼって移動すると考えられることがある。 同じように、ある拍の後半から、次の拍にひとつの音としてつながっていれば、これもシンコペーションのリズムである。このとき、拍が次の拍の頭から音の最初にさかのぼって移動すると考えられることがある。 より細かいリズムにおいても同様に考えられる。このとき、拍が次の拍の頭から音の最初にさかのぼって移動すると考えられることがある。 拍の移動については、このように前に移動すると考えるのが通常であるが、あるシンコペーションでない2つの音が、それぞれその音の半分の長さだけ遅れて発音されたためにシンコペーションとなったようなリズムの場合に、拍が後ろに移動すると考えることがある。このとき、拍が次の拍の頭から音の最初にさかのぼって移動すると考えられることがある。 シンコペーションの効果について、音楽プロデューサーの亀田誠治は自身がホストを務めた亀田音楽専門学校(NHK Eテレ)にて「メロディーが前の小節に『食い』込むことで躍動感が生まれ、ウキウキとかワクワクといった気持ちにさせる効果がある」と説明している。
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シンコペーションとは、西洋音楽において、拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらすことを言う。主に、弱拍の音符を次の小節の強拍の音符とタイで結ぶ、強拍を休止させる、弱拍にアクセントを置く、の3つの方法がある。アクセントを前にずらすシンコペーションの場合には、俗語として「食う」と表現する場合もある。
{{Otheruses||[[櫻井隆仁]]作曲の楽曲([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の駅で発車メロディとして使用されている曲の1つ)|櫻井音楽工房}} '''シンコペーション'''({{lang-en|syncopation}}、'''切分法''')とは、[[西洋音楽]]において、[[拍節]]の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果をもたらすことを言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-81782#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] - [[コトバンク]]</ref>。主に、弱拍の[[音符]]を次の小節の強拍の音符と[[タイ (音楽記号)|タイ]]で結ぶ、強拍を休止させる、弱拍にアクセントを置く、の3つの方法がある<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-81782#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版] - コトバンク</ref>。アクセントを前にずらすシンコペーションの場合には、[[俗語]]として「食う」と表現する場合もある<ref name="kame-on20131123">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20131125000823/http://realsound.jp/2013/11/post-178.html|title=シンコペーションで“祭囃子”が聴こえる? 槇原敬之の名曲『世界に一つだけの花』が大ヒットしたワケ|accessdate=2014-10-08|date=2013-11-23|work=RealSound|publisher=blueprint}}</ref>。 == 概説 == たとえば、ある[[小節]]の[[拍子#ビートの分類|弱拍]](裏拍)から、小節線と、次の小節の最初に置かれる[[拍子#ビートの分類|強拍]]まで[[タイ (音楽記号)|タイ]]によりひとつの音としてつながっていれば、それはシンコペーションのリズムである。このとき、後の小節の最初の強拍が、つながった音のはじめまでさかのぼって移動すると考えられることがある。 同じように、4拍子の小節の弱拍である2拍目から中強拍である3拍目にひとつの音としてつながっていれば、これもシンコペーションのリズムである。このとき、中強拍が2拍目にさかのぼって移動すると考えられることがある。 同じように、ある拍の後半から、次の拍にひとつの音としてつながっていれば、これもシンコペーションのリズムである。このとき、拍が次の拍の頭から音の最初にさかのぼって移動すると考えられることがある。 より細かいリズムにおいても同様に考えられる。このとき、拍が次の拍の頭から音の最初にさかのぼって移動すると考えられることがある。 拍の移動については、このように前に移動すると考えるのが通常であるが、あるシンコペーションでない2つの音が、それぞれその音の半分の長さだけ遅れて発音されたためにシンコペーションとなったようなリズムの場合に、拍が後ろに移動すると考えることがある。このとき、拍が次の拍の頭から音の最初にさかのぼって移動すると考えられることがある。 シンコペーションの効果について、音楽プロデューサーの[[亀田誠治]]は自身がホストを務めた[[亀田音楽専門学校]]([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])にて「メロディーが前の小節に『食い』込むことで躍動感が生まれ、ウキウキとかワクワクといった気持ちにさせる効果がある」と説明している<ref name="kame-on20131123"/>。 == シンコペーションの例 == *[[ラグタイム]](Maple Leaf Rag) *[[ルロイ・アンダーソン]]「シンコペイテッド・クロック」 *[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]「[[ピアノ協奏曲第20番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第20番]]」第1楽章 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[バックビート (音楽用語)|バックビート]] * [[弱起]](アウフタクト) {{Music-stub}} {{音楽}} {{DEFAULTSORT:しんこへえしよん}} [[Category:リズム]]
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ヌード写真
ヌード写真(ヌードしゃしん)とは、老若男女を問わず、人間の裸体(の一部)を撮った写真作品。全裸でない場合には、セミヌードと呼ばれることもある。芸術から、商業主義的な写真まで様々な種類がある。 ヌード写真の歴史は写真術の歴史とほぼ同時に19世紀に始まった。写真の発明から概ね第2次世界大戦頃までに撮影されたモノクロのヌード写真をヴィンテージ・ヌード(vintage nude)と呼び、好事家に珍重されるほか歴史的資料としても価値があるものとされる。その一部の記録は保存されている。またヌード写真は、医学のテキストや科学的記事など真面目な媒体でも使用される。 美術分野では美学と創造性に重点が置かれ、エロティックな関心は二次的なものとされている。絵画の場合、神話に題材を取った作品のみヌードを描いてもよいという時代が、非常に長く続いた。近代になり神話の女神らではなく、市井の一般女性が裸婦の題材になってきた。一方、写真の場合、女性の裸体がタブー視されていた欧米の場合、キリスト教的倫理感の強い社会であり、写真が公開されることは少なかったが、地下では流通していた。やがて20世紀に前後して徐々に芸術写真が見られるようになり、第二次世界大戦後には、米国の雑誌『プレイボーイ』がプレイメイトのヌード写真を多く掲載し人気を博した(ポルノ雑誌)。1960年代のゲイ解放運動の影響で、男性のヌードも科学的または芸術的関心のみならず、性的対象とする雑誌などが登場した。 日本では終戦後のカストリ雑誌(初期のエロ本)にヌード写真が掲載されることがあり、次第に青年向け雑誌などのグラビアページを飾るようになった。時には芸能界で人気のある女優がヌードになり、芸能マスコミによってセンセーショナルな報道をされることもあった。21世紀に入ると女性が、セクシュアルな身体的魅力を表現する手段としてヌードを使用する傾向も出てきた。被写体も女優、グラビア・モデルから学生、OL、主婦まで多様化した。 ロック・アルバムのカバーには、写真が組み込まれていることも多く、ヌードやセミヌードの画像が含まれることもある。ヌードを組み込んだアルバムカバーには、ジミ・ヘンドリクス(Electric Ladyland、1968)、ジョン・レノン&オノ・ヨーコ(Unfinished Music No. 1:「Two Virgins」、1968)、ニルヴァーナ (Never Mind)、ブラインド・フェイス(Blind Faith、1969)などのカバーが含まれている。スコーピオンズ(バージンキラー、1976)とブラインド・フェイスのカバーヌード画像は、思春期前の女の子のものであり、一部の国では代替カバー付きで再リリースされたため、特に論争の的になった。 作品の傾向として以下のような分類もできる。 その他 なお、撮影者の意図と鑑賞者の考えが一致しない場合もある。明治時代のヌード写真はモデルが芸者や愛妾のものも多く、誰が撮影したのか不明であったり明示されていない作品が多く見られる。 ヌード写真は、実用的なカメラ(1839年のダゲレオタイプと1840年のカロタイプ)が発明されるとほとんど同時に登場した。最初のヌード写真はフランスで登場したとされる。フランスでは1850年代には猥褻写真は不法となったが、ポストカードに印刷する形などでヌード写真が出回っていた(French postcard)。19世紀のイギリスでも、科学的観点から人間の肉体を観察するという観点をとって、ヌード写真が出版されていた。 第一次世界戦後から1945年までの間に、マン・レイらの新しい感覚を持ったヌード写真家が登場した。アルフレッド・スティグリッツが撮影したジョージア・オキーフのヌードは、アメリカではよく知られている。 第二次世界大戦後、グラマーやファッションの写真家は、作品のいくつかでアートの地位向上を目指してきた。そのような写真家の1人はアーヴィング・ペンで、ヴォーグ誌からケイト・モスのヌードなどのファッション・モデルの写真を撮ってきた。リチャード・アヴェドン、ヘルムート・ニュートン、アニー・リーボヴィッツらも有名人の写真で似たような道をたどった。それらの写真の多くはヌード、または部分的に衣服を着ていた。アンディ・ウォーホルはLGBTだったが、女性のヌード写真も撮っている。有名人を撮影することが芸術のテーマの一つであったポストモダン時代に、アヴェドンによるナスターシャ・キンスキーのヌード写真、リーボヴィッツによるデミ・ムーアの妊婦ヌード、およびボディ・ペイントの雑誌の表紙が象徴的だった。ジョイス・テネソン(英語版)の作品は、芸術から、人生のすべての段階にある女性を表現した、ユニークでソフト・フォーカスなスタイルのアートから、有名人の肖像画やファッション写真まで、多様な方向性を歩んだ。 ヌード写真家の一部には、身体を彫刻の抽象概念として示す確立された形式で作業した者もいたが、ロバート・メイプルソープの写真の一部は、エロティカとアートの境界を意図的に曖昧にする作品を作成した。 未成年者のヌード写真を撮影した何人かの写真家が物議を醸した。デビッド・ハミルトンはしばしばエロティックなテーマを使用した。またハミルトンは映画『ビリティス』を監督し、同作品の淡いヌードのタッチは、女性向きとも見られた。サリー・マンはバージニア州の田舎で育ち、川でのスキニーディッピングが一般的だったため、彼女の初期の写真は、自分の子供たちの写真だった。若い頃の自分の姿を、記念として写真に残しておこうという意図で撮影されるヌード写真もあり、21世紀にはデジタルカメラの普及により、誰でも簡単にヌード写真が撮ることが可能になってきた。
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ヌード写真(ヌードしゃしん)とは、老若男女を問わず、人間の裸体(の一部)を撮った写真作品。全裸でない場合には、セミヌードと呼ばれることもある。芸術から、商業主義的な写真まで様々な種類がある。
{{性的}} [[ファイル:Virginia Biddle, 1927.jpg|thumb|[[1927年]]に撮影されたヌード写真]] [[File:Portrait of a Japanese woman in her fifties(color).jpg|thumb|[[2000年代]]に撮られた50代日本人女性のヌード写真]] '''ヌード写真'''(ヌードしゃしん)とは、老若男女を問わず、人間の[[裸|裸体]](の一部)を撮った[[写真]]作品。全裸でない場合には、[[セミヌード]]と呼ばれることもある。[[芸術]]から、商業主義的な写真まで様々な種類がある。 == 概要 == [[ファイル:Old porn 8.jpg|thumb|260px|left|1900年代初頭のヌード写真撮影の様子]] ヌード写真の歴史は写真術の歴史とほぼ同時に19世紀に始まった。写真の発明から概ね第2次世界大戦頃までに撮影されたモノクロのヌード写真をヴィンテージ・ヌード(vintage nude)と呼び、好事家に珍重されるほか歴史的資料としても価値があるものとされる。その一部の記録は保存されている。またヌード写真は、医学のテキストや科学的記事など真面目な媒体でも使用される<ref>{{cite web|url=http://www.creativeskillset.org/photo/careers/photographers/article_3277_1.asp|publisher=Creative Skillset|title=Scientific Photographer|accessdate=January 6, 2013|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121229120338/http://www.creativeskillset.org/photo/careers/photographers/article_3277_1.asp|archivedate=October 4, 2019}}</ref>。 [[Image:Vintage nude photograph 9.jpg|thumb| ヌード写真の例]] 美術分野では美学と創造性に重点が置かれ、エロティックな関心は二次的なものとされている<ref>{{Cite web| title=The Nude: A Study in Ideal Form , Kenneth Clark 1956| url=https://archive.org/details/nudestudyinideal00clar| accessdate=04 July 2020}}</ref>。絵画の場合、神話に題材を取った作品のみ[[ヌード]]を描いてもよいという時代が、非常に長く続いた。近代になり神話の女神らではなく、市井の一般女性が裸婦の題材になってきた。一方、写真の場合、女性の裸体がタブー視されていた欧米の場合、キリスト教的倫理感の強い社会であり、写真が公開されることは少なかったが、地下では流通していた。やがて20世紀に前後して徐々に芸術写真が見られるようになり、第二次世界大戦後には、米国の雑誌『[[プレイボーイ (雑誌)|プレイボーイ]]』{{efn|[[ヒュー・ヘフナー]]が創刊し、ヌードだけでなく、政治やギャンブル、先端の文化、ファッション記事まで掲載した。}}がプレイメイトのヌード写真を多く掲載し人気を博した([[ポルノ雑誌]])。1960年代の[[ゲイ解放運動]]の影響で、男性のヌードも科学的または芸術的関心のみならず、性的対象とする雑誌などが登場した。 日本では終戦後の[[カストリ雑誌]]<ref>http://www.news-postseven.com/archives/20150810_341420.html</ref>(初期の[[エロ本]])にヌード写真が掲載されることがあり、次第に青年向け雑誌などの[[グラビアページ]]を飾るようになった。時には芸能界で人気のある[[俳優#性別での分類|女優]]が[[ヌード]]になり、芸能マスコミによってセンセーショナルな報道をされることもあった。21世紀に入ると[[女性]]が、セクシュアルな身体的魅力を表現する手段としてヌードを使用する傾向も出てきた。被写体も女優、[[グラビアモデル|グラビア・モデル]]から学生、OL、主婦まで多様化した。 ロック・アルバムのカバーには、写真が組み込まれていることも多く、ヌードやセミヌードの画像が含まれることもある。ヌードを組み込んだアルバムカバーには、[[ジミ・ヘンドリクス]](Electric Ladyland、1968)、[[ジョン・レノン]]&[[オノ・ヨーコ]](Unfinished Music No. 1:「Two Virgins」、1968)、[[ニルヴァーナ (アメリカ合衆国のバンド)|ニルヴァーナ]] (Never Mind)、[[ブラインド・フェイス]]{{efn|[[スティーヴ・ウィンウッド]]らが結成した。}}(Blind Faith、1969)などのカバーが含まれている。[[スコーピオンズ]](バージンキラー、1976)とブラインド・フェイスのカバーヌード画像は、思春期前の女の子のものであり、一部の国では代替カバー付きで再リリースされたため、特に論争の的になった。 [[ファイル:Augusto De Luca - Nudes.jpg|thumb|[[アウグスト・デ・ルカ]] 1980年]] [[ファイル:Japanese photographer Kishin Shinoyama and nude female models.jpg|thumb|ヌード写真の撮影風景]] 作品の傾向として以下のような分類もできる。 * 芸術志向の写真1・若い生身の女性の美しい裸体を題材とした写真 * 芸術志向の写真2・モデルを物体として[[彫刻]]のように撮影、あるいは肉体を[[オブジェ]]として表現した写真 * 商業主義的な写真 * ポルノグラフィ的な写真 その他 なお、撮影者の意図と鑑賞者の考えが一致しない場合もある。明治時代のヌード写真はモデルが芸者や愛妾のものも多く、誰が撮影したのか不明であったり明示されていない作品が多く見られる。 <!-- ちなみに、以上は概ね、商業的なヌード写真(出版等の形で公表されることが前提となっている、又は、昔の作品などで事実公表されている作品)を想定した記述であるが、これとは別に、私的な、必ずしも公表を前提としないヌード写真というものも、もちろんある。 この文章は要らないような気もしますが… --> == 歴史 == ヌード写真は、実用的な[[カメラ]](1839年の[[ダゲレオタイプ]]と1840年の[[カロタイプ]])が発明されるとほとんど同時に登場した。最初のヌード写真はフランスで登場したとされる。フランスでは1850年代には猥褻写真は不法となったが、ポストカードに印刷する形などでヌード写真が出回っていた([[:en:French postcard|French postcard]])。19世紀のイギリスでも、科学的観点から人間の肉体を観察するという観点をとって、ヌード写真が出版されていた。 第一次世界戦後から1945年までの間に、[[マン・レイ]]らの新しい感覚を持ったヌード写真家が登場した。[[アルフレッド・スティーグリッツ|アルフレッド・スティグリッツ]]が撮影した[[ジョージア・オキーフ]]のヌードは、アメリカではよく知られている。 第二次世界大戦後、グラマーやファッションの写真家は、作品のいくつかでアートの地位向上を目指してきた。そのような写真家の1人は[[アーヴィング・ペン]]で、ヴォーグ誌から[[ケイト・モス]]のヌードなどのファッション・モデルの写真を撮ってきた。[[リチャード・アヴェドン]]、[[ヘルムート・ニュートン]]{{efn|日本人女優の[[石田えり]]の写真集も撮影している。}}、[[アニー・リーボヴィッツ]]らも有名人の写真で似たような道をたどった。それらの写真の多くはヌード、または部分的に衣服を着ていた。[[アンディ・ウォーホル]]は[[LGBT]]だったが、女性のヌード写真も撮っている。有名人を撮影することが芸術のテーマの一つであったポストモダン時代に、アヴェドンによる[[ナスターシャ・キンスキー]]{{efn|[[ロマン・ポランスキー]]の映画「テス」などに出演。}}のヌード写真、リーボヴィッツによる[[デミ・ムーア]]の妊婦ヌード、およびボディ・ペイントの雑誌の表紙が象徴的だった。{{仮リンク|ジョイス・テネソン|en|Joyce Tenneson}}の作品は、芸術から、人生のすべての段階にある女性を表現した、ユニークでソフト・フォーカスなスタイルのアートから、有名人の肖像画やファッション写真まで、多様な方向性を歩んだ。 ヌード写真家の一部には、身体を彫刻の抽象概念として示す確立された形式で作業した者もいたが、[[ロバート・メイプルソープ]]{{efn|[[パティ・スミス]]のヌードを撮影。彼の写真集で男性ヌードを題材にしたものが、日本の税関で引っかかったこともある。}}の写真の一部は、エロティカとアートの境界を意図的に曖昧にする作品を作成した。 未成年者のヌード写真を撮影した何人かの写真家が物議を醸した。[[デイヴィッド・ハミルトン|デビッド・ハミルトン]]はしばしばエロティックなテーマを使用した<ref>{{cite book|title=The Age of Innocence|publisher=Aurum Press|year=1995|isbn=1854103040}}</ref>。またハミルトンは映画『[[ビリティス]]』を監督し、同作品の淡いヌードのタッチは、女性向きとも見られた。[[サリー・マン]]はバージニア州の田舎で育ち、川での[[全裸水泳|スキニーディッピング]]が一般的だったため、彼女の初期の写真は、自分の子供たちの写真だった。若い頃の自分の姿を、記念として写真に残しておこうという意図で撮影されるヌード写真もあり、21世紀には[[デジタルカメラ]]の普及により、誰でも簡単にヌード写真が撮ることが可能になってきた。 == 著名なヌード写真家 == * [[:en:Alfred Cheney Johnston]] * [[:en:Julien Mandel]] * [[ヘルムート・ニュートン]] * [[マン・レイ]] * [[エドワード・ウェストン]] * [[ペッター・ヘグレ]] * [[デイヴィッド・ハミルトン]] * [[ジョック・スタージェス]] * [[ロバート・メイプルソープ]](Robert Mapplethorpe) * [[イゴール・アメルコヴィッチ]] (Igor Amelkovich) * [[荒木経惟]] * [[篠山紀信]] * タッド若松<ref>{{Allcinema name|238742}}</ref> - 「鰐淵晴子写真集」 * 青柳陽一 - 「麻田奈美写真集」 * [[野島康三]] * [[立木義浩]] * [[大竹省二]] * [[渡辺達生]] * [[秋山庄太郎]] * [[山岸伸]] * [[沢渡朔]] * [[中村昇 (写真家)|中村昇]] * [[西田幸樹]] * 藤代冥砂 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Nude photographs|ヌード写真}} {{Commons|Category:Vintage nude photographs|ヴィンテージ・ヌード(vintage nude)}} * [[春画]] * [[ヘアヌード]] * [[ヌーディズム]] * [[ヌードシーン]](映画) * [[日劇ミュージックホール]] * [[日活ロマンポルノ]] * [[ストリップ (性風俗)|ストリップ]] * [[ピンク映画]] * [[全裸スポーツ]] {{写真}} {{裸}} {{デフォルトソート:ぬうとしやしん}} [[Category:ポルノグラフィ]] [[Category:ヌード写真|*]]
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大砲
大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて砲弾を高速で発射し、砲弾の運動量または砲弾自体の化学的な爆発によって、敵および構造物を破壊・殺傷する兵器の総称。火砲()、砲()とも称す。 主に分類される火器は重火器で、銃より口径が大きい物とされる。ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズは軍や時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなく門である。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。 大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』『貫通力』『砲弾運動エネルギー』『砲弾炸薬(形状含)』『破片殺傷性』の8つである。 なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは投石器の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単純にサイズで区別する同列の概念ではない。実際に古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけではない。さらに、佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大銃製造方」といい、幕末頃まで大砲=大型の銃として「大銃」とも呼んでいた。 銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。似たような事が自走砲と戦車にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。 カタパルト、トレビュシェットやバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2メートル近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。 中国では1259年に南宋の寿春府で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジアや西アジアでもティムール軍がイラン・イラク地域の征服、オスマン帝国のバヤズィト1世やジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。 西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀(1326年)。イギリスのスコラ学者 Walter de Milemete の手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に作られるようになった。 高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、百年戦争末期のノルマンディーとボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。 大筒は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。戦国時代後期より用いられ、攻城戦や海戦において構造物破壊に威力を発揮した。 さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬曳きで運搬可能な強力な攻城砲も出現した。ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200キロメートル強離れた首都エディルネで鋳造されていた。 近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。1494年にナポリの王位継承権を争ってフランス王シャルル8世がイタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。 一方、初期の大砲は鋳鉄や鍛鉄製であったが、素材の強度が威力向上化に追いつかず、金属文明の定性に逆行し鋳造性の良い青銅製に取って代わった。この名残で青銅は砲金ともいう。連射性、装填作業性を改善する後装式大砲の概念もフランキ砲のように早くから存在したが、増大する発射ガス圧をやはり封止できない問題があり廃れた。ライフリングの発明も15世紀だが、前装式では装填が面倒であることに加え、弾体がライフリングに食い込みながら銃砲身内を進むことで受ける抵抗のため内圧が上昇することで破裂(腔発)を起こす問題を解決できず、これらのアイデアの実用化は鋼鉄製火器の製造が可能になるのを待たねばならなかった。 また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。船舶同士の戦いでは衝角を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての白兵戦が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。16世紀の西地中海においてオスマン帝国が常に制海権を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。また1571年のレパントの海戦においても、スペインを中心とした連合軍による、地中海の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。 こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていた。その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いた。精神的にダメージを負った兵士にとって弾が飛んでくる音は恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。狙われたら抵抗する術が無く、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にもなり、勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があった。 近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また榴弾やぶどう弾といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。なにより中央集権化による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。18世紀にはグリボーバル・システムにより、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。 18世紀ごろからの産業革命に伴う製鉄技術の向上によって、脆く壊れやすい鋳鉄からより強靭で良質な錬鉄の大量生産が可能となり、鋳鋼製の大砲の製造が可能となった。また、製造精度の向上によって、駐退機、後装式、砲身へのライフリングなど、現在の大砲に用いられる基礎的な技術が実用化された。 近代以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退し再び狙いをつけて砲撃をするため、連続した砲撃を行うことができなかった。また、大砲自体が動くため砲撃精度は保証されず、砲撃の度に着弾点が大きく変わるといった欠点があった。1840年ごろから実用化されはじめた駐退機の登場によって、発射の反動を砲身の後退で吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃の精度が向上した。また、1897年にはフランスのM1897 75mm野砲で液気圧式駐退復座機が採用され、高速な連射が可能になった。 砲の後方から砲弾と火薬を装填する後装式は前装式と比べ、砲弾の装填が容易にかつ迅速に行える。初期の後装式砲は15世紀までには登場しており、フランキ式や縦栓式があった。しかし、この当時の技術による後装式砲は尾栓の気密性が低く燃焼ガスの漏れや強度不足により、前装式に対して威力が劣っていたり暴発などが起こった。これに対して産業革命期の製造精度の向上は尾栓の機密精度を向上させ、また錬鉄による頑丈な砲身によって、後装式の大砲が実用化された。 ライフリングによる精度の向上もあった。ライフイングは砲身内部に施された螺旋状の溝に沿って砲弾が回転しながら射出されることにより砲弾にジャイロ効果が働き、精度、速度、射程が向上する方法である。前装式の砲では装填の面倒さなどから実用化されていなかったが、後装式砲の登場によって大砲で実用されるようになった。 これらの技術は1800年代中盤から実用化され始め、南北戦争で用いられたホイットワース砲などがある。産業革命によってもたらされたこれらの技術は、この時代以降それまでの砲とは比較にならないほどの威力と、砲撃の精度、射程の向上を大砲にもたらした。 第一次世界大戦の犠牲者の7割は大砲によるものだった。第一次大戦では塹壕戦が中心であり、その前方に築かれた鉄条網や機関銃により従来の戦法(生身の兵士による突撃)の効果は薄くなっていった。大砲はそれらの防御陣地を遠距離から破壊することが可能だったため、戦術的な価値はより認められるようになったが、これには攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点があった。 戦闘では継続的な敵への攻撃が必要だったため、短期間で相手以上に多くの損害を与えられる巨大な火砲が必要とされた。そのニーズに伴い大砲の口径も巨大化を続け、その代表としてはより高く鋭い位置角度から敵地に砲弾を落とすことができた榴弾砲などが挙げられる。大砲の威力が増すと共に兵士たちへの精神的負担も増加したが、これをイギリスの人々は戦闘ストレス反応(シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。激しい砲撃で大きい心理的ダメージを受けたのが原因であり、シェルショックはその体験の現れだった。 速射砲が用いられたのはこの頃であり、M1897 75mm野砲、18ポンド野砲、77mm野砲などが開発された。特にM1897 75mm野砲のデザインは、それ以降の一部の大砲にも引き継がれている。 また当時、特に重要な箇所ではコンクリート製の地下に居住区を持つ要塞が作られ、遠距離からの砲撃ではそれを破壊することができなかった。そのため近距離まで肉薄し攻略する必要が生まれたが、主力部隊を前進させるには同士討ちを避けるため砲撃を停止させなくてはならず、それは敵側としても「相手の主力が今から侵攻してくる」という合図になった。守備兵は位置につくと接近する敵を機関銃や砲で倒すということを繰り返し、その度に攻撃側は多大な犠牲を積み上げることになった。その対抗策として装甲で守られた砲座や機銃座そのものを車両化して前進させ、守備側の迎撃に耐えつつ銃座や砲座を近距離から狙い撃ちして無力化させるアイデアを各国は具現化した。戦車の誕生である。 第二次世界大戦でも基本的には同様の戦法が使われた。太平洋戦争におけるアメリカ軍の「鉄の嵐」と言われる苛烈な砲撃はその一例といえる。 前述した通り第一次大戦式の長い砲撃では事前に攻撃地点が敵に伝わってしまうという欠点があり、それを回避するため攻撃地点に火力を集中させ、短時間で多数の砲弾を送り込むように戦術は変化していった。ここで重要視されたのは「火力の集中」であり、それは大砲の高火力化のみならず、機動力の獲得も必要としたのである。これにより大砲には車輪が取り付けられ、より高速な陣地転換を可能にした。これには第一次大戦時のフランスの大砲をベースに米軍が開発した155mmカノン砲M2などがあり、これらは牽引砲と呼称される。 これらの兵器は「常に変わっていく戦況の中でどの様に対応していくのか」という問題に直面した。牽引砲はその名の通り牽引車で運ばれていた。その際車輪が付けられているものは戦場での移動を簡単なものにしたが、目まぐるしく変わる戦況の中に牽引による移動では限界があり、第二次大戦当初のドイツなど馬で大砲を引いていたものに関してはより一層致命的な問題であった。その解決策として大砲に車体・エンジンを搭載し、牽引を必要とせず独力で移動できるようにした自走砲が開発されたが、こういった大砲は戦車への随伴を可能にし、機動戦に対する適応力を向上させた。代表的な第二次大戦期の自走砲としてはアメリカ合衆国のM7自走砲(プリースト)や英国のセクストン自走砲などがあり、その自走砲は第一次大戦の頃には少数ながら登場していた。 また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲は空輸が可能となり、敵地に乗り込む空挺部隊で運用されるようになった。1944年のノルマンディー上陸作戦やマーケットガーデン作戦を通して、連合軍の空挺部隊は敵陣へと空から降り立った。輸送機で空挺部隊を空へ運ぶことが出来るのだから、大砲も輸送機で運べる大きさにすれば良いという発案のもと、必要な場所に直接送る方法を採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲も送った。これらの大砲は敵地で孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれた空挺部隊の為、あらゆる種類の大砲が必要な場所に送られた。また、少数だが航空機に大砲を装着するようになった。大砲の重量や反動に耐えうる、かつ照準のための機動性を確保しうるB-25や四式重爆撃機(キ109)のような中型爆撃機クラスが選ばれることが多かったが、比較的軽量の攻撃機であるHs 129に75mm対戦車砲を搭載した例もある。 艦砲は海での戦いを制するために発達してきた。第二次大戦までに海に浮かぶ火力として戦艦や巡洋艦など戦闘艦の火砲が数々の砲弾を発射し、熾烈な砲撃戦を繰り返していた。海における戦闘は自身・標的共にに動き続けており、何もない海洋であるがために位置関係が把握しづらいなど、複雑な問題を抱えており陸での砲撃とはあらゆる面で異なっていた。戦闘艦に巨大な大砲が取り付けられるようになったのは第一次大戦の時期からであり、遥か遠方の敵を見定めるため海兵たちは高性能の測定器や観測用の航空機を使用した。高い破壊力をもつ艦砲は戦いの行方を十分左右しえるものであり、大和型戦艦の象徴でもある45口径46cm3連装砲は、専用の運搬船「樫野」を建造するほど巨大なものとなった。アイオワ級戦艦のニュージャージーは、第二次大戦期の有名な戦艦の一つである。 一方陸でも戦闘艦と同様に巨大な大砲が開発された。第一次世界大戦ではより大きな火砲を使えば膠着状態を打破できるという思想のもと鉄道を利用した巨大な列車砲が設計されたが、ドイツ軍が作った当時最大の長距離砲「パリ砲」の効果はさほどではなく、それよりかはむしろ「恐怖の象徴」ともいうべきものだった。第二次世界大戦でも巨砲は進化を続け、アドルフ・ヒトラーとその側近たちは政治的宣伝効果を重視して巨大な火砲を追求していった。その極限がクルップK5 80cm列車砲(名称:ドーラ/グスタフ)であり、史上最大にして最後の列車砲となった。 ベトナム戦争でも大砲を運ぶことが望まれ、ヘリコプターの開発が進むと、従来では運搬が困難だった場所も運べるようになった。この時も大砲と砲兵のチームが、激戦地で戦う兵士たちの支援戦闘のため、空から降り立った。ケサンの戦いにおいても、正確な対砲兵射撃を行い味方の部隊を守る活躍をみせる。敵から味方を守る「鉄の壁」を作ってくれたのは大砲だった。 こういった大砲を時に大陸を越えてまで戦場へ輸送出来るか否かは、今日の戦闘においても勝敗に大きな影響を与える。こうしたニーズから、プリミティブな形態の牽引砲もM777 155mm榴弾砲のように最新技術を駆使してより軽量な砲を開発する試みがたゆまず続けられている。また、戦闘機や中距離以上の対空ミサイルを持たない敵対勢力相手に限定されるものの、長大な滞空時間により低コストで持続的な対地支援を行いうる、特にゲリラ掃討戦に向いた航空攻撃手段として、大砲を備える航空機、ガンシップが一定の価値を認められた。 第二次大戦当時から、火力投射手段としてあまりにも肥大化し過ぎた巨砲は、急激に発展した航空機による爆撃(空爆)により淘汰されていった。加えて、大戦末期に萌芽が現れたミサイルが大砲の領分に進出してくる。大砲が口径に比例して甚だしく増大する重量と射撃時の反動に耐える必要があるのに比べ、ミサイルを含むロケット兵器は歩兵携行あるいはトラックなど、はるかに軽便な発射母体から運用可能であること、何より射撃後に誘導修正することによる長射程と高い命中精度のメリットがある。列車砲、戦艦主砲から対艦ミサイル、対戦車砲から対戦車ミサイルのように、完全にミサイルに駆逐されて土台となる兵器ごと消滅してしまった例もある。冷戦中期までに弾道ミサイルや巡航ミサイルは大陸レベルの射程を誇り大砲の次元をはるかに超えた兵器へと進化を遂げた。 戦闘機から機関砲を撤廃したり、ミサイル戦車あるいは戦車無用論が喧伝されたこともあった(ミサイル万能論)。しかしその後の戦訓により、地形等の理由によりミサイルは常に射程の長さを活かせるとは限らない、威力射程が同程度の砲弾に比べ高価な上に大きくかさばるため戦闘で携行可能な弾数でも兵站レベルでの補給可能量においても継戦能力が劣る、砲のように標的の性質に応じて弾種を選択できない、砲弾よりずっと初速が遅く母機から誘導し続けなければならない場合があり特に近距離戦で重要な即時性を欠く。 航空爆弾も航空機の高コストと滞空時間の限界から一過性に留まり大砲の遍在性と即応性を具備し得ないことなどの問題が明らかとなり、21世紀現在に到っても砲はミサイルや航空爆弾と各々異なる価値を持つ兵器として共存し続けている。ガンランチャーや誘導砲弾など、砲とミサイルの美点を融合させる試みも実用段階に達してきている。 また、中世以来の火薬力による砲から、電気的エネルギー(ローレンツ力)を利用するレールガンなど、まったく新たな射出原理に基づく砲の研究開発も続けられている。 1576年(天正4年)、大友宗麟がポルトガルの宣教師より石火矢(フランキ砲)を入手し「国崩し」と名付けたのが日本における最初の大砲とされる。以後、石火矢は火縄銃を大型化した大筒(大鉄砲)と共に海戦・攻城戦において構造物破壊に用いられる。なお日本では快速機動の重視や起伏の多い地形の為、重量がかさばる大砲の野戦における運用は殆どなされていない。 日本では1590年代から大砲生産が盛んになり、1614年(慶長19年)には大坂の陣に備えて、徳川家康はイギリスやオランダより大口径の前装式青銅砲(カルバリン砲等)を購入している。これらは後に国産化され、和製大砲となる。 1639年(寛永16年)には江戸幕府が前年の島原の乱における戦訓から、榴弾とそれを運用する臼砲の供与をオランダ商館に求める。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸で臼砲を製造して江戸にて試射を行っている。1650年(慶安3年)にもユリアン・スヘーデルによる臼砲射撃が江戸で行なわれている。 これ以降、日本では大規模な戦乱がなくなり、大砲の発展も停滞する。 1841年には高島秋帆が徳丸ヶ原(現高島平)で日本最初の近代砲術訓練を行い、西洋式の大砲と和製大砲の技術差を露呈した。1850年代に次々と外国軍艦が来航し、国防のため江戸幕府は寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる毀鐘鋳砲の勅諚を発令。諸藩は韮山反射炉等の反射炉を建設して大砲を鋳造するなど新技術の導入に力を入れたが、1862年の薩英戦争や1864年の下関戦争で欧米との技術差は実戦により明らかとなる。特に下関戦争では、長州藩の日本製32ポンド砲などによる砲台は四国艦隊の艦載110ポンドアームストロング砲などにまったく太刀打ちできず敗北した。 これらの戦闘の後、薩摩藩や長州藩は主にイギリスから兵器の輸入を進める一方、幕府もフランスの援助を受けて軍の近代化を進めた結果、両者が衝突した第二次長州征伐や戊辰戦争では各地で近代的な大砲による野戦や攻城戦が繰り広げられた。フランスで開発された四斤山砲は第二次長州征伐で幕府軍が使用して以降、輸入やコピーが進み、一連の戦争を通じて両者の主力野戦砲となった。この頃には諸藩の技術も向上し、上野戦争では新政府側の佐賀藩が製造したアームストロング砲が投入され、会津戦争では新政府軍が焼玉式焼夷弾を会津若松城攻撃に用いた。旧幕府方の長岡藩も北越戦争でアームストロング砲やガトリング砲を使用して新政府軍を苦しめている。 明治維新後は大砲の国産化が進んだ。(大日本帝国陸軍兵器一覧#火砲・投擲器を参照) 火薬、およびその燃焼ガス圧により物体を投射する火器ならびにロケットの概念も中国圏で発明されたものだが、その後の科学技術発展は停滞し、逆に西洋側からの知見や現物の輸入に頼るようになった。 中国における西洋式大砲の輸入は15世紀初め、明の成祖の交趾征伐時であり、ポルトガルから輸入した「紅夷砲」が後金に対して使用された。明では「神機砲」と呼び、「神機営」という砲兵隊が設けられたが、主に爆音で相手を驚かせる用途で、あまり改良はされなかった。その後、1621年にポルトガル宣教師を火砲に従軍させたり、ドイツ宣教師が砲術を伝えたが、中国人は製造・砲術の基礎となる自然科学精神の理解が乏しかったため、火砲を中心とした近代攻城戦・野戦の戦術を採用する姿勢がなく、製造した大砲に「安国全軍平遼靖膚将軍」の号を与え、あつく祭祀する有り様だった。 大砲はその形状・構造や用途・歴史的経緯等によって様々な分類がある。 用途、歴史的分類による種別は以下の通り 大砲を専門に運用するための軍隊の兵科を砲兵と呼ぶ。 大砲に使われる弾を砲弾と呼ぶ。砲弾は、発射される際に得た運動エネルギーによって破壊、殺傷効果を及ぼす運動エネルギー弾と、命中時に爆発することで被害をもたらす化学エネルギー弾に大別される。 大砲自体の発展に伴い、砲弾も殺傷力を高めるために進化していく。初期の砲弾は固い石が使われていた。そして徐々に殺傷力を向上させ、金属の砲弾や中に爆薬を仕込んだ砲弾が登場した。1784年イギリスの砲兵ヘンリー・シュラプネルが榴散弾という画期的な砲弾を生み出した。殺傷能力が桁違いでシュラプネルの名が榴散弾の別名になっている程である。更にアルフレッド・ノーベルの爆薬の開発により、砲弾は飛躍的に進化する。これにより砲弾が爆発する際の殺傷能力が高まった。軍でも爆薬の開発に勤しみ、コルダイトなどの爆薬が誕生した。爆発物としての性能が実に高く、破壊力も著しく向上した。 あいうえお順 大砲は、その大きさ・威力があることから、それになぞらえてインパクトのある物事を例えることがある。 例として日本銀行の政策を「日銀砲(黒田砲)」、週刊文春のスクープを「文春砲」と呼ぶなど。 2ちゃんねるにおける「田代砲」も、ごく短時間で迷惑メールサーバを破壊する、大量の組織票を入れられることなどから「砲」の名前を持つ。 また野球において、高い打力を持ち本塁打の量産が期待できる選手を「大砲」と形容する。日本人選手の場合には「和製大砲」とも呼ばれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて砲弾を高速で発射し、砲弾の運動量または砲弾自体の化学的な爆発によって、敵および構造物を破壊・殺傷する兵器の総称。火砲()、砲()とも称す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "主に分類される火器は重火器で、銃より口径が大きい物とされる。ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズは軍や時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなく門である。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』『貫通力』『砲弾運動エネルギー』『砲弾炸薬(形状含)』『破片殺傷性』の8つである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは投石器の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単純にサイズで区別する同列の概念ではない。実際に古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけではない。さらに、佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大銃製造方」といい、幕末頃まで大砲=大型の銃として「大銃」とも呼んでいた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。似たような事が自走砲と戦車にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "カタパルト、トレビュシェットやバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2メートル近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中国では1259年に南宋の寿春府で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジアや西アジアでもティムール軍がイラン・イラク地域の征服、オスマン帝国のバヤズィト1世やジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀(1326年)。イギリスのスコラ学者 Walter de Milemete の手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に作られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、百年戦争末期のノルマンディーとボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大筒は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。戦国時代後期より用いられ、攻城戦や海戦において構造物破壊に威力を発揮した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬曳きで運搬可能な強力な攻城砲も出現した。ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200キロメートル強離れた首都エディルネで鋳造されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。1494年にナポリの王位継承権を争ってフランス王シャルル8世がイタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、初期の大砲は鋳鉄や鍛鉄製であったが、素材の強度が威力向上化に追いつかず、金属文明の定性に逆行し鋳造性の良い青銅製に取って代わった。この名残で青銅は砲金ともいう。連射性、装填作業性を改善する後装式大砲の概念もフランキ砲のように早くから存在したが、増大する発射ガス圧をやはり封止できない問題があり廃れた。ライフリングの発明も15世紀だが、前装式では装填が面倒であることに加え、弾体がライフリングに食い込みながら銃砲身内を進むことで受ける抵抗のため内圧が上昇することで破裂(腔発)を起こす問題を解決できず、これらのアイデアの実用化は鋼鉄製火器の製造が可能になるのを待たねばならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。船舶同士の戦いでは衝角を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての白兵戦が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。16世紀の西地中海においてオスマン帝国が常に制海権を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。また1571年のレパントの海戦においても、スペインを中心とした連合軍による、地中海の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていた。その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いた。精神的にダメージを負った兵士にとって弾が飛んでくる音は恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。狙われたら抵抗する術が無く、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にもなり、勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また榴弾やぶどう弾といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。なにより中央集権化による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。18世紀にはグリボーバル・システムにより、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "18世紀ごろからの産業革命に伴う製鉄技術の向上によって、脆く壊れやすい鋳鉄からより強靭で良質な錬鉄の大量生産が可能となり、鋳鋼製の大砲の製造が可能となった。また、製造精度の向上によって、駐退機、後装式、砲身へのライフリングなど、現在の大砲に用いられる基礎的な技術が実用化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "近代以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退し再び狙いをつけて砲撃をするため、連続した砲撃を行うことができなかった。また、大砲自体が動くため砲撃精度は保証されず、砲撃の度に着弾点が大きく変わるといった欠点があった。1840年ごろから実用化されはじめた駐退機の登場によって、発射の反動を砲身の後退で吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃の精度が向上した。また、1897年にはフランスのM1897 75mm野砲で液気圧式駐退復座機が採用され、高速な連射が可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "砲の後方から砲弾と火薬を装填する後装式は前装式と比べ、砲弾の装填が容易にかつ迅速に行える。初期の後装式砲は15世紀までには登場しており、フランキ式や縦栓式があった。しかし、この当時の技術による後装式砲は尾栓の気密性が低く燃焼ガスの漏れや強度不足により、前装式に対して威力が劣っていたり暴発などが起こった。これに対して産業革命期の製造精度の向上は尾栓の機密精度を向上させ、また錬鉄による頑丈な砲身によって、後装式の大砲が実用化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ライフリングによる精度の向上もあった。ライフイングは砲身内部に施された螺旋状の溝に沿って砲弾が回転しながら射出されることにより砲弾にジャイロ効果が働き、精度、速度、射程が向上する方法である。前装式の砲では装填の面倒さなどから実用化されていなかったが、後装式砲の登場によって大砲で実用されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これらの技術は1800年代中盤から実用化され始め、南北戦争で用いられたホイットワース砲などがある。産業革命によってもたらされたこれらの技術は、この時代以降それまでの砲とは比較にならないほどの威力と、砲撃の精度、射程の向上を大砲にもたらした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦の犠牲者の7割は大砲によるものだった。第一次大戦では塹壕戦が中心であり、その前方に築かれた鉄条網や機関銃により従来の戦法(生身の兵士による突撃)の効果は薄くなっていった。大砲はそれらの防御陣地を遠距離から破壊することが可能だったため、戦術的な価値はより認められるようになったが、これには攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "戦闘では継続的な敵への攻撃が必要だったため、短期間で相手以上に多くの損害を与えられる巨大な火砲が必要とされた。そのニーズに伴い大砲の口径も巨大化を続け、その代表としてはより高く鋭い位置角度から敵地に砲弾を落とすことができた榴弾砲などが挙げられる。大砲の威力が増すと共に兵士たちへの精神的負担も増加したが、これをイギリスの人々は戦闘ストレス反応(シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。激しい砲撃で大きい心理的ダメージを受けたのが原因であり、シェルショックはその体験の現れだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "速射砲が用いられたのはこの頃であり、M1897 75mm野砲、18ポンド野砲、77mm野砲などが開発された。特にM1897 75mm野砲のデザインは、それ以降の一部の大砲にも引き継がれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また当時、特に重要な箇所ではコンクリート製の地下に居住区を持つ要塞が作られ、遠距離からの砲撃ではそれを破壊することができなかった。そのため近距離まで肉薄し攻略する必要が生まれたが、主力部隊を前進させるには同士討ちを避けるため砲撃を停止させなくてはならず、それは敵側としても「相手の主力が今から侵攻してくる」という合図になった。守備兵は位置につくと接近する敵を機関銃や砲で倒すということを繰り返し、その度に攻撃側は多大な犠牲を積み上げることになった。その対抗策として装甲で守られた砲座や機銃座そのものを車両化して前進させ、守備側の迎撃に耐えつつ銃座や砲座を近距離から狙い撃ちして無力化させるアイデアを各国は具現化した。戦車の誕生である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦でも基本的には同様の戦法が使われた。太平洋戦争におけるアメリカ軍の「鉄の嵐」と言われる苛烈な砲撃はその一例といえる。 前述した通り第一次大戦式の長い砲撃では事前に攻撃地点が敵に伝わってしまうという欠点があり、それを回避するため攻撃地点に火力を集中させ、短時間で多数の砲弾を送り込むように戦術は変化していった。ここで重要視されたのは「火力の集中」であり、それは大砲の高火力化のみならず、機動力の獲得も必要としたのである。これにより大砲には車輪が取り付けられ、より高速な陣地転換を可能にした。これには第一次大戦時のフランスの大砲をベースに米軍が開発した155mmカノン砲M2などがあり、これらは牽引砲と呼称される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "これらの兵器は「常に変わっていく戦況の中でどの様に対応していくのか」という問題に直面した。牽引砲はその名の通り牽引車で運ばれていた。その際車輪が付けられているものは戦場での移動を簡単なものにしたが、目まぐるしく変わる戦況の中に牽引による移動では限界があり、第二次大戦当初のドイツなど馬で大砲を引いていたものに関してはより一層致命的な問題であった。その解決策として大砲に車体・エンジンを搭載し、牽引を必要とせず独力で移動できるようにした自走砲が開発されたが、こういった大砲は戦車への随伴を可能にし、機動戦に対する適応力を向上させた。代表的な第二次大戦期の自走砲としてはアメリカ合衆国のM7自走砲(プリースト)や英国のセクストン自走砲などがあり、その自走砲は第一次大戦の頃には少数ながら登場していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲は空輸が可能となり、敵地に乗り込む空挺部隊で運用されるようになった。1944年のノルマンディー上陸作戦やマーケットガーデン作戦を通して、連合軍の空挺部隊は敵陣へと空から降り立った。輸送機で空挺部隊を空へ運ぶことが出来るのだから、大砲も輸送機で運べる大きさにすれば良いという発案のもと、必要な場所に直接送る方法を採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲も送った。これらの大砲は敵地で孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれた空挺部隊の為、あらゆる種類の大砲が必要な場所に送られた。また、少数だが航空機に大砲を装着するようになった。大砲の重量や反動に耐えうる、かつ照準のための機動性を確保しうるB-25や四式重爆撃機(キ109)のような中型爆撃機クラスが選ばれることが多かったが、比較的軽量の攻撃機であるHs 129に75mm対戦車砲を搭載した例もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "艦砲は海での戦いを制するために発達してきた。第二次大戦までに海に浮かぶ火力として戦艦や巡洋艦など戦闘艦の火砲が数々の砲弾を発射し、熾烈な砲撃戦を繰り返していた。海における戦闘は自身・標的共にに動き続けており、何もない海洋であるがために位置関係が把握しづらいなど、複雑な問題を抱えており陸での砲撃とはあらゆる面で異なっていた。戦闘艦に巨大な大砲が取り付けられるようになったのは第一次大戦の時期からであり、遥か遠方の敵を見定めるため海兵たちは高性能の測定器や観測用の航空機を使用した。高い破壊力をもつ艦砲は戦いの行方を十分左右しえるものであり、大和型戦艦の象徴でもある45口径46cm3連装砲は、専用の運搬船「樫野」を建造するほど巨大なものとなった。アイオワ級戦艦のニュージャージーは、第二次大戦期の有名な戦艦の一つである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方陸でも戦闘艦と同様に巨大な大砲が開発された。第一次世界大戦ではより大きな火砲を使えば膠着状態を打破できるという思想のもと鉄道を利用した巨大な列車砲が設計されたが、ドイツ軍が作った当時最大の長距離砲「パリ砲」の効果はさほどではなく、それよりかはむしろ「恐怖の象徴」ともいうべきものだった。第二次世界大戦でも巨砲は進化を続け、アドルフ・ヒトラーとその側近たちは政治的宣伝効果を重視して巨大な火砲を追求していった。その極限がクルップK5 80cm列車砲(名称:ドーラ/グスタフ)であり、史上最大にして最後の列車砲となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ベトナム戦争でも大砲を運ぶことが望まれ、ヘリコプターの開発が進むと、従来では運搬が困難だった場所も運べるようになった。この時も大砲と砲兵のチームが、激戦地で戦う兵士たちの支援戦闘のため、空から降り立った。ケサンの戦いにおいても、正確な対砲兵射撃を行い味方の部隊を守る活躍をみせる。敵から味方を守る「鉄の壁」を作ってくれたのは大砲だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "こういった大砲を時に大陸を越えてまで戦場へ輸送出来るか否かは、今日の戦闘においても勝敗に大きな影響を与える。こうしたニーズから、プリミティブな形態の牽引砲もM777 155mm榴弾砲のように最新技術を駆使してより軽量な砲を開発する試みがたゆまず続けられている。また、戦闘機や中距離以上の対空ミサイルを持たない敵対勢力相手に限定されるものの、長大な滞空時間により低コストで持続的な対地支援を行いうる、特にゲリラ掃討戦に向いた航空攻撃手段として、大砲を備える航空機、ガンシップが一定の価値を認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "第二次大戦当時から、火力投射手段としてあまりにも肥大化し過ぎた巨砲は、急激に発展した航空機による爆撃(空爆)により淘汰されていった。加えて、大戦末期に萌芽が現れたミサイルが大砲の領分に進出してくる。大砲が口径に比例して甚だしく増大する重量と射撃時の反動に耐える必要があるのに比べ、ミサイルを含むロケット兵器は歩兵携行あるいはトラックなど、はるかに軽便な発射母体から運用可能であること、何より射撃後に誘導修正することによる長射程と高い命中精度のメリットがある。列車砲、戦艦主砲から対艦ミサイル、対戦車砲から対戦車ミサイルのように、完全にミサイルに駆逐されて土台となる兵器ごと消滅してしまった例もある。冷戦中期までに弾道ミサイルや巡航ミサイルは大陸レベルの射程を誇り大砲の次元をはるかに超えた兵器へと進化を遂げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "戦闘機から機関砲を撤廃したり、ミサイル戦車あるいは戦車無用論が喧伝されたこともあった(ミサイル万能論)。しかしその後の戦訓により、地形等の理由によりミサイルは常に射程の長さを活かせるとは限らない、威力射程が同程度の砲弾に比べ高価な上に大きくかさばるため戦闘で携行可能な弾数でも兵站レベルでの補給可能量においても継戦能力が劣る、砲のように標的の性質に応じて弾種を選択できない、砲弾よりずっと初速が遅く母機から誘導し続けなければならない場合があり特に近距離戦で重要な即時性を欠く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "航空爆弾も航空機の高コストと滞空時間の限界から一過性に留まり大砲の遍在性と即応性を具備し得ないことなどの問題が明らかとなり、21世紀現在に到っても砲はミサイルや航空爆弾と各々異なる価値を持つ兵器として共存し続けている。ガンランチャーや誘導砲弾など、砲とミサイルの美点を融合させる試みも実用段階に達してきている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、中世以来の火薬力による砲から、電気的エネルギー(ローレンツ力)を利用するレールガンなど、まったく新たな射出原理に基づく砲の研究開発も続けられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1576年(天正4年)、大友宗麟がポルトガルの宣教師より石火矢(フランキ砲)を入手し「国崩し」と名付けたのが日本における最初の大砲とされる。以後、石火矢は火縄銃を大型化した大筒(大鉄砲)と共に海戦・攻城戦において構造物破壊に用いられる。なお日本では快速機動の重視や起伏の多い地形の為、重量がかさばる大砲の野戦における運用は殆どなされていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本では1590年代から大砲生産が盛んになり、1614年(慶長19年)には大坂の陣に備えて、徳川家康はイギリスやオランダより大口径の前装式青銅砲(カルバリン砲等)を購入している。これらは後に国産化され、和製大砲となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1639年(寛永16年)には江戸幕府が前年の島原の乱における戦訓から、榴弾とそれを運用する臼砲の供与をオランダ商館に求める。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸で臼砲を製造して江戸にて試射を行っている。1650年(慶安3年)にもユリアン・スヘーデルによる臼砲射撃が江戸で行なわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これ以降、日本では大規模な戦乱がなくなり、大砲の発展も停滞する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1841年には高島秋帆が徳丸ヶ原(現高島平)で日本最初の近代砲術訓練を行い、西洋式の大砲と和製大砲の技術差を露呈した。1850年代に次々と外国軍艦が来航し、国防のため江戸幕府は寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる毀鐘鋳砲の勅諚を発令。諸藩は韮山反射炉等の反射炉を建設して大砲を鋳造するなど新技術の導入に力を入れたが、1862年の薩英戦争や1864年の下関戦争で欧米との技術差は実戦により明らかとなる。特に下関戦争では、長州藩の日本製32ポンド砲などによる砲台は四国艦隊の艦載110ポンドアームストロング砲などにまったく太刀打ちできず敗北した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "これらの戦闘の後、薩摩藩や長州藩は主にイギリスから兵器の輸入を進める一方、幕府もフランスの援助を受けて軍の近代化を進めた結果、両者が衝突した第二次長州征伐や戊辰戦争では各地で近代的な大砲による野戦や攻城戦が繰り広げられた。フランスで開発された四斤山砲は第二次長州征伐で幕府軍が使用して以降、輸入やコピーが進み、一連の戦争を通じて両者の主力野戦砲となった。この頃には諸藩の技術も向上し、上野戦争では新政府側の佐賀藩が製造したアームストロング砲が投入され、会津戦争では新政府軍が焼玉式焼夷弾を会津若松城攻撃に用いた。旧幕府方の長岡藩も北越戦争でアームストロング砲やガトリング砲を使用して新政府軍を苦しめている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "明治維新後は大砲の国産化が進んだ。(大日本帝国陸軍兵器一覧#火砲・投擲器を参照)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "火薬、およびその燃焼ガス圧により物体を投射する火器ならびにロケットの概念も中国圏で発明されたものだが、その後の科学技術発展は停滞し、逆に西洋側からの知見や現物の輸入に頼るようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "中国における西洋式大砲の輸入は15世紀初め、明の成祖の交趾征伐時であり、ポルトガルから輸入した「紅夷砲」が後金に対して使用された。明では「神機砲」と呼び、「神機営」という砲兵隊が設けられたが、主に爆音で相手を驚かせる用途で、あまり改良はされなかった。その後、1621年にポルトガル宣教師を火砲に従軍させたり、ドイツ宣教師が砲術を伝えたが、中国人は製造・砲術の基礎となる自然科学精神の理解が乏しかったため、火砲を中心とした近代攻城戦・野戦の戦術を採用する姿勢がなく、製造した大砲に「安国全軍平遼靖膚将軍」の号を与え、あつく祭祀する有り様だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "大砲はその形状・構造や用途・歴史的経緯等によって様々な分類がある。", "title": "大砲の分類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "用途、歴史的分類による種別は以下の通り", "title": "大砲の分類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大砲を専門に運用するための軍隊の兵科を砲兵と呼ぶ。", "title": "砲兵" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "大砲に使われる弾を砲弾と呼ぶ。砲弾は、発射される際に得た運動エネルギーによって破壊、殺傷効果を及ぼす運動エネルギー弾と、命中時に爆発することで被害をもたらす化学エネルギー弾に大別される。", "title": "砲弾" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大砲自体の発展に伴い、砲弾も殺傷力を高めるために進化していく。初期の砲弾は固い石が使われていた。そして徐々に殺傷力を向上させ、金属の砲弾や中に爆薬を仕込んだ砲弾が登場した。1784年イギリスの砲兵ヘンリー・シュラプネルが榴散弾という画期的な砲弾を生み出した。殺傷能力が桁違いでシュラプネルの名が榴散弾の別名になっている程である。更にアルフレッド・ノーベルの爆薬の開発により、砲弾は飛躍的に進化する。これにより砲弾が爆発する際の殺傷能力が高まった。軍でも爆薬の開発に勤しみ、コルダイトなどの爆薬が誕生した。爆発物としての性能が実に高く、破壊力も著しく向上した。", "title": "砲弾" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "あいうえお順", "title": "基本用語集" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大砲は、その大きさ・威力があることから、それになぞらえてインパクトのある物事を例えることがある。", "title": "比喩" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "例として日本銀行の政策を「日銀砲(黒田砲)」、週刊文春のスクープを「文春砲」と呼ぶなど。", "title": "比喩" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2ちゃんねるにおける「田代砲」も、ごく短時間で迷惑メールサーバを破壊する、大量の組織票を入れられることなどから「砲」の名前を持つ。", "title": "比喩" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また野球において、高い打力を持ち本塁打の量産が期待できる選手を「大砲」と形容する。日本人選手の場合には「和製大砲」とも呼ばれる。", "title": "比喩" } ]
大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて砲弾を高速で発射し、砲弾の運動量または砲弾自体の化学的な爆発によって、敵および構造物を破壊・殺傷する兵器の総称。火砲、砲とも称す。
{{Otheruseslist|兵器|大相撲の第18代横綱{{読み仮名|'''大砲'''|おおづつ}}|大砲万右エ門|福岡県久留米市に本社を置く[[豚骨ラーメン]]を手がける企業|大砲 (企業)}} {{Redirect|砲|[[シャンチー]]の駒|炮 (シャンチー)}} {{複数の問題 |独自研究=2014年11月 |出典の明記=2014年11月 |大言壮語=2018年11月 }} [[ファイル:Wartburg-17th.century.gun.jpg|サムネイル|300px|[[17世紀]]の[[カノン砲]]]] '''大砲'''(たいほう)は、[[火薬]]の燃焼力を用いて[[砲弾]]を高速で発射し、砲弾の[[運動量]]または砲弾自体の化学的な[[爆発]]によって、敵および構造物を破壊・殺傷する[[兵器]]の総称。{{読み仮名|'''火砲'''|かほう}}、{{読み仮名|'''砲'''|ほう}}とも称す。 == 概要 == {{複数の問題|section=1 |出典の明記=2016年2月 |独自研究=2016年2月 }} 主に分類される[[火器]]は[[重火器]]で、[[銃]]より[[口径]]が大きい物とされる。ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズは[[軍]]や時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなく'''門'''である。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を[[砲弾]]といい、大砲を専門に扱う兵を'''[[砲兵]]'''、特に発射する人を'''砲手'''という。 大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』『貫通力』『砲弾運動エネルギー』『砲弾炸薬(形状含)』『破片殺傷性』の8つである。 なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは[[投石器]]の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単純にサイズで区別する同列の概念ではない。実際に古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけではない。さらに、[[築地反射炉|佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大'''銃'''製造方」といい]]、幕末頃まで大砲=大型の銃として「大銃」とも呼んでいた。 銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。似たような事が[[自走砲]]と[[戦車]]にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。[[マーク I 戦車|初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。]] == 歴史 == {{複数の問題|section=1 |出典の明記=2016年2月 |独自研究=2016年2月 |大言壮語=2020年8月 }} {{百科事典的でない|type=notessay|date=2021年3月|section=1}} === 前史 === {{see also|火薬}} [[カタパルト (投石機)|カタパルト]]、[[トレビュシェット]]や[[バリスタ (兵器)|バリスタ]]のように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2[[メートル]]近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。 === 中世 === [[中国]]では[[1259年]]に[[南宋]]の{{仮リンク|寿春府|zh|寿春府}}で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が早い時期の物とみられる、また[[1332年]]には[[大元]]統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。[[中央アジア]]や[[西アジア]]でも[[ティムール]]軍が[[イラン]]・[[イラク]]地域の征服、[[オスマン帝国]]の[[バヤズィト1世]]や[[ジョチ・ウルス]]のトクタミシュとの戦役において攻城用の[[重砲]]と野戦用の小口径火砲を用いている。 [[ファイル:EarlyCannonDeNobilitatibusSapientiiEtPrudentiisRegumManuscriptWalterdeMilemete1326.jpg|サムネイル|西洋最古の大砲の記録図, ''De nobilitatibus sapientii et prudentiis regum'', Walter de Milemete, 1326]] [[ファイル:16th Century Artillerie.jpg|サムネイル|16世紀の各種大砲を描いた図。前装砲のほか、後装砲や臼砲もある]] [[西ヨーロッパ|西欧]]世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、[[14世紀]]([[1326年]]){{Sfn|マクニール|2002|p=114}}。[[イギリス]]の[[スコラ学]]者 [[w:Walter de Milemete|Walter de Milemete]] の手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では[[15世紀]]の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は[[射石砲]]またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために[[鋳造]]によって一体成型された大砲が、この時期に作られるようになった{{Sfn|マクニール|2002|p=117}}。 高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。[[1453年]]にオスマン帝国による[[コンスタンチノープルの陥落|コンスタンティノポリス包囲戦]]という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、[[百年戦争]]末期の[[ノルマンディー]]と[[ボルドー]]からのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。 [[大筒]]は、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から[[江戸時代]]にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。戦国時代後期より用いられ、[[攻城戦]]や[[海戦]]において構造物破壊に威力を発揮した{{efn2|城郭や軍船などの構造物を破壊する目的で登場したが、近世江戸期になると砲術家が技能を誇示するために用いた<ref>『テーマ展 武装 -大阪城天守閣収蔵武具展-』 大阪城天守閣特別事業委員会 2007年 p.76</ref>。}}。 [[ファイル:Oozutu.jpg|サムネイル|百目玉火矢銃と火縄銃百目玉抱え[[大筒]]]] さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる[[鉄]]製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬曳きで運搬可能な強力な[[攻城砲]]も出現した{{Sfn|マクニール|2002|p=120}}。ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破った[[ウルバン砲]]は戦場から200[[キロメートル]]強離れた首都エディルネで鋳造されていた。 近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、[[1840年代]]までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。[[1494年]]に[[ナポリ王国|ナポリ]]の王位継承権を争って[[フランス]]王[[シャルル8世]]が[[イタリア戦争|イタリアに侵入]]したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった{{Sfn|マクニール|2002|p=121}}。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。 一方、初期の大砲は鋳鉄や鍛鉄製であったが、素材の強度が威力向上化に追いつかず、金属文明の定性に逆行し鋳造性の良い青銅製に取って代わった。この名残で青銅は[[砲金]]ともいう。連射性、装填作業性を改善する[[後装式]]大砲の概念も[[フランキ砲]]のように早くから存在したが、増大する発射ガス圧をやはり封止できない問題があり廃れた。[[ライフリング]]の発明も15世紀だが、前装式では装填が面倒であることに加え、弾体がライフリングに食い込みながら銃砲身内を進むことで受ける抵抗のため内圧が上昇することで破裂([[腔発]])を起こす問題を解決できず、これらのアイデアの実用化は鋼鉄製火器の製造が可能になるのを待たねばならなかった。 また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。[[船|船舶]]同士の戦いでは[[衝角]]を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての[[白兵戦]]が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。[[16世紀]]の西地中海においてオスマン帝国が常に[[制海権]]を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。また[[1571年]]の[[レパントの海戦]]においても、[[スペイン]]を中心とした連合軍による、[[地中海]]の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。 こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていた。その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いた。精神的にダメージを負った兵士にとって弾が飛んでくる音は恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。狙われたら抵抗する術が無く、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にもなり、勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があった。 === 近世 === 近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また[[榴弾]]や[[ぶどう弾]]といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。なにより[[中央集権化]]による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。18世紀には[[グリボーバル・システム]]により、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。 === 近代 === {{節スタブ}} [[ファイル:Vietnamese wooden cannon muzzle 1862.jpg|サムネイル|[[ベトナム]][[ヴィンロン]]に設置されていた木製大砲(1862年)]] [[ファイル:KoishikawaArtillery1882.jpg|サムネイル|[[大日本帝国陸軍]]、[[1882年]]([[明治]]15年)当時の[[砲兵]]下士卒の軍装]] [[18世紀]]ごろからの[[産業革命]]に伴う[[製鉄]]技術の向上によって、脆く壊れやすい[[鋳鉄]]からより強靭で良質な[[錬鉄]]の大量生産が可能となり、[[鋳鋼]]製の大砲の製造が可能となった。また、製造精度の向上によって、駐退機、後装式、砲身へのライフリングなど、現在の大砲に用いられる基礎的な技術が実用化された。 [[近代]]以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退し再び狙いをつけて砲撃をするため、連続した砲撃を行うことができなかった。また、大砲自体が動くため砲撃精度は保証されず、砲撃の度に着弾点が大きく変わるといった欠点があった。[[1840年]]ごろから実用化されはじめた駐退機の登場によって、発射の反動を砲身の後退で吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃の精度が向上した。また、[[1897年]]にはフランスの[[M1897 75mm野砲]]で液気圧式駐退復座機が採用され、高速な連射が可能になった<ref>{{Cite book|和書 |title=火砲の発達 |year=1943 |publisher=愛之事業社 |pages=214-215 |author=荘司武夫 |doi=10.11501/1707339 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1707339/1/123}}</ref>。{{see also|駐退機}}砲の後方から砲弾と火薬を装填する後装式は前装式と比べ、砲弾の装填が容易にかつ迅速に行える。初期の後装式砲は15世紀までには登場しており、[[フランキ式]]や[[縦栓式]]があった。しかし、この当時の技術による後装式砲は尾栓の気密性が低く[[燃焼ガス]]の漏れや強度不足により、前装式に対して威力が劣っていたり暴発などが起こった。これに対して産業革命期の製造精度の向上は尾栓の機密精度を向上させ、また錬鉄による頑丈な砲身によって、後装式の大砲が実用化された。 {{See also|後装式}} ライフリングによる精度の向上もあった。ライフイングは砲身内部に施された螺旋状の溝に沿って砲弾が回転しながら射出されることにより砲弾に[[ジャイロ効果]]が働き、精度、速度、射程が向上する方法である。前装式の砲では装填の面倒さなどから実用化されていなかったが、後装式砲の登場によって大砲で実用されるようになった。 {{See also|ライフリング}} これらの技術は1800年代中盤から実用化され始め、[[南北戦争]]で用いられたホイットワース砲などがある。産業革命によってもたらされたこれらの技術は、この時代以降それまでの砲とは比較にならないほどの威力と、砲撃の精度、射程の向上を大砲にもたらした。 === 第一次世界大戦 {{~}} 第二次世界大戦 === [[ファイル:Dominion and Empire Forces in the United Kingdom, 1939-45 H2092.jpg|サムネイル|両大戦で[[イギリス軍]]が使用した「[[QF 4.5インチ榴弾砲]]」Mk.1P(1940年に撮影された、イギリスにおけるニュージーランド軍の演習)]] [[ファイル:APG-OM-Nov-2006-089.jpg|サムネイル|列車砲「[[クルップK5]]」(復元、[[アバディーン戦車博物館]])]] [[ファイル:Uss iowa bb-61 pr.jpg|サムネイル|主砲を斉射するアイオワ([[モスボール (軍事)|モスボール]]解除後の1984年)]] [[ファイル:Type 1 10.5cm self-propelled gun Ho-Ni II 02.jpg|サムネイル|[[大日本帝国陸軍]]の[[自走砲]]、[[一式十糎自走砲]](ホニII)]] [[第一次世界大戦]]の犠牲者の7割は大砲によるものだった。第一次大戦では[[塹壕戦]]が中心であり、その前方に築かれた[[鉄条網]]や[[機関銃]]により従来の戦法(生身の兵士による[[突撃]])の効果は薄くなっていった。大砲はそれらの防御陣地を遠距離から破壊することが可能だったため、戦術的な価値はより認められるようになったが、これには攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点があった。 戦闘では継続的な敵への攻撃が必要だったため、短期間で相手以上に多くの損害を与えられる巨大な火砲が必要とされた。そのニーズに伴い大砲の口径も巨大化を続け、その代表としてはより高く鋭い位置角度から敵地に砲弾を落とすことができた[[榴弾砲]]などが挙げられる。大砲の威力が増すと共に兵士たちへの精神的負担も増加したが、これをイギリスの人々は[[戦闘ストレス反応]](シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。激しい砲撃で大きい心理的ダメージを受けたのが原因であり、シェルショックはその体験の現れだった。 [[速射砲]]が用いられたのはこの頃であり、[[M1897 75mm野砲]]、[[18ポンド野砲]]、77mm野砲などが開発された。特にM1897 75mm野砲のデザインは、それ以降の一部の大砲にも引き継がれている。 また当時、特に重要な箇所では[[コンクリート]]製の地下に居住区を持つ要塞が作られ、遠距離からの砲撃ではそれを破壊することができなかった。そのため近距離まで肉薄し攻略する必要が生まれたが、主力部隊を前進させるには同士討ちを避けるため砲撃を停止させなくてはならず、それは敵側としても「相手の主力が今から侵攻してくる」という合図になった。守備兵は位置につくと接近する敵を機関銃や砲で倒すということを繰り返し、その度に攻撃側は多大な犠牲を積み上げることになった。その対抗策として装甲で守られた砲座や機銃座そのものを車両化して前進させ、守備側の迎撃に耐えつつ銃座や砲座を近距離から狙い撃ちして無力化させるアイデアを各国は具現化した。[[戦車]]の誕生である。 [[第二次世界大戦]]でも基本的には同様の戦法が使われた。[[太平洋戦争]]における[[アメリカ軍]]の「鉄の嵐」と言われる苛烈な砲撃はその一例といえる。 前述した通り第一次大戦式の長い砲撃では事前に攻撃地点が敵に伝わってしまうという欠点があり、それを回避するため攻撃地点に火力を集中させ、短時間で多数の砲弾を送り込むように戦術は変化していった。ここで重要視されたのは「火力の集中」であり、それは大砲の高火力化のみならず、機動力の獲得も必要としたのである。これにより大砲には車輪が取り付けられ、より高速な陣地転換を可能にした。これには第一次大戦時のフランスの大砲をベースに米軍が開発した[[M59 155mmカノン砲|155mmカノン砲M2]]などがあり、これらは[[牽引砲]]と呼称される。 これらの兵器は「常に変わっていく戦況の中でどの様に対応していくのか」という問題に直面した。牽引砲はその名の通り牽引車で運ばれていた。その際車輪が付けられているものは戦場での移動を簡単なものにしたが、目まぐるしく変わる戦況の中に牽引による移動では限界があり、第二次大戦当初のドイツなど馬で大砲を引いていたものに関してはより一層致命的な問題であった。その解決策として大砲に車体・エンジンを搭載し、牽引を必要とせず独力で移動できるようにした[[自走砲]]が開発されたが、こういった大砲は[[戦車]]への随伴を可能にし、機動戦に対する適応力を向上させた。代表的な第二次大戦期の自走砲としては[[アメリカ合衆国]]の[[M7自走砲]](プリースト)や英国の[[セクストン自走砲]]などがあり、その自走砲は第一次大戦の頃には少数ながら登場していた。 また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲は空輸が可能となり、敵地に乗り込む[[エアボーン|空挺部隊]]で運用されるようになった。1944年の[[ノルマンディー上陸作戦]]や[[マーケットガーデン作戦]]を通して、連合軍の空挺部隊は敵陣へと空から降り立った。[[輸送機]]で空挺部隊を空へ運ぶことが出来るのだから、大砲も輸送機で運べる大きさにすれば良いという発案のもと、必要な場所に直接送る方法を採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲も送った。これらの大砲は敵地で孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれた空挺部隊の為、あらゆる種類の大砲が必要な場所に送られた。<!-- ??? 発射の反動をれるものは土台として役に立つ。-->また、少数だが航空機に大砲を装着するようになった。大砲の重量や反動に耐えうる、かつ照準のための機動性を確保しうる[[B-25 (航空機)|B-25]]や[[四式重爆撃機]]([[キ109]])のような中型爆撃機クラスが選ばれることが多かったが、比較的軽量の[[攻撃機]]である[[Hs 129 (航空機)|Hs 129]]に75mm対戦車砲を搭載した例もある。 [[艦砲]]は海での戦いを制するために発達してきた。第二次大戦までに海に浮かぶ火力として[[戦艦]]や[[巡洋艦]]など[[戦闘艦]]の火砲が数々の砲弾を発射し、熾烈な砲撃戦を繰り返していた。海における戦闘は自身・標的共にに動き続けており、何もない海洋であるがために位置関係が把握しづらいなど、複雑な問題を抱えており陸での砲撃とはあらゆる面で異なっていた。戦闘艦に巨大な大砲が取り付けられるようになったのは第一次大戦の時期からであり、遥か遠方の敵を見定めるため海兵たちは高性能の測定器や観測用の航空機を使用した。高い破壊力をもつ艦砲は戦いの行方を十分左右しえるものであり、[[大和型戦艦]]の象徴でもある45口径46cm3連装砲は、専用の運搬船「[[樫野 (給兵艦)|樫野]]」を建造するほど巨大なものとなった。[[アイオワ級戦艦]]の[[ニュージャージー (戦艦)|ニュージャージー]]は、第二次大戦期の有名な戦艦の一つである。 一方陸でも戦闘艦と同様に巨大な大砲が開発された。第一次世界大戦ではより大きな火砲を使えば膠着状態を打破できるという思想のもと鉄道を利用した巨大な[[列車砲]]が設計されたが、ドイツ軍が作った当時最大の長距離砲「[[パリ砲]]」の効果はさほどではなく、それよりかはむしろ「恐怖の象徴」ともいうべきものだった。第二次世界大戦でも[[巨砲]]は進化を続け、[[アドルフ・ヒトラー]]とその側近たちは政治的宣伝効果を重視して巨大な火砲を追求していった。その極限が[[クルップK5]] [[80cm列車砲]](名称:ドーラ/グスタフ)であり、史上最大にして最後の[[列車砲]]となった。 === ベトナム戦争 === [[ファイル:M107 Firing Vietnam 2.jpg|サムネイル|[[ケサンの戦い]]において、友軍を支援する[[アメリカ陸軍]]の[[M107 175mm自走カノン砲|M107]]]] ベトナム戦争でも大砲を運ぶことが望まれ、[[ヘリコプター]]の開発が進むと、従来では運搬が困難だった場所も運べるようになった。この時も大砲と砲兵のチームが、激戦地で戦う兵士たちの支援戦闘のため、空から降り立った。[[ケサンの戦い]]においても、正確な対砲兵射撃を行い味方の部隊を守る活躍をみせる。敵から味方を守る「鉄の壁」を作ってくれたのは大砲だった。 こういった大砲を時に大陸を越えてまで戦場へ輸送出来るか否かは、今日の戦闘においても勝敗に大きな影響を与える。こうしたニーズから、プリミティブな形態の牽引砲も[[M777 155mm榴弾砲]]のように最新技術を駆使してより軽量な砲を開発する試みがたゆまず続けられている。また、戦闘機や中距離以上の対空ミサイルを持たない敵対勢力相手に限定されるものの、長大な滞空時間により低コストで持続的な対地支援を行いうる、特に[[ゲリラ]]掃討戦に向いた航空攻撃手段として、大砲を備える航空機、[[ガンシップ]]が一定の価値を認められた。 === 冷戦以後 === 第二次大戦当時から、火力投射手段としてあまりにも肥大化し過ぎた巨砲は、急激に発展した航空機による[[爆撃]](空爆)により淘汰されていった。加えて、大戦末期に萌芽が現れた[[ミサイル]]が大砲の領分に進出してくる。大砲が口径に比例して甚だしく増大する重量と射撃時の反動に耐える必要があるのに比べ、ミサイルを含むロケット兵器は歩兵携行あるいは[[貨物自動車|トラック]]など、はるかに軽便な発射母体から運用可能であること、何より射撃後に誘導修正することによる長射程と高い命中精度のメリットがある。列車砲、戦艦主砲から[[対艦ミサイル]]、[[対戦車砲]]から[[対戦車ミサイル]]のように、完全にミサイルに駆逐されて土台となる兵器ごと消滅してしまった例もある。冷戦中期までに[[弾道ミサイル]]や[[巡航ミサイル]]は大陸レベルの射程を誇り大砲の次元をはるかに超えた兵器へと進化を遂げた。 戦闘機から機関砲を撤廃したり、[[ミサイル戦車]]あるいは戦車無用論が喧伝されたこともあった([[ミサイル万能論]])。しかしその後の戦訓により、地形等の理由によりミサイルは常に射程の長さを活かせるとは限らない、威力射程が同程度の砲弾に比べ高価な上に大きくかさばるため戦闘で携行可能な弾数でも[[兵站]]レベルでの補給可能量においても継戦能力が劣る、砲のように標的の性質に応じて弾種を選択できない、砲弾よりずっと初速が遅く母機から誘導し続けなければならない場合があり特に近距離戦で重要な即時性を欠く。 航空爆弾も航空機の高コストと滞空時間の限界から一過性に留まり大砲の遍在性と即応性を具備し得ないことなどの問題が明らかとなり、21世紀現在に到っても砲はミサイルや航空爆弾と各々異なる価値を持つ兵器として共存し続けている。[[ガンランチャー]]や[[誘導砲弾]]など、砲とミサイルの美点を融合させる試みも実用段階に達してきている。 また、中世以来の火薬力による砲から、電気的エネルギー([[ローレンツ力]])を利用する[[レールガン]]など、まったく新たな射出原理に基づく砲の研究開発も続けられている。 === 日本での歴史 === {{節スタブ}} [[ファイル:Shinagawa Baidai cannon.jpg|サムネイル|[[幕末]]期、外国勢を迎え撃つために、[[品川区|品川]][[お台場|台場]]に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(口径250mm、砲身長3830mm)]] [[1576年]]([[天正]]4年)、[[大友義鎮|大友宗麟]]が[[ポルトガル]]の[[宣教師]]より[[石火矢]]([[フランキ砲]])を入手し「国崩し」と名付けたのが日本における最初の大砲とされる{{Efn2|『[[大友興廃記]]』天正4年([[1576年]])の記述として、南蛮から石火矢を得て悦び、「国崩し」と名付けたと記述があり、天正14年([[1586年]])の薩摩との戦いにおいて使用され、大きな威力を発揮したとされる<ref>{{Cite book|和書|last=菊池 |first=俊彦 |authorlink=菊池俊彦 |title=図譜 江戸時代の技術 下 |publisher=[[恒和出版]] |year=1988 |isbn=4-87536-060-6 |page=544}}</ref>。}}。以後、石火矢は[[火縄銃]]を大型化した[[大筒]]([[大鉄砲]])と共に海戦・攻城戦において構造物破壊に用いられる。なお日本では快速機動の重視や起伏の多い地形の為、重量がかさばる大砲の野戦における運用は殆どなされていない。 日本では[[1590年代]]から大砲生産が盛んになり、[[1614年]]([[慶長]]19年)には[[大坂の陣]]に備えて、[[徳川家康]]は[[イギリス]]や[[オランダ]]より大口径の前装式[[青銅砲]]([[カルバリン砲]]等)を購入している。これらは後に国産化され、[[和製大砲]]となる<ref>{{Cite book|和書|title=歴史を動かした兵器・武器の凄い話 |series=KAWADE夢文庫 |publisher=河出書房新社 |year=2013 |isbn=978-4-309-49884-3 |page=133}}</ref>。 [[1639年]]([[寛永]]16年)には[[江戸幕府]]が前年の[[島原の乱]]における戦訓から、[[榴弾]]とそれを運用する[[臼砲]]の供与を[[オランダ商館]]に求める。[[ハンス・ヴォルフガング・ブラウン]]が平戸で臼砲を製造して江戸にて試射を行っている。[[1650年]]([[慶安]]3年)にも[[ユリアン・スヘーデル]]による臼砲射撃が江戸で行なわれている。 これ以降、日本では大規模な戦乱がなくなり、大砲の発展も停滞する。 1841年には[[高島秋帆]]が[[徳丸ヶ原]](現[[高島平]])で日本最初の近代砲術訓練を行い、西洋式の大砲と和製大砲の技術差を露呈した。1850年代に次々と外国軍艦が来航し、国防のため江戸幕府は寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる毀鐘鋳砲の勅諚を発令。諸藩は[[韮山反射炉]]等の[[反射炉]]を建設して大砲を鋳造するなど新技術の導入に力を入れたが、[[1862年]]の[[薩英戦争]]や[[1864年]]の[[下関戦争]]で欧米との技術差は実戦により明らかとなる。特に下関戦争では、[[長州藩]]の日本製32ポンド砲などによる砲台は四国艦隊の艦載[[110ポンドアームストロング砲]]などにまったく太刀打ちできず敗北した。 これらの戦闘の後、薩摩藩や長州藩は主にイギリスから兵器の輸入を進める一方、幕府もフランスの援助を受けて軍の近代化を進めた結果、両者が衝突した[[第二次長州征伐]]や[[戊辰戦争]]では各地で近代的な大砲による野戦や攻城戦が繰り広げられた。フランスで開発された[[四斤山砲]]は第二次長州征伐で幕府軍が使用して以降、輸入やコピーが進み、一連の戦争を通じて両者の主力[[野戦砲]]となった。この頃には諸藩の技術も向上し、[[上野戦争]]では新政府側の[[佐賀藩]]が製造した[[アームストロング砲]]が投入され、[[会津戦争]]では新政府軍が[[焼玉式焼夷弾]]を[[会津若松城]]攻撃に用いた。旧幕府方の[[越後長岡藩|長岡藩]]も[[北越戦争]]でアームストロング砲や[[ガトリング砲]]を使用して新政府軍を苦しめている。 [[明治維新]]後は大砲の国産化が進んだ。([[大日本帝国陸軍兵器一覧#火砲・投擲器]]を参照) {{See also|反射炉#日本での歴史|台場|和製大砲}} === 中国での歴史 === 火薬、およびその燃焼ガス圧により物体を投射する火器ならびに[[ロケット]]の概念も中国圏で発明されたものだが、その後の科学技術発展は停滞し、逆に西洋側からの知見や現物の輸入に頼るようになった。 中国における西洋式大砲の輸入は[[15世紀]]初め、[[明]]の[[成祖]]の交趾征伐時であり{{Sfn|貝塚|1970|p=50}}、ポルトガルから輸入した「紅夷砲」が[[後金]]に対して使用された{{Sfn|貝塚|1970|p=49}}。明では「神機砲」と呼び、「神機営」という砲兵隊が設けられたが、主に爆音で相手を驚かせる用途で、あまり改良はされなかった{{Sfn|貝塚|1970|p=50}}。その後、[[1621年]]にポルトガル宣教師を火砲に従軍させたり、ドイツ宣教師が砲術を伝えたが{{Sfn|貝塚|1970|p=51}}、中国人は製造・砲術の基礎となる自然科学精神の理解が乏しかったため、火砲を中心とした近代攻城戦・野戦の戦術を採用する姿勢がなく{{Sfn|貝塚|1970|p=52}}、製造した大砲に「安国全軍平遼靖膚将軍」の号を与え、あつく祭祀する有り様だった{{Sfn|貝塚|1970|p=52}}。 == 大砲の分類 == 大砲はその形状・構造や用途・歴史的経緯等によって様々な分類がある。 === 用途等による分類 === {{Multiple image|direction=vertical|width=250 |image1=4-14 Marines in Fallujah.jpg |caption1=[[M198 155mm榴弾砲]] 射撃の瞬間 |image2=Upshot-Knothole GRABLE.jpg |caption2=1953年に行われた[[W9 (核砲弾)|W9核砲弾]]の実験。M65 280mmカノン砲で発射。核出力は広島に投下されたのと同じ15kt。 |image3=5-54-Mark-45-firing edit.jpg |caption3=[[Mk 45 5インチ砲]] 射撃の瞬間}} 用途、歴史的分類による種別は以下の通り * [[攻城砲]] ([[w:siege gun|siege gun]]) * [[野戦砲]] ([[w:Field artillery|Field artillery]]) ** [[カノン砲]] ([[w:cannon|cannon]]) ** [[榴弾砲]] ([[w:howitzer|howitzer]]) ** [[野砲]] ([[w:field howitzer|field howitzer]]) ** [[山砲]] ([[w:mountain gun|mountain gun]]) ** [[臼砲]] ([[w:Mortar (weapon)|mortar]]) ** [[迫撃砲]] ([[w:Mortar (weapon)|mortar]]) ** [[歩兵砲]] ([[w:infantry gun|infantry gun]]) * [[対戦車砲]] ([[w:anti tank gun|anti tank gun]]) * [[対空砲]] ([[w:anti aircraft gun|anti aircraft gun]]) ** [[高射砲]] * [[機関砲]] ([[w:autocannon|autocannon]]) ** [[航空機関砲]] * [[戦車砲]] ([[w:tank gun|tank gun]]) * [[自走砲]] * [[艦砲]] * [[列車砲]] ([[w:railway gun|railway gun]]) * [[要塞砲]] ** [[海岸砲]] * [[速射砲]] * [[原子砲]] {{-}} === 射程と弾道による分類 === * [[曲射砲]] * [[平射砲]] {{射程と弾道による大砲の分類}} === 構造による分類 === ; [[ライフル砲]] : 砲身の内側の施条により、砲弾の飛翔時に回転を加えることによって、弾道の安定を図る方式の砲 ; [[滑腔砲]] : 砲身の内側が滑らかになっている砲。ライフル砲に対するレトロニム。 ; [[ゲルリッヒ砲]] : 砲尾から砲口にかけて[[口径]]が小さくなってゆく砲。口径漸減砲とも呼ばれる ; [[多薬室砲]](その形状からムカデ砲とも呼ばれる) : 通常は尾栓側に入れられた装薬の力によって砲弾を発射する所を、複数の薬室を設け段階的に加速する事で射程の延長などを目指した砲 ; [[液体装薬]]砲 : 発射薬として液体の薬剤を使用する砲 ; [[無反動砲]] ; [[ロケット砲]] ; [[低圧砲]] : 主に対戦車砲ないし軽量戦車砲として運用される。通常の火砲よりも低い腔圧、低初速で発射することにより、軽量低反動化を図った砲の総称。歩兵用[[擲弾発射器]]に広く利用される[[高低圧理論]]に基づく[[コッカリル 90mm低圧砲]]や、無反動砲、[[ロケット弾]]発射機などからの派生的形式などがある。 ; [[前装式]]砲 : ; [[後装式]]砲 : ; 嚢砲 : 弾丸と袋詰された発射薬とを順に込めて使用する砲。砲尾に気密のための構造が必要になる ; 莢砲 : 金属薬莢式の砲 ; 固定薬莢砲 : 砲弾と薬莢が固定されている莢砲 ; 分離薬莢砲 : 砲弾と薬莢が固定されていない莢砲 == 砲兵 == {{Main|砲兵}} 大砲を専門に運用するための[[軍隊]]の[[兵科]]を砲兵と呼ぶ。 == 砲弾 == {{Main|砲弾}} 大砲に使われる弾を砲弾と呼ぶ。砲弾は、発射される際に得た運動エネルギーによって破壊、殺傷効果を及ぼす[[運動エネルギー弾]]と、命中時に爆発することで被害をもたらす[[化学エネルギー弾]]に大別される。 大砲自体の発展に伴い、砲弾も殺傷力を高めるために進化していく。初期の砲弾は固い石が使われていた。そして徐々に殺傷力を向上させ、金属の砲弾や中に爆薬を仕込んだ砲弾が登場した。1784年イギリスの砲兵[[ヘンリー・シュラプネル]]が[[榴散弾]]という画期的な砲弾を生み出した。殺傷能力が桁違いでシュラプネルの名が榴散弾の別名になっている程である。更に[[アルフレッド・ノーベル]]の爆薬の開発により、砲弾は飛躍的に進化する。これにより砲弾が爆発する際の殺傷能力が高まった。軍でも爆薬の開発に勤しみ、[[コルダイト]]などの爆薬が誕生した。爆発物としての性能が実に高く、破壊力も著しく向上した。 == 基本用語集 == あいうえお順 * {{読み仮名|[[脚架]]|きゃっか}} *: 迫撃砲及び無反動砲において、高低装置、脚などで構成され、方向装置を介して砲身部を支える装置。 * {{読み仮名|[[前車]]|ぜんしゃ}} *: 野戦砲が牽引行軍する際に装着する補助輪。 * {{読み仮名|[[駐鋤]]|ちゅうじょ}} *: 主に砲架の後端につく、地面に食い込んで耐反動力を強化する器具。[[スペード]]ともいう。 * {{読み仮名|[[駐退機]]|ちゅうたいき}} *: 砲身を後退させて射撃反動の一部を逃がし、元の位置へ復帰させる、一種のサスペンション装置。 * {{読み仮名|[[平衡機]]|へいこうき}} *: 砲身の俯仰動作の妨げになる、前後の重量の偏りを補正する装置。 * {{読み仮名|[[閉鎖器]]|へいさき}} *: [[尾栓]]のうち、特に後装式火器で薬室の閉鎖と開放を行う機構。大部分の大砲は[[隔螺式]]と[[フォーリングブロック・アクション|鎖栓式]]に2分される。 * {{読み仮名|砲口|ほうこう}} *: [[砲身]]の先端 * {{読み仮名|砲口制退器|ほうこうせいたいき}} *: 単に制退器、[[マズルブレーキ]]ともいう。砲口からの発射ガス圧の一部を後方寄りに偏向し反動を軽減する装置。 * {{読み仮名|[[トラニオン|砲耳]]|ほうじ}} *: 大砲の狙いをつける(射距離を調節する)ための、砲身の上下の俯仰動作を行う可動軸。 * {{読み仮名|砲尾|ほうび}} *: 砲身部の後端部 * {{読み仮名|[[砲架]]|ほうか}} *: 砲身の支持架台 * {{読み仮名|[[砲車]]|ほうしゃ}} *: 大砲を移動させるための車輪。車台は普通は砲架と一体化されている。 == 逸話 == * [[ガリレオ・ガリレイ]]は、大砲の[[弾道学]]を研究した。 * 世界最初の[[コンピュータ]]のひとつである[[ENIAC]]は火砲の[[弾道]]計算の目的で製作された。 * 大砲を製造する技術・資材のない土地では、木砲を製作して利用することがあった。木砲とは、砲身を一つの丸木からくりぬくか、または複数の木材を組み立てて形成し、周囲を[[竹]]のたがや[[ロープ]]で幾重にも巻いて補強したものである。金属製の大砲と比べ使用できる発射薬の量も砲身命数も当然大きく劣る。砲身を英語で[[樽]]と同じ[[w:Gun barrel|barrel]]と呼ぶのは、木砲作りに樽作りの技術を応用した名残といわれる。有名な話としては、[[日露戦争]]の際[[旅順の戦い]]において[[日本軍]]は木砲を造り使用したという話も残っている{{efn2|ただし、製作したものは今日の分類においては[[迫撃砲]]に当たる。}}。 * 「弾丸(球)を遠くに運ぶ」というイメージから[[野球]]において頻繁に[[本塁打]]を打つ[[打者]]又は強打者のことを表す言葉としても用いられる。日本人の強打者は和製大砲とも呼ばれる。 ** 野球では投手と捕手の組を「バッテリー」というが、「battery」には「一組の」という意味の他に「砲兵中隊・砲列」という意味もある。これは、チームの投手力を砲台に喩えたことが由来とされる。 * [[楽器]]として用いられることもある。よく知られているものは[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]作曲の「[[1812年 (序曲)|序曲1812年]]」だが{{Sfn|ダイアプレス|2009|p=72}}、それ以前に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の「[[ウェリントンの勝利]]」にも使われている。どちらの曲にも、楽譜上に “Cannon” 等のように楽器指定されている。 ** [[陸上自衛隊]]の音楽隊が[[観閲式]]などで「序曲1812年」を演奏する際には、特科部隊が音楽隊へ編入され、本物の大砲により空砲を撃つ。この演奏に使われるのは、旧式の[[M101 105mm榴弾砲]]である{{Sfn|荒木|2012|p=79}}。2007年の富士総合火力演習では現役装備である155mm口径の[[FH70]]を使用したが、発砲音が強力過ぎて演奏者や聴衆の聴覚が麻痺したため、失敗に終わった{{Sfn|ダイアプレス|2009|p=73}}。 * [[人間]]を砲弾として打ち出す[[曲芸]]は[[人間大砲]]と呼ばれる。 == 比喩 == 大砲は、その大きさ・威力があることから、それになぞらえてインパクトのある物事を例えることがある。 例として[[日本銀行]]の政策を「[[市場介入|日銀砲]]([[黒田砲]])」、[[週刊文春]]のスクープを「文春砲」と呼ぶ<ref>「ワイド特集『文春砲』って何だ?」『週刊文春』2016年12月1日号</ref><ref>{{cite news | author = 有井太郎 | url = http://diamond.jp/articles/-/87743 | title = 『週刊文春』編集長が明かした、列島を揺るがす「文春砲」の神髄 | newspaper = [[週刊ダイヤモンド]] | publisher = [[ダイヤモンド社]] | date = 2016-03-11 | accessdate = 2016-06-28 }}</ref>など。 2ちゃんねるにおける「[[田代砲]]」も、ごく短時間で迷惑メールサーバを破壊する、大量の組織票を入れられることなどから「砲」の名前を持つ<ref>{{Cite web|和書|title=田代砲 - アンサイクロペディア |url=https://xn--cckacd9c8a6ing0g5b.com/wiki/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E7%A0%B2 |access-date=2023-10-25}}</ref>。 また[[野球]]において、高い打力を持ち[[本塁打]]の量産が期待できる選手を「'''大砲'''」と形容する。[[日本人]]選手の場合には「'''和製大砲'''」とも呼ばれる。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考資料 == *{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/atla/nds/Y/Y0003B.pdf |title=防衛省規格 火器用語(火砲) |format=PDF |publisher=防衛省 |accessdate=2016-02-17}} *{{Cite book|和書|last=マクニール|first=ウィリアム|authorlink=ウィリアム・ハーディー・マクニール|translator=高橋均|title=戦争の世界史|accessdate=2010-04-25|edition=初版|year=2002|publisher=刀水書房|language=日本語|id={{ISBN2|4-88708-271-1}}、ISBN-13:978-4-88708-271-7|ref=harv}} *{{Cite book|和書|date=2009年11月|title=笑える世界の軍隊 |series=DIA COLLECTION |publisher=ダイアプレス|id=ISBN 978-4-86214-365-5|ref={{SfnRef|ダイアプレス|2009}}}} *{{Cite magazine|和書|last = 荒木 |first=雅也 |title = 陸上自衛隊の車両と装備|date = 2012年12月27日|magazine = PANZER 1月号臨時増刊 |volume=525号 |publisher=アルゴノート社 |ref=harv}} *{{Cite book|和書|last=貝塚 |first=茂樹 |title=中国の歴史 下 |publisher=岩波新書 |year=1970 |id=ISBN 4-00-413042-5、ISBN-13:978-4-00-413042-0 |ref=harv}} *『ミリタリー大百科‐大砲‐』[[ディスカバリーチャンネル]][見のがせナイト] 番組内の説明や逸話を参考にした。{{出典無効|date=2020年8月|title=WP:TVWATCH}} == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[砲台]] * [[砲塔]] * [[空包]] * [[礼砲]]、[[祝砲]]、[[弔砲]] * [[午砲]]・[[午砲台]] * [[弾道]] * [[弾道学]] * [[榴弾砲]] * [[マスドライバー]] * [[戦艦#装備・船体]] * {{仮リンク|蒸気砲|en|Steam cannon}} * [[ダイナマイト砲]] * [[レールガン]] * [[コイルガン]] * [[道火桿]](大砲に着火させるための槍・棒) }} == 外部リンク == {{Commons&cat|Cannon|Cannons}} {{Wiktionary|砲|大砲}} * {{Wayback |url=http://sus3041.sakura.ne.jp |title=大砲と装甲の研究 |date=20150516070102 }} * {{Kotobank|砲}} * {{Kotobank|大砲}} {{大砲}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいほう}} [[Category:大砲|*]]
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拍子
拍子(ひょうし)は、一般には、拍や拍の連なりのこと。西洋音楽では強拍に連なるいくつかの拍の集まりの繰り返しを言う。日本では「三三七拍子」という言葉でわかるように、この言葉は、西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる使われ方をする。アラブ古典音楽のイーカーア(イーカー)やインド古典音楽のターラ(サンスクリット読み)を「何々拍子」と表現することがあるが、これも西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる。 以下、本項においては、西洋音楽のそれについて述べる。 西洋音楽において拍子とは、拍の連なり(拍節)において、拍に重軽が生じたとき、ひとつの重である拍(「強拍」という)とそれに後続する1つないしいくつかの軽である拍(「弱拍」という)の集まりが(原則として)周期的に繰り返され、強拍から次の強拍まででひとつのまとまりを感ずることをいう。 ひとつの強拍に連なる拍の数によって、2拍子、3拍子、4拍子などと呼ぶ。また、ひとつの拍を示す音価を添えて、4分の2拍子、2分の3拍子と呼ぶ。楽譜には、五線の下半分に音価、上半分に拍数を書く。これを拍子記号という。なお楽譜上では、ひとつの拍を示す音価が付点音符の場合、便宜上本来の拍子と異なる数字を書き記すことがある。なお、2分の2拍子を、4分の4拍子をと書くことがある。これは中世フランスの音楽家、フィリップ・ド・ヴィトリー(英語版)が音楽理論書『Ars Nova』(1325年頃)で用いた記譜法に由来する。『Ars Nova』では、音価の分割について3分割を完全分割、2分割を不完全分割とし、完全分割による3拍子は完全を意味する正円「○」で表し、不完全分割による2拍子や4拍子は正円の一部が欠けた「C」によって表していた。中には「Common time (ありふれた拍子) の頭文字Cを図案化したもの」と解説する書もあるが、これは誤りである。 楽譜に書くとき、ひとつの強拍に連なる拍のまとまりを、小節と呼ぶ。 ルネサンス音楽(15世紀から16世紀頃)以前は、曲全体に統一された拍子を与えることは一般的でなかった。一つの曲の中で拍の強弱の周期は様々に変化し、多声音楽では強拍の位置が声部ごとに異なるのが普通であった。しかし、舞曲ではステップを踏むために必要であったため、拍子がつけられていた。バロック音楽(17世紀から18世紀半ば頃)以後は舞曲のスタイルが踏襲されたため、西洋音楽は拍子をもつようになった。 西洋音楽においては、すべての拍子を2拍子ないし3拍子の組み合わせに適用する傾向があり、これを単純拍子と呼ぶ。また、2拍子の複合拍子である4拍子を単純拍子に加えることもある。 ひとつの強拍とひとつの弱拍から成る拍子で、人間の歩行から発生したと考えられている。1拍を4分音符とする2拍子を4分の2拍子、1拍を2分音符とする2拍子を2分の2拍子(alla breve 〈アッラ・ブレーヴェ〉)という。 ひとつの強拍と2つの弱拍から成る拍子で、馬の歩行から発生したと言われることが多い。メヌエットやワルツは3拍子であり、このような踊りのリズムに多く見られる。1拍を8分音符とする3拍子を8分の3拍子、1拍を4分音符とする3拍子を4分の3拍子、1拍を2分音符とする3拍子を2分の3拍子という。 一般には2拍子を2つ連ねたものと考えられていて、強-弱-中強-弱の4つの拍から成る。ただし、強-弱-弱-弱と考えられるものもある。1拍を4分音符とする4拍子を4分の4拍子という。 西洋音楽の楽譜における音符は2等分系で作られているため、拍を3等分するリズムは3連符を使って記すことになり、表現が煩雑になりがちであるため、拍を3等分するリズムによる曲では1拍の音価を3等分しやすい音符で表すことが考案され、付点音符を付与されるようになった。 付点4分の2拍子や付点2分の3拍子などと呼ばれるものがそれであり、付点音符は付点が付く以前の音符の1.5倍の長さ、すなわち付点が付く以前の音符の半分の長さの3倍の長さを持つために、3等分の概念を表現しやすい。しかしこれは数字だけで示すことができないため、楽譜上では3等分した音価とその音価の小節内の数を、五線の下と上に表現する。すなわち、付点4分の2拍子は付点4分音符を3等分した8分音符を基準として「8分の6」拍子と書かれ、付点2分の3拍子は同様に「4分の9」拍子と書かれる。複合拍子には6、9、12拍子が分類されるが、時に純粋な6拍子、9拍子、12拍子も存在する。それらはひとつの強拍と残りの5、8、11個の弱拍から成る拍子である。また、各拍が6等分される拍子として、拍子記号の表記上18拍子、24拍子と表記される3拍子、4拍子もある。 基本的には各拍が3等分される2拍子、つまり3拍子+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱)となるのが普通である。この場合、8分の6拍子は1拍を付点4分音符、4分の6拍子は1拍を付点2分音符とした2拍子となる。しかし、各拍が2等分される3拍子つまり2拍子+2拍子+2拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱)も存在する。この場合、4分の6拍子は1拍を2分音符とした3拍子となる。すなわちこれは前述の通り2分の3拍子に等しい。 各拍が3等分される3拍子。8分の9拍子は1拍を付点4分音符とした3拍子となる。 各拍が3等分される4拍子。8分の12拍子は1拍を付点4分音符とした4拍子となる。パストラールにしばしば見られる(ヘンデル『メサイア』のPifa、ハイドン『四季』第1曲、ベートーヴェン交響曲第6番の第2楽章など)。ジーグでもしばしばこの拍子が使われる。 各拍が6等分される3拍子。16分の18拍子がバッハ『ゴルトベルク変奏曲』第26変奏に見られる(左手は4分の3拍子)。 各拍が6等分される4拍子。16分の24拍子がバッハ『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第15曲の前奏曲に見られる(左手は4分の4拍子)。 以上の拍子を足し算して組み合わせた拍子を変拍子、特殊拍子、または混合拍子と呼ぶ。ただし、「変拍子」は、いわゆる、拍子の頻繁な変化を指していうこともある。 純5拍子(強-弱-弱-弱-弱)、3拍子+2拍子(強-弱-弱-中強-弱)、2拍子+3拍子(強-弱-中強-弱-弱)の3態に大分される。元来の西洋音楽にはない拍子で、スラブ音楽などの他文化から引用された拍子である。3拍子+2拍子・2拍子+3拍子の場合は、大枠としては「各拍の長さの異なる2拍子」ということができる。 純粋な7拍子(強-弱-弱-弱-弱-弱-弱)、2+2+3拍子または4+3拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+2+2拍子または3+4拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱)、2+3+2拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の4態に大分される。純粋な7拍子以外の場合、大枠としては「各拍の長さの異なる3拍子」ということができる。 現在は2+3+3拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱-弱)、3+2+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+3+2拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の3態に大分されている。いずれも大枠としては「各拍の長さの異なる3拍子」ということができる。 前項の複合拍子にある9拍子は「各拍が3等分される3拍子」(3+3+3)であるが、変拍子の9拍子も存在する。 同時に合奏ないし合唱される各声部の拍が異なること、またはそのように構成されたリズムのことをポリリズム と呼ぶ。各地の民族音楽、現代音楽、一部の指向的なポップスなどに見られる。日本では、tipographicaやDCPRGなどがポリリズムの追求を実践した。 レスピーギの『ローマの祭り』の「La Befana」(2分の1拍子)や、ボロディンの『交響曲第2番』第2楽章の「Prestissimo」部(1分の1拍子)等がある。また、ベートーヴェンのスケルツォは3拍子だが、1拍が3等分された1拍子であるといわれることがある。また、他の拍子の間に挿入して特殊な効果を与えるために使われるものを言うこともある。 『1拍子』を拍子の分類に定義すべきかについては、諸説の分かれるところである。 ひとつの楽曲の中で拍子が変わることもある。これを可変拍子と呼ぶ。特に曲が大きく変容するとき、拍子が変わることはしばしばである。また、近代の楽曲、例えばストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』では拍子が数小節で変わることがあり、周期性が感じられず、楽譜の便宜だけのために拍子記号が用いられるというようなものも見られる。そのようなときには、上に挙げた拍子以外の拍子が見られることもしばしばである。また童謡「あんたがたどこさ」や民謡「炭坑節」などのように、メロディー重視の楽曲に対して楽理的に拍子を数えた時に、意図せずして可変拍子になる場合がある。 最初の音よりタイと強拍か弱拍に休符によって区切られた場合に超強となる。強拍における重心が確保されると小節が成立し、2つ並んで動機となる。効果はリズムと対位が共に終止の構造をとるまで有効である。ビートと異なり、音量による補強を拍子学に組み込まずに説明される。あくまで音量は波に働く総合力と解釈し、音質とかかわりがあるという立場から来る。 「強拍」「弱拍」という言葉につられるせいか、「強拍は音の強い拍」「弱拍は音の弱い拍」という説明を(専門書でさえも)見かけるが、これは誤解を招きやすい表現である。実際の音楽ではむしろ、弱拍に強拍よりも強い音が置かれることが多いからである。その顕著なものはジャズのフォービート、ロックやポップスのエイトビート、シックスティーンビートであって、4拍子の2拍目と4拍目に強勢が来るが、それらは決して「強拍」ではない(バックビート参照)。 英語のdown beat、ドイツ語のAbtakt(いずれも強拍のことだが、下向きの拍の意味である)やup beat、Auftakt(上向きの拍のことで弱拍のこと)のほうがこれらの概念に近い。舞踊におけるステップの重軽は本質に近い。実際の音楽では、伴奏音形において低い音が強拍に当たることが多い。 上記の2つは相反する立場から語られるため別々に独立した概念であるが、しかし双方とも共通する事柄が有る。近年のコンピュータを用いた研究により、強拍と弱拍は微妙に長さが違うことが肉眼で確認できることが証明された。この違いをメトロノーム記号で厳密にコントロールする作曲家も20世紀後半から増え始める。近藤譲はMM96から93へといったテンポチェンジを行うが、本人の説明では「ムードチェンジ」と言っている。カールハインツ・シュトックハウゼンも、テンポの半音階といった概念は、これら強拍と弱拍の微妙な差異のコントロールが源泉であることを語っている。 楽譜上で1拍を表す音価には、4分音符ないし付点4分音符が多く使われ、2分音符ないし付点2分音符、8分音符、16分音符がそれに次ぐ。そのほか、稀に付点8分音符や32分音符などがあり、また古い曲などでは全音符を1拍とする拍子(その場合拍子記号の分母は1で表される)もある。極端な例としてカール・オルフ『カルミナ・ブラーナ』の「Ecce gratum」では部分的に倍全音符を1拍とした4拍子が出てくる。逆に分母が大きい(短い)ものとしてはジョージ・クラム『ブラック・エンジェルズ』(1970年)に7⁄128拍子が出てくる。 一般に音価は2の冪乗になるが、福井知子や川島素晴の作品の中には、24や12といった分母を持つ拍子がある。それらは事実上、16分3連や8分3連などの、3連符の長さを持つ音価である。 その音価によって演奏上何らかの違いが生じるわけではなく、4分の3拍子を8分の3拍子で書き直しても、演奏上同じであるが、伝統的な舞曲などでは分母が決まっていることが多い(サラバンドは3⁄2拍子、メヌエットは3⁄4拍子、シチリアーナは6⁄8または12⁄8拍子など)。一般にはゆっくりしたテンポの曲で大きな音価の拍が使われると考えられがちであるが、モーツァルトなどでは非常にゆっくりとした8分の3拍子が存在する。
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"純粋な7拍子(強-弱-弱-弱-弱-弱-弱)、2+2+3拍子または4+3拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+2+2拍子または3+4拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱)、2+3+2拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の4態に大分される。純粋な7拍子以外の場合、大枠としては「各拍の長さの異なる3拍子」ということができる。", "title": "変拍子" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在は2+3+3拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱-弱)、3+2+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+3+2拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の3態に大分されている。いずれも大枠としては「各拍の長さの異なる3拍子」ということができる。", "title": "変拍子" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "前項の複合拍子にある9拍子は「各拍が3等分される3拍子」(3+3+3)であるが、変拍子の9拍子も存在する。", "title": "変拍子" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同時に合奏ないし合唱される各声部の拍が異なること、またはそのように構成されたリズムのことをポリリズム と呼ぶ。各地の民族音楽、現代音楽、一部の指向的なポップスなどに見られる。日本では、tipographicaやDCPRGなどがポリリズムの追求を実践した。", "title": "変拍子" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "レスピーギの『ローマの祭り』の「La Befana」(2分の1拍子)や、ボロディンの『交響曲第2番』第2楽章の「Prestissimo」部(1分の1拍子)等がある。また、ベートーヴェンのスケルツォは3拍子だが、1拍が3等分された1拍子であるといわれることがある。また、他の拍子の間に挿入して特殊な効果を与えるために使われるものを言うこともある。", "title": "その他の拍子" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『1拍子』を拍子の分類に定義すべきかについては、諸説の分かれるところである。", "title": "その他の拍子" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ひとつの楽曲の中で拍子が変わることもある。これを可変拍子と呼ぶ。特に曲が大きく変容するとき、拍子が変わることはしばしばである。また、近代の楽曲、例えばストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』では拍子が数小節で変わることがあり、周期性が感じられず、楽譜の便宜だけのために拍子記号が用いられるというようなものも見られる。そのようなときには、上に挙げた拍子以外の拍子が見られることもしばしばである。また童謡「あんたがたどこさ」や民謡「炭坑節」などのように、メロディー重視の楽曲に対して楽理的に拍子を数えた時に、意図せずして可変拍子になる場合がある。", "title": "可変拍子" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "最初の音よりタイと強拍か弱拍に休符によって区切られた場合に超強となる。強拍における重心が確保されると小節が成立し、2つ並んで動機となる。効果はリズムと対位が共に終止の構造をとるまで有効である。ビートと異なり、音量による補強を拍子学に組み込まずに説明される。あくまで音量は波に働く総合力と解釈し、音質とかかわりがあるという立場から来る。", "title": "強拍と弱拍" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「強拍」「弱拍」という言葉につられるせいか、「強拍は音の強い拍」「弱拍は音の弱い拍」という説明を(専門書でさえも)見かけるが、これは誤解を招きやすい表現である。実際の音楽ではむしろ、弱拍に強拍よりも強い音が置かれることが多いからである。その顕著なものはジャズのフォービート、ロックやポップスのエイトビート、シックスティーンビートであって、4拍子の2拍目と4拍目に強勢が来るが、それらは決して「強拍」ではない(バックビート参照)。", "title": "ビートの分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "英語のdown beat、ドイツ語のAbtakt(いずれも強拍のことだが、下向きの拍の意味である)やup beat、Auftakt(上向きの拍のことで弱拍のこと)のほうがこれらの概念に近い。舞踊におけるステップの重軽は本質に近い。実際の音楽では、伴奏音形において低い音が強拍に当たることが多い。", "title": "ビートの分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "上記の2つは相反する立場から語られるため別々に独立した概念であるが、しかし双方とも共通する事柄が有る。近年のコンピュータを用いた研究により、強拍と弱拍は微妙に長さが違うことが肉眼で確認できることが証明された。この違いをメトロノーム記号で厳密にコントロールする作曲家も20世紀後半から増え始める。近藤譲はMM96から93へといったテンポチェンジを行うが、本人の説明では「ムードチェンジ」と言っている。カールハインツ・シュトックハウゼンも、テンポの半音階といった概念は、これら強拍と弱拍の微妙な差異のコントロールが源泉であることを語っている。", "title": "ビートの分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "楽譜上で1拍を表す音価には、4分音符ないし付点4分音符が多く使われ、2分音符ないし付点2分音符、8分音符、16分音符がそれに次ぐ。そのほか、稀に付点8分音符や32分音符などがあり、また古い曲などでは全音符を1拍とする拍子(その場合拍子記号の分母は1で表される)もある。極端な例としてカール・オルフ『カルミナ・ブラーナ』の「Ecce gratum」では部分的に倍全音符を1拍とした4拍子が出てくる。逆に分母が大きい(短い)ものとしてはジョージ・クラム『ブラック・エンジェルズ』(1970年)に7⁄128拍子が出てくる。", "title": "1拍を表す音価" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一般に音価は2の冪乗になるが、福井知子や川島素晴の作品の中には、24や12といった分母を持つ拍子がある。それらは事実上、16分3連や8分3連などの、3連符の長さを持つ音価である。", "title": "1拍を表す音価" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その音価によって演奏上何らかの違いが生じるわけではなく、4分の3拍子を8分の3拍子で書き直しても、演奏上同じであるが、伝統的な舞曲などでは分母が決まっていることが多い(サラバンドは3⁄2拍子、メヌエットは3⁄4拍子、シチリアーナは6⁄8または12⁄8拍子など)。一般にはゆっくりしたテンポの曲で大きな音価の拍が使われると考えられがちであるが、モーツァルトなどでは非常にゆっくりとした8分の3拍子が存在する。", "title": "1拍を表す音価" } ]
拍子(ひょうし)は、一般には、拍や拍の連なりのこと。西洋音楽では強拍に連なるいくつかの拍の集まりの繰り返しを言う。日本では「三三七拍子」という言葉でわかるように、この言葉は、西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる使われ方をする。アラブ古典音楽のイーカーア(イーカー)やインド古典音楽のターラ(サンスクリット読み)を「何々拍子」と表現することがあるが、これも西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる。 以下、本項においては、西洋音楽のそれについて述べる。
'''拍子'''(ひょうし)は、一般には、[[拍節|拍]]や拍の連なりのこと。[[西洋音楽]]では強拍に連なるいくつかの拍の集まりの繰り返しを言う。日本では「[[三三七拍子]]」という言葉でわかるように、この言葉は、西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる使われ方をする。アラブ古典音楽のイーカーア(イーカー)やインド古典音楽のターラ(サンスクリット読み)を「何々拍子」と表現することがあるが、これも西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる。 以下、本項においては、西洋音楽のそれについて述べる。 == 西洋音楽における拍子 == [[西洋音楽]]において'''拍子'''とは、拍の連なり([[拍節]])において、拍に重軽が生じたとき、ひとつの重である拍(「強拍」という)とそれに後続する1つないしいくつかの軽である拍(「弱拍」という)の集まりが(原則として)周期的に繰り返され、強拍から次の強拍まででひとつのまとまりを感ずることをいう。 ひとつの強拍に連なる拍の数によって、2拍子、3拍子、4拍子などと呼ぶ。また、ひとつの拍を示す[[音価 (音楽)|音価]]を添えて、4分の2拍子、2分の3拍子と呼ぶ。[[楽譜]]には、五線の下半分に音価、上半分に拍数を書く。これを'''拍子記号'''という。なお楽譜上では、ひとつの拍を示す音価が付点[[音符]]の場合、便宜上本来の拍子と異なる数字を書き記すことがある。なお、2分の2拍子を[[画像:二分の二拍子001.png]]、4分の4拍子を[[画像:四分の四拍子001.png]]と書くことがある。これは中世フランスの音楽家、{{仮リンク|フィリップ・ド・ヴィトリー|en|Philippe de Vitry}}が音楽理論書『Ars Nova』([[1325年]]頃)で用いた記譜法に由来する。『Ars Nova』では、音価の分割について3分割を完全分割、2分割を不完全分割とし、完全分割による3拍子は完全を意味する正円「○」で表し、不完全分割による2拍子や4拍子は正円の一部が欠けた「C」によって表していた<ref>{{Cite book|和書 |author = 笠原潔 |authorlink = 笠原潔 |title = 西洋音楽の歴史 |year = 1997 |publisher = [[放送大学教育振興会]] |series = 放送大学教材 |isbn = 4-595-87722-6 |pages = 363-366 |chapter = 15 西洋の楽譜 }}</ref>。中には「Common time (ありふれた拍子) の頭文字Cを図案化したもの」と解説する書もあるが<ref>{{Cite book|和書 |author=C.F.グース |coauthors= W.アイゼンハウアー |others=杉原道夫訳 |year=1998 |title=ラーントゥプレイ 最新フレンチホルン教本 BOOK1&2 |publisher=全音楽譜出版社 |isbn=978-4115481152 }}</ref>、これは誤りである。 楽譜に書くとき、ひとつの強拍に連なる拍のまとまりを、[[小節]]と呼ぶ。 == 西洋音楽における拍子の歴史 == [[ルネサンス音楽]]([[15世紀]]から[[16世紀]]頃)以前は、曲全体に統一された拍子を与えることは一般的でなかった。一つの曲の中で拍の強弱の周期は様々に変化し、[[ポリフォニー|多声音楽]]では強拍の位置が声部ごとに異なるのが普通であった。しかし、[[舞曲]]ではステップを踏むために必要であったため、拍子がつけられていた。[[バロック音楽]]([[17世紀]]から[[18世紀]]半ば頃)以後は舞曲のスタイルが踏襲されたため、西洋音楽は拍子をもつようになった<ref>{{Cite book|和書 |author = 笠原潔 |authorlink = 笠原潔 |title = 西洋音楽の歴史 |year = 1997 |publisher = [[放送大学教育振興会]] |series = 放送大学教材 |isbn = 4-595-87722-6 |pages = 17-19 |chapter = 1 西洋音楽の時代区分と時代様式の変遷 }}</ref>。 {{節スタブ}} == 単純拍子 == 西洋音楽においては、すべての拍子を2拍子ないし3拍子の組み合わせに適用する傾向があり、これを単純拍子と呼ぶ。また、2拍子の複合拍子である4拍子を単純拍子に加えることもある。 === 2拍子 === ひとつの強拍とひとつの弱拍から成る拍子で、人間の歩行から発生したと考えられている。1拍を4分音符とする2拍子を4分の2拍子、1拍を2分音符とする2拍子を2分の2拍子(alla breve 〈アッラ・ブレーヴェ〉)という。 === 3拍子 === ひとつの強拍と2つの弱拍から成る拍子で、馬の歩行から発生したと言われることが多い。[[メヌエット]]や[[ワルツ]]は3拍子であり、このような踊りのリズムに多く見られる。1拍を8分音符とする3拍子を8分の3拍子、1拍を4分音符とする3拍子を4分の3拍子、1拍を2分音符とする3拍子を2分の3拍子という。 === 4拍子 === 一般には2拍子を2つ連ねたものと考えられていて、強-弱-中強-弱の4つの拍から成る。ただし、強-弱-弱-弱と考えられるものもある。1拍を4分音符とする4拍子を4分の4拍子という。 == 複合拍子 == 西洋音楽の楽譜における[[音符]]は2等分系で作られているため、拍を3等分するリズムは3連符を使って記すことになり、表現が煩雑になりがちであるため、拍を3等分するリズムによる曲では1拍の音価を3等分しやすい音符で表すことが考案され、付点音符を付与されるようになった。 付点4分の2拍子や付点2分の3拍子などと呼ばれるものがそれであり、付点音符は付点が付く以前の音符の1.5倍の長さ、すなわち付点が付く以前の音符の半分の長さの3倍の長さを持つために、3等分の概念を表現しやすい。しかしこれは数字だけで示すことができないため、楽譜上では3等分した音価とその音価の小節内の数を、五線の下と上に表現する。すなわち、付点4分の2拍子は付点4分音符を3等分した8分音符を基準として「8分の6」拍子と書かれ、付点2分の3拍子は同様に「4分の9」拍子と書かれる。複合拍子には6、9、12拍子が分類されるが、時に純粋な6拍子、9拍子、12拍子も存在する。それらはひとつの強拍と残りの5、8、11個の弱拍から成る拍子である。また、各拍が6等分される拍子として、拍子記号の表記上18拍子、24拍子と表記される3拍子、4拍子もある。 === 6拍子 === 基本的には各拍が3等分される2拍子、つまり3拍子+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱)となるのが普通である。この場合、8分の6拍子は1拍を付点4分音符、4分の6拍子は1拍を付点2分音符とした2拍子となる。しかし、各拍が2等分される3拍子つまり2拍子+2拍子+2拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱)も存在する。この場合、4分の6拍子は1拍を2分音符とした3拍子となる。すなわちこれは前述の通り2分の3拍子に等しい。 * 6拍子(3+3)の例 **[[橋本祥路]]の合唱曲『[[夢の世界を]]』(6/8拍子) ** [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の『[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]]』 ***第1楽章・運命動機以降の大部分(6/8拍子) ***第4楽章終曲・終盤一部(6/4拍子) ** [[ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]』 ***第4楽章・終曲 ****行進曲風第1主題(6/8拍子) ****二重フーガ(6/4拍子) ** [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[動物の謝肉祭|白鳥]]』(6/4拍子) ** [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の『[[交響曲第3番 (ブラームス)|交響曲第3番]]』第1楽章(6/4拍子) **[[ジョン・フィリップ・スーザ|スーザ]]の『[[ワシントン・ポスト (行進曲)|ワシントン・ポスト]]』(6/8拍子) * 6拍子(2+2+2)の例 ** [[グスタフ・マーラー|マーラー]]の『[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲第2番]]』第4楽章(6/4拍子) **[[佐藤眞]]の『[[土の歌]]』第6楽章『地上の祈り』一部(6/4拍子)<ref>[https://platinumsingers.jimdo.com/2015/10/15/%E5%9C%B0%E4%B8%8A%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A/ 地上の祈り‐プラチナ★シンガーズ - Jimdo]2018年8月28日閲覧。</ref> **[[平吉毅州]]の『[[ひとつの朝]]』 **[[若松歓]]の『[[君とみた海]]』 *6拍子(3+3と2+2+2)の例 ** [[レナード・バーンスタイン|バーンスタイン]]のミュージカル『[[ウエスト・サイド物語]]』より『アメリカ』(3+3の小節と2+2+2の小節が交互) === 9拍子 === 各拍が3等分される3拍子。8分の9拍子は1拍を付点4分音符とした3拍子となる。 === 12拍子 === 各拍が3等分される4拍子。8分の12拍子は1拍を付点4分音符とした4拍子となる。[[パストラール]]にしばしば見られる([[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』のPifa、ハイドン『[[四季 (ハイドン)|四季]]』第1曲、ベートーヴェン[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番]]の第2楽章など)。[[ジーグ]]でもしばしばこの拍子が使われる。 === 18拍子 === 各拍が6等分される3拍子。16分の18拍子が[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]『[[ゴルトベルク変奏曲]]』第26変奏に見られる(左手は4分の3拍子)。 === 24拍子 === 各拍が6等分される4拍子。16分の24拍子がバッハ『[[平均律クラヴィーア曲集]]』第1巻第15曲の前奏曲に見られる(左手は4分の4拍子)。 == 変拍子 == <!--1拍子が「その他」にあるのでコメントアウト→以上に分類されない拍子を変拍子と呼ぶ。主として、-->以上の拍子を足し算して組み合わせた拍子を変拍子、'''特殊拍子'''、または'''混合拍子'''と呼ぶ。ただし、「変拍子」は、いわゆる、拍子の頻繁な変化を指していうこともある。 === 5拍子 === 純5拍子(強-弱-弱-弱-弱)、3拍子+2拍子(強-弱-弱-中強-弱)、2拍子+3拍子(強-弱-中強-弱-弱)の3態に大分される。元来の西洋音楽にはない拍子で、[[スラブ|スラブ音楽]]などの他文化から引用された拍子である。3拍子+2拍子・2拍子+3拍子の場合は、大枠としては「各拍の長さの異なる2拍子」ということができる。 * 純5拍子の例 ** [[フレデリック・ショパン|ショパン]]の『[[ピアノソナタ第1番 (ショパン)|ピアノソナタ第1番]]』第3楽章冒頭 (のちに3+2へ変化) ** [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の『[[24の前奏曲 (ショスタコーヴィチ)|24の前奏曲]]』第21番 変ロ長調 * 純5拍子と他の拍子の混合の例 ** {{要出典範囲|date=2023年1月23日 (月) 14:09 (UTC)|[[ゴジラ]]のテーマ(初頭、4拍子→純5拍子を繰り返す)}} * 5拍子 (3+2) の例 ** ドラマ・映画『[[スパイ大作戦]]([[ミッション:インポッシブル]])』のテーマ ** [[デイヴ・ブルーベック]]の[[スタンダードナンバー|ジャズスタンダード曲]]『[[テイク・ファイヴ]]』 **:曲名もそのまま。(Take five=5拍子) ** [[ジャン・シベリウス|シベリウス]]の『[[クレルヴォ交響曲|クッレルヴォ]]』の第3楽章 **:題材となった叙事詩『[[カレヴァラ]]』が5拍子 (3+2) の決まった韻律を持っていることによる。 ** [[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』の最終部分 **:「全員の踊り」の主要リズム部分がこれに相当するが、「全員の踊り」の総体は複数の拍子の複合によって構成されている。 ** [[伊丹十三|伊丹十三監督]]の映画主題歌で[[本多俊之|本多俊之とラジオクラブ]]演奏の『[[マルサの女]]』のテーマ ** [[BLANKEY JET CITY]]の『不良少年のうた』 ** [[Akeboshi]]の『[[STONED TOWN|Wind]]』、『神様の舌打ち』 ** {{仮リンク|ソルツィーコ|en|Zortziko}} - 付点リズムを主体とした[[バスク地方]]の[[民謡]]。[[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]、[[イサーク・アルベニス]]などが作曲している。 ** [[ファイナルファンタジーVII]]の「シンコ・デ・チョコボ」 ** [[クロノクロス]]の「溺れ谷」 ** [[グスターヴ・ホルスト|ホルスト]]の組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』の『火星』 ** [[スティング (ミュージシャン)|スティング]]の『Seven Days』 ** [[ファイナルファンタジーVIII]]の「Don't Be Afraid」 ** [[マリオカート8]]の「ネイチャーロード」 ** [[全日本吹奏楽コンクール]]2010年度課題曲III 吹奏楽のための民謡「うちなーのてぃだ」 ** {{要出典範囲|date=2023年1月23日 (月) 14:09 (UTC)|[[東方紅魔郷 〜 the Embodiment of Scarlet Devil.|東方紅魔郷]]のU.N.オーエンは彼女なのか}} * 5拍子 (2+3) の例 ** [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の『[[交響曲第6番 (チャイコフスキー)|交響曲第6番]]』第2楽章 ** 全日本吹奏楽コンクール2018年度課題曲V『エレウシスの祭儀』 * 5拍子(2+3と3+2の混合構成)の例 ** [[アルフレッド・リード]]の『[[アルメニアン・ダンス (リード)|アルメニアン・ダンス]] パート1』 * 5拍子 (2+3) と他の拍子の混合の例 ** [[ムソルグスキー]]:『[[展覧会の絵]]』の『プロムナード』(1小節ごとに6拍子と交互に表れる) === 7拍子 === 純粋な7拍子(強-弱-弱-弱-弱-弱-弱)、2+2+3拍子または4+3拍子(強-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+2+2拍子または3+4拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱)、2+3+2拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の4態に大分される。{{要出典範囲|date=2023年1月23日 (月) 14:09 (UTC)|純粋な7拍子以外の場合、大枠としては「各拍の長さの異なる3拍子」ということができる}}。 * 7拍子(4+3)の例 ** [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]のオラトリオ『[[森の歌]]』の第7曲『栄光』 ** バーンスタインの『[[キャンディード]]序曲』の一部 **:曲全体としては7拍子以外の複数の拍子をも混合して構成されている ** [[Akeboshi]]の『Rusty lance』 ** [[イエス (バンド)|イエス]]の『The Fish』 ** スティングの『Straight to My Heart』 * 7拍子(3+4と4+3の混合構成)の例 ** [[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』終結部(組曲版では終曲の終わりの部分) **:通常の小節線の他に、点線の小節線で3拍子と4拍子の区切りが示されている * 7拍子(2+3+2)の例 ** [[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の『[[ピアノソナタ第7番 (プロコフィエフ)|ピアノソナタ第7番]]』終楽章 * 7拍子 (3+2+2) の例 ** [[アルフレッド・リード]]の『[[エル・カミーノ・レアル]]』 === 8拍子 === 現在は2+3+3拍子(強-弱-中強-弱-弱-中強-弱-弱)、3+2+3拍子(強-弱-弱-中強-弱-中強-弱-弱)、3+3+2拍子(強-弱-弱-中強-弱-弱-中強-弱)の3態に大分されている。{{要出典範囲|date=2023年1月23日 (月) 14:09 (UTC)|いずれも大枠としては「各拍の長さの異なる3拍子」ということができる}}。 * 8拍子 (2+3+3)の例 * 8拍子 (3+2+3)の例 ** [[リゲティ・ジェルジュ|リゲティ]]の『練習曲第4番』 ** [[アルフレッド・リード]]の『[[エル・カミーノ・レアル]]』 * 8拍子 (3+3+2)の例 ** 『[[リベルタンゴ]]』などの[[アストル・ピアソラ]]の楽曲 === 9拍子 === 前項の複合拍子にある9拍子は「各拍が3等分される3拍子」(3+3+3)であるが、変拍子の9拍子も存在する。 * 9拍子(5+4)の例 ** スティングの『Hung My Head』 * 9拍子(4+5)の例 ** [[ジェフ・ベック]]の『Scatterbrain』 * 9拍子(3+2+4)の例 ** [[ジェネシス (バンド)|ジェネシス]]のアルバム[[フォックストロット (ジェネシスのアルバム)|フォックストロット]]所収の[[組曲]]「サパーズ・レディ{{enlink|Supper's Ready}}」の第6曲「Apocalypse in 9/8 (Co-Starring the Delicious Talents of Gabble Ratchet) 」。 * 9拍子(2+2+2+3と3+3+3)の例 ** デイヴ・ブルーベックの『[[トルコ風ブルー・ロンド]]』(2+2+2+3の小節が3小節の後、3+3+3の小節が1小節) === 10拍子 === * 10拍子の例 **[[ファイナルファンタジーVIII]]の「Don't be Afraid」<ref>Richard Powers、Nick Enge 『Waltzing: A Manual for Dancing and Living』 P.210 2013年 ISBN 978-0982799543</ref> === 11拍子 === * 11拍子 (6+5) の例 ** [[マリオカート64]]の「レース結果(上位)」 ** [[ストリートファイターII]]の「[[サガット]]のテーマ」 * 11拍子 (5+6) の例 ** [[エースコンバット4]]の「Tango Line」 === ポリリズム(各声部異拍子) === 同時に合奏ないし合唱される各声部の拍が異なること、またはそのように構成されたリズムのことを[[ポリリズム]] と呼ぶ。各地の民族音楽、現代音楽、一部の指向的なポップスなどに見られる。日本では、[[tipographica]]や[[DCPRG]]などがポリリズムの追求を実践した。 :*[[日本]]の[[テクノポップ|テクノポップユニット]]である[[Perfume]]の「[[ポリリズム (Perfumeの曲)|ポリリズム]]」は、サビ後のポリループ(間奏)では言葉のループ、ビート、その他シンセのフレーズの拍数が混合しており、タイトル通りポリリズムとなっている。<ref>{{Cite journal|和書|url=http://www.ohtabooks.com/publish/2007/10/12203054.html|author=|title=特集 Perfume――「アイドル」を回復する3人|journal=[[Quick Japan]] Vol.74|date=2007年10月12日|publisher=[[太田出版]]|isbn=9784778310936|pages=43}}</ref> == その他の拍子 == === 1拍子 === [[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]の『[[ローマの祭り]]』の「La Befana」(2分の1拍子)や、[[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]]の『[[交響曲第2番_(ボロディン)|交響曲第2番]]』第2楽章の「Prestissimo」部(1分の1拍子)等がある。また、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[スケルツォ]]は3拍子だが、1拍が3等分された1拍子であるといわれることがある。また、他の拍子の間に挿入して特殊な効果を与えるために使われるものを言うこともある。 『1拍子』を拍子の分類に定義すべきかについては、諸説の分かれるところである。 == 可変拍子 == ひとつの楽曲の中で拍子が変わることもある。これを'''可変拍子'''と呼ぶ。特に曲が大きく変容するとき、拍子が変わることはしばしばである。また、近代の楽曲、例えば[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]のバレエ音楽『[[春の祭典]]』では拍子が数小節で変わることがあり、周期性が感じられず、楽譜の便宜だけのために拍子記号が用いられるというようなものも見られる。そのようなときには、上に挙げた拍子以外の拍子が見られることもしばしばである。また童謡「[[あんたがたどこさ]]」や民謡「[[炭坑節]]」などのように、メロディー重視の楽曲に対して楽理的に拍子を数えた時に、意図せずして可変拍子になる場合がある。 == 強拍と弱拍 == 最初の音よりタイと強拍か弱拍に休符によって区切られた場合に超強となる。強拍における重心が確保されると小節が成立し、2つ並んで動機となる。効果はリズムと対位が共に終止の構造をとるまで有効である。ビートと異なり、音量による補強を拍子学に組み込まずに説明される。あくまで音量は波に働く総合力と解釈し、音質とかかわりがあるという立場から来る。 == ビートの分類 == 「強拍」「弱拍」という言葉につられるせいか、「強拍は音の強い拍」「弱拍は音の弱い拍」という説明を(専門書でさえも)見かけるが、これは誤解を招きやすい表現である。実際の音楽ではむしろ、弱拍に強拍よりも強い音が置かれることが多いからである。その顕著なものは[[ジャズ]]の[[ドラム・ビート#4ビート|フォービート]]、[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ポピュラー音楽|ポップス]]の[[ドラム・ビート#8ビート|エイトビート]]、[[ドラム・ビート#16ビート|シックスティーンビート]]であって、4拍子の2拍目と4拍目に強勢が来るが、それらは決して「強拍」ではない([[バックビート (音楽用語)|バックビート]]参照)。 英語の[[ダウンビート|down beat]]、ドイツ語のAbtakt(いずれも強拍のことだが、下向きの拍の意味である)やup beat、Auftakt(上向きの拍のことで弱拍のこと)のほうがこれらの概念に近い。舞踊におけるステップの重軽は本質に近い。実際の音楽では、[[伴奏]]音形において[[音高|低い音]]が強拍に当たることが多い。 上記の2つは相反する立場から語られるため別々に独立した概念であるが、しかし双方とも共通する事柄が有る。近年のコンピュータを用いた研究により、強拍と弱拍は微妙に長さが違うことが肉眼で確認できることが証明された。この違いをメトロノーム記号で厳密にコントロールする作曲家も[[20世紀]]後半から増え始める。[[近藤譲]]はMM96から93へといったテンポチェンジを行うが、本人の説明では「ムードチェンジ」と言っている。[[カールハインツ・シュトックハウゼン]]も、[[テンポの半音階]]といった概念は、これら強拍と弱拍の微妙な差異のコントロールが源泉であることを語っている。 == 1拍を表す音価 == 楽譜上で1拍を表す音価には、4分音符ないし付点4分音符が多く使われ、2分音符ないし付点2分音符、8分音符、16分音符がそれに次ぐ。そのほか、稀に付点8分音符や32分音符などがあり、また古い曲などでは全音符を1拍とする拍子(その場合拍子記号の分母は1で表される)もある。極端な例として[[カール・オルフ]]『[[カルミナ・ブラーナ]]』の「Ecce gratum」では部分的に倍全音符を1拍とした4拍子が出てくる。逆に分母が大きい(短い)ものとしては[[ジョージ・クラム]]『ブラック・エンジェルズ』(1970年)に{{分数|7|128}}拍子が出てくる<ref>{{citation|url=https://homes.luddy.indiana.edu/donbyrd/CMNExtremes.htm|author=Donald Byrd|title=Extremes of Conventional Music Notation|year=2018|publisher=Indiana University Bloomington}}</ref>。 一般に音価は2の冪乗になるが、[[福井知子]]や[[川島素晴]]の作品の中には、24や12といった分母を持つ拍子がある。それらは事実上、16分3連や8分3連などの、3連符の長さを持つ音価である。 その音価によって演奏上何らかの違いが生じるわけではなく、4分の3拍子を8分の3拍子で書き直しても、演奏上同じであるが、伝統的な舞曲などでは分母が決まっていることが多い([[サラバンド]]は{{分数|3|2}}拍子、[[メヌエット]]は{{分数|3|4}}拍子、[[シチリアーナ]]は{{分数|6|8}}または{{分数|12|8}}拍子など)。一般にはゆっくりしたテンポの曲で大きな音価の拍が使われると考えられがちであるが、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]などでは非常にゆっくりとした8分の3拍子が存在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Wikibooks|拍子|拍子}} {{Wiktionary|拍子}} * [[リズム]] * [[拍節]] * [[テンポ]] * [[ビート (音楽)]] * {{ill|変わった拍子の曲のリスト|en|List of musical works in unusual time signatures}} * [[グルーヴ]] {{音楽}} {{Musical notation}} {{DEFAULTSORT:ひようし}} [[Category:リズム]]
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オーガスタス・ド・モルガン
オーガスタス・ド・モルガン(Augustus de Morgan、1806年6月27日 - 1871年3月18日)は、インド生まれのイギリスの数学者、論理学者。ド・モルガンの法則の発案や数学的帰納法の定式化を行った。 1806年、インド・マドゥライ生まれ。父のジョン・ド・モルガン(John De Morgan、1772年 - 1816年)は、英国陸軍中尉。父がイギリス東インド会社で働いていたためインドで生まれるが、生後1年もたたないうちにイングランドに戻る。10歳で父を亡くす。母は熱心な英国聖公会徒であり、その反動で無神論者(反理神論者)となった。 16歳でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学、ウィリアム・ヒューウェルやジョージ・ピーコック(英語版)の元で学ぶ。 当時のオックスフォード大学とケンブリッジ大学は学者に対して神学的試験を課し、ユダヤ人や反体制派に対して門戸を閉ざしていた。ド・モルガンは、このことに反発したリベラルリストらによって開始されたロンドン大学の創始運動に参加し、1828年からユニヴァーシティ・カレッジ(現・ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)の教授を務めた。ロンドン大学時代にはインド論理学の再評価を行い、西洋の論理学(ギリシア論理学)と比肩する存在だと主張した。 晩年はスピリチュアリズムに傾倒し、透視など超心理学の研究を行った。クルックス管の発見で知られるウィリアム・クルックスは、ド・モルガンの影響でスピリチュアリズムに傾倒したとされる。
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オーガスタス・ド・モルガンは、インド生まれのイギリスの数学者、論理学者。ド・モルガンの法則の発案や数学的帰納法の定式化を行った。
{{Infobox scientist |name = オーガスタス・ド・モルガン |image = AugustusDeMorgan.png |image_width = |alt = |caption = |birth_name = |birth_date = [[1806年]][[6月27日]] |birth_place = [[ファイル:Flag of the British East India Company (1801).svg|border|25x20px|東インド会社の旗]] {{仮リンク|東インド会社統治|en|Company rule in India}} [[マドゥライ]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1806|6|27|1871|3|18}} |death_place = {{GBR3}} [[ロンドン]] |death_cause = |residence = <!-- 居住 --> |citizenship = <!-- 市民権 --> |nationality = <!-- 国籍 --> |field = [[数学]]、[[論理学]] |workplaces = [[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン|ユニヴァーシティ・カレッジ]] |alma_mater = [[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]<br />[[ケンブリッジ大学]] |doctoral_advisor = <!-- 博士課程指導教員 --> |academic_advisors = [[ウィリアム・ヒューウェル]] |doctoral_students = <!-- 博士課程指導学生 --> |notable_students = [[エドワード・ラウス]]<br />[[ジェームス・ジョセフ・シルベスター]]<br />[[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]]<br />[[エイダ・ラブレス]] |known_for = [[ド・モルガンの法則]]<br />[[関係代数 (数学)|関係代数]]<br />[[普遍代数]] |influences = [[ジョージ・ブール]] |influenced = [[トマス・メンデンホール]] |awards = <!-- 主な受賞歴 --> |author_abbreviation_bot = <!-- 命名者名略表記(植物学) --> |author_abbreviation_zoo = <!-- 命名者名略表記(動物学) --> |signature = <!-- 署名(ファイル名のみ) --> |signature_alt = |footnotes = }} '''オーガスタス・ド・モルガン'''(Augustus de Morgan、[[1806年]][[6月27日]] - [[1871年]][[3月18日]])は、[[インド]]生まれの[[イギリス]]の[[数学者]]、[[論理学者]]。[[ド・モルガンの法則]]の発案や[[数学的帰納法]]の定式化を行った。de Morganのdは大文字で表記されることもあり、「“ディー・モーガン”であろう」とする訳書<ref>{{Cite book |和書 |author=R.L.グッドステイン |others=赤攝也 |title=数学基礎論入門 |edition=初版 ||date=1979-03-10 |publisher=培風館 |origyear=1971 |chapter=はしがき|page=i }}</ref>もある。 == 生涯 == 1806年、[[インド]]・[[マドゥライ]]生まれ。父のジョン・ド・モルガン(John De Morgan、1772年 - 1816年)は、[[英国陸軍]][[中尉]]。父が[[イギリス東インド会社]]で働いていたためインドで生まれるが、生後1年もたたないうちに[[イングランド]]に戻る。10歳で父を亡くす。母は熱心な[[英国聖公会]]徒であり、その反動で[[無神論者]](反理神論者)となった。 16歳で[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学、[[ウィリアム・ヒューウェル]]や{{ill|ジョージ・ピーコック|en|George Peacock}}の元で学ぶ。 当時の[[オックスフォード大学]]と[[ケンブリッジ大学]]は学者に対して神学的試験を課し、ユダヤ人や反体制派に対して門戸を閉ざしていた。ド・モルガンは、このことに反発したリベラルリストらによって開始された[[ロンドン大学]]の創始運動に参加し、1828年からユニヴァーシティ・カレッジ(現・[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]])の教授を務めた。ロンドン大学時代には[[インド論理学]]の再評価を行い、西洋の論理学(ギリシア論理学)と比肩する存在だと主張した。1852年10月23日に[[フランシス・ガスリー]]が発案した[[四色定理|四色問題]]を定式化した。 晩年は[[スピリチュアリズム]]に傾倒し、[[透視 (超心理学)|透視]]など[[超心理学]]の研究を行った。クルックス管の発見で知られる[[ウィリアム・クルックス]]は、ド・モルガンの影響でスピリチュアリズムに傾倒したとされる。 == 関連項目 == * [[エイダ・ラブレス]] - 女性数学者。幼少期にド・モルガンらを家庭教師として数学を学んだ。 * [[ウィリアム・ド・モーガン]] - 子 * [[ド・モルガン・メダル]] - ド・モルガンを追悼して創設された。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Scientist-stub}} {{DEFAULTSORT:もるかん おうかすたす と}} [[Category:オーガスタス・ド・モルガン|*]] [[Category:19世紀イングランドの数学者]] [[Category:19世紀イングランドの哲学者]] [[Category:19世紀の論理学者]] [[Category:イングランドの論理学者]] [[Category:超心理学者]] [[Category:ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの教員]]<!--前身校の教授--> [[Category:ヴィクトリア朝の人物]] [[Category:インド出身の人物]] [[Category:1806年生]] [[Category:1871年没]] [[Category:数学に関する記事]]
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荒木経惟
荒木 経惟(あらき のぶよし、1940年(昭和15年)5月25日 - )は、日本の写真家、現代美術家。「アラーキー」の愛称で知られ、丸い縁の黒めがねをトレードマークとする。 父の長太郎は下駄職人で、アウトローというわけではなかったが若気の至りで刺青を入れていた。長太郎は近所でも有名なアマチュアカメラマンとしても活躍し、荒木がカメラマンになるきっかけを与えた。生家の近所に位置する「投げ込み寺」として有名な浄閑寺が、彼の死生観を決定付けたと語っている。 高校時代からカメラ雑誌やオートバイ雑誌への写真投稿を始め、本人曰く「大学の学費は全て写真投稿による賞金で賄った」という。大学は「写真をやっているところ」として日本大学芸術学部、写真短期大学(現・東京工芸大学)、千葉大の3つが候補に上がったが「国立なので学費が安い」ということで千葉大を選んだ。大学在学中に既に『日本カメラ』等の雑誌で入選するなどカメラマンとして頭角を現していたため、本人によれば「朝日新聞社からも誘いがあったが、報道カメラマンは好き勝手な撮影ができない」ことを嫌気し、ちょうど大学の先輩から「電通なら遊んでられる」と誘いがあり電通に入社した。 写真集の発行点数がきわめて多く、私家版を含めて400冊以上を発表している。ヌード写真や近年は少女も含む人物写真を得意とするが、花などの静物写真、東京を対象とした都市写真の作品も多く、人情味溢れるスナップ写真も有名である。 岡本太郎を尊敬し、好きで好きで堪らなかったが遂に太郎にレンズを向ける機会に恵まれなかった。2006年に岡本太郎の正体をつかむため、彼の作品をカメラに収めることを決意した。 1990年に、亡くなった妻の陽子を撮影して話題となる。この写真を発表した写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』をめぐり、意見が対立した篠山紀信としばらくのあいだ絶縁状態が続いた。 2006年9月には、ベルギーのシャルルロワの写真美術館で個展を開催中に、美術館外壁に貼られていた女性の写真に火炎瓶を投げつけられる事件が起きた。 弟子に写真家野村佐紀子がいる。2013年末に前立腺癌による網膜中心動脈閉塞症のため右眼の視力を喪失する。2014年に、撮影したポジフィルムの右部分を黒マジックで塗りつぶした新シリーズ「左眼ノ恋」を発表する。 1981年 自身の私生活をそのまま映画にしたようなアラキズム映画・日活ロマンポルノ『女高生偽日記』を監督し、自身も出演、「女優にほとんど前貼りなしでやらせた(?)」と豪語した。 1997年 荒木と妻の陽子が現わした私的小説を原作に、竹中直人が監督して主演する映画「東京日和」が制作されて荒木が駅員の役で出演した。 「アラキネマ」と称するスライド写真と音楽を同期して投影するライブパフォーマンスを1986年から行っており、映像化したビデオをQuest社から2010年までに30本発表している。パフォーマンスとしての「アラキネマ」は、AaT RooMの田宮史郎と安斎信彦の二人の操作と、安田芙充央のピアノで構成される。 2013年の「瀬戸内国際芸術祭」で荒木作品をJR四国の113系にラッピングした「アラーキー列車」を発表し、3月から11月にかけて運行した。 美術家で元ファッションモデルの湯沢薫は、荒木から性的虐待を受けたと2017年8月5日にFacebookで公にした。湯沢が19歳(1990年頃)のときに荒木と雑誌の仕事をした際に被害を被り、精神疾患を患ってモデル業を休業したと、虐待の具体的内容の記述を避けつつ記した。心的外傷は現在も払拭できず、荒木の顔写真や作品を目にすると心身に異常を覚えると述べた。冒頭に「What's about art?(芸術とは何か?)」と記して(正確にはWhat is art?もしくはWhat is art about?とすべきである)、芸術の名のもとに性的虐待が行われたことを批判し、荒木の作品を芸術として享受している人々に対して疑義を呈した。 舞踊家で元モデルのKaoRiは、2001年から2016年にかけて荒木の被写体モデルを務め「ミューズ」と称されていたが、その間に荒木から精神的苦痛を被ったと、2018年4月1日にウェブサービス「note」で公にした。荒木と契約書を交わさなかったために、撮影やパフォーマンスの報酬などで不平等な関係を強いられ続けて、経済的困窮に追い込まれた。荒木が都度公言していた「ミステリアスで、なんでもする女」との印象は自身にとって不本意ながら、彼を取り上げる写真業界やさまざまなマスメディアによって流布され、ストーカー、嫌がらせ、窃盗などの被害をたびたび被った。荒木に待遇の改善を繰り返し求めたがすべて無視されたあげく、逆に営業妨害、名誉棄損と恫喝された。長期にわたる精神的苦痛に耐えかねて自殺も思案した。これらを記しつつ、荒木の人権感覚や芸術を口実に搾取を正当化する姿勢、彼を肯定的に扱う業界やマスメディアを非難した。 このKaoRiによる告発は、2017年に始まった#MeToo運動と呼応するスキャンダルとして国内にとどまらず海外メディアもこれを取り上げ、大きな議論を呼んだ。しかし、荒木自身はこの件に対する見解を公にしていない。 ファッションモデルで女優の水原希子は、KaoRiの告発に触発されて、自身が荒木から受けたセクシュアルハラスメントとパワーハラスメントを2018年4月9日にInstagramで公にした。20代前半の2010 - 2014年頃に企業広告の仕事として荒木の被写体モデルを務めたが、上半身裸で胸部を自らの前腕で覆うポーズを指示され、平素の撮影時よりもかなり多い20数名の関係者らしき男性たちが撮影の場に来訪したと明かした。「荒木さん あなたにとって女性とは一体何なんですか?」「何故、長期に渡ってあなたのミューズであったかおりさんを精神的に追い込む必要があったのか。精神的に追い込んでいた事にさえも気づいていなかったのかもしれないけど、、」「私は何度も撮影して頂いた事もあったからこそ、シンプルに、残念極まりないです」と荒木に対して胸中を綴りつつ、「この業界にいる若いモデル、そして女性、男性にもこの記事を読んでほしい。モデルは物じゃない。女性は性の道具ではない」と呼びかけた。資生堂が2013年の元旦に「わたし、開花宣言」と新聞紙面で広告した写真は、荒木が水原の上半身裸を撮影したもので、水原が記した内容に合致していると指摘された。資生堂は2018年4月13日に「水原の所属事務所に事実確認を依頼し、自社内を調査したが、当社の広告撮影時に起きた出来事かどうかについては分からなかった」とインターネットメディアの問いに答えた。 2011年に休刊した写真雑誌『Photo GRAPHICA』の編集者だった沖本尚志は、同雑誌で担当した荒木の特集「KaoRi Sex Diary」がKaoRiの被害事例として記されたことに、2018年4月9日にFacebookで私見を記した。KaoRiが記す内容はほぼ事実と思われるが経済的困窮は知らなかった。荒木に忖度した責任の一端は自身にもあり「皆が等しく負うべき負の遺産である」と業界について記した。「僕の荒木さんの写真に対する評価はこれからも変わることはない。今回露呈した事実も、基本的には荒木さんとKaoRiさん二人の間の問題だからだ。」と記し、作品の制作に伴う犠牲は当事者間の問題で評価に影響しないとしている。 写真家の横木安良夫は、KaoRiへの批判と荒木の擁護を、2018年4月10日にFacebookと自身が運営するウェブサイト「CRP CROSSROAD PROJECT」で公開した。過去にKaoRiと荒木が恋人に近い関係にあったと推察し、荒木に「飽きられ」て男女の関係が綻びたKaoRiによる荒木への「リベンジ」ではないか、「証拠を揃えず、ネットで告発するのは、私刑的な集団リンチ」であると湯沢薫を含めて批判した。自らの芸術観を「芸術という特殊な、現代においての価値観は、憲法よりも上にたつ」としたうえで、荒木の表現を「ストレートに女性を搾取」することで「それこそまやかしの愛ではなく、生と死と愛と憎しみをコラージュする、それこそ真実の愛なのだ」と称賛し、「この告白は、荒木経惟の「ミューズ」という作品をかえって魅力的に仕立てたと思う」と記した。 荒木を長年評価してきた写真評論家の飯沢耕太郎は、2018年4月25日にウェブマガジン「REALKYOTO」へ寄稿し、「アラーキーは殺されるべきか?」と題して荒木の表現を擁護する論陣を張った。KaoRiの告発に共鳴する人々に理解されていない当時の文脈として「モデル志望の女性たちは、荒木さんに積極的に撮られたがって」いた。荒木のモデルである女性たちにとって荒木はセルフポートレートのための道具に過ぎず、彼女たちが自らカメラを持ち始めれば不要な存在となるという森村泰昌による分析を引用しつつ、時代の変化によって森村の予見通りの事態が進行し、荒木とモデルとの共犯関係が崩れた結果が今回の告発を引き起こしたと分析した。荒木には「戦前生まれの男性にありがちな「男尊女卑」」の傾向を認めつつ、そのうえでなお今回やり玉に挙げられた女性表現を含めた彼の表現を全否定すべきでないと主張した。 平凡社の編集者として『荒木経惟写真全集』(全20巻)などの刊行に携わった畑中章宏は、今回の事案についてコメントしない姿勢を当初Twitterで表明していた。その後、飯沢による論考に触発され、2018年5月9日にウェブマガジン「現代ビジネス」へ「アラーキーは、なぜ時代と乖離したのか? 元担当編集が明かす」を寄稿した。「荒木の写真に対する評価は別にしても、現実と現在の時代状況からすれば、〔KaoRiの〕手記に書かれた荒木の行動は批判されるべきことだろう」と告発に一定の理解を示しつつ、「しかし、荒木が撮り続けてきた東京の民俗写真の意味はまったく損なわれていない」と荒木の写真表現の価値を女性表現とは別の側面から擁護した。 様々なサイズのカメラを使って作品制作を行っている。作品のテーマに合わせてカメラを変えることでも知られる。 発行年順
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荒木 経惟は、日本の写真家、現代美術家。「アラーキー」の愛称で知られ、丸い縁の黒めがねをトレードマークとする。
{{存命人物の出典明記|date=2010年5月}} {{Infobox 写真家 | 名前 = 荒木 経惟<br>(あらき のぶよし) | 画像 = | キャプション = | 本名 = | 国籍 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1940|05|25}} | 没年月日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[下谷区]](現・[[東京都]][[台東区]])[[三ノ輪]] | 血液型 = | 身長 = | 言語 = | 最終学歴 = [[千葉大学工学部・大学院工学研究院|千葉大学工学部]]卒業 | 師匠 = | 出身 = | グループ名 = | 撮影スタイル = | 使用カメラ = | 事務所 = フリー | 活動時期 = [[1964年]] - | 同期 = | 作品 = | 他の活動 = | 弟子 = [[野村佐紀子]] | 公式サイト = {{URL|http://www.arakinobuyoshi.com/}} | 受賞歴 = 第1回[[太陽賞]]([[1964年]]、写真集「さっちん」にて)<br>織部賞([[1999年]])<br>第4回安吾賞([[2011年]]) }} [[File:Nobuyoshi Araki Frankfurt.jpg|thumb|荒木経惟]] '''荒木 経惟'''(あらき のぶよし、[[1940年]]([[昭和]]15年)[[5月25日]] - )は、[[日本]]の[[写真家]]、[[現代美術|現代美術家]]。「アラーキー」の愛称で知られ、丸い縁の黒めがねをトレードマークとする。 == 経歴 == {{年譜のみの経歴|date=2021年6月1日 (火) 00:52 (UTC)}} * [[1940年]](昭和15年) - [[東京府]][[東京市]][[下谷区]](現・[[東京都]][[台東区]])[[三ノ輪]]で生まれる。 * [[1959年]](昭和34年) - [[東京都立上野高等学校]]を卒業する。同期に[[立花隆]]と[[東八郎]]の夫人がいる。 * [[1963年]](昭和38年) - [[千葉大学工学部・大学院工学研究院|千葉大学工学部]]写真印刷工学科を卒業後、[[電通]]に宣伝用カメラマンとして勤める。 * [[1964年]](昭和39年) - 写真集「さっちん」で第1回[[太陽賞]]受賞。 * [[1971年]](昭和46年) - 電通で同僚の[[荒木陽子|青木陽子]]と結婚する。<!-- 英語版より --> * [[1972年]](昭和47年) - 電通を退社してフリーになる。 * [[1974年]](昭和49年) - [[東松照明]]、[[細江英公]]、[[森山大道]]、[[横須賀功光]]、[[深瀬昌久]]らと「[[WORKSHOP写真学校]]」の設立に参加する。 * [[1988年]](昭和63年) - [[安斎信彦]]、[[田宮史郎]]と、三人の頭文字からなる事務所「AaT ROOM」を設立する。 * [[1990年]](平成2年) - 「写真論」「東京物語」で第2回写真の会賞受賞。[[日本写真協会]]年度賞受賞。 * [[1991年]](平成3年) - [[東川賞]]国内作家賞受賞。 * [[1992年]](平成4年) - 「空景/近景」で第4回写真の会賞受賞。 * [[1994年]](平成6年) - 日本文化デザイン賞大賞受賞。 * [[1999年]](平成11年) - [[織部賞]]受賞。 * [[2008年]](平成20年) - [[オーストリア]]より[[科学芸術勲章]]受章。 * [[2011年]](平成23年) - [[安吾賞]]受賞。 * [[2013年]](平成25年) - [[毎日芸術賞]]特別賞受賞。 == 概要 == 父の長太郎は[[下駄]]職人で、[[アウトロー]]というわけではなかったが若気の至りで[[刺青]]を入れていた。長太郎は近所でも有名な[[アマチュア]]カメラマンとしても活躍し、荒木がカメラマンになるきっかけを与えた。生家の近所に位置する「[[投げ込み寺]]」として有名な[[浄閑寺]]が、彼の[[死生観]]を決定付けたと語っている<ref>[http://www.kobegakkou-blog.com/blog/2004/02/post-9cb3.html 生と死、人生と写真、花、わが陽子、父、母……アラーキー]</ref>。 {{See also|吉原 (東京都)}} 高校時代からカメラ雑誌やオートバイ雑誌への写真投稿を始め、本人曰く「大学の学費は全て写真投稿による賞金で賄った」という<ref name=gendai200911>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/278562 天才アラーキー傘寿を語る <5>千葉大工学部はサボりっぱなし 雑誌投稿で生活費稼いだ] - 日刊ゲンダイDIGITAL・2020年9月11日</ref>。大学は「写真をやっているところ」として[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]]、写真短期大学(現・[[東京工芸大学]])、千葉大の3つが候補に上がったが「国立なので学費が安い」ということで千葉大を選んだ<ref name=gendai200911 />。大学在学中に既に『[[日本カメラ]]』等の雑誌で入選するなどカメラマンとして頭角を現していたため、本人によれば「[[朝日新聞社]]からも誘いがあったが、報道カメラマンは好き勝手な撮影ができない」ことを嫌気し、ちょうど大学の先輩から「電通なら遊んでられる」と誘いがあり電通に入社した<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/279095 天才アラーキー傘寿を語る <7>「電通だったら遊んでられる」大学の先輩の誘いで入社] - 日刊ゲンダイDIGITAL・2020年9月25日</ref>。 写真集の発行点数がきわめて多く、私家版を含めて400冊以上を発表している。[[ヌード写真]]や近年は少女も含む[[人物写真]]を得意とするが、花などの静物写真、[[東京]]を対象とした[[都市写真]]の作品も多く、人情味溢れる[[スナップ写真]]も有名である。 [[岡本太郎]]を尊敬し、好きで好きで堪らなかったが遂に太郎にレンズを向ける機会に恵まれなかった。[[2006年]]に岡本太郎の正体をつかむため、彼の作品をカメラに収めることを決意した。 [[1990年]]に、亡くなった妻の陽子を撮影して話題となる。この写真を発表した写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』をめぐり、意見が対立した[[篠山紀信]]としばらくのあいだ絶縁状態が続いた。<!--{{Main|センチメンタルな旅#「センチメンタルな旅・冬の旅」論争}}--> 2006年9月には、[[ベルギー]]の[[シャルルロワ]]の写真美術館で個展を開催中に、美術館外壁に貼られていた女性の写真に火炎瓶を投げつけられる事件が起きた。 弟子に写真家[[野村佐紀子]]がいる。[[2013年]]末に[[前立腺癌]]による網膜中心動脈閉塞症のため右眼の視力を喪失する。[[2014年]]に、撮影した[[リバーサルフィルム|ポジフィルム]]の右部分を黒マジックで塗りつぶした新シリーズ「左眼ノ恋」を発表<ref>[http://www.takaishiigallery.com/jp/archives/10951/ 荒木経惟 「左眼ノ恋」]タカ・イシイギャラリー、2014年5月</ref>する。 ===写真以外の活動=== [[File:2015-9-5-kuha112-3.JPG|thumb|JR四国 アラーキー列車]] [[1981年]] 自身の私生活をそのまま映画にしたようなアラキズム映画・[[日活ロマンポルノ]]『女高生偽日記』を監督し、自身も出演<ref>[https://www.nikkatsu.com/movie/25874.html 女高生偽日記]</ref><ref name="CR8110">{{Cite journal|和書 |author = |title = 邦画ニュース |journal = [[シティロード]] |issue = 1981年10月号 |publisher = エコー企画 |page = 23 }}</ref>、「女優にほとんど[[前貼り]]なしでやらせた(?)」と豪語した<ref name="CR8110"/>。 [[1997年]] 荒木と妻の陽子が現わした私的小説を原作に、[[竹中直人]]が監督して主演する映画「[[東京日和 (映画)|東京日和]]」が制作されて荒木が駅員の役で出演した。 「アラキネマ」と称するスライド写真と音楽を同期して投影するライブパフォーマンスを[[1986年]]から行っており、映像化したビデオをQuest社から2010年までに30本発表している。パフォーマンスとしての「アラキネマ」は、AaT RooMの田宮史郎と安斎信彦の二人の操作と、[[安田芙充央]]のピアノで構成される。 [[2013年]]の「[[瀬戸内国際芸術祭]]」で荒木作品を[[四国旅客鉄道|JR四国]]の[[国鉄113系電車|113系]]にラッピングした「アラーキー列車」を発表し、3月から11月にかけて運行した<ref>[http://railf.jp/news/2013/03/13/120000.html 鉄道ファン・railf.jp 113系「アラーキー列車」運転開始]</ref>。 ==セクハラ問題== 美術家で元ファッションモデルの[[湯沢薫]]は、荒木から[[性的虐待]]を受けたと[[2017年]]8月5日に[[Facebook]]で公にした<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1933922950154038&set=a.1507332432813094.1073741829.100006090557033&type=1&theater|title=ABOUT SEXAL ABUSE OF NOBUYOSHI ARAKI|accessdate=2018/4/13|publisher=www.facebook.com}}</ref>。湯沢が19歳(1990年頃)のときに荒木と雑誌の仕事をした際に被害を被り、精神疾患を患ってモデル業を休業したと、虐待の具体的内容の記述を避けつつ記した。[[心的外傷]]は現在も払拭できず、荒木の顔写真や作品を目にすると心身に異常を覚えると述べた。冒頭に「What's about art?(芸術とは何か?)」と記して(正確にはWhat is art?もしくはWhat is art about?とすべきである)、芸術の名のもとに性的虐待が行われたことを批判し、荒木の作品を芸術として享受している人々に対して疑義を呈した。 舞踊家で元モデルのKaoRiは、[[2001年]]から[[2016年]]にかけて荒木の被写体モデルを務め「[[ミューズ]]」と称されていたが、その間に荒木から精神的苦痛を被ったと、[[2018年]]4月1日にウェブサービス「note」で公にした<ref>{{Cite web|和書|url=https://note.com/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65|title=その知識、本当に正しいですか?|accessdate=2018/4/1|publisher=note.mu}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bijutsutecho.com/news/13788/|title=荒木経惟、長年のミューズからの「#MeToo」 |date=2018-04-07 |work=美術手帖 |publisher=美術出版社 |accessdate=2018-04-08}}</ref>。荒木と契約書を交わさなかったために、撮影や[[パフォーマンスアート|パフォーマンス]]の報酬などで不平等な関係を強いられ続けて、経済的困窮に追い込まれた。荒木が都度公言していた「[[ミステリ|ミステリアス]]で、なんでもする女」との印象は自身にとって不本意ながら、彼を取り上げる写真業界やさまざまな[[マスメディア]]によって流布され、[[ストーカー]]、嫌がらせ、窃盗などの被害をたびたび被った。荒木に待遇の改善を繰り返し求めたがすべて無視されたあげく、逆に営業妨害、名誉棄損と恫喝された。長期にわたる精神的苦痛に耐えかねて自殺も思案した。これらを記しつつ、荒木の人権感覚や芸術を口実に搾取を正当化する姿勢、彼を肯定的に扱う業界やマスメディアを非難した。 このKaoRiによる告発は、[[2017年]]に始まった[[#MeToo]]運動と呼応するスキャンダルとして国内にとどまらず海外メディアもこれを取り上げ<ref>{{Cite web|url=https://www.nytimes.com/2018/05/05/world/asia/nobuyoshi-araki-photographer-model.html|title=When an Erotic Photographer’s Muse Becomes His Critic|accessdate=2021/08/16|publisher=The New York Times|date=2018-5-5}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43875386|title=日本の #MeToo:沈黙を破り始めた女性たち|accessdate=2021/08/16|publisher=BBC News Japan|date=2018-4-25}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.lefigaro.fr/culture/2018/05/24/03004-20180524ARTFIG00018-un-modele-raconte-comment-le-photographe-nobuyoshi-araki-l-a-transforme-en-femme-objet.php|title=Un modèle raconte comment le photographe Nobuyoshi Araki l'a transformé en femme objet|accessdate=2021/08/16|publisher=Le Figaro|date=2018-5-24}}</ref>、大きな議論を呼んだ。しかし、荒木自身はこの件に対する見解を公にしていない。 [[ファッションモデル]]で[[俳優#性別での分類|女優]]の[[水原希子]]は、KaoRiの告発に触発されて、自身が荒木から受けた[[セクシャルハラスメント|セクシュアルハラスメント]]と[[パワーハラスメント]]を2018年4月9日に[[Instagram]]で公にした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/mizuhara-kiko?utm_term=.pd0VrYeA6#.mvw8oW5zE|title=「モデルは物じゃない」水原希子が撮影の無理強いを告白 2018/4/9|accessdate=2018/4/10|publisher=www.buzzfeed.com}}</ref>。20代前半の2010 - 2014年頃に企業広告の仕事として荒木の被写体モデルを務めたが、上半身裸で胸部を自らの前腕で覆うポーズを指示され、平素の撮影時よりもかなり多い20数名の関係者らしき男性たちが撮影の場に来訪したと明かした。「荒木さん あなたにとって女性とは一体何なんですか?」「何故、長期に渡ってあなたのミューズであったかおりさんを精神的に追い込む必要があったのか。精神的に追い込んでいた事にさえも気づいていなかったのかもしれないけど、、」「私は何度も撮影して頂いた事もあったからこそ、シンプルに、残念極まりないです」と荒木に対して胸中を綴りつつ、「この業界にいる若いモデル、そして女性、男性にもこの記事を読んでほしい。モデルは物じゃない。女性は性の道具ではない」と呼びかけた。[[資生堂]]が2013年の元旦に「わたし、開花宣言」と新聞紙面で広告した写真は、荒木が水原の上半身裸を撮影したもので<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shiseidogroup.jp/advertising/sp/talk/1.html|title=荒木経惟×澁谷克彦 裸の美と、化粧の美 2013/5|accessdate=2018/4/10|publisher=www.shiseidogroup.jp}}</ref>、水原が記した内容に合致していると指摘された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cyzo.com/2018/04/post_158643_entry.html|title=水原希子が「#MeToo」告発したのは資生堂? ネット上で“証拠”が拡散|accessdate=2021/08/16|publisher=日刊サイゾー}}</ref>。資生堂は2018年4月13日に「水原の所属事務所に事実確認を依頼し、自社内を調査したが、当社の広告撮影時に起きた出来事かどうかについては分からなかった」とインターネットメディアの問いに答えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2018/04/13326144.html|title=水原希子、ヌード撮影「強要」を告白 資生堂が事実関係を調査も...「分かりませんでした」|accessdate=2018/4/14|publisher=www.j-cast.com}}</ref>。 ===写真業界の反応=== [[2011年]]に休刊した写真雑誌『Photo GRAPHICA』の編集者だった沖本尚志は、同雑誌で担当した荒木の特集「KaoRi Sex Diary」<ref>『Photo GRAPHICA』(2008年10月号、エムディエヌコーポレーション)</ref>がKaoRiの被害事例として記されたことに、2018年4月9日に[[Facebook]]で私見を記した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/takashi.okimoto1/posts/1843170252432108|title=衝撃だった。|accessdate=2018/4/13|publisher=www.facebook.com}}</ref>。KaoRiが記す内容はほぼ事実と思われるが経済的困窮は知らなかった。荒木に忖度した責任の一端は自身にもあり「皆が等しく負うべき負の遺産である」と業界について記した。「僕の荒木さんの写真に対する評価はこれからも変わることはない。今回露呈した事実も、基本的には荒木さんとKaoRiさん二人の間の問題だからだ。」と記し、作品の制作に伴う犠牲は当事者間の問題で評価に影響しないとしている。 写真家の[[横木安良夫]]は、KaoRiへの批判と荒木の擁護を、2018年4月10日にFacebook<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/alao.yokogi/posts/1646823178727481|title=横木 安良夫 4月10日 17:30|accessdate=2018/4/18|publisher=www.facebook.com.}}</ref>と自身が運営する[[ウェブサイト]]「CRP CROSSROAD PROJECT」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.photoxcamp.com/topics.html#!/posts/KaoRi/80|title=荒木経惟とKaoRi告白問題についての私見 (敬称略)|accessdate=2018/4/18|publisher=www.photoxcamp.com.}}</ref>で公開した。過去にKaoRiと荒木が恋人に近い関係にあったと推察し、荒木に「飽きられ」て男女の関係が綻びたKaoRiによる荒木への「[[リベンジ]]」ではないか、「証拠を揃えず、ネットで告発するのは、私刑的な集団リンチ」であると湯沢薫を含めて批判した。自らの芸術観を「芸術という特殊な、現代においての価値観は、憲法よりも上にたつ」としたうえで、荒木の表現を「ストレートに女性を搾取」することで「それこそまやかしの愛ではなく、生と死と愛と憎しみをコラージュする、それこそ真実の愛なのだ」と称賛し、「この告白は、荒木経惟の「ミューズ」という作品をかえって魅力的に仕立てたと思う」と記した。 荒木を長年評価してきた写真評論家の[[飯沢耕太郎]]は、2018年4月25日にウェブマガジン「REALKYOTO」へ寄稿し、「アラーキーは殺されるべきか?」と題して荒木の表現を擁護する論陣を張った<ref>{{Cite web|和書|url=http://realkyoto.jp/article/izawa-kotaro/|title=アラーキーは殺されるべきか?|accessdate=2021/08/16|publisher=|author=飯沢耕太郎|date=2018年4月25日|website=REALKYOTO}}</ref>。KaoRiの告発に共鳴する人々に理解されていない当時の文脈として「モデル志望の女性たちは、荒木さんに積極的に撮られたがって」いた。荒木のモデルである女性たちにとって荒木はセルフポートレートのための道具に過ぎず、彼女たちが自らカメラを持ち始めれば不要な存在となるという[[森村泰昌]]による分析<ref>{{Cite journal|author=森村泰昌|year=1996|title=アラーキー殺害計画の真相|journal=『ユリイカ』|volume=1996年1月臨時増刊}}</ref>を引用しつつ、時代の変化によって森村の予見通りの事態が進行し、荒木とモデルとの共犯関係が崩れた結果が今回の告発を引き起こしたと分析した。荒木には「戦前生まれの男性にありがちな「男尊女卑」」の傾向を認めつつ、そのうえでなお今回やり玉に挙げられた女性表現を含めた彼の表現を全否定すべきでないと主張した。 [[平凡社]]の編集者として『荒木経惟写真全集』(全20巻)などの刊行に携わった[[畑中章宏]]は、今回の事案についてコメントしない姿勢を当初[[Twitter]]で表明していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/akirevolution/status/983371884531040256|title=畑中章宏@21世紀の民俗学 (@akirevolution) 0:51 - 2018年4月10日|accessdate=2018/4/13|publisher=twitter.com}}</ref>。その後、飯沢による論考に触発され、2018年5月9日にウェブマガジン「現代ビジネス」へ「アラーキーは、なぜ時代と乖離したのか? 元担当編集が明かす」を寄稿した<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/55709|title=アラーキーは、なぜ時代と乖離したのか? 元担当編集が明かす|accessdate=2021/08/16|publisher=講談社|website=現代ビジネス|date=2018-5-19|author=畑中章宏}}</ref>。「荒木の写真に対する評価は別にしても、現実と現在の時代状況からすれば、〔KaoRiの〕手記に書かれた荒木の行動は批判されるべきことだろう」と告発に一定の理解を示しつつ、「しかし、荒木が撮り続けてきた東京の民俗写真の意味はまったく損なわれていない」と荒木の写真表現の価値を女性表現とは別の側面から擁護した。 == 主な写真展 == *「わが愛・陽子」1976年、銀座[[ニコンサロン]] *「センチメンタルな写真、人生」1999年、[[東京都現代美術館]] *「森山・新宿・荒木」2005年、[[東京オペラシティー]]アートギャラリー *「[http://picasaweb.google.com/jknudes/ArakiNobuyoshiJapanese1940/photo#5082277675642542866 私・生・死(Self・Life・Death)]」2005年、バービカン・アート・ギャラリー(ロンドン) *「東京人生」2006年、[[江戸東京博物館]] *「熊本ララバイ」2009年、[[熊本市現代美術館]] == 使用カメラ == 様々なサイズのカメラを使って作品制作を行っている。作品のテーマに合わせてカメラを変えることでも知られる。 *[[イコンタ|イコンタシックス]] *[[コニカ]][[ビッグミニ]]、[[ヘキサー]] *[[コンタックスG|コンタックスG2]] *[[ニコン]]SP(『[[わが愛、陽子]]』で使用) *[[チノン]](『[[愛しのチロ]]』、『チロとアラーキーと2人のおんな』など、主にチロ専用のカメラとして使用) *[[プラウベルマキナ]] *[[ペンタックス]][[ペンタックスの銀塩コンパクト・APSカメラ製品一覧#ズームシリーズ|ズーム70デート]](『[[包茎亭日乗]]』などで使用) *[[PENTAXの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:中判・110フィルム用#ペンタックス645シリーズ|ペンタックス645]]、[[PENTAXの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:中判・110フィルム用#ペンタックス67シリーズ|ペンタックス67]](『[[Tokyo Nude]]』『[[東京は、秋]]』『[[日本人の顔]]シリーズ』などで使用) *[[PENTAX]]MZ-S *[[マミヤ]]7II *[[ポラロイド・690]] *[[ミノルタ]][[TC-1]] *ミノルタ[[ハイマチックSD]](日付が画面に入れられ、しかも簡単に動かすことが出来たため、『[[偽日記]]』などで使用) *[[ライカ]]M6、M7 == 荒木独特の言葉 == * エロトス(「[[エロス]]」と「[[タナトス]]」の合成語) *大股小股開き * 顔写 * クルマド(「クルマ」と「マド」の合成語。自動車に乗って、その窓から撮った写真。「クルマド・トーキョー」と呼ばれるシリーズなどがある) * 劇写 * 私情(写真集「写真私情主義」などで使用) * 東京アッジェ(55ミリレンズと三脚をつけたペンタックス67で東京の街を撮ること。写真家[[ウジェーヌ・アジェ]]の撮影スタイルを真似たもの) * 包茎亭(荒木の俳号。雑誌「[[噂の真相]]」に「包茎亭日乗」という連載をしていたことがある) *部屋ヌード(ヘアヌードのもじり) == 作品リスト == 発行年順 * ゼロックス写真帖(荒木経惟写真帖)(1970年、私家版 全25巻、各限定70部) * おー日本(1971年、幹出版) * [[センチメンタルな旅]](1971年、私家版 限定1000部) * 水着のヤングレディたち(複写集団ゲリバラ5-(2))(1971年、複写集団ゲリバラ5 発行年記載なし) * [[センチメンタルな旅#「続 センチメンタルな旅 沖縄」|続 センチメンタルな旅 沖縄]](1971年、私家版) * 東京(1973年、複写集団ゲリバラ5) * 写真への旅(現代カメラ選書13)(1976年、朝日ソノラマ) * 男と女の間には写真機がある(1978年、[[白夜書房]]) * 我が愛、陽子(ソノラマ写真選書7)(1978年、朝日ソノラマ) * 劇写「女優たち」(1978年、白夜書房) * 自写像 日本(グループ展カタログ)(1979年、ICP (ニューヨーク、アメリカ)) * 荒木経惟の偽ルポルタージュ(1980年、白夜書房) * 荒木経惟の偽日記(1980年、白夜書房) * 女旅情歌(1981年、北宋社(発売: 仮縫室)) * 写真論(1981年、冬樹社) * 写真小説(1981年、小学館) * 荒木経惟: 写真生活 (アサヒカメラ増刊)(1981年、朝日新聞社) * 写真劇場 東京エレジー(1981年、冬樹社) * アラキンZ Sniper Shot:(1981年、ミリオン出版(発売: 大洋図書)) * 女高生偽日記(1981年、八曜社) * イコンタ物語(1981年、白夜書房) * ラブホテルで楽写(1981年、白夜書房) * 浪漫写真 私のアリスたち(1981年、青林堂) * 美登利(1982年、単騎社(発売: 星雲社)) * わが愛と性([[田辺聖子]]との共著、1982年、創樹社) * センチメンタルエロロマン 恋人たち(1982年、白夜書房) * ARA・KISSラブコール(1982年、パルコ出版局) * {{Cite book|和書|title=[[センチメンタルな旅#「10年目の『センチメンタルな旅』」|10年目の「センチメンタルな旅」]]|publisher=冬樹社|date=1982-07-07|id={{NDLJP|12160941}}}} * 荒木経惟の真相(別冊「噂の真相」No.1)(1982年、噂の真相) * 荒木経惟の世界(「別冊新評」1982年夏号)(1982年、新評社) * 私が写真だ(1982年、群出版(発売: 績文堂出版)) * 愛の嵐(あらき)(1982年、白夜書房) * ラブ・シーン(1983年、勁文社) * 荒木経惟のエロス楽写 女景色旅(1983年、講談社) * ライブ荒木経惟(「写真時代」増刊)(1983年、白夜書房) * 新宿よ!([[岡留安則]]との共著、1984年、青峰社(発売: 星雲社)) * 物語ソウル([[中上健次]]との共著、1984年、パルコ出版) * 少女世界(1984年、白夜書房) * ノスタルジアの世界(1984年、白夜書房) * 私説東京繁盛記([[小林信彦]]との共著、1984年、中央公論社) * 東京は、秋(1984年、三省堂) * 写真狂殺人事件(1984年、作品社) * 景色1981-1984(「写真時代」増刊)(1985年、白夜書房) * 東京写真(「写真時代」増刊)(1985年、白夜書房) * アラーキーの東京色情日記(1986年、白夜書房) * 私小説([[鈴木いづみ]]との共著、1986年、白夜書房) * 美登利(再版)(1987年、単騎社(発売: 星雲社)長文解説付き) * テリトリー論1([[伊藤比呂美]]との共著、1987年、思潮社) * 東京日記1981-1995(「写真時代」増刊)(1987年、白夜書房) * 酔い痴れて(荒木陽子との共著、1987年、白夜書房) * 少女物語(1988年、マザーブレーン(発売: 白夜書房)) * 愛情旅行(荒木陽子との共著、1989年、マガジンハウス) * 東京物語(1989年、平凡社) * 東京日記(1989年、フィクションインク(発売: 河出書房新社)) * 荒木経惟写真集「写真論」(1989年、河出書房新社) * 純情写真小説集(1989年、ミリオン出版) * TOKYO NUDE(1989年、マザーブレーン(発売: 太田出版)) * 青い隕石([[勅使川原三郎]]との共著、1989年、求龍堂) * 平成元年(1989年、アイピーシー) * [[愛しのチロ]](1990年、平凡社) * FOTO TANZ(1990年、アイピーシー) * 東京ラッキーホール(1990年、太田出版) * 少女物語 改訂版(1990年、マザーブレーン(発売: 太田出版)) * ネコノトピア・ネコノマニア(共著、1990年、太田出版) * 冬へ(1990年、マガジンハウス) * [[センチメンタルな旅#「センチメンタルな旅・冬の旅」|センチメンタルな旅・冬の旅]](1991年、新潮社) * 移動 ナビの舞う空(1991年、スイッチ・コーポレーション書籍出版部) * 桃の園(1991年、マザーブレーン(発売: 太田出版)) * ジャンヌ(1991年、新潮社) * 夢二(共著、1991年、用美社) * 男と女の間には写真機がある(新装版)(1991年、太田出版) * 恋愛(モデル: [[桐島かれん]])(1991年、扶桑社) * 空景/近景(1991年、新潮社) * 色景(1991年、マガジンハウス) * 写狂人日記(1992年、スイッチ・コーポレーション書籍出版部(発売: 扶桑社)) * AKT-TOKYO 1971-1991(1992年、Edition Camera Austria(グラーツ、オーストリア)) * 原色の街(1992年、新潮社) * アクト・トーキョー・ドキュメンツ(1992年、私家版(発売: フォトプラネット)) * 路地裏の花屋(仙波龍英との共著、1992年、マガジンハウス) * 新版 私説東京繁盛記(小林信彦との共著、1992年、マガジンハウス) * [[センチメンタルな旅#「10年目の『センチメンタルな旅』」|10年目の「センチメンタルな旅」]] (増補版、荒木陽子との共著、1992年、筑摩書房) * 東京は、秋(新装版)(1992年、筑摩書房) * 天使祭(1992年、太陽出版) * 物事(1992年、私家版 限定1部) * クルマド・トーキョー(1992年、スイッチ・コーポレーション 限定1部) * 食事(1993年、マガジンハウス) * 東京日和(荒木陽子との共著、1993年、筑摩書房) * 恋する老人たち(編著、1993年、筑摩書房) * 写狂人色日記(1993年、スイッチ・コーポレーション書籍出版部(発売: 扶桑社)) * 愛の新世界([[島本慶]]との共著、1993年、東京三世社) * 制服の(秘)処女(1993年、白夜書房) * 情事(モデル: [[白都真理]]、1993年、KKベストセラーズ) * 都市の幸福(1993年、マガジンハウス) * ラヴ・ユー・トーキョー([[桑原甲子雄]]との共著、1993年、世田谷美術館 同展カタログ) * 東京猫町(1993年、平凡社) * Das Bild des Korpers(グループ展カタログ、1993年、Frankfurter Kunstverein(フランクフルト、ドイツ)) * 終戦後(1993年、AaT ROOM) * 過去(1993年、白夜書房) * エロトス(1993年、リブロポート)[http://picasaweb.google.com/jknudes/ArakiNobuyoshiJapanese1940/photo#5082277675642542850] * 私写真(1994年、朝日新聞社) * Fake Love(モデル: [[川崎亜紀([[浅香唯]])]](1994年、KKベストセラーズ) * 私日記(1994年、AaT ROOM) * アラキトロニクス(1994年、風雅書房) * Junco(モデル: [[三原じゅん子]])(1994年、KKベストセラーズ) * 猥褻写真(デジャ: ヴュ別冊)(1994年、フォトプラネット(発売: 河出書房新社)) * 荒木経惟 世界異才(グループ展カタログ)(1994年、H2O COMPANY (発売: キネマ旬報社)) * 包茎亭日乗(1994年、イーストプレス) * 写神論(1994年、リブロポート) * 墨東エロス(モデル: [[水島裕子]](1994年、光文社) * Tokyo Love ([[ナン・ゴールディン]]との共著、日本版。1994年、太田出版) * Sawa・愛の新世界(モデル: [[鈴木砂羽]](1994年、KKベストセラーズ) * 墨汁綺譚(1994年、AaT ROOM) * さっちん(1994年、新潮社) * 蠅の女(1994年、みずき) * 東京風(1995年、白夜書房) * 現在のない女(1995年、KKベストセラーズ) * A日記(1995年、リブロポート) * 童貞ダッチョ君(1995年、リブロポート) * こどもの日 パパたち(展覧会カタログ)(1995年、「さっちんの夏」写真展実行委員会) * 終景(1995年、AaT ROOM) * アラーキー裸写 vol.1(1995年、竹書房) * ラヴ・ラビリンス 沖縄烈情(1995年、新潮社) * 辰吉丈一郎VS荒木経惟 不死鳥Joe(1995年、KKベストセラーズ) * Tokyo Novelle(1995年、Kunstmuseum Wolfsburg (ヴォルフスブルク、ドイツ)) * 脂肪([[中島唱子]]との共著)(1995年、新潮社) * 東京性(1995年、コアマガジン) * アラーキー裸写 vol.2(1995年、竹書房) * 偽恋([[愛川裕子|石倭裕子]]との共著、1996年、竹書房) * 花の町([[田村隆一]]との共著、1996年、河出書房新社) * 花 Flowers: Life and Death(1996年、西村画廊) * 夜子(モデル: [[夜子]])(1996年、風雅書房) * 花陰(1996年、ジャテック出版) * ラヴ・ラビリンス 京都白情(1996年、新潮社) * 小説写真(1996年、リクルート(発売: メディアファクトリー)) * やさしさは愛じゃない([[谷川俊太郎]]との共著、1996年、幻冬舎) * アラキグラフ(編著)(1996年、光文社) * 愛情旅行(荒木陽子との共著、新書版、1996年、マガジンハウス) * Shikijyo: Sexual Desire(1996年、Edition Stemmle(チューリヒ、スイス)) * 色情 第1集 2集(ポートフォリオ)(1996年、タカ・イシイ・ギャラリー 各限定30部) * 写真への旅(新書版)(1996年、マガジンハウス) * [[旅少女]](1996年、光文社) * 写真心中(CD-ROM付き写真集)(1997年、光文社) * 恋愛関係(1997年、河出書房新社) * 花曲(1997年、新潮社) * 香港キッス(CD-ROM付き写真集)(1997年、ジャストシステム) * Aの愛人<ref>1970-1997年にかけて撮影。既発表含む。</ref>(荒木経惟写真全集 第19巻)(1997年、平凡社) * さっちんとマー坊(写真全集完結記念限定版)(1997年、平凡社) * 死現実(1997年、青土社) * 天才になる!(1997年、講談社) * 東京コメディ(1997年、光琳社出版) * 東京観音([[杉浦日向子]]との共著、1998年、筑摩書房) * 夏小説(1998年、平凡社) * 冬恋(モデル: [[大竹一重]]、1998年、ぶんか社) * Tokyo Nostalgia(1998年、Galleria Photology(ミラノ、イタリア)) * Visions of Japan: ARAKI Nobuyoshi(1998年、光琳社出版) * 陶景(共著、1998年、小学館) * ARAKI IN WIEN(1998年、光琳社出版) * 台北(1998年、光琳社出版) * ポラエロ・黒黴([[水島裕子]]との共著、1998年、ぶんか社) * Rainyday 市川染五郎 ([[市川染五郎 (7代目)|市川染五郎]]との共著、1998年、メディアファクトリー) * 写神(1998年、日本地域社会研究所) * 荒木経惟の熱烈ラヴラヴトーク(対談集)(1998年、双葉社) * 人妻エロス 1/X(1998年、双葉社) * Summer Sex (モデル: [[夏生ゆうな]])(1998年、スコラ) * 秋桜子Cosmosco(1998年、小学館) * 脂肪(中島唱子との共著、文庫版、1998年、新潮社) * 裸小説(1998年、KKベストセラーズ) * 上海帰りのアラーキー(自唱CD付き写真集)(1998年、光琳社出版) * 荒木経惟の写真術(1998年、フォトプラネット(発売: 河出書房新社)) * 日記のお手本 (共著、小学館文庫オリジナル)(1999年、小学館) * 男の顔面(1999年、文藝春秋) * 人妻エロス 2/X(1999年、双葉社) * 東京ノスタルジー(1999年、平凡社) * 流石(1999年、ヒステリック・グラマー) * 春雪抄(1999年、フォトプラネット(発売: 河出書房新社) * アンデルセン、京都巡礼(1999年、メディアファクトリー) * 特選!クライマックス99(1999年、マガジンハウス) * 天城淫行 流奈(モデル: [[永井流奈]])(1999年、ぶんか社) * 俺、南進して([[町田康]]との共著)(1999年、新潮社) * 軽井沢心中(1999年、光文社文庫) * 人妻エロス 3X(1999年、双葉社) * バンコク写真博覧会トムヤム君の冒険(1999年、祥伝社) * 東京慕情(1999年、新風舎) * アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅(1999年、光文社) * 人町(1999年、旬報社) * 猫日和 晴れた日も雨の日も猫がいればそこが楽園(1999年、平凡社) * Tokyomania(2000年、Galerie Kamel Mennour(パリ、フランス)) * 写狂人大日記(2000年、スイッチ・バブリッシング) * ARAKI(Photo Poche No.86)(2000年、Nathan(フランス)) * NOBUYOSHI ARAKI VIAGGIO SENTIMENTALE 同展カタログ(2000年、Museo Pecci, Plato/Gli Oli(プラト、イタリア)) * 人妻エロス 4/X(2000年、双葉社) * ポラエヴァシー(2000年、晶文社) * 限定版 ポラエヴァシー(2000年、晶文社) * Skyscapes(2000年、Kodax Publisher(スイス)) * 写真私情主義(2000年、平凡社) * 格闘男(2000年、プロレスをおもしろがる会(発売: ワニマガジン社) * 温泉ロマンス アラキグラフ第弐号(2000年、光文社/知恵の森文庫) * 純写真から純文学へ(2000年、松柏社) * 全体主義 部分主義(2000年、㈱エクスプランテ) * アラーキー顔写「富山ノ女性」 0歳から100歳までの101人(2000年、福岡町 ミュゼ福岡カメラ館) * 恋少女(2000年、マガジンハウス) * 百花百蝶 菱沼良樹×荒木経惟(2000年、講談社インターナショナル) * Shino(2000年、グラフィック社) * ANA 九州日和(モデル: [[本上まなみ]] 小説: [[伊集院静]])(2000年、ANA(全日空)) * イヴ叢書I 墓地裏の花屋抄(仙波龍英: 短歌)(2000年、ギャラリー・イヴ) * 中村勘九郎写真集 法界坊(2000年、ホーム社(発売: 集英社)) * 人妻エロス 5/X(2000年、双葉社) * 愛の風俗街道 (花村萬月著 写真: 荒木経惟)(2000年、光文社/カッパブックス) * 寂聴×アラーキー 新世紀のフォトーク(瀬戸内寂聴との共著)(2000年、新潮社/新潮文庫) * 荒木経惟・末井昭の複写『写真時代』(2000年、ぶんか社) * 色情狂(2001年、タカ・イシイ・ギャラリー) * 見る・写す・表す グループ展カタログ(2001年、世田谷美術館) * 新世紀ノ写真 限定2001部(2001年、AaT ROOM(発売: アイセンシア)) * 津山登志子写真集「哀」(2001年、双葉社) * 風女(ふうじょ)(2001年、バウハウス) * 小説ソウル(2001年、スイッチ・パブリッシング) * メイプルソープ&アラーキー 百花乱々展 同展カタログ(2001年、[[新潟市美術館]]・[[小田急美術館]]他) * 天才アラーキー 写真ノ方法 集英社新書(2001年、集英社) * Tokyo Still Life 同展カタログ(2001年、Ikon Gallery, Birmingham) * すべての女は美しい(2001年、大和出版) * 新世紀ノ写真(2001年、AaT ROOM(発売: アイセンシア)) * 天才アラーキー 元気チョーダイ!(2001年、集英社) * 天才アラーキーの一期一裸(2001年、集英社/ビジネスジャンプ特別編集) * みすず(2001年、紀伊国屋書店) * ALIVE : Overseas1997-2000 DVD(2001年、クエスト)) * ARAKI MYTHOLOGY(2001年、Images Modernes, Paris(パリ、フランス)) * 唄女 <うたいめ>(2001年、バウハウス) * 再び写真へ(2001年、AaT ROOM(発売: アイセンシア)) * 小林ひとみ写真集「愁」(2001年、双葉社) * 彼岸にて(2001年、AaT ROOM(発売: アイセンシア) * 8月ノ愛人 <ラマン>(小真理との共著)(2002年、小学館) * 東京日記 Tokyo Self Diary 1981-1989(2002年、出窓社) * アラキネマ花曲3 DVD作品(2002年、クエスト) * 去年(2002年、AaT ROOM(発売: アイセンシア)) * 私説東京繁盛記(2002年、筑摩書房) * 荒木経惟の濹東綺譚 小真理といふ女(2002年、インターメディア出版) * 日本人ノ顔 大阪3-1 3冊シリーズの1(2002年、紀伊国屋書店) * アラーキーの恋時間(2002年、KKベストセラーズ) * 人妻エロス 7/X(2002年、双葉社) * ARAKI(2002年、Tascen(ケルン、ドイツ)) * 開国マーチ(藤井誠二との共著)(2002年、実業之日本社) * 天才アラーキーの眼を磨け(2002年、平凡社) * アラーキーの恋時間 Vol.2(2002年、KKベストセラーズ) * 景色 Sexual Colors(2002年、インターメディア出版) * Helena・Araki “LOVE in TOKYO”(モデル: [[ヘレナ・クリステンセン]])(2000年、H2O COMPANY) * 花人生 同展カタログ(2002年、何必館・京都現代美術館) * アラーキー情写(2002年、KKベストセラーズ) * 日本人ノ顔 大阪3-2 3冊シリーズの2(2002年、紀伊国屋書店) * 日本人ノ顔 大阪3-3 3冊シリーズの3(2002年、紀伊国屋書店) * IZUMI, this bad girl.(鈴木いずみとの共著)(2002年、文遊社) * 愛しのチロ(新装版)(2002年、平凡社) * 天才アラーキー写真ノ時間(2003年、集英社/集英社新書) * アラキネマ 花曲4「死曲」 DVD作品(2003年、クエスト) * 人妻エロス 8/X(2003年、双葉社) * ARAKI by ARAKI(2003年、ワイズ出版) * 風ヒカル 星川ヒカル写真集(2003年、新潮社) * 東京旅日記(写真叢書)(2003年、ワイズ出版) * [[「月刊」シリーズ|月刊 奥菜恵special]](2003年、新潮社) * 東京夏物語(2003年、ワイズ出版) * 鹿児島ノ顔(日本人ノ顔)(2004年、南日本新聞開発センタ) * 人妻エロス 9 / X(2004年、双葉社) * [[「月刊」シリーズ|月刊 さとう珠緒]](2004年、新潮社) * 包茎亭日乗完(2004年、ビレッジセンター出版局) * Arakinema 冬春(DVD)(2004年、クエスト) * 乳房(ちちふさ)、花なり。(モデル: [[宮田美乃里]])(2004年、ワイズ出版) * モルヒネも効かぬ五月(2004年、バジリコ) * 再びのソウル「記憶」([[中上紀]]との共著)(2004年、アートン) * 風光の済州島「漂流」(2004年、アートン) * Arakinema 炎夏(DVD)(2005年、クエスト) * 森山・新宿・荒木(森山大道との共著)(2005年、平凡社) * Arakinema 花秋(KASHU)(DVD)(2005年、クエスト) * [[「月刊」シリーズ|月刊 宮崎ますみ special]](2005年、新潮社) * 人妻エロス 10/X(2005年、双葉社) * 空事(くうじ) 写狂人日記2004年(2005年、スイッチ・パブリッシング) * 飛雲閣ものがたり(2005年、本願寺出版社) * SUBWAY LOVE(2005年、IBCパブリッシング) * 青ノ時代(2005年、アートン) * 去年の夏(2005年、アートン) * 色淫女(2006年、アートン) * 写真ノ中ノ空([[谷川俊太郎]]との共著)(2006年、アートン) * 6×7反撃(2007年、アートン) * チロ愛死(2010年、河出書房新社) * 天才アラーキー 写真ノ愛・情(2011年、集英社、集英社新書ヴィジュアル版) * 完全版 写真ノ話(2011年、白水社) * 写狂老人日記(2011年、ワイズ出版) * 72歳(2012年、ワイズ出版) * 愛のバルコニー(2012年、河出書房新社) * 死小説(2013年、新潮社) * アラーキー洒落語録 天才!いろは歌留多(2013年、双葉社) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == 人物と雑誌・CMなど * [[立花隆]] 上野高校で同学年 * [[岡留安則]] 荒木がフォトエッセイ『包茎亭日常』を連載していた『[[噂の眞相]]』の編集長。 * [[小室芹奈]] SMモデル *[[赤塚不二夫]] 『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』に荒木が出演し「アラーキーつうのは、あれだから。赤塚のネーミングだから」と思い出を語る。 * [[週刊大衆]] * [[週刊宝石]] * [[アサヒカメラ]] * [[吉増剛造]] * [[田辺茂一]] * [[ヘルムート・ニュートン]] * [[マン・レイ]] * [[ジョック・スタージェス]] * 「[[天国の駅 HEAVEN STATION]]」 - [[1984年]]製作の[[映画]]。カメラマン役で出演。 * 「[[キャラクター/孤独な人の肖像]]」 - [[1997年]]製作の[[映画]]。[[日本語]]タイトルデザイン担当。 * [[写真新世紀]] - [[キヤノン]]主催による[[コンクール|コンテスト]]。審査員を務める。 * [[ダスキン]] - [[2009年]]9月より、[[ミスタードーナツ]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演(「リッチドーナツショコラ」等)。 * 「[[deja-vu (写真)|deja-vu]]」 - [[逐次刊行物#刊行頻度|季刊]][[雑誌]]。No.4で荒木特集。 * [[ブレンパワード]] - [[富野由悠季]]による[[1998年]]放映の[[テレビ]][[アニメーション]]作品。荒木の植物写真をエンディングに起用した。 * [[バカ姉弟]] - 荒木をモデルにしたトキワさんというキャラクターが登場する[[漫画]]。 *[[綾小路きみまろ]] - きみまろの著書で、きみまろ・荒木との対談と自身が撮影したスナップ写真の一部が掲載されている。 == 外部リンク == * [http://www.arakinobuyoshi.com/index.html 公式サイト] * {{Wayback|url=http://www.47news.jp/araki/ |title=アラーキーの幸福写真 - 47NEWS |date=20071010045746}} * [https://web.archive.org/web/20110722110657/http://www.imagef.jp/interview/library/027/index.html イメージエフ INTERVIEW] * [https://www.1101.com/araki_nobuyoshi/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 荒木経惟×糸井重里 荒木さん。] * {{Bijutsutecho artists|319}} {{毎日芸術賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あらき のふよし}} [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:千葉大学出身の人物]] [[Category:学士号取得者]] [[Category:20世紀日本の写真家]] [[Category:21世紀日本の写真家]] [[Category:ストリート・フォトグラファー]] [[Category:インスタレーション・アーティスト]] [[Category:ヌード写真家]] [[Category:電通の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:東京都立上野高等学校出身の人物]] [[Category:1940年生]] [[Category:存命人物]]
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篠山紀信
篠山 紀信(しのやま きしん、1940年〈昭和15年〉12月3日 - )は、日本の写真家。東京市淀橋区柏木(現在の東京都新宿区北新宿)出身。本名は紀信(みちのぶ)。 東京都新宿区にある真言宗豊山派円照寺の住職・篠山明信の次男。1944年、4歳の時、父が戦死。新宿区立淀橋第四小学校を経て、私立芝中学校・高等学校に入学。高校時代まで生家の円照寺で過ごす。 特に写真が好きではなかったが、一般大学の受験に失敗したため、衝動的に日本大学芸術学部写真学科に出願し入学。日大での同期に写真家沢渡朔がいる。 写真学科に入った以上は写真家になろうと決心し、日大と併行して東京綜合写真専門学校にも通学。在学中より新進写真家として頭角を現す。東京綜合写真専門学校を2年で卒業した後、日大在学中の1961年に広告写真家協会展APA賞を受賞し、ライトパブリシティに就職。この面接にあたりハッタリをかますため当時非常に高価だったハッセルブラッド500Cとリンホフを両肩に提げて持参したという逸話がある。1966年に東京国立近代美術館の「現代写真の10人」展に最年少で参加。1976年にはヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館に代表作家として選ばれる。初期の作品には『Death Valley』『Twins』『Nude』など傑作が多い。ジョン・レノンの生前のラストアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット撮影は篠山の作品である。 その作品数の多さ、ジャンルの多様さはヌードから歌舞伎まで他の写真家を遥かに凌ぐ。1973年、デビューからのキャロルを激写し、キャロル売り出しに貢献。同年『女形・玉三郎展』で芸術選奨新人賞受賞。1975年に雑誌『GORO』で歌手の山口百恵特集で使い始めた「激写」は流行語になり、その後の中森明菜ら芸能人や素人をモデルにした一連の激写シリーズで知られるようになる。この年発売された大判写真集『家』と『晴れた日』は初期の代表作である。 『家』では、北海道から沖縄まで、日本列島約80カ所にのぼる「日本の家」の様々な様相が記録され、北海道、岩手県遠野市の古民家をはじめとし、赤坂の迎賓館、台東区上野の古銭湯、横尾忠則がかつて住んでいた家、高輪の郷ひろみ邸、新宿のアパート、北九州の筑豊炭鉱、 沖縄県竹富島、長崎県軍艦島の廃墟や、廃墟となった家などが収められた。また、生家や4歳の時に1年弱疎開した埼玉の秩父にも30年余ぶりに母と連れ立って出掛け、幼少期の記憶の撮影が行われた。これは、篠山にとって「写真」というメディアを再確認する行為であったようで、「懐かしさや個人的思い入れはあったとしても、それらは「写真」にあらわされるものではないし、その思いも見る者に伝わることはない。「私的」なことを表現したければ、「文学」でやればいいのだ」と篠山は語っている。翌1976年には、評論家多木浩二によって著されたテキスト『生きられた家』が単行本として刊行された。 1978年に写真集『大激写 135人の女ともだち』がベストセラーになったのが端緒で、1980年には篠山をメインにした写真雑誌『写楽』が創刊された。 赤塚不二夫の『天才バカボン』では篠山をモデルにした(とはいってもそう名乗ることとカメラを持っていること以外に外見はこれっぽっちも似ていない。見た目は完全に小学生である)カメラ小僧「篠山紀信君」として登場し、つむじ風を巻き起こしながらどこにでも現れて、決定的瞬間を撮る人物とされている。『魔法の妖精ペルシャ』では篠川紀信という常にカメラを持ち歩くキャラクターがいる。 1978年から1997年にかけては『週刊朝日』の表紙写真を撮影。1980年に始まった『週刊朝日』表紙の女子大生シリーズからは、何人もの女優や女子アナウンサーを輩出している。その他にも『週刊現代』の表紙写真や、月刊テレビ情報誌『B.L.T.』の表紙、及び巻頭グラビアを毎号担当。『B.L.T.』では被写体のヌードはないが、寝そべって、胸の谷間を見せるポーズなど他の雑誌よりは露出度が高いグラビアを撮影している。 デジタルカメラを用いて撮影した場合は、「シノヤマキシン」(2000年頃)「しのやまきしん」「digi_KISHIN」(2003年頃)と言う別名義を使用する時もある。 女性を被写体とした多数のヌード写真を撮影している。1969年にカメラマンの沢渡朔、林宏樹らと全日本恥毛露出連盟ことゼンチロレンを結成して会長に就任。1991年には女優の樋口可南子をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、陰毛を解禁させ、続けて同年に出版した当時トップアイドルだった宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」は新聞に出した全面広告が評判を呼び、ヘアヌード(篠山自身はこの単語を「大嫌いだ」と公言している)ブームを巻き起こした。「Santa Fe」はその年のベストセラー7位、「Water Fruit 不測の事態」は10位の記録を残している。 撮影したヌード写真については、女性の事務所サイドから写真の使用を止められた場合ネガを持ち帰り、自宅で保管する。後にその女性が、芸能界でいわゆる、「落ち目」になったときに、秘蔵ヌードが見つかったことにして『今のヌード』と『昔のネガ』を持ち出し、その二つを一冊の写真集にして発売することがある(例:水沢アキ、杉田かおる)。 篠山の写真のテーマや表現手法は多岐にわたっており、篠山自身「僕は60年ずっと、休みなく写真を撮り続けているし、写真のタイプも表現方法もテクニックも、テーマごとで全部違う」と述べている。 2020年10月13日、第68回菊池寛賞を受賞。 私生活では、モデルと離婚後、アイドル歌手の南沙織と再婚。俳優の篠山輝信は次男。 篠山紀信は1995年からその年のアサヒカメラ1月号の表紙、及び、巻頭グラビアの撮影を担当している。 モデル名については該当雑誌内に表記が通り記述。巻頭グラビア・目次・撮影ノートにもモデル名の掲載が無き場合、“記載なし”とした。 但し例外的ではあるが1997年はモデル名の記載がなかったが、本文に“アトランタ五輪・TOTO国際スーパー陸上”とあり、モデルを特定する重要な情報としてこれを記載した。 又、2018年は“<人形協力>4woods、早乙女トトロ、七彩”とあり、人間モデルではないが人形を特定する重要な情報としてこれを記載した。4woodsはラブドール製造メーカー、早乙女トトロはラブドールレンタル店エロエロ天使店主、七彩はマネキン人形製造メーカーである。
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篠山 紀信は、日本の写真家。東京市淀橋区柏木(現在の東京都新宿区北新宿)出身。本名は紀信(みちのぶ)。
{{Infobox 写真家 | 名前 = 篠山紀信 | 画像 = [[File:Kissin Shinoyama 2015.jpg|200px]] | キャプション = 2015年、[[静岡県立美術館]]での自身の作品展にて | 本名 = | 国籍 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1940|12|3}} | 没年月日 = | 出身地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[淀橋区]]柏木 | 血液型 = | 身長 = | 言語 = | 最終学歴 = [[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]][[写真学科]]<br />[[東京綜合写真専門学校]] | 師匠 = | 出身 = | グループ名 = | 撮影スタイル = | 使用カメラ = | 事務所 = | 活動時期 = | 同期 = [[沢渡朔]] | 作品 = | 他の活動 = | 弟子 = | 公式サイト = | 受賞歴 = }} '''篠山 紀信'''(しのやま きしん、[[1940年]]〈[[昭和]]15年〉[[12月3日]] - )は、[[日本]]の[[写真家]]。[[東京市]][[淀橋区]]柏木(現在の[[東京都]][[新宿区]][[北新宿]])出身。本名は紀信(みちのぶ)。 == 人物・来歴 == [[東京都]][[新宿区]]にある[[真言宗]][[豊山派]][[円照寺 (新宿区)|円照寺]]の[[住職]]・篠山明信の次男。1944年、4歳の時、父が戦死。新宿区立淀橋第四小学校を経て、私立[[芝中学校・高等学校]]に入学。高校時代まで生家の円照寺で過ごす<ref name="daikanyama">[https://daikanyama-tsutaya.blogspot.com/2014/08/shinoyamakishin.html 代官山 蔦屋書店 オフィシャルブログ - ヴィンテージ:篠山紀信氏写真集『家』と「激写」のこと 2014年8月1日17:36]</ref>。 特に写真が好きではなかったが、一般大学の受験に失敗したため、衝動的に[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]][[写真学科]]に出願し入学<ref>[[妹尾河童]]『河童が覗いた仕事師12人』p.38-39(新潮文庫)</ref>{{refnest|group="注釈"|この受験時期のエピソードは当時芝高等学校3年の担任をしていた[[浅野三平]]が同様の報告をしている。}}。日大での同期に写真家[[沢渡朔]]がいる。 写真学科に入った以上は写真家になろうと決心し、日大と併行して[[東京綜合写真専門学校]]にも通学。在学中より新進写真家として頭角を現す。東京綜合写真専門学校を2年で卒業した後、日大在学中の[[1961年]]に広告写真家協会展APA賞を受賞し、[[ライトパブリシティ]]に就職<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=篠山紀信、60年以上のキャリアを通覧する初の試み。東京都写真美術館で「新・晴れた日」が開幕|url=https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/24156|website=美術手帖|accessdate=2021-07-05|language=ja}}</ref>。この面接にあたりハッタリをかますため当時非常に高価だった[[ハッセルブラッド]][[ハッセルブラッドのカメラ製品一覧#500Cシリーズボディー|500C]]と[[リンホフ]]を両肩に提げて持参したという逸話がある<ref>『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.103。</ref>。[[1966年]]に東京国立近代美術館の「現代写真の10人」展に最年少で参加<ref name=":0" />。[[1976年]]にはヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館に代表作家として選ばれる<ref name=":0" />。初期の作品には『Death Valley』『Twins』『Nude』など傑作が多い。[[ジョン・レノン]]の生前のラストアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット撮影は篠山の作品である。 その作品数の多さ、ジャンルの多様さは[[ヌード]]から[[歌舞伎]]まで他の写真家を遥かに凌ぐ。[[1973年]]、デビューからの[[キャロル (バンド)|キャロル]]を激写し、キャロル売り出しに貢献<ref>『Hotwax <small>日本の映画とロックと歌謡曲 Vol.1</small>』[[ウルトラ・ヴァイヴ]]、2005年、p.88。</ref><ref>[[三橋一夫]]『フォークって何だ』[[NHK出版|日本放送出版協会]]、1979年、p.189。</ref>。同年『女形・玉三郎展』で[[芸術選奨新人賞]]受賞。[[1975年]]に雑誌『[[GORO]]』で歌手の[[山口百恵]]特集で使い始めた「[[激写]]」は[[流行語]]になり<ref name="daikanyama"></ref><ref>加藤迪男編『20世紀のことば年表』東京堂出版、2001年、p.194。</ref>、その後の[[中森明菜]]ら[[芸能人]]や[[素人]]をモデルにした一連の激写シリーズで知られるようになる。この年発売された大判写真集『家』と『晴れた日』は初期の代表作である<ref name="daikanyama"></ref>。 『家』では、[[北海道]]から[[沖縄県|沖縄]]まで、[[日本列島]]約80カ所にのぼる「日本の家」の様々な様相が記録され、北海道、[[岩手県]][[遠野市]]の[[古民家]]をはじめとし、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[迎賓館]]、[[台東区]][[上野]]の古銭湯、[[横尾忠則]]がかつて住んでいた家、高輪の[[郷ひろみ]]邸、[[新宿]]の[[アパート]]、北九州の[[筑豊炭鉱]]、 沖縄県[[竹富島]]、[[長崎県]][[端島 (長崎県)|軍艦島]]の[[廃墟]]や、廃墟となった家などが収められた<ref name="daikanyama" />。また、生家や4歳の時に1年弱疎開した[[埼玉県|埼玉]]の[[秩父市|秩父]]にも30年余ぶりに母と連れ立って出掛け、幼少期の記憶の撮影が行われた。これは、篠山にとって「写真」というメディアを再確認する行為であったようで、「懐かしさや個人的思い入れはあったとしても、それらは「写真」にあらわされるものではないし、その思いも見る者に伝わることはない。「私的」なことを表現したければ、「[[文学]]」でやればいいのだ」と篠山は語っている<ref name="daikanyama" />。翌[[1976年]]には、評論家[[多木浩二]]によって著されたテキスト『生きられた家』が単行本として刊行された<ref name="daikanyama"></ref>。 [[1978年]]に写真集『大激写 135人の女ともだち』がベストセラーになったのが端緒で、[[1980年]]には篠山をメインにした写真雑誌『[[写楽 (雑誌)|写楽]]』が創刊された<ref>斎藤精一「両グループの出版物徹底研究」『音羽vs一ツ橋 巨大出版社の研究』創出版、1983年、p.166。</ref>。 [[赤塚不二夫]]の『[[天才バカボン]]』では篠山をモデルにした(とはいってもそう名乗ることとカメラを持っていること以外に外見はこれっぽっちも似ていない。見た目は完全に小学生である)[[カメラ小僧]]「篠山紀信君」として登場し、[[つむじ風]]を巻き起こしながらどこにでも現れて、決定的瞬間を撮る人物とされている。『[[魔法の妖精ペルシャ]]』では篠川紀信という常にカメラを持ち歩くキャラクターがいる。 [[1978年]]から[[1997年]]にかけては『[[週刊朝日]]』の表紙写真を撮影。[[1980年]]に始まった『週刊朝日』表紙の女子大生シリーズからは、何人もの[[俳優|女優]]や[[女子アナウンサー]]を輩出している<ref>「あなたはあのころ、誰に恋してましたか 『紀信の表紙写真館』ベストショット85」『週刊朝日』[[2007年]][[2月16日]]号。</ref>。その他にも『[[週刊現代]]』の表紙写真や、月刊テレビ情報誌『[[B.L.T.]]』の表紙、及び巻頭[[グラビアページ|グラビア]]を毎号担当。『B.L.T.』では被写体のヌードはないが、<!--俗に「B.L.T.ポーズ」と呼ばれる-->寝そべって、胸の谷間を見せるポーズなど他の雑誌よりは露出度が高いグラビアを撮影している。 [[デジタルカメラ]]を用いて撮影した場合は、「シノヤマキシン」(2000年頃)「しのやまきしん」「digi_KISHIN」(2003年頃)と言う別名義を使用する時もある。 女性を被写体とした多数の[[ヌード写真]]を撮影している。[[1969年]]にカメラマンの[[沢渡朔]]、林宏樹らと全日本恥毛露出連盟ことゼンチロレンを結成して会長に就任<ref>『[[平凡パンチ]]』[[1969年]][[5月26日]]号([[塩田丸男]]『死語読本』[[白水社]]、[[1994年]]、p.170。)</ref>。[[1991年]]には女優の[[樋口可南子]]をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、[[陰毛]]を解禁させ、続けて同年に出版した当時トップアイドルだった[[宮沢りえ]]のヌード写真集「Santa Fe」は新聞に出した全面広告が評判を呼び、[[ヘアヌード]](篠山自身はこの単語を「大嫌いだ」と公言している<ref>{{Cite web|和書|title=ヘアヌード、篠山紀信「ほんと嫌い」 表現した宮沢りえ:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASM3R5R1KM3RULZU00F.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-07-05|language=ja}}</ref>)ブームを巻き起こした。「Santa Fe」はその年のベストセラー7位、「Water Fruit 不測の事態」は10位の記録を残している<ref>出版ニュース社編『出版データブック1945~1996』出版ニュース社、1997年、p.97。</ref>。 撮影したヌード写真については、女性の事務所サイドから写真の使用を止められた場合[[ネガ]]を持ち帰り、自宅で保管する。後にその女性が、芸能界でいわゆる、「落ち目」になったときに、秘蔵ヌードが見つかったことにして『今のヌード』と『昔のネガ』を持ち出し、その二つを一冊の写真集にして発売することがある(例:[[水沢アキ]]、[[杉田かおる]])。 篠山の写真のテーマや表現手法は多岐にわたっており、篠山自身「僕は60年ずっと、休みなく写真を撮り続けているし、写真のタイプも表現方法もテクニックも、テーマごとで全部違う」と述べている<ref name=":0" />。 2020年10月13日、第68回[[菊池寛賞]]を受賞<ref>{{Cite news | title = 菊池寛賞に林真理子氏、篠山紀信氏らが決定| newspaper = [[デイリースポーツ]]| date = 2020-10-13| url = https://www.daily.co.jp/gossip/2020/10/13/0013778746.shtml| accessdate = 2020-10-13}}</ref>。 私生活では、モデルと離婚後、[[アイドル]]歌手の[[南沙織]]と再婚。俳優の[[篠山輝信]]は次男。 == 主な作品 == * 篠山紀信と28人のおんなたち (1968) * 篠山紀信集・NUDE (1970) - 「死の谷」「TWINS」 * オレレ・オララ (1971) - [[大林宣彦]]が「オレレ・オララ」制作時に撮影された[[リオのカーニバル]]の写真を16ミリムービーカメラで再撮して映画化している * 女形・玉三郎 (1972) * スター106人 (1973) * 晴れた日 (1975) * 家 (1975) * 決闘写真論(共著[[中平卓馬]])(1977) * {{Cite book|和書|title=カメラ小僧の世界旅行|publisher=晶文社|date=1977-12-15|id={{NDLJP|12161732}}}} * 坂東玉三郎 (1978) * 激写・135人の女ともだち (1979) * 建築行脚(共著[[磯崎新]])(1980-1992) * ヴェニス、光と影 (1980) * 百恵([[山口百恵]]) (1980) * {{Cite book|和書|title=坂東玉三郎-冬の旅 : ヨーロッパの古都を歩いて|publisher=講談社|date=1981-02-12|id={{NDLJP|12182021}}}} * シルクロード (1981-1982) * 四色の花火([[手塚理美]])(1982) * シノラマ・ニューヨーク (1983) * 暑い国 夢の国 生まれた国([[川上麻衣子]])(1983) * 作家の仕事場 (1986) * 1988 Tokyo (1987) * 坂東玉三郎の世界(1988) * TOKYO NUDE (1990) * Water Fruit([[樋口可南子]])(1991) * white room([[本木雅弘]])(1991) * [[Santa Fe]]([[宮沢りえ]])(1991) * 食 (1992) * TOKYO未来世紀 (1992) * hair (1994) * 高岡早紀 写真集 one,two,three (1995) * 三島由紀夫の家 (1995) * Namaiki (1996) * ひなのがぴょんぴょん (1996) * [[少女館]] (1997) * 神話少女([[栗山千明]])(1997) * 少女たちのオキナワ (1997) * 人間関係 (1997) * RIONA([[葉月里緒菜]])(1998) * アカルイハダカ (2004) * 五代目 坂東玉三郎(2007) * JUMP & CRY([[AKB48]])(2007) * RINKO([[菊地凛子]])(2007) * 完全保存版 ザ歌舞伎座 (2009) * 篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート New MAGIC (2009) * NO NUDE by KISHIN 1 20XX TOKYO (2009) * NO NUDE by KISHIN 2 AKARUI KIRARA (2009) * THE LAST SHOW 坂東玉三郎「ありがとう歌舞伎座」(2010) * ATOKATA (2011) * 清純な大人 白石麻衣(2014) == 写真展 == * [http://www.t-g-arts.com/modules/contents/index.php?id=4 「TIME DIFFERENCE」 x Saki Takaoka] in T&G ARTS(六本木) * [http://www.t-g-arts.com/modules/contents/index.php?id=17 「akarui & kurai hadaka」] in T&G ARTS(六本木) * [http://www.t-g-arts.com/modules/contents/index.php?id=34 「JUMP & CRY」x AKB48] in T&G ARTS(六本木)         * [http://www.t-g-arts.com/modules/contents/index.php?id=120 「陰花な被写体」x Kanako Kojima] in T&G ARTS(六本木)   * [http://www.t-g-arts.com/modules/contents/index.php?id=139 「FREE」x Sarara Tukifune] in T&G ARTS(六本木)              == アサヒカメラ1月号 == 篠山紀信は1995年からその年の[[アサヒカメラ]]1月号の表紙、及び、巻頭グラビアの撮影を担当している。 {| class="wikitable" !年 !巻頭グラビアタイトル !巻頭グラビアモデル !表紙モデル !頁数 |- |2019 |ラ・リューシュの館 |結城モエ、松井りな、高尾美有 |松井りな、高尾美有 |32 |- |2018 |処女(イノセンス)の館 |玉城ティナ、今野杏南、北条麻紀、平塚千瑛、水野沙羽、明里つむぎ、東凜、橋本ありな  <人形協力>[[4woods]]、早乙女トトロ、七彩 |玉城ティナ |32 |- |2017 |快楽の館2 |壇蜜、和泉里沙、KIKI、麻乃ゆりあ、境橋りお、松田リヤ、佐々木心音、三上悠亜、紗倉まな、葵、星空もあ、桃瀬ゆり、成田エリ、染谷有香、葉加瀬マイ、堀江愛美、マックフォーデン裕美、三上のどか、遥エリ、矢吹春奈 |壇蜜 |32 |- |2016 |館にてⅡ |記載なし |記載なし |32 |- |2015 |官能とデガダンの館にでの出来事 |記載なし |記載なし |32 |- |2014 |Deauville Nuville |記載なし |記載なし |24 |- |2013 |Before/After |YURIYA KIRITANI、AYAKA TOMODA、YUKIKO SUOU、HITOMI NAKAMURA、MEISA CHIBANA、YUI FUJISHIMA、MAKO ODA、MIKU OHASHI、SAKI NINOMIYA、RISA TSUKINO、TSUBASA AMAMI、MAKOTO YUUKI、NANAMI KAWAKAMI、MIDORI HAYAKAWA、ASUKA KUROSAWA |桐谷ユリア |32 |- |2012 |Before/After |記載なし |記載なし |16 |- |2011 |AKB48劇場 |高橋みなみ、チームA、チームB、チーム研究生(AKB48) |大島優子 |16 |- |2010 |仁左衛門の性根 |片岡仁左衛門、坂東玉三郎 |片岡仁左衛門、坂東玉三郎 |16 |- |2009 |20XX |原沙央莉 |原沙央莉 |16 |- |2008 |海老蔵ラビアンス |市川海老蔵 |市川海老蔵 |16 |- |2007 |芝居小屋の勘三郎 |中村勘三郎、中村扇雀、片岡亀蔵、片岡市蔵、中村七之助、坂東弥十郎、ボランティアの女子高生(同朋高校) |中村勘三郎 |16 |- |2006 |カブキはカゲキ |坂東玉三郎、中村勘三郎、尾上菊之助 |坂東玉三郎 |16 |- |2005 |夜へ EIKO KOIKE |EIKO KOIKE |小池栄子 |16 |- |2004 |Tokyo Digital Night |米倉涼子、小倉ありす、薫桜子、香山聖、瀬戸朝香 |南波杏 |16 |- |2003 |かくも甘きデジタルの官能 |安達祐実、小倉聖、清水あき、仲間由紀恵、酒井はな |安達祐実 |16 |- |2002 |ザ・デジタル |天及りん、苺みるく、深芳野、青木理央 |苺みるく |16 |- |2001 |初春八掛拾大歌舞伎 |坂東玉三郎、中村福助、市川右近、市川猿之助 |坂東玉三郎 |16 |- |2000 |肉体の愉悦 |マニュエル・ルグリ、オレリー・デュポン、バンジャマン・ペッシュ、イザベル・ゲラン、モニク・ルディエール、エリザベット・モーラン |マニュエル・ルグリ、オレリー・デュポン |16 |- |1999 |愛と肉体 |マニュエル・ルグリ、バンジャマン・ペッシュ、オレリー・デュポン、ステファーヌ・ブーリ、木村規予香、ローラン・フォーゲル |オレリー・デュポン |16 |- |1998 |鍛錬と肉体 |ピア・ゲネット、アンナ・ポリカルバヴァ、アン、ロベルト・ボッレ、ウラジミール・マラーホフ |アンナ・ポリカルバヴァ |16 |- |1997 |美しい肉体 |(アトランタ五輪・TOTO国際スーパー陸上で撮影) |記載なし |15 |- |1996 |乙女の祈り |吉野紗香、水谷妃里、宝生舞、俗木奈江、山崎俗里、真田麻垂美、栗山千秋、豊宮三馨、五十嵐淳子、アンジェラ、小針知子、吉川ひなの、浜丘麻矢 |吉野紗香 |15 |- |1995 |芸術写真 |ロビン、ポケない座の皆さん、コーリー、デビー、制服向上委員会、ジミー、吉野紗香、梅宮アンナ、宮沢りえ |宮沢りえ『白い花』 |15 |} モデル名については該当雑誌内に表記が通り記述。巻頭グラビア・目次・撮影ノートにもモデル名の掲載が無き場合、“記載なし”とした。 但し例外的ではあるが1997年はモデル名の記載がなかったが、本文に“アトランタ五輪・TOTO国際スーパー陸上”とあり、モデルを特定する重要な情報としてこれを記載した。 又、2018年は“<人形協力>4woods、早乙女トトロ、七彩”とあり、人間モデルではないが人形を特定する重要な情報としてこれを記載した。[https://aidoll.4woods.jp/entrance.html 4woods]は[[ラブドール]]製造メーカー、早乙女トトロはラブドールレンタル店[http://www.ero104.com/ エロエロ天使]店主、[http://www.nanasai.co.jp/ 七彩]は[[マネキン人形]]製造メーカーである。 == ヌードモデル == {{div col|colwidth=20em}} * あ ** [[相原勇]](小原靖子名義) ** [[蒼井そら]] ** [[青山知可子]] ** 青山梨子 ** [[阿木燿子]] ** [[明日花キララ]] ** [[雨宮かおる]] ** 綾瀬あずみ ** [[飯沢もも]] ** [[石井めぐみ]] ** [[石田えり]] ** [[石田夏子]] ** [[市井静香]] ** [[井上晴美]] ** [[今野由愛]] ** [[梅宮アンナ]] ** [[大竹しのぶ]] ** [[荻野目慶子]] ** [[小倉ありす]] * か ** [[風野舞子]] ** [[片岡礼子]] ** [[かでなれおん]] ** [[神谷沙織]] ** [[香山聖]] ** [[川上麻衣子]] ** [[河北彩花]] ** 川村敦美 ** [[菊地凛子]] ** [[喜多嶋舞]] ** [[北島優]] ** [[岸本加世子]] ** [[木村理恵]] ** [[栗田ひろみ]] ** [[栗山千明]] ** [[黒沢愛|黒澤愛]] ** [[黒柳徹子]] ** [[小島聖]] ** [[小島可奈子]] ** [[コトリッチ|古都ひかる]] * さ ** [[坂上味和]] ** [[桜朱音]] ** 里美ひな ** [[さとう珠緒]] 当時の芸名は「珠緒」。 ** [[沢田和美]] ** シェリー(シェリー麗名義) ** [[白鳥智恵子]] ** [[杉田かおる]] * た ** [[大輝ゆう]] ** [[高岡早紀]] ** [[高尾美有]] ** [[高倉美貴]](越沢美紀名義) ** [[田中こずえ]] ** [[手塚理美]] ** [[月船さらら]] * な ** [[中村アン]] ** [[中谷カイト]] ** [[中村久美]] ** [[夏目ナナ]] ** [[名取裕子]] ** [[南波杏]] * は ** [[長谷川いずみ]] ** [[葉月里緒奈|葉月里緒菜]] ** [[原紗央莉]] ** [[原千晶]] ** [[春菜まい]] ** [[樋口可南子]] * ま ** [[水沢アキ]] ** [[水元ゆうな]] ** [[美保唯]] ** [[宮沢りえ]] ** [[本木雅弘]] ** [[森下愛子]] * や ** [[山口百恵]] ** [[山本奈津子]] {{div col end}} == レコード・ジャケット撮影 == {{div col|colwidth=20em}} * [[美空ひばり]] ** みだれ髪 ** 塩屋岬 * [[藤圭子]] ** [[明日から私は]] * [[岩崎宏美]] ** [[霧のめぐり逢い]] * [[岩崎良美]] ** [[I THINK SO]] ** [[SAISONS]] **四季 **ごめんねDarling * [[柏原芳恵]] ** [[No.1 (柏原よしえの曲)|No.1]] ** [[し・の・び・愛]](シングル) ** [[し・の・び・愛 (アルバム)|し・の・び・愛]](アルバム) ** [[春ごころ]] * [[坂上香織]] ** 季節のプロローグ * [[南沙織]] ** [[純潔 (南沙織の曲)|純潔]] ** [[哀愁のページ]] ** [[早春の港]] ** [[ひとかけらの純情]] ** [[哀しい妖精]] ** [[街角のラブソング]] * [[山口百恵]] ** [[ひと夏の経験]] ** [[ちっぽけな感傷]] ** [[冬の色]] ** [[湖の決心]] ** [[白い約束/山鳩]] ** [[愛に走って/赤い運命]] ** [[横須賀ストーリー]] ** [[パールカラーにゆれて]] ** [[夢先案内人]] ** [[イミテイション・ゴールド]] ** [[愛の嵐 (山口百恵の曲)|愛の嵐]] ** [[しなやかに歌って]] ** [[愛染橋]] ** [[一恵]] * [[中森明菜]] ** [[ミ・アモーレ|ミ・アモーレ{{lang|pt|〔Meu amor é・・・〕}}]] ** [[BITTER AND SWEET (中森明菜のアルバム)|BITTER AND SWEET]] * [[ジョン・レノン]] ** [[ダブル・ファンタジー]] ** [[ミルク・アンド・ハニー]] * [[DREAMS COME TRUE]] **[[LOVE LOVE LOVE/嵐が来る|LOVE LOVE LOVE]] * 6代目三遊亭圓生 ** 圓生百席 {{div col end}} == 主なテレビ出演 == <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> * 2006年5月3日「[[情報プレゼンター とくダネ!|とくダネ!]]」(フジテレビ系):生出演をし(写真集「六本木ヒルズ×篠山紀信」刊行(4月25日)およびこれにちなんだ六本木ヒルズでの写真展(4月25日-5月14日)の紹介) == 主な雑誌記事・インタビュー == * インタビュー「いまあえてNUDE宣言」([[アサヒカメラ]]2009年1月号258ページから259ページ) * 特集「篠山紀信NUDE」([[美術手帖]]2009年4月号表紙および9ページから97ページ) * 特集 NUDE by KISHIN -篠山紀信と時代とハダカの女たち-([[広告批評]]2009年3月号表紙および17ページから68ページ) * 大特集 篠山紀信 「写真力」って、なんだ!?([[芸術新潮]]2012年10月号) == 事件 == * [[2006年]][[4月25日]] - 事務所に空き巣が入り現金盗難の被害にあった。 * [[2009年]][[11月10日]] - [[1月31日]]に発売された写真集『20XX TOKYO』での、東京都内の屋外で誰でも見ることができる状態で[[原紗央莉|モデル女優]]の裸を撮影したなどとして[[公然わいせつ罪]]の疑いで事務所の[[家宅捜索]]を受けている。写真集自体の[[わいせつ]]性ではなく、東京都立[[青山霊園]]ほか[[公衆]]の目に触れる場所12カ所にて撮影した行為が問題となっていた<ref name="名前なし-1">[https://web.archive.org/web/20100128101038/http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20100125dde041040029000c.html 篠山紀信氏:霊園で裸撮影 公然わいせつの疑いで書類送検] 2010年1月25日 毎日新聞</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20091113023311/https://www.47news.jp/CN/200911/CN2009111001000388.html 篠山紀信さんの事務所捜索 ヌード撮影で公然わいせつ容疑]共同通信2009年10月10日</ref>。<br>篠山本人は「水着で撮影していた」といった[[嘘]]の内容の[[始末書]]を[[警視庁]]に提出していたが<ref name="名前なし-1"/>、[[2010年]][[1月25日]]には違法性の認識を認めモデル2人と共に[[警視庁]][[生活安全部]]保安課に[[書類送検]]されている<ref>[https://web.archive.org/web/20100128102141/https://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100125/crm1001251131007-n1.htm 「記念碑的な作品作りたかった」 篠山紀信さんとモデルの計3人を書類送検] 2010年1月25日 産経ニュース</ref>。篠山は「申し訳ない。周囲に配慮したつもりだったが、足りなかった」と[[容疑]]を全面的に認めている<ref name="名前なし-1"/>。検察は篠山が嘘の内容の始末書を出したことで悪質性が高いとして墓所に絞って立件した。2010年5月26日、公然わいせつ罪と[[礼拝所不敬罪]]で[[東京簡易裁判所]]から罰金30万円の[[略式命令]]がくだった<ref>[https://web.archive.org/web/20100612102054/http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010060901000307.html 篠山紀信さんに罰金30万円 霊園ヌード撮影に東京簡裁]共同通信2010年6月9日</ref>{{refnest|group="注釈"|この撮影事件は漫画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』で篠山そっくりな男が両津を屋外で裸にして写真を撮影し段々とエキサイトした結果2人とも公然わいせつで逮捕されるという形でネタにされている<ref>『こちら葛飾区亀有公園前派出所』179巻。</ref>。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == *[[妹尾河童]]『河童が覗いた仕事師12人』平凡社 *『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』双葉社 ISBN 4-575-47199-2 *加藤迪男編『20世紀のことば年表』東京堂出版 *斎藤精一「両グループの出版物徹底研究」『音羽vs一ツ橋 巨大出版社の研究』創出版 *「あなたはあのころ、誰に恋してましたか 『紀信の表紙写真館』ベストショット85」『週刊朝日』[[2007年]][[2月16日]]号 *『平凡パンチ』1969年5月26日号(塩田丸男『死語読本』白水社、1994年) *出版ニュース社編『出版データブック1945~1996』出版ニュース社、1997年 *『こちら葛飾区亀有公園前派出所』179巻 == 外部リンク == * [https://shinoyama.net/ シノヤマネット|篠山紀信写真・映像ライブラリー] * [https://www.cinra.net/article/column-shinoyama-talk-php トーク連載「篠山紀信 × ○○」:CINRA.NET] * [https://imaonline.jp/articles/interview/20160826kishin-shinoyama_1/ 篠山紀信展「快楽の館」インタヴュー -IMA ONLINE] * {{NHK人物録|D0009071989_00000}} {{毎日芸術賞}} {{南沙織}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しのやま きしん}} [[Category:20世紀日本の写真家]] [[Category:21世紀日本の写真家]] [[Category:1940年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:芸術と裸]] [[Category:少女愛]] [[Category:ヌード写真家]] [[Category:南沙織]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:日本大学出身の人物]] [[Category:学士号取得者]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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78
78(七十八、ななじゅうはち、しちじゅうはち、ひちじゅうはち、ななそじあまりやつ)は自然数、また整数において、77の次で79の前の数である。
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{{整数|Decomposition=2 × 3 × 13}} '''78'''('''七十八'''、ななじゅうはち、しちじゅうはち、ひちじゅうはち、ななそじあまりやつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[77]]の次で[[79]]の前の数である。 == 性質 == *78は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[3]], [[6]], [[13]], [[26]], [[39]], 78 である。 **[[約数]]の和は[[168]]。 ***16番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[72]]、次は[[80]]。 *78 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + 8 + 9 + 10 + 11 + 12 **12番目の[[三角数]]である。1つ前は[[66]]、次は[[91]]。 ***78は12面サイコロの目の総和と等しい。 ***[[三角数]]が[[過剰数]]になる3番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[120]]。({{OEIS|A074315}}) *** 三角数において[[各位の和]]も三角数になる9番目の数である。1つ前は[[55]]、次は[[91]]。({{OEIS|A062099}}) * 78 = 2 × 3 × 13 **5番目の[[楔数]]である。1つ前は[[70]]、次は[[102]]。 ***2桁では最大の[[楔数]]である。 ***三角数の楔数としては2番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[105]]。 ** 78 = 6 × 13 *** ''n'' = 6 のときの ''n'' と ''prime(n)'' との積とみたとき1つ前は[[55]]、次は[[119]]。({{OEIS|A033286}}) *([[77]], 78) は4番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は([[15]], [[16]])、次は([[125]], [[126]])。 *{{sfrac|1|78}} = 0.0{{underline|128205}}… (下線部は循環節で長さは6) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる16番目の数である。1つ前は[[77]]、次は[[84]]。 *[[約数]]の和が78になる数は1個ある。([[45]]) 約数の和1個で表せる23番目の数である。1つ前は[[74]]、次は[[91]]。 * [[各位の和]]が15になる2番目の数である。1つ前は[[69]]、次は[[87]]。 ** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が15になる最小の数である。 *各位の[[平方和]]が113になる最小の数である。次は[[87]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の112は2666、次の114は[[178]]。({{OEIS|A055016}}) * 連続[[自然数]]を昇順に並べてできる7番目の数である。1つ前は[[67]]、次は[[89]]。(参照{{OEIS|A035333}}) *78 = 2{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる37番目の数である。1つ前は[[76]]、次は[[82]]。({{OEIS|A025321}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる23番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[81]]。({{OEIS|A025339}}) ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[476]]。({{OEIS|A074538}}) *78 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} **異なる4つの[[平方数]]の和3通りで表せる最小の数である。次は[[102]]。({{OEIS|A025378}}) **異なる4つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の2通りは[[90]]、次の4通りは[[142]]。({{OEIS|A025417}}) * ''π''(400) = 78 (ただし''π''(''x'')は[[素数計数関数]]) **[[400]]までの素数は78個ある。1つ前の300までは[[62]]、次の500までは[[95]]。({{OEIS|A028505}}) * 78 = 3{{sup|4}} − 3 ** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|4}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[252]]。({{OEIS|A058895}}) * ''n'' = 78 のとき ''n'' と ''n'' − 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' − 1 を並べた数が素数になる9番目の数である。1つ前は[[70]]、次は[[88]]。({{OEIS|A054211}}) * ''n'' = 78 のとき ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる11番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[80]]。({{OEIS|A030457}}) ** ''n'' = 78 のとき ''n'' と ''n'' − 1 および ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる2番目の数である。1つ前は[[42]]、次は[[102]]。({{OEIS|A068700}}) **:例.7877 と 7879 は素数。またこの2つの素数は[[双子素数]]である。 == その他 78 に関すること == *[[原子番号]] 78 の[[元素]]は[[白金]](プラチナ)(Pt)。 *第78代[[天皇]]は[[二条天皇]]。 *[[日本]]の第78代[[内閣総理大臣]]は[[宮澤喜一|宮沢喜一]]。 *[[太陽暦]]、[[グレゴリオ暦]]において[[平年]]の[[年始]]から78日目は[[3月19日]]である。 *第78代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ドヌス (ローマ教皇)|ドヌス]](在位:[[676年]][[11月2日]]~[[678年]][[4月11日]])である。 *[[松任谷由実]]の曲に『78』(セブンティエイト、『[[悲しいほどお天気]]』所収)がある。[[タロットカード]]の枚数に由来。 *[[ウルトラマン]]の故郷は[[M78星雲]]にある。 *[[SP盤]]の[[回転数]]は 78rpm である。 *[[チェックメイト78]]は[[テレビ朝日]]系列で放映された[[刑事ドラマ]]。 *[[ガンダム (架空の兵器)]]の型式番号はRX-78。その他[[ガンダムNT-1]]や[[ガンダム開発計画]]などにも RX-78 は使われている。 *[[クルアーン]]における第78番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[消息 (クルアーン)|消息]]である。 == 関連項目 == {{数字2桁|7|}} *[[7月8日]] {{自然数}}
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74
74(七十四、しちじゅうし、ななじゅうよん、ななじゅうし、ひちじゅうし、ななそじあまりよつ)は自然数、また整数において、73の次で75の前の数である。
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74(七十四、しちじゅうし、ななじゅうよん、ななじゅうし、ひちじゅうし、ななそじあまりよつ)は自然数、また整数において、73の次で75の前の数である。
{{整数|Decomposition=2 × 37}} '''74'''('''七十四'''、しちじゅうし、ななじゅうよん、ななじゅうし、ひちじゅうし、ななそじあまりよつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[73]]の次で[[75]]の前の数である。 == 性質 == *74は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[37]], 74 である。 **[[約数]]の和は[[114]] 。 *25番目の[[半素数]]である。1つ前は[[69]]、次は[[77]]。 *{{sfrac|1|74}} = 0.0{{underline|135}}… (下線部は循環節で長さは3) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が3になる4番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[108]]。({{OEIS|A069105}}) *[[偶数]]の[[ノントーティエント]]である。1つ前は[[68]]、次は[[76]]。 **(74, 76) は2連続偶数が共にノントーティエントとなる最小の数である。次は[[112]]。 *74{{sup|2}} + 1 = 5477 であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で[[素数]]を生む16番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[84]]。 *[[約数]]の和が74になる数は1個ある。([[73]]) 約数の和1個で表せる22番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[78]]。 *[[各位の和]]が11になる6番目の数である。1つ前は[[65]]、次は[[83]]。 * 74 = 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる22番目の数である。1つ前は[[73]]、次は[[80]]。({{OEIS|A004431}}) ** ''n'' = 2 のときの 5{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[468]]。({{OEIS|A074616}}) *74 = 1<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> = 3<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる10番目の数である。1つ前は[[69]]、次は[[75]]。({{OEIS|A025322}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる3番目の数である。1つ前は[[69]]、次は[[77]]。({{OEIS|A025340}}) **74 = 1<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 1<sup>''n''</sup> + 3<sup>''n''</sup> + 8<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[540]]。({{OEIS|A074510}}) **74 = 3<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 3<sup>''n''</sup> + 4<sup>''n''</sup> + 7<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[434]]。({{OEIS|A074549}}) * 74 = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[376]]。 ** 74 = ({{sfrac|5&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|7&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|13&minus;1|2}}){{sup|2}} * 74 = [[64]] + (6 + 4) ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} とその[[各位の和]]との和とみたとき1つ前は[[36]]、次は[[133]]。({{OEIS|A123135}}) == その他 74 に関すること == *[[西暦]][[74年]] *[[原子番号]] 74 の[[元素]]は[[タングステン]] (W)。 *[[陸上自衛隊]]の[[74式戦車]]の 74 は制式採用された年。 *第74代[[天皇]]は[[鳥羽天皇]]である。 *[[日本]]の第74代[[内閣総理大臣]]は[[竹下登]]である。 *第74代[[教皇|ローマ教皇]]は[[マルティヌス1世 (ローマ教皇)|マルティヌス1世]](在位:[[649年]][[7月5日]]~[[653年]])である。 *[[年始]]から数えて74日目は[[3月15日]]、[[閏年]]では[[3月14日]]。 *[[アメリカ合衆国]]の[[独立記念日]]は[[7月4日]]である。 *[[高等学校|高校]]の卒業に必要な単位数。 *[[汎用ロジックIC|標準ロジックIC]]には74シリーズ(7400番台・74000番台)がある。 *レーサー[[加藤大治郎]]のゼッケン番号であると同時に、[[MotoGP]] での[[永久欠番]]となっている。 *[[クルアーン]]における第74番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[包る者 (クルアーン)|包る者]]である。 *空間内において最も密に[[球体|球]]を並べる方法は[[六方最密充填構造]]と[[面心立方格子構造]]の2通りありどちらも[[充填率]]は約74%である。(正確には<math>\frac{\sqrt{2}\pi}{6}</math>)({{OEIS|A093825}}) == 関連項目 == {{数字2桁|7|}} *[[7月4日]] {{自然数}}
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17,902
75
75(七十五、ななじゅうご、しちじゅうご、ひちじゅうご、ななそいつ、ななそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、74の次で76の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "75(七十五、ななじゅうご、しちじゅうご、ひちじゅうご、ななそいつ、ななそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、74の次で76の前の数である。", "title": null } ]
75(七十五、ななじゅうご、しちじゅうご、ひちじゅうご、ななそいつ、ななそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、74の次で76の前の数である。
{{整数|Decomposition=3 × 5{{sup|2}}}} '''75'''('''七十五'''、ななじゅうご、しちじゅうご、ひちじゅうご、ななそいつ、ななそじあまりいつつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[74]]の次で[[76]]の前の数である。 == 性質 == * 75 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[3]], [[5]], [[15]], [[25]], 75 である。 ** [[約数の和]]は[[124]]。 ** [[素数]]を除いて σ(''n'') &minus; ''n'' が[[平方数]]になる8番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[76]]。ただしσは[[約数関数]]。({{OEIS|A048699}}) * {{sfrac|1|75}} = 0.01{{underline|3}}… (下線部は循環節で長さは1) ** [[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が1になる14番目の数である。1つ前は[[72]]、次は[[90]]。({{OEIS|A070021}}) * 5番目の[[多角数|五角錐数]]である。1つ前は[[40]]、次は[[126]]。 ** [[五角数]]の初めの5つを加えた値であることも同時に意味する。 *: 75 = 1 + 5 + 12 + 22 + 35 = 1 + (2 + 3) + (3 + 4 + 5) + (4 + 5 + 6 +7) + (5 + 6 + 7 + 8 + 9) * 75 と [[48]] は[[婚約数]]である。これは最小の婚約数である。次は([[140]], [[195]])。 ** 75 の 1 と 75 を除く正の約数の和は 48 であり、48 の 1 と 48 を除く正の約数の和は 75 である。 * 75{{sup|3}} = 421875 になり下2桁が75になる。''n'' と ''n''{{sup|3}} の下2桁が同じになる6番目の数である。1つ前は[[51]]、次は[[76]]。 ** この性質をもつ数は偶数乗においても下2桁が等しくなる。 **: 例.75{{sup|2}} = 56{{underline|25}}、75{{sup|4}} = 316406{{underline|25}} ** この性質をもつ2桁の数字列は、他に00, 01, [[24]], [[25]], [[49]], [[51]], [[76]], [[99]]がある。({{OEIS|A008856}}) * [[2]], [[4]], [[8]], [[16]], [[32]], [[64]](75未満の全ての2の[[累乗数]])と自身75との差が全て素数になる6番目の数である。1つ前は[[45]]、次は[[105]]。({{OEIS|A039669}}) ** すなわち 75 &minus; 2 = [[73|{{underline|73}}]], 75 &minus; 4 = [[71|{{underline|71}}]], 75 &minus; 8 = [[67|{{underline|67}}]], 75 &minus; 16 = [[59|{{underline|59}}]], 75 &minus; 32 = [[43|{{underline|43}}]], 75 &minus; 64 = [[11|{{underline|11}}]] となり下線部は全て素数である。 * [[n進法|4進数]]において最小の[[パンデジタル数]]である。すなわち4進数では1023{{sub|(4)}}となる。次は[[78]]。({{OEIS|A049355}}) ** n進法における最小のパンデジタル数と見たとき、1つ前は[[11]]、次は694。({{OEIS|A049363}}) * [[各位の和]]が12になる5番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[84]]。 * 75 = 2{{sup|1}} + 3{{sup|2}} + 4{{sup|3}} = (4 &minus; 1) × (4 + 1){{sup|2}} = 4{{sup|3}} + 4{{sup|2}} &minus; 4 &minus; 1 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + (''n'' &minus; 1){{sup|2}} + (''n'' &minus; 2) の値とみたとき1つ前は[[32]]、次は[[144]]。({{OEIS|A152619}}) * 75 = 1{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる11番目の数である。1つ前は[[74]]、次は[[77]]。({{OEIS|A025322}}) ** 75 = 1{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} *** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる22番目の数である。1つ前は[[70]]、次は[[78]]。({{OEIS|A025339}}) *** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[469]]。({{OEIS|A074517}}) * 75 = 3 × 5{{sup|2}} ** ''n'' = 5 のときの 3''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[48]]、次は[[108]]。({{OEIS|A033428}}) ** 2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる11番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[76]]。({{OEIS|A054753}}) * 75 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[377]]。 ** 75 = ({{sfrac|3&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|5&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|7&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11&minus;1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|13&minus;1|2}}){{sup|2}} * すべての桁が[[素数]]である19番目の数である。1つ前は[[73]]、次は[[77]]。({{OEIS|A046034}}) ** すべての桁が異なる[[素数]]である16番目の数である。1つ前は[[73]]、次は[[235]]。({{OEIS|A124673}}) * 75 = <math>\sum^{5}_{k=1}(k^2+k+1)</math> ** ''n'' = 5 のときの <math>\sum^n_{k=1}(k^2+k+1)</math> の値とみたとき1つ前は[[44]]、次は[[118]]。({{OEIS|A145069}}) * 75 = 14{{sup|2}} &minus; 121 ** ''n'' = 14 のときの ''n''{{sup|2}} &minus; 11{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[48]]、次は[[104]]。({{OEIS|A132764}}) == その他 75 に関すること == * [[原子番号]] 75 の[[元素]]は[[レニウム]] (Re)。 * [[100]] の [[3/4|{{sfrac|3|4}}]]。75年を三四半世紀という。 * 慣用表現に、「人の噂も七十五日(= 2カ月半)」。また、初物を食べると寿命が七十五日延びるという。 * [[結婚]]75周年の[[結婚記念日]]は[[白金|プラチナ]]婚式という。 * 第75代[[天皇]]は[[崇徳天皇]]である。 * [[日本]]の75代目の[[内閣総理大臣]]は、[[宇野宗佑]]。 * 第75代[[教皇|ローマ教皇]]は[[エウゲニウス1世 (ローマ教皇)|エウゲニウス1世]](在位:[[654年]][[8月10日]]~[[657年]][[6月2日]])である。 * [[諏訪大社]]で行われる御頭祭にはかつて75頭の牡鹿が供えられた。 * [[年始]]から数えて75日目は[[3月16日]]、[[閏年]]は[[3月15日]]。 * [[クルアーン]]における第75番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[復活 (クルアーン)|復活]]である。 * 理論上考えられる炭素数10の[[アルカン]]の[[異性体]]の数は75。 * [[国鉄ED75形電気機関車]]は、[[日本国有鉄道]]が製造した交流用電気機関車。 * [[はしご]]を立てかける角度は75°が推奨されている。 * 一般的な[[ビンゴ]]カードは1~75までの数の中から24個の数と中央のFreeでできている。 *[[RCA端子]]など[[映像機器|映像]]・[[音響機器]]に使われるケーブルの特性インピーダンスは[[同軸ケーブル]]と同じ75Ωでほぼ統一されている。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|7|}} *[[7月5日]] {{自然数}}
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17,903
76
76(七十六、ななじゅうろく、しちじゅうろく、ひちじゅうろく、ななそじあまりむつ)は自然数、また整数において、75の次で77の前の数である。
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76(七十六、ななじゅうろく、しちじゅうろく、ひちじゅうろく、ななそじあまりむつ)は自然数、また整数において、75の次で77の前の数である。
{{整数|Decomposition= 2{{sup|2}} × 19}} '''76'''('''七十六'''、ななじゅうろく、しちじゅうろく、ひちじゅうろく、ななそじあまりむつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[75]]の次で[[77]]の前の数である。 == 性質 == *76は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[19]], [[38]], 76 である。 **[[約数の和]]は[[140]]。 ** [[素数]]を除いて σ(''n'') &minus; ''n'' が[[平方数]]になる9番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[90]]。ただしσは[[約数関数]]。({{OEIS|A048699}}) *{{sfrac|1|76}} = 0.01{{underline|315789473684210526}}… (下線部は循環節で長さは18) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が18になる4番目の数である。1つ前は[[57]]、次は[[95]]。 *9番目の[[リュカ数]]である。1つ前は[[47]]、次は[[123]]。 *4番目の[[多角数|14角数]]である。1つ前は[[39]]、次は[[125]]。 *76{{sup|2}} = 57''76''。したがって 76 の累乗数は下2桁が 76 になる。このような2桁の整数は他に [[25]] がある。 **5番目の[[自己同形数]]である。1つ前は[[25]]、次は[[376]]。 **''n'' と ''n''{{sup|3}} の下2桁が同じになる7番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[99]]。({{OEIS|A008856}}) *偶数の[[ノントーティエント]]である。1つ前は[[74]]、次は[[86]]。 * 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で26番目の数である。1つ前は[[72]]、次は[[92]]。 *[[各位の和]]が13になる4番目の数である。1つ前は[[67]]、次は[[85]]。 *76 = 2{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる36番目の数である。1つ前は[[73]]、次は[[78]]。({{OEIS|A025321}}) * 76 = 2{{sup|2}} × 19 ** ''n'' = 2 のときの 19 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[38]]、次は[[152]]。({{OEIS|A110288}}) **2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる12番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[92]]。({{OEIS|A054753}}) * 76 = 4{{sup|3}} + 4{{sup|2}} &minus; 4 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} &minus; ''n'' の値とみたとき1つ前は[[33]]、次は[[145]]。({{OEIS|A085490}}) * 76 = <math>\sum^{5}_{k=0}(k^2+k+1)</math> ** ''n'' = 5 のときの <math>\sum^n_{k=0}(k^2+k+1)</math> の値とみたとき1つ前は[[45]]、次は[[119]]。({{OEIS|A006527}}) * 76 = 4{{sup|3}} + 3{{sup|2}} + 2{{sup|1}} + 1{{sup|0}} ** ''n'' = 4 のときの <math>\sum^n_{k=1}k^{k-1}</math> の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[701]]。({{OEIS|A060946}}) == その他 76 に関すること == *[[原子番号]] 76 の[[元素]]は[[オスミウム]] (Os)。 *[[フィラデルフィア・セブンティシクサーズ|フィラデルフィア・76ers]] - [[NBA]] の[[バスケットボール]]チーム。[[アメリカ合衆国]]の独立年([[1776年]])に因む。 *『[[76本のトロンボーン]]』は、メレディス・ウィルソンの[[ミュージカル]]『''[[:en:The Music Man|The Music Man]]''』の曲である。 *[[76 (フィリップス66)]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フィリップス66]]による石油ブランド。 *第76代[[天皇]]は[[近衛天皇]]である。 *[[日本]]の第76代[[内閣総理大臣]]は[[海部俊樹]]である。 *第76代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ウィタリアヌス (ローマ教皇)|ウィタリアヌス]](在位:[[657年]][[7月30日]]~[[672年]][[1月27日]])である。 *ナムコ([[バンダイナムコゲームス]]・[[ナムコ]])の当て字として使われる。 **一例としては[[リッジレーサーシリーズ]]のカーナンバー(主にパッケージ、オープニング(アトラクト)、[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]] の PRC のナンバー) *[[ハレー彗星]]は約76年周期で地球に接近する。 *[[クルアーン]]における第76番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[人間 (クルアーン)|人間]]である。 *[[1976年]][[4月2日]]~[[1977年]][[4月1日]]生まれのこの世代は、ネット業界ではナナロク世代と呼ばれる人たちが多く活躍している。 *[[1月1日]]から数えて76日目は[[3月17日]]、[[閏年]]は[[3月16日]]。 == 関連項目 == *[[7月6日]] {{数字2桁|7|}} {{自然数}}
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17,904
77
77(七十七、ななじゅうなな、ななじゅうしち、しちじゅうしち、ななそじあまりななつ)は、自然数また整数において、76の次で78の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "77(七十七、ななじゅうなな、ななじゅうしち、しちじゅうしち、ななそじあまりななつ)は、自然数また整数において、76の次で78の前の数である。", "title": null } ]
77(七十七、ななじゅうなな、ななじゅうしち、しちじゅうしち、ななそじあまりななつ)は、自然数また整数において、76の次で78の前の数である。
{{整数|Decomposition=7 × 11}} '''77'''('''七十七'''、ななじゅうなな、ななじゅうしち、しちじゅうしち、ななそじあまりななつ)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[76]]の次で[[78]]の前の数である。 == 性質 == *77 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[7]], [[11]], 77 である。 **[[約数]]の和は[[96]] 。 * 77 = 7 × 11 ** 26番目の[[半素数]]である。1つ前は[[74]]、次は[[82]]。 ** 2つの連続する[[素数]]の積で表せる4番目の数である。1つ前は[[35]]、次は[[143]]。({{OEIS|A006094}}) *(77, [[78]]) は4番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は([[15]], [[16]])、次は([[125]], [[126]])。 *{{sfrac|1|77}} = 0.{{underline|012987}}… (下線部は循環節で長さは6) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる15番目の数である。1つ前は[[70]]、次は[[78]]。 *17番目の[[回文数]]である。1つ前は[[66]]、次は[[88]]。 **1桁の数を含まないとき7番目の回文数である。 ** 7が2つ並ぶゾロ目である。1つ前は[[66]]、次は[[88]]。 *77 = 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} **連続する3つの数の平方数の和で表せる数である。1つ前は[[50]]、次は[[110]]。 **''n'' = 2 のときの 4<sup>''n''</sup> + 5<sup>''n''</sup> + 6<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[15]]、次は[[405]]。({{OEIS|A074561}}) **77 = 2<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> = 4<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> *** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる12番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[83]]。({{OEIS|A025322}}) *** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる4番目の数である。1つ前は[[74]]、次は[[86]]。({{OEIS|A025340}}) **77 = 2<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 2<sup>''n''</sup> + 3<sup>''n''</sup> + 8<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[547]]。({{OEIS|A074530}}) *[[素数#連続素数和|最初の8つの素数の和]]で表せる数である。1つ前は[[58]]、次は[[100]]。<br>77 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 **8連続素数和とみたとき最小の数である。次は[[98]]。 * ''n'' = 77 のときの ''n''! + 1 で表せる 77[[階乗|!]] + 1 は9番目の[[階乗素数]]である。1つ前は[[73]]、次は[[116]]。({{OEIS|A002981}}) *√{{overline|6000}} に最も近い整数である。√{{overline|6000}} = 77.45966…。77{{sup|2}} = 5929, 78{{sup|2}} = 6084。 *[[各位の和]]が14になる3番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[86]]。 *各位の[[平方和]]が98になる最小の数である。次は[[149]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の97は[[49]]、次の99は[[177]]。({{OEIS|A055016}}) *各位の[[立方和]]が686になる最小の数である。次は[[707]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の685は1567、次の687は[[177]]。({{OEIS|A165370}}) *1から100までの合成数かつ末尾が7の数で唯一、3の倍数ではない。<!--27、57、87はいずれも3で割り切れる。--> *すべての桁が[[素数]]である20番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[222]]。({{OEIS|A046034}}) * 77 = 3{{sup|4}} − 4 ** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[24]]、次は[[238]]。({{OEIS|A000325}}) * 77 = 4{{sup|3}} + 4{{sup|2}} − 4 + 1 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} − ''n'' + 1 の値とみたとき1つ前は[[34]]、次は[[247]]。({{OEIS|A100109}}) == その他 77 に関すること == *[[原子番号]] 77 の[[元素]]は[[イリジウム]] (Ir)。 *77歳を[[喜寿]]という。「喜」の略字を分解すると「七十七」になることから。 *[[3月18日]]は、[[平年]]のみ年始から77日目に当てはまる。 * 第77代[[天皇]]は[[後白河天皇]]。 *[[日本]]の第77代[[内閣総理大臣]]は[[海部俊樹]]。 *第77代[[教皇|ローマ教皇]]は[[アデオダトゥス2世 (ローマ教皇)|アデオダトゥス2世]](在位:[[672年]][[4月11日]]~[[676年]][[6月17日]])である。 *[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]で[[ハイジャック]]された[[アメリカン航空]]77便は、[[アメリカ国防総省]](ペンタゴン)に突入した。(→[[アメリカン航空77便テロ事件]]) *[[クルアーン]]における第77番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[送られるもの (クルアーン)|送られるもの]]である。 *[[エフエム滋賀]] - 周波数が 77.0&nbsp;MHz で、放送局[[ジングル (ラジオ)|ジングル]]においても「e-radio 77 FM(イーレイディオ セブンセブン エフエム)」とコールされることがある。 *『[[77 〜And, two stars meet again〜]]』は2009年7月31日に発売された[[アダルトゲーム]]。 *[[サンセット77]] - [[1958年]]から[[1964年]]にかけて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]にて放映された[[テレビドラマ|ドラマ]]作品。 *『[[7月7日、晴れ]]』は、[[フジテレビジョン]]製作の[[日本映画]]([[1996年]][[5月11日]]公開)、およびその映画主題歌 ([[DREAMS COME TRUE]])。 *[[読売ジャイアンツ]]・[[川上哲治]]の監督在任時の背番号は77。 *[[星野仙一]]は監督在任時([[中日ドラゴンズ]]、[[阪神タイガース]]、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]])の背番号を77にしていた。楽天ではその77が自身の永久欠番となった。 *[[愛媛マンダリンパイレーツ]]の[[弓岡敬二郎]]の永久欠番(77)。 *[[七十七銀行]]:宮城県仙台市に本店を置く地方銀行(旧・第七十七[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]) == 関連項目 == {{数字2桁|7|}} *[[7月7日]] {{自然数}}
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阪急京都本線
京都本線(きょうとほんせん)は、大阪府大阪市淀川区の十三駅から京都府京都市下京区の京都河原町駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。京都本線自体を指して、あるいはその支線を含めて通称京都線(きょうとせん)と呼ばれる。また、軌道法準拠で開業した神宝線(神戸本線・宝塚本線ほか)と区別する意味で、かつては鉄道線(てつどうせん)とも呼ばれた。ラインカラーは、古都京都の木々からグリーン(■)。 一般的に、案内上「京都線」の名称は、京都本線と宝塚本線大阪梅田駅 - 十三駅間を含めた、大阪市北区の大阪梅田駅から京都河原町駅を結ぶ運転系統の呼称として使われている。以下特記のない限り、運転系統としての京都線(大阪梅田駅 - 京都河原町駅間)について記述する。 神戸本線・宝塚本線と並ぶ阪急電鉄の基幹路線の一つである。大阪と京都という大都市同士を結ぶ都市間鉄道(インターアーバン)であり、大阪と京都それぞれの随一の繁華街である梅田界隈と四条河原町界隈を両端に持つ。京阪間を大阪府の北摂地域と京都府の乙訓地域を経由して、淀川右岸に沿うように直線コースで結んでいるのが特徴である。また、西院駅 - 京都河原町駅間は京都市中心部の四条通を通る地下線であり、このうち1931年に開業した西院駅 - 大宮駅間は、関西初の地下線となっている。1963年に大宮駅から河原町駅(現在の京都河原町駅)に延伸された。 もともとは京阪電気鉄道の子会社である新京阪鉄道が京阪本線のバイパスとして建設した路線(新京阪線)であったが、太平洋戦争中の政府による交通統制によって1943年に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の路線となった。戦後の1949年の京阪電気鉄道の分離の際、新京阪線は阪急に残され京都本線となった(詳細後述)。 全線にわたってJR京都線(東海道本線)と並行しており、淀川の対岸には大阪と京都を結ぶ鉄道として京阪電気鉄道(京阪電車)の京阪本線がある。ただし、JRと異なり本路線はターミナル駅の京都駅を経由せずに、直接京都市の中心市街地である四条通(四条河原町・四条烏丸)にアクセスできるほか、京阪本線は大阪側のターミナル駅が淀屋橋駅・京橋駅であり、途中の経路も大きく異なる。 淡路駅を経由して千里線に直通する列車も設定されており、同線の天神橋筋六丁目駅方面の列車はさらにOsaka Metro堺筋線と直通運転を行い、天下茶屋駅まで至る。 旅客案内および運転系統上の京都本線は、大阪梅田駅 - 京都河原町駅間47.7 km、28駅(起終点駅含む)である。 阪急の基幹3路線系統が並走する大阪梅田駅 - 十三駅間を除き、一貫して淀川の右岸側に路線が通っている。路線敷設の経緯から線形は比較的良く、とりわけ上新庄駅 - 桂駅間には運転上考慮すべきカーブはあまりみられない。西日本旅客鉄道(JR西日本)の東海道本線(JR京都線)は崇禅寺駅付近 - 大山崎駅間では当路線の北寄りを、それ以外では南寄りのルートを通る。 ほかにも東海道新幹線や名神高速道路、国道171号も当路線に近いルートを通る区間があり、特に高槻市駅 - 西山天王山駅付近では淀川と北摂山地および天王山に挟まれた狭隘な平地をこれらの路線が近接して並走する光景もみられる。 京都本線はJR片町線や京阪本線と同様、大阪方面行が下り、京都方面行が上りとなっている。これに対し、神宝線はその逆で大阪方面行が上りとなっている。正式な起点は大阪側の十三駅であるが、運行上、京都線の列車は大阪梅田駅を始発・終着としており、大阪梅田駅 - 十三駅間は宝塚本線の複々線の東側増設線2線に乗り入れる形となっている。この区間は、休止となった北野線の復活という形で免許が申請されており、用地の問題からホームが設置できなかった中津駅には京都線の列車は停車しない。 途中の淡路駅で自社の千里線と交差しており、両路線は頻繁に直通運転を行っている。直通列車は大阪梅田駅 - 淡路駅 - 千里線方面と京都方面 - 淡路駅 - 千里線方面の2系統が存在し、後者は千里線を経て大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の地下鉄堺筋線にも直通している。千里線とは運用面で一体化されており、また歴史的経緯からも開業以来一体で運営されてきたものであるため、千里線の運用も本項に併せて記載する。 ダイヤサイクルはパターン化されており、昼間は10分サイクル、ラッシュ時は20分サイクルで運転されている。ただし、土休日の日中は快速特急が運行されるためその前後の列車にダイヤパターンから1 - 2分ほどの時間のズレが生じており、完全な10分サイクルではない。 編成両数は基本的に8両編成だが、一部に7両編成の運行がある。8両編成で統一されている神戸本線(平日朝ラッシュ除く)・宝塚本線と異なり、京都本線に7両編成が存在するのは京都河原町駅2号線のホーム有効長が7両であることや、車庫の収容能力に起因している。土曜・休日に運転される快速特急および行楽期に運転される直通特急は6両編成で運転されている。 日中1時間あたりの運行本数は次のようになっている。平日と土休日でダイヤパターンが異なる。 以下に各種別の詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「駅一覧」の節を参照。 土休日のみに大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で運転される京都への観光客向けの列車で、特別料金不要であるため運賃のみで乗車できる。1日4往復運転される。 停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・桂駅・烏丸駅・京都河原町駅である。ダイヤは特急の始発駅発車2分後に続行で設定され、停車駅は後述の特急より少ないものの、終点まで先行の特急を追い抜くことはない。ただし、大阪梅田行きは桂駅で準急に、京都河原町行きは淡路駅と桂駅で準急に接続する。 使用車両は神宝線の7000系を改造した「京とれいん 雅洛」(7006F)6両編成である。最高速度は110 km/hである。専用の車両が使用されるが、1編成しかないため、車両の検査等で使用できない場合は一般車両が使用される。 英語表記は「Limited Express」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「Rapid Limited Express」に変更された。阪急ホームページ内の発車時刻表では「快特」と表記している。 快速特急は、2011年5月14日のダイヤ改正で6300系をリニューアルした「京とれいん」で運行する列車として新設された。その後、十三駅にホームドアを設置することになり、2019年1月19日のダイヤ改正で6300系を使用する列車は後述の「快速特急A」に変更して十三駅通過とした(快速特急Aは2022年12月17日のダイヤ改正で廃止)。 2019年3月23日からは、「京とれいん」の2編成目である「京とれいん 雅洛」で運転されている。6300系と異なり、ドア位置の問題はないため十三駅にも停車する。 なお、6300系京とれいんと違い、「京とれいん 雅洛」は神宝線の7000系を改造しているため神宝線への乗り入れが可能であり、行楽期の臨時列車として神戸本線西宮北口駅 - 嵐山線嵐山駅間の直通特急で運転されたことがある。 平日ダイヤでは京都本線の最上位の種別であり、乗車券のみで乗車可能である。大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、基本的に平日は9 - 16時に、土曜・休日は概ね9 - 21時に運行される。10分間隔が基本だが、土休日夜間などは15分ほどあく時間帯がある。 日中の大阪梅田駅 - 京都河原町駅間の所要時間は42 - 45分、最速は2022年12月17日のダイヤ改正以降、平日日中下りに運転される列車の42分30秒(表定速度:67.3 km/h、平均速度:74.2 km/h)である。8両編成の運用で、最高速度115 km/hで運転されるためそれに対応した車両に限定されている。主に転換クロスシート車の9300系で運行されるが、ロングシート車の8300系・7300系・1300系で運行される列車もある。 途中停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・烏丸駅・京都河原町駅で、各駅において先着となる。かつては梅田駅・十三駅・大宮駅・烏丸駅・河原町駅のみの停車で、京阪間ノンストップ運転を行っていた。大阪梅田方面への列車は、平日は桂駅と高槻市駅で準急に、茨木市駅で普通に接続する。土休日は桂駅と茨木市駅で準急に、高槻市駅で普通に接続、一部は淡路駅で普通天下茶屋行きに片接続する。京都河原町方面への列車は、平日・土休日ともに、茨木市駅で普通に、高槻市駅と桂駅で準急に接続する。 平日は終日、9300系で運転される列車において、大阪梅田側から5両目(5号車)に女性専用車両が設定されていた(女性専用車両の詳細については阪急電鉄ホームページを参照のこと)。9300系以外の車両による運用時は女性専用車両は設定されない。2022年12月17日のダイヤ改正により、特急における女性専用車両の設定が取り止められた。 2024年夏頃から、阪急電鉄として初の座席指定サービス「PRiVACE」(プライベース)を導入する。9300系の一部と2024年登場予定の新型車両2300系の大阪梅田側から4両目に設定する。座席は専用のWEBサイトから予約することで利用できる。サービス開始当初は1時間に2 - 3本の頻度で運転されるが、2025年頃からは1時間に4 - 6本の頻度にまでサービスを拡大する予定である。また、このサービスは特急だけでなく、後述の通勤特急や準特急でも行われる。 大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、平日の朝3往復のみ運行される。全列車が9300系で運転され、最高速度は115 km/hである。本種別のみ、大阪梅田側から5両目(5号車)に女性専用車両が設定されている。 停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・西院駅・大宮駅・烏丸駅・京都河原町駅である。特急に比べ京都市内の西院駅・大宮駅に停車する代わりに、千里線・堺筋線との乗り換え駅で特急・準特急停車駅の淡路駅を通過する。京都河原町行きは、高槻市駅で準急に、長岡天神駅で普通に接続する。大阪梅田行きは、長岡天神駅で準急天下茶屋行きに、高槻市駅で普通大阪梅田行きに、茨木市駅で普通天下茶屋行きにそれぞれ接続する。 特急同様に停車駅を増やす傾向がみられ、下位種別の準特急(2022年12月16日までは快速急行)との差が縮まりつつある。2010年のダイヤ改正で茨木市駅に停車するようになってからは、快速急行(現在の準特急)との停車駅の差は淡路駅に停車しないだけになった。また、このダイヤ改正で、停車駅が1つ増加し10駅停車となったため総停車駅数で見れば特急より下位種別(9駅停車の特急と11駅停車の快速急行の間)となっている。 現行のものは2001年のダイヤ改正で設定された。英語表記は「Limited Express」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「Commuter Limited Express」に変更された。2022年12月のダイヤ改正で朝ラッシュの一部と夕ラッシュの全列車が淡路駅に停車する準特急へ統合・格下げされ、通勤特急は朝ラッシュの3往復のみと大幅に削減された。 大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、主に平日の朝夕ラッシュ時間帯と土休日の早朝・夜間に特急に代わって運転される。全列車8両編成で、最高速度は110 km/hである。ほとんどの列車は、大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で運行されるが、正雀車庫からの出庫を兼ねた茨木市発京都河原町行きが2本(平日は朝夕に1本ずつ、土休日は朝に2本)運行される。 2022年12月17日のダイヤ改正で快速急行を改称して設定された。停車駅は従来の快速急行を引き継ぎ、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・西院駅・大宮駅・烏丸駅・京都河原町駅である。特急停車駅に加えて、西院駅・大宮駅に停車。すべての区間において先着する。 接続に関しては、列車ごとに異なるが、長岡天神駅・高槻市駅・茨木市駅で普通または準急に、また淡路駅で普通天下茶屋行きに接続する。 平日・土休日の京都河原町を23時15分に出発する大阪梅田行きは、京都河原町駅 - 西院駅・桂駅・長岡天神駅で淡路駅・十三駅・大阪梅田駅への最終列車の役割を担う。ただし、高槻市駅で普通大阪梅田行き(相川駅 -大阪梅田駅の最終列車)に接続する。 2022年12月17日より快速から改称して西京極駅停車として設定された。停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅と桂駅 - 京都河原町駅の各駅である。全区間で先着する。平日は早朝に下り3本(このうち2本は長岡天神発大阪梅田行き)、夜間に上り3本(大阪梅田発京都河原町行き)が運転される。土休日は夜間に上り3本が運転される。 9300系以外の8両編成で運行され、最高速度は110 km/hである。種別を表す色は路線図や時刻表では黄色、種別幕の色も黄色となっている。 大阪梅田行きは、京都河原町駅を始発とする列車のみ、高槻市駅と茨木市駅で普通大阪梅田行きに接続する。京都河原町行きは、茨木市駅で普通に接続する。 平日の大阪梅田駅を23時45分に出発する京都河原町行きは、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・長岡天神駅と桂駅 - 京都河原町駅への最終列車の役割を担う。ただし、途中茨木市駅にて普通桂行き(高槻市駅 - 桂駅の最終列車)に接続する。 2007年に急行に代わって設定された。ほとんどの列車は大阪梅田駅 - 京都河原町駅間の運転であるが、土休日の早朝において、高槻市発大阪梅田行き、洛西口発大阪梅田行きがそれぞれ1本ずつ設定されている。また高槻市発大阪梅田行きは平日の朝ラッシュ終わり(高槻市9:30発)にも1本設定されている。 停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅と高槻市駅 - 京都河原町駅の各駅である。 7両編成または8両編成で運行されている。最高速度は110 km/hである。 朝夕のラッシュ時間帯では、長岡天神・高槻市で準特急または通勤特急に接続する。平日の昼間時間帯は、高槻市駅と桂駅で特急に、茨木市駅で普通に接続する。土休日の昼間時間帯では、上下でそれぞれ異なり、大阪梅田方面は、桂駅と茨木市駅で特急に接続(一部は桂駅で快速特急にも接続)し、京都河原町方面は、茨木市駅で普通に、高槻市駅と桂駅で特急(一部は快速特急にも)接続する。 1982年から2001年までも「準急」を名乗る列車が運転されていたが、これは現行のものと大きく異なり、梅田行きのみの設定で淡路駅を境に京都側で通過運転、大阪側で各駅停車(ただし中津駅は全列車通過)となるものであった(後節参照)。 Osaka Metro堺筋線(天下茶屋駅 - 天神橋筋六丁目駅間)・阪急千里線(天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅間)と京都本線の直通列車として運転される。2007年3月17日改正で従来の堺筋急行・堺筋快速急行に代わって設定された。 全列車が天下茶屋駅 - 京都河原町駅間での運転である。停車駅は、Osaka Metro堺筋線内(天下茶屋駅 - 天神橋筋六丁目駅)の各駅と、淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅、高槻市駅 - 京都河原町駅の各駅である。 平日朝は下りで、平日夕方は上りでそれぞれ7本ずつ運転される。平日の朝(天下茶屋方面)は、長岡天神駅で通勤特急または準特急に、高槻市駅で準特急に、淡路駅で普通大阪梅田行きに接続する。夕方の京都河原町行きは淡路駅で大阪梅田発の北千里行普通に、高槻市駅と長岡天神駅で準特急に接続する。 土休日は2011年5月14日から日中に設定されており、20分間隔で運転されている。 なお、「堺筋準急」は運行管理上の種別名であり、正式種別名は単に「準急」である。阪急の9300系以外の8両編成が使用され、Osaka Metroの車両は使用されない。 各駅に停車する種別で、終日運転される。ただし前述のとおり中津駅は京都本線側にホームがないため全列車通過する。 運転区間は、ラッシュ時は、大阪梅田駅 - 高槻市駅・京都河原町駅間、昼間時間帯は大阪梅田駅 - 高槻市駅間である。また千里線に乗り入れる列車が大阪梅田駅 - 北千里駅間、堺筋線に乗り入れる列車が天下茶屋駅 - 高槻市駅間で運行されている(天下茶屋駅 - 北千里駅間を直通する列車もあり)。日中時間帯は、10分に1本の運転で、大阪梅田発着系統と天下茶屋発着系統が交互に運転されている。 そのほか、相川駅・洛西口駅始発や正雀駅・茨木市駅・長岡天神駅・桂駅発着の列車も設定されている。朝夕のラッシュ時間帯には、天下茶屋 - 茨木市間の列車も設定されている。 夜間は車庫の入庫の関係から、上下共に桂止まりの列車が設定されている。また夜間留置の都合で、平日夜に京都河原町発長岡天神行き、平日深夜には京都河原町発茨木市行き、土休日深夜は同駅発高槻市行きが1本ずつある。 淡路駅で京都本線と千里線の普通(大阪梅田行きと天下茶屋行き、高槻市行きと北千里行き)が接続、天下茶屋駅発着の下りの一部はさらに特急と片接続を行う。 平日の上りは相川駅で準急・特急を待避し、茨木市駅で準急・特急と接続する。平日の下りと土休日の上りは茨木市駅で準急・特急と接続し、相川駅で特急を待避する。土休日の下りは始発の高槻市駅で準急・特急から接続し、正雀駅で特急・準急を待避する。 8両編成または7両編成が使用されるが、堺筋線直通列車は高槻市駅 - 京都河原町駅間を除いて8両編成のOsaka Metroの車両も使用される。高槻市駅 - 長岡天神駅間を走行する列車に関しては2001年までは全列車が7両編成以下だった(これは大山崎駅・水無瀬駅・上牧駅が7両編成対応ホームであったため)。 京都本線の普通は、1959年2月18日の梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間3複線化までは早朝・深夜のごく一部を除き大阪側は十三駅または天神橋駅発着であり、3複線化により千里山線(現・千里線)方面の普通列車の多くが梅田駅発着に延長された。その後、1969年12月5日までは梅田駅発着の列車が設定されていた早朝・深夜を除き、十三駅発着列車と、淡路駅で梅田駅発着の千里線直通普通に接続する天神橋駅発着列車が交互に運転されていた。 堺筋線との相互直通運転が開始された1969年12月6日改正で、天神橋駅発着列車を高槻市駅発着の堺筋線直通列車に変更し、同じく早朝・深夜を除き、京都本線の大阪側の普通は千里線直通普通の一部を含め十三駅発着が基本となった。梅田駅移転工事の完成した1973年11月23日改正でほぼ全列車が千里線直通普通と同様に、梅田駅発着に延長され、十三駅発着の普通は当時学生の帰宅時間向けに設定されていた平日午後や土曜正午前後に運転されていた茨木市駅・淡路駅などを発着とする不定期の普通や、わずかに残った京都本線の定期普通など、ごく少数のみとなり、それらも1976年9月22日までに廃止されたため(廃止直後に十三駅7号線を廃止)、現在は十三駅発着の列車は設定されていない。なお、千里線直通普通については、京都本線の普通とは逆に、梅田駅発着を原則としており、十三駅発着列車がごくわずかであった。 過去には以下の列車種別が存在した。本節において梅田駅、河原町駅はそれぞれ現在の大阪梅田駅、京都河原町駅。 2019年1月19日のダイヤ改正で、それまで前述の「快速特急」に使用されていた6300系「京とれいん」で運行する列車として新設された。なお快速特急Aは阪急では初のアルファベット入り種別であり、日本で唯一の種別であった。 専用車両として内装を京風にリニューアルした6300系「京とれいん」が使用された。最高速度は6300系が115 km/h非対応であるため110 km/hである。 十三駅は通過する。これは、6300系の扉位置が他車と異なり、十三駅に設置されているホームドアの位置と合わないためである(なお同ダイヤ改正が行われる前は同駅にホームドアが無かったため快速特急として停車していた。)。ただし、実際は通過するのではなく旅客扱いを実施しない運転停車を行っており、所要時間は十三駅で旅客乗降を扱う快速特急と同等である。一般車両が運用に入る際も同様に通過扱いとなる。なお十三駅を通過扱いとする列車は1961年1月16日のダイヤ改正で特急が停車するようになって以来、58年ぶりの設定である。 2022年12月17日のダイヤ改正で廃止されることになり、同月11日をもって運行を終了した。 2001年3月24日から2007年3月16日までの、土曜・休日の朝(平日にも一部運転)および全日の夕方・夜間の時間帯に運行された。後述の1997年-2001年の快速急行を改称したもので、停車駅は同じである。2007年3月17日のダイヤ改正で休止され、代わりに西院駅を停車駅に加えた通勤特急が設定された。6300系で運転され、2002年から平日は大阪寄り5両目が女性専用車両となっていた。 なお、「快速特急」の種別名称は、2010年度より行楽時の嵐山線直通臨時列車の種別として復活した。その後、2011年より土休日運転の観光客向け特急の種別となっている(前述)。 当時の特急の停車駅に対して、高槻市駅にも停車するようにしたもので、朝夕ラッシュ時に運転された。1997年改正ですべての特急が高槻市駅に停車するようになり、通勤特急はいったん消滅した。廃止直前の運行形態は、約15分間隔で、梅田発20時以降は30分間隔だった。夕方の河原町発は設定されていなかった。 2001年3月24日のダイヤ改正で、朝夕ラッシュについては以前のダイヤを踏襲して作成されていたことから、従来と同じ停車駅(十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅)で再び設定され、朝のみに15分間隔で運転された。該当する時間帯には、特急は運転されなかった。以前より運行時間が縮小されているが、朝ラッシュの前後と夕方以降は快速特急(前記に加えて桂駅に停車)が運転されていた。車両は6300系が使用された。 1997年3月2日から2001年3月23日まで存在した。平日河原町行きのみの運転で、朝の1本と、夜間(梅田発21時30分以降)に設定された。なお、同時間帯は特急の運転がなかった。停車駅は、当時の特急の停車駅に桂駅を加えたものであった。6300系で運転された。2001年3月24日のダイヤ改正で前述の旧・快速特急に改称された。 2001年3月24日のダイヤ改正で従来の急行の停車駅を受け継いで設定され、朝夕ラッシュと夜間の時間帯に運行された。2022年12月17日のダイヤ改正で準特急に名称変更された。 2007年3月16日までの昼間と夕方の時間帯と平日深夜(上り1本のみ高槻市止まり。ただし梅田発高槻市行最終はその次の普通)に運行された。昼間時間帯は普通の運転のない高槻市駅 - 河原町駅間の各駅停車の代替となり、下りは桂駅と茨木市駅で、上りは高槻市駅と桂駅で特急と緩急接続していた。列車によっては7両編成で運転されることがあった。終戦直後から存在する種別であったが、2001年改正を境に大きく見直しが行われた。 2001年3月改正までの急行は、現在の準特急、2001年-2022年の快速急行と同じ停車駅であるが、終日に渡って運転されていたこと、当時は特急と停車駅数の差が大きかったため、途中で特急待避が行われていた点が異なる。最終時点では、平日日中は10分間隔、それ以外は朝夕を含めおおむね15分間隔で運転されていた。また、平日日中の河原町行き、休日の梅田行きはそれぞれ桂駅で後発の特急を待避した。所要時間は、待避のない最速列車で48分、一方朝の梅田行きは最大で57分を要していた。 車両は8両編成のほか、平日朝には10両編成で運転された。2扉車の6300系が運用される列車は駅の時刻表に2扉車を示すマークとして◆が付けられていた。 1979年3月5日改正まで長岡天神駅には平日朝夕のみ停車していたが、停車駅の相違による種別の区分は行われず、ともに「急行」を名乗った。ただし、同駅通過の急行は「大阪 急 京都」と書かれた種別板の背景色が白色だったのに対し、長岡天神駅に停車する急行は種別板内の「大阪」「京都」と書かれた行先部分の背景色が黄色になっていることで区別されていた。 プロ野球の試合が行われる日は西京極駅に、サッカーJリーグの試合が行われる日には南茨木駅や西京極駅に、向日町競輪が行われる日には東向日駅に、それぞれ臨時停車することもあった。 2001年3月の改正で停車駅が大幅に見直され、この旧・急行は快速急行に名称変更された。 2001年3月改正からの急行は、1997年-2001年の快速の停車駅を受け継ぐ形で設定された。平日・休日を問わず日中のみ(例外的に平日の梅田0時00分発高槻市行きも)設定され、10分間隔で運転された。梅田行きは桂駅・茨木市駅で、河原町行きは高槻市駅・桂駅で後発の特急を待避した。 7両編成または8両編成が使用された。なお、この急行の設定にあわせ、従来7両分の長さしかなかった大山崎駅・水無瀬駅・上牧駅では、ホームの延伸が行われている。 2007年の改正で休止され、停車駅パターンは、上新庄駅・南方駅にも追加停車する形で準急に引き継がれた。 2022年12月のダイヤ改正から、再び快速に代わり急行が登場することになった。 2001年3月24日から2007年3月16日の平日夕方ラッシュ時に、地下鉄堺筋線・阪急千里線と京都本線の直通列車として天下茶屋発河原町行3本のみが運転されていた。茨木市駅で後発の快速特急を待避した。なお、淡路駅から京都方面へは最速達列車であった。 2007年3月17日のダイヤ改正で、淡路駅で快速急行河原町行に接続する観点から消滅し、その代替として堺筋準急が設定された。 1979年3月5日から2007年3月16日の平日朝夕ラッシュ時に地下鉄堺筋線・阪急千里線と京都本線の直通列車として河原町駅 - 天下茶屋駅(1993年までは動物園前駅)間で運転されていた。 2001年改正までは、朝の天下茶屋行き、夕方の河原町行き各3本ずつが運転された。天下茶屋行きは長岡天神駅で、河原町行きは茨木市駅で後発の特急(または通勤特急)を待避した。 2001年改正以降は急行の停車駅パターンが変更され、河原町駅 - 高槻市駅間の各駅に停車するようになった。この改正では朝の高槻市始発も設定されたが、夕方の列車は快速急行(堺筋快速急行)へ種別変更され、急行としての設定はなくなった。朝の列車が残ったが、2007年3月17日のダイヤ改正で準急(堺筋準急)に変更された。 「堺筋快速急行」および「堺筋急行」は便宜上の呼び方であり、種別表示幕には「快速急行」「急行」と表示された。阪急の車両が使用され、大阪市交通局(現在のOsaka Metro)の車両は使用されなかった。 高槻市駅以東の各駅から梅田方面への速達化を図るため、1997年3月のダイヤ改正で新設された。平日昼間のみ20分間隔の運行であった。梅田行きは桂駅で特急、長岡天神駅で急行を待避し、河原町行きは長岡天神駅で急行・特急を連続待避した。 当時、高槻市駅以西の急行停車駅以外にも南方駅と崇禅寺駅に停車する準急が運転されており、途中から各駅に停車するものの、この2駅を通過するという違いが生じるため、急行と準急の中間の種別を設定する必要が生じたことが設定の理由である。2001年3月23日のダイヤ改正で休止された(実質的には急行へ改称)。 この快速が運転されていた時間帯は、高槻市駅 - 梅田駅間で先着の優等列車が1時間に12本運転(特急3本・急行6本・快速3本、他に普通が6本)されるという頻発運転が行われていたが、あまり宣伝されることはなく、またこのダイヤは土曜・休日に実施されることはなかった。 なお、「快速」の種別名称は、2007年度より行楽時の臨時列車の種別として(後述)、また、2010年3月14日からは定期列車として復活した(下段参照)が、急行に改称する形で再び消滅した(前述)。 2010年3月14日のダイヤ改正から定期列車として再設定された。2022年時点では平日に、下りは早朝に3本(このうち2本は長岡天神始発大阪梅田行き)・上りは夕ラッシュ時に7本運転されていた。土休日の運転はない。大阪梅田駅 - 高槻市駅間では準急と、高槻市駅 - 京都河原町駅間では快速急行とそれぞれ同じ停車駅であるが、全区間で先着する。夕ラッシュ時の京都方面への先着列車を増やし、通勤特急・快速急行の混雑緩和と利用者の分散の役割を持たせるために設定された。 種別を表す色は路線図や時刻表では青色、種別幕の色も青色となっている。2013年12月20日までは種別を表す色が準急と同じ緑となっており、高槻市駅 - 京都河原町駅間で誤乗が発生しやすいため、快速停車駅では誤乗防止を促す貼り紙が貼られていた。 祭事や終夜運転で臨時快速が運転されることがあった。8月に開催される京の七夕に合わせて、2012年から2014年までの開催期間中の土曜日夕方に梅田発河原町行き、夜に河原町発梅田行きの1往復の臨時快速が、6300系「京とれいん」車両を使用して運行されていた。当該編成の種別幕には「快速」の表示が収録されていないため、「臨時」と表示していた。 英語での種別表示では、快速急行「Rapid Express」との区別から、「Rapid Service」と表示されている(2019年10月の梅田・河原町の駅名変更までは、9300系・7300系LED方向幕装備編成の車内LCDでは短縮して「Rapid」とだけ表示されていた)。 2022年12月17日のダイヤ改正で西京極駅が停車駅に追加され、急行に名称変更された。 1982年11月27日から2001年3月23日までの間に設定されていた。 朝の梅田行きのみ運転されていた。平日は茨木市駅始発で、1997年以降は土曜朝にも高槻市駅始発で運転された。なお、準急は2007年3月17日のダイヤ改正で急行に代わって復活したが、そちらでは復活に際し上新庄駅・南茨木駅が停車駅に加わったものの、逆に旧・準急停車駅だった崇禅寺駅は通過となった。 淡路駅にてスタフの交換が行われていた。 本節の2019年9月までのトピックにおける梅田駅、河原町駅はそれぞれ現在の大阪梅田駅、京都河原町駅である。 例年、春・秋の行楽期には観光地の嵐山への行楽輸送のため京都線を経由して嵐山線に直通する臨時列車が設定されている。過去に運行されていた列車も含め、阪急嵐山線の項を参照。 2007年3月17日のダイヤ改正での定期運転種別再編に伴い、後述の「臨時特急」に代わって2007年11月より設定された臨時列車。春・秋の行楽時の限定の臨時列車ではあるが、「快速」の名称が復活するのは約6年半ぶりである。愛称は以前の臨時特急の「いい古都エクスプレス」が継承された。 上り・下りともに午前(9時台 - 11時台)・午後(15時台 - 上り16時台/下り17時台)合わせて片道10数本を運転。梅田駅 - 高槻市駅間は通常の準急のダイヤで走り、高槻市駅 - 河原町駅間を臨時設定ダイヤ(停車駅は定期の通勤特急および快速急行と同様)で走る。快速が設定された分だけ高槻市駅 - 河原町駅間の準急(各駅停車)が減るため、梅田駅 - 高槻市駅間の普通が高槻市駅以東にも延長運転される。 上り列車は通常の準急の場合高槻市で特急を待避するが、この快速は長岡天神駅での特急待避となる。下りは準急と同様に茨木市で特急を待避する。旧「いい古都エクスプレス」と異なり、高槻市でのスタフの交換は実施されなかった。 これまでは旧「いい古都エクスプレス」のように春季に運転された実績はない。2007年度・2008年度はともに11月後半の3連休のみの運転であったが、2009年度は11月後半の3連休とその翌週末2日間合わせて5日間と運転日が拡大された。 2010年3月14日のダイヤ改正で、ラッシュ時の定期種別として快速の運転が再開され、停車駅はこの臨時快速のものが踏襲された。その一方で、臨時快速の運転は前年度を以って事実上終了した。 前述の臨時快速の前身として、かつて京都本線にて行楽シーズンに運転されていた臨時列車である。 梅田駅 - 高槻市駅間は急行のダイヤで走り、高槻市駅 - 河原町駅間を臨時設定ダイヤで走る。通常の特急と同様に特急料金なしで利用することができる。2001年3月13日にそれまでの行楽期の臨時急行列車「嵯峨野エクスプレス」に代わる行楽期の臨時特急列車として新設されることが発表され、3月24日に春の「臨時特急」として運行を開始。また、同時に愛称の公募を行い、8月23日に愛称が「いい古都エクスプレス」に決定、11月11日から「いい古都エクスプレス」として運行を開始、臨時特急としては2007年3月17日のダイヤ改正まで運転されていた。通常の急行をそのまま格上げして運行していたため、7両編成での運用も多かった。 なお、臨時特急が設定された分だけ高槻市駅 - 河原町駅間の急行(各駅停車)が減るため、梅田駅 - 高槻市駅間の普通が高槻市駅 - 河原町駅(一部は桂駅)間で延長運転されていた。 通常、上り急行は高槻市駅で特急を待避するが、この列車は待避せずにそのまま逃げ切り河原町駅まで先着するダイヤであった。逆に下りは茨木市駅で特急に抜かれるため、(臨時)特急が(定期)特急を待避する珍しいケースが見られた。 新設当時は3月下旬 - 5月上旬と9月下旬 - 11月下旬の土曜・休日といったように比較的多くの日で運転されていたが、年々運転日が減少し、運転最終年となった2006年は4・5月上旬と11月下旬のみで、合わせて年10日以下となっていた。 阪急では、かつて設定されていた宝塚線の臨時特急を除き、臨時列車については駅の発車案内板では「臨時」の表示は原則として行わない(列車の方向幕には「臨時○○」と表示する)が、この「いい古都エクスプレス」では乗客が混乱しないようにあえて駅の発車標でも「臨時特急」と表示していた。 上り・下りとも高槻市にてスタフの交換が行われていた。 1987年の大晦日以降、大晦日の終夜運転が阪急全線で実施されているが、他線が普通列車のみの運転である中、当線は快速(2000年大晦日までは急行、2010年大晦日までは快速急行)と普通の2本立てで運転されている。運転本数も京都河原町発1 - 2時台において、20 - 30分間隔となっており増発されている。2011年以降は全列車終点まで先着となっている。なお終夜運転実施前は、大晦日の終電繰り下げと元日の始発繰り上げが行われていた。 このほか、1月1日始発から3日の間は土曜・休日ダイヤで運転されている。過去に15分間隔で運転していた時期はこの期間に特急・急行を増発した特別ダイヤを実施していた。 2020年の大晦日は終夜運転を行わず、当初は終電を2時まで延長するとしていたが(嵐山線・千里線も同様)、新型コロナウイルスの感染拡大の影響から最終的に延長運転自体も取り止めた。その後3年連続で(2020 - 2022)で終夜運転は中止されている。 1970年に千里丘陵で開催された日本万国博覧会の期間中は、観客輸送として千里線に直通し、会場最寄り駅であった万国博西口駅へ向けて臨時列車群が運行されていた。 1950年から1968年まで京都駅(1963年からは河原町駅) - 宝塚駅間を神戸線・今津線経由で直通する、通称「歌劇特急(かげき特急)」が運転されていた。 1950年3月21日に不定期直通特急列車として運転を開始。運転開始当初は西宮北口駅構内に神戸方向から今津線に直通する連絡線が存在しており、列車は一旦平面交差を通過してから折り返して今津線に入線していた。しかし、同駅の大改造による宝塚線経由での運転や三複線工事による運休などを経て、神戸高速鉄道開通に伴う神戸線のダイヤ改正を目前に控えた1968年2月25日に廃止された。なお、この列車に関しては特定の愛称はなく、1954年頃から通称として『歌劇特急』や『歌劇号』と呼ばれるようになった。 京都本線及びその支線である千里線、嵐山線、相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線のダイヤ改正について述べる。神宝線については京都本線に関する内容のみ記載する。 同年9月15日に新京阪鉄道が京阪電気鉄道に合併され、京阪電気鉄道の路線として初のダイヤ改正となった。 前年10月1日に京阪電気鉄道(京阪)が阪神急行電鉄(阪急)と合併し、京阪神急行電鉄となった。既に十三駅の中間改札を廃止していたが、新京阪線から梅田への直通も開始することになる。 南方駅 - 崇禅寺駅間の旧東海道本線線路敷との分岐点にある曲線の緩和工事が完了したことを受け、特急の大阪側の発着駅を天神橋駅から梅田駅(現大阪梅田駅)に変更した。引き続き、京都発着の普通列車が天神橋駅を発着していたが、急行がすでに梅田駅発着であったため、当路線の実質的なターミナル駅は天神橋駅から梅田駅に移行することになった。 梅田駅 - 十三駅間の三複線化工事が完成した。ただし、中津駅にホームは設けられておらず、当路線は全列車通過となるとともに、架線電圧は神戸本線・宝塚本線と同じ600 V(ボルト)であった。 大宮駅 - 河原町駅(現京都河原町駅)間が延伸開業。 千里線(旧・千里山線)の新千里山駅 - 北千里駅間開業による変更。 千里線と大阪市営地下鉄堺筋線(天神橋筋六丁目駅-動物園前駅間)との相互直通運転を開始したことによるダイヤ改正。 3月から約半年間、千里線沿線の千里丘陵一帯で日本万国博覧会(大阪万博)が実施された。阪急グループの北大阪急行のほか、千里線に万国博西口駅を仮設して千里線・京都本線でも観客輸送を実施した。3月8日には南茨木駅が常設駅として京都本線に開設されている。 京都線の梅田駅ホームを旧駅から新駅に移転、ただし旧駅同様2線のみの移転で、1号線の工事は継続された。これにより営業キロが短縮された。折りしも、ライバルである国鉄(当時)は1970年10月1日ダイヤ改正で昼間1時間間隔ながら「新快速」の運転を開始、京阪も1971年8月15日白紙ダイヤ改正で新型特急車である初代3000系投入、特急15分間隔への増発が行われており、阪急も特急の所要時間短縮、2800系の冷房化・8両編成化で対抗することとなった。 梅田駅移転工事が完成し、1号線が設置された。神戸本線・宝塚本線同様、当路線の梅田駅ホームが3線となる。 堺筋線への直通運転を大幅に増強した。 1987年4月に発足したJR西日本は1988年3月に東海道本線の当路線と並行する区間にJR京都線の愛称を設定し、1989年3月からは新快速・快速に221系を導入した。また、京阪も鴨東線を10月5日に開業し、特急に8000系、通勤車として7000系を導入している。阪急では通勤車として8300系が導入されたものの、特急向けの新車導入は行われなかった。しかし、平日日中のみ茨木市駅や高槻市駅など途中駅からの利用に対応しやすいダイヤに変更することでJR西日本や京阪への対抗策とした。ただし、休日のダイヤはほぼ従前どおりのままで維持された。 大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋延伸にあわせたダイヤ改正。 京阪間ノンストップ特急が消滅した。 日中のダイヤについて白紙改正を実施。土休日も含めて日中は20分サイクル(特急・急行は10分間隔)での運行に統一される。 朝夕ラッシュ時のダイヤについても白紙改正を実施し、15分サイクルでの従来のダイヤから変更された。 摂津市駅の開業とATS装置の更新完了によるダイヤ改正。茨木市駅が全定期列車の停車駅となった。 土休日ダイヤのみ改正。 西山天王山駅開業に伴うダイヤ改正。 淡路駅付近での混雑緩和、利便性向上がメインのダイヤ改正を実施した。Osaka Metroは民営化後では初となるダイヤ改正となった。 阪急全線における終電の繰り上げが実施され、当路線でも大阪梅田駅・京都河原町駅発の終電の一部を繰り上げた。 2022年12月17日ダイヤ改正では、以下のように変更。 元々京阪電気鉄道が設立した子会社の新京阪鉄道によって開業した路線であること(「歴史節」を参照)や、京都本線・千里線が堺筋線と直通運転を行うことから、京都線系統の路線で用いられる車両は、阪急の前身である箕面有馬電気軌道(箕軌)および阪神急行電鉄によって開業した神戸線・宝塚線系統(神宝線)で用いられる車両との仕様の違いが見られてきた。現在でも車両規格や電装品の製造会社(神宝線は東芝〈現在は東芝インフラシステムズ〉、京都線は東洋電機製造)、車両番号(神宝線の車両と区別するために、京都線向けに製造される車両の形式名は基本的に「○300系」となり、番号の百の位には3,4,8,9の数字のみが使われる)などに差違が見られる。詳しくは「神宝線」の項目を参照のこと。 ただし、「京とれいん 雅洛」は神宝線車両の7000系を改造したものであるため電装品は東芝製であり、9300系が接地開閉器、継電器箱、クーラーに東芝インフラシステムズ以外の製品を採用しているほかは、それらの装置や列車無線、デジタル式速度計、蓄電池などは神宝線とそろえて東芝インフラシステムズ製としている。 営業運転では8両編成が基本であるが、京都河原町駅2号線ホーム、桂車庫・正雀車庫における収容能力の限界(8両編成の留置線が不足)により、7両編成、6両編成もある。 編成の向きは、3複線区間となる大阪梅田駅 - 十三駅間を基準に「前パンタグラフの先頭車は大阪梅田寄り」となっているため、京都本線に限っては前パンタグラフの車両は「下り方面の先頭」となる。 Osaka Metro(および前身の大阪市営地下鉄)の車両は当路線の正雀駅そばにある車両基地東吹田検車場に配置されている。 京都本線で使用される車両は以下のとおり。各種別ごとの編成・使用車両については、「運行形態」章の各種別の節を参照。 京都本線は、大正、昭和期にかけてに大阪 - 京都間を高速で結ぶ新線として、当時の京阪電気鉄道が設立した子会社の新京阪鉄道によって建設され、開業した。 京阪電気鉄道は、大阪 - 京都間に現在京阪本線となっている路線を1910年(明治43年)に開業していたが、これはアメリカのインターアーバンに準ずる路面電車を発展させた形の都市間電車で、併用軌道で街道筋の市街地を縫うように敷設されたため、曲線が多く、高速運転には向いていなかった。京阪本線の改良および輸送力向上工事と比較し、遥かに迅速かつ安価で効果的であるとの判断から、淀川西岸への進出とそれによる自社線との相乗効果を狙った出願を行った。 当初は京阪本線森小路駅(現在の千林駅に相当)から支線を分岐させて、新京阪線上新庄駅予定地から南へ延長した路線に赤川で合流させ、城東線(後の大阪環状線)桜ノ宮駅・天満駅を経由して梅田まで延伸し、同地に総合ターミナル駅を作ろうという構想を打ち出したが、城東線の高架化が関東大震災復興工事優先投資の方針から遅れることになったため、梅田延伸に関して高架化に伴う跡地の利用を考えていた京阪では、この新線は当面は実現不可能と考えて、代替地を探すことにした。 ちょうど新京阪線の計画が立った頃の1921年(大正10年)に、十三駅から千里山駅までを結ぶ北大阪電気鉄道(現在は淡路駅を境に、西は京都線、北は千里線)という私鉄路線が開業していた。京阪ではこの会社を買収して同社が持っていた淡路 - 天神橋(天六)間の免許を利用することを考えた。同社の鉄道事業は1923年(大正12年)に新京阪へ譲渡された。 1925年(大正14年)に天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 淡路駅間が開業した。その後、京都側は地下線で開業させる予定であったが、昭和天皇の即位大典に間に合わせるため、急遽西院に仮駅を設けることにし、1928年(昭和3年)に天神橋駅 - 京都西院駅(現在の西院駅)間の全線が開業した。 1930年(昭和5年)、大宮駅までの地下線による延伸の目途が立ったことから、新京阪鉄道は京阪電気鉄道に合併されて同社の新京阪線となった。大宮駅までの延伸は1931年(昭和6年)に完成したが、これは大阪市営地下鉄(現在のOsaka Metro)開業の1933年(昭和8年)よりも早く、関西では初の地下鉄道路線でもあった。 なお、新京阪鉄道は西向日町駅(現在の西向日駅)から分岐して伏見・山科に至る路線と京阪宇治線の六地蔵駅付近から滋賀県大津市の馬場に至る路線、大宮駅からさらに京都市の地下を貫通する路線の免許も得ていた。このうち大宮駅からの地下貫通路線の免許は戦後に河原町駅へ阪急によって路線延長がなされる際に活用された。さらに京阪では、その大津市馬場から鈴鹿山脈を越えて名古屋に至る名古屋急行電鉄の建設計画も持っていたが、恐慌のため資金調達が困難となり、免許失効となった。 沿線の人口が少ないため(当時は高槻でさえ市制を敷いていなかった)、同線は京阪間の都市間輸送に重きを置き、天神橋駅 - 大宮駅間をノンストップ34分で結ぶ超特急など高速運転を行う列車を走らせた。その速さは同社の保有するP-6形電車による速達列車が当時の鉄道省線で最速の特急列車「つばめ」を抜いたと言う逸話が残るほどであった(新京阪鉄道P-6形電車も参照のこと)。京阪本線では新京阪線との相乗効果を狙い、急行や普通を増発している。 また、1937年(昭和12年)に国鉄東海道本線京都駅 - 吹田駅間の電化が完成(吹田駅 - 須磨駅間は1934年(昭和9年)に完成)し、京阪間をノンストップの36分で結ぶ急行電車(急電)が走るようになると、京阪では新京阪線・京阪線の両線ともに列車の本数を増やし、運賃を値下げした。さらに1934年(昭和9年)からは、天神橋駅 - 大宮駅間運転の列車のほか、同列車と淡路駅で解結を行うことにして、阪急線と接続させるため十三駅を発着駅にする列車も設定した。 戦時中の交通統制のため、京阪電気鉄道と阪神急行電鉄は1943年(昭和18年)に合併して京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)となり、新京阪線も同社の運営となった。戦後、京阪電気鉄道は1949年(昭和24年)に再び分離発足することになる。この取り決めがなされた1949年の役員会において、旧京阪側は合併前の状態へ戻すことを主張したのに対し、旧阪急側は1944年(昭和19年)から開始された新京阪線電車の阪急梅田駅乗り入れ実績を踏まえ、新京阪電鉄を阪急側の所属路線とすることを主張した。日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方や、旧阪急系役員の頭数の多さによる旧京阪系役員の劣勢から、同線と支線の千里山線(現在の千里線の淡路駅以北)・十三支線(現在の京都本線の淡路駅以西)・嵐山線は京阪神急行電鉄の路線として存置することになった。ただし、京阪電鉄から京阪神急行電鉄時代には京都 - 大阪間で定期券を持っていれば必要に応じ両線を自由に選択できた乗客にとっては、大きな利便性が失われる結果となった。 この時、路線名が現在の京都本線となった。またこのような経緯から、京都本線系統の路線を除いた阪急各線をその頭一字を取って神宝線と総称し、お互いを区別することになる。路線名が京都本線に改称されてからも、京都本線の起点は長らく天神橋駅のままであったが、いわゆる三複線(宝塚本線の梅田 - 十三間複々線化工事)が完成したのを機に、天神橋駅 - 淡路駅間を千里山線に変更するとともに、京都本線は十三支線を編入し、十三駅が起点となった。 戦後1950年(昭和25年)に天神橋駅 - 阪急京都駅(現・大宮駅)間で特急が復活した当時はノンストップで朝夕のみ運行であった。その後1956年(昭和31年)より大阪側のターミナルを天神橋駅から梅田駅に変更、梅田駅 - 阪急京都駅間ノンストップの特急を運転開始する(1961年(昭和36年)に十三駅停車)。 上牧駅前後から大山崎駅にかけて一部高架区間があるが、これは並行する東海道新幹線の建設に併せて造られたもので、高架化工事中の1963年4月から12月までの間、先に完成していた同線の高架線路を借りて列車の運行を行っていたことがある(東海道新幹線#新幹線の線路を先に走った阪急電車を参照)。 戦後、京都本線の輸送増強と新幹線駅である新大阪駅へのアクセス路線として、1961年12月26日に淡路駅 - 新大阪駅 - 十三駅間4.0 km及び新大阪駅 - 神崎川駅間3.0 kmの事業免許を取得した。なお、完成した暁には、梅田と京都・千里方面を結ぶ列車は新大阪経由となり、淡路駅 - 南方駅 - 十三駅間は支線とし、区間運転の普通列車を運行させる予定であった。しかし、用地買収の困難などの諸般の事情により難航。そして、2003年3月1日に淡路駅 - 新大阪駅間、新大阪駅 - 神崎川駅間の免許が失効した。 1963年(昭和38年)には、念願だった大宮駅 - 河原町駅(現・京都河原町駅)間が延伸開業し、京都都心部への乗り入れを果たす。当時の特急の停車駅は十三駅・大宮駅・烏丸駅。これを機に従来30分間隔であった特急を15分間隔へと増発したことで、従来クロスシート車が中心であったのが、ロングシート車の割合が高まった。閑散時間帯の座席数減少にはパイプ椅子を積み込んで対応したが、乗車時間が比較的長い京阪間ではロングシート車が敬遠され、延長・増発により利便性は向上したものの、利用が想定に届かなかったことから、翌1964年(昭和39年)には2800系が製造された。同系列は阪急初の特急専用車で、当時の料金不要特急としては破格の車内設備を持ち乗客からも好評で、本線のサービスアップならびに乗客増に大きく貢献した。1971年(昭和46年)時点の梅田 - 河原町間の所要時間は最速38分(十三 - 大宮間30分)で、現在に至るまでの最速記録である。登場当初5連であった2800系は順次増強され、1973年(昭和48年)までに全編成が8両編成となった。また、阪急の看板列車として他形式に先駆けていち早く冷房改造を受け、1971年(昭和46年)から1973年(昭和48年)までのわずか2年で全編成が冷房化された。 2800系の時代は短く、1975年(昭和50年)には後継となる6300系が登場、1979年(昭和54年)までに全編成が6300系に置き換わり、2800系は3扉に改造された。2800系の特急としての運用は、長いもので15年、短いものではわずか5年であった。 この頃、国鉄では新快速や快速の増発、京阪では新テレビカー3000系の投入など各社がしのぎを削っていた。 当時は名神高速道路も片側2車線しかなく天王山トンネル・梶原トンネル付近で慢性的に渋滞するなど道路事情も良くなかったこともあり、京阪間の移動における鉄道利用の割合が高かった。2800系同様料金不要特急として破格の設備を持つ6300系は、京阪間ノンストップの運行体系とともに文字通り阪急の看板列車であった。 1989年(平成元年)12月16日のダイヤ改正では、茨木市と大阪市内とのビジネス利用増加に対応し、従来15分間隔であった特急・急行のうち、平日日中に限り急行を10分間隔へ増発、特急を20分間隔へ減便したダイヤへと変更した。1987年(昭和62年)に国鉄が分割民営化されて発足したJR西日本も1990年(平成2年)3月10日には新快速を日中に限り高槻駅停車としている。 1997年(平成9年)3月2日改正では、沿線人口のさらなる増加を見込んで、すべての特急が高槻市駅に停車するようになる。一週間後の8日には新快速も終日高槻駅停車となった。 途中、十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅に停車していたこの当時の特急の運転形態は、平日日中は20分間隔、それ以外は15分間隔で、夜間には30分程度開くこともあった。平日日中の河原町行き、平日夜間の一部と休日の梅田行きは、桂駅で先行の急行を追い抜くダイヤであった。平日の梅田発21時30分以降は快速急行となり、前記に加えて桂駅にも停車した。所要時間は最速で39分、一方朝の梅田行きは最大48分を要していた。車両は6300系がほぼ限定的に使用されたが、運転サイクルの移行時間帯などは8両編成の3扉車が使用されることもあった。当時は5300系の一部に非表示幕車が残っており、これらが充当された場合には、京都線の伝統であった「特急2枚標識」を掲げ、かつての2800系を髣髴させる姿であった。 1998年には、名神高速道路の片側4車線化・トンネル増設などの改良工事も行われ、天王山付近の渋滞が緩和されるなど、京阪間の道路事情も改善されたため、通勤以外のビジネス利用を中心に、マイカーへの転移も見られるようになった。また、娯楽の多様化などにより、リピーターの多い京阪間の行楽利用が、年々減少していった。 2001年(平成13年)3月24日のダイヤ改正では大幅な停車駅の見直しと種別の整理が行われた。特急を通勤特急に、快速急行を快速特急に、急行を快速急行に、快速を急行に改称の上で南茨木駅にも停車させ、特急は停車駅を快速特急よりも多く快速急行よりも少なくして、各優等列車の停車駅を従来のほぼ2倍にし、特急を事実上それまでの急行と同等の列車にした(2007年の淡路駅停車で、さらにその様相が色濃くなった)。同時に準急と行楽期の「嵯峨野エクスプレス」を廃止し、行楽期の臨時特急を新設した。また河原町駅の2番ホームを除く線内全駅が8両編成対応となった。これにより高槻市から河原町までの区間において平日ダイヤの昼間は一部列車が減便(従来の特急は実質廃止)、休日ダイヤでも京阪間直通優等列車の総本数は減少(特急・急行で1時間当たり8本が特急6本に、25 %減少)した。また、特急の所要時間も十三駅 - 大宮駅間ノンストップ時代の38分から4 - 7分延びて、上り下りともに42 - 45分が標準的な所要時間となっており、これは同月23日以前の急行の所要時間と2 - 5分程度しか変わらない程スピードダウンしている。 2003年(平成15年)には3扉車の9300系が特急に投入される。2007年(平成19年)3月17日のダイヤ改正では特急が淡路駅にも停車するようになり、2001年以前の急行(現在の快速急行)と比べ大差のない停車駅(西院駅・大宮駅は通過)になった。2010年2月には2扉車両6300系の特急運用が終了した。 一方で、21世紀に入ってから駅間の長い区間に新駅の設置も進めており、洛西口駅、摂津市駅、西山天王山駅が開業している。 2021年の通年平均の乗降客数は次の通り。 大阪梅田駅を除けば京都市営地下鉄烏丸線の四条駅と乗り換えが出来る烏丸駅の利用者数が最も多い。 京都本線各駅で堺筋線天下茶屋駅経由・南海空港線関西空港駅までの連絡乗車券が発売されており、さらに2011年5月14日からは、線内では京都河原町駅・桂駅・高槻市駅・茨木市駅・淡路駅に設置の各「ごあんないカウンター」ならびに烏丸駅にて、天下茶屋駅経由関西空港駅への乗車券よりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売している。 年に2度発売されている「高野山1dayチケット」の阪急版では、阪急ならびにOsaka Metroが全線乗り放題となるため、南海高野線へはOsaka Metro堺筋線を経由して天下茶屋駅で乗り換えできるほか、Osaka Metro御堂筋線などを経由してなんば駅から入ることも可能。 以下の箇所で連続立体交差事業(鉄道高架化)が実施または計画されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京都本線(きょうとほんせん)は、大阪府大阪市淀川区の十三駅から京都府京都市下京区の京都河原町駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。京都本線自体を指して、あるいはその支線を含めて通称京都線(きょうとせん)と呼ばれる。また、軌道法準拠で開業した神宝線(神戸本線・宝塚本線ほか)と区別する意味で、かつては鉄道線(てつどうせん)とも呼ばれた。ラインカラーは、古都京都の木々からグリーン(■)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的に、案内上「京都線」の名称は、京都本線と宝塚本線大阪梅田駅 - 十三駅間を含めた、大阪市北区の大阪梅田駅から京都河原町駅を結ぶ運転系統の呼称として使われている。以下特記のない限り、運転系統としての京都線(大阪梅田駅 - 京都河原町駅間)について記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "神戸本線・宝塚本線と並ぶ阪急電鉄の基幹路線の一つである。大阪と京都という大都市同士を結ぶ都市間鉄道(インターアーバン)であり、大阪と京都それぞれの随一の繁華街である梅田界隈と四条河原町界隈を両端に持つ。京阪間を大阪府の北摂地域と京都府の乙訓地域を経由して、淀川右岸に沿うように直線コースで結んでいるのが特徴である。また、西院駅 - 京都河原町駅間は京都市中心部の四条通を通る地下線であり、このうち1931年に開業した西院駅 - 大宮駅間は、関西初の地下線となっている。1963年に大宮駅から河原町駅(現在の京都河原町駅)に延伸された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "もともとは京阪電気鉄道の子会社である新京阪鉄道が京阪本線のバイパスとして建設した路線(新京阪線)であったが、太平洋戦争中の政府による交通統制によって1943年に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の路線となった。戦後の1949年の京阪電気鉄道の分離の際、新京阪線は阪急に残され京都本線となった(詳細後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全線にわたってJR京都線(東海道本線)と並行しており、淀川の対岸には大阪と京都を結ぶ鉄道として京阪電気鉄道(京阪電車)の京阪本線がある。ただし、JRと異なり本路線はターミナル駅の京都駅を経由せずに、直接京都市の中心市街地である四条通(四条河原町・四条烏丸)にアクセスできるほか、京阪本線は大阪側のターミナル駅が淀屋橋駅・京橋駅であり、途中の経路も大きく異なる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "淡路駅を経由して千里線に直通する列車も設定されており、同線の天神橋筋六丁目駅方面の列車はさらにOsaka Metro堺筋線と直通運転を行い、天下茶屋駅まで至る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "旅客案内および運転系統上の京都本線は、大阪梅田駅 - 京都河原町駅間47.7 km、28駅(起終点駅含む)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "阪急の基幹3路線系統が並走する大阪梅田駅 - 十三駅間を除き、一貫して淀川の右岸側に路線が通っている。路線敷設の経緯から線形は比較的良く、とりわけ上新庄駅 - 桂駅間には運転上考慮すべきカーブはあまりみられない。西日本旅客鉄道(JR西日本)の東海道本線(JR京都線)は崇禅寺駅付近 - 大山崎駅間では当路線の北寄りを、それ以外では南寄りのルートを通る。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ほかにも東海道新幹線や名神高速道路、国道171号も当路線に近いルートを通る区間があり、特に高槻市駅 - 西山天王山駅付近では淀川と北摂山地および天王山に挟まれた狭隘な平地をこれらの路線が近接して並走する光景もみられる。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "京都本線はJR片町線や京阪本線と同様、大阪方面行が下り、京都方面行が上りとなっている。これに対し、神宝線はその逆で大阪方面行が上りとなっている。正式な起点は大阪側の十三駅であるが、運行上、京都線の列車は大阪梅田駅を始発・終着としており、大阪梅田駅 - 十三駅間は宝塚本線の複々線の東側増設線2線に乗り入れる形となっている。この区間は、休止となった北野線の復活という形で免許が申請されており、用地の問題からホームが設置できなかった中津駅には京都線の列車は停車しない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "途中の淡路駅で自社の千里線と交差しており、両路線は頻繁に直通運転を行っている。直通列車は大阪梅田駅 - 淡路駅 - 千里線方面と京都方面 - 淡路駅 - 千里線方面の2系統が存在し、後者は千里線を経て大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の地下鉄堺筋線にも直通している。千里線とは運用面で一体化されており、また歴史的経緯からも開業以来一体で運営されてきたものであるため、千里線の運用も本項に併せて記載する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ダイヤサイクルはパターン化されており、昼間は10分サイクル、ラッシュ時は20分サイクルで運転されている。ただし、土休日の日中は快速特急が運行されるためその前後の列車にダイヤパターンから1 - 2分ほどの時間のズレが生じており、完全な10分サイクルではない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "編成両数は基本的に8両編成だが、一部に7両編成の運行がある。8両編成で統一されている神戸本線(平日朝ラッシュ除く)・宝塚本線と異なり、京都本線に7両編成が存在するのは京都河原町駅2号線のホーム有効長が7両であることや、車庫の収容能力に起因している。土曜・休日に運転される快速特急および行楽期に運転される直通特急は6両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日中1時間あたりの運行本数は次のようになっている。平日と土休日でダイヤパターンが異なる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "以下に各種別の詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「駅一覧」の節を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "土休日のみに大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で運転される京都への観光客向けの列車で、特別料金不要であるため運賃のみで乗車できる。1日4往復運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・桂駅・烏丸駅・京都河原町駅である。ダイヤは特急の始発駅発車2分後に続行で設定され、停車駅は後述の特急より少ないものの、終点まで先行の特急を追い抜くことはない。ただし、大阪梅田行きは桂駅で準急に、京都河原町行きは淡路駅と桂駅で準急に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "使用車両は神宝線の7000系を改造した「京とれいん 雅洛」(7006F)6両編成である。最高速度は110 km/hである。専用の車両が使用されるが、1編成しかないため、車両の検査等で使用できない場合は一般車両が使用される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "英語表記は「Limited Express」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「Rapid Limited Express」に変更された。阪急ホームページ内の発車時刻表では「快特」と表記している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "快速特急は、2011年5月14日のダイヤ改正で6300系をリニューアルした「京とれいん」で運行する列車として新設された。その後、十三駅にホームドアを設置することになり、2019年1月19日のダイヤ改正で6300系を使用する列車は後述の「快速特急A」に変更して十三駅通過とした(快速特急Aは2022年12月17日のダイヤ改正で廃止)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2019年3月23日からは、「京とれいん」の2編成目である「京とれいん 雅洛」で運転されている。6300系と異なり、ドア位置の問題はないため十三駅にも停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、6300系京とれいんと違い、「京とれいん 雅洛」は神宝線の7000系を改造しているため神宝線への乗り入れが可能であり、行楽期の臨時列車として神戸本線西宮北口駅 - 嵐山線嵐山駅間の直通特急で運転されたことがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "平日ダイヤでは京都本線の最上位の種別であり、乗車券のみで乗車可能である。大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、基本的に平日は9 - 16時に、土曜・休日は概ね9 - 21時に運行される。10分間隔が基本だが、土休日夜間などは15分ほどあく時間帯がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日中の大阪梅田駅 - 京都河原町駅間の所要時間は42 - 45分、最速は2022年12月17日のダイヤ改正以降、平日日中下りに運転される列車の42分30秒(表定速度:67.3 km/h、平均速度:74.2 km/h)である。8両編成の運用で、最高速度115 km/hで運転されるためそれに対応した車両に限定されている。主に転換クロスシート車の9300系で運行されるが、ロングシート車の8300系・7300系・1300系で運行される列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "途中停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・烏丸駅・京都河原町駅で、各駅において先着となる。かつては梅田駅・十三駅・大宮駅・烏丸駅・河原町駅のみの停車で、京阪間ノンストップ運転を行っていた。大阪梅田方面への列車は、平日は桂駅と高槻市駅で準急に、茨木市駅で普通に接続する。土休日は桂駅と茨木市駅で準急に、高槻市駅で普通に接続、一部は淡路駅で普通天下茶屋行きに片接続する。京都河原町方面への列車は、平日・土休日ともに、茨木市駅で普通に、高槻市駅と桂駅で準急に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "平日は終日、9300系で運転される列車において、大阪梅田側から5両目(5号車)に女性専用車両が設定されていた(女性専用車両の詳細については阪急電鉄ホームページを参照のこと)。9300系以外の車両による運用時は女性専用車両は設定されない。2022年12月17日のダイヤ改正により、特急における女性専用車両の設定が取り止められた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2024年夏頃から、阪急電鉄として初の座席指定サービス「PRiVACE」(プライベース)を導入する。9300系の一部と2024年登場予定の新型車両2300系の大阪梅田側から4両目に設定する。座席は専用のWEBサイトから予約することで利用できる。サービス開始当初は1時間に2 - 3本の頻度で運転されるが、2025年頃からは1時間に4 - 6本の頻度にまでサービスを拡大する予定である。また、このサービスは特急だけでなく、後述の通勤特急や準特急でも行われる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、平日の朝3往復のみ運行される。全列車が9300系で運転され、最高速度は115 km/hである。本種別のみ、大阪梅田側から5両目(5号車)に女性専用車両が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・西院駅・大宮駅・烏丸駅・京都河原町駅である。特急に比べ京都市内の西院駅・大宮駅に停車する代わりに、千里線・堺筋線との乗り換え駅で特急・準特急停車駅の淡路駅を通過する。京都河原町行きは、高槻市駅で準急に、長岡天神駅で普通に接続する。大阪梅田行きは、長岡天神駅で準急天下茶屋行きに、高槻市駅で普通大阪梅田行きに、茨木市駅で普通天下茶屋行きにそれぞれ接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特急同様に停車駅を増やす傾向がみられ、下位種別の準特急(2022年12月16日までは快速急行)との差が縮まりつつある。2010年のダイヤ改正で茨木市駅に停車するようになってからは、快速急行(現在の準特急)との停車駅の差は淡路駅に停車しないだけになった。また、このダイヤ改正で、停車駅が1つ増加し10駅停車となったため総停車駅数で見れば特急より下位種別(9駅停車の特急と11駅停車の快速急行の間)となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現行のものは2001年のダイヤ改正で設定された。英語表記は「Limited Express」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「Commuter Limited Express」に変更された。2022年12月のダイヤ改正で朝ラッシュの一部と夕ラッシュの全列車が淡路駅に停車する準特急へ統合・格下げされ、通勤特急は朝ラッシュの3往復のみと大幅に削減された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、主に平日の朝夕ラッシュ時間帯と土休日の早朝・夜間に特急に代わって運転される。全列車8両編成で、最高速度は110 km/hである。ほとんどの列車は、大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で運行されるが、正雀車庫からの出庫を兼ねた茨木市発京都河原町行きが2本(平日は朝夕に1本ずつ、土休日は朝に2本)運行される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ改正で快速急行を改称して設定された。停車駅は従来の快速急行を引き継ぎ、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・西院駅・大宮駅・烏丸駅・京都河原町駅である。特急停車駅に加えて、西院駅・大宮駅に停車。すべての区間において先着する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "接続に関しては、列車ごとに異なるが、長岡天神駅・高槻市駅・茨木市駅で普通または準急に、また淡路駅で普通天下茶屋行きに接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平日・土休日の京都河原町を23時15分に出発する大阪梅田行きは、京都河原町駅 - 西院駅・桂駅・長岡天神駅で淡路駅・十三駅・大阪梅田駅への最終列車の役割を担う。ただし、高槻市駅で普通大阪梅田行き(相川駅 -大阪梅田駅の最終列車)に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2022年12月17日より快速から改称して西京極駅停車として設定された。停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅と桂駅 - 京都河原町駅の各駅である。全区間で先着する。平日は早朝に下り3本(このうち2本は長岡天神発大阪梅田行き)、夜間に上り3本(大阪梅田発京都河原町行き)が運転される。土休日は夜間に上り3本が運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "9300系以外の8両編成で運行され、最高速度は110 km/hである。種別を表す色は路線図や時刻表では黄色、種別幕の色も黄色となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大阪梅田行きは、京都河原町駅を始発とする列車のみ、高槻市駅と茨木市駅で普通大阪梅田行きに接続する。京都河原町行きは、茨木市駅で普通に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "平日の大阪梅田駅を23時45分に出発する京都河原町行きは、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・長岡天神駅と桂駅 - 京都河原町駅への最終列車の役割を担う。ただし、途中茨木市駅にて普通桂行き(高槻市駅 - 桂駅の最終列車)に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2007年に急行に代わって設定された。ほとんどの列車は大阪梅田駅 - 京都河原町駅間の運転であるが、土休日の早朝において、高槻市発大阪梅田行き、洛西口発大阪梅田行きがそれぞれ1本ずつ設定されている。また高槻市発大阪梅田行きは平日の朝ラッシュ終わり(高槻市9:30発)にも1本設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅と高槻市駅 - 京都河原町駅の各駅である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "7両編成または8両編成で運行されている。最高速度は110 km/hである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "朝夕のラッシュ時間帯では、長岡天神・高槻市で準特急または通勤特急に接続する。平日の昼間時間帯は、高槻市駅と桂駅で特急に、茨木市駅で普通に接続する。土休日の昼間時間帯では、上下でそれぞれ異なり、大阪梅田方面は、桂駅と茨木市駅で特急に接続(一部は桂駅で快速特急にも接続)し、京都河原町方面は、茨木市駅で普通に、高槻市駅と桂駅で特急(一部は快速特急にも)接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1982年から2001年までも「準急」を名乗る列車が運転されていたが、これは現行のものと大きく異なり、梅田行きのみの設定で淡路駅を境に京都側で通過運転、大阪側で各駅停車(ただし中津駅は全列車通過)となるものであった(後節参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "Osaka Metro堺筋線(天下茶屋駅 - 天神橋筋六丁目駅間)・阪急千里線(天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅間)と京都本線の直通列車として運転される。2007年3月17日改正で従来の堺筋急行・堺筋快速急行に代わって設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "全列車が天下茶屋駅 - 京都河原町駅間での運転である。停車駅は、Osaka Metro堺筋線内(天下茶屋駅 - 天神橋筋六丁目駅)の各駅と、淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅、高槻市駅 - 京都河原町駅の各駅である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "平日朝は下りで、平日夕方は上りでそれぞれ7本ずつ運転される。平日の朝(天下茶屋方面)は、長岡天神駅で通勤特急または準特急に、高槻市駅で準特急に、淡路駅で普通大阪梅田行きに接続する。夕方の京都河原町行きは淡路駅で大阪梅田発の北千里行普通に、高槻市駅と長岡天神駅で準特急に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "土休日は2011年5月14日から日中に設定されており、20分間隔で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、「堺筋準急」は運行管理上の種別名であり、正式種別名は単に「準急」である。阪急の9300系以外の8両編成が使用され、Osaka Metroの車両は使用されない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "各駅に停車する種別で、終日運転される。ただし前述のとおり中津駅は京都本線側にホームがないため全列車通過する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "運転区間は、ラッシュ時は、大阪梅田駅 - 高槻市駅・京都河原町駅間、昼間時間帯は大阪梅田駅 - 高槻市駅間である。また千里線に乗り入れる列車が大阪梅田駅 - 北千里駅間、堺筋線に乗り入れる列車が天下茶屋駅 - 高槻市駅間で運行されている(天下茶屋駅 - 北千里駅間を直通する列車もあり)。日中時間帯は、10分に1本の運転で、大阪梅田発着系統と天下茶屋発着系統が交互に運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "そのほか、相川駅・洛西口駅始発や正雀駅・茨木市駅・長岡天神駅・桂駅発着の列車も設定されている。朝夕のラッシュ時間帯には、天下茶屋 - 茨木市間の列車も設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "夜間は車庫の入庫の関係から、上下共に桂止まりの列車が設定されている。また夜間留置の都合で、平日夜に京都河原町発長岡天神行き、平日深夜には京都河原町発茨木市行き、土休日深夜は同駅発高槻市行きが1本ずつある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "淡路駅で京都本線と千里線の普通(大阪梅田行きと天下茶屋行き、高槻市行きと北千里行き)が接続、天下茶屋駅発着の下りの一部はさらに特急と片接続を行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "平日の上りは相川駅で準急・特急を待避し、茨木市駅で準急・特急と接続する。平日の下りと土休日の上りは茨木市駅で準急・特急と接続し、相川駅で特急を待避する。土休日の下りは始発の高槻市駅で準急・特急から接続し、正雀駅で特急・準急を待避する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "8両編成または7両編成が使用されるが、堺筋線直通列車は高槻市駅 - 京都河原町駅間を除いて8両編成のOsaka Metroの車両も使用される。高槻市駅 - 長岡天神駅間を走行する列車に関しては2001年までは全列車が7両編成以下だった(これは大山崎駅・水無瀬駅・上牧駅が7両編成対応ホームであったため)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "京都本線の普通は、1959年2月18日の梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間3複線化までは早朝・深夜のごく一部を除き大阪側は十三駅または天神橋駅発着であり、3複線化により千里山線(現・千里線)方面の普通列車の多くが梅田駅発着に延長された。その後、1969年12月5日までは梅田駅発着の列車が設定されていた早朝・深夜を除き、十三駅発着列車と、淡路駅で梅田駅発着の千里線直通普通に接続する天神橋駅発着列車が交互に運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "堺筋線との相互直通運転が開始された1969年12月6日改正で、天神橋駅発着列車を高槻市駅発着の堺筋線直通列車に変更し、同じく早朝・深夜を除き、京都本線の大阪側の普通は千里線直通普通の一部を含め十三駅発着が基本となった。梅田駅移転工事の完成した1973年11月23日改正でほぼ全列車が千里線直通普通と同様に、梅田駅発着に延長され、十三駅発着の普通は当時学生の帰宅時間向けに設定されていた平日午後や土曜正午前後に運転されていた茨木市駅・淡路駅などを発着とする不定期の普通や、わずかに残った京都本線の定期普通など、ごく少数のみとなり、それらも1976年9月22日までに廃止されたため(廃止直後に十三駅7号線を廃止)、現在は十三駅発着の列車は設定されていない。なお、千里線直通普通については、京都本線の普通とは逆に、梅田駅発着を原則としており、十三駅発着列車がごくわずかであった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "過去には以下の列車種別が存在した。本節において梅田駅、河原町駅はそれぞれ現在の大阪梅田駅、京都河原町駅。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2019年1月19日のダイヤ改正で、それまで前述の「快速特急」に使用されていた6300系「京とれいん」で運行する列車として新設された。なお快速特急Aは阪急では初のアルファベット入り種別であり、日本で唯一の種別であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "専用車両として内装を京風にリニューアルした6300系「京とれいん」が使用された。最高速度は6300系が115 km/h非対応であるため110 km/hである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "十三駅は通過する。これは、6300系の扉位置が他車と異なり、十三駅に設置されているホームドアの位置と合わないためである(なお同ダイヤ改正が行われる前は同駅にホームドアが無かったため快速特急として停車していた。)。ただし、実際は通過するのではなく旅客扱いを実施しない運転停車を行っており、所要時間は十三駅で旅客乗降を扱う快速特急と同等である。一般車両が運用に入る際も同様に通過扱いとなる。なお十三駅を通過扱いとする列車は1961年1月16日のダイヤ改正で特急が停車するようになって以来、58年ぶりの設定である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ改正で廃止されることになり、同月11日をもって運行を終了した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2001年3月24日から2007年3月16日までの、土曜・休日の朝(平日にも一部運転)および全日の夕方・夜間の時間帯に運行された。後述の1997年-2001年の快速急行を改称したもので、停車駅は同じである。2007年3月17日のダイヤ改正で休止され、代わりに西院駅を停車駅に加えた通勤特急が設定された。6300系で運転され、2002年から平日は大阪寄り5両目が女性専用車両となっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお、「快速特急」の種別名称は、2010年度より行楽時の嵐山線直通臨時列車の種別として復活した。その後、2011年より土休日運転の観光客向け特急の種別となっている(前述)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "当時の特急の停車駅に対して、高槻市駅にも停車するようにしたもので、朝夕ラッシュ時に運転された。1997年改正ですべての特急が高槻市駅に停車するようになり、通勤特急はいったん消滅した。廃止直前の運行形態は、約15分間隔で、梅田発20時以降は30分間隔だった。夕方の河原町発は設定されていなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2001年3月24日のダイヤ改正で、朝夕ラッシュについては以前のダイヤを踏襲して作成されていたことから、従来と同じ停車駅(十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅)で再び設定され、朝のみに15分間隔で運転された。該当する時間帯には、特急は運転されなかった。以前より運行時間が縮小されているが、朝ラッシュの前後と夕方以降は快速特急(前記に加えて桂駅に停車)が運転されていた。車両は6300系が使用された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1997年3月2日から2001年3月23日まで存在した。平日河原町行きのみの運転で、朝の1本と、夜間(梅田発21時30分以降)に設定された。なお、同時間帯は特急の運転がなかった。停車駅は、当時の特急の停車駅に桂駅を加えたものであった。6300系で運転された。2001年3月24日のダイヤ改正で前述の旧・快速特急に改称された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2001年3月24日のダイヤ改正で従来の急行の停車駅を受け継いで設定され、朝夕ラッシュと夜間の時間帯に運行された。2022年12月17日のダイヤ改正で準特急に名称変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2007年3月16日までの昼間と夕方の時間帯と平日深夜(上り1本のみ高槻市止まり。ただし梅田発高槻市行最終はその次の普通)に運行された。昼間時間帯は普通の運転のない高槻市駅 - 河原町駅間の各駅停車の代替となり、下りは桂駅と茨木市駅で、上りは高槻市駅と桂駅で特急と緩急接続していた。列車によっては7両編成で運転されることがあった。終戦直後から存在する種別であったが、2001年改正を境に大きく見直しが行われた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2001年3月改正までの急行は、現在の準特急、2001年-2022年の快速急行と同じ停車駅であるが、終日に渡って運転されていたこと、当時は特急と停車駅数の差が大きかったため、途中で特急待避が行われていた点が異なる。最終時点では、平日日中は10分間隔、それ以外は朝夕を含めおおむね15分間隔で運転されていた。また、平日日中の河原町行き、休日の梅田行きはそれぞれ桂駅で後発の特急を待避した。所要時間は、待避のない最速列車で48分、一方朝の梅田行きは最大で57分を要していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "車両は8両編成のほか、平日朝には10両編成で運転された。2扉車の6300系が運用される列車は駅の時刻表に2扉車を示すマークとして◆が付けられていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1979年3月5日改正まで長岡天神駅には平日朝夕のみ停車していたが、停車駅の相違による種別の区分は行われず、ともに「急行」を名乗った。ただし、同駅通過の急行は「大阪 急 京都」と書かれた種別板の背景色が白色だったのに対し、長岡天神駅に停車する急行は種別板内の「大阪」「京都」と書かれた行先部分の背景色が黄色になっていることで区別されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "プロ野球の試合が行われる日は西京極駅に、サッカーJリーグの試合が行われる日には南茨木駅や西京極駅に、向日町競輪が行われる日には東向日駅に、それぞれ臨時停車することもあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2001年3月の改正で停車駅が大幅に見直され、この旧・急行は快速急行に名称変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2001年3月改正からの急行は、1997年-2001年の快速の停車駅を受け継ぐ形で設定された。平日・休日を問わず日中のみ(例外的に平日の梅田0時00分発高槻市行きも)設定され、10分間隔で運転された。梅田行きは桂駅・茨木市駅で、河原町行きは高槻市駅・桂駅で後発の特急を待避した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "7両編成または8両編成が使用された。なお、この急行の設定にあわせ、従来7両分の長さしかなかった大山崎駅・水無瀬駅・上牧駅では、ホームの延伸が行われている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2007年の改正で休止され、停車駅パターンは、上新庄駅・南方駅にも追加停車する形で準急に引き継がれた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2022年12月のダイヤ改正から、再び快速に代わり急行が登場することになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2001年3月24日から2007年3月16日の平日夕方ラッシュ時に、地下鉄堺筋線・阪急千里線と京都本線の直通列車として天下茶屋発河原町行3本のみが運転されていた。茨木市駅で後発の快速特急を待避した。なお、淡路駅から京都方面へは最速達列車であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2007年3月17日のダイヤ改正で、淡路駅で快速急行河原町行に接続する観点から消滅し、その代替として堺筋準急が設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1979年3月5日から2007年3月16日の平日朝夕ラッシュ時に地下鉄堺筋線・阪急千里線と京都本線の直通列車として河原町駅 - 天下茶屋駅(1993年までは動物園前駅)間で運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2001年改正までは、朝の天下茶屋行き、夕方の河原町行き各3本ずつが運転された。天下茶屋行きは長岡天神駅で、河原町行きは茨木市駅で後発の特急(または通勤特急)を待避した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2001年改正以降は急行の停車駅パターンが変更され、河原町駅 - 高槻市駅間の各駅に停車するようになった。この改正では朝の高槻市始発も設定されたが、夕方の列車は快速急行(堺筋快速急行)へ種別変更され、急行としての設定はなくなった。朝の列車が残ったが、2007年3月17日のダイヤ改正で準急(堺筋準急)に変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "「堺筋快速急行」および「堺筋急行」は便宜上の呼び方であり、種別表示幕には「快速急行」「急行」と表示された。阪急の車両が使用され、大阪市交通局(現在のOsaka Metro)の車両は使用されなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "高槻市駅以東の各駅から梅田方面への速達化を図るため、1997年3月のダイヤ改正で新設された。平日昼間のみ20分間隔の運行であった。梅田行きは桂駅で特急、長岡天神駅で急行を待避し、河原町行きは長岡天神駅で急行・特急を連続待避した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "当時、高槻市駅以西の急行停車駅以外にも南方駅と崇禅寺駅に停車する準急が運転されており、途中から各駅に停車するものの、この2駅を通過するという違いが生じるため、急行と準急の中間の種別を設定する必要が生じたことが設定の理由である。2001年3月23日のダイヤ改正で休止された(実質的には急行へ改称)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この快速が運転されていた時間帯は、高槻市駅 - 梅田駅間で先着の優等列車が1時間に12本運転(特急3本・急行6本・快速3本、他に普通が6本)されるという頻発運転が行われていたが、あまり宣伝されることはなく、またこのダイヤは土曜・休日に実施されることはなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なお、「快速」の種別名称は、2007年度より行楽時の臨時列車の種別として(後述)、また、2010年3月14日からは定期列車として復活した(下段参照)が、急行に改称する形で再び消滅した(前述)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2010年3月14日のダイヤ改正から定期列車として再設定された。2022年時点では平日に、下りは早朝に3本(このうち2本は長岡天神始発大阪梅田行き)・上りは夕ラッシュ時に7本運転されていた。土休日の運転はない。大阪梅田駅 - 高槻市駅間では準急と、高槻市駅 - 京都河原町駅間では快速急行とそれぞれ同じ停車駅であるが、全区間で先着する。夕ラッシュ時の京都方面への先着列車を増やし、通勤特急・快速急行の混雑緩和と利用者の分散の役割を持たせるために設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "種別を表す色は路線図や時刻表では青色、種別幕の色も青色となっている。2013年12月20日までは種別を表す色が準急と同じ緑となっており、高槻市駅 - 京都河原町駅間で誤乗が発生しやすいため、快速停車駅では誤乗防止を促す貼り紙が貼られていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "祭事や終夜運転で臨時快速が運転されることがあった。8月に開催される京の七夕に合わせて、2012年から2014年までの開催期間中の土曜日夕方に梅田発河原町行き、夜に河原町発梅田行きの1往復の臨時快速が、6300系「京とれいん」車両を使用して運行されていた。当該編成の種別幕には「快速」の表示が収録されていないため、「臨時」と表示していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "英語での種別表示では、快速急行「Rapid Express」との区別から、「Rapid Service」と表示されている(2019年10月の梅田・河原町の駅名変更までは、9300系・7300系LED方向幕装備編成の車内LCDでは短縮して「Rapid」とだけ表示されていた)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2022年12月17日のダイヤ改正で西京極駅が停車駅に追加され、急行に名称変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1982年11月27日から2001年3月23日までの間に設定されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "朝の梅田行きのみ運転されていた。平日は茨木市駅始発で、1997年以降は土曜朝にも高槻市駅始発で運転された。なお、準急は2007年3月17日のダイヤ改正で急行に代わって復活したが、そちらでは復活に際し上新庄駅・南茨木駅が停車駅に加わったものの、逆に旧・準急停車駅だった崇禅寺駅は通過となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "淡路駅にてスタフの交換が行われていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "本節の2019年9月までのトピックにおける梅田駅、河原町駅はそれぞれ現在の大阪梅田駅、京都河原町駅である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "例年、春・秋の行楽期には観光地の嵐山への行楽輸送のため京都線を経由して嵐山線に直通する臨時列車が設定されている。過去に運行されていた列車も含め、阪急嵐山線の項を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2007年3月17日のダイヤ改正での定期運転種別再編に伴い、後述の「臨時特急」に代わって2007年11月より設定された臨時列車。春・秋の行楽時の限定の臨時列車ではあるが、「快速」の名称が復活するのは約6年半ぶりである。愛称は以前の臨時特急の「いい古都エクスプレス」が継承された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "上り・下りともに午前(9時台 - 11時台)・午後(15時台 - 上り16時台/下り17時台)合わせて片道10数本を運転。梅田駅 - 高槻市駅間は通常の準急のダイヤで走り、高槻市駅 - 河原町駅間を臨時設定ダイヤ(停車駅は定期の通勤特急および快速急行と同様)で走る。快速が設定された分だけ高槻市駅 - 河原町駅間の準急(各駅停車)が減るため、梅田駅 - 高槻市駅間の普通が高槻市駅以東にも延長運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "上り列車は通常の準急の場合高槻市で特急を待避するが、この快速は長岡天神駅での特急待避となる。下りは準急と同様に茨木市で特急を待避する。旧「いい古都エクスプレス」と異なり、高槻市でのスタフの交換は実施されなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "これまでは旧「いい古都エクスプレス」のように春季に運転された実績はない。2007年度・2008年度はともに11月後半の3連休のみの運転であったが、2009年度は11月後半の3連休とその翌週末2日間合わせて5日間と運転日が拡大された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2010年3月14日のダイヤ改正で、ラッシュ時の定期種別として快速の運転が再開され、停車駅はこの臨時快速のものが踏襲された。その一方で、臨時快速の運転は前年度を以って事実上終了した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "前述の臨時快速の前身として、かつて京都本線にて行楽シーズンに運転されていた臨時列車である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "梅田駅 - 高槻市駅間は急行のダイヤで走り、高槻市駅 - 河原町駅間を臨時設定ダイヤで走る。通常の特急と同様に特急料金なしで利用することができる。2001年3月13日にそれまでの行楽期の臨時急行列車「嵯峨野エクスプレス」に代わる行楽期の臨時特急列車として新設されることが発表され、3月24日に春の「臨時特急」として運行を開始。また、同時に愛称の公募を行い、8月23日に愛称が「いい古都エクスプレス」に決定、11月11日から「いい古都エクスプレス」として運行を開始、臨時特急としては2007年3月17日のダイヤ改正まで運転されていた。通常の急行をそのまま格上げして運行していたため、7両編成での運用も多かった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "なお、臨時特急が設定された分だけ高槻市駅 - 河原町駅間の急行(各駅停車)が減るため、梅田駅 - 高槻市駅間の普通が高槻市駅 - 河原町駅(一部は桂駅)間で延長運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "通常、上り急行は高槻市駅で特急を待避するが、この列車は待避せずにそのまま逃げ切り河原町駅まで先着するダイヤであった。逆に下りは茨木市駅で特急に抜かれるため、(臨時)特急が(定期)特急を待避する珍しいケースが見られた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "新設当時は3月下旬 - 5月上旬と9月下旬 - 11月下旬の土曜・休日といったように比較的多くの日で運転されていたが、年々運転日が減少し、運転最終年となった2006年は4・5月上旬と11月下旬のみで、合わせて年10日以下となっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "阪急では、かつて設定されていた宝塚線の臨時特急を除き、臨時列車については駅の発車案内板では「臨時」の表示は原則として行わない(列車の方向幕には「臨時○○」と表示する)が、この「いい古都エクスプレス」では乗客が混乱しないようにあえて駅の発車標でも「臨時特急」と表示していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "上り・下りとも高槻市にてスタフの交換が行われていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1987年の大晦日以降、大晦日の終夜運転が阪急全線で実施されているが、他線が普通列車のみの運転である中、当線は快速(2000年大晦日までは急行、2010年大晦日までは快速急行)と普通の2本立てで運転されている。運転本数も京都河原町発1 - 2時台において、20 - 30分間隔となっており増発されている。2011年以降は全列車終点まで先着となっている。なお終夜運転実施前は、大晦日の終電繰り下げと元日の始発繰り上げが行われていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "このほか、1月1日始発から3日の間は土曜・休日ダイヤで運転されている。過去に15分間隔で運転していた時期はこの期間に特急・急行を増発した特別ダイヤを実施していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2020年の大晦日は終夜運転を行わず、当初は終電を2時まで延長するとしていたが(嵐山線・千里線も同様)、新型コロナウイルスの感染拡大の影響から最終的に延長運転自体も取り止めた。その後3年連続で(2020 - 2022)で終夜運転は中止されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "1970年に千里丘陵で開催された日本万国博覧会の期間中は、観客輸送として千里線に直通し、会場最寄り駅であった万国博西口駅へ向けて臨時列車群が運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "1950年から1968年まで京都駅(1963年からは河原町駅) - 宝塚駅間を神戸線・今津線経由で直通する、通称「歌劇特急(かげき特急)」が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "1950年3月21日に不定期直通特急列車として運転を開始。運転開始当初は西宮北口駅構内に神戸方向から今津線に直通する連絡線が存在しており、列車は一旦平面交差を通過してから折り返して今津線に入線していた。しかし、同駅の大改造による宝塚線経由での運転や三複線工事による運休などを経て、神戸高速鉄道開通に伴う神戸線のダイヤ改正を目前に控えた1968年2月25日に廃止された。なお、この列車に関しては特定の愛称はなく、1954年頃から通称として『歌劇特急』や『歌劇号』と呼ばれるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "京都本線及びその支線である千里線、嵐山線、相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線のダイヤ改正について述べる。神宝線については京都本線に関する内容のみ記載する。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "同年9月15日に新京阪鉄道が京阪電気鉄道に合併され、京阪電気鉄道の路線として初のダイヤ改正となった。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "前年10月1日に京阪電気鉄道(京阪)が阪神急行電鉄(阪急)と合併し、京阪神急行電鉄となった。既に十三駅の中間改札を廃止していたが、新京阪線から梅田への直通も開始することになる。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "南方駅 - 崇禅寺駅間の旧東海道本線線路敷との分岐点にある曲線の緩和工事が完了したことを受け、特急の大阪側の発着駅を天神橋駅から梅田駅(現大阪梅田駅)に変更した。引き続き、京都発着の普通列車が天神橋駅を発着していたが、急行がすでに梅田駅発着であったため、当路線の実質的なターミナル駅は天神橋駅から梅田駅に移行することになった。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "梅田駅 - 十三駅間の三複線化工事が完成した。ただし、中津駅にホームは設けられておらず、当路線は全列車通過となるとともに、架線電圧は神戸本線・宝塚本線と同じ600 V(ボルト)であった。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "大宮駅 - 河原町駅(現京都河原町駅)間が延伸開業。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "千里線(旧・千里山線)の新千里山駅 - 北千里駅間開業による変更。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "千里線と大阪市営地下鉄堺筋線(天神橋筋六丁目駅-動物園前駅間)との相互直通運転を開始したことによるダイヤ改正。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "3月から約半年間、千里線沿線の千里丘陵一帯で日本万国博覧会(大阪万博)が実施された。阪急グループの北大阪急行のほか、千里線に万国博西口駅を仮設して千里線・京都本線でも観客輸送を実施した。3月8日には南茨木駅が常設駅として京都本線に開設されている。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "京都線の梅田駅ホームを旧駅から新駅に移転、ただし旧駅同様2線のみの移転で、1号線の工事は継続された。これにより営業キロが短縮された。折りしも、ライバルである国鉄(当時)は1970年10月1日ダイヤ改正で昼間1時間間隔ながら「新快速」の運転を開始、京阪も1971年8月15日白紙ダイヤ改正で新型特急車である初代3000系投入、特急15分間隔への増発が行われており、阪急も特急の所要時間短縮、2800系の冷房化・8両編成化で対抗することとなった。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "梅田駅移転工事が完成し、1号線が設置された。神戸本線・宝塚本線同様、当路線の梅田駅ホームが3線となる。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "堺筋線への直通運転を大幅に増強した。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "1987年4月に発足したJR西日本は1988年3月に東海道本線の当路線と並行する区間にJR京都線の愛称を設定し、1989年3月からは新快速・快速に221系を導入した。また、京阪も鴨東線を10月5日に開業し、特急に8000系、通勤車として7000系を導入している。阪急では通勤車として8300系が導入されたものの、特急向けの新車導入は行われなかった。しかし、平日日中のみ茨木市駅や高槻市駅など途中駅からの利用に対応しやすいダイヤに変更することでJR西日本や京阪への対抗策とした。ただし、休日のダイヤはほぼ従前どおりのままで維持された。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋延伸にあわせたダイヤ改正。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "京阪間ノンストップ特急が消滅した。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "日中のダイヤについて白紙改正を実施。土休日も含めて日中は20分サイクル(特急・急行は10分間隔)での運行に統一される。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "朝夕ラッシュ時のダイヤについても白紙改正を実施し、15分サイクルでの従来のダイヤから変更された。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "摂津市駅の開業とATS装置の更新完了によるダイヤ改正。茨木市駅が全定期列車の停車駅となった。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "土休日ダイヤのみ改正。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "西山天王山駅開業に伴うダイヤ改正。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "淡路駅付近での混雑緩和、利便性向上がメインのダイヤ改正を実施した。Osaka Metroは民営化後では初となるダイヤ改正となった。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "阪急全線における終電の繰り上げが実施され、当路線でも大阪梅田駅・京都河原町駅発の終電の一部を繰り上げた。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2022年12月17日ダイヤ改正では、以下のように変更。", "title": "ダイヤの変遷" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "元々京阪電気鉄道が設立した子会社の新京阪鉄道によって開業した路線であること(「歴史節」を参照)や、京都本線・千里線が堺筋線と直通運転を行うことから、京都線系統の路線で用いられる車両は、阪急の前身である箕面有馬電気軌道(箕軌)および阪神急行電鉄によって開業した神戸線・宝塚線系統(神宝線)で用いられる車両との仕様の違いが見られてきた。現在でも車両規格や電装品の製造会社(神宝線は東芝〈現在は東芝インフラシステムズ〉、京都線は東洋電機製造)、車両番号(神宝線の車両と区別するために、京都線向けに製造される車両の形式名は基本的に「○300系」となり、番号の百の位には3,4,8,9の数字のみが使われる)などに差違が見られる。詳しくは「神宝線」の項目を参照のこと。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "ただし、「京とれいん 雅洛」は神宝線車両の7000系を改造したものであるため電装品は東芝製であり、9300系が接地開閉器、継電器箱、クーラーに東芝インフラシステムズ以外の製品を採用しているほかは、それらの装置や列車無線、デジタル式速度計、蓄電池などは神宝線とそろえて東芝インフラシステムズ製としている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "営業運転では8両編成が基本であるが、京都河原町駅2号線ホーム、桂車庫・正雀車庫における収容能力の限界(8両編成の留置線が不足)により、7両編成、6両編成もある。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "編成の向きは、3複線区間となる大阪梅田駅 - 十三駅間を基準に「前パンタグラフの先頭車は大阪梅田寄り」となっているため、京都本線に限っては前パンタグラフの車両は「下り方面の先頭」となる。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "Osaka Metro(および前身の大阪市営地下鉄)の車両は当路線の正雀駅そばにある車両基地東吹田検車場に配置されている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "京都本線で使用される車両は以下のとおり。各種別ごとの編成・使用車両については、「運行形態」章の各種別の節を参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "京都本線は、大正、昭和期にかけてに大阪 - 京都間を高速で結ぶ新線として、当時の京阪電気鉄道が設立した子会社の新京阪鉄道によって建設され、開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "京阪電気鉄道は、大阪 - 京都間に現在京阪本線となっている路線を1910年(明治43年)に開業していたが、これはアメリカのインターアーバンに準ずる路面電車を発展させた形の都市間電車で、併用軌道で街道筋の市街地を縫うように敷設されたため、曲線が多く、高速運転には向いていなかった。京阪本線の改良および輸送力向上工事と比較し、遥かに迅速かつ安価で効果的であるとの判断から、淀川西岸への進出とそれによる自社線との相乗効果を狙った出願を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "当初は京阪本線森小路駅(現在の千林駅に相当)から支線を分岐させて、新京阪線上新庄駅予定地から南へ延長した路線に赤川で合流させ、城東線(後の大阪環状線)桜ノ宮駅・天満駅を経由して梅田まで延伸し、同地に総合ターミナル駅を作ろうという構想を打ち出したが、城東線の高架化が関東大震災復興工事優先投資の方針から遅れることになったため、梅田延伸に関して高架化に伴う跡地の利用を考えていた京阪では、この新線は当面は実現不可能と考えて、代替地を探すことにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "ちょうど新京阪線の計画が立った頃の1921年(大正10年)に、十三駅から千里山駅までを結ぶ北大阪電気鉄道(現在は淡路駅を境に、西は京都線、北は千里線)という私鉄路線が開業していた。京阪ではこの会社を買収して同社が持っていた淡路 - 天神橋(天六)間の免許を利用することを考えた。同社の鉄道事業は1923年(大正12年)に新京阪へ譲渡された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "1925年(大正14年)に天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 淡路駅間が開業した。その後、京都側は地下線で開業させる予定であったが、昭和天皇の即位大典に間に合わせるため、急遽西院に仮駅を設けることにし、1928年(昭和3年)に天神橋駅 - 京都西院駅(現在の西院駅)間の全線が開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "1930年(昭和5年)、大宮駅までの地下線による延伸の目途が立ったことから、新京阪鉄道は京阪電気鉄道に合併されて同社の新京阪線となった。大宮駅までの延伸は1931年(昭和6年)に完成したが、これは大阪市営地下鉄(現在のOsaka Metro)開業の1933年(昭和8年)よりも早く、関西では初の地下鉄道路線でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "なお、新京阪鉄道は西向日町駅(現在の西向日駅)から分岐して伏見・山科に至る路線と京阪宇治線の六地蔵駅付近から滋賀県大津市の馬場に至る路線、大宮駅からさらに京都市の地下を貫通する路線の免許も得ていた。このうち大宮駅からの地下貫通路線の免許は戦後に河原町駅へ阪急によって路線延長がなされる際に活用された。さらに京阪では、その大津市馬場から鈴鹿山脈を越えて名古屋に至る名古屋急行電鉄の建設計画も持っていたが、恐慌のため資金調達が困難となり、免許失効となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "沿線の人口が少ないため(当時は高槻でさえ市制を敷いていなかった)、同線は京阪間の都市間輸送に重きを置き、天神橋駅 - 大宮駅間をノンストップ34分で結ぶ超特急など高速運転を行う列車を走らせた。その速さは同社の保有するP-6形電車による速達列車が当時の鉄道省線で最速の特急列車「つばめ」を抜いたと言う逸話が残るほどであった(新京阪鉄道P-6形電車も参照のこと)。京阪本線では新京阪線との相乗効果を狙い、急行や普通を増発している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "また、1937年(昭和12年)に国鉄東海道本線京都駅 - 吹田駅間の電化が完成(吹田駅 - 須磨駅間は1934年(昭和9年)に完成)し、京阪間をノンストップの36分で結ぶ急行電車(急電)が走るようになると、京阪では新京阪線・京阪線の両線ともに列車の本数を増やし、運賃を値下げした。さらに1934年(昭和9年)からは、天神橋駅 - 大宮駅間運転の列車のほか、同列車と淡路駅で解結を行うことにして、阪急線と接続させるため十三駅を発着駅にする列車も設定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "戦時中の交通統制のため、京阪電気鉄道と阪神急行電鉄は1943年(昭和18年)に合併して京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)となり、新京阪線も同社の運営となった。戦後、京阪電気鉄道は1949年(昭和24年)に再び分離発足することになる。この取り決めがなされた1949年の役員会において、旧京阪側は合併前の状態へ戻すことを主張したのに対し、旧阪急側は1944年(昭和19年)から開始された新京阪線電車の阪急梅田駅乗り入れ実績を踏まえ、新京阪電鉄を阪急側の所属路線とすることを主張した。日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方や、旧阪急系役員の頭数の多さによる旧京阪系役員の劣勢から、同線と支線の千里山線(現在の千里線の淡路駅以北)・十三支線(現在の京都本線の淡路駅以西)・嵐山線は京阪神急行電鉄の路線として存置することになった。ただし、京阪電鉄から京阪神急行電鉄時代には京都 - 大阪間で定期券を持っていれば必要に応じ両線を自由に選択できた乗客にとっては、大きな利便性が失われる結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "この時、路線名が現在の京都本線となった。またこのような経緯から、京都本線系統の路線を除いた阪急各線をその頭一字を取って神宝線と総称し、お互いを区別することになる。路線名が京都本線に改称されてからも、京都本線の起点は長らく天神橋駅のままであったが、いわゆる三複線(宝塚本線の梅田 - 十三間複々線化工事)が完成したのを機に、天神橋駅 - 淡路駅間を千里山線に変更するとともに、京都本線は十三支線を編入し、十三駅が起点となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "戦後1950年(昭和25年)に天神橋駅 - 阪急京都駅(現・大宮駅)間で特急が復活した当時はノンストップで朝夕のみ運行であった。その後1956年(昭和31年)より大阪側のターミナルを天神橋駅から梅田駅に変更、梅田駅 - 阪急京都駅間ノンストップの特急を運転開始する(1961年(昭和36年)に十三駅停車)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "上牧駅前後から大山崎駅にかけて一部高架区間があるが、これは並行する東海道新幹線の建設に併せて造られたもので、高架化工事中の1963年4月から12月までの間、先に完成していた同線の高架線路を借りて列車の運行を行っていたことがある(東海道新幹線#新幹線の線路を先に走った阪急電車を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "戦後、京都本線の輸送増強と新幹線駅である新大阪駅へのアクセス路線として、1961年12月26日に淡路駅 - 新大阪駅 - 十三駅間4.0 km及び新大阪駅 - 神崎川駅間3.0 kmの事業免許を取得した。なお、完成した暁には、梅田と京都・千里方面を結ぶ列車は新大阪経由となり、淡路駅 - 南方駅 - 十三駅間は支線とし、区間運転の普通列車を運行させる予定であった。しかし、用地買収の困難などの諸般の事情により難航。そして、2003年3月1日に淡路駅 - 新大阪駅間、新大阪駅 - 神崎川駅間の免許が失効した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)には、念願だった大宮駅 - 河原町駅(現・京都河原町駅)間が延伸開業し、京都都心部への乗り入れを果たす。当時の特急の停車駅は十三駅・大宮駅・烏丸駅。これを機に従来30分間隔であった特急を15分間隔へと増発したことで、従来クロスシート車が中心であったのが、ロングシート車の割合が高まった。閑散時間帯の座席数減少にはパイプ椅子を積み込んで対応したが、乗車時間が比較的長い京阪間ではロングシート車が敬遠され、延長・増発により利便性は向上したものの、利用が想定に届かなかったことから、翌1964年(昭和39年)には2800系が製造された。同系列は阪急初の特急専用車で、当時の料金不要特急としては破格の車内設備を持ち乗客からも好評で、本線のサービスアップならびに乗客増に大きく貢献した。1971年(昭和46年)時点の梅田 - 河原町間の所要時間は最速38分(十三 - 大宮間30分)で、現在に至るまでの最速記録である。登場当初5連であった2800系は順次増強され、1973年(昭和48年)までに全編成が8両編成となった。また、阪急の看板列車として他形式に先駆けていち早く冷房改造を受け、1971年(昭和46年)から1973年(昭和48年)までのわずか2年で全編成が冷房化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "2800系の時代は短く、1975年(昭和50年)には後継となる6300系が登場、1979年(昭和54年)までに全編成が6300系に置き換わり、2800系は3扉に改造された。2800系の特急としての運用は、長いもので15年、短いものではわずか5年であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "この頃、国鉄では新快速や快速の増発、京阪では新テレビカー3000系の投入など各社がしのぎを削っていた。 当時は名神高速道路も片側2車線しかなく天王山トンネル・梶原トンネル付近で慢性的に渋滞するなど道路事情も良くなかったこともあり、京阪間の移動における鉄道利用の割合が高かった。2800系同様料金不要特急として破格の設備を持つ6300系は、京阪間ノンストップの運行体系とともに文字通り阪急の看板列車であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)12月16日のダイヤ改正では、茨木市と大阪市内とのビジネス利用増加に対応し、従来15分間隔であった特急・急行のうち、平日日中に限り急行を10分間隔へ増発、特急を20分間隔へ減便したダイヤへと変更した。1987年(昭和62年)に国鉄が分割民営化されて発足したJR西日本も1990年(平成2年)3月10日には新快速を日中に限り高槻駅停車としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)3月2日改正では、沿線人口のさらなる増加を見込んで、すべての特急が高槻市駅に停車するようになる。一週間後の8日には新快速も終日高槻駅停車となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "途中、十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅に停車していたこの当時の特急の運転形態は、平日日中は20分間隔、それ以外は15分間隔で、夜間には30分程度開くこともあった。平日日中の河原町行き、平日夜間の一部と休日の梅田行きは、桂駅で先行の急行を追い抜くダイヤであった。平日の梅田発21時30分以降は快速急行となり、前記に加えて桂駅にも停車した。所要時間は最速で39分、一方朝の梅田行きは最大48分を要していた。車両は6300系がほぼ限定的に使用されたが、運転サイクルの移行時間帯などは8両編成の3扉車が使用されることもあった。当時は5300系の一部に非表示幕車が残っており、これらが充当された場合には、京都線の伝統であった「特急2枚標識」を掲げ、かつての2800系を髣髴させる姿であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "1998年には、名神高速道路の片側4車線化・トンネル増設などの改良工事も行われ、天王山付近の渋滞が緩和されるなど、京阪間の道路事情も改善されたため、通勤以外のビジネス利用を中心に、マイカーへの転移も見られるようになった。また、娯楽の多様化などにより、リピーターの多い京阪間の行楽利用が、年々減少していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)3月24日のダイヤ改正では大幅な停車駅の見直しと種別の整理が行われた。特急を通勤特急に、快速急行を快速特急に、急行を快速急行に、快速を急行に改称の上で南茨木駅にも停車させ、特急は停車駅を快速特急よりも多く快速急行よりも少なくして、各優等列車の停車駅を従来のほぼ2倍にし、特急を事実上それまでの急行と同等の列車にした(2007年の淡路駅停車で、さらにその様相が色濃くなった)。同時に準急と行楽期の「嵯峨野エクスプレス」を廃止し、行楽期の臨時特急を新設した。また河原町駅の2番ホームを除く線内全駅が8両編成対応となった。これにより高槻市から河原町までの区間において平日ダイヤの昼間は一部列車が減便(従来の特急は実質廃止)、休日ダイヤでも京阪間直通優等列車の総本数は減少(特急・急行で1時間当たり8本が特急6本に、25 %減少)した。また、特急の所要時間も十三駅 - 大宮駅間ノンストップ時代の38分から4 - 7分延びて、上り下りともに42 - 45分が標準的な所要時間となっており、これは同月23日以前の急行の所要時間と2 - 5分程度しか変わらない程スピードダウンしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)には3扉車の9300系が特急に投入される。2007年(平成19年)3月17日のダイヤ改正では特急が淡路駅にも停車するようになり、2001年以前の急行(現在の快速急行)と比べ大差のない停車駅(西院駅・大宮駅は通過)になった。2010年2月には2扉車両6300系の特急運用が終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "一方で、21世紀に入ってから駅間の長い区間に新駅の設置も進めており、洛西口駅、摂津市駅、西山天王山駅が開業している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "2021年の通年平均の乗降客数は次の通り。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅を除けば京都市営地下鉄烏丸線の四条駅と乗り換えが出来る烏丸駅の利用者数が最も多い。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "京都本線各駅で堺筋線天下茶屋駅経由・南海空港線関西空港駅までの連絡乗車券が発売されており、さらに2011年5月14日からは、線内では京都河原町駅・桂駅・高槻市駅・茨木市駅・淡路駅に設置の各「ごあんないカウンター」ならびに烏丸駅にて、天下茶屋駅経由関西空港駅への乗車券よりもさらに割安な「関空アクセスきっぷ」も発売している。", "title": "南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "年に2度発売されている「高野山1dayチケット」の阪急版では、阪急ならびにOsaka Metroが全線乗り放題となるため、南海高野線へはOsaka Metro堺筋線を経由して天下茶屋駅で乗り換えできるほか、Osaka Metro御堂筋線などを経由してなんば駅から入ることも可能。", "title": "南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "以下の箇所で連続立体交差事業(鉄道高架化)が実施または計画されている。", "title": "連続立体交差事業" } ]
京都本線(きょうとほんせん)は、大阪府大阪市淀川区の十三駅から京都府京都市下京区の京都河原町駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。京都本線自体を指して、あるいはその支線を含めて通称京都線(きょうとせん)と呼ばれる。また、軌道法準拠で開業した神宝線(神戸本線・宝塚本線ほか)と区別する意味で、かつては鉄道線(てつどうせん)とも呼ばれた。ラインカラーは、古都京都の木々からグリーン(■)。 一般的に、案内上「京都線」の名称は、京都本線と宝塚本線大阪梅田駅 - 十三駅間を含めた、大阪市北区の大阪梅田駅から京都河原町駅を結ぶ運転系統の呼称として使われている。以下特記のない限り、運転系統としての京都線について記述する。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{画像提供依頼|2022年12月改正で設定された「準特急」|date=2023年3月|cat=鉄道}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 京都本線 |路線色=#2a9b50 |画像 = Hankyu-Kyoto-Line-Series9300.jpg |画像サイズ=300px |画像説明 = [[阪急9300系電車|9300系]]による特急<br>([[西向日駅]]付近 2020年11月) |国={{JPN}} |所在地=[[大阪府]]、[[京都府]] |起点=[[十三駅]]<ref name="youran-and-kp" group="注釈" /> |終点=[[京都河原町駅]] |駅数=27駅 |路線記号=[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|21px|HK]] HK |開業=[[1921年]][[4月1日]] |最終延伸=[[1963年]][[6月17日]] |休止= |廃止= |所有者=[[阪急電鉄]] |運営者=阪急電鉄 |車両基地=[[阪急電鉄正雀工場|正雀車庫・工場]]、[[桂車庫]] |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=45.3 [[キロメートル|km]] |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]]) |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|阪急型ATS(パターン式)]] |最高速度=115 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="himitsu">『阪急電鉄のひみつ』 - PHP研究所</ref> |路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg }} <!-- 起点の件はノート参照 --> '''京都本線'''(きょうとほんせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[淀川区]]の[[十三駅]]から[[京都府]][[京都市]][[下京区]]の[[京都河原町駅]]まで<ref name="youran-and-kp" group="注釈">国土交通省鉄道局監修『[[鉄道要覧]]』(電気車研究会・鉄道図書刊行会)では十三起点で記載。ただし、距離を示す[[距離標|キロポスト]]は大阪梅田駅起点で十三駅で打ち切らず、京都河原町駅に向かって純粋に数字が増えていく。</ref>を結ぶ[[阪急電鉄]]の[[鉄道路線]]。京都本線自体を指して、あるいはその支線を含めて通称'''京都線'''(きょうとせん)と呼ばれる。また、[[軌道法]]準拠で開業した[[神宝線]]([[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]ほか)と区別する意味で、かつては'''鉄道線'''(てつどうせん)とも呼ばれた。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は、古都京都の木々からグリーン({{Color|#2a9b50|■}})。 一般的に、案内上「京都線」の名称は、京都本線と宝塚本線[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] - 十三駅間を含めた、大阪市[[北区 (大阪市)|北区]]の大阪梅田駅から京都河原町駅を結ぶ運転系統の呼称として使われている。以下特記のない限り、運転系統としての京都線(大阪梅田駅 - 京都河原町駅間)について記述する。 == 概要 == {{阪急京都本線路線図}} [[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]と並ぶ阪急電鉄の基幹路線の一つである。大阪と京都という大都市同士を結ぶ都市間鉄道([[インターアーバン]])であり、大阪と京都それぞれの随一の[[繁華街]]である[[梅田]]界隈と[[四条河原町]]界隈を両端に持つ。京阪間を大阪府の[[北摂]]地域と京都府の[[乙訓郡|乙訓]]地域を経由して、[[淀川]]右岸に沿うように直線コースで結んでいるのが特徴である。また、[[西院駅]] - 京都河原町駅間は京都市中心部の[[四条通]]を通る地下線であり、このうち[[1931年]]に開業した西院駅 - [[大宮駅 (京都府)|大宮駅]]間は、関西初の地下線となっている。[[1963年]]に大宮駅から河原町駅(現在の京都河原町駅)に延伸された。 もともとは[[京阪電気鉄道]]の子会社である[[新京阪鉄道]]が[[京阪本線]]のバイパスとして建設した路線(新京阪線)であったが、[[太平洋戦争]]中の政府による[[陸上交通事業調整法|交通統制]]によって[[1943年]]に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の路線となった。戦後の[[1949年]]の京阪電気鉄道の分離の際、新京阪線は阪急に残され京都本線となった(詳細[[#歴史|後述]])。 全線にわたって[[JR京都線]]([[東海道本線]])と並行しており、淀川の対岸には大阪と京都を結ぶ鉄道として京阪電気鉄道(京阪電車)の[[京阪本線]]がある。ただし、JRと異なり本路線は[[ターミナル駅]]の[[京都駅]]を経由せずに、直接京都市の[[中心市街地]]である[[四条通]]([[四条河原町]]・[[四条烏丸]])にアクセスできるほか<ref>{{Cite web|和書|title=烏丸御池・四条河原町エリアガイド |url=https://souda-kyoto.jp/map/guide_05.html |website=そうだ 京都、行こう。|publisher=東海旅客鉄道 |access-date=2023-01-26 |language=ja}}</ref>、京阪本線は大阪側のターミナル駅が[[淀屋橋駅]]・[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]であり、途中の経路も大きく異なる。 [[淡路駅]]を経由して[[阪急千里線|千里線]]に直通する列車も設定されており、同線の[[天神橋筋六丁目駅]]方面の列車はさらに[[Osaka Metro堺筋線]]と[[直通運転]]を行い、[[天下茶屋駅]]まで至る。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):十三駅 - 京都河原町駅間 45.3 km * [[軌間]]:1435 mm * 駅数:27駅(起終点駅含む)、1信号所 * 複線区間:全線 * 電化区間:全線電化(直流1500 V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:115 km/h<ref name="himitsu" /> * [[車両基地]]:[[阪急電鉄正雀工場|正雀車庫・工場]]、[[桂車庫]] * 混雑率:100 %(2020年度:上新庄駅 → 淡路駅間)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf#page=4|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2022-03-03|publisher=国土交通省|page=4|format=PD}}</ref> 旅客案内および運転系統上の京都本線は、大阪梅田駅 - 京都河原町駅間47.7 km、28駅(起終点駅含む)である。 == 路線概況 == 阪急の基幹3路線系統が並走する大阪梅田駅 - 十三駅間を除き、一貫して淀川の右岸側に路線が通っている。路線敷設の経緯から線形は比較的良く、とりわけ[[上新庄駅]] - [[桂駅]]間には運転上考慮すべきカーブはあまりみられない。[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[東海道本線]]([[JR京都線]])は[[崇禅寺駅]]付近 - [[大山崎駅]]間では当路線の北寄りを、それ以外では南寄りのルートを通る。 ほかにも[[東海道新幹線]]や[[名神高速道路]]、[[国道171号]]も当路線に近いルートを通る区間があり、特に[[高槻市駅]] - [[西山天王山駅]]付近では淀川と北摂山地および[[天王山]]に挟まれた狭隘な平地をこれらの路線が近接して並走する光景もみられる。 == 運行形態 == 京都本線は[[片町線|JR片町線]]や[[京阪本線]]と同様、大阪方面行が下り、京都方面行が上りとなっている。これに対し、[[神宝線]]はその逆で大阪方面行が上りとなっている<ref group="注釈">東京に向かう方が上りになるため。神戸や宝塚より大阪の方が、大阪よりも京都の方が東京に近い。</ref><!-- 編成の向きの件は車両節に移動 -->。正式な起点は大阪側の十三駅である<ref name="youran-and-kp" group="注釈" />が、運行上、京都線の列車は[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]を始発・終着としており、大阪梅田駅 - 十三駅間は[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]の[[複々線]]の東側増設線2線に乗り入れる形となっている。この区間は、休止となった[[阪急北野線|北野線]]の復活という形で免許が申請されており、用地の問題からホームが設置できなかった[[中津駅 (阪急)|中津駅]]には京都線の列車は停車しない。 [[ファイル:Hankyu Umeda Kyoto line and Takaraduka line.JPG|thumb|none|梅田(現・大阪梅田)駅京都線ホームの隣駅表示は十三。中津駅を通過することも明記されている(画面奥)]]<!-- 経路図(路線図)を展開すると衝突するのでここにnone指定で配置--> 途中の[[淡路駅]]で自社の[[阪急千里線|千里線]]と交差しており、両路線は頻繁に直通運転を行っている。直通列車は大阪梅田駅 - 淡路駅 - 千里線方面と京都方面 - 淡路駅 - 千里線方面の2系統が存在し、後者は千里線を経て[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) の地下鉄[[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]]にも直通している。千里線とは運用面で一体化されており、また歴史的経緯からも開業以来一体で運営されてきたものであるため、千里線の運用も本項に併せて記載する。 ダイヤサイクルはパターン化されており、昼間は10分サイクル、ラッシュ時は20分サイクルで運転されている。ただし、土休日の日中は快速特急が運行されるためその前後の列車にダイヤパターンから1 - 2分ほどの時間のズレが生じており、完全な10分サイクルではない。 編成両数は基本的に8両編成だが、一部に7両編成の運行がある<ref group="注釈">平日朝に10両編成運行があったが2022年12月のダイヤ改正で廃止された。</ref>。8両編成で統一されている神戸本線(平日朝ラッシュ除く)・宝塚本線と異なり、京都本線に7両編成が存在するのは京都河原町駅2号線のホーム[[有効長]]が7両であることや、車庫の収容能力に起因している<ref name="tweet191113">{{Cite tweet|author=阪急電鉄 【公式】 |user=hankyu_ex |number=1194519338927173633 |title=京都線になぜ7両編成が残るのか? |date=2019-11-13 |accessdate=2020-06-12}}</ref>。土曜・休日に運転される快速特急および行楽期に運転される直通特急は6両編成で運転されている。 日中1時間あたりの運行本数は次のようになっている。平日と土休日でダイヤパターンが異なる。 {| class="wikitable" |+日中の運行パターン(平日) |- !colspan="2" |種別\駅名 !style="width:1em;"|{{縦書き|大阪梅田|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|淡路|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|高槻市|height=6em}} !… !style="width:1em;"|{{縦書き|京都河原町|height=6em}} |- style="text-align:center;" !rowspan="5" style="width:1em;"|運行範囲 |style="background:#fcc;"|特急 |colspan="9" style="background:#fcc;"|6本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cf9;"|準急 |colspan="9" style="background:#cf9;"|6本 |- style="text-align:center;" |rowspan="3" style="background:#ddd;"|普通 |colspan="6" style="background:#ddd;"|3本 |colspan="3"| |- style="text-align:center;" |colspan="3" style="background:#ddd;"|3本 |colspan="6" style="text-align:left;"|→北千里 |- style="text-align:center;" |colspan="2" style="text-align:right;"|天下茶屋← |colspan="4" style="background:#ddd;"|3本 |colspan="3"| |} {| class="wikitable" |+日中の運行パターン(土休日) |- !colspan="2" |種別\駅名 !style="width:1em;"|{{縦書き|大阪梅田|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|淡路|height=6em}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|高槻市|height=6em}} !… !style="width:1em;"|{{縦書き|京都河原町|height=6em}} |- style="text-align:center;" !rowspan="7" style="width:1em;"|運行範囲 |style="background:#c9f;" |快速特急 |colspan="9" style="background:#c9f;" |0 - 1本(1日4往復) |- style="text-align:center;" |style="background:#fcc;"|特急 |colspan="9" style="background:#fcc;" |6本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cfc;"|堺筋準急 |colspan="2" style="text-align:right;" |天下茶屋← |colspan="7" style="background:#cfc;"|3本 |- style="text-align:center;" |style="background:#cf9;"|準急 |colspan="9" style="background:#cf9;" |3本 |- style="text-align:center;" |rowspan="3" style="background:#ddd;"|普通 |colspan="6" style="background:#ddd;"|3本 |colspan="3"| |- style="text-align:center;" |colspan="3" style="background:#ddd;" |3本 |colspan="6" style="text-align:left;"|→北千里 |- style="text-align:center;" |colspan="2" style="text-align:right;"|天下茶屋← |colspan="4" style="background:#ddd;"|3本 |colspan="3" | |} === 列車種別 === 以下に各種別の詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「[[#駅一覧|駅一覧]]」の節を参照。 ==== 快速特急(京とれいん 雅洛)==== {{Main|京とれいん}} 土休日のみに大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で運転される京都への観光客向けの列車で、特別料金不要であるため[[運賃]]のみで乗車できる。1日4往復運転される。 停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・桂駅・烏丸駅・京都河原町駅である。ダイヤは特急の始発駅発車2分後に続行で設定され、停車駅は後述の特急より少ないものの、終点まで先行の特急を追い抜くことはない。ただし、大阪梅田行きは桂駅で準急に、京都河原町行きは淡路駅と桂駅で準急に接続する。 使用車両は[[神宝線]]の[[阪急7000系電車|7000系]]を改造した「[[京とれいん#京とれいん 雅洛|京とれいん 雅洛]]」(7006F)6両編成である。最高速度は110 km/hである。専用の車両が使用されるが、1編成しかないため、車両の検査等で使用できない場合は一般車両が使用される<ref name=railf19-01-20>[https://railf.jp/news/2019/01/20/201000.html 阪急京都線で「快速特急A」の運転開始] - 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2019年1月20日</ref>。 英語表記は「'''Limited Express'''」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「'''Rapid Limited Express'''」に変更された。阪急ホームページ内の発車時刻表では「快特」と表記している<ref>[http://www.hankyu.co.jp/station/html/HK-86_ky_1_h.html 河原町駅発車時刻表(土曜・休日)] - 阪急電鉄、2019年6月24日閲覧</ref>。 快速特急は、2011年5月14日のダイヤ改正で[[阪急6300系電車|6300系]]をリニューアルした「[[京とれいん]]」で運行する列車として新設された<ref name="hhhd20110213">{{Cite press release|和書|title=観光列車「京とれいん」や天下茶屋〜河原町間直通の「準急」を土・休日に運行します 京都線の土・休日ダイヤの改正について|publisher=阪急電鉄|date=2011-02-21|url=http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201102213N1.pdf|format=PDF|access-date=2022-12-12|archive-url=https://web.archive.org/web/20111121170828/http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201102213N1.pdf|archive-date=2011-11-21}}</ref>。その後、十三駅にホームドアを設置することになり、2019年1月19日のダイヤ改正で6300系を使用する列車は後述の「[[#快速特急A|快速特急A]]」に変更して十三駅通過とした<ref name="hhhd20181208dia" />(快速特急Aは2022年12月17日のダイヤ改正で廃止)。 2019年3月23日からは、「京とれいん」の2編成目である「京とれいん 雅洛」で運転されている<ref name="hhhd20190208">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/6581.pdf 観光特急『京とれいん 雅洛』 3月23日(土)いよいよ運行開始!]}} - 阪急電鉄、2019年2月8日</ref><ref name="railfjp20190323">[https://railf.jp/news/2019/03/23/202500.html 「京とれいん 雅洛」が京都線で営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年3月23日</ref>。6300系と異なり、ドア位置の問題はないため十三駅にも停車する。 なお、6300系京とれいんと違い、「京とれいん 雅洛」は神宝線の7000系を改造しているため神宝線への乗り入れが可能であり、行楽期の臨時列車として神戸本線西宮北口駅 - 嵐山線嵐山駅間の[[阪急嵐山線#2019年|直通特急]]で運転されたことがある。 <gallery widths="200px"> Hankyu-Series6300-6354F-Kyoto-Line.jpg|6300系「京とれいん」による梅田(現・大阪梅田)行き快速特急(2018年7月16日) 阪急電鉄7000系7006F 京とれいん雅洛.jpg|7000系「京とれいん 雅洛」による梅田(現・大阪梅田)行き快速特急(2019年7月14日) </gallery><!-- 直通特急の画像は[[阪急嵐山線]]の「臨時列車」の節に移動 --> ==== 特急 ==== 平日ダイヤでは京都本線の最上位の種別であり、乗車券のみで乗車可能である。大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、基本的に平日は9 - 16時に、土曜・休日は概ね9 - 21時に運行される。10分間隔が基本だが、土休日夜間などは15分ほどあく時間帯がある。 日中の大阪梅田駅 - 京都河原町駅間の所要時間は42 - 45分、最速は2022年12月17日のダイヤ改正以降、平日日中下りに運転される列車の42分30秒(表定速度:67.3 km/h、平均速度:74.2 km/h)である。8両編成の運用で、最高速度115 km/hで運転されるためそれに対応した車両に限定されている。主に転換クロスシート車の9300系で運行されるが、ロングシート車の8300系・7300系・1300系で運行される列車もある。 途中停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・烏丸駅・京都河原町駅で、各駅において先着となる。かつては梅田駅・十三駅・大宮駅・烏丸駅・河原町駅のみの停車で、京阪間ノンストップ運転を行っていた。大阪梅田方面への列車は、平日は桂駅と高槻市駅で準急に、茨木市駅で普通に接続する。土休日は桂駅と茨木市駅で準急に、高槻市駅で普通に接続、一部は淡路駅で普通天下茶屋行きに片接続する。京都河原町方面への列車は、平日・土休日ともに、茨木市駅で普通に、高槻市駅と桂駅で準急に接続する。 平日は終日、9300系で運転される列車において、大阪梅田側から5両目(5号車)に[[女性専用車両]]が設定されていた(女性専用車両の詳細については[http://www.hankyu.co.jp/approach/ 阪急電鉄ホームページ]を参照のこと)。9300系以外の車両による運用時は女性専用車両は設定されない。2022年12月17日のダイヤ改正により、特急における女性専用車両の設定が取り止められた。 2024年夏頃から、阪急電鉄として初の座席指定サービス「PRiVACE」(プライベース)を導入する<ref>[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/f9831179f4a2cf71af487be17921c5054dbb7e03.pdf ~ 日常の“移動時間”を、プライベートな空間で過ごす“自分時間”へ ~ 当社初の座席指定サービスの名称を『PRiVACE(プライベース)』に決定! 2024年夏頃に、京都線に導入します] - 阪急電鉄プレスリリース(2023年11月21日)</ref><ref>{{Cite web|和書|title=阪急京都線に導入する座席指定サービスの名称は「PRiVACE」に |work=鉄道ニュース |date=2023-11-2 |url=https://railf.jp/news/2023/11/21/150000.html |website=鉄道ファン・railf.jp |access-date=2023-11-28 |language=ja}}</ref>。9300系の一部と2024年登場予定の新型車両2300系の大阪梅田側から4両目に設定する。座席は専用のWEBサイトから予約することで利用できる。サービス開始当初は1時間に2 - 3本の頻度で運転されるが、2025年頃からは1時間に4 - 6本の頻度にまでサービスを拡大する予定である。また、このサービスは特急だけでなく、後述の通勤特急や準特急でも行われる。 <gallery widths="200" heights="140px"> Hankyu9300 series 9302F Ibaraki 2006-07-22.jpg|9300系による梅田(現・大阪梅田)行き特急(2006年7月22日) Hankyu 1301 Limited Express.jpg|1300系による梅田行き特急(2022年9月29日) </gallery> ==== 通勤特急 ==== 大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、平日の朝3往復のみ運行される。全列車が9300系で運転され、最高速度は115 km/hである。本種別のみ、大阪梅田側から5両目(5号車)に[[女性専用車両]]が設定されている。 停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・西院駅・大宮駅・烏丸駅・京都河原町駅である。特急に比べ京都市内の西院駅・大宮駅に停車する代わりに、千里線・堺筋線との乗り換え駅で特急・[[準特急]]停車駅の淡路駅を通過する。京都河原町行きは、高槻市駅で準急に、長岡天神駅で普通に接続する。大阪梅田行きは、長岡天神駅で準急天下茶屋行きに、高槻市駅で普通大阪梅田行きに、茨木市駅で普通天下茶屋行きにそれぞれ接続する。 特急同様に停車駅を増やす傾向がみられ、下位種別の準特急(2022年12月16日までは快速急行)との差が縮まりつつある。2010年のダイヤ改正で茨木市駅に停車するようになってからは、快速急行(現在の準特急)との停車駅の差は淡路駅に停車しないだけになった<ref name="hhhd20091209" />。また、このダイヤ改正で、停車駅が1つ増加し10駅停車となったため総停車駅数で見れば特急より下位種別(9駅停車の特急と11駅停車の快速急行の間)となっている。 現行のものは2001年のダイヤ改正で設定された。英語表記は「'''Limited Express'''」が使用されていたが、2019年1月のダイヤ改正で「'''Commuter Limited Express'''」に変更された。2022年12月のダイヤ改正で朝ラッシュの一部と夕ラッシュの全列車が淡路駅に停車する準特急へ統合・格下げされ、通勤特急は朝ラッシュの3往復のみと大幅に削減された<ref name=":0" />。 <gallery widths="200" heights="140px"> Hankyu 7300 Series 7324F+7310F.jpg|7300系による梅田(現・大阪梅田)行き通勤特急(2017年7月31日) </gallery> ==== 準特急 ==== 大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で、主に平日の朝夕ラッシュ時間帯と土休日の早朝・夜間に特急に代わって運転される。全列車8両編成で、最高速度は110 km/hである。ほとんどの列車は、大阪梅田駅 - 京都河原町駅間で運行されるが、正雀車庫からの出庫を兼ねた茨木市発京都河原町行きが2本(平日は朝夕に1本ずつ、土休日は朝に2本)運行される。 2022年12月17日のダイヤ改正で快速急行を改称して設定された<ref name=":0" />。停車駅は従来の快速急行を引き継ぎ、大阪梅田駅・十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅・桂駅・西院駅・大宮駅・烏丸駅・京都河原町駅である。特急停車駅に加えて、西院駅・大宮駅に停車。すべての区間において先着する。 接続に関しては、列車ごとに異なるが、長岡天神駅・高槻市駅・茨木市駅で普通または準急に、また淡路駅で普通天下茶屋行きに接続する。 平日・土休日の京都河原町を23時15分に出発する大阪梅田行きは、京都河原町駅 - 西院駅・桂駅・長岡天神駅で淡路駅・十三駅・大阪梅田駅への最終列車の役割を担う。ただし、高槻市駅で普通大阪梅田行き(相川駅 -大阪梅田駅の最終列車)に接続する。 ==== 急行 ==== 2022年12月17日より快速から改称して西京極駅停車として設定された。停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅と桂駅 - 京都河原町駅の各駅である。全区間で先着する。平日は早朝に下り3本(このうち2本は長岡天神発大阪梅田行き)、夜間に上り3本(大阪梅田発京都河原町行き)が運転される。土休日は夜間に上り3本が運転される。 9300系以外の8両編成で運行され、最高速度は110 km/hである。種別を表す色は路線図や時刻表では黄色、種別幕の色も黄色となっている。 大阪梅田行きは、京都河原町駅を始発とする列車のみ、高槻市駅と茨木市駅で普通大阪梅田行きに接続する。京都河原町行きは、茨木市駅で普通に接続する。 平日の大阪梅田駅を23時45分に出発する京都河原町行きは、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・長岡天神駅と桂駅 - 京都河原町駅への最終列車の役割を担う。ただし、途中茨木市駅にて普通桂行き(高槻市駅 - 桂駅の最終列車)に接続する。 <gallery widths="200" heights="140px"> HQKyoto kyuko.jpg|3300系による京都河原町行き急行(2023年3月7日) </gallery> ==== 準急 ==== 2007年に[[#2001年3月24日 - 2007年3月16日|急行]]に代わって設定された。ほとんどの列車は大阪梅田駅 - 京都河原町駅間の運転であるが、土休日の早朝において、高槻市発大阪梅田行き、洛西口発大阪梅田行きがそれぞれ1本ずつ設定されている。また高槻市発大阪梅田行きは平日の朝ラッシュ終わり(高槻市9:30発)にも1本設定されている。 停車駅は、大阪梅田駅・十三駅・南方駅・淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅と高槻市駅 - 京都河原町駅の各駅である。 7両編成または8両編成で運行されている。最高速度は110 km/hである。 朝夕のラッシュ時間帯では、長岡天神・高槻市で準特急または通勤特急に接続する。平日の昼間時間帯は、高槻市駅と桂駅で特急に、茨木市駅で普通に接続する。土休日の昼間時間帯では、上下でそれぞれ異なり、大阪梅田方面は、桂駅と茨木市駅で特急に接続(一部は桂駅で快速特急にも接続)し、京都河原町方面は、茨木市駅で普通に、高槻市駅と桂駅で特急(一部は快速特急にも)接続する。 1982年から2001年までも「準急」を名乗る列車が運転されていたが、これは現行のものと大きく異なり、梅田行きのみの設定で淡路駅を境に京都側で通過運転、大阪側で各駅停車(ただし中津駅は全列車通過)となるものであった([[#旧・準急|後節]]参照)。 <gallery widths="200" heights="140px"> 7300系準急離合.jpg|7300系による大阪梅田行き準急と京都河原町行き準急(2021年2月26日) </gallery> ===== 堺筋準急 ===== {{See also|Osaka Metro堺筋線#堺筋準急}} Osaka Metro堺筋線(天下茶屋駅 - 天神橋筋六丁目駅間)・阪急千里線(天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅間)と京都本線の直通列車として運転される。2007年3月17日改正で従来の[[#堺筋急行|堺筋急行]]・[[#堺筋快速急行|堺筋快速急行]]に代わって設定された。 全列車が天下茶屋駅 - 京都河原町駅間での運転である。停車駅は、Osaka Metro堺筋線内(天下茶屋駅 - 天神橋筋六丁目駅)の各駅と、淡路駅・上新庄駅・南茨木駅・茨木市駅、高槻市駅 - 京都河原町駅の各駅である。 平日朝は下りで、平日夕方は上りでそれぞれ7本ずつ運転される。平日の朝(天下茶屋方面)は、長岡天神駅で通勤特急または準特急に、高槻市駅で準特急に、淡路駅で普通大阪梅田行きに接続する。夕方の京都河原町行きは淡路駅で大阪梅田発の北千里行普通に、高槻市駅と長岡天神駅で準特急に接続する。 土休日は2011年5月14日から日中に設定されており、20分間隔で運転されている。 なお、「堺筋準急」は運行管理上の種別名であり、正式種別名は単に「準急」である。阪急の9300系以外の8両編成が使用され、[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]の車両は使用されない。 <gallery widths="200" heights="140px"> 8333F準急天下茶屋.jpg|8300系による天下茶屋行き準急(2021年2月13日) </gallery> ==== 普通 ==== 各駅に停車する種別で、終日運転される。ただし[[#運行形態|前述]]のとおり中津駅は京都本線側にホームがないため全列車通過する。 運転区間は、ラッシュ時は、大阪梅田駅 - 高槻市駅・京都河原町駅間、昼間時間帯は大阪梅田駅 - 高槻市駅間である。また千里線に乗り入れる列車が大阪梅田駅 - 北千里駅間、堺筋線に乗り入れる列車が天下茶屋駅 - 高槻市駅間で運行されている(天下茶屋駅 - 北千里駅間を直通する列車もあり)。日中時間帯は、10分に1本の運転で、大阪梅田発着系統と天下茶屋発着系統が交互に運転されている。 そのほか、相川駅・洛西口駅始発や正雀駅・茨木市駅・長岡天神駅・桂駅発着の列車も設定されている。朝夕のラッシュ時間帯には、天下茶屋 - 茨木市間の列車も設定されている。 夜間は車庫の入庫の関係から、上下共に桂止まりの列車が設定されている。また夜間留置の都合で、平日夜に京都河原町発長岡天神行き、平日深夜には京都河原町発茨木市行き、土休日深夜は同駅発高槻市行きが1本ずつある。 淡路駅で京都本線と千里線の普通(大阪梅田行きと天下茶屋行き、高槻市行きと北千里行き)が接続、天下茶屋駅発着の下りの一部はさらに特急と片接続を行う。 平日の上りは相川駅で準急・特急を待避し、茨木市駅で準急・特急と接続する。平日の下りと土休日の上りは茨木市駅で準急・特急と接続し、相川駅で特急を待避する。土休日の下りは始発の高槻市駅で準急・特急から接続し、正雀駅で特急・準急を待避する。 8両編成または7両編成が使用されるが、堺筋線直通列車は高槻市駅 - 京都河原町駅間を除いて8両編成のOsaka Metroの車両も使用される。高槻市駅 - 長岡天神駅間を走行する列車に関しては2001年までは全列車が7両編成以下だった(これは大山崎駅・水無瀬駅・上牧駅が7両編成対応ホームであったため)。 京都本線の普通は、1959年2月18日の梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 十三駅間3複線化までは早朝・深夜のごく一部を除き<!--この普通列車が中津駅に停車していたか気になっています。文献がありましたが御報告を。-->大阪側は十三駅または天神橋駅発着であり、3複線化により千里山線(現・千里線)方面の普通列車の多くが梅田駅発着に延長された。その後、1969年12月5日までは梅田駅発着の列車が設定されていた早朝・深夜を除き<ref group="注釈">千里線直通普通や特急・急行運用の正雀・桂車庫からの送り込みおよび両車庫への送り返し(入出庫)の運用などで設定されていた。</ref>、十三駅発着列車と、淡路駅で梅田駅発着の千里線直通普通に接続する天神橋駅発着列車が交互に運転されていた。 堺筋線との相互直通運転が開始された1969年12月6日改正で、天神橋駅発着列車を高槻市駅発着の堺筋線直通列車に変更し、同じく早朝・深夜を除き、京都本線の大阪側の普通は千里線直通普通の一部を含め十三駅発着が基本となった。梅田駅移転工事の完成した1973年11月23日改正でほぼ全列車が千里線直通普通と同様に、梅田駅発着に延長され、十三駅発着の普通は当時学生の帰宅時間向けに設定されていた平日午後や土曜正午前後に運転されていた茨木市駅・淡路駅などを発着とする不定期の普通や、わずかに残った京都本線の定期普通など、ごく少数のみとなり、それらも1976年9月22日までに廃止されたため(廃止直後に十三駅7号線を廃止)、現在は十三駅発着の列車は設定されていない。なお、千里線直通普通については、京都本線の普通とは逆に、梅田駅発着を原則としており、十三駅発着列車がごくわずかであった。 <gallery widths="200" heights="140px"> Hankyu-Series8300-3300.jpg|8300系による天下茶屋行き普通(2018年7月16日) </gallery> === 過去の列車種別 === 過去には以下の列車種別が存在した。本節において梅田駅、河原町駅はそれぞれ現在の大阪梅田駅、京都河原町駅。 ==== 快速特急A ==== {{Main|京とれいん}} ;停車駅 :大阪梅田駅 - 淡路駅 - 桂駅 - 烏丸駅 - 京都河原町駅 2019年1月19日のダイヤ改正で、それまで前述の「[[#快速特急(京とれいん 雅洛)|快速特急]]」に使用されていた[[阪急6300系電車|6300系]]「[[京とれいん]]」で運行する列車として新設された<ref name="hhhd20181208dia">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/6466.pdf 2019年1月19日初発より 阪急京都線のダイヤ改正を実施します 〜平日 朝・夕方の通勤・通学時間帯における混雑の緩和と利便性の向上を図ります〜 〜2019年3月に観光特急『京とれいん』の2編成目を導入します〜]}} - 阪急電鉄、2018年12月7日</ref>。なお快速特急Aは阪急では初のアルファベット入り種別であり、日本で唯一の種別であった。 専用車両として内装を京風にリニューアルした6300系「京とれいん」が使用された。最高速度は6300系が115 km/h非対応であるため110 km/hである。 十三駅は通過する。これは、6300系の扉位置が他車と異なり、十三駅に設置されている[[ホームドア]]<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/6654.pdf 2019年3月9日(土)初発列車から、十三駅5号線の可動式ホーム柵の使用を開始します。]}} - 阪急電鉄、2019年3月7日</ref>の位置と合わないためである(なお同ダイヤ改正が行われる前は同駅にホームドアが無かったため快速特急として停車していた。)<ref name="hhhd20181208dia" />。ただし、実際は通過するのではなく旅客扱いを実施しない[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]を行っており、所要時間は十三駅で旅客乗降を扱う快速特急と同等である<ref group="注釈">西宮北口駅を通過する今津線・神戸本線直通の準急・直通特急も同様。ただし、同駅の神戸本線と今津線との連絡線は急カーブとなっている関係でホーム自体が存在しない。</ref>。一般車両が運用に入る際も同様に通過扱いとなる<ref name="hhhd20181208dia" />。なお十三駅を通過扱いとする列車は1961年1月16日のダイヤ改正で特急が停車するようになって以来、58年ぶりの設定である。 2022年12月17日のダイヤ改正で廃止されることになり<ref name=":0" />、同月11日をもって運行を終了した。 ==== 旧・快速特急 ==== ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 高槻市駅 - 桂駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 2001年3月24日<ref name="RJ415_68">[[#RJ415|『鉄道ジャーナル』通巻415号、p.68]]</ref>から2007年3月16日までの、土曜・休日の朝(平日にも一部運転)および全日の夕方・夜間の時間帯に運行された。後述の1997年-2001年の[[#快速急行|快速急行]]を改称したもので、停車駅は同じである。2007年3月17日のダイヤ改正で休止<ref name="hhhd20061215">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/legacy_data/ir/data/ER200612151N1.pdf 京都線のダイヤ改正について]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2006年12月15日)</ref>され、代わりに西院駅を停車駅に加えた通勤特急が設定された。6300系で運転され、2002年から平日は大阪寄り5両目が女性専用車両となっていた。 なお、「快速特急」の種別名称は、2010年度より行楽時の[[阪急嵐山線#臨時列車|嵐山線直通臨時列車]]の種別として復活した。その後、2011年より土休日運転の観光客向け特急の種別となっている([[#快速特急(京とれいん 雅洛)|前述]])。 ==== 旧・通勤特急 ==== ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 高槻市駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 当時の特急の停車駅に対して、高槻市駅にも停車するようにしたもので、朝夕ラッシュ時に運転された。1997年改正ですべての特急が高槻市駅に停車するようになり、通勤特急はいったん消滅した。廃止直前の運行形態は、約15分間隔で、梅田発20時以降は30分間隔だった。夕方の河原町発は設定されていなかった。 2001年3月24日のダイヤ改正で、朝夕ラッシュについては以前のダイヤを踏襲して作成されていたことから、従来と同じ停車駅(十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅)で再び設定され、朝のみに15分間隔で運転された。該当する時間帯には、特急は運転されなかった。以前より運行時間が縮小されているが、朝ラッシュの前後と夕方以降は快速特急(前記に加えて桂駅に停車)が運転されていた。車両は6300系が使用された。 ==== 快速急行 ==== ===== 1997年3月2日 - 2001年3月23日 ===== ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 高槻市駅 - 桂駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 1997年3月2日から2001年3月23日まで存在した。平日河原町行きのみの運転で、朝の1本と、夜間(梅田発21時30分以降)に設定された。なお、同時間帯は特急の運転がなかった。停車駅は、当時の特急の停車駅に桂駅を加えたものであった。6300系で運転された。2001年3月24日のダイヤ改正で前述の旧・[[#旧・快速特急|快速特急]]に改称された<ref name="RJ415_68"/>。 ===== 2001年3月24日 - 2022年12月16日 ===== ;停車駅 :大阪梅田駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 長岡天神駅 - 桂駅 - 西院駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 京都河原町駅 2001年3月24日のダイヤ改正で従来の[[#2001年3月23日まで|急行]]の停車駅を受け継いで設定され、朝夕ラッシュと夜間の時間帯に運行された。2022年12月17日のダイヤ改正で準特急に名称変更された。 ==== 旧・急行 ==== [[ファイル:Hankyu3300Series01.jpg|thumb|right|200px|2007年3月まで存在していた急行(南茨木駅付近 2006年7月22日)]] 2007年3月16日までの昼間と夕方の時間帯と平日深夜(上り1本のみ高槻市止まり。ただし梅田発高槻市行最終はその次の普通)に運行された。昼間時間帯は普通の運転のない高槻市駅 - 河原町駅間の各駅停車の代替となり、下りは桂駅と茨木市駅で、上りは高槻市駅と桂駅で特急と緩急接続していた。列車によっては7両編成で運転されることがあった。終戦直後から存在する種別であったが、2001年改正を境に大きく見直しが行われた<ref name="RJ415_68" />。 ===== 2001年3月23日まで ===== ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 長岡天神駅(1979年改正まではラッシュ時のみ停車) - 桂駅 - 西院駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 2001年3月改正までの急行は、現在の準特急、2001年-2022年の[[#2001年3月24日 - 2022年12月16日|快速急行]]と同じ停車駅であるが、終日に渡って運転されていたこと、当時は特急と停車駅数の差が大きかったため、途中で特急待避が行われていた点が異なる。最終時点では、平日日中は10分間隔、それ以外は朝夕を含めおおむね15分間隔で運転されていた。また、平日日中の河原町行き、休日の梅田行きはそれぞれ桂駅で後発の特急を待避した。所要時間は、待避のない最速列車で48分、一方朝の梅田行きは最大で57分を要していた。 車両は8両編成のほか、平日朝には10両編成で運転された。2扉車の6300系が運用される列車は駅の時刻表に2扉車を示すマークとして◆が付けられていた。 [[1979年]][[3月5日]]改正まで長岡天神駅には平日朝夕のみ停車していたが、停車駅の相違による種別の区分は行われず、ともに「急行」を名乗った。ただし、同駅通過の急行は「大阪 急 京都」と書かれた種別板の背景色が白色だったのに対し、長岡天神駅に停車する急行は種別板内の「大阪」「京都」と書かれた行先部分の背景色が黄色になっていることで区別されていた。 [[日本野球機構|プロ野球]]の試合が行われる日は[[西京極駅]]に、[[日本プロサッカーリーグ|サッカーJリーグ]]の試合が行われる日には南茨木駅や西京極駅に、[[京都向日町競輪場|向日町競輪]]が行われる日には[[東向日駅]]に、それぞれ臨時停車することもあった。 2001年3月の改正で停車駅が大幅に見直され、この旧・急行は[[#2001年3月24日 - 2022年12月16日|快速急行]]に名称変更された<ref name="RJ415_68"/>。 ===== 2001年3月24日 - 2007年3月16日 ===== ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 南茨木駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - (この間各駅に停車) - 河原町駅 2001年3月改正からの急行は、1997年-2001年の[[#快速|快速]]の停車駅を受け継ぐ形で設定された。平日・休日を問わず日中のみ(例外的に平日の梅田0時00分発高槻市行きも)設定され、10分間隔で運転された。梅田行きは桂駅・茨木市駅で、河原町行きは高槻市駅・桂駅で後発の特急を待避した。 7両編成または8両編成が使用された。なお、この急行の設定にあわせ、従来7両分の長さしかなかった[[大山崎駅]]・[[水無瀬駅]]・[[上牧駅 (大阪府)|上牧駅]]では、ホームの延伸が行われている。 2007年の改正で休止され、停車駅パターンは、[[上新庄駅]]・[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]にも追加停車する形で[[#準急|準急]]に引き継がれた<ref name="hhhd20061215" />。 2022年12月のダイヤ改正から、再び快速に代わり[[#急行|急行]]が登場することになった<ref name=":0" />。 ==== 堺筋快速急行 ==== ;停車駅 :天下茶屋駅 - (この間各駅に停車) - 天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 長岡天神駅 - 桂駅 - 西院駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 2001年3月24日から2007年3月16日の平日夕方ラッシュ時に、地下鉄堺筋線・阪急千里線と京都本線の直通列車として天下茶屋発河原町行3本のみが運転されていた。茨木市駅で後発の快速特急を待避した。なお、淡路駅から京都方面へは最速達列車であった。 2007年3月17日のダイヤ改正で、淡路駅で快速急行河原町行に接続する観点から消滅し、その代替として[[#堺筋準急|堺筋準急]]が設定された。 ==== 堺筋急行 ==== ;2001年3月23日までの停車駅 :天下茶屋駅 - (この間各駅に停車) - 天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 長岡天神駅 - 桂駅 - 西院駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 ;2001年3月24日 - 2007年3月16日の停車駅 :天下茶屋駅 - (この間各駅に停車) - 天神橋筋六丁目駅 - 淡路駅 - 南茨木駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - (この間各駅に停車) - 河原町駅 1979年3月5日から2007年3月16日の平日朝夕ラッシュ時に地下鉄堺筋線・阪急千里線と京都本線の直通列車として河原町駅 - 天下茶屋駅(1993年までは動物園前駅)間で運転されていた。 2001年改正までは、朝の天下茶屋行き、夕方の河原町行き各3本ずつが運転された。天下茶屋行きは長岡天神駅で、河原町行きは茨木市駅で後発の特急(または通勤特急)を待避した。 2001年改正以降は急行の停車駅パターンが変更され、河原町駅 - 高槻市駅間の各駅に停車するようになった。この改正では朝の高槻市始発も設定されたが、夕方の列車は快速急行([[#堺筋快速急行|堺筋快速急行]])へ種別変更され、急行としての設定はなくなった。朝の列車が残ったが、2007年3月17日のダイヤ改正で準急([[#堺筋準急|堺筋準急]])に変更された。 「堺筋快速急行」および「堺筋急行」は便宜上の呼び方であり、[[方向幕|種別表示幕]]には「快速急行」「急行」と表示された。阪急の車両が使用され、大阪市交通局(現在のOsaka Metro)の車両は使用されなかった。 ==== 快速 ==== ===== 1997年3月2日 - 2001年3月23日 ===== ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - (この間各駅に停車) - 河原町駅 高槻市駅以東の各駅から梅田方面への速達化を図るため、1997年3月のダイヤ改正で新設された。平日昼間のみ20分間隔の運行であった。梅田行きは桂駅で特急、長岡天神駅で急行を待避し、河原町行きは長岡天神駅で急行・特急を連続待避した。 当時、高槻市駅以西の急行停車駅以外にも[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]と[[崇禅寺駅]]に停車する準急が運転されており、途中から各駅に停車するものの、この2駅を通過するという違いが生じるため、急行と準急の中間の種別を設定する必要が生じたことが設定の理由である。2001年3月23日のダイヤ改正で休止された(実質的には[[#2001年3月24日 - 2007年3月16日|急行]]へ改称)<ref name="RJ415_68"/>。 この快速が運転されていた時間帯は、高槻市駅 - 梅田駅間で先着の優等列車が1時間に12本運転(特急3本・急行6本・快速3本、他に普通が6本)されるという頻発運転が行われていたが、あまり宣伝されることはなく、またこのダイヤは土曜・休日に実施されることはなかった。 なお、「快速」の種別名称は、2007年度より行楽時の臨時列車の種別として(後述)、また、2010年3月14日からは定期列車として復活した(下段参照)が、急行に改称する形で再び消滅した(前述)。 ===== 2010年3月14日 - 2022年12月16日 ===== ;停車駅 :大阪梅田駅 - 十三駅 - 南方駅 - 淡路駅 - 上新庄駅 - 南茨木駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 長岡天神駅 - 桂駅 - 西院駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 京都河原町駅 2010年3月14日のダイヤ改正から定期列車として再設定された。2022年時点では平日に、下りは早朝に3本(このうち2本は長岡天神始発大阪梅田行き)・上りは夕ラッシュ時に7本運転されていた。土休日の運転はない。大阪梅田駅 - 高槻市駅間では準急と、高槻市駅 - 京都河原町駅間では快速急行とそれぞれ同じ停車駅であるが、全区間で先着する。夕ラッシュ時の京都方面への先着列車を増やし、通勤特急・快速急行の混雑緩和と利用者の分散の役割を持たせるために設定された。 種別を表す色は路線図や時刻表では青色、種別幕の色も青色となっている<ref name="hhhd20130920">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201309202N1.pdf 西山天王山駅の開業にあわせて京都線のダイヤ改正を実施します]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2013年9月20日)</ref>。2013年12月20日までは種別を表す色が準急と同じ緑となっており<ref name="hhhd20130920" />、高槻市駅 - 京都河原町駅間で誤乗が発生しやすいため、快速停車駅では誤乗防止を促す貼り紙が貼られていた。 祭事や終夜運転で臨時快速が運転されることがあった。8月に開催される京の七夕に合わせて、2012年から2014年までの開催期間中の土曜日夕方に梅田発河原町行き、夜に河原町発梅田行きの1往復の臨時快速が、6300系「京とれいん」車両を使用して運行されていた。当該編成の種別幕には「快速」の表示が収録されていないため、「臨時」と表示していた。 英語での種別表示では、快速急行「'''Rapid Express'''」との区別から、「'''Rapid Service'''」と表示されている(2019年10月の梅田・河原町の駅名変更までは、9300系・7300系LED方向幕装備編成の[[車内案内表示装置|車内LCD]]では短縮して「'''Rapid'''」とだけ表示されていた)。 2022年12月17日のダイヤ改正で西京極駅が停車駅に追加され、[[#急行|急行]]に名称変更された<ref name=":0" />。 <gallery widths="200" heights="140px"> Hankyu rapid.jpg|誤乗防止を促す貼り紙<br>撮影時西山天王山駅は未開業(2011年10月30日) HANKYU 1301F at Umeda(Hankyu) station.jpg|1300系による河原町(現・京都河原町)行き快速(2017年2月26日) </gallery> ==== 旧・準急 ==== ;停車駅 :高槻市駅 - 茨木市駅 - 淡路駅 - 崇禅寺駅 - 南方駅 - 十三駅 - 梅田駅 1982年11月27日から2001年3月23日までの間に設定されていた。 朝の梅田行きのみ運転されていた。平日は茨木市駅始発で、1997年以降は土曜朝にも高槻市駅始発で運転された。なお、準急は2007年3月17日のダイヤ改正で急行に代わって復活したが、そちらでは復活に際し上新庄駅・南茨木駅が停車駅に加わったものの、逆に旧・準急停車駅だった崇禅寺駅は通過となった。 淡路駅にてスタフの交換が行われていた。 === 臨時列車 === <!--梅田 - 河原町間において、[[急行列車|急行]]の一部を臨時特急列車「[[#いい古都エクスプレス|いい古都エクスプレス]]」に仕立てて運転している。この列車は2000年まで嵐山線直通で運転されていた「[[#嵯峨野エクスプレス|嵯峨野エクスプレス]]」が休止された代替のような形として運転が開始された。--> 本節の2019年9月までのトピックにおける梅田駅、河原町駅はそれぞれ現在の大阪梅田駅、京都河原町駅である。 ==== 嵐山線直通臨時列車 ==== {{Main|阪急嵐山線#臨時列車}} 例年、春・秋の行楽期には観光地の[[嵐山]]への行楽輸送のため京都線を経由して嵐山線に直通する臨時列車が設定されている。過去に運行されていた列車も含め、[[阪急嵐山線]]の項を参照。 ==== 臨時快速「いい古都エクスプレス」 ==== 2007年3月17日のダイヤ改正での定期運転種別再編に伴い、後述の「臨時特急」に代わって2007年11月より設定された臨時列車。春・秋の行楽時の限定の臨時列車ではあるが、「快速」の名称が復活するのは約6年半ぶりである。愛称は以前の臨時特急の「いい古都エクスプレス」が継承された。 上り・下りともに午前(9時台 - 11時台)・午後(15時台 - 上り16時台/下り17時台)合わせて片道10数本を運転。梅田駅 - 高槻市駅間は通常の準急の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]で走り、高槻市駅 - 河原町駅間を臨時設定ダイヤ(停車駅は定期の通勤特急および快速急行と同様)で走る。快速が設定された分だけ高槻市駅 - 河原町駅間の準急(各駅停車)が減るため、梅田駅 - 高槻市駅間の普通が高槻市駅以東にも延長運転される。 上り列車は通常の準急の場合高槻市で特急を待避するが、この快速は長岡天神駅での特急待避となる。下りは準急と同様に茨木市で特急を待避する。旧「いい古都エクスプレス」と異なり、高槻市でのスタフの交換は実施されなかった。 これまでは旧「いい古都エクスプレス」のように春季に運転された実績はない。2007年度・2008年度はともに[[11月]]後半の3連休のみの運転であったが、2009年度は11月後半の3連休とその翌週末2日間合わせて5日間と運転日が拡大された。 2010年3月14日のダイヤ改正で、ラッシュ時の定期種別として快速の運転が再開され、停車駅はこの臨時快速のものが踏襲された。その一方で、臨時快速の運転は前年度を以って事実上終了した。 ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 南方駅 - 淡路駅 - 上新庄駅 - 南茨木駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 長岡天神駅 - 桂駅 - 西院駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 ==== 臨時特急「いい古都エクスプレス」 ==== 前述の臨時快速の前身として、かつて京都本線にて行楽シーズンに運転されていた臨時列車である。 梅田駅 - 高槻市駅間は急行のダイヤで走り、高槻市駅 - 河原町駅間を臨時設定ダイヤで走る。通常の特急と同様に特急料金なしで利用することができる。2001年[[3月13日]]にそれまでの行楽期の臨時急行列車「嵯峨野エクスプレス」に代わる行楽期の臨時特急列車として新設されることが発表され、3月24日に春の「臨時特急」として運行を開始。また、同時に愛称の公募を行い、[[8月23日]]に愛称が「いい古都エクスプレス」に決定、[[11月11日]]から「いい古都エクスプレス」として運行を開始、臨時特急としては2007年3月17日のダイヤ改正まで運転されていた。通常の急行をそのまま格上げして運行していたため、7両編成での運用も多かった。 なお、臨時特急が設定された分だけ高槻市駅 - 河原町駅間の急行(各駅停車)が減るため、梅田駅 - 高槻市駅間の普通が高槻市駅 - 河原町駅(一部は桂駅)間で延長運転されていた。 通常、上り急行は高槻市駅で特急を待避するが、この列車は待避せずにそのまま逃げ切り河原町駅まで先着するダイヤであった。逆に下りは茨木市駅で特急に抜かれるため、(臨時)特急が(定期)特急を待避する珍しいケースが見られた。 新設当時は[[3月]]下旬 - [[5月]]上旬と[[9月]]下旬 - 11月下旬の土曜・休日といったように比較的多くの日で運転されていたが、年々運転日が減少し、運転最終年となった2006年は4・5月上旬と11月下旬のみで、合わせて年10日以下となっていた。 阪急では、かつて設定されていた宝塚線の臨時特急を除き、臨時列車については駅の発車案内板では「臨時」の表示は原則として行わない(列車の[[方向幕]]には「臨時○○」と表示する)が、この「いい古都エクスプレス」では乗客が混乱しないようにあえて駅の[[発車標]]でも「臨時特急」と表示していた。 上り・下りとも高槻市にてスタフの交換が行われていた。 ;停車駅 :梅田駅 - 十三駅 - 淡路駅 - 南茨木駅 - 茨木市駅 - 高槻市駅 - 大宮駅 - 烏丸駅 - 河原町駅 ==== 大晦日終夜運転 ==== [[1987年]]の大晦日以降、大晦日の[[終夜運転]]が阪急全線で実施されているが、他線が普通列車のみの運転である中、当線は快速(2000年大晦日までは急行、2010年大晦日までは快速急行)と普通の2本立てで運転されている。運転本数も京都河原町発1 - 2時台において、20 - 30分間隔となっており増発されている。2011年以降は全列車終点まで先着となっている。なお終夜運転実施前は、大晦日の[[終電]]繰り下げと元日の[[始発列車|始発]]繰り上げが行われていた。 このほか、1月1日始発から3日の間は土曜・休日ダイヤで運転されている。過去に15分間隔で運転していた時期はこの期間に特急・急行を増発した特別ダイヤを実施していた。 2020年の大晦日は終夜運転を行わず、当初は終電を2時まで延長するとしていたが(嵐山線・千里線も同様)<ref>{{Cite press release|和書|title=大晦日の臨時列車の運転 および 年末年始の運転ダイヤについて|publisher=阪急電鉄・能勢電鉄|date=2020-11-27|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/5e33189fe26aed12fa32bdc05e22d6070ce82add.pdf|format=PDF|accessdate=2021-01-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201214132139/https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/5e33189fe26aed12fa32bdc05e22d6070ce82add.pdf|archivedate=2020-12-14}}</ref>、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルスの感染拡大]]の影響から最終的に延長運転自体も取り止めた<ref>{{Cite press release|和書|title=大晦日の臨時列車の運転中止について|publisher=阪急電鉄・能勢電鉄|date=2021-01-06|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dcb3bcdc9475ce691d8086caf98d73bc1c725fbd.pdf|format=PDF|accessdate=2021-01-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201219190918/hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dcb3bcdc9475ce691d8086caf98d73bc1c725fbd.pdf|archivedate=2020-12-19}}</ref>。その後3年連続で(2020 - 2022)で終夜運転は中止されている。 ==== 大阪万博輸送列車 ==== {{Main|阪急千里線#大阪万博輸送列車}} [[1970年]]に[[千里丘陵]]で開催された[[日本万国博覧会]]の期間中は、観客輸送として千里線に直通し、会場最寄り駅であった[[万国博西口駅]]へ向けて臨時列車群が運行されていた。 ==== 歌劇特急 ==== {{See also|神京・京宝特急}} [[1950年]]から[[1968年]]まで京都駅(1963年からは河原町駅) - 宝塚駅間を神戸線・[[阪急今津線|今津線]]経由で直通する、通称「歌劇特急(かげき特急)」が運転されていた。 1950年[[3月21日]]に不定期直通特急列車として運転を開始。運転開始当初は[[西宮北口駅]]構内に神戸方向から今津線に直通する連絡線が存在しており、列車は一旦平面交差を通過してから折り返して今津線に入線していた。しかし、同駅の大改造による宝塚線経由での運転や三複線工事による運休などを経て、[[神戸高速鉄道]]開通に伴う神戸線のダイヤ改正を目前に控えた1968年[[2月25日]]に廃止された。なお、この列車に関しては特定の愛称はなく、[[1954年]]頃から通称として『[[宝塚歌劇団|歌劇]]特急』や『歌劇号』と呼ばれるようになった。 == ダイヤの変遷 == 京都本線及びその支線である千里線、嵐山線、相互直通運転を行うOsaka Metro堺筋線のダイヤ改正について述べる。神宝線については京都本線に関する内容のみ記載する。 === 1930年代 === ==== 1930年(昭和5年)10月1日改正 ==== 同年9月15日に新京阪鉄道が京阪電気鉄道に合併され、京阪電気鉄道の路線として初のダイヤ改正となった。 * 天神橋駅 - 京都西院駅間34分の'''直通特急'''を運行開始する。 ** 翌年3月31日に京阪京都駅まで1.4km延伸されても34分運転は維持された<ref name="pictorial201704-56">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=56}}</ref>。 ** 京阪京都駅までの延伸に伴い、中間駅となった京都西院駅は西院駅に改称した。 ==== 1934年(昭和9年)4月改正 ==== * 天神橋駅 - 京阪京都駅間に運行していた急行の一部を淡路駅で[[増解結]]し、十三線十三駅まで直通することで[[阪神急行電鉄]](阪急)との連絡を図る'''阪急連絡急行'''を運行開始する。 ** 阪急も梅田駅 - [[三宮駅#阪急電鉄 (神戸三宮駅)|阪急神戸駅]]間で[[西宮北口駅]]のみに停車していた[[神戸本線|神戸線]]特急を十三駅に停車し、京阪十三線との連絡を図った<ref name="pictorial201704-56"/>。 ==== 1938年(昭和13年)10月改正 ==== * 阪急連絡急行を廃止する<ref name="pictorial201704-56"/>。 === 1940年代 === ==== 1941年(昭和16年)10月改正 ==== * 阪急連絡急行を'''阪急連絡特急'''として復活する<ref name="pictorial201704-56"/>。 ==== 1944年(昭和19年)4月8日改正 ==== 前年10月1日に京阪電気鉄道(京阪)が阪神急行電鉄(阪急)と合併し、'''京阪神急行電鉄'''となった。既に十三駅の中間改札を廃止していたが、新京阪線から梅田への直通も開始することになる。 * 梅田発着で新京阪線に直通する京阪神京都駅への直通急行を運転開始。梅田駅発着と天神橋駅発着の各2両編成を淡路駅で[[増解結]]し、淡路駅 - 京阪神京都駅間は4両編成で運行した。 ** P-6の増解結機能を生かした列車であったが、のち天神橋駅発着が単行となったのち、梅田駅発着の単独運転となった。この直通急行は翌年6月の空襲で105-509の2両編成が淀川橋梁上で被災したのをきっかけに休止した<ref name="pictorial199812-178">{{Cite|和書|author=酒井福三|title=[[鉄道ピクトリアル]]1998年12月臨時増刊号「回想 戦後の阪急電車ー一乗客の昔ばなしー」|year=|pages=178}}</ref>。 ==== 1948年(昭和23年)8月11日改正 ==== * 十三駅 - 阪急京都駅(現[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]])間の急行を梅田駅まで延長した。梅田駅乗り入れは1945年6月に休止されていたが、この改正で復活。30分間隔での運行<ref name="pictorial199812-178"/>。 ==== 1949年(昭和24年)12月3日改正 ==== * 平日3往復、日曜祝日3.5往復で神戸本線の阪急神戸駅(のちの三宮駅、[[三宮駅#阪急電鉄(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]])-京都駅間で[[神京・京宝特急|神京特急]]の運転を開始した。途中停車駅は[[西宮北口駅]]、十三駅、高槻市駅、西院駅<ref name="pictorial201704-58">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=58}}</ref>。 * 春の観光シーズンを前にした1950年3月21日からは、日祝日に京都から西宮北口経由で宝塚に向かう不定期特急2往復の運転も開始した。停車駅は西院・高槻市・十三・西宮北口・宝塚南口の各駅と、競馬開催時の仁川駅、所要時間は京都行き72分、宝塚行き73分。 ** 西宮北口駅では、神戸線下りホームに入線して客扱い後、一旦神戸側に引き上げて上り線へ転線、当時存在した神戸方面と宝塚方面を結ぶ渡り線を通って今津線に入線した。 === 1950年代 === ==== 1950年(昭和25年)4月1日改正 ==== * この日のダイヤ改正から、3月13日に嵐山線の上桂駅、松尾駅に整備された交換設備の使用を開始する<ref name="pictorial201704-80">{{Cite|和書|author=湯川徹二|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急京都線をたどる」|year=|pages=80}}</ref>。 ==== 1950年(昭和25年)10月1日改正 ==== * 天神橋駅(現[[天神橋筋六丁目駅]]) - 阪急京都駅間で特急が復活した<ref name="pictorial201704-59">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=59}}</ref>。神京特急と異なり高槻市駅も通過し、ノンストップ運行で全区間の所要時間は36分。 ** 梅田駅 - 十三駅間の線路容量の関係上、特急は天神橋発着となった。 * 梅田駅 - 阪急京都駅間の急行の所要時間を48分に短縮。途中停車駅は十三駅、淡路駅、茨木市駅、高槻市駅、桂駅、西院駅。 ==== 1951年(昭和26年)4月1日改正 ==== * 神戸駅発着、宝塚駅発着の特急に加えて天神橋駅発着の特急も高槻市駅に停車を開始した。 * 日中は急行の運転間隔を30分から15分に短縮。 * この年の10月には電力不足から利用率の低い列車の減便を実施。神京特急の運行を取りやめた。 ==== 1952年(昭和27年)10月1日改正 ==== * 天神橋駅発着の特急の停車駅に西院駅を追加したが、特急の所要時間は36分を維持。 ==== 1953年(昭和28年)4月1日改正 ==== * 梅田駅 - 阪急京都駅間の急行の所要時間を48分から45分に短縮。 ==== 1953年(昭和28年)7月20日改正 ==== * 天神橋駅発着の特急の利用率が改善しなかったため、日中の特急運行を取りやめ。 ==== 1956年(昭和31年)4月16日改正 ==== 南方駅 - 崇禅寺駅間の旧東海道本線線路敷との分岐点にある曲線の緩和工事が完了したことを受け、特急の大阪側の発着駅を天神橋駅から梅田駅(現大阪梅田駅)に変更した。引き続き、京都発着の普通列車が天神橋駅を発着していたが、急行がすでに梅田駅発着であったため、当路線の実質的なターミナル駅は天神橋駅から梅田駅に移行することになった。 * 梅田駅 - 阪急京都駅間に特急を新設した<ref name="交通1956-0415">{{Cite news |和書|title=梅田-京都を38分で 京阪神急行 特急電車を運転 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1956-04-15 |page=2 }}</ref>。所要時間38分{{R|交通1956-0415}}、30分間隔での運行となった。 ** 後年の快速特急Aと同様、'''十三駅も通過'''する'''全区間ノンストップ'''だった{{R|交通1956-0415}}。 * 既存の天神橋発着の特急の運転は終了した<ref name="pictorial201704-59"/>。 ==== 1957年(昭和32年)10月1日改正 ==== * 夜間時間帯の特急増発。 * 深夜時間帯に十三駅 - 千里山駅間の普通を梅田駅まで延長。 ==== 1959年(昭和34年)2月18日改正 ==== 梅田駅 - 十三駅間の三複線化工事が完成した。ただし、中津駅にホームは設けられておらず、当路線は全列車通過となるとともに<!--これまでの複線時代、早朝・夜間に少数運行されていた梅田駅発着の普通が中津駅に停車していたかが気になっています。おそらく通過であると思われますが、出典が見つかりましたら追記をお願いいたします。-->、架線電圧は神戸本線・宝塚本線と同じ600 V([[ボルト (単位)|ボルト]])であった。 * 十三駅 - 千里山駅間の普通を梅田駅発着に延長<ref name="pictorial199812-179">{{Cite|和書|author=酒井福三|title=[[鉄道ピクトリアル]]1998年12月臨時増刊号「回想 戦後の阪急電車ー一乗客の昔ばなしー」|year=|pages=179}}</ref>。 * 特急を増発。 * 平日夕方の急行の一部が特急待避のため、長岡天神駅に停車。 * この時点では十三駅と梅田駅3号線に宝塚本線から新設された京都線用の複線に入る渡り線が設けられ、宝塚本線の急行・準急の一部もこの複線を使用していた<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211014123026/http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=9500&data_id=104280|url=http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=9500&data_id=104280|archivedate=2021-10-14|date=1959-02|accessdate=2021-10-14|title= ますます便利になる阪急電車|publisher=京阪神急行電鉄(公益財団法人阪急文化財団・阪急文化アーカイブズ)}}</ref>。 === 1960年代 === ==== 1961年(昭和36年)1月16日改正 ==== * 「特急」が十三駅に追加停車し、ノンストップ運転を解消した。これにより、神戸本線・宝塚本線との接続を改善している<ref name="pictorial201704-59"/>。 * 「通勤特急」を平日朝ラッシュ時に新設した。途中停車駅は十三駅と高槻市駅。 * 平日朝の急行の一部が長岡天神駅に停車。これにより、平日の朝夕ラッシュ時に急行が長岡天神駅に臨時停車することになった。 ==== 1963年(昭和38年)6月17日改正 ==== 大宮駅 - 河原町駅(現[[京都河原町駅]])間が延伸開業。 * 特急の途中停車駅は十三駅・大宮駅・烏丸駅となった。従来30分間隔であった特急を15分間隔へと増発した<ref name="pictorial201704-60">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=60}}</ref>。 ** 同年に大阪側が淀屋橋駅発着となった[[京阪特急]]では転換クロスシート車が導入されていたこともあり、翌1964年(昭和39年)からは当路線にも2扉転換クロスシート車が特急に導入された<ref name="pictorial201704-6061">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=60-61}}</ref>。 * 改正直後の8月29日に千里山線の延伸区間である千里山駅 - 新千里山駅間が開業し、新千里山駅が開業した。1号線にホームがなく、2号線と3号線による島式1面3線のホームだった<ref name="pictorial201704-93">{{Cite|和書|author=湯川徹二|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急京都線をたどる」|year=|pages=93}}</ref>。 ==== 1965年(昭和40年)7月22日改正 ==== * 梅田駅 - 河原町駅間の特急の所要時間を39分に3分短縮した。 * 急行、普通も一部で時間短縮した。 ==== 1967年(昭和42年)3月1日改正 ==== 千里線(旧・千里山線)の新千里山駅 - 北千里駅間開業による変更。 * 千里山線を'''千里線'''に、途中駅となった新千里山駅を南千里駅に、それぞれ改称した。 * 南千里駅は1号線に片面ホームを設置し、2面3線になった。ただし、3号線は定期列車では使われなくなる<ref name="pictorial201704-93"/>。 * 北千里駅に引上線はなかった<ref name="pictorial201704-94">{{Cite|和書|author=湯川徹二|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急京都線をたどる」|year=|pages=94}}</ref>。 ==== 1969年(昭和44年)12月6日改正 ==== 千里線と大阪市営地下鉄堺筋線(天神橋筋六丁目駅-動物園前駅間)との相互直通運転を開始したことによるダイヤ改正。 * 高架駅だった千里線の天神橋駅を廃止し、地下に天神橋筋六丁目駅を開業。同駅は大阪市交通局(当時)の管理となる。 * 東吹田検査場が京都本線の相川駅 - 正雀駅間に設けられたため、同区間の下り線に東吹田信号所を新設。 * 普通の運転系統を大幅に変更した。昼間の場合、改正前は梅田駅 - 北千里駅間、天神橋駅 - 北千里駅間、天神橋駅 - 河原町駅間、十三駅 - 茨木市駅間での運転から、改正後は梅田駅 - 北千里駅間、動物園前駅 - 北千里駅間、動物園前駅 - 高槻市駅間、十三駅 - 河原町駅間での運転に変更した。 ** 天神橋筋六丁目駅(改正前は天神橋駅)と上牧駅以遠の京都方面を結ぶ普通列車はいったん廃止される。 ** これにより、茨木市駅 - 高槻市駅間の普通列車は毎時4往復から毎時8往復に増発された。 * 開通直後に撤去されていた相川駅の待避線のうち、大阪方面の待避線が復活する。同駅は下りのみ待避可能な2面3線となった<ref name="pictorial201704-94"/>。 * ダイヤ改正に先立つ11月30日には梅田駅(旧駅)の宝塚線ホームを新駅に移転、移転前の宝塚線ホーム4号線を転用し、京都線の梅田駅(旧駅)ホームを一時的に2線から3線に増設。翌年に開かれる大阪万博への輸送に対応するため。 === 1970年代 === ==== 1970年(昭和45年)大阪万博開催中の臨時ダイヤ ==== 3月から約半年間、千里線沿線の千里丘陵一帯で[[日本万国博覧会]](大阪万博)が実施された。阪急グループの[[北大阪急行電鉄|北大阪急行]]のほか、千里線に万国博西口駅を仮設して千里線・京都本線でも観客輸送を実施した。[[3月8日]]には南茨木駅が常設駅として京都本線に開設されている。 * 梅田駅・動物園前駅 - 北千里駅間に「エキスポ準急」、高速神戸駅・宝塚駅(宝塚本線経由) - 万国博西口駅間に「エキスポ直通」を運行した<ref name="pictorial201704-75">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=75}}</ref>。詳細は「[[阪急千里線#臨時列車]]」や「[[大阪万博の交通]]」を参照。 ** これら臨時列車の運行などに対応するため、北千里駅の北側に引上線を新設した<ref name="pictorial201704-94"/>。 * 日中の特急を平日は淡路駅、休日は茨木市駅に臨時停車した。 * 千里線のほか、南茨木駅、茨木市駅から会場へのバスと連絡した。 * 閉幕後、梅田駅の京都線ホームは再度2線に縮小した。翌1971年(昭和46年)には当路線の乗り場は高架ホームに移転し、2・3号線が設置された。 ==== 1971年(昭和46年)11月28日改正 ==== 京都線の梅田駅ホームを旧駅から新駅に移転、ただし旧駅同様2線のみの移転で、1号線の工事は継続された<ref name="pictorial201704-76">{{Cite|和書|author=湯川徹二|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急京都線をたどる」|year=|pages=76}}</ref>。これにより営業キロが短縮された。折りしも、ライバルである国鉄(当時)は1970年10月1日ダイヤ改正で昼間1時間間隔ながら「新快速」の運転を開始、京阪も1971年8月15日白紙ダイヤ改正で新型特急車である初代3000系投入、特急15分間隔への増発が行われており、阪急も特急の所要時間短縮、2800系の冷房化・8両編成化で対抗することとなった。 * 昼間の特急の所要時間を39分から38分に短縮した。これが京都線特急の最速記録となる。 * 100系(P-6)の急行運用終了、営業キロ短縮により、急行もスピードアップされた。 ==== 1973年(昭和48年)11月23日改正 ==== 梅田駅移転工事が完成し、1号線が設置された。神戸本線・宝塚本線同様、当路線の梅田駅ホームが3線となる。 * 京都本線の河原町駅などを発着する普通列車が延長運転され、千里線直通普通と同様に梅田駅発着となる。 ** 十三駅7号線で折り返す十三駅発着の普通がごく少数のみとなる<ref name="pictorial201704-76"/>。一部の定期列車のほか、学生の帰宅時間向けに平日午後や土曜正午前後に運転されていた茨木市駅・淡路駅などを発着とする不定期の普通が運行されていた。 * 千里線に山田駅が開業した<ref name="pictorial201704-93"/>。 ==== 1976年(昭和51年)9月23日改正 ==== * 十三駅発着の普通列車が完全に廃止された。廃止直後に十三駅7号線が撤去されている<ref name="pictorial201704-76"/>。 * 相川駅に京都方面の待避線(1号線)が復活。開業当初と同じ、上下線とも待避可能な2面4線の待避駅に戻る<ref name="pictorial201704-80"/>。 ==== 1979年(昭和54年)3月4日改正 ==== 堺筋線への直通運転を大幅に増強した。 * 平日朝夕を除く「急行」が長岡天神駅を通過していたが、すべての「急行」が長岡天神駅に停車するようになった<ref name="pictorial201704-87">{{Cite|和書|author=湯川徹二|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急京都線をたどる」|year=|pages=87}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|これ以降、京都本線やその支線では所定ダイヤにおいて時間帯ごとに停車駅を変える特別停車・特別通過は行っていない。ただし、宝塚本線では[[1986年]](昭和61年)に[[豊中駅]]が急行停車駅に昇格してから[[1997年]](平成5年)[[11月16日]]までは10両編成で運転される列車を主として平日ラッシュ時の急行が同駅を特別通過していた。}}。 * 堺筋線直通列車が開業当初の5両編成から6両編成に増強された。 * 大阪市営地下鉄堺筋線直通の「堺筋急行」が設定された。平日朝の動物園前行き、夕方の河原町行きが約30分間隔。運行を開始したのは平日である3月5日から。 ** 堺筋線では改正以前は5両編成が、改正後も他の列車は6両編成で運行されていたが、堺筋急行は梅田駅発着の急行と同じく全列車8両編成での運転となる。 * このダイヤ改正時に確立した朝夕のダイヤパターンは2007年(平成19年)3月のダイヤ改正まで基本的に引き継がれている<ref name="pictorial201704-29">{{Cite|和書|author=阪急電鉄株式会社 都市交通事業本部運輸部|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急電鉄京都線の列車種別とダイヤ」|year=|pages=29}}</ref>。 === 1980年代 === ==== 1982年(昭和57年)11月27日改正 ==== * 平日朝の通勤時間帯に茨木市駅発梅田駅行き「準急」を3本新設した。停車駅は淡路駅 - 梅田駅間の各駅{{Refnest|group="注釈"|当路線のホームのない中津駅には停車しない}}。 * 茨木市駅、高槻市駅の高架化工事の進展による徐行運転の影響で、特急をスピードダウンした。 ** 昼間の梅田駅 - 河原町駅間は38分から42分に4分伸びた。 * 仮線用地の確保などを行うため、高槻市駅の上り副本線の使用を中止した。代替として富田駅に設置した上り通過線・待避線の使用を開始している。 * 通勤特急を増発。 * 改正前の8月20日からは河原町駅の2号線を5両編成対応から7両編成対応に延伸した。 ==== 1985年(昭和60年)11月18日改正 ==== * 朝ラッシュ時「急行」の10両連結運転が開始される。当時は上下とも2列車が設定された。 ** 1982年3月29日からは宝塚本線「急行」、同じ1985年の11月18日に神戸本線「特急」でも同時に10両編成での運転が開始された。 ==== 1986年(昭和61年)12月14日改正 ==== * 所要時間の短縮など。 ==== 1989年(平成元年)12月16日改正 ==== 1987年4月に発足した[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]は1988年3月に[[東海道本線]]の当路線と並行する区間に[[JR京都線]]の愛称を設定し、1989年3月からは新快速・快速に[[JR西日本221系電車|221系]]を導入した。また、京阪も[[京阪鴨東線|鴨東線]]を10月5日に開業し、特急に[[京阪8000系電車|8000系]]、通勤車として[[京阪7000系電車|7000系]]を導入している。阪急では通勤車として[[阪急8300系電車|8300系]]が導入されたものの、特急向けの新車導入は行われなかった。しかし、平日日中のみ茨木市駅や高槻市駅など途中駅からの利用に対応しやすいダイヤに変更することでJR西日本や京阪への対抗策とした。ただし、休日のダイヤはほぼ従前どおりのままで維持された。 * 平日に限り、昼間時間帯の運転間隔を15分サイクル(特急・急行各1本、普通2本)から20分サイクル(特急1本、急行2本。普通は梅田発着が2本、千里線・堺筋線直通が各1本)に変更<ref name="pictorial201704-65">{{Cite|和書|author=篠原丞|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「創業期から現在まで 京都線 車両・運転のエピソード」|year=|pages=65}}</ref>。 * 毎時4往復だった平日昼間の特急と千里線普通を3往復(20分間隔)に減便、急行と本線普通を6往復(約10分間隔の不等間隔{{Refnest|group="注釈"|20分間隔で運行される特急の待避の有無によって所要時間が1 - 2分程度前後するため}})へ増発した。 * 普通の8両運転を開始。 === 1990年代 === ==== 1991年(平成3年)12月22日改正 ==== * 平日深夜時間帯に増発を行った。 ==== 1993年(平成5年)2月21日改正 ==== 大阪市営地下鉄堺筋線天下茶屋延伸にあわせたダイヤ改正。 * 堺筋急行を含む堺筋線直通系統の全列車の運転区間を天下茶屋駅まで延長した。なお、開業前日の3月3日までは動物園前駅 - 天下茶屋駅間は回送扱いだった。 * 堺筋急行はすでに8両編成で運行していたが、堺筋線直通の普通列車も6両編成から8両編成へ順次増強した。 * 高槻市駅・茨木市駅の高架化完成に伴い、特急・急行の所要時間を短縮した。上り特急の所要時間は39分と再び40分を切っている。 * 土曜ダイヤを導入した。 ==== 1997年(平成9年)3月2日改正 ==== 京阪間ノンストップ特急が消滅した。 * すべての「特急」が高槻市駅に停車するようになり、改正前の「通勤特急」と同じ停車駅となった。これに伴い、「通勤特急」は一旦消滅した。 * 梅田駅20時00分発以降の特急は30分間隔で運転していたが、20時台は15分間隔に増発した。 * 平日朝ピーク時に普通茨木市発天下茶屋行きを1本新設し、ピーク1時間あたりの最混雑区間(上新庄駅→淡路駅間)の運転本数が25本から26本に増加。 * 平日日中に「快速」を新設。停車駅は当時の急行停車駅と高槻市駅から河原町駅間の各駅(十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅から各駅)。梅田駅 - 長岡天神駅間で先着するため、この区間の先着列車が毎時9往復となった。 ** これに伴い、同時間帯は梅田駅 - 河原町駅間の普通を20分サイクルに2本から1本に半減した。なお、快速河原町行きは河原町駅からは普通、普通河原町行きは河原町駅からは快速として折り返した。 * 「(旧)快速急行」が平日の特急が運転されない時間帯に設定された。停車駅は、当時の特急の停車駅に桂駅を加えた十三駅・高槻市駅・桂駅・大宮駅・烏丸駅であった。 ** これまでの特急の7時44分梅田始発より早い朝の7時12分発と、梅田駅21時30分発から23時00分発まで4本(30分間隔)の5本。桂で普通と接続するため、桂駅に加えて梅田方面から西京極・西院の通過駅へも所要時間が短縮した。 * 堺筋線では土曜・休日ダイヤが実施された。京都本線・千里線・嵐山線でも土曜ダイヤを変更し、朝の通勤時間帯以外はベースを平日ダイヤから日曜・祝日ダイヤに変更した。 ** 土曜日の特急は15分間隔に増発、急行は15分間隔に減便されて1989年以前と似たダイヤに戻った。快速は設定されず、朝の準急が高槻市発となり、普通正雀行きも設定された。 === 2000年代 === ==== 2001年(平成13年)3月24日改正 ==== 日中のダイヤについて'''白紙改正'''を実施。土休日も含めて日中は20分サイクル(特急・急行は10分間隔)での運行に統一される<ref name="pictorial201704-29"/>。 * 「特急」の停車駅に茨木市駅・長岡天神駅・桂駅が追加され、大宮駅が外された<ref name="RJ415_67">[[#RJ415|『鉄道ジャーナル』通巻415号、p.67]]</ref>。日中のみ10分間隔での運行となった。 * 平日朝には、「特急」の代わりに「通勤特急」が1997年までと同じ停車駅(十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅)で再び設定され、15分間隔で運転された。 * 「快速特急」が、土曜・休日の朝(平日にも一部運転)および全日の夕方・夜間の時間帯に設定された。(旧)「快速急行」を改称したもので、停車駅は十三駅・高槻市駅・桂駅・大宮駅・烏丸駅で、(旧)「快速急行」と同じであり、「通勤特急」の停車駅に桂駅を加えたものである<ref name="RJ415_68" />。2002年から平日は大阪寄り5両目が女性専用車両となった。 * 従来の「急行」は'''「(新)快速急行」'''に改称した。夕方時間帯の河原町行き堺筋急行は引き続き、高槻市駅からも通過運転するため「堺筋快速急行」に変更。 * 「快速」の停車駅に南茨木駅を加え、新たな「急行」を運転開始。日中は梅田駅発着で上りは高槻市駅と桂駅、下りは桂駅と茨木市駅で特急と緩急接続した。平日朝には堺筋線直通の河原町駅・高槻市駅発天下茶屋行きを運行し、堺筋線内の各駅に停車している。 * 日中の普通は上りが淡路駅で特急、相川駅で急行、茨木市駅で特急を待避し、下りが相川駅で特急と急行の2重待避を行った。 * 河原町駅2号線を除く全駅のホーム有効長が8両または10両対応となり、6両編成での運用が一旦消滅。 * 行楽期には従来の「嵯峨野エクスプレス」を廃止し、「急行」の高槻市以東を大宮駅、烏丸駅に停車する形で臨時特急「いい古都エクスプレス」を運転開始した。 ==== 2007年(平成19年)3月17日改正 ==== 朝夕ラッシュ時のダイヤについても'''白紙改正'''を実施し、15分サイクルでの従来のダイヤから変更された<ref name="pictorial201704-29"/>。 * 「特急」の停車駅に淡路駅が追加された。京都方面から千里線や堺筋線への利便性が向上した一方、2001年以前の急行(現在の快速急行)と比べ大宮駅・西院駅に停車しないだけで大差のない停車駅になった。 * 「快速特急」が休止となり、実質的には長岡天神駅・西院駅を停車駅に加え「通勤特急」に統合された<ref name="pictorial201704-29"/>。 ** 「通勤特急」同士で比較すると改正前に比べて3駅停車駅が増加したが、平日朝梅田行きは列車本数の削減によって所要時間が1分短縮した。同時間帯の快速急行は9分短縮している<ref name="pictorial201704-29"/>。 * 「急行」は南方駅・上新庄駅に停車する「準急」に変更された。堺筋急行・堺筋快速急行も堺筋準急に変更されている<ref name="pictorial201704-29"/>。 ** 日中は上下とも「急行」と異なり相川駅での普通の追い越しをやめ、上りは茨木市駅、下りは正雀駅で普通を追い越すようになった。 * 平日夕方に新設された梅田発の準急は淡路駅で通勤特急の通過待ちを行い、長岡天神駅で快速急行と緩急接続した。 * 平日夕方の堺筋準急は茨木市行きであったが、淡路駅で先に発車する快速急行河原町行きに接続した。 ** このため、淡路駅から京都方面への先着列車は快速急行の毎時3本のみと日中より少なくなり、同駅から先の混雑が激しくなった。 === 2010年代 === ==== 2010年(平成22年)3月14日改正 ==== 摂津市駅の開業とATS装置の更新完了によるダイヤ改正<ref name="hhhd200912092">{{PDFlink|[https://www.hankyu.co.jp/company/news/pdf/ER200912092N1.pdf 京都線のダイヤ改正について]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2009年12月9日)</ref>。茨木市駅が全定期列車の停車駅となった{{Refnest|group="注釈"|次の2011年(平成23年)5月14日改正で快速特急の通過駅となるが、その後も同種別が運行されていない平日ダイヤにおいては全列車が停車している。}}。 * 「通勤特急」「特急」の最高速度を115 km/hに引き上げた。特急の所要時間が短縮した。 * 2扉の6300系が全廃されて輸送力が向上したため、「通勤特急」の停車駅に茨木市駅が追加された<ref name="pictorial201704-29"/>。 * 茨木市駅発河原町行き「快速急行」は梅田駅始発となり、この快速急行に接続していた準急茨木市行きは廃止された。 * 「快速」を定期列車として新設した。早朝の梅田行きと夕方18 - 20時台の河原町行き7列車。 ** 定期ダイヤのほか、祇園祭や天神祭、大晦日から元日にかけての終夜運転でも運行されるようになった一方、春と秋の行楽シーズンの設定は取りやめられている。 * 1982年 - 2001年改正と2007年改正から今改正までの間運行されていた茨木市駅発梅田行きの準急は普通に変更された。 * 茨木市駅行きだった夕方の「堺筋準急」を高槻市駅へ延伸し、淡路駅での快速急行との接続を取りやめた。高槻市駅で後続の通勤特急へ接続するようになった。 * 「快速特急」が春と秋の行楽時の嵐山線直通臨時列車の種別として復活し、高速神戸・宝塚(今津線経由)発着の嵐山線直通臨時列車として「直通特急」が新設された。 * なお、このダイヤ改正のプレスリリース内では土休日昼間における堺筋線と京都本線の接続改善、直通運転の実施などを目的としたダイヤの見直しを検討している旨が書かれており<ref name="hhhd200912092"/>、事実上次回のダイヤ改正が予告されていた。 ==== 2011年(平成23年)5月14日改正 ==== 土休日ダイヤのみ改正。 * 観光客向け「快速特急」が定期列車として「京とれいん」で梅田駅 - 河原町駅間に1日4往復設定された<ref name="pictorial201704-30">{{Cite|和書|author=阪急電鉄株式会社 都市交通事業本部運輸部|title=[[鉄道ピクトリアル]]2017年4月号「阪急電鉄京都線の列車種別とダイヤ」|year=|pages=30}}</ref>。 ** 茨木市駅、高槻市駅、長岡天神駅を通過する定期列車が復活した。 * 日中の準急の半数が天下茶屋発着の堺筋準急となる<ref name="pictorial201704-30"/>。これに合わせて堺筋線内の折り返し列車が廃止されており、梅田駅 - 淡路駅間と堺筋線内の運転本数が毎時3本ずつ減らされている(それぞれ毎時18往復から15往復、12往復から9往復)。 * 堺筋準急とは別に天下茶屋駅から京都河原町行きの普通も朝1本のみ設定された。 * 改正前から運行されていた嵐山線直通臨時列車に天下茶屋発着の直通特急を新設し、梅田発着は1往復に削減した。 ==== 2013年(平成25年)12月21日改正 ==== 西山天王山駅開業に伴うダイヤ改正<ref name="hhhd20130920" />。 * 朝ラッシュ時間帯(7時台)の北千里発 天下茶屋ゆき「普通」1本を、北千里発 梅田ゆき「普通」に変更。 * 夕ラッシュ時間帯の「(堺筋)準急」高槻市行きを河原町駅まで延長運転。大阪市内中心部から、上牧以遠への利便性向上と混雑平準化を図った。また、淡路駅では梅田発北千里行き「普通」と接続し、梅田・十三方面から茨木市・高槻市方面への有効本数が1時間あたり3本増加。 ** 堺筋準急はすべて河原町発着となったが、この時点では梅田発の準急高槻市行きが存続した。 * 夕方時間帯の上り通勤特急・快速急行・快速と準急・普通の接続駅を茨木市駅・高槻市駅・長岡天神駅に統一。快速急行の所要時間が短縮した。 * 23時30分河原町発の「普通」梅田行き最終列車を5分繰り上げて23時25分発に変更。淡路駅で天神橋筋六丁目ゆき「普通」に、また 、十三駅では神戸線・西宮北口行きと宝塚線・雲雀丘花屋敷行き「普通」の最終列車に接続した。 * 河原町23時30分発「快速急行」高槻市行きを運行し、長岡天神駅で上記の普通梅田行きと接続させた。 * 地下鉄堺筋線では大阪市交通局として最後のダイヤ改正が行われ、最終列車の時間を延長した。23時25分・23時42分 北千里発「普通」天神橋筋六丁目行きは天下茶屋行き、24時14分天神橋筋六丁目発淡路行きと24時32分発正雀行きは天下茶屋発に変更した。これに伴い、天神橋筋六丁目発着の千里線列車は早朝の淡路発、北千里行きと夜間の北千里発の下り2本、上り1本に減少した。 * 土休日夜間と平日にも天下茶屋発京都河原町行きの普通が設定された。平日は夕方1本のみの運転で、堺筋線内を4分後に走行する堺筋準急(上り1本目)を茨木市駅で待避した。 ==== 2019年(平成31年)1月19日改正 ==== 淡路駅付近での混雑緩和、利便性向上がメインのダイヤ改正を実施した<ref name="hhhd20181207">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/6466.pdf 2019年1月19日初発より阪急京都線のダイヤ改正を実施します]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2018年12月7日)</ref>。Osaka Metroは民営化後では初となるダイヤ改正となった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://subway.osakametro.co.jp/news/news/20181207_r6_dia_kaisei.php|title=堺筋線のダイヤ改正を行います|publisher=Osaka Metro|date=2018-12-07|accessdate=2018-12-07|language=ja}}</ref>。 * 平日朝に淡路駅7時台の快速急行は上りが5本から8本に増発された。うち1本は増発し、2本は通勤特急が淡路に追加停車して快速急行に変更されている。 * 上新庄・相川・正雀で下車する学生の利用が集中する淡路駅朝8時台に天下茶屋発「普通」正雀行きを1本増発。 * 淡路からの北千里行きも学生の利用が集中する朝8時台・10時台に1本ずつ増発し、9時台は1本削減した。 ** この前後の梅田発・天下茶屋発の普通の行き先を変更し、平日朝に2本、堺筋線からの普通京都河原町行きが設定された。いっぽう、改正前の平日夕方にあった同区間の普通1本は茨木市止まりとなった。 * 下り梅田行き「快速急行」「準急」を1本ずつ増発した。 * 上下とも朝ラッシュ時の桂駅での緩急接続を廃止。 * 平日日中のダイヤパターンを変更し、準急は上下とも高槻市駅と桂駅で特急と緩急接続を実施。その時間帯の普通は上りは相川駅・茨木市駅は特急と準急、下りは茨木市駅で特急と準急、相川駅で特急を待避。 * 17時台から21時台の通勤特急梅田行きを茨木市駅で「準急」梅田ゆきと接続させ、河原町方面から淡路駅における千里線・地下鉄堺筋線への乗り継ぎ利便性を向上させた。それ以降の通勤特急はすべて快速急行に変更。 * 平日のみ梅田駅8時20分発と20時22分発の普通茨木市行きが設定される。 * 平日夕方(淡路駅18-20時台)の堺筋線からの普通高槻市行き4本が茨木市止まりとなり、総持寺駅・富田駅への停車本数が毎時9往復から日中と同じ毎時6往復に削減された。 * 土休日の快速特急を3往復増発し、「京とれいん」を使用する十三駅通過の「快速特急A」を新設した。 * 快速特急4往復に3月23日から「京とれいん 雅洛」を投入した。 * 近年の外国人旅行客増加に伴い、土曜休日ダイヤの天下茶屋発河原町行き列車を22本から29本(普通含む)に増便した。これに伴い、堺筋準急が増発され、夕方の梅田駅発着の準急が減便された。休日夜間にも新たに河原町発の普通天下茶屋行きが新設されている。 * 土曜休日ダイヤの昼間時間帯(10時 - 18時)は天下茶屋駅の1番線を降車専用ホーム、2・3番線を乗車専用ホームにして乗降分離による混雑緩和を図った。 === 2020年代 === ==== 2021年(令和3年)3月13日改正 ==== 阪急全線における終電の繰り上げが実施され、当路線でも大阪梅田駅・京都河原町駅発の終電の一部を繰り上げた。 * 大阪梅田駅から十三駅 - 正雀駅間の終電は0時10分発普通高槻市行きになった。 * 京都河原町駅から相川駅‐大阪梅田駅間の最終は23時15分発快速急行大阪梅田行き(高槻市駅で普通大阪梅田行き最終に連絡)、京都河原町駅から桂までの各駅の終電は0時15分発普通桂行きとなる。 ** それまでの最終列車は旅客扱いを行わない回送列車に変更。ただし、千里線・堺筋線からの直通列車は変更なく、上記の大阪梅田発高槻市行きより後の運転となる。 ==== 2022年(令和4年)12月17日改正 ==== 2022年12月17日ダイヤ改正では、以下のように変更<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=阪急が12月にダイヤ改正、2024年には座席指定サービス開始へ |url=https://www.tetsudo.com/news/2759/ |website=鉄道コム |date=2022-10-12 |access-date=2022-10-12 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)初発より 阪急全線(神戸線・宝塚線・京都線)でダイヤ改正を実施 〜2024年に京都線で座席指定サービスを開始します〜|publisher=阪急電鉄|date=2022-10-12|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。 * 10両編成で運転されていた列車を全て8両編成に変更。 * 女性専用車両を設定する列車を神宝線に合わせて通勤特急に統一(日中の特急での設定は終了)。 * 快速急行を準特急に改称し、平日朝・夕時間帯の運転本数を増やす(通勤特急は朝時間帯のみ運転)。淡路駅に停車する列車を増やすことで、千里線・堺筋線の利用客の利便性を向上させる。 * 快速の停車駅に西京極駅を追加し、急行に改称。運行時間帯は平日・土休日の早朝・深夜。 * 21時・22時台の運転間隔を10分から12分に変更する。 * 深夜時間帯の運転見直し。終電の繰り上げ。 * 快速特急A「京とれいん」の運転を取りやめ。1日4往復の快速特急のみの運行に変更。 == 使用車両 == 元々[[京阪電気鉄道]]が設立した子会社の[[新京阪鉄道]]によって開業した路線であること(「[[#歴史|歴史節]]」を参照)や、京都本線・千里線が堺筋線と直通運転を行うことから、京都線系統の路線で用いられる車両は、阪急の前身である[[箕面有馬電気軌道]](箕軌)および[[阪神急行電鉄]]によって開業した神戸線・宝塚線系統([[神宝線]])で用いられる車両との仕様の違いが見られてきた。現在でも[[鉄道車両#寸法と重量|車両規格]]や電装品の製造会社(神宝線は[[東芝]]〈現在は[[東芝インフラシステムズ]]〉、京都線は[[東洋電機製造]])、車両番号(神宝線の車両と区別するために、京都線向けに製造される車両の形式名は基本的に「○300系」となり、番号の百の位には3,4,8,9の数字のみが使われる)などに差違が見られる。詳しくは「[[神宝線]]」の項目を参照のこと。 ただし、「[[京とれいん|京とれいん 雅洛]]」は神宝線車両の7000系を改造したものであるため電装品は東芝製であり、9300系が[[接地]][[開閉器]]、[[継電器]]箱、[[エア・コンディショナー|クーラー]]に東芝インフラシステムズ以外の製品を採用しているほかは、それらの装置や[[列車無線]]、デジタル式[[速度計]]、蓄電池などは神宝線とそろえて東芝インフラシステムズ製としている。 営業運転では8両編成が基本であるが、京都河原町駅2号線ホーム、桂車庫・正雀車庫における収容能力の限界(8両編成の留置線が不足)<ref name="tweet191113" />により、7両編成、6両編成もある。 編成の向きは、3複線区間となる大阪梅田駅 - 十三駅間を基準に「前パンタグラフの先頭車は大阪梅田寄り」となっているため、京都本線に限っては前パンタグラフの車両は「下り方面の先頭」となる。 Osaka Metro(および前身の大阪市営地下鉄)の車両は当路線の[[正雀駅]]そばにある車両基地[[東吹田検車場]]に配置されている。 京都本線で使用される車両は以下のとおり。各種別ごとの編成・使用車両については、「[[#運行形態|運行形態]]」章の各種別の節を参照。 === 現用車両 === ==== 自社車両 ==== * [[阪急3300系電車|3300系]] * [[阪急5300系電車|5300系]] * [[阪急7000系電車|7000系]]([[京とれいん|京とれいん 雅洛]]) * [[阪急7300系電車|7300系]] * [[阪急8300系電車|8300系]] * [[阪急9300系電車|9300系]] * [[阪急1300系電車 (2代)|1300系]](2代) <!-- ラッピング車両についてはここではなく車両の記事に記述してください。--> <gallery> ファイル:阪急電鉄3300系.jpg|3300系 ファイル:阪急電鉄5300系.jpg|5300系 ファイル:阪急電鉄7300系.jpg|7300系 ファイル:阪急電鉄8300系.jpg|8300系 ファイル:Hankyu-Series9300-Kyoto-Line.jpg|9300系 ファイル:Hankyu 1300 series (II) 2019-11-18 (50094717497).jpg|1300系(2代) ファイル:京とれいん雅洛.jpg|7000系(京とれいん 雅洛) </gallery> ==== 乗り入れ車両 ==== ; 大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) :* [[大阪市交通局66系電車|66系]] - 定期列車では淡路駅 - 高槻市駅間のみで運用され、高槻市駅 - 京都河原町駅・嵐山駅間では運用されない。臨時列車では桂駅や嵐山駅までの運用実績がある。 <gallery> ファイル:Osaka Subway 66603 at Ibaraki-shi Station.JPG|Osaka Metro66系 </gallery> === 過去の車両 === ==== 自社車両 ==== * [[阪急2000系電車|2000系]](5300系投入まで暫定的に所属) * [[阪急2300系電車|2300系]] * [[阪急2800系電車|2800系]] * [[阪急5100系電車|5100系]](5300系投入まで暫定的に所属) * [[阪急6300系電車|6300系]] * [[阪急1300系電車 (初代)|1300系]](初代) * [[阪急1600系電車|1600系]] * [[阪急710系電車|710系]] * [[阪急210系電車|210系]] * [[阪急700系電車|700系]] * [[阪急200形電車|200形]] * [[新京阪鉄道P-6形電車|100形 (P-6)]] * [[新京阪鉄道P-4形電車|10形 (P-4・P-5)]] * [[北大阪電気鉄道1形電車|1形 (P-1)]] <gallery> ファイル:P-6.JPG|100形(P-6) ファイル:Hankyu 1300 cool.jpg|1300系(初代) ファイル:Hankyu1600Series.jpg|1600系 ファイル:Hankyu2000Series2.jpg|2000系 ファイル:Hankyu 2315F.jpg|2300系 ファイル:Hankyu 2851 March 1976.jpg|2800系 ファイル:Hankyu 5100 series Takarazuka Line express at Hibarigaoka Hanayashiki Station.jpg|5100系<br>画像の宝塚線5100Fは落成当初、京都線で運用されていた。 ファイル:阪急_6350_(4378192997).jpg|6300系 </gallery> ==== 乗り入れ車両 ==== ; 大阪市交通局 :* [[大阪市交通局60系電車|60系]] - 淡路駅 - 高槻市駅間で運用された。2003年11月7日に運用終了。 <gallery> ファイル:20000728大阪市交通局60系.jpg|大阪市交通局60系 </gallery> == 歴史 == 京都本線は、[[大正]]、[[昭和]]期にかけてに大阪 - 京都間を高速で結ぶ新線として、当時の'''[[京阪電気鉄道]]'''が設立した子会社の'''[[新京阪鉄道]]'''によって建設され、開業した。 === 建設の経緯 === 京阪電気鉄道は、大阪 - 京都間に現在[[京阪本線]]となっている路線を[[1910年]](明治43年)に開業していたが、これは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[インターアーバン]]に準ずる[[路面電車]]を発展させた形の都市間電車で、併用軌道で街道筋の市街地を縫うように敷設されたため、曲線が多く、高速運転には向いていなかった。京阪本線の改良および輸送力向上工事と比較し、{{要出典範囲|遥かに迅速かつ安価で効果的であるとの判断から、淀川西岸への進出とそれによる自社線との相乗効果を狙った|date=2019年11月}}出願を行った。 === 新京阪鉄道による建設・開業 === 当初は京阪本線森小路駅(現在の[[千林駅]]に相当)から支線を分岐させて、新京阪線[[上新庄駅]]予定地から南へ延長した路線に赤川で合流させ、城東線(後の[[大阪環状線]])[[桜ノ宮駅]]・[[天満駅]]を経由して[[梅田]]まで延伸し、同地に総合[[ターミナル駅]]を作ろうという構想<ref group="注釈">天神橋駅開業後に京阪本線は[[野江駅]]分岐、新京阪線は天神橋駅からの延伸に計画変更し、1932年(昭和7年)に断念。1942年(昭和17年)に免許失効。[[京阪梅田線]]も参照。</ref>を打ち出したが、城東線の高架化が[[関東大震災]]復興工事優先投資の方針から遅れることになったため、梅田延伸に関して高架化に伴う跡地の利用を考えていた京阪では、この新線は当面は実現不可能と考えて、代替地を探すことにした。 ちょうど新京阪線の計画が立った頃の[[1921年]](大正10年)に、[[十三駅]]から[[千里山駅]]までを結ぶ'''[[北大阪電気鉄道]]'''(現在は淡路駅を境に、西は京都線、北は千里線)という私鉄路線が開業していた<ref group="注釈">淡路 - 天六間は建設費の観点から未開業。淡路 - 十三間を建設し、大阪市との連絡を図った。</ref>。京阪ではこの会社を買収して同社が持っていた淡路 - 天神橋([[天六]])間の免許を利用することを考えた。同社の鉄道事業は[[1923年]](大正12年)に新京阪へ譲渡された<ref group="注釈">土地経営事業は残り、京阪土地へ社名変更した。京阪土地は1928年(昭和3年)に、京阪電気鉄道に合併。</ref>。 [[1925年]](大正14年)に天神橋駅(現在の[[天神橋筋六丁目駅]]) - 淡路駅間が開業した。その後、京都側は地下線で開業させる予定であったが、[[昭和天皇]]の[[即位の礼|即位大典]]に間に合わせるため、急遽西院に仮駅を設けることにし、[[1928年]](昭和3年)に天神橋駅 - 京都西院駅(現在の[[西院駅]])間の全線が開業した。 === 京阪電気鉄道への合併 === [[1930年]](昭和5年)、{{要出典範囲|大宮駅までの地下線による延伸の目途が立ったことから|date=2019年11月}}、新京阪鉄道は京阪電気鉄道に合併されて同社の'''新京阪線'''となった。大宮駅までの延伸は[[1931年]](昭和6年)に完成したが、これは[[大阪市営地下鉄]](現在のOsaka Metro)開業の[[1933年]](昭和8年)よりも早く、関西では初の地下鉄道路線でもあった。 なお、新京阪鉄道は西向日町駅(現在の西向日駅)から分岐して伏見・山科に至る路線と[[京阪宇治線]]の六地蔵駅付近から[[滋賀県]][[大津市]]の馬場に至る路線、大宮駅からさらに[[京都市]]の地下を貫通する路線の免許も得ていた。このうち大宮駅からの地下貫通路線の免許は戦後に河原町駅へ阪急によって路線延長がなされる際に活用された。さらに京阪では、その大津市馬場から[[鈴鹿山脈]]を越えて[[名古屋市|名古屋]]に至る[[名古屋急行電鉄]]の建設計画も持っていたが、恐慌のため資金調達が困難となり、免許失効となった。 === 高速運転 === 沿線の人口が少ないため(当時は高槻でさえ[[市制]]を敷いていなかった)、同線は京阪間の都市間輸送に重きを置き、天神橋駅 - 大宮駅間をノンストップ34分で結ぶ[[超特急]]など高速運転を行う列車を走らせた。その速さは同社の保有するP-6形電車による速達列車が当時の鉄道省線で最速の特急列車「[[つばめ (列車)|つばめ]]」<!--漢字でも平仮名でも間違いとはいえない。当該項目参照。-->を抜いたと言う逸話が残るほどであった([[新京阪鉄道P-6形電車#変遷|新京阪鉄道P-6形電車]]も参照のこと)。京阪本線では新京阪線との相乗効果を狙い、急行や普通を増発している。 また、[[1937年]](昭和12年)に国鉄[[東海道本線]][[京都駅]] - [[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]]間の電化が完成(吹田駅 - [[須磨駅]]間は1934年(昭和9年)に完成)し、京阪間を[[直行便|ノンストップ]]の36分で結ぶ[[新快速|急行電車(急電)]]が走るようになると、京阪では新京阪線・京阪線の両線ともに列車の本数を増やし、運賃を値下げした。さらに[[1934年]](昭和9年)からは、天神橋駅 - 大宮駅間運転の列車のほか、同列車と淡路駅で解結を行うことにして、阪急線と接続させるため十三駅を発着駅にする列車も設定した。 === 京阪神急行電鉄への統合 === 戦時中の交通統制のため、京阪電気鉄道と阪神急行電鉄は[[1943年]](昭和18年)に合併して'''京阪神急行電鉄'''(現在の阪急電鉄)となり、新京阪線も同社の運営となった。戦後、京阪電気鉄道は[[1949年]](昭和24年)に再び分離発足することになる。この取り決めがなされた1949年の役員会において、旧京阪側は合併前の状態へ戻すことを主張したのに対し、旧阪急側は1944年(昭和19年)から開始された新京阪線電車の阪急梅田駅乗り入れ実績を踏まえ、新京阪電鉄を阪急側の所属路線とすることを主張した<ref>株式会社電気車研究会「鉄道ピクトリアル」1970年3月号</ref>。{{要出典範囲|日本国有鉄道も加わった協議の結果、京阪神地域の将来を見据えて、「実質的な新京阪線の神戸・宝塚への延伸」という考え方や、|date=2022年4月}}旧阪急系役員の頭数の多さによる旧京阪系役員の劣勢<ref>京阪神急行電鉄株式会社『京阪神急行電鉄五十年史』</ref>から、同線と支線の千里山線(現在の千里線の淡路駅以北)・十三支線(現在の京都本線の淡路駅以西)・嵐山線は京阪神急行電鉄の路線として存置することになった。ただし、京阪電鉄から京阪神急行電鉄時代には京都 - 大阪間で[[定期乗車券|定期券]]を持っていれば必要に応じ両線を自由に選択できた乗客にとっては、大きな利便性が失われる結果となった。 この時、路線名が現在の'''京都本線'''となった。またこのような経緯から、京都本線系統の路線を除いた阪急各線をその頭一字を取って[[神宝線]]と総称し、お互いを区別することになる。路線名が京都本線に改称されてからも、京都本線の起点は長らく天神橋駅のままであったが、いわゆる三複線(宝塚本線の梅田 - 十三間複々線化工事)が完成したのを機に、天神橋駅 - 淡路駅間を千里山線に変更するとともに、京都本線は十三支線を編入し、十三駅が起点となった。 戦後[[1950年]](昭和25年)に天神橋駅 - 阪急京都駅(現・大宮駅)間で特急が復活した当時はノンストップで朝夕のみ運行であった。その後[[1956年]](昭和31年)より大阪側のターミナルを天神橋駅から梅田駅に変更、梅田駅 - 阪急京都駅間ノンストップの特急を運転開始する{{R|交通1956-0415}}([[1961年]](昭和36年)に[[十三駅]]停車)。 [[上牧駅 (大阪府)|上牧駅]]前後から[[大山崎駅]]にかけて一部高架区間があるが、これは並行する[[東海道新幹線]]の建設に併せて造られたもので、高架化工事中の[[1963年]]4月から12月までの間、先に完成していた同線の高架線路を借りて列車の運行を行っていたことがある([[東海道新幹線#新幹線の線路を先に走った阪急電車]]を参照)。 === 新線計画 === {{Main|阪急新大阪連絡線}} 戦後、京都本線の輸送増強と新幹線駅である[[新大阪駅]]へのアクセス路線として、1961年12月26日に淡路駅 - 新大阪駅 - 十三駅間4.0 km及び新大阪駅 - [[神崎川駅]]間3.0 kmの事業免許を取得した。なお、完成した暁には、梅田と京都・千里方面を結ぶ列車は新大阪経由となり、淡路駅 - 南方駅 - 十三駅間は支線とし、区間運転の普通列車を運行させる予定であった。しかし、用地買収の困難などの諸般の事情により難航。そして、2003年3月1日に淡路駅 - 新大阪駅間、新大阪駅 - 神崎川駅間の免許が失効した。 === 河原町延伸開業 === [[1963年]](昭和38年)には、念願だった大宮駅 - 河原町駅(現・[[京都河原町駅]])間が延伸開業し<ref group="注釈">河原町への延伸工事の影響により、1962年(昭和37年)には[[祇園祭]]山鉾巡行が中止となっている。(それ以前は、[[応仁の乱]]と[[第二次世界大戦]]で中止になった例があるのみ)</ref>、京都都心部への乗り入れを果たす。当時の特急の停車駅は十三駅・大宮駅・烏丸駅。これを機に従来30分間隔であった特急を15分間隔へと増発したことで、従来クロスシート車が中心であったのが、ロングシート車の割合が高まった。閑散時間帯の座席数減少にはパイプ椅子を積み込んで対応したが、乗車時間が比較的長い京阪間ではロングシート車が敬遠され、延長・増発により利便性は向上したものの、利用が想定に届かなかったことから、翌[[1964年]](昭和39年)には[[阪急2800系電車|2800系]]が製造された。同系列は阪急初の特急専用車で、当時の料金不要特急としては破格の車内設備を持ち乗客からも好評で、本線のサービスアップならびに乗客増に大きく貢献した。[[1971年]](昭和46年)時点の梅田 - 河原町間の所要時間は最速38分(十三 - 大宮間30分)で、現在に至るまでの最速記録である。登場当初5連であった2800系は順次増強され、[[1973年]](昭和48年)までに全編成が8両編成となった。また、阪急の看板列車として他形式に先駆けていち早く冷房改造を受け、[[1971年]](昭和46年)から1973年(昭和48年)までのわずか2年で全編成が冷房化された。 2800系の時代は短く、[[1975年]](昭和50年)には後継となる[[阪急6300系電車|6300系]]が登場、[[1979年]](昭和54年)までに全編成が6300系に置き換わり、2800系は3扉に改造された。2800系の特急としての運用は、長いもので15年、短いものではわずか5年であった<ref group="注釈">3扉改造後も、8両編成だった時代は時折6300系の代走で特急にも使用され、特急車時代と同様に標識板を2枚掲げていた。</ref>。 この頃、国鉄では[[新快速]]や[[京阪神快速|快速]]の増発、京阪では新テレビカー[[京阪3000系電車 (初代)|3000系]]の投入など各社がしのぎを削っていた。 当時は[[名神高速道路]]も片側2車線しかなく[[天王山トンネル]]・[[梶原トンネル]]付近で慢性的に[[渋滞]]するなど道路事情も良くなかったこともあり、京阪間の移動における鉄道利用の割合が高かった。2800系同様料金不要特急として破格の設備を持つ6300系は、京阪間ノンストップの運行体系とともに文字通り阪急の看板列車であった。 === 沿線人口の増加と輸送体系の変化 === [[1989年]](平成元年)[[12月16日]]のダイヤ改正では、茨木市と大阪市内とのビジネス利用増加に対応し、従来15分間隔であった特急・急行のうち、平日日中に限り急行を10分間隔へ増発、特急を20分間隔へ減便したダイヤへと変更した。[[1987年]](昭和62年)に[[国鉄分割民営化|国鉄が分割民営化]]されて発足したJR西日本も[[1990年]](平成2年)[[3月10日]]には新快速を日中に限り[[高槻駅]]停車としている。 [[1997年]](平成9年)[[3月2日]]改正では、沿線人口のさらなる増加を見込んで、すべての特急が[[高槻市駅]]に停車するようになる。一週間後の[[3月8日|8日]]には新快速も終日高槻駅停車となった。 途中、十三駅・高槻市駅・大宮駅・烏丸駅に停車していたこの当時の特急の運転形態は、平日日中は20分間隔、それ以外は15分間隔で、夜間には30分程度開くこともあった。平日日中の河原町行き、平日夜間の一部と休日の梅田行きは、桂駅で先行の急行を追い抜くダイヤであった。平日の梅田発21時30分以降は快速急行となり、前記に加えて桂駅にも停車した。所要時間は最速で39分、一方朝の梅田行きは最大48分を要していた。車両は6300系がほぼ限定的に使用されたが、運転サイクルの移行時間帯などは8両編成の3扉車が使用されることもあった。当時は5300系の一部に非表示幕車が残っており、これらが充当された場合には、京都線の伝統であった「特急2枚標識」を掲げ、かつての2800系を髣髴させる姿であった。 [[1998年]]には、名神高速道路の片側4車線化・トンネル増設などの改良工事も行われ、天王山付近の渋滞が緩和されるなど、京阪間の道路事情も改善されたため、通勤以外のビジネス利用を中心に、マイカーへの転移も見られるようになった。また、娯楽の多様化などにより、リピーターの多い京阪間の行楽利用が、年々減少していった。 === 2000年以降の動き === [[2001年]](平成13年)[[3月24日]]のダイヤ改正では大幅な停車駅の見直しと種別の整理が行われた。特急を通勤特急に、快速急行を快速特急に、急行を快速急行に、快速を急行に改称の上で南茨木駅にも停車させ、特急は停車駅を快速特急よりも多く快速急行よりも少なくして、各優等列車の停車駅を従来のほぼ2倍にし、特急を事実上それまでの急行と同等の列車にした(2007年の淡路駅停車で、さらにその様相が色濃くなった)。同時に準急と行楽期の「嵯峨野エクスプレス」を廃止し、行楽期の臨時特急を新設した。また河原町駅の2番ホームを除く線内全駅が8両編成対応となった。これにより高槻市から河原町までの区間において平日ダイヤの昼間は一部列車が減便(従来の特急は実質廃止)、休日ダイヤでも京阪間直通優等列車の総本数は減少(特急・急行で1時間当たり8本が特急6本に、25 %減少)した。また、特急の所要時間も十三駅 - 大宮駅間ノンストップ時代の38分から4 - 7分延びて、上り下りともに42 - 45分が標準的な所要時間となっており、これは同月[[3月23日|23日]]以前の急行の所要時間と2 - 5分程度しか変わらない程スピードダウンしている。 [[2003年]](平成15年)には3扉車の[[阪急9300系電車|9300系]]が特急に投入される。[[2007年]](平成19年)3月17日のダイヤ改正では特急が淡路駅にも停車するようになり、2001年以前の急行(現在の快速急行)と比べ大差のない停車駅(西院駅・大宮駅は通過)になった。2010年2月には2扉車両6300系の特急運用が終了した<ref name="hankyu20100212">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201002125N1.pdf 京都線6300系車両が「特急」「通勤特急」運用から引退します〜引退記念ヘッドマークを掲出して運行〜]}} - 阪急電鉄、2010年2月12日</ref>。 一方で、21世紀に入ってから駅間の長い区間に新駅の設置も進めており、[[洛西口駅]]、[[摂津市駅]]、[[西山天王山駅]]が開業している。 === 年表 === <!-- 一部を[[新京阪鉄道]]に移動 --> *[[1916年]]([[大正]]5年)[[9月1日]]:北大阪電気鉄道が天神橋筋六丁目 - 淡路 - 千里山間の免許を取得。 *[[1919年]](大正8年)[[9月12日]]:北大阪電気鉄道が十三 - 淡路間の免許を取得。 *[[1921年]](大正10年)[[4月1日]]:北大阪電気鉄道が十三駅 - 淡路駅 - 豊津駅間を開業。東海道本線以南は旧東海道本線廃線敷を利用した。 *[[1923年]](大正12年)4月1日:新京阪鉄道が北大阪電気鉄道の鉄道路線を譲り受ける。 *[[1925年]](大正14年)[[10月15日]]:新京阪鉄道が天神橋駅(現在の天神橋筋六丁目駅) - 淡路駅間を開業。 *[[1928年]]([[昭和]]3年) **[[1月16日]]:淡路駅 - 高槻町駅(現在の高槻市駅)間が開業。全線の架線電圧を600 Vから1500 Vに昇圧。 **[[11月1日]]:高槻町駅 - 京都西院駅(現在の西院駅)間が開業。 *[[1930年]](昭和5年) **[[4月21日]]:天神橋駅 - 京都西院駅間に[[超特急]]を運転開始。途中、淡路駅のみの停車(行楽期は嵐山線との接続駅である桂駅にも停車)で京阪間を34分にて結んだ。 **[[9月15日]]:京阪電気鉄道が新京阪鉄道を合併。天神橋駅 - 京都西院駅間が'''新京阪線'''、十三駅 - 淡路駅間が'''十三(支)線'''となる。 *[[1931年]](昭和6年)[[3月31日]]:関西初の地下線として西院駅 - 京阪京都駅(現在の大宮駅)間が開業。京都西院駅を移転し西院駅に改称<ref>[{{NDLDC|2957747/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年4月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *[[1932年]](昭和7年)12月:正雀変電所に出力2000 kWのピークカット用[[蓄電池]]が設置、使用開始<ref>京阪電気鉄道100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』183頁「ピークカット用蓄電池の設置」より</ref>。 *[[1934年]](昭和9年) **[[5月13日]]:上牧桜井ノ駅駅開業。<!-- 駅名の一部として駅が付いていたので駅駅で正当 --> **9月1日:新京阪線の急行を十三駅まで運転開始、十三駅で阪神急行電鉄と接続<ref>京阪電気鉄道100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』資料編198頁より</ref>。 **[[9月21日]]:[[室戸台風]]が関西を来襲、午前7時45分停電で全線に渡り運転不能、同日17時天神橋 - 高槻町間が正雀変電所の蓄電池を電源として単線で運行再開。同月23日全線複線で運行再開<ref>京阪電気鉄道100周年記念誌『京阪百年のあゆみ』165頁「台風禍と洪水禍」より</ref>。 *[[1935年]](昭和10年)[[6月29日]]:水害により山崎 - 正雀駅間で不通、7月2日運転再開<ref>植村善博著「京都の治水と昭和大水害」156頁より</ref>。 *[[1936年]](昭和11年)[[4月15日]]:総持寺前駅開業。 *[[1938年]](昭和13年)[[10月1日]]:超特急を廃止して特急に統合(途中停車駅:淡路駅、高槻町駅、桂駅、西院駅。高槻町駅で普通と連絡)。 *[[1939年]](昭和14年)[[5月16日]]:桜井ノ駅駅開業。上牧桜井ノ駅駅を上牧駅と改称。<!-- 駅駅で正当 --> *[[1940年]](昭和15年)[[6月15日]]:吹田町駅を京阪吹田駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2364373/86}} 地方鉄道・軌道異動表]」『電気協会雑誌』第229号、日本電気協会、1941年1月、附録3頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *[[1943年]](昭和18年) **[[1月1日]]:高槻町駅を高槻市駅と改称。 **10月1日:阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し京阪神急行電鉄が発足。京阪京都駅を京阪神京都駅<ref group="注釈">両社の合併後、1949年の京阪電気鉄道再分離までは「阪急」と「京阪」の略称はともに公式的には用いられなくなり、「京阪神急行」ないし「京阪神」が代わりの略称として定められた。</ref>、京阪吹田駅を吹田東口駅と改称。 *[[1944年]](昭和19年)[[4月8日]]:十三駅より宝塚本線に乗り入れ、梅田駅(現在の大阪梅田駅)を発着駅とする急行を設定。 *[[1945年]](昭和20年)[[6月7日]]:梅田直通急行が新淀川橋梁上で爆撃被災、以後、直通運転休止。 *[[1946年]](昭和21年)[[2月1日]]:東向日町駅 - 桂駅間に物集女(もずめ)駅開業。 *[[1948年]](昭和23年) **1月1日:茨木町駅を茨木市駅、総持寺前駅を総持寺駅、桜井ノ駅駅を水無瀬駅と改称。<!-- 駅駅で正当 --> **[[3月1日]]:物集女駅廃止。 **[[8月11日]]:爆撃で休止されていた梅田直通急行再開。 *[[1949年]](昭和24年) **[[12月1日]]:京阪電気鉄道が分離。新京阪線は京阪神急行電鉄の路線となり、'''京都本線'''と改称。<!--京阪神京都駅を阪急京都駅と改称。-->最高速度を110 km/hへ引き上げる認可を受ける。 **[[12月3日]]:神戸駅(現在の三宮駅) - 京阪神京都駅直通の特急の運転開始。 *[[1950年]](昭和25年)10月1日:大阪(天神橋駅) - 京阪神京都駅間に特急運転復活。 **当初はノンストップ、[[1954年]]までには高槻市駅、西院駅も停車駅追加、運行は朝夕のみ。 *[[1954年]](昭和29年)[[5月1日]]:吹田東口駅を相川駅と改称。 *[[1955年]](昭和30年)12月:十三線南方駅 - 崇禅寺駅間の曲線改良工事。 *[[1956年]](昭和31年) **[[1月31日]]:十三線南方駅 - 崇禅寺駅間の国鉄跨線橋付近曲線改良工事完成。 **[[4月16日]]:大阪(梅田駅) - 京阪神京都間に特急新設{{R|交通1956-0415}}、所要時間38分(ノンストップ){{R|交通1956-0415}}、30分間隔。天神橋駅発着特急の運転休止{{R|交通1956-0415}}。 *[[1957年]](昭和32年)[[7月1日]]:富田町駅を富田駅と改称。 *[[1959年]](昭和34年)[[2月18日]]:宝塚本線梅田駅 - 十三駅間が複々線化。新設の東側2線を京都線が使用開始(宝塚線の一部列車も使用。そのため架線電圧は600 V)。十三駅 - 淡路駅間の'''十三線'''と併せ、十三駅 - 京阪神京都駅間を京都本線とする。天神橋駅 - 淡路駅間は千里山線(後の千里線)に組み込まれる。 *[[1961年]](昭和36年) **1月16日:大阪(梅田駅) - 京阪神京都駅間に通勤特急新設(朝ラッシュ時のみ運転。途中停車駅:十三駅、高槻市駅)、特急が十三駅停車 **8月1日:大宮駅 - 河原町駅間延伸工事起工。 *[[1963年]](昭和38年) **[[4月24日]]:東海道新幹線の高架線が完成し、並行する阪急京都線側も高架化するため仮線として上牧駅 - 大山崎駅間で新幹線線路の借用開始。同区間に存在した駅に関しても仮設ホームを設置して営業。 **[[6月17日]]:大宮駅 - 河原町駅(現在の京都河原町駅)間が開業し全通。京阪神京都駅を大宮駅と改称。昼間時は各種別が15分間隔運転となる。梅田駅 - 河原町駅間の特急の所要時間は42分。 **[[12月29日]]:上牧駅 - 大山崎駅間の高架化完成。新幹線線路の借用終了。 *[[1964年]](昭和39年):特急用車両2800系営業運転開始。 *[[1965年]](昭和40年)[[7月22日]]:2800系の増備完了により、特急の所要時間を42分から39分に短縮。 *[[1968年]](昭和43年)[[2月22日]]:[[自動列車停止装置]](ATS)の使用を開始<ref>{{Cite news |和書|title=関西五私鉄 保安度向上へ急ピッチ 各社がATS設置へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-21 |page=2 }}</ref>。 *[[1969年]](昭和44年) **[[8月24日]]:十三駅のデッドセクション廃止。 **[[12月6日]]:大阪市営地下鉄堺筋線との相互直通運転開始。 *[[1970年]](昭和45年)[[3月8日]]:南茨木駅開業。 *[[1971年]](昭和46年)[[11月28日]]:京都線の梅田駅ホームを旧駅から新駅に移転。特急の所要時間を38分に短縮(最速記録)。P-6の急行運用終了。 *[[1972年]](昭和47年)10月1日:[[乙訓郡]]向日町の市制施行([[向日市]])に伴い、東向日町駅を東向日駅、西向日町駅を西向日駅と改称。 *[[1973年]](昭和48年) **3月:P-6の定期運用終了。 **[[11月23日]]:梅田駅1号線完成によるダイヤ改正。十三駅発着の普通列車を一部を除き梅田駅発着に延長する。 *[[1975年]](昭和50年):特急用車両6300系営業運転開始。 *[[1976年]](昭和51年)[[9月23日]]:ダイヤ改正で十三駅7号線廃止。京都線の全列車が梅田駅発着となる。 *[[1979年]](昭和54年)[[3月5日]]:堺筋急行を運転開始。長岡天神駅にすべての急行が停車。夕ラッシュ時にも通勤特急(河原町行のみ)運転。 *[[1982年]](昭和57年)[[11月27日]]:平日朝の通勤時間帯に茨木市発梅田行の準急を新設。茨木市・高槻市両駅高架化工事のため、特急のスピードダウンを実施。 *[[1989年]]([[平成]]元年)[[12月16日]]:ダイヤ改正により平日昼間の特急を15分間隔から20分間隔に減便、急行・普通を10分間隔に増発。休日は従来通り特急・急行は15分間隔での運転。 *[[1993年]](平成5年)[[2月21日]]:土曜ダイヤ導入(土曜ダイヤは2001年まで)。平日と同様に昼間の特急は20分間隔、急行・普通を10分間隔。高槻市駅高架完成に伴う。 *[[1997年]](平成9年)[[3月2日]]:以下の内容でダイヤ改正を実施。 **通勤特急にあわせ特急を高槻市駅に終日停車(同時に通勤特急は廃止)。 **平日朝・夜に快速急行を新設。 **平日に十三駅・淡路駅・茨木市駅・高槻市駅 - 河原町間各駅に停車する快速を新設。 **平日は特急・快速を20分間隔、急行を10分間隔で運転。なお、休日は特急・急行の15分間隔。 *[[2001年]](平成13年) **[[3月24日]]:以下の内容でダイヤ改正を実施。開業以来続いた列車体系が大幅に変更された。 *** 従来の特急が通勤特急に、快速急行が快速特急に、急行が快速急行に改称<ref name="RJ415_68"/>。 *** 快速の停車駅に南茨木駅が追加され、急行に改称。 *** 停車駅が快速特急より多く快速急行より少ない特急および行楽期の臨時特急を新設。特急は茨木市駅・長岡天神駅・桂駅が停車駅に加えられ、大宮駅が停車駅から外された<ref name="RJ415_67"/>。 *** 準急と行楽期の「嵯峨野エクスプレス」を廃止。<!--記述の一部を上に移動--> *** 平日および土曜・休日とも昼間は特急・急行・普通を10分間隔で運転<ref>[[#RJ415|『鉄道ジャーナル』通巻415号、pp.67-68]]</ref>。従来の特急と急行が統合され、高槻市駅 - 河原町駅間は減便となる<ref name="RJ415_68"/>。 **[[11月11日]]:行楽期の臨時特急に「いい古都エクスプレス」の愛称を付けて運転を開始。 *[[2003年]](平成15年) **[[3月16日]]:洛西口駅が開業<ref name="rail fan">{{Cite journal|和書 |author = 山村定雄 |date = 2003-05-01 |title = モハユニ ■阪急京都線に洛西口駅開業 |journal = RAIL FAN |issue = 5 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 23 }}</ref>(廃止された物集女駅跡地とほぼ同じ位置)。 **[[10月14日]]:9300系営業運転開始<ref>[http://www.rail-j.com/topics/archives/rail/main_4/0312c.html 阪急電鉄京都線に新型特急車9300系が登場] - 鉄道ジャーナル、2003年10月18日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER200308121N1.pdf 京都線新型特急車両9300系の運転開始日の決定について]}} - 阪急電鉄、2003年8月12日</ref>。 *[[2007年]](平成19年)[[3月17日]]:以下の内容でダイヤ改正を実施<ref name="hhhd20061215" />。 ** 快速特急が運行を休止。 ** 特急が淡路駅に停車。 ** 通勤特急の停車駅に長岡天神駅、桂駅、西院駅が追加。 ** 急行の停車駅に南方駅、上新庄駅が追加され、準急に改称。 ** 行楽期の「いい古都エクスプレス」を臨時特急から臨時快速に格下げ。 *[[2009年]](平成21年):京都線パターンATS使用開始<ref>{{PDFlink|[http://rail.hankyu.co.jp/pdf/approach/anzen2009/2009anzenreport.pdf 2009年安全報告書]}} - 阪急電鉄</ref> *[[2010年]](平成22年) **[[2月28日]]:特急・通勤特急での6300系の運用終了<ref name="hankyu20100212" />。 **[[3月14日]]:摂津市駅が開業。ダイヤ改正により通勤特急の停車駅に茨木市駅が追加。平日の早朝・夕ラッシュ時に快速を運転開始。特急車両の9300系への置き換え完了、パターンATSへの改良工事完了に併せて、相川駅 - 東向日駅間の最高速度を115 km/hへ引き上げ<ref name="hhhd20091209">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/1914.pdf 京都線のダイヤ改正について]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2009年12月9日)</ref>、梅田駅 - 河原町駅間の特急の所要時間は上下ともに40秒 - 50秒短縮され、上りは最速42分50秒、下りは同43分10秒にそれぞれ短縮。これまでの路線図における『京都線』という表記を、『京都本線』に統一。 *[[2011年]](平成23年) **[[3月19日]]:観光列車「京とれいん」が梅田駅 - 嵐山駅間の臨時列車で運転を開始<ref name="hhhd20110221">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201102212N1.pdf 「京とれいん」デビュー]}} - 阪急電鉄プレスリリース(2011年2月21日)</ref>。 **[[5月14日]]:土休日ダイヤのみのダイヤ改正。土曜・休日に梅田駅 - 河原町駅間で観光列車「京とれいん」による快速特急<ref name="hhhd20110213" />、昼間時間帯に天下茶屋駅 - 河原町駅間の堺筋準急の運転を開始。 *[[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:西山天王山駅が開業。全駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hhhd20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref><ref name="hhhd20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref>。ダイヤ改正を実施し、快速の種別表示の背景色を緑色から青色に変更。 *[[2014年]](平成26年)[[3月30日]]:[[阪急1300系電車 (2代)|1300系]]営業運転開始<ref>[http://rail.hankyu.co.jp/hankyu1000/ 阪急電鉄1000系スペシャルサイト] - 阪急電鉄</ref>。 *[[2015年]](平成27年)[[3月20日]]:2300系定期運用終了。 *[[2018年]](平成30年)[[1月26日]]:京都地下区間(西京極駅 - 河原町駅間)で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/5669.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210131125931/https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/5669.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京都地下線区間(西京極〜河原町)で、1月26日から スマートフォン・携帯電話等による通信が可能になります|publisher=阪急電鉄|date=2018-01-25|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-31}}</ref>。 *[[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) **[[1月19日]]:ダイヤ改正を実施<ref name="hhhd20181208dia" />。58年振りの十三駅通過となる「快速特急A」を設定。 **[[3月23日]]:「京とれいん 雅洛」が快速特急で運行開始<ref name="hhhd20190208" /><ref name="railfjp20190323" />。 **[[10月1日]]:梅田駅を大阪梅田駅に、河原町駅を京都河原町駅にそれぞれ改称<ref name="hankyu20190730">{{Cite press release |和書 |title=「梅田」「河原町」「石橋」の駅名を10月1日に変更します |publisher=阪急電鉄 |date=2019-07-30 |url=https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf |format=PDf |accessdate=2019-07-31}}</ref>。 *[[2022年]](令和4年) **[[12月11日]]:この日の運行を最後に快速特急A「京とれいん」の運行を終了。十三駅通過列車の設定が廃止。6300系の運行終了。 == 駅一覧 == *快速特急は土曜・休日に運行される。 *行楽期には直通特急などの嵐山駅への直通列車も運転される。直通特急の京都本線内の停車駅は快速特急と同じ。運転区間については、「[[阪急嵐山線#臨時列車]]」を参照のこと。運転日は阪急のホームページで発表される。 ;凡例 :●:停車、|:通過、 :普通:各駅に停車するため省略。 :<nowiki>#</nowiki>:[[待避駅|待避線を備えた駅]] :<nowiki>‡</nowiki>:待避線を上り線だけに備えた駅 : 接続路線の ( ) 内の英数字はその路線の駅の駅番号を表す。 : 京都本線の駅番号は西山天王山駅が開業する2013年12月21日より導入<ref name="hhhd20130430" /><ref name="hhhd20130605" />。 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:88%;" |- !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|{{縦書き|正式路線名}} !rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|駅番号 !rowspan="2" style="width:11em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|駅名 !rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|駅間<br />営業キロ !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#cf9;"|{{縦書き|準急|height=3em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#cfc;"|{{縦書き|堺筋準急|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#fc9;"|{{縦書き|急行|height=3em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#fcc;"|{{縦書き|準特急|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#fb7;"|{{縦書き|通勤特急|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#f99;"|{{縦書き|特急|height=3em}} !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50; background:#c9f;"|{{縦書き|快速特急|height=5em}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|接続路線 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|{{縦書き|地上/地下|height=7em}} !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|所在地 |- !style="width:2.8em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|十三<br />から !style="width:2.8em; border-bottom:solid 3px #2a9b50;"|大阪<br />梅田<br />から |- !colspan="6"|直通運転区間 |colspan="12"|'''淡路駅から'''<br />○普通・堺筋準急…[[京都河原町駅]]方面から[[阪急千里線|千里線]]経由[[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]][[天下茶屋駅]]まで<br />○普通…大阪梅田駅方面から千里線[[北千里駅]]まで |- | rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;" |{{縦書き|宝塚本線|height=5em}} !HK-01 |[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● | style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|千里線経由堺筋線直通}} |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|● |[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]]([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]:HS 01)<br>[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] ([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]:M16)・[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] ([[東梅田駅]]:T20)・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] ([[西梅田駅]]:Y11)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])・{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線|JR宝塚線]]・{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]]・{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]([[大阪駅]]:JR-A47・JR-G47・JR-F01・JR-O11)・{{JR西路線記号|K|H}} [[JR東西線]]([[北新地駅]]:JR-H44) |rowspan="27" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|地上区間|height=8em}} |rowspan="19" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="9" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=6em}} |rowspan="2" |[[北区 (大阪市)|北区]] |- | colspan="13" style="text-align:center;" |この間に[[中津駅 (阪急)|中津駅]] (HK-02) があるが、京都線の列車は通過する。 |-style="height:1em;" !rowspan="2"|HK-03 |rowspan="2"|[[十三駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.4 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.4 |rowspan="2" style="text-align:center; background:#cf9;"|● |rowspan="4"|&nbsp; |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fc9;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fcc;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fb7;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#f99;"|● |rowspan="2" style="text-align:center; background:#c9f;"|● |rowspan="2"|[[阪急電鉄]]:[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]] |rowspan="3"|[[淀川区]] |- |rowspan="28" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''京都本線'''|height=8em}} |- !HK-61 |[[南方駅 (大阪府)|南方駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線([[西中島南方駅]]:M14) |- !HK-62 |[[崇禅寺駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|5.6 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[東淀川区]] |- !HK-63 |[[淡路駅]]# |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|4.2 |style="text-align:right;"|6.6 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|● |阪急電鉄:[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急千里線|千里線]](一部直通運転:上記参照)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|F}} おおさか東線([[JR淡路駅]]:JR-F04){{Refnest|group="注釈"|name="transfer"|連絡運輸は行っていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/assets/pdf/stipulation/2021/covenant_unyu.pdf |title=旅客連絡運輸規則 |format=PDF |pages=14-16 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2021 |accessdate=2021-11-02}}</ref>。}} |- !HK-64 |[[上新庄駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|6.3 |style="text-align:right;"|8.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-65 |[[相川駅]]# |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|7.2 |style="text-align:right;"|9.6 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !- |style="width:6.5em;"|[[東吹田信号所]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|8.3 |style="text-align:right;"|10.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |colspan="2"|[[吹田市]] |- !HK-66 |[[正雀駅]]# |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|9.4 |style="text-align:right;"|11.8 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2"|[[摂津市]] |- !HK-67 |[[摂津市駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|10.9 |style="text-align:right;"|13.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-68 |[[南茨木駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|12.9 |style="text-align:right;"|15.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |[[大阪モノレール]]:[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線(本線)]] (19) |rowspan="3" colspan="2"|[[茨木市]] |- !HK-69 |[[茨木市駅]]# |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|14.8 |style="text-align:right;"|17.2 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-70 |[[総持寺駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|16.2 |style="text-align:right;"|18.6 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-71 |[[富田駅 (大阪府)|富田駅]]‡ |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|17.3 |style="text-align:right;"|19.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#cfc;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="3" colspan="2"|[[高槻市]] |- !HK-72 |[[高槻市駅]]# |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|20.6 |style="text-align:right;"|23.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-73 |[[上牧駅 (大阪府)|上牧駅]] |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:right;"|24.9 |style="text-align:right;"|27.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-74 |[[水無瀬駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|25.7 |style="text-align:right;"|28.1 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |colspan="2" style="line-height:1.2em;"|[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]<br />[[島本町]] |- !HK-75 |[[大山崎駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|27.7 |style="text-align:right;"|30.1 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="12" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[京都府]]|height=6em}} |colspan="2" style="line-height:1.2em;"|[[乙訓郡]]<br />[[大山崎町]] |- !HK-76 |[[西山天王山駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|30.2 |style="text-align:right;"|32.6 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2"|[[長岡京市]] |- !HK-77 |[[長岡天神駅]]# |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|31.7 |style="text-align:right;"|34.1 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-78 |[[西向日駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|33.6 |style="text-align:right;"|36.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="2" colspan="2"|[[向日市]] |- !HK-79 |[[東向日駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|35.0 |style="text-align:right;"|37.4 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |- !HK-80 |[[洛西口駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|36.3 |style="text-align:right;"|38.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[京都市]]|height=6em}} |rowspan="2"|[[西京区]] |- !HK-81 |[[桂駅]]# |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|38.0 |style="text-align:right;"|40.4 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|● |阪急電鉄:[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急嵐山線|嵐山線]] |- !HK-82 |[[西京極駅]]<br /><small>([[西京極総合運動公園]]前)</small> |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|40.1 |style="text-align:right;"|42.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[右京区]] |- !HK-83 |[[西院駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|41.9 |style="text-align:right;"|44.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |[[京福電気鉄道]]:[[File:Number prefix Randen Arashiyama mainline.png|15px|A]] [[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山本線]] (A2)<ref group="注釈">かつては乗り換えの案内はなかったが2017年3月の嵐電西院駅直結に伴い、西院駅に限り、車内放送にて乗り換え案内を行うようになった。なお、大宮駅に関しては乗り換えの案内は行われていない。</ref> |rowspan="4" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|地下区間|height=8em}} |- !HK-84 |[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|43.3 |style="text-align:right;"|45.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|| |style="text-align:center; background:#c9f;"|| |京福電気鉄道:[[File:Number prefix Randen Arashiyama mainline.png|15px|A]] 嵐山本線([[四条大宮駅]]:A1) |[[中京区]] |- !HK-85 |[[烏丸駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|44.4 |style="text-align:right;"|46.8 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|● |[[京都市営地下鉄]]:[[File:Subway KyotoKarasuma.svg|15px|K]] [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]([[四条駅]]:K09) |rowspan="2"|[[下京区]] |- !HK-86 |[[京都河原町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|45.3 |style="text-align:right;"|47.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#cfc;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#f99;"|● |style="text-align:center; background:#c9f;"|● |[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]]([[祇園四条駅]]:KH39)<ref group="注釈">車内での乗り換えの放送はなく、公式の乗り換え駅ではないが、京都河原町駅・祇園四条駅とも、連絡通路に相手側の時刻表が掲示され、便宜を図っている。</ref> |} *[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]との連絡乗車券([[天神橋筋六丁目駅]]経由指定のもの)を使う場合、梅田駅([[東梅田駅]]・[[西梅田駅]]も含む)、[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]([[西中島南方駅]]含む)の地下鉄線との乗り継ぎはできない。後述の[[#南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券|南海電鉄との連絡乗車券]]も同様である。 *阪急電鉄の西院駅は「さいいん」、[[京福電気鉄道]]の西院駅は「さい」と読む。[[西院駅|駅記事]]も参照。西院駅以東の4駅は[[四条通]]沿いに位置し、それぞれ四条通と交差する通り名が駅名となっているが、西院駅の「西院」とは、駅周辺の地域名であり、西大路通との交差点(西大路四条)の通称である。 === 主要駅の乗降客数 === 2021年の通年平均の乗降客数は次の通り<ref>[https://www.hankyu.co.jp/station/passenger.html 駅別乗降人員|阪急電鉄]</ref>。 *京都河原町:48,950人 *烏丸:57,182人 *大宮:17,920人 *西院:29,332人 *桂:33,370人 *長岡天神:18,789人 *高槻市:46,012人 *茨木市:44,575人 *南茨木:31,050人 *上新庄:37,683人 *淡路:32,164人 *南方:27,623人 *十三:52,424人 *大阪梅田:349,521人 大阪梅田駅を除けば[[京都市営地下鉄烏丸線]]の[[四条駅]]と乗り換えが出来る烏丸駅の利用者数が最も多い。 == 南海電鉄との連絡乗車券・企画乗車券 == 京都本線各駅で堺筋線[[天下茶屋駅]]経由・[[南海電気鉄道|南海]][[南海空港線|空港線]][[関西空港駅]]までの連絡乗車券が発売されており、さらに[[2011年]][[5月14日]]からは、線内では京都河原町駅・桂駅・高槻市駅・茨木市駅・淡路駅に設置の各「[http://www.hankyu.co.jp/station/service/service_center.html ごあんないカウンター]」ならびに烏丸駅にて、天下茶屋駅経由関西空港駅への乗車券よりもさらに割安な「[[京都アクセスきっぷ|関空アクセスきっぷ]]」も発売している<ref>{{Cite news |title=河原町-関空1200円 阪急、南海、大阪市地下鉄が協力 |newspaper=[[京都新聞]] |date=2011-05-09 |url=http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110509000135 |publisher=京都新聞社 |accessdate=2017-10-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110512031032/http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20110509000135 |archivedate=2011-05-12}}</ref><ref group="注釈">逆に南海関西空港駅でも2011年5月14日から、「[http://www.nankai.co.jp/traffic/otoku/kyoto_access/index.html 京都アクセスきっぷ]」の発売を開始した。</ref>。 年に2度発売されている「[[高野山1dayチケット]]」の阪急版では、阪急ならびにOsaka Metroが全線乗り放題となるため、[[南海高野線]]へはOsaka Metro堺筋線を経由して[[天下茶屋駅]]で乗り換えできるほか、Osaka Metro[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]などを経由して[[難波駅 (南海)|なんば駅]]から入ることも可能。 == 連続立体交差事業 == 以下の箇所で[[連続立体交差事業]](鉄道高架化)が実施または計画されている。 ; 実施箇所 : 淡路駅・崇禅寺駅付近 - 事業主体は大阪市で、2024年度に高架切り替え、2027年度に事業完了予定<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000328598.html 阪急電鉄京都線・千里線連続立体交差事業の事業期間の見直しについて] - 大阪市建設局 道路部街路課、2019年1月24日閲覧。</ref>。その後、用地買収の遅れにより、2028年度に高架切り替え、2031年度に事業完了予定となった<ref>{{PDFlink|[https://www.city.osaka.lg.jp/shiseikaikakushitsu/cmsfiles/contents/0000567/567392/06_siryou4_chousho.pdf 事業再評価調書]}} - 大阪市、2022年8月1日閲覧。</ref>。 : 摂津市駅付近 - 事業主体は大阪府で、2023年度に高架化工事を着手し<ref>{{Cite web|和書|title=阪急電鉄京都線(摂津市駅付近)連続立体交差事業 |url=http://www.city.settsu.osaka.jp/material/files/group/60/201803panf.pdf#page=2 |publisher=摂津市 |format=PDF |page=2 |accessdate=2018-04-08}}</ref>、2033年度に事業完了予定<ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/toshikotsu/osakafurenritsu/hankyudentetsu.html 阪急電鉄京都線(摂津市駅付近)連続立体交差事業] - 大阪府都市整備部 交通道路室都市交通課、2019年1月24日閲覧。</ref>。 ; 計画および検討箇所 : 長岡天神駅周辺 - 京都府が適切な時期に調査を着手する方針である<ref>{{Cite news |title=【京都】 阪急長岡天神駅周辺連続立体交差 府議会代表質問で方針示す 「適切な時期に調査着手」 |url=http://www.senmonshi.com/archive/02/02EDJJqfHVT055.asp |newspaper=地方建設専門紙の会 |date=2019-9-19 |accessdate=2019-9-19}} 元の出典は、建設経済新聞社。</ref>。 : 東向日駅周辺 - 向日市は事業化に向けた検討を進める方針である<ref>{{Cite web|和書|title=第2次ふるさと向日市創生計画 |url=https://www.city.muko.kyoto.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/43/2sousei_an.pdf#page=19 |publisher=向日市 |format=PDF |page=19 |accessdate=2020-2-8}}</ref>。 == その他 == *[[2004年]]10月の近畿地方交通審議会答申第8号において、京都線と神戸線の相互直通運転が「既存施設の改良に関し検討すべき主な事業」<ref>{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/shingi/pdf/8-5-2.pdf 京阪神圏において、既存施設の改良に関し検討すべき主な事業]}} - 近畿地方交通審議会答申</ref>の一つに挙げられている。なお、神戸線との直通列車は、かつて神戸線・[[阪急今津線|今津線]]経由で京都 - 宝塚間を直通する「[[#歌劇特急|歌劇特急]]」や、それとは別に戦後から昭和30年代までは神戸 - 京都間を直通する特急があった([[神京・京宝特急]]を参照)。さらに2008年秋より春秋の観光シーズンには前述のように神戸線・京都線・嵐山線の直通列車が運転されている。 *朝ラッシュ時の最混雑区間は上新庄駅→淡路駅間である。宝塚線・神戸線の最混雑区間は十三駅手前であるが、京都線は大阪都心方面へ堺筋線経由のバイパスルートがあるため。なお、通過人員が最も少ない駅間は長岡天神駅 - 大山崎駅間である。 *京都本線の[[架線]]方式であるが、[[架空電車線方式#分類|シンプルカテナリー]]架線である十三駅 - 淡路駅間を除き、すべて[[架空電車線方式#分類|コンパウンドカテナリー]]架線となっている(十三駅 - 淡路駅間は、十三支線として開業した区間でもある。他方、十三支線が京都本線に区間変更されるまでは京都本線であった現千里線の淡路駅以南について、もともとは全区間コンパウンドカテナリー架線であったが、区間変更後に工事された天神橋駅の地下化や長柄橋梁の改築などにあわせてシンプルカテナリー化されている)。なお、名目上宝塚本線の一部となっている梅田駅 - 十三駅間はコンパウンドカテナリー架線となっている。 *大宮駅・西院駅は長らくホームの[[有効長]]が7両分しかなく、8両編成の特急、急行は最後部の車両を[[ドアカット]]して対応していた。該当編成のドアの横にはステッカーが貼られていた。また、駅の到着自動放送でも、停車駅の案内の後に例えば「大宮駅では、最後部の車両の扉は開きませんので、ご注意願います」と流れていた。直前の停車駅のホーム8両編成最後部には、車掌のドアカットスイッチ確認を促すために、ブザーが鳴動する装置が設けられていた(上り十三・高槻市・桂・西京極各駅、下り烏丸駅)。現在は両駅とも10両編成対応の有効長があるが、柱のデザインなどで延長部を確認することができる。 *かつて電車玩具の「[[プラレール]]」で[[阪急6300系電車|6300系電車]]が製品化された際(ただし製品は東海型急行電車[[国鉄165系電車|165系]]を塗り替えたもので、実車とは大きく異なる)、「[[#旧・通勤特急|通勤特急]]」が商品名で使用されていたことがある。 *2020年3月14日のダイヤ改正から、9300系で車内自動放送を開始。京都線において、一般車の自動放送は初となる。運転室の車掌台上にタッチパネル式の装置が設置され、車掌の操作により音声が放送される。特急・通勤特急をはじめとする京都線全種別で対応しており、女性専用車両の案内にも対応。 基本的には日本語と英語で放送されるが、中国語や韓国語にも対応している。ただし、駅到着時の対面乗り換えや走行中の啓発・マナーの放送は、従来通り肉声放送で行われている。 既に導入されている、京とれいんの放送とは異なったものが採用されている。2021年4月3日からは、神戸本線、千里線での車内自動放送導入に合わせて、5300系以降のロングシート車両でも車内自動放送の適用が開始された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | series = 阪急ワールド全集4 | title = 阪急ステーション | publisher = 阪急電鉄コミュニケーション事業部 | year = 2001 }} * {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 9 関西2 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790027-2 | ref = imao }} * {{Cite journal ja-jp |author=鶴通孝 |year=2001 |month=5 |title=関西私鉄 王国復権の道(3.運転パターンを刷新する阪急)|journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻415号 |pages= 66-69 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |ref = RJ415 }} * 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] ** {{Anchors|RP930_p1-103}} 「【特集】阪急電鉄京都線」2017年4月号(通巻930号) p.1-103 == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[大阪万博の交通]] * [[阪急新大阪連絡線]] * [[京王井の頭線]] - 当線同様戦後の分離時に戦時統合前とは別の事業者の所属になった路線。 {{阪急電鉄の路線}} {{京阪電気鉄道の路線}} {{デフォルトソート:はんきゆうきようとほんせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|きようとほんせん]] [[Category:阪急電鉄の鉄道路線|きようとほん]] [[Category:新京阪鉄道|路しんけいはんせん]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:京都府の交通]]
2003-09-22T17:50:45Z
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81(八十一、八一、はちじゅういち、やそひと、やそじあまりひとつ)は、自然数また整数において、80の次で82の前の数である。
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81(八十一、八一、はちじゅういち、やそひと、やそじあまりひとつ)は、自然数また整数において、80の次で82の前の数である。
{{整数|Decomposition=3{{sup|4}}}} '''81'''('''八十一'''、'''八一'''、はちじゅういち、やそひと、やそじあまりひとつ)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[80]]の次で[[82]]の前の数である。 == 性質 == *81は[[合成数]]であり、[[約数]]は[[1]], [[3]], [[9]], [[27]], 81である。 **[[約数の和]]は[[121]]。 **約数の和が奇数になる15番目の数である。1つ前は[[72]]、次は[[98]]。 **約数の和が[[平方数]]になる6番目の数である。1つ前は[[70]]、次は[[94]]。 ***平方数のうち約数の和も平方数になる2番目の数である。1つ前は1、次は[[400]]。({{OEIS|A08848}}) ** 約数の和が[[回文数]]になる8番目の数である。1つ前は[[43]]、次は[[96]]。({{OEIS|A028980}}) ** [[約数関数]]から導き出される数列 <math>a_n=\sigma(a_{n-1})</math> はその初期値によって異なる数列になる。異なる数列になる12番目の初期値(最小の値)を表す数である。1つ前は[[66]]、次は[[85]]。(ただし1を除く)({{OEIS|A257348}}) **約数を5個もつ2番目の数である。1つ前は[[16]]、次は[[625]]。 *{{sfrac|1|81}} = 0.{{underline|012345679}}… (下線部は循環節で長さは9)<ref>[https://www.zhengjian.org/node/59158 正見網 2009年4月24日 「算術漫談 m/81の十進小数一覧」]</ref> **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が9になる最小の数である。次は[[162]]。 **循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の8は[[73]]、次の10は[[451]]。({{OEIS|A003060}}) ** 3{{sup|-n}}の循環節は、1つ前の {{sfrac|1|27}} が3桁(3{{sup|3-2}} = 3{{sup|1}})、次の {{sfrac|1|[[243]]}} が27桁(3{{sup|5-2}} = 3{{sup|3}})になる。 *9番目の平方数である。1つ前は[[64]]、次は[[100]]。 ** ''n'' = 2 のときの 9{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は9、次は[[729]]。 *81 = (3 × 3){{sup|2}} **''n'' = 3 のときの (3''n'' ) {{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[36]]、次は[[144]]。({{OEIS|A016766}}) *81 = (8 + 1){{sup|2}} ** 自身の数の並びを変えないで区切った2つの数の和の[[自乗|平方]]が自身になる2番目の数である。1つ前は1、次は100。({{OEIS|A102766}}) ***2桁の整数の中で各位の和の平方が元の数と同じになる唯一の数である。 ** 81 = (8{{sup|1}} + 1{{sup|2}}){{sup|2}} 、この形の1つ前は1、次は[[441]]。({{OEIS|A270538}}) *81 = (8 + 1) × 9 **各位の和と、その和の数の数字の並び順を逆にした数との積が元の数に一致するという性質をもつ自然数である。1つ前は1、次は[[1458]]。 ***この数は 1458 (1 + 4 + 5 + 8 = 18, 18 × 81 = 1458) と [[1729]] (1 + 7 + 2 + 9 = 19, 19 × 91 = 1729) しかない。({{OEIS|A110921}}) *3番目の[[4乗数]]([[二重平方数]])である。1つ前は16、次は[[256]]。 ** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は27、次は[[243]]。 ** ''n'' = 1 のときの 3{{sup|4 ''n''}} の値とみたとき1つ前は1、次は[[6561]]。({{OEIS|A089683}}) ** [[素数]] ''p'' = 3 のときの ''p'' {{sup|4}} の値とみたとき1つ前は16、次は625。({{OEIS|A030514}}) ** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n'' {{sup|2}}}} の値とみたとき1つ前は3、次は[[19683]]。({{OEIS|A060722}}) ** ''n'' = 3 のときの ''n'' {{sup|''n'' + 1}} の値とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[1024]]。 * 81 = 3 × 3{{sup|3}} ** ''n'' = 3 のときの ''n'' × 3 {{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は[[324]]。({{OEIS|A036290}}) ** ''n'' = 3 のときの 3''n'' {{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[24]]、次は[[192]]。({{OEIS|A117642}}) ** 81 = 3{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 3{{sup|3}} *** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる13番目の数である。1つ前は[[80]]、次は[[92]]。({{OEIS|A025395}}) *次のような[[連分数]]表示を持つ(下線部は循環節。その長さは3である)。 **<math>\frac{10}{81} =\cfrac{1}{8+\cfrac{1}{9+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{\ddots}}}}</math> ({{underline|8, 9, 1}}) *6番目の[[七角数]]である ( 81 = 6(5 × 6 − 3) / 2 ) 。1つ前は[[55]]、次は[[112]]。 *[[トリボナッチ数]]である。1つ前は[[44]]、次は[[149]]。なお、81は<math>\sqrt{81}</math>番目(=9番目)にあたる。 **トリボナッチ数が平方数となる3番目の数である。1つ前は[[4]]、次は[[3136]]。 *6番目の[[完全トーシェント数]]である。1つ前は[[39]]、次は[[111]]。3の冪数は全て完全トーシェント数でもある。 *十進法では、81の冪数は下二桁が 61→41→21→01→81 で循環する。 **81{{sup|2}} = 6561、81{{sup|3}} = 531441、81{{sup|4}} = 43046721、81{{sup|5}} = 3486784401、81{{sup|6}} = 282429536481 *''n'' = 81 のときの ''n'' × 2{{sup|''n''}} &minus; 1 で表せる 81 × 2{{sup|81}} &minus; 1 は6番目の[[ウッダル数#ウッダル素数|ウッダル素数]]である。 **このような性質を持つ平方数としては81が最小で、他にこのような平方数は知られていない。({{OEIS|A002234}}) *30番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[80]]、次は[[84]]。 **9を基とする9番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[72]]、次は[[90]]。 **''n'' を基とする ''n'' 番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[1016]]、次は[[1090]]。({{OEIS|A82260}}) **平方数がハーシャッド数になる5番目の数である。1つ前は36、次は100。 **4乗数がハーシャッド数になる2番目の数である。1つ前は1、次は[[1296]]。 * 各位の積が8になる5番目の数である。1つ前は[[42]]、次は[[118]]。({{OEIS|A199989}}) *[[九九]]では 9 の段で 9 × 9 = 81(くくはちじゅういち)と1通りで表される。九九に現れる整数のうち最大の数である。 * 81 = 5 × 2{{sup|4}} + 1 より12番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[65]]、次は[[97]]。 *81 = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 3{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 6{{sup|2}} = 4{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 3つの平方数の和3通りで表せる3番目の数である。1つ前は66、次は[[86]]。({{OEIS|A025323}}) *81 = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 8{{sup|2}} ** 異なる3つの平方数の和1通りで表せる24番目の数である。1つ前は[[78]]、次は[[83]]。({{OEIS|A025339}}) ** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 8{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[577]]。({{OEIS|A074514}}) * 81 = 4{{sup|3}} + 4{{sup|2}} + 1 ** ''n'' = 4 のときの ''n'' {{sup|3}} + ''n'' {{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[37]]、次は[[151]]。({{OEIS|A098547}}) *9乗した数の各位の和が元の数になる最大の数である。1つ前は[[71]]。 *:81{{sup|9}} = 150094635296999121 → 1 + 5 + 0 + 0 + 9 + 4 + 6 + 3 + 5 + 2 + 9 + 6 + 9 + 9 + 9 + 1 + 2 + 1 = 81。 ** ''n'' = 9 のときの ''n'' 乗した数の各位の和が元の数になる最大の数とみたとき1つ前の8乗は[[63]]、次の10乗は[[117]]。({{OEIS|A046000}}) * 81 = 1{{sup|3}} &minus; 2{{sup|3}} + 3{{sup|3}} &minus; 4{{sup|3}} + 5{{sup|3}} ** ''n'' = 5 のときの |1{{sup|3}} &minus; 2{{sup|3}} + … + (&minus;1){{sup|''n'' + 1}} ''n'' {{sup|3}}| の値とみたとき1つ前は[[44]]、次は[[135]]。(ただし| |は[[絶対値]]記号)({{OEIS|A011934}}) ** [[正の数]]の値とみたとき1つ前は[[20]]、次は[[208]]。 * ''n'' {{sup|3}} の数を降順に並べた数とみたとき1つ前は1、次は2781。({{OEIS|A038398}}) * 81 = 15{{sup|2}} &minus; 144 ** ''n'' = 15 のときの ''n'' {{sup|2}} &minus; 12{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[52]]、次は[[112]]。({{OEIS|A132766}}) *各位の和([[数字和]])が9になる9番目の数である。1つ前は72、次は90。 **各位の和が ''n'' になる ''n'' 番目の数である。1つ前は71、次は[[109]]。({{OEIS|A181178}}) === 他の進数での性質 === *{{sfrac|1|81}} = 0.{{underline|012345679}}… (下線部は循環節で長さは9) **[[素因数]]に[[3]]が含まれている[[位取り記数法|N進法]]では、[[逆数]]は[[有限小数]]になる。 *** [[六進法]]では {{sfrac|1|213}} = 0.0024、[[十二進法]]では {{sfrac|1|69}} = 0.0194 となり、小数第四位までとなる。 *** [[十八進法]]では {{sfrac|1|49}} = 0.04 となり、小数第二位までとなる。 ***「3の冪数」進法では、[[三進法]]では {{sfrac|1|10000}} = 0.0001 となり、[[九進法]]では {{sfrac|1|100}} = 0.01 となる。 *81{{sub|(10)}}の冪数は、六進法では下四桁が同じ、十二進法と十八進法では下二桁が同じになる。 ** 六進法では213{{sup|2}} = 50213 で下四桁が0213となり、213→5'''0213'''→1522'''0213'''→413435'''0213'''の順に増える。よって、全ての213{{sub|(6)}}の冪数の下四桁もまた0213{{sub|(6)}}となる。 ** 十二進法では69→39'''69'''→2176'''69'''→124BB3'''69'''、十八進法では49→12'''49'''→512'''49'''→14E12'''49'''の順に増える。 *六進法では、16{{sub|(10)}} (= 24{{sub|(6)}}) の倍数は81{{sub|(10)}} (= 213{{sub|(6)}}) 種類、81{{sub|(10)}}の倍数も16{{sub|(10)}}種類であり、下四桁で判別する(十進法:16 × 81 = 1296 = 6{{sup|4}}。六進法:24 × 213 = 10000 = 10{{sup|4}})。16{{sub|(10)}}の倍数の例:1504{{sub|(6)}} = 400{{sub|(10)}}。81{{sub|(10)}}の倍数の例:4043{{sub|(6)}} = [[800|891]]{{sub|(10)}}。 == その他 81 に関すること == {{雑多な内容の箇条書き|date=2014年8月|section=1}} *[[原子番号]] 81 の元素は、[[タリウム]] (Tl)。 *第81代[[天皇]]は、[[安徳天皇]]。 *第81代[[内閣総理大臣]]は、[[村山富市]]。 *第81代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ベネディクトゥス2世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス2世]](在位:[[684年]][[6月26日]]~[[685年]][[5月8日]])である。 *年始から81日目、[[平年]]は[[3月22日]]、[[閏年]]は[[3月21日]]。 *「[[鉄塔 武蔵野線]]」に登場する武蔵野線の最終号基は81。正式には90基目だが、間に枝番(作品中では"のいち")が9基ある。 *[[クルアーン]]における第81番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[包み隠す (クルアーン)|包み隠す]]である。 *[[国際電話番号]]の 81 は、[[日本]]。 *[[バーコード]]規格、[[EANコード|EAN]] の国コード81は、[[イタリア]]。 *81歳を希に「半寿」ということがある。(八 + 十 + 一 = 半) *[[将棋盤]]の升は全部で 9 × 9 = 81個。このことから、[[将棋界]]では81歳を「[[盤寿]]」ともいう。 *[[姓名判断]]では、[[画数]]81以降は 1 と同じと解釈する。 *[[81プロデュース]]は、[[声優]]のマネージメントを行う事務所。 *第81[[師団]] **[[第81師団 (日本軍)|第81師団]]([[大日本帝国陸軍]]) **[[武装警察第81師団]]([[中華人民共和国|中国]]) *[[シンクレア ZX81]]は、[[シンクレア・リサーチ]]の[[ホームコンピュータ]]。 *[[シャドー81]]は、[[ルシアン・ネイハム]]の航空[[サスペンス]]小説。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|8|}} *[[8月1日]] {{自然数}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/81
17,907
82
82(八十二、はちじゅうに、やそじあまりふたつ)は自然数、また整数において、81の次で83の前の数である。
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82(八十二、はちじゅうに、やそじあまりふたつ)は自然数、また整数において、81の次で83の前の数である。
{{整数|Decomposition=2 × 41}} '''82'''('''八十二'''、はちじゅうに、やそじあまりふたつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[81]]の次で[[83]]の前の数である。 == 性質 == *82は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[41]], 82 である。 **[[約数の和]]は[[126]] 。 *27番目の[[半素数]]である。1つ前は[[77]]、次は[[85]]。 *{{sfrac|1|82}} = 0.0{{underline|12195}}… (下線部は循環節で長さは5) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が5になる2番目の数である。1つ前は[[41]]、次は[[123]]。 *[[各位の和]]が10になる8番目の数である。1つ前は[[73]]、次は[[91]]。 * 82 = 3{{sup|4}} + 1 ** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[28]]、次は[[244]]。({{OEIS|A034472}}) ** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|4}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[257]]。({{OEIS|A002523}}) * 82 = 1{{sup|2}} + 9{{sup|2}} ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる24番目の数である。1つ前は[[80]]、次は[[85]]。({{OEIS|A004431}}) ** 82 = 9{{sup|2}} + 1 *** ''n'' = 2 のときの 9{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[730]]。({{OEIS|A062396}}) *** ''n'' = 9 のときの ''n''{{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[65]]、次は[[101]]。({{OEIS|A002522}}) *82 = 3{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 8{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる38番目の数である。1つ前は[[78]]、次は[[84]]。({{OEIS|A025321}}) *82 = 1{{sup|2}} + 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 1{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 6{{sup|2}} = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 2{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 4{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} **4つの[[平方数]]の和5通りで表せる最小の数である。次は[[100]]。({{OEIS|A025361}}) ***4つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の4通りは[[52]]、次の6通りは[[90]]。({{OEIS|A025416}}) * ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|3}} と ''n'' を並べてできる数である。1つ前は[[11]]、次は[[273]]。({{OEIS|A239459}}) *[[完全数]]28を逆順に並べた数である。1つ前は[[6]]、次は[[694]]。({{OEIS|A135624}}) == その他 82 に関すること == *[[原子番号]] 82 の[[元素]]は、[[鉛]] (Pb)。 *82 は、[[核物理学]]において、[[2]], [[8]], [[20]], [[28]], [[50]], [[126]] と共に、[[原子核]]中の[[陽子]]、もしくは、[[中性子]]の数がこれらの数である場合、その原子核は安定しやすくなる、[[魔法数]]の一つとして知られている。 *第82代[[天皇]]は、[[後鳥羽天皇]]。 *第82代[[内閣総理大臣]]は、[[橋本龍太郎]]。 *第82代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ヨハネス5世 (ローマ教皇)|ヨハネス5世]](在位:[[685年]][[7月23日]]~[[686年]][[8月2日]])である。 *年始から数えて82日目は[[3月23日]]、[[閏年]]は[[3月22日]]。 *[[クルアーン]]における第82番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[裂ける (クルアーン)|裂ける]]である。 *[[国際電話番号]]の 82 は、[[大韓民国]]。 *[[バーコード]]規格、[[EANコード|EAN]] の国コード82は、[[イタリア]]。 *[[八十二銀行]]は、[[長野県]][[長野市]]に本店がある[[銀行]]。[[十九銀行]]と[[六十三銀行]]が合併して成立した。(19 + 63 = 82 から命名) *[[第82空挺師団 (アメリカ軍)|第82空挺師団]]は、[[アメリカ陸軍]]の[[師団]]。 *『'''[[ワニ分署|82(ワニ)分署]]'''』は、[[篠原とおる]]原作・画の[[漫画]]作品および、それを原作とした[[映画]]・[[オリジナルビデオ]]作品。 *[[ダーツ]]盤の領域は82ヶ所ある。 == 関連項目 == {{数字2桁|8|}} *[[8月2日]] {{自然数}}
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84
84(八十四、はちじゅうし、はちじゅうよん、やそじあまりよつ)は自然数、また整数において、83の次で85の前の数である。
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84(八十四、はちじゅうし、はちじゅうよん、やそじあまりよつ)は自然数、また整数において、83の次で85の前の数である。
{{整数|Decomposition=2{{sup|2}} × 3 × 7}} '''84'''('''八十四'''、はちじゅうし、はちじゅうよん、やそじあまりよつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[83]]の次で[[85]]の前の数である。 == 性質 == *84 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[3]], [[4]], [[6]], [[7]], [[12]], [[14]], [[21]], [[28]], [[42]], 84 である。 **[[約数の和]]は[[224]]。 ***18番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[80]]、次は[[88]]。 ***約数の和が[[200]]を超えるのは84が一番小さい。 ****19番目の[[高度過剰数]]である。1つ前は[[72]]、次は[[90]]。 **約数を12個もつ3番目の数である。1つ前は[[72]]、次は[[90]]。 **[[約数]]の積は351298031616。 ***約数の積の値がそれ以前の数を上回る17番目の数である。1つ前は[[72]]、次は[[90]]。({{OEIS|A034287}}) *84 = 1 + 3 + 6 + 10 + 15 + 21 + 28 **7番目の[[三角錐数]]である。1つ前は[[56]]、次は[[120]]。 **84 = 1{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ***4連続奇数の平方和で表せる最小の数である。次は[[164]]。(ただし負の数も含めると1つ前は[[36]]) *** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[496]]。({{OEIS|A134006}}) *{{sfrac|1|84}} = 0.01{{underline|190476}}… (下線部は循環節で長さは6) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる17番目の数である。1つ前は[[78]]、次は[[91]]。 *84{{sup|2}} + 1 = 7057 であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で[[素数]]を生む17番目の数である。1つ前は[[74]]、次は[[90]]。 *三辺の長さが [[13]], [[14]], [[15]] の三角形の面積は 84 である。 **3連続整数でできる三角形の面積が整数となる2番目の面積を表す数である。1つ前は [[6]] (''a''=[[3]], ''b''=[[4]], ''c''=[[5]])、次は 1170 (''a''=[[51]], ''b''=[[52]], ''c''=[[53]])。 *84 = 4{{sup|1}} + 4{{sup|2}} + 4{{sup|3}} **''a'' = 4 のときの ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[39]]、次は[[155]]。 **4の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[20]]、次は[[340]]。 **84 = 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 8{{sup|2}} *** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる39番目の数である。1つ前は[[82]]、次は[[88]]。({{OEIS|A025321}}) *** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる26番目の数である。1つ前は[[83]]、次は[[91]]。({{OEIS|A025339}}) *** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 8{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[584]]。({{OEIS|A074535}}) *√{{overline|7000}} に最も近い整数である。√{{overline|7000}} = 83.66600…。83{{sup|2}} = 6889, 84{{sup|2}} = 7056。 *31番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[81]]、次は[[90]]。 **12を基としたとき2番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[48]] 、次は[[156]] 。 *[[約数]]の和が84になる数は3個ある。([[44]], [[65]], [[83]]) [[約数]]の和3個で表せる5番目の数である。1つ前は[[60]]、次は[[90]]。 * [[各位の和]]が12になる6番目の数である。1つ前は[[75]]、次は[[93]]。 * 各位の[[立方和]]が[[平方数]]になる10番目の数である。1つ前は[[48]]、次は[[88]]。({{OEIS|A197039}}) *:8{{sup|3}} + 4{{sup|3}} = 576 = 24{{sup|2}} * 84 = 2{{sup|2}} × 21 ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} × 21の値とみたとき1つ前は[[42]]、次は[[168]]。({{OEIS|A175805}}) ** 84 = 2{{sup|2}} × 3 × 7 *** 3つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' × ''r'' の形で表せる2番目の数である。1つ前は[[60]]、次は[[90]]。({{OEIS|A085987}}) ** 84 = 3 × 2{{sup|2}} × (2{{sup|3}} − 1) *** ''n'' = 3 のときの 3 × 2{{sup|''n''−1}} × (2{{sup|''n''}} − 1) の値である。1つ前は[[18]]、次は[[360]]。({{OEIS|A103897}}) ** 84 = 28 × 3 *** [[完全数]][[28]]の倍数である。1つ前は[[56]]、次は[[112]]。({{OEIS|A135628}}) ** 84 = 3 × 4 × 7 *** ''n'' = 3 のときの ''n''(''n'' + 1)(2''n'' + 1) の値とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[180]]。({{OEIS|A055112}}) * 84 = 3{{sup|4}} + 3 ** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|4}} + ''n'' の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は[[260]]。({{OEIS|A091940}}) ** ''n'' = 3 のときの ''n'' (''n''{{sup|''n''}} + 1) の値とみたとき1つ前は1つ前は[[10]]、次は[[1028]]。({{OEIS|A322406}}) * ''n'' = 4 のときの 2''n'' と ''n'' を並べてできる数である。1つ前は[[63]]、次は[[105]]。({{OEIS|A235497}}) * 84 = 10{{sup|2}} − 16 ** ''n'' = 10 のときの ''n''{{sup|2}} − 16 の値とみたとき1つ前は[[65]]、次は[[105]]。({{OEIS|A028566}}) == その他 84 に関連すること == *[[原子番号]] 84 の[[元素]]は、[[ポロニウム]] (Po)。 *第84代[[天皇]]は、[[順徳天皇]]。 *第84代[[内閣総理大臣]]は、[[小渕恵三]]。 *第84代[[教皇|ローマ教皇]]は[[セルギウス1世 (ローマ教皇)|セルギウス1世]](在位:[[687年]][[12月15日]]~[[701年]][[9月9日]])である。 *[[国際電話番号の一覧|国際電話国番号]] 84 は、[[ベトナム]]。 *[[バーコード]]規格、[[EANコード|EAN]] の国コード84は、[[スペイン]]。 *[[数学]]の有名な[[方程式]]、[[アレクサンドリアのディオファントス#ディオファントスの墓碑銘|ディオファントスの墓碑銘]]と呼ばれる問題の解が 84。([[アレクサンドリアのディオファントス|ディオファントス]]という数学者の墓碑に彼の生涯についての問題があるというもの。問題を解くと、ディオファントスが84歳,彼の息子は42歳で亡くなったことが分かる。) *[[クルアーン]]における第84番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[割れる (クルアーン)|割れる]]である。 *[[年始]]から数えて84日目は[[3月25日]]、[[閏年]]では[[3月24日]]。 *[[画数]]が最大の漢字「[[たいと]]」の画数は、84画。 *[['84とちぎ博]]は、[[宇都宮市]]で開催された地方[[博覧会]]。 *[[第一種郵便物|定型郵便物]]の最小料金(25g以内)は84円である。(2019年10月1日より適用中) *[[ハープーン (ミサイル)|ハープーン]][[ミサイル]]の制式番号は 84。 *[[第84戦闘飛行隊 (アメリカ海軍)|第84戦闘飛行隊]]は、[[アメリカ海軍]]の飛行隊。 *[[F-84 (戦闘機)|F-84]] は、アメリカで開発され西側各国で使用された[[戦闘機]]。 *[[M-84]] は、[[ユーゴスラビア]]の[[戦車]]。 *[[T-84]]は、[[ウクライナ]]の戦車。 *[[カナディア CL-84]] は、[[カナダ]]の[[VTOL]]実験機。 *[[大日本帝国陸軍]] **[[第84師団 (日本軍)|第84師団]]。 **[[歩兵第84連隊]]。 **[[四式戦闘機]](疾風)の試作名称はキ84。 == 関連項目 == {{数字2桁|8|}} *[[8月4日]] {{自然数}}
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17,909
85
85(八十五、はちじゅうご、やそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、84の次で86の前の数である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "85(八十五、はちじゅうご、やそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、84の次で86の前の数である。", "title": null } ]
85(八十五、はちじゅうご、やそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、84の次で86の前の数である。
{{整数|Decomposition=5 × 17}} '''85'''('''八十五'''、はちじゅうご、やそじあまりいつつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[84]]の次で[[86]]の前の数である。 == 性質 == *85は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[5]], [[17]], 85 である。 **[[約数の和]]は[[108]]。 *** [[約数関数]]から導き出される数列 <math>a_n=\sigma(a_{n-1})</math> はその初期値によって異なる数列になる。異なる数列になる13番目の初期値(最小の値)を表す数である。1つ前は[[81]]、次は[[105]]。(ただし1を除く)({{OEIS|A257348}}) * 85 = 5 × 17 ** 28番目の[[半素数]]である。1つ前は[[82]]、次は[[86]]。 ***3連続で半素数が続く2番目の数である。1つ前は[[33]]、次は[[93]]。 ***[[約数]]の個数が3連続で同じになる2番目の数である。1つ前は[[33]]、次は[[93]]。 ** 8 + 5 = 5 + 1 + 7 より5番目の[[スミス数]]である。1つ前は[[58]]、次は[[94]]。 *{{sfrac|1|85}} = 0.0{{underline|1176470588235294}}… (下線部は循環節で長さは16) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が16になる5番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[102]]。 *正85角形は[[定規とコンパスによる作図|定規とコンパス]]で作図できる23番目の[[正多角形]]である。1つ前は正[[80]]角形、次は正[[96]]角形。({{OEIS|A003401}}) *[[十六進法|16進数]]では 85 = 16 × 5 + 5 = 55{{sub|(16)}} となる[[回文数]]である。1つ前は[[68]]、次は[[102]]。({{OEIS|A029730}}) *85 = 4{{sup|0}} + 4{{sup|1}} + 4{{sup|2}} + 4{{sup|3}} **''a'' = 4 のときの ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[40]]、次は[[156]]。 **4の累乗和とみたとき1つ前は[[21]]、次は[[341]]。({{OEIS|A002450}}) *** 85 = {{sfrac|4{{sup|4}} &minus; 1|4 &minus; 1}} **** ''n'' = 4 のときの {{sfrac|''n''{{sup|''n''}} &minus; 1|''n'' &minus; 1}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[781]]。({{OEIS|A023037}}) **85 = 2{{sup|0}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|4}} + 2{{sup|6}} ***''a'' = 2 のときの ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|4}} + ''a''{{sup|6}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[820]]。({{OEIS|A059830}}) *[[各位の和]]が13になる5番目の数である。1つ前は[[76]]、次は[[94]]。 *85 = 2<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> = 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる25番目の数である。1つ前は[[82]]、次は[[89]]。({{OEIS|A004431}}) **2通りの[[平方数]]の和で表せる3番目の数である。1つ前は[[65]]、次は[[125]]。({{OEIS|A025285}}) **85 = 2<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> *** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 9{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[737]]。({{OEIS|A074604}}) *** 85 = 3{{sup|4}} + 4 **** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} + ''n'' の値とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[248]]。({{OEIS|A104743}}) **85 = 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> *** ''n'' = 6 のときの ''n''{{sup|2}} + (''n'' + 1){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[61]]、次は[[113]]。({{OEIS|A001844}}) ****7番目の[[中心つき四角数]]である。 *** ''n'' = 2 のときの 6{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[559]]。({{OEIS|A074619}}) *85 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 8{{sup|2}} **異なる4つの[[平方数]]の和1通りの形で表せる19番目の数である。1つ前は[[84]]、次は[[86]]。({{OEIS|A025376}}) ** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 8{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[15]]、次は[[585]]。({{OEIS|A034496}}) * 85 = 11{{sup|2}} &minus; 36 ** ''n'' = 11 のときの ''n''{{sup|2}} &minus; 36 の値とみたとき1つ前は[[64]]、次は[[108]]。({{OEIS|A098847}}) == その他 85 に関すること == *[[チャド・ジョンソン (アメリカンフットボール)]] *[[原子番号]] 85 の[[元素]]は、[[アスタチン]] (At)。 *[[年始]]から数えて85日目は、[[3月26日]]、閏年では[[3月25日]]。 *第85代[[天皇]]は、[[仲恭天皇]]。 *[[日本]]の85代目の[[内閣総理大臣]]は、[[森喜朗]]。 *第85代[[教皇|ローマ教皇]]は、[[ヨハネス6世 (ローマ教皇)|ヨハネス6世]](在位:[[701年]][[10月30日]]~[[705年]][[1月11日]])。 *[[国際科学技術博覧会|科学万博]]つくば'85 *[[JR東海キハ85系気動車]] *[[JR東海HC85系気動車]] *「キューピッド&サイケ85」:[[スクリッティ・ポリッティ]]が[[1985年]]に発表したアルバム。 *[[台湾]]のコーヒーチェーン店「[[85度C]]」の名称は「[[コーヒー]]は[[摂氏]]85度で飲むのが最もおいしい」ということに由来する。 *[[クルアーン]]における第85番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は、[[星座 (クルアーン)|星座]]。 == 関連項目 == {{数字2桁|8|}} *[[8月5日]] {{自然数}}
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17,910
阪急宝塚本線
宝塚本線(たからづかほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県宝塚市の宝塚駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。宝塚本線自体を指して、またはその支線である箕面線を含めて通称宝塚線(たからづかせん)と呼ばれる。ラインカラーは箕面の紅葉からオレンジ(■)。 神戸本線および京都本線と並ぶ、阪急電鉄の基幹路線の一つであり、支線である箕面線とともに前身の箕面有馬電気軌道によって開業した阪急電鉄の創業路線でもある。ルーツの異なる京都線(京都本線およびその支線)と区別するために、宝塚線と神戸線(神戸本線およびその支線)を合わせて神宝線と総称されることもある。 大阪随一の繁華街である梅田(キタ)と、宝塚までの阪神間の住宅街を結ぶ通勤・通学路線である。また、宝塚市は宝塚歌劇団(阪急阪神東宝グループ)の本拠地であり、当路線は宝塚大劇場へのアクセス路線でもある。全区間にわたり西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線(JR宝塚線)の東側ないし北側を通るほか、国道176号(能勢街道)も全区間ほぼ同じルートを通っている。神戸線と京都線が2つの都市を結ぶ都市間輸送鉄道(インターアーバン)なのに対し、宝塚線は大阪と郊外の住宅地・ベッドタウンを結ぶ路線であるという特徴がある。川西能勢口駅で能勢妙見山や日生ニュータウンに通じる能勢電鉄妙見線・日生線と接続しており、能勢電鉄に直通する列車も一部設定されている。 当路線が開業した箕面有馬電気軌道時代、沿線は郊外の田園地帯であったため経営が危ぶまれた。そこで、創業者の小林一三は沿線の大阪府池田市で住宅ローンを活用した分譲住宅の販売を行い、鉄道会社自身が乗客の需要を創出し、現在まで続く高級住宅街としてその価値を確立した。これ以降鉄道事業と不動産開発、流通、レジャーなどの関連事業を多角的に展開してシナジーを高める私鉄経営モデルに発展させた。その後、小林一三が考案した経営モデルは全国の大手私鉄や国鉄から民営化して誕生したJR各社などが採用していった。沿線の阪急百貨店や宝塚歌劇団などはこのビジネスモデルによるものである。 沿線は市街地や住宅地が続いており、北摂(豊能地域・阪神北地域)から大阪への通勤・通学路線となっている。三国駅付近、曽根駅 - 豊中駅間、石橋阪大前駅 - 川西能勢口駅間、宝塚駅付近は高架化されている。 創業当時、宅地開発用に買収した土地に沿って路線を建設したことから、曲線が多く、スピードアップに不利な線形となった。特に、三国駅付近には制限速度30km/hの急曲線が存在し、最大のネックとなっていた。1990年台から2000年にかけて、三国駅付近および豊中駅の急曲線は高架化に併せて緩和されたが、2020年現在も、服部天神駅 - 曽根駅間、豊中駅 - 蛍池駅間、石橋阪大前駅などにやや急な曲線が残っている。神戸本線・京都本線に比べて平均駅間距離が短く、いくつかの駅は1962年までに統合で姿を消している。 大阪梅田駅 - 宝塚駅間には普通のほか、ほぼ終日にわたって急行が運転されている。このほか、平日朝には通勤特急・準急、そして朝夕には大阪梅田駅 - 能勢電鉄日生中央駅間を直通運転している特急「日生エクスプレス」が運転されている。また、お盆・年末で土曜・休日ダイヤにて運転する平日の朝ラッシュ時は上りのみ川西能勢口発大阪梅田行き普通を増発するなど、柔軟なダイヤ編成を行っている。 ダイヤ面では、戦後の昭和20年代から長い間、昼間15分間隔(梅田駅〈現在の大阪梅田駅〉 - 宝塚駅間の急行、梅田駅 - 宝塚駅間の普通、梅田駅 - 池田駅間の普通が各1本ずつ)のダイヤが続いた(当時は車庫が池田駅にあった)。平井車庫を建設し池田駅から車庫を移転したうえで、池田駅高架化工事中には当駅の折り返し線が使えなかったため、池田駅発着の普通を暫定的に雲雀丘花屋敷駅まで延長するなどの変化はあったが、基本的には30年以上にわたって、昼間はほぼ同じパターンのダイヤで運転されてきた。 1986年(昭和61年)12月には、阪急日生ニュータウンの発展と能勢電鉄日生線の定着を踏まえた白紙ダイヤ改正が実施され、昼間10分間隔運転(梅田駅 - 宝塚駅間の急行、梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の普通と梅田駅 - 池田駅間の普通を交互に運転)として急行を大増発するとともに豊中駅に新規停車させた。以来昼間の速達列車の10分間隔運転というスタイルは基本的に変わりはないが、近年は輸送形態や社会情勢の変化などにより、後述の通り、速達系列車の内容を変更する改正を頻繁に行うようになっている。2015年(平成27年)以降は、ラッシュ時間帯の減車・減便(特に宝塚駅 - 川西能勢口駅間や箕面線直通列車)も行われるようになった。 他路線との接続は、石橋阪大前駅では箕面線、川西能勢口駅では能勢電鉄との接続を考慮したダイヤが組まれているが、宝塚駅での今津線との接続は重視されていない(今津線が、神戸本線との接続を優先させているため)。昼間時間帯では、今津線から宝塚本線側に乗り換える場合、今津線の列車が宝塚駅に到着する数分前に宝塚本線の急行が出発してしまうダイヤとなっている(対して、宝塚本線から今津線へは数分での接続となる)。この傾向は長く続いており、特に昼間の特急が設定されていた2000年6月 - 2003年8月は、今津線から乗り換える場合、接続パターンが特急・普通の交互(急行は前述の通り今津線到着前に出発してしまう)となり、川西能勢口駅以東へ急ぐ場合は利用できる列車が実質20分毎という状態になっていた。 2022年12月17日改正より、箕面線との直通列車が廃止。また、大阪梅田駅での折り返しが急行・普通交互の運用となり、大阪梅田行き急行は折り返し雲雀ヶ丘花屋敷行き普通として、大阪梅田行き普通は折り返し宝塚行き急行として運行される。 以下に種別ごとの詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「駅一覧」の節および下図を参照。運行の変遷や過去の種別の解説において梅田駅、石橋駅とあるのはそれぞれ現在の大阪梅田駅、石橋阪大前駅である。 平日ダイヤのみ、朝ラッシュ時に日生中央発大阪梅田行きが、夕ラッシュ時に大阪梅田発日生中央行きが運行される。 阪急線内での途中停車駅は、十三駅・石橋阪大前駅・池田駅・川西能勢口駅である。1997年以前の急行と同じ停車駅であり、通勤特急・急行停車駅の豊中駅と、急行停車駅の蛍池駅を通過する。途中、曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。 1997年11月改正で運転を開始した。開始当初は平日限定で朝に上り列車が3本、夕方に下り列車が3本であった。2003年のダイヤ改正より池田駅が停車駅に追加され、上り列車・下り列車とも7本となっている。また、かつては上り列車に川西能勢口駅で増結して10両編成で運行する列車があったが、利用客の減少に伴い、2015年3月のダイヤ改正で川西能勢口駅での増結が中止され、能勢電鉄内停車駅からの所要時間が短縮された。 なお、2009年春から2015年秋まで、春・秋の行楽期の特定の土曜・日曜・祝日にも臨時列車として運転されていた(基本は午前の日生中央発梅田行き2本のみ)。 平日朝に、川西能勢口発大阪梅田行きが7本運行されている。途中の停車駅は、池田駅・石橋阪大前駅・豊中駅・十三駅である。途中、曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。急行停車駅のうち、蛍池駅を通過する。 全列車8両編成の運転で、最後部(宝塚方)の車両には女性専用車両を設定している。2022年12月17日のダイヤ改正前までは10両編成で運転していた。 2015年3月21日のダイヤ改正で通勤急行を改称する形で、5本が設定された。2018年7月7日のダイヤ改正以降は6本(15 - 17分間隔)の設定となった。2022年12月17日のダイヤ改正で10両編成の運転を取り止め、全列車8両編成となり、1本増発され7本の運行となった。 なお、2000年6月から2003年8月までにも通勤特急が設定されていた。この初代の通勤特急は宝塚発梅田行きが片道2本のみ運転されていて、途中の停車駅は雲雀丘花屋敷駅・川西能勢口駅・池田駅・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)・十三駅であった。 終日運行されている。基本的に大阪梅田駅 - 宝塚駅間で運転されるが、下りは平日夕方から夜間にかけてのラッシュ時に大阪梅田発雲雀丘花屋敷行きが設定されている。 途中の停車駅は、十三駅と豊中駅から宝塚駅までの各駅である。日中時間帯では10分間隔で運行されているが、急行が普通を追い抜くダイヤは設定されていない。夕ラッシュ時の雲雀丘花屋敷行きは、途中の曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中において大阪梅田駅 - 宝塚駅間の下り列車が最速33分50秒(表定速度:43.4 km/h、平均速度:50.7 km/h、上り列車は最速34分40秒)で走行している。 宝塚本線の優等列車としては最も古く、1932年10月に登場した。かつては十三駅 - 石橋駅(現在の石橋阪大前駅)間無停車で豊中駅と蛍池駅は通過していた(石橋駅 - 宝塚駅間は各駅停車。ただし、1961年の雲雀丘花屋敷駅開業から1962年の花屋敷駅廃止までは朝夕は花屋敷駅を通過していた)。1986年12月改正で豊中駅に平日ラッシュ時の一部を除いて停車するようになり、1997年11月改正で豊中駅に全列車が、2003年8月改正で蛍池駅に停車するようになった。日中は一時期特急または快速急行に置き換えられていたこともあったが、2006年10月改正から昼間の運転が復活している。 宝塚本線の急行で大阪梅田駅 - 宝塚駅間を利用する場合、実際には大阪梅田駅から神戸本線の特急に乗車し、西宮北口駅で今津線に乗り換える経路よりも多少時間がかかるため、今津線経由で行く場合の方が宝塚駅に先着できる。ただし、後述の宝塚発今津線経由大阪梅田行きの準急を除いて、西宮北口駅での乗り換えが伴うため、上り下りを含めた移動が強いられる。接続時間も含めると日中の場合の所要時間差は大阪梅田駅 → 宝塚駅が1分差(宝塚本線経由33分、神戸本線・今津線経由32分)、宝塚駅 → 大阪梅田駅が2分差(宝塚本線経由34分、今津線・神戸本線経由32分)と大差はなくなる。また、大阪梅田駅から宝塚駅に向かう場合、最終は今津線経由の方が遅い(宝塚駅から大阪梅田駅へは、平日のみ今津線経由の方が僅かだが遅い)。 1982年3月29日からは、阪急で初めての10両編成の運用が設定された。また雲雀丘花屋敷駅始発の急行は、1980年代の一時期はポスターなどで「区間急行」と案内されていたが、正式な種別名は「急行」であり、停車駅も急行と同一である。「区間急行」という種別が正式な種別名として阪急で採用された事例は、宝塚本線以外も含めて存在しない。1995年(平成7年)6月改正では、梅田駅発雲雀丘花屋敷駅行きの下り急行も新設されている。 平日の朝ラッシュ時に宝塚発大阪梅田行きのみが7本運行されている。途中の停車駅は、曽根駅までの各駅と十三駅、中津駅である。全列車とも途中駅での待避を行わずに大阪梅田駅まで先着する。 かつては現在の急行の停車駅と三国駅に停車し、箕面線直通列車を基本に、一部列車が梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 雲雀丘花屋敷駅間で運転されていた。1997年11月改正時に通勤準急の運行開始と代わる形で一旦運行が休止されたが、2000年6月改正で復活した。この改正では宝塚発も運転されるようになり、三国駅は通過となった(現在の急行の停車駅と同じ。当時の急行とは蛍池駅に停車するか否かの違いのみであった)。2003年8月改正で箕面線直通列車が通勤準急に変更され、準急が岡町駅・曽根駅・中津駅に停車するようになったが、2015年3月改正で通勤準急が廃止され、箕面線直通と雲雀丘花屋敷行きの準急が復活した。しかし、2018年7月改正でこれらの列車が再び廃止され宝塚発梅田行きのみの運行体制になった。 なお、平日朝ラッシュ時上りに限り、宝塚駅から今津線・神戸本線経由で大阪梅田行きの準急が別途運行されている(詳細は今津線・神戸本線を参照)。門戸厄神駅以北は各駅に停車するが、西宮北口駅には停車せず、宝塚本線の急行より数分所要時間が短い。 1980年までは、春・秋の行楽期の日曜・祝日には箕面線直通の臨時準急が運転されていた。正面には、春はさくら、秋はもみじのイラストのプレートが掲げられていた。梅田駅の発車時刻は毎時07分、22分、37分、52分(臨時特急と同様)。春の行楽時の運転は1973年以降は臨時特急となったため臨時準急は秋のみの運転となり、秋の運転も1980年を最後に終了した。 各駅に停車する種別で、日中を中心に大阪梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間で終日運転される。2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中の大阪梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の下り列車が最速29分20秒(表定速度:37.2 km/h、平均速度:46 km/h、上り列車は最速29分30秒)で走行している。大阪梅田駅発を基準に平日9時台から22時台にかけてと土曜・休日7時台から18時台にかけては1時間6本を基本に運転されている。なお、平日のラッシュ時以外は、上り・下りともに後続の急行よりも終点まで先着する。前述の通り、急行が豊中駅 - 宝塚駅間で各駅に停車するため雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間での運転は基本的にないが、急行の運転がない早朝・深夜に限り、大阪梅田駅 - 宝塚駅間(深夜は大阪梅田行きのみ)全線通しで運転されている。このほか、平日朝・夕ラッシュ時には大阪梅田駅 - 池田駅・豊中駅・川西能勢口駅間の各区間運転の列車が、深夜には宝塚発川西能勢口・池田行きも設定されている。 戦後は1986年12月のダイヤ改正まで、梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通が終日運転されていた。加えて、昼間は梅田駅 - 池田駅間の普通(1980年(昭和55年)以降は雲雀丘花屋敷駅折り返しに変更)も運転され、通勤時間帯には曽根駅、豊中駅、雲雀丘花屋敷駅折り返しの普通も運転されていた。1986年12月のダイヤ改正で梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通が大幅に削減され(昼間は設定が消滅)、昼間は梅田駅 - 池田駅間(後に雲雀丘花屋敷駅まで延長)と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間とがそれぞれ交互に20分間隔(併せて10分間隔)となった。昼間の梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通は、2000年6月のダイヤ改正で梅田駅 - 宝塚駅間の特急が新設された際に20分間隔で復活し、2003年8月の快速急行新設によるダイヤ改正では10分間隔となったが、2006年10月のダイヤ改正で快速急行が急行に格下げされた際に、昼間の普通は再び梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間に短縮された。その後、2018年7月改正で早朝と夕ラッシュ時に運行されていた箕面線へ直通する梅田発箕面行きが廃止され、2022年12月改正で箕面線に直通する列車が廃止された。 また、曽根駅付近高架化工事開始前は、定期ダイヤでは曽根駅 - 梅田駅(現在の大阪梅田駅)間の区間列車があった。1961年の雲雀丘花屋敷駅開業から1962年の花屋敷駅廃止までは、朝夕の大型車両5両編成列車は、花屋敷駅を通過していた。 1995年のダイヤ改正で、通勤需要の増大に対応して、試行的に平日のラッシュ時間帯の梅田駅 - 宝塚駅間に定期運転の特急が初めて設定された(当時の途中停車駅:十三・石橋・川西能勢口。朝は梅田行き、夕方は宝塚行きが2本ずつ設定され、梅田行きは10両編成で運転された)。その後、1997年のダイヤ改正で雲雀丘花屋敷駅を停車駅に追加した一方、夕方の宝塚行きは廃止された。 2000年6月4日のダイヤ改正では、HEP FIVEおよび宝塚大劇場(「花のみち」リニューアル完成)へのさらなる集客を目的に、特急の運転時間帯を日中に移して増発、停車駅を十三駅・豊中駅・石橋駅・池田駅・川西能勢口駅・山本駅とし、高架工事の完成、最高速度の100km/hへの向上、優等列車優先のダイヤ構成(日中の庄内駅・雲雀丘花屋敷駅での普通列車の追い抜きを復活)により、梅田駅 - 宝塚駅間を下り最速で29分50秒(表定速度49.3 km/h。上り最速30分30秒、表定速度48.2 km/h)で結んだ。運転日も、これまでの平日ダイヤのみから、正月ダイヤ適用日を除いた土曜・休日にも拡大された。平日朝ラッシュ時に設定されていた従来からの特急は、池田駅を停車駅に加えた上で通勤特急に変更された(梅田行きのみ設定)。通勤特急は、10両編成で運転された。 2003年8月のダイヤ改正では、大阪モノレールとの接続による大阪国際空港(伊丹空港)へのアクセス改善の必要性や、各駅停車との接続、川西能勢口駅以西での20分サイクル化・列車間隔不均等化の改善のため、特急の運転を休止し、蛍池駅と雲雀丘花屋敷駅を停車駅に加えた快速急行が設定された。併せて、日中の急行も快速急行に統合されたため、日中の梅田駅 - 宝塚駅間が毎時12本運転となった。同改正では、通勤特急が日生エクスプレスの増発に伴い廃止、正月特別ダイヤの臨時特急(初詣特急)も廃止された。これに伴い、雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間では10両編成の列車が消滅、川西能勢口駅 - 宝塚駅間から「特急」の名が付く列車が消滅した。以後、日生エクスプレスを除いて、特急は運転されていない。なお、通勤特急は2015年に復活した。 1973年から2003年まで、正月三が日(暦の関係で1月4日ないし5日までの年もあった)に限り、1972年まで運転されていた臨時急行に代わり、『初詣特急』と名付けられた臨時特急が運転されていた。当初の停車駅は十三・石橋(現在の石橋阪大前)・川西能勢口・中山(現在の中山観音)・清荒神で、のちに川西能勢口にも停車するようになった。この臨時特急は定期の急行の種別変更ではなく増発であり、10時台 - 15時台に20分間隔(1986年までは15分間隔)で運転された。この臨時特急には1981年まで『初詣』ないし『初詣特急』と書かれた丸い特製ヘッドマークが掲げられていたが、1982年からは各運転日共通の『臨時特急』の表示板に変更された(但し、駅の発車標では『初詣特急』の表示を継続)。同時期に「三福まいり」(中山寺、清荒神清澄寺、門戸厄神東光寺の3寺院)初詣祈念品引換券付き1日乗車券を販売していることから運行していた。 正月三が日以外にも、1997年11月改正までは春・秋の行楽期の日曜・祝日にも臨時ダイヤが組まれており(通称「大運転」)、春は臨時急行の格上げの形で1973年3月から、秋は箕面直通の臨時準急に代わり1981年11月から、午前と夕方のみ臨時特急が増発された。1986年までは15分間隔では梅田駅07分、22分、37分、52分発だった。1987年からは20分間隔となった。停車駅は時期によって異なるが、当初は十三・石橋(現在の石橋阪大前)・池田で、のちに池田駅が停車駅から外れ、川西能勢口駅が停車駅に追加されるなどの変化があった。この臨時特急にも1980年の春までは『春の臨時特急』と書かれた丸い特製ヘッドマーク(種別表示板)が掲げられていたが、1981年3月に種別表示板のデザイン変更・阪急全線での仕様統一が実施されて以降は初詣臨時特急と同様には各運転日共通の『臨時特急』の種別表示板に変更された。その後アステ川西(川西阪急)開業や、福知山線の快速が川西池田駅に停車することに伴い、1989年春の行楽期から川西能勢口駅にも停車するようになった。同時に一部は川西能勢口駅始発となった。 上記以外には団体臨時列車として、春の大運転の時期に宝塚ファミリーランドで開催されたイベントに合わせて、応募・抽選制のノンストップ特急が運転されたことがある。この列車にはイベントの内容に合わせて「バイキング号」「童話号」「ファルコン号」「スーパー戦士号」「シートン号」などの愛称が付けられていた。1973年春の春の臨時特急(前述)では、宝塚ファミリーランドのイベントに合わせて「サイボーグ号」の愛称が付けられ、ヘッドマークも掲げられていた。 2009年4月18日から2015年5月6日まで、春・秋の行楽期の土曜・休日に限り、臨時日生エクスプレスが運行された(晩年は梅田行きのみ、詳細は当該項目を参照)。 2003年8月30日のダイヤ改正で新設。昼間時間帯のみ10分間隔で梅田駅 - 宝塚駅間で運転されていた。停車駅は、梅田駅・十三駅・豊中駅・蛍池駅・石橋駅・池田駅・川西能勢口駅・雲雀丘花屋敷駅・山本駅・宝塚駅で、改正前の特急停車駅に蛍池駅と雲雀丘花屋敷駅を追加したものであるが、この2駅が追加されたことにより、豊中駅 - 山本駅間は各駅停車となった。宝塚駅では快速急行、普通とも今津線との乗り換え利便を考慮して全て4号線に発着させていたため、宝塚駅到着後は僅か2分で折り返していた。なお、快速急行が運行されていた当時の正月特別ダイヤでは運休し、代わりに急行が運行されていた。 2006年10月のダイヤ改正で輸送力適正化のため快速急行の運転を休止し、結果的にほぼ1995年以前の運転体系に戻ったが、当時とは異なり、急行は全列車が豊中駅と蛍池駅に停車する。 1997年11月改正で運転を開始。朝ラッシュ時のみに宝塚駅・雲雀丘花屋敷駅 - 梅田駅間で運行されていた。停車駅は、宝塚駅 - 服部駅(現在の服部天神駅)間の各駅と十三駅・梅田駅で、豊中駅 - 梅田駅間では後述の通勤準急と千鳥停車を構成していた。そのため、1997年11月改正から2000年6月改正までの間は、通勤準急と合わせて宝塚本線の全駅に優等列車が停車していた。2000年6月改正で運行を休止した。 2003年8月改正で再び運転を開始。平日の朝ラッシュ時のみに宝塚駅 - 梅田駅間で運行されていた。復活した際の停車駅は、宝塚駅 - 石橋駅間の各駅と豊中駅・十三駅・梅田駅で、急行と違い大阪モノレール乗換駅である蛍池駅には停車しなかった。10両編成で運転され雲雀丘花屋敷駅で増結・解放が行われていた。2015年3月21日のダイヤ改正で廃止となり、停車駅を踏襲する形で通勤特急に改称された。 1997年11月改正で運転を開始。朝夕ラッシュに箕面線直通を中心に宝塚駅・雲雀丘花屋敷駅・箕面駅 - 梅田駅間で運行されていた。停車駅は、宝塚駅・箕面駅 - 豊中駅間の各駅と庄内駅 - 梅田駅間の各駅で、豊中駅 - 梅田駅間では前述の通勤急行と千鳥停車を構成していた。2000年6月改正で準急復活に代わる形で運行を休止した。 2003年8月改正で復活した。箕面線直通の梅田駅 - 箕面駅間での運転で、平日の朝ラッシュ時のみ運行され、宝塚本線内の停車駅は急行と同じであった。2015年3月21日のダイヤ改正で廃止となり、代わって箕面線直通の準急が設定された。 2022年12月現在は全列車が8両編成で運転されている。平井車庫からの入出庫で当線を経由する箕面線の車両は「阪急箕面線#車両」を参照。 3100系までの宝塚本線の車両は、神戸本線と比べて最高速度が低かったため、神戸本線向けの「X000系」に対して最高速度の低い車両を「X100系」として区別して投入していた。 運行される車両は以下のとおり。 阪急電鉄のルーツというべき路線である。JR福知山線の前身で、尼崎を起点とし福知山・舞鶴方面への鉄道路線を営業していた阪鶴鉄道の大阪直接乗り入れ計画を、同社国有化の際に引き継いだ箕面有馬電気軌道が1910年に梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間を開業させたのが始まりである。 当初はその名の通り、宝塚からさらに西進し有馬温泉のある神戸北郊の有馬まで敷設する計画であったが、宝塚 - 有馬は宝塚の開発に注力していたこともあって1913年に断念している。1908年8月5日に提出された「宝塚有馬間工事施工認可申請書」では、勾配は神戸電鉄や南海高野線に匹敵する50パーミル、曲線半径は最小40.2メートルが想定されていた。電車にとっては明らかな難路であり、これを普通の線路にするには、そのレベルを上げるほど建設費が高騰するのは確実だった。 開業当初は、畑以外何もないようなところを走る区間が長いことから「ミミズ電車」と皮肉られ、採算性に疑問の声も多かった。しかし、同社の専務(実質の会社代表で、後に社長となる)であった小林一三は路線が開業するやいなや沿線開発を積極的に推し進め、岡町・豊中・池田をはじめとする良好な住宅地や、宝塚新温泉、宝塚歌劇団に代表される遊楽施設をつくり上げ、折からの大阪人口の増加と職住分離の習慣化によって乗客獲得に成功する。当時開発された住宅地は、のちに高級住宅街として沿線のブランド力を向上させ、日本の私鉄経営モデルの模範となった。 なお神戸本線が1920年に開業した後は、しばらく乗客数が低迷した同線の方へ社の重点が置かれるようになり、同線の中古車が宝塚本線に回されたりすることもあった。優等列車の運転も、神戸本線より2年遅れて実施されている。さらに梅田駅 - 十三駅間では宝塚本線と神戸本線の運賃が1942年まで異なっていた(神戸本線のほうが数銭高く、基本的に同区間の移動では宝塚本線を使う必要があった)。また、池田駅以西の利用客は長らく少なく、平井駅(後に山本駅へ統合して廃止)・山本駅・売布神社駅などといった駅のプラットホームは2両編成が停車する分の長さしかなく、3両編成の電車は通過していた。さらに2両編成の場合でも、車掌に対して降りる旨を伝えておかないと、通過することがあった。 1932年(昭和7年)より、宝塚本線にも急行が設定されるようになった(所要時間35分)。数年後にはわずかながら所要時間を短縮し、最新鋭の320形電車を投入するなどの積極策に出ている。これは、阪神系列の阪神国道自動車(阪国バス、現在の阪神バス)が、大阪 - 宝塚間に設定した直通バスと補完し合うものであった(阪国バスには阪急も出資していた)。 戦中には軍需輸送などで乗客数が急増し、5両編成の運転も開始された。しかし戦後にはさらに急増する沿線人口に輸送力の増強が追いつかず、250%を超える殺人的な混雑に悩まされることになった。このため、戦前からある伊丹線の延伸計画や後述の新線計画などバイパス路線の建設構想がいくつか持ち上がった。しかし、これらが実現することはなく、カーブの改良と車両の大型化、長編成化で乗り切った。1982年(昭和57年)、阪急で最初の10両編成運転を行ったのも、宝塚本線であった。1986年12月には前述の通り抜本的なダイヤ改正を行った。 宝塚本線では、正月の初詣輸送で臨時に運転されるものを除いては特急の設定がなかったが、1995年に十三駅・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)・川西能勢口駅に停車する特急が梅田駅 - 宝塚駅間で運転開始された。平日ラッシュ時間帯に4本(朝・上り2本、夕・下り2本)設定された。1997年には、能勢電鉄に直通運転する特急「日生エクスプレス」が新設された。一方で本線特急は平日2本(朝・上り2本)に減便された。列車は8両または10両編成で運転された。1997年の改正以降は、基本的にラッシュ時間帯を除いて梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間は普通列車が優等列車を逃げ切るように変更された。 2000年、三国駅・豊中駅付近の高架化が完成したことによるダイヤ改正では、最高速度が100km/hに引き上げられ、特急の運転時間帯が全日の昼間に拡大された 。停車駅に豊中・池田・山本を追加し、20分間隔で急行との交互での運行となった。また、昼間の普通は梅田駅 - 宝塚駅ないし雲雀丘花屋敷駅間の交互での運行となり、日中の梅田駅 - 宝塚駅間は1時間に9本へと増発された。このほか、梅田駅 - 宝塚駅間で、十三駅・石橋駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の全駅に停車する通勤特急を平日朝のラッシュ時間帯に上り2本運行開始した。 2003年のダイヤ改正では本線特急と通勤特急が廃止され、急行を通勤急行に、準急を通勤準急に改称し、朝ラッシュ時のみの運転に変更された。特急「日生エクスプレス」は停車駅に池田駅が追加された。十三駅・豊中駅 - 山本駅間の全駅に停車する快速急行(改正前の特急停車駅に蛍池駅、雲雀丘花屋敷駅を追加)、旧急行の通勤急行の停車駅に蛍池駅を追加した急行(改正前の準急と停車駅同じ)、停車駅に中津駅・曽根駅・岡町駅を追加して中津駅・十三駅・曽根駅 - 宝塚駅間の全駅に停車する準急を、それぞれ梅田駅 - 宝塚駅間で運転開始した。また、日中の普通は全列車が梅田駅 - 宝塚駅間の運転となり、宝塚駅発着の列車は1時間に12本に増発された。 2006年のダイヤ改正では快速急行の運転が中止され、平日朝ラッシュ時以外は現在も続けられている、10分ないし12分間隔で梅田駅 - 宝塚駅間の急行と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の普通を運行するダイヤに改められた。結果的には、1995年ダイヤ改正直前に近い運転体系となっている。この改正では、宝塚駅における今津線との同一ホーム乗り継ぎ時間帯の拡大や、川西能勢口駅における能勢電鉄妙見線との接続改善も行われた。 2010年には宝塚本線でも従来の連続速度照査式自動列車停止装置(ATS)を改良したパターンATSを、2006年の神戸線、2009年の京都線に続いて使用を開始。しかし他線とは違い保安度向上が目的のため、それに伴うダイヤ改正は行われなかった。 2015年3月には8年半ぶりとなるダイヤ改正が行われた。特急「日生エクスプレス」の川西能勢口駅→梅田駅間での10両運転の中止や、宝塚本線では初となる女性専用車両の設定、平日朝ラッシュ時の種別変更などが行われ、通勤急行・通勤準急が廃止され、通勤特急の種別が12年ぶりに復活した。 2018年7月のダイヤ改正では、梅田発の箕面線直通が中止され(但し箕面発は平日朝のみ梅田ゆき普通2本が存続したが、これも2022年12月の改正で全廃)、通勤特急が増発となったほか、土曜日・休日の夕方以降の運行間隔が12分ヘッドに変更されている。 2022年12月のダイヤ改正では、僅かに残っていた箕面線からの直通列車が全廃、ラッシュ時の10両運転も完全に廃止された。一方で、日中は上りの中津駅 - 大阪梅田駅間のダイヤパターンが見直され、信号待ちによる徐行運転が大幅に緩和された。 終戦直後、十三駅 - 豊中駅間の輸送力増強のため、神戸本線神崎川駅 - 曽根駅間に新線を建設して宝塚本線の急行線とすることが計画され、1948年4月19日に神崎川駅 - 曽根駅間4.0kmの軌道事業特許を取得した。しかし、1960年代に、千里山線(現在の千里線)を延伸して箕面線と連絡する方針に転換し、急行新線建設の計画は中止された。ただし、この新しい計画も千里山線(南千里駅)と箕面線(桜井駅)の連絡についても双方を最短距離で結びたい阪急と千里ニュータウン北部(現在の北千里駅)の交通不便を解消したい大阪府側との思惑が一致せず実現しなかった。 1970年代に梅田と大阪国際空港とを結ぶ空港線が計画され、神崎川駅 - 曽根駅間の軌道特許をそれに生かすことも検討されたが、空港線の計画は中止された。同線の軌道特許は廃止されずに保持されたままであったが、2005年2月23日に阪急が工事施行認可申請を取り下げ、軌道特許が失効した。 2017年9月1日、阪急電鉄は宝塚本線の曽根駅から分岐して大阪国際空港への新線を検討していると報じられた。 駅名は廃止時のもの。 2019年の通年平均の乗降客数は次の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "宝塚本線(たからづかほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県宝塚市の宝塚駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。宝塚本線自体を指して、またはその支線である箕面線を含めて通称宝塚線(たからづかせん)と呼ばれる。ラインカラーは箕面の紅葉からオレンジ(■)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神戸本線および京都本線と並ぶ、阪急電鉄の基幹路線の一つであり、支線である箕面線とともに前身の箕面有馬電気軌道によって開業した阪急電鉄の創業路線でもある。ルーツの異なる京都線(京都本線およびその支線)と区別するために、宝塚線と神戸線(神戸本線およびその支線)を合わせて神宝線と総称されることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大阪随一の繁華街である梅田(キタ)と、宝塚までの阪神間の住宅街を結ぶ通勤・通学路線である。また、宝塚市は宝塚歌劇団(阪急阪神東宝グループ)の本拠地であり、当路線は宝塚大劇場へのアクセス路線でもある。全区間にわたり西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線(JR宝塚線)の東側ないし北側を通るほか、国道176号(能勢街道)も全区間ほぼ同じルートを通っている。神戸線と京都線が2つの都市を結ぶ都市間輸送鉄道(インターアーバン)なのに対し、宝塚線は大阪と郊外の住宅地・ベッドタウンを結ぶ路線であるという特徴がある。川西能勢口駅で能勢妙見山や日生ニュータウンに通じる能勢電鉄妙見線・日生線と接続しており、能勢電鉄に直通する列車も一部設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当路線が開業した箕面有馬電気軌道時代、沿線は郊外の田園地帯であったため経営が危ぶまれた。そこで、創業者の小林一三は沿線の大阪府池田市で住宅ローンを活用した分譲住宅の販売を行い、鉄道会社自身が乗客の需要を創出し、現在まで続く高級住宅街としてその価値を確立した。これ以降鉄道事業と不動産開発、流通、レジャーなどの関連事業を多角的に展開してシナジーを高める私鉄経営モデルに発展させた。その後、小林一三が考案した経営モデルは全国の大手私鉄や国鉄から民営化して誕生したJR各社などが採用していった。沿線の阪急百貨店や宝塚歌劇団などはこのビジネスモデルによるものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "沿線は市街地や住宅地が続いており、北摂(豊能地域・阪神北地域)から大阪への通勤・通学路線となっている。三国駅付近、曽根駅 - 豊中駅間、石橋阪大前駅 - 川西能勢口駅間、宝塚駅付近は高架化されている。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "創業当時、宅地開発用に買収した土地に沿って路線を建設したことから、曲線が多く、スピードアップに不利な線形となった。特に、三国駅付近には制限速度30km/hの急曲線が存在し、最大のネックとなっていた。1990年台から2000年にかけて、三国駅付近および豊中駅の急曲線は高架化に併せて緩和されたが、2020年現在も、服部天神駅 - 曽根駅間、豊中駅 - 蛍池駅間、石橋阪大前駅などにやや急な曲線が残っている。神戸本線・京都本線に比べて平均駅間距離が短く、いくつかの駅は1962年までに統合で姿を消している。", "title": "路線概況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大阪梅田駅 - 宝塚駅間には普通のほか、ほぼ終日にわたって急行が運転されている。このほか、平日朝には通勤特急・準急、そして朝夕には大阪梅田駅 - 能勢電鉄日生中央駅間を直通運転している特急「日生エクスプレス」が運転されている。また、お盆・年末で土曜・休日ダイヤにて運転する平日の朝ラッシュ時は上りのみ川西能勢口発大阪梅田行き普通を増発するなど、柔軟なダイヤ編成を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ダイヤ面では、戦後の昭和20年代から長い間、昼間15分間隔(梅田駅〈現在の大阪梅田駅〉 - 宝塚駅間の急行、梅田駅 - 宝塚駅間の普通、梅田駅 - 池田駅間の普通が各1本ずつ)のダイヤが続いた(当時は車庫が池田駅にあった)。平井車庫を建設し池田駅から車庫を移転したうえで、池田駅高架化工事中には当駅の折り返し線が使えなかったため、池田駅発着の普通を暫定的に雲雀丘花屋敷駅まで延長するなどの変化はあったが、基本的には30年以上にわたって、昼間はほぼ同じパターンのダイヤで運転されてきた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)12月には、阪急日生ニュータウンの発展と能勢電鉄日生線の定着を踏まえた白紙ダイヤ改正が実施され、昼間10分間隔運転(梅田駅 - 宝塚駅間の急行、梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の普通と梅田駅 - 池田駅間の普通を交互に運転)として急行を大増発するとともに豊中駅に新規停車させた。以来昼間の速達列車の10分間隔運転というスタイルは基本的に変わりはないが、近年は輸送形態や社会情勢の変化などにより、後述の通り、速達系列車の内容を変更する改正を頻繁に行うようになっている。2015年(平成27年)以降は、ラッシュ時間帯の減車・減便(特に宝塚駅 - 川西能勢口駅間や箕面線直通列車)も行われるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "他路線との接続は、石橋阪大前駅では箕面線、川西能勢口駅では能勢電鉄との接続を考慮したダイヤが組まれているが、宝塚駅での今津線との接続は重視されていない(今津線が、神戸本線との接続を優先させているため)。昼間時間帯では、今津線から宝塚本線側に乗り換える場合、今津線の列車が宝塚駅に到着する数分前に宝塚本線の急行が出発してしまうダイヤとなっている(対して、宝塚本線から今津線へは数分での接続となる)。この傾向は長く続いており、特に昼間の特急が設定されていた2000年6月 - 2003年8月は、今津線から乗り換える場合、接続パターンが特急・普通の交互(急行は前述の通り今津線到着前に出発してしまう)となり、川西能勢口駅以東へ急ぐ場合は利用できる列車が実質20分毎という状態になっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2022年12月17日改正より、箕面線との直通列車が廃止。また、大阪梅田駅での折り返しが急行・普通交互の運用となり、大阪梅田行き急行は折り返し雲雀ヶ丘花屋敷行き普通として、大阪梅田行き普通は折り返し宝塚行き急行として運行される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下に種別ごとの詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「駅一覧」の節および下図を参照。運行の変遷や過去の種別の解説において梅田駅、石橋駅とあるのはそれぞれ現在の大阪梅田駅、石橋阪大前駅である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "平日ダイヤのみ、朝ラッシュ時に日生中央発大阪梅田行きが、夕ラッシュ時に大阪梅田発日生中央行きが運行される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "阪急線内での途中停車駅は、十三駅・石橋阪大前駅・池田駅・川西能勢口駅である。1997年以前の急行と同じ停車駅であり、通勤特急・急行停車駅の豊中駅と、急行停車駅の蛍池駅を通過する。途中、曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1997年11月改正で運転を開始した。開始当初は平日限定で朝に上り列車が3本、夕方に下り列車が3本であった。2003年のダイヤ改正より池田駅が停車駅に追加され、上り列車・下り列車とも7本となっている。また、かつては上り列車に川西能勢口駅で増結して10両編成で運行する列車があったが、利用客の減少に伴い、2015年3月のダイヤ改正で川西能勢口駅での増結が中止され、能勢電鉄内停車駅からの所要時間が短縮された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、2009年春から2015年秋まで、春・秋の行楽期の特定の土曜・日曜・祝日にも臨時列車として運転されていた(基本は午前の日生中央発梅田行き2本のみ)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "平日朝に、川西能勢口発大阪梅田行きが7本運行されている。途中の停車駅は、池田駅・石橋阪大前駅・豊中駅・十三駅である。途中、曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。急行停車駅のうち、蛍池駅を通過する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "全列車8両編成の運転で、最後部(宝塚方)の車両には女性専用車両を設定している。2022年12月17日のダイヤ改正前までは10両編成で運転していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2015年3月21日のダイヤ改正で通勤急行を改称する形で、5本が設定された。2018年7月7日のダイヤ改正以降は6本(15 - 17分間隔)の設定となった。2022年12月17日のダイヤ改正で10両編成の運転を取り止め、全列車8両編成となり、1本増発され7本の運行となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、2000年6月から2003年8月までにも通勤特急が設定されていた。この初代の通勤特急は宝塚発梅田行きが片道2本のみ運転されていて、途中の停車駅は雲雀丘花屋敷駅・川西能勢口駅・池田駅・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)・十三駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "終日運行されている。基本的に大阪梅田駅 - 宝塚駅間で運転されるが、下りは平日夕方から夜間にかけてのラッシュ時に大阪梅田発雲雀丘花屋敷行きが設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "途中の停車駅は、十三駅と豊中駅から宝塚駅までの各駅である。日中時間帯では10分間隔で運行されているが、急行が普通を追い抜くダイヤは設定されていない。夕ラッシュ時の雲雀丘花屋敷行きは、途中の曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中において大阪梅田駅 - 宝塚駅間の下り列車が最速33分50秒(表定速度:43.4 km/h、平均速度:50.7 km/h、上り列車は最速34分40秒)で走行している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "宝塚本線の優等列車としては最も古く、1932年10月に登場した。かつては十三駅 - 石橋駅(現在の石橋阪大前駅)間無停車で豊中駅と蛍池駅は通過していた(石橋駅 - 宝塚駅間は各駅停車。ただし、1961年の雲雀丘花屋敷駅開業から1962年の花屋敷駅廃止までは朝夕は花屋敷駅を通過していた)。1986年12月改正で豊中駅に平日ラッシュ時の一部を除いて停車するようになり、1997年11月改正で豊中駅に全列車が、2003年8月改正で蛍池駅に停車するようになった。日中は一時期特急または快速急行に置き換えられていたこともあったが、2006年10月改正から昼間の運転が復活している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "宝塚本線の急行で大阪梅田駅 - 宝塚駅間を利用する場合、実際には大阪梅田駅から神戸本線の特急に乗車し、西宮北口駅で今津線に乗り換える経路よりも多少時間がかかるため、今津線経由で行く場合の方が宝塚駅に先着できる。ただし、後述の宝塚発今津線経由大阪梅田行きの準急を除いて、西宮北口駅での乗り換えが伴うため、上り下りを含めた移動が強いられる。接続時間も含めると日中の場合の所要時間差は大阪梅田駅 → 宝塚駅が1分差(宝塚本線経由33分、神戸本線・今津線経由32分)、宝塚駅 → 大阪梅田駅が2分差(宝塚本線経由34分、今津線・神戸本線経由32分)と大差はなくなる。また、大阪梅田駅から宝塚駅に向かう場合、最終は今津線経由の方が遅い(宝塚駅から大阪梅田駅へは、平日のみ今津線経由の方が僅かだが遅い)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1982年3月29日からは、阪急で初めての10両編成の運用が設定された。また雲雀丘花屋敷駅始発の急行は、1980年代の一時期はポスターなどで「区間急行」と案内されていたが、正式な種別名は「急行」であり、停車駅も急行と同一である。「区間急行」という種別が正式な種別名として阪急で採用された事例は、宝塚本線以外も含めて存在しない。1995年(平成7年)6月改正では、梅田駅発雲雀丘花屋敷駅行きの下り急行も新設されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "平日の朝ラッシュ時に宝塚発大阪梅田行きのみが7本運行されている。途中の停車駅は、曽根駅までの各駅と十三駅、中津駅である。全列車とも途中駅での待避を行わずに大阪梅田駅まで先着する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "かつては現在の急行の停車駅と三国駅に停車し、箕面線直通列車を基本に、一部列車が梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 雲雀丘花屋敷駅間で運転されていた。1997年11月改正時に通勤準急の運行開始と代わる形で一旦運行が休止されたが、2000年6月改正で復活した。この改正では宝塚発も運転されるようになり、三国駅は通過となった(現在の急行の停車駅と同じ。当時の急行とは蛍池駅に停車するか否かの違いのみであった)。2003年8月改正で箕面線直通列車が通勤準急に変更され、準急が岡町駅・曽根駅・中津駅に停車するようになったが、2015年3月改正で通勤準急が廃止され、箕面線直通と雲雀丘花屋敷行きの準急が復活した。しかし、2018年7月改正でこれらの列車が再び廃止され宝塚発梅田行きのみの運行体制になった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、平日朝ラッシュ時上りに限り、宝塚駅から今津線・神戸本線経由で大阪梅田行きの準急が別途運行されている(詳細は今津線・神戸本線を参照)。門戸厄神駅以北は各駅に停車するが、西宮北口駅には停車せず、宝塚本線の急行より数分所要時間が短い。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1980年までは、春・秋の行楽期の日曜・祝日には箕面線直通の臨時準急が運転されていた。正面には、春はさくら、秋はもみじのイラストのプレートが掲げられていた。梅田駅の発車時刻は毎時07分、22分、37分、52分(臨時特急と同様)。春の行楽時の運転は1973年以降は臨時特急となったため臨時準急は秋のみの運転となり、秋の運転も1980年を最後に終了した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "各駅に停車する種別で、日中を中心に大阪梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間で終日運転される。2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中の大阪梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の下り列車が最速29分20秒(表定速度:37.2 km/h、平均速度:46 km/h、上り列車は最速29分30秒)で走行している。大阪梅田駅発を基準に平日9時台から22時台にかけてと土曜・休日7時台から18時台にかけては1時間6本を基本に運転されている。なお、平日のラッシュ時以外は、上り・下りともに後続の急行よりも終点まで先着する。前述の通り、急行が豊中駅 - 宝塚駅間で各駅に停車するため雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間での運転は基本的にないが、急行の運転がない早朝・深夜に限り、大阪梅田駅 - 宝塚駅間(深夜は大阪梅田行きのみ)全線通しで運転されている。このほか、平日朝・夕ラッシュ時には大阪梅田駅 - 池田駅・豊中駅・川西能勢口駅間の各区間運転の列車が、深夜には宝塚発川西能勢口・池田行きも設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "戦後は1986年12月のダイヤ改正まで、梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通が終日運転されていた。加えて、昼間は梅田駅 - 池田駅間の普通(1980年(昭和55年)以降は雲雀丘花屋敷駅折り返しに変更)も運転され、通勤時間帯には曽根駅、豊中駅、雲雀丘花屋敷駅折り返しの普通も運転されていた。1986年12月のダイヤ改正で梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通が大幅に削減され(昼間は設定が消滅)、昼間は梅田駅 - 池田駅間(後に雲雀丘花屋敷駅まで延長)と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間とがそれぞれ交互に20分間隔(併せて10分間隔)となった。昼間の梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通は、2000年6月のダイヤ改正で梅田駅 - 宝塚駅間の特急が新設された際に20分間隔で復活し、2003年8月の快速急行新設によるダイヤ改正では10分間隔となったが、2006年10月のダイヤ改正で快速急行が急行に格下げされた際に、昼間の普通は再び梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間に短縮された。その後、2018年7月改正で早朝と夕ラッシュ時に運行されていた箕面線へ直通する梅田発箕面行きが廃止され、2022年12月改正で箕面線に直通する列車が廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、曽根駅付近高架化工事開始前は、定期ダイヤでは曽根駅 - 梅田駅(現在の大阪梅田駅)間の区間列車があった。1961年の雲雀丘花屋敷駅開業から1962年の花屋敷駅廃止までは、朝夕の大型車両5両編成列車は、花屋敷駅を通過していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1995年のダイヤ改正で、通勤需要の増大に対応して、試行的に平日のラッシュ時間帯の梅田駅 - 宝塚駅間に定期運転の特急が初めて設定された(当時の途中停車駅:十三・石橋・川西能勢口。朝は梅田行き、夕方は宝塚行きが2本ずつ設定され、梅田行きは10両編成で運転された)。その後、1997年のダイヤ改正で雲雀丘花屋敷駅を停車駅に追加した一方、夕方の宝塚行きは廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2000年6月4日のダイヤ改正では、HEP FIVEおよび宝塚大劇場(「花のみち」リニューアル完成)へのさらなる集客を目的に、特急の運転時間帯を日中に移して増発、停車駅を十三駅・豊中駅・石橋駅・池田駅・川西能勢口駅・山本駅とし、高架工事の完成、最高速度の100km/hへの向上、優等列車優先のダイヤ構成(日中の庄内駅・雲雀丘花屋敷駅での普通列車の追い抜きを復活)により、梅田駅 - 宝塚駅間を下り最速で29分50秒(表定速度49.3 km/h。上り最速30分30秒、表定速度48.2 km/h)で結んだ。運転日も、これまでの平日ダイヤのみから、正月ダイヤ適用日を除いた土曜・休日にも拡大された。平日朝ラッシュ時に設定されていた従来からの特急は、池田駅を停車駅に加えた上で通勤特急に変更された(梅田行きのみ設定)。通勤特急は、10両編成で運転された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2003年8月のダイヤ改正では、大阪モノレールとの接続による大阪国際空港(伊丹空港)へのアクセス改善の必要性や、各駅停車との接続、川西能勢口駅以西での20分サイクル化・列車間隔不均等化の改善のため、特急の運転を休止し、蛍池駅と雲雀丘花屋敷駅を停車駅に加えた快速急行が設定された。併せて、日中の急行も快速急行に統合されたため、日中の梅田駅 - 宝塚駅間が毎時12本運転となった。同改正では、通勤特急が日生エクスプレスの増発に伴い廃止、正月特別ダイヤの臨時特急(初詣特急)も廃止された。これに伴い、雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間では10両編成の列車が消滅、川西能勢口駅 - 宝塚駅間から「特急」の名が付く列車が消滅した。以後、日生エクスプレスを除いて、特急は運転されていない。なお、通勤特急は2015年に復活した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1973年から2003年まで、正月三が日(暦の関係で1月4日ないし5日までの年もあった)に限り、1972年まで運転されていた臨時急行に代わり、『初詣特急』と名付けられた臨時特急が運転されていた。当初の停車駅は十三・石橋(現在の石橋阪大前)・川西能勢口・中山(現在の中山観音)・清荒神で、のちに川西能勢口にも停車するようになった。この臨時特急は定期の急行の種別変更ではなく増発であり、10時台 - 15時台に20分間隔(1986年までは15分間隔)で運転された。この臨時特急には1981年まで『初詣』ないし『初詣特急』と書かれた丸い特製ヘッドマークが掲げられていたが、1982年からは各運転日共通の『臨時特急』の表示板に変更された(但し、駅の発車標では『初詣特急』の表示を継続)。同時期に「三福まいり」(中山寺、清荒神清澄寺、門戸厄神東光寺の3寺院)初詣祈念品引換券付き1日乗車券を販売していることから運行していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "正月三が日以外にも、1997年11月改正までは春・秋の行楽期の日曜・祝日にも臨時ダイヤが組まれており(通称「大運転」)、春は臨時急行の格上げの形で1973年3月から、秋は箕面直通の臨時準急に代わり1981年11月から、午前と夕方のみ臨時特急が増発された。1986年までは15分間隔では梅田駅07分、22分、37分、52分発だった。1987年からは20分間隔となった。停車駅は時期によって異なるが、当初は十三・石橋(現在の石橋阪大前)・池田で、のちに池田駅が停車駅から外れ、川西能勢口駅が停車駅に追加されるなどの変化があった。この臨時特急にも1980年の春までは『春の臨時特急』と書かれた丸い特製ヘッドマーク(種別表示板)が掲げられていたが、1981年3月に種別表示板のデザイン変更・阪急全線での仕様統一が実施されて以降は初詣臨時特急と同様には各運転日共通の『臨時特急』の種別表示板に変更された。その後アステ川西(川西阪急)開業や、福知山線の快速が川西池田駅に停車することに伴い、1989年春の行楽期から川西能勢口駅にも停車するようになった。同時に一部は川西能勢口駅始発となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上記以外には団体臨時列車として、春の大運転の時期に宝塚ファミリーランドで開催されたイベントに合わせて、応募・抽選制のノンストップ特急が運転されたことがある。この列車にはイベントの内容に合わせて「バイキング号」「童話号」「ファルコン号」「スーパー戦士号」「シートン号」などの愛称が付けられていた。1973年春の春の臨時特急(前述)では、宝塚ファミリーランドのイベントに合わせて「サイボーグ号」の愛称が付けられ、ヘッドマークも掲げられていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2009年4月18日から2015年5月6日まで、春・秋の行楽期の土曜・休日に限り、臨時日生エクスプレスが運行された(晩年は梅田行きのみ、詳細は当該項目を参照)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2003年8月30日のダイヤ改正で新設。昼間時間帯のみ10分間隔で梅田駅 - 宝塚駅間で運転されていた。停車駅は、梅田駅・十三駅・豊中駅・蛍池駅・石橋駅・池田駅・川西能勢口駅・雲雀丘花屋敷駅・山本駅・宝塚駅で、改正前の特急停車駅に蛍池駅と雲雀丘花屋敷駅を追加したものであるが、この2駅が追加されたことにより、豊中駅 - 山本駅間は各駅停車となった。宝塚駅では快速急行、普通とも今津線との乗り換え利便を考慮して全て4号線に発着させていたため、宝塚駅到着後は僅か2分で折り返していた。なお、快速急行が運行されていた当時の正月特別ダイヤでは運休し、代わりに急行が運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2006年10月のダイヤ改正で輸送力適正化のため快速急行の運転を休止し、結果的にほぼ1995年以前の運転体系に戻ったが、当時とは異なり、急行は全列車が豊中駅と蛍池駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1997年11月改正で運転を開始。朝ラッシュ時のみに宝塚駅・雲雀丘花屋敷駅 - 梅田駅間で運行されていた。停車駅は、宝塚駅 - 服部駅(現在の服部天神駅)間の各駅と十三駅・梅田駅で、豊中駅 - 梅田駅間では後述の通勤準急と千鳥停車を構成していた。そのため、1997年11月改正から2000年6月改正までの間は、通勤準急と合わせて宝塚本線の全駅に優等列車が停車していた。2000年6月改正で運行を休止した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2003年8月改正で再び運転を開始。平日の朝ラッシュ時のみに宝塚駅 - 梅田駅間で運行されていた。復活した際の停車駅は、宝塚駅 - 石橋駅間の各駅と豊中駅・十三駅・梅田駅で、急行と違い大阪モノレール乗換駅である蛍池駅には停車しなかった。10両編成で運転され雲雀丘花屋敷駅で増結・解放が行われていた。2015年3月21日のダイヤ改正で廃止となり、停車駅を踏襲する形で通勤特急に改称された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1997年11月改正で運転を開始。朝夕ラッシュに箕面線直通を中心に宝塚駅・雲雀丘花屋敷駅・箕面駅 - 梅田駅間で運行されていた。停車駅は、宝塚駅・箕面駅 - 豊中駅間の各駅と庄内駅 - 梅田駅間の各駅で、豊中駅 - 梅田駅間では前述の通勤急行と千鳥停車を構成していた。2000年6月改正で準急復活に代わる形で運行を休止した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2003年8月改正で復活した。箕面線直通の梅田駅 - 箕面駅間での運転で、平日の朝ラッシュ時のみ運行され、宝塚本線内の停車駅は急行と同じであった。2015年3月21日のダイヤ改正で廃止となり、代わって箕面線直通の準急が設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2022年12月現在は全列車が8両編成で運転されている。平井車庫からの入出庫で当線を経由する箕面線の車両は「阪急箕面線#車両」を参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "3100系までの宝塚本線の車両は、神戸本線と比べて最高速度が低かったため、神戸本線向けの「X000系」に対して最高速度の低い車両を「X100系」として区別して投入していた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "運行される車両は以下のとおり。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "阪急電鉄のルーツというべき路線である。JR福知山線の前身で、尼崎を起点とし福知山・舞鶴方面への鉄道路線を営業していた阪鶴鉄道の大阪直接乗り入れ計画を、同社国有化の際に引き継いだ箕面有馬電気軌道が1910年に梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間を開業させたのが始まりである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "当初はその名の通り、宝塚からさらに西進し有馬温泉のある神戸北郊の有馬まで敷設する計画であったが、宝塚 - 有馬は宝塚の開発に注力していたこともあって1913年に断念している。1908年8月5日に提出された「宝塚有馬間工事施工認可申請書」では、勾配は神戸電鉄や南海高野線に匹敵する50パーミル、曲線半径は最小40.2メートルが想定されていた。電車にとっては明らかな難路であり、これを普通の線路にするには、そのレベルを上げるほど建設費が高騰するのは確実だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "開業当初は、畑以外何もないようなところを走る区間が長いことから「ミミズ電車」と皮肉られ、採算性に疑問の声も多かった。しかし、同社の専務(実質の会社代表で、後に社長となる)であった小林一三は路線が開業するやいなや沿線開発を積極的に推し進め、岡町・豊中・池田をはじめとする良好な住宅地や、宝塚新温泉、宝塚歌劇団に代表される遊楽施設をつくり上げ、折からの大阪人口の増加と職住分離の習慣化によって乗客獲得に成功する。当時開発された住宅地は、のちに高級住宅街として沿線のブランド力を向上させ、日本の私鉄経営モデルの模範となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお神戸本線が1920年に開業した後は、しばらく乗客数が低迷した同線の方へ社の重点が置かれるようになり、同線の中古車が宝塚本線に回されたりすることもあった。優等列車の運転も、神戸本線より2年遅れて実施されている。さらに梅田駅 - 十三駅間では宝塚本線と神戸本線の運賃が1942年まで異なっていた(神戸本線のほうが数銭高く、基本的に同区間の移動では宝塚本線を使う必要があった)。また、池田駅以西の利用客は長らく少なく、平井駅(後に山本駅へ統合して廃止)・山本駅・売布神社駅などといった駅のプラットホームは2両編成が停車する分の長さしかなく、3両編成の電車は通過していた。さらに2両編成の場合でも、車掌に対して降りる旨を伝えておかないと、通過することがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)より、宝塚本線にも急行が設定されるようになった(所要時間35分)。数年後にはわずかながら所要時間を短縮し、最新鋭の320形電車を投入するなどの積極策に出ている。これは、阪神系列の阪神国道自動車(阪国バス、現在の阪神バス)が、大阪 - 宝塚間に設定した直通バスと補完し合うものであった(阪国バスには阪急も出資していた)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "戦中には軍需輸送などで乗客数が急増し、5両編成の運転も開始された。しかし戦後にはさらに急増する沿線人口に輸送力の増強が追いつかず、250%を超える殺人的な混雑に悩まされることになった。このため、戦前からある伊丹線の延伸計画や後述の新線計画などバイパス路線の建設構想がいくつか持ち上がった。しかし、これらが実現することはなく、カーブの改良と車両の大型化、長編成化で乗り切った。1982年(昭和57年)、阪急で最初の10両編成運転を行ったのも、宝塚本線であった。1986年12月には前述の通り抜本的なダイヤ改正を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "宝塚本線では、正月の初詣輸送で臨時に運転されるものを除いては特急の設定がなかったが、1995年に十三駅・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)・川西能勢口駅に停車する特急が梅田駅 - 宝塚駅間で運転開始された。平日ラッシュ時間帯に4本(朝・上り2本、夕・下り2本)設定された。1997年には、能勢電鉄に直通運転する特急「日生エクスプレス」が新設された。一方で本線特急は平日2本(朝・上り2本)に減便された。列車は8両または10両編成で運転された。1997年の改正以降は、基本的にラッシュ時間帯を除いて梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間は普通列車が優等列車を逃げ切るように変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2000年、三国駅・豊中駅付近の高架化が完成したことによるダイヤ改正では、最高速度が100km/hに引き上げられ、特急の運転時間帯が全日の昼間に拡大された 。停車駅に豊中・池田・山本を追加し、20分間隔で急行との交互での運行となった。また、昼間の普通は梅田駅 - 宝塚駅ないし雲雀丘花屋敷駅間の交互での運行となり、日中の梅田駅 - 宝塚駅間は1時間に9本へと増発された。このほか、梅田駅 - 宝塚駅間で、十三駅・石橋駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の全駅に停車する通勤特急を平日朝のラッシュ時間帯に上り2本運行開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2003年のダイヤ改正では本線特急と通勤特急が廃止され、急行を通勤急行に、準急を通勤準急に改称し、朝ラッシュ時のみの運転に変更された。特急「日生エクスプレス」は停車駅に池田駅が追加された。十三駅・豊中駅 - 山本駅間の全駅に停車する快速急行(改正前の特急停車駅に蛍池駅、雲雀丘花屋敷駅を追加)、旧急行の通勤急行の停車駅に蛍池駅を追加した急行(改正前の準急と停車駅同じ)、停車駅に中津駅・曽根駅・岡町駅を追加して中津駅・十三駅・曽根駅 - 宝塚駅間の全駅に停車する準急を、それぞれ梅田駅 - 宝塚駅間で運転開始した。また、日中の普通は全列車が梅田駅 - 宝塚駅間の運転となり、宝塚駅発着の列車は1時間に12本に増発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2006年のダイヤ改正では快速急行の運転が中止され、平日朝ラッシュ時以外は現在も続けられている、10分ないし12分間隔で梅田駅 - 宝塚駅間の急行と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の普通を運行するダイヤに改められた。結果的には、1995年ダイヤ改正直前に近い運転体系となっている。この改正では、宝塚駅における今津線との同一ホーム乗り継ぎ時間帯の拡大や、川西能勢口駅における能勢電鉄妙見線との接続改善も行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2010年には宝塚本線でも従来の連続速度照査式自動列車停止装置(ATS)を改良したパターンATSを、2006年の神戸線、2009年の京都線に続いて使用を開始。しかし他線とは違い保安度向上が目的のため、それに伴うダイヤ改正は行われなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2015年3月には8年半ぶりとなるダイヤ改正が行われた。特急「日生エクスプレス」の川西能勢口駅→梅田駅間での10両運転の中止や、宝塚本線では初となる女性専用車両の設定、平日朝ラッシュ時の種別変更などが行われ、通勤急行・通勤準急が廃止され、通勤特急の種別が12年ぶりに復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2018年7月のダイヤ改正では、梅田発の箕面線直通が中止され(但し箕面発は平日朝のみ梅田ゆき普通2本が存続したが、これも2022年12月の改正で全廃)、通勤特急が増発となったほか、土曜日・休日の夕方以降の運行間隔が12分ヘッドに変更されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2022年12月のダイヤ改正では、僅かに残っていた箕面線からの直通列車が全廃、ラッシュ時の10両運転も完全に廃止された。一方で、日中は上りの中津駅 - 大阪梅田駅間のダイヤパターンが見直され、信号待ちによる徐行運転が大幅に緩和された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "終戦直後、十三駅 - 豊中駅間の輸送力増強のため、神戸本線神崎川駅 - 曽根駅間に新線を建設して宝塚本線の急行線とすることが計画され、1948年4月19日に神崎川駅 - 曽根駅間4.0kmの軌道事業特許を取得した。しかし、1960年代に、千里山線(現在の千里線)を延伸して箕面線と連絡する方針に転換し、急行新線建設の計画は中止された。ただし、この新しい計画も千里山線(南千里駅)と箕面線(桜井駅)の連絡についても双方を最短距離で結びたい阪急と千里ニュータウン北部(現在の北千里駅)の交通不便を解消したい大阪府側との思惑が一致せず実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1970年代に梅田と大阪国際空港とを結ぶ空港線が計画され、神崎川駅 - 曽根駅間の軌道特許をそれに生かすことも検討されたが、空港線の計画は中止された。同線の軌道特許は廃止されずに保持されたままであったが、2005年2月23日に阪急が工事施行認可申請を取り下げ、軌道特許が失効した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2017年9月1日、阪急電鉄は宝塚本線の曽根駅から分岐して大阪国際空港への新線を検討していると報じられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "駅名は廃止時のもの。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2019年の通年平均の乗降客数は次の通り。", "title": "駅一覧" } ]
宝塚本線(たからづかほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県宝塚市の宝塚駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線。宝塚本線自体を指して、またはその支線である箕面線を含めて通称宝塚線(たからづかせん)と呼ばれる。ラインカラーは箕面の紅葉からオレンジ(■)。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Redirect|宝塚線|'''JR宝塚線'''|福知山線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Hankyu Railway Logo.svg|22px|阪急電鉄|link=阪急電鉄]] 宝塚本線 |路線色=#f26627 |画像=Hankyu 1000 series 1003F "Sumikko" wrapping at Okamachi.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[阪急1000系電車 (2代)|1000系]]電車([[すみっコぐらし]]号)による<br>大阪梅田行き急行<br>(2020年11月19日 [[岡町駅]]) |国={{JPN}} |所在地=[[大阪府]]・[[兵庫県]] |起点=[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] |終点=[[宝塚駅]] |駅数=19駅 |路線記号=[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|21px|HK]] HK |開業={{start date and age|1910|3|10}} |休止= |廃止= |所有者=[[阪急電鉄]] |運営者=阪急電鉄 |車両基地=[[平井車庫]] |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離=24.5 [[キロメートル|km]] |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]]([[標準軌]]) |線路数=[[複々線]](大阪梅田 - 十三間)<br />[[複線]](十三 - 宝塚間) |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|阪急型ATS(AF軌道回路方式)]] |最高速度=100 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="himitu">『阪急電鉄のひみつ』 - PHP研究所</ref> |路線図=File:Hankyu Corporation Linemap.svg }} '''宝塚本線'''(たからづかほんせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]から[[兵庫県]][[宝塚市]]の[[宝塚駅]]までを結ぶ[[阪急電鉄]]の[[鉄道路線]]。宝塚本線自体を指して、またはその支線である[[阪急箕面線|箕面線]]を含めて通称'''宝塚線'''(たからづかせん)と呼ばれる。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は箕面の[[カエデ|紅葉]]からオレンジ({{Color|#f26627|■}})。 == 概要 == {{阪急宝塚本線路線図}} [[阪急神戸本線|神戸本線]]および[[阪急京都本線|京都本線]]と並ぶ、阪急電鉄の基幹路線の一つであり、支線である[[阪急箕面線|箕面線]]とともに前身の[[箕面有馬電気軌道]]によって開業した阪急電鉄の創業路線でもある。ルーツの異なる京都線(京都本線およびその支線)と区別するために、宝塚線と神戸線(神戸本線およびその支線)を合わせて[[神宝線]]と総称されることもある。 大阪随一の[[繁華街]]である[[梅田]]([[キタ]])と、[[宝塚市|宝塚]]までの[[阪神間]]の住宅街を結ぶ通勤・通学路線である。また、宝塚市は[[宝塚歌劇団]]([[阪急阪神東宝グループ]])の本拠地であり、当路線は[[宝塚大劇場]]へのアクセス路線でもある。全区間にわたり[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[福知山線]](JR宝塚線)の東側ないし北側を通るほか、[[国道176号]]([[能勢街道]])も全区間ほぼ同じルートを通っている。神戸線と京都線が2つの都市を結ぶ都市間輸送鉄道([[インターアーバン]])なのに対し、宝塚線は大阪と[[郊外]]の住宅地・[[ベッドタウン]]を結ぶ路線であるという特徴がある。[[川西能勢口駅]]で[[能勢妙見山 (日蓮宗)|能勢妙見山]]や[[日生ニュータウン]]に通じる[[能勢電鉄]][[能勢電鉄妙見線|妙見線]]・[[能勢電鉄日生線|日生線]]と接続しており、能勢電鉄に直通する列車も一部設定されている。 当路線が開業した箕面有馬電気軌道時代、沿線は郊外の田園地帯であったため経営が危ぶまれた。そこで、創業者の[[小林一三]]は沿線の[[大阪府]][[池田市]]で[[住宅ローン]]を活用した分譲住宅の販売を行い、鉄道会社自身が乗客の需要を創出し、現在まで続く[[高級住宅街]]としてその価値を確立した。これ以降鉄道事業と[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]]、流通、レジャーなどの関連事業を多角的に展開してシナジーを高める私鉄経営モデルに発展させた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=様々な生活文化を創り出したアイデアマン「小林一三」|阪急電鉄|url=https://www.hankyu.co.jp/cont/ichizo/column1.html|website=阪急電鉄鉄道駅ナカ沿線おでかけ情報|accessdate=2022-01-07|language=ja}}</ref>。その後、小林一三が考案した経営モデルは全国の[[大手私鉄]]や[[日本国有鉄道|国鉄]]から[[民営化]]して誕生した[[JR]]各社などが採用していった。沿線の[[阪急百貨店]]や宝塚歌劇団などはこのビジネスモデルによるものである<ref name=":0" />。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):24.5km * [[軌間]]:1435mm * 駅数:19駅(起終点駅含む) * 複線区間: ** 複々線:大阪梅田駅 - 十三駅間(東側複線は[[阪急京都本線|京都本線]]の列車が使用) ** 複線:十三駅 - 宝塚駅間 * 電化区間:全線電化(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:100km/h<ref name="himitu" /> * [[車両基地]]:[[平井車庫]] * 2022年度の混雑率:118%(三国駅→十三駅 7:31-8:31)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和5年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-11-21|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref> == 路線概況 == {{節スタブ}} 沿線は市街地や住宅地が続いており、[[北摂]]([[豊能郡|豊能]]地域・[[阪神北県民局|阪神北]]地域)から大阪への通勤・通学路線となっている。[[三国駅 (大阪府)|三国駅]]付近、[[曽根駅 (大阪府)|曽根駅]] - [[豊中駅]]間、[[石橋阪大前駅]] - [[川西能勢口駅]]間、宝塚駅付近は高架化されている。 創業当時、宅地開発用に買収した土地に沿って路線を建設したことから、曲線が多く、スピードアップに不利な線形となった。特に、三国駅付近には制限速度30km/hの急曲線が存在し、最大のネックとなっていた。1990年台から2000年にかけて、三国駅付近および豊中駅の急曲線は高架化に併せて緩和されたが、2020年現在も、[[服部天神駅]] - 曽根駅間、豊中駅 - [[蛍池駅]]間、石橋阪大前駅などにやや急な曲線が残っている。神戸本線・京都本線に比べて平均駅間距離が短く、いくつかの駅は1962年までに統合で姿を消している。 == 運行形態 == 大阪梅田駅 - 宝塚駅間には普通のほか、ほぼ終日にわたって[[急行列車|急行]]が運転されている。このほか、平日朝には[[列車種別#通勤種別|通勤特急]]・[[準急列車|準急]]、そして朝夕には大阪梅田駅 - [[能勢電鉄]][[日生中央駅]]間を直通運転している特急「[[日生エクスプレス]]」が運転されている。<!-- 日生を先に書くと通勤急行以下も日生中央直通に読めるので語順変更-->また、[[お盆]]・年末で土曜・休日ダイヤにて運転する平日の朝ラッシュ時は上りのみ川西能勢口発大阪梅田行き普通を増発するなど、柔軟なダイヤ編成を行っている。 ダイヤ面では、戦後の昭和20年代から長い間、昼間15分間隔(梅田駅〈現在の大阪梅田駅〉 - 宝塚駅間の急行、梅田駅 - 宝塚駅間の普通、梅田駅 - [[池田駅 (大阪府)|池田駅]]間の普通が各1本ずつ)のダイヤが続いた(当時は車庫が池田駅にあった)。平井車庫を建設し池田駅から車庫を移転したうえで、池田駅高架化工事中には当駅の折り返し線が使えなかったため、池田駅発着の普通を暫定的に雲雀丘花屋敷駅まで延長するなどの変化はあったが、基本的には30年以上にわたって、昼間はほぼ同じパターンのダイヤで運転されてきた。 1986年(昭和61年)12月には、[[阪急日生ニュータウン]]の発展と[[能勢電鉄日生線]]の定着を踏まえた白紙ダイヤ改正が実施され、昼間10分間隔運転(梅田駅 - 宝塚駅間の急行、梅田駅 - [[雲雀丘花屋敷駅]]間の普通と梅田駅 - 池田駅間の普通を交互に運転)として急行を大増発するとともに[[豊中駅]]に新規停車させた<ref>{{Cite web|和書|title=宝塚線および京都線のダイヤ変更について |url=http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&data_id=102183 |website=阪急文化アーカイブズ |access-date=2023-04-30 |language=ja |publisher=阪急文化財団 |date=1986-12-14}}</ref>。以来昼間の速達列車の10分間隔運転というスタイルは基本的に変わりはないが、近年は輸送形態や社会情勢の変化などにより、後述の通り、速達系列車の内容を変更する改正を頻繁に行うようになっている。2015年(平成27年)以降は、ラッシュ時間帯の減車・減便(特に宝塚駅 - 川西能勢口駅間や箕面線直通列車)も行われるようになった。 他路線との接続は、石橋阪大前駅では箕面線、川西能勢口駅では能勢電鉄との接続を考慮したダイヤが組まれているが、宝塚駅での今津線との接続は重視されていない(今津線が、神戸本線との接続を優先させているため)。昼間時間帯では、今津線から宝塚本線側に乗り換える場合、今津線の列車が宝塚駅に到着する数分前に宝塚本線の急行が出発してしまうダイヤとなっている(対して、宝塚本線から今津線へは数分での接続となる)。この傾向は長く続いており、特に昼間の特急が設定されていた2000年6月 - 2003年8月は、今津線から乗り換える場合、接続パターンが特急・普通の交互(急行は前述の通り今津線到着前に出発してしまう)となり、川西能勢口駅以東へ急ぐ場合は利用できる列車が実質20分毎という状態になっていた。 2022年12月17日改正より、箕面線との直通列車が廃止。また、大阪梅田駅での折り返しが急行・普通交互の運用となり、大阪梅田行き急行は折り返し雲雀ヶ丘花屋敷行き普通として、大阪梅田行き普通は折り返し宝塚行き急行として運行される。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" |+日中1時間あたりの運転本数 !種別\駅名 ! style="width:1em;" |{{縦書き|大阪梅田|height=7em}} !… ! colspan="2" style="width:1em;" |{{縦書き|雲雀丘花屋敷|height=7em}} !… ! style="width:1em;" |{{縦書き|宝塚|height=7em}} |-style="background:#fc9;" |急行|| colspan="6" |6本 |- |style="background:#ddd;"|普通|| colspan="3" style="background:#ddd;" |6本||colspan="3"| |} === 列車種別 === 以下に種別ごとの詳細を示す。現行の各種別の停車駅は「[[#駅一覧|駅一覧]]」の節および下図を参照。運行の変遷や過去の種別の解説において梅田駅、石橋駅とあるのはそれぞれ現在の大阪梅田駅、石橋阪大前駅である。 [[ファイル:Route Map of Hankyu Takarazuka Line.png|thumb|none|700px|阪急宝塚線 停車駅図]] ==== 特急「日生エクスプレス」 ==== {{Main|日生エクスプレス}} 平日ダイヤのみ、朝ラッシュ時に日生中央発大阪梅田行きが、夕ラッシュ時に大阪梅田発日生中央行きが運行される。 阪急線内での途中停車駅は、十三駅・石橋阪大前駅・池田駅・川西能勢口駅である。1997年以前の急行と同じ停車駅であり、通勤特急・急行停車駅の豊中駅と、急行停車駅の蛍池駅を通過する。途中、曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。 1997年11月改正で運転を開始した<ref name="RP650">{{Cite journal|和書 |title = 1997年11月16日阪急宝塚線ダイヤ改正 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |date = 1998-03 |volume = 48 |issue = 3 |page = 93 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。開始当初は平日限定で朝に上り列車が3本、夕方に下り列車が3本であった<ref name="RP650" />。2003年のダイヤ改正より池田駅が停車駅に追加され、上り列車・下り列車とも7本となっている<ref>{{Cite press release|和書|title=宝塚線ダイヤ改正について|publisher=阪急電鉄|date=2003-07-14|url=http://www.hankyu.co.jp/ir/data/200307144N4.pdf|format=PDF|accessdate=2021-11-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030806184609/http://www.hankyu.co.jp/ir/data/200307144N4.pdf|archivedate=2003-08-06}}</ref>。また、かつては上り列車に川西能勢口駅で増結して10両編成で運行する列車があったが、利用客の減少に伴い、2015年3月のダイヤ改正で川西能勢口駅での増結が中止され、能勢電鉄内停車駅からの所要時間が短縮された<ref name="hankyu20150120" />。 なお、2009年春から2015年秋まで、春・秋の行楽期の特定の土曜・日曜・祝日にも臨時列車として運転されていた(基本は午前の日生中央発梅田行き2本のみ)。 ==== 通勤特急 ==== 平日朝に、川西能勢口発大阪梅田行きが7本運行されている。途中の停車駅は、池田駅・石橋阪大前駅・豊中駅・十三駅である。途中、曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。急行停車駅のうち、蛍池駅を通過する<ref group="注釈">これは、蛍池駅のホーム有効長が8両編成分しかないため。2022年12月改正の全列車8両編成化後も急行との差別化のため、引き続き通過する。</ref>。 全列車8両編成の運転で、最後部(宝塚方)の車両には[[女性専用車両]]を設定している<ref name="hankyu20150120">{{PDFlink|[https://www.hankyu.co.jp/company/news/pdf/20150120_2871.pdf 3月21日初発より宝塚線のダイヤ改正を実施]}} - 阪急電鉄、2015年1月20日</ref>。2022年12月17日のダイヤ改正前までは10両編成で運転していた。 2015年3月21日のダイヤ改正で通勤急行を改称する形で、5本が設定された<ref name="hankyu20150120" />。2018年7月7日のダイヤ改正以降は6本(15 - 17分間隔)の設定となった<ref>{{Cite press release|和書|title=7月7日初発より宝塚線のダイヤ改正を実施します 〜平日 朝・夕方の通勤・通学時間帯における混雑の緩和と利便性の向上を図ります〜|publisher=阪急電鉄|date=2018-05-22|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/5958.pdf|format=PDF|accessdate=2021-11-04}}</ref>。2022年12月17日のダイヤ改正で10両編成の運転を取り止め、全列車8両編成となり、1本増発され7本の運行となった<ref name="hankyu20221012">{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)初発より 阪急全線(神戸線・宝塚線・京都線)でダイヤ改正を実施 ~2024年に京都線で座席指定サービスを開始します~|publisher=阪急電鉄|date=2022-10-12|url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dd2e3f9dbc4759095b47e378f4d54e59336a79ac.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。 なお、2000年6月から2003年8月までにも通勤特急が設定されていた。この[[#特急・通勤特急(初代)|初代の通勤特急]]は宝塚発梅田行きが片道2本のみ運転されていて、途中の停車駅は雲雀丘花屋敷駅・川西能勢口駅・池田駅・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)・十三駅であった。 ==== 急行 ==== 終日運行されている。基本的に大阪梅田駅 - 宝塚駅間で運転されるが、下りは平日夕方から夜間にかけてのラッシュ時に大阪梅田発雲雀丘花屋敷行きが設定されている{{efn|過去には、1995年6月改正から1997年11月改正時にも平日夕方に急行梅田発雲雀丘花屋敷行きが設定されていた。また、1997年11月改正時点では平日の9時台及び土曜日の朝(当時は土曜ダイヤがあった)にも設定されていた<ref>『1997阪急電鉄時刻表』、1997年4月、阪急クリーンカラー、58 - 69頁</ref><ref>『1998阪急電鉄時刻表』、1998年3月、阪急クリーンカラー、58 - 68頁</ref>。}}。 途中の停車駅は、十三駅と豊中駅から宝塚駅までの各駅である。日中時間帯では10分間隔で運行されているが、急行が普通を追い抜くダイヤは設定されていない。夕ラッシュ時の雲雀丘花屋敷行きは、途中の曽根駅で普通列車の追い抜きを行う。2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中において大阪梅田駅 - 宝塚駅間の下り列車が最速33分50秒(表定速度:43.4 km/h、平均速度:50.7 km/h、上り列車は最速34分40秒)で走行している。 宝塚本線の優等列車としては最も古く、1932年10月に登場した。かつては十三駅 - 石橋駅(現在の石橋阪大前駅)間無停車で豊中駅と蛍池駅は通過していた(石橋駅 - 宝塚駅間は各駅停車。ただし、1961年の雲雀丘花屋敷駅開業から1962年の花屋敷駅廃止までは朝夕は花屋敷駅を通過していた<ref name="kjikoku196007">『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』、日本交通公社関西支社、1960年7月、92頁</ref><ref name="kjikoku196104">『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』、日本交通公社関西支社、1961年4月、92頁</ref>)。1986年12月改正で豊中駅に平日ラッシュ時の一部を除いて停車するようになり、1997年11月改正で豊中駅に全列車が、2003年8月改正で蛍池駅に停車するようになった。日中は一時期特急または快速急行に置き換えられていたこともあったが、2006年10月改正から昼間の運転が復活している。 宝塚本線の急行で大阪梅田駅 - 宝塚駅間を利用する場合、実際には大阪梅田駅から[[阪急神戸本線|神戸本線]]の特急に乗車し、[[西宮北口駅]]で[[阪急今津線|今津線]]に乗り換える経路よりも多少時間がかかるため、今津線経由で行く場合の方が宝塚駅に先着できる。ただし、後述の宝塚発今津線経由大阪梅田行きの準急を除いて、西宮北口駅での乗り換えが伴うため、上り下りを含めた移動が強いられる。接続時間も含めると日中の場合の所要時間差は大阪梅田駅 → 宝塚駅が1分差(宝塚本線経由33分、神戸本線・今津線経由32分)、宝塚駅 → 大阪梅田駅が2分差(宝塚本線経由34分、今津線・神戸本線経由32分)と大差はなくなる。また、大阪梅田駅から宝塚駅に向かう場合、最終は今津線経由の方が遅い(宝塚駅から大阪梅田駅へは、平日のみ今津線経由の方が僅かだが遅い){{efn|厳密に言えば、同区間は競合する[[福知山線]]の方がさらに終電が遅い。}}。 1982年3月29日からは、阪急で初めての10両編成の運用が設定された。また雲雀丘花屋敷駅始発の急行は、1980年代の一時期はポスターなどで「区間急行」と案内されていたが<ref name="archive108641">{{Cite web|和書|title=ダイヤ改正のお知らせ|url=http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&data_id=108641|website=阪急文化アーカイブズ|accessdate=2021-10-01|language=ja|date=1988-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211001235042/http://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&data_id=108641|archivedate=2021-10-01|publisher=阪急電鉄}}</ref>、正式な種別名は「急行」であり、停車駅も急行と同一である。「区間急行」という種別が正式な種別名として阪急で採用された事例は、宝塚本線以外も含めて存在しない。1995年(平成7年)6月改正では、梅田駅発雲雀丘花屋敷駅行きの下り急行も新設されている。 ==== 準急 ==== 平日の朝ラッシュ時に宝塚発大阪梅田行きのみが7本運行されている。途中の停車駅は、曽根駅までの各駅と十三駅、中津駅である。全列車とも途中駅での待避を行わずに大阪梅田駅まで先着する。 かつては現在の急行の停車駅と三国駅に停車し、[[阪急箕面線|箕面線]]直通列車を基本に、一部列車が梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 雲雀丘花屋敷駅間で運転されていた。1997年11月改正時に通勤準急の運行開始と代わる形で一旦運行が休止された<ref name="RP650"/>が、2000年6月改正で復活した。この改正では宝塚発も運転されるようになり、三国駅は通過となった(現在の急行の停車駅と同じ。当時の急行とは蛍池駅に停車するか否かの違いのみであった)。2003年8月改正で箕面線直通列車が通勤準急に変更され、準急が岡町駅・曽根駅・[[中津駅 (阪急)|中津駅]]に停車するようになったが、2015年3月改正で通勤準急が廃止され、箕面線直通と雲雀丘花屋敷行きの準急が復活した<ref name="hankyu20150120" />。しかし、2018年7月改正でこれらの列車が再び廃止され宝塚発梅田行きのみの運行体制になった。 なお、平日朝ラッシュ時上りに限り、宝塚駅から今津線・神戸本線経由で大阪梅田行きの準急が別途運行されている(詳細は[[阪急今津線|今津線]]・[[阪急神戸本線|神戸本線]]を参照)。[[門戸厄神駅]]以北は各駅に停車するが、西宮北口駅には停車せず、宝塚本線の急行より数分所要時間が短い。 1980年までは、春・秋の行楽期の日曜・祝日には箕面線直通の臨時準急が運転されていた。正面には、春はさくら、秋はもみじのイラストの[[方向幕#ヘッドマーク|プレート]]が掲げられていた。梅田駅の発車時刻は毎時07分、22分、37分、52分(臨時特急と同様)。春の行楽時の運転は1973年以降は臨時特急となったため臨時準急は秋のみの運転となり、秋の運転も1980年を最後に終了した。 ==== 普通 ==== 各駅に停車する種別で、日中を中心に大阪梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間で終日運転される。2022年12月17日のダイヤ改正以降、日中の大阪梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の下り列車が最速29分20秒(表定速度:37.2 km/h、平均速度:46 km/h、上り列車は最速29分30秒)で走行している。大阪梅田駅発を基準に平日9時台から22時台にかけてと土曜・休日7時台から18時台にかけては1時間6本を基本に運転されている。なお、平日のラッシュ時以外は、上り・下りともに後続の急行よりも終点まで先着する。前述の通り、急行が豊中駅 - 宝塚駅間で各駅に停車するため雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間での運転は基本的にないが、急行の運転がない早朝・深夜に限り、大阪梅田駅 - 宝塚駅間(深夜は大阪梅田行きのみ)全線通しで運転されている。このほか、平日朝・夕ラッシュ時には大阪梅田駅 - 池田駅・豊中駅・川西能勢口駅間の各区間運転の列車が、深夜には宝塚発川西能勢口・池田行きも設定されている。 戦後は1986年12月のダイヤ改正まで、梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通が終日運転されていた。加えて、昼間は梅田駅 - 池田駅間の普通(1980年(昭和55年)以降は雲雀丘花屋敷駅折り返しに変更)も運転され、通勤時間帯には曽根駅、豊中駅、雲雀丘花屋敷駅折り返しの普通も運転されていた。1986年12月のダイヤ改正で梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通が大幅に削減され(昼間は設定が消滅)、昼間は梅田駅 - 池田駅間(後に雲雀丘花屋敷駅まで延長)と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間とがそれぞれ交互に20分間隔(併せて10分間隔)となった。昼間の梅田駅 - 宝塚駅間の全線通しの普通は、2000年6月のダイヤ改正で梅田駅 - 宝塚駅間の特急が新設された際に20分間隔で復活し、2003年8月の快速急行新設によるダイヤ改正では10分間隔となったが、2006年10月のダイヤ改正で快速急行が急行に格下げされた際に、昼間の普通は再び梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間に短縮された。その後、2018年7月改正で早朝と夕ラッシュ時に運行されていた箕面線へ直通する梅田発箕面行きが廃止され、2022年12月改正で箕面線に直通する列車が廃止された。 また、曽根駅付近高架化工事開始前は、定期ダイヤでは曽根駅 - 梅田駅(現在の大阪梅田駅)間の区間列車があった{{efn|1986年12月14日時点のダイヤでは、平日梅田駅8時15分発で普通曽根行き、曽根駅8時42分発で普通梅田行きが設定されているが<ref name="jikoku19861214-47-48">{{Cite journal|和書|date =1986-12|journal = Dia-Map Hankyu 阪急電車時刻表&地図|publisher =阪急クリーンカラー|issue =|pages=47・48頁}}</ref>、1989年12月16日時点のダイヤでは、梅田発は雲雀丘花屋敷行きに延長され、曽根発も時刻変更により統合されている<ref name="jikoku19891216-51-52">{{Cite journal|和書|date =1989-12|journal = 阪急電車時刻表&地図 Dia-Map Hankyu|publisher =阪急クリーンカラー|issue =|pages=51・52頁}}</ref>。}}。1961年の雲雀丘花屋敷駅開業から1962年の花屋敷駅廃止までは、朝夕の大型車両5両編成列車は、花屋敷駅を通過していた<ref name="archive103281">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220205034844/https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=381&data_id=103281|url=https://www.hankyu-bunka.or.jp/archive/?app=shiryo&mode=detail&list_id=381&data_id=103281|archivedate=2022-02-05|date=1961-01|accessdate=2022-02-05|title=お知らせ・雲雀丘と花屋敷の統合|publisher=京阪神急行電鉄(公益財団法人阪急文化財団・阪急文化アーカイブズ)}}</ref>。 === 過去の列車種別 === ==== 特急・通勤特急(初代) ==== [[1995年]]のダイヤ改正で、通勤需要の増大に対応して、試行的に平日のラッシュ時間帯の梅田駅 - 宝塚駅間に定期運転の特急が初めて設定された<ref name="交通950515">{{Cite news |title=宝塚線、来月ダイヤ改正 阪急電鉄 初の特急定期運転へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-05-15 |page=3 }}</ref>(当時の途中停車駅:十三・石橋・川西能勢口{{R|交通950515}}。朝は梅田行き、夕方は宝塚行きが2本ずつ設定され{{R|交通950515}}、梅田行きは10両編成で運転された{{efn|1995年6月4日改正当時の宝塚本線列車運行図表(1号表)によると、朝ラッシュ時の宝塚駅発の列車は全区間を10両編成で運転していた。}})。その後、[[1997年]]のダイヤ改正で雲雀丘花屋敷駅を停車駅に追加した一方、夕方の宝塚行きは廃止された。 [[2000年]]6月4日のダイヤ改正では、[[HEP|HEP FIVE]]および[[宝塚大劇場]](「[[花のみち]]」リニューアル完成)へのさらなる集客を目的に、特急の運転時間帯を日中に移して増発{{efn|実際は特急と急行を20分間隔で交互に運転。ただし普通も梅田駅 - 宝塚駅間と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間を20分間隔で交互に運転することで梅田駅 - 宝塚駅間の日中は毎時9本に増発となった。}}、停車駅を十三駅・豊中駅・石橋駅・池田駅・川西能勢口駅・山本駅とし、高架工事の完成、最高速度の100km/hへの向上、優等列車優先のダイヤ構成(日中の庄内駅・雲雀丘花屋敷駅での普通列車の追い抜きを復活)により、梅田駅 - 宝塚駅間を下り最速で29分50秒(表定速度49.3 km/h。上り最速30分30秒、表定速度48.2 km/h)で結んだ。運転日も、これまでの平日ダイヤのみから、正月ダイヤ適用日を除いた土曜・休日にも拡大された。平日朝ラッシュ時に設定されていた従来からの特急は、池田駅を停車駅に加えた上で通勤特急に変更された(梅田行きのみ設定)。通勤特急は、10両編成で運転された。 [[2003年]]8月のダイヤ改正では、[[大阪モノレール本線|大阪モノレール]]との接続による[[大阪国際空港|大阪国際空港(伊丹空港)]]へのアクセス改善の必要性や、各駅停車との接続、川西能勢口駅以西での20分サイクル化・列車間隔不均等化の改善のため、特急の運転を休止し、蛍池駅と雲雀丘花屋敷駅を停車駅に加えた快速急行が設定された。併せて、日中の急行も快速急行に統合されたため、日中の梅田駅 - 宝塚駅間が毎時12本運転となった。同改正では、通勤特急が日生エクスプレスの増発に伴い廃止、正月特別ダイヤの臨時特急(初詣特急)も廃止された。これに伴い、雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間では10両編成の列車が消滅、川西能勢口駅 - 宝塚駅間から「特急」の名が付く列車が消滅した{{efn|宝塚駅のみ、2010年 - 2018年まで今津線の列車ではあるが直通特急が発着していた。}}。以後、日生エクスプレスを除いて、特急は運転されていない。なお、通勤特急は2015年に復活した。 ===== 臨時特急 ===== 1973年から[[2003年]]まで、[[正月三が日]](暦の関係で1月4日ないし5日までの年もあった)に限り、1972年まで運転されていた臨時急行に代わり、『初詣特急』と名付けられた臨時特急が運転されていた。当初の停車駅は十三・石橋(現在の石橋阪大前)・川西能勢口・中山(現在の中山観音)・清荒神で、のちに川西能勢口にも停車するようになった。この臨時特急は定期の急行の種別変更ではなく増発であり、10時台 - 15時台に20分間隔(1986年までは15分間隔)で運転された{{efn|梅田発の場合、長らく臨時特急が0分・20分・40分発(臨時特急と被る急行は2分・22分・42分発に変更)であったが、その後昭和末期から20世紀末頃までは臨時特急が2分・22分・42分発となった後、最末期の臨時特急は4分・24分・44分発とした。}}。この臨時特急には1981年まで『初詣』ないし『初詣特急』と書かれた丸い特製ヘッドマークが掲げられていたが、1982年からは各運転日共通の『臨時特急』の表示板に変更された(但し、駅の発車標では『初詣特急』の表示を継続)。同時期に「三福まいり」([[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]、[[清荒神清澄寺]]、[[東光寺 (西宮市)|門戸厄神東光寺]]の3寺院)初詣祈念品引換券付き1日乗車券を販売していることから運行していた。 正月三が日以外にも、[[1997年]]11月改正までは春・秋の行楽期の日曜・祝日にも臨時ダイヤが組まれており(通称「大運転」)、春は臨時急行の格上げの形で1973年3月から、秋は箕面直通の臨時準急に代わり1981年11月から、午前と夕方のみ臨時特急が増発された。1986年までは15分間隔では梅田駅07分、22分、37分、52分発だった。1987年からは20分間隔となった。停車駅は時期によって異なるが、当初は十三・石橋(現在の石橋阪大前)・池田で、のちに池田駅が停車駅から外れ、川西能勢口駅が停車駅に追加されるなどの変化があった。この臨時特急にも1980年の春までは『春の臨時特急』と書かれた丸い特製ヘッドマーク(種別表示板)が掲げられていたが、1981年3月に種別表示板のデザイン変更・阪急全線での仕様統一が実施されて以降は初詣臨時特急と同様には各運転日共通の『臨時特急』の種別表示板に変更された。その後[[アステ川西]](川西阪急)開業や、福知山線の快速が[[川西池田駅]]に停車することに伴い、[[1989年]]春の行楽期から川西能勢口駅にも停車するようになった。同時に一部は川西能勢口駅始発となった。 上記以外には団体臨時列車として、春の大運転の時期に宝塚ファミリーランドで開催されたイベントに合わせて、応募・抽選制のノンストップ特急が運転されたことがある。この列車にはイベントの内容に合わせて「バイキング号」「童話号」「ファルコン号」「スーパー戦士号」「シートン号」などの愛称が付けられていた。1973年春の春の臨時特急(前述)では、宝塚ファミリーランドのイベントに合わせて「サイボーグ号」の愛称が付けられ、ヘッドマークも掲げられていた。 [[2009年]][[4月18日]]から[[2015年]][[5月6日]]まで、春・秋の行楽期の土曜・休日に限り、臨時[[日生エクスプレス]]が運行された(晩年は梅田行きのみ、詳細は当該項目を参照)。 ==== 快速急行 ==== [[2003年]][[8月30日]]のダイヤ改正で新設。昼間時間帯のみ10分間隔で梅田駅 - 宝塚駅間で運転されていた。停車駅は、梅田駅・十三駅・豊中駅・蛍池駅・石橋駅・池田駅・川西能勢口駅・雲雀丘花屋敷駅・山本駅・宝塚駅で、改正前の特急停車駅に蛍池駅と雲雀丘花屋敷駅を追加したものであるが、この2駅が追加されたことにより、豊中駅 - 山本駅間は各駅停車となった。宝塚駅では快速急行、普通とも今津線との乗り換え利便を考慮して全て4号線に発着させていたため、宝塚駅到着後は僅か2分で折り返していた。なお、快速急行が運行されていた当時の正月特別ダイヤでは運休し、代わりに急行が運行されていた。 [[2006年]]10月のダイヤ改正で輸送力適正化のため快速急行の運転を休止し、結果的にほぼ1995年以前の運転体系に戻ったが、当時とは異なり、急行は全列車が豊中駅と蛍池駅に停車する。 ==== 通勤急行 ==== 1997年11月改正で運転を開始<ref name="RP650"/>。朝ラッシュ時のみに宝塚駅・雲雀丘花屋敷駅 - 梅田駅間で運行されていた<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=鉄道ピクトリアル No.663 1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 |publisher=株式会社電気車研究会 |issue=663}}</ref>。停車駅は、宝塚駅 - 服部駅(現在の服部天神駅)間の各駅と十三駅・梅田駅で、豊中駅 - 梅田駅間では後述の通勤準急と千鳥停車を構成していた。そのため、1997年11月改正から2000年6月改正までの間は、通勤準急と合わせて宝塚本線の全駅に優等列車が停車していた。2000年6月改正で運行を休止した。 2003年8月改正で再び運転を開始。平日の朝ラッシュ時のみに宝塚駅 - 梅田駅間で運行されていた。復活した際の停車駅は、宝塚駅 - 石橋駅間の各駅と豊中駅・十三駅・梅田駅で、急行と違い[[大阪モノレール本線|大阪モノレール]]乗換駅である[[蛍池駅]]には停車しなかった。10両編成で運転され雲雀丘花屋敷駅で増結・解放が行われていた。2015年3月21日のダイヤ改正で廃止となり、停車駅を踏襲する形で通勤特急に改称された<ref name="hankyu20150120" />。 ==== 通勤準急 ==== 1997年11月改正で運転を開始<ref name="RP650"/>。朝夕ラッシュに[[阪急箕面線|箕面線]]直通を中心に宝塚駅・雲雀丘花屋敷駅・箕面駅 - 梅田駅間で運行されていた<ref name=":1" />。停車駅は、宝塚駅・箕面駅 - 豊中駅間の各駅と庄内駅 - 梅田駅間の各駅で、豊中駅 - 梅田駅間では前述の通勤急行と千鳥停車を構成していた。2000年6月改正で準急復活に代わる形で運行を休止した。 2003年8月改正で復活した。箕面線直通の梅田駅 - 箕面駅間での運転で、平日の朝ラッシュ時のみ運行され、宝塚本線内の停車駅は急行と同じであった。2015年3月21日のダイヤ改正で廃止となり、代わって箕面線直通の準急が設定された<ref name="hankyu20150120" />。 == 使用車両 == === 現在の使用車両 === ==== 自社車両 ==== 2022年12月現在は全列車が8両編成で運転されている。[[平井車庫]]からの入出庫で当線を経由する箕面線の車両は「[[阪急箕面線#車両]]」を参照。 3100系までの宝塚本線の車両は、神戸本線と比べて最高速度が低かったため、神戸本線向けの「X000系」に対して最高速度の低い車両を「X100系」として区別して投入していた。{{efn|5100系は阪急初の新造冷房車であり、3路線(神戸・宝塚・京都)への投入が当初から計画されていた。それ故に、当初は「6000系」を付与する予定だったが、運行指令業務などにおいて[[大阪市交通局60系電車]]([[Osaka Metro堺筋線|大阪市営地下鉄堺筋線]]との相互直通運転で京都本線を走行する)との混同を避けるため、5000番台で空いていた「5100系」に変更されたという経緯があり、宝塚本線向け車両を表す「X100系」とは意味合いが異なるが、後年の転属で今津線用の6両編成1本を除き宝塚本線・箕面線に集約されている。}} 運行される車両は以下のとおり。 * [[阪急5100系電車|5100系]] * [[阪急6000系電車|6000系]]         * [[阪急7000系電車|7000系]] * [[阪急8000系電車|8000系]] * [[阪急9000系電車|9000系]] * [[阪急1000系電車 (2代)|1000系]](2代) <!-- ラッピング車両についてはここではなく車両の記事に記述してください。--> <gallery> File:Hankyu Railway Type 5100.JPG|5100系 File:Hankyu 6004F.jpg|6000系 File:阪急7000系7015F.jpg|7000系 File:Hankyu 8007f Nissei Express Nissei Chuo 20190802.jpg|8000系 File:Hankyu 9000 series 9001F at Ishibashi Station 2007-09-23.jpg|9000系 File:阪急1000系電車(2代) 1003F ラッピング編成.jpeg|1000系 </gallery> ==== 乗り入れ車両 ==== * 能勢電鉄[[阪急6000系電車|6000系]] - 元阪急6000系6002Fが2014年8月1日より能勢電鉄に譲渡された<ref>[http://noseden.hankyu.co.jp/information/6453df198d38310.html 阪急電鉄からの6000系車両の取得、運行に関するお知らせ] - 能勢電鉄、2014年7月31日</ref>。「[[日生エクスプレス]]」での運用のほか、能勢電鉄所属ながらも阪急8両編成車と共通の運用となっているため、当線の宝塚方面や箕面線からの直通の運用にも充当されている。また、大阪梅田駅に乗り入れる初めての他社の車両となった。 === 過去の使用車両 === ==== 自社車両 ==== * [[阪急3000系電車|3000系]]<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/sp/archives/2016/07/30003060.html 【阪急電鉄】3000系3060編成 廃車回送] - 鉄道ホビダス、2016年7月20日</ref> * [[阪急3000系電車#3100系|3100系]] - 一部を能勢電鉄に譲渡。 * [[阪急2000系電車#2100系|2100系]] - 一部を能勢電鉄に譲渡。 * [[阪急2000系電車#2021系(2071系)|2021系]] * [[阪急1200系電車|1200系]] * [[阪急1010系電車|1100系]] * [[阪急1010系電車|1010系]] * [[阪急1000形電車 (初代)|1000形]](初代) * [[阪急810系電車|810系]] * [[阪急800系電車|800系]] * [[阪急610系電車|610系]] * [[阪急550形電車|550形]] * [[阪急920系電車|920系]] * [[阪急900形電車|900形]] * [[阪急600形電車|600形]] * [[阪急500形電車 (2代)|500形]] * [[阪急380形電車|380形]] * [[阪急320形電車|320形]] * [[阪急500形電車 (初代)|300形]] * [[阪急51形電車|51形]] * [[箕面有馬電気軌道34形電車|34形]] * [[箕面有馬電気軌道1形電車|1形]] == 歴史 == === 開業 - 戦前 === 阪急電鉄のルーツというべき路線である。JR福知山線の前身で、[[尼崎市|尼崎]]を起点とし[[福知山市|福知山]]・[[舞鶴市|舞鶴]]方面への鉄道路線を営業していた[[阪鶴鉄道]]の大阪直接乗り入れ計画を、同社国有化の際に引き継いだ'''[[箕面有馬電気軌道]]'''が[[1910年]]に梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間を開業させたのが始まりである。 当初はその名の通り、宝塚からさらに西進し[[有馬温泉]]のある神戸北郊の有馬まで敷設する計画であったが<ref>[{{NDLDC|805361/48}} 「未開業軌道現況」『鉄道院年報』明治42年度 軌道之部](国立国会図書館デジタルコレクション)"区間「川辺郡小浜村字宝塚、有馬郡有馬町間」 特許年月日「(明治)三九年一二月二二日」"</ref>、宝塚 - 有馬は<!--六甲山系の起伏のある地形であり、建設コストもかかることから-->宝塚の開発に注力していたこともあって[[1913年]]に断念している<ref>{{Cite book|和書|title=逸翁自叙伝|publisher=阪急電鉄|year=1979|pages=211-213,280|author=小林一三}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakusuisha.co.jp/news/n14223.html |title=第9回 阪急電鉄(2) |accessdate=2022-01-18 |publisher=白水社 |author=今尾恵介 |date=2016-02-22 |work=「鉄道王国の歩み」公文書と地形図でたどる私鉄史【関西編】 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160323051832/http://www.hakusuisha.co.jp/news/n14223.html |archivedate=2016-03-23}}</ref>。1908年8月5日に提出された「宝塚有馬間工事施工認可申請書」では、勾配は[[神戸電鉄]]や[[南海高野線]]に匹敵する50[[パーミル]]、曲線半径は最小40.2メートルが想定されていた。電車にとっては明らかな難路であり、これを普通の線路にするには、そのレベルを上げるほど建設費が高騰するのは確実だった<ref>今尾恵介『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関西(1) 阪神・阪急・京阪』白水社、2017年、p150</ref>。 開業当初は、畑以外何もないようなところを走る区間が長いことから「[[ミミズ]]電車」と皮肉られ、採算性に疑問の声も多かった。しかし、同社の専務(実質の会社代表で、後に社長となる)であった[[小林一三]]は路線が開業するやいなや沿線開発を積極的に推し進め、[[岡町 (豊中市)|岡町]]・[[豊中市|豊中]]・[[室町 (池田市)|池田]]をはじめとする良好な住宅地や、[[宝塚ファミリーランド|宝塚新温泉]]、[[宝塚歌劇団]]に代表される遊楽施設をつくり上げ、折からの大阪人口の増加と職住分離の習慣化によって乗客獲得に成功する。当時開発された住宅地は、のちに[[高級住宅街]]として沿線のブランド力を向上させ、日本の私鉄経営モデルの模範となった。 なお神戸本線が[[1920年]]に開業した後は、しばらく乗客数が低迷した同線の方へ社の重点が置かれるようになり、同線の中古車が宝塚本線に回されたりすることもあった。優等列車の運転も、神戸本線より2年遅れて実施されている。さらに梅田駅 - 十三駅間では宝塚本線と神戸本線の運賃が1942年まで異なっていた(神戸本線のほうが数銭高く、基本的に同区間の移動では宝塚本線を使う必要があった)。また、池田駅以西の利用客は長らく少なく、平井駅(後に山本駅へ統合して廃止)・山本駅・売布神社駅などといった駅の[[プラットホーム]]は2両編成が停車する分の長さしかなく、3両編成の電車は通過していた。さらに2両編成の場合でも、車掌に対して降りる旨を伝えておかないと、通過することがあった。 1932年(昭和7年)より、宝塚本線にも急行が設定されるようになった(所要時間35分)。数年後にはわずかながら所要時間を短縮し、最新鋭の[[阪急320形電車|320形電車]]を投入するなどの積極策に出ている。これは、[[阪神電気鉄道|阪神]]系列の阪神国道自動車(阪国バス、現在の[[阪神バス]])が、大阪 - 宝塚間に設定した直通バスと補完し合うものであった(阪国バスには阪急も出資していた)。 === 戦中 - 昭和末期 === 戦中には軍需輸送などで乗客数が急増し、5両編成の運転も開始された。しかし戦後にはさらに急増する沿線人口に輸送力の増強が追いつかず、250%を超える殺人的な混雑に悩まされることになった。このため、戦前からある[[阪急伊丹線|伊丹線]]の延伸計画や後述の[[#新線計画|新線計画]]などバイパス路線の建設構想がいくつか持ち上がった。しかし、これらが実現することはなく、カーブの改良と車両の大型化、長編成化で乗り切った。1982年(昭和57年)、阪急で最初の10両編成運転を行ったのも、宝塚本線であった。1986年12月には[[#運行形態|前述]]の通り抜本的なダイヤ改正を行った。 === 平成期 === 宝塚本線では、正月の初詣輸送で臨時に運転されるものを除いては特急の設定がなかったが、1995年に十三駅・石橋駅(現在の石橋阪大前駅)・川西能勢口駅に停車する特急が梅田駅 - 宝塚駅間で運転開始された{{R|交通950515}}。平日ラッシュ時間帯に4本(朝・上り2本、夕・下り2本)設定された。1997年には、能勢電鉄に直通運転する[[日生エクスプレス|特急「日生エクスプレス」]]が新設された<ref name="RP650"/>。一方で本線特急は平日2本(朝・上り2本)に減便された。列車は8両または10両編成で運転された。1997年の改正以降は、基本的にラッシュ時間帯を除いて梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間は普通列車が優等列車を逃げ切るように変更された<ref group="注釈">2000年 - 2003年の特急運転時間帯と、正月臨時ダイヤ適用日の日中を除く。</ref><ref group="注釈">反面、上りの中津駅 - 梅田駅では発着時刻の都合で普通・急行とも徐行運転を強いられるようになった。</ref>。 2000年、三国駅・豊中駅付近の高架化が完成したことによるダイヤ改正では、最高速度が100km/hに引き上げられ、特急の運転時間帯が全日の昼間に拡大された <ref name="RJ415">{{Cite journal ja-jp |author=鶴通孝 |year=2001 |month=5 |title=関西私鉄 王国復権の道(3.運転パターンを刷新する阪急)|journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻415号 |page= 68 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。停車駅に豊中・池田・山本を追加し、20分間隔で急行との交互での運行となった。また、昼間の普通は梅田駅 - 宝塚駅ないし雲雀丘花屋敷駅間の交互での運行となり、日中の梅田駅 - 宝塚駅間は1時間に9本へと増発された。このほか、梅田駅 - 宝塚駅間で、十三駅・石橋駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の全駅に停車する通勤特急を平日朝のラッシュ時間帯に上り2本運行開始した。 2003年のダイヤ改正では本線特急と通勤特急が廃止され、急行を通勤急行に、準急を通勤準急に改称し、朝ラッシュ時のみの運転に変更された。特急「日生エクスプレス」は停車駅に池田駅が追加された。十三駅・豊中駅 - 山本駅間の全駅に停車する快速急行(改正前の特急停車駅に蛍池駅、雲雀丘花屋敷駅を追加)、旧急行の通勤急行の停車駅に蛍池駅を追加した急行(改正前の準急と停車駅同じ)、停車駅に中津駅・曽根駅・岡町駅を追加して中津駅・十三駅・曽根駅 - 宝塚駅間の全駅に停車する準急を、それぞれ梅田駅 - 宝塚駅間で運転開始した。また、日中の普通は全列車が梅田駅 - 宝塚駅間の運転となり、宝塚駅発着の列車は1時間に12本に増発された。 2006年のダイヤ改正では快速急行の運転が中止され、平日朝ラッシュ時以外は現在も続けられている、10分ないし12分間隔で梅田駅 - 宝塚駅間の急行と梅田駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の普通を運行するダイヤに改められた。結果的には、1995年ダイヤ改正直前に近い運転体系となっている。この改正では、宝塚駅における[[阪急今津線|今津線]]との同一ホーム乗り継ぎ時間帯の拡大や、[[川西能勢口駅]]における[[能勢電鉄妙見線]]との接続改善も行われた<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu.co.jp/ir/data/ER200606222N1.pdf 神戸線におけるATS(自動列車停止装置)の改良と、神戸線・宝塚線のダイヤ改正について]}} - 阪急電鉄、2006年6月22日</ref>。 2010年には宝塚本線でも従来の連続速度照査式[[自動列車停止装置]](ATS)を改良したパターンATSを、2006年の神戸線、2009年の京都線に続いて使用を開始<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu.co.jp/pdf/approach/anzen2009/2009anzenreport.pdf 2009年安全報告書]}} - 阪急電鉄</ref>。しかし他線とは違い保安度向上が目的のため、それに伴うダイヤ改正は行われなかった。 2015年3月には8年半ぶりとなるダイヤ改正が行われた。特急「日生エクスプレス」の川西能勢口駅→梅田駅間での10両運転の中止や、宝塚本線では初となる[[女性専用車両]]の設定、平日朝ラッシュ時の種別変更などが行われ、通勤急行・通勤準急が廃止され、通勤特急の種別が12年ぶりに復活した。 2018年7月のダイヤ改正では、梅田発の箕面線直通が中止され(但し箕面発は平日朝のみ梅田ゆき普通2本が存続したが、これも2022年12月の改正で全廃)、通勤特急が増発となったほか、土曜日・休日の夕方以降の運行間隔が12分ヘッドに変更されている<ref name="hhhd20180522">{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5959_9962cb409b0f7eb3b43a381dcef10ac7220c9145.pdf 7月7日初発より宝塚線のダイヤ改正を実施します 〜平日 朝・夕方の通勤・通学時間帯における混雑の緩和と利便性の向上を図ります〜]}} - 阪急電鉄、2018年5月22日</ref>。 === 令和期 === 2022年12月のダイヤ改正では、僅かに残っていた箕面線からの直通列車が全廃、ラッシュ時の10両運転も完全に廃止された<ref name="hankyu20221012" />。一方で、日中は上りの中津駅 - 大阪梅田駅間のダイヤパターンが見直され、信号待ちによる徐行運転が大幅に緩和された。 === 年表 === * [[1910年]](明治43年) ** [[3月10日]]:箕面有馬電気軌道が梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間を開業。 ** [[4月25日]]:蛍ヶ池駅開業(蛍池駅への改称日は不明)。 ** [[10月23日]]:平井駅開業 * [[1912年]](明治45年)[[5月30日]]:曽根駅開業。 * [[1913年]](大正2年) ** [[4月8日]]:能勢口駅開業。 ** [[9月29日]]:豊中駅開業。 * [[1914年]](大正3年)[[3月21日]]:売布神社駅開業。 * [[1916年]](大正5年)[[8月5日]]:雲雀ヶ丘駅開業。 * [[1920年]](大正9年)[[7月16日]]:十三駅より分岐して神戸本線開業。梅田駅 - 十三駅間が同線電車と共用になる。 * [[1925年]](大正14年)[[11月4日]]:中津駅開業。 * [[1926年]](大正15年) ** [[7月2日]]:中津駅 - 十三駅間の[[新淀川駅]]廃止。 ** [[7月5日]]:梅田駅 - 十三駅間が高架化。複線の別線を新設し神戸本線と分離。旧地上線の梅田駅から[[北野駅 (大阪府)|北野駅]]までを[[阪急北野線|北野線]]とする。 * [[1932年]](昭和7年)[[10月1日]]:急行の運行を開始。 * [[1944年]](昭和19年)[[9月1日]]:雲雀ヶ丘駅 - 山本駅間の平井駅廃止〈現在でも山本駅の駅名標には「山本(平井)」と書かれている〉。 * [[1949年]](昭和24年)[[1月1日]]:北野線休止。 * [[1951年]](昭和26年)[[5月15日]]:庄内駅開業。 * [[1956年]](昭和31年)[[2月2日]]:服部駅(現在の服部天神駅) - 庄内駅間で車両故障が発生したことを端緒に乗客による暴動が発生。大阪府警や[[小林米三]]阪急電鉄専務が説得するも運行不能となる([[庄内事件]])。車両大型化の契機となる。 * [[1959年]](昭和34年)[[2月18日]]:北野線跡地を使用し梅田駅 - 十三駅間を複々線化。新設の東側2線を京都本線の列車が使用開始。 * [[1961年]](昭和36年)[[1月16日]]:花屋敷駅 - 山本駅間の雲雀ヶ丘駅を廃止し、雲雀丘花屋敷駅開業。 * [[1962年]](昭和37年)[[5月1日]]:能勢口駅 - 雲雀丘花屋敷駅間の花屋敷駅廃止。 * [[1965年]](昭和40年)[[7月1日]]:能勢口駅を川西能勢口駅と改称。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[4月1日]]:梅田駅 - 石橋駅(現在の石橋阪大前駅)間に[[自動列車停止装置]](ATS)を設置し、供用開始<ref name=交通1968-0221>{{Cite news |和書|title=関西五私鉄 保安度向上へ急ピッチ 各社がATS設置へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-21 |page=2 }}</ref>。 ** 5月1日:石橋駅 - 宝塚駅間にATSを設置し、供用開始{{R|交通1968-0221}}。 ** [[9月7日]]:石橋駅 - 池田駅間高架化工事着手。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[8月24日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。 ** [[12月14日]]:石橋駅 - 池田駅間高架化。 * [[1978年]](昭和53年)3月10日:全線を[[軌道法]]に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。 * [[1980年]]:北方貨物線 - 三国駅手前までが高架化<ref name="hankyu_ex">{{Twitter status|hankyu_ex|988269894289514496}}</ref>。 *1980年(昭和55年)[[10月26日]]:ダイヤ改正、池田駅高架化工事による引上線使用停止のため、池田駅折り返しの普通を雲雀丘花屋敷駅まで延長。 * [[1982年]](昭和57年)[[3月29日]]:平日朝の雲雀丘花屋敷発梅田行の急行2本で、阪急最初の10両編成運転を開始。 * [[1983年]](昭和58年)[[10月20日]]:豊中市内連続立体交差事業着工<ref>100年のあゆみ(部門史) p373</ref>。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[4月30日]]:池田駅高架化完成。 ** [[12月14日]]:ダイヤ改正により急行・普通15分毎から10分毎の運行に変更。急行が豊中駅に停車(平日ラッシュ時の一部を除く)。 * [[1987年]](昭和62年):十三駅直後 - 北方貨物線までの区間が高架化<ref name="hankyu_ex" />。 * [[1988年]](昭和63年)[[12月18日]]:ダイヤ改正。10両編成の急行を4本に増発。豊中市内高架化工事のため曽根駅の待避線、折り返し線の使用を中止<ref name="archive108641"/>。 * [[1989年]](平成元年)[[10月12日]] - [[三国駅 (大阪府)|三国駅]]高架化工事着工<ref>100年のあゆみ(部門史) p375</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[12月20日]]:土曜ダイヤ導入<ref>{{Cite news |title=宝塚線に土曜ダイヤ 阪急電鉄、来月20日実施 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-11-27 |page=3 }}</ref>。 * [[1993年]](平成5年) **[[9月25日]]:宝塚駅高架化完成(今津線は7月18日高架化)。 **[[12月20日]]:ダイヤ改正。10両編成の急行を2本に増発。 * [[1994年]](平成6年)[[11月6日]]:豊中駅 - 曽根駅間の上り線が高架化<ref>{{Cite news |title=豊中市内 上り線の高架化も|newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-09-16 |page=1 }}</ref>。 * [[1995年]](平成7年) ** [[1月17日]]:[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])の発災により雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間が不通となる<ref>「JR、私鉄動き出す――阪神間なお運行ストップ」『毎日新聞』大阪本社1995年1月18日付夕刊、4版、1面。</ref>。 ** [[1月19日]]:雲雀丘花屋敷駅 - 宝塚駅間が復旧<ref>「阪急宝塚線が再開」『毎日新聞』大阪本社1995年1月19日付夕刊、4版、1面。</ref>。 ** [[6月4日]]:特急を梅田駅 - 宝塚駅間で平日ラッシュ時間帯に運転開始{{R|交通950515}}。 * [[1996年]](平成8年)[[3月24日]]:川西能勢口駅高架化完成。 * [[1997年]](平成9年) ** [[11月8日]]:豊中駅 - 曽根駅間の高架化完成<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-3 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 32 |issue = 3 |page = 85 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。ただし、曽根駅の待避線はこの時点では未完成。 ** [[11月17日]]:特急「日生エクスプレス」を運転開始<ref name="RP650"/>。急行が豊中駅終日停車(10両編成対応)。通勤急行と通勤準急を新設。 * [[2000年]](平成12年) ** [[3月20日]]:三国駅高架化完成。これに伴う三国駅の移転により、全線で0.1km短縮。 ** 6月4日 :曽根駅の待避線の使用を再開、特急を全日昼間運転に拡大<ref name="RJ415"/>。梅田駅 - 宝塚駅間の所要時間を下りで最速29分に短縮。平日朝ラッシュ時に通勤特急を運転開始。移転前の三国駅宝塚方に存在した制限速度30km/hが解除され、全線での最高速度が90km/hから100km/hへ引き上げられた<ref name="RJ415"/>。 * [[2003年]](平成15年)[[8月30日]]:快速急行を新設、本線特急と通勤特急の運転を休止<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2003-11-01 |journal = RAIL FAN |issue = 11 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |page = 19 }}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[10月28日]]:快速急行の運行を中止。 * [[2010年]](平成22年)[[3月14日]]:これまでの路線図における「宝塚線」という表記を、「宝塚本線」に統一。 * [[2013年]](平成25年)[[12月21日]]:服部駅を服部天神駅に、中山駅を中山観音駅に改称、同時に全駅に[[駅ナンバリング]]導入<ref name="hankyu20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201304306N1.pdf 〜すべてのお客様に、よりわかりやすく〜「西山天王山」駅開業にあわせて、「三宮」「服部」「中山」「松尾」4駅の駅名を変更し、全駅で駅ナンバリングを導入します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="hankyu20130605">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201306051N2.pdf 阪急京都線 大山崎駅〜長岡天神駅間で建設中の『西山天王山駅』を2013年12月21日に開業します!]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年6月5日。</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[3月21日]]:通勤急行・通勤準急の運行を中止し、新たに川西能勢口発の通勤特急(10両編成)と箕面発着の準急を新設し、通勤特急に女性専用車両を設定<ref name="hankyu20150120" />。平日の昼間時間帯と土休日の一部の駅間の所要時間を見直し、梅田駅 - 宝塚駅間の所要時間を10秒 - 50秒短縮。 * [[2018年]](平成30年)[[7月7日]]:3年ぶりのダイヤ改正実施。梅田発の箕面線直通列車(準急含む)を全廃。通勤特急が増発。 * [[2019年]](令和元年)10月1日:梅田駅を大阪梅田駅に、石橋駅を石橋阪大前駅にそれぞれ改称<ref name="hankyu20190730">{{Cite press release |和書 |title=「梅田」「河原町」「石橋」の駅名を10月1日に変更します |publisher=阪急電鉄 |date=2019-07-30 |url=https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf |format=PDf |accessdate=2019-07-31}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)12月17日:阪急全線でダイヤ改正実施。箕面線直通列車が全廃。通勤特急を8両化し増発<ref name="hankyu20221012" /> === 新線計画 === 終戦直後、十三駅 - 豊中駅間の輸送力増強のため、神戸本線[[神崎川駅]] - 曽根駅間に新線を建設して宝塚本線の急行線とすることが計画され、[[1948年]][[4月19日]]に神崎川駅 - 曽根駅間4.0kmの軌道事業特許を取得した。しかし、1960年代に、千里山線(現在の[[阪急千里線|千里線]])を延伸して[[阪急箕面線|箕面線]]と連絡する方針に転換し、急行新線建設の計画は中止された。ただし、この新しい計画も千里山線([[南千里駅]])と箕面線([[桜井駅 (大阪府)|桜井駅]])の連絡についても双方を最短距離で結びたい阪急と[[千里ニュータウン]]北部(現在の[[北千里駅]])の交通不便を解消したい大阪府側との思惑が一致せず実現しなかった。 1970年代に梅田と[[大阪国際空港]]とを結ぶ空港線が計画され、神崎川駅 - 曽根駅間の軌道特許をそれに生かすことも検討されたが、空港線の計画は中止された。同線の軌道特許は廃止されずに保持されたままであったが、2005年2月23日に阪急が工事施行認可申請を取り下げ、軌道特許が失効した。 [[2017年]][[9月1日]]、阪急電鉄は宝塚本線の曽根駅から分岐して大阪国際空港への新線を検討していると報じられた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ01H3K_R00C17A9EAF000/ 阪急電鉄、伊丹空港線を検討 梅田駅から直結] - 日本経済新聞、2017年9月1日</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20170901-IJ2U6VGDHBLELCL6I5W755HOI4/ 阪急「大阪空港」への新線検討、梅田から直結で利便性高まる] - 産経WEST、2017年9月1日</ref>。 == 駅一覧 == * 特急…'''特急「日生エクスプレス」''':平日朝夕のみ運転。 * 通勤特急:平日朝に大阪梅田行きのみ運転。 * 準急:平日朝に大阪梅田行きのみ運転。 * 普通:各駅に停車するため省略。 * 接続路線の ( ) 内の英数字はその路線の駅の[[駅番号]]を表す。 * 宝塚本線の駅番号は2013年12月21日より導入<ref name="hankyu20130430" /><ref name="hankyu20130605" />。 ;凡例 :●:停車、|↑:通過、↑:片方向のみ運転 :<nowiki>#</nowiki>:[[待避駅|列車待避]]が可能な駅 :<nowiki>‡</nowiki>:上り線のみ列車待避が可能な駅 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|駅番号 !style="width:12em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f26627;"|駅間<br />営業<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #f26627"|累計<br />営業<br />キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f26627; background:#cf9;"|{{縦書き|準急|height=3em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f26627; background:#fc9;"|{{縦書き|急行|height=3em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f26627; background:#fb7;"|{{縦書き|通勤特急|height=4.5em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #f26627; background:#fcc;"|{{縦書き|特急|height=3em}} !style="border-bottom:solid 3px #f26627;"|接続路線 !colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #f26627;"|所在地 |- !HK-01 |[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]]([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]: HS 01)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]: M16)・[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]([[東梅田駅]]: T20)・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]([[西梅田駅]]: Y11)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])・{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線|JR宝塚線]]・{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]]・{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]([[大阪駅]]: JR-A47・JR-G47・JR-F01・JR-O11)・{{JR西路線記号|K|H}} [[JR東西線]]([[北新地駅]]: JR-H44) |rowspan="12" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=4em}} |rowspan="2"|[[北区 (大阪市)|北区]] |- !HK-02 |[[中津駅 (阪急)|中津駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !HK-03 |[[十三駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |[[阪急電鉄]]:[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]] |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[淀川区]] |- !HK-41 |[[三国駅 (大阪府)|三国駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !HK-42 |[[庄内駅 (大阪府)|庄内駅]]# |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |rowspan="6" colspan="2"|[[豊中市]] |- !HK-43 |[[服部天神駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|7.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|↑ |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !HK-44 |[[曽根駅 (大阪府)|曽根駅]]# |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|8.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !HK-45 |[[岡町駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|9.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !HK-46 |[[豊中駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |&nbsp; |- !HK-47 |[[蛍池駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|11.9 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|↑ |style="text-align:center; background:#fcc;"|| |[[大阪モノレール]]:[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線(本線)]] (12) |- !HK-48 |[[石橋阪大前駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|13.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |阪急電鉄:[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急箕面線|箕面線]] |rowspan="2" colspan="2"|[[池田市]] |- !HK-49 |[[池田駅 (大阪府)|池田駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|15.9 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |&nbsp; |- !HK-50 |[[川西能勢口駅]]‡<ref group="*">他社接続の共同使用駅で、阪急電鉄が管理している。</ref> |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|17.2 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#fcc;"|● |[[能勢電鉄]]:[[File:Number prefix Nose Railway line.png|18px|NS]] [[能勢電鉄妙見線|妙見線]] (NS01)(大阪梅田方面から日生中央方面に一部直通運転:下記参照)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|G}} 福知山線(JR宝塚線)([[川西池田駅]]: JR-G54) |rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[兵庫県]]|height=6em}} |colspan="2"|[[川西市]] |- !HK-51 |[[雲雀丘花屋敷駅]]# |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|18.2 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |rowspan="6" colspan="2"|[[宝塚市]] |- !HK-52 |[[山本駅 (兵庫県)|山本駅]]<br /><small>(平井)</small> |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|19.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-53 |[[中山観音駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|21.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-54 |[[売布神社駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|22.4 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-55 |[[清荒神駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|23.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- !HK-56 |[[宝塚駅]]<br /><small>([[宝塚大劇場]]・[[宝塚ホテル]]前)</small> |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|24.5 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |&nbsp; |&nbsp; |阪急電鉄:[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急今津線|今津線]]<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|G}} 福知山線(JR宝塚線)(JR-G56) |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="8"|'''川西能勢口駅 ''' ○特急「日生エクスプレス」…大阪梅田方面から能勢電鉄妙見線経由[[能勢電鉄日生線|日生線]][[日生中央駅]]まで(上り・下りとも運転) |} {{Reflist|group="*"}} * 大阪梅田駅での[[JR東西線]][[北新地駅]]との乗り換えには相当の時間を要する。 <!-- * [[大阪市高速電気軌道|Osaka metro]]との連絡乗車券([[天神橋筋六丁目駅]]経由指定のもの)を使用する場合、梅田駅([[東梅田駅]]・[[西梅田駅]]含む)相互間、[[南方駅 (大阪府)|南方駅]]と[[西中島南方駅]]相互間の地下鉄線との乗り継ぎはできない。 (宝塚本線各駅では発売していない)--> === 廃駅 === 駅名は廃止時のもの。 * [[新淀川駅]](中津駅 - 十三駅間) - 1926年7月2日廃止 * [[花屋敷駅]](能勢口駅 - 雲雀丘花屋敷駅間) - 1962年5月1日、雲雀丘花屋敷駅に統合され廃止 * [[雲雀丘花屋敷駅|雲雀丘駅]](花屋敷駅 - 山本駅間) - 1961年1月16日、雲雀丘花屋敷駅開業に伴い廃止 * 平井駅(雲雀丘駅 - 山本駅間) - 1944年9月1日、山本駅に統合され廃止 === 過去の接続路線 === * 梅田駅(現在の大阪梅田駅):阪急[[阪急北野線|北野線]] - 1949年1月1日休止 * 中津駅:阪神[[阪神北大阪線|北大阪線]] - 1975年5月6日廃止 * 花屋敷駅:[[日本無軌道電車]] - 1932年廃止 === 主要駅の乗降客数 === [[2019年]]の通年平均の乗降客数は次の通り<ref>[https://www.hankyu.co.jp/station/passenger.html 駅別乗降人員|阪急電鉄]</ref>。 * 大阪梅田:349,521人 * 十三:52,424人 * 豊中:36,843人 * 蛍池:29,812人 * 石橋阪大前:32,381人 * 池田:34,461人 * 川西能勢口:32,651人 * 宝塚:33,870人 == その他 == * 十三駅 - 宝塚駅間は、石橋阪大前駅経由では路線距離(営業キロ)は22.1kmだが、同区間を神戸本線・今津線経由だと路線距離(営業キロ)は20.9km(十三駅 - 西宮北口駅間13.2km、西宮北口駅 - 宝塚駅間7.7km)となり、実際のところ原則乗り換えを必要とする西宮北口駅経由の方が距離は短くなる。そのため、本来であれば同区間の運賃計算は石橋阪大前駅経由では営業キロ23kmで算出するところ、「経路2途ある駅間は最短キロ程を表示」する特例が適用されるため、実際は石橋阪大前駅経由でも西宮北口駅経由の21kmを適用し算出することになっている。 * [[架空電車線方式|架線]]方式は、神戸本線や京都本線(十三駅 - 淡路駅間及び、西院駅 - 京都河原町駅間を除く)が[[架空電車線方式#コンパウンドカテナリー式|コンパウンドカテナリー]]架線なのに対し、宝塚本線は[[架空電車線方式#シンプルカテナリー式|シンプルカテナリー]]架線になっている。これは高速運転が頻繁に行われている神戸本線や京都本線と違い、前述の通り宝塚本線は線形が悪く高速性が求められないため、コンパウンドカテナリー架線を設置する必要がないためである。 * 軌道の[[軌条|レール]]はほとんどの区間で[[JR]]の[[新幹線]]や[[在来線]]の重要幹線と同じ60kgレールに交換されている。これも前述の通り、多くの区間で[[連続立体交差事業|連続立体交差化]](高架化)が行われる際に騒音低減に優れる60kgレールが採用されたためである。 * かつて宝塚本線では、[[正月三が日]](暦の関係で1月4日ないし5日までの年もあった。また[[2004年]]・[[2005年]]は正月三が日に加えて[[十日戎]]の土曜・日曜・祝日にも設定された)には正月特別ダイヤを編成し、日中に臨時列車の増発を行っていた。2003年までは一部ダイヤを変更した上で臨時特急を増発し(詳細は[[#臨時特急|臨時特急]]の節を参照)、2004年から2015年までは梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間の急行と普通(普通列車は庄内駅で急行の通過待ちを行った)をそれぞれ10分間隔(豊中駅 - 宝塚駅間では各駅停車となる急行と普通とで5分間隔)で運転した(2006年までは快速急行を運休)<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/3027.pdf |title=大晦日の終夜運転 および 年末年始の運転ダイヤについて |publisher=[[阪急電鉄]] |date=2014-12-10 |accessdate=2019-12-22 }}</ref>。このほか、[[清荒神清澄寺]]での初三宝荒神大祭(1月27日・28日)に合わせて特急・快速急行が清荒神駅に[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]したこともあった。なお、[[2016年]]以降は正月特別ダイヤの設定は取り止めており、通常の土曜・休日ダイヤで運行されている<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/3840.pdf |title=大晦日の終夜運転 および 年末年始の運転ダイヤについて |publisher=[[阪急電鉄]] |date=2015-12-10 |accessdate=2019-12-22 }}</ref>。 * [[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は現在も継続して行われており、当日は約30分間隔にて普通を全線通しで運転している<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://noseden.hankyu.co.jp/upload_file/noseden/information/2019-2020H3.pdf |title=大晦日の終夜運転 および 年末年始の運転ダイヤについて |publisher=[[阪急電鉄]] |date=2019-12-10 |accessdate=2019-12-22 }}</ref>。なお、2020年の大晦日は終夜運転を行わず、終電を2時まで延長する形態をとる予定であったが(箕面線・能勢電鉄線も同様)<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/5e33189fe26aed12fa32bdc05e22d6070ce82add.pdf 大晦日の臨時列車の運転および年末年始の運転ダイヤについて]}} - 阪急電鉄・能勢電鉄、2020年11月27日</ref>、その後[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症の拡大]]に伴い阪急電鉄と能勢電鉄の全線で終夜運転を取りやめることとなった<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/dcb3bcdc9475ce691d8086caf98d73bc1c725fbd.pdf |title=大晦日の臨時列車の運転中止について |publisher=阪急電鉄 |date=2020-12-18 |accessdate=2020-12-22 }}</ref>。 * 三国駅 - 曽根駅間(区間は神崎利根山線架道橋 - 六ノ坪高架橋の約3.0km)において、豊中市は連続立体交差事業を検討している<ref>{{PDFlink|[https://www.city.toyonaka.osaka.jp/machi/nanbu-a-activation/koutuu0904.files/siyou0904.pdf 豊中市南部地域の交通インフラ将来構想検討支援業務委託仕様書]}} - 豊中市都市経営部 創造改革課 p.1、2020年9月13日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 9 関西2 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790027-2 | ref = imao }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{阪急電鉄の路線}} {{DEFAULTSORT:はんきゆうたからつかほんせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|たからつかほんせん]] [[Category:阪急電鉄の鉄道路線|たからつかほん]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:兵庫県の交通]]
2003-09-22T18:08:03Z
2023-12-12T13:23:39Z
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